魔法戦士リウイ2
水野 良
剣の国オーファンは異常気象《いじょうきしょう》に見舞われていた。そんなある日、リウイの同僚《どうりょう》の女性魔術師アイラの元に、かつての師匠バナールから手紙が届く。手紙には「約束どおり研究の成果をすべて譲《ゆず》る」とあった。ここ数日の天気の異常が、バナールの研究にあると気がついたアイラは、リウイに調査を依頼《いらい》する。
一方リウイの冒険仲間であるメリッサは、不本意ながらもリウイを勇者と認め、勇者に見合った試練《しれん》をこなしてもらおうと思うということを、ミレルとジーニに告白した。そんな三人の前にエルフの娘セレシアが現れ「仲間にしてくれ」と言ってくる。
試練がむこうから歩いてやってくる状況に驚愕《きょうがく》する三人。これも勇者の資質がなせる技なのか? ともあれ、リウイの試練が始まるのであった。
水野良が描くフォーセリア・サーガ・シリーズ待望の第二弾!!
[改ページ]
[#地付き]口絵・本文イラスト 横田 守
[#改ページ]
目 次
プロローグ
第I章 真夏に訪《おとず》れしもの
第U章 狂《くる》える精霊《せいれい》
第V章 四大《しだい》魔術師《まじゆつし》の塔《とう》
エピローグ
あとがき
[#改ページ]
北にありしは氷の門。
氷結海《ひようけつかい》の彼方《かなた》の地、無限《むげん》の高さ持つ氷山にて大地を閉ざす。
南にありしは炎《ほのお》の門。
沸騰海《ふつとうかい》の彼方の地、灼熱《しやくねつ》の炎もて大地を閉ざす。
東にありしは風の門。
嵐《あらし》の海の彼方の地、猛《たけ》き嵐にて大地を閉ざす。
西に開かれしは水の門。
流水海の彼方の地、滝となりて虚無《きよむ》界に落つ。
(フォーセリア世界創世神話より)
[#改ページ]
プロローグ
閉ざされた部屋《へや》のなかは、ひどく蒸《む》し暑《あつ》かった。
季節はもうすぐ夏。
昨日《きのう》の雨が嘘《うそ》のように、空は雲ひとつない晴天《せいてん》で、容赦《ようしや》なく照《て》りつける日差しが、湿《しめ》った大地を急速に乾《かわ》かしている。強い日差しと地面から立ち上ってくる湿り気を帯びた熱気が室内に容赦なく侵入《しんにゆう》してくるのだ。
部屋には窓のひとつもないので、風さえ入り込まない。
「だが、それもあと少しのことだ……」
部屋のなかにたった一人いる老人が、呻《うめ》くようにつぶやいた。
老人は自分に向かって言ったのだ。長年、一人暮《ひとりぐ》らしをしていたため身に着いた癖《くせ》である。誰《だれ》にもはばかることがないので、考えたことをすべて言葉にしてしまう。
老人の名は、バナールという。
かつてはオーファンの王都《おうと》ファンの街《まち》で、魔術《まじゆつ》の私塾《ししゆく》を開いていた。魔術の才能には恵《めぐ》まれていたが、時代の流れには乗り損《そこ》ねた。
アレクラスト大陸の各地に魔術師ギルドが組織されるようになり、魔術の私塾などは成り立たなくなっていたのだ。
新しい弟子《でし》は誰も来なくなり、研究の材料も入手が難《むずか》しくなった。老魔術師は、魔術師ギルドから導師《どうし》として招《まね》かれたが、それを受ける気にはなれなかった。
彼の|誇り《ブライド》が、それを拒《こば》んだのだ。
最後の教え子となった娘《むすめ》の父親から援助《えんじよ》を受け、バナールは十年ほど前からこの場所に移り住み、一人で暮らしている。王都から五日ほど離《はな》れた小さな森のなか。もっとも近くの人里《ひとぎと》まででも、四半日《しはんにち》ほどの距離《きより》がある。
森のなかの小高い丘《おか》の上に建《た》てられた塔《とう》が、老魔術師の住処《すみか》であった。そして、この塔は彼の研究室でもあり、同時に研究材料でもある。
老人にとって、これが最後の研究となるはずだった。
だが、それに相応《ふさわ》しい成果が得《え》られつつある。彼は独力で、いにしえの偉大《いだい》なる魔法|遺産《いさん》を再生させようとしているのだ。
魔法|装置《そうち》≠フ再建である。
付与魔術《エンチヤントメント》の産物たる|魔法の宝物《マジツクアイテム》のなかにあって、持ち運びを許さぬほどに巨大《きよだい》で、発動する魔力の強大さも最高級の物が、こう称《しよう》される。
そして研究の完成は、今や目前に迫《せま》っている。
あとは装置を実際に起動させるのみ。彼の期待どおりに機能するかどうかを確かめるだけだった。
研究が完成したあかつきには、黒曜石《こくようせき》の塔の魔術師どもは顔色を変えることだろう。彼らが束《たば》になって研究しても成功したかどうかという偉業《いぎよう》を、バナールは単独で成《な》し遂《と》げようとしているのだから。
魔術師ギルドの名声は地に落ち、ギルドに属《ぞく》する魔術師たちの誇《ほこ》りは傷《きず》つくことになるだろう。バナールにとっては、現在の境遇《きようぐう》に追い込まれたことへのささやかな復讐《ふくしゆう》となる。
世の人々は、誰が真に偉大な魔術師であったか、思い知ることになるだろう。
「それにしても暑いな……」
老人はつぶやく。
吐く息さえ熱気を帯びているように感じられる。
老人の全身からは汗《あせ》がしたたり落ち、心臓の鼓動《こどう》は早鐘《はやがね》のようだ。
魔法装置を起動させるための準備で、老魔術師はここ三日ばかり、食事も睡眠《すいみん》もまともに取っていない。
疲労《ひろう》は限界まで達しているが、研究の完成を間近《まぢか》に控《ひか》えた高揚感《こうようかん》のために、まだまだ作業を続けられそうだった。
「ここまできたら、最後までゆかぬとな」
魔法装置が起動さえすれば、湯船《ゆぶね》に浸っているようなこの蒸し暑さからもたちどころに解放されることになる。
「それこそが、四大魔術《エレメントマジツク》の奥義《おうぎ》を封《ふう》じたこの装置の魔力なのだからな……」
バナールはつぶやき、部屋の中央にある魔法装置の心臓部を見つめた。
色とりどりの水晶《クリスタル》の柱が、天井《てんじよう》に向かって何本も伸《の》びている。それらは塔の屋上をも貫《つらぬ》き、子供の身長の高さほど空に突《つ》き出ているのだ。
バナールは次に、腰《こし》の高さほどの台座《だいざ》に設置した魔法装置の制御板《せいぎよばん》に視線を転《てん》じた。
拳《こぶし》ほどの大きさの水晶|球《きゆう》が数個、黒曜石の円盤《えんばん》に置かれている。その水晶球は今はまだ無色|透明《とうめい》だが、これから行う魔法の儀式《ぎしき》によって、水晶柱のそれぞれに対応した色に変わってゆくはずであった。そしてこの水晶球を操作《そうさ》することで、装置の魔力は発動することになる。
石盤には水晶球を安定して配置するためのくぼみがいくつも設けられている。
「万物《ばんぶつ》の根元《こんげん》にして万能《ばんのう》なる力……」
バナールは魔法装置を完成させるための最後の儀式に取りかかった。
水晶球に手を置きながら、上位古代語《ハイ・エンシエント》の呪文《じゆもん》を静かに詠唱《えいしよう》する。それとともに、透明だった水晶球がひとつまたひとつと鮮《あざ》やかな色を帯びてゆく。
「いよいよだ。いよいよ……」
バナールは、自分の胸が更《さら》に高鳴ってゆくのを感じた。
どくん、どくんという鼓動が空気を震《ふる》わせているようにさえ感じる。
最後の水晶球に対する儀式を完了《かんりよう》し、バナールは深く息を吸い込んだ。そして霧《さり》を閉《と》じ込めたような色をしたその水晶球に、静かに右手を置く。
どくん、どくん。
極度《きよくど》の緊張《きんちよう》のためか、手が震える。十年もの歳月《さいげつ》を費《つい》やした研究が今、完成するのだから、それも当然であろうと思う。
老魔術師は空《あ》いたほうの手で胸を押《お》さえながら、霧色の水晶球の位置をいっぱいに動かした。
その瞬間《しゆんかん》、同じ色をした水晶の柱が、まぶしい光を放《はな》ちはじめた。
「起動した……」
バナールは感極《かんきわ》まった声をあげる。
しかし、次の瞬間に、まるで動きはじめた魔法装置と引き替《か》えたように、老人の肉体のなかで、ひとつのものが動きを止めた。
そしてそれは、二度と動くことはなかったのである。
「なにかしら、今の感触《かんしよく》は……」
樫《かし》の古木の樹上《じゆじよう》に座《すわ》り、風の声に静かに耳を傾《かたむ》けていた一人の娘《むすめ》が、不安そうにつぶやいた。
そして、ゆっくりと空を見上げる。
娘は、笹《ささ》の葉の形をした長い耳をしていた。銀色に近い金髪《きんぱつ》が、突然《とつぜん》吹《ふ》いた強い風に乱《みだ》されている。若木《わかぎ》のような細い身体《からだ》に、しなやかな四肢《しし》が伸びている。肌《はだ》の色は白樺《しらかば》のようであった。
娘は、森の妖精《ようせい》たるエルフなのだ。
名を、セレシアと言う。
争いの森≠ニ人間たちが呼《よ》ぶこのターシャスの森で、いちばん大きな集落を営《いとな》んでいる部族の一員だった。
生まれてから百年ほど経《た》っているが、部族のなかでは若いほうだ。
長命で知られるエルフ族ではあるが、成人するまでの肉体的な成長は、人間とそう変わりない。二十年ほどで肉体的な成長は止まるが、そこから老化することはない。その姿のまま寿命《じゆみよう》を迎《むか》えるのである。
もっとも、精神的な成長は、人間とはまったく違《ちが》う。彼女の精神はまだまだ幼《おさな》く、部族の大人《おとな》たちには子供|扱《あつか》いされている。
外の世界に憧《あこが》れる思いが強いのは、まだ若木≠ナある証拠《しようこ》だ、と。
だが、そんな若木がなければ、森が広がることもないと、彼女は心の底では思っている。
セレシアは木の枝から飛び降りると、集落に向かって走った。
あの異常な感触は、おそらく集落のすべての者が感じたはずだ。おそらく長老ならば、何事が起こったのか答えてくれるに違いない。
集落に戻《もど》ると、彼女が予想したとおり、全員が緊張した表情をしていた。セレシアは仲間たちの間を飛ぶように走って、集落にただ一人いるいにしえの森の妖精――ハイエルフの長老が瞑想《めいそう》している古代樹を目指した。
「セレシアか……」
黄金の葉を茂《しげ》らせる古代樹の幹《みき》に穿《うが》たれた大きな|うろ《ヽヽ》のなかで、ハイエルフの長老は瞑目していた。
そして目を閉じたまま、やってきた若い娘に声をかける。
「異変《いへん》を、感じました」
セレシアは息を整《ととの》えながら、長老に話しかけた。
「まるで精霊《せいれい》たちが、一斉《いつせい》に悲鳴をあげたような……」
数千年の年月を生きてきた長老は、静かにうなずく。
「過去にも、同じことがあった。魔術師どもが、世界を支配していた頃《ころ》に、な」
「魔法王国の時代に!」
セレシアは、驚《おどろ》きの声をあげた。
魔法文明で栄《さか》えた古代王国カストウールの時代には、当時、蛮族《ばんぞく》と蔑《さげす》まれていた現在の住人のみならず、妖精たちの大半も隷属《れいぞく》を強《し》いられたのである。そしてセレシアたちの集落も例外ではなかった。
ターシャスの森には、その頃に建《た》てられた古代王国の遺跡《いせき》が各所に残っている。
カストウール王国は五百年あまり前に滅亡《めつぼう》したが、集落のエルフの半数近くは、その頃から生きている。奴隷《どれい》とされた屈辱《くつじよく》は忘れられるはずもなく、人間に対する嫌悪《けんお》や偏見《へんけん》の由来《ゆらい》となっている。
「セレシアよ、人間の世界へ行くのだ。そして精霊力の乱れの源《みなもと》を断《た》て」
そして長老はその乱れの原因となっているものについて、詳細《しようさい》を語っていった。
「わたしが、ですか?」
思いもしなかった長老の言葉に、セレシアはなんと答えていいのか分からなかった。
「そうだ。おまえひとりで行くのだ…」
長老は、宣言《せんげん》するように言った。
「おまえは先日、部族の聖地《せいち》に人間の侵入《しんにゆう》を許した。その償《つぐな》いは、まだ済《す》んでおらぬ」
「償いですか……」
セレシアはうなだれるように顔を伏《ふ》せ、上目《うわめ》づかいに長老を見つめた。
長老はあいかわらず目を閉じたままで、その心のなかのことは、若い彼女にはまったくうかがいしれなかった。
「分かりました」
セレシアは顔を上げると、笑顔を浮《う》かべた。
長老の考えが分からない以上、自分にとっていちばん都合のいい解釈《かいしやく》をすることに、彼女は決めたのだ。
(わたしは、人間の世界に興味《きようみ》を覚《おぼ》えはじめていた。それを感じたからこそ、長老はわたしに命じた……)
思えば、長老のもとに急いでやってきたのも、こうなることを期待してのことだったのかもしれない。
「人間たちに手伝ってもらってもよいのでしょうか?」
「方法はおまえに一任しよう」
長老の答えは、セレシアを満足させるものだった。
それなら行こうと、彼女は心を決めた。
人間の世界に。そして、あの若者に会うのだ、と……
[#改ページ]
第T章 真夏に訪《おとず》れしもの
1
アレクラスト大陸で、もっとも新しく興《おこ》された王国《おうこく》オーファン。
その王都であるファンの街《まち》は、新興国《しんこうこく》ならではの雑然とした活気に溢《あふ》れていた。大通りの両側には大小の商店が建《た》ち並《なら》び、形も大きさも、機能も価格も異《こと》なった様々《さまざま》な品物が商《あきな》われている。
店員は客寄せの声を張り上げ、ひとつでも多く売ろうと懸命《けんめい》になっている。客たちは品物の善《よ》し悪《あ》しを確かめたり、値引きの交渉《こうしよう》に勤《いそ》しんでいる。
そんな大通りの真ん中を、一組の男女がゆったりとした足取りで歩いている。
二人とも魔術師《まじゆつし》である。手にしている杖《スタツフ》と、身に着《つ》けている長衣《ローブ》からそれと分かる。
オーファンには偉大《いだい》なる<Jーウェスが創設《そうせつ》した魔術師ギルドがあり、そこでは百人ほどの魔術師が、失われた古代文明の研究に従事《じゆうじ》している。
彼らももちろん、その魔術師ギルドの一員だった。
「悪いわね、買い物になんか付き合わせて……」
二人の魔術師のうち、女性のほうが連れの男性に声をかけた。
彼女の名前はアイラ、魔術師ギルドでは付与魔術《エンチヤントメント》という系統《けいとう》を主《おも》に研究している。
茶色がかった金色の髪《かみ》をしており、顔には奇妙《きみよう》な物をかけている。眼鏡《めがね》≠ニ呼《よ》ばれる古代王国期の|魔法の宝物《マジツクアイテム》だが、そのことを知る者は一般《いつぱん》にはあまりいない。
だが、行き交《か》う人々は、彼女が魔術師であるという理由で、別に気にした様子もない。
魔術師には風変わりな人間が多いというのが、彼らの理解なのである。
そしてそれは、あながち誤解《ごかい》とは言えない。
「このぐらいは、別に構わないさ。先日の決闘《けつとう》のときには、ずいぶん苦労をかけたみたいだからな」
もう一人の魔術師がそう答えて、屈託《くつたく》のない笑いを浮《う》かべた。
彼の名前は、リウイ。
アイラとは魔術師ギルドの同僚《どうりよう》であり、同期でもある。もっとも年齢《ねんれい》は彼女より二つばかり年下で、まもなく十九|歳《さい》になる。
並《なら》んで歩いていると、アイラよりも頭ひとつ分は上背《うわぜい》がある。そしてその身長に見合うだけの体格の持ち主でもあった。
両手いっぱいに荷物を抱《かか》えているが、それを重そうにしている様子はかけらもない。
普通《ふつう》の服を着ていたら、誰も彼のことを魔術師とは思わないだろう。おそらく戦士《せんし》か何かだと思うはずだ。
そしてそれも間違《まちが》いではない。
なぜなら、彼は魔法戦士《ルーンソルジヤー》と名乗っているからだ。
魔術師でありながら、武器を使った戦いにも長《た》けた者だけがそう呼ばれる。
もっとも、今はまだ自称《じしよう》でしかない。他人《ひと》は、誰《だれ》もそれを認めてくれないからだ。喧嘩《けんか》なら得意《とくい》だが、武器の扱《あつか》いはさっぱりなのである。
先日、ラムリアースの騎士《きし》と決闘したときも、結局は拳《こぶし》で片《かた》を付けた。古代王国の遺跡《いせき》やエルフ族の集落で赤肌鬼《ゴブリン》と戦ったときも、そうだった。
十字路の王国<鴻}ールの闘技場で殴《なぐ》り合いを見世物にしている拳闘士《ボクサー》みたいだと、三人の冒険《ぼうけん》仲間には嘲笑《ちようしよう》されている。
悔《くや》しいが、今はまったく反論できない。
だが、そのうち見返してやると、彼は心密《こころひそ》かに思っている。大陸で、最強の戦士になることで……
「そう言えば……」
リウイは、決闘のおりにアイラから貰《もら》った魔法《まほう》の剣《けん》のことを思い出した。
彼女は決闘相手のラムリアース騎士が持っていた|踊る剣《ダンシングソード》≠ニ呼ばれる魔法の剣と、姉弟《きようだい》ともいうべき剣をどこからか手に入れてきたのだ。
そのおかげで、リウイは決闘に勝ったわけだが、あの後も、その魔法の剣は貰《もら》ったままになっていた。
もちろん、代金も払《はら》っていない。
リウイはそのことをアイラに言って、代金を払うと申し出た。
「そう言われてもね……」
アイラは困ったような表情をした。
「値段なんて付けようがない代物《しろもの》だもの。だから、お父様の収集品のなかから最高の一本を拝借《はいしやく》して交換《こうかん》したの。まあ、小さな城ぐらいなら、ひとつやふたつ楽に建《た》てられるんじゃないかな」
それを聞いて、リウイは前のめりになり、手にした荷物の山を落としそうになった。
「そんな金額を払うだけの余裕《よゆう》はないぞ」
リウイは顔色を変えて言った。
「だから、お金なんていいのよ。あの剣はあなたにあげたんだから」
「そうはゆくか」
そんな高価な物をただで貰う理由がない。
魔術師ギルドの宿舎に帰ったら、すぐに返すと、リウイはアイラに言った。
「返してもらってもねぇ」
アイラが苦笑を浮かべる。
「わたしの魔術の研究対象は確かに、|魔法の宝物《マジツクアイテム》だけど、武器とかにはあまり興味《きようみ》がないのよね。持っていても、わたしには役に立たないし……。それに、あなたの決闘《けつとう》相手が持っていた踊《おど》る剣をどさくさにまざれて、貰っているから」
「そんなことをしていたのか……」
リウイはまったく知らなかった。
油断も隙《すき》もないな、と思う。
もっとも、決闘相手のラムリアースの騎士《きし》にしても、剣を奪《うば》われたくらいで、騒《さわ》ぎたてるわけにはゆかないはずだ。決闘に負けたのだから、殺されていても文句は言えないのだ。
それに、彼にとってはもはや無用の物だし、騎士の|誇り《ブライド》にかけても返せとは言えないはずだった。
「だから、わたしはまったく損をしてないのよ。お父様にはあの騎士が持っていた踊る剣を返しておいたしね。だから、あなたにあげた剣は、自由に使ってくれていいわ」
「それでもだ……」
リウイはあわてて言った。
無料《ただ》で貰うには、あまりにも高価な代物《しろもの》である。
それに、剣は手の延長とよく言われるが、あの踊る剣≠使うのはいくらなんでも卑怯《ひきよう》というものだ。
あんな剣に頼《たよ》っていたら、戦士としての技量《ぎりよう》が上達《じようたつ》するはずがない。
リウイにとっては、勝つこともさることながら、強くなることのほうがもっと大事《だいじ》なのである。
「何と言われても、あの剣は返すからな。魔法の剣を使うのは、もっと腕《うで》を上げてからでいい」
リウイの断固《だんこ》とした口調《くちよう》に、アイラはしばらくのあいだ複雑な表情を浮《う》かべたまま、沈黙《ちんもく》を守った。
それから、寂《さび》しそうに笑って、分かったわとうなずく。
「あの剣は、返してもらう。でも、あなたがもっと強くなったときには、わたしに剣を贈《おく》らせてね」
それは約束《やくそく》しようと、リウイはアイラに答えた。
「それにしても暑《あつ》いな……」
話題を変えようと、リウイは空を見上げてつぶやいた。
魔術師の長衣《ローブ》を着ているので、余計に暑さがひどく感じられる。時期的に言えば、まだ初夏のはずだが、まるで真夏のような日差しだった。
「まったくね」
アイラは相槌《あいづち》を打つと、長衣の襟元《えりもと》を摘《つま》んで、ばたばたと動かした。長衣の下に溜《た》まった熱気が逃《に》げてゆくが、それも気休めほどでしかない。
隣《となり》を歩いていたリウイには、彼女の胸の谷間が目に入った。同時に、甘酸《あまず》っぱいような香《かお》りがふわりと鼻を刺激《しげき》する。
「しかし、昨日《きのう》降った雨は妙《みよう》に冷たかったな」
「そうね、その前の日は、朝霧《あさぎり》が昼になっても消えなかったし」
「このところ、どうも天候《てんこう》が不順だな。作物に悪い影響《えいきよう》が出ないといいんだが……」
穀物《こくもつ》や野菜《やさい》が不作になれば、農民《のうみん》の暮《く》らしも大変だろうし、作物の値段が高騰《こうとう》し、街《まち》の住人の家計も圧迫《あつばく》されることになるのだ。
「お父様に農作物を買い占《し》めるように、言っておこうかしら」
アイラが冗談《じようだん》めかして言った。
「やめてくれ……」
リウイは疲《つか》れたような声を上げた。
アイラの場合、冗談では済《す》まないのだ。
彼女の実家は、オーファンでも最大の商会を経営している。そんなところが買い占めに走ったら、物価は大変なことになる。
「カーウェス様が、何か対策《たいさく》を講《こう》じられるわよ」
アイラは、苦笑しながら言った。
魔術師ギルドの最高導師《さいこうどうし》である偉大《いだい》なるカーウェスは、オーファン王国の宮廷《きゆうてい》魔術師の地位にもある。国王リジャールは典型的《てんけいてき》な武人《ぶじん》だから、オーファンの国政は実質、彼の手に委《ゆだ》ねられているといって過言ではない。
ついでに言えば、カーウェスはリウイの養父《ようふ》であるのだ。彼にとっては、間違《まちが》いなく不《ふ》肖《しよう》の養子であろうが……
「ま、このまま暑い日が続いてくれたほうが、夏らしくていい」
実際は、夏というにはまだ時期が早いが、季節はずれの冷たい雨や霧などより異常ではない。
そもそも、リウイ自身はどんな気候でも別に構わないのだ。暑いのも寒いのも別に気にしない。要するに体力と気力の問題である。そして彼はそのどちらにも自信がある。
「わたしは、あまり暑いのは好きじゃないんだけどなぁ」
アイラはふたたび長衣《ローブ》の襟元を緩《ゆる》めながら、溜息《ためいき》をついた。
暑いのも寒いのも、彼女は嫌《きら》いだった。暑からず寒からずというのが、いちばんに決まっている。
「もう少し買いたい物があったんだけど、このままだとわたしがばててしまうわ。せっかく頼《たよ》りがいのある荷物持ちが一緒《いつしよ》にいてくれるのに、残念なんだけど……」
宿舎に帰りましょ、とアイラはリウイに呼《よ》びかけた。
今日は彼女に付き合っての外出なので、リウイは素直《すなお》に彼女の言葉に従う。
二人の足は魔術師ギルドのある丘《おか》の方に向いた。
しかし、そのとき、自分たちを見つめている視線《しせん》があることに、リウイもアイラもまったく気づかなかった。
二人の姿が人混《ひとご》みにまざれると同時に、その視線の主《ぬし》は大通りに姿を現した。
先端《せんたん》の尖《とが》った長い耳をした女性である。
森の妖精《ようせい》エルフだった。若い娘《むすめ》の姿をしているが、何年生きているかは、その外見からはまるで判断はつかない。
「見つけたわ……」
エルフ娘は、そうつぶやいた。
「連《つ》れの女性は誰《だれ》だか知らないけど、あんなに荷物を持たされて、相変わらずひどい扱《あつか》いね。でも、わたしは違《ちが》う。あなたは、わたしにとって大切な人だから……」
そして彼もまた、そう思ってくれるはずだ。また、そうでなくてはならない。与《あた》えられた使命を果たすためには……
だが、それだけでも使命を果たすことはできない。障害《しようがい》は、他《ほか》にもあるからだ。
「まず、それを取り除《のぞ》かないとね」
エルフ娘は、まるで自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、その場からそっと立ち去っていった。
2
「お帰りなさいませ」
魔術師《まじゆつし》ギルドの門番《もんばん》を務める老人が、リウイとアイラに丁寧《ていねい》にお辞儀《じぎ》をする。
リウイは最高導師《さいこうどうし》カーウェスの養子《ようし》であるし、アイラは魔術師ギルドの有力な後援者《こうえんしや》でもある富豪《ふごう》の娘《むすめ》だ。
二人の資格《しかく》は正魔術師《ソーサラー》に過ぎないが、特別な立場にあるのは間違《まちが》いない。
特別扱いされるのは好きではないが、そのほうが都合がいいのも確かだ。
リウイとアイラは門番にお辞儀を返して、宿舎の方に向かおうとした。
「お待ちください」
しかし、門番に呼び止められ、二人は怪訝《けげん》そうな顔をして、立ち止まった。
呼《よ》び止められることなど、滅多《めつた》にあることではない。
「アイラ様に、お手紙が来ています」
老人はそう言うと、正門脇の小屋に入って、手紙を一通、持ち出してきた。
「わたしに?」
いったい誰からかしらとつぶやきながら、アイラは差出人の名を見た。
そして表情を僅《わず》かに強張《こわば》らせる。
「どうかしたのか?」
彼女の表情の変化に気づいて、リウイが声をかけた。
「ここでは、ちょっとね……」
アイラは苦笑を浮《う》かべてそう答えると、部屋《へや》に来てくれないと小声で続けた。
リウイはもちろん、それを承知した。
「どうせ、この荷物を運び込まないといけなかったからな」
そう理由らしきことを言ったが、アイラの態度に好奇心《こうきしん》をそそられただけなのは明らかだった。
二人は宿舎へと入り、アイラの私室に向かった。
部屋に入ると、大量の荷物を部屋の片隅《かたすみ》に積み上げてから、二人は椅子《いす》に向かい合って座《すわ》った。
アイラは手紙の封《ふう》を開け、素早く目で文面を追いかける。
リウイは何かを期待するような目で、それを見つめている。
(何か問題が起こったんだろうか)
リウイは心のなかでつぶやく。
あるいはこれから起こるのかもしれない、と……
不謹慎《ふきんしん》かも知れないが、冒険者《ぼうけんしや》であるリウイにとっては、問題が起こってこそ、活躍《かつやく》の場ができるのである。
手紙を読み終えると、アイラはいったん眼鏡《めがね》をはずして、大きく溜息《ためいき》をついた。そして両目を閉《と》じ、瞼《まぶた》を軽く押《お》さえてからもう一度、眼鏡をかけなおす。
「それで、か……」
アイラはひとりごとのように言うと、窓の外に視線を向けた。
「もったいぶらないでくれよ。いったい、その手紙には何が書かれてあったんだ」
リウイが焦《じ》れたように言うと、アイラは振り返って、手紙を投げてよこした。
「とにかく、読んでみて」
言われるとおり、リウイは手紙の文面に目を走らせる。
「これは……」
手紙の内容は意外なものだった。
差出人はバナールと記されてあった。どうやら、アイラの幼《おさな》い頃《ころ》の導師であったらしく、約束《やくそく》どおり研究の成果をすべて譲《ゆず》ると書いてある。そして研究は最終段階に入っているということが付け加えられていた。
そして手紙の最後には四大《しだい》を極《きわ》めし者≠ニ誇《ほこ》らしげな尊称《そんしよう》が記されてあった。
(四大を極めた? どういう意味だ)
リウイは、疑問に思った。
バナールという人物は四大魔術《エレメントマジツク》が専門《せんもん》なのだろうか。
「バナール導師《どうし》は、わたしが魔術師ギルドに入る前に、読み書きや魔術の初歩を教えてくれた人よ。この街《まち》で魔術の私塾《しじゆく》を開いていたんだけど、魔術師ギルドと張り合えるはずもなくて、私塾を閉《し》めたの。そしてお父様の後援《こうえん》で、辺境《へんきよう》の地で最後の魔術の研究に取り組まれたわけよ」
「どんな研究を?」
「魔法装置《まほうそうち》よ。バナール導師は、それを再建しようとしていたの」
アイラが答えた。
「危険な代物《しろもの》じゃないだろうな」
「魔法はすべて諸刃《もろは》の剣《けん》よ。使いようによっては役に立つけど、災《わざわ》いをもたらすことだってあるわ……」
アイラはそう言うと、ふたたび窓の外に視線を向けた。
「天候制御《てんこうせいぎよ》の魔法装置よ」
「天候制御の……」
リウイはアイラの言葉を繰り返し、その意味を深く心に刻《きざ》んだ。
「それじゃあ、このところの異常な気象は……」
「魔法装置の魔力によって、精霊力《せいれいりよく》が乱されているためだと思う」
アイラは静かにうなずいた。
天候とは自然を司《つかさど》る精霊たちの力の総和ということができる。水の精霊力の力が強ければ雨が降るし、炎《ほのお》の精霊力の力が強ければ晴れになるというようにだ。
そして精霊力が乱《みだ》れると大雨や竜巻《たつまき》、干魃《かんぱつ》といった災害《さいがい》が発生するのである。
「魔法装置は起動《きどう》したってことだな」
それで四大を極めし者≠ニの尊称を名乗っているのか、とリウイは納得《なつとく》した。四大魔術は自然の力、すなわち精霊たちが司っている現象を制御する系統《ブランチ》なのである。
極めた、と言っているからには、バナールなる魔術師の最後の研究は成功したことになる。そしてその成果を、アイラは譲《ゆず》り受ける権利《けんり》を持っているということだ。
「魔法装置は起動した。それはたぶん、間違《まちが》いない。でも、正しく起動したかどうかは、まだ分からないわ……」
「どういう意味だ?」
「言ったとおりの意味よ。魔法装置は起動した。そして暴走《ぼうそう》しているかもしれないってこと。バナール導師はまじめな人よ。ここ数日の天候を見ていると、まるで子供が悪戯《いたずら》をしているみたいじゃない。そういうような魔術の使い方は、決してしないはずなの」
「年月が経《た》てば、性格だって変わるさ。そのバナールって魔術師は、高齢《こうれい》なんだろ? 耄《もう》碌《ろく》しているかもしれないじゃないか」
「そうだとすれば、なおさら由々《ゆゆ》しき問題だとは思わない。オーファン近郊《きんこう》の天候は、耄碌した老人に支配されていることになるのよ」
「それは、そうだな……」
リウイは腕組《うでぐ》みをし、意味のない唸《うな》り声を洩《も》らす。
「耄碌したのならまだいいけど、もしも事故《じこ》が起こったのだとすれば……」
「この異常な気象は魔法装置を止めないかぎり、永遠に続くのよ」
アイラの口調《くちよう》は、普段《ふだん》どおりだった。だが、事態の重大さは、リウイにも十分に理解できた。
「その魔法装置は、どこにある?」
リウイは訊《たず》ねた。
「そう言ってくれると思っていたわ」
アイラはにっこりと微笑《ほほえ》んで、リウイの膝《ひぎ》に優しく手を置いた。
「仕事を頼《たの》んでいいかしら、魔法戦士さん」
「まかせてくれ」
リウイは不敵《ふてき》な笑みを浮かべて、胸を強く叩《たた》いた。
「それじゃあ、行きましょ」
アイラはそう言うなり、|魔術師の杖《メイジスタツフ》を手に、椅子《いす》から立ち上がった。
「行くって、どこに?」
「決まってるじゃない。あなたのお仲間のもとへよ。あなたひとりじゃ、まだ荷が重いと思うから」
「さっきはあれだけの大荷物を持たせたくせに、な」
アイラの言葉に、リウイは憮然《ぶぜん》とした表情になる。
だが、彼女の言っていることは正論だから、リウイも不承不承《ふしようぶしよう》、立ち上がった。
そして二人は部屋を出て、魔術師ギルドの宿舎の廊下《ろうか》を足早に歩いた。
リウイの三人の冒険《ぼうけん》仲間を訪《たず》ねるためだ。赤毛の女戦士ジーニ、戦《いくさ》の神《かみ》の侍祭《じさい》メリッサ、盗賊《とうぞく》少女ミレルの三人の仲間を……
そして、彼女たちの協力を取り付けねばならない。
情《なさ》けない話だが、それはリウイにとってけっこう難関《なんかん》なのである。冒険仲間ではあっても、その関係は決して対等ではないからだ。
そのとき、リウイはふと足を止めた。
「どうしたのよ?」
アイラが怪訝《けげん》そうに振り返る。
「足りないな……」
リウイは虚《こ》空《くう》を見つめたまま、そうつぶやいた。
「天候制御の魔法装置は自然の精霊力に対して、働くんだったよな」
「ええ、そうよ」
アイラは、うなずいた。
「だとしたら、オレたちだけじゃ足りない」
「冒険者が、ってこと……」
そう問いかけて、アイラもはっとなった。
確かに足りないと思った。足りないのは――
「|精霊使い《シヤーマン》」
アイラが呻《うめ》くように言った。
「精霊力が乱れているのなら、精霊使いにはそれが分かるはずだ。問題を解決するために必要かどうかは分からないにしてもな」
「由々《ゆゆ》しき問題ね……」
他《ほか》の冒険者を当たって、精霊使いに手伝ってもらうという手段があるかもしれない。
「アイラの父親は商売の関係上、冒険者と関係することも多いのだ。
だが、今度の問題は、魔術師ギルドの存亡《そんぼう》に関《かか》わる事件となるかもしれない。それでなくても、魔術師は人々から偏見《へんけん》を持たれているのだ。恐怖《きようふ》心や嫌悪感《けんおかん》を抱《いだ》いている者さえいる。バナールは魔術師ギルドに属《ぞく》しているわけではないが、魔法装置の暴走によって、オーファンが大災害に見舞《みま》われたとしたら、人々の怒《いか》りの矛先《ほこさき》は間違《まちが》いなく魔術師ギルドに向けられる。
(考えただけでも、ぞっとするわね)
アイラは寒気《さむけ》を覚え、自分の肩を抱いた。
それに、精霊使いを当たっている時間も、あまりない。
「とにかく、あなたのお仲間たちに引き受けてもらうことが先決よ。精霊使いに関しては、彼女たちに意見を聞いてからにしましょ。もしかしたら、知り合いの冒険者でもいるかもしれないし……」
「そうだな」
ここで思案していても解決できる問題ではないので、リウイはふたたび廊下を歩きはじめた。
もちろん、アイラも続く。
(精霊使いか……)
歩きながら、リウイは心のなかでつぶやく。
彼も一人だけだが、精霊使いの心当たりがある。それも美しく高貴《こうき》な精霊使いを……
だが、その精霊使いは、争いの森ターシャスの奥深《おくふか》くに住んでいる。呼《よ》びに行くような余裕《よゆう》があるはずがなかった。
3
窓の外には、強い日差しが照りつけている。まだ初夏だというのに、風通しのよい屋内にいても、汗《あせ》ばんでくるほどの暑《あつ》さだ。
大通りに画した一軒《いつけん》の酒場《さかば》で、三人の若い女性がひとつのテーブルを囲んで食事を取っていた。二人が横に並《なら》んで、もう一人の女性と向かい合っている。
横に並んでいる二人の女性のうちの一人は、見ただけで戦士《せんし》と分かる。大剣《グレートソード》を傍《かたわ》らに置いて、革製《レザー》の部分鎧《ぶぶんよろい》で身体《からだ》の要所を守っている。豊かに膨《ふく》らんだ胸がなければ、男と見間違《みまちが》えられたかもしれないほど、大柄《おおがら》で全身の筋肉も鍛《きた》えられている。
女戦士の隣《となり》に座《すわ》っているのは、小柄な少女である。空になった酒杯《ジヨツキ》を弄《もてあそ》ぶように、手の上で器用《きよう》に踊《おど》らせている。見る人が見れば、それだけで彼女の正体が分かるだろう。
盗賊《シーフ》である。大きな街《まち》なら、それこそ大陸中のどこに行っても、彼らの姿は見つけられる。盗《ぬす》みや賭博《とばく》など、非合法な仕事を生業《なりわい》とする者たちだが、彼らは遥かな昔《むかし》から世界に存在していた。
アレクラスト大陸でもっとも新しい王国であるここオーファンなど問題ではなく、四百年の歴史を誇《ほこ》る隣国《りんごく》ラムリアースよりも、盗賊《とうぞく》という職業とその組織《ギルド》の存在は古いのだ。
そんな二人と向かい合っている女性は、神に仕《つか》える身分の者がよく着る、簡素《かんそ》な衣服《いふく》に身を包んでいた。その左胸には、戦鎚《ウオーハンマー》を象《かたど》った紋章《シンボル》が小さく刺繍《ししゆう》されている。
戦いを司《つかさど》る神、マイリーの聖印《ホーリーシンボル》だった。
彼女は戦《いくさ》の神の司祭、あるいは神官なのだ。
戦士と盗賊、それに神官。そんな三人が一緒《いつしよ》に行動しているからには、彼女たちが古代王国の遺跡《いせき》を探索《たんさく》し、失われた宝物《ほうもつ》を探し求める冒険者であることが知れる。
この大陸には、彼女らのような冒険者が何人もいる。彼らに便宜《ベんぎ》をはかる専門の店も、大きな街《まち》なら、必ず一軒は存在するほどなのだ。
「……誠《まこと》に不本意ですが、あの男を勇者と認めることにしました」
戦の神に仕《つか》える女性神官が、苦悩に満ちた表情で二人に告白した。
彼女の名前はメリッサ。
そして、彼女の向かいに座《すわ》る二人は、女|戦士《せんし》のほうがジーニ、盗賊の少女のほうはミレルという。
「ふーん、とうとう認めちゃったんだ……」
盗賊少女のミレルが、もとから円《つぶ》らな目をいっぱいに開いて言った。
窓から差し込む光に、短《みじか》くまとめた黒色の髪《かみ》と瞳《ひとみ》がきらきら輝《かがや》く。
「それで、あの男のどこに、勇者の資質《ししつ》を見たんだ?」
いかにも異論《いろん》ありというように、長身の女戦士ジーニが訊《たず》ねた。
あの男というのは他《ほか》でもない。
ここ、オーファンの王都ファンの街にある魔術師ギルドで正魔術師《ソーサラー》の資格を持ちながら、なぜか戦士になることを目指している自称《じしよう》魔法戦士《ルーンソルジヤー》のことだ。
リウイである。
「それは、まだ分かりません…」
痛いところを突《つ》かれたというように、メリッサはうなだれる。それで、自分の両手が、膝《ひざ》の上で硬《かた》く握《にぎ》りしめられているのに気がついた。
「しかし、彼が勇者であることは、間違《まちが》いないようです」
そして、メリッサは思いつくままに、理由めいたものを並《なら》べはじめた。
強靭《きようじん》な肉体の持《も》ち主《ぬし》であること。
魔術が使えるのだから、頭も悪くないはずだ。
裏通りの酒場で働く女性にはもてているようだから、人望もあるのだろう。
以前《いぜん》、エルフ娘《むすめ》に騙《だま》されたこともあったが、それは性格が真《ま》っ直《す》ぐだからである。そして、機転《きてん》を効《き》かせて、その危機から脱《だつ》した。
応じる理由のない決闘《けつとう》からも逃げることはなかったし、戦い方はともかく、結局はそれに勝利している。
「……なにより、偉大《いだい》なる戦の神《かみ》から啓示《けいじ》を賜《たまわ》りました」
そしてメリッサは、最後をそう締《し》めくくった。
(無理して、いいところばかりを並べているように思うけど……)
彼女の言葉に、ミレルはそんな疑問を感じたが、口には出さなかった。
リウイの肉体が強靭なのは認めるにしても、今はそれを持て余《あま》しているとしか言えない。
頭は良いのかもしれないが、思慮《しりよ》や分別《ふんベつ》が欠《か》けていてはまったく意味がない。
性格が正直というよりはお調子者《ちようしもの》で、エルフ女に偏されたのは、勝手な思い込みのためである。
そして危機から脱出《だつしゆつ》するために使った方法は、機転を効かせたというより、詐欺《さぎ》のようなもので、放火をしておいて、その火を消し止めて感謝されたようなものだ。
応じる理由もない決闘から逃げないのは、盗賊《とうぞく》であるミレルの価値基準から言えば、阿呆《あほう》ということになるし、その決闘に勝てたのは彼の実力ではなく、同僚《どうりよう》の女性魔術師のおかげである。
「それでも勇者なんです……」
深く溜息《ためいき》をつきつつ、メリッサはミレルに向かって言った。
口にこそ出さなかったが、どうやら表情や態度でミレルは本心を語っていたらしい。
「わたしたちは、どっちだっていいんだけど……」
ミレルは言って、同意を求めるように隣《となり》の女戦士に視線を向けた。
「勇者であるとかどうとか、肩書《かたが》きや評判《ひようばん》なんかどうでもいい。大事《だいじ》なのは、中身なんだからな」
そしてジーニは、その中身が疑問なんだがな、と心のなかで付け加えた。
そんな彼女の心の声が聞こえたかどうか、
「わたしにとっては、肩書きも評判も大事です。万人《ばんにん》に勇者と言わしめなければ、わたしは従者《じゆうしや》として立場がありませんもの」
と、メリッサは言った。
「そこでなのですが……」
「そこで?」
声をそろえて、ジーニとミレルは先を促《うなが》す。
「あの男に、試練《しれん》を果たしてもらおうと思うのです」
大きく胸を張って、メリッサは決意の強さを示した。
形のよい胸の双丘《そうきゆう》が、神官衣《しんかんい》を内側から押し上げる。
それを見たミレルは一瞬《いつしゆん》、自分の胸に視線を落とし、服をつまむような仕草《しぐさ》を見せた。
それからふたたび顔を上げて、どういう試練なのかとメリッサに訊《たず》ねる。
「それを相談したくて、集まってもらったのです」
メリッサは申し訳なさそうに言って、心当たりはありませんか、と二人に問いかけた。
「突然《とつぜん》、試練なんて言われてもな……」
ジーニは当惑《とうわく》し、髪《かみ》を掻《か》きむしった。もとから、ぼさぼさの髪が更《さら》に乱れる。
「この国の王様みたく、竜《ドラゴン》でも退治《たいじ》すれば」
ミレルが無責任な発言をした。
オーファンの建国王《けんこくおう》にして、現在もその地位にあるリジャールは、若き日に邪竜《じやりゆう》と恐《おそ》れられたクリシュを成敗《せいばい》し、その名声を不動のものとしている。
そしてその名声を最大の武器に、この地方の戦乱を収め、王となったのだ。
「どこかで、邪悪な竜でも暴《あば》れていないかしら?」
「本気にしないでちょうだい」
メリッサに問い返され、ミレルは顔色を変えた。
「あたし、まだ死にたくないよ」
竜は最強の幻獣《げんじゆう》にして魔獣《まじゆう》なのだ。並《なみ》の人間、いや勇者と呼ばれるような人間でさえ、そうそう勝てるような相手ではない。
それゆえ、|竜殺し《ドラゴンスレイヤー》≠ヘ最高の武勲《ぶくん》と讃《たた》えられるのである。
「手伝ってくれるつもりだったの?」
ミレルの言葉に、メリッサは嬉《うれ》しそうな顔をした。
「仲間だからな」
ミレルに代わって、ジーニが即答《そくとう》した。
そして、ミレルも元気よくうなずいた。
「それに、友達じゃない」
それがとても大切なことであるかのように、ミレルは言った。
メリッサはもともと隣国《りんごく》ラムリアースの貴族の令嬢《れいじよう》である。ミレルはと言えば、産《う》みの親さえ分からないような街路育《ストリートそだ》ちの盗賊《とうぞく》なのだ。
それなのに、メリッサは実の姉のように接してくれる。それがミレルにはなにより大切なことなのだ。
山岳《さんがく》の小部族に生まれたジーニにしても、族長の候補《こうほ》になったほどの実力の持《も》ち主《ぬし》だし、ロマールで傭兵団《ようへいだん》にいた頃《ころ》にも勇名を馳せている。
いつも対等に振《ふ》る舞《ま》っているが、彼女たちの仲間でいるのは、ミレルにとってなかなか大変なのだ。だから、自分の役割は精一杯《せいいつばい》こなしてきた。それでこそ、二人も自分を信頼《しんらい》してくれている。
生まれてから孤独《こどく》をかみしめてきたミレルにとって、ジーニとメリッサはかけがえのない仲間であり、友人だった。今の関係が、いつまでも続けばいい、と彼女は心の底から願っている。
しかし、あの男、リウイが仲間になってから、三人の関係が微妙《びみよう》にずれてきているような気がするのだ。
ミレルには、それが少し不満であり、不安でもあった。メリッサがあの男を勇者と認めたことは、悪い予兆《よちよう》のような気もする。
「試練《しれん》なんて、探し求めるもんじゃない。時が来れば、向こうからやってくるだろうさ」
諭《さと》すように、ジーニがメリッサに言う。
彼女の言う試練とは、一般的《いつぱんてき》には大事件のことなのである。そんなもの、起こらないほうがいいに決まっている。自分たちは、名声のために冒険者《ぼうけんしや》をやっているのではないのだから。
「あの方が人々から勇者と認められるまで、わたしは恥ずかしい思いをするしかないのですね……」
落胆《らくたん》したように、メリッサはまたも深く溜息《ためいき》をついた。
先日、衆人環視《しゆうじんかんし》のなかで決闘《けつとう》をしたために、リウイはこの街《まち》で広く名前を知られるようになっている。だが、それは勇者などではなく、大道芸《だいどうげい》の喜劇役者《コメデイアン》として、だ。
「試練よりも仕事よ。あいつに出会ってから、全然ついてなくて、まとまったお金が入っていないんだから」
ミレルがわざとらしく深刻《しんこく》な顔をして言った。
「メリッサは神殿《しんでん》で暮《く》らしているから大丈夫《だいじようぶ》だろうけど、あたしたちは、ね」
ミレルは裏通りの安宿《やすやど》に部屋《へや》を借りている。そしてジーニは街外《まちはず》れの物置小屋で寝起《ねお》きしている。たいした額ではないが、生活費がかかる。
おまけにミレルは、盗賊《とうぞく》ギルドへも決まった額の上納金《じようのうきん》を収めなければならないから、冒険者になってからというものお金には困りっぱなしだ。昔《むかし》のように、路上《ろじよう》で誰《だれ》かの懐《ふところ》を狙《ねら》えばいくらでも稼《かせ》ぐ自信はあるのだが、ジーニたちとの約束《やくそく》でそれは自分に禁じている。
リウイの同僚《どうりよう》の女性魔術師から、魔術の素材《マテリアル》になるという古代樹《こだいじゆ》の枝を買い取ってもらっていなければ、宿から追い出されていたかもしれないほどなのだ。
そのことも、あの男に借りを作ってしまったようでおもしろくない。
「そうですわね。古代|遺跡《いせき》の情報を集めなければ……」
隊商《たいしよう》の護衛《ごえい》とか家出人《いえでにん》の捜索《そうさく》とか、細《こま》かな仕事の依頼《いらい》なら、冒険者の店に行けば紹介《しようかい》してもらえるだろう。
しかし、その手の仕事には三人ともあまり関心がない。
彼女らは、富のために冒険者をやっているわけでもないのだ。
ミレルとジーニは、冒険者になるまでのほうが確実に稼いでいたし、メリッサは神殿の務めを果たしている限り、暮らしに困ることはない。
三人が冒険者の道を選んだのは、それ以外に理由があるのだ。仲間以外には決して語らないそれぞれの理由が……
そのときだった。
「やっと見つけた」
突然《とつぜん》、そんな声がしたかと思うと、三人のテーブルに人影《ひとかげ》がひとつ近寄ってきた。
逆光《ぎやつこう》だったので顔はよく分からない。たが、独特《どくとく》のシルエットから、声の主《ぬし》が何者かはすぐに分かった。
頭の横から笹《ささ》の葉のような形をしたふたつの耳が飛び出していたのだ。
その細く尖《とが》った耳は、森の妖精《ようせい》たるエルフ族の特徴《とくちよう》である。
「てめえは!」
突然の明るさや暗さに慣れるのも、盗賊《とうぞく》の訓練のひとつである。まるで本物の猫のように、瞬時《しゆんじ》にして瞳《ひとみ》の調整《ちようせい》を終えたミレルが立ち上がって、裏街言葉《スラング》で叫《さけ》びをあげた。
「お久しぶりね」
流暢《りゆうちよう》な西方語を操《あやつ》って、そのエルフは答えた。
そして、メリッサの隣《となり》にひとつだけ空《あ》いていた席に、断《ことわ》りもなく腰《こし》を下ろした。
「おまえは!」
「あなたは!」
その瞬間《しゆんかん》、ジーニとメリッサが同時に声をあげた。
「あのときの!!」
そして、ミレルを交《まじ》えて三人の言葉が完全に重なる。
「覚えていてくれたようね」
そのエルフは、女性だった。優雅《ゆうが》な微笑《ほほえ》みを浮《う》かべながら、三人に会釈《えしやく》を送る。
「忘れられるものかよ!」
ミレルはあいかわらず裏街言葉のままだ。
セレシアというのが、彼女の名だ。身長は小柄《こがら》なミレルとそう変わらない。華奢《きやしや》な身体《からだ》、腰《こし》まで伸《の》びた髪《かみ》は限りなく銀色に近い。
高貴《こうき》なことで知られる森の妖精《ようせい》にふさわしく、その容姿《ようし》は気品にあふれ、ラムリアースの貴族|令嬢《れいじよう》であるメリッサさえもかすませるようだ。
だが、その美しい顔で、このエルフ女はミレルたちを欺《あざむ》き、罠《わな》にはめたのである。
「どうして、あなたが人間の世界へ?」
怒《いか》りを抑《おさ》えた声で、メリッサがセレシアに訊《たず》ねた。
「あなたがたの仲間に入れてもらおうと思ってね。あなたたち、冒険者でしょ」
セレシアは微笑みを崩《くず》すことなく、答えた。
「仲間にだと?」
正気かと言わんばかりに、ジーニがセレシアを睨《にら》みつける。
「おまえは、わたしたちに、いったい、何をした?」
ひとつひとつ言葉を区切りながら、ジーニはセレシアの顔に指を突《つ》きつける。
「騙《だま》したわね。そして捕《つか》まえて、裁《さば》きにかけた」
そう答えるセレシアには、まったく悪びれた様子がない。
「だけど、それはお互《たが》いさまでしょ? あなたがたが、わたしたちの集落に何をしたか、わたしは知ってるのよ」
その言葉に、ジーニたち三人は一瞬《いつしゆん》、言葉を失って、互いに視線をかわし合った。
「あのとき妖魔《ようま》たちを呼び寄せたのは、あなたがたの仕業《しわざ》。そのことを長老に話してもいいのよ。あの戦いで、集落の仲間が何人も命を落としていてね」
「脅《おど》しているつもりか?」
ジーニが殺気を帯びた声を出した。
「いいえ、非《ひ》はお互いにあったわけだから、貸し借りはないと思う。もっとも、仲間たちがそう思ってくれるかどうかは分からないけれど……。これって、やっぱり脅していることになるのかしら」
「白々《しらじら》しいわよ」
ミレルが冷ややかに言った。
「そうね」
悪戯好《いたずらず》きという妖精の一面を感じさせるように、セレシアはくすくすと忍《しの》び笑いを洩《も》らした。
「わたしは、あなたがたに興味《きようみ》を抱《いだ》いたの。特に、妖魔どもを素手《すで》で殴《なぐ》り殺していたあの魔術師《まじゆつし》に、ね」
セレシアは答え、彼に会わせてほしい、と続けた。
「物好《ものず》きなことだな」
ジーニが呆《あき》れたように言った。
まったくと、ミレルも相槌《あいづち》を打つ。
「狂喜《きようき》されるでしょうね、我が勇者|殿《どの》は」
メリッサが皮肉っぽく言った。
リウイは、エルフ族が高貴で善良な種族だと信じきっていた。騙されたと知った後でも、セレシアのことをそれほど悪く思わなかったようだ。エルフならではの彼女の美しさに惹《ひ》かれたからだろう。
「わたしだって精霊魔法《せいれいまほう》は使えるし、自分の身を守るぐらいには武器も扱《あつか》える。あなたがたの足手《あしで》まといにはならないわ」
仲間にすれば役に立つわよと、追い打ちをかけるように、セレシアは言った。
「あたしたちは信用できる人しか仲間にしない。あなたは信用できない。ゆえにあなたは仲間にできない。以上、終わりよ。さっさと森へ帰ってよね」
命があるうちにね、とミレルは付け加えるのを忘れなかった。
盗賊《とうぞく》ギルドでは、彼女は蛇《へび》――暗殺者《アサシン》としての訓練も受けている。
「仲間を騙したりはしないわよ。今すぐ、信用してくれとは言わないけどね」
セレシアはそう反論して、あの魔術師に会わせてほしい、とふたたび繰り返した。
「魔術師ギルドに行けば、会えるのは分かっているの。でも、できれば、あなたがたから紹介《しようかい》してほしいのよ。あなたがたが反対するのは予想していたしね。だからこそ、先に挨拶《あいさつ》しておきたかったの」
「筋《すじ》の通し方は、知っているわけだ」
ミレルは言ったが、別に感心したのではない。
裏返せば、ミレルたちが断っても、勝手に会うだけだと彼女は言っているのだ。
そしてセレシアがリウイに会えば、結果は完全に予想がつく。
リウイが頭《リーダー》というわけではないが、メリッサにとって彼は仕《つか》えるべき勇者である。最終的には、彼の決定に従うしかないのだ。そうなれば、ミレルたちも結局、リウイの意見を受け入れざるをえなくなる。
ミレルとジーニにしてみれば、メリッサを人質《ひとじち》に取られているも同然なのだ。
まさか、そこまでは自分たちの関係を知らないだろうが、セレシアは確実に自分たちの急所を押《お》さえているということだ。
(まるでダークエルフなみの狡猾《こうかつ》さだわ)
ミレルは思った。
だが、どうやら自分たちの負けのようだ。
「ご案内していただけます?」
とどめをさすかのように、セレシアが訊《たず》ねてきた。
「分かった、案内しよう」
いかにも嫌々《いやいや》という顔をして、ジーニがうなずいた。
「不本意ですけれど……」
メリッサも、わざわざ一言、付け加えた。
「今はそれで十分よ。ここのお勘定《かんじよう》は、持たせてもらうわね」
セレシアは満足そうに微笑《ほほえ》むと、店員を呼《よ》んだ。
(これも試練《しれん》なのでしょうか?)
その微笑みを見つめながら、メリッサは心のなかで崇拝《すうはい》する戦《いくさ》の神《かみ》に問いかけた。
人生がまさに戦いであることを、彼女はあらためて実感していた。
4
戸外へ出ると、夏の日差しはすっかり陰《かげ》っていて、空全体が厚い雲で覆《おお》われていた。気温も下がって、肌寒《はださむ》さを覚えるほどだった。
「変な天気が続くわね」
今にも何かが落ちてきそうな空模様に、ミレルが不機嫌《ふきげん》そうにつぶやいた。
「まるで故郷《こきよう》にいるみたいだ」
ジーニが応じる。
彼女は天候《てんこう》の変わりやすい山岳《さんがく》地帯で生まれ育ったのだ。
「何かの前触《まえぶ》れだということはないでしょうか……」
メリッサが物欲《ものほ》しそうな目で、空を見上げる。
何を期待してるんだかと、ミレルはうんざりとした気分になった。
三人の言葉に、セレシアは口を挟《はさ》まなかった。ただ不安そうな表情で、灰色《はいいろ》に染《そ》まった空を見つめる。
そして彼女らは、魔術師《まじゆつし》ギルドへ向かった。
黒曜石《こくようせき》で外装《がいそう》された真っ黒な塔《とう》なので、その姿はファンの街《まち》のどこからでも目につく。もちろん、夜間は例外だが。
(この女は、魔術師ギルドに行けば、リウイに会えるのは分かっていると言っていた)
ミレルは隣《となり》を歩くエルフ娘《むすめ》に、疑惑《ぎわく》の視線《しせん》を向けた。
確かに、リウイに直接会うほうが、自分たちを見つけ出すより遥《はる》かに簡単《かんたん》だったろう。
そして話も簡単にまとまるはずだ。
(でも、この女はあえてそうしなかった)
それは、彼女なりの意図があるからに違《ちが》いなかった。
悪意があるかどうかまでは分からないが、油断のならない女性なのは間違いない。
リウイに興味《きようみ》があるとの言葉だけでは、とても信用できない。なにしろ、彼女はあの魔術師こそが妖魔《ようま》を呼び集めた張本人であることに薄々《うすうす》、感づいているのだ。そのために、何人かの同胞《どうほう》が命を落としてもいる。
(あいつを殺しにきたというなら、まだ納得《なつとく》できるんだけど……)
とにかく用心しなけりゃとミレルは思った。
目指す場所は街の北側、小高い丘《おか》の中腹にある。すぐ近くには、オーファンの王城と戦神《せんしん》マイリーの大神殿《だいしんでん》がある。
この王国が、剣《けん》と魔法《まほう》と信仰《しんこう》の力によって興《おこ》されたという事実を象徴《しようちよう》しているのだと、ファンの街の住人は言う。
魔術師ギルドの最高導師《アークメイジ》カーウェスとマイリー教団の最高司祭《ハイプリーステス》ジェニの二人は、リジャールを助けて、|竜殺し《ドラゴンスレイヤー》の偉業《いぎよう》とオーファンの建国をなさしめた。
ジーニとメリッサは不機嫌《ふきげん》そうな顔で、大通りの真ん中を黙々《もくもく》と歩いてゆく。セレシアはその後を、ミレルと並《なら》んで涼《すず》やかな顔をしてついていった。
そして、彼女らは魔術師ギルドに到着《とうちやく》した。
ミレルが代表して、門番に向かって、リウイに面会したい旨、申し入れる。
「今すぐ呼んできましょう」
人の好さそうな老人がそう言って、宿舎の方へ向かった。
側《そば》にある小屋からすぐに別の門番が姿を現す。
もしも、リウイがただの魔術師《まじゆつし》であれば、面会を断られていたかもしれない。しかし、彼は最高|導師《どうし》カーウェスの養子《ようし》である。その知人ともなれば門番も迂闊《うかつ》には追い返せないようだ。
魔術師ギルドでは一般《いつぱん》の人々に学問を教えたり、魔法《まほう》の 薬《ポーシヨン》 や合言葉《キーワード》ひとつで魔法を発動させる指輪などを発売しているが、そのための時間はあらかじめ定められており、それ以外の時間には一般人の立ち入りを禁じている。
本心を言えば、煩《わずら》わしい一般人との交渉《こうしよう》は避《さ》けたいのだろうが、それでなくても魔術師は人々から疎まれているのだ。人々と交わる姿勢を見せなければ、不必要な誤解《ごかい》を招《まね》き、迫害《はくがい》や排斥《はいせき》につながる危険性もある。
学問の講義や魔法の物品の発売は、魔術師ギルドの収入ともなっているが、それはささやかなものでしかない。
魔術師ギルドにとって最大の収入源は、見習いたちが納める学費である。それゆえ、魔術師になれるのは、裕福《ゆうふく》な家庭の子弟《してい》だけなのだ。
それでも、魔術に魅《み》せられた人間は意外に多く、毎年、百人ほどの見習い希望者が、黒曜石の塔《とう》の門を叩《たた》く。
そして、厳《きび》しい修行《しゆぎよう》の末に、正魔術師の資格を得れば学費を免じられ、逆に魔術師ギルドから俸給《ほうきゆう》を与えられるようになる。もっとも、それまでに、大半の者が魔術師ギルドを去ってゆくのだが……
正魔術師より上の導師《どうし》にまでなれるのは一期につき一人いるかいないかだという。それほど、魔術を極《きわ》める道は狭《せま》く険《けわ》しいのだ。
魔術師は古代語魔法に長じた|魔法使い《ルーンマスター》であるだけでなく、賢者《けんじや》として様々《さまぎま》な知識に通じている。そして、その才能は王国の運営にも必要不可欠である。それゆえ、ほとんどの王国《おうこく》が、宮廷《きゆうてい》魔術師を召《め》し抱《かか》えている。
オーファンの宮廷魔術師は、魔術師ギルドの最高導師《アークメイジ》でもある偉大《いだい》なる<Jーウェスその人で、導師の資格《しかく》を持つ数人が多忙《たぼう》な彼を補佐《ほさ》している。
剣《つるぎ》の王国と謳《うた》われているが、オーファンの魔法の実力も決して低いものではない。
その見返りとして、王国からは高額の援助《えんじよ》が毎年、贈《おく》られており、魔術師ギルドはその意味では半分以上、王立の機関だ。
そして、戦《いくさ》においては魔術師が操《あやつ》る攻撃《こうげき》魔法や支援魔法は恐《おそ》るべき威力《いりよく》を発揮《はつき》する。他国《たこく》との戦《いくさ》ともなれば、魔術師ギルドから何人もの魔術師が召集《しようしゆう》されることもある。また、そういう期待があるからこそ、王国は民衆が本能的な恐怖《きようふ》を抱いている魔術師の組織を庇護《ひご》しているのだ。
「いれば、出てくるわよ」
セレシアを振《ふ》り返って、ミレルが言った。
後は、リウイが出てくるのを待つしかない。
歩いているあいだに、空はますます暗くなっていた。そして風も冷たいものになっている。突然《とつぜん》、冬に戻《もど》ったような感じだった。
「雲行きが悪いな……」
野外生活に慣れたジーニが空を見上げて、ぼそりと言った。
頬《ほお》に描《えが》いた呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》を指でなぞっている。それは悪い予感を覚えたときの彼女の癖《くせ》なのだ。
「そうね、精霊《せいれい》たちのざわめきが感じられる。荒《あ》れてくるかもね」
答えたのは、セレシアだった。
天候《てんこう》は、自然を司《つかさど》る精霊たちの営《いとな》みである。エルフである彼女には、精霊たちの姿が見えるから精霊力の乱れも感じられるのだ。
ジーニは鼻を鳴らして、何も言わなかった。
ミレルとメリッサはいったい誰《だれ》のせいなんだと言わんばかりの視線《しせん》で、セレシアを睨《にら》みつける。
荒れ模様なのは、天気ばかりではないようだ。
「よく来てくれた!」
そのとき遠くから呼《よ》びかける声がして、塔《とう》の入り口からリウイが姿を現した。
遠くから見ても一目で分かる。食人鬼《オーガー》もかくやというような上背《うわぜい》や体格と、紺色《こんいろ》に染《そ》めた魔術師の長衣《ローブ》や長く伸《の》ばした黒髪《くろかみ》とがいかにも不似合《ふにあ》いだった。
そして、彼の隣《となり》には、魔法の眼鏡《めがね》をかけ、深紅《しんく》の長衣に身を包んだ女性が並《なら》んでいる。
リウイとは同期生だという女性魔術師《ソーサリス》、アイラである。
「また一緒《いつしよ》だ」
ジーニたち三人は声を揃《そろ》えてつぶやくと、うんざりしたように視線《しせん》を交わし合った。
あの女性魔術師には、どこかしら得体《えたい》の知れないところがあって、彼女らは苦手《にがて》意識を抱いているのだ。
しかし、彼女はファンの街でも一、二を争う富豪《ふごう》の娘《むすめ》であり、ジーニたちが冒険《ぼうけん》で手に入れた魔法の品物はすべて市価で買い取りたいと申し出ている。それは、冒険者の店に売るより、何割も高い値段になる。
パトロンとしてはまったく申し分がない。たが、感情的には彼女の使用人になるようで癪《しやく》に触《さわ》るのだ。仕事が順調なら、彼女の申し出など一蹴《いつしゆう》したいところだ。だが、現実にはそうでないから、答えを保留しているのである。
「それにしても、出てくるのがずいぶん早くありません?」
メリッサがはっとしたように言った。
「そう言えば、そうよね」
ミレルも小首を傾《かし》げた。
門番の老人が宿舎のなかに入ってすぐ二人は出てきた。まるで入口で待ちかまえていたような素早さだ。
「二人して、出かけるところだったんじゃないか」
ジーニが関心なさそうに言った。
その言葉に、セレシアが一瞬《いつしゆん》、何かを言いたそうに口を動かしたが、思い直したように口をつぐむ。
ジーニはそれを一瞥《いちべつ》したものの、特に追及するようなことはしなかった。
そうこうしていると、リウイとアイラが、ジーニたちのところまでやってきた。
「まさか、あんたたちの方から訪《たず》ねてくれるとは思わなかった。ちょうど、あんたたちに話があったんだ」
ジーニたちが口を開くより先に、リウイが勢い込んでそう切り出した。
あまりの偶然《ぐうぜん》に驚《おどろ》き、そして興奮《こうふん》しているような感じだった。彼女らの背後にいるエルフ娘《むすめ》には気づいてもいない。
(いかにもだけど、間抜《まぬ》けと言えば間抜けよね)
ミレルは呆《あき》れたように心のなかで洩《も》らす。
「あなたたちの力を借してほしいのよ」
リウイの言葉を受け取るように、アイラが丁寧《ていねい》な口調《くちよう》でそう申し出た。
彼女のほうはしっかりとエルフ娘の存在に気づいていたが、今のところは無視《むし》しておくことにした。おそらく、ジーニたちのほうから話があるだろう。
「見習い時代にお世話になったある導師《どうし》から手紙がきてね。どうも、大変なことが起こりそうなの」
そう続けて、アイラは不安そうに空を見上げた。
「いいえ、それはもう起こっているかもしれない……」
「最悪の場合、大きな災厄《さいやく》が降りかかってくるかもしれないんだ」
リウイはいかにも楽しそうな顔をして、そう言った。
それを阻止《そし》しなければとの使命感に燃えているわけではない。危険に立ち向かえることを本能的に感じ取って、気分を高揚《こうよう》させているたけである。
それに気づいたメリッサが、首を横に振《ふ》りながらわざとらしく溜息《ためいき》をつく。
彼女にしてみれば、災厄を防ぐという使命感に燃《も》えるのが勇者というものだ。それなのに、リウイの態度は……
(それではただの危《あぶ》ない奴《やつ》ではありませんか)
しかし、リウイたちの言葉は、彼女が求めていたものを予感させた。
試練《しれん》≠ナある。
それを解決すれば、万人《ばんにん》がこの魔法戦士《まほうせんし》を勇者と認めるほどの重大かつ困難な試練。
喜劇役者《コメデイアン》の付き人としてではなく、真の勇者に仕《つか》える従者《じゆうしや》として、胸を張って街を歩くことができるかもしれない。
「……災厄を防ぐには、あんたたちの力が必要だ。報酬《ほうしゆう》はアイラが支払《しはら》う。いや、もしかしたら、王国《おうこく》や魔術師ギルドからも褒美《ほうび》が出るかもしれないな」
「魅力的《みりよくてき》な提案ね」
ミレルは思わず、表情を輝《かがや》かせた。
あくまで冒険に成功すればだが、しばらくは生活費に困ることはなさそうだ。
(それにしても……)
ミレルはリウイの顔をまじまじと見つめる。
呆《あき》れたことに、この大男はいまだにセレシアの存在に気づいていないようだった。
(視野が狭《せま》いのよ)
教えてやってもいいのだが、エルフ娘に対する報復《ほうふく》の意図《いと》もあって、ミレルはあえて黙《だま》っておくことにした。ジーニとメリッサも、どうやらそのつもりのようだ。
「協力はしよう。その代わり報酬は、仕事をしてみて危険に見合っただけを貰《もら》うからな」
「そうこないとな」
ジーニの答えに、リウイは満足そうにうなずいた。
「しかし、ひとつだけ問題があるんだ……」
そして、リウイは表情を一変させ、深刻《しんこく》な顔になった。
「どのような問題なのでしょう?」
メリッサが期待に満ちた顔で訊《たず》ねる。
問題は多ければ多いほど、大きければ大きいほど、試練《しれん》の価値は上がるのだ。
「|精霊使い《シヤーマン》が必要なんだ。それも、優秀な精霊使いが、な」
リウイが、そう答えた瞬間《しゆんかん》だった。
「おまえって」
「あなたって」
「あんたって」
ジーニたち三人が、同時に口を開いた。
そして、
「最低な奴《やつ》……」
と、続けてそれぞれの語尾《ごび》でしめくくる。
「なんで、最低なんだ!」
罵倒《ばとう》された理由が分からず、リウイは憮然《ぶぜん》とした顔で怒鳴《どな》りかえした。
三人は答える気もしないというように、無言で脇《わき》に退《しりぞ》く。
ようやく出番《でばん》とばかり、セレシアが軽《かろ》やかな足取りで、リウイの前へ進みでた。
「あんたは……」
その瞬間、予期していなかった女性《ひと》との再会に、リウイは呆《ほう》けたように口を開いた。
なんという偶然《ぐうぜん》だろうか。探し求めていた精霊使いが、なんと向こうから会いに来てくれたのだ。
「天の導《みちび》きってやつかな」
リウイは信じられないというようにつぶやいた。
「運命……なのかもしれないわよ」
リウイを見上げて、セレシアは極上《ごくじよう》の微笑《ほほえ》みを浮《う》かべる。言葉だけでなく、彼女は本心からそう思っていた。
(あたしたちに見せていたのは、やっぱり上辺《うわべ》の笑顔だったわけね)
それを見たミレルが、心のなかで吐《は》き捨てる。
セレシアが人間の世界にやってきたのは、やはりリウイに会うためだったのだろうか。
彼女の表情や仕草《しぐさ》には、どこかしら媚《こ》びているような印象を受ける。俗に言う色仕掛け≠ニいうやつだ。
(いったい、こいつのどこが気に入ったのかしら?)
ミレルは疑問に思う。
馬鹿《ばか》で単純《たんじゆん》で、疑うことを知らない。れっきとした魔術師だというのに、戦士になろうとしゃかりきになっている。
(エルフの考えることは理解不能だわ)
なんだか馬鹿らしくなってきて、それ以上の詮索《せんさく》をミレルは止めることにした。
ジーニとメリッサも同じ気持ちらしく、肩《かた》をすくめたり、溜息《ためいき》をつきながら首を横に振ったりしている。
「わたしでは、力になれないかしら?」
水色の瞳《ひとみ》を潤《うる》ませるように、セレシアがリウイに向かって言う。
「そんな! キミなら大歓迎《だいかんげい》だよ。いや、本当なら、キミのような美しい妖精《ようせい》を危険に晒《さら》したくないんだが、この災厄《さいやく》を防ぐには優《すぐ》れた精霊使いの力が是非《ぜひ》とも必要なんだ」
リウイは、真剣《しんけん》な顔をして答えた。
そして彼は白《しら》けきった表情をしているジーニたちを振り返った。
「あんたたちにも異存《いぞん》はないよな。それにしても本当に偶然だ。よく彼女を連れてきてくれた」
「まあね」
ミレルは素《そ》っ気《け》なく答えた。
異存はいくらでもあるし、本当なら連れてきたくもなかった。
だが、偶然というリウイの言葉は、まさにその通りだと思う。精霊使いを必要とするような仕事を、まさか彼の方から依頼《いらい》してこようとは。そしてエルフであるからには、セレシアは間違《まちが》いなく精霊使いなのだ。
まるで二人が申し合わせていたような絶妙《ぜつみよう》のタイミングである。
だが、リウイの先程の驚《おどろ》きようは、芝居《しばい》には見えなかった。狡猾《こうかつ》なエルフ女が仕組んだのではと疑いたくなるが、いかに彼女でも大災厄を招《まね》くような事件までは起こすまい。
セレシアの出現と事件が起きたのはあくまでも無関係で、それこそまさに偶然なのだ。
そしてこういう偶然は、いみじくも彼女が言ったように、運命と勘違《かんちが》いされるものだ。
ミレルは恐《おそ》る恐《おそ》るといったように、左隣《ひだりどなり》にいるメリッサに視線《しせん》を向けた。
メリッサは、いつの間にか恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべており、感謝《かんしや》の祈《いの》りらしき言葉を小声で唱《とな》えていた。
(やっぱり〜)
ミレルは、悲鳴をあげたくなった。
ミレルにとっては、偶然とは時に起こりうるものであって、そんなことにいちいち運命などを感じてはいられないのだ。
メリッサは今度の事件が、完全に神の与《あた》えた試練《しれん》だと思い込んでしまったようだ。「神様、本意です」とか、心のなかで繰り返していることだろう。
だが、あまり期待がすぎると、失望はその何倍にもなる。ミレルはそれが心配だった。
結果はどうなるかまるで分からないのだから。
そのときであった。
ミレルの頬《ほお》に、空から冷たいものが落ちてきた。
(雨かしら?)
ミレルは指で触《ふ》れて、頬が濡《ぬ》れているのを確かめた。
それからゆっくりと顔を上げて、空を見つめる。
灰色《はいいろ》の雲が、ファンの街《まち》を丸屋根《ドーム》のように厚く覆《おお》っていた。そこから、白く細かいものが、いくつもいくつも舞《ま》い降りていた。
そのひとつを手の平に受けて、ミレルはそれが水滴《すいてき》に変わってゆくのをもとから円《つぶ》らな瞳《ひとみ》をいっぱいに丸くして確かめた。
「そんな馬鹿《ばか》な!」
そしてミレルは悲鳴をあげた。
あまりの驚きに、裏返ったような声になった。
「今は、夏なのよ!」
だが、空から降っているのは間違いなく、雪なのだ。
「真夏に雪だなんて……」
ミレルはそれきり言葉を失って、その場で硬直《こうちよく》した。
「だからこそ、試練なのではありませんか」
メリッサがうっとりとした声で言った。
完全に、自分の世界に入ってしまっている感じだった。
(そうかもしんない)
ミレルも思った。
とにかく、大事件であるのは間違いない。そしてそれは、メリッサが望んでいるような試練となっても不思議ではないのだ。
そして彼女は、自分の予感が正しかったことを、すぐに知ることになる。
[#改ページ]
第U章 狂《くる》える精霊《せいれい》
1
(こういう状況《じようきよう》を羨《うらや》ましいと思う男は多いんだろうな)
リウイは部屋《へや》のなかに集まった女性たちを見渡しながら、漠然《ばくぜん》と思った。
女戦士のジーニ、|戦の神《マイリー》に仕《つか》える女性神官メリッサ、盗賊《とうぞく》少女ミレル、そして同僚《どうりよう》の女性魔術師アイラと争いの森<^ーシャスから出てきた森の《エル》妖精《フ》族の娘セレシアが、彼の部屋に集まっている。
砂塵《さじん》の王国《おうこく》<Gレミアの後宮《ハーレ厶》には、アレクラスト大陸全土から美女が集められていると噂《うわさ》されているが、それと比《くら》べても遜色《そんしよく》のない華《はな》やかさだ。
リウイがよく行く歓楽街《かんらくがい》にも、こういう雰囲気《ふんいき》で酒の飲める店がある。そういう酒場《さかば》で働く女性たちには不思議と人気があるので、彼は、何度かただで飲ませてもらっている。
美しい女性に囲まれて飲むのだから、悪い気はしない。
酒にせよ、女にせよ、そして戦いにせよ、男という生き物には、生きてゆくうえで必要不可欠な要素なのかもしれない。ひとまとめにしてしまえば刺激《しげき》≠ニ言えようか。
そして自分はどうやら、普通《ふつう》の刺激では満足できない人間のようだと、リウイは思いはじめている。
より強い酒を求め、最高の女を抱《だ》き、命がけの戦いに身を投じ、勝利を得たいのだ。
男なら誰《だれ》でも、多かれ少なかれそんな夢《ゆめ》を持っているはずだ。そしてリウイは、それを真剣《しんけん》に実現させる気でいる。もっとも、今は理想とは程遠いところにいると言うしかないが……
いくら女性たちが部屋に集まっていても、リウイの立場はエレミア国王の足下にも及《およ》ばない。せいぜいのところ、美女をそろえた地下酒場の給仕《ボーイ》のようなものだ。
今、リウイたちが集まっているのは、魔術師《まじゆつし》ギルドの宿舎にある彼の部屋ではない。
リウイの家――正確に言えば、彼の養父《ようふ》にして、魔術師ギルドの最高導師《アークメイジ》にして、オーファンの宮廷《きゆうてい》魔術師でもある偉大《いだい》なる<Jーウェスの家――に集まっているのだ。
家というより、館《やかた》と呼ぶべきだろう。
ファンの街《まち》の郊外《こうがい》の広い敷地《しきち》に建《た》てられた、小さな城のような建物なのだ。
十人ばかりの使用人が常時、働いていて、留守《るす》がちな主人カーウェスとその養子リウイに代わって館を維持《いじ》、管理している。
実際、リウイが館に帰ってくるのは久しぶりのことだった。
「あんたって、お金持ちだったんだね……」
ミレルが部屋のなかを見渡しながら深く溜息《ためいき》をついた。
そうだろうとは思っていたが、目《ま》の当たりにすると衝撃《インパクト》は大きかった。今日《きよう》、明日《あす》の生活費にも困っている自分が、情《なさ》けなく思えてくる。
「爺《じい》さんの財産《ぎいさん》だ、オレには関係ない。アイラの実家ほどでもないしな。彼女の親父《おやじ》さんなんか、この家の何倍もの屋敷を大通りに構えているんだぜ」
「知っているわよ」
ミレルは椅子《いす》の上で両膝《りようひざ》を抱《かか》えると、そこに顎《あご》を乗せて、ふてくされた顔をした。
アイラの父親が経営しているアウザール商会を知らない人間は、ファンの街には一人もいない。
世の中の不公平さが身にしみた。
裕福《ゆうふく》な家に生まれる者もいれば、自分みたいに生まれた家さえ知らない者もいる。
(そのうち盗《ぬす》みに入ってやる)
ミレルはなかば本気でそう思った。
水は高いところから低いところに流れる。しかし、お金はどうもその逆《ぎやく》のようだ。
その流れに敢《あ》えて逆《さか》らうのが、盗賊《とうぞく》の存在意義なんじゃないかと思えてくる。おかげで、盗賊という稼業《かぎよう》に少しだけ誇《ほこ》りが持てた。
「お金など、人の勇気に比《くら》べれば、いくらの価値もありませんわ」
メリッサがミレルに向かって、諭《さと》すように言った。
(説得力ない! ぜんぜんない!)
ミレルはメリッサの端正《たんせい》な顔を見返しながら、心のなかで叫《さけ》びをあげた。
(そんな台詞《せりふ》、お金を持っている人にしか言えないよぉ)
しかし、今はこんな話題で揉《も》めている場合ではない。
ミレルは椅子に乗ったまま後ろを振《ふ》り返って、窓の外を見つめた。
丈《たけ》の短《みじか》い服を着ているので、後ろから見れば下着が見えそうな格好だが、彼女はまったく気にもしない。
「雪は止《や》んだようだけど……」
「降っていたといっても、ほんの少しのあいだだけだからな。今はもう日差しも戻《もど》っている。しかし、安心はできない」
リウイはミレルにそう答えると、右隣《みぎどなり》の椅子に腰《こし》を下ろしているアイラに、促《うなが》すような視線《しせん》を向けた。
分かったというように、アイラはうなずいて、一通の手紙を取り出した。
彼女は今、重苦しい長衣《ローブ》を脱《ぬ》いで、袖《そで》のない身体《からだ》にぴったりした青い布地《ぬのじ》の衣服《いふく》一枚になっている。
(この人の胸も意外にあるなぁ)
彼女の胸の膨《ふく》らみを見つめて、ミレルは心のなかで溜息《ためいき》をついた。
やはり、世の中は不公平だと思う。
「……これは、わたしのかつての導師《どうし》バナールからの手紙です」
そんなミレルの思いに気づくはずもなく、アイラは淡々《たんたん》とした口調《くちよう》で話しをはじめた。
その人物は昔《むかし》、ファンの街で私塾《しじゆく》を開いていた独立の魔術師である。同時に、冒険者《ぼうけんしや》の仲間にも加わっていて、中原《ちゆうげん》地方の各地を旅《たび》し、古代王国の遺跡《いせき》の発掘《はつくつ》を行っていた。
幼《おさな》い頃《ころ》、アイラはこの魔術師に家庭教師としてついてもらい、基礎的《きそてき》な学問や魔術の手ほどきを受けたのである。
「そして、導師は非常に貴重《きちよう》な研究材料を発見したのです」
バナールはその研究に残る生涯《しようがい》をかける決心をする。そして彼は私塾を閉《と》じ、ファンの街を去ったのである。
「そのときに、わたしの父はかなり高額の援助《えんじよ》をしました。そして、その返済《へんさい》は研究の成果によって支払《しはら》われると取り決めたようです。もっとも、父はおそらく寄付したつもりだったのでしょう。導師に気遣《きづか》いをさせないための提案《ていあん》だったのだと思います」
「借金するのって、惨《みじ》めだものね」
ミレルが腕組《うでぐ》みしながら、うんうんとうなずく。
彼女は以前《いぜん》、盗賊ギルドに高額の借金があり、それを返すため、他人の懐《ふところ》を狙《ねら》いつづけたという過去がある。危《あぶ》ない橋も何度、渡《わた》ったかしれない。
「貸すほうも、気持ちのいいもんじゃないんですよ……」
アイラはぽつりとつぶやいて、寂《さび》しそうな微笑《ほほえ》みをミレルに向けた。
彼女の実家は、金貸し業も営《いとな》んでいる。そういう商売をしていると、嫌《いや》なこともいろいろあるのだろう、とミレルは思った。
金を借りるとき人間は金貸しを神のように崇《あが》めるものだが、返すときになると邪神《じやしん》のごとく忌《い》み嫌《きら》うものだからだ。
だが、彼女に言わせれば、贅沢《ぜいたく》な悩《なや》みなのだ。
「導師はわたしの家庭教師をしていた頃から、かなりの高齢《こうれい》でいらっしゃいました。そして、研究に没頭《ぼつとう》するあまり、かなり無理をされたようです」
アイラは思い出したように話題を戻し、バナール導師の話を続けた。
バナールの手紙には、自分の健康状態が思わしくないことが記されてあった。そして、生涯最後の研究を完成させるべく、実験を試みるということも……
「もっとも、導師はその実験の成功に確信を持ってはおられなかったようです。もしも、実験に失敗したときには、未曾有《みぞう》の災害《さいがい》が起こるかもしれないと、追記してありました」
それでも実行すると、導師は決意を示していた。
その実験が成功するにせよ、失敗するにせよ、バナールは研究生活を打ち切らざるをえなくなる。そして彼の手紙には、過去の約束《やくそく》もあり、自分の研究の成果は、アイラに譲《ゆず》りたいとの遺言《ゆいごん》めいた言葉が添《そ》えられていたのだ。
「未曾有の災害ですか……」
メリッサが深刻《しんこく》な表情を装《よそお》って、そうつぶやく。
(でも口許《くちもと》、笑っているよ)
メリッサを横目で見ながら、ミレルは心のなかで、そんな指摘《してき》をしておく。
事態が深刻なほど、それを解決するための試練《しれん》も大きくなる。リウイを勇者に仕立てあげたいメリッサにとって、歓迎《かんげい》すべき状況《じようきよう》になりつつあるわけだ。
(それは分かるんだけどね)
しかし、災害に巻き込まれる人々にとっては、迷惑《めいわく》このうえない話である。
「それで、どんな実験をするつもりだったんだ。そのバナールっていう魔術師は?」
それまで、腕組みしたまま沈黙《ちんもく》を守っていたジーニが、アイラに質問を投げかけた。
「魔法《まほう》装置《そうち》です」
「魔法装置?」
ジーニたち三人が声をそろえて訊《たず》ねかえす。
(まずい! そんな質問をしたら……)
リウイは顔色を変えたが、もはや手遅《ておく》れだった。
思ったとおり、アイラは魔法装置に関する説明を延々と続けた。曰《いわ》く魔法装置とはうんぬん、と……
彼女らも、おそらく後悔《こうかい》したことだろう。
その手の質問は、アイラには禁《きん》じ手《て》なのだ。
「……今は講義の時間ではないんだから」
アイラの説明が一区切りした瞬間《しゆんかん》をついて、リウイは話を本題に戻すよう勧《すす》めた。
彼女は露骨《ろこつ》に不満そうな顔をしたが、とにかくも魔法装置についての説明は中断させた。
ジーニたちが感謝《かんしや》の視線《しせん》をリウイに向けてきた。彼女らと出会ってから、そんな目で見られるのは初めてのことだ。
考えてみれば、いや考えるまでもなく情《なさ》けない。
だが、リウイは感謝されたいがために、彼女たちの仲間になったのではない。冒険者になって自分を試《ため》したいというのが、唯一《ゆいいつ》の理由なのだ。
「導師が研究されていたのは、天候制御《てんこうせいぎよ》の魔力《まりよく》を持つ魔法装置です」
アイラの言葉に、ジーニたち三人が顔を見合わせる。
「それって、つまり天気を自由に変えられるってこと?」
「その通りよ」
ミレルの問いに、アイラはうなずいた。
「そんなものを生涯《しようがい》の研究に?」
「そんなものって、な」
リウイは全身の力が抜《ぬ》けて、椅子《いす》からずり落ちそうになってしまった。
「だって、天気なんて変えられたっておもしろくもなんともないじゃない。そりゃあ洗濯《せんたく》したいときとか、晴れてほしいな、と思うことはあるけど……」
「ミレルの言う通りだといいのですけどね」
メリッサは愛《いと》おしそうにミレルを見つめた。
この少女のこういうところが大好きなのだ。人前でなかったら、きっと彼女の身体を抱《だ》きしめていただろう。
ミレルは盗賊《とうぞく》なのだから善良《ぜんりよう》とは言えない。しかし、彼女はとても純真《じゆんしん》な心を持っている。それゆえに、教えられたことは疑いなく実行してきた。それが、盗《ぬす》みであったにすぎないのだ。
「天気を操《あやつ》ることができれば、王国《おうこく》のひとつやふたつ簡単《かんたん》に征服《せいふく》できますよ。たとえば、雨の日ばかり続いても、反対に晴れの日ばかり続いても農作物は育たない。それこそ、お金がなくなっても人は生きてゆけますが、食料がなくなればそうはゆきません。それに、戦《いくさ》のときにも、天候が勝敗を左右することがあります。わたしたち戦《いくさ》の神の教団では、そのために天候予測の知識を伝えたりしているほどなのです」
「そんなことが……」
メリッサの言葉にミレルは驚《おどろ》いて、言葉を失ってしまった。
「できるんだよ」
ジーニが軽く笑って、ミレルの髪《かみ》をくしゃりと掴《つか》んだ。
伝説の女闘士《アマゾネス》もかくやというようなジーニだが、こういうときにはとても穏《おだ》やかな表情を見せる。ミレルのことを大切に思っているからだろう。
その千分の一でも好意を向けてくれたらと、リウイは思わずにはいられなかった。
「ここ数日の異常《いじよう》な天候は、その魔法装置の暴走《ぼうそう》かもしれないというのね?」
それまで沈黙《ちんもく》を守っていたエルフ娘《むすめ》のセレシアが、美しい顔を僅《わず》かに曇《くも》らせながらアイラに訊《たず》ねた。
「おそらく、そうでしょう。実験が成功したのか、失敗したのかは分かりませんが……」
アイラは心配そうな顔で答えた。
「天候制御の魔法装置は、自然を司《つかさど》る精霊力《せいれいりよく》に作用するもの。しかし、精霊たちはそれに抵抗《ていこう》しようとするはず。魔法装置の強制力と精霊たちの抵抗が、天候を不安定にさせているように思います」
「天候は自然の精霊たちの営《いとな》みによって決定されるもの。それを魔力によって制御するということは、精霊たちを隷属《れいぞく》させていることに他《ほか》ならない。魔術師どもは、どうしてそのように愚《おろ》かで残酷《ざんこく》な研究をしようとするのか?」
セレシアは厳《きび》しい表情で口調も変えてそう言ってから、打って変わってにこりと微笑《ほほえ》んだ。
「――って、他のエルフなら言うわね」
「変わった言い方をされるのね」
アイラが不思議そうな顔をして、微笑みつづけるセレシアを見つめた。
「種族が違《ちが》えば、価値の基準も変わるでしょ。人間の世界に来たからには、そんなことでいちいち怒《おこ》ってはいられないわ」
「そうお願いしたいわね」
アイラは苦笑を浮かべ、助けを求めるように、リウイに視線を向ける。
彼女を困らせるのだからたいしたものだ、と変なところでリウイは感心した。
知的で聡明《そうめい》なエルフ族ならではだろう。
「これからの天候を見守っていれば、実験の成功、失敗は明らかになるでしょう。しかし、それでは手遅《ておく》れになるかもしれません」
アイラは話をしめくくるように言った。
「すぐに出発したほうがいいんだな?」
アイラの言葉からその意図を汲んで、ジーニが訊ねた。
「そうお願いできれば、と。もちろん、あなたがたの準備が整《ととの》いしだいですが……」
「必要な物はたいてい持ち歩いている。道中の食事などが心配ないなら、今すぐにだって発《た》てる」
「導師《どうし》の館《やかた》から四半日《しはんにち》ほどのところに村があるそうです。そこまでは、街道《かいどう》を通ってゆけますから、食料などの心配はないでしょう」
「でしたら、問題ありませんわ」
メリッサがうなずいた。
その声はいつもより弾《はず》んでいる。まるで遊びに出かける子供のようだった。試練《しれん》に赴《おもむ》くのが嬉《うれ》しくてならないといった感じだ。
「今回は、あんたも行くのか?」
ジーニがアイラに訊ねた。
「手紙を貰《もら》ったのはわたしですからね。気は進みませんが、そうします」
アイラは苦笑を浮かべながら答えた。
基本的にはお嬢様育《じようさまそだ》ちなので、野外での生活したことなどないはずだ。魔術師ギルドの宿舎でさえ、彼女はけっこう苦労して生活しているのである。子供の頃《ころ》から召《め》し使《つか》いたちに世話をしてもらっていたのだからしかたない。
「それは、心強い」
ジーニたちが同時に反応《はんのう》し、声をそろえた。
それからアイラと見比《みくら》べるような視線《しせん》をリウイに向ける。
(頼《たよ》りなくって悪かったな)
リウイは憮然《ぶぜん》とした顔をした。
彼女たちの態度は不愉快《ふゆかい》きわまりないが、魔術師としての実力はアイラのほうが数段上なので、リウイは反論できなかった。
だが、魔法の援護《えんご》は彼女に任《まか》せられるから、戦いに専念《せんねん》できるのは大歓迎《だいかんげい》だった。身体の鍛錬《たんれん》も剣《けん》の稽古《けいこ》も、このところ毎日、欠かしていない。
だいぶ上達《じようたつ》したと思うのだが、実戦で試《ため》す機会はなかった。不謹慎《ふきんしん》かもしれないが、手頃《てごろ》な敵が現れてほしいと願っているところだった。
「それでは、すぐ出発するんだな?」
リウイは五人の女性たちを見渡《みわた》して、咳払《せきばら》いをひとつしながら言った。
本当なら、悠然《ゆうぜん》と宣言《せんげん》するように言いたいところなのだが、今の自分の立場では、これが精一杯《せいいつぱい》なのだ。
(今回の事件は、実力を示すいい機会だ)
リウイはほくそ笑んだ。
冒険が終わったときには、彼女たちは尊敬の目で自分を見ることになるだろう。
2
リウイの屋敷《やしき》とジーニが普段《ふだん》、暮《く》らしている郊外《こうがい》の小屋で、それぞれの旅の準備を済《す》ませて、六人はその日の夕刻《ゆうこく》にはバナールの塔《とう》に向かって出発した。
ファンの街《まち》からヤスガルン山脈の南側を西部諸国《テン・チルドレン》へと続く街道《かいどう》を通って、国境近くの小村まで移動する。
その間に、数日が経過した。
道中《どうちゆう》、怪物《モンスター》や山賊《さんぞく》などには遭遇《そうぐう》しなかった。新興国《しんこうこく》だけに、オーファンの騎士団《きしだん》は精強《せいきよう》で規律もよく守られている、当然、国内の治安《ちあん》も悪くない。
怪物や山賊たちが人里《ひとざと》や街道に姿を見せるようなことがあれば、たいてい討伐隊《とうばつたい》が組織されるのだ。
もっとも、そういった状況《じようきよう》は冒険者《ぼうけんしや》たちにとってはあまり都合《つごう》がよくない。王国《おうこく》が放置《ほうち》している問題を解決する仕事も、冒険者にとっては大切な収入源だからだ。古代王国の遺跡《いせき》のほとんどが発掘《はつくつ》しつくされている昨今《さつこん》は、そういう仕事をこなしながら、古代遺跡を探し求める冒険者がほとんどなのである。
しかし、怪物などには出会わなかったが、道中、何事もなかったというわけではない。
ひとつは、恐《おそ》れていたとおり、天候《てんこう》がひどく不安定だったことだ。
大雨も降れば、雹《ひよう》も降る。雷《かみなり》も鳴れば、突風《とつぷう》も吹《ふ》く。ところが、天候はすぐもとに戻《もど》り、初夏の日差しが照りつけるのだ。
その事実は、アイラの導師《どうし》が魔法装置《まほうそうち》の実験に失敗し、暴走させていることを暗示させた。ひそかに喜んでいる様子なのはリウイとメリッサの二人だけで、あとの四人を重い気持ちにさせた。
もうひとつは、リウイがエルフ娘《むすめ》のセレシアを何かと特別扱いし、他《ほか》の四人の女性の顰蹙《ひんしゆく》を買ったことである。
更《さら》に問題を大きくしているのは、リウイ自身が彼女らが不機嫌《ふきげん》な理由にまったく気付いていないことだ。
しかし、彼女たちから、その事実を指摘《してき》できるはずもない。「エルフ女だけを特別扱いするな」とは、口が裂《さ》けても言えない性格の持《も》ち主《ぬし》ばかりだからだ。
それが、彼女らの不満を更に高めてゆく。
六人のあいだに漂《ただよ》う空気はまるで今の天候のように、大|荒《あ》れの気配《けはい》を見せていたのである。
目的の村に着いたときには、天候の異常《いじよう》はいよいよ本格的になってきた。
気温がひどく下がって、空には暗雲が垂《た》れこめだした。また、雪が降りだしそうな気配である。村人たちもひどく心配そうに、空を見上げていた。
リウイたちは村人たちに訊《たず》ねて、魔術師《まじゆつし》のバナールが魔法装置の研究をしていた場所を教えてもらった。
バナールは、その村では変わり者と思われていた。しかし、生活に必要な物はすべて彼が住んでいる塔《とう》まで運んでいた。
もちろん代価は貰《もら》っていたはずだ。現金収入の少ない辺境《へんきよう》の村にとっては、彼から支払《しはら》われる銀貨《ガメル》や、宝石《ジエム》は貴重《きちよう》だったろう。
それでも、バナールに対して、村人たちの好意的ではない雰囲気《ふんいき》を、リウイたちは感じた。それは魔術師に対する本能的とも言える恐怖《きようふ》のためだろう。
五百年前に滅《ほろ》びた古代魔法王国においては、魔術師だけに人権が認められ、それ以外の人間は奴隷《どれい》とされていた。そのときの屈辱《くつじよく》と憎悪《ぞうお》が、現在の人間の心の奥底《おくそこ》に受け継《つ》がれているのである。
「あの魔術師が、何かしでかしたのか?」
リウイたちがバナールの住処《すみか》を訊ねたとき、村人たちは叫《さけ》ぶように言ったものである。
連日続く、異常な天候に不安を覚えていたからだろう。彼にしてみれば、反射的に口から出た言葉だったが、それは鋭《するど》く真実をついていた。
「オレたちは、バナール導師《どうし》の孫娘《まごむすめ》を案内してきただけなんだ。導師は健康が優《すぐ》れないというから、彼女が引き取ることになるだろう」
村人たちには、リウイはそんな作り話をしておいた。
真実を知らせれば、恐慌《パニツク》が起こるかもしれないし、魔術師に対する風当たりが強くなるのは目に見えている。
それに、孫娘という話を別にすれば、完全に嘘《うそ》というわけではない。もしも、バナール老人が生きていたなら、アイラが引き取って静養させることになるからだ。
「……それにしても、けっこう深刻《しんこく》な状況《じようきよう》になってきたな」
村人が誰《だれ》もいないところで、今にも雪が舞《ま》い降りてきそうな空を見上げながら、ジーニがぼそりとつぶやいた。
頬《ほお》に描《えが》かれた紋様《もんよう》を無意識に指でなぞっている。その紋様は、彼女の部族に伝わる魔除《まよ》けの呪《まじな》いなのだ。
「そうね……」
赤毛の女|戦士《せんし》の言葉に、アイラがそっと相槌《あいづち》を打つ。
予想された最悪の事態は、魔法装置が暴走することである。そして現実はその方向に突き進んでいるように見える。
「しかし、まだ取り返しがつかないと、決まったわけじゃない」
リウイは軽い調子で言った。
昔《むかし》から、あまり深刻に物事を考えない性格なのだ。心配しても現実は変わらないというのが彼の持論である。
「村で一泊《いつぱく》してから行くか? それとも行けるところまで行ってみるか?」
ジーニがアイラに意見を求めた。
村からバナールが住んでいる塔《とう》まで、まだ四半日《しはんにち》ほどの距離《きより》がある。リウイたちが村に着いたのは夕刻《ゆうこく》近かったので、このまま行けば、途中《とちゆう》で夜になるだろう。
「急いだほうがいいと思う。でも、あなたの判断に任《まか》せます。冒険者はそういう直感は働くと聞いてるから……」
「わたしの直感は、夜を徹《てつ》してでも行くべきだと伝えている」
「同感ですね」
戦《いくさ》の神《かみ》に仕《つか》えるメリッサが、ジーニの意見を支持した。
「村で一夜を明かしているうちに、一歩も動けないという状況になっているかもしれません。勇者様はどのように思われます?」
メリッサは、リウイに向かって僅《わず》かに頭を下げ、彼の決断を待つという態度を見せた。
(らしくなってきたじゃない)
それを見たミレルが、心のなかでそうつぶやいた。
可笑《おか》しくもあるし、なんとなく寂《さび》しくもある。
(メリッサは、このままこいつの従者《じゆうしや》になってゆくのかな)
そして、彼女は黒曜石《オニクス》の瞳《ひとみ》でリウイを見つめた。
気が付けば、全員の視線《しせん》が自称《じしよう》魔法戦士に集まっている。
「異論はない。だが、強行軍になるな。セレシアの体力が保《も》つかどうかが心配だ……」
リウイは真顔《まがお》でそう言うと、いつも寄《よ》り添《そ》うようにそばにいるエルフ娘《むすめ》を振《ふ》り返った。
その言葉に、ジーニたちの表情が、たちまち白《しら》けたものに変わる。
「正直に言ってつらいけど、大丈夫《だいじようぶ》、頑張《がんば》るわ」
セレシアは答えて、極上《ごくじよう》の笑みをリウイに返した。
「そうか、頑張れるか」
リウイも表情を輝《かがや》かせて、
「ならば、行こう」
と、他《ほか》の四人を振り返った。
(勝手にやってな!)
ミレルは心のなかでそう吐き捨てて、頭の後ろで両手を組んだまま、リウイとエルフ女に背を向ける。
裏街言葉《スラング》で思いっきり罵声《ばせい》を浴《あ》びせたい気分だが、万が一にも嫉妬《しっと》していると思われるのが癪《しやく》なので、それもできないのだ。
(それにしても、ね)
ミレルは不思議に思った。
リウイとセレシアの二人は、愛し合う恋人《こいびと》どうしにしか見えない。だが、それにしては微妙《びみよう》に雰囲気《ふんいき》が違《ちが》うのだ。
セレシアは何かを隠《かく》していると、ミレルは睨《にら》んでいる。
まるで狐《きつね》――詐欺師《さぎし》のように、リウイの好意を利用しているようにも感じられる。しかし、それが正しいとしても、何のために利用しているか、まったく臭《にお》わせないのだ。
それどころか、積極的にリウイに協力しているようにも見える。それでは、利用しているどころか、まったくその逆《ぎやく》だ。だから、ミレルにも確証が持てないのだ。
(ま、あたしが気にすることじゃないけどね)
ミレルにとっては、今回の事件は問題が大きすぎるのである。
世界の破滅《はめつ》がどうこうとか騒《さわ》がれても、まったく実感がないのだ。裏街《うらまち》で生まれたような下《した》っ端《ぱ》の盗賊《とうぞく》には、まったく関係のない話だ。
世界が滅《ほろ》ぶかどうかより、今日《きよう》、明日《あす》を生き抜《ぬ》くほうが肝心《かんじん》なのである。
そんな問題は、勇者とか英雄に任《まか》せておけばいいのだ。もっとも、だからこそメリッサは張り切っているのだろう。
リウイを勇者に仕立てなければ、彼女は世間に顔向けできないのだ。
そのメリッサも表情を強張《こわば》らせて、リウイに背を向けていた。
たぶん、心のなかでは不本意だと連呼《れんこ》していることだろう。もっとも、何が不本意かは、彼女自身も分かっていないに違《ちが》いない。
ジーニも呆《あき》れはてたというように首を横に振《ふ》りながら、わざとらしい溜息《ためいき》をついている。
(まったく理解不能だな)
赤毛の女戦士は心のなかでそうつぶやいていた。
リウイの言動を見ていると、魔法装置の暴走より、エルフ女のことを心配しているとしか思えない。
だが彼は、他でもないこのエルフ女に騙《だま》され、あやうく殺されそうになったのだ。機転《きてん》を利《き》かして――より正確に言えば詐欺《さぎ》のような手を使って――窮地《きゆうち》から逃《のが》れたものの、セレシアに騙されたという事実が消えるものではない。
それなのに、だ。
リウイは森の妖精《ようせい》に対する幻想《げんそう》を、まったく修正している様子はない。セレシアの好意を心底《しんそこ》、嬉《うれ》しそうに受け止めている。
「あたしだって、つらいんだけどなぁ」
アイラが不満そうな表情と疲《つか》れた声で抗議《こうぎ》をすると、リウイの右腕《みぎうで》を軽く拳《こぶし》で叩《たた》いた。
「人間のほうがエルフより体力がある。彼女が我慢《がまん》しているのだから、アイラだって大丈夫《だいじようぶ》さ」
リウイは平然と答えた。
(個人差ってものがあるでしょ)
アイラはそう反論してやりたかったが、言っても無駄《むだ》だという気がしたので口には出さなかった。
この長身の魔術師とは長い付き合いだが、彼がエルフ崇拝者《すうはいしや》だったとは気付きもしなかった。だいたい、似合《にあ》わないと思う。
「それにしても、思いもかけない強敵が現れたものだわ……」
アイラは魔法の眼鏡《めがね》をかけなおしながら、誰にも聞かれないようにそっとつぶやいた。
リウイはエルフという森の妖精族に明らかな幻想を抱《いだ》いている。その幻想の相手が目の前に現れ、好意を向けられたら、浮《う》かれるのも当然だろう。
愛の告白でもされようものなら、ふたつ返事で受け止めるに違いない。
問題なのはセレシアの気持ちだ。
彼女のほうは、リウイをどう思っているのだろう。単純に考えれば、争いの森で出会ったリウイに、一目惚《ひとめぼ》れして追いかけてきたということになるのだが……
(物好《ものず》きなエルフもいたものねぇ)
自分のことは棚《たな》に上げて、アイラは苦笑した。
男と女の関係は、所詮《しよせん》、なるようにしかならないものだ。泣いたり喚《わめ》いたりというのは、彼女の流儀《りゆうぎ》ではない。
アイラは、自分を変える気はない。しかし、その範囲《はんい》内でなら、好きな男に対して最高の女でいたいという気持ちもある。それでも、相手が自分を振り向かないなら、それまでということだ。
(そんなことより、今は魔法装置よ)
アイラは、自分にそう言い聞かせる。
最悪の場合、二度と王都には帰れないかもしれないのだ。それどころか、王国そのものが、いや世界がなくなってしまう可能性まであるのだから……
3
結局、僅《わず》かな時間、村で休息した後、リウイたちはふたたび出発し、バナールが住んでいる塔《とう》へと向かうことにした。
ほとんど獣道《けものみち》としか思えないような森のなかの細道だった。今回は人数も多いし、旅に慣れていない者が二人、混じっている。思ったほど進まないうちに、夜を迎《むか》えてしまった。
「このまま進むと道に迷うかもしれない」
先頭を歩いていたジーニが振《ふ》り返って、全員に呼びかけた。
「先が見えないと、道から外《はず》れても気がつかないからな」
「そうですわね……」
残念そうに、メリッサがうなずいた。
彼女としては夜を徹《てつ》してでも歩くつもりだったのだ。
事態は深刻《しんこく》さを増《ま》しつつあり、人々も不安を募《つの》らせているはずだ。状況《じようきよう》はメリッサが望んだどおりに展開《てんかい》している。
異常《いじよう》気象は魔法装置《まほうそうち》の暴走《ぼうそう》によるものであり、それを魔法戦士リウイが解決してみせた。
そういう噂《うわさ》が街《まち》に流れれば、彼の名は勇者として鳴り響《ひび》くはずである。そしてその勇者を支《きさ》えるのは、戦《いくさ》の神《かみ》の侍祭《じさい》たる自分なのだ。
そう思うと、一刻《いつこく》も早く、事件の解決をと気が急《せ》いてくる。だが、野外生活に長《た》けたジーニが言うのだから、それに従うのが賢明《けんめい》だった。
森のなか、しかも空は厚い雲に覆《おお》われている。完全な闇夜《やみよ》であった。
アイラが唱《とな》えた魔法の明かりのおかげで、十歩ほどの距離《きより》まではなんとか見える。しかし、そこから先は、暗幕《あんまく》を下ろしたように真《ま》っ暗《くら》で、木々の影《かげ》さえ見分けがつかないほどだった。
異論は、誰《だれ》からも出なかった。
リウイたちは木々の隙間《すきま》が広くなっているところに集まって、思い思いに休息した。
背負《せお》い袋《ぶくろ》から携帯食《けいたいしよく》を取り出して口に入れたり、水で喉《のど》を潤《うるお》したりする。じっとしていると凍《こご》えそうなほどに寒いので、全員が耐水性《たいすいせい》の外套《マント》にくるまった。
「今は夏なのよね……」
寒さに震《ふる》えた声で、ミレルがぽつりと言った。
「問題の魔法装置って、やっぱり暴走してるんだわ。いくらなんでも、こんなに寒くはならないよ」
「そうに決まっています。これは偉大《いだい》なる神が、我らに与《あた》えた試練《しれん》なのです」
メリッサが、うっとりとした声で言う。
ミレルはそんな彼女を不安そうな目で見つめる。
(あんな男を勇者に仕立てねばならないんだもの。大変なのは、分かるけど……)
いくら聖職者《せいしよくしや》とはいえ、すべてを神につなげて考えるのはやめてほしいと思う。
だいたい、神は肉体を失い、世界に介入《かいにゆう》する手段を失ったはずなのだ。それゆえ、神の代理人たる司祭《ブリースト》が神の奇跡《きせき》を、神聖魔法として代行している。
「調べてみようか?」
そのとき、エルフ娘《むすめ》のセレシアがひかえめに言った。
「どういう、やり方で?」
そう訊《たず》ねたのは、アイラだった。
「簡単《かんたん》よ、精霊《せいれい》を呼《よ》び出して訊ねてみるの。天候《てんこう》は自然の精霊たちの営《いとな》みによって決まるから、もしも魔法装置が作動《さどう》しているなら、精霊たちになにがしかの強制力が働いていると思うの」
「なるほど!」
リウイが大袈裟《おおげさ》にうなずく。
(もういいっての……)
ミレルがマントにくるまったまま、ごろりと地面に倒《たお》れる。
あたしは寝《ね》るぞ、という意思表示だ。
「そうね、確かめられるでしょうね……」
アイラは僅《わず》かな時間、思案してからそうつぶやいた。
「しかし、確かめる価値があるかどうかは疑問だな」
ジーニが冷ややかに言った。
「あるに決まっている。この異常な天候が魔法装置によるものか、あくまでも自然現象なのかが分かるんだから」
リウイが心外だというように言った。
「だから、おまえは素人《しろうと》だと言うんだ」
ジーニが嘲《あざけ》るように鼻を鳴らす。
「わたしは、最初から魔法装置が暴走していると想定して行動している。自然現象なら、わたしたちにはどうしようもないんだから」
「いいえ、価値ならあると思うわ」
セレシアが穏《おだ》やかに反論した。
「どんな価値だ?」
ジーニが彼女を睨《にら》みつけながら、訊《たず》ねかえす。
「すぐに分かるわ。ま、見ていて」
言うなり、セレシアはマントを脱《ぬ》いで、立ち上がった。
「みんなは、下がっていてね」
警告ともいうべきエルフ娘の言葉に、ミレルはマントにくるまったまま地面を転《ころ》がって遠ざかり、ジーニとメリッサはどうしたものかと顔を見合わせながら申し訳ていどに二、三歩、後退《こうたい》した。
そしてアイラは、魔法の明かりで照らされた端《はし》まで逃《に》げるように動いて、そのうえ樹木の陰《かげ》に身を隠《かく》す。
なんとなく、嫌《いや》な予感がしたからだ。
「あなたは、わたしを守ってね」
セレシアはリウイを振《ふ》り返ると、そう微笑《ほほえ》みかけた。
「もちろんだとも!」
言われるまでもなく、リウイは一歩も動いていなかった。
彼女が何をしようとしているのかは分からないが、危険を伴《ともな》うものだという気がした。
アイラが見せた反応《はんのう》も、それを裏付けているように思う。
|魔術師の杖《メイジスタツフ》を左手に持ちかえると、リウイは剣《けん》を鞘《さや》から抜《ぬ》いて、利《き》き手である右手で構えた。自ら選んで買った長剣である。握《にぎ》りが長く、片手でも両手でも扱《あつか》うことができる。
正規の騎士《きし》たちは、|蛮 刀《バスターソード》と呼んで蔑《さげす》んでいる。彼らの美学に反する剣だからだろう。だが、機能的であるのは間違《まちが》いない。
魔法戦士《ルーンソルジヤー》を目指しているリウイは、最初から盾《シールド》を使うつもりがない。普段《ふだん》は魔術師の杖と両方持ち、剣か魔法のいずれかに専念《せんねん》するときには片方を捨てればいいのだ。そして魔術師の杖を捨てたときには、剣を両手で持ったほうが扱いやすいし、破壊力《はかいりよく》も増《ま》す。普通《ふつう》の| 剣 《ブロードソード》と|大 剣《グレートソード》との中間的な武器こそ、リウイには理想的というわけだ。
しかし、利き手に剣を持っているのだから、どちらを主体として戦うつもりなのか、はっきりと分かる。
「自由なる風の乙女《おとめ》よ……」
セレシアはゆっくりと顔を上げると、精神を集中するため目を閉《と》じる。
そして夜空に向かって手を差し伸《の》べ、木々の間を吹《ふ》き抜《ぬ》ける風に向かって呼びかけた。
森の妖精《ようせい》の呼びかけに応じたように、彼女の頭上でシルフが実体化してゆく。その姿はセレシア自身が全裸《ぜんら》になったようでもあった。もっとも、その肉体はほとんど透明《とうめい》に近い。
「あなたに訊《たず》ねたいことがあるの」
セレシアは実体化したシルフに向かって呼びかけた。
だが、彼女の呼びかけに、シルフはまったく反応《はんのう》しなかった。漂《ただよ》うように空に浮《う》かんだまま、召喚者《しようかんしや》であるセレシアを冷たく見下ろしている。
「やっぱり、だめかな……」
セレシアが、そうつぶやいたときだった。
突然《とつぜん》、彼女の髪《かみ》が逆立《さかだ》ち、衣服《いふく》の裾《すそ》が浮き上がった。彼女の周りで、いや彼女の周りだけで、突風《とつぶう》が吹《ふ》いたのだ。
セレシアは悲鳴をあげて、リウイの側《そば》によろめくように近づいてきた。
「気をつけて! この精霊《せいれい》は狂《くる》っているわ」
セレシアが言い終わるより先に、シルフが動いた。
踊《おど》るように空を舞《ま》いながら、セレシアの方に向かってきたのだ。
「オレが相手だ!」
リウイは叫《さけ》び、降下してくるシルフに対して、右手の剣を振《ふ》るった。
命中した、と自分では思った。
しかし、その寸前《すんぜん》でシルフは身を捻《ひね》って逃《のが》れた。素早い動き、リウイは二度、三度と剣を振るったが、ことごとくかわされてしまった。
「どうしてだ!」
リウイは悔《くや》しそうに叫んだ。
彼の目はシルフの動きを完全に捕《と》らえている。それなのに、剣が当たらない。
狂える風の精霊は、ひたすらセレシアだけを狙《ねら》っていた。突風を起こし、彼女の服を、そして肌《はだ》を切り裂《さ》くのだ。
服の切れ目から白樺《しらかば》のような肌があらわになり、真《ま》っ赤《か》な筋がいくつも走ってゆく。
「くっ」
セレシアの美しい顔が、苦痛に歪《ゆが》んだ。
「何をやっているんだ!」
ジーニがもどかしそうに叫んで、|大 剣《グレートソード》の鞘《さや》を外《はず》した。
視界の端《はし》で、リウイはその行動を見た。
「手を出すんじゃない! こいつはオレの獲物《えもの》だ! そしてセレシアはオレが守る!!」
「素人《しろうと》が粋《いき》がるんじゃない! おまえみたいな剣の振るい方じゃあ、百年かけても当たらない。だいたい、その剣は魔力《まりよく》を帯びていないだろ。精霊は銀の武器か、魔力を帯びた武器じゃないと傷《きず》つけられないんだ。魔術師のくせに、そんなことも知らないのか?」
「そう……なのか?」
四大魔術《エレメントマジツク》の系統《ブランチ》の講義で、精霊たちについても教わったような気がする。しかし、リウイにとっては専門外の講義だったので、あまり真剣《しんけん》には聞いていなかった。
だが、精霊は実体が希薄《きはく》だから、そういうこともあるかもしれない。
そしてリウイが今、手にしているのは自前《じまえ》で買った普通《ふつう》の剣だった。銀の鍍金《メツキ》も施《ほどこ》していなければ、魔力を帯びているわけでもない。
メリッサの許婚者《フイアンセ》と決闘《けつとう》したときに、アイラから借り受けた|踊る剣《ダンシングソード》≠ヘ、彼女に返している。値段を聞いて、受け取る気をなくしたのだ。それに、あんな剣を使っていたら、剣の技術は一生、上達《じようたつ》しない。
「だったら、どうしたらいい?」
こうしているあいだにも、シルフはセレシアを攻撃《こうげき》しつづけている。
全身のそこかしこから、血が流れていた。彼女は健気《けなげ》にも歯を食いしばって、シルフの攻撃に耐《た》えようとしている。実体のない狂《くる》える精霊《せいれい》の攻撃は、物理的ではなく、魔法なのだ。それに対抗《たいこう》するには精神を集中させて耐えるしかない。
そして、彼女はよく耐えていた。しかし、いつまでもというわけにはゆくまい。
「そのための魔術だろうが! わたしの剣に魔法をかけるんだ!!」
「そうか、武器に魔力を付与《ふよ》させれば……」
リウイはつぶやき、右手に握《にぎ》った剣を見つめた。
(こいつに魔力を与《あた》えれば、狂える精霊だって倒《たお》せる)
しかし、命中しないのでは、それも意味はない。
一瞬《いつしゆん》の躊躇《ちゆうちよ》の後、彼は剣を投げ捨てた。
そして、左手に持っていたままの|魔術師の杖《メイジスタツフ》を振り上げて、高らかに古代語魔法の呪文《じゆもん》を唱《とな》えた。
「万能なる力《マナ》よ、我が手にやどれ!」
リウイは〈魔力付与《エンチヤントメント》〉の呪文を唱えたのだ。
しかし呪文の対象はジーニの大剣ではなく、彼自身の右の拳《こぶし》であった。
「セレシアは、オレが守ると言った!」
リウイは雄叫《おたけ》びをあげて、ふたたびシルフに立ち向かっていった。
「素人《しろうと》が、何を考えているんだ!」
ジーニは吐き捨て、それから思い出したようにもう一人の魔術師《まじゆつし》を振《ふ》り返る。
「アイラ! わたしの剣に魔法を!」
しかし、返事はなかった。
「アイラ?」
魔法の眼鏡《めがね》をかけた女性魔術師《ソーサリス》は木の幹に身を預けて、目を閉《と》じていた。まるで眠《ねむ》っているかのように。
「気を失っていますわね……」
メリッサが、信じられないというようにつぶやいた。
「仕方ないわよ。彼女なんか、ど素人なんだもの」
いつのまにかマントから抜《ぬ》け出したきたミレルがそう言って、肩《かた》をすくめる。
やっぱり、お嬢様《じようさま》なんだなと思う。
お嬢様という人種は自分の守備|範囲《はんい》のなかでは完全無敵だが、そこから一歩でも外に出ると、いきなり無力になるものだ。そして、その境界線は極めて明快である。金の力が通用するかしないかなのだ。
そして、今の状況《じようきよう》では、お金など何の意味もない。
(お金だって万能ではないってことよね)
ミレルは、ちょっと嬉《うれ》しくなった。
「不本意ですが、わたしが魔法で助けます」
魔法で攻撃《こうげき》しつつ、エルフ娘《むすめ》の傷《きず》を癒《いや》すのだ。
「そうしてくれ。あいつらに死なれでもしたら、わたしたちの評判に傷がつくからな」
ジーニにとっても、いかにも不本意だった。冒険で大切なのは、仲間どうしの連携《れんけい》なのだ。それを二人の素人は、見事に無視してくれた。
それで危機に陥《おちい》っているのだから自業自得《じごうじとく》なのだが、目の前で死なれたら、さすがに寝覚《ねざ》めが悪い。
「偉大《いだい》なる戦《いくさ》の神《かみ》よ……」
メリッサは精神を整《ととの》え、神聖魔法の呪文を唱えはじめたが、その祈《いの》りをすぐに中断させた。
「どうしたんだ?」
怪訝《けげん》に思って、ジーニが言葉をかける。
「あれを……」
メリッサは気の抜けたような顔をして、指を差した。
その指が示す方に、赤毛の女|戦士《せんし》は視線《しせん》を向ける。
「あいつ……」
そして絶句してしまった。
リウイは狂える精霊を相手に、素手《すで》で戦いを挑《いど》んでいたのだ。そしてその右の拳《こぶし》が魔法の光《オーラ》で輝《かがや》いている。
「精霊を、殴《なぐ》り倒《たお》す、つもりなの?」
ミレルは切れ切れにつぶやく。
自分の目を疑いたくなるような光景だった。
しかし、リウイの拳は確実に精霊に命中《ヒツト》していた。剣を振るっていたときには、かすりもしなかったというのに、だ。
「なんて奴《やつ》……」
ミレルは呆《あき》れて、開いた口が塞《ふさ》がらなかった。
「あのような戦い方は邪道《じやどう》です。優雅《ゆうが》さのかけらもありませんわ」
メリッサが憤慨《ふんがい》したように言い捨てて、見ていられないというように、アイラのところへ歩いていった。
気を失った彼女を介抱《かいほう》するためである。
「ロマールの闘技場《とうぎじよう》に行けば、拳闘士《ボクサー》で食っていけるな」
ジーニはその場で座《すわ》り込んで、観戦を決め込むことにした。
ミレルも彼女の隣《となり》にしゃがみ込み、腰《こし》に下げた袋《ふくろ》を探って乾燥肉《ジヤーキー》を掴《つか》み出した。
「食べる?」
「ああ、もらおう」
リウイは精霊をめった殴りにしていた。
その一発ごとに、狂える風の精霊は次第に透明《とうめい》さを増《ま》してゆき、やがて完全に消滅《しようめつ》した。
「大丈夫《だいじようぶ》か?」
高らかに勝利の雄叫《おたけ》びをあげたあと、リウイは耐《た》えかねたように地面に崩《くず》れ落ちたエルフ娘《むすめ》に声をかけた。
「大丈夫でもないけど、駄目《だめ》でもないわ」
セレシアは微笑《ほはえ》もうとして、傷の痛みに耐えかねたように目を閉《と》じる。
「メリッサ、彼女に癒《いや》しを!」
「かしこまりました」
皮肉たっぷりに言って、メリッサがやってきた。
気を失ったアイラの介抱はすでに終っていた。神聖魔法《しんせいまほう》の力で、目覚めさせたのだ。
メリッサは癒しの呪文を唱えて、セレシアの傷を治してゆく。傷の数こそ多かったが、ひとつひとつはそれほど深くない。無駄《むだ》に戦おうとはせず、魔法|攻撃《こうげき》の抵抗《ていこう》に専念していたのが幸《さいわ》いしたのだろう。
「予想していたのではありませんか? 狂える精霊が現れることを……」
「もしも、魔法装置が暴走しているならね」
メリッサの問いに、セレシアは苦笑まじりに答えた。
「魔術によっても、精霊を支配することはできるの。でも、それは精霊使《せいれいつか》いが支配しているようなやり方とは違う。協力してもらってるんじゃなく、強制しているの。自然の理《ことわり》とあまりに反した扱《あつか》いをしていると、やがて精霊は意志を失い、狂《くる》いはじめる……」
「それで、試《ため》してみた価値はありましたの?」
「ええ、いくつかね。ひとつには精霊魔法は使えないってこと。魔法装置の強制力だけでも限界だというのに、精霊使いに呼びかけられたらね。無理に使えば、たぶん、今と同じよ。狂える精霊を呼び出すことになる……」
セレシアは申し訳なさそうに言った。
それは、彼女が戦力ではなくなったことを意味している。戦士としての訓練は受けているが、自分の身を守るぐらいで精一杯《せいいつぱい》なのだ。
「それだけのことを確かめるために精霊を?」
「ええ、もっと厳《きび》しい状況《じようきよう》のときに精霊魔法を使っていたとしたら、大変なことになっていたでしょう? そんな予感がしたから、試してみたかったの」
「そんなことまで考えて……」
リウイが感動したように言った。
「それから、もうひとつ確かめられたことがあったしね」
セレシアは満足そうに微笑んで、リウイの腕《うで》に手をかけた。
「思ったとおり、あなたはわたしを守ってくれた。それも命がけでね」
「せっかく人間にはない長い寿命《じゆみよう》が与えられているんだ。こんなところで死ぬなんて、もったいないじゃないか」
リウイは至極《しごく》当然というように答えた。
「お二人だけの世界に入っておられるところ、恐縮《きようしゆく》なのですけれど」
メリッサがわざとらしい咳払《せきばら》いをしてから、リウイに声をかけた。
「なんだ?」
「ジーニがあなたに話があるようですわ」
「話?」
いったい、なんだろうと思いながら、リウイは立ち上がった。
精霊を倒したぐらいで、褒《ほ》めてくれるようなジーニではない。剣の使い方がなっちゃいないという小言だろうか?
赤毛の女戦士は無言で、リウイのところまでやってきた。
リウイは彼女の言葉を待って、そのままじっとしていた。
だが、やってきたのは言葉ではなかった。ジーニはいきなり拳《こぶし》を振《ふ》るったのである。それも、リウイの顔面に向かって……
その瞬間《しゆんかん》、リウイの世界はまぶしい閃光《せんこう》に包まれた。
4
世界は、光で包まれていた。
小さな閃光が、夜空に浮《う》かぶ星のように無数に瞬《またた》いている。
その光が突然《とつぜん》、消滅《しようめつ》したと思ったとき、リウイの目は開いていた。
最初に見えたのは流れ落ちてくる銀色の髪《かみ》、そして高貴な森の妖精《ようせい》が、心配そうな表情でリウイを覗《のぞ》き込んでいるのに気付いた。
後頭部に、しなやかな感触《かんしよく》がある。
セレシアがリウイの頭を膝《ひざ》に乗せてくれていたのだ。
「ここは天国なのか……」
リウイは思わず、つぶやいた。
「馬鹿《ばか》、言ってんじゃねぇよ」
下品《げひん》な裏街言葉《スラング》が飛んできて、リウイはようやく現実に戻《もど》った。
天国に、そんな言葉を使う人間がいるはずがない。
ミレルの声だ。街路育《ストリートそだ》ちの盗賊《とうぞく》少女。
そしてリウイはすべてを思い出した。
狂《くる》える精霊《せいれい》と戦い、勝利したこと。その後、いきなりジーニに殴《なぐ》られたこと。世界が光で包まれたように思えたのは、その衝撃《しようげき》のためだ。
リウイは跳《は》ねるように起き上がって、悠然《ゆうぜん》と腕《うで》を組んでいるジーニを睨《にら》みつけた。
「てめぇ!」
ミレルばりの裏街言葉《スラング》で、リウイは怒鳴《どな》る。
「なんで、オレが殴られなくちゃならねぇんだ!」
「素人《しろうと》が! そんなことも分からないのか?」
ジーニは馬鹿《ぱか》にするように鼻を鳴らした。
「おまえは魔術師《まじゆつし》で、わたしは戦士《せんし》だ。わたしが精霊と戦っていれば、もっと簡単《かんたん》に勝てていたんだ。セレシアの怪我《けが》も、少なくて済《す》んだ。しかも、魔術師のくせに、精霊が普通《ふつう》の武器では傷《きず》つかないことも知らないなんてな。ギルドに帰ったら、もう一度、勉強しなおすんだな!」
痛いところをつかれて、リウイは言葉を詰《つ》まらせた。
精霊に一度も剣を当てられなかったのは、自分でも情《なさ》けないと思う。そして、博識《はくしき》たるべき魔術師が、精霊について知識を欠いていたのは不覚というしかない。
「それでも、勝ったんだから、別にいいじゃないか。冒険者《ぼうけんしや》っていうのは、結果がすべてだと聞いているぞ」
リウイは苦しいながらも反論を試《こころ》みた。このまま引き下がっては、彼の誇《ほこ》りに傷《きず》がつく。
もっとも、ジーニたちと知り合ってからは、彼の誇りは傷だらけだ。
「結果がすべてなのは確かだが、それは細心《さいしん》の注意を払《はら》ってこそだ。冒険者は闘技場《コロシアム》で戦う剣闘士《グラデイエーター》とは違《ちが》う。王国《おうこく》に養《やしな》われている傭兵《マースナリー》ともな。わたしたちには観客もいなければ、雇《やと》い主《ぬし》もいない。確実に勝ってゆくことが大事《だいじ》なんだ。それも最小限の労力で、だ。怪我をするような戦いをしたら、メリッサが癒《いや》しの呪文《じゆもん》を使わなければならない。魔法を使えは、消耗《しようもう》することぐらい魔術師なら分かるだろう!」
リウイはぐっとなった。
しかし、完全に納得《なつとく》したわけではない。彼が冒険に加わったのは魔術を使って、彼女たちを援護《えんご》するためではない。それでは魔術師ギルドにいるのと同じではないか。
「オレは強くなりたいんだ! そのためには、もっと実戦を経験しなくちゃならない」
「魔術師は魔法を使っていればいいんだ。身を守れるなら、それで十分だろう」
身を守れると認めたところに、ジーニにしてみれば最大限の賛辞《さんじ》があったのだが、もちろん、リウイはそんなことに気付くはずもなかった。
「全然、足りないな。あんたの言うとおり、必要があれば魔術は使おう。だが、オレは強くなるのをあきらめたわけじゃない。いつかは、あんたを超《こ》える戦士《せんし》になってみせる」
「それは、わたしが、女だからか?」
一語一語、言葉を区切るように、ジーニは言った。
それまで、二人の口論を楽しそうに聞いていたミレルだったが、ジーニのその声に全身が総毛《そうけ》だった。
彼女の身体《からだ》から、殺気《さつき》が立ち上ってゆくのが目に見えるようだ。
(やばいなぁ)
どうやら、リウイはジーニを本気で怒《おこ》らせたようだ。このままでは、彼を殺してしまいかねない。
しかも、リウイは彼女の放《はな》つ殺気に気付いてもいない。なぜ、そんなことを聞くのか分からないというように、不思議そうな顔をしている。
(あんたには生存本能ってもんがないの?)
ミレルは呆《あき》れてしまった。
殺気さえ感じられないようでは、一流の戦士になる前に命を落とすに決まっている。
戦士としていちばん大事《だいじ》なのは、勝つことではない。負けないことである。負けたら、それですべてが終わりなのだから。
一流の盗賊《とうぞく》は荒稼《あらかせ》ぎをする盗賊ではなく、捕《つか》まらない盗賊だというのと同じである。もっとも、そのことに気付くまで、ミレル自身もずいぶん時間がかかったし、危険な目にもあってきたのだが……
「ごめんなさい、わたしの考えが浅かったのが悪かったのね」
一触即発《いつしよくそくはつ》の空気を打ち破ったのは、セレシアの一言だった。
本当に申し訳なさそうな顔をして、メリッサとリウイのあいだに入ってゆく。
小柄《こがら》な森の妖精《ようせい》だけに、悪戯《いたずら》を咎《とが》められた子供のような表情にも見える。
(でも、演技《えんぎ》だわ)
盗賊であるミレルには、すぐに分かった。
だが、今はジーニに落ち着いてもらうことが大切なので、あえて指摘《してき》しない。
「最初から、みんなに相談してたらよかったわね。でも、確かめてみたかったの。精霊魔法《せいれいまほう》が使えるかどうか、そしてこの人が、わたしを守ってくれるかどうか。もしも狂った精霊が現れても、この人なら勝てると思ったしね……」
殴《なぐ》るのなら、わたしを殴ってくれればよかったのに、とセレシアはジーニに向かって言った。
「そんなことをされたら、死んでしまう!」
リウイが血相《けつそう》を変えた。
「せっかくの永遠の命なんだから、もっと大切にしないと……」
セレシアはリウイを振《ふ》り返って、笑顔で答える。
それから、もう一度、ジーニに視線《しせん》を戻《もど》した。
「それに怪我《けが》なら、わたしにも治すことができたの。生命の精霊の力を借りればね。自然力を司《つかさど》る精霊じゃないから、使っても問題ないと思う。それにこれから休むんだから、消耗した精神だって回復する。もちろん野営《やえい》しているあいだに襲《おそ》われる危険はあるけど、ここは集落に近いし、その心配はあまりないと思ったんだけど……」
理路整然《りろせいぜん》と言うセレシアの言葉に、ジーニの表情がだんだん渋《しぶ》いものになっていった。
しかし、それと同時に、殺気も消えてゆく。
セレシアの言葉が正論だからである。彼女が言ったとおり、最初から意図を説明してくれていれば、賛成するしかなかったかもしれない。
だが、そのときにはリウイではなく、ジーニがセレシアを援護《えんご》していたはずだ。それでは、彼女のもうひとつの目的が果たせなかったのだ。
リウイが命をかけて、彼女を守るかどうか。
それを知ることに、どんな意味があるのか分からないが、セレシアにとってはきっと重要なことなのだろう、とジーニは思った。
物好《ものず》きかとは思うが、こればかりは他人がとやかく言う問題ではない。
「分かった。次からは気をつけてくれ」
無愛想《ぶあいそう》な声で、ジーニは言った。
もしも、セレシアが精霊たちが異常《いじよう》であることに気が付かず、もっと厳《きび》しい状況《じようきよう》で狂った精霊を呼び出していたとしたら、致命的《ちめいてき》な結果を招《まね》いていたというのも事実だ。そしてこれは思いもよらないことだったが、アイラの精神が案外、脆《もろ》いと分かったのも幸《さいわ》いだった。戦闘《せんとう》の場面では、彼女に頼《たよ》らないほうが賢明《けんめい》だった。
その女性魔術師は、メリッサのかけた神聖魔法で気を取り戻しているが、今でも青ざめた顔をしている。狂える精霊がセレシアを切り刻《きざ》んでいるのを見て、気を失ったのだろう。
いかにも大富豪《だいふごう》の令嬢《れいじよう》らしい反応《はんのう》ではあるが、彼女の性格が性格なので、ジーニにも予測できなかった。
もしかすると、彼女自身、意外だったのではないか。
だが、考えてみれば無理もない。普通《ふつう》にしていれば、彼女は殺し合いとは無縁《むえん》の世界で暮らしてゆけるのだから。
リウイも含《ふく》めて彼女ら三人の戦力をどう評価するか、これでだいたいの目算《もくさん》がたった。
言ってしまえば、役に立たないということだが、それが分かっているのといないのとでは、戦い方がまったく変わってくる。
「本番は明日だ。今日は、ゆっくり休息してくれ」
ジーニは吐き捨てるように言うと、メリッサたちに目で合図《あいず》をした。
「わたしたちも休みましょ」
ジーニの意図を察して、メリッサはミレルにそう声をかけた。
ミレルは嬉《うれ》しそうにうなずくと、彼女の外套《マント》に入り込んだ。そして、木の幹を背にして並《なら》んで腰《こし》を下ろした。
「恥ずかしいところを見せちゃったな」
アイラが顔を赤くしながら、リウイのそばに寄ってきた。
「リウイが決闘《けつとう》しているときは、ちゃんと見届《みとど》けられたんだけどね……」
「今日の相手は化《ば》け物《もの》だったしな。それに、セレシアの出血はひどいものだった。オレだって焦《あせ》ったぐらいだから」
「よかったわね、彼女を守ることができて」
「まったくだ」
リウイは心の底から安堵《あんど》したような表情を浮かべる。
(皮肉のつもりなんだけどなぁ)
アイラは苦笑を浮かべて、リウイの二の腕を小突《こづ》いた。
「わたしたちも、休みましょ。明日の本番に備えてね」
アイラの提案に、リウイも異論《いろん》はなかった。
精霊と戦って、さすがの彼も疲労《ひろう》を感じている。怪我《けが》をしたセレシアはもっと疲《つか》れているだろうし、アイラにしても同様だろう。
リウイは焚火《たきび》のそばに腰《こし》を下ろし、木の枝を使ってそれをかき回し、火力を強めた。
薪の爆《たきぎは》ぜる音が何度か響《ひび》き、橙色《オレンジ》の炎《ほのお》が明るさを増《ま》してゆく。
アイラとセレシアは、リウイの両側に腰を下ろし、マントに深くくるまった。
「明日も、戦いがあるかな?」
自問するように、リウイはつぶやいた。
「分からない。でも、ないにこしたことはないんじゃない」
アイラが正論を返してきた。
「そうか、そうだよな……」
リウイはうなずいたが、それが本心ではないことは彼自身、分かっていた。
(オレは、戦いを欲している)
リウイは心のなかでつぶやくと、腰に下げた剣に視線を落とす。
(相手の動きは見切っていたんだ。それなのに……)
なぜ剣が当たらなかったのか、リウイには理由がまったく分からない。
戦士たちは、よく剣は手の延長と言う。それが真実なら、一度くらい当たってもよさそうなものだ。拳《こぶし》なら、確実に命中《ヒツト》させていたのだから……
「剣の扱《あつか》い方なら、わたしでも教えてあげられるわよ。たいした腕《うで》ではないけど、集落の戦士たちに基本から習っているから……」
リウイの心の声を聞き取ったように、セレシアが囁《ささや》きかけてきた。
「そうしてくれ! 今日みたいな無様《ぶざま》な真似《まね》は二度としたくない。強くなりさえすれば、あいつらだって、オレに戦うなとは言えないはずなんだ」
リウイは勢い込んで言う。
「喜んで。わたしも、あなたに強くなってほしいもの」
セレシアは答え、でも今度の事件が解決してからね、と微笑《ほほえ》みながら、付け加えた。
リウイの勢いだと、今すぐ始めようと言い出しかねなかったからだ。
そして、事実、リウイはそのつもりだった。
「分かった、明日からな」
リウイはいかにも残念そうに言うと、焚火《たきび》の炎にふたたび視線を戻した。
「ねぇ、ひとつ聞いていい?」
まるで悪戯《いたずら》をとがめられた子供のような顔をしているリウイに向かって、セレシアは訊《たず》ねた。
リウイの側《そば》には同僚《どうりよう》の女性魔術師がいて、彼女がまだ起きているのが気になったが、今をおいて、他に訊ねる機会はなさそうに思えた。
「争いの森であったとき、あなたはエルフ族に好意的だった。そしてああいうことがあった後でも、その考えを変えていない。どうして?」
セレシアの言葉に、アイラもリウイを振《ふ》り返る。
その答えは、彼女もまた知りたいところだったからだ。
「子供の頃《ころ》に読んだ書物には、エルフ族が高貴な妖精《ようせい》だと書いてあった。キミたちの美しさを讃《たた》え、永遠の生命に憧憬《どうけい》を抱《いだ》いていた……」
「エルフ崇拝者《すうはいしや》たちが書いた書物じゃないの?」
アイラが不満そうに言葉を挟《はさ》む。
セレシアはしかし、彼女の言葉に不満そうな表情は見せなかった。
「アイラの言うとおり、わたしたちは確かに妖精だけど、妖精界にはもう帰れない。あなたがた人間と、そう変わりはないわ。人間よりも長寿《ちようじゆ》ではあるけど、永遠の生命を持っているわけでもないしね」
「オレも魔術師の端《はし》くれだから、それぐらいは知っているさ」
リウイは軽く笑って、地面に転《ころ》がった。
「たとえ、幻想《げんそう》と分かっていても、信じていたいことだってある。オレにとっては、キミたちが、昔《むかし》、読んだ書物どおりだということが、まさにそうなんだ。そして争いの森で出会ったときのキミは、オレが想像していたとおりだった。美しく、高貴で、そして聡明《そうめい》で……」
「でも、わたしはあなたを騙《だま》した」
「そうだな。見事に騙された。しかしそれは、エルフ族の聖地《せいち》にオレたちが入ったからだ。立場が逆《ぎやく》なら、オレだって侵入者《しんにゆうしや》を捕《と》らえるため、手段を選ばなかったろう」
「集落の長老たちに、あなたがたが妖魔《ようま》とは違《ちが》うことを証明したときみたいに?」
そう言って、セレシアはくすりと笑う。
あのとき、集落に何十年ぶりかという妖魔の襲撃《しゆうげき》があり、リウイは妖魔どもと戦ってみせることで、集落の長老たちの信頼《しんらい》を得たのだ。
だが、それが偶然《ぐうぜん》であるとは、セレシアは思っていない。どういう手段かは知らないが、リウイたちが呼び出したと信じている。
しかし、そのことで彼らを責めるつもりはない。聖地に侵入し、いにしえの者の木の枝を取ったというだけの罪《つみ》で、集落の長老たちは、彼らを処刑《しよけい》するつもりだったのだから。
「何のことだかな……」
リウイは惚《とぼ》けたふりをして、静かに目を閉《と》じた。
「エルフ族は、そしてわたしも、あなたが想像しているのとは違っているかもよ」
「それはキミのせいじゃない。オレが勝手に想像しているだけなんだから……」
リウイは答えると、そのまま静かな寝息《ねいき》をたてはじめた。
セレシアはそれからも二、三言、呼《よ》びかけたのだが、返事はまったくなかった。
「もしかして、眠《ねむ》ったの?」
アイラが驚《おどろ》いたような呆《あき》れたような声で言った。
目を閉じた次の瞬間《しゆんかん》にはもう寝入っているなど、まるで子供のようだ。
「すごい神経をしているのね」
セレシアも不思議なものを見るように、リウイの寝顔を見つめる。
「人間が、みんなこうだって思わないでよ」
アイラは苦笑を洩《も》らすと、自分も地面に横になり、リウイに背を向けた。
(ほんと、馬鹿《ばか》らしい。幻想《げんそう》と分かっているくせに、それを捨てようとしないなんて)
捨てたくないというのが、本音《ほんね》なのだろう。彼にとって、セレシアは自分が抱いている幻想のままでいてほしい存在なのだ。
(そんなに、魅力的《みりよくてき》なのかしら)
耳は奇妙《きみよう》に尖《とが》っているし、その美しさは完成されすぎていて現実感が稀薄《きはく》だ。胸も薄《うす》いし腰《こし》の線も細すぎるように思う。その抱《だ》き心地《ごこち》は、|樫の木《オーク》の魔法人形とさほど変わらないように思える。
アイラは、少なくともエルフの男性には興味《きようみ》はない。
(相思相愛《そうしそうあい》だったらいいけどね)
リウイに対し、心のなかでそう呼びかけてみる。
セレシアの本心は、アイラにはまだ分からない。
精霊を呼び出したときに守ってもらったことといい、さっきの問いかけといい、リウイの好意がとにかく、自分に向いていることを、確かめたがっているように感じられる。
普通《ふつう》に考えれば、それは彼女のほうもリウイに好意を持っているからということになる。
だが、アイラには、答えを求めるのが性急《せいきゆう》すぎるような気がしてならないのだ。
本気で好きなら、もっと慎重《しんちよう》になるものではないだろうか。好きと言ったがために、嫌《きら》われるということもよくある話だ。それが怖《こわ》くて想《おも》いを告《つ》げられない男女は、おそらく大勢いるはずだ。
自分もまた、その一人かもしれないと、彼女は思う。
そのとき、セレシアが地面に横になった気配《けはい》が伝わってきた。彼女ははたして、リウイの方を向いているのだろうか、それとも背を向けているのだろうか。
確かめたい気もするが、アイラにとってはどちらでもいいことなので、そのままの姿勢で眠りに入る努力を始める。
冷たい一夜に、なりそうだった。
[#改ページ]
第V章 四大魔術師《しだいまじゆつし》の塔《とう》
1
夜が明けた。
予想したとおり、寒い一夜になった。明け方|頃《ごろ》から大粒《おおつぶ》の雪が降りはじめ、そのまま降り止《や》む様子がなかった。
リウイたちは空が明るくなるのを待ちかねたように、急いで出発した。
まだ積もるほどではないが、一刻《いつこく》も早く事態を収拾しなければ、近郊《きんこう》の農作物に大きな被害《ひがい》が出るのは必至《ひつし》だ。
「不作で野菜《やさい》なんかの値段が上がったら、王都《おうと》に帰ってからの生活に困るんだからね」
森の道を歩きながら、ミレルがリウイに筋違《すじちが》いな文句を言った。
「そんなこと、オレに言われてもな……」
リウイはぐっとなって、反論してやろうとミレルを振《ふ》り返ったが、彼女の顔を見て気を変えた。一言でも言おうものなら、その数百倍が返ってきそうな感じだったからだ。
おそらく、ミレルは八つ当たりなのは承知しており、口喧嘩《くちげんか》で言い負かして気分をすっきりさせたいだけなのだろう。
その手には乗るまいと心に決めたリウイは結局、愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべただけで、ふたたび前を向く。卑屈《ひくつ》だとは思うが、それが賢明《けんめい》な判断というものだ。
「わたしには、少し責任あるかな。導師《どうし》の研究内容を知っていて、援助《えんじよ》していたわけだから……」
アイラが申し訳なさそうに言った。
「それにしても、導師が独力で魔法装置《まほうそうち》を再建させてしまうとは思いもしなかったわ。そして実験を強行するなんてね」
「優秀な魔術師でいらしたのね」
メリッサが感心したように言った。
「ええ、バナール導師に優《まさ》る実力の持《も》ち主《ぬし》は、魔術師ギルドでもカーウェス最高導師《さいこうどうし》とラヴェルナ導師の二人だけでしょう」
アイラは苦笑を浮かべた。
オーファンの魔術師ギルドは外見こそ立派《りつぱ》ではあるが、組織としてはまだまだ充実《じゆうじつ》しているとは言えないところがある。歴史が浅いゆえ、導師の数も少なく、その実力も十分ではないのだ。
本当なら、バナール導師のような人材を招《まね》きたかったのだろうが、優秀な魔術師ほど|誇り《プライド》も高く、魔術師ギルドの誘《さそ》いには応じなかったのである。
「魔女《まじよ》ラヴェルナか……」
アイラの言葉に、懐《なつ》かしい名前を聞いたな、とリウイは思った。
その名は子供の頃《ころ》に、養父《ようふ》カーウェスから嫌《いや》というほど聞かされている。
ラヴェルナ導師は正真正銘《しようしんしようめい》の天才で、十八|歳《さい》のときにはオーファン魔術師ギルドでカーウェスに次ぐ実力の持ち主になっていた。
現在はオーファン王リジャールの命《めい》を受けて、アレクラスト大陛全土の見聞《けんぶん》の旅《たび》に出ている。そして間もなく帰国するはずである。
(フォルテス次席導師は、さぞ心穏《こころおだ》やかじゃないだろう)
リウイは内心、にやりとした。
次席導師のフォルテスは次の最高導師の地位を狙《ねら》っているのだが、ラヴェルナが帰ってきたら、どうなるかは分からない。
養父カーウェスは、ラヴェルナの才能をとにかく愛している。養女にしたいとまで言っていたほどで、それが実現していたら、リウイにとって彼女は義理の姉だったわけだ。
しかし、正直に言って、側《そば》にはいてほしくない女性だった。才能も容姿《ようし》も、とにかくすべてにおいて完璧《かんぺき》で、一緒《いつしよ》にいると息が詰《つ》まってきそうだった。
魔女≠ニいう渾名《あだな》が付けられたのも、もっともだと思う。しかもラヴェルナは、その渾名を気に入って、自ら名乗るようになったのだ。
並《なみ》の神経の持ち主ではないことは、その逸話《エピソード》からもうかがえる。
「魔女でも聖女《せいじよ》でも、どうだっていいわよ。とにかく野菜よ、野菜」
ミレルが駄々《だだ》をこねるみたいに言った。
リウイを仲間に迎《むか》えてからというもの、とにかくついてなくて、稼《かせ》ぎがほとんどない状態なのだ。食べる物も、節約しているほどである。このままでは成長が止まってしまいそうで、彼女は内心、焦《あせ》っている。
身長ももっと伸《の》びてほしいし、胸だって育ってほしいのだ。
「いつまで馬鹿《ばか》を言っているんだ。だいたい、おまえは野菜が嫌《きら》いだろう」
いい加減《かげん》にしろというように、先頭を行くジーニが振《ふ》り返って、ミレルに言った。
「嫌いは嫌いだけど、肉ばかり食べていられるわけないじゃない。ファンの街《まち》じゃあ、高いんだから」
頬《ほお》を膨《ふく》らませて、ミレルは反論する。
子供|扱《あつか》いされて、気分を害したのだ。もっとも、子供のふりをしていたのだから、自業《じごう》自得《じとく》なのだが。
「人々の生活のためにも、魔法装置の暴走《ぼうそう》は止めないといけないわけだ」
話題を変えるため、リウイが神妙《しんみよう》なことを言った。
柄《がら》ではないことは承知しているが、ジーニとミレルに頭越しの口論でもされたら、たまったものではない。
「ようやく、使命感に目覚められましたの?」
メリッサが皮肉っぼく訊《たず》ねてくる。
リウイはまたもぐっとなり、どこから攻撃《こうげき》がくるか予想もできないな、と思った。
「真夏に雪だぞ。冗談事《じようだんごと》じゃないことぐらい誰《だれ》にでも分かる。王都でもこんな天気だとしたら、どんな騷《さわ》ぎになっているか……」
「そう思うのなら、もう少し急ぎません?」
メリッサが澄《す》ましたような顔で言う。
リウイは、オレが遅《おく》らせているわけではないと反論しょうと思ったが、すべての責任は勇者の資質《ししつ》を示さぬ自分にあると返されるに決まっているので、言うのをやめた。
(言葉ではなく、行動で示してやるさ)
リウイは心のなかでひそかに誓《ちか》った。
空は雲に覆《おお》われているが、日は完全に昇《のぼ》りきったらしく、森のなかもかなり明るくなってきた。足下もはっきり見える。
これなら、道に迷うこともないだろう。
リウイは大股《おおまた》に歩きはじめ、メリッサの言葉を聞いていたであろうジーニも足を速める。
彼女の歩幅《ほはば》も大きいので、急ぎ足になるとかなりの速度になる。
彼女に遅《おく》れないためには、ミレルとアイラは小走りになるしかなかった。
「疲《つか》れたら遠慮《えんりよ》なく言ってくれよ。背中を貸すから」
リウイは背後を振り返って、セレシアに呼《よ》びかけた。
彼女は、最後尾《さいこうぴ》を歩いている。
「心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫《だいしようぶ》よ。森のなかならそれほど疲れないから」
セレシアはいかにも森の妖精《ようせい》らしい答えを、リウイに返した。
「わたしには言ってくれないの?」
エルフ娘《むすめ》のすぐ前にいるアイラが、不満そうに言う。
実際、彼女の息づかいはかなり荒い。
「そうだな。動けそうになくなったら言ってくれ」
昨晩のこともあるので、リウイはアイラにもそう答えた。
長年、宿舎で同じように暮らしをしてきたので、彼女がお嬢様育《じようさまそだ》ちであることを、リウイもつい失念していたのだ。彼女にはいろいろ借りもあるので、こういうときにこそ、返しておかねばならない。
「そのときには、お願いね」
アイラは答えたが、セレシアに対しての言葉と比《くら》べると温度差があるようで、内心は不満だった。
邪眼《イビルアイ》≠フ合言葉《キーワード》を唱《とな》えてやろうか、となかば本気で思う。
夜明けとともに出発し、道中も急いだかいがあって、リウイたちは予想していたよりも早い時刻《じこく》に目的の場所に着いた。
「ここが、バナール導師の館《やかた》よ。そして魔術の研究材料そのものでもある」
アイラが息を切らせながら言った。
人間の身長の五倍はあろうかという高い塔《とう》であった。その周囲を、石造りの建物が取り巻いている。
「四大魔術師《エレメントマジシヤン》の塔というわけか……」
この塔の主人は、天候制御《てんこうせいぎよ》の魔法装置を再建し、四大《しだい》を極《きわ》めし者≠ニ自《みずか》ら名乗っているのだ。
塔の先端《せんたん》からは、何本かの水晶《すいしよう》の柱が突《つ》き出ている。そのうちの一本が純白《じゆんぱく》に輝《かがや》いている。それを見ただけで、魔法装置が作動《さどう》しているのは確信できた。
空は灰色《はいいろ》の雲で厚く覆《おお》われ、雪がかなり激《はげ》しく降《ふ》り注《そそ》いでいる。地面にも薄《うす》く積もりつつあり、このまま夜まで降り続けば、おそらく歩くのも困難になるだろう。
「魔法装置を止めなければ、王都には戻《もど》れないってことだな」
リウイはアイラに向かって確かめるように言った。
「たぶんね」
アイラは冷静に答えた。
そして、魔力感知《まりよくかんち》の呪文《じゆもん》を唱《とな》えはじめる。
「塔の頂上から、強い魔力が放出《ほうしゆつ》されているわ」
アイラの言葉に、セレシアもうなずいて、
「精霊力《せいれいりよく》も激しく乱《みだ》れている。何もしないでも、狂《くる》える精霊《せいれい》が襲《おそ》ってくるかもしれない」
と、付け加える。
「けっこうですわ」
メリッサが満足そうにうなずいた。
「寄り道なしで一気《いつき》に行くぞ」
ジーニが、メリッサとミレルに向かって声をかけた。
「オレたちは、何をすればいいんだ?」
あわてて、リウイがジーニに訊《たず》ねる。
「邪魔《じやま》にならないようについてきな。必要があれば声をかける」
「邪魔だって?」
ジーニの答えに、リウイは不満を覚えた。
だが、考えてみれば、冒険者《ぼうけんしや》として、本格的な仕事はこれが初めてである。彼女たちの手並《てなみ》を見ておくのも悪くないかもしれない。
「分かった。あんたらの手に余ることがあったら、遠慮《えんりよ》なく言ってくれ」
軽い憎まれ口を返して、リウイは後ろに下がった。
そのときには建物の扉《とぴら》にミレルが擦《す》り寄っていて、把手《とつて》のあたりを調べている。
「鍵《かぎ》がかかっているから、ちょっと待ってね」
ミレルは言うと、腰《こし》に吊《つる》した革袋《かわぶくろ》を探って、細長い金属棒《きんぞくぼう》を取り出した。
「魔法の鍵だったら、あたしにはお手上げなんだけど……」
そんなひとりごとをつぶやきながら、ミレルは慣れた手つきで、把手の下に空《あ》いていた鍵穴《かざあな》に金属棒を差し入れ、かちゃかちゃと動かしてゆく。
「よし、開いた。魔法《まほう》の鍵じゃなくて助かったわ」
ミレルはそのまま慎重《しんちよう》に扉を開けると、中を覗《のぞ》き込んだ。
「何もいないみたい」
「分かった。わたしが先頭を行く。メリッサは援護《えんご》を、ミレルは後ろの奴《やつ》らを気をつけてやってくれ」
「分かりました」
「分かった」
ジーニの言葉に、メリッサとミレルが、声を揃《そろ》えて応じる。
いつも通り、彼女ら三人の呼吸は見事に合っている。
(たいしたもんだ)
リウイは素直に感心した。
こういう経験を積んでいればこそ、普段《ふだん》から心が通じ合っているように声をそろえられるのだろう。もっとも、三人が合唱《がつしよう》するときは、たいていリウイに罵声《ばせい》を浴《あ》びせるときなのだが……
「魔法の明かりは必要かしら?」
屋内が薄暗《うすぐら》いのに気づいて、アイラが先頭を行くジーニに声をかける。
「お願いしよう」
ジーニが振り返って答えた。
アイラはうなずくと、無駄《むだ》のない動作で|魔術師の杖《メイジスタツフ》を動かし、見事な発音で上位古代語《ハイ・エンシエント》を唱える。
〈|明かり《ライト》〉の呪文はすぐに完成し、彼女の杖《つえ》の先端《せんたん》に、青白い魔法の光が灯《とも》る。
その光に照らされ、屋内の様子が浮《う》かびあがる。
扉のすぐ奥《おく》は広い部屋《へや》になっていて、衣類《いるい》や食料などが入った箱が雑然と置かれていた。
おそらく、村人たちが運び込んだものだろう。そのほとんどが手つかずの状態で、食料のなかには傷《いた》みかけているのもあった。しかし、室内の温度は凍《こご》えそうなほど低いので、臭《にお》いなどは漂《ただよ》っていない。
「癒《いや》しの呪文は、わたしに任《まか》せて」
セレシアがメリッサに呼びかけた。
「承りましたわ」
メリッサはセレシアを一瞥《いちべつ》してから、丁寧《ていねい》に答えた。
彼女に対して、まだ心を許していないゆえの丁寧さだ。しかし、妥当《だとう》な提案なので素直に従うあたりは、メリッサの理性的な一面が分かる。
名もなき生命の精霊は自然を司《つかさど》る精霊ではないゆえ、セレシアがたとえ使っても狂える精霊を呼び出すことはない。すなわち、メリッサは、癒し以外の呪文を優先的に使えるということになる。
(それにしても、たいしたもんだ)
アイラとセレシアはこういう状況《じようきよう》は初めてのはずだが、二人とも自分の役割を確実に見つけて、それを果たそうとしている。
リウイは、感心しているばかりの自分が情《なさ》けなく思えてきた。
だが、何をしていいか分からないので、とりあえず剣《けん》を抜《ぬ》き、アイラたちの後ろに回ることにする。
出てくるとは思えないが、背後からの敵に備える態勢である。
「このあいだみたく、勝手に列から離《はな》れないでよ。背後から敵を呼ばれたら、面倒《めんどう》なんだから」
ミレルが疑いの視線《しせん》をリウイに向けながら、念を押《お》すように言った。
「後ろを警戒《けいかい》しているだけだ!」
自分一人が信用されていないことに、リウイはひどく憤慨《ふんがい》した。
だが、ミレルの指摘《してき》に対しては前科があるので、文句を言い返すこともできない。
リウイは以前、ある古代|遺跡《いせき》を探索《たんさく》しているときに、隊列の最後尾《さいこうび》を歩いていて偶然《ぐうぜん》、隠《かく》し扉《とびら》を見つけたことがある。
何気なく扉を開けてみると、その向こうの部屋《へや》に赤肌鬼《ゴブリン》の一団がひしめいていて、リウイはこの妖魔《ようま》どもと肉弾戦《にくだんせん》を演《えん》じる羽目《はめ》になったのだ。
そして、魔術師の杖を折るという大失態を演じてしまった。
もっとも、妖魔たちは、ほとんど一人で全滅《ぜんめつ》させたのだから、彼自身はちょっとした武勲《ぶくん》のつもりでいる。
しかし、ジーニたちはそのことを、まったく評価していない。不本意だの、素人《しろうと》だのと文句を言っただけだ。
だが、あれがなければ、争いの森に魔術師の杖の材料たる樫《かし》の古木を取りにゆくことはなかったわけだし、セレシアと出会うこともなかったわけだ。
リウイ自身の損得勘定《そんとくかんじよう》で言えば、得《とく》をしているような気もするのだが、ミレルたちがそれを認めてくれるはずはない。
(今に見ていろって)
リウイは秘《ひそ》かに思った。
彼自身は自分の能力を信じている。喧嘩《けんか》なら一度も負けたことがないのだし、体力的には赤毛の女|戦士《せんし》にも劣るところはない。
コツさえ掴《つか》めば、戦士として一流になれるはずなのだ。
そして、セレシアに、剣術《けんじゆつ》を教えてもらう約束《やくそく》を取り付けている。ジーニの乱暴な稽古《けいこ》とは違《ちが》って、聡明《そうめい》な彼女なら、分かりやすく教えてくれるだろう。
しかし、何よりも大事《だいじ》なのは実戦である。
リウイは何度も背後《はいご》を振り返って、敵の姿を探し求める。背後から現れたなら、リウイが戦う権利を得ることになる。
だが、残念なことに、敵は背後から現れなかった。
先頭を行くジーニの前に、姿を現したのである。
2
中央の塔《とう》に行くためには、いったん建物から外に出て中庭を通らわはならなかった。
そしてその中庭に一匹の怪物《モンスター》が、塔の入口を塞《ふさ》ぐように立ちはだかっていたのである。
怪物は一見して、半裸《はんら》の大男に見えた。
リウイよりも更《さら》に一回りほど大きな体格である。そしてその全身には、傷口《きずぐち》を縫《ぬ》い合わせたような痕《あと》が、そこかしこに走っている。
「|肉の魔法像《フレツシユゴーレム》だわ……」
アイラはつぶやき、魔法《まはう》の眼鏡《めがね》に手をかけて、古代王国の魔法文明が残した貴重《きちよう》な遺産《いさん》を見つめる。魔法像を創《つく》り出す儀式《ぎしき》魔法は、現在では失われているのだ。
バナール導師が遺跡で見つけたのか、製法を記した魔法書でも見つけたかのいずれかだろう。いずれにせよ、魔力付与《エンチヤントメント》を専門とするアイラにとっては、貴重な研究材料だった。
「我が名を讃《たた》えよ……」
魔法像は、リウイたちを虚《うつ》ろに見つめながら、老人のような声でそう喋《しやべ》った。
「なんだって?」
突然《とつぜん》の呼びかけに、リウイは反射的にそう問い返していた。
驚《おどろ》いたので、かなり大きな声になった。
「馬鹿野郎!」
その瞬間《しゆんかん》、ミレルが思い切りリウイの足を蹴りつけた。
「な、何をしやがる!」
リウイの右足に激痛《げきつう》が走った。
急所を心得《こころえ》た蹴《け》りで、痛みのため一瞬、呼吸が止まったかと思ったほどだった。
「なんだって……馬鹿野郎……な、何をしやがる」
そのとき、魔法像が抑揚《よくよう》のない声で、リウイとミレルの会話を繰り返した。
何を言っているんだと、リウイが疑問に思ったとき――
「汝《なんじ》らを侵入者《しんにゆうしや》と認めたぞ……」
魔法像は、宣言《せんげん》するように言った。
「あちゃ〜」
ミレルは、思わず顔を手で覆《おお》う。
「邪魔をするなと言っただろう!」
ジーニが振り返って、リウイを怒鳴《どな》りつける。
「あいつは、合言葉《キーワード》を求めていたんだ。正しい合言葉を言えば、戦わずに済《す》んだのだぞ」
「答えたわけじゃない。よく聞き取れなかったんで、訊《たず》ねかえしただけだ。オレはいちばん後ろにいたから……」
「それにしても、あんな大声をあげる必要はないでしょう」
メリッサが顔を真《ま》っ赤《か》にしながら言う。
仕《つか》えるべき勇者のあまりにも情《なさ》けない失態に、怒《いか》りと恥辱《ちじよく》で胸が張り裂《さ》けそうだった。
「相手は魔法生物だもの。融通《ゆうずう》なんて利《き》かないわよ」
アイラが呆《あき》れたように言った。
「どうやら、戦うしかないようだな」
ジーニがつぶやきながら、覚悟《かくご》を決めたように|大 剣《グレートソード》を構える。
彼女の言葉通り、魔法像は拳《こぶし》を振《ふ》り上げ、一歩、一歩、リウイたちの方に迫《せま》ってくる。
「いずれにしても、戦わねばならない相手なんじゃないのか。オレたちは誰《だれ》も合言葉の答えを知らなかったんだし……」
「合言葉は四大《しだい》を極《きわ》めし者《もの》≠諱Bバナール導師《どうし》からの手紙の最後に、尊称《そんしよう》が記されてあったでしょう。我が名を崇《あが》めよなのだから、尊称を答えればいいに決まっているじゃない。あの魔法像は確かに、塔を守護《しゆご》しているけど、わたしたちは招《まね》かれて来ているんだから、戦わせようなんて思うはずがないでしょ」
アイラが溜息《ためいき》まじりに答えた。
「あの尊称には、そういう意味があったのか? オレはただ自慢《じまん》しているだけだと思った」
リウイはさすがに衝撃《シヨツク》を覚えた。
差出人の尊称などに重要な意味があるとは思いもしなかったのだ。
「まったく、あんたっていったい何者? よくそんなで魔術師やってられるわね」
ミレルがじとりとした目で、リウイを睨《にら》む。
「おまえたちは下がっていろ。どうやら強敵のようだ」
ジーニが迫りくる魔法像の動きを追いながら、声をかけてくる。
どうやら、一人で戦うつもりのようだ。
「古代王国が誇《ほこ》る守衛《ガーデイアン》だものね」
アイラがひとりごとのようにつぶやく。
誇らしそうに聞こえるのは、彼女の専門分野でもあるからだろう。
「なんとか、止められませんの?」
メリッサがアイラに訊《たず》ねた。
「わたしでは無理よ。まだまだ修行《しゆぎよう》が足りないわ。カーウェス最高導師やラヴェルナ導師なら〈命令解除《デイスペルオーダー》〉の呪文《じゆもん》でも使うんでしょうけど」
「すべて、オレの、責任なのかよ……」
リウイとしては、いろいろ弁解もしたいが、結果としてはそう言うしかないようだ。
「下がってなどいられるか!」
リウイはそう叫ぶと|長 剣《バスタードソード》を抜いて、ジーニの隣《となり》に進みでた。
「邪魔《じやま》をするなと言っているだろう?」
凄《すご》みの効《き》いた声で、ジーニが言う。
「強敵なんだろう? オレにも手伝わせてくれ。正面から奴《やつ》を引き付けるから、あんたは背後に回って攻撃《こうげき》してくれ」
「正気なのか?」
「正気かどうか、自信はないな。死ぬかもしれないと思うと、かえってオレの血は騒《さわ》ぐぐらいだから」
「傭兵《ようへい》のなかにはたまにいる。たいてい長生きできないけどな」
「あいにくオレは長生きするつもりだ。相手の攻撃をかわすだけならオレにだってできる。たとえ、剣が当てられなくてもな」
「おまえは満足な鎧《よろい》も着けていないんだぞ。あいつの一撃《いちげき》を食らっただけで……」
「心配するな、身体の頑丈《がんじよう》さには自信がある」
リウイはジーニにそう言うと、メリッサを振り返って同意を求めた。
「あんたが言う勇者ってのは、こういうとき後ろに隠《かく》れていていいのか?」
「いいはずがありませんわ」
メリッサは即答《そくとう》した。
「どうぞ、戦ってくださいまし。ですが、負けないでくださいね。それから、ジーニの邪魔だけはくれぐれもしないように」
邪魔、邪魔とうるさい奴らだとリウイは思ったが、問題をややこしくしたくないので、今は文句を言わずにおく。
「……分かった。おまえの言うとおり、わたしがあいつの後ろに回ろう」
ジーニは溜息《ためいき》をひとつ残して、塔《とう》を取り巻く建物の壁《かベ》に沿って走りはじめた。
一時的にせよ、リウイは迫《せま》りくる魔法像と一対一で向き合う格好になった。
神経を集中させて、ゴーレムの動きに備《そな》える。ジーニが指摘《してき》したとおり、一撃を食らっただけでも致命傷《ちめいしよう》になるかもしれない。
「きますよ!」
メリッサが警告の声をあげる。
指摘されるまでもなく、リウイにもそれは分かった。
魔法像の筋肉の動きは人間のそれとは違《ちが》ったが、それでも僅《わず》かな予備動作があった。喧嘩慣《けんかな》れしたリウイである。それを見逃《みのが》しはしない。
空気をうならせて、魔法像の丸太のような腕《うで》が振るわれる。予想していたよりも素早い攻撃だった。しかも、十分な重さがある。
リウイはその場でしゃがんで、最初の攻撃をかわした。そして、頭を狙《ねら》ってきた二撃目、三撃目を上体だけを横にそらして、紙一重《かみひとえ》のところでかわす。
ただ逃《に》げるだけなら、横に飛べばいいのだが、それではジーニが背後に回っている意味がなくなってしまう。
前後と上下の動きだけで、魔法像の攻撃をかわさなければならないのだ。
(かなり無理がありそうだな)
最初の一撃を見たときから、リウイはそんな気がしていた。
そして悪い予感にかぎってよく当たるものだ。
胴《どう》を狙って振るわれた五撃目の攻撃を避《さ》けきれず、リウイは魔法像の拳《こぶし》をもろに腹に受けた。
腹《はら》を突《つ》き破られたような衝撃《しようげき》が走り、リウイは反射的に腹筋《ふつきん》を硬《かた》くする。
そして文字通り、吹《ふ》き飛ばされた。
いや、彼自身が望んで飛んだのだ。無理に踏《ふ》ん張ると、かえって衝撃は強くなるからだ。
リウイは中庭の外周まで飛んで、硬《かた》い石の壁にぶつかって、ようやく止まった。
胃袋《いぶくろ》が裏返ったように、嘔吐感《おうとかん》が込み上げてくる。だが、内臓や骨には異常《いじよう》はないと確信できた。
「まだ、やれる!」
リウイは気合いの声をあげて自《みずか》らを叱咤《しった》し、ふらふらと立ち上がった。
だが、そのとき、さらに大きな気合いの声があがった。
魔法像の背後から、ジーニが斬《き》りかかっていったのだ。
もちろん、彼女がそんな位置からの攻撃を外《はず》すわけがない。愛用の|大 剣《グレートソード》は、魔法像の背中に叩《たた》きつけられていた。
魔法像が悲鳴とおぼしき声をあげる。そして振り返って、今度はジーニを狙って攻撃を始めた。
リウイに向けた背中には深い傷《きず》が走っていたが、体液は流れていないし、魔法像はまったく怯《ひる》んだ様子もない。
魔法生物だけに、痛みなどまったく感じていないはずだ。活動が止まるまで、この怪物《かいぶつ》は全力で戦いつづけるに違《ちが》いない。
リウイは殴《なぐ》られた衝撃から立ち直ると、ふたたび魔法像の注意を自分に向けようと、大戸をあげながら全力で走り寄った。
そして、相手の背中に飛《と》び蹴《げ》りを入れる。
体重の乗った蹴りだったが、魔法像はびくともしなかった。リウイの存在など忘れたかのように、ジーニに向かって両腕《りよううで》を振るいつづけている。
ジーニは何とかその攻撃をかわしているが、反撃する余裕《よゆう》はないらしい。むしろ攻撃してくる腕を切り払って、相手の攻撃力を削《そ》ぐつもりのようだ。
「貴様《きさま》の相手はオレだ!」
リウイは大声で叫《さけ》びつつ、魔法像の背中に向かって、連続で拳を叩きつける。彼はこの拳で、妖魔《ようま》や精霊を殴り倒してきたのだ。
だが、この魔法像には、まったく効《き》いている気がしなかった。
「まだまだ鍛《きた》え足りないのか……」
リウイは呻《うめ》いた。
肉体だけに頼《たよ》った戦いには、やはり限界がありそうだ。強敵と戦うためには、武器の扱《あつか》いに慣れるしかない。
「それなら!」
リウイは腰の剣を抜くと、渾身《こんしん》の力を込《こ》めてそれを振り上げた。
この位置からなら、いくらなんでも外すことはあるまい。相手は風の精霊のように空を飛んでいるわけではないし、図体《ずうたい》も大きい。当たりさえすれば、拳で殴っているのとは、比較《ひかく》にならない打撃を与えることができるだろう。
リウイは、鳥が鳴いたような奇声《きせい》を発しながら、その場で高く跳躍《ちようやく》すると、魔法像の頭を狙って剣を叩きつけた。
胴体を縦に両断せんとばかりに。
そしてリウイの攻撃は、狙いを違《たが》えることなく命中した。
しかし――
リウイの剣は魔法像を両断するどころではなかった。
刃《やいば》の当たる角度が悪かったらしく、刃は相手の頭すら切ることができなかったのだ。
その代わり、硬《かた》い物が砕《くだ》ける感触《かんしよく》がリウイの手に伝わってくる。剣を握《にぎ》った腕がしびれ、リウイは反対の手で、利《き》き手を押《お》さえねばならなかった。
リウイの剣は折れてはいなかった。その代わり、魔法像の頭部の形にそって、見事に曲がっていた。
打撃が当たった部分は周囲に比《くら》べ、深く陥没《かんぼつ》しており、相手の頭蓋《ずがい》を叩き割ったのが分かる。
折れなかったのは剣が安物《やすもの》だったせいだ。それなりの値段を払《はら》ったのだが、どうやら粗悪品《そあくひん》を掴《つか》まされていたようだ。
しかし、そのおかげで、リウイの剣は相手に大きな打撃《だげき》を与《あた》えることができた。もしも、剣が折れていたなら、これほどの打撃は与えられなかったに違いない。
さしもの魔法像も頭蓋を砕かれては動きも鈍《にぶ》った。
その際《すき》を逃《のが》さず、ジーニは容赦《ようしや》のない連続攻撃を浴《あ》びせかける。
数瞬の後、魔法像は全身を切り刻《きざ》まれ、ゆっくりと横に倒《たお》れていった。
それを見届《みとど》けて、リウイは勝利の雄叫《おたけ》びをあげる。
そんなリウイに、ジーニは軽蔑《けいべつ》したような視線《しせん》を向けてくる。
「まったく素人《しろうと》だな。剣の刃もうまく合わせられないなんて……」
「それでも勝てたんだから、いいじゃないか。鎚鉾《メイス》で殴ったと思えばいいだろ?」
「だったら、最初から鎚鉾を買うことだ」
そう言われれば、リウイには反論できるはずがなかった。
剣の良し悪しも見分けられなかったというのも、戦士としては失格なのだ。リウイが魔法像の頭を砕くことができたのは偶然が重なってのことだ。
メリッサを振り返れば、やはり不本意だというような表情をしている。
(勝ったんだからいいんじゃないか……)
リウイは心のなかでそう繰り返した。
無様《ぶざま》と言われようと、これまで勝ちつづけてきたのである。そして、これからもそうなると彼は信じているのだ。
「早く、塔に入りましょう。一刻《いつこく》も早く、魔法装置を止めないと……」
アイラがリウイを促《うなが》した。
彼女にしては珍《めずら》しく、焦《あせ》っている様子だった。
(しかし、それも当然だな)
と、リウイは思った。
空からはかなりの勢いで、雪が落ちてきている。ふと気が付くと、中庭は白一色に染《そ》まっていた。
これが局地的なものなのか、それともオーファン全土がそうなのか分からないが、尋常《じんじよう》の事態ではないのは確かだ。
「障害《しようがい》が、もう何もないといいけどね……」
不安そうな表情を浮かべながら、セレシアが囁《ささや》いてくる。
「悪い予感がするのか?」
リウイが問うと、セレシアは寂《さび》しそうな笑顔を浮かべながら、こくんとうなずいた。
「それなら、覚悟《かくご》しないとな……」
悪い予感ほどよく当たるということを、リウイはこのところ実感している。
そしてセレシアの言葉は、ただの予感ではないのだろう。彼女の視線《しせん》は、塔《とう》の先端《せんたん》にじっと注《そそ》がれている。
リウイには見えないが、|精霊使い《シヤーマン》である彼女の目には、そこに何かが映っているのに違いない……
3
頑丈《がんじよう》な鉄の扉《とびら》を開けて、リウイたちは四大《しだい》を極《きわ》めし魔術師《まじゆつし》バナールが再建した魔法装置《まほうそうち》のなかへと入っていった。
塔の外壁《がいへき》に沿って螺旋《らせん》階段が伸《の》びている。中央は吹《ふ》き抜《ぬ》けではなく、巨大《きよだい》な柱が立っている。しかし、塔《とう》を支えているようには見えないから、その柱のなかに魔法装置の一部が収められているのだろう。
ジーニが先頭に立って、その次がリウイ、そしてメリッサ、ミレル、アイラ、セレシアの順で続いた。
申し合わせたわけではないが、塔に入ってからは全員が慎重《しんちよう》な足取りになって、螺旋階段を登ってゆく。
予想されたことではあったが、部屋《へや》のなかはひどく寒かった。
防寒|対策《たいさく》はしてあるのでなんとか平気だが、普段《ふだん》の夏服だと寒さに凍《こご》えていたかもしれない。
「ところで、魔法装置の止め方は分かるのだろうな」
先頭を行くジーニが、声をかけてきた。
「無茶、言うな。魔法装置なんか実物にお目にかかるのは初めてなんだぜ。実際に目で見て、調べるしかないさ。動かすんじゃなく、止めるってところが、唯一《ゆいいつ》の救いかな」
リウイはあっさりと答えた。
「期待したわたしが、馬鹿《ばか》だったよ」
ジーニは呆《あき》れたように、ふたたび正面を向く。
「心配するな。いくら四大魔術《エレメントマジツク》の系統《けいとう》に属《ぞく》する魔法装置だって、装置そのものは付与魔術《エンチヤントメント》によって創《つく》られている。それなら、アイラが専門だからな。何とかしてくれるに違いない」
ジーニの背中に向かって、リウイは声をかけた。
実際、アイラをここまで運んでくるのが、冒険者《ぼうけんしや》としての役割だったと思っている。これからは、彼女が主役のはずだった。
もちろん、リウイも魔術師の端《はし》くれである。彼女を手伝うつもりでいる。もしも、彼女の作業に邪魔《じやま》が入るようなら、それを排除《はいじよ》する役目の人間がいる。
螺旋階段を登りきったところは、下から押《お》し上げる形状の扉になっていた。
この扉を入れば、おそらく魔法装置の制御《せいぎよ》を行う部屋《へや》に入るだろう。
「オレが開けようか?」
リウイは、ジーニに申し出た。
「素人《しろうと》が、偉《えら》そうに言うんじゃない」
ジーニは素《そ》っ気《け》なく答えると、扉を押し開けた。
(魔術に関しては、素人じゃない)
リウイは憮然《ぶぜん》と思ったが、今は口論している場合ではない。
ジーニはすぐに扉を下ろし、厳《きび》しい顔をして振《ふ》り返った。
「どうなっていた?」
リウイが訊《たず》ねると、赤毛の女|戦士《せんし》は忌々《いまいま》しそうに首を横に振った。
「狂《くる》える精霊《せいれい》が、わたしの目にも見えたよ。いったい何体いるのか、数えられないほどだった。あれはたぶん、雪の女王の娘《むすめ》たちだな」
「雪の女王の娘?」
聞き慣れない名前に、リウイは訝《いぶか》しそうに訊《たず》ねかえした。
「氷の乙女《おとめ》フラウじゃないかしら。塔の先端から氷の精霊力が異常な発現《はつげん》を示していたんだけど……」
セレシアが後ろから声をかけてくる。
森の妖精《ようせい》エルフ族は、ほとんど全員が精霊と交信する能力を持っている。
「氷の精霊のことを、わたしたちの部族ではそう呼んでいるんだ。冬には雪に閉ざされて、命を落とす者もいるぐらいだからな」
ヤスガルン山脈は寒冷な気候《きこう》で知られている。山向こうには、氷結海《ひようけつかい》と呼《よ》ばれる一年中、氷に閉《と》ざされた海があるほどなのだ。
地形や気候は、どの精霊力が強く発現しているかで決まるものだが、一般的《いつぱんてき》には北に行くほど寒く、南に行くほど暖かいという法則がある。
それは世界の北の果ては氷の門で閉ざされ、南の果ては炎《ほのお》の門で閉ざされているためだと賢者《けんじや》たちはまことしやかに説いている。
だが、その世界の果てを見た者は誰《だれ》もおらず、真実は謎《なぞ》に包まれている。
「どうする? 部屋に入れば、一斉《いつせい》に襲《おそ》いかかってくるぞ」
「しかし、部屋に入らなければ、魔法装置は止められない」
リウイは反論した。
塔を壊《こわ》せば、あるいは魔法装置の作動《さどう》は止まるかもしれないが、それには人数も時間も、道具も必要だ。
しかもそのあいだに、この塔は雪で閉ざされ、誰一人、近づけなくなるだろう。
「死ににゆくようなものだな」
ジーニはあっさりと言ったが、その表情は厳《きび》しかった。
「ここまで来て、あきらめろと言うのか?」
リウイは顔色を変えた。
そして、それはオーファンの破滅《はめつ》を意味している。もしも、魔法装置の効果|範囲《はんい》が大陸規模だったとしたら、アレクラスト大陸そのものが極寒《ごくかん》の地となるかもしれないのである。
人間も、動物も、植物も、おそらくほとんどの生き物が息絶《いきた》えるだろう。
「何か、考えがあるというなら言ってみろ。狂える精霊たちの舞《ま》う部屋に入ることなく、魔法装置を止める方法を、だぞ」
「無理に決まっている。手を触《ふ》れずに、箱を開けるようなものだ」
リウイも、さすがに焦《あせ》りを覚えはじめた。
死ぬような目には何度もあってきたし、その都度《つど》、うまく切り抜けてきたので、世の中だいたいなんとかなるものだというのが信条だったのだが、今回ばかりはそうもゆかないかもしれない。
その先にあるのは、死だ。
「魔法でなんとかならないの?」
ミレルが、誰にとはなく問いかけた。
ここにいるのは、彼女自身とジーニを除《のぞ》けば、全員が|魔法使い《ルーンマスター》なのだ。
「魔法だって、万能ではないわ。それに、わたしたちは、まだ未熟《みじゆく》だしね」
アイラが申し訳なさそうに言うと、唇《くちびる》を強く噛《か》んだ。
「こういう事態を予測できなかった、わたしの責任だわ。こういうことなら、カーウェス様に相談しておけばよかった……」
「爺《じい》さんに相談? 冗談《じようだん》じゃない」
リウイは不愉快《ふゆかい》そうに言った。
「でも、王国《おうこく》が破滅するかもしれないような大事件なのだから、最初からわたしたちだけでは手に負《お》えないかもしれなかったのよ……」
そして実際に手に負えない事態になっていると、アイラは思った。
生まれて初めて味わう破滅の恐怖《きようふ》が、彼女の胸を締《し》めつけた。
「手で使わずに箱を開けることができないなら、やっぱり手を使うしかないわよ」
それまで無言でリウイたちの話を聞いていたエルフ娘《むすめ》のセレシアが、明るい口調《くちよう》で言うと、階段をゆっくりと登ってきた。
「どうせ死ぬのなら、ここで死んでも同じでしょ」
セレシアは、リウイに笑いかける。
「部屋のなかに入れば、確実に命を落とす。しかし、今すぐ逃《に》げ出せば、助かる可能性はある。魔法装置の影響《えいきよう》の及《およ》ばないところにまで逃げればいいんだから」
ジーニが睨《にら》みつけるような視線《しせん》をエルフ娘に向けた。
「わたしの故郷の森は、間違《まちが》いなく影響を受けるのよ」
セレシアは穏《おだ》やかに答えた。
彼女の故郷は、争いの森ターシャスの奥《おく》にある。ここからだと、だいぶ距離《きより》があるが、それでも遠すぎるというほどでもない。
自然は精霊力の微妙《びみよう》な調和によって成立している。その調和が崩《くず》れたとしたら、森にも大きな影響が及ぶことになる。
「魔術師たちは……、そして人間はどうして自然を変えてゆこうとするのかしらね。自然は確かに懐《ふところ》が深い。手を加えても、たいていのことなら吸収して、同化してしまう。でも、見えないところで、その負担《ふたん》は確実に自然の力を弱めているのよ。踏《ふ》みかためられた街道《かいどう》には、雑草さえもなかなか生えない。堰《せき》を造《つく》れば、汚泥《おでい》が川底に溜《た》まり、いろいろな生き物が滅《ほろ》んでゆく。わたしたちはその怖《こわ》さを知っているから、森が許してくれるかぎりの恵《めぐ》みを享受《きようじゆ》して暮《く》らしている」
セレシアはそこまでを言うと、はっとしたような顔をする。
「あなたがたを責めているんじゃないのよ。問いかけているだけ。わたしは人間を理解したいって思っているし、できるならその生き方だって肯定《こうてい》したいんだから……」
「人間は自分を変えるんじゃなく、自分以外のものを変えてゆこうとする生き物なんだろう。世界を創造したのは、神々だという。人間はその姿を受け継《つ》いで生み出されたのだから、世界の創造を継続《けいぞく》したいという意志も受け継いでいるのかもしれない。だから世界を変えてゆこうとする。そして変化というものは、間違いなく諸刃《もろは》の剣《けん》だ。良い方にも悪い方にも進んでゆく可能性があるんだから」
リウイは美しい森の妖精《ようせい》を見つめながら、静かに言った。
柄《がら》にもないと思ったが、自分は間違いなく人間であり、そして人間でしかない。完全な生き物ではないかもしれないが、だからと言って絶望するわけにもゆかない。人間が変えてきたことは、ときには後退《こうたい》しているにしても、最終的には正しい方向に進んでいるのだと信じたい。
(もしかして、あなたがエルフ族に憧《あこが》れているのは……)
いつになく真剣《しんけん》なリウイの言葉を聞いていて、アイラは心にわだかまっていた疑問が解《と》けたような気がした。
エルフが人間とは異なる存在であること。その事実が、彼にとっては重要なのかもしれない。その事実だけが……
そしてアイラは、
「わたしは寒いのが嫌《きら》いなのよ。暑《あつ》いのもね」
と、セレシアに笑いかけた。
唐突《とうとつ》な言葉に、セレシアは怪訝《けげん》そうな表情を浮かべる。
わがままなのは承知しているが、アイラが暑いと言えば、たとえ真夏でも高価な氷の柱が部屋に運び込まれた。もちろん冬には、暖炉《だんろ》の火が絶やされることはない。
「天気が思い通りになるなら、食料の値段だって安くなるのよ」
ミレルが切実な顔をして言った。
「自然を変えないということは、自然の災害《さいがい》も受け止めるということですもの。干魃《かんばつ》や大雨や大風、乾燥《かんそう》しすぎたら野火《のび》も出ます。自然が本当に生き物に優《やさ》しいとは、わたしには思えません。自然に対しても、人間は戦う権利を保有しているはずです」
「しかし、人間はどんな厳《きび》しい環境《かんきよう》でも暮《く》らしてゆけるのも事実だ。わたしの部族がそうであるように」
メリッサとジーニが、それぞれひとりごとのようにつぶやいた。
「……どう答えていいのか分からないけど、あなたがたの言うことは理解できるわ」
セレシアは人間たちを順に見つめていった。
そして最後に視線を向けたのは、リウイだった。
「でも、目の前にあるのは破滅という現実よ」
「ああ、そうだな」
リウイはうなずくと、頭の上にある扉《とびら》を振りあおいだ。
その向こう側に魔法装置《まほうそうち》の制御《せいぎよ》を行う部屋《へや》があって、狂《くる》える氷の精霊《せいれい》が乱舞《らんぶ》しているのだ。
「だが、まだ破滅すると決まったわけじゃない」
「何か考えついたの? 妖魔《ようま》を呼《よ》び寄せたときのように」
「そんなものはないな。あのときも、そして今もな」
リウイは惚《とぼ》けてみせる。
いくら彼女が真実に気づいていても、自分の口から言うつもりはないのだ。それが、彼女に対する礼儀《れいぎ》だと思っている。リウイが妖魔の呼び子《こ》≠ニいう名の|魔法の宝物《マジツクアイテム》を吹《ふ》き鳴らして呼び集めた妖魔たちのために、セレシアの集落のエルフたちが、何人も命を落としているのだ。
「キミが言ったんじゃないか。箱を開けるには、手を使うしかないって」
自分の言葉に、リウイは徐々《じよじよ》に力が滾《みなぎ》ってくるのを感じた。
いつもの感覚だった。
この感覚のために、彼は冒険者《ぼうけんしや》になりたいと思った。応じる謂われのない決闘《けつとう》からも逃げることはなかった。
「あの部屋《へや》にはオレが入る。キミが入っても、無駄《むだ》に命を落とすだけだ。せっかく神から与《あた》えられた長い命を、こんなところで捨てることはない。キミが言ったように、この魔法装置を作ったのは魔術師であり、人間なんだ。その始末はつける」
「正気なのか?」
赤毛の女戦士が、睨《にら》みつけてくる。
「自信はないな。オレも精霊たちと同じようなものさ」
リウイは不敵な笑みで答えた。
「魔法装置を止めるのが早いか、オレが倒《たお》れるのが早いか、だ」
魔法装置の作動《さどう》さえ止めれば、狂える精霊たちもおそらく消える。それまでの間、耐《た》えればいいだけのことだ。
それにしても、正気《しようき》の沙汰《さた》ではないな、と自分でも思う。
「あんたが倒れるほうに、今の全財産をかけてやるよ」
ミレルが言った。
もっとも全財産と言っても、たいした金額ではない。たとえ賭《かけ》に負けても冒険の報酬《ほうしゆう》が貰《もら》えるはずだから、生活には困らない。
彼女自身は鍵《かぎ》をひとつ開けただけだが、魔法像《ゴーレム》のような守衛《ガーデイアン》も倒しているし、世界が滅《ほろ》ぶかというような事件でもある。リウイは冒険仲間なのだから、これからの彼の命懸《いのちが》けの行動分も加算できる。依頼人《いらいにん》のアイラは大金持ちの令嬢《れいじよう》でもあるし、たっぷり請求《せいきゆう》できるな、とミレルは頭のなかで素早く計算した。
「受けて立とう」
リウイは悠然《ゆうぜん》と答えた。
賭《かけ》に負けたときには、自分は死んでいるのだから、踏《ふ》み倒《たお》しても文句は言われない。得な賭をしたな、とさえ思う。
「護《まも》りの魔法をかけてくれ」
メリッサとアイラの二人に、リウイは呼びかけた。
策《さく》というほどのことでもないが、できうるかぎりの準備はしておくつもりだった。
「かしこまりました」
「任《まか》せて」
二人は答えて、精神を集中しはじめる。
「偉大《いだい》なる戦神《せんしん》マイリー……」
「万物《ばんぶつ》の根元《こんげん》、万能《ばんのう》の力……」
そして、彼女らは神聖魔法《しんせいまほう》と古代語魔法の呪文《じゆもん》を唱《とな》えはじめる。
「冷気に耐《た》えうる防護円《ぼうごえん》を!」
「魔力を妨《さまた》げるは魔力のみ!」
呪文は完成し、リウイの身にふたつの防御《ぼうぎよ》魔法がかかった。
「これで冷気に対しては、ある程度|我慢《がまん》が利《き》くはずです」
「〈対抗魔法《カウンターマジツク》〉をかけておいたわ。精霊《せいれい》の攻撃《こうげき》は魔法だから、抵抗《ていこう》しやすくなると思う」
誇《ほこ》らしそうに、メリッサは言った。
一方のアイラはあまり自信のなさそうな表情だ。
実戦経験の差というものだろう。
「助かるよ」
リウイは二人に礼を言うと、今度はセレシアを振《ふ》り返った。
「炎《ほのお》の精霊を呼び出せるかな?」
「松明《たいまつ》に火を灯《とも》せば呼《よ》び出せるけど、たぶん狂《くる》える精霊が現れるわよ」
「それでいい。炎と氷の力とは対抗《たいこう》し合うから、氷の精霊たちの注意が炎の精霊に向くと思う。もしかしたら召喚者《しようかんしや》であるキミを襲《おそ》うかもしれないし、最悪、双方《そうほう》の精霊がオレに向かってくることも考えられる。だが、これは賭だ。考えられることは、なんだってしておかないと」
状況《じようきよう》は最悪なのだから、これ以上、悪くはなりえないと、リウイは思った。
「分かったわ」
セレンアはうなずくと、リウイのたくましい腕《うで》に手をかけた。
そして、
「頑張《がんば》ってね」
と、励《はげ》ましの言葉を贈《おく》る。
(自分でその気にさせておいて、よく言うわ)
それを見たミレルが、まるで氷の精霊のような冷ややかな視線《しせん》を送った。
しかし、リウイは心底《しんそこ》、嬉《うれ》しそうな顔をする。
(やってられねぇな)
ミレルは心のなかで吐き捨てた。
メリッサもアイラも同じ気持ちらしく白《しら》けたような表情をしている。リウイを魔法で援護《えんご》したことを後悔《こうかい》しているかもしれない。
「よし、行くぞ!」
そして気合いの声を残し、リウイは扉《とびら》を開けて、部屋《へや》のなかへ入っていった。
魔法装置《まほうそうち》の心臓部とも言うべき制御室《せいぎよしつ》には、魔法の明かりが青白く輝《かがや》いていた。
リウイは部屋の様子を素早く見回し、次の行動を決める。
部屋の中央には、色とりどりの水晶《すいしよう》の柱が床《ゆか》から天井《てんじよう》までを貫《つらぬ》いて何本も伸《の》びている。
おそらく、塔《とう》の屋上までも突《つ》き出ているはずだ。
塔を外側から見たとき、塔の先端《せんたん》に見えた光は、この水晶柱の輝きなのだろう。
水晶柱の周囲には、ジーニが言った雪の女王の娘《むすめ》たち――氷の精霊フラウが飛びまわっていた。姿形《すがたかたち》はリウイが昨晩、殴《なぐ》り倒《たお》した風の精霊シルフに似《に》て、全裸《ぜんら》のエルフ女性という感じだ。
だが、無色|透明《とうめい》に近かったシルフに対して、フラウの身体《からだ》はまさに雪色であった。美しい姿だが、彼女らに抱《だ》かれようとは思わない。
ジーニの言葉を借りれば、氷の精霊の抱擁《ほうよう》は、人間の血を凍《こお》らせるほどなのだ。
「抱いてやっても燃《も》えない女なんてな!」
リウイは声に出して言った。
階段に控《ひか》えている女性たちに聞かれたら、顰蹙《ひんしゆく》ものだろうが、そんなことを気にかけているような状況ではない。
今、大切なのは気合いである。これから、氷の精霊たちの輪のなかに飛び込んでゆかねばならないのだから。
氷の精霊たちが乱舞《らんぶ》する水晶柱の手前には、台のようなものが設《もう》けられ、黒曜石《こくようせき》の円盤《えんばん》が置かれてあった。
拳《こぶし》ほどの大きさの水晶球《すいしようきゆう》が数個、その上に配置されている。
その水晶球も、また鮮《あざ》やかな色をしていた。
「あれが、制御板か…」
リウイはつぶやいた。
そしてその制御板の下に、長衣《ローブ》を着た老人が倒れていた。
老人の衣服《いふく》には霜《しも》が張りついて、生気《せいき》はまったく感じさせない。髪《かみ》も真っ白だが、それがもとからなのか、それとも霜のせいかまでは分からなかった。
この老人がアイラの子供の頃《ころ》の導師《どうし》だったというバナールなのだろう。すべては、この老人の執念《しゆうねん》によって生まれたのである。
そのとき、床に設けられた扉が開いて、セレシアの美しい声が流れ込んできた。
そして次の瞬間《しゆんかん》には炎に包まれた蜥蜴《とかげ》のようなものが、姿を現す。
炎の精霊|火蜥蜴《サラマンダー》に違《ちが》いなかった。
おそらく、狂える精霊であろう。すぐに手近なものを攻撃《こうげき》しょうとするはずだ。
覚悟《かくご》を決めて、リウイは行動に出た。
制御板のところに走り込んで、その制御板を見つめる。
魔法装置を建設するには膨大《ぼうだい》な時間と労力が必要だが、魔法装置の操作《そうさ》そのものはそう難《むずか》しくないはずだ。
水晶球の配列に意味があると思えた。
「赤、青、黄、緑、白……」
水晶球の数は全部で五つあった。青、黄、緑の三つの水晶球が縦に並《なら》んでいて、赤と白のふたつがその両側に配置されてある。
(それぞれの水晶球は、自然を司《つかさど》る精霊力に対応しているはずなんだ……)
水晶球と精霊との対応について、考えを巡らそうとしたときだった。
「うぐっ!」
ぞっとするような感覚が、リウイに襲《おそ》いかかってきた。
刃物《はもの》で切られたような痛みを背中に感じたのだ。
ふと気が付くと、彼は氷の精霊たちに取り囲まれていた。フラウに抱擁《ほうよう》されたのだ。あまりの冷気に、寒さではなく痛みとして感じたのに違《ちが》いない。
それが合図《あいず》であったように、純白《じゆんばく》の乙女《おとめ》たちは、次から次へとリウイに抱《だ》きついてくる。
氷の刃《やいば》で全身を切り刻《きぎ》まれるような激《はげ》しい痛みが、彼の全身に走った。
古代語魔法の四大魔術《エレメントマジツク》の系統《けいとう》には〈雹風《ブリザード》〉という強力な攻撃呪文《こうげきじゆもん》があるが、その呪文をまともに喰らったような気分がした。
「あいにく、女には不自由してないんだ!」
リウイは大声で叫《さけ》ぶと、目の前の制御板《せいぎよばん》に意識を集中する。
四大《エレメンタル》と言えば、地水火風の四大精霊力《しだいせいれいりよく》のことだが、水晶球《すいしようきゆう》は五つだ。しかし、世界を閉《と》ざす東西南北、四つの門も風の門、炎《ほのお》の門、水の門と、もうひとつは大地の門ではなく、氷の門とされている。
いにしえの偉大《いだい》な魔術師《まじゆつし》たちにしても、世界のすべてを理解しているわけではなく、様様《さまざま》な謎《なぞ》が残っているということだ。古代王国の時代においても、古代語魔法――魔術は森羅万象《しんらばんしよう》の基本原理を解明して理論を構築したというより、実践《じつせん》に実践を重ねて発展《はつてん》してきたという印象が強い。
魔法文明がいったん滅《ほろ》んだ現在は、尚更《なおさら》である。
古代王国の系統《けいとう》に倣《なら》って専門を分けているが、使えるものを使っているだけと言ったほうが正確だ。
たとえ、原理が分からなくても、使えるものならそれを使わぬ道理はない。
(魔法の暴走《ぼうそう》が起こるのも、当然だな)
リウイは、思った。
だが、そのおかげで五百年前に栄《さか》えた古代魔法王国カストゥールは滅亡《めつぼう》し、剣が支配する時代となったとも言える。
「どれが、どれなんだ?」
リウイは苛立《いらだ》ちの声を洩《も》らす。
フラウたちの冷たい抱擁は、当然、続いている。その痛みは耐《た》え難《がた》いほどであり、悲鳴をあげたいぐらいだが、リウイはそれを忘れようと努めている。
苦痛に気を取られると、まとまる考えもまとまるものではない。
魔法装置の制御板にすべての意識を集中し、いかにして作動《さどう》を止めるかを必死になって考える。
「背は風か水、緑は水か大地、黄と白は……なんだろう?」
問いかけてみるが、答えてくれる者など、もちろんいない。
ただ、赤色の水晶球が炎を現していることは、間違《まちが》いなく言えそうだと思った。
それは、セレシアが召喚した火蜥蜴《サラマンダー》の色でもある。
もっともリウイには知りようのないことだが、彼女が呼び出した狂える炎の精霊は、氷の精霊の集中攻撃を受けて、その時にはその存在を消減させていたのである。
その分、リウイに対する氷の精霊の攻撃《こうげき》も弱くなっていたわけだ。
リウイは賭《か》けは成功していたわけだが、そんな実感はまったくなかった。それほどに、フラウの攻撃は激《はげ》しかったのである。
アイラが使った〈|対抗魔法《カウンターマジツク》〉とメリッサがかけた冷気に対する〈|防 護 円《プロテクテイブサークル》〉の効果がなければ、その猛攻《もうこう》を耐《た》えることはできなかったろう。
しかし、それもいつまでもというわけにはゆかない。リウイとて、無限の体力を持っているわけではないのだ。
「炎と対《つい》をなすのは氷に決まっている」
リウイは勝手に結論づけた。
赤色の水晶球が炎の精霊に対応しているなら、純白の水晶球が氷の精霊を対応しているに違いないのだ。縦に並んだ青、黄、緑の三つの水晶球を挟《はさ》んで、赤と白は左右に置かれているのだから。だが、その位置は完全に対称《たいしよう》ではなかった。
赤の水晶球の方が中央に寄っている。逆《ぎやく》に言えば、白の方が外側にずれている。
三つの水晶球の位置は等間隔《とうかんかく》だから、魔法装置を止めるためには対称を取り戻せばいいはずだ。そのためには、赤か白のいずれかを動かさねばならない。
「いったい、どちらだ……」
リウイは考えようとしたが、徐々《じよじよ》にではあるが意識が朦朧《もうろう》としてきていた。
痛みはさほどでもなくなっていたが、その代わり猛烈《もうれつ》な眠気《ねむけ》が襲《おそ》っていたのだ。氷の精霊は自分の身体ではなく、心のほうを凍《こお》らせようとしているのかもしれないと、リウイはぼんやりと考えた。
「ふたつに……ひとつ……」
リウイは頭を激しく振《ふ》って、最後の結論を下そうとした。
しかし、まったく思いつかなかった。
階段のところで待機しているはずの女たちの顔だけが、やたら脳裏に浮《う》かんでは消えてゆく。それが、なぜだかは彼にも分からない。こういうときぐらい放っておいてほしいものだと思う。
もっとも、彼女らは思い浮かべてほしいなどと望んでもいないだろう。
「羨《うらや》ましいと思う奴《やつ》がいるなら、今すぐ誰《だれ》か代わってくれ……」
魔法の明かりでまぶしく照らされているというのに、視界《しかい》はほとんどなくなってきた。
暗くなっているのではなく、すべてが白一色に染《そ》まってしまったかのような感覚だった。
氷の精霊に、完全に包み込まれたのかもしれない。
「それならば……」
限界が近づいているのは、もはや明らかだった。
このままでは意識がなくなる。それはおそらく死を意味しているのであろうが、無駄《むだ》に死ぬのはリウイの流儀《りゆうぎ》に反していた。
無駄に死ぬぐらいなら、間違えて死んでやると、最後の意識でリウイは考えた。
(そのほうが、オレらしいだろ)
リウイは脳裏に浮かんでは消える女たちに向かって呼びかけた。
死んでしまえば、いくら罵倒《ばとう》されようと、どうということはない。森の妖精《ようせい》ほどの長寿《ちようじゆ》でもないのだ。ここで命が尽《つ》きても、それほど損をするわけではない。
リウイは気力を振《ふ》り絞《しぼ》って、目を一杯《いつぱい》に見開いた。
そして、水晶球をひとつ、移動させた。
「対称が……、完成したぞ……」
リウイはほくそ笑むと、そのまま意識が消えてゆくに任《まか》せた。
長身で体格もいい彼の身体が床《ゆか》に崩《くず》れ落ち、四大《しだい》を極《きわ》めた魔術師《まじゆつし》の上に折り重なった。
4
「息はまだありますか?」
豊《ゆた》かな金髪《きんばつ》をした女性|侍祭《じさい》が、平静を装《よそお》った声で赤毛の女|戦士《せんし》に訊《たず》ねた。
「身体は冷たいが、雪の女王の娘《むすめ》たちに抱《だ》かれていたせいだな。心臓はどうやら動いているようだ……」
赤毛の女戦士は答えて、憮然《ぶぜん》とした顔で男を見下ろした。
そして、
「素人《しろうと》のくせに、な」
と、つぶやく。
「素人だったからでしょ」
黒髪の少女が女戦士に応じる。
「盗賊《とうぞく》のあたしが、賭けに負けるなんてね」
少女はそうつぶやくと、服のなかに手を入れて、胸元をごそごそと探る。
そして小ぶりの宝石《ジエム》を二個と、銀貨《ガメル》を十枚ばかり取り出した。
「これで全財産だからね」
そう声をかけてから、床の上に倒れている長身の大男の手に宝石と銀貨を握《にぎ》らせてやる。
男の手はひどく冷たく感じられたが、彼女が手を重ねると握り返そうとでもするような動きを僅《わず》かに見せた。
「意識はなくても、女の手には反応《はんのう》するのかよ」
少女は裏街言葉《スラング》を使って、呆《あき》れたように言った。
これだから男はと思う。
そしてこの男は、裏通りの歓楽街《かんらくがい》では女殺し≠ニまで呼《よ》ばれているのだ。
「でも、あたしたちには言い寄ってこないわね」
それはそれで癪《しゃく》だぞと思い、少女は男の後頭部を拳《こぶし》で殴《なぐ》りつけた。
どうせ気を失っているのだ。痛みなど感じるわけもない。
「生命の精霊を……」
森の妖精であるエルフ族の女性が男の側《そば》に膝《ひざ》を付いて、精霊魔法《せいれいまほう》を唱《とな》えるために、精神を集中させはじめた。
しかし、それを女性侍祭が、手で制する。
「それは、わたしの役割ですわ。まだまだ不本意ではありますが、わたしにとっては勇者なのですから……」
しかし、この未熟《みじゆく》な勇者が王国の危機を救ったというのは事実だ。
それが人々に伝われば、実力はともかくその偉業《いぎよう》ゆえに、勇者と讃《たた》えられるのは間違いない。彼女にとって、それは本意であった。あとはその名声に追いつくよう、中身を密《ひそ》かに鍛《きた》え上げればいい。
「不本意、か……」
戦《いくさ》の神の侍祭《じさい》の言葉を聞いて、魔法の眼鏡《めがね》をかけた女性魔術師《ソーサリス》がひとりごとのようにつぶやいた。
幸《しあわ》せそうな顔をして床に倒れている同期の魔術師の頬《ほお》を指でつつく。見ようによっては美しい精霊に抱かれて満足だったという表情にも見える。
まったく不本意だわ、と彼女は思った。
(どうして、ここにいるのが、わたし一人じゃないのかな……)
しかし彼女は、それでよかったのかもしれないと、すぐに思い直す。
もしも今、この場に自分一人しかいなかったなら、たぶん自分らしくない行動に出ていただろう。そして、あとで自己嫌悪《じこけんお》に陥《おちい》ったに違いないのだ。
女性魔術師は同僚《どうりよう》の顔から目をそらすように視線《しせん》を転《てん》じると、かつての導師《どうし》であった老人を見つめた。
老魔術師のほうは、すでにこの世の人ではない。
老人は苦しそうに胸を押さえて息絶《いきた》えていたから、氷の精霊に抱かれたのではなく、魔法装置を起動させるために無理をしすぎて、心臓が耐《た》えられなかったのだと思われた。
(それほどまでに……)
この老人をかきたてたものはいったいなんなのだろう、と自問する。
彼を引退《いんたい》同然に追い込んだ魔術師ギルドに対する復讐《ふくしゆう》だろうか。それとも、魔法装置の作動《さどう》する様《さま》を一刻《いっこく》も早く見たかっただけなのか。
「魔術は手段に過ぎない」と、オーファン魔術師ギルドの最高導師はいつも説《と》いている。
だが、その言葉を真に理解している者が魔術師ギルドのなかに何人いようか。若い魔術師たちの大半は、魔術を極《きわ》めることだけに懸命《けんめい》になっていて、その先を見ているような気がしない。
そして自分もまたその一人だと、彼女は思う。
|魔法の宝物《マジツクアイテム》を収集し、その魔力を調べることだけに熱中している。それをどう使うかなど考えてもいない。
(あなたの遺産《いさん》は確かに受け取りました……)
彼女は瞑目《めいもく》し、老人の冥福《めいふく》を心から祈《いの》った。
制御板はすでに取り外し、魔法装置建造の秘術を記した古代書もこの部屋《へや》のなかで見つけ出している。このふたつがなければ、たとえ塔《とう》をそのままにしておいても天候制御《てんこうせいぎよ》の魔法装置がふたたび起動することはない。
夏に雪が降るようなことは、二度と起こらないはずだ。
そして彼女の収集対象に、魔法装置は含《ふく》まれていない。
彼女が魅力《みりよく》を感じるのは持ち運びのできる、最低でも身近におけるぐらいの大きさの宝物《ほうもつ》だけなのだ。
裕福《ゆうふく》な家庭の女性が、宝飾品《ほうしよくひん》を集めるのと、感覚的には同じなのである。
「……偉大《いだい》なる戦神《せんしん》マイリーよ」
そのとき、戦の神の侍祭が、神聖魔法《しんせいまほう》のための祈《いの》りの声を響《ひび》かせはじめた。
「我が勇者の傷《きず》を癒《いや》したまえ……」
呪文《じゆもん》は完成し、侍祭は勇者の胸に静かに手を置いた。
出会ったばかりの頃《ころ》、彼女はその身体に触《ふ》れることさえできなかった。治癒《ちゆ》の呪文をかけようとして結局、成功しなかったことさえある。
しかし、今は……
侍祭の手が胸に触れた瞬間《しゆんかん》、勇者の身体がびくりとなった。
穏《おだ》やかだった顔が苦悶《くもん》に歪《ゆが》んだかと思うと、ゆっくりと目が開いてゆく。
そして彼は、魔法戦士《まほうせんし》リウイは、意識を取り戻した。
「オレは、生きているのか……」
目を開けると、五人の女性たちが思い思いの表情で自分を見つめていた。
彼女たちがいるということは天国でもなければ、地獄《じごく》でもない。その狭間《はざま》――すなわち、現実に違いなかった。
「魔法装置は?」
リウイは自分を見つめる女性の一人、魔法の眼鏡をかけた女性魔術師アイラに向かって訊《たず》ねた。
「なんとか、止まったわ。おそらく、氷の精霊力を最大に設定していたのだと思う。季節は夏だから、氷に対抗《たいこう》する炎の精霊力が強かったのが幸《さいわ》いしたのね。そうでなければ、もっと早くに雪が降りだして、付近一帯は極寒《ごつかん》の地になっていたはずよ。もっとも、魔法装置の強制力と自然の力とが相反《あいはん》していたから、精霊たちが狂《くる》うような事態になったのかもしれないけど……」
アイラは、部屋《へや》に残されていたいくつかの記録から、魔法装置が作動《さどう》したのは十日以上も前だということを突《つ》き止めている。それは、天候が不安定になりはじめたのと、ちょうど一致していた。
「それにしても、制御板の水晶球《すいしようきゆう》の配列をよく読みとれたものね」
アイラは感心したように言った。
「意味を理解するまで、わたしでもずいぶん時間がかかったわ。氷の精霊が乱舞《らんぶ》するような状況《じようきよう》ではとても思いつかなかったでしょうね。わたしが部屋に入っていても、装置を止めることはできなかったわ……」
魔法の眼鏡《めがね》の収まりが気になるのか、アイラは何度も顔に手をもってゆく。
もともと、彼女に合わせて創《つく》られた物ではないので、ちょっとしたことでずれたり落ちたりするのだ。
「縦に並んだ白、黄、赤の三つの水晶球は氷、大地、炎の精霊力を現していて、左右の二つは風と水に対応していたのね。ちょうど大地を閉ざしている東西南北の精霊門を現しているわけよ。外側近くに移すと力が強くなり、中央に近づけると力が弱まるのね。古代書を開いてみたら、望みの天候に変えるために、水晶の配列をどう変えるかの例がずらずらと並んでいたわ……」
「そこまでにしてくれ」
リウイは悲鳴にも似た声をあげて、思わず上体を起こした。
このままだと、彼女の講義がどこまで続くか分からない。氷の精霊の攻撃を受けて全身が痛むのだ。このうえ頭まで痛くしたくない。
「オレはたいして深くは考えなかった。だいたい、アイラの話を聞くまで、縦に並んでいるのは青、黄、緑の三つだと思っていたぐらいだ。制御板を見る方向なんて、考えもしなかったよ。赤が炎なら、氷は白だと勝手に決めたんだ。塔《とう》の先端《せんたん》が、白く輝《かがや》いていたのも覚えていたしな。とにかく左右が対称《たいしよう》になるようにだけ考えて、白色の水晶球を動かしただけさ」
「正しくは上下なんだけど……」
アイラは呆《あき》れたような顔をした。
リウイは制御板の意味を理解することなく、ほとんど直感で魔法装置を止めたと言っているわけだ。
「物事は難《むずか》しく考えても簡単《かんたん》に考えても一緒《いつしよ》ということだな」
リウイは得意そうに笑った。
さっきまで凍死《とうし》しかけていた男とはとても思えない。
「どこが一緒なのよ。黄色の水晶球を中心に上下左右を対称にしないと装置は止まらなかったのよ。あなたの言う対称だけなら、赤色の水晶球を外側に移動してもいいわけじゃない。それでは魔法装置は止まらない。いいえ、もっとひどいことになっていたかもね。確率《かくりつ》は二分の一しかなかったのよ。銀貨《ぎんか》を投げて、表を出したのと同じじゃない」
「そこまでにしなよ」
ミレルが凄味《すごみ》を利《き》かせた声で、アイラを制した。
彼女の話がまったく理解不能で、さっきから苛立《いらだ》っていたのだ。
いつ止めに入ろうかと機会をうかがっていたのだが、ようやく盗賊《とうぞく》であるミレルにとっても身近な話題になった。
「二分の一って確率をどう思うかなんて、人によるのよ。だから、あたしたちが賭博《とばく》を商売にできるのよ。それにしてもリウイには、賭博師の才能があるかもね。このあたしから全財産をふんだくったんだもの。あたしが予想した|掛け率《オツズ》だと十対一ぐらいだったんだけどね。それを思えば、二分の一なんてたいした確率じゃないわ。かかっていたのが、世界が滅《ほろ》ぶかどうかってことだけの問題よ。それにしたって、あたしにはまるで実感なかったしね」
ミレルはけろりとした顔をして、リウイの頭をぽんぽん叩《たた》く。
彼女に言われてはじめて、リウイは手のなかに、宝石《ほうせき》と銀貨《ぎんか》を握《にぎ》っていたことに気が付いた。冗談《じようだん》で言ったつもりなのだが、律儀《りちぎ》なものだと思う。賭博は盗賊たちにとっての正業《せいぎよう》だからかもしれない。
「そうだな、オレはあんたとの賭《か》けに勝った。たった、それだけのことだな」
「自慢《じまん》にしていいよ。あたしはこれまで、負けたことがないんだから。だって賭けなんて馬鹿《ばか》なことやらないもの」
ミレルはそう言うと、楽しそうな笑い声をあげた。
リウイもにやりとして彼女から貰《もら》った銀貨や宝石を大事《だいじ》そうに懐《ふところ》にしまい込んだ。
だが、他の四人はとても一緒《いつしよ》に笑う気にはなれなかった。それどころか、自分たちが今、生きていることが奇跡《きせき》のようにも思えていたのである。
「暑《あつ》くなってきたな……」
その事実を頭から追い出そうとでもするかのように、ジーニがつぶやいた。
「そういえば……」
と、メリッサもうなずく。
ふと気がつくと、肌《はだ》にうっすら汗《あせ》が滲《にじ》んでいる。しかし、季節を考えれば、それこそが自然であるのだ。
「帰りは暑くなりそうね」
アイラは深紅《しんく》の長衣《ローブ》を脱《ぬ》いで、肘《ひじ》にかける。
暑いのも寒いのも、彼女は嫌《きら》いなのだ。一年中が春や秋ならいいのにと思う。
そんな思いが、たったそれだけの思いが、この塔《とう》を創《つく》りだしたのかもしれない。
天候《てんこう》を制御《せいぎよ》する、この四大魔術《しだいまじゆつ》の奥義《おうぎ》ともいうべき塔を。
[#改ページ]
エピローグ
魔法装置《まほうそうち》を止めた次の日には、リウイたちはファンの街《まち》への帰路についていた。
バナールの死体は塔《とう》の周囲の中庭に埋葬《まいそう》した。そこは、彼らが魔法像と戦いを演《えん》じた場所である。
アイラが持ち帰った魔法装置の制御板《せいぎよばん》と建造の秘法を記した古代書は、魔術師ギルドの禁断《きんだん》の間《ま》に封《ふう》じられることになるだろう。
アイラはバナール導師《どうし》の遺産《いさん》のなかから、古代書や|魔法の宝物《マジツクアイテム》だけを受け継《つ》ぐことにして、その他の財産は村人たちに分け与《あた》えることに決めた。その代わり、導師を村の墓地《ぼち》に埋葬しなおし、手厚く弔《とむら》うよう頼《たの》んでおいた。
古代書や魔法の宝物は、後日、村人たちの代表が、彼女の実家に届《とど》ける段取りをつけた。
そんな彼女の極めて合理的な事後処理のおかげで、リウイたちは早々と帰路につくことができたのである。
そして今、彼らはオーファンの王都《おうと》ファンへと向かう街道を歩いている。
初夏の日差しが照りつけて、歩いているだけで汗《あせ》が流れるほどだった。しかし、それこそが自然な天候《てんこう》である。
炎の精霊力《ほのおせいれいりよく》はこれからますます強くなって、真夏へと移ってゆくのだから。
「いろいろなことがあったが、楽しかったな」
リウイは空に向かって軽く伸《の》びをしてから、隣《となり》を歩いているセレシアに向かって、同意を求めるように声をかけた。
「そうかしら。わたしには楽しいどころじゃなかったけど……」
セレシアはそう答えると、意味ありげな微笑《びしよう》を浮《う》かべた。
「でも、なんとか目的を果たすことができたわ。これで森へ帰ることができる。あなたたちのおかげで、ね……」
「森へ帰るだって! いったい、どういうことなんだ?」
リウイは歩みを止めて、怪訝《けげん》そうな顔で美しい森の妖精《ようせい》を見つめる。
「冒険者《ぼうけんしや》になりたくて、キミは街に出てきたんだろ? それなのに、なぜ突然《とつぜん》、帰るなんて言い出すんだ。それに目的って……」
「人間の世界へ行くのだ。そして、精霊力の乱《みだ》れを断《た》て!」
セレシアは唐突《とうとつ》に口調《くちよう》を変えて言うと、口許《くちもと》に苦笑を浮かべた。
「集落の長老に、そう命じられたの。この前、聖地《せいち》に人間の侵入《しんにゆう》を許した罰《ばつ》というわけよ。つまり、あなたたちをね」
「長老の、命令?」
「そうよ、精霊力の乱れの源《みなもと》、すなわち天候制御《てんこうせいぎよ》の魔法装置を止めるってことよ」
「それは、つまり……」
「そ、わたしの目的は、あなたたちと同じだったのよ。だから、最初に会ったとき、あなたに言ったでしょ。この出会いは運命かもしれないって。あのとき、わたしは本気でそう思ったわ。心のなかで、生命の源たる世界樹《ユグドラシル》に感謝したほどよ」
セレシアはそう言って胸に手を当てると、今更《いまさら》ながらにほっとしたような表情を見せる。
「わたし一人じゃ、魔法装置を止めるなんて無理に決まっているでしょ。でも、人間の知り合いなんて、あなたたちしかいないし、報酬《ほうしゆう》なんかも持ってないし……。どうしたら協力してもらえるのか、ずいぶん悩《なや》んだのよ。でも、あなたたちが同じ目的で動こうとしていたなんて、運命を感じて当然だと思わない?」
「ただの偶然《ぐうぜん》だよ」
エルフ娘《むすめ》の言葉に対し、盗賊《とうぞく》少女のミレルが裏街言葉《スラング》で答えた。
「賭博《とばく》ってのは、偶然を運命と誤解《ごかい》する人間がいるから成り立っているんだ。自分だけは負けないってね。いかさまなんかしなくたって、もともと胴元《どうもと》が勝てるような商売してるのにね」
「つまり、わたしも賭けに勝ったってこと?」
「おいしい配当だったんじゃない」
投げ遣《や》りな感じで、ミレルがセレシアに答える。
「そうかもしれない……。でも、それだけに危険な賭けでもあったわ。だって、わたしの味方は、この人だけなんだもの」
そう言って、セレシアはリウイにゆっくりと顔を近付けていった。
そしてまだ訳が分かっていない様子の彼の頬《ほお》に、爪先《つまさき》だって軽く唇《くちびる》を触《ふ》れる。
「ありがとうね、リウイ。使命を果たすことができたのは、間違《まちが》いなくあなたのおかげよ。でも、もう少し慎重《しんちよう》になって。それからもっと強くなって。今度は賭けに勝つんじゃなく、実力で世界を救えるぐらいに、ね」
そしてセレシアはゆっくりと後ずさりながら、リウイに向かって軽く手を振《ふ》った。
「それから、他《ほか》のみんなも、ありがとうね。思ったとおり、あなたたちは優秀な冒険者《ぼうけんしや》だったわ。長老に報告するために、わたしは森へ帰るけど、またお会いしましょ。そのときには、歓迎《かんげい》してね。わたしはあなたたちのことが嫌《きら》いじゃない。いいえ、むしろ好きだと思うわ」
最後にそう言うと、エルフの娘は背中を向けて走りだした。そして街道《かいどう》から外《はず》れて、森のなかへ飛び込んでいった。
「セレシア……」
リウイは呆然《ぼうぜん》として、エルフ娘が消えていった森を見つめた。
「まだ、気付きませんの?」
そんなリウイの様子を見て、メリッサがわざとらしく溜息《ためいき》をついた。
「気付くって、何を?」
「つまり、彼女はあなたを利用しようとしていたのです。あなたの好意を。ですが、偶然にも、彼女とわたしたちの目的は一致していた。自然の精霊力を乱す魔法装置を止めるという目的で……」
「ひらたく言えば、騙《だま》されてたってことよ。なんか裏があるとは思ったけど、あのエルフ女、なかなかやってくれるわ」
メリッサの言葉に付け足すように、ミレルが言う。
「最初から、おかしいとは思ったのよ。色仕掛《いろじか》けを使ってまで、あんたなんかに取り入ろうなんてね。それから何かにつけてやけに積極的だったじゃない? それって、わたしたちが事件の解決をあきらめたら、大変だったからなわけよ。魔法装置の制御室に入るってい言い出したのも、そう言えば絶対あんたが行くだろうっていう自信があったんだわ」
彼女は怒《おこ》っているわけではなく、むしろ感心しているようだった。自分たちも騙されていたのには違いないが、別に被害《ひがい》はない。
被害があったとすれば、リウイがセレシアに対して抱《いだ》いていた純情《じゆんじよう》が傷《きず》つけられたというぐらい。そしてそんなこと、ミレルには痛くもかゆくもないのだ。
「頭も切れるし、度胸《どきよう》もある。冒険者としての素質はなかなかだな。もっともあまり仲間にはしたくないな。いつ騙されるかって、気が気じゃない」
ジーニが苦笑まじりに言うと、ふたたび街道を歩きはじめた。
「でも、また会いましょとか、仰《おつしや》ってましたわよ」
「だったら、また会うことになるんじゃない? 長老に命令されたからじゃなく、今度は間違いなく彼女自身の意志でね」
メリッサとミレルが、そんな会話をかわす。
「歓迎しなくては、なりませんかしら?」
「歓迎したらいいじゃないか……」
リウイが唐突《とうとつ》に口を開いて、メリッサの問いかけに答えた。
そしてすべてを納得《なつとく》したような、爽《さわ》やかな顔をして歩きはじめた。
「なんて顔しているのよ」
彼のそんな表情を見たアイラが、眉《まゆ》をひそめながら言った。
「あなたは利用されたのよ、騙されたのよ。腹が立たないの?」
「どうしてだ?」
リウイは不思議そうに、アイラに訊《たず》ね返す。
「どうしてって……」
言われてもと、アイラは口ごもる。
そう問い返されても、彼女には答えようがないのである。
「森の妖精《ようせい》である彼女の役に立ったと思えばいいじゃないか。彼女に頼《たの》まれなくても、どうせ同じことをしていたんだしな」
「森の妖精である……彼女の……」
リウイの言葉に、アイラははっとしたように立ち止まると、言葉の意味をかみしめるようにもう一度、繰り返した。
「そうだよ、何か問題があるかい?」
「いいえ、それなら問題ないわ」
アイラは嬉《うれ》しそうに答え、リウイの二の腕に軽く手をかけた。
(何の問題もないわ)
心のなかで、彼女は自分自身に向かって答えるように、もう一度、言った。
リウイは幻想《げんそう》と承知しつつ、森の妖精族に憧《あこが》れを抱いている。だからこそ、どんな現実を目の前にしても、彼は幻想を変えないのだ。
それに、どんな意義があるのか、アイラにはまだ分からない。
しかし、リウイにとってセレシアが森の妖精であるという事実。それだけで、アイラは安心を覚えることができる。
幻想を自《みずか》ら壊《こわ》すような真似《まね》をするはずがないからだ。
「エルフ娘がいなくなったと思ったら、今度は年上の同僚《どうりよう》というわけね」
並《なら》んで歩きはじめた、リウイとアイラを振《ふ》り返って、ミレルが呆《あき》れたように言って、メリッサに同意を求めた。
メリッサはそれには答えなかったが、いかにも不本意だという表情を浮かべる。
「でも、今回の事件に関しては、あなたの勇者もちょっとは頑張《がんば》ったんじゃない」
「そうでしょうか? 戦った相手は、別に戦う必要がなかったようにも思いますし、戦い方にもまだまだ問題がありますしね。それから、魔法装置を止められたのも、偶然《ぐうぜん》の域《いき》を出ませんし……」
メリッサは溜息《ためいき》をつきながら、不満を並《なら》べてゆく。
彼女としては、狂《くる》える精霊《せいれい》を残らずなぎ倒《たお》し、制御板《せいぎよばん》の意味を一瞬《いつしゆん》で見抜《みぬ》いて、魔法装置の暴走《ぼうそう》を止めてほしかったところなのだ。
「ですが、結果については大いに評価できますわね。戦い方は無様《ぶざま》でも、負けなかったのは事実ですし、魔法装置を止められなかったなら、大きな被害《ひがい》が出ていたのは明らかですものね。人々が、この偉業《いぎよう》を知れば、我が勇者|殿《どの》に対する評価も変わることでしょう」
それは本意ですね、とメリッサは満足そうに微笑《ほほえ》んだ。
「申し訳ないんだけど……」
メリッサとミレルの会話を耳にして、アイラがあわてて声をかけてきた。
「何でしょうか?」
余裕《よゆう》の表情を浮かべて、メリッサは魔法の眼鏡《めがね》をかけた女性を振《ふ》り返る。
「今度の事件の真相については、秘密にしておいてほしいのよ。異常気象の原因が、魔法筴置の仕業《しわざ》ということになれば、魔術師ギルドの評判が悪くなってしまうから……」
「つまり彼女からの報酬《ほうしゆう》には、口止め料も含《ふく》まれているってことさ」
アイラの言葉を補足《ほそく》するように、リウイが言った。
「な、なんですって!」
メリッサが呆然自失《ぼうぜんじしつ》といった顔をして、リウイを見つめた。
「でしたら、今度の事件は……」
「あくまで自然の悪戯《いたずら》ってことだな」
「そ、それでは、あなたの評判は変わらないではありませんか?」
先日の決闘《けつとう》以来、リウイの名は大道芸《だいどうげい》の喜劇役者《コメデイアン》として、街中《まちじゆう》に知れ渡っているのである。メリッサなどはさしずめ、その付き人というところだろう。
「世間の評判なんて、まったく気にならないな。むしろ、オレはあんたたちに認められたいんだ。今回のことで、冒険者として未熟《みじゆく》なことは、よく分かった。だが、いつまでも末熟なままではいないつもりだからな」
「わたしたちの評価は世間より厳《きび》しいぞ」
先頭を行くジーニが振り返って、わざわざ指摘《してき》をする。
「承知している。それこそ望むところさ。オレ自身の目標は、もっと高いからな」
リウイはにやりとして答えた。
「素人《しろうと》が、言ってくれる」
ジーニは鼻を鳴らして、ふたたび先頭を歩きはじめた。
「わたしの立場は、どうなるのでしょう?」
メリッサはがっくりと肩《かた》を落とし、ミレルに向かって訴《うつた》えるように言った。
「同情するわ」
ミレルには、そう答えるしかなかった。
「偉大《いだい》なる戦神《せんしん》マイリーよ……」
メリッサは天を仰《あお》いで、彼女に試練《しれん》を与《あた》えた戦《いくさ》の神《かみ》に祈《いの》りを捧《ささ》げた。
そこには白い雲がいくつか浮かんでいるものの、明るい初夏の空がどこまでも広がっているだけだった。
彼女の祈りの声は、その青空に向かって、静かに吸い込まれていった。
[#改ページ]
あとがき
水野の「あとがき」にはパターンというものがありまして、だいたい最初に発売が遅れてごめんというのが入ります。
今回こそは例外にしたいと思っていたのですが、やっぱり延《の》びてしまいましたね〜。それでも、第一巻の刊行《かんこう》から四か月しか経っていない! 自慢《じまん》できることではありませんが、水野の刊行ペースとしては異常に早かったりします。
早いのには理由がありまして、本書は『ドラゴンマガジン』誌で連載された三回分をベースにして大幅に加筆訂正《かひつていせい》して一冊の長編に仕上げています。
でも、水増ししたつもりはありません。
というのも、もともとこの物語は長編向きのアイデアで、雑誌に載せたときによく三回で収めたものだと自分でも感心したほどだからです。実際、六十枚以上書いて、四十枚まで削った回もあって、削った分を元に戻してゆくと、自然に長編になるわけです。
しかし、短編連作としての面白《おもしろ》さと長編小説の面白さは、いろいろと異なっています。
その隙間を埋めるため、全体を通して加筆訂正を行ったので、よくよく考えれば一から書き下ろしたのとどちらが楽だったのかは作者にも分かりません。
別の苦労をしたのは間違いのないところで、加筆訂正の作業に思っていた以上の時間がかかってしまいました。
刊行が延びてしまったのはそのせいです。まことに、すいません。
謝《あやま》らなければならないことはもうひとつあります。第一巻で予告した『試練編《しれんへん》』ですが、思うところがあって取り止めることにしました。
『魔法戦士リウイ本編』と『魔法戦士リウイ試練編』のふたつを並行して展開するよりも、本編だけを短期間に出版したほうがいいとの判断に達したからで、編集者からボツをくらったとか、水野が楽をしたかったとかでは決してありません。
試練編を止めた分、本編のほうは雑誌連載の三〜四回分に書き下ろしパートを加えて、年間三冊から四冊のペースで刊行してゆきたい、と思っています。読者のみなさんにとっては本編だけを追いかけていただければいいわけで、むしろ見通しがよくなったのではないでしょうか?
今回のように多少の遅れはあるにしても、四巻まではなんとか目処《めど》は立っています。その後のことは構想もしていないので何とも言えませんが、雑誌のほうの人気も上々なので、まだまだ続けることができそうです。
これからも、応援よろしくお願いします。
「真夏のオーファンに雪が降る」という本書のアイデアは、大昔にソードワールドRPGシナリオ集『四大魔術師の塔』で使っています。
流用といえば流用なのですが、RPGシナリオの小説化について水野は、肯定的《こうていてき》な考えを抱いています。
もしも機会《きかい》があったら双方《そうほう》を比べてほしいのですが、RPGシナリオはその性質上、無機的な、数値《すうち》化した書き方しかできません。
しかし、小説はもっと有機的に、表現豊かに書くことができます。
たとえば、登場人物の内面や、怪物や罠などの描写などゲームマスターにとって役立つ情報がいっぱいあります。
唯一の問題はプレイヤーが小説を読んでいたらゲームができないということですが、今回の場合、シナリオ集の出版からかなり時間が開いているので、問題ないでしょう。
RPGシナリオの『四大魔術師の塔』をプレイした人には、リプレイでも読むような気分で本書を読んでもらったのではないかと思います。
反対に、小説は単線で書くしかありませんが、シナリオのほうは複線で書くことができるという利点があります。本書を読んで、RPGにも興味があるという方は、ぜひシナリオ集のほうも読んでください。RPGシナリオと小説の双方を読むことで役立つことは少なくないと思います。
水野は小説家でもあり、ゲームデザイナーでもあるので、小説とゲームとの融合についてはいろいろと考えてしまいます。たとえば『魔法戦士リウイ』はゲームに向いているんじゃないかとか、ゲームにするとしたらどういうゲームが相応《ふさわ》しいかとか……
今はまだ夢物語の段階ですが、実現の可能性は十分にあると思ってます。
それでは第三巻のあとがきで、またお目にかかりましょう。
[#改ページ]
初出 月刊ドラゴンマガジン
98年7〜9月号