魔法戦士リウイ0
水野 良
剣《つるぎ》の国を訪《おとず》れた女|傭兵《ようへい》ジーニは、人混《ひとご》みの中で金髪の戦神《マイリー》の女性神官の懐《ふところ》から財布《さいふ》をスル黒髪の盗賊《とうぞく》少女を目撃《もくげき》する。ジーニは少女から財布を取り戻《もど》し、持ち主に返しにいくが、女性神官――メリッサは浮《う》かない顔。
事情を聞くと、盗賊少女の名はミレルといい、盗賊ギルドに多額《たがく》の借金《しゃっきん》をしているのだという。それを知り同情したメリッサは、彼女にワザと財布を盗《ぬす》ませているのだという。
しかし、その事実はミレルの知るところとなり、事態《じたい》はメリッサとミレルの決闘《けつとう》に発展《はってん》してしまう――。
ミレル、メリッサ、ジーニの出会いを描《えが》いた「ガールズ・ミーツ・ガールズ」他四本、リウイに出会う前の三人|娘《むすめ》それぞれのエピソードを収録《しゅうろく》した、アレクラスト・サーガ外伝。
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[#地付き]口絵・本文イラスト 横田 守
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目 次
第1章 ガールズ・ミーツ・ガールズ
第2章 プリーステス・オブ・ウォーゴッド
第3章 レディ・マースナリー
第4章 アイ・オブ・ザ・キャット
第5章 クエスト・フォー・ブレイブ
あとがき
第1章 ガールズ・ミーツ・ガールズ
1
「ダメだな。女なんかに、傭兵《ようへい》が務《つと》まるものか……」
不似合いな髭《ひげ》を鼻の下に蓄《たくわ》えた男が、傲岸不遜《ごうがんふそん》な態度でそう言った。
「女なんかに……か」
鼻で笑うような仕草を見せながら、燃えるような赤い髪《かみ》をした女性がつぶやく。
(まったく、この国はどこもかしこも)
その女性は、髭面《ひげづら》の男より頭ひとつ上背《うわぜい》があった。そして鍛《きた》え抜《ぬ》かれた筋肉《きんにく》をしている。
背中には、幅広《はばひろ》で女性の身長ほどの長さの刃《は》を持つ大剣《グレートソード》を担《かつ》いでいる。
これで豊満《ほうまん》な胸《むね》がなかったら、ほとんどの相手が男と見間違《みまちが》えるだろう。
だから、女性はあえて肌《はだ》の露出《ろしゆつ》の多い服を身に着けている。その肌は浅黒《あさぐろ》く、左の頬《ほお》には奇妙《きみよう》な紋様《もんよう》が墨《すみ》で措《えが》かれていた。
知識《ちしき》のある者なら、それが山岳民族《さんがくみんぞく》アリドの呪払《のろいばら》いの紋様だと分かるだろう。
彼女の名前は、ジーニ。見た目どおりの女戦士である。
彼女は先日まで、レイドの街の傭兵ギルドに属していた。そこを辞《や》めて、剣《つるぎ》の王国≠ニ謳《うた》われるオーファンの王都《おうと》ファンの街に入ってから、すでに五日が過《す》ぎている。
戦士としての腕《うで》を買ってもらおうと、王城《おうじよう》や王都に屋敷《やしき》を構《かま》える貴族《きぞく》たちを訪《たず》ねてみたが、どこでもまったく同じ反応が返ってくる。
「務まらないかどうか、試《ため》してみればどうだ。オーファンの騎士《きし》は皆《みな》、武勇《ぶゆう》を誇《ほこ》りにしていると聞いている。手合わせしたら、わたしの腕が分かるだろう」
「手合わせだと?」
不愉快《ふゆかい》きわまりないという表情を見せながら、髭面の男が吐《は》き捨《す》てるように言う。
「我らが武勇を、身をもって知りたいというのか?」
「教えられるものならな」
赤毛の女戦士は、不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべると、背中の大剣をはずす。
「な、なんだと! そこまで言うのなら、怪我《けが》ぐらいは覚悟《かくご》しろよ!!」
そう言うと、髭面の騎士は、隣《となり》に無言で控《ひか》えていた従者《じゆうしや》に持たせていた剣《けん》を取り、鞘《さや》から抜《ぬ》き放つ。
「そちらもな」
女戦士は応じる。
(相手の技量《ぎりよう》も見抜けないような男が……)
彼女は心のなかで吐き捨てた。
それは、傭兵《ようへい》にとって必須《ひつす》の能力である。戦場《せんじよう》で生き残《のこ》れるかどうかは、ほとんどその能力で決まるからだ。
そして戦いが始まってほんの数瞬後《すうしゆんご》に、騎士は手にしていた剣を宙《ちゆう》に弾《はじ》きとばされることになる――
「戦う前は女なんかにといっておきながら、戦って負けた後は女のくせにだからな……」
ファンの街の大通りを歩きながら、赤毛の女戦士はぶつぶつとつぶやく。
髭面《ひげづら》の騎士を叩《たた》きのめした帰り道である。
このオーファンは熟練《じゆくれん》の戦士を常《つね》に求めており、そのなかで資質《ししつ》のある者は近衛騎士団《このえきしだん》に抜擢《ばつてき》される。さらには領土《りようど》を与《あた》えられ、騎士に列《れつ》せられることもあると噂《うわさ》には聞いていた。
「しかし、女は例外ということだな」
オーファンには騎士はおろか、傭兵、一般《いつぱん》の兵士に至るまで、女には機会《きかい》を与えていないらしい。
国王リジャールの方針《ほうしん》なのであろう。
竜殺《りゆうごろ》しの英雄王《えいゆうおう》と崇《あが》められている人物だが、女は戦うべきではないという偏見《へんけん》に凝《こ》り固《かた》まっているようだ。
もっとも、そういう人物は、このアレクラスト大陸のどこにでもいるのだが……
「それなら、わたしに勝ってみせろというんだ」
全身から憤怒《ふんぬ》の感情が溢《あふ》れだしているのだろう。すれ違《ちが》ってゆく人々が、例外なく彼女を避《さ》けて、道を譲《ゆず》った。
(他人のために剣《けん》を振《ふ》るうつもりはないと誓《ちか》っておきながら、結局、剣の腕《うで》を売るしかない自分も情《なさ》けないがな……)
心のなかで、そうつぶやいたときであった。
気になる光景《こうけい》が、ジーニの視界《しかい》の片隅《かたすみ》で展開された。
純白の神官衣《しんかんい》に身を包《つつ》み、豊《ゆた》かな金髪《きんばつ》をした娘《むすめ》と小柄《こがら》な黒髪《くろかみ》の少女が、軽く身体《からだ》をぶつけたのである。
「申し訳ありません」
神官と思《おぼ》しき娘のほうが、少女に丁寧《ていねい》に頭を下げる。
謝《あやま》られたほうの少女は、にこりと会釈《えしやく》を返しただけで、その場から足早に歩き去った。
「あの少女……」
ジーニは目を細めると、その黒髪の少女を追うために、進行方向《しんこうほうこう》を変える。
黒髪の少女は弾《はず》むように歩きながら、すぐに路地《ろじ》の方に入っていった。
ジーニも迷わず、その後を追う。
少女はその後、路地を二回折れて、薄汚《うすよご》れた裏通りへと入った。
そしてジーニが裏通りに入ったとき、少女は腰《こし》に両手を当てながら、こちら向きに立っていた。
「てめぇは何者なんだ。勝手に後なんか尾《つ》けやがって!」
円《つぶ》らな瞳《ひとみ》をした愛《あい》らしい顔からは想像《そうぞう》もつかないような迫力《はくりよく》のある裏街言葉《スラング》が飛びでてきた。
ジーニはしかし、それぐらいでは動じない。少女は自分の尾行《びこう》に気づいていたということだ。しかし、彼女のほうも薄々、それは感じていた。
「なぜ、後を尾けられたかは、おまえのほうが分かっているだろう。おとなしく懐《ふところ》の物を出せ」
「懐の物って、これかい?」
黒髪の少女は歯をむきだしにして笑うと、懐に手を入れ、抜《ぬ》き身《み》の短剣《ダガー》を取りだした。
そして、もう片方の手の指のあいだには、いつのまにか投郷用《とうてきよう》の短剣が三本、挟《はさ》まれている。
「器用《きよう》なものだ。さすがは、盗賊《とうぞく》だな。しかし、オーファンの盗賊ギルドは正統派《せいとうは》だと聞いていたが……」
「そうさ。だから、無意味《むいみ》な殺しはやらねぇ。命が惜《お》しいなら、すぐにこの場から立ち去りな」
そう言って、黒髪《くろかみ》の少女は顎《あご》を軽く振《ふ》って回りを見なよと続ける。
ジーニは言われたとおりに、周囲《しゆうい》に視線《しせん》を巡《めぐ》らせる。
四、五人の男が、彼女を取り囲《かこ》んでいた。おそらくは、少女の仲間だろう。
しかし、そんなことに気づかないようなジーニではない。
殺気《さつき》のようなものを漂《ただよ》わせているが、彼女に言わせればまったくの虚仮威《こけおど》しだった。
戦場で感じる本物の殺気は、こんなものではない。
「さっきの言葉、そっくりおまえたちに返させてもらう。命が惜しいなら、すぐにこの場から立ち去れ。あの金髪《きんぱつ》の神官から奪《うば》った財布《さいふ》を置いてな」
「嫌《いや》だと言ったら?」
「どうなるかぐらい、おまえなら分かるだろう」
そう言って、ジーニは背中の大剣《グレートソード》を外し、鞘《さや》に収《おさ》めたまま両手に持つ。
「そんな大きな得物を、こんな狭《せま》い場所でどうやって使おうってんだ」
少女は嘲《あざけ》るように笑うと、投郷用の短剣を一本、素早《すばや》く投げつけてきた。
その短剣は、ジーニが手にしている大剣の柄《つか》に鋭《するど》く突《つ》き刺《さ》さった。
「なるほど、たいした腕《うで》だ。得意なのは、スリだけじゃなさそうだな」
ジーニはにやりとした。
黒髪の少女は、どう見ても十二、三といったところだが、スリの技術も一流で、おまけに戦いの技術も身に着けているようだ。
動きも身軽だし、その攻撃《こうげき》はおそらく俊敏《しゆんびん》で正確だろう。
「猫《ねこ》の目《め》≠諱Bぐだぐだ言ってないで、この生意気《なまいき》な女、叩《たた》きのめしてしまおうぜ。それから、お楽しみだ」
ジーニを取り囲んでいる男の一人が、下卑《げび》た声で言った。
猫の目というのは、少女の仲間うちでの通り名なのだろう。
「おまえたちこそ、ぐだぐだ言ってないでかかってきたらどうだ。ただし、楽しませてもらうのは、わたしのほうだがな」
「なんだと!」
「やっちまえ!!」
男たちが激昂《げつこう》して、口々に叫《さけ》ぶ。そして短剣《ダガー》を抜《ぬ》いて、襲《おそ》いかかろうとした。
しかし、その瞬間《しゆんかん》――
「やめな!」
と、黒髪《くろかみ》の少女が一喝《いつかつ》した。
その声に、五人の男たちがびくりとなって止まる。
「その女戦士、レイドあたりの傭兵《ようへい》だよ。人の血の臭《にお》いが染《し》みついてやがる。あんたたちが束になったってかなうわけがない」
そして少女は懐《ふところ》から革袋《かわぶくろ》を取り出した。中身は一杯《いっばい》に詰《つ》まっているらしく、破《やぶ》れんばかりに膨《ふく》らんでいる。
少女はそれを足下《あしもと》に投げだした。
「悔《くや》しいけど、あたしでもあんたに勝てない。命の取り合いってなら別かもしれないけどね……」
「わたしは命の取り合いでも応じるぞ」
「だろうね。だけど、そこまでする理由がねぇ。だけど、あんたもあまりお節介《せっかい》をするんじゃねぇよ。あたしたちは正統派《せいとうは》だけど、商売の邪魔《じやま》になる奴《やつ》は、容赦《ようしや》しない」
「それなら、わたしのいないところで仕事をするんだな」
「覚えておく。だけど、あんたも夜道には気をつけなよ」
黒髪の少女はそう言い残すと、裏通りの奥《おく》に走り去っていった。
ジーニを取り囲《かこ》んでいた男たちも、いつの間にか姿《すがた》を消している。
ジーニは一瞬、微笑《びしよう》を浮《う》かべると、少女が残していった財布《さいふ》を拾い上げた。
持ってみると、どっしりと重く、かなりの金額《きんがく》が入っているようだ。
「届《とど》けてやるか」
財布を盗《ぬす》まれたのは神官だから、神殿《しんでん》を訪《たず》ねたら、すぐに持ち主に返すことができるだろう。
(謝礼《しやれい》でも貰《もら》えたら、しばらくは食べてゆけるな)
そう心のなかでつぶやくと、ジーニは大通りへと向かって来た道を戻《もど》りはじめた。
2
「わたくしの財布をお届けくださいましたようで……」
豊かな金髪《きんぱつ》をした女性神官はそう言うと、微笑《ほほえ》みながら頭を下げた。
そしてメリッサと申します、と自らの名を名乗った。
「わたしはジーニだ。見てのとおり、戦士を生業《なりわい》にしている」
「女性の身でありながら、戦いに身を投じる。立派《りつぱ》なお心がけです」
「この国では、歓迎《かんげい》されないようだがな……」
ジーニはそう言って、冷笑《れいしよう》を浮かべる。
「戦う勇気は、男性も女性も関係ないのですけれど……」
メリッサと名乗った神官は、申し訳なさそうにうなずいた。
赤毛の女戦士ジーニがやってきたのは、戦《いくさ》の神マイリーの神殿である。
ファンの街のマイリー神殿は、近隣《きんりん》のマイリー神殿を統《す》べる大神殿であり、剣《つるぎ》の姫《ひめ》≠ニ謳《うた》われる偉大《いだい》な女性が、最高司祭を務めている。
「通りに落ちていたのを拾った。すぐに呼び止めようとしたんだが、懐《ふところ》が寂《さび》しいんで、自分の物にしようかと、しばらく迷った。だが、戦士であるわたしが、マイリー神の神官の私財を着服《ちやくふく》しては、戦場での加護《かご》が望《のぞ》めないからな」
ジーニはそう言うと、黒髪《くろかみ》の少女から取り上げた財布《さいふ》を差し出した。
「そういうものでしょうか……」
メリッサという名の神官は、そう言うと、ため息を洩《も》らしながら、財布を受け取った。
「それで謝礼はどれほどお望みでしょうか?」
「そんなものは要らないと言いたいところだが、正直、仕事がなくて困っている。僅《わず》かでいいから、貰《もら》えると嬉《うれ》しいな」
ジーニは頬《ほお》に描《えが》かれた呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》をなぞりながら、照《て》れたような表情で言った。
「もちろんです」
ふたたびため息をつきながら、金髪の女性神官は、財布の口を開けた。
それを見て、ジーニの眉《まゆ》がぴくりと動く。
「財布が戻《もど》ったというのに、どうしてそんな迷惑《めいわく》そうな顔をする。わたしが着服しようとしたのが気に入らないのか?」
「そのようなことは、ありません」
ジーニの言葉に、女性神官はあわてて首を横に振《ふ》った。
「お気に障《さわ》ったのなら、謝罪《しやざい》いたします」
「もしかして、神官|殿《どの》は盗《ぬす》まれたことに気づいておられたのか?」
ジーニがそれと察《さつ》して訊《たず》ねる。
金髪《きんぱつ》の神官は困ったように微笑《ほほえ》んで、今度は首を縦に振った。
「その財布は、取り戻してくださったのでしょう? 猫《ねこ》の目《め》とかいう少女から……」
その通りだと、ジーニは正直に答えた。
そして、
「なにか事情《じじよう》がありそうだな」
と、女性神官の目を見つめながら、問いかける。
「事情というほどのものではないのですが……」
女性神官はわずかに赤くなった頬に片手をもってゆく。
「あの少女に財布《さいふ》を盗まれましたのは、これが初めてではないのです。これまでにも、五回ほど、盗まれてます」
「それはまた、人のいいことだな」
ジーニは、呆《あき》れたような表情になる。
「最初の二回は、誰《だれ》に盗まれたのかさえ、気がつきませんでした。しかし、その次に財布を盗まれそうになったとき、その盗賊《とうぞく》を取り押《お》さえまして……」
その盗賊を締《し》め上げて、これまでに財布を盗んだのもおまえかと聞き出したところ、その若い男の盗賊は、猫の目≠ェやったと白状《はくじよう》した。
その盗賊は、その猫の目なる盗賊少女が、連続してメリッサから財布を盗んだのを目撃《もくげき》して、彼女のことを上客《じようきやく》だと思ったのだという。
「仲間のことを簡単《かんたん》に白状したその盗賊も許《ゆる》せませんが、猫の目という少女にも、やはり憤《いきどお》りを覚《おぼ》えました。それゆえ捕《つか》まえて、説教《せつきよう》のひとつでもしてやろうと思ったのですが……」
しかし、その少女の境遇《きようぐう》を聞いて、女性神官は考えを変えたのである。
「猫の目という少女は、盗賊ギルドにお金で売られたのだそうです。その借金《しやつきん》を返すために、かなり無理《むり》をして働《はたら》いているようで……」
「なるほどな」
女性神官の言葉に、メリッサはうなずいた。
確かに、その境遇は同情すべきだと思えた。しかし、彼女と同じような境遇の少女は、世の中に他《ほか》にもいる。
ジーニはメリッサという女性司祭に、そのことを指摘《してき》した。
「それも承知《しょうち》しております。ですので、三度目にあの少女がわたしから財布を盗《ぬす》もうとしたとき、彼女を捕まえようとしたのです。でも、あの真っ黒で大きな瞳《ひとみ》を見て、気持ちが萎《な》えてしまいまして……」
「容姿は確かに愛《あい》らしかったが……」
しかし、性格《せいかく》はなかなかのものだった。
盗賊|仲間《なかま》のあいだでも、かなり顔が利《き》くようだ。十|歳《さい》をいくつか過《す》ぎただけのあの年齢《ねんれい》にして、だ。
将来《しようらい》はどのような大盗賊になるかわからない。
「神官|殿《どの》は、あの少女を改心《かいしん》させようとしているのか……」
「人の心を変えることは難《むずか》しいものです。しかし、あの少女は自ら変わりたいと思っているように、わたしには見えました。そのためには、まず彼女を自由の身にしなければなりませんから……」
「だから、神官殿は、あの娘《むすめ》に?」
「人の生まれは、平等《びようどう》ではありません。わたしは、たまたま裕福《ゆうふく》な家庭に生まれましたから……。神殿《しんでん》で暮らしてゆくには不要な物をお金に替《か》えましたら、思いの他の金額《きんがく》になりましたので」
女性神官はにっこりと笑いながら言った。
「だから、彼女に財布《さいふ》を盗ませつづけているわけか?」
それでよく、あの盗賊《とうぞく》少女も気づかないものだと、ジーニは不思議《ふしぎ》な気がした。
自分の腕前《うでまえ》に、よほど自信があるのだろう。
「神官殿のなさっていることは立派《りつぱ》だとは思う。しかし、それであの少女の心を変えることができるかな。真実《しんじつ》を知れば、少女はおそらく侮辱《ぶじよく》されたと思うだろう」
「そうでしょうね……」
女性神官は素直《すなお》にうなずく。
「ですから、あの少女には、このことを話さないでくださいませ」
「約束しよう」
その申し出を断る理由は、ジーニには何もなかった。
「それより、余計なことをしてしまったようで、申し訳なかったな……」
そういうことなら、謝礼を受け取るわけにもいかないと思い、ジーニは女性神官に別れの挨拶《あいさつ》をして、神殿を後にしようとする。
しかし、女性神官にそれを呼び止められた。
「もしも、行く当てがないのなら、今夜はこの神殿に泊《と》まってはゆかれませんか?」
「なんだって?」
思いもかけない申し出に、ジーニは戸惑《とまど》いの表情になる。
「確かに、行く当てはない。金にも困っているから、今夜は野宿《のじゆく》でもしようと思っていた。神官|殿《どの》のご厚意《こうい》には感謝《かんしや》したい。しかし、理由もなく施《ほどこ》しを受けるわけには……」
「理由はあります」
ジーニの言葉に、女性神官は笑顔《えがお》で答えた。
「あなたは、とてもご立派な方であり、また優《すぐ》れた戦士であるともお見受《みう》けいたしました。もしかしたら、勇者《ゆうしや》の資質《ししつ》をお持ちかもしれません。ですから、あなたのことを、もっとよく知りたいと思うのです」
「勇者の資質だって? まさか……」
ジーニはふたたび照《て》れたような顔になり、呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》に手を当てた。
「あなたは、見ず知らずのわたしのために、お骨折《ほねお》りをなさり、そして見ず知らずの少女の名を出さぬために、汚《けが》れた役を自ら演《えん》じられた。それはとても勇気ある行為《こうい》であり、高潔《こうけつ》な精神の持ち主ゆえと思えますが……」
金髪《きんぱつ》の女性神官はそう言うと、青い瞳《ひとみ》をまっすぐに向けてくる。
美しく澄《す》んだ瞳だった。
彼女の言っていることはほとんど夢想《むそう》であると、ジーニには感じられた。
自分はそれほど高潔な人間ではないし、あの盗賊《とうぞく》少女が自分を変えたがっているとも思えない。
しかし、彼女に言われると、理由も根拠《こんきよ》もなく、そんなものかなという気になる。
高貴《こうき》な家に生まれ、育《そだ》てられたからだろうか。戦《いくさ》の神の司祭《しさい》になった経緯は想像もつかないが、彼女の信仰《しんこう》の力は本物だという気がした。
これほどに純粋《じゆんすい》に他人を信じることができるのだ。きっと神にも、信仰は容易《たやす》く通じたのだろう。
「わたしのほうこそ、神官殿に興味《きようみ》がわいてきた。今宵《こよい》はあなたのお言葉に甘《あま》えて、神殿《しんでん》に泊《と》めてもらうことにしよう」
「ありがとうございます」
嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んで、女性神官は顔の前で手を合わせる。
「食料庫《しよくりようこ》から葡萄酒《ワイン》をいただいてまいります。今夜はいろいろとお話を聞かせてくださいませ。故郷であるヤスガルンのことや、傭兵《ようへい》として参加された戦場のことなど……」
(初対面だというのに、そんなことまで見抜《みぬ》けるとは……)
この女性神官が豊富《ほうふ》な知識と深《ふか》い経験を身に着けていることがうかがいしれた。
(ただの神官ではなく、すでに司祭の地位にあるのかもしれないな)
その予想《よそう》は半分、当たっていたことを、ジーニはすぐに知ることになる。
彼女は司祭ではなく、侍祭《じさい》であったのだ。
3
ファンの街の裏通りの一角に、その酒場はひっそりと建っていた。
引退《いんたい》した盗賊が経営《けいえい》している酒場《さかば》で、客のほとんどは盗賊ギルドの人間である。たまに酔《よ》っぱらった普通《ふつう》の客が店に入ってくることもあるが、有《あ》り金を全部、巻《ま》き上げられて、叩《たた》き出されることになる。
そんな酒場の卓《テーブル》のひとつに、小柄《こがら》な黒髪《くろかみ》の少女が酒杯《しゆはい》を握《にぎ》りしめながら憮然《ぶぜん》とした顔をしている。その向かいの席には、背の高い痩《や》せた男が座《すわ》っている。
少女の通り名は猫《ねこ》の目《め》=A本名はミレルという。彼女は、今年で十三|歳《さい》。しかし、成長が遅《おそ》いので、その年齢《ねんれい》よりひとつふたつ、幼く見られることが多い。
少女はそれを不満に思っているが、仕事をするときには役に立っている。
にこにこしながら街《まち》を歩いていると、彼女のことを猫=\―スリだとは誰も思わない。
彼女の外見ぐらいの子供は、かっぱらいとか置き引きといった、技術《ぎしゆつ》を必要としない盗《ぬす》みしかできないものだ。
ミレルは八歳のときから技《わぎ》を仕込《しこ》まれて、三年ほどで一人前のスリになった。
彼女にとっては師匠《ししよう》にあたる老盗賊《ろうとうぞく》が引退してからは、スリ仲間では稼《かせ》ぎ頭《がしら》になっている。
「まったく、昨日《きのう》はひどいドジ踏《ふ》んだよ。あんな赤毛の大女に、スリの現場を見られるなんてね」
ミレルは向かいに座っている鼠《ねずみ》=\―情報屋《じようほうや》に向かって愚痴《ぐち》をこぼした。
彼の名前は、サムスという。
一年ほど前に、ある仕事で一緒《いつしよ》に組んだのが緑《えん》で、こうしてたまに会って情報|交換《こうかん》などをしている。
ミレルとしては昨日の昼間に、せっかく稼いだ金を得体の知れない女戦士に巻き上げられて、気分が荒《すさ》んでいる。
そういうときに、八つ当たりをするには、サムスは最高の相手だった。
「赤毛の女戦士の噂《うわさ》は、オレのほうにも入っているぜ」
「あの女、何者なのさ?」
ミレルは目を一杯《いつぱい》に開いて、情報屋を見つめる。
「名前はジーニ。レイドの街で傭兵稼業《ようへいかぎよう》をしていた凄腕《すごうで》らしい」
「傭兵の本場だよね。最近、戦争ないから食いつめたのかな?」
「そこまでは、このオレでも、さすがにな」
情報屋はそう言うと、小さく両手を上げた。
「ま、いくら凄腕でも、彼女を傭兵に雇《やと》うような騎士《きし》なんか、この街にはいないものね。どうせ、すぐにどこかにいっちまうさ」
ミレルはそう言って、テーブルの上の皿に盛られていた乾燥肉《ジヤーキー》を摘《つま》んだ。
「冒険者《ぼうけんしや》の仲間にでもならないかぎり、そうなるだろうな。しかし、冒険者の連中も、戦士は余《あま》っているからな」
「戦士なんか、剣《けん》を振《ふ》り回すことしかできない能なしだもの。怪物《モンスター》が出てこないかぎり、足手まといだしね」
ミレルはそう言って意地悪《いじわる》く笑う。
彼女の表情は、一言ごとにころころと変わる。猫《ねこ》の目《め》という通り名は、そこからつけられたのだ。
「それより、おまえ、例の上客とやらを、また狙《ねら》ったんじゃないだろうな?」
「そのとおりよ。だって、あの神官、いつも大金、持ち歩いてるし、おまけにとろいもの。もう少しで、借金を返せるんだ。ちょっとぐらいは危《あぶ》ない橋《はし》は渡《わた》らないとね」
「つまり、昨日も盗《ぬす》みには成功したってことだな?」
表情を曇《くも》らせながら、情報屋は訊《たず》ねる。
「決まっているじゃない。その現場を、赤毛の女戦士に見つけられて、上前をはねられたってわけさ」
「そうか……」
情報屋は両腕《りよううで》を深《ふか》く組むと低《ひく》く唸《うな》り声を洩《も》らす。
「どうかしたの? 言いたいことがあるなら言いなよね。情報料は払《はら》わないけどさ」
「金を貰《もら》うほどの情報じゃない。たた、ひとつだけ約束《やくそく》してくれるならな……」
「どんな約束よ?」
情報屋のもったいぶった物言いに、ミレルは苛《いら》ついたように机を叩《たた》く。
「これからオレが話す奴《やつ》のことを殺《ころ》すな。それだけだ」
「殺すなって、いったいその野郎《やろう》、何をやりやがったんだ!」
ミレルはテーブルに身を乗り出すと、情報屋の襟首《えりくび》を両手でつかんだ。
「大足<Vョーンの奴が、おまえの上客≠狙って、仕事に失敗《しっぱい》したんだ。それで、あの女神官に締《し》めあげられて、おまえのことを全部、白状《はくじよう》させられたらしい」
店内にいる盗賊《とうぞく》仲間に聞かれないように、声を落として情報屋は言った。
「なんだって!」
ミレルは叫《さけ》んで、椅子《いす》にすとんと腰《こし》を落とした。
「オレもその情報を知ったのは最近なんだ。そして心の倉庫のなかに鍵《かぎ》をかけてしまい込んでいる。こんなことが、幹部《かんぶ》に知られたら、あの野郎、始末されちまうからな」
「仲間を売るなんて、最低の掟破《おきてやぶ》りじゃないか」
「あいつは、まだ駆け出しだからな。大目に見てやれ。あの女神官も、おまえを衛兵《えいへい》に突《つ》きだす気はないようだしな。おまえの境遇《きようぐう》を聞いて、同情してくれたのかもしれないな」
「同情……だって?」
情報屋の言葉を聞いて、ミレルの目が糸《いと》のように細められた。
「それじゃあ、あたしが何度も仕事しているのを知ってて、あの女、あんな大金を持ち歩いていたのかよ」
「だから、オレもちょっと驚《おどろ》いたんだ。絶対《ぜったい》、用心していると思ったからな。それより、おまえも同じ相手を何度も狙《ねら》うんじゃねぇよ」
情報屋の言葉は、しかしミレルの耳にはほとんど届いていなかった。
うつむきながら、テーブルの下で両手の拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。
「あの女……」
ミレルはそうつぶやくと、血が滲《にじ》むほどに唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「あたしは、誰の施《ほどこ》しも受けねぇ。自分ひとりの力で金も返すし、自分ひとりの力で生きてゆく!」
そう叫ぶなり、ミレルは椅子を蹴るように立ち上がると、酒場から表へと飛びだした。
4
「……つまり、あなたはわたしに冒険者《ぼうけんしや》になれと?」
戦神マイリーの大神殿《だいしんでん》から、王都の大通りに向かって歩きながら、赤毛の女戦士ジーニは、隣《となり》を歩く金髪《きんぱつ》の女性|侍祭《じさい》メリッサに向かって言った。
「もちろん、わたくしも協力《きようりよく》いたします。どうか、お願いします」
「レイドを離《はな》れるとき、確《たし》かに冒険者になることも考えた。しかし冒険者が成功《せいこう》するには、よほどの運がいると聞いている。古代王国の遺跡《いせき》のほとんどはすでに探索《たんさく》されているそうじゃないか」
「運がいるのは、確かです。しかし、それ以上に必要なのは実力です。そして仲間……」
メリッサの言葉に、ジーニは腕組《うでぐ》みをした。
マイリーの神官戦士である彼女が、協力してくれるというなら、冒険者として成功する可能性も低くはない。
ジーニは戦士であり、故郷《こきよう》の集落《しゆうらく》では、狩人《かりうど》を生業《なりわい》としていたから、野外《やがい》で必要な様々な知識《ちしき》や技術も身に着いている。
「しかし、わたしたちふたりだけでは、まだ仲間は不足している。盗賊《とうぞく》に魔術師《まじゆつし》、あるいは|精霊使い《シヤーマン》がいなければ……」
「盗賊についてはひとり、心当たりがあります」
メリッサはそう言うと、静《しず》かに微笑《ほほえ》んだ。
「まさか、あの少女のことを言ってるんじゃないだろうな」
「まさかではありません。まさしくです」
ジーニの言葉に、メリッサは大きくうなずく。
「あなたは、本当に夢想家《むそうか》なのだな。まあ、わたしはその夢に乗ってもいいと思っているが……」
「一緒《いつしよ》に冒険《ばうけん》をしてくださいます?」
「ああ、気が変わるまでなら、な」
「はい」
メリッサは嬉《うれ》しそうな顔をして、ジーニの手を取った。
(この侍祭様と一緒にいると、どうも調子《ちようし》が狂《くる》う……)
ジーニは苦笑《くしよう》を洩《も》らす。
しかし、彼女が一緒なら、おもしろい冒険になるかもしれないと思った。
そしてそのとき――
「まさか、あんたたちがつるんでいたとは、ね……」
突然《とつぜん》、声がして、行く手の木陰《こかげ》から黒髪《くろかみ》の少女が姿《すがた》を現《あらわ》した。
「まあ、あなたのほうから来てくださるなんて」
メリッサは無邪気《むじやき》な笑顔《えがお》を浮《う》かべる。
しかし黒髪の盗賊《とうぞく》少女の全身からは、明らかな殺気が漂《ただよ》っていた。
「下がって」
ジーニは少女の側《そば》に近づいてゆこうとするメリッサを手で制した。
「悪いけど、今日は赤毛のあんたに用はないの。神官様に話があってね……」
黒髪の少女は、氷《こおり》のように冷《つめ》たい表情をしていた。
「わたくしに、何の御用《ごよう》ですか?」
少女の表情など、まったく気にした様子もなく、メリッサは穏《おだ》やかに微笑みかけた。
「あんたと勝負《しようぶ》がしたくてやってきた。受けてくれるよね」
そう言うなり、黒髪の少女は懐《ふところ》に手を入れ、短剣《ダガー》を抜《ぬ》きだす。
「わたくしも、戦《いくさ》の神の司祭です。逃《に》げるわけにはまいりませんね……」
「安心しな。殺しはしない。ただ、痛《いた》い目は見てもらうよ。わたしの気が済《す》むぐらいには、ね」
「どうやら、あなたがしてきたことが、あいつに知られてしまったようだな」
ジーニは油断《ゆだん》なく、黒髪の少女の動きに気を配《くば》りながら、メリッサに言った。
「そのようですね……」
メリッサは、短くうなずく。
「あんたは、あたしの顔に泥《どろ》を塗《ぬ》ったんだ。財布《さいふ》をわざと盗《ぬす》ませてたなんて、ね。あいにくだけど、あたしは誰の助けもいらない。ひとりで生きてゆけるし、生きてゆく」
「その志《こころざし》、立派だと思います。ひとりで生きてゆけるということはとても大切。でも、それができるあなただからこそ、わたしはあなたと一緒《いつしよ》に何かをしてみたいと」
「なに寝《ね》ぼけたこと言ってやがる!」
黒髪《くろかみ》の少女は、吠《ま》えるように言うと、左手に隠《かく》し持っていたのだろう。細身の短剣を投げつけてきた。
その刃《やいば》は、メリッサの頬《ほお》をかすめて、そこに赤い傷《きず》を残し、金色の髪を幾筋《いくすじ》か散《ち》らした。
「おまえ!」
「大丈夫《だいじようぶ》です」
背中の大剣《グレートソード》に手をかけようとしたジーニを笑顔《えがお》で制《せい》すると、メリッサは盗賊の少女に向かって、一歩ずつ近づいていった。
「もしも、わたしがあなたに勝てたら、約束してくださらない。これから二度と盗みはしないと。あなたが必要としているお金は、わたしが差し上げますから……」
「そんなものはいらねぇ! あたしは、どんな奴《やつ》からだって、懐《ふところ》の物を盗《と》れるんだから」
「そうでしょうね。でも、あなた自身が、そんな生き方に嫌気《いやけ》が差《さ》しているのではありませんか? 自分で盗っても、相手が与《あた》えてくれても、動くお金は同じ。あなたは本当に自分の力で生きてはいない……」
「盗みができるのは、あたしに腕《うで》があるからじゃねぇか!」
少女は激昂《げつこう》して叫《さけ》ぶ。
「そのとおり、あなたはお金を盗って、相手に怒《いか》りや悲しみといった感情を代償《だいしよう》として置いてゆく。あなたの生き方では、誰にも喜《よろこ》びを与えられませんわ。そんな生き方を一生、続けてゆくつもりなのですか?」
「お説教かい。お偉《えら》い神官様。あたしが、どんな生き方をしようと、あんたには何の関係もねぇだろ」
「そんなことはありません。なぜなら、わたしは、あなたのことをもっと知りたいと思っていますから。あなたに力を貸《か》してほしいと思っていますから……」
そしてメリッサは、一緒に冒険者《ぼうけんしや》をしましょうと、微笑《ほほえ》みかけた。
「冒険者……だって?」
少女がいぶかしむような表情を浮《う》かべる。
「あんた気が狂《くる》ってるんじゃないの?」
少女の吐《は》き捨《す》てるような言葉に、メリッサはゆっくりと首を横に振った。
そしてふたたび少女のもとに寄ってゆく。
「いい度胸《どきよう》だ……」
少女の瞳《ひとみ》が、彼女が手にする短剣《ダガー》の刃のようになる。
メリッサは何も手にしていない。
腰《こし》には小振りの戦槌《ウオーハンマー》が下がっているが、それに手を伸《の》ばそうという素振《そぶ》りさえ見せない。
(どういうつもりだ……)
ジーニは腕を組んだまま、メリッサと黒髪《くろかみ》の少女の様子を見つめていた。
このままでは最悪《さいあく》の結果《けつか》になる可能性《かのうせい》もある。だが、ここで金髪《きんぱつ》の女性|侍祭《じさい》を止めるのは、彼女の本意《ほんい》ではないだろう。
(ただ見てるしかないか……)
ジーニは心のなかでつぶやいた。
これは金髪の女性侍祭メリッサと猫《ねこ》の目《め》≠ニかいう黒髪の少女とのふたりの戦いなのである。
そして経験豊富《けいけんほうふ》な傭兵《ようへい》であるジーニにも、戦いの結果は分からなかった。
黒髪の少女はあいかわらず殺気を放ちながら、女性侍祭を見つめている。
そしてメリッサのほうは、まったく無防備《むぼうび》に微笑《ほほえ》んだまま、歩みをつづけている。
五歩、三歩とふたりの距離《きより》は縮《ちぢ》まっていった。
あの盗賊《とうぞく》の少女なら、メリッサの心臓《しんぞう》を短剣で貫《つらぬ》くぐらい、簡単なことだろう。
しかし、少女はまったく動かなかった。
そして二人は正面から向かいあう。
一瞬《いつしゆん》の静止《せいし》のあと、メリッサの手がゆっくりと動くと、少女の頬《ほお》を軽く触《ふ》れるほどに叩《たた》いた。
「わたくしの勝ちのようですね」
メリッサは少女の頬に手を置いたまま、少女に声をかけた。
「あんた、何者なのさ……」
少女が小さく首を横に振りながら、呻《うめ》くように言った。
「わたくしはメリッサと申します。あなたは?」
「あたしは猫の目≠ウ」
「本当の名前は?」
「ミレル……」
それだけを言うと、黒髪《くろかみ》の少女はメリッサを突《つ》き飛ばすように身を離《はな》すと、くるりと背を向けてなだらかな丘《おか》の斜面《しやめん》を駆《か》け下りていった。
メリッサはその後ろ姿を見つめたまま、満足《まんぞく》そうにうなずいた。
「勝負は、あなたが勝ったようだな。だが、はたしてあの少女が約束を守るだろうか」
ジーニはそう声をかけると、女性|侍祭《じさい》の隣《となり》に並んでゆく。
「ええ、きっと」
自信に満ちた表情で、メリッサは答えた。
「そうだといいな……」
本当にそうだといい、と彼女は心の底から思った。
この金髪《きんぱつ》の侍祭とあの黒髪の少女が一緒《いつしよ》なら、おもしろい冒険《ぼうけん》ができるだろう。
黒髪の少女ミレルが、戦《いくさ》の神の神殿《しんでん》を訪《たず》ねたのは、それから三日後のことだった……
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第2章 プリーステス・オブ・ウォーゴッド
1
馬上槍《ランス》を手にした騎士《きし》が五騎ばかり向かってくるのを、アルモザーン・ラドクリフ・ディサードは視界《しかい》の片隅《かたすみ》で捕《と》らえた。
「迎《むか》え撃《う》て」
と、アルモザーンは静かな声で、先代からディサード子爵《ししやく》家に仕えている三人の騎士たちに命じる。
「はっ」
神妙《しんみよう》な表情でうなずくと、騎士たちは腰《こし》の剣《けん》を引き抜《ぬ》いて、馬を走らせてゆく。
それを見送ってから、アルモザーンは傍《かたわ》らにいる初老の騎士を振《ふ》り返った。
「どうやら、これまでのようだな……」
「我《われ》らの力が足りず、申し訳ありません」
侯爵位《こうしやくい》を持つその騎士ラスターニは、アルモザーンに深く頭を下げた。
「そのことはよい。軍勢が集まらなかったのは、わたしの不徳《ふとく》のせいだ」
「せめて、ディブロー伯爵《はくしやく》が、説得《せつとく》に応じてくれていたら、戦況《せんきよう》は違《ちが》っていたでしょうに……」
悔《くや》しそうにラスターニ侯爵は拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。
「そう言うな。伯爵のおかげで、我らは外敵《がいてき》の侵入《しんにゆう》を心配することなく、戦うことができたではないか」
「それはそうでしょうが……」
侯爵は苦笑《くしよう》を洩《も》らす。
しかし決戦に負けてしまっては、それもまったく意味のないことだ。
そのとき、また新手の騎士たちが三騎ほどかたまって向かってくるのに、侯爵は気づいた。
矛槍《ハルバード》を手にした兵士たちが、それを迎え撃とうとしたが、簡単に蹴散《けち》らされる。
「メルセリア侯の勝ち誇《ほこ》る顔は見たくありませんゆえ……」
お先に参ります、とラスターニ侯爵はアルモザーンに言って、馬を進めてゆく。
「それでは、後《のち》ほど喜びの野にて再会いたしましょう」
アルモザーンは侯爵の背に声をかけたあと、
「これで王位の正統《せいとう》は保《たも》たれる。しかし、王家の剣を真に継承《けいしよう》する者は途絶《とだ》えることになるわけか……」
と、ひとりごとを洩《も》らした。
「それも、まあよい。魔法《まほう》の時代はすでに終わったのだから。我らがラムリアースにも、ようやく時代にふさわしい国王が即位《そくい》するということだ……」
そして、アルモザーンは心のなかで黒髪《くろかみ》の少女の姿を思い浮《う》かべる。
(エリスティア、おまえにも迷惑《めいわく》をかけてしまうな……)
彼の心のなかでは、その黒髪の少女は笑顔《えがお》を浮かべていた。
彼女の悲《かな》しむ顔は、彼の記憶《きおく》にはなかったからだ。そして彼女の隣《となり》には、もうひとり金髪《きんぱつ》の少女が静《しず》かに立っていた。
(メリサリム……)
アルモザーンは、心のなかでその少女に呼びかける。
(エリスティアを……妹《いもうと》を頼《たの》んだよ……)
昨日と同じように、太陽は西の空へ沈《しず》んだ。
夜の闇《やみ》が東の空から静かに、天空と大地を支配《しはい》してゆく。
金色の髪をした娘《むすめ》がひとり、開け放したままの窓の側《そば》に立ち、澄《す》んだ青い瞳《ひとみ》で真っ暗な戸外《こがい》を見つめている。
魔法の王国<宴リアースの王都ライナスの街《まち》の郊外《こうがい》に建《た》つ豪勢《ごうせい》な屋敷《やしき》の一室である。
彼女の名前は、メリサリム。親しい人間は、メリッサと呼《よ》んでいる。
この館《やかた》の主人であるディブロー伯爵《はくしやく》の娘であった。
「戦《いくさ》はもう決したはず……」
彼女は声に出してつぶやく。
その戦とは、王位継承権《おういけいしようけん》をかけた骨肉《こつにく》の争いである。
先王の急死《きゆうし》に伴《ともな》い、皇太子《こうたいし》であるフレアホーン王子とその従兄《いとこ》アルモザーン子爵とが、それぞれの支援者《しえんしや》を集めて激突《げきとつ》したのだ。
勝利《しようり》したほうが、次のラムリアース国王となる。
戦というものは極力《きよくりよく》、避《さ》けるべきである。だからこそ、避けられぬ戦には全力《ぜんりよく》を尽《つ》くすしかない。
メリッサには今度の戦が、回避不可能《かいひふかのう》なものであったとは思えなかった。
(すべてはおふたりに対決を迫《せま》った野心家《やしんか》の貴族どものせいだわ)
彼女はそう思っている。
と、そのとき、闇《やみ》のなかに松明《たいまつ》の炎《ほのお》がぽつりと現れて、馬の蹄《ひづめ》が響《ひび》く音も聞こえてきた。
戦の勝敗《しようはい》を見届《みとど》けるために、戦場へ遣《つか》わしていた騎士が帰ってきたに違《ちが》いなかった。
メリッサの心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》が早くなる。
「ダニエル! 戦はどうなりましたか?」
息を切らせて屋敷に入ってきたまだ若い騎士《きし》に向かって、メリッサは訊《たず》ねる。
「フレアホーン王子の……勝利にございます」
メリッサがダニエルと呼《よ》んだ騎士が息を整《ととの》えながら答えた。
「そうですか……」
その答えに、メリッサは複雑《ふくざつ》な表情を浮《う》かべた。
これでラムリアース王家の正統《せいとう》は守られたことになる。
しかし、魔術《まじゆつ》の素養《そよう》のない者が王位に就《つ》くのは四百年の歴史《れきし》を誇《ほこ》るこの国においても初めてのことだった。
「それで、敗《やぶ》れたアルモザーン様は?」
「傷《きず》を負《お》ったところを捕《と》らえられ、その場で斬首《ざんしゆ》されたと聞き及《およ》んでいます。子爵様にお味方《みかた》されたラスターニ侯爵《こうしやく》をはじめ、主だった方々も大半が戦死《せんし》された、と……」
ダニエルの答えに、メリッサの心は悲しみに沈《しず》んだ。
人の命でなければ贖《あがな》えぬのが、戦というものだとは分かっている。だからといって、平気でいられるものではないのだ。
まして、今日の戦《いくさ》で命を落としたのは、同じ王国に仕える貴族であり、騎士なのである。
「これで、ザインやファンドリアが我《わ》が国に攻《せ》め入ってくることはないでしょう……」
メリッサは自分自身を納得《なつとく》させるようにつぶやいた。
だが、そのぐらいで心が軽くなるはずはなかった。
メリッサの父、アンカール・ディブロー伯爵《はくしやく》は、ラムリアース南西部の都市ルーナムに赴《おもむ》いている。この国の王位継承《おういけいしよう》戦争に乗《じよう》じて攻め入る動きを見せていた隣国《りんこく》ファンドリアに備えるためである。
父のその判断《はんだん》は正しかったと思う。
誰《だれ》が国王になるかも大事だが、国が失われるようなことがあっては元も子もないのだ。
「戦死された人々の魂《たましい》が、喜びの野に召《め》されんことを祈《いの》りましょう……」
メリッサは柔《やわ》らかな曲線《きよくせん》を描《えが》く胸の前で手を組み、静かに目を閉じた。
武人《ぶじん》の家系《かけい》の当主である彼女の父は戦の神マイリーの敬虔《けいけん》な信者であった。そして神殿《しんでん》へ礼拝《れいはい》に行くときにはいつも同行させられたので、彼女も自然に戦の神の教義《きようぎ》に感銘《かんめい》を受けるようになった。
人生とは戦いであり、それゆえ誇《ほこ》りと勇気《ゆうき》を持たなければならぬ。
そして司祭や神官が語る、いにしえの英雄《えいゆう》物語も、メリッサは楽しみにしていた。
(将来《しようらい》、わたしを伴侶《はんりよ》にされる御方《おかた》は、伝説に残《のこ》るような勇者であってほしい)
彼女は心|秘《ひそ》かにそう思っている。
たとえば、ラムリアースを建国された賢王《けんおう》アレスタルのように。あるいは、隣国オーファンを興《おこ》した竜殺《りゆうごろ》しの英雄リジャールのように。
そして彼女自身は英雄を支《ささ》えた妃《きさき》のようにありたいと思う。
勇者を助け、導《みちび》き、あるいは安らぎを与《あた》えるような女性だ。
「アルモザーン様が亡《な》くなられて、エリスティア様も、御苦労《ごくろう》されることでしょうね……」
メリッサはゆっくりと目を開くと、ダニエルに向かって声をかけた。
「兄君が反逆者《はんぎやくしや》として戦死なされたのですから、当然、お立場は悪くなりましょう……」
ダニエルは沈痛《ちんつう》な表情を浮《う》かべて、うなずいた。
アルモザーン子爵の妹エリスティアは今、ラムリアースの王立魔術師《おうりつまじゆつし》ギルドで修行《しゆぎよう》の身にある。
屋敷《やしき》も年齢《ねんれい》も近いこともあって、メリッサは彼女の遊び相手として、子爵家によく出入りをしていたのだ。
そして子爵家の屋敷には、フレアホーン王子も頻繁《ひんぱん》に遊びに来ていたものだ。
四人で遊んだ記憶《きおく》が、メリッサの脳裏《のうり》には鮮明《せんめい》に残っている。
(あれほど仲のよかったおふたりなのに)
メリッサは悲しく思った。
「最悪の場合、エリスティア様も反逆者として処罰《しよばつ》されるかもしれません……」
「そんなことがあってはなりません!」
メリッサはあわてて首を横に振《ふ》った。
「エリスティア様には罪《つみ》はありませんもの。彼女は今回の反乱について、何も話を聞かされていなかったはず……」
「それはその通りでしょうが、アルモザーン子爵《ししやく》のたったひとりのお身内ゆえ、メルセリア侯が見逃《みのが》されるかどうか……」
エリスティアは今でこそ、十|歳《さい》を過ぎたばかりの少女だが、五年もすれば誰かに嫁《とつ》いでゆくことになる。そして国王の従妹《いとこ》であり、第一位の王位継承権《おういけいしようけん》を持つ彼女は、夫となる者に絶大《ぜつだい》な権力《けんりよく》を与《あた》えうるのだ。
「彼女を処罰するなど、フレアホーン王子が認《みと》めるはずがありません」
フレア・ホーン王子は、エリスティアのことを実の妹のように可愛《かわい》がっていたのだ。彼女の兄が背《そむ》いたからといって、気持ちを変えるような人ではない。
そして、魔術師ギルドの長であるレクリオ最高導師《さいこうどうし》は、この魔法王国では大きな影響力《えいきようりよく》を持つ人物だ。
偏屈《へんくつ》≠ニ渾名《あだな》されるあの老魔術師が、自分の手許《てもと》で修行《しゆぎよう》に励《はげ》んでいる弟子《でし》を引き渡《わた》すはずがない。
しかし、身の安全は心配ないとしても、愛する兄を失った少女の悲《かな》しみが癒《いや》されるわけではない。
それを思うと、メリッサはいてもたってもいられない気持ちになった。
「わたくしはこれから、魔術師ギルドに参《まい》ります。エリスティア様をお慰《なぐさ》めしなくては……」
メリッサはダニエルに言うと、馬を用意するように命じた。
「そ、それは、なりません!」
メリッサの言葉《ことば》に、ダニエルははっきりと顔色を変えた。
「どうしてです?」
「エリスティア様は反逆者の妹。彼女にかかわれば、我《わ》が伯爵家《はくしやくけ》にまで疑《うたが》いが及《およ》びます。今度の内乱で、伯爵様はいずれの側にも味方《みかた》されませんでした。それゆえ今の立場は、我らとて危《あや》ういのです」
「父上は王国のことを思い、他国の侵略《しんりやく》から守ろうと、あえていずれの味方もしなかっただけではありませんか。野心的《やしんてき》な貴族たちが、フレアホーン王子とアルモザーン様との対立を利用しようとしただけのこと。今度の戦《いくさ》は、貴族たちの私的な権力争いとも言うべきではありませんか……」
「それでも勝敗が決した以上、勝利者たちは権力を掌握《しようあく》することになります。その権力は、中立を守った貴族、騎士《きし》をも容易《ようい》に潰《つぶ》しえるものなのです」
「潰したければ潰せばいいのです。そうしてラムリアースの国力が衰《おとろ》えれば、隣国《りんこく》の侵略《しんりやく》を許《ゆる》すだけですもの。そして愚《おろ》かな野心家たちは、すべてを失うことになる……」
「それをさせないよう、伯爵様はすべてに耐《た》えるお覚悟《かくご》でおられます。中立を守った貴族、騎士までもが反逆者の汚名《おめい》を着せられぬために。今、疑いをもたれるようなことは、絶対にしてはならないと仰《おお》せでした」
「だから、エリスティア様にはかかわるな、と……」
「はい、伯爵様はそう仰せでした‥……」
「お父様が、そう仰《おつしや》ったのですか?」
ダニエルの答えに、メリッサは信じられないというように首を横に振《ふ》った。
「だったら、お父様は国をお守りすればいい。わたくしが今、守るべきは、エリスティア様です。たったひとりの肉親である兄君を亡《な》くされ、悲しみに沈《しず》んでおられる少女です!」
メリッサは叫《さけ》ぶように言うと、ダニエルの制止《せいし》の声を振り切って、表へと出た。そして玄関先《げんかんさき》に繋《つな》いだままにされていたダニエルの馬にまたがろうとする。
だが、その動きは、すぐに止まった。
屋敷《やしき》の門の向《む》こうに、何本もの松明《たいまつ》の炎《ほのお》が近づいてくるのが見えたからである。炎に照《て》らされ、馬にまたがった人影《ひとかげ》が浮《う》かびあがっていた。
「騎士の一団……」
メリッサは表情を硬《かた》くした。
フレアホーン王に味方した軍勢だろうか、あるいはアルモザーン子爵《ししやく》に味方した軍勢だろうか。
いずれにしても、ただ事では済《す》まない予感がした。
メリッサは玄関先で立ったまま、騎士たちの一団がやってくるのを待った。
父が留守《るす》をしている以上、屋敷を守るべきはメリッサの役割《やくわり》なのだ。弟《おとうと》はいるが、まだ十|歳《さい》にも満《み》たない子供なので、責任《せきにん》を負わせるわけにはゆかない。
「我々はフレアホーン王子に従《したが》う、ラムリアース王国、魔法《まほう》騎士団である。この屋敷に、逆賊《ぎやくぞく》どもが潜《ひそ》んでいないか調べさせてもらいたい!」
居丈高《いたけだか》な声で、ひとりの男が馬上から声をかけてくる。
そして馬に乗ったまま、前庭に入り込んでくる。
それを見て、メリッサの眉《まゆ》がぴくりとなる。
「ここは、ディブロー伯爵《はくしやく》の屋敷です。無断《むだん》で庭まで押《お》し入ってくるとは、無礼《ぶれい》ではありませんか?」
「無礼だと? 我らがか!」
メリッサの言葉に、相手の騎士《きし》の声が怒《いか》りに震《ふる》える。
「我らは国王|陛下《へいか》のため、命を賭《と》して戦ってきたのだぞ! 忠義《ちゆうぎ》も勇気もなく、ルーナムの街に逃避《とうひ》した臆病《おくびよう》貴族に侮辱《ぶじよく》される謂われはないわ!」
「侮辱などしていません。礼儀《れいぎ》をわきまえろと言っているだけです」
「礼儀をわきまえるべきは、おまえのほうだろう! 我々は国王陛下の忠実《ちゆうじつ》な臣なのだから」
騎士は激昂《げつこう》して唾《つば》を飛ばして怒鳴《どな》るが、メリッサはまったく平気だった。
「我《わ》が伯爵家とて、王国への忠誠《ちゆうせい》は同じです」
「生意気《なまいき》な! ディブロー伯爵には、アルモザーン子爵と共謀《きようぼう》していた疑いがあるのだ!」
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「屋敷《やしき》が近いのです。親交《しんこう》があって当然でしょう。それを言うなら、かつては国王陛下も子爵家によく出入りしていたのですよ」
「そこまで口答えすることこそ、屋敷に反逆者どもを匿《かくま》っている証《あかし》であろう! そこをどけ! どかぬと斬《き》るぞ!!」
「お好きになさいませ」
メリッサは微笑《びしよう》を浮《う》かべたまま、ゆっくりと両手を広げた。
「虚仮威《こけおど》しではないぞ!」
騎士は怒り狂《くる》って叫《さけ》ぶと、腰《こし》の剣《けん》を引き抜《ぬ》いた。
しかし、そのとき――
「貴公の負けだよ」
と、笑い声が響《ひび》いた。
「コンラッド様……」
剣を手にした騎士は驚《おどろ》いたように背後《はいご》を振《ふ》り返る。
純白の馬にまたがり、同じく純白の長衣《ローブ》に身をかためた若者が、ゆっくりと進みでてきた。
「淑女《レデイー》に剣を向けるとは、騎士道にもとる行為《こうい》、慎《つつし》まれるがよかろう」
「しかし、この女は……」
「伯爵令嬢《はくしやくれいじよう》は、我らの非礼《ひれい》を責《せ》めておられるだけだ。礼を尽《つ》くせば、協力していただけるはず」
そう言うと、白き鎧《よろい》の騎士《きし》は、馬から降り、地面に降り立った。
「もちろん、協力はいたします。屋敷のどこでもお探しください……」
それまで緊張《きんちよう》した表情で様子をうかがっていたダニエルが、メリッサの前に進みでると、コンラッドと名乗った男に向かって言った。
「誰も匿ってはいないのです。このまま引き取ってもらえばいいではありませんか?」
咎《とが》めるような口調で、メリッサはダニエルに言う。
「だからこそ、それを確かめてもらうのです。フレアホーン王に反逆する意志が、我らに欠片《かけら》もないことを……」
そして、コンラッドという男が、メルセリア侯爵家《こうしやくけ》の次期当主《じきとうしゆ》だと、耳打ちした。
メルセリア侯爵は、フレアホーン陣営《じんえい》の中心人物だ。王子が即位《そくい》したあかつきには、おそらく宰相《さいしよう》に選ばれることになろう。
「彼らにとっても、時間の無駄《むだ》ではありませんか?」
「彼らにとってはそうでも、我らにとってはそれこそが大切なのです……」
メリッサにだけ聞こえる声で、ダニエルは囁《ささや》いた。
それから、
「これでおわかりでしょう。もしも、メリサリム様が、エリスティア様に会いにゆかれれば、疑《うたが》いの目がかかるということを。そしてその疑いは、エリスティア様の身にも及《およ》ぶのですぞ」
と、続ける。
「エリスティア様にも……」
騎士ダニエルの言葉は、メリッサの胸に突《つ》き刺《さ》さった。
フレアホーン王子に味方する者たちの強硬《きようこう》な態度《たいど》を目《ま》の当たりにしたからだ。
彼らはこの機《き》に、政敵《せいてき》を根絶《ねだ》やしにするつもりでいるのかもしれない。だとしたら、アルモザーン子爵の妹であるエリスティアの立場は、メリッサが考えている以上に危《あや》ういものかもしれない。
(エリスティア様とフレアホーン王は、従兄妹《いとこ》どうしであらせられるのに……)
メリッサはうなだれるようにその場に立ち尽《つ》くした。
「それでは、我らは任務《にんむ》を果《は》たさせていただきますぞ。美しきご令嬢《れいじよう》……」
コンラッドはそう言うと、メリッサの手を取って、口づけをした。
その生暖《なまあたた》かい感触《かんしよく》に、メリッサはぞっとなる。
「か、勝手になさいませ!」
コンラッドの手を振《ふ》り払《はら》うと、メリッサは叫《さけ》ぶように言った。
「承知いたしました」
コンラッドは深《ふか》く礼をすると、配下《はいか》の騎士《きし》たちに合図《あいず》を送り、屋敷《やしき》のなかへと踏《ふ》み込んでいった。
2
「父上、ただ今、戻《もど》りました」
魔法《まほう》騎士団の騎士|隊長《たいちよう》を務《つと》めるコンラッド・メルセリアが、屋敷に戻《もど》ってきたのは、夜半《やはん》を過《す》ぎてからのことだった。
彼の父、メルセリア侯爵《こうしやく》はすでに甲宵姿《かつちゆうすがた》から私服に着替《きが》えて、数人の貴族と戦勝の祝杯《しゆくはい》を挙《あ》げているところだった。
しかし、フレアホーン王子の姿はない。
「ラスターニめの残党《ざんとう》は狩《か》りだすことができたか?」
ほろ酔《よ》い加減《かげん》で、侯爵は息子《むすこ》に声をかける。
「二十人ほど発見し、捕《と》らえました。今は、王城の地下牢《ちかろう》に幽閉《ゆうへい》しております」
まるで舞台《ぶたい》の上にでも立っているかのように、コンラッドは芝居《しばい》がかった声と動作とで父に答える。
彼はあらゆる芸術《げいじゆつ》に造詣《ぞうけい》が深く、自らを美の従僕《じゆうぼく》とさえ呼んでいる。
「地下牢に? その場で斬《き》り捨《す》てたほうが、面倒《めんどう》はなかっただろうに」
メルセリア侯爵は不満そうにそう洩《も》らす。
「わたしは、人の血の色を美しいとは思いませんゆえ……。首謀者《しゆぼうしや》はもはやいないのです。彼らからは身代金《みのしろきん》をとって、保釈《ほしやく》すればよろしいでしょう」
「そうだな……」
メルセリア侯は曖昧《あいまい》にうなずいてみせたが、内心では殺して財産《ざいさん》を没収《ぼつしゆう》したほうが、効率《こうりつ》がいいと考えていた。
王国が建国されて四百年以上。
貴族の数は、すでに飽和《ほうわ》状態にある。領土《りようど》を増《ふ》やすには、貴族の数を減《へ》らして、土地を再分割《さいぶんかつ》するしかないのだ。
(アルモザーン子爵の支持者だけではない。中立を守った貴族をもこの期に失脚《しっきやく》させる)
そして王国を自分の息のかかった騎士、貴族で占《し》める。そうなれば、若年《じやくねん》の国王など、思うがままに操作できる。
(コンラッドにはもう少し、知恵《ちえ》を働かせてほしいものだ)
魔術師《まじゆつし》としては優秀《ゆうしゆう》なのだ。頭が悪いわけではない。しかし、甘《あま》やかして育てたせいか、それともくだらぬ芸術とやらに影響《えいきよう》されたせいか、独特《どくとく》の美学に凝《こ》り固《かた》まって、常人離《じようじんばな》れしたところがある。
「とにかく、ご苦労だった。今日は疲《つか》れたであろう、もう休め」
侯爵《こうしやく》は息子に声をかけ、酒杯《しゆはい》に口をつけた。
戦《いくさ》をしてきたわけだから、彼も疲れている。だが、戦に勝った興奮《こうふん》は、その疲れさえも感じさせないのだ。
今夜は朝まで飲み、騒《さわ》いでも大丈夫《だいじようぶ》だろう。
「それよりも、父上にお願いがあります」
「願い、だと?」
唐突《とうとつ》な言葉に、侯爵はいぶかしそうに息子を見つめる。
「まあ、いい。今日は祝いの日だ。なんなりと申してみよ」
「それではお言葉に甘えまして」
コンラッドは深く一礼してから、微笑《びしよう》を浮《う》かべた。
「ディブロー伯爵《はくしやく》のご令嬢《れいじよう》を我《わ》が妃《きさき》に迎《むか》えたいと思うのですが……」
「ディブロー伯の娘《むすめ》だと?」
息子の願いがどんなものでもかなえてやろうと思っていた侯爵だが、あまりにも意外な申し出に唖然《あぜん》となった。
「どんな娘だ?」
侯爵は一緒《いつしよ》に祝杯《しゆくはい》を上げている貴族たちに訊《たず》ねる。
「戦の神の神殿《しんでん》に、伯爵とともに礼拝《れいはい》に来ていたのを何度か見たことがあります。金色の髪《かみ》の美しい娘でしたな……」
「姿を問われるなら、美の化身。しかして、その魂《たましい》は戦乙女《バルキリー》のごとく……」
詩でも謳《うた》うような口調で、コンラッドは右手を天井《てんじよう》に差し上げる。
「魂がバルキリーとは、気が強いということではないのか?」
父に問われ、コンラッドは、彼女の屋敷《やしき》であった出来事《できごと》を父に伝える。
「その娘、アルモザーン子爵と婚約《こんやく》するとの噂《うわさ》があったのではないか?」
「子爵の妹エリスティア姫《ひめ》の遊び相手であったのは確《たし》かですが……」
侯爵と酒を酌《く》み交《わ》わしていた貴族が、かすかな記憶《きおく》をたぐってゆく。
「わたしは、その姿と魂の美しさに惹《ひ》かれたのです。それ以外のことは、取るに足りません……」
「おまえがそこまで言うならな……」
侯爵《こうしやく》は苦笑《くしよう》を浮かべる。
美しい娘なのは確かだろう。家柄《いえがら》も申し分はない。ただ問題なのはディブロー伯爵が、今度の内戦で中立の立場をとったということだ。それも、その勢力のなかでは、中心的な存在だった。
その勢力《せいりよく》を抑《おさ》えるため、侯爵はディブロー伯を処罰《しよばつ》する考えでいた。
だが、息子《むすこ》のためなら、その考えを変更《へんこう》するしかないかもしれない。
「ディブロー伯は優《すぐ》れた武人であり、野心的な人物でもない。伯爵家と結《むす》べば、我らの勢力はますます盤石《ばんじやく》なものとなろう」
侯爵は周《まわ》りの貴族たちを見回しながら、宣言《せんげん》するように言った。
「さようですな……」
全員が笑顔《えがお》を見せながらうなずいたが、その内心は計《はか》り知れなかった。
しかし、侯爵は彼らの気持ちを無視《むし》することに決めた。
「ディブロー伯爵が王都へ戻《もど》ってきたら、さっそく話を持ちかけよう」
メルセリア侯爵は息子にそう約束《やくそく》した。
コンラッドは表情を輝《かがや》かせて、深く頭を下げた。
「それでは父上、あまりお酒を過ごしませんように」
コンラッドはそう言うと、満面《まんめん》に笑みを浮《う》かべながら、自分の部屋へと戻った。
(メリサリム嬢《じよう》、あなたはわたしの手で、最高の芸術作品となるのだ)
3
「わたくしに縁談《えんだん》ですって?」
王城から帰ってきたばかりの父親を見つめて、メリッサはそれ以上の言葉を失った。
「そうだ。相手はメルセリア侯の御子息《ごしそく》であられるコンラッド殿《どの》だ」
「コンラッド……」
先日、屋敷《やしき》に押《お》しかけてきた魔法《まほう》騎士《きし》たちを率《ひき》いていた純白の長衣の男だと、メリッサは思いだした。
手に口づけされたときの感触《かんしよく》は、今でも残っている。
「おまえも、もう十五|歳《さい》。コンラッド殿は、今年で二十歳《はたち》になられるそうだ。年齢的《ねんれいてき》にもちょうどだろう」
「それはそうですが、あまりにも話が急すぎます。相手がどのような御方《おかた》かもわかりませんのに……」
「おまえの意志《いし》など、聞いてはおらん。これは、すでに決まったことなのだ」
伯爵《はくしやく》はそう言うと、剣帯《けんたい》を外《はず》し、騎士見習いの少年に手渡《てわた》す。
「明日にでも、侯爵様の屋敷に挨拶《あいさつ》に行け。わたしは王城での仕事が多忙《たぼう》ゆえ、一緒《いつしょ》には行けぬがな……」
「お父様」
メリッサは唖然《あぜん》となって、父を見つめた。
普段《ふだん》から厳格《げんかく》で、滅多《めつた》に表情を変えぬ人ではあったが、今もいつもと同じ様子にしか見えない。
少なくとも、娘の縁談をまとめた父親の顔ではなかった。
そして父親は騎士見習いの若者を伴《ともな》うと、階段を昇《のぼ》って姿を絆した。
「このわたしが、結婚《けつこん》……」
メリッサはそうつぶやくと、近くに置《お》いてあった椅子《いす》に腰《こし》を落とした。
「おめでとうございます」
父娘の会話を無言《むごん》で見守《みまも》っていた騎士ダニエルが、深々と頭を下げた。
「めでたくなんかありません……」
メリッサはダニエルを睨《にら》みつける。
「しかし、コンラッド様はいずれ侯爵家《こうしやくけ》を継承《けいしよう》する御方、相手にとって不足はないかと」
「わたしは身分とか、お金とか、そんなことを基準《きじゆん》に相手を選ぶ気はありません……」
「ですが、伯爵様がお決めになられたことですから、従《したが》うしかありません。それならば、相手の御方のよいところを見つけだすほうが、賢明《けんめい》というものです」
「それだけ物が分かっているなら、わたくしの代わりにあなたがコンラッド様のもとに嫁《とつ》げばいいのです。わたくしは納得《なつとく》できません。不本意《ふほんい》の極《きわ》みというものです」
メリッサは胸の前で手を組みながら、戦《いくさ》の神の名を唱《とな》えた。
「無茶を言わないでください……」
ダニエルは深くため息をついた。
「コンラッド様とメリッサ様との婚姻《こんいん》はおふたりだけのためではなく、伯爵家のためにもラムリアース王国のためにもなるのです」
「お家と国のため?」
ダニエルの言葉に、メリッサは怪訝《けげん》そうな表情をする。
「先の内戦でフレアホーン王のお味方をしなかったゆえ、伯爵家は今、微妙《びみよう》な立場にたたされています。ディサード子爵家とも親交が深かったゆえ、反逆者を支援《しえん》していたと疑われているからです。罪をかぶせて、領土《りようど》を取り上げようと主張《しゆちよう》している者も宮廷《きゆうてい》内には少なくありません。しかし、侯爵家と結べば、その心配はなくなるのです。若き国王|陛下《へいか》をお側《そば》からお守りすることもできます。また、伯爵様に同調《どうちよう》されて中立を守った貴族、騎士《きし》たちの財産や地位《ちい》も保証《ほしよう》できるのです」
ダニエルが何を言いたいのか、メリッサにも理解《りかい》はできた。だからといって、納得できるものではない。
「お父様はわたくしに、政治の道具になれと仰《おつしや》っているのですか?」
「そのようにお考えになってはいけません。メリッサ様の幸せのためにも、コンラッド様は申し分のないお相手だと思います。先夜も、礼儀《れいぎ》をわきまえた振《ふ》る舞《ま》いをなさっていたではありませんか?」
「そうでしょうか……」
メリッサはうなだれるようにうつむくと、胸にたまった息を吐く。
(わたくしは勇者とも英雄《えいゆう》とも讃《たた》えられるような御方《おかた》と一緒《いつしよ》になりたかったのに……)
それがただの夢想《むそう》にすぎないことは、彼女にもわかっている。
コンラッドが礼儀正しく、その振る舞いも優雅《ゆうが》であったことは認めてもいい。
だが、勇者としての資質《ししつ》は、はたしてどうだろうか。ただの直感でしかないが、そういう資質とは無縁《むえん》の男のような気がするのだ。
「とにかく、明日は侯爵家《こうしやくけ》にお連れいたしますから、お支度《したく》願います。髪結《かみゆ》いや針子《はりこ》も呼んでおきますゆえ、お早くお目覚めくださいますよう……」
ダニエルはそう言うと、今宵《こよい》は早く休むよう、メリッサに念を押《お》した。
メリッサが何かに夢中になると、夜明けまで目を覚ましていることが多いことを知っているからである。
「わかりました」
拗《す》ねたように唇《くちびる》を尖《とが》らせて、メリッサは立ち上がった。
(とにかく、会うだけは会ってみよう)
と、心に決める。
そして勇者の資質があるかどうかを見極《みきわ》めればいいのだ。
(もしも、資質があれば、身も心も委《ゆだ》ねてもいい。でも、もしも、資質がないとわかったら……)
メリッサは、心のなかで自問する。
そのときには、自分はどのように行動すればいいのだろうか。
(勇壮《ゆうそう》なる戦《いくさ》の神よ……)
人生とは戦いである。男と女の関係も、また戦に例えられる。だとしたら、明日は戦場に赴《おもむ》く戦士の覚悟《かくご》で臨《のぞ》むしかないだろう。
4
白い湯気《ゆげ》のなかに、香油《こうゆ》の香《かお》りが漂《ただよ》っている。
薔薇《ばら》の花びらを浮《う》かせた湯船《ゆぶね》に浸《つ》かりながら、太陽の光を集めたような金色の髪をした娘《むすめ》は、不満そうに唇を尖《とが》らせていた。
そして、全身を確かめるように足の爪先《つまさき》から指を滑《すべ》らせてゆく。
すらりと伸《の》びた足、蜂《はち》のように細くくびれた腰《こし》。しかし胸の双丘《そうきゆう》と腰から下は、豊かで柔《やわ》らかな曲線を描《えが》いている。
女性として、すでに完成された肉体だった。
「メリッサお嬢様《じようさま》を妃《きさき》に迎《むか》えられる殿方《とのがた》は、本当に幸せ者です」
湯上がりのときや、着替《きが》えのときなど、侍女《じじよ》たちはよくそう褒《ほ》めてくれる。
その言葉の意味するところは、メリッサにも分かっている。妃になるというのが、いったいどういうことなのかも……
メリッサは今日、メルセリア侯爵家《こうしやくけ》の屋敷《やしき》に挨拶《あいさつ》に行かなければならない。
両家のあいだでは、すでに婚姻《こんいん》の約束が交《か》わされていて、あとは結婚式の正式な日取りを決めるだけとなっている。
(妃となれば、わたしはあの騎士《きし》に抱《だ》かれることになる……)
メリッサは、大きくため息をついた。
メルセリア侯爵家の嫡子《ちやくし》である魔法《まほう》騎士コンラッドに……
先日、手にキスされたが、そのときの彼の唇《くちびる》の感触《かんしよく》は妙《みよう》にヌルリとしていて、あまり気持ちのいいものではなかった。
しかし、彼のもとに嫁《とつ》ぐとなれば、それ以上のことも受け入れなければならないのだ。
(気が進まない……)
メリッサは、ふたたびため息をつく。
彼女としては、会うだけは会って、どのような人柄《ひとがら》なのか見極《みきわ》めたいと思っていたのだが、彼女の意志とはまったくおかまいなしに縁談《えんだん》は進んでいる。
(伝説に謳《うた》われる勇者のような御方《おかた》と一緒《いつしよ》になりたかったのだけど……)
しかし、それが夢物語だということは、メリッサも自覚している。
相手がどのような人物であろうと、たとえ勇者としての資質が欠片《かけら》もなくても、メリッサはあの騎士と結婚するしかないのだ。
それが貴族の結婚というものである。
いつかは、こういう日が来ることは、わかっていた。十五歳という年齢《ねんれい》での結婚は、貴族の娘として、決して早いほうではない。
「お嬢様、そろそろお時間にございます」
侍女《じじよ》のひとりが、声をかけてきた。
「承知しました……」
メリッサは答えると、湯から上がった。
顔を伏《ふ》せながら、数人の侍女が進み出てきて、メリッサの濡《ぬ》れた身体《からだ》をタオルで拭《ふ》いてゆく。
メリッサは侍女のさせるに任せた。
子供の頃《ころ》からそうなので、とくに疑問はないが、自分で拭いたほうが早いだろうとは思う。
メリッサは下着《したぎ》を着け、上衣《ガウン》をまとった。
そして丸椅子《スツール》に腰《こし》を下ろし、屋敷《やしき》に呼ばれていた女性の髪結《かみゆ》いに髪を整《ととの》えてもらう。
そのあいだに別の侍女が、着替《きが》えを運んできた。
普段《ふだん》、着ている服とは違《ちが》い、さすがに豪華《ごうか》な衣装《ドレス》だった。
清楚《せいそ》な純白のドレスで、そのまま花嫁装束《はなよめしようぞく》に使えるのではないかという気さえした。
メリッサは髪を高く結いあげられ、顔にも化粧《けしよう》を施《ほどこ》された。普段は化粧もしないし、髪も簡単に梳《す》くだけなのだが……
すべてが終わると、侍女が手鏡《てかがみ》で、メリッサに自分の姿を確かめさせる。
銀《ぎん》の円盤《えんばん》のなかに、見知らぬ他人のような自分の姿があった。
(きっと、わたくしはこのまま別人になってしまうのだわ。昨日までのわたくしは、もうどこにもいない……)
メリッサは心のなかでつぶやく。
しかし、その運命を変えることは、もはやできそうにない。
侯爵家《こうしやくけ》と伯爵家《はくしやくけ》の縁組《えんぐ》みである。
縁談はすでに宮廷《きゆうてい》まで届いているようだ。当日には、新王となったフレアホーン国王も賓客《ゲスト》として招待《しようたい》されるのだろう。
両家の縁組みには政治的《せいじてき》な意味が大きく、メリッサはただの道具でしかない。
それでも一応は、婚約《こんやく》相手から望《のぞ》まれて嫁《とつ》ぐのだから、まだしも幸せというべきかもしれない。
ドレスを身に着けると、髪結いとともに屋敷に呼ばれていた本職の針子《はりこ》が、手際《てぎわ》よく細部を調整《ちようせい》してゆく。
そして外出の支度《したく》はすべて整い、メリッサは侯爵家から迎《むか》えに来ていた馬車へと乗り込んだ。
5
石畳《いしだたみ》の街路《がいろ》を馬車に揺《ゆ》られて、メリッサはメルセリア侯爵家の屋敷へと到着《とうちやく》した。
同行していた侍女《じじよ》に伴《ともな》われて、馬車から降りる。
そして、伯爵家に仕《つか》えるメリッサ付きの護衛《ごえい》の騎士《きし》ダニエルと、門の外で待機《たいき》していた侯爵家の騎士に先導されて屋敷のなかへと入る。
「ようこそ、我《わ》が侯爵家へ」
玄関《げんかん》から続く広間で、メリッサは屋敷の当主である侯爵と夫人との出迎えを受けた。
「コンラッドの言うとおり、本当にお美しいお嬢様《じようさま》ですこと。あなたのような女性を、当家に迎えられることを誇《ほこ》りに思いますよ」
「お初にお目にかかります……」
メリッサは、さすがに緊張《きんちよう》を覚えながら挨拶《あいきつ》を返す。
柔和《にゆうわ》そうな表情を浮《う》かべてはいるが、メルセリア侯爵の目には、メリッサを値踏《ねぶ》みしているような視線があった。
侯爵はラムリアース王国の名門貴族の当主であり、その知謀《ちぼう》と武勇《ぶゆう》は先の内乱でフレアホーン皇太子を勝利に導《みちび》いたことで、十分に立証《りつしよう》されている。
夫人も一見、穏《おだ》やかな印象を受けたが、その微笑《びしよう》の下にはそれだけではない何かが感じられた。
結婚《けつこん》ということになれば、このふたりが義父《ぎふ》であり、義母《ぎぼ》となるのだ。
(この人たちと、うまくやっていけるのだろうか……)
メリッサは言いしれぬ不安を覚えた。
そのときである。
広間から二階へと上がる螺旋階段《らせんかいだん》に、メリッサの婚約相手である魔法《まほう》騎士《きし》コンラッドが姿を現した。
「おお、よくぞ参られた。麗《うるわ》しの我《わ》が妃《きさき》、美の女神《めがみ》の化身よ」
まるで詩《し》でも謳《うた》うような台詞《せりふ》とともに、コンラッドは階段を弾《はず》むように降りてくる。
「わしたち夫婦《ふうふ》は、これから王城に登城せねばならぬ。あとは若いふたりで、ゆっくりとくつろがれよ」
威厳《いげん》に満《み》ちた声で言うと、侯爵は夫人を伴《ともな》って玄関から出ていった。
メリッサは一瞬《いつしゆん》、安堵《あんど》を覚えたが、すぐに別の緊張を感じた。
これから婚約者《フイアンセ》である若い男と、ふたりで過《す》ごさなければならないのである。
(いったい、どのようなお人なのだろう)
メリッサはコンラッドに視線を走らせながら、心のなかでつぶやく。
ラムリアース王国の精鋭《せいえい》である魔法騎士団に属《ぞく》しており、魔術師としての実力は、ほとんど導師級《どうしきゆう》だという。
しかし、剣《けん》の腕《うで》のほうの評判《ひようばん》は聞こえてこない。
「さて、メリッサ殿《どの》、まずは我が屋敷《やしき》を案内《あんない》いたしましょう」
コンラッドは微笑《びしよう》を浮《う》かべながらメリッサの手を取る。
生暖《なまあたた》かい感触《かんしよく》が手のひらに伝わってきて、メリッサは一瞬、眉《まゆ》をひそめたが、ダニエルがあわてたように目配せしてくるのが目に入り、しかたなく作り笑いを浮かべた。
「おお、なんと可憐《かれん》なる笑顔《えがお》……」
コンラッドが感極《かんきわ》まったような声を上げる。
メリッサの内心には、まったく気づいていないようだ。
(悪い人ではないということでしょうけど……)
相手の気持ちさえ汲めないようで、|権謀術数渦巻《けんぼうじゆつすううずま》く宮廷《きゆうてい》でうまくやってゆけるのだろうか、とメリッサは疑問に思った。
(巨大《きよだい》な権力《けんりよく》を持つということは、それを狙《ねら》う政敵《せいてき》も多いということなのだけど……)
侯爵家《こうしやくけ》の屋敷は、高価《こうか》な美術品や調度品《ちようどひん》であふれんばかりだった。メリッサの実家とは比べものにもならない。
「我が侯爵家の裕福《ゆうふく》さは、ラドクリフ家にも匹敵《ひってき》いたしますよ」
メリッサが驚《おどろ》きの表情を見せたので、コンラッドが得意《とくい》そうな笑みを浮かべる。
国王家と比べるなど、不遜《ふそん》きわまりないとメリッサは思ったが、あえて言葉にはしなかった。
コンラッドはそして、二階の一室にメリッサを連れて入った。
そこは色鮮《いろあざ》やかな花で埋《う》め尽《つ》くされ、純白の家具、調度品で統一されていた。
そして、
「ここが、わたしとあなたの部屋です」
コンラッドが両手を広げながら、高らかに言った。
「あなたとわたくしの?」
その言葉に、メリッサは思わず後ずさる。
部屋の奥《おく》に、ひとりで寝《ね》るにはあきらかに大きすぎる寝台《ベツド》が見えたためだ。
彼女の頭のなかで、もやもやとした妄想《もうそう》が広がってゆく。
(いやあああ!)
心のなかで叫《さけ》び声をあげて、メリッサはその妄想を追いやった。
そういう妄想をこれまで抱《いだ》かなかったわけではないが、相手の男性が目の前にいるとなると、その現実感は圧倒的《あつとうてき》だった。
「あなたのために、|贈り物《プレゼント》も用意しております……」
コンラッドはそう言うと、部屋の奥に控《ひか》えていた侍女《じじよ》たちに合図《あいず》を送った。
心得《こころえ》たように侍女たちは次々とメリッサの前に進みでてきて、手にしていた宝石箱《ほうせきばこ》から宝飾品《ほうしよくひん》を取りだし、彼女の全身を飾《かざ》ってゆく。
まるで鎧《よろい》でも着せられたかのような、ずっしりとした重さを感じる。
「これを、すべてわたくしに……」
メリッサは豪華《ごうか》な宝飾品をひとつずつ手に取りながら、信じられないというようにつぶやく。
「あなたの美しさを完成させるためならば、安いものです」
コンラッドはそう言うと、前髪《まえがみ》をかきわけるような仕草をみせる。
贈《おく》り物が嬉《うれ》しくないわけがないし、美しいと誉《ほ》められるのも悪い気はしない。
(悪い人ではない……)
先ほども抱いた感想を、メリッサはもう一度、繰り返した。
と、コンラッドの手が顎《あご》にかかった。
あまりに大量の贈り物に、心が麻痺《まひ》していたようになっていたので、メリッサは相手のなすがままに、顔を持ちあげる。
そして、コンラッドの顔がすぐ目の前に迫《せま》っているのに気づいた。
「いやあああ!」
今度は声にだして叫ぶと、メリッサはコンラッドを突《つ》き飛ばして間合いを作ってから、その顔を思いきり平手《ひらて》で叩《たた》いた。
「おおっ!」
そんな反応《はんのう》をまったく予期していなかったコンラッドは、見事なまでに張《は》り倒《たお》され、床《ゆか》に転がる。
「お坊《ぼつ》ちゃま!」
それを見た、侍女たちが悲鳴《ひめい》にも似た声をあげた。
「も、申《もう》し訳《わけ》ありません。あまりに突然《とつぜん》でしたので……」
メリッサもさすがにはっとなって、何事が起こったのかと呆然《ぼうぜん》としているコンラッドに謝罪する。
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「ハ、ハハ……。恥じらいも、また美徳《びとく》のひとつ。わたしのほうが、思慮不足《しりよぶそく》でしたな」
コンラッドはそう言って、何事もなかったかのように立ち上がった。
しかし、その左の頬《ほお》には、くっきりと赤い手形がついている。
コンラッドはしかし、痛みなど感じた様子もなく優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》むと、侍女《じじよ》たちを下がらせた。
「さ、これで、誰《だれ》の目もなくなりましたぞ……」
コンラッドはそう言って、メリッサを抱《だ》き寄せようとした。
メリッサも覚悟《かくご》を決めて、目を閉じようとしたが、
(やっぱり、だめえええ!)
と、コンラッドに背を向けた。
「そ、それよりも、わたくしはお庭を拝見《はいけん》したいと存じます。メルセリア侯爵家《こうしやくけ》の庭園《ていえん》の美しさは、王国一と伝《つた》え聞いておりますので……」
「王国一ですと? それならば、大陸一と訂正《ていせい》させていただきましょう。美の奉仕者《ほうししや》たるこのわたしが設計《せつけい》し、大地の妖精族《ようせいぞく》の職人を招《まね》いて、作らせたのですからな」
コンラッドは謳《うた》うように言うと、メリッサの腰《こし》に手を回し、さっそく御案内《ごあんない》しましょうと申し出た。
唇《くちびる》を奪《うば》われるよりはましだと、メリッサはコンラッドの手の感触《かんしよく》を我慢《がまん》して、並んで階段を降り、建物を出る。
そして建物をぐるりと回って、中庭へと出た。
「これが……」
その庭園を見て、メリッサは思わず目を見張った。
手前には黒曜石《こくようせき》でできた巨大《きよだい》な噴水《ふんすい》があり、精緻《せいち》な青銅《せいどう》の彫像《ちようぞう》が配置《はいち》されていた。
魔物《まもの》の像や現代では使用されなくなった戦車《チヤリオツト》の像があるところを見ると、神々の大戦を題材《だいざい》としているようだ。
しかし神々の像は、男神も女神も一糸《いつし》まとわぬ姿で、しかも金箔《きんぱく》まで張《は》られていた。
絵画や彫像で神々を裸《はだか》にするのは、魔法文明で栄《さか》えた古代王国の時代には一般的《いつぱんてき》だったが、剣《けん》の時代に入ってからは退廃的《たいはいてき》とされている。
(なんて品のない……)
メリッサは心の底から思ったが、誇《ほこ》らしげな表情のコンラッドに対しては、愛想笑《あいそわら》いを返しておく。
邸内《ていない》に戻《もど》るのは、できるかぎり先延《さきの》ばしにしたいという気持ちだったのだ。
メリッサは腰にまわったままだったコンラッドの手からさりげなく逃《のが》れ、庭園の奥《おく》へと進んだ。
しばらくは、色とりどりの花が咲《さ》き乱《みだ》れる花壇《かだん》が続き、メリッサの心はいくらか和《なご》んだ。そしてコンラッドがふたたび腰や肩《かた》に手を回そうとする気配《けはい》を感じると、その場にしゃがんで花を手にするふりをして避《さ》ける。
行き場を失ったコンラッドの手は、しかたなく花々を指差すことになるのだった。
やがて庭園は、高い生垣《いけがき》で行き止まりになった。
しかし、奥の建物はまだ遥《はる》か向こうにあるので、メリッサは不思議《ふしぎ》そうに首を傾《かし》げる。
「これは、ただの生垣ではありませんよ」
コンラッドは自慢《じまん》げに言うと、メリッサの手を強引に握《にぎ》って、生垣が切れているところへ引っ張っていった。
「美には、遊び心も必要ゆえに……」
コンラッドはしたり顔で言う。
生垣の切れたところに入ると、別れ道になっていて、左右と正面に続いていた。
そして正面は五歩ほどのところで行き止まり、右へと折《お》れていた。
「迷路《めいろ》になっているのですか?」
「そのとおり……」
コンラッドは大仰《おおぎよう》にうなずくと、メリッサに手で合図らしきものを送った。
「はあ?」
その意味がわからず、メリッサは小首を傾げる。
「出口は反対側にありますゆえ、どうぞお逃《に》げください。時間を置いて、わたしが後を追いますゆえ。見事、捕《つか》まえられましたら、メリッサ殿《どの》の口づけを褒美《ほうび》としていただきましょう」
「な、なんですって……」
メリッサは思わず言葉を失ってしまった。
「時間はたっぷりと差《さ》し上げますゆえ、どうか御安心《ごあんしん》を……」
迷路での追いかけあいなど、子供じみた遊びだと内心、メリッサは思ったが、あまり彼の気分を害《がい》してはと思い、それは口には出さずにおく。
「それで、わたくしが勝ったときには?」
「そのときには、わたくしのほうから口づけするということで……」
「それでは、まったく同じです!」
メリッサは両の拳《こぶし》を握《にぎ》りしめて、コンラッドに抗議《こうぎ》をする。
「わたくしたちは許嫁《いいなずけ》なのです。恥ずかしがることなど……」
「あるに決まってます! わたくしは誰ともそういうことはしていないのですから。ご褒美ということでしたら、もっと他に何か……、そう、コンラッド様とお手合わせをしたいと存じます。魔法騎士団《まほうきしだん》にその人ありと知られたあなた様の実力を、この目で見たいと存じますので‥……」
「わたくしの、実力ですか?」
コンラッドは不思議なものでも見るような視線を向けてきた。
「はい、ぜひにも!」
メリッサは声に力を込めた。
勇者としての資質を見るには、もっとも直接的《ちよくせってき》な手段である。
「そこまで仰《おお》せなら、約束いたしましょう。しかし、それはあなたがわたしに捕まることなく、見事、この迷路を抜《ぬ》け出ることができたならですよ」
「承知《しようち》……しました」
メリッサはしかたなくうなずいた。
ここは侯爵家《こうしやくけ》の屋敷《やしき》であり、メリッサは婚約者《こんやくしや》として挨拶《あいさつ》に来ている身なのだ。
婚約相手を邪険《じやけん》にするのは、さすがに問題がある。
(捕《つか》まったなら覚悟《かくご》を決めるしかないのでしょうね……)
メリッサは心のなかでつぶやき、生垣《いけがき》で造られた迷路へと入っていった。
6
いかに広いといえども中庭である。
適当《てきとう》に歩けばすぐに出口に着くだろう、と思ったのだが、それが甘《あま》い考えであったことを、メリッサはすぐに思い知らされた。
生垣は、どこもかしこもまったく同じ長さに刈《か》り込《こ》まれていて、自分のいる場所が一度、通《とお》ったところか、そうでないのかさえ判断《はんだん》がつかなかった。
目印《めじるし》でも残《のこ》しておけばよかったと思ったが、すでに手遅《ておく》れである。
メリッサは何かの書物で読んだ知識を頼《たよ》りに、行き止まりになるまで右に折れることにした。
入口と出口は繋《つな》がっているのだから、いつかはそれで外に出られるはずだった。
しかし問題は、その前にコンラッドに捕まるかもしれないということである。
「そのときは、そのときのこと」
メリッサはそう声に出し、計画を実行に移した。
「……それでは、追いかけますぞ!」
しばらくすると、コンラッドの声が遠くから聞こえてきた。
(早すぎます!)
メリッサとしてはそう主張《しゆちよう》したいところだったが、声をたてては自分の居場所《いばしよ》を知られてしまうので、それもできなかった。
足音も立てないように靴《くつ》さえ脱《ぬ》いで、それを手に持って、メリッサは早足で歩く。
そしてメリッサは、自分でも予想したより早く、しかもコンラッドに追いつかれることなく、出口と思《おぼ》しき生垣の切れ目にたどりついた。
しかし――
「さあ、捕まえましたぞ!」
いきなり声がしたかと思うと、出口の反対側《はんたいがわ》、生垣のくぼみのような場所からコンラッドが姿《すがた》を現し、メリッサを背後《はいご》から抱《だ》きしめたのである。
「いやあああ!」
メリッサはたまらず悲鳴《ひめい》を上げる。
「ま、待ち伏《ぶ》せとは卑怯《ひきよう》というものです!」
コンラッドはおそらく、迷路の最短|距離《きより》を進んで、ここに潜《ひそ》んでいたのだ。ここなら、行き違《ちが》いになることも絶対《ぜったい》にない。
「わたしがここに来るまでに、出口を見つけられなかったメリッサ殿《どの》の負けということです」
コンラッドは勝《か》ち誇《ほこ》った声で言うと、メリッサを、自分のほうに向けさせようとする。
「納得《なつとく》できません」
メリッサはそう言って、激《はげ》しく身をよじる。
と、そのとき、迷路を出て、十歩ほどのところにある林のような場所に、人影《ひとかげ》らしきものが動くのが見えた。
「コ、コンラッド様、今、向こうのほうで何かが動きました」
コンラッドの手から逃《のが》れようと、必死に手足をばたつかせながら、メリッサは訴《うつた》えるように言った。
しかし、男の力にはかなわず、正面から向き合う姿勢《しせい》にさせられる。
「栗鼠《リス》か何かでしょう」
コンラッドはまったく気にした様子さえなく、メリッサの腰《こし》を抱《だ》くと、うっとりとした表情で顔を近づけてくる。
「いえ、あれは確《たし》かに人でした!」
メリッサはコンラッドから顔を背《そむ》け、なんとか人影の正体を確かめようと、木々のあいだに目を凝《こ》らす。
「それでは、きっと庭師《にわし》でしょう。わたしたちは許嫁《いいなずけ》なのです。人目をはばかることなどありません……」
コンラッドはそう言うと、メリッサを抱き寄せようと、腕《うで》に力を込める。
(ああ、もうだめ……)
メリッサはあきらめて、目を閉じようとした。
そのときであった。
「メルセリア侯《こう》の子息《しそく》コンラッドと見た!」
殺気のこもった声が響《ひび》き、林の向こうから五人の男が姿を現した。
その手には、剣《けん》が握《にぎ》られている。
「わたしたちの愛《あい》の営《いとな》みを邪魔《じやま》するとは、無粋《ぶすい》な輩《やから》め。貴公らは、いったい何者なのだ?」
コンラッドはいかにもなごり惜《お》しそうにメリッサを離《はな》すと、腰帯《こしおび》に刺《さ》していた棒杖《ワンド》をはずし、男たちと向かいあった。
彼の態度《たいど》には動じた様子《ようす》はなく、その顔には笑《え》みさえ浮《う》かんでいた。
それを見て、メリッサの胸は大きく高鳴《たかな》った。
(相手は、五人もいるというのに!)
コンラッドには、勇者としての資質があるのかもしれないとの期待が、膨《ふく》らんでくる。
魔術《まじゆつ》で対決するということに不満はあるが、戦いを選《えら》んだという事実に変わりない。
「我らはアルモザーン子爵《ししやく》にお味方し、貴様の父親に領地財産《りようちざいさん》を没収《ぼつしゆう》された者だ!」
ひとりが叫《さけ》んだかと思うと、男たちは剣を振《ふ》りかざし、コンラッドに殺到《さつとう》してくる。
「命が救《すく》われただけでも、感謝《かんしや》するべきであろうに!」
コンラッドは叫びかえすと、棒杖を大きく真横に振るい、上位古代語の呪文《じゆもん》を唱《とな》える。
「万物《ばんぶつ》の根源《こんげん》、万能《ばんのう》の力《ちから》……」
そして彼の呪文は完成し、五人の男はばたばたと倒《たお》れる。
(何の呪文を使ったというの?)
爆発《ばくはつ》や電光《でんこう》ではないから、おそらくは魔力の雲《くも》の一種だろう。この系統の呪文には、一瞬《いつしゆん》にして相手を即死《そくし》させる強力なものもある。
「ふん、他愛《たあい》もない……!」
コンラッドは鼻《はな》を鳴《な》らすと、わずかに乱れた髪《かみ》を整《ととの》えた。
そして、大声を上げて、衛兵《えいへい》を呼ぼうとする。
だが、そのとき、倒れた男のうちのひとりが、頭を振りながら、起きあがった。
「呪文のかかりが浅《あさ》かったというのか……」
コンラッドは驚愕《きようがく》のためか、呆然《ぼうぜん》と男を見つめている。
「何をなさっているのですか?」
メリッサはコンラッドに叱咤《しった》の声を飛ばす。
男の殺意《さつい》は間違《まちが》いなく本物だ。呆然としている暇《ひま》はないのである。
「そ、そうでした」
はっとしたようになり、コンラッドはふたたび棒杖《ワンド》を振るう。
「万物の根源……」
コンラッドは呪文を唱えはじめたが、それが完成するよりも先に、男は目前に迫《せま》っていた。
「覚悟《かくご》しろ!」
男は叫《さけ》ぶと、上段から剣《けん》で斬《き》りつける。
メリッサの目には、さほど鋭《するど》い攻撃《こうげき》には見えなかったが、コンラッドはそれを避《よ》けることができず、胸《むね》のあたりを薄《うす》く切り裂《さ》かれた。
「ひいっ! 血が、血があああ!!」
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コンラッドはまるで断末魔《だんまつま》のような悲鳴を上げると、腰《こし》が砕《くだ》けたように地面に尻《しり》をつく。
そしてそのままの姿勢で、メリッサのほうに後ずさってきた。
あまりにも無様なその姿に、メリッサは思わず天を仰《あお》いだ。
(こんな方が、わたしの伴侶《はんりよ》になる男の人とは……)
不本意だと、心の底から思った。
最初に見せた自信は、いったい何だったのかと思う。
(魔術とて、絶対ではないのに……)
無論《むろん》、剣とて絶対ではない。
だからこそ、このようなときのために、訓練《くんれん》を欠《か》かしてはならないのだ。
「おやめなさい!」
メリッサはしかたなくコンラッドの前に立ちはだかって、大きく両手を広げた。
「女は下がっていろ!」
男は大上段に剣を振り上げたまま、そう凄《すご》んでくる。
「隙《すき》だらけですわよ」
メリッサはため息まじりにつぶやくと、相手の足を思いっきり蹴《け》り払《はら》った。
「うおっ!」
男は見事にバランスを崩《くず》し、地面に倒《たお》れる。
そのわずかな隙をついて、メリッサは相手の手から剣を奪《うば》った。
「仲間を連れて、この屋敷《やしき》から出てゆきなさい。私怨《しえん》で戦うのは、騎士《きし》として恥ずべき行為《こうい》だと思いますわ」
「我らが、アルモザーン子爵《ししやく》に味方したは、王国の伝統《でんとう》に従《したが》ってのこと。たとえ戦《いくさ》に敗《やぶ》れたとはいえ、なにゆえ財産や領地《りようち》まで没収《ぼつしゆう》されなければならぬのだ! しかも、その財産や領地は王家ではなく、メルセリア侯爵《こうしやく》が大半を我《わ》が物としたと聞くぞ!」
「侯爵様が?」
男の言葉に、メリッサの眉《まゆ》がぴくりと動く。
(もしかして、さっきの贈《おく》り物は……)
アルモザーン子爵に味方した貴族、騎士から奪《うば》い取ったものなのかと、思ったのだ。
「コンラッド様〜」
そのとき、背後から衛兵たちの叫《さけ》びと金属《きんぞく》の鳴《な》る音が聞こえてきた。
「ここで命を捨《す》てたいのなら、何も言いませんが……」
メリッサはそう言って、静《しず》かに男を見下ろす。
「不正《ふせい》な裁《さば》きは、いつかは必ず正されるでしょう」
「そうだといいがな。このままでは、ラムリアースは、メルセリア侯とその一党に私物化《しぶつか》されよう。まあ、貴様は身内《みうち》だろうから、望《のぞ》むところかもしれないがな」
そう吐《は》き捨《す》てるように言うと、男は立ち上がり、仲間たちのところへ駆《か》け戻《もど》った。
メリッサは剣《けん》を捨てると、周囲《しゆうい》を見回す。
婚約者《フイアンセ》であるコンラッドの姿はどこにもない。おそらく、迷路のなかに逃《に》げ込んでしまったのだろう。
「不本意……ですわ……」
メリッサは目に涙《なみだ》をにじませながらつぶやいた。魂《たましい》が抜《ぬ》けたような表情で、その場に立ち尽《つ》くす。
しばらくすると、足音がひとつ近づいてきた。
「メリッサ様、お怪我《けが》はありませんか?」
声をかけてきたのは、伯爵家《はくしやくけ》に仕える騎士ダニエルだった。
「ダニエル……」
その聞き慣《な》れた声に、メリッサは涙を抑《おさ》えることができなくなった。
「恐《こわ》い思いをさせました……」
ダニエルは申し訳なさそうに頭を下げる。
しかし、メリッサは無言で首を横に振《ふ》った。恐くなどない。涙を流しているのは、違《ちが》う理由からだ。
(この屋敷《やしき》から出たい。家にも帰りたくない)
それが、メリッサの偽《いつわ》らざる気持ちである。
しかし、行くあてなど、あるはずもなかった……
7
夜の闇《やみ》が、窓《まど》の外には広がっている。
メリッサは透《す》けるような夜着《やぎ》をまとい、ぼんやりと闇を見つめている。
あの騒動《そうどう》のあと、メリッサは気分が優《すぐ》れないと言い張って、しばらくのあいだ誰にも会わなかった。
しかし、それではあまりに失礼《しつれい》だと、ダニエルに諭《さと》され、夕刻《ゆうこく》になって侯爵家《こうしやくけ》の人々の前に姿を現した。
そして晩餐《ばんさん》を一緒《いつしよ》にすることになった。
ダニエルによれば、今日は侯爵家に泊《と》まってもよいということになっていた。
より正確に言えば、家には帰るな、ということだろう。
父はすでに、メリッサを侯爵家へと嫁《とつ》がせたつもりでいるのだ。
しかし父が意図《いと》していることは、彼女もすでに理解《りかい》はしていた。
メルセリア侯爵家と結《むす》んで、ディブロー伯爵家の安泰《あんたい》をはかろうとしているのではない。侯爵家の専横《せんおう》から若い国王と王国を守るために、あえて身内になろうとしているのだ。
皮肉《ひにく》なことに、昼間、暴漢《ぼうかん》に襲《おそ》われたことで、メリッサは父の意志《いし》を理解したのだ。
侯爵家の跡継《あとつ》ぎであるコンラッドの妃《きさき》となり、彼をうまく操縦《そうじゆう》することを、父は期待《きたい》しているのだ。また、それぐらいの才覚《さいかく》はあると信じてもらってもいるのだろう。
そのためには、夫を虜《とりこ》にするぐらいに、彼の寵愛《ちようあい》を受ける必要がある。
メリッサは晩餐のとき、葡萄酒《ワイン》を飲んだ。
いつもなら水に薄《うす》めて飲むところを、そのまま杯《はい》を重《かさ》ねた。
酔《よ》いに身を任《まか》せられたら、これから先のことも我慢《がまん》できるのではないかと思ったからだ。
しかし彼女の意図に反して、心は驚《おどろ》くほど冷《さ》めていた。
「伯爵家《はくしやくけ》のために、王国のために……」
メリッサは声にだしてつぶやく。
「わたしは、あの男に抱《だ》かれることになる」
魔法《まほう》騎士《きし》コンラッド。メルセリア侯爵家の跡継ぎに……
昼間の事件で、彼に勇者としての資質がないことは、はっきりとわかった。
美の奉仕者《ほうししや》などと自称《じしよう》しているが、その美的感覚は退廃的《たいはいてき》であり、稚拙《ちせつ》でさえあることも……
他人から奪《うば》った物を平然と|贈り物《ブレゼント》と言える感性も異常《いじよう》というしかない。
(侯爵家の権力や魔術に頼《たよ》らねば何もできない男……)
メリッサは、そう結論《けつろん》づけた。
(わたしは、そんな男の妻《つま》になる……)
しかし、泣きたい気持ちは、すでに失《う》せていた。
貴族の結婚《けつこん》というのは、大半がこういうものなのである。
運命を受け入れるしかないのだ。
メリッサは覚悟《かくご》を決めようとしていた。
だが、それがなかなかできない。
新しい部屋となるはずの場所で、ひとりで寝《ね》るには大きすぎる寝台《ベツド》の上で、透《す》けるような夜着を身にまとっていてさえ。
もうすぐ、夫となる男が部屋に入ってくる。
後戻《あともど》りは、もはやできないのだ。
(……本当に、そうなのだろうか?)
そのとき、ふとメリッサの心のなかに疑問が浮《う》かんだ。
(どうして、運命を受け入れる必要があるの。それは、わがままだから? 大勢《おおぜい》の人が迷惑《めいわく》するから? ラムリアース王国や伯爵家《はくしやくけ》のためだから?)
メリッサは自問《じもん》をしてみた。
その疑問を否定《ひてい》してくれる答えを探そうとして……‥
しかし、そんな答えはどこにも見つからなかった。
(わたしに運命を受け入れることを強要《きようよう》している人々こそ自分勝手ではない? 迷惑しているのは、わたしだって同じ。わたしひとりの犠牲《ぎせい》で救《すく》われるような国や家なんて存在《そんざい》する意味があるというのかしら?)
メリッサの心のなかに芽生《めば》えた小さな疑問が、次第《しだい》に大きく膨《ふく》れあがってくる。
「偉大《いだい》なる戦《いくさ》の神よ……」
メリッサは胸の前で手を組んで祈《いの》りを唱《とな》えた。
「わたくしは、わたくしは……不本意ですわ!!」
その瞬間《しゆんかん》――
『戦《たたか》うがよい』
そんな声がどこからか聞こえてきた。
いや、その声はメリッサの耳にではなく、心に直接《ちよくせつ》、響《ひび》いたのだ。
「マイリー神? マイリー神なのですか?」
メリッサは目をいっぱいに開いて、天を見上げた。
聞き間違《まちが》いでなどあるはずがない。心に響いた声は、圧倒的《あつとうてき》な現実感があった。
「神よ、感謝いたします」
メリッサは歓喜《かんき》の表情を浮かべ、高らかに叫《さけ》んだ。
「おお、感謝していただけますか!」
そのとき部屋の扉《とびら》が開いて、夫となるはずであった男が部屋に入ってきた。
メリッサは夜着の上から厚手の上衣《ガウン》を羽織《はお》ると、コンラッドのほうに確かな足取りで進んでゆく。
至福《しふく》の表情《ひようじよう》で、コンラッドが両手を広げる。
しかし、メリッサはその脇《わき》をすり抜《ぬ》けて、扉の外へと出た。
メリッサを抱《だ》きしめようとしたコンラッドの腕《うで》が空中を泳《およ》ぐ。
「メリッサ殿《どの》?」
コンラッドが呆然《ぼうぜん》として、メリッサを呼び止める。
「どちらへ行かれるのですか?」
メリッサは立ち止まり、ゆっくりと彼を振《ふ》り返った。
「仕《つか》えるべき勇者を捜《さが》しにまいります」
優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》みながら、メリッサは答えた。
そして、ごきげんよう、と別れの挨拶《あいさつ》を送る。
(オーファンに行こう)
メリッサの心は、そのとき決まっていた。
彼《か》の剣《けん》の国の王都には、戦《いくさ》の神の大神殿《だいしんでん》があり、剣《つるぎ》の姫《ひめ》≠ニ謳《うた》われる偉大《いだい》なる女性|最高司祭《さいこうしさい》がいるから……
その日からおよそ二年後、メリッサは神の啓示《けいじ》により、仕えるべき勇者に巡《めぐ》り会うことになる――
第3章 レディ・マースナリー
1
丸太《まるた》を組みあげた高い塀《へい》で囲まれた砦《とりで》の中庭《なかにわ》で、ふたりの戦士《せんし》が向かいあっている。
ひとりは端正《たんせい》な顔立ちをした華著《きやしや》な印象《いんしよう》の若い男。もうひとりは長身で、鍛《きた》えあげられた肉体をしている赤毛の女だ。その左の頬《ほお》には、奇妙《きみよう》な紋様《もんよう》が墨《すみ》で描《えが》かれている。
性別を入れ替《か》えたほうが、似《に》つかわしいようなふたりだった。
そして、それぞれの手には、訓練《くんれん》用に刃《は》をつぶした| 剣 《ブロードソード》が握《にぎ》られている。
「それでは、参りますよ」
男のほうが声をかける。
「ああ、どこからでもかかってこい!」
赤毛の女戦士が両手を広げて応じた。
「やあっ!」
いくぶん迫力《はくりよく》に欠ける気合の声とともに、男が斬《き》りかかってゆく。
優雅《ゆうが》で無駄《むだ》のない動きではあったが、その攻撃《こうげき》には速《はや》さも力強さも欠けていた。赤毛の女戦士は軽々と横に飛んで攻撃をかわすと、片方の足をその場に残し、男を蹴躓《けつまず》かせた。
「あ、あれ?」
男は何が起こったのかも理解《りかい》できず、間抜《まぬ》けな声をあげた。そして無様《ぶざま》に顔から地面につっこんでゆく。
端正な顔や艶《あで》やかな髪《かみ》が、たちまち土埃《つちぼこり》にまみれた。
「なんだ、その様は?」
女戦士は呆《あき》れはてたという顔で、男を見下ろす。
ふたりを遠巻《とおま》きに見守っていた傭兵《ようへい》たちが、大声で笑いはじめた。
赤毛の女戦士は、名前をジーニという。
ヤスガルン山脈の山岳民《さんがくみん》の出身で、一年ほどまえに、ここレイドの街の傭兵団鋼《はがね》の人形《にんぎよう》≠ノ入団した。今では一隊を任《まか》され、十人ほどの部下を率《ひき》いている。それだけの腕《うで》と度胸《どきよう》が彼女にはあり、荒《あら》くれ者の傭兵もそれを認《みと》めているのだ。
ジーニの相手をした男のほうは、名前をヘクターという。今日、入団したばかりの新入りで彼女の隊に配属《はいぞく》された。
「おまえ、それでよくレイド帝国《ていこく》の貴族《きぞく》をやっていたな。レイドがロマール王国に滅《ほろ》ぼされたのも当然だぜ……」
腹《はら》を抱《かか》えながら、バーブという名の傭兵がジーニたちのところにやってきた。彼はジーニの片腕《かたうで》を自認《じにん》している。
強大な騎士団《きしだん》と傭兵団を組織《そしき》し、アレクラスト大陸の制覇《せいは》を目指したレイド帝国が、十字路の王国ロマールとの戦いに敗《やぶ》れ、滅亡《めつぼう》したのはおよそ二十年ほど前のことである。
レイドの街は、今やロマール王国の領土《りようど》となっており、王族のひとりが侯爵《こうしやく》として治《おさ》めている。レイドの軍事力の一翼《いちよく》を担《にな》った傭兵団も、今ではロマール王国が雇《やと》い主となっている。
依頼《いらい》の多くは、山野に逃《に》げこんで野盗《やとう》化したレイド帝国の貴族、騎士などの残党狩《ざんとうが》りである。もっとも、ヘクターのように傭兵団のほうにも、レイド帝国の貴族、騎士の出身者が参加《さんか》している。領土と財産《ざいさん》を残《のこ》らず没収《ばつしゆう》されたため、野盗になるか、傭兵になるかの選択《せんたく》を迫《せま》られた者が多いということだ。
「お恥ずかしいかぎりです」
ヘクターは、端正《たんせい》な顔に苦笑《くしよう》を浮《う》かべる。
もっとも、彼が幼子《おさなご》の頃《ころ》にレイドは滅《ほろ》んでいるので、自分が貴族だという実感《じつかん》はない。ただ没収を逃《のが》れた財産が最近まであったので、裕福《ゆううふく》な暮らしをしていたのは事実だ。
節約《せつやく》していたら、あと何十年と暮らしてゆけたのだろうが、贅沢《ぜいたく》に慣《な》れたヘクターの母にはそんな暮らしはできなかった。その母は昨年、貧《まず》しい暮《く》らしを知ることなく病死《びようし》している。
「ですが、わたし以外のレイドの貴族が相手をしても、この女性には敵《かな》わないでしょう。わたしごときでは、一生かかっても、彼女には勝てそうにありません……」
「戦場で敵としてあったら、どうする?」
ジーニはそう言うと、傭兵《ようへい》の場合、そういうこともあるのだからと続けた。
「そのときには、なりふりかまわず逃げますね。お願いですから、追いかけないでくださいよ」
ヘクターはそう言って、ジーニにお辞儀《じぎ》をした。レイドの貴族の出身だけあって、その動作は優雅《ゆうが》だった。
「そんな気構《きがま》えで、傭兵|稼業《かぎよう》が勤《つと》まるとでも思っているのか? 命があるうちに、別の仕事についたほうがいいぞ」
ジーニは真顔で言う。
「そうしたいのは山々なのですが、わたくしには商才《しようさい》もなく、技術《ぎじゆつ》もありません。なけなしの財産も使い果たしてしまい、この程度《ていど》の腕《うで》でも、剣《けん》より他《ほか》に生きる手段《しゆだん》がないのです。せめて妹《いもうと》をまっとうな相手に嫁《とつ》がせるまで、なんとか生き延《の》びてみせますよ」
ヘクターはそう言って、力なく笑った。
「妹がいるのなら、そいつに稼《かせ》がせればいいじゃないか? そのほうがよほど儲《もう》かるぜ」
バーブが言って、下品《げひん》な笑いを響《ひび》かせる。
「わたくしと同じく世間知らずで、そういう仕事はとても勤まりませんよ」
気分を害《がい》した様子もなく、ヘクターはバーブに答えた。
「いくらなんでも無礼《ぶれい》だぞ」
ジーニは鋭《するど》い声で、バーブを制する。
妹のために、命の危険に身をさらす。腕のほうはともかく、その精神は貴族的だと、ジーニには思えた。もっとも、そんな理想的《りそうてき》な貴族には、めったにお目にかからないのだが
「しかたないな」
ジーニは大きくため息をついた。
「できるかぎり、足を引っ張らないようにしてくれ。それから、毎日の鍛錬《たんれん》は怠《おこた》るな。剣の重さに負けないこと、少し戦ったぐらいで息が上がらないこと。今のままじゃあ、戦場に立つ資格《しかく》もないからな」
ジーニはバーブに後を頼《たの》むと、ひとり砦《とりで》のなかへと入っていった。
2
赤毛の女戦士が砦の扉《とびら》をくぐると、すぐそこにひとりの男の姿があった。
男に気づいて、ジーニが表情を厳《きび》しくする。
彼の名はレティエ。この傭兵団《ようへいだん》鋼《はがね》の人形《にんぎよう》≠フ隊長のひとりで、金勘定《かねかんじよう》しかできない団長の代理として、傭兵団をまとめている。
「どうだ? 新しく入った傭兵は?」
レティエがニッとした笑いを浮《う》かべながら、ジーニに声をかけてきた。
「今の稽古《けいこ》を見ただろう。剣術《けんじゆつ》は習っていたようだが、素人《しろうと》も同然《どうぜん》だな。あんな男を戦場に出したら、とても生きて帰ってはこれないぞ」
ジーニは冷たく答えた。
「そうかもしれねぇが……」
レティエは惚《とぼ》けるように答える。
「しかし、戦死《せんし》する傭兵もいたほうがいいかもしれないぞ。危険な任務《にんむ》だったと、依頼主《いらいぬし》に思わせるためにもな」
「それで、報酬《ほうしゆう》を上乗せさせるつもりか?」
「生き残《のこ》った傭兵の分け前も増《ふ》えるだろう?」
「ふざけるな!」
ジーニはレティエに怒鳴《どな》りつける。
「そのとおり、ふざけただけさ。そんなにいきりたつなよ。オレだって、みんなに無事でいてほしいと願っているさ。ただ、そうもいかないのが、この稼業《かぎよう》ってものだ。敵だって、死にものぐるいで向かってくるんだからな。味方《みかた》に誰《だれ》も犠牲者《ぎせいしや》が出ないなんて、それは戦いではなく、虐殺《ぎやくさつ》ってもんだ」
レティエはなだめるように言って、ジーニの背中に手を回そうとする。
「わたしに触《ふ》れるな!」
ジーニは叫《さけ》ぶように言って、レティエの手を払《はら》いのけた。
「おまえとは、もう終わっている!」
「つれないことを言う。誘《さそ》ってきたのは、そっちだったんだぜ。そうそう、すぐに冷《さ》められてもな」
レティエは肩《かた》をすくめたが、その顔には嘲笑《ちようしよう》が浮かんでいた。
「おまえという男の本性《ほんしよう》を見抜《みぬ》けなかっただけだ」
ジーニは嫌悪感《けんおかん》をむきだしにする。
目の前にいる傭兵《ようへい》隊長とは、数か月前まで男と女の関係だった。
彼が言ったとおり、この男の剣《けん》の腕《うで》と頭のよさに惚《ほ》れて、ジーニのほうから誘った。
(まったく、わたしという女は……)
どうしようもないな、とジーニは自虐的《じぎやくてき》に思う。
男を見る目というものが、まるでない。
彼女が故郷《こきよう》であるヤスガルン山脈の山岳民《さんがくみん》アリド族の集落を出るきっかけになったのも、ひとりの男が原因だった。
その男とは恋仲《こいなか》で、将来を誓《ちか》いあっていた。
その男が夏のはじめに熱病《ねつびよう》を患《わずら》ったとき、ジーニは集落の氷室《ひむろ》に保管《ほかん》されていた氷を使って、看病《かんびよう》をしたのである。
しかし、氷は集落にとって貴重《きちよう》な交易品《こうえきひん》であり、部族の者の使用は厳《きび》しく禁《きん》じられていた。
掟破《おさてやぶ》りとして、ジーニは集落から追放《ついほう》された。
だが、それは表向きの理由でしかない。真相は恋人であった男に騙《だま》されたことを知ったからである。
彼は高熱の出る薬草《やくそう》を自ら飲《の》んで、ジーニに掟破りをさせたのだ。
なぜ、彼がそのような真似《まね》をしたのか、本当のところは知らない。
集落で最高の戦士であり、アリド族の族長|候補《こうほ》にまで選ばれたジーニに、集落の若い男どもが憎しみを覚《おぼ》え、恋仲であった若者を唆《そそのか》したというところだろう。
だが、愛する若者に裏切《うらぎ》られたという衝撃《しようげき》は、ジーニにとって大きすぎた。集落を後にし、明日をも知れぬ傭兵暮らしに身を置くほどに。
死んでもいいとさえ、思っていたのかもしれない。
だが、傭兵団に入って一か月もたたないうちに、彼女はこのレティエと男と女の関係になっていた。しかし、彼がただ狡猾《こうかつ》なだけの男だと悟《さと》って、すぐに関係を切った。
おそらくレティエのほうも、ジーニに対して、一片の好意も感じていなかっただろう。ジーニほど大柄《おおがら》で筋肉質な女はいないから、興味《きようみ》半分で抱《だ》いたのかもしれない。
「ところで、またぞろ、王国から野盗退治《やとうたいじ》の依頼《いらい》が入った。新入りも入れて、十人ほどを率いて行ってくれないか。実戦に勝《まさ》る訓練はないからな」
薄笑《うすわら》いを浮《う》かべて、レティエが言った。
「新入り……ヘクターも入れろだと?」
正気か、とジーニはレティエに詰《つ》め寄《よ》る。
「正気かどうかは自信はないが……」
レティエは肩《かた》をすくめてみせる。
「すくなくとも本気だ。ここは施《ほどこ》し場ではないんだ。戦えない奴《やつ》に払《はら》う金などない」
レティエはさらりと言った。
「いくらなんでも無茶だ。もう少し、鍛《きた》えてから……」
「団長から傭兵《ようへい》たちのことを任されているのは、おまではなくオレだぜ。そして本気だって言ってるんだ」
レティエは殺気《さつき》をはらんだ視線を、ジーニに向けた。
「分かった……」
そこまで言われれば、ジーニとしても従うしかない。
「くわしく話を教えてくれ」
その言葉に、レティエは満面《まんめん》の笑《え》みを浮かべる。
そして、討伐《とうばつ》するべき野盗について、くわしい説明をはじめた……
3
金属《きんぞく》が撃《う》ち合う音と、男たちの怒号《どごう》が飛び交っている。
ジーニは大剣《グレートソード》を振《ふ》りかざしながら、傭兵隊の仲間に激励《げきれい》の言葉をかけていた。
彼女はいつも先頭に立って敵の中に飛び込み、その長大な刃《やいば》を振り回す。それだけで、敵は混乱《こんらん》し、浮《う》き足《あし》だつのだ。
そこを狙《ねら》って、仲間の傭兵たちが斬《き》り込んでゆく。
それが、彼女の隊の戦い方だった。
しかし、今日の戦いでは、その戦術は使えなかった。
緊張《きんちよう》のあまり、新入りのヘクターが敵に向かって悲鳴《ひめい》を上げながら突撃《とつげき》してしまったためである。
彼はまたたく間に敵に取り囲まれ、危《あや》うく命を落とすところだった。
ジーニをはじめ数人の傭兵で、なんとか窮地《きゆうち》を救ったものの、戦いはいきなりの乱戦となった。
恐怖《きようふ》のため、ヘクターは戦場の真ん中で腰《こし》を抜《ぬ》かし、嘔吐《おうと》と失禁《しつきん》とで汚物《おぶつ》にまみれている。
ジーニはやむなく彼を護《まも》るため、その側《そば》に張りつくことになった。
おかげで、彼女はたったふたりの敵を倒《たお》しただけだった。普段《ふだん》なら、誰よりも多くの敵を仕留《しと》めるのだが……
「これだから素人《しろうと》は!」
ジーニは激しく悪態《あくたい》をついた。
だが、敵がかかってこないことには、戦いようがない。しかし、ヘクターを見捨《みす》てるわけにもゆかない。
「イヴァンがやられた!」
そのとき、誰かの声が響《ひび》いた。
「イヴァンが?」
ジーニは顔色を変える。
槍使《やりつか》いのイヴァンは、隊のなかでも古参《こさん》の傭兵《ようへい》で、バーブに次ぐぐらいの実力の持ち主だった。
「誰でもいい。イヴァンの援護《えんご》をしてやってくれ!!」
ジーニは祈《いの》るような思いで叫《さけ》んだ。
そして背後を振《ふ》り返る。
新入りは、まだ嘔吐をしていた。胃の中にはもはや吐《は》くものは残っておらず、えづき続けているだけだったが。
「素人が……」
ジーニはふたたび吐き捨てると、血が滲《にじ》むほどに唇《くちびる》を噛《か》んだ――
ジーニたちの隊が、レイドの街に帰ってきたのは、戦いがあった翌日の昼頃《ごろ》だった。
死人が出なかったのが奇跡《きせき》とさえ言えるようなひどい戦いだった。
剣《けん》で肩《かた》を斬《き》られた槍使いのイヴァンも重傷《じゆうしよう》ではあったが、なんとか命は取り留め、戦《いくさ》の神の神殿《しんでん》で治癒《ちゆ》の奇跡を施《ほどこ》された。
しかし、野盗《やとう》の大半には逃《に》げられ、倒したり捕《と》らえることができたのは、ほんのわずかでしかなかった。
イヴァンが傷《きず》ついたとき、バーブが戦況《せんきよう》を判断して、敵を全滅《ぜんめつ》させることから味方の被害《ひがい》を少なくするように戦い方を変えたからだ。
その判断は正しかったと思う。
しかし、報酬《ほうしゆう》は大幅《おおはば》に減額《げんがく》され、神殿へ多額《たがく》の寄進《きしん》をしたこともあり、儲《もう》けはほとんどなかった。
そしてジーニたちは日が暮れるのも待たず、酒場へと繰り出したのである――
「なにを陰気《いんき》な顔をしてやがる!」
バーブがヘクターの背中をどんと叩《たた》いた。
戦が終わってから、彼はまるで死人のような表情で、ほとんど口を開こうとしなかった。
「野盗は退治した。味方に犠牲者《ぎせいしや》はいねぇ。稼《かせ》ぎは少なかったが、こうして酒も飲める。オレたちは……、傭兵団《ようへいだん》鋼《はがね》の人形《にんぎよう》≠フジーニ隊は、みごと依頼《いらい》を果《は》たしたってこった。もっと嬉《うれ》しそうにしやがれ」
「は、はい……」
ヘクターは力なくうなずく。
その様子には、貴族の誇《ほこ》りなど欠片《かけら》も感じられない。打ちのめされたような表情だった。
「しかし、わたしが足手まといにならなければ、野盗たちを一網打尽《いちもうだじん》にできたでしょう。味方に怪我人《けがにん》がでることもなかったかもしれません……」
「かもしれない、だ。おまえが足手まといだったおかげで、オレたちはいつも以上に緊張《きんちよう》して戦えた。おまえがいなかったら、オレたちは油断して命を落としていたかもしれねぇ。野盗どもにも逃げる余裕《よゆう》があったから、死にものぐるいで向かってくることもなかったからな。済んだことで、ごちゃごちゃ言っているぐらいなら、足手まといにならねぇよう、度胸《どきよう》のほうを鍛《きた》えろ。剣《けん》の腕《うで》のほうは、すぐには上達しねぇが、度胸のほうは心持ちひとつだからな」
「度胸……ですか……」
ヘクターが、はっとしたようにうなずいた。
「それなら、なんとかなるかもしれませんね」
「そうだろう。戦場で生き残るには、一にも二にも度胸の持ちようよ」
「簡単《かんたん》に言うんじゃない!」
突然《とつぜん》、声がしたかと思うと、ジーニが酒瓶《さかびん》を片手にバーブとヘクターのいるテーブルにやってきた。彼女は最初から猛烈《もうれつ》な勢いで飲んでいたが、顔がわずかに赤いものの、まったく酔《よ》った様子もない。
「なんだよ、ジーニ。オレがせっかく励《はげ》ましてやったのに」
バーブが顔をしかめる。
「剣の腕を上げるより、度胸を鍛《きた》えるほうが難しいに決まっているだろう。何度、戦場に立とうと臆病者《おくびようもの》はしょせん臆病者だ」
「だが、こいつが臆病者とは決まってねぇだろ?」
バーブがむっとした顔で反論する。
「臆病者ではないにしてもだ!」
ジーニは酒瓶をテーブルに叩《たた》きつけるように置くと、バーブと顔をつきつけた。
「わたしには、この男が傭兵《ようへい》に向いているとは思えない」
「誰にだって、初陣《ういじん》はある。ジーニだって、初陣ではひとりの敵も殺せなかったじゃねぇか!」
「戦えなかったわけではない。敵を殺す必要がないと思っただけだ!」
ジーニは怒鳴《どな》りかえした。
初陣のとき、たしかにジーニはひとりの敵も殺せなかった。だから、敵を打ちのめし、降伏《こうふく》させると生きたまま捕《と》らえて、街へと連行《れんこう》した。だが、彼らを待っていたのは、残酷《ざんこく》な方法による処刑《しよけい》であった。
それゆえ、その次からは、戦場で出会った敵は、躊躇《ちゆうちよ》なく倒《たお》すことにした。
ジーニはヘクターを振《ふ》り返ると、その端正《たんせい》な顔をじっと見つめる。
「どうだ? 初めて戦場に身を置いた気分は?」
「最悪でした。あれこれと、想像《そうぞう》してはいましたが、あれほどに凄《すさ》まじいとは……」
ヘクターはそう言うと、身震《みぶる》いした。
「それでも傭兵を続けたいと思うのか?」
ジーニは静かに問いかけた。
「正直に言えば、二度と戦いたくはありません」
ヘクターは苦しそうに答えた。
「だろうな」
ジーニは安堵《あんど》にも似た表情を浮《う》かべてうなずいた。
これで決まりだ、とでもいうように。
しかし、ヘクターはあわてて首を横に振った。
「お願いですから、わたしを追いださないでください……」
「なんだと?」
ジーニはたちまち不機嫌《ふきげん》な顔になり、今度はヘクターに顔をつきつけた。
ヘクターはあわてて顔をそらした。
「わたしは、確かに強くはありません。傭兵《ようへい》として戦場に立つ資格《しかく》はないのかもしれない。それでも、せめて愛する者ぐらいは自らの手で守りたいと思うのです」
「妹のことか?」
ジーニに問われ、ヘクターはうなずいた。
「世間知らずでわがままな妹ですが、わたしにとっては本当に大切な存在なのです」
「しかし、おまえはもう貴族じゃない。贅沢《ぜいたく》な暮らしができないのは当然だ」
「さすがに贅沢はしておりません。ですが、すこしだけ裕福《ゆうふく》な暮らしをさせてやりたいと思うと、この仕事しかなかったのです」
ヘクターの言葉は、ジーニにも理解できた。
命がけの仕事だけに、傭兵|稼業《かぎよう》は普通《ふつう》に働《はたら》くより、遥《はる》かに実入《みい》りがいい。だが、それが自分の命に見合っていると思ったこともない。
傭兵は決して割《わり》のいい仕事ではない。
「普通の仕事に就《つ》いて、普通の暮らしをすればいい。おまえは妹をただ甘《あま》やかせているだけだ」
「それは……承知《しようち》しています」
ヘクターはうなだれるようにうなずいた。
「兄であるおまえに命がけの仕事をさせて、妹のほうは平気なのか?」
「妹には、わたしが傭兵になったことは秘密《ひみつ》にしています。ロマールの貴族に気に入られて、兵士として雇《やと》われたということに。うまくいけば、騎士《きし》の叙勲《じよくん》を受けるかもしれないと……」
「それを信じるほうも、どうかしているが……」
ジーニは次第《しだい》に苛立《いらだ》ちを感じ始めていた。
ヘクターの話は美談《びだん》のようにも聞こえる。しかし、彼女には納得《なつとく》がゆかないのだ。
妹のほうはそうまでして兄に守ってもらいたいと思ってはいないだろう。
ようするに、ヘクターの自己満足《じこまんぞく》なのだ。しかも、そのことは彼自身も承知している。
「大切な人を守るのが、男だとでもいいたいのか?」
ジーニは吐《は》き捨《す》てるように言った。
「たとえ力もなく賢《かしこ》くもない男でも……」
故郷《こきよう》を去る原因となったかつての男も、ジーニのほうが戦士として優《すぐ》れていたことに負い目を感じていた。
確かに、彼は集落の若者のなかでも強いほうではなかったし、知恵《ちえ》も知識も凡庸《ぼんよう》だった。だが、そんなことはどうでもよかった。ただ一緒《いつしよ》にいて、居心地《いごこち》がいい。ジーニにとってはそれだけで十分だった。
ジーニは集落でも一番の狩人《かりうど》だったから、男に頼《たよ》らずとも生きてゆくことはできた。ただ、ひとりで生きてゆくのは寂《さび》しいと思っていたし、子供も大勢、産《う》みたいと思っていた。
あの男は性格も優《やさ》しく容姿《ようし》も端正《たんせい》だったから、いい子ができると信じていた。
しかし、あの男は、自分より強い女を妻《つま》にするだけの自信をもてなかったのだ。そして自らが強くなるのではなく、女のほうに弱くなることを求めたのである。
だから、集落の若者たちの企《たくら》みに加わった。掟破《おきてやぶ》りをした女が相手なら、自分のほうが立場が強くなるとでも思ったのだろう。
ヘクターが妹を守りたいという気持ちも、しょせん同じだと、ジーニには感じられた。
ヘクターはどう答えていいか分からないといった様子で、ジーニを見つめていた。
「まあ、いいじゃねぇか」
険悪《けんあく》な雰囲気《ふんいき》を察して、ジーニとヘクターのあいだにバーブが割って入った。
そして、ジーニを宥《なだ》めるように、彼女の両肩《りようかた》に手を置く。
「オレたちが傭兵《ようへい》になる理由なんて、いろいろだからな。オレなんか騎士《きし》になることを夢見て、故郷を飛びでて、けっきょくこの有様だ」
そう言って、バーブが大声で笑った。
「おまえが騎士を目指してたって?」
「その顔でか?」
傭兵仲間たちが噺《はや》したてる。
「うるせい! 若かった頃は色男で有名だったんだ」
バーブは仲間たちに怒鳴《どな》りかえす。
レイドの街で傭兵になったのも、腕《うで》が認《みと》められれば、ロマールの騎士になれるのではないかと期待したからである。
だが、ロマール王国は、傭兵ごときを騎士に取り立てようとは考えてもいない。使い捨ての利《き》く手駒《てごま》でしかないのである。しかも指《さ》し手≠ニ呼ばれるロマールの軍師ルキアルは、冷酷《れいこく》で非情《ひじよう》な策略家《さくりやくか》として知られている。
「話をはぐらかすな!」
ジーニが忌々《いまいま》しそうに、バーブを押《お》しやった。
「わたしが言いたいのは、この男が傭兵になった理由じゃない。この稼業《かぎよう》に向いているかどうかなんだ」
「そんなことはやってみなくちゃ分からないだろう」
ジーニの背後からそんな声が飛んだ。
ジーニが顔を巡《めぐ》らすと、ひとりの男がゆっくりと立ち上がっていた。神殿《しんでん》で怪我《けが》を癒《いや》してもらったばかりの槍使《やりつか》い<Cヴァンである。
戦《いくさ》の神の司祭からは、ゆっくり休むように言われていたのだが、仲間はずれにするなと強行に主張して、ここへやってきたのだ。そのおかげで、気兼《きが》ねなく、全員が飲んで騒《さわ》ぐことができるわけだが……
「イヴァン……」
ジーニが怪訝《けげん》そうにつぶやく。
「おまえが最初に来たときも、オレはとうてい傭兵《ようへい》稼業なんかつとまらないと思ったもんだ。それが今や、オレの隊長なんだからな」
「へっ、ジーニも、おまえみてぇな死に損《ぞこ》ないに言われたくないだろうよ」
バーブが憎《にく》まれ口を叩《たた》く。
「新入りの戦いぶりは確かに無様だったが、オレが死に損ないになったのは、そいつのせいじゃない」
「ジーニ隊の流儀《りゆうぎ》を教えておかなかった、オレにも責任があるんた。今回のところは大目に見てやってくれよ。明日からは徹底的《てつていてき》に扱《しご》いてやるから」
バーブがそう言って、テーブルに置かれていたジーニの酒瓶《さかびん》を彼女に手渡《てわた》した。
ジーニは面白《おもしろ》くなさそうに、酒瓶に残っていた蒸留酒《じようりゆうしゆ》を飲む。
「お願いします……」
ヘクターはジーニに向かって、深々と頭を下げた。
「わたしは昨日、初めて戦場に立って、傭兵とはどんなものか知りました。あなたが言うとおり、わたしには向いていないのかもしれません。それでも、この稼業を続けたいのです……」
「傭兵は遊びじゃないんだ! 命を落としてからでは、後悔《こうかい》のしようもないんだぞ」
「死にたくはありませんが、その覚悟《かくご》はできています。わたしだって真剣《しんけん》に考えて傭兵団に入ったのです。それに……」
ヘクターは続けようとして、思い直したように口を閉《と》ざした。
「それに? なんだ、続けてみろ」
ジーニが命令口調で言う。
「この仕事に向いていないというなら、あなたも同じではないかと思っただけです。あなたほど強くて美しい女性に、わたしは会ったことはありません。あなたほど高潔《こうけつ》な魂《たましい》を持った女性を、わたしは知りません。あなたが戦うべき場所は他《ほか》にあるように、わたしには思えるのです……」
そして、ヘクターはジーニを真《ま》っ直《す》ぐに見つめた。
「わたしが美しいだと? 高潔な魂を持っているだと?」
ジーニは刃のように目を細めると、ヘクターの胸《むな》もとを掴《つか》んだ。華著《きやしや》な身体《からだ》が、椅子《いす》から浮《う》きあがる。
「そんな言葉を二度と口にするな! 昨日今日、会ったばかりのおまえに、わたしの何がわかるというんだ!」
ジーニは叫《さけ》ぶように言うと、ヘクターを離《はな》した。
ヘクターは椅子《いす》に落ち、二度三度と咳《せ》きこんだ。
「次も、今日のようなザマなら、何があっても追い出すからな」
ジーニはヘクターに指を突《つ》きつけながら言うと、くるりと背を向ける。そしてそのまま大股《おおまた》に歩いて、酒場の外へと出ていった。
「……申し訳ありません。わたしの言葉が、彼女の気に障《さわ》ったようですね」
ヘクターは泣きそうな表情を浮かべ、バーブに話しかけた。
「まあな……」
バーブは苦笑《くしよう》まじりにうなずく。
「だが、おまえの言ったことは間違《まちが》っちゃいねぇよ。オレだって、あいつは綺麗《きれい》だと思っているし、高潔だって思っている。ただな、あいつは自分が女であることを憎《にく》んでいるみたいなんだ。昔、いろいろあったらしくてな……」
バーブはそう言って、ヘクターの肩《かた》をどんと叩《たた》く。
「ま、あいつの良さが分かるなら、おまえもオレたちジーニ隊の仲間ってことだ。ただオレたちだって、あいつを女として扱《あつか》わないように苦労しているんだ。おまえも気をつけてくれ」
「ありがとう、バーブ」
ヘクターはようやく笑顔《えがお》になった。
「だが、明日からは厳しく鍛《きた》えさせてもらうぜ」
「覚悟《かくご》しています」
ヘクターはうなずく。
「ジーニは帰っちまったが、オレたちは死ぬまで飲むからな!」
バーブはヘクターの肩をもう一度、叩き、仲間たちを振《ふ》り返って、覚悟しやがれと大声で叫んだ。
その声に、ジーニ隊の傭兵《ようへい》たちは手にしていた酒杯《しゆはい》を掲《かか》げ、まるで戦《いくさ》でも始めるかというような怒号《どごう》で応えた。
4
それから、半年が過ぎた。
そのあいだに何度となく野盗退治《やとうたいじ》の依頼《いらい》があり、ロマール王国とは同盟関係にある混沌《こんとん》の王国ファンドリアへの数か月に及《およ》ぶ遠征《えんせい》などもあった。
その間に、ジーニ隊の傭兵たちは十回ばかり戦場に立った。
数人の犠牲者《ぎせいしや》を出してはいたが、新入りだったヘクターは何回か怪我《けが》をしたものの、まだ隊に残っていた。
頼《たよ》りにできるほどではないが、足を引っ張らないぐらいには戦えるようになった。ジーニの評価《ひようか》はあいかわらず厳《きび》しかったが、傭兵をやめろとは言わなくなった。
戦い方や覚悟のほうはまだまだ素人《しろうと》だが、戦場の状況《じようきよう》を見極《みきわ》める能力があるらしく、危険を避《さ》けながら、それなりに働いている。毎回、ひとりかふたりの敵を倒《たお》しているだけだが、ジーニとしても、そして隊の仲間としても、それで十分だった。
そして、それは冬が近づきつつあったある日のことであった――
「……今回は、大仕事だぞ」
傭兵団鋼《はがね》の人形《にんぎよう》≠フ実質的な団長であるレティエが、砦《とりで》の中庭にずらりと並んだ傭兵たちを前に、不敵《ふてき》な笑いを浮《う》かべていた。
「報酬《ほうしゆう》も、これまでとは比べものにならない。当然、厳しい戦いにはなるがな」
レティエの言葉に、傭兵たちの一部が歓声《かんせい》をあげた。だが、あとの大多数は厳しい表情で、団長を見つめる。
「野盗どもが結集し、レイド帝国《ていこく》の再興などと謳《うた》っていやがる。だが、それはむしろ好機ということだ。奴《やつ》らを一網打尽《いちもうだじん》にできるわけだからな」
得意《とくい》そうに言うと、レティエは作戦を説明しはじめる。
「野盗どもの砦《とりで》は、崖《がけ》を背にした坂の上にある。そこで本隊が囮《おとり》となって、坂の下から攻《せ》め上がる。そして、その際《すき》に別働隊が崖を降《お》りて、砦を強襲《きようしゆう》する。砦が混乱したところを、本隊が攻め込むわけよ」
「敵の数は?」
傭兵《ようへい》隊長のひとりが、レティエに訊《たず》ねる。
「オレたちのざっと三倍はいる。だが、しょせん野盗《やとう》は野盗だ。恐《おそ》れることはない」
レティエは笑いながら答えた。
「だが、相手は砦を築《きず》いているのだろう。それを敵より少ない数で攻めるなど……」
「大軍を動かしたら、敵は山のなかに逃《に》げ込んでしまうだろうが! だから、あえて少ない数で攻め込むんだ。だからこそ、分け前も破格《はかく》になるってわけよ。砦を攻め落とせば、十年は遊べるぐらいの大金が転がりこんでくるぞ」
「十年だって……」
その言葉に、傭兵たちの目の色がさすがに変わる。
それを見て、レティエは口許《くちもと》に笑《え》みを浮かべた。
「それで、別働隊はジーニの隊に任《まか》せる。オレたちが囮になっているあいだに、うまくやってくれよ」
「オレたちが、別働隊だって!」
バーブが顔色を変えて、レティエの正面に進みでた。
「報酬は確かに魅力《みりよく》だが、危険《きけん》が大きすぎる。まかり間違《まちが》ったら、オレたちは全滅《ぜんめつ》だ」
「敵のほうが数が多くて、地の利があるんだ。まともに攻めても、勝ち目はない。だから、敵の不意《ふい》を突《つ》くんだろうが」
レティエが不快そうに、バーブを見つめる。
「臆病風《おくびようかぜ》に吹《ふ》かれやがって」
ジーニとは隊が異《こと》なる傭兵の何人かが、嘲笑《ちようしよう》の声をあげる。
「なんだと? もう一度、言ってみやがれ!」
バーブは声のほうを振《ふ》り返り、大声で怒鳴《どな》った。
「そんなに勇気があるっていうなら、てめぇらが別働隊になるんだな! オレたちは囮《おとり》の役割を喜んで引き受けさせてもらうから」
「わたしもバーブの意見に賛成《さんせい》だ。この仕事、引き受けないほうがいい」
ジーニがじっと腕組《うでぐ》みをしたまま、レティエに意見した。
「おまえ、団長に恥《はじ》をかかす気か? 今回の仕事はロマール王国の軍師ルキアル、直々の依頼《いらい》なんだぞ。さっき言った策《さく》も、あの指《さ》し手≠ェ考えたものだ。万が一にも失敗するはずがねぇ」
レティエはジーニを睨《にら》みつける。
「だからこそだ。あの軍師は、捨《す》て駒《ごま》を使うことで有名だからな」
ジーニが冷笑《れいしよう》を洩《も》らす。
「失敗しようのない策なら、傭兵《ようへい》など使わず、ロマールの正規軍を使うだろう。成功すればそれでよし、失敗しても傭兵団のひとつが潰《つぶ》れるだけ。ロマールにとっては、何の痛手にもならない……」
ジーニの言葉に、レティエは不気味《ぶきみ》に顔を歪《ゆが》めた。笑っているようにも見えるが、その全身からは殺気が感じられた。
「分かっていないようだな。オレはおまえたちに意見を求めたんじゃねぇ。団長からの命令を伝えただけだ。傭兵|稼業《かぎよう》を続けたいなら、このオレに逆らうな。臆病者は今すぐ、この砦《とりで》から出てゆきやがれ!」
ジーニはそれを聞いて、バーブたちを振り返った。
彼女としては、このまま出ていってもかまわない。だが、この危険な任務に、自分の隊からひとりでも参加したい者がいるなら、残ろうと思った。
「いくらなんでも、危険すぎる」
バーブは忌々《いまいま》しそうにつぶやいた。
「確かに、報酬《ほうしゆう》は魅力的《みりよくてき》なんだが……」
他《ほか》の傭兵たちも、バーブと同様、迷っている様子だった。
傭兵として生きてゆける場所は、アレクラスト大陸においても、そうはない。二十年ほどまえに各地で起こった戦乱が終結してからは、比較的《ひかくてき》、平和な時代が続いているからだ。
しかし、この砦にいる者のほとんどが、傭兵以外の生き方を知らない。この砦を出たら、それこそ野盗《やとう》になるしかないのである。
狩る側から狩られる側に、いきなり立場が逆転するわけだ。
「誰も出てゆかないということは、承知したということだな」
追い打ちをかけるように、レティエが荒々《あらあら》しく言う。
決心を変えるなら今しかないのだが、結局、誰も動かなかった。
それを見届けて、レティエが満足そうにうなずく。
ジーニも覚悟《かくご》を決めて、別働隊の役を引き受けた。
「出発は明後日だ。前金として報酬の一割ばかり渡《わた》してやるから、今日は思う存分、騒《さわ》ぐがいい」
レティエのその声に傭兵《ようへい》たちの半数ほどが歓声《かんせい》をあげた。
バーブは仲間を振《ふ》り返り、歓楽街に繰り出すぞ、と自棄《やけ》ぎみに怒鳴《どな》りつける。
「ジーニも一緒《いつしよ》に来るよな?」
バーブが訊《たず》ねてくる。
「いや、わたしは遠慮《えんりよ》しておこう。わたしが一緒だと行けない場所もあるだろうからな」
ジーニは苦笑《くしよう》を浮《う》かべた。
ただ飲んで騒ぐだけなら、いくらでも付き合うのだが、彼らのなかにはいかがわしい店に行きたいと思う者も現れよう。危険な仕事を前にして、それは当然の感情である。
だが、そればかりは、彼らに付き合ってやるわけにはゆかない。
「わたしは砦《とりで》でおまえたちが帰ってくるのを待っていてやる。寝床《ねどこ》に担《かつ》ぐぐらいのことはしてやるから。安心して酔《よ》い潰《つぶ》れてこい」
「優《やさ》しく頼《たの》むぜ……」
バーブが笑い声をあげる。
それから、彼はヘクターの名を呼んだ。
「なんでしょう?」
ヘクターはにこやかな顔で、バーブの前に進みでる。
「おまえも当然、来るよな?」
「申し訳ありませんが、遠慮させていただきます。わたしぐらいの腕《うで》では生きて帰れるかどうかも分かりませんから、今夜は大切な人の側《そば》にいたいと思いますので……」
照《て》れたような笑顔《えがお》を浮かべて、ヘクターは答えた。
「そうか……」
バーブは意外なことに、あっさりと納得《なつとく》した。
彼はヘクターのことを弟分のように扱《あつか》っており、ヘクターもバーブを全面的に信頼《しんらい》している。生まれも育ちも違《ちが》うふたりだが、なぜか気が合うようなのだ。
(不思議《ふしぎ》な男だ)
と、ジーニはヘクターのことを思っている。
ジーニ隊の他《ほか》の傭兵《ようへい》たちも、この素人《しろうと》同然の傭兵を可愛《かわい》がっている。生まれ備《そな》わった人の良さがにじみでているからだろう。だが、その人の良さは、世間ではあまり得をするものではない。
「妹を大事にな」
ジーニはヘクターに声をかけると、自分は宿舎のほうへと向かった。
彼らは明日にも先行して出発し、砦の周囲を偵察《ていさつ》するつもりでいる。自分の目と足で確かめておけば、窮地《きゆうち》に陥《おちい》っても打開策が見えてくるものだ。
(おまえを、そしてみんなを、この砦に連れ帰ってやるからな)
ジーニは心のなかでヘクターに呼びかけた。
それは戦場に出るときのいつもの誓《ちか》いである。しかし、その誓いはいつもいつも果たされるわけではない。
今回はとくに厳しいと言えるだろう。
だからこそ、ジーニはいつもより強く、心に誓った。
5
夜も更《ふ》け、傭兵団鋼《はがね》の人形《にんぎよう》≠フ宿舎は静まりかえっていた。
ジーニはただひとり、ランプの灯《あか》りの側で武具《ぶぐ》の手入れをしていた。
自分の命を預《あず》けることになる武具なのだが、傭兵たちの多くは手入れも怠《おこた》りがちで、自分の身体《からだ》に合わない武器や防具を平然と使っている。
極限《きよくげん》の状況《じようきよう》で戦うときには、使い勝手のわずかな差で、生死が分かれるときがある。
ジーニは頼《たの》まれれば、武器や防具を見立てているし、手入れの方法も教えている。だが、無理に押《お》しつけることはしない。
傭兵《ようへい》たちの戦い方はたいていが我流《がりゆう》だが、それぞれに流儀《りゆうぎ》があり、それを変えることはできないのだ。
無理に変えようとすると、かえって戦い方がぎこちなくなり、危険が大きくなる。
傭兵というのはそういう集団だ。
型《かた》にはめることは決してできない。
そういう連中が集まっているわけだが、戦場では命を預けあう仲だけに連帯感《れんたいかん》は強い。ジーニ隊の傭兵は特にそうで、今日もほとんど全員が夜の街に繰りだしている。
酒を飲み、女を抱《だ》き、大騒《おおさわ》ぎをしたあげく夜が明ける頃、帰ってくるだろう。
そうして、生きている実感を確かめて、戦場へと赴《おもむ》く。そして生きて帰れば、また大騒ぎだ。
生と死の境界《きようかい》にいるのが、傭兵という人間なのである。
「まだ起きておられたのですか?」
そのとき声がして、ジーニは愛用《あいよう》の大剣《グレートソード》を磨《みが》いている手を止める。
入口のところに、華著《きやしや》な体格の傭兵が立っていた。
「ヘクター?」
ジーニは驚《おどろ》いた顔をしていた。
「妹のところへ行ってきたんじゃないのか?」
「ええ。ですが、もう寝入《ねい》ってしまいましたので……」
ヘクターは苦笑《くしよう》した。
「そこが、恋人《こいびと》との違《ちが》いだな」
ジーニもニヤリとした。
そしてふたたび大剣を磨きはじめる。
「今度の戦いだがな……」
作業を続けながら、ジーニはヘクターに声をかけた。
「無理についてこなくていいぞ」
「行きますよ。あなたが……みんなが行くんですから」
ヘクターはあわてて答えた。
「おまえも、意外に義理《ぎり》がたいな」
ジーニがフッとこぼす。
「あなたと同じですよ。レティエがやめたい者は出て行け、と言ったとき、実はそのつもりだったのではないですか? でも、みんなが残ったのであなたも残った……」
「当然だ。こんな危険な仕事、あいつらだけで行かせられるものか」
ジーニが憮然《ぶぜん》とした顔をした。
「傭兵《ようへい》にとって、報酬《ほうしゆう》はただの銀貨や宝石じゃない。自身の価値《かち》であり、生きていることの証《あかし》みたいなものだからな。あいつらが出て行けなかったのも無理はない」
「わたしにとっても、今回の報酬は魅力的《みりよくてき》です。実は、妹に結婚相手《けつこんあいて》が見つかりまして……。十分な持参金を持たせてやることができます」
ヘクターはそう言って、照れたように笑った。
「それはめでたいな」
ジーニが相好《そうごう》を崩《くず》す。
「これでもう傭兵を続ける意味はないわけだ」
ヘクターは妹を守るために傭兵になったのだから。
「そうかもしれませんね……」
ヘクターは曖昧《あいまい》な返事をした。
ジーニは一瞬《いつしゆん》、怪訝《けげん》そうな顔になったが、彼なりに仲間のことを心配しての言葉だと、勝手に納得《なつとく》する。
「バーブたちもきっと安心すると思うぞ。だが、傭兵はやめても、あいつらと付き合ってやってくれ」
「もちろんです。ジーニも、会ってくれますよね?」
ヘクターは不安そうに訊《たず》ねる。
「決まっている。わたしだけ仲間はずれにはしないでくれよ」
ジーニは楽しそうに笑った。
そして大剣《グレートソード》を磨《みが》き終えて、刃《やいば》の輝《かがや》きを確かめる。
故郷《こきよう》の集落で暮らしていたとき、彼女は余った収入をすべて鋼《はがね》に替《か》えて貯《たくわ》えていた。そのすべてを使って鍛《きた》えてもらった大剣である。魔力《まりよく》を帯びているわけでもないし、たいした業物《わざもの》ではないが、彼女にとってはこの大剣だけが唯一《ゆいいつ》の財産である。
槍《やり》や弓を捨て、この大剣とともに生きてゆく誓《ちか》いを立てた。もっとも、また性懲《しょうこ》りもなく男に惚れてしまうということもあるかもしれないが……。刃こぼれはいくつもあるが、大剣にとってはその重量こそが破壊力《はかいりよく》の源《みなもと》である。鉄の鎧《よろい》さえ問題なく叩《たた》き斬《き》ることができる。
よし、と自らに声をかけ、ジーニは大剣をベッドに立て掛《か》けた。
「暇《ひま》があるなら、酒でも飲むか? バーブたちはどうせ、朝まで帰ってこないし、それまで起きてやらないといけないからな」
「喜《よろこ》んで……」
ヘクターは嬉《うれ》しそうにうなずくと、まるで用意していたかのように酒瓶《さかびん》を取りだした。ジーニが好む薬草が入った蒸留酒《しようりゆうしゆ》と自分のための葡萄酒《ワイン》である。
「用意がいいな」
ジーニが酒瓶を受け取り、さっそく口をつける。
「肴《さかな》も用意してあります。朝までなら、時間はたっぷりありますから……」
「おまけにバーブたちのことだ。それで終わりとも限らないからな。ま、それまではおまえとふたり、静かに過ごすとしよう……」
6
レイドの街を出発して、五日。ジーニたちは木々の生《お》い茂《しげ》る山の斜面《しやめん》に身を潜《ひそ》めていた。
全員がさすがに緊張《きんちよう》している。
これから、数倍もの数の敵が守る砦《とりで》に奇襲《きしゆう》をしかけようというのだから、それも当然だろう。
「砦の正面で戦いが始まったら、全速力で動くぞ」
ジーニは傭兵《ようへい》たちに声をかけ、襲撃《しゆうげき》の手順を何度も繰り返す。
そして、予定よりいくらか遅《おく》れて、そのときはやってきた。
戦いの物音が、響《ひび》いてきたのである。
「行くぞ!」
ジーニが全員に声をかけ、木々の間を縫《ぬ》うように、山の斜面を駆《か》け降《お》りた。
あらかじめ木々に結んであった縄《なわ》を崖下《がけした》に投げ下ろし、砦の内側に降りる。まさに、死中に飛び込むようなものだが、砦にたてこもる敵を混乱させるには、これしかないのも事実だ。
「無理に敵を倒《たお》そうとはするな。大声をあげて、駆けまわるだけでいい」
ジーニは誰《だれ》よりも速く縄を滑《すベ》り降りると、後から続く仲間たちに呼びかけた。
そして、自らがそれを実践《じっせん》する。
あちらこちらから敵が飛びだしてくるのを、立ち止まることもなく大剣《グレートソード》でなぎ払《はら》ってゆく。
そのあいだに、仲間たちも次々と地面に降り立って、ジーニに続く。
瞬《またた》く間に、ジーニ隊の傭兵たちは砦を制圧《せいあつ》していった。
「簡単なものだぜ!」
バーブが興奮した声で叫《さけ》ぶ。
だが、ジーニはひどい違和感《いわかん》を覚えていた。
「敵の数が少なすぎる。それにレティエの本隊はどうして斬《き》り込んでこないんだ」
「どうやら、逃《に》げたほうがよさそうですよ」
ヘクターがジーニの側《そば》にやってきて、緊張《きんちよう》した顔で言う。
「おそらく、砦にたてこもっていた敵の大半は、敗走している本隊を追いかけているのです。いつもどってくるかわかりません」
ヘクターの言葉に、ジーニも顔色を変えた。ヘクターの戦場を見る目は確かだし、彼女自身の勘《かん》もそう告げている。
「レティエの野郎《やろう》……」
呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》に手をかけながら、ジーニは吐《は》き捨《す》てるようにつぶやいた。
そして、すぐに退《ひ》くぞ、と全員に声をかけた。
「あいつら、逃げやがったのか。これぐらいの時間も保《も》たせられないとはな……」
臆病者《おくびようもの》め、とバーブがののしる。
「それに退くって言っても、後ろは崖《がけ》なんだぜ? とてもじゃないが、あの高さを縄《なわ》でなんか登ってゆけねぇ」
「レティエたちを追撃《ついげき》している敵を突破《とつぱ》するしかないか。まさか、追撃している自分たちが、後ろから攻撃《こうげき》されるとは思っていないだろうからな」
「大胆《だいたん》な策だな。ロマールの軍師に教えてやりたいぐらいだぜ」
バーブが覚悟《かくご》を決めた表情でうなずいた。
そしてジーニたちは砦《とりで》の正門から出て、坂道を駆《か》けはじめる。
だが、しばらくすると予想したとおり、敵の大部隊が引き返してきた。
それを見たバーブが思いつくかぎりの悪態をつく。
「わたしの後に続け! 絶対に遅《おく》れるなよ」
ジーニは落ち着いていた。
大剣《グレートソード》を振《ふ》りかざし、敵のまっただなかに斬《き》り込んでいった。
予想もしていなかった攻撃と、ジーニの勢いのすさまじさに、まるで地震《じしん》で大地が割れるように敵は道を開けた。
ジーニは大剣を両手で振り回し、さらにその道を広げながら、敵を突破した。
「さすが、ジーニだ」
彼女の後に続いた傭兵《ようへい》たちが口々に賞賛《しようさん》の声をあげる。
しかし、驚《おどろ》きから覚めた敵は全力で追いかけてくる。
ジーニたちは、さすがに疲労《ひろう》が激しく、このまま逃《に》げきるのは難しい。
「この先を行けば、道が細くなっている。そこで、わたしが追っ手の足止めをするから、おまえたちはそのあいだに逃げろ」
「ば、馬鹿《ばか》を言うな!」
バーブが血相《けつそう》を変える。
「それなら、オレが……」
「隊長はおまえではなく、このわたしだ。わたしなら、誰よりも長い時間、敵を食い止めることができる」
「それはそうだが、それじゃあおまえが……」
「このままだと、全滅《ぜんめつ》するだけなんだぞ。犠牲《ぎせい》になるのはひとりで十分だ。それに、わたしはおまえたち皆《みな》を、砦《とりで》に連れて帰ると誓《ちか》いを立てている。それを破ることはできないんだ」
「勝手にそんな誓いを立てるんじゃねぇ……」
バーブはなおも反論したが、彼女の決意の固さは知っているので、それ以上、何も言えなかった。
「決まりだ」
ジーニは笑顔《えがお》を見せた。
崖崩《がけくず》れで道が狭《せま》くなり、人ひとりが通れるぐらいの場所がこの先にはあるのだ。本隊より先行して出発し、付近を偵察《ていさつ》しておいたことが活かされるわけだ。
そこなら、一対一で敵を迎《むか》え撃《う》つことができる。
息が続くかぎり、戦い続けるつもりだった。それで、仲間たちは窮地《きゆうち》を逃《のが》れることができる。
(こういう最期《さいご》なら悪くない……)
ジーニは思った。
だが、その場所まで逃げてきて、ジーニが仲間たちに別れを告げようとしたとき――
「バーブ! あとは頼《たの》みます!!」
突然《とつぜん》、声がしたかと思うと、ひとりの男が追撃《ついげき》してくる敵に向かって全力で駆《か》け戻《もど》っていったのだ。
華著《きやしや》な体格の傭兵《ようへい》である。
「ヘクター!」
ジーニが驚《おどろ》いて叫《さけ》んだ。
「この素人《しろうと》が! もどってこい!」
しかし、ヘクターは笑顔で振《ふ》り返ると、かるく会釈《えしやく》をしただけで、そのまま駆け去っていった。
「馬鹿野郎《ばかやろう》!」
ジーニはあわてて、ヘクターのあとを追いかけようとした。
しかし、誰かがジーニの胴《どう》に抱《だ》きついて、それを止めた。
「もう、間に合わねぇ。おまえが行ったら、それこそふたりとも共倒《ともだお》れだ。あいつの気持ちを無駄《むだ》にしないでやってくれ!」
バーブの声だった。
「離《はな》せ! バーブ!!」
ジーニは必死に身をよじるが、他の傭兵たちもバーブを手伝って、ジーニを行かせまいとする。
「おまえたちまで……」
ジーニは信じられない気持ちだった。
「お願いだ、ジーニ……」
バーブの懇願《こんがん》の声が聞こえる。
「なぜだ! なぜなんだ、ヘクター!!」
ジーニは血を吐くような思いで叫んだ。
その叫びはしかし、もはやヘクターには届いていなかった。
彼は圧倒的《あつとうてき》な数の敵を相手に、無茶苦茶《むちやくちや》に剣《けん》を振り回し、大声をあげつづけていた。その狂気《きようき》じみた気迫《きはく》に、敵はなかなか近づけないでいた。
「なぜなんだ……」
ジーニが喉《のど》の奥《おく》から声を絞《しぼ》りだす。
「ジーニ! 早く行かないと!!」
バーブはジーニを引っ張ってゆこうとする。
「指図《さしず》をするな! 隊長は、わたしなんだぞ!!」
そう言って、ジーニは渾身《こんしん》の力を使って、仲間の傭兵《ようへい》たちを振《ふ》りほどこうとする。
「承知《しようち》しているさ。だが、こんなところでもたもたしていたら、それこそ全滅《ぜんめつ》だ。おまえは、オレたちみんなを砦《とりで》に連れて帰ってくれるんじゃなかったのか?」
お願いだ、ジーニとバーブは涙声《なみだごえ》で繰《く》り返し言った。
「バーブ……」
ジーニは呆然《ぼうぜん》として、ようやく抵抗《ていこう》をやめた。
「ジーニ!」
「ジーニ、お願いだ!」
他の傭兵たちも、口々に声をかけてくる。
ジーニはうなだれるようにうなずくと、よろよろと走りはじめる。
その心のなかでは、同じ問いが何度も繰り返されていた。
(なぜだ、ヘクター?)
なぜ、自分の身代わりになったのか、と。
その答えはひとつしかないように、このときのジーニには思えた。
それは、ヘクターが男で、自分が女であるということ。
侮辱《ぶじよく》だと、思った。
そして、ジーニは自らが女として生まれたことを強く呪《のろ》ったのである。
赤毛の女戦士が、その呪縛《じゆばく》から解放されたのは数年後のことだ。
それは男とか女とかではなく、自分より強い者は誰であれ乗り超《こ》えたいという魔法戦士《ルーンソルジヤー》を自称《じしよう》する若者の一言によってであった――
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第4章 アイ・オブ・ザ・キャット
1
その少女は仲間たちのあいだから、猫《ねこ》の目《め》≠ニ呼ばれている。
猫の瞳《ひとみ》が光の加減《かげん》で形を変えるように、彼女の表情《ひようじよう》も気分しだいで、ころころと変わるから。しかも、その感情《かんじよう》の起伏《きふく》がひどく激《はげ》しい。
一瞬《いつしゆん》前まで楽しそうに笑っていたと思ったら、次の瞬間には顔を真っ赤にして怒鳴《どな》りちらすなどということもしょっちゅうだ。
少女の本当の名前は、ミレル。
年齢《ねんれい》は十二|歳《さい》……ほど。生まれた日がわからないので、半年ほどのズレはあるに違《ちが》いない。
猫の目≠ニいうのは、つまりは渾名《あだな》である。そして渾名で仲間を呼《よ》び合うような人間が、まっとうであるわけがない。
ミレルが属《ぞく》している組織《ギルド》の人間たちは、まさにその筆頭《ひつとう》だった。
なぜなら、少女は盗賊《とうぞく》なのだから――
ミレルはいつも大通りを元気よく歩く。
そして陽気《ようき》な笑顔《えがお》を浮《う》かべている。
ときどき顔を上げて、はぐれ雲《ぐも》を追いかけたり、路地《ろじ》を覗《のぞ》いて猫や鼠《ねずみ》が走るのを楽しそうに見つめる。
そんな少女はどこにでもいる。
ただ彼女の場合、違うのは、そうしているあいだに、なぜか懐《ふところ》に他人《たにん》の財布《さいふ》が入ってくることである。
彼女は、盗賊ギルドでは猫≠ニいう符丁《ふちよう》で呼ばれているスリを稼業《かぎよう》としている。渾名の、もうひとつの由来《ゆらい》でもある。
手先の器用《きよう》さだけではなく、標的《ひようてき》を狙《ねら》い定《さだ》める眼力《がんりき》、そして他人に怪《あや》しまれることのない演技力《えんぎりよく》など、猫≠ノは様々な能力が必要《ひつよう》となる。
ミレルは「黄金の指先《ゆびさき》を持っている」とか、「猫になるために生まれてきた」と仲間たちのあいだでは噂《うわさ》されている。
修業《しゆぎよう》をはじめてわずか三年で一人前の、そして腕利《うでき》きのスリになったからだ。
年は若い――というより幼いが、ミレルは盗賊仲間たちから一目置《いちもくお》かれる存在《そんざい》になって いる。
(だからと言ってねぇ……)
人混《ひとご》みを泳ぐように、大通りを歩きながら、ミレルは心のなかでぶつぶつと文句を言っていた。
(盗賊ギルドの存亡《そんぼう》のかかった仕事なんか、あたしに回すんじゃねぇよ)
しかし彼女の顔には、無邪気《むじやき》な笑《え》みが浮《う》かんだまま。
親から頼《たの》まれたお使いでもしているような態度《たいど》を装《よそお》い続《つづ》けている。
(それも、顔も合わせたこともない情報屋《じようほうや》と組まされるなんて……)
勘弁《かんベん》してほしいわ、とミレルは思う。
彼女は師匠《ししよう》にあたる老盗賊《ろうとうぞく》が引退《いんたい》してからは、ひとりでこの仕事をしてきたし、そのことを誇《ほこ》りにも思っているのだ。
できることなら、断《ことわ》りたかった。
しかし、ミレルは盗賊ギルドにかなりの金額の借金《しやつきん》をしていることもあり、立場はきわめて弱《よわ》い。しかも、副|頭領《とうりよう》のひとりでもあるスリの元締《もとじ》めからの直々の依頼《いらい》だ。
断れるはずなどなかった。
(さっさと終わらせて、本業にもどろ)
ミレルは大通りを折れて、薄暗《うすぐら》い路地《ろじ》に入ってゆく。
その瞬間《しゆんかん》、彼女の雰囲気《ふんいき》がガラリと変わった。
もう笑みは浮かべていない。辺《あた》りを窺《うかが》うように油断《ゆだん》なく視線《しせん》を向ける。
ここはもう王国ではなく、盗賊ギルドが支配《しはい》している場所なのだ。無邪気な子供を演じる必要《ひつよう》はない。
やがてミレルは、一|軒《けん》の酒場《さかば》へと入った。
そこは引退した盗賊が経営《けいえい》している店で、盗賊ギルドの人間しか客はこない。
「サムスとかいう鼠《ねずみ》、きてる?」
ミレルは店の主人に向かって、笑顔で声をかけた。
老主人は無言《むごん》のまま、店の奥《おく》に親指《おやゆび》を向けた。そこには小部屋があって、密談《みつだん》などに使われている。
「ありがとね」
ミレルは果実《かじつ》の絞《しぼ》り汁《じる》が入った瓶《びん》をそのまま掴《つか》むと、銀貨《ぎんか》を五枚ばかりカウンターの上に置《お》く。
「ぜんぜん足りねぇぞ」
「残りはツケといて。この仕事が終わったら、たんまり褒美《ほうび》もらえるはずだから」
ミレルはそう言い残して、小部屋のなかに入ってゆく。
そして奥の椅子《いす》にひとりの若い盗賊が座《すわ》っているのに気がついた。
「あんたが、サムス?」
ミレルは男の反対側の椅子に腰《こし》を下ろすと、足と手の両方を組んでそっくりかえる。
それから目を細めて、じとりとした視線で相手を観察《かんさつ》する。
ひょろりと痩《や》せた身体《からだ》で、昼間出歩くことはないのかと思えるほどに肌《はだ》は白い。
顔色も悪く、生気といったものがまるで感じられない。
「わたしが、サムスだ……」
しばらく間があって、返事があった。心がここにないような感情のない声である。
それを聞いて、ミレルの眉《まゆ》がぴくりと動く。
「てめぇ、あたしをなめているのかよ!」
椅子を蹴るように立ち上がり、ミレルは懐《ふところ》から手品のように短剣《ダガー》を取り出し、サムスという情報屋の喉《のど》もとに刃《やいば》を押《お》し当てた。
ミレルは蛇《へび》――暗殺者《あんさつしや》の訓練も受けているのだ。
サムスはしかし、まったく動じた様子もなく、不思議そうな目でミレルを見つめかえしただけだった。
「なめる? 塩《しお》をなめたりすることか?」
サムスのその言葉で、ミレルは背筋《せすじ》に冷たいものが走るのを覚えた。
「あんた、言葉しらないの?」
ミレルがそう問いかけた瞬間《しゆんかん》――
「言葉ぐらいは知っているさ。ただ使い方を知らねぇだけよ」
突然《とつぜん》、扉《とびら》が開いて、ひとりの老人が部屋に入ってきた。
その顔を見て、ミレルは大慌《おおあわ》てでお辞儀《じぎ》をする。
「師匠《ししよう》、お久しぶりです」
老人は、先代のスリの元締《もとじ》めだった。ミレルはこの老盗賊《ろうとうぞく》から、盗賊として必要なすべての技《わざ》や知識、心得《こころえ》を教わった。
「でも、なんで師匠がここに?」
「仕事を頼《たの》んだのが、このオレだからよ。今の元締めを通したのは、あいつの顔をたてるためにすぎねぇ」
「そうだったんだ……」
ミレルはふ〜んと鼻《はな》を鳴《な》らす。
言われてみれば、今の元締めは、この店でサムスという名の情報屋に会えといっただけで、くわしい話は何もなかった。
それで思い出したように、ミレルは向かいの席に座《すわ》る情報屋に指《ゆび》を突《つ》きつけた。
「この野郎《やろう》、ぜったい変だよ。まるで魂《たましい》でも抜《ぬ》かれたみたいな話し方で……」
「しかたねぇんだ。こいつは赤子《あかご》のときから、情報屋になるために育てられてるからな」
「赤子のときからって、こいつもギルド育ちってこと?」
ミレルははっとなって、サムスに突きつけていた指を引っ込める。この情報屋は、つまり自分と同じ境遇《きようぐう》ということだ。
盗賊ギルドは、ミレルのように、子供の頃《ころ》に拾《ひろ》われて、あるいは金で売られたり、さらわれるなどして、盗賊として育てられる場合と、なにかの理由で人生から落伍《ドロッブアウト》して、盗賊ギルドに身を寄せる場合のふたつがある。
子供の頃から仕込《しこ》まれたほうが、盗賊として優秀《ゆうしゆう》なのは当然《とうぜん》である。
世間で落ちこぼれたような人間が、盗賊ギルドに入っても、そうそう成功するわけがない。そういう盗賊は、ほとんどが下《した》っ端《ぱ》のままで終わることになる。
誇《ほこ》れることではないが、ミレルは(そしてこのサムスも)盗賊ギルドの幹部《かんぶ》候補生《こうほせい》ともいえるのだ。
「情報屋ってのは、とにかく記憶《きおく》がすべてだ。紙《かみ》なんぞに書いて記録《きろく》していちゃあ、ろくなことにならねぇからな。だから、特殊《とくしゆ》な記憶術《きおくじゆつ》を伝授《でんじゆ》される。こいつを育てた情報屋は、特に厳《きび》しい男でな。五人の養子《ようし》を育てていたんだが、まともに育ったのは結局《けつきよく》、こいつひとりだった」
「こいつだって、ぜんぜんまともには見えないけど」
ミレルは情報屋の顔を無遠慮《ぶえんりよ》に見つめながら言った。
しかし彼はまったく気にした様子もなく、ミレルのことを観察している。
「話し方とか感情の表し方が、わからねぇだけさ。こいつを育てた男も、そんなだった」
「こいつを育てたのって、もしかして先月、死んじゃった?」
「そう、鼠《ねずみ》≠フ長を務《つと》めていた壁《かべ》の耳《みみ》<cCヤーだ」
「師匠《ししよう》とは、仲よかったものね」
ミレルは納得《なつとく》したようにうなずいた。
「ところで、こいつ以外の四人はどうなったの?」
「三人は、路上《ろじよう》で情報収集をしている……」
「路上で、ね」
ミレルは苦笑《くしよう》を洩《も》らした。
師匠は言葉を選んだが、つまりは物乞《ものご》いをしているということだ。
だが、彼らの存在は、盗賊《とうぞく》ギルドにとって貴重な情報源である。
「あとのひとりは?」
「そいつはもう、この世にはいねぇ……」
スリの元締《もとじ》めだった老人は、一瞬《いつしゆん》、殺気のようなものを見せた。
「まさか、掟破《おきてやぶ》りをしたの?」
オーファンの盗賊ギルドは、俗《ぞく》に言うところの正統派《せいとうは》である。誘拐《ゆうかい》や殺《ころ》し、毒《どく》の使用《しよう》などは厳しく禁《きん》じられている。
掟を破った者は容赦《ようしや》なく罰《ばつ》せられる。
そのための蛇《へび》――暗殺者なのだ。
ミレルは自分に、その男の粛清《しゆくせい》の役が回ってこなかったことを、神に感謝《かんしや》した。
盗賊が信仰《しんこう》するのは匠《たくみ》の神<Kネードであるが、ミレルはどの神様も適当《てきとう》にしか信仰していない。
「掟破りの始末はつけたが、ちょっとした問題が残っていてな。それで、おまえの出番《でばん》になったわけだ」
(ちょっとした、ね)
老盗賊の言葉に、ミレルはしぶしぶうなずいた。
彼女としては、別に自分の出番になどならなくてもよかったのだが、師匠からの依頼《いらい》とあれば、断《ことわ》ることなど完全にできなくなった。
職人《しよくにん》たちのギルドと同様、盗賊ギルドの人間関係も基本《きほん》は徒弟制度《とていせいど》なのだ。師匠の言葉は絶対であり、弟子《でし》は服従《ふくじゆう》を強《し》いられる。
「あたしは、いったい何をしたらいいの?」
今のスリの元締めからは、盗賊ギルドの存亡がかかった大仕事だと言われている。元締めにそれを伝えたのは、間違《まちが》いなく目の前にいる老人だ。
いったいどんな仕事なのかと、ミレルは不安に思っている。
「とある商人の館《やかた》から、手紙《てがみ》を盗《ぬす》みだしてほしいだけよ」
老人はニヤリと笑って言った。
「手紙って?」
ミレルは首をかしげる。どうしてそんなものが、盗賊《とうぞく》ギルドの存亡にかかわるのか想像《そうぞう》もできなかったからだ。
「ひとりの密偵《みつてい》とひとりの情報屋が共謀《きようぼう》したら、どうなると思う?」
師匠《ししよう》の問いに、ミレルは答えを探そうとして、そしてすぐにはっとなった。
「王国の秘密《ひみつ》を売《う》りにだしたってこと?」
ミレルの顔はさすがに青ざめた。
盗賊ギルドでは、犬《いぬ》≠ニいう符丁《ふちよう》で呼ばれている密偵は、王国に雇《やと》われた盗賊である。情報収集や秘密工作といった、王国の裏側《うらがわ》の仕事を一手《いつて》に引き受けている。
ここオーファンの国王リジャールは、貴族の出身ではなく(国王になってからは、自分には古代|魔法《まほう》王国の貴族の青い血が流れていると自称《じしよう》しているが)、傭兵稼業《ようへいかぎよう》から成り上がった人物だけに、密偵を扱《あつか》うことにとても長《た》けている。
非合法組織《ひごうほうそしき》である盗賊ギルドを黙認《もくにん》するかわりに、優秀《ゆうしゆう》な盗賊を何人も雇《やと》い入れ、密偵として使っている。
「王国の秘密が密偵から洩《も》れたとわかったら、あのリジャール王が盗賊ギルドにどんな罰《ばつ》を下すことか‥‥」
オーファン王リジャールは竜殺《りゆうごろ》しの英雄《えいゆう》であり、アレクラスト大陸|最強《さいきよう》の呼《よ》び声も高い。
その名声が行き届《とど》き、オーファンの治安《ちあん》は非常《ひじよう》に良好だ。
しかしそのことは盗賊ギルドにとって歓迎《かんげい》しうる。皮肉《ひにく》なことだが、そのほうが仕事がやりやすいからである。
王国と盗賊ギルドはそれゆえ共闘《きようとう》できるのだ。もっとも、それはあくまで裏での結びつきなのだが……
「そんな大問題を、どうしてあたし……、あたしとこいつに?」
「情報を流した情報屋ってのが、さっき言ったこいつの義兄弟《ぎきようだい》にあたるのよ」
「粛清《しゆくせい》されたとかいう男ね」
ミレルはうなずく。
王国の情報を漏洩《ろうえい》したとあったら、それも自業自得《じごうじとく》というものだ。密偵のほうも、おそらくは悲惨《ひさん》な最期《さいご》を遂《と》げたことだろう。
「こいつに責任《せきにん》があるのはわかったけど、あたしは?」
「適任《てきにん》だと思ったからに決まってるだろ。事が事だけに大袈裟《おおげさ》にはしたくねぇ。幹部《かんぶ》たちが動いちまったら当然、そうなるし、万が一、失敗したら、取り返しがつかねぇしな」
「つまり、あたしは捨《す》て駒《ごま》ってこと?」
「おまえが失敗したら、そうなるかもな。だが、おまえなら成功《せいこう》すると、オレは信じている。オレが教えてきたなかで、おまえがいちばん筋《すじ》がよかったからな……」
師匠《ししよう》の言葉に、ミレルはうっとなった。
こんなときに誉められても、あまり信憑性《しんぴようせい》はない。
しかし断るという選択肢《せんたくし》はどうせないのだから、ミレルは素直《すなお》に誉められておくことにした。
「わかったわ、くわしい話を教えて。師匠の期待に応《こた》えてみせるよ」
2
王国の秘密を手に入れたという商人の名は、スマーフと言った。
ファンの街では中堅《ちゆうけん》どころのディンヒールという商会《しようかい》の経営者である。
ミレルとサムスに与《あた》えられた使命は、その秘密が公《おおやけ》にならないようにすること――
「秘密そのものは、たいした問題じゃない。情報が漏《も》れたことのほうが問題なんだ……」
ミレルは親指の爪《つめ》を噛《か》みながら、ぶつぶつとつぶやいた。
ミレルは今、スマーフの屋敷《やしき》のすぐ側《そば》にある路地《ろじ》に身を潜《ひそ》めている。
サムスという名の情報屋も隣《となり》にいる。
「あたしに頼《たの》んだってことは、いざというときには、蛇《へび》になれってことだろうなぁ」
スマーフという商人を暗殺することも、問題解決のひとつになるかもしれないと、ミレルは考えている。
だが、それはあくまで最後の手段だ。
ミレルとしては、正統派の盗賊《とうぞく》として誰も傷《きず》つけることなく解決《かいけつ》したいと思っている。
「でも、相手はこっちがそう思っているとは考えていないみたいね」
ミレルは先刻、屋敷のまわりを一周してきたが、一目《ひとめ》で冒険者《ぼうけんしや》だとわかる男たちが、何人も姿を見せていた。
しかもそのなかには穴熊《あなぐま》=\―冒険者の仲間に入っている盗賊もいる。
冒険者と盗賊ギルドとの関係も微妙《びみよう》なもので、彼らを敵に回すのは避《さ》けたほうが得策《とくさく》である。もちろん彼らのほうも、そう思っているはずだが。
スマーフはおそらく賊に襲《おそ》われる可能性《かのうせい》があるとでも言って、冒険者を雇《やと》ったのだろう。
冒険者の力量次第《りきりようしだい》だが、屋敷に忍《しの》びこんで書類《しよるい》を盗《ぬす》みだすというのは難しくなった。
冒険者のなかには、|魔法使い《ルーンマスター》もいるのである。
「まったく忌々《いまいま》しい!」
ミレルは吐《は》き捨てた。
彼女はこの数年後には、自身が穴熊になり、魔法使いとも組むことになるのだが、そんな運命はもちろん知るよしもない。
ミレルは機嫌《きげん》の悪さを隠《かく》そうともしないで、隣にいる情報屋のサムスを睨《にら》みつけた。
「忌々しいと言えば、あんたもよ。ちょっとぐらい、頭を働かせたらどうなのさ?」
「頭を働かせる?」
怪訝《けげん》そうな顔をして、サムスはミレルを見つめかえした。
「それはどうすればいいんだ?」
「考えろってことよ! どうやったら、仕事を成功させられるかを!!」
ミレルは金切り声をあげた。
「そのための情報を、わたしは知らない」
「知っている、知っていないじゃないでしょ。考えるってのは、自分の頭のなかから答えを捻《ひね》りだすことじゃない」
この男と話していると、自分まで頭がおかしくなりそうだった。
「感情的になったり、自分の考えを持ったりすると情報が狂《くる》う。だから、親父《おやじ》は感情や自分の考えを捨《す》てて、ただ事実《じじつ》だけを覚えろと教えられた……」
「自分の考えを持つなって?」
サムスの言葉に、ミレルは呆然《ぼうぜん》となった。
(情報屋の元締《もとじ》めは、情報を記憶《きおく》させるためだけに、こいつを育てたんだろうか)
それでは、石板《せきばん》や書物《しよもつ》などと少しも変わらない。情報を求めるだけで勝手に話をするわけだから、もうちょっとは便利かもしれないが……
(あんたの親父って、ぜったいおかしいよ)
ミレルは思った。
同じ盗賊《とうぞく》ギルドの人間ではあるものの、情報屋がどうやって商売をしているのか、よく知らない。
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想像するに、情報を集める人間、それを記憶するだけの人間などがいて、それを使って元締めひとりが商売をするのだろう。
(最低《さいてい》よね)
ミレルは唾《つば》を吐《は》きたくなった。
猫《ねこ》――スリはひとりひとりの実力の世界だ。何人かで組んで仕事をすることもあるが、稼《かせ》ぎを師匠格《ししようかく》の人間が独占《どくせん》したりはしない。
「あんたの親父はもういないんだから、これからは自分の考えももたなきゃ。さもないと、商売ができないよ」
ミレルはこの男を、なんとか普通《ふつう》にしてやりたいという気になっていた。
柄《がら》でもないとは思うが、すくなくとも今、この男は自分の相棒《あいぼう》なのである。
「あなたの師匠にも、同じことを言われた」
サムスは言ったが、それがどういう意味《いみ》なのかは理解《りかい》していない様子だった。
「だったら、努力《どりよく》してみるんだね。期待はしていないから、自分なりに解決策《かいけつさく》を考えてみなよ……」
やれやれと、ミレルは思った。
やっかいな相棒と組まされたものだと思う。自分で考えるということさえしたことがないような男である。
役に立たないどころではない。
(だからと言って、あたしはあんたを怠《なま》けさせたりはしないからね)
ミレルは思った。
せいぜい扱《こ》き使ってやるつもりだ。この男は、子供の頃から英才教育《えいさいきよういく》を施《ほどこ》された優秀《ゆうしゆう》な情報屋なのだ。
このファンの街のことなら、たいていのことは頭に入っているはずである。それを活かさない手はない。
「ついてきな。場所を変えて方法を考えるよ」
ミレルはまるで弟分でもできたような気分になっていた。
年齢《ねんれい》は五つ以上、サムスのほうが上だが、彼には感情というものがほとんどないのだから、そういう態度《たいど》をとっても気にするはずがないのだ。
(しばらくのあいだ、姉御気分《あねごきぶん》を味わってやる)
ミレルは心|秘《ひそ》かに思った。
それぐらいの役得《やくとく》があっても罰《ばち》は当たらないと思う。
ミレルが任《まか》されたのは、盗賊《とうぞく》ギルドの存亡がかかっているような大仕事なのだから。
「気合いを入れてかからないとね」
ミレルは声に出して言うと、サムスを従《したが》えて薄暗《うすぐら》い路地のなかに消えていった。
3
サムスと一緒《いつしよ》に、ねぐらとして使っている安下宿に帰ると、ミレルはすぐに行動を開始した。
まずは情報を整理《せいり》し、解決法を考えだすことだ。
「もっとも確実《かくじつ》なのは、屋敷《やしき》に忍《しの》び込むことよね」
ミレルは声に出して考えを言った。
いちおうサムスにも共通理解《きようつうりかい》を持ってもらうためである。
意見があれば遠慮《えんりよ》なく言ってくれとも伝えてある。だが、あまり期待はしていない。
路上《ろじよう》で通行人の懐《ふところ》を狙《ねら》うのが猫《ねこ》≠フ本業ではあるものの、ときどきではあるが、他人の家に侵入《しんにゆう》して金目の物を盗《ぬす》みだすこともある。
空《あ》き巣《す》を狙ったり、金持ちの家に忍び込んだりするわけだ。
野盗《やとう》ではないのだから、家人《かじん》を傷《きず》つけることは当然、ギルドの掟《おきて》で禁じられている。
掟を守らなかった者は、王国だけでなく、盗賊ギルドからも追っ手がかかることになる。
ミレル自身、空き巣狙いをしたことは、何度かある。
危険が大きい割《わり》に稼《かせ》ぎは少なく、しかも成功したときの達成感《たつせいかん》もない。
あくまで路上での仕事がうまくいかなかったときの食いつなぎとしてやった。しかし最近ではスリの腕《うで》もあがっているから、そういうことは久しくない。
「でも、そっちの腕も落ちていないと思う」
壁《かべ》登りや鍵開《かぎあ》け、忍び歩きといった技《わざ》にさえ自信があれば、金持ちの屋敷に侵入することはさほど難しくはない。
問題は、侵入した後だ。
スマーフが雇《やと》い入れた冒険者《ぼうけんしや》は三組で、合計十四人。
二組はフアンの街を地元にしているが、もう一組は西部諸国《テンチルドレン》から流れてきたという旅の冒険者である。
古代王国の遺跡《いせき》を狙って諸国《しよこく》を放浪《ほうろう》している気合いの入った冒険者だ。旅費《りよひ》の足しにするために、飛び込みで仕事を受けたのだろう。
「常識的に考えて、無能《むのう》じゃないよね……」
ミレルはため息をついた。
しかもオーファン盗賊《とうぞく》ギルドとは、何の関係《かんけい》もないから、手を引いてくれと頼《たの》むこともできない。
「その冒険者は無限の探求者≠ニ名乗《なの》っている。人数は五人。傭兵《ようへい》あがりの戦士《せんし》が二人、知識神ラーダの神官戦士と半妖精《ハーフエルフ》の|精霊使い《シヤーマン》、そして盗賊《とうぞく》だ
サムスがすらすらと言った。
「腕前《うでまえ》とかはわからない? どういう怪物《モンスター》を倒《たお》したとか?」
「西部諸国にいるとき、妖魔《ようま》を追い払《はら》ったという噂《うわさ》は聞こえている。遺跡の探索《たんさく》にも頻繁《ひんぱん》にでかけているらしい」
「危険がなかった、なんてことはないよね」
「情報がないから、わからない」
サムスは平然《へいぜん》と首を横に振《ふ》った。
「情報がないなら推測《すいそく》するの!」
「その推測が正しくないときは、どうなるのだ?」
「そのときは、その場でなんとかするしかないでしょ。推測が正しくったって、うまくゆくという保証もないんだから……」
ミレルは賭《か》け事をひどく嫌《きら》っている。憎《にく》んでいるといってもいい。賭けで儲《もう》けるにはイカサマをするか、胴元《どうもと》になるしかないと理解しているからだ。ときたま運のいい人間が賭け事で大儲けをすることはあるが、それは例外で、圧倒的《あつとうてき》な数の人間が負けているのである。
しかし、癖《しやく》に障《さわ》るのだが、現実《げんじつ》の世の中も賭け事に似《に》たところがある。
絶対確実《せったいかくじつ》なんてことはない。
どんな腕利《うでき》きのスリだって、運が悪いと失敗《しつぱい》する。
そうして捕《つか》まった盗賊は、過去《かこ》に何人もいるのだ。
「情報は大事だけど、絶対だなんて思わないこと。ダメもとでやらないといけないときだってあるんだから……」
その言葉はもちろんサムスに向けたものだが、ミレル自身、自分を納得《なつとく》させるためにも使っていた。
(他《ほか》に方法が思いつかないんだものね……)
大仕事の割に、協力者《きようりよくしや》はひとりだけだし、資金《しきん》も与《あた》えられていない。
人数をかけたり、資金を使ったりすると、情報が洩《も》れる危険が高くなるからだ。
もしも自分たちが失敗したときには、盗賊《とうぞく》ギルドは組織をあげて、問題を潰《つぶ》しにかかるだろう。
そのときには、手段を選ばないはずだ。
流血沙汰《りゆうけつざた》になるのは必至《ひつし》である。
「書類を盗《ぬす》みだすためじゃなく、情報を集めるために一度、忍《しの》び込んでみるよ。警備《けいび》の厳《きび》しさとかもわかるし、冒険者《ぼうけんしや》がどこを守っているかでも、書類の隠《かく》し場所とか見当《けんとう》がつくしね」
「そうか……」
サムスはあっさりとうなずいた。
その反応に、ミレルはむっとなる。
「簡単に納得しないでよ。こっちは命懸《いのちが》けなんだからね。せめて、心配するぐらいはしろよ!」
「しかし、心配するということがわからない」
「わからなくてもいいから、とにかく声にだしてみるの。何度か言っているあいだに、気持ちのほうがついてくるものだから」
サムスの場合《ばあい》、育てられ方に問題があるだけだから、普通《ふつう》に暮らしてゆけば、感情も取り戻《もど》せるし、自分の考えも持てるようになるはずだ。
彼の心は今、養父である盗賊から、鍵《かぎ》をかけられているだけなのである。
そしてミレルは鍵開けの腕《うで》には自信《じしん》がある。
「それで、わたしは何をしたらいい?」
「わたしではなく、オレって言いな。あたしら盗賊には、裏街言葉《スラング》がお似合いなんだから」
「わかった……」
サムスは素直《すなお》にうなずくと、
「オレは、どうすればいい」
と、言い直した。
「やれば、できるじゃない」
ミレルはにこりとした。
「あんたも情報屋なんだから、スマーフって野郎《やろう》が手に入れた情報を使わせないぐらいのことはできないの?」
手に入れた情報の詳細《しようさい》は、師匠《ししよう》である老人からは聞かされていない。それを知ると犬――密偵《みつてい》になるか、口を封《ふう》じられるかのどちらかしかないのだそうだ。
書類を発見しても、じっくり見るなと、師匠からは言われている。秘密を知ってしまうと、他人にしゃべりたくなるし、無意識《むいしき》に口外《こうがい》してしまうこともあるからだ。
師匠の言葉に、ミレルは素直に従《したが》うつもりでいる。気楽に生きたいので、秘密など持たないにこしたことはないからだ。
「情報を操作しろということか?」
「しろってことよ」
ミレルは言葉|遣《づか》いを訂正《ていせい》しつつ、相槌《あいづち》を打った。
「親父《おやじ》からは教えられている。実践《じっせん》するのは初めてだが……」
「なんとか、努力してみて。スマーフって野郎が、手に入れた情報をどう使うのかわからないけど、店先に並べて売るなんてことはできないしね」
盗賊《とうぞく》ギルドを脅迫《きようはく》して金を要求《ようきゆう》するというのが、もっとも単純《たんじゆん》な使い道である。しかしそれが自殺行為《じさつこうい》だということは、商会を経営しているほどの商人が知らぬはずはない。
「秘密裏《ひみつり》に、誰《だれ》かに接触《せつしよく》しようとするはずなのよ。情報を買いそうな人間を捜《さが》すために、餌《えさ》をまくとか、ね……」
情報が商売に使われることを阻止《そし》しつつ、罠《わな》にかけて情報を取りもどす方法も見つかるかもしれない。
「今、打てる手はそのぐらい。軽《かる》くひと当たりしてみて、次の手を考えよ」
ミレルは言うと、話は終わったとばかり、軽く手を叩《たた》いた。
あとは夜になるまで待つだけである。
4
昼間は穏《おだ》やかに晴れていたが、夜になるとまだまだ冷え込む。
オーファンは国土の北側に氷雪《ひようせつ》の山脈ヤスガルンを擁《よう》していることもあり、春の訪《おとず》れは遅《おそ》いのだ。
空は晴れているが、明《あ》け方《がた》まで月が昇《のぼ》らないので、屋敷《やしき》に忍《しの》び込むには、それほど悪い条件《じようけん》ではない。
昼間に一回《ひとまわ》りしただけで、ミレルは屋敷のだいたいの見取り図が頭のなかにできていた。もっとも屋敷の内部《ないぶ》についてはまったくわからない。
また、あっさりと屋敷内に入れるとも思っていない。もしも、それができるようなら、しっかりと準備《じゆんび》をしてから、もう一度、出直せば、簡単に仕事を片づけられるだろう。
ミレルは昼間のあいだに決めておいた場所に来ると、煉瓦造《れんがづく》りの外壁《がいへき》に手をかけ、やすやすと登っていった。
しかし、壁《かべ》を乗り越《こ》えようとしたその瞬間《しゆんかん》――
「この場所から忍んでくるとは、正確《せいかく》な下調《したしら》べだ。それゆえに予測《よそく》しやすい、がな……」
男の声がした。
しかし、殺気は感じられない。
ミレルも軽い気持ちでいるから、相手もそれを察知《さつち》したってところだろう。
「聞いたことのない声だけど、あんたも同業者《どうぎようしや》かい?」
ミレルは男の子の声を作って、声をかけた。答えは、もちろん分かっている。盗賊《とうぞく》ならばこそ、侵入《しんにゆう》するならここだと予測していたのだ。それもかなり優秀《ゆうしゆう》な盗賊だろう。
ミレルは相手の感触《かんしよく》を掴《つか》みたくて声をかけたのだ。
相手は壁を越えてすぐの木の陰《かげ》に潜《ひそ》んでいるようだ。
すでに投榔用《とうてきよう》の短剣《ダガー》は手にしているだろう。
「この街では、オレはただの冒険者《ぼうけんしや》だ。盗賊として仕事をする気はねぇし、おまえたちと事を構《かま》えるつもりもねぇ。ただ、依頼《いらい》された仕事は果たさねぇとな」
「ちぇっ、冒険者を雇《やと》うなんて、大商人づらしやがって」
ミレルは悔《くや》しそうに舌打《したう》ちしてみせる。
「ただの物取《ものと》りじゃねぇだろ。目的《もくてき》があって盗《ぬす》みにきた。違《ちが》うかい?」
「オイラはただ頼《たの》まれただけだ。壁を乗り越えて、すぐに戻《もど》ってこいって。それだけで、駄賃《だちん》がもらえるはずだったのに、よ」
これじゃあ、兄貴《あにき》にぶん殴《なぐ》られるぜ、とミレルはしょげた男の子の声を演《えん》じた。
「まさか、見習いの小僧《こぞう》を囮《おとり》に使いやがったのか?」
木陰《こかげ》から聞こえてくる声は、あきらかにうろたえた様子だった。そしてかすかな足音を残して、屋敷《やしき》のほうへと気配《けはい》が去《さ》ってゆく。
「……ホント、予測しやすいよね」
ミレルは深くため息をつくと、軽々《かるがる》と地面に飛び降りた。
暗闇《くらやみ》のなかで、ミレルの影《シルエツト》を見れば、ほとんどすべての人間が男の子供だと思う。女として発展途上《はつてんとじよう》の体形《たいけい》のせいなのだが、おかげで演技《えんぎ》を疑《うたが》われることもない。
思ったとおり、いや予想した以上に、相手は優《すぐ》れた盗賊のようだ。
ミレルのはったりにひっかかったのは、だからこそだ。
(正攻法《せいこうほう》では、ぜんぜん無理《むり》ね)
どうやら、次の手を考えるしかないようだ。
もっとも、それが見つかるかどうかはわからない。人間としては不完全《ふかんぜん》な情報屋の能《のうりよく》力しだいである。
しかし自分では何もできないのだから、彼のことを信じるしかない。
だから、ミレルは気持ちを切《き》り替《か》えた。
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それができるからこその猫《ねこ》の目《め》≠ネのである。
(がんばってよね)
夜の闇にまざれながら、ミレルは相棒に向かって心のなかで応援《エール》を送った。
5
猫の目≠フ渾名《あだな》で呼ばれている黒髪《くろかみ》の少女は、ねぐらとして使っている安宿の一室で、寝台《ベツド》に仰向《あおむ》けになったまま憮然《ぶぜん》とした表情を浮《う》かべていた。
ディンヒール商会の屋敷に忍《しの》びこんだあの夜から、すでに五日が過ぎている。
そのあいだ、ミレルはなにもできないでいる。冒険者《ぼうけんしや》と顔を合わせる危険を避《さ》けるため、屋敷の側《そば》にも近づいていない、万が一、衛兵に捕《つか》まったら大問題だから、本業のほうも完全休業の状態である。
今は、情報屋のサムスが仕事≠している。
ディンヒール商会が手に入れた手紙≠使って商売をするのを防《ふせ》ぎつつ、自分たちが商会と取り引きできるよう、情報操作《じようほうそうさ》を行っているのだ。
しかし、サムスからはまったく音沙汰《おとさた》がない。彼にまかせるしかないと腹《はら》をくくっているミレルではあるが、さすがに焦《あせ》りを覚《おぼ》えはじめている。
昨日《きのう》の夜、師匠《ししよう》が突然《とつぜん》、訪《たず》ねてきて進展状況《しんてんじようきよう》を確かめた。
盗賊《とうぞく》ギルドの幹部《かんぶ》たちも、かなり焦ってきているようだ。
あと五日のうちになんとかしろ、と師匠はミレルに伝えてきた。
活動費用《かつどうひよう》が必要なら、成功報酬《せいこうほうしゆう》の前渡《まえわた》しをしてやるとも言った。
「つまり、手紙を買い戻《もど》してもいいってことよね……」
ミレルはため息まじりにひとりごとを洩《も》らした。
それで問題が解決するのは確かだ。だが、それでは素人《しろうと》の商人に金を脅《おど》し取られたも同然である。
もっとも、密偵《みつてい》が王国の秘密を洩らしたという事実が知られれば、盗賊ギルドの存亡にかかわる。組織を預《あず》かる幹部たちとしては、やむをえない判断かもしれない。
「でも、あたしは腹が立つ……」
ミレルは声にだして言った。
「ぜったいに、儲《もう》けさせてなんかやらねぇからな」
すでに粛清《しゆくせい》されている情報屋から問題の手紙を買い取った金、冒険者への報酬、商売相手を捜《さが》すための手間など、ディンヒール商会の主人であるスマーフという商人もかなりの金額《きんがく》を遣《つか》っているに違《ちが》いないのだ。
これで取り引きが成功しなければ、スマーフは大損《おおぞん》だろう。
(盗賊ギルドにケンカを売ったことを、後悔《こうかい》させてやらないとね)
盗賊のひとりとして、ミレルはそう思っている。
だが、自分にはなにもできない状態で、しかも頼《たの》みの綱《つな》の相棒は、連絡《れんらく》ひとつよこさない。
そういう状況《じようきよう》だから、ミレルは憮然《ぶぜん》とした表情をしているのだ。
「サムスの野郎《やろう》が失敗したら……」
次にどんな手を打てばいいか、そろそろ考えないといけないのかもしれない。
強硬手段《きようこうしゆだん》になるのは避《さ》けられそうにない。人の血が流れるのは必至《ひつし》だろう。
それが、他人の血なのかミレル自身の血かは、わからないにせよ……
ミレルは枕《まくら》の下に手を入れて、一本の短剣《ダガー》を取り出した。刃の部分が波打《なみう》っている暗殺《あんさつ》用の短剣である。
盗賊《とうぞく》ギルドから手渡《てわた》された物で、一人前の盗賊になった証《あかし》でもある。
「いくらなんでも、遅《おそ》すぎるっての!」
短剣を眺《なが》めながら、ミレルが我慢《がまん》しきれないというように叫《さけ》び声をあげたときだった。
「なにが遅かったんだ?」
そんな言葉とともに、いきなり扉《とびら》が開いて、情報屋のサムスが部屋に入ってきた。考え事に集中していたので、彼の足音に気づかなかったのだ。
盗賊としては、不覚《ふかく》というしかない。
ミレルは一瞬《いっしゆん》だけ反省《はんせい》したあと、ベッドから起きあがると、その端《はし》に座《すわ》りなおす。そしてサムスには、ゴミ捨《す》て場《ば》から拾ってきた背もたれの壊《こわ》れた椅子《いす》を勧《すす》める。
サムスは素直《すなお》に椅子に腰《こし》を下ろすと、ミレルを無言で見つめた。
「あたしの顔を見るために、ここに来たんじゃないだろ。仕事の成果《せいか》はあったのかよ?」
ミレルは凄《すご》むように言った。
「あなたからの答えを待っていたんだ。なにが遅かったか、さっき訊《たず》ねただろう……」
ミレルは一瞬ぐっとなったが、この男には普通《ふつう》の会話というものが成立しないのだ。
「遅かったのは、あんたの連絡。ちゃんと指示《しじ》をださなかったあたしが悪いんだけど、一日に一回ぐらいは報告にきなよ。幹部《かんぶ》連中も、心配しはじめているんだから。このままだと、幹部たちが動きはじめちまうよ」
「今度からは、そうしよう……」
サムスは言った。
「口調《くちよう》にも気をつけてね」
ミレルはじとりとした視線《しせん》を向《む》けながら言った。
感情《かんじよう》のない彼の声を聞いていると、意味もなく腹がたってくるのだ。
「……今度《こんど》からはそうする、ぜ?」
たどたどしい口調で、サムスは言いなおした。
「その調子《ちようし》よ」
ミレルはにっと笑ってみせた。
まだまだ不自然《ふしぜん》だが、すぐに変えられるものでもない。
「それじゃあ、成果を教えてもらいましょ」
ミレルにうながされ、情報屋の若者はゆっくりとうなずいた。
「裏《うら》の社会で流れていた情報は、王族との繋《つな》がりが欲《ほ》しくないかというものだった。スマーフは出入りしている貴族にも、それとなく相談をもちかけているらしい……」
「王族との繋がり?」
ミレルは怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめる。
「ディンヒール商会の主人が手に入れたのは手紙≠ネのよね」
ミレルは親指を唇《くちびる》に当てながらつぶやく。
「その手紙で、王国との繋がりができるってことは……」
世間には知られていない王族が、どこかにいるということねと、ミレルは推測した。
普通に考えれば、オーファン国王リジャールの隠《かく》し子といったところだろう。リジャール王に愛妾《あいしよう》がいるとの噂《うわさ》は聞かないが、清廉潔白《せいれんけつぱく》であるはずがない。
(男はみんなケダモノだものね)
ミレルは、心のなかで思う。
「妾腹《しようふく》の王子だか王女だかと縁組《えんぐ》みして、王族と結びつく。権力志向《けんりよくしこう》の人間なら、たしかに飛びつきそうだわ」
ミレルは声に嫌悪感《けんおかん》をこめた。
「スマーフの野郎《やろう》にいるのは息子《むすこ》、それとも娘《むすめ》?」
「男が三人だ。そのうちのひとりは妾腹だがな」
「野郎が手紙を手に入れたのは、最初から商売をしたかったからかな? それとも……」
あれほどの手間と費用をかけ、しかもリスクまで背負って、いったいどれほどの利益《りえき》がでるものだろう。
「スマーフは自分自身が、王国と結《むす》びつきたかったんじゃないかな……」
ミレルには、そんな気がした。
彼が経営するディンヒール商会は、オーファンでは中堅《ちゆうけん》どころだ。商会をもうひとつ大きくするためには、王国と結びつくのがいちばん手っ取り早い。
オーファン最大のアウザール商会も、もともとは先代の主人が、王国の財政《ざいせい》を任《まか》されたことで、急激《きゆうげき》に大きくなったのだ。
別に不正をしたわけでもなく、アウザール商会の先代は、王国が必要とする物資《ぶつし》を調達《ちようたつ》しただけである。なにより、彼は王国の国庫《こつこ》を豊《ゆた》かにしてから、勇退《ゆうたい》している。
ディンヒール商会のスマーフも、同様のことを狙《ねら》って、王国と結びつこうとしたのかもしれない。
だが、国王の妾腹の子は、男だったのではないか。それだと、養女《ようじよ》でもとらないかぎり、嫁《とつ》がせることはできない。
実のところ、こういうときのために、養女を斡旋《あつせん》する商売はある。だが、それは当然、非合法《ひごうほう》で、しかも盗賊《とうぞく》ギルドの商売のひとつであるのだ。
最近、盗賊ギルドの副頭領のひとりに昇格《しようかく》したマズルという盗賊が、その手の商売をしきっている。女喰い≠ニ渾名《あだな》され、仲間うちでの評判《ひようばん》は悪いが、なかなかのやり手で、莫大《ばくだい》な稼《かせ》ぎを盗賊ギルドにもたらしている。
(嫌《いや》なことを思いだしたな……)
ミレルはつい顔をしかめた。
彼女は最初から猫《ねこ》――スリとして育てられたのではなく、マズルのところで養女として売られるか、夜の街《まち》の女にされるところだったのだ。
幼い頃、愛《あい》くるしい容姿《ようし》をしていたからだそうだが、ミレルにはそんな記憶《きおく》はない。
しかし普通《ふつう》より、成長が遅《おそ》く、肌《はだ》の色も浅黒《あさぐろ》くなって、五年前にはまるで男の子のようになってしまった。
これでは商売物にならないということで、彼女は猫や蛇《へび》の訓練《くんれん》を受けさせられたのである。
そして一人前になって仕事をするようになってから、ミレルは突然《とつぜん》、成長しはじめた。
まだまだ発展途上《はつてんとじよう》ながら胸も膨《ふく》らみ、浅黒かった肌も魔法《まほう》が解《と》けたように白くなっていった。
体型こそまだ少年のようだが、男の子と見間違《みまちが》えられることは(夜でもなければ)今ではもうない。
彼女は知らないが、あと二、三年もしたら、美人になるだろうと、盗賊仲間たちは噂《うわさ》しあっている。
ミレルは激《はげ》しく頭を横に振《ふ》って、昔のことを追いやる。
そしてディンヒール商会の動きについて、自分の思いつきをもう一度、検討《けんとう》しなおしてみて、真実の匂《にお》いがしていると判断した。
そしてミレルは、相棒にそのことを伝える。
「あんたの嫌《きら》いな推測ってやつだけど、ね」
「たしかに、真実はわからない。たが、わたしの……オレの情報とは矛盾《むじゆん》しない……いや、矛盾しねぇ」
「正攻法《せいこうほう》で盗《ぬす》みだすのは難しそうだから、ここは別の手を考えるしかないと思うのよ」
もっとも、ミレルの頭のなかには、その手段《しゆだん》はすでに浮《う》かんでいた。
(いくつか準備《じゆんび》は必要だし、あんたにもいろいろ頑張《がんば》ってもらわないといけないけどね)
ミレルは意味《いみ》ありげな笑《え》みを洩《も》らす。
ギルドから受けた依頼《いらい》も大事だが、この相棒をまともにするというのも、自分に課《か》した仕事なのだ。
6
準備を整《ととの》えるためには、さらに三日を費《つい》やさねばならなかった。
まず、ディンヒール商会に接触《せつしよく》して、商談を申《もう》し込んだ。そのために使ったのは、オーファン西部に広大な領地を持つザビールという貴族の家名である。
王都にも屋敷《やしき》があるものの、本人は老齢《ろうれい》のためめったに訪《おとず》れることなく、しかも跡継《あとつ》ぎである長男が二十歳《はたち》、そして末の娘《むすめ》が十一|歳《さい》とミレルたちがなりすますには、最適だった。
ディンヒール商会との約束の日は、今日――
ミレルはサムスとともに、商会に乗り込んでゆくことになる。
「……頼《たの》まれたとおりの物、持ってきてやったぜ」
先代の猫《ねこ》の元締《もとじ》めであり、ミレルにとっては師匠《ししよう》にあたる老人が、布袋《ぬのぶくろ》をかつぎながら、ミレルの部屋の扉《とびら》を開けた。
「遅《おそ》いよ、師匠」
ミレルは、老盗賊《ろうとうぞく》を部屋のなかに招《まね》き入れると、袋を受け取った。
「前金と変装《へんそう》に必要な物、一式《いつしき》――それからリジャール王が使っている手紙の偽造品《ぎぞうひん》……」
ミレルはいちいち声に出しながら、袋のなかの品物を取りだすと、丸テーブルに並べていった。
「ありがとう、師匠……」
そして要求《ようきゆう》していた物が全部、そろっているのを確かめると、ミレルは満足そうにうなずいた。
「金が要るのも、変装が必要なのもわかる。だが、オーファンの手紙の偽造品ってのが、ひっかかる。おまえ、まさかスマーフの野郎《やろう》を……」
「まさかもなにも……」
ミレルは真顔になって、師匠を見つめる。
「このお金は、あたしたちの成功|報酬《ほうしゆう》なんだもの。銀貨《ぎんか》の一枚だって、野郎にくれてやるつもりはないわ。そのための手紙よ……」
「たしかにおまえたちの金だからな。とやかく言うわけにはゆかねぇ。だが、それで失敗したときには、この街に血の雨が降ることになるってことを忘《わす》れるなよ」
老盗賊の言葉に、ミレルは動じた様子もなく、うなずく。
「そのときには、あたしにだって覚悟《かくご》はある」
屋敷《やしき》の人間を――雇《やと》われの冒険者《ぼうけんしや》たちも含《ふく》めて――皆殺《みなごろ》しにするしか、ギルドが生き残《のこ》る道はないのだ。
もし自分たちが失敗して、それでもまだ生きていたときには、蛇《へび》として先頭に立って戦うつもりでいる。
「だけど、そんなことにはならない。ううん、あたしがさせない」
ミレルは師匠《ししよう》に向かって、笑顔《えがお》を見せて言った。
根拠《こんきよ》はなにもないが、そういうときにこそ必要なのは気合いである。
「ああ、信じているぜ」
老人も微笑《ほほえ》みながらうなずいた。
「そんなわけだから、師匠、あたしたちの変装、お願いしていいかな?」
ミレルとて変装術は身に着けているが、師匠に比べたらまだまだ未熟《みじゆく》だ。スマーフは、優秀《ゆうしゆう》な穴熊《あなぐま》――冒険者の盗賊《とうぞく》を雇《やと》っているから、そいつの目をごまかさなければならない。
「まったく、人使いの荒《あら》いヤツだ……」
老人はぶつぶつと言ったが、その顔は満更《まんざら》でもなさそうだった。
「ま、しかたねぇ。おまえを、立派《りつば》な貴族の令嬢《れいじよう》に変身させてやるぜ」
「サムスも、お願いよ。あいつは、貴族の跡継《あとつ》ぎなんだから」
「容姿《ようし》は変えられる。だが、変装術では内面までは変えられないぜ」
師匠の言葉に、ミレルは苦笑《くしよう》まじりにうなずいた。
「問題はそこなのよねぇ……」
ミレルが気にしているのも、そのことだ。彼女自身は、演技には自信がある。だが、サムスは普通《ふつう》に話をすることさえ、問題を抱《かか》えている。
情報屋として厳《きび》しく記憶術《きおくじゆつ》をたたき込まれた結果である。
「あいつには、台本を渡《わた》して演技指導をするつもり。記憶力は確かなんだから、覚えるのは問題ないでしょ」
「なるほどな……」
老人は、いちおううなずいた。だが、それだけで問題がすべて解決するわけではない。
(台本どおりに事が運べばいいんだがな……)
もっとも、そのぐらいのことは、この黒髪《くろかみ》の少女は承知しているだろう。
危険を避《さ》けるためなら、サムスではなく、自分がミレルに同行すればいい。ザビール家の当主は老人なのだから、その役を演じることならできる。
しかし、ミレルはあえて危険を冒《おか》すことを選んだのだ。
あくまで相棒を信頼《しんらい》しようというのである。
(おめぇは、まったくたいした盗賊だよ)
彼女の年齢《ねんれい》を思うと、恐《おそ》ろしくさえある。
頭の回転も早く、技術《ぎじゆつ》も度胸《どきよう》も備《そな》わっている。まさに、盗賊になるために生まれてきたような少女だった。
しかしその数刻後《すうこくご》、老人は自分の考えが間違《まちが》っていたことを知ることになる。
それは自らの手で、この少女を貴族の令嬢に変装させてみてであった――
7
「なんだ、こりゃあ……」
そう言ったきり、老盗賊《ろうとうぞく》は言葉を失った。
目の前には、今、ひとりの少女がいる。薄紅色《うすべにいろ》のドレスを身にまとい、長い髪《かみ》を愛らしく結《ゆ》いあげている。
手にしているのは、鳥の羽根《はね》でできた純白の扇《おうぎ》――
「似合《にあ》わないって、いいたいの?」
その少女――ミレルがじとりとした視線《しせん》を向けてくる。
その声と視線とで、老盗賊はようやく少女が、自分の弟子《でし》であることに確信《かくしん》を抱《いだ》いた。
(王子と物乞《ものご》いの違いは着ている物だけとは言うがな……)
老盗賊は心のなかでつぶやいた。
ミレルは最初から貴族の家に生まれついたかのような気品《きひん》を漂《ただよ》わせていた。
(変装させた、オレでさえ騙《だま》されそうだぜ)
彼女に関しては、正体を怪《あや》しまれる心配《しんぱい》はないだろう。
問題はもうひとりの情報屋のほうだ。
ミレルがあまりにもはまっている≠スめに、いかにうまく変装させようと落差《らくさ》がでてしまうのだ。
「ま、ひとりが本物らしかったら、疑われたりはしねぇよな」
老人は声にだして言って、自分を納得《なつとく》させる。
「あとは演技でなんとかするから」
ミレルがすねたように言った。今の言葉を取り違えたのだろう。
しかし老人はあえてそれを指摘《してき》しないでおいた。
「とにかく、成功を祈《いの》っているぜ。くれぐれも無理はするな。金で始末《しまつ》をつけちまうのが、いちばん簡単なんだから。おまえの腕前《うでまえ》なら、ギルドからの借金《しやつきん》ぐらい、すぐに返せるんだから」
「うん……」
ミレルはこくりとうなずいたが、その表情からうかがえる決意は、まったく別のものだった。
老盗賊《ろうとうぞく》は苦笑《くしよう》を洩《も》らし、自分の最後の弟子の部屋を後にした。そしてその足で盗賊ギルドへと向かう。
すでに引退はしたものの、事はギルドの存亡にかかわる。もしものときには、自分の命をはってでも、事態を収拾させるつもりだった。
老盗賊が去ったあと、貴族の跡継《あとつ》ぎに変装したサムスを相手に、ミレルは最後の打ち合わせを行った。
さすが特殊《とくしゆ》な記憶術《きおくじゆつ》を身に着けた情報屋だけに、台詞《せりふ》は一字一句まで正確に頭のなかに入っている。
心配していた演技のほうも、ちょっと指導《しどう》しただけで言われたとおりにこなすことはできた。
しかしどうしても解消しなかった問題は、アドリブが利《き》かないということだった。台本からちょっとでもはずれたら、たちどころに言葉に詰《つ》まる。
しかたなく、ミレルは予想されるあらゆる状況《じようきよう》に対し、彼の台詞を用意し、演技も指導した。
そのため、打ち合わせはかなりの長時間に及《およ》んだ。
心身ともに疲《つか》れきったが、本番はこれからである。
夕刻までに、ディンヒール商会の館《やかた》を訪《たず》ねなければならない。
ドレスの上から、地味な色のガウンを羽織《はお》り、ミレルはお忍《しの》びの貴族|令嬢《れいじよう》を装《よそお》う。サムスも同じように貴族の正装をマントで隠《かく》した。
「さあ、行くよ」
ミレルはサムスに声をかけると、ねぐらを後にした。
そして数刻後に、ふたりはディンヒール商会の屋敷《やしき》の裏門《うらもん》をくぐったのである。
8
「ようこそおいでくださいました……」
揉《も》み手をしながら、恰幅《かつぶく》のいい中年男が応接間《おうせつま》に入ってきた。
「あの男が、スマーフだ……」
口をほとんど動かすことなく、情報屋のサムスが声をかけてきた。
ディンヒール商会の主人である。
ミレルは無関心《むかんしん》さを装いながら、素早《すぱや》く視線を動かし相手を観察《かんさつ》する。
いかにも抜《ぬ》け目《め》のない商人といった感じだが、それほど手強《てごわ》い相手には見えなかった。
(彼だけなら、問題ないんだけど……)
ミレルは心のなかでつぶやく。
しかし、まるでその声が聞こえたかのように、冒険者《ぼうけんしや》ふうの男たちが五人、入ってきた。
西部諸国《テンチルドレン》から流れてきた腕利《うでき》きの冒険者無限の探求者≠ナある。
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スマーフに雇《やと》われていたあとの二組の冒険者たちは、仕事から降りたとの情報がサムスのもとに入っている。
それぞれに冒険者として加わっていた盗賊《とうぞく》――穴熊《あなぐま》が、ヤバイ仕事にかかわっていることに気づいたのだろう。
オーファンで仕事を続けてゆくうえでは、賢明《けんめい》な判断だといえる。
だが、目の前の冒険者たちは、危険よりも、仕事から逃《に》げたという悪評《あくひよう》が流れることのほうを嫌《きら》ったのだろう。
彼らは、古代王国の遺跡《いせき》を狙《ねら》って大陸を旅している気合いの入った冒険者たちだが、長い旅のあいだには副収入《ふくしゆうにゆう》を稼《かせ》ぐ必要もある。
日々の暮らしに追《お》われているようでは、じっくりと遺跡の探索《たんさく》などできるはずがないのだ。
「彼らは、何者なのかね?」
いささか気分を害したような口調で、ザビール家の跡継《あとつ》ぎに扮《ふん》したサムスが詰問《きつもん》した。
「彼らは、わたしの……その護衛《ごえい》です」
「護衛だと? 商人であるおまえが、か?」
想定《そうてい》された答えだったので、サムスはよどみなく台詞《せりふ》を続けた。
「まあ、いい。わたしは約束《やくそく》の物《もの》をもらえばいいだけだからな」
サムスは尊大《そんだい》な態度で言うと、椅子《いす》に深く身を沈《しず》める。
(その調子《ちようし》よ)
芝居《しばい》をしているという意識《いしき》が薄《うす》いせいか、サムスの台詞や演技は、ミレルの五感にも自然に入ってくる。
冒険者たちはしばらくのあいだ自分たちを値踏《ねぶ》みするような視線を向けていたが、疑いを抱《いだ》いたような雰囲気《ふんいき》はない。
これまでのところは上出来と言えた。
「そちらの要求どおりの代金は、用意してある……」
サムスは言うと、用意しておいた革袋《かわぶくろ》を取りだした。
持ち運びに便利なように、すべて宝石《ジエム》に換金《かんきん》してある。
その金額は、オーファンの市街地で家が買えるほどだ。仕事の報酬《ほうしゆう》だけでは当然、不足があり、それは借金に加算されることになる。
無理やり依頼《いらい》をしておきながら、ひどい話だとは思うが、いかに正統《せいとう》とはいえ、オーファン盗賊《とうぞく》ギルドもしょせん、裏社会の組織《そしき》である。
それでも、ミレルが計画したとおりに事が運べば、莫大《ばくだい》な稼《かせ》ぎになる。
盗賊ギルドからの借金の大部分を返済《へんさい》できる。あと一年ほど頑張《がんば》って仕事≠すれば、晴れて自由の身になれるだろう。
その一方、危険を避《さ》けて、おとなしく商談に応じただけでは、新たに増《ふ》えた借金返済のために、これから先、何十年も働かないといけないだろう。
(危険を冒《おか》してこそ、大儲《おおもう》けができるってものよ……)
それが、世のなかというものだ。
もっとも、それは一般《いつぱん》の人間にかぎったことだけで、貴族や一部の大商人たちは、なんの危険もなく、金を稼《かせ》いでいる。
その意味では、自分たちも、ディンヒール商会の主人も、西部諸国《テンチルドレン》から来た冒険者《ぼうけんしや》たちも立場《たちば》は同じだ。
誰もがそれぞれの危険を承知しつつ、仕事をしている。
だからといって同情するつもりはない。
ミレルが儲けるためには、ディンヒール商会を大損《おおぞん》させないといけないのである。
スマーフは慣《な》れた様子で、宝石をひとつずつ鑑定《かんてい》していった。そしてそれを終えると、困ったような表情で、
「いささか、不足がありますが……」
と、声をかけてきた。
「両替《りようがえ》のときに引かれたのだ」
サムスは間髪《かんはつ》を入れずに答えた。
貴族が商人を相手にするときの常道《じようどう》である。商人どうしでは、こんな無茶な理屈《りくつ》は通らない。
だが、辺境《へんきよう》の貴族が、商売に明るいというほうが不自然であるはずだった。
「しかたがありませんな……」
スマーフは、素直《すなお》に引き下がった。
最初から、こうなることは予測して値段設定《ねだんせってい》をしていたのだろう。
「それでは約束のモノを見せてもらおうか」
見事とは言えないまでも、サムスは無難《ぶなん》に自分の役割《やくわり》をこなしていた。
そして展開も、ミレルが想定したとおりに進んでいる。
(でも、これからが山場《やまば》よ)
ミレルは心のなかで気合いを入れつつも、たいくつそうな表情を装《よそお》っていた。
スマーフや冒険者たちの視線が、ときおり彼女に向けられるが、視線を返すとあわてたように視線が逃《に》げてゆく。
好奇《こうき》の目で見ているためだろう。
今回の商談は、妾腹《しようふく》の王子と貴族の令嬢《れいじよう》との政略結婚《せいりやくけつこん》のための仲介《ちゆうかい》なのである。それだけのことで、貧《まず》しい人間では一生かかっても稼《かせ》ぐことのできない金額が動くわけだ。
(ま、あたしとは一生、緑《えん》のない世界ね)
と、ミレルはこのとき思ったのだが、数年後にその考えは見事なまでに覆《くつがえ》されることになる。しかし、神ならぬ身《み》の彼女に、そんなことが知り得るはずはない。
今はただ、見たこともない相手との婚約《こんやく》を進められている貴族の娘《むすめ》を演《えん》じるだけだ。
まだ恋《こい》も知らず、結婚するということがどういうことかもしれない無垢《むく》な女の子を……
スマーフは鈴《すず》を鳴《な》らして、執事《しつじ》らしい老人を呼ぶと、約束の物を持ってくるようにと、小声で伝えた。
いよいよ、ミレルの出番がやってきたのだ。
ミレルは椅子《いす》からすくっと立つ。
「ど、どうされました?」
あわてたようにスマーフが声をかけてくる。
「こんな部屋にいてもつまらない」
ミレルは不機嫌《ふきげん》に言うと、ドレスの裾《すそ》をつまんで歩きはじめる。
「シャルロッテ!」
サムスが台本どおりの台詞《せりふ》を言う。
シャルロッテというのは、ザビール家の末娘《すえむすめ》の名前である。
「すぐに戻《もど》ってまいりますわ、お兄様。こんな狭《せま》い部屋で、むさ苦しい男どもに囲《かこ》まれていたら、息《いき》が詰《つ》まってしまいます」
冒険者《ぼうけんしや》たちに一瞥《いちべつ》をくれながら、ミレルはぴしゃりと言うと、そのまま部屋をあとにした。
「申し訳ない。わがままな妹《いもうと》で……」
という、サムスの声を背中に聞きながら。
ミレルは、手にしている扇《おうぎ》をひらひらさせながら、ディンヒール商会の屋敷《やしき》のなかを見歩いた。
視線《しせん》は美術品や調度品などに向いている。だが、全神経《ぜんしんけい》は自分より一足先に応接間から出ていった初老の執事に向いている。
執事が戻ってきたときに、ミレルは一仕事しなければならない。
決して簡単ではないが、失敗するわけにはゆかない。もし成功しても、その後にはもうひとつ難関《なんかん》が待ち受けているのだから。
ディンヒール商会で働く人々が、やけに自分に視線を向けてくるのを意識しながら、ミレルは執事《しつじ》が戻るのを待つ。
しばらくして、待ち望んでいた足音が帰ってきた。
彼女の優《すぐ》れた聴覚《ちようかく》は、その足音が二階の廊下《ろうか》から階段に向かっていることを聞き分けた。
ミレルは自然に振《ふ》る舞《ま》いつつ、階段の下まで移動《いどう》した。
足音が階段の上から近づいてくる。
ミレルは階段を降りたところに、かけられた誰かの肖像画《しようぞうが》に見入るふりをはじめた。
うまく描《か》けてはいるものの、他人の肖像画など欲しがる人間はいないので、盗品《とうひん》としての価値はまったくない。
(死んだあとまで、自分の姿形を残そうなんて、ね……)
金持ちの考えることは、ミレルにはまったくわからない。そしてわかりたくもない。
足音はどんどん近づいてくる。
そしてそれが、自分のすぐ背後《はいご》に来たとき、ミレルは肖像画に飽《あ》きたふりをして、唐突《とうとつ》に振り向いた。
そして目の前に初老の執事がいるのに気がついて、あっと声をあげる。
だが、ミレルは止まることはできず、老執事の胸にぶつかった。彼女が手にしていた扇が、老執事の視界《しかい》を白く閉《と》ざす。
それは、ほんの一瞬《いつしゆん》の出来事《できごと》だった。
だが、黄金の指先を持つ#L《ねこ》の目《め》にとって、それだけで十分だった。
執事が運んできた手紙は、ミレルが用意していた偽物《にせもの》にすり替《か》わったのである。
「失礼をいたしました……」
執事は礼儀正《れいぎただ》しく謝罪《しやざい》した。
ミレルはわずかに頬《ほお》を赤く染《そ》めながら、恨《うら》めしそうな視線《しせん》を返す。
「主人の用がありますゆえ……」
執事はそう釈明《しやくめい》してから、足早に応接間へと戻《もど》っていった。
ミレルは簡単に会釈《えしやく》を返しただけ、それからゆっくりと三十まで数えた。
執事の後を追うように、部屋に入ったのでは怪《あや》しまれる危険がある。
冒険者《ぼうけんしや》のなかのひとりは、腕利《うでき》きの盗賊《とうぞく》なのだ。盗賊が冒険者としてやってゆくには、武器戦闘《ぶきせんとう》だけでなく、さまざまな技能に長《た》けている必要がある。
たとえば、変装術やそれを見破る技能も、そのなかにふくまれているのである。
(サムスのヤツ、うまくやれたかなぁ)
ミレルは不安を覚えながらも、応接室の扉《とびら》を開いた。そして部屋のなかの雰囲気《ふんいき》が変わっていないのを見て、心の底からの安堵《あんど》を覚える。
しかし、この雰囲気はあと少しで一変することになるのだ。
ミレルはサムスの隣《となり》の席に、ふたたび腰《こし》を落ち着けた。
そして彼は一通の手紙を手にしていた。
それは密偵《みつてい》が横流《よこなが》しして、ディンヒール商会の手に渡《わた》った物ではない。今し方、ミレルがすり替えたばかりの偽物である。
「どうぞ、お確かめください」
スマーフが愛想笑《あいそわら》いを浮《う》かべながら、促《うなが》した。
サムスは鷹揚《おうよう》にうなずくと、封筒《ふうとう》に収《おさ》められた便箋《びんせん》に目を走らせる。
国王が記す手紙は、使用される便箋も封筒も、蜜蝋《みつろう》の刻印《こくいん》もすべて同じ物である。だからこそ、偽物とのすり替えが可能《かのう》であったのだ。
蜜蝋のついた封筒や便箋は、密偵が秘密裏に調達したまったくの本物である。筆跡《ひつせき》も、オーファン王のそれを真似《まね》て書いてある。
違《ちが》いはただ、便箋に書かれた文面だけなのだ。
「……なんだ、これは」
しばらくのあいだ、手紙に目を走らせたあと、サムスは不機嫌《ふきげん》な声で言って、それを投げだす。
「お気に召《め》しませんでしたでしょうか? ですが、読んでしまわれたからには、代金は頂戴《ちようだい》しないわけにはゆきませんぞ……」
スマーフはさすがに厳《きび》しい表情で言った。
価値があるのは、手紙そのものではなく、あくまで内容なのだ。田舎《いなか》の貴族が代金惜《だいきんお》しさに、ごねようとしているとでも思ったのだろう。
しかし――
「わたしが欲《ほつ》したのは、女性の口説《くど》き方ではない。我《わ》が妹が嫁《とつ》ぐべき相手なのだ」
サムスは憤然《ふんぜん》と言うと、席を立った。
(すべて台本どおりだわ)
ミレルは自分のたてた予測の正しさに満足を覚えた。しかしまだ気を抜《ぬ》くわけにはゆかない。
「何を言っておられます……」
スマーフはあわてて言って、サムスが投げ渡《わた》した手紙を手にする。
そして内容を確かめて、
「これは!」
と、悲鳴にも似た声を上げた。
「こ、この手紙は偽物《にせもの》です。わたしが大金を払《はら》って手に入れた物とは違《ちが》う!」
サムスは無表情に、ディンヒール商会の経営者を見つめた。
「つまり、あなたは偽物をわたしに掴《つか》ませようとしたのだな」
爆発《ばくはつ》しそうな感情を抑《おさ》えているという口調で、サムスは言った。
だが、それは彼の本来の話し方でしかない。ミレルはこのあとは、そのままの口調で押《お》しとおすよう指示してある。
怒《いか》り狂《くる》う演技《えんぎ》をするより、そのほうが彼にとっては自然であるはずだった。
そしてミレル自身は、まったく無関心を装《よそお》っている。
わがままな末娘《すえむすめ》にとって、他家に嫁いでゆくより、今のままでいるほうが気楽に決まっているのだ。
「お兄様、もう行きましょう……‥」
欠伸《あくび》がでてくるのを扇《おうぎ》で隠《かく》しながら、ミレルが言った。
「そうだな……」
サムスはうなずくと、高価《こうか》な宝石《ほうせき》の入った袋《ふくろ》を腰《こし》に戻《もど》した。
「ま、待ってください!」
スマーフはあわてて呼び止めた。
「わたしは本物の手紙の内容を覚えています。リシャール王の妾腹《しようふく》の王子が誰かを知っているのです。それをお教えしますので……」
「言葉だけでは信用できない。決まっているだろう……」
スマーフの言葉に対して、ミレルが用意した台詞《せりふ》を、サムスは正しく選んで相手に返している。
完全に台本どおりではないが、それぐらいの判断力《はんだんりよく》や想像力《そうぞうりよく》はあるということだ。決まった合言葉でしか動かない魔法人形《パヘツト》や魔法像《ゴーレム》とはそこが違う。
(やればできるじゃない)
この調子なら、しばらくつきあっていたら普通《ふつう》に話せるようにもなるし、感情も戻《もど》ってくるだろう。
(このままだと成功なんだけどね……)
相手の話は無視して、強引《ごういん》に屋敷《やしき》を出てしまえば、芝居《しばい》は終わりである。
しかし、そのとき――
「なんか、話がうますぎるんだよなぁ」
五人の冒険者のうちのひとり、あきらかに盗賊《とうぞく》とわかる男が、髪《かみ》をかきむしりながらぽつりと言った。
だが、その声の響《ひび》きに、ミレルの足はぴたりと止まっていた。
殺気《さつき》にも似《に》た迫力《はくりよく》を感じたためだ。
だが、サムスは全然、動じた様子もなく歩きつづけ、扉《とびら》を出ようとしている。
それがミレルの用意した台本だからだ。ここで相手の話を聞いてしまっては、どんな綻《ほころ》びがでるかしれない。
しかし、あとの四人が、扉を塞《ふさ》ぐように立ったので、サムスも歩みを止めた。
どうやら、この盗賊が彼らを統率《とうそつ》しているらしい。
「この方々に、失礼はしないようにしてくれ。あなたがたはこの国を出たらいいだけかもしれないが、わたしはこの街で商売を続けなければならないのだから……」
突然《とつぜん》の冒険者たちの行動に、依頼主《いらいぬし》であるスマーフのほうがあわてたようだった。
だが、このままでは、冒険者である彼らが依頼を果《は》たせなかったことになる。評判《ひようばん》に傷《きず》がつくのが我慢《がまん》できなかったのだろう。
(ホント、気合いの入った連中だわ……)
ミレルは忌々《いまいま》しく思った。
「お願いだ……」
哀願《あいがん》するように、スマーフは絨毯《じゆうたん》のうえに膝《ひざ》をついた。
その姿を見て、冒険者を統率する盗賊は、忌々しそうに舌打ちした。
「見てのとおり、無礼《ぶれい》を働いているのは、オレたちであって、この商人じゃない。ただ、納得《なつとく》できないだけなんだ。オレたちの仕事は完璧《かんペき》なはずだった。侵入者《しんにゆうしや》は誰もいないし、あなたが手紙を受け取ったときも、一瞬《いつしゆん》たりとも目を離《はな》していない。そしてオレの見ている前で、手紙をすり替えるなんてできるはずがない……」
盗賊はそう言うと、無遠慮《ぶえんりよ》な視線をサムスに向ける。
驚《おどろ》いたことに、ミレルのことはまったく疑っていないようだった。
(演技らしい演技もしてないのにね)
だが、状況《じょうきよう》としてはそのほうが問題である。彼女が相棒《あいぼう》に与《あた》えた台本はもう終わっていて、サムスにはアドリブというものができないのだから。
冒険者が何を意図《いと》しているのかわからないが、彼は自分自身の誇《ほこ》りにかけて、真相を明らかにしようとしているのかもしれない。
「お願いだ、もうやめてくれ……」
スマーフが涙《なみだ》を流しながら、ふたたび懇願《こんがん》する。
「依頼主のあんたがそう言うのならな……」
盗賊《とうぞく》はそう答えたものの、ふたたびサムスを振《ふ》り返り、ひとつだけ確かめたいことがあると続けた。
「……オレの勘《かん》は、あなたが偽物《にせもの》だと告げているんでな」
そうはっきりと前置きしてから盗賊は、
「あなたの父親は、甲冑《かつちゆう》を収集《しゆうしゆう》しておられたはず。西部諸国《テンチルドレン》にもよく買い付けに来ていたから、オレたちも知っているのだが……」
と言って、猜疑心《さいぎしん》に満《み》ちた視線を向ける。
ミレルは表情こそ変えなかったが、全身に冷たい汗《あせ》が流れるのを意識《いしき》していた。
自分が代わりに答えてやりたかった。だが、それをしては、自分のほうに疑いの目が向くかもしれない。
そして自分のドレスのなかには、本物の手紙がまだあるのだ。ここはサムスに、切り抜《ぬ》けてもらうしかない。
ミレルが、心臓《しんぞう》が破裂《はれつ》しそうなほどに緊張《きんちよう》しながら見守っていると、
「……その情報は正しくないな」
と、彼|独特《どくとく》の口調で続けた。
[#改ページ]
最初に聞いたとき、馬鹿《ばか》にされているのかと思ったものだ。だが、意外なことに、今はほとんど違和感《いわかん》がない。
馬鹿にされていると、冒険者たちも思っていることだろう。だが、彼らはそうされて当然なのだ。
サムスは今、オーファンの貴族の跡継《あとつ》ぎなのだから。
「その情報は正しくない……」
念を入れるために、サムスは同じ言葉を繰り返した。
「西部諸国に買い付けに行っているのは間違《まちが》っていないが、収集しているのは甲冑《かつちゆう》ではなく、刀剣《とうけん》だ。納得《なつとく》のゆく物をまだ手に入れていないゆえにな……」
そう言ったきり、サムスはふたたび沈黙《ちんもく》する。
(ひっかけようとしやがったのか……)
あぶないところだと、ミレルは思った。
ミレルが出しゃばって、下手《へた》に話を合わせていたら、取り返しのつかないことになっていた。
優秀《ゆうしゆう》な情報屋である彼は、ザビール家のことを完璧《かんぺき》に調べあげていたのだ。
(あんたの言うとおりだったね、サムス)
ミレルは心のなかでつぶやいた。
間違った推測で動いたら取り返しのつかないことになる。
(これからはせいぜい、あんたの情報利用させてもらうわ)
このあとすぐに、ミレルとサムスはディンヒール商会の館《やかた》を無事に出ることになる。
手紙はすぐにミレルの師匠《ししよう》に返し、このことはすぐに頭のなかから追いやった。あんまり深入りするな、と言われていたからだ。
しかし、それから二年後――
黒髪《くろかみ》の盗賊《とうぞく》少女は、このときのリジャール王の手紙に書かれていた|妾腹の王子《バスタード》と運命的《うんめいてき》な出会《であ》いを果たすことになるのである。
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第5章 クエスト・フォー・ブレイブ
1
その日はあいにく、いつも利用している大通りの酒場《さかば》が、大勢の騎士《きし》とその従者《じゆうしや》たちで溢《あふ》れていて、とても入れる雰囲気《ふんいき》ではなかった。
それで三人の娘《むすめ》たちは、大通りを折《お》れ、ここ数年のあいだに賑《にぎ》わうようになった裏通りの歓楽街《かんらくがい》へとめずらしく足を向けた。
「あそこは女|喰《ぐ》い≠フ副頭領《ふくとうりよう》がしきっているんで、あたしとしてはあんまり近寄《ちかよ》りたくないんだけど、いろんなお店があって、けっこうおもしろいらしいよ」
黒髪《くろかみ》の少女が複雑《ふくざつ》な表情《ひようじよう》を見せながら、ふたりの冒険者《ぼうけんしや》仲間に声をかけた。
少女の名前は、ミレル。たぶん十四|歳《さい》になったはずである。
生みの親から捨《す》てられたので、正確《せいかく》な誕生日を知らないのだ。そして育ての親に売られて、今では盗賊《とうぞく》ギルドの一員となっている。もっとも、その借金は返し、今は自由の身だ。
「あの店がダメなら、どこでも一緒《いつしよ》だろう」
「せっかくの冒険の成功祝《せいこういわ》いですもの。これしきのことであきらめてしまっては、戦《いくさ》の神への冒涜《ぼうとく》というものですわ」
少女の言葉に、ふたりがそれぞれ応じた。
ひとりは長身で、体格も立派《りつぱ》な赤毛《あかげ》の女性だった。一目《ひとめ》で戦士《せんし》とわかる巨大《きよだい》な大剣《グレートソード》を背負っており、左の頬《ほお》には文字とも模様《もよう》ともつかぬ印《しるし》が、墨《すみ》で描《えが》かれてある。
もうひとりは純白の神官衣《しんかんい》に身を包んだ金髪《きんぱつ》の女性だった。胸に刺繍《ししゆう》された戦鎚《ウオーハンマー》の聖印《シンボル》から、戦神マイリーに仕《つか》える身であるとしれる。
赤毛の女戦士の名はジーニ、金髪の女性神官はメリッサという。
三人は一年ほどまえに、この街ではじめてであった。
そして仲間になり、冒険者|稼業《かぎよう》を営《いとな》んでいる。三人はいくつかの冒険にでかけ、そのすべてを成功させてきた。
先日も、草原のなかに古代王国時代の墳墓《ふんぼ》を見つけて、そこに眠《ねむ》っていた宝物を持ち帰っている。
墳墓を護《まも》る不死生物《アンデツド》との戦いはあったが、メリッサがかける神聖魔法《しんせいまほう》でなんとか退《しりぞ》けることができた。
「……でも、メリッサが前から言ってたように、もうひとり、|魔法使い《ルーンマスター》が必要かもしんないね。あの遺跡《いせき》は、守衛《ガーデイアン》がすくなかったからよかったけど、魔術とか精霊《せいれい》の力を借《か》りないと、どうしようもない状況《じようきよう》になってたかもしんない」
裏通《うらどお》りの歓楽街《かんらくがい》に入って、すぐ目に入った酒場に落ち着くと、ミレルはほっと息をつきながら、メリッサとジーニに声をかけた。
「でも、女性の魔法使いにしてね」
ミレルの言葉に、メリッサとジーニは深くうなずく。
メリッサは戦の神の教えのままに、勇者に仕えることを悲願《ひがん》としている。そしてジーニに出会い、彼女に勇者の資質《ししつ》を見いだしたのだ。
そのために必要なのは、試練《しれん》である。
それは、与《あた》えられるのを待つだけではなく、求めてこそ得《え》られるものである。
だからこそ、冒険者《ぼうけんしや》という生き方が、最適《さいてき》なのだ。
将来、ジーニが大きな試練に臨《のぞ》んだとき、その力となれる仲間が、まだ必要なのだと、メリッサは思っている。
オーファンを建国《けんこく》した英雄王《えいゆうおう》リジャールにも、今や魔術師ギルドの最高司祭《さいこうしさい》となっている偉大《いだい》なる<Jーウエスと、マイリー教団の最高|導師《どうし》である剣《つるぎ》の姫《ひめ》<Wェニという従者《じゆうしや》がいた。
メリッサ自身、まだまだ修行《しゆぎよう》が足《た》りないと思っている。そしてミレルという若くて優秀《ゆうしゆう》な盗賊《とうぞく》を仲間に迎《むか》えられた。
彼女は、もともとは陽気《ようき》で素直《すなお》な少女であり、もはや盗《ぬす》みは働かないと誓《ちか》っている。
彼女が盗賊の技《わざ》を使うのは、もはや冒険を成功させるためだけなのだ。
ジーニは自分が勇者であるとは思っていないようだが、剣《けん》を振《ふ》るう生き方は性《しよう》に合っているらしく、メリッサの期待《きたい》には応《こた》えてくれている。
しかし、ミレルには、メリッサの信仰《しんこう》はまったく関係がない。
彼女はただ、仲間|意識《いしき》と友情を感じてくれるからこそ、一緒《いつしよ》に行動してくれているのだ。
だから、彼女としては、新しい仲間がくることを、ひどく恐《おそ》れているように見える。異|分子《ぶんし》が入ることで、これまでの関係が壊《こわ》れてしまわないかと、不安なのだ。
特に、男を仲間に入れることは、絶対に避《さ》けたいらしい。
彼女は盗賊ギルドの借金のかたに、夜の街《まち》で働かされそうになったという過去《かこ》があり、男はみんなケダモノだと信じて疑《うたが》っていない。
そしてそれについては、メリッサやジーニにも異論《いろん》はない。
メリッサはもともと、隣国《りんごく》ラムリアースの貴族の出身だった。
しかし親が決めた婚約者《こんやくしや》を、どうしても受け入れることができず、マイリー神の啓示《けいじ》のままに、すべてを捨《す》てて、ここオーファンのマイリー大神殿《だいしんでん》に身を寄《よ》せたのである。
ジーニはジーニで男運が悪いのか、これまで好きになった相手には散々な裏切《うらぎ》りにあっている。
それで男|嫌《ぎら》いになったわけではなく、むしろ情熱的《じようねつてき》な自分を恐《おそ》れて、男とは距離《きより》をおいているという印象《いんしよう》がある。
だから、ミレルの申《もう》し出《で》は、ふたりにとってはなんの異論もないのだ。
しかし、問題は別にある。
冒険者《ぼうけんしや》を志《こころざ》す魔法使いの女性が皆無《かいむ》にちかいということだ。
オーファンの魔術師《まじゆつし》ギルドをそれとなく当たってみたが、そもそも女性魔術師《ソーサリス》の数が少なく、その誰《だれ》もが冒険には何の関心も持っていないようだ。
そして|精霊使い《シヤーマン》は、その大半が自然のなかで暮らしており、街のなかで探すのは至難《しなん》であった。
冒険者の店にも、仲間を捜《さが》してほしいと依頼《いらい》しているが、あまりに条件が厳《きび》しいので期待《きたい》しないでくれとの返事《へんじ》だった。
(こればかりは、気長《きなが》に考えないといけませんわね)
メリッサはそう自分を納得《なつとく》させ、運ばれてきた酒に口をつけ、料理にも手を伸《の》ばした。
そのいずれも、いつもの店に比《くら》べたら格段《かくだん》に質《しつ》が落《お》ちた。
途端《とたん》に、メリッサの表情がけわしくなった。
貴族の出身で、舌《した》が肥《こ》えていることもあり、メリッサは質の低い店にくると、どうしようもなく、機嫌《きげん》が悪《わる》くなるのだ。
「口に合わないみたいね」
ミレルが、申し訳《わけ》なさそうに言った。
店を選んだのは、彼女だからだ。しかし、このあたりはまっとうな店のほうが少なく、ここがいちばん無難《ぶなん》そうだったのだ。
街路《がいろ》で育ったミレルには、値段《ねだん》が安いこともあり、このぐらいの味なら十分に許容範囲《きよようはんい》だった。
「材料は変わらないわけですから、ようするに手間を惜《お》しんでいるのです。材料に対する冒涜《ぼうとく》ですわ」
「こういう店だと、手間よりも時間なのよ。注文《ちゆうもん》してすぐにこないと、暴《あば》れる客とかもいるしね」
まばらにいる客は、まだ宵《よい》の口だというのに、かなり酔《よ》っぱらっている様子で、それでは確《たし》かに味などわからないと思われた。
(だから、こんなに濃《こ》い味付けになるのですわね……)
ミレルに気をつかわせまいと、メリッサは心のなかで、不本意《ふほんい》ですとつぶやいた。
しかしその表情が、彼女の心をはっきりと物語っていた。
これは不味《まず》い酒でも飲んで、自分の舌を麻痺《まひ》させるしかないと思い、メリッサは酒杯《しゆはい》に入っていた葡萄酒《ワイン》――葡萄糟《ぶどうかす》の酒かもしれない――を一気にあおった。
そんなメリッサの表情や様子を、ミレルは苦笑《くしよう》を浮《う》かべながら見つめ、話題を変えるため、先日の冒険《ぼうけん》の話をきりだした。
とにかく今日は、冒険の成功を祝っての酒宴《しゆえん》なのである。
でだしこそ運が悪《わる》かったが、夜はまだまだ長い。ミレルはその場を盛《も》りあげるために、自らに気合いを入れた。
いつも陽気で元気だというのが、メリッサやジーニと出会ってからの自分なのだから。
2
宵のあいだは、はっきり店は暇《ひま》だったが、夜も更《ふ》けてくると、ぽつりぽつりと客が入りはじめ、ふと気がつくと、かなりの混《こ》みようになっていた。
こんな深夜《しんや》に、女三人で飲んでいるのである。酔《よ》った男どもが、寄《よ》ってこないわけがない。わずらわしいことはなはだしいのだが、寄ってこられないというのも、女としては問題である。
(悩《なや》ましいところだわ)
ミレルは男たちが来るたびに、自分が盗賊《とうぞく》であることを悟《さと》らせるために、懐《ふところ》から手品のように短剣《ダガー》をとりだし、相手の鼻先《はなさき》につきつけてやった。
それで男どもは、黙《だま》って引き下がる。しかし、店から出てゆくようなことはないから、さすがに、この裏通りに通ってくる強者《つわもの》たちだ。
しかし夜も更けてゆくにつれ、店に入ってくる客の酔い方はひどくなる一方だった。
ミレルが脅《おど》していることさえ気づかずに、手品でも見せてもらったように喜ぶ者さえ現れだした。
ミレルはしかたなく、裏街言葉《スラング》で怒鳴《どな》りつけたり、それでも去《き》ろうとしない男どもには、容赦《ようしや》のない足蹴《あしげ》りをみまった。
その間隔《かんかく》がしだいに短くなってくると、今夜は楽《たの》しく過《す》ごそうと思っていたミレルの機嫌《きげん》も、だんだん悪くなっていった。
「どうやら、日を変えたほうがよさそうだな」
そんな酔っぱらいを二十組くらい追い返したところで、ジーニが苦笑《くしよう》をもらしながら、ミレルに言った。
「なんか、負けたみたいでヤダ……」
そう言って、ミレルは不満そうに頬《ほお》をふくらませた。
「どうせなら、あいつらをこの店から叩《たた》きだしてやりたい」
ミレルは半分ほど真顔だった。
「賛成《さんせい》ですわ……」
メリッサが相槌《あいづち》をうつ。
彼女はミレルが楽しそうにしていたので、料理や酒の味も、それから品のない酔漢《すいかん》にも我慢《がまん》していたのである。
「全員の勘定《かんじよう》をもってあげて、貸し切りにしてしまいましょうか。そして料理も、わたくしが作ります」
「せっかく、冒険《ぼうけん》で稼《かせ》いだんだ。そんな無駄《むだ》なことで遣《つか》わなくてもいい。明日になれば、いつもの酒場も空《す》いているはずだからな」
ジーニは傭兵《ようへい》だった経験《けいけん》もあり、こういう雰囲気《ふんいき》は慣《な》れていた。
昔は自分も仲間に入って、暴れていた口である。たまに、なにを間違《まちが》えたか、ジーニを口説《くど》こうとする男もいたが、そのときには、拳《こぶし》で返答することにしていた。
このままだと、騒《さわ》ぎになるのは目に見えている。そして、場違いなのはあきらかに自分たちのほうだ。
店の客たちは、いつもと同じように飲みにきているだけなのだから。
そしてジーニは勘定をしようと、ゆっくりと席をたった。
そのときである。
「おっ、美しい娘《むすめ》がいるじゃないか」
「酌《しやく》をさせようぜ」
呂律《ろれつ》のまわらない話し声がして、職人ふうの服装《ふくそう》に身を包んだ二人の若者が、店の入口から、まっすぐに自分たちのほうへ向かってくるのが目に入った。
護身用《ごしんよう》のためか、かなり長い剣《けん》をさげていた。まともに扱《あつか》えるかどうかはさておき、威圧感《いあつかん》はある。
そして若者はテーブルにどんと手をつき、メリッサとミレルに顔を寄せてゆく。
「悪いな、わたしたちはもう店をでるところなんだ」
最後の最後で、事を荒立《あらだ》てたくないので、ジーニはできるかぎり穏《おだ》やかな口調で、若者に話しかけた。
若者たちはメリッサと同じぐらいの年齢《ねんれい》に見える。
だいぶ酒が入っている様子だったが、体力があるので歩き方などはしっかりしていた。
この歓楽街《かんらくがい》に来たということは、朝まで遊ぶつもりなのかもしれない。
「おまえたち、今夜はオレたちとつきあえ」
若者たちは、ジーニのことを無視《むし》して、メリッサとミレルにからみつづける。
メリッサは小刻《こきざ》みに肩《かた》を震《ふる》わせていたが、それは怯《おび》えているからではなく、怒《いか》りを抑《おさ》えるのに必死《ひつし》だからだ。
ミレルは、もはや懐《ふところ》から短剣《ダガー》をとりだす気力もないらしく、むっつりと黙《だま》ったまま席《せき》をたった。
「オレたちを無視《むし》しようっていうのか」
若者たちが激昂《げつこう》したように、メリッサとミレルの肩をつかもうとする。
「だから、わたしたちはもう帰ると言っているだろう」
ジーニも我慢《がまん》の限界まで来ていたが、最後に残ったひとかけらの理性で、若者たちをふたりから引き離《はな》そうとした。
「化《ば》け物《もの》には用はない!」
「おまえひとりで帰るんだな。オレたちは、この娘《むすめ》たちと朝まで楽しませてもらうんだから」
ジーニの手を激《はげ》しく振《ふ》り払《はら》って、若者たちはメリッサとミレルに強引《ごういん》に抱《だ》きつこうとした。
「おやめください!」
メリッサがぴしゃりと言ったが、若者はまったく気にした様子もなく、彼女の神官衣の胸の膨《ふく》らみを鷲《わし》づかみにしようとした。
「な、なにをなさいます」
メリッサは顔を真っ赤にして、若者の手を払いのけた。
その瞬間《しゆんかん》、三人は視線で確認《かくにん》し、互《たが》いで互いに許可《きよか》を与《あた》えた。
そして次の瞬間には無言で手足が動いていた。
ふたりの若者は、ジーニに殴《なぐ》られ、メリッサには平手《ひらて》で打たれ、ミレルには足を払《はら》われた。
派手《はで》な音がして、テーブルや椅子《いす》、さらには食器《しよつき》や食べ残しが宙《ちゆう》にはねる。
若者たちは無様《ぶざま》に床《ゆか》に転がった。
迷惑《めいわく》になるから表に出るという発想《はつそう》もない。これまでの鬱憤《うつぷん》を晴らすためにも、この店を破壊《はかい》したい気分だった。
「おまえたち、覚悟《かくご》するんだな」
「酔《よ》ったからといって、許されることと許されないことがありますわ。罰《ばつ》は受けていただきます」
「ここから、生きて出られるとは思うなよ」
三人は、床に転がった若者たちに声をかけた。
「き、貴様《きさま》ら、女の分際《ぶんざい》でよくも!」
ふたりの若者はよろめきながらも立ち上がった。
「その女に勝てるものならな」
ジーニはにやりとして、かかってこいよと指《ゆび》で合図《あいず》をした。一発や二発で終わらせるのはもったいない。
不愉快《ふゆかい》な気分を爽快《そうかい》にさせるためにも、彼らには遊びの相手をしてもらわないといけない。
そして、ジーニたちはそれを忠実に実行した。
若者たちは勢いにまかせて向かってくるが、酔っているうえに、すでに打撃《だげき》もうけているので、それをかわすのは造作《ぞうさ》ないことだった。
ジーニたち三人は思うさまに、若者たちを痛めつけた。
それでも、若者たちはあとにひかない。打たれても打たれても、怒《いか》りをたぎらせ、ジーニたちに向かってくる。
ただの職人ではないのかもしれない。ミレルが知らないのだから盗賊《とうぞく》ではないだろうが、まっとうな人間ではない可能性がある。
このオーファンは建国してからまだ十年ほどの新興国《しんこうこく》であり、そのまえは内乱《ないらん》が続いていたこともあって、ふつうの市民や村人でも、武器の扱《あつか》いを覚えている者がいる。
そういった人々のなかから、傭兵《ようへい》や兵士となってゆく者もいる。そして冒険者《ぼうけんしや》になる者も……。
「もはや勘弁《かんべん》ならん!」
若者のひとりがそう叫《さけ》び、床《ゆか》に落ちていた剣《けん》を拾うと柄《つか》に手をかけた。
「それを抜《ぬ》いたら命がなくなるぞ」
それを見たジーニは冷ややかに笑って、男に警告を与《あた》えた。
「殺し合いだって、受けてやるがな」
剣を抜いたからには、身を護《まも》るため相手を殺したとしても罪《つみ》にはならない。
もちろん、本当にそうしては、寝覚《ねざ》めが悪いから、そろそろ眠《ねむ》らせてやろうと、ジーニは思った。
そして、そのとき、その声が響《ひび》いたのである。
「そこまでにしな!」
若いが迫力《はくりよく》のある声だった。
そして姿《すがた》を現したのは、長身で体格《たいかく》もごつい、しかし艶《つや》のある黒髪《くろかみ》を伸《の》ばした若者だった。
はじめて見る顔だった。
当然、名前も知らない。
しかし彼女らにとって、この出会いは、このあとの人生を大きく変えることになるのであった。
当然のことだが、このときには知る由《よし》もなかったのだが――
3
「いったい何者ですの、あの男は!」
頬《ほお》だけでなく、顔までを真っ赤にしながら、メリッサは我慢《がまん》できないというように、首を横に振《ふ》った。
まるで唇《くちびる》でも奪《うば》うように迫《せま》ってきた顔が忘れられない。
メリッサが怒《いか》りをぶつけているのは、乱闘《らんとう》のきっかけをつくったふたりの若者ではない。
その若者たちが剣を抜こうとしたときに、止めに入った長髪《ちようはつ》の巨漢《きよかん》のほうだ。
あの若い大男は、いきなりジーニの顔を殴《なぐ》りとばすと、平手打ちを見舞《みま》おうとしたメリッサの手首を掴《つか》み、そしていきなり顔を近づけてきたのだ。
手首には、あの男に掴まれた跡《あと》が、まだ残っている。
そしてメリッサの脳裏《のうり》には、にやけた笑《え》みを浮《う》かべた男の顔が焼《や》きついて離《はな》れない。
「このわたしが、あんな男の拳《こぶし》をよけられなかったなんて……」
ジーニも呆然《ぼうぜん》とした顔でつぶやき、左頬の呪払《のろいばら》いの紋様《もんよう》に手を置いている。それは、悪い予感がしたときなどにする彼女の癖《くせ》ではあったが、今はあの男に殴られて、うずいているからでもある。
あの男の拳が伸びてきたときには、簡単《かんたん》によけられると思ったのだ。それを見切って、カウンターで拳を返そうと思った瞬間《しゆんかん》、まるで腕《うで》が突然《とつぜん》、伸びたかのようになり、顔面に衝撃《しようげき》が走ったのだ。
あの男の身のこなしは、鍛《きた》えられた戦士のそれではない。それなのに、である。
「いったい何者なんだ、あの男は……」
ジーニは、語尾《ごび》こそ違《ちが》え、メリッサと同じ言葉をつぶやいた。
「いったい、何者なんだろうね、あの男は」
ミレルもふたりの言葉を真似《まね》てみる。
彼女は頭の後ろで手を組みながら、心ここにあらずと言った様子のメリッサとジーニを見つめていた。
ミレルはあの巨漢に会心《かいしん》の回し蹴《げ》りをみまったのだが、痛んだのはむしろ自分の足のほうだった。丸太でも思いきり蹴りつけたような感じである。
しかし、あの男は殺しあいになりかけていたところを鮮《あざ》やかにおさめ、騒《さわ》ぎを聞いて駆《か》けつけてきたオーファンの衛兵《えいへい》たちから自分たちを逃《のが》してくれてもいる。
ミレルがこっそりもどって調べたところでは、ふたりの若者たちはなぜか放免《ほうめん》となり、あの大男だけが王城《おうじよう》へ連行《れんこう》されたという。
はっきりいって、自分たちの身代《みが》わりになってくれたということだ。
(お人好しもいたもんだ)
感謝《かんしや》の気持ちを覚えるより、なんて阿呆《あほう》な奴《やつ》だという気がした。
もしも再会することがあったら、思いきり嘲笑《あざわら》ってやろうと思ったものだ。
それだけで、ミレルは頭のなかからあの男のことを追いやった。
通りすがりの男をいちいち覚えていても、銀貨《ぎんか》の一枚も増えるわけではない。
そういう仕事は鼠《ねずみ》――情報屋《じようほうや》にでも、まかせておいたらいいのだ。彼らは特殊《とくしゆ》な記憶術《きおくじゆつ》を叩《たた》き込まれていて、それで人格障害《じんかくしようがい》を起《お》こすほどなのである。盗賊《とうぞく》ギルドは専門家《せんもんか》の集団だが、彼らはそのなかでも特殊である。
ミレルにとっては、あの男はそのていどでしかない。だが、メリッサやジーニにとってはどうやら違うようだ。
突然《とうぜん》、姿を現《あらわ》し、好き放題に暴《あば》れたあげく、しかも感謝の押《お》し売りをされたためだろうか?
すくなくとも、常識でははかりしれない男であるのは間違いない。言い換《か》えれば、非常識《ひじようしき》ということなのだが……
三人は今、戦《いくさ》の神の神殿《しんでん》に来ている。
収まりのつかないメリッサの気持ちを静《しず》めるためだったのだが、宿舎《しゆくしや》にある自室に入っても、彼女の心は晴れないようだった。
そして無口ゆえに気づかなかったのだが、実はジーニのほうも収《おさ》まりがついていなかったのである。
それで、先ほどから、あの男はいったい何者なのかの輪唱《りんしよう》がつづいているわけだ。
(まったく、どうしようもないなぁ)
ミレルは心のなかでつぶやくと、深くため息をついた。
そして意を決して、
「なんなら、あたしが調べてこようか?」
と、ふたりに声をかけてみた。
「調べがつきますの?」
「調べられるのか?」
ふたりの声が見事にそろう。
「あんなに特徴《とくちよう》のある男だし、あの裏街《うらまち》でも常連《じようれん》みたいだしさ。簡単に調べがつくと思うよ」
ミレルは、自信たっぷりに答えた。
「お願いします」
「頼《たの》んでいいか」
ふたたび声がそろったが、生まれ育ちの違《ちが》いのせいで、言葉は違っていた。もっとも、それが普通《ふつう》である。
ただ、彼女らだけでなく、ミレルも含《ふく》めて三人は不思議と声がそろうし、同じ言葉をいうことも多い。
ミレルは元気にうなずくと、ちょっと待っててとジーニたちに声をかけ、夜の街へふたたび駆《か》けだした。
ふたりとも、あの様子ではいつまでも収まりがつかないと思えたからである。
名前とか素性《すじよう》とかがわかれば、安心するだろう。そして簡単に情報を仕入れる方法も、ミレルは知っていた。
(こういうときにこそ、あいつを利用しないとね)
ミレルは心のなかでつぶやいて、ほくそ笑《え》んだ。
彼女はひとりの情報屋に昔、恩《おん》を売ってあり、それを返済《へんさい》しつづけてもらっているのである。
その情報屋の名前は、サムスという。
4
ミレルがメリッサの部屋に戻《もど》ってきたのは、さすがに夜明けまえであった。
昨夜《さくや》はいろいろありすぎたので、さすがに疲《つか》れを覚《おぼ》えていた。
ご褒美《ほうび》のかわりに、今日はこのままメリッサの部屋で休ませてもらおうと思う。寝つくまで、彼女に添《そ》い寝でもしてもらったら、ミレルにとっては至福《しふく》である。
「――あの男の名前は、リウイ。驚《おどろ》いたことに、魔術師《まじゆつし》ギルドに通う正魔術師なんだって。しかも、最高導師《さいこうどうし》カーウエスの養子《ようし》というから信じられないよね」
情報屋のサムスから情報を聞いたとき、さすがのミレルも人違いだろうと思ったものだ。
しかしサムスは絶対に間違っていないと断言《だんげん》した。
「――おまえが言うような男は、この大陸にふたりといないよ」
見た目とは違って慎重《しんちよう》な性格のサムスが、そうまで断言するならと、ミレルも納得《なつとく》し、もどってきたのである。
「あの裏通りでは、けっこうな顔みたいよ。喧嘩《けんか》とかしょっちゅうやらかしているらしい。それから女殺し≠ニかいわれて、あの歓楽街《かんらくがい》の商売女《しようばいおんな》たちからは、ものすごくもてているんだって」
これだから、男という生き物はケダモノなんだと、ミレルはあからさまに顔をしかめた。
「喧嘩が好きで、女が好きだから、きっとお節介《せつかい》をしてきたのよ」
ミレルは話はそれだけとばかり、かるく手を叩《たた》いた。
「調べてみたら、なんか余計《よけい》に得体《えたい》が知れなくなったけど、あんまり関《かか》わらないほうがよさそうな感じだよ。人間というよりほとんど食人鬼《オーガー》だから、近寄ると取って喰われちゃうかもよ」
ミレルは訳知り顔で言って、ケケケと不気味《ぶきみ》な笑いをもらした。
「最低《さいてい》ですわ」
「最低だな」
またも、メリッサとジーニの声がそろう。
しかし、黒髪《くろかみ》の少女の期待ははずれ、メリッサもジーニも、まだ納得《なつとく》ゆかないという感じだった。
「決闘《けつとう》でも挑《いど》んでやろうか」
ジーニがなかば真顔で言った。
「そうしてくださいまし。そうしたら、忘れることができますもの」
メリッサは完全に真顔で、ジーニに答えた。
(メリッサが本気でそう思っているなら、あたしが始末《しまつ》つけてもいいよ)
ミレルは心のなかで言ったが、それは声にはしないでおいた。たとえば、メリッサが本気だったとしても、それをミレルに頼《たの》むはずがないからだ。
メリッサは暗殺《あんさつ》どころか、ミレルに盗《ぬす》みまで禁《きん》じているのである。
遺跡荒《いせきあ》らしが正業《なりわい》の冒険者《ぼうけんしや》が、まっとうな稼業《かぎよう》とは思えないが、彼女の目的はお金ではなく信仰《しんこう》なのである。
そしてジーニにとっては生き甲斐《がい》ということにでもなろうか。
(それじゃあ、あたしは?)
ミレルはそう自問してみるが、答えは見つかっていない。
冒険をしていて楽しいとは思うが、それは一緒《いつしよ》にいるのが、メリッサであり、ジーニだからだと思う。
他《ほか》の冒険者たちと組みたいと思ったことはないし、本音《ほんね》を言えば新しい仲間も不要だと思っている。
しかし、メリッサの目的が、ジーニをしてオーファンを建国した英雄王《えいゆうおう》リジャールに匹敵《ひつてき》するほどの伝説を残すことにあるとするなら、魔術師《まじゆつし》なり精霊使いといった仲間を迎《むか》えるのは必然なのかもしれない。
そのことを考えはじめると、ミレルの発展途上《はつてんとじよう》の胸は一杯《いつばい》になる。しかし、ジーニのように豊かな胸をしていたとしても、やはり一杯になるまで考えてしまうだろう。
「本当に、あの男は何者なのでしょう? カーウエス様といえば、あのリジャール王の従者だった御方《おかた》、そんな偉大《いだい》な養父に育てられて、あのように野蛮《やばん》な男に育つなど……」
メリッサは思いつめた表情で、つぶやき続ける。
誰かに話しかけているというより、考えを口にしているだけという印象だった。
「このわたしが、魔術師ふぜいの拳《こぶし》を受けたとはな。しかもたった一発で、わずかな時間とはいえ、動けなくなるとは……」
ジーニもジーニで、かなりショックを受けた様子で、何度も首を横に振《ふ》り、呻《うめ》き声を洩《も》らす。
「昨日はいろいろとあったから、ふたりとも気持ちが高ぶっているだけだよ。だから、あの男のことが気になっているだけ。もう、朝なんだから、休もうよ。ぐっすり寝《ね》て、起きてみたら、きっと気分もすっきりしてるって」
ミレルはふたりに訴《うつた》えた。彼女らの心のなかに、自分がいないんじゃないかという不安を覚える。
「わたしは朝の礼拝《れいはい》がありますし、そのあと神殿《しんでん》でのお務《つと》めがあります。ミレルはここでお休みなさいな。そして本当にご苦労《くろう》さま。それから、ごめんなさいね。わたしが勝手を言ったために迷惑《めいわく》をかけてしまって……」
メリッサは優《やさ》しい表情を見せて、ミレルをそっと抱《だ》きしめた。
「メリッサぁ」
ミレルは甘《あま》えたような声をだして、メリッサの形のよい胸《むね》に顔をうずめた。
「わたしは、水浴《みずあ》びに行ってまいります。今のままの姿で、礼拝に行ったりしたら、それこそ神の冒涜《ぼうとく》になりますもの」
メリッサはそう言うと、ミレルをそっと離《はな》し、ジーニにうなずきかけた。
「独り寝《ね》が寂《さび》しいなら、わたしがつきあってやる」
ジーニが頬《ほお》に描《えが》かれた紋様《もんよう》をなぞりながら、声をかけた。
「ジーニって硬《かた》いから、あんまり嬉《うれ》しくない」
ミレルは子供のような声で言った。
疲《つか》れているのと眠《ねむ》たいのとで、自分でもなんだか精神年齢《せいしんねんれい》がさがったような気分になっていたのだ。
そして着ていた物を脱《ぬ》ぎ、下着姿になると、メリッサのベッドに潜《もぐ》り込んだ。
ジーニは最初から露出《ろしゆつ》の多い服装なので、埃《ほこり》や汚《よご》れをきれいに拭《ふ》いてから、ミレルの隣《となり》に転《ころ》がる。
一人用のベッドなので、窮屈《きゆうくつ》なことこのうえない。自然にふたりの身体《からだ》はくっつくことになる。
「やっぱり硬いよ」
ミレルがそう言って、照《て》れたように笑った。
「でも、胸だけは柔《やわ》らかいよね……」
「黙《だま》って寝ろ」
ジーニから返ってきたのは、ぶっきらぼうな声だった。
しかしミレルは、それが彼女の不器用《ぶきよう》な優しさであることは、もちろん知っていた。
5
メリッサは神殿《しんでん》の地下に造られた水浴のための部屋で、一糸まとわぬ姿になり、深い井戸《いど》から水をくみ、それを頭から浴《あ》びる。
冷たい水を浴びていると、心身《しんしん》の疲れが抜《ぬ》けてゆくのがわかる。
今日は、このまま務めをして、夜になったら休もうと心に決める。
体力にはあまり自信はないが、それは気力で補《おぎな》えばいいのだ。そしてそれを補えるのが、若さでもある。
メリッサは気持ちが十分に澄《す》んでくるまで、水を浴びつづけた。
そしてそのままの姿で、瞑目《めいもく》し、両手を組む。
「偉大《いだい》なる戦神マイリーよ」
そして声をあげて、祈《いの》りを捧《ささ》げた。
昨夜のことをいろいろ懺悔《ざんげ》し、また不本意《ふほんい》でもあると訴《うつた》える。
そして祈りの最後に、
「あの男は、いったい何者なのでしょうか?」
と、問いかけてみた。
頭が澄んでも、その思いが頭から離《はな》れないからである。
もちろん、神から答えがあるとは、思いもしなかった。
神官であるメリッサは、神の声を聞くことができる。だが、それはいつもいつもではない。はっきりとした啓示《けいじ》を受けたのは、ラムリアースから出奔《しゆつぽん》したときである。
婚約者《こんやくしや》のこととか、伯爵《はくしやく》のこととか、王国のこととか様々に不本意であると、訴えたのだ。
そして返ってきた答えは、一言――
「戦え!」
というものであった。
幻聴《げんちよう》ではなく、その声なき声には圧倒的《あつとうてき》な現実感があった。
そしてそのときから、メリッサは神聖|魔法《まほう》の使い手たる司祭《プリースト》≠ニなったのだ。
「何者なのでしょう?」
メリッサはあのときの気持ちを思いだしながら、ふたたび声にだして問うてみた。
するとである――
「――汝《なんじ》が仕《つか》えるべき勇者《ゆうしや》なり」
そんな声が、メリッサの脳裏《のうり》に響《ひび》いた。
はじめて神の声を聞いたときと同じような圧倒的な現実感を伴《ともな》って……
「あの男が、勇者なのですか? それも、わたしが仕えるべき……」
メリッサはひどく衝撃《しようげき》をうけ、全裸《ぜんら》であることも忘れて、その場で立ち上がり、呆然《ぼうぜん》となる。
だが、マイリー神の声は、それっきり聞こえなくなった。
「今のは啓示……なのでしょうね。マイリー神は、あの男は勇者であり、わたくしに従者として仕えよと仰《おお》せになられたのですよね」
なぜ、とメリッサは不遜《ふそん》とは知りつつ、神に問いかけずにはいられなかった。
だが、もはや声は聞こえない。
メリッサの脳裏に、間近に迫《せま》ってきた、あの男の顔がふたたび浮《う》かびあがってきた。
「いやぁ〜!」
メリッサは思わず、叫《さけ》び声をあげた。
その声で、神殿《しんでん》で暮らす聖職者《せいしよくしや》の何人もが、目を覚《さ》ましたという――
6
「それって、本気で言ってるの?」
ミレルが普段《ふだん》から円《つぶ》らな瞳《ひとみ》をいっぱいに開いて、メリッサに向かって訊《たず》ねかえした。
「冒険者《ぼうけんしや》はやめるって? そして、あの男の従者《じゆうしや》になるって?」
どうしてよと、泣きそうな声をぶつける。実際、少女の瞳は涙《なみだ》で潤《うる》んでいた。
メリッサが水浴びから帰ってきたのは、夜が明けてからである。扉《とびら》を開ける音で、ジーニとミレルは目が開いて、そしてメリッサの表情を見て、頭が醒《さ》めた。
メリッサは、まるで魂《たましい》が抜《ぬ》けたかのような表情をしていたからである。
「し、しかたないのです」
ミレルの問いかけに、メリッサは身も声も震《ふる》わせながら答えた。
「それが、マイリー神の御意志《ごいし》であり、わたくしの信仰《しんこう》なのですから」
メリッサはそう言って微笑《ほほえ》もうとしたが、それはただ口許《くちもと》をひきつらせただけだった。
「なんで、どうして、ぜんぜん理解できないよぉ」
ミレルは激しく頭を横に振《ふ》りながら、メリッサの胸に飛びこみ、訴《うつた》えかける。
「メリッサは、あたしをスリから足を洗わせたじゃないの? そしてあたしを冒険者に誘《さそ》った。それなのに、自分が抜けちゃうなんてひどいよ」
また捨《す》てられると、ミレルは思った。
捨てられるのは、これで三度めだと……‥
「し、しかたがないのです。あの男の従者になることが、神の御意志である以上、それを拒絶《きよぜつ》することは信仰を捨てることです。わたしにも理解はできませんし、不本意でもあります。しかし、しかたがないのです。わたしは神に仕《つか》える身なのですから……」
メリッサは虚《うつ》ろな声で言った。
「あの男に仕えてどうする? あの裏通りで、女殺し≠ニまで言われているような男なんだぞ?」
ジーニが落ち着いた声で訊ねた。
「そうだよ! メリッサ、喰われてしまうよ。そして、さんざん弄《もてあそ》ばれて飽《あ》きたら捨《す》てられるんだ。気がついたら、あの裏通りで、夜の女になってたりして。そんなの、絶対に嫌《いや》だよぉ!」
「そうなったとしたら、それはわたしの不徳《ふとく》のいたすところ。運命として受け入れるしかありませんわ」
メリッサはそう言って、虚ろな笑いを洩《も》らす。
「そんなことは、あたしがさせない! それぐらいなら、いっそのこと――」
「ミレル!」
ジーニが鋭《するど》い声で、ミレルの言葉を遮《さえぎ》る。
その先は決して続けてはいけないからである。
「メリッサは、神官なんだ。信仰《しんこう》がすべてに優先するのは、理解しなければ。ああいう男に仕えるのなら、冒険《ぼうけん》どころではないというのもわかるだろう」
「理解もできるし、わかってもいる。でも、あたしは嫌だ。メリッサと離《はな》れたくない。それぐらいなら――」
「ミレル!!」
ジーニが、ふたたび制《せい》する。
しかし、今度は黒髪《くろかみ》の少女は、ゆっくりと首を横に振《ふ》った。
何か言いたいことがあるのだと、ジーニは悟《さと》り、ミレルの次の言葉を待つ。
「あの男をあたしたちの仲間にひきこんでしまえばいいのよ。そしたら、あいつが何者なのか、あたしたちの目でも確かめられるもの。あたしにとっては、あんな奴《やつ》、どうだっていい男だから、我慢《がまん》できるよ。ううん、我慢してみせる……」
ミレルのその言葉に、ジーニとメリッサははっとしたように、顔を見合わせた。
「たしかに、冒険に連れていけば、あいつが何者なのか簡単に確かめられるな。わたしが、なぜ、あの男の拳《こぶし》がよけられなかったのも……」
「勇者の資質《ししつ》があるかどうかも……」
ふたりはそう言って、うなずきあう。
「でも、ミレルは本当にいいの? あんな男を冒険者の仲間に入れて」
「いいわけないじゃない。だけど、しかたがないもの。あたしにとって、いちばん大事なのはメリッサやジーニと一緒《いつしよ》に冒険をすることだもの。あんな、どうでもいい男のせいで、それをやめるなんてできない」
「ミレル……」
メリッサは言うと、ミレルを力|一杯《いつぱい》、抱《だ》きしめた。
「ごめんなさいね……」
「ううん、謝《あやま》らないで。メリッサが悪いんじゃないもの。たぶん、これは運命ってヤツなのよ……」
ミレルは声もたてずに涙《なみだ》を流しながら言った。
メリッサにとって、そしておそらくはジーニにとっても、運命的な出会いなのだ。
ミレルは、そのとき思った。
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だが、それが大きな間違《まちが》いだったということを、ミレルは後に身をもって知ることになる。
その夜の出会いは、ジーニとメリッサにとってではなく、彼女にとってもまさに運命的だったのだ。
かくして、後に魔法戦士と呼ばれる男と、三人の娘《むすめ》たちの冒険《ぼうけん》がはじまりを告げた。
そしてそれは、彼らだけでなく、オーファンを、いやアレクラスト大陸はおろか、フォーセリア世界までを揺《ゆ》るがすような大冒険のはじまりでもあったのだ――
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あとがき
お待たせいたしました。魔法戦士《まほうせんし》リウイ0(ゼロ)、おとどけいたします。
この巻には主人公(?)のリウイは直接《ちよくせつ》、登場《とうじよう》しません。三人|娘《むすめ》――ジーニ、メリッサ、ミレルの過去《かこ》のエピソードを描《えが》いた外伝《がいでん》であり、魔法戦士リウイ・ファーストシーズンのさらに前のストーリーということになります。
そんな訳《わけ》で、ゼロです。九巻の次だから一〇巻でもよかったのですが、一〇個の数字がひとつずつ並ぶので、本棚に揃えてもらったとき吸えそうですしね。並び方は九の後でも、一の前でもどっちでもいいです。
ファーストシーズンは本書をもって、全一〇巻で完結《かんけつ》。セカンドシーズンも『剣《つるぎ》の国の魔法戦士』『湖岸《こがん》――』『砂塵《さじん》――』全三巻で完結ということになります。『砂塵の国の魔法戦士』はまだ未完《みかん》ですが、『ドラゴンマガジン(DM)』ではすでに連載《れんさい》が終了《しゆうりよう》していて、今年の秋ぐらいに文庫になる予定。同時期《どうじき》に、DMではサードシーズンの連載をはじめます。長期《ちようき》連載になることが予測《よそく》されるので、それまでに十分に構想《こうそう》を練《ね》って、皆様《みなさま》の期待《きたい》に応《こた》えられるようなシリーズにしたいと思っています。
今後《こんご》とも、よろしくお付《つ》き合いのほどを。
僕《ぼく》はあまり「あとがき」を書くのは得意《とくい》ではなくて、近況報告《きんきようほうこく》やら作品の予告、それから刊行《かんこう》が遅《おく》れた言い訳やらで終わるのですが(つまり、ここまでで終わるわけですが)、今回は事情《じじよう》がありまして(頁《ぺージ》の都合というヤツです)、すこしだけ長く書かせていただきます。
まず、小説家になって、『ロードス島戦記 〜灰色《はいいろ》の魔女《まじよ》〜』が刊行されて一五年周年を迎《むか》えられたことのご報告《ほうこく》とお礼《れい》です。
一九八八年の四月一〇日が『灰色の魔女』の初版で、自分でも信じられないことですが、なんとミリオンセラーになっています。百万という人が、僕の作品を読んでいただいたわけで、本当に嬉《うれ》しいかぎりです。もっとも、処女作《しよじよさく》だけあって(それも生まれて初めて書いたようなシロモノですから)、今、読み返すと恥《は》ずかしさのあまり床を転がりたくなるような作品です。それが百万人に、と思うと呆然《ぼうぜん》としてきます。ただ、この仕事に関するかぎり、おかげで怖《こわ》いものはなくなりました。
読者がおもしろいと言ってくれる、読者が喜《よろこ》んで買ってくれる、これからもそういった作品を書きつづけてゆきたいと思っています。もちろん「上手《うま》い」と言ってもらえることも、小説家としては目標《もくひよう》のひとつなので両立《りようりつ》は目指しますが……
正直に言って、あまり上手い小説家だとは自分でも思っていないのですが、一五年もやっていると、技術《ぎじゆつ》のほうはそれなりについてきます。しかし年齢《ねんれい》とともに、感性《かんせい》は衰《おとろ》えてくるものなので、今年で四〇歳になる僕としては、そのほうが課題《かだい》になるのでしょう。
もっとも、当人にはあまり大人になったという自覚はなくて、あいかわらずゲームで遊んでますし、コミックも買いあさっています。もちろん、アニメも見ています。
ただ、「萌《も》え」という言葉《ことば》を知ったときには、さすがにジェネレーション・ギャップを感じました。「燃《も》え」じゃダメなんだ、「萌え」なんだと思うと、新鮮《しんせん》な驚《おどろ》きがありました。由来は諸説《しょせつ》あるようですが、若い世代が、キャラクターに対する熱意《ねつい》を表すには、おそらく、ぴったりの言葉なのでしょう。
『機動戦士ガンダム』のセイラさんに狂《くる》っていた頃《ころ》の僕(当時一六歳)も、おそらく「萌えて」いたのだと思います。でも、今はさすがに四〇歳。人生にあてはめても「若葉《わかば》萌ゆる」季節ではありませんからねぇ。真夏《まなつ》も盛《さか》りを過《す》ぎたぐらい。海で泳《およ》げばクラゲに刺《き》される覚悟《かくご》も必要でしょう。「燃える」ことはできても、「萌える」ことは難《むずか》しい年代というしかありません。まあ、作家があまり「萌え」を意識するのもなんですから、僕は僕なりの「燃える」要素を作品に入れてゆくしかないのでしょう。
で、僕が今、何に燃えているかというと、マイナースポーツなんですよね。衛星《えいせい》放送の充実で、日本は今、多チャンネル時代。当然《とうぜん》、専門《せんもん》チャンネルも増《ふ》えます。チャンネルが増えるとコンテンツも必要になるというわけで、日本ではなじみのないスポーツをCSとかではやっているわけです。
『ダーツ』とか『スヌーカー』とかプロ選手がいるなんて思いもしませんでした。ダーツのほうは最近、大人の遊《あそ》びとしてけっこう流行《りゆうこう》しているみたいですが、スヌーカーなんか、ビリヤードで遊んだ経験のある人でも、名前さえ知らないんじゃないでしょうか(僕は知りませんでした)。でも、プロ選手がいるわけですから、観《み》るたけでもおもしろいスボーッには違いないわけです。
そういうものが、TVで見れる。
ホント、いい時代だと思います。
そのなかでも、いちばん熱狂《ねつきよう》しているのが、自転車のロードレースです。その最高峰《さいこうほう》のレースである『ツール・ド・フランス』は最近、TVでも放映《ほうえい》するようになったし、名前ぐらいは聞いたことがあるんじゃないでしょうか?
当然ですが、ヨーロッパではマイナーどころか、超《ちよう》メジャーなスポーツですよ。
どこが、おもしろいのかといえばゲーム的であるということ。実は、自転車ロードレースというのは、個人競技《こじんきようぎ》ではなく団体《だんたい》競技。それも単純《たんじゆん》に順位《じゆんい》を競《あらそ》うんじゃなく、いくつもの勝利《しようり》条件――目標がある。しかも、勝利条件を目指すのは、一〇人近くいるチームのなかで(普通は)エースひとりだけ。残りはアシストとして、エースの勝利を目指して献身的《けんしんてき》に働く。
レース中は様々《さまざま》な思惑《おもわく》や駆《か》け引きが交錯《こうさく》し=戦術《せんじゆつ》や戦略《せんりやく》が働《はたら》く。でも、競技しているのは人間ですから、最後《さいご》には気力《きりよく》や体力で決着がつく。義理人情《ぎりにんじよう》がからむこともある。そこにドラマがあるわけです。
僕も単純なもんで、安物ですがロードレーサーを買ってしまいました。車輪《しやりん》がとにかく細いんで、最初、乗れるかどうか心配でしたが、小脳《しようのう》のほうはちゃんと覚えてくれたようですぐに慣れました。運動不足の解消《かいしよう》にも最適《さいてき》なので、今年の夏あたり淡路島《あわじしま》の一周《いつしゆう》を目論《もくろ》んでいます。あと、ヨーロッパに本物のレースを観《み》に行きたいですね。
自転車のロードレースが『魔法戦士リウイ』に直接《ちよくせつ》、役立つことはないでしょうが、レースを観《み》て覚えた感動は、様々に形を変えて作品に影響《えいきよう》を与えると思っています。読者にとってもでしょうが、作家にとってこそ燃えるものは(萌えるものも)、必要だという気がします。
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初出
ガールズ・ミーツ・ガールズ 月刊ドラゴンマガジン2001年6月号
プリーステス・オブ・ウォーゴッド 月刊ドラゴンマガジン2001年7・8月号
レディ・マースナリー 書き下ろし
アイ・オブ・ザ・キャット 月刊ドラゴンマガジン2001年9・10月号
クエスト・フォー・ブレイブ 月刊ドラゴンマガジン2001年11月号