新ロードス島戦記1 闇の森の魔獣
水野良
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《》:ルビ
(例)闇《やみ》の森
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(例)|石の魔法像《ストーンゴーレム》
(例)公王|万歳《ばんざい》
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目次[#「目次」は見出し]
プロローグ
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第T章 祝福なき始まり
第U章 妖魔の銀
第V章 魔獣来襲
第W章 アラニアの魔獣使い
第X章 九つ頭の大蛇
[#ここで見出し終わり]
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#地から8字上げ]口絵・本文イラスト 出渕 裕
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プロローグ[#「プロローグ」は見出し]
質素だがしっかりした造りの調度品が並ぶ室内に、二人の男が向かいあって座っている。
一人は暗灰色の髪をした青年で、知的な顔に涼しげな笑みを浮かべていた。名前をヴェイルという。
かなりの長身で、整った顔立ちをしている。もっとも澄ましたような印象ではない。むしろ人好きのする感じで、笑えば子供っぽく見えるかもしれない。
もう一人は、鼻と顎《あご》に髭《ひげ》をたくわえた壮年の男性だった。四十は超えているだろうが、ひきしまった肉体は衰えているところがまったくない。だが、その精桿《せいかん》な容貌《ようぼう》とは対照的に、彼の視線はどこかしら定まっていなかった。目の前の青年を見ているというより、彼の背後にある戸棚に向けられているかのようである。そこには、酒の入った瓶が何本も並べられている。
彼の名はアファッド。
先日、公国となったマーモで、騎士隊長を務めている人物である。英雄戦争以前から、新興国フレイムのために戦いつづけてきた歴戦の勇者だ。ふたつの砂漠の民のひとつ、風の部族の出身だった。
「……それで、御主人はスパーク公が、本国からの独立を謀《はか》っていると言うのだな?
アファッドは青年に向かって、確かめるように言った。
「公王陛下がどのようにお考えかは、わたしには分かりません。わたしが聞いたのは、あくまでも炎の部族の騎士たちの会話です。それも酒の席での話ですから、本気で言っているのかどうか……」
ヴェイルはそう答え、自分には関係のないことだからと付け加えた。
「関係ない、だと?」
アファッドの目つきが変わって、空を漂っていた視線が鋭く青年に向けられる。
「わたしはただの酒場の店主なのですよ。マーモを支配するのが、たとえどなたであっても関係ありません。店に来てくれたら、どなたでも歓迎いたします」
「邪悪な帝国の支配から解放してやった恩を忘れたのか?」
「そう言われましても、わたしは帝国の頃《ころ》もそれなりにやっておりましたから。実力さえあれば、どのような状況でもやってゆけるものですよ」
「たいした自信だな」
青年があまりにも堂々と言ったので、アファッドはそれ以上、何も言う気がしなくなった。
気持ちを落ち着けて、深々と椅子《いす》に身体《からだ》を沈める。
言うだけのことはあって、青年が経営する酒場はなかなかに繁盛していた。どこから仕入れてくるものか、極上の酒を扱っているのだ。そして店で出すだけではなく、王城や騎士たちの館《やかた》にも出入りして酒を納めている。
帝国が支配していた時代にも、そうやって商売していたのだろう。
「……とにかくだ。いかに酒の席の話とはいえ、あらぬ噂《うわさ》を立てられては困る。マーモ公国はまだ新しく、公王はお若い。噂ひとつで、国が倒れるかもしれんのだ」
アファッドは、青年に向かって言った。
その顔には、苦悩の色が浮かんでいる。
「わたしが流しているのではありませんからね。噂を止めることはできません」
「広げるなと言っているだけだ!」
分かりきった答えを返されたことに苛立《いらだ》ち、アファッドは怒声を上げた。
「噂をお伝えしたのが、お気に触ったのでしょうか? しかし、あなたにはよく店に足を運んでいただいた。高価な酒も買ってもいただいた。わたしは、酒の味の分かる人を愛しております。あなたにもしものことがあったらと、わたしなりに気を遣ったのですが……。炎の部族がフレイム本国から独立するということになれば、風の部族の出身者ははたしてどうなりますか。炎の部族の者たちは、族長がマーモ公に封ぜられたことに不満を抱いている様子。それに、風の部族から迫害を受けてきたとの被害者意識に凝り固まっていますからね。望まぬこととはいえ、本国での立場がこの島では逆転したわけです。今までされてきたことを、そっくり返そうとするのが、悲しいかな、人間の性《さが》というものですよ……」
くれぐれもお気をつけくださいと、ヴェイルは付け加えた。そして話は終わったとばかり、席を立つ。
「先ほどわたしが伝えました話は、どうかお忘れください。これからは、せいぜい口に蓋《ふた》をして、あらぬ噂《うわさ》を広げぬよう気をつけます」
深々と礼をして、青年はマーモ公国の騎士隊長に別れの挨拶《あいさつ》を告げた。
「それから、手土産《てみやげ》に持参した品は、カノンの先王が秘蔵していた赤葡萄酒《ワイン》です。ちょうど今が飲み頃《ごろ》だと思いますので、どうか御賞味ください。葡萄《ぶどう》が豊作だった年に醸造されたものですから、御満足いただけると思いますよ」
ヴェイルはそう言って、アファッドに背を向けようとした。
「待て!」
一瞬、躊躇《ちゅうちょ》したあと、アファッドは青年を呼び止めた。
「何か?」
驚いたような表情をして、ヴェイルは振り返る。
「……噂を広めてはならぬ」
喉《のど》から絞りだすような声で、アファッドは言った。
「だが、わしにだけは伝えてくれぬか。できれば、もっと詳しい話をな。それなりの見返りは約束するぞ」
「見返りなど……」
ヴェイルはあわてて首を横に振る。
「今までどおり、店に足を運んでいただけるだけで十分です。次にはドワーフ製の火酒《スピリッツ》でも用意しておきますよ。それとも、幻とされるスカード産の麦酒《エール》などはいかがですか? 秘密の製法を知る者が、ヴァリスにおりまして……」
いかにも楽しそうに、ヴェイルは語った。
得意の話をしているからだと思い、アファッドは適当に相槌《あいづち》を打ちながら、彼の話を聞く。
だが、ほとんど頭のなかには入らなかった。炎の部族の騎士たちの動向を見定めて、その対策を考えねばならない。
マーモを捨てて本国に帰るか、それとも先手を打って彼らを討ち果たすか……
酒の話を続けながら、ヴェイルは考えに耽《ふけ》る騎士の顔を見つめていた。その瞳《ひとみ》の奥には、怪しい光が輝いていた。
しかし、アファッドは、歴戦の猛者《もさ》たる彼でさえ、まったくそれに気付かなかった。
それは、あるいは彼の心が揺れ動いていたためかもしれない。
治安さえ未だ安定せぬこのマーモが、自治権を有する公国になったこと。それは同時に、本国フレイムとの関係が、希薄になったことも意味している。
そして、初代の公王に即位したのは、僅《わず》か十七歳の青年なのだ。
その動揺は、一人の騎士隊長の心だけではなく暗黒の島≠ニ呼ばれるこのマーモの全土を覆《おお》いつくそうとしていたのである……
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第T章 祝福なき始まり[#「第T章 祝福なき始まり」は見出し]
1[#「1」は見出し]
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。大陸の住人たちは、かつて呪《のろ》われた島と呼んでいた。激しい戦《いくさ》が打ち続き、怪物どもが跳梁《ちょうりょう》する魔境が各地に存在したゆえ。
しかし、ここ五十年ほどのあいだに勃発《ぼっぱつ》した三つの大戦、魔神戦争、英雄戦争、邪神戦争を経て、ロードスは忌まわしい呪いから解き放たれつつあった。
灰色の呪縛《じゅばく》でロードスを支配してきた古代王国の魔女はもはや存在しない。
激戦を繰り広げてきたロードスの諸王国は盟約を結び、紛争解決の手段として武力の行使を放棄している。
ロードス各地に存在した魔境も、その地に生息していた怪物ともども消滅しつつある。
不毛の大地であった風と炎の砂漠≠ノは、大地と水の恵みが戻りつつあり、ゆっくりとではあるが緑化が進んでいる。
帰らずの森≠ヘいにしえの妖精《ようせい》の結界が解かれ、人々は森の豊かさを損なわぬ程度にその恩恵を享受している。
魔竜と恐れられた火竜山の主は倒され、その狩猟場であった肥沃《ひよく》な大草原には、開拓精神に溢《あふ》れる人々が入植し、村が興《おこ》され、大きな街へと発展しようとしている。
邪神戦争≠ニ呼ばれた先の大戦が終わって、ちょうど一年。
人々は戦後の復興のため、惜しみない汗を流し、明るい活気に満ち溢れていた。
呪《のろ》われた島と呼ぶ者は、もはや誰《だれ》もいない。
ただひとつの場所、暗黒の島の別名を持つマーモのみを例外として……
砂漠の民の民族楽器が独特の乾いた音色を響かせている。
盛装した人々が、赤い絨毯《じゅうたん》の敷かれた広間に集い、酒杯を片手に談笑している。
ここはマーモ公国の公都となったウィンディスの街、王城ウィンドレストの玉座の間である。マーモ公国の建国と、新公王の即位を祝うための宴《うたげ》が、今、盛大に催されているのだ。
しかし、一見して華やかながらも、広間にはどこかしら白々とした空気が流れているように感じられた。列席の人々が浮かべる笑いも、どこかしら虚《うつ》ろだった。
そして、豪華な装飾が施された玉座に腰を下ろしながら、マーモ公国の新公王となった若者は、人々の祝いの口上に対して、不器用な笑顔で応《こた》えていた。
若き公王の名はスパークという。
今年でようやく十八歳、なんとか大人《おとな》の男として認められる年齢だ。
厚手の布を深紅に染めた玉衣に身を包み、大小の宝石で装飾された王冠を頭に戴《いただ》いている。そして、右手には金、銀の細工が施された王錫《おうしゃく》。
それは王にだけ許された正装だったが、若者には不似合いに見えた。
細く締まった身体《からだ》には玉衣はだぶついているし、肩のところで切り揃《そろ》えられた黒髪から、王冠は今にも滑り落ちそうだった。そして儀礼用の王錫を、まるで武器でも持っているように、強く握りしめている。
スパークは風と炎の砂漠≠故郷とするふたつの部族のうち、炎の部族の族長である。
マーモ公国の本国フレイムでは、風の部族の族長シャダムに次ぐ第二位の王位継承権を有している。そして先の大戦で、フレイムの新たな領土となったマーモ島の統治者として、フレイム王カシューから公爵に叙せられたのだ。
本国から遥《はる》かな距離を隔てた飛び地ゆえ、マーモ公スパークには大幅な裁量権が与えられ、公王を名乗ることさえ許されたのである。
それゆえに催された祝宴なのだが、本気でめでたいと思っている者は一人もいないようだ。
アラニア、カノンといった諸王国から祝いに訪れた大使の顔ぶれを見ても、それほどの大物はいない。王族の姿は一人もなく、上級騎士の末席ぐらいの人物が大半であった。
フレイム本国からさえ、宮廷魔術師スレインが出席しているのみ。
スパークをマーモ公に封じた国王カシューの姿はなく、マーモ公国の紋章を刻んだ指輸や軍旗、スパークが今、身に着けている玉衣と王冠、王錫。そして魔法の武具の一式や、軍馬を数頭、祝辞とともに宮廷魔術師に持たせただけだ。
スレインは今回、夫人レイリアを伴っている。
レイリアはかつて大地母神マーファに仕える高位の司祭であったが、今では教団との関係を断っていて、表に出ることはほとんどない。そして、スレインはまた今年、十三歳になる一人娘を同席させていた。
彼女の名前は、ニース。
母親譲りの黒く長い髪と淡い緑色の瞳《ひとみ》を持つ少女だ。名前は祖母であり、魔神戦争のおりの六英雄の一人でもある先のマーファ教団の最高司祭から貰《もら》っている。
マーファの愛娘《まなむすめ》≠ニまで謳《うた》われた祖母の名に恥じることなく、彼女もこの年齢にして、すでに高位の司祭級の実力の持ち主だ。
神の代理人として、偉大なる奇跡──神聖魔法も唱えられる。
彼女のことは、スパークもよく知っている。
ウィンドレスト城の地下に建てられたマーファ神殿の侍祭《じさい》でもあるし、破壊の女神カーディスの復活を阻止するという長く苦しい旅を共にしたこともあるからだ。
ウィンディス神殿の侍祭の地位だけでも、今日の宴《うたげ》に招待されてもおかしくなかったが、今日はあくまで宮廷魔術師の娘として参加していた。
そのためだろう、ニースはいつもの神官衣ではなく、薄紅色の衣装《ドレス》を身に着けていた。
玉座の間の隅の方に控えているが、その可憐《かれん》さは、未だ美しさの衰えぬ母とともに、人々の視線を集めていた。
今宵《こよい》がアラニア式の宴であったなら、宮廷舞踏《ダンス》に誘われて大変だっただろう。
玉座に陳列されているような状態のスパークだったが、各国の大使との応対が途切れたときなど、ついついニースに視線を向けてしまう。
ニースはそのたび、僅《わず》かに微笑《ほほえ》んでうなずきかえしてくれた。それだけで、癒《いや》しの呪文《じゅもん》をかけてもらったような気分を、スパークは覚えた。
騎士社会においては、女性は十代なかばで嫁ぐことも珍しくない。今宵は政治的な宴の場であるから、ニースにもそういった申し入れがあったかもしれない。
それを思うと、スパークの心は揺れる。
ニース自身は気にしてもいないだろうが、彼女の父はロードス最大の王国フレイムの宮廷魔術師にして、国王カシューの側近中の側近である。
領地を与えられた騎士でこそないが、その影響力の大きさは比類がない。そんな人物と姻威《いんせき》関係を結ぶのは、政治的に有利であるのは間違いない。
(公妃としても申し分がない)
そんな考えが一瞬、脳裏に浮かんで、スパークはあわててそれを頭から追い払った。
(そう言えば、オレのほうには縁談はなかったな)
マーモという公国とその公王が、どのように評価されているか、その事実がもっとも端的に現れている。
いつまで国を保てるのか──
宴《うたげ》に列席の諸王国の大使たちは内心、そんな疑問を抱いていることだろう。
大使たちを迎える側であるマーモ公国の騎士たちの顔にも、自治権が認められて喜んでいる様子はない。むしろ本国から見捨てられたのではないか、との不安を覚えているようだ。
特に、風の部族の騎士たちの顔色が優《すぐ》れない。
先のマーモ太守《たいしゅ》シャダムの右腕的存在だったアファッドにいたっては、健康が優れぬといって、昼間の戴冠《たいかん》式にも出席していなかった。
(不安になるなというほうが無理か)
他人には気づかれぬようにうつむき、スパークは苦笑いをした。
熾烈《しれつ》を極《きわ》めたあの邪神戦争という大戦から、まだ一年しか経《た》っていないのだ。
最大の激戦地であったマーモの大地は荒廃しきっており、治安もほとんど回復されていない。邪神に呪《のろ》われた魔境が各地に残っているし、暗黒の島の呼び名のとおり、妖魔《ようま》や魔獣どもの跳梁《ちょうりょう》もやまない。
だが、先の大戦の論功行賞で戦功のあった者に与えられる新領地は、かつて火竜の狩猟場であった草原とこのマーモしかなかった。
片や未開墾の土地であり、片や荒廃した土地である。
それでもフレイムの王都ブレードの街に近く、もともとは肥沃《ひよく》な土地である火竜の狩猟場にはまだ将来性がある。
しかし、本国から遠く離れた飛び地であり、土地も痩《や》せているマーモに領地を授かっても、労多くして得るものは少ない。
そんなマーモに封じられたのは、先の大戦で武勲を認められ、新たに騎士に叙勲された傭兵《ようへい》や兵士がほとんどで、フレイム騎士団の中核であった風の部族の出身者はそれほど多くない。砂漠の民では、むしろ炎の部族の出身者のほうが多い。族長であるスパークが、マーモに留《とど》まったため、やむなく従ったのだ。
彼らの多くは「炎の部族の長《おさ》を故郷から追放した」との不満を、本国に対して抱いている。スパークが志願してマーモに残ったことや、マーモ公に喜んで就任したことを知っているので、その不満を表に出してはいないが、それが消えることもないだろう。
炎の部族出身の騎士のなかには、いっそ本国から独立しては、との意見を具申してきた者さえいる。
もちろん、スパークにその意図はない。
滅多なことを言うなと、厳しく叱責《しっせき》もした。それはようやく平和がなったロードスに、新たな戦乱の種を撒《ま》くだけだ。
そもそも、本国からの援助がなければやってゆけないのが、この島の現状なのである。独立などできようはずもない。しかし、いつまでも援助に頼ってはいられない。
(こんな宴《うたげ》など、早く終わればいい)
スパークは、そう思う。
マーモ公国を自立させるために、スパークにはやらねばならないことが山積みなのだ。
荒廃した土地に作物を実らせ、産業を復興させねばならない。治安の回復も急務であるし、公国を運営するための人材を集める必要もある。
「スパーク様……」
それは、カノンの大使の応対をしているときであった。
遠慮《えんりょ》がちに呼びかける声があり、マーモ公国の宮廷魔術師となったアルド・ノーバが、スパークの前に進みでた。
アルド・ノーバは、宴には出席していなかった。華やかな宴は性にあわないからと、別室に控え、執務を行っていたのだ。
マーモ公国のなかでは、今のところ、実質的にただ一人の文官であり、彼は多忙を極《きわ》めていた。優秀な頭脳の持ち主だが、実務の経験が少なく、いろいろと苦労していることを、スパークは知っている。
内密の話だろうと察したカノンの大使が、一礼を残して立ち去ってゆく。
大使に返礼してから、スパークはアルド・ノーバに、何用かと訊《たず》ねた。
「……辺境警備の騎士から連絡です。西の山岳地帯で、マーモ帝国の残党らしき一団が挙兵したとのことです。敵の規模はそれほどでもありませんが、それに呼応する動きが近隣に見られるそうです」
スパークにだけ聞こえるように、アルド・ノーバは耳打ちした。
今にも倒れてしまいそうなほど青ざめた表情である。|石の魔法像《ストーンゴーレム》のような容貌《ようぼう》や体格に似合わず、この宮廷魔術師は意外に気が小さいのだ。
勇猛さで知られる砂漠の民にあって、戦士ではなく、魔術師になる道を選んだのも、争いごとを嫌う性格のためである。子供たちに学問を教えるのが、いちばんの喜びという優しい大男なのだ。もっとも、避《さ》けられぬ戦いとあれば、覚悟を決める。そのときには魔術だけでなく、体格に恥じぬ怪力を発揮して、武器を振るう。
「反乱か?」
重大な知らせであったが、スパークは別に驚きもしなかった。
やはりとさえ思う。
前任者であるシャダムが本国に戻って、二十歳にも満たないスパークがマーモ公に叙せられたのだ。これを好機と見て、フレイムの支配から脱しようとする動きが起こるのは、子供でも予測できる。
マーモの各地に砦《とりで》を設け、騎士を派遣しておいたのは、そういった動きを可能なかぎり早く掴《つか》むためであった。
幸いとは言えないが、それが役に立ったようだ。反乱勢力が連動するようなことがあれば、鎮圧するのは大変だっただろう。迅速に解決すれば、反乱の誘発を抑えこむこともできる。
「明後日には出陣できるよう、準備をはじめてくれ」
スパークはアルド・ノーバに指示を与えた。
その口調も、声の大きさも、まったく普段どおりである。
出陣という言葉が聞こえたらしく、まだ近くにいたカノン大使が、びくりとして振り返った。
「スパーク様が出撃されるのですか?」
アルド・ノーバはあわてて訊《たず》ねかえした。
彼の声の大きさもだが、命令の内容にも驚いたのだ。
「記念すべき最初の反乱だ。公王として、断固たるところを見せてやるさ」
冗談めいた言い方だが、スパークは真顔であった。
そして、玉座から立ち上がると、何事が起きたのかと注目しはじめている人々に向かって声を高くして呼びかけた。
「旧帝国の反乱が起きたようです。わたしはこれにて退席し、鎮圧のための準備をはじめるつもりです。宴《うたげ》は続けますゆえ、皆様にはこのままお楽しみください」
笑顔をつくるのにもいいかげん疲れていたところなので、退席する理由ができたのは、スパークにとってむしろ救いだった。起こると分かっていて起きた反乱だから、そう思うことが不謹慎という気もしない。
「反乱だって?」
「旧帝国の蜂起《ほうき》か?」
スパークの呼びかけに、玉座の間に集まった人々がざわめく。
「何も大声で、国の恥を晒《さら》さずともよかろうに……」
玉座の近くにいたマーモ公国の騎士の誰かがそうつぶやくのが、スパークの耳に聞こえた。
「このマーモは、生まれて間もない公国だ。問題が起きて当然、それを無理に隠そうとするほうがむしろ恥ずべきだろう。そして、大使の方々には、この公国への支援をよろしくお願いしたい。先の忌まわしき大戦を繰り返さぬためには、この暗黒の島に秩序と安定をもたらすことが、なにより大切なのですから」
若き公王の言葉に、大使たちはうなずいたが、その表情は一様《いちよう》に複雑であった。
スパークは玉衣の裾《すそ》を邪魔だとばかりたくしあげながら、アルド・ノーバを従え、公王の私室へと続く扉に消えていった。
「……まったく公王陛下ときたらあんな言い方をしなくても。諸国の大使たちは、脅迫だって思ったんじゃない?」
広間の中央に置かれた料理を自分の皿に取りながら、一人の女性が背後にいる騎士に声をかけた。
女性の名前はライナ、そして騎士の方はギャラックという。
盗賊あがりの女性と傭兵《ようへい》経験豊かな騎士隊長という異色の夫婦だ。
一緒に暮らすようになってまだ日は浅いが、まったく遠慮《えんりょ》のない夫婦生活を二人は営んでいる。夫婦というより、息の合った相棒といった関係なのだ。
もっとも今夜の二人は、上級騎士であり、その令夫人だ。
ギャラックは儀礼用の服を着ているし、ライナも盛装である。深紅のドレスに身を包み、髪型もそれに似合ったものにしている。髪が短いので、着け毛をして結い上げているのだ。
彼ら二人も、一年前の大戦において、邪神復活を阻止するための旅を、スパークやアルド・ノーバたちと共にしている。
「思いたいなら勝手に思えばいい。この公国は今日、明日を生き延びるだけでも大変なんだ。体面なんか気にしていられるものか。人も、金も、物も、すべてが不足してるんだぜ。もらえるものは、何だってもらえばいい」
モスの大使が土産《みやげ》として持ってきた麦酒《エール》を酒杯に注ぎながら、ギャラックが答えた。
そして、料理を皿に盛っている彼女に、肉はもっと生っぽいのを選べ、と続ける。
「鹿肉なのよ。生臭くない?」
夫の指示に、ライナが眉《まゆ》をひそめる。
「カノンで獲れた極上物だぜ。生がいちばん美味《うま》いぐらいさ」
「この野蛮人!」
悪態をつきながらも、ライナは注文どおりの肉を皿に載せていった。
「悪い精霊がお腹《なか》に入るわよ。病気になっても知らないから」
「オレの腹は、鉄より丈夫さ。昔、腹に槍《やり》をくらったとき、鎧《よろい》は貫かれたが、腹には傷ひとつなかった」
ギャラックは皿に載った鹿肉を指でひょいとつまみ、そのまま口に運んだ。
上級騎士にあるまじき振る舞いだが、気取ることしかできないような軟弱な騎士は、この公国には必要ないと思っている。そして、彼の容貌《ようぼう》にはそういう粗野な態度のほうが、よく似合っていた。
「この邪悪の温床のような島に、秩序と安定をもたらすには小細工は効かない。オレが言うと陳腐《ちんぷ》だが、理想ってやつを示すべきなんだよ。この島には、それがいちばん欠けているからな。だから、スパークはマーモ公にうってつけなのさ」
「それしか、取り柄《え》がないものね」
ライナはよく焼けた鹿肉を食べながら、ギャラックが手にしている酒杯を奪って、赤みがかった液体を喉《のど》に流しこんだ。
「今のところな。そして、オレたちが果たすべき役割は……」
「そこまでよ」
ライナが微笑《ほほえ》みながら、ギャラックの言葉を遮った。こういう場でなかったら、唇を塞《ふさ》いで黙らしてやったのに、と思う。
「あなたに全部、言わせるほど、わたしは馬鹿《ばか》じゃないわ。汚れ役は、わたしたちで引き受けましょう」
ライナはほんの一年前まで、フレイムの王都ブレードの街で、盗賊《シーフ》を稼業としていた。ある事件に巻き込まれ、スパークたちと出会っていなければ、今でもその仕事を続けていただろう。
国を治めてゆくには、綺麗《きれい》ごとだけでは済まない。汚れた仕事もあるのだ。そのために、どこの国も密偵《スカウト》を抱えている。そして密偵を務めるには、盗賊の技術が欠かせないのだ。
ライナが属していたブレードの盗賊ギルドは、港湾都市ライデンを本部とする組織の支部であった。この島にもライデン盗賊ギルドの支部を作るべきだと、ライナは考えている。密偵を養成することもできるし、なにより悪党を野放しにしておくのは治安のためによくない。
盗賊ギルドは悪人の集団ではあるが、必要悪だけを仕事としているかぎり、王国にとって有益な組織になりうるのだ。
マーモでは昔、盗賊ギルドこそが、もっとも強力な組織であったらしい。そして、マーモ盗賊ギルドは、正統な盗賊ギルドとはほど遠い、残忍で凶悪な暗殺者《アサッシン》の集団だった。
暗黒皇帝ベルドが島を統一するとき、その盗賊ギルドは解散に追い込まれたが、闇《やみ》に潜って活動を続けてきた者もいるだろう。そういった者たちが、昔のような組織を再結成する危険もある。それを防ぐには、正統な盗賊ギルドを先に作るに限る。
ライデン盗賊ギルドの長フォースは、暗殺者に狙《ねら》われた過去を持つから、そういった非道な盗賊ギルドをひどく憎んでいる。協力を頼めば、おそらく応じてくれるだろう。
(この街なら、盗賊のなり手には不自由しないものね)
心のなかでそうつぶやいて、ライナは形のいい唇に、薄い笑みを浮かべた。
裏通りを歩けば、十代の頃《ころ》の自分と同じような若者がいくらでもいる。
そして、ライナはスパークが最近、裏通りを熱心に歩きまわっていることも知っていた。路地でたむろしている若者たちに呼びかけ、彼らをマーモ再建のために協力させたいと思っているらしい。
その期待に応《こた》えて、表の世界に戻る者もいるだろう。
だが、裏の世界でしか生きられない者もいるに違いない。そういった連中を放っておけば、手のつけられない悪党になる。だが、盗賊ギルドがあれば、なんとか抑えられるものなのである。裏の世界には、裏の世界でだけ通じる掟《おきて》というものがあるからだ。
(騎士隊長の夫人が、盗賊ギルドの女頭領というのも悪くないわね)
明日にでも探りを入れてみようと、ライナはひそかに思った。
スパークがすでに地均《じなら》ししているから、事は簡単に運ぶだろう。
「……どうやら、宴《うたげ》も終わりのようだな」
そのとき、ギャラックが独り言のようにつぶやいた。
彼の言うとおり、宴の会場である玉座の間は、人影もまばらになっていた。
アルド・ノーバを伴ってスパークが退出すると、各国の大使もひとりふたりとそれぞれの部屋に戻っていった。おそらく、大使のほとんどが、明日にもこの島を去ってゆくだろう。マーモ公国の先行きが危ういとの報告を持って……
(その報告を、諸国の王様たちはどう受け取るかしらね)
ライナはそう考え、ほくそ笑んだ。
おそらく、支援はするだろう。
先の大戦のときのフレイムの功績に対する返礼として、もしくは船の積み荷にかける保険ぐらいに考えて。
だが、未来への投資と考える者は、誰《だれ》一人としていないはずだ。
(そんな物好きは、わたしたちぐらいでしょうね)
ライナは思った。
二十歳にも満たない若者の未来に賭《か》けるのだから、それに勝てば、莫大《ばくだい》な配当が手に入るはずだった。
2[#「2」は見出し]
マーモの王城ウィンドレストで、公国建国と公王即位の祝宴が催されているちょうどその頃《ころ》、王都ウィンディスの街からさほど離れていない場所に建つ大きな屋敷で、別の式典がひっそりと行われていた。
マーモ帝国第二代皇帝の戴冠式《たいかんしき》だ。
「……偉大なる建国帝ベルドと、マーモ評議会の名において汝《なんじ》、レイエスに皇帝位を授ける」
マーモ帝国暗黒騎士団の漆黒の甲冑《かっちゅう》を身に着けた女騎士が、そう宣言して、月桂樹の冠を赤毛の少年の頭に載せた。
女騎士の名前はネータという。
彼女はその場でひざまつくと、腰の剣を鞘《さや》ごと外し、新皇帝となった少年に差し出す。
少年は玉座代わりの椅子《いす》から神妙な顔で立ち上がると、その剣を受け取った。そして、剣を鞘から抜くと、刃を寝かせてネータの両肩を軽く叩《たた》いた。
騎士叙勲の儀式である。暗黒騎士ネータは今、皇帝レイエスの臣下となったのだ。
「皇帝陛下に永遠の忠誠を誓います」
震える声で、ネータが宣誓した。
その瞬間、広間に集まった二十人ほどの男女が拳《こぶし》を振り上げ、あるいは手を叩いて、歓声を上げた。
「マーモ帝国の再建はなった!」
皇帝からふたたび剣を手渡されたネータは、それを頭上にかざして、高らかに宣言した。
輝くような白金色《プラチナ》の髪と澄んだ青い瞳《ひとみ》、化粧ひとつしていないが肌は白く、唇は赤い。戦乙女《バルキリー》もかくやという美しさだが、彼女は騎士としての実力も秀でている。女性ゆえの非力さを、技の速さと正確さで補い、何人もの敵を葬ってきた。
そして、行政においても優《すぐ》れた手腕を発揮し、カノン国内の領地を四年に渡って見事に治めてきた。連合騎士団の大軍の侵攻を阻止することこそできなかったが、敗走の混乱のさなか帝国の財宝を廃坑に隠し、皇帝の遺児たちを匿《かくま》い、帝国再建のための準備を慎重に整えてきた。
そして、ベルド皇帝の遺児のなかから、一人の少年を選び、今日、帝位を与えたのだ。
レイエスという名のその少年は、父譲りの赤毛の持ち主であった。
もっとも、肉体的にはベルドには似てもいない。十五歳という年齢にしては幾分、小柄で痩《や》せている。それゆえ、実際の年齢より、幼く見えるほどだ。だが、レイエスは肉体的な不利を補ってあまりある利発さと胆力とを備えている。帝国を統治しうる器の持ち主と思えた。
大勢いるベルドの遺児のなかから、この赤毛の少年を皇帝に選んだのは、だからこそなのだ。
皇帝と帝国を讃《たた》える声が響くなか、隣の部屋に控えていた女性たちが、食べ物や飲み物を運びこんできた。
マーモ公国の祝宴には及びもつかないが、これから新皇帝即位の祝宴が催されるのである。
「……もっとも酒の質では、負けてはいないだろうな」
広間の片隅で戴冠式《たいかんしき》の様子を見つめていた一人の青年がそんなつぶやきを洩《も》らした。
その青年は先日、マーモ公国の騎士隊長アファッドの館《やかた》を訪れていた酒場の主人ヴェイルであった。
宴《うたげ》で出される酒は、すべて彼が用意したものである。
ヴェイルはかつて、マーモ帝国の宮廷魔術師団に属していた。黒の導師<oグナードのもとで、密偵を配下に抱え、様々な情報の収集、分析を行ってきた。暗殺や粛正も、彼の仕事のなかにはあった。
皇帝ベルド亡き後、マーモ帝国に反乱が起きなかったのは、評議会による統治が巧《うま》く機能していたこともあるが、事前にその芽を摘み取っていたからでもある。
その役割ゆえ、彼の正体を知る者はほとんどいない。先の大戦の後、連合騎士団が行った帝国の残党狩りのときも、彼はペルセイの街で堂々と暮らしていた。
今の彼も、同じような立場にある。
公式には、マーモ帝国宮廷魔術師の地位にあるが、そのことを知っているのは皇帝レイエスと騎士団長ネータの他、信頼できる数人の人物だけ。表向きには、帝国に資金を提供している後援者《パトロン》の一人ということになっている。普段は、ウィンディスと改名されたペルセイの街で暮らし、公国の動きを監視し、内部情報を集めているのだ。
宴《うたげ》は、徐々に盛り上がりを見せていた。
「そろそろいいだろう」
そうつぶやくと、ヴェイルは女騎士のネータに目で合図を送った。
承知したというように彼女はうなずきかえし、二人は別室へと移動した。
「ようやく、ここまできましたね」
椅子《いす》に深く腰を下ろしてから、ヴェイルはネータに言葉をかけた。
「おまえには本当に感謝している。おまえの努力があればこそ、今日という日を迎えることができた」
ネータは微笑《ほほえ》みを浮かべ、ヴェイルに応じた。
「その言葉だけで、苦労が報われます。しかし、今日は始まりでしかありません。砂漠の民との戦いは、これから幕を開けるのです」
「勝たねばならないな。この暗黒の島は我らのもの。砂漠の民の支配を受けるわけにはゆかぬ」
ネータの顔から微笑みが消え、表情が厳しくなった。しかし、それは凜々《りり》しく見えこそすれ、彼女の美しさを損なうものではない。
「その砂漠の民ですが、決して団結しているとは言えません」
「風の部族と炎の部族の対立だろう?」
「それだけではありません。マーニーやローラン、そしてライデンは一昔前までは独立した都市国家。その騎士たちのなかにもフレイムの統治に不満を抱く者は大勢おります。先年、フレイム王カシューは、風の部族の族長家から妃《きさき》を娶《めと》りました。風の部族を優遇した政策が行われることに危機感を抱いている者も多いはず。そして、このマーモに領地を与えられたフレイムの騎士のなかでは、風の部族は少数派なのです」
「さぞや肩身の狭い思いをしているだろうな」
「それどころか、炎の部族や諸都市の出身者に恐怖感さえ抱いています。風の部族であることの優越意識が、それと葛藤《かっとう》を生じているでしょう。風の部族の騎士たちの心は、激しく揺らいでいます。一押しすれば、倒れてしまいそうなほどに……」
「その口ぶりでは、すでに手は打っているな。西の山岳で反乱を扇動したのも、ただの陽動ではあるまい」
味方にも恐れられていたこの青年だが、ベルド皇帝と帝国に対する忠誠は本物だったようだ。帝国再建の悲願を抱くネータに、彼は最初から全面的な協力をしてくれている。
ネータには最初、意外に思ったが、今では彼に全幅の信頼を置いている。なにしろ、この魔術師はマーモ再建のために、実の妹さえ犠牲にしたのだ。そして、それと引き替えに、巨大な力≠手に入れている。
「残念ながら、わたしたちはまだまだ非力です。打てるだけの手を打ちませんと、とても勝機は見出《みいだ》せません」
「口惜しいかぎりだがな。武力で勝っていれば、正面から戦いを挑んだものを。今のところは、おまえの知略だけが頼りだ」
「それこそが、わたしの剣であり鎧《よろい》です」
ネータの言葉には皮肉も含まれていたが、ヴェイルはむしろ胸を張って、堂々と答えた。
「一人一人の心は操れずとも、人が集まれば返って御《ぎょ》しやすくなるもの。噂《うわさ》を操り、火を起こさずして煙を立てる。煙を見れば、人は平静ではいられなくなります。平静さを欠いた人間が、はたしてどのような行動に走りますか……」
「おまえの手並みは、じっくりと見せてもらうとしよう。わたしは反乱を指揮するため現地に赴く。あわよくば、武力でマーモを取り戻せるかもしれないからな」
「その気力があればこそ、フレイムの騎士たちも浮き足立ちましょう。しかし、無理はなさらないでください。勝てぬとあれば、兵を退《ひ》く。それもマーモの騎士道です」
「心得ている」
ネータはそれでヴェイルとの会話を終え、宴《うたげ》で盛り上がっている広間へと場所を変えた。
彼女はすぐにでも、行動に移るつもりでいた。しかし、その前にレイエス皇帝に、拝謁《はいえつ》しておかねばならない。皇帝はまだ十五歳、マーモ帝国の再建を望む者たちのなかでも、彼のことを軽く見ている者が多い。彼女が率先して忠誠を示すことで、少年皇帝の権威を高めてゆかねばならない。
マーモ公国もそうだが、新生なったマーモ帝国も、一枚岩のように団結しているわけではないのだ。
「……わたしは、これにて失礼いたします」
皇帝の前に進みでると、ネータは畏《かしこ》まって挨拶《あいさつ》した。
ヴェイルは表向き帝国の人間ではないので彼女には倣《なら》わなかったが、その場で深く頭を下げて皇帝に敬意を表しておく。
赤毛の少年は微笑で答え、形通りの返礼を行った。
そして、女騎士ネータと魔術師ヴェイルは、広間から去っていった。後に残った者たちは、すでに宴に興じており、皇帝には見向きもしていない。
少年はネータに向けた微笑をそのままに、宴の様子を見つめた。その微笑《ほほえ》みは、ほんの一瞬も変わらない。まるで精巧な人形が、椅子《いす》に置かれているようにも見えた。注目しつづけていれば、それが異常だということに気がついただろう。しかし、時折、様子を伺《うかが》うぐらいでは、少年皇帝の様子は極《きわ》めて自然に見えた。
そうして、夜も更けていった頃《ころ》、
「……皇帝陛下にも、そのうち妃《きさき》をお探しせねばなりませんな」
酒に酔った足取りで一人の男が少年に近寄り、下品な笑い声を響かせた。
少年は静かにその男を見つめた。その顔から、微笑《ほほえ》みが消えている。
マーモ帝国時代、人買いで財を成してきた人物だった。その商売がフレイムによって禁令とされたので、最近になってマーモ再建の後援者の一人となった。
「心配は無用だ……」
男に向かって、少年は言った。
抑揚のない声、どのような感情のもとにその言葉が出たのかまるで判断できない。
「恥ずかしがることはありませんぞ。皇帝たる者、子を成すことも大切な仕事のひとつ」
「聞こえなかったのか? 心配は無用だと、余は言ったのだぞ」
男を見つめる少年の目が細められ、その視線が刃《やいば》のように鋭くなった。
「も、申し訳ありません」
その刃を喉《のど》もとに突きつけられでもしたように、酔って赤くなっていた男の顔から血の気が引いてゆく。
「出過ぎたことを申しました……」
しどろもどろに謝罪の言葉を述べると、男は広間の隅の方へと消えていった。
視界から男の姿が消えると、少年の顔にはふたたびあの微笑が戻った。
「妃を探す必要などない」
誰《だれ》に向かってでもなく、少年はそんな言葉を洩《も》らした。
「我が妃となる者は、もはや決まっているのだから……」
3[#「3」は見出し]
マーモ公国の王城ウィンドレストの地下には、ひとつの神殿が建てられている。
旧帝国の時代には破壊の女神カーディスが祭られていた。しかし今は、創造の女神にして豊穣《ほうじょう》と多産、婚姻《こんいん》を司《つかさど》る大地母神マーファの神殿に代わっている。
その神殿の敷地内に建てられた宿舎の一室に、フレイムの宮廷魔術師スレインと、その家族が集っていた。
「恐れていたことが起こりましたね」
沈痛な表情で、スレインが言った。
小さめの椅子に窮屈《きゅうくつ》そうに座りながら、妻のレイリアが煎《い》れた熱いお茶を口にしていた。甘酸《あまず》っぱい香りが湯気と一緒に立ち上っていた。
四十をいくつか過ぎて、もともと痩《や》せていた顔には皺《しわ》が、頭髪には灰色のものが目立つようになっていた。しかし、まだまだ年老いたという印象はない。
肉体的には盛りが過ぎたが、知性のほうはこれからが円熟期だ。ロードス最大、最強の王国となったフレイムの内政を預かる者として、スレインに与えられた責任は重い。
もっとも、十年ばかり前には隠居同然の暮らしだったのにと、現在の多忙さを心のなかでは嘆いている。しかし、運命を恨むことはできない。先のふたつの大戦、英雄戦争と邪神戦争には、彼の一家が深く関わっているからだ。
妻のレイリアは古代魔法王国の女性魔術師灰色の魔女<Jーラに心を奪われ、望まぬこととは言いながらも、英雄戦争の両雄、暗黒皇帝ベルドと白き英雄王ファーンとの戦いの背後で暗躍していた。
そして、邪神戦争においては、破壊の女神カーディスの復活を目論《もくろ》んだ黒の導師バグナードの陰謀には、邪神復活のための扉として娘のニースが欠くことのできない存在であった。
妻と娘を守るため、スレインは武力を必要とした。それゆえ、フレイム王カシューの招聘《しょうへい》に応じて、この砂漠の王国の宮廷魔術師となったのだ。
戦《いくさ》が終わったからと言って、さっさと身を退《ひ》くことはできない。スレインはカシューへの負債を返すため、必要とされなくなるまで働くしかないのだ。
そして、急速に国土が拡大したフレイムには、マーモ公国に劣らぬほど問題が山積みとなっている。もっとも、外部から見るかぎり、フレイム王国の精強《せいきょう》さと、マーモ公国の脆弱《ぜいじゃく》さは対照的であろうが……
「スパーク様は、反乱が起きるのを予測してらしたみたい」
窮屈《きゅうくつ》なドレスを脱ぎ捨てながら、父の言葉にニースが応じた。
一年ぶりの再会である。いかに聖職者とはいえ、まだ十三歳の彼女が嬉《うれ》しく思わないはずがなかった。
もっとも両親と離れて暮らすことを選んだのは、彼女の意志である。果たさねばならないことが、この暗黒の島にあるからだ。そして、両親をそれに巻き込むつもりはない。父にはこれ以上の苦労をかけたくないし、母にはこれ以上の悲しみを背負ってほしくなかった。
「反乱の知らせを聞いて、公王陛下はむしろほっとしたような顔をしていましたものね」
娘の着替えを手伝いながら、レイリアが言葉をはさんだ。
もうすぐ四十になろうとする彼女の顔には、目尻《めじり》や口許《くちもと》に僅《わず》かな皺が見られた。しかし、薄紫のドレスに身を包んだその姿は、女性として完成された美しさを感じさせる。宴《うたげ》の席では艶《つや》やかな長い黒髪を高く結いあげていたのだが、今は解いて自然に流している。ふたつの瞳《ひとみ》はいつになく明るい娘の顔を映し、紅をひいた唇は穏やかな微笑を浮かべている。
自然であることを教義とする大地母神を信仰しているゆえに、装飾品はほとんど着けていないが、たったひとつだけ、人の瞳を想起させる冠を額にはめていた。
五百年前に滅亡した古代魔法王国の時代に創られたその額冠《サークレット》には、一人の女性魔術師の記憶と意志が封じられている。そして、強大な魔力で着用者の精神を支配するのだ。このロードスを灰色の呪縛《じゅばく》でからめとらんとするために……
二十年ほど前に、レイリアはこの額冠の魔力に一度、屈している。
しかし、一年前にもう一度はめたときには、魔力に抵抗しきって、彼女自身の意志を失うことはなかった。
彼女がはめているかぎり、額冠の魔力は二度と発動することはない。そして、彼女は自らの死を悟ったときに、大地母神の降臨を願って、その魔力を永遠に封じるつもりでいる。
「スパークとて宴《うたげ》が嫌いなのではないでしょうが、今日の雰囲気はひどいものでしたからね」
スレインが苦笑を浮かべながら、妻と娘に視線を向けた。
そして、小さなニースが下着姿だったのを見て、あわてて視線を戻す。
一年ぶりの再会であるが、娘はそれほど成長したような印象がなかった。それでも、少女の肉体には、大人《おとな》の女性への変化が兆しとして現れはじめている。
小さなニースは、髪や肌の色など母親とそっくり同じで、祖母である偉大なるニースにもよく似ている。
しかし、限られた者しか知らないことだが、偉大なるニースと、この母娘のあいだには、血の繋《つな》がりはないのだ。
マーファの愛娘《まなむすめ》≠ニまで呼ばれたマーファ教団の先の最高司祭である偉大なるニースには、昔、愛しあった男性がいたのだが、結局、結ばれることはなかったのである。そして、数奇な運命を背負って生まれた、一人の赤子を養女として引き取った。
それがスレインの妻、レイリアなのである。
そして、十七歳のとき、彼女はもっと数奇で残酷な運命を背負うことになる。灰色の魔女の額冠の魔力に、支配されたのだ。
「父様の仰《おっしゃ》るとおり」
着慣れた神官衣を頭からかぶりながら、ニースがくぐもった声をあげた。
「アラニアの大使はスパーク様のことを、あからさまに軽く見ていましたし、カノンの大使は亡国の王子でも見るような哀れみと同情に満ちた視線を向けていました。それに、マーモの騎士たちときたら、まるで主人に捨てられた子犬みたい。あれでは、スパーク様が楽しまれるわけがありません」
「ニース!」
娘の口から思いもかけず辛辣《しんらつ》な言葉が出てきたのを聞いて、レイリアが驚いたような表情を浮かべ、注意を与えた。
「……ごめんなさい、母様。言葉が過ぎました」
そんな母親の顔を見て、ニースははっとなって謝った。
知らず知らずのうちに、はしゃぎすぎていたようだ。一年前の自分なら、こんな言葉は言わなかっただろう。
「そんなに落ち込むことはありませんよ。皮肉も人間の英知のひとつですしね。母様は成長したあなたに会って、戸惑っているのですよ」
スレインが穏やかな声で言った。
愛する妻と娘がそばにいるという幸せに、彼は今、心の底から喜びを感じていた。
自治都市であった頃《ころ》のライデンの街で、評議員を務めていた豪商の家に生まれたため、スレインは安らいだ家庭とはまったく無縁であった。
商売人として政治家として多忙を極《きわ》めた父親は、家には滅多に帰ってこなかったし、母は母で、子供の世話は召使いと家庭教師に任せっきりで、社交界《サロン》に入り浸っていた。
三男という気軽な立場でもあり、スレインは十五歳のときに家を出て、アラニアの王都アランの街に当時、開かれていた賢者の学院の門を叩《たた》いた。
そこでも色々とあって、導師の資格を得るやいなや、アラニア北部の農村であるザクソンに逃げるように移り住んだのだ。
実家からの仕送りだけでも十分に暮らしてゆけたし、農夫たちの子供に文字の読み書きを教えていれば、穀物も野菜も余るぐらいに譲ってもらえた。
そんな暮らしに満足していたはずなのだが、一人の若者の出現で突然、激流のように運命が動きはじめた。
しかし、今にして思えば、結局のところ自分にも、父や母の血が流れていたということなのだろう。平穏を望みながら、心の底では波乱を求めていたのかもしれない。そうでなければ、現在のような立場に身を置いているはずがない。
その父と母はすでに他界し、家業は長兄が継いでいる。二番目の兄は北のアレクラスト大陸に渡って、新しい商店を興《おこ》したと聞いている。
そして、スレインも商売とは無縁だが、多忙さという点では二人の兄にまったく負けない生活を送っているわけだ。
だが、今夜ぐらいは、ゆっくりくつろいでも罰はくだるまい。人間にとって、休患は至高の価値があると、スレインは思っている。同時に、それが大変な賛沢《ぜいたく》であることも承知している。たとえば、この一夜のためだけでも、明日から一年ぐらいは休まずに働くだけの価値がある。
「……父様たちにも、わたしは変わったように見えますか?」
スレインが様々に思いを巡らせていると、着替えを終えたニースが、頼りなさそうな顔をしながら近寄ってきた。
「言葉遣いは、変わりましたね」
スレインが口を開くより先に、レイリアが娘に答えた。
「でも、昔のほうが、不自然だったのでしょうね。わたしは神殿で育ったから、あなたにも厳しくしすぎたのかもしれない。普通の親子がどういう会話をしているのか知らないから……」
「わたしも同じくね」
妻の言葉に、スレインがうんうんと相槌《あいづち》をうつ。
「そういうことではなくて……」
「背丈も、少しだけ伸びましたね。でも、このドレスが着られたのだから、それほどは変わっていませんよ……」
「母様!」
ふざけているとしか思えない母の答えに、ニースは顔を赤くして抗議をした。
そんな娘の肩をつかみ、レイリアがじっとその瞳《ひとみ》を見つめる。
「わたしたちの小さなニース。あなたがどんな言葉を言うようになっても、どんなに背が伸びても、父様にとっても、わたしにとっても、それはほんのささやかな変化でしかないの。あなたがわたしたちの娘であることは、それだけは変わりようがないのだから」
そう言って、レイリアは、娘を優しく抱きしめた。
「母様……」
母の温《ぬく》もりを肌に感じて、ニースは涙があふれそうになるのを我慢した。
幼い頃《ころ》から、こうして母に抱かれてきた。そして、父には頭を撫《な》でてもらってきた。あの忌まわしい夢を見るまで、父や母との絆《きずな》に、彼女が疑問を持ったことはなかった。
[#挿絵(img/N-Lodoss 1_045.jpg)入る]
(肉体とは魂の器……)
母の頬《ほお》にくちづけを返しながら、ニースはそんな言葉を思い浮かべていた。
そして、本当にぶつけたかった問いを、心の奥底にしまいこんだ。
父のことも、母のことも、昔と同じように愛することができる。今は、それだけで十分だと思えた。
(たとえ、何が変わろうとも……)
自分自身に言い聞かせるように、ニースは心のなかでそっとつぶやいた。
4[#「4」は見出し]
ウィンドレスト城の中庭に、マーモ公国の騎士、兵士たちが集まっている。その数はおよそ五百。だが、それは公都近辺にいる兵力のおよそ、四分の一にしか過ぎなかった。
カシューから贈られた軍馬にまたがり、スパークは何かを耐えるかのように唇を結んでいた。
即位式からすでに五日が過ぎている。大使たちがそれぞれの本国に帰還すると同時に、スパークは兵を動かすつもりだった。
しかし、騎士たちの集まりが予想以上に悪く、未だに出発できないでいるのだ。
「アファッドに、ウッディンまで来ていないのか……」
スパークは傍らに控えるギャラックに声をかけた。
集まっているのは、結局、ギャラックが率いている騎士隊だけである。彼らの大半は領地を持たない下級の騎士で、普段から王城に詰め、動乱が起こるたびに出動してきた。マーモ駐屯《ちゅうとん》以来、もっとも活躍してきた一隊と言える。
もうひとつ、スパークが率いていた炎の部族の出身者を中心に編成した騎士隊も、同じくマーモの各地を転戦していた。もっとも、今回は公都警備のため残すことに決めている。
公都の留守は、炎の部族の長老であるルゼナン伯爵に頼んだ。
|影の街《シャドーシティ》≠ニ呼ばれていた港湾都市サルバドを領地とする伯爵で、マーモ公国の海軍提督にも任じられている。宮廷魔術師のアルド・ノーバには今回、反乱鎮圧に同行してもらうゆえの人選だった。もっとも、今この場には宮廷魔術師の姿はない。彼は出発のぎりぎりまで執務を続けるつもりなのだろう。
「風の部族の者たちは、オレの命令を無視するつもりなのか!」
スパークは憤慨したように言った。
「二人の騎士隊長も、そして彼らの配下も、本国に帰還したいと言っていました。シャダム公に嘆願書を出したとも聞いてます。その返事を待っているのかもしれません」
「帰りたい奴《やつ》はとっとと帰れ、と言ってやりたいんだがな……」
「そんなこと言っちゃあ、誰《だれ》もこの公国に残りませんぜ」
スパークの言葉に、ギャラックがあわてて言った。
今の言葉を聞いただけでも、帰らせてくれと、叫びだす者が現れるかもしれない。
そんな兵士が一人でも現れたら、全員が我も我もと言いだすだろう。そうなったとき、事態を収拾する自信はギャラックにはない。
「公王の親征と言えば聞こえがいいが、結局、オレたちが動く以外になかったわけか」
スパークは憮然《ぶぜん》としてつぶやく。
そして、騎士、兵士たちを見渡して、彼らの表情にも不安が隠しきれないのを見てとった。出撃前だというのに、まるで戦《いくさ》に大敗した直後のような雰囲気である。
(これで勝てるのか?)
スパークは不安を覚えた。
反乱軍の数は少ないと聞いているが、野盗や旧帝国の敗残兵たちが集まりつつあるとの続報もある。
近隣に領地を持つ騎士たちは、反乱軍の襲撃《しゅうげき》に備え、家族を王都へ逃し、自分たちは地方の拠点とも言うべき砦《とりで》に集まって、公都から騎士団が派遣されるのを待っているという状態だ。
いかに公王が親征しようと、少数を率いただけでは彼らを失望させるだけだろう。そして、敵を勢いづかせることになる。
様子を伺《うかが》っていたその他の反抗勢力も続々と立ち上がるだろう。
動員できるかぎりの軍勢で、一気に片をつけるというのが、スパークの戦略だったのだが、最初の段階でそれはもろくも崩れ去った。こうして一日延ばしに出発を遅らせているだけでも、事態は悪くなってゆく一方なのだ。
「公国とはいえ、この島はあくまでフレイム領だ。それを守るのはフレイムの騎士たる者の義務だろう。アファッドたちには、それが分からないのか?」
スパークは恨めしげに言ったが、分かれと言うほうが無理なのかもしれない。フレイムの騎士たちの意識では、先の大戦は領土拡大のためではなく、祖国を守るための戦いだった。マーモがフレイム領になって、喜んでいる者がどれだけいるか疑問であった。
ロードスとマーモのためを考えて、スパークはマーモ公となったのだが、そんな心情を理解してくれるのは、ギャラックやアルド・ノーバたち一年前の苦難の旅を共にした仲間たちぐらいだろう。
「どうします? もう一度、使者を出して、出撃を命じますか」
ギャラックが提案してきたが、スパークは即答できなかった。
このままでは、召集令に応じなかった騎士たちを命令違反の罪で罰するしかなくなる。そうしなければ、公王の威令に傷がつくからだ。
それにしても、とスパークは思う。
カシュー王やシャダム公が、今の状況下で、フレイムへの帰還を認めるはずがないということに、どうして彼らは気づかないのだろう。
風の部族であるとの特権意識のためか。
カシューはたしかに風の部族を中心としてフレイムの統治を進めようとしている。だが、公平さを欠くような政策を行うはずがない。
風の部族の者には優先して高い地位を与えるだろうが、それに見合った責任も課されるはずなのだ。特権だけを享受しようというのは、甘い考えというしかない。
彼らは、明らかに平静さを欠いている。
マーモ公国の騎士に封じられたことが、それほど衝撃的であったということだ。
「オレが行って、説得しよう」
スパークは決心した。
「自分でですかい?」
驚いたギャラックは、つい傭兵隊《ようへいたい》にいた頃《ころ》の口調で言ってしまった。
ギャラックは風の部族の出身だが、当時、傭兵隊長だった族長シャダムの秘密の副官となって傭兵のなかに混じっていたのだ。
本人も性格に合っていたのだろう。騎士隊長となった今も、傭兵隊にいた頃の雰囲気が抜けない。もともと、砂漠の部族には騎士制度などなく、成人の男子は全員、戦士である。一昔前までは蛮族と呼ばれていたのに、いきなり高貴な騎士に変質できるはずがないのだ。
「誠意を示せば、アファッドたちも応じてくれるだろう」
スパークはそう信じたかった。
公王になるまで、彼らとはそれほど不仲だったわけではないのだ。
「そうだといいですがね」
疑わしげに、ギャラックは言った。
「せめて護衛は連れていってくださいよ。ライナが仕入れた話じゃ、アファッド卿の館《やかた》には、風の部族の騎士たちが、集まっているそうですぜ」
「自国の騎士隊長に会いに行くだけだぞ。どうして護衛がいる!」
スパークは、顔色を変えて言った。
しかし、それはギャラックの意見が間違っていると思ったからではない。公王として抱いてはならない考えだと思ったからだ。
「相手もそう考えてくれてればいいんですがね……」
「護衛を連れてゆけば、彼らを疑ったことになる。オレはそんな真似《まね》はしたくない」
「お気持ちは立派ですが、下手《へた》をすれば殺されますぜ。あなたが死ねば、公国は終わりだ。後任者になろうとする酔狂《すいきょう》な人間は、他にはいないんですから。たとえいても、三日と保《も》たないでしょう。そのときには、公国の威信は地に落ちていますから」
「だったら、おまえがマーモ公になればいい。オレが殺されるようなことがあれば、アファッドたちは反乱者だ。奴《やつ》らを討って武勲をあげれば、その資格は十分だろう」
「冗談じゃありません。そのときには、ルゼナン伯と炎の部族の騎士たちに殺されてますぜ。オレもアルド・ノーバも、風の部族の人間なんですから」
そうだったな、とスパークは今更ながらにそのことを思いだした。
彼自身、炎の部族の族長でありながら、そういう意識は希薄である。今の自分はフレイム領マーモ公国の公王なのだ。騎士たちにもマーモ公国の騎士であるとの自覚を持ってほしい。
「向こうには百人からの騎士が集まっているんだ。少々の護衛を連れていっても、無駄というものだ。だからと言って、大軍を率いてゆけば、間違いなく戦いになる。一人で行けばこそ、アファッドたちも話し合いに応じるはずだ。その気になれば、いつでも討てるのだからな」
話し合いはこれまでだというように、スパークは馬にまたがった。
「万が一、彼らの説得に失敗したときのために、ギャラックはアルドと協力して、できるかぎりの兵を集めておいてくれ。強制しなければ、民兵を召集してもかまわない。武器や鎧《よろい》と一時金を支給してな」
馬上から、スパークはギャラックに言った。
「税の徴収もままならないというのにね。アルドが頭を抱えますぜ」
「それは心配ない。あいつは抱えがいのある頭をしている」
スパークは軽く冗談を言って、高ぶっていた心を落ち着けた。
そして、公都の郊外にあるアファッドの館《やかた》に向かって、馬を走らせた。
部屋のなかには、二人の騎士がいた。
一人はマーモ公国の騎士隊長アファッド、もう一人は彼の同僚でやはり騎士隊長のウッディン。ここは、公都ウィンディスの郊外にあるアファッドの館である。館には、彼ら二人の他に風の部族の騎士たちの多くが集結している。
「……これがシャダム様からの返答なのか?」
ウッディンは激しく叫び、一通の手紙を机の上に叩《たた》きつけた。
アファッドはそんな同僚を幾分、冷めた目で見つめた。
「……風の部族の誇りを忘れるな」
手紙の文面を、アファッドは声に出して読み上げた。
風の部族の族長シャダムは、それだけしか書いてよこさなかった。
「何日も待ったあげくの返事がこれか!」
「だが、予想された返事でもある。我らはこのマーモに領地を与えられている。どこかと代えてくれと頼んでも、土地が余っているわけではない」
アファッドは言って、銀製の酒杯に満たされた赤い液体に口をつけた。
ほどよい酸味が広がってゆく。
母国でも飲んだことのないような特上の葡萄酒《ワイン》である。このようなものが、この暗黒の島で飲めるとは思いもしなかった。
この酒を手土産《てみやげ》にくれた青年は、酒場の主人でもあり、酒を扱う商人でもある。カノンの先王カドモス七世の秘蔵の酒と、彼は言っていた。
話の真偽はともかく、それぐらいの価値はある極上品だ。カシュー王でさえ、これほどの葡萄酒を飲んだことがあるかどうか。
(もう一度、陛下やシャダム様と一緒に酒を酌み交わしたいものだ……)
アファッドは、遠い日々を懐かしく思った。
フレイムが建国されて間もない頃《ころ》は、そういう機会は何度もあった。王城でも戦陣でも、陽気な傭兵王《ようへいおう》は、よく酒宴を開いたものだ。
「シャダム様は我らに炎の部族の人間になれと仰《おっしゃ》るのか? あんな若造に仕えて、こんな辺境で一生を送らねばならないのか?」
「一生ではあるまい。この国が安定すれば、本国に帰ることもできよう。だが、今、帰れば、それは逃げ帰ったも同然。臆病者《おくびょうもの》の誹《そし》りは免れぬぞ」
「臆病者? この我らが臆病者か! 我らはフレイムのために、何十年も戦ってきたのだぞ。だが、それは部族の平和のためだ。こんな忌々《いまいま》しい島がどうなろうと、知ったことではない」
激しい口調で、ウッディンは言い放つ。
アファッドは軽い酩酊感《めいていかん》に浸りながら、同僚の主張にうなずいた。
「そうだ。我らは部族のために戦ったのだ。炎の部族から家族や家畜を守るために。それがいつのまにかロードス最大の王国の騎士になっている。そして、この暗黒の島に領地を与えられ、爵位まで与えられている」
アファッドもウッディンも、カシュー王から子爵位を授けられている。
そして、爵位を持つ領主《ロード》は、直属の騎士を抱えることもできるのだ。マーモ公国ではないが、小国を治めているようなものである。だが、その特権もフレイム王とマーモ公王への忠誠を果たしてこそ認められるものだ。
十六歳のときに初めて戦場に立ってから、アファッドはまるで熱に浮かされたように戦い続けてきた。そして戦場で生き延びたという理由だけで、アファッドは上級騎士に叙せられ、ウィンディスの街の東に、広い領地を与えられたのだ。領地には小さな城を建て、一族を住まわせ、大勢の使用人を召し抱えている。公都の郊外に建てたこの館《やかた》には、二番目の妻とその子供たちが暮らしている。
しかし、それは自分が望んでいたものなのだろうか?
アファッドは、手にした酒杯をじっと見つめた。
こんな上物《じょうもの》の葡萄酒が飲めるのは、彼が出世し、財産ができたからだ。
だが、砂漠で飲んだ馬乳酒はうまくなかったか。葡萄酒の絞り滓《かす》から造った蒸留酒は美味《うま》くなかったか。
「それで、これからはどうする?」
幾分、気が鎮まったらしく、ウッディンが問いかけてきた。
「心が決まらん」
アファッドは間髪《かんぱつ》を入れず答えた。
もっとも、それを答えというならばだ。
まるで心が麻痺《まひ》したようで、考えがまとまらなかった。こんなことは、今まで一度もなかった。戦場では迷ってなどいられない。それはたちどころに死に繋《つな》がるからだ。
「公王は炎の部族の族長だぞ。そして、彼の部族の者がこの島には大勢いる。奴《やつ》らは本国からの独立を企《たくら》んでいるのだろう? この島を新たな拠点として、我ら風の部族に対して復讐《ふくしゅう》を果たそうとするかもしれん。そんな奴らに、どうして力を貸さねばならんのか?」
同僚の言葉に、アファッドは曖昧《あいまい》にうなずいた。
ウッディンに、炎の部族の動向が怪しいことを伝えたのは、他でもないアファッドである。例の酒場の主人ヴェイルからは、その後も、彼らの不穏な言動が情報として入ってくる。
彼らは言う。炎の部族は切り捨てられた。ならば、いっそ独立してしまえ、と……
酒場での話ということもあり、ただの愚痴とも、開き直りともとれる。
しかし、なんと思慮《しりょ》を欠いた言葉だろう。マーモにいるのは、彼らだけではない。風の部族の者もいれば、ライデンやマーニー、ローランといったかつての独立都市の市民もいる。
そういう事実を、彼らはどう思っているのだろう。
だが、もしも炎の部族が本国からの独立を本気で実行するとなれば、最初の標的にされるのは、間違いなく風の部族である。
彼らより先に、行動を起こすべきかもしれない。彼らの不穏な動きを本国に知らせ、援軍を派遣してもらい、討ち取ればいいのだ。
しかし、公王スパークの性格は、アファッドも知っているつもりだった。気は短いが、真っ直《す》ぐな性格の若者が、そんな企《くわだ》てをするとは、どうしても思えない。
だが、人には表も裏もあり、突如《とつじょ》、豹変《ひょうへん》するものでもある。フレイムに対する今までの忠誠が演技で、本性を現しはじめているのかもしれない。
「酒ばかり飲んでいないで、もっと真剣になってくれ。このまま、公王の命令を無視するわけにはゆかんのだぞ。我らのほうが反乱の疑いをかけられ、討たれるかもしれん」
「それもそうだな……」
アファッドはつぶやいた。
その可能性は否定できない。いや、公王としての威厳を守るため、そうせざるをえないかもしれない。
(頭が働かぬ)
酔ってるからではない。考える気力そのものが消えてしまったかのようだ。
そのときだった。
一人の若い騎士が転がりこむように部屋に入ってきた。そして、
「スパーク公が見えられました!」
と、裏返った声で叫んだ。
「公王陛下が……」
ウッディンが呻《うめ》き、救いを求めるようにアファッドに視線を向ける。
「我らを討ちに来たか? いったい何人、連れてきているのだ」
「いえ、お一人で参られました。アファッド隊長に会わせよと、申しておられます」
「一人だと?」
アファッドは驚いて、訊《たず》ね返した。
「はい、お一人です」
どういう意図でアファッドが訊ね返したのか、若い騎士には分かっていないようであった。怪訝《けげん》そうな顔をして、騎士隊長の表情を見つめている。
「そうか、お一人でこられたか……」
アファッドは、ひとりごとのようにつぶやいた。
いかにもスパークらしいと思う。いい意味でも悪い意味でも、だ。
「公王陛下には、しばし待たれるようにお伝えしろ」
アファッドから、指示を与えられ、若い騎士は、深く一礼して走り去っていった。
(彼ら若者たちは、今度の決定をどう思っているのだろう)
アファッドは考えた。
領地のない下級騎士や、騎士志望の兵士、傭兵《ようへい》にとっては、この暗黒の島だけが最後の活躍の場である。野心的な人間なら、むしろ進んでこの島に残ろうとするかもしれない。
「どうする? 決断するなら、今しかないのだぞ! 公王は護衛も付けておらぬ。この場で討ち取ることも容易《たやす》い。炎の部族の風下に立ち、公王の命令に従うか? それとも……」
そのとき、廊下のほうからお待ちください、という声が聞こえてきた。
「どうやら、公王陛下は待つのがお嫌いらしい」
アファッドはそう言って、酒杯に残っていた葡萄酒を一口で飲みほした。
「今、分かったよ。どうして、心が決まらなかったのか」
アファッドは、同僚に笑いかけた。
その笑いの意味が分からず、ウッディンは首を傾《かし》げる。
「それで、どうするつもりなんだ。我ら、風の部族はスパーク公に従うのか?」
アファッドは同僚に返事をしようとした。だが、その前に、
「入るぞ!」
という声がして、若き公王が部屋のなかに入ってきた。
そして、室内を見渡し、
「ウッディンも一緒か?」
と、つぶやいた。
「御即位、おめでとうございます」
アファッドは椅子《いす》から降りると、床に片膝《かたひざ》をついて畏《かしこ》まった。
戴冠式《たいかんしき》は病気を理由に欠席しているので、公王に即位したスパークに会うのは、これが初めてなのだ。
ウッディンは同僚には倣《なら》わず、立ったまま深く一礼するに留《とど》めた。そして、そのまま視線を床に落とし、顔を上げようとはしない。
「お立ちください、アファッド卿。フレイムはまだ新しい王国です。宮廷儀礼など、あってないようなもの。他国の使者が来たときに、演じていただければ十分です」
「マーモではなく、フレイムと言いましたか?」
スパークの言葉に素直に従って、アファッドは立ち上がった。
「当然です。このマーモは、あくまでフレイム領。公国として自治権を与えられたのは、この島が飛び地であるからにすぎません。わたしの忠誠は、カシュー陛下に捧《ささ》げられております」
「そのお言葉、信用できません!」
ウッディンが顔を上げると、そう言い返した。
「炎の部族がフレイムからの独立を画策しているとの噂《うわさ》が流れております。この島を新たな拠点とし、我ら風の部族に復讐《ふくしゅう》を果たそうと……」
「わたしに、その意志はありません!」
スパークは、ウッディンの言葉を遮るように言った。
「炎の部族の騎士たちのなかには、今回の処遇に不満を持つ者がいるのは確かです。しかし、わたしは志願してこの島に残った。それはフレイムのため、ロードスのため、この島を安定させることが重要だと思ったからです」
その言葉には何も言い返さなかったが、ウッディンの顔には不信感が強く刻まれていた。
「今のわたしが、あなたがたの忠誠の対象にならないのは承知しています。しかし、フレイムに忠誠を尽くされるおつもりがあるのでしたら、わたしの命令に従っていただきたい。次の反乱を招かぬためにも、この最初の反乱は迅速に鎮圧しておきたいのです」
「そうして、治安の回復のために働かせたあと、我らを討つおつもりではありませんか?」
ウッディンが皮肉るように言った。
「たとえば、今、その考えがなくとも、国内が平和になったら、考えが変わるかもしれない。炎の部族は我ら風の部族に恨みを抱いている。長年の仇敵《きゅうてき》であったゆえ、それは当然なのだ。そして、仇《かたき》のために命をかけて戦うほど、我らはお人好しではありませんぞ」
ウッディンは自分の言葉に次第に興奮してきたようだった。
スパークは怒りを通り越して、驚きと悲しみを覚えていた。
(砂漠のふたつの部族の対立は、かくも根深いのか……)
しかし、両者が対立する理由は、もはや過去にしかないのだ。未来のことを考えるなら、互いに融和する努力をしたほうがいい。ふたつの部族は共に砂漠の民であり、生活様式や考え方などはほとんど同じなのだから。
現在のフレイムにおいて、風の部族の勢力は確かに大きいが、人口的にはそれほどでもない。マーニーやローラン、それにライデンといった大都市の市民のほうが、遥《はる》かに数が多いのだ。時代を経れば経るほど、少数民族である風の部族の影響力は減少してゆくことになる。
だが、炎の部族との融和がなればどうだろう。人口的にも諸都市の市民と同じぐらいにはなる。反対に、いつまでも過去にこだわり対立を続けていれば、それこそ蛮族と蔑《さげす》まれた昔に逆行しかねないのだ。
そして、スパークは砂漠の民や諸都市の市民、移民や開拓者たちが融和してこそ、フレイムの未来は開けると考えている。出身を云々《うんぬん》するのは無意味であり、危険でさえある。
だが、それは人間にとって、自然な意識であることも承知している。出身が同じであるというだけで親近感を抱くし、出身が異なる相手には警戒感を抱くものだ。
現状では民族主義を認めつつも、将来的にはそれを否定しなければならない。マーモは小さな公国ゆえに、その良き先例を示すこともできるのではないかと思っている。そもそもこの島で生きてゆくためには、すべての民族が協力するより他に道はないのだ。
「……たとえば、わたしや炎の部族がフレイムからの独立を謀《はか》ったとしましょう。そのときこそ、あなたがたはそれを阻止するため、立ち上がればいい。疑いの目で、わたしや炎の部族を見続けてもかまわない。しかし、それは今、あなたがたが出兵に応じないことの理由にはならない。反乱鎮圧に協力しないのは、あなたがた自らが反乱を起こしているも同然なのです。この知らせが本国に届けば、厳しい処分がくだされるでしょう」
「反乱を企《たくら》んでいるのは、炎の部族のほうでしょう!」
ウッディンは激昂《げっこう》して叫んだ。
血の気の多い人物であることは知っていたが、これほどまで冷静さを欠いていたとは、スパークは思いもしなかった。
普通の精神状態ではないからだろう。マーモ公国となり、本国フレイムから半ば独立したことが、彼ら風の部族の者たちを狼狽《ろうばい》させているのだ。
「反乱など企んではおりません! それを口に出す者は以後、厳罰に処してもいい」
どうすれば分かってもらえるのかと、スパークは激しいいらだちを覚えた。
いくら理屈を並べようと、感情に訴えようと、ひとたび不信感に囚《とら》われれば、そこから抜けだすのは容易ではない。
部下を信頼させるのは、結局は上に立つ者の器量である。ゆくゆくは、スパークはそれを示してゆかねばならない。だが今は、その機会さえ与えられていないのである。
ウッディンの目は血走り、憎悪の炎が燃えたぎっている。このまま口論していれば、斬《き》り合いになるかもしれない。それでは、風の部族の騎士たちの協力を取り付けることは不可能になる。生きてこの館《やかた》から出られまい。しかし、公王たる者が、ここで引くわけにもゆかないのだ。
完全に手詰まりの状態だった。スパークにはもはや、どうすることもできない。
そのときであった。
「それにしても一人で乗り込んでくるとは、いかにも軽率でしたな」
スパークとウッディンの口論を無言で聞いていたアファッドが、ぼそりと言った.
突然の言葉に、スパークのみならず、ウッディンの視線までもが彼に向けられ、そのまま釘付《くぎづ》けになった。
「……それは、どういう意味だ?」
スパークは背筋に冷たい汗が流れるのを意識した。
アファッドの顔を見据えて、そこにどんな感情があるのか探ってみる。
風の部族出身の騎士隊長は、不思議に穏やかな顔をしていた。どういう気持ちなのか、スパークにはまったく読み取れない。ただ、その穏やかさは、不気味でもあった。露骨な不信感を見せるウッディンの態度のほうが、むしろ自然だろう。
「わたしは炎の部族の不穏な噂《うわさ》を聞いて、どのように行動すべきか、いろいろ考えました。あなたが言われたとおり、独立などさせないよう監視するか、命令を無視して本国に戻るか、島には留《とど》まるが命令不服従を貫くか、炎の部族の反意の証拠を突き止め、討ち取ることまで考えました。いや、証拠など、事後どうにでもなる。そして、スパーク公、あなたがいなくなるだけでも状況は動くのです」
アファッドはスパークの反応を確かめるように、そこで言葉を切った。
スパークは何も言わなかった。
言えないのではなく、言う気がしなかったのだ。
風の部族の者に自分が殺されるようなことがあれば、炎の部族は間違いなく風の部族に対し、ふたたび戦いをはじめるだろう。そんな事態になれば、どちらに非があるとかいう問題ではなくなる。風の部族は受けて立つだろうし、カシュー王も彼らに味方するしかない。
炎の部族を滅ぼせば、反乱が起きる心配はなくなる。
アファッドの表情を見るかぎり、彼の決意は固まっているように見える。その決意がどのようなものかは知れないが、スパークが何を言っても覆《くつがえ》ることはないだろう。
「わたしはそれぞれについて、具体的な方法を考え、結果を予測してみたのです」
「それで、どんな結論になったんだ」
「残念ながら、結論は出ませんでした」
アファッドはゆっくりと首を横に振った。
「さっきは、なぜ心が決まらなかったか、分かったとか言っていたではないか!」
はぐらかされたように思ったのか、ウッディンが憤慨したように言った。
「なぜ心が決まらなかったか、理由が分かっただけだ。心が決まったわけではない」
「その理由を教えてほしい」
スパークが訊《たず》ねる。
「わたしには、もはや何もないことです。シャダム様が去って、思い知らされました。この島は故郷の砂漠ではないことを。そして、わたしは砂漠で生きたいのだということを。地位にも名誉にも富にも、それほどの関心がないことを。もしもわたしに野心があれば、あなたを討ち果たし、公王位を算奪《さんだつ》しようとしたかもしれない。炎の部族を憎む気持ちがあれば、それを滅ぼすために謀略を仕掛けようとしたはず。フレイムへの忠誠があれば、あなたの命令に従って、マーモ公国のために働いたでしょう。しかし、わたしには何もなかった。だから、何をする気にもなれなかった」
「何もない? 歴戦の勇者であるあなたがですか?」
スパークには、アファッドの言葉を信じることができなかった。
彼は風の部族の族長にして、砂漠の鷹《たか》騎士団の総団長であるシャダムの右腕とまで言われた人物なのだ。マーモ公国に領地を持つ騎士のなかでは、経験も実力も秀でている。公国騎士団の団長にと、スパークは思っていたぐらいなのである。
「戦いが恐くなったのではありませんぞ。ただ、剣を振るうことに、意味が見いだせなくなっただけです」
「フレイム王国や風の部族のためではいけないのか?」
そう訊《たず》ねたのは、ウッディンだった。
同僚の言葉に、あきらかに戸惑っている様子で、先刻、スパークに対したときの激しさがまったく影をひそめていた。
「砂漠にいれば、そんな気も起きたろう。だが、マーモは故郷から遠すぎる。この暗黒の島で生きてゆくには、何か強い思いが必要のようだ。たとえば、スパーク公のように……」
「オレのように?」
意味が分からず、スパークはアファッドに訊ねかえした。
「わたしたちを説得するため、危険を省みることなく、ここに参られた。それが正しかったかどうかはともかく、その熱意こそがこのマーモで生きるための資格のように思えます」
アファッドは鞘《さや》ごと剣を披くと、それをスパークに向けて差し出した。
「わたしにはその資格はありません。それゆえ、わたしは騎士を捨てます。そして、家族とともに故郷に帰ります。騎士でなくなれば、命令に従う必要もありますまい。昔のように、家畜とともに暮らしてゆきます。何もなくなった男には、それがふさわしい生き方でしょう」
「アファッド卿《きょう》……」
スパークはどう声をかけていいのか、分からなかった。
引き留めるべきなのだろうが、説得の言葉がまったく思いつかない。それに、何を言おうと、彼の決意を変えることはできそうにもなかった。
「ウッディン、おまえにはまだ激しさがある。それがあるうちは、まだこの島で生きてゆける。風の部族の誇りを守ってくれ。炎の部族の野心を抑え、この暗黒の島をフレイム領として安定させてほしい。風の部族の騎士たちに、わたしは最後の範を示したつもりだ。本国に帰りたくば、騎士を辞めればいいということをな。さもなくば、公王陛下に協力することだけが、唯一の道だ。ここで決断しそこねていると、取り返しのつかないことになる。反乱軍として討たれるか、それとも旧帝国の残党に滅ぼされるかのいずれかだぞ」
アファッドは同僚にそう言うと、空になった酒杯に、葡萄酒を注ぎなおした。
彼は、酒を愛していた。それは美酒の味を知っているということではない。どんな酒でも、うまく飲めるということなのだ。
5[#「5」は見出し]
騎士隊長ウッディンと風の部族の騎士およそ二百騎を引き連れて、スパークは王城への帰路に着いた。
騎士隊長アファッドに倣《なら》って、騎士資格を返上した者も何十人かいた。それでなくても、兵力の少ないマーモ公国にとっては、大きな痛手である。
だが、残った騎士たちは、ふたつにひとつの選択を行った者たちだ。このマーモで、運命を切りひらく覚悟を決めた者たちである。
「風の部族の勇猛さを、ご披露いたしましょう」
騎士隊長ウッディンは、スパークに忠誠を尽くすことを改めて誓い直したあと、力強くそう宣言した。
「しかし、わたしがこの島に残ったは、炎の部族に対する不信の念ゆえです。それだけはお忘れなきよう」
心しておこうと、スパークは風の部族の騎士隊長に答えた。
アファッドの言葉は正鵠《せいこく》を得ていると、彼は思う。
この島で生きぬくには、強い思いが必要なのだ。だが、その思いは人それぞれである。憎悪かもしれないし、野心かもしれない。そういった人々の強烈な思いを受け止め、あるいは跳ねかえすだけの器量を、マーモの公王は要求されるということだ。
暗黒皇帝ベルド、黒衣の将軍アシュラム──
旧マーモ帝国の支配者たちは、それだけの器量を備えていた。彼らでさえ、統治に苦労したこの島を、スパークは彼らと異なる方法で、治めなければならないのである。
気が遠くなるような話だった。
いつも自分を叱咤《しった》しつづけなければ、気持ちが萎《な》えてしまいそうだ。人々の強い意志を受け止めるためには、スパーク自身がもっとも強い意志を持たねばならないということだろう。
城門をくぐると、中庭に大勢の人々がひしめいていることに、スパークは気がついた。
年齢も、背格好も、服装も様々な、雑多な人々の集まりだった。共通しているのは貧しい身なりをしているということだ。
兵士でも、もちろん騎士でもない。
「あの者たちは、いったいなんですか?」
ウッディンが馬を寄せ、訊《たず》ねてくる。
「さあ、なんでしょう?」
我ながら間抜けな答えだな、と思ったが、スパークにも彼らが何の集団か分からなかった。
市場でもやっているのかと思うような雑多な人々の集まりなのである。
「あっ、隊長じゃなかった。公王様だ」
そのとき、弾《はじ》けるような声がして、一人の少女が小走りに駆けよってきた。
「リーフ!」
スパークはハーフエルフの少女の姿を認めて、馬から降りた。
「やったみたいね」
[#挿絵(img/N-Lodoss 1_071.jpg)入る]
背後に続く風の部族の騎士たちを見て、彼女は歓喜の表情を浮かべる。
「脱落した者も大勢いるがな。しかし、残ってくれた騎士たちは信頼できる。フレイムとマーモのために、全力を尽くしてくれるだろう」
リーフはウッディンをちらりと見て、何だか恐そうな顔をしていると思った。もっとも、それは彼女にとって、からかいがいがあるということなのだが……
「それより、彼らはなんだ? ここは城の中庭なんだぞ」
スパークは広場に集まっている人々を指差しながら言った。
「失礼ね。スパーク──公が、集めろって言ったんじゃない。彼らは民兵として志願してきた人たちよ。今、武具とか支給しているところだから、もうすぐまともな格好になると思うわ」
そう言えば、そんな命令を出していたことを、スパークは今さらながら思いだした。
群衆を目で数え、ざっと千人ぐらい集まっているのではないか、と見た。
「こんなに集まったのか?」
スパークは意外な気がして、ハーフエルフの少女に訊《たず》ねた。
「昔のマーモに戻ってほしくないと思っている人も大勢いるってことよ。でも、戦力としては期待はしないでね。槍《やり》でも持たせて、立たせておくしかないわ。でも、やる気さえあれば、そのうち使えるようになるでしょ」
リーフが軽口を言って、スパークのお腹《なか》にかるく拳《こぶし》を入れる。
「兵力はそろったことだし、あとはスパーク公の釆配《さいはい》しだいよ。それと運ね。あたしは、それがいちばん心配なんだけど……」
「誰《だれ》かに呪《のろ》われでもしないかぎり大丈夫だ」
スパークはリーフにやりかえし、ふたたび馬上の人になった。
そして、群衆のほうへ進んでゆく。
やりかえされ、そのまま逃げられたことに不愉快そうな顔をしながらも、リーフはスパークの隣に小走りで従った。そして、二人の後に風の部族の騎士たちが続く。
「スパーク!」
帰還した彼の姿を認めて、何人かが歓喜の声を上げた。
「ギャラック! アルド・ノーバ!」
スパークは群衆に武具を支給している二人の姿を見つけた。
二人はスパークの帰還を知って、顔を見合わせて安堵《あんど》の溜息《ためいき》をついた。
「スパーク様……」
そして、群衆のなかから、一人の少女が進みでてきた。純白の神官衣に身を包み、遠慮《えんりょ》がちな笑みを浮かべている。
その後ろには数人のドワーフ戦士の姿が見えた。そして、そのなかのひとりは、スパークがよく知っている顔だった。
「ニース、それにグリーバス司祭も……」
ドワーフの戦士たちは、大地母神の地下神殿の建築に携わっている職人たちだろう。この大地の妖精《ようせい》族は砂漠の民と同じく、成人した男子全員が屈強の戦士なのだ。
そして、彼らの近くには、戦神マイリーの紋章を付けた鎧姿《よろいすがた》の一群があった。修行のため、ロードス各地からやってきた神官戦士たちだ。彼ら戦《いくさ》の神の神官は、自身が勇者になるか、仕えるべき勇者を探すことを使命としているのだ。
「微力ながら、お手伝いいたします」
「試練こそが、人を大きくするものよ」
大地母神と戦の神に仕える二人の司祭は、それぞれの言葉をスパークにかけた。
「わたしだっているわよ」
そんな声がして、スパークはニースたちの後ろに、漆黒に染めた革服に身を包んだ女性の姿を認めた。
「ライナさん?」
彼女の周囲には、スパークの見知った若者たちの姿があった。裏通りにたむろして、喧嘩《けんか》や盗みなどをやっていた不良である。
彼らはスパークを認めると、ばつが悪そうな笑みを浮かべ、小さく会釈を寄越してきた。
「こいつら、ちょっとしめさせて[#「しめさせて」に傍点]もらったわよ。性根《しょうね》を叩《たた》きなおすため、しばらく面倒みてやるつもり。ギャラックより若いし、退屈しないで済みそうだわ」
ライナは妖艶《ようえん》な笑みを浮かべて言った。
その言葉も表情も、とても淑女《 しゅくじょ》たるべき騎士夫人のそれではない。だが、それが彼女の魅力であることを、スパークはよく知っている。
「加減はしてくださいよ」
スパークはライナに言って、ギャラックとアルド・ノーバのほうに馬を進めた。
「御無事でなによりです」
アルド・ノーバが深々と頭を下げて、出迎えた。
「御命令どおり、兵を集めておきましたぜ」
ギャラックは頬《ほお》に走る傷跡をぽりぽりかきながら得意げに言った。
「民兵など、ただの数合わせにしかならん。先陣は、わたしが取らせてもらうぞ」
ウッディンが、二人に向かって言った。
「そりゃあ、頼もしい。だったら、オレの隊は後方に控えさせてもらおう」
ギャラックは同僚の騎士隊長に笑いかけた。
「わたしたちも風の部族の者です。そして、フレイム王に忠誠を誓っております。そのことは、お忘れなきよう……」
アルド・ノーバがウッディンに向かって丁重な口調で言う。
「そう言えば、そうだったな」
ウッディンは、おもしろくなさそうに答えた。
彼らは公王と個人的な繋《つな》がりが深いので、風の部族の出身というのを忘れていたのだ。スパークのことを一番に考えているのは間違いないだろうが、部族を不利にするようなことはしないだろう。
アファッドも自分も、なぜそれを失念していたのかと、ウッディンは首を傾《かし》げたくなった。マーモに取り残されたという事実に、それほど動揺していたのだろうか。しかし、もはや覚悟は決まった。風の部族の誇りにかけて、フレイム領マーモを支えてゆくつもりであった。
「とにかく、これで格好がついた」
スパークは明朝の出発を、ギャラックたちに、そして集まった民兵たちに命じた。
「公王|万歳《ばんざい》!」
群衆から、ばらばらと歓声が返ってきた。その歓声は何度か繰り返されて、やっとひとつにまとまった。
スパークは右手の拳《こぶし》を突き上げて、彼らの歓声に応《こた》えた。
彼らがどういう思いを抱いて集まったのか、スパークには分からない。だが、これだけの人間が、マーモ公国の存続を願っている。言葉にはしないが、行動には出ないが、同じ思いを抱いている人は、他にも大勢いるはずだ。
そして、まったく異なる思いを抱いている人間も間違いなくいる。
マーモ公国を打倒し、暗黒の島を昔ながらのままにしておくため暗躍する者ども。
誰《だれ》の思いが、どの思いが勝利するかの戦いが、これから始まるのだ。人々の歓声を受け止めながら、スパークは決意を新たにした。
マーモ公国の建国は、祝福なくしてはじまったかもしれない。
だからといって、それは存続できないという理由にはならないのだ。
公王スパークを先頭に、マーモ公国の騎士団が街路を行進してゆく様《さま》を、マーモ帝国の宮廷魔術師ヴェイルが彼の店の二階の窓からじっと見つめていた。
彼の傍らには、ずんぐりとした体型の男が立っている。
「どうやら巧《うま》くゆかなかったようだな、ボイド」
ヴェイルに声をかけられ、ボイドと呼ばれた男は静かにうなずいた。
年齢不詳の男で、ヴェイルより二十歳ほど年長にも見えるし、ほとんど変わらないようにも見える。普段から表情というものに乏しいためだろう。
実際、彼の正確な年齢は、三年間、彼を手下としてきたヴェイルでさえ知らない。知っているのは、彼が昔、盗賊であったということ。おそらく、ベルド皇帝によって消滅させられたマーモ盗賊ギルドの生き残りであろう。そして、盗賊として優れた技の持ち主である。ヴェイルが与えた命令を忠実かつ迅速にこなしてきた。
他人を完全に信頼するのは、愚者の行為だと常から思っているので、ボイドは決して腹心ではない。しかし、右腕的な存在だということは認めている。若いヴェイルがマーモ帝国の宮廷でその実力を認められるようになったのも、彼の働きによるところが大きい。
「アファッドなる男も案外でしたね。これで風の部族と炎の部族の対立を利用することはできなくなったでしょう」
ボイドはいつものように表情を変えず、事実を確認しているというように言った。
「そうだな。奴《やつ》が公王を討つことまでは期待していなかったが、まさか騎士を辞めるとは思わなかった。騎士の数は減ったが、奴らの結束は返って強くなった。我々にとっては、そのほうがやりにくい」
最低でも、炎の部族と風の部族の対立が深まるだろうと思って、ヴェイルは情報を操作したのだ。だが、結果は彼の予想を完全に裏切った。これなら何もしなかったほうがましである。
「オレの知恵もまだまだということだ」
悔しさを紛らわすように、ヴェイルは自嘲的《じちょうてき》に言った。
「だが、策はいくらでもある。次の手を打てばいいだけのことだ」
「わたしは、事実をネータ卿に知らせにゆきます」
ボイドはそう言うと、ヴェイルに背を向けて、歩きはじめた。
「そうしてくれ。騎士団が動いた以上、反乱はこれまでだ。それでなくても、少ない戦力だ。勝機のない戦いで消耗するわけにはゆかない」
猫背ぎみに歩くボイドの背中に向かって、ヴェイルは声をかけた。
そして、騎士団の先頭を行く若者に、ふたたび視線を向ける。
マーモ公王スパークはちょうど今、ヴェイルの眼下を通り過ぎようとしているところだった。街の人々が馬上にいる彼に、まばらな歓声を送っている。
先の大戦から一年が経《た》ち、フレイムの統治を認めようとしている人々も、徐々にだが増えはじめている。しかしその多くは、帝国の時代、虐《しいた》げられてきた無力、無能の者どもだ。ヴェイルの価値基準では、取るに足らぬ愚民でしかない。
「今日のところは、祝福を送ってやろう」
凱旋《がいせん》してきたときには、極上の酒を献じようと、ヴェイルは思った。
そして、彼はゆっくりと窓から離れた。
「だが、最後に勝つのは、このオレだ」
[#改ページ]
第U章 妖魔の銀[#「第U章 妖魔の銀」は見出し]
1[#「1」は見出し]
重厚感のある玉座に、マーモ公王スパークは座していた。
そして、玉座の前には、職人ふうの男が甲高い声で陳情を行っている。
人々の陳情を聞くだけで、一日のほとんどが終わってしまう。西の山岳地帯で起きた旧マーモ帝国の残党の蜂起《ほうき》を鎮め、王都に帰還してから、それが連日、続いている。
もっとも陳情を聞くのは、マーモ公王たる者の義務である。
人々は窮状《きゅうじょう》を訴え、公国に救いを求めてくる。
そのすべてに応じれば、公国の財政はたちまち破綻《はたん》し、騎士たちは過労で倒れてしまう、とスパークには思えた。しかし、すべてを拒絶すれば、民衆の心は公国から離れてしまう。
優先順位を決めて解決するしかないのだが、それを決めるのは、なかなか難しい。どこから手をつけていいのか途方に暮れるほど、マーモの現状は問題だらけであった。
「……他人の愚痴は聞き飽きたぞ」
原材料が手に入らぬと訴えてきた鍛冶《かじ》職人の姿が玉座の間から消えたのを確かめてから、スパークは玉座の両側に控えている宮廷魔術師アルド・ノーバと先日、近衛《このえ》騎士隊長に任命したギャラックに向かって言った。
「その愚痴も聞き飽きましたぜ」
ギャラックが溜息《ためいき》まじりに応じる。
スパークは新任の近衛騎士隊長の方をちらりと見て、何かを言いたそうに口を動かした。
だが、結局、何も言葉にはせず、もう一人の宮廷魔術師のほうを振り返った。
「謁見《えっけん》を求めているのは、あと何人だ?」
「予定の謁見は、すべて終わりました。しかし、先程、謁見を求めてきた者が、もう一人おりまして……」
「明日にしろ!」
アルド・ノーバの言葉が終わるのも待たず、スパークは怒鳴るように言った。
朝から玉座に座りっぱなしで、気分が滅入《めい》るような人々の陳情を聞いていたのだ。裏庭にでも出て、思い切り身体《からだ》を動かしたい気分だった。
「よろしいのですか?」
「いい!」
スパークは即座に答えた。
規則を曲げて、謁見《えっけん》を求めてくるほうが悪いのだ。陳情のある者は、朝一番に申し入れることが義務づけられている。
「謁見を求めているのは、地下神殿の侍祭ニース様なのですが……」
「ニース……侍祭が?」
それを先に言え、という言葉をスパークはからくも飲みこんだ。
アルド・ノーバの言葉を遮ったのが自分だったことを、寸前で思いだしたのだ。
(それにしても、もう少し、言いようがあるだろうに)
アルドにしてみれば、形式を守っただけなのだろうが、最初にニースの名前を言ってくれれば、余計な文句を言わずに済んだのだ。
聖職者と騎士階級の者は、国王に対し、常時、謁見を求める権利を有する。そして、国王はそれに応じる義務があるのだ。
(だから、規則を曲げたわけではない)
スパークは心のなかでつぶやいた。
もちろん、それが自分を欺く方便でしかないことは承知のうえだった。
スパークの心の声を聞き取ったかのように、ギャラックがにやけた表情になる。
「何がおかしい?」
スパークは近衛《このえ》騎士隊長を睨《にら》みつける。
「言ってもいいんですかい?」
「……いや、言うな」
ギャラックの手痛い反撃に、スパークは自分の敗北を認めた。この問題に関してはスパークはたいてい負けるのだ。
ギャラックは表情を改め、真顔に戻った。そして入口を守る衛兵に向かって、侍祭殿をお通ししろ、と命令する。
呼び出しが、ニース侍祭の入室を告げる。
重々しく扉が開いて、純白の神官衣を身に着けたニースが姿を現した。
穏やかに微笑《ほほえ》みながら、扉が完全に開ききるのも待たず、彼女は赤い絨毯《じゅうたん》の上をスパークのいる玉座へと進み出てきた。
小さな手には、盆のような物を捧《ささ》げ持っている。その上には何かが乗せられているようだが、紫色の布がかぶせられているので、判断はつかない。
そんなニースの姿を見つめながら、こういう儀礼的な謁見の方法は、改めねばならないな、とスパークは思った。
現在のマーモは、騎士だの民衆だのと言っていられない状況なのだ。公国の存続を願う者たち全員が団結しなければ、苦境を乗り切ることはできない。しかし、儀礼を撤廃《てっぱい》すると、今度は国としての威厳が保てなくなる。それはそれで、問題なのだ。
政治というものは面倒なことばかりだ、とスパークはつくづく思う。
一年前までは戦うことだけが騎士の使命だと、本気で思っていた。今から思えば愚かというしかないが、その純粋な思いが懐かしくもある。
公王になって唯一の救いは、ニースがしばしば挨拶《あいさつ》に来てくれることだ。
しかし、それはそれで問題なのだ。公王と聖職者という立場では、どうしても儀礼的な応対になってしまうし、先程のようにギャラックやアルド・ノーバにからかわれることも多い。
そして、スパークの心のなかには迷いがある。
彼女を聖女として認め、剣を捧《ささ》げたいという思いと、彼女を普通の少女として扱い、その心の支えになりたいとの思いがせめぎあっているのだ。
ニース侍祭は破壊と創造の二柱の女神をその身に降臨させてなお、魂が砕けることのなかった奇跡の少女なのだ。そんな少女を相手にして、自然に振る舞おうとすることが、無理なのかもしれない。
気を遣いすぎてもいけないし、馴《な》れ馴れしく振る舞うのもどうかと思うのだ。
「公王陛下には御機嫌うるわしゅう……」
玉座に向かって恭《うやうや》しく頭を下げながら、ニースが形通りの挨拶を送ってきた。
「侍祭殿も、お変わりないようで」
スパークはばつの悪さを覚えながら、やはり形式的な挨拶を返した。
ぎこちなさが表に出ていたのだろう。ギャラックとアルドが顔を見合わせて、忍び笑いを洩《も》らす。
勝手にやってろ、とスパークは投げ遺《や》りな気分で思った。
「それで、本日はどのような御用件でしょうか?」
二人の側近を無視して、スパークはニースに訊《たず》ねた。
「大地母神の教団から公王陛下への献上品を持参して参りました」
ニースは答えて、盆の上に被《かぶ》せてあった布を取り除いた。
細長い筒状の物体が、いくつか姿を現す。ひとつは大きく、取っ手と注ぎ口が付いている。残りは小さく取っ手だけが付いていた。
「陶器ですか?」
それにしては珍しい色だと、スパークは思った。
鮮やかな青を基調にし、金属のような光沢の褐色で模様が描かれている。
「ええ、お茶を煎《い》れるのに用います」
ニースは微笑《ほほえ》み、どうかお納めくださいますように、と続けた。
「ちょうど良いではありませんか。公王陛下には、朝からの謁見《えっけん》でお疲れでございましょう。ニース侍祭と御一緒に、お茶でもお飲みになられればいかがですか?」
アルド・ノーバが|石の魔法像《ストーンゴーレム》を思わせる顔に笑顔を浮かべた。
「侍女《じじょ》に命じて、用意をさせましょう」
「気遣いはありがたいが……」
また、からかうつもりなのか、とスパークはムッとして、そう言いかけた。
しかし、ニースが嬉《うれ》しそうにうなずいたのを見て、続きを言うのは止《や》めた。
「陽《ひ》を浴びたい。バルコニーのほうにテーブルを出してくれ」
大窓から陽が差し込んでくるので、玉座の間は決して暗くない。だが、屋内に閉じこもっていると、息が詰まってきそうな気がするのだ。
ここ数日ばかり、謁見《えっけん》の後は、近衛《このえ》の騎士を相手に剣の稽古《けいこ》をするのが、スパークの日課になっている。そうでもしないと、気持ちが塞《ふさ》いでしまいそうなのだ。陳情と言えば聞こえがいいが、大半は公国の現状に対する不満であって、具体的な要求をしてくる者は希《まれ》である。
国を豊かにしてくれだの、治安を良くしてくれだのという要求なら、言われるまでもないことだ。そのためにどうすればよいか、スパークは知恵を絞っているし、広く意見を求めている。
だが、今のところ、目先の物事に追われて、抜本的な改革はまったく手つかずのままだ。そのことも自覚しているから、人々の陳情を聞いていると不機嫌になってくる。まるで、自分が責められているような気分になるからだ。
ふと気が付くと、ニースが心配そうな顔をしてスパークを見つめていた。
はっとなって、スパークはあわてて笑みを浮かべた。
「お疲れのようですね。香草を煎《せん》じて作ったお茶の葉を持参しております。お湯の用意さえしていただければ、わたしがお滝《い》れいたしますが……」
ニースが遠慮《えんりょ》がちに申し出た。
「そうですね、お願いしましょう」
一瞬の躊躇《ためらい》を覚えたが、断れば更にニースに気を遣わせることになると思って、スパークは応じることにした。
気の回る彼女のことだ。おそらく、心の鎮静に効果のある香草を用意してきたのだろう。
ニースの好意は嬉しくあったが、それは自分のいたらなさのようにも思え、スパークは複雑な気分だった。
いつになれば、この暗黒の島を覆《おお》う闇《やみ》を払うことができるのか、と気持ちばかりが急《せ》くが、今のところ彼の気持ちは空回りのままである。
(公王になったというのに、何の成果もあげられていない)
そんな焦《あせ》りを、スパークは覚えている。
玉座にあって陳情を聞くのも公王の仕事だとは承知しているが、本当は何でもいいから行動に出たいのだ。
それが自分の性格に合っているとも思う。
(しかし、いったいどこから手をつければいいのだろう?)
スパークには、まだそれが分からない。
2[#「2」は見出し]
玉座の間から硝子《ガラス》戸《ど》ひとつ隔てて設けられた露台《バルコニー》にテーブルを出し、スパークたち三人はニースが滝《い》れた香草のお茶を味わった。
「お口に合いますか?」
ニースが訊《たず》ねる。
「初めてですので、味のほうはまだ馴染《なじ》みません。しかし、良い香りです。気分が安らぐようです」
スパークは正直な感想を返した。
もう少し気を遣って答えるべきなのかもしれないが、ニースにはこういう対応をするのが一番だと思っている。
遠慮《えんりょ》して言っても、世辞を言っても、彼女には簡単に見透かされるだろう。
スパークの答えに、ニースは嬉《うれ》しそうな顔をして、自分も一口、飲んだ。
アルド・ノーバとギャラックの二人は、恐縮したように椅子《いす》で畏《かしこ》まっている。このささやかなお茶会に、自分たちも同席することになるとは思ってもいなかったのだ。
(他愛《たわい》もないな)
スパークは幾分、意地悪な気分で、そう思った。
ニース侍祭を前にして、彼らもひどく緊張しているのだ。先程、スパークのことを冷やかしていた当事者とはとても思えない豹変《ひょうへん》ぶりである。
(しかし、無理もないか……)
ギャラックは先の大戦で、実は一度、命を落としている。だが、ニースが降臨させた大地母神の奇跡によって復活を遂げたのだ。言うなれば、彼女は命の恩人である。
そして、アルド・ノーバにとって、ニースは魔術の導師であるスレインの娘にあたる。彼女が聖女であることに気付いた最初の一人でもあり、彼女に対してはまるで本物の女神と接しているように振る舞う。
そういう接し方に対し、ニースは何度か抗議をしたらしいが、態度が改まる様子もなかったので、結局、アルド・ノーバのしたいようにさせているらしい。
不思議なもので、自分より緊張している人間がいると思うと、気分的にはずいぶん楽になる。身を縮ませながら相槌《あいづち》を打つだけのアルド・ノーバとギャラックを横目に、スパークはいつもより打ち解けた雰囲気で、ニースと話を交わすことができた。
「香りには魔法にも似た効果があるんだそうです」
陶器の器などとともに持参してきた香草の葉をテーブルの上に置きながら、ニースは言った。
「香草も薬草の一種ということですか?」
スパークが訊《たず》ね返す。
「その通りです。料理に使ったり、こうしてお茶にして飲むことが多いので、香草と呼ばれていますが、薬の材料になるものもたくさんあります。そう言えば、ご存じですか、この島には驚くぐらい薬草が多いんですよ」
「薬草がですか?」
スパークは香草の葉を手に取って、それをしげしげと眺めた。見た感じでは、普通の草としか思えない。こんな草なら、城の中庭にも生えているのではなかろうか。
「もっとも、使いようによっては、毒にもなるものばかりですけど……」
その言葉で、スパークは納得《なっとく》がいった。
島に漂う瘴気《しょうき》のためか、マーモの動植物はロードス本島のそれとはかなり種類が違っている。一番の特徴は毒性を持つ動植物が多数、生息していることだ。
そして毒は薬にもなる。もちろん、その逆もまた然《しか》りなのだ。
「栽培したら、売れるかな」
スパークはアルド・ノーバに向き直って言った。
「毒にもなるのですから、そのまま売るのはいかがなものでしょう」
「そうか、そうだな……」
宮廷魔術師の答えに、スパークは残念そうに唸《うな》った。
一般の民衆は毒というものに、極めて強い警戒心を抱いている。憎悪していると言ってもいい。その憎悪は魔法に対してのもの以上なのだ。魔法使いに対しては恐れもあるが同時に敬意も抱いている。だが、毒を使った者は問答無用で悪人とされる。刑罰も重く、毒を所有しているだけで罪に問われる。
毒草などを輸出しようものなら、マーモ公国の評判は地に落ちてしまうだろう。
「スパーク様ったら、まるで商人みたいな仰《おっしゃ》りようですね」
スパークたちの会話を聞いて、ニースが遠慮《えんりょ》がちに笑った。
「その通りですよ」
スパークは真顔で答えた。
「どうすれば富を得られるのか、最近ではそればかり考えています。国を治めるということは、商店を経営するようなものだと痛感しているところですよ」
「御苦労、お察しいたします」
ニースは労《ねぎら》いの言葉をかけてから、更に言葉を続けた。
「毒草をそのまま商品にするのは問題でしょうが、薬にしてからなら大丈夫なのではありませんか? 癒《いや》しの奇跡を行える聖職者は少なく、そのためにかかる費用も決して安くはありません。民衆の大半は病の時には薬に頼るもの。それさえも、彼らにとっては高価な買い物なのですが……」
「なるほど、薬にすればいいわけだ」
深く考えこむように、スパークは腕を組んで、ニースが献上してくれた杯から立ち上る湯気を見つめた。
彼女が先程、言ったように、その香りには魔法にも似た効果があるようで、嗅《か》いでいるだけで心が落ち着き、頭が冴《さ》えてくるような気がする。
「薬を調合するには薬草師が必要だな。アルドは魔術師だから、薬草学にも通じているんじゃないか?」
「修めてはおります。ですが、精通しているわけではありません。魔術師の専門はあくまで古代語魔法、それ以外の知識は広く浅い。必要なら、研究いたしますが……」
「いや、あなたに頼むつもりはない。あなたには、やってもらわなければならないことが他にも山ほどある。薬草師に心当たりはないか? それとも弟子《でし》たちに学ばせるとか……」
「独学になりますから、弟子たちが学ぶには時間がかかりましょう。優秀な薬草師を招くべきだと思います。残念ながら、心当たりはありませんが……」
アルド・ノーバはそう言ってから、ニースを振り返った。
「ニース様のほうが、薬草についてはくわしいのではありませんか? スレイン師からも学んでおられるでしょうし、大地母神の教団も薬草についての研究は盛んだと聞き及んでおりますが……」
ニースは一度、教えられたことは決して忘れないと、アルド・ノーバは以前、彼女の父スレインから聞いたことがある。
知らぬことを教わったというより、忘れていたことを思いだしたかのように、すべての知識を吸収してゆくのだそうだ。
おそらく、彼女が本気で魔術を学んでいたら、今頃《いまごろ》、自分を超える実力の魔術師になっていただろう、とアルド・ノーバは思う。
しかし、スレインは娘を魔術師にしようとはせず、大地母神の信仰を強く望んだ。その期待に応《こた》えるかのように、ニースは六歳にして神の声を聞き、司祭の能力を得た。魔術の実験に失敗し、ひどい怪我《けが》をしたアルド・ノーバを治癒|呪文《じゅもん》で癒《いや》したのが、彼女の最初の奇跡──神聖魔法だった。
アルド・ノーバがニースを聖女だと思うようになったのは、そのときからである。
「残念ですが、わたしにも心当たりはありません。でも、お父様なら、おそらく知っていると思います」
ニースはしばしの思案の後、そう答えた。
「本国の宮廷魔術師殿に連絡をして、至急、問い合わせてくれ」
スパークは命じ、アルド・ノーバは畏《かしこ》まりました、と恭《うやうや》しく頭を下げる。
「マーモの土地は痩《や》せていて、作物の実りは悪い。土地を肥えさせる努力も必要だろうが、カノンやヴァリスほど豊かになるとは思えない。食料は自給自足できれば、十分としなければな。だから、土地に頼らない産業を興《おこ》してゆくことが、この島を豊かにする唯一の方法だ。そのためには貿易が一番だと、オレは思っている。そして、貿易をするには特産品とも言うべき品物が必要なんだ」
薬はその候補になるかもしれない、とスパークはアルド・ノーバとギャラックの二人に言った。それから、ニースを振り返って、
「よいお知恵を頂戴《ちょうだい》いたしました」
と、感謝を述ベる。
「お役に立てたのでしたら、嬉《うれ》しいかぎりです。困窮《こんきゅう》している人々を救うためでしたら、大地母神の教団は協力を惜しみません」
ニースは微笑《ほほえ》むと、そろそろ失礼いたしますと言った。
「献上の品、ありがたく頂戴いたします。陶器のことはよく分かりませんが、実に美しい色彩だ」
「美しいだけじゃなく、恐ろしく高価な代物《しろもの》ですぜ。こんな青色を出せるのは、ドワーフ族の職人だけでしょう」
スパークの言葉を咎《とが》めるように、ギャラックが説明した。
「おまえが陶器にくわしいとはな……」
意外だよ、とスパークは言った。
「くわしいわけじゃありませんが、公王より長く生きてますからね。役にも立たない知識が嫌でも頭に入ってきます。この一組だけで、家のひとつぐらいは建てられるはずですぜ」
「そんなに高価な物なのか?」
スパークは驚きの声をあげて、ニースを振り返った。
「北のドワーフ族からの贈り物です。このような高価な物は、わたしどもの神殿には必要ありません。それで、お城に納めていただこうと……」
ニースは微笑みながら、
「返すなどと言わないでくださいましね」
と、小声で囁《ささや》いた。
「承知しました」
スパークはニースにうなずきかえしてから、改めてテーブルの上の陶器に、視線を向けた。今まで平気でお茶を飲んでいたのだが、値段を聞くとむやみに手を触れる気にもならなくなる。
「芸術を理解することも騎士の務めかもしれないが、オレなら絶対に買わないな。飲み物の味が変わるわけでもあるまいに……」
間抜けなことを言っていると自分でも思うが、スパークにはそんな感想しかわかない。
同感だというように、ギャラックが相槌《あいづち》を打つ。
器など割れてさえいなければいい、とスパークは思う。
実際、スパークの私物はマーモの市場で買った中古品ばかりだ。公国の備品については体面もあってそうもゆかないが、最高級品を買い求めるような無駄をする気もない。
「なんでも、この青色を出すのが大変なんだそうです。技術的な問題というより、原料となる鉱物がなかなか取れないらしくて……。だから、自然に値段が高くなります。希少価値というわけですね」
アルド・ノーバがいかにも魔術師らしく、広い知識の一端を披露した。
「希少価値か……」
スパークはつぶやいた。
人間、余分な富を持つと、普通とは違う物を求めたくなるものだ。古代王国時代の品物が高値で取引されるのはそのためである。
それゆえ、冒険者なる遺跡荒らしが商売として成り立つのだ。
「それで、原料となる鉱物というのはどういうのだ?」
「腐った銀あるいは、犬頭鬼《コボルト》の銀と呼ばれている鉱物だと聞いています」
スパークの問いに、アルド・ノーバは申し訳なさそうに首を横に振る。
それを見て、ニースが代わって、答えた。
「|犬頭鬼の銀《コバルト》……ですか?」
「はい、妖魔《ようま》の一種である犬頭鬼には、銀を腐らせる能力があると伝えられています。その腐った銀こそが、青色を出すための原料となるのだそうです」
「コボルトにそんな能力が……」
スパークは、意外に思った。
コボルトと言えば、妖魔のなかでももっとも非力な存在だ。
しかし、妖魔たちももとをただせば妖精界《ようせいかい》の住人である。精霊界と物質界とを結びつける中間の世界。妖精としての特殊な力を持っていても不思議ではないかもしれない。
(コボルトなら)
スパークは思った。
暗黒の島には、遥《はる》かな昔からたくさんの妖魔が棲《す》んでいた。コボルトは赤肌鬼《ゴプリン》ほどには数の多い妖魔ではないが、それでもロードスの他の地方とは比較にならないぐらいに大勢いたはずだ。おそらく、今でもどこかに潜んでいるだろう。銀の鉱山を調べてみれば、案外、腐った銀も見つかるかもしれない。
「その腐銀なる金属があれば、この陶器を作ることができるのですか?」
スパークはニースに問いかけた。
「……できると思います」
ニースは、しばし思案してから答えた。
「もっとも、製法はドワーフ族の職人しか知りません。腐銀なる鉱物がどのような物かも、彼らでなければ見分けられないでしょう」
「職人なら招けばいいだけだ。薬草師と同じく……」
五十年前に起こった魔神戦争で南のドワーフ族の集落が滅亡したため、現在、ドワーフ族の集落は、ロードス最北の地ターバに存在するだけだ。
だが、彼らのなかには集落を離れ、人間の街や村で暮らす者もいる。招聘《しょうへい》に応じてくれる陶器職人もいるかもしれない。
(ドワーフと言えば……)
親しい知人のなかに一人いるなと、スパークは思った。
彼に訊《たず》ねてみれば、腐銀や陶器職人のことも分かるのではないか。
そう考えた瞬間、スパークは立ち上がっていた。
躍りだしたい気分になっていた。先程まで閉塞感《へいそくかん》に苛《さいな》まれ、愚痴っぽくなっていたのが嘘《うそ》のようだった。
ニースが会いにきてくれたおかげでもあるし、彼女が淹《い》れてくれた香草茶の効果でもあろう。
そして、なにより、この暗黒の島を豊かにするための指針が見えたことが、マーモ公王たる彼の気持ちを明るくしていた。
[#挿絵(img/N-Lodoss 1_099.jpg)入る]
(このマーモには暗黒の島ゆえの特殊性がある)
それを逆手《さかて》に取れば、この島を豊かにすることも可能であるように思えてきたのだ。
毒は薬にもなるし、妖魔《ようま》が腐らせた銀は美しい色を出す陶器の釉薬《ゆうやく》になる。
「|戦の神《マイリー》の神殿に行くぞ!」
スパークはギャラックとアルド・ノーバの二人に向かって言った。
そして、ニースを振り返ると、彼女の手を取り、かたく握りしめた。
「スパーク……様?」
ニースは戸惑いと恥じらいの入り混じった表情を浮かべた。
しかし、スパークのほうはそんな彼女の様子に気づきもしない。
「ありがとうございます。あなたのおかげで光明が見えたような気がします」
「それは、なによりです」
心底、嬉《うれ》しそうなスパークの顔を見て、ニースもつられるように微笑《ほほえ》んだ。
「それではこれで失礼いたします」
スパークはそう言うなり、玉座の間へと駆け込んでいった。
近衛《このえ》騎士隊長と宮廷魔術師の二人は、一瞬、顔を見合わせて溜息《ためいき》をついてから、公王を追いかけて屋内に入る。
「おいとましなければならないのは、わたしのほうだったのに……」
スパークたちが姿を消した硝子《ガラス》戸《ど》を見つめながら、置き去りにされたわ、とニースはつぶやいた。
「でも、そのほうがスパーク様らしい」
一度、こうと決めたらすぐ行動に移る。そして、それをやり遂げるまで、決してあきらめない。それがあの若き公王の魅力だと思うし、ニースはそんな彼に、どれだけ力づけられたか分からない。
スパークの勇気があればこそ、あの運命の時、破壊の女神カーディスではなく、創造の女神マーファを降臨させることができたのだと思う。
「スパーク様は、きっと素晴らしい王様になられるわ……」
ニースにとって、それは確信であった。
そして、ニースはテーブルの上の物を片づけはじめた。彼女が献上した青色の陶器が、公国の未来を切り開くことを祈りながら……
「グリーバス司祭!」
ギャラックとアルド・ノーバの二人を引き連れて、マイリー神殿の礼拝所に駆け込むやいなや、スパークは大声で司祭の名を呼んだ。
礼拝所の壁に反響して、その声は何重にも繰り返す。
「相変わらず騒々しいの」
祭壇の掃除をしていた大地の妖精《ようせい》が、顔をしかめながら振り返った。
ドワーフ族にしては珍しく、髭《ひげ》を短く切っている。彼らには髭の長さを自慢する風習があり、髭が短いのを恥じて、付け髭をしている者も少なくないのにだ。
グリーバスが髭を短くしているのは、人間の世界で暮らすことの決意の現れではないかと、スパークには思われた。
彼のようなドワーフ族は他にもきっといる。そのなかには、陶器職人もいるに違いない。
スパークはグリーバスのもとへ歩き、挨拶《あいさつ》もそこそこに本題を切り出した。
腐銀がどんな鉱物か分かるか、招けば応じてくれるようなドワーフ族の陶器職人がいるかどうか、訊《たず》ねる。
「わしとて大地の妖精だからな」
唐突な質問に驚いたような様子も見せず、グリーバスは答えた。
「腐銀ぐらい、見れば分かる」
「そうですか!」
スパークは表情を輝かせて、アルド・ノーバを振り返った。
「この島にも、銀の鉱山はあるはずだ。廃坑のほうが可能性が高いかもしれない。妖魔が棲《す》んでいた地域を中心に調べてみてくれ」
「かしこまりました」
スパークの性格は心得ているので、アルド・ノーバは一礼して、その場から立ち去った。城に戻って、資料を調べるつもりなのだ。
大変だな、とギャラックが視線で語りかける。
お互いに、とでもいうように、アルド・ノーバは笑顔で応じた。
「それで、陶器職人のほうはどうです? 知り合いなどおられませんか?」
「鉄の王国に帰れば、何人かおるよ」
「招きに応じてくれますでしょうか?」
「わしらドワーフ族にとって、物を作るということは喜びなのだ。良い物を作れるというのであれば進んで応じよう」
グリーバスの答えは、スパークを十分、満足させるものだった。
「腐銀を探すつもりなのだな?」
「はい、そして青色の陶器を、この島で生産いたします」
「マーモ陶というわけか?」
グリーバスの問いに、スパークは笑顔でうなずいた。
「そういうことなら、協力しよう。妖魔《ようま》の巣窟《そうくつ》たるこの島なら、確かに腐銀も見つかるかもしれん」
「ありがとうございます」
スパークは深く頭を下げて、感謝の気持ちを現した。
「また、御自分で行くつもりですかい?」
「公国の運命を左右するかもしれないんだ。オレが行かなくてどうする? 協力していただける司祭にも、申し訳が立たないだろう」
ギャラックの問いに、スパークは当然のように答えた。
最初から、その答えは予期していたようで、ギャラックはそれ以上、何も言わなかった。
「留守はルゼナン伯に任せる。それと護衛は最小限でいいからな」
「分かりました。せっかくグリーバス司祭も来てくれるんだ。昔の仲間だけで、行くとしましょう」
ギャラックの提案を、スパークは喜んで承認した。
気心《きごころ》の知れた仲間だけで行くなら、視察の旅も楽しいものになるだろう。
そして、それから三日後、スパークたちは闇《やみ》の森の近くの廃坑となった銀の鉱山に向かって出発した。
同行したのは近衛《このえ》騎士隊長のギャラックとその夫人のライナ、宮廷魔術師のアルド・ノーバと戦《いくさ》の神の司祭グリーバス、そしてハーフエルフの少女リーフであった。
3[#「3」は見出し]
公都を離れてから、五日が過ぎた。
スパークたちは、かつて闇の森が広がっていた場所にやってきていた。
「それにしても、ひどい有様《ありさま》ですね」
アルド・ノーバが周囲を見渡して言った。
闇の森は、一年前の戦いのとき、ダークエルフたちが召喚した炎の精霊によって燃え上がり、その大部分が焼け野原になってしまっていたのだ。
「森が復活するまでには、何百年もかかる。森の妖精《ようせい》たちが来てくれているから、もう少し早くなるかもしれないがな」
スパークは炭で覆《おお》われた黒い大地を見つめながら言った。
「そう言えば、リーフの母親もエルフたちと一緒に暮らしているんじゃなかったか?」
「そうよ。マーモに来てくれたエルフは、父さんがいた集落のエルフたちだもの。母さんの知人と言うわけ」
妖精と人間、ふたつの血が流れるリーフだが、彼女の場合、父親が森の妖精エルフで、母親が人間なのだ。そして、彼女の父は、旧マーモ帝国がカノンを占領したとき、ダークエルフが行ったエルフ狩りの犠牲となって、命を落としている。
そして、優秀な戦士であった彼女の母親はダークエルフに復讐《ふくしゅう》するため、単身、マーモに渡ったのだ。
しかし、ダークエルフの集落の守りは厳重で、復讐を果たす機会はなかなか訪れなかった。連合騎士団が上陸し、闇の森を攻撃した時に、道案内を買ってでることで、ようやく悲願を果たすことができた。そして、燃える森から大勢の騎士、兵士を脱出させている。彼女がいなければ、闇の森を攻めた連合騎士団は、一人残らず全滅していたかもしれない。
そして現在、リーフの母親は闇の森ではなく、普通の森を復活させるために、森の妖精たちを呼んで、焼けた大地に木々の苗を植樹していると聞いている。
「エルフたちが住んでいる場所は、ここから遠いのか?」
「ううん、この近くよ。でも、寄ってみるなんて言わないでよね」
スパークに訊《たず》ねられ、リーフは慌てたように答えた。
「そうはゆくか。おまえの母親は、騎士団を助けた功績で、カシュー王から感状が下されているんだ。マーモの地に来てくれたエルフ族にも礼を言いたい。寄らせてもらうぞ」
断固としたスパークの口調に、リーフはうっとなる。
「分かったわよ、案内するわ」
リーフはうなだれながら言った。
そして、彼女の案内で、スパークたちはエルフ族の集落を訪ねた。
集落といっても、焼け野原のなかに、簡素な造りの家が数十件、建ちならんでいるだけの小さなものだった。
スパークはエルフ族の長老に面会して、マーモに来てくれたことや、森を蘇《よみがえ》らせるための活動に、感謝の言葉を述べた。
そして、その後、リーフの母親の家を訪問した。彼女はもちろん、村でただひとりの人間である。カノンに住んでいたエルフ族は、人間との交流も盛んだったが、それでも両者のあいだの結婚はそれほど多い例ではない。
「ようこそ、おいでくださいました……」
リーフの母親は、名前をジェシーといった。
娘の性格や女戦士だったと聞いていたので、豪放な性格の女性ではないかとスパークは想像していたのだが、実際、会ってみると、聡明で落ち着いた印象を受けた。もっとも引き締まった身体《からだ》や無駄のない動作などに、熟練の戦士の片鱗《へんりん》がうかがえる。
短くまとめた黒い髪は娘と同じ、しかし肌は褐色で、こちらは娘に伝わらなかったようだ。瞳《ひとみ》は黒く、情熱的に輝いている。集落のエルフたちと同じ服を着ているが、彼女には少し不似合いなように思えた。
「突然の訪問で申し訳ありません。視察のため近くまで来たもので、立ち寄らせていただきました」
スパークはそう言って、先の大戦のときの活躍や現在の活動に対し、マーモ公王として礼を述べた。
「光栄ですわ」
ジェシーは答え、上品な微笑《ほほえ》みを浮かべた。
(もしかして、リーフは父親似なのかな)
礼儀を心得た対応に、スパークはついそんなことを考えた。
しかし、そんなことがあるはずがない。リーフの父親は、高貴なる森の妖精《ようせい》エルフ族なのだ。
(まあ、子供が必ず両親に似るとはかぎらないしな)
スパークは勝手に納得《なっとく》して、闇《やみ》の森のことや、かつてこの地で暮らしていた妖魔や魔獣どもについて話題を向けた。
「闇の森はそのすべてが焼け落ちたわけではありません。東の一帯を中心に、炎から免れた場所がまだまだあります。そしてそこには、まだ妖魔や魔獣が多数、棲《す》んでおり、昔の闇の森の姿をそのまま残しております」
ジェシーは答えた。
先の大戦の後、連合騎士団によって、大規漠な妖魔狩り、魔獣狩りが行われたが、土地に不慣れであったこともあって、満足のゆく成果はあげられていない。
リーフの母親の話は十分に予想できたことなので、スパークは神妙な顔でうなずいた。
「いずれは、闇の森に討伐隊を差し向けるつもりでおります」
「そうですか……」
ジェシーはスパークの考えに対し、それほど強い関心を払わなかった。むしろ、否定的であるような印象を覚えた。
「何か、ご意見があるのでしたら……」
スパークは彼女の真意を知りたいと思い、そのように問いかけた。
彼女はダークエルフに最愛の夫を殺されているのだ。妖魔《ようま》を憎む気持ちは、誰よりも強いはずである。
「この集落のエルフたちは、故郷のカノンに広がっているような森を育てようとしています。彼らは森の、光の性質を司《つかさど》る妖精ですからそれは当然でしょう。しかし、わたしは人間なので、もう少し冷静に物事が見えます」
「どのように、見えますか?」
「この島から闇の森を消滅させるのは、不可能ではないかと……」
「不可能ですか?」
「植樹をした若木のなかにも、すでに闇の森に特有の変異を示しているものがあります。そして、そこかしこに生えてくる新芽の大半も、やはり闇の森の木々なのです……」
ロードス全土からエルフ族が集まってきても、その変異した若木や新芽を取り除くことはできないだろう、とジェシーは続けた。
「闇の森が育つようなら、また焼き払ってしまえばいいことだ。そこに隠れ棲《す》む妖魔や魔獣たちとともに、な」
ギャラックが過激とも思える意見を述べた。
「その意見には賛成しかねます。一年前の闇の森の火災のとき、煙の害がどれほどひどかったか覚えておいででしょう。それに、闇の森を焼けだされた妖魔や魔獣たちが、マーモの各地に散らばり、多くの住人たちが犠牲になっています。妖魔どもは今も、この島の各所に潜み、近隣の住人を脅かしております」
「それぐらいは承知のうえだ。だからこそ、我々、騎士が領主となって、村々の治安を守っている」
「その見返りとして、住人たちは税を納めていますからね」
リーフの母親は口調こそは穏やかだったが、その内容はかなり厳しかった。
しかし、ギャラックが感情的になっているため、スパークは冷静でいられた。そうでなければ、リーフの母親と口論しているのは彼のほうだったかもしれない。
「わたしが言いたいのは、闇の森こそがこの島にとって自然な森ではないかということです。たとえば、フレイムに生える木々は、乾燥や塩に強い種類でしょう。アラニアとカノンを比べても、森の植生は完全に同じではない。気候や土壌の差によって、森が変化するのは当然のことではありませんか」
「闇の森が蘇《よみがえ》るようなら、この島はいつまでたっても暗黒の島のままなんだぜ!」
「ギャラック!」
収拾がつかなくなりそうなので、スパークはギャラックを制した。そして、ジェシーに対して自分たちの非礼を詫《わ》びる。
(それにしても……)
闇の森こそがマーモにとっての自然ではないか、という言葉は、心に突き刺さるな、とスパークは思った。
自分たちの活動を否定されているにも等しい。ギャラックが激昂《げっこう》するのも、ある意味、当然だった。だが、冷静に考えてみて、彼女の言葉を否定するのは難しかった。
「貴重な意見として、心に止めておきましょう。しかし、わたしの願いはこのマーモを暗黒の呪縛《じゅばく》から解放することにあります。闇と混沌《こんとん》ではなく、光と秩序によって島を治めたいと。あなたがたの活動にはできるかぎりの支援を送るつもりです。どうか、あきらめることなく、今の努力を継続してください」
「もちろん、そのつもりでおります」
どうか御安心を、とジェシーは答えた。
スパークはそれでその話題を打ち切った。そして、リーフに今晩は母親の家で泊まるよう命じて、自分たちは近くで野営する旨、伝えた。
「いいよ、みんなと一緒にいるよ」
リーフがあわてて主張したが、スパークは断固たる口調で、命令だと繰り返した。
もっとも、リーフに対する命令権は、実はスパークにはない。先日、すでに実体を失っていた傭兵隊《ようへいたい》を正式に解散したからだ。彼女の今の立場は公王の友人≠ニいうだけだ。
ハーフエルフでもあり、女性でもあるので、騎士に叙勲するわけにもゆかないし、かといって兵士として扱う気にもなれなかった。女官や侍女《じじょ》というのも、リーフには似含わない。
責任のない立場になったので、リーフはますます自由に振る舞っている。それでも、城内で何の問題も起きていないのは基本的に明るい彼女の性格のゆえだろう。
「本来ならお泊めしたいところですが、何分《なにぶん》にも、狭い家ですので」
ジェシーが申し訳なさそうに言った。
「いえ、お気になさらず」
五人も六人も宿泊できるような家が、この集落にひとつもないのは、スパークには最初から分かっていたことだった。
エルフ族に余計な気を遣わせたくもないし、今夜ぐらいはリーフに親子で過ごす時間をゆっくり与えてやりたい。
そして、スパークたちはリーフ一人を残して、エルフの集落を後にした。
「いい男じゃない。あんたが公都に行ったきりなのも分かるわ」
スパークたちが帰ってゆくのを戸口で見送ったあと、ジェシーは久しぶりに会った娘を振り返った。
「ギャラックのこと? それとも、アルド・ノーバ? まさか、グリーバスってことはないわよね」
リーフはふてくされた顔で答えた。
「かわいくないね。そんな性格じゃあ、男に好かれないよ」
ジェシーはスパークたちがいたときとはがらりと口調を変えていた。
傭兵言葉に、生まれ故郷のマーモの訛《なまり》が入っている。品が良いとは、とても言えない。
「好かれたくなんかないわよ」
リーフは母親を睨《にら》みつけた。
「そうかい? わたしはまだまだ好かれたいけどね。こっちが好きになるかどうかは、別だけどさ」
「だったら、公都に出てくれば? うだつのあがらない男たちが、いくらでも言い寄ってくるわよ」
「そんなのは願いさげさ。あと十歳、若けりゃ、公王の妾妃《しょうひ》って線もあったかもねぇ。なんせ、わたしはあんたの父親を口説いたぐらいだから」
「好きに言って……」
リーフは呆《あき》れはてたという顔をした。
こういう性格だから、スパークたちに会わせたくなかったのだ。今の会話を聞かせてやりたいぐらいだ。外面《そとづら》がいいにもほどがあると思う。
「公王陛下は、ニースって娘をお気に召していらっしゃるようよ。本国の宮廷魔術師の令嬢にして、大地母神マーファに仕える聖女様をね」
「それは強敵だね。大人《おとな》の色気でなんとかならないかい?」
「だったら、今頃《いまごろ》、ライナが妾妃様に収まってるわよ」
「さっきいた盗賊の女ね。わたしに言わせりゃ、まだまだ小娘さ」
「スパークにとっては十分、大人なの。あいつってば、年下のあたしから見ても、まだまだ子供っぽいんだから……」
「だから、あたしがついてないとって」
意味ありげに笑いながら、ジェシーは娘の頭を撫《な》でる。
「そんなこと言ってないでしょ!」
リーフは叫んだが、実際のところ、母の言葉は彼女が心のなかでまさに思ったことだった。
「どうして宮廷に道化《ジェスター》が必要なのかは、分かったけどね」
リーフはつぶやくように言った。
「真面目《まじめ》なだけの人間は、なかなか自分を止められないものだからね」
ジェシーは言って、それが分かるようなら上等さ、とふたたび娘の頭を撫でてやる。
「あんたなら、いい道化になれるよ」
「嬉《うれ》しくない」
リーフは憮然《ぶぜん》として言った。
「ま、あんたの好きにするがいいさ。子供が自分で生きられるようになったら、母親なんて仕事は廃業なんだから」
その言葉にはっとなって、リーフは母の顔を見上げた。
彼女はいつもと同じ表情をしていた。怒るときを除いて、彼女は減多に表情を変えない。父が殺されたときも、この表情のまま、マーモに行くと言ったのだ。
「おいで。仕方ないから、今夜は一緒に寝てやるよ」
「昔の仕事に戻るわけ?」
リーフは皮肉っぽく言ったが、それは心の内を見せたくないからだ。
確かに可愛《かわい》くない、と自分でも思う。
「儲《もう》からないんだけどねえ、この仕事は……」
母がぶつぶつとひとりごとを言った。
(この性格、あなた譲りよ)
リーフは心のなかで母に呼びかけた。
夜は、すでに更けていた。
4[#「4」は見出し]
翌朝、母親の家で一夜を過ごしたリーフと合流し、スパークたちは旅を再開した。
そして、目指す鉱山に到着したのはそれから更に五日後であった。
道中、怪物などには出会わなかったが、それが普通なのか、それともよほどの幸運に恵まれたのかは、スパークには分からない。
リーフに言わせれば、スパークが幸運であるはずなどないから、荒野を旅してもそうそう怪物と出くわすわけではないことになる。
スパークとしては、そう思いたいところでもあった。
(リーフの母親の言葉が、まだひっかかっているんだな)
スパークは心のなかで苦笑した。
彼女の言葉に、真実の響きがあることは、スパークにも分かっている。だが、彼の願いは、それとはまったく反対なのだ。
スパークは心の迷いを振り払って、正面の岩肌に暗い穴を空けている古い鉱山跡を見つめた。
「わしが先頭に立とう」
グリーバスが申し出た。
「お願いしましょう」
スパークは言って、ドワーフの司祭に道を譲った。
坑道は狭く、人が一人やっと通れるぐらいだ。グリーバスならば、大地の妖精《ようせい》だけに暗視の能力もあるし、落盤などにも気を配れる。たとえ怪物と遭遇し、戦闘になっても、任せておいて大丈夫だ。
「魔法の光よ……」
アルド・ノーバが呪文《じゅもん》を唱え、魔法の発動体たる杖《つえ》の先に、青白い光を灯《とも》した。
「さあ、入るか」
スパークが全員に、呼びかけたときであった。
「待って!」
と、緊張した声を、ライナがあげた。
「足跡があるわ。それも、それほど古くない……」
「足跡だって!」
スパークは隣にいたギャラックと思わず、顔を見合わせた。
「やっぱりね。今まで、怪物と出会わなかったのが不思議だったのよ」
リーフがスパークを横目で見ながら、そうつぶやく。
「オレのせいじゃない!」
スパークは、つい言い返してしまった。
「誰も公王様の責任なんて、言ってないじゃない」
「いや、明らかに言っていた」
スパークは言い返した。
からかわれているのは分かっているが、言われっぱなしというのが我慢ならないのだ。
「そんなこと言い合っている場合じゃないでしょ」
ライナが呆《あき》れたような顔をして、二人の仲裁に入る。
「そうでした。それで足跡というのはどんな?」
「人間のようよ。少なくとも靴は履《は》いているわね。大きさはちょっと小さい。そうね、子供ぐらい。複数あるけど、数はそれほど多くないと思う」
「子供、それとも妖魔《ようま》か……」
ダークエルフを除いて、普通の妖魔はたいてい裸足《はだし》だ。だが、旧マーモ帝国軍の妖魔兵団に属していた妖魔なら、靴ぐらい履いていてもおかしくない。
「警戒はしておくとして、それほど恐れる必要はないんじゃないですか?」
ギャラックが言った。
「当たり前だ。ここまで来て、引き返せるものか。妖魔が現れたら、叩《たた》きつぶすまでだ」
ギャラックにそう答え、スパークはグリーバス司祭に目で合図を送った。
心得たようにうなずいて、司祭は廃坑のなかへ入ってゆく。
スパークが次いで入り、リーフ、アルド・ノーバ、ライナ、ギャラックの順で続く。
洞窟《どうくつ》のなかの空気はひんやりとしていて、長旅で汗ばんだ肌に心地よかった。六人分の足音が岩肌に反響し、スパークたちよりも先に、奥へ進んでゆく。
「不意をつく、というわけにはゆきそうにもないな」
誰に向かってとはなしに、スパークは話しかけた。
「それどころか、待ち伏せに気をつけてよ」
列の最後尾で、ライナが答えた。
「グリーバス司祭、わたしの盾を使ってください。飛び道具で狙《ねら》われたとき、守りに使えます」
ライナの言うとおりだと思って、スパークは装備していた騎士の盾を、先頭を行くグリーバスに手渡した。
「そうだの、借りておくとしよう」
グリーバスは盾を受け取ると、左手に構えた。右手には小振りの手斧《ハンドアックス》を握っている。狭い場所で戦うこともあるかもしれないと、予備として持ってきたものだ。愛用の戦斧《バトルアックス》は背中に担いでいる。
グリーバスは盾を装着すると、ふたたび歩きはじめた。スパークたちも、数歩ほどの間隔を取って彼に続く。
坑道は曲がりくねりながら、奥に向かってなだらかに下っていた。所々に、鉱石を掘ったあとにできた横穴もあったが、それらは腹這《はらば》いになって進むしかないほどの狭さで、しかも大半が少し入っただけで行き止まっていた。
そういった横穴は無視して、グリーバスは本坑を進んでゆく。そして、足下に落ちている石を時折、拾い上げては、それを丹念に調べる。
「いかがですか?」
何個目かの石を調べ終えたとき、スパークは我慢しきれなくなって訊《たず》ねてみた。
「銀の鉱石だな。しかも、銀はほとんど入っておらん。精錬しても採算にはあわんだろうの」
「そうですか……」
そう簡単に見つかると思っていたわけではないが、スパークは少し不安になってきた。
「ま、進んでゆくしかないの」
その言葉どおり、グリーバスは更に奥へと進んでいった。
やがて、道は徐々に広くなっていった。おそらく大きな鉱脈を、掘り抜いた跡だと思われた。
「もしかしたら、掘り尽くされたのかもしれないな……」
スパークがつぶやいた。
「公王様が、弱気になってどうするのよ」
リーフがスパークの隣に並び、軽く背中を叩《たた》いた。
「弱気になっているわけじゃない。可能性を言っただけだ」
「そんなの全部、調べ終えたら、分かることじゃない」
「おまえは無責任な立場だから、そんなことが言えるんだ。まったく、母親と同じだぜ」
スパークとリーフの会話に、ギャラックが割って入る。
「ギャラックってば、案外、こだわる性格なのね。母さんに言い負かされたのが、そんなに悔しいわけ?」
「誰が言い負かされたって!」
激昂《げっこう》したギャラックが大声を出し、わんわんと響いた。
「やめてください。坑道が崩れでもしたらどうするんですか?」
アルド・ノーバが不安そうに言って、天井を押さえつけるような仕草を見せた。
ライナも苦笑を浮かべながら、大人《おとな》げないわよとギャラックをたしなめる。
「悪かったな……」
憮然《ぶぜん》としながらも、ギャラックはリーフに詫《わ》びた。
「らしくないそ、ギャラック。リーフにからかわれるのも、怒鳴り声をあげるのも、オレの役目だからな。いかに近衛《このえ》騎士隊長になったからと言って、そんなことまで身代わりにならなくていい」
スパークはギャラックに笑いかけた。
しかし、聞きようによっては間抜けな台詞《せりふ》だ。
「申し訳ありません」
ギャラックは笑いをこらえながら、主君である公王に謝罪した。
自覚はなかったが、やはり焦《あせ》っているのだろう、と思う。
公王の護衛役を務めるだけが近衛騎士隊長ではないのだが、今のところ、それ以外の役目を何も果たしていないのだ。スパークが焦燥感にかられているのを見ていると、彼のほうも同じような気持ちになる。
「まだ先は長そうだ。広い場所に出たことだし、少し休憩しよう」
スパークがそんな提案をした。
異論があろうはずもなく、全員がその場で思い思いの姿勢で休息を取った。
そのときだった。
スパークは首筋の辺りに、空気の流れのようなものを感じた。
(風……なのか?)
それは奥の方から、吹いてきたように思われた。スパークは軽い驚きを覚えながら、風が吹いてきた方向を見つめる。
奥に行くと、坑道はふたたび狭くなっている。アルド・ノーバが掲げている明かりも届かないので、その先がどうなっているのかは分からないが、地上への出口でもあるのかもしれない。
少なくともスパークには、他に風が動く理由が思いつかない。
確かめてみようと、スパークは単身、奥へと進んだ。
「どうしたの?」
怪評《けげん》そうな顔をして、リーフが声をかけてくる。
「風が吹いたような気がしたんだ」
「こんな穴の奥で、風なんて吹くわけないでしょ」
洞窟《どうくつ》の奥では、風の精霊はほとんど働かない。それが、自然の理《ことわり》なのだ。
「だから、オレも驚いているんだ!」
スパークはリーフに言い返し、そのまま大股《おおまた》に奥へと進んでいった。
と、長い黒髪がふわりと揺れて、同時に頬《ほお》を何かが撫《な》でたような感触を覚えた。
「間違いない。やはり、風が吹いている……」
スパークが勝ち誇ったように言いかけたときだった。
ごうっという音がしたかと思うと、スパークの周囲に突風が吹き荒れた。同時に、鋭い痛みが全身のそこかしこに走る。
「なんだ、これは!」
反射的に、手で顔を塞《ふさ》ぎながら、スパークは喘《あえ》ぐように言った。
「スパーク!」
リーフの顔色が一瞬で変わり、悲鳴にも似た声をあげた。
「下がって! 風の精霊シルフよ。それもたぶん狂っている」
「狂える精霊?」
スパークは後退しつつ、呻《うめ》いた。
「なんで、そんなものがここにいるんだ!」
「精霊使いが召喚したからに決まってるでしょ。狂ったのは、たぶんここが大地の精霊力の強い場所だから。狂うのを承知で召喚したのかもしれない」
「精霊使いだって?」
スパークは仲間たちのところに戻ると、身体《からだ》の様子を確かめた。
肌の露出しているところに数ヵ所、裂傷を負っていた。傷は浅いが、真っ赤な血が流れだしている。
「大丈夫か?」
グリーバスが寄ってきて、癒《いや》しの魔法をかけようとした。
「これぐらい、かすり傷のようなものです。それより今は、風の精霊を倒さないと……」
そうでないと奥へ進めない。そして、そこには精霊を召喚した者がいるはずなのだ。
ゴブリンにも精霊魔法を使う上位種がいるし、ダークエルフはほとんど全員が、恐るべき精霊使いだ。
そのときには、狂える風の精霊は、おぼろげながらも実体を現していた。
エルフ女性にも似た姿である。しかし、その全身は、ほとんど透きとおっている。
「裸でも肉体がなけりゃあな!」
ギャラックが上品ならざる声をあげながら、風の精霊に向かっていった。
「駄目だよ、ギャラック。精霊には普通の武器は、通用しないんだから……」
リーフがあわてて警告を与えた。
「先に言え!」
ギャラックの第一撃は風の精霊を捕らえていたが、本物の風を切ったように何の手応《てごた》えもなく身体を抜けていった。
「万能なる魔力よ!」
アルド・ノーバがギャラックとスパーク、そしてグリーバスの武器に魔力を付与する。
「ありがたい。だが、オレの武器には最初から魔法がかかっているからな」
スパークが言って、グリーバスとともにギャラックの援護に入った。
「わ、忘れておりました」
アルド・ノーバが額に汗を浮かべながら、申し訳なさそうに言った。
突然の戦いで気が動転してしまったのだ。いくら呪文《じゅもん》を知っていても、正しく使えなければまったく意味をなさない。
もっと頭を働かさねば、とアルド・ノーバは自らを戒めた。魔法の使い方ひとつで、スパークを窮地《きゅうち》に陥れることもあれば、そこから救い出すこともある。
風の精霊は刃《やいば》のような風を吹きつけて攻撃を仕掛けてくる。その風に触れると、スパークが受けたような裂傷を負うのだ。
精霊が使う魔法であり、その攻撃を避《よ》けることはできない。精神を集中させて、魔法の効果を最小限に抑えることだけが、唯一の防御手段だった。
それならばと、スパークたち三人は、攻撃に全力を集中させた。
スパークとギャラックの剣が、グリーバスの斧《おの》が、シルフの身体に叩《たた》きつけられる。
普通の武器では、まったく効果がない。だが、彼らの武器に付与された魔法の力が風の精霊の存在力を次第に奪っていった。
そしてついにシルフの姿は完全に消え去った。
「やったわね!」
ライナが歓声をあげた。
アルド・ノーバは安堵《あんど》の溜息《ためいき》を洩《も》らし、リーフは精霊使いであるだけに、精霊が倒されたことに少しだけ複雑な表情を見せた。
スパークたち三人も無傷ではなかったが、重傷を負ったわけでもなかった。
グリーバスが戦《いくさ》の神に祈りを捧《ささ》げ、それぞれの傷を癒《いや》してゆく。
「感謝いたします」
「なんの。戦で傷ついた人間を癒すのが、マイリーに仕える者の務めよ」
スパークとグリーバスは、そんな会話をかわしたあと、坑道の奥の方を同時に振り返った。
「この奥に、精霊使いがいるわけですね」
「だが、進むのだろ?」
「もちろんです」
スパークはうなずいた。
精霊を操る妖魔《ようま》を、捨てておくわけにはゆかないのだ。
「アルド・ノーバ、対抗魔法をかけてくれ。このまま一気に突入するぞ」
「ちょっと待って。光の精霊を先行させるから……」
リーフが言って、青白く輝く球体を呼び出した。
光の精霊ウィル・オー・ウィスプである。
「こいつの後に続いて。そしたら、待ち伏せされていても分かるはずだから……」
「よし、分かった」
「分かったって、ちょっと待ってください。先頭には、わたしが立ちますぜ」
ギャラックがスパークを押しのけるように進みでた。
「どうしてだ? カシュー王は先頭に立たれることも多いと聞くぞ」
「あの人ぐらい強かったら、文句は言いませんや。それにあの人が先頭に立つのは、味方を勢いづかせるときだけです。普段は後方に控えて、全軍の指揮を取っておられます」
「そうなのか?」
スパークは拍子抜けした顔で、アルド・ノーバを振り返った。
実のところ、スパークはカシュー王の指揮のもとで、戦を経験していない。一年前までは騎士見習いだったし、騎士に叙勲された途端、この島が任地となったからだ。
「近衛《このえ》騎士隊長の仰《おっしゃ》るとおりです。そもそも、王の使命は戦に勝つことであって、戦で先頭に立つことではありません」
「分かった、先頭はギャラックに譲ろう」
スパークはいかにも無念そうに言った。
他人に守ってもらう立場というのに、どうしても慣れないのだ。戦場での武勲をあげてこそ、人々から公王として認められるとも思う。
しかし、今はギャラックたちに従うべきだろう。
スパークは先頭をギャラックに譲り、その後に続いた。
「……魔力を妨げるは魔力のみ」
アルド・ノーバが <対抗魔法《カウンターマジック》> の呪文《じゅもん》を完成させ、ギャラックたち三人にかける。
「光の精霊よ!」
続いて、リーフがウィル・オー・ウィスプに命令を与え、坑道の奥へと突入させた。
「蒼《あお》く流れる星、行くぜ!」
ギャラックが傭兵《ようへい》時代の呼び名を叫びながら光の精霊を追いかけるように進む。
スパークとグリーバスが彼のすぐ後を追いかけ、アルド・ノーバ、リーフ、ライナの順で続いた。
しばらく行くと、坑道はまた広くなった。そして、そこから先に道はなかった。奥の壁に、掘りかけの坑道が浅く穿《うが》たれているだけである。
その穴の前に、光の精霊に照らされて、ひとつの人影が浮かびあがっていた。
「ダークエルフ!」
スパークは思わず息を飲んだ。
その人影がダークエルフであったから。そして……
「まだ子供ですぜ」
ギャラックが拍子抜けした顔で、スパークを振り返った。
「ダークエルフにだって、子供ぐらいいるだろう」
スパークは答えたが、彼も困惑していた。
よく見ると、小剣を手にして立つダークエルフの子供の背後の坑道に、もう一人、更に幼い子供が隠れているのが分かった。
「後ろの子供を、守っているつもりのようだの」
グリーバスが感心したようにつぶやいた。
勇敢であれと説く、戦《いくさ》の神の教義にかなう行為だからだろう。
「油断しないでよ、子供ったって妖魔《ようま》なんだから」
ライナの警告の声に、スパークはうなずいたが、行動を起こす気にはなれなかった。
(どうすればいいんだ?)
スパークは自問した。
二人のダークエルフの子供を、殺すのか、捕らえるのか、それとも見逃すのか。
「かわいそうだが、殺してしまいましょう。妖魔に生まれたのが、あいつの不幸なんだ」
「その通りです。妖魔の掃討は、シャダム公の統治の時代からの決定事項。迷うことはありません」
ギャラックとアルド・ノーバが意見を言った。
「奴《やつ》は、戦う意志を見せておる。それゆえ、戦いは正当だ。しかし、結果の見えた戦いを、あえて行うというのはどうかな?」
[#挿絵(img/N-Lodoss 1_131.jpg)入る]
グリーバスが戦《いくさ》の神の司祭らしい反論を返した。
「あたしも子供だけどね。どう見ても、あたしより年下よ」
「それでも、風の精霊を召喚したんでしょ? 十分に危険な存在よ」
リーフとライナが口々に言った。
仲間たちの意見はばらばらだった。そしてそれは、スパークの心のなかの葛藤《かっとう》そのものでもあった。
(ニースがいたら、どう言うだろう)
スパークはふと、そんなことを考えた。
ダークエルフは邪悪な妖魔《ようま》だ。そのことは承知している。しかし、相手が子供というところに躊躇を覚えるのだ。
殺しても、武勇を誇れるわけでもなく、後味の悪さだけが残る。しかし、見逃せば法を曲げることになるし、人々がそれを知れば非難しよう。
(ならば、捕らえるか?)
しかし、騎士見習いだった頃《ころ》とは異なり、捕らえた罪人を裁くのは、マーモの公王たるスパークの役割であった。そして法に照らせば、子供とはいえ、妖魔であるかぎり死罪を免れない。
ここで殺すのも、捕らえて処刑するのも、結果は同じなのだ。
「公王……」
ギャラックが決断をうながすように、そう声をかけてくる。
「分かっている!」
スパークは答えたが、決断はまだつかなかった。我ながら、優柔不断だと思う。
迷いの原因も分かっていた。リーフの母親ジェシーの言葉である。
──闇《やみ》の森こそが、マーモにとっての自然
ならば、この島の住人として自然なのは、妖魔ということになる。
マーモを覆《おお》っている闇を払う。
この島に残ると決めたときから、スパークはそう考えていた。
しかし、それでは今、自分がやろうとしていることはどうなるのか。妖魔の銀を採掘して、産業を興《おこ》そうとしている自分は……
「スパーク、聞いて」
声をかけてきたのは、リーフであった。
彼女はいつになく真剣な顔をしていた。
「カノンの国で、ダークエルフたちが行ったエルフ狩りは、子供だって容赦されなかったの。そうじゃなければ、あたしはフレイムになんか逃げていなかった、傭兵《ようへい》になんてなっていなかった」
「そうよ。だから、迷うことなんてないわ。あいつだって覚悟してる。だから、精霊を召喚したんだし、今だって剣を向けてきている」
ライナがリーフに同調するように言った。
しかし、リーフは、
「違うわ。あたしが言いたいのは、マーモ公国がダークエルフと同じことをしていいのかってこと」
と、言い返した。
思いもかけない反論にあって、ライナは言葉を失った。
「おまえの父親も、ダークエルフに殺されたんだろう。フレイムの傭兵《ようへい》になったのも、復讐《ふくしゅう》のためじゃないのか? おまえの母親がこの島に渡ったのだって……」
ライナの代埋のように、ギャラックが言った。
「そうよ。ギャラックの言うとおり、あたしも母さんもそれぞれのやり方でダークエルフと戦い、復讐を果たした。でも、それにどんな価値があるというの? 父さんが生き返ったわけじゃない。マーモ帝国を滅ぼしたってことだけを、あたしは評価しているわ。だって、それは戦《いくさ》を終わらせたもの。母さんも、あたしと同じ気持ちだと思う。そのことについて、話をしたわけじゃないけどね……」
リーフは言いたいことはすべて言ったとばかり、口をかたく結ぶとスパークを見つめた。
彼女ばかりではない。全員の視線が、スパークに集まっている。
今度こそ、決断をくださねばならない。ここで決断が下せないようでは、公王たる資格はないと、スパークは思った。
「……逃がしてやろう」
そして、彼は言った。
「スパーク……」
リーフが意外そうな顔をした。自分の意見が通るとは、思ってもいなかっただろう。
「おまえたち、逃げなさい!」
そして、リーフはダークエルフの子供たちを振り返ると、彼らに向かってエルフ語で呼びかけた。
ダークエルフの子供たちはいぶかしげな顔をしていたが、スパークたちが脇《わき》に避《よ》けて出口を開けると、手を取りながら逃げていった。
それを見送ってから、
「反対はしませんが、理由は教えてくださいよ」
と、ギャラックがスパークに声をかけた。
「言葉にするのは難しいんだが……」
スパークはそう前置きしてから、説明を始めた。
「妖魔《ようま》とはいえ、子供は殺したくない。そういう感情的な理由がひとつだ。彼らが先の大戦に関与していたとは思えないからな。いずれ罰するにしても、罪を犯してからにしたい。存在そのものを否定したくないんだ」
「でも、ダークエルフは妖魔《ようま》なのよ」
ライナが不満そうに言う。
「そこなんだ。オレたちは、ここに何しにきた?」
「何って、犬頭鬼《コボルト》の銀を……」
ライナが言いかけて、はっとなる。
「そうだ。妖魔が腐らせた銀の鉱石を見つけるためだ。そして、オレはその腐銀を使って、この島に産業を興《おこ》そうと考えている。それは、この島の闇《やみ》を利用するってことだ」
「それはそうかもしれないけど……」
「オレは炎の部族の出身だ。父は風の部族との抗争で命を落としている。だが、風の部族を恨んじゃいない。そして、風の部族も仇敵である炎の部族を受け入れてくれた。戦いつづけるのは、平和を築くより簡単だということをオレたちは知っている。だが、それではいけないということも、な。そうじゃないか、アルド、ギャラック?」
「仰《おっしゃ》りたいことは分かりますが、妖魔たちがわたしたちの法に従うとは思えません」
アルド・ノーバが遠慮《えんりょ》がちに言った。
「旧マーモ帝国は、それをしていた。カノンにおけるアシュラム将軍の統治は、厳しくはあったが公平だったと聞いている。妖魔たちの統制もよく取れていたそうだ」
「マーモ帝国に倣《なら》え、ということですかい?」
ギャラックが憮然《ぶぜん》として訊《たず》ねる。
「倣うべきところは、倣ってもいいんじゃないか。しかし、それはオレたちがマーモ帝国になることを意味しているわけじゃない」
納得《なっとく》ゆかないというようなギャラックに向かって、スパークは言った。
「闇を恐れない。だが、それに飲みこまれない。そのぐらいの気持ちがなければ、このマーモは統治できないんじゃないだろうか。闇を払拭《ふっしょく》するという気持ちを、完全に捨てたわけじゃないんだが……」
「闇を恐れず、飲みこまれずか……」
いかにも難しそうだの、とグリーバスが言った。
「しかし、人生は戦いであり、王国の歴史は人生に例えられるものよ」
司祭の言葉に、スパークは力強くうなずいた。まさしく、戦いだと彼は思う。そして、その戦いは武力を使うだけとは限らない。
「とにかく、そういうことなんだ。オレも自信があって決断したわけじゃない。いずれ後悔するかもしれない。それでもいい、とオレは思う」
スパークにも確信があるわけではない。むしろ決断の大部分は直感に頼っている。
「そこまで言われたらね」
納得《なっとく》するしかないわ、とライナがギャラックに向かって言った。
ギャラックも不承不承、うなずく。
彼ら二人がやろうとしていたことも、言うならば国の統治の、闇《やみ》の部分を引き受けることなのだ。
妖魔《ようま》も悪だが、盗賊ギルドとて悪だ。ライナはそんな組織をこの公国に作ろうとしているし、ギャラックも王国に危険な存在は、暗殺するくらいの覚悟は決めている。スパークの言葉は、ある意味、自分たちの行動を追認してくれたようなものだ。
スパークはマーモ公国を平和で豊かな国にしようという理想を捨てたわけではない。ただ、そのための方法に修正を加えようとしているだけだ。
ならば、二人が不満を覚える理由はない。スパークに対し、今までどおり協力すればいいだけのことだ。
「すまないな……」
スパークが二人に向かって軽く詫《わ》びたそのとき、
「なるほど、掘るのを止《や》めたわけだ」
と、グリーバスが唐突に声を上げた。
彼はいつの間にか、ダークエルフの子供が隠れていた坑道に移動していた。
「ここから先は、腐銀の鉱脈が続いておる。ドワーフ族以外に、それを利用できる者はいないからの」
「見つかりましたか!」
スパークが表情を輝かせて、グリーバスのところに駆け寄った。
「銀の鉱脈が腐っているなんて、まさに不幸そのものだけど……」
リーフがそう言って、くすりと笑った。
「よかったわね、公王様」
「ああ、まったくだ」
スパークも笑顔でリーフに応じた。
そして、
「これで、胸を張って王郡に帰れるな」
と、仲間たちに向かって呼びかけた。
(光と闇は決して一緒にはなれない。しかし、ともに存在することはできるんじゃないか)
スパークはふとそんなことを考えた。
そのための方法はまだ分からない。
(だが、見つけてやるさ)
妖魔の銀の鉱石を見つめながら、スパークはひそかに決意した。
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第V章 魔獣来襲[#「第V章 魔獣来襲」は見出し]
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峠へと続く坂道を、二頭引きの荷馬車が、がたがたと揺れながら進んでいる。
荷馬車に乗っているのは一組の中年夫婦、その服装や馬車に積み込んだ作物から、農夫であることが分かる。
「この峠を超えれば、ペルセイの街まですぐだ」
馬の手綱《たづな》を取る夫が、隣で編み物をしている妻に話しかけた。
「ウィンディスの街ですよ、今は」
「そうだったな。ウィンディスの街の市場で作物を売れば、銀貨が入る。それで服でも、道具でもいろいろな物が買える」
帝国の治世下においては、考えもできなかったことである。作物はそのほとんどが領主に吸いあげられ、生きるのがやっとぐらいしか残されなかった。
服も道具も、古いのを継ぎ足し、あるいは修理して使い続けるしかなかった。
新しい領主になって、税はかなり軽減された。領主に税を納め、生活に必要な分を残しても、余りが残る。彼ら夫婦は余った作物を公都に運び、市場で売りに出すことにしたのだ。公都は人口も多く、食料はいくらあっても足りないぐらいだ。間違いなく売れて、貨幣が手に入る。それで、今度は生活に必要な物を買えばいい。
闇《やみ》の森の火災による煙害も収まって、今年は比較的、作物の育ちもいい。マーモ帝国の騎士が残していた馬も手に入れることができた。秋になれば、もっとたくさんの作物を、売りにだせるだろう。
「わしらにも、やっと運が向いてきたかな」
農夫は嬉《うれ》しそうにつぶやいた。
口数の少ない妻は、黙ったまま夫の言葉にうなずく。
彼女が笑ったのを、農夫は見たことがない。苦しいことがあっても、弱音を吐くこともない。現実をそのまま受け入れるだけ。感情的になっても何も得ることがないと、知り尽くしているからだろうか。
そのとき、どこからか、鳥が鳴くような声が聞こえてきた。
空気が震えたかと思ったほど、大きな声だった。
その大きさに驚いて、馬が激しく暴れだす。馬車が大きく揺れて、荷台の作物がいくつか、路上に転がり落ちた。
「落ち着け!」
農夫は馬を叱《しか》りつけ、手綱《たづな》を操って、馬を鎮めようとする。
農夫の妻は、怯《おび》えたように周囲を見回している。
「鷲《わし》か鷹《たか》の鳴き声だな。獲物でも、見つけたのだろうさ」
この暗黒の島には様々な生き物がいる。そのなかには危険きわまりない生き物もいるが、それらはたいてい人里から離れた所に棲《す》んでいるものだ。たとえば、焼け落ちる前の闇《やみ》の森や、西の山岳地帯、南東の海岸地帯といった場所である。
そういった場所には人間のほうが普通、近づかない。闇の森の小部族のような例外もあるが、この暗黒の島においてはそうした棲み分けが、何百年、何千年と続いてきたのだ。
「あんた……」
妻が放心したような声で、夫を呼ぶ。
「黙っていろ」
農夫は馬をなだめるのに必死で、その呼びかけに答えるどころではなかった。馬はおとなしくなるどころか、さらに激しく暴れようとしている。
「落ち着けと言ってるだろ!」
農夫は大声で、馬を怒鳴りつける。
「あ、あんた……」
荷馬車から振り落とされないよう座席にしかみつきながら、農夫の妻は必死になって、どこかを指差そうとしている。
どうやら頭上を指差しているようであった。
「いったい何だって言うんだ!」
言うことを聞かぬ馬に苛立《いらだ》ちながらも、普段、口数の少ない妻があまりにも執拗《しつよう》に呼びかけてくるので、農夫は視線を上空に向けた。
そして、言葉を失った。手綱を操る手も、自然に動きが止まる。
巨大な生き物が急速に舞い降りてきているのが見えたからだ。
その生き物は巨大な鷲の頭を持っていた。しかし胴体は、異なる動物のそれだった。
「ば、化け物だ!」
農夫は叫ぶと、妻を抱えて荷馬車から身を投げた。
地面に叩《たた》きつけられ、右肩を強《したた》かに打ち付けたが、痛みを感じている暇もなかった。農夫は妻を抱えたまま地面を転がり、道端の草むらに隠れようとする。しかし、草の高さが低く、人間が姿を隠すのはとうてい不可能だった。
しかし、農夫には、他にどうすることもできなかった。地面に身を伏せ、目を瞑《つむ》ったまま、思いつくかぎりの神の名前を唱えてゆく。そして、化け物が去ってゆくのを、ひたすら待った。しかし、化け物の鋭い嘴《くちばし》や爪《つめ》が、いつ自分の身体《からだ》を引き裂くかもしれない。
そう思っただけで、叫び声をあげたくなる。だが、声を出してはならないと、彼の本能が教えていた。農夫は妻の口を手で押さえ、自分自身は地面に顔を押しつけた。乾いた砂が顔に張り付き、口のなかにも入ってくる。だが、それを不快に思うような余裕はない。農夫は息さえ止めて、恐怖の時間が過ぎ去るのをひたすら願った。
木材が破壊される激しい音に、耳を塞《ふさ》ぎたくなるような馬の断末魔の声が重なる。そうして、無限とも思える時間が過ぎ去っていった……
ふと気が付けば、静寂が戻っていた。
農夫は恐る恐る顔を上げ、そして目を開いた。
そして、その光景を見た。
荷馬車はほぼ完全に破壊されていた。木材が四散し、荷台に乗せていた作物か地面に転がっている。そして、地面が真っ赤に染まっていた。
二頭いた馬のうち、一頭は無惨な骸《むくろ》となって地面に横たわっていた。首はなかばちぎれ、内臓は食い散らかされている。そして、もう一頭の姿は、どこにも見えなかった。
逃げたとは思えない。鷲《わし》の頭に獣の胴を持つ化け物がさらっていったに違いなかった。
農夫は上空を見上げて、そこに化け物の姿がないか探ってみた。白い雲がいくつか浮かんでいるだけで、そこには小鳥の姿さえ見られなかった。
「……あんた」
そのとき、妻が呻《うめ》いた。
「大丈夫か?」
農夫はよろよろと立ち上がり、そして地面に伏せたままの妻に手を差し伸べる。
「わたしは大丈夫。だけど、作物が、馬が……」
夫の手を借りて立ち上がってから、農夫の妻は茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「命が助かっただけ、ましというものだ。苗を植えれば、作物は育つ。荷馬車は作ればいいし、馬だって手に入れることができる」
妻を励ますため、農夫はそう言ったが、彼自身も目の前が真っ暗になったような喪失感を味わっていた。
(この島では、いつもこうだ)
運が向いてきたなと思った途端、それはまったく逆の結果に終わる。光が差してきたように見えても、結局は闇《やみ》のなかに飲みこまれてしまうのだ。
それがこの暗黒の島の定めなのだ。
無力な者が、その定めに抗《あらが》うことがどうしてできよう。
けたたましく犬が吠《ほ》える声で、少年は眠りから覚めた。
犬の世話は、少年に与えられた仕事だった。このまま犬を放置し、主人が起きだすようなことがあればひどく叱《しか》られるに違いない。少年は眠い目をこすりながら、彼の寝室でもある納屋《なや》から外へ出た。
犬の声は、羊小屋の方から聞こえてくる。
少年は吠《ほ》え声を頼りに、暗い地面を歩いた。歩いているうちに目が慣れてきて、足下がなんとか見えるようになる。
空は晴れており、無数の星々がまたたいていた。西の空には半分ほど欠けた月があって、柔らかな銀色の光を大地に投げかけている。犬の吠え声さえなければ、本当に静かな夜であった。
そう考えた途端、犬の声が突然、止《や》んだ。
「どうしたのかな?」
少年は疑問に思い、犬の名を呼び、帰ってくるよう命じてみた。
だが、返事はない。牧羊犬として、幼犬の頃《ころ》から訓練してきたのだ。彼の命令に従わないはずがない。
得体の知れない不安が少年の心をかすめ、足の運びが自然に鈍くなった。
だが、犬をそのままにはしておけない。少年にとって唯一、心を許せる相手であったし、いなくなるようなことがあれば、明日からの仕事にも支障が出る。それに、羊たちが襲《おそ》われるようなことでもあれば、主人に暇をだされるかもしれない。実家は隣村にあるのだが、彼を養うような余裕はとてもない。
少年は足下から手頃《てごろ》な大きさの石を拾って、それを手に持ったまま進んでいった。
不思議なもので、石ぐらいでも武器を持っていると心強くなれる。足には自信があるから、赤肌鬼《ゴプリン》や犬頭鬼《コポルト》といった妖魔《ようま》なら、石をぶつけてそのまま逃げ帰れる。大声を出せば、大人《おとな》たちが起きてくれるだろう。
やがて羊小屋のそばまで、少年はやってきた。
犬の声は、それでも聞こえない。悲鳴は聞こえなかったので、何ものかに襲われたとは思えない。不審なものを追いかけていったのかもしれない。餌《えさ》を見つけて、狩りをしているということも考えられる。そうでもしなければ、あの犬が腹一杯になることはない。吝嗇家《りんしょくか》の主人は、十分な餌を彼に与えてはくれないのだ。少年にとっても、犬がときどき狩ってくる小動物は、貴重な御馳走《ごちそう》であった。
(そうだといいな)
少年は、心のなかでつぶやいた。
そのとき、小屋の向こう側で、がさりという音がした。
少年はびくりとし、そして犬の名前をもう一度、呼んでみた。
だが、返事はない。
少年は不安を覚えながらも、羊小屋の壁に沿って歩き、こっそりと裏の様子を伺《うかが》ってみた。
そこには、影がふたつ見えた。
ひとつは少年がよく知っている牧羊犬のもの。だが、犬はひどく不自然な姿勢で立ったまま、身動きひとつしなかった。
そして、もうひとつの影は。巨大な鳥のようであった。
立派な鶏冠《とさか》が頭にある。小屋の裏に群生している草を、その鳥は一心にはんでいた。
「鶏《にわとり》かな、それとも雉《きじ》……」
その大きさには驚いたが、鳥ならそう恐くはない。草を食べているなら、性格もおとなしいに決まっている。
そう自分に言い聞かせると、少年は動かぬ犬のところへ走り寄った。そして、その名を呼びながら、手で触ってみる。
「硬い?」
ふさふさとした手触りを期待したのに、驚いたことに犬は体毛まで完全に硬くなっていた。
「まるで石像みたいだ」
少年はひどく狼狽《うろた》えた。
薄明かりのなかでは分かりにくいが、身体《からだ》全体が灰色っぽくなっている。
誰《だれ》かが悪戯《いたずら》をして少年の犬をさらって、変わりに石像を置いていったのだろうか。魔法使いなら、そういうこともできるかもしれないし、するかもしれない。
黒の導師≠ニ呼ばれたマーモ帝国の魔法使いは、得体の知れない魔法の実験を行っていたと噂《うわさ》されている。
先の大戦で黒の導師は死んだそうだが、新たにマーモの支配者となった砂漠の王国の領主は、別の魔法使いを連れてきたと聞いている。
「どうすればいいんだ?」
訳を話しても、主人が信じてくれるとは思えない。
犬がいないと、明日からの羊の放牧が大変になる。迷子を一匹でも出すわけにはゆかないのだ。失敗に対して、主人は容赦がない。これまでに何度となく、少年は折襤《せっかん》を受けている。
少年は、絶望的な気持ちになった。
泣きだしたいが、そうすると主人の機嫌は更に悪くなるのだ。それを知っているから、少年は泣かなかった。
その代わりの感情を、ぶつけようと思う。
少年は鳥の方に向き直った。
「あっちに行け!」
そう叫んで、手に持っていたままの石を投げつけた。
狙《ねら》いは違《たが》わず、少年が投げた石は鳥の頭に命中した。
少年は快哉《かいさい》を叫んだ。
大型の鳥はゆっくりと顔を上げて、少年を見つめた。
そのときになっても、少年はまだ気付いていなかった。その鳥の尾が驚くほど長く、そして蜥蜴《とかげ》の鱗《うろこ》を持っていることに……
その翌日、その牧場の主人は、石像と化した少年と犬の姿を目撃することになる。
2[#「2」は見出し]
王城ウィンドレストは、緊張した空気に包まれていた。
主立った騎士たちが召集され、玉座のある広間に詰めている。ほとんどの者がここ数日、王城で寝泊まりしていた。
魔獣どもが各地に現れ、人々を襲《おそ》っている。そんな知らせが、十日ほど前から次々と舞い込んできているのだ。その対策を講じるため、公王スパークは騎士たちを召集したのだ。
「情報は確かなのか? どうしてこうも次々と魔獣が姿を現す!」
玉座には座ろうともせず、スパークは苛立《いらだ》った様子で広間のなかを行き来している。
「一年前に、魔獣狩りを行っているんだぞ!」
スパークはおろおろと自分の後に続くアルド・ノーバに怒鳴った。
八つ当たりなのは承知しているのだが、大声を出さずにはいられなかったのだ。
魔獣狩りの成果がたいしたものでなかったことは、スパークも承知している。それでも、ここ一年、魔獣による被害がなかったのは事実なのだ。姿を目撃したとの訴えはいくつかあったが、実害は出なかったので兵を派遣してもいない。
それなのにである。まるで申し合わせたように、魔獣たちが一斉に暴れはじめ、人や家畜を襲いはじめている。早急に解決しなければならないのだが、情報が錯綜《さくそう》していて、どこから手を付けていいのかも分からない状態だった。
「落ち着いてくださいや」
ギャラックがスパークを宥《なだ》めようとする。
「落ち着いてなどいられるか!」
スパークは攻撃の矛先を宮廷魔術師から近衛《このえ》騎士隊長に向けた。
「今、ライナが情報を集めています。もう少し待てば、確かな情報が入ってきます。無駄に軍を動かすだけの余裕がないことは御存知でしょう」
「ライナは、おまえの夫人だろう? 危険なことを、させてはいないだろうな」
「無理はするな、と言ってあります」
そう言ったのは本当なのだが、ライナがどこまでそれを守っているかは、ギャラックにも分からない。彼女は裏通りの不良どもを集めて、密偵の訓練を施している。忙しさでは、ギャラックなど及びもつかないほどなのだ。
彼女の要請に応《こた》えて、ライデン盗賊ギルドから応援がやってくれば、状況も変わるだろうが、それまで彼女の多忙な日々は続くだろう。
「騎士団の派遣の準備は整いつつあります。知らせがくれば、すぐにでも動けますから、それまで御辛抱ください」
アルド・ノーバが額に汗を浮かべながら、スパークに頭を下げた。
「分かっている……」
スパークは呻《うめ》くように答えた。
相手が魔獣では、ただ軍を送るだけでは倒せない。魔獣の種類によっては、魔法使いを同行させねばならないだろうし、いろいろと策を練る必要もある。
フレイム王国は、火竜の狩猟場で魔竜シューティングスターと戦い、手酷《てひど》い痛手を受けた経験がある。その二《に》の舞《まい》を演じるようでは無能の誹《そし》りを受けることになる。
スパークは玉座に深く沈みこみ、溜息《ためいき》をついた。
最初の反乱を鎮め、独自の産業を興《おこ》す手がかりを掴《つか》みもしたが、またも困難な問題に直面してしまった。
スパークは広間の隅で壁にもたれかかっているリーフに視線を向けた。
普段なら、彼女は玉座のすぐ側《そば》を居場所としているのだが、今は状況が状況だけに、遠慮《えんりょ》して隅に引っ込んでいたのだ。
しかし、スパークの視線に気付いて、玉座の近くにまで小走りに進みでてきた。
「何か用?」
「用はない。しかし、意見を聞きたい。どうして魔獣が突然、暴れはじめたと思う? ただの推測でもいい。あれば言ってくれ」
「そんなこと、突然、言われたって……」
リーフは救いを求めるように、ギャラックを振り返った。
スパークが不幸だからと答えたいところだが、今はそんな冗談を言える雰囲気ではない。そして、冗談を封じられると宮廷道化師《ジェスター》の役割を自任しているリーフとしては、言うべきことなどないのだ。
「おまえの母親の仕業《しわざ》じゃないだろうな。マーモが魔獣の島だってことを、オレたちに教えるためにけしかけたとか……」
ギャラックは助け船をだすどころか、疑いの目でリーフを見返した。
「馬鹿《ばか》言わないでよ。いくらあの人だって、そんな芸当できないわよ。ギャラックってば、本当に執念深いのね。このまえ、母さんに言い負かされたのが、そんなに悔しいの」
「言い負かされてやしない!」
子供じみた二人の口論に、スパークはつい苦笑を浮かべた。
リーフの母親は、先の大戦で焼け跡となった闇《やみ》の森で、エルフ族とともに暮らし、森を再生させるための努力をしている。しかし、彼女はマーモの大地には、闇の森こそが自然なのかもしれないという考えを抱いていた。その考えをもう一歩、進めれば、ギャラックが言ったとおり、魔獣こそがこの島の生き物として相応《ふさわ》しいということにもなる。
もっとも魔獣が暴れはじめたのが、リーフの母親の仕業《しわざ》であるはずがない。
「しかし、 一匹、二匹ならともかく、何十匹もの魔獣が同時に人里に姿を現すのは尋常じゃない。おそらく、何か原因があるはずだ」
スパークは、思案しながら言った。
「マーモ帝国時代の記録を調べてみたが、同様の事件は起こったことがない。闇《やみ》の森の大半が焼け落ちて、魔獣たちの生息地が限られたのが原因かもしれないが、それならもっと早い時期に暴れはじめていたとは思わないか?」
「闇の森に棲《す》む魔獣だけではありませんぜ。西の山岳や南東の海岸地帯に棲む怪物どもも、移動しているようです」
スパークに意見を求められ、ギャラックが答えた。
「そうだな、誰かが企《たくら》んだにしては範囲が広すぎる。魔獣たちを生息地から追い立てるような真似《まね》が人間にできるとも思えない。だが、偶然とは思えない……」
スパークは腕組みし、じっと考えこんだ。
だが、答えは出そうにない。決定的に情報が不足しているのだ。
「魔獣を操っている人がいたりして。でも、わたしの母さんじゃないからね」
リーフが冗談めかして言う。
「それが本当なら、解決は楽なんだがな。おまえの母親一人を、説得すれば済むんだから」
スパークは笑いながら、リーフに答えた。
「しかし、魔獣を操っている者がいるという意見には、賛成だな。それが誰かは分からないが、オレたちの味方じゃないのは間違いないだろう」
「マーモ帝国の残党かな?」
「そうかもしれない。だが、そう決めつけてしまうのも危険かもしれない。ライナが戻ってくるのを、待つしかなさそうだな」
スパークは結論づけるように言った。
ひとしきり愚痴を言い、いくつか思いついたこともあったので、冷静な気分になれたのだ。
(だから最初からそう言ってるじゃないですか)
ギャラックは思ったが、それを言葉にすれば、せっかく直った機嫌がまた悪くなるかもしれないので黙っておいた。
スパークはギャラックの不満そうな顔を横目で見ていたが、彼には何も言わず、集まった騎士たちに散会を命じた。
「ただし、公都からは離れないでほしい。それぞれの領地も心配だろうが、魔獣を退治するには計画的に軍を組織し、派遣することが肝心だからな」
マーモ公国の騎士たちは、それぞれスパークに一礼して、広間から退出していった。
彼らには、さほどの動揺はなかった。暗黒の島がどういう場所か、承知の上で残ると決めた者たちだからであろう。
「それで、スパークはこれからどうするの?」
騎士たちが皆、姿を消したのを確かめてから、リーフが訊《たず》ねる。
「情報によれば、魔獣に石にされた少年がいるらしい。石化の呪《のろ》いを解くにも、魔獣と戦うにも、神聖魔法の使い手が必要になるからな。グリーバス司祭とニース侍祭に、協力をお願いしようと思う」
「そうよね、魔獣が相手だと、怪我人《けがにん》もでるでしょうし」
「アルド・ノーバは魔獣に関する資料を集めて、戦い方を考えてくれ。ギャラックは|戦の神の《マイリー》神殿に行ってほしい。オレはこれから地下の大地母神《マーファ》神殿に行く」
「畏《かしこ》まりました」
「分かりました」
宮廷魔術師と近衛《このえ》騎士隊長は軽く一礼して、スパークから与えられた命令を実行するため、出口の方へと歩み去った。
スパークは二人が出てゆくのを見届けてから立ち上がり、玉座の横に設けられた公王の私室へと続く扉に向かって歩きはじめた。
「ちょっと、あたしはどうしたらいいの?」
リーフが横に並んできてスパークに訊ねる。
「好きにしていていいぞ。魔獣と戦うときには、手伝ってもらうけどな」
「あたし、もう傭兵《ようへい》じゃないんだけど……」
「しかし、公王の友人≠セからな。公王が戦うときには協力するのが当然だろ。もちろん、無償でな」
「嬉《うれ》しくない」
リーフは顔をしかめて、その場で立ち止まった。
彼女だけはスパークの私室がある一画にも自由に入っていいのだが、今はその権利を使う気にはなれなかった。
(ギャラックの邪魔でもしていたほうがましだわ)
彼女は、心のなかでつぶやいた。
王城の地下にあるマーファ神殿に行く気にはなれなかった。
そこで行われた壮絶な戦いは思い出したくないし、スパークがあの少女だけに見せる表情を目にしたくもないのだ。
「公王の友人≠チて、いったい何なのかしら?」
スパークが扉の向こうに消え、たった一人、残されたリーフは、玉座の間の高い天井を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
「あたしってば、一生、こうなんだろうな」
公王の友人たるリーフは、この王城のなかなら、何処《どこ》にでも行くことができる。しかし、それだけでは何処にも行き場がないも同然なのだ。
リーフは視線を戻すと、両開きの扉の方へと走りだした。
ギャラックの邪魔をするために、である。
(それがいいよね……)
精霊使いであるリーフは、心のなかに悪戯《いたずら》を好む精神の精霊がいることを知っている。誰の心にもそれはいるのだ。
そして、その精霊にはもうひとつ司《つかさど》っている精神の働きがある。それは完全なる存在であった始源の巨人さえ滅ぼした感情なのだ。
(あたしには、そんなの似合わないもの)
だから、人をからかいつづけるのだと、ハーフエルフの少女は思った。
(今日は遠慮《えんりょ》しておくけど、一生、迷惑かけさせてもらうからね)
広間から出るとき、リーフは空の玉座を、一度だけ振り返った。
3[#「3」は見出し]
「城主様が見えられましたよ」
フェリーナ司祭にそう声をかけられ、神殿の宿舎で食事の支度《したく》をはじめていたニースは、輝くような笑顔で振り返った。
「スパーク……陛下が」
自分がどんな顔をしているかに言葉の途中で気付き、ニースは真顔になり、取り繕《つくろ》うかのように公王に対する尊称を付け加えた。
「わたしたち聖職者は、世俗の権威には束縛されないのですよ」
フェリーナ司祭も、笑顔になって言った。
ニースがその年齢にふさわしい表情を見せてくれたのが、嬉《うれ》しかったのだ。フェリーナ司祭にとって、尊敬してやまなかった先の最高司祭の同名の孫娘である。そんな少女を預けてもらったことに誇りを感じているし、同時に責任も感じている。
聖女の資質を持つ少女に何を与えられるかは分からないが、彼女のことを心から愛してゆこうとは心に決めている。
「そうはゆきません!」
ニースはあわてて答えた。
司祭の言葉はもちろん彼女自身、承知しているだろうが、建前でしかない。現実的には、大地母神の教団も王権に対し、敬意を払うことを忘れてはいない。
「それでは、公王陛下をお待たせしては申し訳ないわね。食事の支度はわたしが替わりましょう。あなたの部屋にお通ししていますので、すぐに行きなさい」
司祭の言葉に、ニースは一瞬のためらいを見せた。
食事の支度を途中で投げ出したくなかったのだ。しかし、司祭の言葉は丁寧《ていねい》ではあるが、命令的な意図が感じられた。
「承知しました……」
ニースは答えて、部屋に戻ることにした。
ニースが部屋に戻ったとき、マーモの若き公王は、部屋の扉を開けたまま落ち着きなさそうな顔をして立っていた。
「お待たせしました」
そんなスパークの態度が可笑《おか》しくて、ニースは笑いを堪《こち》えながら部屋に入っていった。
「やあ、ニース」
スパークはぎこちない笑みを返した。だが、すぐに戸惑いの表情になって、視線を下げて、ニースの服を見つめる。
その視線に気づいて、ニースは自分の服装を確かめてみた。
「いけない!」
食事の支度《したく》の途中だったので、前掛《エプロン》を着けたままだったのだ。
あわててそれを脱ぎ、洗濯物を入れている籠《かご》のなかに放り込んだ。
「ごめんなさい、食事の支度をしていたもので……」
そんなことにも気付かない自分が恥ずかしかった。
「いや、オレならいいんだ。それに、よく似合っていたし……」
スパークはそう答えてから、余計なことを言っていることに気付き、そのまま後が続けられなくなってしまった。
二人は顔を見合わせたまま黙りこみ、小さな部屋のなかには、しばしの静寂が流れた。
「それで何の御用でしょうか? もちろん、なくてもかまわないのですけど」
先に心を落ち着けさせたのだろう。沈黙を破ったのはニースのほうだった。
彼女はスパークに椅子《いす》を勧めて、自分自身は部屋の端にある寝床の上に腰を落ち着ける。
「そうだった! 頼みがあってきたんだ」
スパークは叫ぶように言って、マーモの各地で魔獣が出現し、暴れているという事実を彼女に伝えた。
「魔獣が?」
ニースはその事実を初めて知った。しかし、昨日、市場に買い物に出たとき、街の人々が不安そうな顔で噂話をしていたことを、すぐに思い出す。マーモでは珍しいことではなかったので、無理に聞きたださなかったのだが、彼らはおそらく魔獣について噂しあっていたのだろう。
「それは、由々《ゆゆ》しき事態ですね……」
ニースは暗い表情になり、マーファの御名《みな》をひとつ唱えた。そして、自分にできることがあるなら、とスパークに申し出る。
「魔獣によって怪我《けが》をさせられたり、石化された人々がいるんだ。魔獣の出現は、公国の責任だから救済しなければならない……」
最近になって、スパークはやっと普通にニースと話ができるようになっていた。まだ多少の緊張はあるし、あまり馴《な》れ馴れしくしてはならないと自分を戒めてもいるが、以前のようなぎこちなさはなくなった。
「承知しました。司祭様には、わたしから話をしておきます。出発のときには、声をかけてくださいまし」
そうしよう、とスパークは答えた。
「それにしても、魔獣が突然、暴れだすというのは異常ですよね」
ニースがそう言うのを聞いて、さすがだなとスパークは思った。
簡単に事情を話しただけなのに、ニースは問題の本質をすでに理解していた。魔獣が暴れていること自体より、そちらのほうが重大であるかもしれない。
「誰《だれ》かが魔獣を操っているんじゃないかと疑っている」
「魔獣を操る?」
ニースはそう言うと、何かを思いだそうとでもするように考え込んだ。
「もしも、思いあたることがあるなら……」
教えてくれ、とスパークは彼女に言った。
「お父様から聞いた話なので、わたしもくわしくは知りませんが、アラニアの国に魔獣を支配し、操る秘術を知っている魔術師がいるらしいのです」
「魔獣を操る魔術師……、魔獣使い?」
ニースの言葉に、スパークは驚きを覚えた。
「その魔獣使いが、今度の事件に関係しているかもしれないんだな」
「そうかもしれません。マーモ帝国は昔、その魔獣使いを利用し、闇《やみ》の森に生息している魔獣を支配し、魔獣の軍団を組織しようとしたことがあったんだそうです。パーンおじ様やお父様たちが、その陰謀は阻止したのですが……」
そして、ニースは彼女の父、スレインから聞いた話を、スパークに語っていった。
魔獣使いの名はエレーナと言った。
その当時、まだ二十歳ほどの女性であった。アラニアの王都アランの街に、賢者の学院が健在なりし頃《ころ》、そこで導師の地位にあった魔術師グージェルミンの一人娘だという。
グージェルミン導師は古代王国の遺跡から魔獣支配の魔法書を発見し、独力でその解読に成功した偉大なる魔術師だ。
エレーナはその父から、魔獣支配の秘術を引き継いだのである。
「グージェルミン様もエレーナ様も、魔獣支配の秘術が悪用されることを恐れていらっしゃったそうです。マーモ帝国の招聘《しょうへい》に対しても、エレーナ様は応じることはありませんでした。マーモ帝国は実力行使に出て、エレーナ様を誘拐《ゆうかい》しようとさえしたのです」
「その陰謀を、自由騎士パーンやスレイン導師が阻止したんだ……」
スパークは感嘆した。
自由騎士や北の賢者の武勲談は、吟遊詩人によって語り尽くされてると思っていたが、隠された武勲談がまだあったのだ。
「その魔獣使い……エレーナという女性は、悪い人ではないんだな?」
「意志の強い立派な女性だと聞いています。たとえ魔獣が古代語魔法の秘術によって操られているとしても、それはエレーナ様の本意ではないはずです」
ニースの言葉を、スパークはもちろん信じた。
「しかし、陰謀がふたたび彼女を襲《おそ》い、今度はそれに成功した可能性はある。そして、魔獣支配の秘術が使用されたとしたら……」
「その可能性は否定しません。ですが、エレーナ様は優れた魔術師ですし、その身辺は魔獣たちによって守られています。よほどの人間でなければ、エレーナ様には指ひとつ触れられないでしょう」
それはそうだろうと、スパークは思った。
「ここで可能性を論じていてもはじまらないしな。だが、貴重な情報だ。魔獣を操る秘術が存在していることが分かっただけでも、ここに来た甲斐《かい》がある」
「お役に立ててなによりです」
僅《わず》かに声を尖《とが》らせて、ニースは言った。
「あ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。役に立つことがなくっても、ここに来れたってだけでオレは……」
あたふたと言い訳をはじめるスパークを見て、ニースは忍び笑いを洩《も》らす。
「冗談ですよ。スパークの力になれたのでしたら、わたしも嬉《うれ》しく思います」
「勘弁してくれ……」
スパークは全身の力が抜けたようになり、椅子《いす》に深く沈み込んだ。
しかし、すぐに立ち直って、今度は逆にニースのほうに身を乗り出してゆく。
「今、思いついたんだが、魔獣を支配できるんなら、今度の事件を解決することだってできるんじゃないか?」
「そうですね……、できるでしょう」
「だったら、アラニアに行ってみる価値があるとは思わないか? エレーナという女性に会ってみれば、魔獣たちの出現が魔獣支配の秘術に関係したものかどうか分かるだろう。そして彼女が無事なら協力をお願いすればいい」
「無事でないなら、今度の事件は魔獣支配の秘術によるものだと思っていいでしょうね」
ニースはうなずいた。
「エレーナという女性が、アラニアの何処《どこ》に住んでいるのか知らないかな?」
「わたしは知りません。ですが、父様なら知っていると思います。事情を話せば、教えてくれるでしょう」
「分かった。アルドなら、スレイン導師と魔法で連絡がつくはずだ。彼を通じて、頼んでみよう。そのとき、ニースの名前を出してもかまわないかな?」
「スパークのお役に立てることですもの」
ニースは喜んで承知した。
「助かるよ」
スパークは安心したように溜息《ためいき》をついた。しかし、次の瞬間には、決意に満ちた顔になり、椅子《いす》から立ち上がった。
「魔獣に関するくわしい情報が入り次第、討伐隊を編成する。公都近隣に現れた魔獣は、オレ自身で退治する。それからアラニアへ行き、魔獣使いの女性に会う。これで、どうかな?」
「それでいいと思います。事件を根本から解決するためには、アラニアへ行くしかなさそうですもの。そして、公王御自身が魔獣を退治されれば、公国の人々も納得《なっとく》しますでしょう」
魔獣使いを本気でマーモに招聘《しょうへい》したいなら、公王であるスパークが行くのがいちばんの誠意である。一人、使者を出し、拒否されたら二人目をというような時間の余裕はないのだ。
「アラニアに行くときには、わたしも御一緒していいでしょうか?」
「ニースが?」
突然の申し込みに、スパークは当惑した。
「いけませんか?」
「そんなことはない。むしろ嬉《うれ》しいと思う。しかし、いいのかい? 神殿を留守することになるんだが……」
「わたしは侍祭です。司祭様が留守にされるわけではないのですから、問題はありません。事情を話せば、理解してもらえると思います」
どんな事情を話すのかは分からなかったが、スパークはそれ以上、詮索《せんさく》しないことにした。
「そういうことなら喜んで」
スパークは冷静さを装って、ニースに答えた。
本当は躍りだしたいような気分だが、今は公国領内で魔獣が暴れまわっているような状況である。浮かれてなどはいられないのだ。
「魔獣を退治に行くとき、また迎えに来る。それまでに、旅の準備をしておいてほしい」
スパークはそうニースに言って、彼女の部屋を後にした。
そしてニースは、神殿を出るまで、マーモの若き公王を見送ったのだ。
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黄金の毛色をした駿馬《しゅんめ》が、マーモの公王スパークを背に街道を進んでゆく。
彼の背後には二十騎ほどが従っている。魔獣退治のための公王親征に同行することになった魔法使いと近衛《このえ》騎士たちである。荷馬車も一台、用意してあり、食料や水を積み込んでいる。
魔獣たちに関する情報を集めて、ライナが王城に戻ってきたのが二日前のこと。スパークはすぐに討伐隊の編成を行い、咋日のうちにマーモ各地へ出発させている。
そして、スパークは今朝、公都を離れた。
討つべき魔獣は、鷲頭獅子《グリフォン》と魔鶏《コカトリス》。どちらも恐るべき魔獣である。
グリフォンは高速で空を飛び、鋭い嘴《くちばし》と鉤爪《かぎづめ》を持っている。そしてコカトリスは、その嘴に石化の魔力を有しているのだ。
もっとも凶暴|極《きわ》まりない魔獣というわけでもない。
グリフォンの姿は雄々《おお》しく、騎士の紋章にもよく使われるほどだ。本来の餌《えさ》は、野生の動物であり、人間を襲《おそ》うことは稀《まれ》だとされている。東の峠《とうげ》で魔獣に襲われた農夫も、荷馬車を壊され、馬を殺されたものの命は助かっている。
コカトリスも草食であって、その性質は檸猛《どうもう》ではない。しかし、石化の魔力で羊飼いの少年を石に変えている。
人里にさえ現れなければ退治する必要もなかったのだが、現実に被害が出たからには放置しておくことはできない。それは、公国の威信に関わるからだ。
スパークの一行にはニースが同行しており、彼女には少年を石化から解くという役目を受け持ってもらうつもりだ。
グリフォンが現れた東の峠まで、およそ半日。コカトリスが現れた羊牧場は、その峠を更に東へ下ったところにある。
魔獣を倒すために、スパークは対策を練ってきている。もっともうまくゆくかどうかは、やってみないと分からない。一年前の妖魔《ようま》狩《が》り、魔獣狩りには参加していたが、スパークは結局、魔獣に出会うことはなかった。リーフに言わせれば、それも運が悪いからということになるのだが……
空は晴れ渡って、日差しも強い。夏が近いのだ。この時期、マーモ島にはよく雨が降るのだが、この数日、晴天が続いている。
(作物に悪い影響がないだろうか)
スパークは街道の両側に広がっている農園を眺めながら、そんな不安を覚えた。
そして、公王になるまで、こんな心配などしたことがなかったなと苦笑を浮かべる。
フレイムに統合されるまで、炎の部族の暮らしは決して楽であったわけではない。だが、当時の彼はまだ幼く、苦しかった頃《ころ》の記憶はない。族長家の一族ゆえ、食べ物に不自由するほどでもなかったはずだ。
これまでのスパークにとって、食料はどこからかやってくるものだった。マーモの公王になって、それがいかに賛沢《ぜいたく》で、傲慢《ごうまん》な考えであったか思い知らされている。
「何を考えておられますの?」
スパークと並んで馬を進めているニースが、声をかけてきた。
「作物のことを考えていました。雨が降らないと、不作にならないかと……」
他人前《ひとまえ》ゆえ、スパークは敬語を使って、ニースに言った。
今の彼女の立場は、公王の親征に従軍している聖職者なのだ。戦士たちに神の祝福を祈願したり、怪我人《けがにん》を癒《いや》すという役割がある。
「このまま晴れた日ばかりが続くならその心配もありましょうが、小川にはまだ水が流れていますし、池の水かさもそれほど減っていません。大丈夫だと思いますよ」
「ニース侍祭がそう言うのなら、間違いありませんね」
彼女が信仰する大地母神マーファは、豊穣《ほうじょう》を司《つかさど》る女神なのだ。マーファ教団にはいくつもの農法が伝えられており、その知識を農夫たちに無償で教えている。マーモではまだ本格的な活動は始められていないが、やがては神官たちが農村に入ってゆき、布教のかたわら農夫たちを指導してくれるだろう。
「作物のことより、今は魔獣のほうが問題でしょ」
スパークの斜め後ろで、やはり馬に乗っているリーフが不機嫌そうに言う。
「どちらも重要さ」
スパークは、 ハーフエルフの少女を振り返って答えた。
「精霊力の乱れを感じないか? 天候が異常になるのはそのせいだと聞いているが……」
「自然の精霊力はいつも揺れ動いているものだもの。いつが異常かなんて言えないわ。もちろん、今日は炎の精霊力が強い。だけど、西風に乗って、小さいながらも水の精霊力も感じられる。明日、明後日には雨になるかもね」
無愛想な態度で、リーフは答えた。
「魔獣と戦うときに、雨か降っているのは厄介だな」
スパークはつぶやいた。
雨は視界を制限させるし、人間の動きを鈍らせもする。
「これだものね」
リーフが呆《あき》れたような顔をした。
「降ってほしいのか、降ってほしくないのか、どちらかに決めてほしいわ」
「決めたら、天気を変えてくれるのか?」
「そんなこと、あたしにできるわけないじゃない」
そんなスパークとリーフの会話に、ニースが笑顔を浮かべた。
スパークの背後に続いている近衛《このえ》騎士たちからも楽しそうな笑いが起こる。
もっとも、ギャラックとライナ、アルド・ノーバとグリーバスの四人は、二人の会話の調子には慣れきっているので普段の表情のままだった。
「さて、そろそろ峠道にさしかかるぞ。いつ魔獣が現れるか分からないから、全員、心の準傭はしておけよ」
スパークは配下の騎士たちに号令し、彼自身も鞍《くら》の脇《わき》に吊《つる》してある弩弓《クロスボウ》を目で確かめた。
空を飛ぶ魔獣を相手にするためには、飛び道具は不可欠の武器ゆえ、持ってきたものだ。弦は巻き上げたままにしてあり、矢《クオレル》を装填《そうてん》すればすぐ発射できるようにしてある。
そして、スパークたちの行く手には、なだらかな稜線《りょうせん》を描く山々が迫っていた。この山に魔獣グリフォンが、向こうの麓《ふもと》にはコカトリスが棲《す》みついたのだ。もしかすると、他にも魔獣が潜んでいるかもしれない。
スパークは気をひきしめ、なだらかに登りはじめた街道を進んでいった。
峠に着いたのは、昼を過ぎた頃《ころ》だった。
スパークは全員に停止を命じ、グリフォンを迎え撃つための準備を始めた。街道の真ん中に一頭の牝馬《ひんば》を繋《つな》ぎ、これを囮《おとり》にして魔獣を誘いだすのだ。
そして、スパークをはじめとする公国の騎士たちは、物陰や崖《がけ》の上の林に身を潜め、魔獣の出現を待つ。
アルド・ノーバが調べたところでは、グリフォンには雌馬《めすうま》を好む習性があるらしい。この魔獣は牝馬の身体を借りて繁殖を行うためだ。生まれてくるのはグリフォンの幼獣か、鷲頭馬《ヒッポグリフ》という鷲《わし》の頭に馬の胴を持つ別の魔獣ということになる。
そのヒッポグリフが暴れているとの情報も入ってきていて、その魔獣には戦の神の神官戦士を一人と十人ほどの騎士、兵士を差し向けている。
スパークたちが乗ってきた軍馬は、峠から少し戻ったところにある林のなかに繋ぎ、三人の見張りを残しておいた。連れてきたのは牡馬《ぼば》ばかりだが、牡馬の場合は獲物として狙《ねら》われることがある。襲《おそ》われる危険をひとつでも減らすため、林のなかに隠したわけだ。
準備は整い、後はグリフォンが現れるのをひたすら待つだけだった。
しかし、その日は結局、飛んでいる姿さえ目撃できないまま、暮れてしまった。
「野営の準備を始めよう」
夜に魔獣と戦うのは、いかにも不利だと思い、スパークは軍馬を繋いだ林にまで戻って、夜を明かすことに決めた。
そして、一夜が過ぎ、スパークたちはまた峠へと戻り、昨日と同じ策を使って、魔獣が出てくるのを待つ。しかし、二日目の昼になっても魔獣は現れなかった……
「スパーク様……」
草むらで身を潜ませているスパークのところにニースがやってきたのは、二日目の昼前であった。
「何か?」
スパークは立ち上がって、ニースに訊《たず》ねた。
「はい、グリフォンがいつ現れるか分かりませんから、わたしは石化されたという少年を助けてあげたいと思います」
ニースの提案に、スパークは僅《わず》かな時間、思案してから、それがいいでしょうと答えた。そして、近衛《このえ》騎士隊長のギャラックを呼んだ。
「何でしょうか?」
ギャラックは、崖《がけ》の上に登って綱を握っていた。グリフォンがやってきたら、綱を打って、魔獣の動きを束縛するつもりなのだ。
「ギャラックはここに留《とど》まって、グリフォン退治の指揮をしてくれ。オレはニース侍祭を護衛して、麓《ふもと》の羊牧場まで降りる」
「かまいませんが、他にも護衛はつけてくださいや」
「護衛の護衛というのも変だけどな」
スパークは苦笑を浮かべたが、二人の近衛騎士とリーフに同行を命じた。
「機会があったら、ついでにコカトリスを倒してくる」
戦力には最初から余裕があるから、二手に分けたとて支障はない。コカトリスならスパーク一人でも勝てるぐらいの自信がある。万が一、嘴《くちばし》を受け、石化されたとしてもニースが同行しているのだから心配することもない。
「強敵なのは、グリフォンのほうだ。オレがいないあいだに現れたら、慎重に戦ってくれ」
「承知しました」
ギャラックはスパークに答え、公王の帰還まで指揮は自分が取ることを、配下の近衛騎士たちに改めて伝えた。
「それでは参りましょうか」
スパークはニース侍祭に呼びかけた。
「勝手を言ってしまったかもしれませんね……」
ニースは、申し訳なさそうに言った。
「いえ、かまいません。待つのは好きではありませんし、効率も悪い。ギャラックに、グリフォン退治の名誉を奪われるのは癪《しゃく》ですが……」
そんな会話のあいだに、支度《したく》を終えて、二人の近衛騎士とリーフが集まってきた。
「御指名いただいたこと感謝します」
「一命に代えましても、陛下と侍祭様をお守りいたします」
二人の近衛《このえ》騎士が、口々に言った。
「ああ、頼んだぞ」
スパークは二人に返答した。そして、リーフの肩を叩《たた》いて、よろしくなと声をかける。
「友達使い荒いんじゃない?」
不満そうな顔をして、リーフが言った。
「おまえと行動していると、オレは、不幸になることが多いからな。魔獣のほうからやってきてくれるかもしれないだろ」
「そんなことで、あたしを利用しないで。それに、コカトリスじゃなく、グリフォンのほうが襲《おそ》ってきたらどうするの? この人数じゃ、大変なんじゃない」
「大丈夫だ。馬はここに置いて、徒歩で行く。それなら、襲われる心配はないはずだ」
「そうだといいけど……」
「そんなに心配なら、峠を下るまではオレに呪《のろ》いをかけないでくれ」
「公王陛下は幸運の星のもとに生まれたもう、とか? そんなのスパークじゃないよ」
リーフは詩でも謳《うた》うように言ってから、気味悪そうな表情をした。
「それでも麓《ふもと》に着くまで、我慢しろ。おまえだって、魔獣に喰《く》われたくはないだろ」
そして、スパークたちは、羊牧場に向かって出発した。
峠道を東に向かって下り、麓まで歩く。鎧《よろい》を着ているので、スパークと近衛騎士にとってはなかなかきつい行軍となった。幸いだったのは空を雲が覆《おお》い、暑さがそれほどでもなかったことだ。予想していたよりも時間がかかったが、その日の夕方には目的の場所に到着したのであった。
5[#「5」は見出し]
「……こちらです」
スパークたちを恭《うやうや》しく出迎えた牧場主は、石化した少年と犬を安置した物置小屋へと案内した。だが、小屋に入って、スパークは驚いた。石化した少年と犬は、まるで塵《ごみ》のように納屋《なや》の隅に放り込まれていたのである。
(人間は物ではないんだぞ!)
スパークは激しい怒りを覚えた。
その気持ちを察したらしく、ニースが目で合図してきた。今は我慢しろということだろう。
少年を石化から解くのが最初だと、スパークも納得《なっとく》した。
「慈悲深き大地母神《マーファ》よ……」
ニースは精神を集中させると、マーファへ祈りを捧《ささ》げた。
石化の呪《のろ》いを解くための神聖魔法を唱えるのである。その呪文《じゅもん》──奇跡はすぐに完成し、少年は、灰色の石像から人間の肉体へとゆっくりと戻っていった。
「……鶏《にわとり》に蜥蜴《とかげ》の足が!」
完全に元に戻った瞬間、羊飼いの少年は大声で悲鳴を上げた。
「大丈夫、もう大丈夫よ……」
ニースは少年を抱きしめて、そう囁《ささや》きかける。
「あ、あなたは……」
突然のことに狼狽《うろた》えながらも、少年はニースにしがみついた。
「わたしは、ニースよ」
ニースはまさに聖女の微笑《ほほえ》みを浮かべ、少年に答えた。
その表情を見て、スパークは胸が締め付けられるような思いにかられた。今のニースは、遠い存在のように感じられる。彼女の微笑みは万人のもので、それを独占することはできないのではないかとの思いが、彼の心をかすめてゆく。
「そうだ、僕は大きな鳥に石を投げつけたんだ。そしたら、鳥が走ってきて、僕は逃げようとしたんだけど……」
「その鳥は、あなたに悪戯《いたずら》をしたのよ。でも、もう大丈夫」
「大丈夫……」
少年は言いかけて、そこではっとなった。そして、石の像となったままの犬を見つけて、その名前を大声で叫ぶ。
(忘れていたわ……)
ニースは自分の未熟さを、心のなかで神に懺悔《ざんげ》した。
少年を石化から解いただけでは、本当に彼を癒《いや》したことにはならない。
ニースはふたたび祈りを唱えて、石像と化した牧羊犬に手を触れた。奇跡は起こり、犬もまた柔らかな毛並みを取り戻してゆく。
「ああ……」
少年は喜びの声をあげ、犬を抱きしめた。
犬もまた尻尾《しっぽ》を振って、甘えたような声で鳴く。
「よかったな」
スパークは羊飼いの少年に声をかけた。
「領主様?」
少年に問われ、スパークはこの一帯が誰《だれ》の領地であったか、考えた。
(アファッドのものか……)
そして、思いだし、スパークは苦笑を浮かべた。
騎士資格を返上し、アファッドがフレイムに帰還した後、彼の領地には誰を封じるか決めていない。すなわち、この一帯は現在、公国の直轄地《ちょっかつち》ということになる。
「そうだ、オレがおまえの領主だ」
スパークは幾分、恥ずかしさを覚えながら、少年に答えた。
少年は我に返ったように、地面にひれ伏し、無礼があったことを詫《わ》びた。
「そんなに、怯《おび》えることはない。おまえたちが一生懸命、働いてくれるからこそ、オレたちが生きてゆけるんだから……」
「本当? 僕、領主様の役に立っているの?」
「もちろんだ」
スパークは、少年に笑いかけた。
「おまえには、公国の羊番≠フ称号を与えよう。難しいことじゃない。仕事は今までどおりに、羊の世話をすること。そして一年に一度、この牧場であったことを知らせに、公都まできてほしい」
「分かったよ!」
少年は、嬉《うれ》しそうな顔をして答えた。
もっとも、その称号にどんな意味があるかは分かっていないだろう。
スパークは満足そうにうなずくと、納屋《なや》の戸口に立っている牧場主を振り返った。
「そういうことだ。おまえも、心しておけ」
スパークが言うと、牧場主は血の気を失った顔になり、あわてて畏《かしこ》まった。
「ところで……」
スパークはもう一度、少年を振り返ると、魔鶏《コカトリス》がどこにいたのか教えてくれ、と言った。
「案内する!」
少年は元気にうなずき、犬にも呼びかけ、納屋から飛びだしていった。
スパークとニースは顔を見合わせてうなずくと、少年の後を追う。納屋の外で待機していた二人の近衛《このえ》騎士とリーフも、スパークに従う。
少年に案内されたのは、羊小屋の裏側だった。そこには丈の低い草が一面に生えている。
「ここだよ、ここで鳥を見たんだ」
スパークは辺りを見回し、今は魔獣の姿が見えないことを確かめた。
「ヘンルーダ……」
ニースが地面に膝《ひざ》をつき、そこに生える草を手で取りながら言った。
「その草の名前なのか?」
近衛騎士たちをはばかりながら、スパークは小声でニースに訊《たず》ねる。
「コカトリスが餌《えさ》にしている植物です。コカトリスの嘴《くちばし》に触れても、石にならない唯一の植物で、石化の呪《のろ》いにも耐性がつく薬にもなります。もっとも、強い薬なので、熱を出したり、お腹《なか》を下したりしますが……」
コカトリスはこれを食べに来たんだわ、とニースは続けた。
「そうすると、この草が生えているところを探せば、コカトリスがいるかもしれないんだ」
「そう思います」
ニースはうなずいた。
「この草なら、もっとたくさん生えている場所を知っているよ」
スパークとニースの会話を聞いていた少年が、勢い込んで言った。
「案内してくれるか?」
「もちろん!」
そう答えるなり、少年は駆けだした。
スパークはリーフたちを振り返って、戦いになるかもしれないと言った。
「最初から、そのつもりで来たんでしょ」
リーフが言った。
「望むところです」
「マーモ騎士の実力、見せましょうぞ」
二人の近衛《このえ》騎士たちも力強く、うなずく。
そのあいだに、ニースはヘンルーダを摘んで、麻の袋のなかに入れた。戦いの前に、この植物を食べれば、コカトリスの魔力も恐れることはない。
「早く!」
そのとき、少年がスパークたちを急《せ》かすような呼び声をあげた。
少年の足下にいる犬も、元気な鳴き声を送ってきている。
少年に急かされるまま案内されて、スパークたちがやってきたのは小高い丘の上だった。丘には草地と雑木林《ぞうきばやし》が競いあうように広がっている。
「いつもここに羊たちを放牧に来るんだ」
少年が得意そうに説明する。
「あの草は、羊も食べないんだ。だから、いつも一杯に生えている」
少年はそう言って、雑木林のひとつを指差した。
「あの向こうだよ」
「分かった、おまえはここで待っているんだ。あの鳥は、オレたちが退治してやる」
少年は一瞬、不満そうな顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻し、元気よくうなずいた。
「よし、いい子だ」
スパークは少年の頭をかるく撫《な》でてから、雑木林に向かって進みはじめた。
「林のなかを突っ切る。あそこに隠れているかもしれないからな」
「我々が先頭に立ちます」
近衛騎士の一人がそう申し出て、スパークの返事も待たずに、ずかずかと先頭に立った。
スパークは何かを言いかけたが、それより先に、
「さっきの子供みたいな顔をしてるわよ」
と、リーフに指摘をされ、不機嫌に黙りこんだ。
「念のため、先程の薬草を食べておきませんか? 石化の呪《のろ》いを受けずにすみますよ」
「そうしましょう」
スパークが答えた。
ニースは麻袋から薬草を取り出すと、携帯していた水筒の水で洗い流した。
「美味《おい》しくはありませんが、我慢してくださいね。それから今晩、体調が悪くなるかもしれませんけど、明日には治りますから……」
ニースの言葉を聞きながら、スパークは薬草をそのまま口に放り込んだ。
彼女の言うとおり、ヘンルーダの味わいはひどいものだった。苦くて渋い、それに青臭さもそのままで、食べるのにも苦労するほどだった。しかし、石にされるよりいいに決まっているので、無理矢理、飲み込んで、それから水筒の水をがぶ飲みした。
「魔獣よりも強敵かもしれませんね……」
近衛騎士の一人が顔をしかめながら、そうつぶやく。もう一人は嘔吐《おうと》を堪《こら》えるのに必死で、言葉を言えるような余裕さえない。
「これで、コカトリスもただの大きな鶏《にわとり》だ。武勲と言えるほどでもないが、これも領民のためだからな」
「そうそう、そのために税を徴収してるんだから」
スパークの言葉に、リーフが余計な一言を付け加える。
スパークは何も言い返さず、無言で歩きはじめた。すでに辺りは薄暗くなっている。夜になる前にけりをつけたいところなのだ。
スパークたちは雑木林《ぞうきばやし》のなかに入り、藪《やぶ》をかきわけ、あるいは切り払いながら進んでいった。
と、突然、右手からがさがさという音が聞こえた。
「魔獣か!」
スパークは叫び、腰の剣を抜いた。
そのときには、すでに剣を抜き払っていた二人の近衛騎士が、音の方へと走りだした。
「そこの藪だ!」
スパークが近衛騎士たちに声をかけたのとまったく同時に、スパークが指摘した藪のなかから、巨大な鳥の顔がぬっくと突きだしてきた。
立派な鶏冠《とさか》があり、嘴《くちばし》は黄色い。だが、スパークの視線の先で、その嘴に触れた植物がたちまち灰色の石に変わってゆくのが見えた。
この能力があるため、この魔獣は唯一、石化しない植物であるヘンルーダを餌《えさ》にするしかないのだ。哀れな話とも言えるが、魔獣に同情してやることでもない。
二人の近衛騎士は左右に別れ、魔獣を逃がすまいと挟み撃ちにしようとする。その包囲網に、スパークも参加した。
「大地の小人よ、戒めの手を!」
リーフが精霊魔法の呪文《じゅもん》を唱えた。その呼びかけに応じ、地面が盛り上がり、コカトリスの蜥蜴《とかげ》の足に絡まりつこうとする。
コカトリスは奇怪な鳴き声をあげ、激しく翼をばたつかせた。
鶏《にわとり》と同じく、この魔獣は空を飛べない。だが、身体《からだ》を浮かせることぐらいはできる。
大地の手は魔獣の足を捕らえそこね、むなしく消えていった。
「あっ、生意気!」
リーフが悔しそうに言う。
「かかれ!」
スパークは号令し、そして自分自身が率先して、その命令に従った。
魔獣は羽ばたきながら、まっすぐに突進してくる。
魔獣の正面に立っていた騎士は怯《ひる》まず、剣を振り下ろす。その攻撃は魔獣の翼の付け根に命中し、血しぶきが飛んだ。
だが、魔獣の勢いは止まらなかった。その巨体を、近衛騎士の身体にぶつけてゆく。
「うおっ!」
たまらず、近衛騎士は仰向《あおむ》けに倒れた。甲胄《かっちゅう》の腹の部分が、へこんでいる。魔獣が嘴《くちばし》を突き立てたのだろう。だが、突き破ってはいない。
魔獣は近衛騎士の上に乗りかかり、蜥蜴の足で踏みつけながら、やはり蜥蜴の尻尾《しっぽ》を激しく振るう。
その尻尾に邪魔をされて、もう一人の近衛騎士は同僚を助けることができない。むやみに尻尾に向かって剣を振るうが、浅く傷つけることしかできない。鱗《うろこ》はかなり硬いようだ。
魔獣はそのあいだに、近衛騎士の顔に向かって、嘴を繰りだそうとした。
「マーファよ!」
そのとき、後方から戦いの様子をうかがっていたニースが短い祈りの声をあげ、同時に右手を突きだした。
その手の先から見えざる力が魔獣に向かって飛びだした。
神聖魔法の攻撃呪文、 <気弾《フォース》> の呪文である。
魔法はその狙《ねら》いを外すことはなく、今まさに近衛騎士の顔に嘴を振りおろさんとしていた魔獣の顔に炸裂《さくれつ》した。
そのため、魔獣の嘴は僅《わず》かに近衛騎士の顔をそれ、地面に突き刺さった。嘴が触れたあたりの土が、石の塊《かたまり》に変わる。
近衛騎士は恐怖を覚え、押さえつけから逃れようと試みた。だが、魔獣は思った以上に、体重があり、彼が身に着けている甲冑《かっちゅう》自体の重さも手伝って、身動きひとつ取れなかった。そして、魔獣はふたたび嘴《くちばし》を、彼の目を刳《く》り抜かんとばかり振り下ろした。
近衛騎士は悲鳴をあげ、反射的に目を閉じた。
次の瞬間、何かが顔にぶつかってくる感触と生温いものが顔を濡《ぬ》らす感触を同時に、彼は味わった。
やられた、と近衛騎士は思った。
顔のどこかに穴が空き、鮮血が溢《あふ》れだしたのに違いない。だが、不思議と痛みはなかった。限度を超えた痛みは、返って感じないものだと、先輩の騎士から聞いたことがあるが、自分は今、まさにその状態にあるのかもしれない。
しかし、
「危ないところだったな」
と声をかけられ、ようやく近衛騎士は我に返った。
恐る恐る目を開くと、目の前に魔獣の頭があった。ぎょっとなったが、その首が胴から離れていることに気が付く。そして、魔獣の胴体も彼の身体《からだ》の上で横倒しになっていた。
顔を巡らせると、公王スパークが血に濡れた剣を持ったまま立っている姿が目に入った。
スパークは間一髪のところで、魔獣に斬《き》りかかり、その首を切り落としたのである。
近衛騎士の顔にかかったのは、魔獣から溢れた体液だったのだ。
「無様《ぶざま》なところをお目にかけました!」
事情を理解すると、近衛騎士は恥ずかしさに身を震わせた。
本来、公王を守るのが近衛騎士の役目である。それが反対に救われることになったのだ。
「気にするな。魔獣が正面から向かってきていたら、オレがおまえの役を演じることになったろう。おまえの方に魔獣が向かったおかげで、絶好の位置から剣を振るうことができた」
スパークはそう言って、魔獣の胴体を近衛騎士の身体の上からどけてやった。
「怪我《けが》はありませんか?」
宮廷魔術師スレインの娘であるニースが、近衛騎士に声をかける。
その声を聞いて、反射的に彼は起きあがった。
「大丈夫です」
近衛騎士は、身体の具合を調べようともせず答えた。
「とにかく、これで一匹は片づけた」
スパークは魔獣の死体を見下ろしながら言った。
「今夜は村で宿を借りよう。そして、ギャラックたちと合流する」
グリフォンとの戦いが終わってなければいいがと、スパークは思った。
手柄を譲りたくないわけではないが、どうせなら戦いの決着は、自分の見ている前でつけたいのだ。
だが、スパークのその思いはかなわなかった。
スパークがコカトリスとの戦いを演じているちょうどその頃《ころ》、ギャラックたちもまたグリフォンとの死闘を繰り広げていたのである。
6[#「6」は見出し]
日は西に傾いていた。
朝から薄い雲が空を覆《おお》い、天気は崩れるかと思ったが、夕方近くになってふたたび日差しは戻り、今は夕陽《ゆうひ》が空に浮かぶ雲を赤く染めていた。
ギャラックは崖《がけ》の上にどっかりと腰を下ろしたまま、崖の下に繋《つな》がれた牝馬《ひんば》を見つめている。膝《ひざ》の上には投網《とあみ》がある。子供の頃《ころ》には砂の川でよく網を打って、魚を取ったものだ。久しぶりに網を握ったわけだが、出発前に試してみたところでは、思ったよりうまく網は広がった。
これで魔獣の動きが封じられるかどうかは分からないが、やってみて損はない。
「今日も来なかったわね」
ギャラックのすぐ側《そば》で仰向《あおむ》けに寝ていたライナが声をかけた。
空から魔獣が来ないか見張っていたわけだが、あまり退屈なので眠気を覚えていた。
「日が沈むまで、まだ時間がある」
ギャラックは無愛想に答えた。
「それに、魔獣が夜に襲《おそ》ってこないともかぎらないしな」
「鷲《わし》は昼間にしか狩りをしないわ。鷲頭獅子《グリフォン》だって、きっと一緒よ」
ライナはからかうように言ったが、ギャラックの気持ちは察していた。
スパークが帰ってくる前に、けりをつけたいのである。魔獣との戦いで、彼が怪我《けが》をしたり命を落としたりする危険を少しでも減らしたいのだ。
「スパークは、きっと魔鶏《コカトリス》を倒してくるんでしょうね」
「おそらくな。だが、コカトリスが相手なら、死ぬようなことはない。石にされても、ニース侍祭がいれば大丈夫だ」
「だから、何も言わなかったのね」
「そういうことだ」
「スパークだって、一年前と比べたら格段に強くなっているんじゃない。もっと信頼していいと思うけど……」
「信頼はしているさ。ただ無駄な危険は冒してほしくないだけだ。戦うだけなら、オレにだってできる。だが、この暗黒の島を統治できる人間はあいつだけだ」
ギャラックの答えを聞いて、ライナは声をあげて笑った。
スパークのことをできのいい弟のように思っているのだろう。だから、信頼と不安とが同居することになる。
「ところで例の問題だけど……」
ライナは真顔に戻り、話題を変えた。
「帝国が復活したって話か?」
それはライナがギャラックにだけ教えた話で、スパークにもまだ報告していない秘密の情報である。まだ噂《うわさ》のようなもので確実さに欠けるからだ。現在、数人の密偵が調査を続けていて、その情報を待ってからスパークの耳に入れるつもりだった。
「魔獣が暴れはじめたことと、関係があるのかしら」
「分からねぇな。もし、そうだとしたら、帝国を復活させた人間には、それだけの力があるということだ」
それは由々《ゆゆ》しき問題だと、ギャラックはライナに言った。
「少なくとも、オレたちにはそんな芸当はできねぇ」
「そうよね。でも、本当に実力があるのなら、魔獣を使うなんて間怠《まだる》っこしいことなんてしないで、正面から戦いを挑んでくるんじゃないの?」
「魔獣を操るなんて、魔法使いの仕業《しわざ》に決まっている。魔法なら、一人でもできるかもしれない。だが、戦いとなれば、間違いなく人数がいる」
「つまり、敵は少人数ってこと?」
ライナの問いに、ギャラックはそうだと答えた。
「奴《やつ》らにとっての理想は、オレたちがマーモの統治をあきらめ、本国に帰ることだろう。そうすれば、戦うことなくマーモを取り戻せるわけだからな」
「だから、魔獣というわけね。それで思いだしたけど、魔獣たちが出現する少し前に、黒い大きな影が空を飛んだという噂があるのよ。そして、魂が凍りつくような鳴き声が聞こえてきたんだそうよ」
「それは初耳だな……」
「初めて言ったもの。噂なら他にもいろいろあるのよ。一つ目の女が公都の方向を見つめて、狂ったように笑っていたとか、暗黒神の幻影が夜空に浮かんでいたとか、そんなことまでいちいち報告してられないじゃない。黒い大きな影なら、まだしも信憑性《しんぴょうせい》はあるけど……」
「その噂は、スパークの耳に入れておいたほうがいいかもな。魔獣が姿を現したことと、何か関係があるかもしれない……」
魔獣使いの話は、ギャラックたちもスパークから聞いて知っている。
魔獣が一斉に暴れはじめた理由を合理的に説明する今のところ唯一の情報だが、アラニアに住んでいるというその魔獣使いが実際に関係しているかどうかは、確かめてみないと分からない。
そして、スパークは今回の魔獣退治の後、その魔獣使いのもとを訪れるつもりでいる。その魔獣使いの力を借りて、今度の事件に決着をつけるつもりなのだ。この島には、たくさんの魔獣が生息しているだろうから、恒久的に解決する唯一の方法でもある。
こんな時期に、公王がマーモを留守にするのは大問題だが、魔獣使いを招く重要さは理解しているつもりだ。反対はしてみるつもりだが、どうせ説得できまいとギャラックは思っている。もちろん、そのときには、護衛として同行するつもりだ。
「それにしても、凶暴な魔獣のほうが退治が楽だっていうのも皮肉な話だな。人間を襲《おそ》う魔獣なら、向こうから来てくれるわけだからな」
ギャラックは赤く染まった空を見上げながら、忌々《いまいま》しげにつぶやいた。
「不謹慎じゃなくって。牛頭魔人《ミノタウロス》に襲われた村では、五人の村人が食い殺され、三人の娘がさらわれたって聞くわよ」
「その代わり、今頃《いまごろ》、ウッディンたちに倒されているさ。用心深い魔獣が相手だと長期戦にならざるを得ない。オレたちにとっちゃ、そのほうが厄介だ」
マーモの守備は公都ウィンディスの王城と港湾都市サルバドにある城塞《じょうさい》、更には地方に十ヵ所ほど設けた砦《とりで》が拠点となる。だが、平時にはそれぞれ百人ほどの騎士、兵士が詰めているだけで、残りはそれぞれの領地に戻って、領地経営を営んでいる。領主が留守のあいだに、様々な不正や犯罪が行われるのが、現在のマーモの現状だからだ。
魔獣退治のため、騎士たちが動員されるのは仕方ないが、それが長期に及ぶと、騎士たちの領地経営が停滞してしまうのである。
「グリフォンを退治しないと、この峠道を安心して使えないじゃない。農場からの食糧輸送が止まるのは大問題よ。公都ではすでに食料品の値段が上がりはじめているんだから……」
「まったく誰《だれ》かが仕組んだのだとしたら、性格の悪い野郎だぜ。アルド・ノーバにも少し見習ってもらいたいぐらいだ」
ギャラックは吐き捨てるように言って、そのまま立ち上がった。
「今日は店じまいだ。明日も朝一番で、店を開くからな」
そして、配下の近衛《このえ》騎士たちに向かって、命令を下した。
近衛騎士隊長であるギャラックもそうだが、近衛騎士隊の多くは傭兵《ようへい》経験者である。兵士から実力を認められて昇格した者もいる。高貴な身分に生まれた者など一人もいないのだ。
ギャラックの命令を聞いて、物陰に身を潜ませていた騎士たちがぞろぞろと姿を現す。そして、待ち伏せの解除と野営の準備のため、それぞれの作業を始めた。
近衛騎士たちの真新しい鎧《よろい》が、夕陽《ゆうひ》を反射してきらきらと煌《きら》めく。美しい光景ではあったが、目的を達成できなかったという徒労感は拭《ぬぐ》い得ない。
ギャラックは唇を噛《か》みながら、作業の様子を見つめていた。
そのとき、彼の遥《はる》か上空でも、その作業を見つめる鋭い視線があった。人間の数倍の視力を持つ鷲《わし》の目ならばこそ、それが可能なのであった。そして、ギャラックはもちろんそのことに気づいてはいなかったのである。
「とうとう現れなかったの」
鎧《よろい》に付いた砂埃《すなぼこり》を払いながら、戦《いくさ》の神マイリーに仕えるドワーフ族の司祭はつぶやいた。
「わたしとしてはほっとしてますが、ギャラック隊長は悔しがっているでしょうね」
宮廷魔術師のアルド・ノーバが苦笑を浮かべながら、グリーバスに答えた。
「だろうの」
崖《がけ》の上を見上げて、グリーバスが言う。
そのとき、空から黒い点のようなものが降りてくるのが目に入った。
「あれは、何かの?」
グリーバスは目を凝らし、その正体を見極《みきわ》めようとした。
その黒点は急速に大きくなっている。それを見て、
「近衛《このえ》騎士たちに作業を中断させろ!」
グリーバスはアルド・ノーバに警告を発した。はっきりと正体が分かったわけではない。だが、彼の直感が危険を告げたのだ。
そして、アルド・ノーバも彼の言葉に疑いを持たなかった。作業を中断し、警戒しろと近衛騎士たちに命令する。
「何事だ?」
崖の上からギャラックが声をかけてきた。
そのあいだに、グリーバスは、上空から舞い降りてくるものの正体を見極めた。
「魔獣だ! 襲《おそ》ってくるぞ!!」
グリーバスはどっしりと大地を踏みしめて、鉾槍《ハルバード》を構えた。
「魔獣め!」
その声を聞いて、ギャラックは舌打ちをした。
襲ってきたのは、彼の望むところである。だが、状況が悪かった。待ち伏せしていた先刻までの布陣とは違い、今は徹収《てっしゅう》のための作業にとりかかっており、隊列も何もあったものではない。騎士たちは飛び道具も持っておらず、剣を抜くのがやっとであった。
「わたしも降りるわね!」
ライナがギャラックに声をかけ、愛用の鞭《むち》を持って崖を滑り降りてゆく。
「馬鹿《ばか》、おまえが行ったって!」
ギャラックは焦《あせ》りを覚え、自分も崖を降りるべきか、網を持ってこのまま待機するか、一瞬、迷った。そして迷ったすえに、どちらが自分らしいかで結論を下した。
もちろん、剣を抜いて崖を駆け降りたのである。
ライナはうまく降り立ったのだが、ギャラックはそううまくはゆかなかった。崖の途中で前のめりになり、そのまま崖を転がり落ちるはめになる。
「何、やってんのよ!」
ライナの叱咤《しった》の声が飛ぶ。
「魔獣は!」
ギャラックが立ち上がって、前を見たときだった。
甲高い鳴き声が聞こえたと思うと、近衛騎士の一人に向かって急降下で襲《おそ》いかかった。
その騎士は魔獣の攻撃にも怯《ひる》むことはなく、迎え撃とうと剣を突きだした。だが、魔獣はその攻撃を鷲《わし》の鉤爪《かぎづめ》で払いのけ、そのまま騎士の両肩をがっしりと掴《つか》んだ。
金属が軋《きし》んだ音をあげ、頑丈な肩当てが見る見るひしゃげてゆく。そしてグリフォンは騎士を持ち上げようとするかのように、激しく翼を羽ばたかせた。突風が起こり、砂埃《すなぼこり》が舞い上がる。同僚を助けんと近づいていた近衛騎士たちは、その砂嵐《すなあらし》に阻まれ動きが止まる。
そのあいだに、グリフォンに襲われた騎士の身体《からだ》は、地上を離れ、空に持ち上げられていた。
近衛騎士は必死になってもがき、剣を振るうが、グリフォンの羽毛を数枚、散らしただけで深手を与えているようにはとても見えない。
「誰でもいい! 飛び道具を使え!!」
ギャラックは叫んだが、近衛騎士たちは狼狽《ろうばい》しきっており、その命令に従うどころではなかった。腹を立てた彼は、近くにいた近衛騎士たちの尻《しり》を蹴《け》り上げてゆき、飛び道具を取ってこいと怒鳴りつけた。
「わ、分かりました」
尻を蹴られた騎士たちは、さすがに我に帰り、それぞれが待機していた場所に飛び道具を取りに戻る。
今や魔獣に襲われた騎士の身体は、完全に空中に持ち上げられていた。しかし、そのとき、肩当ての革紐《かわひも》がぶつりと切れ、騎士は地面へと落下した。かなりの高さ持ち上がっていたので、騎士は地面に叩《たた》きつけられ、激しい苦痛に呻《うめ》き声を洩《も》らす。
「大丈夫か?」
ギャラックは哀れな部下の側《そば》に寄り、声をかける。
「何とか……」
戦えます、とその騎士は答えたが、ギャラックはそのまま休んでいろと命令し、空に浮かぶ魔獣を振り仰《あお》いだ。
グリフォンは騎士を落とした反動で、更に高く空中に浮き上がっていた。そして、そのまま高度を上げる。その爪には、近衛騎士の肩当てがしっかりと楓まれている。
「そうか、鎧《よろい》を……」
そのとき、アルド・ノーバがはっとしたように声を上げた。
「鎧が何だって?」
ギャラックが歯がみをしがなら、アルドを振り返った。
「あの魔獣には光物を収集する習性があったんです。鎧《よろい》が夕陽《ゆうひ》に煌《きら》めいていたのを見て、襲《おそ》いかかってきたのでしょう」
「今頃《いまごろ》、そんなこと言われてもな……」
ギャラックは渋い顔になる。
「す、すいません」
「謝っている暇があったら、魔法で何とかしてくださいや」
ギャラックは言って、魔獣を見上げた。
魔獣は飛び去ろうか、襲いかかろうか迷っている様子で、上空を旋回していた。
そのとき、ギャラックの頭のなかでひとつの考えが閃《ひら》めいて、もう一度、アルド・ノーバを振り返った。
「明かりの魔法を、オレの鎧の背中にかけてくれませんか?」
「もしかして、囮《おとり》になるつもりですか?」
アルド・ノーバはギャラックの意図を悟って、狼狽《うろた》えたように言った。
「魔獣に逃げられたら、オレの面目が立たないんでさ」
「本人がああ言ってるんだもの、かまわないから、かけてあげて」
ギャラックたちの会話を側《そば》で見守っていたライナが、軽い口調でアルド・ノーバに言った。
「わ、分かりました」
アルド・ノーバはうなずくと、魔術師の杖《つえ》を振り上げ、古代語魔法の呪文《じゅもん》を唱えた。
呪文はすぐに完成し、ギャラックの鎧《よろい》の背中に魔法の明かりが灯《とも》る。
「おまえたちは、いったん下がれ。魔獣がオレを狙《ねら》ってきたら、含図とともに飛び道具で攻撃しろ!」
ギャラックは配下の近衛騎士たちにそう命令した。
そして、その場で身体《からだ》を動かしたり、跳ねたりした。首からかけたマントが魔法の明かりをときおり隠し、光がまたたくように見える。
(無様《ぶざま》な格好だぜ)
ギャラックは自嘲《じちょう》した。
生き延びたら、ライナに何と言われることか。しかし、魔獣に逃げられないのなら、どんな恥をかこうとも平気だった。このままでは、スパークに会わせる顔がない。
その願いが通じたのかどうか、魔獣はギャラックに向かって急降下してきた。鉤爪《かぎづめ》を大きく開き、獲物に掴《つか》みかからんとする。
その獲物は右手に剣を持ったまま、左手を肩のあたりに持っていっている。両眼は魔獣を見据えたまま、瞬《まばた》きひとつしない。
そして、魔獣の爪《つめ》がギャラックを捕らえんとしたとき、ギャラックは左手を払い、マントをひきちぎった。鎧が剥《む》きだしになり、遮るものがなくなった魔法の光が溢《あふ》れでる。
その輝きは、魔獣の視力を一瞬、奪った。だが、勢いのついた魔獣に、動きを止めようはずもなく、そのままギャラックに激突してゆく。
ライナはその瞬間を、表情ひとつ変えずに見つめていた。その隣にいたアルド・ノーバのほうは、顔から血の気が引いたというのにだ。
魔獣の爪は、しかし、ギャラックがひきちぎったマントを捕らえただけだった。魔獣はマントを掴んだまま、地面に着地した。
「今だ!」
ギャラックは地面を転がりながら、飛び道具を使うよう部下たちに号令した。
待ちかねていたように、街道の両端に身を潜めていた近衛騎士たちが一斉に立ち上がると、弩弓《クロスボウ》を撃った。
十数本の矢が魔獣に向かって飛び、そのほとんどが魔獣の身体に突き刺さった。
魔獣が悲鳴にも似た声を上げ、その場で荒れ狂ったように暴れる。
「剣を抜け!」
ギャラックが続いて号令をかける。
「魔獣を空へ逃がすな!」
ギャラックは立ち上がって、自らも魔獣に向かって斬《き》りかかってゆく。だが、それよりも早く、黒い影がひとつ、魔獣のもとに駆け寄っていた。
[#挿絵(img/N-Lodoss 1_203.jpg)入る]
ライナだった。彼女はいつでも動けるように、ギャラックと魔獣の動きから片時も目を離さなかった。それゆえ、誰《だれ》よりも早く行動できたのである。
彼女が振るった鞭《むち》は、狙《ねら》いどおり魔獣の後ろ足に巻き付いた。
「捕まえたわよ!」
彼女は全体重を後ろに傾け、鞭を引っ張る。その程度で魔獣を止められないことは承知していたが、動きを少しでも鈍らせればと思ったのだ。
「万物の根源、万能の力……」
その行動を見て、アルド・ノーバがひとつ呼吸を整えてから、魔術師の杖《つえ》を振り上げ、上位古代語《ハイエンシェント》を唱えはじめた。
「獲物を捕らえる蜘蛛《くも》の糸となれ!」
呪文《じゅもん》は完成し、グリフォンの全身を真っ白な糸が包みこんだ。
<|魔法の綱《ルーンロープ》> <|刃の網《プレードネット》> <|電光の束縛《ライトニングバインド》> などと同系に属する下級の呪文で <|粘性の糸《スティッキングストリング》> という魔法だ。粘り気のある魔法の糸で、相手を絡め取るのだ。アラニアにあった賢者の学院の最後の学長ラルカスが発見した遺失呪文である。アルド・ノーバは、この呪文を賢者の学院で魔術を学んだスレインから伝授を受けている。
彼の意図も、魔獣の動きを束縛するのではなく、鈍らせることにある。本当なら、魔法の綱の呪文をかけたいところなのだが、まだ未熟者ゆえそこまで高位の呪文は唱えられないのだ。
「戦の神よ、ここに勇者集い……」
グリーバスが戦神マイリーに仕える高位の司祭のみが唱える偉大なる奇跡 <|戦の歌《バトルソング》> の呪文を詠唱しはじめた。
この魔法は、聞く者の心に勇気と冷静さの双方を与え、最大限の実力を発揮させるのだ。
その援護を受け、近衛騎士たちが雄叫《おたけ》びをあげながら、荒れ狂うグリフォンへと剣を抜いて殺到していった。
そしてそのときには、ギャラックが魔獣を相手に激しい戦いを演じていたのである。
味方は大人数ということもあり、戦いはすぐに決着がつくと、ギャラックは思った。
だが、予想していたよりも遥《はる》かに、グリフォンの生命力は強靭《きょうじん》であり、鉤爪《かぎづめ》と嘴《くちばし》の攻撃も恐るべきものであった。
十人以上の騎士が代わる代わる斬《き》りかかっていったにもかかわらず、怪物を倒すまでにはかなりの時間を要した。そして近衛騎士たちも、無傷ではいられなかった。
一人が戦鎚のごとき魔獣の嘴で頭を砕かれて戦死し、五人が腕や足などに傷を受けた。
ギャラックも鉤爪で胸を蹴《け》られて、かなりの深手を負った。甲冑《かっちゅう》を着ていなければ、おそらく即死だったろう。だが、その攻撃と相打ちとなった攻撃が魔獣の喉《のど》を貫いて、致命傷を与えることができた。
魔獣はそれからも、しばらく抵抗を続けたが、さすがに動きが鈍りはじめ、近衛騎士たちが振るう刃《やいば》に全身を切り刻まれた。そして、ついに魔獣は倒れたのである。
目的を果たしたギャラックたちは、その場で野営の準備をはじめ、疲れた身体《からだ》を休めた。
そして、翌日の昼頃《ひるごろ》、魔鶏《コカトリス》の死体を運んで戻ってきたスパークと合流したのである。
スパークはただちに公都への帰還を宣言し、二体の魔獣の死体を荷馬車に載せて峠道を下っていった。
魔獣を見事、退治しての凱旋《がいせん》であっただけに、ウィンディスの街の住人たちは歓喜の声でスパークたちを出迎えた。
公国の騎士団と魔獣との戦いはまだ各地で続いていたが、公王自身の勝利は、それらの戦いも勝利に終わることを人々に予感させたのである。
だが、スパーク自身はまったく楽観していなかった。魔獣との、そしてその背後にいる者との真の戦いはこれからであることを、承知していたからだ。
そして、最終的な決着のために、スパークは密《ひそ》かにマーモを離れ、アラニアへと旅立ったのである……
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第W章 アラニアの魔獣使い[#「第W章 アラニアの魔獣使い」は見出し]
1[#「1」は見出し]
スパークは今、アラニアの大地を踏みしめている。
魔獣使いの女性魔術師エレーナに会うのが目的である。その女性に会えば、マーモ各地で魔獣が一斉に暴れだした理由が判明するかもしれない。協力を得られれば、問題の根本的な解決が期待できる。
そう思えばこそ、スパークは魔獣が暴れるマーモ公国を留守にしてまで、この歴史ある王国にやってきたのだ。
スパークの同行者は七人。
近衛《このえ》騎士隊長ギャラックとその夫人ライナ、宮廷魔術師アルド・ノーバとマイリー神殿の司祭グリーバス、公王の友人<梶[フとマーファ神殿の侍祭《じさい》ニース、そしてセシルという名の魔術師が、アラニアで合流している。
セシルは、アラニアの宮廷魔術師という立場の人物だ。
しかし、彼はフレイムの宮廷魔術師スレインの弟子《でし》で、若きアラニア王ロベスの信頼を受けているとは言い難い。セシルも国王に忠誠を尽くすつもりはないらしく、批判を言うのが自分の役割だと考えているようだ。
いつ暗殺されてもおかしくないと冗談めかして言ったほどで、スパークにもその危険は十分にあると思えた。
すなわち、セシルはアラニア王にとって、フレイムの監視役とも言うべき存在なのである。
そのことが、反対に彼の安全を保証してもいる。彼が変死するようなことがあれば、フレイムとアラニアの関係は間違いなく悪化する。英雄戦争以来、内戦続きだったため、アラニアの国力は今やどん底の状態にあるのだ。フレイムと戦うことにでもなれば、とうてい勝ち目はない。セシルはまた、スレインやパーンたちとともに、ザクソンを中心とするアラニア北部の村々の独立運動を指導していた人物でもあるので、彼の身にもしものことがあれば、怒ったその地方の民衆が、ふたたび独立に走る可能性もある。
それにしても、普通の神経の持ち主では耐えられないだろう。宮廷に出れば、周囲にいる人間は全員、敵であるも同然なのだ。
「……ここから先が、魔獣の森だ。土地の者は、滅多に近寄らない」
そのセシルが、無愛想な声で言った。
彼の言葉どおり、スパークたちの目の前には、深い森が広がっている。
セシルは、女性と間違われそうな容姿の持ち主であり、吟遊詩人もかくやというほど澄んだ声をしている。そういった特徴からは想像もできないような態度だが、ぞんざいに振る舞うのは、かえってそのためかもしれない。女性的に見られるのが、嫌いなのだ。
(扱いにくそうな人だ)
スパークはセシルという魔術師に対し、そんな印象を抱いている。
「この森のなかに、魔獣使いの女性がいるのね……」
鬱蒼《うっそう》と茂《しげ》る森の木々を見つめながら、ライナが薄気味悪そうに言った。
「言われてみると、不気味な感じがするわ……」
「断っておくが、エレーナさんは邪悪な人じゃない。彼女の悪口を言うのは、このオレが許さないからな」
セシルが力んだ声で言う。
「わたしは森の雰囲気を言っただけよ」
ライナが不満そうに言い返した。
「大人《おとな》しくしていろ。オレたちは余所者《よそもの》で、しかも王と名のつく人とその従者なんだ。本来なら、こんな場所に来ちゃいけないんだ。この人がいてくれるからこそ、アラニアの騎士や兵士と出会っても心配いらないんだからな」
ギャラックが、あわててライナの肘《ひじ》を掴《つか》んで言った。
もっとも、彼も本心ではアラニアの宮廷魔術師が同行していることを、歓迎してはいない。この事実を公にされたら、マーモ公国の立場は悪くなると思うからだ。
しかし、普通に旅をしているだけでも、自分たちが目立つことは承知している。
もしも、アラニアの騎士、兵士に咎《とが》められ、騒動になっていたら、それこそ大問題に発展していただろう。
そういう配慮《はいりょ》もあって、スレインはセシルに話をつけたのだと思う。
そもそも、公王という立場にある人間が、他国を訪れるということが間違っているのだ。しかも、その国の住人を招聘《しょうへい》しようとしているのである。
ギャラックは猛反対したのだが、予想どおり、スパークを説得することはできなかった。
「心配しなくていい。ロベス王は魔獣使いのような危険な人間には、国内にいてほしいとは思ってもいない。連れ帰ってもらえたと知ったら、大喜びするだろう」
まるでギャラックの心を見透かしたように、セシルが声をかけた。
ギャラックはぎくりとなって、言葉を失った。
その態度から油断していたのだが、案外、油断のならない人物のようだ。そうでなければ、アラニアの宮廷魔術師など務まらないのだろう。アラニアの貴族たちは、戦いよりも陰謀に長《た》けていると噂《うわさ》されている。
「マーモ帝国は以前、その女性魔術師を誘拐《ゆうかい》しようとしたのですよね」
言葉を失ったギャラックに代わって、アルド・ノーバが彼にとっては兄弟子《あにでし》にあたるアラニアの宮廷魔術師に訊《たず》ねた。
「そうだ。暗黒の島に棲《す》む魔獣を操り、軍団に加えようとしたんだ。スレイン師や自由騎士パーンが阻止していなければ、マーモ帝国との戦いはもっと厳しいものになっていただろう」
誇らしげに、セシルは答える。
「確かに、その計画が成功していたら、その結果は恐ろしいものだったでしょうね」
アルド・ノーバが青ざめた顔をしてうなずいた。
魔獣がどれほど恐ろしい相手かは、鷲頭獅子《グリフォン》との戦いで嫌というほど思い知らされている。そして、今でもマーモ各地で魔獣との戦いは続いているのだ。
「できれば、エレーナのことはそっとしておいてもらいたかった。スレイン師からの頼みでなければ案内など断っていたところだ。だいたい、マーモなどという危険な場所は、彼女には似合わない」
憮然《ぶぜん》たる表情で、セシルは言った。
しかし、初対面のときからそんな表情をしているから、今がどれほど機嫌が悪いのか、まるで分からない。
「さっきから聞いていると、エレーナって女性のことをまるで恋人か何かのように言うのね」
ライナが意味ありげな笑いを浮かべながら言った。
「そんなことはない!」
セシルは顔を真っ赤にして怒鳴りかえす。
分かりやすい反応だわと、ライナは思った。これでは初《うぶ》なスパークと、そう変わらない。
(恋人ではないけど、好意は抱いているわけね)
セシルはそれ以上、話を続ける気はないとばかり、ずんずんと森の奥に入っていった。
スパークたちは笑いを堪《こら》えながら、アラニアの宮廷魔術師の後に続いた。
森のなかをしばらく歩くと、小さな家が建っているのが目に入った。
「あそこがエレーナの家だ」
セシルが指で示しながら言った。
「魔獣の姿は見なかったわね」
ライナがつぶやく。
「魔獣たちの多くは、マーモ帝国の魔術師によって解放されたときに、わたしたちが倒している。残っているのは二、三体ほどだ。ほら、あそこに一体いるだろう」
そう答えて、セシルは家の軒下に指を向けなおした。
日陰になっていたので気付かなかったが、確かにそこには美しい斑《まだら》の毛色をした大型の猫のような獣が座っている。緑色に輝く二つの目が、こちらに注がれていた。
「大山猫《リュンクス》ですね。道理で、先程から何かに見られているような気がしました」
ニースが説明した。
「あの幻獣には、優れた透視能力があるのです」
「それは、優れた番犬になるな」
スパークは答えた。
間の抜けた感想だったが、他に言うべき言葉が思いつかなかったのだ。だいたい猫を番犬に例えるのもどうかと思う。
「向こうは、オレたちが来たことに気付いているわけだ」
いかにも付け足したように、スパークは続ける。
「そうだと思います。セシル兄様がいなかったら、警戒されていたかもしれませんね」
それもスレインがセシルに話をつけた理由のひとつでもあるのだろう、とスパークは思った。
しかし、魔獣がいることで、エレーナが在宅である可能性は高くなった。
「襲《おそ》いかかってきたりはしないでしょうね?」
リーフは不安そうにつぶやくと、隠れるようにスパークの背後に回る。
「リュンクスは滅多なことでは人を襲いません。むしろ人間のほうが、あの幻獣を狩りたいと思っているでしょう」
リーフの問いに答えたのは、ニースだった。
「どうしてよ?」
面白くなさそうに、リーフは訊《たず》ねかえす。
「リュンクスはその体内に、リグニア石なる物を持っています。その琥珀《こはく》色の石は、精神の病によく効く薬の材料となります。一個、手に入れただけで、一年は遊んで碁らせるほどの銀貨と交換できるのだそうです」
「また薬なの?」
リーフはつい顔をしかめた。最近、どうも薬に関係した話を聞くことが多い。
「補まえて飼育できたら、マーモ公国の財源になるかもね」
「相手は魔獣だぞ。飼育などできるものか」
スパークは振り返って、リーフに答えた。真面目《まじめ》そのものの顔をしている。
「もしかして、本気で考えたの?」
リーフが一瞬、呆《あさ》れた顔をして、それからお腹《なか》を抱えて笑いだす。
「本気で考えて何が悪い。オレは当分のあいだ、ロードスでもっとも貪欲《どんよく》な商人になるつもりでいるんだ」
「悪徳商人って呼ばれないようにね」
リーフが笑いながら答えた。
「いつまでも遊んでないで、エレーナさんを呼んでくださいや。オレたちは、そのためにここに来たんですぜ」
先頭を行くギャラックが、スパークたちを振り返って、不機嫌に声をかけてきた。
同感だというように、アラニアの宮廷魔術師も冷たい視線を投げてきている。
「見ろ。おまえのせいで、ギャラックに叱《しか》られたじゃないか」
スパークはリーフに文句を言ってから、ギャラックたちのところに歩いた。
「あたしのせいなの?」
リーフは自分の顔に指を向けて、不満そうに言う。
スパークはその声を背中で聞いたが、無視しておくことにした。
何かを言えば、言い返しがくるに決まっているのだ。
スパークは、ギャラックたちを追い抜いて、家の方に向かって歩いていった。
そして、彼が主人の名を呼ぼうとしたとき、扉が開いて、一人の女性が姿を現した。
2[#「2」は見出し]
その女性は、裾《すそ》の長い純白の衣服《ドレス》に身を包んでいた。
長い金髪は緩《ゆる》やかに波打っており、澄んだ青い瞳《ひとみ》は知性的に輝いている。年齢は二十代なかばといったところ。表情には幾分、翳《かげ》りがあるものの、紅を差した唇には微笑が浮かんでいる。歓迎しているとまでは言えないにしても、突然の訪問を迷惑に感じている様子はなさそうだ。
「お待ちしていました」
穏やかな声で、彼女は呼びかけてきた。
セシルが深く頭を下げて、お久しぶりですと答える。
「狭い家ですが、どうぞなかへ……」
その言葉に従って、スパークたちは建物のなかへ入っていった。そして、それぞれに名乗りあってゆく。
金髪の女性は、エレーナに他ならなかった。
「マーモからお見えなのですか……」
マーモの名を聞いて、美しい弧を描く彼女の眉《まゆ》が僅《わず》かにひそめられた。
数年前の忌まわしい記憶が蘇《よみがえ》ったのだろう。
「マーモとは言っても、今はフレイム王国の属領です」
弁解するように、スパークが言う。
「噂《うわさ》には聞いておりました。マーモ帝国は滅んだのですね……」
エレーナの言葉には、安堵《あんど》の気持ちが感じられた。
「それで、マーモの公王陛下が、このわたくしに何用なのでしょうか?」
エレーナに問われて、スパークはマーモの現状を説明した。
魔獣が突然、現れ、暴れはじめたこと。このようなことはマーモの歴史を紐解《ひもと》いても、過去に一度もなかったこと……
「あなたが父君から伝えられたという魔獣支配の秘術が関係しているのではないかと思ったのです。無礼を承知でお訊《たず》ねいたしますが、そのような可能性は考えられませんでしょうか?」
「魔獣支配の秘術を記した古代書は、このロードスに、いえ、おそらくは世界に一冊、この家にしかありません」
これがそうですと言って、エレーナは革表紙の本を、テーブルの上に置いた。
「この古代書には厳重に封印がなされ、わたくし以外の人間には開くことさえできません。わたくし以上の魔力を持った魔術師なら封印を解くこともかないましょうが、一読したぐらいで、魔獣支配の秘術を習得することはできません。わたくしは生まれてすぐに訓練を受け、十五になってはじめて、最初の魔獣を支配することができたのです」
「マーモで魔獣が暴れだしたのは、魔獣支配の秘術とは関係ないということですか?」
「そう思っていただいて間違いありません。もう一冊、魔獣支配の古代書があり、誰《だれ》かがそれを解読したというのなら、話も違ってきましょうが……」
その可能性は低いでしょう、とエレーナは言った。
魔獣支配の秘術は、魔法文明で栄えた古代王国時代にも末期になって、ようやく発展した魔術なのだ。統合魔術《ウィザードリィ》という複数の系統魔術を統合発展させた成果なのである。それゆえ、研究された年数が短く、魔獣支配の秘術を研究した魔術師は、古代王国の時代でさえ何人もいなかったはずなのだ。だが、その魔術の効力は絶大で、十分な魔力さえあれば、最強の魔獣にして幻獣たる竜《ドラゴン》でさえ支配できる。ロードス太守《たいしゅ》が財宝を守らせた五色の竜も、この魔獣支配の秘術によって隷属させられたのだ。
「ドラゴンまで……」
エレーナの話を聞いて、スパークは思わず息を飲んだ。
フレイムの騎士団はたった一匹のドラゴン──シューティングスターと戦い、大敗したという苦い経験があるのだ。もっとも、その頃《ころ》、スパークは騎士見習いになったばかりで、その戦場には立っていない。
「ドラゴンを支配するためには、極《きわ》めて高い魔力が必要です。今のわたしでは、力不足です」
「このうえ、ドラゴンにまで暴れられたら、我が公国は大変なことになります。今でさえ、騎士を総動員して、魔獣退治に奔走しているのですから……」
スパークはそこで言葉を切ると、姿勢を正してから、エレーナを見つめた。
「そこで、お願いなのです。魔獣使いたるあなたに、我が公国へ来ていただきたいのです。御存じのように、マーモにはたくさんの魔獣が生息しています。その魔獣どもを抑えるには、あなたの力がぜひとも必要なのです」
「わたくしに魔獣たちを支配せよ、と……」
スパークの言葉に、エレーナの表情に苦悩の色が広がった。
「お願いいたします」
スパークは椅子《いす》から立ち上がって、深々と頭を下げる。
近衛《このえ》騎士隊長のギャラックと宮廷魔術師のアルド・ノーバの二人も、主君に倣《なら》った。
「何年か前にも、マーモの魔術師から同じことを言われました。マーモに来て、力を貸せと。わたしには、あのときと同じ返事しかできません」
「断ると仰《おっしゃ》られるのですか?」
エレーナの答えに、スパークは軽い衝撃を覚えた。
「マーモ公国は、かつての帝国とは違います。魔獣を支配して、戦《いくさ》に使おうとは考えておりません。魔獣と人間とが共存するために、あなたのお力を借りたいのです」
「仰られることは分かります。しかし、それは理想論でしかありません。魔獣は人間を殺し、喰《く》らいます。そして、大山猫《リュンクス》や一角獣《ユニコーン》のように、人間のほうが彼らを狩ろうとすることもあるのです。魔獣支配の秘術は異端の魔術であり、本来なら葬り去られるべきものです。わたしはこの秘術を知る最後の一人になるつもりです」
エレーナは哀《かな》しげな表情のまま、しかし、きっぱりと言った。
そこには、強い意志が感じられた。説得できるのだろうか、とスパークは不安になった。
実を言えば、断られるとは思ってもいなかったので、説得の言葉など用意してもいない。マーモ帝国の誘いを断ったのは、彼女の正義感ゆえであり、それゆえ民衆を救うためなら喜んで招聘《しょうへい》に応じてくれると思いこんでいたのである。
しかし、どうやら甘い考えだったと言わねばならないようだ。
「マーモから遥々《はるばる》、やってきたというのに、あんまりな答えだとは思いませんか? マーモの民は魔獣の出現に怯《おび》えている。犠牲者だってでている。それを、あんたは見捨てるというのか?」
ギャラックが興奮した声で、エレーナに詰め寄った。
「彼女に無礼を働くのは、このわたしが許さんぞ!」
それを見たセシルが、色めきたつ。
「いいのよ、セシル。この人がそう言うのは、もっともだもの……」
エレーナはアラニアの宮廷魔術師を見つめ、力無く微笑《ほほん》んだ。
「ですが、それはあなたがたにとっての事情でしかありません。魔獣に殺される人間は、マーモ以外の国にも大勢おります。わたくしには、そのすべてを救うことはできません。たとえば、あなたがたが力を尽くせば、救われる人間はマーモ以外の地にもいるのと同じです」
「国王はどこの国にもいる。地方領主の騎士、貴族だって代わりにはなれる。だが、あんたの代わりは、この世界に他にいないんだ。そして、魔獣の被害がいちばん大きい場所が、マーモをおいて他にどこにあるというんだ……」
「そこまでにしておけ」
次第に声が大きくなってきたギャラックを、スパークが制した。
「彼女の言っていることは、間違ってはいない。我々が彼女を招きたいのは、正義のためではなく、マーモ公国の利益のためだ。自由騎士ならざる我々には、公国の民を守ることしかできない。彼女も同じだ。守るべき者だけを守る義務しかない……」
人間は所詮《しょせん》、万能ではない。
たとえば、ニースが癒《いや》しの呪文《じゅもん》を使えば、大勢の病人を救うことができる。しかしそれでは、時間のほとんどを、病人の治療に割《さ》かれることになる。それでも、すべての病人を治せるわけではないのだ。
神聖魔法の使い手たる聖職者は、そのことを承知している。
神殿で癒しの呪文をかけてもらうためには、莫大《ばくだい》な寄進を必要とされるが、それは教団の運営のためばかりではなく、訪れてくる病人や怪我人《けがにん》を制限するためでもある。そこに、神に仕える者の矛盾、苦悩がある。
救うべき者は無数に存在し、救いうる人間には限界があるということ。
王と呼ばれる人間は、もっとも大勢の人間を救う義務があり、またそれだけの権力も与えられている。民衆が不幸になるのは、結局のところ王の失政というしかない。天災など不可避の災厄もあるが、その被害を最小限に抑えられるかどうかも王の手腕なのだ。
フレイム王カシューは、自分自身が賛沢《ぜいたく》をしたいから国を豊かにするのだと、冗談めかしてよく言っていた。民衆に聞かれたら誤解を受けるような発言だが、それが王としての正しい姿勢のように、今のスパークには思える。
もっとも、マーモの現状では、賛沢など許されるはずもない。生まれた頃《ころ》から豊かな生活とは無縁だったので、賛沢などしたいとは思わないが、それが許されるぐらいには、国を豊かにしたいとは思う。
そのためには、魔獣たちをすべて駆逐《くちく》するか、彼らと共存するしかないのである。魔獣支配の秘術は、是が非でも必要なのだ。
「もう少し、時間をかけて考えていただけないでしょうか? わたしには、今のあなたが幸せであるようには見えません。それはあなたが、誰からも必要とされていないと思っているからではないかという気がいたします。少なくとも、わたしたちは、あなたを必要としています。魔獣使いとしての、あなたの能力を。それだけは、御理解ください」
「心しておきます」
「今日のところは帰ります。また明日、来ますが、よろしいでしょうか?」
「かまいません。しかし、よい返事は期待しないでください」
スパークは無言でうなずくと、もう一度、立ち上がって、仲間たちに帰ろうと言った。
いったん、街道まで戻って、野宿するつもりだった。彼自身も、一晩かけてじっくり考えるつもりだった。
己の考えが、正しいのかどうか。どうすれば、彼女を説得できるかを……
そして、スパークたちは、エレーナの家を後にした。
もっとも、ただ一人、セシルだけは彼女に望まれて、その場に残ることになった。
森の外れで野営の準備を終え、スパークたちは焚火《たさび》を囲んで早めの夕食を取っていた。
明日に備えて、今夜は早々に休むつもりなのだ。
「オレの考えが、甘かったということだ……」
燃える薪《まき》から噴きあがる赤い炎を見つめながら、スパークが重い口を開いた。
「そんなことはない。あの女の頭が固いだけだ」
ギャラックがあわてて言った。
「気を遣ってくれなくていい。衝撃は受けたが、あきらめたわけじゃない。安易な気持ちでいたのを見透かされただけだと思う」
「すいません、オレが短気を超こして余計なことを言ったから……」
「ギャラックが短気を起こしてくれるから、オレが冷静でいられる。最近、それで助かることが多いんだ。おまえが言ってくれないと、オレが癇癪《かんしゃく》を起こしていたかもしれない」
「だいたい、二人とも気が短かすぎるのよ」
ライナが澄ました顔で言った。
「おまえもいい加減なもんだろう!」
ギャラックがむっとしたように右隣に座っている妻を睨《にら》みつけた。
「夫婦|喧嘩《げんか》は余所《よそ》でやってよね。見ているほうが恥ずかしくなるわ」
リーフがじとりとした視線を二人に向ける。
「羨《うらや》ましいの?」
ライナがリーフに微笑《ほほえ》みかけた。
そして、わざとらしく、ギャラックの腕にもたれかかってみせる。
予想外の反撃に、リーフは返す言葉を無くしてしまった。
このところどうも冴《さ》えていないわと、彼女は思った。言い負かされることが多くなった気がするのだ。
(スパークが悪いんだわ)
心のなかで、リーフはつぶやく。
最近のスパークは、何かに気を取られることが多いせいか、まともに相手をしてくれないのだ。調子が出ないのは、そのせいだと思う。
スパークを困らせていると気分よくなり、調子もでてくるのだ。
「とにかく、魔獣支配の秘術が今度の事件と関係ないことは明らかなようだ。それだけでも、収穫はあった」
スパークが自分自身に聞かせるように言った。
もっとも、そのことを確かめるだけなら、スパークがわざわざアラニアまで来ることはなかったのだ。彼女をマーモに迎えてこそ、ここにやってきた価値があるというものだ。
「あの人が、嘘《うそ》を言っていないならね」
ライナが辛辣《しんらつ》に言った。
実は、彼女もひどく腹を立てているのだ。スパークの言葉ではないが、ギャラックが文句を言ってなかったら、彼女のほうが言っていたかもしれない。
「嘘は言っていないように、わたしには見えました。昼間、スパークが言ったとおり、彼女の心には哀《かな》しみがあります。それはたぶん、数年前に起きた出来事とも関係しているでしょうし、もっと奥深いところにも理由があるように思えます」
ニースが遠慮《えんりょ》がちに意見を述べた。
「あなたが言うなら、間違いはないわね」
ライナは素直に応じた。
彼女自身、可能性を述べただけで、本気でそう思っていたわけではない。
「スレイン導師やセシル導師が、真実のすべてを教えてくれていないということですか?」
アルド・ノーバが疑問を口にした。
「言いにくいことだからでしょ。セシルとかいう魔術師の様子を見ていると、感情が絡んでいる気がするの……」
つまり、セシルはエレーナのことが好きなのよ、とライナは言った。
もっとも、エレーナのほうがあの魔術師をどう思っているかは、彼女にも分からない。
「他人の心には踏み込みたくないが、彼女をこのままにしておくのもどうかと思うな。若くて美しい女性が、悲しみに包まれているのを見過ごすのは騎士道にもとる。マーモに来れば、幸せになれると言うつもりはないけどな」
スパークが、腕組みをしながら言った。
「若くも、美しくもないなら、放っておいていいわけ?」
リーフが得意そうな顔になり、言葉を挟んできた。
「決まってるじゃねぇか」
答えは即座に返ってきた。
だが、それを言ったのはスパークではなく、ギャラックである。
「あなたはそうでも、スパークは公王様なのよ!」
「本音を言えば、男なら誰だってそう思うんじゃないか。だが、それがよくない考えだとも分かっている。だから、若くもなくて美しくもない女性にも、救いの手を差し伸べようという気が起こる。誰の心のなかにも、闇《やみ》の部分はあるものだからな。そのことに無自覚でいるほうが、危険だと思う。もちろん、最悪なのは闇を自覚してなお、それを意識的に行うことだがな。心に闇を持たないことが理想なんだろうが、残念だがオレはそこまでの人格者じゃない」
スパークは焚火《たきび》の炎をじっと見つめながら言った。
その言葉を隣で聞いていたニースが、静かに微笑《ほほえ》みうなずいた。
彼女にとって、それはある意味、救いの言葉であったから……
「スパークってば、最近、隙《すき》がなさすぎ。公王だからって、いきなりいい子にならないでよ」
理不尽な文句とは承知しつつ、リーフが喚《わめ》く。
そして、このままではあたしのほうが不幸じゃないのと、心のなかで続ける。
「それについてはリーフと同感でさ。あまり一人で結論を出さないで、オレたちにも手伝わせてください」
ギャラックが柄にもなく遠慮《えんりょ》しながら、スパークに言った。
「そうよ、欠点の多いところが、あなたの魅力なんだから。それでこそ、わたしたちが手伝おうって気も起きるの。一人で苦労を背負いこむつもりなら、わたしたちはマーモから出てゆくわよ」
欠点が多いという言葉には、さすがにスパークも憮然《ぶぜん》となった。
だが、言われてみれば確かに、最近、一人で考えこむことが多くなっている。さっきの言葉も、ほとんど無意識に口をついただけだが、普段から色々なことを考えていればこそ、出てきたものだろう。それが悪いこととは思わないが、もっと彼らと相談をして、自分が何を考えているのか、理解してもらうべきであったかもしれない。
「それにしても、欠点が多いことを誇っていいなんて、初めて聞いたな……」
しかも、オレは公王なんだぞ、とスパークは苦笑まじりに言った。
完全無欠であることを求められる立場ではなかろうか。
だが、それで彼らが自分を助けてくれるのなら、足りないところがあってもかまわないという気がした。彼らの助けがあればこそ、暗黒の島マーモの公王という大任を果たそうとの気力も起きる。
昼間にも思ったことだが、人間一人の力には所詮《しょせん》、限界があるものだ。
「しかし、おかげで覚悟が決まった。あの女性だって、一人ですべてを抱え込むことはない。明日、もう一度、彼女を説得してみよう。マーモのためだけではなく、彼女自身のためにも。偽善かもしれないが、そう思えばこそ、説得の言葉にも重みがでようというものだ」
決心がつくと、気分が楽になった。
そして、話題を変えて、スパークは仲間たちと談笑をはじめた。
現在も苦しいが、それ以上に苦しい状況を、彼らとは共にくぐり抜けてきたのだ。一人で深刻になる必要はまるでない。
その夜は、早く休むつもりだったのだが、会話が思いのほか盛り上がって、結局、スパークたちは夜半頃《やばんごろ》まで眠りにつくことはなかった。
3[#「3」は見出し]
夜が明けて、スパークたちは野営の後始末を済ませると、エレーナの家へと向かった。
森のなかの家に到着すると、昨日と同じく、最初に彼らを出迎えたのは大山猫《リュンクス》だった。そして、アラニアの宮廷魔術師のセシルが、庭で力仕事をしていた。
「昨日は、お楽しみだったの?」
ライナがにやにやと笑いながら、セシルにそう囁《ささや》きかけた。
「そんなんじゃない!」
無愛想な言葉が返ってきたが、その声には心なしか元気が感じられない。
(うまくゆかなかったのかしら?)
おそらく、そういうことなのだろう。ライナから見ても、セシルは女性に対して不器用そうだし、エレーナもたぶん同じようなものだ。
二十をとっくに過ぎているというのに、これだから魔術師はと思う。
アルド・ノーバも、女性に対してほとんど関心がなさそうに見える。美しい夫人と可愛《かわい》い娘がいるフレイムの宮廷魔術師を見習えばいいのにと、ライナは思った。
そのとき、彼女の視界の隅の方で、小さな二つの墓標が立っているのが目に入った。
誘われるように、ライナは墓標の方に近づいてゆく。ひとつにはグージェルミン、もうひとつにはランディスという名前が刻まれている。
グージェルミンというのが、エレーナの父親の名前であることは、ライナも知っていた。
(だったら、もうひとつは?)
素朴な疑問が浮かんだ。
父親と並べて埋葬するような相手が、こんな辺境の森で暮らしているエレーナにいたとは思えないのだ。
「この辺に、訳がありそうね……」
そのとき、ギャラックが彼女を呼ぶ声がして、ライナは仲間たちのところへ戻った。
魔獣使いのエレーナが姿を現して、家のなかに招かれたのである。
昨日と同様、居間に置かれたテーブルを囲むように、彼らは座った。
「お考えは変わりませんか?」
椅子《いす》に腰を落ち着け、しばらく間を置いてから、スパークは切りだした。
エレーナはうなだれたような姿勢のまま、消え入るような声で、はいと答える。
「昨日も言いましたが、今のままの暮らしがあなたにとって、幸せであるようには見えないのです。父君から魔獣使いとなるために育てられ、そしてその能力を自分もろとも葬り去るような一生を送ろうとされている。それでは、あなたの人生に、どんな意味があるというのです」
[#挿絵(img/N-Lodoss 1_231.jpg)入る]
スパークはエレーナの顔を、真っ直《す》ぐに見つめて言った。
(いい顔をしておる)
そんなスパークの横顔を見て、グリーバスが満足そうにうなずいた。
この若者は期待どおりの、いや、もしかしたらそれ以上の勇者へと目覚めつつあるのかもしれない。ライナたちが言ったように、今はまだ完全無欠ではない。だが、いくつもの欠点を補ってあまりある魅力を感じさせる。
闇《やみ》に閉ざされた暗黒の島にあって、この若き公王は、確かな未来像を見出《みいだ》しつつある。
そんな彼を静かに見つめているマーファの侍祭に、グリーバスは視線を移した。
不思議な少女であった。非の打ち所もないほど完壁《かんぺき》に振る舞っているようにも見えるが、それが時に、非常に脆《もろ》い細工物でしかないように思えることもある。
彼ら二人に、これからどんな運命が待っているのか、無論、分からない。だが、それが平坦《へいたん》なものではないということは間違いない。二人を見守り、たとえ僅《わず》かでも彼らの力になることが、グリーバスの信仰の証《あかし》になるはずであった。
グリーバスがそんな思いを抱いているあいだ、部屋のなかには、沈黙が流れていた。
エレーナはまるで何かを耐えるように、じっと顔を伏せている。
スパークはそんな彼女を見つめたまま、一言も発しない。説得の言菓をただ並べるのではなく、彼女のことを理解するのが大切だと思い定めているようだ。
「……あなたは昨日、わたしを必要としていると仰《おっしゃ》いましたね」
長い沈黙を破って、ようやくエレーナが口を開いた。
「言いました。その言葉に、嘘《うそ》はありません」
スパークは、力強く答えた。
「あなたには分からないのです。魔獣支配の秘術とは、呪《のろ》いに他なりません。邪悪な魔獣どもを呪いによって服従させる。いえ、魔獣ばかりではありません。この秘術を記した古代書を見つけたばかりに、父もわたしも、そしてランディスまで呪縛《じゅばく》されてしまった……」
その目に涙を滲《にじ》ませながら、エレーナは言った。
「ランディス……、庭に立っていた墓標に、その名が刻んでありましたね?」
ライナが穏やかな声で、彼女に訊《たず》ねた。
「ええ、賢者の学院時代からの父の弟子《でし》で、父が学院から追放されたときに、ただ一人、父に従いました。わたしにとっては兄のような存在であり、そして……」
「愛して……いらしたのね?」
「ええ、愛していました。彼もまた、わたしのことを愛してくれました」
「そのランディスという人とのあいだに、何かがあったのですか? 差し支《つか》えなければ教えてください」
スパークが遠慮《えんりよ》しながらも問う。
「お話しいたしましょう……」
エレーナはうなずき、そして静かに語りはじめた。
魔獣支配の秘術をめぐる過去の物語を……
賢者の学院の高位の導師であったグージェルミンが、魔獣支配の秘術を記した古代書を発見したのは、ルノアナ湖畔《こはん》に数多く残る古代王国の遺跡のひとつであった。
彼は学院にその古代書を持ち帰り、解読にあたった。
だが、その当時、賢者の学院の学長であったラルカスは、この秘術を危険だと判断したのである。グージェルミンとラルカスは、魔獣支配の秘術を禁断のものとするかどうか何度も話しあった。
二人の意見は結局、物別れに終わり、グージェルミンは学院を追放同然に辞めることになった。そして、後に魔獣の森と呼ばれるようになるこの場所で、古代書の解読を続けたのである。
グージェルミンに従った弟子《でし》は、ランディスただ一人。そして、まだ幼かった一人娘のエレーナが二人と一緒に暮らした。
やがて、秘術の解読は進み、本物の魔獣を支配することにも成功する。森にはロードス各地で捕まえられた魔獣が集められ、人々は誰《だれ》も近寄らなくなった。
ランディスの態度が徐々に変わりはじめたのは、この頃《ころ》からであった。魔獣が増えるに従って、彼のなかに野心が芽生えたのだ。それはまだ若いランディスにとって、ある意味、抑えようのない欲望であったかもしれない。
しかし、グージェルミンには、若者の野心は危険に思えた。そして、彼を森から追いだしてしまったのだ。
もちろん導師は、その頃、思春期を迎えていた娘が、若者と恋に落ちていたことなど知る由《よし》もなかった。もっとも、たとえ知っていたとしても、決意を変えることはなかっただろう。魔獣支配の秘術が、使いようによっては恐るべき破壊の力になりうることを、導師はよく心得ていたからである。そして、この秘術が悪用されるのは、命に代えても阻止するつもりであった。それが、彼の親友でもあるラルカスとの暗黙の約束でもあったのだろう。
ランディスはエレーナに、一緒に森を出ようと誘った。だが、彼女には年老いた父親を見捨てることなどできるはずもなかった……
かくして、魔獣使いの秘術はエレーナ一人に伝えられることになった。
数年後に、グージェルミン導師はこの世を去り、エレーナは父が集めてきた魔獣たちとともに、この森に残された。
それから、更に何年かが過ぎたとき、マーモ帝国の宮廷魔術師団の一員となったランディスがエレーナのもとを訪ねてきた。
そして彼女に結婚を申し込み、マーモへと誘ったのである。
「あのとき、ランディスへのわたしの想《おも》いは変わってはいませんでした。しかし、彼は変わっていました。マーモに行って、心が闇《やみ》に染まったのかもしれません。彼が欲しかったのは、わたしではなく、魔獣支配の秘術だけのように思えました……」
だから、エレーナは、ランディスの誘いを断った。
この森で魔獣たちとともに暮らし続けると言ったのである。
ランディスはしかし、あきらめなかった。
森の魔獣どもを解放し、周辺の集落を襲《おそ》わせたのである。彼女をアラニアからいられなくして、強引に連れだそうとしたのだ。
「 <命令解除《ディスペルオーダー》> の呪文《じゅもん》を使ったのですね」
アルド・ノーバが驚いたように言った。
その呪文は、魔法的な支配を受けているものを、その強制力から解放する呪文である。極《きわ》めて高度な呪文で、彼にはまだ唱えることもできない。しかも、魔獣にかけられた支配の魔法に打ち勝つためには、魔獣を支配している術者を凌駕《りょうが》する魔力が要求される。
「黒の導師バグナードは自身、優秀な魔術師であっただけでなく、魔術の導師としても一流なのでしょうね。彼の門下生には、優秀な魔術師が大勢います。わたしなど、及びもつかない実力の持ち主が……」
「おまえも北の賢者スレインの門下生だろう? もっと誇りを持て」
弱気なアルド・ノーバの発言を聞いたセシルが叱咤《しった》した。
もっとも、彼とても命令解除のような高位の呪文が唱えられるわけではない。だが、それは修行を続けることで解消される問題だと思っている。
「努力いたします」
アルド・ノーバは兄弟子に向かって、額に汗をかきながら頭を下げた。
「それから先の話は、わたしがしよう」
そしてセシルは、エレーナから話を受け取った。
「ちょうどその頃《ころ》、わたしたちはこの森の近くの村にやってきていたんだ。その当時、スレイン導師が進めていたアラニアからの独立運動に参加するよう呼びかけるためだ……」
その村に、解放された魔獣どもが襲いかかってきた。
自由騎士パーンが先頭に立って戦い、これを追い返した。
そして、魔獣たちが棲息《せいそく》していたこの森にやってきて、ランディスとエレーナとの対決の場に遭遇したというわけだ。
ランディスは呪文を使って、エレーナを誘拐《ゆうかい》しようとした。
エレーナは彼の魔力に屈し、意識を失った。だが、そこへ支配の魔法から解放された一体の魔獣が襲いかかってきたのである。
危機一髪というところで、ランディスは意識のないエレーナを庇《かば》い、魔獣の前に立ちはだかった。攻撃呪文を使って、魔獣を倒そうとしたのだ。だが、強靭《きょうじん》な生命力を持ったその魔獣は、重傷を負ったものの倒れることなく、鋭い爪《つめ》でランディスを引き裂いたのである。
そうして、ランディスは命を落とした。
「その魔獣にとどめをさしたのは、わたしだ。そして、これが事件の一部始終だ……」
二人からの話を聞き終わって、スパークは思わず溜息《ためいき》をついた。
そして、隣の席にいるニースと顔を見合わせる。やるせない話だという気がした。人間の心の複雑さが、すべて物語られているように思える。
ランディスが最後に取った行動は、エレーナを愛していたゆえなのか、それとも魔獣支配の秘術を守るためのものであったのか。おそらく、彼の心のなかには、そのふたつの気持ちが共に存在していたのだろう。突然の事態に、ふたつの思いがひとつになって、彼を突き動かしたのではなかろうか。
「魔獣も邪悪、魔獣支配の秘術も邪悪、そして、それを使うわたしもまた……」
エレーナはぽつりと言い、顔を伏せたままゆっくりと首を横に振った。
「あなたは邪悪な人なんかではない。それは、わたしが知っています!」
セシルがあわてて言った。
「魔獣支配の秘術が、それほどにあなたを苦しめるなら、そんなものは捨て去ればいいんです。そうすれば、あなたは普通の女性に戻れるんだ。アラニアを追われる心配もないし、マーモになどゆかずとも済む!」
セシルの言葉は、スパークの望みとは正反対のものだったが、反論しようという気にはなれなかった。
エレーナには魔獣使いであることを、やめる権利がある。もしも彼女がそれを望むなら、引き下がるしかないとも思う。もっともそれで彼女が幸せになるのならだが……
「アラニア国王は、わたくしを追放したがっているのですね?」
エレーナがふと顔を上げ、セシルを見つめた。
彼女の視線を受けて、今度はセシルのほうがうなだれる。
「数年前の事件が人々の記憶にはまだ残っているのです。アラニアの混乱が収まりつつある今、人々の心を新王に呼び戻すためにも、魔獣の森とその女主人は浄化せねばならない。そんな意見が貴族たちのあいだで討議されています。自由騎士の武勲のひとつを、消し去るために出された意見でしょうが、わたしにも反対する理由がありません。このままなら、あなたは……」
「そのときには、出てゆくしかありませんね……」
「どうしてなのです?」
セシルの声はほとんど悲鳴に近かった。
「わたしにはあなたの気持ちが分かりません。呪《のろ》われ続ける必要が、不幸であり続ける必要がいったいどこにあるのです。グージェルミン導師は亡くなられた。あなたが愛したマーモの魔術師も。ですが、あなたは生きているではありませんか? 生きている人間は、変わることができるんです。だから、わたしは待った。あなたの気持ちが変わるのを……」
「分かっていないのは、あなたよ……」
エレーナは寂しく微笑《ほほえ》みながら、上気して赤くなっているセシルの頬《ほお》に優しく手をかけた。
「わたしは幼い頃から、魔獣支配の秘術を教えられてきたのよ。そして、魔獣たちと暮らしてきた。それを捨て去るのは、わたしがわたしでなくなるのも同じ。昨日も言ったでしょう。呪《のろ》われているのは魔獣だけではなく、父様やランディスだけでもなく、わたしもそうだって……」
「変わる必要なんかありませんぜ。マーモに来れば、すべてが解決するんだ。このままでは、あんたは追放どころか、殺されるかもしれない」
二人の会話を聞いていて、もはや我慢できないというように、ギャラックが言った。
「それが運命ならば、受け入れましょう。呪われた身には、それこそが相応《ふさわ》しいのかもしれないから。あなたがたの誘いに応じてマーモに行けば、魔獣支配の呪いは永遠に続くことになります。それでは、不幸になる人間が増えるだけなのです!」
エレーナは激しく言うと、大粒の涙を流しはじめた。彼女のなかで溜《た》まっていた様々な感情が溢《あふ》れだしたかのようであった。
「ならば、その不幸、わたしたちにも分かちあわせていただけないでしょうか……」
エレーナの言葉をしっかりと心に受け止めてから、スパークは静かに言った。
「あなたが呪われた身だと言うのなら、マーモもまたロードスに残された最後の呪われた場所。大勢の人々にとって、不幸こそが日常で、幸福などは夢物語でしかありません。わたし自身、ここにいるハーフエルフの少女に不幸、不幸と言われています。最近では開き直って、不幸王と名乗ろうかと思っているぐらいです」
「ふざけないでください。わたしは言葉遊びをしているのではありません。あなたは公王なのでしょう。あなたの民を不幸なままにしておくつもりなのですか?」
「そんなつもりはありません。わたしはマーモの公王になったとき、マーモ島を覆《おお》っている闇《やみ》を残らず消し去ろうと意気込んでいました。本国フレイムのような、強くて豊かな国にしたいと……。理想としては、今でもその気持ちはあります。しかし、マーモの闇は深く、いくら光を当てようと消えそうにもありません。ならばいっそのこと、その闇を認めてしまってはどうかと、最近では思うようになっています。しかし、闇に飲み込まれてしまっては、かつての帝国と同じになってしまう。それゆえ、わたしは闇の存在を認めながらも、それに飲み込まれない方法を探し求めています。闇の本質を見きわめれば、それも可能なはず。光と闇は互いを打ち消しあうこともありますが、お互いを際《きわ》だたせることもあります。昨日も言いましたが、わたしは魔獣を駆逐《くちく》するために、あなたを招くのではありません。この邪悪な生き物と共存するためにこそ、魔獣支配の秘術が必要なのです。それが邪悪な力だというなら、その邪悪さも共に受け入れましょう。それが呪いであるなら、共に呪われましょう……」
スパークは一気に語り、そこで思いだしたように息を継いだ。
「どうか、マーモに来てください。そして、魔獣支配の秘術の力を、わたしたちに貸してください。マーモ公王の名において、アラニアの宮廷魔術師殿の立ち会いのもと、わたしは約束いたします。魔獣支配の秘術は、マーモの人民とあなた自身の笑顔のためだけに使われるべきであると。もしも、わたしがこの約束を反故《ほご》にしたならば、アラニアのみならずロードスのすべての王国に対し、宣戦を布告したものと思ってください」
マーモの闇《やみ》は消えることはない。だからこそ、マーモは光と闇が共存する島として、マーモなりの発展をさせるしかない。しかし、それがロードス本島にまで及んではならないのだ。
スパークはそんな決意を今、胸に抱いた。
「笑顔のため……、マーモの人々とわたし自身の……」
スパークの言葉を噛《か》みしめるように、エレーナはそう繰り返した。
「できますでしょうか? このわたしに?」
「マーモという暗黒の島の公王に、わたしは喜んで即位いたしました。様々に苦労もしていますが、まだ笑うことができます。不幸かどうかは、他の誰でもなく当人が決めることだと思います。たとえば、わたしのことを不幸呼ばわりするこの少女は、大切な友人の一人です。よくわたしを怒らせますが、笑わせてもくれます」
スパークの言葉を聞いて、リーフが椅子《いす》の上でもぞもぞと動いた。そして、ばつが悪そうに、そっぽを向く。
「あなたは、お強いのですね……」
エレーナは涙で霞《かす》んだ目で、スパークを見つめた。
そして、頬《ほお》を伝う涙を指で拭《ぬぐ》う。
「その強さを、わたくしも見習わさせていただきます。マーモへ参りましょう。呪《のろ》われた秘術が、人々に笑顔を与えられるのなら。わたくしが笑うことができるなら……」
スパークはテーブルに額がつきそうなまでに、深く頭を下げた。そして彼女の決断に、感謝の言葉を述べる。
嬉《うれ》しかった。しかし、その嬉しさはエレーナを説得し、マーモに招くことができたからではない。過去の呪縛《じゅばく》を断ち切って、彼女が未来への一歩を踏み出したからこそ嬉しいのだ。
そして、マーモにとっても、それは大きな一歩であった。
エレーナが荷物をまとめるのをスパークたちは全員で手伝い、その日の夕刻には彼女の旅立ちの準備は整った。
もっとも、荷物と言っても、着替えと貴重な古代書ぐらいで、ギャラック一人でも持てるほどだった。最後まで残っていた魔獣はそれぞれの住処《すみか》に戻るよう最後の命令をくだした。住処に帰りついた途端、支配の魔法は解除されるはずであった。
そして、エレーナはスパークたちと共に魔獣の森を後にした。
マーモへの旅は、アラニア東部の港街ビルニまでが陸路で、そこからは沿岸航路を使っての海路となる。来るときに使った方法を、そのまま逆に辿《たど》るのだ。
アラニアの宮廷魔術師セシルは、ビルニの街まで同行してくれた。もっとも、スパークたちが去るのを見届ける義務もあるからだろう。
マーモの公王たるスパークの旅は、それがどのような用件であっても、私的なものとはなりえない。次にアラニアへ来るのは、公式な訪問ということになるだろう。
「行ってしまわれるのですね……」
船着き場の桟橋で、セシルはエレーナと、最後の別れを借しんでいた。
「ありがとう、セシル。そして、ごめんなさい」
セシルに軽く抱きついて、エレーナは涙声で言った。
「謝らないでください。わたしの一方的な想《おも》いでしかないのですから……」
セシルがそう言ったにもかかわらず、エレーナはもう一度、ごめんなさいと謝罪の言葉を繰り返した。
「今はまだ、あなたの気持ちに応《こた》えられない。でも、マーモへ行き、魔獣支配の秘術と本気で向き合えば、わたしは変われると思います」
「その日が、一日も早く来ることを祈っていますよ」
「さよなら、優しいセシル。また、お会いできるといいわね」
さよならとセシルも答え、彼女の手をゆっくりと離した。
(優しいか……)
エレーナにそう言われたのは、これが二度目だ。そして自分のことを優しいなどと言ってくれるのは、彼女だけなのだ。
(あなたにだけは、そう言われたくないのにな)
心のなかの言葉を、しかし、セシルは口にはしなかった。
そのあいだに、エレーナは手を振りながら、小型の快速船に乗り込んでいった。
商船を装ってはいるが、マーモ公国の軍船なのだろう。喫水線の下に衝角《ラム》が伸びているのを、セシルはしっかりと見つけていた。
マーモ公王の戴冠式《たいかんしき》に参列した大使からは、マーモ公国の先行きは危ういとの報告を受けている。しかし、セシルはマーモの若き公王と会って、それとは異なる印象を抱いた。
そう遠くない将来、マーモ公国は強大になってくるかもしれない。もっとも、それがロードスにとって良いことなのか悪いことなのかの判断はつかない。
いずれにせよ、マーモからは目が離せないなと、アラニアの宮廷魔術師としての立場でセシルは思った。
やがて、出航の銅鑼《どら》がなって、マーモ公王一行と魔獣使いのエレーナを乗せた船は静かに桟橋から離れていった。
エレーナは甲板に立ち、じっとこちらを見つめている。
だが、セシルには分かっていた。彼女の目に映っているのは彼女自身の過去と、そして未来でしかない。彼自身の姿もある現在の光景は、幻のようなものなのだ。
セシルは船の姿が完全に消え去るまで、桟橋にずっと立ちつくしていた。
スパークたちがウィンディスに帰還したのは、それから八日後である。
そのとき、マーモ各地で行われていた魔獣退治は一進一退という状況であった。スパークの予測していたとおりだった。事態が簡単に収拾するなら、公国を離れる必要はなかったわけだし、事態が深刻化するようなら公国を離れるわけにはゆかなかっただろう。
魔獣どもとの戦いで、十人あまりの騎士が命を落とし、その何倍かの騎士が怪我《けが》をしていた。
スパークは暗い気分になったが、騎士たちが戦死していることで、マーモの民衆の公国に対する信頼は強くなっていた。
その一方、騎士たちの疲労は頂点に達しており、この非常時に公国を留守にしたスパークへの不満も膨らんでいた。もしも、彼が何の結果も出さずにマーモに帰っていたら、その不満は一気に爆発していたかもしれない。
実を言えば、そこまでは深刻に考えていなかったのだが、スパークは極《きわ》めて危険な賭《かけ》にでて、それに勝ったということを知った。
もし、その事実をギャラックに打ち明けようものなら、そんなことも分からなかったのかと、小言が何百、何千と返ってくるだろう。
そのことは公王の秘密にしておこう、とスパークは心に決めた。
結果的にはよかったものの、いつもいつも幸運に期待するわけにはいかない。リーフに冷やかされるほどではないが、運のいい人間だとは彼自身、思っていないのだ。
マーモの公王でいるということは、谷に渡した綱の上を歩いているようなものだということを、あらためて意識させられた。
公都に帰ってから数日のあいだ、スパークは留守中に起こった様々な問題の処理に当たらなければならなかった。それを一段落させると、王城の中庭に民衆を集めて、マーモ各地に跳梁《ちょうりょう》する魔獣を鎮めるために、もう一度、公王が親征を行うと宣言を行った。
魔鶏《コカトリス》や鷲頭獅子《グリフォン》を退治した実績があるだけに、人々は歓喜で応《こた》えてくれた。
もっとも、内実を晒《さら》せば、スパークの役割は魔獣使いであるエレーナの護衛でしかない。彼女が魔獣を呼び出し、支配を行う。そして、本来の住処《すみか》に帰す。
潜在的な危険は残るものの、スパークはマーモの闇《やみ》を認める方針でいるので、魔獣を駆逐《くちく》する意志はない。たとえ、彼にその意志があっても、エレーナはそれに従わないだろう。
魔獣の生息地に近い場所にある村には柵《さく》を巡らしたり、兵士を常駐させるなどして対策を講じるつもりであった。
神々の時代が終わって後、この島は魔獣と共存してきたのである。これからもそうしてゆくしかない。魔獣使いのエレーナはその象徴とも言うべき存在となるだろう。
そして、それから更に数日後、スパークはエレーナと共に、魔獣どもを住処《すみか》へ戻すためにマーモ各地を巡る旅に出発したのである。
4[#「4」は見出し]
部屋のなかに入った途端、ヴェイルは女主人の機嫌が悪いことが見て取れた。
(これは叱《しか》られそうだな)
覚悟を決めて、ヴェイルはマーモ帝国暗黒騎士団の騎士団長ネータと向かいあった。
ここは、マーモ郊外にあるマーモ帝国の王城である。
城といってもただの屋敷で、城壁も濠《ほり》もない。少し前までヴェイルは、妹のミネアをここに住まわせ、様々な商売をさせていた。妹には商才があったらしく、どの商売もそこそこに成功していた。ヴェイルも情報収集のための拠点として、酒場を経営しているがこちらも思いがけず繁盛している。
もっとも、それらの儲《もう》けの大部分は、帝国再建のための資金に注ぎ込んでいる。
「わたしは、いつまでじっとしていればいいのだ」
挨拶《あいさつ》もまだだというのに、ネータはいきなり切り出してきた。
「今はまだ、お待ちくださいというしかありません……」
ヴェイルは神妙な表情を装いつつ、彼女に答えた。
「魔獣どもがマーモ各地で暴れて、ペルセイの街は留守になっていたのだぞ。おまえが集めた情報では、公王スパークも公都を留守にしていたというではないか? 武力をもってこの島を奪回するには、絶好の機会であったはずだ。しかし、まだ時期ではないとおまえが言うから、わたしは自重《じちょう》した。その結果はどうだ? 公王が魔獣退治の親征に出るや、魔獣どもは次々と鎮められているではないか。ペルセイの街には、公王を讃《たた》える声が溢《あふ》れていると聞くぞ。この状況が、我らにとって好転していると言えるのか?」
「残念ながら、その逆でございましょう。わたしの考えが甘かったのかもしれませんが、思っていたよりも、スパークなる小僧はよくやります。非常時に、マーモを留守にしたときは、気でも違ったのかと思いましたが、どうやら魔獣使いなる人物をアラニアから招くためであったようです。魔獣どもが鎮められているのは、そのせいです」
「魔獣使い? なんなのだ、それは」
「文字通り、魔獣を操る秘術を使う魔術師のようです。マーモ帝国の宮廷魔術師の一人で、ランディスという名の人物が、そんな話をしていたのを覚えています。魔獣使いを連れてくると言って出かけたきり、戻ってはこなかったのですが……」
「そのような人間がマーモに来たのか! だとすれば、スパークめは魔獣どもを戦《いくさ》に使役《しえき》できるではないか?」
予想外の話に、ネータの顔が苦悩に歪《ゆが》んだ。
「御心配には及びません。我が帝国とは異なり、公国にはフレイム王国という足伽《あしかせ》があります。魔獣を支配などすれば、全ロードスに邪悪の名が響きます。そのようなことは、フレイム王カシューが認めますまい」
「世間の評判が気になるようでは、もはやカシューは恐れるにたりぬな。だが、我らにとっては、そのほうが好都合……」
「おかげで魔獣と戦わずに済みます。わたしが、今はまだ時期ではないとネータ様をお止めしたのはそれゆえでもあります。今、砂漠の王国の者どもを追いだせば、魔獣どもを鎮めるのは、我らの仕事になりますゆえ」
それは分かるがと、ネータは冷ややかな視線をヴェイルに向けた。
彼女のそういう顔は魅力的であると、普段、彼は思っているのだが、視線を向けられる立場ではそうも言っていられない。
「武力によって、マーモ公国を倒したいというネータ様のお気持ちは分かります。しかし、それではフレイムのみならず、全ロードスを敵に回すことになります。邪神戦争の再現は避《さ》けたいところゆえ、公国にはこの島の統治をあきらめさせ、出て行かせたいと思っております」
「だから、魔獣だったというわけか?」
「マーモが暗黒の島であることを見せつけるには最適ではなかったかと……」
「それについては同感だ。しかし、不思議なのは、魔獣使いでもないおまえが、どのようにして奴《やつ》らを操ったのかだ」
「操ったわけではありません。奴らを住処《すみか》から追いだしただけのことです。それを実行したのも、わたしではありませんから、どのようにと聞かれましても……」
手下といっても、実は人間ではない。そもそも人間に、魔獣どもを追い立てるような真似《まね》ができるはずがない。
その手下は、かつての導師である人物から、ヴェイルが借り受けたもののひとつだ。それらを手に入れるために、彼は極めて大きな代償を支払っている。そのとき彼は、自分がもはや後に引けないということを自覚したものだ。目的を達成させるか、挫折《ざせつ》して死ぬかのふたつにひとつであることを…
「そのように言われると、誰がそれを実行したのか問いたくなるが、今は止《や》めておこう。おまえの策謀は、味方にも秘密であるほうがよいからな。わたしでさえ知らぬとあれば、他の者は文句も言えまい。帝国に参加している人間のすべてが、信用できるわけではないからな。公国に内通されでもしたら、おまえの身に危険が及ぶ」
「御配慮《ごはいりょ》いたみいります」
幾分、皮肉も含まれているのだろうが、それでも、ヴェイルはネータに向かって、丁寧《ていねい》に頭を下げた。
実際のところ、公国の連中も無能ではないらしく、密偵《スカウト》を養成し、情報を集めようとしている。マーモ帝国の再建についても、噂《うわさ》ていどの情報は集めているだろう。
だが、密偵の質では、奴らなど及びもつかない。右腕とも言うべきボイドは、極めて優秀な密偵であり、そして暗殺者《アサッシン》でもある。
「とにかく、まだわたしは待ち続けねばならないのだな?」
「それがお気に召さないことは承知しておりますが、今はまだ時期ではありません。ですが、そう長くお待ちいただかなくてもよいかもしれません。公国の連中は、これまで暴れていた魔獣どもが実は雑魚《ざこ》でしかなかったことをまもなく思い知ることになるはずです。アラニアから来た魔獣使いに、はたしてその魔獣を御《ぎょ》することができますか……」
「いつものことながら、思わせぶりだな。しかし、分かった。皇帝陛下には、おまえの言ったとおり、申し上げておこう」
ネータは苦笑しながら、言った。
この魔術師に、うまくごまかされたような気もするが、無理ができないことは彼女も承知している。それほど、帝国の内情は厳しいのだ。本気で忠誠を誓っている人間が、どれだけいるかも分からないし、資金も慢性的に不足している。戦《いくさ》の荒廃からマーモが復興しないと、暗黒の島を奪回しても、その後がたちゆかないのだ。
(今は、砂漠の者どもを働かせておけばよいということだ)
ネータは自分にそう言い聞かせて、目の前にいる魔術師の言葉に従うことにした。
そして、彼女は皇帝に拝謁《はいえつ》するため、椅子《いす》から立ち上がった。
幼い皇帝はおそらくこれまで通り、待つことには慣れていると答えるだろう。
まだ、十五歳という若さで、これまでいったい何を待っていたのかと可笑《おか》しくなるが、子供にとっては僅《わず》かな時間でも、長く待ったような気になるのかもしれない。
ネータはそんな思いを抱きながら、ヴェイルと別れ、皇帝の私室へ向かう。
だが、後になって、彼女はこのときの考えが根本から間違っていたと知ることになる。
皇帝は待ち続けていたのだ。彼女が思っていたより遥《はる》かな時間を……
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第X章 九つ頭の大蛇[#「第X章 九つ頭の大蛇」は見出し]
1[#「1」は見出し]
魔獣退治は順調に進んでいた。
もっとも、退治と言っても、倒すわけではなく、もともとの生息地に追い返しただけだ。
魔獣使いのエレーナは、魔獣支配の秘術の力を遺憾《いかん》なく発揮し、魔獣を呼び寄せ、支配下におき、そして生息地に帰るよう命令を与える。
すると、恐るべき魔獣たちが、まるで飼い猫のようにエレーナの命令に従ってゆくのだ。
その様《さま》を見ていて、スパークはただ感心するばかりであった。
ギャラックやライナ、そしてリーフたちと共に、彼女の護衛《こえい》をしていたのだが、その必要はまったくなかった。
公王の親征によって魔獣が鎮《しず》められたことを宣伝するために同行したようで、スパークとしては複雑な気分だった。
だが、それによって、マーモの住民たちが公国に対する信頼を厚くしてくれるのは、歓迎《かんげい》すべきことなのだ。
一月ほどのあいだに、十数体もの魔獣を鎮め、事件はほぼ片づいたといってもよかった。
そして今、スパークたちは、西の山岳地帯の麓《ふもと》にある砦《とりで》のひとつに逗留《とうりゅう》している。山から降りてきた魔獣が数体、この付近にまだ出没しているからであった。
それらの魔獣を山に追い戻せば、スパークは公都ウィンディスに帰還するつもりであった。マーモ各地で、まだ何体かの目撃報告がなされているが、それらは人間に危害を加える危険の少ない魔獣ばかりである。
「エレーナのおかげで、ようやくマーモも落ち着きを取り戻します」
夕食の席で、スパークが改めて魔獣使いのエレーナに礼を述べた。
この日も、彼女は一体の魔獣を山に帰すことに成功している。
「わたくし自身とマーモの人々の笑顔のためですもの。公王陛下にお礼を言われるまでもありません」
エレーナが微笑《ほほえ》みながら答えた。
その言葉どおり、マーモに来てからというもの、彼女の表情は次第に明るくなってきている。
魔獣使いだからと言って、彼女を気味悪く思う者は、この島にはいない。もっと気味の悪いもの、恐ろしいものが、このマーモには大勢いるのだ。
妖魔《ようま》もいれば、邪神の信者も住んでいる。盗賊《シーフ》たちはかつて、この島を支配していたほどであり、闇《やみ》の森に住む蛮族《バーバリアン》は、今でも人間より動物に近い暮らしを営んでいる。
この島の住人たちにとって、善悪という価値基準はそれほど重い意味を持たない。役に立つかどうか、害を及ぼすかどうかが問題とされるのだ。
その点、魔獣使いのエレーナは、間違いなく人々の役に立つ存在である。
スパークはいずれ、彼女の功績を人々に知らしめ、魔獣との共存が可能であることを宣言したいと思っている。
「このまま順調に行けば、十日とたたずに公都へ帰れるわね」
ライナがさすがにほっとしたように言う。
アラニアへの長旅の後、休む間もなく、マーモ各地を巡《めぐ》ってきたのである。そのあいだにも彼女のもとには配下の密偵《スカウト》が入れ替わり訪《おとず》れ、様々な情報をもたらしている。それらの情報は雑多なもので、それを整理するのも彼女の仕事なのである。
魔獣退治の親征に出ているあいだ、彼女はスパークよりも多忙な日々を送っていた。
「今回の魔獣退治で、公国の評判が上がったから、今のうちに改革できるところはしておかないとな」
ギャラックが、ライナの言葉に相槌《あいづち》を打つ。
「また、玉座に縛《しば》りつけられる毎日がくるんだな」
二人の会話を聞いて、スパークが冗談めかして言った。
それが公王の仕事だということは無論、承知している。しかし、性《しょう》に合っていないというのも間違いのないところだ。
「今回の魔獣退治で、改めて思い知らされたのは、魔獣が自然に生息地から離れたのではないということだ」
スパークは真顔に戻ると、一同を見渡しながら言った。
「しかし、魔獣支配の秘術を用いてさえ、これだけの時間がかかっている。魔獣どもはほとんど同じ時期に、マーモ各地で暴れはじめたからな」
これが魔獣使いの仕業《しわざ》だとしたら、複数の人間が事件に関係しているということになる。だが、それは現実的ではないとスパークは思っている。秘術を記した古代書が複数あった可能性は低いし、簡単に修得できるものでもないだろう。
「自然現象でもなければ、魔獣使いの仕業でもない。それじゃあ、いったい誰《だれ》が魔獣を?」
リーフが得意そうな顔をして言った。
スパークをやりこめられると思ったのだろう。しかし……
「それが問題よね。でも、今回の事件が人間の仕業だとは、わたしにも思えないのよ」
そう答えたのは、ライナだった。
「命令を下したのは、あるいは人間かもしれない。でも、直接、手を下したのは人間ではないという気がするわ。もしも、人間にこんな真似《まね》ができるなら、これまでに誰かが、何処《どこ》かで先例を作っているはずだもの」
「そう思います。人間には、自らが持つ力を使わずにはいられない性癖がありますから」
まるで自戒《じかい》の言葉を述べるように、エレーナが言った。
「人間の仕業《しわざ》ではない。しかし、それでは誰の仕業なのか?」
スパークが自問するように、つぶやく。
それを聞いて、ライナが答えにならないかもしれないけど、と彼に声をかけた。
そして、
「黒く大きな影、聞く者の魂を震わせる声……」
と、続ける。
「なんです、それは?」
スパークが怪訝《けげん》そうにライナに訊《たず》ねかえす。
「噂《うわさ》のひとつよ。まだ、確かめた訳ではないのだけど、魔獣が暴れだす少し前に、そんなものを見たり聞いたりしたという噂があるの。あまりに途方もない話だから、作り話だろうって思ってたんだけど……」
魔獣たちを人里に追いやったのが人間の仕業ではないとすれば、この噂にも信憑性《しんぴょうせい》が出てくるのではないかと、ライナが意見を述べた。
「そんな噂が流れているのか……」
スパークにとって、それは初耳であった。そして重要な情報かどうかの判断も付きかねた。
異常な事件が起こったときには、必ずと言っていいほど、その前触《まえぶ》れと称される噂が飛《と》び交《か》うものだ。だが、そのほとんどは人間が生みだした妄想《もうそう》の産物である。
「まさか……」
スパークたちの会話を無言で聞いていた魔獣使いのエレーナが、突然、不安そうな表情になり、そうつぶやいた。
「何か、思いあたることがあるの?」
彼女の様子の変化に気づいて、リーフが声をかける。
「いえ、気になったことがあっただけ。でも、思い過ごしでしょう。先の大戦で、それはいなくなったはずだから」
ハーフエルフの少女にではなく、まるで自分自身に言い聞かせるように、エレーナは言った。
「それって何よ?」
リーフがエレーナにそう訊ねようとしたとき、あわただしく鉄靴の音を響《ひび》かせて、一人の男が、スパークたちの集《つど》う部屋に飛び込んできた。
「いったい何事だ?」
ギャラックが立ち上がって、剣の柄《つか》に手をかける。
だが、入ってきたのが、彼の配下である近衛《このえ》騎士であることを知って、すぐに手を離した。
「御無礼いたします」
近衛騎士はその場で膝《ひざ》をつき、畏《かしこ》まる。
「報告があるのだろう。かまわないから、言ってくれ」
スパークが近衛騎士に声をかけた。
「申し上げます。公都の北西にある谷の方に、九つ首の大蛇が出現、公都に向かって進んできております。現在、宮廷魔術師のアルド・ノーバ殿が、マイリー神殿のグリーバス司祭らとともに、現地に向かっておりますが、公王陛下にはすぐに公都にお戻りいただき、適切なる御処置《ごしょち》をお願いしたいと……」
「九つ首の大蛇だって!」
スパークは驚き、エレーナを振り返った。
「九頭大蛇《ヒュドラ》のことでしょう。恐るべき魔獣です。その強さは、竜《ドラゴン》にも匹敵すると言われています……」
エレーナが青ざめた顔で、答えた。
「そんな魔獣がどうして!」
スパークは興奮したような声で叫んだ。
ヒュドラについては、伝説などで聞いて知っている。ルノアナ湖周辺の大湿原《だいしつげん》には、現在も相当数、生息していると噂《うわさ》されている。だが、そんな魔獣と関わることはないと思っていた。
「ヒュドラのような魔獣が、その生息地から離れるようなことは滅多《めった》にないはずですが……」
「秘術の力で抑《おさ》えられますか?」
スパークがエレーナに訊《たず》ねた。
「正直に言って、自信はありません。しかし、試してみます。このままヒュドラを放っておけば、どれだけの犠牲者が出るか分かりませんから……」
「お願いします」
スパークは、魔獣使いの女性に頭を下げた。
危険な役目を女性に委《ゆだ》ねるのは気が重いが、民の生命、財産を守る義務がある。
「公都に戻るぞ!」
スパークは椅子《いす》から立ち上がると宣言するように言った。
「瞬間移動《テレポート》の呪文《じゅもん》を使いましょう。四、五人であれば、公都まで運ぶことができます」
「できるのですか?」
スパークは思わず、訊ねかえしていた。
無礼な質問ではあったが、それほどに彼は驚いたのだ。
「わたくしも魔術師の端《はし》くれです。魔獣支配の秘術だけを使うわけではありません」
穏《おだ》やかに微笑《ほほえ》み、エレーナは答えた。
その答えに、スパークが表情を輝かせて、お願いしますとふたたび彼女に頭を下げた。
「……魔術師の端くれって、アルドには瞬間移動の呪文《じゅもん》なんて使えないわよね」
二人の会話を聞いていたライナが、ギャラックに耳打ちするように言った。
「どうやら彼女は魔術師としても相当な実力の持ち主のようだな。高位の導師に匹敵するんじゃないか」
ギャラックはそう答えると、口笛を吹き鳴らす真似《まね》をした。
「アルドの立場がないわね」
ライナは苦笑を洩《も》らした。
もっとも、宮廷魔術師というのは魔術を専門にしているわけではない。王を補佐し、国を治めるのが一番の仕事である。そのための魔術であり、知識なのだ。エレーナが高位の魔術を修《おさ》めているからといって、アルドを責めることはできない。
(死なないでよ、アルド…)
ライナは思った。
(あなたには、もっと働いてもらわないといけないのだから)
それは、彼女の心の底からの言葉であった。
2[#「2」は見出し]
マーモ公国でただ一人の宮廷魔術師であるアルド・ノーバは、緊張した一日を過ごしていた。
彼が今いるのは、公都ウィンディスの北東に二日ばかりの場所。ウィンディスの郊外を流れる嘆《なげ》きの川<Zストの上流である。
山間《やまあい》を流れてきた川が、狭い盆地に流れこむ地点。ここから、川はいくつもの支流に分かれ、盆地に湿原を形成している。湿原には数百もの沼があって、そのなかには水が腐《くさ》って毒気を帯《お》びたものや、地下から湧《わ》きあがってきた黒き液体によって汚染されてしまったものなどがある。
それらの水を集めて、ふたたびひとつの流れになったとき、嘆きの川は異臭を放つ濁《にご》った水を湛《たた》えることになる。魚は棲《す》んでいるが、その大半は食用に適さない。
九つ首の魔獣は、今、アルド・ノーバがいる場所から少し上流に行ったところにある滝壷《たきつぼ》で休息を取っている。だが、いつ動きだすか、見当はまったくつかない。
下流の盆地にはいくつかの集落がある。湿地で採《と》れる魚や野菜で生計を立てている小さな村々だ。貪欲《どんよく》な魔獣にとって、人間は手頃《てごろ》な大きさの獲物である。村が襲《おそ》われるようなことがあれば、留守役である彼の責任になる。
アルド・ノーバが連れてきたのは、公都ウィンディスと王城ウィンドレストの守備のために残っていた百人あまりの騎士のうち、およそ三分の一だ。
|九頭の大蛇《ヒュドラ》と戦うのに十分な人数とは言えないが、それ以上を動員しては、公都を攻められたとき防ぎきれない。マーモ帝国か再建されたという情報がある現在、その可能性は十分に考えられる。用心を怠《おこた》るわけにはゆかないのだ。
領地に帰っている騎士たちにも伝令を飛ばし、召集をかけているから、いずれ公都には人数が集まってくる。そして、その軍勢を率《ひき》いて、スパークが援軍に駆けつけてくるはずだった。
アルド・ノーバは、それまでの時間|稼《かせ》ぎをすればいい。
もっとも、魔獣が彼の思惑《おもわく》どおりに行動してくれるかどうかは、神のみぞ知るところだ。
アルド・ノーバは一人の騎士を隊長に任じて、実戦の指揮をとってもらうことにした。彼自身は魔術で援護をするつもりだが、ヒュドラ相手にどこまで通用するか、自信はまったくない。
唯一の救いは、戦の神の司祭グリーバスが同行してくれていることだ。
彼は優れた戦士であり、そして神聖魔法の使い手である。騎士たちにも、彼の存在は心強く感じられていることだろう。
(動かないでくださいよ……)
アルド・ノーバは、魔獣に向かって、その日の朝からそう念じ続けてきた。
今のところ、その願いはかなえられている。だが、それがいつまで続くかは、保証の限りではない。
そして周囲には、夕闇《ゆうやみ》が訪《おとず》れていた。
人間相手の戦いなら、一息《ひといき》つくところだ。だが、魔獣が相手ではそうはゆかない。魔獣たちのなかには、好んで夜に活動する種類も多いのである。
「野営の準備を始めろ! だが、魔獣が動きだしたら、すぐに戦えるよう警戒は怠るな」
アルドが隊長に任じた騎士の声がした。
その声に従って、騎士たちが野営の支度をはじめる。
そのあいだも、アルド・ノーバは川岸にある大きな岩のひとつに陣取り、そこから一歩も動かなかった。上流に視線を凝らし、魔獣が現れないか見張りつづける。
「そう張りつめていると、いざというときに身体《からだ》が動かんぞ」
グリーバスの声がして、小柄だががっしりとした体型をした|大地の妖精《ドワーフ》族の司祭が、アルド・ノーバがいる岩の上に登ってきた。彼の手には麺[#底本では「麭」の「包」が「面」Unicode:0x9EB5 265-8]麭《パン》と飲み物の入った壷《つぼ》が握られている。
「せめて腹拵《はらごしら》えぐらいはしておけ」
「あ、ありがとうございます」
アルド・ノーバは答えて、グリーバスの手から麺[#底本では「麭」の「包」が「面」Unicode:0x9EB5 265-11]麭と壷とを受け取った。
そして無理矢理、胃に詰め込んでゆく。
「こういうときには、自分の臆病《おくびょう》さが嫌になってきます」
短時間で食事を終えた後、アルド・ノーバはグリーバスに向かって、まるで懺悔《ざんげ》するかのように言った。
「戦いを恐ろしいと思うのは、自然な感情だ。誰《だれ》しも殺されたくはないし、他人を殺したくもない。だが、いつの世にも戦いはあり、そこから逃《のが》れることはできんものだ。生き物は他の生き物の命を奪うことで、存在を続けているという事実もある。この永劫《えいごう》の戦いによって、人間も妖精《ようせい》も、そしてその他の動植物も栄《さか》えてきたのだ。それゆえ、死とは邪神の呪《のろ》いではなく、神の与えた祝福とも言えよう」
「死ぬことにも、意味があるということですか?」
「そうとでも考えなければ、生そのものにも意味がなくなるだろう」
グリーバスの言いたいことは、なんとなくだがアルド・ノーバにも理解できた。
死はいつか訪れる。それを認めればこそ、今、生きていることが大切になるのだ。
だが、頭では分かっても、身体《からだ》の震えは止まることはない。
「慣れろなどとは言わん。恐れてよいのだ。ただ、恐怖に飲み込まれて、自分を見失っては……」
「どうしました?」
グリーバスが言葉を途切らせたことを不審に思い、アルド・ノーバが訊《たず》ねた。
「今、川面《かわも》が揺れたように見えた……」
グリーバスは、二人が今いる岩の下を流れる川の水を見つめながら、そう答えた。
「川面が?」
アルド・ノーバも、あわてて川の流れに目を向ける。
しかし、辺りはすでに暗くなっていることもあり、彼の目には川の様子は分からなかった。
「間違いない。微《かす》かにだが、地面が揺れておるようだ。川の水も濁ってきている。どうやら、魔獣が動きだしたようだの」
アルド・ノーバは、グリーバスの言葉を疑わなかった。
ドワーフ族には暗視の能力があり、闇《やみ》のなかでも昼間と同様の視力を持つ。
アルド・ノーバは、マーモ公国の騎士たちに魔獣が来たことを告げた。
騎士たちのあいだに一瞬、どよめきが起きたが、彼らはすぐに迎撃《げいげき》の準備を始めた。半数が歩兵槍《パイク》を一列に並べ、残りはその後方で弓を構えて待機する。
長大な歩兵槍は、川の向こう岸まで軽く届く。ヒュドラなら空を飛ぶことはないから、この布陣から逃れることはできないはずだった。
いかに巨大な魔獣とはいえ、相手はたったの一体である。それに対して、こちらは三十騎もの騎士が待ち構えているのだ。容易《たやす》く抜かれることはないと、アルド・ノーバは信じたかった。
迎撃の態勢が整ったと同時に、アルド・ノーバにも地面の揺れがはっきり感じられるようになった。そして、上流から、不気味な水飛沫《みずしぶき》の音が響《ひび》きはじめる。
アルド・ノーバは魔法の光を、川の流れのなかにある岩のひとつにかけた。青白い輝きが、川面を幻想的に照らしだす。
だが、その光景を美しいと感じている余裕などなかった。
魔法の光のなかに、九つの首を持つ巨大な蛇の姿が入ってきたからだ。
ヒュドラはすべての首を高くもたげ、胴体をくねらせながら、アルド・ノーバたちのほうに、驚くほどの速さで向かってきた。しゅうしゅうという息の音がして、九つある口からは真っ赤な舌が、ちらちらと入れ替わり出てくる。
「放《はな》て!」
騎士隊長の号令とともに、十数本の矢《アロー》が一斉に放たれた。
標的は巨大だから、ほとんどの矢が命中した。だが、大蛇の硬い鱗《うろこ》を貫いたのは、ほんの数本であった。そしてヒュドラは、その程度ではまったく怯《ひる》んだ様子もなく、横一列に並んだ歩兵槍に向かって突進してくる。
「突け!」
騎士隊長の命令がふたたび飛んだ。
気合いの声とともに、歩兵槍を構えていた驕士たちが、槍《やり》の穂先を魔獣に向ける。
それと同時に、魔獣の巨体が密集している騎士たちのまっただなかに躍《おど》り込んでいった。
何本もの歩兵槍が、ヒュドラの胴体を貫いたはずであった。だが、巨大な魔獣は何の障害もなかったように通り過ぎてゆく。
アルド・ノーバは <電撃《ライトニング》> の呪文《じゅもん》を、グリーバスは <気弾《フォース》> の呪文を唱えたが、いずれもどれほどの効果があったのか分からなかった。
魔獣はふたたび川の流れに戻ると、速度を弛《ゆる》めることなく下流に向かって遠ざかっていった。
後《あと》に残されたのは、魔獣の巨体に弾《はじ》き飛ばされ、呻《うめ》き声をあげる騎士たちの姿だった。そして、五人の騎士の行方《ゆくえ》が分からなくなっていた。
魔獣に食いつかれ、そのまま運び去られたのだ。
その犠牲者のなかには、アルド・ノーバが隊長に任じた騎士も含まれていた。
3[#「3」は見出し]
スパークたちが新たに二十騎余りの騎士を引き連れ、アルド・ノーバたちと合流したのは、ヒュドラとの戦いがあった三日後のことであった。
アルド・ノーバが予想していたよりも、五日以上も早い到着だった。それはもちろん、エレーナが瞬間移動の呪文を使ったからである。
ヒュドラは湿原の何処《どこ》かに姿を隠している。
スパークは湿原に点在している村落の住人たちに、公都への避難を命じた。もっとも、この湿原を抜けられたら、公都まで川を伝って一直線だ。魔獣の速度をもってすれば、ほんの一日で公都まで到着するだろう。公都が安心であるとの保証はどこにもない。
そんな事態になれば、どれほどの被害が出るか予測もつかない。公都を魔獣に蹂躙《じゅうりん》されたとあっては、マーモ公国の威信《いしん》にも傷がつく。
スパークとしては、何としてでもこの湿原で、決着をつけたいところだった。
だが、ほとんど一瞬にして、五人の騎士が命を落とし、その倍の数の負傷者が出たほどの強敵である。しかも、湿原という場所は、魔獣の方に地の利があり、人間の行動は著《いちじる》しく制限される。人数が増えたからといって安心できないのは、火竜の狩猟場における魔竜シューティングスターとの戦いでも明らかだ。
魔獣支配の秘術で制御できるなら、事は簡単だ。しかし、ヒュドラほどの強力な魔獣は、魔獣使いの手に負えない可能性もあるという。
魔獣と正面から戦う方法も、考えておかねばならないのだ。
「……アルドの話では、魔獣は予想以上に速く移動するようだ」
スパークは主立った騎士を集めて、軍議を開いた。
「何とかして動きを止めなければ、魔獣を倒すのは難しい」
魔獣の生態について詳しいエレーナの話によれば、ヒュドラには強力な再生能力があり、アルドたちの奮闘によって被《こうむ》った傷も、 <電撃《ライトニング》> の呪文《じゅもん》による火傷《やけど》を除けば、今頃《いまごろ》は完全に癒《い》えているはずだという。
いくら手傷を負わせても、まったく意味が無いということだ。再生能力を封じるには、完全に息の根を止めるしかない。
「ヒュドラは水のなかにいるほうが、素早く動けるようです。ですから、陸に上げればよいのではないかと……」
アルド・ノーバが憔悴《しょうすい》しきった声で、意見を述べた。
もともとの性格もあるが、今の彼は自信といったものを完全に喪失《そうしつ》してしまったようで、長身で立派な体格の身体《からだ》も小さく見えた。
「宮廷魔術師殿はそう仰《おっしゃ》るが、どうすればヒュドラを水から上げられるのですか?」
騎士の一人からそんな質問が返ってくると、アルド・ノーバは雷鳴を聞いたかのように身を疎《すく》めて、沈黙する。
「それを考えるために、軍議を開いたんだぞ」
宮廷魔術師一人の知恵に頼るな、とスパークはその騎士に言った。
だが、彼らには本国の宮廷魔術師スレインのことが頭にある。彼《か》の賢者は、ただ博識であるというだけではなく、実戦の経験も豊かで、諸国の事情にも通じている。
本国では、カシューとスレインの会話だけで、軍議が終わることも珍しくないのだ。騎士たちはただ、決定したとおりに行動すればよい。
スレインと比べるのは可哀想《かわいそう》なのだが、騎士たちにしてみれば、宮廷魔術師とはそうあるべきなのだ。だから、アルド・ノーバが頼りなく見える。
(ニースに同行してもらっていてよかったな)
スパークは思った。
ヒュドラの強さをエレーナから聞いて、ニースに同行してもらうことにしたのだ。
もちろん、魔獣との戦いで怪我人《けがにん》が出たときのためであったが、最初に癒《いや》さねばならないのは、どうやらアルド・ノーバの心の傷のようだ。
出会ったときの彼の落ち込みようは、見ているほうが辛《つら》くなるほどだった。魔獣に敗《やぶ》れた責任を一人で背負っているのだ。
しかし、報告を聞いたかぎりでは、彼が立てた作戦は適切であるように思えた。
もしも、湿原の入口で手傷を与えていなかったら、今頃《いまごろ》、ヒュドラは湿原を通り過ぎ、公都に来襲《らいしゅう》していたかもしれないのだ。
魔獣を足止めしてくれただけでも、スパークにとってはありがたかった。おかげで、十分な準備をして、ヒュドラとの決戦に臨《のぞ》むことができる。
「エレーナ師には明日の朝、魔獣の支配を試《こころ》みてもらう。問題は、それに成功しなかったときだ。あの恐るべき魔獣と、いったいどこで戦えばいいのか? 陸で戦うと言っても、この一帯は川と沼、それに湿地《しっち》ばかりで、十分な広さのある平地は限られている。戦っているあいだに、湿地に足を踏み入れようものなら、我々のほうが身動きが取れなくなってしまう」
「この湿原は領主が不在で、まだ十分な調査ができてませんから」
スパークの問いかけに、ギャラックが答えた。
「そうだな」
スパークは渋い表情になった。
周辺の村人たちは全員、公都に避難させたから、彼らに道案内を頼むことはできない。
迂闊《うかつ》だったと思う。
「この湿原の領主になりたい者がいたら、喜んで封《ほう》じてやるぞ。公都の守りのため、この辺りには城塞《じょうさい》が必要なようだからな」
セスト川に沿って攻めてくる敵や魔物に備えるためである。ヒュドラの来襲で判明したのは、この方面の守りが手薄だということだ。それを教えてくれたことは、魔獣に感謝してもいい。
「城を維持するだけで、破産してしまいそうですな」
風の部族の騎士隊長ウッディンがそう言って、苦笑《にがわら》いを浮かべた。
彼が率いてきた二十騎の下級騎士が、今回、スパークが連れてきた戦力である。このところ戦いづめだった近衛《このえ》騎士隊には、王城の警備を命じてある。もっとも、護衛として隊長のギャラックの他、五人の近衛騎士を同行させてはいる。
そして、王城の留守は、いつものようにルゼナン伯爵に頼んだ。炎の部族の騎士百騎あまりが、彼の指揮下で公都の守備を務めている。
ライナも、今回は公都に残った。マーモ帝国について、本格的な調査を始めるためでもあり、ライデンからの来客を迎えるためでもある。
「この湿原は広いし、二千人からの住人もいる。領地としては、十分だと思うがな」
ウッディンの言葉に、スパークは真顔で反論した。
「後《あと》は、領主の能力次第だ。何百とある沼で魚を養殖するなり、湿地で育つ作物を調べて、栽培を促進すればいい。案外、収穫は大きいかもしれないぞ」
「御無礼を申しました……」
ウッディンはあわてて謝罪《しゃざい》した。
スパークが、真面目《まじめ》に考えているとは思わなかったのだ。そして彼の言葉が、口先だけでないことは、最近の彼の言動《げんどう》を見ていれば誰《だれ》にでも分かる。
マーモ公国の騎士には、戦場での武勲だけではなく、貧しい領地をいかにうまく経営してゆくかの手腕も求められるということだ。
「今回の魔獣退治において、功績を上げた者に領地を授《さず》けることにすれば、騎士たちの士気も上がりましょう」
ウッディンは考えをまとめてから、あらためてそう進言した。
「約束しよう」
スパークは即答で、その意見を採《と》った。
「魔獣には九つも首がある。首の数で武勲は競《きそ》えるからな」
冗談めかした公王の言葉に、騎士たちのあいだから笑い声が上がる。
だが、魔獣の首をひとつでも取ることがいかに難しいかは、誰もが承知していた。九つ首の魔獣は、一瞬にして五人の騎士の命を奪っているのだ。
「人数を割《さ》いて、魔獣使いの護衛と周辺の探索《たんさく》とに分けるしかないな。オレとギャラックとでエレーナ師を援護する。ウッディンの隊は周辺の探索だ。そして魔獣支配に失敗し、戦いとなったときには、先陣を務めてもらう」
「それは、決戦場所を探すのも真剣になりますな」
ウッディンは豪快に笑った。
魔獣使いの護衛では、たとえ魔獣を鎮められても武勲はない。だが、魔獣と戦ったうえで、これを倒したとなれば、その功績は比類なく大きい。
風の部族の誇りを示すいい機会だと、風の部族の騎士隊長は思った。
本国にいるシャダム族長からは、風の部族の働きが目立たないことについて、厳しく問いただす書簡《しょかん》が届いている。
アファッドが騎士資格を返上したことについても、シャダムは大きな不快感を示したようだ。
風の部族が著《おご》った態度を見せることは、現在のフレイムにとって深刻な問題となりえる。フレイムはかつてのような砂漠の小国ではなく、ロードス最大最強の王国となっているのだ。
民族主義を唱える状況でないことは、ウッディンも今は理解している。
ウッディンは、同僚《どうりょう》のアファッドが就任するはずであった騎士団長の地位に就きたいと願っている。それも実績を示すことでだ。それは、マーモ公国において、最大の軍事力を持つことを意味している。
それによって、マーモ公国の独立という企《くわだ》ては未然に阻止できるはずだった。
ウッディンにとって最大の政敵というべきは、港街サルバドを領し、炎の部族の騎士団と海軍を掌握《しょうあく》しているルゼナン伯爵なのである。
「ウッディンの隊には、アルド・ノーバと我が友リーフを同行させよう。|魔法使い《ルーンマスター》たる彼らの知識は、役に立つはずだからな」
「御配慮《ごはいりょ》、感謝いたします」
スパークの申し出に、ウッディンは恭《うやうや》しく答えた。
だが、ハーフエルフの少女が同行することは、不満でもあるし、不安でもあった。
リーフという名の少女はとにかく遠慮《えんりょ》のない性格で、まるで宮廷道化師《ジェスター》のように、悪口や戯《ざ》れ言《ごと》をぶつけてくる。ウッディンは彼女に気に入られでもしているのか、宮廷で会うたびに、様々な理由でからかわれている。はっきり言えば、苦手なのだ。
(魔獣より、よほど苦労させられるだろうな)
ウッディンは心のなかでつぶやいた。
それで、軍議は終わりだった。
スパークは明日の手順をもう一度、確認すると、全員に散会を命じた。
マーモ公国の騎士たちが野営をしている場所からかなり離れたところで、宮廷魔術師のアルド・ノーバは地面に腰を下ろし、目の前に広がる湿原の風景を漫然と眺《なが》めていた。
彼の頭のなかでは、後悔や自己嫌悪といった負の感情が駆けめぐっている。
「こんなところにいたのですね……」
小さな鈴が鳴ったような声で呼びかけられ、アルド・ノーバはあわてて背後を振り返った。
そこにいたのは、王城の地下にあるマーファ神殿の侍祭《じさい》ニースであった。
先のマーファ教団の最高司祭であった偉大なる女性と同じ名前を持つ奇跡の少女。アルド・ノーバは、この少女が聖女であることを疑っていない。
「スパーク公に、言われたのですか?」
アルド・ノーバはニースの顔を正視できず、つい目をそらした。
「ええ、アルドが心配だから慰《なぐさ》めてくれ、と。でも、スパークに言われなくても、わたしは自分の意志だけでもここに来たでしょう」
「慰めなどいりません!」
自暴自棄な気分になり、アルド・ノーバは大声を上げた。
この少女に、こんな語調で言ったのは、初めてだった。
「そう言うと、思っていました」
ニースは微笑《ほほえ》んで、巨漢の魔術師の隣《となり》に腰を下ろす。
「だから、慰めません。むしろ、その逆。わたしは、慰めてもらうために、ここに来たのですから……」
「わたしが、ニース様をですか?」
アルド・ノーバは驚き、思わず訊《たず》ね返した。
「ええ、アルドはわたしにとっては兄様も同然ですもの。悩みを打ち明けても、おかしくないでしょ?」
「それはかまいませんが……、ニース様に悩みなどあるのですか?」
アルド・ノーバは訊ねた。
彼女は、神に祝福されて生まれたような少女なのだ。優れた才能があり、強い信仰心もある。誰からも愛され、信頼されてもいる。
自分とは雲泥《うんでい》の違いだと、アルド・ノーバは思った。
「聖職者にも、悩みぐらいありますよ。ときどき、挫《くじ》けそうになるほどです。一年前のわたしが、そうであったように……」
「あれは、ニース様の責任ではありません。黒の導師は、あなたが聖女であったゆえ、ひとつの扉に選んだのです。邪神の魂を降臨せしめるための器《うつわ》として……」
邪神戦争のとき、マーモ帝国の黒の導師バグナードは、邪神カーディスの復活を目論《もくろ》んで、ふたつの邪神の祭器、魂の水晶球と生命の杖《つえ》を、フレイムとヴァリスの宝物庫から奪い去ったのだ。このふたつの鍵《かぎ》をもって邪神を降臨させるためのひとつの扉こそがニースであり、彼女は進んで黒の導師との対決を選んだ。
そして最後には破壊の女神ではなく、創造の女神たるマーファをその身に降臨させることで、破滅の危機からロードスを救った。
「女神の魂を受け入れてなお、あなたの魂は砕けることがなかった。黒の導師には、そんな魂の持ち主が必要だったのでしょう」
「それは違います。黒の導師がわたしを扉に選んだのは、大地母神マーファに仕える聖女だったからではありません」
そしてニースは、真相のすべてをアルド・ノーバに語っていった。
それはまだ誰にも、スパークにも語っていない。いつかは話さねばならないと思っているが、今はその勇気がないのだ。
父や母は、もちろん真相の多くを知っている。だが、それとてもすべてではない。
真実を知れば、この優しい魔術師が苦悩することは、ニースにも分かっていた。だが、この魔術師の強さは、他人を守るためにこそ発揮されることを、彼女は知っている。
アルド・ノーバの強さとは、すなわち優しさだから。
そして、彼を力づけるためだけに、ニースは秘密を打ち明けたのでない。最初に言ったように、ともすれば挫けそうになる気持ちを支えてもらうためでもある。
「……これでも、わたしのことを聖女だと思いますか?」
長い話の最後に、ニースは寂しげに微笑《ほほえ》みながら、そう付け加えた。
「ニース様……」
アルド・ノーバは、それ以上、何も答えられなかった。
あまりにも過酷《かこく》な運命を与えられた少女を目の前にして、いったい何が語れるだろう。彼にできるのは、この少女のためにただ涙を流すことだけだった。
「わたしにとって、ニース様は永遠に聖女です……」
長い時間、涙を流しつづけたあと、アルド・ノーバはやっとそう言った。
「もしも、あなたがその残酷な運命に飲み込まれるようなことになっても、わたしは最後まで従います。しかし、そうはならないと信じてもいます。あなたにはスパーク公がいます。グリーバス司祭やギャラック隊長たち、信じるべき仲間もいます。わたしも非才の限りを尽くして、あなたを支えましょう」
その言葉に、ニースは優しく微笑みを浮かべる。
「ありがとう、アルド。それから今、話したことは、しばらくのあいだ、誰にも伝えないでください。時期がくれば、わたしから話しますから……」
「も、もちろんです」
アルド・ノーバはあわててうなずいた。
「わたしを支えるといった言葉、忘れないでくださいね」
ニースはそう言うと、静かに立ち上がり、野営地の方へ戻っていった。
その後ろ姿を見つめながら、アルド・ノーバは己の愚《おろ》かさを責めつづけていた。だが、それはニースに声をかけられたときと違い、決して負の感情ではなかった。
4[#「4」は見出し]
魔獣使いのエレーナは、小さな丘の上に立って、眼下に広がる湿原を静かに見渡していた。湿原を囲むように低い山脈があり、遥《はる》か北には三百年前に大噴火《だいふんか》を起こしたという記録のあるエレファスの高峰が見える。湿原を形成しているセスト川は、この休火山に源流を持つ。そして、マーモ島の中央部を分断するように、南北に流れている。
エレーナは息を整えながら、ゆっくりと目を閉じた。
そして、上位古代語の呪文《じゅもん》を唱《とな》えはじめる。
魔獣を感知するための見えざる糸が周囲に伸びてゆく。その糸に魔獣が触《ふ》れれば、エレーナは魔獣の存在を知覚できる。そして、呼び寄せることができる。最後に、魔獣に名を与えれば、支配は完成するのだ。魔獣使いが付けた名には、魔法による強制力、すなわち呪《のろ》いをかけた効果があり、魔獣は絶対的な服従を強《し》いられる。
問題は、相手が名を受け入れるかどうかである。ヒュドラほどの魔獣に名を与えるには、極《きわ》めて高い魔力がいる。魔力を高めるための魔晶石《ましょうせき》は用意してあるが、それを使ってさえ、十分とは言い難い。
もし、支配に失敗したら、魔獣は怒《いか》り狂って襲《おそ》いかかってくるだろう。
マーモの公王スパークや近衛《このえ》騎士隊長のギャラック、それから五人の近衛騎士や二人の司祭が周りを固めてくれているが、戦いになれば苦戦は免《まぬが》れまい。
そのときは、いったん退却して、態勢を立て直すことになっているが、魔獣がそれを許すという保証はない。
エレーナは我が身を犠牲にするぐらいの覚悟《かくご》を決めている。
この一月というもの、彼女は生まれてはじめて、自分が生きている意味を実感することができた。父グージェルミンによって、魔獣使いとして育てられながら、同時にそれが邪悪な秘術であるとも教えられてきた。だから、自分も邪悪な人間だと思い込んできた。
だが、こうして魔獣支配の秘術を使っていると、高揚感《こうようかん》がわきあがってくる。
以前の自分なら、そのことにも激しい罪悪感を覚えただろう。しかし、それこそが自分という人間なのだと、今なら分かる。
自分が魔獣使い以外の何者でもないと実感する。
そのとき、エレーナが伸ばした感知の糸に、一体の魔獣が触れた。
魔獣の姿が映像となって、彼女の脳裏に浮かびあがる。
九つ首の大蛇であった。
沼のひとつに深く身を沈め、九つの首だけを水面から出している。その首のうちのひとつが、鯰《なまず》のような黒く巨大な魚をくわえている。
「我がもとに来たれ……」
エレーナは新たな呪文を唱えた。
魔獣を呼び寄せるための呪文である。普通の召喚魔術《コンジュアレーション》とは異なり、呼んだからといって、その場で瞬時に姿を現すわけではない。
彼女が張り巡らした感知の糸を逆に辿《たど》るようにやってくるのだ。
「応じた……」
魔獣が向かってくる感触が見えざる糸を通して伝わった。
「魔獣が来ます」
エレーナは精神の集中を途切れさせないように気をつけながら、近くで見守るスパークに呼びかけた。
「承知しました」
若き公王は静かにうなずくと、ギャラックたちに合図を送る。
事前の打ち合わせどおり、近衛騎士たちはエレーナを半円形に取り巻くような隊形に移動してゆく。普段なら、その中心にはスパークがいるのだが、今はエレーナを守るためだ。
ニースとグリーバスの二人は、離れた後方で待機している。魔獣と戦いになったときには、神聖魔法を使って援護する手筈《てはず》になっている。
後は、魔獣がやってくるのを待つだけであった。
予想していたよりもかなり長い時間が経《た》ってから、遠くにヒュドラ[#底本では「ヒュトラ」と表記、284-3]が姿を現した。
体高は人間の五倍ほど、体長はもっと長いということになる。胴体は巨木の幹《みき》ほどに太く、そこから、さながら枝のように九つの首が不気味に生えている。
「来たな」
スパークは小声でつぶやくと、近衛《このえ》騎士たちに弩弓《クロスボウ》の用意をさせた。
長弓《ロングボウ》に比べて速射性には劣るが、威力は格段に大きい。魔獣の硬い鱗《うろこ》も貫くはずだ。
もうひとつ、直接攻撃用の武器として鉾槍《ハルバード》を用意している。長柄《ながえ》の先に斧《おの》と槍《やり》とをつけた棒状武器《ポールウェポン》だ。
歩兵槍《パイク》を使ったアルド・ノーバと発想はほぼ同じだが、突進に対して備えるだけのパイクとは違って、取り回しが効き、突いても切っても使うことができる。渾身《こんしん》の力を振るって命中させれば、魔獣の首を切り落とすこともできるだろう。ただし、扱う人間の技量が要求される武器でもある。今回は近衛騎士隊のなかから手練《てだ》れを選んで連れてきているので、それに関して心配はしていない。
(戦いにならないのが、一番なんだがな……)
スパークは思った。
だが、不安は抑えられない。遠目に見ただけでも、ヒュドラの巨大さには圧倒される。それに比べれば、魔獣使いのエレーナは遥《はる》かに小さな存在だ。
彼女はこれまでに、何体もの魔獣を支配してきたが、これほど大きな魔獣はいなかった。魔獣の強さ、恐ろしさは身体《からだ》の大きさだけで決まるものではないが、直《じか》に目で見ると、やはり衝撃を覚える。
近衛隊の騎士たちも、緊張を隠しきれない様子だった。
汗を拭《ふ》いたり、唇《くちびる》を嘗《な》めるなどして、気持ちを落ち着けようとしている。
九つ首の大蛇は、人間が全速で走るほどの速さで移動しているようで、その姿は急速に大きくなってきている。
見る間に、丘の麓《ふもと》まで魔獣は到達した。
スパークは、カシュー王から授けられた魔法の剣をゆっくりと鞘《さや》から抜いた。
それと同時に、
「魔獣よ、我は汝《なんじ》に名を与えん! 汝《な》が名はギールなり!!」
エレーナが支配のための呪文《じゅもん》を高らかに唱えた。
その瞬間、魔獣の動きが一瞬、止まった。
「成功したのか?」
スパークは思わず一歩、前に乗り出した。
だが、エレーナが同じ呪文をもう一度、繰り返したのを聞いて、彼女が呪文に失敗ということを悟《さと》った。
「ギャラック!」
スパークは警戒の声を上げた。
「公王陛下は下がっていてくださいや」
ギャラックは傭兵《ようへい》時代に武器として使っていた戦斧《バトルアックス》を振り上げながら言った。
「オレよりもエレーナだ! 彼女を守れ!!」
スパークはギャラックに叫び返す。
「承知です。オレたちが時間を稼《かせ》ぎますから、その間に陛下はエレーナさんを連れて下がってください。どうやら、彼女はまだ何かしたいみたいですぜ」
その言葉どおり、エレーナは魔術師の杖を振るって、呪文の準備動作に入っている。
今や魔獣は丘の斜面を這《は》いのぼらんとしていた。もっとも、陸に上がったので、その速度はかなり遅くなっている。
「みなさん、逃げてください! ここは、わたしが……」
エレーナが悲痛な声で、スパークたちに呼びかけた。
「そうはゆきませんぜ!」
ギャラックと五人の近衛《このえ》騎士が、武器を構えて彼女の前に横一列に並ぶ。
そして、スパークは古代語魔法の呪文を唱えはじめた彼女を抱き上げて、後方に下がった。
「無理はするな! おまえたちが魔獣を倒したら、ウッディンに恨まれるんだからな!」
スパークはギャラックたちに声をかけた。
「そんなことは、魔獣に言ってくださいや」
ギャラックは小声でつぶやいた。
とてもではないが、スパークに聞かせられる言葉ではない。
彼とても無理をしたくはないが、魔獣があくまでその気なら、退《しりぞ》けるかどうか分からない。
(ライナがここにいなくてよかったぜ)
ギャラックはふと思った。
彼女の怒った顔が脳裏《のうり》に浮かぶ。彼にとってはある意味、魔獣よりも恐《こわ》い女性だ。
「気合いを入れろよ!」
いよいよ魔獣が目の前に迫ってきた。そして、スパークは丘の向こうに退いている。
「いざというときは、武器を捨てて逃げろ! だが、間違っても後ろには退《ひ》くな!」
ギャラックは戦斧をかざして、ヒュドラを睨《にら》みつけた。
九本の首が流れに揺れる水草のように、ゆらゆらと動いている。
「食いつきにきたら、その首、叩《たた》き落としてやるぜ!」
ギャラックは自らに気合いをつけるため、大声で叫んだ。
そのときであった。
彼の耳に、突然、可憐《かれん》な少女の声が飛び込んできた。
「心を鎮めて……、この戦いは自然ではない……」
その瞬間、ギャラックの心から闘志が消え失《う》せた。目前に迫った魔獣が、まるで子供の頃《ころ》から飼いつづけていた小動物のような気がする。
そのことを、疑間に思うことさえなかった。
少女の声はまだ続いている。それは耳からというより、心に直接、響《ひび》いてくるようだった。
ギャラックは穏やかな目で魔獣を見つめ、その巨体が方向を転じ、ゆっくりと遠ざかってゆくのを見つめる。
配下の近衛《このえ》騎士たちも、去りゆく魔獣に名残惜《なごりお》しそうな視線を送っている。
そして、九つ首の魔獣は完全に視界の外に消えていった。
「スパーク様が丘の麓《ふもと》でお待ちですよ」
ふと我《われ》に返ると、純白の神官衣に身を包んだ少女が、ギャラックのすぐ側《そば》で微笑《ほほえ》んでいた。
「ニース侍祭《じさい》?」
ギャラックは、茫然《ぼうぜん》と大地母神に仕える少女を見つめた。
「マーファ女神に平和の歌の奇跡を願いました。グリーバス司祭は、戦の歌の奇跡を願おうとされていたのですけど、スパーク様の御意志は、この場は退くということでしたから……」
ニースは悪戯《いたずら》っぽく答えて、野営地に戻りましょうと、ギャラックの手を引っ張るような仕草を見せた。
「わ、分かりました……」
ギャラックは母親に諭《さと》された子供のように、少女の言葉に従った。
5[#「5」は見出し]
スパークたちが野営地に帰り着いたときには、すでに夕刻が近づいていた。
そして、日が沈む頃には、付近の探索《たんさく》に出ていたウッディンの部隊も帰還する。
「魔獣の支配には失敗した」
スパークは帰ってきた風の部族の騎士隊長に、今日の顛[#底本では「眞+頁」Unicode:0x985A 289-10]末《てんまつ》を告げた。
「それは残念でしたな。しかし、陛下が御無事で何よりです」
ウッディンは言葉とは裏腹に、さほど残念そうでもない顔で言った。
犠牲者が出なかったことで、ほっとしているのだ。そして、自分に武勲をあげる機会が残されたことを喜んでもいる。
「今日のところは、ニース侍祭の力で戦いは避けられたが、ヒュドラをこのままにはしておけない。この湿原には人間が住んでいる。たった一匹の魔獣に明け渡すわけにはゆかない。公都に襲来《しゅうらい》される危険もあるしな……」
スパークは魔獣との共存を望んでいるから、本来ならヒュドラも倒すべきではないのかもしれない。だが、エレーナによる支配の試みは失敗に終わったし、公国の騎士が五人も殺されている。それをこのまま放置しては、公国の威信に傷がつくのだ。
そしてそれは、軍事力や経済力と同様、国を保つためには欠くことのできないものなのだ。
「そちらの首尾《しゅび》はどうだった?」
「決戦場所を調べてこいとの仰《おお》せでしたが……」
ウッディンは言葉を濁らせて、天幕の片隅に立つハーフエルフの少女を振り返った。
それに気付いて、リーフがスパークたちの側《そば》までやってくる。
直接、聞いてくださいとでも言うように、ウッディンは脇《わき》に寄った。
「いくら探しても、この湿原に十分な平地なんてないわよ。そういう場所には、集落があるしね……」
そして、リーフはそこでよ、と続けた。
「東に行ったところに、真っ黒な水を湛《たた》えた沼があるの。その水は粘《ねば》っこくて臭《にお》いもひどいんだけど……」
「この少女は、その水が燃えると言うのですよ」
ウッディンが顔をしかめながら言った。
「燃える水?」
その言葉に、戦神マイリーに仕えるグリーバス司祭が反応した。
「そうよ、炎の精霊力を秘めた水。ドワーフ族なら知っているでしょ?」
「知っているとも。燃える水も、燃える石も、使いこなせるのは我らだけだからな」
リーフの言葉に、グリーバスはうなずいた。
「平地で数に頼んで戦っても、犠牲者が増えるだけだと思うのよね。だから、その沼に引き込んで、火をつければどうかな? 燃える水と言っても、簡単には燃えないんだけど、わたしが炎の精霊を使うか、アルド・ノーバが炎の魔法を使えば発火すると思う。問題はどうやって、魔獣を誘《さそ》いだすかなんだけど……」
リーフの提案を聞いて、スパークは不思議そうに、宮廷魔術師を振り返った。
「リーフがああ言ってるが、そんなことができるのか?」
「可能だと思います」
間髪《かんぱつ》を入れずに、答えが返ってきた。
アルド・ノーバは、昨日の落ち込みようと比べれば別人のように雰囲気が変わっていた。
覚悟を決めたような顔をしているし、言動からも迷いのようなものがなくなった。
いったいニースが、何と言って彼を励《はげ》ましたのか、不思議なくらいだったが、二人とも詳しい話を聞かせてはくれなかった。
気にならないと言えば嘘《うそ》になるが、詮索《せんさく》していいような問題でもないので、スパークはそれ以上の追求はしていない。方法はどうあれ、アルド・ノーバが自信を取り戻したことは歓迎すべきだった。
「リーフとは別行動でしたので、黒き水の沼を、直《じか》に見てはいません。しかし、燃える黒い水の話は聞いたことがあります。沼に誘いこんで燃える水に火を付ければ、いかに九頭大蛇《ヒュドラ》とはいえ、葬《ほうむ》ることができるでしょう。炎による傷には、魔獣の再生能力も及びません。ただ、どうやって魔獣を誘うかは、わたしの知恵の及ぶところではありません」
「ヒュドラの好物などは知らないのか? それを大量に用意したら……」
ウッディンがアルド・ノーバに問いかけた。
「残念ながら……」
「呼び寄せるだけなら、わたしでもできると思います」
それまで、人々の会話を無言で聞いていたエレーナが、決意に満ちた表情で言った。
「ヒュドラの支配には成功しませんでしたが、呼び寄せることには成功していますもの。もう一度、試みても結果は同じだと確信しています」
「しかし……」
エレーナの言葉を聞いて、スパークは迷った。
彼女の申し出は嬉《うれ》しい。だが、これ以上の負担はかけさせたくなかった。マーモに彼女を招聘《しょうへい》したのは、あくまで魔獣支配の秘術の力が及ぶ魔獣を鎮《しず》めてほしかったからだ。秘術の力の及ばぬ魔獣を処理するのは、マーモ公国の公王である自分の責任だと思う。
「わたしはすでに、マーモ公国の人間のつもりでいます」
まるでスパークの心の言葉を聞き取ったかのように、エレーナが言った。
それで、彼女の覚悟のほどが、スパークにも伝わった。
彼女がそんな気持ちでいてくれているとは、思いもしなかった。
今日のヒュドラとの対決で、マーモに来たことを後悔《こうかい》していてもおかしくないほどである。ところが、彼女はもう一度、危険を冒《おか》そうとしてくれているのだ。
感謝の言葉さえでてこなかった。
どんな言葉を便っても、自分の気持ちは言い表せないだろう。
だから、スパークは何も言わなかった。
その代わり、無言で頭を下げた。
ギャラックとアルド・ノーバ、それにウッディンも彼に倣《なら》う。
「頭をお上げくださいませ」
エレーナは恥ずかしそうに、頬《ほお》を赤く染めた。
「今日の不始末は、魔獣使いとしてのわたしの未熟さのゆえなのですから……」
魔獣使いたる彼女にしてみれば、ヒュドラを倒すしかないことに複雑な思いもあるだろう。それは自分の一部を切り捨てるような行為でもあるから。
「明日で、終わりにするぞ。みんな、今日はゆっくりと休んでくれ」
スパークは全員を見回し、そう呼びかけた。
それぞれの思いと決意を込めた返事が返ってきた。
そして、翌日になった。
夜明け前に靄《もや》がかかったものの、それも朝日が昇ってゆくとともに綺麗《されい》に晴れていった。湿気《しっけ》の多い場所だけに、蒸し暑い一日になりそうだった。
だが、暑さなど魔獣との戦いに比べれば、取るにたらない問題だった。
スパークは野営地を片づけ、荷物などは先に船で公都に帰すことにした。魔獣との決戦に持ってゆくのは、三日分の食糧と武器だけである。
それから、東の山に向かって出発した。
その麓《ふもと》は瘴気《しょうき》を発する毒の沼や黒き水の沼といった、マーモ島の暗黒を象徴するような一帯でもある。嘆きの川セストの汚染源《おせんげん》でもあるだけに、対策を講じたいところだが、人間の手におえるかどうかは分からない。
今日のところは、またもマーモの暗黒を利用することになる。そして異なる暗黒である魔獣を退治するのだ。
矛盾《むじゅん》だな、とスパークは思う。
闇を利用もするし、滅ぼしもする。光と闇の共存などと、理想めいたことを考えたが、現実はこの通りだった。
己の浅薄《あさはか》さを、この暗黒の島に嘲笑《あざわら》われたような気分だった。
光と闇は共存することはできず、闇を滅ぼすため全面的な戦いを挑むべきなのかもしれない。
昼を過ぎた頃《ころ》に、スパークたちは黒い沼に到着した。
「これが、そうなのか……」
実物を目《ま》の当たりにして、スパークは顔をしかめた。
小さな川が沼に流れこんでいて、そして出ている。入ってくるときには澄んだ水が出てゆくときには、どす黒く濁っている。
形容しがたい臭《にお》いが、周囲の空気までも汚染している。
「燃える水は、地下から湧《わ》きだすのだ。遥《はる》かな地下には炎の精霊力が封じられており、それゆえ、このようなものが生成されるのだろう。岩さえも熔《と》けて、水のごとく流れることもある。ひとつの精霊力が強く働きすぎると、他の精霊力を激しく乱すのだ。それはおそらく、神々によって精霊力が分化される以前の混沌《こんとん》なのであろう」
グリーバス司祭がそう説明した。
「混沌か……」
スパークはつぶやいた。
説得力のある言葉だった。目の前に見える光景は、そう形容するしかないように思える。
「……準備にかかれ」
スパークはしばらくのあいだ、異様な沼の景色に心を奪われていたが、やがて全員にそう命令を下した。
騎士たちは口々に応じ、魔獣との決戦のための準備に入ってゆく。武器は昨日と同様、弩弓《クロスボウ》と鉾槍《ハルバード》。だが、最大の武器は目の前に広がる混沌《こんとん》、燃える黒き水だ。
騎士たちの戦いの支度は短時間で終わった。
それを見届けて、スパークはエレーナに合図をした。
魔獣使いの女性魔術師は静かにうなずき、魔獣召喚のための儀式を開始する。
連日の儀式で疲れは極限にまで達しているはずだが、彼女はそんな様子をまるで感じさせない。繊細《せんさい》な印象を受けるが、強い精神を秘めた女性だと、スパークは思った。
彼女はすでにマーモにとって、かけがえのない人物になっている。
召喚の儀式が始まると、スパークたちにできることは待つだけだ。
彼女の集中を乱さないために、誰《だれ》もが無言を保った。もっとも、そんな理由がなくても、全員、黙っていたかもしれない。
魔獣との決戦を前にして、平静でいられるわけがないのだ。
そしてついに、ヒュドラが姿を現した。
魔獣もまた、戦う意志をはっきりと示すかのように、九本の首を高くもたげている。
「いよいよですね……」
スパークの側《そば》にいたニースが、小声で呼びかけてきた。
「今日は、決着がつくまで戦う。ニースは下がっていてくれ。怪我人《けがにん》がでたら、癒《いや》しを頼む」
「無理はなさらないでくださいね」
ニースは言うと、魔獣がやってくるのと反対の方向に去っていった。
「グリーバス司祭、戦の歌をお願いします!」
「心得た……」
グリーバスはうなずき、声の調子を整えるように咳払《せきばら》いをひとつした。
昨日はニース侍祭《じさい》に譲って、戦いは避けた。しかし、今日は戦の神に審判を求める日である。
生きるということは戦いなのだと、戦の神は説く。豊穣《ほうじょう》と多産を司《つかさど》る大地母神は、すべての生命はお互いを育《はぐく》んでいると考えている。
真実はいずれか一方ではなく、双方ともに正しいのだろう。真実を刻《きざ》んだ石版は、表と裏とで正反対の内容が記されているのかもしれない。表だけでも、裏だけでも、真実としては不完全なのだ。しかし、表と裏を同時に読むことはできない。だから、人間は戸惑《とまど》う。偉大なる神々でさえ、真実をひとつに定められなかったのだから……
完全なるものは、唯一《ゆいいつ》にして無二《むに》。
それは世界が創造されるときに死んだとされる始源《しげん》の巨人だけなのだ。そして、世界の終末において覚醒《かくせい》するという終末の巨人。その巨人は次なる世界の始源の巨人でもある。それ以外のものは、完全ならざる宿命を負っていると言えよう。
それゆえ、誰もが迷い、悩む。
定かでない未来のために、現在《いま》という瞬間は常に選択を強いられているようなものだ。そして、その選択の結果が審判され、過去として定められてゆく。その永劫《えいごう》の繋《つな》がりが時間なのだ。
「ここに勇者|集《つど》い、戦いに臨《のぞ》まん……」
グリーバスは低い声で <|戦の歌《バトルソング》> の呪文《じゅもん》を唱えはじめた。
その歌声を聞いた者は、勇気が奮《ふる》いたつと同時に、戦いに臨んで冷静な判断を下せるようになる。騎士たちのあいだから、感動したような声が上がった。
「水の精霊、清らかなる乙女《おとめ》……」
リーフが腰の水袋を開き、あらかじめそこに封じておいた水の精霊ウンディーネの力を解放する。そして精霊魔法の呪文を唱えはじめた。
流れる水は、あるものは沈め、あるものは浮かせる。その力を制御《せいぎょ》して、人間に水上歩行を可能にさせる呪文である。魔獣使いのエレーナに、彼女はそれをかけた。
呪文がかかると同時に、エレーナは真っ黒な沼の水面に向かって、静かに歩きはじめた。彼女は、大地を踏みしめているかのように水の上を、沼の中央に向かって進んでいった。
ヒュドラも、己を呼び寄せた魔獣使いに向かって滑《すべ》るように進んでゆく。異臭を放つ黒き水さえ気にした様子もなく、沼に入った。
粘性《ねんせい》の高い液体のため動きはわずかに鈍《にぶ》ったが、それでも陸上を這《は》うより遥《はる》かに速く、九頭の魔獣は向かってくる。
エレーナは召喚の儀式を終え、近づいてくる魔獣と向かいあう。
「万物の根源、万能の力……」
そして異なる呪文を唱えはじめる。
それは、ヒュドラの九つの頭が彼女を飲みこまんとして争うかのように伸ばされた瞬間だった。
「……我が双脚《そうきゃく》は時空を超える!」
<瞬間移動《テレポート》> の呪文は完成し、エレーナは一瞬にして、スパークたちの遥か後方に移動した。
勢いあまったヒュドラの頭が、黒い水面に突き刺さってゆく。激しい水柱がいくつも立ち上がった。
「アルド、今だ!」
「承知いたしました」
スパークの合図と同時に、宮廷魔術師のアルド・ノーバは、彼が知りうる最強の破壊魔法である火球の呪文《じゅもん》を唱えた。
魔獣の首がふたたび高く持ち上がった瞬間に、彼の呪文《じゅもん》は発勤した。
正面に突きだした|魔術師の杖《メイジスタッフ》の先から、小さな火の球が空中を走った。そして魔獣の胴の近くの水面に触れ、大爆発を起こす。
黒い水が飛沫《しぶき》となって四散し、次の瞬間には紅蓮《ぐれん》の炎に変わった。そして魔獣を飲み込んで、沼の水面を覆《おお》いつくすように広がってゆく。
「やったか!」
騎士の誰かが叫んだ。
「奴《やつ》の息の根が絶えるまで油断するなよ!」
ウッディンが大声で叱咤《しった》した。
「弩弓《クロスボウ》、構え!」
隊長の命令に、二十余人の騎士たちが一斉に弩弓を構える。
魔獣は炎に包まれ、苦しみ悶《もだ》えながらも、沼から二十歩ばかり離れた場所に立つ彼らの方に進んでゆく。
黒煙が噴《ふ》きあがり、まるで地獄のような光景が展開されてゆく。
「奴を陸に上げさせるなよ!」
ウッディンが叫んだ。
「弩弓、撃て!」
炎を切り裂いて、弩弓の矢《クオレル》が飛ぶ。
魔獣の胴に首に、それは突き刺さってゆく。
それでも、魔獣の動きは止まらない。
「ウッディン、下がれ! 放っておけば、このまま焼け死ぬはずだ!」
スパークはそう命令したが、その考えが甘いことをすぐに思い知らされた。
水の下は熱くないことを感じ取ったのか、ヒュドラが水のなかに潜ったのだ。黒い水は水面近くを覆っているだけで、その下には真水があるのかもしれない。
魔獣がふたたび姿を現したのは、岸に近づいてからだった。最後の距離を、炎の壁を突き破るように進む。
「迎え撃つぞ!」
ふたたびウッディンの号令が飛び、彼の配下の騎士たちは武器を鉾槍《ハルバード》に持ち替えた。
ほとんど同時に、九つ首の魔獣が炎の衣をまといながら、上陸した。
「ギャラック! ウッディンを助けるぞ、魔法使いたちは援護の呪文を!!」
そう叫ぶなり、スパークは剣を抜いて駆けだした。
遅れじと、近衛《このえ》騎士隊長とその部下の騎士たちが公王に続く。
ヒュドラは深手を負っている。しかも、再生不能な火傷《やけど》によってだ。
「仕留めるのは容易《たやす》いぞ!」
スパークは騎士たちの士気を高揚させるために、叫んだ。
しかし、他ならぬ彼自身が、その言葉を信じていなかった。この恐るべき魔獣は、まだまだ抵抗を止《や》めないだろうという予感がする。
そして、その予感は正しかった……
戦いが終わったのは、西の山に日が沈みはじめた頃《ころ》だった。
黒き沼はまだ炎上していて、周辺を炎の色で染めている。
立ち上る黒煙は上空を覆《おお》いつくし、その煙に呼び寄せられたように雨雲まで集まり、細かな水滴を落としはじめた。
心なしか、雨粒も黒く見える。
「この雨で、火が消えればいいんだがな……」
スパークはつぶやいた。
だが、それは無理なのだ。グリーバス司祭の話によれば、燃える水は炎の精霊力を放出しつくすまで消えないのだそうだ。いったい、どのくらいの時間、燃えつづけるのか、スパークには想像もできない。
ヒュドラとの決戦は、死闘というのが相応《ふさわ》しいものであった。
九つ首の魔獣は、沼の岸辺に無惨《むざん》な黒こげの骸《むくろ》をさらしている。
マーモ公国の騎士たちも三人が戦死し、十人を超える負傷者がでていた。
死者は公都に運び、埋葬《まいそう》することになる。怪我人《けがにん》は、グリーバス司祭とニース侍祭《じさい》が神聖魔法によって癒《いや》しを行っているところだ。もっとも、意識不明の一人は、このまま意識が戻らないだろうとグリーバス司祭が沈痛な顔でスパークに語った。
「死者たちは、喜びの野に行くのだ。それに相応しい戦いぶりだったからな……」
結局のところ、九人もの騎士が、ヒュドラとの戦いで命を落としたことになりそうだ。それは魔獣の首の数とちょうど同じだった。
皮肉な偶然と、言うべきかもしれない。
「暗黒の島マーモ……」
遥《はる》かな昔から、この島はそう呼ばれてきた。何百年、何千年ものあいだ、そう呼ばれつづけてきたのだ。
「マーモで暮らしはじめて一年余り、公王になってまだ数ヶ月……」
スパークはつぶやく。
最初、彼はこの島の闇《やみ》を完全に消滅させようと思っていた。そして、それが難しいと知って、光と闇の共存を目指そうと考えを変えた。
「それさえも、甘い考えだったのかもしれない」
この島で生き続けるには、やはり闇《やみ》に染まる以外にないのかもしれない。マーモの住人たちのこれまでの生き方こそが唯一の方法であったとも考えられる。
盗賊ギルドによる支配や、ベルドが興《おこ》したマーモ帝国がそれである。
マーモ島にはじめて統一した王国を建て、隣国カノンを模範にしようとしたブルネイ王は、近衛《このえ》騎士隊長の反乱と娘婿たちの離反により、無念の死を遂げている。
このいにしえの王の亡霊《ファントム》を、スパークは彼自身の手で葬っている。
「スパーク様……」
そのとき、怪我人《けがにん》たちの癒《いや》しを終えたニースがやってきた。
神聖魔法の呪文《じゅもん》を何度も唱えたので、さすがに疲れた様子だった。
「スパークでいいさ。今は、近くに誰もいない」
マーモ公国の騎士たちは、撤収《てっしゅう》の準備に追われている。先刻から不機嫌な顔をしていたから、スパークのもとには誰も、リーフでさえ寄ってこようとしない。
「悩んでいるの?」
ニースはスパークの隣に腰を下ろし、声をかけてきた。
「ああ、悩んでいる。オレのやってきたことは間違いだったんじゃないか、無意味なんじゃないかと……」
「ひどい戦いでしたものね。それに、あれほど水が激しく燃えるなんて。リーフにも予想外だったみたい。彼女、すごく悲しんでいたわ。精霊たちにひどいことをしたって」
「同感だ。オレもあんな燃え方をするとは思ってもみなかった。グリーバス司祭だって、同じだろう」
スパークは燃え上がる黒き沼に視線を向け、雨に打たれても火の勢いがほとんど変わっていないことを確かめた。
「また、煙で被害が出ないといいけどな」
「このくらいなら大丈夫でしょう。それに、この雨が悪い煙を空から洗い落としてくれる。そして、大地には浄化の力が備わっているから……」
ニースはそう言うと、濡《ぬ》れて頬《ほお》に落ちてきた髪を、元に戻した。
神官衣も重く湿《しめ》って、肌に張り付いている。何色にも染めていないので、肌が透けて見えそうだった。
それに気付いて、スパークはあわてて彼女から視線を外した。
「今日の戦いで、マーモの闇の大きさを思い知らされた気がする。おそらくこの島には、九頭の大蛇でさえ遥《はる》かに及ばないほどの巨大な闇が潜《ひそ》んでいるんじゃないか。魔獣たちはその闇に追われて、人里に逃げこんできた。ライナが教えてくれた大きな黒い影が、あるいはその正体かもしれない」
「考えられますね」
ニースは、神妙な顔をしてうなずいた。そして、スパークの顔をじっと覗《のぞ》きこむ。
「闇《やみ》の大きさを思い知って、スパークはこれからどうなさいます? 統治の方法を変える、それとも本国に戻るとか?」
「いじめないでくれ。オレはそんなに器用な人間じゃない。今までどおりにやってゆくだけさ。本国に逃げ帰るような真似《まね》もしない。もう後戻りのできないところまで、踏み込んでいるみたいだしな」
「それを聞いて、少し安心しました」
ニースが胸に手を当てながら微笑《ほほえ》んだ。
「マーモの闇は、確かに深い。闇を消し去るのは不可能で、その逆にすべての光は簡単に飲みこまれてしまう。だからと言って、すべてを闇に委《ゆだ》ねるなら、帝国の再建を目指す奴《やつ》らに、この島などくれてやればいい。光の法で治められるなら、神聖王国ヴァリスに譲渡すればいい。しかし、オレは違うやり方を選んだ。光の存在も、闇の存在も認める。滅ぼすべき闇もあるだろう。だが、それはすべてであってはいけない。九頭の大蛇だって、存在していてよかったと思う。どの闇を葬り、どの闇を残すかオレ自身の目で見極めてゆかないとな……」
スパークの言葉に、ニースは静かにうなずいた。
「スパークなら、きっとできるわ」
スパークの肩に額《ひたい》を押しつけながら、ニースはそっと囁《ささや》いた。
(でもね、スパーク)
ニースはそれからの言葉を、心のなかだけで続ける。
(もしかしたら、わたしこそが葬られるべき闇かもしれない……)
アルド・ノーバに語ったすべての秘密を打ち明けたなら、スパークはどう考え、そしてどう行動するだろう?
ニースにはそれが分からない。
しかし、間違いなくこれだけは言える。
マーモの若き公王にとって、最大の試練となるだろう。
そのときスパークが下す決断には、暗黒の島マーモの、呪《のろ》われた島と呼ばれたロードスの、いや世界全体の運命がかかっているかもしれないのだ。
ニースはスパークの肩にもたれながら、夜の闇のなかに揺れる炎をいつまでも見つめていた。
さながらそれは、若い二人の未来のようでもあった。
[#改ページ]
あとがき
『新ロードス島戦記』の第一巻、いかがだったでしょうか。
作者としましては、もちろん自信作のつもりです。『ロードス島戦記』の、そして『ロードス島伝説』の続編なのですから、手を抜けるはずがありません。
それにしても、今回の執筆は大変だった。執筆が遅くて、出版社や印刷所の方々に迷惑をかけるのはいつものことですが、それが半端ではなかった。一分、一秒を争うとはまさにこのことだなとの実感を抱きました。
今回は第一巻なので読者を待たせてはいないはずですが、二巻以降はスケジュールのやりくりが大変なことが今から分かっています。
とにかく、予定されている仕事が半端じゃない。もっとも、そのおかげで今年(一九九八年)はなかなか充実した一年になりそうです。『ロードス島伝説』は完結したし、こうして『新ロードス島戦記』もはじまった。テレビアニメにもなったし、映画にもなった。コミックもどんどん出版されてゆくしで、メディアミクスの醍醐味《だいごみ》を満喫《まんさつ》しています。他の編集部からも、新刊がいくつか出版されてますしね。
二巻が待ちきれないという人は、「ザ・スニーカー」を読んでいただくなり、出版予定に入っているロードスを舞台にした短編集をお買いもとめいただくなりしていただきたいと思います。
僕はとにかく、ラストを読んでもらいたくて小説を書いてますので、どうか最後までおつきあい願いたいと思います。
『ロードス島戦記』の七巻のあとがきで、「日本で一番、幸せな作家」と同業者の顰蹙《ひんしゅく》を買うような発言をしていますが、あれから五年がたってもまだなんとか同じ状況にいます。
これは読者であるみなさんをはじめ、僕を支えてくれるすべての人々のおかげであることは言うまでもありません。本編の主人公であるスパークと同じような気分で、周囲の支えがあればこそ小説家という過酷《かこく》な仕事を続けることができるわけです。
さて、この新ロードスですが、読んでもらえばお分かりのとおり、スパークとニースを中心とした物語になってゆきます。パーンとディードリットの二人については、第I章で登場するシーンも書いたのですが、今回の事件には直接、関係しないので冗長になってはと思い、最後の最後でカットすることにしました。ファンの方々には申し訳ないと思いますが、必要と思えば、今回登場したセシルのように、顔をだすこともあると思います。
どうか、楽しみにしていてください。
ライデン盗賊ギルドの長であるフォースは、ライナとの関係から、すぐにも登場しそうだし、スレインとレイリアの二人もマーモの事件と無関係ではいられないでしょう。
とにかく、あまり先は決めないで、暗黒の島ならではという事件を次々と引き起こし、それを不幸(公?)王スパークと薄幸《はっこう》の少女ニースに解決してもらおうと考えています。
同時に、ギャラックやライナ、グリーバス、アルド・ノーバ、リーフなど、『ロードス島戦記』では十分に描けなかったキャラクターたちの活躍も描くつもりです。それぞれに個性があるので、書いていて楽しい気分になります。
それでは二巻の「あとがき」でふたたびお会いできるのを楽しみにしています。第一巻で未解決の謎《なぞ》のいくつかはそこで明らかになるはずです。
[#改ページ]
[#挿絵(img/N-Lodoss 1_311.jpg)入る]
底本:「新ロードス島戦記1 闇の森の魔獣 水野良」角川書店
平成十年九月一日発行 初版
入力者注:底本は基本的に1頁1行42文字×17行構成です。
数字見出しには2行分のスペースが使われていますが、このファイルでは改行のみの行ではさんで3行を使用して入力してあります。
また、底本では長いルビの場合に元の単語に空白が挿入されていたり、行頭、行末の禁則処理の関係で正確に42文字で折り返している訳ではないので、それら関係から挿絵の位置を適当に修正してあります。