ロードス島戦記5 王たちの聖戦
水野良
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目 次
プロローグ
第T章 ハイランドの竜公子
第U章 ヴァリスの神官王
第V章 カノン王の帰還
エピローグ
あとがき
[#地付き]口絵・本文イラスト 出渕裕《いずぶちゆたか》
[#ここまでで目次終わり]
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プロローグ
豪華《ごうか 》な調度品が整然と並《なら》ぶ部屋の中に、三人の男たちがいた。
ここは自由都市ライデンの街《まち》にある、評議会の建物の一室。火竜山《かりゅうざん》の魔竜《まりゅう》シューティングスターの火炎攻撃《か えんこうげき》にもさらされることなく、建物は無傷《む きず》のままに残っていた。その火竜山の魔竜は一週間以上も前に、数人の勇者たちの手によって倒《たお》されていた。祭が三日間続き、勇者たちの武勲《ぶ くん》が街中《まちじゅう》で祝われた。その祭が終わり、人々は街の復興のための作業に忙殺《ぼうさつ》されている。
部屋の中にいるのは、竜《りゅう》を殺した勇者たちだった。ひとりは、金属製の鎧を身につけた若い戦士。紅潮した顔が、先刻からの彼の興奮をよく伝えている。クッションのよくきいた椅子《いす》に深く腰《こし》を下ろし、右手の中指は椅子のアームをいらいらと叩《たた》いている。
その若い戦士と向かいあうように座っている痩《や》せた魔術師《まじゅつし 》は、困ったような表情をその顔に浮《う》かべていた。魔術師は、裾《すそ》が床《ゆか》にこすれるほどの長い紺色《こんいろ》のローブを身につけている。手に持つ樫《かし》の杖《つえ》は、節くれだち、その頭の部分に上位古代語《ハイ・エンシェント》の魔法《ま ほう》文字が何やら刻まれていた。
パーンとスレインのふたりだった。
もうひとりいる戦士は、|硬革の鎧《ハードレザー》を身につけて頭に白い布《ターバン》を巻きつけている。髭《ひげ》をたくわえた顔は、精悍《せいかん》そのもの。さきほどから続いているパーンとスレインの口論を沈黙《ちんもく》を守ったまま、じっと見つめている。
フレイムの傭兵王《ようへいおう》として名高い、カシュー・アルナーグその人である。
カシューは、パーンとスレインのふたりが言い争いをするのを初めて見たように思う。そして、ふたりの言い争いが決して結論を得ないだろうことは、自明のように思えた。しかし、この口論の原因は自分にあった。
自分がパーンに、アラニア王として立ってほしいという思いを、スレインの前で伝えたためだった。カシュー自身は、ほとんどあきらめていた思いである。ただ、パーンが心変わりしていないかと期待して、もう一度、言ってみたのだ。そこにスレインがいることは、たいして気にも止めていなかった。
だが、カシューの提案を聞いて、意外なことにスレインの方が熱心に賛成してくれた。それで、説得の役目が彼に移ったのである。
「……あなたが王に立てば、味方になってくれる者は大勢いるはずです。誰《だれ》もが、今のアラニアの内乱を憂《うれ》えています。人心は、もはやラスター公爵《こうしゃく》にもアモスン伯爵《はくしゃく》にもありはしません。もしあるのなら、内乱はとっくの昔《むかし》に終わっているでしょう。終わっていないのは、内乱が貴族たちの勝手な思惑《おもわく》によっているという証《あかし》なのですよ。フレイム王国の支援《し えん》、それに今や|竜殺し《ドラゴンスレイヤー》のひとりであるあなたの名声を以《もっ》てすれば、アラニア統一は簡単に達せられることでしょう。民《たみ》は救国の英雄《えいゆう》を求めているのです。その英雄になれるのは、あなたをおいて他にありません」
スレインの声には、いつになく力がこもっていた。カシューは、彼の声にこれほどの張りがあることを初めて知った。いつもは、のんびりとした口調で話す男なのだ。
「オレは王の器《うつわ》ではない。それは、繰《く》り返し言ってるだろう」
答えるパーンの声からも、スレインに負けないほどの強固な意志が伝わってきた。
「王になれる器かどうかは、あなたが判断することではありませんよ。今あなたが立たなければ、アラニアの内戦はまだまだ続くのです。いずれは、マーモに付け入られ、征服されるかもしれません。そうなったら、不幸になるのはアラニアの国民なのです。カノンから噂《うわさ》として伝わってくるマーモ族の圧政の恐《おそ》ろしさは、あなたも知っているでしょう」
「知っているとも。だけど、オレは気付いたんだ。王になってしまえば、救うことのできない人間がいるってことを。それどころか、人間をゲームの駒《こま》のように切り捨てなければならない場合だってあるってことを。オレにはそれが耐《た》えられない。オレを王にと思ってくれる人間はいるかもしれない。しかし、そう望まない人間だって大勢いるんだ。王にはスレインがなればいい。北の賢者《けんじゃ》の名声は、オレ以上に高いはずだ」
パーンの言葉に、スレインはハッとなったようだった。肩《かた》を落とし、うつむきかげんになった。それから、ひとつため息をついた。
「……あなたが考えている以上に、魔術師を恐れる人は多いのですよ。それを知っているからこそ、あの大賢者ウォートは、人里|離《はな》れたモスの山中に住んでいるのではありませんか」
カシューもそのことはよく知っていた。もしも自分が魔術師だったならば、自分は王になどなれなかったろう。
寂《さび》しげなスレインの表情に、パーンは態度を軟化《なんか》させた。悪かったよ、とつぶやきながら、視線をつとスレインからそらす。
「とにかく、オレは王になりたいとは思わない。今の自分のやり方をこれからも続けていくつもりだ」
そして、これからロードス島の南の地方を回って、ザクソンに戻《もど》るつもりだと打ち明けた。これもまた、唐突《とうとつ》な言葉だった。
「モス、ヴァリス、そしてカノン。特にマーモの支配下にあるカノンだけはぜひ見ておかねばと思ってたんだ。それにウッド・チャック――カーラの行方《ゆ く え》もそろそろ探さねばならないとな。これはただの勘《かん》なんだが、カーラはカノンに潜《ひそ》んでいるような気がするんだ。ザクソンの村は、もうオレなしでもやっていけるはずだ」
「それはその通りでしょう。しかし……」
「スレイン、もう終わりにしよう。オレの気持ちは変わらない」
「パーン!」
スレインの制止の声も聞かず、パーンは椅子《いす》から立ち上がると、カシューに一礼してから、大股《おおまた》で部屋の外へ歩み去っていった。
「スレイン、それ以上はやめておけ」
パーンを追いかけようとするスレインを呼びとめるために、カシューははじめて口を開いた。
「……カシュー王」
スレインは立ち止まり、ゆっくりと振《ふ》り返った。
「今は何を言っても聞かぬだろう。あいつの気持ちも分からんではないのだ。人は王になれば、何でもできると思っているようだが、あいにく王とは不自由なものだ。何をするにしても、立場が邪魔《じゃま 》をしてくれる」
もっとも自分は、シャダムという片腕《かたうで》がいるのをいいことに、かなり好きなようにしている。それに、国民の大半を占《し》める砂漠《さ ばく》の民はおおらかな気質の人々であり、細かいことにこだわらない。そんなフレイムなればこそ、自分は王になりたいと思ったのだ。アラニアの王位に就《つ》けと言われれば、自分でも躊躇《ちゅうちょ》したかもしれない。
「だが、オレは今の争いを早く終わらせたい。そのためには、誰《だれ》かがアラニアを統一し、マーモに対する包囲網《ほうい もう》を完成させることが不可欠だ。ベルドを失ったマーモが今もカノンを支配し、ヴァリスを圧迫《あっぱく》していられるのは、アラニアの内戦で、北からの脅威《きょうい》がまったくないためだからな」
内乱が始まった当初は、アモスン伯爵《はくしゃく》がみごとラスター公爵《こうしゃく》を倒《たお》したならば、その役目を果たしてもらうつもりでいた。しかし、国王殺しのラスターを打倒《だ とう》するとの大義名分がありながら、五年も戦いを続けているのは無能の証明としか思えない。アラニアを分割統治したがっているとの噂《うわさ》も、おそらく真実なのだろう。
だからこそ、歴史あるアラニア王家を討《う》ちたおしてでも、パーンにアラニアを統一してほしいと期待したのだ。そうすれば、国力を回復しつつある同盟国ヴァリスとともに、マーモをロードス本島から、駆逐《く ちく》する準備は整ったといえるのだ。
だが、当のパーンにはその意志がない。それが残念でもあり、歯痒《は がゆ》くもあった。
「オレもあきらめかけていたが、できるならパーンに思いなおしてもらいたい。しかし、今は無理だ。むしろ、あいつの言うとおり、ロードス島の南を回らせてやれ。その旅のあいだに、彼が心変わりしてくれることに期待しよう。モス、ヴァリス、そしてカノンの現状を見れば、自分が果たすべき役割が見えてくるかもしれない。いみじくもあいつが言ったように、特にカノンだな」
「そうあってくれれば、いいのですがね……」
パーンの消えていった扉《とびら》を見つめながら、スレインは首を振った。
「スレイン、あいつに付いていってやってくれ。あいつには、まだおまえの助けが必要だろう。ロードス島の南の地方はとにかく危険な状況《じょうきょう》にある。あいつが、つまらぬことで命を失わぬよう、気を付けてやってほしい。あいつの純粋《じゅんすい》なところがオレは好きなのだが、それがために危険にさらされることもある世の中だからな」
「……ええ、そうしましょう。娘《むすめ》には、またしばらく会えなくなりますが、帰ろうと思えばいつでも帰れるよう、家の方には準備してきましたからね」
そう話しかけてくるスレインの顔が、父親のそれになっていることに、カシューは気がついた。
「辛《つら》い旅になるだろうが、頼《たの》む」
「ええ、辛い旅になるでしょう。辛く、そして長い旅に……」
それから、半日後、ひとりの女性が大地母神マーファの魔法《ま ほう》を使って、ザクソンの村に帰っていった。続いて、ひとりの長髪《ちょうはつ》の若者がやはりザクソンの村に向かって、こちらは徒歩で帰路についた。レイリアとセシルである。レイリアは娘ニースを育てるために、そしてセシルはザクソンの村の相談役をスレインから引き継《つ》ぐために。
彼らふたりを見送ったあと、今度は六人の人間がライデンの街を南に向けて旅だった。
その先頭には、パーンの姿があった。もちろん、ディードリットもいる。それから、スレイン。さらに女戦士のシーリス、草原《そうげん》の妖精《ようせい》マール、戦《いくさ》の神マイリーの司祭ホッブも一緒《いっしょ》だった。
目指すはロードス島南西部の大国モス。
そのモス王国では、今、内乱の嵐《あらし》が吹《ふ》き荒《あ》れているのだ。
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第T章 ハイランドの竜公子
ロードスという名の島がある。アレクラスト大陸の南に浮《う》かぶ辺境の島だ。大陸の住人の中には、|呪《のろ》われた島≠ニ呼ぶ者もいる。混沌《こんとん》の領域が数多くあるがゆえに。妖魔《ようま 》や魔獣《まじゅう》など忌《い》まわしい生き物が数多く住むがゆえに。そして、破壊《は かい》の女神として知られる一柱の女神の骸《むくろ》がこの地に眠《ねむ》っているとの伝説が残されているがゆえに。
呪われた島の名にたがわず、三十余年前には古代王国の遺跡《い せき》から魔神《ま じん》が解放され、ロードス島を壊滅《かいめつ》の一歩手前にまで追いやった。その傷がようやく癒《い》えた五年前に、今度は英雄《えいゆう》戦争の名で呼ばれる激《はげ》しい戦《いくさ》が始まった。
その戦は、名前の由来となったふたりの英雄の死をもってしても今だに決着をみない。戦の残り火が吐《は》きつづける不穏《ふ おん》な黒煙《こくえん》は、ロードス島の空を今も灰色に染めているのだった。
アラニアでは、先の国王|暗殺《あんさつ》の後、その暗殺の当事者である王弟ラスター|公爵《こうしゃく》が王を僭称《せんしょう》。彼に反対する勢力はアラニア第二の都市ノービスに集い、次の王位|継承《けいしょう》権者アモスン伯爵《はくしゃく》を立て、これに抵抗《ていこう》した。しかし、民《たみ》を無視した内乱に怒《いか》り、アラニア北部の街《まち》や村はザクソンの村を中心に団結、王国に対し不服従の運動を行なっている。その運動は、年を追うにつれアラニアからの独立という大きな潮流となりつつある。
アラニアの西に位置する砂漠《さ ばく》の王国フレイムは、いくつもの試練を乗り越《こ》え、その国力を拡大してきた。ロードス島各地から流れてきた難民のために、火竜《かりゅう》の狩猟場《しゅりょうば》≠ニ呼ばれた平原に、村を興《おこ》し、畑を開いた。そのための最大の障害であった火竜シューティングスターは、国王カシュー自らが数人の勇者とともに打ち倒《たお》している。
そのシューティングスターの襲撃《しゅうげき》により街の大半を焼かれた自由都市ライデンは、国の乱れも著《いちじる》しく、長年守ってきた自治の制度を放棄《ほうき 》し、フレイムの保護下に入れてほしいとカシューに要請《ようせい》した。
カノン王国、および神聖王国ヴァリスの東部は、暗黒《あんこく》の島マーモの勢力下にあり、その圧政のもとに民は苦しんでいると伝えられる。
カノンでは、マーモに対する抵抗運動があちらこちらで起こってはいる。しかし、そのどれもがささやかな抵抗にすぎず、とうていマーモを打倒《だ とう》するような力になるとは思えない。
英雄《えいゆう》王ファーンを失い、国力の衰《おとろ》えたヴァリスであったが、新王エトのもとようやく復興の兆《きざ》しをみせて、国土解放、マーモ打倒のための聖戦の準備を整えつつある。
そして、そのヴァリスの西に、もうひとつ内乱で揺《ゆ》れる王国があった。ロードス島南西部に勢力を持つ王国モスである。
モス王国はいくつかの小さな国が集まった連合国家である。ひとつの都市を拠点《きょてん》に、公国と呼ばれる小さな国があり、それぞれに太守《たいしゅ》と呼ばれる王がいる。その太守の中から、ひとり王国全土を治める公王が出る。公王は、太守たちからなる選帝会議により選出され、その死までの任期を持つ。
長年に渡《わた》って戦乱の時代を経験してきた彼らの知恵《ちえ》でもあった。モス地方の諸都市を竜《ドラゴン》の身体《か ら だ》にちなんで呼ぶようになったのも、モスはひとつの生き物であり、統一された王国であるとの意識を高めるために他ならなかった。しかし、大国ながらも王国としての結束《けっそく》は脆《もろ》く、何かのきっかけがあれば、ふたたびかつての戦乱の時代が訪《おとず》れることを誰もが承知していた。
そして、英雄《えいゆう》戦争がそのきっかけとなったのである。神聖王国ヴァリスの依頼《いらい》に応じて、対マーモの戦《いくさ》への出兵を決議し、各公国から集めた騎士《きし》団が王都|竜の炎=sドラゴンブレス》ハーケーンを留守《るす》にした矢先に、モス第二の都市である|竜の鱗=sドラゴンスケイル》ヴェノンの太守ヴェーナー公爵《こうしゃく》が、配下である竜鱗《りゅうりん》騎士団の精鋭《せいえい》をもって、王城グレイロックを攻《せ》めたのだ。
グレイロック城の衛兵は最後の一兵に至るまで戦ったが力及《ちからおよ》ばず、公王一家は捕《と》らえられ惨殺《ざんさつ》された。ヴェーナー公爵は、ふたつの都市の支配権を完全に握《にぎ》ると、選帝会議を開催《かいさい》したと称し、公王即位の宣言を行なった。こうなれば他国との戦どころではなく、モスの各公国は正当な王位を巡《めぐ》って、戦いを開始した。
それから五年余。竜の鱗<買Fノンは、王国の大半を手中に収めていた。それに対抗できるのは、今や竜騎士団を擁《よう》する|竜の目=sドラゴンアイ》ハイランド公国のみ。だが、そのハイランドの太守ジェスター公爵も現在、病床《びょうしょう》にあり、騎馬たる竜にも乗ることはできないありさまだった。それゆえに、ヴェーナー公爵がモス王国を統一するのは時間の問題と思われていた。
ハイランド公国の王城オーバークリフは、切り立った崖《がけ》に隣接《りんせつ》するように建てられている。その地の利を活かした堅牢《けんろう》さは、フレイムの王城アークロードをも凌駕《りょうが》していると言われている。その堅牢さの証《あかし》のごとく、公国としてのハイランドの歴史は古く、モスの各公国の中でも随一《ずいいち》を誇《ほこ》っている。歴史だけではなく、二代前のモス公王マイセンを筆頭に、太守の家系には名だたる勇者が揃《そろ》っている。魔神《ま じん》戦争に終止|符《ふ》を打った最も深き迷宮≠ナの戦いのおりにも、ふたりの王子が百の勇者≠フ中に選ばれ、六英雄≠轤ニともに最後まで魔神と戦い、そして華々《はなばな》しく散っている。公王マイセンの世継《よつ》ぎでさえなければ、ジェスター公爵も百の勇者に選ばれたろうと言われている。そして、おそらく六英雄は七英雄となっていたろうとも。
その伝説にも残ろうかという勇者を、パーンは目の前にしていた。
玉座に深々と腰を下ろす姿は病人のそれであり、痩《や》せさらばえた身体からは昔日《せきじつ》の面影《おもかげ》は微塵《みじん》も感じられない。ただ、双眸《そうぼう》に宿る光だけは、竜のごとき鋭《するど》さでもって、かしずくパーンとその仲間を値踏《ねぶ》むように見すえていた。
その目に、はたして自分たちはどう映っているのだろうか、とパーンは考えていた。奇妙《きみょう》な組み合わせの一行である。戦士がふたり、自分とシーリス。魔術師のスレインに戦の神の司祭ホッブ、そしてふたりの妖精《ようせい》、エルフのディードリットとグラスランナーのマール。こんな六人が、フレイム王カシューからの親書を携《たずさ》えてやってきたのだから、驚《おどろ》くなという方が無理というものだ。
パーンたちは長い時間をかけて調べられ、ハイランドの宮廷魔術師に魔法《ま ほう》をかけられたりもした。
だが、親書に記されたカシューの筆跡《ひっせき》を太守ジェスターが見知っていたこともあって、最後にはフレイムの使者として認められた。その親書には、フレイム、ハイランド、ヴァリスの三国同盟に関する提案が記されており、ヴァリス、ハイランド両国の当面の敵に対しフレイムが兵を派遣《は けん》する意志があることも付け加えられていた。
ハイランド太守ジェスターは、すでに親書を読み終えており、いかにしたものかと思案している様子である。カシューとジェスターは、先の大戦のおりにもヴァリスと同盟し、戦った盟友である。英雄《えいゆう》王ファーンに対する敬意からの参戦だったのだが、勇者は互《たが》いを認めるものである。初老の太守ジェスターと若き王カシューは、ある宴《うたげ》の席において、互いの友情を誓《ちか》いあったとも伝えられている。
「……我が公国に対し、同盟を申しでられたカシュー王の好意には、感謝の言葉もない」
ようやく考えがまとまったものか、ジェスター公爵《こうしゃく》が口を開いた。彼の声には覇気《はき》は感じられなかったが、それでも謁見《えっけん》の間の隅《すみずみ》々にまではっきりと届いた。かつては、この大広間の空気を震《ふる》わせるほどの声量であったろう。
「しかし、今の我々の戦いはモス王国内部の問題、カシュー殿《どの》に出向いてもらうわけにはいかぬ。他国の力を借りて、モスを再統一しても、民からは卑怯者《ひきょうもの》と謗《そし》られよう。ましてや同盟関係はあくまで対等な力を持つ国同士で成り立つもの。もしも、我等がヴェノンごときに敗れるようでは、おそらく我が力などカシュー殿には、無用のものであろう」
パーンには、ジェスター公爵の思いが分かるような気がした。今、フレイムの援助《えんじょ》を得て、モスを統一したとしても、その禍根《か こん》はモスの各公国の太守たちの間に絶対に残る。それは、貴族や騎士《きし》階級の者、はては一般《いっぱん》の国民にいたるまで同様だろう。五年前に、ヴェノン公国が起こした反乱は、もちろん、許しがたい行為《こうい 》だ。だからといって、ジェスター公爵が同様の手段を取れるかといえばそうではない。
優れた戦士であり、英雄であるがゆえに、ジェスター公爵は独力でヴェノン公国を倒《たお》すことを求められているのである。その期待を裏切れば、たとえ一時の戦に勝ったとて、戦乱はすぐにまた、起こることだろう。
「それにしても……」
パーンは心の中でつぶやいた。ひとつ疑問が浮《う》かんだのだ。その疑問を投げかけようと、パーンは顔を上げて、玉座のジェスター公爵を見つめた。
「どうした、言いたいことがあるのならば、自由に申せ」
「はい、それならば」パーンは頭の中で簡単に言葉をまとめてから、先を続けた。
「失礼な質問かもしれませんが、御容赦《ご ようしゃ》願います。我々は、ジェスター公爵が竜騎士たちを配下に従えていることを知っています。最強の魔獣《まじゅう》である竜の乗り手たちをです。その勇猛《ゆうもう》さはロードス中に知らぬものはなく、それゆえモスはロードス島一の強国と信じられてきたのです。そのジェスター公爵が、いえハイランドが、ヴェノンに苦戦を強いられているというのが納得できないのです。もし、苦戦の理由があるのなら、教えていただきたいのですが」
パーンの隣《となり》で控《ひか》えていたスレインの肩《かた》がピクリと動いた。パーンはそれに気がつき、チラリと視線を走らせると、悲しそうに自分を見ているスレインの視線とぶつかった。
スレインは何か訳を知っているのだ。咄嗟《とっさ 》にそう判断して、パーンは考えもなく、質問を口にしたことを後悔《こうかい》した。
「隠《かく》しだてをすることではあるまい。わしは確かに最強の竜騎士たちの忠誠を得ている。わし自身もかつては竜の乗り手であった。しかし、先の英雄《えいゆう》戦争、そしてモスの内戦と打ち続いた戦いの中で、竜騎士たちはもはや四騎にまで減っておる。かつては、十二騎を数えた竜騎士たちがだ」
ジェスター公爵はすこしだけ顔を上げて、遠くを見るような目をした。かつての竜騎士たちの勇姿を思いだしているのであろうか。鱗片鎧《スケじルメイル》を身にまとい、竜の背に乗り戦場を飛翔《ひしょう》した竜騎士たちの勇姿を。それから、五年しかたってはいないのだということに、パーンは驚《おどろ》きを感じていた。英雄も病には勝てないという非情さを悲しく思う。
「しかし、五年前にヴェノンが反乱を企《くわだ》てたおり、奴《やつ》らは一匹《いっぴき》の巨人《きょじん》を味方にしておった」
「……巨人ですか?」
予想外の答だった。巨人は人間とともに、この物質界の住人である。姿は人間と同じながら、その身体《か ら だ》の大きさはかるく二倍、ときには三倍を超《こ》えることもあるという。もし、彼らに人間と同じだけの繁殖力《はんしょくりょく》があったならば、この世界は間違《ま ちが》いなく人間界ではなく巨人界となっていたであろう。
特に巨人たちの中でも上位に属する古代種族は、遥《はる》かな神話の時代、神々とさえ互角《ご かく》に戦ったといわれている。これら古代の巨人の末裔《まつえい》たちの中で、もっとも名高く、そして恐《おそ》れられているのが、単眼の巨人サイクロプスである。
「いかにも、巨人だ」ジェスター公爵は、疎《うと》ましげにその言葉を繰《く》り返した。
「その巨人の名は、誰も知らぬ。ただ、いにしえの巨人と呼ばれておる。当家に伝わる古代書にその巨人のことを記したものがあり、民間の伝承にても語られているがゆえに」
いにしえの巨人、猛《たけ》き炎の巨人。
そびえたつ岩山のごとき、身体。
その声は、天空を震《ふる》わし、大地をゆるがす。
歌うように、ジェスターは伝説の一節を口ずさんだ。それから、苦しそうに二度、三度と咳《せ》きこんだ。心配そうに傍《かたわ》らの侍従が寄っていくが、ジェスターはそれを手だけで制した。
「炎の巨人だ」
「……聞いたことがあります」パーンは唸《うな》るように答えた。
パーンはその名を知っていた。
炎の巨人<tァイアジャイアントは巨人族の中でもサイクロプスに匹敵《ひってき》するほど大きく、そして猛《たけだけ》々しいことで知られている。やはり、古代の巨人の末裔《まつえい》らしく、その身体の中には原初の混沌《こんとん》の力が秘められている。その名の通り、炎の精霊《せいれい》力を身につけているのだ。竜《ドラゴン》のように、炎を吐《は》いたりはしない。しかし、炎で傷つくことは絶対にないのだ。
口から吐く炎を切札とするドラゴンにとっては、それだけで力のほとんどが削《そ》がれたようなものだ。まして、竜騎士たちが駆《か》るドラゴンは、火竜山の魔竜シューティングスターや、ハイランドの守護神たる金鱗《きんりん》の竜王<}イセンといったエンシェント・ドラゴンではない。彼らは、ドラゴン族の中にあって下位種にしかすぎず、力においても知性においても、エンシェント・ドラゴンに比べればはるかに劣《おと》っている。
一方の巨人が古代種たるファイアジャイアントならば、接近した戦いでは、いかにも竜騎士たちのドラゴンの方が分が悪い。
「由々しき問題ですね」
パーンは暗《くら》い気持ちになっていた。同時に、その巨人を倒《たお》すための方法を模索《も さく》している自分に気が付いた。
「パーン、いけませんよ」
まるでパーンの考えを見透《みす》かしたように、スレインがささやきかけてきた。
パーンは小さくうなずいた。さきほど、ジェスター公爵が言ったようにこれはハイランドの問題なのだ。
「巨人に対して、何か手は打っているのですかな?」
パーンでさえ遠慮《えんりょ》していた問いを口にしたのは、マイリー神の司祭ホッブだった。彼はこの前の火竜山の戦いではアシュラムの側について、パーンたちと戦った。しかし、アシュラムが死に、今ではパーンに忠誠を誓《ちか》っている。忠誠など誓われても困《こま》るのだが、彼は頑《がん》として言うことを聞かなかった。それが戦の神マイリーの司祭というものだ、とレイリアに説得されて、パーンは彼を従僕《しもべ》ではなく、仲間として迎《むか》えいれることにした。
そのレイリアは娘《むすめ》のニースのことが心配だからと、〈帰還《き かん》〉の呪文《じゅもん》を使って、すでにザクソンの自宅に戻《もど》っている。しかし、夫であるスレインはパーンに同行してくれている。この夫婦が平穏《へいおん》な暮《く》らしを営むことができるのは、いったいいつのことだろうか。
ホッブの言葉に、謁見《えっけん》の間に居合わせた一同が、心なしか沈《しず》んだ表情になった。もっとも苦渋《くじゅう》の意を表に出したのは、ジェスター公爵に他ならなかった。
パーンでさえはばかったぐらいの質問である。さすがに、無礼がすぎたかと不安になったが、ホッブは平気な顔をしている。
生きるということは、戦いである。
これが戦《いくさ》の神マイリーの信仰《しんこう》なのだそうだ。戦い≠ヘ、戦とは直接に結びつかない。勇気を持ち、何事にも積極的に立ち向かうべし、という生き方を説いているのである。
マイリー神は、モス地方でもっとも信仰されている神である。人生が戦いであるとの教えは、この地方の歴史を具現しているともいえるからだ。だから、一行の中で、ホッブがもっとも丁重《ていちょう》に迎えられていた感がある。戦の神の司祭、それも高司祭にも匹敵する力を持つホッブの来訪は、ハイランドの人々にとって好転の兆《きざ》しのようにも考えられたのかもしれない。
「我等は腰抜《こしぬ》けではない。もちろん、手は打っている。我等が王子レドリック殿下《でんか 》は……」
ひとりの騎士が、ホッブの言葉を挑戦《ちょうせん》とでも受け取ったかのように声を張り上げた。彼は胸に竜を意匠化《いしようか》した紋章《もんしょう》の刻まれた鱗片鎧《スケールメイル》を身につけていた。それが、竜騎士の証《あかし》であることを、パーンは先刻、教えられた。四騎となった竜騎士のうちのひとりなのだ。
「黙《だま》れ!」その竜騎士の言葉を、思いもかけず激《はげ》しい口調で、ジェスター公爵が制した。
「あやつの話はするな。わしの命に背いて、勝手ばかりしおって。だから、敵の策《さく》にまんまとはまることになったのだ」
「お言葉ですが、殿下が敵の手中に落ちたなどという情報は伝わってきておりません。必ずや、目的を遂《と》げて、戻ってこられますでしょう」
「黙れと言っておる!」
竜騎士は、まだ何かを言いたそうだったが、病の太守の身を案じ、口をつぐんだ。そして、深々と頭を下げ、その場で畏《かしこ》まる。
「……失礼した、司祭殿」
口調がもとに戻り、ジェスター公爵は玉座に腰《こし》を沈めたまま、頭をすこし下げた。
「いや、失礼したのはこちらの方。噂《うわさ》に高いハイランド公国に勇者がいないとは思っておりません。ただ、御一同が絶望しているように見えたのが残念だったのです。勇気をもてば、マイリー神の加護がきっと訪れることでしょう」
「もちろん、このジェスター、いつも勇気は忘れぬ。使者の方、カシュー王に伝言願いたい。あと二年待ってもらえれば、きっとヴェノンを打ち倒《たお》そう。その後にこそ、盟友として共にマーモと戦おうとな」
「心得ました」
隣《となり》でスレインが深々と頭を下げたので、パーンもそれに倣《なら》った。自分には、ハイランドの勇者たちが勝利することを願うしかできないのだ。そのことが残念でもあった。傭兵《ようへい》として加わることはできたのだろうが、フレイムの使者として謁見《えっけん》した後では、それもかなうまい。
床《ゆか》に敷《し》かれた真紅《しんく》の絨毯《じゅうたん》を見るとはなしに見つめながら、これからヴァリスヘ向かうためには、どんなに用心してもしすぎることはない、と心を引き締《し》めていた。
|竜の鱗=sドラゴンスケール》ヴェノンの勢力圏を通らねばならないのだから……
ハイランド公国の王城を離《はな》れて、五日が過ぎていた。ライデンを出発してからすでに一月あまり。ザクソンを旅立ってからは、いったいいくつの月が過ぎたのだろう。
パーンたちの前には険しい坂道があり、左右の斜面《しゃめん》には鬱蒼《うっそう》と針葉樹が生い茂っている。獣《けもの》しか通らないと思えるような、細い道だった。しかし、グラスランナーのマールが言うには、聞違《まちが》いなく人が通った跡《あと》があるとのことだった。それも、最近のこと。さらに付け加えれば、たくさんの人が。
嫌《いや》な予感にかられ、小道を離れて尾根沿いに進むかとも考えたのだが、重武装で尾根を縦断することがいかに辛《つら》いかは、この前火竜山で嫌というほど思い知らされていた。
「いくらドラゴンスケールの勢力圏内だって、ここは街道《かいどう》からずいぶん北に離れている。この辺りにまで、兵を配置するゆとりはないはずだ」
できれば道を歩いていたいとの思いが、そう言葉になって口をついたのかもしれない。
「この道は、きっとウズの村に続いているはずだわ」
ディードリットは、ハイランドを立ってからずっと、パーンの隣《となり》に並《なら》んで歩いていた。近くにある森の木々を見ながら、ときおり満足そうにうなずいている。
何をうなずいているのか、とパーンが尋《たず》ねてみたところ、この辺りの森は非常に力強く育っているのが嬉《うれ》しいのだそうだ。
すると、スレインがこの辺りが緑と青の山地≠ニ呼ばれていることをディードリットに教えた。木々の美しさと、山岳《さんがく》湖の多い地形が、そう呼ばしめたのだ、と。この地方の森には、エルフも多く住んでいるらしい。
「ウズの村かぁ」
パーンは懐《なつ》かしく思いだしていた。昔、ウォートの館に行く途中《とちゅう》に、立ち寄ったことがある村だ。この村で巻きこまれた事件はパーンにとって悲しい思い出ではあるが、村人の顔を知っているということは、故郷を遠く離れた場所にあってはそれだけで心強いものだ。
「村に着いたら、ゆっくりできる。それまでの辛抱《しんぼう》だ」
荒《あら》い息をついている仲間に呼びかけ、パーンは力強く足を踏《ふ》みだしていった。
そして、坂を登りきったとき、パーンはぞっとするような光景に出くわした。石で造られた巨大《きょだい》な建物。
「まさか、こんなところにドラゴンスケールの砦《とりで》が……」
パーンはハッとして、腰《こし》の剣《けん》に手をかけた。
「何をあわてているんだい」
忍《しの》び笑いをするようなマールの声で、パーンははっと我に返った。砦と見えたのは、古い遺跡《い せき》だったのだ。おそらく、古代王国時代のものだろう。壁《かべ》はあちらこちらが崩《くず》れているし、樹木や雑草が建物をなかば飲みこんでいる。
ディードリットも、喉《のど》の奥《おく》で笑っている。パーンが撫然《ぶぜん》とした顔を向けると、小さく舌を出して、スレインの背中に回りこむような仕草をした。
「こんなところに遺跡がねぇ」
意外そうな声を出したのは、女戦士のシーリスだった。
火竜山での戦いで古くからの傭兵《ようへい》仲間オルソンを失って以来、彼女は深い悲しみに沈《しず》んでいる様子だった。思いだしたようにため息をついたり、考えに耽《ふけ》ることが多かった。一時、パーンは本気で心配したが、このところようやくもとの明るさを取り戻《もど》しているようだ。
人の死は辛《つら》いものだ。それが、家族や親しい友人ならばなおさらである。しかし、身体の傷が癒えるように、心の傷もいつしか癒えていく。それでも、ときには古傷のように、ズキズキと痛みだすことがある。パーンはそのことをよく知っていた。自分も同じだったから。
人が死すべきさだめにあるかぎり避《さ》けられないこととはいえ、少なくともこれ以上、戦いで仲間を失うようなことだけは避けたいと思う。
「この辺りは、ルノアナ湖の古代王国の都市に近いですからね。古代王国時代の魔術師の私邸や別荘《べっそう》がかなり建てられたようです。それから、秘密の魔法の実験場とかね。モス地方の戦いの歴史の中で、古代王国の遺産ともいうべき魔法の装置《そうち》や品物が、大きな力となってきたというのは事実です。あの魔神戦争の原因となったことを例に挙げるまでもないでしょう」
「なるほどね、いにしえの巨人もそのひとつというわけだ」
シーリスが腕《うで》を頭の後ろで軽く組み、苔《こけ》むした廃墟《はいきよ》を眺《なが》めながら、何気なくつぶやいた。
すると、スレインがちょっと表情を歪《ゆが》めて視線をそらしたので、パーンはひとつ気が付いたことがある。いにしえの巨人を解放したのは、あの灰色の魔女《まじょ》力ーラに他ならないということを。そして、そのときのカーラは、レイリアの肉体を支配していたのである。しかも、その記憶はレイリアの心に、今も深い悲しみとともに残っているのだ。
ハイランドの謁見《えっけん》の間で、スレインが見せた表情にもそれで納得がいった。
「遺跡の中に、宝物が残ってないかな?」目を輝《かがや》かせるように、マールが遺跡の方へと近寄っていった。
「古代王国の遺跡には、莫大《ばくだい》な財宝が残されているものなんだよ」
「それは魅力的《みりょくてき》ね」
シーリスはすこし乗り気になった様子だった。
「寄っていこうよ、パーン。そんなに大きな遺跡じゃなさそうだし、半日もあればきっと調べられるよ。魔法の剣《けん》とか鎧《よろい》とか手に入るかもしれないよ。もしかしたら、今のロードスの戦いを終わらせるような強い力がね」
「そんな力はいらない」
そういった力を求めたために迎《むか》えた悲劇というものを、パーンは嫌《いや》というほど見てきた。自分の手にあまる力を持った人間は、ろくなことを考えないものだ。自分が例外だとは思えない。人間の心は弱いものなのだ。
「そんなことより先を急ぐぞ。オレは早くこの山道を抜《ぬ》けてしまいたい。さっきから、どうも嫌《いや》な予感がするんだ」
だから、ただの遺跡を砦《とりで》だなどと間違《ま ちが》えてしまったのだ。
「嫌な感じねぇ」
未練たっぷりな様子で、マールは遺跡の方を何度も振《ふ》り返った。しかし、パーンたちはさっさと歩きはじめたので、仕方なく自分も立ち去ろうとした。
と、遺跡の方でチラリと何かが動いたような気がした。ふたたび、視線を戻《もど》したが、もう何も動くような気配はない。
「気のせいかな。それとも、遺跡に棲《す》みつく怪物《かいぶつ》かな? 遺跡には宝物だけじゃなく、怪物もいるし、罠《わな》もあるんだったっけ」
あぶないところだった、と舌をぺロリと出しながら、マールは小走りにパーンたちに追い付いた。どんな怪物が出ようと、この連中と一緒《いっしょ》ならまず安全だろう。何しろ、この連中ときたら、最強の魔獣《まじゅう》ドラゴンを倒《たお》したのだから。マールは、この旅のあいだに、彼らの英雄譚《えいゆうたん》を、ほぼ満足のいくような詩歌に仕立てあげていた。ただ、残念なのは、自分が歌よりも曲芸のほうで持て囃《はや》されるということだ。大陸に戻る機会があれぼ、知りあいの人間の|吟遊詩人《バード》に高値で売りつけるのがいちばんだろうと、頭の中では考えている。
しかも、彼らはまだまだ冒険《ぼうけん》を続けていくことになるだろう。彼らの英雄譚は剣匠《けんしょう》のそれにも劣《おと》らぬほどの人気を博すに違《ちが》いない。まだ、よい題名が思いつかないのだが、先は長い。ゆっくりと考えればいいのだ。
マールは、パーンのすぐ後ろに続くように歩いた。草原の小人族であるグラスランナーは、人間の半分ほどの背丈《せたけ》しかない。だから、目の前には、パーンの背中がある。もっと背が低ければ、シーリスの後ろに立つのが嬉《うれ》しいかもしれない、とマールはつい品のないことを考えてしまった。
大陸で盗賊《とうぞく》ギルドに入っていたころに付き合った仲間が悪いからな、とマールは自分で勝手に弁解して、それに許しを与えておいた。
チラリとシーリスに目をやったとき、突然《とつぜん》、パーンが立ち止まった。おかげでマールはパーンの金属製の|背当て《バックプレート》に、したたか鼻を打ちつけた。
「痛いじゃないか。急に立ち止まるない」
「静かにしろ!」
パーンの声が緊迫《きんぱく》したものだったので、マールは黙《だま》った。そして、辺りの気配をうかがうと、パーンが緊張《きんちょう》している理由にすぐ気がついた。
囲まれているのだ。
道の両側には林があり、雑草が茂《しげ》みとなって木の根元を覆《おお》いかくしている。待ち伏《ぶ》せには絶好の場所だった。その茂みの中に、何者かが潜《ひそ》んでいる。五人や六人程度の数ではない。十人、いやもっといることだろう。
「獣《けもの》じゃないよ。ゴブリンかな、それとも山賊《さんぞく》かもしれない。ああ、コボルドだったらいいんだけど……」
マールの疑問の答は、すぐに出た。パーンたちが待ち伏せに気がついたとみて、敵の方が姿を現わしたからだ。
「最悪じゃないか!」マールは叫《さけ》んで、地面に身を伏せた。
待ち伏せていたのは、完全|武装《ぶ そう》の兵士たちだった。その数はかるく十人を超《こ》えている。|胸当て《ブレストプレート》に、ヴェノン公国の紋章《もんしょう》が描《えが》かれていた。
「オレたちはただの旅の者だ。襲《おそ》われる理由などないぞ」
パーンは叫んだが、相手は問答無用とばかり斬りかかってきた。戦いは避《さ》けられそうにもない。
「ホッブ! スレインを守ってくれ」
パーンは剣を抜きながら怒鳴《どな》ると、敵の展開を見極めようと、忙《いそが》しく視線を動かした。
右の方が手薄《てうす》とみえた。魔法が間に合えば、何ということはないだろう。しかし、間に合うとは思えなかった。乱戦になれば、自分はとにかく、ディードリットやスレインを守れる自信がない。
だから、この場は何としても切り抜けて態勢を立て直さねばならなかった。
「右を突破《とっぱ 》しろ。左の方はオレが……」
パーンは仲間に指示を与えて、左手の敵を迎《むか》え討とうとした。が、それより早く、左側に走り、剣を構えた者がいた。シーリスだった。
「こっちは任せて、パーン! あんたでなければ、右は突破できない」
「しかし……」
パーンは言いかけたが、迷っている時間はなかった。意を決してパーンは右へと走り、スレインに切りかかろうとしていた兵士の短槍《ショートスピア》を、剣で受け流し、左手の楯《たて》を使って殴《なぐ》りたおした。
「助かります」蒼《あお》ざめた顔で、スレインがパーンに礼を言う。
「いつも思うのですが、剣の練習もしなければなりませんね」
パーンは敵を近寄せないよう剣を派手に振《ふ》りまわしながら、右手の林に向かってスレインたちを誘導《ゆうどう》する。
ホッブはさすがに戦の神の司祭だけあって、戦士としての鍛練《たんれん》は十分だった。ディードリットも動きの早さで相手を圧倒《あっとう》しており、彼女を生捕《いけど》りにしようと掴《つか》みかかってくる兵士をなんとかあしらっている。
三人の兵士を切り倒《たお》すと、すぐに敵の囲みは突破できた。スレインとディードリットがその隙間《すきま》を抜《ぬ》けて、林へ飛びこんでいく。それから、パーンとホッブは並《なら》びながら、切りかかってくる敵を食い止めるべく、林に背中を向けた。
すると道の向こう側で、シーリスがうまく敵をすりぬけて、林へ飛びこんでいくのが見えた。彼女は無理に剣を合わせようとはせず、ひたすら逃《に》げを決めこんだみたいだ。
「いいぞ、シーリス」思わず声が出てしまった。
五、六人の敵がシーリスを追いかける。残りの十人ばかりの兵士は、パーンとホッブに向かってきた。
「いくらなんでも、数が多すぎるな」
「そのようですな。勝てぬと分かった戦いに、踏《ふ》みとどまるのは愚者《おろかもの》であって勇者ではありません。この場は逃げたとて、マイリー神は決して非難なさりますまい」
「そうと決まれば!」
パーンは剣を合わせていた敵を力任せに押《お》しかえした。敵は仰向《あおむ》けに吹き飛び、後ろからくる兵士とぶつかった。その隙《すき》をついて、パーンは林の中へと逃げこんだ。
ホッブはと見れば、パーンが林に消えるのを待ってから、気合いを込めながら神聖魔法の呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。
パーンにもホッブの放った強力な衝撃波《しょうげきは》の余波が、届いていた。近くにいた兵士たちはたまらず吹きとび、苦痛の呻《うめ》きをあげている。
戻《もど》ってきたホッブに、パーンは感謝の言葉を送った。
「何の、礼には及びません。勇者の身を守るためにこそ、我等はマイリー神から力を与えられておるのです」
そして、パーンはこの戦の神の司祭と並《なら》びながら、林の中をスレインたちを追って駆《か》けた。シーリスがうまく逃げのびてくれることを願いながら。
シーリスは林の中を全速で走っていた。
林の中には道もなく、どちらの方向に走っているのかさえ定かではない。とにかく敵を完全に振《ふ》りきるまで、走らねばならないのだ。
同時に、捕《つか》まったときにどう言い逃れるかの台詞《せりふ》も考えなければならなかった。だから、自分はひとりとして、敵を切り倒《たお》してはいない。それが言い訳になるかどうかはともかく、少なくとも自分が防御に徹《てっ》した戦いをしていたのは、自分と剣《けん》を合わせた人間なら容易に分かるはずだった。
単に護衛に雇《やと》われただけの傭兵《ようへい》だといえば、大目に見てもらえる可能性はあるように思えた。もちろん、相手の隊長格の人間に、色目は遣《つか》わねばならないだろうが、そういった手合いをうまくあしらうことにかけては、シーリスは剣術以上に長《た》けていた。そうでなければ、女の身で傭兵|稼業《かぎょう》などやってられないのである。
だが、どうやら逃《に》げきれそうだった。追撃《ついげき》してくる兵士の罵声《ばせい》はしだいに遅《おく》れがちになっていて、足音も確実に遠くなってきている。
疲労《ひ ろう》は全身を激《はげ》しく襲《おそ》っていたが、まだ休む余裕《よ ゆう》はない。生きのびることこそが、自分のために死んでいったオルソンに対する弔《とむらい》なのだ、とシーリスは自分に言い聞かせる。無表情なオルソンの顔が、ふと脳裏をよぎった。シーリスはあの疲れしらずの男の十分の一の体力でもほしいと真剣《しんけん》に願った。
シーリスが茂《しげ》みのひとつを駆《か》けぬけようとしたときだった。
突然《とつぜん》、がさりという音がその茂みからして、シーリスはギクリとした。それまで、まったく気配を感じなかった。動物かと思ったのだが、間違《ま ちが》いなく人間の影《かげ》だった。
避《さ》ける間もなくシーリスは相手に組みつかれていた。信じられないほどの力で、影が姿を現わした茂みに引き込まれようとしていた。
シーリスは腰《こし》のベルトに右手を伸《の》ばそうとした。そこには、格闘《かくとう》戦用に短剣《ダ ガ ー》を一本差してある。が、手が届いたかどうかというところで、脇《わき》の下からはがいじめにされ、動きを封《ふう》じられた。肩《かた》が外れるかと思うような痛みが、シーリスを襲った。だから、短剣がベルトから滑《すべ》り落ちたことにも、まったく気付かなかった。
「騒《さわ》ぐな! 敵じゃない。おまえが、ヴェノンの兵士から逃げているのだったらな」
低い男の声が、彼女の耳もとで聞こえた。その声は抑《おさ》えられてはいたが、人を服従させるに十分な迫力《はくりょく》があった。シーリスは不覚にも気圧《けお》されてしまい、抵抗する気を失ってしまった。
男は自分が隠れひそんでいた茂みの中に、シーリスを抱えたまま飛びこんだ。すると、その茂みの下にちょっとした縦穴《たてあな》があるのが分かった。
ここならば、しゃがんでいれば、追手の目から逃れるのに十分だろう。
男は敵ではないと言った。今は、その言葉を信じるしかないようだった。とにかく、追手はすぐこの近くにまでやってくるだろう。どう考えても、騒ぐのは得策《とくさく》ではない。
男の手はあいかわらず、シーリスの口を押さえたままで、シーリスは鼻で呼吸をしなければならなかった。屈《かが》みこむと身体の疲労が耐《た》えがたいぐらいになり、そのまま意識を失ってしまいそうだった。
ドタドタという追手の足音が聞こえてきたのは、それからしばらくしてからのことだった。
あいかわらず男の手によって口を塞《ふさ》がれていたので、息を殺すのにはかえって楽だった。頭の上を足音が遠ざかっていくのを、緊張《きんちょう》しながら待ちつづける。
「姿が見えなくなったぞ」
「そう遠くまでは行ってないはずだ」
兵士たちは立ち止まって、何やら相談を始めた様子だった。
(遠くに行ってしまったのよ)シーリスは心の中でつぶやいた。
「辺りをしらみつぶしにするか……」
(そんな手間をかけることないわ)
「そんな手間をかけたくないな。谷の方に回ってみよう。あれだけ走ったんだ。水が欲しくなるに違《ちが》いない」
(そうしなさい)
「そうしよう」
そして、兵士たちの足音はゆっくりと遠ざかっていった。それが、完全に消えるのを待って、それからさらに、たっぷり千ぐらいの数をかぞえてから、シーリスはやっと心を落ち着けた。
もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。
と、自分の口がまだ塞がれたままだということに気がついた。ふつふつと怒《いか》りが湧《わ》きあがってきて、シーリスは男の手に思いっぎり強くかみついた。土の味が舌に苦かった。
男が悲鳴を上げなかったのは、賞賛《しょうさん》に値すると言うべきだったろう。手を払《はら》いのけると、男はもう片方の手でその手を押《お》さえて、苦痛に耐えようとする。
その隙《すき》に、シーリスは茂みの中から飛びだした。男も這《は》いずるように出てきた。
ようやく男の姿をじっくりと観察することができた。若い戦士だった。年は、自分よりも五つばかり上だろうか。短く刈りこまれた金色の髪《かみ》に、切れた草の葉が何枚か張りついている。眉毛《まゆげ》も髪と同じ色で、一見すると眉がないようにさえ見える。緑色の衣服の上から、粗末《そまつ》な金属鎧《プレートメイル》を身につけて、|長 剣《バスタードソード》を無造作に腰《こし》に吊《つ》るしている。傭兵《ようへい》ふうのなりに見えるが、不思議なことに、どことなく気品が感じられた。整った顔立ちなど、どこかの貴族といっても通じるかもしれない。街《まち》に出れば、すれちがう女たちが十人のうち八人は振《ふ》り返るな、とシーリスは値踏《ねぶ》みした。自分も振り返るうちのひとりだ。しかし、優男《やさおとこ》ながら、修羅場《しゅらば》を経験してきた戦士だけが放つ気のようなものが感じられた。
「なかなか気の強い女だな。それにたいした身のこなしだ」
くっきりと歯形の浮《う》いた右手をシーリスに見せつけながら、男はそう声をかけてきた。
「自業自得よ。女性に対して、礼儀を欠いたそっちが悪いわ」
シーリスは相手の出方をうかがいながら、そう軽口を叩《たた》いた。腰の剣《けん》をいつでも抜けるように、左手で鞘《さや》の位置をしっかりと確かめておく。
「女性を主張したいのなら、それらしい格好《かっこう》をしてもらわないとな。ドレスを着て逃《に》げてきてたら、優しくエスコートしてやったさ」
相手も皮肉めいた言葉で、切りかえしてきた。シーリスの口許《くちもと》に笑みが浮《う》かぶ。せっぱつまった状況《じょうきょう》で、こういった駆《か》け引きをするのは大好きだった。とにかく、こいつは敵という感じはしない、シーリスはそう判断した。だからといって、味方と限ったわけではない。もちろん、隙《すき》を見せるつもりはなかった。
「あんた、何者よ?」単刀直入にそう切りだした。
「それはオレが聞きたいな」
「わたしは、見てのとおりの傭兵《ようへい》よ。名前はシーリス」シーリスは正直に話すことにした。話しても損をするわけがない。
「傭兵……か。で、誰に雇《やと》われている?」
「今のところ、誰にも……」これも嘘《うそ》ではなかった。パーンたちに報酬《ほうしゅう》を貰《もら》ったことは、一度としてないのだから。
「さあ、わたしは名乗ったわよ。次はあんたの番」
「オレ……か? オレも、まあ、そちらと似たようなものだ」
怪《あや》しげな返答だった。こんな言われ方をすれば、余計に素性が知りたくなってくる。が、自分にも知られたくないことがある以上、あまり深くは詮索《せんさく》できない。パーンたちのことは、何があっても伏《ふ》せるつもりだった。知られなければ、彼らを巻き添《ぞ》えにすることもない。それに、切札《きりふだ》は最後まで明かさないのが勝負事の鉄則である。
「せめて、名前ぐらい名乗りなよ」
「名前か。名前は、レド……。いや、レッドというんだ」
嘘をついているのが、あきらかな答え方だった。しかし、その嘘のつき方があまりにも下手《へた》だったので、シーリスはかえって男を信用する気になった。嘘が下手な人間には、悪人はいないものだ。
「傭兵仲間の通り名ってわけ?」
ま、そんなものだ、と男はまたも曖昧《あいまい》な返事をした。
「礼は言わないわよ。別に助けてもらったわけでもないし」
「あのまま逃《に》げていたら、別の兵士に見つけられたさ。この辺りには、ヴェノンの兵士がうようよいるんだ」
「なぜよ。ここは、主戦場からずいぶん北に離《はな》れているじゃない」
「奴《やつ》らにもいろいろと事情があるんだろ」
「ま、いいわ。とにかく、わたしは早くこの山を抜《ぬ》けたいの。こんな物騒《ぶっそう》なところは、まっぴら。しばらく行けば、ヴァリス領に入るんでしょ」
「ヴァリスヘ向かうのか?」
「そのつもり、職を探しにね」
答えて、シーリスはゆっくりと逃《に》げてきた方へと戻《もど》りはじめた。パーンたちが逃げたのは、小道を挟《はさ》んで反対側だった。合流するのは難しいだろうから、ウズの村に向かうのがいちばん確かなように思えた。
彼らが捕《と》らえられたという考えはまったくなかった。あの程度の数の兵士ならば、態勢さえ立て直せば、どうということはないはずだ。
戦士は、彼女の後ろをあわてて追いかけてきた。
剣《けん》に手をかけて、シーリスは男の方を振《ふ》り返る。
「何よ。ついてくるなとは言わないけど、一緒《いっしょ》に行くんなら、わたしの後ろには立たないでょ」
軽くレッドを一暼《いちぺつ》して、シーリスはそのまま林の中を後戻りはじめた。
「職を探しているというなら、俺に雇《やと》われる気はないか?」
唐突《とうとつ》に、男が声をかけてきた。
「なんですって?」
驚《おどろ》きのあまり、シーリスの歩みは、完全に止まってしまった。このレッドという戦士は、人の不意をつくのがよほど得意とみえる。
「俺に雇われる気はないか、と尋《たず》ねたんだ。職を探しているんだろ」
「そりゃあ……そう言ったけど。でも……」
レッドの顔には、からかうような雰囲気《ふんい き 》はなかった。本気で自分を雇おうと言ってるようだ。
「わたしは、高いわよ」成り行きとはいえ、何を自分は言ってるのだろうと、シーリスは心の中で頭を捻《ひね》っていた。
「いくらだ」
「いくらって……、あんたしだいってところね。ヴェノンの兵士に、あんたを売ったほうが得かもしれないでしょ。もっとも、そのつもりはないけどね」
そして、シーリスは持っている財産の半分でいい、と条件を示した。半分以上、冗談《じょうだん》のつもりだった。本気で仕事を引き受けたいわけではないのだから。
「財産の半分か?」
レッドはかなり驚いたようで、口をあんぐりと開いた。
「そう、妥当《だとう》なところだと思わない?」どこが妥当なものか、と心の中では舌を出していた。
「財産の半分……。すると、国が半分、買えるだけの値段か」
男が独り言のようにつぶやくのを、耳のよいシーリスは確かに聞いた。
「国の半分。へえ、ずいぶん自分を高く買っているのね。国の半分も貰《もら》えるなら、喜んで雇われてあげるよ。もちろん、出世|払《ばら》いでいいからね」
シーリスは声を殺して笑いながら、右手の親指を立てて、その条件で了解した旨をレッドに伝えた。その笑顔に男は、ムッとした表情になった。
「確かに今すぐというわけにはいかないけどな」
そう言って、男は左手の人差し指にはまっている指輪を引き抜いた。
「いいだろう、これは手付けだ。その代わり、手を抜いた働きをすると承知しないからな。それから、命懸《いのちが》けの仕事になるが、それも覚悟《かくご 》していてくれ」
そして、その指輪を放ってよこす。
それを空中で受け取ったとき、シーリスは思わず驚《おどろ》きの声をあげてしまった。ズシリとした手ごたえから、指輪が純度の高い金でできていることはあきらかだった。そのことも驚きだったが、男が指輪を手渡《て わた》すときに見せた表情にはもっと驚いた。
何か重大な決意を秘めた男の表情だった。不退転の意志を感じさせた。シーリスは、冗談のつもりで仕事を引き受けると言ったことを言いだせなくなってしまった。
そんな顔をされちゃあさ、と心の中でつぶやく。
自分が奇妙《きみょう》な運命の流れに巻きこまれてしまったことを、シーリスはようやく自覚しはじめていた。パーンたちのことが気にかかる。しかし、心の中ではちょっとだけ寄り道しても、かまわないのではという気になっていた。
この男を気に入りはじめていたからだ。最初から自分の好みに近いところがあったし、傭兵《ようへい》のわりに変に世間ずれしていないところなど、好感を抱《いだ》かずにはおられない。ちょうど、パーンに出会ったときのようだ。彼に対する好意は、あくまで恋愛感情を抜きにしてだが、今も感じている。あまり露骨《ろこつ》にそれを見せると、ディードリットが可哀そうなので遠慮《えんりょ》しているだけだ。
「契約《けいやく》成立ね。それじゃあ、これからわたしはあなたの兵士よ。何でも命令してちょうだい。不当なものじゃなければ、従うから」
それから、とシーリスはすこしためらってから言葉を続けた。
「……この仕事が終わったなら、わたしと一緒《いっしょ》に旅をしない。ちょうど、相棒を失ったんで、新しい仲間がほしかったところなのよ。わたしは、あなたとなら、うまくやれると思うんだけどな」
それは、本心だった。この男が、オルソンの代りになるとは考えていない。シーリスにとって、オルソンの存在はもはや自分の一部にさえなっていた。彼は自分の身代わりになって、命を失ったのだから。
シーリスは、決して、オルソンを忘れることはない。かぎりなく優しい狂戦士《バーサーカー》の伝説をいつも心の中に刻みつけている。だから、自分は死ねないと、誓《ちか》っている。それも、今までの生き方を変えてではなく、あくまでも傭兵稼業《ようへいかぎょう》を続けた上でだ。なぜなら、オルソンのために生き方を変えてしまっては、今度は自分が自分でなくなってしまう。
オルソンとは関係なく、レッドには旅の仲間に加わってほしいのだ。この男の戦士としての技量は確かだと思える。パーンたちにとっても、きっと頼《たの》もしい味方になることだろう。
「そうできたらいいかもな……」
色々な思いが交錯《こうさく》したような表情をしばらく浮《う》かべた後、レッドはそうつぶやいた。
「きっと、楽しい日々が送れることだろう」
そして、レッドは遠い目をして、西の峰《みね》を見やった。何を考えているのだろう、とシーリスはその表情を読みとろうと、彼に一歩近づいた。
「追手が戻《もど》ってくるといけない、早くこの場を去ってしまおう」
それをはぐらかすように、レッドはシーリスに背中を向け、林の中を歩きはじめた。
その頃、パーンたちは、追手をようやく撒《ま》いて、一息ついていた。
追いかけてくる敵を引き離《はな》した後、林の一角に、ディードリットが〈迷いの森〉の呪文《じゅもん》をかけたのだ。帰らずの森≠ノかけられた呪文と同じようなもので、追手は魔力《まりょく》のかかった場所から、しばらく抜《ぬ》けられなくなるとの話だった。
「森の上位|精霊《せいれい》エントの力を借りねばならないのだけどね」
ディードリットは荒《あら》い息を吐《は》きながら、説明した。
風の王ジン以外の上位精霊を使ったのは火竜山《かりゅうざん》で使った大地の魔獣《まじゅう》ベヒモス以来だったが、思った以上にうまくかかった、とディードリットは満足そうだった。
「今なら、炎《ほのお》の魔神《ま じん》エフリートだって、氷雪の魔狼《まろう》フェンリルの力だって使える自信があるわ」
炎と氷の精霊は、エルフがもっとも嫌《きら》う力である。炎は植物を灰にするし、雪や氷は植物を枯死《こし》させる寒さをもたらす。もっとも、寒いところでしか育たない植物もいるから、氷の精霊は、まだ親しい力ではある。
口では強気なことを言ってはいるが、ディードリットはどうみても、疲労《ひ ろう》しきっているようだった。
「追手もしばらくは、やってはこないでしょう。ここで、しばらく休憩《きゅうけい》にしましょう」
スレインは魔術師なので、あまり体力はないほうだった。旅などをしているので、それでもかなり丈夫《じょうぶ》にはなったのだろうが、道もないような林の中を走ったりしては、さすがにつらかった様子だ。
「まったく、危ないところだったねぇ」
地面に腰《こし》を下ろしながら、マールはやれやれと手拭《て ぬぐ》いで額の汗《あせ》を拭った。いったい、いつ彼があの囲みを突破《とっぱ 》したのか、パーンをはじめ誰《だれ》も気付かなかった。気がついたら、パーンたちと一緒《いっしょ》に走って逃《に》げていたのである。そのことについて尋《たず》ねると、彼は曖昧《あいまい》な返事しかしなかった。もっとも、盗賊《とうぞく》の技術をもったマールのこと、どんな手段を使ったかはだいたい想像がつく。
この場にいないのは、だからシーリスひとりだった。
シーリスが反対側の林に逃《に》げたのを、パーンは見た。
「彼女の足は追手より速そうに見えました。おそらくは、逃げおおせたことでしょう」ホッブが、そう言ってはきたが、彼にも確信があるわけではない。
「勇敢《ゆうかん》な行為《こうい 》には、マイリー神の加護があるはずです」
「そう願いたいな。とにかく、ここですこし休んでから、シーリスを探そう」
ホッブの言葉に曖昧《あいまい》にうなずいて、パーンは地面に腰《こし》を下ろした。嬉《うれ》しそうに、ディードリットが彼の隣《となり》にすりよってくる。
「しかし、なぜこんなところに待ち伏《ぶ》せがいたのだろう」
隣にやってきたディードリットに、パーンは尋《たず》ねた。
「知らない」
拗《す》ねたように、ディードリットはそっぽを向いた。あきらかに違《ちが》った言葉を期待していた様子だった。
「まさか、ヴェノン側に待ち伏せされているとは思いもしませんでしたね。この辺りは、戦略的に重要な場所ではないはずなのですが」
この山道を警戒《けいかい》している理由があるとすれば、ヴァリス軍の奇襲《きしゅう》に備えるぐらいなのだが、ヴァリスは他国に奇襲をかけるような国ではないし、そんな余裕《よ ゆう》があるはずもないのだ。
「何か裏がありそうだな」
「裏って何よ」口を尖らせて、ディードリットが言う。
「分からないから、さっきディードリットに尋ねたんだろ」
「裏があったってなくったって、関係ないわよ。わたしたちは早くこの山を抜《ぬ》けて、ヴァリスに行けばいいはずよ」
ディードリットの言うとおりだった。もし、裏があったとしても、自分たちに関係があるとは田心レえない。
「そうだな。早く、シーリスと合流して、こんな物騒《ぶっそう》な山を降りてしまおう」
そして、パーンは立ち上がった。回りの人間がやれやれという顔をしながら、それでもパーンに続いて立ち上がる。
「とにかく、シーリスは道をはさんで反対側の林に逃げたはずだ。そこまで行ってみよう。不意さえ打たれなければ、あのぐらいの数の追手なら、十分、相手になるはずだからな」
そして、パーンたちは逃げてきた方向へと戻《もど》りはじめた。最初に待ち伏せされていた場所まで来ると、注意深く辺りをうかがった。
近くには、もう人の気配がなかった。血の跡《あと》は残っているものの、死体もきれいに片付けられている。もし今度、奴《やつ》らと出会うようなことがあれば、パーンは自分たちから戦いをしかけるつもりでいた。ヴェノン公国の兵士を減らしておくことは、ハイランド公国にとって有利であることは間違《ま ちが》いない。ハイランドに対する義理だてだけではなく、待ち伏せなどして、問答無用で襲《おそ》ってくるような連中を許したくはなかった。
もちろん、敵の拠点《きょてん》を探しだしてまで、戦おうというつもりはない。しかし、もしもシーリスが捕《つか》まっているようなことがあれば、それさえも辞さないつもりだった。自分たちが全員無事なのは、彼女のおかげなのだから。
「足跡《あしあと》は向こうに続いているよ。しばらくはこれを追いかけていくしかないだろうね」
マールは地面を指でなぞるように調べ、ようやく林へと向かう足跡を見つけだした。地面が思った以上に固くて、しかも落ち葉が積もっているので、追跡《ついせき》は難しいかもしれなかった。落ち葉の乱れの跡をたどるしかなさそうだった。
それでも、マールは何度か迷いながらも、確実に足跡を追いつづけた。グラスランナーは野外での生活に慣れているので、こういった仕事は得意なのだろう。
「シーリスじゃなく、敵の兵士に出くわすかもしれないよ」
足跡を追いながら、マールは何度かパーンに念を押した。どれがシーリスの足跡で、どれが敵兵の足跡かまで見分けることはできないと。
「承知の上だ。もし、敵に出会ったら、そいつらから情報を聞きだすさ」
それがいちばん手っ取り早い手段だと、パーンは本気で考えていた。
首をすくめるような仕草をして、マールはふたたび地面に視線を戻《もど》した。そして、神経がすり減るような作業を再開する。
マールが、それを見つけだしたのは、日も暮《く》れようとしているときのことだった。薄闇《うすやみ》の中で、追跡が難しくなったとぼやいていたマールが、突然、立ち止まって、足元をくわしく調べだした。そして、人が争った跡がある、と断言するように言った。
「争った跡?」
パーンは膝《ひざ》を曲げて、足元をじっくり観察した。
「そうだよ」マールは自信がありそうだった。
「地面が見えるぐらいに、落ち葉が乱れているもの、普通《ふつう》に走っただけではこんなにはならないよ」
「ここで追い付かれて、それで戦いになったのかな」
パーンは、マールが指し示す辺りを覗《のぞ》きこんだ。
と、夕暮どきの淡《あわ》い光が、何かをキラリと輝《かがや》かせた。
「今のは……」
パーンは膝をついて、ゆっくりと手を伸《の》ばした。積もった落ち葉を、すこしだけ払《はら》い除《の》けると、すぐにそれは姿を現わした。
一本の短剣《ダ ガ ー》だった。柄《つか》の部分に彫刻《ちょうこく》が施《ほどこ》された凝《こ》った造りの品である。パーンは、この短剣に見覚えがあった。
「シーリスの……短剣だ」
呻《うめ》くような声になっていた。
「じゃあ、間違《ま ちが》いないよ。シーリスがここで誰かと争ったんだよ。血の跡《あと》はないようだけどね」
「どう思う?」
パーンは、スレインを振り返った。
「マールの言うとおりだと思いますよ。彼女の短剣が残っている以上、捕《つか》まえられたに違《ちが》いありません」
パーンは唇《くちびる》を噛《か》みながら、シーリスの短剣を手に取り、その柄を力|一杯《いっぱい》、握《にぎ》りしめた。
「助けださないと……」
パーンのつぶやきを聞きとがめて、マールがちょっとだけ顔をしかめた。
「相手が何人いるか分からないのに。それに、どこにいるかもさ」
「それでも助けだすんだ」
「そう言うと思ったよ」マールはあきらめたように首を振りながら、そう言った。
「それじゃあ、尾根の方に出てみよう。きっと、敵の居留地には、灯りがともっているはずだよ」
他に当てもないので、マールの意見に従うしかなかった。一行は、急速に暗《くら》くなっていく林の中を苦労しながら斜面《しゃめん》をよじのぼっていった。
スレインは完全に息が上がってしまい、途中《とちゅう》で三度も休憩《きゅうけい》を挟《はさ》まねばならなかった。
それでも、何とか一行は見晴しのいい場所まで登ってくることができた。夜が近づいて、敵は探索《たんさく》をあきらめたのか、林の方にたいまつなどの灯りは見えなかった。自分たちが通っていた谷沿いの小道だけが、まるで森の傷痕《きずあと》のように白っぽい線となって目についた。
その小道の先に、ポツンと赤い灯りがともっているのを、ディードリットが見つけだした。その灯りは、しばらくたつと、ふたつ、みっつとともりはじめ、ひとつの建物を夜の中に浮《いつ》かびあがらせた。
「砦《とりで》みたいに見えるな」パーンはポッリとつぶやいた。
「遺跡《い せき》のようにも見えない?」と、ディードリット。
「おそらく、その両方でしょう。ヴェノンの兵は、おそらく古代王国の遺跡を砦として使っているのだと思いますよ」
スレインがしばらく灯りの方を観察した後、そう結論づけた。
「すぐに行くの?」
マールの問いに、パーンは力強くうなずくことで答えた。
かがり火の淡《あわ》い光が、闇《やみ》の中に、ゆらゆらと揺《ゆ》れていた。
陽《ひ》は西の峰《みね》に完全に没《ぼっ》し、あたりには夜の帳《とばり》が押《お》し寄せていた。ただ青白い光を湛《たた》えた月が、東の空に浮かんでいる。それは、かがり火の赤い光と競うように、闇のカーテンを染めていた。
シーリスは茂みの中で、息を殺しながら、かがり火の灯りを疎《うと》ましそうに見つめていた。彼女の隣《となり》ではレッドと名乗った男が、みごとに自分の気配を断ちながら、辺りに気を配っている。
その名が偽名《ぎめい》であるのはあきらかだが、シーリスはもう気にしてはいない。成り行きとはいえ、この戦士に雇《やと》われてしまった以上、もはやお互《たが》いの関係は雇い主と傭兵《ようへい》という関係でしかない。
彼の依頼《いらい》を聞いて、それを実行するのが自分に課《か》せられた仕事であった。
だが、その依頼は、信じられないほど大胆《だいたん》なものだった。彼はヴェノンの兵士が駐留《ちゅうりゅう》する砦《とりで》に忍《しの》びこみ、一本の剣《けん》を盗《ぬす》みだすことを計画していたのだ。
古代王国の時代の魔法《ま ほう》の剣だそうだ。おそらく、強力な魔力《まりょく》が封《ふう》じられているのだろう。魔法の剣を持つことは、戦士にとって誇《ほこ》りである。伝説に登場する勇者は、必ずといっていいほど魔法の剣を携《たずさ》えているものだ。
だから、魔剣を欲する彼の気持ちは分からないでもない。しかし、何十人もの兵士が守る砦から、盗みださなくてもいいだろうに、とシーリスは思う。大金を積めば、ライデンあたりで購入《こうにゅう》することだってできるのだ。
しかし、レッドの意志は固かった。是《ぜ》が非《ひ》でも、目の前の砦に安置されている魔剣を手に入れねばならないのだそうだ。何か、事情がありそうな様子だ。詮索《せんさく》するつもりはなかったが、できれば考えなおしてほしいとは、真剣《しんけん》に思う。
「何か策《さく》があるの?」
いくらなんでも、力押《ちからお》しをするわけにはいかない。シーリスは同時に三人までなら何とか相手にできる自信はある。しかし、それ以上の敵に同時にかかられたら、身を守るだけで精一杯《せいいっぱい》で、とても勝ち目はない。そんなとき、シーリスは迷わず逃《に》げることにしている。
「いざというときには、助けを呼ぶことができる」
そう言って、レッドは白っぽい棒のような物を取りだした。何かとよく見れば、それは骨製の笛《ふえ》のようだった。
「他にも仲間がいるの?」シーリスは驚《おどろ》いて、レッドの顔を見つめた。
「それなら、今すぐ呼んでくれない。ふたりじゃ、ちょっと荷が重いわ」
「目的の剣を手に入れるまでは、できれば仲間を呼びたくはない。敵もあいつを連れてくるからな」
「あいつ?」
シーリスはそれが何者か尋《たず》ねようとしたが、レッドは首を振《ふ》って何も答えなかった。
「いろいろと秘密が多いのね。ま、いいわ。とにかく、門の上に立っているあの見張りを何とかするのが先決ね」
シーリスは、腰《こし》に手をやって短剣を確かめようとした。十分に近づけば、何とか自分の腕《うで》でも仕留めることができるだろう。
が、鞘《さや》は残っているものの、肝心《かんじん》の中身が抜《ぬ》け落ちていた。
どこで落としたのだろう。あの短剣、気に入っていたのに。シーリスは、小さく舌を鳴らした。
「どうしたんだ?」
「どこかで短剣を落としたみたいなの」
「なら、見張りは俺が仕留めよう」
そう言って、レッドは自分の腰から短剣を取り出した。その短剣もなかなかに、高価な物のようにみえた。
「投げて使うのがもったいないわね」
「機会があれば、拾って帰るさ」
レッドはそう言い残して、ゆっくりと動いた。茂《しげ》みに身を隠《かく》しながら、見張りの正面の位置まで腰《こし》をかがめたまま進んでいく。
と、そのとき。シーリスたちの背後で、ガサリという物音が聞こえてきた。
「巡回《じゅんかい》の兵士かしら」
シーリスは緊張《きんちょう》して、茂みの中で縮こまった。レッドも、その物音に気付いた様子だった。目で合図をすると、背後の林の方に注意を向ける。
音は、どんどん近づいてくるようだった。まるで、シーリスたちの居場所を知っているかのように、まっすぐに。
「どうする?」
レッドは首を振《ふ》った。
「ここまで来て、後に引けるか? 見張りは倒《たお》す。それから、巡回の兵士も仕留めるさ」
正気を疑いたくなるようなレッドの答だった。長く傭兵《ようへい》をやってきた者は、かえって慎重《しんちょう》になるものだが、この男は違《ちが》うようだ。
しかし、シーリスももはや後に引けないところまで来ていた。
「仕方ないわね」
シーリスは月の光が当たらないように注意しながら、ゆっくりと剣を抜いた。シャキッという音が意外に大きく響《ひび》いた。暗殺者《アサッシン》の刃が黒く焼かれていること、そして、鞘に油を垂らしていることの理由が、実感できた。
恐《おそ》る恐る砦の方を振り返ったが、見張りは今の音に気付いた気配もない。大あくびをして、いかにも眠《ねむ》たそうに頭を振っている。酒でも飲んでいるのではないかと思われた。
と、そこに輝《かがや》く糸のようなものが伸びた。レッドが狙《ねら》いすまして短剣を投げたのだ。狙いは違《たが》わず、見張りの喉《のど》もとに深々と突《つ》き刺《さ》さった。声を立てることもできずに、男は前向きに倒《たお》れた。見事な腕前《うでまえ》だった。シーリスでも、あそこまでみごとにやってのけることはできなかったろう。
「なかなかやるじゃない」
慎重《しんちょう》さには欠けるものの、その腕《うで》だけは信用しても間違《ま ちが》いなさそうだった。
砦《とりで》の中で騒《さわ》ぎが起こった様子はなかったから、今の出来事を目撃《もくげき》した人間はいないようだ。夜が更《ふ》けるのを待った甲斐《かい》があったというものだ。見張り以外の人間は、寝静《ねしず》まったか、屋内で酒でもあおっているのだろう。
そして、レッドは今度は背後から近づいてくる物音に向かっていった。自分の気配を完全に殺して、しゃがんだままの姿勢で地面を滑《すべ》るように進んでいく。まるで獲物《え もの》に向かっていくときの肉食|獣《じゅう》だった。自分が不意を打たれたのも仕方がない、とシーリスは思った。
足音は、どんどん近くなってきた。今や、それが複数の人間が立てる足音であること、そして何人かが鎧《よろい》を身につけていることまで分かった。金属が軋《きし》む甲高《かんだか》い音が、規則的に響《ひび》いてくるからだ。
レッドは一本の木に背中でもたれかかるようにして身を隠《かく》している。シーリスが潜《ひそ》んでいる茂《しげ》みから五歩ばかり行ったところだ。もしも、レッドが苦戦するようなら、手助けしなければいけない。しかし、なまなかな相手では、彼と剣を合わせることさえ難しいに違《ちが》いない。
足音はついに、レッドが隠れる木の所にまでやってきた。そして、かすかに届く月明かりに、先頭の男の姿がボウッと浮《う》かんだ。
まさか、とシーリスは頭が真っ白になった。現われたのは、パーンだったのだ。
止めなければ、と思ったときには、すでに弓から放たれた矢のようにレッドが飛びでていた。そして、|長 剣《バスタードソード》を振《ふ》りあげて、兜《かぶと》をつけていないパーンの頭に一撃《いちげき》を見舞《みま》う。素速い、そして力強い一撃だった。誰もその一撃をかわすことができないと見えた。悲鳴をあげるいとまさえなかった。
シーリスは顔を伏《ふ》せて、目を閉じた。
しかし、断末魔《だんまつま 》の声はしなかった。代わりに金属同士がぶつかりあう激《はげ》しい音が聞こえてきた。
「伏兵《ふくへい》か!」
間違いなく、その声はパーンが発したものだった。
あわてて顔を上げると、レッドの剣を楯《たて》で受け止めているパーンの姿があった。右手が腰《こし》の剣に伸《の》びようとしている。レッドの顔にも驚愕《きょうがく》の表情がまざまざと浮かんでいた。絶対の自信をもって放った一撃だったに違いない。
パーンの剣の腕前《うでまえ》をシーリスは、久しぶりに思い知らされた。昔は、自分に勝る剣の使い手などいないのではないかとさえ思っていた。それがパーンに打ち負かされ、マーモの女戦士に敗れ、剣匠《けんしょう》カシューや黒騎士《くろきし》アシュラムの凄《すさ》まじいまでの技を見せつけられた。このレッドという男にも、シーリスは勝てないだろう。世の中は広いということを思いしらされる。
レッドは驚《おどろ》きから立ち直り、二撃目を放とうとしていた。パーンも剣《けん》を抜《ぬ》いて反撃《はんげき》に移ろうとしている。後ろから、ホッブとディードリットが各々の武器を手に、加勢しようとしている。
だが、これ以上、争いを続けさせるわけにはいかなかった。シーリスは茂《しげ》みから飛びだし、パーンたちのところに駆《か》け寄った。そして、あいだに割って入った。
「やめて! その人はわたしの仲間なの」
「なんだって?」
ふたつの声が返ってきた。パーンと、そしてレッドの声だった。
最悪の事態は、どうやら避《さ》けられたようだった。
レッドが先に見張りを倒《たお》していたのは、賢明《けんめい》だったと言わざるを得ないだろう。こんな騒《さわ》ぎを引き起こして、見張りに見つからなかったわけがない。砦《とりで》の人間に気付かれたのではないかと心配もしたが、神の恵《めぐ》みか砦の方に変化は見られなかった。
どうやらツキは味方してくれているようだった。
シーリスは、パーンとレッドを引き合わせて、自分がたどった経緯《けいい》を簡単に話してきかせた。
「仲間がいるのなら、最初から話してくれればよかったものを」
レッドはかなり憤慨《ふんがい》している様子だった。
「敵か味方かも分からなかったのに?」
「契約《けいやく》が成立した時点で教えてくれてもよかったろう」
それはそうかもしれない。しかし、言う機会を失ったのも事実だ。
「ま、結果的には仲間が増えたんだし、よかったじゃない」
シーリスはとぼけたふりをした。
「何がよかったのよ。迷子になったんならおとなしくすればいいじゃない。なのに、勝手に商売を始めて。さっきなんか、心臓が止まるような思いがしたわよ」
月明かりのせいではなく、確かにディードリットの顔色は青白かった。
「わたしだって、そうよ」
反論にも何もなってないのは承知で、シーリスはそう答えておいた。こう言っておけば、たいていパーンが助け舟《ぷね》に入ってくれるのだ。
「まあいいじゃないか、ディードリット。オレは無事だし、シーリスにも再会できたんだし」
案の定、パーンはディードリットを宥《なだ》めにはいる。こんなだから、ディードリットの不満はつのる一方なのだが、今はパーンのそういった性格がありがたかった。
「ところで、立ち話している余裕《よ ゆう》があるの?」
マールがうんざりしたように言った。彼はさっきから砦《とりで》の方をさかんに気にしていた。
「そのうち、誰かが見張りが倒《たお》されたことに気が付くよ」
「マールの言うとおりだ。シーリスにも出会えたんだし、こんな物騒《ぶっそう》なところから早く逃《に》げださなければ……」
パーンが、そう言って、一同とうなずきあった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。わたしは、この人に約束《やくそく》したのよ。空約束かもしれないけど、手付けももらってしまったし……」
シーリスはポケットにしまった指輪を取りだして、あわてて、みんなに見せた。
「お願いだから、協力してあげてよ」
「へえ、婚約《こんやく》までしたんだ」
ディードリットが皮肉っぽく、シーリスを茶化す。自分の最愛の人を殺されかけたのだから当然だが、彼女はさっきの件をかなり根に持っているようだった。
と、その指輪が横合いから突然《とつぜん》、取りあげられた。誰が取りあげたのかど見てみると、驚いた表情のスレインがいた。
「……この指輪を、この戦士から?」
しばらくその指輪を見つめた後、スレインはそう尋《たず》ねてきた。
「ええ、そうよ。手付けにしちゃあ、安いとは思ったんだけどね」
「……そうですか」スレインはじっと考えこんでいる様子だった。
「なあ、スレイン。オレはこの人に協力してやりたいとも思うんだが……」
パーンは砦《とりで》の方を気にしつつ、そう意見を言った。
「何、言ってるの。あたしたちには他に使命が……、いえ目的があるでしょ」
ディードリットの剣幕《けんまく》はまだ荒《あら》い。彼女は腕《うで》を振《ふ》りまわしながら、抗議《こうぎ 》している。
「その目的のためにも、ここはこの戦士に協力してあげましょう」
「スレイン?!」
その場にいた全員が驚《おどろ》いた。シーリスもまさか、この慎重《しんちょう》な性格の魔術師が、協力を申し出てくれるとは思わなかったのだ。
マールが大慌《おおあわ》てで、反対意見を並べる。ホッブはといえば、パーンの意見に従うまでという態度を取りつづけている。この戦の神の司祭の判断は、いつもそうだ。意見を出すときには出すが、その決定はパーンに完全に委《ゆだ》ねている。
「そうと決まったら、急がなければ」パーンが、レッドに握手《あくしゅ》を求めながら、みんなに行動開始の合図をした。
「ヴェノンの兵士に一泡吹《ひとあわふ》かせてやろう」
マールはため息をつきながら、小走りに砦《とりで》の壁《かベ》まで走っていった。何をするのかと見ていると、彼は石の壁に小さな手をかけて、ヒョイヒョイと登りはじめていた。
「盗賊《とうぞく》の神様、どうか、この向こうに誰もいませんように」
そして、マールの姿は砦の中に消えた。
「どういうつもりなんだ?」レッドが驚いて、シーリスに尋《たず》ねてきた。
「まさか、オレたちをヴェノンに売るつもりなんじゃないだろうな」
「あいつも盗賊だから、善人とはいえないけどね。そこまで悪人じゃないわよ。門の所に急ぎましょう。すぐに答がわかるはずよ」
パーンたちもシーリスと同じ結論を出したらしく、砦の門の所まで駆《か》けだした。彼らが着くより、ちょっと前に砦の門がギシギシと音を立てて開いた。古代王国の遺跡《い せき》ではあるが、門だけは新調されているのか、その音はあまり大きなものではない。それとも、マールが音を立てないように、油でも差したのだろうか。
「こういうこと」シーリスはレッドに片目をつぶってみせた。
「君の仲間にも、報酬《ほうしゅう》を払わなければならないな」
「気にすることはないわ。彼らは、金のためには働かないから……」
「じゃあ、何のために戦うんだ?」
シーリスは、肩《かた》をすくめながら、口許《くちもと》に微笑《びしょう》を浮《う》かべた。
「正義のためなのよ。信じられる?」
砦《とりで》の中は閑散《かんさん》としたものだった。
スレインの話では、古代王国の遺跡の中でも比較的《ひかくてき》大きな部類に入るとのことだった。おかげで門の数が多く、ひとりの見張りがカバーする範囲《はんい》が大きくなかったのが、パーンたちに幸いした。あちらこちらに、小さな建物が散らばっている。明かりが洩《も》れている建物もあり、おそらくはヴェノンの兵士たちが酒宴《しゅえん》でも張っているのだろう。
ほとんどが古代王国時代の建物を利用したものだったが、中には最近建てられた建物もあった。外壁《がいへき》に隣接《りんせつ》するように、ところどころに見張り楼《やぐら》も立っているが、距離《きょり》はかなり離《はな》れており、まず見つけられる心配はなかった。
いったい何人ぐらいの兵士が駐留《ちゅうりゅう》しているのか、見当もつかなかった。百人ぐらいはいるかもしれない。
レッドは、とにかく地下への入口を探すことを主張した。目的の武器は、遺跡の地下に眠《ねむ》っているらしいのだ。
「どこに地下への入口があるのかぐらい、前もって調べておいてよ」
マールが悲鳴を上げるのももっともだった。レッドという男は技量も確かだし、大胆《だいたん》な戦士ではあるが、どことなく間の抜《ぬ》けたところもある。というか、あまりこの手の常識は、持ち合わせていないようだった。
そんな人間に付き合わされることになったのが、災難といえば災難なのだが、それをシーリスが口にすれば、またもディードリットやマールの攻撃《こうげき》にさらされるのは目に見えていた。
幸運なことに、地下迷宮への入口はすぐに見つかった。
遺跡の中央付近にある巨大《きょだい》な建物が、そうだったのだ。建物も巨大ならば、その入口もまさに巨大だった。砦《とりで》の塀《へい》と変わらないぐらいの、人間の背丈《せたけ》のゆうに三倍はある両開きの門だった。文字のような紋様《もんよう》のようなものが、門の表面にはビッシリと彫《ほ》りこまれている。悠久《ゆうきゅう》の時を越《こ》えて、これを造った人間の尊大さを伝えてくるようだった。
「ここに間違《ま ちが》いない」
レッドは、静かにひとつ呼吸してからそう断言した。
「こんな門、僕には開けられないよ」マールが巨大すぎる門を指差してから、お手上げだと言わんばかりに地面に座りこむ。
「他に入口を見つけてよ。人間やグラスランナーが入るための入口をさ」
「無駄《むだ》だな。きっと入口は、ここだけだ」と、レッド。
「わたしが、何とかしてみましょう」
スレインは門の正面に立つと、青銅でできた門をじっと見据《みす》えた。呼吸を整えながら、両目をつむる。それから、右手に持った賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を門に向けると、ゆっくりと上位古代語《ハイ・エンシェント》の魔法語《ルーン》をつむぎだしていく。
「彼は魔術師《まじゅつし 》なのか?」
「決まっているでしょ。あんな格好《かっこう》をした人間が、魔術師以外にいるわけない」
レッドヘの答が終わらないうちに、背後で人の声がした。何者だと、誰何《すいか》してくるするどい声だった。シーリスは、ハッとなって振《ふ》り返った。遠くに砦の人間らしき男の姿があった。
「見つかった!」
「逃《に》げないと……」マールがあわてて、パーンの鎧《よろい》にしがみつく。「でないと、手後れになっちゃうよ」
「もう間に合わない。この建物の中に逃げこむしかない」
そのとき、スレインが気合いの声とともに、古代語魔法の呪文《じゅもん》を完成させた。巨大な門が低い金属音を悲鳴のように上げながら、ゆっくりと手前に開いていく。
「中へ入るんだ!」
パーンは兵士たちを警戒《けいかい》しながら、他の仲間に呼びかけた。すでに数人の兵士たちが、仲間に非常事態を呼びかけながら、パーンたちの方に全速で走ってくる。その手には、鉾槍《ハルバード》のような|棒状の武器《ポールウェポン》が握られている。
そして、あちらこちらの建物から、敵の兵士が次々と姿を現わす。その数がどれぐらいなのか、数える気にもならなかった。
パーンは、いちばん最後に建物の中に飛びこんだ。
「スレイン、門を!」
「分かっています」
スレインはふたたび古代語|魔法《ま ほう》の呪文《じゅもん》を唱《とな》えはじめた。今度は門を閉め、そこに魔法の鍵《かぎ》を施《ほどこ》そうとしたのだ。
巨大な門は開いたときと同様に軋《きし》み音をあげて閉じた。辺りが完全な暗闇《くらやみ》に包まれ、互《たが》いの顔さえ分からなくなる。もしも建物の中に明かりがあったなら、全員の顔が暗《くら》く沈《しず》んでいたのが見えたことだろう。誰もが、しばらくの間、声を発することさえできなかった。
自分たちは、退路を断たれたのである。
この古代王国の遺跡《い せき》にとじこめられたも同然なのだ。
しばらくの沈黙《ちんもく》と静寂《せいじゃく》の後、誰かが火打ち石を使うカチカチという音が、辺りに何重にも反響《はんきょう》した。やがて、たいまつに明かりがともり、そこが巨大《きょだい》なホールであることが分かった。
「結局、古代王国の遺跡に入ることになったねぇ」
たいまつを掲《かか》げながら、マールがきょろきょろと辺りを見回した。
「心ならずもね」
ディードリットは、不安そうにパーンのそばによりそっていた。あまりの室内の広さに圧倒《あっとう》されているような様子だった。
「なぜ、こんなに天井《てんじょう》の高い建物を造ったのかしら」
「何かの神殿のようにも見えますな」
ホッブがそう感想を洩《も》らした。巨大な建物は、人間よりも神の住みかにふさわしいものだ、とその理由を付け加える。
「神のための建物ではない」
レッドは剣《けん》を抜《ぬ》いたままで、門のすぐ内側に立ち、外の気配をうかがっていた。
「では、何の建物なのかな?」ホッブがやや気分を害したように尋《たず》ねかえす。
「巨人の建物さ」
そうつぶやいて、レッドはパーンたちのところに戻《もど》ってきた。
「奥《おく》へ行こう。出口は固められているが、突入《とつにゅう》してくる様子はなさそうだ。とりあえず、目的の物を手に入れたい。外の兵士については、帰り道にでも考えればいい」
「今、何も考えが浮《う》かばないなら、帰り道に考えても一緒《いっしょ》だと思うわ。そして、あたしは何も考えられない」
「ディードリット……」パーンがすかさずディードリットをたしなめた。
「他に出口があるかもしれないじゃないか? 古代王国の遺跡には、いろんな仕掛《しか》けが施《ほどこ》されているんだろ」
「そういろんな仕掛けがね。罠《わな》とか魔法《ま ほう》で動く怪物《かいぶつ》とか、侵入者《しんにゅうしゃ》にとって危険な仕掛けだけは山ほどあるんだ」
マールが声を落としてそうつぶやく。まるで、呪《のろ》いの言葉を吐《は》くかのように。
「でも、莫大《ばくだい》な宝物だって残されているものなのさ」
そして、一転して明るい声を出した。
シーリスひとりが、面白そうに笑った。
「とにかく、こうしていてもはじまりません。レッドさんが言ったように、まず目的の武器を手に入れましょう。それから、後のことはゆっくりと休んでから考えたいものですね」
そんなスレインの言葉を合図に、一行は建物の中を奥《おく》へと進みはじめた。しばらく行くと床《ゆか》は比較的《ひかくてき》急な下りになっており、地下へと続いているみたいだった。
その降り際の左の壁《かべ》に、扉が設けられていた。こちらはあきらかに人間のために造られた扉だ。
「どっちに行こうか?」
パーンがレッドに尋《たず》ねた。レッドは首を振《ふ》って、任せると言った。
「じゃあ、正面にしよう」
パーンは先頭に立って斜面《しゃめん》を下りはじめた。斜面の床は石畳《いしだたみ》が敷きつめられており、まるで街中の大通りを歩いているような感触《かんしょく》だった。もしも、磨《みが》かれた床だったならば、歩くのに、滑らないようかなり気を遣わねばならなかっただろう。
「古代王国の魔術師たちは、空中を歩いていたって伝説は、きっと嘘《うそ》だな」
パーンはスレインに笑いかけた。
「ただの噂《うわさ》ですよ。古代書で、そんな記述を見た覚えはありませんからね」
しばらく行くと、床《ゆか》は平らになった。そこは踊場《おどりば》みたいなもので、左に曲がってすこし歩くと、また折り返しとなって斜面が続いていた。
「本当に変わった造りの遺跡だな」
パーンは辺りをきょろきょろと見回しながら、そうつぶやいた。
マールが持っているたいまつの明かりだけでは、天井や左右の壁《かベ》さえ満足に照らすことができない。淡《あわ》い光に浮《う》かびあがる古代の建物は、まるで夢《ゆめ》の中の風景のようにおぼろげであった。これが悪夢《あくむ》でなければよい、と願わずにはいられなかった。
ようやく坂道を降りきったとき、そこには奇妙《きみょう》な光景が展開されていた。正面は、すこしいくと行き止まりになっていた。その行き止まりのところに、小さな館の庭ぐらいの広さがある台座が設けられており、その台座の上には巨大《きょだい》な鉄の足かせが、パックリと開いたままで無造作に置かれていた。足かせには頑丈《がんじょう》な鎖《くさり》がつながっていて、台座の石の床に埋《う》めこまれた金属製のリングにまで伸《の》びていた。
何か巨大な生き物が、捕《と》らえられていたようだった。こんな足かせや鎖を必要とするなど、いったいどんな生き物だったのだろうとパーンはいぶかしく思った。
しかし、その答はすぐに分かった。正面の壁に残されていたのだ。まるで現物をそのまま壁に封《ふう》じこめたかのような精密さで、巨大な人型の生き物の絵が、壁画《へきが》として描《えが》かれていたからである。
「巨人……、いにしえの巨人か?!」喉《のど》から絞《しぼ》りだすような声になっていた。
「ここは、いにしえの巨人が封じられていた遺跡なんだ」
パーンの驚《おどろ》きの声は、空洞《くうどう》の空気を震《ふる》わせた。そう考えれば、すべてのつじつまがあった。レッドは最初からこの遺跡の正体を知っていたに違いなかった。
「もうそろそろ潮時だとは思いませんか?」
ふと気が付けば、スレインがレッドにそう話しかけていた。
「もはや、あなたの目的と本当のお名前をお明かしいただきたいのです。レドリック殿下《でんか 》」
驚愕《きょうがく》のあまり、一同のあいだにしばし沈黙《ちんもく》が流れた。その沈黙を嘲笑《あざわら》うかのように、壁画に描かれたいにしえの巨人≠ェ見下ろしていた。
シーリスは口を開きかけては言葉を出そうと試みたが、結局、何も言葉が思いつかず、その都度、首を横に振《ふ》った。
「いつから、知っていた?」
「あなたがシーリスに渡《わた》した指輪を見たときからですよ。小さくて見分けがつきにくかったのですが、ハイランド公国の紋章《もんしょう》を、先日見たばかりでしたからね。さすがに気がつきました」
ええっ、と叫《さけ》んで、シーリスは指輪を取りだした。なるほど、模様のように見えたのは、どうやら紋章らしかった。モス王国の紋章ならば、シーリスも知っていたが、その一公国の紋章まではさすがに覚えてはいなかった。
しかし、レッドの言動など、考えてみれば貴族の子息のそれだった。そう言えば、ハイランドの王城で、レドリック王子が消息を絶っているとの会話が交わされていたようにも思う。
「すると、あの契約《けいやく》……」
シーリスは思いだした。彼は、国土の半分をシーリスに約束《やくそく》したのである。冗談《じょうだん》には違《ちが》いないだろうが、彼には実行しようと思えばできた約束なのだ。
「よくも人を馬鹿にしてくれたわね」
シーリスはレッド、いやハイランド公国の王子、レドリックに詰《つ》めよっていった。彼女は、あの契約を本気にしていたわけではない。だが、本当に実行できると分かれば、かえってからかわれたという気持ちの方が強くなる。
「何のことだ?」
「何のことだ、じゃないわよ。この指輪は、返すわ。傭兵風情《ようへいふぜい》と馬鹿にして、よくもいい加減な約束をしてくれたわね」
自分が身分の卑《いや》しい人間だと見下されたのが、とても腹立たしいのだ。
「そこまで怒《おこ》ることはないだろう」
レドリックは、ようやく彼女の怒りの大きさを理解したようだ。
「確かに、王国の半分を渡《わた》すという約束は簡単には実行できないさ。それは認めよう。しかし、からかったつもりはない。それこそ、君が言うように成り行きでそんな約束をする羽目になったんじゃないか。相応の謝礼は、させて貰うつもりでいたのは間違《ま ちが》いない」
「礼なんて要らないわよ」
シーリスは完全にむきになっていた。
「やめなよ、今そんなことでいがみあってても仕方ないだろ。そんな話は、この遺跡から無事に抜《ぬ》け出てからやってよ。横から見ていると、恋人同士の喧嘩《けんか》にしか見えないよ。パーンとディードリットが喧嘩するたびに、いつもシーリスは怒っていたじゃないか」
「そこであたしたちを引き合いに出さないでくれる」
ディードリットがマールに抗議《こうぎ 》した。しかし、すこし照れたような表情をしているあたりが、このエルフ娘《むすめ》の純粋《じゅんすい》なところだ。
「マールの言うとおりですよ。今は、争っている場合ではありません。レドリック殿下《でんか 》に協力してさしあげるのが、わたしたちの成すべきことですよ」
「そうだな、それがオレたちの選択《せんたく》だったし、それにカシュー王の望むところでもあるんだろう」
スレインとパーンの会話を聞いて、今度はレドリックの方が驚《おどろ》く番だった。
「わたしたちは、フレイム王の親書を持って、先日、あなたの父君にお会いしたばかりなのですよ」
スレインがそう説明を付け加えた。
「すると、おまえたちはフレイムの人間なのか?」
「わたしたちは、カシュー王に協力しているだけです。フレイムとは何の関係もありません。だから、わたしたちがあなたに協力しても、それはハイランドがフレイムに借りを作ったことにはなりません」
相手が王子と知って、パーンの口調があらたまったものになっていた。
レドリックは、いろいろと考えこんでいる様子だった。唇《くちびる》を引き結んだまま、じっと壁画《へきが》に目をやっている。
「いいだろう。お互《たが》いの事情をとやかく言っている場合でないのは間違《ま ちが》いないからな。しかし、かたくるしいのはやめてくれ。オレは、王子と言っても放蕩《ほうとう》で知られている。父にはいつも、叱責《しっせき》されているが、こればかりは性格ですこしもなおらない」
「分かりました。お互い、今までどおりの関係でいましょう。わたしたちは、あなたに協力する。それは、フレイムの思惑《おもわく》とかお金のためではなく、あくまで成り行きでそうなったということで。それで、よろしいですね」
「いいだろう」
レドリックはうなずいたが、シーリスはまだ不満そうだった。レドリックから顔を背《そむ》けて、ぶつぶつと文句を言っている。
「その気はなかったのだが、気分を害したのならあやまる。すまなかった」
シーリスの背中に向かって、レドリックは頭をゆっくりと下げた。しかし、シーリスはそっぽを向いて、レドリックから離《はな》れていった。
レドリックは苦笑しながら、頭をかくような仕草をした。
「とにかく、あなたの求める剣《けん》を探しましょう。どんないわれがある剣かは知りませんが……」
近寄ってきたパーンに、レドリックはうなずいた。
「巨人《きょじん》を倒《たお》すための剣だ。いにしえの巨人をな」
「巨人を倒すための剣?」
パーンの表情には、その魔剣《ま けん》の実在をいぶかしがっている気持ちが素直に現われていた。
「正直だな。オレも最初は信じられなかったのだが」
レドリックはふたたび苦笑を浮《う》かべながら、巨人殺し≠フ剣にまつわる伝説を語りはじめた。
その伝説は、このようなものだった。かつて、古代王国の時代に、炎《ほのお》の巨人の一族が暴れた時期があったのだ。彼らは魔術師たちの支配に抵抗《ていこう》し、壮絶《そうぜつ》な戦いを繰《く》り広げたのだ。
巨人は強かった。いくつかの街《まち》を破壊《は かい》し、何人もの魔術師たちの息の根を止めた。一部の蛮族《ばんぞく》たちも巨人の味方となり、彼らと共に戦った。
しかし、強靭《きょうじん》無比なる巨人も、魔術師たちの偉大《い だい》な魔法《ま ほう》の前についに倒《たお》れるときがきた。魔術師たちは、天空より隕石《いんせき》を召喚《しょうかん》して、巨人たちを撃《う》ったといわれる。巨人たちは殺され、蛮族たちも制圧された。巨人の王は捕《と》らえられて、地下の迷宮に呪縛《じゅばく》された。
いつしかその力を古代王国のために使うことを魔術師たちは目論《もくろ》んだのだ……。だが、その日はついにやってこなかった。
魔術師たちは巨人を征服《せいふく》し、支配はした。しかし、同時に彼らの力を恐《おそ》れもした。巨人が自由を回復し、ふたたび破壊をはじめたとき、彼らをほうむるための武器を作ることも忘れなかったのだ。
そのために、一本の剣《けん》を鍛《きた》え、強力な魔法を付与したのである。|巨人殺し=sジャイアントバスター》と名付けられたその剣は、巨人を封《ふう》じたまさにその迷宮に安置されたのだ。巨人が解放されたとき、すぐに打ち倒せるようにと。
「なるほど、ありそうな話だな」パーンはうなずいて聞いていた。
「スレインは、今の伝説を聞いたことがあるかい?」
「わたしだって、すべての伝説を知っているわけではありませんよ。レイリアに尋《たず》ねれば事の真偽《しんぎ》が分かるでしょうが……」
「まさか、ザクソンにまで戻《もど》るわけにはいくまい。今は、その伝説を信じるしかないわけだ」
そうでしょうね、とスレインは相槌《あいづち》をうった。
「で、その剣はどこにあるんだ?」
「伝説が伝えるのは、そこまでだ。オレは巨人が封じられていた場所に安置されていると信じていたのだが……」
「辺りを調べてみたけど、扉がひとつ見つかっただけだよ」マールが遠くからそう声をかけてきた。
「もちろん、人間用のね」
「もしかしたら、ヴェノンの太守が持ち去ったんじゃないかな。何しろ、自分たちの切札《きりふだ》を殺すための剣だからな」
「だったら、この砦《とりで》をなぜ守る必要がある」
レドリックの問いかけはもっともだった。
「こんな辺境に兵を配置しているのは、伝説の剣がまだこの地下の遺跡《い せき》に眠《ねむ》っている証《あかし》だとオレは思っている。だから、わざわざやってきたのだ」
パーンはうなずいた。確かに可能性は残っているだろう。
「だとすると、巨人殺しの剣を取ることができなかった理由がきっとあるはずだよ」
トコトコと近寄ってきながら、マールが意見を口にした。
「その答は、簡単ですよ。入口の門を開くことができなかったのです」スレインが彼に答えた。
「入口は魔法で閉ざされていましたからね。普通《ふつう》の手段では開くことができなかったのでしょう」
「じゃあ、誰が巨人を連れだしたのさ?」
マールの無邪気《むじゃき》な問いかけは、スレインにとってつらいものだったに違《ちが》いない。
「……ひとりの魔女《まじょ》の仕業ですよ。彼女は、ヴェノンの太守に、巨人という力を与えたに違いありません。しかし、その巨人を倒すための力までは、引き渡《わた》していなかったのでしょう。いかにも、彼女らしいやり方ですからね」
パーンは深くうなずいた。そして、魔剣《ま けん》巨人殺し≠ェ今、自分たちがいるこの遺跡《い せき》のどこかにあることをほぼ確信した。
「魔女ねぇ」マールははぐらかされたような顔で、そう答えた。
「さすが、呪《のろ》われた島には、いろんな魔物がいるってわけだ」
「望みがある以上、探してみて損はないさ。マールが見つけた扉《とびら》から入ろう。巨人殺し≠フ剣なんだから、きっと巨人の手に届かぬところにあるはずだ」
もっともだね、とマールがうなずいた。
「扉はあっちにあるよ」
ちょうど、その扉の近くに、マールからたいまつをもらったシーリスが立っていた。彼女は、遠くからパーンたちの話をうかがっていた様子だった。
「ここから、入るの?」
彼女は声をかけてきた。パーンは、そうだ、と答えた。
それならば、とシーリスはたいまつをかざしながら扉の取手に触《ふ》れようとした。
「駄目《だめ》だよ、シーリス!」
マールの声が珍《めずら》しく真剣《しんけん》みを帯びていた。
「どうしてよ?」
「最初に言ったろ。ここは、古代王国の遺跡なんだって。どんな仕掛《しか》けがあるかわかりゃしないんだから」
これだから素人は困る、などとぶつぶつとつぶやきながら、マールは小走りに扉のところにやってきた。
そして、シーリスがかざすたいまつの明かりを頼《たよ》りに、慎重《しんちょう》に扉を調べにかかった。
まず背負い袋《ぶくろ》から、針金のようなものや、小さな油壼《あぶらつぼ》を取りだした。それから、革製の手袋《てぶくろ》を脱《ぬ》ぐと、扉のあちらこちらを触《さわ》ったり、叩《たた》いたりしはじめた。特に取手や蝶番《ちょうつがい》の部分には、念を入れている。
興味深そうにパーンは、マールの作業を覗《のぞ》きこみにいった。
「近寄ると危ないよ。毒矢が飛ぶかもしれないし、ガスが噴《ふ》きでるかもしれないからね。最悪の場合は爆発《ばくはつ》ってこともある」
「危険なのはマールも同じだろ。なら、いいさ」
マールは振《ふ》り返って、パーンの顔をしげしげと見た。
「パーンって、本当に面白い人だねぇ」
それだけを言うと、マールはふたたび作業に戻《もど》った。パーンは何のことか分からず、精霊《せいれい》のささやきでも聞いたような顔になった。
それから、しばらくして、
「終わったよ」と、マールが言った。
「どうだった?」パーンが尋《たず》ねる。
「予想通りだったね。罠《わな》が仕掛《しか》けられていたよ」マールは得意そうに、右手に持った針金を振りまわした。
「凝《こ》った罠だよ。向こう側から開いても作動しないように作られているんだ。こちら側から開くと、扉《とびら》の上の壁《かべ》にあいている小さな穴から、何か液体が落ちてくるっていう寸法さ。きっと、強力な酸だろうね」
そういえば、壁に小さな穴が四つぽかり口を開けている。あれだけの作業で、よくここまで見破れたものだと感心する。
「で、解除《かいじょ》したのか?」
「してないよ」マールはあっさりと答えた。
「なぜ?」
「難しそうだったからだよ。この建物を入ってすぐの所に扉があっただろ。あちらから入るのが正解のはずさ。これは僕の勘《かん》なんだけどね」
パーンは、マールの言葉に従おうと思った。彼がこういった古代王国の遺跡の探検には、かなりの経験を積んでいるように思えたからだ。
「上から回ったほうがいいみたいだそうだ」
パーンは他の仲間の方を振《ふ》り返って、そう言った。全員が、無言でうなずく。そして、いちばん後ろにいたレドリックを先頭に、ゆっくりともときた道を戻りはじめた。
レドリックのすぐ後に、シーリスが続いていた。彼女はムッツリと黙《だま》りこんでいる。よほど自尊心を傷つけられたのだろう。
「シーリス、あなたらしくないわよ。彼はもう謝っているんだから、そろそろ許してあげたら」
ディードリットが、そう彼女に忠告した。
「分かってるわよ。だましたのはお互《たが》いだしさ……」
そして、シーリスはディードリットにチラリと視線を向けた。その視線は、しばらくほっておいてほしいと、ディードリットに伝えていた。
ディードリットはうなずいて、遅《おく》れてやってくるパーンを待つことにした。
「あいかわらず、仲がいいね」
ニヤニヤとした笑いを、マールは浮《う》かべていた。いやらしい笑い方だが、彼の丸みを帯びた顔には愛敬《あいきょう》さえ感じられた。人間に嫌悪感《けんおかん》を与えないという特別な能力を持っているかのようだった。
「いつか、ふたりだけで旅をできる日がくるといいね」
マールはお世辞のように、そう言う。
追いついたパーンが意外なことに真顔でうなずいて、そんな日が早くくればいい、と独り言のようにつぶやいた。
ディードリットは、どうしたのかとパーンの顔を覗《のぞ》きこんだ。目が合ったときには、いつもの元気なパーンに戻《もど》っていた。そっちこそ、どうしたと言わんばかりに、首をかしげるような仕草をする。
ディードリットは静かにかぶりを振《ふ》った。
「なんでもないの、すこし遅《おく》れてしまったわ。急ぎましょ」
巨大な門はまだ閉ざされたままだった。
外の様子を探りに、マールが門の所まで走っていった。彼は小さい顔を、巨大な門に押《お》しつけるとしばらくじっと聞き耳を立てていた。
しばらくして戻ってきたマールに、パーンは外の様子を尋《たず》ねた。
「完全に囲まれているみたいだ。人の話し声がずいぶん聞こえるね。数はかなりいるだろうなあ。こちらの人数だけで戦えるかどうか」
「門にかけた魔法《ま ほう》は、しばらく解けません。今夜はこの建物の中で休んで、明日になってから外の囲みを突破《とっぱ 》しましょう。でないと、わたしはみんなの役には立てないでしょう。今日はもう魔法をかけるだけの気力が残ってませんからね」
「実を言えば、あたしもそう」
ディードリットがスレインの言葉にうなずいた。
じゃあ、とマールが新しいたいまつを取りだして、古いたいまつの火を移した。古い方のたいまつはスレインが持ち、これで光源がふたつになった。しかし、古い方はもうしばらくしたら消えてしまうだろう。
「じゃあ、早く見つけるものを見つけだして、今日は休もう」
パーンはそう宣言した。
マールが、うなずいて扉の調査にかかりはじめた。今度は、大雑把《おおざっぱ》に扉の様子を確かめただけで、彼は自ら扉を押《お》し開いた。扉は簡単に開いた。罠《わな》もなかったようだ。毒矢も飛ばなければ、ガスも噴《ふ》きださない。もちろん、爆発《ばくはつ》もしなかった。
しかし、
「うひゃああ、ああ」マールが頭を抱《かか》えて、扉の前から離《はな》れた。
「どうした、マール!」
パーンは反射的に剣《けん》を抜《ぬ》いて、前に飛びだした。レドリックとシーリスもパーンに続いていた。
「ガ、ガーゴイル」マールはほとんど尻《しり》もちをつかんばかりだった。
マールが開け放ったままの扉から、不気味な姿の魔法《ま ほう》生物が現われた。背中に翼《つばさ》、先のとがった尻尾《しっぽ 》、そして角の生えた顔、肌《はだ》はまるで石像のようで、それがしなやかに動くのは信じられない光景だった。
パーンは、最初に姿を現わしたガーゴイルに切りかかっていった。しかし、ガーゴイルはすばやく宙に舞《ま》いあがると数百年ぶりに得た自由を楽しむように、広いホールの空間を円を描《えが》くように飛んだ。
しかし、続いて姿を現わした二|匹《ひき》目を、パーンは正確な剣《けん》の一撃《いちげき》で切りふせた。しかし、そのガーゴイルにとどめをさす間もなく、さらに四匹のガーゴイルが次々と飛びだしてきた。
うちの一匹はパーンに飛びかかり、パーンはそれを左手に持った楯《たて》でかろうじて防いだ。
「シーリス、スレインを守ってやってくれ」
「分かった」シーリスはスレインを壁際《かべぎわ》に誘導《ゆうどう》して、自分はその前に立った。
パーンが傷を負わせたガーゴイルは地面を転がるだけだったが、残る五匹は宙に舞いあがったまま、こちらの隙《すき》を見つけようとするかのように、盛《さか》んに上昇《じょうしょう》と下降を繰《く》り返している。
「パーン、部屋《へや》に逃《に》げこもうよ」
「駄目《だめ》だ。まだ中にいるかもしれない」
パーンはマールにも下がっておくように言うと、まるで自らを囮《おとり》にするかのように、ホールの真ん中に立った。
「来るなら来い!」
その挑発《ちょうはつ》に応じたように、三匹のガーゴイルが同時に急降下してきた。
「パーン、無茶をしないで!」
ディードリットがパーンのそばに駆《か》けよろうとしたが、それをホッブが引き止めた。
「あなたは、今は休んでいるほうがいい」
そして、自らは戦槌《ウォーハンマー》を構えて、進んでいった。小走りに駆けよりながら、ホッブはガーゴイルの一匹に、気合いの声とともに、神聖魔法の〈|気弾《フォース》〉の呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。
不可視のそして無形の力に撃《う》たれて、そのガーゴイルが弾《はじ》き飛ばされる。
残る二匹のうちの一匹をパーンは、剣でなぎはらった。悲鳴にも似た声をあげて、ガーゴイルが地面に落ち、そのままのたうちまわる。しかし、最後に残った一匹は、パーンの背後に回りこむと、鋭《するど》い鉤爪《かぎづめ》で肩口《かたぐち》を狙《ねら》って振《ふ》るってきた。
ディードリットが思わずあげた小さな悲鳴に、パーンの魔法の鎧《よろい》があげた悲鳴が唱和《しようわ》した。しかし、魔力をその生命活動の根源とするガーゴイルの力を以《もつ》てしても、彼の魔法の鎧を切り裂《さ》くことはできなかった。ただ、勢いあまって滑《すべ》った鉤爪が、パーンの頬《ほお》に赤い筋を作った。
パーンは自ら地面に転げながら、怪物《かいぶつ》の第二撃《げき》から身を守った。ガーゴイルはもう一度、宙高く飛びあがって体勢を立て直そうとした。
しかし、その背中が鋭い剣の一撃で縦に切り裂かれた。いつのまにかやってきたレドリックが剣を振るったのだ。地面に落ちたガーゴイルは、そのままの姿で硬直《こうちょく》した。まるで、本物の彫刻《ちょうこく》に戻《もど》ったかのように。
残るガーゴイルは、一匹をホッブが、もう一匹をシーリスが仕留めた。地面に落ちたのはマールがいつのまにかとどめをさしていた。
パーンはホッブに癒《いや》しの呪文《じゅもん》で、頬に走った傷を塞《ふさ》いでもらった。うっすらと白い傷痕《きずあと》が残っているが、そのうち消えるだろうとホッブは保証した。
「あまり人相を悪くしないでね」ホッとした表情で、ディードリットがパーンの傷痕を指でなでた。
「先を急ごう」
パーンは、ガーゴイルたちが飛びでてきた扉を慎重《しんちょう》に開け、部屋の中に入った。
小さな正方形の部屋だった。正面の壁《かべ》と右手の壁の前には、三つずつ台座が置かれている。ガーゴイルたちは、おそらくその台座の上に座っていたのだろう。彼ら魔法生物たちの思考を測りしることはできないが、数百年ともいう年月をピクリとも動かずに待っているあたりは、哀《あわ》れな気もする。
魔法でかりそめの命を与えることの不当さを、パーンはあらためて心に感じていた。台座を除いては何もない殺風景な部屋だった。左手に扉がある。
マールがチョロチョロと動いて、簡単に扉を調ベると、今度は列の後ろに戻った。
「さっきの二の舞は、嫌《いや》だからね」
「ならば、オレが開けよう」
レドリックがスレインからたいまつを借りて、前に進みでて扉をゆっくりと押《お》した。
音を立てて、扉が開く。そして、その向こう側にたいまつをかざした。
「下りの階段があるだけだ」
やや拍子抜《ひょうしぬ》けした表情で、レドリックが振り返った。
「このまま進むぞ」
レドリックは、階段を一段、一段確かめるように下りはじめた。右手には剣を持ち、左手でたいまつをかざしたまま。
そのたいまつが、消えようとしているので、マールが新しいたいまつを取りだし、パーンを経由してレドリックに回した。
レドリックは階段の途中《とちゅう》で立ち止まって、たいまつの火を移した。そして、古い方のたいまつを何気なく階段の踊場《おどりば》に捨てた。すると――
「な、なんだあれは……」レドリックが踊場を指差して、言葉を詰《つ》まらせた。
その指が示すところをパーンは見た。そして、ぞっとするような思いにかられた。
踊場の床《ゆか》が生き物のようにうねうねと動いているのだ。舌状の突起《とっき》が床の上から、何本も突《つ》きでて、たいまつの炎《ほのお》を包みこむように動く。ジュッと白い煙《けむり》があがり、今までに経験したことのない悪臭《あくしゅう》が鼻をつく。
たいまつは、舌状の突起に巻きこまれて、完全に消えてしまった。
声のない悲鳴を上げるように、蠢《うごめ》く床は階段を滑《すべ》るように登ってきた。
「魔法生物の一種です。形のない粘液状《ねんえきじょう》の怪物《かいぶつ》です。踊場で石の床の擬態《ぎたい》をとっていたのでしょう」
スレインが相手の正体を見極めようと、腰《こし》をかがめながら、怪物をのぞきこんだ。
「剣で切って、死ぬのか?」
レドリックが不安そうに尋《たず》ねる。
「さあ、やってみてください」
スレインは無責任な発言をした。
と、上の方からポンと火のついたたいまつが投げこまれた。それは、階段の二段目をゆっくりと這《は》いあがってきていた怪物の上にうまく乗った。
「わざわざ剣で戦う必要なんてないよ」
マールがみんなの慌《あわ》てぶりをからかうように、今度は油の入った小さな壼《つぼ》を投げつけた。たいまつの火に、油が引火して、無形の怪物はたちまち炎に包まれた。
「お手柄《てがら》だったね、レドリックさん。あなたがたいまつを投げていなかったら、本当に危ないところだったよ」
マールも怪物の正体を知っているようだった。
「最初にいることさえ分かっていれば、あんな怪物なんてぜんぜん怖《こわ》くはないさ」
それから、さらに三個の油壷を投げこんだ。
怪物は炎に包まれながらも、階段をゆっくりと這いあがってきた。レドリックたちは、炎を避《さ》けるためと、気味の悪さも手伝って、階段を何段か後ずさりした。
怪物は十二段まで登ったところで動かなくなった。階段には悪臭が立ちこめて、一行は手拭《て ぬぐ》いを取りだし、口許に当てた。
「これって毒ガスじゃないかしら」
小さく咳《せ》きこみながらディードリットが言う。目にも涙《なみだ》が浮《う》かんでいる。
その煙が収まるまで、パーンたちはほとんど動くこともできなかった。しかし、マールの言うとおり誰も怪我《けが》をしないですんだのは、幸いだったろう。怪物の恐《おそ》ろしさなど、経験せずにすめば、それにこしたことはないのだ。
パーンたちは、怪物の残骸《ざんがい》を踏《ふ》みこえて、階段を降りていった。
階段は踊場で折り返し、ふたたび続いていた。そして、降りきったところに、また扉があった。
その扉を開けると、そこはまた正方形の部屋だった。左手の壁《かべ》に扉があるだけだ。
「あれっ?」
マールがやや間の抜けた調子で、部屋の中を見回した。
「どうした、マール?」パーンが尋《たず》ねる。
「うん、この部屋に目的の物が安置されていると踏《ふ》んでたんだ。左手にあるのは、最初に調べた扉に間違《ま ちが》いないし……」
マールはつぶやきながら、扉の前に走った。そして、いきなり取手を握《にぎ》ると、扉を内側に引いた。そして、首だけを扉から出して、部屋の向こう側の様子を確かめる。
「うん、やっぱり間違いないよ。向こうに、巨人《きょじん》のつながれていた台座がある」
「じゃあ、魔法《ま ほう》の剣《けん》はどこにあるんだ?」
レドリックの声は、苦しそうだった。彼にとっては、ハイランドの命運がかかっているのである。自ら、探索《たんさく》に乗りだしたぐらいなのだから、いかに公国の命運が切迫《せっぱく》しているか、容易に推察できた。
「今、考えているよ」
マールは床にしゃがみこむと、そこに指で何かを描《えが》きはじめた。
「何をしているのですか?」
興味にかられたのか、スレインがマールの作業をのぞぎこむ。マールが何をしているのかは、スレインにはすぐに分かった。
「この遺跡《い せき》の構造を考えているのですね」
マールがうつむいたままで、コクンとうなずいた。彼はブツブツつぶやきながら、指を忙《いそが》しそうに動かしていた。
「ここか!」
やがて得意そうな顔になり、マールは立ち上がった。
「何か分かったのか」
レドリックの顔は滑稽《こっけい》なぐらいに、真剣《しんけん》そのものだった。
「あくまで、可能性なんだけどね……」
つぶやきながら、マールは入ってきた扉の方を振《ふ》り返った。壁の左側に扉がついている。マールは扉は無視して、何もない右手の壁の前に歩いた。
それから手袋《てぶくろ》を脱《ぬ》ぐと、壁に張りつくように、辺りを調べはじめた。
「今日は本当に忙しい日だよ」
やがて、マールは懐《ふところ》から短剣《ダ ガ ー》を取りだすと、壁の一画にゆっくりと刃先《はさき》を差しこんだ。すると、壁から石がひとつはずれて落ちてきた。それを重そうに手で受け止めて、マールは大事そうに床の上に置く。
「魔法《ま ほう》で封《ふう》じられてなくてよかったよ」
マールはつぶやきながら、石がはずれてできた窪《くぼ》みに手を入れた。何をするのかと見ていると、彼は丸い輪の付いた鎖《くさり》を引っ張りだしてきた。
すると、その近くの壁に、急に四角く線が入った。壁が奥《おく》に引っ込んだのだ。そして、壁は左にスライドして、その奥に通路がポッカリと口を開けた。
「隠《かく》し扉か」パーンは感心したように、短く口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。
「そういうこと。宝物は、この通路の向こうにあるはずだよ」
今度は、パーンが先頭に立って、隠し扉をくぐった。通路はまっすぐにしばらく続いていた。
そして、突《っ》き当りに繊細《せんさい》な装飾《そうしょく》を施《ほどこ》された両開きの扉があった。
「いかにも、という感じだな」
パーンが感心して、扉を押《お》しひらこうとした。が、開かなかった。
「鍵《かぎ》がかかっているのかな?」
パーンは首を捻《ひね》ってから、助けを乞《こ》うようにマールを振《ふ》り返った。
「引いてみてよ」
パーンは言われたとおりにした。すると、難なく開いた。パーンはばつの悪そうな顔をして一同を振り返った。みんなが、声をあげて笑っている。
部屋の中は、魔法の明かりで照らされていた。パーンはまぶしさのあまり、一瞬《いっしゅん》、目がくらんだ。すこし顔を背《そむ》け、目をしばたたき、それから、あらためて部屋の中を見回した。
目的の物はすぐに見つかった。
正面に横に細長い台座が置かれ、その上に水晶《すいしょう》のケースがかぶせられていたのだ。そのケースの中に、まるで棺の中に横たえられた亡骸《なきがら》のように、一本の剣《けん》が収められていた。
「こりゃあ、すごい」
マールが喚声《かんせい》をあげた。部屋の中には、その魔剣《ま けん》以外にもかなりの額になると思われる財宝が残されていたからだ。
スレインは、数冊の古代書を見つけて、嬉《うれ》しそうに手に取っている。
「ひい、ふう、みい。この人数で等分しても、けっこうな額になるねえ。魔剣が欲しい人には、他の宝はあきらめてもらって……」
「マール!」パーンが、はしゃぐマールをたしなめた。
「その条件でかまわないさ。金には不自由していないし、魔剣も手に入ったのだからな」
レドリックが歓喜の表情もあらわに、剣の安置されたケースに近寄っていった。
「ケースに罠《わな》なんか、仕掛《しか》けられていないかな?」
レドリックは、宝物を値踏《ねぶ》みしながら部屋の中をウロチョロしているマールに尋《たず》ねた。
「いちおう、調べておこうね」
そう言ってからケースに近づいて、台座を中心に色々と調べまわる。罠はなかった。しかし、台座の下側に、細かい字の書かれたプレートを見つけた。彼のわずかな古代語の知識では、かろうじて巨人殺し≠ニいう剣の名前だけを判読することができた。複雑な文章が、その下にズラズラと並《なら》んでいたが、もちろん、彼には読むことはできない。
(この剣を作った人間の自慢話《じまんばなし》なんか、別に知りたくないや)
マールはそう判断すると、水晶《すいしょう》ケースに慎重《しんちょう》に手をかけた。しかし、一瞬《いっしゅん》でその手を離す。
「どうした、マール?」心配そうにパーンが尋ねる。
「ううん、大丈夫《だいじょうぶ》。ただ、ケースが異常に冷たかったんだよ。それで、驚《おどろ》いただけ」
罠を調べるために、脱《ぬ》いでいた革製の手袋《てぶくろ》をはめなおすと、水晶ケースを持ちあげて、床《ゆか》の上に慎重に置いた。このケースも、持っていくところに持っていけば、かなりの値で売れるだろうと判断してのことだ。
「さあ、レドリック殿下《でんか 》、この剣《けん》が巨人殺しに間違《ま ちが》いないよ。剣に呪《のろ》いがかかっていないことを祈《いの》るんだね」
「呪いがかかっていたって、かまわないさ。これで、あの巨人を倒《たお》せる。そして、憎《にく》きヴェノン公国もな」
レドリックは両手で剣の鞘《さや》を持つと大事そうにそれを抱えこんだ。
「抜《ぬ》いてみないの?」興味|津々《しんしん》といった感じで、マールがレドリックに尋ねてくる。
「剣を鞘から抜くのは、巨人と戦うときだ。それまでに抜いて、剣が溶《と》けて消えてしまったらこまる」
この剣を胸に抱《かか》えたとき、鎧《よろい》ごしに伝わってきた氷のような冷たさが、レドリックにそう感じさせたのだ。
レドリックの顔は自分の目的を達成したという満足感に満ちており、勝利を疑わない自信さえうかがわせた。
「浮《う》かれるのはいいけど……」
と、突然《とつぜん》、背後から声がかけられた。シーリスの声だった。彼女の声には、まるで雪解け水のごとき冷たさと、茨《いばら》の棘《とげ》のごとき辛辣《しんらつ》な響《ひび》きがあった。
「この建物の出口を敵の兵士が包囲しているってことを忘れないことね。その魔剣さえあれば、巨人は確かに倒せるのかもしれないけれど、何十人もの兵士と戦って、勝てるって保証はないんだから」
シーリスの声に、全員が一斉に我に返った。彼女の言うとおり、あの兵士たちを突破《とっぱ 》しなければ、巨人と戦うことすらできないのだ。
静かで規則正しい寝息《ね いき》が、あちらこちらから聞こえてくる。ひとり豪快《ごうかい》ないびきをかいているのは、おそらくマールだろう。
シーリスは、暗闇《くらやみ》の中で目を見開いていた。疲《つか》れているのは間違《ま ちが》いなかったが、奇妙《きみょう》に寝《ね》つかれなかったのだ。しかし、古代王国の遺跡《い せき》の中、しかも冷たい石の床《ゆか》の上で、旅用のマントだけに包《くる》まって、平気で眠《ねむ》っている方こそおかしいのかもしれない。
シーリスもときには夜営をするが、やはりベッドが恋しい口だ。湯で身体を拭《ふ》きたい。季節がよければ水浴びでもいいが。こんなとき、自分が貴族の出身であることを強く意識する。この場には、もうひとり貴族がいる。一国の王ともいうべき、太守の家系に生まれた男。
その男がまだ眠りに落ちていないことも、シーリスは先刻から意識していた。彼がシーリスと同じ理由で目覚めているかどうかは分からない。しかし、城でチラリとだけ聞いた状況《じょうきょう》では、彼は何日もこの山中に潜《ひそ》み、敵の兵士と追いかけっこをしていたはずだ。それを考えると、彼の疲労《ひ ろう》のほうがはるかにシーリスよりも大きいはずだ。
「起きているんだろ、殿下《でんか 》」
シーリスは他の人間を起こさないように、小声でそう呼びかけてみた。
「……ああ、起きている」
しばらく、間があってから、返事がかえってきた。
「その殿下というのは、やめてくれ」
「じゃあ、なんて呼べばいいのよ。王子様、それとも次期太守様?」
「皮肉にしか聞こえないぞ」
「そのつもりだもの」
「シーリス、何に腹を立てているかは分からないが……」
レドリックは上体を起こしたようだった。金属の鎧《よろい》がたてる、ガシャリという音が聞こえてきた。
シーリスも起きあがった。どんなに目を凝《こ》らそうとも、完全な暗闇《くらやみ》の中では、気配しか伝わってこない。
「とにかく、オレが悪かった。謝る」
そして、かすかな金属音。おそらく、頭を下げたに違《ちが》いなかった。
「王子たるものが、むやみに頭を下げてはいけないよ。父君からそう教わっただろ」
「……その通りだ」
驚《おどろ》いたような響きが、レドリックの声には含まれていた。
「どうして分かった?」
自分も貴族だったから、分かるのだ。貴族は、平民たちよりも上の人間なのだ。上の人間は、自分たちよりも下の人間に頭を下げることはない。どこの貴族だって、そう考えているに決まっている。同じ人間でありながら、なんと傲慢《ごうまん》な考え方なのだろう。
「何に腹を立てているのか、実のところ、わたしにだって分かっていないのよ。だから、謝られたって困る」
レドリックの困惑《こんわく》の表情が、暗闇《くらやみ》の中でも容易に想像できた。この男は王子には間違《ま ちが》いないが、しかし、かなり奔放《ほんぽう》に育ってきたようだ。父王との折り合いもあまりよくないのかもしれない。前に、シーリスがもちかけた、この仕事が終わった後、一緒《いっしょ》に旅をしないかとの誘いに、実のところ彼は乗り気だったのではないかという気がした。しかし、自分の生まれがそれを許さないことを、彼は十分に承知しているのだ。
レドリックは自分がハイランドという公国を次代に統治しなければならない運命にあることを知っている。そして、それを受け入れている。
そのことが、シーリスには悲しかったのかもしれない。まして、ハイランドの命運は今や、尽きようとしている。滅《ほろ》びゆく国の貴族は、実のところもっとも苛酷《か こく》な運命にあることを、知っている人間はすくないことだろう。シーリスは、自分の家族を襲《おそ》った悲劇から、その苛酷さを身体に刻みこませている。
「謝る理由もないのに、謝らなければならないというのが、いちばん辛《つら》いんだ。何でもいいから許してくれ」
困ったあげくに、レドリックがそう懇願《こんがん》してきた。言っていることが、めちゃくちゃだった。
「……なら、謝らなければいいでしょう」
「そうはいかないんだ。謝る理由があろうとも、なかろうとも。オレは君の気分を害してしまった。それを許してほしいんだよ。だから、謝ってるんだ」
シーリスは思わず吹《ふ》きだしそうになってしまった。
「それで、あなたの気がすむのならね。許してあげるわ、人の好《よ》すぎる王子さま。今のは、皮肉で言ってるんじゃないのよ。心から言ってるの。悪いのは、どちらかといえばわたしの方なんだから。とにかく、今日は寝《ね》たほうがいいと思わない。明日は圧倒的《あっとうてき》な数の敵と戦いになるのよ、体力は絶対にいるわ。途中《とちゅう》でへばったりしたら、あなたが大事そうに抱《かか》えている剣《けん》に笑われるわよ」
「雑兵《ぞうひょう》ごとき、いくらいようと負けはしない」
レドリックは、どうやら床の上にふたたび寝転《ねころ》んだようだった。今度は、すこし大きな金属音が響《ひび》いた。その音に反応して、誰かが寝返りを打ったような気配も同時に感じられた。
「許してくれて、嬉《うれ》しいよ。シーリス……」
シーリスは微笑《ほ ほ え》んでどういたしまして、と答えた。と、その時、新たな寝息《ね いき》がもうひとつ伝わってきたのを聞いた。
まさかと思って、小声でレドリックの名前を呼んでみると、もう返事はかえってこなかった。
シーリスはあきれて、自分も床《ゆか》に寝そべった。頭のところには、背負い袋《ぶくろ》があって、その中にあるいろんな道具の感触《かんしょく》が、後頭部に伝わってきた。
横になると、すぐに眠《ねむ》たくなった。睡魔《すいま》が自分にもようやく訪れたようだった。こんな状況《じょうきょう》の中なのに、自分の気持ちも不思議に晴れてしまったことに、シーリスは驚《おどろ》いていた。
貴族とはいえ、ふつうの人間とすこしも変わらないじゃない……
何か幸せな気分に浸《ひた》ることができて、シーリスはたちまちのうちに安らかな夢《ゆめ》の世界に旅立った。
いったい何時間眠ったのか、シーリスにも分からなかった。
起きたとき、すくなくともこの遺跡の出口である門の隙間《すきま》から、かすかに光が洩《も》れてきていることだけは間違《ま ちが》いなかった。
眠ったのは夜半もだいぶ回って、へたをすれば明け方に近かったはずだから、たいして眠っていないのかもしれない。しかし、気分はかなり快適だった。時間などはどうでもいい。とにかく、満足なだけ眠れたことは間違いない。それで十分だった。
門が激《はげ》しい悲鳴を規則的に上げている。
建物の中に入ったまますこしも出てくる様子もない自分たちに業を煮《に》やして、おそらく強行突破《とっぱ 》を試みようとしているに違いない。
門が上げている悲鳴は、おそらく破壊槌《はかいづち》が使われている音なのだろう。この音で、シーリスたちは起こされたのだ。
「突入《とつにゅう》してくるつもりですかな」
「どんな手段を使おうと、門を壊《こわ》すことはできませんよ。それならば、壁《かべ》を壊したほうが早いぐらいです」
スレインがホッブに説明し、小さくあくびをした。
「さすがに年ですね、身体のあちらこちらが痛みます」
「まだ、季節が秋でよかったな。冬だったら、さすがに凍《こご》えていたろう。火を焚《た》くわけにもいかなかったし」
パーンは窮屈《きゅうくつ》な鎧《よろい》を着たまま寝《ね》ていたので、身体の節々が痛んだ。手足を伸《の》ばしたり、腰《こし》を捻《ひね》ったりと、身体をほぐすためのちょっとした運動をしている。
レドリックが冗談《じょうだん》半分に、かるく剣《けん》の稽古《けいこ 》でもしておくか、とパーンに申し出た。
「あなたと戦ったら、真剣になってしまいそうで、かえって疲《つか》れてしまいますよ。精神的にもね。特に、一騎打《いっき う 》ちは気合いの勝負だから」
「違《ちが》いない」と、レドリックは笑う。
「門が破られないのはいいけど、この騒音《そうおん》は何とかならない? 耳が痛いし、気がおかしくなってきそうだわ」
シーリスが耳を押《お》さえながら、いまいましそうに門の方を見る。ちょうどそのとき、門がまたもドーンという音をたてて、激しく揺《ゆ》れた。
「わたしも、このまま立てこもるというのは、どうかと思いますな」
ホッブはいかにも戦《いくさ》の神の司祭らしい意見を述べた。
「しかし、勝てるかな……」パーンはあまり自信がなさそうだった。
「勇気さえあれば、勝てます」
ホッブが自信をもって言ったが、パーンは苦笑しただけだった。
「わたしには仲間がいる。彼らさえきてくれれば……」
レドリックは、懐《ふところ》から骨製の笛《ふえ》を取りだし、それを力強く握《にぎ》りしめた。
「仲間って、すぐにきてくれるの?」
シーリスは笛のことと仲間のことはすでに聞いていたので、時期だけを尋《たず》ねた。それに、やってくる仲間とは誰なのだろう。ハイランドの兵士が、この山の中に何人か入っているのだろうか?
「もちろん、すぐにとは言わない。だが、間に合わないとは思わない。我々が、十分に時間を稼《かせ》ぎさえすれば……」
「ここで笛を鳴らしたら?」
マールが無茶を言ったので、さすがにレドリックは首を横に振《ふ》った。
「この笛は、なかば魔法《ま ほう》の品だから、もしかしたら届くかもしれない。しかし、確実なのは、外に出て、少なくとも、その門を開けてから鳴らすことだな」
「やはり、戦いになるのですね……」
スレインはやれやれといった感じで、ため息をついた。賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を手に、門の正面の位置に立とうとする。
「それでは、皆さん。準備をしてください。大人数と広い場所で戦うのは不利ですから、ガーゴイルのいた部屋に逃《に》げこみましょう。笛は門を開けてすぐにでも鳴らしてください」
「分かっている」
レドリックは力強くうなずいた。そして、剣をスラリと抜《ぬ》きはなち、右手で持つ。そして、笛《ふえ》の方は、いつでも鳴らせるように口にくわえておいた。
他の者は、ガーゴイルのいた台座を動かして、部屋の前に障害を作ったりと、部屋でこもって戦うための準備をした。
「いいですか、開けますよ」
スレインは、そう宣言してから、一言、古代語の合言葉を発した。魔法の鍵《かぎ》の呪文《じゅもん》をかけるおり、その言葉で門が開くようにと織りこんでおいたのだ。
巨大《きょだい》な門が、スレインの命令に従って、ゆっくりと開きはじめる。そのとき、外の兵士は破壊槌《はかいづち》をぶつけようとしていたところだった。目標がなくなり、勢いあまった破壊槌が建物の中に飛びこんでくる。
スレインは、大慌《おおあわ》てで部屋の中に駆《か》けもどった。
逃《に》げるときに、空間の一点を指定して、魔法の明かりを飛ばしておいた。相手が暗闇《くらやみ》の中から攻撃《こうげき》するという利点をなくすためだ。
まばゆく輝《かがや》く光球が何もない空間に膨《ふく》れあがり、床《ゆか》といわず天井《てんじょう》といわず、周囲を青白い光で照らしだした。
そのとき、レドリックが確かに笛《ふえ》を吹《ふ》いた。しかし、音はまったく聞こえなかった。そして、レドリックはスレインの後ろから、パーンたちのいる部屋の内側に駆けもどってきた。
「音がしなかったじゃない」戻ってきたレドリックに、シーリスが眉《まゆ》を逆立てながら怒《おこ》る。
「あなたの仲間だけが、頼《たの》みの綱《つな》なのよ」
「今のでいいんだ」
レドリックはそれだけを答えて、後ろを振《ふ》り返った。敵兵の喚声《かんせい》が聞こえてくる。思った以上に、敵の数は多かった。
「百人はいるんじゃない」
ディードリットが悲鳴をあげた。
「仕方ありませんね」
スレインが後ろで古代語魔法をかけるべく、上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱《とな》えはじめた。
「ディード! 風の王は呼べないのか」
「無理よ!」ディードリットはパーンに答えた。
「自然の風が吹く場所じゃなければ、風の王を召喚《しょうかん》することはできないの」
それが精霊《せいれい》の力を使うときの制約なのだ。しかし、その制約がいまいましく思える。パーンは歯がみしながら、
「じゃあ、シルフの守りもかけられないのか?」と、尋《たず》ねた。
「決まってるでしょ」
人間の建てた建物の中では、使える精霊の力が限られる。自然の精霊の力が使えないからだ。
おかげで、ディードリットの得意とする魔法の力はかなり制限される。
「来たわよ!」
シーリスが大声で警告を発した。
「万能なるマナよ、破壊《は かい》の炎《ほのお》となれ!」
スレインの呪文《じゅもん》が、そのとき完成した。スレインの杖の先に、火球がボッと浮《う》かぶ。それは、次の瞬問《しゅんかん》には、駆《か》けよってくる敵の中央に現われ、そして凄《すさ》まじい爆発《ばくはつ》を起こした。
かつてスレインが学んだ賢者《けんじゃ》の学院では、禁断の魔法とされていた、破壊のためだけの炎の魔法、〈火球〉の呪文である。
スレインは、滅多《めった》にこの呪文を使わない。だが、今はそうも言ってられなかったのだろう。
爆発に巻きこまれて、十人近くの兵士が吹き飛んだ。炎で焼かれて、苦痛の呻《うめ》き声をあげている。
魔術師が存在することを知って、敵兵のあいだに動揺《どうよう》が走った。
「怯《ひる》むな! 敵はたかだか数人だぞ」
隊長らしき男が、剣《けん》を振《ふ》りかざして号令を発する。と、その喉《のど》もとに|投げ矢《ダート》が突《つ》き刺《さ》さった。
扉のすぐ横から様子をうかがっていた、マールの仕業《しわざ》だろう。
「戦いを司《つかさど》る偉大《い だい》なる神、マイリーよ。ここに勇者|集《つど》い、戦いに臨まん。我等に加護あれ。鉄の意志と炎《ほのお》の勇気を与えたまえ……」
ホッブが朗々たる声で、〈戦の歌〉の呪文を唄いはじめた。
パーンたちの心の中に、勇気が湧《わ》きおこってきた。戦える、という自信が自分の心|一杯《いっぱい》に広がる。
戦の神マイリーの司祭が、相手に味方していることは、魔術師《ソーサラー》の存在以上にヴェノンの兵士たちにとって衝撃的《しょうげきてき》な事実だったようだ。モス地方の民、特に貴族や騎士《きし》、兵士たちはほとんどが戦の神の信者である。戦の神の司祭が味方しているということは、それだけで正義があると認められるぐらいだった。
今回の戦では、戦の神の神殿はどの公国にも与《くみ》していない。最近のマイリー神殿の考え方は、他国との戦いのおりにこそ、その力を貸そうと考えているみたいだった。
なのに、敵には司祭がいるのである。
ヴェノンの兵士たちは後退を始めた。パーンたちはホッと息をついた。
「安心はできん。態勢を立て直してすぐに襲《おそ》ってくるさ」
レドリックは剣を鞘《さや》に収めると、床《ゆか》にどっかりと腰《こし》を据《す》えた。背中には巨人殺し≠縛《しば》りつけている。相変わらず、氷を背負っているかのような冷たさが、肌《はだ》に伝わってきた。この剣で巨人を斬るまでは、絶対に死ねないとレドリックは誓《ちか》っていた。
10
レドリックの予言は、すぐに現実のものになった。
今度は隊列を組んで、身体が隠《かく》れるぐらいに大型の楯《たて》を持っている。横に湾曲《わんきよく》した方形の楯で、振《ふ》りまわすのには不向きだが、前面からの攻撃《こうげき》に対しては圧倒的《あっとうてき》な防御力がありそうだった。そこから、長槍《ロングスピア》を前に突《つ》きだして、慎重《しんちょう》に進んでくる。
「古い戦法ですね」スレインが、その隊列を見て、驚《おどろ》いたような声をあげた。
「我々の先祖が、古代王国との戦いのおりに使った戦法だと記憶《き おく》していますよ。少々の犠牲《ぎ せい》をかえりみないという捨身の攻撃ですが、実際に守るとなるとすこしやっかいですね」
スレインは密集隊形を取られて、かえって〈火球〉の呪文を使うことを躊躇《ちゅうちょ》している様子だった。戦いなのだから、相手を殺さねば自分が殺される。理性では分かっていても、感情はそうはいかないものだ。
「わたしたちの先祖の戦いでは、族長たちがあの隊形の先頭にいたと伝えられていますがね」
しかし、今は隊長らしき男は隊列から離《はな》れた後ろから、突撃《とつげき》の号令を発していた。その号令に従って、一歩一歩、兵士が近寄ってくる。
「どうするのよ」
叫《さけ》ぶシーリスの声が、耳に痛いほど甲高《かんだか》くなっていた。
すこし躊躇したあとに、スレインは〈|眠《ねむ》りの雲〉の呪文を唱《とな》えた。とにかく、敵の隊列を崩《くず》すことが目的だった。
呪文の影響《えいきょう》を受けて、何人もの兵士がバタバタと倒《たお》れる。しかし、その倒れた仲間を踏《ふ》みこえて、兵士たちは隊列を組みなおしながら、またも向かってくる。仲間に踏まれて意識を回復した兵士たちが、その後列につく。
「仕方ない。頭からひとりずつ、つぶしていくしかないか」
レドリックはパーンと顔を見合わせて、戸ロのところに立った。
「マール、後ろの扉は開けていてくれ。すこしずつ、後退しながら、戦うから」
パーンは、切った敵の死体を障害物としながら、戦うつもりだった。
「下の扉から回られないかな」
「奴《やつ》らは、この遺跡の構造は知らないはずだ。それに賭《か》けるしかないだろう」
「賭けるしかないね」
マールは後ろの扉を開けて、階段を駆けおりていった。
「疲《つか》れたら下がってよ。わたしたちが、代わるから」
シーリスは、パーンの斜《なな》め後ろの位置に立った。ホッブもそのつもりらしく、武器を構えると、シーリスの反対側の位置に移動した。
「そうさせてもらう」
パーンの代わりにレドリックが答えた。
そのとき、密集隊形の先頭が、パーンたちとの戦いに入った。何本もの長槍が、伸《の》びてくる。
パーンとレドリックは気合いの声とともに、その槍《やり》の穂先《ほさき》を払《はら》い、ときには楯《たて》で受け止めた。そして、頭を狙《ねら》って剣を振るう。
血しぶきをあげて、何人かの兵士が倒《たお》れた。しかし、敵の歩みは止まらなかった。パーンたちはじりっじりっと後退を余儀《よぎ》なくされる。
「この部屋はもう持たない。みんな、階段に下がるんだ」
パーンは剣を振るう手を休めることなく、そう怒鳴《どな》った。ディードリットとスレインが不安そうに部屋を出ていく。
「シーリス、ホッブも早く!」
「心得ました」
「わ、分かったわ」
ふたりの声が返ってくる。それを確かめる余裕《よ ゆう》さえなかった。動きの軽いレドリックは、敵の槍をうまくあしらっているが、パーンの方はすこし素速さに欠けていた。ときどき、槍の穂先が鎧《よろい》をかすり、嫌《いや》な金属音が聞こえてくるときがある。
身につけているのが、魔力《まりょく》を帯びた鎧でなければ、何本かはパーンの身体に刺《さ》さっていたことだろう。
「ここで踏《ふ》ん張るのは、無理だ。とにかく、相手の隊列を崩《くず》さないと」
レドリックが声をかけてくる。
「階段のところまで、下がりましょう。あそこなら、密集隊形など取れないはずです」
「ならば、踊場《おどりば》だ。階段の上から攻撃《こうげき》されるのは、面白くない。それに、踊場なら長槍も使えないだろう」
槍が使えなかったら、格闘《かくとう》戦用の|小 剣《ショートソード》が彼らの武器となる。剣同士の戦いならば、パーンはまだ頑張《がんば》れる自信があった。
パーンは楯《たて》を使って、レドリックは大胆《だいたん》にも足で、敵の先頭を一瞬《いっしゅん》だけ押《お》しかえした。相手の体勢が、すこしのあいだ崩れる。その隙《すき》をついて、パーンとレドリックは、開け放たれた後ろの扉から、階段へと逃《に》げこんだ。
そして、階段をほとんど転げるように降りる。上から、槍が何本か投げられてくるが、もとより投げるのには適していない長槍だったから、ほとんどが命中しなかったし、当たったものも鎧を貫通することはなかった。
踊場まで降りると、パーンたちはくるりと向きをかえた。
「もうすこし、長く持たせてほしかったな」
マールが、あわてて階段を駆《か》けのぼってくる。その手には、何やら握《にぎ》られていた。
「パーン、ちょっと頭を伏《ふ》せて」
慌《あわ》てて、その言葉に従うと、頭の上を何かが通りすぎていった。乾《かわ》いた音を立てて、それは階段で弾《はず》んだ。
「何をしたんだ?」
「油壷《あぶらつぼ》を投げたんだよ! 落ちてきた人間には、すぐにとどめを刺してよ」
階段の上に黒い影《かげ》がいくつも姿を現わした。彼らは、二列に隊列を組みなおすと、小剣をかざして、突撃してきた。
が、階段の途中で、何人かがバランスを崩した。マールが投げた油に足を滑らせたのだ。悲鳴を上げながら、階段を転げ落ちてくる兵士の胸に、パーンたちは容赦《ようしゃ》なく剣を突《つ》きたてた。刃が肉に食いこんでいく嫌《いや》な感触《かんしょく》が手に伝わってくる。
「次に街《まち》に着いたら、また油を買いこんでおかなきゃ」マールはため息まじりに言った。
「あれは、燃えやすくて滑《すべ》りやすい、盗賊《とうぞく》ギルド特製の油なんだけどなぁ。この島で、手に入るかなぁ」
マールはつぶやきながら、自分の仕事は終わったとばかりに、階段をふたたび降りて部屋の中に消えていった。
パーンたちは多勢に無勢という言葉をこれほど実感したことはなかった。踊場《おどりば》では、十人以上を倒《たお》した。それでも、敵は押《お》しよせてきた。
やむをえず、階段を後ろ向きに降りながら、一段降りるたびに、ひとりを斬り倒した。
しかし、後から後から敵は現われた。
ついに耐え切れなくなり、パーンたちは下の部屋まで退却《たいきゃく》を余儀《よぎ》なくされた。
「代わろうか?」
シーリスが尋ねてくる。パーンは、確かに疲労《ひ ろう》の極地にあった。だが、首を振《ふ》った。正直に言って、シーリスたちでは防ぎきれるとは思えないからだ。ホッブも戦士の訓練は積んでいるが、乱戦に慣れているとは思えない。
敵はすぐに押し寄せてきた。パーンは、ふたたび剣を振るいはじめた。
戦うふたりの背中に、ホッブが神聖魔法《ま ほう》の呪文《じゅもん》を唱《とな》えながら、かるく手を触《ふ》れた。
それで、幾分《いくぶん》か疲労《ひ ろう》が回復した。それから、ホッブは〈戦の歌〉の詠唱《えいしょう》をはじめる。
この部屋での戦いも、あまり長くは持たなかった。敵は部屋に入ったとたん、ふたたび密集隊形で押しすすんできたからだ。
マールはあわてて後ろの扉を開けて、部屋の外に飛びだす。ディードリットとスレインがまず続き、それからシーリスとホッブが外に出た。
「早く部屋の外へ!」スレインが焦《じ》れたように、声をかける。
「それから、部屋を出たらすぐに扉のところから離《はな》れてください」
スレインが何か呪文をかけるつもりなのは、あきらかだった。
パーンはうなずいたが、それが彼に見えたかどうかは分からない。パーンたちは戦いながら、出口に向かってじりっじりっと後退した。
そして、扉をくぐると地面を思いきり蹴《け》って、左右に飛びのいた。
「稲妻《いなずま》よ!」
そこを狙《ねら》ったかのように、スレインは賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を前に差しだした。杖の先から青白い稲妻が走り、それが扉を通って部屋の中にまっすぐ飛びこんだ。
〈電撃〉の呪文である。密集隊形を組んでいた敵は、たまらない。苦痛の悲鳴をあげながら、パタバタと倒れていく。致命傷になっているわけではないが、身体が痺《しび》れてしばらくのあいだ動きが取れない様子だった。
「今です。あとは敵が入口を手薄《てうす》にしてくれていることを願うだけですね」
スレインは荒《あら》い息をつきながら、傾斜《けいしゃ》した床《ゆか》を登りはじめた。自分では走っているつもりだが、まるで夢《ゆめ》の中にいるように、全然足が進まなかった。今の〈電撃〉の呪文で、かなり消耗してしまったようだ。
しかし、敵もしばらくのあいだはさすがに追いかけてこなかった。
坂道の折り返しまで登り、パーンたちは期待を込《こ》めて、門の方を見上げた。
「だめじゃないかー!」
マールはほとんど泣きそうな声で叫《さけ》んだ。
門の所にも、まだ何十人かの敵兵が待ち構えていたのだ。
この砦《とりで》には、結局、百人をはるかに超える数の敵兵がいたようだ。ヴェノン公国は、この砦を重要な防衛|拠点《きょてん》と考えていたに違いない。これほどまでの兵を割《さ》いて巨人殺し≠フ剣を守ろうとするあたり、いにしえの巨人の力がいかにヴェノン公国にとって大きな比重をしめているかが分かる。巨人さえ倒《たお》せば、奴《やつ》らに勝てるとレドリックが信じているのももっともだった。
「後ろからも追いかけてきますな」
ホッブの声は、驚《おどろ》くほど冷静だった。
「はさみ撃《う》ちか……」
パーンは、下唇《したくちびる》を痛いほどかんでいた。不安そうに寄りそってきたディードリットの背中に無意識に手を回していた。
「シーリス、すまない……」
レドリックは、うなだれたようにそう言った。
「君や、君の仲間をこんな目に遭《あ》わせてしまって……」
「わたしは、あきらめないわ!」
叫《さけ》んで、シーリスは剣を抜いた。
「あの門にいる敵兵を突破《とっぱ 》したなら、逃《に》げおおせるかもしれないのよ。自分の命の火が消えるまで絶対にあきらめるものですか。男ならそんな弱音を吐《は》く前に、剣を抜いたらどう?」
レドリックは思わず、シーリスの顔に引き付けられた。彼女は、伝説に聞く勇気の精霊《せいれい》バルキリーのように凜々《りり》しかった。
剣を構えて、一歩も後に引くものか、と門の近くにいる敵を睨《にら》みつけている。
「分かった。オレの命と引き換《か》えにしても、君と君の仲間は守ろう」
レドリックは剣を抜いて、それを強く握《にぎ》りなおした。
「命と引き換えにですって?」
シーリスの声にはまぎれもない怒《いか》りがこもっていた。
「そんな押《お》し付けがましい好意なんて、わたしはごめんだわ。他人だけを助ける方法なんか考えないで、自分も他人も助かる方法を考えてよ。それが、王子たるあなたのなすべきことでしよう」
オルソンは、ひとりだけで十分だった。あんな悲しい人間を、シーリスはこれ以上、見たくはなかった。
「……約束《やくそく》しよう」
レドリックは、シーリスに力強くうなずいた。
「待って!」
突然《とつぜん》、声をあげたのはディードリットだった。
「どうした、ディード」パーンが尋《たず》ねる。
「この音は何、風を切りさいてやってくるこの物音は……」
ディードリットは敵兵の喚声《かんせい》の中にまじって聞こえてくる不思議な音を耳で追いかけた。ディードリットのいる場所にまで風が吹きこんでくる。自然の風ではない。なにものかが巻き起こしている突風《とっぷう》にも似た風。
この風は、前にも経験がある。ディードリットは、記憶《き おく》の糸をたぐった。あれは、そう、火竜《かりゅう》の狩猟場《しゅりょうば》でのこと。
「まさか……ドラゴン!」
ディードリットは震《ふる》える声で叫《さけ》んだ。
その言葉が発せられたまさにその瞬間《しゅんかん》、門を固めていた兵士たちの隊列が突如《とつじよ》として乱れはじめたのを、ディードリットは見た。
そして、門の辺りが真っ赤に輝《かがや》いた。〈火球〉の呪文《じゅもん》にも似た炎の爆発《ばくはつ》。そして、強く規則正しい風が巻き起こり、門の外に巨大《きょだい》な獣《けもの》が姿を現わした。
その姿は、まごうことなくドラゴンであった。最強の幻獣《げんじゅう》にして、魔獣《まじゅう》。
「間に合ってくれたか!」
ドラゴンの姿を見て、レドリックが歓喜の声をあげた。
そのドラゴンの首の辺りに、人間の乗っているのが見えた。
「レドリック!」
「戦《いくさ》の神よ、感謝します。シーリス、助かったぞ。あれは、あれこそ、ハイランドの誇《ほこ》る竜騎士なんだ」
そして、自分たちが置かれている状況《じょうきょう》も忘れて、シーリスの手を取ると痛いほどそれを握《にぎ》った。
シーリスは、何が起こったのか瞬時《しゅんじ》には理解できなかった。しかし、何とか生き延《の》びることができそうな気がしてきた。
そして、その予感は間違ってはいなかったのである。
11
「危ないところでしたな」
そう言いながら、ひとりの男がドラゴンからヒラリと地面に飛びおりた。
パーンたちは間近でみるドラゴンの巨大《きょだい》さに圧倒《あっとう》されながら、恐《おそ》る恐る近寄っていった。
ドラゴンははいつくばって、首を地面にピタリと付けていた。それでも、ドラゴンの高さは、パーンたちの頭よりはるか上にあった。頭から尻尾《しっぽ 》の先までは、馬を十頭ばかり集めたぐらいの長さがあろう。
笑顔でドラゴンから降り立った騎士を、パーンは宮廷で見たことがあると思った。ホッブの無礼とも思えた質問に、答えようとした男だった。
男は、ラウドと名乗った。
たった一騎の竜騎士の出現で、戦いの形勢は完全に変わった。パーンたちを追いつめ、勢いづいていたヴェノンの兵たちが、たちまちのうちに恐慌《きょうこう》状態に陥《おちい》り、逃走《とうそう》してしまったのだ。
その後、パーンたちはほんのわずかの兵士と剣を合わせただけで、ほとんど血を流すことなく危機を脱出《だっしゅつ》した。おまけに、ヴェノン公国の砦《とりで》まで手に入れてしまった。
「竜騎士がいかに恐れられているか、よく分かりましたよ」
パーンには、そう言うしかなかった。敵が潰走《かいそう》する様は、罠《わな》なのではと疑うほどに見事だった。
「しかし、早晩、援軍《えんぐん》を連れて戻《もど》ってくるでしょう。一日も待てば、国境警備の兵士が迎《むか》えにまいります。彼らとともに、この砦をお離《はな》れください」
ラウドは、うやうやしくレドリックに頭を下げた。そして、自分は逃《に》げるヴェノンの兵士を追撃《ついげき》します、とふたたび竜にまたがろうとした。
レドリックはそれを引き止めた。
「追撃など無用だ。それよりは、この地に留《とど》まってオレに力を貸してくれ」
怪訝《け げん》な顔をして、ラウドはレドリックの次の言葉を待った。
「これまでの、ヴェノンとの戦いは、一方的に追いまくられるばかりだった。しかし、これからは違《ちが》う。巨人を倒《たお》すための魔剣《ま けん》を手に入れた以上、今度は我々が追う立場になるのだ。そして、その最初の戦いの場こそこの砦だ。この砦に留まれば、敵は絶対にやってくる。あの忌《いま》わしい、いにしえの巨人を連れてな」
レドリックの言葉は力強かった。ラウドの顔が喜びで輝《かがや》く。
「これだけの規模の砦、容易に放棄《ほうき》するのももったいのうございますな。この地に兵を駐留《ちゅうりゅう》できれば、ヴァリスとの行き来も可能になります。不足している物資も運んでくることができるでしょう」
「そういうことだ。国境警備の兵士は何人ぐらいくる?」
「およそ、百人といったところでしょうか、そうと知っていれば、もう二百ばかりに命令を与えておきましたものを」
「百か……」
レドリックはしばし考えこんだ。
「巨人《きょじん》との決戦に十分かどうか難しいところだな。敵も、今度は竜鱗騎士団の精鋭《せいえい》を連れてくるだろうし……」
「今から、わたくしが飛びましょうか?」
「いや、かまわん。要するに巨人さえ倒《たお》せば我々の勝利なのだ。ただ、念のため、オレの竜は呼んでおこう」
そして、レドリックは懐から例の笛《ふえ》を取りだすと、強くそれを吹《ふ》いた。人間には、決して聞こえることのない音が、風に乗って四方に散っていく。かなりの遠方までにも、この笛の音は届くのだそうだ。
この笛が竜笛と呼ばれること、竜を制御するためには、欠かすことのできない道具であることを、パーンたちは先刻教えられた。竜の骨からのみ作られる魔法《ま ほう》の笛だった。この笛の秘密は、金鱗《きんりん》の竜王マイセンより教授された。笛の吹き方などは、竜騎士たちだけに教えられる極秘|事項《じこう》であるという。
「さて、色々と世話になったが……」
ラウドとの話が終わると、レドリックはパーンたちの方にやってきた。
「これで、お別れなんていうんじゃないでしょうね」
シーリスが険悪《けんあく》な顔でレドリックを睨《にら》みつけた。まさしく、そのつもりだったレドリックは、驚《おどろ》きの色をかくすことができなかった。
「ここまで関わったのだから、巨人との対決まで付き合わせてもらいますよ」
シーリスに代わって、パーンがそう申し出た。
「ジェスター公に知られるといい顔はされないかもしれませんが、それについてはレドリック殿下《でんか 》も一緒《いっしょ》でしょう」
パーンは、笑顔でそう言った。
「その通りだ。いかに、病床《びょうしょう》にあるとはいえ、いまだ父こそがハイランドの太守だからな」
なのに国境警備の兵やら竜騎士を動員して、このことをジェスター公爵《こうしゃく》に知られたら、ただではすまない。
「しかし、今は緊急《きんきゅう》を要する。あなたの決断は、間違《ま ちが》っていないと思います。ここが正念場です。巨人を倒し、この砦《とりで》を守れば、ドラゴンスケール、ヴェノンとの戦いは有利に運ぶでしょう。そのお手伝いをさせてください。気がすまないというのなら、金でオレたちを雇《やと》うという形をとってくれてもかまいませんよ。オレはシーリスとは違いますから、国の半分をよこせなんて無茶は言いません」
「だからあれは、なりゆきだったのよ」シーリスがそう抗議《こうぎ 》する。
「そんな約束《やくそく》をされたのですか?」
横で聞いていたラウドがあきれて、口をはさんだ。
「王子たるものが空約束をされてはこまりますな。人を欺《あざむ》く王など、民は信用しませんぞ」
「無茶を言う。まさか本気で、国の半分をやれ、というのではないだろうな」
「そこの女性は、おそらく殿下好みと拝見しましたが、いかがですかな。結婚《けっこん》でもされれば、約束ははたせることになりますぞ」
そして、ラウドはやや下品な声で豪快《ごうかい》に笑った。さすがに竜騎士だけあって、その剛胆《ごうたん》さは立派なものだった。
「言っていろ!」
「王子様も実は、まんざらでもないんじゃない」
マールがシーリスに聞こえないように、そうつぶやいた。
「男と女の関係も、またひとつの戦い。そうはうまくはいかぬものだ」
ホッブが説教をするような口調でそう言った。
一同がその言葉につられて楽しそうに笑う。
シーリスとレドリックだけが、憮然《ぶぜん》とした表情を浮《う》かべていた。
「これ以上、その話題を続けると、怒《おこ》るわよ」
シーリスの剣幕《けんまく》に脅《おび》えたように、マールが首をすくめて、こそこそと彼女のそばから逃《に》げだす。
「とにかく、オレたちは戦わせてもらいます。いいですね」
「ありがとう、パーン」
レドリックはパーンの手を取り、強く握《にぎ》った。
「礼は巨人を倒してからでけっこうです」
「もちろん、巨人は倒すとも。この魔剣にかけてな」
レドリックは鞘《さや》に刃を収めたままで、背中から魔剣をはずすとそれを天に向かって差しあげた。
「戦《いくさ》の神マイリーよ、正義の神ファリスよ照覧《しょうらん》あれ!」
きらびやかな装飾《そうしょく》を施《ほどこ》された古代王国の魔剣は、五百年ぶりに見る太陽の光を反射して、虹色《にじいろ》の輝《かがや》きを放った。
国境警備の兵が到着したのは、翌日の朝だった。ここまで強行軍でやってきたのだろう。その頃には、すでにレドリックのドラゴンも飛来してきており、さらに事情をそれとなく察した竜騎士がもうひとり加勢にきてくれていた。まだ若い騎士で、名前をジェイスといった。
四騎しかいない竜騎士たちのうち、三騎までもがこの砦《とりで》に集まったのだ。本国はかなり手薄《てうす》となっているだろうが、ヴェノン公国が、この期にハイランド本国を攻撃《こうげき》するとは思えなかった。
もし、そんな強行《きょうこう》手段に出るのならば、レドリックはヴェノンの王城に攻撃をしかけるつもりでいた。
行方知れずとされていたレドリックの元気な姿を見て、そしてラウドから巨人を打ち倒《たお》すための武器を若き王子が手に入れたという知らせを聞いて、到着《とうちゃく》したハイランドの兵士たちの士気は上がった。
話を聞くかぎりにおいては、いろいろと問題もある王子であったが、兵士たちの信頼《しんらい》はかなり厚いようだ。勇者の資質を持っている男だ、とホッブはレドリックをそう評していた。
「勇者の資質、そして国王の資質をね。今は、まだ開花していませんが、そのうちに立派な王となるでしょう」
ホッブのこの言葉を聞いて、パーンは強くうなずいた。その会話を横で聞いていたスレインが、複雑な顔で見つめてきたので、パーンは苦笑いを浮《う》かべ、その場をごまかした。ライデンでの口論を再現するのは、今は避《さ》けたいと思ったからだ。スレインも、それは心得ているらしく、地下迷宮の宝物庫で新たに見つけだした古代書に視線を戻《もど》した。彼にとっては、いちばん幸せな時間なのだ。
ザクソンにいるときには、眠《ねむ》っている小さなニースの隣《となり》で椅子《いす》に腰《こし》かけて、本を広げている彼の姿をパーンは何度も目撃《もくげき》している。
パーンもディードリットも、ニースに触《ふ》れるのが怖《こわ》くて、いまだに抱《だ》いたことはないが、小さな命が元気に育っているのを見るのは、何より嬉《うれ》しかった。マーファの司祭の説く、人間の自然な生き方というものが、実感できたように思うのだ。
ハイランドの兵士たちは忙《いそが》しく働いていた。砦《とりで》のあちらこちらを修復したり、近くの森に罠《わな》を仕掛《しか》けたり、とすることはいっぱいあったのだ。敵は破壊槌《はかいづち》や大型投石器《カタパルト》といった大型の兵器を残していたが、それらを城壁《じょうへき》のしかるべき場所に配置するという作業も残っていた。
それから、近くの木を伐《き》って、さらに固定式の弩弓《バリスタ》なども、この場で作りはじめた。鍛冶場《かじば》の炉《ろ》には火が入り、金槌《かなづち》の発する音は昼夜やむことはなかった。
もちろん、パーンたちも兵士たちにまじって働いた。彼らは、勇者としてハイランドの兵士たちに認められ、そして仲間として迎《むか》えられた。
そんな日々が三日ばかり続き、四日目の昼過ぎ。巨人《きょじん》の姿が見えたとの報告が見張りからもたらされた。
12
「いよいよ来たか」
レドリックは見張りの報告を受けると、自分も見張り楼《やぐら》に駆《か》け登って巨人の姿を確かめようとした。
「どこにいる?」
「あれです。谷沿いの林の切れ目に、巨人の頭が見えるでしょう」
見張りの兵士に言われて、レドリックは目を凝《こ》らした。そして、巨人の姿を見つけだした。まわりの木々よりも頭ひとつ高い。上半身は裸で下半身に申し訳程度に腰布《こしぬの》を巻いている。だれが、あの布を織ったのだろうと、陳腐《ちんぷ》な疑問が頭に浮《う》かんだ。
「巨人め! 今日こそが貴様の最期だ」
そう吐《は》き捨てると、レドリックは登ってきたときと同じ勢いで見張り楼《やぐら》を駆けおりた。
パーンたちも、巨人がやってきたという知らせを聞いた。各々、砦《とりで》の補強の作業を手伝っていたが、それを中断してあわてて武器や防具を身につけはじめた。
「パーン、今回の戦はあくまでレドリック王子の援護《えんご》に徹《てっ》してくださいよ。巨人殺しの名声は、あの王子にとって絶対に必要なものですからね。あなたは、すでに竜殺しなんですから欲張るんじゃありませんよ」
「変わった忠告だな、スレイン」パーンは口許に苦笑いを浮《う》かべた。
「もちろん、心得ているさ。だいいち、巨人に対抗《たいこう》するための唯一《ゆいいつ》の武器は、レドリックが持っている。オレは人間だけを相手にするつもりだ」
そう答えながら、剣と楯《たて》の他に長弓《ロングボウ》を肩《かた》にかけた。
「今回は砦を守る戦いだから、かなり楽だな。外壁が脆《もろ》くなっているのが、ちょっと気にくわないがな」
「城と同じわけにはいきませんよ。しかし、こんな砦でも、守りやすさは全然、違《ちが》いますからね。もっとも、巨人に対しては役に立たないでしょうけどね」
スレインもすでに支度を終えていた。革の鎧《よろい》をローブの内側に着こんで、手には賢者《けんじゃ》の杖《つえ》をしっかりと握っている。
巨人を先頭に押し立てて、ヴェノンの軍勢は砦の外壁に迫《せま》っていた。
パーンたちが支度を終えて、外に飛びだしたときには、すでに気の早い兵士たちが巨人に向かって、投石器の攻撃《こうげき》を始めていた。
「あわてる必要はない。十分に、引きつけてから攻撃すればいい」
レドリックがはやる兵士たちを落ち着かせようとしている。
彼は兵士たちに細かい指示を与えながら、自らは砦の中庭におとなしく座っているドラゴンのもとに走っていた。その首のところに、人間が乗るための特製の鞍《くら》が置かれているのが見える。革製のベルトが十字に付いていて、どんなに無茶な飛び方をしようと、乗り手が落ちないように作られている。ただ、竜を自在に操れるようになるまでには、早くても三年はかかるのだそうだ。
ラウドとジェイスのふたりの竜騎士は、すでに各々のドラゴンを駆って、舞《ま》いあがっている。砦の上空を、円を描《えが》くように優雅《ゆうが 》に飛行していた。パーンはあんな高さのところにいて、よく怖《こわ》くないものだと感心した。
空を飛んでいるあいだは、いかに巨人とてドラゴンには手出しのしようがないのだそうだ。しかし、下手に攻撃をしかけたら、岩を投げつけられるか、木で殴《なぐ》られるかして、勝負がついてしまうらしい。巨人の怪力《かいりき》を以《もっ》てすれば、ドラゴンの強靭《きょうじん》な身体も、簡単に引き裂《さ》かれるのだという。
「御無事で、殿下《でんか 》」
パーンはゆっくりと上昇していくレドリックに向かって、そう声をかけた。
「そちらもな」
そして、レドリックを乗せたドラゴンは、激《はげ》しく羽ばたいて、恐《おそ》ろしい勢いで空に翔《か》けあがっていった。
パーンは砦《とりで》の外壁《がいへき》の上に立った。そこからだと、巨人の全身をはっきりと見ることができた。その後ろに、ヴェノンの軍勢が続いている。竜鱗騎士団を中心に、その数はおよそ三百。砦を守るハイランド軍の倍以上だ。
炎《ほのお》の巨人は、話に聞いていたよりも遥《はる》かに巨大に感じられた。自分と同じ姿をしているだけに、その巨大さを実感できるのだろう。
パーンは、生唾《なまつば》をゴクリと飲みこんだ。下手な樹木よりも、よほど高かった。
「攻撃はじめー!」
そのとき、あちらこちらで、兵士長たちから号令が発せられた。号令に従って、投石器《カタパルト》や弩弓《バリスタ》など大型の飛び道具が、巨人に、そして突撃《とつげき》を開始したヴェノン軍に対して放たれていく。
戦いが始まったのだ。
目標の大きな巨人は、石や矢を全身に受けていた。だが、どれだけダメージを受けているのか、疑わしかった。両腕《りょううで》で顔を覆《おお》いかくしただけで、速度を落とした様子もなく、砦に近づいてくる。
噂《うわさ》どおりの不死身ぶりを見せつけられて、ハイランド軍の方が浮《う》き足だちはじめた。さほど有効とも思えない攻撃をやみくもに巨人に対し繰《く》り返すだけだった。
「いけませんね。巨人はレドリック王子に任せて、敵の騎士や兵士たちを消耗《しょうもう》させないことには苦戦をしいられます」
スレインが、そうつぶやいた。竜騎士たちが上空に上がっているので、砦を守っているのは、正規の兵士とはいえ、あまり訓練もされていない男たちなのだろう。指揮系統もさほどしっかりしたものではなさそうだった。
そのとき、左の方でドーンという巨大な音が響《ひび》いた。見れぽ、見張り楼《やぐら》のひとつが、巨人の投げた岩で破壊されていた。
巨人がひろって投げる岩は、投石器から発射される石よりもはるかに大きく、その破壊力の凄《すさ》まじさは背筋が寒くなってくるほどだった。木で造られた見張り楼など、波に洗われる砂の城よりももっと脆《もろ》かった。砦の外壁だって、ひとたまりもないだろう。
「あんなに大きいと、シルフの守りをかけたって、ぜんぜん効果がないわ」
ディードリットが息を飲んだ。
「岩が自分に飛んできたら、あきらめるしかないな。しかし、それまでにヴェノンの軍勢をできるだけ減らしておいてやる」
パーンは長弓《ロングボウ》を肩《かた》からはずすと、弦《つる》を張って、具合を試すように何度か引いてみた。あまり質のいい弓とは思えなかったが、パーンも弓の腕前《うでまえ》はたいしたことはないので、あまり文句はいえなかった。
とにかく、矢をつがえ、弦を引きしぼる。それから、敵の騎士に狙《ねら》いをつけて、気合いの声とともに放った。
が、矢は見当|違《ちが》いの方向に飛んでいった。
二本目もはずれ、三本目でようやくひとりの騎士の肩口を射ぬくことができた。騎士は、馬から転げ落ちたが致命傷にはなっていないだろう。
そのあいだに、敵は砦《とりで》にどんどん近づいてきていた。巨人《きょじん》もすぐ目前に迫《せま》っている。
「砦の門を死守するのは難しいかな?」
パーンはスレインに尋《たず》ねた。
「そう思います。どうせ、巨人の一撃《いちげき》で壁など崩《くず》れてしまうのですから」
「同感、この場を離《はな》れて、庭で戦いましょう。乱戦になれば数の多いほうが有利だけど、そんなこと言ってられないもの」
そう言って、シーリスはいち早く、砦の外壁から降りていった。
「レドリック……」
地面に降り立ったとき、シーリスは祈《いの》るような表情で、空を見上げた。
竜に乗って空に舞《ま》いあがったまではよかったのだが、はっきりいってレドリックは巨人を攻《せ》めあぐねていた。
巨人にどうやって近づけばいいのか、まったく考えていなかったのだ。とにかく、一太刀《ひとたち》でも浴びせればいいのだ。それで巨人は死に、この戦いは勝利のうちに終わるのである。
巨人はすでに砦のすぐ近くまで迫っていた。巨大な岩を投げつけるたびに、砦の壁といわず、塔《とう》といわず、何かが破壊《は かい》されていった。巨人は大型の武器をつぶすことが狙いらしく、今やそのほとんどが破壊され、そのまわりには、兵士の死体が散乱していた。巨人の投げた岩につぶされ、生前の姿をまったく留めていなかった。
「こうしていてもはじまらん」
レドリックは決音心した。
「ラウド、行くぞ。おまえは正面から巨人を牽制《けんせい》してくれ。オレは背後に回りこんで、奴《やつ》を仕留める。ジェイスは、砦の兵士を援護《えんご》し、ヴェノンの騎士どもに攻撃を仕掛《しか》けてくれ。奴らを砦の中に入れるなよ」
レドリックは、大声をあげて仲間の竜騎士に命令を発すると、自分は左に大きく旋回《せんかい》して、巨人の背後に回りこもうと、ドラゴンを操った。
ラウドは勇敢《ゆうかん》にも、急降下して巨人の正面から突《つ》っ込んでいった。そして、ドラゴンに炎《ほのお》を吐《は》くように命じる。
巨人がそれで傷つかないことは承知していた。あくまで牽制のためである。
巨人は、怒《いか》りの咆哮《ほうこう》を発して、両手を振《ふ》りまわした。その手が届くか届かないかのところで、ラウドは竜を右に方向転換させて、攻撃を逃《のが》れた。
「もう一度だ!」
ラウドは騎馬たるドラゴンにそう命令した。彼の忠実なドラゴンは、了解の意を示すかのように小さく吠えた。
レドリックは、巨人の首筋を一心に見据《みす》えていた。そして、背中の魔剣《ま けん》を今こそとばかり、ゆっくりと抜《ぬ》き放つ。またがった竜が、すこし不快そうに身体を動かした。
「どうした、ウィップテイル」
レドリックは自分のドラゴンの名前を呼んで、落ち着かせるように固い鱗《うろこ》で覆《おお》われた首筋を叩《たた》いた。
「いくぞ!」
気合いの声とともにドラゴンを全速で羽ばたかせた。それから、翼《つばさ》をすこし縮めて、ドラゴンは低空を滑《すベ》るように飛ぶ。
巨人はまだレドリックに気付いていない。巨人の正面から何度も急降下を試みるラウドのドラゴンに完全に気を取られていた。
と、突然《とつぜん》、巨人が地面にしゃがみこんだ。何が起こったのだ、とレドリックは驚《おどろ》いた。それはラウドも同じだったらしく、それまでよりも方向を変えるタイミングがすこしずれてしまった。あきらかに巨人に近づきすぎていた。
「ラウド! 罠《わな》だ」
聞こえるはずのないことは分かっていた。しかし、レドリックはそう叫《さけ》ばずにはいられなかった。
巨人は、一度、四つんばいの姿勢になると、まるで蛙《かえる》のように思いぎり前に跳《は》ねた。そして、ラウドの竜《ドラゴン》の翼と尻尾《しっぽ 》を捕《つか》まえた。
ふたつの咆哮《ほうこう》が同時に上がった。巨人とそしてドラゴンから発せられたものだ。巨人のそれは勝利の咆哮であり、ドラゴンのそれは苦痛のために発せられたものだった。
ドラゴンは地面に叩きつけられていた。
そこに、砦の外壁があった。
岩を積みあげてできていた壁は、いとも簡単に破壊《は かい》された。土煙《つちけむり》がもうもうと舞《ま》いあがり、あわてふためくハイランド兵の姿を覆《おお》いかくした。
地面に落ちたところで、ドラゴンと巨人とは死闘《しとう》を開始した。
レドリックは、しばし目を伏せてラウドの冥福《めいふく》を祈《いの》った。巨大なふたつの生き物の格闘戦《かくとうせん》に巻きこまれて、無事でいられるはずはないのだ。
巨人はドラゴンの翼をもぎとろうと片手を胴《どう》にまわし、もう片方の手で翼を握《にぎ》った。そして、力を込《こ》める。バキバキという不気味な音がドラゴンの身体から聞こえてきた。最強を謳《うた》われる魔獣《まじゅう》は断末魔《だんまつま 》の咆哮をあげながら、死にものぐるいで口から炎《ほのお》を吐《は》いた。そして、前足の鉤爪《かぎづめ》で巨人の腹をえぐった。皮膚《ひふ》が裂《さ》け、赤いものが流れだす。
巨人はついに、ドラゴンの右の翼を完全にもぎとった。ドラゴンの体液《たいえき》がそこから溢《あふ》れだす。勝利を確信した巨人は、今度は首筋をしめつけた。そこにあったはずの鞍《くら》は、いつのまにか千切れとんでしまっており、主人の姿もいずこかに消えていた。
喜びの野に行ったのだ、とレドリックは心の中でつぶやいた。
「ラウドの死を無駄《むだ》にはせん!」
レドリックはウィップテイルを操り、ラウドのドラゴンにとどめをさそうと腕《うで》に力をこめる巨人の背中に矢のように飛びこんでいった。
レドリックは両肩《りょうかた》にたすき状にかかっている革のベルトをはずした。左手で鞍についた取手を握りしめ、右手で巨人殺し≠かざす。
ウィップテイルは、巨人の背後に後ろ足の鉤爪を突《つ》きたてるように飛びついた。
巨人はようやく新手のドラゴンに気がつき、すでに死体と化しているドラゴンの首から手を離《はな》した。振《ふ》り向いた視線の先に、小さな生き物の姿があった。
巨人殺し≠フ剣先を正面に向けて、飛びうつろうとしているレドリックの姿だった。捨身の戦法というより、相打ちを狙《ねら》っているようにしか見えなかった。
「無茶なことを」
パーンがあきれて、そうつぶやいた。自分に無茶だと言わせるのだから、たいしたものだと感心さえする。
「もらったぞ、巨人!」
レドリックは歓喜の叫《さけ》び声をあげた。
巨人殺し≠フ刃は、間違《ま ちが》いなく巨人の身体に突きささっていた。たいして深く食いこんだとは思えない。しかし、これで勝《か》ったという確信を、レドリックは感じていた。後は、巨人が倒れるのを待つだけだ。
仰向《あおむ》けには倒れてくれるなよ、と心の中でつぶやく。巨人の下敷《したじ》きになれば、絶対に助からないに決まっている。
だが、巨人はいつまでたっても倒れなかった。それどころか、まったくダメージを受けていないようにさえみえた。
「そんなはずはない」
レドリックの歓喜は、一瞬《いっしゅん》にしてどこかに飛んでいってしまった。
地上から事の成り行きを見つめていたパーンたちにしても、それは同様だった。
巨人は肩《かた》に剣《けん》を突《つ》き立てた卑小《ひしょう》な生き物を、燃えさかる炎《ほのお》のように真っ赤に充血《じゆうけつ》した目で振《ふ》り返った。
巨人はレドリックに手を伸《の》ばそうとしたが、届かなかった。
そうと分かって、巨人は身体を激《はげ》しく揺《ゆ》すった。たまらず、剣が抜《ぬ》けて、レドリックの身体は宙に舞《ま》った。
「レドリック!」
シーリスは、レドリックが落ちていく方向に反射的に走りはじめていた。しかし、間に合うはずはなかった。
が、次の瞬間《しゅんかん》、レドリックの身体がフワリと空中で静止した。それから、目に見えない手に乗せられて下ろされていくように、ゆっくりと着地した。
「スレインなの?」
シーリスは、痩《や》せた魔術師の方を振り返った。
スレインは精神の集中をちょうど解いたところだった。間違《ま ちが》いなく、彼の呪文《じゅもん》がレドリックを救ったのだ。
「ありがとう、スレイン!」
「礼などいりませんよ、あの人にここで死なれてはわたしがこまります。今のロードスには絶対に必要な人物ですからね」
「まさしくその通りだ」
ホッブが巨人の行動を気にしながら、レドリックのところに駆《か》けよっていった。シーリスも遅《おく》れじとついてきた。
「怪我《けが》はありませんかな?」
ホッブはレドリックに尋《たず》ねた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。たいしたことはない。だが」
彼は巨人の方を見上げ、それからまるで命綱《いのちづな》のように最後まで手放さなかった魔剣巨人殺し≠フ刃を見た。
「なぜ、効かなかったのだ。これは、巨人を倒すために鍛《きた》えられた剣ではなかったのか!」
それは、魂《たましい》から吐《は》きだされたかのような恨《うら》みの声だった。もかし、恨む相手は五百年以上も前に滅びさってしまっている。皮肉にも、自分たちの祖先の力によって。
パーンたちもやってきた。
「この場は、とりあえず下がりましょう。砦《とりで》の奥《おく》に逃げて、態勢を立て直さないと。巨人が壊《こわ》した塀《へい》から敵の騎士たちが侵入《しんにゅう》しつつあります」
スレインのせっぱつまった声に、ようやくレドリックは腰《こし》をあげた。だが、心がここにはないかのように、茫然《ぼうぜん》自失の体であった。
振《ふ》りかえれば、それまでヴェノンの軍勢を単独で攻撃《こうげき》していたもうひとりの竜騎士ジェイスが、巨人をうまく牽制《けんせい》していた。ラウドの二の舞《まい》を踏《ふ》まないように、遠くから炎《ほのお》を吐《は》きかけたり、弩弓《クロスボウ》で射たりと、巨人をからかうように飛びまわっている。
彼は巨人を砦から引き離《はな》すことに成功しつつあった。
「今のうちだ」
パーンはスレインとうなずきあうとレドリックの背中を押《お》すように、砦の奥に向かって走りはじめた。周囲でも外壁《がいへき》を守ることをあきらめたハイランドの兵士たちが逃走《とうそう》を開始していた。目的の場所は、巨人が封《ふう》じられていた建物だった。そこが、最後の戦いの場というように、あらかじめ決めておいたのだ。
しかし、本当にここで戦うことになるとは思ってもいなかった。
巨人殺し≠ェ巨人に通じないなどということがあろうとは誰しも思っていなかったからだ。
13
竜騎士ジェイスは、よく戦っていた。巨人を自分の方に引きつけて、砦を攻《せ》めさせないようにしている。だが、ヴェノンの軍勢はすでに砦の中に潜入《せんにゅう》して、ハイランドの兵士とあちらこちらで剣をまじえている。
勢いは完全にヴェノンの側にあった。ドラゴンを一匹|屠《ほふ》り、もう一匹のドラゴンも主人を失ったと信じているからだ。
パーンはディードリットとホッブを連れて外に飛びだし、激《はげ》しい戦いを演じていた。
「どうすれば、巨人に勝てるんだ」
レドリックは、スレイン、シーリスらとともに、地下|遺跡《い せき》への門のところにいた。スレインは、巨人殺し≠レドリックから借りて、その刃《は》やら柄《つか》やらを熱心に調べている。
「巨人殺しであることに間違《ま ちが》いなさそうですね」
スレインは、そう結論を下した。
「しかし、巨人は死ななかったぞ」
「使い方が悪かったのかもしれません。斬っただけでもそれなりの効果はあるんでしょうけどね。刀身から不思議な冷気が出ているでしょう。これが何かの鍵《かぎ》を握《にぎ》っているのかもしれません。それから、意味不明の上位古代語《ハイ・エンシェント》の呪文がひとつ。魔力《まりょく》の解放のための合言葉らしいのですが、これだけでは何とも……」
「斬る以外に剣の使い方なんてあるはずないと思うけど。説明書きみたいなのは、刻まれていなかったの?」
シーリスが膝《ひざ》を屈めるようにして、巨人殺し≠眺《なが》めながらスレインに尋《たず》ねた。
「この剣にはね。あの宝物庫の中で見つけた書物の中にも、魔剣に関する記述の載《の》った本はなかったですよ。この数日のあいだにざっとですが、目を通してみましたけどね。収穫《しゅうかく》といえば、ひとつ新しい呪文が手に入ったぐらいですね」
「何の呪文?」
「破壊《は かい》のための呪文ですよ。だから、手に入っても、あまり嬉《うれ》しくありません。機会があれば、お見せしますよ」スレインはシーリスに説明した。
「思いだした!」
マールが突然《とつぜん》、叫《さけ》び声をあげたので、スレインは持っていた巨人殺し≠落としてしまいそうになった。
「何ですか、いきなり」
「あのプレートだ」マールは、スレインのローブの袖《そで》を引っ張った。
「宝物庫へ一緒《いっしょ》に降りてよ。その魔剣の使い方が分かるかもしれないんだ」
「本当ですか?」
「本当だよ。魔剣が収められていた台座に、小さなプレートが張られていたんだ。古代語で文字が書かれていて、難しいのでほとんど読まなかったんだけど、あそこに何か手がかりが書かれているかもしれないよ」
「行きましょう、マール」
スレインは勢いこんで、後ろの巨大《きょだい》な門を振《ふ》り返った。
そして、マールと一緒に建物の中に駆《か》けていった。
「これで巨人が倒せるかもしれないわね」
シーリスは同意を求めるように、レドリックの方を振り返った。
「間にあえばな……」
レドリックは厳しい表情で、ポツリと洩《も》らした。彼の視線を追ってみて、シーリスはレドリックが言った意味をすぐに理解した。
最後の竜騎士も倒されていたのだ。騎馬であるドラゴンは、まだ飛んでいる。しかし、その乗り手の姿が遠目に見ても、人間の形をとどめていないのが分かった。石をぶつけられたのか、木で殴《なぐ》られでもしたのだろう。
そして、巨人はすでに砦の近くまで戻《もど》ってきている。
レドリックは巨人殺し≠手に、静かに立ち上がった。
「ここは退こうよ、レドリック。まだ、やりなおしはきくわ」
シーリスが、レドリックの肩《かた》をつかんでそう説得する。彼が巨人に向かっていくのはあきらかだった。
「オレの斬り方が浅かったのかもしれない。オレは、もう一度、この剣に賭《か》けてみる」
レドリックは引き止めようとするシーリスをひきずるように一歩、二歩と巨人の方に近寄っていった。巨人もレドリックのことを知っているかのように、まっすぐにこちらに向かってくる。
シーリスは、息を飲みながら、その巨体《きょたい》を見上げた。人間がかなう相手では絶対にないと思われた。後ろの遺跡《い せき》よりも巨大なのではないかと思われた。巨人はきっと膝《ひざ》を曲げて、この遺跡の中に入っていたのであろう。
巨人はレドリックとシーリスをまるで虫けらを見るかのような目つきで見下ろした。
「シーリス! レドリック!」
そのとき、パーンの声が聞こえてきた。そして、巨人の頭が何か目の見えない力で殴《なぐ》られたように、ガクリと動いた。
巨人は後ろを振《ふ》り返った。ホッブが呪文《じゅもん》を使ったみたいだった。
「来ては、だめよ。みんな、死んでしまう」
シーリスは手で向こうにいくように、パーンに伝えた。しかし、もちろん彼が従うはずがなかった。剣を正眼に構えて、巨人を挑発《ちょうはつ》するような仕草をしている。その隣《となり》で、ディードリットが精霊召喚《せいれいしょうかん》のための姿勢をとっていた。
「偉大《い だい》なる風の王イルクよ……」
ディードリットはもっとも強力な呪文を行使すべく風の上位精霊に呼びかけを行なっていた。精神を集中させて、巨人の顔をじっと見つめる。巨人は恐《おそ》ろしい形相をしていた。
だが、そんなことで躊躇《ちゅうちょ》はできなかった。ディードリットは呪文を完成させた。
強烈《きょうれつ》な突風《とっぷう》が、巨人の頭のところで吹《ふ》き荒《あ》れた。巨人の髪《かみ》の毛がズタズタに引き裂《さ》かれ、渦《うず》を巻く空気の流れの中に、真っ赤な血が霧《きり》のように噴《ふ》きだした。
巨人は頭を抱《かか》えて、呻《うめ》き声をあげた。
精神力のほとんどを使いはたし、ディードリットはがっくりと膝《ひざ》を落とした。
巨人はその場で苦悶《く もん》の声を上げつづけていた。
「今だ!」
叫《さけ》んでレドリックは巨人の足もとに駆《か》けこんだ。シーリスが止める間もなかった。そして、レドリックは全身の力を込めて、巨人殺し≠フ刃を毛むくじゃらの右足に叩《たた》きつけた。
一度、二度、三度と。
岩を叩いているような固い感触《かんしょく》がレドリックの手には伝わってきた。痺《しび》れがきそうなぐらいだった。
巨人の皮膚《ひふ》が切れて、血が流れはじめた。血の臭《にお》いまでもが、生々しく感じられた。しかし、自分の与えた傷がほとんど効いていないのは、レドリック自身がいちばんよく分かっていた。
「なぜ、死なない!」
レドリックは絶叫《ぜっきょう》した。喉《のど》から血がほとばしりそうな叫《さけ》び声だった。
「剣で斬っているからだよ」
レドリックの絶叫に応《こた》えたのは、マールだった。その後ろに苦しそうに咳《せ》きこんでいるスレインの姿があった。
全力で走って行って帰ってきたに違《ちが》いなかった。
「……レドリック王子、その剣は斬るものではありません。剣の形にだまされていました。それは、魔法の発動体なのです。棒杖や錫杖《しやくじょう》といっしょです。合言葉を唱《とな》えて、地面に剣を叩《たた》きつけてください。そして、すぐに巨人から離《はな》れて。合言葉は……」
スレインは、一息ついてから、ひとつの音節からなる上位古代語《ハイ・エンシェント》を正確に発音し、レドリックに伝えた。
「早く、巨人があなたに気がつきました!」
その言葉に、レドリックはハッと頭上を見た。目に入っていた血がようやく涙で洗いだせたのか、怒《いか》りに燃える巨人の瞳《ひとみ》と、レドリックの視線がぶつかりあった。
巨人はレドリックを踏《ふ》みつぶそうと、足を高く上げた。その影《かげ》が、レドリックを完全に包みこんでいた。
一瞬《いっしゅん》、身体が竦《すく》みかけたが、レドリックは勇気をふるいおこして、スレインから教えられた古代語の合言葉を唱えた。そして、大地を切り裂《さ》かんとするかのように、全身の体重を乗せて、剣を振《ふ》りおろした。
奇妙《きみょう》に乾《かわ》いた音が響《ひび》いた。魔剣巨人殺し≠フ刃《は》がみごとなまでに粉々に砕《くだ》けたのだ。そのかけらはまるで霧《きり》のようになって四散した。
巨人の足が踏みおろされてくる。レドリックは身体を投げだして、からくも逃《のが》れた。巨人が足を踏みおろしたとき、レドリックは自分の身体が一瞬《いっしゅん》、跳《は》ねあがるのを感じた。それほど激《はげ》しい震動《しんどう》が大地を揺《ゆ》らしたのだ。
レドリックは横に転がって、巨人のそばからできるだけ離《はな》れた。
と、身体が切れるかと思うような圧倒的《あっとうてき》な冷気が、転がるレドリックの肌《はだ》に伝わってきた。
「これが、魔剣の魔力なのか?」
砕けた剣の刃は、最初、霧のように見えたが、いまやそれは太陽の光を受けてキラキラと輝《かがや》く霧氷《むひょう》となっていた。その霧氷が巨人の身体に巻きついていくようにみえた。さながら、純白のトーガを身体にまとったかのように。
巨人は苦痛の声を上げながら、両手で自分の身体を抱《かか》えこんだ。その身体が、真っ白になっていた。霜が全身を包みこんでいたのだ。
苦しげな絶叫をあげながら、巨人は地面に倒れていった。
凄《すさ》まじい地響《じひびき》がふたたびレドリックの身体を弾《はず》ませた。
「やったか!」
レドリックは立ち上がって、スレインたちのところまで戻《もど》りつつ、歓喜の声をあげた。
「おそらく」スレインがつぶやいた。
「あれこそが、巨人殺しの真の力だったのですよ。炎《ほのお》の巨人に対抗《たいこう》するためには、氷の力。簡単な理屈です。炎の精霊力《せいれいりょく》を強く体内に宿しているからこそ、氷の力は巨人の弱点となったのでしょう。そして――」
スレインは一歩、足を踏《ふ》みだすと、賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を頭上にかまえた。
「シーリス、これが先程言った呪文《じゅもん》です」
スレインは高らかに上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱《とな》えた。そして、頭上にかざした杖の先を、地面をのたうつ巨人に向ける。
「魔狼《まろう》の咆哮《ほうこう》、雪娘《ゆきむすめ》の抱擁《ほうよう》、始源の巨人の悲しみの心。万能なるマナよ、氷雪の嵐《あらし》となって吹《ふ》き荒《あ》れよ!」
スレインの呪文は、完成した。そして、巨人の身体を中心に、白い爆発《ばくはつ》が巻きおこった。雪と氷が、激《はげ》しく巨人の身体を打《う》ちつける。幾筋《いくすじ》にも巨人の皮膚《ひふ》が裂《さ》けたが、血が出るよりも早く、傷口は氷で塞《ふさ》がれた。
巨人は吠《ほ》えた。長い、長い咆哮だった。
「悲しい声」
ディードリットがパーンに支えられながら、スレインたちのところに戻ってきた。ホッブも一緒《いっしょ》だった。
「まるで何かを訴《うった》えかけているよう……」
ディードリットは、パーンに甘《あま》えるように、その肩《かた》に頬《ほお》をのせた。パーンはその頭に手を回し、優しく髪《かみ》の毛をなでた。
「あの巨人も利用されていただけにすぎませんからね。昔は、自由な意志を持ち、わたしたちの先祖とともに古代王国の支配に対して戦ってきたのです。皮肉なものです。もしかしたら、今、彼は魔法の呪縛《じゅばく》から解き放たれたのかもしれません。古代王国の強力な魔法は、死をもってしか逃《のが》れる術はなかったのでしょう」
スレインは破壊《は かい》の魔法を使い、巨人にとどめを刺したことに、悲しみさえいだいているようだった。パーンには彼の気持ちを察することができた。
「他に方法があったのかもしれない。しかし、時間がなかった。仕方がなかったんだよ」
巨人のたてる断末魔《だんまつま 》の咆哮はいまだに続いていた。しかし、それはしだいに小さくなってゆき、いつのまにか完全に消えてしまった。
いにしえの巨人は、死んだのだ。
「ようやく、終わったか……」
胸の中にたまった息を残らず吐《は》きだすように、レドリックは深く深く息をした。そして、今度は強く息を吸いこんで、高らかに声をあげた。
「ハイランドの勇者よ、巨人は死んだぞ。もはや、ヴェノンの兵など恐《おそ》れることはない!」
その言葉は、広い砦《とりで》のすみずみにまで響《ひび》いていくようだった。そして、その言葉にハイランドの兵士は勇気を得て、ヴェノンの兵士は恐慌《きょうこう》に陥《おちい》った。
その声は堂々たるもので、王たる者の威厳《い げん》がこもっていた。パーンは、ジェスター公爵《こうしゃく》の昔の声を知らない。だが、この若い王子が発する声に、病に冒されたあの勇者の元気なりしときの声をも聞いたように思った。まるで国王の即位式に立ち合っているかのような荘厳《そうごん》さに、パーンは打たれていた。まさしく、今、ひとりの若き王が誕生《たんじょう》したのかもしれない。
それから、レドリックは竜笛を吹《ふ》いた。
主人からの呼び出しを待っていたかのように、すぐにウィップテイルが舞《ま》いもどってきた。その魔獣《まじゅう》の姿が敵の士気をさらに挫《くじ》いていった。
巨人が死に、竜が生き残った。それは、あたかもハイランド公国の勝利とヴェノン公国の敗北とを予言しているかのようであった。
戦いは終わった。レドリックは、ハイランドは勝ったのだ。
14
激戦《げきせん》の日から、三日が過ぎていた。
パーンたちの姿は、いまだ砦にあった。戦の後始末やら、負傷者の手当てやらで忙《いそが》しかったのだ。しかし、それらの作業はもはや、パーンたちの手を離《はな》れつつある。
パーンたちは旅の支度を始め、いつでも出発できるように荷物の点検をしていた。
そこに、レドリックがひょっこり現われた。この三日というもの、彼がいちばん忙しかったのかもしれない。ハイランド本国と砦とを何度も往き来し、砦に駐留《ちゅうりゅう》させる兵士を組織したり、砦の補強を行なうための資材の運搬《うんぱん》まで引き受けていたからだ。
よく働く王子だと、パーンたちは感心していた。あの男なら、きっと素晴らしい王になるだろう。それは、悲しいことだがそう遠くない日かもしれないそうだ。レドリックの話では、ジェスター公爵のかかっている病気は|竜 熱《ドラゴンフィーバー》≠ニ呼ばれる、竜騎士たちがよくかかる熱病とのことだった。
炎《ほのお》の精霊力《せいれいりょく》を体内に秘めたドラゴンとの接触《せっしょく》が、竜騎士の身体の精霊力のバランスを崩《くず》すらしいのだ。マイセン王が比較的《ひ かくてき》早くに亡くなったのも、この竜熱が原因であったらしい。
「全員がかかる訳ではないが、竜騎士たちは皆、この病気にかかることを覚悟《かくご 》もしているし、そして誇《ほこ》りにも思っているんだ」
レドリックはそう寂《さび》しげに笑ったものだ。
そのレドリックは、今はやけに真面目な顔をしていた。
「もう発《た》ってしまうのか?」
パーンと両手で握手《あくしゅ》をしながら、レドリックはそう問いかけた。
「そのつもりです」
「そうか、寂しくなるな。できるなら、この国に残ってほしいとも思っていたんだがな。ちょうどという訳でもないが、竜騎士がひとり必要になったことだし……」
竜騎士ジェイスは先の戦で死んだのだが、騎馬たるドラゴンは傷付いていたものの、まだまだ元気だったからだ。
「パーンならば、竜にも選ばれるだろうし、立派に竜を制御できるとも思ってたんだがな」
「わたしが竜騎士に? それは悪い冗談《じょうだん》ですよ」
パーンはすこし笑って答えた。
「パーンには、アラニアの国王に立ってもらわねばならないのです。魅力的《みりょくてき》な誘《さそ》いをしないでいただきたいものですね」
冗談めかして、スレインが言った。
「パーンが、アラニアの国王に?」
レドリックは真剣《しんけん》に受けとめたようだった。
「それは素晴らしい。即位式にはぜひ呼んでくれ。今のアラニアは好きではないが、パーンの治めるアラニアならば、ぜひとも友好的な関係を結びたいものだ。ともに盟友として、マーモと戦おう」
パーンは困ったような表情を浮《う》かべ、スレインを睨《にら》みつけた。
「オレは王にはなりませんよ」
「なぜだ。男ならば、誰しも王になることを夢見《ゆめみ 》るものだろう。それをみすみす捨てるなんて、どうかしてるぞ。オレもあまりの責任の重さに、ときには逃《に》げ腰《ごし》にもなるけどな。しかし、そこから逃げだすわけにはいかない。オレは王の子として生まれ、育てられてきた。これは、オレの試練とも、生きていく上での戦いだとも思っている。戦いである以上、逃げるわけにはいかない。だから、オレは父の跡《あと》を継《つ》ぐ」
パーンは笑っただけで、何も答えなかった。
レドリックは間違《ま ちが》いなく立派な王になる。王として生まれたからではなく、王としての資質を自ら証明してみせたからこそ、そう思うのだ。今回、炎の巨人と戦い、打ち勝ったのは、何より彼の強い意志のなせるわざであった。国の未来を憂《うれ》い、民の明日を願う。そのために、自らの命もかえりみず行動する。そんな人間がいなければ、決してなしえなかった偉業《いぎょう》であろう。
「オレは王にはなりません」
もう一度、パーンは繰《く》り返した。
「まあ、おまえは変わった男みたいだからな。ならば、放浪《ほうろう》の戦士であるパーンと約束《やくそく》しよう。もし、オレの力が必要ならば、いつでもオーバークリフを訪《たず》ねてくれ。おまえのためなら、どんな協力でもするぞ」
パーンは、頭を下げて礼を述べた。
そして、ふたりの戦士は、ふたたび力強く手を握《にぎ》りあい、笑顔で再会を誓《ちか》いあった。
それから、レドリックはシーリスのそばに歩いていった。
シーリスもすでに旅の支度を終えていた。先刻からのパーンとレドリックの会話を背中で聞いているような感があった。
「話があるんだ。ふたりだけで、話がしたい」
シーリスは無言でうなずいた。マールが連れだって部屋を出ていくふたりの背中に、口笛《くちぶえ》を吹いて茶化す。
その姿が完全に見えなくなってから、
「さあ、パーン。出発しようよ」と彼は言った。
「シーリスは、どうするんだ?」
「馬鹿ねぇ、ここに残るに決まってるじゃないの。あのふたりの雰囲気《ふんい き 》を見て、何も気付かなかったの」
ディードリットが人差し指を立てながら、説教めいた感じでパーンのそばに寄ってきた。
「気付くって、何をさ」
「あきれたものねぇ」
もう何もいうことはないというように、ディードリットは両手を広げた。それから、両手をパーンの背中にまわして抱《だ》きつくと、つま先だって、すばやく唇《くちびる》を合わせた。
「つまり、こういうことよ」
そんな会話が室内でされていることはまったく知らず、レドリックとシーリスはパーンたちのいる建物からすこし離《はな》れた場所を、あてもなく歩いていた。
話があると呼び出したのに、レドリックは結局、一言も発することができないでいた。
「……忘れてたわ。これ、返してなかったでしょ」
シーリスは革袋《かわぶくろ》から、純金の指輪を取り出して、レドリックに手渡《て わた》そうとした。
それを見て、レドリックはあわてふためいた。
「だめだ。オレはその話をしにきたんだから。その指輪は、受け取ってくれ」
「紋章《もんしょう》入りの指輪でしょ。受け取るわけにはいかないわ」
「それは、君にあげたんだ」
「そう、仕事の手付けとしてね。でも、もう仕事は終わったわ。代わりに、宝石の一個でもちょうだい。そしたら、報酬《ほうしゅう》としては十分よ」
「違《ちが》うんだよ、シーリス」レドリックは頭を振《ふ》って、心を落ち着けようとした。
「何が、違うの?」
「手付けとか、そんなんじゃなく、オレはその指輪を受けとってほしいんだ。つまり、その……オレは君を妻として迎《むか》えたいと思っているんだ」
「はあ?」
シーリスは自分でも間の抜《ぬ》けた声を出してしまったものだと思った。しかし、それぐらいレドリックの言葉は唐突《とうとつ》であり、意外だった。
「……本気なの?」
「本気だとも。確かに、どこの馬の骨とも分からない女性を連れて帰ったと、また父は激怒《げきど 》するかもしれない。しかし、説得してみせる。オレが今回の戦いに勝てたのは、君のおかげだっていう気がするんだ。今度の戦いでは、オレは何度も死ぬと思ったし、死んでも仕方ないとさえ思った。しかし、君はあきらめなかった。最後まで勝利と、そして生きるということに執着《しゅうちゃく》した。その勇気が、オレをも勝利に導いてくれたように思うんだ。まるで、そう、勝利の女神の加護があったみたいにね」
シーリスはレドリックの真意を計るように、その目をじっと見続けた。そして、微笑《ほ ほ え》むとすこし首を振《ふ》った。
「あなたは嫌《きら》いじゃないけれど、わたしは今は恋などできないわ。ついこの間、つらい恋をしちゃったからね……」
シーリスは晴れあがった空を見ながら、つぶやくようにそう言った。
「……だけど、傭兵《ようへい》としてなら、あなたのそばに残ってもいいわ。今度は、わたしの腕《うで》を十分に見たんだから、確かな値段で雇《やと》ってくれるでしょ」
「シーリス!」
レドリックの顔が、これ以上はないという歓喜に満ちていた。その顔には、今まで気付かなかった彼の若さと、偽《いつわ》りのない気持ちがあふれでているように思えた。
「やっぱり、指輪を受け取ってくれ。オレには、もう君に値段なんてつけられない。ただ、オレが治める国を、君にも一緒《いっしょ》に治めてもらいたいだけだ」
「つまり、国の半分ってことね」
シーリスは楽しそうに笑った。そして、レドリックの肩《かた》に、まるで古くからの傭兵仲間のように右腕《みぎうで》を回した。
「そこまで、わたしを買ってくれてるなら……」
シーリスは微笑みを残したままの顔で、小さく何度もうなずいた。それから、顔を上げて、レドリックを正面から見つめる。そのときには、いつもの勝気な顔に戻《もど》っていた。
「それから、ひとつだけ言ってあげるわ」
「なんだい?」
「残念ながら、わたしは馬の骨なんかじゃないの。わたしの父はウェイマー・ラカーサ伯爵《はくしゃく》。王位継承権十二位だったカノンの貴族よ。そして、わたしはその正統な後継者。モスの田舎貴族の妻になるなんて、もったいないぐらいだわ」
レドリックは、左の手をシーリスの腰《こし》に回して、その細身の身体を自分の方にすこしだけ引き寄せた。
「それなら、やっぱり最初のときにドレスを着て、逃げてきてくれないとな」
若い男女の影《かげ》は秋の陽差しを受けて、褐色《かっしょく》の大地に長く伸《の》びていた。やがて、その影はからみあうように、ひとつになっていった。
[#改ページ]
第U章 ヴァリスの神官王
神聖王国の名で呼ばれるヴァリスは、ロードス島の中南部に位置する王国である。国の民は、至高神ファリスヘの信仰《しんこう》が厚い。彼らは厳格なファリスの法を生きていくための規範《き はん》として自らに課し、朝夕の祈《いの》りと七日に一度の神殿《しんでん》への礼拝を欠かすことはない。厳粛《げんしゅく》な中にも盛大《せいだい》に催《もよお》される至高神の聖祭は、国民全員が祝い、参加しない者は誰ひとりとしていない。
神聖王国と呼ばれる所以《ゆえん》である。
そのヴァリスの王都ロイドは、アラニアの王都アラン、自由都市ライデンに次ぐロードス島第三の都市である。聖なる河<tァーゴの河口に発達した街《まち》で、水路、陸路の要衝《ようしょう》として、街の歴史は古代王国の滅亡《めつぼう》とほぼ同じ時にまでさかのぼることができる。陸路ではアラニア、カノン、フレイム、モス。海路をとれば、ライデンヘもわずかな日数で行ける。街の周囲には肥沃《ひよく》な平野が広がっており、ロードス島第一の穀倉地帯でもある。
しかし、その恵《めぐ》まれた条件のゆえに、ロイドの街は戦《いくさ》のたびに侵略《しんりゃく》の目標とされてきた。ロードス全土の支配のためには、ロードス島のヘそとも言えるロイドの支配が、絶対に必要な条件だったからである。ロイドは何度となく戦火の中に燃えつぎ、その都度、人々は不屈《ふくつ》の意志でもって街を再建してきた。
侵略とそれに対する抵抗《ていこう》の歴史が、昔《むかし》、この地方に強大な王国を誕生《たんじょう》させたことがある。エルベクという名で呼ばれるこの王国は、強力な騎士団《きしだん》を擁《よう》し、一時は現在のモス、カノンの領土までその支配下においていた。侵略から身を守るための力が、皮肉なことに他国への侵略に使われたのだ。
強大な権力を手中に収めたエルベクの国王は、民に苛酷《か こく》な圧政をしくようになった。王族や貴族階級に属するわずかな人間は神のごとく振《ふ》るまい、反対に国の民を奴隷《どれい》のごとく扱《あつか》った。
この正義なき支配に怒《いか》りを覚えた至高神ファリスの神殿《しんでん》が、エルベク王家に対し、反乱を起こした。
その中心となった人間が、偉大《い だい》なるヴァリス建国王アスナームである。彼はエルベク王国の有力な貴族のひとりであったが、若い頃《ころ》の一時期に、ファリスの教えに感銘《かんめい》を受け、その敬虔《けいけん》な信者となっていた。
五年にも及《およ》ぶ戦のはてに、エルベク王国は崩壊《ほうかい》した。それが百余年前のできごとである。王国打倒《だ とう》の英雄《えいゆう》アスナームは、ファリスの教えを国の法とする新しい王国を興し、その初代の王になる。しかし、彼は世襲《せしゅう》の国王となることを求めず、次なる国王の選定はファリス神殿に委《ゆだ》ねると宣言した。このアスナーム建国王の宣言は忠実に守られ、ヴァリスの王位は神聖|騎士《きし》団の中から、ファリスの正義のためにもっとも力を尽《つ》くした人物を選んで贈ることが慣例となった。
先の英雄《えいゆう》王ファーンは、魔神《ま じん》戦争のおりの活躍《かつやく》ゆえの即位《そくい 》である。
その長年の慣例を破り、現国王エトは、神聖騎士団からではなく、ファリス神殿の司祭《プリースト》から選ばれた。
彼の即位から三年余り。神聖王国ヴァリスは、英雄戦争による荒廃《こうはい》からようやく立ち直りつつあるように見えた。
ロイドの街《まち》には、背の低い建物が多い。そのため、大路を歩いていて目立つものといえば、太陽の丘≠ニ呼ばれる小高い丘の上に建てられたファリス神殿のドーム状の屋根と、その隣《となり》正義の丘≠ノ建つ聖王宮の尖塔《せんとう》だった。
壮大なふたつの建物を見て、パーンはロイドの街にやってきたという実感が湧《わ》いてきた。パーンにとって、この街は生まれ故郷である。父、テシウスは神聖騎士団の騎士隊長だったのだ。
自分に神聖騎士団の血が流れていることは、幼かった頃《ころ》のパーンにとって誇《ほこ》りだった。自分もいつかは神聖騎士団の一員として、銀十字の紋章《もんしょう》を胸に刻んだ甲冑《スーツ》を身につけたいと願っていた。しかし、運命とは不思議なもので、夢《ゆめ》かなって一度はその鎧《よろい》を着たものの、結局、パーンは自らの意志でその鎧を脱《ぬ》いだのである。
今のパーンの鎧は、風の塔《とう》≠ナ見つけた魔法《ま ほう》の鎧である。父の形見の鎧でも、ヴァリス国王から与えられた鎧でもない。自らが見つけだし、そして着ることを選んだ鎧だった。磨《みが》いたばかりのその魔法の鎧は、秋の陽差しを弾《はじ》いて銀色に輝《かがや》いている。
あの壮絶《そうぜつ》な炎《ほのお》の巨人《きょじん》との戦いの後、シーリスはレドリックと共にハイランドに残ることになった。今や、一行の数は五人に減っていた。元気なシーリスの声がないのは、すこし寂《さび》しい気もするが、彼女の幸せをパーンたちは心から祝福していた。
モスを出てからは、二日ばかり、ウズの村に立ち寄り、休養した後、このロイドにやってきた。その間、十日あまりの日数が過ぎていた。
パーンたちは、ヴァリスの王城を目指していた。ロイドの道は迷路のように走っていたが、五年ぶりとはいえ、何度も通った道である。迷うことなく、パーンたちは城門にたどりつくことができた。
聖王宮の正門の門番は、五年前と代わっていなかった。彼はパーンたちのことを覚えていて、歓喜の声を上げて、出迎《でむか》えてくれた。国王に謁見《えっけん》したい旨《むね》を伝えると、すぐに門を通してくれた。
パーンたちはひとりの衛兵に先導されて建物の中へと入り、広い石の廊下《ろうか 》を進んで謁見の間へと案内された。
その頃《ころ》には、すでにパーンの心の中は、エトとの再会の思いで一杯《いっぱい》になっていた。
エトとはザクソンの村で、幼い頃からの親友だった。その親友が、今やヴァリスの国王になっている。考えてみれば、信じられないような現実だった。しかし、エトの人柄《ひとがら》はパーンがいちばんよく知っている。国王になるにふさわしい強い意志の力と、そして優しさを秘めた男である。
「五年もたってるんだから、エトもずいぶん変わったでしょうね」
ディードリットが、浮《う》き浮きしながら、パーンに話しかけてきた。彼女も興奮が抑《おさ》えられない様子だった。
しかし、彼女もずいぶん人間の生活になじんだものだ。ハイ・エルフであるディードリットにとって、五年という時間は決して長いものではない。アランの街《まち》で出会ったときと、彼女の美しさはすこしも変わっていなかった。
実のところ、自分もあまり変わったような気がしない。すこしはたくましくなって、幼さがなくなったように思うが。一度、髭《ひげ》をはやそうとしたが、あまり濃《こ》くはならなかったので、すぐにあきらめてそってしまった。髪型《かみがた》もまったく同じだし、変わったものはといえば、身につけている装《そうび》備ぐらいのものではないだろうか? そして、やはり昔《むかし》と変わらないエトとの再会を、パーンは期待していた。
パーンたちは謁見《えっけん》の間の大きな両開きの扉《とびら》の前に立った。
呼び出しの声がまず広間の中から届き、その声に応じるように、儀礼用の鉾槍《ハルバード》を構えた衛兵が両側から扉を引いた。
軋《きし》むような音を立てて、扉は開いた。視界が開けて、謁見の間の全貌《ぜんぼう》が飛びこんできた。扉から赤い絨毯《じゅうたん》がまっすぐに延《の》びている。その赤い絨毯の先に、三段ほどの階段があり、その階段の上に、ふたつの玉座が並《なら》んで置かれている。その右側の玉座に、質素ながらも壮麗《そうれい》さを感じさせる衣服をまとった国王の姿があった。隣《となり》の玉座にはきらびやかなドレスで装《よそお》った王妃《おうひ 》が腰《こし》を下ろしている。
両側の壁《かべ》の前には、ヴァリス王国の文官や武官の高位の者がズラリと並《なら》び、仰々《ぎょうぎょう》しいまでの重厚感をかもしだしている。
国王は頭に略式の王冠《おうかん》を戴《いただ》き、真っ直ぐにパーンの方を見つめている。遠目に見ると、それがエトかどうかは分からなかった。彼が国王になったという噂《うわさ》は、本当なのだろうかという疑問さえ、パーンの頭をよぎった。
一礼をしてから、パーンたちは玉座の前にゆっくりと進みでた。そのあいだ、パーンは国王から一瞬《いっしゅん》も目を離《はな》さなかった。近づくにつれて、玉座に座っている者がエトに間違《ま ちが》いないことを、ようやくパーンは確信した。
それと同時に、抑《おさ》えることのできない興奮が、パーンの身体のすみずみまで包みこんだ。我を忘れて駆《か》けだして、旧友に抱《だ》きつきたい衝動《しょうどう》が湧《わ》きあがってくる。
しかし、パーンはその興奮をすぐに抑《おさ》えこんだ。
自制したのは、自分の立場と現在の状況《じょうきょう》を思いだしたからではない。エトが浮《う》かべている表情に、昔《むかし》とは違《ちが》う何かを見出したからだった。
丸みを帯びた顔の感じは、あまり変わっていない。頬《ほお》のあたりがややすっきりとし、さすがに大人の顔になってはいたが、昔の面影《おもかげ》はほとんど損われていなかった。
違うのは、その顔に笑みが浮かんでいないことだ。
エトはどんな苦境に陥《おちい》ろうとも、笑顔を忘れたことはなかった。優しく微笑《ほ ほ え》んでいるかのような表情を、いつも浮かべていたのである。
その優しい笑顔が、今の彼にはまったくなかった。あくまでも厳粛《げんしゅく》に、重厚な装飾《そうしょく》の施《ほどこ》された玉座から、パーンを見下ろしていた。その瞳《ひとみ》は、やや冷たいとさえ感じられた。
パーンは、冷水を浴びせられたような気持ちになっていた。
パーンは玉座まで七歩ばかりの所までくると、もう一度、礼をしてから片膝《かたひざ》を落とした。残る四人も、パーンにならった。
「フレイム王国からの使者であるとか……」
エトの声が謁見《えっけん》の間に響《ひび》いた。耳に心地のよい静かな声ではあったが、そこにも優しさが感じられなかった。それだけで、旧友が見ず知らずの人間であるかのような印象を受けるという事実に、パーンは驚《おどろ》きすら感じていた。
「さようでございます、陛下」
スレインが、エトのそんな態度にもまったく動じたふうもなく、賢者《けんじゃ》のローブの懐《ふところ》から紫の布に包まれた親書を取りだした。厳重に封《ふう》を施《ほどこ》されたその親書は、長旅のために角のあたりがすこし傷《いた》んでいた。
侍従《じじゅう》のひとりがやってきて、スレインから親書を受け取り、国王の玉座まで運んできた。
エトは侍従から親書を受け取ると、厳重に施された封にナイフを入れ、中から書面を取りだした。そして、それに素速く目を通していく。
エトはそれを読みおえると、小さくうなずきながら、その書面をもとの通りに丁寧《ていねい》にたたんでいった。そして、親書を侍従に戻すと、何やら小声で指示を与えた。
「返事をしなければならないな……」
それから、エトはぐるりとパーンたち一行を見回した。彼がよく知っているはずのパーンやスレイン、ディードリットを見るときも、初対面であるところのマールやホッブを見るときも、まったく態度は変わらなかった。
「カシュー王の申し出はありがたい。ヴァリス、フレイム両国が同盟国の関係にあるのは、承知のことであり、わたしは今後ともその関係を続けていきたいとも願っている。しかし、マーモに占領《せんりょう》されているヴァリス領の解放は、我が国の悲願であり、これは独力で達成するつもりでいる。カノンの解放、マーモ帝国の打倒《だ とう》という問題は、それからの話だ。おそらく、そのときにはカシュー王の助力をお願いすることになろう」
カシュー王に対するエトの返答を聞いて、パーンはひとつ不思議に思ったことがある。
微妙《びみょう》な違《ちが》いこそあるものの、エトが示した回答は、ジェスター公爵《こうしゃく》のそれとほとんど変わるところがなかったのである。それはスレインも同感だったらしく、パーンの方にチラリと視線を向けて、首をかしげるような仕草をした。
それからスレインは、
「承知いたしました。かならずや、カシュー王にお伝えいたしましょう」と言った。
謁見《えっけん》はそれでおしまいだった。
パーンたちは退出を命じられ、謁見の間を後にした。パーンは最後まで、エトが吹《ふ》きだすように笑って、冗談《じょうだん》だよと言うのを期待した。しかし、その態度はついに変わることはなかったのである。
「何よ、あの態度!」
ディードリットの声が甲高《かんだか》くなっていた。顔に不満の表情をありありと浮《う》かべながら、聖王宮の廊下《ろうか 》を踏《ふ》みぬかんばかりの勢いで歩いている。
「王様になったというだけで、人間の価値が変わるとでもいうの!」
変わるんだよ、とマールがディードリットをからかった。
「マールの言葉は正しいさ。しかし、オレたちは昔《むかし》なじみだぜ。あそこまで、徹底的《てっていてき》に無視されるとは思わなかった……」
パーンの顔からは、ほとんど血の気が失《う》せていた。
「パーン……」
ディードリットは、心配そうにパーンの頬《ほお》に手を触《ふ》れた。パーンはその手を静かに取ると、かすかに微笑《ほ ほ え》んでから、ディードリットに送りかえした。
「これからどうするの?」
「ロイドの街《まち》には、しばらく逗留《とうりゅう》するつもりだったが、エトがあんなんじゃその気も失せたな。南の街道《かいどう》を通って、すぐにカノンに入るさ」
そうね、とディードリットはうなずいた。
「しかし、今晩くらいはゆっくりと休みたいものですね」
スレインが足をさすりながら、苦笑を浮《う》かべた。長旅でかなりまいっている様子だった。
「魔術師殿は、もっと身体を鍛《きた》えねばならん様子だな」
ホッブが冗談とも本気とも取れるような調子で、痩《や》せたスレインの背中をドンと叩《たた》いた。その勢いで、スレインは一歩先に進んでしまった。
ちょっと咳きこんで、スレインは恨《うら》めしそうにホッブを振《ふ》り返った。
「自分ではかなり頑張《がんば》っているつもりなんですけどね」
パーンはふたりのやりとりを聞いてから、今夜の宿を探さないとな、と独り言のようにつぶやいた。
「それには及《およ》ばないぞ」
突然《とつぜん》、背中から声をかけられて、パーンは驚《おどろ》いて振り返った。
見れば、初老の男がパーンたちを追いかけるようにやってきていた。
謁見《えっけん》の間で、エトのそばに控《ひか》えていた侍従《じじゅう》のひとりだった。パーンも、彼のことは見知っていた。先王ファーンの信任も厚かったと記憶《き おく》している。
「久しぶりだな、パーン」
パーンに握手《あくしゅ》を求めながら、侍従は表情を崩《くず》した。
「お久しぶりです」
パーンは、敬意をこめて挨拶《あいさつ》してから、侍従の手を握《にぎ》った。
「ずいぶん礼儀を心得たものだな。今はフレイムに仕えているのか?」
「いえ、カシュー王から親書を預かってきただけです。今は、誰にも仕えておりません」
パーンの返答に、侍従はそうかとつぶやき、相好を崩した。
「それは、エト陛下もお喜びになられることだろう」
エトの名を言われて、またパーンの表情が沈《しず》んだ。それに気がついて、侍従がニヤリとする。
「そんな顔をするのなら、わしについてこい。そうすれば、おまえの不満も解消されよう」
そして、侍従はパーンたちを先導するように、歩きはじめた。
どこに行くのですかとのパーンの問いにも、まあ黙《だま》ってついてこい、と答えただけだった。
パーンはディードリットと顔を見合わせると、肩《かた》をすくめて両手を広げた。ディードリットは、黙ってついていきましょ、と目で合図をかえしてきた。
侍従に案内されていくあいだに、パーンはどこに向かっているのか見当がついた。
聖王宮の東の塔《とう》のいちばん上の階を目指しているのだ。そこは沈黙《ちんもく》の間≠ニ呼ばれており、秘密の会議などがもたれるときに使われる部屋であった。
窓さえもない円形の部屋で、中での会話は部屋の外に決して洩《も》れることがない。それゆえに、沈黙の間と名付けられたのだ。もちろん、部屋の中では激《はげ》しい討論が行なわれることが多い。
侍従は沈黙の間の分厚い扉《とびら》を開けて、パーンたちを部屋の中に通した。
そして、まあゆっくりしていけ、と言って去っていく。
円形の部屋には、丸いテーブルと椅子《いす》が数脚《すうきゃく》置かれているだけである。そして、ひとりの男が入口に背中を向けるようにして立っていた。
その男が、扉の開いた音に振り返る。
その顔を見て、パーンは息を飲んだ。言葉を出そうとしたが、声にならなかった。
「エト!」
ディードリットが、パーンの代わりに声をあげた。
エトはディードリットに呼ばれて、ニッコリと微笑《ほ ほ え》んだ。優しい笑顔だった。昔《むかし》とすこしも変わることのない。
「さっきは失礼したね」
エトはパーンたちの方にゆっくりと歩みよってきながら、両手を差し伸《の》べた。
「訳は後でゆっくりと聞かせていただきますよ。お久しぶりです、エト司祭。結婚《けっこん》の祝にも、即位《そくい 》の祝にも出られずに申し訳ありませんでした」
エトは驚《おどろ》きのあまり何も言えなくなっているパーンの両手を強引に取って握手《あくしゅ》してから、スレインとも同様に挨拶《あいさつ》した。
それから、ディードリットの前に立つと、静かに頭を下げた。
「やっぱり、エトなのね」
ディードリットは歓喜の声を上げると、エトの右手をしっかりと両手で握《にぎ》った。
「別れてからの君たちの活躍《かつやく》は、いろいろと噂《うわさ》で聞いているよ。ザクソンの勇者と北の賢者《けんじゃ》の名声、それから火竜山《かりゅうざん》の魔竜《まりゅう》を倒《たお》した活躍なんかね」
エトはもう一度、パーンを振《ふ》り返ると、彼の肩《かた》に右手を置いた。
「謁見《えっけん》の間では、僕は国王なんだよ。でも、今はただの君の旧友だ。さっきの無礼、許してくれるよね」
「許すも何も……」
パーンはようやく事態を把握《は あく》したかのように、歓喜の表情を浮《う》かべて、エトに抱《だ》きついていった。
「痛いよ、パーン。抱きつくのは、鎧《よろい》を脱《ぬ》いでからにしてくれ」
パーンはエトを離《はな》すと今度は両手を握って、激《はげ》しく振《ふ》った。エトはやっぱり痛そうに顔をしかめながらも、パーンの手を離さなかった。
謁見の間とは、うってかわって、エトの表情は穏《おだ》やかになっていた。
再会の興奮が収まるのを待ってから、パーンはホッブとマールのふたりを紹介した。マールは吟遊詩人《バード》と紹介しておいたが、エトはどうやら彼のもうひとつの職業を見抜《みぬ》いたようだった。ホッブとエトは、お互《たが》い司祭の立場にある者同士、慎重《しんちょう》に言葉を選びながら、互いの信仰《しんこう》を讃《たた》えあう。
至咼神ファリスも戦の神マイリーも、共に光の神に属しており、両神殿の司祭はお互いの信仰を尊重しあっている。しかしながら、心の中では複雑なものがあるのだろう。ふたりの会話は、パーンが見ても分かるほどよそよそしいものだった。
それぞれの紹介が終わると、皆は丸いテーブルに思い思いの席を見つけて、腰《こし》を下ろしていった。それから、スレインが謁見の間で見せたエトの態度について、穏《おだ》やかに尋《たず》ねた。責めているのではなく、あくまで理由を尋ねているのだ。最初から、彼はエトの取っている態度が、何か理由があってのことだと確信していたようだった。
パーンは自分の不明を恥じるとともに、エトを疑ってしまったことを後悔《こうかい》した。
「理由はいろいろとあるんだよ」
エトはすこしだけ苦しそうな顔になった。
「僕が国王になった経緯《けいい》は、噂《うわさ》に聞いているだろう。僕は先の戦いで弱体化した神聖|騎士団《きしだん》に代わって、ファリス神殿《しんでん》の神官戦士団を指揮して、ヴァリスの秩序《ちつじょ》を取り戻《もど》す努力をした。宮廷《きゅうてい》付きの司祭の地位にあったからね。英雄王《えいゆうおう》ファーン亡き後、次の王位を決めるのに、ファリス神殿は紛糾《ふんきゅう》したんだ。王位|継承候補《けいしょうこうほ》だった騎士が、すべて戦死していたんでね。それでジェナート最高司祭に推《お》されて、僕が王位に就《つ》いたというわけさ。フィアンナとの婚姻《こんいん》も決まっていたから、騎士も民たちも納得してくれるだろうと思ったのだけれど」
しかし、騎士たちの中には、たいした武勲《ぶくん》もあげていないエトに対する不信感が拭《ぬぐ》えぬ者もいたようだ。彼の宮廷における一挙手一投足が監視《かんし 》され、まだ若い彼が王たるにふさわしくない言動を取ったときには、痛烈《つうれつ》な皮肉が飛んだ。
エトはその皮肉を気にしたわけではない。ただ、自分に対する不満からヴァリス王国の結束《けっそく》が緩《ゆる》むことを恐《おそ》れたのである。だから、彼は人前では厳格な王を演じなければならなかったのだ。今のヴァリスの国王にとって必要なのは、優しさではなく強さなのだ、とエトは悲しそうにパーンに言った。
「聖騎士とは、思えない陰険《いんけん》さだな」
パーンは本気で腹を立てている様子だった。
「誰が国王の座に就いても、不満は出たんだよ。それが、僕に回ってきただけのことさ」エトは笑顔でパーンをなだめた。
「しかし、僕は今のヴァリスの状況《じょうきょう》を許したくはなかった。それから、ファリス神殿の腐敗《ふはい》ぶりもね。ジェナート最高司祭は、だからこそ、僕を王に選んだんだ。その期待に応えないわけにはいかなかったんだよ。それで国王になることを引き受けた。引き受けた以上、いい国王にならないとね」
パーンはもちろん知っていた。エトが優しさだけではなく、強さも持っていることを。その強さは時間がたてば、聖騎士たちにもきっと認められることだろう。
「でも、こっちも驚《おどろ》いたよ。パーンがいきなりフレイムの使者として現われたんだからね。この宮殿には、君のことを覚えている人間だって多いんだ。フレイムの騎士になったと知って、がっかりした人間も多いはずだよ。君はより優れた騎士になるための修行に出ていると考えていた人間も多いからね。僕も何人かの人間にそう説明していた。ウッド・チャックをカーラから解放したなら、きっと戻ってきてくれると信じていたからね」
それから、エトは騎士たちの中ではヴァリスの出身ではないエトよりも、勇者テシウスの息子でもあり、聖騎士としてファーン王にも劣《おと》らぬ武勲《ぶくん》をあげてもいるパーンを国王にという声が上がっていることを付け加えた。
それを聞いてディードリットが忍《しの》び笑いをした。
「ずいぶんと、人気が上がっているものね」
「まったくだ」
パーンは自分が抱《かか》えている問題について正直に打ち明けた。
「カシュー王やスレインは、オレをアラニア王に立てたがっているんだ。何度も断っているんだけどな」
「カシュー王が……」
エトの顔が一転して緊迫《きんぱく》したものになった。
その斜《なな》め向かいでは、スレインが渋《しぶ》い顔をしている。
「困りますよ、エト。ヴァリスの国王は、あなたしかいませんよ。わたしはパーンがアラニア王として立ってくれることに、まだまだ期待しているのですからね」
「これなんだ」
エトはスレインの考えを探るかのように、スレインの顔をじっと見つめた。
「いみじくも、あなたが言ったとおりですよ。民は英雄《えいゆう》を求めています。新しい英雄をです。パーンはその役目にぴったりだと思いませんか?」
「それは思うよ。パーンの名声は確実に高まってきている。かつて、砂漠《さ ばく》の国に現われたひとりの傭兵《ようへい》とまったく同じようにね。吟遊詩人《ぎんゆうしじん》たちは、若い英雄のサーガをこぞって唄い、そして、酒場に集う人々はそれに聞きほれている」
エトの言葉を聞いて、マールが舌を鳴らした。パーンのことなど何も知らないくせに、と文句を言う。先をこされたのが悔《くや》しいのだ。
「あなたの抱《いだ》いている不安はよく分かりますよ。あなたは、カシュー王のことを警戒《けいかい》しているのですね」
スレインの問いに、エトはうなずいた。
「そのとおりだよ、賢者《けんじゃ》スレイン。僕はカシュー王、そしてフレイムという国を恐《おそ》れている。今、いちばん国力のある国はどこだい。内戦に明け暮《く》れているアラニアでもモスでもない。もちろん、国土の東半分を占領《せんりょう》されている我がヴァリスでも、全土を支配されているカノン王国でもない。それに、ライデンの自治体制は終焉《しゅうえん》を迎《むか》えたしね」
パーンはエトの言葉でひとつ納得したことがあった。ハイランド公国のジェスター公爵《こうしゃく》もヴァリス国王エトも、カシューの親書に対してほとんど同じ回答をしたことである。
フレイムとカシュー王に対する警戒感なのだ。協力を受けることで、フレイムこそがロードス島の盟主であるという印象を、人々に与えたくなかったのである。
「カシュー王とは何度か会って、その人柄《ひとがら》を拝見しているけれども、あの国王には才覚がありすぎる。剣《けん》の腕前《うでまえ》だけではない。思った以上に、策略家でもおありのようだ」
スレインは、同感だというように首を縦に振《ふ》った。
「……暗黒皇帝《あんこくこうてい》ベルドに似ていると言いたいのですね」
「似ている」エトはきっぱりと答えた。
「馬鹿《ばか》な、カシュー王はそんな人じゃない」
パーンは驚《おどろ》いて反論しようとした。しかし、すぐにスレインにたしなめられた。
「わたしも一時期、そのことを危惧《きぐ》したりもしました。しかし、支配の王錫《おうしゃく》を巡《めぐ》る戦いで、カシュー王と御一緒《ごいっしょ》し、その心配はどうやら杞憂《きゆう》のようだと判断しています」
「アシュラムとかいうマーモの騎士《きし》のことだね。知っているよ。フレイムからの急使が来て、ヴァリス領内を通過させないでほしいと嘆願《たんがん》されたよ。もちろん、僕はそれに応じたけれど、結局、カシュー王は自らの手で片を付けてしまったからね」
それから後の顛末《てんまつ》についても、エトはフレイムからの報告を受けていたようだ。黒騎士アシユラムを討ちとったこと、支配の王錫≠ェ火竜山の火口の中に失われたこと、魔竜《まりゅう》シューティングスターが死に、フレイム王国は火竜の狩猟場《しゅりょうば》≠ニ呼ばれる平野を領土に組み入れたということ。
「フレイムは、大陸との貿易も独自にはじめるらしいし、最大の懸案《けんあん》だった食糧《しょくりょう》の問題も、西の平野を領土にしたことで解決されただろうね。フレイムの国力がロードス島最大であることを認めない者は、もはや誰もいないよ。傭兵王《ようへいおう》カシューにロードス全土を統一してもらいたいとの声さえ上がっているほどだ」
エトは言葉を切って、ひとつだけため息をついた。そして、続けた。
「危険な考えだと僕は思うよ。それは、ベルドの理想とまったく同じものだから。もしも、パーンを傀儡《かいらい》の王に立てて、アラニアを支配しようと目論んでいるのだとすれば……」
「ですからね、エト。それは誤解なのですよ。カシュー王の野心は、フレイムの国王になったということで満足されていると考えていいでしょう。ベルドという先例を知っているだけに、自らに制約を課しているような節もありますしね。カシュー王の考えは、親書にあったとおり、ロードス島の戦乱をできるだけ早く収めたいということにつきます。カシュー王はわたしに語られましたよ。もはや、血を見るのは飽《あ》きたとね。わたしも同感です」
エトとスレインは、しばしの間、何も語らずにお互《たが》いを見つめていた。隣《となり》で見ていたパーンは何とか口を挟《はさ》もうと試みたが、結局、何も言いだせなかった。
しばらくして、緊張《きんちょう》の糸は解《と》けた。エトが深く息を吐《は》きながら、論争をやめる意志を示すようにかるく右手を上げたのだ。
「……信じるよ、スレイン。カシュー王もだけど、パーンのことをね。パーンなら、たとえアラニア王になったとしても、カシュー王の傀儡になるようなことは絶対にないからね。しかし、僕としてはパーンにヴァリスに留《とど》まってほしいと思うよ。僕に代わって、国王になれなんて言わない。昔《むかし》のように聖|騎士《きし》として、留まってほしいんだ。そして、僕を助けてほしい。今、ヴァリスにはひとりでも多く、優秀《ゆうしゅう》な騎士が必要なんだ」
パーンはその言葉に苦しそうな表情をした。
「どうも、オレはみんなから買いかぶられているような気がするな」
そう言ってディードリットに笑いかける。ひきつったような笑いだった。
「噂《うわさ》は勝手に育っていくということを、オレはやっと理解したよ。噂のほとんどは、オレの力で成しえたものじゃない。ザクソンの独立運動の中心になったのは、あくまでスレインだし、シューティングスターを倒したのは何といってもカシュー王の力だ。オレは手を貸しただけなんだ」
「謙遜《けんそん》じゃないのよ。パーンの言うとおりなの。民が英雄《えいゆう》を求めているのは分かるけれども、英雄をでっちあげるのは困りものね」
ディードリットが、冗談《じょうだん》まじりにそう付け加えた。
エトが白い歯を見せて、噂とはそんなものだよ、と言った。
「でもね。嘘《うそ》でもいいから、僕には名声がほしいと思うよ。それで、騎士たちが僕を真の王だと認めてくれるならね」
そして、エトは近々、ヴァリスがアダンの街《まち》をマーモから取り戻《もど》すための戦いを始めるつもりでいることを、パーンたちに打ち明けた。その陣頭《じんとう》指揮に、自らが立つということも。
それが、ヴァリス王国の悲願であることは、誰もが知っている。ヴァリスの国力が回復していることも噂では聞いた。
「用意が整ったというわけか?」
パーンが声に力をこめた。しかし、エトは首を横に振《ふ》って、悲しそうに微笑《ほ ほ え》んだ。
「そう考えている人は多いね。特に若い騎士たちは、そう信じて疑っていない。しかし、正直に言って、僕にはまだまだ時期が早いように思える」
エトは騎士たちがまだ若く実戦の経験に乏しいこと、自分が神聖騎士団の指揮権を完全には把握《は あく》していないこと、それから騎士団とファリス神官戦士団とが不仲であること、義勇軍を募《つの》れるような状態ではないことなどを理由として挙げた。
「それなら、思いとどまるべきですよ」
スレインの顔色は変わっていた。今、ヴァリスが無理な戦いをして敗退しようものなら、マーモの力はさらに強大なものになる。それを危惧《きぐ》しているのが、ありありとうかがえた。
「そうもいかないんだ。僕もできるかぎりの説得をしたんだけれど、はやる騎士たちを抑《おさ》えておくことは、これ以上できない。僕が臆病《おくびょう》だと思われてしまうからね。そうなれば、せっかくまとまりかけている王国は、また混乱してしまう」
表情もそうだが、声も苦しそうだった。パーンには、エトの苦悩《く のう》を測りしることはできなかった。危険な賭《か》けに臨むのは、彼がもっとも嫌《きら》うところだ。しかも賭けるのは、ヴァリス一国の運命である。
「……その戦いには、オレも参加させてくれ」
パーンにはそう言うしかなかった。自分が加わったとて、戦《いくさ》の勝敗が変わるわけではないことは知っている。しかし、エトが危険な戦いに赴《おもむ》こうというのに、協力しないわけにはいかない。エトがファーン王のように戦いの中で命を落とすようなことだけは何としてでも阻《はば》みたかった。
「その申し出はありがたく受けるよ。待遇《たいぐう》の方はどうしよう。騎士隊長に推挙しても、若い騎士たちは絶対に文句を言わないはずだけど」
「……いや、オレ自身は聖騎士を辞めたつもりでいるし、二度と銀十字の鎧《よろい》を着ようとも思っていない。もしも、傭兵隊《ようへいたい》を組織しているのなら、それに加えてくれ。ここにいるみんなも、協力してくれるはずだから」
勝手に決めるなとばかりに、マールが不平の声をあげたが、パーンはそれを無視した。彼のしたたかさは、よく分かっている。たとえ、ヴァリスの全軍が戦死したとしても、彼だけは間違《ま ちが》いなく生き残っているに違いない。
「……ありがとう、パーン。それから、みんな。心から協力を感謝するよ」
エトはパーンに傭兵隊長の立場を約束《やくそく》してくれた。パーンはそれに応じるつもりだった。いつもならば断るところだが、今はたとえ数十人でも協力してくれる仲間がほしかった。それに傭兵たちとなら、うまく付き合っていく自信もあった。
パーンはエトに戦いをいつ始めるつもりかと尋《たず》ねた。答は、一月後であった。急な話ではあるが、それまでのあいだに確かめておきたいことや、やっておきたいことはいくらでもあった。
「まず、アダンに駐留《ちゅうりゅう》しているマーモ軍の数から教えてほしい」
アダンの街《まち》はロイドの北東に位置している。山越《やまご》えの街道《かいどう》を通って、北はアラニア王国第二の都市ノービス、東はカノン王国の同名の王都へと続いている陸路の要所である。ヴァリス王国では王都ロイドに次いで第二の都市であり、周囲には田園地帯が広がり、いくつもの小さな村が興《おこ》っている。先の大戦以来、マーモ軍の占領《せんりょう》下にあり、その支配の恐《おそ》ろしさは、カノン王国のそれと何ら違いはなかった。
そのアダンの街に東のカノンから、騎馬の一団が到着《とうちゃく》した。
その数は十騎あまり、決して多いというわけではないが、その一団の異様さは、人々の注目を集めた。
先頭にいた人間は、暗黒皇帝《あんこくこうてい》ベルドを髣髴《ほうふつ》させるような真紅の甲冑《スーツ》に身を包んでいた。そして、黒塗《くろぬ》りの鞘《さや》に収められた|大 剣《グレートソード》を背中に担いでいる。一目で古代王国の品と分かる凝《こ》った装飾《そうしょく》が施《ほどこ》されていた。おそらく、魔法《ま ほう》の剣《けん》なのだろう。
ベルドの姿を見たことのある人間ならば、あの赤髪《せきはつ》の王が手にしていた剣とまったく同じものだということに気が付いたかもしれない。
そして、背筋が凍《こお》るような思いで、魔剣《ま けん》の名をつぶやいたことだろう。
|魂砕き=sソウルクラッシュ》と。
その魔剣は最も深き迷宮≠ナの戦いのおりに、持ちかえられた剣である。魔神の王が持っていた、強力な魔法の剣だ。その剣の一撃《いちげき》を受けたものは、名前のごとく魂を砕かれ、瞬時《しゅんじ》にして絶命してしまうとの噂《うわさ》がある。
真偽《しんぎ》のほどは分からない。その魔剣で斬られて、生き延《の》びた人間がいないからだ。
真紅《しんく》の鎧《よろい》の騎士に続くのは、こちらはまるで闇夜《やみよ》を思わせる暗黒の鎧に身を包んだ騎士である。長い黒髪を後ろに流し、蝋人形《ろうにんぎょう》のように白い顔は、まったくの無表情だった。
この男の名前を知っている者は、多くはあるまい。しかし、先の大戦のおり、このアダンの街を襲撃《しゅうげき》し、征服《せいふく》した当の本人であることを思いだしている者もいたかもしれない。
アシュラムという名の黒騎士である。
それから、黒色のローブをまとった魔術師《まじゅつし 》ふうの男が続いており、残る騎馬の男たちはマーモ暗黒騎士団の正規の甲冑《スーツ》を身につけていた。
アダンの街の人々は、ため息をつきながら、この騎馬の集団を見送った。彼らにしてみれば、圧政者たちの数が増えただけのことだ。
やがて、騎士の一団はマーモから派遣《は けん》されてきた領主が住んでいる砦《とりで》のような館へと入っていった。
「これはどういう訳なのですか?」
まるで宝物庫かと見まがうばかりの豪勢《ごうせい》な造りの部屋《へや》の中で、ひとりの男が信じられないというように頭を振《ふ》った。
ここは、領主の公務室である。そして、男はついさっきまでアダンの領主だった人物だ。将軍の地位も兼ねており、この街に駐留《ちゅうりゅう》するマーモ軍の最高責任者でもあった。
男の目の前には、二人の騎士がいる。赤い鎧《よろい》を着ている男は名前をジアドという。彼に代わって、新しい将軍に、そしてアダンの領主になるという。
見上げるような巨漢《きょかん》で、食人鬼《オーガー》なみの怪力《かいりき》だけが自慢《じ まん》の男である。暗黒騎士団の騎士隊長のひとりだったが、その中ではさしたる活躍《かつやく》もない。
そんな男が将軍に選ばれるなど笑止であった。しかし、ジアドの持ってきた命令書には、マーモ評議会の議長の名前が署名されていた。
だが、それですら、もうひとつの驚《おどろ》きに比べれば、些細《さ さい》なことにすぎなかった。ジアドの副官として、彼の傍《かたわ》らにひかえている騎士を見たとき男は、天地が逆転したのかと思ったほどであった。
マーモの誇《ほこ》る黒騎士アシュラムである。
男にとって、アシュラムはただひとりの上官であった。マーモ評議会の四人の議員のうちのひとりで、暗黒騎士団の長であったから。それがなぜ、ジアドごときの副官などしている?
男の疑問はその一点に集中していた。先程からジアドなど目にも入らぬとばかりに、アシュラムに噛《か》みつくように尋《たず》ねている。
「御覧の通りだ。オレは、もはやマーモ評議会の議員ではない。ただの騎士隊長、ジアド将軍の副官だよ」
答えるアシュラムの声には、覇気《はき》がまったく感じられなかった。
「……信じられません」
以前のアシュラムを知っているだけに、同じ人間とはとうてい思えなかった。あの氷のような冷たさはどこにいったのだろう。近寄っただけで切れてしまいそうなほどに、全身から放たれていた殺気はどこにいったのだろう。
「信じなくてもかまわん。貴様は、アダン太守《たいしゅ》の任務と暗黒騎士団将軍の任を解かれたのだ。これからは、このオレがその任に就く」
分かったな、とジアドは元領主に念を押《お》した。
「……命令ならばな。だが、オレの処遇《しょぐう》はどうなるのだ?」
「貴様は、このアシュラムと同じく騎士隊長に格下げだよ。オレの指揮下に入ってもよし、本国に帰って、評議会の命令を待つもよし、好きにすればいい」
「貴様の指揮下になど入るものか。オレはマーモ評議会に赴《おもむ》いて、事の次第を確かめてくる。それまで、このアダンの街《まち》がマーモの支配下にあることを祈《いの》っておるよ。近く、ヴァリス軍がこのアダンを解放するための戦に踏《ふ》み切るとの情報が伝わっているからな」
元領主はジアドを睨《にら》みつけ、それからアシュラムに対して一礼をすると、大股《おおまた》に部屋《へや》から去っていった。そして、馬の用意を召使いに言いつける。
「勝手にするがいい」
ジアドは男の背中に向かって、下品な笑い声を飛ばした。ゴブリンの笑い声のほうがよほど親しみが湧《わ》くのではないかと思えるような声だった。
「……将軍、わたしも退出してよいかな。荷物を自室に運ばねばならんのでな」
「許可しよう。だが、その前にオレの荷物を隣《となり》の部屋に運びこんでくれ」
ジアドは侮蔑《ぶ べつ》の表情を浮《う》かべながら、アシュラムに視線を向けた。
「分かった」
アシュラムは答えた。
「心得ました、と言え!」ジアドは激《はげ》しい口調で、叱責《しっせき》した。
アシュラムは素直に従い、心得ましたと言いなおした。その言葉を聞いて、ジアドは満足そうな笑みを満面に浮かべた。それから、大柄《おおがら》な身体を激しく揺《ゆ》らしながら、大声をあげて不気味な笑いを飛ばした。
その笑い声に見送られながら、黒騎士アシュラムは部屋を出ていった。
それから、数刻が過ぎた。
アシュラムは自らに与えられた部屋に落ち着いていた。粗末《そまつ》なベッドに身体を投げだすように横たわり、じっと天井《てんじょう》を見ている。
ベッドの反対側の壁《かベ》に置かれた机のところに、ひとりの男がいた。
アシュラムの鎧《よろい》と同じく闇色《やみいろ》のローブに身を包んだ男だった。名前をグローダーという。魔術師であり、黒の導師バグナードの高弟であった男だ。
グローダーは、クッションもない粗末な椅子《いす》に腰《こし》を下ろし、複雑な顔でアシュラムを見つめている。
「……何を考えておられる?」
グローダーは尋《たず》ねた。しばらく待ったが、アシュラムからの返事はなかった。
「アシュラム卿《きょう》……」グローダーは立ち上がり、アシュラムの所まで歩いてきた。
「何も考えてなどいない」
遅《おく》れた返事が、ようようにして返ってきた。
グローダーは、ため息をつきながら首を横に振《ふ》った。そして、ベッドの端《はし》に立って、アシュラムを見下ろした。
「わたしが救ったのは、生ける屍《しかばね》のごとき男だったのか? わたしは、あなたのそんな顔を見たくはないぞ」
あの火竜山《かりゅうざん》の戦いで自らの敗北を悟《さと》ったとき、グローダーは〈瞬間移動〉の呪文《じゅもん》を使い、マーモ本島に帰った。魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》≠手に入れた後は、いつでも帰れるようにと、彼の導師バグナードが移動の目標となる魔法陣《まほうじん》を準備してくれていた。
マーモに戻《もど》るやいなや、グローダーはこの魔法陣を、今度はアシュラム救出のために使ったのだった。彼の居場所を魔法の水晶球によって捕《と》らえると、精|一杯《いっぱい》の魔力《まりょく》を使って彼を召喚《しょうかん》し、魔法陣に引きこんだ。
バグナードから教えられた〈強制送還〉の呪文である。バグナードがルノアナ湖の古代王国の遺跡《い せき》で手に入れた失われた魔法≠フうちのひとつである。
グローダーははじめてこの呪文を使ったが、効果は完全に発揮された。今まさに、火竜山の火口の灼熱地獄《しゃくねつじごく》へと落ちようとしているアシュラムを、間一髪《かんいっぱつ》で呼び戻すことに成功したのである。
しかし、魂の水晶球≠フ奪取に失敗したことや、アシュラムの命を救ったことは、バグナードの怒《いか》りを買った。裏切者とののしられ、彼は苛酷《か こく》な罰《ばつ》を被《こうむ》った。
バグナードは〈制約《ギ ア ス》〉の呪文で、グローダーを呪縛《じゅばく》したのだ。それは、バグナード自身が彼の導師にあたる魔術師ラルカスによってかけられていた呪縛と同じものだった。魔法を使えば、身体に耐《た》えがたい激痛《げきつう》が走る。
バグナードは、今もこの呪縛に囚《とら》われている。ラルカスのかけた〈制約〉の呪文の魔力はそれほどに大きいのだ。しかし、彼はその信じられぬほどの痛みの中でも、精神の集中を乱すことなく呪文をかける。長時間に及ぶ魔法の儀式にすら耐《た》えるのだ。
並《な》みの人間には、とうてい真似できるものではない。
グローダーは〈制約〉の呪文をかけられた後、何度か魔法をかけようと試みた。しかし、その都度、挫折《ざ せつ》した。今では、もはや魔法は使えぬものとあきらめている。自分の身に降りかかってみて、はじめてバグナードの真の偉大《い だい》さが理解できた。
しかし、グローダーはバグナードを裏切り、アシュラムに味方してしまった。
一時の感情に流されたような気もしないではないが、アシュラムがマーモにとって、そして自分にとって必要な人物であるとの確信はあった。しかし、今のアシュラムにはとうてい、そんな期待がかけられない。
自分が魔法を使えなくなった代償《だいしょう》としては、あまりにも情けなかった。
まるで|魂砕き=sソウルクラッシュ》で自らの身を斬って、魂がなくなってしまったのか、とさえ思えるような落胆《らくたん》ぶりであった。
評議会を除名され騎士隊長に降格させられることも、ジアドの副官になることも、ベルド皇帝の遺品ともいえる。魂砕き≠ジアドに譲《ゆず》り渡《わた》すことも、アシュラムはすべて承知した。
命じた当の評議会の議員たちでさえ、唖然《あ ぜん》となったほど、彼は素直に命令に従ったのだ。
「おまえには、貧乏《びんぼう》くじを引かせてしまったな」
アシュラムがつぶやいた。このまま終われば、まったく貧乏くじである。しかし、あいにくとグローダーにはこのまま終わらせるつもりはなかった。
「何、魔法がなくともわたしには、人より優れた知恵《ちえ》があります。今のあなたよりは、まだ役に立つ人間であると自負できる」
「何とでも言え、怒《おこ》る気力も湧《わ》いてこない。オレの命は、あの火竜山で失われたも同然なのだ。悲願は断たれた。カシューに敗れ、支配の王錫《おうしゃく》は失われた。貴重な勇者たちを失い、敵に名を成さしめた」
それから、アシュラムはお笑いだよ、と自嘲的《じちょうてき》に吐《は》きすてた。
これは重傷だな、とグローダーはこの場の会話を打ち切る決心をした。時間が解決してくれるかもしれない。ジアドが調子にのってアシュラムを扱《あつか》い、彼の怒りに火をつけるかもしれない。
グローダー自身は、その火付け役になるつもりはなかった。その役を負った者は、アシュラムを目覚めさせた後、首と胴《どう》とが分かれているに違《ちが》いないからだ。以前のアシュラムならば、間違《ま ちが》いなく、そうするはずなのである。
「ベルド陛下が、今のあなたを見れば、何とおっしゃるでしょうな」
グローダーはそう言葉を残して、アシュラムの部屋を辞した。
彼は、ジアドという男がしでかすはずの失策を、最小限の被害《ひ がい》で食い止めるための方法を模索《も さく》するつもりでいる。それが、マーモ帝国全体の利益につながるからだ。
そのためには、このアダンの街《まち》の状況《じょうきょう》を、それからヴァリス軍の動きを正確に把握《は あく》しておかねばならない。しかも、今の彼には部下がいない。それらの情報収集は独力で行なわねばならないのだ。
しばらくは、忙《いそが》しい日々が続くだろう、とグローダーは思った。そして、そのあいだにアシュラムが復活してくれることを、願わずにはいられなかった。
赤き鎧《よろい》の将軍<Wアドがアダンの領主として赴任《ふ にん》してから、一週間が過ぎた。
この将軍がやってくるまで、アダンの街の人々は、自分たちはこの世でいちばん不幸な人間だと考えていた。しかし、それは間違《ま ちが》いだった。より不幸な人間がありえることを、ジアドによって教えられたからだ。それは、現在の[#「現在の」に傍点]自分たちである。
マーモの支配の特徴《とくちょう》は、その厳しい階級制度にある。マーモの騎士や兵士たちは上位の階級にあり、アダンの市民たちはすべて最下級の階級に位置された。ゴブリンやコボルドなどの妖魔《ようま 》よりも、さらに下の階級におかれたのである。
かつて、アダンの法はファリス神の教えであった。それは厳格ではあったが、苛酷《か こく》ではなかった。今のアダンを支配する法は厳格ではない。何しろたったひとつの項目《こうもく》しかないのだ。それは「上の階級の者は、下の階級の者に対し、いかなることを要求してもかまわない」というものだった。
しかし、今までのマーモの支配者たちは、そうは言っても支配のための規範《き はん》を作り、その規範から逸脱《いつだつ》した者を罰《ばっ》するぐらいの分別はあった。
掠奪《りゃくだつ》の時代は終わり、今は支配する時代だったからだ。支配者は支配される民を保護しなければならないものだ。民の信頼を得なければ、占領《せんりょう》した土地が領土となることはない。恐怖《きょうふ》によっては、民の信頼は決して得られないだろう。最初は恐怖をもって、それからその恐怖をすこしずつ緩《ゆる》めていく。そうすれば、民は安堵《あんど》感を抱《いだ》き、かつての支配者が誰であったかも忘れていくものだ。
前の領主はそう考えて、アダンを支配してきた。
だが、新しい領主は違《ちが》った。彼は掠奪が横行していた初期よりも、さらに恐《おそ》ろしい圧政を開始したのである。まるで、このアダンの土地から、富を残らず掠奪しようと考えているみたいであった。
下級の妖魔《ようま 》たちは勢いづき、本来ならば治安を守るべき衛兵たちは、非番のときには盗賊《とうぞく》となった。街の人々は娘たちの髪《かみ》を切り、男装《だんそう》させた。そうしなければ、いつ乱暴されるか分かったものではないからだ。
赤き鎧《よろい》の将軍≠ヘ、恐怖《きょうふ》と死を引き連れて、アダンの街にやってきた。彼の統治のあまりの苛酷《か こく》さは、良識のあるマーモの人間たちの背筋を凍《こご》えさせた。ベルドが統一する以前のマーモでさえ、今のアダンの街の比ではなかったに違《ちが》いない。
赤き鎧の将軍<Wアドは、領主の公務室にその姿があった。
と、部屋《へや》の扉《とびら》が、突然《とつぜん》、激《はげ》しく叩《たた》かれた。
面倒《めんどう》そうに、ジアドは入室を許可した。
すると扉を開き、ひとりの男がどかどかと部屋の中に踏《ふ》みこんできた。若い騎士だった。しかし、その若さに似合わぬ|長 剣《バスタードソード》の使い手で、騎士隊長の地位にあることをジアドは思い出した。
ジアドは、机の上に溢《あふ》れんばかりの数の宝石を、宝箱の中に整理して戻《もど》しているところだった。彼の傍《かたわ》らには、裸《はだか》同然の格好をしている侍女《じじょ》がひとり控《ひか》えている。
毛足の長い絨毯《じゅうたん》の敷《し》きつめられた床《ゆか》の上には、空になった酒瓶《さかびん》が散乱している。
「この街は、なかなか豊かだな」
ジアドは入ってきた騎士隊長に向かって、笑いかけた。はげかかった頭が、彼が愛用している鎧のように真っ赤なのは、かなり酒が入っているためだった。
汚物《お ぶつ》でも見るような目つきで、まだ若いその騎士は、ジアドを見つめた。
「富には量が限られたものと、無限に産みだされるものがあることを御存じですか?」
若い騎士の言葉は、冷たく室内に響《ひび》いた。
「……どういうことだ」
ピクリとジアドの眉《まゆ》が動き、椅子《いす》に腰《こし》かけたまま若い騎士を睨《にら》みつけた。
「この街の豊かさは、金銀や宝石の量にあるわけではないということですよ」平然と騎士はジアドに言い返した。
「これほど豊かな穀倉地帯は、マーモにはありませんからね」
「どうやら、オレに進言したいことがあるようだな」ジアドは、笑顔に戻《もど》って机の上で両手を組んだ。
「わたしは、賢明《けんめい》な領主だ。妥当《だとう》な意見ならば、いつでも聞く用意があるぞ」
「それは初耳。しかし、わたしは進言するつもりはありません。ただ、不満を伝えにきただけです。それから、あなたの下で働くのは、今日限りとさせていただきます。わたしはこれからカノンに戻《もど》るつもりでおります……」
ジアドは相変わらず笑顔を浮《う》かべたまま、肥満ぎみの身体を震《ふる》わすように椅子を立って騎士に近づいていった。騎士はそれを静かに見つめた。腰にチラリと視線をやったのは、相手が剣《けん》を持っていないことを確かめたのだろう。
「おまえの意見はもっともだな。しかし、食糧《しょくりょう》などいくらあっても、ひとりで食べきれるものではない。違《ちが》うか?」
騎士《きし》はこの将軍が冗談《じょうだん》を言っているのだと思った。だが、どうやら違うようだった。彼は本気なのだ。
騎士は、まず小さく笑った。その笑い声はしだいに大きくなっていき、ついにはこの部屋《へや》に置かれた調度品がすべて震《ふる》えだすかと思えるほどになった。
「そんなに面白いか?」
ジアドは騎士のすぐ近くまでやってきた。
「これほど面白い冗談は聞いたことが……」
若い騎士は、最後まで言葉を続けられなかった。ジアドがいきなり騎士の首に太い腕《うで》を回して絞《し》めあげたからだ。
「オレは冗談など嫌《きら》いだ」
若い騎士はジアドの腕から逃《のが》れようと身をよじった。しかし、その腕はまるで鋼鉄でできているかのようであった。
ジアドの顔には、笑みが浮かんだままであった。彼の腕に力がこもって、厚い脂肪の下から筋肉が盛《も》りあがっていく。その腕の中で、何かが砕《くだ》ける音が聞こえた。
ジアドは両腕を高く差し上げた。首を異様な角度に曲げながら、騎士が床《ゆか》に崩《くず》おれた。口からは真っ赤な血の泡《あわ》を吹いている。
侍女の口から甲高《かんだか》い悲鳴がほとばしった。
「アシュラムを呼んでこい。この死体を片付けさせるのだ。オーガーの餌《えさ》にしても構わないとな」
ジアドは悲鳴をあげつづけている侍女に向かって、怒鳴《どな》りつけた。
侍女はピタリと口をつぐんで、二度、三度とうなずいてから、弾《はじ》かれたように部屋を飛びでていった。
侍女が消えるのを待ってから、ジアドは床の上にひざまずくと、若い騎士の懐《ふところ》を探り、中から宝石の入った小袋《こぶくろ》を取りだした。
「金や宝石はいくら持っていても腐《くさ》ることはないのだ」
しばらくして、アシュラムがやってきた。
部屋に入ってくるなり、アシュラムが見たものは、宝石を机の上に並《なら》べているジアドの姿と恨《うら》めしそうに天井《てんじょう》を仰《あお》いでいる若い騎士の姿だった。
ジアドは新しい宝石が増えたので、ふたたび整理しなおしているのだった。
アシュラムは若い騎士の屍《しかばね》の前にひざまずくと、まぶたに手をやって、彼の目を閉じさせた。
「どういうことかな?」アシュラムは表情を変えることなくジアドに尋《たず》ねた。
「この男は若いが優秀《ゆうしゅう》な騎士隊長《きしたいちょう》だったはずだ。この男を殺すことは、マーモにとっては大きな損失だぞ」
「そいつはオレの命令を無視して、勝手にカノンに帰るといったのだ。それは任務|放棄《ほうき》ではないか。マーモに対する反逆罪だな」
アシュラムはチラリと視線を走らせてから、黙《だま》って騎士の骸《むくろ》を抱《だ》きあげた。そして、開け放ったままの扉《とびら》へと向かう。
「……ジアド将軍」去り際にアシュラムは思いだしたかのように付け加えた。
「ヴァリス軍がアダンの西方に姿を現わしたという知らせがあった。数は分からないが、この街《まち》を解放することが目的なのは間違《ま ちが》いない。噂《うわさ》では国王エトが自ら騎士団を率いてくるらしい」
「このアダンを解放するだと? エト国王がやってくるだと?」
ジアドは手の動きを止めて、顔を上げた。
「早急に手を打ったほうがいいぞ……」
ジアドは、机の上に並《なら》べられた宝石を両腕《りょううで》で掻《か》き集めはじめた。
「それは、朗報だな。エトの首を取れば、ヴァリスの息の根を止めたも同然だからな。そのまま、ロイドまで進軍して聖王宮を陥落《かんらく》させてやろう」
「それは頼《たの》もしい。お手並《てな》み拝見といこう」
アシュラムは一緒《いっしょ》にやってきた侍女《じじょ》に目で合図した。侍女はうなずいて、扉を閉めようとした。
扉が閉まった気配を背中で感じながら、アシュラムは無念の表情を浮《う》かべている若い騎士の死顔に目を落とした。
「あんな男に殺されるとは不覚だったな。マーモでは、生き残った者こそが勝利者なのだぞ……」
若い騎士を手厚く葬《ほうむ》って、アシュラムは自分の部屋《へや》に戻《もど》ってきた。
彼の部屋の扉は開いており、中から人の気配が伝わってきた。アシュラムは、警戒《けいかい》もせずに部屋の中に入った。すると、数人の男が床《ゆか》の上に腰《こし》を下ろして、何やら打ち合わせをしていた。
「何の相談事かは知らぬが、オレの部屋を会議室代わりに使わんでくれ」
苦笑を浮かべて、アシュラムは男たちを見回した。すべて見覚えがあった。彼が指揮していた親衛隊の騎士ではないが、全員が暗黒騎士団の正規の騎士であった。
「アシュラム隊長……」
戻ってきたアシュラムを出迎《でむか》えるように、全員が立ち上がった。
「何の用だ。オレは世間話に付き合うつもりはないぞ」
「もとより、こちらも世間話などするつもりはありません」
ひとりの男が一歩進みでてきて、アシュラムに向かいあった。
「我々は、ジアドごときの配下になどなりたくはないのです。あの男は、将軍としても領主としても、あきらかに力不足だ。侵攻してくるヴァリス軍を防ぐことはとうていできないだろう」
アシュラムには、そうとばかりは思えなかった。ジアドの無能さを否定するつもりはないが、今のヴァリスにアダンに駐留《ちゅうりゅう》するマーモ軍を撃破《げきは》するだけの力があるとも思えなかったのだ。
はっきり言って、五分と五分。ジアドが大きな失敗を犯《おか》さないかぎりは、ほぼ勝てるようにも思う。
「あなたはかつてマーモの評議員として、全騎士団の長だった人間だ。そのあなたがいるのに、何ゆえジアドごときに、将軍など名乗らせておるのですか?」
男は、アシュラムを値踏《ねぶ》むように見つめていた。昔、アシュラムを見たときには、息が詰《つ》まるような圧迫感《あっぱくかん》を覚えたものだが、今は微塵《みじん》もそれが感じられなかった。後ろに控《ひか》える男たちもそれを察したものか、その顔に戸惑《とまど》いの色を浮《う》かべている。チラリ、チラリとお互《たが》いに視線を走らせ、かつての黒騎士の豹変《ひょうへん》ぶりが、自分だけの錯覚ではないことを確かめあっている。
「それで、おまえたちは何がしたいのだ」
「マーモ式に解決します。ジアドを暗殺する。そして、その後の将軍にはあなたがなっていただきたい」
男はきっばりと言った。
アシュラムは、静かに首を横に振《ふ》った。
「オレにはそのつもりはない。オレはこの前、重大な失敗を犯した。一度、失敗を犯した人間は、二度、三度と失敗を重ねるものだ。おまえたちもマーモの人聞ならば、それぐらい知っているだろう。オレの権力はもはや失墜《しっつい》している。誰もオレのことなど信用しないだろう。もしも、ジアドを殺し、オレが将軍になどなれば、反乱|鎮圧《ちんあつ》のための軍隊か、ダークエルフの暗殺部隊がこの街に派遣《は けん》されてくることだろう」
ダークエルフと聞いて、男たちがビクリとした。
「ダークエルフの暗殺者たちなら、すでにこの街に駐留している。ダークエルフの族長、ルゼーブ直属の部下たちだ」
死神の話をしているかのような表情だった。彼らの恐《おそ》ろしさは、マーモの人間こそがいちばんよく知っている。数こそ少ないものの、彼らひとりひとりは数人の騎士にも匹敵《ひってき》するほどの危険な存在だった。全員が精霊魔法《せいれいまほう》を使う魔法戦士であり、その暗殺の技でいったい何人の敵将が犠牲《ぎ せい》になったことだろう。
先の戦いのおりにも、ヴァリスの宮廷魔術師エルムをはじめ、神聖騎士団の隊長たちが、何人も彼らの毒の刃《やいば》にかかって最期を遂げた。
「まさか、すでに誰かの暗殺の指令を受けているのでは……」
ひとりの騎士が不安そうにつぶやいた。
「その程度のことで怯《ひる》むようなら、こんな話などしないことだな」
アシュラムは冷ややかに言って、男たちに部屋から出るように言った。
それから、ジアドを暗殺したいならば、丸腰《まるごし》だからといって油断するなと忠告しておいた。あの男は剣《けん》を握《にぎ》っているときよりも、素手でいるほうがよほど危険なのだから、と。
そして、先程、ひとりの騎士がジアドの手にかかったばかりであることを伝えた。それを聞いた騎士たちは、怯《おび》えではなく、怒《いか》りの方が湧《わ》きあがったようだ。
「御忠告を感謝します、アシュラム殿《どの》」
そして、男たちは荒々《あらあら》しく部屋から出ていった。その顔には、アシュラムに対する失望の色が強く出ていた。
「生者は勝者、死者は敗者か……」
アシュラムはマーモの騎士たちのあいだでよく使われる言葉をつぶやいた。その言葉をつい先程、死んだ若い騎士に向かってつぶやいたばかりだった。
自分はすでに死んだ男である。あの火竜山《かりゅうざん》の火口に身を投げたときにだ。だから、すでに自分は敗者なのだ。生き恥《はじ》をさらすだけの哀《あわ》れな男にすぎないのだ。
見渡《み わた》すかぎり、田園地帯が広がっている。だが、この辺りはヴァリスとマーモとの勢力の境界にあたっており、畑は焼けて、したたかな生命力を持った雑草が伸《の》びているだけだった。
この状態がすでに数年間、変わることなく続いているのだそうだ。
パーンは、数十人の傭兵隊《ようへいたい》の先頭に立って、街道《かいどう》を東に馬を進めていた。遠く離《はな》れた前方には、神聖騎士団の先遣隊が列を正して進軍している。その様は、遠目に見ればかつてのように勇壮《ゆうそう》であった。
エトの率いる本隊は、数日ばかり遅《おく》れて到着《とうちゃく》するはずだった。本心では、それまでに片を付けたいとパーンは考えていた。そうなれば、たとえ勝利しても、エトの名声が上がることはないかもしれない。しかし、彼を危険な目にあわせずにすむのである。パーンはエトの名声と命のどちらを選ぶかと問われれば、迷うことなく後者を選ぶだろう。
パーンはヴァリス神聖騎士団の実体を知って、かなりの衝撃《しょうげき》を受けていた。ほとんどが、二十歳になるかならぬかという若者だった。ちょうど、五年前の自分の姿が思いだされた。元気の良さだけは保証できる。剣の訓練も、そこそこには積んでおり、実戦を経験すればよい騎士になっていくだろう。
しかし、戦士にとってもっとも重要なのは、あくまでも自分の命を守ることにあり、そのための技術は、実戦を経験してはじめて得られるものである。それでなくても、聖騎士たちは正面から戦うことを正義とし、退くことを知らない。だからこそ、先の大戦ではほとんどの騎士が息絶えるという結果になったのだ。
パーンは、今度の戦の行方にすくなからず心を痛めていた。
ただ、自分が預かることになった傭兵隊には、さすがに手練《てだれ》が揃《そろ》っている。ヴァリスはあまり傭兵隊に力を注いでいないので、数こそ少ないが、全員の戦歴にはパーンは十分に満足がいった。
ありがたいことに、傭兵たちもパーンの噂《うわさ》を耳にしていた。|竜殺し=sドラゴンスレイヤー》の勇者として、すぐに彼を隊長として認めてくれた。もちろん、全員から手合わせを求められ、その腕前《うでまえ》を確かめられたが、彼らはほぼパーンの剣技《けんぎ》に納得した様子だった。
おかげで、パーンにも傭兵たちの力量がだいたい分かった。マーシュほどの怪力《かいりき》の持ち主や、フォースほどの素速さを持った人間はいない。シーリスほどの技術の持ち主やオルソンほどに疲《つか》れしらずの者もいない。しかし、並《な》みの騎士が相手なら、十分に通用するだろう。
パーンはスレインと相談しながら、この傭兵隊をいかに優れた部隊にするかで、この一月のほとんどを費やした。馬上での戦いや、飛び道具を使った攻撃《こうげき》、あらゆる状況《じょうきょう》を考えて、パーンたちは傭兵たちを鍛《きた》えていった。
おかげで、馬上|戦闘《せんとう》が苦手な者も、飛び道具が下手だった者も、今ではそれなりの技術を身に付けていた。このふたつの技術は草原での戦いでは欠かすことのできないものだった。
パーンの率いる傭兵隊は、エトから遊撃《ゆうげき》任務を命じられていた。すなわち、勝手に戦えということだ。
いかにも、ヴァリスらしい傭兵の使い方だった。決戦は、聖騎士の精鋭《せいえい》でもって行なうつもりなのだ。傭兵隊は、あくまで補助的な戦力としか考えていないのである。
若い騎士隊長たちは、傭兵などならず者の集団としか考えていない節もある。実際、そのとおりなのだが、しかし、彼らが高度な技術を持った戦士であることを失念している。
フレイム軍が強力なのは、砂漠《さ ばく》の鷹《たか》騎士団の勇猛《ゆうもう》さとともに、大量の傭兵部隊を抱《かか》えて、正規軍と同様に運用しているという点につきる。自身が傭兵出身の王だけに、カシュー王は傭兵隊の有用性をもっとも把握《は あく》している国王である。
ヴァリス王国が神聖王国であるかぎり、戦い方が急に変わるとは思えない。騎士団対騎士団の正面からの激突《げきとつ》に関しては、神聖騎士団は間違《ま ちが》いなく、ロードスでもっとも強力な騎士団であるとパーンは思っている。
そのための訓練ばかりを、彼らはいつも積《つ》んでいるからだ。
神聖騎士団の先遣隊は、およそ三百騎。それに軽装備《けいそうび》の歩兵が、五百人ばかり従っている。
彼らは長弓《ロングボウ》と|小 剣《ショートソード》で武装《ぶ そう》しており、騎士団の突撃《とつげき》の前に弓矢で援護《えんご》をする役目を担っていた。
それから、突撃して敵と戦う。至近|距離《きょり》から弓矢を放ったり、接近戦で小剣を振《ふ》るったりするのだ。
乱戦にさえならなければ、彼らの機動力は侮《あなど》りがたいものがあるはずだった。
「どう思う、スレイン?」
パーンは左隣《ひだりどなり》でぎこちなく馬を進めているスレインに質問した。
「どう思うと言われても、それだけでは答えようがありませんよ」
スレインは一生|懸命《けんめい》、手綱《たづな》を操っている感じだった。彼も傭兵部隊の人間と一緒《いっしょ》に乗馬の訓練を受けていたのだ。その甲斐《かい》あって、普通《ふつう》に乗っているだけなら、支障がないぐらいには上達した。もちろん、早駆《はやが》けなどはできない。
パーンは頭をかいた。自分の考えに没頭《ぼっとう》していたので、全然、言葉が足らなかったのだ。
「今度の戦いがだよ。正直に言って、ヴァリスは勝てるかな」
「さあね、戦《いくさ》は時の運と言いますからね。ただ、力はこちらの方が上と考えていいでしょう。問題は英雄戦争のときのように乱戦になることでしょうね。乱戦になれば、数がものをいうものです。コボルドやゴブリンの大軍が、侮れなくなりますからね」
アダンに駐留《ちゅうりゅう》しているマーモ軍は、騎士が二百人ほどで、兵士が五百人程度だという。しかし、指揮系統に入っていないゴブリンやコボルドなどの妖魔《ようま 》の数は、まったく計りしれないのだ。千いるか、二千いるかも分からない。
そして、怪力《かいりき》を誇《ほこ》るオーガーや狡猾《こうかつ》な魔法戦士《まほうせんし》であるダークエルフたちは、もちろん、恐《おそ》るべき存在である。ただ、噂《うわさ》では、その数はあまり多くはないということだった。
パーンたちには、その噂が正しいことを願うしかなかった。
「ディードリットが、仲間のエルフを呼ぶとかできないの?」
マールは子馬に乗って従軍していた。彼は短弓《ショートボウ》と|小 剣《ショートソード》という武装《ぶ そう》で、鎧《よろい》もいつもより厚手の革鎧《レザーアーマー》を着こんでいる。
「あたしの仲間は、人間界の争いには、力を貸したりはしないの」
「人間を相手にしなくてもいいからさ。ダークエルフだけでも何とかならない?」
エルフは森を攻撃《こうげき》されたら、もちろん、武器を取って戦うだろう。しかし、森から外に出てまで、戦うような種族ではない。それに、ディードリットは帰らずの森以外にエルフがどこに住んでいるのか、まったく知らなかった。
彼女は、ハイ・エルフであり、エルフの中でも上位の種族にあたる。だからといって、ディードリットの命令に普通《ふつう》のエルフたちが従うかといえば、そんなことはない。
「それなら、大陸からあなたの仲間を連れてきてよ」
マールは乾《かわ》いた笑いを浮《う》かべて、参ったと返事をした。
「勇気をもって戦えば、勝利はより確かなものになります。勇気を失えば、敗北が待っているのみです」
戦の神の司祭ホッブが、後ろからそう声をかけてきた。
「いつも、そればっかりだねぇ」
マールが真面目くさった顔のホッブを茶化した。
ホッブは表情も変えずに、いつも違《ちが》うことを言っていたら、誰も自分の言葉など信用しなくなるだろう、と答えた。
その通りだ、とパーンは思った。それが、信仰《しんこう》というものである。
「もちろん、勇気は失わないさ。特に聖騎士たちはな。むしろ、勇気が勝ちすぎるあまり、退くことを知らないのが問題だな。全滅《ぜんめつ》してしまったら、たった一度の負け戦でも、立ち直れなくなってしまうからな」
「オレたちは大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」ひとりの傭兵《ようへい》が後ろで笑い声をあげた。
「逃《に》げ時を知らない奴《やつ》に傭兵|稼業《かぎょう》は務まりません」
その言葉に他の傭兵たちが一斉に笑った。
「違《ちが》いない」
パーンも、昔《むかし》は聖騎士と同じような戦い方しかできなかったが、傭兵たちと一緒《いっしょ》に戦うことが多かったので、今ではすっかりそちらの戦い方が身についている。
「とにかく、オレたちは戦場に斬りこんで相手を混乱させればいい。それから、できれば敵の将軍や隊長たちを討ち取っておきたいものだな」
「欲張りな隊長だなぁ」傭兵たちがまたも笑う。
「パーン!」
そのとき、ディードリットが緊張《きんちょう》した声をあげた。
「どうした、ディード!」
ディードリットは、前方を指差していた。あわてて前を見ると、先遣隊が左右に展開している。
「敵が来たようですね」
スレインが鞍《くら》にくくりつけている賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を無意識に確かめていた。
「スレイン、オレたちは行く。おまえは、わざわざ乱戦に加わることはないからな」
パーンはマールともうひとりの傭兵に、スレインの護衛に残るように命じると、自らは馬に拍車《はくしゃ》をかけて、全速で駆《か》けだした。
傭兵たちは気合いの声を上げながら、それぞれの馬を駆っていく。前方ではすでに兵士たちが、斜《なな》め上に弓を構えて、次々と矢を射かけている。騎士たちは楯《たて》で頭を覆《おお》いながら、飛んでくる矢から身を守っている。
パーンたちは街道《かいどう》をそれて、荒《あ》れた畑の中に馬を踏《ふ》み入れた。そして、右に大回りをするように馬を走らせた。
正面から突《つ》っ込んでは遊撃隊《ゆうげきたい》の意味がない。敵の背後か、側面に回りこむつもりだった。
ようやく、パーンたちの目にも敵の姿が捉《と》らえられた。敵は、ゴブリンたち妖魔《ようま 》を先頭に押《お》したて、ヴァリス軍との距離《きょり》をつめている。今は、弓戦でお互《たが》いに長弓《ロングボウ》やら弩弓《クロスボウ》やらで相手を攻撃《こうげき》している。
十分に距離が縮まったところで、ようやく騎士たちが突撃《とつげき》を開始した。頭を低く下げ、馬上槍《ランス》を構えて真っ直ぐに敵陣に向かって駆ける。これが聖騎士たちの戦い方だった。
「聖騎士たちの突撃が終わってから、オレたちも行くぞ」
パーンは大声を上げて、配下の傭兵《ようへい》たちに命令した。
「ホッブ、戦《いくさ》の神の祝福を!」
心得ました、とホッブは〈戦の歌〉の呪文《じゅもん》を唄いはじめる。
その魔法《ま ほう》の歌声を聞くと、心が研《と》ぎ澄《す》まされていくようで、勝てるぞという自信のようなものがみなぎってくる。傭兵たちも戦の神の魔法の効果に歓喜の声をあげていた。
「癖《くせ》になりそうだな」誰かがそんな感想を洩《も》らしている。
「聖騎士たちの突撃は、さすがに迫力がある」
パーンは、すこし彼らを見直した。
遠目に見ていても、最初の攻撃が成功しつつあることが分かった。敵の右翼《うよく》は今や大混乱に陥《おちい》っている。コボルドやゴブリンたちが、馬の突進《とっしん》に恐慌《きょうこう》をきたしたのがきっかけで、その後方に控《ひか》えていた暗黒騎士団の精鋭《せいえい》たちも隊列を乱したみたいだった。
「よし、オレたちも続くぞ。戦線を真横に駆《か》けぬける。誰も相手にしなくていいぞ。敵の混乱を誘《さそ》うだけでいい!」
パーンは号令をして、スラリと剣《けん》を引き抜《ぬ》いた。
「突撃ぃ!」
パーンは剣を一振《ひとふ》りして、馬を全速力で操《あやつ》った。
土ぼこりをたてながら、数十人の傭兵隊が突進していく。前方には、聖騎士隊の突撃によって、陣形の崩《くず》れた敵の右翼があった。彼らは隊列を組みなおし、反撃《はんげき》の準備を整えようとしているところだった。
いいタイミングだ、とパーンは思った。
隊列を立て直しかけたところを、もう一度、突《つ》き崩《くず》せば、右翼の隊が戦闘《せんとう》態勢を整えるまで、またしばらく時間がかかることだろう。
パーンは敵の真《ま》っ只中《ただなか》に飛びこんだ。前だけを見て、馬を駆る。敵の兵士たちは、あわてて逃げまどう。わざわざ蹄《ひづめ》でかけたり、剣を振るったりはしない。ただ、ひたすら大声を上げながら、敵陣を駆けぬけた。
チラリと回りを確かめると、ディードリットが彼にぴったりと続いていた。彼女は、剣さえ抜いていない。姿勢を低くして、馬を走らせることだけに専念している。賢明《けんめい》な考えだった。
正面からの攻撃に耐《た》えようとしていた敵軍は、この突然《とつぜん》の奇襲《きしゅう》に混乱の度合いを深めた。意気地のないコボルドたちは、たちまち逃走《とうそう》を始め、愚《おろ》かなオーガーどもは敵も味方もおかまいなしに、大鎌《サイズ》や|大 剣《グレートソード》を振るいはじめた。
敵中を突破《とっぱ 》するのに、どれぐらいの時間がかかったのか、パーンはまったく見当もつかなかった。気が付けば、目の前に敵はいなくなっていた。パーンは馬を止めて、馬首をめぐらした。後方をみれば、一度、右翼を駆けぬけた聖騎士隊が、今度は左翼を目掛《めが》けて再突撃を開始しているところだった。
弓を肩《かた》に戻した徒歩の兵士たちは、混乱しきった右翼を目指し、しゃにむに進んでいる。それも、的確な判断といえた。右翼が壊滅《かいめつ》したら、敵の力は半減するといってもいい。
「いいぞ!」
パーンは思わず、拳《こぶし》を振《ふ》りあげた。それから、仲間の被害《ひ がい》を確認した。
「三人やられた」
誰かから返事がかえってきた。さすがに無傷というわけにはいかなかったようだ。パーンは死んだ仲間の冥福《めいふく》をしばし祈った。
「よし、聖騎士が左翼を駆《か》けぬけたら、もう一度、同じことをする。この戦い勝てるぞ!」
しかし、次の瞬間《しゅんかん》、パーンの目論見は簡単に覆《くつがえ》されていた。左翼に向かって突撃を開始していた聖騎士隊の勢いが急に止まったのだ。
「何が起こった!」
状況《じょうきょう》を確かめようと、パーンは目を見開いた。しかし、ここからでは遠すぎて、何も分からなかった。
「行ってみよう!」
パーンはそう声をかけると、慎重《しんちょう》に馬を走らせていった。
近づくにつれ、なぜ、聖騎士たちが混乱しているのか理由が分かった。
理由を知って、パーンは愕然《がくぜん》となった。
聖騎士隊の真《ま》っ只中《ただなか》に、ダークエルフの姿が見え隠《かく》れしていたのだ。
ダークエルフたちの数は十人にも満たない。しかし、彼らは攻撃をしかけては姿を隠し、また違《ちが》った場所で姿を現わしては攻撃をしかけていた。
聖騎士たちは混乱の極み。この恐《おそ》るべき妖魔《ようま 》を討ちとろうと、必死になっていた。
「馬鹿《ばか》なことを! ダークエルフなど無視して突撃していれば、勝利は確実だったのに」
パーンは歯噛《はが》みをする思いで、そう呻《うめ》いた。
主戦場の方を振《ふ》りかえれば、聖騎士たちの支援《しえん》がなく、孤立した歩兵たちが劣勢になりはじめているのがうかがえた。
パーンは剣を握《にぎ》ったままの拳《こぶし》を鞍《くら》に叩《たた》きつけた。
「聖騎士たちの援軍《えんぐん》に回る。ダークエルフたちを引きつけるんだ」
「正気ですかい!」誰かが叫んだ。
「正気だとも! オレは魔法使い相手の戦いには慣れている。いいか、決して立ち止まるなよ。常に場所を変えて、ダークエルフに不意打ちさせるな。ダークエルフたちは、攻撃《こうげき》するときだけは姿を現わさねばならない。最初の一撃《いちげき》をかわして、反撃《はんげき》する。それが、ダークエルフたちに勝つための方法だ」
「……だってよ」
パーンの指示が、すべての仲間に伝えられていく。
命令が一通り行き渡《わた》るのを待って、パーンたちは突撃《とつげき》を開始した。混乱した聖騎士たちに反撃《はんげき》されないように、ヴァリスの名前を連呼しながら。
パーンたちは右往左往している聖騎士のそばにやってきた。
「パーン!」
ひとりの若い騎士が、パーンを認めて声を上げた。その騎士が左手に持つ楯《たて》には、騎士隊長を示す印が入っていた。
パーンはその若い騎士隊長に馬を寄せていった。
「突撃を再開しろ! ダークエルフはオレたちが仕留める!」
戦の喧噪《けんそう》に負けないように、パーンは大声を上げた。
「将軍が殺されたんだ!」
「死んだ人間は、ほっておくしかない。歩兵隊が苦戦をしている。助けにいかないと全滅《ぜんめつ》するぞ!」
「わ、分かった!」
騎士は馬の手綱《たづな》を思いっきり引いて、方向を変えた。それから大声をあげて、混乱しきっている味方の間をすりぬけていった。
「突撃だ! ダークエルフは無視しろ! この場は竜殺しのパーンが引き受ける。突撃だ。敵将の首を取って、我等が将軍の弔《とむら》いとするんだ!」
騎士たちは、その言葉にようやく自らの役目を思いだし、突撃を再開した。
潮が引いていくように、聖騎士たちが駆《か》け抜《ぬ》けた後、パーンたち傭兵《ようへい》隊の人間だけがその場に残った。
ふと気が付けば、ディードリットの姿が消えていた。パーンは一瞬《いっしゅん》、心臓が止まるような衝撃《しょうげき》を覚えたが、すぐに彼女も〈|姿隠《すがたかく》し〉の呪文《じゅもん》を使ったのだと思いいたった。
傭兵たちはパーンの命令を忠実に守って、あちらこちらにと場所を変えながら、周囲に気を配っている。
ダークエルフの動きは素速い。しかし、馬よりも早く移動できるわけではない。パーンもあちらこちらにと馬を走らせた。ときどき、急激《きゅうげき》に馬が走る方向を変えたり、何もない場所に向かって剣を振りまわしたりする。
はたからみていれば、間抜《まぬ》けに見えるかもしれないが、姿を隠しているダークエルフを仕留めるためには、他に方法がないのである。
傭兵たちは真剣な顔をしながら、パーンの真似をしはじめた。その効果があったのかどうか分からない。
とにかく、ダークエルフたちは一度も姿を現わさなかった。
逃《に》げたかと思ったとき、パーンのすぐ近くでスッと何かが動いたような気配がした。
パーンは剣を振り上げて気配の方を見た。
きゃっ、という小さな悲鳴がそこから上がった。
「ディード!」
パーンは脱力感《だつりょくかん》に襲《おそ》われて、馬の首につっぷしそうになった。
「驚《おどろ》かさないでくれ!」
「驚いたのはこっちだわ!」
ディードリットは抗議《こうぎ 》の声を上げた。頬《ほお》をふくらますような仕草さえする。それから、真顔に戻って、
「ダークエルフたちは逃げたようよ」と言った。
彼女の着ている緑色の服が何箇所《なんかしょ》か切れていた。パーンたちが気付かないところで、彼女はダークエルフと戦いを演じていたのだろう。怪我《けが》はなかったようだ。幸いである。ダークエルフの刃《は》は、猛毒《もうどく》が塗《ぬ》られているものだからだ。
「無茶はしないでくれよ」
パーンは蒼《あお》ざめた表情でつぶやいた。
それから、主戦場の方を振り返った。乱戦になっていた。敵も味方も入り乱れて、剣を振るっている。
パーンのそばにひとりの傭兵《ようへい》が寄ってきた。
「突撃《とつげき》しますか?」
「やめておこう。あんな乱戦に加わって、貴重な仲間を失いたくない……」
最悪だった。たった十人ほどのダークエルフのために、勝ち戦が見るも無残な消耗戦《しょうもうせん》になったのだ。
パーンは、辺りでうつ伏《ぶ》せになっている聖騎士たちの死体を見回した。その数はかるく二十を超《こ》えていた。その中には、先遣隊の将軍の死体もあった。
パーンはぞっとするような思いにかられた。次の戦いで死体になるのは、エトかもしれないのだ。ダークエルフは絶対にエトの命を狙《ねら》うに違《ちが》いない。
「なんとかしなければ……」
パーンは血がにじむほどに唇《くちびる》を噛《か》んだ。ダークエルフたちを仕留めないことには、ヴァリスの勝利は危ういように思えた。今、エトが死ぬようなことがあれば、ヴァリスは立ち直ることができなくなってしまうだろう。
それだけは、何としてでも阻止《そし》しなければならなかった。
「引き揚げるぞ。そして、スレインたちと合流しよう」
パーンはそう命令した。そして、傾《かたむ》きはじめた太陽を追いかけるように、馬を走らせた。日没《にちぼつ》が近づいていて、主戦場の方の戦も終わりが近づいているようだった。双方《そうほう》の軍が、戦場からの離脱《り だつ》を開始していた。
陽《ひ》は完全に西の地平に沈《しず》んでいた。
パーンたちは、ヴァリスの野営地に無事、戻《もど》っていた。スレインたちとも途中《とちゅう》で、合流することができた。
その件に関しては、パーンはマlルからずいぶんと文句を言われた。
「いつまでたっても戻ってこないんだから」マールの丸い顔には、不満の色がいっぱいだった。
「あれから、僕たちはどんなに心細かったか。逃《に》げてきたコボルドの一隊とも遭遇《そうぐう》しちゃったしね。向こうは十五匹、こっちは三人だったんだよ」
「コボルドでよかったじゃない」ディードリットが冗談《じょうだん》めかして言った。
「こっちはダークエルフが相手だったのよ」
「ダークエルフねぇ」スレインが考えにふけるように両腕《りょううで》を組んだ。
「何とかしなければなりませんね」
パーンはうなずいた。
「聖騎士たちは、やはり実戦慣れしていない。あの程度のことで、隊を乱すんだからな」
「今日は、お互いに総力戦ではありませんでしたからね。決戦は、やはりエトが本隊を連れて到着《とうちゃく》してからでしょう。ちょっと、先遣隊の被害《ひ がい》が大きいのが気になりますがね」
大きすぎるよ、とパーンは吐《は》き捨てた。乱戦になれば、両軍の被害は大きくなる。消耗戦《しょうもうせん》になれば、妖魔《ようま 》たちを捨て駒《ごま》に使えるマーモ軍のほうが断然に有利だった。
「ダークエルフたちをやっつけるいい方法はないかな。このままじゃあ、エトの身が危ない」
「方法はないわけではありませんが……」
その言葉に、パーンはすがりつくような目でスレインを見た。
「もったいぶらずに教えてくれ。オレは何でもするつもりだぞ」
「……かまいませんが、あなた好みの方法ではないかもしれませんよ。それから、ヴァリスの聖騎士たちにとってもね」
「敵をだましうちにするつもりなんだ。それって、僕の好みだなぁ」
マールが横から口をはさんだ。スレインはうなずいてマールの言葉を肯定した。
「だましうちか……。確かに気は進まないが、この際だ。すこしぐらいのことには目をつぶろう。それにダークエルフだって、正々堂々とした奴《やつ》らじゃないからな」
決まっているじゃない、とディードリットが疲《つか》れた声を出した。
「それなら説明しましょう。失敗しても責任は持ちませんよ……」
そう前置きしてから、スレインは順を追って話しはじめた。パーンたちは、スレインを中心に円を組むように座り、彼の話にいちいちうなずいて聞きいった。
その日の夜半すぎ、ヴァリスの野営地ではふたつの事件が起こった。ひとつは敵の捕虜《ほ りょ》が、何者かによって脱走《だっそう》させられたこと。もうひとつは死体の安置所から、聖騎士たちの遺品が盗《ぬす》みだされたことである。
夜目の利く妖魔《ようま 》の仕業だろうと考えられた。そのどちらも、失策には違《ちが》いないが、大きな痛手ではなかった。当直の兵士は叱責《しっせき》され、上司から二、三発は殴《なぐ》られたかもしれない。しかし、真相の追及《ついきゅう》などは、あまり行なわれなかった。
翌日の昼前。偵察《ていさつ》に出ると称《しょう》して、パーンたち傭兵《ようへい》隊が野営地を出発した。彼らは一路、東のアダンを目指したが、野営地が見えなくなると方向を変えて、西に向かってまっすぐに馬を進めた。
しかし、そのことに気がついた人間は、ヴァリス軍の中では誰ひとりとして、いなかったのである。
アシュラムはジアドの帰還《き かん》を出迎《で むか》えた。わざわざ街《まち》の西門まで出向いてである。この将軍に気を遣ったからではもちろんなかった。単に、戦の結果を知りたかったからである。
ジアドの機嫌《き げん》は、あまりよくはなかった。
「初戦は痛みわけだった。しかし、敵にも多くの被害《ひ がい》を与えたぞ。神聖騎士団の将軍を討ち取りもしたからな」
ならば上出来だとアシュラムには思えた。
「それは何より」
アシュラムは知りたいことは分かったので、ジアドを無視して、さっさと彼の前から下がろうとした。しかし、呼びとめられた。
「何用かな?」
「ひとつ面白い情報を手に入れたぞ」
アシュラムは別に聞きたいとは思わなかったが、ジアドは勝手に先を続けた。
「敵の捕虜《ほ りょ》となっていたものが脱走《だっそう》してきてな。ひとつ情報を手に入れた。エトめが本隊より先行して、少数の護衛だけを連れて前線にやってくるのだそうだ」
不用心だな、とアシュラムは思った。エトという人物の噂《うわさ》はいろいろと聞いている。よい噂もあり、悪い噂もある。噂とは元来そういうものだ。しかし、それらを総合して判断される人物像は、とにかく慎重《しんちょう》な性格だということだ。
「オレはダークエルフの暗殺部隊を残してきた。彼らがきっとエトの息の根を止めてくれよう」
ダークエルフならば間違《ま ちが》いなく、その仕事をやってのけよう。敵の将軍を仕留めたというのも彼らの仕業に違《ちが》いない。
「敵の本隊の到着《とうちゃく》を待って、一気にけりをつける。国王のいなくなった騎士団など、これほど脆《もろ》いものはないからな」
そして、ジアドは次の戦には、アシュラムも従軍するようにと命令した。アシュラムは無気力にうなずいただけだった。別に断る理由もない。どこで死のうと、もはや気にもならなかった。
アシュラムはもう一瞬《いっしゅん》たりともその場に留まりたくはないかのように、足早にその場から去った。
部屋《へや》に戻《もど》るとグローダーが待っていた。
アシュラムには、なぜ彼が自分を救うつもりになったのか、まったく見当もつかなかった。支配の王錫《おうしゃく》を巡《めぐ》る戦いの中で、この魔術師とのあいだにはある種の信頼《しんらい》関係が生まれたのは間違いない。しかし、バグナードの意志に反してまで、自分を助ける理由などどうしてあろう。
その背信のゆえに、彼はバグナードに魔法《ま ほう》の呪縛《じゅばく》を受けて、今では魔法も使えぬ有様なのである。しかし、グローダーはそのことにあまりこだわりがあるようには見えなかった。
不思議な男だった。
「なぜ、おまえはオレを助けてくれたのだ?」
アシュラムは、疑問をぶつけてみた。
グローダーは、さあとつぶやきながら首を捻《ひね》った。
「いろいろとあります。が、いちばんの理由は、マーモにとってあなたが必要だということです。マーモは、今や実力者たちが評議会を作って、統治している。だが、それぞれの力が拮抗《きっこう》していて、思い切った行動が取れないでいる。これはマーモにとって、面白いことではない。誰かが、ベルドの後継者《こうけいしゃ》として、マーモの皇帝とならねばならない。わたしは、バグナード様にそれを期待した。魔術師が皇帝になるということは、わたしにとって魅力《みりょく》的だった。しかし、バグナード様にその考えはなかった」
「魔術師の考えることは、オレには分からんよ」
「わたしにも、バグナード様の考えは分かりません」すこしためらって、グローダーは先を続けた。
「ですが、あの人がわたしに命令したことが、どんな意味を持っていたかは分かります。それは、あの支配の王錫の探索《たんさく》のおりに、ひそかにわたしにくだされたものです」
グローダーは、アシュラムに同行し、太守の秘宝のひとつを奪《うば》ってかえることを命じられていたのだ。それは、アシュラムが求めていた、支配の王錫≠ナはない。魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》≠ニ呼ばれる秘宝であった。
その秘宝には、死んだ人間の魂を呼びもどす魔力《まりょく》が秘められていた。生命に関する研究は、古代王国の偉大《い だい》な魔術師たちにとっても、手にあまる問題だった。治癒《ちゆ》に関する魔法は、司祭や優れた精霊使いたちにしか扱《あつか》えぬ秘術であったのだ。その中にあって魂の水晶球≠ニ生命の杖《つえ》≠ヘ〈蘇生《そ せい》〉と〈回復《かいふく》〉というもっとも高度な治癒の魔力を付与されている。その魔力のゆえに、ふたつの魔法の工芸品《アーティファクト》は太守の秘宝となったのである。
「バグナード様は、太守の秘宝を研究していくうちに、この疑問に突《つ》き当たったのです」
グローダーは、瞑想《めいそう》するかのように目を閉じた。
バグナードはこのふたつの秘宝に関する研究をひそかに推し進めた。ルノアナ湖の底に沈《しず》んでいるという古代王国の都市の遺跡《い せき》に、自ら赴《おもむ》いたりもした。そして、この偉大《い だい》な魔術師は、ひとつの結論にいたった。
魂の水晶球≠熈生命の杖≠焉A古代王国の魔術師《ソーサラー》たちが作りだしたものではない、という結論だった。それは祭器≠セったのだ。祭器≠ニは魔術師ではなく、神に仕える司祭たちが作りだす魔法の宝物のことである。祭器を作りだすための儀式は、多大な困難を極める。おそらく、何人かの優れた司祭の命が代償《だいしょう》となるだろう。それゆえ、ロードス島には祭器は現存しないと考えられてきたのである。
しかし、太守の秘宝のうちのふたつは、実は祭器であったのだ。そして、祭器である以上、その真の力は神≠烽オくは邪神≠ノ直接、関係するものであったとて何ら不思議ではない。
「ふたつの鍵《かぎ》、ひとつの扉《とびら》、かくしてカーディスは蘇《よみがえ》らん」
グローダーはひとつの伝説を口ずさんだ。
「……なんだ、その伝説は?」
この魔術師はいったい何を言いだすのやら、と困惑《こんわく》していたアシュラムであったが、カーディスの名前を聞いて、さすがに興味が芽生えた。
カーディスは破壊《は かい》の女神である。ロードス島創世神話によれば、カーディスは大地母神マーファと争い、マーモの地でその肉体を失ったとされる。その瘴気《しょうき》がマーモという歪《ゆが》んだ土地を生んだのだ。マーファもまた、アラニアの地で肉体を失ったのだが、最後の力を使って、ロードス島を大陸から分断し、カーディスの瘴気が他の場所を冒《おか》さぬようにした。
その切断の痕跡《こんせき》が、ライデンの北西にある|大直崖=sグレート・ストレイト・クリフ》だと言われている。伝説ではあるが、賢者たちのあいだでも、ロードス島誕生の定説となっている。
「あのカーディスが、復活するとでもいうのか?」
「あくまで伝説ながら……」
グローダーは答えた。
「そして、カーディスを復活させるというふたつの鍵こそ、魂の水晶球と生命の杖《つえ》に他ならぬとバグナード様は考えておいでです。ひとつの扉というのは、まだ謎《なぞ》なのですが」
「カーディスなど復活させて、バグナードはいったいどうしようというのだ。ロードス島の征服《せいふく》か、大陸をも含《ふく》めて全世界の支配か?」
「わたしは、そう期待したのですが……」
グローダーは答えた。もし、バグナードがそう考えていたのなら、グローダーは何があっても協力したことだろう。古代王国以来、誰も成し遂げられなかった大事業である。それを辺境の島の魔術師がやってのけるのだ。これほど痛快なことはなかった。
「ということは、違《ちが》ったのだな」
「ええ、おそらく。バグナード様は、昔からロードス島の統一であるとか、世界の支配とかそんなことには関心がなかったようです。ただ、ベルド陛下に対する忠誠だけは、本物だったのでしょう」
皇帝ベルドはそれほど偉大《い だい》な人物だったのだ。アシュラムも、バグナードも、闇《やみ》の大僧正《だいそうじょう》ショーデルも、ダークエルフ族長ルゼーブも、すべてベルドに対しては本心から忠誠を示していた。マーモが団結したのも、あの偉大な皇帝であったればこそである。
「では、バグナードの真の狙《ねら》いは何なのだ?」
「それは、わたしにも分かりません。しかし、おそらく自分だけのために、カーディスの力を利用するつもりなのでしょう。バグナード様はそんな方です。あの方は、もはや自分にしか関心を持ってはおられない」
グローダーは、そこまで超越《ちょうえつ》していない。自分はもっと俗物である。剣《けん》では他人には勝てぬと知ったからこそ、彼は魔法《ま ほう》を習った。彼にとって、魔法とは自らが成りあがっていくための力にしかすぎなかった。
今ではその魔法すら使えない。だが、自分には他人より遥《はる》かに優れた知恵《ちえ》がある。その知恵を武器にして、今度は自分の野心を満足させていくつもりだった。そのためには、マーモ帝国が勝利せねばならない。彼のマーモに対する忠誠心は、それに尽きた。そして、マーモの勝利を真剣《しんけん》に考えている人間は、アシュラムをおいて他にはいない。いるかもしれないが、力不足である。
そして、付け加えるならば、グローダーはアシュラムという人間が好きになっている。導師バグナードが、ベルドにだけは忠誠を誓《ちか》ったように、自分はこの男にならば忠誠を誓ってもかまわないとさえ思っている。もっとも、今の腑抜《ふぬ》けたアシュラムでは話にもならないが…
アシュラムは、何事かを真剣に考えこんでいる様子だった。グローダーの話に刺激《しげき》されるところがあったのだろう。これは、良い兆候《ちょうこう》のように思えた。
グローダーは満足そうにうなずいて、話を切り替《か》えた。差し当たって、バグナードの企《たくら》みは脅威《きょうい》ではない。もっと差し迫った問題について、話しにきたのだった。
「反乱の動きがあります」
グローダーは最初から結論を言った。
「反乱だと? この街《まち》でか」
アシュラムは、グローダーの報告にすこしだけ眉《まゆ》を動かした。
黒衣の魔術師は、ゆっくりとうなずいた。
「そんなことなら、ジアドに知らせてやれ。褒美《ほうび》が貰《もら》えるかもしれん」
アシュラムは投げやりに答えた。
「反乱はあの男の責任です。それを指摘すれば、このあいだの不幸な騎士隊長の二の舞《まい》です」
グローダーは、顔を歪《ゆが》めながら言った。
「実は先日も、街の北側の村で反乱が起こったのです。すぐに鎮圧《ちんあつ》されましたが、ジアドの圧政に対して、民たちの不満は限界に達しているとみえます」
「グローダー……」アシュラムはげっそりと頬《ほお》のこけた魔術師の顔をじっと見つめた。
「オレに何をしろというのだ。オレは自分の限界を知った。ベルド陛下の遺志を継《つ》ぐのが願いであったが、オレはあまりにも非力だった。おまえはオレを生きる屍《しかばね》と呼んだ。その通りだ。もはや、何もしたいとは思わん」
「まだまだのようですな」グローダーは失望のため息をついた。
「先日も、ジアド暗殺を目論んだ騎士たちを追い返したそうですな。あなたがこの街にやってきたとき、期待した人間は多かったというのに、今ではもはや失望しか残っていませんよ」
それこそ、正当な評価だとアシュラムは思った。しかし、それを言ってしまっては、あまりにもグローダーが哀《あわ》れだった。
「……分かったよ、グローダー。オレにできるかぎりのことはしよう。おまえは、反乱の動きを追いつづけていてくれ。ジアドは次の戦いでヴァリスとの戦に決着をつけるつもりでいる。全軍を動かすつもりだ。オレも出撃《しゅつげき》を命じられている。戦に勝てば、別に問題はない。しかし、負ければ逃《に》げ場を考えねばならんからな。そのときは、報告にやってきてくれ」
すこし気分をよくしたようで、グローダーは静かにアシュラムに一礼をすると、彼の部屋を辞した。
アシュラムは魔術師を見送りながら、自分が今、何をなすべきか、考えてみる決心を固めていた。
手綱《た づな》を握《にぎ》る手にじっとりと汗《あせ》がにじんでいるのが分かる。平静を装《よそお》わねばと思うのだが、ついつい周囲を警戒《けいかい》してしまう。
パーンは今、聖騎士の鎧《よろい》に身を包んでいる。二度と着るまいと誓《ちか》っていたのに、その誓いを破ってしまった。自分はファリスの熱心な信者ではなくて本当によかったと思う。
ファリスの教えに曰く、人を欺《あざむ》くなかれ。
パーンは、間違《ま ちが》いなく人を騙《だま》そうとしているのだ。
近くの民家で仕入れた金属片から、マールは即席《そくせき》の王冠《おうかん》を器用に作りあげていた。盗賊《とうぞく》たちが得意とする変装《へんそう》の技術を駆使《くし》して、パーンたちを国王とその側近の一行に仕立ててくれていた。もっとも、遠くから見れば、何とかそう見えるという程度のものだ。
パーンは綿を頬張《ほおば》って、すこし丸みを帯びた顔に見せている。唾《つば》で湿《しめ》った綿は気持ち悪いのだが、マールがそうしておけと主張したのだ。髪《かみ》の毛も染料で黒く染めている。髪型も変えて、遠目には、エトに見えないこともない。
ダークエルフがエトの顔を知っているとは思えないので、これで十分だと思えた。
ディードリットは、変装したパーンの顔を見て、しばらくのあいだ呼吸ができないぐらいに笑いころげた。
しかし、そのディードリットも、民家から買い取った純白のドレスを着せられて、フィアンナ王妃《おうひ 》の扮装《ふんそう》をさせられている。頭からすっぽりと布をかぶって先端《せんたん》のとがった耳を隠《かく》し、やはり金属片からマールが大急ぎで細工《さいく》した額冠をはめている。
その格好で馬に乗っているのだから、変といえば変なのだが、さすがに馬車を仕立てている時間はなかった。
傭兵《ようへい》たちは、もっと簡単だった。身体に合う鎧《よろい》を見つけて、それを着ればおしまいである。スレインは賢者《けんじゃ》のローブで正装《せいそう》し、宮廷魔術師らしくかまえている。マールは小姓、ホッブは宮廷付き司祭の役割だ。マイリーではなく、ファリスの司祭のふりをホッブはしているのだ。
「我が神マイリーは、ファリス神とは違《ちが》い、些細《さ さい》なことには寛容《かんよう》です」
ホッブはそう言って承諾《しょうだく》したが、快く引き受けたわけではないだろう。パーンたちは、しばらくのあいだ、お互《たが》いの格好を笑いとばしたり、国王や聖騎士たちの真似事をしては、また腹を抱《かか》えたりした。しかし、それもパーンが出発を宣言するまでのことだった。
「後は、捕虜《ほ りょ》に流した偽《にせ》の情報に敵が引っ掛《か》かってくれるかどうかですね」
スレインが心配そうに言った。
「捕虜を逃《に》がしたり、遺品を盗《ぬす》みだしたりしておいて、失敗したではすまないかもよ」
ディードリットが表情をくもらせた。今さら、自信がないでは困るのだ。
「僕が流した情報なんだよ。間違《ま ちが》いなく、相手に伝わっているさ」
マールは自信たっぷりだった。
これがスレインのアイデアだったのだ。自分たちがエト国王一行のふりをして、ダークエルフに襲《おそ》わさせる[#「させる」に「ママ」の注記]のである。そこを返り討ちにしようという計略だった。危険な計略ではあったが、エトがダークエルフに襲われるよりは、とパーンは決断した。
そのために、わざわざ捕虜を脱走《だっそう》させ、彼らにエトが少数の伴《とも》を連れただけで前線にやってくるとの偽の情報を流し、聖騎士たちの遺品を奪《うば》ったりもした。
正義を重んずる聖騎士たちであったから、計略だからといってもこれらの行為は、絶対に納得してはくれまい。それに、聖騎士たちさえも欺《あざむ》いてこそ、計略の成功は確かなものになるともいえる。
パーンたちは街道《かいどう》をゆっくりと東に進んだ。
いつダークエルフたちに襲《おそ》われるか分からない。一瞬《いっしゅん》たりとも緊張《きんちょう》が休まるときがなかった。
平静を装《よそお》いながら、パーンたちは五感を研《と》ぎすませ、あたりの気配をうかがった。
最初の一日が終わったころには、全身がくたくたになっていた。明日の昼過ぎには、前線の野営地に着いてしまう。そうすれば、計略はおしまいである。
来てもらわねば困るのだが、来てもらっても嬉《うれ》しいものではない。パーンたちは複雑な気持ちにとらわれながら、夜営の準備をはじめた。
ダークエルフが夜襲《やしゅう》してくることも考えられたので、パーンたちはほとんど一睡《いっすい》もできない夜をすごした。ディードリットもそうなのだが、精霊《せいれい》使いの能力を持っている彼らは普通《ふつう》の人間よりもはるかに夜目がきくのだ。
しかし、夜襲はなかった。
翌朝、眠《ねむ》たい目をこすりながら、パーンたちは起きだした。しかし、出発するのはためらわれた。このまま進んでいくと、昼までにはヴァリス軍の野営地に着いてしまうからである。
パーンは、やはりよく眠れなかった様子のスレインのそばに寄っていった。
「どうする? 昼頃《ひるごろ》までこの場に留まろうか?」
「不自然でしょうね。先に進むしかないんじゃありませんか? 待ち伏《ぶ》せがあるとしたら、野営地のすぐ近くまでいってからのような気がするんです」
その根拠《こんきょ》は何となく分かる気がした。エトの暗殺がすぐヴァリス軍に伝わった方が、敵としては好都合なのである。
「そう信じよう」
パーンは出発を決断した。今の格好で、ヴァリス軍の野営地に入ることはできないから、すぐ近くまで行ったら、計略をあきらめて、鎧《よろい》などを隠《かく》してある場所に馬を走らせるつもりでいた。
「偵察中《ていさつちゅう》の聖騎士に出会わないようにも祈《いの》っておかないとな」
聖騎士たちに見つかったら、ただですむとは思えない。自分たちは、味方までを欺《あざむ》く危険を冒《おか》しているのである。パーンは心の中でダークエルフに早く来いと呼びかけていた。
「それは、わたしがやっておきましょう。偉大《い だい》なる至高神にね」
ホッブが珍《めずら》しく冗談《じょうだん》を言った。パーンは乾《かわ》いた笑いを浮《う》かべたものの、本心から笑えるような気分ではなかった。
そして、半日が過ぎた。パーンたちは、野営地が見えるか見えないかという所までやってきた。
そのとき、フィアンナに扮装《ふんそう》したディードリットが、パーンのそばに馬を寄せてきた。顔には、あきらかに演技と分かるこわばった微笑《ほ ほ え》みを浮《う》かべて、小声でそっと話しかけてくる。
「ダークエルフが潜《ひそ》んでいるわ……」
パーンも演技の笑顔で応じた。
「見えたのか?」
「目の前の雑草が、風がないとぎに揺《ゆ》れたの。気をつけてね」
「ディードもな」
パーンたちは、ふたたびもとの間隔《かんかく》に戻《もど》った。それから、パーンは仲間にダークエルフの接近を知らせるべく、あらかじめ決めておいた合言葉を全員に送った。
「まもなく、野営地です。ファリスの加護を感謝しましょう[#「ファリスの加護を感謝しましょう」に傍点] 」
そのパーンの言葉に、聖騎士を装《よそお》った傭兵《ようへい》たちも、ファリスの加護を、と繰り返した。そして、パーンを中心にお互《たが》いの間隔をすこしずつ縮めていく。顔に緊張感《きんちょうかん》が走るのを誰も抑《おさ》えることはできなかった。もちろん、パーンも……
パーンは、馬の歩く速度を落としながら、全身の神経を集中して、周囲の気配を読みとろうとした。ほんのかすかな気配ではあるが、確かに何者かが自分に近づいてくる気配があった。
ひとつ、ふたつ、みっっ……
「スレイン!」
パーンは、大声を出して合図を送った。
「心得ました」
待っていたかのように、スレインが上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱《とな》える。強力な〈魔法解除〉の呪文《じゅもん》をパーンを中心にかけたのだ。十分に精神を集中させて、効果が広範囲《こうはんい 》に及《およ》ぶように呪文の力を増幅《ぞうふく》させている。
目に見えない魔法の力が、パーンたちの周囲に嵐《あらし》となって渦巻《うずま 》いた。その嵐が通りすぎた後、十人ほどのダークエルフたちが姿を現わしていた。
「聖騎士たち、迎《むか》え撃《う》て!」
パーンは剣《けん》を抜《ぬ》いて、そう号令をかけた。自分のところには、三人のダークエルフが近寄っていた。魔法が破れたのを知って、彼らは素速く行動に出た。
傭兵《ようへい》たちとダークエルフとの戦いは、一瞬《いっしゅん》のうちに決着がついていた。
四人のダークエルフが切り倒《たお》され、三人の傭兵たちがダークエルフの刃《やいば》に命を失っていた。
そして、パーンは三人のダークエルフを相手に戦いを演じていた。パーンは、妖魔《ようま 》たちの最初の一撃《いちげき》を、ことごとく防ぎきった。全部をかわすことなどとてもできなかった。彼らの武器は短剣《ダ ガ ー》だったので、金属製の鎧《よろい》を貫通《かんつう》する威力《いりょく》はない。だから、肌《はだ》の露出《ろしゅつ》した部分を狙《ねら》って切りつけてきたのを、うまく身体を動かして、鎧に当てさせたのだ。
乾《かわ》いた金属音がパーンの耳を打つ。反撃《はんげき》に出たパーンは、抜《ぬ》いた剣を振《ふ》りおろし、ひとりのダークエルフの頭を割った。激《はげ》しく血を吹《ふ》きだして、そのダークエルフは絶命する。
残るふたりは、第二撃をパーンに加えてきた。
そのとき、ディードリットの唱えた精霊魔法の呪文が、辺りの空間を支配した。風の精霊の力による〈静寂《せいじゃく》〉の呪文である。戦いの喧噪《けんそう》がピタリとやみ、完全な静寂がパーンたちを包みこんだ。
ダークエルフがふたたび〈姿隠し〉の呪文を使うのを恐《おそ》れたのだろう。しかし、五感のうちのひとつが急に断たれたので、パーンは激《はげ》しい戸惑《とまど》いを覚えていた。
鍛《きた》えられた戦士の本能は、それこそ五感のすべてを使って敵の動きを追いかけているものだからだ。パーンは、それでも見事な剣さばきを見せて、もうひとりのダークエルフを切り倒《たお》してはいた。
しかし、最後のひとりに組みつかれ、もつれるように馬上から地面に落ちた。その落ちざまに、ダークエルフの短剣《ダ ガ ー》が首筋をかすめた。小さな痛みが走る。皮膚《ひふ》を一枚、切り裂《さ》かれただけのかすり傷なのに違《ちが》いない。
しかし――
パーンは、全身が凍《こお》りつくような恐怖《きょうふ》に縛《しば》られていた。
暗殺者の短剣に毒が塗《ぬ》られていないはずがないのだ。かすめただけでも、効力を発揮する致死《ちし》性の猛毒《もうどく》である。
早くも、パーンは全身が麻痺《まひ》していく感覚に襲《おそ》われていた。しかし、身体が動くあいだにとばかり、パーンは腰《こし》に差していた短剣を引き抜くと、まだもつれあっているダークエルフの肩口《かたぐち》に突《つ》き立てた。
ダークエルフは悲鳴をあげたに違いない。顔を苦痛に歪《ゆが》めて、口を大きく開けていたから。だが、静寂の呪文に封《ふう》じられ、その声はまったく聞こえなかった。
ダークエルフはパーンを突《つ》きとばすと、全力で逃《に》げた。パーンはその背中に短剣を投げようとしたのだが、もはや痺《しび》れに勝てなかった。手から短剣がスルリと抜けて、地面に落ちていった。
その場で身体を丸めるようにうずくまって、パーンは全身を襲う痺れと戦いはじめた。
気配を察知したホッブが近寄ってきた。彼は呪文を唱《とな》えようとしたのだが、ディードリットの呪文がまだ効力を発揮していた。
ホッブはもどかしそうに、呪文の効果が切れるのを待った。
それまでの間に、ダークエルフたちはパーンが取り逃がしたひとりを除《のぞ》き、すべて傭兵《ようへい》たちに切り倒《たお》されていた。
たいした時間がかかったわけではないだろう。しかし、全身に回った毒と戦うパーンには、そのわずかな時間が永劫《えいごう》にも感じられた。
意志の力をふりしぼって、パーンは死神と戦った。意識が朦朧《もうろう》として薄《うす》れていくが、意識を失えば間違いなく、二度と目覚めることはないだろう。
パーンは歯を思い切り噛《か》みしめ、手足に走る痙攣《けいれん》を収めようと、四肢《しし》に力を込《こ》めた。
今までパーンが経験した戦いの中でも、もっとも苛酷《か こく》な戦いだった。死神と格闘《かくとう》戦を演じているようなものだ。
死神の勝利は確実なように思えた。しかし、パーンはあきらめずに、抵抗《ていこう》しつづけた。自分は、まだ死ぬわけにはいかないのだ。なさねばならないことが、山ほど残っていた。ロードスの戦乱を収め、ウッド・チャックをカーラの呪縛《じゅばく》から解放する。
そのためには、まだ五年、いや十年近くの年月が必要だろう。
パーンは心の中で吠《ほ》えていた。魂《たましい》を肉体につなぎとめておくための、咆哮《ほうこう》であった。
その瞬間《しゅんかん》、急に身体が楽になったかのように思えた。
「間に合いましたぞ!」
遠くの方から、ホッブの声が聞こえてきた。戦の神の司祭が、強力な〈解毒〉の呪文《じゅもん》をかけてくれたのだ。
真っ白な霜《しも》が朝陽を浴びて消えゆくように、全身から痺《しび》れが抜《ぬ》けていった。それに代わって、耐《た》えがたい脱力感《だつりょくかん》がパーンの全身を支配した。
薄《うす》く目を開けると、ホッブが静かにうなずきかけてきた。休んでいいのだ、とパーンはようやく力を抜いた。
と、次の瞬間《しゅんかん》には、もうパーンは眠《ねむ》りに落ち、規則正しい寝息《ね いき》をたてていた。
「パーンは大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
血の気の失せた顔で、ディードリットがホッブに尋《たず》ねた。その必死な顔に向かって、ホッブは優しく微笑《ほ ほ え》みかけ、華奢《きゃしゃ》な彼女の肩《かた》に力強く手を置いた。
「戦の神はこの勇者に加護を与えてくれた。そして、勇者はまたひとつ輝《かがや》かしい勝利を得たのだ」
「つまり、大丈夫ってことだよ」
マールが、まるでホッブの言葉を通訳するかのように、ディードリットにささやいた。
歓喜の声を上げながら、ディードリットはマールの頭を胸の中に抱《かか》えこんだ。目には、うっすらと涙《なみだ》が浮《う》かんでいる。
役得だな、とマールはディードリットに頭を抱えられながら、心の中でそうつぶやいた。
でも、エルフの女性は華奢だから、抱かれていてもあまり嬉《うれ》しくないや。
マーモのアダン駐留《ちゅうりゅう》軍の全軍が、西の門の前に集結していた。
先の戦いで受けた損害は大きかったが、すでに部隊は再編成されていて、指揮系統も完全に回復していた。もちろん、ゴブリンやコボルドたちは、その範疇《はんちゅう》の外にある。彼らは、マーモ帝国の紋章《もんしょう》を付けていない者に、勝手に襲《おそ》いかかっていくだけである。
ジアドは待っていた。敵がアダンの街《まち》にやってくることを、そしてひとつの知らせを。
その知らせは、ちょうど昼ごろにもたらされた。
「将軍、ダークエルフの暗殺部隊が戻《もど》ってまいりましたぞ!」
騎士のひとりが、馬を走らせてそう報告してきた。
「来たか!」
ジアドはその騎士に命じて、ダークエルフのところに案内させた。
帰ってきたダークエルフはひとりだけだった。それも、肩《かた》のところに傷を受けている。
「まさか! 失敗したのか?」
ダークエルフは憎悪《ぞうお 》のこもった瞳《ひとみ》で、ジアドを睨《にら》みつけた。
「貴様の話を鵜《う》のみにしたのが、間違《ま ちが》いだった……」ダークエルフは苦痛を浮《う》かべながら、ジアドにくってかかった。
「エト国王が腰抜《こしぬ》けだと? 祈《いの》ることしかできぬ非力な若造だと? よく言えたものだな。あの男は、それから近衛の騎士たちは、皆、恐《おそ》るべき手練《てだれ》だったぞ。姿を隠《かく》したオレたちを見破り、仲間はオレを除《のぞ》いて、残らず切り倒《たお》された」
ジアドの顔に失望の色がにじみでた。軽蔑《けいべつ》したような目で、ダークエルフを見下ろす。
「何だ、その目は?」ダークエルフは怒《いか》りをこめて、ジアドを睨みかえした。
「安心しろ。エトの息の根は止めたはずだ。毒の刃《やいば》で相手の首筋に傷を負わせた。まず、助かることはあるまいよ。オレは役目を果たした。後は貴様の責任だ。これでヴァリスとの戦に負けるようなことがあれば、次のオレの獲物《え もの》は貴様だと思え」
そして、ダークエルフは苦痛に耐《た》えかねたように、傷口を押さえて、ひくく呻《うめ》いた。
「そうか!」うってかわったように、ジアドは満面に笑みを浮かべた。
「仲間たちには可哀そうなことをしたが、よくやってくれた。国王を失ったヴァリス軍など、オレがひねりつぶしてくれる。おまえは、司祭に怪我《けが》を治してもらえ。暗黒神の司祭の癒《いや》しの力は、大地母神にも劣《おと》ることはないぞ」
返事の代わりに、ダークエルフは地面に唾《つば》を吐《は》きだした。
ジアドの顔が、一瞬《いっしゅん》、真っ赤になったが、すぐに笑顔に戻《もど》った。
「全軍に告げよ! これよりヴァリス軍討伐《とうばつ》に向かう。敵の国王は死んだ。敵はもはや鳥合《うごう》の衆《しゅう》にすぎん!」
エト国王がダークエルフの刃にかかったとの報が伝わっていくと、マーモ軍の士気はいやおうなしに上がっていった。
西の門の前で、グローダーと相談をしていたアシュラムのところにも、その知らせは伝わってきた。
驚《おどろ》いて、アシュラムはグローダーと顔を見合わせた。
「本当だと思うか?」
さあ、とグローダーは首を捻《ひね》った。
「五分五分といったところでしょう」
「そんなところかな」アシュラムは同意した。
「それよりも、反乱の動きの方はどうだ?」
「マーモ軍が出払《で はら》ったなら、反乱はまず間違《ま ちが》いなく起こるでしょう。ヴァリス軍の方が片付いたなら、すぐに街《まち》に戻《もど》っていただきたいものですな」
そうしよう、とアシュラムは約束《やくそく》した。そして、反乱の起こった街の中にいるのは、危険だからと、グローダーにすぐに街を脱出《だっしゅつ》するようにと勧めた。
「お気遣いを感謝いたします。ヴァリスに勝利することは記念すべきことですが、ジアドごときに名をなさしめるのは気に入りませんな」
「そうかもな」
アシュラムは、まったく関心がなさそうだった。
やれやれと、グローダーはため息をついた。まだまだ、昔のアシュラムからは程遠いようだ。
そして、マーモ軍は進撃《しんげき》を開始した。ヴァリス軍が集結している西の平原に向かって。
その頃《ころ》、ヴァリスの野営地では、喚声《かんせい》が巻き起こっていた。
エト国王と神聖騎士団の本隊が到着したのである。
エトは休む間もなく軍議を開いた。まず、先の戦いの損害の状況《じょうきょう》を確かめた。先遣隊の将軍の死にエトは心を痛めた。ダークエルフの存在は脅威《きょうい》だが、しょせんその数はたいしたものではない。多少の犠牲《ぎ せい》者が出るのは仕方がないと、エトは結論を下した。
「正義の戦いだ。きっと至高神は味方してくださるよ」
エトはそう最後に締《し》めくくって、軍議を解散した。
そのとき、侍従《じじゅう》が近づいてきて、魔術師のスレインが面会を求めていることを、エトに告げた。
エトはそれを了承し、天幕《てんまく》から出た。外ではスレインが正装《せいそう》して、かしこまっていた。
「いかがなされた?」
エトはスレインに近くにくるよう命じた。
スレインは一礼して従った。
「今度の戦い、聖騎士隊の方々には喪章《もしょう》を付けて戦っていただきたいのですが……」
スレインは小声でエトに進言した。
思わぬ言葉に、エトはスレインをまじまじと見つめた。
「……なぜ、あなたがそのようなことを」
「先の戦いで将軍が命を落とされたと聞いております。ならば、次の戦いはその弔《とむら》いの戦。喪章を付けて、将軍の冥福《めいふく》を祈《いの》るのが筋ではないかと……」
スレインは頭を下げたままの姿勢で答えた。
エトはしばらく黙《だま》りこんで、スレインの短い金髪《きんぱつ》の頭に目をやっていた。その頭の中で何を考えているのか、見透《みす》かそうとするかのようだった。
「スレイン……」
エトはため息をついて、小声でささやいた。他の者に聞かれないように配慮《はいりょ》してだ。
「いつからそんな策士になったの。懺悔《ざんげ 》せねばならないようなことはしていないだろうね」
「いささか野蛮《や ばん》なことはしましたがね。しかし、大きな目で見れば、正義に反することはしていないと信じていますよ」
「分かったよ。あなたを信じよう」
エトはスレインの進言を受け入れ、その日の戦いでは全軍の兵が喪章《もしょう》を付けて戦うことを約束《やくそく》してくれた。
「ありがとうございます」
スレインは恭《うやうや》しく礼をして、エトのそばから離《はな》れようとした。
「宮廷魔術師になることを考えているんだね」
エトはしばらくためらった後で、去ろうとするスレインの背中に向かって、そう声をかけた。
スレインは立ち止まって、振《ふ》り返ると素直にうなずいた。
「ええ、そのつもりでおります。できれば、パーンの手伝いをしたいのですが、万が一のときにはカシュー王にお仕えするつもりでいます」
「そう」エトはため息をついた。
「あなたが、カシュー王の宮廷魔術師になるようなことがあれば、フレイムはますます恐《おそ》ろしい存在になるね」
「……さあ、わたしにそれほどの力があるかどうか。ですが、恐ろしい存在になるとしても、それはマーモ帝国にとってです」
「そう期待しているよ」
スレインはもう一度、礼をして、そして今度こそ去っていった。
エトは近くに控《ひか》えていた侍従《じじゅう》に話しかけ、全軍に進撃《しんげき》命令を出すように命じた。
そして、二千を超《こ》える数に膨《ふく》れあがったヴァリス軍は、アダンの街《まち》へ向かって進撃を開始した。
ヴァリスとマーモの両軍は、アダンの西、半日ほどのところで遭遇《そうぐう》した。しかし、その日は暮《く》れかけていたので、両軍は視界いっぱいの距離《きょり》を取って、陣を張った。
たいまつが燃やされ、陣地のまわりは煌《こうこう》々と照らされた。決戦は明日の日の出とともに始まるのはあきらかだった。
その通り、翌朝、闇《やみ》が薄《うす》れるのを待って、決戦の火蓋《ひ ぶた》は切って落とされた。
戦いはマーモ軍の騎士団の突撃《とつげき》から始まった。
「マーモ軍が正面から攻撃《こうげき》してくるとは珍《めずら》しいこともあるものだな」
相手の動きを見たパーンは、にわかには信じられない気持ちだった。マーモは何か罠《わな》を仕掛《しか》けているのではないか、とあれこれ考えを巡《めぐ》らしてみる。しかし、パーンにはあんな攻撃から考えられる策略は、ひとつも思い浮かばなかった。
ただ、単に敵は正面攻撃をしかけてきているのである。
「あきらかにこちらをなめてかかっていますね。喪章《もしょう》の効果があったのかもしれません」
「これか?」パーンは、鎧《よろい》の肩《かた》の所に結びつけた黒い布切れを顎《あご》で示した。
スレインはうなずいた。
「敵は我々が囮《おとり》だったとは思わず、エトがダークエルフに暗殺されたと本気で信じているのかもしれません。損にならないことなら、何でも試してみるものですね」
「まったくだ」パーンは手を叩《たた》いて喜んだ。
「ダークエルフは倒《たお》した。そして、敵は油断している。この戦い、もらったも同然だな」
「油断めさるな。奢《おご》れる心は、勇者にとっていちばんの大敵ですぞ」
ホッブの忠告に、パーンは素直にうなずいた。
「その通りだ。ここは、心を引き締《し》めて、オレたちも精一杯《せいいっぱい》、戦おう。オレたちの狙《ねら》いは敵の将軍の首だ」
仲間の傭兵《ようへい》たちから、オーッという気合いの声が上がる。
そして、パーンたち傭兵隊は、主戦場へと駆《か》けだしていった。
身体は思いどおりに動いてくれた。毒を受けた後遺症《こういしょう》は、完全に抜《ぬ》けていた。一昨日、昨日とゆっくりと休養をとったおかげだろう。
そのときには、主戦場の方では、すでに両軍の騎士団同士が激《はげ》しいぶつかりあいを演じていた。お互《たが》いに馬上槍《ランス》を構えての突撃《とつげき》である。そして、擦《す》れ違《ちが》いざまに一撃《いちげき》を浴びせあう。
凄《すさ》まじいばかりの馬の突進《とっしん》力が加わって、相手の騎士を捕《と》らえた馬上槍は、硬《かた》い金属の甲冑《スーツ》をも羊皮紙のように貫《つらぬ》いてしまう。最初の一撃だけで、両軍とも何十人もの騎士が命を失い、草原の上にその骸《むくろ》をさらした。
この馬上槍同士の戦いでは、馬上試合《トーナメント》で慣れているヴァリス軍の騎士たちの方に軍配が上がった。戦死者は、敵のほうが圧倒的《あっとうてき》に多かった。
騎兵同士が戦う横では、徒歩の兵たちがお互いに間合いを詰《つ》めつつあった。両軍とも長槍《ロングスピア》部隊を前面に立てて、前進していく。弓隊がときどぎ立ち止まっては、敵陣に矢を射かける。
その矢を受けて倒れていく不幸な兵が両軍に出る。
ヴァリス軍の士気はマーモのそれを凌駕《りょうが》していた。エトがファリスの信者である兵士たちに〈聖戦〉の呪文《じゅもん》をかけているからである。その呪文は、ファリスの信者たちにとっては、〈戦の歌〉と同様の効果がある。心に勇気が湧《わ》きおこり、死の恐怖《きょうふ》の中でも怯《ひる》むことなく戦うことができるのだ。
戦いをはじめてすぐに、ヴァリス軍の優勢はあきらかになった。ヴァリス軍は騎士、歩兵ともに敵を圧倒《あっとう》していた。敗走を始める敵兵も出た。しかし、ヴァリス軍は容赦《ようしゃ》なく逃《に》げる敵兵を追撃《ついげき》し、次々と討ち取っていった。
「これはどういうことだ!」
驚《おどろ》きと怒《いか》りとで、ジアドの顔は、彼が身につけている鎧《よろい》と同じ色に染まっていた。
「なぜ、これほど敵に勢いがある!」
知るものか、とアシュラムは思った。敵の得意な戦いをわざわざこちらから仕掛けたりするから、初戦で後れを取ったのだ。その遅れが取り戻《もど》せないだけのことではないか。
「騎士隊が突破《とっぱ 》されそうだ。アシュラム、貴様も行って防いでこい」
アシュラムはチラリとジアドの狂気《きょうき》じみた顔を見た。
「……いいだろう」
アシュラムは近くにいた十騎ばかりの騎士たちに号令を発すると、自分が跨《また》がる青毛の馬を走らせて、苦戦している暗黒騎士団の救援《きゅうえん》に向かった。自分が行ったところで、戦況《せんきょう》が変わるなどとは考えていなかった。
戦況を変えるためには、敵の頭《かしら》を潰《つぶ》すしかないのだが、国王を失ったヴァリスにはその頭さえないのだ。手の打ちようがなかった。
救援に向かう途中《とちゅう》で、数十騎の敵兵たちが、ジアドの本陣に向かって駆《か》けていくのが見えた。
「将軍のところに向かっているようです」ひとりの騎士がアシュラムに尋《たず》ねた。
「阻止《そし》しますか?」
アシュラムは、もちろん、無視するつもりでいた。敵の一団はどうやら傭兵《ようへい》隊らしい。武器も鎧《よろい》も不揃《ふぞろ》いだったから、すぐに分かった。正規の騎士が傭兵ごときに敗れたら、物笑いになるだけだ。それに、ジアドに万が一のことがあろうと、アシュラムにはまったく関係のないことだ。
敵の傭兵隊を無視すると決めて、ふたたび主戦場の方に注意を払《はら》おうとしたとき、アシュラムはその男に気が付いた。
傭兵隊の隊長らしく、先頭を走っている男である。
「まさか……な」
アシュラムは、思わず馬を止めてそうつぶやいた。彼の薄《うすく》い唇《ちびる》が、驚《おどろ》きのためにかすかに開かれる。そして、しばらくしてその口許《くちもと》に微笑《びしょう》が浮《う》かんだ。
「気が変わった。あの傭兵隊を討《う》つぞ!」
アシュラムの声が、あまりにも嬉《うれ》しそうだったので、彼に従っている騎士たちは何事だろうと怪訝《け げん》に思った。
しかし、アシュラムが勝手に傭兵隊の追撃《ついげき》を開始したので、仕方なくそれに従った。
アシュラムは剣を抜《ぬ》きながら、馬を走らせた。その顔には笑みが浮かんだままであった。その笑みは、氷のごとくであった。
アシュラムの双眸《そうぼう》が刃物《は もの》のように、細く引き締《し》められていた。残酷《ざんこく》な喜びを湛《たた》えながら、黒い瞳《ひとみ》がひとりの男を追いかけ続けていた。
その男の名前は確か、パーンと言った。
10
「パーン、敵の騎士隊が十騎ばかり追いかけてくるぜ」
誰かがパーンにそう呼びかけた。
パーンは振《ふ》り返って、それを確かめた。騎士たちが十騎ほど自分たちを追いかけてくる。
どうするか? パーンはしばらく迷った。このまま、まっすぐに進めば、敵の本陣に突撃《とつげき》できそうな勢いである。しかし、敵に追撃《ついげき》されている以上、挟《はさ》みうちにされるのは必至《ひっし》だ。それはどう考えても面白くなかった。
さいわい、追ってくる敵の数は少ない。まず、あの一隊を殲滅《せんめつ》させてから、改めて敵の本陣を攻撃《こうげき》すればよい。パーンの腹は決まった。
「馬首を返せ! あの一隊から先に叩《たた》きつぶす」
パーンは命令を下した。仲間から、次々と了解の言葉が返ってくる。
方向を変えて、パーンたちは馬をゆっくりと走らせた。
敵も速度を落としつつ近づいてくる。
マーモの正規の騎士団である。油断をしていると命取りになりかねない。
パーンは自分の相手を決めようと、ひとりずつ敵の騎士を観察していこうとした。
しかし、最初のひとりで、それは終わった。
「そんな馬鹿な!」
パーンは、激《はげ》しく首を横に振《ふ》りながら叫《さけ》んだ。しかし、そんなことをしても、現実が否定されるわけではなかった。
その騎士は、背中にあの魔剣《ま けん》こそ差していなかった。だが、その氷の彫像《ちょうぞう》のような顔だけは忘れることができなかった。
「黒騎士アシュラム、貴様が生きているはずはない!」
パーンの叫びを聞いて、ホッブが前に飛びでてきた。
「オレの見間違《み ま ちが》いじゃないだろうな」
パーンはホッブに尋《たず》ねた。
「……信じがたいことですが、あの騎士はアシュラム卿《きょう》に他なりません」
答えるホッブの声は震《ふる》えていた。
「敵の先頭の男には、絶対に手を出すんじゃないぞー」
パーンは仲間にそう警告した。
アシュラムは、ゆっくりとパーンの前までやってきた。
「久しいな、パーン。それからホッブ。火竜山《かりゅうざん》以来だな」
「アシュラム……。なぜ、生きている。貴様は、あの火竜山で死んだはずだ」
「あいにくだが、このとおり生きている。生き恥《はじ》をさらしている。だが、生きてみるものだな。こんな楽しい偶然《ぐうぜん》に出会うことができるのだから」
パーンにとっては楽しいどころではない。全身からは冷たい汗《あせ》が吹《ふ》きだしていた。
「さあ、手合わせといこう。今度はあのときのようにはいかんぞ」
アシュラムは目にも止まらぬ早さで、背中から|大 剣《グレートソード》を抜《ぬ》いた。そして、馬から飛びおりる。
パーンも馬から降りてから、剣と楯《たて》とを構える。
一礼をして、一気に間合いをつめた。
矢継《やつ》ぎ早に、パーンは剣を繰《く》りだした。当てるつもりはない。敵を牽制《けんせい》するためだ。そのあいだに、隙《すき》を見出せればしめたものである。
しかし、アシュラムは隙を見せるどころか、パーンの攻撃《こうげき》の合間をぬって、強力な一撃《いちげき》を見舞《みま》ってきた。
パーンはそれを楯で受け止めた。
ガツッという音がして、パーンの楯がまばゆい魔法《ま ほう》のオーラを輝《かがや》かせた。楯は、相手の一撃をよく吸収してくれていた。
パーンは、相手の剣を楯で押《お》し返そうとする。渾身《こんしん》の力を込《こ》めて、歯をくいしばる。鉄靴が柔《やわ》らかい地面にめりこんでいく。
「あのときより、また腕《うで》を上げたな」
力比べをしているというのに、アシュラムは平然とした顔で、声をかけてきた。
衝撃《しょうげき》的な事実だったが、ここで心を乱せばおしまいである。
パーンはディードリットの真似をして、低い回し蹴《げ》りを放ってみた。これは相手の意表をついたらしく、アシュラムは後ろに下がって、その蹴りをかわした。
そこを、すかさず剣を振《ふ》るうが、これは簡単に剣で受け止められてしまった。力を込めて押してみたが、ビクともしない。力比べでは断然、向こうのほうが上だった。
「しかし、その程度の腕では、まだまだオレには勝てん!」
アシュラムは勝利を確信したかのような表情で、今度は嵐《あらし》のような攻撃《こうげき》をはじめた。大剣を恐ろしい速度で振りまわす。一度、楯で受け止めようとしたが、今度は簡単に弾《はじ》かれてしまった。パーンは後ろに下がりながら、反撃《はんげき》の機会をうかがった。
パーンとアシュラム。このふたりの勇者の一騎打《いっき う 》ちのあまりの凄《すさま》じさに、他の者は皆、自分の戦いをやめてしまっていた。ほうけたように口を開いて、目はパーンとアシュラムの動きに釘付《くぎづ》けになっている。
アシュラムにも、その表情ほどの余裕《よ ゆう》があるわけではなかった。細心の注意を払《はら》って、相手の剣《けん》を受け止め、受け流す。気を抜《ぬ》いたほうが命を落とす、これはそんな戦いだった。
もしくは、小さな失敗をした方がだ。アシュラムは自分に言い聞かせていた。
アシュラムは、じわりじわりとパーンを追いつめてくる。パーンは後退しながら反撃《はんげき》の機会をうかがうが、まったく隙《すき》がなかった。
焦《あせ》る気持ちが、心の奥底《おくそこ》から芽生えてくる。パーンは、それを抑《おさ》えこもうと懸命《けんめい》になったが、いったん意識してしまった焦燥感《しょうそうかん》は、大きくなっていくばかりだった。
そのとき、アシュラムの剣の振りが、いつもと違《ちが》う軌道《き どう》を取った。それがフェイントであることはパーンには分かった。こちらの攻撃を誘《さそ》っているのだ。
だが、パーンはあえてその誘いに乗ることにした。敵の予想を越《こ》えた力と速度で攻撃を打ちだせば、相手は自らが仕掛《しか》けた罠《わな》にはまることになるのである。
パーンは剣先を前に出し、身体ごとぶつかっていくような突《つ》きを見舞《みま》った。二撃目はないと、自分に言い聞かせていた。
アシュラムはパーンのその突きを待っていた。勝負あったとばかり、|大 剣《グレートソード》で相手の首を狙《ねら》う。
だが、自分の剣の振りより、パーンの踏《ふ》みこみの方が一瞬《いっしゅん》だけだが、早かった。このままならば、相打ちになる。いや、自分は致命傷《ちめいしょう》を負わされるだろうが、パーンは致命傷を負わないに違《ちが》いない。
アシュラムは、咄嗟《とっさ 》の判断で大剣を投げ捨てると、身体をのけぞらせた。
アシュラムの額すれすれに、パーンの剣が通りすぎていった。勢いあまったパーンが、ぶつかってくる。
アシュラムは左手をパーンの背中に回しながら、右手で短剣《ダ ガ ー》を探った。
強い衝撃《しょうげき》があり、鎧《よろい》と鎧とがぶつかる激《はげ》しい金属音が鳴りひびいた。アシュラムとパーンはひとつになって地面に落ちた。パーンも落ちながらに、剣を離《はな》し、短剣を抜《ぬ》こうとした。
ふたりに差があったとすれぱ、パーンの左手の楯《たて》が手を離しただけでは抜けなかったことだろう。
アシュラムの方が一瞬《いっしゅん》、早く短剣を抜いた。そして、パーンの首筋にそれを押《お》し当てた。そして、一筋だけ傷を作った。
パーンはアシュラムを突《つ》き飛ばすと地面を転げた。そして、数歩離れた場所で、立ち上がった。
パーンが立ち上がったときには、アシュラムも立っていた。
「こんなところかな」アシュラムは休戦を申し入れるように、短剣を収めた。
パーンにもそれは分かっていた。すでに戦いは終わっていた。
負けたのだ。アシュラムは、自分の首を短剣で切り裂《さ》くことができた。できたはずなのだ。しかし、アシュラムはあえてそれをしなかった。だから、自分はいまだに息をしているのである。
「なぜ……」パーンは目の前が真っ暗になるような恥辱《ちじょく》に身体を震《ふる》わせた。
「礼だよ」アシュラムは答えた。
生きている限り敗者ではない、パーンは、自分にそれを実感させてくれたのだ。次の戦いで、負けなければよいのだ。際どい勝負だったが、自分はまずパーンに借りを返した。次は、カシューだとアシュラムは心に誓《ちか》った。
そして、アシュラムは投げ捨てた|大 剣《グレートソード》を拾いあげると、自分の馬のところに戻《もど》った。
唇《くちびる》を噛《か》みながら、パーンも自分の馬に戻った。
「もはや、この戦の決着はついたようだ。残念ながら、我が軍の負けらしい。だが、次はそうはいかない」
そして、アシュラムは茫然《ぼうぜん》としている仲間たちに引き揚《あ》げを命じた。
「お見事でした」ひとりの騎士が、アシュラムに声をかけてきた。
「アダンに戻って、立て直しですか?」
「いや、アダンには帰らない。生き延《の》びたければ、国境の砦《とりで》にまで引き返すことだな。判断はおまえたちに任せるが……」
アシュラムは馬を巡《めぐ》らせて、東へと駆《か》けもどりはじめた。
「お供《とも》いたします。黒衣の将軍」
もうひとりの騎士がそう叫《さけ》んで、アシュラムの後に続いた。
「逃走《とうそう》を始めている者たちにも、伝えてまいりましょう。ジアドを選んでアダンで死ぬか、アシュラム卿《きょう》を選んで、生き残るかの選択です。答は決まっておりますな」
「……勝手にしろ」
アシュラムは、その騎士に向かってそう返事をした。
しばらく馬を進めていると、アダンの方向から一騎駆けてくる者があった。黒いローブを風になびかせている。グローダーであることは、疑う余地がなかった。
はたして、その騎馬の男はグローダーであった。
「アシュラム様、やはり反乱が起こりましたぞ。今や、アダンは街の住人たちの手にあります」
「やはりな」アシュラムは一言だけですませた。
驚《おどろ》いて、グローダーはアシュラムの顔を覗《のぞ》きこんだ。そして、しばらくアシュラムの顔を観察した後、満足そうな笑みを浮《う》かべた。
「……敗軍の将というわりには、ずいぶんと機嫌《き げん》がよろしいようですな」
アシュラムは何も答えなかった。ただ、冷たく微笑《ほ ほ え》みながら、東の空を指差しただけだった。
戦は、誰もが想像しなかったほど、あっけなく勝負がついた。ヴァリス軍の大勝であった。
マーモ軍は雪崩《なだれ》をうって後退をしはじめた。アダンの街《まち》に戻《もど》って立て直す、とジアドは命令していた。
しかし、その撤退《てったい》命令の他に、もうひとつ別の命令がマーモ軍の間に駆けめぐった。その命令を出した人間は、黒衣の将軍であると告げられた。
しばらくして、マーモ軍の退却《たいきゃく》する進路が変わっていった。敗軍はアダンの街を迂回《うかい》し、カノンの街へと続く街道《かいどう》を東進しはじめたのだ。
そんなことは露《つゆ》ほども知らず、ジアドはアダンの街の西門にやってきた。
そして、門の内側にいるはずの衛兵に向かって、命令を発した。
「門を開けろ!」
しばらく待ったが、返事はなかった。
「聞こえんのか、門を開けろ! オレはジアドだ。この街の領主だぞ。もたもたしていると貴様の首を切るぞ!」
声を嗄《か》らさんばかりの大声だった。すぐ後ろからヴァリス軍が迫《せま》っているのである。焦《あせ》るなというほうが無理だった。
また、返事はなかった。その代わりに、街の外壁《がいへき》の上にひとりの男が姿を現わした。次いでまたひとり、またひとりと……
「何だ、貴様たちは!」ジアドは怒鳴《どな》りつけた。
男たちはアダンの住人だった。
彼らはその手に石を持っていた。そして、その石をジアドに向かって投げつけた。彼を罵倒《ば とう》し、自分たちがアダンの街を取り戻したことを高らかに宣言している。
「我々は、ファリスの加護を取り戻したぞ!」
ジアドは頭を抱《かか》えながら、門のところから下がった。信じられないことが、いくつも起こった。戦《いくさ》には大敗し、アダンの街は取り返された。かくなる上は、峠《とうげ》の砦《とりで》にまで落ちのびるしかない。
しかし、引き返そうとしたジアドは、後ろを振り返ってそれが間に合わないことを知った。すでに、ヴァリス軍が追いついていたのである。
その先頭に、きらびやかな|鎖かたびら《チェインメイル》に身を包み、頭に略式の冠《かんむり》を戴《いただ》いた黒髪《くろかみ》の男がいた。
「おまえが、マーモ軍の将軍か?」
男は問いかけてきた。ジアドは、悔《くや》しさのあまり顔を歪《ゆが》めながら、その通りだと返事をした。
「……そうか、わたしがヴァリスの国王エトだ」
その言葉にジアドは、愕然《がくぜん》となった。怒《いか》りと驚《おどろ》きが、心の底から尽《つ》きることなく噴出《ふんしゅつ》してきた。
エト国王は死んだのではなかったのか? あのダークエルフは、嘘《うそ》をついたのだろうか? しかし、ヴァリス軍は全員、喪章《もしょう》を付けていたではないか。それに、なぜ、マーモの全軍がアダンの街に逃《に》げてこない。
敵も味方も、すべての者がぐるになって、自分を欺《あざむ》いたとしか思えなかった。誰かマーモ軍の中に裏切り者がいたに違《ちが》いない。
「……身代金なら払う用意があるぞ」
ジアドは国王を名乗った男に向かって、交渉《こうしょう》をしてみた。
「オレの財産はかなりの額になる。その半分を身代金として差し出そう」
「断る」エトはきっぱりと答えた。
「我々、ヴァリス王国の民は、金のために戦をしているのではないのだ」
「ならば、国王。オレと一騎打《いっき う 》ちをしろ。貴様も武人ならば、それが将軍に対する礼儀ではないか?」
そのジアドの言葉に、ヴァリス軍の騎士たちがすこしどよめいた。エトがどんな答をするか期待したのだ。
「残念ながら、わたしは武人ではない。先の王ファーンならば、おそらく剣《けん》を以てあなたを成敗しただろう。しかし、わたしはファリス神に仕える神官だ……」
そして、エトはヴァリスの全軍を振《ふ》り返って、彼らに向かって呼びかけるように、その先を続けた。
「皆も聞け! わたしは、ヴァリス王国を剣の力でもって、治めるつもりはない。ファリス神の法と正義の心とがわたしが国を治めるための力だ。ヴァリスは変わるのだ。それに異議がある者は、今すぐこの場から去るがよい」
エトは、さながら神像の前に立ち、信者に向かってファリスの教えを説《と》いているように、ゆっくりと、しかし、迫力に満ちた声でそう宣言した。
しばらく待ったが、誰も立ち去る者はいなかった。
そのとき、城門が開き、アダンの街の人々が中から溢《あふ》れでてきた。
彼らはエトの名前を連呼しつづけていた。アダンにファリスの恩恵《おんけい》がふたたび訪れることを、空を見上げて感謝している。
「臆病者《おくびょうもの》め!」
ジアドは繰《く》り返しエトを罵《ののし》ったが、エトは涼《すず》しい目で、ただジアドを馬上から見下ろすだけだった。
あきらめたのか、ジアドはがっくりと膝《ひざ》を落とした。
「ならば、オレを捕虜《ほ りょ》に……」
「いや、あなたの裁きはアダンの街人《まちびと》に委《ゆだ》ねようと思う。もしも、あなたがファリス神に恥《は》じることなき善政を行なっていたのなら、きっとあなたの命は救われることだろう。もしも違《ちが》うようならば、それは地獄《じ ごく》で後悔《こうかい》するしかない。心から悔《く》いあらためれば、いつしか天国に召《め》されるときがくるであろう」
ジアドは悲鳴を上げた。アダンの街の人々が、怒《いか》りの声を上げながら、次々とジアドに殺到《さっとう》していった。ジアドは憎悪《ぞうお 》に燃える人の波に飲みこまれ、消えていった。
エトは、もう一度、全軍を振《ふ》り返り、高らかに勝利を宣言した。
全軍が、その勝利宣言に歓喜の声を上げて応じた。
アダンは解放された。悲願は達せられたのだ。ヴァリス領からマーモ軍を追い払《はら》ったのだ。
全員が歓声《かんせい》を上げる中で、パーンはひとりうなだれていた。
馬に跨《また》がり、手綱を何度も強く握《にぎ》ったり、緩《ゆる》めたりする。ときおり、喉《のど》もとに手をやったり、自分の腕《うで》を見つめたりしている。
「浮《う》かない顔ね」
ディードリットが心配そうにパーンを覗《のぞ》きこんできた。
パーンは首を振って、何でもないと答えた。
しかし、心の中は悔《くや》しさと屈辱《くつじょく》とで一杯《いっぱい》だった。それ以外のことは何も考えられなかった。
「……次は負けない」
パーンは血を吐《は》くような思いで、そうつぶやいた。そして右手の拳《こぶし》を左の手の平に思い切り強くぶつけた。信じられないくらいに大きな音が、響《ひぴ》いた。驚《おどろ》いて、まわりにいた何人かがパーンを振り返った。
「次は負けないって……」ディードリットがパーンの言葉を聞きとがめて、怪訝《け げん》そうに尋《たず》ねてきた。
「あたしたちは、勝ったじゃない。パーン、あなたはすこし変よ」
そのディードリットの言葉は、まったく彼の耳に入ってもいなかった。パーンの目には、黒騎士アシュラムの冷然たる微笑《びしょう》が焼きついて離《はな》れないのだ。
「次は負けない……」
パーンはもう一度、つぶやいた。
勝利の歓声が、辺りを包みこむ中で、パーンはひとり、敗北感に打ちのめされていた。
いつまでも、いつまでも……
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第V章 カノン王の帰還
秋の陽差《ひざ》しが、頭上から柔《やわ》らかく降りそそいでいる。
爽《さわ》やかな昼さがりだ。しかし、全身はまるで真夏の太陽を受けたかのように熱をもち、滝《たき》のように汗《あせ》が流れだしていた。
カーソンは額に流れる汗を一度、手で拭《ぬぐ》ってから、ふたたび鍬《くわ》の柄《え》を握《にぎ》りなおした。そして、地面に向かって、力いっぱい振《ふ》りおろす。鉄片が土に食いこむ感触《かんしょく》が伝わってくる。
ふたたび振りあげ、地面に叩《たた》きつける。これを朝から繰《く》り返していた。ようやく、畑の半分ばかりが掘《ほ》りかえされていた。
ふと前を見上げれぽ、ナザール山脈の山々が青空と白い雲とを背景に、カーソンたちを見下ろしていた。
彼の他にも、数人の男たちが彼と同じ作業に従事していた。しかし、彼らの動きは緩慢《かんまん》で、カーソンが鍬を二回打つあいだに、一回しか打っていなかった。
「腰《こし》に力を入れろ、しっかり働くんだ。深く掘り起こさないと、作物はうまく根付いてくれないぞ!」
カーソソは、鍬《くわ》を振るう腕《うで》を休めることなく、男たちを叱咤《しった 》した。
今年のカノンの気候は冷夏に加え、雨も多かったので、ここナルガの村で収穫《しゅうかく》された作物は、あまりよい出来とはいえなかった。おまけに量もすくない。このままでは、冬を越《こ》すことさえ難しいかもしれない。
収穫は早めに行なった。今は、冬に向けて、寒さに強い野菜や穀物を植えようと思い、畑を起こしなおしているところだった。収穫から引き続いての大変な重労働であるが、生き残るためには仕方がなかった。
ここ数年ばかり、畑を休ませる余裕《よ ゆう》がなかったので、山から肥えた土を運んでくる必要がありそうだった。冬を迎《むか》えるまでに、やらねばならないことは山積みされていた。
だが、危機感を抱《いだ》いているのは、まるで彼ひとりであるかのようだった。他の男たちの動きには、あいかわらず活気がない。
「しっかり働け! さもないと、よい作物など育たないぞ」
ふたたび、カーソンは男たちを叱咤した。
男のうちのひとりが、カーソンをうつろな目で見返してきた。
「……よい作物が育ったって、どうせ全部取り上げられるんじゃないですか」
男はポツリと言った。
カーソンは答に詰《つ》まって、何も言いかえすことができなかった。すでに仕事に戻《もど》っている男の背中が、無言で自分を責め立てているかのようだった。
男の言うとおりなのだ。いくら、彼らがよい作物を育てようと、大量の収穫を上げようと、それらはほとんどすべてマーモの人間たちに税として持っていかれてしまうのだ。
それが、他国に支配されている者の宿命とはいえ、彼らの作業に力が入らないのも当然といえば、当然だった。
「それでも、働くしかないんだ。みんな、頑張《がんば》ろう!」
カーソンはそんな絶望を心の底に押《お》しこんで、男たちに激励《げきれい》の言葉を送った。
何人かは力なくうなずいた。それ以外の者は、何の反応も示さなかった。カーソンは、自分の非力さを感じながら、畑を掘《ほ》り起こす作業を再開した。
そのとき、遠くから彼の名を呼ぶ声が聞こえた。
見れば、ひとりの子供があぜ道から声を張りあげている。
何事かと尋《たず》ねると、子供は領主からの呼びだしだ、と答えた。
「この忙《いそが》しいときに……」
カーソンは小さく舌を鳴らした。しかし、無視するわけにはいかなかった。
男たちに作業を続けるように指示すると、カーソンは畑のすぐ近くにある自分のあばら家へと向かった。
家に戻《もど》ると、彼はまず全身に流れる汗《あせ》を濡《ぬ》れた布できれいに拭《ふ》きとり、下着を替《か》えた。そして、その上から綿入れを着こんだ。
それから、寝室《しんしつ》に入り、そこに置いてある甲冑《スーツ》を取りだした。
最近では身につける機会はほとんどないが、手入れだけは怠《おこた》ったことはなかった。
分厚い板金で作られた金属の鎧《よろい》は、新品のように美しい光沢《こうたく》を放っている。そして、鎧の胸の部分には、麦と剣《けん》とを意匠《いしょう》化したカノン王国の紋章《もんしょう》が描《えが》かれている。今では存在しない王国ではあるが、カーソンはその紋章を消そうなどとは、考えたこともなかった。
それがマーモに対するささやかな抵抗《ていこう》のつもりだった。
今も自分は、カノン国王から受けた使命に従事しているという自負がある。この小さな村の治安を維持《いじ》し、村人の安全を守るという使命である。この使命あるかぎり、彼はいかなる恥辱《ちじょく》にまみれようとも生きていかねばならないと、心に決めていた。
カーソンは甲冑を身につけると、腰に剣を下げた。マーモの占領《せんりょう》当初は、武器、鎧を身につけることは一切、認められていなかった。しかし、占領から五年がたち、マーモの統治もずいぶん落ち着いてきた。それで、格別の配慮《はいりょ》とやらで、武器、防具を帯びることを許されたのだ。
カーソンは、カノン緑林|騎士《きし》団の正装《せいそう》をすると、領主の館《やかた》を目指した。
村の広場を望む場所にある、村でいちばん大きな館だ。かつては、カーソソ自身が住んでいた館である。今は、マーモから派遣されてきた領主が住んでいる。
館の門をくぐり、玄関《げんかん》の扉《とびら》を叩《たた》いた。召使いの老人が扉を開けて、カーソンを中へと通してくれた。
「領主様は、御自分の御部屋《おへや》でお待ちです」
カーソンは無言でうなずいて、言われたとおり領主の部屋へと向かった。
扉の前までくると、気持ちを引き締《し》めるように深く息をしてから、扉を叩いた。
「遅《おそ》かったな、入れ」
部屋の中から凜《りん》とした声が返ってきた。
カーソンは、失礼すると言ってから、部屋の中に入った。
部屋の正面、奥《おく》の壁《かべ》には大きなガラス窓があり、外に向かって大きく開かれていた。秋風が白いカーテンをもてあそんでいる。そのすぐ手前には、机が置かれていた。樫《かし》の古木で造られたどっしりとした造りの机である。そして、その机の横に領主は立っていた。
領主は鎧《よろい》を着けておらず、身体にぴったりとした白いシャツに茶色に染めた革《かわ》のズボンという軽装《けいそう》だった。そのため、身体の輪郭《りんかく》がはっきりと分かる。胴《どう》から腰《こし》のあたりは緩《ゆる》やかな曲線を描《えが》き、胸は形のよい膨《ふく》らみを見せていた。
領主は、女性なのだ。年は二十代のなかば。カーソンよりも、数歳若い。
宮廷《きゅうてい》婦人のごとき豊満な美しさとは無縁だったが、彼女の引き締まった肢体《したい》には健康的な魅力《みりょく》が感じられた。ため息が出そうなほどに美しく輝《かがや》く長い髪《かみ》を、無造作《むぞうさ》に後ろで結んでいるのが惜《お》しいと思う者は多いだろう。額には小さな飾《かざ》り物を付けていて、その上に前髪が幾筋《いくすじ》か流れ落ちている。
腰帯を巻き、そこに|両手持ちの曲刀《シャムシール》を吊《つ》るしていた。
彼女の名前はシャーナ。三年前に、マーモからこの村を統治するためにやってきた。女性ながら、マーモ暗黒|騎士《きし》団の正規の騎士である。
女領主は入ってきたカーソンの物々しい服装《ふくそう》を見て、口許にかるい笑みを浮《う》かべた。
「ずいぶん時間がかかったと思ったら、あいかわらずだな。もはや、カノン王家は滅《ほろ》んだというのに……」
カーソンは何も答えなかった。
彼自身は、カノン王家は滅んだとは思っていなかったからだ。それに、たとえ王家が滅んだとて、カノンという王国が滅亡《めつぼう》したわけではない。人民がいて、カノンという王国のことを思っているかぎりは。
王国を作ったのは、王や貴族たちであるかもしれない。しかし、それを守り、支えているのは、国民ひとりひとりの力なのである。
そのことを理解したのは、この村に領主としてやってきてからである。
もちろん、貴族や騎士たちとて、国を愛する気持ちは変わらない。ヴァリスやアラニアに落ち延びて、カノンの再起を待つ辺境の領主たちもいれば、カノン領内の街《まち》や村に潜《ひそ》んで密かに反乱の機会をうかがっている者もいるのだ。そうかと思えば、さっさとマーモに寝返《ねがえ》って、圧政者の傀儡《かいらい》となっている名門貴族たちもいた。
カーソンは機会があれば、ひとりでもいい、それら裏切り者たちを切って捨てたいと考えている。だが、自分に与えられた命令は、あくまでもこの村の人々を守ることである。その任を解かれないかぎり、自分は何もできない。
しかし、とカーソンは自嘲《じちょう》ぎみに思う。いったい誰が、自分の任務を解いてくれるというのだろう。
希望があるとすれば、十年以上も前に出奔《しゅっぽん》した第三王子レオナーが帰ってくることぐらいだ。しかし、噂《うわさ》ではレオナー王子は不幸な最期を遂げたとも、また大陸に渡《わた》ってしまったとも伝えられており、このロードスの地に留まっている可能性はほとんどなかった。
フレイム王カシューが、レオナーその人だとの噂も流れているが、そんな噂を信じている人間は、カノン王国にはひとりもいない。フレイムに使節として行った者も、まったくの別人だと報告している。
カーソンはかつて近衛隊に属する騎士《きし》であり、レオナー王子の身辺警護を命じられていた。当時の彼の年齢から考えれば、異例の抜擢《ばってき》であった。近衛騎士隊長ウェイマー・ラカーサ伯爵《はくしゃく》に、剣《けん》の腕《うで》を見込《みこ》まれたからであった。もっとも、レオナー王子に護衛など必要とは思えなかった。
彼は誰よりも強かった。彼の剣の師であるウェイマー伯爵《はくしゃく》さえも凌駕《りょうが》していたのである。建国王エゾールT世以来、勇者がついぞ出たことのないカノン王家にあっては、レオナー王子は異端《いたん》だったともいえる。
定期的に催《もよお》される馬上試合《トーナメント》や剣術試合において、レオナーは常に優勝者でありつづけた。
レオナー王子が王国を出奔する決意をしたのは、おそらく自分の名声が王城内で高まっていることを恐《おそ》れたからに違《ちが》いない。第三王子でありながら、皇太子である第一王子を凌《しの》ぐ名声を得てしまっては、後に禍根《かこん》を残すことになる。
聡明《そうめい》なレオナー王子は、自分がカノン王国に災いをもたらすことになるかもしれぬと思い、王国を出たのだ。
カーソンにとっては、彼が第三王子であったことを残念に思うしかなかった。同時に、自分を連れていってくれなかったことが、悲しくもあった。
カーソンは皇太子の護衛の任務に就けとの勧めも断り、王城から逃げだすようにこの辺境の村に領主として赴任《ふ にん》してきたのだ。
あれから、もう十年にもなる。
「何を考えている?」
怪訝《け げん》そうに、女領主が尋《たず》ねてきた。カーソンは頭を振《ふ》って、自分の考えを頭の中から追いやった。心を読みとられるのを恐《おそ》れるかのように。
「たいしたことではない。それよりも、わたしを呼びだしたのはどういう理由だ」
カーソンの言葉に、女領主はすこし表情を曇《くも》らせた。それから、威厳《い げん》を正すように胸を張ると、カーソンのすぐ近くまでやってきた。
「この村から納められる税が、他の村から納められるよりもかなり少ないとのことだ。今期はいつもの倍納めろとの命令がくだされている」
「馬鹿《ばか》な!」
カーソンは立場も忘れて、怒《いか》りの声を上げた。
女領主は眉《まゆ》をひそめただけで、そのことを咎《とが》めようとはしなかった。
「命令なのだ」
彼女はそう繰《く》り返した。
「今でさえ、我々は収穫物《しゅうかくぶつ》のほとんどを納めている。どうやって、倍納めることができるというのだ」
「分かっている」
柔《やわ》らかな口調で、女領主は興奮しているカーソンを落ち着かせようとした。
「今、この村が納めている税でさえ、村人にとっては大きな負担だろう。しかし、他の村の領主たちはもっと苛酷な搾取《さくしゅ》を強いているのだ。評議会への覚えをよくするために、そして自分の財産を肥え太らせるために」
「分かっているのなら、そう評議会へ返答してもらいたい」
「やったよ。だが、評議会からの答は変わらなかった。それどころか、領主の地位を剥奪《はくだつ》すると言われたよ。すでに、わたしの替《か》わりの領主が、評議会から派遣《は けん》されたそうだ。近々、この村にやってくるはずだ……」
それを聞いて、カーソンの表情が強ばった。
その表情の変化を見て、女領主は口許をかすかに緩《ゆる》めた。
「だが、その命令には、ひとつだけ条件が付けられていた」
「条件?」
「そう。このところ、この近辺の街道《かいどう》に、マーモの隊商や兵士たちばかりを狙《ねら》って襲《おそ》う山賊《さんぞく》がいるのだそうだ。カノン自由軍と名乗っているらしいが、その山賊どもを討ち取れとのことだ。それさえ果たせば、わたしの罷免《ひめん》と税の増額の件を容赦《ようしゃ》してくれるとのことだ」
そして、女領主はどうする、とカーソンに尋《たず》ねてきた。
「わたしに協力しろ、というのか?」
女領主はうなずいた。
カノン自由軍を名乗る山賊の噂《うわさ》は、カーソンも聞き及《およ》んでいた。彼らはマーモの兵士を襲って殺したり、物資を奪《うば》うなどして暴れている。
マーモにとっては目障りな存在だろう。同時に、カーソンや村人たちにとっても迷惑《めいわく》な話だった。彼らが強奪《ごうだつ》した物資は、結局のところ、カノンの国民からふたたび集められるだけなのだから。
「新しい領主というのは、どんな人物なのか」
「闇《やみ》の大僧正《だいそうじょう》ショーデル配下の男だ。おそらく、闇司祭だろう。崇高《すうこう》なる暗黒神ファラリスの司祭様だよ」
みるみるカーソンの顔が蒼《あお》ざめた。最悪だった。彼ら暗黒神の信者には、法も道徳も何も通用しない。ただ、自分たちの欲望にのみ、忠実なのだ。
そんな男がこの村の領主になれば、その結果は想像することさえ恐《おそ》ろしい。
「選択《せんたく》の余地はないな……」
カーソンは女領主に協力して、山賊《さんぞく》どもを討つ腹を決めた。心情的にはやりたくはないが、暗黒神の司祭などがこの村にやってくることは、何としてでも避《さ》けなければならなかった。
「村のために、協力してくれるのか……」
シャーナがため息をつきながら、机の上に腰《こし》かけた。やや寂《さび》しげな瞳《ひとみ》が、カーソンを見つめている。
「仕方ないだろう。わたしはカノンの騎士だ。そして、国王から村を守れと命令を……」
「わたしも、マーモの騎士だ」女領主は叫《さけ》んで、カーソンの言葉を打ち消そうとした。
「しかし、わたしは女性でもあるのだ……」
女領主は、シャーナはそう言って、じっとカーソンの目を見つめた。
それから、一瞬《いっしゅん》ためらった後、カーソンの胸に飛びこむように身体を預けてきた。カーソンは、彼女をしっかりと受け止めた。
シャーナは金属製の胸当てに頬《ほお》をすりよせる。彼女の顔には安らぎと苦悩《く のう》とが交互《こうご》に浮《う》かび、そして消えていった。
「シャーナ……」
カーソンも苦しげにつぶやくと、両手を彼女の肩《かた》にかけた。女性としてはたくましいのだろうが、やはりその肩はか細いと感じられた。胸の底から激《はげ》しい感情が湧《わ》きあがってきて、カーソンを押《お》し流そうとした。
いつの頃《ころ》から、このマーモの女騎士を愛《いと》しいと思うようになったのだろう。
三年前に彼女が領主として赴任《ふ にん》してきたときには、支配する者と支配される者の関係でしかなかった。しかし、若い彼女はこの村のよき領主にならんという熱意に満ちていた。自分の経験不足をも素直に認め、カーソンから領主としての心得や為《な》すべき事柄を熱心に学んだ。
カーソンも村のためだからと自分を納得させ、彼女に惜《お》しみなく知識を与え、彼女が抱《かか》えていた様々な問題についても相談にのった。
ふたりが一緒《いっしょ》にいる時間が何と長かったことか。そして、いつしかふたりは、互《たが》いを深く愛するようになっていた。それが辛《つら》い恋であることは、もちろん承知していた。だが、心に根付いた感情は強く、抑《おさ》えることはできなかった。
カーソンは震《ふる》える手に力を込《こ》めて、女領主から離《はな》れた。
「……いつ、山賊《さんぞく》たちを討伐《とうばつ》に」
揺《ゆ》れる感情を殺して、カーソンはシャーナに尋《たず》ねた。
一瞬《いっしゅん》だけ目を潤《うる》ませた後は、彼女も毅然《きぜん》たるマーモの女領主の顔に戻《もど》っていた。
「三日後だ。近くの村から、応援《おうえん》を頼《たの》むつもりでいる」
シャーナはゆっくりと窓の方を振《ふ》り返ると、カーソンに退出を命じた。
カーソンは彼女の背中に深く一礼をしてから、領主の部屋を後にした。
谷は日が暮れるのが早い。頭上の空はまだ明るさを残しているが、パーンたちが歩いている谷沿いの小道は、もはや薄暗《うすぐら》くなっていた。
アダンの街《まち》を発《た》って二週間あまり。いったん南に下がってから山越《やまご》えの間道を東進し、カノンヘと向かった。すでに、二日前に峠《とうげ》は越えていた。
この辺りはナザール山脈と呼ばれる山岳《さんがく》地帯だった。カノンとヴァリスの国境になっており、山を下りきればカノン領である。昨日まであれほど急だった坂道も、ずいぶんとなだらかになっており、もうすぐ人里に近いことを感じさせる。
それは、同時にマーモの勢力圏内に入ることを意味していた。これからは、どれだけ注意を払《はら》ったとしても、払いすぎるということはないだろう。
もしも、マーモの巡視《じゅんし》兵に見つかるようなことがあったならば、傭兵《ようへい》志願の旅人のふりをするつもりでいた。自分たちの顔を知っている敵に出会えばおしまいだが、その確率はすくないはずだった。
あのアダンの街での戦いの後、アシュラムに率いられて撤退《てったい》した敵の兵は、アダンと王都力ノンとを結ぶ北の街道に設けられた峠《とうげ》の砦《とりで》に逃《に》げこんでいる。
だから、カノン南部の山越えをすることに決めたのだ。パーンたちは、カノンに戦いにきたのではない。カノンの現状を確かめることが目的だった。無理な危険を冒《おか》せば、この地では簡単に命取りになってしまうだろう。
カノンの南西部の地域は、マーモ帝国でさえ支配にあまり力を入れていない、いわば辺境であった。
「そろそろ、夜営の準備でも始めるか」
パーンは道のすぐ横を流れている小川に、手頃な河原を見つけたので、みんなに声をかけてみた。
全員から、賛成の声があがった。皆、パーンのその言葉を待っていたようだった。
夜営といっても、天幕《てんまく》を張ったりするわけではない。適当なところにマントを敷《し》いて、その上に薄《うす》い毛布をかぶって寝《ね》るだけだ。
そろそろ冬が近いので、夜になれば冷えこむことだろう。たきびを絶やすわけにはいかないな、とパーンは考えた。狼《おおかみ》や熊《くま》などが出る危険もないわけではない。
みんな、手分けして夜営の準備に取りかかった。枯《か》れ木を拾い集めてくる者、食事の準備を始める者。パーンは夜営地の近くを見回ることに決めた。
それに気付いたディードリットが、すぐに追いかけてくる。
パーンは彼女と並《なら》びながら、足早に坂を下りはじめた。もうしばらく歩けば、開けた場所に出ることだろう。そこには村があり、マーモ兵も駐留《ちゅうりゅう》しているに違《ちが》いない。
乏《とぼ》しくなった食糧《しょくりょう》を村で集めたいという気もしていたが、あまり危険を冒《おか》したくない。しかし、村人たちと接触《せっしょく》しなければ、カノンの現状を確かめることもできないのである。パーンは激《はげ》しいジレンマを感じていた。
「悩《なや》んだって、仕方ないわよ」
パーンの苦悩《く のう》を察したのか、ディードリットがそっと声をかけてくる。
パーンはうなずいた。
「うん、今さらなんだけど、オレのわがままに、スレインたちを巻きこんでしまって、悪いなと……」
「確かに、スレインには悪いことをしているわね。あの人は、あなたに心からアラニア王に立ってほしいみたいだから。でも、あなたは王にはなりたくないんでしょ」
「ああ、まだ考えは変わっていない。レドリックとエトというふたりの人物にあって、彼らの苦労がよく分かったからね。苦労をするのを厭《いと》うわけじゃないが、オレに合わない苦労を進んですることはないだろうと……」
「それなら、いいんだけど……」
ディードリットは、パーンの本心を確かめるように、じっと茶色の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》きこんできた。
「あたしのことを、気遣《き づか》ってくれているんなら……」
その言葉に、パーンは吹《ふ》きだすように笑った。
「確かに、君を王妃《おうひ 》にはできないだろうな。でも、今まで、そんなこと考えてもみなかったよ」
ディードリットは情けないような、怒《おこ》りたいような気持ちになった。
「人が真剣《しんけん》に気にしていたのに」
「すまない。ひとつのことが気になったら、それ以上、先に考えが進まないんだ。頭が悪いからかな」
単純だからよ、とディードリットは答えた。
そのとき、背後でパーンを呼ぶ声が聞こえた。ただ事ではない感じだった。
「マールの声よ!」
「戻《もど》るぞ、ディード!」
パーンは坂道を全速で駆《か》けあがりはじめた。
河原に戻ると、マールがパーンを呼んだ理由がすぐに分かった。川を挟《はさ》んだ向かい側に、二十人ほどの集団が姿をみせていたのだ。
いつのまにやってきたのだろう。男たちは、思い思いの武器を手にしている。粗末《そまつ》な鎧《よろい》や楯《たて》で身を守っている者もいた。マーモの兵士たちだろうか? パーンは、仲間を庇《かば》うように、一歩前に進みでた。
「おまえたちは、何者だ! オレたちはマーモの傭兵《ようへい》志願の者だ。もしも、マーモゆかりの人間ならば、しかるべき人物に取り次いでもらいたい。オレたちの腕《うで》はそう安くはないぞ」
もっとも、エルフであるディードリットがいるから、あまり説得力はない。里に出る前に彼女には変装《へんそう》してもらう予定だったのだが、こんなところでいきなり人間に出会うなど、考えてもいなかった。
「聞いたか」
首領らしい男が、手近な仲間に話しかけていた。首領は、筋骨たくましい男である。|両手持ちの斧《グレート・アックス》を肩《かた》にかついでいる。
話しかけられた方の男は、無言でうなずいただけだった。薄汚《うすよご》れた鎧、乱れた長髪《ちょうはつ》に無精髭《ぶしょうひげ》をはやしている。汚《きたな》らしい格好だが、その目に宿る光と、手に持つ|長 剣《バスタードソード》から放たれる輝《かがや》きだけは、夕暮れの薄明かりの中でもひときわ、するどく見えた。
「魔法《ま ほう》の剣でしょうか?」
スレインがパーンにささやきかけてきた。
パーンは小さくうなずいた。もしも、戦いになるようなら、あの男がいちばんの強敵だと心に念じながら。
「おまえたちも、聞いたな」
首領は、その他の仲間たちにも声をかけた。
「確かに聞きやした」下品な笑い声が、答としてかえってきた。
首領は残忍《ざんにん》な笑いを口許に浮《う》かべた。
「おまえたちが、マーモの傭兵志願者ならば、容赦《ようしゃ》できないな。オレたちはカノン自由軍の者だ。マーモに味方しようという奴は容赦できねぇ。おまえたちの命と財産、そっくりちょうだいするぜ」
「な……」
パーンは絶句してしまった。こんな可能性があることを考えておかなかったのは、うかつだった。しかし、マーモに反抗する勢力があるなど、噂《うわさ》では聞いたこともなかった。
「たぶん、ただの野盗《やとう》ですよ。口で言ってることも嘘《うそ》ではないのでしょうが……」
そうかもしれない、とパーンはスレインの言葉に納得した。しかし、いくら野盗だからといって、マーモに敵対する者たちと戦いたくはなかった。
しかし、問答無用とばかり彼らは川を押《お》し渡《わた》ってこようとする。
パーンたちはあわてて小道まで駆《か》けもどりながら、いちおう反撃《はんげき》の準備を整えた。
「待ってくれ! おまえたちが、マーモの人間だと思って、嘘をついたんだ。本当はオレたちはカノンの事情を探りにきた人間なんだ」
「今さらそんな言い逃《のが》れなど、聞くと思うか!」
「もっともだねぇ」
マールが逃《に》げ腰《ごし》になりながら、相手の言葉に相槌《あいづち》を打っている。
マールの言うとおり、今さら自分の言葉を信じろというのは、虫のよすぎる話だった。
「仕方ない。みんな、彼らを傷付けるなよ」
パーンは剣を抜《ぬ》きながら、全員に注意を与えた。
「分かりました」
スレインは後ろに下がりながら、上位古代語《ハイ・エンシェント》の呪文《じゅもん》を唱《とな》えはじめる。
ディードリットも、何の呪文を使うつもりか精霊語《サイレント・スピリット》を口ずさんでいる。
パーンは先頭に立って、剣と楯《たて》とを広げた。彼らの援護《えんご》さえあれば、山賊《さんぞく》ならばたとえ何人でも相手にできる自信があった。
ザブザブと水を跳《は》ねあげながら、川を渡って山賊たちが押し寄せてきた。
まず、ディードリットの精霊魔法がいちはやく飛んだ。低く垂《た》れていた木の枝や足元の雑草がスルスルと伸《の》びて、先頭を走っていた数人の男たちに絡みついたのだ。樹木の精霊、ドライアードの力による〈戒め〉の呪文であった。
続いて、スレインの〈眠りの雲〉が飛び、後続の何人かをバタバタと眠らせた。その中には、敵の首領も含《ふく》まれていた。
「おまえたちでは、オレには勝てない。オレたちはマーモを敵だと考えている。いわば、オレたちは同志だ。信用してくれ!」
「本当かな?」
ふと気が付けば、ディードリットのかけた〈戒め〉の呪文で伸びてくる木の枝や雑草を剣でなぎ払《はら》いながら、ひとりの男がパーンの前までやってきていた。
パーンはすこし緊張《きんちょう》して、剣を構えなおした。男の動き、殺気がただならぬものだったからである。魔法の剣らしき長剣を手にしていた男だった。
これは本気を出さねばならないかな、とパーンは足場を確かめながら、右にゆっくりと回りこもうとした。
その途端《と たん》、不意を打つように矢のような突《つ》きが放たれてきた。
パーンはのけぞるようにしてその攻撃《こうげき》をかわすと、体勢を立て直して、反撃《はんげき》しようと試みた。
しかし、そのときには、パーンの首筋に相手の長剣が押《お》し当てられていた。
パーンは唇《くちびる》を噛《か》みながら、男を睨《にら》みつけた。
「卑怯《ひきょう》だぞ!」
パーンは叫《さけ》んでみたが、山賊相手に卑怯というのもおかしな話だった。油断をした自分が悪いのだ。
「卑怯だぞ、か……」
相手はつぶやくと、すぐに剣を収めた。そして、うろたえるばかりの仲間たちを振《ふ》り返って、こいつらは敵じゃない、と呼びかけた。
「仲間にかけた呪文を解いてほしい。無礼はお互《たが》いだから謝らないぞ」
「ああ……」
パーンはうなずくしかなかった。
どうやら、戦わずに済みそうだった。
しかし、とパーンは衝撃《しょうげき》を受けていた。アシュラムに続いて、またも剣で後《おく》れをとってしまった。最近では、自分の腕《うで》にかなりの自信を持っていたのだが、それが粉《こなごな》々に砕《くだ》かれてしまった。
悔《くや》しくもあり、情けなくもあった。
パーンを打ち負かした男は、そんなことなど気に留めた様子もなく、草木に捕《と》らえられた仲間を助けはじめた。
「植物を傷付けないで」
あわてて、ディードリットが男を制した。男はチラリとディードリットに顔を向けると、素直にうなずいて、彼女に呪文《じゅもん》を解くようにと言った。
ディードリットはドライアードに命じて、男たちを呪文の束縛《そくばく》から解放していく。
スレインたちも、顔を見合わせるようにして、ふたたび河原へと降りてきた。
「カノンの様子を知りたいのなら、教えてやる。我々の隠《かく》れ家《が》までついてくるといい。この辺りには狼《おおかみ》や熊《くま》も多い。少人数ならば、たとえ火を焚《た》いていても襲《おそ》ってくる」
何だかよく分からないが、彼の言葉に従おうと思った。彼らはカノン自由軍を名乗っていたが、もしかすると、本物のカノン王国の残党かもしれないという気がした。
でなければ、こんな腕利《うでき 》きの戦士がいるはずがない。それに、男の剣さばきがシーリスのそれに似ているようにも思えたからだ。
すでに、頭上の空も暗くなりはじめていた。どこからか、気の早い梟《ふくろう》の鳴く声も聞こえてきていた。
夜営の準備が無駄《むだ》になったな、と考えながら、パーンたちは大急ぎで自分たちの荷物をまとめはじめた。
カノン自由軍の隠《かく》れ家《が》は、先程、彼らと争った河原から尾根へと向かう道の中ほどの斜面に穿《うが》たれた洞窟《どうくつ》の中であった。
地下水に削《けず》られてできたと思われる自然の洞窟だった。しかし、人間の手がかなり入っており、洞窟の中は立派に人が住めるようにできている。特に洞窟のいちばん奥《おく》にある岩屋は、小さな館の庭ぐらいの広さと、そしてそれに見合う高さがあった。
竜《りゅう》の巣穴《す あな》のようだ、とスレインが感想を洩《も》らしたほどだ。
「出口がもっと広かったら、本当に棲《す》んでいたかもしれねえな。しかし、この洞窟は昔《むかし》から山賊《さんぞく》の隠れ家に使われていた。オレたちよりも前に、三つばかりの山賊たちがここを拠点《きょてん》に活躍《かつやく》していたってわけよ」
首領のギャリルが、そう説明してくれた。彼は気のいい男で、魔法《ま ほう》で眠《ねむ》らされたこともまったく気にしていないようだった。
ギャリルは出会ったときとは手の平を返すようにパーンたちを歓迎《かんげい》して、酒宴《しゅえん》まで張ってくれた。
今は、酒が入って上気した顔で、頼《たの》まれもしないのに自分の手柄話《てがらばなし》を次々と披露《ひ ろう》している。おかげで、自分たちの身の上はほとんど説明せずにすんだ。
何のことはない、彼らは正真|正銘《しょうめい》の山賊だった。だが、めったなことでは命までは取らぬ、変な話だがまっとうな山賊だった。
彼らに言わせれば、間道を抜《ぬ》けようとする旅人を里まで無事に送ってやるのがいちばんの仕事なのだそうだ。もちろん、多少の謝礼[#「謝礼」に傍点]は貰《もら》うが、狼《おおかみ》や熊《くま》に襲《おそ》われて命を失うよりも安上がりだろう、とパーンに同意を求めてきた。
その通りには違《ちが》いないのだが、だからといって、貴族たちが彼らを認めてくれるわけではない。しかし、人の命を取らぬので、カノンの貴族たちもわざわざ兵を出したりはしなかったのだろう。そう考えてみると山賊たちも不文律の掟《おきて》を守って、暮《く》らしているといえる。
彼らの暮らしには接したことがなかったので、ただのならず者だと思っていたが、パーンはすこしだけだが彼らのことも見直す気になった。
しかし、マーモ帝国《ていこく》がやってきてからは、彼らの暮らしも一変した。もはや、カノンにやってこようという旅人はいなくなった。ときおり、土地を捨てて、カノンから逃げだそうと山に入ってくる者もいたが、もちろん、財産など持っているはずがない。
そんな難民たちの惨《みじ》めな姿を見て、ギャリルはマーモに反抗《はんこう》しようと決意した。それで、カノン自由軍を名乗ったのである。
「名乗った以上は、マーモに敵対する人間は残らずオレたちの味方さ。特に、あんたらのような強い人間は大歓迎《かんげい》だ。何日でもいい、ゆっくりしてくれ」
彼らの羽振《はぶ》りは思ったよりもよさそうだった。マーモの隊商を襲《おそ》ったり、妖魔《ようま 》の集団や兵士を襲ったりして、かなりの獲物《え もの》をせしめているようである。
ギャリルはさかんに、マーモ兵たちが豊かなことを強調した。
「あまり派手なことをしていると、マーモから兵を差し向けられるかもしれませんよ」
パーンは心配して、余計な忠告をしてしまった。
しかし、ギャリルは気にした様子もなく、そのときには受けて立つさと自信を持って言った。
「オレたちにはザップがいるんだからな。どんな奴《やつ》がきたって、負けはしねぇ」
豪快《ごうかい》に笑いながら、ギャリルはパーンを打ち負かした例の戦士を顎《あご》で示した。そのザップは、隣《となり》のたきびの前に座って、さっきからひとり黙《だま》っている。酒を飲んではいるが、まるで盃《さかずき》をなめるような感じで、すこしも酔《よ》った様子がない。
「奴《やつ》の腕《うで》は、あんたも身にしみたろう」
パーンは素直にうなずいた。
「あの人は何者なのです。昔《むかし》からの仲間なのですか?」
パーンは身を乗りだすようにした。さっきからあの男のことを尋《たず》ねたくて機会をうかがっていたのだ。
「あいつか、あいつのことはよく知らねぇ」
ギャリルはひとつ肩《かた》をすくめて、グイッと盃をあおった。
「あいつはマーモがこの国を占領《せんりょう》するようになって、しばらくしてからやってきたのさ。あんたたちみたいに、獲物《え もの》かと思ってかかっていったんだが、十人ばかりいた仲間が全員、打ちのめされてな。オレたちを何者かと尋《たず》ねたんで、訳を話したら、オレたちの仲間になると言って、ここに居座ったんだ。こう言っちゃあなんだが、今ではすっかりオレの片腕さ。無口で、あまり面白みのない奴だけどよ」
やっぱりな、とパーンは思った。あの戦士だけは根っからの山賊ではなかったのだ。
早くこの首領との話を打ち切って、あの男と話をしたいと思った。
自分があれほど見事に打ち負かされたのである。絶対にただ者ではない。世の中には自分より強い人間は、まだまだいる。もっともっと鍛練《たんれん》しなければ、自分の目的は達せられない。
特に、あの黒騎士には二度と負けたくなかった。
いいアイデアを思いついて、パーンはマールを呼んだ。草原の妖精《ようせい》は、パーンたちからすこし離《はな》れた場所で浮《う》かれ騒《さわ》いでいた。
「マール、せっかくだから何か唄ってくれよ。踊《おど》りでもいいけど」
それから首領のギャリルに、彼が本職の吟遊詩人《ぎんゆうしじん》であり、踊りの名手であると紹介《しょうかい》した。
「そいつはすげぇ、ぜひ披露《ひ ろう》してもらわねぇとな」
ギャリルは拍手《はくしゅ》をしながら、マールに歌を一曲、要求した。
「恨《うら》むよ、パーン。それから、後で代金を貰《もら》うからね」
マールは顔をしかめて、パーンの頭をかるくこづいた。
「約束《やくそく》しよう」
パーンは片目をつぶって、マールを送りだした。
山賊《さんぞく》たちが手拍子をうつ中で、マールは軽妙《けいみょう》なステップを踏《ふ》んで踊りはじめた。そして、手拍子のリズムに合わせて、いかにも山賊が好みそうな歌を唄いはじめる。
昔《むかし》、ひとりの山賊がいた。
頬《ほお》に星の形の傷、身体に雪のような埃《ほこり》。心は沈《しず》む夕陽《ゆうひ》のごとく、今日を忘れて、明日を夢《ゆめ》見る。
マールの唄う歌は、パーンも聞いたことがあった。ひとりの山賊が夕陽を追いかけて、旅に出る話だ。
山賊は海を渡《わた》り、西の果ての世界で、幸せをつかむ。その世界の王女と恋に落ちて、みごと結ばれるのだ。西の果ての地だから、太陽はいつも東から昇って、王国の真ん中にある大きな穴に沈んでいく。
しかし、やがて幸せに飽《あ》きた山賊は、夕陽を追いかけて、その穴に飛びこんでいく。
それから、彼を見た者はいなくなる。真の幸せをつかむために、今でも夕陽を追いかけているに違《ちが》いないと、歌は結ばれたはずだ。
確か、国王や貴族たちを嘲笑《ちょうしょう》している歌だったと記憶《き おく》している。民から取りあげた食糧《しょくりょう》や金銀で贅沢《ぜいたく》ざんまいをする生活に、これでは山賊と変わらぬと山賊がふたたび太陽を追いかけるくだりが、この歌でいちばん盛《も》りあがるところだからだ。
山賊たちに聞かせるには、最高の歌だったろう。しかも、マールは曲芸を交じえたり、無言劇を演じたりして、曲の切れ目を巧妙《こうみょう》につないでいく。
パーンが期待したとおり、首領も他の山賊たちも我を忘れたように、マールに喝采《かっさい》をおくる。
こっそりと席を立って、パーンはザップの方に歩いていった。
ザップは、マールに目をやってはいたが、あまり楽しそうな様子ではなさそうだった。ときおり笑みを浮《う》かべるが、それは苦笑しているようにも見えた。
だから、パーンが近寄ってくるのにも、すぐに気がついた。
「話がある。すこし付き合ってくれないか」
パーンはそう言って、洞窟《どうくつ》の入口の方を示した。岩屋は、もはや人々の喧噪《けんそう》で包まれているから、外でなければゆっくり話もできない。
ザップは無言でうなずいて、立ち上がった。
洞窟の外は、完全に夜の闇《やみ》に包まれていた。
空には糸のような月の光が輝《かがや》いているだけで、おかげで小さな星々の輝きまで、はっきりと見ることができた。
「天にあるは遊星。下りて光るは流星。地を砕《くだ》くは隕石《いんせき》……」
ふと気付いてザップを見れば、夜空を見上げて、何事かつぶやいている。
「なんですか、それは」
パーンは興味を覚え、ザップに尋《たず》ねた。
「古代の伝承の一節だよ」
ザップは近くの岩に腰《こし》を下ろし、パーンにも座るように合図した。
パーンが素直に従うと、今度は酒瓶《さかびん》を一本、パーンに手渡《て わた》した。
「外は冷えるからな」
パーンはうなずいて、酒を一口だけ飲んだ。そして、ザップに返す。
ザップも、一回だけ酒瓶に口をつけた。酒瓶を岩の上にトンと置くと、彼はパーンと向き合った。
「あなたは、何者なんです?」
パーンは単刀直入に尋ねた。無礼かとも思えたが、この男も回りくどいことは嫌《きら》いのように思えたのだ。
「出身のことだな」
「その通りです」
パーンは答えた。
よく観察してみると、ザップは三十なかばぐらいに見えた。髪《かみ》を整え、髭《ひげ》をそれば、ずいぶん見られる顔になると思えるが、今はむさくるしい感じしかなかった。
「なら、先におまえから答えろ。おまえこそ、いったい何者だ。ただの傭兵《ようへい》や冒険《ぼうけん》者などではあるまい?」
パーンはこの男にだけは自分たちのことを明かす気になった。
「残念ながら、あなたが言ったとおりの人間なんですが……」
そう断ってから、パーンは、自分たちがロードス島の南部三国の現状を確かめるべく旅をしていることを告げた。それから遡《さかのぼ》って、アラニアで独立運動を指導していたことや、フレイム国王カシューやヴァリス国王エトらとも面識があることも伝えた。
「北の賢者《けんじゃ》とザクソンの勇者の話なら、噂《うわさ》には聞いたことがある」
ザップの視線がパーンを値踏《ねぶ》むように何度も上下した。
「それで、納得いった。さっきの戦いで、最初の突《つ》きをかわされるとは思わなかったからな」
「二撃目で同じ結果になりましたよ」
パーンは憮然《ぶぜん》としたように言った。
「わたしは十六になってから今日まで、一度も剣で他人に負けたことはない。それどころか、最初の一撃《いちげき》をかわされたのも久しぶりだ」
ザップには自慢《じ まん》するような感じはまったくなかった。
「オレはこのところ連敗続きです。練習でカシュー王にも敗れましたし、マーモの騎士にも後《おく》れをとった。情けない話です」
ザップは黙《だま》ってパーンの話にうなずくだけだった。同情も慰《なぐさ》めもしないのが、ありがたかった。
「こっちの質問にはまだ答えてもらってません。あなたは、カノンの貴族でしょう。昔《むかし》、オレの仲間だった女戦士が、あなたと同じような剣《けん》さばきをしていた。もっとも、あんたに比べれぽ、まだまだ彼女は未熟《みじゅく》でしたがね。その女戦士はカノンの貴族の娘《むすめ》だった」
「名前は?」
「シーリス。それだけしか、知らない……」
ザップは口の中で、シーリスの名前を何度か繰《く》りかえした。
「カノンの女性では珍《めずら》しくない名前だな。何人か思いあたる。しかし、おそらくウェイマー・ラカーサ伯爵《はくしゃく》の令嬢《れいじょう》だろう」
シーリスから家族のことを聞いたことはなかったから、ザップのいう人物と彼女とが同一かどうかは分からなかった。
「ウェイマー伯爵は、オレの剣術の師範《しはん》でもある。カノンでは有数の剣の使い手だよ。シャイニングヒル攻城戦《こうじょうせん》でも最後まで国王を守って戦ったらしい。惜《お》しい人物を亡くしたものだ……」
その答は、彼もカノンの貴族であることを暗に肯定していた。
「すると、あなたはマーモ打倒《だ とう》とカノン再建を目指しているのですね」
パーンは勢いこんで尋《たず》ねた。カノンにとって、彼のような剣士がいることは、明るい材料のように思えた。
「そのつもりはないな」
しかし、あっさりとザップは否定した。
なぜ、と問いかえすパーンに、ザップは無言で洞窟の入口を示した。
そこからは、山賊《さんぞく》たちの騒《さわ》ぐ声が洩《も》れてきていた。
「さっきの小人の歌がその答だ。国王も貴族も山賊たちと変わらない。民から稼《かせ》ぎを奪《うば》うということではな。それが嫌《いや》で、わたしは貴族を捨てた。どうせ、跡《あと》を継《つ》がなくてもいい立場だったからな。おかげで、マーモの攻撃《こうげき》で命を失わずにすんだ」
皮肉なものだ、とザップは寂《さび》しそうに笑った。
「オレはカノンの民が奮起して、ライデンのような自治制度を作ってくれることを期待している。アラニアの独立運動を進めていたおまえなら、分かるだろう」
「分かりますが、あまり賛成はできませんね」
答えたのは、パーンではなかった。
驚《おどろ》いて振《ふ》り返ると、ちょうど洞窟《どうくつ》からスレインが出てくるところだった。
彼も宴《うたげ》の喧噪《けんそう》にうんざりしたのだろう。
「聞くとはなしに聞いていましたが、ザップさんの考えには、ちょっと異議がありますね。わたしたちは確かに自治を行ない、王国には不服従の態度をとりました。それは、やがて独立という機運に高まってもいきました。ですが、運動が完全に成功したとは思っていません」
パーンはザップにスレインのことを紹介《しょうかい》した。
「ザクソンの独立運動では不十分だと?」
「ええ、不十分です。今は、アラニアが内乱にあり、そのためにラスター公爵《こうしゃく》もアモスン伯爵《はくしゃく》もザクソンに軍を動かせないでいます。しかし、両者が和解すれば、おそらく一致協力して、ザクソンを攻《せ》めてくるでしょう。そうなれば、村人たちの団結がいかに強くとも、結局は敗れてしまいますからね」
「何が言いたいんだ?」
パーンは、スレインがまたも自分に王として立てと説得したいのだろうと思った。
「あなたの考えているとおりですよ、パーン。アラニアの独立運動を成功させるためには、象徴《しょうちょう》となるべき人物、すなわち国王となるべき人物が必要なのです。理想を言えぽ、わたしも民が自らの力で自らを治める、そんな時代がきてほしいと思っています。しかし、残念ながら、まだまだ我々はその時期にはいたってないようですね」
国王が国を治める、パーンにとっても、それは当然のことだった。
ロードス島、いやこの世界に住むすべての人間がそう考えている。神の支配が終わった後は、国王が支配する時代がずっと続いたのである。古代王国も魔法王を戴《いただ》く王国ではなかったか。
例外ともみえるライデンの自治ではあるが、結局は豪商《ごうしょう》たちが貴族の代わりだったにすぎない。違《ちが》うのは、剣の力ではなく、金の力で街を統治していたということだ。評議会を構成する商人たちは、それ以外の商人たちを完全に支配し、自分たちの利益を妨《さまた》げないように厳しく制限していたともきく。
「この戦《いくさ》は、まだまだ続きます。しかし、いつかマーモが敗れる日がくるでしょう。ベルドのいなくなったマーモは、国をまとめる力のある人間を欠いています。それに、噂に聞くような圧政を続けていれば、国の力が強くなるはずがありません。いつまでも、民を恐怖《きょうふ》で抑《おさ》えていられるというのは、思いあがりです。何かきっかけがあれば、恐怖は勇気にとってかわり民は反抗をはじめるでしょう。その勇気をひとつにまとめ、大きな力とするためには、やはり王となるべき勇者が必要でしょうがね」
スレインはいつになく雄弁だった。
「モスのレドリック、ヴァリスのエト、彼らはきっと立派に国を治めていくでしょう。彼らに万が一のことがないかぎり、両国の未来は約束《やくそく》されています。しかし、アラニア、そしてこのカノンには、救国の英雄が今こそ必要なのです。そうは思いませんか」
「それぐらい分かっている」
答えたのは、ザップだった。あれほど静かだった男が、厳しい顔になって、スレインを睨《にら》みっけているように見えた。
パーンもスレインも唖然《あ ぜん》として、ザップの顔を見つめた。
「すまない」
すぐにザップは平常に戻《もど》った。スレインに非礼を詫《わ》びると、岩の上にふたたび腰《こし》を下ろした。
「……パーン、おまえは王にふさわしい男だと思うよ。おまえの剣には邪気《じゃき》がなかったからな。嘘《うそ》をつけない男の剣だ。だから、わたしもおまえを信じる気になったんだ」
「スレインを焚《た》きつけないでください」
パーンは迷惑《めいわく》そうに、ザップを振《ふ》り返った。
と、その肩越《かたご》しにチラリと光る赤いものが見えた。
「あれは……」
パーンは立ち上がって、明かりが見えた方を指差した。
「谷沿いの道だな」
ザップが目を凝《こ》らすようにして、そうつぶやいた。
「たいまつの明かりのようですね」
スレインが意見を述べる。パーンも同感だった。
よく見ると、赤い光はひとつではなく、三つ、四つ、いやそれ以上あった。かなりの数の人間が道を移動しているようだ。
「何者だろう。こんな時間に……」
パーンは疑問を口にした。
「あれだけの数、おそらくマーモの兵士だろうな」
「首領に知らせますか」
パーンの問いに、ザップは当然だというようにうなずいた。
「まだ、この隠《かく》れ家《が》には気付いていないだろう。監視《かんし 》は続けねぱならないが、すぐに出向くことはない」
独り言のようにつぶやくと、ザップは洞窟《どうくつ》へと戻《もど》りはじめた。
「疲《つか》れただろう。狭《せま》い岩屋だが、外よりはましだ。今日はゆっくり休んでくれ」
「待ってくれ!」パーンは去っていくザップを呼びとめた。
「あなたの剣術を教えてほしい。どうしても負けたくない人間がいるんです」
ザップは振り返ることもなく、一言、承知したと答えて、洞窟の奥《おく》へと姿を消した。
「変わった人ですね」
スレインがポツリと感想を洩《も》らした。
パーンもまったく同感だった。
そして、彼の剣術を学びとるまでは、この洞窟に留まろうという決心をひそかに固めていた。
シャーナたちが、山に入ってからすでに二日目の午後になっていた。カーソンも二十人ばかりのマーモ兵たちと共に彼女と同行していた。
山賊《さんぞく》どもの隠《かく》れ家《が》は、だいたいの見当がついていた。昔から、山賊の隠れ家として有名な洞窟《どうくつ》がこの辺《あた》りにあることを知っていたからだ。カノン自由軍を名乗る山賊も、その洞窟を隠れ家にしているに違《ちが》いなかった。
しかし、村人の誰《だれ》ひとりとして、洞窟に案内できる者はいなかった。そこで、シャーナたちは付近を山狩りすることに決めたのである。
洞窟があると考えられる山の谷沿いの一帯は、昨日あらかた探索《たんさく》しおえたが、洞窟も山賊たちも影《かげ》も形もなかった。
兵士のひとりが鼻の利くコボルドを連れてくればよかったんだ、と愚痴《ぐち》をこぼしている。
シャーナはするどくその男を叱責《しっせき》する。
カーソンに対する風当たりは強かったが、彼は一向にそれを気にした様子はなかった。いかに、侮辱《ぶじょく》されようとも仕方がない。自分は彼らに敗れ、滅亡《めつぼう》した王国の騎士なのである。彼らは勝者なのだ。
従順すぎる彼の態度が、かえって面白くないのか、腰抜《こしぬ 》け呼ばわりする人間もいた。
カーソンはカノン緑林|騎士《きし》団の甲冑《かっちゅう》を身につけている。剣も楯《たて》もカノン王家から賜《たま》わったものだ。マーモ兵よりも、よほど立派な武装《ぶ そう》である。それが気にくわない男たちも多いようだった。
昼すぎから山に入って、山の斜面《しゃめん》の探索を始めている。
今日、一日でおそらく南側の尾根は調べがつきそうだった。それで、洞窟が見つからなければ、明日は北側の斜面を探索する、とシャーナは決定した。
面倒《めんどう》そうな声が兵士たちから上がるが、それはすぐにシャーナに怒鳴《どな》られ、静かになった。彼女はマーモ兵に対しては厳格な上司だった。反抗《はんこう》しないところを見ると、彼女の恐《おそ》ろしさは十分に認められているのだろう。
カーソンも剣には自信があるほうだったが、彼女も優れた剣士のようだった。
昼ごろにいったん斜面を降りて、谷沿いの小道に戻ることにした。休憩《きゅうけい》をして、昼食を取るためである。疲労《ひ ろう》のため喉《のど》が乾《かわ》くので、飲み水の消費も激《はげ》しく、小川で水袋《みずぶくろ》もいっぱいにしたかった。
そして、道に降りたとき。
「待ち伏《ぶ》せだ!」
緊張《きんちょう》した警告の声がシャーナから飛んだ。
カーソンはハッとなって、彼女の視線を追いかけた。
川を挟《はさ》んで反対側の林の中に、人影《ひとかげ》が潜《ひそ》んでいた。もちろん、山賊《さんぞく》たちに間違《ま ちが》いない。その数は二十ばかり。
カーソンは剣を抜《ぬ》きながら、山賊たちに降伏を呼びかける。
彼らから返事はなかった。
仲間の兵士たちからは、切って捨てればおしまいだとカーソンをなじる声が返ってきた。
それが為政者の言葉であってよいはずがない。しかし、カーソンは黙《だま》るしかなかった。
相手も待ち伏《ぶ》せに失敗したと知って、木々の陰から姿を現わしてきた。
山賊たちは次々と木の陰から飛びだした。
その中に、パーンの姿もあった。ザップの腕前をもっとじっくりと見たくて、同行を申しでたのだ。
ディードリットだけがパーンに付いてきた。残る三人は、洞窟に残っている。
首領のギャリルも、昨夜の宴《うたげ》で飲みすぎたらしく、頭が痛いからと、洞窟の中で寝込《ねこ》んでいる。
「ディード、無理はするなよ」
もちろん、と返事がかえってきた。
パーンは剣を抜いて、敵の集団の真《ま》っ只中《ただなか》に斬りこんでいった。
相手はほとんどが雑兵だった。ふたりだけが、騎士の鎧《よろい》に身を包んでいる。驚《おどろ》いたことにそのうちのひとりは女性だった。
「女は殺すなよ!」誰かから声が飛んだ。
それには、パーンも賛成だった。しかし、その男とパーンでは、殺したくない理由が違っているだろう。
パーンは三人ほどを自分の相手と決めた。相手は数を頼《たよ》って切りかかってくるが、彼らの動きは、アシュラムやザップに比べたら、止まっているようにしか見えなかった。
パーンは一太刀《ひとたち》で、ひとりを切り捨てて、後のふたりも数度剣を合わせただけで、仕留めることができた。
「命が惜《お》しかったら、今すぐ帰れ! そして、二度と来るんじゃない。貴様たちがたとえ何百人やってこようと、オレたちは負けはしない」
三人を片付けると、パーンは剣を真上に振《ふ》りあげながら叫《さけ》んだ。
しかし、相手はあまり怯《ひる》んだ様子がなかった。
「声に威厳《い げん》がないのよ」
ディードリットが声をかけてきた。
彼女は十分な余裕《よ ゆう》をもって、マーモ兵と切り結んでいた。巧《たく》みに細剣《レイピア》を操って、敵を圧倒《あっとう》していく。相手の腕《うで》や足に切りつけ、怯んだところをするどい突《つ》きでとどめをさす。
予想どおりに凄《すさ》まじかったのは、ザップだった。
彼はほとんど同時に五人のマーモ兵を相手にしていた。それで押《お》された様子もなく、まるで電光のような動きで、次々と敵を切り倒《たお》していく。
ザップとパーンのおかげで、他の山賊《さんぞく》たちはふたりがかりでひとりを相手にすればよかった。
山賊たちとマーモ兵たちの腕《うで》を比べれば、敵の方にやや軍配が上がったろう。しかし、それはわずかな差であり、二対一では完全に形勢は入れ替《か》わっていた。時間こそかかったものの、山賊たちの多くは、マーモ兵たちを仕留めることに成功した。
もっとも、山賊たちのすべてが幸運だったわけではない。ふたりの騎士《きし》に向かっていった男たちには、悲惨《ひ さん》な運命が待ちうけていた。
彼らには、三人が同時にかかっていった。しかし、さすがに相手は騎士である。巧《たく》みに山賊たちの攻撃《こうげき》をかわし、反対にほとんど一撃で山賊たちを切ってすてた。
悲鳴を上げながら、山賊たちが傷口を押《お》さえて転げまわる。そんな山賊たちが十人近く出たころに、ようやくパーンとザップのふたりは自分たちの相手に片を付けることができた。
「そのふたりから離《はな》れろ!」
パーンは山賊たちに声をかけつつ、手近にいた女騎士の方に向かっていった。
自然、ザップは男の方に向かうことになった。
パーンは女騎士に間合いを詰《つ》めながら、相手をじっと見つめた。やや茶色みを帯びているものの、もともと赤い彼女の鎧《よろい》が、いくつもの返り血を浴びて、さらに赤く染まっていた。
黒いマントを背中に撥《は》ねのけながら、殺気のこもった視線でパーンを睨《にら》みつけてきた。
「剣を収めろ。オレは女は殺したくない」
炎《ほのお》の部族の長ナルディアの一件以来、できればパーンは女性とは戦いたくないと思っている。
だが、相手は何も答えず、剣を繰りだしてきた。十分に気合いのこもった一撃だった。
パーンは、その攻撃を楯《たて》で受け止めた。それから、力任せに押し返した。
女騎士は小さな悲鳴を上げながら、後ろに倒《たお》れた。
パーンは、剣を捨てると女騎士に飛びかかっていった。ふたりは組み合いながら、坂道を転げた。
「オレから離れたら、坂道を一気に走って逃げろ。いいな!」
転がりながら、パーンは相手にだけ聞こえるように言った。
相手がそれを納得したかどうかは分からなかった。とにかく、パーンは組み合いながら、他の山賊たちから離《はな》れていった。
そして、女騎士が十分に逃げきれると思える場所までくると、力を込《こ》めて相手を突《つ》き放した。その勢いで、女騎士はさらに数歩ばかりの距離《きょり》を転げていった。
そこで、立ち上がる。
「退却《たいきゃく》するぞ!」
パーンの言葉に従ったわけではなさそうだった。しかし、形勢が不利だということを悟《さと》ったのだろう。女騎士は生き残っているわずかばかりの仲間たちに呼びかけた。
そのときには、自力で逃げられる味方は、もはや数人しか残っていなかった。
その中に、もうひとりの騎士もいた。
女騎士はその騎士にだけ呼びかけるかのように、もう一度、退却するぞと繰り返した。
退却しろ、というシャーナの声は、カーソンにも届いていた。
しかし、逃《に》げる余裕《よ ゆう》など、まったくなかった。
今、自分が相手をしている男が、おそるべき手練《てだ》れだったかむだ。
薄汚《うすよご》れた感じのする男だったが、油断なく間合いを詰《つ》めながら、牽制《けんせい》するように剣先を揺《ゆ》らしている。
そして、目にも止まらぬばかりの早さで、突《つ》きを繰りだしてきた。
避《さ》けられない、とカーソンは一瞬《いっしゅん》、覚悟《かくご 》をした。しかし、カーソンの身体は、自分が考えていた以上に、素速く右に動いて、相手の剣先をかわしていた。
同時に、楯《たて》を持った左手を肩《かた》のところで構えていた。ほとんど無意識に手が動いていたのだ。
重い感触《かんしょく》があり、カーソンの左手に痺《しび》れが走った。
カーソンの楯が相手の剣を受け止めたのだ。というより、相手の剣が勝手に楯にぶつかってきたという感じだった。
まるで、剣の稽古《けいこ 》をしているかのような錯覚《さっかく》に襲《おそ》われた。
ハッとなって、カーソンは相手の顔を見た。
向こうもカーソンと同じだったようで、お互《たが》いの視線がぶつかった。
乱れた長髪《ちょうはつ》、無精髭《ぶしょうひげ》が頬《ほお》といわず、顎《あご》といわずはえている。が、よく見ると、その顔には見覚えがあるような気がした。
そして、次の瞬間《しゅんかん》には、相手が誰に似ているか思いだしていた。
「あなたは……」
「おまえは……」
お互い、そうつぶやいただけで、それ以上言葉が続かなかった。
剣と楯とがぶつかりあったままの格好で、岩のように硬直《こうちょく》してしまっていた。
最初に動いたのは、相手の方だった。
大きく剣を上に振りあげて、カーソンの楯を弾《はじ》いたのだ。
そして、相手の蹴りがカーソンの胸当てに入った。だが、それは蹴られたというより、押されたという感じだった。
カーソンはよろけて、後ずさった。よろけたのが下りだったこともあり、その勢いはなかなか止まらなかった。
「カーソン、退却《たいきゃく》するんだ!」
そのとき、三度目のシャーナの声が飛んだ。
動揺《どうよう》しきっていたカーソンは、その声を理解するのに、一瞬《いっしゅん》の間が必要だった。その隙《すき》を狙《ねら》って、ひとりの山賊《さんぞく》が斬りかかってくる。
反射的に剣が出て、武器を持った男の右腕を斬り落としていた。
男からほとばしった苦痛の悲鳴で、ようやく我に返った。
カーソンは、山賊たちに背中を見せて、一目散に坂道を駆《か》けおりた。その顔は激しい戦いの後だというのに、完全に血の気を失っていた。
「追う必要はない。それよりも、傷ついた仲間を介抱《かいほう》してやるのが先決だ」
逃《に》げる敵を追いかけようとする山賊たちに、ザップからの声が飛んだ。それから、腹を抱《かか》えたままうずくまっているパーンのそばにやってきた。
「下手な演技だな」
うずくまるパーンの背中に、容赦《ようしゃ》のない言葉が降りそそいできた。
「女を斬るのは性に合わないんですよ」
パーンはザップを見上げた。彼の表情には、何かしら動揺のようなものが走っていた。
「あなたも、もうひとりの騎士を逃《に》がしたでしょう」
ザップはパーンを一瞥《いちべつ》しただけだった。そして、仲間の所に戻《もど》っていった。
山賊たちもさすがに無傷ではいられなかった。命を落とした者が五人。怪我《けが》をした人間はその倍はいた。特に右腕を落とされたひとりは、瀕死《ひんし》の重傷である。
「まったく、女には甘《あま》いんだから」ディードリットも、パーンが女騎士を逃がしたことに気が付いている様子だった。
「本当に怪我はないでしょうね?」
パーンはうなずいた。
「こっちも、かなりやられたみたいだな……」
「そうみたいね」
ディードリットの表情がすこし暗くなった。
パーンは女騎士を逃がしてしまったことをすこし後悔《こうかい》した。考えてみれば、彼女もマーモの圧政者のひとりなのである。彼女のおかげで、山賊たちが何人も命を落としているのだ。
次に会ったなら、倒《たお》さねばならないだろう。パーンはそう心に決めた。
と同時に、ひとつの疑問が頭をもたげてきた。
なぜ、ザップがマーモの騎士を救ったのだろう。マーモの騎士を救わねばならぬ理由がいったい彼のどこにあったのだろう。
遠ざかっていくマーモ兵たちを見ながら、パーンはそんな疑問にとらわれていた。
シャーナたちが村に帰りついた頃《ころ》には、すっかり日も暮《く》れていた。
散々な有様だった。連れていった兵士は、ほとんどが殺されていた。山賊《さんぞく》たちもかなりの数を倒《たお》しはしたが、とても退治をしたと報告できるものではなかった。
シャーナは目の前が真っ暗になる思いだった。
「すまない……」
シャーナはカーソンの兵士たちに詫《わ》びた。返事こそしなかったものの、兵士たちの顔からはあきらかに不満の意志が読み取れた。彼女に不信感を抱《いだ》いたようだ。
マーモの人間は、一度、失敗を冒《おか》した者に対しては手厳しい評価をする。小さな失敗でも、簡単に命を失ってしまうマーモの暮らしから身についた考え方だった。
「山賊たちの中にあれほどの戦士がいるとは誤算だった……」
ふたりの男が、信じられないほどの剣《けん》の使い手だった。あのふたりが相手ならば、たとえ兵士の数を倍連れてきていたとしても、結果は変わらなかったに違《ちが》いない。
ようやくシャーナはカーソンの異常な様子に気付いた。彼は、心ここにあらずという感じだった。見開かれた目が、何もない地面をただ、ただ見つめている。
落胆《らくたん》しているとかそんな感じではない。とにかく、何かに心を奪《うば》われているようだった。
怪訝《け げん》に思ったシャーナだったが、何も尋《たず》ねなかった。任務に失敗したという屈辱《くつじょく》感で、心が張り裂《さ》けそうだった。
そのとき、村に残していた兵士のひとりが駆《か》けよってきた。
何事かとシャーナが尋《たず》ねると、その兵士は耳打ちをしてきた。
「……そうか、分かった」
兵士の話を聞いたシャーナの表情は、さらに消沈《しょうちん》していた。
「新しい領主殿がお目見えとのことだ。挨拶《あいさつ》に行かねばならないな」
カーソンは一瞬《いっしゅん》ハッとなってから、うなずいた。それから、すでに館に向かって歩きはじめている彼女の後に従った。
館に入ると、何やら異様な臭《にお》いが鼻をついた。獣《けもの》の臭いだった。床《ゆか》は泥《どろ》にまみれ、賊《ぞく》でも入ったのかと思われた。
その理由は、領主の部屋に入るとすぐに分かった。
男がひとりと、そして一匹の獣がそこにいたのだ。醜悪《しゅうあく》な姿の獣だった。身体は獅子《しし》、顔は年老いた人間、背中に蝙蝠《こうもり》の羽根をはやし、そして尻尾《しっぽ 》は蠍《さそり》のそれであった。尻尾の先端《せんたん》が丸くふくらんでおり、そこにまがまがしい毒針が部屋に入ってきたシャーナに狙《ねら》いをつけるように、こちらを向いていた。
闇《やみ》の森でときおり姿を見かけるマンティコアという名の魔獣《まじゅう》だった。恐《おそ》るべき怪物《かいぶつ》である。マンティコアは、まるでペットのように、男の足元でうずくまっていた。
なかなか整った顔だちの、初老の男だった。銀色の髪《かみ》もきれいに刈《か》っていて、一見すれば名門貴族の当主といった感じであった。
しかし、男の着ている漆黒《しっこく》の長衣は、間違《ま ちが》いなく暗黒神ファラリスの神官衣である。
「はじめまして、騎士殿《き し どの》」男は優雅《ゆうが 》に礼をして、シャーナとカーソンとを見比べた。
「その様子では、任務に失敗なされたようですな」
シャーナは険悪な表情になり、暗黒神の司祭を睨《にら》みつけた。
男はシャーナの表情など意にも介《かい》さず、ログナーと名乗った。
「いえいえ、おかげでわたしがこの村の領主になることができます。お礼を申したいぐらいですよ。こんな辺境の地までわざわざ赴《おもむ》いてきた甲斐《かい》があったというもの。そうだな、スクラング」
マンティコアは、低く唸《うな》って主人に応《こた》えた。
「それは皮肉か」
シャーナの顔にさっと血の気がさした。腰《こし》の剣《けん》に手をかけて、闇司祭を睨みつける。
「皮肉など言いません。わたしは、自分の気持ちに素直なだけです」
ログナーは、穏《おだ》やかな笑みを浮《う》かべてシャーナの怒《いか》りを受け止めた。
「お願いがある」
そのとき、突然《とつぜん》、カーソンが口を開いた。
彼はログナーの前に片膝《かたひざ》をつき、まるで国王に謁見《えっけん》を求めるかのような畏《かしこ》まった態度をみせた。
「評議会より要求されている税を、なんとかこれまでどおりに抑《おさ》えていただきたい。この村の現状を見てもらえれば分かると思うが、とてもそれだけの余裕《よ ゆう》がないのだ」
すでに、この男を新領主と認めての、カーソンの言葉だった。彼の気持ちは理解できないではないが、シャーナは激《はげ》しい怒《いか》りとそして悲しみを感じていた。
「この方は?」
「カノンの騎士だ。この村の前の領主で、村の統治を手伝ってくれている」
「ほほう、するとあなたが」
ログナーは声をたてて笑いながら、カーソンに立ち上がるようにと言った。
「村のことを思うあなたの気持ちには感動いたしました。しかし残念ながら、お申し出の件は受けられません。わたしもマーモという王国が大事ですからね」
「村の作物を残らず差し出せといっているのだぞ。村人たちに餓死《がし》しろというのか」
必死に懇願《こんがん》するカーソンに対し、ログナーの表情はまったく動かなかった。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」ログナーは朗らかに言った。
「何が、大丈夫なのだ」
「地虫たちは土を食べていきています。あなたがたも、そうすればいい」
「何を言う! 我々は人間なんだぞ!」
「それでは、明日から地虫になってください」
ログナーは笑顔を絶やすことなく、そう言ってのけた。
カーソンは愕然《がくぜん》となった。
「正気なのか! 村人たちは死に絶えるぞ。来年からは、いったい誰が畑を耕せばいいのだ」
何も言えなくなってしまったカーソンに代わって、シャーナが激《はげ》しくログナーをなじった。
「さあ、分かりません」
ログナーはかるく肩《かた》をすくめた。
「村が死に絶えれば、わたしはシャイニングヒルに戻《もど》るだけのことです。わたしは、この村にそんなに長居したいわけではないのですからね」
「そんなことを認めるわけにはいかない!」
「おかしなことをおっしゃる。あなたに認めてもらう必要はありません。わたしは、この村の領主なのですからね。それに、裏切り者の言葉になど、どうして従う必要がありましょう」
「裏切り者だと? このわたしがか」
シャーナはふたたび剣の柄《つか》に手をかけた。
今度は彼女から殺気を感じたのか、マンティコアがするどく一声吠《ほ》えた。
「違《ちが》いますか? あなたがたの関係はもはや聞いて知っているのですよ」
その言葉に、紅潮《こうちょう》していたシャーナの顔が一瞬《いっしゅん》にして蒼《あお》ざめた。
「いえいえ、別にそのことを咎《とが》めているわけではないのです。汝《なんじ》の思うところをなせ。愛情であれ肉欲であれ、好きになってしまったものは仕方ありません。ですが、それを報告していないというのは少々、問題がありますね。立派な反逆|行為《こうい 》といえましょう」
そして、ログナーは残念なことです、と二度ほど繰《く》り返した。
「それだけのことが、なぜ反逆行為になるのだ。わたしはマーモに対して忠誠を誓《ちか》っている」
「それだけ?」
不思議そうにログナーは尋《たず》ねかえした。
「評議会の要求を、あなたは何度も退けた。山賊《さんぞく》の退治にも失敗した。そして、元カノンの騎士と恋愛関係にある。これらの事実をまとめて考えれば、当然、導きだされる結論といえましよう。不服ならば、評議会に問い合わせ、判断を仰《あお》ぎましょうか」
判断を仰ぐのはいい、しかし、その結果は目に見えていた。
評議会にアシュラム卿《きょう》がいれば、自分の潔白は認められるだろう。しかし、今の評議会はアシュラム卿の息のかかった者を更迭《こうてつ》していこうとしている。おそらく、十分な調査もされず、自分は有罪とされてしまうだろう。
「カノンから、人間を根絶するのが評議会の目的なのか」
「そうなれば、マーモの住人を移住させればいいではありませんか。時間がたてば、人間などいくらでも増えますからね」
「く、狂《くる》っている……」
シャーナはついに剣《けん》を抜《ぬ》いた。
「貴様のような男がいるから、マーモはいつまでたっても、カノンを統治することができないのだ。そのうちに、国力を回復したフレイムとヴァリスの連合軍に攻《せ》められるぞ。そうなって、勝てる自信が貴様にはあるというのか! アダンの街《まち》が陥落《かんらく》したという知らせをおまえは聞いていないのか!」
激昂《げっこう》するシャーナを、カーソンが後ろから抱《だ》きかかえるように制止した。このまま放っておけば、彼女は間違《ま ちが》いなくログナーに切りかかるだろう。
「カーソン、離《はな》せ!」
「落ち着くんだ。この男を切ったとしても、事態は何も変わらない。新しい領主がやってくるだけだ」
「ならば、その領主も切り捨てて……」
「それがあなたの本心なのですね。騎士シャーナ」ログナーは冷たく言った。
「黙《だま》れ!」カーソンを振《ふ》りほどいて、シャーナはついに闇司祭に切りかかっていった。
「残念ながら、やはりあなたは反逆者」
そうつぶやいて、ログナーはすばやく呪文《じゅもん》を唱《とな》え、シャーナに向かって右手を突《つ》きだした。呪文は邪悪《じゃあく》な響《ひび》きを持つ暗黒神ファラリスヘの祈《いの》りだった。暗黒語《デーモン・スクリーム》とも呼ばれている。邪神の力をこの世に具現させるための魔法語《ルーン》なのである。
「か、身体が!」
シャーナは苦しげに叫《さけ》んだ。
剣を振るおうとした腕がまったく動かなかったのだ。まるで、自分の身体が自分のものでなくなったような感じであった。やがて、全身が麻痺《まひ》して、シャーナは崩《くず》れるように床《ゆか》に倒《たお》れこんだ。意識が鮮明《せんめい》なだけに、これほど口惜《くや》しいことはなかった。
「シャーナに何をした」
それを見て、今度はカーソソが剣を抜いた。
「お止めなさい」
しかし、カーソンの動きよりも早く、ログナーは懐から短剣《ダ ガ ー》を抜いて、床に倒れたシャーナの喉《のど》もとに押し当てていた。
凍《こお》りついたように、カーソンの動きが止まる。
「卑怯者《ひきょうもの》め!」
「卑怯? あいにくと、暗黒神の教えにはそのような言葉はありませんね。自らの思うところをなせ。行動に制約を加えるなど愚《おろ》かなことですよ」
「シャーナを離《はな》せ」
苦悶《く もん》するように、カーソンは叫《さけ》んだ。
「離しますよ。ですが、その前に、あなたの剣《けん》を捨てていただきたいものですね」
従うしかなかった。カーソンは剣を床の上に投げ捨てた。
「スクラング」
主人の意志を読み取ったかのように、マンティコアがカーソンの剣を口で器用に拾いあげた。
「それでけっこうです。さてさて、カノンの騎士殿《きしどの》。あなたには何をお願いすればいいでしょうね。まずは、評議会の要求どおりの税を村人から集めていただきましょうか」
ログナーは自分のアイデアに満足したかのように、大きくうなずいた。口許に浮《う》かんだ微笑《びしょう》は、まるで子供めいていて無邪気《むじゃき》な感じさえした。
それが、たまらなく不気味だった。
カーソンは魂《たましい》が凍《こお》るかと思われるような悪寒《おかん》に襲《おそ》われていた。
「シャーナをどうするつもりだ?」
「とりあえず、牢《ろう》にでも入れておきますよ。その方があなたも仕事のしがいがあるというものでしょう」
そして、ログナーは涼《すず》しく微笑んだ。その微笑に応じるかのように、魔獣《まじゅう》もその老人のような顔に笑いを浮かべた。この怪物《かいぶつ》も邪悪《じゃあく》な知性を持っているのは間違《ま ちが》いなかった。
カーソンは自分の無力さをまたも痛感していた。シャーナも村人をも救えない自分に対し、絶望すら感じていた。
ただ、ほんの小さなものだが、可能性がひとつ残されているようにも思えた。その可能性に最後の望みを賭《か》けるしかなかった。
カーソンはログナーに背を向けて、領主の部屋を後にした。
カーソンが部屋から出ていくのを見届けたあと、ログナーはシャーナを軽々と抱《だ》きあげた。それから、マンティコアの方に振《ふ》り返る。魔獣の足元には、カーソンの剣が落ちていた。
「おやおや、御自分の剣をお忘れとはね。スクラング、剣をあの騎士に届けておやりなさい。それから、彼の行動を監視《かんし 》してください。あの人が何を企《たくら》むのか、興味がありますからね」
「昼間でも目を閉じていれば何も見えぬ。承知した、あの男を見張っていればいいのだな」
マンティコアは答えた。共通語だった。この魔獣は、人語も話すのだ。
ログナーはうなずいて、今度はシャーナに視線を落とした。
「さてさて、あなたにはどんな役に立ってもらいましょうかね。古典的に、暗黒神のいけにえにでもしましょうか」
全身が麻痺《まひ》したシャーナは、返事をすることさえできなかった。しかし、その目が激《はげ》しい憎悪《ぞうお 》の炎《ほのお》を湛《たた》えて、ログナーを睨《にら》みつけていた。
「いい顔ですよ、騎士殿。その顔が恐怖《きょうふ》に歪《ゆが》み、わたしに泣いて命乞《いのちご》いをするところを見たくなりましたよ」
そして、シャーナを抱《かか》えながら、彼はマンティコアを伴《ともな》って部屋を出た。
この館の地下に牢屋《ろうや 》があるのは、確認ずみだった。罪人を捕《と》らえておくための部屋だが、今は誰も使っていない。
「こんな片田舎で、これほど面白い余興に立ち合えるとは、わたしは運がいい」
その頃《ころ》、カーソンは村の主だった人間を自分の家に集め、新しい領主の要求を伝えていた。
「無理なことはできません」
彼らはまったく怒《いか》りを忘れたかのようだった。ただ、絶望のため息をついて、首を振《ふ》るだけだった。
「新領主は狂気《きょうき》に冒《おか》されている。彼は本気でこの村から作物を残らず奪《うば》っていくだろう。そして、わたしたちに土を食えと平気な顔で言うのだ」
「できるんなら、地虫になりたいと思いますよ」
「悔《くや》しいが、わたしにはもはやみんなを守ることはできない。これから、みんながどうするつもりか、それを答えてほしい」
「どうするって、わたしたちに何ができるんです」ひとりが力なく尋《たず》ねてきた。
「わたしたちは、カーソンさん以上に無力なのですよ」
「そんなことはない。みんなが本気になれば、決して絶望というわけではない。みんなが力を合わせれば、食糧《しょくりょう》を奪って山に逃《に》げこむことだってできる。この国を捨てて、ヴァリスやフレイムに逃げのびたっていいんだ」
「わたしたちに土地を捨てろと言うんですか?」
ひとりの男の言葉に全員がうなずいた。
「逃げたって、山には熊《くまお》や狼《おかみ》がいる。山賊だって、暴れているそうじゃないですか。途中《とちゅう》で殺されてしまいますよ。それとも、マーモ兵に追いかけられるか。わたしは、オーガーに生きたまま食われた男を見たことがあります。あんな死に方をするぐらいなら、ここで飢死《うえじ》にしたほうがましだ」
カーソンは村人たちが抱《いだ》いている絶望の深さをまざまざと見せつけられる思いだった。
「希望を捨てるな。もうしばらく我慢《がまん》すれば、わたしたちは救われるかもしれない。わたしたちを導いてくださる方がすぐ近くにおられるのだ」
「それは、神様ですか?」
誰かが尋ねた。
「いや、違《ちが》う。しかし、その方は戦争前のカノン王国を復活してくださる。いろいろと不満もあったかもしれんが、マーモよりもカノンの統治のほうがましだったろう」
その言葉には全員が同意してくれた。
「オレは今晩、その方に会うために村を出る。そして、その方を連れて帰ってくる。二日以内に戻《もど》ってくるつもりだ。それまで、みんなは新領主の命令を守ったふりをして、作物を集めておいてくれ。それから、オレが村を出たことをなんとか秘密にしておいてくれ。お願いだ」
村人たちは、カーソンの言葉にも希望を抱《いだ》いた様子はなかった。しかし、カーソンの願いだけは、いちおう承知してくれた。
カーソンは村人たちに力強くうなずいた。
「カーソンさん、あんたはいい人だ。このまま村を捨てて、逃げてくれたっていいんだよ。他の貴族や騎士さんたちはみんな、そうしたんだから」
「馬鹿《ばか》なことを言うな。わたしは逃げたりなどしない。鎧《よろい》も楯《たて》も置いていく。これは騎士にとっての命だ。命を置いたまま、逃げるようなことはしない。それに、おまえたちのことを見捨てたりするものか。それが、国王陛下から与えられたわたしの使命だ。使命は命が尽《つ》きないかぎり絶対に果たす」
カーソンは村人たちに解散を命じて、まっさきに家を出た。
外は真っ暗だったが、そこに巨大《きょだい》な獣《けもの》の姿があって、カーソンはぞっとした。ログナーの飼《か》っているマンティコアだった。マンティコアは、彼の剣をくわえていた。
きっと、中での話を聞いていたに違《ちが》いない。しかし、いかに知性があろうとも、獣はしょせん獣である。何の心配もなかった。
カーソンは緊張《きんちょう》しながら、魔獣《まじゅう》から剣を受け取った。
「ありがとう。それから、さっきの件は村人たちも承知した、と領主|殿《どの》にお伝えしてくれ」
できるものならばな、とカーソンは心の中で付け加えた。
魔獣は一声うなると、蝙蝠《こうもり》の翼《つばさ》を広げて館の方へと飛び去っていった。
ふと気がつくと、魔獣の姿に怯《おび》えたように、村人たちがカーソンの様子をうかがっていた。
「死んだら、あの獣の餌《えさ》になるんですね」
誰かがつぶやく。
「そんなことは、させん。それよりも、オレの剣を家の中にしまっておいてくれ」
そして、カーソンは村人のひとりに、自分の剣を手渡《て わた》した。剣を忘れてくるなど、騎士としてはあるまじき行為《こうい 》だった。先程、自分は村人たちに何と豪語したろうか。しかし、今は剣があっても、村人たちの命を救うことはできない。
カーソンは振り返って、西の夜空を見上げた。
三日月がナザール山脈の稜線《りょうせん》に消えようとしていた。その青白い光を見つめながら、カーソンはこれからの自分の行動に、村人たちと、そしてシャーナの命がかかっていることを、心に深く刻みつけていた。
パーンたちがカノン自由軍を名乗る山賊《さんぞく》に出会ってから三日目の夜が訪れていた。マーモ兵を撃退《げきたい》したのは、昨日。今日は動物の姿さえ見えなかった、と見張りは報告していた。
パーンは疲《つか》れた身体を休めるように、洞窟《どうくつ》の床《ゆか》に座りこみ、背中を壁《かベ》にあずけていた。石の冷たい感触《かんしょく》が、火照《ほて》った身体に気持ちよかった。
パーンは昨日の夕方から、今日一日、ザップから剣《けん》の教えを受けていた。
基本の型からはじまって、申し合わせによる打ちあい、それから実戦的な稽古《けいこ 》にいたるまで、みっちりと叩《たた》きこまれた。
カノン王国に伝わる剣術は洗練されていた。無駄《むだ》な動きがなく、力よりも技《わざ》を重視していることがすぐに分かった。相手の急所を攻撃《こうげき》するためには、防御を崩《くず》すことが肝心《かんじん》との発想からフェイントを多用する。その変化たるや百通り以上もあり、それを一度に覚えようとしたパーンは眠《ねむ》っていても、剣を振《ふ》るう夢《ゆめ》を見た。
「焦《あせ》って覚えても、身につくものじゃないぞ」
ザップはパーンを見下ろすように前に立っていた。近くにはスレインとディードリット、そしてホッブの三人もいた。
マールはまたも奥《おく》の岩屋で、歌を唄《うた》わされている。可哀そうに、ここのところ毎日、彼は商売にもならぬのに、歌や踊《おど》りを披露《ひ ろう》する羽目になっている。パーンはすこし心が痛んだ。
彼が吟遊詩人であると首領のギャリルに紹介《しょうかい》したのは、自分なのである。
「分かってます。しかし、いつまでもあなたに迷惑《めいわく》をかけるわけにはいかない。一度、身体で覚えてしまえば、後はひとりでも練習できますからね」
「無理はするなよ」
ザップもパーンに稽古をつけて疲《つか》れているはずなのに、そんな様子は微塵《みじん》も見せなかった。鍛練《たんれん》を積めば、自分も彼のようになるのだろうか、とパーンは不安になった。しかし、考えていてもどうしようもない。結局は、鍛練を続けるしかないのである。
「マーモは、この前の攻撃《こうげき》であきらめたと思いますか?」
ザップは首を横に振った。
「一度、兵を差し向けてきた以上は、結果が出るまで何度でもやってくるだろう」
パーンもザップの意見に賛成だった。でなければ、マーモの威信《い しん》は地に落ちる。おそらく、次は数も増強させて、本格的にやってくるに違《ちが》いない。
「何か手はあるのですか?」
「それは、わたしが決めることじゃない」
「実質的な首領は、あなたでしょう。首領はあなたの言葉を、何でも受け入れるはずです。違いますか?」
「人に命令するのは嫌《きら》いだからな」
パーンはため息をついて、背中をさらに深く洞窟《どうくつ》の壁《かべ》に押《お》しつけた。
「世の中には威張《いば》りたい人間が山ほどいるというのに、謙虚《けんきょ》なことですね」
スレインが皮肉っぽく、パーンとザップに笑いかける。
「王になりたい人間だって、探せば山ほどいるぜ」
パーンはスレインにやりかえした。
「そのとおり。問題は、それを他人が認めてくれるかどうかですけどね」
まったくだ、とパーンは笑った。
「しかし、残念だな」
パーンは、ザップになぜカノンのために立ち上がってくれないのか、と尋《たず》ねずにはいられなかった。彼がそのカノン自由軍をまとめて、真剣《しんけん》に活動をすれば、今以上にマーモに対する脅威《きょうい》となるだろう。
ザップはいつものように無言だった。
そのとき、洞窟の外から緊張《きんちょう》した声が聞こえてきた。
「侵入者《しんにゅうしゃ》?」パーンにはそう聞こえた。見張りが発した警告だろうか。
「行ってみましょう」
パーンは立ち上がって、ザップを誘《さそ》って洞窟の外に向かった。スレインたちも付いてくる。
洞窟の外に出ると、四人の見張りが、ひとりの男を取りかこんでいるのが見えた。取りかこまれた男は、両腕《りょううで》を上げて、降伏《こうふく》の意志を示している。
「何者なんだ?」
パーンが見張りに声をかけた。
「この前のマーモ兵だ。ひとりでのこのことやってきたのさね。馬鹿《ばか》な奴《やつ》だよ」
「ひとりだけでか?」
パーンは怪訝《け げん》に思いながら、見張りをかきわけるように前に進みでると、両手を上げている男をまじまじと見つめた。そして、男が誰《だれ》であるかを悟《さと》った。
昨日、襲撃《しゅうげき》してきたマーモ兵のうち、男の方の騎士《きし》に間違《ま ちが》いなかった。今は、鎧《よろい》もつけてはおらず、全体的にふっくらとした感じの服を着ていた。騎士たちが普段着《ふだんぎ》として好んで着る服である。
「頭がおかしいんじゃないのか?」
見張りのひとりが、騎士を指差しながら、思い切り声をあげて笑った。
「声が大きい」
パーンはその見張りをたしなめた。
「どういうつもりで、ここにやってきた?」
パーンはそう騎士に尋問《じんもん》した。
油断なく、相手の全身を調べた。暗がりなのでよく分からないが、何の武器も帯びていないように思えた。短剣ぐらいは隠《かく》し持っているかもしれないが……
「武器は持っていない。わたしは、話し合いに来たのだ」
「話し合いに?」
「そうだ。それに、ぜひ会いたい人もいる。わたしの名前は、カーソン。カノン王国に仕える騎士《きし》だ」
「カノンの騎士だって!」
パーンはあっけに取られた。
「なんで、カノンの騎士がマーモ兵と一緒《いっしょ》にカノン自由軍を討ちにきた?」
「事情があったからだ。それに、おまえたちのやっていることは、しょせん山賊《さんぞく》と同じではないか。マーモはおまえたちに奪《うば》われた食糧《しょくりょう》や財宝は、またカノンの民から集めればいいと考えているのだ。結局、苦しむのはカノンの民なのだ」
男の言葉には一理あった。
パーンは、どうしたものかと困ってしまった。自分はただの客なのである。自分の立場を忘れてしゃしゃりでてしまったことをすこし後悔《こうかい》した。
助けを求めるように、ザップを振《ふ》り返った。ちょうど、ザップもこちらにこようとしていたところだった。
「カーソン。やはり、おまえなのか……」
騎士の顔を見るなり、ザップはそうつぶやいた。
「この男のことを知っているのですか?」
パーンが尋《たず》ねると、ザップは静かにうなずいた。
それで、この前の戦いのおりに抱《いだ》いた疑問に納得がいった。この前の戦いのとき、ザップはこの騎士をわざと取り逃《に》がしたのだ。それは、カーソンと名乗った男が、カノンの騎士だからである。ふたりは顔見知りなのだ。
カーソンはまるで夢《ゆめ》でも見ているかのような表情で、一歩、二歩とザップの前に進みでた。そして、彼の顔をしばらくのあいだじっと見つめた。
「……やはり、あなたなのですね?」
カーソンの声はかすれていた。全身がガタガタと震《ふる》えている。がくっと片膝《かたひざ》が落ちる。
「おい、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
男の様子はあきらかに異常だった。心配になって、パーンは思わず声をかけてしまった。
「だ、大丈夫だとも……」
カーソンはそのままの姿勢で、じっとザップを見上げた。それから、まるで国王に謁見《えっけん》しているかのように、深々と一礼して、そのまま畏《かしこ》まってしまった。
「おひさしぶりにございます。レオナー殿下《でんか 》」
「ええっ!」
パーンは驚《おどろ》いて、腰《こし》を抜《ぬ》かしそうになっていた。
「ひさしぶりだな」
ザップは何事もないかのようにカーソンに返事をしていた。それから、あっけに取られている山賊《さんぞく》たちに向かって、見張りを続けるように命令した。
しぶしぶ山賊たちはザップの命令に従う。
「あなたが、レオナー……」
何と言っていいのか、まるで見当がつかなかった。カノンの貴族には間違《ま ちが》いないと思ったが、まさかザップが出奔《しゅっぽん》したというカノンの第三王子レオナーだとは思いもしなかった。
スレインたちも同感らしく、惚《ほう》けたようにザップの薄汚《うすよご》れた顔をただただ見つめている。不思議なもので、相手が王子だと思うと薄汚れた中にも気品らしきものがうかがえるように思えた。
「そういうことだ」
隠《かく》すつもりもないのか、レオナーはパーンの言葉をあっさりと肯定した。
「よくぞ、ご無事で……」カーソンは拳《こぶし》で涙《なみだ》を拭《ぬぐ》っていた。
「男が泣いてどうする。それよりも、わたしを尋《たず》ねてきたのは、何か理由があってのことではないのか?」
「その通りです」
カーソンは思いだしたように顔を上げた。
「お願いです、レオナー殿下。村人たちを救ってください」
そして、カーソンは自分と村人が陥《おちい》っている苦境を、ひとつずつ話しはじめた。
「なんて非道な奴《やつ》なんだ」
パーンは怒《いか》りをこめて、そうつぶやいた。
「噂《うわさ》以上ね」
ディードリットも同感だとばかりに、怒りの表情を浮かべている。
「協力するとはいっても、何をすればいいのだ」
ただひとり、レオナーの表情だけは、あまり変わっていなかった。
「領主を倒《たお》します。それから、村に駐留《ちゅうりゅう》している何人かのマーモ兵も。それから、魔獣《まじゅう》が一匹《いっぴき》。領主の飼《か》っているペットです」
「何という魔獣なのですか?」
「マンティコアだ」スレインの問いに、カーソンは答えた。
「それは、なかなか強敵ですね」
スレインが困ったような表情をした。
「どんな奴なんだい」
興味にかられてパーンがスレインに尋《たず》ねた。
「尻尾《しっぽ 》に致死性《ちしせい》の猛毒《もうどく》を持っているんですよ。それに、暗黒神の忠実な従僕で、暗黒魔法《ま ほう》も使いますからね。邪悪《じゃあく》な知識を守護している恐《おそ》るべき魔獣ですよ」
「何だと!」
スレインの言葉に、カーソンが激《はげ》しく反応した。
「あの魔獣は、魔法を使うのか。すると、人間の言葉をしゃべるのか」
「もちろんですよ。並《な》みの人間よりもずいぶん頭がいいそうですよ。共通語も、古代語だって話しますよ」
「しまった!」
カーソンは、地面に右手の拳《こぶし》を叩《たた》きつけた。
「どうかしたのか」
パーンが尋ねた。
「不用心だった。わたしの行動を残らず魔獣に知られてしまった。村人たちが危ない。それに、シャーナも。あの闇司祭ならば、平気で村人たちを惨殺《ざんさつ》するだろう」
いくら後悔《こうかい》しても後悔しきれなかった。知らなかったとはいえ、自分の軽率な行動が、いっさいを駄目《だめ》にしてしまったのだ。
そのとき、カーソンの背後で木々の枝が激《はげ》しい音を立てた。
振《ふ》り返ったカーソンは、さらに追い打ちをかけられた。真っ暗な夜空に飛びあがる獣《けもの》の姿を見たからである。
「マンティコア!」
カーソンは大声を上げて、自分を呪《のろ》った。
地の底に叩《たた》き落とされるような失墜感《しっついかん》が襲《おそ》ってきた。
こともあろうに、闇司祭にレオナーの存在さえも知られてしまったのである。
「カーソンさん、嘆《なげ》いている暇《ひま》なんかありませんよ」
パーンががっくりとうなだれているカノンの騎士《きし》の肩《かた》を叩《たた》いた。
「パーンの言うとおりだ」
レオナーも片膝《かたひざ》を落として、カーソンの手を取った。
「おまえが父から与えられた任務は、村人を守ることだろう。ならば、すぐに村に戻《もど》るんだ。そして、村人たちを救うのだ」
「はい……殿下《でんか 》」
カーソンは喉《のど》を詰《つ》まらせながら、レオナーの手を握《にぎ》りしめた。
「そうだ。それでこそ、カノンの騎士だ。わたしも手を貸そう」
「オレたちも協力しますよ」
パーンが申し出た。後ろでスレインたちも、パーンに同意した。
「ありがとう、パーン」レオナーはパーンに礼を言った。
「カーソン、おまえはパーンたちを案内して、先に村に向かってくれ。オレは先にやらねばならないことがある」
「何をですか?」
「どうせ、敵に正体を知られたのだ。ならば、わたしもカノン自由軍の副首領としてではなく、カノン王国の王子として敵と戦うさ。そのためには、すこし準備も必要だからな」
「分かりました。それじゃあ、オレたちは出発します。カーソンさん、案内をお願いします。それから、ディード。マールを呼んできてくれ。あいつの技術が必要になるかもしれない」
分かったわ、とディードリットは洞窟《どうくつ》の中に飛びこんでいった。
「首領にも話をしておかねばならないな」
レオナーもそうつぶやくと、ディードリットの後に続いて洞窟へと消えていった。おそらく、準備とやらをしに行ったのだろう。
「ありがとうございます」
パーンたちに深く頭を下げてから、カーソンは表情を引き締《し》めて、マンティコアの消えていった夜空を見上げた。
すでに、魔獣《まじゅう》の姿は闇《やみ》の中に溶《と》けて消えていた。自分に翼《つばさ》がないことが、悔《くや》しいとさえ思う。
身体は疲労《ひ ろう》の極にあった。しかし、休むことはできなかった。自分の失敗で、村人たちが犠牲《ぎ せい》になるようなことがあれば、カーソンはもはや自分を許さないつもりだった。
命を賭《か》けて、闇司祭やあの邪悪な魔獣と戦う決意を固めていた。
カーソンは、谷へと続く坂道を足もとを確かめながら降りはじめた。
パーン、スレイン、それにホッブの三人が、彼の後ろに続いていた。
激《はげ》しい羽ばたきの音が窓の外で聞こえた。
ログナーは椅子《いす》に腰《こし》を下ろし、ワインを飲みながら、自らの考えに耽《ふけ》っているところだった。あの女|騎士《きし》をいけにえに使うことで、いったい暗黒神に何を望もうか、それを考えているのである。
もしもあの女騎士が資格を持っている女だったなら、暗黒神は彼女の身体に降臨し、そしてログナーの願いを聞きとどけてくれるはずだ。そのためには、いろいろと準備も必要だった。
しばらくは、忙《いそが》しい日々が続くだろう。村人たちの処分や、あの騎士の処遇《しょぐう》も考えねばならなかった。
領主とは本当に忙しい仕事だ、と心の中でつぶやいた。
大きな窓を開けると、彼の忠実な魔獣《まじゅう》が、部屋の中に飛びこんできた。
「どうしました、スクラング?」
魔獣はにんまりとした顔で、主人を見上げた。
「大魚を釣《つ》るには、小魚を餌《えさ》とせよ。面白いものを見、面白い話を聞いた」
「そうですか。お手柄《てがら》ですね、スクラソグ」
ログナーは魔獣のたてがみをなでた。
魔獣は気持ちよさそうに、小さく吠《ほ》えた。それから、自分が見た話をログナーに聞かせた。
あのカノンの騎士が、昨日の夜中に村を出たこと。丸一日を費やして山を探し、山賊《さんぞく》どもの隠《かく》れ家《が》を見つけだしたこと。そして、その隠れ家でレオナーというカノンの王子と接触《せっしょく》を持ったことをだ。
「レオナー! 十年ほど前に出奔《しゅっぽん》したというカノンの第三王子」
めったなことでは驚《おどろ》いたりしないログナーではあったが、さすがに今の話は例外であった。
しかし、それは嬉《うれ》しい驚きだった。
「わざわざ、ファラリス神殿の神官戦士たちを連れてきた甲斐《かい》があったというものです。みごとレオナーを討ち取れば、わたしの帝国における地位はますます上がることでしょう。もっと大きな街《まち》の太守《たいしゅ》になれるに違《ちが》いありません」
ログナーは、マンティコアにこの村の近くで待機させている神官戦士たちを呼んでくるように命じた。この神官戦士たちは、カノン自由軍の討伐《とうばつ》のために連れてきていたのだ。ログナーは、シャーナという女領主がカノン自由軍を倒《たお》せるとははなから考えていなかった。
カーソンが村人も前の女領主も見捨てることができないのは、あきらかだった。彼はきっとレオナーを、そして自由軍の兵士を連れて、この村にやってくるに違いない。
こちらから出向く手間がはぶけて好都合だ。待ち伏《ぶ》せをして、一気に片を付ければいいのである。
村人たちを人質にできる。それから、シャーナも……
そう考えた次の瞬間《しゅんかん》、彼女に関してはもっと楽しい使い方があることに、ログナーは気がついた。自分の思いつきに満足して、含み笑いが自然に洩《も》れた。
「ファラリスよ、感謝いたします。そして、次の戦いがわたしに勝利をもたらさんことを」
ログナーは胸に手を当てて、彼が仕える暗黒神に祈《いの》りを捧《ささ》げた。
冷たい地下牢《ろう》の床《ゆか》に、シャーナは両膝《りょうひざ》を抱《かか》えるように座りこんでいた。
すでに夜半を過ぎているだろうが、屈辱《くつじょく》のために一睡《いっすい》もできなかった。ログナーの魔法《ま ほう》で一瞬《いっしゅん》のうちに、身体を麻痺《まひ》させられてしまった。それが、悔《くや》しくてならなかった。
灰色の壁《かべ》を見つめながら、戦《いくさ》に敗れたときのカーソンの気持ちは、ちょうど今の自分と同じだろうか、と考えていた。
いったい自分は何のためにカノンと戦ったのだろう。シャーナは自分に問いかけた。
マーモという島が変革するのではという希望を抱《いだ》いたからではなかったか。
ロードス本島の住人は、マーモに住む者は全員、邪悪《じゃあく》であると信じきっている。
それは、正確ではない。マーモで生き残るためには、邪悪にならざるを得ないのだ。強者は弱者に対し、いかなる権限をも有する。それがマーモの唯一《ゆいいつ》の法である。自分の運命を自分で決したければ、強くならなければならない。いかなる強さでもかまわない。剣《けん》、魔法《ま ほう》、信仰《しんこう》、金、カリスマ性、それらの力に長《た》けた人間だけがマーモでは発言権を得られるのである。
弱者は、他人の命令に黙《だま》って従うだけだ。
ベルドという人間がやってきて、はじめて混沌《こんとん》に満ちていたマーモにいくばくかの秩序《ちつじょ》を与えた。彼はマーモという歪《ゆが》んだ土地から、人間や妖魔《ようま 》たちを解放することで、マーモという島に根付いている呪《のろ》いをも断ち切ろうと考えたのではなかろうか。自分はそう思う。
カノンを征服したことで、マーモは豊かになったはずだった。たとえ、ロードス全島の征服に成功しなかったとて、十分なほどに。暗黒の島に閉じこめられていたときのような、飢《う》えに苦しんだり、恐怖《きょうふ》に震《ふる》える日々は送らなくてもよいのである。
カノンの支配を確立するためには、民の信頼《しんらい》を得なければならない。反対に、民の信頼さえ得ることができれば、カノンという王国は現実にマーモのものとなったといえるのである。
しかし、評議会の人間は誰ひとりとして、それに気付いた者がいなかった。マーモの法をカノンの民にも強いて、恐怖でもって支配しようとしている。
結局、マーモという国は変わることができなかったのだ。ベルドが死に、アシュラムが失脚《しっきゃく》した今となっては、おそらく、永遠に変わることができないだろう。
「マーモの運命は、もはや……」
そのとき、誰かが廊下《ろうか 》を歩いてくる音がした。
カーソンか、と思ってシャーナは顔だけを上げて、鉄格子の向こう側を見た。だが、期待に反してやってきたのは、いちばん見たくない男の顔だった。新領主のログナーである。
「貴様か……」
シャーナは目を背けて、吐《は》き捨てた。
「これは嫌《きら》われてしまいましたね。わたしは、あなたのような美しい方が大好きなんですが」
「貴様に好かれるぐらいなら、わたしは自分の顔を潰《つぶ》してしまいたいぐらいだ」
ホホホ、とまるで女性のようにログナーは笑った。
「わたしを暗黒神の餌《えさ》にする時間か?」
「いえ、すこし事情が変わりましてね」
「事情が?」
ログナーはカーソンに関する話を一部始終、語ってぎかせた。彼がカノンの第三王子に協力を頼《たの》んで、この村を攻《せ》めてくるということをだ。
シャーナは闇司祭の話がにわかには信じられなかった。レオナー王子がカノンに帰還《き かん》しているなど、噂《うわさ》すらなかったことである。
「あなたもマーモの騎士《きし》のはず。もしも、反逆者の汚名《おめい》を晴らしたいのなら、その機会を差し上げてもかまいませんよ。あなたの手でレオナーとカーソンのふたりを討ちとりなさい。それこそ、マーモに対する忠誠の証《あかし》でしょう。あなたも名誉《めいよ》ある暗黒騎士団の一員なのですからね」
そして、ログナーは鍵《かぎ》をポンと投げ入れてきた。
「あなたの愛する人は、あくまでもカノンの王家に従順な立派な人物です。あなたもそうであることを期待しますよ」
ログナーはそれだけを言うと、あっさりと帰っていった。
シャーナは、フラフラと立ち上がって、牢屋《ろうや 》の鍵を拾いあげた。
マーモに対する忠誠は、ログナーごときに言われるまでもなかった。自分は名誉ある暗黒騎士団の正騎士なのだ。
しかし、カーソンに対する自分の想いも、また真実なのである。
心の中で自らの立場と気持ちとがせめぎあう。苦悶《く もん》の表情を浮《う》かべながら、シャーナは鉄格子の鍵を開けた。
この中から出ることは、自らが潔白であることを示すためであり、同時にカーソンとの戦いを決意することでもあった。
目を閉じて、シャーナは何度も深く呼吸をした。目を開いたとき、た。鉄格子の扉《とびら》を開き、廊下《ろうか 》へとシャーナは歩みだしたのである。彼女の決意は決まっていた。鉄格子の扉《とびら》を開き、廊下《ろうか 》へとシャーナは歩みだしたのである。
シャーナが外に出てきたとき、すでに数十人を超《こ》えるマーモ兵が館の前に集結していた。正規のマーモ兵は数えるほどしかいなかった。
ほとんどが、ファラリス神殿《しんでん》の神官戦士である。いわば、闇《やみ》の大僧正ショーデルの私兵だ。マーモでは、ファラリス神殿の勢力は無視することができぬほど、大きなものである。
マーモで生きるということは、いわば暗黒神の教えそのものであったから。
己の欲するところを行なえ。まさしく、マーモの人間はそうして生きている。
「決意された様子ですね。それでこそ、マーモの騎士です」
ログナーがにこやかな笑顔で、シャーナを迎《むか》えてくれた。
「今、兵士たちにこの村を守るための方法を指示していたところです。あなたは騎士ですから、御自由に戦ってください。きっとあなたの獲物《え もの》は残しておきますからね」
そう言って、ログナーは喉を鳴らすように笑った。
「相手は、いつ攻めてくる?」
「さあ、分かりません。しかし、必ずやってきますよ。村人を救うためにね」
そして、ログナーはすでに村人全員を一箇所《いっか しょ》に集めて、見張りを立てていることをシャーナに告げた。
「人質のつもりか?」
シャーナは気分が悪くなってきた。これ以上、卑劣《ひ れつ》なことはない。為政者《い せいしゃ》が守るべきは、人民なのではないか。なぜ、それを理解できないのだ。
「何か言いたそうですね」
「別に、もはやそんな気はなくなった。おまえは、好きなように戦えばいい。わたしも、好きなように戦うのみだ」
「期待してますよ」
ログナーの笑い声などもはや聞きたくもなかった。シャーナは闇司祭に目を背《そむ》けて、ふたたび館の中へと戻《もど》ろうとした。
戦いが始まるまで、どこかで眠《ねむ》っておくつもりだった。
「お休みになられるんですか? ですが、あなたの寝室《しんしつ》には、今、スクラングが眠っているはずですよ」
シャーナはチラリとログナーを振《ふ》り返った。
「どこで寝《ね》ようが、わたしの勝手だ」
シャーナは、どこか空いている部屋を見つけて、そこで眠ろうと思った。そして、たとえ自分がふたたびこの家の主人になるようなことがあっても、決して今の寝室は使うまいと心に決めた。
パーンたちは村を望める林の中に身を潜《ひそ》めていた。
夜はまだ明けていない。しかし、東の空はしだいに明るくなりはじめていた。一緒《いっしょ》にいるのは、騎士力ーソンとディードリット、スレイン、そしてホッブの四人だけだ。
マールは村の様子を探りにいっている。そして、レオナーはまだパーンたちに追いついてはいなかった。パーンたちがいる林からは、山へと続く間道もよく見える。レオナーがやってくるとしたら、この道しかないはずだった。
マールが帰ってくるのと、レオナーがやってくるのを待ってから、パーンたちは村に切りこむつもりでいた。
敵の数がどれだけいるか分からない、それが不安だった。しかし、カーソンの話ではたいした数ではないらしい。暗黒神の司祭とかいう新しい領主とマンティコアが厄介《やっかい》だが、こちらにはディードリットにスレイン、そしてホッブという魔法使いたちがいる。
レオナーよりも先に、マールが戻ってきた。
「どうだった?」
「話と違《ちが》うよ。敵の数はずいぶん多い。三十人は超《こ》えているね。揃《そろ》いの格好をしていたけど、あれは普通《ふつう》のマーモ兵じゃないね」
「どんな格好だ?」
ホッブがマールに質問した。彼は、一時、アシュラムにも仕えていたから、マーモのことに関しては他人よりくわしいのだ。
「鎧《よろい》は黒く染めた|鎖かたびら《チェインメイル》、その上から白っぽい服を着ていたかな? 持っている武器は、みんな違《ちが》ったけどね」
「暗黒神の神官戦士団だろう」
ホッブは、そう判断した。その中には暗黒魔法の使い手も何人かいるに違いない。
「わたしたちだけで、勝てますかね?」
「レオナー王子がいれば、たとえ百人でも勝てそうな気もするんだが……」
パーンは彼に剣《けん》の稽古《けいこ 》をつけてもらったので、彼の強さは身にしみていた。カノン第三王子レオナーこそ、フレイムの傭兵《ようへい》王カシューに他ならないという噂《うわさ》がなぜ出たのかがよく分かった。
その剣の腕前《うでまえ》からなのだ。レオナーを知っている者ならば、剣匠《けんしょう》の誉《ほまれ》は彼にこそふさわしいと信じて疑わないだろう。
双方《そうほう》と手合わせした感想では、両者の腕《うで》はほとんど互角《ご かく》のように思える。
「それよりも、村人たちはひとり残らず大きな倉庫の中に閉じこめられているみたいだよ。中の様子は分からないけれど、見張りが三人もいて、油の入った樽《たる》をいくつも並べているんだ。それから、敵兵はあちらこちらの民家に潜《ひそ》んで待ち伏《ぶ》せをしているみたいだからね。気をつけたほうがいいと思うよ」
「村人を人質に取るなんて、最低の奴《やつ》ね」
ディードリットが、嫌悪《けんお 》の表情を浮《う》かべた。
「まず、村人を助けださないとな」
そのためには、陽が昇《のぼ》るより先に行動しなければならないだろう。
「僕は嫌《いや》だよ」
パーンの考えを先読みしたかのように、マールが逃《に》げだそうと腰《こし》を浮《う》かせた。
「でも、こんな仕事ができるのは、マールしかいないじゃないか」
「だって、もう明るくなっているじゃない。さっきだって、ずいぶん危なかったんだよ」
マールは指を折って、行きたくない理由を並《なら》べたてた。
その間、パーンはじっとマールを見つめつづけた。
「分かった、分かったよ、パーン。その代わり、ひとりじゃ嫌だよ。見張りは三人もいるんだからね」
マールはあきらめたかのように、万歳《ばんざい》をした。
「あたしが行くわ。マールの足手まといにならないのは、あたしだけだと思うし……」
ディードリットだった。
パーンはうなずいた。隠密《おんみつ》に行動するには、他の者ではあきらかに不向きだった。
「ちゃんと姿隠《すがたかく》しの呪文《じゅもん》を使ってよ」
「分かってるわよ」
マールとディードリットはそんな軽口を叩《たた》きあった後、林の中から駆《か》けだしていった。
「失敗したら、大声を上げるんだ。そうしたら、オレたちがすぐ助けにいく」
パーンは最後にそう念を押《お》しておいた。
「たとえ、レオナー王子が間に合わなくても、行動に出るしかなさそうですね」
スレインは不安そうだった。彼はとにかく戦いが嫌《きら》いなのである。勇気がないからだ、と自ら認めているぐらいだ。しかし、それでもスレインはパーンに協力してくれる。それに応えてやれないことが悪い気がする。自分はやりたいようにやっているのだが、彼は意に添《そ》わぬことばかりをやらされているのである。
「あの王子は、どうしたのでしょうかな。まさか、臆病風《おくびょうかぜ》に吹《ふ》かれたわけではありますまい」
「殿下《でんか 》はそんな方ではない!」
ホッブがふと洩《も》らした言葉を、カーソンは激《はげ》しい剣幕《けんまく》で否定した。
「そうだと信じている。だが、遅《おそ》すぎる。このままじゃあ、本当に間に合わなくなる」
パーンは間道の方を振《ふ》り返って、そこに人影《ひとかげ》がないのをもう一度、確認した。
「待つしかない」
パーンはどんどん明るさをましていく空を見上げながら、そうつぶやいた。
神経が切れるような思いの中で、パーンたちはひたすら待った。ディードリットたちが戻《もど》ってくるのを、そしてレオナーがやってくるのを。
彼らはなかなか姿を見せなかった。
その代わりに姿を現わしたものがあった。それは、巨大《きょだい》な獣《けもの》であった。
「マンティコアです!」
スレインが警告の声を上げた。
「森で隠《かく》れられるのは樹木《じゅもく》のみ。人間臭いと思ってきてみれば、こんなところに隠れていたとは」
しわがれた声が老人の顔にふさわしかった。
「出たか、魔獣《まじゅう》め!」
カーソンが怒《いか》りの叫《さけ》びをあげて、立ち上がった。
マンティコアは主人によく似た楽しげな笑みをその顔に浮《う》かべていた。
「見つかったか!」
パーンも剣を抜《ぬ》くと、あわてて立ち上がった。
「敵に気取られる前に、倒《たお》すんだ」
パーンは飛びだして、魔獣の翼《つばさ》を狙《ねら》って切りかかった。
魔獣はフワリと翼を羽ばたかせると、その攻撃《こうげき》を難なくかわした。
「万能なるマナよ、束縛《そくばく》の刃《やいば》となれ!」
スレインが賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を振《ふ》りかざすように、古代語魔法を唱《とな》えた。
その呪文《じゅもん》が完成すると、マンティコアの身体を銀色に輝《かがや》く網《あみ》が包みこんでいた。マンティコアは、苦痛の叫《さけ》びをあげて、地面に転げまわった。
「今のうちです」
かなり強力な魔法《ま ほう》を使ったのだろう。スレインは荒《あら》い息の中で叫《さけ》んだ。
パーンとカーソンのふたりは、飛びだして魔獣に剣を振《ふ》るった。
魔獣は網が邪魔《じゃま 》で身動きが取れず、パーンたちの繰りだす攻撃で身体を傷付けられていた。
「汝《なんじ》の血をもて、我が傷を癒《いや》したまえ!」
老人の口から呪《のろ》いのような言葉がほとばしった。
パーンは右腕《みぎうで》を押《お》さえて、低く呻《うめ》いた。右腕にザックリと刃物《は もの》で切られたような傷が生じていた。その代わりに、パーンが切りつけてできていた魔獣の傷がひとつ完全に塞《ふさ》がっていた。
「よくも!」
パーンは怒《いか》りに燃え、剣先を前に向けて、魔獣に突進《とっしん》していった。
魔獣はそれを避《さ》けようとしたのだが、パーンの方が一瞬《いっしゅん》早かった。パーンの剣が深々と魔獣の身体に突《つ》きささった。
勢いあまって、パーンはスレインのかけた銀色の網に触《ふ》れてしまい、切り傷を数箇所《すうか しょ》ほど作ってしまった。
魔獣の苦痛の絶叫《ぜっきょう》がほとばしる。
「パーン、上!」
カーソンの警告の声に反射的に反応して、パーンは剣を離《はな》して、後ろむきに転がった。
一瞬前までパーンがいた場所に、蠍《さそり》の尻尾《しっぽ 》が振りおろされてきた。毒針が地面に突き刺《さ》さって、真っ黒な毒液を地面に吐《は》きだしている。
カーソンはその尻尾を両断せんと、剣を真横に振るった。魔獣の体液が飛びちった。
先端《せんたん》が地面に突き刺さったままマンティコアの尻尾は切り離されていた。
スレインの魔法の網は、まだ効果を発揮している。
すでに、魔獣の全身は小さく痙攣《けいれん》を起こしていた。
パーンは立ち上がって、剣の柄《つか》に手をかけた。そして、力をこめて引き抜《ぬ》こうとする。
と、死んだと思われた魔獣が突然《とつぜん》、起きあがってパーンにその巨体《きょたい》をぶつけてきた。
油断していたパーンは避《さ》けようがなかった。
魔獣に弾《はじ》きとばされ、パーンは地面に叩《たた》きつけられた。頭が硬い地面にぶつかり、一瞬、目の前が真っ暗になった。
またも、魔法《ま ほう》の網《あみ》で身体が切れて、血が額と右腕《みぎうで》から流れだしている。
パーンは頭を振《ふ》りながら、立ち上がろうとした。二撃目を警戒《けいかい》して魔獣を見ると、今度こそ魔獣は動かなくなっていた。
「ちくしょう、油断した」パーンは悪態をついた。
「邪悪《じゃあく》な知識の守護者とはよく言ったもんだぜ」
「怪我《けが》を治しましょう」ホッブがやってきて、パーンに治癒《ちゆ》の呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。
「もっと慎重《しんちょう》にならないと、いくら剣《けん》の腕を鍛《きた》えても同じですぞ」
痛いところをつかれて、パーンはうなだれてしまった。
「パーン、今の騒ぎで、敵兵に気付かれてしまったようだ。十人ほどがこちらにやってくるぞ」
チラリと村の方を見て、パーンはカーソンの言葉を確認した。
「休む暇《ひま》ぐらい与えてほしいものだな」
パーンは魔獣の死体から剣を抜《ぬ》きとると、魔獣の血にまみれた刃《やいば》を手拭《て ぬぐ》いで拭《ふ》きとった。
「スレインは林の中へ隠《かく》れてくれ。形勢が悪いようなら、迷わず逃《に》げてくれよ」
パーンはスレインに声をかけて、向かってくる敵兵を迎《むか》えようと剣を構えなおした。
「新手がくる前に、あいつらを倒《たお》しておくぞ」
それが口で言うほど易《やさ》しくないことぐらい、パーンは分かっていた。今度の敵はファラリスの神官戦士たちである。この前の雑兵よりもよほど手ごわいことだろう。
敵兵は、パーンたちから十歩ばかりの所で立ち止まった。
飛び道具でも使うのか、と思ったが、そうではなかった。彼らの唇《くちびる》が、何やら動きはじめている。
「いかん、呪文《じゅもん》を使う気だ!」
パーンは、相手の呪文に負けないように精神を集中させた。
身体のあちこちに鋭《するど》い痛みが走った。治癒魔法の逆呪文をかけられたのだろう。だが、精神を集中させていたおかげか、思ったよりも傷は深くないように思えた。
「この程度ならば!」
パーンは次を受ける前にと、敵に向かって突撃《とつげき》していった。
その勢いに驚《おどろ》いたのか、敵は魔法を使うのをあきらめて、武器を構えてパーンを迎《むか》え撃《う》とうとする。
武器を使った戦いならば、パーンの方が相手より数段勝っていた。パーンは、次々と相手を変えながら、剣を振《ふ》るっていった。背中から攻撃《こうげき》されるのを恐《おそ》れてのことである。
カーソンもさすがにカノンの正騎士である。複数の敵を相手にして、何とか持ちこたえていた。ホッブもふたりほどの敵を引き受けてくれた。
しばらくの後、からくも最初の敵兵は倒《たお》すことに成功した。パーンも無傷というわけにはいかなかったが、たいした怪我《けが》はしていない。それよりも、疲労《ひ ろう》していることの方が気掛《きが》かりだった。
しばらく休憩《きゅうけい》しなければ満足に戦うことはできそうになかった。
だが、敵の新手がすぐ近くまで迫《せま》っていた。その数はさっき倒した数よりもさらに多かった。
「気をつけろ。先頭にいるのが、この村の新領主、闇司祭ログナーだ」カーソンが、そう声をかけてきた。彼もパーン同様、その息は荒《あら》かった。
「すまないな、パーン。わたしは厄病神《やくびょうがみ》に憑《つ》かれているようだ」
「弱音なんか聞きたくないな。オレの知っているカノンの騎士は、絶対にあきらめたりしなかったぞ。何があろうとも生き残るという執念《しゅうねん》の持ち主だった」
そうカーソンを激励《げきれい》してはみたものの、パーンにも勝てる自信はまったくなかった。本当ならば、逃《に》げたいところなのだが、戻ってこないディードリットたちや囚《とら》われている村人たちを見捨てるわけにはいかなかった。
パーンは懸命《けんめい》になって呼吸を整えながら、何とか打開策はないものかと思案しはじめていた。
しかし、妙案《みょうあん》は何も浮《う》かんでこなかった。
闇司祭は十数人の神官戦士たちを引き連れて、パーンたちのところにやってきた。
その顔は朗らかでさえあり、まるで友好を深めるためにやってきた使節かと思わせた。
「あの笑顔に騙《だま》されるなよ」
カーソンの忠告にパーンはうなずいた。
「貴様がこの村の新領主か!」
パーンは闇司祭を睨《にら》みつけた。
「さて、そういうあなたはどなたですか? 噂《うわさ》のレオナー王子ではありませんよね」
「残念だな。オレはあいにくカノンの王子様じゃない」
「それではお尋《たず》ねしますが、いったい王子はどちらにおいでなのです。まさか、逃《に》げだしたとかそんなことはありませんよね」
隣《となり》で、カーソンが眉《まゆ》を吊《つ》りあげて、怒《いか》りをあらわにした。
「カーソン、落ち着け!」
彼が怒りで我を忘れぬように、パーンは注意を与えた。
「お話しいただけませんかな。お話しいただければ、あなたがたの命を救ってさしあげてもいいのですよ」
「カノンの騎士《きし》を侮辱《ぶじょく》するな!」
カーソンが怒鳴《どな》る。
パーンはとにかく時間|稼《かせ》ぎがしたかった。せめて息が整えば、何とかこの場を切り抜《ぬ》けることができるかもしれない。それに、後ろの林の中にはスレインもいる。ディードリットやマールたちも、捕《つか》まっているような感じではなさそうだ。
「とにかく、武器をお捨てなさい。たったの三人で、わたしたちに勝てるなどとは思ってもいないでしょう。それとも、何か策がおありなのですか。たとえ、疲《つか》れが癒《い》えたとしても、結果は同じなのですよ……」
闇司祭は説得するように呼びかけながら、パーンたちの方にゆっくりと近づいてきた。
焦《じ》れる気持ちを抑《おさ》えつけながら、パーンは後ろにジリジリとさがった。疲れているのは、相手にも知られているようだ。しかし、とにかく時間を稼ぐしかなかった。
そのとき、闇司祭の顔が急変した。まるで仮面を脱《ぬ》ぎ捨てたのではと錯覚《さっかく》するような変化だった。
彼の顔から穏《おだ》やかな笑みが消えて、変わって魔神《ま じん》のごとき憤怒《ふんぬ 》の表情になっていた。
彼の視線の先にあるものを、パーンは確かめた。すると、そこには、変わり果てた姿で地面に倒《たお》れている魔獣《まじゅう》の姿があった。
全身から流れている血と体液はすでに、乾《かわ》きはじめており、蝙蝠《こうもり》の羽根が力なく地面に投げだされている。その近くに、胴体《どうたい》から切り離《はな》された尻尾《しっぽ 》の先端《せんたん》が地面に突《つ》きささっており、まるで別の生き物のように、まだピクピクと痙攣《けいれん》を起こしていた。
「貴様たち! わたしのスクラングを殺したのか!?」
魔獣の名前だ、とカーソンが教えてくれた。
「許さんぞー。この男たちをやつざきにしろ!」
狂気《きょうき》じみた形相で、闇司祭は配下の神官戦士たちに命令を下した。
「あんな獣《けだもの》が可愛いとはな!」
パーンは覚悟《かくご 》を決めた。勝てるかどうかは分からないが、命あるかぎり、剣《けん》を振《ふ》るいつづけるしかない。
黒い|鎖かたびら《チェインメイル》の男たちが、パーンたちに切りかかってくる。
と、その前にパッと輝《かがや》く火球が出現した。火球は轟音《ごうおん》を上げて爆発《ばくはつ》し、数人ほどの神官戦士たちが吹《ふ》き飛ばされた。
スレインが〈火球〉の呪文《じゅもん》をかけたのだ。
「林の中に魔術師がいるぞ! そいつも逃がすな」
残念なことに、爆発の影響《えいきょう》は闇司祭には届いていなかったようだ。熱風に顔をしかめながらも、部下たちにそう命令を飛ばす。
「汝の心は我がものなり!」
そして、暗黒魔法の呪文を唱えた。
呪文は、パーンたちにかけたものではなかった。林の中に姿を現わしたスレインに向かってかけたようだ。
「スレイン!」
ハッとなって、パーンはスレインを振《ふ》り返った。スレインは口を開けたままで、腕《うで》をダラリと下げていた。賢者《けんじゃ》の杖《つえ》さえも落とし、夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のように林の中から進みでようとしている。
「そうだ魔術師、こちらにこい」
闇司祭が魔法《ま ほう》でスレインの心を支配したようだった。
「そうはさせんぞ。暗黒神の従僕《しもべ》め!」叫《さけ》んだのはホッブだった。
彼はスレインを呪文の支配から解放するべく、〈戦《いくさ》の歌〉の呪文を唄《うた》いはじめた。この呪文の影響《えいきょう》を受ければ、どんな精神支配の魔法の影響からも脱《だっ》することができるのだ。
それは同時に、闇司祭の信仰《しんこう》とホッブの信仰との力比べでもあったのだが。
結果はすぐに分かった。軍配はホッブに上がっていた。スレインは意識を取り戻《もど》して、あわてて林の中に戻っていった。賢者の杖を拾わねば、魔法をかけることもできないのだ。
〈戦の歌〉の呪文は、同時に、パーンたちの心に戦いに臨む勇気を湧《わ》きたたせていた。
パーンは気勢をあげながら、剣《けん》を振《ふ》りまわすように、敵の真ん中に躍《おど》りこんだ。襲《おそ》いかかってくる敵の武器を剣で受け流し、楯《たて》で受け止め、弱い一撃《いちげき》ならば鎧《よろい》に当たるに任せた。
いくつかは鎧の切れ目に当たって、パーンを傷付けたが、痛みはほとんど感じなかった。逆にパーンの魔法の剣は、相手の鎖かたびらをやすやすと断ち切って、相手の身体を深く切り裂《さ》いていく。
血しぶきを噴《ふ》きあげながら、暗黒神の神官戦士たちがひとり、またひとりと倒《たお》れていく。
カーソンはもっと苦戦していたが、それでも数人ばかりを切りたおしていた。ホッブも〈戦の歌〉を唄《うた》いつづけながら、群がってくる敵をからくもしのいでいた。
だが、〈戦の歌〉の呪文の援護《えんご》があってさえ、パーンたちに勝ち目はないように思えた。
まともに戦うのは不利だと思ったのか、敵はパーンたちから離《はな》れた。何のつもりだ、と疑問に思ったが、それはすぐに解けた。
彼ら神官戦士たちは暗黒魔法の使い手でもあるのだ。
パーンたちの身体に、次々と邪悪《じゃあく》な呪文が飛んでくる。パーンは見えない力によって打ちのめされ、切り裂かれた。
「いよいよ、喜びの野に召されるときですかな」
ホッブがよってきて、血にまみれた顔をパーンに近づけてきた。
パーンもなかば覚悟《かくご 》を決めた。しかし、息絶えるまでにひとりでも多くの敵兵を倒《たお》したいと思った。特に、あの闇司祭だけは……
パーンは闇司祭を睨《にら》みつけて、気合いの声を上げた。
しかし、マーモの領主は残忍《ざんにん》な笑いを浮《う》かべるだけで、パーンの挑発《ちょうはつ》に乗ろうともしなかった。
「殺すのだ!」
彼の命令の声と共に、神官戦士たちがとどめとばかり切りかかってくる。
ふたりの男が、パーンに切りかかってきた。パーンは、ほとんど気力だけでそのふたりを切りすてた。
次に三人が駆《か》けよってくる。その三人に勝てるとはとうてい思えなかった。
〈戦の歌〉の呪文《じゅもん》の効果が途切《とぎ》れると、もはや立っていることさえ不思議なくらい、激《はげ》しい苦痛と疲労《ひ ろう》とがパーンの全身を襲《おそ》っていた。
が、そのとき――
襲いかかってこようとした敵の動きがピタリと止まった。彼らは、パーンの背後に視線を向けていた。
そして、パーンの背後から大勢の人間があげる、罵声《ばせい》やら喚声《かんせい》やらが聞こえてきた。
「パーン、遅《おそ》くなった」
それは、間違《ま ちが》いなくレオナーの声だった。
「で、殿下《でんか 》……」
口から血を垂らしながら、カーソンが呻《うめ》いた。笑おうとしたのかもしれないが、それは苦痛に歪《ゆが》んでいるようにしか見えなかった。
彼は安心したのか、その場でガックリとくずおれた。
パーンは最後の力をふりしぼって、首だけを後ろに向けた。
やってきたのはレオナーだけではなかった。首領のギャリルの姿があった。そして、カノン自由軍の男たち。
パーンも膝《ひざ》を落として、その場にうずくまった。
レオナーはいつもの薄汚《うすよご》れた格好ではなかった。髪《かみ》を整え、髭《ひげ》もそって、身体にはきらびやかな甲冑《かっちゅう》をつけていた。魔法《ま ほう》の長剣の柄《つか》も宝石をちりばめたものに変わっていた。そして、方形の楯にはカノン王国の紋章《もんしょう》が大きく浮《う》き彫《ぼ》りにされていた。
これが、彼の言っていた準備なのだろう。彼は国王として立つことを心に決めたのだろうか。
「カノン王子レオナーである。侵略《しんりゃく》者ども、正義の刃《やいば》を受けてみよ!」
芝居《しばい 》がかった言葉をレオナーは言った。しかし、レオナーの声には、王子として生まれた者だけがもつ威厳《い げん》と迫力《はくりょく》とがあった。命令することになれた人間の声だ、とパーンはふと思った。
レオナーの言葉は、敵の戦意を挫《くじ》くに十分だった。
レオナーは剣をサッと振りかざすと、カノン自由軍の男たちに突撃《とつげき》を命令した。すると山賊《さんぞく》たちはまるで自分たちが近衛兵であるかのように、果敢《か かん》に神官戦士たちに挑《いど》んでいった。
形勢は完全に逆転していた。
闇司祭は、部下たちを楯《たて》にしながら、あわてて後退をはじめた。
「おっと、逃《に》がしやしねぇよ」
それを見てとったギャリルがすばやく三人の手下と共に、闇司祭の退路を断った。
ファラリスの神官戦士たちは、山賊たちの前に次々と倒《たお》され、ついには闇司祭ひとりだけが残っていた。
グルリと山賊たちに取りかこまれている。
「あなたがたは村人がどうなっても、かまわないと言うのですか?」
負けを認めた闇司祭はついに切札《きりふだ》を出してきた。
「わたしにもしものことがあれば、村人たちは皆、炎《ほのお》の中で焼け死んでしまうのですよ。さあ、そこをお退《ど》きなさい。わたしを通すのです。ならば、村人の命は助けてあげましょう」
どういうことか、とレオナーは事情を尋《たず》ねた。パーンは、村人たちが倉庫に囚《とら》われていること、そして、その倉庫に火をかける用意があることを彼に話した。
ディードリットたちはどうしたのだろう、パーンは焦《あせ》りを募《つの》らせた。なぜ、彼女たちは戻《もど》ってこないのだろうか。
レオナーは闇司祭と向かいあうような位置に進んでいった。彼の目は、威厳《い げん》に満ち、いささかも動揺《どうよう》した様子はなかった。
「これは戦いなのだ、マーモの領主よ。そして、戦いには常に犠牲《ぎ せい》が伴《ともな》うものだ」レオナーは闇司祭に向かって、静かにそう言った。
「あの男を捕《と》らえよ! 抵抗《ていこう》するならば、殺してもかまわん」
それから、ギャリルたちに命令を与えた。
「お待ちください」言ったのはカーソンだった。
彼はよろめく足でレオナーの所に進んでいくと、片膝《かたひざ》を落として嘆願《たんがん》した。
「村人たちを見殺しにしないでください。村人を守ることこそが、先の国王より与えられたわたしの使命なのです」
レオナーは、じっとカーソンを見下ろした。
「ならば、わたしがおまえの命令を解こう。あの男を逃《のが》さぬことが、カノンの国益を考えた行動なのだ」
「レオナー殿下《でんか 》……」
カーソンは信じられないというように、首を振《ふ》った。
「ご立派ですよ、王子。ならば、わたしも覚悟《かくご 》を決めましょう。ですが、村人たちも一緒《いっしょ》です。彼らが命を落とすのは、あなたの責任だということを、生涯《しょうがい》忘れることのなきように」
そして、闇司祭は剣《けん》を抜《ぬ》いてレオナーに切りかかってきた。
一刀のもとに、レオナーは、闇司祭を切ってすてた。
悲鳴すら上げず、闇司祭は地面に倒《たお》れ、息絶えた。
「なんて、ことだ……」
カーソンは闇司祭ログナーの屍《かばね》を、茫然《ぼうぜん》として見つめた。
その喉《のど》から鳴咽《おえつ》が洩《も》れてくるのを、パーンは見た。
「確かに、彼らを守るというのは、任務でした。ですが、領主としてこの村に赴任《ふ にん》し、彼らと共に暮《く》らすうちに、わたしは気付いたのです。彼らこそが国を支える柱であるということに。だからこそ、恥辱《ちじょく》にまみれる日々を堪《た》えしのび、今日まで生きながらえてきたというのに……」
「レオナー王子、あなたの決断が正しいとはオレには思えない!」
パーンも膝《ひざ》をついたままの姿勢で、大声を上げた。
「カノンの王子も、しょせん、マーモ評議会と同じというわけか!」
別の誰かがそう叫《さけ》んだ。
「シャーナ……」
カーソンが驚《おどろ》いたように顔をあげた。
村の方から、まるで朝陽《あさひ》を背負うように、赤い甲冑と黒いマントに身を包んだ女性がやってきていた。
驚いたのは、カーソンだけではなかった。
「ディード……、それにマール」
「パーン!」
パーンが傷ついていることに気付いたのだろう。ディードリットがあわてて駆《か》けよってきた。
「大丈夫《だいじょうぶ》、これぐらいで死にやしない。それより教えてくれ。あの女|騎士《きし》と何があったんだ。村人たちは無事なのか?」
「村人たちは無事よ。なかなか敵の警戒《けいかい》が厳重で近寄れなかったの。でも、そのうち林の方から戦いの音が聞こえてきて、マーモ兵たちが駆けていくでしょ。生きたここちがしなかったわ。でも、おかげで見張りたちに隙《すき》ができて、彼らを倒《たお》して、倉庫の中に入ったの。でも、今度は村人たちがなかなかあたしたちを信用してくれなくって。困っていたところへ、あの女の人がやってきたのよ。彼女が村人たちを説得すると、彼らは素直に従ったわ。それから、急いでこっちにきたんだけど……」
ディードリットはパーンの全身の傷を痛々しそうに確かめながら、そう説明した。
「ごめんなさいね、遅《おそ》くなって」
「生きてるんだから、気にすることはない」
カーソンはフラフラと立ち上がって、シャーナを出迎《で むか》えようとした。
「ありがとう、シャーナ。村人を助けてくれて……」
「礼など要らないわ。彼らはわたしの民でもあるもの。わたしがマーモから任ぜられた領主であるかぎりはね。そして、覚えておくがいい、レオナー王子。このカノンの地は、今はマーモ領であるということを!」
シャーナはレオナーに向かってそう叫ぶと、腰《こし》からシャムシールを抜《ぬ》き、その剣先をカーソンに向けた。
「シャーナ!」
カーソンは女騎士の方へ足をひきずるように、近づいていった。
「カーソン、あなたはカノンの騎士よ。そして、わたしはマーモの騎士。あなたがカノンに忠誠を誓《ちか》うように、わたしもマーモの人間であることを誇《ほこ》りに思っている。わたしたちが敵同士だということが、やっと身に沁《し》みた……」
カーソンは彼女の言葉を否定するように、何度も首を横に振った。
「しかし、不思議なものね。こうして、敵として向かいあってはじめて、あなたと対等になれた気がする。支配する者とされる者ではなく、ただの男と女として……」
カーソンはその場にいるすベての人間が見守るなかを、なおも女騎士に近づいていった。
「支配する者とされる者だってかまわない! たとえ、立場が違《ちが》おうとも、わたしたちの心は変わらないはずだ。それに気付かなかったわたしが愚《おろ》かだった。立場を重んずるあまり、素直になれなかったわたしこそが……」
「それは、わたしも同じ。わたしだって、愚かだったわ。でもね、わたしたちはお互《たが》いの国のために戦わねばならないのよ……」
「そんなことはない! おまえと戦うぐらいなら、わたしはカノンの騎士を辞めよう。村人はもはや救われた。レオナー殿下《でんか 》も帰ってきてくれた。わたしがもはやカノンの騎士である必要はないんだ」
カーソンは剣《けん》を投げすて、楯《たて》も地面に放り投げた。
「カノンの騎士を辞める?」
シャーナが不思議そうに言った。
そのとき、ふたりはすでにあと一歩のところまで近づいていた。シャーナの構えるシャムシールの剣先が、カーソンに触《ふ》れんばかりであった。
が、次の瞬間《しゅんかん》には、シャムシールは甲高《かんだか》い金属音をあげて、地面に落ちていた。
「それは偶然《ぐうぜん》ね、カレソン。わたしも、ちょうどマーモの騎士を辞めようと思っていたのよ」
そして、ふたりは最後の距離《きょり》を詰《つ》めて、静かに抱《だ》きあった。
カノン自由軍の男たちが口笛《くちぶえ》を鳴らしたりして、ふたりに冷やかしやら喚声《かんせい》やらをおくりはじめた。
ディードリットも涙《なみだ》を浮《う》かべながら、パーンに抱きついてきた。
「彼らこそが、真の騎士だな」レオナーがパーンを見下ろすように、話しかけてきた。
「そして、さっきのわたしの言葉、態度こそが真の王だ。おまえもアラニア王になるというのなら、身につけておくべきかもしれないぞ」
「それでは、さっきの言葉は本心ではなかったのですか?」
村人を見捨てると決めたレオナーの言葉を指しているのだ。
「もちろん、本心ではないさ。しかし、口に出した言葉は、心とは切り離《はな》されているもの。本心であろうとなかろうと、それはすべて真実となる。ましてや、王ならばな」
レオナーの言うとおりだった。彼の言葉が、たとえ本心ではなかったとしても、村人たちが危険にさらされたという事実に違《ちが》いはない。
「王が他人を守るというのは詭弁《き べん》にしかすぎない。王こそ他人によって守られるものなのだ。わたしは他人に命令するのもされるのも嫌《きら》いだった。だからこそ、国を出た。他人に命令するのは、今日かぎりにしたいな」
「ですが、あなたの格好は……」
「わたしからおまえに対する餞別《せんべつ》だと思ってくれ。王の真の姿をおまえに見せておきたかったのだ。いつかスレインがおまえに言ったことも真実だ。国王がいることで、救われる人間もいる。見捨てられる人間もいる。どちらが多いかといえば、救われる人間のほうだろう。おまえはアラニア王になれ!」
「いえ、わたしは……」
「まあ、見ているがいい。王によって救われる人間がいるということをこれから見せてやろう。わたしが、他人に命令するのはこれが最後だ」
そう言い残して、レオナーはカーソンとシャーナのところに歩いていった。
ふたりは、まだ抱《だ》きあったままだった。
「おまえたち、騎士を辞めるのはいい。しかし、村人を守るという誓《ちか》いは捨てたわけではないのだろう?」
もちろんです、とカーソンは答えた。彼の隣《となり》でシャーナも、素直にうなずいていた。
「今のままでは、彼らを救ったことにはならないぞ。新しいマーモの領主がやってくればどうする。領主殺しに加担したという罪で、彼らも罰《ばっ》せられることになるだろう」
「それは、その通りです……」
カーソンはうなだれて答えた。レオナーの言ったとおりだった。
「だったら、村人たちはヴァリスかフレイムに逃《に》がしてやれ。そして、おまえたちが彼らを護衛するのだ」
ちょうど、そのとき、村人たちが姿を現わした。戦いの結果を見届けようと、集まってきたのだろう。
彼らはカーソンの姿を見ると、ゆっくりとこちらにやってきた。
命が救われたという安心感は、まったくうかがわれなかった。あきらめの表情だけしか、浮《う》かんでいなかった。
「カーソンさん、ご無事でしたか」
村人のひとりがそうつぶやいた。そのときばかりは、彼らの顔にホッとした表情が浮かんでいた。
レオナーは、この領主が村人たちに慕《した》われていることを痛感した。
「みんな、聞いてくれ。わたしたちは、マーモから派遣《は けん》されてきた新しい領主を殺してしまった。このまま村に留《とど》まれば、きっと害がおまえたちに及《およ》ぶだろう。たとえ、罰《ばっ》せられることがなくとも、作物は残らず取られて、この冬を乗り切ることはできない。みんなで、この村から逃《に》げだそう。逃げて新天地を見つけるのだ。ヴァリスヘ行こう。山を越《こ》えればヴァリスまでは安全に行ける」
カーソンの言葉に、村人たちは顔を見合わせるようにして、それから首を横に振《ふ》った。
「カーソンさん。わたしたちはこの土地で生まれ、育ってきました。その土地を捨てることなんて、できはしません。あなたひとりで、逃げてください」
彼らの反応は、レオナーには予想できたものだった。
カーソンは懸命《けんめい》になって説得を続けるが、しかし、村人たちの気持ちは、岩のように堅《かた》く、また動くことはなかった。
「知らない土地に行くぐらいなら、わたしたちはこの村で死にます。……それよりも、カーソンさん、お隣《となり》の御立派なお方はどなたなのです。わたしは、ずっと昔《むかし》に一度だけ、王様を拝見したことがあるのですが……」
村人の中で長老格の男が恐《おそ》る恐るレオナーを見つめながら、そう尋《たず》ねてきた。
レオナーはその問いが出るのを待っていた。
「わたしは、カノン第三王子レオナーだ。そして、先王の正統な世継《よつ》ぎである」
レオナーは闇司祭たちに対したときのように、堂々たる態度で、辺りに轟《とどろ》かんばかりに声を張りあげた。
「すると、この人が新しい王様なのですか?」
カーソンはそうだ、と村人たちに教えてやった。
その言葉に、村人たちのあいだにたちまち動揺《どうよう》が広がった。大慌てで全員が、地面に平伏《へいふく》していく。
「王国を思い、土地を守ろうとする皆の気持ち、嬉《うれ》しく思う」レオナーは声に威厳《い げん》をこめて、村人たちに呼びかけていった。
「しかしながら、今はこの土地に留《とど》まってはならぬ。わたしは、国の民ひとりひとりを宝と思っている。ひとりとして命を落とす者のないことが、わたしの願いなのだ。皆の気持ちも分かるが、ここは堪《た》えしのんで新天地へと赴《おもむ》いてほしい。カーソンが皆を導いてくれるだろう」
彼の言葉は、すこし離《はな》れた所にいるパーンまで、しっかりと届いてきた。
「あれが演技だとしたら、みごとなものだな」パーンはすこしだけ微笑《ほ ほ え》んだ。
「あんなの演技じゃないよ」パーンの言葉を聞くとはなしに聞いて、マールが口を尖《とが》らせた。
「僕が泥棒《どろぼう》をしても、誰が演技だと認めてくれる?」
村人たちは、レオナーの言葉を神妙《しんみょう》に聞いていた。
「王様!」村人たちの誰かがそう叫《さけ》んだ。
「約束《やくそく》してください。わたしたちは、この土地に帰ることができますね。マーモの連中を追い払《はら》ってくださいますよね。カノン王国を再建していただけますよね」
パーンは見た。村人たちの言葉に、レオナーの表情に当惑《とうわく》が浮《う》かぶのを。
「約束してください、王様」
別の誰かが叫んで、レオナーの足にすがりついた。
「王様!」
その他の村人も口々にそう叫び、約束してくれ、とレオナーに懇願《こんがん》していた。
レオナーに浮かんだ困惑《こんわく》の度合いが深くなっていた。
村人たちのこんな反応まで予想していなかったのだ。村人たちは、命令されることに慣れた人間としか考えていなかった。そして、王家の鎧《よろい》に身を包んでいる今ならば、従うだろうと思っていたのだ。
レオナーは、今まで知らなかった。命令される人間は、ただ盲目的《もうもくてき》に従うものだと思っていたのだ。しかし、それは間違《ま ちが》っていた。
命令する人間を信頼《しんらい》するからこそ、彼らは黙《だま》って従ってくれるのである。もしも、信頼を失ったならば、たとえ命令には従っても心の中では命令する者に対する怒《いか》りや不満を感じることだろう。
真剣《しんけん》な表情で見つめてくる村人たちの目に自分の姿が映っていることが、レオナーには重く感じられた。
彼は静かに目を閉じて、空を見上げた。
それから、大きく息を吸いこむと、彼はグルリと村人たちを見回した。
「約束しよう」
レオナーはきっぱりと言いきって、村人のひとりひとりを抱《だ》きしめていった。
「王様|万歳《ばんざい》!」
村人たちは歓喜の声をあげて、レオナーを取りかこんだ。そして、彼の言葉に従い、新天地に赴《おもむ》くことを喜びの涙《なみだ》にむせびながら約束をした。
この土地にふたたび帰ってきたら、よい作物を育て、国王様に献上《けんじょう》するとも言った。レオナーは喜んでその作物を食すことを約束した。同時に納《おさ》める作物の量をマーモの侵略《しんりゃく》前よりも、少なくすることも誓《ちか》った。
村人たちは王様万歳を連呼しつづけ、彼らの歓喜はいつまでたっても収まる気配を見せなかった。
そのとき、杖《つえ》につかまるように、スレインがパーンたちのところにやってきた。彼もまた傷だらけであった。
「死ぬかと思いましたよ」
その言葉が本心であることを示すように、彼の顔はいまだに蒼白《そうはく》だった。
それから、スレインはパーンの隣《となり》に座りこむと、村人たちの歓喜に包まれているレオナーを見つめた。
「遠くからでも聞こえましたよ。どうやら、あの方は舞台《ぶ たい》から降りられなくなった様子ですね」
「違《ちが》うさ。レオナー王子は自らの意志で決意したんだ。彼らのために王になることをね」
「で、あなたはどうなんですか?」
パーンはスレインに向かって、すまない、と一言だけ詫《わ》びた。
スレインが小さく微笑《ほ ほ え》んで、そうですか、とうなずいた。
ふたりは、それから何も語らず、ただ歓喜に包まれる村人たちやカーソン、そしてレオナーの姿を見続けた。いつの間にか、彼らの輪の中にカノン自由軍の男たちも加わっていた。
「オレたちも行こうか?」
パーンはやっと口を開いて、スレインに誘《さそ》いかけた。
「いえ、わたしは遠慮《えんりょ》しておきます。傷が痛みますからね。それに、あの輪の中に入ったら、二度と抜《ぬ》けでられなくなってしまいそうで……」
オレは行くぜ、とパーンは言った。そして、ディードリットに手を伸《の》ばして、彼女も誘った。マールとホッブもパーンの後に続いていった。
太陽は今や完全に昇《のぼ》っていて、柔《やわ》らかな陽差しを人々に投げかけていた。
長く伸《の》びた人々の影《かげ》が、スレインの足元まで届いていた。スレインはその影にそっと指を触《ふ》れて、心の奥《おく》で祝福の言葉を送っていた。
カノン王の帰還《き かん》を祝う祝福の言葉だ。
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エピローグ
闇司祭との戦いから、三日がたっていた。スレイン・スターシカーは自分だけの荷物をまとめて、主人のいなくなった領主の館の扉《とびら》を静かに開けた。
玄関《げんかん》の外では、彼を見送るための人々が集まっていた。
その中には、今や王となることを決意したレオナーの姿があった。
スレインは新しいカノン王に敬意を表するように恭《うやうや》しい挨拶《あいさつ》を送ってから、その手を握《にぎ》りしめた。
「再会の日を楽しみにしておきますよ、陛下。それから、村人たちのことは確かにカシュー王に申し伝えておきます」
レオナーは頼《たの》む、とだけ答えた。口数の少ないところはあいかわらずだった。先日の雄弁さが信じられないほどだ。
あの戦いの後、共に騎士《きし》を辞めたカーソンとシャーナのふたりは、村人たちを引き連れて、すでにヴァリスヘと向かっている。正真|正銘《しょうめい》のカノン自由軍となったギャリルとその手下たちは、彼らを護衛するために同行している。
カーソソたちはヴァリスヘ到着《とうちゃく》したならば、すぐにフレイムヘと向かい、カシュー王に謁見《えっけん》を求め、スレインがしたためた親書を手渡《て わた》すことになっていた。
その親書には、ふたつのことが書かれていた。
ひとつは彼らを受け入れて、火竜《かりゅう》の狩猟場《しゅりょうば》に興している新しい村の住人として迎《むか》えてくれること。
そして、もうひとつはスレインが宮廷魔術師としてフレイムに仕える意志があるということ。
それは、彼が長年に亘《わた》って断りつづけていたことだった。
スレインは、今度はディードリットの右手を取ると、静かに頭を下げてお辞儀《じぎ》をした。
「さようなら、ディードリット」
「さようなら」エルフ娘《むすめ》は両目に涙《なみだ》を浮《う》かべながら、スレインの手を優しく握《にぎ》りかえした。
「でも、あたしもあなたも長寿《ちょうじゅ》だものね」
それ以上、適当な言葉が思いうかばなかったのだ。彼との別れは二度目であるが、今度は前よりも長くなることだろう。しかし、無限の寿命を持つエルフの尺度で考えれば、一瞬《いっしゅん》の間の出来事かもしれない。
続いて、スレインはマールに別れの挨拶《あいさつ》をした。
「やれやれ、僕もスレインのように魔法《ま ほう》が使えたら、フレイムに行くんだけどなあ。パーンは人使いが荒《あら》いし、おまけに一緒《いっしょ》にいると命がいくつあっても足りそうにないし……」
「それでも、吟遊詩人《ぎんゆうし じん》として一生暮《く》らせるだけのサーガが作れるんじゃありませんか」
「別に一緒にいなくたって、サーガは作れるんだけど」
マールはそう文句を言いながらも、満更《まんざら》でもない表情を見せた。彼の心の中では、またひとつの物語が誕生《たんじょう》しようとしていた。まだ仮にではあるが、『三つの王の物語』と題を付けようと考えていた。
ホッブは、スレインの肩《かた》をひとつ叩《たた》いて、それから、戦《いくさ》の神の恵《めぐ》みあれと祈《いの》りを捧《ささ》げた。
「よしてくださいよ。わたしは、勇気などという言葉とは無縁《む えん》なのですからね」
「勇気と無縁でいられる男などいませんぞ。生きているかぎり勇気は必要であり、戦いもまた避《さ》けられないものなのだ。それゆえ、マイリー神の加護は万人に与えられる。信仰《しんこう》のいかんに関わらずな」
スレインは苦笑いを浮《う》かべただけだった。それから、パーンのことをよろしく、と彼に頼《たの》んだ。
そして、スレインはパーンと向かいあった。
パーンは笑みを浮かべていた。スレインもにっこりと微笑《ほ ほ え》んだ。
「また、しばらく会えなくなるな」
そうですね、とスレインは答えた。
「でも、わたしはいつかかならず、このカノンにやってきますよ。マーモを倒《たお》すためにね。そして、ロードス島に真の平和を取り戻《もど》すためにね」
そのとおりだ、とパーンは力を込《こ》めて、スレインの手を握《にぎ》りしめた。
「オレの気持ちも同じだ」
「ですが、不思議なものですね。同じ志を抱《いだ》く者同士が、こうして別れを言わなければならないわけですから。あなたが素直にアラニア王の件を受けてくれればよかったのに」
スレインの言葉は多少、恨《うら》めしそうだった。
結局、パーンの意志を変えることはできなかった。いつものように、彼はもっとも危険な場所に自らをおくことに決めたのだ。レオナーに協力して、カノン王国の再建を目指すことを自らの使命とした。
「理由を教えてくださいませんか?」
「ちゃんとした言葉になっていないんだ……」スレインの問いに、パーンは困ったような表情で、頭をかいた。
「スレインが言ったとおりさ。志は同じだが、やり方が違《ちが》う。スレインは宮廷魔術師になる。レオナーは王になる。そして、オレはただの戦士だ。お互《たが》いが、選んだ道なんだ。それに、王になりたいという人間は、やっぱり多いと思うんだ。放っておいても誰かがきっと王になる。しかし、王となった人間が必ずしも善政を行なうとはかぎらない。そんなとき、誰かが王を戒《いまし》める役目にならねばならないと思うんだ。それこそが、オレの役目だと思う。こんなことを考える人間なんて、きっとオレぐらいなものだからな。だけど、こんな人間のことを何と言えばいいのかな。反逆者かな」
そんな人間を何と言えばいいか、スレインには分かっていた。だが、スレインは言わずにおいた。いつかパーンにも分かる日がくるだろう。
「オレもひとつ尋《たず》ねたいことがある」
なんですか、とスレインは言った。
「今のスレインは、昔《むかし》とはまるで違《ちが》う。変なたとえだが、オレみたいに生き急いでいるようにしかみえない。その理由を教えてくれ」
スレインは照れたような笑いを浮《う》かべた。
「難しい理由なんてありませんよ。小さなニースに平和な世界だけを見せてやりたい。レイリアに心からの微笑《びしょう》を取り戻《もど》したいだけなんですよ。わたしは魔術師にしては、どうも平凡《へいぼん》な人間のようです。レイリアと一緒《いっしょ》になって、マーファの教えに感化されたのかもしれません。そして、剣《けん》を握《にぎ》れないわたしには、誰かに力を貸すことしかできないのです。今のロードスは剣《つるぎ》の時代の真《ま》っ只中《ただなか》にありますからね」
そして、スレインはパーンに手を振《ふ》って、さようなら、とつぶやいた。
パーンも手を振ってスレインに別れの言葉を告げた。
スレインは、一歩、二歩と後ろに下がると、ゆっくりと上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱えはじめた。ザクソンにある彼の家へと帰るための、〈瞬間移動〉の呪文《じゅもん》である。
その家では、妻のレイリアと娘のニースが、彼の帰りを待ちわびているはずなのである。
スレインは呪文を完成させるための動作を続けながら、もう一度だけ、パーンたちに手を振《ふ》った。
そして、次の瞬間《しゅんかん》、彼の姿はその場から消え去っていた。
パーンはしばらくのあいだ、スレインが消えた空間を見つめていた。
それから、レオナーの方へと歩いていった。
「さあ、陛下。はじめましょうか」
そうだな、とレオナーはうなずいた。
「王になることを選んだ男と選ばなかった男とが、共に手を取り、戦うわけか」
レオナーは小さく笑いながら、パーンに握手《あくしゅ》を求めた。
ふたりは力強く手を握りあった。
それは、戦いの開始の宣言だった。マーモの支配からカノンを取り戻すための戦いである。
マーモの勢力はいまだに侮《あなど》りがたく、味方はここにいる仲間たちと数十名のカノン自由軍の男たちだけなのだ。長い戦いになるだろう。
そして、その戦いの火蓋《ひ ぶた》は切って落とされたばかりなのである。
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あとがき
お待《ま》たせいたしました。ロードス島戦記第五巻、お届《とど》けいたします。発刊までに、またまた間があいてしまい、本当に申し訳ありません。小説の執筆《しっぴつ》とゲームのデザインという両刀使いのくせに、平行思考ができない、不器用などという欠陥《けっかん》がありまして、いつも完成が遅《おく》れてしまいます。以上、恒例となった言い訳です(とうとう居直《いなお》ってしまった)。
とにもかくにも、ロードス島戦記のシリーズも本書で第四部、巻数にして五巻目です。既刊の四冊を本棚《ほんだな》に並べてみると分かるのですが、各巻の厚《あつ》さがあまりに違《ちが》います。それを情《なさ》けなくも思っていたのですが、何のことはない今回も同様の結果に終わってしまいました。プロットをまとめた時点では、三百ぺージくらいかなあと考えていたのですが、実際に書いてみると予想より五十ぺージ以上も多くなってしまい、結局、いちばん厚い本になってしまいました。
内容もちょっと変わっています。今回は三章構成になっているのですが、読んでもらった方にはお分かりのとおり、各章はそれぞれ違うエピソードで成り立っています。ひとつの長編というよりは、三つの独立した中編からできているようなものです。おかげで、気分だけは三冊分の小説を完成させたようなもので、いやはや疲《つか》れてしまいました。短期間で完成させざるを得なかったという事情もあって、本当に腕《うで》が痛《いた》くなってしまいました。
もっとも、これにはもうひとつ理由がありまして、僕《ぼく》はワープロで小説を書いているのですが、キーボードを叩《たた》く力が普通《ふつう》の人よりもはるかに強いようなのです。グループSNEの事務所などで仲間と一緒に仕事をしていると、僕がキーボードを叩く音がうるさいとよく苦情を言われます。ペンで書く場合も筆圧《ひつあつ》が高くて、よく紙を破《やぶ》いたものなので、これは性格と言わざるをえないでしょう。腕に力がこもっても、作品に力がこもるわけではないのが残念です。
とにかく、今回は分量が多いので一気に読むのも大変でしょうから、三回に分けて読んでもらってもかまいません。たぶん、次巻の発刊までには、また少し間があくことでしょうからね。
さて、その次巻以降の話ですが、いよいよロードス島戦記も最終部に突入します(おそらく上下巻、もしかしたら三分冊になるかもしれません)。ここまで応援《おうえん》していただいた皆《みな》さんの期待に応《こた》えるためにも、次巻は特に正念場だと思っています。強くなりすぎてしまったパーン君にはちょっとお休みを願って、新しいキャラクターたちを主に活躍《かつやく》させる予定でいます。もっとも、新キャラといっても月刊コンプティーク誌で「RPGリプレイ版」を読まれた方には、お馴染《なじ》みのキャラクターたちなので、ファンの方は楽しみにお待ちください。ただ、リプレイのノリをそのまま小説にもってくるのは無理なので、小説用にキャラクターを育てる時間を取らねばならないなぁ、と思っています。
もっとも、パーンたちの活躍がこれでおしまいというわけではありませんので、御心配なきように。クライマックスでは新旧のキャラクターたちが大集合して、最後の戦《たたか》いを演じることになるでしょう。そのキャラクターの合計たるや、なかなか侮《あなど》れないものがあって、小説家としてはまだまだレベル不足な自分が不安になってきます。しかし、小説の完結までには今少し時間があります。それまでに、いくつかの冒険《し ご と》をこなして、経験値を上げておこうと思っています。魔法《ま ほう》の剣ならぬ魔法のペンが欲しいぐらいですが、残念ながら現実の世界には地下迷宮はありません。もっとも、たとえ地下迷宮があったとしても、怪物が棲《す》んでいて罠《わな》があったなら、取りに行きたいとは思いませんけどね。
などと「アイテム」の話に振《ふ》ったところで、前回のあとがきで魔法の解説をしたように、今回はアイテムの解説などをやってみようかな、と思います。自分の作品に解説を加えるのは、邪道《じゃどう》のような気もしますが、本書はちょっと特殊《とくしゅ》な作品なので御容赦《ごようしゃ》ください。
このシリーズでは、武器や鎧《よろい》といったアイテムが大量に登場しています。たとえば、パーンの武装を正確に書くと「板金鎧《いたがねよろい》」に「方形《ほうけい》の楯《たて》」それから「広刃《ひろば》の直刀《ちょくとう》」という格好になります。これらの武器や防具は日本語で書くと馴染みが薄いのですが、英語名をカタカナで表記するといきなり(ロールプレイング・ゲームのファンの方には)馴染み深いものになってきます。すなわち、板金鎧=プレートメイル、方形の楯=ヒーターシールド、広刃の直刀=ブロードソードというわけです。
これが原則なのですが、かならずしも毎回この通りに表記しているわけではありません。たとえば、板金鎧ならば「板金の鎧」と書いたり、単に「金属鎧」と書く場合もあります。また板金鎧《プレートメイル》のようにカタカナのルビを付ける場合もあります。かならずしも、一対一の対応をしていないわけです。読者が混乱するだろうと反省しながらも、前後の文章やら場面の雰囲気やらに合わせて、僕はこれらの表記を使い分けています。
また、シリーズの中で表記を変更した物もけっこうあります。たとえば、|広刃の直刀《ブロードソード》ですが、毎回この通りに書くのはうるさい気がしたので、途中から「剣」としか書かないようにしました(本書もそうなっています)。ロードス島世界では、ブロードソードがもっとも標準的なソードなので、こう書いても問題あるまいと判断したのです。武器や鎧を、英語名の通り表音文字のカタカナで書くのは簡単《かんたん》ですが、これでは知らない人には何のことやらさっばり分からない。だから、表意文字であるところの漢字を使って、武器や防具を知らない人にも理解しやすいように表わそうと、僕は努力しているのです(無駄《むだ》な努力だったらどうしよう)。それから、漢字だけしか書かれていない場合には、読者の皆さんが好きに読んでください。板金鎧を「いたがねよろい」と読もうが、「プレートメイル」と読もうが、それはまったくの自由です。どちらの読み方が自分にとって気持ちがいいかだけを問題にすればよいのです。
いずれ機会があるときに、ロードス島戦記に登場するアイテムの一覧表《いちらんひょう》を作ってみたいと思っています。
なお、毎回のことなのですが、本書の執筆にあたっては文庫本編集の吉田隆氏、野性時代編集の永田智雄昏多大な御協力を賜《たま》わりましたこの場を借りて謝辞《しゃじ》を贈らせていただきます。
水野 良
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平成三年三月一日 初版発行
平成五年二月二十日 十六版発行
発行者 角川春樹
発行所 株式会社角川書店
印刷所 旭印刷
製本所 多摩文庫
装幀者 杉浦康平
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角川文庫発刊に際して
[#地付き]角川源義
第一次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる堪礎を齎らすためには絶好の機会でもある、角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類、の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい、多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
一九四九年五月三日