ハイエルフの森 ディードリット物語
水野良
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)金属製の|胸 当 て《ブレストプレート》
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(例)[#ここから目次]
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目 次
妖精界からの旅人
開かれた森
復讐の霧
帰らずの森の妖精
あとがき
[#地付き]口絵・本文イラスト 出渕裕《いずぶちゆたか》
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妖精界からの旅人
大地に刻みこまれた醜《みにく》い傷跡のうえを、ひとりの旅人が不機嫌そうな面持ちで歩いていた。
この大地の傷跡のことを人間たちは街道と呼ぶ。数えきれないほどの旅人たちによって踏みかためられた地面には、草木の精霊の恵みはなく、大地の精霊力の働きさえ驚くほど弱くなっている。
旅人は若葉色のマントを羽織り、吟遊《ぎんゆう》詩人たちがよくするように、羽根付き帽子を頭にのせていた。その羽根付き帽子の両横から、さらに鳥の風切り羽根にも似たふたつの耳が突きでていた。
エルフだった。白銀に近い金色の髪がマントの上を模様のように流れている。風が吹き抜けるたびに、その模様は目まぐるしい変化をみせた。
初秋の穏《おだ》やかな風に乗って、不快な臭《にお》いが漂《ただよ》ってきていることをエルフは先刻から意識していた。何かが焦《こ》げる臭い。そして、優れた視力を持つ水色の瞳《ひとみ》には、前方に立ち昇っている真っ黒な煙がはっきりと捕えられていた。
「また、戦《いくさ》なのか……」
そうつぶやいたエルフの声には、嫌悪と侮蔑《ぶ べつ》の思いがこめられていた。
「まったく、人間という生き物は……」
救いがたい存在だ、と続けようと思ったエルフの口許《くちもと》がふと引き締められた。彼の視界の中に、揺らめく黒煙を背負うかのごとく、今、侮蔑の言葉をぶつけようとしていた当の人間たちが姿を現わしたからだ。
その数は五人。
皆、そろいの格好をしている。革製のズボンと金属製の|胸 当 て《ブレストプレート》といういでたちに、| 剣 《ブロードソード》と| 楯 《ヒーターシールド》とを手にしている。胸当てと楯《たて》のいずれにも、蜘蛛《くも》を意匠《いしょう》化した悪趣味きわまりない紋章《もんしょう》が刻まれている。
それがアラニアという名の王国の紋章であることをエルフは知っていた。五人はおそらく、アラニアの正規兵なのだろう。
彼らはエルフに向かって、何やら命令口調で叫んでいる。止まれだとか、何者だとか、叫んでいるようだった。その言葉は、ロードス島に住むすべての人間たちが話す共通語で語られていた。エルフはそれを理解できるし、読み書きもできる。しかし、怒鳴《どな》るような男たちの言葉は、発音も不明瞭《ふめいりょう》で、何を言っているのかほとんど分からない。結局、相手の意味するところをほとんど理解できないうちに、まわりを取り巻かれてしまっていた。
「わたしに何か用がおありなのかな?」
剣呑《けんのん》な表情で自分を取り囲む兵士たちに動じたふうもなく、エルフはアラニアの兵士たちをぐるりと見回した。
「貴様、エルフだな?」
隊長格らしいひとりの男が、言わずもがなのことを尋《たず》ねてくる。
「見ただけでは分からないのか? それに、できればわたしの質問に答えてほしいのだがな」
「怪しい奴《やつ》め、偉そうな口を叩《たた》く」
男の答は、またもエルフの質問に対する答ではなかった。
「ザクソンの反逆者どもの中には、エルフの精霊使いがまじっていると聞いているぞ」
別の兵士が、そう声をあげた。
「エルフの精霊使いだって?」
もうひとりが答える。
精霊使いと聞いて、五人の兵士のあいだに動揺が走っていた。人間たちが魔法使いに恐れを抱いていることを、エルフは思いだした。
しかし、エルフ自身も男の言葉に動揺を覚えていた。自分以外にエルフの精霊使いがいるという事実に。
「それなら、捕まえれば大手柄だ。公爵《こうしゃく》様から、褒美《ほうび 》が貰《もら》えるのは間違いない」
恐怖よりも欲望のほうが勝ったのか、ひとりの兵士が、今度は舌なめずりする猫のような表情でエルフに向かって剣を抜いた。
エルフは、その男の方に三歩動いた。滑るような動きだった。
「今、エルフの精霊使いがいると言ったな」
一瞬のうちに間合いをつめられ、その兵士は小さく悲鳴をあげながら、一歩後ろに飛びのいた。
「わたしの問いに答えてもらおう。おまえは、今、エルフの精霊使いと言ったのだな」
「おまえだと?」むっとした表情になり、兵士は声を荒らげた。しかし、その声はわずかながら震えてもいた。
「オレ様はラスターV世陛下直属の兵士だぞ。そのオレに向かって、おまえとは何だ。牢屋《ろうや 》にぶちこんでやろうか、それともこの場で切り倒してくれようか?」
言葉は威勢がよいが、他人の地位や権力を誇るあたりは、いかにも人間らしいとエルフは小さく鼻を鳴らした。
「下品な物言いだな。それでなくても、おまえたちの話す言葉には品がないというのに。それよりも、人間とはよくよく他人から尋ねられたことには答えられぬ生き物らしい。わたしの問いに答えてほしいのだが。わたし以外に、エルフの精霊使いがこの地にいるのだな?」
エルフの声は静かなものだった。しかし、それだけに皮肉のようにも聞こえた。
「貴様以外に、エルフの精霊使いがいるはずがなかろう!」
アラニア兵の声は杉の古木でさえも震わせるような勢いであり、顔は晩秋の木の葉のように真っ赤であった。
剣を思いきり高く振りあげ、エルフをまっぷたつに両断せんと腕に力を込めていた。
やれやれ、と心の中でつぶやきながら、エルフは身体《か ら だ》を低く構えつつ、その他の兵士たちの様子をうかがった。残る四人は、まるで事の成り行きを楽しんでいるかのように、口許にうすら笑いを浮かべているだけだ。
それを見届けてから、エルフは男の剣の動きを目で追いかけた。
男は、手負いの野獣のごとき声を上げながら剣を振り下ろしてくる。エルフはそれを身体に触れる寸前で見切り、横にステップを踏んで難なくかわした。
勢いあまって男の上体が、前につんのめる。剣先は激しく地面を叩いて、乾いた金属音を響かせた。
エルフはほとんど無防備になった相手の後頭部を狙って、素速い回し蹴《げ》りを放った。次の瞬間には、足の甲に固い感触があり、アラニア兵は無様《ぶ ざま》に顔から地面に突っこんでいった。
たまらず悲鳴を上げて、男は顔を手で押さえた。指の隙間《すきま 》から赤いものがあふれでてきた。鼻柱が折れでもしたのだろう。自然の大地は柔らかいものなのだ。それを固くした自らの愚かさを悟《さと》るべきだ、とエルフは思った。
「アラニア王国に楯突《たてつ 》く気か!」
「やはり貴様が、噂《うわさ》の精霊使いなんだな」
「あいにくだが、違う。我が身を守ろうとしたまでのことだ」
人間たちが今の言葉で納得《なっとく》するとは少しも思えなかった。それに、今度は相手の言葉をしっかりと聞いた。この地に、自分以外のエルフが間違いなくいるのだ。
剣と楯を構えて四人の兵士が同時に切りかかってきた。今度は手加減できるような余裕はありそうになかった。
「わたしが本気を出せば、おまえたちは死ぬことになるぞ」
エルフはそう警告しながら、風の王を召喚すべく精神を集中させた。
しかし、人間たちは、誰も彼の警告に耳を貸そうとはしなかった。
だから、命を落とすはめになった。
風の上位精霊ジンの魔力によって、ズタズタに切り裂かれた五人のアラニア兵を見下ろしながら、エルフは自分に破壊の魔法を使わしめた人間たちに| 憤 《いきどお》りを覚えていた。野蛮《や ばん》な人間たちと同類になったかのような嫌悪感を覚える。
早く目的を達して、森に帰りたいとつくづく思った。そして、そのための手がかりが、ようやく得られたのだから――
「ディードリット、やっと見つけたようだね」
エルフは大地の傷跡を避けるように、雑草の茂る道端を歩きはじめながら、そう声に出してつぶやいた。
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。混沌《こんとん》たる魔の領域が随所に残されているがゆえに、呪《のろ》われた島≠ニの別名でも呼ばれている。
三十余年前の魔神戦争、そして先の英雄戦争と、呪われた島の風評にたがわず、戦乱のつづく島である。そして、先の戦の残り火は、戦が終わってすでに五年近くが過ぎさろうとしているというのに、いまだに各地でくすぶり、不穏《ふ おん》な黒煙を吐きつづけている。
四百年を越える歴史を持つ、ここアラニアの地も例外ではなかった。先王カドモスZ世の暗殺劇、それにつづく王位継承戦争で国土は荒れはて、千年王国《ミ レ ニ ア ム》と呼ばれた栄華も見る影もなく、暗黒の島から流れでてきた妖魔や魔獣たちが跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する人外魔境のごとくであった。
それを憂う者は多い。だが、憂いを取り除かんと立ち上がる者は少ない。ただ、アラニア王国の北部、白竜山脈の高峰に閉ざされた小さな村に、救国の志を抱く人々が集《つど》っていた。
村の名前は、ザクソン。その村に住む北の賢者《けんじゃ》≠ニ呼ばれるひとりの魔術師が、国の民《たみ》をないがしろにした貴族たちの内乱に対し、村をあげて不服従の姿勢を示したのだ。賦役《ふ えき》を放棄して、自ら村を律《りっ》する。この運動は近隣の村々にも波及し、やがてアラニアからの独立という大きな潮流となった。もとより、王国という権力に対して否定的だったターバのマーファ神殿や、大地の妖精《ようせい》ドワーフ族の協力もあり、独立運動はかなりの成功を収めていた。
しかし、内乱の即時終結、および先王暗殺の張本人であるラスター公爵に対する公開裁判を要求する彼らの主張は、とうてい認められるものではなかった。国王を僭称《せんしょう》するラスター公爵は、たびたび軍隊や傭兵たちを派遣し、ザクソンの反乱を鎮圧しようと試みている。しかも、このラスターの措置に対しては、公爵と戦を交える当の本人であるノービス伯爵アモスンさえ、暗黙ながらに支持している感がある。
支配するだけの対象であった民衆の思いもかけぬ反抗は、数百年という長い歴史を持つアラニアの貴族たちにとって、恐怖《きょうふ》と憎悪《ぞうお 》の対象でしかなかったのだ。かくして、北の賢者とその仲間たちの首に、莫大《ばくだい》な懸賞金がかけられることになった。
北の賢者――
その名をスレイン・スターシーカーという。
「たいへんです。スレイン師!」
玄関の扉が激しい音を立てて開き、金色の長い髪の毛をした若者が、家の中に飛びこんできた。
北の賢者ことスレインは、その声を本棚で四方を取り囲まれた居間の中で聞いた。
そこには、様々な言葉で書かれた書物が並んでいる。
「なんですか、セシル。たいへんです、というあなたの言葉は聞きあきましたよ」
やれやれといった表情で、スレインは居間から玄関へと姿を現わした。右手には分厚い魔法書が抱えられている。
「今回は、本当にたいへんなんです」
セシルと呼ばれた金髪の若者は、心外だといった表情になった。
「南のハナムの村が、ラスター公爵の軍隊に襲われたんです」
「なんですって、それは本当ですか」
いつもはのんびりとした感じのスレインの顔に翳《かげ》りがさした。
「本当です。ハナムから逃げのびてきた人たちが、ついさっきザクソンの南門に着いたんです。アラニア兵は警告も何も与えず、ハナムを襲撃《しゅうげき》したようです。多くの者が殺され、村は焼かれてしまったと聞きました」
「何と非道な……」
そう言ったのは、スレインの後ろから姿を現わした黒髪の女性だった。
彼女の名前はレイリアという。四年ほど前にスレインの妻となり、先頃《さきごろ》、ひとりの娘をもうけている。マーファ神殿の最高司祭を務める母親の名をそのままもらって、レイリアは娘にニースと名付けた。その小さなニースは、今は奥の寝室で安らかな寝息をたてている。
「おそらく、わたしたちへの見せしめにするためにハナムを襲ったのでしょう。うかつでしたね。まさか、ラスター公がここまで徹底するとは思いもしませんでした」
スレインはいろいろと考えをめぐらしている様子で、視線を宙に泳がせていた。そして、居間の方へと戻ると、丸いテーブルの向こう側に腰を下ろした。
「自らの民を手にかけるなど、支配者とは思えないふるまいを……」
レイリアは胸のところで握りしめた左手の拳《こぶし》に力を込めて、マーファの名前を唱えた。
「とにかく、怪我人《け が にん》がいないかどうか見てまいります」
スレインは無言でうなずいて、レイリアを送りだした。それから、彼の初弟子になるセシルを居間へと招きいれると、もっとくわしい事情を教えてください、と尋ねた。
セシルは避難してきたハナムの村人からかなりくわしい情報を聞きだしていた。
襲撃は、夜明けと同時に行なわれたらしい。ハナムには、数十人の男たちで構成された自警団があり、街道の要所に昼夜、見張りを立てていた。その見張りが手を抜いていたのか、はたまた倒されたのかは分からない。とにかく、村は突然の襲撃を受けたのだ。
ほとんど抵抗する暇さえなかった。村人たちは女、子供を逃すことだけに懸命の努力を払ったが、それさえも満足にできなかった。アラニア兵たちは、男たちをほとんど皆殺しにし、まるで野盗のごとく掠奪《りゃくだつ》をほしいままにした。女に乱暴も働いた。中には、子供に手をかけた兵士もいたという。村長の一家も捕らえられ、その生死さえ定かではない。
一瞬前まで平和だったハナムは、惨劇《さんげき》の場と化した。
スレインは、それらの話をいちいちうなずきながら聞いていた。そして、話を聞き終えると、セシルにねぎらいの言葉をかけた。
「嫌な役目だったでしょうが、よく聞きだしてくれました。アモスン伯爵との戦いが膠着《こうちゃく》してきたので、ラスター公爵もこの辺境のことまで頭が回るようになったのでしょう」
「相手は正規の騎士団《き し だん》が一部隊ほどで、かなりの数の兵士を連れているようです。今は、ハナムの村に陣取っていて、おそらく酒宴でも張っているのでしょう」
憎々しげにセシルが言う。この正義感にあふれた若者には、アラニア兵の仕打ちが我慢ならないのだろう。放《ほう》っておけば、今すぐにでも飛びだしていきそうな様子だった。
「あなたの気持ちは分かりますが、おそらく相手は手ぐすねを引いて待ちかまえていることでしょう。ハナムの村を襲ったのは、わたしたちを挑発することが目的のはずですから。それよりも、村の入口を固めて、警戒を怠《おこた》らないように自警団の若者たちに指示してください。それが、自警団の長たるあなたの役割なのですよ」
今すぐこちらから仕掛けないのですか、といった不満が若い魔術師の顔にありありと浮かんでいたが、責任感が人一倍強いこの若者はしぶしぶうなずいた。
そして、肩をいからすように振りむくと、スレインの家から出ていった。
入れ替わるように、妻のレイリアが戻ってきた。
スレインが目で問いかけると、レイリアは静かに目を閉じ、かぶりを振った。
「ひどいものです。とりあえず、傷の重い者だけは癒《いや》しの魔法をかけておきました。残りの怪我人は、村の婦人たちが手当をしてくれています。それより、パーンたちのことなのですけれど……」
「パーンが、どうかしたのですか?」
「ええ、パーンとディードリットのふたりの姿が見えないので、気になって村人に尋ねましたら、彼らはハナムに様子を見にいくと言って出かけたのだそうです」
その言葉を聞いて、スレインは少しだけ顔をしかめた。
「そういえば、すぐに飛びだしてしまいそうな人がもうひとりいましたね。パーンらしいと言うべきでしょうが、もう少し慎重になってもらいたいものですね」
「大丈夫だと思いますわ。パーンも分別を心得ていますし、ディードリットも一緒ですから。きっと言葉どおり、ハナムの様子を見にいっただけなのでしょう」
スレインは静かにうなずき、自分が同じ意見であることを彼女に伝えた。
五年前、あの英雄戦争の始まるころ、スレインはパーンに連れだされる格好で、このザクソンの村での隠遁《いんとん》生活に終止符を打ったのだ。無謀《む ぼう》な若者だった彼に、様々なことを教え、導くつもりだった。
だが、わずかな旅のあいだに、若者は戦士として、人間として、スレインの想像以上の成長を遂げた。途中からは、いったいどちらが教師でどちらが生徒なのか分からなくなるほどに。スレインはパーンの生き方、考え方にいろいろと学ぶことがあった。
自らの持つ知識を、魔術を他人のために使おうという気になったのも、彼と出会い、一緒に旅をしたからこそである。
「この問題をどう解決するかは、パーンたちが帰ってきてから、村全体で話しあうことにしましょう。ここがふんばりどころです。わたしたちの運動が成功するか潰《つい》えるかは、この危機をいかに乗りこえるかにかかっているでしょう」
草むらに身を潜《ひそ》めるように、ふたつの人影があった。
一組の男女だった。男の方は、枯葉色の瞳をこらし、じっと一点を見つめている。灰色がかった茶色の衣服を着ていて、左手は剣を鞘《さや》ごと握っている。一緒にいる女性は、輝く金色の髪をしていた。薄い緑色の短衣の襟《えり》もとからはほっそりと白いうなじが、袖と裾《すそ》からはしなやかな四肢が伸びていた。
パーンとディードリットのふたりだった。ふたりはハナムの悲報を聞くと、取るものも取りあえず村の様子を見にきたのだった。そして、今、ふたりの目の前には変わりはてたハナム村の姿があった。
つい昨日まで、ここで平和な暮らしが営まれていたとは、まったく信じられないような有様だった。家屋は焼け落ち、田畑は鉄靴や馬の蹄《ひづめ》で踏みあらされている。村人たちの骸《むくろ》は、うちすてられたままで、殺されたときの苦悶《く もん》の表情をパーンたちにそのまま見せていた。
「ひでぇ」
声は抑えられていたが、パーンの怒りは激しかった。
村人たちの死体を横目に、何人かのアラニアの騎士や兵士たちが表皮の焦《こ》げた樹木の木陰で雑談に興じている。
パーンがこのまま駆けだしていって、彼らに切りかかりたい衝動と戦っているのが、ディードリットには手にとるように分かった。しかし、今は自制が必要なときであり、そのことは彼も十分に心得ているようだった。
「すぐにザクソンにやってきそうな様子じゃないわね」
パーンの気持ちをほぐすように、ディードリットはささやきかけた。パーンは無言でうなずいて、彼女の背中をかるく手で叩く。
「場所を変えよう。相手の正確な数をつかんでおきたい」
もう戻ったほうがいい、とディードリットは言おうとしたのだが、パーンは腰を屈《かが》めたままの姿勢でさっさと移動しはじめていた。森の中を迂回《う かい》して、村の反対側に出るつもりのようだ。
ディードリットはあわててパーンを追いかける。エルフである彼女の身のこなしは素速く、たちまちパーンに追いついた。たくましい戦士の背中が、視界いっぱいに広がる。この戦士に出会ってからの数年間というもの、ディードリットはこの背中ばかりを見てきたように思う。
「ラスターも、今度ばかりは本気のようだな」
後ろを振り返ることもなく、パーンが声をかけてきた。
「こちらも本気で戦わないとね」
ディードリットが相槌《あいづち》を打つと、パーンは左手の剣を力を込めて握りなおしながら、もちろんだとも、と答えた。
ディードリットは、思わず笑みを浮かべていた。パーンの答が予想したとおりだったから。
そのときだった。
彼女の右手で風が動く気配がした。自然ならざる風、何ものかが空気を切り裂いて、風の精霊が驚きの声をあげたような、そんな感覚だった。
驚いたことに、パーンがすかさず反応していて、剣の柄《つか》に手をかけていた。そして、片膝をついた姿勢になり、風の動いた方向にするどく視線を走らせていた。
「ディード、向こうに何かいるのか。今、何かが動いた気配がしたんだが……」
「風が動いたわ。何かがわたしたちを見ているような……」
ディードリットは、パーンの斜め後ろの位置に立つと、鋭敏な感覚をいっぱいに働かせて、風を動かしたものの正体を見極めようとした。
「アラニアの遊撃兵《レンジャー》かもしれない、気をつけろ」
国土に森林が多いアラニア王国は、森林での戦いに長《た》けた遊撃隊を組織している。彼らは待ち伏せをしたり、または音もなく忍びよっては、弓の一撃で相手を射倒すのだ。
「人間とは思えないんだけど……」
人間には風の精霊を驚かせるような動き方はできないはずだ。こんな動き方ができるものがいるとすれば……
ディードリットの背筋に、ぞくっとするような感覚が走った。
「ダークエルフ!?」
パーンがその言葉を聞いて、ビクリとしたように肩を小さく動かした。
「間違いないのか」
「間違いないとはいわない。でも、いちばん可能性が高いと思う……」
「なぜ、ダークエルフがこんなところに。今度の襲撃に奴《やつ》らが一役買っているっていうのか」
パーンの声が次第に高くなってきているのを、ディードリットは手で合図して抑えようとした。そして、可能性を論じてみたまでです、とスレインの口調を真似《まね》ながらささやいた。
それで、パーンの高ぶっていた気持ちがほぐれたようだった。
「シルフの守りをかけてくれ。遊撃兵にしろ、ダークエルフにしろ、飛び道具で攻撃される可能性が高いだろう」
分かったわ、と答えて、ディードリットは精霊魔法の呪文を唱《とな》えようと右手を真上に差し上げた。
そのとき、ディードリットからすこし離れた樹木の陰から、突然、歌うような旋律の言葉がかけられてきた。そして、木洩《こも》れ陽《び》の中に現われた人影があった。
「あなたは……」
ディードリットはその声を聞いて、その姿を見て、息が詰まるような懐かしさを覚えた。声は、久しぶりだね、という彼女への呼びかけであった。美しく澄んだエルフ語による呼びかけ。ダークエルフ特有のしゃがれたような響きは微塵《み じん》もない。
「エスタス!!」
ディードリットも、エルフ語でそう答えていた。
隣にいたパーンが、事のなりゆきに戸惑《と まど》いながらも、警戒心だけは緩めていた。そして、嬉しそうな、驚いたような表情を浮かべながら、その場で立ちつくしているディードリットの左手をかるく握って、それを揺すった。
「ディードの知り合いなのか?」
「イール・シェラン・ナルセス」
そう答えてしまってから、パーンに対してもエルフ語を使っていたことに気が付いた。
気分を悪くしていないか、うかがってみると、パーンはまったく事態を把握《は あく》できていないようで、ただただ混乱しているばかりだった。
「あの人はあたしと同じ帰らずの森のハイエルフの仲間なの。名前はエスタス」
ディードリットの説明のあいだに、エスタスという名のハイエルフは静かにふたりのそばまで近づいてきた。
「そうか、ディードの昔の知り合いか。じゃあ、オレにとっても友達みたいなもんだな」
無邪気な笑みを浮かべて、パーンは抜いた剣を収めると、エスタスに向かって右手を差し出した。
「はじめまして、オレの名はパーン」
「エスタスだ。申し訳ないが、わたしは人間の習慣には馴染《なじ》んでいないのでね」
エスタスは、パーンの手に触れようとさえしなかった。言葉使いは丁寧だが、態度は冷たかった。気まずさを覚えてパーンは出した手を引っ込めると、腰のあたりについたほこりを払うような仕草をした。
「エスタス!」
その様子を見て、ディードリットは非難の言葉を部族の仲間に向けようとした。
しかし、穏やかに微笑《ほ ほ え》むエスタスの顔を見ると、胸の内から湧きあがってくる|郷 愁《きょうしゅう》のため、それは消えうせてしまった。ふと気を抜いた瞬間、ディードリットはエスタスの胸に抱きしめられていた。
優しい抱擁《ほうよう》だった。パーンの荒々しいそれとは違って、ディードリットは自分が自然に相手の腕に収まっているのを意識した。まるで故郷に抱かれているみたい、と思ったとき、パーンが困ったような表情で、自分から視線をそらそうとするのが見えた。
ディードリットは我に返った。バツの悪そうな、それでいて不満そうな表情で、ディードリットはパーンの腕を強引に両手で抱えこむと、自分に注意を向けさせた。
「ごめんなさい、今はゆっくり再会を楽しんでいるときじゃなかったわね。もう少し、相手の様子を確かめたいんでしょう」
「そうだった!」
パーンは思いだしたようにハナムの村の方を振り返った。
「まったく、しょうがないわねぇ」
ディードリットは噴きだしそうになるのをこらえた。
「相手というのは、あの村に陣取る人間たちのことだな」
「何か知ってるの?」
「ああ、いろいろと調べたのでね。アラニアの兵士の数はおよそ五十だ。騎士が十人、そうでない者がおよそ四十人。そのうち、剣を持っている者が三十、弓を持っている者が十」
「そこまで調べてくれたのか」
パーンは驚いた様子だった。それから、エスタスに感謝の気持ちを表わした。
しかし、エスタスはパーンの感謝の気持ちを冷たく弾《はじ》きかえした。
「おまえのために調べたわけではない。礼など不要だ」
パーンはさすがにムッとした表情になり、何かを言おうと口を開きかけたが、ディードリットにチラリと視線を走らせると、そのままむっつりと黙りこんだ。
「理由はどうあれ、アラニア兵の数も分かったんだもの。助かったじゃない。ここに留まる理由はなくなったんだし、ザクソンに戻りましょう。――エスタスも来てくれるんでしょ」
ディードリットは取り繕《つくろ》うように、ふたりのあいだにそれとなく割って入る。
エスタスは黙ったまま、ディードリットの瞳をじっと見つめてきた。何かを言いたげな表情であった。そんなエスタスの端正な顔が自分の瞳の中に映っていることを、ディードリットは不思議に強く意識した。しかし、彼が何を考えているかは計りかねた。
「とりあえず、君の住まいにお邪魔することにしよう」
しばらくの沈黙の後に、エスタスはつぶやくように言った。
パーンたちがザクソンに戻ってくると、この小さな山村に漂っている空気が一変していた。
シルフさえもが息をひそめたように、かすかな風が吹いているだけで、代りに不安をもたらす精神の精霊が乱舞しているようだった。
「皆、不安がっている……」
ディードリットに、声をひそめてパーンはささやいた。
「こんなときこそ、オレたちがしっかりしなけりゃな」
ディードリットはこくりとうなずいた。
村のあちらこちらで、武器を片手に村人たちが緊張した面持ちで周囲を警戒している姿が見えた。彼らは小さな物音にさえ過剰《かじょう》に反応し、怒ったような脅《おび》えたような表情で、音のした方に視線と武器を向けるのだった。
「パーン、どこに行ってたんです」
と、突然、元気な声が右手から飛んできた。
今、村中でこんな声をあげられる人物は、呼びかけられた当のパーンを除けば、ひとりしかいないはずだ。
声のした方を向けば、思ったとおり、革の鎧《よろい》に賢者の杖《つえ》、そして腰に剣を差した長髪の男が、大股《おおまた》で近づいてきていた。
セシルである。
「それに、お連れの方はどのような素性《すじょう》の方なのですか。どうやら、エルフとお見うけしますが」
セシルの剣幕はかなり荒い。
「何を怒っているんだ。オレが何かしたか」
「あなたに怒ってやしません。ラスター公の非道に腹を立ててるんです」
「気持ちは分かるが、オレはラスターじゃないぞ」
「当たり前です」
セシルはそれから、村人の不安を静められるのはあなたしかいないのだから、よろしく頼みますよ、とやはり激しい口調で言った。そして、あらためて見知らぬエルフの素性について尋ねる。
感情むきだしのセシルの問いに、|嘲 笑《ちょうしょう》めいた笑いを浮かべながら、エスタスは名乗った。
「あたしの知人なの。同じ部族の仲間ね」
ディードリットが、そう説明を付け加える。
ハイエルフが何の用があって、との疑問がセシルの表情にありありとうかんだが、さすがにそれを口には出さなかった。でも、表情に出てたら同じなんだけど、とディードリットは心の中で小さくため息をついた。
「とにかく村が大変な時期です。あまり外に出ていって、皆を不安にさせないでくださいね」
捨て台詞《ぜ り ふ》めいた言葉を残して、セシルは去っていった。彼は自警団に参加している村人の姿を見つけると、そのたびに大きな声を出して細かい注意を与えていた。
「なんだ、今の無礼な男は」
エスタスのつぶやきに、パーンの口許がすこしだけ歪《ゆが》んだ。怒ろうとしたのか、笑おうとしたのかの判断は、ディードリットにもできなかった。
「彼は、ああ見えても魔術師なのよ。そして、わたしの友人のひとりでもあるわ」
もっと友人は選ぶのだな、とエスタスはディードリットに心からといった感じで忠告した。
今度は、パーンの眉がピクリと動いたが、やはり何も口にはしない。
「とにかく、長旅で疲れたでしょう。あたしの家で休んでちょうだい。あなたの口に合うものは、たぶんあたしの家でないと置いていないから」
「オレは村の様子を、一回りして見てくる。君たちはつもる話もあるだろうから」
あきらかに気をきかせたようなパーンの言葉だった。ディードリットの返事も待たず、セシルが消えていった方向に自分も歩きだそうとする。
「パ……」
呼びとめようと口を開きかけたディードリットの右腕が強い力で引き止められた。
「エスタス……」
気を悪くして、ディードリットは自分より長身の男のエルフを見上げたが、どうしても懐かしさのほうが先に立ち、怒ろうとする気力が失《う》せる。
ハイエルフの一族は、お互いに争ったりはしない。一時の感情で、相手を傷つける必要がどうしてあるのだろう。時間がすべてを解決してくれる。そして、ハイエルフにとって、時間は無限にあるのだから。
ディードリットは、人間界に降りてきてより、ずいぶんと感情的になっている自分が恥ずかしく思えた。自分は妖精である。妖精は人間と精霊の中間的な存在だ。物質界と精霊界のはざまの世界に住む者だから。
ハイエルフの営みは、自らの生活とともに、植物の精霊界からもたらされる様々な恵みを受けとり、それを正しく分化して物質界に送りとどけることにある。草木に秘められた力の源は、エルフやグラスランナーなど森林の妖精や草原の妖精の営みがあってこそ、正しく働くのだ。人間たちは知るよしもないが、この世界は無数の精霊の力と妖精の営みの中に存在している世界なのである。でなければ、世界は風も吹かず熱も感じられない虚無の砂漠に覆《おお》われてしまうだろう。
エルフにとって、植物を育む暮らしは別に苦痛ではない。むしろ喜びである。それが自分たちの妖精としての存在理由だからだ。
しかし、人間たちは、自らが世界で果たすべき役割を伝えられる前に、その導き手である神を失ったと伝えられる。だから、人間たちは神を求めてやまぬのだし、自らの生き方、自らの存在理由を知ろうとやっきになっている。
神官たちは限られた神との接触から、人間のありようを解くが、真実の答を得た者はいまだ誰もいない。
エスタスが不審そうな様子で自分をうかがっていることに、ディードリットはやっと気付いた。
「この家には君だけが住んでいるのかい?」
目の前に建っている小さな丸太小屋を見て、エスタスはエルフ語で話しかけてきた。水が流れるような滑らかさと、風がそよぐような響きをした言葉が、ディードリットの頭の中に染みこんできた。
「いいえ、違うわ。さっき人間の戦士がいたでしょ。あの人と暮らしているの」
玄関の扉を開き、エスタスをまず通してから、その背中に向かってつぶやくようにそう言った。
「暮らしている、だって?」
驚いて振り向いたエスタスの声は、掠《かす》れていた。彼の声に雑音が入ったのを、ディードリットは生まれてはじめて聞いた。
「そう、パーンと、あの人と暮らしているの」
ディードリットは、恥ずかしげに顔を伏せた。
「まさか、人間などと……」
エスタスはそれ以上、言葉を続けることができないというように頭を激しく振った。
「まさか、あの男を愛しているのか? ハイエルフの君が、死すべき定めの人間を!」
「ええ」
やはり気恥ずかしげに、しかし今度はきっぱりとディードリットは答えた。
「ときどき、自分でも分からなくなるときがあるけれど」
「なんということだ!」
エスタスは近くにあった木のテーブルに両手をつき、悲しげにかぶりを振った。
「あのとき、わたしが長老を説得したのは、やはり間違いだったのか」
「そんなこともあったわね……」
ディードリットは苦笑した。忘れかけていた記憶がひとつ思いだされる。自分が「帰らずの森」から人間の世界に出たいと言いだしたとき、部族の長老が、いや部族の者全員が反対したことを。
彼女はハイエルフの部族にあって、ここ一千年ものあいだにただひとり生まれた子供だったのである。もはや、子供は生まれぬとあきらめていたハイエルフの部族にとって、彼女の誕生は部族全体の希望のように思えた。全員が大切な生命の樹《き》の苗を育てるかのごとく、彼女の面倒をみてくれた。ディードリットは成人までのきわめて短い期間と、そして成人してからのやはり短い期間、本当に幸せに暮らした。
人間、ドワーフ、| 翼 人 《フェザードフォルク》、いろんな種族の言葉を学び、風や水の精霊を扱う術を学んだ。この世界に存在する危険な敵と戦うために武器の使い方も教わった。もっとも、彼女はあまりいい生徒ではなかったかもしれない。時間は無限にあるのだから、ゆっくりと時間をかけて学べばいいわ、と森の中を遊びまわってばかりいたから……
人間が魔の森として恐れる帰らずの森の中を。
しかし、彼女にとって、あの森は故郷であり、もっとも安全な土地であった。なぜなら、あの森は古代のエルフたちが自らを守るために、魔法をかけた森だからだ。あの森に入った者は誰も出られぬ。木々に眠りの呪文をかけられ、魂だけがいつまでもいつまでも森の中をさまよいつづけるのだ。
ディードリットは、そんな人間たちの魂がさまようのを不思議な気持ちで見ていた。彼らの嘆きや悲しみが理解できなかったから。しかし、常に何かを求めるようにさまよう彼らの姿には、奇妙に惹《ひ》かれるものがあった。
だから、人間の世界に出たいと長老に願いでたのだ。もちろん、反対された。部族の者すべてが反対した。外の世界の恐ろしさ、人間の愚かさを、つぶさに語り、彼女を押しとどめようとした。しかし、反対されれば反対されるほど、また人間のことを教えられれば教えられるほど、外の世界を、人間を見てみたいという思いが強くなった。
そのとき、彼女の味方になって、長老を説得してくれたのが、このエスタスだったのだ。
「あの時、あなたが口添えしてくれなかったら、あたしは絶対にこの世界に来られなかったでしょうね。それは、感謝しているわ」
「わたしは後悔《こうかい》しているよ」
その言葉はエスタスの本心だった。
「教えてくれ、ディードリット。なぜ、人間などと一緒に暮らさねばならない。あの人間とのあいだにいったい何があったというのだ」
「いろいろと、あったのよ」
答えて、ディードリットは静かに目を閉じた。
本当に、パーンとのあいだにはいろいろなことがあった。そして、これからもあるだろう。
「あたしはきっと、妖精になりきる前に人間たちを知ってしまったのね。それを言うなら、ハイエルフの仲間たちはどうなの? あたしたちは抱きしめることができる肉体を持った種族のはず。なのに、精霊のように振る舞ってばかり。肉体に対する執着が薄いからこそ、部族に新しい命が生まれないのではないかしら」
「まさか、あの人間とのあいだに……」
ディードリットの顔が、真っ赤に染まる。
「何を言いだすのよ……」
どう答えていいか分からずディードリットは、耳にかぶさっていた髪の毛を払いのけた。
「まあいい。過去に何があったか、詮索《せんさく》することは無益だ。過去も未来も、わたしたちにとっては現在の延長にすぎないのだから。しかし、君を今のままの現実につなぎとめておくことが、正しいとは思えない」
そして、エスタスは力強く、帰ろうと言った。
「帰ろうって……どこに?」
ディードリットは目をぱちぱちさせながら、彼の言葉の意味を理解しようと、しばらく頭を働かせた。
「もちろん、わたしたちの森にだよ。あの聖なる帰らずの森に」
「冗談じゃないわ!」
ディードリットは、思わず怒りの声をあげていた。
「あたしは森に帰るつもりなんてすこしもないわ。この世界でもっともっと暮らしたいのよ」
「なぜだ、なぜそんなにこの世界にこだわる」
「口ではうまく説明できないけど、あなたにも分かると思うわ。人間たちと一緒に暮らしていれば……」
「分かりたくなどない。君は何を見てきた。同じ種族の仲間と争い、殺しあう人間を知らないはずがないだろう。自分たちが生きていくためでもなく、不必要に生命の営みを、自然の法を壊している人間を知らないはずがない。まるで妖魔のように醜い人間の生き様《ざま》を知らぬわけはあるまい」
「知っているわよ!」
ディードリットは怒鳴りかえしていた。怒鳴ったのは、彼の言葉がすこし辛かったからだ。
「知っているわ。あなたが言ったとおり、人間は決して賢明な種族じゃない。自然の恵みを奪い、自らは決して与えようとしない。精霊たちの存在を感じ、声に耳を傾ける者だってほとんどいない。だから平気で生き物を殺し、自然を破壊していけるのよ」
でも、とディードリットは心の中でつぶやいた。この世界にきた当初は、そんな人間たちに確かに絶望を感じたものだ。嫌悪と侮辱《ぶじょく》の気持ちで心をいっぱいにしていた。でも、そんな人間たちにひとつ見出《み いだ》したものがあったのだ。それで、もうしばらくこの世界に留まろうと決意したのだ。そして、その気持ちは今も同じだった。
「君の心は閉ざされている。誤った思考と感情とで心を支配されている。森に帰れば、きっとそのことが分かるはずだ。だから、わたしと一緒に――」
「いやよ!」
エスタスは、興奮しているディードリットを静めようと両肩に手を伸ばしてきた。その手を、ディードリットは激しく身をふって拒《こば》んだ。
「ディードリット……」
エスタスの声がすこし低くなった。それは、昔、悪戯《いたずら》をした自分を叱るときに使った声色だった。
「わたしは、君を無理矢理に連れかえることもできるのだよ」
ディードリットははっとして、身を固くした。確かにエスタスが本気を出せば、自分など何の抵抗もできずに彼のなすがままにされるだろう。|森の乙女《ドライアード》の魅惑《み わく》の力を使われれば、|眠りの小人《サンドマン》の力を使われれば……
「そんなこと、させないわ」
力なくディードリットは言った。自分の言葉がこれほど虚《むな》しく思えることはなかった。
「もちろん、わたしもそんな野蛮《や ばん》な手段は使いたくないよ。しかし、君は間違った考えに呪縛《じゅばく》されている。その呪い、悪い夢から目覚めさせるためならば、荒療治《あらりょうじ》も仕方ないことだとは思っている」
エスタスの視線は悲しそうでもあったが、それ以上に冷ややかでもあった。ディードリットは、自分が見下されているような気持ちになった。
「間違っているのはあなたよ。あたしは、あなた以上に人間のことを知っている。確かに人間は、エルフの目から見れば愚かかもしれない。しかし、人間から見れば、エルフのほうが愚かなのかもしれないわ」
「人間に弁論術を教わったようだね。問題をすりかえようとしても、わたしは騙《だま》されないよ」
図星をさされて、ディードリットはうなだれた。実はスレインから教わったのである。もっとも、スレイン自身は、理論は知っているもののそれを実践したことはない。いくら理屈を並べようとも、真実が変わらぬことを彼はよく知っているからだ。
「もし、あなたが魔法を使う気なら、あたしも全力で戦うわよ。あたしだって、森を出たときと同じじゃないのよ」
開きなおったディードリットは自分が本気であることを示そうと、精霊を召喚《しょうかん》するときの姿勢をとった。
しばらくのあいだ、ふたりのハイエルフは向かいあったまま、無言で対決した。
「……いいだろう」
根負けしたように、先に表情を緩めたのはエスタスの方だった。
「わたしも、無理強いするのは好みではない。そこまで言うのなら、しばらくの猶予《ゆうよ 》を君に与えよう。先程からの話では、今、この村は存亡の危機にあるようだ。この村での戦いに決着がつくまでのあいだ、わたしはこの村に留まることにしよう。そして、君の言葉が正しいかどうかの判断をわたしなりに下そうと思う。強硬手段に出るかどうかは、その答しだいだ。いいね?」
「そんな勝手なこと……」
ディードリットはまたも挑《いど》みかかるような視線で、エスタスの目をじっと見つめた。自分に邪眼《じゃがん》の能力があればいいのに、となかば本気で考えていた。
「この条件を飲めないというのは、君が自分を偽《いつわ》っているという証拠だよ。自分の考えが正しいと信じられるのなら、決して悪くはない条件のはずだ。違うかい」
「それはそうだけど……」
自分が言い負かされたことを、ディードリットは思いしらされた。エスタスはいったい誰から弁論術を教わったのだろう。きっとスレインよりも優れた教師だったに違いない。
「いいわ……」しばらく唇をかむように沈黙してから、そう返事をした。
「あたしも、人間のすべてが分かっているわけではないの。だから、ちょうどいい機会だわ。あなたと同じく、あたしも人間に賭けてみる。彼らが、あなたを納得させてくれるということにね」
交渉成立だ、とエスタスは微笑んでかるく手を打った。
「それでは、久しぶりに君の手料理をごちそうになろうかな。もう食べられる茸《きのこ》と毒の茸の見分けぐらいつくだろうから」
当たり前よ、と言いかけてディードリットはまたも思いたした。昔、遊びのつもりで作った自分の料理に毒茸を混ぜてしまい、ひとりのエルフ女性に腹痛を起こさせてしまったことを。その女性の腹痛を癒すために、エスタスはわざわざ妖精界まで行って、薬草を集めてこなければならなかったのだ。
自分が小妖精のように小さくなり、エスタスの手の中に収まってしまったような錯覚にディードリットは襲われていた。このままならば、間違いなく自分はエスタスの手の中に入ってしまうのだ。そして、エルフの村に連れ戻されてしまうだろう。
ディードリットは、そんな不安を心の底に押しこめようと、パーンの名前を呪文のように何度も何度も繰り返していた。
「何です、あの不快な男は」
セシルの怒りの声はパーンの右耳に痛いほどだった。
「もっと声を落とせよ」
「これが地声です!」
セシルはまったく悪びれた様子がなかった。
ディードリットと別れてから、パーンは村の守りを調べるために、セシルと一緒になって村中を歩きまわっていた。
「エルフが高慢で鼻持ちならない種族だということを、オレはすっかり忘れていましたよ」
「確かに、あのエスタスとかいうエルフは、好きになれそうな感じじゃないな。しかし、ディードリットの幼なじみだ。歓迎してやらないと」
「あなたはそうかもしれませんが、オレには歓迎する理由はありませんよ。あのエルフは嫌いです。それで十分」
パーンは、この若者が本当にスレインと同じ魔術師なのだろうかと疑問に思うときがある。直情的なところなど昔の自分に似ているとまわりからはよく言われる。しかし、自分が魔術師に向いているなどと考えたことは一度もない。
「それよりもパーン、あなたももとは騎士なんでしょ。だったら分かるでしょう。あなたなら、この村のどこから攻めますか」
「皮肉かよ」
パーンは苦い顔をした。
「皮肉なんかであるものですか。真剣に尋ねているんですよ。どうしたら、村を守ることができますか? ハナムの村を襲った悲劇を、この村に持ちこみたくないのです」
それについては、パーンも同感だった。自分の目で悲劇の現場を見たパーンならばこそ、その思いはセシル以上であった。
「村を焼き打ちにするような連中の考えなど分からないさ。それに騎士といっても、ほんの短いあいだだけで、騎士の儀礼すら身についちゃいないんだ」
しかし、砦《とりで》を攻めるときの心得などについて、パーンは知っているかぎりのことをセシルに教えてやった。語っていくにつれ、村全体を守ることの難しさをパーンは自らも痛切に感じるのだった。
「……城や砦が、民を守るためのものではないことがよく分かりましたよ」
話を聞き終えたセシルがそう言って、ため息をついた。
彼の言うとおりだった。巨大な城塞《じょうさい》都市なら知らず、ふつうの街や村には周囲を覆う高い石垣も、深い堀もない。砦や城は、領主が自らの権威を誇るためと、自分の身を守るためだけにある。
「柵を二重にするとか、できるだけの手段を講じよう。しかし、相手が本気と分かった以上、できれば村にこもって戦いたくない。こちらから出向いていって、村の外で決着をつけたいところなんだがな……」
「そう思うのなら、皆に言えばいいじゃないですか」
「それに、村の人たちが応じてくれるかどうか……」
パーンは、この村がゴブリンの脅威《きょうい》にさらされていた五年前のことを思いだしていた。あの時、ゴブリンを倒しにいくと宣言したパーンに同調してくれたのは、親友のエトだけだった。あの頃とは、村も村人たちもずいぶんと変わった。いや、それは変わらざるをえなかったから、変わったのである。決して、望んで変化したわけではないのだ。
村にこもって戦うなら知らず、こちらから出向いてまで戦う勇気を発揮してくれるかどうか、パーンには自信がなかった。
「やはり、難しいだろうな」
「あなたらしくもなく、ずいぶん弱気ですね。村の人たちもオレたちと同じ気持ちに決まっているじゃありませんか。ハナムの村にあんな不幸をもたらした、ラスター公の軍隊を許すはずがありません。あなたが気が進まないというなら、オレが自警団のメンバーに招集をかけましょう。何人ぐらいいれば、奴らを追い返すことができますか」
「みんなが協力してくれるなら、三十人もいれば何とかなるんじゃないかな。こちらには、魔法使いがたくさんいることだし……」
「それぐらいなら、問題ありませんよ。自警団以外の村人も協力してくれれば、三十人と言わず五十人だって集まるはずです」
セシルは自信ありげに答えて、今すぐ村人に招集をかけますか、と言った。
「今はまだいい。どうせ、今日中には村の集会がもたれるだろうし、敵が罠を仕掛けて待ちかまえているかもしれないからな。本当なら、相手の様子を探りたいところだな。何人の見張りを立てているか、どんな兵の配置をしているか、知りたいことはたくさんある」
「それは盗賊《とうぞく》向きの仕事ですね」
セシルは自分が盗賊の技術をもっていないことを残念がっているようであった。パーンはといえば、シュードやウッド・チャックのことをふと思いだしていた。彼らが今、この場にいれば何と力強いことだろう。
そのとき、向こうから、村の若者たちが近づいてくるのが目に止まった。自警団の若者に違いなかった。三人の男たちが|長 槍《ロングスピア》を片手に、緊張した様子で村の柵の点検などを行ないながら、こちらに向かってやってくる。
「オレが指示を出したんです。三人一組で、村の巡回をするようにと、それから村の南門と北門にも常時ふたりの見張りを立たせてあります」
セシルが胸を張りながら言う。
「自警団の仲間たちは、皆、やる気十分ですよ」
「そうみたいだな」
パーンはセシルの手際のよさに、本気で感心していた。
セシルは、三人の若者に手を振りながら、異状がないか尋ねた。
「今のところ異状は……」
しかし、その若者の言葉は、最後まで語られることはなかった。
パーンの目には、しっかりと見えた。まるで、若者の首筋に突然生えるように現われた、一本の矢が。ぐったりと力を失い、若者は横倒しに地面に落ちていった。
「伏せろーっ!」
パーンは腰の剣を引き抜くと、絶叫しながら若者たちの方に走った。
「パーン!」
セシルがあわてて声をかけてくる。彼にも状況は分かったが、何をすればいいかの判断がついていない様子だった。
「アラニアの遊撃兵《レンジャー》だ。弓矢に気をつけろ。それから、相手の居場所が分かったら、そこに魔法をかけてくれ!」
「どうやって、居場所を突きとめるんですか」
「矢が飛んでくる方向をよく見てろ」
パーンはそう怒鳴って、全速で走った。しかし、彼が若者たちのもとにたどりつく前に、もうひとりの若者が弓矢で射倒されていた。そのおかげでとはとても言えないが、弓矢の飛んでくる方向だけは分かった。
向こうの樹木の上。
パーンは、右に左にとときおり身体を移動させながら、地面を蹴るように走った。と、同時に神経を集中させて飛んでくるであろう矢に備える。
しかし、敵は矢を射かけてこなかった。彼がまっすぐに向かってくるのを認めるやいなや、木から飛びおり、森の中へと逃げだしたからだ。その動きは、まるで獣のように俊敏《しゅんびん》で、パーンが追いつけるとはとても思えなかった。
さすがにアラニアの誇る遊撃兵《レンジャー》である。なぜ、その力が対マーモに向けられないのだ、とパーンは叫びたいぐらいだった。
「セシル、魔法はどうしたんだ!」
パーンは、彼に従って走っているセシルを振り返った。
「魔法なんかかけている余裕がありませんよ」
パーンは敵兵を捕まえるのはあきらめて、倒れた若者の方に駆けよった。すこし遅れて、セシルもやってくる。
ひとりはもはや息絶えていた。首筋を貫通するように矢を受けていたから。しかし、もうひとりの矢は、肩口に刺さっているだけだった。こちらは助かるとパーンは考えながら、傷付いた若者を抱きおこした。
その顔を見て、パーンは全身が冷たくなっていくのを感じた。雪解け水を頭からかぶせられたようなものだった。
若者の顔は紫色に変色していた。口は白い泡をふきながら、パクパクと無意味に動いている。
「矢じりに毒を……」セシルが絶句する。
「セシル、レイリアを!」
「わ、分かりました」
だが、セシルに向けた視線をもとに戻したときには、若者はもう事切れていた。
「セシル!」
パーンは大声をあげて、セシルを呼びとめた。
「もういい。間にあわない」
それから、付け加えるようにそうつぶやいた。
セシルは唇をかみながら、ゆっくりと戻ってきた。
「村人にあまり外に出歩かないように注意してくれ。それから自警団の者たちにも、十分に注意するようにな、遊撃兵はどこに潜んでいるか分からない。どこから、矢が飛んでくるか分からないってな」
自分の力では遊撃兵から村人を守れない。その事実を、パーンは痛切に感じていた。
村の集会は、昼をすぎたころに緊急に開かれた。村の主だった者がすべて集められ、それ以外の者も集会場となった酒場のまわりを取り巻いていた。エスタスは、ディードリットの保護者よろしく集会に顔を出していた。
奇異の目が彼に向けられるたびに、ディードリットは村人たちに事情を説明しなければならなかった。
集会にやってきた全員の顔が重く沈んでいた。
まず、村長のフィルマーが、ハナムの村を襲った悲劇、それから自警団の若者ふたりの死を沈痛な声で告げて、彼らの冥福《めいふく》を祈ろうと宣言した。
しばしの黙祷《もくとう》のあと、村の相談役であるスレインが引き継いで村人の前に出た。
「事情は、今、村長から伝えられたとおりです。わたしたちの運動は、重大な危機にさらされています。今回ばかりはラスター公爵も本気のようです。逆にいえば、今回を乗りきれば、二度と手を出してはこないでしょう」
「それで、スレイン先生。この危機を乗りきれるのですか?」
ひとりの村人が不安そうな声で、そう尋ねてきた。
スレインは、静かに首を振っただけだった。
「何とかしてくれ!」
誰かが叫ぶ。
「オレたちも精一杯のことはする」パーンが立ち上がって、一同をぐるりと見回した。
「だが、それにはみんなの協力が必要だ。これはオレの意見なんだが、村に留まって戦うのは危険だ。犠牲者が増えるだけだからな。だから、こちらから出向いていって、奴らを蹴散らす。それがいちばんの方法だ」
パーンの言葉にどよめきが広がっていくのを、ディードリットは見た。
「あの男の意見は賛成されまいよ。誰も、勇気の精霊を心に持ちあわせていないかのようだ」
淡々としたエスタスの言葉に、ディードリットは無言でうなずいた。
「……あたしにも分かる」
エルフ語で話しているので、誰に聞かれても問題はなかった。パーンだけが、怒りとそして戦う勇気を心に秘めていた。それと、セシル。レイリアとスレインからは不思議に何の感情も読みとれない。おそらく頭の中でいろんな考えが渦巻いているのだろう。
村人たちのざわめきはまだ収まらず、しかし、誰ひとりとしてはっきりと意見を言うものはいなかった。
「心に思っていることを言いだせないなら、こんなところに集まる必要などないだろうに」エスタスが、また批判めいたことを言う。「意見を出したい者だけが、集会にくればよいのだ」
「違うのよ、エスタス。彼らは数で採決するの」
なぜか、弁解するような感じになった。
「数で意見が決まる? もっともよい意見が、通るわけではないのか?」
「何がよいかを判断する基準がないからよ」
「我々、エルフでは考えられないことだな」
ディードリットはうなずいた。
「でも、それはエルフ全員の価値観が大きく違っていないからよ。人間は、いろんな人がいて、それぞれの思いを抱いているの。それをひとつにまとめるのは難しいものなのよ。妖精だって、エルフやドワーフが一緒に集まったら、意見がまとまらないでしょ」
「面白《おもしろ》いたとえをするね、ディード」
エスタスが声をあげて笑った。それで、みんなの非難の視線が集まった。
「パーンの言うことは分かるが……」
雑貨屋を営むモートが、立ち上がって尋ねるようにパーンと向かい合った。
「相手はアラニアの正規軍だ。わしたちが立ち向かえるとは思えん。だったら、このまま村を守って、相手があきらめるのを待つしかないのじゃないかね」
「それがいちばん危険なんだ。このザクソンは砦じゃない。砦でもない場所にこもって戦うなんて、自殺行為だ」
「じゃあ、この村を砦のようにすればいい。石を積みあげて、見張りのやぐらを組んで……」
大工のガーネルが意見を出した。
「時間がない。それに、その作業を進めているあいだに、奴らに襲われたらひとたまりもないだろう。もちろん、長い目で見て、できるかぎり村の守りは固めたほうがいい。だが、今は奴らを追いかえすことがいちばん大事なんだ」
「それに、畑まで石壁で囲うわけにはいかないでしょう」
スレインが意見をはさんだ。
「敵に襲われる不安にさらされながら、畑仕事をしても決していい作物は育ちませんよ。食糧は決して余裕があるわけではないのです」
「それは、難民たちがやってきたからじゃないか」
憤ったように、ひとりが叫ぶと、何人かがそれに同調したような声をあげた。
「何を言ってるんだ。そのために、森を切りひらいて、新しい畑を開墾したんじゃないか。この村の住人の数は以前の三倍に増えている。しかし、畑は四倍になった。それは新しい村人たちの助けがあったからこそだろう」
パーンの驚きが、ディードリットにはありありと分かった。
「早くも仲間割れか……」
揶揄《やゆ》するような調子で、エスタスがつぶやく。
今の意見は、古くから村に住んでいる者たちにとっては、潜在的に抱いている感情であった。自分もこの村で何度か他所者というような扱いを受けたことがあるから分かる。
「人間たちはずいぶん些細《さ さい》なことで、優越感を抱けるものだね」
ディードリットはエスタスの言葉に、反論する気にもなれなかった。
「もとはといえば、独立の運動など始めるから……」
誰かがぽそりとそうつぶやいた。一同が静かになっていただけに、やけにその声はよく通り、酒場中にいる誰もが聞いた。
そして、その声に全員がはっとなった。
重苦しい沈黙が、しばらく立ちこめた。
その沈黙を破るように、スレインが静かに口を開いた。
「わたしたちには、他に選択の余地がなかったではありませんか。新しい村人たちを受け入れるためには、税として納めるべき作物や金貨が必要でした。一昨年に開墾した畑は、昨年にはじめて作物を実らせました。昨年に開墾した畑は今年にやっと収穫できるのです。しかも、ラスター公爵は戦《いくさ》を理由にふだんより多くの税を要求していました。もし、税を納めていれば何人もが飢えて死んでいたでしょう。もしくは、少ない食糧を巡って暴動が起こっていたかもしれません。それに、わたしたちの運動はターバの村をはじめ、近隣の町や村の支持を得て、同調してもらっています。今の意見を、彼らが聞いたら何と思うでしょう。わたしたちの運動は、アラニアを秩序ある国に戻すために必要な行為なのです。そして、内乱をより早く治めさせるためにね。このままでは、アラニアは力を取り戻しつつあるマーモに征服されてしまいかねません」
スレインの言葉は、村人たちには大きすぎる問題で、あまり実感できてはいないようだった。
「税を納めないから、ふだんよりいい暮らしができてありがたい、と言った人間だってこの中にはいるだろう。それを自分たちの立場が苦しくなったからといって、文句を言うなんて自分勝手だぞ」
セシルが拳を振り上げて、怒りの声をあげる。
しかし、その言葉はまったく無視されて、酒場の中にはふたたびざわめきが起こりはじめていた。
フィルマー村長は皆を静めようと試みたが、それを聞こうとする者はひとりとしていなかった。セシルも何度となく怒鳴るが、まったく功を奏さない。
年配の村人たちは、セシルも難民のひとりとしか考えていないことを、ディードリットは知っていた。エスタスに人間の良さを理解してもらわねばならないというのに、正反対の面ばかり彼らは見せてくれる。
ディードリットは焦燥感に苛《さいな》まれ、なんだか悲しくもなってきた。
「今日は、皆も冷静な話しあいができるような状態ではないようだ」
事態の収拾をあきらめて、村長がパーンのそばまでやってきた。
「すこし、待ってもらえんかね。結論を急いでも村の者たちは決して満足はすまい」
「それでは遅い、遅すぎるんです。オレはこれ以上、犠牲者を出したくない……」
「村の者には、気をつけるように言っておく。外出もできるだけ控えるようにな。畑仕事もしばらくは休むしかあるまい。作柄が心配にはなるが、それよりも命のほうが大切だ」
村長の意見はもっともだった。パーンにはうなずくしかなかった。
「それから、パーン。頼むから、彼らを守ってやってくれ」
それには限界がある。パーンは村長にそう答えたかったに違いない。だが、その心とは裏腹にできるかぎり努力します、と彼は約束していた。
そして、集会は解散となった。
「何も結論を出さずに、集会が終わるとは、驚く以外にないな」
それはエスタスの正直な感想だったろう。ディードリットは、ええそうよ、と挑むような調子で答えた。
「まさか、これが当然だと君は考えているのではないだろうね」
「そんなこと、考えているものですか。彼らの話し合いをみているといらいらしてくるわ」
「安心したよ、君もまだ完全に人間の愚かさに毒されてはいないようだね」
そう言って微笑むエスタスの顔を、ディードリットは見る気もしなかった。
「それにしても、人間たちは自分のことしか考えないようだね」
エスタスは哀れむように、解散しつつある村人たちの背中を見つめた。
「この村の運命は見えているよ。村にこもって戦えば、女や子供たちまで危険にさらされる。そんな状況で、実力など出ようはずがない」
「分かっているなら、協力してよ。あなたの力があれば……」
「それは断らせてもらうよ。人間同士の争いに、エルフであるわたしたちが手助けする理由なんてどこにもない。それに手助けしては、人間たちの真の姿を理解することができないからね。君もできるかぎり傍観者となってほしいものだな。わたしに、人間の良さを理解させたいなら……」
「……分かったわ」
ディードリットにはそう答えるしかなかった。自分が積極的に働いて事件を解決させても、エスタスは決して人間を認めようとはしないだろう。
そのとき、パーンがこちらにやってくるのが見えた。彼はさすがに気落ちした様子だった。
ディードリットには、慰《なぐさ》める言葉さえ思いつかなかった。慰めてほしいのは、むしろ自分の方だった。
しかし、パーンは無言で彼女の脇を通りすぎると、自分の考えに耽《ふけ》るように、集会所の出口へと向かった。
「あ……」
差し出しかけていた右手の行き場がなくなり、その手をディードリットはじっと胸に抱えこんだ。そして、こころなしか肩を落としているパーンの背中を寂しく見送った。
パーンの苛立ちは、家に戻ってからも収まらなかった。
珍しく強い酒をあおりながら、怒りの言葉を次々とディードリットにぶちまける。
パーンの気持ちは痛いほど分かるが、今だけは冷静であってほしかった。エスタスが冷ややかな目でパーンの醜態《しゅうたい》を見ているあいだだけは。
パーンと自分の家には、エスタスの他にスレイン夫妻とセシルの姿もあった。さっきの集会で何も決まらなかったので、善後策を検討しようと自然に集まったのだ。
「とにかく、ここで文句を言っててもはじまりませんよ。何を行動すべきか考えないと、村は内側から崩壊してしまいます」
「なぜですか、スレイン師」
「このザクソンの村の結束は、あなたが考えているほど強くはないということですよ」
「人は死を恐れます。もちろん、そうあることが自然なのですけどね。一連の悲劇によって、村人全員が死を身近なものとして捉えているのでしょう。死に脅える人間は、とても弱いものですわ」
それでは困るのだ、とディードリットは叫びたい気持ちだった。死と立ち向かう勇気の精霊バルキリーを自分が操れたら、とさえ思う。
「敵に魔術師がいるのはあきらかですね」
スレインは一冊の書物を家から持ちだしてきていた。用兵学という題名が表紙に書かれてある。
「賢者の学院には、兵法の研究をする人々もいましてね。正面から戦えば倒しがたい敵も、内側より崩していけば意外にもろいものです。相手は心理的な揺さぶりをかけて、わたしたちを内側から切りくずそうとしているわけです。この本に書かれている基本的な兵法ですよ」
「それは成功しつつあるようだな」
エスタスの声は冷たかった。
「残念ながらそのとおりです。相手の打つ手が分かっていながら、どうしようもできないというのは歯痒《は がゆ》いものですね」
「問題なのは遊撃兵《レンジャー》だ。彼らさえ何とかできれば、後は力押ししか知らない兵士だけのはずだ!」
パーンは侮しげに右手の拳を左の手の平に思いきりぶつける。乾いた音が、狭い部屋の中に響きわたった。
「どこから矢が飛んでくるか分からないのですから、手のうちようがありませんよ。森の近くで遊撃兵に戦いを挑むのは無謀としかいえません」
「だから、こちらから出向いていかねばと言ったんだ」
パーンは酒の入った| 杯 《さかずき》を持った右の拳に力をこめた。
「だったら、オレたちだけで行けばどうですか?」
セシルが勢いこんで言った。
「本気で勝てると思っているのですか? それに、たとえ勝ったとしても、何の解決にもなりませんよ。村全体の問題で、わたしたちがいつも動いていれば、村人たちはわたしたちに頼りっきりになるでしょう。それでは困るのです。わたしたちがいなくなったあと、この村がどうなるか心配ですからね」
「オレはセシルに賛成だ。このままじゃあザクソンの村は……」
「パーン、あなたの気持ちは分かりますよ。ですが、考えてください。あなたはいつまでもこの村に留まっているつもりですか? 違うでしょう。あなたには、ウッド・チャックをカーラの呪縛から救うという誓いがあるではありませんか。わたしもそうです。この村の運動を軌道に乗せたら、考えていることがあります」
パーンはうつむいたまま、何かをかみしめるかのようにじっと考えこんでいる様子だった。
「……分かったよ。村の決議の範囲内のことをやれというわけだ。しかし、そのために何人かが死ぬことになるかもしれないぜ」
「それが彼らの決定なのですからね。しかし、そうならないように、全力で頑張るしかありませんね。この仕事は、できればエルフのお客人にも協力してもらいたいのですがね」
「おまえたちに協力する理由はないな」
エスタスは間髪《かんはつ》をいれずに答えた。
セシルとパーンが険悪な顔で、エスタスを睨《にら》みつけた。
「確かに、あなたにお願いする理由はありませんね」スレインはため息をついた。「では、ディードリットだけでもお願いします。森の中で遊撃兵《レンジャー》とまともに立ちあえるのはあなたしかいないのですから」
ディードリットは曖昧《あいまい》な返事をするしかなかった。
「オレは何をすればいい?」
「パーンは、とりあえず村の周囲の警備でしょう」
「スレインは?」
パーンの問いかけにスレインは肩をすくめた。
「弓矢で狙われたら、わたしも村人と同様に無力ですからね。できるかぎり、外出はしないようにしますよ。そして、せっかくエルフのお客人がきておられることです。このロードス島の歴史について、いろいろと教えを乞うつもりでいます。それぐらいなら、協力願えるでしょう」
エスタスはスレインの意外な言葉に、さすがに返事に困った様子だった。
「お引き受けねがえますね」
「教えるのはかまわないが、知識を求めてどうするつもりなんだ。おまえはその知識が、自分の死とともに失われることを承知しているだろう。自らが手に入れた知識を他人に教え子孫に伝えるためか?」
「そんなこと考えたこともありませんよ。あえて言うなら、新しい知識を得ることが楽しいからでしょうね。あまり人に教え伝えたいとは思いませんね」
「あくまで、自分のためというわけだ」
「どちらかといえばね。しかし、わたしが得た知識は、他人の役に立つこともあると思っていますよ。わたしが意識していないでも、おそらく自然にね。わたしが人と交わって暮らしているかぎりはね」
なるほど、とエスタスはうなずいて、スレインの申し出を引き受けた。
「何なら、エルフ語で話してくれてもかまいませんよ。人間の言葉は、あなたがたから見れば曖昧なものでしょうからね」
そうさせてもらおう、とエスタスは答えた。
「スレイン師、今はそんな状況ではないでしょう」
「そんな状況なのですよ。村人たちが決意しない以上、手詰まりの状態なのですからね。とにかく、わたしたちの心配が杞憂《き ゆう》に終わるように願うしかありませんね。いっそのこと、向こうが正面から襲ってきたほうがよほど対処のしようがあるのですがね。セシル、いい機会です。あなたも、エルフのお客人に教えを乞うてはいかがです」
「わたしは、遠慮しておきます!」
セシルはそう言い捨てると、拗《す》ねたように部屋から出ていった。
その後ろ姿を見送ってから、ディードリットはパーンの方に視線を向けた。すると、彼はテーブルに寄りかかるようにしてうつらうつらしていた。
ディードリットは知っている。彼はそんなに酒が好きなわけではないし、それに強くもないことを。彼が酒を飲むのは、死んでしまったひとりのドワーフに話しかけたいがためなのである。
現在の状況がすべて彼の悪夢で、あくる朝覚めれば、いつもの平和なザクソンに戻っていればどんなにかいいのに、とディードリットは願わずにはいられなかった。
しかし、ディードリットの願いも虚《むな》しく、悪夢は翌日もつづいた。その日の朝は、遠くから聞こえてくるけたたましい女性の悲鳴で、浅い眠りから叩きおこされた。
あわてて、ベッドから飛びおきた。
隣のベッドを見れば、パーンは前日の深酒がたたって熟睡している。彼を起こすことはあきらめて、自分はすばやく身支度を整えると、枕元《まくらもと》に立てかけてあったレイピアを左手でつかんだ。
寝室の扉を開けて居間に出ると、予想していたことではあったが、エスタスの姿があった。
彼はスレインに付き合って、ほとんど寝ていないはずだったが、もともとエルフは妖精なので、眠りはそんなに深くない。
「どこへ行くつもりだい」
「今の悲鳴を聞いたでしょ。様子を見てくるのよ」
なぜ、自分の行動をちくいち説明する必要があるのかと腹立たしくなってくる。
「わたしも一緒にいこう。君の最愛の戦士殿は、正体を失って眠っておられるようだから」
その言葉にはたぶんに軽蔑《けいべつ》の響きがあった。酒は少量ならば身体によいが、過ごすと毒となる。それをわきまえていないのなら、酒など飲まねばよい、とエスタスは考えているに違いない。自分だってそう思う。飲みすぎたときのパーンは、正直にいってあまり好きではなかった。
(本当に、しっかりしてよ)
ディードリットは泣きたい気分だった。実は村人もパーンもエスタスもみんなが裏で共謀しあっていて、自分を帰らずの森に帰そうとしているのではないかと勘繰《かんぐ 》りたくなる。
表へ出ると、レイリアが南門の方に向かって走っているのがディードリットの目に止まった。彼女も、夜着の上から旅用のマントを羽織っただけで、いつもの整えられた黒髪にもやや乱れを感じさせる。小剣を片手に、ひとりの村人を引き連れるように駆けている。
「ディードリット!」
彼女も飛びでてきたディードリットに気付き、呼びかけてくる。
「何があったの!」
「ハナムの村長が、南門に倒れているらしいの」
ディードリットは、レイリアに追いつくと、並ぶように走った。
しばらく駆けると、ザクソンの南の出口へたどりついた。門の近くには早起きのパン焼き職人をはじめ、何人かの村人が集まってざわめいていた。
昨日の事件以来、厳重に閉ざされた南門はそのままで、門の外にひとりの男が倒れているのが、門の両横から延びている木の柵ごしに見えた。明け方の淡い光の中でもあきらかなほど、男の衣服は全身が血に染まっており、あちらこちらが破れ、そこからのぞく肌が紫色に腫《は》れあがっている。
ひどい拷問《ごうもん》を受けた後のようだった。馬か何かで引き摺《ず》られたのか、肩口や顔の部分などひどく擦《す》りむけている。
ハナムの村長は、かっぷくのいい初老の男だったが、今や立ち上がる気力さえないように低く呻《うめ》き声をあげていた。生きていることさえ不思議だ、とディードリットは正直な感想をいだいた。レイリアに教えられていなければ、この変わりはてた姿の男が隣村の村長であるとは、絶対に分からなかっただろう。
村人たちは、ハナムの村長の呻く姿を、木の柵ごしに痛々しげに見つめているばかりであった。
「レイリアさん」
彼女の姿を見て、皆があわてて道を開ける。
「あなたがたは、何をしているのですか! 怪我人をそのままにしておくなど、人間としてもっとも恥ずべきことですよ」
レイリアは人々を厳しい口調で叱責しながら、厳重に閉ざされた門の鍵をはずしにかかった。ガチャリと鍵が開くと、今度は重い| 閂 《かんぬき》をもどかしそうに抜き、門を外側に向かって押しひらいた。
レイリアは辺りに伏兵がいないか十分に気をつけてから、門を飛びだし、ハナムの村長のところまで駆けよった。
ディードリットも彼女の後につづくように飛びだすと、怪我人の手当てはこのマーファの司祭に任せて、シルフの守りをかけるべく、風の精霊に向かって呼びかけをはじめた。
レイリアは、時間をかけて呪文の詠唱《えいしょう》を行なっていた。それで、彼女がいつもより強力な癒しの魔法をかけていることが分かった。そうしなければ、間に合わなくなるほど、村長の傷は重かったのだ。
レイリアが大地母神マーファに捧げる祈りが終わるころには、東の森の木々の上から、太陽が姿を現わし、寝覚めの赤っぽい光をはなっていた。
「ありがとう、ディードリット。もう大丈夫、何とか命は取りとめたわ」
レイリアが額に流れる汗を拭いながら、胸にたまった空気を深々と吐いた。
それから、柵の内側に張りつくように見守っている村人に向かって、
「誰でもいいから、手伝ってください。この人をわたしの家まで運ぶのです」
と声をかけた。
その声の迫力に押されて、ふたりの男が門から駆けだしてきた。
そして、気を失っているものの傷が完全に癒《い》えたハナムの村長を抱えて、門の中に引き入れた。
もう一度、あたりに注意を払ってから、ディードリットたちも、門の中に戻った。そして、もとのとおり厳重に閂をかけて施錠する。
レイリアはハナムの村長を自分の家に運びこむよう、村人たちに指示した。ディードリットは、何となく家に戻る気もせず、そのままついていくことにした。当然のように、エスタスもついてきた。まるで、囚人にでもなったような気分だと、ディードリットは思った。
レイリアはハナムの村長を客間の長椅子に寝かせると、寝室に毛布を取りにいった。部屋に戻ってきたときには、眠たげな顔のスレインも姿を現わした。
「傷の具合はどうなのです」
「傷は癒えています」
スレインの問いに答えながら、レイリアはぼろぼろになった衣服を脱がそうとした。と、その動きがふと止まった。
「どうしたの?」
怪訝《け げん》に思い、ディードリットが尋ねると、レイリアは村長の懐から、手紙のようなものを取りだした。
その手紙の表も、村長の血で汚れている。
ディードリットは、それを受けとると、スレインの了解を得て、中の文面を声を出して読んだ。
「……ザクソンの村人たちに警告する。ただちに、アラニア王国に対する反逆をやめ、国王ラスターV世に恭順《きょうじゅん》せよ。恭順の証《あかし》は、滞納せし二年分の税、および北の賢者とその一党の首、従わざる場合は村人すべてを同罪とし、死をもって裁かん。この者は、汝《なんじ》らに対する見せしめなり……」
読みおえたディードリットは、首を振って手紙をスレインに渡した。
「どうするの?」
「そうですね。これは村全体に宛《あ》てられたものですから、村人全員に知らせるべきでしょう。それで、村の人たちがどう決するか、任せることにしましょう」
「正気なの?」
「ええ、すこし寝惚《ねぼ》けていますが、十分に正気ですよ。この手紙を握りつぶせば、村人たちにかえって信頼されなくなるでしょう」
その言葉にレイリアがうなずくのを、ディードリットは見た。
なぜ、スレインたちがかくも村人を信頼する気になれるのか、ディードリットには不思議だった。この手紙を見せれば、昨日の集会どころの騒ぎでなくなるのは、火をみるよりあきらかなのに。
最悪の場合、ラスター公だけでなく、この村の人々からも命を狙われることになるかもしれない。
ディードリットは、エスタスの冷たい視線を背中に感じながら、腹が立つほど穏やかな朝の陽差《ひざ》しの中へと足を踏みだした。
家に戻ったとき、パーンはすでに起きていて、ベッドに腰かけたままじっと何かを見つめていた。
ディードリットと視線があうと力なく微笑《ほほえ》み、どこに行ってたのか尋ねてきた。
ディードリットは彼が寝ているあいだにあったことを、非難の口調で残らず語ってきかせた。
パーンは驚いたような顔で、そんなことがあったのか、とつぶやく。
「何がそんなことがあったのか、よ」
そう言って、ディードリットはパーンの隣に腰を下ろすと、しっかりしてよ、と彼の背中に手をまわした。
「あの警告文を村人たちは、どう受けとるかしらね」
「いくらなんでも、そんなたわごとに耳を貸す奴なんかいないさ」
ディードリットは同意したかったが、今は村人に対する不信感のほうが勝っていて、それはできなかった。
「オレはとにかく、今日一日は村を巡回することにしたよ。遊撃兵《レンジャー》に狙わせて、できれば反対にしとめたいと思うからな。しばらく、相手をしてやれないかもしれないと思うけど、ディードはエスタスの相手をしておくんだ。めったに来ることのない、客人なんだから」
もう少ししたら、彼とは毎日顔を合わせることになるかもしれないわ、とディードリットは心の中でそっとつぶやいた。会えなくなるのは、あなたの方なのよ。
そう思うと悲しい気分に襲われて、ディードリットはパーンの背中に回した左手で彼の服をきゅっとつかんだ。
「あたしたちって、けっこう運命的な出会いをしたと思うけど、やっぱり偶然《ぐうぜん》の出来事だったのよね」
「何、突然、言ってんだ」
パーンは困ったように頭をかいた。寝乱れた褐色の髪の毛が、いっそうひどくなる。
「あたしがいなくなったら、あなたはどうする?」
「いなくなる、だって。そんなこと考えたこともないよ。変だぜ、ディード。今は、それどころじゃないだろう。こんな話は、今度の件に片が付いてからにしようぜ」
そう言い残して、パーンはディードリットの手を払い除《の》けるように立ち上がった。そして、寝室の片隅に置いてある着替えと鎧《よろい》の方に歩いていった。
「あ……」
ディードリットは、振り払われた手もそのままに、そっと目を閉じた。
それでは遅いかもしれないのよ。あたしは、森に連れて帰られることになるかもしれないの。そしたら、二度とあなたに会えなくなるわ……
ふたりの出会いが偶然で、互いを結びつけている絆《きずな》が、とても細くて切れそうだということに、今まで気が付かなかったのが不思議だった。
パーンにとって、自分と村人のどちらのほうが大事なのだろうとの考えも、頭に浮かんでくる。もちろん、比較するようなことでないのは承知している。しかし、ときにはすべてをかなぐりすて、自分だけを見つめてほしいときがある。そして、今がそのときなのだ。
人間だとかエルフだとかは関係ない、それはひとりの女性としての素朴な願いだった。
自分がいなくなれば、この戦士が帰らずの森まで追いかけてきてくれるかどうか、ディードリットは確かめてみたいとも思っていた。
そんな不安に揺れるディードリットを残して、パーンの背中は扉の向こう側へと消えていった。
二回目の集会が開かれたのは、夕方のことだった。
その日も、アラニア兵のザクソンに対する揺さぶりは続いた。遊撃兵《レンジャー》は三ケ所に姿を現わし、毒矢で四人の村人の命を奪《うば》った。その内のひとりは、婦人であり、ひとりはまだ七つになったばかりの少年だった。そして、畑に火が放たれ、麦畑がひとつ完全に焼けてしまった。風が少なく、森に延焼しなかったことだけが救いだった。しかし、何十人かの人間を一冬越させるだけの食糧が灰となって消えた。
ディードリットは集会場に入った途端に、村人の気持ちが昨日以上に揺れ動いていることに気がついた。
怒り、悲しみ、不安、恐怖、さまざまな感情が入り乱れ、その奔流《ほんりゅう》がディードリットを直撃した。目をつぶり、耳を押さえても、その奔流は彼女の心を揺さぶった。自分が精霊使いであることをこれほど呪わしいと思ったことはない。村人たちが昨日以上の醜態をさらすさまが早くも目に見えるようであった。
集会は、まずフィルマー村長が今朝からあった事件について、順に語っていくことからはじまった。そして、命を落とした四人の村人の冥福《めいふく》を祈った。
そして、ハナムの村長がもたらした手紙を、皆の前で朗読した。
その朗読が終わってしばらくのあいだ、集会場には沈黙が流れた。重苦しい沈黙だった。
「さて、昨日の続きです。皆さんは、この危機をどう乗りこえるつもりですか?」
そう問いかけたのは、スレインだった。スレインは驚くほど冷静で、まるでこの集会を楽しんでいるかのような印象さえ受けた。
「ちなみに、北の賢者とはわたしのことです。その仲間とは、妻のレイリアに、パーン、そしてディードリットやセシルのことでしょう」
そんなこと、わざわざ確認しなくてもいいだろうに、とディードリットは心の中で悪態をついた。
村人は、誰ひとりとして意見を発しようとしなかった。集会場の中に漂う重苦しい空気に耐えかねたように、うつむいてじっとしているだけだった。
しかたなくといった感じで、パーンが立ち上がる。
「オレの意見は昨日のとおりだ。こちらから、相手に仕掛ける。それをしないかぎり、犠牲者がどんどん増えるだけだ」
パーンは断固とした調子でそれだけを言うと、腕組みしたまま黙りこんだ。そして、他の意見をじっと待とうとしている。
しかし、意見は何も出てこなかった。
ただ、意識を取り戻したハナムの村長が、ハナムの村を襲った悲劇を涙まじりに語り、自分が受けた拷問の数々を語った。そして、自分の妻と息子が惨殺されたことを訴え、ただ仇《かたき》を討ってくれと懇願《こんがん》した。
しかし、ザクソンの村人たちは首を横に振ったり、ため息をつくだけで、誰も彼の訴えに応えようとするものはいなかった。
「独立なんて夢物語だったのかも……」
誰かがポツリと言った。
「おとなしく税を支払って許しを乞うしか方法がないか……」
別の誰かがそうつぶやいた。
これらの意見に、同調する声があちらこちらから上がってきた。
それを聞いたセシルは、憤慨《ふんがい》の声をあげたが、それはすぐにスレインに黙らされた。
「何度、こんな集会を持とうと同じことだよ。正しいのは、あの戦士の意見だ。そして、その意見を受け入れる勇気がないのだから、この集会では正しい意見を導きだせまい。わたしが議長なら、もはやこの瞬間に集会を終えるね」
「あたしが議長なら、最初から集会なんか開いたりはしない……」
これ以上、エスタスに人間たちの愚かさを見せたくはないから、とディードリットは心の中でそう付け加える。
「まったくだね」
彼女の言葉を冗談とでも誤解したのか、エスタスが声をあげて笑う。
今日は、それを非難する気力がある者さえいなかった。
「もう結果は見えたと思わないかい、ディードリット。これ以上、この村に留まると、君の身が危険だよ。彼らを見舞うであろう悲劇も見たくはないだろうし、いいかげんに森に帰る決心をつけないと……」
「まだよ!」
ディードリットは強く否定した。
「約束どおり、この村の事件に結着がつくまであたしは留まるわ」
ディードリットは、腕組みしたままじっとしているパーンに引きつけられていた。彼が何事かを決意しているのが彼女には分かった。その決意が何かまでは分からない。ただ、奇妙な胸騒ぎがするのだ。
「今日も意見がまとまらないようじゃの……」申し訳なさそうに、村長がパーンに話しかけている。パーンはかすかに微笑んで、仕方がありませんよ、と答えた。
仕方ないではすまないのだ。今こそ、パーンが村人たちを説得し、村の危機を救わねばならないのだ。そうすれば、エスタスも人間をすこしは見直してくれるだろう。
「集会が終わる前に、もう一言だけ言わせてほしい」
暗く沈んでいる村人たちに向かって、パーンは静かに呼びかけた。ディードリットははっと息を飲んで、次の言葉を待った。
「知っている者も多いだろうが、五年ほど前にこの村の近くにゴブリンが住みついたことがあったんだ」
あのときの話か、と何人かの村人がうなずき、いきなり昔話をはじめたパーンに不思議そうな顔で注目する。その話なら、ディードリットも聞いたことがある。
「あのとき、オレはゴブリンの脅威《きょうい》を語り、退治しようとみんなに呼びかけた。でも、それに応えてくれたのは、ここにいる人間の中ではスレインだけだった。そして、彼がいなかったらオレはゴブリンに殺されちまったろう。オレは今でも、あの時の自分が正しいと思っている。ゴブリンはいつかは、オレたちの村を襲っただろう。そして、何人かの命が失われたはずだ。今回もオレは自分が正しいという信念を持っている。その信念をみんなに押しつけようとは思わない。ただ、みんなが自分の気持ちに正直であってほしいと望むだけだ」
パーンはそれだけを言うと、もはやこんな集会に興味はないと言いたげに、出口に向かって歩きはじめた。
何を意図してパーンが今の言葉を出したのか、ディードリットには見当もつかなかった。分かったことは、村人のひとりとして彼の言葉を真剣に受けとめた者がいないということだ。
ディードリットは、肩を落としながら、パーンの背中を追った。
彼女の背後で、フィルマー村長が解散を告げる声が、低く響いた。
パーンは、神経が張りつめるような見回りを一日中していたこともあって、その日は酒も飲まず、すぐにベッドに潜りこんだ。そして、たちまち寝息をたてはじめた。
「いい気なもんだわ、あたしの気持ちも知らないで……」
ディードリットはパーンの寝顔を見つめながら、小さくため息をついた。
パーンを心配させまいと、自分の問題についてはまったく語っていない。話せば、エスタスとパーンとが争うかもしれないからだ。エスタスだって、自分のことを考えてくれているのは間違いない。余計なお世話なのだが、彼の言葉に耳を傾けたくなる自分がいることにも気付いていた。
やはり、自分はエルフなのである。人間の世界で暮らし、人間を愛してはいても、人間になりきったわけではない。
今のザクソンの村人には、彼女は失望していた。自分の命を他人に守らせて平気でいるのが信じられない。村全体のことを考えて、意見を出せる人間がいないことも。
エルフたちの結束のほうが人間たちよりも固い。部族全体のことは、部族を構成するひとりひとりが考え、行動する。そして、個人的な問題も、必要とあらば部族全体で取り組む。すくなくとも、同じ種族同士で争うことはない。ダークエルフとは敵対しているが、それは例外にすらならない。ハイエルフは、彼ら暗黒の種族を、もはやエルフではないと見なしているからだ。
ディードリットは、眠ろうとする努力を放棄した。神経がたかぶって、それどころではない。
静かにベッドから身を起こすと、居間の扉を開けた。
居間の長椅子が、エスタスの仮のベッドであった。もっとも、本心では、森の木の上で眠りたいと思っているだろう。
部屋は真っ暗だったが、精霊使いである彼女は、人の目には見えない光を見ることができる。不自由しない程度に中の様子はうかがいしれた。
エスタスは、毛布を一枚かけて、長椅子に横たわっている。
「エスタス……、起きている?」
すこし間があって、返事があった。
「……いや、すこし眠っていた。いつもより、眠りが深いのは、かなり神経を使っているからだな」
「あなたでも、神経を使うことがあるのね?」
ディードリットはかるく微笑んだ。
「もちろんだよ。人間たちと暮らすのは本当に疲れる。生活は不自由だし、彼らの考えは理解できない。彼らの暮らしぶりを見ていると、いろいろ口を出したくなってくる。君が人間たちに興味を持った理由がすこしだけ分かるな。愚かな人間たちを導きたいという衝動なんだ」
ディードリットは、静かに首を振った。
「それは違うわ。やはり、あなたはまだ人間のことを理解していないようね。もちろん、わたしもまだだけどね。エルフは確かにいろんな点で人間よりも優れている。でも、人間だってエルフより優れた点がいっぱいあるわ。もしも、人間たちが定命の者ではなかったら、間違いなく神にもっとも近い種族だったでしょうね」
「邪神には、近いかもしれないな」
「それも確かよ。彼らは神でもあり、邪神でもあるのよ」
声にこそださなかったが、買いかぶりすぎだよ、とエスタスの表情が語っていた。
「とにかく、わたしは人間を認めていない。君がどう理屈を並べようと、それを聞くつもりはないよ。それに、あの戦士が君にふさわしい人物とも思えない」
「それはあたしが決めることだわ!」
「人間なんかと恋をしても、不幸になるだけだよ」
「間違わないで、エスタス。確かにあなたが相手なら、不幸にはならないでしょう。でも、女性はね、この人となら不幸になってもかまわないって人を選ぶものよ。不幸になりたくないからという理由で、好きになることをためらう女性はひとりもいないわ」
「そんなものかもしれないね」
そう言って、エスタスは珍しく寂しそうな表情を浮かべた。はっとなって、ディードリットは自分が強く言いすぎたのだろうか、と罪悪感を覚えた。
「ただ、ひとついえるのは、部族のみんなは君とわたしが一緒になることを望んでいるってことだよ」
「わたしと、あなたが……」
それは初耳だった。部族の中では、自分はまったく子供としてしか扱われていないと思っていたからだ。
「そしてそれは、わたしの願いでもあるのだよ」
「エスタス!」
ディードリットは絶句してしまった。意外な、意外すぎるエスタスの言葉だった。
「もちろん、エルフ同士の愛情は、百年も千年もかけて育むものだ。生命の樹を育てるようにね。そして、わたしは君とならば、ともに育んでみたいと思っているんだ」
ディードリットは戸惑いを隠しきれない表情で、寝乱れた髪の毛を落ち着けようと、何度も頭に手をもっていった。
「……いきなりな話ね。きっとあなたも人間たちに影響されたんだわ」
「そうかもしれない。彼らは、実に個性的な種族だからね。だから、完全に毒される前に、君を森に連れて帰りたいんだ」
ディードリットは、どう返事をしていいのか分からなかった。パーンからでさえ、ここまで直接的に告白されたことはなかった。
「……今すぐ、返事をしなければならないのかしら」
「今すぐなんて言わないよ。何年、何十年後だってかまわない」
ディードリットは、エスタスの顔を正視することができずに、彼に背を向けるように窓の方に視線を向けた。透明なガラス越しに、静まりかえったザクソンの村が見えた。その中に、ほのかに赤い光を放つものが、ひとつふたつと動いているのが、ディードリットには捕らえられた。
その光は、精霊使いの目でなければ決して見えない光だった。生命を持った生き物が放つ、淡い光――
あれは、人?
警告の声が心の中で鳴りひびいた。ディードリットは、身を固くして、窓に駆け寄った。
「どうやら、囲まれているようだな。アラニア兵の襲撃かな、それとも……」
エスタスの言葉は、ディードリットの心にぞっとするような考えを呼びおこした。
そのとき、寝室の方で激しい音が響いた。
ガラスが割れる音、それから、男たちのあげる怒号のような声が、ディードリットの耳を打った。
「パーン!」
ディードリットは、寝室につながるドアに駆けもどると、その扉を思いっきり蹴りとばした。
中に、数人の男たちが格闘している姿が見えた。だが、誰が争っているのかまで、見分けることはできなかった。
ディードリットはわずかな光を求めて、あたりを見回した。そして、破られた窓から差しこんでくる一条の月明かりを見つけた。
あれで十分。ディードリットは、その先に向かって、右手を差し伸べた。
「草木を育《はぐく》む母なる力。光の精霊よ、あたしのもとへ」
そして、短い精霊語の詠唱とともに、差しだされたディードリットの右手の上に、青白い光の球体がぼうっと浮かびはじめた。
光の精霊ウィル・オー・ウィスプである。
かりそめの実体しか持たぬ、この光の精霊はディードリットの手の動きと共に、寝室の天井近くにまで、すーっと昇っていった。
それで、室内がくまなく照らしだされた。
暗闇《くらやみ》から一瞬で明るくなったために、目のなれない人間たちがまぶしそうに目を覆いかくす。
その中心にパーンの姿があった。彼はどうやら無事のようだ。そして、彼を取り巻いている侵入者たちが三人――
「あなたたちは……」
ディードリットは驚きの声をあげた。その驚きはやがて絶望へと変わっていった。
恐れていたことではあった。侵入者たちは、アラニア兵ではなかった。彼らはザクソンの村人だったのである。
「結着はついたようだね……」
ディードリットの背後で、エスタスの声が冷酷《れいこく》に響いた。
「まさか……、ここまで卑劣《ひ れつ》なことを」
ディードリットは喉《のど》をつまらせながら、三人の男たちを茫然《ぼうぜん》と見つめた。
彼らは正体があきらかにされると戦意を失ったように、うなだれたまま、その場に立ちすくんでいる。
「ディード、助かったよ。彼らを傷つけずにすんだ」
「助かったって、この人たちはあなたを襲ったのよ!」
ディードリットは身をよじりながら、三人の村人たちを指さした。襲われた当人が、なぜそんなことを言えるのだろう。
「そうみたいだな」
パーンはひとごとのようにつぶやき、うなだれたままの三人に向きなおった。その手にも、そして三人の村人たちの手にも、鋭く光る短剣が握られている。
見れば、パーンの右腕に赤いものが一筋流れている。
「どんなつもりで、オレを襲った?」
パーンの声には、三人を責めるような調子はほとんど感じられなかった。
「どんなつもりって……」
ひとりが、つっかえながらも答えはじめた。
「パーンたちを捕らえて差し出せば、オレたちの無事が保証されるっていうから……」
「だから、オレたちを襲ったのか……」
そう言ったパーンの顔がはっとなるのが、感じられた。
「スレイン! それにセシル!」
ディードリットも、パーンが叫ぶのとほとんど同時に思いいたった。
「行きましょ、パーン」
パーンは枕元の剣をひっつかむと、壊れた窓から身を躍らせるように外に出た。ディードリットもウィル・オー・ウィスプについてくるように命じて、表に飛びだした。
「どっちから?」
「二手に分かれよう。オレはセシルの方、ディードはスレインの家だ」
「分かったわ」
パーンと別れて、ディードリットはスレインの家に向かって走った。
しばらく走ると、すぐにスレインの家は見えた。その家に、明かりがともっている。そして、人々が争うような声が聞こえてくる。
そのうち、スレインの家を取り囲んでいる十人ばかりの男たちの姿が見えた。
そして、玄関の前にレイリアが立ちはだかる姿が目に止まった。彼女は武器さえも持っていなかったが、その威厳に気圧《けお》され、暴漢たちは襲いかかるのを止まっている様子だった。
レイリアの凛《りん》とした声が、夜風にのって聞こえてくる。しかし、こちらの暴漢たちは、正体をあきらかにされ、開きなおっているようだ。武器をかざしながら、威勢のいい声だけは上げている。
ディードリットの心の中に、ふつふつと怒りがこみあげてきた。
ここまで、人間たちに裏切られようとは予想もしなかった。人間とは、かくも醜い種族だったのだろうか。エスタスの言うように、自分の目は曇っていたのだろうか。もはや運命は決したといってよかった。エスタスは何があっても、自分を帰らずの森に連れて帰ろうとするに違いない。ディードリットがいくら抵抗しても、結局は彼の思いどおりになるだろう。
もはや、パーンと一緒にすごすことはできなくなるのだ。
目の前の暴漢たちが許せなかった。憎悪《ぞうお 》の炎《ほのお》が彼女の胸を焦がし、その炎が怒りとなって彼女の全身から溢れだした。
「我が盟友たる偉大なる風の王イルクよ。我が召喚に応じ、その姿を現わせ……」
「やめろ、ディードリット。いくらなんでも、やりすぎだ。それに、君はまだ風の王を操るには、力不足」
その声の主はエスタスだった。ディードリットを追いかけてきたのだろう。
昔と同じにしないでほしい。
ディードリットは、そんな制止の言葉に耳をかすつもりはなかった。
自分の最後のひとかけらの希望を奪いさった愚かな人間たちに、復讐してやりたい気持ちで心がいっぱいだった。
「ディードリット! 歪んだ心で精霊を使うのは、ダークエルフのすることだぞ!」
「風よ裂けて刃《やいば》となれ。猛《たけ》き風の王、我が友イルクよ」
ディードリットの強力な精霊魔法は、確実に効力を発揮しはじめていた。自然ならざる風が吹きはじめ、近くの樹木の小枝を揺らしはじめた。
「ディードリット、やめるんだ!」
エスタスの絶叫が届いていた。
「ディードリット、おやめなさい!」
そして、もうひとつ聞きなれた声。スレインの声だった。
いいえ、止めない。ディードリットは、怒りで揺らぐ心を懸命になって集中させようとしていた。呼びかけの言葉を何度も繰り返す。その効果があって、風の王が近づきつつあることを、ディードリットは全身で感じていた。
目標はひとかたまりになっている愚かな人間たち。
しかし、その時、彼女の心に異質な精霊が姿を現わした。
「眠りを| 司 《つかさど》る砂の小人よ。彼女の瞳に砂をまけ、安らかな眠りにさそうのだ」
エスタスの精霊語が唱える呪文の言葉が、耳に聞こえた。そのとき、ディードリットの呪文はほとんど完成寸前であった。が、間一髪でエスタスのほうが早かった。
ディードリットは襲いかかる眠りに抗しきれなかった。エスタスの魔力は、あまりにも強すぎた。次に目覚めたときにはきっと帰らずの森だと、ディードリットは絶望した。そして、意識が闇の中に落ちこんでいった。
「……礼を言わねばなりませんね」
夜着姿のスレインが、蒼《あお》ざめた表情でエスタスに頭を下げた。
「歪んだ気持ちで精霊を使うのは、危険だと教えていたのだが……、なぜ、あれほど自分を見失ったのだろう」
「……分かりません。彼女があれほど感情的になるのは、初めて見ましたよ。彼女は素直で、そして思慮深い女性ですからね。村人たちに対する憤りだけで、あんな真似をするとはとても信じられません」
そして、当の村人たちは自分だちと関係ないところで起こった、何かとてつもない、力のやり取りに毒気を当てられたように、茫然とスレインたちの方をうかがっていた。
「命拾いしましたね。今、こちらのエルフが、ディードリットを止めなかったなら、あなたがたの命はなかったのですよ」
その言葉で、村人たちははじめて事態を悟ったかのように、恐怖の表情をその顔に浮かべた。中には、その場にへなへなとくずおれる者もいる。
と、右手の方から新たな人がやってくるのが見えた。数人の村人たちを急きたてながら、パーンとセシルのふたりが姿を現わしたのだった。
「どうやら、全員無事のようですね」
「無事のようですね、じゃありませんよ」
セシルの怒りの声は、村中に響きわたるかのような大きさだった。
「時間を考えなさい。御近所に迷惑ではありませんか」
「スレイン師、冗談を言っている場合じゃありませんよ。近所迷惑というなら、オレよりこいつらのほうが悪質ですよ。人の寝込みを襲ったのですからね」
「とにかく、最悪の事態にならずによかった」
「最悪ですよ。アラニア兵から狙われるならともかく、まさか仲間と思っていた村人から襲われるなんて」
セシルはそう言って、パーンたちに取り囲まれるようにひとかたまりになった暴漢たちを睨みつけた。
「……オレたちは命が惜しかったんだ。このままじゃあ、間違いなくオレたちは殺される。村中が皆殺しになると思ったんだ。ハナムの村のように」
ひとりの男がそう言って、その場にしゃがみこんだ。どうやら、この男が首謀者のようだ。驚いたことに、彼は自警団の一員で、セシルがもっとも信頼するひとりであった。名をエイビスという。
「あんたがたさえ、犠牲になってもらえば、村全体が救われるとそう思ったんだ。あんたがたは、いつも村の事を考えてくれていたじゃないか。だから、今回も村のために……」
「お断りだな」
きっぱりとそう言ったのは、パーンだった。
「間違えてもらっちゃ困る。オレは今まで、自分を犠牲にして戦ってきたんじゃない。オレ自身が望んだからこそ、剣を振るってきたんだ」
そして、パーンは持っていた剣をスラリと抜きはなった。
暴漢たちが恐れたように、その刃《やいば》を見つめる。
「オレたちを殺して村が救われると思うなら、もう一度機会をやってもいいぜ。ただし、その時はオレも全力で戦う。そうすれば、あんたらの中でも、何人かは命を落とすことになるだろう。その覚悟があるなら、オレは逃げたりはしない」
「パーン……」
エイビスはパーンを見上げたまま、身じろぎさえしなかった。
「オレが村のために、喜んで犠牲になるだって? オレはそこまでお人好《ひとよ 》しじゃない。命を捨てるとしたら、オレが選んだ人のためだけだ。あいにくと、あんたたちは違う」
パーンから視線をふとそらし、エイビスは小さくすすり泣きはじめた。
「……オレには妻がいるんだ。ふたりの子供もいる。家族を殺されたくなかったんだ。ただ、それだけなんだ」
「だから、他人を殺すか。なるほど、人間らしい論理だな」
そう言いながら、エスタスは眠りに落ちたディードリットを静かに抱きおこした。
「ええ、もっとも人間らしい論理ですよ。エルフのお客人。わたしだって、妻と子供のためなら、同じ選択をしたかもしれません。自分のもっとも身近な人間から大事にしていくのが、人間という生き物なんですよ」
スレインの言葉にエスタスはすこし鼻を鳴らしただけで、何も答えなかった。
「ディードリットは、わたしの家に運んでください。しばらく、そっと寝かしてあげましょう。さきほどは、かなり自分を失っていた様子ですから。彼女に何かあったのですか?」
レイリアが問いかけるような視線をエスタスに向けてきた。
エスタスには思いあたる節があったが、何も答えなかった。彼女は、今、誤った考えに捕らわれているだけだ。帰らずの森に戻れば、きっと目を覚ましてくれる。
ふと、若い戦士の方を見ると、彼はすすり泣いている暴漢を、ただじっと見下ろしているだけだった。彼が何を考えているのか、見当もつかなかった。
「もういい。とにかく、家に帰りな。そして、アラニアの軍隊が攻めよせてくるまで、震えているがいい。残念だが、あんたにはオレは殺せないぜ。そして、家族だって守ることはできないだろう」
そして、パーンはくるりと向きなおると、エスタスの方に歩みよってきた。
「あんた、ディードに何か言ったろう。あんたが来てからというもの、あいつの様子はずいぶんおかしい。何かを話しあぐねているみたいだしな。こんなことは今までなかったことだ」
「……何もあるものか」
エスタスは静かに首を振っただけだった。自分は間違っていない。これ以上、人間たちの間で暮らさせることは、彼女にとって幸せであるはずがない。いつ、命を失うかもしれないのだ。それは、さっきの出来事で証明されている。
しばらくのあいだ、沈黙が流れた。その沈黙の中を、エスタスはディードリットを抱え、スレインの家に運びこもうとした。
「ディードリットは、頃合《ころあい》を見計らって、魔法を解いておきますよ。今は、魔法の眠りであれ何であれ、寝かしているほうがいいと思います」
「頼むよ、スレイン」
ディードリットの顔を見つめたまま、パーンは静かに言った。
「さあ、皆さん、解散です。家に戻って、冷静に考えをまとめてみなさい。自分たちの置かれている状況がよく見えることでしょう。それから、睡眠不足では戦いになりませんよ」
誰と戦うつもりなのやら、とセシルが皮肉っぽい言葉を吐いた。
「セシル、彼らをあまり責めないように。わたしは、彼らのような考えの人がいることも十分に承知してましたよ。でも、できれば集会の場で自分の考えを言ってほしかったものですね」
そして、スレインはセシルとパーンに今夜はわたしの家に泊まりなさい、と言った。
セシルはうなずいた。
「いや、オレは遠慮しておくよ。鎧と楯を家に置いているしな。もう大丈夫だと思うが、みんなも気をつけてくれ」
パーンは首を振って、自分の家に戻っていこうとした。
「あなたこそ……」
スレインの声が背中から聞こえてきた。
パーンは、振り向くこともなく、右手だけを上げてスレインに挨拶《あいさつ》を送った。
パーンは、静まりかえった自分の家にひとり戻ってきた。
玄関には内側から鍵がかかったままなので、破れた窓から中に入らねばならなかった。寝室中に散乱する窓ガラスの破片を見ながら、ベッドで寝るのは危険だな、とひとりつぶやく。
それから、パーンは寝室の片隅に組んで置いてある甲冑《かっちゅう》の所に歩いた。それは亡き父が残した鎧ではない。風の塔≠フ宝物庫で見つけ、自分の意志で身につけることを選んだ魔法の鎧だった。
楯と剣も同じ魔術師によって、魔力が付与されたものだ。この一式の武具にどんな隠れた魔力があるのか、スレインはいまだ解明していないが、かなり強力な魔法がかけられているのは、間違いないという。
パーンは鎧や剣にかけられた魔力を当てにはしていない。だが、自分の身体にしっくりと馴染むのが気に入っている。これは自分の鎧であり、楯なのだ。
パーンは鎧に手をかけると、ゆっくりと止め金をはずし、分解しはじめた。そして、はずした部分を自分の身体にひとつずつ、装着していく。
夜着代わりに綿入れを身につけて寝ていたので、鎧はしっかりと彼の身体の一部になっていった。脛《すね》当てを付け、鉄靴を履く。鎖かたびらを頭からかぶり、胸当てと背当てをつける。
身体が鎧に覆われるたびに、心が引き締まっていくように思う。自分が戦士であることを自覚する瞬間である。
鎧をつけおわり、パーンは左の腰から剣を吊した。そして、楯の革紐《かわひも》を左腕に通すと、完全に準備は整った。
パーンは寝室から居間、そして玄関へと抜け、簡単な構造の鍵を内側から開いた。
そして、誰もいない室内を一度だけ振り返った後、暗い夜の闇の中へと力強く、一歩を踏みだした。
「こんな夜中に、いったいどこにいくつもりだ」
横あいから呼びとめる声があり、パーンは顔だけを声の方に向けた。そこにエスタスの姿があった。
「……今度のことに決着をつけるためさ」
「アラニア兵のところに行くのか? 分からんな。おまえは、さっき村人のために犠牲にはならんと、あんなに言ったばかりではないか」
「犠牲になんかならないさ」
パーンは答えて、南門へ向かう小道を歩きはじめた。エルフの静かな足音がすぐ後ろに聞こえた。
「ひとりであの人数に勝てると思っているのか?」
「まさか、オレはそんなに頭は悪くないぜ。まあ、あまりいいとはいえないけどな」
「頭の善し悪しは別にして、おまえの意見は正しかったと思うぞ。今、しようとしていることは別にしてな」
「正しいとか、間違ってるとかそんな問題じゃない」
パーンの歩みは規則正しく、すこしの乱れもなかった。
「ディードリットを悲しませるつもりか? さっき、彼女があれほど取り乱した理由を、おまえは知っているか?」
その言葉で、ようやく足を止めて、パーンはエスタスの方を振り返った。
「……いや、見当もつかない」
エスタスは、手短に自分がこの人間の世界にやってきた理由と、彼女に突きつけた条件を説明した。
「……それで、ディードの様子がおかしかったのか」
「そうだ。わたしは、彼女がこのまま人間たちと暮らしているのはよくないことだと思う。おまえたちは、まだ種族として未熟すぎる。だから、我々ハイエルフの一族は帰らずの森を閉ざさねばならなかったのだ」
「確かにあんたたちから見れば、人間は愚かかもしれないな」
今度はエスタスと並ぶように歩きながら、パーンは独り言のようにつぶやいた。
「でも、人間だってそう捨てたもんじゃないと思うぜ」
「まるで説得力がないな。おまえが、さっき見下ろしていた人間たちは、いったい何だ。自分のことしか考えない、まったくの利己主義者ではないか。わたしたちエルフは、もっとお互いを大事にしている。だから、わたしはディードリットを不幸にしたくはないのだ」
パーンは南の門を開けることなく、横の木柵を乗り越える。着地のとき、やや地面に足を取られてつんのめった。一方のエスタスは、ヒラリと華麗に降り立った。
パーンは口許にかすかな苦笑いを浮かべた。
「だけど、人間とエルフはそんなに違っていないと思うぜ。オレたちは、確かに利己的で自分がいちばん大事だけどな。でも、やっぱり仲間のことを考えている。人間という仲間全体のことが大事なんだ」
「だったら、なぜ争う」
「だから、まだ愚かなんだろ。それに、あんたがたのように時間をかけて分かりあうような余裕もないしな。オレなんか、性急にことを運びすぎるって、よくスレインに説教をくらうぜ」
「わたしも、同意見だな。おまえは、今も性急にことを運ぼうとしているぞ」
「そうだな。でも、オレにはこんなやり方しか思いつかないんだ。他に村を救う方法が思いつかない……」
分からんな、とエスタスは何度も繰り返した。人間たちの中でも、この男がいちばんよく分からなかった。
「オレだって、何かが分かってやってるわけじゃない……」
エスタスはすでに立ち止まっていた。しかし、若い戦士はあいかわらず規則正しい足音を残しながら、大地の傷跡の上をなぞるように歩いていく。
「おまえは、大|馬鹿者《ば か もの》だ」
エスタスは闇の中に消え去っていく戦士に向かって、最後にそう叫んだ。
あの若い戦士の運命は、彼にはあきらかだった。なぜか、釈然としない気持ちだった。エスタスは、この戦士が取った行動を、誰かに伝えておこうとだけは決意した。おそらく、あの痩《や》せた魔術師がいいだろう。
しかし、あの人間を救おうと思う者が何人いることだろう。彼は、死地へと向かって、歩みさったのだ。
10
何事もなかったように、その日の朝が明けた。
村人たちは目覚めると、自分が眠っているあいだに暗殺者の刃にかからなかったことを神に感謝し、無慈悲な遊撃兵《レンジャー》の毒矢が自分や家族の者に向けられないことを祈った。
「集まれ――。全員、村の広場に集まれ――」
その声は、突然、聞こえてきた。怒ったようなセシルの声だった。
何事が起こったのだろうと緊張しながら、村人たちは簡単に身支度をすませ、広場へと向かった。
村の広場に集まってきた村人たちの中で、眠そうな表情を見せている者はひとりとしていなかった。しかし、彼らの昨晩の眠りが快適なものでなかったことは、真っ赤に充血した目をした者が多いことで容易に知れた。
村の広場はザクソン村のほぼ中央に位置している。この広場のまわりに、雑貨屋や宿屋といった店屋が軒をならべ、朝から晩まで村でいちばんの賑《にぎわ》いをみせる一角である。村の収穫祭のときなど、村全体で取り組む行事があるときにはいつもこの広場が会場とされる。
そこに、ザクソンの村人たちが集まりつつあった。
広場の中央には、大きな木の切り株がひとつ残されている。よく演壇に使われるのだが、その切り株の上に、魔術師の正装をしているスレインの姿があった。
そのスレインのすぐ近くに、ディードリットはいた。
彼女の顔は蒼白で、まったく血の気をうかがわせなかった。左手が落ち着かなげにレイピアの柄をいじくっている。髪の毛をうっとうしそうにかきあげては、その手で額を拭うような仕草を何回もしている。
ディードリットは夜が明けてすぐ、エスタスによって魔法を解かれた。魔法をかけられたことに、怒りはなかった。取り乱したまま精霊の力を使おうとしていたことのほうが悪い。冷静になって考えれば、あの場で彼らを殺してしまえば取り返しのつかないことになっていたはずだ。
その礼を言わねばと思った矢先に、エスタスからパーンのことを教えられた。彼女は話が終わるのを持てずに、外に飛びでようとした。しかし、それはエスタスやスレインによって止められた。
ひとりで行っても結果は変わらない。ふたりの意見は一致していた。
そして、スレインはセシルに命じて村人全員に集合をかけたのである。そして、自分は賢者のローブに身を包み、同じく賢者の杖を手に取った。そして、今、この場に臨んでいるのである。
切り株の上に立つ、彼の表情は厳しかった。
「皆さんに一言告げたいことがあります。それで皆さんに集まってもらったのです」
大方の人々が集まったのを見計らって、スレインは高らかに呼びかけた。その中には、昨日、スレインたちを襲ったエイビスたちの姿もあった。彼らの顔は自分たちが告発されるという確信のためか、落ちつかなげな様子だった。
「パーンがひとりで南の村に旅立ったそうです。今度の事件に決着をつけるためにね」
村全体がその一言でざわめいた。
「それだけです。わたしは、これから彼を追いかけます。彼をひとりで行かせてはならないからです。彼に五年前と同じ過ちを繰り返させないためです。今度の相手はゴブリンたちとは比べものにならない相手です。きっと、取り返しがつかないことになるでしょう」
スレインはそう言って、あわただしく壇上を降りた。次の言葉を期待していた群衆たちは、それであっけに取られた。
「ディードリット、行きますよ」
ディードリットはうなずくと、駆けるように広場を去ろうとした。こんな、手続きを踏まねばならないことが彼女にはもどかしかった。しかし、スレインはめずらしく強硬にディードリットに、村人たちに事実を告げるまでは待つようにと言ったのだ。
無駄に時間をすごしたというあせりの気持ちだけしか、ディードリットにはない。スレインには何かかんがえがあってのことだろうが、それが何かディードリットは分かりたくもなかった。
今、集まってきた村人たちに、ディードリットは絶望していたから。彼らには望むことも期待することもない。同時に彼らのことを案じる気持ちさえ失っていた。
彼女は、もはや自分が帰らずの森に連れ戻されるはめになることを、なかば受け入れていた。今からパーンを追いかけても、すでに間に合わないことを、彼女の頭脳の冷静な部分が認めていたからだ。そして、今も彼女を監視するように傍らにひかえるエスタスの慰めるような視線がそのことを忘れさせてくれないのだ。
パーンのいなくなった人間の世界など、ディードリットにはもはや興味がない。今さらながらに、自分の心の中にパーンがしめていた大きさを実感する。
ディードリットは、集まった村人たちをかきわけながら進んだ。
「待ってくれ!」
そのとき、ディードリットの背中から声がかかった。ディードリットは振り向こうとはしなかった。だが、スレインはその言葉に立ち止まり、静かに声の方に振り向いた。
ディードリットも仕方なく立ち止まった。
驚いたことに、声の主は昨晩の襲撃の首謀者エイビスであった。まだ、邪魔がしたりないのかしら、とディードリットはこみあげる怒りで、また我を忘れそうになった。
「待ってくれ……。パーンを救いにいくなら、オレも連れていってくれ」
思いがけぬエイビスの言葉に、ディードリットは一瞬にして怒りを忘れ、茫然となった。まさか、この男の口から、そんな言葉が聞けるとは思いもしなかったから。
「まさか……」
エスタスも、自分とまったく同じ気持ちであるようだった。
「……行かせてくれ。オレたちなんかのために、あいつが犠牲になるのは耐えられない」
「何を言ってるの! 昨日、あなたは……」
「ディードリット!」
ディードリットの言葉は、スレインによって遮《さえぎ》られた。視線があうと、スレインは静かに首を振って、それ以上言う必要はないと無言で告げた。
「一緒に行きましょう。行ってパーンを助けましょう」
スレインは手を差し伸べるように言った。
涙で顔を歪《ゆが》ませながら、エイビスがスレインの所に駆けよってきた。その後ろには何人もの男たちが続いていた。
「なにをしてるんだ」セシルがそれを見て、大声を出した。「みんなついてくるだけじゃ駄目だぞ。武器を持て! ラスターがこの村に二度と手が出せないように、オレたちの勇気を見せてやろうじゃないか」
ポツリ、ポツリとではあるが、おーっという喚声があがった。その喚声につられるように、またひとつ喚声が上がり、やがてその喚声はその場に居合わせた村人全員の合唱となっていった。
「なぜだ……」
エスタスが目でディードリットに問いかけてきた。
「行くぞ、みんな。武器を取れ! パーンをひとりで行かせるな。ハナムの村人たちの無念を晴らしてやろうじゃないか!」
村人たちは口々に叫びながら、自分の家にとってかえした。
「わたしは先に行きます。皆さんの足なら、わたしにすぐ追いつくはずです。でも、安心しないでできるだけ急いでくださいよ」
スレインはもういつもの彼に戻っていた。
「今、下せる決断なら、最初に下せただろうに……」
「それは、違うわ」
納得いかない表情のエスタスに向かって、ディードリットは小さく首を横に振った。
「違うの、今でなければ下せないの」
「どういうことだ」
「あなたがいうとおり、人間はよく過ちをおかす。でも、過っていることを認めれば、彼らはそれを正そうと思うのよ。そのためには、難しいことはいらない。ほんのわずかなきっかけさえあればいいの。それで、彼らは心変わりできるわ。今は、パーンを救いたいという思いで、考えを変えてくれたの」
「そんなことで、考えを変えられるのか……」
「それが人間の素晴らしさなの。彼らはどんどん変わってゆく。そして、成長してゆくの。ひとりひとりも、そして種族としても。ときには、後戻りすることだってあるかもしれない。でも、いつかはきっと、あたしたちを越える存在になることでしょうね」
もしかすると、自分の考えは間違っているかもしれない。ただ、彼らに可能性があることは確かで、そこに自分は惹かれたのだ。そして、彼女にとって、もっとも人間らしい存在がパーンだった。彼はいろんな可能性に満ちていた。それは、夢とか希望と呼ばれるものだ。自分を変えていきたいと願う強い意志だ。永遠に変化しない暮らしを送るエルフは、夢などみない、希望など必要ない。今日が明日であり、そして永遠なのだから。
しかし、パーンと一緒にいると、ディードリットは自分がどんなふうにでも変わっていけそうに思う。いや、パーンが変えてくれそうな気がするのだ。
そして間違いなく、自分は変わったはずだ。
セシルを先頭に、ザクソンの村人たちは思い思いの武器を手にとって街道を南に進んだ。数は百人をはるかに越えていた。
ディードリットには、村人たちがあいかわらず不安や恐れの気持ちを抱いていることが分かる。しかし、今では同時に勇気がうかがえた。
街道はなだらかな坂道となって、大きく右に曲がっていた。ハナムの村までは峠《とうげ》をひとつ越えなければならない。まだ、峠の近くまでしか来てはいないが、昼前には間違いなくたどりつくはずだ。
パーンが自重してくれることだけが、たったひとつの希望だった。
考えてみれば、誰よりも村人たちに絶望していたのは、パーンだったのかもしれない。絶望のあまり自暴自棄になって、ハナムの村に行ったという気もするのだ。無謀なところは影を潜めているとはいえ、なくなってるはずがないのだから。
しかし、もしそうだとしたら、絶対にあの戦士を容赦すまい、とディードリットは考えていた。パーンの絶望が早計な判断であることは、もはや証明されている。それ以上に、自分を放ったままで死地に向かおうなど、どう考えても許せることではなかった。
ディードリットたちは、峠がみえるまっすぐの坂道までやってきていた。この峠を越えれば、ハナムの村まではもう一息だ。だが、最後のこの坂は急で、進軍はゆっくりとしたものにならざるをえない。
気ばかりが焦って、ディードリットはいつのまにか先頭に立っていた。そして、気がつけば、村人たちをかなり引き離していた。ついてきているのは、エスタスひとりだ。彼は無言で、自らの考えに耽《ふけ》っているようだった。
だから、最初にその姿に気付いたのは、ディードリットだった。
峠のところで、ポツンと腰を下ろしているひとつの人影に。
ディードリットは喉《のど》の奥が完全に詰まってしまったかのようで、胸にたまった荒い息さえも吐くことができなくなってしまった。
まるで亡霊でも見たかのようにその場に立ちつくす。
「ディードリット?」
不安な表情を浮かべて、エスタスも立ち止まった。
「エスタス、あれ……」
ディードリットはやっとの思いで言葉をつむぎだすことができた。
人影の方でも、峠を登りつつあるディードリットたちに気がついたようだった。元気に立ち上がって、手を振ってよこした。
「パーン! パーンじゃないか!」
誰かの叫び声を聞くまで、ディードリットは幻を見ているのではないかとの疑いを拭うことができなかった。
「やっぱりパーン、パーンなのね」
ディードリットは、今にも泣きだしそうな顔で峠までの坂道を一気に駆けのぼった。後ろから喚声をあげながら、村人たちが追いかけてくる。
パーンは無邪気な笑みを浮かべながら、両手を広げてディードリットを、そしてザクソンの村人たちを出迎えた。
人々がパーンを取り囲み、彼の頭といわず肩といわず、ところかまわず叩く。おかげで、ディードリットはパーンに近づくことさえできなかった。
パーンは揉《も》みくちゃにされながら、
「ありがとう、みんな」
とだけ繰り返していた。
「行こう、ハナムの村へ」
そして、最後に高らかにパーンは言った。鞘から剣を抜き、それを真上にかざす。
その場に居合わせた一同が、それに応えて勇ましい声をあげる。そして、ハナムの村へと続く坂道を下りはじめる。
ディードリットは、ようやく村人たちから解放されたパーンに向かって、ゆっくりと近づいていったが、またも先を越されてしまった。
エスタスだった。
「見事なものだな。わたしにも、ここまで読むことはできなかった」
その言葉にパーンは意外そうな顔をした。
「読むって、何をだ?」
「おまえは最初から狙っていたのだろう。自分がいなくなることで、村人たちが団結することを計算の上でひとりザクソンの村を後にした。たいしたものだ」
パーンはバツの悪そうな顔で、首を横に振った。
「あいにくだが、違うな。オレは本当にひとりで片をつけるつもりだった。しかし、この峠まで来たところで突然、我にかえって、どうすればひとりであいつらに勝てるかと途方にくれてたんだ。そしたら、何となくみんなが来るような気がしてここで待ってたのさ」
「なぜ、そんな気がした?」
「昔、オレがエトとふたりでゴブリン退治に出かけたとき、助けに来てくれた人がいたからな。そして、敵の砦《とりで》に囚《とら》われていたときにも助けにきてくれた人がいた。だから、今度も助けにきてくれる人が絶対いるって。その人に迷惑をかけないためには、ここで待っているのがいちばんだからな」
そして、パーンはディードリットに白い歯をみせた。
「ここで待ってて正解だったろ」
「村で待っててほしかったわよ」ディードリットは泣きそうな怒ったような声で言った。
「エスタスから話は聞いた。君が不安になっているのに、放ったままにして悪かったよ」
パーンの声は優しかった。ディードリットはもう何も言えなくなってしまった。黙って、パーンの胸に飛びこんでいった。
パーンは彼女を力強く、痛くなるほど抱きしめた。その痛みが今はここちよかった。その激しさこそが、パーンの自分に対する気持ちの証《あかし》のように思える。
「あんたに言っておくが、ディードリットが望まない以上、何があっても彼女を森には帰さないぜ。あんたには、いろいろと不満があるだろうがな」
頭の上を、パーンの声が通りすぎていった。
「……ああ、不満だらけだね」
エスタスは静かに答えた。
「しかし、彼女を無理矢理に連れて帰ることだけはよそうと決めたよ。彼女との賭けには負けたからね。少しだけだが、人間の良さを分かってしまったようだ」
皮肉かい、と尋ねたパーンに、エスタスは本心だよと答えた。
「あんたにも戦いに協力してほしいんだがな」
「いや、わたしは同族同士の争いには手を貸さない。だが、おまえたちの戦いが、同族を思うがゆえに起こっているのだということは少しだけだが理解できたよ」
彼らも自らのことを、仲間のことを、そして種族全体のことを考えている。でなければ、これほどまでに集《つど》って暮らしはしないだろう。
エスタスは、ディードリットの背中をかるく叩いた。
「賭けは君の勝ちだ、ディードリット。わたしは帰らずの森に帰ることにしよう」
「エスタス……」
ディードリットはパーンから離れ、今度はエスタスに抱きついた。
「もうすこしいてくれない。わたしは、あなたをゆっくりもてなすこともできなかったわ」
「戦いを見るのは好きではない。ましてや、結果の見えた戦いなど」
「そう……、気をつけて帰ってね。そして、森の仲間によろしく」
もちろんだ、とエスタスは答えた。そして、エスタスはただひとりザクソンへの道を戻りはじめた。
「帰らずの森は、反対だぜ」
パーンがエスタスを呼びとめた。
「あいにくと、わたしにとってはこちらのほうが近道だよ。森から妖精界を通って、戻るつもりだからな」
「あたしたちは、ハイエルフなの。彼は自由に妖精界から出入りできるわ」
ディードリットはそうパーンに説明した。
「さらばだ、戦士!」
「ああ、またな」
パーンはエスタスに向かって手を振った。
そのとき、セシルの声が遠くから聞こえてきた。見れば、村人たちは峠の坂道を威勢のいい足取りで降りつつある。そのいちばん後ろに、セシルの姿が見えた。
「パーン、何をそこで油を売ってるんですか。あなたがいちばん遅れてハナムに着いたりしたら、笑い話にもなりませんよ!」
「分かってる!」
パーンはそう答えると、全速で駆けおりはじめた。街道にけたたましい金属音が響きわたり、風に乗って四方に散っていく。
さっき言ったことをもう忘れている、とディードリットはあきれながら心の中で文句を言う。あたしを放っておいて悪かったって言ったのは、誰だったのかしら。
しかし、ディードリットは、軽やかに坂道を駆けだしていた。
パーンの背中を追いかけて。
[#改ページ]
開かれた森
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。大陸の住人の中には、呪われた島と呼ぶ者もいる。混沌に冒《おか》された魔の領域が各地にあり、忌《い》まわしい戦が続くゆえに。
ここ数年ほど膠着《こうちゃく》状態にはあるものの、今もロードスの地は戦の渦中《かちゅう》にあった。十年ほど前、暗黒皇帝ベルドに率いられたマーモ帝国の軍勢が突如、カノン王国に侵略、この平和な国を征服してからロードス全土を揺るがしている大戦である。
ベルド皇帝はすでに亡《な》い。しかし、カノン王国はいまだマーモ帝国の支配下にあった。マーモの支配者たちは、カノンの民にとって国境の北に広がる帰らずの森のごとき存在だった。ひとたび足を踏み入れると、ふたたび出ることがかなわないこの悪意の森のように、残忍とも思える圧政から逃れるすべはないように思われた。
十年あまりの圧政に痛めつけられ、カノンの民はもはや絶望しきっていた。しかし、そんなカノンにあって、明日を夢見《ゆめみ 》る一団がいることが、数年前から噂となっていた。
レオナー帰還王《き かんおう》とカノン自由軍の存在である。そして、噂は自由軍の騎士隊長として竜殺《りゅうごろ》しの勇者が加わっていることも伝えていた。
竜殺しの勇者、その名をパーンという。
その日、カノンの地から見上げる空は、不気味なほどに晴れあがっていた。ひとかけらの雲さえ浮かんでおらず、見慣れたはずの空が、まるで巨大な青色の布で覆われてしまったような違和感《い わ かん》を覚える。
柔らかな日差しを投げかける晩秋の太陽がなければ、別の世界へ投げだされたのかと不安になったかもしれない。いや、そんな気にさせられるのは、背後にうっそうとたたずむ帰らずの森の魔性《ましょう》のゆえだろうか。
「マールが戻ってきたわ……」
ディードリットに声をかけられて、パーンは我に返った。そして、彼女に注意を向ける。自分を気遣《き づか》ってくれていたのだろう、彼女の表情は曇っていた。いかにもエルフらしく白く透きとおるような肌の色が、今はいくぶん蒼ざめて見える。
同時に、すがりつくような視線がいくつも注がれていることに、パーンは気がついた。パーンが率いているカノン自由軍の戦士たちとカラルの村人たちの視線だった。
パーンはディードリットに静かに微笑《ほ ほ え》んだ。彼女だけではなく、自分を頼りにしている全員を安心させようと思って……
そのとき、パーンの前に小さな人影が、走りよってきた。吟遊詩人《ぎんゆうし じん》のマールだった。一見すると子供にしか見えない背格好だが、これでマールはれっきとした大人《お と な》なのだ。
賢者であれば一目で見抜《みぬ》くだろう。マールは草原の妖精グラスランナーなのだ。この草原の妖精は、大人でも人間の子供ぐらいの背丈《せ たけ》しかない。ロードス島には彼らの集落はない。マールは大陸から渡ってきた旅人なのだ。
「どうだった?」
パーンはマールに尋《たず》ねた。
マールはむっつりした顔で、首を横に振った。
「だめだよ、完全に囲まれてしまっている。風さえ遮《さえぎ》ってしまうぐらい厳重だね」
マールは村人たちに聞こえないよう、声の大きさに気をつけていた。
そうか、とパーンは苦しげにうなずいた。
「やはり、罠《わな》だったか……」
レオナー王がここにいないことがせめてもの救いだった。彼さえ無事ならば、たとえ自分たちにもしものことがあっても、カノン復興の夢は潰《つい》えることはないはずだ。
パーンが仲間たちと、ここカノンの地にやってきてから、すでに五年が過ぎていた。先の英雄戦争以来、カノン王国はマーモ帝国の支配下にあり、人民は苛酷《か こく》な圧政のもとに苦しめられていた。そんな苦境からカノンを解放するため、パーンはこの地に留まる決意をしたのだ。
きっかけとなったのは、カノン王家の正統な継承者《けいしょうしゃ》である王子レオナーとの出会いだった。
レオナーはすでに略式ながらも戴冠式《たいかんしき》をすませ、カノン国王を名乗っている。同時にパーンはレオナーから騎士《きし》叙勲《じょくん》を受け、今はカノン自由騎士団の騎士団長という肩書きだった。
しかし、住む場所さえなく、食べる物にさえ事欠くような有様である。国王や上級騎士というより、野盗に近い生活だった。
カノン解放への道は遠く険しく、そんな日は永遠にこないのではないかとさえ思えてくる。しかし、レオナーは実に忍耐《にんたい》強かった。カノンの民を救うために、地道な努力を続けている。
カノンの民を国外に逃亡させる。これが、レオナーの選んだ方法だった。難民にはマーモ打倒の後には、元の土地に帰れることを約束し、そのために土地の所有者の台帳も作っている。カノンを逃れた難民たちの多くは、フレイムに向かっているはずだ。そこには、かつて火竜《かりゅう》の狩猟場《しゅりょうば》≠ニ呼ばれた広大な開拓地《かいたくち 》があり、人手はまだまだ不足しているはずだ。フレイムの傭兵王カシューならば、間違いなく彼らを受け入れてくれるだろう。
だが、土地を捨てて逃げろというのは、土地を糧《かて》に暮らしている者たちにとって、厳しい選択だった。しかし、圧政に対する恐怖から、多くの村人たちが勧めに従ってくれた。
レオナーの声や態度が威厳に満ちていたことも、村人たちを安心させるのに一役買っていたに違いない。彼を国王として認めたからこそ、厳しい選択をも受け入れるのだ。
パーンが見ても、彼は生まれながらに王としての資質を持っていた。それゆえ、王国を出奔《しゅっぽん》するはめになったのだから。なぜなら、彼は第三王子であり、本来ならば王になれるはずではなかった。ただ、貴族や騎士たちの評判は、王太子以上だった。彼を王にとの声もあった。だからこそ、レオナーは国を出たのだ。骨肉の争いが起こることを恐れて……
運命とは皮肉なもので、マーモの侵略によりカノンが征服され、カノン王をはじめ王位継承者が残らず殺されたとき、彼だけはその難を逃れることができた。そして、今、正統なカノン国王として、立ち上がっている。
村人たちを国外に逃亡させるというレオナーの策はゆっくりとではあるが、効果を現しはじめている。村人たちが逃亡した後の村には、掠奪《りゃくだつ》しようにも掠奪する物がまったくなくなっていた。畑は荒れはて、まるで荒野と同じような有様だった。
苛酷な圧政によって、民から簒奪《さんだつ》してきた報いだと、マーモの支配者たちは知るべきなのだ。民は無力で従順なものではない。国を本当に支えているのは、彼らなのだ。
カノン自由軍の活動は、すでにカノンの民衆やマーモの支配者たちの知るところとなっている。おそらく、噂は風に乗って、ロードス全土に流れていることだろう。それも、レオナーの期待するところだった。噂を聞きつけ、元カノンの騎士たちが決起してくれるかもしれない。フレイム、ヴァリスなどに対するマーモ軍の行動を牽制《けんせい》する役にも立つはずだ。
そんなおり、ひとつの噂が耳に入った。カラルという名の村に、信じられないほど残忍な領主が赴任《ふ にん》してきたというのだ。領主は村人全員を奴隷のように扱い、今年の収穫をすべて税として徴収すると宣言したのだ。そして、村人たちに自分の任期は一年だから、と言い切ったのである。たとえ、村人たちが残らず餓死《がし》しようとも、自分の知ったところではないと考えているかのように。
捨ててはおけない、とパーンは決心した。しかし、同時に警戒《けいかい》の念も呼び起こされていた。カノン全土で、カラル村の噂が囁《ささや》かれていたからだ。しかも、内容には大差がない。
噂の出所が、ひとつではないように思えた。誰かが意図的に噂を流しているのではないか、という気がした。グラスランナーのマールに意見を求めると、彼もパーンに賛成してくれた。盗賊でもあるマールは、情報の真偽を嗅ぎ分けることに長けている。そんな彼が賛成したのだから、噂は自分たちを陥れるための罠に違いない。
しかし、だからといって、カラルの村を放っておく訳にはいかない。ここまで人々の噂になっていて、自分たちが行動を起こさねば、盛りあがりつつあるカノン解放の気運は霧散してしまう。今後の自由軍の活動に支障をきたすのは必至だ。かといって、罠かもしれないところに、全員で飛びこんでいくわけにもいかない。
迷ったすえに、パーンはレオナーには黙って、カラルの村に赴くことにした。連れてきたのは、古くからの仲間のディードリットやマール、ホッブらと、わずかな数の自由軍の兵士だけだった。
パーンたちは、カラルの村にやってくると、まず領主の館を襲った。領主とその配下は、パーンたちを見ると抵抗する素振りさえみせずに逃げだした。あっけにとられるほど、彼らの逃げっぷりはあざやかだった。
パーンは何人かの兵士に追撃を命じ、自分は村人たちを脱出させる準備にかかった。村人たちは、パーンたちがカノン自由軍の人間であることを知ると、涙を流しながら、助けてくれと懇願してきた。村を捨てることにも、誰ひとり異議を挟まなかった。よほどひどい仕打ちを受けていたに違いない。たいていの村では、脱出が決意されるまで、長い討論が闘わされるものだからだ。
パーンたちはすぐに村人たちを誘導し、北に向かって歩きはじめた。
カラルの村はカノンの北部に位置していて、帰らずの森から一日行程も離れていない。いったん、森まで出て、森に沿うように西へ進路を取り、山越えでフレイムまで抜けるのである。このルートを、パーンたちは何度も使ってきた。厳しい登り降りのつづく苦しい旅だが、恐怖から逃れるための小さな試練とあきらめてもらうしかない。
ところが、すぐにマーモの追手がかかった。逃げたカラルの領主を追いかけた自由軍の兵士たちがあわてて戻ってきて、百人近いマーモの兵士たちが迫ってきていることを告げた。
自分の悪い予感が的中したことをパーンは確信した。このまま逃げようとすれば、まず待ち伏せされているに間違いない。
パーンは全員を停止させると、マールに頼んでマーモ軍の動きを調べさせた。そして、マールは役目を果たし、無事に戻ってきたのである。
「東も西も、南も、完全に塞がれてしまっている。そして、北には帰らずの森。ね、パーン。どうするのさ?」
マールはまるで他人事《ひ と ごと》みたいな言い方をした。おそらく、自分だけは逃げのびるという自信があるからだろう。パーンは彼の逃げ足の早さを何度も目にしているから、その自信は納得《なっとく》できた。
「なんとかするさ……」
しかし、いったい何をすればいいのか、パーンには見当もつかなかった。
「村人たちには、ここでしばらく休憩《きゅうけい》すると言ってくれ」
パーンはディードリットを振り返って、そう頼んだ。
「分かった。でも、そんなに長くはごまかせないわよ」
「その間に、何か手を考えるさ」
ディードリットはうなずくと、力なく地面に腰を下ろしている村人たちの方に歩いていった。そして、精一杯の笑顔を浮かべて、村人たちにしばらく休憩する旨《むね》を伝えている。
村人たちは不安そうな様子だったが、ディードリットの言葉に素直に従う。彼らは、自分たちを頼りにしきっている。疑おうとも思っていないのだろう。それが今は辛《つら》かった。彼らの無事だけは何としてでも守らなければと思う。
パーンは兵士たちに周囲の見張りを命じると、戦の神の司祭ホッブを呼んだ。彼は村人たちを励ますように、戦の神の教えを説いているところだった。
ホッブが来るのを待ってから、マールも伴《ともな》ってパーンは村人たちから少し離れた場所へと歩いていった。自分たちの相談を聞かれたくないからだ。村人たちが自分たちが置かれている状況を知ったら、恐慌《きょうこう》をきたすかもしれない。いずれはばれることだろうが、こちらの対応を決めるまで、騒がれたくはない。
「奴らはすぐに襲ってきそうな様子だったか?」
パーンはマールに尋ねた。マールは首を横に振った。
「そんな感じじゃなかったね。僕たちを逃がさないように、ゆっくりと囲みを縮めているみたいだったよ」
「村人を虐待して我々をおびきよせたわけですか。あまり正々堂々とした相手ではなさそうですな」
ホッブの言葉に、パーンはうなずいた。
「指揮をしているのはアシュラムじゃなさそうだな」
「もちろんです。アシュラム卿ならば、かくも姑息《こ そく》な罠を仕掛けたりはしません」
支配の王錫《おうしゃく》をめぐる冒険のときには、ホッブはアシュラムに従っていた。今はパーンに協力を誓っているが、アシュラムへの好意も捨てていないようだ。戦の神の司祭にとって、勇者の資質を持った人間はすべて好ましい人物に見えるのかもしれない。
そう思うと、パーンはつい苦笑いを浮かべてしまった。
「アシュラム卿があなたの敵であることを忘れたわけではありません。もしも、出会ったなら、全力で御援助《ご えんじょ》させていただきます」
パーンの笑いの意味を悟ったらしく、ホッブが言葉を足した。
「いずれは決着をつけるさ。でも、今はアシュラムとは戦いたくない。奴さえいないなら、脱出する機会はあるはずだ……」
「難しいと思うけどなあ」
マールの言葉に、パーンは思わず渋《しぶ》い表情になった。恨みをこめた目で、草原の妖精を睨みつける。
しかし、マールはいっこうに動じた様子もなかった。
「こっちの数は十人ばかり。向こうは百人以上。しかも、魔法使いだっているみたいだよ。いくら、パーンたちが強くたって、あの囲みを突破するなんて至難の業《わざ》だよ。村人たちを置いていくなら、話は別だけどね」
「そんな事できる訳がない!」
パーンは我知らず、大きな声を出していた。村人たちから離れていて、正解だったな、と思う。
「そう言うと思ったよ。だったら、村人たちを連れて、マーモ兵に切りこんでゆく?」
「それは……」
パーンは絶句した。マールの言葉は真実をあまさずに語っているだけなのだ。冷静に考えてみて、村人たちを連れたまま、マーモ兵に切りこんでいっても、成功するはずがない。自分たちを守るのに精一杯で、とても村人の面倒まではみれないだろう。
「村人たちにはここで待っていてもらうしかないよ。マーモ兵だって、無抵抗の人間をわざわざ殺したりはしないはずだよ」
「それはどうですかな」
ホッブが反論した。
「奴らは見せしめとして、村人たちを罰《ばっ》するでしょう。自由軍の無力さと、自由軍に協力した者の末路を示すために」
パーンがホッブの言葉にうなずくのを見て、マールがため息をついた。
「面倒みきれないねぇ。そんなに、村の人たちと一緒に死にたいのかい。僕は嫌だからね」
マールはそれだけを言うと、もはや自分は関係ないとばかりに、さっさと向こうに行ってしまった。おそらくひとりで自由軍の隠れ家へ逃げ戻るつもりだろう。
パーンは腕を組みながら、去っていくマールの後ろ姿を見つめていた。しかし、いくら考えても、何も打開策は浮かんではこなかった。
「血路を開くか、それとも、ここで奴らを迎え撃つか……」
打てる手は、そのふたつしかないように思えた。しかし、いずれにせよ、成功する望みは薄い。マールが言うように、自分たちだけなら何とか逃げのびることもできよう。しかし、村人たちを連れていては、追手を振りきることはできそうにもない。
かといって、自分たちを信頼して、村を捨てる決心さえしてくれた村人たちを、どうして見殺しにできようか。
「いちかばちかだな」
パーンはホッブと顔を見合わせて、苦しそうにつぶやいた。
「ここにいては、死ぬのを待っているようなものだ。囲みのいちばん薄いところを狙って、切りこんでいくしかない。村人たちにも犠牲が出るかもしれないが……」
ホッブは、静かに相槌《あいづち》を打った。
「他にも方法はあるわ」
そのとき、凛《りん》とした声が突然、響いた。ディードリットの声だ。
パーンは振り返って、彼女がゆっくりとした足取りで近づいてくるのを待った。
気を利かせたように、ホッブは去ってゆく。
「村人たちの様子は?」
「まだ、たいして歩いていないけど、ずいぶん疲れているみたい。おとなしく休憩しているわ」
「それで、君の言う他の方法というのを教えてくれ」
パーンは話を戻し、ディードリットをうながした。ディードリットはこくんとうなずいた。
「戦いに慣れていない村人たちを巻きこむわけにはいかないでしょ。だったら、逃げるしか方法がないわ」
「逃げるったって、どこへだよ。オレたちはマーモ兵に囲まれていて、そして北にあるのは……」
そこまで言って、パーンはひとつ思いだしたことがあった。
「そう、帰らずの森よ」
パーンは英雄戦争の頃、この帰らずの森を通ったことがある。というより、この森から妖精界を抜けて、別の場所へと移動したというべきだが。
「妖精界を通るのか?」
パーンは勢いこんで尋ねた。
「それは無理よ。妖精界へ出入りできるのはあらかじめ決まった場所だけだし、あんなにたくさんの人を妖精界へ連れていって無事に戻れるかどうか分からないもの。うっかりすると、現実の世界では何十年もたっていたなんてことになるし、妖精界の木々に襲われるかもしれない。彼らは激しい感情を嫌うから……」
「だったら、どうするんだ」
「帰らずの森の呪いを解くの……」
「呪いを解く、だって?」
パーンは驚いて、大声を出していた。
帰らずの森といえば、魔の森としてロードス中にその名を轟《とどろ》かせている。この森に入って、ふたたび出た者はいないのである。
噂では、古代のエルフの呪いのためだとされている。そして、ディードリットはその古代のエルフ、すなわちハイエルフである。彼女の生まれた村はこの帰らずの森の中にあるのだ。
噂は真実に他ならず、帰らずの森にかかっている呪いは、ハイエルフの村の長老たちがかけたものだということを、パーンはディードリットから聞いて知っている。
「そんなに簡単に呪いは解けるのか?」
パーンの問いに、ディードリットは顔を伏せて首を振った。
「でも、何とかしてみせるわ……」
「何か、隠していないか?」
パーンはディードリットの表情から、何か不吉なものを感じた。
ディードリットは肩をぴくんと震わせると、脅えたような目でパーンを見つめる。
「まさか、風の塔のときと同じ試練が必要なんじゃあ……」
パーンはディードリットの態度から思いあたる節があった。それは、風と炎の砂漠≠支配していたふたつの精霊王のひとつ、|風の王《ジ ン》を解放したときのことだ。
彼女は古代の精霊使いがジンとかわした盟約を破棄させるために、命がけの試練に耐えねばならなかったのだ。パーンは彼女の試練の現場を見てはいない。試練は精霊界で行なわれたから。しかし、戻ってきたときの彼女の態度や様子から、いかに危険なものか想像はついた。
「あたしは、あのときも勝ったわ。だから、今度も大丈夫よ」
ディードリットの答はパーンの問いを肯定《こうてい》していた。パーンは髪の毛をかきむしりながら、激しく頭を振った。
「だめだ! そんなこと、させる訳にはいかない。君にもしものことがあったら……」
「心配してくれるのは嬉しい。でも、他に方法はないと思うわ。さっき、マールに聞いたけど、状況は絶望的なんでしょ。村人たちを守って戦うより、あたしが森の精霊王と会って、呪いを解いてもらう方がずっと危険が少ないはずよ」
ディードリットの顔には、穏やかな微笑が浮かんでいた。強い決意を持った者だけが見せる表情だ。
パーンは彼女の意志の強さに押されたように、その場に座りこんでしまった。
「精霊界までは、オレの剣は届かない……」
「剣は届かないかもしれない。でも、あなたへの想いがあたしを支えてくれるの。風の塔のときもそうだった……」
パーンは肩を落とし、首を二度ほど横に振る。
「他に方法はないのか?」
呻《うめ》くような声だった。
「ないわ。全員が助かりたいのなら……」
きっぱりとディードリットが答えた。
パーンは顔をあげ、ゆっくりと立ち上がると、ディードリットの細い身体を引き寄せ、強く抱きしめた。
ディードリットは胸にたまった息をゆっくりと吐きだしていった。甘いため息にそれは聞こえた。彼女は戸惑ったような顔で、パーンを見ている。それから、パーンの| 唇 《くちびる》に自分の唇をそっと重ねてきた。
ふたりの影は重なりあったまま、しばらく微動《び どう》だにしなかった。
「……約束してくれ」
パーンはディードリットを離すと、かすれたような声で言った。
「何を?」
「かならず無事に帰ってきてくれると……」
「もちろんよ」
ディードリットは力強く言った。
しかし、その力強さは、これから彼女が立ち向かう試練の大きさの証《あかし》のように、パーンには思えるのだった。
村人たちは、息を呑《の》んでパーンを見つめていた。パーンが自分たちの置かれている状況について説明したからだ。パーンはすべてを語った。自分たちが罠にはめられたこと。マーモ兵が自分たちを遠巻きに囲んでいること。このまま留まっていれば、いつかは襲われること。
村人たちは、思ったほど動揺しなかった。それだけの元気をもはや失っているのかもしれない。
「残された手段はひとつしかない」
パーンは村人たちに向かって、力をこめて話しかける。希望を失っては、これからの苦境を乗り越えることはできない。
「帰らずの森に逃げこむんだ。そうすれば、マーモ兵は絶対に追ってはこない。オレたちは森を通って、安全にフレイムまで抜けられる」
「気が狂っている!」
誰かが叫んだのを合図に、村人たちが一斉に騒ぎはじめた。村人たちは騒ぎ、わめいたり、泣きはじめたりする者も出た。
「まだ、話は終わっちゃいない!」
パーンは声を限りに叫んだ。
しかし、村人たちは静まる気配すら見せなかった。パーンの隣に控えていたホッブは、その様子を見てとると、村人たちの間に割って入り、神聖魔法の力を使って、恐慌をきたしている人々を落ち着かせていく。
その甲斐もあって、しばらくすると、村人たちはどうにかパーンの話の続きを聞こうとするぐらいには落ち着いた。
「帰らずの森には呪いがかかっている。入った者が迷い、出られなくなる呪文だ。そして、古代の樹木が精霊魔法をかけて、永劫《えいごう》の眠りに落とす。それだけだ。いろんな噂も流れているが、それは信じないでくれ」
「なぜ、あんたが森の秘密を知っているんじゃ?」
ひとりの老人が立ち上がって、パーンに尋ねた。たしか、カラルの村長だった老人だ。
「呪いをかけだのは、帰らずの森に住むハイエルフ。ここにいるディードリットの仲間たちなんだ。古代のエルフたちが、森に呪いをかけたという噂は、皆も知っているだろう」
「確かに、聞いたことはある。ならば、あんたが呪いをかけたというのか?」
村長は皺《しわ》だらけの顔を向けて、ディードリットに問いかけた。
「呪いをかけだのは、あたしじゃないわ。かけたのは、村の長老たち。昔、あたしたちは人間たちと争いになりかけたことがあったの。エルフは争いを嫌うわ。だから、魔法を使って、森を閉ざした……」
「彼女はその呪いを解くことができる。呪いが解けたら、帰らずの森なんか普通の森と同じだ。なんの障害もなく、フレイムへ抜けることができるんだ」
パーンの言葉に、村人たちはお互い顔を見合わせながら、どうしたものか相談をはじめた。しかし、その表情は暗く、ときおり聞こえてくるのは、否定的な意見ばかりだった。
「このまま留まっていたら、間違いなく殺されるんだ。どうして、それが分からないんだ。あんたがたが村を捨てたのは、平和な暮らしを送りたいからだろう」
パーンは必死になって、村人を説得しつづけた。だが、村人たちはうつむいたり、首を横に振ったりするばかりで、パーンの言葉に耳を貸す様子さえなかった。
ホッブも戦の神の教義を唱え、勇気もて生きるべし、と村人たちをはげますが、もとより戦の神の信者でもない村人たちに、彼の説教も効果はないようだ。
「わしらは、帰らずの森が恐ろしい。その気持ちを分かってくだされ。その恐ろしさは子供の時から語って聞かされたんじゃ。森に入るぐらいなら、マーモ兵に切られて死んだほうがましなんじゃ」
パーンは哀しい気持ちで村人たちを見回した。村人たちは、もはや覚悟を決めたように、うつむいたまま、村長の言葉にうなずいている。
もし、ここにレオナーがいたなら、村人たちの決心を変えることも難しくなかったかもしれない。自分の非力《ひ りき》さが情けなくなってくる。
そのとき、ふと、パーンは気がついた。村人たちの中で、たったひとりだけ、うなだれもせず、まっすぐにパーンを見つめている者がいることに。パーンは、驚いてその村人を見つめかえした。
まだ幼さの残る顔つきだった。中性的な感じがするが、どうやら少女のようだ。やや目尻のつりあがった大きな目が印象的だ。濃い緑色のフードの奥から、パーンをじっと見つめている。目が合うと、少女は小さく微笑んだ。不思議な微笑みだった。懐かしい感じがした。昔、どこかで見たことがある。そんな錯覚を覚えた。
少女の微笑にうながされたように、パーンは腰から短剣を引き抜いた。そして、村人たちの方に無造作に投げた。
短剣は甲高《かんだか》い金属音とともに地面の上を跳ねた。日の光を反射し、刃《は》が鋭く輝いた。
村人たちは驚いて顔を上げ、短剣とパーンの顔とを見比べる。
「楽に死にたいなら、その短剣で喉を突くんだな。その勇気さえないなら、オレが剣で首を刎《は》ねてやってもいい。マーモ兵に殺されるぐらいなら、その方がずっと楽だろうからな」
そして、パーンはスラリと剣を抜いた。強い魔力が輝きとなって、青白い光を放つ。
「正気なのか?」
誰かがうろたえたように、そう叫んだ。
パーンは剣を構えたまま、一歩、進みでた。
「もちろん、正気だ。楽に死ぬことを、あんたらは選んだんだろう。なら、オレにできることといえば、これぐらいだ。オレのことを、恨んでもいいぜ。あんたたちを助けられなかったのは、間違いなくオレの責任なんだから」
「勇気もて死んだ者は喜びの野に招かれる。さもなくば、冥界に落ち、永劫の時を後悔と苦悩の中で送ることになろう」
ホッブがまた静かに、戦の神の教義を説いた。
沈黙が流れた。村人たちは息を呑んで、地に落ちた短剣と彫像のように立つパーンとを見比べた。そして、背後の帰らずの森を盗みみたり、マーモ兵がやってこないかと遠くへ目を凝らしたりもした。
パーンは何も言わない。ただ、剣を抜いたままじっと待っていた。村人たちの答をだ。
最初に、沈黙を破ったのは、さっきパーンが注意を向けた少女だった。
「あたしは死にたくないわ」
少女は、はっきりとそう言った。意外なほどに、その声は明るい。
「ならば、オレたちと生きよう。一緒に森へ行くんだ」
パーンは力を込めてそう言った。少女も明るく微笑んで、元気よくうなずいた。
「他の者はどうする?」
パーンはもう一度、声高《こわだか》に叫んだ。
村人たちは、もう一度、顔を見合わせた。あきらめきった顔だった。そして、覚悟を決めたように、ひとりふたり立ち上がる。
「村にいたってどうせ餓死してたんだ。なら、あんたの言うとおりにしよう」
ひとりの男が、そう言った。
前向きに言った感じではなかったが、パーンは内心、胸をなでおろしていた。他の村人たちも、ひとりまたひとりと、その意見にうなずいていった。彼らは、確実な死よりも、未知の危険の方を選んだのだ。
「だったら、すぐに出発だ。マーモ兵はあまり長くは待ってくれないだろう」
そして、パーンは帰らずの森を睨みつけた。ちょうどそのとき、一陣の風が吹き抜け、森の木々をざわざわと揺らしていった。その様はパーンたちを歓迎しているようにも見えたし、獲物が罠に落ちてくるのを喜んでいるようにも見えた。
まだ昼をすぎたばかりだというのに、帰らずの森は薄暗かった。
秋の日差しも、密に生えた樹木の葉にさえぎられ、ほんのわずかしか届いてこない。もちろん、道などなく、百人ちかい人間が木々の間を縫《ぬ》うようにして、進んでいる。
パーンはディードリットと並んで、一団の先頭を歩いていた。全員の緊張が、パーンにはよく分かった。森の木にはまったく手を触れようとしない。そして、ときおり樹上を見上げては、そこに魔物の姿がないか確かめている。
すこし歩いただけだというのに、すでに彼らの息は荒く、足取りは重くなってきている。気がつくと、後続が離れているので、パーンは何度も立ち止まって、全員が追いついてくるのを待たねばならなかった。
呪いにかかる覚悟はすでに決めているから、進むのに迷いはないはずだ。しかし、理屈では納得できても、感情の方が思いどおりにならないのだろう。足を一歩踏みだすのにも、勇気が必要な様子だった。
森の周辺部で留まっていればとの案も出たが、それではマーモ兵から逃れられないだろうという結論になった。彼らは森の周辺部までは捜索するはずだ。
緊張しているのは、パーンとて村人たちと同じだった。剣を握っている手のひらに、汗をかいているのが分かる。
「大丈夫よ、この辺りなら、呪いはかかっていないから」
ディードリットがパーンに囁《ささや》いた。
「呪いは、どの辺りからかかっているんだ」
「もう少し行ったら、捕まると思う」
「そうか……。なら、ディードはこのままハイエルフの村に向かってくれ。オレもできるだけ頑張ってみるが、そのうち、抵抗しきれなくなるだろう」
ディードリットはパーンをじっと見つめてきた。決心がつきかねている様子だった。
「もう少し、一緒にいさせて。せめて、あなたが呪いにかかるまで……」
「そんな無様なところなんか見せたくないぜ」
パーンはそう言って笑ったが、ディードリットのしたいようにさせるつもりだった。運が悪ければ、二度と会えなくなってしまうのだ。
ディードリットが緊張しているのも、パーンには分かっていた。歩き方に余裕がなく、小さな起伏がつづく足下を、ずいぶん気にしていた。いつもの彼女なら、こんな道でも弾《はず》むように歩くのだ。
そのときだった。突然、眩暈《め ま い》がパーンを襲った。
はっとなって、パーンは精神を集中させた。呪いが襲ってきたのかもしれない。呪いも魔法の一種なのだから、魔法に耐えるときのようにしていれば、呪縛されずにすむかもしれない。どこまで耐えられるか分からないが、できるかぎりディードリットについていくつもりだった。
パーンは精神を集中させたまま慎重に歩きつづけた。一歩ごとに、何者かが頭の中に囁きかけてくる感覚がある。パーンは頭を振りながら、足下を確かめながら歩き続けた。
ふたたび眩暈がした。今度のは激しく、目の前が一瞬、真っ暗になった。パーンはよろめいて、地面に片膝をついてしまった。
しばらく息を整えてから、顔を上げる。目の前に、自分を見つめているディードリットの姿があった。
パーンは剣にすがりながら、立ち上がった。
「ディード……」
パーンは彼女を安心させようと思い、名前を呼んだ。
彼女からの答はなかった。ふと気がつくと、彼女の姿が、何重にもだぶって見えた。目をこすってみたが直らない。彼女は口を開いて、何かを話しかけている様子だ。しかし、声は聞こえなかった。音のない世界にさまよいこんだように、完全な静寂の中にパーンはいた。
手を差し伸べてみたが、もはや彼女には届かなかった。そのうちに、彼女の姿と森の木々の区別さえつかなくなっていた。
あわててパーンは、周囲を見回した。村人たちの姿は、すでにどこにもなかった。向かい合わせにおかれた鏡を見つめているみたいに無限に続く樹木があるだけだ。
パーンはディードリットの姿を求めて、歩きはじめた。森の木々は今や街路樹のように整然と並んでいて、間に穿《うが》たれた空間は小道となって、まっすぐに伸びていた。
「これが帰らずの森の呪いか……」
パーンは呻き声をあげた。
全力で駆けだしたい衝動にかられていた。しかし、それさえ呪いによってもたらされた偽りの感情のように思い、パーンは深く息をして、気持ちを落ち着けようとした。それから、周囲の風景に惑わされないよう、一歩ずつ地面を確かめるように歩きはじめる。
いくら歩いても、森の様子はまったく変化しなかった。どちらを向いても、どれだけ早さを変えてみても、森はパーンに同じ姿だけを見せつづけていた。
自分が一歩、進むごとに周囲の木々も一緒になって移動している、そんな奇妙な感覚をパーンは覚えた。
同じところをぐるぐると回っているだけなのかもしれない。何か目印をつけようと、パーンは剣を抜き放った。枝を切り落とすなり、幹を傷つけるなりすれば、自分の置かれている状況が分かるだろう。
パーンは握っていた抜き身の剣を上段にふりかぶった。一本の樹木のいちばん下の枝を切り落とそうと思って。
と、まわりの木々がざわめくように動いた。風もないのに、枝が揺れ、幹が震える。パーンの意図《いと》を悟って、恐れおののくかのように。
パーンは剣を振りかぶったまま、本々の変化を驚いて見つめていた。と、樹上から一本の本の枝が針金のように伸びてきて、パーンの腕に絡んできた。
パーンははっとなって、その枝を振り払った。ふと気がつくと、伸びてきている枝は一本だけではなかった。周囲の木々から無数とも思える枝が伸びてきて、パーンを捕らえようとする。
パーンは戒《いまし》めの手から逃れようと、全力で駆けだした。森はもはや敵意をむきだしにしていて、パーンを逃がすまいと、次々と木の枝を伸ばしてくる。パーンは剣ではなく、手で枝を振り払いながら駆けつづけた。まるで悪夢の中にいるようだった。
どれだけ駆けたか分からない。突然、パーンの前方に巨大な樹木が飛びこんできた。五人の大人が手をつないでも幹の太さには足りないだろう。地面のところどころにねじくれた根が何本も顔をのぞかせて、蛇《へび》のようにのたうっていた。
パーンは立ち止まって、その巨木を見上げた。驚いたことに、木の葉が黄金色に輝いている。
「黄金樹か!」
パーンはディードリットから聞いて知っていた。世界の最初に神々とともに生まれた太古の生き物に世界樹と呼ばれる一本の樹木があったことを。黄金色の葉を持つこの巨大な樹木は、生命の果実をたわわに実らせていた。神々はこの生命の果実を使って、あまたの生き物を創造したのだと神話は伝えている。
生命の実をもがれた世界樹は衰えたのだが、神々は生きている枝を世界樹から取ると、それを大地に挿し木して、黄金樹と呼ばれる古代樹を生みだした。黄金樹も果実を実らせ、その果実は大地に落ちて、新たな樹木が生まれでた。こうして黄金樹を中心に古代の森が誕生したのである。自らの役目をまっとうした黄金樹の多くは枯れてしまったが、生き残った樹木もあったらしい。巨大な森の中心部には、黄金樹があると伝えられている。たとえば、モス王国の北に広がる鏡の森にはこの古代樹が生き残っていることが知られている。
パーンは剣先を黄金樹に向けたまま、茫然と立ちつくしていた。畏怖《いふ》の気持ちがこみあがってきて、切りかかろうにも身体が思うように動かない。
それに、巨木は何かを訴えかけているように、パーンには思えた。心を澄ませていると、黄金樹は森の真理を語りかけているのだと分かった。
「受け入れろ……」
黄金樹はそう言っているようにも思えた。
だから、パーンは黄金樹が木の枝を伸ばし、自分の全身を捕え、絡《から》めとっていくのにも抵抗しなかった。
やがて、黄金樹は小さく震えだした。奇妙な音が響いてくる。聞き覚えのある響きだった。
それが、ディードリットが使う精霊語と同じ響きだと気づいたとき、黄金樹はふたたびある意思を伝えてきた。
「眠れ……」
パーンはそれさえも受け入れた。古代樹の意思が子守り歌のように、パーンの心に滑りこんできた。そして、穏やかな眠りの中に、パーンは落ちていった。
ディードリットは哀しい気持ちで、パーンが離れていくのを見つめた。
呪いに捕われたのだ。彼の全身が半透明になっていた。それでも、しばらくパーンは自分を見つめていたが、やがてかき消えるようにその姿がなくなった。
パーンは森が創りだした異界に落ち込んだのだ。ディードリットは生まれてから、こういった人間を何人も見てきた。彼らは森のあちらこちらで、幻影のように、ふと姿を現しては消えていく。
古代から森に入って呪いに捕われた哀れな犠牲者たちだった。彼らを見ているうちに、ディードリットは人間に興味を覚え、ハイエルフの村を出て人間の世界へとやってきたのだ。そして、アランの都で、パーンと出会った。
ディードリットは後ろを振り返って、村人や自由軍の兵士たちを探した。全員が呪いにかかったようで、誰ひとり姿が見えなくなっていた。パーンはさすがに強靭《きょうじん》な意志の持ち主だけに、最後まで呪いに捕われなかったに違いない。
ディードリットは哀しみを振り払うように顔を上げると、まっすぐにハイエルフの村を目指して歩きはじめた。
自然と急ぎ足になっていた。
しばらく行くと、二本の木が並んで立っている場所があるはずだった。妖精界への「扉」だ。こんな扉が帰らずの森の中にはいくつもあった。ハイエルフの村にも、もちろんある。
妖精界を抜けていけば、村まですぐだ。
そのとき、自分のと違う足音が追いかけてきていることに、ディードリットは気がついた。驚いて振り返ると、濃い緑色の服を着た人影が見えた。
その服には見覚えがあった。カラルの村人だ。フードを深くかぶっていたので、村人たちの中でも一際《ひときわ》、目立っていた。だから、覚えていたのだ。
「森の呪いにかからないなんて……」
ディードリットは驚きながら、相手が近づいてくるのを待った。
「みんな、いなくなった……」
緑服の村人はどうやら少女らしかった。少女はディードリットのそばにやってくると、そう声をかけてきた。
「大丈夫、森の呪いにかかっただけよ。みんな生きているわ。呪いが解けたら、無事に戻ってくる。それよりも、あなたはなぜ呪いにかからなかったの?」
ディードリットは少女に尋ねた。少女はこっくりとうなずくと、答える代わりに目深《ま ぶか》にかぶったフードに静かに手をかけ、背中に落とした。
短く刈った黒髪があらわになった。そして、先端がわずかにとがった長い耳が。
「あなたハーフエルフなの!」
ディードリットは思わず、手を口に当てていた。目をしばたたかせて、彼女の全身を観察する。
「ええ、ハイエルフのお姉さま。あたしはハーフエルフなの。だから、呪いにかからなかったのかな?」
「エルフの呪いはエルフにはかからないわ。あなたの身体を流れるエルフの血が、呪いから守ってくれたのね」
ディードリットは少女を手招きすると、並んで歩きはじめた。少女をこのまま森の中に放っておくわけにはいかなかった。
「あたしはディードリット。あなたは?」
「リーフ」
「いい名前ね……。ご両親のうち、どちらがエルフなの?」
「お父さまよ。お母さまとは、冒険者仲間だったの。でも、ダークエルフがあたしたちの森に攻めてきたとき、お父さまは戦って殺されて、お母さまは復讐をするんだって、あたしをカラル村の叔母さまに預けると出て行ってしまったの」
それを聞いて、ディードリットの表情が曇った。
「そうなの……」
カノン領内には大小の森があり、エルフたちの集落もいくつかあったという。しかし、マーモがカノンを侵略したさい、彼らを憎む闇《やみ》の森≠フダークエルフたちに襲われて、その多くが殺されたのだ。リーフと名乗った少女の父親も、そのうちのひとりだったのだろう。
「元気を出してね。マーモの支配は、そんなに長くは続かないわ」
少女はうなずく。思ったより、元気そうだった。
ディードリットは安心して、少女と並んで歩きはじめた。だが、すぐ、別の不安が頭に浮かんできた。
「彼女を村へ連れていって大丈夫だろうか?」
ディードリットは自らに問いかけた。
もし、人間を連れていったとしたら、長老たちは絶対に歓迎しないだろう。しかし、ハーフエルフならどうなのだろう。
人間界に出てから知ったのだが、ハーフエルフは人間からもエルフからも、疎《うと》んじられているらしい。ディードリットには、それがなぜだか分からなかった。人間とエルフは憎みあっているわけではないが、どちらかといえば距離をおきたがっている感がある。それで、両者の血が混ざっているハーフエルフに、嫌悪感《けんお かん》を覚えるのだろうか。
村では話題にのぼったこともないので、長老たちがリーフの来訪をどう思うかがまるで分からない。門前払いされることだって考えられる。
そのとき、ディードリットの目の前に、妖精界への扉が現れた。二本の木がまるで双子のように寄りそいあって生えている。幹と幹の間に、わずかな空間があって、正しくくぐれば妖精界へと抜けられるのだ。
「あれは何?」
突然、リーフがぴくんと肩を震わせて、ディードリットにしがみついてきた。
「森の精霊力があんなに強いなんて、絶対に変よ」
「あなた、精霊使いなの?」
ディードリットは驚いた。
「お父さまに習ったの。精霊たちはあたしの友達よ」
「安心して。あれは妖精界へ通じる扉なの。だから、強い精霊力が溢れだしているのよ」
「妖精界へ行くの?」
「ええ。妖精界を通って、あたしの村へ行くの。この森にかかった呪いを解くためにね」
「歓迎されるかな」
リーフはディードリットにそう問いかけてきた。大きな瞳を不安そうに向けている。
ディードリットは心を読まれたのかと不安になった。精霊使いには勘《かん》の鋭い者が多い。特に、相手の感情の変化には敏感なのだ。
「でも、いいわ。いじめられるのには、慣れているから」
少女はあまり表情も変えず、そう言った。彼女もやはり迫害《はくがい》されて、育ってきたようだ。
「ここで、待っている?」
ディードリットは恐る恐るリーフに尋ねた。リーフを同伴していなければ、問題は何も起こらない。
「邪魔なら、そうして」
リーフはあっさりと答えた。
「邪魔だなんて!」
ディードリットはあわてて、リーフの手を握った。
「そんなこと考えないで。あたしは、あなたの味方よ。あたしもあなたのお父さまと同じ、人間を愛しているから」
「じゃあ、ハーフエルフの子供を?」
リーフに無邪気に言われ、ディードリットは耳まで真っ赤になってしまった。
「子供はいないわ」
ディードリットは消えいりそうな声でつぶやいた。パーンの姿がふと頭に浮かんで消えていった。
「いいわ、リーフ。あたしと一緒に村へ行きましょう。もしかしたら、何か言われるかもしれないけれど、そのときはあたしが守ってあげる」
リーフは微笑みを浮かべ、はいと言った。
そして、ディードリットはリーフの手を握ると、妖精界への扉を開くための呪文をエルフ語で唱えた。呪文が完成すると、双子の木の間へとリーフを伴って身を躍らせた。
一瞬のうちに世界は変わって、ディードリットとリーフは黄金に輝く森の妖精界に立っていた。
「行きましょう」
ディードリットはリーフの手を取ったまま、ゆっくりと歩きはじめた。
妖精界を歩いたのは、ほんの一瞬の間だけだった。ただ、物質界と妖精界とでは時間の進み方が違う。もっとも、ディードリットは妖精界の法則を十分に心得ているから、無駄な時間を使うことなく、ふたたび物質界へと戻ることができた。
日は沈みかけ、森の中は暗くなっていたが、日が変わっているということはないはずだ。
扉を抜けると、そこは懐かしいハイエルフの村だった。村は、ディードリットが旅立ったときと、まったく変わらぬ姿を見せていた。ディードリットが生まれてから、まったく姿を変えていないのだ。ハイエルフの村が目に見えて変化するには、何百年もの時間が必要だろう。
樹齢《じゅれい》千年をはるかに越える巨本が立ち並んでいる。木々の大枝《おおえだ》が縦横に伸びた樹上の空間に、丸太を組んで造られた小さな家がある。家と家の間には、木の棒を蔦《つた》で結んだ粗末《そ まつ》な橋がかけられていて、自由に行き来することができた。
樹上を歩いているハイエルフの姿がひとりふたりと目に入った。懐かしい思いがディードリットの心に溢れ、ディードリットはしばしの間、すべてを忘れた。
「ディード、ディードリットじゃないか」
誰かがそう叫んだ。聞き覚えのある声だった。
ディードリットは声の方を振り向いた。
「エスタス!」
思わず声が弾《はず》んでいた。
エスタスはこの村では、ディードリットの次に若い。ディードリットにとっては、いちばん親しい人だった。
六年ほど前、エスタスはディードリットを連れもどしに人間界へやってきたことがある。そのとき、彼女はまだザクソン村の住人だった。
エスタスは彼女のことを好きだと言ってくれた。そして、いつまでも待っているとも。
エスタスは樹上からふわりと身を躍らせると、優雅に地面に降り立った。そして、まっすぐにディードリットのそばにやってくる。そのときには、リーフに気づいたのだろう。表情が固くなっていて、慎重な足取りになっている。
エスタスがやってくると、ディードリットはゆっくりと腕を回して、再会を喜んだ。
「よく帰ってくれた。ところで、こちらは?」
「彼女はリーフよ」
そう答える声が強《こわ》ばっていた。彼女がハーフエルフであることは、自分の口からはとても言えなかった。
リーフは愛らしく微笑んで、エスタスに挨拶をした。それから、悪びれた様子もなく、頭にかぶったフードを下ろす。
「ハーフエルフ!」
「言っておくけど、あたしの子供じゃないわよ」
「それぐらい、分かっている。しかし、よりによって、なぜハーフエルフを連れてきたんだ」
「彼女を侮辱《ぶじょく》するのはやめて!」
ディードリットはあわてて言った。
「事情は後で話すわ。とにかく、長老たちに会いたいの。お願いしたいことがあって、戻ってきたのよ」
「事情? どうやら人間界に飽きて戻ってきたのではなさそうだね」
「ええ、ごめんなさい」
「ま、いいだろう。長老たちに知らせてこよう。それまでは、この娘を村の中へ入れてはいけないよ。まったく、キミにはいつも驚かされるよ」
エスタスは冷たい声でそう言うと、ディードリットに背中を向けた。
ディードリットは見捨てられたようなみじめな気持ちになった。リーフがディードリットの腕に手をかけてくる。顔が合うと、彼女は心細そうに微笑んでいた。
「やっぱり歓迎されなかったわね。ごめんなさい」
「あなたが謝ることなんてないわ」
ディードリットは驚いて、少女の顔を見つめた。迫害されることに慣れきっているのだろうか。少女は意外に平気な顔をしていた。それがかえって痛ましくて、ディードリットは息苦しさを覚えた。
かなり長い時間、ディードリットは待った。その間に、すでに日は完全に没していて、森の中は暗闇に閉ざされていた。
光の精霊ウィル・オー・ウィスプを先導させて、ようやくエスタスが戻ってきた。数人のエルフが彼と一緒にいた。もちろん、全員、見知った顔だ。ディードリットは彼らと再会できたのは嬉しかったのだが、全員の表情が厳しかったので、喜びの言葉を呑みこまざるをえなかった。
「長老たちがお待ちだ」
エスタスが命令口調で言った。
ディードリットはリーフに合図をすると、彼らについて歩きはじめた。まるで罪を犯して捕えられた囚人のような気分だった。
エスタスたちは、黄金樹を目指しているようだった。この黄金の葉を茂らせた古代樹は、村の中央に生えていて、仲間たちが集まる時にはいつも選ばれる場所だ。頭上を漂うウィル・オー・ウィスプの青白い輝きが、ディードリットの前を無言で歩くエスタスたちの姿を照らしていた。懐かしいはずの光景なのだが、ディードリットにはなぜか異質に感じられた。
やがて、目の前に巨大な樹本が姿を現した。数千年の昔からこの地に根を張りつづけている古代の樹木、黄金樹だった。
黄金樹のまわりには、すでに村のエルフたち全員が集まっているみたいだった。おそらく、ディードリットの両親もいることだろう。家族の絆《きずな》は人間ほど強くはないが、それでも、両親に会えて嬉しくないはずがない。
「お帰り、ディードリット」
長老のひとりルマースが、穏やかな声でそう呼びかけてきた。ルマース長老は、この村でもっとも長く生きているエルフだった。神々の戦のおりに妖精界から召喚された純粋のハイエルフなのである。人間界生まれのエルフとは違って、全身が金色の光に淡く包まれているので、すぐに見分けがつく。妖精としての特徴を、強く残しているのだ。
「ただいま帰りました、長老」
ディードリットは緊張しながら、挨拶した。
「エスタスから話は聞いた。ハーフエルフを連れてもどったそうだな」
はい、と答えてディードリットは帰郷の理由を話しはじめた。
自分の仲間がカラルの村人たちを助け、帰らずの森に入ったこと。その村人の中にリーフがいたこと。そして、仲間や村人たちを助けるために、森の呪いを解いてほしいということなど……
「正気なのか、ディードリット?」
ルマース長老が、ディードリットをじっと見つめてくる。その声も姿も若々しく、人間には彼が数千年も生きていることなど、想像もつかないに違いない。エルフには人間のような老いはない。永遠の若さを保つことができるのだ。
「もちろん、正気です」
ディードリットはきっぱりと言った。
集まったエルフたちのざわめきが聞こえてくる。気にしてはだめ、とディードリットは自分に言い聞かせた。
「人間たちが自分の世界で何をしようともがまわない。だが、この森は人間の世界ではない。わたしたち、ハイエルフの住む世界だ。なぜ人間たちのために、森を解放してやらねばならない」
「それは……」
ディードリットは言葉を詰まらせた。
長老たちの言葉は、もっともだった。この森は、エルフたちの聖地なのだ。それが守られているのは、長老たちが古代王国時代にかけた呪いのおかげなのである。呪いがなくなれば、人間たちはこの森に入ってくるようになり、自分たちハイエルフの暮らしが脅《おびや》かされるかもしれない。
「おまえの個人的な理由で、呪いを解くわけにはいかない。それは人間的な考え方だ」
「人間的な考え方……」
ディードリットは長老の言葉に衝撃を受けた。
人間は自分のことしか考えない。エルフたちはそう考えている。自分たちは森の妖精だ。木々は集まってはじめて森となる。一本では、森とは呼ばないのだ。だから、エルフは仲間全体のことを自然に考える。それは、種族としてのエルフの特性だと思っている。
「人間界に行って、人間の考えに毒されたか、ディードリット」
長老の言葉は、一語一語がディードリットの胸に突き剌さってくるようだった。ディードリットは目をつぶって、その痛みに耐えようとした。
「ディードリットはまだ若い。人間界の空気に触れて、少し混乱しているだけなのです。このまま村に留まっていれば、自分の過《あやま》ちに気がつき、正しい考え方を身につけることになるでしょう」
エスタスが立ち上がって、長老に向かって釈明するように言う。
「もちろんだよ、エスタス。ディードリットはまだ幼い娘だ。幹を伸ばし、枝を広げ、若葉を茂らせている時期なのだ。その思いは外へと向くがゆえに、汚れた水や空気や光を吸い取ることもある。ただそれだけのことだ。とにかく、ディードリットは戻ってきた。これで、わたしたちの部族は何ひとつ気に病むことがなくなった」
ルマース長老は、そう言うと静かに立ち上がった。
「ハーフエルフについては?」
エスタスがルマース長老に尋ねる。
「今宵《こ よい》のみ滞在《たいざい》を許そう。明日、森の外へ出てもらえばよい」
長老の言葉に、エルフたち全員がうなずいて、ひとり、またひとりと立ち上がっていく。
「光なき時に葉を広げるのは、いたずらに水と空気を失うもの。今宵の集会はこれまでだ」
ルマース長老は、そう散会の言葉を言った。
ディードリットは唇を噛みながら、その場でじっと立ち尽くしていた。右手は隣にいるリーフの手を強く握っていて、左手は拳を固めていた。
「お帰りなさい、ディードリット」
そのとき、懐かしい声がかけられた。はっとなって、声の方を振り向くと、ふたたび同じ言葉が今度は別の声で繰り返された。
父と母が、そこに立っていた。
「お父さま、お母さま……」
母親がゆっくりと両手を広げる。ディードリットは飛びこむようにその腕の中へ入っていった。
母親に優しく抱きしめられ、ディードリットは旅立つ前の自分に戻ったように思った。この十年間のことは、すべて夢で、一晩ゆっくりと休めばすべて忘れ去ってしまいそうな気がする。
「長老にお願いして、ハーフエルフの娘を預かることを許してもらった。今晩はゆっくり休んで、明日一緒にこの子を送りだそう。わたしたちの村に変化は必要ないよ」
父親はそう言ってから、ディードリットを抱きしめる。優しい抱擁《ほうよう》だった。
「あたしは、帰ってきたんだ……」
ディードリットはしみじみと思った。
そのとき、背後でただならぬ叫び声があがった。
「人間だ! 黄金樹を!」
「人間ですって?」
ディードリットは驚いて、振り返った。そして、黄金樹の方へと駆けよる。
たしかに黄金樹の前に、人間の男が立っていた。しかし、半透明の姿から、呪いに捕われた人間の幻影だと分かった。黄金樹に向かって、剣を向けている。まるで黄金樹と戦おうとしているかのようだった。
「いけない! 黄金樹が切り倒されたら、森の呪縛が破れる……」
父親があわてたように叫び、黄金樹の方へと駆けだした。
ディードリットも父親に続く。
剣を構えている人間の幻影に、見覚えがあった。忘れるはずがないのだ。
息を詰まらせながら、ディードリットは人間の幻影に駆け寄っていった。
「パーン!」
そして、ディードリットは幻影に向かって、声を限りにして叫んだ。思わず、涙がこぼれていた。
何人かのエルフが幻影のパーンに向かって、精霊魔法の呪文を唱えようとしている。しかし、呪いに捕われて異界にいるパーンに、この世界からかけた呪文が届くはずがない。
黄金樹が震えはじめた。黄金樹は森の中心であり、呪いの源でもある。森の王の魔力は、この古代樹を通して森を閉ざしているのだ。当然ながら、黄金樹は呪いによって創られたかりそめの世界にも同時に存在しているのである。
「だめ、パーン! その樹を傷つけちゃいけない」
ディードリットは悲痛な声で、パーンに呼びかけた。自分の声が届くはずはない。それでも、ディードリットは声がかれるまで叫びつづけた。
呪いが解かれるのは歓迎したい。だが、人間の剣によって呪いが解かれてはならないと思った。
目の前で、黄金樹と対決するパーンが、人間とエルフの対立の象徴とさえ思える。実際、この場にいるハイエルフたちはそんな思いで見ているのだろう。
しかし――
パーンは剣を振るわなかった。パーンを絡めとろうと枝を伸ばしてくる黄金樹にさからおうともせず、なすがままにさせた。
ディードリットは驚くと同時に、胸をなでおろした。
黄金樹はすでに何事もなかったように、もとに戻っている。パーンの幻影もすでに消えて、ディードリットは夢でも見ていたような気分にさせられた。
「いいえ、夢でなんかない」
ディードリットは自分に力強く言い聞かせた。
そして、自分を恥じた。故郷に帰ってきたという喜びで、自分がなすべきことを忘れかけていたことに。
長老に対する畏怖《いふ》から、その言葉をすべて信じてしまった。しかし、すべての人間が自分のことだけを考えているわけがない。パーンがそのことを全身全霊で示しているではないか。
ディードリットは黄金樹に向かって、ゆっくりと進んでいった。精霊界へ行くために。それには、黄金樹を扉として使うしかないのである。
「ディードリット、何をするつもりなの」
母親が呼び止めた。しかし、その声には現実感がなく、異界から聞こえてくるようにさえ思えた。
ディードリットは母親には何も答えなかった。
自分はもう何も知らない娘ではない。人の世界を見て、いろんな真実を見た。人間だけが間違っているのではない。自分たちハイエルフも過ちをおかしているのである。
ディードリットは精神を集中させながら、精霊界の扉を開くための呪文を口ずさんでいった。昔、風と炎の砂漠では、ディードリットは風の精霊界を訪ね、風の王と会った。今度は、森の精霊界へ赴き、森の上位精霊エントに会うことになる。
目の前に巨大な黄金樹の幹が迫っていた。ディードリットは静かに両手を差し伸べた。指先が黄金樹の幹に触れる。何の抵抗もなく、それは幹の中に沈みこんでいった。
精霊界への扉が開いたのだ。
ディードリットは精霊語を唱えたまま、身体を躍らせるように黄金樹の中へと飛びこんでいった。
光が溢れていた。
黄金に輝く世界だった。その輝きの中に、ただひとつ巨大な樹木が浮かんでいた。光に呑みこまれ、他には何ひとつ見えない。巨大な樹木だけが、この世界の実体だった。
「世界樹……」
ディードリットはつぶやいた。
世界樹は神々や竜とともに、始源の巨人の骸《むくろ》から最初に生まれた太古の種族とされている。世界樹が実らせた生命の果実からは数《あま》多《た》の生き物が創造され、大地に挿し木された若い枝は黄金樹として成長し、やがて古代の森を形成していった。
世界創造の触媒《しょくばい》として使われたため、世界樹自身の力は衰え、枯れてしまうかとさえ思われた。それゆえ、神々はこの始源の樹木を精霊界へと導き、聖別したのである。樹木や草花の力の源となるように。
その世界樹がディードリットの目の前にあった。
ディードリットは吸いこまれるように、一本の枝に降り立った。すぐ近くには何人ものドライアードやスプライトが戯《たわむ》れていた。もっとも、臆病なスプライトたちは、ディードリットを見ると、あわてふためいて葉の陰に姿を消していったのだが。
ディードリットはいつのまにか一糸まとわぬ姿になっていた。精霊界では物質的なものは、すべて否定される。今の自分は妖精というより、精霊に近い存在なのだ。
「でも、自分を忘れたらだめよ」
ディードリットは、そっとつぶやいた。もし、自分が妖精であることを忘れたら、精霊界に呑みこまれ、意思さえもたぬ下級精霊となってしまうだろう。
「エルフなんて珍しい。ここは精霊界よ。あなたの住む世界と違うわ」
ひとりのドライアードが、ディードリットに呼びかけてきた。
「分かっているわ。でも、はじめてではないはずよ。遥かな昔、あたしの仲間がここにやってきたはず。そして、盟約をひとつ交わしたはずよ。ひとつの森を閉ざすという盟約をね」
「そんなの知らない。わたしにはそんな力なんてないもの」
「森の王はどこ?」
「精霊界の| 理 《ことわり》を知らないの。もちろん、いるわ。それも、すぐそばにね」
そう言うと、ドライアードは水に飛びこむように、木の幹に姿を消していった。
ディードリットはじっと待った。強い力の接近を感じたから。やがて、ドライアードの消えた場所から若木が芽吹《めぶ》くように、姿を現したものがある。
最初は小さな枝のように見えたが、それは急速に成長していき、やがて世界樹の枝にはえた巨大な宿り木のような姿となった。
森の上位精霊エントたった。
ディードリットは圧倒されそうな畏怖を感じながらも、エントの姿をまっすぐに見つめた。
「何用か……森の娘よ……ここは汝の来る場所にあらず……」
ゆっくりとした意思がディードリットの精神に直接、呼びかけてきた。
「古代に交わされた盟約からあなたを解放しにまいりました」
「盟約から……解放……」
そんな意思が伝わってきたかと思うと、エントはゆっくりと全身を揺らしはじめた。黄金に輝く木の葉がざわざわ鳴る。
「汝に……資格なし……」
エントはゆっくりと、しかし、強い意思をもってディードリットに伝えてきた。
「資格を試してみて。わたしは、あなたと盟約を交わせるはずよ」
「汝に……資格なし……」
エントは間を置かず、ふたたびそう繰り返した。そして、ディードリットにするすると小枝を伸ばしてきた。
ディードリットはそれを拒むつもりはなかった。受け入れて、同調すればいい。それは風の王と盟約を結ぶときに学んだことだ。
しかし――
エントは圧倒的な力で、ディードリットの身体を締めつけてきた。ディードリットは苦痛の悲鳴をあげた。身体がばらばらに引き裂かれそうだった。エントはディードリットの存在そのものを抹殺せんと、その束縛の力を強めていった。
ディードリットは必死になって、エントに対抗しようとした。しかし、エントの精霊力は絶大で、ディードリットは自分に勝ち目がないことを悟らされた。
「パーン……ごめんなさい……」
苦痛に揺らぐディードリットの心の中で、パーンの笑顔が頭の中に浮かび、それがどんどんと遠ざかっていった。
自らの身体が揺らぎはじめているのをディードリットは意識した。すぐに自分の身体は消滅してしまうだろう。
「もう、だめ……」
「ディードリット!」
そのとき、どこからともなく、強い調子で呼びかけてくる声が響いてきた。
誰の声だろう。
ディードリットは消えゆく意識の中でぼんやりとそう考えた。しかし、その答を見つけだす前に、ディードリットの意識は闇へと落ちていた。
気がついたとき、目の前にエスタスの顔があった。エスタスの髪は乱れ、肩で息をしていた。その後には闇に包まれた帰らずの森の姿があった。
「あたしは……。なぜ、あなたが?」
ディードリットは自分が精霊界で消滅したものと思っていた。二度と意識が戻るとは、思ってもいなかった。
「森の王と盟約を結んだのは、長老たちなのだよ。君が強くなったのは認めるが、長老たちにかなうはずがないだろう」
「呼び戻してくれたの……」
ディードリットはエスタスに尋ねた。
「君の名前を知っていてよかったよ。もっとも、間に合わないかと思ったがね。召喚しはじめたときには、すでに君の意識はほとんど残っていなかったのだよ」
「……ありがとう、エスタス」
「なぜだ、ディードリット。なぜ、人間たちのために命を賭けなければならない。あの戦士はそんな危険を平気で君に押しつけるのか?」
エスタスはパーンの事を言ってるのだ。
「まさか……」
ディードリットは、帰らずの森の呪いを解くと自分が言ったときのパーンの顔を思いだしていた。なんとか理由を見つけて、パーンは自分を引き止めようとした。それをしなかったのは、仲間や村人のことを考えたからだ。
「あたしから言いだしたの。でも、あなたの言うとおり、あたしは愚かだったわ。風の王のときと同じだと思っていた。この森を呪縛したのは、長老だものね。長老はまだ生きているのだから、森の王が盟約を破るなんてできるはずがない……」
「その通りだよ、呪いを解くことができるのは長老だけだ」
ディードリットは自分の身体があるかどうか確かめるように、腕と足に力を込めてみた。疲れきってはいたが、身体はなんとか動いてくれた。
「だったら、長老にお願いしないと。この森を呪いで閉ざしているのは間違っているのだから」
「まだ、目が覚めないのか」エスタスの声は哀しみに満ちていた。
「そこまで人間に毒されてしまったのか。いったい人間のどこが……」
「エスタス……。あなたは、あなただけは知っているはずよ」
六年ほど前、エスタスはザクソンの村にいる自分を連れもどしにきたことがある。そのとき、彼は人間の良さを断片なりとも理解してくれたはずだ。そうでなければ、彼はたとえ魔法を使ってでも、ディードリットを連れもどしただろう。
「すべてを知っているわけではないし、認めたわけでもない」
苦々しい声で、エスタスは言った。
「だからよ、エスタス。なぜ、すべてを知ろうとしないの。人間のすべてを知らずに、彼らを認めようとしないのは卑怯だわ。古代王国の魔術師たちは、あたしたちハイエルフの敵だったかもしれない。でも、人間は変わってゆくわ。ほんの小さなきっかけでもね」
「それだけは、この前、知ったよ」
エスタスは小さく微笑んだ。
「わたしは多少でも君の気持ちを理解することができる。しかし、長老はひどく気分を害されている。説得するのは難しいだろう」
「説得してみせるわ。間違っているのは、あたしじゃない。長老たちなんだから」
「長老はまもなくやってくる。君が精霊界へ飛びこんだことを、知らせに走ったからね」
その言葉を聞いて、ディードリットはここで持つことに決めた。
「リーフは?」
「君の家に連れていかれたはずだ……」
そう、とディードリットはうなずいた。
誰も光の精霊を召喚していないので、辺りは真っ暗だった。もっとも、ディードリットたち精霊使いの目には、普通の人間では見ることのできない光が映る。だから、暗闇でもそれほど気にはならない。
しばらく待っていると、長老たちが姿を現した。他にも何人かのハイエルフがいたが、全員が集まったわけではない。
「ディードリット」ルマース長老がゆっくりと声をかけてきた。
「精霊界へ行くことを禁じている訳ではない。しかし、部族の合意を得ることもなく、森の王との盟約を破棄しようとしたのは間違っている」
「認めます」ディードリットは、深くうなだれた。
「まず最初に、みんなの合意を得るべきでした。それがあたしたちの決まりですから」
そして、ディードリットは顔を上げると、その場に集まっている仲間たちひとりひとりを見回していった。
「でも、間違っていたのは、やり方だけです。行為自体は正当だと思っています。この森は、古代の呪縛から解放されるべきです」
「それはできないよ、ディードリット。おまえは知らないのだ。昔、人間たちは魔術を使って、わたしたちを支配しようとした。呪いによって森を閉ざす以外に、彼らに対抗する術はなかったのだ」
「それは、何百年前のことですか?」
ディードリットは、長老のそばにゆっくりと歩いていった。
「古代の魔術師たちは滅びました。あの時から、人間は大きく変わっています。もちろん、長老たちの目から見れば、まだまだ愚かに見えるかもしれません。しかし、交わろうともしないで、彼らのことを非難する権利が、あたしたちにあるのでしょうか」
「エスタスから報告を受けている。人間界は、いまだ戦を続けているそうではないか?」
「ええ、その通りです」
終わる気配のない大戦を思いだして、ディードリットの心は重くなった。
「でも、戦はいつか終わります。また繰り返されるかもしれません。ですが、人間たちが変わろうとするなら、より良い自分を見出そうとしつづけるなら、永遠に戦の起こらない世界だって創ることができるはずです」
「ならば、それまで待とうではないか」
ルマース長老の言葉は、あくまで淡々としている。ディードリットは頭が熱くなってくるのを感じた。
「あたしたちが、待てるのは、無限の時間があるからよ! 人間にはそんな時間がないわ。呪いに捕えられて、この森を彷徨《さ ま よ》っている人々の時間を奪う権利なんてあたしたちには絶対にない! それほどまでに人間が嫌いなら、妖精界へ帰ればいいんだわ。人間界で暮らしたいのなら、彼らと交わるしかない。ロードスに住む他のエルフたちは、皆、そうしているのよ!」
「それで、彼らエルフたちは平和に暮らしているのかね?」
「確かに、戦に巻きこまれて死ぬエルフもいます。でも、あたしの知るかぎりでは、彼らは人間たちと一緒に暮らすことを拒んではいません。そうでなければ、なぜリーフのようなハーフエルフが生まれてくるのですか?」
「人間に乱暴されたからではないのか? それに似た話を、わたしはいくつか聞いたことがある」
「それは、本人の口から聞いてください」
ディードリットは長老の言葉になかば絶望を感じていた。長老は、いかなる変化をも求めていないのだ。だから、古代の人間たちとの争いを、いまだに記憶の中に抱えこんでいる。
「ハーフエルフの少女を連れてきてくれ」
長老はディードリットの父親に、そう声をかけた。
父親はうなずき、家の方に去っていった。
その後ろ姿を見つめながら、ディードリットは、ひとつ不安にかられたことがあった。
ハーフエルフが幸せではないことを、思いだしたのだ。
ハーフエルフがエルフと人間たちの双方から迫害されていることを聞けば、長老は何と思うだろう。ハーフエルフという存在は、人間とエルフが文わることの難しさの象徴と思うのではないだろうか。
後悔しても、もう遅い。
やがて、ディードリットの両親に手を引かれ、ハーフエルフの少女が姿を現した。彼女はフードをかぶってはいなかった。エルフの特徴を残してはいるが、彼女の姿形は、どちらかと言えば人間に近い。
「彼女の場合、父親がエルフなんです」
ディードリットは長老にそれだけを告げた。
「それは、本当か?」
長老はすこし驚いたようだった。
「本当です」
穏やかな口調で、リーフは答えた。
リーフはその場の全員の視線が注がれていることを、恐れる気配がなかった。むしろ、自分に関心が向けられていることが嬉しそうだった。
そして、彼女は自分の両親の出会いについて、要領よく語った。
ふたりがそれぞれの意思で夫婦となり、リーフが生まれたという事実に、ハイエルフたちの間にちょっとした動揺が走った。
それから、彼女は自分の生い立ちについて、ぽつりぽつりと話しはじめた。エルフの村で生まれて、エルフたちの中で暮らしたこと。父親からはエルフ語と精霊と交信する方法を学んだこと。母親からは身を守るために武器の扱い方を教わったこと。
生まれてからいろんな迫害を受けたことまで彼女は正直に語った。
「なぜ、そこまで言うの……」
ディードリットは、気の遠くなるような思いで、そうつぶやいた。
それみろ、と言わんばかりの空気が、たちまちエルフたちの間に流れた。
もしかしたら、リーフは自分の生まれを呪っていたのかもしれない。
「人間の血が混ざっているがゆえにエルフから迫害を受け、エルフの血が混ざっているがゆえに人間から迫害を受けた。そうだな?」
長老の言葉に、リーフは素直にうなずいた。
「これが答だよ、ディードリット」
長老の言葉は、静かではあったが、もはや決して動かぬだろう強い意志に満ちていた。
リーフが忘れていたことを思いだしたように、もう一言、付け加えるまで……
「でも、あたしは幸せだったわ」
リーフは微笑みながら、当たり前のようにそうつぶやいたのだ。
彼女が何を言ったのか、ディードリットはしばらく理解できなかった。それは、他のエルフたちにしても同じらしく、彼女の言葉の衝撃が伝わっていくまでに、かなりの時間が必要だった。
長老の顔にも動揺の表情が浮かんでいた。
「迫害されて、なぜ幸せなのだ?」
松の葉のように鋭い長老の言葉を、リーフは柔らかな笑顔で受け止めた。
「だって、お父さまもお母さまも、あたしを愛してくれたもの。それに、あたしは精霊使いで武器だって扱えるのよ。いじめられてばかりじゃなかったわ。最後に痛い目をみるのは、たいていいじめようとした本人だったもの」
そして、リーフは悪戯《いたずら》っぽく舌を出した。それから、静まりかえった人々を不思議そうに見回した。自分の言葉が与えた衝撃に、彼女は気づいていないのだ。
ディードリットは左手で胸を押さえながら、ゆっくりとリーフの方へ歩いていった。それから、力を込めて、彼女の小さな身体を抱きしめた。
「わたしたちはハイエルフだ。彼らとは違う……」
しばらくの静寂の後、長老はつぶやくように言った。
「長老!」
ディードリットは振り返って、あくまで決意を変えようとしない長老に、炎のような視線を向けた。燃えてしまえばいいのだ、となかば本気で思っていた。
「長老……」
と、長老を呼ぶ声が、もうひとつ起こった。
ちらりと視線を向けると、エスタスがゆっくりと長老のところに近寄っていた。
「人間界へ行って気がついたのですが、もしかしたら変化を求めないわたしたちの暮らしが、部族としての未来を閉ざしているのかもしれません。人間界で暮らすエルフたちは定命の運命にあるそうです。人間たちよりも遥かに長寿ではあるのですが。その代償でしょうか、彼らの村には、よく子供が生まれるそうです」
それだけを言うと、エスタスはディードリットを振り返った。
「ディードリット、君も素直になればどうだい。本当に他人を説得したいなら、自分にとっていちばん大事なことを明らかにしないといけないよ。君がこの森を呪いから解き放ちたいのは、わたしたちが間違っていると思うからなのかい?」
「あなたの言うとおりだわ」
ディードリットはエスタスに感謝した。飛びついていきたいほどだった。自分にとっていちばん大事なことを、彼は思いださせてくれたのだ。
「あたしには、愛している人がいます。相手は人間の戦士で、戦を終わらせ、このロードスに真の平和を取り戻そうと一生懸命になっています。でも、やむをえない理由があって、彼は今、この森の呪いに捕《とら》われています。あたしは、どんな代償を支払ってでも、彼を助けたいと思っていたんです。たとえば、それがあたしの命でも……」
「まさしく、ディードリットは命を落とすところでした」
エスタスが付け加えるように言った。
「その知らせはさっき聞いた……」
長老はそうつぶやくと、深くため息をついた。何百年間も胸にたまっていた空気を吐きだすかのように。
「ひとつだけ、ディードリットに尋ねたいことがある」
「なんでしょうか?」
ディードリットはじっと長老の目を見つめながら、次の言葉を待った。
「たとえば、不幸になると分かっていても、おまえはその戦士の子を産みたいと思うかね?」
「もちろんです。もしも、授けられたなら……」
ディードリットは答えた。答えてから、羞恥《しゅうち》で顔が赤くなっていく。もしも、リーフに出会う前だったなら、彼女の話を聞く前なら、答をためらったかもしれない。自分がエルフで、パーンが人間であるということに、こだわりがあったから。
長老は一同を見渡し、すこし間を置いてから口を開いた。
「よいだろう。精霊界へと赴《おもむ》き、森の王に会おう。まず、呪いを解き、それから考えよう。わたしたちがこれからなすべきことを……」
「長老……。ありがとうございます」
視界がかすんで、頬《ほお》に熱いものが流れおちるのをディードリットは意識した。
「人間たちに呪いをかけるつもりで、本当に呪いに捕われていたのは、わたしたち自身なのかもしれん」
そうつぶやくと、長老はゆっくりと黄金樹に歩みより、幹の中に姿を消していった。
「思った以上に、大変だったんだな」
ディードリットから、呪いに捕われてからの話をすべて聞き、パーンは悔しそうな表情を浮かべた。
全員が呪いから解放された。自由軍の兵士たちも、カラルの村人たちも、それから帰らずの森が閉ざされていた間に、この森に足を踏み入れてしまって帰れなくなった男や女たち。彼らの中には、何百年も前に生まれた人がいた。
村人たちは、呪いに捕まってからじっとしていたらしく、全員、すぐに合流できた。最後まで抵抗したパーンがいちばん遠くに行ってしまっていて、呪いが解けたとき、彼は黄金樹のすぐそばに姿を現した。
おかげでその後、村の長老たちやエスタスからいろいろと説教されて、パーンは人間を代表して、彼らに謝罪をする羽目になった。
「結局、何の力にもなれなかったな。リーフには後で十分にお礼を言わないと」
「あたしだって同じよ。長老たちを説得できたのは、リーフとエスタスのおかげだし、呪いを解いたのは長老だものね」
「そんなことはないさ。ディードがいなかったなら、すべてはじまらなかったのさ。だから、感謝している」
パーンの言葉に、ディードリットは胸が鳴るような思いがした。
目を伏せながらパーンにすりよって、その胸に顔をうずめる。鋼の鎧が頬に冷たいが、その向こうからパーンの温もりが伝わってくるのをじっと待とうと思った。
パーンの腕が、優しく背中に回ってくる。
「だが、ハイエルフの長老は、心の底から人間を認めたわけじゃないはずだ。いつかまた人間に愛想をつかして、森を閉ざしてしまうかもしれない……」
ディードリットを抱えながら、パーンはぽつりとつぶやいた。
「そのとおりよ」
ディードリットは目を開いて、顔を起こし、パーンの肩越しに、帰らずの森の木々を見つめた。
「人間とエルフが本当に交わって暮らす日なんてこないのかもしれない……」
自分の言葉が、ひどく寂しかった。
確かに、呪いは解かれ、帰らずの森は開かれた。しかし、人間たちはあえて入ろうとはしないはずだ。魔の森と恐れつづけるだろう。そして、ハイエルフたちも、誰ひとり森を出ようとはしないはずだ。
呪いはなくなったが、いったいなにが変わったというのだろう。
「人間とエルフが交わって、か。確かに、難しいかもしれないな……」
パーンは遠くを見るような表情で、そうつぶやいた。それから、ちょっと間を置いて、今度はディードリットの顔を見つめてくる。
「だけど、ディード。オレたちがいるじゃないか。だから、いつかは……」
「そうね。そうよね、パーン」
パーンの言葉に、ディードリットは勇気づけられる思いだった。
少なくとも自分たちはお互いを理解しあっている、愛しあっている。これだけは間違いないのだ。
きっとリーフの両親も自分たちと同じだったに違いない。そうでなければ、リーフの口から幸せだったという言葉が出てくるはずがない。
「がんばりましょ、パーン。あたしたちが幸せになることが、ふたつの種族にとって大切なことだと思えるの」
「そうだな」
パーンはふたたび遠くに視線を向けた。きっと、いろいろな思いがパーンの頭をよぎっているのだろう。ディードリットの言葉を実現させるために、横たわっている障害を思い浮かべたに違いない。
どれひとつを取っても、ひとりの人間が背負うには大きすぎる問題なのだ。だが、パーンはそれを重荷とも思っていない。いかなる困難がたちはだかろうと、剣ひとつを武器にそれに向かっていくのだ。
剣を構えて微動だにしないパーンの姿が、ふとディードリットの頭に浮かんだ。
それで、ディードリットは思いだしたことがある。エルフの村で見たパーンの幻影だ。
「ね、パーン。ひとつだけ教えてくれない?」
「何だい?」
「呪いに捕われて、あなたは黄金樹のところにやってきたでしょ」
「ああ、いつの間にかね」
「あのとき、あなたは黄金樹に切りかかっていきそうだった。なのに、それをやめたでしょ。あれはどうして?」
パーンは困ったようにうなって、両腕を組んだ。
「あの木を傷つけちゃいけないように思えたんだ。切れば、呪いが解けるような気もしたんだけどな」
パーンの言葉に、ディードリットは驚いて目を丸くした。
「その通りだったのよ、パーン。あの木を切れば、森の呪いは解けたはずなの……」
「やっぱり、そうだったのか」
パーンも驚いたみたいだが、残念がっている様子はなかった。
「でも、それでよかったのかもしれない。おかげで、森や森の精霊たちの気持ちが分かった気がするから」
「森と森の精霊たちの気持ち?」
ディードリットは興味を覚え、パーンに教えてくれるようせがんだ。
「たとえば、森が| 司 《つかさど》っているものさ。安らぎとか生命とか迷いとか。森はかけがえのないもので、この世界から森がまったくなくなったら、人間だって生きてはいけない。地水火風の精霊力がなくなったら生きていけないのと同じようにね」
「そりゃあ、すべての生命は、世界樹から生みだされたんだもの」
ディードリットはちょっとがっかりした。パーンの言葉は、彼女にとっては当たり前のことだったから。
「もうひとつ思いだした」
そう言ったパーンの顔は無邪気に笑っていた。
ディードリットも笑顔で応えて、パーンの言葉の続きを待った。
「オレが呪文で眠っているあいだ、ドライアードたちが夢の中に現れたんだ。そして、このまま森で暮らせとさかんに勧めてくれたっけ」
「あきれた……。あたしが命がけで森の王と戦っていたとき、あなたはドライアードたちに抱かれて、鼻の下を伸ばしていたってわけ!」
ディードリットは拗《す》ねてそっぽを向いた。
「そんなもんだ。だけど、彼女たちの願いは丁重に断ったよ」
「ずいぶん惜しいことをしたわね。ドライアードは魅了の力を司っているわ。彼女たちに抱かれていれば、至福を味わうことができるのよ」
「だろうな。でも、オレは森の精霊じゃなく、森の妖精《ようせい》にすでに魅入《みい》られていたから」
そう言ってから、パーンは自分の言葉に照れたように、ディードリットから視線をはずした。
「やめてよ、恥ずかしくなるじゃない」
口ではそう言ったものの、ディードリットは不器用なパーンの言葉を、そっと心に刻みつけた。
「さあ、出発しようぜ。歩いて抜けるには、この森はあきれるぐらい広いからな」
きっと、ごまかすつもりなのだろう。パーンはそそくさと立ち上がり、ディードリットに手を差し伸べてきた。
ディードリットは嬉しそうにうなずくと、その手をしっかりとつかんだ。立ち上がって、ディードリットはパーンと並んで歩きはじめる。
帰らずの森の大地をしっかりと踏みしめながら。
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復讐の霧
「あのできそこない[#「できそこない」に傍点]を貸せ、と……」
荘厳な玉座に腰を下ろしたまま、カストゥール王国最後のロードス太守は、うつろな声を響かせた。
薄闇のなか、赤く浮かびあがる双眸《そうぼう》が、わずかに輝きをます。
その目が見つめるのは、ひとりの若い魔術師であった。
蛮族ではなく、失われた魔法王国の貴族。その地位は低く、見覚えすらない。しかし、間違いなくカストゥール王国の魔術師であった。
おそらくは、生き残った最後のひとりであろう。
あの灰色の魔女や、太守自身は、存在してはいても生きているとはいえぬ。アルナカーラは、もうひとつの知識の額冠に己の記憶と意思とを与え、太守は死霊魔術《ネクロマンシー》の奥義により不死者《アンデッド》の王となっているからだ。
しかし、目の前の魔術師にはあたたかい血が流れている。
男はストラールと名乗った。
召喚魔術師《コ ン ジ ュ ア ラ ー》の一門に属する者であると。
だが、無限の魔力を供する塔が失われた今では、得意の召喚魔術はもはや使えまい。天空から隕石《メ テ オ》を呼びよせることも、異界の住人たる魔神どもを支配することもできぬのだ。
額に水晶を埋めた者ゆえに。
「太守サルバーンよ。できそこないとて、使いようはあるのです」
ストラールの声には、怒りと憎しみが感じられた。
若い怒りと、生気に満ちた憎しみであった。しかし、それらはサルバーンと呼んだ玉座の太守に向けられたものではない。
遠い誰かに向けられたものだ。
このような激しい感情と無縁になってから、いったいどれほどの年月が流れたことだろう。
サルバーンは魔法王国の太守であった日々を、ふと思い出した。
「復讐のためか?」
サルバーンの問いかけに、ストラールは肩をぴくつかせ、恐怖に満ちた目で彼を見つめる。魔法で心を読んだとでも思ったのだろう。
魔法を使わずとも、他人《ひと》の心ぐらい読むことはできる。ましてや、若者は己《おの》が心を隠す術《すべ》さえ知らぬものだ。
「復讐の手段を考えつくだけで一年、太守が存在しているかもしれぬことを知り、この離宮を尋ねあてるためだけに、さらに二年かかりました……」
「いったい誰に復讐しようというのだ。王国を滅ぼした蛮族どもに、か?」
「いいえ、違います」
若い魔術師は衝撃から立ち直ったらしく、背筋を伸ばし、サルバーンをまっすぐに見つめた。
「あの忌まわしき森の妖精どもに……」
そう言って、若い魔術師は唇を噛み、両手の拳をかたく握りしめた。
「帰らずの森のハイエルフどもに、復讐を!」
「なるほど、それであのできそこないか」
サルバーンは尊大にうなずいた。
口許《くちもと》から笑みがもれる。これほど、楽しいことは何百年ぶりであろうか。
「よかろう、汝《なんじ》の復讐のため、我が死霊魔術の力、貸し与えよう!」
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。
大陸の住人のなかには、呪われた島と呼ぶ者もいる。激しい戦乱が打ち続き、忌むべき魔境が各地に存在するゆえに。
なかでも、ロードス最大の魔境とされていたのはアラニアの西南に広がる「帰らずの森」であった。ひとたび足を踏み入れた者は、二度と出ることのかなわぬ禁断の森として、人々は恐れ、近づくことさえ戒めた。
しかし、三年ほど前に、この魔の森は突然、開かれたのである。そして、森に捕らえられていた者たちがすべて帰ってきた。もっとも、彼らの多くは捕らえられてから何十年、何百年かが経過しており、本当の意味での帰る場所を失っていた。ために、森からの帰還者の多くが、悲しい運命をたどったと言われている。
だが、新しい人生を見つけだした者もいるのだ。
人間は強く、あるいは弱い。その境界が羊皮紙のように薄いことを、思い知らされる出来事だった。
そのときから、帰らずの森は、もはや魔境ではなくなった。それでも、伝説はいまだに根強く残っている。森に近づこうとする者は、めったにいない。
狩人や木こりたち、森を生活の糧にする者でさえ。
だから、帰らずの森を並んで歩く、一組の男女の姿は珍しいといえる。
よく見れば、そのうちの女性のほうがエルフだと分かる。華奢《きゃしゃ》な身体、先端のとがった長い耳、白樺《しらかば》の幹よりも白く透明感ある肌、春のそよ風のごとく柔らかに流れる白金《プラチナ》色の髪は、森の妖精族ならではの特徴だ。
| 古 《いにしえ》の迷信を信じる者は、それで納得することだろう。古代のエルフの呪いは、同族には及ばないのだと。
しかし、もうひとりの男には首をかしげるに違いない。
彼は、人間だった。装飾のない重厚な鎧に身を包み、左手に楯を、左の腰には長剣を吊るしている。
どこかの国の騎士のようないでたち[#「いでたち」に傍点]だが、男の着る鎧を制式とする王国は、このロードスにはひとつもない。
それゆえか、男は自由騎士と呼ばれている。
自由騎士パーンと……
「だから、村に立ち寄ってもいいんだぜ」
パーンは、隣を歩くディードリットに呼びかけた。
「かまわないわよ」
まっすぐ前を向いたままで、ディードリットは答える。
むきになっている声ではない。それだけに、彼女が本心から村に立ち寄るつもりのないことが分かる。
パーンは黙りこんだが、彼女が顔を見せることで、安心する者がいるのは間違いない。だから、立ち寄ってやってはどうかと思うのだ。
それは、人間の感性なのかもしれない。
しかし、エルフと人間との違いなど、たいして大きくないような気がする。そうでなければ、今、こうしてエルフの娘と一緒に、森を歩いているはずがない。最初の出会いだけで、別れているだろう。
ディードリットは、おそらく使命を重視しているに違いない。
その使命とは、今、パーンの懐に収められている親書である。カノン帰還王レオナーからフレイム傭兵王カシューに宛《あ》てられたものだ。一刻も早く、届けなければと思っているのだろう。
パーンとて、親書の重要さは分かっている。その親書に書かれている内容を、彼は知っているのだから。
親書は、フレイムの参戦を督促《とくそく》しているのだ。
先日、カノンに駐留していたマーモ軍は突如、ヴァリスに侵攻を開始した。
かつて支配していた国境の街アダンをふたたび占領すると、勢いを弛《ゆる》めることなく、ヴァリスの王都ロイドを目指して進軍した。かつての英雄戦争のように。
緒戦で後れをとったヴァリスであったが、すぐに態勢を立て直し、反撃に移った。
ヴァリスの平原を舞台に、しばらくのあいだ一進一退の攻防がくりひろげられたが、マーモ帝国はヴァリス軍の後方を攪乱《かくらん》する戦術をとってきた。
神出鬼没の妖魔たちが、前線の騎士、兵士に食料を供給する輸送隊を襲い、後方の村を焼き討ちする。
先の英雄戦争のときにも行われた戦術だが、ヴァリス侵攻軍を指揮する黒衣の将軍アシュラムは、それをより大規模に実行した。
これでは、前線のヴァリス軍は思うままに戦えない。
形勢はふたたびマーモ優勢に展開し、ヴァリス軍はじりじりと後退している。
戦局は反マーモの連合軍に不利にみえるが、カノン解放を目指す自由軍にとって格好の機会が訪れてもいた。
カノンに駐留するマーモ軍の主力がヴァリス長征に出発したからだ。残るマーモの兵力はごくわずかであり、大きな街の治安を維持することで手一杯となっていた。
自由軍の活動を押さえこむどころではない。
この機会を、レオナー帰還王は逃すつもりはなかった。危険な賭《か》けであるかもしれないが、ついに蜂《ほう》起《き》することを決めたのだ。
マーモ島への玄関口にあたる港街ルードを奪回し、マーモ軍の退路を断つ。
これが、レオナーの立てた作戦だった。
ヴァリス、フレイムの連合軍がそれぞれの戦いに勝利すれば、マーモ軍は二度と立ち上がれないまでに壊滅するはずである。
ひとつ間違えば、壊滅するのは自由軍であるかもしれない。
しかし、ヴァリスが敗れれば、解放を心待ちにしているカノンの民衆は絶望するだろう。それに、マーモの統治が長引けば、それだけ旧体制への復興を望む民衆の気持ちが薄くなる。人間は自らが置かれた境遇に、適合する力を持っているから。
なにより、カノンの統治者が黒衣の将軍アシュラムに代わってからは、厳しくも公正な施政が行われ、人々の不満の声は小さくなりつつある。
最悪の状態から普通の状態に戻ることは、良好な状態でありつづけるよりも民衆の気持ちを安心させるものなのかもしれない。最近では、黒衣の将軍の指導力を敬う声も、あちらこちらで聞こえてくるほどだ。
帰還王レオナーは、己の焦りを口にするような人物ではないが、内心では穏やかならざるものがあるはずだ。
パーンには、それが分かる。
ディードリットも、薄々、感じているのだろう。
だから、一刻も早くと思っているのだ。それにしても――
「エルフの村に立ち寄る時間ぐらいある」
と、パーンは思うのだ。
だから、もう一度、ディードリットにそう声をかけた。
やや強い口調で言ったのかもしれない。
ディードリットは立ち止まり、じっとパーンを見つめた。
「時間がないからじゃないの。あたしは村になんか寄りたくないの」
目の前に立って、ディードリットは怒ったような声で言った。
「どうしてさ、村に帰ればあんなに嬉《うれ》しそうなくせに」
「そりゃあ、故郷だもの。父さんも、母さんも、エスタスだっているし……。でも、みんなはあなたのことを、まるで野蛮人でも見るような目で見るもの。それが耐えられないの!」
「そういうことか」
パーンは、思わず苦笑した。
「何がおかしいのよ」
「おかしくはないさ。でも、ハイエルフたちから見れば、オレなんてまだまだ野蛮人だからな」
それでもハイエルフたちは、パーンの傍若無人な振る舞いも許容し、彼らの聖地たるこの帰らずの森を、解放してくれたのである。
何百年も続いた安定を捨てて、だ。
人間たちにそんな決断ができるかどうか、パーンは疑わしく思う。
「あなたは野蛮人なんかじゃないわ!」
ディードリットは激しく身をよじらせながら言った。
「エルフが高貴な生き物だなんて、いったい誰《だれ》が決めたのかしら。人間の文化や礼儀作法のほうがよっぽど洗練されているし、優雅だわ。外見だって、誇れるほど美しくない。あたしはレイリアの黒髪が、羨《うらや》ましく思ってるわ。シーリスの赤毛だって、情熱的で素敵だし……」
そして、ディードリットは、じっとパーンを見つめた。
「あなたの日に焼けた肌も好きよ。あたしなんかいくら日に当たっても、白いまま」
「赤くもならないんで、いつも驚いているよ」
パーンは手袋を脱ぐと、ディードリットの二の腕に触れて、しばらくその感触を楽しんだ。彼女の肌はさらさらとしていて、いったん触れると手を離すのが惜しくなるほど心地好い。
「パーン……」
ディードリットは甘えたように、パーンの胸に寄りかかろうとした。
そのとたん、パーンが緊張したようにディードリットの腕から手を離した。急いで手袋をはめなおすと、腰の剣に手をかける。
「どうしたの?」
驚いて、ディードリットはパーンの視線の先を追った。
そして、彼が緊張した理由を知った。
十歩ばかり離れた大木の木陰に、霧のようなものが漂っていたのだ。
それも、あきらかに自然のものではない。なぜなら、その霧は影のなかにあって、自ら黄色く発光していたから。
風もないというのに、その奇怪な霧は絶えず形を変え、まるで独立した生き物のようにうごめいていた。木の葉や小枝をひきちぎろうとしているのか、細長い腕のようなものを何本も伸ばしている。
パーンが見つめているあいだに、一枚の青葉がぶつっと枝を離れ、くたびれたように舞いながら、地面へと落ちていった。
「あいつは、いったいなんだ?」
パーンは囁くような声で問いかけた。
「あんなの見たこともない。でも、待って……」
そう言うて、ディードリットは精神を集中させる。
霧に働く精霊力を感知するためだ。
「まさか、そんな……」
精霊力を感知して、ディードリットは驚きと恐怖のために、いつもは細い目をいっぱいに開いた。
「あの霧は、|不死の魔物《アンデッド》よ!」
霧は、不死の生命力に満ちていた。それは、普通の動植物に宿る生命力と対極にあるものだ。
ディードリットの答に、パーンも目を見開いた。
「不死の魔物なんかが、なぜ漂っている。いったい、この森に何があったというんだ」
「そんなこと、分かるはずがない。誰かに聞いて、確かめてみないと……」
「どうやら、君の村に行くしかないようだな」
パーンはにやりと笑って、ディードリットの背中をつついた。
「あきれたわ。こんな状況で……」
ディードリットは、信じられないというように首を横に振った。
「でも、あなたの言うとおりだわ。急ぎましょ、あたしの村に」
パーンはうなずくと、すぐに駆けはじめた。
もちろん、ディードリットも後に続く。走りながら彼女は、心がしめつけられるような不安を覚えはじめていた。
こんな事件が起こっている以上、村の仲間たちがパーンを見る目は、さらに厳しくなっているに違いない。
パーンたちは駆け込むように、ハイエルフの村にたどりついた。
いつもは静かな森の妖精たちの集落は、ひどく騒然としていた。
まず目についたのは、武器を持って走ってくる五、六人の一団だった。
ディードリットが緊張した顔で、彼らのところに駆け寄ってゆく。
「いったい、何があったの? 誰と戦おうというの?」
ディードリットは、彼らのうちのひとり、長弓《ロングボウ》を持った男性たちを捕まえて、質問を浴びせた。
突然、帰ってきたディードリットに、エルフたちは驚きの声をあげた。
「侵入者だよ。この森を滅ぼそうとして、侵入者がやってきたのだ」
「侵入者ですって? いったい何者……」
「人間だ。人間に決まっているだろう」
そう言うと、長弓を持ったエルフはディードリットの頭越しに、憎しみのこもった視線を投げてきた。
その視線の先にパーンがいることは、確かめるまでもなく分かった。
「相手は、死霊どもを連れた魔術師だ。すでに、エスタスたちが戦っている」
ディードリットは、あわててパーンを振り返った。彼女の髪が円を描くように踊る。
視線が合うと、パーンは力強くうなずいた。
「行ってみよう」
彼らの会話はエルフ語だったので、パーンにはほとんど意味は理解できなかった。ただ、エスタスという名前が聞こえたから、彼が誰かと戦っているのだと大方の察しをつけた。
「人間の力など借りん!」
槍を持ったエルフが、わざわざ人間の言葉を使って、言った。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
ディードリットは怒りの声をあげ、そのエルフを睨みつけた。
パーンは後ろからディードリットの肩に手を置き、彼女を落ち着かせた。そして、事情の説明を求める。
ディードリットは、今、聞いた話を簡単に説明した。
そのあいだに、エルフの戦士たちは、村を飛びだしてゆく。
「……死霊を扱う魔術師か。さっきの霧とも無縁じゃないだろうな」
ディードリットは、忌まわしそうにうなずいた。
古代語魔法には、|不死の魔物《アンデッド》を操る魔術の系統があったと聞いている。あの霧が不死の魔物で、話題の魔術師が死霊兵を連れているなら、両者が関係しているのは間違いない。
パーンは楯のベルトに腕を通し、楯の裏側に鋲打《びょうう》ちされた把《とっ》手《て》を強く握りしめた。
相手は死霊を操る魔術師である。どこの誰かも、その目的も分からないが、強敵であるのは間違いない。
パーンとディードリットは、エルフの戦士たちを追いかけて走りはじめた。
彼らは、村を出てすぐのところに開いていた扉《とびら》に飛びこんだ。
そこには針葉樹の高木が、二本並んで生えている。二本の木はまるで双子のように、幹の太さや枝ぶりまで同じだった。そんな二本の木に挟まれた空間は、パーンの目で見ても何かの入口のように見える。
ディードリットが、その空間に向かって、呪文《じゅもん》めいた言葉を唱えた。
すると、何もなかった空間に黄金《こ が ね》色《いろ》の輝きがじわじわ溢《あふ》れだし、木のうろ[#「うろ」に傍点]にも似た光の扉が姿を現わした。
この帰らずの森には、あちらこちらに森の妖精界へと通じる扉があり、この異世界を抜けて、別の場所に移動することができる。
パーン自身も、何度か通ったことがある。
「あたしから離れないでね」
扉に入るとき、ディードリットがそう囁《ささや》いて、パーンの手を握りしめてきた。
「分かっている」
ふたりは手をつなぎあったまま、扉に飛び込んだ。
瞬間、黄金色の光が爆発し、パーンは目をくらませた。
目が慣れてくると、金色《こんじき》の葉を茂らせた樹木が整然と立ち並ぶ森の姿が入ってくる。森全体から光があふれだしているように、影はどこにもない。優しい風が、全身を撫でるように通りすぎてゆく。どこからか、小川のせせらぎの音が聞こえてくる。
気を抜くと、意識が遠くなりそうだった。この世界で、黄金樹の一本として永遠に留まることができるならば、それは至福の喜びであろう。
「|森の乙女《ドライアード》の呼びかけに、耳を貸したらだめよ」
ディードリットが叱るように言う。
「大丈夫だ」
パーンはディードリットの手を強く握りかえした。
はるか前方に、先行するエルフの戦士たちの姿が見えた。彼らは全力で走っているのだが、まるで夢の中にいるように、ゆったりと動いている。
と、そのとき、彼らは別の扉に飛びこみ、視界から消え去った。
「ずいぶん、近いじゃないか」
パーンは驚いて言った。
「でも、普通に歩けば、半日はかかるわよ」
「だから、近道か。半日もかかっちゃあ、戦いは終わっているもんな」
「そういうこと」
パーンとディードリットも、エルフたちがくぐったのと同じ扉に飛びこんだ。
黄金色に輝いていた世界が、一瞬にして元の森の風景に変わる。
明るいところから暗い場所にきたので、物質界ではもう夜になったのかと錯覚したほどだ。
しかし、頭上を見上げれば、木の葉のあいだから木洩れ日が射してきていた。日はかなり傾いているが、日が暮れるまではまだまだ時間がかかるだろう。
意外なことに、エルフたちはパーンたちが出てくるのを待ってくれていた。そして、ふたりの姿を認めたとたんに、ふたたび走り出す。
パーンとディードリットは、エルフたちに従うように走った。すると、やがて戦いの音が聞こえてきた。
緊迫したエルフ語の叫び声が、武器が打ち鳴らされる甲高い音が。
パーンは一瞬、立ち止まり、腰の剣を抜いてから、今度は全力で走りはじめた。
しばらく走ると、戦場に着いた。
パーンはさっと状況を見回して、エルフたちが不利な戦いを強いられていることを知った。何人かが傷つき、倒れ、苦しそうに呻いている。
屍人《ゾンビー》や骸骨《スケルトン》たちが、ひとりの魔術師の号令のもと組織的な攻撃でエルフたちを追いつめているのだ。魔術師は淡い青色の長衣《ローブ》に身を包み、真紅のマントを巻いていた。右手には魔術師の証たる杖を持ち、腰には剣を吊るしている。護身用というには、やや大きすぎる| 剣 《ブロードソード》だ。
意外にも、魔術師はかなり若い顔だちだった。エルフにも劣らぬほど肌の色が白いのと、黒光りする水晶を額に埋めこんでいるのが特徴だった。
首からも、こちらは透明な水晶球の飾り物を下げている。
若い魔術師はまるで戦いそのものを楽しんでいるかのように、杖を振りかざし、死霊兵に指示を与えている。
エルフたちは精霊使いとしては一流だが、戦士としては体力で劣る。動きの俊敏さでかろうじて持ち堪《こた》えているものの、このままではやがて疲労し、アンデッドどもの餌食になってしまうだろう。
「エスタス!」
突然、ディードリットが叫び声をあげた。
その声で、エルフたちの先頭で戦っているのがエスタスだということにパーンも気づいた。
エスタスは髪を振り乱しながら、三体のスケルトンと剣を交えている。
表情には出ていないが、かなり息が苦しそうだ。
「なぜ、魔法を使わないんだ。こんな奴ら風の王を召喚すれば……」
パーンは叫びながら、死霊どもに向かってゆく。
「こんなところで、風の王を召喚したら樹木が傷んでしまうでしょ」
ディードリットはパーンの叫びに答えつつ、何を思ったのか背負い袋をはずして、中身を探りはじめた。
「命には代えられないだろうに!」
パーンは吐き捨てるように言いながら、エスタスが相手をしているスケルトンのうちの一体に切りかかった。
不意をつかれた骸骨の魔物は、パーンの攻撃を避けようもなかった。
骨の砕ける乾いた音がして、そのスケルトンはあっさりと崩れ落ちる。
「スケルトン相手に、レイピアでは苦しいぞ」
もう一体のスケルトンに攻撃を加えつつ、奮戦するエスタスにパーンは声をかけた。
「誰かと思えば、おまえだったのか。あいかわらず野蛮な戦い方だ」
エスタスはいったん呼吸を整えてから、最後のスケルトンに渾身の力をこめてレイピアを振るった。
狙いはたがわず、スケルトンの首の骨がぱきっと折れ、頭骨が玉のように地面に転がる。
「下等な魔物相手には効果的だと認めるがな」
「そういうことだ」
パーンは答えながら、二体めに剣を叩きつけ、これも葬りさった。
そのまま、魔術師のもとへ走ろうとしたが、すでに新手が向かってきている。
屍人《ゾンビー》が五体。
「こいつは手間がかかる」
パーンは舌打ちをした。
動きが鈍いので、スケルトンより相手にしやすいが、いかんせんこの魔物はしぶとい。全身をばらばらにしなければ、動きをやめようとしないのだ。
ふと見れば、まだ十何体かのアンデッドが魔術師を取り巻くように待機している。一斉に攻撃させれば、エルフたちはもっと苦戦していただろう。そうしないのは、自らの身の安全を考えてのことか、それともエルフたちをじわじわと痛めつけようとしているためか。
「雑魚《ざこ》を相手にしてても、埓《らち》があかないな」
ゾンビに剣を振るいながら、パーンはエスタスに声をかけた。
「それぐらい分かっている。だが、囲みが厚すぎる」
エスタスはいらいらと言った。いつもの冷静さは、まるで感じられない。余裕がないぐらい、疲れているようだ。
「いったん下がって、休んでいろ。しばらくなら、ひとりで引き受けられる」
「馬鹿なことを。これは、わたしたちの戦いなのだ。この帰らずの森を侵入者から守るための」
「……そうかい。だが、無理はするなよ」
パーンはできるだけ多くのゾンビーを引き受けようと、雄叫《お たけ》びをあげながら突撃を試みた。
そのときだった。
パーンの左|脇《わき》を、熱い塊が通りすぎた。
驚いて後ろを振り返ると、ディードリットがたいまつを片手に立っていた。そして、彼女の足下には炎に包まれた獣が控えていた。いや、炎こそがその獣の肉体であった。
「|火とかげ《サラマンダー》か!」
パーンは驚いて叫んだ。
彼女が炎の精霊を操るのを見るのははじめてだった。エルフたちにとって炎は忌むべき精霊力だから、当然なのだが。
サラマンダーはゆっくりと前に進みながら、死霊めがけて炎の舌を伸ばしてゆく。
腐肉の焦げる不快な臭《にお》いがした。
死霊どもは、炎に弱い。たちまち何体かの屍人が倒れ、敵の囲みが崩れさる。
「今だ!」
パーンは迫りくるゾンビーを楯で払い退けながら、魔術師のところへ走りこんだ。
魔法に備え、精神を集中させたが、魔術師は魔法を使おうとする素振りさえ見せなかった。それどころか、杖を投げ捨て、腰から剣を抜くと、真っ向から戦いに応じた。
刃がきらりと輝いたところを見ると、パーンの剣と同じく魔法の剣のようだ。剣術の心得もあるらしく、構えはできている。
「殺すんじゃないぞ!」
ふたたびエスタスの声がした。
「分かった!」
パーンは答え、相手から武器を奪おうと、自らの剣を巻くように振るう。
魔法の剣どうしがぶつかりあい、火花ではなく青白い魔法の輝きが弾けた。
魔術師とはとうてい思えないほどの巧みな剣さばきで、相手はパーンの剣を受け流した。
気負いすぎていたためか、パーンの体勢が大きく崩れる。
すかさず反撃がきたが、かろうじて楯で防ぎとめた。
ふたたび、魔法の火花が飛び散る。
パーンの楯も、強い魔力を帯びているためだ。
付け加えるなら、身につけている鎧にも魔力は付与されている。かつて、風の塔の宝物庫で手に入れた一揃《ひとそろ》いの武具だ。スレインの説明によれば、古代王国でも著名な付与魔術師《エ ン チ ャ ン タ ー》の手による物らしく、強い魔力を帯びている。隠された力があるのかもしれないが、パーンはそれを試そうとしたこともない。巨大な魔力を持っているとすれば、その魔力に頼りきりになり、稽古をおろそかにするかもしれないから。
強い魔力がぶつかりあう衝撃に、両者は跳ねとばされ間合いが開いた。
パーンは心を静めると、相手の動きに注意しながら、ふたたび攻勢に出た。
カシュー直伝の連続技で押しこみ、レオナー譲りのフェイントを仕掛ける。
たまらず、魔術師はじりじりと後退しはじめた。パーンはさらに踏みこみ、相手を押しこんでゆく。
と、魔術師は、地面に露出していた木の根につまずき、大きく体勢を崩した。
その隙を見逃さず、パーンは右肩から相手にぶつかっていった。
金属製の肩当てが、相手の胸をまともに捕らえる。魔術師の身体は文字どおり吹きとび、後ろにあった大木に、激しく背中を打ちつけた。
魔術師はその木にもたれるように、ずるずる崩れ落ちた。
パーンは気配をうかがいながら、魔術師のところへ慎重に進んだ。そして、手に握られたままの魔法の剣を取り上げた。
男は意識を失っているらしく、ぐったりとしている。
しかし、息はあるし、口から血を吐いたりもしていない。肋骨ぐらいは何本か折れているかもしれないが、肺や心臓に刺さっている様子ではなかった。
パーンはほっと息をして、背後を振り返った。
死霊兵どもはまだエルフたちと戦っているが、その統制はすでに失われ、エルフたちの脅威ではなくなっていた。
もはや、助けに入るまでもなさそうだった。
パーンは気を失ったままの魔術師に剣を突きつけながら、エルフたちの戦いが終わるのをじっと待った。そして、それには、さほどの時間はかからなかったのである。
「……礼は言わないぞ」
最後に残った屍人を倒して、エスタスがやってきた。
ディードリットも一緒だった。彼女は最後まで戦ったのだ。彼女の操ったサラマンダーは、おそらく、いちばん多くアンデッドたちを葬ったろう。
残るエルフたちは、地面に穴を掘り、アンデッドの残骸を埋めはじめている。不浄なものはすべて大地が浄化する、と彼らは信じているのだ。
「礼なんかいらないさ」
パーンは答えて、気を失ったままの魔術師を見下ろした。
「それよりも、事情を説明してほしい。この男はいったい何者なんだ。この森で何が起こっている」
「それは、こちらが聞きたいぐらいだ」
憤然として、エスタスは言った。
「あたしたちはさっき、霧のような魔物を見たの。不死の精霊力に満ちた霧。いったい、あれは何?」
ディードリットも、エスタスに尋ねている。
「君も見たのかい? あの霧の魔物を」
パーンとディードリットは、同時にうなずいた。
「あの魔物のことも、すべては分かっていない。真相はこの男が知っているだろう。この人間の魔術師が……」
エスタスの口調は、いつもの彼に戻っていた。
どうやら、村に連れ帰って、尋問するつもりのようだ。
「魔法を使われたらやっかいだ。縄で縛って、さるぐつわをしておこう。村へはオレが担いで帰る。あんたたちより、たぶん力持ちだからな」
「それは、頼むとしよう」
エスタスは意外に素直に言った。
そして、全員が村への帰路につきはじめた。怪我人には肩を貸し、重傷者は木の枝と服とで、即席の担架を作り、ふたり一組で運ぶ。
戦いには勝ったというのに、エルフたちの表情は重く沈んでいた。
たぶん、あの霧のせいだ、とパーンは思った。
あの霧が漂いつづけているあいだは、彼らの気持ちが晴れることは決してないのだろう。
村に帰りつくと、エルフたちはすぐに集会の準備をはじめた。
彼らは長老たちを指導者と認めているが、ほとんどのことは全員が参加する集会で決定される。平和な頃のザクソンの村も、同じような合議制だった。
すでに日は暮れ、帰らずの森は漆黒の闇に閉ざされている。ハイエルフたちはすべて精霊使いなので、普通の者には感じられない光を感じることで闇をも見通せる。しかし、ドワーフたちが身につけている暗視の能力には遠く及ばない。
なにより、彼らは光を好む妖精たちだ。
銀色の月の光を扉として|光の精霊《ウィル・オー・ウイスプ》を何体も召喚し、空中に乱舞させる。森の広場は、揺らめく白い光に照らされて、幻想的な雰囲気に包まれた。
広場のいちばん奥には帰らずの森の主ともいうべき古代樹が、黄金色の葉を茂らせ、ウィル・オー・ウィスプの輝きを金色に染めかえて反射している。
森の妖精界に生えていたのと同じ樹木だ。
長老をはじめとして、数千年を生きているエルフ族の古老が古代樹の木の下に座し、その他の比較的若いエルフたちは広場の周りに輪になるように集まりはじめた。
そのなかには、ディードリットの両親もいた。
ディードリットはさすがに嬉しそうに両親のところに駆け寄ってゆく。パーンも、ばつの悪さを覚えながら、愛するエルフの生みの親たちに挨拶《あいさつ》をした。
ふたりは礼儀正しく挨拶を返してきたが、あまり歓迎されてないのはありありと分かった。
ディードリットが頬《ほお》を膨らませて、不満の意を表わしたが、パーンは目配せでそれを止《や》めさせた。
彼女は不承不承、従うが、両親ではなくパーンのそばに寄り添うことでささやかな反抗をしてみせた。
すべてのエルフたちが集まったところで、エスタスが昼間の魔術師を引き立ててきた。それが合図であったように、集会は宣言もなくはじめられた。
長老は、魔術師に向かって簡単な尋問をはじめる。
魔術師自身のことや、霧の魔物についてだ。
だが、長老の質問に魔術師はまるで答えようとしない。
「これまでの経緯《いきさつ》を教えてくれないか」
役目を終えて戻ってきたエスタスに、パーンは小声で質問する。
「あの霧が、最初に発見されたのは半月ほど前のことだ……」
しばらくの躊躇《ちゅうちょ》の後、エスタスは意を決したように話しはじめた。
「不死の魔物だということは、すぐに分かった。わたしたちが触れても、ほとんど害はない。だが、時間をかければ、雑草や小さな虫ぐらいなら殺すことができるのだ。そして、その生命力を吸い取って成長してゆく。おそらくは、無限に大きくなってゆくのだろう」
「無限に、成長する」
「そう、無限にだ。成長すれば小動物や若木さえも殺せるようになる。やはり、時間はかかるがな」
「そして、また成長してゆくわけか……」
パーンの顔色はさすがに蒼《あお》ざめていた。
「滅ぼすことはできないの?」
ことの重大さに、さすがに黙っていられなくなったのか、ディードリットが会話に加わってきた。
「いろいろな手段を試してみたよ。しかし、どれも効果はなかった。古代語魔法を使えば、わずかずつでも消滅させられる。だが、すべてを滅ぼすには何百人もの魔術師を集めなければならないだろう。わたしたちの仲間には、古代語魔法を操る者は、ごくわずかしかいない」
「精霊魔法では、だめなの?」
「もちろん、試したよ。強風を操って、霧を吹き飛ばそうとした。霧はたしかに四散した。しかし、数日後、森のあちらこちらで小さな霧が発見された。そして、小さな霧の塊は、草を枯らし、虫を殺し、ゆっくりと成長をつづけながらもとの塊に戻ろうと、集まりつつある」
「あたしたちが見たのは、そのうちのひとつだったわけね」
エスタスはむっつりとうなずいた。
「炎は使ってみたの? あの霧は不死の魔物なんだから、炎には弱いはずよ」
「ディードリット……」
エスタスは突き刺すような視線で、ディードリットを見つめた。
「な、なによ」
ディードリットはたじろいで、無意識にパーンの後ろに隠れようと動いた。
「昼間の戦いで、君は|火とかげ《サラマンダー》を使ったね」
「ええ、使ったわ。だって、みんなが苦戦していたから……」
「炎の精霊は破壊を| 司 《つかさど》る忌まわしい存在だ。不死の魔物とまるで違いがない。サラマンダーを使ったとき、小さな虫たちが焼け死に、下生えの草たちも燃えていた。わたしには彼らの悲鳴が聞こえてくるようだったよ」
エスタスの声は、蛮族に向けられているように哀れみと蔑《さげす》みとに満ちていた。
「でも、あのままじゃあ、誰かが死んでいたわ。虫や草にはかわいそうだけど」
「その考え方は、人間のものだ。わたしたちエルフは、森の守護者だ。たとえ、仲間を守るためとはいえ、弱い生き物を殺していいという理屈はない」
国王が裁定をくだしたときのように、エスタスの言葉は反論を許さぬものだった。
ディードリットは言葉を失って、パーンの腕に手を絡ませた。
「ディードは間違っちゃいないよ」
パーンはディードリットの肩を抱き寄せながら、そっと囁いた。
「オレたちは知っているだろ。炎が司るのが、破滅だけではないことを」
ディードリットはうなずきながらも、パーンの腕を抱える手に力をこめて、悔しさを伝えてくる。
「人間と暮らしているから、自然、歪んだ考えが身につくのだ」
エスタスは言い捨てて、広場の方に視線を戻した。
広場では長老の尋問が続いている。
「あの霧の正体はいったい何か?」
「どのようにすれば、あの霧を滅ぼすことができるのか?」
長老は繰り返し同じ質問をするが、魔術師は沈黙を守り、まるで答えようとはしない。
「おまえは何者か?」
「いかなる目的で、魔物を放ったのか?」
魔術師はひたすら、沈黙している。
見守るエルフたちの雰囲気が、さすがに険悪になってきた。
そのとき、
「この男には、見覚えがあります」
と、ひとりのエルフ女性が前に進みでてきた。
その女性は魔術師の近くまで寄ると、しばらくのあいだ男の顔を観察する。そして、間違いありません、と言った。
「この魔術師は、森に捕らわれていた者です。たしか、五百年以上前、魔術師たちの王国が栄えていたころの人間です」
彼女の言葉に、パーンとディードリットは、思わず顔を見合わせた。
「古代王国の魔術師だと言うの……」
「そういえば、聞いたことがある。古代王国の魔術師たちは、額に水晶を埋めていたって。無限の魔力を蓄えた塔から力を得るために」
ふたりの声は、驚きと興奮に満ちていた。
「そのとおりなのか?」
長老が、魔術師に向かってふたたび質問をする。
だが、古代王国の魔術師は、不敵に笑っただけで、やはり答えようとはしない。
「どうやら、答える気はないようだな」
ハイエルフの長老は、両隣の古老たちと小声で話しあい、やがてゆっくりとうなずいた。
「好ましい手段とはいえぬが、魔法を使うとしよう」
長老が静かに立ち上がり、魔術師のところまで歩きはじめたとき、突然、
「わたしの名は、ストラール。召喚魔術師の一門の者だ」
と、魔術師が口を開いた。
エルフたちのあいだでざわめきが起こる。
「強制されて話すつもりはないということか」
パーンは独り言のようにつぶやいた。
「たいした誇りね。さすが、古代王国の貴族……」
「愚かな誇りだよ。いずれ話さずにいられないのなら、最初から話してしまえばいいのだ」
ディードリットの言葉を遮るように、エスタスが言った。
「愚かではないな」
パーンは心のなかでそう思ったが、あえて口には出さなかった。
それよりも、魔術師の言動を見守りたかったから。
ストラールと名乗った魔術師は毅《き》然《ぜん》とした態度を崩そうともせず、しかも自分を取り囲むハイエルフたちを見下すような雰囲気さえ漂わせていた。
「質問に答える気になったのだな」
長老は歩みを止め、魔術師に尋ねた。
「カストゥール王国には十の魔術の系統があり、それぞれに偉大な魔術師たちがいた」
ストラールと名乗った魔術師は、まるで詩でも吟じるように朗々と語りはじめた。だが、それは質問に対して答えているのではなく、自らの意思で話しているという感じだった。
「このロードスの地を支配していたのは、死霊魔術師《ネ ク ロ マ ン サ ー》一門の貴族、その名をサルバーンという。太守は死霊魔術《ネクロマンシー》の奥義を究め、幾多の|不死なる魔物《ア ン デ ッ ド》どもを創造した。あの霧も、そのうちのひとつ。太守の言葉によれば、もっとも下等なる存在。しかしながら、あの魔物を倒すには始源の巨人の怒れる心によらねばならぬ。滅するためには、他に手段はあらぬ」
「始源の巨人の怒れる心?」
何のことか分からず、パーンはディードリットを振り返った。
「炎のことよ、やっぱり炎に弱いんだわ」
ディードリットが嬉しそうに顔を輝かせた。
「得意そうだね」
エスタスが、冷たい言葉を投げかけてくる。
「たしかに、他に手段はないのだな?」
念を押すように長老は言ったが、魔術師はふたたび口を閉ざし、何度、聞かれても答えようとしなかった。
「やはり、魔法を使うべきです」
誰かが憮然《ぶ ぜん》として言った。
「いや、それには及ぶまい」
長老は答え、彼がもといた場所へと戻った。
「まだ答えておらぬ質問があったな。あの霧をこの森に放った目的は? 森の王の結界に捕らわれていたことへの復讐か?」
魔術師は身じろぎひとつせず、表情もまったく変えない。質問に答えようという気配は、微塵《み じん》もなかった。
「復讐に決まっている。愚かな人間のやりそうなことだ」
エスタスは不快さを隠そうともせず、怒りに震える声で言った。
そして、パーンに向かって、
「やはり、この森は開くべきではなかったようだな」
と宣言するように言った。
パーンは眉《まゆ》をぴくりと動かしただけで、エスタスを振り返ろうともせず、古代王国の魔術師と同様、何も答えなかった。
ディードリットは不安そうな表情で、エスタスとパーンを交互に見つめる。
重苦しい沈黙が続くなか、比較的若い数人のエルフたちが、たいまつをかかげて、広場から走り去っていった。
魔術師の言葉を、たしかめるために違いなかった。
「あたしも行ってみる」
パーンとエスタスの沈黙に耐えかねたようにディードリットが言いだし、たいまつを持ったエルフたちを追いかけようとした。
「オレも行こう。あの魔術師の目が、どうも気になるんだ」
パーンの悪い予感は的中した。
エルフたちは村の近くに漂っていた小さな霧の塊を見つけ、たいまつの火をつけた。
たしかに、霧は滅びた。だが、霧はあまりにも激しく燃えあがった。周囲の木々を焦がし、霧に火をつけたエルフの若者に大|火傷《や け ど》を負わせた。
怪我人を抱えて、パーンたちが村に帰りつくと、冷静なエルフたちもさすがに色をなした。
不敵な笑みを浮かべつづける魔術師に、怒りの声が浴びせられ、命を断つべきだとの声も聞かれた。
「炎により燃やさねば、あの霧は滅びぬ。炎で燃やすか、さもなくば森が立ち枯れるかだ」
魔術師はエルフたちの怒りなど気にも止めないように、悠然とそれだけを言うと、ふたたび沈黙を守った。
「炎で滅ぼすか、森が立ち枯れるか……」
ディードリットが蒼ざめた顔で、魔術師の言葉を繰り返した。
「いずれにせよ、森は無事ではいられないということか」
エスタスの声は、押さえきれない怒りに満ちていた。
「卑劣な復讐だな」
パーンはエスタスの言葉に同意するようにうなずいた。
「他に滅ぼす手段はないのか?」
ひとりのエルフが魔術師のところに詰め寄り、激しい口調で尋問する。
だが、魔術師は答えない。そしらぬ顔で、じっと立っているだけだ。
「他に方法はないようだな。もしくは、その方法を知らぬのだろう」
長老は激昂《げっこう》するエルフをなだめ、もとの場所に下がらせる。
「神聖魔法を使えば、滅ぼせるかもしれない」
と、パーンは思った。
神聖魔法には、不死の魔物を浄化する魔法があったはずだ。
パーンはホッブ司祭を同行させなかったことを後悔した。出発するとき、司祭自身は同行を申し出ていたのだ。しかし、自由軍の仲間に怪我人が出ることを考慮し、カノンに残ってもらうことにした。その選択は間違っていないと思う。まさか、帰らずの森がこんな事態になっているとは思いもしなかったから。
「あたしたちエルフは、神を信仰していないの。創造主であることは認めてるのだけど……」
ディードリットが申し訳なさそうに言ったが、パーンは、もちろんそのことを知っていた。
エルフたちは自分たちが神の子ではなく、始源の樹木である世界樹から生まれた若木であると思っているからだ。
世界樹はすべての生命の父であり、母だと言われる。世界樹が実らせた生命の実より万物が生みだされたとされているから、それはまぎれもない真実である。なかでも、エルフ族は森の妖精ゆえに、森の精霊界に封じられ、森の精霊力の根源となされた世界樹との繋がりは、神々よりも強いのだ。
「やはり、炎で滅ぼすしかないようだな」
古老のひとりが、苦しげに言った。
「そんなことは、できません」
誰かが悲痛な声で叫び、それに同調する声があちらこちらからあがる。
「否定するだけではいけない。代わりとなる意見を述べよ」
古老が柔らかく注意を与える。
「|風の王《ジ ン》を召喚すれば、滅ぼせるのではなくって」
ひとりのエルフ女性の意見をきっかけに、様々な発言が相次いだ。
「風の王の力を借りても、森の木々を傷つけることには変わりはない。それに、風を操って吹き散らしたときと同じ結末になるかもしれない」
「試してみなければ、分かるまい」
「失敗したときには、むだに森を傷つけることになる。ならば、確実な炎を用いるべきだ」
「炎は破壊を司る忌むべき力だ。炎を使えば、多くの木々が燃えつきるだろう……」
ひとつ意見が出ると、それを否定する意見が続く。また別の意見が出されるが、やはり反論がでるのだ。
「もう、答は出ているじゃないか。方法はたったひとつしかない」
パーンがいらいらとつぶやいた。
「おまえの言うとおりだ、人間よ」
エスタスはそれまで目を閉じたまま、じっと仲間たちの意見を聞いていた。しかし、パーンの言葉を聞いたとたん、ゆっくりと目を開き、深く相槌《あいづち》を打った。
「おそらく、誰もが理解しているのだ。方法がひとつしかないことを。あの霧は燃やすしかないのだろう。だが、それは、わたしたちにとって、もっともつらい結論なのだ。親しい友を手にかけるも同じなのだから。おまえにそれができるか、人間よ。もっとも親しい友の首を刎《は》ねることができるのか」
これほどまでに感情をむきだしにして話すエスタスを、パーンははじめて見たような気がした。同時に、あの古代王国の魔術師の復讐は、見事に果たされていると思った。
この冷静なエルフがかくも苦悩し、感情的になっているのだから。
「……だから、あんな議論になるんだな」
パーンはつぶやいて、そっとため息を洩らした。
「安心したよ。あんたたちは、オレたち人間とはかけはなれた種族じゃないかと不安になってたからな」
パーンの言葉に、エスタスは嫌悪の表情を見せた。
「おまえたちが、わたしたちと同じだと?」
「今、あんたが言ったとおりさ。親しい友の首を刎ねるなんてオレにはできない。親しい友を助けるために、命をかけることならできてもな。まるで、同じさ」
「……しばらく会わないうちに、ずいぶんと言葉が達者になったものだな」
エスタスは不機嫌そうに言うと、そのままむっつりと黙りこんだ。
パーンもそれ以上は何も言わず、エルフたちの話し合いの成り行きをじっと見守った。
エスタスが指摘したとおり、議論はしだいに具体的な方向へと向かっていた。
まず、炎を使って滅ぼすことが承認された。そして、いかにすれば森の被害を最小に押さえられるかの方法が論じられる。
小さな霧は集い、大きな塊に戻りつつある。おそらくは、あの霧のすべてが一体の魔物なのだろう。
霧を泉の上まで誘導し、そこで火をつければどうか。それならば、炎が木々に延焼しても、水の精霊を呼びだして、消火することができる。
だが、議論はそこで止まってしまった。
いったい誰が霧に火をつけるのだろう。小さな霧でさえ、怪我人が出るほど激しく燃えあがったのである。大きな霧をたいまつで燃やしたりすれば、怪我ではすまないだろう。霧から離れて、火をつけるためには火矢を射かけるか、炎の精霊の力を使わねばならない。
そして、その火をつけた者は、自らの手で森の木々の生命を断つことを意味するのだ。
「誰が火をつけるのか?」
長老の問いかけに答える者はいなかった。
皆、うつむき、沈黙している。誰かがこの死刑執行人の役目に名乗り出るのを待っている。
重苦しい沈黙が広場に流れ、ただひとり広場の中央でほくそ笑む古代王国の魔術師の姿が印象的だった。
パーンは無意識に腕組みをして、エルフたちの沈黙を見守っていた。
その役目は彼こそ適任だった。樹木を親しい友とまで感じていないから。だが、それを言い出してはならないことを、彼は知っていた。親しい友だからこそ、エルフたち自身で手を下さねばならないのだ。
パーンは、横目でエスタスをうかがった。
彼は一目見て分かるほど苦悩していた。自らが名乗りでるべきだと思っているに違いない。この若いエルフは、今まで何回となく嫌な役を引き受けてきたのだろう。
パーンには、エスタスの気持ちが痛いほどよく分かった。
誰もそれをやりたくない。しかし、誰かがやらねばならないのだ。
ふと気がつけば、多くのエルフの視線がエスタスに注がれていた。
ついに意を決して、エスタスが一歩前に進みでたときだった。
「あたしがやるわ」
凛《りん》とした声がした。
パーンのすぐ隣で。
「ディードリット……」
パーンは驚き、しばし言葉を失った。だが、強ばったような表情はすぐに弛んだ。
ざわめくエルフたちには目もくれず、ディードリットは長老のところまで歩を進める。
その途中で、古代王国の魔術師とすれちがうとき、様々な思いが交錯した視線をからませた。
「ディードリット。おまえが火をつけるのだね」
念を押す長老に、ディードリットは深くうなずいた。
「あたしがやります。あたしは昼間の戦いで炎の精霊を使いました。みんなのなかには、あたしが人間に毒されて、エルフの心を失ったと思った人もいたでしょう。でも、それは違うわ」
叫ぶように言って、ディードリットは周囲のエルフをぐるりと見渡した。
「あたしは人間の世界で暮らしている。でも、エルフの誇りを失ったわけではない。森の樹木の命を断つのはつらい。炎の司る破壊の力は忌まわしいと思う。でもね……」
ディードリットは、ふたたび長老に向き直り、懐かしそうに微笑《ほ ほ え》んだ。
「炎が司るものは、破壊だけじゃないことを、あたしは知っていますから」
だから、あたしが火をつける。破壊ではなく、再生を司どる聖なる炎で。
ディードリットは心の中でつぶやき、過去の記憶に思いをはせた。
「……よく覚えていた、ディードリット。炎の言い伝えは、たった一度しか話さぬことにしているものを」
長老の言葉が、耳から心に流れこんでくる。
「いいえ、違います」
ディードリットは首を横に振った。
「長老の教えは、忘れていました。思い出したのは、ひとりの女性のおかげです。部族のため、自らの命を捧《ささ》げた勇敢な女性の……」
パーンは、もちろん、その女性の名を知っていた。
ナルディア――誇り高い炎の部族の族長。一生、忘れることはないだろう。いかなる理由があれ、すべての戦いが無益であることを、彼女は身をもって教えてくれたのだ。
「人間よ、ディードリットのあの変化はおまえと共にいるためなのか?」
正面を見すえたまま、エスタスが尋ねてきた。
「オレは、いつもディードと一緒にいるからな。変わったのかどうかも、分からない」
「いつも一緒か……」
エスタスは苦笑いを浮かべながら、パーンを横目で見る。
「羨ましいかぎりだよ」
集会が終わるとすぐに、ハイエルフたちは行動を始めた。
闇のなかでこそ、黄色く発光する霧の魔物は見つけやすいからだ。
風を起こして、霧を泉まで誘導する。
その作業だけで、夜明けちかくまで、時間がかかった。
すべての霧を集めたかどうかは分からないが、残っているにしても、たいした数ではないし、たいした大きさではないはずだ。いずれ、それらも始末しなければならないが、まずは巨大な塊を葬り去らねばならない。霧が通りすぎただけで、木の葉が落ち、小枝が枯れるほどに、魔物は成長しているからだ。
誘導されてきた不死なる魔物は、さながら巨大な雲が地面に降りてきたような雰囲気であった。泉の水面を覆いつくしただけでは足らず、かなりの部分が森を浸食していた。
やがて、見つけられたかぎりの小さな霧も連ばれてきて、大きな塊と融合させた。魔物はさらに成長し、邪悪な黄色の光を増してゆく。
霧の魔物を遠巻きにするように、村中のエルフが集まっていた。
古代王国の魔術師ストラールも、連れてこられていた。これから起こる出来事を見せておくべきだ、とひとりが主張したためだ。そして、裁きを与えるのだ、と彼は主張していた。
不安と悲しみをつのらせつつ、エルフたちは|水の精霊《ウ ン デ ィ ー ネ》を次々と召喚しはじめた。そして、魔物の周囲に、分厚い水の壁をたてる。その水の壁でさえ、魔物が燃えたときの炎を遮れるかどうか分からなかった。
すべての準備が整ってから、大掛かりな篝火《かがりび》が焚《た》かれた。
その炎の前に進みでて、ディードリットは瞑目《めいもく》し、精神を集中させる。
精霊の力を借りずとも、火矢を使えば魔物に火をつけることはできる。しかし、ディードリットはあえて炎の精霊を召喚することを選んだ。
森の木々を犠牲にするのだから、|火とかげ《サラマンダー》や、|炎の魔神《エ フ リ ー ト》の力を借りるべきではない。
不死鳥《フェニックス》の炎をもってこそ、新しい生命が約束されるのだ。
炎が司るもうひとつの力――再生。
エフリートが誤った力を浄化し、フェニックスが正しき力を再生させる。これが、長老から教えられた炎の言い伝えである。
始源の巨人は孤独を憤り、怒りによって自らを滅ぼしたという。その巨人の骸《むくろ》から、万物が誕生したのだ。神々が生まれ、この造物主の手によって世界が創《つく》られた。
燃えあがる炎のために、森の樹木は焦げて朽ちるだろう。しかし、いつまでも焼け跡のままであるわけではない。
森はゆっくりと再生してゆく。
まず、雑草が地面を覆い、低木が茂る。やがて、樹本の種が運ばれ、若木を伸ばす。何十、何百年かの後には森はもとの姿を取り戻すだろう。
ディードリットは、意識を集中させて、呼びかけを続けていた。
あのヒルト郊外の戦いで見たフェニックスの姿を心に描き、その鳴き声を思い浮かべる。
ディードリットにとっても、あの砂漠の戦いは忘れられないものだった。あの勇敢な女性の最期は今でも鮮明に心に残っている。
それゆえ、空を舞った炎の鳥の孤高の姿も、心の奥底に焼きついている。
真っ赤に燃え盛る篝火の揺らめく炎に向かって、ディードリットは繰り返し、繰り返し呼びかけを続けた。
どれほどの時間、意識を集中させたろう。すでに、彼女の気力は限界を越え、頭が破裂するような痛みを覚えていた。
「不死鳥《フェニックス》、お願い……」
祈るようにつぶやいた、まさにそのときだった。
目の前で揺らめく炎の色が赤から青に、瞬時にして変わった。
エルフたちのあげたどよめきが、はるか遠くから聞こえてきたような気がした。
「炎の鳥、始源の巨人の希望の心を伝えるものよ。浄化を、そして再生を。あなたの聖なる炎もて」
最後の気力をふりしぼり、ディードリットは高らかに精霊語を唱えると、両手を大きく頭上にかざした。
青い炎は、爆発するように膨れあがり、ひとつの形を取った。
巨大な鳥の姿を。
その全身は青い炎に揺らめき、明るく輝いていた。炎の鳥のふたつの瞳は、砂漠で見たときと、まったく同じだった。
「おおっ、あれが!」
エルフたちが感動の声をあげる。
数多《あ ま た》の精霊たちを操るエルフたちにしても、このもうひとつの炎の精霊王を見るのは、はじめてなのに違いない。
五百年に一度しか姿を見せないとされるほど、フェニックスは知られざる精霊王なのだから。
「浄化を、そして再生を」
ディードリットは、もう一度、フェニックスに呼びかけた。
フェニックスは気高く鳴いた。炎の翼をはためかせて、死霊の霧に飛びこんでゆく。
黄色く輝く霧は、瞬時にして真っ赤な炎に包まれた。
鼓膜を破るような轟音《ごうおん》が森にこだまする。
炎は渦を巻いて、まだ明けきらぬ紫色の空に向かって駆けあがる。
その途中で、炎の色は赤から青に変じていた。そして、炎の渦の頂点から不死鳥が、その高貴で優雅な姿を現わした。
「ありがとう、フェニックス……」
ディードリットはそうつぶやくのがやっとだったように、ゆらりと身体が傾いた。
しかし、そのときには、すでにパーンは走り出していた。倒れかかる彼女の身体を、両腕でしっかりと支えた。
「ご苦労さま……」
パーンに声をかけられ、ディードリットは心底、嬉しそうに微笑んだ。そして、やすらいだ表情のまま、意識を失った。
パーンはディードリットを抱きかかえ、空高く飛び去ってゆくフェニックスを見送った。パーンにとっても、炎の鳥の懐かしい姿は感慨深いものがある。炎の部族の族長ナルディアを重ねて見てしまうから。あの勇敢な女性が転生した姿だと、思ってさえいる。
視線を地面に戻すと、意外なことに炎はどこにも残っていなかった。
篝火はもちろんのこと、炎に包まれているはずの樹木の一本さえなかった。
霧が漂っていた場所だけが、きれいに消えてなくなっている。地面には、厚く灰が積もっていた。雪と見間違うような、真っ白な灰が。
竜が口から吐き出す炎こそが、もっとも熱い炎だといわれている。だが、竜の炎でさえ、瞬時にして森を灰に変えられるものだろうか。
泉の水までもが、かなり蒸発してなくなっていた。おそらく、壁となっていた水の精霊たちも消滅し、自らの世界、水の精霊界に帰っていったに違いない。
パーンはディードリットを抱えたまま、エルフたちのところに戻っていった。
夢から醒《さ》めたように、彼らは深い悲しみに沈んでいた。美しかった帰らずの森に、醜い傷跡が残ったことを、もっとも親しい友たる植物や森の動物たちが失われたことを。
何百、何千もの樹木が一瞬にして燃えつきたのだろう。泉の周囲には、巨大な城が収まりそうなほど、空虚で広大な空間が生まれていた。
エルフたちのなかには、涙を流している者もいた。
彼らは、あまり感情をあらわさない。強い感情に流されて、冷静な判断を失うことを戒めるからだ。
だが、パーンは知っている。エルフたちは、感情の乏しい種族ではない。
ディードリットを見ていれば分かるのだ。彼女の感受性は、人間に劣らぬぐらい豊かだから。
パーンは武装したエルフたちに囲まれた、古代王国の魔術師に注意を向けた。
すべてが終わった今、魔術師は意外にも穏やかな顔をしていた。満足しているのでもなければ、悔しがっているのでもない。
パーンは、魔術師の気持ちが知りたいと思った。
だが、たとえ聞いたとしても、決して話すことはないだろう。
「美しかった森が傷つけられた」
ひとりのエルフが悲嘆の叫びをあげながら、魔術師に指をつきつける。
「その男は、裁かれなければならない。森が失われた償いをさせなければ」
賛同の声がまわりからあがる。
「そして、森を閉ざすのだ。二度とこんな悲劇が起こらないように……」
声はさらに続いた。
パーンは、激しい怒りがふつふつと湧《わ》きあがってくるのを覚えた。
「エルフはもっと賢明な種族だと思っていたけどな!」
パーンは森の木々を震わせるような声をあげた。そして、今の言葉を誰が言ったのかを確かめてみる。
見覚えのない顔だった。エスタスでも、ディードリットの父親でもなかったので、パーンはすこし気持ちを落ち着かせた。
エルフたちの刺すような視線が、彼に注がれる。
「まだ、分からないのか。いや、なぜ分かろうとしないんだ?」
パーンは眠っているディードリットを気《き》遣《づか》って、やや声を落として言った。
「森が失われて、辛《つら》い気持ちは分かる。人間のオレには、実感できないことも。しかし、逆のことだって言えるんだ。あんたたちが奪ったこの魔術師の時間の大きさを、あんたたちは理解できるのか? 永遠の生命を与えられているあんたたちには、分からないだろう。人間という生き物は、時間に争《あらが》いながら生きているようなものなんだ。こうしているあいだにも、オレは死に向かって進んでいる。だからこそ、今やらねばならないことをやりとげておきたい。もし、その時間を奪われたら、オレだって復讐を考えるに違いない」
「復讐は、愚かな人間のすることだ」
誰かが、憤りの声をあげる。
「それは違う!」
その言葉は、パーンが言いたかったものだ。しかし、言ったのは彼ではなかった。
エルフたちと対決するように向かいあうパーンのところに、ひとりの若いエルフがゆっくりと進みでてきた。
「エスタス……」
パーンはつぶやき、その表情から彼の真意を読みとろうとした。
穏やかではあるが、強い決意に満ちた表情だった。
「エスタス、おまえまで人間に味方するのか?」
「いいえ。しかし、人間を敵にするつもりはありません」
誰かの問いかけに、エスタスは答えた。
「復讐は、愚かな人間のすることではありません。復讐を求める者、すべてが愚かなのです。その魔術師は、まさにそうだ。だが、その男を裁こうとするわたしたちも、同じではありませんか。失われた森の復讐を求めているのですから……」
エスタスはそこで言葉を切り、仲間たちからの反論を待った。
しかし、反対意見は、ひとつも出てこなかった。
エスタスの発言は、おそらく彼の本心から出たものだろう。彼自身にも、傷つけられた森の復讐を求め、男を裁きたいという気持ちがあるに違いない。また、人間を蔑む気持ちも、まだ根強く持っているはずだ。
他のエルフたちも同様だろう。
魔術師を裁きたいと思うのは、理屈ではない、感情なのだ。エスタスは、そのことを指摘したのである。それだけに、彼の意見に反対することは、自らの本心を欺《あざむ》くことになる。エルフたちには、それを思い止まる分別と勇気があるのだろう。
だから、誰も反対しなかったのだ。
しばらくして、魔術師の処遇を決める議論がはじまり、古代王国の魔術師ストラールは解放されることになった。
解放されると決まったとたん、魔術師の顔から不敵な笑いが消えた。茫然《ぼうぜん》として、その場から動かなくなる。槍を持ったエルフに急き立てられてはじめて、魂が抜けてしまったように緩慢な足取りで立ち去っていった。
パーンには、魔術師の気持ちが分かるような気がした。
復讐を果たすためならば、命を捨ててもいいと思っていたのだ。そして、完全ではなかったにせよ、彼の復讐は果たされた。
エルフたちに捕らえられたとき、すでに覚悟は決めていたはずだ。殺されても、本望なのだから。まさか解放されるなどと、思ってもいなかったろう。
復讐は、人間を突き動かすもっとも強い衝動《エネルギー》となりうる。復讐を誓った者は、目的の完遂のために凄《すさま》じい行動力と持続力とを発揮する。ありとあらゆち苦しみに耐え、いかなる手段をも正当化し、目的に向かって邁進《まいしん》しつづけるのだ。
そして、復讐を果たしたあかつきには、おそらく、最高の達成感を得られるだろう。
だが、その達成感から醒めたとき、目の前に何もないことを思い知らされる。復讐はいかなるものも生み出さず、いかなるものにも繋がらない。あまりにも巨大な目的であるため、果たされたあと、次なる目的を見つけられないのだ。あの古代王国の魔術師は、まさにその心境であろう。
それにしても、とパーンは思う。
やはり、エルフたちは聡明な種族であると。
あの魔術師が犯した罪は、当然、裁かれるべきだとパーン自身、思っていた。過ちを犯した者は、かならず償いをしなければならない。理由なく人を殺《あや》めたものは、自らの命で償わなければならない。だが、それもひとつの復讐なのかもしれない。
帰らずの森を傷つけた魔術師が去り、エルフたちは、かつてのように森を閉ざすべきかどうかの議論をはじめた。
パーンには、彼らの気持ちが分かる気がした。人間は彼らほどには聡明ではない。感情を理性で抑さえる術を知らず、人間の歴史から争いは絶えない。
だが、それでも、森を閉ざすべきではないと思うのだ。
森を閉ざせば、また、あの魔術師のような人間が生まれる。失われた時間を悲しみ、その復讐を誓う人間が……。
「あんたたちが森を閉ざすことは、オレには止められない。だが、同じ世界に、同じロードスに住んでいる仲間でありながら、なぜ、交わろうとしない。交わっていれば、たしかに争いも起こる。だが、交わっていればこそ、理解することだってできるんだ。ひとたび交わりを断てば、もはや相手を滅ぼす以外に、争いを止める方法はなくなる。最初に、エルフ族を傷つけようとしたのは、人間かもしれない。だが、それからの何百年もの間、この帰らずの森に捕らえられ、時間を奪われていたのは、人間なんだ。もしも、オレの大切な仲間がこの森に捕らえられたとしたら、オレは命に代えても仲間を救いだそうとするだろう。そのため、この森をすべて焼き払わねばならないとしても、あるいは実行するかもしれない」
「それは、脅しかね?」
問いかけてきたのは、エルフの長老だった。その声は深く澄み、まるで森の梢《こずえ》が風に鳴っているような印象を受けた。
パーンは胸を打たれたような気がして、自分の言葉を後悔した。
「そんなつもりは……、ありませんでした。ですが、そう聞こえたかもしれません。理屈ではないんだと思います。オレはあなたたちにこの森を開いていてほしい。そして、人間と交わって暮らしてほしい。それがオレの理想です。オレとディードリットが一緒に暮らしているのは、例外ではないと信じたいから……」
パーンは自分の命があるかぎり、エルフと人間が争うようなことだけは阻止しようと思う。
ひとつだけ救いがあるとすれば、争いに巻きこまれて死ぬエルフはいても、エルフと人間との争いのために、死んだエルフはいないことかもしれない。カノン国でエルフたちを弾圧したのは、闇の森に棲《す》む妖魔、それも同族のダークエルフだと聞いている。
そのとき、ディードリットが小さく喘《あえ》ぎ、身体を動かした。
パーンは、彼女の端正な顔を見下ろした。彼女は、薄く目を開けていた。
「まだ、休んでいたほうがいい」
「もう、大丈夫よ。ちょっと集中しすぎて、疲れただけ……」
ディードリットはそう答えると、パーンの肩につかまりながら地面に降り立った。
すぐに焼け野原になった森を確かめる。
「ごめんね……」
彼女はそうつぶやくと、目に涙を浮かべて、しばらくのあいだ頭を垂れた。
「ずいぶん、寄り道してしまったわ。そろそろ行かないと……」
そして、顔をあげ、彼女はわざと明るい声を出して言った。
「そうだな。たった一日のことなのに、何十日もたった気分だ」
「近道を使いましょう」
パーンはうなずいて、エルフの長老に向かって頭を下げた。
「無礼を言ってすいませんでした」
その言葉に、ディードリットがぎくりとした。
「無礼を言ったの?」
小声で話しかけてくる。
「すこしね」
「そんなだから、あたしが村に寄りたくなくなるのよ」
「それでも、寄ったほうがいいよ。会わなくなれば、ますます心が離れてゆくからね」
「不安になるじゃない。あたしが意識を失っているあいだに、何があったのか教えてよね」
そう言って、ディードリットは一歩を踏みだした。
ほとんど同時にパーンも、歩きはじめていた。
この森を閉ざすかどうかの議論は、まだ終わってはいない。しかし、それを見届ける気にはならなかった。
言うべきことは、言った。
それを考えるのも、決めるのも、エルフたちなのだ。
「もう行くのか?」
声がして、エスタスがやってきた。
「そのつもりだ。急ぎの用事があって、この森を通ったんだからな」
「それにしては、ゆっくりしていたものだな」
エスタスは、かるく笑った。
「性分でね。目の前で何かが起こるとじっとしてられないんだ」
「近道を使うのだろう。入口まで、送ろう」
「ああ、頼むよ」
パーンはディードリットの両親に挨拶してから、焼け野原になった森を通って、歩きはじめた。純白の灰に、パーンたちの足跡が残る。
「この灰が大地に溶け込み、次なる生命を育む糧となる……」
パーンは誰かの言葉を思い出していた。
「大地母神の教団に伝わる、農法のひとつだったわね」
「そうか、レイリアさんから聞いたんだっけ。万物は流転しつづける。物も力も、そして魂も……」
「永遠の生命を持つ者には、無縁の話だな」
エスタスが、ぽつりと言った。
「変化と成長とは同義ではない。だが、変化するからこそ、成長もある。それだけは確かなようだ」
この人間の戦士も、ディードリットも、会うたびに変わっている。成長している。もはや、自分が教え導くようなことは何ひとつないのでは、と思えるほどに。
「わたしが人間界で見つけそこなったものを、どうやら君は見出したようだね」
エスタスは心の中で、ディードリットに呼びかけた。
灰に覆われた焼け野原を抜け、森に入ってすぐのところに、近道がひとつあった。
「気をつけて行くんだよ、ディードリット。あまり無茶はしないように」
「分かってるわよ。エスタスは、いつまでもあたしのことを子供扱いしているのね」
ディードリットは拗ねたように言って、それでもエスタスの胸に飛びこみ、かるく抱きしめてから、別れの挨拶をする。
「さらばだ、パーン」
エスタスは、静かに右手を差し出した。
「また、会いたいものだな」
パーンは答え、エスタスの手を握りしめた。
「さあ、それはどうかな……」
エスタスは曖昧《あいまい》に答え、焼け野原を前に話し合いを続けるエルフたちを一瞬、振り返った。
もちろん、パーンにも分かっていた。このエルフとふたたび会うためには、森が開かれていなければならないのだ。
「思ったほど、おもしろい見せ物にはならなかったな」
魔法王国最後の太守はそう言って、畏《かしこ》まるストラールから、水晶球の首飾りを受け取った。その水晶球を通して、太守は帰らずの森での出来事を始終、見ることができた。
「申し訳ありません」
床にはいつくばるように、ストラールは頭をさげる。
「わたくしには、もはや帰る場所がありません。お願いです、私をこの離宮に置いてください。太守の永遠の従僕として……」
サルバーンは、蛙《かえる》のような姿勢のまま動きもしない最後の魔法王国の貴族に、真紅に輝く視線を送りつづけた。
「貴様ごとき下《げ》賤《せん》の者を、我が従僕にはできぬな」
サルバーンは悠然と言い、玉座の両脇に立つふたりの従僕に、目の前の魔術師を連れだすようにと命じた。
「お願いします、太守よ。大いなるお慈悲をもって!」
必死になって懇願する魔術師を、サルバーンは無表情に見下ろした。
「ならぬな。貴様は、蛮族どもと生きるのが相応。この崇高なる宮殿より、すぐに出て行くがよい」
なおも懇願する魔術師の叫びを、サルバーンはまるで無視した。
玉座の間をしきる鉄の扉が不快な悲鳴とともに開かれ、同じ悲鳴とともに閉ざされた。
ストラールの声が聞こえなくなってから、魔法王国最後のロードス太守はわずかに唇を歪めた。
「時間が流れはじめたからこそ、失われた時間が貴重に思えるのだ。ならば、その逆もあると思え。止まってしまってこそ、流れる時間が懐かしく思うときもある」
不死者《アンデッド》の王となったサルバーンには、もはや時の流れは無意味である。
優しいことだ、とサルバーンは自らを嘲笑《あざわら》った。
ロードス太守であった頃は、その残忍さのゆえにロードスの蛮族たちの反乱にあい、ルノアナの都を失ったというのに。
「すべて流れていた時間のなかに、置き去りにしてきたか……」
しかし、とサルバーンは思う。
魔法王国最後の人間ゆえ、最後のロードス太守として慈悲を見せたとてかまうまい、と。
それから数週間の後、フレイムの王都ブレードで、使者としての使命を果たし、パーンとディードリットは、ふたたび帰らずの森に戻ってきていた。
森の小道を、ふたりは寄り添うように歩いている。
フレイムでは短い滞在だったが、様々な事件を耳にし、また実際に目撃もした。
邪神復活という途方もない予感に、パーンの心は重く沈んでいた。
「あの若者には、つらい旅立ちになるだろうな」
パーンは、ディードリットに声をかけた。
話題にしたのは、スパークという名の騎士見習いのことである。ナルディアの一族の者で、炎の部族の長となるべき若者だ。
「そうでしょうね。でも、あの騎士はあなたより、よっぽど頭がよさそうだもの。きっと、目的を果たすわよ」
「ひどい言われ方だな。ま、彼の優秀さは、認めるけどな。カシュー王も酷な人だ。期待をするにしても、もう少しやりようがあるだろうに」
「期待をしているだけに、やり方が分からないんでしょ。あの国王も意外なところで不器用だもの。ま、それが魅力なんでしょうけど……」
ディードリットは喉《のど》の奥で笑ったが、すぐにその笑いは止まり、表情が真剣なものになる。
「もうすぐ、だけど……」
パーンは口許を引き締めて、強くうなずいた。
結界が張られているかどうかもうすぐ分かる、とディードリットは言ったのだ。
「森が閉ざされているなら、迂回《う かい》して通らねばならないな」
フェニックスを召喚したあと意識を失ってから、いったい何があったのか、ディードリットは残らず話を聞いていた。
パーンが悪いわけではない。また、エルフたちを非難する気にもなれない。
森を失った悲しみは、ディードリットも同じだから。自ら手を下しただけに、心の傷は彼ら以上に大きいとさえいえる。
しかし、森が再生することを信じるからこそ、明るく振る舞うこともできるのだ。
ふたりが去ってから、エルフたちがどんな話し合いをして、どんな結論を導きだしたのか分からない。
だが、その結論だけは、もうすぐ分かるのだ。
パーンはうつむいて歩いている。
この戦士にしてはずいぶん弱気だ、とディードリットは思った。いつもは、まっすぐ前を見つめて歩くような性格なのだ。
きっと、不安のほうが勝っているからだろう。
不安な気持ちは、ディードリットも同じだった。エルフたちの怒りを考えれば、森が閉ざされていたとしても、まったく不思議ではない。
「結界があるとしたら、もうすぐのはず……」
ディードリットは目を凝らして、森の奥を見つめる。
そのとき、木々の間を何かが動いた。
ディードリットは緊張して、何が動いたのか見極めようとした。自然、足が早くなる。彼女の目には、人影だったように見えた。
うつむいたままのパーンはすこし遅れてしまい、それに気づいてあわてて歩調をあげる。
「いったい、どうしたんだ。オレには、結界が見えないんだぜ」
パーンの声が聞こえたのかどうか、ディードリットはずんずん歩いてゆく。
そのとき、パーンにも気がついた。森の小道の向こうから、近づいてくるものがあることに。
「エスタス……、やっぱりエスタスだわ!」
ディードリットが明るい声をあげ、全力で走りだす。
パーンもいっぱいに顔をほころばせて、彼女の後を追いかける。
エスタスとの距離は、一気に詰まった。
「エスタス!」
ディードリットが、彼の胸に飛びこんでゆく。
「また、会えたな」
パーンは顔をいっぱいにほころばせて、エスタスに声をかける。
エスタスはディードリットを離し、パーンと向かいあう。
「どうやら、そのようだな」
その口調は、最初に会ったときのエスタスそのままだった。しかし、不思議な親しみが感じられた。
パーンは万感の思いをこめて、エスタスに手を差し出した。
エスタスは澄ました顔で、パーンと握手をかわした。
「あの後の集会の結果を聞きたいかね?」
エスタスは、パーンに尋ねてきた。
「いや……」
パーンは目を閉じて、静かに首を横に振った。
結果など、聞くまでもないことだ。
この男が来てくれたことが、何よりの答なのだから。
「……やっぱり、エルフは聡明な種族だよ」
パーンはディードリットの肩を抱き寄せると、彼女の耳元で囁いた。
ディードリットは曖昧な笑みを浮かべただけで、何も答えなかった。しかし、心の中では、
「学ばなければならないのは、あたしたちエルフも同じよ」
と、つぶやいていた。
「だって、この森を開かせたのか、間違いなくあなただったじゃない」
そして、とディードリットは思うのだ。
「あなたが開いたのは、森だけじゃない。あたしたちエルフの心も開いたのよ……」
肩を抱くパーンの腕の力に、彼の喜びの大きさを感じながら、ディードリットは自身もいっぱいの幸せをかみしめていた。
[#改ページ]
帰らずの森の妖精
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。呪われた島との別名で呼ばれることもある。
その名に違《たが》わず、この島の歴史は激しい戦で彩《いろど》られている。三十年ばかり前にも、最も深き迷宮と呼ばれる場所から、異界の住人たる魔神《デーモン》どもが解放され、ロードス島が破滅《は めつ》の一歩手前まで追いこまれるという事件が起こっている。
魔神戦争と呼ばれている大戦である。
戦ばかりではない。この島の各地には、人を寄せつけぬ魔境《まきょう》が今もなお存在している。
恐るべき火竜《かりゅう》の狩猟場《しゅりょうば》となっている平原、凄まじい砂嵐《すなあらし》と灼熱《しゃくねつ》の地獄のごとき砂漠。
そして、ロードス最古の歴史を誇るここアラニアの地には、この島最大の魔境があった。
その名を「帰らずの森」という。
うっそうと茂《しげ》った木々のなかを、ひとりの少女が歩いている。
袖《そで》の短い若葉色の衣服に身を包んだ、ほっそりとした少女だ。
人間《ひと》ではない。
この森に、人間がいるはずがないのだ。帰らずの森と呼び、足を踏み入れた者は決して戻ってこれないと、彼らは恐れ信じているから。
少女は、エルフであった。
それもハイエルフと呼ばれる古代のエルフである。死すべき定めとは無縁の、永遠の生命を享受《きょうじゅ》する美しく高貴な森の妖精。若く見えても、少女はおそらく人間の寿命の倍は生きているであろう。
エルフ族特有の先のとがった細く長い耳が、金色の髪をかきわけて伸びている。
その耳や広めの額には木の実でできた飾り物をつけ、胸のところには水晶の首飾りを下げている。衣服の腰のところを革紐《かわひも》で細く締《し》め、そこに細かな装飾《そうしょく》の施《ほどこ》された細剣《レイピア》を下げている。服の裾《すそ》からしなやかに伸びた足は白樺《しらかば》の幹のように白く、膝《ひざ》まである布製の長靴《ブ ー ツ》を草の蔓《つる》で結んで止めている。
森の小道を歩く少女の足取りは軽やかで、弾《はず》んでいるようにも見えた。
と、少女の足がぴたりと止まった。
細面の顔をあげ、青色の瞳でじっと森の木々の梢《こずえ》を見つめる。
そのとたん、梢が身を震わせるようにさざめいた。そして、しだいに大きく揺れはじめ、森全体がざわっと鳴った。
エルフの少女はにっこりと微笑んで、地面を蹴ってふわりと舞いあがった。そして、踊るような動作で木の幹を伝い、一本の枝に登ると、そこに腰を下ろした。
「西風よ、遥《はる》かなる旅人よ……」
エルフの少女は右手を頭上に差し伸べると、森をざわめかせるものに向かって呼びかけた。
「誰なの?」
しばらくしてから、答は返ってきた。もっとも、精霊の言葉を理解できぬ者には、風の囁《ささや》きとしか感じられなかっただろう。
「あたし? あたしはディードリットよ。この森に住んでいるの」
ディードリットと名乗ったエルフの少女は、そっと手招きをした。すると、彼女のまわりで風が渦巻いて、風の精霊シルフが姿を現わした。
ディードリットの目には、この風の精霊は透きとおった全裸のエルフ女性に見える。自分が裸になって、そして透明になれば、同じ姿となるだろう。
「話を聞かせて。あなたが旅をして、見てきた世界の……」
風の精霊は、ディードリットの目の前で静かに宙を舞っている。
ディードリットは目を閉じて、精霊が語りかけてくる言葉にそっと耳を傾《かたむ》けた。
そうしていると、風の精霊の意思が伝わってくる。この西風が旅をしてきた場所が目に浮かぶようだった。
広大な海原、険しい山や緑の野原。
人間たちの住む街や、大地に刻まれた傷跡《きずあと》にも似た街道。
そして、最後にはこの森の全景がディードリットの心をよぎった。
「ありがとう、シルフ」
ディードリットは余《よ》韻《いん》を楽しむように、ゆっくりと目を開けた。そして、水晶の首飾りをはずすと、シルフに向かってそれを差し伸べた。
精霊魔法の呪文を口ずさみながら。
「もうしばらく、あたしのそばにいて」
風の精霊の透明な身体が蜃気楼《しんき ろう》のように揺らいだかと思うと、ディードリットの手のなかの水晶の首飾りのなかに霧《きり》となって吸いこまれていった。
ディードリットは水晶をじっと覗きこんだ。
透明な六角柱の結晶のなかに、シルフの姿が小さく映っていた。
ディードリットは満足そうにうなずくと、木の枝からふわりと地面に飛び降りた。そして、弾むような足取りで、ふたたび森の小道を歩きはじめた。
そのとき、目の前からやってくる者がいることに、ディードリットは気がついた。
「エスタス!」
相手が誰かはすぐに分かった。
そのとたん、ディードリットの顔が嬉しそうに輝いた。
「こんなところで、何をしていたんだい」
すぐに返事がかえってきた。
エスタスは淡い緑色の服のうえから、枯葉色のマントに身を包んでいた。頭には羽根つき帽子を浅く載せていて、その下から伸びている白銀《プラチナ》色の髪は肩まで届いている。
この森にあるエルフの村のなかでは、エスタスはディードリットについで二番目に若いエルフである。それゆえ、ディードリットは彼をいちばん、身近に感じている。
もっとも、ふたりのあいだの年齢差は倍以上あるから、エスタスのほうはディードリットのことを子供としかみていない。
これが、ここ何十年か続いているディードリットの癪《しゃく》の種だった。
「西風と話をしていたの。森の外のことをいろいろ聞いたわ」
「森の外のこと?」
ディードリットの答に、エスタスの表情がわずかに曇《くも》った。
「森の外は、異界も同じだ。わたしたちにとっては、この森だけが唯一の世界だよ。わたしたちの故郷、妖精界《ようせいかい》にもっとも近い場所だから」
子守り歌でも唄いきかせるかのように、エスタスは言った。
そして、何を思ったのか、ディードリットの目の前までつかつかと歩いてくる。
「精霊をむやみに捕まえてはいけないと、教えただろう」
エスタスは、ディードリットの首飾りを手に取ると、その水晶のなかに閉じこめられた精霊にじっと視線を注いだ。
「それはダークエルフのすることだ、でしょ」
ディードリットは、不満そうに唇を尖《とが》らせた。
「でも、支配している精霊は友達だし、いつでも力を貸してくれるわ。自然のままでは、その精霊の力が働かないような場所でもね。そうでしょ、エスタス?」
「それについては、君の言うとおりだ」
エスタスは何かを言いたそうに、ディードリットの青色の瞳を見つめた。
しかし、彼女が勝ち誇ったように微笑むのを見て、そっと首を横に振って、そのまま沈黙してしまった。
そのとき、エスタスの視界の端を、何かがよぎった。
ディードリットの目にも、それは見えたらしい。
ふたりは同時に、そちらを振り向いた。
人間だった。しかし、生身の人間ではない。
| 幻 《まぼろし》のように身体が透けている。まるで、さまよえる生霊《レ イ ス》のような姿をしていた。
年齢はおよそ三十ほど。人間にとっては、肉体的にもっとも充実した時期にあたる。
男はつぎはぎだらけの粗《そ》末《まつ》な衣服に身を包み、そのうえから獣皮《じゅうひ》のベストを羽織《はお》っていた。背中には長弓《ロングボウ》を背負い、腰には|小 剣《ショートソード》を吊るしている。
狩人《かりゅうど》とおぼしき格好である。
エスタスの顔が嫌悪《けんお 》のために、わずかに歪《ゆが》んだ。その長弓でいったい何匹の森の動物を射止めたことか、と考えたに違いない。
「まただわ……」
ディードリットは、息を飲むようにつぶやいた。
幻のような姿の男は、ふわふわと漂うように、森の小道を横切っている。ディードリットたちが見守るうちに、その姿は霧が晴れるように消えていった。
「最近、よく見かけるな。|森の王《エント》の支配が解けかけているのかもしれない。人間にしては、強い心の持主だ。エルフの血が流れているわけでもないだろうに……」
エスタスは、あきらかに戸惑っている様子であった。
この森が帰らずの森と呼ばれ恐れられているのは、| 古 《いにしえ》の時代に交わされた盟約により、森の精霊王エントに守護されているゆえである。
|森の王《エント》と盟約を交わしたのは、精霊魔法の奥義《おうぎ 》を究《きわ》めたハイエルフの長老に他ならない。
遥《はる》かな昔、人間たちがもたらす破壊からこの森を守るために、長老は森の精霊王に力を求めたのだ。
それは偉大な魔法であり、同時に人間たちにとっては恐るべき呪いでもあった。
この森の| 礎 《いしずえ》ともいえる古代樹を中心に、強力な結界を張り巡らしたのだ。結界は森の周辺部をわずかに残し、全体を包みこんでいる。
この結界のなかに入ったものは、|森の王《エント》の創《つく》った魔法空間――|迷いの森《メイズ・ウッズ》のなかに呪縛《じゅばく》されて、永劫《えいごう》の時を眠りつづけることになるのだ。
逃れるには、森の王に打ち勝つほどの強い精神力が必要であった。もちろん、森の掟《おきて》に従う動物たちや、森の妖精エルフの血が流れる者が影響を受けることはない。
エスタスが戸《と》惑《まど》うのも、無理のない話だった。
「精霊使いの素質があるのかもよ」
ディードリットは、ほとんど気にもしていなかった。ひとりぐらい魔法の呪縛から逃れたとしても、問題にならないと彼女は思っていたから。
「かもしれない」
エスタスはちらりと、ディードリットに視線を向けた。
「いかなる理由にせよ、あの人間をこのままにはしておけないな」
「でも、相手は森の王の呪縛のなかにいるのよ。手の出しようがないじゃない」
「そうかな……」
エスタスは曖昧《あいまい》な答えを返した。
「ディードリットが気にすることではないよ。それよりも、上位精霊の声が聞けるよう、修業に励《はげ》むことだね」
「分かっているわよ、そんなこと」
ディードリットは頬をふくらませて、そっぽを向いた。
彼女は上位精霊の声が聞けるどころか、下位精霊でさえ完全には操れない。たとえば、炎の精霊とは話をしたこともない。炎はすべてを焼きつくす破壊の力だからだ。
ディードリットは不機嫌な顔で、エスタスに背中を向けた。このまま、彼と話をしていたら、苛立《いらだ 》ちが怒りに変わりそうだったから。
不要な争いを、エルフは嫌う。
いかなる争いも、すべては理性と時間とが解決すると信じているためだ。そして、エルフにとって時間は無限にある。
「気をつけて」
去ろうとするディードリットの背中に、エスタスは呼びかけた。
「それから、あまり結界の外に出てはいけないよ」
走りかけていたディードリットの足がぴたりと止まった。そして、驚いた顔でエスタスを振り返った。
「知って……いたの」
ディードリットは雨に打たれた木の葉のようにうなだれ、上目がちにエスタスを見つめた。
「もちろん、知っていたさ」
エスタスは、優しく微笑んだ。
結界の外に出るなというのは、村で決められた規則であった。
「だったら、なぜ……」
「止めても聞くような君ではないだろう。しかし、結界の外は危険だからね。くれぐれも用心するように」
「分かっているわよ、それぐらい」
ディードリットは不満そうな声で言い返した。
「あたしには精霊がついているし、それに剣だっていつも持っている。剣の腕前はエスタスも知っているでしょ」
そう言って、ディードリットは胸の前の首飾りと腰に吊るした剣を、ぽんぽんと叩いた。
もちろん、エスタスは知っていた。
彼女が村のなかの誰よりも俊敏であることを。熟練の戦士の技はないものの、動きの素早さでそれを補っているのだ。
剣の実力に関してなら、村でも屈指といえるだろう。
特別なことではない。剣に頼ろうとするのは、若いエルフにかぎられているからだ。
成人したエルフならば、剣が無力であることを知っている。そして、忌《い》むべきものだということも。
剣は自分の身を守る道具ではない。あくまで、他人を傷つけるための道具なのだ。身を守るためならば、精霊の力を借りるだけでよいのである。
しかし、エスタスはそのことをディードリットに告げるつもりはなかった。
今、諭《さと》したところで、彼女は理解しないばかりか、余計な反発を感じるだけだろう。時がたてば、自《おの》ずと理解することなのだ。
かつての自分がそうであったように。
「分かってくれた?」
ディードリットは喉の奥で、クックッと笑った。
「だから、安心して」
ディードリットはふたたびエスタスに背を向けると、一陣の風のように走り去っていった。
ハイエルフの村は、帰らずの森のほぼ中央に位置している。
ただ、森のあちらこちちには、妖精界を通る「近道」が用意されているので、森のなかならばいかなる場所でも、一日もあれば行って帰ることができる。
エスタスは、その近道を通って、村へと戻ってきたのだ。
ディードリットが、いつ帰ってくるかは分からない。この頃はたっぷり一月《ひとつき》は村へ帰らないときもある。村の住人は皆、若い彼女の行動を心配しているが、結界のなかにいるかぎり、間違いは起こらないと思っている。
この森には| 狼 《おおかみ》や熊《くま》などの動物のみならず、一角獣《ユニコーン》や鷲頭獅子《グ リ フ ォ ン》といった幻獣たちも棲《す》んでいる。しかし、この森の生き物たちは、森の守護者であるハイエルフを襲うことはない。
ハイエルフがこの森の一部であることを理解しているからだ。
だが、結界の外にいるものは、エルフだからといって遠慮することはない。人間たちは、楽しみのためや、相手の持ち物を奪うためだけに他人を傷つけ殺すこともある。
エスタスは長老に会うべく、古代樹のもとに向かった。
古代樹は、帰らずの森の| 礎 《いしずえ》ともいうべき、黄金色の葉を茂《しげ》らせた古代の樹木である。
創世神話によれば、無限の時を生きた始源の巨人の死によって世界が誕生したという。このとき、最初に生まれたものは神々であり、竜王《ドレイク》であり、そして世界樹であった。
世界樹は幹も、枝も、葉もすべてが黄金色と、あたかも地上に降臨した太陽のごとく光り輝いていた。その高さは星界まで届いているかと思われるほどで、豊かに茂った枝葉は大地の大半を覆いつくし、黄金色の影を投げかけていたという。
世界樹はまた、「生命の実」を枝いっぱいに実らせてもいた。神々はこの生命の実から動物や植物、そして妖精・精霊たちを創造したとされている。
その代償として、世界樹は枯死《こし》する寸前まで衰《おとろ》えた。それゆえ、神々は世界樹を精霊界に封じ、植物たちを司る力の根源としたのである。
このとき、世界樹の新芽を大地に挿し木し、誕生したのが古代樹である。
古代樹の植えられた場所には原始の森が生まれ、力強く広がっていった。その多くが現在もなお残っている。このロードスにおいては、この帰らずの森とモス地方北部の鏡の森が古代樹に守護された原始の森である。
ハイエルフの長老は、古代樹と向かいあうように座っていた。
この一年ほど、長老はこの姿勢のまま微動だにせず、月日を送っている。
目を閉じたまま、じっと瞑想しているのだ。食物も、水も摂ろうとはしない。しかし、心配する必要はない。このハイエルフの長老は妖精というより、むしろ精霊に近い存在である。この物質界で生を享《う》けた若いエルフたちとは、根本から異なっている。
長老を見ていると、エスタスは自分が嫌悪すべき人間たちに似ていることを思い知らされる。物質界で生を享け、その影響を受けているためだ。
ハイエルフではない普通のエルフたちは、長命ではあるものの死すべき定めにあるという。彼らは人間とほとんど変わらない暮らしをしている。たとえば、人間と交易したり、人間たちの街で暮らしたり、なかには人間と恋に落ち、|子 供《ハーフエルフ》を産む者もいるという。
エスタスには彼らの行動が理解できない。また、理解できなくて幸いだと思う。どうして、あの野蛮な人間たちに好意を持つことができるだろう。
もしかすると、この物質界すべてがエルフにとっては魔境なのかもしれない。魂を歪めて、人間たちと同化させてしまう呪いに満ちているのだ。
長老に話を、と思ってエスタスはやってきたのだが、その瞑想を中断することはとてもできなかった。古代樹の落とす黄金色の影の下に立ったまま、エスタスはどうしたものか、と途方にくれていた。
エスタスの決心をうながしたのは、あの幻影がまた目の前をよぎったからだ。
黄金樹の力を借りて森の精霊王エントが創った魔法の空間から、必死になって出口を求めてさまよう人間。
もし、あの人間が黄金樹を傷つければ森の王の魔法は破れ、この帰らずの森を守る結界は失われてしまう。
「長老……」
エスタスは、長老の背中から遠慮がちに呼びかけた。
「……エスタスか?」
答が返ってくるまで、かなりの間があった。
魂が遠く離れた場所にあり、肉体へと戻るのに手間取った。そんな間であった。
答はあったが、長老はまだ姿勢を変えなかった。
「瞑想を邪魔して申し訳ありません。相談したいことがあったのです。この森にとって、とても大切なことだと思いましたので」
「この森にとって、大切なこと……」
長老は二度ほど繰り返してから、静かに立ち上がり、エスタスを振り返った。
身長はエスタスより頭ひとつ低い。長老とはいえ、見た目に老いた印象はなかった。エスタスとほとんど同じ姿である。
ただ、その全身はほのかな金色の輝きに包まれていた。
妖精界で生まれたハイエルフであることを示す特徴である。生命の実から生みだされた最初の妖精、目の前の古代樹とは兄弟のようなものだ。
エスタスは長老に、すべてを語った。
幻《まぼろし》のように漂う人間の若者のことを、その人間を放置しておく危険性を。エスタスばかりではない、この村の住人の多くが不安に感じていることも付け加えた。
気楽でいるのは、事情を知らぬディードリットばかりだ。
「分かっている。放っておくわけにはいくまいな」
長老は、じっとエスタスの目を見つめた。そして、
「行ってくれるか?」
と、言った。
「気は進みませんが、危険は除かねばなりません」
エスタスは即座に答えた。最初から、そのつもりで長老に報告したのだ。
「不快な役目ではあるが、村全体のためだ。頼むぞ」
エスタスは、黙ってうなずいた。
森の王の魔法空間に赴き、あの人間を処分しなければならない。迷いの森のなかでは魔法は使えないから、野蛮な手段を用いねばならないだろう。だからこそ、率先して問題を解決しようとする者がいなかったのだ。
エスタスはディードリットに次いで若いエルフだから、剣の扱いも忘れてはいない。彼女には申し訳ないが、十回戦って、一度も負けない自信がある。精霊は金物を嫌うので、ふだんは身に帯びることさえしないだけだ。
だから、この役目に自分は適任だと思う。長老のような真の妖精ではないことを、エスタスはまたも強く意識した。
エスタスは準備のために、家に戻ろうと思った。しかし、長老がまだ自分を見つめているのに気がつき、その場に留まった。
何か言いたいことがあるのに違いない。
エスタスは姿勢を正して、長老の言葉を待った。
「誰かが、人間界に行かねばならないだろう」
長老は表情ひとつ変えず、そう言った。
表情が変わったのはエスタスのほうだった。その言葉の意味することが、理解できたから。
「人間界で、何か異変が起こっているのですか?」
エスタスの中は、人間たちに対する嫌悪に満ちていた。
「まだ起こってはいない。起こるかどうかも分からない。しかし、危険な兆候《ちょうこう》を感じるのだ。この島の森が、精霊たちが告げていることから洞察《どうさつ》したのだが」
一年あまりの長老の瞑想《めいそう》の理由を、エスタスはようやく知った。黄金樹を通じて、ロードス各地の森や、精霊たちの声を聞き集めていたのだ。
「懲《こ》りない連中だ。あの魔神《デーモン》との大戦のことを、もう忘れたというのか」
エスタスの怒りは、この場にいない人間たちに向けられていた。
「人間たちにとっては、忘れるに十分な時間なのだよ」
長老の言葉からは、いかなる感情も伝わってはこない。
「人間たちが争うのを止めることはできない。そのつもりもない。ただ、| 災 《わざわい》がこの森に及ばねばよい。それを確かめるため、誰かが人間の世界に赴かねばならないだろう」
これも自分に向いた役目だ、とエスタスはすぐに理解した。そして、自分がこの役目を引き受けることを、長老も期待しているのだ。
――いや、わたし以上の適任者がいたな。
エスタスはディードリットのことを思いだして、心のなかで微笑んだ。
「心に留めておきましょう」
エスタスは長老に向かって、そう返事をしておいた。
長老はひとつうなずくと、ふたたび黄金樹に向かって腰をおろし、瞑想へと戻っていった。
それを見届けて、エスタスは家へと戻りはじめた。自分に与えられた役割を果たすため、いくつかの準備が必要だった。
剣や弓は、いったいどこにしまっただろう。エスタスは、何十年も前の記憶を呼び起こしはじめた。
森の向こうは、なだらかに起《き》伏《ふく》している緑の草原だった。
遮《さえぎ》るものさえ何もなく、西風が地面をのびのびと駆《か》けている。風に吹かれて揺《ゆ》れる草の葉が、森の泉の水面にたつ波にも似た模様を描き、それは絶え間なく変化しては、風の動きをつぶさに教えてくれた。
ほんの少し前まで、ディードリットはこの世界のすべてが森だと思っていた。
もちろん、外の世界の話も、エスタスや長老たちから聞いて知っていた。ただ、自分の目で見ないうちは、実感できなかっただけのことだ。
一年前、はじめて森に端《はし》があることを知ったとき、ディードリットは驚きのあまり、しばしのあいた息をすることさえ忘れたものだ。
それからのことだ。ディードリットが、結界の外へ頻繁《ひんぱん》に足を運ぶようになったのは。
森の端にそって歩き、外の世界の風景をゆっくりと見てまわった。
緑に輝《かがや》く丘を見た。青空を背景に連なる山脈も見た。
海を展望し、風に乗って運ばれてくる潮の香《か》もかすかに感じた。そして、人間たちが行き来する街道や、彼らが日々の暮らしを営む村も見た。
平和ではあるものの、単調な日々の繰り返しに飽きていたディードリットにとって、外の世界は刺激的に思えた。
しかし、まだ森から一歩も外へは出ていない。
結界の外に出るだけでも村の決まりを破っているのだ。森の外へ出たことが知れれば、ひどく叱られることだろう。
特に、エスタスに説教されるのが、ディードリットには我慢できない。
エスタスだけは、自分の気持ちを理解してくれてもよいはずなのだ。彼とて、まだまだ若いエルフなのだから。
それなのに、エスタスはまるで長老のように、ディードリットの過ちをいちいち指摘してはそれを正そうとする。そのくせ、さっきのように妙に理解のある態度を装《よそお》うこともある。
まるで、すべてを見通しているかのような態度が、ディードリットには腹立たしかった。
ディードリットはむしゃくしゃして、地面に転がっていた石を力任せに蹴飛ばした。石は正面の木の幹に当たって、乾いた音を立てた。
それが合図になったかのように、ディードリットの背後から奇妙な物音が聞こえてきた。
ぎくりとして、ディードリットはその場で身をすくめた。
物音は、どんどん彼女の方に近づいてくる。
耳をすませると、獣の吠えている声だと分かった。しかし、今まで聞いたこともない獣の声だった。森に棲む動物の声ではない。
「まさか、魔獣?」
ディードリットはあわてて近くにあった木の枝に飛び移った。そして、葉の茂みに身を隠し、気配を殺した。
声はどんどん近づいてくる。それとともに、獣の息づかいや地面を蹴たてる乾いた音も聞こえてくるようになった。
最初に姿を現わしたのは、まだ若い牝鹿《め じか》だった。
森の木々を巧みに避けながら、ジグザグに走っている。何物かに追われている様子だった。
そして、追うものが姿を現わした。
白黒まだらの獣だった。牝鹿の半分ほどの大きさしかないが、けたたましく吠えながら追いたてている。
「聞いたことがあるわ」
ディードリットは、つぶやいた。
人間たちがよく飼っている犬と呼ばれる動物だ。野生化して、森に棲みついたのだろうか。だが、森の獣でないのなら、|森の王《エント》の結界に捕らえられてしまうはずなのだが。
逃げる牝鹿には、余裕があるように思えた。ディードリットが登っている木に向かって、ときどき横跳びを加えながら走ってくる。
「大丈夫、逃げきれる」
ディードリットは、心のなかで牝鹿を励ました。
しかし、その瞬間、ディードリットが予期しなかったことが起こった。
風を切るような音がしたかと思うと、一本の矢が突然、飛んできて、牝鹿の喉に深々と突き刺さったのだ。
悲鳴さえあげることができず、牝鹿は地面に転がった。
追いかけていた犬が、倒れた牝鹿のそばに走りよって、嬉しそうな鳴き声をあげる。
「よーし、仕留めたぞ」
そんな声が、別の方向から聞こえてきた。
人間の言葉だったので、意味を理解するのにしばらく時間がかかった。エスタスに習って、完全に習得したつもりでいたのだが、すぐに頭は切り換わらないものだ。
ディードリットは声のした方を注意深く見守った。
声の主はすぐに姿を現わした。一目で狩人《かりゅうど》と分かる格好だった。弦《つる》は緩めているが長弓《ロングボウ》を構えたままで、次の矢もつがえている。
かなり若い人間だった。おそらく、二十年を少しこえたほどしか生きていないだろう。
牝鹿はまだ生きていた。首をもたげて、なんとか立ち上がろうとしているが、とてもその力はないようだった。
「ひどい……」
ディードリットは、喉を詰まらせた。
エスタスの言うとおりだ。人間は、まさに野蛮な生き物だ。
ディードリットが憎しみの目で見ていることなど気づきもしないで、若者は牝鹿のそばに近づいていった。
そして、牝鹿に向かって何事かつぶやくと、その喉をナイフでかき切って、とどめをさした。
牝鹿の喉から血が噴きだす。
ディードリットは顔をそむけ、目をかたく閉じた。
目を開けたときには、若者は牝鹿の四肢《しし》を巧みに縛って肩に担ぎあげているところだった。若者は華奢《きゃしゃ》に見えたが、なかなか力があるようだ。
それさえも、野蛮であることの証のようにディードリットには思えた。
「許さないわ……」
ディードリットの目がわずかに細められ、彼女は唇を舌で湿らせた。右手で胸もとの水晶を探りあてると、ぎゅっと握りしめる。
「脅かすだけなら、かまわないわよね」
エスタスに精霊の力をむやみに使うな、と口うるさく戒められている。間違っても、他人を傷つけるために使ってはならないと。
しかし、目の前で森の動物を殺されて、黙ってはいられなかった。二度とこの森に入ってこないようにしてやらなければならない。
それが森の守護者であるエルフの務めだとも思う。もちろん、それが自分がこれからすることへの言い訳にすぎなかったが。
「力を貸してね、シルフ」
ディードリットは水晶の首飾りに向かって、そっと囁《ささや》きかけた。
「あの男に、あたしの声を届けてちょうだい」
ディードリットは小声で精霊魔法の呪文を唱えはじめた。
胸の水晶が、わずかに青い輝きを放つ。ディードリットに支配されたシルフが、その精霊力を働かせたのだ。
呪文は完成した。
目に見える変化は起こってはいない。だが、ディードリットは満足そうに、また唇を舌で濡らした。
「人間よ……」
ディードリットはつぶやいた。
そばで聞き耳をたてていても聞き取れないような小声だった。
しかし、その声に反応した者がいた。
牝鹿を射止めた人間の若者である。
若者はぴくっと肩を震わせると、きょろきょろと自分の周囲を見回した。
風の精霊の力で、ディードリットの囁きは、男の耳に届いているのだ。
主人の突然の変化に、彼の後ろに従っていた猟犬が不安そうに鼻を鳴らす。
「人間よ……」
ディードリットは同じ言葉を、繰り返した。
若者は肩に担《かつ》いだ鹿をどさりと地面に落とすと、背中にかけていた長弓を手に取った。
その顔が、遠目に見ても蒼ざめているのが分かった。
ディードリットの目に、悪戯っぽい笑いが浮かんだ。
「愚かで野蛮な者よ」
「誰だ!」
若者の声は震えていた。その声はまわりの木々にこだまして、震えているのがことさら強調されて聞こえてきた。
「あたしはこの森を守護する者」
ディードリットは、冷たく笑った。自分の言葉が相手にどのように伝わるか、十分に計算した笑いだった。
「おまえは森の禁忌《きんき 》を冒《おか》した。この帰らずの森の……」
「どういうことだ?」
若者は自分のまわりの木々を見上げて、そう叫んだ。
「オレは森の禁忌なんて冒していないぜ」
最初の驚きから立ち直ったらしく、若者の声はしっかりとしていた。ディードリットのほうが、かえって驚いてしまったほどだ。
人間は臆病だと思っていたのに、あの若者は彼にとって不可解なはずのこの状況にもたじろぐことなく真っ向から対決しようとしている。
「生意気な奴」
ディードリットは心のなかで悪態をついた。
「森の掟《おきて》に従わぬ身で、あたしが守護する動物を殺しただろう。今すぐこの森から出て行け。そして、二度と入ってくるな。さもなければ、この森の魔性を身をもって知ることになろう」
若者は何も答えず、弓に矢をつがえると辺りの気配をうかがいはじめた。
ディードリットの脅しは、今度はまるで効果がなかったようだ。
ディードリットは、だんだんむきになっていった。どうやら、すこしは痛い目を見なければ分からないらしい。
「樹木の精霊、森の乙女《お と め》よ……」
風の声の呪文を解くと、十分に精神を集中して樹木の精霊ドライアードに呼びかけた。そして、精霊魔法の呪文を唱えはじめる。
戒《いまし》めの呪文を使って、あの若者の動きを封じようと思ったのだ。
ディードリットの呪文の声に従って、若者の足下の草や周囲の枝がざわざわと動き、若者に向かって、まるで生き物のように伸びていった。
若者が悲鳴をあげて、一歩、後ずさる。
「森から出て行け!」
ディードリットは心のなかで快哉《かいさい》を叫んだ。
しかし、それが失敗だった。
呪文に集中したために、気配を殺していたのを忘れてしまったのだ。彼女のまわりで木の葉ががさりと揺れて、ディードリットは自分が過ちを犯したことに気がついた。
若者の飼い犬がその物音をするどく聞きつけて、ディードリットが身を隠している木の下に向かって猛然と走りこんでくる。
「そこか!」
若者は足首を蔓《つる》のように伸びた草の葉に捕まえられていたが、上半身だけで弓を引き絞り、矢を放った。
あっと思ったときには、熱いものが彼女の足に突き刺さり、ディードリットは木の枝から転げ落ちていた。
かろうじて受け身は取ったが、強《したた》かに背中を打ちつけた。
息が詰まり、目から涙がこぼれた。
そこに、犬が突進してくる。
ディードリットは迎え撃とうと、必死になって細剣《レイピア》を手で探った。剣の柄はなんとか探りあてたが、倒れた姿勢が悪く、抜くことはできなかった。
幸いなことに、犬はディードリットの周囲をぐるぐる駆けまわり、吠えたてるだけで、襲ってはこなかった。
「射止めたぞ、森の妖魔め!」
だが、人間の若者が次の矢をつがえて走ってくるのを見て、ディードリットは恐怖に身を震わせた。
人間は野蛮な生き物だというエスタスの言葉が、頭のなかで何度も繰り返される。
彼らは同族どころか、ときには親兄弟のあいだでさえ命を奪いあう。まして、種族の違うディードリットを殺すことに、何のためらいがあるだろう。
永遠の生命を享受してはいても、ハイエルフとて不死ではないのだ。それに、命の尊さは寿命の長さと関わりのないことだ。
ディードリットは精一杯の虚勢《きょせい》を張って、歓声をあげながら駆け寄ってくる人間の若者を睨みつけた。同じ死ぬのなら、ハイエルフの誇りを失うことなく死のうと決めたのだ。
相手と目があった。深い、褐色の瞳だった。
先刻の牝鹿のように、射つがいい。ディードリットは、心のなかでそう叫んだ。
しかし、若者は矢を放たなかった。それどころか、弦《つる》から矢をはずし、背中の矢筒に戻したのだ。その顔には驚愕の表情が浮かんでおり、足の動きも止まっていた。
ディードリットは、若者の行動の変化を不思議に思った。
そのとたん、目の前がふっと暗くなった。
いけないと思ったときには、もう手後れだった。意識がどんどん薄れて、何も考えられなくなっていた。
そして、ディードリットは深い闇の中に落ちていった。
ディードリットが意識を取り戻したとき、辺りはすでに暗くなっていた。
暖かい光が右側から照らしているので、まわりの様子はすぐに見てとれた。もっとも、ディードリットは闇のなかでも不自由することはない。精霊の| 理 《ことわり》を知る者は、普通の者には見えない光を見ることができるからだ。
ディードリットは、地面のうえに仰向けに寝かされていた。
森のなかのようだ。うっそうと茂る木々の葉が、覆いかぶさってくるようだった。
そのとき、右足に疼《うず》くような痛みが感じられた。その痛みのおかげで、ディードリットは正気に返った。
すべての出来事を思い出した。
はっとなって身体を起こす。足の傷が、ズキリと痛んだ。
歯をくいしばって、傷の痛みに耐える。見れば、傷のところが布で縛られている。血は滲《にじ》んでいたが、すでに乾いているらしく枯葉の色に変色していた。
「気がついたようだね」
人間の声がした。
ディードリットは身を固くして、声の方を振り返った。
たき火が赤い炎をあげており、その向こう側に昼間の人間の姿があった。そのそばには、猟犬がうずくまっている。まわりの物音に反応して、だらりと垂れた長い耳がぴくりぴくりと動いている。
若者はゆっくりと腰を持ちあげ、ディードリットのそばにやってこようとした。
「来るな!」
ディードリットは人間の言葉で叫び、腰の細剣《レイピア》を抜こうとした。
「その様子じゃ、大丈夫みたいだな」
若者はディードリットの言葉に素直に従って、その場で立ち止まった。
「とにかく、オレが悪かった。謝らせてくれ」
そう言って、若者は深く頭を下げた。
「悪かったって……」
ディードリットは、思いもよらなかった相手の言葉に困惑の表情を浮かべた。
考えるまでもなく、傷の手当をしてくれたのは、この人間の若者なのだ。傷を負わせた本人でもある。しかし、それはディードリットが精霊魔法で彼を脅したためなのだ。
「てっきり妖魔の仕業だと思ったんだ。この森には、とかく悪い噂があるからね。まさか、君のような美しい女性がいるなんて思いもしなかった。怪我が浅くて、本当によかったよ」
そう言って、若者はふたたび深く頭を下げる。
美しいと言われて、ディードリットは少し動揺した。容姿について褒められたのは、生まれてはじめてだったから。
「そのことについては、謝らなくてもいいわ……」
ディードリットは拗《す》ねたような表情をして、若者から視線をそらした。
「あたしがあなたを脅かしたのは、間違いないことだもの。あなたの言うとおり、妖魔みたいにね」
もし、この場にエスタスがいたら、| 邪 《よこしま》な目的に精霊の力を使った当然の報《むく》いだ、と指《し》摘《てき》されるに違いない。
「そんなつもりで言ったんじゃない」
若者は、あわてて首を横に振《ふ》った。
「それは、いいのよ。でも、あなたがこの森に入ったことは許せないわ。そして、森の動物を殺したこともね」
ディードリットは、焚火のそばに置去りにされている牝鹿の死体を指さした。
「許せないったって……」
若者は頭をかきむしりながら、その場に腰を下ろした。
「オレは狩人だ。獣を狩って、暮らしている。貴族の連中みたいに、道楽で狩りをしてるんじゃない。汚らわしい仕事だという奴もいるけどな。そういう奴らだって、動物の肉は食べるし、皮だって使うんだ」
「野蛮だわ。動物を殺して、食べるなんて……」
彼らが肉を食べる姿を想像して、ディードリットは背筋が寒くなるような気がした。
「君はエルフだものな。そう思われても仕方がない」
若者は、ディードリットの言葉を素直に認めた。
「でも、オレたち人間は、肉を食べる習慣がある。そうしないと、生きてゆけないからな」
どうやら、若者はエルフについてもある程度のことは知っているみたいだった。
ディードリットが今いる場所は、帰らずの森の南のはずれであった。
帰らずの森の南に位置するカノンという名の国には大小の森があり、エルフたちもずいぶん住んでいると聞いたことがある。若者がカノンの民で、しかも森を糧《かて》にして暮らす狩人ならば、エルフのことを知っていたとて、不思議ではないのかもしれない。
ディードリットは、自分が何を言いたかったのかだんだん分からなくなってきた。
若者の言い分はもっともであり、それを止める権利は自分にはないように思えた。エルフとて生きていくために草や木の実を採って食べる。人間が動物を殺して食べるのは、それと同じことなのだ。
「でも、人間は奪《うば》うだけで与えることをしない種族と聞いているわ。人間の手が入った森は、死んでしまうって」
このまま引き下がるのは癪《しゃく》なので、ディードリットは辛辣《しんらつ》な言葉をぶつけてみた。
「そこまで、ひどくはない!」
若者の顔色は、さすがに変わった。
「そりゃあ、狩りをしてれば動物は減ってゆくし、増やそうとはしちゃいない。だが、どんなに、オレたちががんばっても獲物を捕りつくしたりはできないさ。それに、狩りをするんだってちゃんと決まりがあるんだぜ」
「決まり?」
「そう、決まりさ。繁殖期の動物は狩りをしないとか、仔連《こづ》れや仔《こ》を孕《はら》んでいる牝《めす》は狙わないとか。もちろん、守らない連中だっているさ。でも、そういう奴は、狩人仲間からつまはじきにされるんだ。オレの親父が言っていた。狩人は人間であると同時に、森の動物でもあるんだ。森のことを理解しなければ、決して良い狩人にはなれないってね」
ディードリットはふうん、と鼻を鳴らした。
ようやく気持ちが落ち着いてきた。まさか人間から森の動物と同じだ、という言葉が聞けるとは思いもしなかったから。森の掟《おきて》に従うものならば、森の動物を狩ることも認めるしかない。
ディードリットは、若者の姿を子細に観察した。それまでは、視線を合わそうとさえしなかったのだが。
若者の外見は、エルフの男性とあまり差はない。耳の形が、いちばん大きな相違点《そうい てん》だろう。人間の耳は短く、その先端は丸い。目や口、鼻の形なども異なっているが、いずれも微妙な違いにすぎない。なにしろ、エルフと人間とのあいだには子供さえ生まれるのだ。
そのとき、ディードリットはふと奇妙な感覚を覚えた。この人間の男性に見覚えがあるように思ったのだ。
いったいどこで見たのだろう。
ディードリットは記憶をたぐろうとしたが、すぐに思い直し、たぐるのをやめた。人間を間近で見るのは、これがはじめてなのだ。記憶があるはずがない。
若者はディードリットが沈黙したのを誤解したのか、不安そうに身体を揺すりながらディードリットを見つめている。
人間は感情を抑えることができないと聞いていたが、それはどうやら本当のようだ。しかし、そのことはディードリットにとって不快ではなかった。
「あなたの言い分は分かったわ。その牝鹿は、狼に狩られたと思ってあきらめる」
そう言って、ディードリットはくすりと笑った。
「オレが狼だって?」
若者は抗議の声をあげたが、その顔には安堵の表情が浮かんでいた。
「あたしだって、妖魔と間違えられたんだもの。お互いさまだわ」
そして、ディードリットは自分の名を若者に告げた。この帰らずの森に住むエルフであると。
「オレの名は、ジョルド。レスパルって村に住んでいるんだ」
若者は名乗りかえして、右手を差し出してきた。
ディードリットには相手の行動の意味が分からず、茫然とその右手を見つめた。
ジョルドと名乗った若者は狼狽《ろうばい》して、照れ笑いを浮かべながらその手を引っ込めた。たき火の炎を反射したわけでもなかろうが、その頬が真っ赤になっていた。
何か意味のある行動だったのかもしれない。今度、それとなくエスタスに聞いてみよう、とディードリットは思った。
「でも、驚いたな。まさか、この帰らずの森にエルフが住んでいるなんて」
「あたしこそ、びっくりしたわ。この森に人間が入ってくるなんて思いもしなかったもの。あなたたちは、この森を魔の森と恐れているんじゃなかったの」
若者は得意そうに笑って、まわりの木々をぐるりと見回した。
「他の人間はみんなそうさ。この帰らずの森は、呪われているってね。だから、誰もこの森に近づこうとはしない。オレだけが平気なのさ。それと、オレの親父だな」
そう言ったジョルドの視線が、ふと遠いものになった。
「森の周辺部は、大丈夫なんだ。あまり奥に入るといけないんだけどね。でも、オレは知っているのさ。いったい、どの辺まで大丈夫かってね。オレの親父ときたら、もっとすごかったんだぜ。この森に張りめぐらされた呪いが壁のように見えるって言ってた。だから、親父はこの森に平気で入って、狩りをしていたのさ」
「|人 狼《ひとおおかみ》は、ふたりいるわけね」
ディードリットはわざとらしくため息をついた。
ふたりだけなら、この森の動物が絶えることはあるまい。それに、彼らは結界のなかには入ってこないのだから。
「ふたり、いたんだよ。親父は、もういない……」
力ない声でつぶやいて、ジョルドはわずかに肩を落とした。
悪いことを言ったかな、とディードリットは思った。
ほとんどの人間は、肉親の死を悼《いた》むと聞いている。親兄弟で殺し合うのは、ほんのひとにぎりにしかすぎない。ただ、恐ろしいことに、国王とか貴族とか、支配者階級の者にそういう人間が多いというのだ。
「ある日、親父はこの森に狩りに出かけたきり、帰ってこなかったんだ。もう十五年も前のことさ」
ジョルドはぽつりと言って、寂しそうに微笑んだ。
「この森の呪いに捕まったんだ、とみんなは噂したさ。たとえ熊や狼に出会ったって、負けるような親父じゃなかったからな。たぶん、そのとおりなんだろう。でも、親父にはこの森の呪いが目に見えたはずなんだ。いくら、あのとき親父が焦っていたとしても、捕まるとは思えないんだが……」
「焦っていた?」
ディードリットは思わず尋ねかえしていた。
ジョルドの話に興味がわいてきたのだ。こんな話はエルフの村にいるだけでは、永久に知ることはできないだろう。
「お袋《ふくろ》が病気だったのさ」
そうディードリットに答えて、ジョルドは両手を後ろについて楽な姿勢になった。
「とても重い病気だったんだ。薬なんて、まるで効《き》かなかった。それで、親父は神殿に頼ることにしたんだ。聖なる神の力で、病気を癒してもらおうとね」
「神聖魔法ね。聞いたことがあるわ」
エルフは神を信じないが、人間や大地の妖精ドワーフたちは、はるか昔に滅びた神々を深く信仰している。彼らのなかに神々から力を授かり、神聖魔法という名の奇跡を起こす者がいる。一般に司祭《プリースト》と呼ばれている魔法使いのことだ。
「だけど、そのためには莫大《ばくだい》な寄付金を納めなければならないんだ」
「お金を取って魔法をかけるですって」
それが神に仕える者のすることか、とディードリットは| 憤 《いきどお》りを覚えた。
「仕方ないのさ。お金を取らなかったら、神殿は病人や怪我人で溢れてしまう。そうしたら、神に奉仕することができなくなるだろ。だから、貧しい者は薬草師《ヒ ー ラ ー》に診てもらうんだ。それでも、けっこうなお金を取られるけどね」
だから、ジョルドの父親は必死になって働いたという。寝る間も惜しんで狩りに出かけ、高価で取り引きされる獲物を狙った。
「この森には獲物がいっぱいいるし、呪いのおかげで親父専用の猟場だったからな。金はどんどん貯まっていった。十五年前のあの日も、いつものようにこの帰らずの森に出かけて、そして帰ってこなかった。どうやら、大物を狙っていたらしい。そいつさえ狩れば、もう無理をしないですむとか言ってたから……」
そして、ジョルドは森の守護者にこんな話を聞かせてはいけないな、と付け加えた。
「あまり楽しい話じゃないわね。お金のために、死んでいった動物たちのことを思うと」
ディードリットは渋い表情をした。と、同時に人間たちがその短い一生を激しく生きていることに、大きな驚きを感じていた。
「まったくだ」
驚いたことに、ジョルドは即座に同意した。
「あのとき親父は、狩人仲間の決まりも破っていたんだと思う。そうでなければ、短期間にあれだけ稼げるわけがない。いくら、この森に動物が豊富だといってもね」
父親が帰ってこなかったのは、その報いかもしれない、とジョルドは言った。
「それで、あなたのお母さんは?」
「皮肉なもんでね。親父が死んだことを聞くと、司祭様が同情してくれて、母親の病気を無料で治してくれたんだ。もっとも、それからオレたちは必死に働いて、規定の寄付金を納めなおしたけどね」
「大変だったのね」
慰《なぐさ》めの言葉などかけたこともないので、ごく当たり前の言葉しか言えなかった。
「そうでもないさ」
ジョルドは明るく答えた。
「親父がいなくなったとき、オレはまだ十歳にもなっていなかったが、必要なことはだいたい学んでたんだ。だから、翌日からすぐに狩りに出たのさ。それ以来、オレはずっと狩人をしている」
「この帰らずの森で?」
ディードリットの問いかけに、ジョルドは申し訳なさそうにうなずいた。
「この森でなくても、狩りはできる。でも、動物が死ぬことには変わりないだろう。親父がどうして帰ってこなかったのか、その理由をオレは知りたいんだ。だから、オレはこの帰らずの森で狩りをしている」
この帰らずの森には妖魔が棲んでいて、目に見えない呪いの壁で森を閉ざし、見つけた侵入者を残らず殺している。ジョルドはそんな想像をしていたとも告白した。
「だから、昼間、あたしを妖魔と間違えたのね」
「本当に、申し訳ない」
ジョルドはうなだれるように頭を下げ、ディードリットに謝罪する。
「もう、謝るのはよして」
ディードリットは苦しい気持ちになっていた。
この帰らずの森には、ジョルドがいうような妖魔はいない。この森に住んでいるのは、自分たちハイエルフなのである。しかし、この森の住人がエルフであれ、妖魔であれ、人間たちにとってどんな違いがあるというのだろう。
ジョルドの父親がこの森の犠牲になったとすれば、人々が噂しているとおり森の呪い、すなわち、結界のなかに入って|森の王《エント》の魔法空間に捕らえられたか、森の獣《けもの》に殺されたかのいずれかなのだ。
この帰らずの森には熊や狼などの危険な動物もいるし、幻獣だっている。一角獣《ユニコーン》や鷲頭獅子《グ リ フ ォ ン》たちが本気を出せば、いかなる人間であれひとたまりもないだろう。ジョルドの父親が狙っていたという「大物」とは、ユニコーンのことではないか、とディードリットは心ひそかに思った。癒しの魔力を秘めた黄金色の角は、いかなる病をもたちどころに治す。死人すら蘇生させるのだから。ユニコーンの角を手に入れさえすれば、神殿に寄付金を払う必要さえない。
「理由が分かればいいわね」
ディードリットは考えとは反対のことを、ジョルドに言った。そして、傷の具合を確かめるように、ゆっくりと立ち上がった。
「だ、大丈夫かい」
ジョルドは驚いて、手を貸そうとした。
傷は痛んだが、歩けないほどではなさそうだ。ディードリットは、ジョルドの助けを断り、試しに何歩か歩いてみた。
大丈夫だと思えた。
「村に帰るわ。あたしの村に……」
ディードリットはジョルドを振り返り、にっこり微笑んだ。
「驚かして、本当にごめんなさい。でも、あたしが言ったことは、できれば守ってほしい。この森は人間にとって危険な場所よ。だから、二度とこの森に来ないで。あなたのお父さんに降りかかった| 災 《わざわい》が、いつあなたに及ぶか分からないから……」
そして、ディードリットはジョルドに背を向けると、森の奥に向かって歩きはじめた。
さよなら、とジョルドが声をかけてくる。
「また、会えるよね」
ディードリットは返事をしなかった。
二度と会うことはないだろう。また、会ってはいけないのだ。
ジョルドはこの森に入るべきではない。そして、ディードリットはこの森から出ることを禁じられているのだから。
ディードリットは傷の痛みも忘れて、闇に包まれた森を走りはじめた。風が胸のなかを通りすぎてゆくような不思議な感覚に苛《さいな》まれながら。
森の近道を通って、ディードリットは村に戻ってきた。
その途中、森の泉に寄り、怪我によく効く薬草を摘《つ》みとった。白い斑点《はんてん》がいっぱいについた緑色の葉を、両手でよく揉《も》みほぐしてから傷口にあてがう。そして、ジョルドが手当をしてくれた布を丹念に洗い、もう一度、しっかりと巻きなおした。
最初、痺《しび》れるような感じがあったが、しばらくすると痛みが嘘のように引き、足をひきずらなくても歩けるようになった。それでも、ディードリットは用心して、泉から村までたっぷりと時間をかけて歩いた。
村は、いつもと変わらない様子だった。
すっかり夜も更《ふ》けていたので、外を歩いている者は誰もいなかった。もっとも、古代樹の前では、長老が瞑想《めいそう》を続けているに違いない。
ディードリットは自分の家には戻らず、真っ先にエスタスの家を訪ねることにした。今日の出来事を、彼に話すためだ。
いろいろ説教されるだろうが、それでもかまわないと思った。ジョルドに会って、いろいろな疑問が浮かんでいた。その疑問に、エスタスがどう答えるのか知りたかった。
エスタスの家に、明かりはついていなかった。
もう寝ているのかな、と思いながら扉を開ける。名前を呼んでみたが、返事はなかった。
「エスタス?」
もう一度、呼んでみたが、やはり答はない。あきらめきれず、ディードリットはすべての部屋を調べてみて、彼の不在を確かめた。
「どこへ行ったのかしら?」
ディードリットは小首をかしげて、しばらく考えこんだ。
「まさか、あたしを探しに」
それはないだろう、とディードリットはその考えをすぐに否定した。結界の外に行くと言っていた以上、今日、明日に戻ってくるとは思っていないだろう。
しかたなく、ディードリットは自分の家に帰ることにした。
ディードリットは、両親と一緒に暮らしている。
この村では珍しいほうだ。ふつうは、夫婦も親子も独立して暮らしている。エスタスの家族もそうだ。森の妖精だからだろうか、エルフは独立と協調を尊重している。森の木々は一本、一本、独立しているが、まとまってはじめて森と呼ばれるものだ。
もっとも、二百人ほどしか住んでいない小さな村のことだ。離れているといっても、ほんのわずかな距離だ。村全体が家族といっても差し支えはないのだ。
自分の家の扉を開けると、両親が出迎えてくれた。
ディードリットはふたりに抱きついて、家のなかに入った。
母親が光の精霊ウィル・オー・ウィスプを召喚し、家のなかが明るくなる。闇に慣れていたディードリットの目には、光の精霊はことさらまぶしく見えた。
母親が別の部屋から果物の入った籠《かご》を持ってきて、ディードリットに勧めた。
ディードリットは腰の細剣《レイピア》をはずして、テーブルのうえに無雑作に置いた。
「光の精霊が怖がるでしょう」
母親はテーブルに籠を置くと、かわりに細剣を取りあげて、部屋の隅に運んだ。
父親は部屋の奥で椅子に腰かけ、木片をナイフで削って何かを作っている。エルフの村は自給自足だから、すべてを自分たちで作らねばならない。人間やドワーフのように、分業することもないので、必要なものは全部、自分で賄《まかな》う。
大地の妖精ドワーフのような優れた技はないものの、エルフは素朴《そ ぼく》だが実用性のある物を作ることができる。時間は十分にあるのだから、ゆっくりと作ればいいのだ。
「エスタスを知らない?」
ディードリットは果物をつかんで口に運びながら、母親に尋ねた。
「知っているわよ」
母親は答えて、ディードリットに微笑んだ。
「でも、あまりエスタスに迷惑をかけないようにね」
「迷惑なんてかけちゃいないわ」
エスタスが何かを告げ口したのかもしれない。ディードリットは気分を害して、食べかけの果物をテーブルのうえに放りなげた。
「だと、いいけれど」
口に手を当てて、母親は笑った。そして、
「エスタスは今、|森の王《エント》のもとに出かけているわ」
と言った。
「森の王のもとって、精霊界のこと?」
ディードリットはびっくりして叫んだ。
「いいえ、違うわ。森の王の創った迷いの森よ」
「魔法空間? どうしてそんな場所に……」
そこまでを言ったとき、悪い予感がディードリットの脳裏をかすめた。
「まさか、あの人間を……」
ディードリットはそれから先を口にすることができなかった。その言葉は、あまりにも汚らわしく忌むべきものだったから。
――あの男をこのままにはしておけない。
昼間、エスタスが言っていた言葉の意味を、ディードリットはようやく理解した。
エスタスはあの人間を殺すつもりなのだ。帰らずの森を幻となってさまようあの人間を。
ディードリットの脳裏に、男の顔が浮かんだ。
出口を求めて必死になっている男の顔――
「ジョルド!」
ディードリットは、椅子を蹴って立ち上がった。
昼間、出会った若者の顔を、ディードリットは思いだしていた。その顔が、幻となってさまよう男の顔とひとつに重なりあってゆく。
最初にジョルドの顔を見たとき、どこかで会ったように思ったのは、錯覚《さっかく》ではなかったのだ。
ディードリットは、ジョルドに会っていた。
正確には、彼に面影《おもかげ》が似た人物に……
あの幻こそ、ジョルドの父親だったのだ。
「エスタス、いけない!」
自分の声が森の王の魔法空間にまで届かないことは十分に承知していた。しかし、ディードリットはそう叫ばずにはいられなかった。
「とんでもない、エスタスは立派だわ。誰もが躊躇《ちゅうちょ》していたことを、彼は進んでやろうとしているのよ。この村のためにね」
「立派ですって! どこがよ!!」
ディードリットは母親を睨みつけた。
「なぜ、あの人間が殺されなければならないのよ」
「危険だからだよ」
部屋の奥から、父親が答えた。いつものように優しい声だったが、今のディードリットには、その声はひどく冷たく聞こえた。
「あの男をそのままにしておくと、この森を閉ざしている結界が破れてしまう。そうなれば、野蛮な人間たちがこの森に入ってくるだろう。危険な災厄《さいやく》を伴《ともな》ってな。長老が一年ものあいだ瞑想していたのは、この島に危険な予兆が感じられたからだそうだ。また、人間たちが| 邪 《よこしま》なことをしでかそうとしているに違いない」
「それとこれとは話が違うわ!」
ディードリットは激しく身をよじりながらそう叫んだ。
「森を遠くから見ているだけでは、木々の形は分からないわ。たとえ、人間が野蛮で愚かだったとしても、あの人間がそうだとはかぎらないのよ。罪もないのに命を奪うなんて、それこそ野蛮だわ!」
「ディードリット、あなたの考えは間違っているわ」
母親がディードリットをなだめようと、優しくディードリットの肩に手をかけた。
「間違ってなんかいない。みんなの考えを押しつけないで。あたしは自分で考えられるわ、自分で判断できるわ。あたしはみんなが間違っていると思う!」
ディードリットは母親の手を払いのけると、部屋の隅に立てかけられていた細剣をつかんだ。そして、そのまま扉を開いて、家の外へ飛びだす。
「ディードリット!」
母親の声が背後から聞こえてくる。しかし、ディードリットは振り返りも、立ち止まりもしなかった。
そして、ディードリットは全力で走り、古代樹のある村の中心を目指した。
夜の闇を背景に、古代樹は黄金色に輝いて、その存在を誇らしく示していた。
古代樹の前には、長老が腰を下ろして、瞑想している姿が見えた。長老はまるで木製の像のようで、生きているという実感がなかった。
ディードリットは迷わず長老の横を駆けぬけ、古代樹と向かいあった。
精霊使いであるディードリットの目にははっきりと見えた。強い緑色の輝きが、木の幹の表面のある一画から溢れでていることを。
森の王エントが創りだした、魔法の空間への入口だ。エスタスはこの輝きのなかに入っていったに違いない。
ディードリットは両手を伸ばしながら、ゆっくりと入口に近づいていった。何の抵抗もなく、両手は木の幹に入りこんでいった。
ディードリットは力強くうなずくと、身を投げだすように迷いの森の入口へと飛びこんでいった。
次の瞬間、ディードリットの目の前に広がっていたのは、森の風景であった。
古代樹の幹を通り抜けて向こう側に出ただけなのでは、とディードリットは一瞬、自分を疑った。しかし、見慣れた森の風景でないことはすぐに分かった。
帰らずの森は、夜だったはずだ。それなのに、ディードリットが立っている森は、昼間のように明るかった。
ただ、不思議な明るさだった。太陽は空にはなく、森全体が淡い光を放っているような印象だった。ふと気がつくと、自分の影がどこにもなかった。まわりの木々にもない。そのため、すべてが平面的で、存在感が稀薄《き はく》に感じられた。
物質界とも、妖精界とも、精霊界とも異なる世界。ここは、森の精霊王エントが創った魔法空間、迷いの森なのだ。
ディードリットは、全身をぶるっと震わせた。
後ろを振り返ると、こればかりは見慣れた古代樹の姿があった。何人が手をつなげば輪ができるのか想像すらできないほどの太い幹、空を覆いつくすかのように豊かに茂った黄金色の木の葉。
見慣れない風景の中にあって、古代樹は唯一《ゆいいつ》のよりどころだった。
ディードリットはその幹に元の世界へ帰るための入口が開いていることを確かめ、安堵のため息をついた。
異世界にいるということは、これほど心細いことなのだ。村のエルフたちが森を離れたがらない気持ちが分かるような気がした。
しかし、ここまで来た以上、帰るわけにはいかない。意を決して、ディードリットは足を踏みだした。
森の木々は格子《こうし 》状に生えていて、しかもすべてが同じ形をしていた。そのため、どんなに歩いてもまわりの風景は変化しなかった。そのうちに、自分が歩いているのか、まわりの木々が動いているのか確信できなくなってきた。
不安になって、ふと後ろを振り向けば、古代樹の姿はもう見えなくなっていた。
もはや後戻りはできない。ディードリットはエスタスの姿を、そして人間の狩人の姿を探し求めて、迷いの森を歩きはじめた。
いったいどれだけ歩いたのか、ディードリットには見当もつかなかった。
この魔法空間では、時間は意味のないものだ。永遠とも思える時間が一瞬であるかもしれないし、一瞬が永遠であるかもしれない。もっとも、ハイエルフであるディードリットはその秘密を知っているので、この迷いの森に千年いたとて物質界では一日しか経過していないようにもできる。
遠くで物音がしたような気がしたのは、そのときであった。誰かが言い争っているような物音であった。
ディードリットは緊張し、拳《こぶし》をかたく握りしめた。
「お願い、間に合って」
音の聞こえた方に向かって、全力で走る。
やがて、叫び声がはっきりと聞き取れるようになった。意味は分からないが、人間の言葉のようだった。
ディードリットはさらに走りつづけ、ついにふたりの姿を見つけた。
ひとりのエルフとひとりの人間は、近づいては剣を交え、遠く離れては弓を撃ちあっていた。
エスタスの優勢は一見しただけで分かった。人間の男は、何ケ所か手傷を負っているようだ。特に、左の肩が重傷で、矢が深く刺さったまま、血がどくどくと流れている。
それでも、人間は怯《ひる》むことなくエスタスと対決している。手負いの獣が最後の力を振り絞って、狩人に向かってゆく様に似ていた。
「エスタス、やめて!」
ディードリットは叫びつつ、ふたりのあいだに割って入ろうとする。その目の前で、エスタスの放った一本の矢が、人間の太股に突き刺さった。
低く呻いて、男はその場でうずくまる。
とどめとばかり、エスタスは次の矢をつがえると、弦《つる》を引き絞った。
間一髪のところで、ディードリットは問に合った。
両手を広げつつ、エスタスと男のあいだに走りこんだ。
「ディードリット!」
エスタスは、今まさに放とうとしていた矢の先を、あわてて別の方向にそらした。
「なぜ、君がここに……」
ディードリットは、エスタスに注意を払いながら、人間の男の方へ後ずさりしてゆく。
「君は……」
男の息づかいはいかにも苦しそうであったが、その声ははっきりしていた。強い意思が感じられた。その声もどことなくジョルドに似ていると思われた。
男は右手で剣を構えたまま、ディードリットに対しても警戒を解こうとはしない。
「大丈夫、あたしはあなたの敵じゃないわ。あなた、ジョルドのお父さんでしょ?」
「なぜ、息子の名を!」
驚きの声をあげて、男は立ち上がろうとした。しかし、バランスを崩して地面にばったりと倒れた。
「やっぱり、そうなのね」
ディードリットは男を抱え起こして、その全身にさっと目を走らせる。傷はどれも致命傷にまで至ってないが、出血がひどい。
血止めをと思ったが、適当な布を持っていなかった。
「ディードリット! なぜ、ここにやってきた」
エスタスの声が、背後から聞こえてきた。その声は驚きから、怒りに変わっていた。
「話は、あとで……」
ディードリットはジョルドの父親に声をかけてから、エスタスの方に振り返った。
「長老の許しは得たのか?」
エスタスは、ゆっくりと近づいてくる。矢はつがえたままで、弦もなかば引いている。弓の狙いはつけていないが、何かあればすぐにでも矢を射ることができる態勢だ。
「長老の許しですって? それがどうしたって言うのよ!」
ディードリットは語気|荒《あら》く言って、エスタスを睨みつけた。
「他人を傷つけてはいけない、それは野蛮な行為だって、エスタスはいつも言ってたじゃない。それなのに、今のあなたはどうなの? 罪もない人間を傷つけ、命さえ断とうとしている」
「野蛮なことをしているのは、百も承知だ。しかし、村を守るためにはやむをえまい。その男を、このまま放っておくわけにはいかないのだ。もし、結界が破られてしまったら、帰らずの森は大きな危険にさらされるのだよ」
「だからといって、他人を殺していいなんて理屈にはならないわ」
「議論なら、あとでゆっくりとしよう」
エスタスはすばやく横に移動して、ジョルドの父親に弓矢の狙いを定めようとした。
ディードリットも、それに合わせて動き、あくまでふたりの間に割って立つ。
「そこをどくんだ!」
「いいえ、どかないわ。あくまで、この人を殺すというなら、あたしが相手になるわよ」
そして、ディードリットは細剣《レイピア》を抜いて、身構えた。
「わがままがすぎるぞ、ディードリット。村の総意で決まったことを乱すつもりなのか?」
「間違った決定になんて従うもんですか!」
ディードリットは頑《がん》として言い張った。
「どうやら、話しあっても無駄なようだな」
エスタスは、すばやく横に動き、矢を放った。その矢は、ディードリットの脇をすりぬけて、ジョルドの父親の足もとに突き刺さった。
「わたしから離れるんだ!」
ジョルドの父親の声がした。彼は、ディードリットとエスタスが話をしているあいだに、身体に剌さった矢を抜いて、自分の服を破いた布片で傷口を縛って血止めをしていた。
「あたしに任せて!」
ディードリットは風の精霊シルフが封印された水晶の首飾りを右手で掴むと、力をこめてそれをひきちぎった。
この迷いの森は、|森の王《エント》の創造した空間だから異なる精霊の力は及ばない。しかし、支配している精霊ならば、間違いなく力を貸してくれるはずだ、とディードリットは考えていた。
シルフの守りをディードリットはかけるつもりだった。それで、エスタスの矢は誰にも当たらなくなる。
「自由なる風の精霊よ……」
ディードリットは、精霊魔法を唱えはじめる。
それを見て、エスタスの顔色が変わった。
「やめるんだ、ディードリット!」
エスタスの制止の声が響く。しかし、そのときには、ディードリットの呪文は完成していた。
透明な水晶が青く輝きはじめた。その輝きは急速に明るさをましてゆき、目がくらむほどになった。
「どうしたの、シルフ……」
期待した風の流れが起こらなかったので、ディードリットは戸惑いを覚えた。
呪文が失敗したのかと思った。だが、彼女の手のなかで風の精霊力はどんどん力を増してゆく。こんなことは初めてだった。
「早く、首飾りを捨てるんだ!」
エスタスの警告の声がした途端、光が爆発し、ディードリットは頭を殴られたような衝撃を受けた。
ディードリットの手のなかにあった水晶の首飾りは形も残さず消滅していた。そして、風の精霊が、透きとおった全裸のエルフ女性という実体を現わした。
ディードリットは何が起こったのか理解できず、茫然とシルフを見つめた。
「離れろ! その精霊は狂っているぞ!!」
エスタスが、全力で駆けてくる。彼は弓を捨て、剣に持ち替えていた。
ディードリットにも、ようやく事態が掴めた。ここは、森の精霊王によって創られた魔法空間だ。解き放たれたのが、あまりにも異質な空間であったために、風の精霊が暴走をはじめたのだ。
狂える風の精霊を中心に、激しい風が渦巻きはじめた。
ディードリットの右腕に鋭い痛みが走った。シルフが風を裂いたのだ、ということは見るまでもなく分かった。
「下がっていろ」
エスタスが叫び、ディードリットを押し退《の》けた。
「あたしも手伝うわ!」
「無駄だ。鉄の剣《つるぎ》では、精霊を傷つけることさえできない」
言われて、ディードリットは思い出した。精霊は魔法を帯びているか、銀製の武器でなければ、傷ひとつ負わせることができないのだ。
そして、エスタスが持っているのは、間違いなく銀製の細剣《レイピア》だった。
シルフは伝説の狂戦士《バーサーカー》のごとく、エスタスに向かって襲いかかっていった。渦巻く風が刃となって、彼の身体を切り裂こうとする。
エスタスは精神を集中してそれに耐えながら、シルフの本体に鋭く切りこんでいった。
シルフの透明な身体を、エスタスの銀の剣が貫《つらぬ》く。
しかし、狂える風の精霊は怯《ひる》んだ様子もない。
愛しい者を出迎えるように両手を広げ、ますます激しく風を吹きつけるのだった。エスタスの服がずたずたに裂け、渦巻く風に血しぶきが飛んだ。
エスタスは何回も何回も、風の精霊に剣を突きたて、切り払った。
ついに、シルフは力尽き、形を失い、小さなつむじ風となった。その風もやがて周囲の木々に飲みこまれるように消えていった。
エスタスはその場でがっくりと膝を落とし、両手で我が身を抱きかかえた。
「エスタス!」
ディードリットが駆け寄って、エスタスのそばにひざまずいた。
「大丈夫だよ。派手にやられたが、全部かすり傷さ」
「ごめんなさい、エスタス。あたしのせいで……」
ディードリットは目に涙を浮かべて、エスタスの負った傷をひとつひとつ調べていった。
彼の言葉どおり、傷は浅かった。しかし、ほとんど全身に傷を受けていた。狂える精霊の恐ろしさを、ディードリットははじめて知った。
「だから言っただろう。むやみに、精霊を捕まえてはいけないと」
エスタスは、ディードリットを諭《さと》すように言った。その口調は、彼女がよく知っているものに変わっていた。
「大丈夫か、森の妖精よ?」
突然、人間の言葉が聞こえて、ディードリットはどきりとした。
ジョルドの父親はエスタスとディードリットから、五歩ほど離れたところに立っていた。
「人間ごときに心配される筋合はないな」
エスタスは冷たく言って、剣を杖がわりに立ち上がろうとした。
「エスタス……」
ディードリットは不安そうに、またふたりのあいだに立った。
「みすみす機会を逃《のが》したな、さっきならわたしを倒すことも簡単だったろうに」
「エスタス、お願い!」
ディードリットはエスタスの胸にしがみつく。
「もう、争うのはやめて……」
エスタスは何かを言いたそうに、じっとディードリットを見下ろす。
「ディードリット、いったいどうしたというんだ。なぜ、それほどまでに人間を守ろうとする。このわたしに剣を向け、精霊の力さえ使おうとして……」
あらためて指摘されて、ディードリットは息が詰まる思いがした。
冷静になって、自分の行動を振り返ってみると、狂気に取りつかれていたとしか思えない。
「なぜって、あたしにもよく分からないわ……」
高ぶった感情のままに、走りつづけただけなのだ。エスタスの指摘するとおり、ここまでして、ジョルドの父親を守らなければならない理由はどこにもない。
「あたしは、間違っているのかもしれない」
ディードリットは消え入りそうな声で、話しはじめた。
「でも、エスタスや村の人たちの考えが正しいとも思えないの。村の安全を守ることは、もちろん大切だわ。でも、他に手段はなかったの? この魔法の空間からあの人を解放してあげれば、結界が破られる心配はないじゃない」
「人間たちがこの森に近づこうとしないのは、入った者が誰ひとり帰らないという伝説があるからだ。その伝説を崩すわけにはいかないのだよ。他に方法があるとすれば、森の王の支配を受け入れ、この迷いの森で永遠の眠りにつくことだけだ。わたしだって、最初はそう提案したのだよ。しかし、あの男はそれを拒んだ」
エスタスは、ディードリットの肩越しにジョルドの父親を一瞥《いちべつ》した。
「今からでも遅くない。森の王の支配を受け入れるんだ」
「それは、できない」
断固たる口調で、男はエスタスの提案を拒絶した。
「永遠の眠りなど、死んだのも同じじゃないか。わたしは帰らなければならないんだ。何があってもな。レスパルの村には、病気の妻とまだ幼い子供が待っているのだから」
「ならば、なぜこの森に入った」
苛立ちを抑えきれず、エスタスはディードリットを脇に押しやると、男の方に一歩、踏みだした。あわてて、ディードリットがエスタスの右腕を抱えこむ。
エスタスは、そのまま彼女をエスコートするように、ジョルドの父親と向かいあった。
「わたしは、狩人なんだ。病気の妻を救うためにも、たくさんの獲物を仕留めなければならなかった。他に方法を知らなかった……」
「だから、帰らずの森にやってきたのか?」
ジョルドの父親は、無言でうなずいた。
「帰らずの森は、呪われた森などではない。豊かで、力強い、とても素晴らしい森だ。この森なら、わたしがいくら狩りをしようと、動物たちの数は減ることはない。だから、わたしはこの森を猟場に選んだ」
「呪いが恐ろしくはなかったのか?」
「ジョルドが言ってた。この人には、結界が見えたんだって。だから、森の王の魔法に捕まることはなかったそうよ」
ディードリットは男の代わりに答えた。
「しかし、結局は捕まった」
エスタスの言葉に、ジョルドの父親はうちひしがれたように、肩を落とし、がっくりと首をうなだれた。
「そうだ。わたしは、呪いに捕まった。わたしには、それが見えたはずなのに。しかし、あの日にかぎってわたしの目にこの森の呪いは映らなかった……」
運命のあの日、ジョルドの父親は数日ばかり追いかけていた大物を狙って、帰らずの森に入っていた。
その大物とは大山猫《リュンクス》、悟《さと》りの魔力を持つ幻獣であった。
この幻獣の体内にあるリグリアという名の石は、砕いて飲めばあらゆる心の病の特効薬になるのだという。
一角獣《ユニコーン》の角ほどではないが、高価な値段で取り引きされる魔法の薬だ。
彼は周到な準備をし、そしてリュンクスを追いつめていった。彼はリュンクスの悟りの魔力をも欺《あざむ》く自信があったという。
しかし、失敗した。
あと一歩というところで、リュンクスは近寄る狩人の存在に気がついて、逃げはじめたのだ。
何匹もの犬をけしかけながら、ジョルドの父親はあわててリュンクスを追いかけた。そして、彼は知らず知らずのうちに結界のなかに入り、森の王の魔法――呪いに捕まったのだ。
「今のわたしには分かる。リュンクスを捕らえられると思ったあのとき、わたしは森の掟を忘れたんだ。あの幻獣を狩るということは、狩人として最高の名誉だ。そして、妻の病気を治してあまりある十分な金も手に入る。わたしは生まれてはじめて、自分の欲望のために獣を狩ろうとしたんだ」
そして、男は許しを請うように大地母神《マーファ》の名を唱えた。
「そんなわたしに、森は裁きを下したにちがいない……」
「精霊の| 理 《ことわり》を学ぶことだな。そうすれば、愚かな過ちを犯さずにすむ」
エスタスは、ジョルドの父親に精霊使いの素質を見出したようだ。
ディードリットも同感だった。そうでなければ、結界が見えることはないだろうし、森の精霊エントの支配に対抗することもできなかっただろう。
「ジョルドも言っていたわ。狩人って、森の獣も同じなのでしょう。狼や熊みたいなね。あなたはそれも忘れ、そして狩人仲間の決まりも破ってたんじゃないか、って」
ディードリットの言葉に、ジョルドの父親は驚いて顔をあげた。
「ジョルドがそんなことを? 馬鹿な、あいつはまだ八つなんだぞ」
いいえ、とディードリットは楽しそうに首を横に振った。
「もうジョルドは子供じゃないわ、立派な狩人よ」
最初、ディードリットの言葉の意味を、ジョルドの父親は理解できなかったらしい。何度も目をしばたかせて、ディードリットの端正な顔を見つめている。
「結界の外で、何かあったようだね」
エスタスがディードリットに話をうながす。
ディードリットはこくりとうなずいた。
「エスタスに話を聞いてもらいたくて、あなたを探していたの。それに、あたしがなぜここにきたのか、さっき尋ねたでしょ。その答になるとも思うわ」
そして、ディードリットは話しはじめた。
昼間、帰らずの森の結界の外であった出来事を。
結界の外を歩いていると、猟犬に追われる牝鹿を見たこと。その牝鹿を射止めた若い猟師と出会ったこと。ジョルドを脅そうとして、弓矢で射られたことも告白した。傷の手当をしてもらい、いろいろ話をしたことも。
そして、ジョルドの父親にはジョルドが狩人として一人前になったことや、彼の母親の病気が神聖魔法の力で癒されたことなどを伝えた。
エスタスは終始、無言で、ディードリットの話を聞いていた。
ショルドの父親は茫然とした顔で、ディードリットに対し、その話が本当かどうかを何度も繰り返し確かめた。
「信じられない……」
話が終わったとき、ジョルドの父親はくたくたとその場にしゃがみこんだ。そして、ふたたび大地母神《マーファ》の名を唱える。
「あれから、もう十五年がすぎているのか……」
「この迷いの森では、時間の進み方が違うのよ」
ディードリットが得意そうに説明する。
地面にしゃがみこんだまま、ジョルドの父親はしばし茫然とし、指ひとつ動かそうとはしなかった。やがて、深く瞑目し、じっと天を仰ぐ。
「教えてくれて、ありがとう。森の妖精」
ジョルドの父親は目を開くと、ディードリットに対し深く頭を下げた。
そんな男の姿を見て、エスタスは驚きの表情をその顔に浮かべ、何かを打ち消すかのようにそっと首を横に振った。
「お礼なんていいわ。あなたが戻れば、きっとジョルドも喜ぶと……」
「ディードリット!」
強い口調で、エスタスがディードリットの言葉を遮《さえぎ》った。
「エスタス?」
なぜ、エスタスが自分を黙らせたのか、その意図が分からなかったのだ。やはり、この人間を森の外に帰すつもりはないのだろうか。
「君には、あきれてしまったよ」
エスタスは深くため息をつきながら、本当にあきれたように言った。
「それは……、仕方ないと思う。叱られるようなことばかりしたものね」
ディードリットは一度、深くうなだれてから、すぐに力強く顔をあげた。
「でも、反省なんかしないわよ。あたし昨日まで、エスタスや、長老や、村のみんなから、たくさんのことを教わってきた。それが、嘘だなんて思わない。だけど、それがすべてじゃないことを、あたしは今日はじめて知ったわ。真実の木の葉は、森のなかだけで見つかるものじゃないってね」
エスタスは何も答えない。
「ねえ、エスタス。あなたにはできるのでしょう。この迷いの森から、この男の人を解放してあげることが……」
エスタスは、否定も肯定もせず、ただ沈黙を守ったまま、じっとディードリットを見つめるだけだった。
ディードリットは不安を覚えて、エスタスの表情をうかがった。
「分かったよ、ディードリット……」
長い沈黙をようやく解いて、エスタスは胸にたまった息を深く吐き出しながら言った。
「その男ならば、解放していいだろう。長老には、わたしから言っておく」
「エスタス!」
ディードリットは自らの喜びの大きさを表わすように、エスタスに飛びついていった。そして、彼の背中に腕をまねして、力いっぱい抱きしめた。彼の傷のことも忘れて。
「礼を言わせてくれ、森の守護者」
ジョルドの父親は立ち上がり、エスタスに向かって右手を差し伸べた。
エルフにはその習慣はない、とエスタスはジョルドの父親に断る。
そういえば、ジョルドも自分に同じことをした。あれは、きっと人間の挨拶なんだわ、とディードリットはひとりひそかにうなずいた。
「ひとつだけ教えてくれないか、人間よ。おまえは、本当に感謝しているのか? 人間の世界に帰っても、おまえには……」
「もちろん、感謝している」
エスタスの言葉が終わらぬうちに、ジョルドの父親は即座に答えた。
「感謝しているとも、森の妖精。心の底からな」
「そうか……。ならば、いい」
エスタスの答は、まるで独り言を言っているように聞こえた。
なるほど、ディードリットの言うとおりだ、とエスタスは心のなかで思った。
「わたしが見落とした真実も、まだまだ人間の世界にはあるらしい」
エスタスは微笑を浮かべて、ディードリットを振り返った。そして、彼女に帰ろうと呼びかけた。
ディードリットは、力強くうなずいた。
「帰りましょう、あたしたちの村に。帰らずの森のハイエルフの村に」
それから、一月《ひとつき》ばかり後、ディードリットはふたたび帰らずの森の結界の外に立っていた。彼女のそばにはエスタスの姿があった。
「まさか、あなたが賛成してくれるとは思いもしなかったわ」
ディードリットは、本当に不思議そうな声で言った。
一月前のあの事件のあと、村に帰ったディードリットは、村の大人たちからひどく叱られた。十日のあいだ父親がそばに付ききりで、ハイエルフの何たるかを懇々《こんこん》と説教された。
その拷問のような日々が終わったとき、瞑想を終えた長老が村人全員を召集し、古代樹の下の広場で集会を開いた。
そこで、提案されたことは、ディードリットを狂喜させた。
誰かが人間界へ行かねばならない、と長老は言った。大きな災厄の予兆が、このロードスの地に感じられる。その災厄がこの帰らずの森に及ばないか、調べなければならないと……
ディードリットはもちろん、自ら名乗りをあげた。これは絶好の機会だった。まだ見ぬ真実の木の葉を探すために、人間たちのことをもっと深く知るために、森の外に出ようと思っていたところだから。どうせなら、村のみんなから認められて、旅に出たい。
村のみんなは、もちろん反対した。彼女の若さを指摘し、先日の行動を持ちだして、あらためて彼女を叱ろうとした。
当然だ、とディードリットは思った。だが、彼女はあきらめなかった。必死になって自分の思いを訴え、人間の世界へ出してくれるよう懇願した。
結局、ディードリットの願いはかなったのだが、それはひとえにエスタスのおかげである。
エスタスはディードリットを弁護し、同時に彼女こそその役目に適任であることを主張した。
なにより、村人たちは誰ひとりとして外の世界に行きたくはなかったのだ。村人たちはエスタスがこの役目を引き受けてくれると期待していたらしい。そのエスタスがディードリットを推挙したのだから、ディードリットの願いを承認するしかなかったのだ。
それから、十分に準備をし、エスタスから人間界で必要ないろいろな知識を学び、ようやく出発の日を迎えることができた。
村人たちは総出で見送ってくれた。だが、彼らは村から一歩も外へ出ようとはしなかった。ただひとりエスタスだけが、森のはずれまで同行してくれた。
ディードリットには不思議だった。自分の願いをエスタスこそがもっとも強硬に反対するだろう、と思っていたのだ。しかし、彼は最初から最後まで協力的だった。
「ここで、お別れだ」
エスタスはディードリットに微笑みかけ、預かっていた荷物を手渡した。
「森の外は異界も同じだ。十分に、気をつけて行くんだよ」
ディードリットは素直にうなずいた。
そして、自分の心にわだかまったままの疑問をぶつけてみた。
「ね、教えてよ、エスタス。どうして、あたしが行くことに賛成してくれたの」
何度、同じ質問をしたか分からない。エスタスはそのたびにはぐらかし、決して答えようとはしなかった。
「しばらく会えないと思うわ。だから、教えてほしいの。このままじゃあ、気になって仕方がないもの」
「外の世界に行けば分かると思うけどね」
エスタスはそう言って、曖昧に微笑んだ。
「はぐらかさないで。ちゃんと教えてよ」
「教えることなどないさ。ただ――」
「ただ?」
ディードリットは期待に満ちた目で、エスタスの次の言葉を待った。
「わたしにも、今の君と同じような時代があったということだよ」
なぜか憮然とした顔で、エスタスは言った。
「自ら志願して、外の世界へ旅立ったこともある。君が生まれる前の話だけどね」
そのときも、このロードスは大いなる| 災 《わざわい》の兆《きざ》しに包まれていたという。呪われた島の風評を肯定してみせるように。
「あのときのわたしは、外の世界に希望を持っていた。人間という種族にも……」
エスタスは遠い目をしながら、ディードリットにというより自分自身に語りかけるように言った。
「知らなかったわ……」
ディードリットが喉を詰まらせたような声で言った。
「わたしは、君にすべての真実を教えたわけじゃないからね」
エスタスは優しく笑って、ディードリットの頭にかるく手を置いた。
その手をディードリットは上目遣いに見つめる。
「だが、わたしの期待はすべて絶望に変わったのだよ。人間は愚かで、野蛮な生き物だ。同じ仲間で殺し合いをして平気でいられる。大勢の人間を殺した者を英雄と祭りあげる。わたしには、信じられなかった。信じたくはなかった……。だからこそ、わたしは君にすべてを教えなかった。この世界には、知らずにいるほうが幸福な真実もある。わたしは、君がそういう真実を知らずにすめばと思っていた。この森にいるかぎり、それは可能なのだからね」
「エスタス……」
ディードリットにはエスタスがはじめて本心を明かしてくれたことが、とても嬉しく思えた。
「わたしが、君の旅立ちを認めたのは、君を罰するためかもしれないよ。わたしがいくら諭《さと》しても、君は理解できないようだからね。君自身の目で不幸な真実を見て、そして絶望しろと言ってるのかもしれない」
そんなことない、とディードリットは首を横に振った。
「ありがとう、エスタス。それがどんなものであるにせよ、あたしに機会を与えてくれて……」
「ありがとう……か」
エスタスは表情を崩し、わずかに微笑《ほ ほ え》んだ。
あの人間も、同じ言葉を言ったのだ。不幸な真実を伝えてもなお、礼を言われることがあるということを、エスタスははじめて知ったのだ。
ディードリットも、今、エスタスに感謝しているという。
なぜだろうと自問してみたが、そこに隠された新しい真実は自分には見つけられそうにもなかった。
「もう行くわ」
明るい声で、ディードリットは言った。
「でもね、絶望するために行くんじゃないのよ。あたしは、あたしの真実を探すつもり。エスタスとは違う真実をね。いえ、もしかしたら、それは同じ真実なのかもしれない。でもね、たとえ同じ真実でも、それをどう受けとめるかは人それぞれ違うと思うの。だから、エスタスとは違う答を見出せるかもしれないじゃない。森の外の世界に、ね」
そして、人間に、とディードリットは心のなかで、そっと付け加えた。
エスタスはわずかにうなずいて、右手を差し出してきた。
ディードリットはその手を取って、精一杯の力をこめて握った。人間たちが再会のとき、そして別れのときに行なう挨拶であることを、ディードリットはすでに知っている。
ディードリットは踊るように身体を回転させて、エスタスに背中を見せた。
そして、走りだす。一陣の風のように。
すぐに森を抜け、ディードリットは広い草原に出た。まず、海を見ようと心の中で考えていた。あのとてつもなく大きな泉に足をつけて、その冷たさを確かめるのだ。
真実の木の葉は、そこにも見出せるかもしれないから。
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あとがき
本書「ハイエルフの森」は「ロードス島戦記」初の外伝であり、短編集です。
もっとも、意識して本編と区別したようなことはありません。時代順に本編にはさみこんでいっても何の問題もないはずです。
たとえば「妖精界からの旅人」は二巻と三巻のあいだ、「開かれた森」は五巻と六巻のあいだ。「復讐の霧」は六巻の直前直後のエピソードとなります。ただし、「帰らずの森の妖精」だけは第一巻の直前の物語ですので、正真正銘の外伝といえるかもしれません。主人公パーンも登場していませんしね。
本書のテーマは、タイトルでもあきらかなように「エルフ」です。この森の妖精族は、ファンタジー世界のもっとも有名な住人で、「指輪物語」をはじめいくつもの作品に登場しています。ロールプレイング・ゲームのほうではもっと有名で、ファンタジーを題材にしているならば、かならずといっていいほど登場している種族です。
森に住んでいること、長寿であること、弓が巧みであることなどが、共通した特徴のようです。しかし、作品ごとに異なったエルフ像があって当たり前。事実、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」のエルフと「ルーンクエスト」のエルフは、まるっきり設定が違っています。もちろん、ロードスのエルフも違います。それでは、ロードス世界のエルフ族がどういう種族かと問われれば、その答となるのが本書というわけです。
もっとも、書きたかったのは別にロードス世界のエルフの設定ではありません。エルフと人間という異なる種族の交流こそがテーマです。両者は暮らし方も違うし、考え方もまったく違う。それでも、お互いに理解しあえるはずだ、と僕としては思いたいわけです。現実には、人間同士でさえ、言葉や生活習慣、宗教の違いなどで争うことも多いのですが……
パーンとディードリットのふたりは、エルフと人間とが友好な関係を築けるという可能性そのものだと思うわけです。だからといって、彼らが特別な努力を払っているわけではありません。彼らにしてみれば、自分の気持ちに正直なだけなのでしょう。パーンなど、ディードリットがエルフであることを、いつもは意識していないに違いありません。ただ鈍感なだけかもしれませんが。
ロードス島戦記の外伝は、機会があればこれからも書いてゆくつもりです。また、いつかお会いすることもあるでしょう。
その日がくることを楽しみにしています。
[#地付き]水 野  良
[#改ページ]
「妖精界からの旅人」
『ファンタジー王国T』(平成三年一月二十五日発行)収録
「開かれた森」
『新ファンタジー王国T』(平成四年一月二十五日発行)収録
「復讐の霧」
『ザ・スニーカー93秋号』(平成五年九月三十日発行)収録
「帰らずの森の妖精」
『ザ・ファンタジーU』(平成五年八月二十五日発行)収録
底本:「ハイエルフの森 ディードリット物語」角川スニーカー文庫
1995(平成07)年03月01日初版発行
二次校正:TJMO
2006年04月17日作成
[#改ページ]
角川文庫発刊に際して
[#地付き]角川源義
第一次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある、角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい、多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
一九四九年五月三日