ロードス島戦記6 ロードスの聖騎士(上)
水野良
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目 次
プロローグ
第T章 邪悪《じゃあく》の胎動《たいどう》
第U章 盗《ぬす》まれた祭器
第V章 黒い影《かげ》を追って
第W章 生命の杖《つえ》
あとがき
[#地付き]口絵・本文イラスト 出渕裕《いずぶちゆたか》
[#ここまでで目次終わり]
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プロローグ
穏《おだ》やかな表情を浮《う》かべた女神像が、静かに見下ろしていた。大地母神と呼ばれるマーファの像である。
ニースはかすむ目を、女神像に向けた。
「マーファよ、まもなく、みもとに参ります。ふたたび、この地に生を享《う》ける日まで……」
ニースは口の中で、そうつぶやいた。
神殿内の空気が、調律されたリュー卜の弦《げん》のようにぴんと張りつめているのが感じられる。わずかに触《ふ》れただけでも切れてしまいそうな緊張感《きんちょうかん》が、神殿のすみずみにまで漂《ただよ》っているようだ。
「自然の法ではありませんか」
ニースは傍《かたわ》らに控《ひか》えて、自分の脈を取っている高司祭のメリルに笑いかけた。
メリルは首を横に振《ふ》っただけで、何も答えなかった。憔悴《しょうすい》しきった顔をしていた。ニースを冒《おか》している病を取りのぞこうと、彼女は神聖|魔法《ま ほう》の癒《いや》しの呪文《じゅもん》を何度も使い、気力を使いはたしたのだ。
メリルの努力が無益であることは、ニースには最初から分かっていた。人が老いて死ぬのは運命であり、自然なことでもある。激《はげ》しく生きてきたがために、他人よりも早く寿命《じゅみょう》がつきただけのことだ。
しかし、いかに諭《さと》そうとも、メリルは呪文を使うのをやめたりしなかっただろう。だから、ニースは彼女のしたいようにさせた。
ニースは、今、礼拝所に置かれたベッドに横たわっている。最高司祭の礼服を着て、白い綿の毛布を胸からかけられている。そして、時がくるのを静かに待っているのだ。
女神像が祭られている礼拝所は、あわただしく出入りする人々でいっぱいだった。
ロードス島各地に散らばるマーファ神殿から集まってきた司祭や神官たちである。ニースの姿を遠くから見ては、祈《いの》りを捧《ささ》げて去っていく。
高司祭たちはニースの枕《まくら》もとまでやってきては、メリルと同じように癒しの呪文を無駄《むだ》に唱えていく。
また、誰《だれ》かが入ってきた足音がした。
聞き覚えのある足音だった。ニースは穏やかに微笑《ほ ほ え》むと、上体を起こそうと身体《か ら だ》を動かした。あわてたように、メリルが背中に手を回して支えてくれた。
「お母さま……」
息を詰《つ》まらせたような声がかけられた。
ニースはもういちど微笑んだ。そして、急ぎ足でやってくる三人に向かって両手をまっすぐに差し伸《の》べた。
かすむ目をこらしてみる。その目に、娘《むすめ》のレイリアと彼女の夫スレイン、そして孫娘である小さなニースの姿が映っていた。
気を利かしたように、メリルは一礼をしてその場から去っていった。
三人がベッドの傍《かたわ》らに立った。すぐに、レイリアと小さなニースが、神聖|魔法《ま ほう》の癒《いや》しの呪文《じゅもん》を唱えはじめる。ニースはわずかに首を横に振《ふ》って、それをやめさせた。
「女神に祈《いの》っても、人の寿命《じゅみょう》を延ばすことはできませんよ。それは自然の法に反することですからね」
「ですが……」
ニースはスレインの言葉も制した。
「早すぎることはありません。このロードス島に生まれて、わたしは多くの人より幸せな人生を送ってきました。これ以上、生きながらえては他の人に申し訳が立たないぐらい」
スレインは六|英雄《えいゆう》のひとりと讃《たた》えられる偉大《い だい》な女性の顔をじっと見つめた。穏《おだ》やかな顔をしていた。自分たちを見下ろす女神像と同じ表情だと思えた。そして、女神像と同様に生気が感じられない。
「長旅で疲《つか》れたことでしょう。宿舎の方で休むといいわ。悪いけれど、スレインには残ってほしいのだけど」
ニースは今年で十二歳になる孫娘の若い黒髪《くろかみ》に手を置いた。小さなニースはその手を取ると、静かに唇《くちびる》を寄せた。
「最後までおそばに居させてください」
小さなニースは涙《なみだ》を流しながら、懇願《こんがん》するように祖母の顔を見つめる。
「心配しないで。そう長くはないだろうけど、まだまだ大丈夫《だいじょうぶ》」
不安な表情で見つめてくる顔に、ニースは安心させようと笑顔を向ける。
「最期《さいご 》のときには、みんなに居てもらいますから」
そして、ニースはスレインに目で合図をした。
スレインはうなずくと、妻と娘に席をはずすように言った。
まさしく後ろ髪を引かれるような思いに違《ちが》いない。ふたりは何度も振り返りながら、礼拝所から出ていった。
「……お話とは何でしょうか?」
スレインはふたりの足音が聞こえなくなってから、その場にしゃがみこんで、義母の顔に顔を近づけた。
「そんな深刻な顔をしないでいいわ。話とはレイリアのこと。あなたにだけは伝えておいたほうがよいと思ったものだから」
ニースはいつもと変わらぬ声で、たいした話ではないのだけど、と付け加えた。そして、静かに話をはじめた。
しかし、話を聞くにつれ、スレインはどこがたいした話ではないのだろう、と思わずにはいられなかった。
レイリアがニースの実の娘《むすめ》ではないというのだ。
ニースは生涯《しょうがい》を大地母神への信仰《しんこう》に捧《ささ》げたのだ。そういえば、レイリアから父親の話はついぞ聞いたことがない。おそらく、レイリアは自分がニースの実の娘ではないことに、うすうす気付いていたのだろう。しかし、血のつながりが、本当に愛しあう母娘にとってどんな意味があるだろう。
スレインが驚《おどろ》かされたのは、レイリアの出生だった。
レイリアはアラニア建国期に封印《ふういん》された邪神《じゃしん》の最高司祭ナニールの生まれ変わりだというのである。邪神とは破壊《は かい》の女神カーディスに他ならず、封印されたという最高司祭は亡者の女王の名で呼ばれた。
およそ四十年前、ある事件をきっかけとして亡者の女王は、古代の封印より解放された。しかし、亡者の女王は勇気ある六人の冒険者《ぼうけんしゃ》たちの手によって、完全復活を遂《と》げる前に滅《ほろ》ぼされたのである。ところが、亡者の女王は女神カーディスから転生の魔力《まりょく》を与えられていたのである。亡者の女王は自らの肉体が滅びると、ひとりの赤子の肉体に転生を遂げたのだという。
事実を知った冒険者のひとり、マーファ神官はこの呪《のろ》われた赤子を、ターバ神殿《しんでん》のニースに預けた。六|英雄《えいゆう》のひとりであるニースの手で育てられたなら、いかに邪悪な魂《たましい》とはいえ浄化《じょうか》できるのではないかと期待したのだ。
ニースはこの神官の申し出をこころよく引き受けた。ニースは赤子にレイリアと名付けると、大切に育てた。そして、十七年の後、娘は邪悪な亡者の女王としてではなく、敬虔《けいけん》なマーファの司祭として成長を遂げた。
あの呪わしい事件によって、ふたたび肉体を支配されてしまうまで。そして……
今、スレインは自分が英雄と讃《たた》えられる人間ではないことを痛切に感じていた。おそらく、自分の顔色は、死の床《とこ》にあるニースのそれよりも悪いに違《ちが》いない。
話が終わったことを告げるように、ニースはもう一度だけ微笑《ほ ほ え》んだ。
「北の賢者《けんじゃ》スレイン。あなたには、心から感謝しているわ。あなたと出会えたおかげで、レイリアがどれほど救われているか。そして、これからもあの娘を、そして小さなニースをよろしくお願い」
スレインは、無言でうなずいた。義母の話は衝撃的《しょうげきてき》ではあったが、自分が動じているようでは、ニースは心残りなく、旅立つことができないだろう。
「レイリアと小さなニースには、あなたから話をしてあげて。ずるいと思うかもしれないけれど、わたしが話したことはあなたがた三人が立ち向かわねばならない問題だと思うから」
スレインは一言、分かりましたとだけ答えた。
「ありがとう。あなたもお疲《つか》れのことでしょう。レイリアたちのもとに戻《もど》ってあげて。わたしはこれから別のお客を迎《むか》えねばならないから」
「別のお客?」
「お友だちよ。わたしの古いお友だち。彼らと話が終わったなら、またあなたがたを呼ぶわ」
スレインは一礼をして立ち上がると、ニースのもとから離《はな》れようとした。
ニースの言う友だちとは誰《だれ》のことなのか、察しはついていた。強い魔力《まりょく》の満ちる気配が感じられたからだ。
もっとも、自分の考えを確かめるつもりはなかった。その場に留まりたい衝動《しょうどう》もあったが、今はそうすべきでないことを、スレインは理解していた。
スレインは開かれたままの礼拝所の扉《とびら》から、宿舎へと続く廊下《ろうか 》に出た。
魔力が満ちる気配は、ニースも感じていた。スレインよりも先に気がついたことだろう。だから、スレインにはずしてもらったのだ。彼がいては、姿を現わしにくい友人がひとりいるから。
魔力はどんどんと膨《ふく》れあがり、それが最大になったとき、ニースの視線の先で光が爆発《ばくはつ》した。それも、二度。そして、姿を現わした者たちがいる。
「久しぶりじゃの。マーファの大司祭」
姿を現わしたのは三人。そのうちのひとり、背中を屈《かが》めた老人が杖《つえ》をつきながら、声をかけてきた。
「お久しぶり。大賢者《だいけんじゃ》ウォート、魔神《ま じん》の迷宮は異常なくて……」
「静かなもんじゃ。ここ十年ほどは、誰もわしの館に近寄ろうとはせん。もっとも、それがために、あの大トンネルに魔物どもを棲《す》まわせておるのじゃからな」
「迷惑《めいわく》な話よ。たとえ、滅《ほろ》びようとあのトンネルはわしの王国なのだぞ」
そう不満をこぼしたのは、ウォートと並《なら》んで歩いてくるもうひとりの男だった。こちらはしっかりと背筋を伸《の》ばしているにもかかわらず、ウォートと同じくらいの背丈《せ たけ》しかない。どっしりとした体格で、立派《りっぱ 》な白い髭《ひげ》をはやしていた。その手にはきらびやかなミスリル銀製の|大 斧 《グレートアックス》が握《にぎ》られている。
ドワーフであった。鉄の王<tレーベというのが、彼の名前である。魔神戦争のおりに、滅ぼされた南のドワーフ族の最後の王。
ニースは意外に元気そうなフレーベの様子を、心から嬉《うれ》しく思った。
「病にはかかってみるもの。元気なあなたに再会できるとは思ってもいなかった。心の傷は癒《いや》されたの?」
「癒されるものか」
過ぎ去った時間に罵声《ば せい》をあびせかけるように、フレーベはいまいましげにつぶやいた。
「永遠に癒されることはないだろうよ。失われたわしの王国は滅《ほろ》び、ふたたび栄えることがないのだからな。なのに、王たるわしは、こうして生き恥《はじ》をさらしておる」
「自分を呪《のろ》うのは愚《おろ》かなことよ。あなたには、なさねばならないことが、まだまだあるように思えるのだけど」
ニースは額に肉厚のドワーフの手を感じた。心が落ち着くような気分になり、ニースはしばらく目を閉じた。ドワーフの手を通して感じられたのは、溢《あふ》れんばかりの彼の生気と、自分自身が発している熱の高さだ。
「おまえさんの病をわしが引き受けられたらな」
ドワーフは額から手を離《はな》すと、そうつぶやいた。
「無理なことを。あなたはまだ五十年は生きられる。わたしの病を患《わずら》うのは、ずいぶん先の話でしょう」
大地の妖精《ようせい》ドワーフは、エルフほどでばないにしても、長命な種族である。人間の数倍の寿命《じゅみょう》がある。目の前のドワーフはすでに初老の域に達してはいたが、それでも老ドワーフと呼ぶのは早すぎる。
ニースは幼少の頃《ころ》よりドワーフたちとは親しかった。ここターバの村にはドワーフたちの集落がある。人間たちは「北のドワーフ族」と呼んでいる。今では、ここロードス島に残る、唯《ゆい》一《いつ》のドワーフの集落だった。
ニースは彼ら大地の妖精族が好きだった。彼らの実直さ、素朴《そ ぼく》さ、力強さが好きだった。
ただ、困ったことに彼らは思いこんだら考えを容易に変えようとはしない。それがために、自らの命さえ省《かえり》みぬことがある。
レイリアを連れもどすと言って旅立った幼なじみのドワーフは、ついに帰ってはこなかった。
そして、ニースは最後のひとりに視線を移した。初老の男だった。痩《や》せてはいるが、背はかなり高い。自らの老いを否定するように、男は背中をまっすぐに伸《の》ばしている。
いかなる表情も浮《う》かべず、腕組《うでぐ 》みしたままニースを見下ろしている。その左頬《ひだりほお》には醜《みにく》い傷跡《きずあと》があった。額には意匠《いしょう》を凝《こ》らされた額冠《サークレット》をはめている。そこには人間の双眸《そうぼう》にも似た模様が刻まれていて、やはりニースに視線を向けていた。
ニースは男の目ではなく、サークレットの目を見つめかえして、お久しぶり、と言った。
昔《むかし》、魔神《ま じん》と戦ったとき、この人物は頼《たの》もしい仲間であった。強力な魔法を使う戦士。
もっとも、あの魔神戦争のおりは、最後まで謎《なぞ》の人物であった。カーラという名前しか覚えていない。
しかし、ニースはこの人物の正体をすでに知っていた。その目的も知っていた。
「カーラとお呼びしたほうがいいのかしら。それとも、ウッド・チャックと呼びましょうか」
ニースは言葉を選ぶために、すこし間を置いてから、そう呼びかけた。そして、ベッドのすぐそばまで来るよう合図をした。
フレーベとウォートが、無言で場所を譲《ゆず》る。
「カーラと呼んでもらいましょう。姿がいかに変わろうと、我が魂《たましい》、我が存在は不変であるから」
音さえもたてずに、カーラと名乗った男はニースの脇《わき》に立った。
「それはどうかしら」
ニースはカーラの足取りを見つめながら、独り言のようにつぶやいた。
「別れを言いにやってきました。偉大《い だい》な司祭、大地の法を遵守《じゅんしゅ》した者よ」
カーラはそうつぶやくと、顎《あご》を引くように頭を下げた。
「よく来てくれました。あなたはどうかしれないけれど、わたしは今でもあなたの友人だと思っています。四十年前から変わらずね。大地の法を見誤った者よ」
首をかしげるような仕草をカーラは見せた。男の目が閉じられる。しかし、額冠《サークレット》の目は|微塵《み じん》も動くことはなかった。その目は片時も閉じられることはないのだ。ロードスの空から灰色の雲が晴れぬよう気を配らねばならないから。古代王国が滅《ほろ》びてからの五百年以上もの時を、カーラは自らにそう命じてきたのだ。
「さて、古い友人たち」
ニースは、かつて六|英雄《えいゆう》と呼ばれた頃《ころ》の仲間たちを懐《なつ》かしく見回した。あれから、長い時が過ぎた。ふたりの戦士、|騎士《きし》ファーンと戦士ベルドの姿はなく、|魔法《ま ほう》戦士カーラの姿は変わっている。
「あなたがたと見《まみ》えるのはこれが最後。変わらぬ友情を心から感謝させていただきます」
「自然の法に従い、死んでゆくか。マーファの大司祭」
ニースの言葉に答えたウォートの声には、非難するような調子が込められていた。
「おまえは知っておるのだろう。南の孤島《こ とう》に漂《ただよ》う暗雲はいまだ晴れず、それどころか、巨大《きょだい》で邪悪《じゃあく》な力の胎動《たいどう》の気配さえある。それをロードスの民に委《ゆだ》ねて、自らは去るか」
ニースは老|魔術師《まじゅつし》に目だけでうなずいた。
「あなたの言ったとおり。たった、今、わたしはそれを娘婿《むすめむこ》に委ねたところ。ところでウォート、あなたはどうするおつもり」
「おまえも年をとって意地が悪うなったな」ウォートは白くなった眉《まゆ》を動かして、深く息を吐《は》いた。
「わしが動くは、もはや我が身のためだけよ」
ニースはウォートの答に満足した。大地母神の教えによれば、自衛のための戦いは自然であり、正当なのだ。ニースもその教えを守り、かつて魔神との戦いに臨んだ。
「カーラ、あなたはどうするつもり?」
そう口に出してしまってから、ニースの口許《くちもと》がほんのすこし緩《ゆる》んだ。
「愚問《ぐ もん》だったわ。強すぎる力は、正義であれ邪悪《じゃあく》であれ、常にあなたの敵。でもね、あなたは戦いをやめるべきだと思うの。いえ、はじめからあなたは戦うべきではなかった。呪《のろ》われた使命を自らに課すことはなかったのよ」
「最後の忠告と受けとっておきましょう」
「まさしく、最後の忠告よ。本当なら、わたしがあなたを救ってあげたいのだけれど、どうやら女神マーファは、その役目を他の人に与えたようだから」
それから、わたしはすべての役目を終えたのです、とニースはつぶやくように付け加えた。
「役目を終えたは、我々とて同じかもしれぬぞ。すでに時代は変わっておるからの。のう、カーラ」
カーラに向かって皮肉っぽい声をかけてから、大賢者《だいけんじゃ》と呼ばれる老人は、手にした杖《つえ》で石の床《ゆか》を小さく一度、叩《たた》いた。
「さらばだ、ニース。老いた顔を見せあったからには、お互《たが》い、思い残すこともなかろう」
ニースは小さく微笑《ほ ほ え》んだ。
「さようなら、大賢者。魔術《まじゅつ》を極めた者よ」
ウォートの口から、上位古代語《ハイ・エンシェント》の詠唱《えいしょう》が流れはじめていた。
「わしを残していく気か?」
フレーベが責めるような目でウォートを見つめた。
「おまえには、まだなすべきことが残っておろう。おまえの短い足でも、北の部族の住みかまでは歩けようぞ」
「最初からそのつもりだったな」
「いかにも、他人を欺《あざむ》くは人間の持つ悪徳のひとつ。ニースの最後の願いでもある。かなえてやらぬ訳にはいくまい」
「ありがとう、ウォート」
ニースは微笑んで、老魔術師に最後の別れを送った。
さらばだ、とウォートは言葉を返してきた。そして、次の瞬間《しゅんかん》には光が弾《はじ》けて、大賢者はその姿を消した。
「厄介《やっかい》なこと」
老魔術師の消えた後を見送って、カーラは静かにつぶやいた。額冠《サークレット》が怪《あや》しげな光を放っていた。
「わたしも失礼するとしましょう。わたしの役目は永遠に終わらぬ。このロードスがあるかぎり」
そして、カーラも瞬間移動の呪文《じゅもん》を唱えて、いずこへともなく去っていった。
最後に、ドワーフだけが残った。
「この年になって、居候《いそうろう》の身分になろうとはな」
フレーベは、ニースの手を静かに握《にぎ》った。
「ドワーフの長《おさ》は、戦士だ。ドワーフの民の血が流れぬために、戦う義務を負うておる。しかし、わしの力など及《およ》ばん相手かもしれぬのだろう」
「魔神《ま じん》でさえわたしたちの手には余っておりました。ですが、わたしたちは勝ったではありませんか」
残された力を精一杯《せいいっぱい》こめて、ニースはフレーベの手を握りかえした。
「カーラの言葉ではないが、まったく厄介《やっかい》なことだ。しかも、今度はベルドもファーンも、それにおまえさんまでおらん」
「代わりに、新たな勇者が立ち上がりましょう。わたしは、ロードス島の末来を憂《うれ》いてはおりません。いかなる困難、いかなる災厄《さいやく》が訪れようと、ロードスの民はかならず勝利します。わたしは、そのことを確信しているのです」
ニースはすべての力を使い果たしたかのように、ゆっくりと息を吐《は》くと、フレーベに支えられ、ふたたび背中をベッドに戻《もど》した。
それから、ゆっくりと瞼《まぶた》を閉じた。
これが、六|英雄《えいゆう》のひとりと讃《たた》えられた偉大《い だい》な女性の最後の言葉となった。
後にスレインは、ドワーフの英雄王よりこの言葉を伝えられた。
スレインたちが礼拝所に戻ったときにはすでにニースは深い眠《ねむ》りについており、呼べども答えず、ついにその眠りから目覚めることがなかったからだ。
スレインには義母と同じ確信を抱《いだ》くことは、とうていできなかった。マーファ大司祭の言葉の意味することは分かる。しかし、戦わねばならないのは自分たちなのだ。
しかも、ロードス島創造の女神マーファの生まれ変わりとまで称せられた偉大な司祭はこの世を去ったのだ。ロードスを守護する力がすべて失われた。そんな凶兆《きょうちょう》のように、スレインには感じられてしかたなかった。
そして、スレインの不安は一年の後に現実のものとなるのである。
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第T章 邪悪《じゃあく》の胎動《たいどう》
1
大きなあくびの声が、背後から聞こえてきた。
あまりのことに、怒《いか》りより驚《おどろ》きを感じて、兵士ケディーは同僚《どうりょう》を振《ふ》り返った。ここは国境の砦《とりで》で、しかも、見張り楼《やぐら》の上なのである。
「隊長に見られたら、殴《なぐ》りとばされるところだぞ。それに、至高神は常に我々を見ておられる。それを忘れると、死んでも天界に召《め》されないぞ」
分かっているというように、同僚はうなずいた。しかし、そのとたん、彼の口からは、ふたたびあくびが洩《も》れ、あわてて、手で口を押《お》さえようとする。
もはや、苦笑するしかなかった。
ここはカノンに隣接《りんせつ》するヴァリスの国境の砦。カノンから山越《やまご 》えで続いている街道を警戒《けいかい》するために設けられている。砦には十人ばかりの聖騎士《せいき し 》と、百名を超《こ》える兵士が派遣《は けん》されている。マーモ軍の侵攻《しんこう》をくいとめるには、決して十分な数とはいえない。だが、近くのアダンの街にはこの数倍の兵が駐留《ちゅうりゅう》している。
馬を飛ばせば、ほんのわずかでアダンの街にたどりつく。援軍《えんぐん》はすぐにやってくるのだ。砦の守備隊は、それまでのあいだ守りとおせばいい。
実際のところ、数年前までは何度となくマーモが攻《せ》めよせてきたものだ。そのほとんどは妖魔《ようま 》たちの襲撃《しゅうげき》であり、砦の守備隊だけで簡単に撃退《げきたい》することができた。しかし、マーモ暗黒騎士団の精鋭《せいえい》に襲《おそ》われ、砦が陥落《かんらく》寸前まで追いこまれたこともある。
そのときは、アダンに援軍を頼《たの》み、かろうじて敵を押し返した。いや、援軍がやってくるまでに、敵の方が退いたというのが正確だろう。まるで、大きな戦《いくさ》になるのを避《さ》けるような、マーモ軍の動きだった。
それどころか、ここ数年というものはマーモ軍の姿がまったく見られなくなった。戦が終わったかのような錯覚《さっかく》すら覚える毎日が続いていた。ヴァリスの重臣たちの中には、マーモにはもはや侵攻の意図がないとさえ言いきる者がいる。
国王エトは、カノン解放とマーモ|打倒《だ とう》の聖戦を近々はじめると宣言しているが、いまだ具体的な時期は示されていない。自国さえ安定すれば……、との機運が、ヴァリスの民のあいだに流れているためかもしれない。それに、エト国王は神官王。至高神の法による厳しいけれども公平な施政《し せい》で、人々からの信頼《しんらい》は勝ち得ているものの、戦《いくさ》のおりの信頼感は先王ファーンとは比べるべくもない。
アダンの街を奪還《だっかん》してから十年。マーモ征服《せいふく》下の荒廃《こうはい》からもようやく立ち直り、街の人々も至高神の恵《めぐ》みを取り戻《もど》せたとの実感を覚えている。
ロードスを冒《おか》している病が完治したわけではなく、ただの小康状態にあることは誰もが承知している。しかし、悪化の様子がない以上は、あえて苦い薬湯を飲みたくないというのが人々の偽《いつわ》らざる心境であろう。
国境の守備隊のあいだでも、同じような気の緩《ゆる》みは広がっていた。
ファリスの熱心な信者であるケディーにしてみれば、同僚《どうりょう》たちの怠惰《たいだ 》な雰囲気《ふんい き 》には、心中穏《おだ》やかならざるものがある。しかし、同僚を叱責《しっせき》する資格は自分にはない。それは聖騎士たちの仕事だ。自分はただ、自らの使命を果たせばよい。
ケディーは自らの任務を思いだしたように、街道へ注意を戻《もど》した。
豊かに緑を茂《しげ》らせた街路樹が左右に並《なら》ぶ美しい街道だった。街道は大地の起伏《き ふく》に合わせ、わずかにうねりながら、前方の山地へと続いている。初夏の若々しい緑に萌《も》える山々が、澄《す》みわたった青空を背景にそびえている。あの山中の峠《とうげ》にはマーモ軍の砦《とりで》があり、そこからさらに数日でカノンの街に出る。カノンさえ落とせば、マーモ軍はロードス本島における足掛《あしがか》りを失い、おそらくマーモ島へと引き揚《あ》げていくだろう。一日も早く、聖戦がはじまればよい。ケディーはそう願っている。
そのとき、ケディーは気がついた。街道の遠くに黒い糸を引いたような隊列が姿を現わしたことに。見間違《み ま ちが》いかと我が目を疑ったが、隊列はまっすぐに砦へと近づいてくる。かなりの数の軍勢だ。
「マーモの騎士団《き し だん》だ!」
顔をこわばらせながら、ケディーは同僚に叫んだ。
「いかにも、マーモの騎士団よ」
返ってきたのは同僚の声ではなかった。共通語だったが、わずかななまりが感じられた。
驚《おどろ》いて、ケディーは振《ふ》り返った。腰《こし》の剣に手が伸《の》びていたのは、厳しい訓練の賜物《たまもの》である。しかし、すでに後ろを取られていては、間に合うはずもない。振り返ったとたん、胸に細剣《レイピア》が突《つ》きたてられた。
呻《うめ》き声とともに、鮮血《せんけつ》が口からあふれでた。ケディーは生温かい液体をむりやり飲みこみ、胃に流しこんだ。
「敵襲《てきしゅう》だぞーっ!」ケディーは、思いきり絶叫した。最後の力を使いはたし、意識が薄れていく。その中で、ケディーは自分を殺した相手の姿を目に焼きつけようとした。
女だった。浅黒い肌《はだ》をした女。人間の女ではない。
「ダークエルフ……」
そうつぶやいて、ケディーは闇《やみ》に落ちていった。自分が天界へと召《め》されることを至高神に祈《いの》りながら……
男が発した最後の叫《さけ》びで、砦中《とりでじゅう》が慌《あわ》ただしくなっていくのを、ピロテースはいまいましい思いで見つめていた。乱れた金髪《きんぱつ》を指でかきあげながら、小さく鼻を鳴らした。
最初の見張りを仕留めたまではよかったが、ふたり目でしくじった。たかが兵卒とみくびったのかもしれない。心臓を貫《つらぬ》かれてなお、叫び声をあげられるなど、常識では考えられないことだった。
「定命の者のくせに、よい根性だったこと」
ピロテースは金色に輝《かがや》く瞳《ひとみ》をヴァリス兵に向けながら、レイピアを鞘《さや》に戻《もど》した。発見された以上は、一刻も早くこの場から脱出《だっしゅつ》して、本隊に合流しなければならない。
奇襲《きしゅう》が失敗したことを、黒衣の将軍に告げるためだ。
アダンからの増援《ぞうえん》がくることは避《さ》けられないだろうが、黒衣の将軍は気にもなさるまい。
ピロテースは、精霊語《せいれいご 》の呪文《じゅもん》をつぶやいた。
「見えざる小さき精霊よ。汝《なんじ》が姿を我が姿とせよ」
たちまち、彼女の姿がその場から消えた。もっとも、自分の目には姿が映るのだから、確かめようはないのだが。
呪文が破れないよう、ピロテースは慎重《しんちょう》に動いた。腰《こし》の物に気をつかいながら、見張り楼《やぐら》の上から、地面に飛びおりる。精神の集中が破れると、呪文は簡単に解けてしまうからだ。
縦に大きく開いた服のはざまで、エルフにしては豊かな胸が躍動的《やくどうてき》に動いた。
「アダンから兵が出てくるのは、かえって好都合」ピロテースは心の中でつぶやいた。
「砦を落とせば、次はアダンの街。遅《おそ》いか早いかの違《ちが》いだけ」
ピロテースは、マーモ軍の勝利を信じて疑っていない。黒衣の将軍、アシュラムが指揮をするかぎりは。
そして、その日の終わりには彼女は自分の考えが正しかったことを知ることになる。
アダンの街から帰らずの森≠隔《へだ》てた場所でも、戦の音が轟《とどろ》きわたっていた。無論、アダンのそれが、ここまで届こうはずがない。
ここでもまた別の戦が起こっていたのだ。
アラニアの王都アランとアラニア第二の都市ノービスを東西に結ぶ街道に沿って、ラスター公爵《こうしゃく》の軍とアモスン伯爵《はくしゃく》の軍が展開していた。すでに、先陣《せんじん》が剣を交えていて、互《たが》いの主力が開かれた戦端《せんたん》を目指し、殺到《さっとう》している。
激《はげ》しい戦いだった。だが、このような戦いは先王カドモス四世が暗殺されて以来、数限りなく繰り返されてきた。両軍とも繰り出す軍勢は、総力に近い。だが、全軍がまともにぶつかりあうことはまずなかった。あっても、数刻も切りむすぶとどちらからともなく、退却《たいきゃく》の命令がくだり、戦はそこで打ち切られる。追撃《ついげき》が行なわれることもなかった。
今回も同じだ、と誰《だれ》もが思っていたに違《ちが》いない。ただひとり、アランの都でアラニア国王を僭称《せんしょう》するラスターを除いて。
ラスター公爵《こうしゃく》は、配下の|騎士《きし》たちの無気力な戦いぶりにも、いらだつそぶりさえ見せなかった。いつにないことだった。むしろ、騎士たちが存分の働きをしているかのように、満足そうに顔をほころばせている。
そんな主君の表情に気がついた側近のひとりが、怪訝《け げん》な表情でラスターを盗《ぬす》み見ている。
いつもの彼ならば、アラニア王に向かって無礼であろうと、叱責《しっせき》するところだった。しかし、今日ばかりは、そんな些細《さ さい》なことなど気にもならなかった。
笑いを噛《か》み殺すことができず、ラスターはついに声をあげて笑ってしまっていた。
「いかがなされました国王陛下」
先刻の側近が、薄気味《うすき み 》悪そうに尋《たず》ねてくる。
「いや、敵の動きよ。帰らずの森が、いまだ近寄りがたいと見えて、街道の南にはまるで兵を出しておらぬわ」
側近は相槌《あいづち》を打っておくことにした。しかし、内心ではそれは我が軍も同じではないのか、との思いにかられていた。
帰らずの森は、古代のエルフの呪《のろ》いによって閉ざされていた。その呪いが、いかなる理由によるものか、五年前に突然《とつぜん》、解かれたのだ。人々は喜ぶよりも、むしろ幻覚《げんかく》にでも襲《おそ》われたような気分になった。ロードス島最古の王国であるアラニアの建国よりずっと以前から、この魔《ま》の森は禁断の領域であった。森に入った者は、いかなる者も帰ってはこなかった。
それゆえに、帰らずの森≠ニ呼ばれたのだ。騎士や兵士たちにしてみれば、子供の頃《ころ》からその恐ろしさを繰り返し聞かされてきた。森への恐れは、大人になっても心の奥底《おくそこ》に染みついていて、拭《ぬぐ》いさることができないのだ。
それゆえ、森に近い街道の南側はまったく戦場とはならず、北側の平原が撃剣《げきけん》の場となっていた。これもまた、いつものことだ。それを今日にかぎって笑いとばすというのは、どう考えてもおかしい。
しかし、側近はラスターの気性をよく知っていた。だからこそ、この地位に留まっていられるのである。一度でも人を欺《あざむ》いた者は、人から欺かれることを極端《きょくたん》に恐《おそ》れる。兄王を暗殺した後のラスターは、まるで猜疑心《さいぎ しん》のかたまりだった。反逆の疑いをかけられ、何人もの貴族や騎士たちが処刑《しょけい》されている。
側近は平静を装《よそお》って、戦場へと注意を向けようとした。
そのとき、突然《とつぜん》、新たな叫《さけ》び声がまき起こった。それも、いま注意をそらしたばかりの森の方からである。あわてて視線を森に戻《もど》す。
「陛下、あれは!」
そこで起こっていることを見て、驚《おどろ》きのあまり、側近は馬から落ちそうになった。重い甲冑《ス ー ツ》を着ているので、馬から落ちたら従卒の助けなしには、戻《もど》ることさえもできない。ともかく、そんな無様《ぶ ざま》な真似《まね》だけは、しなくてすんだ。だが、馬のほうが驚いてしまい、静めることさえできない有様となった。
森の中から、幾百《いくひゃく》、いや幾千もの軍勢が突然、飛びだしてきたのだ。人間とは思えない素速い動きで、敵の本隊を目指して殺到《さっとう》Lていく。
ノービス勢の布陣《ふ じん》は、森に接する南側を手薄《て うす》にしていた。まさか、森を通って数千もの伏兵《ふくへい》が姿を現わすとは考えてもいなかったのだろう。近衛《こ の え》の騎士たちは、抜剣《ばっけん》さえしていなかった。
自分だって考えてはいなかった。側近は馬を静めようとやっきになっていた。だが、あいかわらず馬がいうことを聞かない。
「日頃《ひ ごろ》の訓練が足らんから、そうなるのだ」
ラスターからかけられたのは、激《はげ》しい罵声《ば せい》でも、冷たい叱責《しっせき》の言葉でもなく、楽しげな笑い声だった。
かえって、背筋が凍《こお》るような不気味さに側近は襲《おそ》われた。
「落ち着いている場合ではございますまい。あれだけの軍勢、我が近衛隊でも防ぎきれません。すぐに主力を戻して態勢を立て直しませんと」
「それには及《およ》ばぬ」
ラスターはもはや自らの笑いを隠《かく》そうともしなかった。
「あれは味方だ」
「味方、ですか?」
側近はラスターの言葉の意味すら理解できなかったに違いない。聡明《そうめい》でも利発でもない男だった。ただ従順で、そして愚鈍《ぐ どん》な男なのだ。だからこそ、今までそばに仕えさせてきた。
「分からないのか」ラスターは冷笑した。
「無理もない。あれは、マーモの妖魔《ようま 》兵団だ。先日、わしはマーモの使者と取り引きをしたのだ。アラニアはヴァリス、フレイムが呼びかける連合には応じない。代償《だいしょう》はアモスン伯爵《はくしゃく》の首とフレイム一国。奴《やつ》さえ死ねば、アラニアは名実ともに我が支配するところとなろう。北の賢者《けんじゃ》のいないザクソンの反乱軍など、いつでもひねりつぶせる。すでにその手も打ってある」
「わたくしには何も教えては……」
側近は不満を言おうとしたらしいが、どうやら途中《とちゅう》で恐《おそ》れに変わった様子で、最後まで口にすることができなかった。
ラスターは、それが小気味よいと思った。人を背かせぬためには、恐怖《きょうふ》をもってするのが一番なのだ。
「ザクソンヘ派遣《は けん》した将軍たちには話してある。が、ここに連れてきた者には、誰《だれ》ひとり話してはおらぬ。話せば戦い方がいつもと変わる。敵に知られるやもしれん」
「ごもっともでございます」
側近は頭を深くさげて礼をした。ラスターの計略に感服したというよりも、その視線から逃《のが》れたいと思ったのかもしれない。
「今こそ、この事実を全軍に知らしめるとき。すでに敵の本隊は総崩《そうくず》れとなっておる。おそらく、アモスンめが討ち取られたためであろう。このままノービスまで駆《か》けて、敵の息の根を止めるぞ」
かしこまりました、と側近は叫《さけ》ぶと、自ら馬首を巡《めぐ》らせて、前線へと駆けていった。
「十五年近くも争ってきたのが、まるで嘘《うそ》のようだ」
側近が駆けていくのを見とどけながら、ラスターは誰《だれ》に語るでもなく、そうつぶやいた。
「わしとしたことが、なぜ、もっと早く手を打たなかったのだろう」
理由は分かっている。マーモの人間を信じる気になれなかったからだ。気が変わったのは、マーモの指導者のひとり、黒の導師なる人物が自ら面会を求めてきたからだ。
黒の導師は、マーモの苦境を説明し、同盟の|要請《ようせい》を行なってきた。アラニアの内乱|鎮圧《ちんあつ》のためには兵も出そう。マーモ軍、勝利の後にはフレイム王国を譲《ゆず》ろうとの条件でだ。
アラニアが統一され、国力を回復すれぱ、間違《ま ちが》いなくロードス島一の大国である。アラニアが反マーモの包囲|網《もう》に参加すれば、マーモの運命は風前の灯《ともしび》である。マーモ帝国はそれをなによりも恐《おそ》れたに違いない。
バグナードの申し出は不当な条件ではなく、妥当《だ とう》な取り引きである。だからこそ、ラスターはこれに応じるつもりになった。
それに、フレイム王カシューの動きが気に入らない。
フレイム王国がザクソンの反乱軍と深い関わりにあるのは、赤子でも知っている。先のザクソンの指導者である北の賢者《けんじゃ》がフレイムの宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》になった事実が、それを端的《たんてき》に物語っていた。ライデンを併合《へいごう》し、大国となったフレイム王国は、ラスターにとってマーモ帝国以上に恐るべき敵であった。
「これは仕掛《しか》けられた戦《いくさ》よ」
ラスターは、ふたたび口に出してつぶやいた。
ロードスが動く。その中心に自分がいる。このふたつの事実に、ラスターはいたく満足していた。それでこそ、ロードス島最古の王国アラニアの国王である自分にふさわしい立場である。
ノービス勢が崩《くず》れていくさまを見つめながら、ラスターの顔から笑いが消えることはついになかった。
まもなく、ザクソンの村もビルニの街も落ちよう。ここからでは、ザクソンは遠い。その様子は見えない、音も聞こえない。それが残念でならない。しかし、アラニア北部での戦の勝利も、ラスターは疑ってはいなかった。時代の機運は自分に向きはじめている。この流れを変えることは誰にもできないだろう。
人間には、いやおそらく神にさえ!
「北の門を死守しろ。女子供はターバに逃せ!」
セシル・ファーレンスは、右手に| 剣 《ブロードソード》、左手に杖《スタッフ》を持ちながら、あらんかぎりの声で叫《さけ》んだ。それに応じる声があちらこちらから返ってきた。戦意は失っていないようだ。
皆、ザクソンの若者だ。彼らは剣と|鎖かたびら《チェインメイル》で武装《ぶ そう》していて、襲撃《しゅうげき》してきたアランの兵士たちと五分以上の戦いをつづけている。
彼らは幼い頃《ころ》から剣の鍛練《たんれん》を受けていた。専門の戦士たちではないが、その技量はなみの兵士の比ではなかろう。
しかし、|騎士《きし》となれば話は違《ちが》う。それに、敵には暗黒神の神官戦士がまざっていた。間違《ま ちが》いなくマーモの軍勢である。しかも、アラニアが鉄網《てつもう》騎士団以上に誇《ほこ》っている最強の戦闘団《せんとうだん》である遊撃隊《ゆうげきたい》と魔法《ま ほう》戦士隊も加わっていた。
特に魔法戦士たちは恐《おそ》るべき相手だ。古代語魔法の力を戦闘に使うことに、彼らは熟達している。自らに対しては剣に魔力を与え、身体は楯《たて》の呪文《じゅもん》で守る。敵に対しては眠《ねむ》りの雲で眠らせ、魔力の網《あみ》の呪文で捕《と》らえ、光の矢で撃《う》つ。
そして、剣の鍛練も戦士と同様つんでいるのだ。
アラニアはもともと魔術の盛《さか》んな王国である。かつては賢者《けんじゃ》の学院があり、セシルもラーズ導師に師事し、学院で学んだことがあった。
学院を追放されマーモヘと逃《のが》れたバグナードの手により、学院は崩壊《ほうかい》し、導師たちの多くは殺された。それでも、魔術の伝統はアラニアには強く残った。魔術師《ソーサラー》たちの私塾《しじゅく》があちらこちらで開かれ、そこにアラニア貴族の子弟も通っていた。
セシルももともとはアラニア貴族の出身である。第五子だったので父の知人の魔術師に養子に出されたのだが、そうでなければ騎士身分を与えられ独立していたであろう。
スレイン導師などは、そちらがセシルにはふさわしい生き方で、魔術師になったのは誤りだったのだ、と冗談《じょうだん》とも本気ともつかぬ顔でよく話していたものだ。
その通りかもしれない。セシルは自分の魔術師としての才能には、ほとんど限界を感じていた。すでに導師級の魔術を修めている。しかし、それでは足りないのだ。それでは、ザクソンの村を自分に託《たく》して去っていった、北の賢者や自由騎士パーンには及《およ》びもしないのだ。
セシルは燃え落ちようとしているザクソンの村を見つめながら、絶望的な思いにかられていた。だが、村人たちを襲《おそ》い、家や畑を焼く、そんな非道を平然と働くアラニア騎士になっていたほうが正しい選択だったとは思いたくない。
「老人や女、子供はほとんど逃がしました」
額から血を流しながら、猟師《りょうし》の息子クロードが、荒《あら》い息で報告にやってきた。
「よくやってくれた」
セシルはクロードにうなずきかけた。
「仲間たちは?」
「もちろん、勇敢《ゆうかん》に戦っています。不意をつかれたりしなければ、こんなことにはならなかったろうに」
クロードは涙《なみだ》をこぼしながら、力任せに地面を靴《くつ》で蹴《け》る。
「今はそれを悔《くや》んでいるときじゃない。戦いながら、おまえたちも後退するんだ」
クロードはセシルの正気を疑うように、目を丸くした。
「まだ、戦えます。村をこんなにされて黙《だま》っていては、ザクソン自警団の名がすたる。スレインさんやパーンさんに申し訳がたたない。それなら、いっそ死んだほうがましだ」
「おまえたちに死なれては、オレのほうが申し訳がたたないんだ。悔しい気持ちは、オレだって同じだ。だが、今は退け。ターバにこもって、もう一度やりなおしだ。くわしいことは分からないが、港街《みなとまち》ビルニも陥落《かんらく》したらしい。アラニア海軍とマーモの私掠《しりゃく》船団に奇襲《きしゅう》をかけられてな。ラスターめ、ここ数年ばかりおとなしくしていると思っていたら、マーモとひそかに同盟を結んでいたんだ」
セシルは怒《いか》りに手を震《ふる》わせながら、剣を鞘《さや》に収めた。
白色のローブは、血と煤《すす》で汚《よご》れていて、もはやもとの色さえ見分けがつかないほどだった。しかし、こんなときでも白金《プラチナ》に近い金髪《きんぱつ》だけは、すこしも乱れることがない。
まさか、ラスターがマーモと手を握《にぎ》るとは思いもしなかった。カノン王家と血縁《けつえん》のあるアラニア王家の者が下す決断とは思えなかった。義心などではない。マーモ軍が撤退《てったい》した後は、カノン王国を堂々と統合できるからだ。もっとも、噂《うわさ》で伝わってくるレオナー帰還王《き かんおう》とカノン自由軍の存在が、ラスターの泱意をうながしたのかもしれない。
それに、フレイム王がアモスン伯爵《はくしゃく》に脅《おど》しにちかい圧力をかけていることも承知していただろう。おかげで、ザクソン自治団とノービスのアモスン伯爵のあいだには暗黙《あんもく》のうちに不可侵《ふ か しん》の約束《やくそく》ができあがっており、セシルたちは南のラスターにのみ気を配っていればよかった。
時間こそかかったものの、自分たちはラスター公爵を確実に追いつめていたのだ。おそらく、追いつめすぎたのだろう。崖《がけ》の縁《ふち》に立たされたことを知った奴《やつ》は、捨身の反撃《はんげき》に出るのだ。
悔しいが、今のところラスターの思惑《おもわく》は功を奏している。
セシルにしても、いきなり大軍をもって攻《せ》められるとは思ってもいなかった。
マーモとの同盟の成立により、ラスターは南の守りに兵力を割《さ》く必要がなくなったのだ。それどころか、マーモから援軍《えんぐん》まで連れてきている。
|英雄《えいゆう》戦争以来、十余年の歳月は、ヴァリスやフレイムを復興させ、ザクソン自治団やハイランド王国に力をつけさせた。だが、マーモにしてみても、条件は同じだった。いや、繁殖力《はんしょくりょく》の旺盛《おうせい》な妖魔《ようま 》どもを従えている分、兵力の充実《じゅうじつ》は向こうの方に分があっただろう。
ふたたび大きな戦が迫《せま》っているのはセシルも感じていた。いつ、そして、いずれが最初に動くか、それだけが問題だったのだ。最初に動いたのは、マーモであった。アラニアのラスター公という卑劣《ひ れつ》な男を同盟者に従えて、英雄戦争の再戦を今こそ開始したのだ。
「初戦はこちらの負けだ」セシルは燃えあがるザクソンの村を見つめながら、大声で叫《さけ》んだ。
「しかし、最後に勝つのはオレたちだ。それを忘れるな」
燃えさかる炎《ほのお》は、セシルの叫びを飲みこんで、灰に変えていった。おそらく、敵兵は誰《だれ》も聞いてはいないだろう。もし、聞いていたとしても、気にも止めなかったに違《ちが》いない。
「その通りですよ」
クロードは、天空の神々よ照覧あれとばかり、剣を空に向けてかざした。
「燃えた家は建てなおせばいい。畑は耕せばいい。オレたちはまたザクソンに戻《もど》る。ラスターはこの手で討つ」
「その意気だ」セシルは頼《たの》もしくクロードを見た。
村の若者たちが戦士としての自覚を持っていることが強く感じられた。
ザクソンの村は自分たちの手で守ろうと、彼ら若者たちは考えている。この考えが村人たちに根差すまで、ザクソンの村はいくつもの試練を乗り越《こ》えなければならなかった。自治制度を放棄《ほうき 》しようと談合したのも、一回や二回ではない。ある事件のときには、スレインやパーンをラスター公爵《こうしゃく》に差し出そうとした者さえいた。
しかし、今やひとりひとりが自由|騎士《きし》の精神を持っている。パーンが去ってからも、心の奥《おく》に彼の姿を刻みつけている。その姿を思い浮《う》かべることができるうちは、彼らは決してあきらめないし、戦いをやめたりもしないだろう。
「自警団の仲間もあらかた村を引き揚《あ》げました。さあ、相談役も御一緒《ご いっしょ》に」
セシルは無言でうなずくと、燃え落ちようとしているザクソンの村に背を向けた。そして、振《ふ》り返ることもなく、全力で駆《か》けはじめた。
ターバヘと至る祝福の街道≠。
枯《か》れ木のようにしなびた指が滑《なめ》らかに磨《みが》かれた物見の水晶球《すいしょうきゅう》≠フ表面をなぞっている。
上位古代語《ハイ・エンシェント》の詠唱《えいしょう》が薄暗《うすぐら》い室内に、流れつづけている。
ここは暗黒の島マーモ。その帝都《ていと 》ダークタウンの王城の一室。
水晶球は、各地の戦の様子を映《うつ》しだしていた。アダンの街、アラニアの街道、そして北のザクソンの村。
戦はどんどんと凄惨《せいさん》さを増していくようであった。人や妖魔《ようま 》が血を噴《ふ》きだしながら、次々と倒《たお》れていく。破壊《は かい》と殺戮《さつりく》が、戦場を覆《おお》いつくしている。
そんな戦の様子を冷静に見つめる目があった。
漆黒《しっこく》のローブをまとった老|魔術師《まじゅつし》である。人は黒の導師と彼を呼ぶ。黒の導師<oグナードと。
バグナードは古代語を操ることに、全神経を集中させていた。ともすれば、激痛《げきつう》のために意識が遠くなっていく。常人であれば、間違《ま ちが》いなく気を失っているだろう。我がことながら、よく耐《た》えていると思う。
しかし、それも限界があろう。時の流れが自分を蝕《むしば》んでいるからだ。すでに、長時間の|魔法《ま ほう》の|儀式《ぎ しき》には、耐えられなくなっている。あと、十年もたたずして、自分は魔法の使えぬ無力で哀《あわ》れな老人となろう。
それだけは耐えられなかった。
自分に、この呪《のろ》いをかけた老魔術師の顔が浮《う》かんでくる。
ラルカス。二百年もの歴史を誇《ほこ》った賢者《けんじゃ》の学院の最後の学長でありバグナードの導師でもある。あらゆる手段を試みたがバグナードはラルカスの呪いを打ち破ることはできなかった。
「生あるかぎり、我が制約は続く。汝《なんじ》が呪文《じゅもん》を唱えること、叶《かな》うまい」
ラルカス導師の言葉が思いだされる。
「いかにも制約は続いておる。それは認めよう、ラルカス」バグナードはくぐもった声でつぶやいた。
「しかし、わたしは負けたわけではないぞ。また呪文を唱えることもできる。これからも……いや永遠にだ」
水晶球《すいしょうきゅう》が、また別の映像を映しだす。少女の姿だった。黒髪《くろかみ》の美しい清楚《せいそ 》な雰囲気《ふんい き 》をたたえた少女である。額に三日月形をした飾《かざ》り物をつけている。
あれは、六|英雄《えいゆう》のひとりがつけていた、飾り物であったか。
「もうすぐだ。もうすぐ、復活させてやるぞ」
バグナードは、かすかに笑う。かすれた息が喉《のど》を鳴らしたような笑いだった。
と、映像はもう一度変わり、巨大《きょだい》な女神像を映しだした。いずこかの空洞《くうどう》で地面に下半身を埋《う》め、左に傾《かたむ》いている。表面は石と見えたが、人間が作ったようには見えなかった。
かくも巨大な神像を作ることは人間にはできない。いや、ドワーフにも作れないに違《ちが》いない。
では、誰《だれ》が。答は、おのずとひとつであろう。
女神像は苦悶《く もん》の表情を浮《う》かべている。邪悪《じゃあく》な気が、全体から発せられていた。あらゆるものを歪《ゆが》めずにはおかない混沌《こんとん》の力がみなぎっている。
「もうすぐだ、カーディス。負の生命を司《つかさど》る破壊《は かい》の女神よ……」
2
ロードスという名の島がある。アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。
大陸の住人の中には、呪われた島≠ニ呼ぶ者もいる。たしかに、この島には呪われたとしか思えぬ場所が随所《ずいしょ》にある。
また、大きな戦も繰《く》り返されている。四十数年前の魔神《ま じん》戦争や十五年前に戦われた|英雄《えいゆう》戦争。そして、英雄戦争以来、連綿として続くロードス島各地の争乱など。
しかし、ロードスに住む人々ならば、誰《だれ》もが理解しているだろう。風と炎《ほのお》の砂漠《さ ばく》、火竜山、それから帰らずの森など混沌《こんとん》の領域《りょういき》が次々と姿を消していることを。戦争の終わりが近づいていることを。
ただ、混沌の源ともいうべき暗黒の島マーモはいまだ健在であり、戦争を終わらせるためにはもうひとつ大きな戦いを経ねばならないことも理解しているに違《ちが》いない。
「次の戦の勝者がロードスを支配する者になるだろう」
こんな噂《うわさ》が風のように流れ、ロードスに住む人々の心を小枝のように揺《ゆ》らしていった。そして、開戦の知らせが噂を追いかけるように流れるには、たいした時間を必要としなかったのである。後に邪神《じゃしん》戦争と呼ばれる戦の始まりの……
フレイムの王都、ブレードの街。建国王カシューの居城であるアーク・ロードは、砂の河の流れに取り残された中洲《なかす 》のうえに建てられている。
もっとも、砂の河は近年、涸《か》れることがなくなっていた。乾季《かんき 》には小川ぐらいの流れに細るが、雨季にはアーク・ロードの城壁《じょうへき》を洗うぐらいの水量となる。砂の河の昔《むかし》の姿を知る者は、今の有様が嘘《うそ》のように思えるという。
しかし、まだ生まれてから十七年しかたたぬ若者にしてみれば、今の砂の河の姿にこそ、馴《な》染《じ》みがあり、親しみも感じる。もっとも、アーク・ロードの中庭が水浸《みずびた》しになって、その後始末にかりだされるときを除けばだが。
若者はフレイムの紋章《もんしょう》が描《えが》かれた甲冑《ス ー ツ》を着て、腰に|長 剣《バスタードソード》を帯びていた。一見すれば、砂漠の鷹騎士団《たかき し だん》の一員のように見える。しかし、騎士団の紋章である鷹の羽根の印が、右肩《みぎかた》に描かれていない。隊章もない。また、自らの家系を示す紋章もない。また、「|騎士の楯《ナイトシールド》」も与えられていないし、馬にも乗っていない。見る者が見れば、この若者が騎士見習いであることが分かるはずだ。
若者の名前は、スパークという。
砂の河にかかる長い橋を渡《わた》り、スパークはアーク・ロード城の巨大《きょだい》な城門をくぐった。
中庭は王城にしては殺風景だった。ここ数年というもの、大水のたびに水に浸《ひた》り、庭の手入れにも力が入らなくなっているためだ。フレイム建国王カシューは、すでにブレード郊外《こうがい》の丘の上に、新しい王城を建てる決定を下していて、今はその工事がゆっくりと進められているところだ。
城の普請《ふ しん》などにも豊富な知識を持つカシュー王は、現場へと頻繁《ひんぱん》に出かけている。もっとも、今日は他国より客人があり、歓迎《かんげい》の宴《うたげ》が催《もよお》されるというのだから、アーク・ロードで執務《しつむ 》にあたっているに違《ちが》いない。
スパークが登城してきたのも、実は宴に招待されていたからだ。しかし、なぜ、騎士見習いごときが宴に招かれるのだろう。カシュー王の真意がつかめない。それとも、大臣のルゼナン伯爵《はくしゃく》が独断で自分を招いてくれたのだろうか。
もしも、そうならスパークはすぐに退席するつもりでいる。
ルゼナンは炎《ほのお》の部族出身の貴族だった。大臣の地位にあるのだから、部族内では最高位の人間だし、王国内でも最上級に属する貴族だ。
しかし、スパークに対しては、あからさまにへりくだった態度をみせる。スパークが炎の部族の前族長ナルディアの従弟《い と こ》にあたり、族長の家系で生き残った唯一《ゆいいつ》の男子であるからだ。あの頑固《がんこ 》な老人には、自分が炎の部族の正統な後継者《こうけいしゃ》であるという事実しか頭にないのだろう。
たしかにその通りである。ただ、今の身分が騎士見習いであるということも間違《ま ちが》いのない事実なのだ。
大臣が騎士見習いに頭を下げていては、王国の階級制度が根底からくつがえされる。カシューはルゼナン老には何を言っても無駄《むだ》と黙殺《もくさつ》しているが、おかげでスパークの立場が、複雑なものになっている。フレイム王国にとっては早く忘れてしまいたいかつての部族同士の紛争《ふんそう》を、スパークひとりがそうさせまいとがんばっているようなものなのだ。
カシュー王は、炎と風のふたつの部族間で起こるもめごとは、法に従って、できるかぎり平等に解決しているので、炎の部族の民からの評判は悪くない。このことに関しては、むしろ風の部族の者たちから悪評が出ているぐらいだ。カシュー王は自らを逆境に追いこむことを気にしない人柄《ひとがら》なので、その悪評を押《お》さえようともしない。
もちろん、賢明《けんめい》な者ならば理解しているはずだ。王国における最大の部族は、今では属領となっているライデンの民であることを。戦乱を逃《のが》れるためロードス各地から流れてきた難民たちも、かつては火竜の狩猟場《しゅりょうば》と呼ばれた肥沃《ひ よく》な平原に大きな街を作っている。緑地の増えたオアシスの街ヘヴンには、炎の部族が多数住んでいる。
ローラン、マーニーという南のふたつの都市も、都市国家時代の領主に与えられていた太守《たいしゅ》職を剥奪《はくだつ》し、中央から派遣《は けん》した太守と交替《こうたい》させている。この改革には、いろいろと反目もあったが、街の住人が新しい体制を歓迎してくれて、結局は王国への帰属を強める結果となった。
フレイムの建国を支えた風の部族たちは、王国の全人口の三分の一にも満たなくなっているのだ。王国の支配者階級の中にも、|砂漠《さ ばく》の民以外の者が増えてきている。王国の財政を任されているブランド伯爵は末席ながらもライデン評議会の議員だった人物だし、大きく三隊に改編された砂漠の鷹騎士団《たかき し だん》の将軍も、ふたりまでが風の部族以外から選ばれている。
ひとりはローラン侯爵《こうしゃく》ルーイェで、武人としての才能をカシューに乞《こ》われ、ローラン太守の地位の代わりに就任した。カシューが見込んだだけのことはあり、砂漠の民が不得意な市街戦や攻城戦《こうじょうせん》に新しい戦法をもたらした。外交|交渉《こうしょう》にも長《た》けており、ノービス伯《はく》にフレイムヘの協力を約束《やくそく》させたのは、彼の力によるものだ。
もうひとりは、ライデン傭兵団《ようへいだん》の団長ゲナール男爵《だんしゃく》。傭兵出身にもかかわらず伝統的な|騎士《きし》の規範《き はん》や戦術に極めて深い知識を持っている。大陸|渡来《と らい》の貴族との噂《うわさ》があり、本人もそれを否定していない。フレイムが大国となった今では、ゲナール隊の騎士のような模範的《も はんてき》な騎士が欠かすことができなくなっているのだ。
問題なのは、風の部族の長ともいうべきシャダム公爵《こうしゃく》が、昔《むかし》からあいも変わらず傭兵隊をまとめていることだ。騎士団が充実《じゅうじつ》してきた今日では、傭兵隊の重要性は昔ほどではなくなっているのだが、それにもかかわらず、公爵は自らの地位に満足しているようで、宰相《さいしょう》になれとのカシューの再三の説得にも耳を貸すつもりはない。
ようするに、風の部族だとか炎《ほのお》の部族だとか、そんな出身の違《ちが》いを問題にすることは、フレイムにとって、害になりこそすれ、益にはならないということだ。若者たちはそのことを知っている。だが、年寄りたちはそうもいかないのだろう。
砂の河と同じだ、とスパークは思った。老人たちにしてみれば水が涸《か》れていた昔の姿がこの河の真の姿であり、若者にとっては水を湛《たた》えた今の姿がそれなのだ。
自分は老人たちの操り人形ではない。激《はげ》しい憤《いきどお》りを覚えながら、スパークは中庭から城の屋内に入った。十字に分かれた通路をまっすぐに進み、まっさきに謁見《えっけん》の間に向かうことにした。
一階のいちばん奥《おく》に設けられた謁見の間まで、広く長い廊下《ろうか 》をスパークは歩いた。左右に鉾槍《ハルバード》を構えた衛兵《えいへい》たちが並《なら》んでいる。鉄鋲《てつびょう》の打たれた長靴《ながぐつ》が、石の床《ゆか》を叩《たた》いて、ときおり火花を散らす。
スパークは居並《い なら》ぶ衛兵のひとりひとりに対し、形式的に挨拶《あいさつ》しながら進んでいった。うなずくように軽く頭を下げるだけだが、そのたびに長く伸《の》ばした黒髪《くろかみ》が頬《ほお》にかかる。面倒《めんどう》なので切らずにいるのだが、伸ばしているのもときにはうっとうしいものだ。
世の中はすべてこの髪と同じだ、とスパークは誰《だれ》かに文句をいいたい気分になった。
謁見の間にやってくると、スパークは扉《とびら》の衛兵に来訪の目的を告げた。謁見の間の入口に控《ひか》えている衛兵に、用件を申請《しんせい》して、呼びだされる順番を待つのが慣《なら》わしである。
廊下の控え所には男たちが三人ばかり並んで順番を待っていた。ひとりは商人だが、残るふたりは正騎士である。スパークは彼らにうやうやしく礼をしてから、控え所の末席に進もうとした。
ところが、衛兵があわてたように、スパークを呼びとめた。
「すぐにお呼びだしいたします。どうか、そのまま入口でお待ちを」
「順番どおりでいい」スパークは咎《とが》めるように眉《まゆ》をつりあげた。この衛兵も炎の部族の人間なのだろうか。
だが、そのときには扉の向こうで自分の名前が呼びだされはじめていた。
「どういうことだ」スパークは衛兵を睨《にら》みつけた。「おまえの役目だろう。順番を守らないでどうする」
「勘弁《かんべん》してください、スパーク卿《きょう》」衛兵は肩《かた》を竦《すく》めながら、他人には聞こえぬように弁解する。
「あなたが控え所にいるところを、ルゼナン伯《はく》に見つけられたら、叱責《しっせき》どころでは済まないのです」
スパークは暗い気持ちになった。やはり、自分が宴《うたげ》に呼ばれたのは、ルゼナン伯爵《はくしゃく》の手回しだろう。
呼びだされた以上は、やむをえない。控え所の|騎士《きし》たちから送られる突《つ》き刺《さ》さるような視線を背中に感じながら、スパークは視線を下げて、謁見《えっけん》の間の扉《とびら》の前に立った。
呼びだしが終わり、銅鑼《どら》が一回鳴らされる。そして、扉がゆっくりと左右に開かれた。
「おお、スパークか。ずいぶん早いな、宴にはまだ間があるぞ」
朗らかな声は、謁見の間のいちばん奥《おく》からかけられた。カシュー王の声だ。謁見の間には、あまたの文官、武官が並《なら》んでいて、決して静かではなかったのだが、カシュー王の声は本当によく通る。|英雄《えいゆう》の条件のひとつとして、声の大きさが挙《あ》げられることがあるが、カシューはまさしく英雄にふさわしい声量の持ち主である。
顔を伏《ふ》せたまま、スパークは玉座の前まで進みでようとした。赤い絨毯《じゅうたん》が目に飛びこんでくる。自分が謁見を許されるまでは、この絨毯は装飾《そうしょく》として敷《し》かれているのだと思っていた。しかし、今では玉座の前まで導く役目を負っているのではないかと思っている。
頃合《ころあ 》いを見て、スパークは跪《ひざまず》いた。顔を正面にあげ、ふたつ並んだ玉座を見上げようとした。片方はカシュー王自身の玉座であり、もうひとつは先年に娶《めと》った王妃《おうひ 》ナフカ妃《ひ》殿下の御座《ぎょざ 》である。
ナフカ妃はシャダム公爵の末の妹君で、幼い頃より美姫《びき》として評判が高かった。
今は国中の民が、王子《おうじ 》の誕生《たんじょう》を心待ちにしている。カシューは、いまだ剣術《けんじゅつ》試合で無敗を誇《ほこ》っており、フレイム建国の頃と変わらぬ闊達《かったつ》ぶりをみせてはいるが、さすがに若いといえる年齢ではなくなっている。早く世継《よつ》ぎをと望む声が多いのもやむをえないところだ。
ただ、カシュー自身はあまり世襲制《せしゅうせい》にはこだわっていないようで、シャダムをはじめとする風の部族や炎の部族の族長の家系の者、さらにはライデンの評議長、ローラン、マーニーの元領主などにも王位継承権を与えていて、新しい子が成人に達するたびに、また誰かが不慮《ふ りょ》の事故や病気で亡くなるたびに、順位を新たにしている。
スパークも炎の部族の族長なのだから、騎士|叙勲《じょくん》を受け成人と認められれば、王位継承権が与えられるはずだった。それも、かなり高位に位置されると目されている。おそらく三番、悪くても五番ということはないだろうというのが、宮廷雀《きゅうていすずめ》たちの噂《うわさ》である。
もっとも、スパーク自身は王位継承権など欲しくもない。しかし、騎士にはなりたかった。ここ数年、騎士叙勲の任命があるたびに、スパークは期待に胸を膨《ふく》らませてきた。しかし、十五のときも、十六のときも騎士にはなれなかった。先日も騎士叙勲の|儀式《ぎ しき》があったばかりだが、このときもスパークは選ばれなかった。同期の騎士見習いたちは、どんどんと騎士資格を得ているというのにだ。
何が足りないのだろう、とスパークは内心、不満に感じていた。
剣術試合では、常に上位に顔を出す。経験の差が問われる馬上槍試合でさえ上級騎士以外には負けない自信がある。
武術だけではない、学問も積極的に修めている。スレインの私塾《しじゅく》に通い、様々な知識を学んでいる。魔術《まじゅつ》を勉強しないかとの誘《さそ》いもあったほどだが、スパークは魔術師にではなく、あくまで騎士になることが願いだったので、これを丁重に断わった。
彼の才能は他人も認めてくれるし、自分も低くは評価していない。少なくとも、同期の中ではいちばん成績がよかったはずだ。なのに、自分だけが騎士に選ばれない。公平なことで知られるカシューとは思えぬ扱《あつか》いだった。
自分が炎《ほのお》の部族の族長であることが、問題になっているのだろうか。そうは思いたくない。カシュー王はそんなことを気にかける人物ではないはずだ。
正面の玉座に当のカシューは腰《こし》かけているはずだった。スパークはゆっくりと頭をもたげた。
そして、ようやく気付いたのだが、カシューの姿は玉座にはなかった。ナフカ王妃もいない。厳格に規則に従い、玉座を見ずにいたのが失敗だった。
「すまないな、スパーク。わたしは、ここだ」
右から声をかけられて、スパークはあわてて声の方に向きなおった。そして、深く一礼してから、非礼をわびた。
これでは、まるで道化ではないか。スパークをよからぬと思っている者から、あからさまな嘲笑《ちょうしょう》が飛んだ。
「立て、スパーク。おまえの儀礼《ぎ れい》を重んじる心には、いつも感心している。本来ならば、わたしがもっと儀礼を重んじなければならないのだがな」
カシューは笑ってはいなかった。
なぜ、カシューが玉座にいなかったのか、とスパークは疑問に思った。謁見《えっけん》の間では、王が他の者より常に上座にいなければならないのが常識ではないか。
「ちょうどよい、スパーク。おまえに紹介《しょうかい》したい者がいるのだ」
誰《だれ》だろう、といぶかしがりながらスパークは顔をあげた。
カシュー王のそばには、三人の人物が控《ひか》えていた。ひとりは、スパークもよく知っている人物だった。私塾の導師であり、フレイムの宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》でもあるスレイン・スターシーカーである。
もうひとりは戦士だ。かなりの経験をつんでいるようにみえた。自然体なのだが、隙《すき》がまったくうかがえない。変わった形の鎧《よろい》を身につけ、腰に剣を帯びている。胸に描《えが》かれている紋章《もんしょう》は、滅《ほろ》びたはずのカノン王国の紋章だ。カノン王国ゆかりの貴族なのだろうか。
最後のひとりはエルフの女性であった。まるで浜辺に打ち上げられた貝殻《かいがら》のように、滑《なめ》らかな白い肌《はだ》をしている。日の光を浴びたなら、虹色《にじいろ》に輝《かがや》くのではと思えた。草色の服の上から、硬革《ハードレザー》の胸当てをつけている。腰《こし》に下げられているのは美しい装飾《そうしょく》の施《ほどこ》された細剣《レイピア》であった。
スパークを見つめてにっこりと微笑《ほ ほ え》む森の妖精《ようせい》の姿は、噂《うわさ》にたがわない美しさだった。
「はじめまして。フレイムの騎士見習い、スパークにございます」
かしこまって、スパークは戦士たちに名乗る。
戦士は照れたように頭をかいた。エルフ女性の方は、悪戯《いたずら》っぽい笑いを浮《う》かべると、視線をちらりと戦士に走らせる。
「こちらこそ。わたしは、カノン自由軍の騎士隊長パーンです」
戦士は、スパークに合わせるように態度をあらためながら、そう名乗った。
「あたしは、ディードリット」
エルフ女性は笑顔をたやさずに言う。
パーンに、ディードリットだって?
装《よそお》っていた平静さが、とたんに崩《くず》れた。心臓が小鳥のはばたきのように忙《いそが》しく脈を打ちはじめる。まるで、騎士|叙勲《じょくん》の名簿《めいぼ 》が張り出されるときみたいに、スパークの全身が固くなっていた。
「あなたが、自由騎士パーンなのですか? それにハイエルフのディードリット?」
スパークは自分の声が常になく震《ふる》えていることを意識していた。
目の前にいるのは、伝説の勇者たちなのだ。
自由騎士パーンの伝説は十五年前の英雄戦争にはじまる。彼と彼の五人の仲間は、さらわれた王女フィアンナを救出し、ヴァリスの王都ロイドヘと姿を現わしたのだ。そして、マーモに味方していた謎《なぞ》の魔女《ま じょ》の正体を探るべく、ドワーフの廃墟《はいきょ》を抜《ぬ》けて大賢者《だいけんじゃ》の塔《とう》へと赴《おもむ》いた。
その後、ヴァリスの平野で決戦があり、彼らも戦いに参加した。あの激戦《げきせん》をも生きのび、乱れたヴァリス王国の立て直しに、彼らは全力を尽《つ》くした。そして、ルノアナ湖における魔女との戦い。彼らはこの戦いにも勝利する。しかし、ひとりは戦いの中で帰らぬ人となり、ひとりは闇《やみ》の力にみいられ、いずこへともなく去ったと聞く。
その後、残った仲間はそれぞれの道を歩みはじめる。エト司祭はヴァリスに留まり、後にヴァリスの神宮王として即位《そくい 》をする。
自由騎士となったパーンは、ハイエルフのディードリットとともに、ロードス島各地を転戦している。風の部族と炎の部族との数百年にも及《およ》ぶ争いに終止|符《ふ》を打ち、和解させたこと。スレイン師とともにザクソンの独立を助け、強力な自治体制を作りあげたこと。魔竜《まりゅう》シューティングスターを倒《たお》し、竜殺しの勇者となったこと。
ハイランド公国を悩《なや》ませていた炎の巨人《きょじん》を倒したときにも、現国王レドリック、王妃シーリスらとともに、パーンたちの協力があったと伝えられている。神聖王国ヴァリスのアダン奪還《だっかん》戦にも自由騎士パーンは力を貸している。
その後はレオナー帰還王《き かんおう》に協力し、マーモ支配下のカノンの地で戦いつづけていると聞く。この抵抗《ていこう》運動は最初こそ、風の噂《うわさ》にすぎなかったが、最近では確実な情報としてロードス中に知れ渡《わた》っている。
国王カシューもすでに伝説の人物といえるが、なにしろ身近にいるので、普段《ふ だん》はそれほど意識せずにすむ。しかし、パーンはあまりにも遠い存在だった。吟遊詩人《ぎんゆうし じん》たちが歌う彼の武勲詩《ぶ くんし 》が、ロードス島の人々の心をいかに熱くさせていることか。
自分が騎士になるのを選んだのも、自由騎士パーンという偉大《い だい》な勇者に憧《あこが》れたためと言ってもよい。
その自由騎士が自分の目の前にいる。
スパークは興奮を覚えつつ、同時に我が身の卑小《ひしょう》さを恥《は》じた。騎士見習いではなく、できれば騎士隊長、いやせめて正騎士として、自由騎士パーンとは見《まみ》えたかった。二度とこないかもしれない機会なのだから。
スパークは、一度は上げた顔をふたたび床《ゆか》に落とし、ただただかしこまった。とても、この|英雄《えいゆう》を正視できない。自分はあまりにも小さな人物で、彼らはあまりにも偉大すぎた。
これがオレの器なのだ、と騎士見習いでしかない自分に、スパークはなかば絶望していた。
「なにか尋《たず》ねることがあってやってきたのではないのか」
平伏《へいふく》したまま動かなくなったスパークに気を利かしたのか、国王カシューから顔を上げろという声が飛んだ。
酷《こく》な命令だったが、従わない訳にはいかない。スパークは顔をあげ、カシューとパーンのちょうど中間に視線を向けた。これならば、竦《すく》むことなく話ができそうだった。
「はい、陛下にうかがいたいことがあって参りました」
「なんだ、言ってみろ」
「はい、今宵《こ よい》の宴《うたげ》にわたしをお呼びくださったのは、陛下御自身でしょうか?」
カシューはそんなことを尋ねてどうするのだ、との表情をあからさまに浮《う》かベた。スパークは、自分がなんと愚《おろ》かな質問をしたのだろうと後悔《こうかい》した。自分ひとりの個人的な感情だけで、国王の貴重な時間を取ってしまったのだ。
「宴に呼んだのは、間違《ま ちが》いなくオレの意志だ。パーンたちに引き合わせたかったからな。だから、目的は済んだ。私用があるならば、出席せずともかまわんぞ」
カシューの答は、落ち込みかけたスパークの気分を高ぶらせた。宴の席で、自由騎士パーンと存分に話ができるのだ。カシューはそれを約東《やくそく》してくれたのだ。
「いえ、それならば喜んで出席させていただきます」
スパークはいつになく元気な声で答えていた。普段《ふ だん》ならば絶対に出さない声だ。子供だと思われるのが癪《しゃく》だからだ。
「それから、もうひとつ。マーモ討伐《とうばつ》の兵を挙《あ》げていただきたい旨《むね》を陳情《ちんじょう》に……」
それは、たった今、思いついた質問であった。国王に謁見《えっけん》し、愚《おろ》かな質問しかしなかったでは、自由騎士パーンに笑われてしまうと思ったからだ。
「それは、炎《ほのお》の部族の総意か?」
カシュー王は鋭《するど》い声で、そうきりかえしてきた。怒《いか》りのためか、顔がこわばっているように見えた。
「い、いえ。違《ちが》います」
スパークの高揚感《こうようかん》は一瞬《いっしゅん》にしてすぎさり、代わりに後悔《こうかい》の念がスパークを包みこんだ。視線を床《ゆか》に落として、石の地膚《じ はだ》に釘付《くぎづ 》けとなった。
「わたくし個人の意見です。部族の民とは、何の関係も……」
「ならば出過ぎた質問だな、騎士見習いスパーク。わたしが先に兵を出さなかったことが、それほど不満か」
「申し訳ありません……」
カシューが何を意味したのかは分からなかった。しかし、その機嫌《き げん》を著《いちじる》しく損ねたことだけは間違《ま ちが》いないようだった。
がっくりと肩《かた》を落とし、スパークはうなだれた。
「よい。下がれ」
いまいましげな声で、カシューはそう命令した。
従うしかなかった。一瞬ではあったが、己を見失ったことが、最悪の結果を招いてしまったのだ。自業自得としかいいようがない。
地の底へと叩《たた》き落とされていくような失墜感《しっついかん》にうちひしがれながら、スパークは崇拝《すうはい》するふたりの|英雄《えいゆう》たちに背を向けた。
そして、謁見の間を後にした。誰かがあげた嘲笑《ちょうしょう》の声が耳に届き、それがいつまでたっても消えはしなかった。
3
分厚い机と椅子《いす》が数脚あるだけの殺風景な部屋だった。周囲は灰色の壁に覆われ、窓さえもない。扉《とびら》を閉ざすと息苦しささえ覚えてくるようだった。
ここはアーク・ロードの地階に設けられた沈黙《ちんもく》の間、王国の機密に関する相談が行なわれる部屋である。
謁見の間から場所を移し、カシューはパーンとディードリット、スレインだけを伴って、この部屋にやってきた。
「聖王宮の謁見の間には、風を操る|魔法《ま ほう》の宝物があったが、ここにはそんな便利な物は置いておらん。蒸し暑いのは、我慢《が まん》してくれ」
カシューはパーンたちに椅子《いす》を勧めながら、自身も椅子のひとつに無雑作に腰《こし》を下ろした。
「古代王国の時代には、魔術《まじゅつ》の耳や目がありましたからね。魔力を遮《さえぎ》る部屋が必要だったのです。剣の時代になっても、この慣習だけが残ったようですが、いやはや無意味なことです」
スレインが自分の知識を披露《ひ ろう》するのを、パーンは懐《なつ》かしく聞いた。
スレインは、昔《むかし》とあまり変わっていなかった。昔から老け顔だったし、髭《ひげ》も伸《の》ばしていない。髪《かみ》の長さや形も一緒《いっしょ》だ。なにより、自分の知っていることは語らずにはいられない性格など、まったく十年もの歳月を感じさせなかった。
「新しい王城には普通《ふ つう》の会議の間だけで十分ですからね」
「宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》殿の私室として用意したいと思っていたのだがな」
カシューとスレインは、そんな冗談《じょうだん》を飛ばしあっている。北の賢者《けんじゃ》スレインは、今やフレイムになくてはならない人物だと噂《うわさ》に聞いている。
「なかなか、宮廷魔術師ぶりが板についているじゃないか」
パーンはにやりとスレインに笑いかける。
「かれこれ十年もやってますからね」スレインはとぼけたような答を返してきた。
「十年かぁ」パーンは実感を込めて言った。
「オレは毎日が忙《いそが》しかったから、飛ぶように年月が過ぎていったなあ。戦ってばかりだったが、よく生きながらえてきたもんだ」
「カノンの様子はどうなのだ?」
カシューが興味にかられたように尋《たず》ねてきた。
「信頼《しんらい》できる仲間も二百人を超《こ》えました。噂を聞いて、ロードス各地からカノンの|騎士《きし》たちが戻《もど》ってきましたから。カノンの元宮廷魔術師もね。それに、カノンの街にあるチャ・ザ教団とラーダ教団の高司祭たちも、ひそかに協力を約束《やくそく》してくれています」
そう、見通しは明るくなっている。しかし、ここに至るまでの道のりの何と長かったことか。パーンは感慨《かんがい》とともに、過去十年の戦いを振《ふ》り返った。実際、自由軍の活動がうまくゆくようになったのは、ここ数年のことである。それ以前の活動は、決して楽なものではなかった。マーモの衛兵《えいへい》相手に派手な切り合いを演じたこともある。だが、ほとんどの場合、いかにマーモ兵の追及《ついきゅう》から逃《のが》れるか、いかに今日を生きのびるかで必死だった。食べる物もなく、水だけで暮《く》らしたことも一日や二日のことではない。マーモの食糧庫を襲《おそ》って、仲間を失ったこともある。畑の作物を盗《ぬす》んで、農夫から石を投げられたこともある。
自由軍とは名ばかりで、生活は山賊《さんぞく》と同じだった。それでも、パーンたちは多くの村々をマーモの圧政から救い、村人たちをカノン国外へと脱出《だっしゅつ》させた。これが、マーモを苦しめるいちばんの方法だと思ったからだ。
実際に、パーンたちの思惑《おもわく》どおりになった。耕す者のいない畑は荒野《こうや 》と同じだ。奪《うば》い去るべき富を生みださないのだから。民のいない王国など、まったく価値のないものだ。マーモの支配者たちは、そのことを思い知るはずだった。
しかし、ささやかなパーンたちの成功も、カノン太守《たいしゅ》が黒衣の将軍アシュラムに代わるまでであった。太守に就任するや、アシュラムは民に対する不当な圧政を厳しく禁じた。支配者にも民にも厳しい規律を課し、|違反《い はん》した者には容赦《ようしゃ》のない制裁を加えた。アシュラムは秩序《ちつじょ》ある恐怖《きょうふ》によって、カノンの支配体制を強化しようと目論んだのだ。
アシュラムがカノン太守に就任したことによって、カノン自由軍の活動も変更《へんこう》を強いられた。村人たちを逃亡《とうぼう》させるのではなく、人々の愛国心に訴《うった》え、マーモと対決しようと説いてまわったのである。しかし、支配者への恐怖のためか、それとも彼らが約束《やくそく》する報酬《ほうしゅう》に魅入《みい》られたか、パーンたちは救おうとする民に襲《おそ》われたり、裏切られたりするようになった。いったい何度、絶体絶命の窮地《きゅうち》におちいったことだろうか。
しかし、パーンたちはその危機をなんとか切り抜《ぬ》けてきた。そして、マーモの支配体制を揺《ゆ》さぶり、カノン解放の機運を盛《も》りあげてきた。それは、カノン太守アシュラムとの剣《けん》をまじえることのない戦いだった。
この戦いは絶望的と思われたが、ここにきてようやく勝機が見えてきた。焦《じ》れたマーモ軍が外征に打って出たからである。
「なるほど、だいたいの事情は飲みこめた」カシューはパーンに相槌《あいづち》を打ってから、悔《くや》しそうな表情を見せた。
「おまえがやってくるのは歓迎《かんげい》するが、なぜ、フレイムが危機を迎《むか》えたときばかりに姿を現わす。オレにはおまえがこっそりと影《かげ》を踏《ふ》みにやってくる悪鬼《あっき 》のようにも思えるぞ」
それを聞いて、パーンの表情はすこし沈《しず》んだ。
「わたしも、ついさっき知りました。ラスター公爵《こうしゃく》とマーモとが同盟を結んだという話ですね。それから、アダンの街がふたたびマーモに占領《せんりょう》されたこと、アモスン伯爵《はくしゃく》が妖魔《ようま 》に討たれ、ノービスの街が包囲|攻撃《こうげき》されている最中だ、と」
「そればかりではありません。ザクソンの村とビルニの街もラスターの軍勢に敗れたようです。彼らは、ターバの村にこもって抵抗《ていこう》を続けていますがね」
それを聞いて、パーンの顔色が紫色《むらさきいろ》に近くなった。
「それは、本当なのか。セシルは大丈夫《だいじょうぶ》なのか」
「アラニア軍とマーモ軍の主力に奇襲《きしゅう》されたのですよ。セシルも自警団の戦士たちもよく頑張《がんば 》ったようですが……。もうすこし、強力な軍隊を組織しておくべきだったと反省していますがね」
「それじゃあ、自治の意味がない」
パーンはスレインに反論する。専門の兵士を置かないことを決めたのは、村の総意であり、スレインの決定ではなかったのか。
「分かっていますよ。しかし、結果として多くの仲間を失いました。幸いにもセシルやビルニの執政官《しっせいかん》らは無事だったようですが……」
「そうか……」パーンは疲《つか》れたように、椅子《いす》の背もたれに身体を預けた。
「ターバの村は、大丈夫かな? ほら、そのう、六|英雄《えいゆう》のニースは一年前に亡くなった、と聞いているんだが……」
「ターバは安心です。もしも、あの村を攻《せ》めるようなことがあれば、大地母神の神官たちは、自衛のために剣《けん》を取るでしょう。それに、ドワーフの戦士たち。義母は、こういった事態が起こることも予想しておられたのでしょう。南のドワーフ族の王フレーベにも、協力を頼《たの》んでいますから。もしも、ラスターたちがターバを攻《せ》めるようなことがあれば、痛い目を見るのはおそらく彼らの方でしょう」
「フレーベ、鉄の王フレーベか」意外な名前を聞いて、パーンは驚《おどろ》きの声をあげた。
「六英雄のひとりじゃないか。そうか、あの人がターバにいてくれるのか。それは心強いな」
「しかし、ドワーフたちもマーファ神殿も自らを守るためにしか武器を取りません。ラスターも、それは承知しているでしょうから、ターバに手出しはしないでしょうね。あの辺境の村は、昔《むかし》から自治を行なっていたようなものですし……」
スレインは残念そうに、杖を握《にぎ》りしめた。以前のものと杖の形が変わっているのに、パーンは気がついた。もしかすると、名だたる|魔法《ま ほう》の杖なのかもしれない。いずれにせよ、フレイムの宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》である今の彼にはふさわしい物なのだろう。
スレインは、ひとりでも多くの味方がほしいと思っているようだった。ドワーフたちやマーファ教団が正義のために立ち上がってくれたら、と願っているに違《ちが》いない。
「スレイン、自分の意志で剣を取る人間だけに期待しようじゃないか」
「パーンの言うとおりだ」カシューが力強くうなずいた。
「先手を取られたのは、オレの誤算だったが、戦いはまだはじまったばかりだ。巻き返しの機会はいくらでもある。フレイムの兵士たちの士気は高いぞ。幸いにも、アモスン伯爵《はくしゃく》のひとり息子《むすこ 》が、オアシスの街ヘヴンに身を寄せ、我が国に援助《えんじょ》を|依頼《い らい》している。まだ二十歳と若いが、アラニア王家の血を引く青年だし、アモスン伯爵亡き今は、アラニアの正統な王ともいえる。大義名分をかざすのは好きではないが、他国に攻《せ》め入るときには、これがないと侵略《しんりゃく》となるからな」
「ラスターを|打倒《だ とう》するのですか?」
パーンは思わず椅子《いす》から腰《こし》を浮《う》かせていた。
「戦《いくさ》を仕掛《しか》けたのは、向こうの方だ。フレイム王国の連合|要請《ようせい》を無視して、マーモ軍と同盟をしたのだからな」
それがどうした、と言わんばかりのカシューの反応である。
「いえ、ラスターを倒《たお》すのはかまいません。しかし、彼を倒した後のアラニアは……」
「なるほど、おまえの言いたいことが分かったぞ」カシューはにやりとして、パーンに落ち着いて椅子に座るよううながした。
「オレの器では、今のフレイムでも手にあまる。ラスター|打倒《だ とう》の後は、アモスン伯《はく》の息子を王位に即《つ》かせるさ」
「傀儡《かいらい》として?」パーンはカシュー王の目をじっと見つめて、相手の言葉の真偽《しんぎ 》を確かめようとした。
「それもせん。そんなにアラニアが心配ならば、以前に勧めたとおり、おまえが王になっていればよかったろう」
「それは、その通りなのですが……」パーンは言い過ぎたことを後悔《こうかい》した。
「申し訳ありません。さっきの|騎士《きし》見習いではありませんが、出過ぎました。しかし、わたしはカノンの地で、支配者の心と支配される民の心とが、まったく違《ちが》うことを知ってしまったのです。アラニアの国民は、おそらく、フレイムに支配されることに抵抗《ていこう》するだろうと……」
「アモスン伯の息子には一度会ったが、若いがかなり聡明《そうめい》な人物と見た。父親は他の貴族たちに担《かつ》がれただけという印象を受けたがな。あの若者ならば、しっかりとした後見者さえいれば、きっと立派に王国をまとめあげるだろう」
そして、カシューは後見役にもフレイムとは関係のない人物についてもらえば文句はなかろうと、言葉を足した。
「ありがとうございます。それを聞いて安心しました」
「変わってないな、パーン」
目を細めながらカシューは、壮年《そうねん》となり、たくましくなった戦士を見つめた。戦士として、男として、彼は今や絶頂期にあるといっていい。
「後で剣の試合でもしよう。フレイムには、オレの連勝を止められそうなのは、おらんからな」
「試合にもならないでしょうが、お願いします。どうしても、この手で倒《たお》したい男がいるのです」
「おまえに倒せない戦士など、今のロードスで幾人《いくにん》もおらんだろう。噂《うわさ》どおりならば、不死身と謳《うた》われたフレーベ、他にはオレと……」
「レオナー陛下にも、まだ遊ばれていますね。そして、黒衣の将軍アシュラム……」
ふむ、と顎《あご》に手をやりカシューはうなった。アシュラムが生きていたという噂は、カシューのもとにも届いている。火竜山で剣を交えたが、確かに恐《おそ》るべき手練《てだ》れであった。魔神《ま じん》の剣を、まだ使いこなせないみたいだったが、いずれは恐るべき敵となろう。
「それにしても、レオナー帰還王《き かんおう》がパーンよりも優れた剣士とは心強い。マーモを倒した後で、こっそり試合を申しこむとしよう。お互《たが》い、王という立場があるから、公式の場で勝負を泱めるわけにはいかんからな」
「そのおりには、ぜひ立ち合わせてください」
パーンの顔に、ようやく笑みが浮《う》かんだ。
「難しい話は終わったのかしら?」
すかさずディードリットが声をかけてくる。彼女は、パーンたちの会話をいかにも退屈《たいくつ》そうに聞いていた。しかし、一日や二日ならば、ディードリットは目を閉じたまま、何もせず過ごすことができる。森の妖精《ようせい》であり、永遠の時間を生きるハイエルフならばこそ、である。
「もうひとつあっただろ」
パーンは申し訳なさそうに、ディードリットを見つめた。彼女の美しさは、十年前とすこしも変わらない。むしろ、人間らしい柔《やわ》らかい表情を身につけて、魅力《みりょく》的になったようにも思う。
「知っているわよ、なかなか本題に入らないから思いださせてあげたの」
「なんだ?」カシューがパーンをうながした。
「レオナー王より、親書を預かっております。これをご覧いただければすぐに分かります」
パーンは鎧《よろい》の懐《ふところ》から、黄色っぽい羊皮紙の封筒《ふうとう》を取りだした。蜜蝋《みつろう》で封印《ふういん》されていて、剣《けん》と麦とを組みあわせたカノン王家の紋章《もんしょう》が刻印されていた。
カシューは短剣《ダ ガ ー》で封を切ると、中の書状を取りだして、すばやく目を通した。
「レオナー王は、すぐに軍を出せというのか?」
「はい、マーモ軍の主力は、カノンの地より出払《で はら》っており、あきらかに手薄《て うす》になっています。この機会を逃《のが》したくはありません。カノン自由軍の戦士たちは、マーモ軍の主力が帰還《き かん》する前に、各地のマーモ軍の砦《とりで》を襲撃《しゅうげき》する手筈《て はず》を整えています」
「カノン国外に出たマーモ軍を釘付《くぎづ 》けにしろ、ということだな」
パーンは力強くうなずいた。
「エト国王にも同様の|要請《ようせい》を行なっております。マーモの後方は、カノン自由軍が押《お》さえます。退路を失ったマーモ軍に対し、ヴァリス、フレイムの両軍が南北に分かれて東進すれば、かならずや勝利は我らのものになるでしょう」
「その意見に異論はないのだが……」
カシューは腕《うで》を組みながら、スレインの方をうかがった。スレインも、無言で相槌《あいづち》をうつ。
「何か、気になることがあるのですか?」
パーンは、彼らが別の問題を抱《かか》えていることをそれとなく悟《さと》った。
「うむ、ひとつだけだがな」
カシューは問題をパーンに話すベきかどうか、迷っている様子だった。
「困っていることがあるなら言ってください。オレにできることなら協力を……」
カシューは楽しそうな笑いを浮《う》かべながら、パーンの方に身を乗りだしてきた。
「たしかに、おまえが協力してくれるのなら嬉《うれ》しいのだが、おまえがいなくてはレオナー王が困るだろう」
「そうでした」パーンは自分の愚《おろ》かさに苦笑いをした。
「本当におまえは変わっとらんな」
そう言うと、カシューは豪快《ごうかい》に笑った。
「聞かないほうがいいでしょうね。聞いてしまうと、身体をふたつに割りたくなります。早く、カノンを解放して、自由な身分になりたいものです。そうなれば、いくらでも協力できますのに……」
「それまで、余裕《よ ゆう》があればよいのだが」
カシューは複雑な表情に戻《もど》って、ふたたび腕組《うでぐ 》みをした。
「まあ、よい。その話は、後日にしよう。事が急を要するかどうかも分からんし、ただの杞憂《き ゆう》に終わるかもしれん。どうにも途方《と ほう》もない話なのでな」
それから、カシューは決意を固めたようにさっぱりとした顔になり、椅子《いす》から立ち上がった。
「よし、オレは決めたぞ。レオナー王の|要請《ようせい》を受けよう。我がフレイム軍はいつでも出撃《しゅつげき》の準備ができている。欲を言えば、ハイランド王国がモス地方を統一するのを待ちたかったのだが、先手を打たれたとあっては、じっとしているわけにもいかんだろう。まして、ふたたびアダンを失ったヴァリスは、黙《だま》っていては面目《めんぼく》が立たん。フレイムが動かなくても、単独で兵を出すに違《ちが》いない」
「ありがとうございます、カシュー陛下」
パーンも立ち上がって、深々と頭をさげた。ディードリットもパーンに倣《なら》う。
「礼にはおよばんぞ、パーン。マーモの|打倒《だ とう》は、オレにとって亡きファーン王への誓《ちか》いでもある。次の戦《いくさ》こそ、オレの最後の戦いだ。戦に明け暮《く》れたオレの人生だが、そろそろ終止符《しゅうしふ 》を打たねばなるまいからな」
「王妃《おうひ 》殿下のためですか?」
すました顔でスレインがカシューをからかう。
「残念ながら違《ちが》うな、我が宮廷魔術師殿《きゅうていまじゅつしどの》。オレは王なのだ。王が戦えば巻き添《ぞ》えになる民がいる。それだけのことだ」
カシューは言葉少なく静かに答えた。
そう言ったときのカシューの顔に、パーンは不思議なものを見たように思った。顔は笑っていたが、目はそうではない。どこか遠くを見つめているという感じだった。
カシューが何を考えているのかは、分からなかった。しかし、傭兵王《ようへいおう》の気持ちは、パーンになぜか伝わってくるのだった。それは喪失感《そうしつかん》だった。何か大切なものを失ったような。話は打ち切りとばかり、先に立って沈黙《ちんもく》の間を出るカシューの姿に、パーンは突然《とつぜん》、十年という時の流れを意識した。
4
華《はな》やかな喧噪《けんそう》が、アーク・ロードの宴《うたげ》の間を満たしていた。豪勢《ごうせい》な宴となった。当初は、フレイムにとって救国の|英雄《えいゆう》ともいえるパーンとディードリットを歓迎《かんげい》するために催《もよお》されたものだった。
しかし、カシュー王がアラニア王国の|要請《ようせい》により反逆者ラスター公爵《こうしゃく》を討つこと、侵略者《しんりゃくしゃ》マーモ帝国《ていこく》に対する戦を開始することを発表したとたんに、フレイム軍の出撃《しゅつげき》の前祝いの席ともなった。
|騎士《きし》たちの豪快《ごうかい》な笑い声があちらこちらで響《ひび》いている。恋人《こいびと》たちは宴の席を離《はな》れ、宮殿のバルコニーや回廊《かいろう》の柱の陰《かげ》で、しばしの別れを告げ、時間を惜《お》しむように愛を語らっている。
パーンは鎧《よろい》から、宴用の装飾《そうしょく》の多い衣服に着替《きが》えていた。ディードリットも今回はドレスで出席していた。ともに専用の職人が急ぎで仕立てた正装《せいそう》である。
彼らは宴の主役であり、たくさんの人々に囲まれていた。
ふたりとも、こういった場が得意であるはずがない。ここ十年あまりというもの、カノンの山野で暮らしていて、戦いに明け暮れていたのだから。
若い騎士たちは、パーンから戦の話を聞きだそうと懸命《けんめい》になっている。ディードリットの方は女官たちに人気だった。ハイエルフの美しさの秘密を盗《ぬす》もうとでもいうように、女官らはディードリットの肌《はだ》や髪《かみ》にさかんに触《ふ》れたがった。
パーンは戦の話をしていればいいと分かったので、今はすこし落ち着いている。若い騎士たちに向かって、自分がかつて経験した戦の様子や、強敵との戦いについて、淡々《たんたん》とした調子で喋《しゃべ》っている。
派手な脚色《きゃくしょく》がないだけに、若い騎士たちは戦というものを実感しはじめたようだ。自分たちが、はたして戦で通じるものかと、パーンに尋《たず》ねてくる者もでてきた。
それを聞いて、パーンはすこし驚《おどろ》いた。フレイムの騎士団といえば、歴戦の強者《つわもの》だと思っていたからだ。しかし、考えてみれば、十年以上も大きな戦を経験せずに過ごしているのである。
若い騎士たちが、実戦の経験がないのは当たり前だ。奮い立つ気持ちとともに、恐《おそ》れる気持ちもある。
彼らはパーンの初陣《ういじん》の話も聞きたがった。
パーンの初陣は、実はこのフレイムでの戦いなのである。十六のとき、フレイムの傭兵隊《ようへいたい》に参加して、炎《ほのお》の部族と戦ったのだ。戦はオアシスの街ヘヴンをめぐる小競《こぜ》り合いだった。もっとも、少年だったパーンは、ほとんど活躍《かつやく》の場を与えられず、後方への連絡や街道沿いの警備をおもな任務としていた。
それでも、炎の部族が総|攻撃《こうげき》をしかけてきたときには、パーンも戦闘《せんとう》に加わった。このとき、パーンは二人ほど切った記憶《き おく》がある。しかし、自分も五回は切りつけられた。鎧《よろい》が父譲《ちちゆず》りの甲冑《ス ー ツ》でなかったなら、パーンの命はなかっただろう。
フレイム王国の現状を考え、パーンはこの初陣の話はしないことにした。騎士たちは不満の声をあげるが、パーンは適当にごまかしておいた。
「やっておるな」
そのとき、カシューがパーンたちの輪の中に割って入ってきた。
たちまち、若い騎士たちが緊張《きんちょう》して、不動の姿勢をとる。カシューは、宴《うたげ》の席は無礼講だから、と彼らに緊張するなと声をかけた。
「オレもここ十年、実戦は経験しておらん。やはり、勘《かん》は鈍《にぶ》っているだろう。どれ、オレもひとつ戦の心得を聞くとしよう」
「陛下の前で、戦の話ができるものですか」パーンは答えて、照れた笑いを浮かべた。
「ところで、スパークはおらんのか?」
カシューは注がれたばかりの酒杯《しゅはい》をパーンに手渡《て わた》しながら、若い騎士のひとりに尋《たず》ねた。
「宴《うたげ》がはじまった頃《ころ》には、姿を見たのですが……」記憶をたどるように、問われた騎士はゆっくりと答えた。
「そうか……」
そうつぶやくと、カシューはなにやら思案するように手を顎《あご》にかけた。
「昼間の騎士見習いですね」
パーンは、謁見《えっけん》の間で昼間見た若者を思いだした。
「ちょっと話がある。悪いが、席を変えてくれんか」カシューはパーンにそう言ったあと、彼を取り巻く若い騎士たちを見回した。
「おまえたちも、明日から戦支度《いくさじたく》に追われるだろう。戦話をする暇《ひま》があるなら、女でも口説《くど》いてこい。でないと、オレのように嫁《よめ》をもらうのが遅《おく》れてしまうぞ」
若い騎士たちはどっと笑って、互《たが》いに目配せしあいながら散っていく。
パーンはディードリットに合図を送ってから、カシューと並《なら》んで歩きはじめた。ディードリットは、まだ女官に囲まれており、パーンに非難の目を向けた。
悪いな、とパーンは口だけを動かした。
パーンとカシューは騒々《そうぞう》しい宴の間から、比較的静かな回廊《かいろう》へと場所を移した。
「お話とは、何でしょうか?」
周囲に人がいないのを確かめてから、パーンは切りだした。
「うむ、話というのはな、さっき言った昼間の騎士見習いのことだ。おまえには、あの騎士はどう見えた」
「どう見えたと言われましても……」パーンはカシューの質問に当惑《とうわく》を覚えた。
「利発そうな少年ですね。よい騎士になるんじゃないでしょうか」
「なってもらわねば困る。あいつは、将来のフレイムにとってなくてはならん人物だと思っておるのだ」
「でしたら、昼間は言いすぎたのではありませんか」
スパークという騎士見習いに対するカシューの思い入れが伝わってきたので、パーンはカシューをからかいたい気分になっていた。
「おそらく、あの若者は、マーモとアラニアが同盟したことや彼らが|攻撃《こうげき》に出たことを知らなかったのでしょう。カシュー陛下は、先手を取られたことを気にやんでおられたではありませんか。そこを指摘《し てき》された腹立ちは理解できますが、真面目《まじめ》そうな若者だけに、かなり気にしていると思いますよ」
「オレも聖人君子ではないからな。|機嫌《き げん》が悪くなったら、声も荒《あら》くなる」カシューは言葉どおりにすこし声を荒くした。
「|騎士《きし》隊長を任せるだけなら、今のあいつで十分だ。しかし、騎士隊長を務められる男は、他にいくらでもいる。あいつには、もっと大きな人間になってもらいたい。勇敢《ゆうかん》な騎士隊長とか優秀な文官のまま、終わってもらいたくないのだ」
「それで、わたしに何をしろとおっしゃられるのですか?」
「おまえにつけてカノンに派遣《は けん》してやろうかとも思った。しかし、危険な場所に、今のままでほうりだすわけにもいかんしな。あいつは立派に戦うだろうが、命を落とすかもしれん。そんなことになったら、炎《ほのお》の部族の者たちが何というか」
補足するように、カシューはパーンに彼が炎の部族の族長の後継者《こうけいしゃ》であることを説明した。
「ナルディアの従弟《い と こ》なのですか……」
スパークは色白なので思いもよらなかったが、言われてみれば面影《おもかげ》など似ていないこともない。ナルディアの死は、パーンの心に刻まれたままの古傷のひとつである。それはカシューにとっても同じはずだ。
彼女のように不幸に死んでゆく者が、二度とあってはならないと思っている。
「カシュー陛下が、彼を大事にしたい気持ちはよく分かります」パーンは頭の中で自分の考えをまとめながら言った。
「ですが、大事にするのも、ときには考えものです。次の戦に連れていってはいかがですか。良くも悪くも、戦は人を変えます。そのことは、陛下がいちばん御存《ご ぞん》じでしょう」
「見習いは連れていかれん。それはこの国の決まりなのだ」
「では、明日にでも剣の稽古《けいこ 》を付けてやりましょう。それが役に立つかどうか分かりませんが、わたしにできることといえばそれぐらいですから」
「そうしてやってくれ。おまえと剣を交《まじ》えれば、何か得るものがあるかもしれんから。オレはどうも人を育てるのがうまくない。なんでも、自分でやりすぎるためだと分かってはいるのだがな」
そうかもしれませんね、とパーンは笑った。才がありすぎるのも、考えものだ。おそらく、あの若者もカシューと同じ悩《なや》みを抱《かか》えていることだろう。
とりあえず、パーンはあの騎士見習いを探そうと思った。きっと、今頃《いまごろ》、どん底の気分でいることだろう。
ちょうどそのとき、宴《うたげ》の間の方からドレスの裾《すそ》をつまみながら、ディードリットがやってくるのが見えた。ようやく、女官たちから解放されたのだろう。
カシューもそれに気付き、自分は宴の方へと戻《もど》っていった。すれちがうときに、ふたりはかるい挨拶《あいさつ》をかわす。
「ひどいのね。こっちはたいへんだったのに。まったく、何本、髪《かみ》の毛を抜《ぬ》かれたか分からないわ」
やってくるなり、ディードリットは口をとがらせた。
「悪かったよ。悪いついでに、ちょっと付き合ってくれ」
「はいはい」ディードリットはうなずくと、すっとパーンの左腕《ひだりうで》をとった。
「こうしていないと怪《あや》しまれるわよ」
ディードリットは、すました顔で片目をつぶると、パーンを引っ張るように、回廊《かいろう》を歩きはじめた。
あたりの柱の陰《かげ》は、熱い抱擁《ほうよう》をかわす男女でいっぱいだった。ディードリットはパーンの肩《かた》にしなだれかかると、ようやく落ち着いたかのように小さく丸い息を吐《は》いた。
遠くから、誰《だれ》かの笑い声が聞こえてくる。
右手に酒杯《しゅはい》を握《にぎ》りしめながら、スパークはあてもなく城内をうろついていた。銀杯だからいいようなものの、これがガラス製だったなら間違《ま ちが》いなく砕《くだ》け散っていただろう。右手には、それほど力がこもっていた。
別のところから、また誰かの笑い声が響《ひび》いてくる。
今のスパークには、宴の華《はな》やかさも疎《うと》ましかった。
昼間の失言を、まだ悔《くや》みつづけているのだ。自分の尊敬《そんけい》する人々の前での失態だけに、情けなかった。
が、それ以上に情けないのは、ついに戦に間に合わなかったことだ。騎士見習いの身分では、戦に参加させてもらえない。スパークは、このことを恐《おそ》れていた。それだけに、今年の騎士|叙勲《じょくん》からはずれたことが悔《くや》しかったのだ。
何が足りなかったのだろう、とスパークはまたも考えていた。自分の何が気に入らなくて、カシュー陛下は自分を騎士にはしてくれなかったのだろう。
気が付けばスパークは、宴の間から遠く離《はな》れていた。このまま、先へ進めば宝物庫がある。スパークは、ほとんど何も考えずに、先ヘ進んだ。
宝物庫の入口の前には、衛兵がふたり立っていた。それから、スレイン門下の魔術師《まじゅつし》がひとり。こちらは、椅子《いす》と机を与えられていて、書類を広げて何やら書きとめている。中には金銀や宝石の類《たぐい》ではなく、|魔法《ま ほう》の宝物が収められている。スレインの言葉を借りれば、はかりしれない価値があるとのことだ。もっとも、現実には何の役にも立たない物ばかりで、貴重で高価なガラクタだというのが一般《いっぱん》の評判だ。
「異常はないか。こんな日は、警備が手薄《て うす》と思って盗賊《とうぞく》がやってくるかもしれないぞ」
スパークは退屈《たいくつ》そうにしている兵士たちに、そう声をかけた。
「頭のいい盗賊なら、宝石の入っている蔵を狙《ねら》いますよ」衛兵は答えて、げらげらと大声で笑った。
隣《となり》にいた魔術師《ソーサラー》が顔をあげて、ちらりと衛兵たちに視線を送る。
「もっと頭のいい盗賊なら、こちらを狙うはずですよ」
「違《ちが》いない」兵士たちは大声で笑った。
「先生ぐらいに頭がいい盗賊がいればですがね。魔法を使う盗賊がね」
「伝説やら噂《うわさ》では、いると聞きますがね」
魔術師はそれだけを答えてから、ふたたび書類に視線を戻《もど》し、作業を再開する。
スパークは衛兵たちのたわいのない笑い声にすこしだけだが、救われたような気分になって、邪魔《じゃま 》をした、と来た道を戻《もど》りはじめた。
「夜半にはあがります。あまっていたなら、酒を持ってきてください」
去ろうとするスパークの背中に、衛兵からそんな声がとんだ。スパークは首だけを振《ふ》り返らせ、分かったと合図を送った。
気分を切り替《か》えて、宴を楽しもうかとも思いはじめていた。負け犬のように、こんな場所をうろついているのは、男らしくない。騎士の資格をうんぬんする以前の問題だ。
アーク・ロード城の通路は、ところどころに明かりがともっていて、歩くのには何の支障《ししょう》もなかった。
スパークは二階上の宴の間への道を戻っていく。宴は自然に解散するまで続く。いつまで続くかは、人々の体力しだいなのだ。そして、若い騎士たちはおそらく朝方まで騒《さわ》いでいるだろう。宴は、まだはじまったばかりなのだ。
スパークは手にした酒杯《しゅはい》に入っていた酒を一気に飲みほした。温《あたた》かくなった酒が喉《のど》にからんだ。
と、そのとき。
悲鳴が、背後から聞こえてきた。それから、警告を発するような声。
今しがた後にしたばかりの宝物庫のほうだ。
「何事だ!」
思わず声にだしていた。そして、腰《こし》の剣《けん》を確かめてから、宝物庫のほうへ全力で駆《か》けはじめた。
いつのまにか宝物庫からかなり離れていたので、時間がかかった。気ばかりが焦《あせ》るが、どうしようもない。
スパークは、頭の中でいろいろな可能性を検討してみた。
盗賊かもしれない。だとすると、手柄《て がら》を立てられる絶好の機会かもしれない。褒美《ほうび 》は断わり、|騎士《きし》の資格を求めれば、もしかしたらかなえられるかもしれない。
宝物庫が見える所までやってくると、スパークはいったん立ち止まり、慎重《しんちょう》に様子をうかがった。
状況《じょうきょう》はすぐに分かった。三人の男たちが倒《たお》れている。そして、扉《とびら》が開いている。
賊《ぞく》に間違《ま ちが》いなかった。時間はそれほどたっていないから、まだ宝物庫の中にいるだろう。
助けを呼ぶか、ひとりで行くか。スパークは逡巡《しゅんじゅん》した。
相手はふたりの衛兵と魔術師を倒《たお》しているのだ。恐《おそ》るべき手練《て だれ》か、または数が多いかだ。自分ひとりで勝てる保証はない。それだけに、みごと盗賊《とうぞく》を捕《と》らえれば、手柄《て がら》も大きいように思えた。
「これは賭《か》けだ。勝てば騎士、負けたらそれまでのこと」
スパークは剣を握《にぎ》りしめ、慎重《しんちょう》に進んだ。
と、扉から黒い影《かげ》が姿を現わした。フードをしているので、顔まではわからない。手には抜《ぬ》き身の剣を握っている。
間違いなく盗賊だ。スパークは確信した。
もう後戻《あともど》りはできなかった。スパークは気合いの声をあげながら、賊に向かって走りこんだ。
賊もスパークに気付いたらしく、剣を握っていない方の手をスパークに向けて、突《つ》きだした。
「何をするつもり……|魔法《ま ほう》か!」
そう理解した瞬間《しゅんかん》、スパークは精神を集中させた。魔力に対抗《たいこう》するには、己の内にある魔力を高めなければならない。
賊の背後で、たいまつが燃えていた。そのたいまつから、炎《ほのお》の舌がスパークめがけて、ぱっと伸《の》びてきた。
避《さ》けようがなかった。炎が服と、そして胸を焼いた。熱気にスパークは顔を背《そむ》ける。激痛《げきつう》が走っているが、ここで止まれば、二発目が飛んでくるだけだ。
スパークは剣先を突《つ》きだすと、もう一度、気合いの声をあげて、賊の胸に飛びこんでいった。
肉を貫《つらぬ》く確かな感触《かんしょく》が伝わってきた。相手も寸前で身をかわしたらしく、|長 剣《バスタードソード》は相手の右肩《みぎかた》に食いこんでいた。
異様な悲鳴をあげながら、賊は後ろに下がって逃《のが》れようとした。
スパークは剣を引き抜《ぬ》くと、とどめをさすべく、大きく振《ふ》りあげた。
と、開いていた宝物庫の扉から、また別の盗賊が姿を現わした。相手は、ひとりではなかったのだ。
スパークは傷ついた方は無視して、この新手に目標を切り替《か》えた。
相手は腰《こし》から新月刀《シ ミ タ ー》を引き抜いて、スパークの剣を受け止めた。その拍子《ひょうし》に、相手のフードが背中に落ちる。
たいまつの薄明《うすあ 》かりではあったが、スパークははっきりと相手の姿を見た。
「ダークエルフ!」
スパークは、思わず叫《さけ》び声をあげていた。
彼らの恐《おそ》ろしさは、話に聞いている。姿を消されたら、手の出しようがない。
スパークは矢継《やつ》ぎ早に|攻撃《こうげき》をしかけた。相手に呪文《じゅもん》を唱えさせる隙《すき》を与えたくなかったからだ。
敵も反撃《はんげき》を試みてくるが、こと剣術《けんじゅつ》に関してはスパークのほうに分がありそうだった。
これが初めての実戦であることも分かっていた。しかし、刃《やいば》を交えはじめたら、訓練や試合とほとんど同じだった。フレイムの訓練では、負けるたびに貴様は死んだのだぞ、と繰り返される。死にたくなければ勝て、とも。
スパークは、しかし、自分がとてつもなく愚《おろ》かな選択をしたことを悟《さと》らされた。
宝物庫の中から、さらに三人の賊《ぞく》が飛びだしてきたからだ。そのうちのひとりが、なにか包みのような物を抱《かか》えている。
彼らは、エルフ語とおぼしき言葉で会話しあっていた。驚《おどろ》くべきことに、全員がダークエルフなのだ。
二人が仲間の加勢に入った。しかも、そのうちのひとりは、呪文らしきものを唱え、姿を消している。
スパークは絶対に勝てないことを知った。勝てないと分かったときに、何をするべきかも、フレイムの騎士団では教えている。
スパークは目の前の相手と剣をあわせると、力を込《こ》めて押《お》し返した。非力なダークエルフは、なすすべもなく、後ろに飛ばされた。
一瞬《いっしゅん》の間もおかず、スパークは後《うし》ろを振《ふ》り向いた。そして、剣を捨てると、全速で駆《か》けだした。賊の侵入《しんにゅう》を大声で叫《さけ》びながら。
ダークエルフが追いかけてくる気配はなかった。スパークは、咄嗟《とっさ 》に自分が何をなすベきか気がついた。そして、素速く横にステップを切った。勢いがついていたので、斜《なな》め前に飛ぶ格好《かっこう》になる。
間一髪《かんいっぱつ》だった。スパークの判断は、間違《ま ちが》っていなかった。肩《かた》と脇腹《わきばら》に激痛《げきつう》が走り、そして二本の短剣《ダ ガ ー》がスパークのすぐ脇を掠《かす》めていったのだ。
スパークは痛みを耐《た》えながら、それでも走る速度を緩《ゆる》めなかった。
カシューと別れた後、パーンはスパークを探しながら、アーク・ロードの城内をいろいろと歩きまわった。ときどき、すれちがう人間に、スパークの行方《ゆ く え》を尋《たず》ねながら。そのうち一組の男女が宝物庫の方に歩いていくスパークを見たと教えてくれた。
そして、宝物庫に向かう途中《とちゅう》で、パーンは誰《だれ》かがあげた気合いの声を聞いた。
今ごろ、剣の稽古《けいこ 》をしている者がいるとは思えない。パーンは組んだままだったディードリットの腕《うで》を振《ふ》りほどくと、声の方に走りはじめた。
ディードリットも、すぐに事態を理解したらしい。パーンと並《なら》んで走りはじめた。
「撃剣《げきけん》の音がする。誰かが戦っているんだわ」
「急ごう。あの騎士見習いかもしれない」
悪い予感がする。
パーンは走りながら、剣を抜《ぬ》いた。|魔法《ま ほう》の剣が、鞘《さや》から抜かれたことを喜ぶようにきらりと光を放った。
宝物庫へと至る最後の角を曲ったとき、パーンは走りこんできた人影《ひとかげ》とあやうくぶつかりそうになった。
緊張《きんちょう》して刃《やいば》を向けるが、正装《せいそう》をしていることから賊《ぞく》ではないことが分かった。その胸の部分が黒く変色していた。
相手は止まろうとしたようだが、足がよろめいてこちらに倒《たお》れこむ。パーンは倒れこんでくる相手の肩《かた》を捕《つか》まえると、顔を確かめようとした。
「スパーク!」
長い髪《かみ》と特徴《とくちょう》のある眉《まゆ》から、パーンは昼間の騎士見習いに間違《ま ちが》いないと思った。
自分の名前を呼ばれて安心したものか、スパークはぐったりとなって、前のめりに身体《か ら だ》を預けてくる。そのため、若者の背中がパーンの目に入った。そこには、二本の短剣《ダ ガ ー》が突《つ》き刺《さ》さっている。血の臭《にお》いが、パーンの鼻をついた。
「賊が宝物庫を……」パーンの腕の中から、呻《うめ》くような声が聞こえてきた。「ダークエルフが五人……誰かに知らせを」
「ダークエルフだって?」
パーンは顔を上げると、ディードリットと見合わせた。なぜ、あの妖魔《ようま 》がフレイムの王城などに侵入《しんにゅう》してきたのだ。カシューを暗殺しにきたというなら、まだ話は分かる。しかし、宝物庫を襲《おそ》うなど、それではただの盗賊《とうぞく》ではないか。
「ディード! 誰かに知らせてくれ。城門を封鎖《ふうさ 》するように」
「パーンは?」
「こいつを、このままにしておく訳にはいかないだろう」
「わ、分かったわ。くれぐれも無茶はしないでね」
「ダークエルフ五人とやりあうような真似はしないよ」
ディードリットは、ためらうように立ち上がると、来た道を駆《か》けもどりはじめた。
パーンは、スパークを抱《かか》えながら、背中に刺さった短剣《ダ ガ ー》の具合を確かめた。かなり深く突き刺さっているが、急所ははずれていた。
それから、パーンは宝物庫の方に視線をやった。すでに、人影はなかった。どこへ逃げたのだろう。神経を集中させて、気配をうかがってみたが、姿を隠《かく》して近寄ってくる様子もない。
ようやく緊張《きんちょう》が解けて、パーンは片手でスパークに刺さった短剣を引き抜《ぬ》いていった。新たな血が噴《ふ》きでてくる。その度に、スパークの背中がびくっと動いた。だが、声は洩《も》れない。
すでに気を失っているのだ。
スパークの身体を静かに床《ゆか》に下ろすと、自分の服の袖《そで》を破って包帯がわりに使った。脈を調べたり、呼吸の具合を確かめてみたが、たいして問題があるようには思えなかった。人の死には何度も直面してきただけに、パーンは死んでいくものと助かるものとの違《ちが》いが分かるようになっている。
しばらく、待っていると、ディードリットが駆《か》けていった方から複数の人間が近づいてくる気配があった。いちおう、剣だけは構えてはみたが、まさか賊《ぞく》ではあるまい。
そのとおり、ディードリットを先頭に、フレイムの人間が十人ばかり姿を現わした。カシュー王と傭兵《ようへい》隊長シャダムの姿もあった。そして、ドワーフがひとり。
「ごめんなさい。急いでと言ったんだけど、あのドワーフが……」
足が遅《おそ》いのよ、とディードリットは顔をしかめる。
「大丈夫《だいじょうぶ》さ、ディード。このぐらいの傷で死ぬようなやわな男は、フレイムにはいない」
「過信は禁物ですぞ。小枝を折るにも渾身《こんしん》の力を込めよ、と戦の神は教えたもうてますぞ」
戦の神の司祭《プリースト》なのか、とパーンは驚《おどろ》きの目でドワーフを見た。
「なんと、みごとな血止めの技。血の一滴《いってき》は酒の一滴ほどに大切なものですからな」
ドワーフは、パーンが巻いた包帯を解くと、感嘆《かんたん》の声をあげる。
「それも、戦の神の教えなのか?」
「全能なる戦の神マイリーよ、この勇気ある若者の傷、癒《いや》したまえ」ドワーフは、癒しの呪文《じゅもん》を唱え、最後に大きな声で気合いを込めた。それから、パーンに答えて、
「さっきのは、ドワーフの信条です」
と言った。
そのあいだに、シャダムは連れてきた完全|武装《ぶ そう》の傭兵たちに付近の探索《たんさく》を命じている。カシューは盗《ぬす》まれた宝物を調べるため、魔術師に目録を持ってこさせていた。
傷ついたスパークにはちらりと視線を向けただけで、厳しい表情を浮《う》かベながら宝物庫ヘと歩いていく。大柄《おおがら》の魔術師が目録をめくりながら、それに従う。
傷ついた部下に対する気遣《き づか》いもみせないのは、どう考えてもカシューらしくなかった。
宝物庫に入ったかと思うと、すぐにカシューは戻《もど》ってきた。顔の厳しさがましていた。パーンは事態を把握《は あく》できずに、問いかけるような視線をカシューに投げかけた。
それに気付いたカシューは、暗い顔でパーンにうなずいた。
「悪いが、すぐにスレインを呼んできてほしい。そして、伝えてくれ。盗《ぬす》まれたのは邪神《じゃしん》の祭器だとな」
カシューは、他ならぬシャダムにそう命令していた。
「やはり、邪神の祭器ですか……」
カシュー以上に物事に動じない性格の傭兵《ようへい》隊長の顔色が蒼《あお》ざめていた。何事が起こったのか、パーンには分からなかった。しかし、とてつもない事件が起こったということは、パーンにも感じとることができた。
ロードスをゆるがすほどの大事件に違《ちが》いなかった。
それでなくて、カシューたちの顔色がこれほど変わることがあるだろうか。
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第U章 盗《ぬす》まれた祭器
1
たけなわだった宴《うたげ》だが、賊《ぞく》の侵入《しんにゅう》の知らせで、すぐに中断された。
ほろ酔《よ》い気分の|騎士《きし》たちは、あわただしく武具を身につけると、夜のブレードの街に散っていった。非番の兵士たちまでが動員され、甲高《かんだか》い金属音がたいまつの炎《ほのお》とともに街のあちらこちらを流れていく。
賊を捕《と》らえろとの厳命が下され、ただちにブレードの街の門が封鎖《ふうさ 》された。もっとも、ブレードは城塞《じょうさい》都市ではないので、門以外にも出口がないわけではない。縦横に走っている小路や裏通り、さらには建ちならぶ家々の塀《へい》の隙間《すきま 》など出ようと思えばいくらでも出るところがある。
そういった場所にもできるかぎり兵士たちが派遣《は けん》され、監視《かんし 》の目を行きとどかせている。
街を歩いていた市民たちはことごとく呼びとめられ、怪《あや》しい者を見かけなかったか、尋《たず》ねられた。すこしでも怪しいそぶりを見せた者は、衛兵の詰所《つめしょ》までひっぱられ、さらに厳しい追及《ついきゅう》を受けた。
あわただしいのは、王城の中も同じである。たくさんの人々が、忙《いそが》しそうに廊下《ろうか 》を駆《か》けまわっている。
「城内、くまなく探しましたが、どこにも賊《ぞく》の姿は見当たりません」
「そんなはずはない。知らせがあって、すぐに跳《は》ね橋を上げたのだ。絶対に、城内のどこかに潜《ひそ》んでいるはずだ」
衛兵の報告にひとりの衛士長がいらだった声をあげた。
「賊がダークエルフなち、おそらく河に飛びこんで逃《のが》れたはずです」
その会話を耳にしたディードリットが、カシューに進言した。
「精霊魔法《せいれいま ほう》だな」
「ええ……」
ディードリットは、自分がダークエルフの仲間みたいに思えて、元気なく言った。
「船《ふね》を出せ、河も捜索《そうさく》させろ!」
カシューは新たに、そう命令を下した。
「いきなり、忙しくなりましたな」
そのとき、傭兵《ようへい》隊長シャダムが謁見《えっけん》の間に戻ってきた。すでに、顔色も表情もいつもの彼に戻っている。あわただしく動きまわる人々を愉快《ゆ かい》そうに見つめてはいるが、まったく無関心なそぶりである。
シャダムの後には、宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》のスレインが続いていた。
「|騎士《きし》団の将軍たちには、出撃《しゅつげき》準備を急ぐように命令した。明後日には兵を動かす。アラニアを一気に抜《ぬ》いて、マーモを本国まで追いつめ滅《ほろ》ぼすぞ」
「それでは、わたしも傭兵たちの出撃準備を急がせましょう」
難しい問題はお任せします、とでもいうように傭兵隊長は深く一礼してから、カシューの前から辞した。
「カシュー陛下……」
スレインはカシューの前に進みでると、かるく一礼をする。顔色は蒼白《そうはく》で、病人のそれよりなおひどかった。
「場所を変えよう。ここでは、ゆっくりと話もできん」
カシューはスレインにうなずきかけると、賊の追跡《ついせき》の指揮は衛士長に任せた。そして、パーンたちをうながすと、謁見《えっけん》の間の奥《おく》へと歩きはじめた。
「スパークの意識が戻《もど》ったら、すぐに奥まで来るように伝えろ」
謁見の間を出るとき、カシューはひとりの衛兵にそう命令しておいた。衛兵はカシューの命令を復唱すると走りさっていく。スパークのところへ向かったのだろう。
謁見の間の奥に設けられた扉《とびら》から、カシューたちは廊下《ろうか 》へと出た。通路は左へと延びていて、つきあたりに螺旋階段《ら せんかいだん》が見えた。
カシューは螺旋階段をひたすら登っていく。
どこへ行くのだろうとパーンが思ったとき、スレインが彼の疑問を見透《みす》かしたかのように、この先には国王の私室があるのですよ、と小声で教えてくれた。
階段を登りきったところには、鉄製の扉があり、その両側にふたりの若い騎士が控《ひか》えていた。肩《かた》に近衛隊《こ の えたい》の隊章を付けている。カシューたちを見るとうやうやしく礼をし、王妃《おうひ 》が部屋に戻《もど》っている旨《むね》を伝えた。
「後で、スパークがやってくるはずだ。かまわないから、中へ通せ」
カシューは近衛の騎士に命じ、扉を開けさせた。
完全に開くまで待てないように、カシューは奥へとさっさと入っていく。廊下はさらにまっすぐ延びており、十歩ほどで、ふたたび扉となっていた。
その扉が静かに開き、宴《うたげ》のときの正装《せいそう》を身につけたままの王妃ナフカが姿を現わした。不安そうな表情で、王妃は主人を出迎《で むか》えた。
「何か飲み物を頼《たの》む。酒はいらんぞ」
「はい、陛下」
王妃は静かにうなずくと、扉をいっぱいに開けて、カシューたちを迎えいれた。
部屋はいかにも国王の居室らしく、豪勢《ごうせい》な調度品が並《なら》んでいた。部屋の四方に扉があり、そのうちの右の扉からナフカ王妃は出ていった。
パーンたちは向かい合わせに配置されたソファーを勧められた。入口に近い方を選んで、パーンとディードリットが腰《こし》を下ろす。カシューとスレインは、パーンの向かいのソファーに並《なら》んで座った。
「恐《おそ》れていたことが起こったな……」カシューが、切りだした。
「まったくです」
親指と人差し指で両目を押《お》さえながら、スレインが相槌《あいづち》を打った。
「あの扉にかけていた|魔法《ま ほう》の鍵《かぎ》が破られるとは、己の力を過信しましたね。賊《ぞく》の中には、かなりの実力をもった魔術師《ソーサラー》がいるはずです」
「教えてくださいますね」静かに、パーンは申し出た。
「事態がはっきりした以上、おまえには教えておこう。だが、他言は無用だぞ。この事が兵なり民なりに知れれば、恐慌《きょうこう》が起こるかもしれんからな」
パーンは緊張《きんちょう》した面持ちでうなずいた。
そのとき、ナフカ王妃が戻《もど》ってきて、グラスに水を入れて運んできた。
扉が開く音に、全員の視線がナフカ王妃に注がれる。王妃はびくりとして扉のところで一旦《いったん》、立ち止まった。それから、華《はな》やかな笑顔を見せて、ひとりずつにグラスを手渡《て わた》していく。
水の入ったグラスを見て、パーンは自分の喉《のど》がずいぶん渇《かわ》いていることを知った。一口、口をつけると、水は冷たく、酸味のきいた果汁の風味がわずかにした。
パーンは恐縮《きょうしゅく》したように、ナフカ王妃に頭を下げた。
カシューが彼女を婚姻《こんいん》の相手に選んだのは、たぶんに政略的な思惑《おもわく》があるに違《ちが》いない。しかし、それだけの理由でカシューが、妃《きさき》を選ぶとは思えなかった。相手が誰でもよいのなら、これほど婚姻を遅《おく》らせたりはしないはずだ。
宴の席で初めて王妃を紹介《しょうかい》され、しばらく話しているうちに、パーンはいかにもカシュー好みの女性だとの感想を抱《いだ》いたものだ。砂漠《さ ばく》の民の女性らしく、気さくで陽気、そして快活な印象を受けた。話では乗馬も剣術《けんじゅつ》もなかなかの腕前《うでまえ》らしい。傭兵《ようへい》隊長のシャダムが、いつものように表情を変えず、近衛《こ の え》の者をひとり増やすつもりで嫁《とつ》がせたと言ったのが印象的だった。
ふたたび笑顔を浮《う》かべて、皆に挨拶《あいさつ》をすると、ナフカ王妃は部屋から出ていった。
王妃を見送ってから、全員の表情がふたたびひきしめられる。
「パーンたちには、わたしから話をいたしましょう」スレインはそう言うと、カシューの返事も待たずに、そのまま先を続けた。
「恐《おそ》ろしい企《たくら》みが、マーモでひそかに進められていたのです。邪神《じゃしん》カーディスを復活させるという企みがね」
「邪神、カーディスだって」
パーンは、それがどうしたとでも言うように尋《たず》ねかえしていた。
邪神を復活させようなど、パーンにとっては、まったく現実味のない話だった。相手は破壊《は かい》の女神なのである。
「カーディスを復活させてどうしようというんだ?」パーンはスレインに尋《たず》ねた。
「カーディスは破壊の女神だ。世界を破壊するために生まれた邪神だと聞いている。復活させても、いいことなんか何もない。正気の人間なら、まだ暗黒神ファラリスを復活させることを望むだろう」
「まったくです。相手が狂気《きょうき》に冒《おか》されていないことを祈《いの》るばかりです」
「誰《だれ》が企《たくら》んでいるんだ。闇《やみ》の大司祭か、それともダークエルフの族長?」
「黒の導師です、黒の導師バグナード。これだけは間違《ま ちが》いありません」
「破壊《は かい》の女神を復活させてどうしようというんだ?」
パーンはふたたび尋ねた。まったく納得がいかなかった。
バグナードは恐《おそ》るべき魔術師だと聞いている。邪悪《じゃあく》な男なのは間違いないが、決して愚《おろ》かではないはずだ。たとえばバグナードがロードスの、いや世界の征服を目論《もくろ 》んでいるとしよう。ところが、破壊の女神を復活させてしまっては、征服すべき世界そのものがなくなってしまうのである。
ロードス島創世神話の伝えるところによれば、破壊の女神カーディスは、大地母神マーファとともに、ロードス島創世に携《たずさ》わった二柱の女神のひとりと伝えられている。
神話時代の終わり、世界創造のなかばにして、神々は光と闇の陣営《じんえい》に分かれ、互《たが》いを滅《ほろ》ぼさんと争ったという。これが神々の戦である。この戦のおり、現在のマーモ島にある闇の森に座した邪神《じゃしん》カーディスは、アラニアの白竜《はくりゅう》山脈に立つ創造の女神マーファと激《はげ》しい戦いを演じたとされる。女神たちは竜王たちを支配し、上位精霊を召喚《しょうかん》し、妖精《ようせい》や妖魔《ようま 》たちを従僕とし、いつまでも戦いつづけた。
しかし、マーファの石化の魔力がついにカーディスを捕《と》らえ、長きにわたった戦いは光の女神の勝利に終わるかと思われた。しかし、カーディスは自らの最期のときに、恐《おそ》るべき呪《のろ》いを大地にかけた。地続きの大地を残らず腐《くさ》らせる呪いであったという。
マーファは大地を浄化《じょうか》するべく、その魔力を残らず注《つ》ぎこんだ。その隙《すき》をつくように、五匹の竜王がマーファの身体を焼きつくし、大地母神もまた滅《ほろ》びの運命を迎《むか》えたとされる。
最期のときを迎え、マーファもまた偉大《い だい》な奇跡《き せき》を行なった。大地を大陸より切り離《はな》し、カーディスの呪いが広がらないようにした。同時に、カーディスの骸《むくろ》を地下深くに封《ふう》じこめ、マーモの地を海の底に沈《しず》めようと試みた。だが、この試みのみは成功しなかったのである。
マーモはロードスと海を隔《へだ》てる孤島《こ とう》となったが、海底に没《ぼっ》することはなかったからだ。
しかし、なにしろ神話の話だ。どこまでが真実で、どこまでが後世になって創作されたのか、見当もつかない。各教団には、それぞれの創世神話があり、その内容が異なっているというのが、現実なのだ。
パーンが思いだしたのは、マーファ教団に伝えられているロードス島創世の神話である。他の教団ではどんな神話が語られているか、くわしくは知らない。
「何が目的でバグナードは……」
パーンは首をかしげるばかりだった。スレインの言うとおり、相手の正気を疑いたくなってくる。
「本人に聞いてみてください」
スレインは、なげやりな調子で言いすてた。
「同じ魔術師《ソーサラー》なのでしょう。なにか心当りはないの?」
ディードリットがいらだったように尋《たず》ねた。スレインの言い方が気に障《さわ》ったみたいだった。
「もっとくわしく話してくれ」
パーンの言葉に、スレインは深くうなずき、ふたたび話を続けた。
スレインの話は、一年前にさかのぼった。死の床《とこ》にあった義母のニースから教えられた話である。
六|英雄《えいゆう》のひとりニース最高司祭は、死の床に着く前に、礼拝所に長くこもっていたという。そして、ある神託《しんたく》を得たのだ。それは、邪悪《じゃあく》な女神の復活の兆《きざ》しを告げる神託だった。このときの無理がたたったものか、それとも本人が語ったとおり、人の寿命《じゅみょう》というものか、ニースは十日ほど後に帰らぬ人となった。
彼女の死の直前、他の六英雄たちがマーファ神殿に姿を現わし、ニースに別れを告げたという。
その話を聞いて、パーンの目の色が変わった。
「ウッドも、いやカーラも来たのか?」
「ええ、姿を現わしました。もっとも、わたしは直接、会っていませんがね」
「まだ、無事だったんだ。ウッドは……」
豪華《ごうか 》なランプのつりさがっている天井《てんじょう》を見上げると、パーンは安堵《あんど 》とも失望ともとれるため息をひとつついた。
「そして、カーラからも解放されていません」
「オレが絶対に救いだしてやるさ」パーンは声を震《ふる》わせながら決意を新たにした。
「そのためにも、この戦いをはやく終わらせて……」
言いかけてパーンは、もうひとつの問題に気がついた。カーラが邪神カーディスの復活の企《くわだ》てを、黙《だま》って見ているはずがないのだ。
あの灰色の魔女《ま じょ》は、ロードスがひとつにまとまらないように、事あるたびに歴史に介入《かいにゅう》してきた。古代王国が滅亡《めつぼう》したときに起こった壮絶《そうぜつ》な破壊《は かい》や殺戮《さつりく》を、目《ま》の当たりにしたからだ。彼女の悲しみは理解できる。しかし、彼女自身がロードスにもたらした数々の悲劇は、絶対に容赦《ようしゃ》することができない。
「もしかして、カーラも動きはじめたのか?」
「たぶん。そして、大賢者《だいけんじゃ》ウォートもね」
パーンはちょっと複雑な顔をした。あの老魔術師《ろうまじゅつし 》はあまり信用する気になれなかったのだ。
「変わった人ですが、悪人ではありませんよ。あの人が住む塔《とう》の下には、何があると思います。わたしも、最近、知ったのですが、最も深き迷宮≠ネのですよ。大賢者は、魔神《ま じん》戦争のような悲劇が二度と繰り返されぬよう、あの迷宮の入口に塔を建てて、一生をそこで暮らす決心をされたのです」
スレインによれば、ウォートは実に協力的だった。自らが保有する魔法の宝物をいくつもスレインに託《たく》し、破壊《は かい》の女神とその教団の伝承を伝える書物や五つの太守《たいしゅ》の秘宝≠ノ関する研究書を譲《ゆず》ってもくれた。
「ふたつの鍵《かぎ》、ひとつの扉《とびら》、かくしてカーディスは蘇《よみがえ》らん」呪文《じゅもん》を詠唱《えいしょう》するかのように、スレインはそうつぶやいた。
「何かの伝説か?」パーンは尋《たず》ねかえした。
「ふたつの鍵とは、二種の祭器のことです。すなわち、ひとつは魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》、もうひとつは生命の杖《つえ》」
「そのふたつなら、聞いたことがあるぞ。ともに、太守の秘宝じゃないのか?」
太守の秘宝の伝説ならば、パーンも知っていた。古代王国のロードス太守が、この島の統治のために使ったという五つの魔法の宝物のことだ。いずれも、強い魔力を秘めていたようで、そのうちのひとつ支配の王錫《おうしゃく》≠巡《めぐ》っては、アシュラムと激《はげ》しい争奪《そうだつ》戦を行なった。
残る四つは、生命の杖、魂の水晶球、真実の鏡、知識の額冠《サークレット》と呼ばれる。生命の杖は、肉体の傷を完全に癒《いや》し、魂の水晶球は死者を復活させる。真実の鏡は、あらゆる問いに対し、真実の姿を映しだすとされ、知識の額冠は古代王国のすべての知識が、その中に蓄えられているとされる。
真実の鏡はカーラの手にある。知識の額冠は黒翼《こくよく》の邪竜《じゃりゅう》ナースが守っていたから、今はおそらく黒の導師が保有しているだろう。
「わたしたち魔術師は、生命の力に関しては無知といってもよいのです。司祭たちは、神より癒しの力を与えられていますが……。それなのに、生命の杖、魂の水晶球は人の生命、魂に働きかける魔力を持っています。おかしいとは思いませんか?」
パーンは露骨《ろ こつ》に迷惑《めいわく》そうな顔をした。魔術に関する質問をされて答えられる訳がないのだ。
「つまり、生命の杖は古代王国の魔術師たちが作った物ではないということよ」
ディードリットが、パーンにそっと耳打ちした。
「魔術師じゃないとすると、いったい誰が作ったんだ」
パーンは咎《とが》めるように、スレインに尋ねた。
「祭器とは、高位の司祭たちが作りあげる魔法の宝物なのです。司祭たちが自らの身体に不死なる神の魂を降臨《こうりん》させ、神の力を借りて作りだすと聞いています。神の魂《たましい》を受け入れた人間は、ほとんどの場合、命を失ってしまうそうですが……」
無限ともいえる神々の魂を受け入れるには、人間という器はあまりにも小さいということだ。パーンにも、それぐらいは分かった。
「もっとも、例外もあるのですがね。義母は魔神《ま じん》との戦いのおり、自らに大地母神を降臨させてなお、命を保ったと聞いていますから。それに、邪神《じゃしん》の司祭たちは、生贄《いけにえ》の身体に邪神を降臨させて、同じことをするそうです」
「だったら、世の中には邪神の祭器ばかり溢《あふ》れかえっているはずだわ」
ディードリットが悲鳴にも似た声をあげた。パーンは彼女の膝《ひざ》を右手でかるく叩《たた》いて、落ち着けよと合図をした。
「邪悪な神々の教団の力は、さいわいにして大きくありません。このロードスでは、暗黒神ファラリスの教団がマーモに勢力を持っているぐらいでしょう。カーディス教団はアラニア建国王により、壌滅《かいめつ》させられたとされています……」
そう言った後に、スレインは苦悩《く のう》の表情を浮《う》かべた。
「それに生贄といっても、誰でもというわけにはいきません。修行さえつめば、高位の司祭になれるぐらいの人物でなければ、邪神の魂が降臨したとたん、精神がくだけちってしまい、役に立たないのだそうです」
「どっちにしても、気持ちのいい話じゃないな」
「まったくです」スレインはうんざりとした声を出した。そして、説明を続ける。
「ふたつの鍵《かぎ》、ひとつの扉《とびら》。この謎《なぞ》かけの答はこうです。魂の水晶球、生命の杖《つえ》、このふたつの祭器が鍵。そして、ひとつの扉とは女神を降臨させるための器、すなわち生贄《いけにえ》と考えられます。この三つがそろえば、邪神カーディスが復活を遂《と》げる」
「信じられない話だが……」パーンは何かを打ち消すかのように、何度も首を横に振った。
「そういえば、カシュー王。宝物庫から盗《ぬす》まれたのは、祭器だとおっしゃっていましたね」
「いかにも言った」カシューはゆっくりと答えた。
「奪《うば》われたのは祭器のひとつ、魂の水晶球だ。あの秘宝を手に入れたのは、おまえの仲間だったではないか。忘れたか」
もちろん、パーンは覚えていた。グラスランナーのマールが、アシュラムたちの手中から奪い取ったのだ。
「そんな危険な物だったら、なぜ壊《こわ》さなかったのです!」
「何度も試みましたよ」声を荒《あ》らげたパーンを諭《さと》すような調子で、スレインが答えた。
「しかし、なにしろ相手は強い力を秘めた魔法の宝物。守りの力も強くて、とても壊すことができませんでした」
「壊せないなら、いっそ自分の手元においておくほうが安心だと思ったのだ。誰かに奪われたとしても、すぐに手を打てるからな」
「話は分かりました」
高ぶっていた気持ちを落ち着けようと、パーンは大きく息を吸いこんだ。しばらく胸にためてから、ゆっくりと息を吐《は》きだした。そして、
「つまり、残るひとつの鍵《かぎ》と、扉《とびら》となるべき生贄《いけにえ》を手に入れたなら、邪神《じゃしん》はこの世に復活を遂《と》げるということだ」
と言った。
「そんなことになれば……」
ディードリットは、恐《おそ》ろしくて、それ以上、口に出すことができないように絶句した。
「そう、ロードスはおろか、世界が滅《ほろ》んでしまう。なんとしても、黒の導師の企《たくら》みを阻止《そし》しなければな」
カシューが念を押《お》すかのように、パーンたちひとりひとりに視線を向けていった。
ディードリットはカシューから視線を向けられると、エルフ語とおぼしき言葉をそっと口にした。
「祭器を盗《ぬす》んだダークエルフを捕《と》らえなければ。それから、もうひとつの鍵を何としてでも手に入れないと」
「いずれも、難しいだろうな。ダークエルフは神出鬼没《しんしゅつきぼつ》だ。いかに包囲|網《もう》を厳しくしようと、姿を消すなり、それこそ水の底を進むなりして、奴《やつ》らは突破《とっぱ 》するに違《ちが》いない。それにもうひとつの鍵、生命の杖《つえ》があるのは、他ならぬヴァリスのファリス神殿だ。まさか、奪《うば》ってくるわけにもいかないだろう」
「そんな悠長《ゆうちょう》なことを言ってて、大丈夫《だいじょうぶ》なのですか」
パーンはいらだちを押《お》さえきれず、拳《こぶし》を小さくうち鳴らした。
「落ち着け、パーン。我々がなすべきことは、一刻も早く、マーモを討つことだ。ヴァリスへは使いをたてて警告する。エト王ならば、ファリス神殿にも話をつけやすいはずだ。しかるべく、手を打ってくれるだろう」
カシュー王の言うとおりだった。捕《つか》まるかどうか分からないダークエルフを追いかけるよりも、すぐにでも軍を動かしたほうが、まだ望みがあるかもしれない。なにより、今の自分は、カノン解放のために全力を尽《つ》くさねばならない身である。
自分ひとりでできることはたかが知れている。いてもたってもいられない気分だが、魂の水晶球を追いかけるのは、誰《だれ》か他の者に委《ゆだ》ねるしかない。そして、ファリス神殿にある生命の杖を守る任務もだ。
そのとき、扉《とびら》を叩《たた》く音がした。
ふたたび、全員が一斉《いっせい》に扉の方を向く。カシューがぶっきらぼうに、入れと、声をかけた。
扉を開けて入ってきたのは、スパークという名の|騎士《きし》見習いだった。その姿を見て、パーンの頭の中に、ひとつ閃《ひらめ》いたものがあった。
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|魔法《ま ほう》で負った火傷《や け ど》と短剣《ダ ガ ー》による傷を癒《いや》されて、しばらくしてから、スパークは目を覚ました。目の前に戦《いくさ》の神の宮廷付《きゅうていつ》き司祭であるグリーバスの顔があった。髭面《ひげづら》でだんご鼻、いかにもドワーフらしい容貌《ようぼう》をしている。
北のドワーフ族の出身で、モスのマイリー神殿で修行を積んだ後、ホッブ司祭に従って、このフレイムにやってきた。今は、フレイム宮廷付きの司祭となり、戦の神の教えを|騎士《きし》たちに布教している。
そして、もうひとり、グリーバスのそばに控《ひか》えていた衛兵は、カシューが呼んでいることを、目覚めたばかりのスパークに伝えた。
スパークはグリーバスに癒してくれた礼を言うと、唇《くちびる》を噛《か》みながら、国王の私室までやってきた。処刑場《しょけいじょう》までの道のりを歩かされる囚人《しゅうじん》の気分だった。
扉《とびら》を叩《たた》くと、中からカシューの声が入れと告げてきた。スパークは、背筋を伸《の》ばし、扉の把手《とって 》に手をかけた。それから、ゆっくりと扉を押《お》し開ける。
「騎士見習いスパーク、参りました」
カシューは鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「賊《ぞく》に関する報告をせよ」
カシューの声は事務的だった。スパークは直立不動の姿勢で、宝物庫へと向かったところから、賊との戦いまでを簡潔《かんけつ》にまとめて話した。
「なぜ、すぐに賊の侵入《しんにゅう》を知らせなかった?」
カシューの声が厳しさをましていた。
スパークは正直に答えることにした。
「はい、自分の手柄《て がら》にしたかったからです」
「愚《おろ》か者!」カシューは大声でスパークを叱《しか》った。
「たとえ、賊を成敗《せいばい》したとて、手柄になどなるものか。賊の侵入を知らせることが、おまえがなすべきことだったのだ。功名心にはやり、己を見失うような男に、フレイムの騎士が務まると思うか!」
「申し訳ありません……」スパークはうつむいて、拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
「下がれ。そして、次の命令あるまで詰所《つめしょ》で待機しておれ。分かったな」
スパークは、顔をあげ、わずかに口を開いた。ひとつだけ、カシューに願いがあった。賊の追跡《ついせき》を命じてほしかったのだ。盗《ぬす》まれた宝物は、なんとしても、自らの手で取り戻《もど》したかった。
しかし、喉《のど》まで出かかった言葉をスパークは飲みこんだ。自分が何を言おうと、カシューが聞きとどけてくれるとは思えなかったから。
「分かりました……」
それだけを言うと、静かに一礼をして、スパークは国王の部屋を後にした。
パーンは部屋に入ってきてからの若者の表情をずっと追いかけていた。
部屋に入ってきたとき、若い騎士見習いは、激《はげ》しい後悔《こうかい》の念に捉《と》らわれていた。そして、ひどく落胆《らくたん》してもいた。
しかし、部屋を出る直前に、一瞬《いっしゅん》だけだが、若者は己の内に秘めた決意をかいまみせた。何も口にはしなかったが、間違《ま ちが》いなく何かを言いだそうとした。そのときの、若者の目をパーンは見逃《み のが》さなかった。パーンは、先程、自分の頭の中に閃《ひらめ》いた考えが間違ってはいないという確信を抱《いだ》いた。
「陛下にお願いがあります」
パーンは姿勢を正して、あらたまった態度をとった。
「どうした?」
「あの若者にもう一度だけ機会を与えていただきたいのです。魂の水晶球の探索《たんさく》を、彼に命じるようお願いいたします」
カシューはいぶかしむような目で、パーンをじろりと見た。
「陛下がおっしゃったではありませんか。あの若者をただの|騎士《きし》では終わらせたくないと。このままだと、彼は命令を忠実に守るだけの男になってしまいます。それは、陛下の望むところではないのでしょう」
「いかにも、その通りだ」
カシューはパーンの言葉に興味を抱いたかのようだった。眉《まゆ》がぴくりと動き、口許《くちもと》がかすかに緩《ゆる》む。
「自らの責任を自覚させるためにも、魂の水晶球を奪還《だっかん》する任務を彼に与えてやってほしいのです。成功しても、失敗しても、きっと何か得るところがあるでしょう」
「なるほど、経験から出た言葉は、説得力があるな」カシューはそう言って、にやりとした。
カシューの言葉の意味を理解して、パーンはすこし照れた表情になった。昔《むかし》の自分を思いだしたからだ。
「分かった、オレはオレで別の任務を与えるつもりだったが、おまえの意見を採《と》らせてもらおう」
「ヴァリスヘの使いに出そうと考えておられたのでしょう」
スレインがそう指摘《し てき》した。
カシューは、その通りだ、とうなずいた。
「だったら、その両方を任せることができるんじゃないかしら」
ディードリットはパーンだけに囁《ささや》くように言った。
「意見があるなら、かまわず言ってくれ」
カシューがディードリットの様子に気がついて、彼女をうながした。ディードリットは首をこくりとさせて、パーンに言った言葉をもう一度、今度は全員に聞こえるように、繰り返した。
「ブレードからカノンヘ向かうには東か南の街道を通らねばなりません。でも、あたしなら東へは行きません。ダークエルフたちも間違《ま ちが》いなく森の妖精《ようせい》。砂漠越《さ ばくご 》えは、つらいはずです。それに砂漠だと隠《かく》れる場所もありませんし、足跡《あしあと》を隠すこともできません。もしも南に出たとすれば、後はヴァリスまで山越えの一本道。街道で捕《つか》まえられる可能性は、かなり高いと思います」
「なるほどな」
カシューは顎髭《あごひげ》に手をかけながら、自分の考えをまとめているようだった。それから、二度ほど大きくうなずくと、その手でいくか、とつぶやいた。
「重大な使命だ。スパークだけに、任せる訳にはいかないだろう。東にも一隊、南にはスパークを含《ふく》めて二隊だそう。志願者は傭兵隊から募《つの》ろう。魔法使いを特に優先させてな」
「それが、よろしいでしょう」
そう言うと、スレインはソファーから立ち上がった。パーンもディードリットも、スレインに倣《なら》う。
カシューが最後に立ち上がる。
「そうと決まれば、すぐに行動だ。スパークの成功を手をこまねいて待っているわけにもいかん。我々にはラスター公爵《こうしゃく》を、そしてマーモを討ち、ロードスの戦乱を終結させるという使命がある。決して、容易《た や す》い使命ではないぞ」
「はい」
パーンはようやくふっきれた顔になった。何をなすべきか決めたなら、もはや悩《なや》んでも仕方がないのだ。パーンの心は、すでにカノンへと飛んでいた。明日にでも立つつもりでいた。しかし、その前にひとつだけ、やっておきたいことがあった。
|騎士《きし》たちの詰所《つめしょ》には、何人もの騎士たちが、物々しい格好《かっこう》で待機していた。あちらこちらから、武具が打ち鳴らされる金属音が聞こえてくる。それから、仲間同士で呼び合う声。
カシュー王の私室から戻《もど》ってきたスパークは、部屋の一番|奥《おく》に据《す》えられていた長椅子《ながい す 》に腰《こし》を下ろし、身じろぎひとつしなかった。心の中では、今すぐにでも飛びだして、ダークエルフを追いかけたい衝動《しょうどう》と闘《たたか》っていた。
ひとりで勝てる相手とは思っていない。しかし、これ以上、生き恥《はじ》をさらすぐらいなら、死んだほうがましだという気持ちになっていた。
周囲の騎士からは、冷ややかな視線が向けられている。それは、部屋に入ったときから、ずっと感じていた。
いつもならば、その視線を堂々と受け止めることができた。しかし、今はとてもそんな気になれなかった。本当なら、頭を抱《かか》えてうずくまりたいのだが、それだけはかろうじて我慢《が まん》している。それほどに、心が脆《もろ》くなっていた。まるで、陶器《とうき 》で作られた人形のように、わずかな衝撃《しょうげき》でも、粉微塵《こなみ じん》になってしまいそうだった。
スパークは、腰《こし》の鞘《さや》にそっと手を触《ふ》れた。そこには| 剣 《ブロードソード》はなかった。ダークエルフから逃《に》げるときに、彼はそれを投げ捨てていたからだ。重い剣を持っていては、逃げきれるものではない。とっさのことだったが、そう判断したのだ。
おかげで、スパークは命を失わずにすんだ。もしも、剣を捨てていなければ、ダークエルフの短剣《ダ ガ ー》は、背中から心臓をえぐっていたことだろう。その代わりに、臆病者《おくびょうもの》との烙印《らくいん》を押されてしまった。
「何もかもが、最悪の結果になる」
幸運の神に見放されたのか、とスパークは思った。とにかく、今日は昼間から、まったくついていなかった。しかし、自分の判断が間違《ま ちが》っていたことも事実だ。そうでなければ、これほどの苦境に立たされはしなかったろう。
炎《ほのお》の部族の民に申し訳ないとも思う。
と、大きな音を立てて扉《とびら》が開いた。あまりの大きさに、意気|消沈《しょうちん》していたスパークですら、顔をあげてしまった。
板金鎧《プレートメイル》に身を包んだ男が、部屋に入ってきた。髪《かみ》を短く刈りこみ、頬《ほお》に刀傷《かたなきず》がある。| 戦 斧 《バトルアックス》と円形楯《ラウンドシールド》を無雑作に背中にくくりつけている。あきらかに傭兵《ようへい》ふうの男だった。
「ここに、スパークっていう間抜《まぬ》け野郎はいるかい?」
傭兵は、ぐるりと騎士たちを見回すと、大声でそう言った。
「オレがその間抜け野郎だ」
いきなり無礼な言葉を吐《は》かれては、さすがのスパークも腹立ちを押《お》さえきれなかった。傭兵は、騎士見習いより身分は低いのだ。傭兵ごときに、間抜け呼ばわりされるいわれはない。
「隊長からの命令で、やってきた。今日からあんたがオレの隊長だ。よろしくな」
傭兵は悪びれた様子もなく、スパークに手を差《さ》し伸べてきた。そして、憮然《ぶ ぜん》とした顔のスパークの手を強引に取って握手《あくしゅ》をした。
「オレの名前は、ギャラック。蒼《あお》く流れる星っていう恥《はず》かしいふたつ名で呼ぶ奴《やつ》もいるが、できれば、名前で呼んでほしいな」
それから、ギャラックと名乗った傭兵は、尋《たず》ねもしないのに、自分の頬の刀傷を見せながら、ふたつ名の由来を説明しはじめた。
傭兵は浅黒い肌《はだ》をしていたが、頬の傷跡《きずあと》のところだけが青白かった。本人によれば、形が流星に似ているとの説明だが、スパークには地虫が這《は》った跡のようだと思った。先程の無礼に対する怒《いか》りも手伝って、蒼く這いずる地虫と呼べばよかったのだ、とスパークはひそかに思った。
「それよりも、シャダム公からの命令とはどういうことなんだ?」
スパークは尋《たず》ねた。騎士はお払《はら》い箱で、傭兵隊《ようへいたい》にでも編入されたのだろうか?
「何だって、まだ隊長に命令がいってないのか。こりゃあ、参ったな」
ギャラックは短く刈《か》った頭をかきむしりながら、スパークが腰《こし》を下ろしていた長椅子《ながい す 》に座りこんだ。
「オレは、あんたを手伝えって命令しか受けてないんだ。そのあんたが、何の命令も受けていないなら、オレにできることはひとつだけだ」
「ひとつだけ?」
「待つんだよ。決まっているじゃないか」
そして、ギャラックは隣《となり》に座るように、とスパークを誘《さそ》った。
「命令があるまでは、体力を温存しておくってのが、傭兵というもんさ」
そう言うと、ギャラックは腕《うで》も足も組んで、後ろの壁《かべ》に背中をもたせかけた。そして、目をつぶった。
「隊長さんも落ち込んでいる暇《ひま》があったら、寝《ね》ていたほうがいいぜ」
ギャラックはそうつぶやくと、規則正しい息をしはじめた。スパークが茫然《ぼうぜん》と見守るうちに、それは寝息《ね いき》に変わっていた。
「なんて男だ」
スパークはあきれていた。傭兵には変わり者が多い。しかし、この男は飛び抜《ぬ》けているに違《ちが》いない。
「あ、ここだ、ここ」
ギャラックが開け放したままの扉《とびら》の方から、独り言をつぶやく声が、スパークの耳に届いた。
ずいぶんと高い声だなと思ったが、部屋に入ってきたのは、ひとりの少女だった。
|硬 革 《ハードレザー》の鎧《よろい》を身につけて、短槍《スピア》で|武装《ぶ そう》している。驚《おどろ》くべきことに、彼女も傭兵みたいだった。そして、もっと驚くべきことに、少女にはエルフの血がまじっていた。半妖精《はんようせい》、ハーフエルフなのである。
「ここは、女、子供の来るところじゃないぞ」
ひとりの騎士がハーフエルフの少女を追いかえそうと立ち上がった。
「命令できたんだから、しょうがないわ。文句があるなら、シャダム隊長に言ってよね」
ハーフエルフの少女は、騎士を睨《にら》みかえすと、まっすぐに部屋の奥《おく》まで入ってきた。
隣《となり》で眠《ねむ》っていたはずのギャラックが、片手をあげて、少女を招きよせていたのだ。
「ギャラック、あなたも一緒《いっしょ》なの。こりゃあ、まともな任務じゃないな」
少女はそれでなくても大きな目をいっぱいに開いて、伸《の》ばしたギャラックの足を蹴飛《けと》ばした。ギャラックは身を起こすと、無邪気《む じゃき 》な笑い声をあげるハーフエルフを睨《にら》みかえした。
「怒《おこ》らないの。それより、新しい隊長を紹介《しょうかい》してよ」
少女はスパークを指差しながら言った。
「スパークだ」
憮然《ぶ ぜん》とした声でスパークは答えた。指をさされたのが癇《かん》に障《さわ》ったのだ。
「あたしはリーフ、見てのとおりのハーフエルフよ。年齢は絶対に聞かないで」
「半妖精《はんようせい》の年齢なんて知りたくもない」
スパークは不機嫌《ふ き げん》な声で言った。
「あら、そう。聞けば面白かったのに……」
少女は残念そうにつぶやいている。
今のスパークには、少女の陽気さが疎《うと》ましかった。
自分はカシューに叱責《しっせき》されて、|騎士《きし》の詰所《つめしょ》で待機するよう命じられた。新たな命令を待つためだったが、良い知らせだとは思えなかった。見習いの資格も剥奪《はくだつ》されて、槍持《やりも 》ちの従卒に降格させられるだろうと覚悟《かくご 》していた。わずかな望みがあるとすれば、従卒となって戦に参加できることだ。しかし、仕える騎士も泱まっていないのでは、その望みもうすい。
そんな絶望的な気持ちで、スパークは待機していたのだ。
それなのにやってきたのは、カシュー王からの命令ではなく、奇妙《きみょう》なふたりの傭兵《ようへい》だった。これはいったいどういう訳なのだろうか?
小鬼《こ おに》に化《ば》かされたような思いで、スパークはギャラックとリーフのふたりを見比べた。彼らに下された命令とはどんなものだったのだろうか。
その疑問はすぐに解けた。
カシュー王その人が、姿を現わしたからだった。そばには、パーンとディードリット、宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》スレインの姿もあった。そして、もうひとりグリーバス司祭も一緒《いっしょ》だった。
国王の突然《とつぜん》の来訪に、詰所《つめしょ》にいた騎士たち全員が直立し、不動の姿勢をとった。もちろん、スパークも例外ではなかった。
礼儀《れいぎ 》知らずの傭兵たちもさすがに、畏《かしこ》まっている。
「騎士見習いスパークに命じる」カシューはいきなりそう切り出した。
「ひとつは、ヴァリス国王に親書を届けること。もうひとつは、南の街道に逃《のが》れたと思われる賊《ぞく》を追跡《ついせき》し、奪《うば》われた宝物を奪還《だっかん》のこと」
スパークは信じられない言葉を聞いた。降格を覚悟していたぐらいなのである、まさか懲罰《ちょうばつ》も課せられずに、国王からの任務を与えられるとは思ってもみなかった。それも、まさに自分が願っていたことだ。
身体《か ら だ》に震《ふる》えが走っていた。
「喜ぶな、スパーク。騎士たちの多くが戦《いくさ》に出るゆえに、仕方なくおまえに命令するのだ。任務を達成するまで、この王城の門をくぐれるとは思うなよ」
カシューは厳しい声をだした。
任務の達成など期待してもいないということか、とスパークは思った。ヴァリス王への親書は、二通以上したためられているはずだ。そして、ひとつは早馬でヴァリスヘと向かっているに違《ちが》いない。重要な連絡は複数の者に託《たく》すというのが、カシューのいつものやり方だった。
しかし、期待されていないことは、それほどの衝撃《しょうげき》ではなかった。自分の望みがかなえられたとの興奮のほうが大きかった。
「一命に代えましても」
スパークはカシュー王から親書を受け取りながら、そう誓《ちか》った。
カシューは不機嫌《ふ き げん》な顔でスパークを一瞥《いちべつ》する。それから、奥《おく》の方で様子をうかがっている傭兵《ようへい》たちを振《ふ》り返った。
「貴様たちの任務も、今、聞いたとおりだ。後はこの騎士見習いの命令に従ってくれ」
「命に代えましても」
忍《しの》び笑いを洩《も》らしながら、リーフがスパークの真似《まね》をする。
「部下はオレとリーフのふたりだけですかい」
ギャラックが、カシューに質問をした。
「傭兵隊《ようへいたい》からの人選は、シャダムに任せたからな。もうひとり、魔術師のアルド・ノーバが加わるはずだ」
アルド・ノーバの名は、スパークも知っていた。
風の部族の民から選ばれ、フレイムの宮廷魔術師になるべく、十数年も修行を続けてきた人物だった。スレインがカシューの招聘《しょうへい》に応じたので、宮廷魔術師の役目はこの北の賢者《けんじゃ》に譲《ゆず》っているが、導師級の魔術を修得していることは間違《ま ちが》いがない。
魔術師とは思えないような大男なのだが、性格はきわめて穏《おだ》やかで、一介《いっかい》の文官にすぎない自分の立場にも何の不満も洩《も》らさない。たしか、宝物管理の責任者だったはずで、宝物庫を襲《おそ》われた責任から、協力を申し出たのだろう。
精霊《せいれい》魔術を使うダークエルフを追いかけるには、心強い味方だ。それで、気がついたのだが、ハーフエルフの少女も、精霊魔法を使えるに違いない。
カシューはダークエルフと戦うために、心強い仲間をスパークに預けてくれている。それは間違いがない。これで任務を果たせなければ、自分は無能だとの烙印《らくいん》を押《お》されるに違いない。カシューの言うとおり、任務を果たすまで自分は絶対にフレイムには帰れない。
「他に質問はないか?」
カシューがスパークたちに尋《たず》ねてきた。
スパークには、なかった。しかし、意外なところから、声があがった。
「わしも加わってよいかの」
グリーバス司祭であった。ドワーフなまりの強い共通語でそう申し出る。
突然《とつぜん》の申し出に、さすがのカシューも戸惑《と まど》った様子だった。
「かまわんが、なぜだ?」
「ドワーフには、蝿《はえ》の舌なら腐《くさ》り物も美味、との諺《ことわざ》があります。この|騎士《きし》が気に入った、では理由になりませんかな」
そして、グリーバスは抜《ぬ》き身の剣を取りだした。それを持って、スパークのところにやってくる。剣はスパークの物だった。彼が預かってくれていたのだ。
「敵から逃《のが》れるため、剣さえも捨《す》てる。これはひとつの勇気ではないかと思ったのでな」そう言って、グリーバスはスパークに剣を手渡《て わた》した。
「剣を頼《たよ》りとする者は剣が道具であることを、時として忘れるもの。命よりも剣のほうが大事だなどとぬかす連中もいるが、戦の神の教えにはそんなものありゃせん」
スパークはグリーバスの言葉に狼狽《ろうばい》していたが、とにもかくにも剣は鞘《さや》に収めた。
「よろしいのですか?」スパークはそう尋《たず》ねた。
「かまわんよ。戦の神の司祭は人に教えを説くのが、仕事ではないからの」
いともあっさりとグリーバスは言った。
それでは、いったい何が仕事なのだろう、とスパークは疑問に思った。間違《ま ちが》いないのは、グリーバスは宮廷《きゅうてい》付きの司祭ではあるが、国から報酬《ほうしゅう》をもらっているわけではないということだ。
「せっかくの司祭の好意だ、ありがたく受けておけ」
カシュー王はそうスパークに言うと、部屋を後にした。スレインとディードリットも国王に従う。しかし、自由騎士パーンだけは、部屋に残った。
パーンはゆっくりとスパークのところにやってくると、彼の肩《かた》をひとつ叩《たた》いた。
「悪いが、すこし付き合ってくれないか」
自由騎士は、スパークにそう言った。
「かまいませんが、用件は何でしょう。わたしは、いちはやく任務に就きたいのですが……」
そう答える自分が、スパークは悲しかった。任務さえなければ、このままずっと付いてゆきたいというのが本音なのだ。自由騎士パーンは、スパークにとって憧《あこが》れの勇者なのである。
「来れば分かる。これも任務のうちだと思ってくれ」
パーンはにこりとすると、スパークの返事も待たず、部屋から出ていった。
任務という言葉で、スパークはパーンに従う決心がついた。
薄暗《うすぐら》い王城の廊下《ろうか 》を、スパークはパーンに五歩ほど遅《おく》れて歩いた。今は、それ以上近づくのが恐《おそ》れ多いように思えたのだ。
この距離《きょり 》を縮められるほどに、自分を誇《ほこ》れる日がくるのだろうか、とスパークは自らに問いかけずにはいられなかった。
3
パーンがスパークを連れてきたのは、鍛《きた》えの間であった。円形の部屋で、剣術《けんじゅつ》の訓練や試合をするときに、もっぱら使われる。もっとも、この部屋を使うのは上級騎士のみで、一介《いっかい》の騎士や騎士見習いは、中庭などで訓練をする。
パーンは部屋に入ると、何の説明もなしに、壁《かべ》にかかっている訓練用の| 剣 《ブロードソード》を一本つかみ、スパークに投げてよこした。
「どういうことですか?」
スパークは空中で剣をつかむと、いぶかしむように、刀身《とうしん》を見つめた。訓練用なので、刃《は》は削《けず》られて丸くなっている。それでも、鉄製なので本気で打ち込まれたら、|怪我《けが》ぐらいではすまない。実際のところ、毎年、数人以上の騎士や騎士見習いが訓練中の事故で、命を落としている。
「鍛えの間にきて、話し合いもないだろう。ちょっと手合わせしたいと思ったんだ。カシュー王に聞いたが、けっこうな腕前《うでまえ》だそうじゃないか」
パーンは自分用に、もう一本剣を取り、その具合を確かめるように、手の平で刀身を叩《たた》いている。
「稽古《けいこ 》を付けていただけるのですか」
スパークはからかわれているのではないかと、つい疑ってしまった。自由騎士と剣の稽古ができる光栄を自分が受けていいものだろうか。
「オレじゃあ不足かな」
「そんなこと! 過分なぐらいです、自由騎士パーン。本当に稽古をつけていただけるんですね」
パーンは強くうなずくと、構えの姿勢になった。
スパークはあわただしく腰《こし》の剣をはずした。ちょっとでも時間を置けば、パーンが気を変えてしまいそうに思えたからだ。
そして、大きく深呼吸をして、スパークも構えの姿勢を取った。
パーンは礼儀《れいぎ 》に従って、一回だけ軽く剣を合わせると、すばやく間合いを取った。
スパークはどう戦えばいいか、いろいろと頭の中で巡《めぐ》らせはじめた。
と、パーンはいきなり動いた。スパークは一瞬《いっしゅん》のうちに間合いを詰《つ》められて、あっと思ったときには、剣先が喉元《のどもと》に突《つ》き立てられていた。
ここまであっさりと負けるとは思いもしなかった。稽古《けいこ 》にさえならないではないか。情けないというより、悔《くや》しかった。もちろん、負けたことではなく、一瞬で貴重な稽古が終わってしまったからだ。
「剣を合わせたら、油断をするな。戦場じゃあ、敵はいきなり襲《おそ》ってくるんだぞ」
パーンはそう注意すると、ふたたび、元の位置に戻《もど》った。
稽古は、終わりではなかったのだ。スパークは新たな興奮を覚えながら、いつもの稽古と同じ気持ちでいいんだ、と自分に言い聞かせた。
二度目は自分から動いた。フェイントなどは使わずに、一気に切りこんでいった。この|攻撃《こうげき》はいとも簡単に止められ、返りの太刀《たち》で手首をかるく打たれた。手首に痺《しび》れが走って、スパークは剣を落としてしまった。
「踏《ふ》みこみがあまい!」
パーンから叱咤《しった 》の声が飛ぶ。
スパークはうなずくと、あわてて剣を拾い上げ、ふたたび構えの姿勢に戻《もど》った。パーンは、まだまだ稽古を続けてくれる様子だったからだ。
その通り、稽古はそれからかなりの時間、続けられた。
申し合わせの一切ない、まるで実戦さながらの稽古だった。スパークは自分の知っているかぎりの戦法を使って、パーンに切り込んだ。
だが、まるで歯が立たなかった。打ちこみは受け止められ、突《つ》きはかわされ、フェイントは完全に読まれてしまった。いかに素速く動こうとも、パーンはそれ以上に早く動いた。それならばと力任せに押《お》し込んでも、今度はかるく押し返された。
勝負が決まるごとに、パーンはスパークの未熟さを細かく指摘してくれた。
それでも、何度も挑《いど》んでいくうちに、だんだんと剣を合わせていられる時間が長くなった。すると、パーンはスパークの欠点ではなく、優れた剣士たちの長所を教えてくれるようになった。
「カシュー王の強さは、相手の動きを読む確かさにある。それから、一撃《いちげき》ごとに相手を追いつめていく|攻撃《こうげき》の組み立ての巧《たく》みさだ。だからこそ、一騎打ちで無敗を誇《ほこ》っていられるんだ」
「レオナー王は技の人だ。何があろうとも、自ら隙《すき》を作らない。まず守り、相手の隙を見て攻《せ》める。隙のない相手には隙ができるまで、戦いつづける」
「マーモの黒衣の将軍の剣捌《けんさば》きは、誰よりも鋭《するど》い。必殺の一撃《いちげき》を相手の急所に叩《たた》きこむ。はずれれば、二撃目がくる。彼の三撃目までをかわせたなら、もはや一流の戦士だ」
言葉どおりに、パーンはそれら剣匠《けんしょう》たちの戦い方を実演してみせた。
そして、最後に、パーンは自分の得意とする突きを披露《ひ ろう》してくれた。一度見ただけでは、何が起こったのか理解できないほどの鋭さだった。
構えの姿勢から、一瞬《いっしゅん》の後には、剣を突きおわって静止する姿勢に移っていたのだ。
「今の突きは、強敵相手にしか使わないことにしている」
パーンは照れた笑いを浮《う》かべながら、稽古は終わりとばかり、剣を壁《かべ》に戻《もど》した。
「突いた後、体勢が乱れて、次の太刀を打てないから。かわされたら終わりなんて危険をいつもおかす必要はないからな」
「ありがとう、こざいました」
全身から噴《ふ》きだす汗《あせ》を心地好く感じながら、スパークは深く、長く礼をした。
「必ずや任務を果たしてみせます。ダークエルフを討ち、奪《うば》われた宝物を取り返します」
「もちろんだ。大切な任務なのだから、なんとしても果たしてもらわないと」
パーンはスパークに激励《げきれい》の言葉をかけると、用意していた手拭《て ぬぐ》いで、流れる汗を拭《ぬぐ》いはじめた。
「一命に代えましても」
スパークは声に力をこめた。強い決意を全身にみなぎらせていた。
パーンは、カシュー王がその言葉を嫌《きら》っていることを知っているから、つい苦笑してしまった。
「昨晩のような失敗は二度と繰《く》り返しません。己がなすべき任務を忘れ放棄《ほうき 》するような真似は、絶対に……」
スパークの言葉はパーンに対してではなく、自身に向けられているようだった。まるで生涯《しょうがい》の誓《ちか》いを立てているような趣《おもむき》だった。
汗を拭っていたパーンの手の動きがぴたりと止まった。
「それも、困るな」
「困る……。なぜでしょうか?」
スパークはパーンの意味するところが理解できず、そう尋《たず》ねかえした。
「自分を捨てるなということさ。与えられた任務をただ果たすだけの男にはなるなよ」
パーンの言葉はするどく、スパークの心に切りこんでくる感があった。スパークは戸惑《と まど》い、うろたえた。
「しかし、わたしは自分の手柄《て がら》に心を奪《うば》われ、なすべきことを見誤ったのですが」
「そんな自分は捨てたっていい。オレが言いたいのは……」
パーンは、石の床《ゆか》に座りこむと両手を後ろについて、天井《てんじょう》を見上げる姿勢になった。
「オレの父親は、村人を救うために任務を、騎士の名誉《めいよ 》を捨てた。オレが聖騎士を辞めたのは、仲間を救ってやりたかったからだ。もっとも、回り道ばかりしているけどな……」
テシウスの伝説も自由騎士の伝説も、スパークは知っている。しかし、パーンの言葉の真意をつかむことはできなかった。
「かえって迷わせてしまったかな」
スパークの戸惑いを知ると、パーンは困ったような笑いを浮《う》かべた。それから、スパークの戸惑いを拭いさるように、口調を変え声に力を込めた。
「今は、任務のことを考えろ。相手はダークエルフだ、やさしい任務じゃない。オレたちにできることは、全力を尽《つ》くすことと、あきらめないことだけだからな」
その言葉ではっとしたように、スパークは姿勢を正した。
視線が合うと、パーンは白い歯を見せた。
「オレは明日にでも、カノンヘ発《た》つ。次の再会を楽しみにしている。そのときには、稽古《けいこ 》ではなく、ちゃんとした試合をやろう」
パーンはそう言うと立ち上がって、スパークに別れを告げた。
「はい、お願いします」
スパークは国王に対するときのように、直立して答えた。
パーンは鍛《きた》えの間の扉《とびら》をくぐると、謁見《えっけん》の間の方に向かっていった。廊下《ろうか 》を曲がり、その姿が見えなくなるまで、スパークはパーンの背中を見送りつづけた。
「お帰りなさい。用事は無事に済《す》んだ?」
ディードリットは戦を終えて帰ってきたパーンを出迎《で むか》えるように、静かにパーンに抱《だ》きついて、たくましい胸に頬《ほお》を寄せた。汗《あせ》の臭《にお》いが、ディードリットの鼻をついた。身体の火照《ほて》りが頬を通して伝わってくる。
「うまく伝わったかどうかは分からない。オレは話がうまくないからな」
パーンはディードリットの背に手を回すと、金色の髪《かみ》に優しく唇《くちびる》を寄せた。
「剣を合わせてきたんでしょ。なら、何かをつかんでもらえたはずよ」
「そう思いたいな」
パーンはつぶやくと、謁見の間を見渡《み わた》した。
人はまだ忙《いそが》しく出入りしているが、カシューもスレインの姿もなかった。ふたりは沈黙《ちんもく》の間に移動し、ラスター公爵《こうしゃく》を攻《せ》める手立てを練っているとディードリットが教えてくれた。
「軍議か。だと、長くなりそうだな。今のうちに挨拶《あいさつ》しておこうかと思ったんだが……」
パーンは独り言のようにつぶやいた。
「挨拶なら、あたしがしておいたわ。カシュー陛下から、二月《ふたつき》後にカノンの街で会おうとの伝言よ」
「二月か、かなりきついな」
おそらく、カシューは犠牲《ぎ せい》もいとわず、|攻撃《こうげき》を続けるつもりだろう。ラスターを討ち、マーモの軍勢を破って、カノンにやってくるときには、兵も馬もくたびれはてているに違《ちが》いない。
もしも、そのときにカノン自由軍がマーモのカノン残留の軍に鎮圧《ちんあつ》されていたなら、最後の決戦の行方《ゆ く え》はどうなるか知れたものではない。
パーンはしばらく考えて、ひとつの決心をした。
「すぐに発《た》つのね」
ディードリットは、そっと声をかけてきた。
「どうしてわかった?」
パーンは驚《おどろ》いて、ディードリットを見つめた。
ディードリットは風に舞《ま》う木の葉のように、ふわりと身体を躍《おど》らせると、パーンの背中の方へと動く。
「さあ、なぜかしら」
きっと、あなたのことばかり考えているからよ、ディードリットは小さくつぶやいた。そして、今度は背中からパーンに抱《だ》きついていった。
「オレもだよ、ディード」
意外なパーンの言葉だった。ディードリットはパーンの背中に寄せていた顔を上げると一回、二回と目をしばたたかせ[#「しばたたかせ」に「ママ」の注記]た[#「しばたかせた」の誤記]。
「よし、カノンヘ出発するぞ」
期待をしながら見つめていると、パーンは宣言するように、ディードリットに話しかけてきた。それから、そっとディードリットを押《お》しやると、荷物が置かれている客間の方へとさっさと歩きはじめた。
パーンの背中が、遠ざかっていく。あわてて、ディードリットはパーンを追いかけた。
「なによ、もう終わり」
ディードリットはすこしふくれた顔をした。
「今はね」パーンは振《ふ》り返りもせず、答えた。
「でも、もう少しだ、ディード。この戦いが終わったら、今度はゆっくりとロードスをまわろう。忙《いそが》しく駆《か》け抜《ぬ》けてきた街を、時間をかけて巡《めぐ》っていこう。オレたちが出会い、生きてきたこの島のすべてを、オレはこの目に焼きつけておきたい」
そのときには、邪神《じゃしん》の呪《のろ》いは大地からなくなり、空を覆《おお》う灰色の雲も晴れていることだろう。
「そうね、パーン」
ディードリットは目を細めながら、強くうなずいた。
パーンに出会ってからというもの、ディードリットの毎日は気まぐれな風に飛ばされた綿毛のように過ぎていった。それはそれで楽しい日々だったが、やはりディードリットは森の妖精《ようせい》である。心の中では、もっと静かな暮《く》らしを営みたいと願っている。寄り添《そ》うように立つ二本の樹木のように、太陽と風だけをいっぱいに浴びていたい。
心配なのは、パーンがそんな暮らしに耐《た》えられるかどうかだった。退屈《たいくつ》すぎて、また何かに向かって駆《か》けだすんじゃないかと、不安に思う。そのときには、やどりぎのようにパーンに付いていくのだ、とディードリットは心に決めていた。
スパークが詰所《つめしょ》に戻ってきたときには、すでにアルド・ノーバがやってきていた。
アルド・ノーバは爵位《しゃくい》こそないがフレイム王国のれっきとした文官であり、正騎士と同等の身分である。スパークのほうが身分が低いのだ。
アルド・ノーバがひとり増えただけで、騎士の詰所が狭《せま》くなったように感じられた。背が高いうえに、筋肉質の身体をしている。砂漠《さ ばく》の部族の人間だけに、武術の心得もあるのだろう。ゆったりとした象牙色《ぞうげ いろ》の衣服を着て、魔術師《まじゅつし》の杖《つえ》を持っている。魔術師の杖は普通《ふ つう》の人なら背丈《せ たけ》ほどもあるのだが、アルド・ノーバが先を床《ゆか》につけて持っていると、首のところまでしかこない。そんなアルド・ノーバの姿は、ひどく不釣《ふつ》り合いで、不格好《ぶ かっこう》にも見えた。すでに旅支度《たびじ たく》を整えていて、大きな背負い袋《ぶくろ》をくくりつけ、腰《こし》には護身用《ご しんよう》に|小 剣 《ショートソード》をつりさげている。
戦の神の司祭グリーバスも、旅の準備を終えていた。自分の背丈の倍以上もある鉾槍《ハルバード》を肩《かた》にかけ、石突《いしづ 》きで床をトントンと叩《たた》いている。|鎖かたびら《チェインメイル》を身につけて、その上からマイリー神の紋章《もんしょう》を刺繍《ししゅう》した神官衣を着込んでいた。
ギャラックとリーフは、傭兵《ようへい》の鉄則とやらを守って、長椅子《ながい す 》と床《ゆか》とで横になり、寝息《ね いき》を立てていた。リーフは裾《すそ》の短い服を着ているので、細い足が太もものあたりまで見えていた。近くの若い騎士たちが迷惑《めいわく》そうな顔で、リーフから視線をはずしている。
こんな少女がよく荒《あら》くれの傭兵隊にいるものだ、とスパークは驚《おどろ》かずにはおれなかった。
「よろしく頼《たの》みます、スパーク卿《きょう》」
アルド・ノーバが静かに頭を下げたので、スパークはあわててこちらこそと挨拶《あいさつ》を返した。
「ただのスパークと呼んでください。卿と呼ばれる身分じゃありませんから」
「分かりました、そう呼びましょう。では、スパーク、そろそろ出発いたしませんか。わたしも、この傭兵たちも準備は整っています」
スパークは仲間たちを頼もしく思った。もう夜半を回っているというのに、これからすぐに出発することを当然のように受け止めてくれている。
支度《し たく》が終わっていないのが、自分だけだということを、スパークは恥《はず》かしく思った。
スパークとアルド・ノーバの会話に、ぐっすりと寝《ね》ていた傭兵たちが、大きな伸《の》びをしながら、起きあがってきた。
「石床の上だと、さすがに身体《か ら だ》が痛いな」ギャラックはそう言って、両腕《りょううで》をぐるりと回した。それから、身体を捻《ひね》って、硬直《こうちょく》した筋肉をほぐそうとする。
「どうしたい、隊長。ずいぶんいい顔になってるが、ようやくやる気になったのかい」
スパークは無言でうなずいた。
「用意を整えたら、すぐに出発するぞ。今夜はブレードの街を抜《ぬ》けて、最初の村まで休まず行く。朝になったら情報を集めて、それから休憩《きゅうけい》だ。賊《ぞく》は人目を避《さ》けるために夜に動くはずだ。こちらも夜を徹《てっ》して歩く。街道をまっすぐに行けば、ヴァリスヘ着くまでに賊に追いつけると思う」
スパークはそう言うと、いちばん遅《おく》れている自分の身支度《み じ たく》を整えるべく、騎士の宿舎の方へと向かった。
「オレたちは城門で待っていますぜ」
ギャラックがそう声をかけてきた。
「そうしてくれ。オレもすぐに行くから」
スパークはこれ以上、遅れまいと廊下《ろうか 》を走りだした。パーンとの稽古《けいこ 》で疲《つか》れているはずなのだが、ずいぶんと身体が軽く動いた。後悔《こうかい》や悩《なや》みなどの否定的な思いが、汗《あせ》と一緒《いっしょ》に全部流れだしたみたいだった。
「今は、任務のことを考えろ」走りながら、スパークはパーンの言葉を自分に言い聞かせた。この任務を果たしたら、きっと何かが見えるに違《ちが》いない。パーンが本当に言いたかったことも、理解できるに違いない。
4
ブレードの街の郊外《こうがい》に、小高い丘がある。背の低い雑草が一面に生えて、地面はすっかり隠《かく》れている。雑草たちは、これからますます強くなる夏の陽光を浴びて、精一杯《せいいっぱい》に背伸《せの》びしていくことだろう。
そのとき、気持ちのよい夜風が吹《ふ》き、周囲の雑草とその雑草を踏《ふ》みしめて立つライナの髪《かみ》を小刻みに揺《ゆ》らして、通りすぎていった。
細い腕《うで》を組みながら、ライナはブレードの街の様子を楽しそうに見下ろしていた。この丘からは、ブレードの街を一目で見渡《み わた》すことができるのだ。
見晴しのよい場所なのに、とライナは不満の表情をあらわにした。この丘には、もうすぐ新しい王城が建ち近寄れなくなるのだ。草を背に昼寝《ひるね 》をすることもできなくなる。あちらこちらに、城の土台となる巨石《きょせき》が運ばれていて、地面が掘《ほ》りかえされている場所もある。
王城などに、うかつに近づいて衛兵にでも捕《つか》まろうものなら、ギルド中の笑い者になってしまう。女盛《おんなざか》りの身体を暗い牢屋《ろうや 》で朽《く》ちさせるつもりはライナにはない。
たとえ、自分が盗《むす》みをなりわいとしているギルドの一員でもだ。
ここ十年でブレードの街は大きく変わった。そのうちのひとつに、ライデン盗賊《とうぞく》ギルドの支部ができたことを挙《あ》げる者も少なくないだろう。ギルドの長《おさ》はスィスニア、ライナより十ばかり年上の女性だった。ブレードに支部が作られたのは、ライデン盗賊ギルドの長フォースが女嫌《おんなぎら》いだからだとライナは思っている。その証拠《しょうこ》に、ブレード盗賊ギルドには、女盗賊がずいぶん多い。反対に、ライデン盗賊ギルドには皆無といっていいのだ。
フォースは男にしておくのはもったいないくらいに端麗《たんれい》な容姿《ようし 》の持ち主である。命令されたから、やむをえず移ってきたものの、できればフォースのそばにはべっていたかった。ギルドの長のお気に入りにでもなれば、ギルド内での地位がいっぺんにあがる。毎日、神経をすりへらすような商売をしなくても、いくらでも金が入ってくるのだ。
ライナは自分の肉体がどれだけ男を惹《ひ》きつけるか十分に知っている。身体の線がはっきりと分かる革服を愛用しているのも、自分の魅力《みりょく》をたっぷりと見せつけるためだ。胸のところは広く開けているし、裾《すそ》もできるかぎり短くしている。
自慢《じ まん》の金髪《きんぱつ》は、仕事の邪魔《じゃま 》にならないように短くしているが、長く伸《の》ばせば、貴族の令嬢《れいじょう》にだって化ける自信がある。
ライデンにいるあいだ、ライナはさかんにフォースを誘惑《ゆうわく》したものだが、ギルドの長は一度も乗ってはこなかった。自信があっただけに、ショックが大きかった。どんな女嫌いだって、自分の魅力《みりょく》になびかない男はいないと思っていたのだ。
追い打ちをかけられるとはこのことで、そのうちにライナはブレードの街の支部に移るよう命令された。はっきり言ってしまえば、厄介払《やっかいばら》いされたのである。これが二年前の話だ。
それならば、傭兵《ようへい》王カシューでも誘惑《ゆうわく》するか、とブレード盗賊《とうぞく》ギルドの女長スィスニアと冗談《じょうだん》を言ってたのだが、そのフレイム国王も昨年、若い妃《きさき》を娶《めと》ったので、今は新しい男を物色しているところである。
もっとも、今は男ではなく、街の様子を追いかけていた。
いつもなら、この時間には街は静まりかえり、灯《あか》りさえほとんど見られないはずだ。しかし、今夜ばかりは様子が違《ちが》った。
街の通りのあちらこちらを赤い光が流れている。たいまつの炎《ほのお》が動いているのだ。城の衛兵たちが呼び合う声が風に乗って、丘の上まで届いてくるみたいだった。遠望できるブレードの海や砂の河の河面《かわも 》にまで、小舟が出されているみたいだ。
「何があったのか知らないけど、今日は商売もできそうにないわね」
今日は寝《ね》ぐらに帰ってしまおう、とライナは心に決めた。夜風のように、ライナは丘の斜面《しゃめん》を駆《か》けおりていった。下には街道があり、街の南門へとつながっているのだ。
街道に出ると、ライナは盗賊《とうぞく》らしく足音もたてずに歩きはじめた。仕事のとき以外は普通《ふ つう》に歩けと、盗賊ギルドの役付きたちはうるさく言うのだが、使い分けるほどには、まだ忍《しの》び歩きに慣《な》れているわけではないのだ。
ライナは忍び歩きのままで、街に向かって歩いていった。周囲は暗く、西の空に沈《しず》みかけている半月の明かりとライデンの街から届く明かりだけが、ライナの足元を淡《あわ》く照らしていた。商売がら夜目はきく。しかし、踏《ふ》み固められた街道の感触《かんしょく》が足になければ、自分がどこを歩いているのか分からなくなるところだ。
左手から川のせせらぎと生臭《なまぐさ》い臭《にお》いが流れてくる。羽虫が、ときどきライナの髪《かみ》にまとわリついてくる。月の光を反射させる金色の髪をライナは、すこし疎《うと》ましく思った。
そのとき、正面から歩いてくる人影《ひとかげ》に気付いた。
足音を忍ばせているので、姿が見えるまで気付かなかったのだ。それで、かえって安心して、ライナはそのまま街道を進んでいった。
思ったとおり、街からやってきたのは、盗賊《とうぞく》仲間のランディーだった。ランディーはにやけた笑いを浮《う》かべてライナに近づいてくると、いきなり腰《こし》に手を回し、耳に息を吹《ふ》きかけてきた。
「どうだい、河原《か わ ら》でちょっと休んでいかないか?」
「おあいにく、今はそんな気分じゃないの。それより、街で何があったの、教えてよ」
ライナは腰にかかっているランディーの手を引きはがすと、するりとこの盗賊仲間から距離《きょり 》を取った。
「情報は金だぜ。ただで教えられるもんかい」
「わたしの身体だって、お金よ。触《さわ》った以上は、何かもらわないと」
ランディーは、おまえ客を取って稼《かせ》いでいるのか、と下品な笑い声をあげた。
「そんな安売りはしないわよ。価値が下がったら、商売にならないでしょ」
「高い間に売りつけるこったな」
ランディーはそれから、街で何が起こったかを教えてくれた。
「王城に賊《ぞく》が、本当なの?」
「金にならない嘘《うそ》はつかんよ」
盗賊なら、嘘にもつき時があることをよく知っている。確かに、自分を騙《だま》しても、ランディーの懐《ふところ》は暖かくはならないだろう。
「仲間がやったの?」
「まさか、ライデンの長《おさ》とカシュー王は、昔《むかし》からの付き合いだ。城への盗《ぬす》みも禁止されている。それに、あんな場所に押《お》し入ろうってな、馬鹿《ばか》な奴《やつ》がいるわけがない」
「じゃあ、他所者《よ そ もの》」ライナの目が鋭《するど》くなった。ならば、重大な掟破《おきてやぶ》りである。何が何でも探しだして、首を切らねばブレード盗賊ギルドの面目が立たない。
「そういうこった。おまえも暇《ひま》なら、手伝えよ。おまえの鞭《むち》から逃《に》げられる奴はざらにはいないからよ」
ライナはうなずくと、五重に巻いて腰に下げている革製の鞭を取りだした。
「ところで、オレにはもうひとつ取っておきの情報があるんだが、聞きたくないか?」
「聞きたくないわけがない。でも、代金は?」
「銀貨なら五十。おまえの身体でもいいけどよ」
「五十ぽっちで、冗談《じょうだん》!」ライナは抗議《こうぎ 》の声をあげると、腰の革袋《かわぶくろ》から宝石を一個取りだした。
「昨日の稼ぎだから、ギルドには報告しておいてよ。五十なら、これでおつりが出るはずよ」
「この明るさで鑑定《かんてい》しろってか」
ランディーは抗議の声を上げながら、西の空に向かって宝石をかざした。月明かりで何とか宝石の価値を調べはじめる。河面に渡《わた》された帯のように、月明かりが水面に反射して、波のためにたえず揺《ゆ》らいでいた。
「疑り深いのねぇ」ライナは軽蔑《けいべつ》したように言った。
「疑うことだって、金になるときがあるからな」
話すあいだも、ランディーは宝石の鑑定をやめようとはしなかった。
あきれたライナは両手を頭の上に回すと、何気なく砂の河に視線を向けた。すると、ライナの視線の先で、河の流れが妙《みょう》に乱れたかと思うと、ばしゃりと魚が跳《は》ねるような音がした。
「ちょっと、ランディー。あれっ!」
ライナは反射的に腰を屈《かが》めると、ランディーのズボンの裾《すそ》を引っ張って、注意を向けさせた。
「なんだい、オレは忙《いそが》しいんだ……」
「鑑定なんか後回しだっていいわよ。それより、河原を見て。水から大きな魚が這《は》いあがってきたわよ」
ライナは盗賊《とうぞく》たちにしか通じない秘密の言葉を使って、ランディーに身を低くするように警告を与えた。
盗賊言葉だったので、ランディーはほとんど反射的にライナに従った。そして、言われたとおり、河原の方に視線を向ける。
ライナの言うとおり、河の中から河原に姿を現わした怪《あや》しい人影《ひとかげ》がいた。もちろんずぶ濡《ぬ》れで、乾《かわ》いた河原を、身体からしたたる水で濡らしている。
「宝石は返すぜ……」ランディーはつぶやくと、ライナに宝石を手渡《て わた》した。
「あんた目があるの、その宝石七十は下らないわよ」
ライナは目をむきながら抗議《こうぎ 》の声をあげる。もちろん、小声でだ。
「いや、オレの情報の方が、価値がなくなった」
「じゃあ、あれが賊《ぞく》なの?」
「そういうこった」
水の中から河原に上がってきた人影は全部で五つ。そのうちのひとつは手負いのようで、仲間の肩《かた》を借りていた。
あの男は助からないな、とライナは一目で見てとった。水に濡れたからではなく、身体に痙《けい》攣《れん》にも似た震《ふる》えが走っているのが、ライナのところからでも目に見えるようだった。
「どうする? 相手は四人だけど。仕留める」
「仕留めればずいぶんな褒美《ほうび 》を貰《もら》えるだろうが、やめたほうがいいな。王城に忍《しの》びこんで無事、帰ってきたような連中だ。オレたちふたりじゃ、手に余るだろう」
ふふん、とライナは鼻を鳴らした。
「ならば、あんたはこの場で見張っていて。わたしは、ギルドに戻《もど》って仲間を呼んでくるから」
「分け前は、オレが六でおまえが四だぞ。残っているほうが危険なんだから」
了解よ、とライナは盗賊言葉で返事をした。こんな場所で、分け前を争っている暇《ひま》はない。
しかし、立ち上がるときライナは大きな失敗をした。手にしていた鞭《むち》が地面を軽く叩《たた》いてしまい、ピシッという乾いた音が、意外に大きく、あたりに響《ひび》いたのだった。
「しまった!」ライナは思わず舌打ちをした。
「ドジ!」ランディーがライナを罵倒《ば とう》する。
普通《ふ つう》の者ならば聞こえるはずがないほどのわずかな音だ。しかし、河原の五人組も盗賊である。聞き逃《のが》すはずがなかった。
思ったとおり、ライナたちは見つけられてしまった。甲高《かんだか》い声で、彼らは声をかけあっている。聞いたこともない言葉だった。どこの盗賊ギルドの人間だろう。ずいぶん変わった盗賊言葉だった。
「戦う?」
「馬鹿《ばか》、逃げるぞ」
ライナはうなずくと、ランディーと並《なら》んで駆《か》けはじめた。
しかし、ランディーは何かに蹴《け》つまずいたみたいで、前のめりに地面に倒《たお》れた。
「ランディー、遊びたいなら、置いていくよ」
「違うんだ、ライナ。オレの足に何かが……」
ランディーの声は恐怖《きょうふ》のためか、ひきつっていた。
ライナはランディーの足元を確かめようと膝《ひざ》を落とした。と、ライナの足首にも触《ふ》れてくるものがあった。ライナは、転がるようにその場から飛びのくと、自分がいた場所を目で追いかけた。不気味な触手《しょくしゅ》のようなものが、地面から三本|伸《の》びていて、いなくなった獲物《え もの》を探し求めるかのようにのたうっていた。
「なぜ、こんな化物が街道にいるのよ!」
ライナは悲鳴をあげてしまった。河原の方を振《ふ》り返れば、四人の賊《ぞく》が土手《どて》を駆けあがってくるところで、すぐにでも追い付かれてしまいそうだった。
「ライナ! おまえは逃げろ」
「だめなの」
「だめだ。この化物が足を離《はな》してくれねぇんだ。早く、おまえは逃げるんだ。逃げて、スィスニア様に報告を。オレの仇《かたき》は討ってくれよ」
「ごめんよ、ランディー。あたしがドジったばっかりに」
ライナはランディーのもとに駆け寄ると、素速く唇《くちびる》を重ねた。
そして、立ち上がると、ブレードの街の明かりに向かって全力で駆けた。地面が暗くて見えにくいだけに、いつあの化物に足を食いつかれるかと恐《おそ》ろしかった。
ライナは街の明かりに救いを求めるように、ただひたすら走った。そのとき、背後からランディーのあげた悲鳴が聞こえてきた。
5
ライナが街にたどりついたとき、街の門は非情にも締《し》めきられていた。
ここまで全力で走ってきただけに、ライナの息は完全に上がって、倒《たお》れてしまいそうだった。しかし、後ろからは四人の賊《ぞく》が追ってきているような、そして足元にはあの化物が潜《ひそ》んでいるような気がして、ライナは後先を考えずに、街の門を叩《たた》いた。
「この門を開けてよ! わたしは、ブレードの住人よ。中に入れてよ、お願い!」
二十年の人生で、ここまで取り乱したことはなかった。街の門の上から、衛兵がふたり姿を現わした。
「名前を言え、どこに住んでいる、職業は何だ」
「そんなこと、どうでもいいだろ。わたしは賊を見つけたんだ。仲間は殺され、わたしは命からがら逃げてきたんだ。早く開けておくれよ。でないと、化物に足を食いちぎられてしまう」
衛兵たちは顔を見合わせると、どうしたものかと思案顔になった。
「今、門を開ける。待っていろ」
近くに伏兵《ふくへい》がいないかを確かめてから、衛兵は門の上から姿を消した。そして、梯子《はしご 》を降りる気配があって、ゆっくりと門が左右に開かれた。
門に生じたわずかな隙間《すきま 》に、ライナは自分の身体を捩《ね》じこむように、中に入った。すぐに、衛兵に鉾槍《ハルバード》を突《つ》きつけられ、ライナはその場にぺたりと座りこんだ。
ようやく、自分が助かったとの実感が湧いてくる。それとともに、この場をいったいどう切り抜《ぬ》ければいいのかという現実的な問題が頭をもたげてきた。盗賊《とうぞく》ギルドで一番の鞭《むち》の使い手の自分が、まるで小娘《こむすめ》のように怯《おび》えてしまったというのが情けなかった。
しかし、あんな不気味なものを見せつけられて、そして、仲間のランディーも殺されて、平気でいられるほど度胸は据《す》わっていなかった。人が死んでも平気でいられるような、そんな度胸などいらないとも思う。
ライナはフォースの作ったギルドの掟《おきて》を忠実に守っている。だから、盗《ぬす》みに入っても人を傷つけたことはない。鞭を武器にしているのだって、相手の動きを封《ふう》じたり、得物を叩《たた》き落とすためなのだ。
しかし、その鞭が今は不利な材料になっていることをライナは強く意識した。盗賊以外にこんな武器を使う変わり者はいないからだ。それに、着ている服も仕事用のものだし、七つ道具だって腰《こし》の革袋《かわぶくろ》に入れているのだ。調べられれば、すぐにあしがつく。
盗賊だとばれれば、絶対に捕《つか》まえられるだろう。まして、今は事情が事情だ。牢屋《ろうや 》に放りこまれ、裁きにかけられるだろう。運が悪ければ投獄《とうごく》されるだろうし、運が良くても追放処分は免《まぬが》れない。
ライナは何とかこの苦境を逃《のが》れる術はないか、と考えを巡《めぐ》らせはじめた。
そのとき、街の中心からフレイムの傭兵隊《ようへいたい》らしい一団がやってくるのが目に止まった。それを見て、ライナの考えがまとまった。
「ブレードの住人と言ったのは嘘《うそ》。本当は、フレイムの傭兵隊に志願しようとやってきた旅人なの」
ライナは乱れた服を直そうともせずに、衛兵のひとりに泣きついていった。
王城を出発してから、ずいぶん歩いたようにスパークは思った。しかし、ブレードの街から外に出てもいない。変化のない夜の街だから、ふだん以上に広く感じられるのかもしれない。しかし、急速に増えた人口のために、ここ十年で街の規模も格段に大きくなっている。
最初からあった街の門の外にも商店が軒《のき》を並《なら》べ、商店や職人たちが仕事をはじめるようになった。そこで、三年前に新しい門が作られた。ところが、その外にもまた家々が建ち、人々が住むようになった。今は、昨年作られた三番目の門が、その役目を果たしている。
その門がようやく見えて、スパークはようやく街も終わりだ、とほっとする気分を味わった。いつになったら街を出られるのかともどかしかっためだ。
ところが、閉鎖《へいさ 》されているはずの門が、開け放たれているという事実に出くわし、スパークは驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。
賊《ぞく》が突破《とっぱ 》したのかと緊張《きんちょう》したが、衛兵がいることはすぐに分かった。
開いたままの門の内側で、ふたりの衛兵が女性に鉾槍を突《つ》きつけていた。尋問《じんもん》しているような感じである。
何事かとスパークは、門へと急いだ。もっとも、他の四人はペースを変えなかったので、スパークだけが先行する形になった。
「門を開けたままにして、いったい何をやってるんだ!」
スパークは厳しい口調で、衛兵のひとりに詰問《きつもん》した。
もうひとりの衛兵は、尋問していたはずの女性にしなだれかかられ、鼻の下を伸《の》ばしているようにしか見えない。その女性は肌《はだ》を露《あら》わにした服を身につけていた。娼婦《しょうふ》ではないか、と一瞬《いっしゅん》、スパークは疑ってしまった。
だとすれば、職務|怠慢《たいまん》ではすまされない。
スパークは衛兵に事情を説明するように求めた。
「はい、あのう、この女が助けを求めてきたのであります。本人が賊を見たと申しておりますので、門の中に入れたのです」
衛兵はしどろもどろになりながら、そう答えた。
「なんだって、賊を……」
スパークは、思わず自分の耳を疑った。もし本当なら、これほどの幸運はない。衛兵たちなど無視して、両手で顔を覆《おお》ったままの女性に歩みよった。
「今の話、本当か。いったい、どこで賊を見た?」
|騎士《きし》の口調は厳しく、まるで罪人を尋問するみたいだった。
ライナは、やってきたのが傭兵《ようへい》ではなく、フレイムの騎士だと知って、しまったと思った。
騎士たちは兵士と違《ちが》い、融通《ゆうずう》もきかないし、色仕掛《いろじか》けも通じない。
仕方なく、ライナは自分が見たことを正直に話した。ただ、自分と殺された仲間が盗賊《とうぞく》ではなく、傭兵志願の旅人だというところだけ、話をすりかえておいた。
そのとき、騎士の仲間らしい四人の傭兵が追い付いてきた。ライナは五人に取り巻かれる格好《かっこう》になり、激《はげ》しい焦《あせ》りを覚えはじめた。
「わたしの話が信じられないというの」
「足に絡《から》みついてきた化物というのが……」
スパークはスレインの私塾《しじゅく》に通っているから、ロードスに生息する怪物《かいぶつ》たちの知識もかなり豊富だ。しかし、この女性が言うところの、地面の中から触手《しょくしゅ》を伸《の》ばし足を食いちぎる怪物にはまったく見当がつかなかった。
「あたしは、その化物の正体、知っているわよ」
楽しくてしかたがないといった顔で、リーフがもったいぶった足取りで進みでてきた。
「どういうことなんだ、リーフ」
「つまりね、隊長。こういうことよ」
そして、リーフは精霊魔法《せいれいま ほう》の呪文《じゅもん》を唱えはじめた。
「大地の小人《こ びと》よ、戒《いまし》めの手を」
リーフの精霊語の呪文に応じて、スパークの足もとが突然《とつぜん》、動いた。地面が不自然な盛《も》り上がりをみせたかと思うと、土の塊《かたまり》が螺旋状《らせんじょう》に伸《の》びて、それがスパークの足に絡みついた。
傭兵志願の女性は、それを見ると悲鳴をあげてギャラックに飛びついた。
「精霊魔法の呪文か」
スパークは自分の足に絡みついた土の手を見つめ、なるほどなとうなずいた。
「そういうこと」
「このままだとオレは身動きがとれないぞ。早く、呪文を解け!」
はっと我に返って、スパークはリーフを睨《にら》みつけた。
「大丈夫《だいじょうぶ》、時間がたてば、ノームの力は消えるわ」
リーフの言葉どおり、しばらく待つとスパークを捕《と》らえていた大地の手が、元の踏《ふ》み固められた地面に戻《もど》った。
人を|魔法《ま ほう》の実演に使う非常識さに、スパークは憤《いきどお》りを覚えていた。
「この人の言葉どおり、ダークエルフたちに間違いない。精霊魔法を使って、逃がすまいとしたんだ」
「全部、信用するのはどうかと思いますがね」
ギャラックは飛びついてきた女性の背中を役得とばかり抱《かか》えこんでいた。鎧《よろい》を着ているので、柔《やわ》らかな胸の感触《かんしょく》は楽しめなかったが、それでも女性特有の甘《あま》い香《かお》りがギャラックの鼻をくすぐった。
ギャラックの言葉に、抱えられていた女性がびくりとして、あわててギャラックを突《つ》き放した。ギャラックの手には、革製の鞭《むち》が握《にぎ》られている。
「これは、わたしの武器なの。傭兵《ようへい》志願だもの、これぐらい持っていても許してよ。絶対に、街中では使わないから……」
女性は、ギャラックの顔をうかがいながら、さかんに言葉を並《なら》べていた。
「それよりも、騎士様。わたしが、賊《ぞく》の現われた場所まで案内いたしますわ。フレイムに仕えるのは、もともとわたしの願いですから。これもガ……いえ、マイリー神のお導き」
スパークは自分で決心がつきかねて、意見を求めるようにアルド・ノーバの顔を見た。
「今は、時間が貴重でしょう」
アルド・ノーバは一言で答えた。
「そうだな。じゃあ、決まりだ。この人に案内を頼《たの》もう。とにかく、賊が南へ向かったことがはっきりしたんだ。それだけでも、貴重な情報だ。感謝しますよ」
スパークは宮廷《きゅうてい》婦人に対するように、その手をとると唇《くちびる》を触《ふ》れた。
「わたしは、ライナよ」
魅入《みい》られてしまったように、盗賊《とうぞく》仲間で使う自分の通り名を名乗ってしまっていた。
今まで気にも止めなかったのだが、近くで見るとその騎士は凛々《りり》しい顔をしていた。残念なのは、自分よりも二つ、三つは若そうなことだ。
「隊長がそう言うなら、反対はしませんがね」
ギャラックは意味ありげに、ライナに目配せをした。しかし、スパークはすでに衛兵と話しはじめていたので、ギャラックの表情には気がつきもしなかった。
「賊が南へと向かったと、王城に知らせてくれ。それから、スパーク隊はただちに賊を追いかけますとな」
分かりました、と衛兵は畏《かしこ》まって答えた。それから、門をいっぱいに広げて、スパークたちを送りだす。
スパークは形式的な挨拶《あいさつ》を返すと、闇《やみ》の中へと足を踏《ふ》みだした。すでに、月は姿を隠《かく》し、南へと向かう街道を照らすのは、全体にこぼれそうなほどに輝《かがや》く星々と、背後のブレードの街の明かりだけだ。
衛兵たちはスパークたちの姿が見えなくなるまで、見送りつづけた。
しばらくすると、七つ[#「七つ」に傍点]の人影《ひとかげ》が黒い壁《かべ》のごとき闇の向こう側に消えていった。いちばん最後まで見えたのは、一行の後ろを少し離《はな》れて歩く小柄《こ がら》な白いローブの人影だった。
[#改ページ]
第V章 黒い影《かげ》を追って
1
ライナという傭兵《ようへい》志願の女性が加わって、旅の仲間は六人になっていた。
スパークはふと不思議な思いにかられ、街道をひとかたまりになって歩く仲間たちを見た。ふたりの傭兵、ギャラックにリーフ。戦《いくさ》の神の司祭《プリースト》グリーバス、フレイムの文官であり魔術師《ソーサラー》のアルド・ノーバ。傭兵志願の女性ライナは、ついさっき知り合ったばかりだ。
昨日の晩までは、まったく知らないか、知っていても親しいとはとても言えない者たちばかりだ。それが、夜も明けないうちにこうして歩みを共にしている。
月も沈《しず》んで、アルド・ノーバの杖《つえ》の先に灯《とも》された|魔法《ま ほう》の明かりだけが、一行の足元を照らしている。先頭を歩いているのは、ライナだ。彼女は身体《か ら だ》を前に傾《かたむ》け、一心に歩いている。その歩みとともに、彼女の形の良い腰《こし》が揺《ゆ》れるのが、スパークの目に入る。規律を重んじるべき|騎士《きし》見習いとはいえ、スパークとて健康な若者である。意識するなというほうが無理だった。
しかも、ライナは太股《ふともも》もあらわな短いスカートを穿《は》いている。それは傭兵のリーフも同じなのだが、彼女の体形は女性を意識させるにはあまりに幼すぎた。しかし、ライナの肢体《し たい》は、成熟した女性のそれだった。
炎《ほのお》の部族の女性は慎《つつし》み深《ぶか》く、肌《はだ》をあらわにすることを好まない。それを当たり前のものとして育ったスパークの目には、彼女たちの服装《ふくそう》は淫《みだ》らにさえ映る。しかし、炎の部族の女性ではない彼女らに、自分の価値観を押《お》しつけるわけにはいかない。
目のやり場に困って、スパークはライナの隣《となり》を歩くことにした。こうすれば、彼女の腰が視界に入らなくていい。
「賊《ぞく》が河から上がってきたのは、この先なんですね?」
スパークはライナにそう尋《たず》ねた。隣に来たことの言い訳だと、言ってしまってから気がついた。
スパークの声にはっとして、彼女は驚《おどろ》いたように顔を上げた。自分の考えに閉じこもっていた様子だった。
仲間のことを気遣《き づか》っているのだろう、とスパークは思った。傭兵たちは仲間を大切にする。自らの身を守ってくれるのが、自分の剣《けん》とともに傭兵仲間だけであることをよく知っているから。
「ええ、もう少し先。新しい王城が建つ丘の近くよ」
ライナの答に、スパークはかるくうなずいた。そして、歩調を落とすよう、みんなに言った。
自らは| 剣 《ブロードソード》を抜いて、賊の襲撃に備える。相手はダークエルフなのだ。姿を隠して、待ち伏せしていないともかぎらない。
「隊長、そんなに用心することはない。奴《やつ》ら、もうどこかへ逃《に》げたに決まってますぜ」
スパークの用心深さをからかうように、ギャラックが言った。
「それぐらい分かっている。しかし、万が一ということもある。用心していて命を落とした奴はいないが、その逆ならいくらでもいるんだぞ」
ギャラックは白い歯をにっと見せただけで、何も答えなかった。彼の隣《となり》で、リーフも喉《のど》を鳴らすように笑っている。
侮辱《ぶじょく》されたようで、スパークは憮然《ぶ ぜん》とした顔になった。
「賊って、王城に入ったんでしょ」
ライナの顔が穏《おだ》やかに微笑《ほ ほ え》んでいた。今のやりとりで、気持ちがほぐれたらしい。スパークの怒《いか》りをなだめるように、彼女は優しく声をかけてきた。
「どうして、それを?」
スパークは驚《おどろ》いた。ライナには、まだ事件の詳細《しょうさい》を話していなかったのである。自分自身の恥《はじ》をさらすのはともかく、王国にとっても不名誉《ふ めいよ 》なことだからだ。いずれ噂《うわさ》となって広まろうが、無関係な人にわざわざ話すことではない。
「どうしてって……、ふつうの賊を騎士様が追いかけたりはしないもんよ。だから、そう思ったの。正解だったでしょ」
スパークはふてくされたような顔でうなずいた。スパークは騎士見習いなので、衛兵たちを指揮して、ふつうの賊を追いかけたりもするのだ。しかし、正騎士たちの仕事でないのは、ライナの指摘どおりである。
「でも、王城に忍《しの》びこんだ賊にしてはずいぶん間抜《まぬ》けね。ふつうなら……」
ライナは思案顔でつぶやくように言った。
「間抜け?」スパークは意外な言葉を聞いたように思った。
「王城に侵入《しんにゅう》して脱出《だっしゅつ》した連中なんですよ。間抜けなはずはないでしょう」
スパークは思わずきつく言ってしまった。その間抜けを相手に、自分は失態をさらしてしまったのである。
「そ、そうね。そうかもしれないわね」
スパークに詰《つ》めよられ、ライナは言葉を濁《にご》した。
「なぜ、連中が間抜けなのか、理由があるなら聞かせてもらいたいもんだな」
ギャラックがにやついた顔で、ライナのそばに寄っていく。ライナは露骨《ろ こつ》に嫌《いや》がって、助けを求めるように、スパークにしがみついた。
「御婦人《ご ふ じん》が怖《こわ》がっているじゃないか」スパークは、ギャラックをたしなめた。
「ですが、ギャラックの言うとおり、意見があるなら遠慮《えんりょ》なく言ってください。今はどんな手がかりでも貴重ですから」
「本当に何でもないの。|怪我《けが》人を連れて河を泳いで逃《に》げるなんて、滑稽《こっけい》じゃない。それで、間抜けだな、と思っただけ」
ライナはもう勘弁《かんべん》してよ、といわんばかりだ。女性が嫌《いや》がっていることを強要するわけにはいかない。スパークはそれ以上、彼女を追及《ついきゅう》しないことにした。
スパークたちは、ふたたび歩きはじめた。静かな夜の街道に、スパークたちの足音だけが響《ひび》いている。ときおり、涼《すず》しい夜風が街道を横切るように吹《ふ》きぬけ、スパークたちの身体《か ら だ》の火照《ほて》りを優しく奪《うば》いさっていく。道端《みちばた》に生えた雑草がさざ波のように揺《ゆ》れていて、街道がふたつの小川に挟《はさ》まれたようにも見えた。めったに歩くことのない夜の街道は、どことなく神秘的な雰囲気《ふんい き 》を湛《たた》えていて、夢《ゆめ》を見ているかのような気分にさせた。
そのとき、ライナが小さな叫《さけ》び声をあげると、突然《とつぜん》、駆《か》けはじめた。
「どうしました!」
スパークは出遅《で おく》れて、ライナに呼びかけた。答はなかった。
「ひとりで行かせていいんですかい?」
ギャラックが思わせぶりに言った。
ギャラックには何も答えず、スパークはライナを追いかけはじめた。剣を持ったまま走ったので、抜《ぬ》いたままの刃《は》が闇《やみ》の中で白く揺れる。
一行の中では、アルド・ノーバとグリーバスのふたりがスパークに続いて走りはじめた。残るふたりの傭兵は、のんびりと行くことに決めたようだ。
ライナは街道からすこし外れた、土手の方へ走っていった。土手には、膝《ひざ》ぐらいまでの高さの雑草が生えている。その雑草のあいだに、彼女は何かを見つけたようだった。彼女は長めの革靴《かわぐつ》で雑草を踏《ふ》みながら、土手の斜面《しゃめん》を降りていった。
その足の動きが止まったとき、彼女の視線はしばらく足元に落ちていた。それから、夜空を仰《あお》ぎ、片手で目を覆《おお》った。口からは、鳴咽《お え つ》にも似た声が洩《も》れている。
スパークが、ようやくライナに追いついたときである。
アルド・ノーバが遅《おく》れていたので、足元は暗かった。スパークはライナが見つけだしたものに、まだ気づかないでいた。しかし、もう一歩踏みだしたとき、足の先に何かが当たる鈍《にぶ》い感触《かんしょく》があった。
スパークは目を凝《こ》らして地面を見て、ようやくそれに気がついた。
人が倒《たお》れていたのだ。スパークは屈《かが》みこんで、抱《だ》き起こそうとした。
嫌《いや》な臭《にお》いが鼻をついた。血の臭いだった。臭いにむせ、スパークは一瞬《いっしゅん》、顔を背《そむ》けた。息を止めながら相手の背中に手を回し、上体だけを起こした。ぬるりとした感触《かんしょく》が、背中に回した手に伝わってくる。
そのとき、背後から明かりが投げかけられた。アルド・ノーバが追いついてきたのだ。青白い|魔法《ま ほう》の光に照らしだされて、スパークは腕《うで》に抱《かか》えたものを確かめることができた。
三十前後の男だった。息をしていないのは一目で分かった。致命傷《ちめいしょう》は胸から背中に抜《ぬ》けている傷。鋭利《えいり 》な刃物《は もの》で胸を貫《つらぬ》かれたに違《ちが》いない。
血は冷たくなっていたが、まだ完全に固まってほいない。
「あなたの仲間なんですね」
ライナはこっくりとうなずいて、力を失ったように、その場に膝《ひざ》をついた。
「そう、仲間のランディー……」
茫然《ぼうぜん》とした声だった。
仲間を失った心痛は、いかばかりだろう。スパークはライナを哀《あわ》れに思った。もしかすると、彼女の恋人《こいびと》だったのかもしれない。
「みんな、手伝ってくれ。この男、弔《とむら》ってやらないと」
スパークは男の手を胸のところで組ませると、開いたままの瞼《まぶた》を閉じてやった。その目は自分の命を絶《た》った相手を、いまだ睨《にら》みつけてでもいるかのようだった。
地面を掘《ほ》る道具もないので、スパークたちは男の骸《むくろ》を河原に移し、その上に近くの石を積みあげて、墓標代《ぼひょうが 》わりにした。慎重《しんちょう》に積みあげたのだが、石の重みで死体がつぶれていくのは、どうしようもなかった。地面に埋《う》めたとしても、いつかは地虫に食べられ、白骨となるだけなのだ。
その陰鬱《いんうつ》な作業が終わってから、グリーバスが簡単な弔《とむら》いの言葉を述ベた。グリーバスが祈《いの》りをあげているあいだ、残る五人は手を組んで黙祷[#底本は旧字体]《もくとう》を捧《ささ》げる。
「賊《ぞく》はもうすこし先の河原に姿を現わしたの……」
弔いが終わると、ライナがぽつりと言った。
そのまま河原を歩いて、ライナの言った場所に移った。すでに、河原の石も乾《かわ》いていたし、賊の姿も近くになかった。賊が土手を駆《か》けあがった痕跡《こんせき》だけは見つかったが、それからどちらへ向かったかを示すような手がかりは、まったく残されていなかった。
「少し遅《おく》れたが、急げばまだ追いつくはずだ。向こうは|怪我《けが》人も抱《かか》えているしな」
ダークエルフに関する悪い噂《うわさ》はいろいろと聞いているが、傷ついた仲間を見捨てないのは立派だと思えた。スパークはその点に関してのみ、邪悪《じゃあく》な妖魔《ようま 》である彼らを見直すことにした。
ダークエルフたちが街道を逃《に》げるかぎり、スパークはかならず探しだせると信じている。心配なのは、街道を離《はな》れ、砂漠越《さ ばくご 》えで東へ抜《ぬ》けられることだが、その心配もないように思える。荒野《こうや 》を旅する危険はダークエルフにとっても変わりはないし、時間的にも大きな遅《おく》れとなる。マーモの闇《やみ》の森を本拠《ほんきょ》とする彼らが、この辺りの土地に慣《な》れているはずはないのだ。
「ライナさん、協力ありがとうございました」
スパークは出会ったときと同じように、彼女の手を取り、かるく口づけした。それから、彼女にブレードの街に戻《もど》るように言った。腰《こし》の短剣《ダ ガ ー》を抜いて、彼女にそっと手渡《て わた》す。その短剣の柄《え》の部分には、炎《ほのお》の部族の族長家の紋章《もんしょう》が刻まれている。
「これを見せて、スパークが許したといえば、街に入れます。どうしても傭兵《ようへい》になりたいのなら、スパークからの推挙《すいきょ》だと採用官のナグルに言ってください」
スパークの短剣を両手で握《にぎ》りしめたまま、ライナはしばらく何も答えなかった。潤《うる》んだような瞳《ひとみ》でスパークを見つめながら、自らの考えをまとめている様子だった。
スパークは、彼女から出てくる言葉をじっと待った。
「………って」ライナは心を決めたのか、ひとつうなずくと、小さくつぶやいた。
「わたしも連れていって」
自分の言葉に勇気づけられたように、二度目ははっきりとそう言った。
「あなたを……ですか?」
スパークはライナの意外な言葉に、戸惑《と まど》いを覚えた。助けを求めて、アルド・ノーバに視線を向ける。しかし、彼は自分は関係ないとばかり、あわてて視線をはずした。
「仇《かたき》を討ちたいの。仲間の仇を……お願い」
ライナはスパークの鎧《よろい》にしがみつくと、そう懇願《こんがん》した。目には涙《なみだ》さえ浮《う》かんでいる。
スパークは顔を真っ赤にしながら、やや乱暴にライナを突《つ》き放した。
「わたしは王命で動いているのです。まことに申し訳ないですが……」
「あなたの邪魔《じゃま 》は絶対にしない」短い髪《かみ》を振《ふ》り乱し、ライナは叫《さけ》ぶように言った。
「わたしは仲間を……、ランディーを殺した奴《やつ》らに復讐《ふくしゅう》できればいいんだから」
「別に連れていってやってもよいのではないか。いかなる理由であれ、戦う勇気を持つのは良いことだ。どうせ目的は同じなのだし、協力してやっても問題ないと思うぞ」
そう言ったのはグリーバスだった。いかにも、戦の神の司祭らしい言葉だ。フレイムに仕えているわけではないから、気軽に言えるのだろうが。
スパークは他に意見はないかと、仲間たちを振り返った。しかし、皆、関心なさそうな顔だった。決定は、スパークに委《ゆだ》ねるつもりなのだろう。
スパークは迷った。大切な任務である、無関係な者を連れていってよいものだろうか。しかし、心情的には彼女に協力してやりたいとも思う。
どうするか、スパークは自らに問いかけた。
「わたしは勝手についていくだけ。それではだめ?」ライナはスパークが迷っているのを見て、もう一押《ひとお 》しとばかり言った。
「それは、ただの理屈《り くつ》です」
スパークは毅然《き ぜん》とした声で言い返した。連れていくなら、自分の責任においてそうするつもりだった。小賢《こ ざか》しい理屈は、カシューが何よりも嫌《きら》うところだ。
「いいでしょう。あなたはフレイムの傭兵志願者だ。わたしの責任において、あなたをフレイム傭兵隊の一員と認めましょう。もちろん、正式な決定ではありませんが」
「それこそ、理屈だと思うな」
リーフが忍《しの》び笑いをする。
「オレが責任を取る」
スパークに怒鳴《どな》られ、ハーフエルフの少女は、舌を出しながらこそこそとギャラックの背中に隠《かく》れた。
「傭兵隊の規律は、ギャラックに聞いてください。決して緩《ゆる》くはありませんよ」
「安心しな。守っている奴《やつ》なんて、誰《だれ》もいないからよ」
ギャラックがライナに握手《あくしゅ》を求めながら、小声で耳打ちするように言った。ライナが怯《おび》えたように、身を固くしている。
「規律|違反《い はん》は斬首《ざんしゅ》なんだぞ」
ギャラックの言葉を聞きとがめ、スパークは怒鳴った。それから、傭兵隊の規律を教えるように、とあらためてギャラックに命令した。
「分かりました、隊長」
ギャラックは首をすくめて、おどけた言い方をした。
スパークは不機嫌《ふ き げん》に思った。リーフといい、このギャラックといい、どうして傭兵たちは人を食ったような態度ばかりとるのだろう。
「これで、いいですね」
それから、スパークは念を押《お》すようにアルド・ノーバに言った。彼に異論はないようだった。ただ、急ぎましょうと提案した。
スパークはうなずくと、土手を上がって街道へと戻《もど》った。
急がねば、夜明け前に次の村にたどりつけない。スパークは東の空をうかがった。まだ、明るくはなっていない。
それから、街道を南に向かって、歩きはじめた。
前方に立ちはだかる闇《やみ》に目を凝《こ》らし、そこにダークエルフたちの黒い影《かげ》が見つからぬかと、片時も注意を怠《おこた》ることはなかった。しかし、どこまでいっても闇の壁《かべ》が続くばかりで、朝日を浴びてその壁が消えていっても、目指す黒い影は見つからなかった。
結局、最初の村に到着《とうちゃく》したのは、朝日が昇《のぼ》ってからだった。
この村で、スパークは休息をとることにした。もちろん、その前に村《むら》詰《づ》めの兵士から賊《ぞく》に関する情報を聞くことを忘れはしなかった。だが、目ぼしい情報は入らなかった。
スパークたちが休んでいるあいだにも、兵士たちは、街道ぞいに馬を走らせてくれた。それでも、賊の姿は見つからなかった。
やはり、昼間はどこかに身を潜《ひそ》めているのだ、とスパークたちは確信した。この辺りは砂地が多いから、身を隠《かく》す場所がそんなにあるとは思えない。村人たちの手を借りれば、賊を見つけられるかもしれない。しかし、村人たちを危険に晒《さら》すわけにはいかなかった。
街道沿いの村々に詰《つ》めている兵士たちや、南のヒルトの街の兵士たちが見つけてくれることに期待するしかない。
スパークたちは、夕刻に村を出発した。日没《にちぼつ》までに動けば、ダークエルフたちとの距離《きょり 》を少しでも縮めることができる。
しばらく歩くと、日が沈《しず》み、夜の帳《とばり》がスパークたちを包みこんだ。アルド・ノーバが光の呪文《じゅもん》を唱えようとする。しかし、スパークはそれをやめさせた。夜、明かりを持って動いていたら、間違《ま ちが》いなく賊《ぞく》に気づかれてしまう。
そこで、グリーバスに先頭に立ってもらい、誘導《ゆうどう》と周囲の警戒《けいかい》を頼《たの》むことにした。彼はドワーフなので暗視の能力があるのだ。
リーフによれば、精霊《せいれい》使いも夜目がきくとのことだった。普通《ふ つう》の人には見えない光を、見ることができるらしい。厄介《やっかい》なことに、ダークエルフたちは精霊使いなのだ。だが、試してみると見える範囲《はんい 》は、ドワーフに比ベればずいぶん落ちることが分かった。つまり、ダークエルフよりも先に、彼らを発見できる可能性は高いわけだ。
それに賭《か》けるしかなかった。
グリーバスは鉾槍《ハルバード》を杖代《つえが 》わりに使いながら、スパークの前を急ぎ足で歩いている。彼らドワーフたちの身長は低い。大人《お と な》でも、スパークの胸ぐらいまでしかないのだ。当然、足も短く、歩みは遅《おそ》い。彼にしてみれば、昨日から早足で歩きづめなのだろう。それでも、文句ひとつ言わないのは、頑健《がんけん》なドワーフなればこそである。
月が沈《しず》めば夜空に浮《う》かぶ星々の明かり以外に、スパークたちを照らすものはない。明かりになれた暮《く》らしをしているスパークたちにとっては、心細いものだし、恐《おそ》ろしくもある。一歩先が崖《がけ》なのではないかとの不安がつきまとうからだ。
いちばん露骨《ろ こつ》に怖《こわ》がっているのは、アルド・ノーバだった。彼は不安そうにグリーバスの服の袖《そで》をつかんで、片時も離《はな》そうとしない。大男の彼が、小柄《こ がら》なグリーバスにつかまっている姿は滑稽《こっけい》ですらある。
軽口を叩《たた》いてごまかしているが、ギャラックも内心では不安なのだろう。傭兵《ようへい》仲間のリーフのそばを離れず、彼女を目印にしながら、恐る恐る足を踏《ふ》みだしている。それでも、石に蹴躓《け つま》ずいて、ときどき、バランスを崩《くず》していた。暗闇《くらやみ》で完全に平衡《へいこう》感覚を失っているみたいだ。
意外にも、ライナは平気な様子だった。スパークの隣《となり》を寄りそうように歩いているのだが、しっかりした足取りである。むしろ、闇《やみ》の中でおぼろげに見える彼女の金髪《きんぱつ》が、スパークには頼《たの》もしかった。
ブレードを旅立って二日目の晩は、何事もなく過ぎていった。夜明け前に辿《たど》りついた村で休息を取り、三日目は昼すぎから動きはじめた。途中《とちゅう》、何度か休憩《きゅうけい》をはさみながら、夜を徹《てっ》して歩いた。そして、翌早朝、スパークたちはヒルトの街に到着《とうちゃく》した。
ヒルトは城塞《じょうさい》都市である。街の周囲を堅固《けんご 》な城壁《じょうへき》が取り巻いていて、敵に対する備えとしていた。風の部族と炎《ほのお》の部族が争っていたときには、この街は重要な戦略|拠点《きょてん》であり、この街を巡《めぐ》って激《はげ》しい攻防戦《こうぼうせん》が繰《く》り返されたものだ。
しかし、ふたつの砂漠《さ ばく》の民が和解してからは、この街が戦場になったことはない。国境からも遠く、フレイムの王都ブレードとともに、現在ではもっとも安全な街といえる。城壁はもはや、無用の長物《ちょうぶつ》と化していた。
城壁ばかりではない。この街を中心として、南北に広がっている穀倉地帯も、火竜の狩猟場《しゅりょうば》≠ェ開墾《かいこん》され広大な田園地帯となってからは、少し寂《さび》れた感がある。街自身もかつては、フレイム第二の都市であったのだが、自由都市ライデンがフレイムの属領となって、その地位を失っている。ヒルトの街の住人の中には、そのことを嘆《なげ》く者もいるが、それが時の流れというものなのだろう。
スパークたちは、この二日、村の詰所《つめしょ》でしか休息を取っていない。詰所には粗末《そ まつ》な寝具《しんぐ 》しかないので、旅慣れていない者は、ゆっくりと休めなかったはずだ。せっかく街に着いたのだからと、スパークは宿に泊《と》まって疲《つか》れを取ろうと決めた。
大通りに面した黄金の砂丘亭《さきゅうてい》≠ニいう名の宿屋に、スパークたちは部屋をとった。かなり大きな宿屋で、部屋数も二十は下らなかった。幸い空きが多かったので、スパークは大部屋をひとつと、女性たちのために小部屋をもうひとつ頼《たの》んだ。
「みんなはすぐに休んでくれ。オレは太守《たいしゅ》の館に行ってくるから」
スパークはみんなにそう伝えてから、宿屋を出て太守の館へと向かった。情報を交換《こうかん》するためだった。スパークたちがブレードを発《た》ってから、早馬が何度かブレードとヒルトの間を行き来している。ヒルト太守に聞けば、新しい情報が入るのではないかと思ったのだ。
スパークは太守の館へまっすぐに向かった。スパークは公用で、二度ほど訪れたことがあり、館まで迷わずに行けた。館とは言っても、小さな城といって差し支えのないものだ。堀《ほり》も巡《めぐ》らせているし、館を取り巻く壁《かべ》も両手をいっぱいに広げたぐらいの厚さがある。
門番に用向きを告げて、スパークは中へ入った。
まだ朝も早かったが、すでにヒルト太守は執務《しつむ 》中だった。ほんの少し待っただけで、スパークは執務室へと通された。
ヒルト太守ランデルは痩身《そうしん》、隻眼《せきがん》の初老の男で、砂漠《さ ばく》の民らしく精悍《せいかん》な感じの人物である。風の部族出身の侯爵《こうしゃく》で、英雄戦争のおりの武勇は、スパークも噂《うわさ》で聞いている。カシューの側近として、最後までカシューと共に戦い、あの激戦《げきせん》を生き残った。炎《ほのお》の部族との戦のおりに右目を失い、以後、陣頭《じんとう》から退いた。ヒルト太守として赴任《ふ にん》したのは、確か三年前だ。
ランデルは、わざわざ椅子《いす》から立って、スパークを出迎《で むか》えた。
「|騎士《きし》見習いスパークです」
スパークは頭を下げて、敬意を表わした。
「おまえの話は聞いている。ヒルトとしても、できるかぎりの協力をするつもりだ。とりあえずは兵士たちに街の周辺を警戒《けいかい》させている。今のところ、網《あみ》にはかかっていないがな」
「ありがとうございます」スパークは恐縮《きょうしゅく》して、頭を下げた。
「礼には及《およ》ばん。すべては、フレイムのためだ」
ランデルは身体を屈《かが》め、机の下を探ると土汚《つちよご》れのついた黒い布を取りだしてきた。それを持って、スパークのそばにやってくる。
「それは!」
スパークは驚《おどろ》いて、ランデルの方に近づいていった。その布に、見覚えがあったからだ。
「そう、賊《ぞく》が着ていた服だ」
スパークはランデルの手から布を受け取ると、広げて調べてみる。肩口《かたぐち》のところが切り裂《さ》かれており、乾《かわ》いた血が胸のあたりまで染みになっていた。
「どこでそれを」
スパークは勢いこんで尋《たず》ねる。
「あわてるな」ランデルはもったいぶるように、咳払《せきばら》いをひとつする。
「賊の死体が見つかったのだ。おそらく、おまえが切りつけたという奴《やつ》だろう」
賊を切ったとき、スパークは相手に致命傷《ちめいしょう》を与えたという感触《かんしょく》を得ていた。もっとも、人を切ったのは初めてなので、自信はなかったのだが。
「死体はブレードとヒルトのちょうど中間ぐらい、街道から少し離《はな》れた畑のそばに浅く埋《う》められていた。仕事に出てきた農夫が、掘《ほ》り返された地面の跡《あと》を見つけて、掘りだしたというわけだ」
「それは、いつの話なのですか?」
「昨日の夜に、知らせがあった。この服もそのとき、もたらされたものだ。農夫が見つけたのは、おそらく朝だろう。死体が埋められたのは、その前日の夕方から晩にかけてだと推測《すいそく》しておる」
そんなところだろうとスパークも思った。二日前の晩といえば、スパークたちもその近くを通っているころだ。すると、賊はまだヒルトの近辺にいるに違《ちが》いない。
「賊とは言っても、たかがダークエルフが数人。このヒルトを抜《ぬ》けさせはせんよ。もっとも、騎士たちの多くが出陣《しゅつじん》したので、人手不足は否めんがな」
ランデルの話では、ヒルトからも百名あまりの騎士と、五百ほどの兵士が、ブレードヘと向かったらしい。しかも、カシュー自らが指揮をする第|一陣《いちじん》は、すでにアラニアヘ出発したとのことだ。さすがに、カシューの動きは迅速《じんそく》だった。
「戦に行けぬと知ってたら、太守《たいしゅ》など絶対に引き受けなかったぞ」
ランデルは、そう言って悔《くや》しがりもした。
「それから、もうひとつ面白い情報がある。もっとも、こちらは賊《ぞく》に関係あるかどうか分からんがな」
スパークは姿勢を正して、ヒルト太守の次の言葉を待った。
「今朝、早く、ヒルトの北門にひとりの少女が姿を現わしてな。門番が誰何《すいか 》したところ、その娘《むすめ》はブレードの街から来たと言った。どこといっておかしな点もなかったので、北門の門番は街に入ることを許したのだ」
「少女ひとりだったのですか?」
スパークは話の異常さにすぐに気がついた。
「な、怪《あや》しいだろう」
ランデルに同意を求められ、スパークは強くうなずいた。
「フレイムの治安の良さは他国に誇《ほこ》ってもよい。しかし、幼い娘がひとりだけで、しかも、わざわざ夜道を旅するものだろうか」
「よほどの事情がないかぎりは、しないでしょう」スパークは頭の中でいろいろな可能性を検討してみた。
「娘の姿や格好《かっこう》から、何か分からなかったのですか?」
「どうやら、巡礼《じゅんれい》の神官らしい。そして、南門の門番の話だと、娘はこの街を素通りしてすぐに南へと向かったとのことだ。そのときの娘の言葉を不審《ふ しん》に思って、南門の門番はわしに報告に来たというわけだ」
「どんな言葉なのです?」
「神に導かれるまま、黒い悪夢《あくむ 》を追って……。門番に旅の理由を尋《たず》ねられて、娘はそう答えたらしい」
スパークは、娘が言ったという言葉を、口の中で何度か繰り返してみた。
巡礼の神官ならば、神の啓示《けいじ 》を受けて旅をしていてもおかしいことはない。むしろ、当然だろう。気になるのは、黒い悪夢という言葉だ。ダークエルフと関係があるかもしれない。
南門の門番も、それで太守に報告する気になったのだろう。もっとも、娘を足留めしなかったのは、あきらかに手落ちである。
「その娘の人相や服装《ふくそう》を教えてください。もしも、道中出会いましたら、問いただしてみましょう」
「そうしてくれ。カシュー陛下から、賊を捕《と》らえよとの厳命がくだされている。怪しい者は徹底的《てっていてき》に調べなければな」
そして、ランデルはスパークに娘の特徴《とくちょう》を告げると、今はゆっくりと休むように言った。
「賊発見の報が入ったなら、すぐに知らせよう」
スパークは、自分の泊まっている宿の名を告げてから、ランデルの執務室《しつむ しつ》を後にした。
2
扉《とびら》を叩《たた》く音がした。荷物を整理していたライナは、とっさに護身用の短剣《ダ ガ ー》を握《にぎ》りしめた。
「そんなに緊張《きんちょう》することないって」
リーフがライナに陽気に笑って、跳《は》ねるように扉へと歩いていった。
「入ってもいいか」
声がした。男の声だ。おそらく、ギャラックという傭兵《ようへい》だろう。悪い予感がした。ライナは緊張して、扉を見つめる。
リーフは何も言わないで、いきなり扉を開けた。
「驚《おどろ》かすない」ギャラックが胸を押《お》さえながら言った。
「扉を開けるなら、ちゃんと返事をしてからやってくれ。こっちにだって、心の準備ってものがあるんだからよ」
「やりなおそうか?」
リーフが無邪気《む じゃき 》に笑って、ギャラックを部屋に入れる。
「いったい何の御用」
ライナは辛辣《しんらつ》な声を出していた。
この傭兵が、自分の正体に気付いていることは間違《ま ちが》いない。
わたしを脅《おど》す気なのか。
ライナの警戒心《けいかいしん》が呼び起こされていた。脅すとなれば、目当ては金か身体《か ら だ》かのいずれかに決まっている。
ギャラックは、平気な顔をして部屋の中に入ってきた。
「こっちのほうが、ずいぶん快適そうだな」
「当たり前よ、スパークは|騎士《きし》だもの。女性にはちゃんと敬意を払《はら》ってくれるのよ」
ギャラックは意味ありげな笑いを浮かべた。
「リーフ、おまえは部屋を出ろ。オレはこちらの女性に、傭兵の規則ってやつを教えなければならないからな」
リーフは驚《おどろ》いたようだった。目を丸くして、ギャラックを見つめる。
「傭兵の規則を話すのに、なんでわたしが部屋を出ないといけないの」
「ま、それはそれ。いろいろとあるからな」
ギャラックは後ろからリーフの両肩《りょうかた》をつかんで、文字どおり部屋から追いだした。リーフは抵抗《ていこう》しようとしたが、なにしろ体重がない。軽々と、外に運ばれてしまった。
「ち、ちょっと。あたしはどこで寝《ね》ればいいのよ」
「もう少し頑張《がんば 》れるだろ。用事が終わったら、すぐに呼んでやるさ」
ギャラックは、リーフに手を振《ふ》ると、ばたんと扉を閉めた。
リーフは扉の外で、抗議《こうぎ 》の声を上げる。しかし、その声もすぐに聞こえなくなった。
ギャラックはリーフが去るまで、扉の前にじっと立っていた。それから、ライナの方に振《ふ》り返ると、上唇《うわくちびる》をつりあげるような笑い方をした。
ライナはベッドの端《はし》に腰《こし》を下ろし、手と足を組んで待っていた。この場を逃《のが》れても、問題の解決にはならないのである。この傭兵《ようへい》がスパークに、自分の正体を知らせたなら、それまでなのだ。
「用件は分かっているな?」
そう言いながら、ギャラックは床《ゆか》の上にあぐらをかいて座った。
「傭兵の規則を教えてくれるんでしょ」
ライナは冷笑を浮《う》かべ、同時に見下すような目でギャラックを見る。
ギャラックの表情は動かなかった。
「面倒《めんどう》なのは嫌《きら》いだ。単刀直入に言おう。おまえの目的はなんだ?」
「それはこっちが聞きたいわ。あなた、わたしが盗賊《とうぞく》だと知ってるんでしょ」
「当たり前だ。オレは傭兵|暮《ぐ》らしが長いんだ。昔《むかし》、優男《やさおとこ》ってふたつ名の傭兵がいてよ。そいつとも知り合いなんだぜ」
「知っているわ、ライデンの長《おさ》のことね」
ライデン盗賊ギルドの長フォースが優男<Vュードという名で、フレイムの傭兵隊に身を隠《かく》していたという話は、盗賊仲間では有名である。国王カシューとのつながりは深く、ライデンの併合《ヘいごう》のときにも一役買ったというし、盗賊の何人かをロードス各地に派遣《は けん》し、カシューのために情報集めをしている。
フォースは盗賊ではなく、義賊のギルドを作るのだと言った。そうでもしなければ、いつかギルドはつぶされてしまう、と。ちょうどライデンの評議会による自治も、行き詰《づ》まっていたところだから、フォースはライデンがカシューによって支配される未来を見越《みこ》していたのかもしれない。おかげで、ライデンがフレイム領となってからも、盗賊ギルドは生き残ることができた。
カシューは組織としての盗賊ギルドを黙認《もくにん》することに決めたからだ。
もっとも、法を破って捕《つか》まった盗賊は、手心を加えられない。数年前に明文化されたフレイムの法によって厳しく罰せられる。盗賊は割に合わない商売だ、ライナはそのことをよく知っている。
ライナには両親はなく、物心ついた頃《ころ》からライデンの盗賊ギルドで育てられてきた。前のギルドの長は、ライナを娼館《しょうかん》に売るつもりだったようだ。おかげで大切に育てられ、不自由な暮《く》らしをしないですんだ。しかも、ライナがまだ商品にならないあいだに、盗賊ギルドの長が、フォースに交替《こうたい》した。
フォースは、ライナたちに自由を約束《やくそく》してくれた。しかし、どこにも行くあてがなかった。仕方なくフォースはライナや似たような境遇《きょうぐう》の子供たちを育てることにした。ちゃんとした行儀《ぎょうぎ》作法や教養も身につけさせ、子供のいない名家に養子として売ろうと考えたのだ。売られることには変わりはないが、奴隷《ど れい》や娼婦《しょうふ》に売られるのとは訳が違《ちが》う。
ライナにも養女の話はあった。数さえ忘れたほどにあった。ライナはギルドで育てられた子供の中でも出来のいいほうだった。容姿の美しさは、誰《だれ》もが褒《ほ》めてくれた。そのためだろう、ライナを養女にして政略結婚させようと考えている下級貴族ばかりが引き取り手として名乗りをあげた。
ライナはその申し出をすべて断わった。自分が品物みたいに扱《あつか》われるのはまっぴらだった。そのうち、ライナは養女にゆくつもりがなくなった。だから、盗賊《とうぞく》ギルドに残ったのである。貴族たちの社会が嫌《きら》いになったためではない。養女にもらわれ政略結婚を強要されるぐらいなら、自分で結婚相手を探したほうが得のように思えたからだ。
だから、いちばん身近にいたフォースを誘惑《ゆうわく》したりもしたし、カシューに見初《みそ》められてなどと、身勝手なことも考えていたのだ。今のところはうまくいってないが、絶対に幸せになってやると心に決めている。
もっとも、盗賊という商売も面白いと思っている。神経がすり減《へ》る仕事なのは間違《ま ちが》いないが、まだ若い彼女にとってはそれが刺激的《し げきてき》でもあった。十四の頃《ころ》から盗賊の仕事をはじめて、今では仲間たちも一人前と認めてくれている。同業者には伸間意識を感じてもいる。
だから、ランディーを殺した奴《やつ》らに復讐《ふくしゅう》したいのだ。
どうやら、ギャラックは自分を脅《おど》すためにきたのではないみたいだった。目を見ていれば、だいたい察しがつくのだが、どうやら自分を怪《あや》しんでいる様子だった。
「おかしいじゃないか。盗賊がなぜオレたちに付いてこなけりゃならない? あんたに、どんな得がある」
ライナが黙《だま》っていると、ギャラックは思ったとおりの言葉を口にした。
「わたしを疑っているわけね」
「言ってしまえば、そうだ」
ギャラックの顔は笑っていた。抜《ぬ》け目のなさそうな笑いである。いったいどちらが怪しいのやら、とライナは心の中でため息をついた。
「盗賊だからってんで、疑っているわけじゃない。スパークが持っている金が目当てなら、盗《ぬす》む機会はいくらでもあったからな。もっとも、そんなことをしてたら、あんたの命はなかったかもしれんがな」
「脅しのつもり? それなら、きかないわよ。あんたに勝てるとは思ってないけど、逃げ足なら負けないもの。もっとも、逃げる気もないけどね」
ライナは正直に言うことに決めた。芝居《しばい 》を打っても相手の警戒《けいかい》心を強めるだけだろう。
「わたしのいちばんの目的は、仲間の復讐よ」
「盗賊《とうぞく》仲間のか」
「そうよ、あなたがた傭兵《ようへい》と同じ。わたしたちだってはみだし者、仲間意識は強いのよ」
「それはそうかも知れないな」
ギャラックは、つぶやくようにそう言うと、考えこむように腕《うで》を組んだ。反対に、ライナはギャラックを見下すような態度をやめようと、ベッドから立ち上がり、壁《かべ》の隅《すみ》に置かれていた丸椅子《まるい す 》を持ってきて、そこに腰《こし》を下ろしなおした。
「それに、盗賊ギルドの掟《おきて》を守るためでもあるの。ブレードの街で、他所者に盗《ぬす》みを働かれたら、わたしたちとしては面目《めんぼく》が立たないわけよ。それも分かってくれるでしょ」
ギャラックはふむふむとうなずく。
「それに、お金のためでもあるわ。掟を破った者を始末したなら、ギルドの長は報酬《ほうしゅう》をくれるもの」
お金という言葉が出て、ギャラックはようやくライナを信じる気になったようだった。盗賊のことを知りすぎていて、かえって偏見《へんけん》を持っているのだろう。もしかしたら、昔《むかし》、盗賊にひどい目に遭《あ》わされたのかもしれない。
「納得してくれた」
「まあな」ギャラックは曖味《あいまい》な返事をした。
「とにかく、疑って悪かった。ただし、もしも今の言葉が嘘《うそ》で、他に何か企《たくら》んでいるつもりなら、あきらめて今のうちに逃げたほうがいいぜ。命が惜しいのならよ」
ギャラックの目は、自分の言葉がただの脅《おど》しではないことを示すように、殺気を帯びてするどくなった。ライナは背中に冷たい汗《あせ》が流れるのを感じた。
「心に留めておくわ」
ライナは平静を装《よそお》い、すました笑みを口許《くちもと》に浮《う》かべた。
「ところで、あんた。この前、気になることを言ってたな。賊が間抜《まぬ》けだってよ」
「まだ、覚えてたの」
ライナは驚《おどろ》いた。スパークたちとはじめて出会った晩のことを、ギャラックは言っているのだ。あの晩、街道を歩いているとき、ライナはうかつなことを口にして、あやうく自分の正体をばらしてしまいそうになった。女性に対して寛容《かんよう》なスパークの性格を利用して、なんとか逃《のが》れたものの、どじを踏《ふ》んだと思っている。
「言ったわよ。だって、わたしたちが組織で仕事をするときは、盗む奴《やつ》、運ぶ奴、売る奴はみんな別々。盗んだ奴は追いかけられる。もし、運悪く捕《つか》まって盗品を持ってたら、しらもきれないでしょ。だから、すぐに運び屋に渡《わた》すわけよ。売るのは、もちろん故買屋《こ ばいや 》の仕事。だから、足がつきにくいのよ」
しかし、ライナは賊がマーモの手先であることをすでに教えてもらっている。仲間になると決まってから、スパークが全部、事情を話してくれたのだ。ダークエルフと聞いて、ライナはちょっと怯《おび》えたが、ギルドの掟《おきて》と仲間のためである。それに、相手が大物であればあるほど、褒美《ほうび 》だって大きい。
「さすがのダークエルフも盗《ぬす》みにかけちゃ、素人《しろうと》ということか」
ギャラックは腹を抱《かか》えて笑った。
「そりゃあね、わたしたちはそれが商売だもの。ところで、ギャラック、あなた、わたしの質問に答えていないわよ。あなた傭兵《ようへい》でしょ、それにしてはずいぶん細かいことまで気にするのね。たとえば、わたしが盗賊《とうぞく》で、スパークの持っている金が目当てだったとしても、あなたが損《そん》をするわけじゃないでしょう。それに雇《やと》われた人間とは思えないぐらい仕事熱心。あなたにも、何か目的があるんじゃない?」
「そんなことはないさ」
ギャラックは豪快《ごうかい》に笑って、床《ゆか》から立ち上がった。
「ごまかしはなしよ。わたしも正直に話したんだから、あなたも正直に話してくれないとね。でないと、自分の服を破って、あなたに乱暴されたとスパークに泣きつくわよ。あの子、真面目《まじめ》そうだからわたしの言葉を疑わないと思うわ」
「もしも、本気ならあらかじめ言ってくれよ。どうせなら、本当に乱暴しておきたいからよ」
「おあいにく、わたしは筋肉質の男は趣味《しゅみ 》じゃないの。どちらかといえば、線の細い男のほうがいいな。たとえば、ライデンの長みたいな……」
そこまで言って、ライナは話をすりかえられたことに気づき、ギャラックを覘《にら》みつけた。
「あなた、盗賊にならない。きっとそのほうが成功するわよ」
そして、ライナは改めて、ギャラックにさっきの疑問を投げかけた。
ギャラックは困ったように頭をかいて、しばらく唸《うな》り声をあげつづけた。
「この話、絶対に他言無用だぞ」
「分かったわ、約束《やくそく》する」
ライナは期待しながら、ギャラックの言葉を待った。何事であれ秘密の話はわくわくするものだ。たとえ、他人に話せなくとも、金にならなくとも、秘密はできるかぎり握《にぎ》っておくにかぎる。
「オレは傭兵隊にいるが、実はフレイムの貴族でもあるんだ。ま、ただの男爵《だんしゃく》だけどよ」
ライナは驚《おどろ》いた。
「驚くのは無理はない。この顔で、この性格だ。まっとうな貴族でないのは、間違《ま ちが》いがない」
ギャラックは傭兵隊の中にいて、傭兵たちの監視《かんし 》を役目としているのだそうだ。といっても、規律を守らない人間を報告するわけではない。規律を守る傭兵など皆無といってよいぐらいだ。そのくせ、目にあまる|違反《い はん》者は誰かが注意してやめさせる。
その注意を聞かない者は、不思議なことに、次に戦場に出ると、かならずといっていいほど帰ってこないらしい。傭兵たちは雇《やと》い主が決めた規則ではなく、傭兵仲間で暗黙《あんもく》に認められている不文律に従っているのだ。
ギャラックは傭兵《ようへい》たちの中に敵国に内通している者がいないか監視《かんし 》しているのである。そして、戦のときには、傭兵隊長シャダムの信頼《しんらい》できる配下として、荒《あら》くれどもを率いて先頭に立つ。フレイムの傭兵隊にはギャラックのような人物が、四人ほどいるという。
「もっとも今回のオレの仕事は、あの若い|騎士《きし》のお守り役さ。見ていて分かると思うが、育ちのいい奴《やつ》でな。もしかすると、次代のフレイム国王かもしれない。それにあいつが死んだら、せっかくひとつにまとまった砂漠《さ ばく》の民が、昔《むかし》みたいに風と炎《ほのお》に分かれての戦いになるかもしれない。無理はさせたくないというのが本音なのさ。ま、それでオレが出向くことになったってわけさ」
ライナは、いつの間にか身を乗り出すようにしてギャラックの話を聞いていた。
「なるほど、わたしが暗殺者かもしれないと思ったんだ」
「その可能性も考えた」
そして、ギャラックは悪戯《いたずら》をした子供のような目をしながら、ライナに謝った。
「訳ありはお互《たが》いさまだもの。謝ってもらわなくてもいいわ。それより仲よくしましょう。あなたが貴族なら、わたしの趣味《しゅみ 》にかなり近くなってきたわ」
「そいつは楽しみだな」
またひとしきり笑ってから、ギャラックは部屋を去ろうとした。
「待ってよ」
ライナはそれを引き止めた。振《ふ》り返ったギャラックは何だという顔をしていた。
「もう仕事はすんだぜ」
「まだ大事な仕事が残っているじゃない」ライナはそう言って、ギャラックに片目をつぶってみせた。
「傭兵の規則ってやつを教えてくれるんじゃなかったの?」
太守《たいしゅ》の館を出て、強くなりはじめた日差しの中をスパークは宿屋ヘと歩いて戻《もど》った。
入口の扉《とびら》を開けると、アルド・ノーバが階下の酒場のところで待ってくれていた。というより、ゆっくりと朝食を食べていたのかもしれない。食事のときはいつもそうなのだが、アルド・ノーバは一口食べるたびに、口の中で何回も噛《か》む。ちょうど牛が反芻《はんすう》しているような感じだ。入ってきたスパークに気づくと、彼は食べるのを中断して、わざわざ扉のところまで出迎《で むか》えてくれた。
「いかがでした?」
アルド・ノーバに問われるまま、スパークは太守の館で得た話を語って聞かせた。
賊《ぞく》の死体が見つかったという情報には、アルド・ノーバはあまり関心を示さなかった。相手が身軽になるのは歓迎《かんげい》できませんね、と言っただけだ。
むしろ、巡礼《じゅんれい》の少女の話にアルド・ノーバは興味をそそられたようだ。というより、驚《おどろ》いた感じだった。一瞬《いっしゅん》顔色が変わって、浅黒い肌《はだ》が灰色になったようにも見えた。
「何か、心当たりでも?」
「い、いえ。そんなことは……。ただ、少女のひとり旅とは興味をそそられますね。い、いや、決して変な意味ではないのですが……」
アルド・ノーバは巨体《きょたい》を縮こまらせるように、しどろもどろに答える。
スパークは怪訝《け げん》に思ったが、深くは追及《ついきゅう》しないことにした。一緒《いっしょ》に旅をして分かってきたのだが、この巨漢《きょかん》の魔術師はあまり気の強いほうではないらしい。身体は大きいが、心臓は食人鬼《オ ー ガ ー》の脳みそのように小さいのだ。
アルド・ノーバはテーブルに戻《もど》ると、手拭《て ぬぐ》いで汗《あせ》を拭《ぬぐ》ってから食事を再開した。あまり爽快《そうかい》な食べっぷりではないのだが、スパークも何だか腹が減ってきて、かるく食事をすることにした。食後に剣の鍛練《たんれん》でもすれば、腹がもたれることもないし、よく眠《ねむ》れるに違《ちが》いない。
スパークには、今晩が勝負になるのではとの予感がある。だから、ゆっくりと休養を取りたかった。
スパークが二階の大部屋に戻《もど》ったとき、部屋にはグリーバスとリーフのふたりがいた。グリーバスは部屋の隅《すみ》に座って、瞑想《めいそう》していた。リーフは床《ゆか》の上に腰《こし》を下ろし、背中をベッドに預けてうつらうつらしていた。
アルド・ノーバは、まだ階下で食事を続けている。
「なんで、おまえがここにいるんだ」
スパークはリーフに向かって怒鳴《どな》るように言った。
半分以上、眠っていたリーフは、その声にびくりとして、飛びあがるように立ちあがった。
「ライナに傭兵《ようへい》の規則を教えるからと言って、ギャラックがあたしを追いだしたのよ。この部屋も追われたら、あたしはいったいどこに行けばいいの」
眠りを妨《さまた》げられたことと、意味もなく怒鳴られたことに腹を立てて、リーフはスパークを睨《にら》みつけた。
「一緒《いっしょ》に教えてやったらいいじゃないか。おまえもいちおう傭兵なんだろ」
「追いだされたんだもの。ギャラックってば強引なのよ。きっと、今ごろふたりはベッドの中だわ。嘘《うそ》だと思うなら、部屋に入って自分の目で見てみたら? 興味あるから、あたしもついていくわよ」
そして、リーフはスパークの袖《そで》をひっぱって、部屋の外に連れだそうとした。
「ち、ちょっと待てよ」
スパークはよく事情が呑《の》みこめず、リーフの腕《うで》をつかんで引き止める。驚《おどろ》くほど、しなやかな感触《かんしょく》が手のひらに伝わってきた。スパークは、リーフが女性であることを今更《いまさら》ながらに意識した。
リーフの目が、スパークの手にそそがれている。
「す、すまない」
スパークはあわててリーフの腕を離《はな》した。
「隊長も、強引なのね」
スパークにつかまれていたところを、反対の手でさすりながらリーフが照れたような、恨《うら》めしいような言い方をした。
「いつから、ふたりはそんな仲になったんだ?」
スパークは、自分でもうろたえているのが分かった。実のところ、スパークにはまだ女性経験がない。騎士見習いの仲間には経験した者もいるが、スパークは炎の部族の後継者という立場もあり、女性に対しては慎重《しんちょう》であることを求められてきた。それに砂漠の民の女性は、慎《つつし》み深いのが美徳とされているから、男も遊びで女を抱《だ》くわけにはいかない。フレイムでは、遊びのつもりで娘《むすめ》を抱いて、娘の父親に切り殺されたという男の話はいくらでも転がっている。
「大人《お と な》の恋《こい》には時間がいらないものなのよ」
訳知り顔で、リーフは威張《いば》って言う。生意気な言い方だが、動揺《どうよう》していたスパークは何も言い返せなかった。
「邪魔《じゃま 》をするわけにもいかないだろう。リーフには悪いが、ギャラックのベッドを使ってくれ」
リーフは素直にうなずいて、|革 鎧 《レザーアーマー》を脱《ぬ》ぎはじめた。鎧《よろい》の下の薄衣《うすぎぬ》だけになると、さっきまで自分がもたれていたベッドにさっさと潜《もぐ》りこんだ。
「昼と夜とが完全に逆さになったわね。まるで妖魔《ようま 》か死霊《しりょう》みたい」
シーツから顔だけをのぞかせて、リーフは楽しそうに言った。
「今日、明日には決着をつけるさ」
リーフに答えながら、スパークは自分も鎧をはずしはじめた。着ているのは板金鎧《プレートメイル》で、騎士の甲冑《ス ー ツ》に比べると断然、軽い。その分、丈夫《じょうぶ》さでは劣《おと》るが徒歩の旅をするには向いているのだ。
と、背後で扉《とびら》の開く音がした。スパークは鎧を脱ぐために、足元に置いていた| 剣 《ブロードソード》に手を伸《の》ばす。
入ってきたのは、ギャラックだった。
「おや、隊長」ギャラックはちょっと驚《おどろ》いたみたいだった。
「もう終わったのかの」
瞑想《めいそう》を終わったグリーバスが、自分も寝《ね》る支度《し たく》を始めながら言った。
「ああ、終わった、終わった。隊長、すませておきましたよ」
ギャラックはリーフが寝《ね》ているベッドに向かって、まっすぐに歩くと思い切りシーツを引っ張った。シーツに包まるように寝ていたリーフは、たまらず床《ゆか》に転げて、背中を強く打った。
「そこはオレの寝る場所だぜ。おまえは部屋に帰って寝ろ」
「ひどいじゃない」リーフはしばらく息もできなかった様子で、目に涙《なみだ》をためていた。
「隊長が、ここで寝《ね》てもいいって言ったのよ。あなたはライナさんと一緒《いっしょ》に寝てたらいいじゃないの」
「何の話をしてるんだ」
ギャラックはリーフに向かって彼女の革鎧を手渡《て わた》した。
「いくらなんでも、今のはひどいぞ」スパークもさすがに怒《いか》りを覚えて、ギャラックに文句を言った。
「部屋からリーフを追いだして、ライナさんと楽しんでいたんだろう。リーフだって、疲《つか》れているんだ。同じ女性だ。ライナさんとリーフをそこまで区別するのはどうかと思うぞ」
「隊長も、何か誤解してませんか。オレは隊長に言われたとおり、傭兵の規則を教えただけですぜ。嘘《うそ》だと思うなら、ライナに聞いてみてくださいや。ま、どうせリーフが作り話でもしたんでしょうがね」
ギャラックはリーフの尻《しり》をかるく叩《たた》くと、早く服を着て部屋を出ろ、とわざとらしく優しい声をだした。
「作り話とは何よ、男と女がひとつの部屋にいて、やることといえばひとつじゃないの」
自分を子供扱いしたギャラックの態度に、リーフは完全に怒《おこ》ったみたいで、ギャラックに渡《わた》された自分の革鎧を床《ゆか》の上に叩《たた》きつけている。
「男も知らないくせに、そんな話をするんじゃない」
「ふたりとも子供みたいな真似《まね》はやめろ!」スパークはたまらず、ふたりの間に割って入った。
「いや、心ゆくまでさせるがよかろう。中途半端《ちゅうとはんぱ 》にやめると、禍根《か こん》を後に残すからの」
「グリーバス司祭、お願いですから喧嘩《けんか 》を煽《あお》らないでください」
スパークは疲《つか》れで頭が痛くなってきた。|騎士《きし》として一人前になるかどうかはともかく、この仲間と旅をしていると、間違《ま ちが》いなく忍耐《にんたい》強くなれると思った。
やっとのことでふたりを諌《いさ》め、スパークが自分のベッドで眠《ねむ》りに就いたのは、昼も過ぎようかという時刻であった。
3
よほど熟睡《じゅくすい》したに違《ちが》いない。夕方と呼ぶにはまだ早すぎる時間に、スパークは起こされたのだが、意外に頭はすっきりしていた。
スパークを起こしてくれたのは、ギャラックである。かなり身体を揺《ゆ》すられてようやく目を覚ました。
「出発の時間か」
ベッドで上体を起こし、スパークはギャラックに尋《たず》ねた。ギャラックは首を横に振《ふ》って、館から使いがきたことを告げた。
「扉《とびら》の前に、待たせてます」
スパークはあわてて、身ずくろい[#「身ずくろい」に「ママ」の注記]を[#「身づくろい」の誤記]はじめた。同時に、他の仲間にも出発の支度《し たく》をするように命じる。ギャラックが女たちに知らせてくると言って部屋を出た。
支度にはすこし手間取った。スパークがいちばん重武装《じゅうぶそう》なのだから、仕方がないのだ。しかし、全員が準備を終えても、まだ鎧《よろい》を着けているというのは情けない。気が焦《あせ》って、籠手《こて》をつけるのにも、余計な時間がかかった。
リーフが床《ゆか》にしゃがみこんで、彼が着替《きが》えるのをじっと見つめている。スパークの焦りを煽《あお》ろうとしているみたいだ。
ようやく、鎧を着けおわって、スパークは使いの兵士に声をかけた。荷物は、ライナがまとめておいてくれた。
兵士に連れられて、スパークたちは太守《たいしゅ》の館へと移動した。
ヒルトの街は大きな戦の前でもあり、さすがに慌《あわ》ただしい雰囲気《ふんい き 》だった。不穏《ふ おん》な空気が漂《ただよ》っているのが肌《はだ》で感じられる。こんなときには、街の治安が乱れがちになる。そのためか、いつもより街の衛兵の数が目だった。戦に出兵している兵士も多いから、彼らは休暇《きゅうか》も返上して警備に当たっているに違《ちが》いない。彼らもまた戦が終わるまで、忙《いそが》しい日々が続くのだろう。
館に入ると、すぐに太守の執務室《しつむ しつ》に通された。
太守は戦支度《いくさじたく》をしていた。
ダークエルフが見つかったに違いない、スパークは激《はげ》しい興奮を覚えた。
「遅《おそ》いぞ、スパーク」
ランデルは、待ちくたびれたという様子だった。
「申し訳ありません」
スパークは恐縮《きょうしゅく》して、頭を下げた。
「すぐに出発する。ダークエルフが見つかった。というより、ダークエルフがどこに潜《ひそ》んでいるか分かったというべきだがな」
「どういうことです」
「周囲の捜索《そうさく》を命じた兵士のうち、ひとりが戻《もど》ってこない。おそらくは、ダークエルフに殺されたのだろう」
ランデルはどの道を通り、いつ戻ってくるかをあらかじめ決めて、兵士たちを捜索の任につかせたのだ。もちろん、賊《ぞく》を見つけたら戻るよう命じていたが、万が一のときには帰ってこないことが賊発見の報となるよう配慮《はいりょ》したのだ。
戻ってこない兵士には気の毒だが、ランデルのその配慮が役に立った。
「南東に少し行った林の中だ。おそらく、場所を変えているだろうが、そう遠くへは行ってないはずだ。急げば、追いつくぞ」
どうやら、ランデルは自分も出るつもりのようだ。武人である彼は、戦に行けぬ悔《くや》しさをダークエルフ相手に晴らそうと考えているみたいだった。ありがたいような、寂《さび》しいような複雑な気分を、スパークは味わった。
「心配するな、手柄《て がら》はおまえに立てさせてやる。オレはこれ以上、出世しようとは考えておらん。その代わり、|騎士《きし》になったら礼の手紙くらいはよこせ」
スパークは、考えがすぐに顔に出る自分を恥《はず》かしく思った。これが若さというものなら、そんなものいらないとも思う。
兵士たちは、十人ずつ五隊に分けられて、それぞれに正騎士が隊長としてついていた。みな、年配の騎士たちだった。彼らもまた戦に行けずに内心では不満を感じていたのだろう。相手がダークエルフと聞いて、勇みたっている感じだった。
「ダークエルフが姿を隠《かく》したなら、とにかく動きまわれ。その場で留まっていたら、敵に殺されるのを待つようなものだ。姿を消していては相手は早く動けんらしい。それから、何も見えなくとも、たえず周囲に切りつけろ。運よく当たれば幸い、当たらんでも敵の呪文《じゅもん》を破れるかもしれん」
出発に当たって、ランデルはダークエルフと戦う注意を与えた。
|英雄《えいゆう》戦争以来、彼らに苦しめられてきた騎士たちが考えだした戦法である。無様《ぶ ざま》だが、姿を消されていては手だしもできない。カシューほどの腕《うで》の持ち主であれば、気配だけでも切ってしまえるらしいが、そんな離《はな》れ技《わざ》は常人にはとても真似できない。
姿の見えているダークエルフは、その|魔法《ま ほう》にさえ気をつけていれば、それほど恐《おそ》ろしい相手ではない。スパークは、彼らと剣を交えていたから、そのことを知っていた。
リーフはランデルの注意を感心しながら聞いていた。
「よく考えついたものね。確かにそんな動き方をされたら、姿隠《すがたかく》しも役に立たないわ」
「使えるのか」
スパークは驚《おどろ》いたように尋《たず》ねた。
「当たり前よ。姿隠しって、そんなに難しい呪文《じゅもん》じゃないもの。小精霊《スプライト》は下級の精霊だし、精神を司《つかさど》る精霊だから、自分の心の中からでも、彼らを紡《つむ》ぎだせるもの」
何なら実演して見せようか、とリーフは言った。
「頼《たの》むから、やめてくれ」リーフの魔法の実演にはひどい目に遭っていたから、あわてて拒《こば》んだ。
「戦いの前にわざわざ疲《つか》れることはないだろう」
呪文をかけると激《はげ》しく消耗《しょうもう》するということを、スパークは知っている。呪文の無駄《むだ》使いは、まったく意味のないことだ。
そのとき、ランデルが号令を下し、スパークたちも出発した。
ランデルの特別の計らいで、スパークは馬を与えられていた。ダークエルフを発見した場合に、誰《だれ》かが足留めしないと逃《に》げられてしまうからだ。賊《ぞく》発見の報を仲間に告げるにも馬があれば、時間が短くてすむ。
出発してすぐに各隊は散開した。お互《たが》いが十分に距離《きょり 》を取って、街道に対し平行に進むのだ。スパークは街道からいちばん近い場所を通ることを選んだ。ダークエルフたちは南の街道を抜《ぬ》けるしかないのだ。おそらくは街道を目印に進むと考えたからだ。
もっとも、街道は砂の河に沿って続いている。だから、彼らが河の底や対岸を通ることも考えられる。しかし、用意|周到《しゅうとう》なランデルは、河にも船《ふね》を出しているし、対岸にも一隊を派遣《は けん》することを忘れなかった。
「さすがはヒルト侯《こう》、わたしたちの出番がなくなるかもしれないの」
グリーバスが感心したように言った。
ギャラックが楽でいいと豪快《ごうかい》に笑う。
「任務が果たされればそれでいいさ」
スパークは馬の手綱《た づな》を操りながら言った。なかなか良い馬だ。ランデルはさすがに武人だけあって、馬を見る目も確かなようだ。
「でも、できれば自分の手で仲間の仇《かたき》は討ちたいわ」
ライナが馬の首筋を撫《な》でながら、寂《さび》しそうに言う。
スパークは、馬上でそっとうなずいていた。
同感だった。手柄《て がら》はいらないが、賊は自分の手で討ちたい。それがスパークの偽《いつわ》らざる心境だった。もっとも、そのふたつは一組になっているから、片方だけを望むことはできないのだが……
とにかく、手柄などは忘れて、任務に専念していればいいということだ。スパークは自分にそう言い聞かせた。先日の失態を繰り返すような真似だけは絶対にできない。
そのとき、自由|騎士《きし》パーンのもうひとつの言葉がふと思いだされた。
「任務を果たすだけの男にはなるなよ、か」
スパークは声に出して、小さくつぶやいた。
あのとき、パーンは彼の父テシウス、そして自らのことを例として話してくれたから、何を言いたかったのか、漠然《ばくぜん》とではあるが理解できた。ただ、実感はできない。旅に出てからというもの、ときおり思いだしては、自由騎士の言葉の意味を考えている。だが、いまだ答を見出すことができずにいた。
スパークたちは、田園地帯を慎重《しんちょう》に進んだ。物々しいスパークたちの様子に、近くの畑で働いている農夫たちが仕事の手を休め見物する。中には戦が始まるのかと尋《たず》ねてくる者もいた。誰《だれ》もが大戦の予感に神経をとがらせているのだ。
「日が落ちるまでに、ダークエルフを見つけたいものですね」
太陽が傾《かたむ》きかけているのを確かめてから、スパークはアルド・ノーバに言った。すると、アルド・ノーバは怯《おび》えたような顔で首を横に振《ふ》った。
「本心を言えば、他の隊が見つけてくれたらと願っています」
アルド・ノーバは魔術師とはいえ、文官である。実戦を経験しているわけではないのだ。剣の稽古《けいこ 》をつんでいたとしても、スパークたちのように激《はげ》しいものではないだろう。
しかし、スパークはこの仲間がダークエルフと戦うために選ばれた者たちだ、とあらためて思い起こしていた。ひとりの魔法使いもいない他の隊が戦ったのでは、いかにも苦しいだろう。|騎士《きし》たちはともかく、一般《いっぱん》の兵士たちが、姿の見えない敵に戦いを挑《いど》んで、平静を保っていられるかも疑問だった。
やはり、自分たちが彼らと戦うべきだ、スパークはそう思った。それが、もっとも犠牲《ぎ せい》が少なくてすむだろう。
神々もスパークの考えに賛同されたに違《ちが》いない。
それからしばらくして、スパークたちが進む畑の畔道《あぜみち》の前方で、何者かがちらりと動くのが見えたのだ。よく分からないが黒い服を着ていたように思う。その後ろに、もうひとつの人影《ひとかげ》もあったが、おそらくは近くの農夫だろう。
「ダークエルフか!」
スパークは緊張《きんちょう》して目を凝《こ》らした。しかし、丘の向こうに消えたものか、もはや何も見えなかった。
「オレは先に行く。みんなもできるかぎり急いできてくれ」
スパークは迷わなかった。馬に拍車《はくしゃ》をかけると、全力で駆《か》けさせた。仲間たちも走りはじめる。
スパークは馬と一緒《いっしょ》に借りていた馬上槍《ランス》を構えた。とにかく、一度、突撃《とつげき》して駆けぬけ、敵を足留めすることがかんじんなのだ。
細い畔道で馬を駆るのは神経を使う作業だった。しかも、ランスを構えているから、片手で手綱《た づな》を操らねばならない。だが、馬は自ら選んで道を走ってくれているみたいだった。賢《かしこ》い馬だ、とスパークはあらためて感心した。
畔道はいったん登って、すぐになだらかな下りになっていた。下り道にさしかかると、すぐに畔道の向こうに黒い衣服の集団が目に飛びこんできた。その姿をスパークは片時も忘れたことはなかった。
「間違《ま ちが》いない!」
スパークは歓喜の声をあげた。そして、体勢を低くして、ランスを前に突《つ》きだした。
だが、気になることがあった。黒い一団から離《はな》れて、白っぽい服を着た人が彼らを追跡《ついせき》するように歩いているのだ。さっきは農夫だと思ったのだが、近づいてみると、そうは見えなかった。しかし、賊《ぞく》の仲間とも思えない。このままだと、馬でひっかけてしまうかもしれない。
スパークは白服の人だけが自分に気付いてくれるよう願ったが、前を行く一団に気を取られているらしく、いっこうにその気配がなかった。スパークは焦《あせ》りを覚えた。このままでは、罪もない人を傷つけてしまう。
「どいてくれ!」
スパークは、やむなく声をあげた。先を行くダークエルフたちも、まだ自分に気づいていなかっただけに、悔《くや》しかった。
当然のように、双方《そうほう》がスパークに気づいた。白服の人はちらりと後ろを振《ふ》り返ると、動じた様子もなくゆっくりと畑に降り立ち、スパークに道を譲った。そのとき、一瞬、顔が見えたが、驚《おどろ》いたことに少女だった。スパークは、ランデルが話してくれた巡礼《じゅんれい》の少女の話を思いだした。今の白服の娘《むすめ》に間違いない。彼女もダークエルフの仲間なのだろうか。だが、少女は可憐《か れん》な顔をしていて、とてもそうとは信じられなかった。
黒い一団は散開して武器を抜《ぬ》いた。目深《ま ぶか》にかぶったフードをはねのける。ダークエルフたちの浅黒い顔があらわになった。
数も間違いなく四人だ。
スパークは、そのうちのひとりを目標にした。最初の突撃《とつげき》で、ひとりでも仕留めれば後が楽だ。
四人のダークエルフは、スパークの捨身とも思える突撃に、あわてたようだ。逃げるか戦うか迷っている。お互《たが》いに、何かを叫《さけ》びあっているが、あきらかに行動は遅《おく》れていた。
その間に、スパークは彼らとの距離《きょり 》をずいぶん縮めていた。
結局、ダークエルフたちは戦うことに決めたようだ。四人が四人とも呪文《じゅもん》を唱える姿勢に入る。しかし、スパークは速度を緩《ゆる》めなかった。
呪文の完成よりもスパークの突撃のほうが一瞬《いっしゅん》、早かった。
スパークのランスは、狙《ねら》ったダークエルフの胸を貫《つらぬ》いた。
まともに当たりすぎて、ランスが背中まで抜《ぬ》けてしまう。スパークはランスを持つ手を離《はな》した。
そのとき、|魔法《ま ほう》の|攻撃《こうげき》がきた。
頭に異常な感覚が湧《わ》きあがり、同時に馬ががくっとなった。スパークは落馬しまいと手綱《た づな》を絞《しぼ》ろうとした。しかし、頭がぼうっとしていて、手がまったく動かなかった。
気がついたときには、馬から投げだされていた。
落馬の痛みで我に返った。スパークは腰《こし》に剣があるのを確かめ、それを引き抜いた。激痛《げきつう》が全身に走っているが、身体は動いてくれた。それだけで十分だとスパークは思った。
三人のダークエルフたちは、武器を振《ふ》りかざし近づいてきていた。幸いにも姿隠《すがたかく》しの呪文は、使っていない。
スパークは後ろに下がった。仲間がくるまで逃げきるしかない。
その動きを見て、ダークエルフたちはふたたび魔法攻撃に移ろうとした。スパークは神経を集中させて、魔法に備えようとする。
そのとき、スパークの視界に白い影《かげ》が飛びこんできた。先程の巡礼《じゅんれい》の少女である。
手には、抜《ぬ》き身の|小 剣 《ショートソード》を握《にぎ》っている。しかし、戦う意志はないみたいだった。ただ、スパークとダークエルフの間に入って、彼らの動きを妨害《ぼうがい》しようとしていた。
「おやめなさい!」
凜《りん》とした声だった。少女は両手を広げ、まるでスパークを庇《かば》うように見えた。
いったい何のつもりだと、スパークは自分の目を疑った。
突然《とつぜん》のことに、呪文《じゅもん》を唱えようとしていたダークエルフたちの動きが止まった。それは、スパークにしても同様だった。戦う気を削《そ》がれて、少女の背中をただ見つめていた。
ダークエルフがエルフ語らしき言葉で何か叫《さけ》んだ。
少女は、両手を広げたまま、じりじりとダークエルフたちの方に近づいていく。驚《おどろ》いたことに、ダークエルフたちは下がっていった。まるで、少女の迫力《はくりょく》に圧倒《あっとう》されているみたいだった。邪悪《じゃあく》な妖魔《ようま 》とはとても思えないような腑甲斐《ふがい》なさである。
だが、それも長くは続かなかった。我に返ったダークエルフのひとりが、鋭《するど》い気合いの声とともに、少女に切りかかっていったのだ。振《ふ》りかざした新月刀《シ ミ タ ー》が、少女の細い肩《かた》を狙《ねら》っていた。
「よけろ!」
スパークは叫んで、少女を助けようと走った。間に合うとは思えない。少女は、スパークよりもダークエルフに近い場所に立っていたから。自分の目の前で起こるであろう惨劇《さんげき》にスパークの胸は痛んだ。
しかし、起こったのは、惨劇ではなかった。
少女はダークエルフの|攻撃《こうげき》をショートソードでやすやすと受け止めたのだ。
茫然《ぼうぜん》とするダークエルフの胸もとに、少女の左手がするすると伸《の》びた。
鋭く短く、少女は気合いの声をあげた。ダークエルフが見えない力に弾《はじ》かれたように、後ろに飛ばされる。
胸を抱《かか》えて、ダークエルフはその場で転げた。
それを見ていた残るふたりが、怒《いか》りの声をあげた。
思いだしたように呪文《じゅもん》の詠唱《えいしょう》を再開する。
それを見ても、少女はまったく動かない。
「下《さ》がれ!」
スパークは少女に向かってもう一度、叫んだ。少女を追いぬいて、呪文を唱えるダークエルフに向かって走る。
だが、ダークエルフの呪文の完成のほうが早かった。
少女の足元から、無数の石つぶてが吹《ふ》きあがった。さすがにたまらず、少女は両手で顔を覆《おお》う。
スパークには、もう一度、さっきの呪文が襲《おそ》ってきた。頭に不快感があって、目の前が一瞬《いっしゅん》、真っ白になった。が、今度は呪文に対して十分に備えていたので、それ以上は何も起こらなかった。呪文に耐《た》えたのだ。
行けるぞ、スパークは剣を上段に構えた。相手はシミターでそれを防ごうとする。
迷わず、剣を振《ふ》り下ろした。|攻撃《こうげき》は防がれた。しかし、渾身《こんしん》の力を込めた攻撃で、相手はその場に片膝《かたひざ》を落とした。
その胸に向かって蹴《け》りを入れる。ダークエルフは、すばやく身をひるがえすと、シミターで切りつけてきた。革の靴《くつ》が裂《さ》け、焼けるような痛みがむこうずねに走った。
たいした傷ではない。スパークはそう思うことにした。ここで怯《ひる》んでは敵に隙《すき》を与える。痛む足で地面を踏《ふ》みしめ、気合いの声とともに剣を突《つ》きだした。この攻撃も、ダークエルフにかわされてしまった。ダークエルフは動きが早く、なかなか捕《つか》まえることができない。
焦《あせ》るなよ、スパークは自分に言い聞かせた。だが後ろで戦っているはずの少女のことも気になった。いつもなら、何をおいても彼女を庇《かば》おうとしただろう。しかし、ダークエルフ相手ではとてもそんな余裕《よ ゆう》はなかった。それに、彼女には自分の助けなど無用だと思える。
一瞬の逡巡《しゅんじゅん》ののち、スパークは次の攻撃を仕掛《しか》けた。だが、これも受け流されてしまった。
スパークは思いきって相手の懐《ふところ》に飛びこんでいった。シミターが頭めがけて、振り下ろされてくる。首だけをわずかにそらして、スパークはその攻撃を肩当《かたあ 》てで受け止めた。
耳の横で激《はげ》しい金属音が鳴る。肩に鈍《にぶ》い痛みが走ったが、それは打たれた衝撃《しょうげき》によるもので、傷を受けたわけではない。板金鎧《プレートメイル》を切り裂《さ》くには、シミターは貧弱な武器だし、ダークエルフは非力すぎた。
スパークの期待どおりである。
スパークは相手に組みつくと、勢いにまかせそのまま地面に押《お》し倒《たお》した。ダークエルフは倒れた拍子《ひょうし》に、足を蹴《け》りあげ、スパークを後ろに弾《はじ》きとばそうとする。が、重い鎧《よろい》のおかげで、スパークは何とか耐《た》えることができた。
空《あ》いている左手でダークエルフの顔を思いきり殴《なぐ》った。もう一発、殴ると相手の鼻から血があふれでた。黒っぽい嫌《いや》な色の血だった。
スパークは止《とど》めとばかり、右手に持った剣の柄《つか》を、ダークエルフの鼻柱に叩《たた》きこんだ。それで、ダークエルフはぐったりとなった。
「スパーク!」
自分を呼ぶ声がしたのは、そのときである。ようやく、ギャラックたちが追いついてきたのだ。
「ダークエルフを逃《にが》すな!」
スパークは仲間を振り返りもせず、そう叫《さけ》びながら立ち上がった。
とにかく、周囲の状況《じょうきょう》を確かめるのが先決だ。
戦う少女の姿は、すぐに目に入った。彼女は、ひとりだけ健在なダークエルフと、たわむれるように戦っていた。自分からは仕掛《しか》けず、相手の|攻撃《こうげき》をただ受け流していた。
もうひとりのダークエルフは胸を押《お》さえて地面に倒《たお》れたままである。胸を相当強く打ったみたいだ。肋骨《ろっこつ》が折れでもしたのだろうか。スパークは司祭《プリースト》たちが使う神聖|魔法《ま ほう》に、気弾《き だん》の呪文《じゅもん》と呼ばれる魔法があることを思いだしていた。少女がいずれかの神に仕える司祭なのは間違《ま ちが》いない。
驚《おどろ》くべきは、たった一発の気弾で、ダークエルフを倒《たお》してしまったことだ。よほど高位の司祭でもなければ、できない芸当である。
スパークは少女に下がるように言った。しかし、これは失敗だった。
スパークが近づいてくるのを見て、ダークエルフは自分の不利を悟《さと》ったようだ。少女のちょっとした隙《すき》をついて、妖魔《ようま 》は全力で逃《に》げはじめた。
早い、まるで飛ぶように走る。とにかく、追いかけはじめたスパークだが、とても間に合うとは思えなかった。少女は最初から追いかける気はないように、自分が魔法で倒したダークエルフの方にゆっくりと歩いていった。
「逃《に》がしはしないわ」
勇ましい声がしたかと思うと、逃げるダークエルフと追いかけるスパークとのあいだに、ライナが駆《か》けこんできた。
距離《きょり 》が開いていないのと、それから身軽な分だけ、まだライナの方が追いつくことができそうだった。
しかも、ライナは早かった。白い足を後ろに高く跳《は》ねあげて走る。スパークは森を駆ける鹿《しか》を連想した。ライナとダークエルフとの差は、わずかずつだが縮まっていた。
残る仲間の動きを、スパークは確かめようとした。
リーフとアルド・ノーバは、それぞれ呪文を唱える姿勢に入っている。
「奴《やつ》の足を止めろ!」
スパークはふたりの魔法使いに叫《さけ》んだ。
ふたりの呪文はすぐに完成した。アルド・ノーバは、光の矢の呪文を飛ばしていた。呪文はまっすぐに走り、狙《ねら》いたがわず、ダークエルフの背中を撃《う》った。しかし、ダークエルフの逃げ足は緩《ゆる》まることはなかった。
リーフも何か呪文をかけたのは間違《ま ちが》いないが、効果がなかったようだ。ダークエルフは、まだ逃げつづけているし、彼女は悔《くや》しそうなそぶりをしている。
ギャラックはと見れば、スパークがさきほど投げだされた馬に向かっている。もうひとりのグリーバスだが、彼はまだ追いついてもいなかった。
「ライナ、深追いはするなよ!」
スパークは自分も懸命《けんめい》になって走りながら、そう声をかけた。しかし、ライナとの差は開くいっぽうだった。
ダークエルフは逃《に》げきれないと見たか、立ち止まって振《ふ》り返った。そして、すぐに呪文を唱える動作に入る。それを見たライナは、腰《こし》の鞭《むち》に手を伸《の》ばした。
ダークエルフが呪文を完成させたのと、ライナが鞭を飛ばしたのはほとんど同時だった。
ふたりの動きが、ぴたりと止まっていた。
ライナはダークエルフの呪文で足の動きを封《ふう》じられたみたいだ。リーフが、スパークに実演してみせた例の呪文である。大地の精霊《せいれい》の力を借りて、足の動きを封じる束縛《そくばく》の呪文だ。
しかし、ダークエルフもライナの鞭で、左手と胴《どう》を絡《から》めとられていた。
見事な鞭の腕前《うでまえ》だった。熟練した拷問吏《ごうもんり 》でも、ライナほどには鞭を操れないだろう。
「逃がしはしないわ」
ライナは腕《うで》に思いきり力を込めて、ダークエルフを地面にひきずり倒《たお》した。
スパークは全力で走っていたが、まだライナには追いつけないでいた。息苦しく、心臓が張り裂《さ》けてしまいそうだった。ダークエルフに切られた足も痛む。
汗《あせ》が目に流れこもうとし、スパークはその度に、額を手で拭《ぬぐ》わねばならなかった。
こうなると、重い鎧《よろい》が恨《うら》めしい。自分の一歩、一歩が亀《かめ》の歩みのように遅《おそ》く思える。しかし、走っているかぎり、確実にライナとの距離《きょり 》は縮まっていく。それが救いだった。だから、スパークは走りつづけた。
スパークが追いついてくる気配を察知して、ライナは微笑《びしょう》を浮《う》かべて振《ふ》り返った。そのため、鞭を操る腕が一瞬《いっしゅん》、止まった。
危ないぞ、スパークはそう叫《さけ》ぼうとした。
しかし、ダークエルフの動きはそれよりも早かった。まだ自由だった右手で、短剣《ダ ガ ー》を投げつけたのだ。傾《かたむ》きかけた夕日にきらめいて、短剣の刃《は》が一瞬、血の色に染まった。そして、短剣はライナの胸に吸いこまれるように飛んだ。
ライナの目が驚《おどろ》いたように丸くなった。それから、自分の胸に突《つ》き刺《さ》さっている短剣に視線を落とす。まるで、自分の死を確かめるかのように。
ライナの口が小さく動いた。最後の言葉を吐《は》きだそうとしているのだろうか。だが、その口から声は洩《も》れなかった。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、ライナは仰向《あおむ 》けに倒れていった。足首はまだ呪文の束縛《そくばく》を受けていたから、膝《ひざ》だけが立ったまま残った。
「ライナ!」
スパークは怒《いか》りに燃えて、獣《けもの》のように吠《ほ》えた。彼女とは会ったばかりだ。何も知らないといっていい。だが、たとえ数日とはいえ、一緒《いっしょ》に旅をした仲間である。怒りと悲しみが、嵐《あらし》のようにスパークの心を吹《ふ》き荒《あ》れた。
スパークは疲《つか》れも忘れて、ダークエルフに向かって一気に駆《か》けた。走っているあいだ、スパークは自分でも気づかなかったのだが、怒りの叫びをあげつづけていた。傷の痛みも全身の疲《つか》れも忘れて。
ダークエルフは必死になって、絡《から》みついた鞭《むち》をはずそうとしている。だが、右手一本だけではなかなかうまくいかない。ダークエルフはあきらめて、立ち上がると逃げはじめた。
鞭を巻きつかせたままの、いかにも不自由な走り方だった。たとえ、鎧《よろい》を着ていてさえ、スパークの方が早かった。
すぐに、スパークは追いついた。
「死ねぇ!」
スパークは叫《さけ》んだ。
そのときばかりは、自分がフレイムの騎士《きし》であることも、自らの任務も忘れていた。自分に背中を見せるダークエルフを殺すことしか頭になかった。
逃げるダークエルフを殺すのは、あまりに簡単だった。剣を振《ふ》り上げ、振り下ろす。ただ、それだけで、すべてが終わった。
肩《かた》から背中までをざっくりと切り裂《さ》かれ、ダークエルフはどす黒い血を噴《ふ》きあげながら、地面に落ちていった。
断末魔《だんまつま 》の短い絶叫《ぜっきょう》の声が、のどかな田園地帯に流れて消えていった。
かくも、あっけなく死は訪れるものなのか。スパークは荒《あら》い息を吐《は》きだしながら、ダークエルフの骸《むくろ》を見下ろした。人間であろうと、邪悪《じゃあく》な妖魔《ようま 》であろうと、死は一瞬《いっしゅん》で訪れる。
「ライナ……」
スパークは思いだしたように振り返り、倒《たお》れているライナのもとによろよろと歩いていった。一歩、足を踏《ふ》みだすたびに、いろいろな思いがあふれでてきた。自分の戦い方の無様さや、ライナを仲間に迎《むか》えたことなど、悔《くや》んでも悔みきれるものではない。
ダークエルフがかけた呪文《じゅもん》の効果は、すでに消えてしまっていた。不自然に立っていたライナの膝《ひざ》は、地面に投げだされるように落ちていた。
スパークは動かぬライナを、そっと抱《かか》えあげた。
「ライナ!」
はっとなって、ライナの胸を見た。かすかではあるが、豊かに盛り上がった胸が、上下しているのが見えた。ライナの命の炎《ほのお》は消えかかってはいたが、まだ完全に消えてはいなかったのだ。手にも、ライナの薄《うす》い革服を通し、わずかな温《ぬくも》りが伝わってきた。それは、同時にわずかな期待をスパークに抱《いだ》かせた。
「グリーバス!」
スパークは絶叫するように、戦《いくさ》の神の司祭の名を呼んだ。
4
最初に、スパークのところへやってきたのは、馬に跨《また》がったギャラックだった。彼は一目で事情を悟《さと》り、すぐに取って返した。
「頼《たの》む」
その背に向かって、スパークは呼びかけた。
ギャラックは、いちばん遠くを必死に走っているグリーバスを迎《むか》えにいったのだ。
それから、リーフ、少し遅《おく》れてアルド・ノーバがやってきた。ふたりはライナの胸に刺《さ》さったままの短剣《ダ ガ ー》を見ると、息を飲んでその場に立ち竦《すく》んだ。
スパークはそっとライナを地面に下ろした。短剣には、絶対に触《ふ》れないように気をつけた。短剣は左の乳房《ち ぶさ》に刺さっている。だが、正面から刺さったのでは、よほど深く刺さらないと心臓には届かないものだ。
「どいてください」
そう声をかけられ、スパークは気がついた。グリーバスの他にもうひとり司祭《プリースト》がいたことに。振《ふ》り向くと、例の少女が息を乱しながら立っていた。神秘的な黒い瞳《ひとみ》が、スパークを見つめている。
「お願いします」
スパークは頭を下げ、少女に場所を譲《ゆず》るため立ち上がった。
少女は無言でうなずき、スパークが空《あ》けた場所に片膝《かたひざ》を落として座った。小さな白い手が地面に横たえられたライナの身体に伸《の》ばされていく。その手は、まるでライナの生気を確かめるかのように額から胸もとまでゆっくりと動いた。
少女はスパークを仰《あお》ぐように振り返った。
「お願いします」
スパークは繰り返した。
「できるかぎりのことはやってみます。わたしが祈《いの》りをはじめたら、刺さっている短剣を引き抜いてください……」
「分かりました」
スパークは、すべてを彼女に任せるつもりになった。グリーバスには悪いが、どう見てもこの少女のほうが高位の司祭に見えた。
「慈愛《じ あい》の女神マーファよ……」
少女は大地母神マーファの名を唱え、静かに祈りをあげはじめた。
大地母神の司祭ならば、安心できる。スパークは心を落ち着けると、ライナの胸の短剣に慎重《しんちょう》に手を置いた。
少女の呪文《じゅもん》の詠唱《えいしょう》は、次第に高くなっていった。ライナの胸へと差し伸べられた手から、強い魔力《まりょく》が輝《かがや》きとなって溢《あふ》れだしてきた。
スパークは、一気に短剣を引き抜いた。真っ赤な血が噴《ふ》きでてきて、スパークと少女の顔に飛び散った。少女は血を噴きあげる傷口に手を置くと、さらに力強く呪文を唱えた。
スパークはライナの胸に刺《さ》さっていた短剣を、いまいましそうに地面に投げ捨てた。後は、少女の力を信じる以外にはない。
そのとき、グリーバスを後ろに乗せて、ギャラックが戻《もど》ってきた。
降りるというより、落ちるといったほうが近かったが、とにかくグリーバスは地面に立った。
「その娘《むすめ》さんは?」
ギャラックが怪訝《け げん》そうに、スパークに尋《たず》ねてきた。大地母神に仕える少女のことを言っているのだ。
スパークはリーフとアルド・ノーバも呼んで、馬を走らせてからの出来事をかいつまんで話した。そして、一心に癒《いや》しの呪文を唱える少女のことも説明する。
グリーバスは、すぐに少女の手伝いをはじめる。
「ライナのことは、彼女とグリーバスに任せよう」
この場にいても、自分は何の役にも立たないのである。そして、スパークは任務のことを思いだした。
賊《ぞく》は討った。いちおう任務は果たされたと考えていいだろう。後は彼らが盗《ぬす》みだした水晶球《すいしょうきゅう》を取り戻せばいいだけだ。もっとも、スパークは盗まれた水晶球に、どんな価値があるのか知らされていない。人の命と宝物の、いったいどちらが大切なのだろう。
スパークたちは、さっき倒《たお》した三人のダークエルフがいる場所に戻った。
三人のダークエルフたちは全員、倒れたままだった。スパークが殴《なぐ》って気絶させたダークエルフだけは、息を吹《ふ》きかえしていたが、動く元気はまったくないらしい。仰向《あおむ 》けに寝転《ね ころ》んだまま、荒《あら》い息を吐《は》いている。残るふたりのうち、ひとりはランスで胸を貫《つらぬ》かれており絶命していた。もうひとりも、口から血の泡《あわ》を吐いて、やはり息絶えている。少女の|魔法《ま ほう》は、どうやらダークエルフの肋骨《ろっこつ》を折《お》ったようだ。それが肺《はい》に突《つ》き刺《さ》さるか何かしたのだろう。
「全員の懐《ふところ》を調べてくれ。盗《ぬす》まれた水晶球が見つかるはずだ」
スパークはギャラックたちに命令して、自分はまだ息のあるダークエルフに近寄っていった。
自分でしたことなのだが、そのダークエルフは哀《あわ》れな姿だった。鼻はつぶれ、歯もほとんどが折れてしまっていた。顔中が不揃《ふ ぞろ》いの|葡萄《ぶ ど う》の粒《つぶ》のように腫《ふく》れあがっている。
スパークは半ば本気で、ダークエルフに同情した。少数の仲間だけで、敵対する国の王城へと忍《しの》びこんだのだ。その勇気を認めないわけにはいかない。同時にこんな苛酷《か こく》な命令を下したマーモの支配者に腹を立てもした。
ダークエルフは折れた歯を剥《む》きだしにして、不敵な笑いを浮《う》かべた。息の抜《ぬ》けたような声で、スパークに何やら呼びかける。スパークが何を言っているのか聞こうと顔を近づけると、ダークエルフは血の混じった唾《つば》を吐きかけた。
スパークの頬《ほお》に不快な感触《かんしょく》が張りつく。腕《うで》でそれを拭《ぬぐ》いとると、乾《かわ》いた地面になすりつけた。
「水晶球《すいしょうきゅう》なんて、誰《だれ》も持っていませんぜ」
そのとき、ギャラックがそう報告してきた。
「そんなはずはない。賊《ぞく》の誰かが持っているはずだ。向こうで死んでいる奴《やつ》かな」
「いや、あいつも持ってません。こっちにくる前に、調べたんですがね」
そんなはずは、とスパークはもう一度、繰り返した。
そのとき、はっと気付いて、スパークはダークエルフを見下ろした。
ダークエルフの顔に浮《う》かぶ笑いは、今や嘲笑《ちょうしょう》となっていた。
「どういうことだ?」
スパークはダークエルフの衿首《えりくび》をつかむと、その身体を激《はげ》しく揺《ゆ》すった。
「教える必要はないな」
しゃがれた声で、ダークエルフは言った。
「こいつら、きっと囮《おとり》ですぜ。盗《ぬす》んだ宝物は他の奴《やつ》に渡《わた》していたんだ。なんでも、盗賊《とうぞく》たちは盗む奴と運ぶ奴は別に行動するらしいんです。これはラ……、いえ、ある盗賊から聞いたんですがね」
「なぜ、それを早く言わない」
スパークは愕然《がくぜん》となった。
「すいやせん。まさか、ダークエルフが盗賊と同じ真似《まね》をするとは思わなかったんで……」
ダークエルフは何も言わなかったが、歪《ゆが》んだような笑みがギャラックの言葉を肯定しているように思えた。
「言え! 誰に水晶球を渡《わた》した。そいつはどこに向かっている」
ダークエルフは甲高《かんだか》く笑うだけで、何も答えようとしなかった。
「隊長、オレに任せてくださいや」
ギャラックが指を鳴らしながら、前に進みでる。スパークは、それを手で制した。
「殴《なぐ》ったって、無駄《むだ》だろう」
スパークは激《はげ》しい失墜感《しっついかん》を味わいながら、ダークエルフを離《はな》した。頭がどさりと地面に落ちる。
「じゃあ、この場でやっちまいますかい」
スパークはうなずいた。
「ああ、裁きにかけても結果は同じだ。……フレイム王国の名において、斬首《ざんしゅ》に処す」
スパークはすらりと剣を抜《ぬ》いた。
リーフが悲鳴をあげながら、手で顔を覆《おお》った。
ギャラックがダークエルフの肩《かた》をつかみ、乱暴に上体を引き起こした。
「首を下げろ」
スパークは叫《さけ》んで、剣を上段に振《ふ》りかぶった。
すべてが終わったとき、少女が戻《もど》ってきた。グリーバスはライナを抱《だ》きかかえている。
スパークは、結果を尋《たず》ねるのが恐《おそ》ろしくて、ただふたりの表情を読みとろうとした。ふたりとも、憔悴《しょうすい》しきっていた。ライナの癒《いや》しのために、すべての精力を使ったに違《ちが》いない。
「スパーク、おまえさんの判断は正しかったぞ」
グリーバスの疲《つか》れた顔に、ゆっくりと笑みが戻《もど》ってきた。
「わしでは、とても助けられなかったろう。この娘《むすめ》の信仰《しんこう》の力に感謝するがよかろう」
少女はわずかに微笑《ほ ほ え》んで、首を横に振《ふ》った。
「大地母神《マーファ》の慈悲《じひ》ゆえです」
「ありがとうございます」
スパークは少女に向かって、深く頭を下げた。
水晶球《すいしょうきゅう》が見つからなかったのは残念だが、ライナが助かったというのは、それが帳消しになるぐらいに喜ぶべきことだ。
「ところで、隊長。これから、どうします」
「ランデル侯《こう》に報告するさ。それから、宝物の捜索《そうさく》を続ける。ヴァリスヘ行くという使命も残っているしな」
そして、スパークは少女の前に進みでた。
「御同道、願えますね」
「宝物は見つからなかったのですか?」
少女はすべてを知っているに違いない。寂《さび》しそうな目で、スパークに尋《たず》ねかえす。
スパークは無言でうなずいた。
「分かりました、御一緒《ご いっしょ》しましょう」
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第四章 生命の杖《つえ》
1
スパークは、一旦《いったん》、ヒルトの街へと戻《もど》ることに決めた。スパーク自身が馬を駆《か》って、ダークエルフ追撃《ついげき》に協力してくれたヒルト太守《たいしゅ》ランデルらに、賊《ぞく》を発見、討ち取ったことを知らせてまわる。各隊の騎士《きし》、兵士たちとは街道で合流しようと申し合わせて、スパークは仲間のところへと戻った。そして、全員が集まるのを待ってから、ヒルトヘの帰路についた。
ランデルたちは口々にスパークの手柄《て がら》を褒《ほ》めてくれた。しかし、スパークの心は沈《しず》んでいた。一命を取り留めたとはいえ、ライナの意識はまだ戻っていない。それに、追いかけていたダークエルフたちは囮《おとり》にすぎなかった。もちろん、賊を討ったことには、大きな意味がある。しかし、盗《ぬす》まれた水晶球《すいしょうきゅう》を取り戻さないかぎり、任務を達成したと胸を張ることはできないのだ。
ランデルは王都への早馬を走らせ、この事実を知らせると言った。異論はなかったが、カシューの判断を仰《あお》げないのはあきらかだった。すでに、カシューは戦《いくさ》に出陣《しゅつじん》しており、今ごろは砂漠《さ ばく》の街ヘヴンにいるはずだ。ノービスの街からアラニアの諸都市を攻《せ》め、北からカノンを解放するまで、都へは戻ってこないとの誓《ちか》いを立てている。しかも、カシューはこの戦を二月《ふたつき》で成し遂《と》げると宣言していた。
若い|騎士《きし》たちはともかく、経験を積んだ古参の騎士たちからは、大丈夫《だいじょうぶ》なのかという声も囁《ささや》かれている。アラニアは四百年という歴史を誇《ほこ》るロードス最古の王国。いかに内戦で疲弊《ひ へい》していようと、強国であることに間違《ま ちが》いはない。しかも、魔術《まじゅつ》の盛《さか》んな土地がら、敵の兵士の中には魔法戦士たちも多いという。
フレイムが他国よりも劣《おと》っているものがあるとすれば、魔術師《ソーサラー》たちの数である。ライデンを属領にしたことで、自由都市に住んでいた魔術師たちの協力も受けられるようになったが、王国に忠実な魔術師といえば、スレイン門下の魔術師ぐらいである。その数も十人に満たず、導師級の実力を持つともなれば、今、スパークに協力してくれているアルド・ノーバとダークエルフに殺されたイアハートのふたりだけだ。そのイアハートが死んで、アルド・ノーバが従軍していないのだから、今度の戦におけるスレインの負担は大変なものがあるに違いない。
フレイムにとって頼《たの》もしい味方は、戦の神マイリーの教団の神官戦士団だ。今回の戦については、シャリー高司祭も正当な戦いと認めているから、全面的に協力してくれるに違いない。
戦のことを思うと、いてもたってもいられない気分になる。スパークは考えをそこで打ち切った。これからの自分の行動を模索《もさく》するために。
ヒルトの街へ戻《もど》ったのは、日が暮《く》れて、だいぶたってからだった。
そして、今、スパークは太守《たいしゅ》の館の客室にいる。丸椅子《まるい す 》に腰《こし》をかけ、目の前のベッドに視線を落としている。
ベッドには夜着に着替《きか》えさせられたライナが寝《ね》かされている。他の仲間は太守らとともに、遅《おそ》い夕食をまだ摂《と》っているはずだ。今ごろは酒が入っているかもしれない。
スパークは早目に食事を済《す》ませ、この部屋にやってきたのだ。ライナのことが気がかりで、どんな食事が出たのかもまるで覚えていなかった。
ライナは食事前にもう一度、少女の癒《いや》しの呪文《じゅもん》を受けていた。そのおかげで、顔色だけはいつものそれに戻っている。
スパークは神の慈悲《じひ》に深く感謝した。スパークは光の神々であれば、すべてを信じている。ロードスの一般《いっぱん》の人がそうであるように。すべての神は存在し、その偉大《い だい》なる力は司祭《プリースト》たちを通じて、享受《きょうじゅ》することができる。無理にひとつの神を選ぶことはないのだ。
スパークはライナの静かな寝顔を見つめながら、あいかわらず今後について、考えを巡《めぐ》らせていた。
まずは、ヴァリスへ向かうしかない。カシュー王から預かっている親書を手渡《て わた》すことも、任務のひとつである。もっとも、スパークたちがヴァリスの王都ロイドに着いたときには、すでにエト王は親書を受け取っているはずだ。スパークの他にも、正規の|騎士《きし》が使者として、ヴァリスへ立っている。フレイムやヴァリスの領内で刺客《し かく》に襲《おそ》われることは考えにくいから、まずは無事に到着《とうちゃく》することだろう。自分が預かっている親書は、間違《ま ちが》いなくカシュー直筆《じきひつ》のものではあるが、予備といえないこともない。
いっそ親書の件は忘れ、宝物を運んでいるはずの賊《ぞく》を追いかけようか。ランデルの計らいで、フレイム各地に早馬が走り、諸都市で検問が行なわれる手筈《て はず》をつけている。しかし、冷静に考えてみて、成果があるかどうかは疑わしい。平時ならば、千人以上の兵士を動員することも可能だろう。しかし、今は戦時であり、フレイム領内はどこの街も人手が不足しているのだ。
賊がダークエルフだったからこそ、発見も容易だった。だが、運び手にはおそらく人間を使っているだろう。人間ならば街道を進んでも誰も怪《あや》しんだりはしない。たとえ、自分たちがやみくもに動きまわっても、運び手を見つける幸運に恵《めぐ》まれるとは思えなかった。スパークは自らの幸運を信じない。幸運を信じて行動するなど、自殺|行為《こうい 》である。かといって、不運を恐《おそ》れて行動を自重するのも愚《おろ》かなことだ。幸運の神が人々に公平に運を授けていないことを認めないわけにいかない。しかし、運の善し悪しは、結果をもってのみ知ることができる。肝心《かんじん》なのは、理にかなった行動を取るということだ。それが、人間にできる限界である。
やはり親書だな、とスパークは結論を出した。それが、カシューの命令であり、己の任務なのだから。水晶球《すいしょうきゅう》の探索《たんさく》は、それから後でもいい。ランデル侯《こう》のように、各街の太守も賊の追及《ついきゅう》には最大限、努力してくれるだろう。ダークエルフを討つことができたのも、多くの人の協力があったればこそである。ひとりでできることには、しょせん限界があるのだ。
そのとき、ライナが寝返《ね がえ》りを打った。
スパークは緊張《きんちょう》して、彼女の様子を見守った。寝苦しそうな感じではない。意識が戻《もど》りはじめているのかもしれない。
しばらくためらった後、スパークはライナの名を呼んだ。少しでも早く、彼女が無事であることを確かめたかった。数回、名前を呼んでいると、ライナはゆっくりと目を開いた。そして、スパークの方に気だるそうな顔を向けた。
「スパーク……、ここは?」
「ヒルトの街です」
ライナはすべてを思いだしたようだった。
シーツをはねのけ、身体を起こすと、いきなり夜着の前をはだけた。豊かな胸の双丘《そうきゅう》がこぼれでた。柔《やわ》らかな白い肌《はだ》が、まぶしいぐらいだった。スパークはすぐに目をそらしたが、|怪我《けが》の跡《あと》が残っていないことは一目で見てとれた。
「なぜ、わたしはダークエルフに短剣《ダ ガ ー》を投げられて……」
ライナは傷跡《きずあと》が残っていないことで、かえって戸惑《と まど》っているみたいだった。
スパークはライナに事情を説明した。短剣が心臓まで届いていなかったこと。それから、大地母神の司祭とグリーバスが癒《いや》しの呪文《じゅもん》をかけたこと。
「傷跡が残らなくて何よりです」
本当だわ、とライナは安堵《あんど 》のため息を洩《も》らした。そして、思いだしたように夜着を直した。
「ごめんなさいね、砂漠《さ ばく》の女性みたいに慎《つつし》み深くなくて」
「まったくです。もっと布地の多い服を着るべきですね。これからは日差しも強くなります。せっかくの白い肌が日焼けしますよ」
「優しいのね、スパークは……」
ライナは切なそうに微笑《ほ ほ え》んだ。
「女性に優しくあれというのは|騎士《きし》の務めです」
「でも、リーフにはあまり優しくないじゃない」
「リーフはまだ子供です。わたしの部族では子供のあいだは、男も女も区別なく育てられます」
スパークは立ち上がった。仲間にライナが意識を取り戻したことを伝えようと思って。
「待って……」
喉《のど》を詰《つ》まらせたような声で、ライナがスパークを引き止めた。
「どうしました?」
「あなたに、話しておかねばならないことがあるの」
自分を引き止めた以上は他人に知られたくない話だろう。スパークはうなずくと、ふたたび椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。
「話というのは、わたし自身のこと」
ライナはそこまでを言うと、ためらうように言葉を切った。
「あなたが盗賊《とうぞく》ということですか?」
「知ってたの?」
驚《おどろ》いたような、怒《おこ》ったようなライナの声だった。
「確信したのは、たった今です。しかし、あなたと旅をしていて、歩き方とかちょっとした仕草とか見ていて、もしかしたらそうなのかな、ぐらいには思っていました」
「なぜ、今までそれを……」
「尋《たず》ねられるわけがないでしょう。万が一、間違《ま ちが》っていたら、これほどの侮辱《ぶじょく》はありませんからね」
「盗賊だからって、侮辱されるような人ばかりじゃないわ」
盗賊の悪口を言われて、ライナの口調が少し荒くなった。
「誇《ほこ》れるような仕事ではありませんよ。盗《ぬす》まれた人のことを考えるとね」
スパークはきっぱりと言った。
「それでも、人殺しよりはましだわ!」
ライナは叫《さけ》ぶように言い返した。
もっともな言葉だ。理由はともあれ、人を殺して良いわけがない。そして、|騎士《きし》は人を殺すことを宿命づけられている。スパーク自身も、すでに数人のダークエルフを手にかけた。しかし、騎士は今のロードスになくてはならないものだと思っている。戦がなくならないかぎり。そして、スパークは人間が生きているかぎり、戦はなくならないと思っている。
なぜなら、人間は、いや少なくとも男の多くは戦が好きだからだ。スパークも例外ではない。心の中に戦好きの自分が潜《ひそ》んでいることを承知している。剣の稽古《けいこ 》や試合を行なっているとき、破壊《は かい》や殺戮《さつりく》への渇望《かつぼう》を意識する。
だからといって、戦を認めるつもりはない。戦が起きないよう努力することを怠《おこた》ってはならない。まして、自ら戦を望んでいいはずがない。しかし、どうしても引くことができない戦ならば、自らの信念、自らの正義を貫《つらぬ》くために立ち上がらねばならないと思う。スパークが今度の戦に行きたいと思ったのは、侵略者《しんりゃくしゃ》であるマーモを討ち、カノンを解放したいためだ。
肝心《かんじん》なのは、理性を失わないことだ。理性を失った騎士は、ライナの言うとおり、ただの人殺しである。
「ごめんなさい、言いすぎたわ……」
スパークがしばらく黙《だま》っていたので気分を害したと思ったのだろう。ライナが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「いえ、言いすぎたのはオレも同じです」
「ところで、わたしはどうなるのかしら? お払《はら》い箱、それとも牢獄《ろうごく》行き?」
「そんなつもりはありません。あなたさえよければ、一緒《いっしょ》についてきてほしいと思っています。また、危険な目に遭《あ》わせてしまうかもしれませんが……」
「喜んで御一緒《ご いっしょ》するわ」スパークの言葉に、ライナの顔がぱっと輝《かがや》いた。
「でも、賊《ぞく》は倒《たお》したんでしょ。いったいどこへ連れていってくれるのかしら?」
無邪気《む じゃき 》に尋《たず》ねてくるライナに、スパークは賊が水晶球《すいしょうきゅう》を持っていなかったことを伝えた。
「宝物を盗《ぬす》んだダークエルフたちは、宝物を仲間に渡《わた》し、自分たちは囮《おとり》となったみたいです。盗賊たちの盗みの手口をギャラックに教えたのはあなたですよね」
一転して、ライナの表情は沈《しず》んだ。申し訳なさそうに目を伏《ふ》せると、皺《しわ》がつくほどにシーツを握《にぎ》りしめた。
「ええ、教えたのはわたし。ギャラックには、わたしが口止めしていたの。正体がばれるのが怖《こわ》かったから。ごめんなさい、もっと早くそのことを言っておけば……」
「気にしないでください。たとえ、先に話を聞いていたとしても、オレはダークエルフを追いかけたと思います」
ライナを慰《なぐさ》めるための言葉ではない。本当に、自分はそうしたはずだ。
宝物の運び手を捕《と》らえるのは、言ってしまえば誰でもできる仕事だ。人数はいるが、精兵が必要なわけではない。しかし、ダークエルフと戦うには魔法使いの協力が不可欠だ。そのために、スパークはアルド・ノーバやリーフを与えられたのだから。宝物の追及《ついきゅう》は他の者に任せ、自分はあくまでダークエルフを追撃《ついげき》すると決定したはずだ。もっとも、宝物追及の手配は、少しでも早いにこしたことはなかった。正直に言えば、二日という遅《おく》れは辛《つら》い。しかし、今ごろそれを悔《くや》んでも、過ぎ去った時間が戻《もど》るわけではない。
「オレは、これからヴァリスヘ向かいます。カシュー王から与えられたもうひとつの使命を果たさなければなりませんので……。その後、オレは宝物を運んでいる賊を追いかけるつもりです。捕《つか》まえるためにあなたの協力が必要なんです」
スパークの言葉を聞くと、ライナは悲しそうな表情を浮《う》かべた。
「何か、気に触《さわ》るようなことでも……」
ライナの表情に気づき、スパークは遠慮《えんりょ》がちに尋《たず》ねた。
「必要なのは、わたしが盗賊《とうぞく》だから?」
「そんなこと!」スパークはあわてて言った。
「……いえ、確かにそれもあります。盗賊としての技術や知識は必要です。ですが、決してそれだけではありません」
「教えて、その理由を?」
ライナは期待をこめた目で、じっとスパークを見上げた。青く澄《す》んだ瞳《ひとみ》が潤《うる》んでいるようにも見えた。
「せっかく知り合って、仲間になったんです。せめて、今度の任務が片付くまでは御一緒《ご いっしょ》したいと……」
ライナは満足そうに、うなずいた。しかし、完全に満足したわけでもなさそうだった。うなずく前にちょっと唇《くちびる》をとがらせたから。なにが不満なのか、スパークには分からなかったが、問いただすつもりはなかった。
「ギャラックたちに、あなたの意識が戻《もど》ったことを知らせてきます」
スパークは元気に椅子《いす》から立ち上がった。ライナにはベッドでそのまま待つように言った。そして、仲間たちが待つ広間へと向かう。彼らは、今ごろささやかな酒宴《しゅえん》を楽しんでいるに違《ちが》いない。スパークがもたらす知らせは、彼らの飲む酒を一際《ひときわ》、おいしくするだろう。
2
食事が終わり、酒が運ばれてきたとたん、巡礼《じゅんれい》の少女は自《みずか》らの年齢を理由にして、広間から退出することを求め、ランデルにそれを認められた。
アルド・ノーバは、いつものようにゆっくりと食事を摂《と》っていたが、少女が広間を後にするのを目にすると、あわてて食事を切り上げ、その後を追いかけた。そんなアルド・ノーバの行動に、広間に居合わせた者すべてが一斉《いっせい》に奇異《きい》の目を向けた。しかし、あえて彼を引き止めようとする者はいない。アルド・ノーバに限らず魔術師《ソーサラー》の奇行《き こう》ぶりは有名だから、彼が何をしようと詮索《せんさく》されることはあまりないのだ。そのおかげで、アルド・ノーバは自分の好きなやり方で学問にも仕事にも打ち込むことができる。
アルド・ノーバは薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか 》へ出ると、少女の姿を探し求めた。彼女の姿はすぐに見つかった。アルド・ノーバを待っていたかのように、彼女は立ち止まって、こちらを見ていたのだ。そして、アルド・ノーバが自分に気づいたと見ると、無言でうなずき、彼を先導するように歩きはじめた。
彼女は、しばらく廊下を歩き、二階へと上がる階段へやってきた。そして、階段の三段目に腰《こし》を下ろすと、手招きをしてアルド・ノーバに隣《となり》へくるように勧めた。アルド・ノーバはうなずいたが、階段の下で少女と向かいあうように立つことにした。
「ニース……」
アルド・ノーバはそう声をかけた。それが彼女の名前なのだ。自分の師、スレイン・スターシーカーのひとり娘《むすめ》。その名前は昨年|逝去《せいきょ》したマーファ教団の最高司祭にして六|英雄《えいゆう》のひとり、偉大《い だい》なるニースに由来している。少女にとっては、祖母にあたる女性だ。
ニースは静かにうなずいて、小さく微笑《ほ ほ え》んだ。
「スレイン導師は、このことを御存《ご ぞん》じなのですか?」
「ええ、知っております。父も母も……」
彼女の母親はマーファの司祭レイリアである。高司祭、いや最高司祭の地位にあってもおかしくない女性だ。しかし、彼女はいまだに司祭の地位に留まっており、神殿を開こうともしない。近年、火竜の狩猟場《しゅりょうば》に興《おこ》されたドリムの街には、マーファ神殿が建てられていたが、この神殿の長にとのターバ大神殿からの|要請《ようせい》も彼女はきっぱりと断わった。ただ、レイリアは娘《むすめ》のニースを伴《ともな》って、このドリム神殿にでかけては、信者のために奉仕を続けている。しかし、信者に対し教えを説くようなことは、一切しない。
「おふた方は、あなたの旅立ちをお許しになられたのですか?」
「まさか、認めてはくださいませんわ。しかし、理解はしてくださっていると思っています。これはわたしが立ち向かわねばならない問題なのですから……」
アルド・ノーバは噴《ふ》きでる汗《あせ》を拭《ぬぐ》おうと、長衣のたもとから、手拭《て ぬぐ》いを取りだした。汗がよく出る体質なので、手拭いなしではいられないのだ。
「しかし、いくらなんでも問題が大きすぎませんか」
「わたしひとりでは手に余るとおっしゃるのね。……そうかもしれません。ですが、いったい誰《だれ》に協力を頼《たの》めるというのでしょう。父も母もロードスのために戦っておられます。父は戦を早く終わらせるために、母はより多くの人々を|怪我《けが》や病から救うために。わたしひとりがじっとしているわけにはまいりません」
アルド・ノーバは、ニースの言葉にいつも驚《おどろ》かされる。彼女はまだ十二かそこらの少女なのだ。しかし、彼女はすでに高司祭級の実力を身につけている。その神聖|魔法《ま ほう》の力は、母レイリアに匹敵《ひってき》しているとのことだ。彼女よりはるかに年長でありながら、敬うような態度を取ってしまうのは、彼女の高潔《こうけつ》さに打たれるからだ。
自分が彼女ぐらいのときは、やたら身体《か ら だ》が大きいばかりの鈍重《どんじゅう》な少年だった。力は強かったが、気が小さいのと動きが鈍《にぶ》いので、戦士としては失格だと決めつけられた。風の部族の中でも有力な家長であった父親は、それゆえアルド・ノーバに魔術師としての修行をさせたのだ。おそらく、本望ではなかったに違《ちが》いない。風の部族では戦士こそが名誉《めいよ 》ある職業とされているからだ。
「これから、どうするおつもりですか」
「魂の水晶球は奪《うば》われてしまいました。生命の杖《つえ》が無事かどうかを確かめるしかありません。もしも、ふたつ目の祭器まで奪われてしまっていたなら……」
「奪われてしまっていたなら?」
アルド・ノーバはそう尋ねはしたが、その実、ニースの答を聞くのが恐《おそ》ろしくてならなかった。また、噴きでてくる汗を拭う。
「取り戻《もど》しにまいります」
少女ははっきりとそう言った。
やはり、聞くのではなかった、とアルド・ノーバは思った。
「なぜです? なぜ、そこまで……」
「あなたは御存《ご ぞん》じなのでしょう。父はあなたとイアハート様にだけは話しているはずです。ふたつの祭器の秘密を……」
「ええ、存じております。この話をお父上から聞かされた晩は一睡《いっすい》もできませんでした。あの日以来、世界が滅《ほろ》びていく夢《ゆめ》を何度も何度も見ております」
大地が腐《くさ》り、黒い雨が降る。地上にうごめくのは死霊《しりょう》ばかりで、生きとし生けるものの姿はどこにも見られない。カーディスが復活した後の世界はさながらそんな様子だろう。
「だったら、言うまでもないでしょう。わたしは邪神《じゃしん》カーディスを復活させるためのひとつの扉《とびら》なのですから」
アルド・ノーバはその場にくたくたと座りこんでしまった。
泣きたいような気持ちだった。目の前にいる少女の無垢《むく》の身体に、破壊《は かい》の女神が降臨《こうりん》するというのだ。
「そんな恐《おそ》ろしいこと、わたしは信じておりません。まだ、本当にニース様が扉だと決まった訳ではないのでしょう?」
ニースは立ち上がるとアルド・ノーバの肩《かた》に優しく手を置いた。彼女の手からあふれでてくる慈愛《じ あい》の心が、アルド・ノーバの身体に染みこんでくる。たちまち、不安が拭《ぬぐ》いさられ、気持ちが落ち着いた。
「わたしは扉なのです」
ニースは静かに言った。そして、ゆっくりと話をはじめた。それは、彼女が見た夢の話だった。
ニースがその夢を見たのは、ちょうど魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》が盗《ぬす》まれた夜のことだった。
夢というにはあまりに生々しく、まるで自分の魂が空間を越《こ》えて、別の場所へと召喚《しょうかん》されたような感覚だった。
夢の中で、ニースは洞窟《どうくつ》の中に立っていることを意識した。洞窟の中は真っ暗だが、ニースは自らがいる場所がなぜか分かった。
どこからか、声が聞こえてきた。不吉に響《ひび》く声だった。声は同じ言葉を何度も繰《く》り返していた。意味は分からなかったが、自分を呼んでいるのだと、ニースは理解した。だから、声の方へと歩きはじめたのだ。
しばらく歩くと、巨大《きょだい》な空洞に出た。遠くから明かりが見えた。その明かりの前に、黒い影《かげ》のようにたたずむ老人がいた。自分を呼んでいたのは、その老人だった。ニースは魅入《みい》られたように、老人のもとへと歩いていった。
近づくと、老人は真っ黒なローブを着ていることが分かった。老人の目の前には、地面になかば埋《う》もれた巨大な神像がそびえるように立っていた。神像は苦悶《く もん》の表情を浮《う》かべ、全身から邪悪《じゃあく》な気を発していた。ニースはその気に打たれ、意識が朦朧《もうろう》とするのを感じた。同時に、自分の心の奥底《おくそこ》で異質なものが胎動《たいどう》するのを覚えた。
老人は神像に向かって祈《いの》っているようにも、呪文《じゅもん》を唱えているようにも見えた。
ニースは老人に話しかけようとしたが、言葉が出なかった。だが、老人はニースの気配に気づいたみたいだった。くるりと彼女の方に振《ふ》り返ると、満足そうな笑みを浮《う》かべた。そして、手招きをして、ニースにもっと近づくように言った。
その言葉には、ニースは従うつもりはなかった。老人の邪悪な意志が感じられたから。だが、身体が勝手に動いてしまった。自分の意志を裏切って、一歩一歩、老人のもとへと歩みよっていくのだ。老人は片手を差し伸《の》べてきた。ニースも同じく片手を差し出した。
そして、ニースの白い手と老人の皺《しわ》だらけの手が一瞬《いっしゅん》、触《ふ》れあった。同時に、老人の意識とニースの意識とが交錯《こうさく》した。それも、瞬時《しゅんじ》のことだったにちがいない。なぜなら、ニースはそこで夢から覚めたから。
目覚めると、全身に汗《あせ》をびっしょりかいていた。ニースの手には、老人の手の感触《かんしょく》が生々しく残っていた。瞬間、かいま見た老人の心の内は暗い欲望に満たされていた。邪悪であり、利己的だった。慈愛《じ あい》の心は、かけらもなかった。ただただ、己の欲望をのみ追い求めていた。それから、耐《た》えがたいまでの苦痛。全身が引き裂《さ》かれるような圧倒的《あっとうてき》な痛みだった。痛みは老人の全身に走っていたのだ。心が触れ合ったので、ニースにも老人の苦痛が流れこんできたのだ。
それで、目が覚めた。
ちょうど、そのとき王城からの使いがやってきて、父スレインに魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》が盗《ぬす》まれたことを告げた。その知らせを聞いたとき、父と母の顔からは血の気が失せていた。
ニースは汗で濡《ぬ》れた夜着を脱《ぬ》ぎ捨て、一糸まとわぬ姿になると、水浴びをして身を清めた。そして、巡礼用《じゅんれいよう》の長衣に着替《きか》えると、ひとりひそかに旅立った。
何が起ころうとしているのかは、三人とも承知していた。暗黒の島で、邪神《じゃしん》カーディスを復活させようとの企《たくら》みがひそかに進められていたのだ。企《くわだ》てているのは黒の導師バグナード、夢《ゆめ》の中でニースが見た老人が彼に間違《ま ちが》いなかった。
邪神復活のためには、三つが必要だ。ふたつの鍵《かぎ》とひとつの扉《とびら》、ふたつの鍵とは邪神の祭器である魂の水晶球と生命の杖《つえ》、ひとつの扉は邪神を降臨《こうりん》させるための生贄《いけにえ》である。その生贄に選ばれるのは母レイリアだと思われていた。なぜなら、母は邪神カーディスの最高司祭、亡者《もうじゃ》の女王ナニールの転生《てんせい》であるから。しかし、偉大《い だい》な祖母ニースに引き取られ、母は邪神の従僕ではなく、敬虔《けいけん》なマーファの司祭として育った。しかし、母は自ら認めているのだが、魂の奥底《おくそこ》には亡者の女王の邪悪な魂が眠《ねむ》っているのだという。その邪悪な魂のゆえに、母は取り返しのつかない敗北を、灰色の魔女《ま じょ》相手に喫《きっ》してしまうことになったのだ。
いかに高潔《こうけつ》なマーファの司祭であれ、邪神の扉となる資格は十分にあるように思えた。だが、現実に扉として選ばれたのは娘のニースだった。おそらく、母は娘を産んだことにより、扉としての資格を失ったのだろう。生贄《いけにえ》には、処女性が求められることが多い。純潔《じゅんけつ》を守る娘は、神にもっとも近い存在だとされているがゆえに。
ニースは大ニースの生まれ変わりだとか、マーファの愛娘《まなむすめ》とか呼ばれている。信者たちの中には、彼女こそこの世に降臨《こうりん》した大地母神であると考えている者もいる。しかし、ニースは自分の心の奥底《おくそこ》にも破壊《は かい》の女神の降臨を待望する亡者の女王の魂《たましい》が眠《ねむ》っていることを意識した。
黒の導師バグナードの夢《ゆめ》を見たことで、扉《とびら》はニースと決まったといってよかった。彼が扉であるニースを召喚《しょうかん》しはじめたからこそ、ニースは夢を見たのだ。
「あれから、同じ夢は見ていません。しかし、じっとしていても黒い悪夢《あくむ 》に捕《つか》まってしまうかもしれない。だから、父や母には黙《だま》って、家を出てきたのです。もちろん、わたしがそうすることは、ふたりとも分かっていたはずです。止めなかったのは、理解してくれたからだと思っています。わたしは邪神《じゃしん》の扉になるわけにはまいりません。この呪《のろ》われた運命と戦わねばならないのです」
アルド・ノーバは涙《なみだ》を流しながら、ニースの話を聞いていた。こんな可憐《か れん》な少女がなぜ、かくも残酷《ざんこく》な運命を背負わねばならないのだろう。神はこのような試練を与えなければ、自らの従僕を信じることができないのだろうか。
アルド・ノーバは心からスレイン導師を尊敬している。賢明《けんめい》な夫人のレイリアにも敬意を抱《いだ》いている。ひとり娘のニースは、まるで自分の子供のように可愛《か わ い》かった。彼女に対する愛情が崇拝《すうはい》に変わったのは、昨年、大ニースが逝去《せいきょ》してからのことだ。あの日を境に、彼女の中で何かが変わった。
しばらくしてから、スレインがアルド・ノーバとイアハートを呼んで、祭器についての説明をした。その日以来、宝物庫の管理が自分とイアハートの仕事となったのである。
「せめて、ヴァリスまではわたしたちと御一緒《ご いっしょ》してください」
「それは、喜んで。でも、あの|騎士《きし》様がお許しくださるかしら。わたしのことを怪《あや》しんでいらっしゃるような……」
「スパークもスレイン導師のもとで学んでおります。魔術師ではなく、騎士としての教養を身につけるためですが。利発な若者です。訳を話せば、かならず認めてくれるでしょう」
「騎士様は、自分が追いかけている物が何だか知っているのですか?」
「いえ、水晶球《すいしょうきゅう》の魔力《まりょく》については、彼にも伏《ふ》せております。もちろん、邪神《じゃしん》カーディスとの関《かか》わりも。この噂《うわさ》が流布したなら、どのような恐慌《きょうこう》が起こるかしれたものではありませんから」
そう、とニースはつぶやいた。
「どうやら、人が来たようです。おそらく、スパーク卿《きょう》でしょう。あの女性が意識を取り戻《もど》したのかしら。それならいいけれど……」
アルド・ノーバには、そんな気配はまったく感じられなかった。しかし、ニースの言うとおり、しばらくすると足音が近づいてきて、階段の上からスパークが姿を現わした。
「ライナの意識が戻った」
スパークはアルド・ノーバの姿を見つけると、いきなりそう言った。
「それは、何よりです」
アルド・ノーバは、嬉《うれ》しかった。あんなに若くて綺麗《き れい》な女性が死ぬのは耐《た》えられない。アルド・ノーバは、これ以上、悲しい思いをしたくなかった。
「回復の様子を確かめたいのですが、お部屋に行ってもよいでしょうか……」
ニースがスパークに尋《たず》ねている。
「もちろんです。あなたは、ライナさんの命の恩人なんですから」
「わたしはギャラックたちに知らせてきましょう。スパークは部屋に戻《もど》っていてください。すぐにみんなを連れてゆきますので」
スパークは元気にうなずくと、少女が来るのを待ってから、階段をふたたび上りはじめた。アルド・ノーバは、廊下《ろうか 》を広間の方へと戻りはじめる。
ライナの回復を喜ぶ気持ちと、ニースの未来を案じる気持ちが交錯《こうさく》していた。
なぜ、時間はいつも忙《いそが》しくながれていくのだろう。アルド・ノーバは寂《さび》しかった。時間が自分の考えている早さで進むなら、もっとロードスは平和なはずなのだ。この戦が終わったならば、どこかの農村に引きこもり、畑を耕しながら、ゆっくりと魔術《まじゅつ》の修行に打ちこもうと、アルド・ノーバは真剣《しんけん》に考えていた。
3
スパークたちは翌日の昼前に、ヒルトの街を出発した。
ライナの体調はまだ完全とはいえなかったから、ランデルから馬を借りていた。ダークエルフとの戦いのときにも借りた馬だ。気に入ったならやるぞ、とランデルは言ってくれたが、スパークはそれを丁寧《ていねい》に断わった。馬はスパークが|騎士《きし》になったとき、カシューから与えられるはずである。その前に馬を持つのは、無礼だと思えたからだ。
騎士見習いであるスパークは、特別な許可がないかぎり騎乗《きじょう》する資格はない。だから、馬にはライナを乗せて、それから荷物も数人分、積んだ。軍馬としては、はなはだ侮辱的《ぶじょくてき》な扱《あつか》いだろうが、馬は文句を言ったりはしない。
スパークに手綱《た づな》を取られて馬上の人となると、ライナは子供のようにはしゃいだ。まるで貴族の令嬢《れいじょう》みたいだ、と嬉《うれ》しそうに言う。
「貴族の令嬢は、ふつう馬車に乗るもんさ」
ギャラックがライナをからかったが、|機嫌《き げん》のよい彼女はギャラックの言葉を気にもしなかった。
「砂漠《さ ばく》の民の貴族たちなら女性でも馬に乗るさ。王妃《おうひ 》殿下は、男勝りの腕前《うでまえ》だしな」
ナフカ王妃は、よく遠乗りに出かける。身体が軽いので、馬足も早くなる。遅《おく》れると供《とも》の者を放っでおいて先に行ってしまうらしい。王妃付きの近衛騎士《こ の えき し 》が、そのことを嘆《なげ》くのを、スパークは聞いたことがあった。
もはや、わざわざ夜道を行く必要はない。
スパークたちは朝に出発し、日が沈《しず》むまで旅をした。夜は宿屋に泊《と》まって、翌日の旅に備えて十分に英気を養った。
街道をヴァリスヘと向かうスパークたち一行の数は七人に増えていた。大地母神の司祭ニースが加わったからだ。
ニースは夢《ゆめ》に導かれてヴァリスヘ向かうから、一緒《いっしょ》に旅をしようということになったのだ。驚《おどろ》いたことに、彼女は宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》スレインの娘《むすめ》だというのである。スレインの夫人レイリアは、徳の高いマーファの司祭だから、ニースも幼い頃《ころ》からマーファの教義に触れて育ってきたのだろう。生まれながらの資質も高かったに違《ちが》いない。ニースは幼くして司祭位を得ていた。やがては、フレイム地方の高司祭なり、ターバ大神殿の最高司祭なりになるのだろう。
その話を聞いて、スパークは自分が恥《はず》かしくなった。ニースの努力に比ベれば、自分は毎日、食べて寝《ね》るだけの暮《く》らしだったのか、と思う。
スパークがしつこく尋《たず》ねたにもかかわらず、黒い悪夢《あくむ 》については、自分自身の問題だからとニースは何も話してくれなかった。しかし、ダークエルフとの関係については、あっさりと認めた。彼女はマーファに導かれ、ダークエルフを追いかけたのだ。ようやく追いついて、話をつけようと思ったときに、スパークが躍《おど》りこんできた。戦うことは、彼女の本望《ほんもう》ではなかったらしい。しかも、自らの|魔法《ま ほう》でひとりのダークエルフを殺してしまったことに、彼女は深い後悔《こうかい》の念を抱《いだ》いているようだった。
ずいぶん謎《なぞ》の多い少女だ、とスパークは思った。しかし、なにしろライナの命の恩人だ。それに、アルド・ノーバが必死になって頼《たの》んだので、一緒《いっしょ》に旅をすることにした。どうせ、目的地は一緒なのだ。それに、ヴァリス領を通るには、フレイムの使節という肩書《かたがき》があったほうがよいだろう。旅人の安全を保護するのも、|騎士《きし》の務めのひとつである。
なにしろ、ヴァリスは戦の渦中《かちゅう》にあるのだ。どんな危険が潜《ひそ》んでいるか分からないし、目的もない旅人を領内に入れるとも考えにくい。
幸いにも、スパークたちの旅は順調に進んだ。ヒルトの南には、ローラン、マーニーのふたつの都市があり、フレイムの南の守りとなっている。山越《やまご 》えでしばらく進めば、静寂《せいじゃく》の湖<泣mアナ湖畔《こ はん》にさしかかる。ここにヴァリスの北の砦《とりで》があり、その先はヴァリス領となっている。スパークたちは国王の署名が入った親書を見せて、フレイムからの使者である旨《むね》を申し出た。
それでも、かなりの時間、スパークたちは取り調べを受けた。ヴァリスの兵たちは、かなり神経質になっているようだった。聞けばマーモの妖魔《ようま 》や蛮族《ばんぞく》たちが多数ヴァリスに入りこんでいて、村々を襲《おそ》い、田畑を焼いているのだそうだ。しかも、アダンの街が陥落《かんらく》し、守備隊は全《ぜん》滅《めつ》の憂《う》き目にあったという。
アダンの街が占領《せんりょう》されると、王都ロイドまでは広大な平野が続いている。肥沃《ひ よく》な土地で、ロードス第一の田園地帯でもある。この一帯がヴァリスの豊かさを支えているわけだが、同時に一度、侵入《しんにゅう》されたら点在する村々のすべてを守るのは不可能といってよい。しかも、マーモ軍は神出鬼没《しんしゅつきぼつ》だ。妖魔や蛮族たちを使って後方を攪乱《かくらん》しておいて、街道からは暗黒騎士団をはじめとする精兵が侵攻《しんこう》する。十五年前の|英雄《えいゆう》戦争のおり、暗黒皇帝ベルドが用いた戦術である。しかも、今回はアラニアと同盟しているため、北の守りに兵力を割《さ》かずにすんでいる。前回の侵攻にもまして、大軍団をヴァリス方面に差し向けていることだろう。
ヴァリス軍は苦戦を強《し》いられているようだ。神聖騎士団長パウルはよく善戦し、アシュラムの主力をアダンに足留めしているが、補給の荷馬車が襲撃《しゅうげき》されるという事件が頻発《ひんぱつ》している。補給が断たれた軍隊ほど惨《みじ》めなものはない。表向きヴァリス戦線は膠着《こうちゃく》しているが、内側から蚕食《さんしょく》されているというのが実情なのである。
フレイムにヴァリスを救援《きゅうえん》するだけの余力があればよいのだが、フレイムとてアラニア相手に総力戦を展開している。もうひとつの同盟国ハイランド公国はヴェノン公国の最後の奮戦に、いまだ王都ドラゴンスケールを攻略《こうりゃく》できずにいる。
スパークはヴァリスの現状を知って暗い気持ちになった。
もっとも、マーニーからロイドに至る南北の街道沿いは、まだ荒《あ》らされた気配はない。それでも、人々はマーモ軍の影《かげ》に怯《おび》えていた。スパークたちの姿を見ると、あわてて姿を隠《かく》したり、ときにはありあわせの武器を持って襲《おそ》ってこようとさえした。
スパークが事情を話し、フレイムの使節だと説明すると、今度は手の平を返したように、カシュー王がいつヴァリスを救いにくるのか、と尋《たず》ねられた。そのこともスパークを愕然《がくぜん》とさせた。他国の王に保護を求めるほど、ヴァリスは弱体化しているのだろうか。噂《うわさ》に聞くかぎりでは、そうとは思えなかった。エト王の評判はすこぶるよく、内治に優れた賢王《けんおう》と人々は信頼《しんらい》しているはずである。
「戦となれば、人は|英雄《えいゆう》を求めます。そして、英雄の資格を持つ者は、司祭でも魔術師でもなく、ただ戦士のみです。スレイン師はいつもそうおっしゃってました」
アルド・ノーバは言ったが、スパークとてそのことは知っている。自分だってそうだ。魔術師にならないかとの誘《さそ》いを断わったのも、魔術師ではなく|騎士《きし》に憧《あこが》れたからだ。魔法使《ま ほうつか》いたちは尊敬されてもいるが、同時に恐《おそ》れられてもいる。かつて魔法使いたちによって、魔法を使えぬ人々が支配されていた時代があったから。その暗黒時代の再来を恐れ、人は魔法使いを、ひいては魔法そのものを忌《い》まわしいものと考えている。魔法の恩恵《おんけい》を受けるとき以外は……
ヴァリスに入ってからは、気の休まらない旅になった。しかし、ここでも事件には遭遇《そうぐう》しなかった。ヒルトの街を発《た》ってから十日あまり。スパークたちはヴァリスの王都ロイドの街に無事、到着《とうちゃく》したのである。
ロイドの街は独特の街並《まちなみ》を呈《てい》している。ファリス神殿の建物と聖王宮を除いては、あまり背の高い建物が見られない。聖なる河ファーゴの三角洲の上に興った街で、砂地の多い土地など、ブレードの街に近いところがある。ただ、ロイドの街はファリス神殿の影響《えいきょう》がきわめて強い。建物の様式にも、宗教色がはっきりと表われている。まるで街全体が巨大《きょだい》な神殿なのではないかと思えるほどだ。
さすがにヴァリスの王都であり、治安も行き届いているように思えた。しかし、人通りは決して多いとはいえない。人々は外出を避《さ》け、家に閉じこもっている感じだ。商店の多くも閉められ、街は活気に満ちているとはとても言い難かった。
スパークは少ない通行人に王城までの道を尋《たず》ねながら、ロイドの街を進んでいった。ロイドの街は複雑に入り組んでおり、慣れない者が王城に行き着くのはなかなかたいへんだった。ロイドだけが特殊《とくしゅ》なわけではない。多くの街が、同じような構造をしている。
ただ、降りそそぐ日の光が柔《やわ》らかい。ブレードの街はすべてを焦《こ》がすような強い日差しである。同じ太陽なのに、とスパークは恨《うら》めしく思う。至高神ファリスは、太陽神でもあるから、信者の多いこの街には恵《めぐ》みの光を投げかけているのだろうか。
何度か道に迷ったが、スパークは聖王宮の城門に何とかたどりついた。城門の衛兵に用向きを告げると、すぐに跳橋《はねばし》が下ろされて、スパークは王城の中へと通された。そして、衛兵に先導されて、スパークたちは謁見《えっけん》の間へとやってきた。
すぐに、呼びだしがあって扉《とびら》が開く。どこでも同じ、中央に赤い絨毯《じゅうたん》が敷《し》かれた謁見の間を、スパークたちはヴァリスの王宮礼式に従って、神官王エトの前に進みでていった。
「フレイムの|騎士《きし》見習い、スパークにございます」
スパークは玉座の前に進みでると、片膝《かたひざ》をついて名乗りをあげた。
「遠路はるばる御苦労様です。フレイムの使者の方々」
エト王の声は、穏《おだ》やかであった。カシューのように聞く者を圧倒《あっとう》する迫力《はくりょく》はない。しかし、人を安心させる柔らかさがある。
国王の隣《となり》には王妃《おうひ 》フィアンナの姿があった。フィアンナの両親である先王、先王妃は、人々を嘆息《たんそく》させてやまぬ美しい夫婦であったという。そのふたりの血を受け継《つ》いだフィアンナ王妃も、また華麗《か れい》であった。
「用向きは親書と承ってますが、先日、届けられた親書と同じ内容なのですか」
カシューが重要な親書は、複数したためることを知っての言葉である。
やはり、親書はすでにエト王の手に渡《わた》っていたのだ。考えようによっては無駄足《む だ あし》だったともいえるが、それはヒルトを発《た》つときから承知していたことである。
「おそらくは……」
スパークは懐《ふところ》からカシュー王の親書を取りだし、両手で持って玉座に向かって差し出した。侍従《じじゅう》のひとりがスパークの前へ進みでて、スパークの手から親書を受け取り、それをエト王に手渡《て わた》す。
エトはその場で親書の封《ふう》を切ると、中の書面に目を走らせた。同じ内容であることを確認しているのだろう。読むというより、眺《なが》めているという印象だった。
スパークがそっとうかがっていると、エトの顔が書面の末尾のところで、しばし止まった。そこのところだけ、記述が違《ちが》っていたのかもしれない。
エトは不思議そうな顔をした。
「カシュー王よりの親書、確かに拝見いたしました」
エトは書面を折りたたむと封筒《ふうとう》に戻《もど》し、厳重に保管するように命じ、侍従に手渡した。
「ところで、スパーク卿。親書の内容は御存《ご ぞん》じですか?」
「いえ、存じてはおりません」スパークは畏《かしこ》まって答えた。内容を想像したことさえもない。
「それが、何か?」
「たいしたことではないのですが、この親書にあなたへの伝言が記されておりましたので」
スパークは驚《おどろ》いた。親書の中で使者について触《ふ》れるなど普通《ふ つう》では考えられないことだ。
「どのような内容なのでしょうか?」
スパークの胸の鼓動《こ どう》がすこし早くなっていた。
「その前に尋《たず》ねたいのですが、盗《ぬす》まれた宝物は取り戻《もど》すことができたのでしょうか?」
スパークは恥《はず》かしさのあまり、顔が赤くなっていくのを感じた。なぜ、他国の王の御前《ご ぜん》で、自らの無能ぶりをあきらかにしなければならないのだろう。
「いえ、残念ながら。賊《ぞく》は討ちましたが、宝物は誰か他の者の手に渡《わた》ったらしく、いまだ追及《ついきゅう》中であります。つきましては、エト王には領内における捜索《そうさく》の御許可《ご きょか 》を賜《たま》わりますようお願いするしだいであります」
「それには及《およ》びません」
エトは静かに答えた。
「どういうことでしょうか?」
スパークは怪訝《け げん》に思って尋ねた。宝物|奪回《だっかい》は、カシュー王から与えられた任務である。エト王に撤回《てっかい》される謂《い》われはないのだ。
「この親書が開封されたときに、いまだ宝物を取り戻していない場合には、すぐにブレードの街に戻れとの、カシュー王の命令です」
「それは本当なのですか?」
スパークは愕然《がくぜん》となって、思わず無礼なことを口走ってしまった。たちまち、謁見《えっけん》の間が騒然《そうぜん》としはじめた。
「申し訳ありません。御無礼を申しました」
スパークはすぐに自らの失態に気づき、深く頭を下げて、エト王に謝った。
フレイムの謁見の間では、気にもされなかったかもしれない。しかし、ここはヴァリスの謁見の間であった。エト王はファリスの司祭でもあるのだ。嘘《うそ》をつくはずがないのである。ファリスの教義で、禁じられているからだ。ヴァリス国内で嘘をつけば、それだけで罪になる。このことを知っていたスパークは、ギャラックやリーフに注意を与えたぐらいなのだ。それなのに、自らが失態を演じてしまった。
しかしスパークがすぐに謝辞を述べたので、その場は収まったようだ。
エト王もまったく気にした様子はない。神官王の寛大《かんだい》さに、スパークは感謝した。しかし、心の動揺《どうよう》は収まるどころか、どんどん大きくなっていった。
「カシュー王よりの伝言、確かに伝えましたよ」
エトはそう言うと玉座からすっと立ち上がった。今日の謁見は、これで終わりなのかもしれない。戦時ゆえに、謁見を求める者も少ないのだろう。
「遠路、お疲《つか》れのことでしょう。今宵《こ よい》は、ささやかながら晩餐《ばんさん》を催《もよお》したいと思います。方々も御出席いただきますように」
スパークは深く頭を下げて、エトの心配りに深く感謝した。
しかし、心に受けた衝撃《しょうげき》は、スパークを揺《ゆ》さぶりつづけている。エト王への親書に使者の帰還《き かん》をしたためたカシューの真意が、まったく読めなかった。
分かったことは、スパークは自らの任務をまっとうするための機会を永遠に失ってしまったということだ。目の前に闇《やみ》の壁《かべ》が立ち塞《ふさ》がったような気分で、スパークは立ち上がった。そして、よろめくような足取りで謁見《えっけん》の間から退出した。
4
スパークたちは豪華《ごうか 》な客間に案内され、この部屋でくつろぐように言われた。城内を自由に歩いてもよいとの許可も与えられた。もっとも、スパークはとうていそんな気になれなかった。クッションのよく効いたソファーに身体を沈《しず》めると、ぐったりとそのまま動かなくなった。
視線は目の前のテーブルにうつろに向けられている。
「スパーク、そんなに落ち込まないでよ」
ライナが心配そうに声をかけてきた。
スパークの隣《となり》に腰《こし》を下ろし、彼の膝《ひざ》に手を伸《の》ばしてきた。落ち込むなという方が、無理だった。カシューは、自分が任務を失敗することを見越《みこ》していたのだろうか。それほど、自分は信頼《しんらい》されていなかったのだろうか。
「戦時下のヴァリスで、宝物を探索《たんさく》するのが危険だと思われたのでしょ。王様は部下思いでいらっしゃるから。きっと、そうよ。それに、ヴァリスの人たちだって、フレイムの人間にうろうろされたら、いい顔をしないと思うし……」
ライナは考えつくかぎりの慰《なぐさ》めの言葉を並《なら》べた。
ライナの気持ちは嬉《うれ》しいが、今は放っておいてほしかった。本当はひとりになりたいのだが、立ち上がる気力さえなかった。
「大丈夫《だいじょうぶ》です。もう落ち着きました」
ライナを安心させるためだけに、スパークはそう答えた。力のない笑みを口許《くちもと》に浮《う》かべてもみる。
「せっかく、ヴァリスまでやってきたのにね」
同情するようなライナの目が、いまは疎《うと》ましかった。
ロイドまでの旅のあいだに、スパークたちは賊《ぞく》を捕《つか》まえるための方法を、十分に検討していた。まずは、賊の足取りを考えなければならない。フレイムの国内を抜《ぬ》けるのは、難しくないと思われた。フレイムは人々の通行を特別、禁じていないからである。一方、ヴァリスに入ってからは、慎重《しんちょう》に行動しなければならないはずだ。他所《よそ》からの流れ者は厳しく追及《ついきゅう》され、ほとんどの場合、捕《と》らえられて牢獄《ろうごく》に入れられているみたいだ。マーモ兵がかなりの数、領内に侵入《しんにゅう》しているから、やむをえない処置だろう。スパークたちもフレイムの使節だからこそ、無事、ロイドまでたどりつけたのだ。
ライナによれば、逃亡《とうぼう》する時、いちばん通りたくないのは戦場だそうだ。戦で混乱しているので、通りぬけるのは難しくないように思えるが、見つかったときの危険が大きい。戦場の兵士たちは殺気だっているし、発見されたならまず間違《ま ちが》いなく命はない。
見つかるかどうかは完全に運次第だ。
頭のいい盗賊《とうぞく》ならば、そんな運任せはしないというのが彼女の見解だった。スパークも運任せというのは大嫌《だいきら》いだから、その意見は容易に納得できた。
現時点で、戦端《せんたん》が開かれているのは、フレイムとアラニアの国境、ヴァリスとカノンの国境である。このふたつの国境地帯はロードスを東西に二分するから、ここを避《さ》けてカノンに行くことは絶対にできない。戦場を避《さ》けて山越《やまご 》えするという手もあるが、今度は山野に巣《す》くう魔物《ま もの》に襲《おそ》われる危険が伴《ともな》うし、どれだけ時間がかかるか知れたものではない。やはり、避けるだろう。
とすれば、残された手段はひとつ。船《ふね》を手配していて[#「いて」は底本ママ]海路を行くしかない。船に乗るにはロイドの港かライデンの港だ。ブレードの港で乗船するとは考えられない。手配が厳しくて、まず捕《つか》まえられてしまうだろう。
ライナは自分ならライデン港から船に乗り、北回り航路でアラニアヘ入ると言った。カノンに行くにはライデンは反対方向だし、街道沿いの警戒《けいかい》も緩《ゆる》い。しかも、北回り航路だとブレードの港に一旦《いったん》、寄港することになる。そこがかえって意表をついていて、成功の確率が高いと判断したのだ。ブレードの港も出ていく客に対しては厳しいが、入ってきた客は調べようとはしないだろう。ライナの言うことはいちいちもっともだった。
もうひとつ考えられるのは、ロイド港から直接カノンへ抜《ぬ》けるという道だ。こちらだと、ヴァリス領内を抜けるときに、多少の危険が伴うものの、短期間でカノンに行けるという利点がある。とにかく、王城に侵入《しんにゅう》したダークエルフたちは街道を南に向かって逃《に》げたわけだから、運び手への宝物の受け渡《わた》しも、ブレードの街の南で行なわれたに違《ちが》いない。封鎖《ふうさ 》されたブレードの街に戻《もど》ることはできないから、運び手はそのまま街道を南へと進んだと考えられる。もちろん、しばらく身を隠《かく》し、河を渡るか街を抜けるかして、ライデンヘと向かった可能性もある。
ライデンかロイド、行先はふたつ。しかし、スパークには選択の余地さえなかったのだ。親書を届けるため、ロイドに行かねばならないのだから。それで、スパークたちは賊《ぞく》を捕《つか》まえるための最後の望みを、ロイドの港にかけることにした。もしも、ヴァリス領を抜けるため賊が手間取るようなら、スパークたちよりも後から賊がやってくるかもしれない。案外、成功の確率は高いのではないか。スパークはひそかに期待を膨《ふく》らませていた。
ところが、それに水を差すような、カシュー王の帰還《き かん》命令である。スパークが脱力感《だつりょくかん》に襲《おそ》われるのも無理はなかった。
「巣穴《す あな》にいる鼠《ねずみ》は猫《ねこ》さえも追わぬ。結局、盗《ぬす》まれた宝物がたいしたものではなかったということではないか」
グリーバスの言い方は実に淡泊《たんぱく》だった。もともと、彼は宝物を取り返すことに興味がないのだ。グリーバスはあくまでダークエルフとの戦いのため、スパークに協力を申し出たのである。ロイドまで付き合ってくれたのは、道中の危険を考えてのことだ。
「価値のない宝物を、ダークエルフがわざわざ盗みにくるとは思えませんよ。きっと、オレたちには及《およ》びもよらない魔力が隠《かく》されているに違《ちが》いありません。それに、宝物の価値は任務とは関係ありませんよ」
スパークはふてくされた顔をした。
アルド・ノーバに聞けば分かるかもしれないが、宝物の価値にはたいした関心もなかった。
「カシュー陛下は、このオレに何の期待もしていなかったんだろうか?」
最悪の気分だった。あの偉大《い だい》な王に比べれば、それも当然だろうが、あまりにも情けない。
「そんなことは、ありませんぜ」
ギャラックはあわてて言った。ギャラックのあわてぶりがおかしかったのだろう。ライナが口に手を当てて笑いを堪《こら》えている。
「なぜ、そう断言できる。慰《なぐさ》めなら、いらないぞ」
「慰めるなんて、そんな柄《がら》じゃありませんや。ただ……」
「ただ?」スパークの声は鋭《するど》かった。
「いえ、何でもありません」
ギャラックは言葉を濁《にご》して、黙《だま》りこんだ。
「王様の命令なんだから、おとなしく帰ればいいのよ。ダークエルフは倒《たお》した、王命に従って帰った。褒《ほ》められることはあっても、叱《しか》られることなんて絶対にないって」
リーフは呑気《のんき 》なものだ。スパークが気分を害しているのを面白《おもしろ》がってみている。どうも、このハーフエルフは他人が感情的になるのを歓迎《かんげい》するようだ。迷惑《めいわく》な性格である。リーフは自然の精霊《せいれい》よりも精神の精霊を操るのが得意な精霊使いらしいが、もしかすると彼女の性格と関係しているのかもしれない。
命令された以上、帰るしかない。そんなことは分かりきっていた。だが、そんな任務に服することが、たまらなく悔《くや》しい。ただ、それだけだった。
「そんなに悔しいんなら、命令なんて無視しちゃえば」
ライナの声にはスパークを誘惑《ゆうわく》するような響《ひび》きがあった。
「命令|違反《い はん》はまずいんじゃないですかい」
「当然だ、そんなことできるわけがない」
パーンの投げかけた問いに答えられるまで、自分はあくまで任務を守りつづけるつもりだ。
「なんだ、つまんない」リーフががっかりしたように言う。
「あたしはライナさんの意見に賛成なんだけどな」
「命令違反は斬首《ざんしゅ》だぜ」ギャラックが声に凄《すご》みをきかせた。
「おお、怖《こわ》い」
リーフは首をすくめて身震《み ぶる》いする。
「解決にはならないと思いますが……」
それまで不安そうにスパークを見つめているだけだったアルド・ノーバが、ようやく考えがまとまったように発言した。
「言ってください」
「わたしたちは晩餐《ばんさん》に招待されています。日が暮《く》れるまで、まだ時間がありますから、それまで港を見物したいと申し入れるんです。おそらく、許されるでしょう。ロイドの港で、何か手がかりが得られれば、そこでもう一度どうするか考えましょう。エト王に協力をお願いするのもよいでしょう。手がかりが何もないなら、あきらめるしかありません」
「さすが、魔術師さんは頭いいのね」
ライナが心底、感心したように言った。リーフも口笛《くちぶえ》を鳴らして、アルド・ノーバにやんやの喝釆《かっさい》を送っている。
スパークはあまり乗り気ではなかった。半日で成果が上がるとも思えないし、偽《いつわ》りを言うのもどうかと思う。しかし、全員はやる気になっていた。誰のためかと言えば、スパークのためなのである。彼らの好意を無にするわけにはいかない。
スパークは、腹を決めた。
スパークは隣《となり》の部屋に待機している世話係の衛兵を呼んだ。城からの外出と、ロイドの街を見物する許しを得るためである。
許可はすぐに下りた。スパークたちは怪《あや》しまれない程度の武具を帯びて、聖王宮を後にした。ニースは無関係なので、彼女ひとりは王宮に残った。
スパークは人通りの少ないロイドの街中に踏《ふ》みこんでいった。人々に道を尋《たず》ねながら、港へと急ぐ。港へ行くには、小舟に乗って河を下るのが良いといわれ、スパークはその通りにした。おかげで、すぐに港に着いた。
港にはねっとりと肌《はだ》にまとわりつくような潮風が吹いていた。甘《あま》ったるい磯《いそ》の香《かお》りが鼻につく。ブレードの街にも港がある。しかし、吹《ふ》く風も磯の臭《にお》いもどことなく違《ちが》うように、スパークには思えた。
波の高さもぜんぜん違う。正面に見える大三角洲が防波堤《ぼうは てい》となり、ロイド港の海は、風がやむと鏡のように凪《な》ぐ。ブレードの海はすぐそこが外海で、打ち寄せる波は荒《あら》い。海岸も遠浅の砂浜ばかりで、とても港に適しているとはいえない。そんなブレードの海岸に苦労して港を造ったのは建国王カシューの功績である。港の建設には五年もの歳月が必要だった。この港を拠点《きょてん》に、大陸との貿易を行ない、富を得ようというのがカシューの発想だった。当時のフレイムは、貧しい砂漠《さ ばく》の国に過ぎなかったのである。
ブレードの街にはじめて姿を現わしたとき、いったいどこで手に入れたものか、巨万《きょまん》の富をカシューは抱《かか》えていたという。カシューが乗ってきた大型のガレー船《せん》には、溢《あふ》れんばかりの金銀財宝が積みこまれていたらしい。それにもかかわらず、カシューは自ら望んで風の部族の傭兵《ようへい》となった。傭兵時代に数々の功績をあげ、族長らに押《お》されて建国王となった後は、自らの財産を王国の運営のために惜しげもなく使った。港の建設もそのひとつである。蓄《たくわ》えた富などすぐに尽《つ》きる。カシューはそのことをよく知っていた。必要なのは富を産みだす手段を手に入れることだ。ヒルト周辺のわずかな農地だけでは、フレイムは決して豊かな国にはなれない。それゆえ、大陸との貿易に目をつけた。
ところが、その後の十数年でフレイムはライデンを領有し、火竜の狩猟場《しゅりょうば》に街を建て、広大な穀倉地帯を持つにいたった。食糧も富も、現在のフレイムに不足しているものはない。それゆえ、ロードス一の強国となったのだ。戦火を逃《のが》れてきた難民たちを受けいれ、王国の人口も一気に膨《ふく》れあがった。
すべてが、フレイムにとって理想的に動いている。もしも、カシューがその気になれば、ロードス全土を領有することも可能だろう。しかし、カシューにそのつもりはないようだ。スパークは自分が仕える王の聡明《そうめい》さを誇《ほこ》りに思っている。
スパークたちは、まずはロイドの港を端《はし》から端まで歩いて調べることにした。
海の男たちは独立意識が強く、同時に仲間同士の連帯感も強い。彼らは自分たちが陸に領土を持つ小さな王国の民ではなく、海という巨大な王国の民だという誇りがある。それゆえに、港には独特の雰囲気《ふんい き 》が流れている。積み荷を蓄《たくわ》えるための倉庫、宿屋や酒場、娼館《しょうかん》や賭博場《とばくじょう》など様々な建物が、港に臨《のぞ》む一画に集中して建てられている。皆、船乗り相手の商売だ。ロードスの王国は海軍を持っていないか、持っていてもほとんど小規模なので、船は皆、自衛手段を講じている。でなければ、海賊《かいぞく》や私掠船《しりゃくせん》の餌食《え じき》になってしまうのだ。ギャラックの話では、海戦専門の傭兵《ようへい》たちもいるとのことだった。
ブレードの港に比べ、ロイドの港の規模は倍以上ある。ブレードの港を大きくしようという計画は、ライデンの属領化で立ち消えになってしまった。現在のブレード港はロードス外周航路の一|拠点《きょてん》にしかすぎない。大陸貿易は昔《むかし》どおり、ライデン港が一手に引き受けることになった。ただ違うのは、船《ふね》がガレー船から本格的な帆船《はんせん》に替《か》わりつつあることと、富がフレイムにもたらされるということだ。
広いロイドの港を一周して、スパークは正直うんざりしていた。考えれば、どの船も怪《あや》しいし、どの船も怪しくないといえる。一隻《いっせき》だけ浮《う》かんでいるヴァリス海軍の軍船以外は、得体の知れない乗客をカノンまで運ぶくらい、平気でやってしまいそうだった。
かといって、数十隻も浮かんでいる船をかたっぱしから調べるわけにもいかない。そんな権利はスパークにはないし、もしそのことがばれたら、フレイムとヴァリスとの間の友好関係にひびが入るかもしれない。
「さあ、これからどうしようか?」
スパークは、最初から乗り気でなかったし、どうやって手がかりを得たらいいのかも分からない。考えるのも面倒《めんどう》で、つい仲間に意見を求めてしまった。
「こんなときには、まず酒場。酒場に入って噂《うわさ》を聞くの。それが常識よ」
リーフが元気に発言した。
いったいどこの常識なのだろうとスパークは思ったが、自分には何の意見もない。とにかく、リーフの言葉に従って酒場に入ってみようということになった。
スパークは近くにあった酒場の中から適当にひとつを選んで扉《とびら》をくぐった。酒場の入口には、混沌《こんとん》の大渦亭《おおうずてい》≠ニいう看板がかけられていた。
5
エトは謁見《えっけん》の間から退出し、自分の部屋に戻《もど》っていた。
国王としての執務《しつむ 》をするための部屋である。さっきまで侍従《じじゅう》がひとりいたのだが、今は下がらせている。フィアンナも私室の方に戻っていて、部屋には彼ひとりきりだった。
エトの目の前には、二通の手紙があった。共に、カシュー王からの親書で内容はほとんど同じだった。一通はつい先程、若い|騎士《きし》によってもたらされた。もうひとつは、数日前にフレイムの正騎士の手で届けられた。
そのとき、扉《とびら》の外に人の気配があった。
「お入りなさい」
エトは扉に向かってそう声をかけた。
返事があり、ひとりの少女が扉を開けて、部屋の中に入ってきた。先程、謁見したフレイムの使節に加わっていた少女である。
「お待ちしていましたよ」
エトはこの少女が自分を訪ねてくることを予感していた。それゆえ、少女が訪ねてきたなら執務室《しつむ しつ》へ通すように、衛兵たちに命じていた。侍従《じじゅう》を下がらせたのも彼女と個人的に話をするためである。
「スレイン・スターシーカーの娘ニースにございます」
スレインの名を聞いてもエトは驚《おどろ》かなかった。この少女と出会うのは、はじめてだ。しかし、謁見《えっけん》の間で少女の姿を見たときから、そうだと思っていた。スレインの妻レイリアの面影《おもかげ》があったし、大地母神の巡礼用《じゅんれいよう》の長衣を着ていたからだ。それに、カシューの親書にも少女の来訪を予感させる記述があった。
エトはニースに椅子《いす》を勧めた。少女はうなずき、両足をそろえて椅子に腰《こし》を下ろした。両手を膝《ひざ》のところで組み、まっすぐな目でエトを見つめる。
「話というのは、生命の杖《つえ》についてですね」
「そのとおりです」ニースは答えると、小さく微笑《ほ ほ え》んだ。
「国王陛下はなんでもお見通しでいらっしゃいますのね」
「なんでも、というわけにはまいりません。万能であらせられるのは、唯一《ゆいいつ》神々だけです」
ニースはうなずいた。
「公《おおやけ》にはしていませんが、ロイドのファリス神殿にも賊《ぞく》が入りました。もちろん、生命の杖は無事ですよ」
ファリス神殿に賊が侵入《しんにゅう》したのは、カシューからの最初の親書が到着《とうちゃく》する二日も前のことである。賊はやはり四、五人のダークエルフだった。だが、ファリス神殿は邪悪《じゃあく》な者の侵入に対しては驚くほど鋭敏《えいびん》だった。姿を隠《かく》していたにもかかわらず、ダークエルフは発見され、ファリスの神官戦士によってことごとく討ちとられた。
それを聞いて、ニースはさすがにほっとしたようだ。
「さすがは、ファリス神の御加護が強い聖地。安心いたしました」
「神の慈悲《じひ》に感謝しております」
事件があって、二日後にカシューよりの親書が届き、生命の杖が邪神を復活させるための祭器であることを知った。この祭器と対をなす魂の水晶球はダークエルフに奪《うば》われ、今だに賊の手にあるわけだ。
「情けない話なのですが、生命の杖はファリス神殿になくてはならない宝物なのです」
「癒《いや》し手がそれほど少なくなっているのですか」
少女はすこし驚《おどろ》いたようだった。
「ファリスの教団では、形式を守ることを求められます。至高神が法を司《つかさど》る神ゆえに、教義が絶対のものとされたからです。その弊害《へいがい》ともいえるのですが、真実の信仰《しんこう》がなおざりにされました。おかげで高位の司祭たちでさえ、初歩の癒ししか使えないというのが現状なのです」
しかし、神殿には怪我《けが》人《にん》が運ばれ、呪文《じゅもん》による癒しを求められる。神殿は決まった額の寄進を受けると、それに応じるのが慣習だった。軽い怪我ならば司祭たちが癒す。しかし、重い怪我を負った者は、生命の杖《つえ》の魔力《まりょく》に頼《たよ》らざるをえないのだ。生命の杖の魔力は強力で、いかなる怪我でも一瞬《いっしゅん》のうちに完治させる。しかも、魔力は無限に近く、疲《つか》れをしらない。ときには、エト自らが神殿に赴《おもむ》くこともあるが、国王という立場では神殿での奉仕にあまり時間を割《さ》く訳にはいかない。
「もっとも、ファリス教団も改革が進んでおりまして、若い神官たちには強い信仰心を持つ者が増えています。彼らが修行を重ねれば、ロイドの神殿は昔《むかし》どおり真のファリスの聖地となることでしょう」
「期待しております」
ニースは微笑《ほ ほ え》んだ。まるで宗教画に描《えが》かれている聖女のような微笑みだ、とエトは思った。
「生命の杖はファリス神殿の威信《い しん》にかけて、賊から守ってみせましょう。何度、賊を派遣《は けん》しようと結果は同じことです」
もっとも、気にかかっていることがある。賊の数が少なければ問題ない。しかし、もしも賊が大人数で強襲《きょうしゅう》してくるならば、はたして今のファリス神殿の力で防ぎきれるだろうか。ヴァリス軍は聖騎士もファリス神官戦士団もほとんどが前線に出払っている。あるいは、平原の村々に跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》する妖魔《ようま 》や蛮族《ばんぞく》どもを討ちにいっている。ロイドの守りは万全というわけではないのだ。
頼《たの》みの綱《つな》は、街《まち》の住民たちから構成されている義勇兵である。ファリスの正義のために、彼らは立ち上がってくれている。これ以上、戦況《せんきょう》が悪化するようならば、エトは聖戦の檄《げき》を発し、ファリス神の信者全員に戦ってもらうつもりでいる。
「さて、ひとつの扉《とびら》たるあなたは、何といたします?」
「すべてを御存《ご ぞん》じなのですね」
「たとえ、壊《こわ》れた陶器《とうき 》でも破片《は へん》がすべて揃《そろ》えば、元の形が分かるというものです」
エトはファリス教団でよく使われる諺《ことわざ》を使った。
「生命の杖が無事だと分かったなら、安心して赴《おもむ》くことができます」
「マーモヘですか?」
ニースはごく自然にはい、と答えた。ニースの表情はあくまで穏《おだ》やかだった。穏やかすぎる、とエトには思えた。
「黒の導師の魔手《ま しゅ》は、すでにわたしのもとにも伸《の》びております。じっとしていれば、いつかは捕《と》らえられてしまうでしょう。それならば、いっそこちらから出向き、決着をつけてしまおうと思っております」
そして、ニースは魂の水晶球も取り戻《もど》してあげたい、と言った。宝物がマーモの手に渡《わた》ったままだと、あの若い|騎士《きし》の心に傷が残るかもしれないから。
「あの騎士は、何も知らない様子ですね」エトは、フレイムの若い騎士が狼狽《ろうばい》している姿を思いうかべた。
「カシュー王も罪なことをなされる。他国の王からあんな命令を伝えられれば、それこそ彼の心に傷が残りましょう。すべての事情を知っていれば納得もできるでしょうが、事情を知らぬとあれば恥辱《ちじょく》を覚えるだけなのに」
「まったくです。父も言っておりますが、カシュー陛下はスパーク様に多くを期待しすぎるのです。その期待は、スパーク様にとって少々、苛酷《か こく》なように思えます。あの方は騎士としてはまだまだ若すぎますもの。それゆえ、わたしはあの方の負担を少しでも取り除いてあげたいと思うのです。まして、魂の水晶球はわたしの運命にも関わっておりますから」
「聖女たらんとするあなたの気持ちは分かります。ですが、今しばらくは自らもひとりの娘《むすめ》であることを知るべきだと思いますよ」
そのエトの言葉に、ニースの表情がはじめて動いた。つぶらな瞳《ひとみ》が、驚《おどろ》いたように見開かれる。
「あなたも、まだまだ若いのです。もしも、あなたが真の聖職者になろうと思うならば、もう少し人間を知りなさい。他人を見て知るのではなく、自らの中に見出すのです。さもなければ、あなたの信仰《しんこう》は、人に伝わらなくなりますよ」
「そうかもしれません」少女は寂《さび》しそうにうつむいた。
「しかし、今は強くなければならないのです。強くなければ、わたしの心は邪神《じゃしん》の虜《とりこ》となってしまうでしょう」
エトは椅子《いす》から立ち上がって、少女のそばにゆっくりと動いた。ニースも立ち上がって、エトを迎《むか》える。エトはその額に優しく手を置いた。
「すべての光の神々の加護があなたにありますように」
「ありがとうございます、陛下」
「ヴァリス王国としても、できるかぎりの協力を約束《やくそく》しましょう。もしも、カノンやマーモに参られるなら、船《ふね》も手配してさしあげます。ですが、決して無理はしないように。ひとりで解決できないことでも、皆が力を合わせれば意外に簡単に片付くものですよ」
ニースはうなずいたが、おそらくは、ひとりで自分の運命に立ち向かっていくつもりだろう。他人を巻き込むには、あまりにも苛酷《か こく》な運命だからだ。犠牲《ぎ せい》になるのは、自分ひとりで十分と思っているに違いない。
ニースは最後に深く礼を言うと、執務室《しつむ しつ》から去っていった。
エトは心の中でもう一度、光の神々に祈《いの》りを捧《ささ》げた。万が一のときには、エトは自らも覚悟《かくご 》を決めねばならないと思った。自らに至高神の降臨《こうりん》を願い、神の奇跡《き せき》を起こすのである。そのためには、自らの命が代償《だいしょう》となる。
しかし、ロードスのためならば、何の悔いがあるだろうか。
6
酒場には意外にも、客の姿が多く見られた。ほとんどが船乗《ふなの 》りか、港で働く荷役夫だった。店に入ったときには、港では珍《めずら》しいスパークたちの格好《かっこう》に、いぶかしげな視線が注がれたものだ。しかし、彼らもすでに興味を失ったらしく、今は酒場の賑《にぎ》わいだけしかスパークたちの座ったテーブルに流れてこない。
スパークたちは飲み物を頼《たの》み、かるい食事を摂《と》った。しかし、飲んだり食ベたりしていても手がかりが入らないのは明らかだ。
「酒場に入って、どうすればいいんだ?」
スパークはリーフに尋《たず》ねた。
「どうするって、情報を集めるんでしょ」
「どうやって?」
「そんなこと、知らないわよ」
無責任な答だった。
スパークは力の抜《ぬ》けた顔で、ライナを見た。彼女は盗賊《とうぞく》だから、こういうことには慣れているに違《ちが》いない。
「はいはい」
子供に遊びをせがまれた母親のような顔で、ライナは立ち上がると、まっすぐにカウンターに歩いていった。彼女が近くを通ると、酔《よ》った船乗《ふなの 》りたちが一斉《いっせい》に喚声《かんせい》をあげ、彼女のお尻《しり》に手を伸《の》ばしていく。ライナはその手をひょいひょいかわして歩いていった。
「気やすく触《さわ》らないでよ。商売もんなんだから」
ライナはこの手の酔《よ》っ払《ぱら》いをあしらうのはお手のもののようだ。こんな世界もあるのだ、とスパークはライナの後ろ姿を茫然《ぼうぜん》と見つめていた。
ライナはカウンターに肱《ひじ》をつくと、酒場の親父《おやじ 》に片目をつぶって合図した。それから、腰《こし》の革袋《かわぶくろ》から宝石を一個取りだすと、酒場の主人に投げてよこす。
「それでお酒を一本ちょうだい」
「この宝石でですかい?」
酒場の主人は戸惑《と まど》ったようだ。ライナの手渡《て わた》した宝石は、十本はかるく買えるだけの価値がある。
「余りは、ここにいるみんなにでも奢《おご》ってあげて」
ライナの言葉に酒場に居合わせた船乗りたちから喝采《かっさい》があがる。ライナはちょっと振《ふ》り返って、彼らの喝采に応《こた》えた。
「ずいぶん景気がいいんですね」
酒場の親父は宝石をしまいこむと、いちばん上等の酒を一本、ライナに手渡《て わた》した。
「訳ありでね」酒瓶《さかびん》を受け取るとき、ライナは声をひそめてささやいた。
「カノンヘ向けて出港する船《ふね》はないかな。あれば、わたしたちを乗せてほしいんだけど……」
「カノンは敵地ですぜ。物も人も運んじゃならないって厳しいお達しだ。衛兵にばれると捕《つか》まっちまいますぜ」
「だから、訳ありなのよ」
ライナは妖《あや》しく微笑《ほ ほ え》んだ。酒場の親父が思わず唾《つば》を飲みこむほど、艶《つや》のある声だった。
「船乗りを当たってみないと分かりませんね」
「お願いできて? わたしたちも色々、聞いてみるから。紹介《しょうかい》してくれたらお礼ははずむわ。船の雇《やと》い賃は言い値でかまわないからね」
店の主人は黙《だま》ってうなずいた。
「じゃ、知らせを待っているわ。わたしたちは、この港のどこかにいるから」
そして、ライナはまたも喚声《かんせい》に包まれて、スパークたちのところに戻《もど》ってきた。
「さ、次の店に移動しましょ」
ライナは戻ってくるなり、スパークに言った。
「ここで待っていなくていいんですか?」
「噂《うわさ》はいっぱい流れたほうがいいのよ。誰《だれ》かがひっかかってくれる可能性は高いからね」
スパークはすベてをライナに任せようと思った。こんな場所では自分の常識は、まったく通じないにちがいない。今まで、ひとつだと思っていた世の中が、実は小さな社会がたくさん集まってできているということをスパークは漠然《ばくぜん》と意識しはじめていた。
ライナは実に巧妙《こうみょう》な手段で噂《うわさ》を広めていった。いろんな場所で話をもちかけるのだが、場所ごとに微妙《びみょう》に話の内容を変えていた。
たとえば、ある場所ではマーモヘ行く船を求めた。傭兵《ようへい》志願者を名乗ることもあれば、逃亡《とうぼう》を望んでいる罪人を装《よそお》うこともあった。マーモの密偵《みってい》であるかのようにふるまったりもした。
噂は広がっていくにつれて尾鰭《お ひれ》がついて、また別の噂を生んだ。ロイドの港中が、ライナの噂でもちきりになった。
「種は十分にばらまいた。噂って、勝手に育っていくものだから、後は収穫《しゅうかく》を待つだけ」
すべての仕事をすませると、ライナは自信たっぷりに言った。
「さて、どんなものが採《と》れるやら」
ギャラックはあきれ顔だった。
「本当、よくあんな嘘《うそ》を考えられるものだわ」
リーフも目を丸くして、ライナを見つめる。
ライナは桟橋《さんばし》の杭《くい》にもたれながら、腕《うで》を組んで立っていた。さっそうとした姿だ。潮風に彼女の金色の髪《かみ》がなびく。こうしていれば、向こうから情報が入ってくると彼女は断言していた。
しばらくすると、ライナの言葉どおりになった。彼女のもとには、次々と人間が接触《せっしょく》してきて、実にいろんな交渉《こうしょう》を持ちかけてきた。カノン行きを持ちかけてきた船長《せんちょう》は五人をくだらなかった。マーモ行きでさえ、三人の船長が名乗りをあげた。また、彼女を雇《やと》いたいという申し出は、船《ふね》、酒場、娼館《しょうかん》などからも数多くあった。それらの申し出を、ライナはうまくあしらった。承知するでもなく、拒絶《きょぜつ》するでもなく、曖昧《あいまい》な返事をしておいて、他にも申し出が多いから考えさせてくれ、と言った。
そして、ライナは交渉のあいだに実に様々な情報を引き出していた。
ほとんどは役に立たないものばかりだった。海賊《かいぞく》の動向や、ロードス各地の天候《てんこう》、それから港に停泊《ていはく》している船がどんな種類の船かなど。
ほとんどが自由貿易船である。船長がいて、そのときどきに応じて、いろんな積荷を運ぶわけだ。荷がいっぱいになったら目的地を決めて出港する。乗客を集めるのは、出港の一日前からだ。ようするに、人は物のついでに運ぶわけである。戦がはじまって、陸路が危険になっているから、かなり乗客の数は多いようだった。もっとも、カノンヘ向けて出港した船はここ数日で一隻《いっせき》もなかったようだ。
スパークたちは古びた倉庫の軒下《のきした》で、ただライナを待っていた。ギャラックとリーフが情報集めにちょっと走りまわったぐらいだ。スパークにいたっては、まったく何もしていなかった。自分の無能さに、またも自己|嫌悪《けんお 》におちいる。
スパークは激《はげ》しい無力感に苛《さいな》まれながら、アルド・ノーバやグリーバスと一緒《いっしょ》に、この倉庫の軒下《のきした》に腰《こし》を下ろし、ライナたちの活躍《かつやく》や港の様子などをぼんやりと眺《なが》めていた。
気がつくと、日が傾《かたむ》きはじめ、王城に戻《もど》らねばならない時刻になっていた。
「どうも、はずれだったみたいね」ちょうど、そのとき、ライナが帰ってきた。彼女はたっぷりと汗《あせ》をかいていて、額に髪の毛がはりついていた。
「そろそろ、帰らないとやばいと思う。船乗りたちもさすがに怪《あや》しんでいるみたいだしね。騙《だま》されたと知ったら、わたしなんてもてあそばれたあげく、海に投げこまれて魚の餌《えさ》だわ」
それはぜひ見てみたい、とギャラックが笑う。ライナは遠慮《えんりょ》なく、ギャラックの向こう脛《ずね》を蹴飛《けと》ばした。ギャラックはたまらず蹴られた足を抱《かか》え、残った足でぴょんぴょんと跳《は》ねた。
「役に立たなくてごめんなさいね」
ライナは申し訳なさそうな顔でスパークを見た。息が荒《あら》かった。無理もないだろう、港にきてからというもの、彼女はほとんど走りづめだった。
「ありがとうございます、ライナさん」
スパークはライナに深く頭を下げた。ライナの努力にはどれだけ感謝してもしたりないぐらいだ。
しかし、水晶球《すいしょうきゅう》を取り戻《もど》す機会が永遠になくなったことは決定的だった。
「ここまでだな」
血を吐《は》きだすようにスパークは言った。
「ま、気を落とさないことね」リーフが待っていましたとばかり、スパークに言い寄ってくる。
「ありがとう、リーフ」
スパークはリーフの髪《かみ》をなでてやった。びっくりして、リーフは後ずさる。
スパークは怒《おこ》っているのでも、からかっているのでもなかった。ようやく気づいたのだが、リーフの軽口はこちらの気分が滅入《めい》っているときに叩《たた》かれることが多い。誤解かもしれないが、彼女なりに元気づけようとしているようにも思う。
建ちならぶ倉庫の間を抜《ぬ》けて、スパークたちは王城への帰路に着きはじめた。
しばらく歩いていると、スパークたちの目の前に、数人の男たちが姿を現わした。船乗《ふなの 》りのような格好《かっこう》だが、全員、武器を持っている。船乗りたちがよく使うカトラスという片刃《かたば 》の曲刀である。
「隊長、後ろにも」
リーフが小声で囁《ささや》いた。
後ろを確かめてみると、確かにリーフの言ったとおり、やはり船乗りらしい男たちの姿があった。
囲まれたのだ。道沿いの倉庫と倉庫の隙間《すきま 》から姿を現わしたのだろう。あきらかに待ち伏《ぶ》せをしていた様子だ。
「戦いになるかもしれんの」
グリーバスは目立つ鉾槍《ハルバード》ではなく、小型の|戦 槌 《ウォーハンマー》を武器として持ってきていた。その戦槌を握《にぎ》って、ずいと一歩前に出る。
「楽しくなってきやがった」
ギャラックも地面に唾《つば》を吐《は》いてから、|長 剣 《バスタードソード》をすらりと抜《ぬ》いた。
「おまえたち、オレたちに何の用だ?」
スパークも| 剣 《ブロードソード》だけは抜いておいたが、戦うつもりはない。ただ、相手の正体を確かめたいと思った。
「何の用だと? 用があったのは貴様たちの方じゃないのか」
スパークたちの行く手を塞《ふさ》いだ船乗りたちのうち、ひとりが前に進みでてきて、そう言った。頭に白布を巻いていて、潮焼けした肌《はだ》はいかにも海の男だ。上半身は裸《はだか》に近い格好《かっこう》で、傷跡《きずあと》のようなものが数か所に走っていた。
ライナがいろんな噂《うわさ》を流していたから、どの用で相手が姿を現わしたのか見当もつかなかった。
「おまえたちは、何者だ?」
スパークは質問を変えてみた。
「それはこっちの台詞《せ り ふ》だな」
相手はスパークの誘《さそ》いに乗ってこなかった。慎重《しんちょう》な奴《やつ》だ。これでは、相手の正体も目的も特定できない。スパークはライナをうかがった。
「まっとうな船乗《ふなの 》りじゃなさそうね」
ライナは船乗りたちには聞こえないように、小声でそう言った。スパークにも、それぐらいは分かる。
「オレたちは傭兵《ようへい》だ」スパークはちょっと迷ってからそう答えた。
「今度の戦《いくさ》、マーモ軍の方が優勢みたいだから、雇《やと》ってもらおうと思ったのよ。それで、カノンかマーモに行く船を探してたわけさ……」
ギャラックの言葉|遣《づか》いを真似ながら、スパークはそう言った。自分でも下手な芝居《しばい 》だと思うが、とにかく、相手の正体を確かめたかった。
「本当にそれだけか?」
「それだけだ」スパークはきっぱりと答えた。
「おまえたちが運んでくれるというのか? あいにくだが、すでに先約がある。申し訳ないが、また今度にしてくれ」
スパークは自分でもよく嘘《うそ》がつけたものだと思う。説得力があるかどうかはともかく、話に矛盾《むじゅん》はないだろう。
船乗りたちは集まって、ひそひそと相談をしはじめた。怪《あや》しいが、それはこちらも同じだった。しばらくすると、彼らの考えがまとまったみたいで、また間隔《かんかく》を取る。
「ひとりたりとも逃《に》がすな。マーモに味方する者は、すベてヴァリスの敵!」
彼らはスパークたちの後ろを塞《ふさ》いでいる仲間に声をかけると、武器を振《ふ》りかざして襲《おそ》いかかってきた。
「ま、待ってくれ!」
スパークは叫《さけ》んだが、もはや手遅れだった。
「ヴァリスの水兵なの!」
ライナがうろたえて叫ぶ。
「どうやら、そうみたいだな」
最悪の結果だった。港にはヴァリスの軍船も浮《う》かんでいたから、ライナの流した噂《うわさ》がヴァリス軍の水兵の耳に入ったのだろう。
「どうします、隊長?」
ギャラックが尋《たず》ねてきた。彼はどうやら戦うつもりだった。
「戦うわけにも、捕《つか》まるわけにもいかない。この場は逃《に》げるぞ」
逃げるぞとは言っても、すでに囲まれてしまっている。しかも、相手は本気になっているし、数も多い。下手をすると、皆殺しにされる。
仕方なく、スパークは前から駆《か》けこんでくる船乗《ふなの 》りたちに向かっていった。このままでは、切られるのを待つばかりだ。
「スパーク、下がってください。ここはわたしの|魔法《ま ほう》で……」
アルド・ノーバが、後ろからスパークを呼びとめた。
そして、上位古代語《ハイ・エンシェント》の呪文《じゅもん》を唱えはじめる。水兵が切りこんでくるよりも早く、呪文は完成した。
呪文に巻き込まれ、走りこんできた水兵たちがばたばたと倒《たお》れていく。眠《ねむ》りの雲の呪文のようだ。
「急げ! 呪文の効果が切れるまでに逃げきるんだ」
スパークたちが魔法を使ったのを見て、後ろからきていた水兵たちも怯《ひる》んだみたいだった。ライナが鞭《むち》を振《ふ》りまわして、さらに牽制《けんせい》する。その隙《すき》をついて、全員が逃げはじめた。ライナもすぐに後に続いた。
しかし、あきらかにグリーバスの足は遅《おそ》かった。このまま、逃げていてもすぐに追いつかれてしまうだろう。しかし、彼を見捨てるわけにはいかない。彼が逃げきれるまで誰《だれ》かがこの場に残って、水兵たちを足留めするしかない。
「ギャラック!」
スパークは走りはじめていたギャラックを呼びとめた。
「はいよ」
スパークの意図を解したらしく、ギャラックが戻《もど》ってきた。
水兵たちはスパークたちと距離《きょり 》を取りながら、隙をうかがっている。早くしないと、呪文の効果が切れて、スパークたちの後ろで眠《ねむ》っている水兵たちが起き上がってくる。そうなれば、万事休すだ。
スパークは水兵たちを牽制《けんせい》しながら、じりじりと下がりはじめた。
それを見たひとりの水兵が、気勢をあげながら、勇敢《ゆうかん》にも切りこんできた。と、その足の動きがぴたりと止まり、バランスを失った水兵は前のめりになった。
足首までが盛《も》りあがった土に完全に捕《と》らえられている。大地の束縛の呪文だ。
「まったく、世話が焼けるわねえ」
リーフの陽気な声が聞こえてきた。
「へえ、おまえでも役に立つことがあるんだな」
ギャラックが憎《にく》まれ口を叩《たた》いている。逃げていった仲間の方を振り返れば、ようやくグリーバスの姿も見えなくなっていた。
「さあ、マーモ傭兵《ようへい》の恐《おそ》ろしさ、教えてあげるわ」
リーフは完全に調子に乗っていた。ふたたび精霊魔法《せいれいま ほう》の呪文を唱えると、光の精霊ウィル・オー・ウィスプを召喚《しょうかん》した。
突如《とつじょ》、出現した光の球に、水兵たちは恐怖《きょうふ》を覚えたらしく、後ろに下がった。海の男たちはどうやら、魔法には慣れていないようだ。
光球はリーフの精霊語に操られ、漂《ただよ》うように水兵たちに近づいていった。そして、青白い光を脈動させながら、道幅《みちはば》いっぱいに踊《おど》るように飛ぶ。その姿は見慣れぬ者には、不気味だったろう。スパークも知識としては知っているが、見るのははじめてだった。
「隊長まで何をぼんやり眺《なが》めているの。今のうちに逃《に》げるわよ」
「そうだな」
心の中で水兵たちに謝罪しながら、スパークは剣を収めた。そして、くるりと後ろを振り返ると全力で走りはじめた。ギャラックとリーフは、スパークの前を走っていた。
後ろを振り返る余裕《よ ゆう》もなかった。制止の声が聞こえてくるので、まだ追いかけられているに違いない。港は複雑に入り組んでいるし、なにしろはじめてきた場所だ。いったい、どっちへ逃げてよいものか分からなかった。
一生懸命《いっしょうけんめい》、逃げているうちに、スパークはギャラックやリーフともはぐれてしまった。どこではぐれたのかはだいたい分かっているが、引き返すわけにもいかない。無事を祈《いの》るしかなかった。
スパークはだんだん息が上がってくるのを感じた。
と、そのとき、建物の隙間《すきま 》から、ひとりの男が飛びだしてきた。男は道を塞《ふさ》ぐように、両手を広げている。
先回りされたのか、とスパークはぞっとした。腰《こし》の剣に手を伸《の》ばす。
しかし、そうではないようだ。男は自分が出てきた建物の隙間を指差すと、ついてこいと言った。罠《わな》かもしれないが、このまま逃げていても追いつかれるような気がした。それに、完全に道に迷ってしまっていて、港を出るに出られない。
一か八か、スパークは男についていくことにした。男に続いて、スパークは路地へと飛びこんだ。路地はすぐに右に折れていた。そこを曲がると、男は立ち止まった。
しばらくして、ヴァリスの水兵たちが通りすぎていった。まさしく間一髪《かんいっぱつ》だった。
スパークが逃げこんだのは、ふたつの建物に挟《はさ》まれた薄暗《うすぐら》い場所だった。右手の建物には裏口らしい扉《とびら》が見えた。男はスパークに合図をすると、そこに入っていった。
酒場か何かの倉庫らしく、酒樽《さかだる》がいっぱいに積みあげられ、食糧《しょくりょう》の入った籠《かご》も乱雑に置かれていた。
「あぶないところを助かった」
スパークは男に礼を言った。
どうやら、男も船乗りみたいだ。これといって特徴《とくちょう》のない顔だが、髪《かみ》の毛が浜辺に打ち上げられた海草のようにくしゃくしゃだった。目つきがやけに鋭《するど》く、薄暗《うすくら》がりだと光を放っているようにも見える。とても、まっとうな男だとは思えなかった。しかし、さっきの水兵たちもまっとうには見えなかった。海の男たちは気性が荒《あら》いから、自然、顔つきもそれにふさわしいものになるのだろう。
「傭兵《ようへい》志願にしちゃ、貧弱な格好《かっこう》だな」
男がスパークをじろじろと眺めながら言った。スパークの身体ではなく、武器や鎧のことを言っているのだろう。剣は帯びているが、鎧も着ていないし、楯《たて》も持っていない。確かに傭兵というには、少々、おそまつな格好だ。
「宿屋に置いてきた。まさか、襲《おそ》われるとは思わなかったから」
スパークは言葉を選んで、男に答えた。
「そりゃあ、不用心だったな」
男が息を詰《つ》まらせたような笑い声をひとしきりあげた。
スパークはその笑い声を不快に思ったが、危ないところを助けてもらったのは間違《ま ちが》いない。もう一度、礼を言うと腰《こし》の革袋《かわぶくろ》から金貨を五枚ばかり取りだして男に手渡《て わた》した。
男は黙《だま》って金貨を受け取った。礼も言わなければ、少なすぎると文句も言わなかった。
「若いくせに、ヴァリスの水兵とやりあうなんてたいした度胸じゃないか」
「やりたくて、やったんじゃない」
スパークはむっとして男に言い返した。
「おっと、感心しているのさ。若いうちは元気がなくっちゃな。それに、そんだけの度胸があれば、いい傭兵になれるってもんさ」
男は何を言いたいのだろう、スパークはだんだん興味が湧《わ》いてきた。
「それより、これからどうするつもりだい。なんなら、かくまってやってもいいけどよ」
「いや、街に帰る。荷物もあるし、仲間のことも心配だから」
「いい心掛《こころが》けだ、ますます気に入ったぜ。もしも、その気があるなら、今夜、月が昇《のぼ》るころ、仲間と一緒《いっしょ》に桟橋《さんばし》にきな。カノンまで連れていってやるよ。それも、マーモの傭兵としてな」
スパークの心臓が早鐘《はやがね》のように鳴りはじめた。この男はマーモの人間に間違いない。スパークたちがヴァリスの水兵に追われるのを見て、接触《せっしょく》をしてきたわけだ。
「今夜だな?」
スパークは心の動揺《どうよう》を悟《さと》られまいと、できるかぎり平静を装《よそお》って答えた。
「ああ、今夜だ。明日はない。楽しみに待っているぜ、相棒」
男はスパークの答に満足したみたいだった。にやついた顔で、スパークに握手《あくしゅ》を求めてきた。
スパークは手の平に滲《にじ》んでいた汗《あせ》を服の裾《すそ》で拭《ふ》いてから、手を差し出した。頭の中ではマーモの人間がこのロイドの街にいる理由を必死になって考えていた。
7
スパークが王城へと戻《もど》ってきたのは、すでに日が沈《しず》んでからだった。しかし、沈んでからまだ間もないので、西の空はまだ赤っぽかった。
幸いにも、全員が城に戻っていた。最初から王城に残っていたニースともども、仲間たちはスパークの無事を喜んでくれた。
「心配しやしたぜ……」
ギャラックは、かなり蒼《あお》ざめた顔をしていた。
「ギャラックってば、さっきから部屋の中をいったりきたり。全然、落ち着きがなかったんだから……」
リーフがギャラックの真似《まね》をして、部屋の中を歩きはじめる。しかし、ギャラックは相手にもしない。
「面目《めんぼく》ない」
スパークは謝った。隊長だというのに、またも仲間たちに迷惑《めいわく》をかけてしまった。
「とにかく、間に合って安心しました。晩餐《ばんさん》にあなたが出席しない理由を、必死になって考えていたんですよ」
アルド・ノーバは胸を押《お》さえて、安堵《あんど 》のため息をついている。
「隊長ってば、本当に運が悪いのね」
リーフがくすくす笑っている。
「いや、運が悪いとばかりは言えないんだ」
スパークは港で自分を助けてくれた男のことを全員に話してきかせた。
「マーモの人間ですかい?」
ギャラックが疑わしそうに尋《たず》ねてくる。目つきが鋭《するど》くなっていた。
「相手の話から推測したんだがな。まず間違《ま ちが》いないと思う」スパークは男の姿を思い起こしていた。
「問題はなぜマーモの人間、それも船乗りがロイドの港にいるかだ」
「まさか、マーモの軍船が……」
アルド・ノーバが自分の言葉に怯《おび》えたように、巨体《きょたい》をぶるっと震《ふる》わせた。そして、彼はニースを振《ふ》り返り、顔を見合わせる。小柄《こ がら》な少女と巨漢の魔術師が見つめあっている様は、いかにも不釣《ふつ》り合いだった。
「たぶん、自由貿易船を装《よそお》った私掠船《しりゃくせん》だろうな」
「何のために?」
リーフは拳《こぶし》を頭に押《お》しつけて、懸命《けんめい》に考えているふりをしている。しかし、本気で考えるつもりがないのは、その表情を見ているとあきらかだった。
「宝物を運んでいる仲間を乗せるためじゃないかしら」
ソファーにもたれるように座っていたライナが、身体を起こしながら言った。
「あ、そうか。よく考えたら、そのための手がかりを探しに行ったんだわ」
リーフはけらけら笑って、これで結論が出たと言わんばかりだった。
「わざわざ軍船を出してか、考えにくいな」
金さえ払《はら》えば、カノンまで乗せてくれる船《ふね》はいくらでもあったわけだ。それだけに、危険を冒《おか》してまで、軍船を派遣《は けん》する理由がない。
「でも、他に理由が考えられるかしら」
ライナは自分の考えが否定されたので、ちょっとだけむくれた。
「軍船が出てきて、やることといえばひとつだけじゃねぇか」
「何よ?」リーフがギャラックに尋ねる。
「陸《おか》を襲撃《しゅうげき》するわけだ」
「ここはヴァリスの王都よ。まさか、そんな……」
リーフは笑って、ギャラックの言葉を否定しようとしたのだが、自信がなくなったのか、途中《とちゅう》で言葉を切ってしまった。
「王都を守る兵はそんなに多くはない。マーモが後方の攪乱《かくらん》を狙《ねら》っているんだとすれば、狙いはこの街そのものかもしれないぞ」
スパークは一刻の猶予《ゆうよ 》もないと思った。とにかく、エト王にこのことを知らせなければならない。
しかし、どうやって知らせればよいのだろうか? すべてを話すならば、ヴァリスの水兵と戦ったことも知られてしまう。それに、街の見物と偽《いつわ》って、ロイドの港を勝手に調ベていたことも問題にされるかもしれない。
カシューからの伝言で、宝物の捜索《そうさく》はやめてフレイムに帰るよう命令されていたわけだから、スパークたちの行動は命令|違反《い はん》と言われても仕方がないのである。任務を守ると誓《ちか》いをたてて、ブレードの街を発《た》ったにもかかわらず、結局は任務に背《そむ》いてしまったわけだ。
自分の愚《おろ》かさにあきれてものが言えない。とにかく、フレイムとヴァリスとの同盟関係にひびが入るような真似はできない。それに、仲間たちの安全も守らなければならない。
どうすべきか、スパークは出口のない迷路に迷いこんだような気分だった。
皆がスパークを見守っていることにさえ気づかなかった。彼はうつむきながら、自分の良心と立場とを戦わせて、いずれを守るべきかを思案しつづけていた。
「何を迷っておられるのですか」
声をかけてきたのは、ニースだった。
まるで悪夢《あくむ 》から目覚めたみたいに、スパークははっと顔をあげた。
「いちばん大事なことだけを考えればいいのです。そうすれば、答はすぐに見つかるはずです」少女はスパークの前にゆっくりとやってきた。
「人の命がかかっているかもしれないのですよ」
「それぐらいは分かっています」苦渋《くじゅう》に満ちた顔で、スパークは少女に答えた。
「しかし、今、話したことはあくまで可能性の問題なんです。何の確証もない。男はマーモと関係がないかもしれない。マーモの軍船なんて入港していないかもしれない。しかし、フレイムの|騎士《きし》見習いがロイドの港で偽《いつわ》りの噂《うわさ》を流したあげく、ヴァリス軍の水兵と切りあったことだけは間違《ま ちが》いのない事実なんです」
「それは、些細《さ さい》なことではないでしょうか?」
そうスパークに問いかけるニースの表情は厳しかった。彼女がこんな表情を見せるのは、もちろんはじめてだった。
「あなたは神官だから、教団と教義のことだけを考えてればいいでしょう。ですが、オレは騎士です。騎士は王国と任務のことを考えねばならないのです」
スパークは皮肉をこめて言った。自分の理屈《り くつ》は完璧《かんぺき》だと思った。司祭ごときに、こんな小娘《こむすめ》に騎士の苦しみが分かってたまるものかと思っていた。
「そうですか……」ニースは、あきらめたようにため息をついた。
「ならば、何も申しません。あなた様の自由になさいませ」
そう言ったときには、すでにニースはいつもの表情に戻《もど》っていた。
そして、スパークに背を向けると、客間の扉から出ていった。
「いいんですかい?」
ギャラックがスパークに尋《たず》ねてきた。行かせていいのか、と聞いているのだ。
「エト王に話をしにいったのかもしれませんぜ」
「彼女のことは放っておけ」スパークは声を荒《あら》くして言った。
「今、考えているんだ。どうするべきか、どうしたらいちばんよいか」
スパークはライナが座っているソファーに身体を投げだすように座ると、きつく目を閉じた。そんなスパークの隣《となり》にいるのが息苦しいように、ライナがこそこそと立ち上がる。
「スパーク……」アルド・ノーバが遠慮《えんりょ》がちに声をかけてきた。
「こんな話を聞かせていいものかどうか、迷っていたんですが……」
「後にしてくださいませんか。オレは今、自分の考えを……」
「スパーク!」
アルド・ノーバははじめて大声をあげた。身体が大きいだけに、その声には驚《おどろ》くほど迫力《はくりょく》があった。
全員の目が一斉にアルド・ノーバに向けられたので、彼はまた恥かしそうに言葉を詰まらせた。
「そこまで言って、黙《だま》っちゃかっこがつかないわよ」
リーフが元気づけるように、アルド・ノーバの背中を叩《たた》いた。リーフは小柄《こ がら》なので、伸《の》びをするような感じだった。
「そうですね。今でなければ、もう話す機会がないでしょう」アルド・ノーバはようやく決心をつけたようだった。
「わたしが話したいのは、盗《ぬす》まれた水晶球《すいしょうきゅう》についてです。そして、あのニースという少女のこと」
「……聞かせてください」
スパークはソファーの上で姿勢を正した。
「しかし、覚悟《かくご 》してください。わたしの話を聞けば、もはや後戻《あともど》りできなくなります。これから先、一瞬《いっしゅん》たりとも心が休まるときがなくなるでしょう」
そして、アルド・ノーバは淡々《たんたん》とした調子で語りはじめた。
邪神《じゃしん》カーディスの復活の話である。この復活のためには、ふたつの鍵《かぎ》である祭器と生贄《いけにえ》とされるひとつの扉《とびら》が必要であること。邪神の生贄とはニースという少女に他ならず、フレイムの宝物庫から盗《ぬす》まれた宝物が祭器のひとつ、魂《たましい》の水晶球であるということ。
アルド・ノーバは話しながら、涙《なみだ》を流していた。話が終わると、ニースがあまりにも哀《あわ》れだと繰《く》り返し訴《うった》えた。
全員が息を呑《の》んで、アルド・ノーバの話を聞いていた、あまりにも途方《と ほう》もない話だったので、誰もにわかには信じられなかった。アルド・ノーバが言ったのでなければ、冗談《じょうだん》だと思っただろう。しかし、この魔術師は冗談を言う男ではない。
重苦しい沈黙《ちんもく》が部屋を支配するなか、アルド・ノーバがおいおいと泣く声だけが響《ひび》いていた。誰も何も口にできなかった。ただ、自らの心臓の音だけが時を刻むように鼓動《こ どう》しつづけているのを、不思議に思っていた。
「……なぜ、あんな少女がそんな苛酷《か こく》な運命を背負わねばならない」
沈黙を破って、スパークは呻《うめ》くように言った。声を出すために、渾身《こんしん》の力を使わねばならなかった。
「ニースは神があたえた試練だと……」
アルド・ノーバがスパークの問いに答えたが、本人も納得しているわけではないようだ。当然だ、とスパークは思った。誰だって納得できるはずがない。こんな試練を与える神々など、消えてしまえばいいと思う。
「これほどの運命に、あの少女はたったひとりで立ち向かおうというのか」
スパークの言葉に、アルド・ノーバは静かにうなずいた。
スパークは両腕《りょううで》で頭を抱《かか》えこんだ。スパークの目からも熱いものがこぼれおちてきた。スパークはそれを拭《ぬぐ》うことも思いつかなかった。
あの少女の目には、自分は何と卑小《ひしょう》に見えただろうか? 彼女の言うとおりだ。些細《さ さい》な問題をまるで最大の試練であるかのように、頭を悩《なや》ませ、まるで悲劇の主役のように自分の傷を嘗《な》めていた。
どん底に叩《たた》き落とされた気分だった。今までにも、そう思ったことは何度もある。しかし、それは単なる思いこみだった。うじうじと迷っているうちは、自分自身をまだ庇《かば》おうとしているのだ。どん底に落ちた人間は、迷ったりはしない。ひとつでも光明を見つければ、それにすがりつくしかないからだ。
「……エト王に、すべてを話そう。嘘偽《うそいつわ》りなく、真実を残らず。生命の杖《つえ》は何としてでも守らないと。彼女の戦いを手伝わなければ……」
「止めませんがね。王様の命令はブレードに帰れ、ですぜ?」
ギャラックが言った。
「命令なんてくそくらえだ!」スパークは叫《さけ》んだ。
「ニースの言ったとおりだ。答は簡単なんだ。いちばん大事なものが何か、それだけを考えればいい。今は生命の杖を守ることだ。オレの任務やフレイムの名誉《めいよ 》じゃない」
「カシュー陛下が聞いたら、なんと言いますかね」
「喜ぶと思うわ、ギャラック」
ライナがギャラックの腕《うで》をそっとつかんで、それ以上、何も言うなというように首を横に振《ふ》った。
「ああ、オレもそう思う」
ギャラックはライナに片目をつぶってみせた。
アルド・ノーバはスパークの判断に敬意を表わすように、頭を下げた。
スパークはようやく自由|騎士《きし》パーンの言葉を実感していた。自分の任務よりも、もっと大切なものを見つけたら迷うことはない、任務を放棄《ほうき 》すればいい。自分の任務にしがみつき、いちばん大切なものから目をつぶるなと、パーンは言いたかったのだ。今まで、実感できなかったのは、スパークが愚《おろ》かだったからではない。単に、大切なものを見出していなかったからだ。
しかし、今まさにスパークは見出した。己の命を賭《か》けても果たさねばならない使命を。その使命を前にして、カシューの命令がいかほどのものであろう。
命令|違反《い はん》の罪で首を切られるならば、笑って首を切られよう。だが、カシューは絶対にスパークの罪を問うたりしないはずだ。もちろん、褒《ほ》めることもないだろう。ただ理解してくれるに違《ちが》いない。カシューが自分にかけてくれていた期待の大きさと、失望をもってしか応《こた》えられなかった過去の自分を、スパークは今、痛切に感じていた。
扉《とびら》が開いて、数人の衛兵が姿を現わしたのはそのときであった。
衛兵は着替《きが》えらしい服を全員分、持っていた。
「晩餐《ばんさん》の支度《し たく》が整いました。大広間で陛下がお待ちです。これに着替えて御出席ください」
「陛下は大広間だな」
スパークは、衛兵のひとりがうなずくのを見ると、彼を突《つ》きとばすように走りはじめた。
「すまないな、そんなぞろっとした服に着替えている余裕《よ ゆう》がないんだ」
ギャラックが衛兵たちに詫《わ》びた。
「しかし、その格好《かっこう》では……」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。もったいないが、わしらは食事を摂《と》らんからな」
グリーバスが嬉《うれ》しそうな顔で走るスパークを見送った。食事を断わるときにドワーフが嬉しそうな顔をするのは、前代未聞であるかもしれない。
スパークは聖王宮の廊下《ろうか 》を、大広間に向かって全速で走った。あまりのスパークの勢いに、廊下に立っている衛兵たちもあっけにとられ、見送ってしまう。
それから、自分たちの使命を思いだしたように、スパークを制止するが、もちろん、スパークは止まらなかった。
結局、スパークが大広間にたどりついたときには、後ろから追いかけてくる衛兵たちの数が十人を超《こ》えていた。
大広間の扉《とびら》を自らの手で開けて、スパークは荒《あら》い息を吐《は》いた。
大広間には白布をかけられたテーブルが並《なら》べられており、豪華《ごうか 》な食事の支度が整えられていた。そして、テーブルのいちばん奥《おく》にエトの姿があった。
「御無礼《ご ぶ れい》いたします。国王陛下に申し上げたいことがあって、参上いたしました」
「その様子ですと、食事をしながらではだめみたいですね」
スパークは、はいと答えて、まっすぐにエトのそばに寄っていった。
大広間に詰《つ》めていた衛兵や晩餐に出席していた側近たちが、スパークを押《お》しとどめようと走りよってくる。
「おやめなさい」
エトは片手を真横に上げて、衛兵たちを制止した。その声はあくまで澄《す》んでいた。
「内密の話なのですか?」
「いえ、ここでかまいません。とにかく、事は急を要しますので……」
スパークはエトの近くに進みでると、恭《うやうや》しく一礼し、その場で跪《ひざまず》いた。
それから、スパークは残らず話した。自分がロイドの港で行なったこと。そして、自分に接触《せっしょく》してきた男のこと。自分の考えは話さず、事実だけを語った。
まわりでスパークの話を聞いていた側近たちが色めきたつが、スパークは完全に無視していた。エトは黙《だま》ってスパークの話を聞いている。
衛兵たちに引き立てられるように、ギャラックたちも大広間にやってきた。
スパークの話がすベて終わると、エトは静かにうなずいた。
「話は分かりました。すぐに、手を打ちましょう」
「この者の話を信用するのですか?」
側近はあまりに無礼なスパークの態度に、完全に怒《おこ》っていた。エトの制止がなければ、この場で切り捨ててしまいそうな剣幕《けんまく》である。
「フレイムの使者とは真っ赤な偽《いつわ》りで、マーモの密偵《みってい》かもしれませんぞ」
「疑うならば、牢屋《ろうや 》へでもどこでも入れてお取り調べください」
スパークはもはや自分の使命は終わったとばかり、深くため息をついた。そのとき、ニースのことを思いだし、スパークはきょろきょろと大広間を見回した。
しかし彼女の姿は、どこにもなかった。エトに尋《たず》ねると、大広間には一度も姿を現わさなかったらしい。
「まさか!」スパークは緊張《きんちょう》した。
そのとき、スパーク以上に緊張した面持ちの衛兵が、大広間に駆《か》けこんできた。
「何だ、騒がしい!」
先刻の側近がスパークに対する怒《いか》りをそのまま向けるように衛兵を怒鳴《どな》りつけた。衛兵は怯《おび》えたように、その場で平伏《へいふく》する。
「何事です」
エトは側近をなだめて、衛兵に報告をうながした。
「物見の塔《とう》から報告です。ファリス神殿の方向から火の手が上がっているとのことです」
「遅《おそ》かったか!」
衛兵の報告を聞いて、スパークの顔から血の気が失せていった。
スパークは大広間のベランダヘと走った。スパーク以外にも、何人かが同じ目的で走っている。ベランダからファリス神殿の建つ方向を見る。
間違《ま ちが》いなかった。夜の闇《やみ》に包まれて、影絵《かげえ 》のように見えるファリス神殿の一画が、赤々と燃えていた。もうもうたる白煙《はくえん》が噴《ふ》きあがっている。
スパークは歯がみをして、その有様を見つめた。煙《けむり》の中で跳梁《ちょうりょう》するマーモの水兵たちと、必死になって神殿を守ろうとする神官戦士たちの姿が目に見えるようだった。そして、生命の杖《つえ》を守ろうと必死になっている小さなニース……
スパークはこのままベランダから飛びおりて、駆けだしたい衝動《しょうどう》にかられた。
ベランダから引き返し、スパークは仲間たちを見た。衛兵たちの注意は、すでにスパークたちから離《はな》れている。ざわめきながら、燃えるファリス神殿を見つめている。
「行きますかい?」
ギャラックが声をかけてきた。
「もちろんだ!」
スパークは答えた。スパークは、エト王を振《ふ》り返った。
「お行きなさい。わたしも衛兵を率《ひき》いて、すぐに参ります」
「ありがとうございます」
スパークは神官王に深く感謝した。
仲間たちを振り返ると、全員がスパークにうなずきかえしてきた。
彼らは皆、スパークと行動を共にする決意を持ってくれていたのだ。嬉《うれ》しかった。たまらなく、嬉しかった。ひとりでできることはたかが知れている。仲間の助けが是非とも必要だった。
スパークは仲間たちとともに駆《か》けた。聖王宮の廊下《ろうか 》を、中庭を。
城門から外に出たときには、ファリス神殿から上がる炎《ほのお》が夜空を焦《こ》がさんばかりであった。間に合わないかもしれない。嫌《いや》な予感が頭をかすめる。しかし、スパークにできることは、全力で駆けることだけだった。
スパークの頭の中にあるものは、ひとりの少女を呪《のろ》われた運命から解放しようという思いだけだった。それが、たとえ邪神《じゃしん》と対決することであろうとも、後に退くことはできなかった。
燃えあがるファリス神殿に向け、ロイドの街を駆けるスパークは、すでにフレイムの|騎士《きし》見習いではなく、己の真の使命を見出したひとりの自由騎士であった。
[#改ページ]
あとがき
この本で、ロードス島戦記も六巻目。そして、いよいよ最終章に突入《とつにゅう》です。読者の皆さんからは「もっと続けてほしい」という嬉《うれ》しい声援《せいえん》も寄せられていますが、作者は次巻で完結させるつもりです。上巻に比べると下巻はかなり長くなりそうですが、ロードス島戦記の場合、本の厚さが違《ちが》うのは毎度のことなので、無理に分冊したりすることはないでしょう。
毎度のことと言えば、やっぱり出版が遅《おく》れてしまったこと。小説の完結が、ついにアニメの完結より後になってしまった。できれば、アニメと同時に小説も完結を、と思っていたんですけどね。でも、今年はなんとか二冊出すことができたし、他の仕事も遅れながらも進んでいるので、自分ではこんなものかな、とも思っています。来年は、最終巻の執筆《しっぴつ》もあることだし、もう少し頑張《がんば 》って小説家しましょう。
話をもとに戻《もど》しましょう。さて、本書を読み終わっての感想はいかがだったでしょうか? この期に及《およ》んで新しいキャラクターが登場(しかも大量に)するのですから、僕自身も離《はな》れ技《わざ》だなあ、とあきれています。もっとも、「RPGリプレイ」を読んでおられる方は、たいして違和感《い わ かん》がないはずです。「RPGリプレイ」はすでに三部で完結してますが、一部、二部、三部で主役が違ってるわけですから。
小説では、五巻までをパーンとディードリットのふたりで通してきました。しかし、本書の主人公はスパークです。パーンも登場していますが、RPG(ロールプレイング・ゲーム)の用語を借りるなら、あくまでNPC(ノンプレイヤー・キャラクター=脇役《わきやく》)の域を出ていません。作者としては、年も取ったし強くもなったパーンを、スパークという若者の視点で描《えが》いてみたかったのです。
次の巻は、ふたたびパーンを中心にストーリーが進んでいくことになります。今回、不満だったパーン(&ディードリット)ファンの人、御期待ください。もちろん、スパークたちの活躍《かつやく》も追いかけるつもりなので、本書でスパークたちのファンになった人も御安心ください。最終巻なのですから、アシュラムやバグナードなどの敵役《かたきやく》も含《ふく》めて、このシリーズの登場人物全員にちゃんとした結末を与えるつもりでいます。もちろん、忘れてはならないウッド・カーラにも……
本編は次の巻で完結しますが、ロードス島およびロードス島を含むフォーセリア世界すベてのエピソードが終わった訳ではありません。ロードス島に関していえば、本編では語られなかったエピソードを短編の形で書いていくつもりです。すでに「ファンタジー王国T」に「妖精《ようせい》界からの旅人」という外伝を発表していますし、外伝の第二|弾《だん》も近々、お目にかけられるはず。たぶん、帰らずの森≠ェ解放されたときの話になるでしょう。本書で「えっ! いつの間に」と驚《おどろ》かれた方もいるでしょうが、その種明かしというわけです。
それから、六|英雄《えいゆう》の若かりし頃《ころ》の話とかも小説で書いてみたい(すでに山田章博さんの絵でコミック化されてますが)。あと、時代や場所を変えて、ロードスとはちょっと違《ちが》ったファンタジーを書いてもみたい(たとえば、「クリスタニア」とか「カストゥール王国」とか)。これらロードス島を含《ふく》むフォーセリア世界の作品群を通して、僕なりのファンタジー観を理解していただければと思っています。もっとも、すべてが完結するのは、ずいぶん先の話になるはずです。どうか、末長くお付き合いください。
さて、四巻と五巻のあとがきでは、「|魔法《ま ほう》」と「アイテム」の解説を書きました。ロードス島戦記はRPG小説なので、細かい設定がずいぶんあり、本編を読むだけでは体系的な理解が難しいと思ったからです。今回も「モンスター」について、ちょっとだけ補足させていただきます。
ロードス島にはたくさんの怪物《かいぶつ》が棲《す》んでいます。狼《おおかみ》や熊《くま》といった普通《ふ つう》の動物もいるんですが、普通じゃないのもたくさんいます。たとえば、ドラゴンとかジャイアントとか、現実では野球のチーム名でしか存在していません。
怪物たちは大雑把《おおざっぱ 》ですが、いくつかの種類に分かれています。たとえば、妖精《ようせい》/妖魔《ようま 》、精霊《せいれい》、幻獣《げんじゅう》/魔獣《まじゅう》、巨人《きょじん》、アンデッド、魔法生物といった具合です。
妖精や妖魔は、共に妖精界の住人です。彼らは自然の力(これを精霊力《せいれいりょく》といいます)が、人間の世界(物質界または人間界)でうまく働くように、妖精界で休むことなく働いてくれています。つまり、小人さん[#「小人さん」に傍点]ですね。もっとも、人間界にやってきた妖精や妖魔は、そういった役目からは解放されていて、普通《ふ つう》の人間と同じような暮《くら》しをしています。妖精も妖魔も同じ仲間なのですが、人間の味方は妖精で人間の敵は妖魔と呼ばれています。このようにロードス島の人々は、自分中心に物事を考えているわけです。ドワーフやエルフが妖精の、ゴブリンやダークエルフが妖魔の例です。
妖精、妖魔が妖精界の住人であるように、精霊は精霊界の住人です。彼らは自然の力に生命が宿ったものです。炎《ほのお》が燃えるのも、水が小舟を浮《う》かせたりするのも、すべて精霊の司《つかさど》る力があるおかげです。彼らは精霊力の強い場所にさまよいでたり、精霊使いに召喚《しょうかん》されて、人間界に姿を現わします。ディードリットがよく使うシルフは風の精霊で、同じくウンディーネは水の精霊です。他にも上位精霊と呼ばれる炎の魔神《ま じん》エフリー卜や風の王ジンなどがいます。
幻獣や魔獣は神々や古代王国時代の魔術師《ソーサラー》たちが創りだした生命体です。動物を合成したような姿をしているものが多く、五巻で登場したマンティコアなどは代表的な例です。マンティコアは老人の顔、獅子《しし》の身体、蝙蝠《こうもり》の翼《つばさ》、蠍《さそり》の尾《お》という怪物ですから、四つの生き物の合成です。ドラゴンもこの仲間に属していますが、彼らは神々と同じ時期に生まれた太古種族で、神々と同格の生き物です。それゆえ、ドラゴンは幻獣王であり、魔獣王であるわけです。もちろん、幻獣、魔獣も人間が勝手に決めた分類で、姿の美しいのが幻獣、醜《みにく》いのが魔獣と呼ばれます。
巨人《きょじん》は巨大な人型の生き物で、神々の末裔《まつえい》とも考えられています。ロードス島世界で人型の生き物が多いのは世界のはじまりに存在した巨神が、人型をしていたためです。神々も人の姿をしていたわけで、当然、彼らの創造物も人間の姿をしているものが多くなります。第五巻で炎《ほのお》の巨人ファイアジャイアントが登場しましたが、これはけっこう強いモンスターです。レッサー・ドラゴンでさえ倒《たお》してしまうのですから。もっとも、食人鬼《しょくじんき》オーガーも巨人の仲間なのですから、堕《お》ちるところまで堕ちた神々の末裔もいるわけです。
アンデッドは負の生命力で活動する魔物《ま もの》と定義しています。ファンタジーRPGではポピュラーな怪物なのですが、ロードス島戦記では意外に登場していません。ゾンビーやバンパイアなどホラー映画でおなじみのモンスターが、この仲間です。
最後に|魔法《ま ほう》生物ですが、これは生物というよりロボットというべきかもしれません。生命力の代わりに魔力を活動の源にしており、創ったのはもちろん古代王国の魔術師。カーラが得意としている魔法で、第一巻で捕《と》らえたパーンたちを見張るために呼びだした|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》、また五巻で登場のガーゴイルなどがこの系統のモンスターに属しています。
僕は子供の頃《ころ》からモンスターに愛着を持っていまして、神話や伝承の類は貪《むさぼ》るように読んだものです。いつか、モンスターたちを主人公にした話も書いてみたいなぁ、と思っています。
最後になりましたが、いつもお世話になっている関係者の方々に謝辞を贈らせていただきます。
[#地付き]水 野 良
[#改ページ]
角川文庫発刊に際して
[#地付き]角川源義
第一次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある、角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい、多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
一九四九年五月三日