ロードス島戦記4 火竜山の魔竜(下)
水野良
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(例)|鎖かたびら《チェインメイル》
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目 次
第W章 盗賊ギルド
第X章 敗 北
第Y章 水竜エイブラ
第Z章 火竜山の戦い
あとがき
[#地付き]口絵・本文イラスト 出渕裕《いずぶちゆたか》
[#ここまでで目次終わり]
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第W章 盗賊ギルド
1
遠くから波の音が聞こえてくる。
ざあざあ、というざわめきが、規則正しく繰り返している。波が岩に当たって砕《くだ》ける音が、ときおり激《はげ》しく響《ひび》く。
海の方から、潮《しお》を含《ふく》んだ風が吹き寄せていた。その潮風が、盛夏《せいか 》の陽差《ひざ》しをあびて火照《ほて》っていた身体《か ら だ》をここちよくなぶっていく。風に乗って流れてきた磯《いそ》の香《か》が鼻についた。
いやな臭《にお》い。薄《うす》くそばかすが残っている鼻を飛えるような仕草《し ぐさ》をしながら、シーリスは考えていた。妙《みょう》に鼻がむずがゆくて、くしゃみが何度も出そうになる。
それに、身に着けている高価な|鎖かたびら《チェインメイル》が錆《さ》びるかもしれない。それも気にかかった。
おまけに街《まち》自体の雰囲気《ふんい き 》もね、とあたりの街並みを見渡しながら、シーリスは心の中で付け加えておいた。
顔だけを巡《めぐ》らせて、シーリスは冒険者《ぼうけんしゃ》ふうの格好をした男女が五人、遅れずに付いてきているかどうかを確認した。
すぐ後ろに続いているのは、板金鎧《プレートメイル》に身を包んだ若い戦士だった。古くからの傭兵仲間《ようへいなかま 》、オルソンである。無表情な顔のまま黙々と歩いている様子からは、彼が|怒りの精霊《ヒ ュ ー リ ー》に取りつかれている狂戦士《バーサーカー》であることをうかがいしることはできない。だが、ひとたび怒りに支配されると、敵も味方も見境いなく襲《おそ》いかかってくるのは、今でも間違いはないのだ。
それから、賢者《けんじゃ》のローブを身にまとった魔術師《ソーサラー》がふたりいる。紺色《こんいろ》のローブを着た痩《や》せた男がスレインであり、白色のローブを着て女と見まがうような長い金髪《きんぱつ》をしているのがセシルである。
そして、残るふたりは女性だった。ともに神に仕える神官である。大地母神マーファに仕えているレイリアは、スレインの妻であり、六英雄として有名なマーファの最高司祭ニースの娘でもある。一方、戦《いくさ》の神マイリーの侍祭《じ さい》シャリーは、フレイムの王都ブレードの街で新しく仲間となった。
目的はただひとつ。所有者に絶対的な権力を与えるという古代王国の宝物支配の王錫《おうしゃく》≠手に入れることにあった。この魔法の宝物は、青竜《せいりゅう》の島に棲《す》む水竜《すいりゅう》エイブラか火竜山《かりゅうざん》に棲む魔竜《まりゅう》シューティングスターのいずれかが守っているはずだった。
このドラゴンを倒さねば、目指す宝物は手に入らないのだ。しかも、同じ目的を抱いているマーモの黒騎士《くろき し 》アシュラムが、自分たちより確実に数日は先行していることも忘れるわけにはいかない。
アシュラムが自分たちより先に支配の王錫を手に入れれば、ロードス島は彼と彼の率《ひき》いる暗黒の島の民に支配されてしまうことになるのだ。
シューティングスターの方には、フレイム軍の精鋭《せいえい》と共にパーン、ディードリットのふたりが向かっている。シーリスたちが目指しているのは、青竜の島に棲《す》む水竜エイブラの方である。
ブレードの街《まち》を立って半月あまり、不休の旅が続いた。総勢六人の一行は、ようやくライデンの街にたどりついていたのだ。
自由都市ライデンは、ロードス島最大の港街であり、貿易で栄える豊かな街として知られている。国王を持たず、六人の大商人からなる評議会が、街を統治していた。繁栄《はんえい》を証明するかのように、大通りの両側にはまるで砦《とりで》のように大きな商館がずらりと並んでいた。どれも石造りの立派《りっぱ 》な建物ばかりだ。
しかし、その建物の手前には、汚《きたな》らしい格好をした人々がたむろしていて、物乞《ものご 》いをしたり、ガラクタとしか思えないような品物を売りつけようと、大通りを歩く通行人に群《むらがっていた。
噂《うわさ》に聞いていたとおりの光景だった。彼らは、ロードス島の各地から平和を求めて流れてきた難民なのである。しかし、彼ら難民たちが大量に流れてきたことにより、皮肉《ひ にく》にもライデンから平和が失われた。
ライデンの治安は今や無に等しく、盗みや人殺しさえ日常の出来事になりつつあった。
数日の後には、フレイムの傭兵《ようへい》隊長シャダム率《ひき》いるフレイム傭兵隊がやってきて、乱れたライデンの治安を建てなおす手筈《て はず》となっていた。しかし、傭兵たちが秩序《ちつじょ》回復の力になれるかどうか、シーリスは内心では疑っていた。
傭兵はもともと秩序などとは無縁な存在なのだ。シーリスは自分も傭兵だから、そのことがよく分かる。下手《へた》をすれば、野盗や人殺しが増えてしまうだけかもしれないのだ。
その予兆《よちょう》を感じているものか、ライデンの街全体に不気味な緊張感《きんちょうかん》が漂《ただよ》っていた。それは、シーリスの着ている|鎖かたびら《チェインメイル》をも貫《つらぬ》き、肌《はだ》に直接伝わってくるかのようであった。
シーリスたちの一行にも、愛想笑《あいそ わら》いを浮かべながら、何人もの難民ふうの男たちが声をかけてきた。しかし、彼らに施《ほどこ》しをしたり、ガラクタを買い取ってやるだけの余裕《よ ゆう》は一行にはなかった。カシュー王からいくばくかの路銀《ろ ぎん》を貰《もら》ってはいたが、これから先の事を考えるとむやみに使うわけにはいかない。
オルソンが施しを与えないでいいのか、とスレインに導ねていたが、北の賢者《けんじゃ》と呼ばれている痩《や》せた魔術師《ソーサラー》は、首を振っただけで何も答えなかった。
オルソンは、スレインがブレードの街で難民たちに対して行った行為《こうい 》を覚えていて、そう尋ねたに違いない。別に皮肉ったわけではない。オルソンが皮肉を言うはずがないのだ。なにしろ、この戦士は感情が乏《とぼ》しいのだから。感情のないものが、あえて皮肉を言おうとは考えまい。
そのとき、またひとりの物乞《ものご 》いがこちらに目を付けたらしく、近づいてきているのにシーリスは気がついた。
「気に入らない」声に出して、シーリスはつぶやいた。
「何が気に入らないんだ」それを聞きとがめて、オルソンが声をかけてきた。
「この街《まち》のすべてがよ」
シーリスは、長年連れ添ってきた相棒《あいぼう》にそう答えると、ぐるりと視線をあたりに巡《めぐ》らせた。
「陰気《いんき 》臭《くさ》い奴《やつ》ばかり。傭兵《ようへい》を雇《やと》うだけで自分は剣も握ろうとしない金持ち。逃げまわるしか能のない難民。どちらも気に入らない……」
「無理を言ってはいけませんよ。人が皆《みな》、あなたのように強いわけではないのです。たいていの人は死ぬのが怖《こわ》いし、戦う力も持ってはいません。彼らを責めることなど誰にもできはしません」
そう答えたのは、オルソンではなくスレインだった。彼はオルソンのすぐ後ろにいたので、今の会話が耳に入ったのだろう。
シーリスは鼻を鳴らしただけで、何も答えなかった。彼の言葉が、つまらない一般論のように思えたからだ。他人の言葉を借りて話すような人間が、シーリスはいちばん嫌《きら》いだった。
そして、すぐそばまで近寄ってきていた物乞《ものご》いに向かって、鋭い視線を叩《たた》きつけるのだった。薄汚《うすよご》れた難民ふうの男は、備えたようにもといた大通りの片隅《かたすみ》に戻っていった。
スレインはやれやれというように首を振り、ため息を洩《も》らした。
「みんな疲れているようですね。夕食にはまだ早いですが、宿を決めて休みましょう」スレインがそう提案した。
「それがいいと思う」自分の役目を思いだして、オルソンはスレインの言葉に賛成した。
彼はこの一行のリーダーである。今のような決定は、本来ならリーダーである彼が行わねばならないことなのだ。
ブレードの街から旅立つときに、彼はこの一行のリーダーに選ばれたのだ。彼に取りついている怒《いか》りの精霊《せいれい》の束縛《そくばく》から逃れさせるため、というのが理由だった。彼自身は反対したのだが、結局は皆に説得されて、慣れない役を引き受けることになった。
それから半月ばかり、幸いなことに何の事件にも遭遇《そうぐう》することなく、平穏《へいおん》にライデンまで到着《とうちゃく》はした。しかし、旅の疲れは全身にたまっていた。最後の三日ほどは山越えだったので、それがかなりこたえているようであった。
「あそこにしよう」
オルソンは大通りを見渡して、一軒の宿屋を見つけだした。海竜亭《かいりゅうてい》≠ニいう看板が入口のすぐ上に掲《かか》げられている。酒場も兼ねているようで、扉《とびら》の前に立つと、中から陽気で騒がしい物音が聞こえてきた。
「場違いなぐらい明るい店ね」シーリスが感想を口にしながら、一行の先頭に立って、宿屋の入口の扉を押し開いた。
錆《さ》びた蝶番《ちょうつがい》が軋《きし》んだ音を立てて、扉はゆっくりと開いた。たちまち、狂ったような喧騒《けんそう》が鼓膜《こ まく》を震《ふる》わせ、むっとする臭《にお》いが鼻孔《び こう》を刺激《し げき》した。潮《しお》の臭い。汗の臭い。酒の臭い。獣脂《じゅうし》の焼ける臭い。干し魚の生臭《なまぐさ》い臭いも混じっている。だが、物音の方はすぐに小さくなった。
店の中は天窓から差しこむ光で十分に明るかったが、遮《さえぎ》るものとてない戸外の光に比べれば、それでも暗い印象を受けた。目が慣れるまでしばし時間がかかり、それから騒ぎが止《や》んだ理由をシーリスたちは知った。
扉を開けて入ってきた彼らに、店中の客の視線が注《そそ》がれていたのだ。こちらを値踏《ねぶ》みしようという視線がある。うさん臭そうに眺《なが》めている視線がある。奇異《きい》の目で見ている視線もあった。
シーリスはそれらの視線を気に止める様子もなく、空《あ》いている席を求めて店中を見渡した。客の数は多かったが、思った以上に大きな酒場だったので、奥の方に八人ほどが座《すわ》れる円形のテーブルがまるまるひとつ空いていた。
シーリスは黙ったまま、立ち並んでいるテーブルを縫《ぬ》うようにそちらへ向かった。残りの五人も彼女の後に続く。
全員が席に着くと、ふたたび店の中はもとの喧騒に包まれていた。
こちらのテーブルでは情を交わした女の数を競《きそ》っている者たちがいるかと思えば、あちらでは金貨を投げてその表裏を賭《か》けている者たちがいる。かと思えば、入口にいちばん近いテーブルでは、曲芸まがいの躍りを踊ったり、陽気な歌を嚏っては見物人から喝采《かっさい》と共にお金を集めている吟遊詩人《バ ー ド》の少年がいた。
浅黒い男の姿が目立つのは、客のほとんどが船乗りだからだった。
船乗りの大半は、上半身はまったくの裸《はだか》で、膝《ひざ》のところまでの短いズボンを履《は》いているだけだった。頭に白布をかぶっている者が多く、そこから陽《ひ》に灼《や》けて赤茶けた頭髪《とうはつ》が顔を覗《のぞ》かせていた。
「飲み物だけでいい? それとも食事も持ってこようか?」
店の下働きらしい若い娘がシーリスたちのテーブルにやってきて、快活な声で注文を聞いてきた。
「二階を使わせてもらいたいんだ」と、オルソンがいつもの無表情な顔で答えた。
「泊《と》まるのかい?」と、娘は尋《たず》ねかえしてきた。
そうだ、とオルソンはうなずいて、十人ぐらいが寝泊りできるという大部屋をひとつ押《おさ》えてもらった。そして、飲み物と食事も同時に注文し、数枚の金貨を机の上に投げだした。
それを無雑作《む ぞうさ 》につかみとると、娘は明るい返事を残して、カウンターの方に歩みさった。
「おやっ?」そのとき、スレインがシーリスの肩ごしに、入口近くのテーブルに目をやりながら、怪訝《け げん》そうな声を上げた。
「何かありまして?」尋ねてきたのは、レイリアだった。
「ええ、向こうのテーブルの上で踊《おど》っている人がいるでしょう。あれは、グラスランナーではありませんか」
「グラスランナー……ですか? あの草原の妖精《ようせい》とかいう」レイリアは答えて、スレインの視線の先に目をやった。
そこには、テーブルの上を跳《は》ねまわるように踊っている人影があった。背が低いので、おそらく子供だろう、と誰もが思っていたのだ。
だが、注意深く観察してみると、耳の先端がまるでエルフのようにとがっている。エルフと人間から生まれたハーフ・エルフのようにも見えたが、小太りのスタイルがその考えを打ち消した。エルフの血が混ざった者は、もっと華奢《きゃしゃ》な身体《か ら だ》になるものだ。
彼らグラスランナーは、成人でも人間の子供ぐらいの大きさにしかならない。今、踊っている吟遊詩人《バ ー ド》もおそらく子供ではなく、れっきとした大人《お と な》に違いなかった。
「このロードス島にはグラスランナーは住んでいません。大陸から渡ってきたのでしょうか?」
「だから、不思議に思ったんです。ですが、彼らグラスランナーは定住の習慣を持たない種族と聞いていますからね。おそらく、あなたの言うとおり、北の大陸からロードス島まで旅をしてきたのでしょう」
スレインはそうレイリアに答えると、自分は納得《なっとく》してしまったのか、運ばれてきた飲み物に手を付けて、グラスランナーから視線を外していた。
「楽しい踊りね」
そうつぶやいたのは、シャリーだった。彼女は腰を浮かせながら、初めて見る草原の妖精の踊りに見入っていた。
「そんなにありがたいものなの?」シーリスも興味にかられて後ろを振り返った。
草原の妖精はテーブルの上でリズムに合わせて足を踏みならしながら、海に伝わる不思議な伝説の数々を唄《うた》っていた。なかなか堂に入った唄いっぷりであった。
「なるほどね、うまいもんだわ。こっちに呼ぶ?」シーリスはシャリーに声をかけた。
神に仕える者という先入観から、司祭《し さい》といえば頭の固い人間ばかりだとシーリスは決めつけていたが、このシャリーという女性には、旅の間からずいぶん気さくなところを見せられ、けっこう好感を抱いていた。
自分を無理に押えたところがなく、自然に生きているような印象を受けるからだ。シーリスの上品とはいえない冗談《じょうだん》にも、レイリアのように眉《まゆ》をひそめたりせず、面白《おもしろ》ければ素直《す なお》に笑ってくれるし、あまり説教じみたことも言わない。それに、けっこう過激《か げき》なところもあって、怒ったときには容赦《ようしゃ》のないタイプだと見えた。つまるところ自分はこの女司祭とは共通するところが多いのだ。
考えてみれば、戦《いくさ》の神の女司祭と女戦士の自分である。考え方など似ていて当然だといえなくもない。
「そこの吟遊詩人《バ ー ド》!」
シーリスの誘《さそ》いにシャリーはどうしたものかと迷った様子だったが、シーリスは勝手に右手を上げると大声を出してグラスランナーを呼んだ。
そのシーリスの呼びかけに小太りの妖精《ようせい》は、顔をこちらに向けて、片目をつぶって了解した旨《むね》を伝えてきた。
そして、グラスランナーはしばらくしてから、シーリスたちの座《すわ》るテーブルにやってきた。そのときには、すでに食事も運ばれてきていて、皆《みな》くつろいで食事や飲み物を楽しんでいるところだった。
「呼んだ……よね」グラスランナーはシーリスのところにトコトコと歩いてくると、小首をかしげるような仕草《し ぐさ》をしながら、そう言った。
「シーリス。吟遊詩人《バ ー ド》さんが来てくれたわよ」シャリーが食べるのに夢中でグラスランナーがやってきたのに気がつかないでいるシーリスに声をかけた。
「呼んだら、すぐに来なよ」シーリスは振り返って、そう文句を言った。
「一曲終わるまで、席を離れられるもんか。こっちだって商売なんだから」グラスランナーは、もとから丸い栗色《くりいろ》の目をいっぱいに見開いて、そう抗議した。
「こいつは自分勝手な女なんだ」と、セシルが小気味よさそうな顔をしながら、グラスランナーに教え聞かせるように言った。
「そうみたいだね、ねえさん」グラスランナーが相槌《あいづち》を打ちながら答える。
「失敬な。オレは男だぞ!」
顔色を変えてセシルが小さな吟遊詩人に怒鳴《どな》る。当然のように、シーリスは悪意を込めて笑った。
まぎらわしい髪をしているからよ、とシーリスは意地悪くセシルに言ってやった。
若い魔術師《ソーサラー》は、さすがに反論する言葉が思いつかなかったのか、もごもごと口を動かしただけで、悔《くや》しそうにそっぽを向いてしまった。
「へえ、そうなの? どうりで声が太いと思った」
グラスランナーは悪びれた様子もなくセシルにそう言うと、シーリスに向かって歌にしようか、踊《おど》りにしようかと尋ねてきた。
「歌にして。それもおもいっきり陽気な歌がいいわ」シーリスは答えて、金貨を一枚、小さな吟遊詩人に投げて渡した。
「ありがとう、ねえさん」その金貨をうまく空中で受け取ると、グラスランナーはやや癖《くせ》があるものの、よく訓練された声で陽気な歌を唄《うた》いはじめた。
それは間抜《まぬ》けな|騎士《きし》の怪物《かいぶつ》退治を題材にしたもので、庶民《しょみん》の間で親しまれている歌だった。小さな吟遊詩入の歌声は、酒場のざわめきさえも伴奏《ばんそう》にしてしまったかのようで、旅に疲れた一行の心に小気味よく沁《し》みこんでいくのだった。
2
グラスランナーの吟遊詩人《バ ー ド》は、名前をマールと名乗った。
スレインが思ったとおり、商船に乗りこみ、北のアレクラスト大陸からこのロードスの地に渡ってきたとのことだった。
「ある剣士の伝説を完成させたくってね」と、グラスランナーはロードス島にやってきた理由を教えてくれた。
そして、今は一緒《いっしょ》のテーブルについて、飲み物を飲んだり、食べ物を手に取ったりしている。誘《さそ》ったのはシーリスである。彼女は、マールの唄《うた》いっぷりには、ずいぶん感心していた。金貨をはずみ、長い歌を三曲も唄わせたくらいなのだ。
「珍しいな。シーリスがそんなに他人を褒《ほ》めるなんて」
オルソンは食事もあらかた終わって、くつろいだ姿勢になっていた。だが、身動きの取りにくい板金鎧《プレートメイル》着ているため、その座《すわ》り方にはどこか不自然な感じがある。
「褒めるに値《あたい》するだけの人間が少ないだけよ。でも、彼の歌は本物ね。カノンの宮廷付きの吟遊詩人よりうまかったわ」
シーリスは答えながら、やはり重い|鎖かたびら《チェインメイル》を着こんだ身体《か ら だ》を窮屈《きゅうくつ》そうに動かしていた。
「上に行って、着替えてきたらどうです。今日はこのまま休むのですから」その様子を見て、スレインが金属|鎧《よろい》を着ている者たちに言った。
「そうですね」シャリーがうなずいて、立ち上がった。
彼女もマイリーの紋章《もんしょう》が入った神官衣の下に鎖かたびらを身に着けている。戦の神というだけあって、マイリーの神官は戦士としての訓練を積んでいる者が多い。そういった神官たちは、ふつう神官戦士と呼ばれていることをスレインは知っていた。
実のところ、レイリアも戦士の訓練を受けているのだが、今は鎧を身に着けてはいない。護身用《ご しんよう》に|小 剣《ショートソード》を一本、持参《じ さん》しているだけである。
だが、スレインは知っている。かつてレイリアがカーラに支配されていたとき、彼女がパーンとディードリットのふたりと剣を交え、まったく引けを取らなかったことを。
それは、カーラの力ではなく、レイリア自身が身につけていたものだ。もちろん、パーンの剣技はあの頃《ころ》とは比べるべくもない。しかし、彼女の腕が劣《おと》っていないことも、また間違いないのだ。
スレインはレイリアと夫婦《ふうふ 》喧嘩《げんか 》をしないことを、自《みずか》らの安全のためにも心に誓《ちか》っている。もっとも、一緒《いっしょ》になってこのかた、彼女とは言い争いをしたことさえなかったのだが……
結局、スレインとレイリア、そしてセシルの三人がその場に残り、後は二階に上がって着替えてから出直してくることになった。かさばる荷物などは、部屋《へや》に鍵《かぎ》をかけておいて、今日中にカシュー王の勧《すす》めどおり、盗賊《とうぞく》ギルドに行き、ギルドの長《おさ》に協力を依頼する予定を立てた。
「楽しかったよ」
去り際にシーリスは吟遊詩人《バ ー ド》のマールにそう声をかけ、もう一枚金貨を手渡した。
「僕もだよ」マールは、右手を振って挨拶《あいさつ》を返した。
そして、木製の螺旋階段《ら せんかいだん》をギィギィ踏みならしながら、三人が二階へと姿を消していった。
それを見送ってから、
「今日はまだ早いけど、けっこう稼《かせ》いだから、僕は寝ぐらに帰るとするよ」と、マールが言った。「飲み物ごちそうさま。いい旅をね」
「伝説の剣士とやらに巡《めぐ》りあえることを祈っていますよ」
「ありがとう、魔術師《ソーサラー》さん」
マールはスレインに向かって、ぺコリと頭を下げ、身体《か ら だ》で弾《はず》みをつけるようにして、椅子《いす》から勢いよく立ち上がった。
と、その拍子《ひょうし》に彼は椅子に足をぶつけ、バランスを崩《くず》してしまった。そして、よろけたように隣の椅子に腰かけていたセシルにぶつかった。
「大丈夫《だいじょうぶ》かい」セシルは小さな吟遊詩人を助け起こしてやった。「軽技《かるわざ》が得意の吟遊詩人が転んだりしたら、商売に響くぞ」と、変な忠告もする。
「そのとおりだね。ありがとう、おにいさん」マールは子供のような笑顔を浮かべると、もう一度お辞儀《じぎ》をして立ち去ろうとした。
すると、隣のテーブルから突然《とつぜん》声がかかってきた。
「たいした腕をしてるじゃねえか」
あまり品が良いとはいえない口調《くちょう》である。その話し方は、スレインにある人物を連想させた。昔、一緒《いっしょ》に旅をしたことがある男。今は、灰色《はいいろ》の魔女カーラに心を奪《うば》われているはずの男だ。
ハッとして声の方を見ると、そこにはいつのまにか革《かわ》の服を着た三人組の男が、酒を酌《く》みかわしていた。盗賊ギルドの人間だ、とスレインはこの三人組の正体をすぐに見てとった。我知らず、複雑な表情が顔に出た。
マールの歌に気を取られていて、隣のテーブルの客が船乗りの一団から入れ替《かわ》っていたのに気がつかなかったのだ。
「あれっ、僕に用なの?」マールは丸っこい顔を三人組の方に向けて、明るい声で尋《たず》ねていた。
「ごまかそうたって、無駄《むだ》だぜぇ。オレたちも商売がら、そういうことにゃ目が利《き》くんでね」いやらしい笑いを浮かべながら、三人組のひとりが左手を差し出して、マールにそう言った。
「懐《ふところ》に入れた物を出しな!」
そして、いきなり語気を荒らげて、男は怒鳴《どな》った。
セシルは男の言葉が意味しているところを悟《さと》り、腰に吊《つ》るしていたはずの革の小袋を手で探《さぐ》った。そこには、彼の全財産――といっても数個の宝石と十枚ばかりの金貨しかなかったのだが――が収められていた。
「ない!」セシルは茫然《ぼうぜん》となった。
「そうともよ。そこのガキは、吟遊詩人だけが商売じゃないってことよ。しかし、いけねぇな。盗みをするなら、まず通さにゃならねぇ筋ってもんがあるだろうによ」
男は立ち上がって、ゆっくりとマールの方に近づいていった。残るふたりも、男に続いた。そのうちのひとりが、腰から切れ味のよさそうな短剣《ダ ガ ー》を引き抜いた。
「やばい……みたいだね」マールがばつの悪そうな顔をしながら、一歩二歩後ずさりした。
「おまえも盗賊の端《はし》くれなら、ギルドの掟《おきて》は知っているよな」三人組の男たちは、マールに向かってゆっくりと詰《つ》めよっていく。
「スレイン師!」セシルがどうしたものかと、スレインに意見を求めてきた。
スレインは首を振って、何も答えなかった。ただ、万が一のことを考えて、そばに立てかけてあった賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を手元に引き寄せただけだった。
スレインが何も答えなかったので、セシルはどうしたものか判断もつかない様子で、とりあえず自分も賢者の杖を手に持つことにした。
「おめぇたちは引っ込んでなよ。被害者《ひ がいしゃ》なんだからよ。余計なお節介《せっかい》は、寿命《じゅみょう》を縮めるだけだぜぇ」
ふたりの動きに気が付いたのだろう。先頭の男がドスのきいた声で警告《けいこく》を発してきた。
「ここには人がたくさんいます。争うなら、外でおやりなさい!」
レイリアが毅然《さ ぜん》と立ち上がって、盗賊たちにそう言った。
盗賊たちはレイリアの静かだが迫力のある声にやや気圧《けお》されたようだが、その言葉に耳を貸すことはなかった。
後ろのふたりが物音も立てずに左右に広がって、グラスランナーを取り囲み、壁際に追いこんでいった。
「おやめなさい!」レイリアがもう一度言い、マーファの名を唱え、神聖魔法の呪文《じゅもん》をかけようとした。
「いけません、レイリア。彼らは盗賊ギルドの人間です。ここで盗賊ギルドの人間といざこざを起こすわけにはいきません。カシュー王が彼らの協力を受けるようにと言っておられたでしょう。あの方がそう言った以上、何がしかの理由があるはずです。それを確かめるまで、ギルドとの関係を悪くするようなことは避《さ》けないと……」
「しかし、あなた!」レイリアは反論しようとした様子だったが、そのとき三人組のうちの先頭の男が、マールに襲《おそ》いかかっていた。
まるで悠然《ゆうぜん》と空を舞っていた鷹《たか》が、獲物《え もの》に襲いかかるときのような素早《す ばや》さであった。
男の背中に回していた右手の中から手品のように短剣が躍《おど》りでて、小さな吟遊詩人の胸もとめがけて、するりと伸《の》びていった。
「うひゃあ!」
マールはおどけたような叫び声を上げながら、素早くしゃがんでそれをかわした。そのまま獣《けもの》のように四つんばいになると、野兎《のうさぎ》のように前に飛び跳《は》ね、男の足もとを擦《す》りぬけた。
「逃すな!」振り向いて、先頭の男は後ろのふたりに声をかける。
「おうよ!」男のうちのひとりが答えて、床《ゆか》を転げるように移動しているマールを蹴《け》り飛ばそうとした。
わあわあ叫びながら、マールは手近にあった椅子《いす》の脚《あし》をつかむと、男と自分の身体《か ら だ》の間に引き入れた。
「痛ぇ!」
男はその椅子をむこうずねで蹴飛ばすかっこうになった。稲妻《いなずま》に打たれたような激痛《げきつう》が足から全身に走り、男は膝《ひざ》を抱《かか》えて床《ゆか》に転げた。
が、その隙《すき》にマールの前にもうひとりの盗賊が立ちはだかっていた。両手を広げて、ここから先は通さないとばかり、身構えている。
その手にぎらりと光る小 剣《ショートソード》が握られていた。
「くたばりやがれ!」罵声《ば せい》と共に、その小剣が振りおろされてきた。
今度は、マールはそれを避けようとはしなかった。懐《ふところ》に小さな手を入れると、そこから細身の短剣《ダ ガ ー》を引き出し、その刀身で受け止めたのだ。
激《はげ》しい金属音が酒場中に響き渡った。
すでに酒場の中は騒然《そうぜん》となっていて、他の客はこの奇妙《きみょう》な戦いを遠巻きに見物している。気の荒い船乗りたちは、顔にうすら笑いさえ浮かべており、あきらかにこの騒ぎを楽しんでいる。
誰《だれ》もこの喧嘩《けんか 》を止めようとはしていなかった。
「あなた!」
レイリアがふたたびせっぱつまった声で、スレインに迫った。
「スレイン師!」
セシルも自分の財布をすられたことも忘れて、持ち前の正義感から吟遊詩人を助けたいと考えているようだった。
スレインは思わぬ事の成り行きに戸惑《と まど》っていた。カシュー王の言葉だけではなく、スレインは盗賊ギルドの恐ろしさをよく知っていた。だから、盗賊ギルドとはできるだけ関わりあいになりたくない。ましてや揉《も》め事を起こすなど絶対に避《さ》けたいことだった。
だが、揉め事は思いもかけないところからやってきた。
スレインは迷った。彼とて、草原の妖精《ようせい》を助けてやりたい気持ちに変わりはなかったからだ。
「仕方ありません。しかし、彼らを傷つけてはなりませんよ」
スレインは肩をすくめながら、自らは危険を避けるために壁際まで下がった。
「そうこなくては!」
セシルは嬉《うれ》しそうな表情で振り返り、巧妙《こうみょう》に逃げまわるマールとそれを捕《つか》まえんとやっきになっている三人組の盗賊たちを見据《みす》えた。
右手には賢者《けんじゃ》の杖《つえ》が力強く握られている。その杖はセシルが一人前の魔術師であることの証《あか》しである。
セシルの唇《くちびる》が踊《おど》り、上位古代語《ハイ・エンシェント》の魔法語が紡《つむ》ぎだされていった。
「眠りをもたらす安らかなる空気よ!」そして、彼は呪文《じゅもん》を完成させた。
マールと盗賊たちが争っているあたりの空気に一瞬《いっしゅん》、白い霧《きり》がかかったような変化が生じた。
それは、五百年前に巨大な帝国を築いた魔術師たちが、生みだし発展させてきた魔法と呼ばれる神秘《しんぴ 》の力の発動であった。
その霧は次の瞬間《しゅんかん》には晴れていたが、確実に効果を発揮《はっき 》していた。三人組の盗賊たちが床《ゆか》の上に大きな物音を立てて倒れ伏し、意識を失っていたのだ。
それだけではない。セシルの呪文は近くで見物していた店の客を数人巻き添《ぞ》えにしていたのである。
スレインは、思わず目を覆《おお》ってしまっていた。
それはレイリアにしても同様だったらしく、困ったような視線をスレインに向けていた。
そんな周囲の反応などまったく気付かず、当のセシルは勝ち誇《ほこ》ったように胸を張って立っている。
「スレイン師、みごと傷つけずに事を収めましたよ」
「いや、まったくだよ。ありがとう、おにいさん」
そう言ったのは、マールだった。彼はまわりで三人の盗賊たちが思い思いの格好で倒れているのを面白《おもしろ》そうに見回していた。中のひとりが間の抜けたいびきを立てている。
「今のは眠りの雲≠フ呪文だよね。初級の呪文だけど、強い力を持っているって聞いているよ。このロードス島の魔術師ギルドでも、この呪文は教えてくれるんだ」
感心したように言いながら、マールはスレインたちの方に弾《はず》むように歩いてきた。
「なぜ、おまえは眠っていないんだ」
あきれたようにセシルが、グラスランナーに言った。
「運が良かったんだよ、きっと。魔法の力ってやつは誰もが持っているものだもの。それが他の人からかけられた魔法を無効にするように働くときだってあるのさ。知らなかった?」
「オレは魔術師だぞ、それぐらい知っている!」セシルはむきになって答えた。
「そりゃそうだよね」
マールは事もなげにそう言うと、懐《ふところ》の中からセシルの財布を取りだした。
「お礼にこれは返してあげるね。本当は盗んでしまった時点で、僕の物になっているんだけど」
「当たり前だ」
セシルはもぎとるように自分の財布を取り返すと、ローブのポケットの中に無雑作に突っこんだ。
「ところで、あの人たちはどうしたものでしょう」
レイリアがスレインのそばに寄ってきて、うかがうように顔を覗《のぞ》きこんだ。
「まったく、どうしたものでしょうね。起こせば、また厄介《やっかい》なことになるでしょうし、かといってこのままにしておくのもまずい」
スレインは、ため息をついて考えこんだ。
騒動が終わったものと決めつけて、まわりの見物人が自分のテーブルのところに戻《もど》りはじめていた。何人かはスレインたちの方に非難《ひ なん》の視線をあびせながら、魔法で眠ってしまった仲間《なかま 》を抱きかかえるように、自分たちのテーブルのところまで運んでいる。魔法の効果が切れ、運んでいるうちに目覚める者もいた。
「いずれにせよ、この宿屋からは追いだされるでしょうね」
見物人たちが去った後、店の主人が怒りで顔を真《ま》っ赤《か》にして立っているのに、スレインは気が付いたからだ。
「そのようですね」レイリアも悲しげに微笑《ほ ほ え》んでいた。
「なぜですか? わたしたちは悪いことなどしていません」スレインの言葉に、セシルは憤然《ふんぜん》とした。
「したのですよ。無関係なお客まで魔法で眠らせておいて、何が悪いことなどしていませんです。あなたには、魔法以前に分別というものを教えないといけないようですね。その点においては、シーリスの指摘《し てき》はもっともですよ」
「しかし、わたしは……」
「言い訳しても駄目《だめ》ですよ。とにかく、二階にいる三人を呼んできてください。そして、眠っている方々をお起こしして、盗賊ギルドまで案内してもらいましょう。おそらく宝石のふたつみっつも渡してあげれば、彼らの怒りも収まることでしょう。それから、吟遊詩人《バ ー ド》のマールさんにも一緒《いっしょ》に来てもらいますよ。けじめはつけないといけませんからね。土地の盗賊ギルドに挨拶《あいさつ》してお金を渡してさえおけば、盗賊はどこで仕事をしても構わないと聞いていますからね」
「よく知っているねえ」感心したようにマールは首を横に振った。「魔術師ってのは盗賊ギルドの掟《おきて》まで知っていなくちゃいけないのかい?」
それからマールはぶつぶつと反論めいたことを言ったが、最後にはあんたたちはいい人みたいだから、と何とか納得《なっとく》してくれた。
「好きで覚えた訳ではありませんよ。盗賊ギルドとは何かと縁がありましてね」スレインはそれがさも疎《うと》ましいことのように、不快感をあらわにした。「まったく、カシュー王も何で盗賊ギルドなんかに……」
せめて、その理由を教えてくれてもよかったではないか。しかし、彼は楽しそうな顔をして、とにかく行ってみろ、としか言わなかったのだ。
スレインが盗賊ギルドの名前を聞いて脅《おび》えたような顔をしたので、それを面白《おもしろ》がっていたのはあきらかだった。カシューの悪癖《あくへき》である。真面目《まじめ》な人間や冷静な人間を見ると、からかいたくなる性分《しょうぶん》なのだ。
自分など平静を装っているだけの人間なのに、とスレインは心の中でつぶやいた。彼には傭兵《ようへい》隊長のシャダムという腹心がいるが、忠告を与える人間がもう少し必要なようだ、とふとそんな考えがスレインの脳裏《のうり 》に浮かんだ。
とにかく、今はカシューの言葉を信じるしかない。盗賊ギルドの長が、自分たちに惜しみなく協力してくれるような人物であれば、今の事件も大目に見てくれることだろう。
スレインはいつになれば自分が気苦労から解放され、のんびりと魔術の勉強に打ちこめるようになるのだろうと思い、その望みが達成されそうな様子もない現実に深々とため息をもらした。
3
盗賊ギルドは、ライデンの南の街外《まちはず》れにあるとのことだった。
南のモスヘと続く街道《かいどう》にそってしばらく進み、途中で路地《ろじ》に入ってきつい坂を登り、うら寂《さび》しい一画に案内された。
目の前に茶色の山地<泣宴Eザのなだらかな稜線《りょうせん》がすぐ間近まで迫っていた。振り返ると港の全景と入り組んだ海岸線をのぞむことができた。
はるかかなたにある水平線が、自分たちが今いる場所と同じ高さにあるような錯覚《さっかく》を受ける。ちょうど水面が水平線から海岸線まで下り坂になっているようで、海の水がこぼれ落ちてこないのが、不思議な気さえする。
「ここだ」
灰色の小さな建物の前まで来ると、三人組のひとり、最初にマールに飛びかかっていった男が、立ち止まってそう言った。後のふたりは仕事を続けるため、街中に残っていた。
「ふうん、意外に小さい建物ね」
シーリスは、盗賊ギルドの建物が民家ぐらいの大きさしかないのを奇妙《きみょう》に思った。これでは、大人《お と な》が十人も入れば、窮屈《きゅうくつ》なことだろう。それに、漆喰《しっくい》を塗《ぬ》った外壁《がいへき》は、黒緑色の苔《こけ》がむし、まるで廃屋《はいおく》のような雰囲気《ふんい き 》だった。
ライデンの盗賊ギルドは大きな勢力を持っていると聞いていたから、建物の貧弱さは驚きでさえあった。
入口のところには、二段ばかりの石段があり、そこに物乞《ものご 》いらしい身汚《みぎたな》い男が腰かけていた。おそらく、盗賊ギルドの門番なのだろう。
「どうしたい、ジェッド。後ろの連中は?」
物乞いがそう声をかけてきた。
「お頭《かしら》はいるかい?」ジェッドと呼ばれた男は答え、建物の方に顎《あご》をしゃくってみせた。
「いるぜ。だが、そいつらも一緒《いっしょ》なのかよ」
「なあに、大丈夫《だいじょうぶ》。こいつらは、お頭に用があってきたんだとよ。何でもフレイムの国王の紹介なんだと」
「フレイムの国王……だって」門番は一瞬《いっしゅん》、あっけに取られたみたいだったが、すぐに何かを思い出したらしく、大きくうなずいて納得《なっとく》した様子だった。
「それなら、いいだろう。お頭は自分の部屋にいるはずだ」
答えて門番は入口の扉《とびら》を開いた。
「じゃあ、通してもらうぜぇ」
ジェッドはシーリスたちに付いてくるように手で合図をし、自分はさっさと中に入っていった。
建物の中は、外とはうってかわって小綺麗《こ ぎ れい》なものだった。玄関《げんかん》から入ってすぐのところは、ちょっとした広間で奥に扉がひとつあった。部屋の両側に裸《はだか》の女性の彫像《ちょうぞう》が数体並んでいる。ドワーフが造った物らしく、本物の人間が、石化の魔力《まりょく》を持った魔獣《まじゅう》によって、姿を変えられたかのようだった。
レイリアが同じ事を考えたらしく、近寄って像に手を触《ふ》れている。
「どうでした?」と、シャリーがレイリアに尋《たず》ねる。
「彫像に間違いありません」レイリアは首を振って答えた。
ジェッドは、そんなシーリスたちの様子にはまったく無関心で、部屋の奥の扉を開けて、中に入っていった。
シーリスたちも、もちろん、後に続く。
そこは奥に窓があるだけのがらんどうの部屋だった。
「こんなところに案内してきて、どういうつもり!」
シーリスが腰の剣に手を伸《の》ばしながら、すごみをきかした声でジェッドを問いつめる。
「あわてるんじゃない。盗賊ギルドが陽《ひ》の当たる場所にあるわきゃないだろうが」
どういうこと、とシーリスは問いかえそうとしたのだが、その前にジェッドは部屋の真ん中でしゃがみこんで、床板《ゆかいた》に手を伸ばしていた。
どうやら、床板の一部がはずれるような仕掛《しか》けになっているようだ。それをはずすと、下から金属製の取っ手が姿を現わした。ジェッドが取っ手を力をこめて引きあげると、床板が音を立てて持ちあがり、ぽっかりと方形の穴ができた。
よく見ると、下に続く階段になっている。
「なるほど、さすが盗賊ギルドね。地下にあるってわけだ」
「そういうことよ。だが、他言《た ごん》は無用だぜぇ。もっとも、公然の秘密ってやつで、ライデンの人間なら、たいていこの事を知っているがよ」
そんなものだろう、とシーリスには彼の言う事は理解できた。盗賊たちは、こちらが普通に生活していれば、別に危険な存在ではない。豊かといえない者たちにとっては特にである。
階段は地下へと続いていた。地階はまるで地下道のような廊下が縦横《じゅうおう》に走っており、地上の建物の敷地とは比べようもないぐらい大きかった。
何人かの盗賊とすれちがったが、その度《たび》にシーリスたちは、怪しげな目付きで見られ、何者かと問いただされた。
そのつど、ジェッドはシーリスたちがフレイム国王の紹介でやってきたことを告げた。それだけで、相手は納得したので、カシュー王の話がでたらめではないことだけは確信できた。
廊下を三回ばかり折れて、豪華《ごうか 》な両開きの扉《とびら》の前まで来ると、ジェッドはここが長《おさ》の部屋だと、親指で二、三度指し示した。
そして、息を大きく吸って呼吸を整えてから、ジェッドは扉に向かって声を上げた。
「お頭《かしら》、ジェッドです。お頭に面会したいって人間を連れてきやした。フレイム国王の紹介だそうです」
「入りな」扉の中からくぐもった声が聞こえてきた。
「失礼しやす」ジェッドは扉に向かって小さく頭を下げてから、取っ手に手をかけ手前に引いた。
扉はほとんど音も立てず開いた。
「失礼します」
スレインもお辞儀《じぎ》をして、そのまま視線を上げることなく、ジェッドに続くように部屋の中に進みでた。そして、恐る恐るスレインは顔を上げた。
「あなたは!」
そして、盗賊ギルドの長《おさ》を目《ま》の当たりにして、スレインは絶句してしまった。
盗賊ギルドの長は、装飾《そうしょく》の多い豪華な椅子《いす》に腰を下ろしていた、限りなく白金色に近い金髪《きんぱつ》が、ゆるやかに巻いていた。やや長めのその髪を、ギルドの長は赤いバンダナを使って、額《ひたい》にかからぬようにしていた。
青い貴石のような瞳《ひとみ》が、驚きの色を隠すことなく見開かれ、スレインを凝視《ぎょうし》していた。
その隣に男がもうひとり立っていた。こちらは屈強《くっきょう》の戦士だった。まるで食人鬼《オ ー ガ ー》を連想させるような巨漢《きょかん》である。上半身は肩からたすき状に革製《かわせい》のベルトをかけているだけで、剥《む》きだしになった筋肉がみごとな盛りあがりを見せていた。血管の浮きでた赤銅色《しゃくどういろ》の肌《はだ》に、白っぽい傷跡が縦横に走っており、この戦士の戦歴をありありと物語っていた。
スレインの脳裏に懐かしい思い出が次々と浮かんできた。それは、砂漠《さ ばく》の蛮族《ばんぞく》炎《ほのお》の部族≠ニ戦った三年前の記憶だった。
「シュード……。いや、フォースでしたね。それに、マーシュも。お久しぶりです。まさかこんなところでお会いするとは……」
「それは、こっちの台詞《せ り ふ》だよ。スレイン」
フォースの端正《たんせい》な顔に浮かんでいた驚きの色が、やがて笑みに変わっていった。そして、この盗賊ギルドの長《おさ》は、机の上に両手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「フォースの言うとおりだぜ」
マーシュがどすどすと床板《ゆかいた》を踏みならしながら、スレインのところまでやってきて、彼の肩に逞《たくま》しい右手を置いた。
フォースもすぐにやってきて、スレインと三年ぶりの再会を喜びあった。
そんなスレインたちの様子を眺めながら、事情を知らない者たちは、唖然《あ ぜん》としていた。
「わたしたちにも、事情を聞かせてもらえないかしら」
スレインたちが勝手に盛りあがったので、シーリスはかなり気分を害しているようだった。シーリスの冷然とした声に、フォースがぎくりとした様子を見せた。そして、反射的に彼女から半歩ばかり身体《か ら だ》を遠ざけていた。
「あいかわらずみたいですね」
スレインはフォースが女嫌《おんなぎら》いだったことを思い出した。
「こればっかりはな」
フォースは苦笑いを浮かべてスレインに答え、彼の道連れをひとりずつ観察していった。スレインの妻であるレイリアは、スレイン同様よく知っていたし、若い魔術師《ソーサラー》も顔だけは覚えていたが、後の四人はまったくの初顔だった。
「ライデン見物にやってきた訳じゃなさそうだな。ま、立ち話もなんだから、場所を変えよう」
そう言ってフォースは、扉の前に進みでると自分に付いてくるように指で合図した。そのときでさえ、この端正な顔をした盗賊ギルドの長は、女性には三歩以上近づくことはなかった。
4
別室に移ったスレインたちは、お互いに仲間《なかま 》を紹介《しょうかい》しあった。
海竜亭での騒ぎについては、マールがライデンの盗賊ギルドに入会金を支払うことで決着がつき、マールは不承不承《ふしょうぶしょう》ながらも納得《なっとく》し、高価な宝石を一個、フォースに差し出した。
その件が落着《らくちゃく》すると、スレインはマールに帰っていいですよ、と言った。だが、マールはそれを不満とした。
スレインたちの話が面白《おもしろ》そうだと思ったからだった。吟遊詩人《バ ー ド》でもある彼の血が騒いだのだろう。どうやら、スレインたちのことを、どこかの国王の密偵《みってい》らしいと目星をつけたようだ。
あながち誤解だとは言えない。
マールは自分も話に加えてくれ、と頑強《がんきょう》に主張したのだが、さすがにこればっかりは認めるわけにはいかず、スレインたちは彼を部屋から追いだしてしまった。
それから、話は三年前に別れてからのフォースたちの活躍《かつやく》ぶりに移っていった。
炎の部族との戦いの後、フォースはマーシュと一緒《いっしょ》に、故郷であるここライデンヘと帰ったのだ。フォースは、孤児《こじ》だったのを盗賊ギルドの長《おさ》だった養父に拾われ、育てられたのだ。同じような境遇《きょうぐう》の兄弟がフォースの他に三人いた。
その話は、スレインも聞いたことがあった。その養父が手下の裏切りにあい、殺されてしまったこと。裏切者は新しい長となり、フォースたち兄弟に刺客《し かく》を差し向けてきたこと。
ふたりの兄は、その刺客の手にかかり、残ったフォースとすぐ上の兄サーディーは、名前を変え、フレイムの傭兵隊《ようへいたい》に加わり、刺客の目を逃れてきたのだ。だが、その兄サーディーは、フォースの身代りとなって、砂漠《さ ばく》の魔獣《まじゅう》砂走り≠ノ殺されてしまった。
それが、フォースに決断を下させたのだった。フォースは傭兵|仲間《なかま 》だったマーシュの手を借りて、裏切者を倒し、養父と兄弟たちの仇《あだ》を討つべく、ライデンに舞《ま》いもどったのだ。
「で、オレたちはその復讐《ふくしゅう》を果たしたってわけさ。裏切者の新しい長を快《こころよ》く思っていなかった者も多かったし、それにカシュー王がいろいろと協力してくれたおかげでな」
フォースは、そう話を締《し》めくくった。そして、これでサーディーも浮かばれたというものだとひとりつぶやいた。
「だから、カシュー王には借りがある。それにスレインの頼みなら、どんなことでも協力してやるさ。遠慮《えんりょ》せずに言ってくれ」
「そうですか、それでは遠慮せず……」今度は、スレインがフォースに、別れてからのことを説明する番だった。
アラニアの内戦のこと。ザクソンの村の独立のこと。そして今度の旅に出るにいたった理由。マーモの|騎士《きし》アシュラムと彼が狙《ねら》っている魔法の宝物、支配の王錫《おうしゃく》のこと。そして、話は、パーンとディードリットが現在、カシュー王と共に火竜山《かりゅうざん》の魔竜《まりゅう》シューティングスターと戦っていることにまで及んだ。
「パーンたちはあの|古 竜《エンシェント・ドラゴン》と戦っているのか!」
スレインから話を聞いたフォースは、スレインの途方《と ほう》もない話に圧倒されていた。
炎《ほのお》の魔神《ま じん》エフリートとの戦いでさえ、命がけの危険きわまりないものだったのに、今度は最強の魔獣《まじゅう》であるエンシェント・ドラゴンを相手にしようというのだ。しかも、同じ目的を抱いてマーモの竜殺し≠ェ動いているという。
「狂気の沙汰《さた》だぜ!」マーシュがたまらず叫んだ。
「どう考えたって勝ち目はねぇ。アシュラムって野郎がドラゴンに負けることを期待するしかないぜ。そうでなければ、カシュー王|自《みずか》らにお出まし願うかだ。あの王なら、剣対剣の戦いなら、誰とやったって負けやしないからな」
「もっともです。しかし、一国の王ともなれば、簡単に動くわけにはいきませんからね。それに、わたしはもうひとつ恐れていることがあるんですよ」
「恐れている?」フォースが眉《まゆ》をぴくりと動かした。
「ええ。カシュー王が野心的な人だとは思っていませんが、パーンほど純粋《じゅんすい》でないのも間違いありませんからね。自らが支配の王錫《おうしゃく》を手にしたとき、その力を使わないという保証がどこにもないんですよ。パーンはカシュー王なら大丈夫《だいじょうぶ》だって言うんですがね。わたしには、どうも」
「しかし、スレイン。今ここにいる人間だって、実際にその宝物を手に入れたとき、欲に目がくらまないとは限らないぞ。何しろ目指すお宝は、ロードス島、いや、この世界全体が手に入るかもしれない代物《しろもの》なんだからな」
「フォースの心配はもっともですよ。ですが、問題の宝物には所有者を選ぶという伝説がありましてね。力なき者が手にしたときは、所有者自身を滅《ほろ》ぼすのだそうです。真偽《しんぎ 》は分かりませんが、古代王国時代に作られた強力な魔法の品々には、たいてい護《まも》りの魔法がかけられているものですから、おそらく真実と考えてよいでしょう。さて、この中で自分を本物の勇者だと断言できる人がいますか? 護りの魔法に打ち勝ち、宝物の魔力を自分の手にできる人がいますか? 賭《か》けるものは自分の命なのですよ」
スレインがそう問いかけて、室内にいる一同を見回した。スレインの視線を受けた者は、皆《みな》、首を振ったり、苦笑いを浮かべたりした。
「というわけです。情けない話ですが、わたしたちぐらいで、ちょうどいいんですよ」
「だが、パーンは、あいつは本物の勇者かもしれないぜ。それにディードリットだって、エフリートを押《おさ》えこんだぐらいの実力の持ち主だ。それに、あんたやレイリアだって、勇者の資質《し しつ》は十分にある」
「わたしがですか?」フォースの言葉は、スレインには思いもよらないものだった。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。わたしは臆病《おくびょう》ですからね。命を賭けてまで、自分の資質を試そうとは思いません。それにロードス島であれ、世界であれ、支配したいなどと考えたことだってありません。妻のレイリアもマーファの信者です。人を支配するなど大地母神の法に反した行為《こうい 》をするはずがありません。ディードリットにしても、ハイ・エルフなのですから、人間の世界の支配にはまったく興味がないでしょうね。問題なのはパーンぐらいですが、あの戦士がロードス島を支配したいのなら、それはそれで構《かま》わないような気もしますね。もっとも、知識の神ラーダの名にかけて、ありえないことだと断言できますけどね」
「オレもそれに関しては、スレインと同意見だ。何なら、全財産を賭けてもいいぜ」マーシュが、そう言って豪快《ごうかい》に笑った。
「そいつは、賭けにならないな。ようするに、自分を勇者だと主張できない連中が、本物の勇者を相手に戦いを挑《いど》もうっていうわけだ。それ見ろ。やはり、勝ち目がないじゃないか」
フォースはため息をつきながら、自分がかけている長椅子《ながい す 》に深々と身体《か ら だ》を預けていった。
「どうする、マーシュ?」天井《てんじょう》が見上げるような姿勢のままで、フォースはマーシュに尋ねた。
「ギルドの人間に話をするわけにはいかないな。だったら、オレたちふたりで手伝ってやるしかあるまい。留守は幹部の誰かに頼んで……」
「だが、例の海賊船の問題はどうする? ライデンの盗賊ギルドの掟《おきて》は、陸だけにあるわけじゃねぇ。ライデン沖の海でだって、勝手な盗みをさせるわけにゃいかない。それにせっかく一味《いちみ 》の隠れ家を見つけてきたっていうのによ」
「なんですか、その海賊船とかいうのは?」スレインが興味にかられて、フォースに尋ねてみた。
「ああ、こっちの問題なんだがよ。他所《よそ》から海賊船が一|隻《せき》このライデンに出張《でば》ってきやがったんだ。このライデンの盗賊ギルドは、昔から海賊たちも仕切《しき》っていてな。勝手な掠奪《りゃくだつ》は許していないわけよ。その掟を破りやがった他所者にどういう制裁《せいさい》を加えてやろうか、とフォースと相談していたところだったのさ。幸《さいわ》い、相手の隠れ家を手下が見つけだしてきたんで、そこを襲撃《しゅうげき》するつもりだったんだが……」
「何か、問題があるのですか?」
マーシュが言葉を濁《にご》したので、スレインが不審《ふ しん》に思い尋ねた。
「つまり、盗賊たちは戦いには向いていないってことさ。ひとりひとりを闇《やみ》に葬《ほうむ》ることなら、得意なんだがな。オレたちが前の長《おさ》を殺して盗賊ギルドを取り返したとき、戦いに長《た》けた盗賊たちの多くが命を落としたもんでな。戦える奴《やつ》が極端《きょくたん》に少なくなっているんだ。それに、暗殺者《アサッシン》たちをギルドから粛清《しゅくせい》したこともあってな」
フォースが、長椅子から上体を起こして、マーシュの代りに答えた。
「オレたちは、今、義賊団《ぎ ぞくだん》を目指《めざ》しているんだ。オレたちは持っている奴からしか金を巻きあげない。そして、それを派手《はで》に使う。そうすりゃ、金の回り方も少しは平等になるってもんだ。それに、盗むときに人を傷つけたりするのも厳禁《げんきん》にした。同時に暗殺の請負《うけお 》いもな」
「しかし、いかにオレたちが義賊を目指しているからといって、掟破《おきてやぶ》りまで見逃しちゃ逆効果ってもんだ。さっきのグラスランナーぐらいなら大目にも見られるが、問題の海賊は許すわけにはいかねぇ」
マーシュは力説した。
「つまり、その海賊たちと戦って、勝てるかどうかが問題なんですね」
「情けねぇ話なんだがよ」
マーシュは渋《しぶ》い顔でスレインの言葉を認めた。
「だったら、交換条件といかない」
いきなり話に割りこんできたのは、シーリスだった。それまで、つまらなそうにスレインたちの話を聞いていたのだが、ついに我慢《が まん》ができなくなったのだ。
「海賊退治にはわたしたちが協力してあげるわ。その代りあなたがたも、水竜エイブラと戦うときには力を貸してちょうだい。それで、五|分《ぶ》よ」
「でも、シーリス。わたしたちは、それでなくてもアシュラムたちに出遅れているのよ。海賊退治なんかに関わっている余裕《よ ゆう》はないわ」
そう反論したのは、シャリーだった。そして、他の人の意見を求めるように、一同を見渡す。彼女は海賊退治など正義ある戦いでも何でもない、と言いたげだった。
「海賊たちの隠れ家は、ここからどれぐらいなんだ」
オルソンが腕を組みながら、フォースに尋ねた。
「半日ばかり西に行ったところだ」
フォースはやや不機嫌《ふ き げん》そうに答えた。ふたりの女に意見を出されたのが、癇《かん》に障《さわ》ったのだ。
「受けるつもりなの?」
シャリーが驚いたように、オルソンの無表情な顔をまじまじと見つめた。
「今の話を聞いて受けてもいいと思った」オルソンはそうシャリーに答えた。自信のようなものがうかがえる答え方だった。
「簡単なことさ。まず、問題の海賊とやらを退治する。そして、オレたちはそのまま相手の海賊船に乗って、青竜の島まで渡ってしまうんだ。これなら、船を調達する必要さえない。もちろん、一度はライデンの港に寄って、専門の船乗りを集めないといけないだろうけどな。船で使われている漕《こ》ぎ手だって、この航海《こうかい》が終われば自由になると分かれば、別に文句を言ったりはしないだろう。何なら、賃金を支払ったってかまわない。そのために、カシュー王から費用を預ってきてるのだから」
「スレインとレイリアの強さは十分、承知しているが、他の奴《やつ》らは大丈夫なのかい?」
「あら、それはこちらの言い分よ。こちらが頭を下げるだけの価値があなたがたにあるかどうかも分からないのよ」
マーシュの言葉にシーリスが挑戦的《ちょうせんてき》にやりかえした。
「それを見極《み きわ》めるためにも、海賊たちは手頃《て ごろ》な相手だろう」
オルソソが話を締《し》めくくるように、そう言った。
「わたしは海賊退治なんてごめんですよ。海賊相手に、万が一のことがあれば取り返しがつきませんからね」
スレインは思わぬ話の成り行きにかなり渋い顔をしていた。
「そう言えば、スレインは無駄《むだ》な争いはしない主義だったな」
マーシュがスレインの性格を思い出して、ガハハと豪快《ごうかい》に笑う。
「そういう主義なのですよ」
「しかし、力になってもらう以上、こちらも誠意《せいい 》を見せないと」
シーリスはもはややると心に決めているようでむきになってスレインに反論する。
「オレもそう思う。それに、このメンバーで水竜に挑《いど》む以上、実戦なれしておくことも重要だ。相手が相手だけに、戦士たちと魔法使いたちの息があっていないことには……」
オルソンの言葉にスレインは大きく首を振って、深くため息をついた。その意見に一理あることは、認めないわけにはいかなかった。
「いいでしょう。あなたがたがそこまで言うなら、反対はしません。ですが、わたしはあくまで海賊退治には参加しません。ここであなたがたが帰ってくるのを待っていますよ。どうせ、船乗りたちを集めるために誰かが残らなければなりませんからね。船は手配しませんので、かならず船ごと戻《もど》ってきてくださいよ。勢いあまって、船を焼いたりしないようにお願いしますからね」
そのスレインの言葉に、一同がどっと笑った。
「まあ、スレインやレイリアに出張《でば》ってもらうほどの相手じゃないさ。たかが海賊が数十人、ここにいる人間だけでもおつりがくるさ。それにこのギルドからも、二十人ばかり手勢を出すつもりだしな」
フォースがこんどこそ話を打ち切りにしようと、長椅子《ながい す 》から立ち上がって、オルソンに握手を求めかけた。
と、その表情が引き締《し》められた。
「誰だ!」
叫んで、扉《とびら》に向かって飛ぶように移動する。そして、叩《たた》きつけるように、扉を押し開けた。
そこにいたのは――
「マール!」
シーリスがフォースの背中ごしに驚きの声を上げていた。
「おまえ、まだいたのか?」フォースも唖然《あ ぜん》としていた。
「出て行け、とは言われたけど、外にとまでは言われなかったからね」
平然とマールは答え、会心《かいしん》の笑みを浮かべながら部屋の中に入ってきた。
「話を聞いていたのですか?……と、言うまでもありませんね」スレインは、マールの言い草にあきれはてたように言った。話が終わるまで、彼が盗み聞きしているのに、誰も気が付かなかったのだ。
「あなたの本業は、どうやら盗賊のようですね」
「そんなことないよ。本業はやっぱり吟遊詩人《バ ー ド》さ。でも、盗みだってするし、それに戦うことだって苦手じゃない」
「つまり、足手まといにはならないということですね」
「そういうこと。とにかく、あんたたちはロードス島の運命を賭《か》けた冒険《ぼうけん》に出かけるんだろ。こんな機会を見逃したとあっちゃ、吟遊詩人の名折れだからね」
マールは心底、得意気だった。
「そこまで聞いたのなら、容赦《ようしゃ》はできないな。商売が吟遊詩人とあれば、口止めしたところで無駄だろう。このギルドからは生きて帰すわけにはいかない」
フォースの透《す》きとおった声が、殺気をはらんで低く響いた。
「自分の軽率《けいそつ》さを呪《のろ》うんだな」
マーシュが心得《こころえ》たとばかり、ギラリと鋭い光を放つ大剣を構えて、扉のところに立ち塞《ふさ》がった。
「殺す必要はないだろ」
シーリスがマールを庇《かば》うように、両手を広げて彼の前に立った。
「立ち聞きされていたのに気がつかなかった、わたしたちが間抜《まぬ》けなんじゃない。それに、これぐらい腕が立つなら、連れていけばきっと役に立ってくれるわ。そうは思わない、スレイン?」
「それはどうか分かりませんが、無用な殺生《せっしょう》は好みじゃありません。事が終わるまで監禁《かんきん》していてもいいですが、今の手際を見るとどうぜ逃げられてしまうでしょう。ならば、監視するぐらいのつもりで、海賊退治に連れていくしかないでしょうね」
スレインの言いようは、ほとんどなげやりだった。
だが、彼の提案にフォースは同意してくれた。
「いいだろう。オレたちが、義賊団《ぎ ぞくだん》で本当に命拾いしたな。だが、戦《いくさ》となれば、敵は容赦《ようしゃ》してくれないぞ。せいぜい頑張《がんば 》って働いて、生き延びることだな」
「もちろんさ。でないと、みんなの英雄譚《えいゆうたん》が唄《うた》えなくなってしまうからね」
皮肉《ひ にく》のこもったフォースの言葉など、マールはまるで意に介《かい》していないようだった。
「わたしたちは疲れていますから、出発は明日以降にしてもらいたいものですね。それも、あまり遅くないほうがいいのですが……」
「つまり、出発は明日にしろってことだな」スレインの意味するところを理解して、フォースはにやりと笑った。
「いいだろう。こっちも準備をしておこう。それから、宿屋から追いだされたんなら、このギルドに泊まったらいい。ちゃんと泊まれる場所を用意するから。それから、明日の景気付けといこうじゃないか」
「ヒョーッ!」フォースの言葉に、マーシュが奇声《き せい》を発し喜びをあらわにした。
シーリスとマールも歓声《かんせい》を上げている。
オルソンとシャリーも表情こそ変えていないが、今の提案には賛成のようだった。
さっき宿屋の酒場で飲んで騒いだばかりなのに、とスレインはあきれかえっていた。
「お世話になります。でも、わたしはなんだか、疲れてしまいました。ここは若い人たちだけで盛りあがってください。お酒はあまり好きではありませんしね」
だが、その言葉が耳に入っているかどうか疑わしい、とスレインは思った。シーリスたちは、フォースやマーシュ、それにマールと一緒《いっしょ》になって、まるで十年来の仲間《なかま 》のように打ち解け、騒いでいるからだ。
スレインは、そんな彼らの浮かれように一抹《いちまつ》の不安を覚えつつも、巨大な敵に勝つためにもっとも必要なものを彼らは持っているのかもしれない、と考えていた。
5
ささやかな宴《うたげ》は、夜半まで続けられた。
オルソンはさすがに意識が朦朧《もうろう》としているのを感じていた。マーシュらが勧めるままに酒を飲んで、さすがに酔いがまわっているのだ。まるで頭の中に靄《もや》がかかったようなものだ。視線がまったくといっていいほど定まらず、目の前がぐるぐると回っていた。
オルソンの視線の先にはベッドがあり、幸せそうな寝息を立てている者がいた。
シーリスだった。今は鎧《よろい》も、綿入《わたい 》れも脱いで、薄い赤色の衣服だけが彼女の身体《か ら だ》を包んでいる。裾《すそ》の短い服で、白い太股《ふともも》が薄闇《うすやみ》の中に鮮《あざ》やかにオルソンの目に飛びこんできた。オルソンはゆっくりと手を伸ばして、シーリスの身体の上に毛布をかぶせてやった。
シーリスはオルソン以上に酔っていた。マーシュに挑発《ちょうはつ》されて、いつもの倍以上は飲んでいた。最後の方はろれつもおかしくなり、さかんに頭を叩《たた》いては酔いを冷まそうとしていた。
宴がお開きになって、シーリスは与えられた部屋に一旦《いったん》は帰ったのだが、しばらくしてからオルソンの部屋に押しかけてきたのだ。そして、オルソンに向かって、いろいろと文句を並べたあげく、彼のベッドで寝入ってしまったのだ。
やむなく、オルソンはもう一枚あった毛布にくるまりながら、シーリスの安らかな寝顔をながめながらぼんやりとしていたのだ。
若い娘が男の部屋に押しかけ、ましてやそのまま眠ってしまうなど、無防備にもほどがあるな、と常識的な考えがふと浮かんできた。しかし、シーリスは常識という言葉とは無縁の女性だし、それにオルソンが感情に乏《とぼ》しいことも知っていたので、間違いなど起こるはずないと確信していたのだろう。
それどころか、シーリスはそのことにも文句をつけた。挑発的な姿勢をとって、わたしを見て何も感じないのかとさえなじった。もちろん、何も感じるはずはなかったのだが、彼女のそういった仕草《し ぐさ》には、色気よりも彼女の年齢に相応《ふ さ わ》しい愛くるしさのほうが目立った。
オルソンでなければ、抱きついていったに違いない。結局、オルソソが誘惑《ゆうわく》に負けなかったことが癪《しゃく》に障《さわ》ったらしく、シーリスは根性《こんじょう》なしとかそれでも男かとわめいたものだ。そしてその後、いきなりオルソンの頭を胸に抱えると、お姉さんぶった調子で、何でもいいから感情を思いだしなよ、と諭《さと》してきた。怒り以外の感情なら何でもいい。誰《だれ》かを好きになることでも、何かを楽しいと感じることでも。悲哀や嫉妬《しっと 》など感情と呼ばれるものはたくさんある。そのどれでもいいから感じてよ、とまるで懇願《こんがん》するように話しかけてきた。
シーリスは精神の精霊《せいれい》に関する話を、ディードリットからいろいろと聞きだしているようだった。
正常な人間の心にも、精神の精霊が働いていること。恐怖《きょうふ》の精霊シェード、好奇心《こうき しん》の精霊レプラコーン。怒りの精霊ヒューリーや悲しみの精霊バンシーといった精神の上位精霊の力も、影響《えいきょう》を与えている。複数いるこれら精神の精霊が均等《きんとう》に働いているかぎり、それは異常な状態ではない。しかし、何かのきっかけで、精神の精霊の均衡《きんこう》が狂うことがあるのだそうだ。
体内の精霊の力が乱れると、人は病気と呼ばれる状態になる。精神の精霊の乱れは、心の病《やまい》に冒《おか》されたということだ。オルソンは怒りの精霊の力が強くなりすぎたために、他の精霊の働きが押《おさ》えられてしまっているのである。
ふつうなら、狂戦士《バーサーカー》と化して死んでしまうはずなのだ。だが、オルソンは違った。発作にみまわれないかぎり、怒りの精霊を心の底に押しこめているのである。
その理由は誰にも分からない。
怒りの精霊が他の精神の精霊たちを押《おさ》え、オルソン自身の意志力がその怒りの精霊を押えているので、結果としてオルソンは感情に乏《とぼ》しい人間となっているのだ。
オルソンが怒り以外の感情を感じられるようになりさえすれば、正常な人間に戻《もど》れるとシーリスは信じきっており、事あるごとに物事を心で感じとれだの、理屈《り くつ》で考えるななどと口うるさく言うようになっていたのだ。
年齢はオルソンよりふたつも年下のくせに、最初に出会ったときから、シーリスは年上ぶった態度を取ることが多かった。出会ってしばらくしてから、彼女に問いつめられて、自分の身の上話をしてからというもの、その態度ははっきりとしだした。だが、そのことでオルソンは、シーリスの隠された優しさを知った。
だが不思議なもので、それ以来オルソンの方でも、容姿や性格など似ているところとてないシーリスに、死んだ姉の面影《おもかげ》を意識するようになった。
シーリスと共に行動するようになったのは、そんな理由からだ。そして、一緒《いっしょ》に行動するにつれ、不思議なことではあったが、彼女に対し離れがたいと思う気持ちが芽生《めば》えていた。自分にないものを持っているという憧《あこが》れからか、それとも彼女の魅力《みりょく》を自分が理解しているからか、その理由は分からない。
自分の奥深い心理にまで、オルソンは踏みいったことはなかった。ただ、自分の心の中にある異物感だけは、拭《ぬぐ》いようがなく常に意識の片隅《かたすみ》にあった。それが、ディードリットの言う怒りの精霊であるかどうかまでは分からない。だが、思い起こせば、あの発作《ほっさ 》が起きる前には必ず語りかけてくるものがある。
それまでは、自分の心の声だと思っていた。それが、怒りの精霊だとするならば、自分はこの得体《え たい》の知れない精神の精霊とどう対決すればいいのだろうか。
「やってみるか」
オルソンは酔いのため、ややうわずった声でつぶやくと、ある試《こころ》みをこの場でやってみようと決意した。いつもなら絶対にするはずのない試みである。
例の発作が起こる前には、オルソンはかならず姉の殺された場面を思い出している。あの時の記憶が心の中で膨《ふく》れあがると、やがて頭の中が真《ま》っ赤《か》になってきて、後は前後不覚に陥《おちい》るのだった。
それを自分の意志で試してみようと思ったのだ。
オルソンは、村に妖魔《ようま 》の集団が襲《おそ》ってきて、姉と一緒に納屋《なや》に隠れたところから、順に思い出していった。やがて、隠れ場所を見つけられ、姉が短剣《ダ ガ ー》を振りかざしてゴブリンに向かっていったこと。そして、涙を流しながら奮戦《ふんせん》する姉の姿。それは今でも目に焼きついている。しかし、及ばず傷つき地面に倒れた姉をゴブリンどもは|小 剣《ショートソード》でめった突きにし、そして切り刻んだのだ。姉の美しい肌《はだ》に汚《きたな》らしい刃《やいば》が突き刺さり、真っ赤な血が溢《あふ》れでた。その度《たび》に姉は苦痛の叫び声をあげた。
それでも、姉は最後までオルソンの事だけを思ってくれていたのだ。オルソンに何があっても生きのびるように言い続け、その力になれなくなった自分を恥《は》じるように詫《わ》びさえした。全身を切り裂かれる苦痛の中で、最後にオルソンに向かってごめんね、と。そして姉はこときれた。
姉は自分にとってかけがえのない女性だった。美しかった姉は、オルソンの自慢《じ まん》でもあった。また、小さい頃に母親を失っていたオルソンにとって、その身代りを務めてもくれた。
そんな姉を無残に、理不尽に、あのゴブリンどもは惨殺《ざんさつ》したのだ。
よくも! よくも!!
怒りがふつふつと湧《わ》きあがってきた。オルソンは自分の意識が遠退《とおの 》いていくのを意識した。やがて、怒りが心の中に溢《あふ》れかえり、オルソンの自我さえも押し流そうと暴れはじめた。
しまったと思ったが、気が付いたときにはもはや暴走しはじめた怒りを押《おさ》えることができなくなっていた。
「怒れ……すべてを……壊《こわ》すのだ」
そして、それ[#「それ」に傍点]がオルソンに語りかけてきた。
「怒れ……壊せ……」
その心の声に呼応するように、例の奇声が洩《も》れはじめているのをオルソンは自覚した。
「おまえが怒りの精霊なのか!」
薄《うす》れゆく意識の中で、オルソンは思い出した。
この言葉に突き動かされて、あのとき、オルソンはゴブリンに襲《おそ》いかかっていったのだ。姉から手渡された短剣を手にして。そして、ゴブリンたちが姉に与えた運命を、そのまま奴《やつ》らに返したのだ。
「怒れ……壊せ……」
声はいつのまにか心の中いっぱいに巻き起こっていた。おまえの姉は殺されたのだぞ、おまえのもっとも大切なものは失われたのだぞ。
リィィ……リィィィ……
心が赤く染まり、高揚した意識が今にも自分の頭を打ち砕いて外に溢《あふ》れだしそうだった。
「怒れ……壊せ……」
オルソソは狂気に燃えあがった視線を、ゆっくりと目の前のベッドに向けた。そこには、若い女が眠っていた。
オルソンの両手が固く組まれ、その手がゆっくりと振りあげられた。空気を揺《ゆ》るがせるような熱気と力が、そこには蓄《たくわ》えられていた。
その両手の下に、小さな女の顔があった。このまま振り下ろせば、確実にそれは粉砕《ふんさい》されるはずだった。
リィィィ……
オルソンは女の顔に狙《ねら》いをつけた。
「怒れ……破壊しろ……」
「違う!!」
オルソンはぜいぜいと荒い息をしながら、シーリスの安らかな寝顔に視線を注《そそ》いでいた。すでに、あの声は頭の中から消え去っていた。
「危ないところだった……」
青ざめた顔で、オルソンはつぶやいた。あやうくシーリスを殺してしまうところだったのだ。
オルソンが叫んだとき、身体《か ら だ》をもぞもぞと動かしたシーリスだったが、ふたたび規則正しい寝息をたてはじめていた。
オルソンは酔いが吹き飛んだことと、全身を襲う疲労感を意識した。
「そういえば……」そして、もうひとつ思い出したことがある。
最初の発作《ほっさ 》から目覚めたとき、自分は原形さえ跡を留めぬゴブリンどもの肉塊《にくかい》の中に倒れていた。そして、目の前に姉の顔があった。驚いたことにその顔は安らかであった。まるで眠っているかのようだった。自分が慕《した》い、愛し続けていた姉の端正《たんせい》な顔が痛みや恐怖に歪《ゆが》むことなく、そのままの形でそこにあったのだ。
今はシーリスの寝顔がそこにあった。死んではいない。若い生気に満ちて、その顔は静かな寝息を立てていた。
オルソンはいつのまにか足元に落ちていた毛布を拾いあげると、それを背中からかけて、胸の前にかきいだいた。そして、その毛布にくるまるように、固い床《ゆか》に身体を横たえた。
そして、危険すぎるこの試みは二度とすまい、と心に誓《ちか》いながら、全身に漂《ただよ》う脱力感に身を任せるように、深い眠りの中に自《みずか》らを誘《さそ》っていった。
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第X章 敗 北
1
「なぜ、それを早く言わん」
激怒《げきど 》したアシュラムの声が、岩屋の中に響きわたった。
その声が岩屋の岩肌《いわはだ》に反響《はんきょう》し、マーモの騎士《きし》であり、軍船海魔《かいま 》の角《つの》号≠フ船長でもあるアルハイブの耳を何重にも打った。
アシュラムの怒《いか》り、それは彼らが隠《かく》れ潜《ひそ》むこの洞窟《どうくつ》の近くに怪《あや》しい人影《ひとかげ》があったという報告がなされたからだ。それも二日も前の話である。その人影は見張りの姿を見つけると、大慌《おおあわ》てでライデンの街の方向に逃げもどったという。
何人か追っ手をかけたのだが、恐ろしく逃げ足の速い奴《やつ》で、捕《つか》まえることができなかったのだ。
「お怒りはごもっともですが……」
アルハイブは別に悪びれた様子はない。
「相手が誰《だれ》だか分からんのです。こちらから変に仕掛《しか》ければ、かえって怪しまれるというもの。そのままにしておいた見張りの判断も、あながち間違《ま ちが》いとは言えますまい」
「見張りの判断などどうでもいい。問題はなぜそんな大事な報告がわたしの耳に届いていないかということだ」
アシュラムたちが、海魔の角号の隠《かく》れ家となっている洞窟に到着《とうちゃく》してから、すでに一週間が過ぎようとしている。にもかかわらず、青竜《せいりゅう》の島へと向かうための準備はまだ終わっていなかったのだ。
掠奪《りゃくだつ》した宝物の量があまりに多すぎたためである。一度にすべてを運ぶことはとてもできない量だった。今度の冒険《ぼうけん》が成功に終われば、海魔の角号はそのままマーモヘと帰還《き かん》せねばならないのだ。
そのときに待っているのは、長い航海である。食糧《しょくりょう》も水もふんだんにいる。航海に必要な食糧や飲料水を積みこめば、これまでに奪《うば》った宝物の半分も載《の》せることができない。どれを積んでいくかを選ぶのに時間がかかっているのである。
アルハイブは積み残した宝物も打ち捨てておくつもりは毛頭なかった。この近くに適当な隠し場所を見つけ、そこに宝物を移動する作業も必要なのだ。しかも、青竜の島のエイブラを退治すれば、さらに莫大《ばくだい》な富が入ってくるというのだ。その宝物をどうするかも、アルハイブには悩《なや》みの種だった。
別にマーモがロードス島を支配しなくとも、これで十分に王侯《おうこう》貴族の生活が約束《やくそく》されているのだ。アシュラムの命令に従い、あくせくと働く気にもならない。アルハイブの顔には、そんな表情がありありと出ていた。
それを見て、アシュラムの怒《いか》りは頂点に達した。思わず右手が腰《こし》に下げた|大 剣《グレートソード》に伸《の》びていた。だが、この男を切ったところで状況《じょうきょう》は変わらない。また、金の亡者のような男ではあるが、船乗りとしての経験は無視するわけにいかない。アシュラムが聞いた話では、青竜の島の付近には暗礁《あんしょう》が多く、危険な海域でもあるのだそうだ。
「よかろう」怒りを押《おさ》えこんで、アシュラムは言った。
「こうなれば青竜の島への出港準備を急ぐしかあるまい。この隠《かく》れ家を見つけた奴《やつ》が、どんな者かは分からんが、ライデンの私兵が攻《せ》めこんでくるかもしれん。もし、そうなったら、せっかく集めた宝物もすべて水泡《すいほう》に帰してしまうぞ」
最後の言葉がきいたのか、アルハイブも不承不承といった感じでうなずいた。
「分かりました。出港は三日後ということにしましょう。残りの宝はこの近くに隠し、いずれマーモがライデンに進軍してきたおりにでも、引き上げることにしましょう」
「二日にしろ。それ以上は待てん」
「分かりました……。水夫どもに急がせましょう」
アルハイブは肩《かた》をすくめてから、うやうやしくアシュラムに礼をした。
不満を残しながら、アルハイブは部屋《へや》を去っていった。入れ替《か》わりに、戦の神の司祭ホッブが姿を現わした。
「どうも、あの男には堂々たるところがありませんな」ホッブは冷然とアルハイブが去っていった方向を見やりながら、アシュラムに話しかけた。
「まったくだ。あれが敵の|騎士《きし》であれば、歓迎《かんげい》したいところだがな」
アシュラムの口許《くちもと》にも冷たい笑みが浮《う》かんでいた。
「あの男だけに任せておくのは、危険でございましょう。ここは信頼《しんらい》できる者を見張りに立てて警戒《けいかい》しておきませんと。わたしの勘《かん》ではまず間違いなく何者かが攻めよせてきますな」
「勘か……。神託《しんたく》とかいうやつではないのか?」
アシュラムの問いかけに、ホッブは軽く笑った。
「そう呼んでも差し支えありません。戦《いくさ》の前になると、うなじの毛が逆立つような感じがするのです。まるで、戦の緊張《きんちょう》の中に身を置いているかのように。ちょうど、今、アルハイブの背中を見ていて、そんな感じに襲《おそ》われました」
「オレもあいつを見ていると、同じような感じがするよ。もっとも、オレのうなじの毛が逆立つのは、戦のときではなく、ゴブリンどもの体臭《たいしゅう》を感じたときだがな」
そして、アシュラムの高らかな笑い声が岩屋の中に響《ひび》いた。
アシュラムたちが潜《ひそ》む洞窟《どうくつ》から東、ライデンの街中に、スレインとレイリアのふたりの姿はあった。
オルソンたちは、その日の朝早く、盗賊《とうぞく》ギルドの手勢と共に海賊《かいぞく》たちの隠《かく》れ家へと向かっていた。晩にはライデンの港に戻《もど》ってくる、とマーシュは豪語《ごうご 》していた。それまでに、船乗りを集めておくことがスレインたちの仕事だった。街中を歩いていると、仕事にあぶれている船乗りたちが意外に多いことが分かった。戦のせいで、ほとんどの船が出港を控《ひか》えているためである。運ぶべき商品が不足していることも、それに拍車《はくしゃ》をかけていた。
憂《うれ》うべき事態ではあったが、スレインたちにとっては好都合と言わざるをえなかった。オルソンたちにすこし遅れて盗賊ギルドを出たスレインたちであったが、昼を過ぎた頃《ころ》にはだいたい必要な数だけの船乗りを集めることができた。
その船乗りたちには、夕方までに、港に集まるように指示しておいた。
そして、スレインはレイリアと共に、遅《おそ》い昼食を取りおえたところだった。隣《となり》で、レイリアが食後の祈《いの》りをマーファに捧《ささ》げている。同じテーブルの向かい側には、船乗りらしき男たちが数人ほどいて、酒を飲みながらたわいのない話に興じている。
「うまく人が集められてよかったですわね」レイリアが食後の祈りを終えて、スレインに話しかけてきた。
「ええ。ですが、問題なのはオルソンたちの方ですからね。たかが海賊と侮《あなど》っていると、思わぬ不覚を取りかねません」
「やはり、ついていったほうがよかったのでは……」
「無駄《むだ》な争いなどごめんですよ」スレインは、悲しそうな微笑《ほ ほ え》みを浮かべた。「皆はわたしのことを北の賢者《けんじゃ》などと讃《たた》えてくれますが、とんでもない。ただの臆病者にすぎません。パーンがいなかったなら、今でもザクソンの片田舎《かたい な か》で、ロードス島の混乱に背を向け暮《く》らしていたでしょう」
「そうでしょうか」レイリアも微笑んでいたが、その顔にはスレインに対する深い愛情が満ちていた。
「勇気にはふたつの形があるとわたしは思っています。ひとつは危険に対して積極的に向かっていく勇気です。たとえば、戦士たちが持っているような。こちらの勇気は、誰が見てもあきらかだといえましょう。しかし、もうひとつの勇気の方は、ふだんは決して表われません。なぜなら、それは自分のいちばん大切なものを守るときにだけ発揮されるものだからです。たとえば、母親が子供を守るとき。人間が自らの尊厳や信念を守るとき。マーファは、そういった勇気こそ大事だと、教えていますわ」
「わたしにはそんなものはありませんよ」
「あら、あなたはもしものときに、わたしを守ってくださらないの」
「何を言ってるんです。あなたを守らねばならないときなどあるものですか。マーファヘの信仰《しんこう》や自ら積んだ修練があなたを守ってくれますからね。だから、こんな危険な旅にでも、安心して連れてこれるのです」
レイリアは微笑《ほ ほ え》んだだけで何も答えなかった。
「あまり恥《は》ずかしいことを言わせないでください。それより、今はオルソンたちの無事を祈《いの》っておきましょう。彼らが海賊《かいぞく》を無事、退治できるように。そして、ひとりの怪我人《け が にん》もないようにね」
それは、先程、マーファに祈っておきました、とレイリアが答える。
と、突然《とつぜん》、向かい側の船乗りたちから声がかかってきた。
「さっきから、話を聞かしてもらってたんだが、あんたらの仲間は、もしかして海賊退治に出かけたのかい?」
その声にスレインは、船乗りたちの方をうかがった。
「盗《ぬす》み聞きしたみたいで悪かったがよ」と、人のよさそうな船乗りが頭を掻《か》いている。
「聞かれても、困る話ではありませんからね」スレインはそれが何か、と男に言った。
「いや、あんたらの仲間のことが心配なのよ」
「心配?」
「ああ、心配さね。今、噂《うわさ》の海賊を退治に行ったてんだろ。その海賊って、あれはマーモの私略[#「私略」に「ママ」の注記]船[#「私掠」の誤記]だぜ。乗っているのもただの海賊じゃなく、訓練を受けた正規の兵士だ。賞金目当てで行ったんなら、痛い目に遭《あ》うのが落ちだぜ」
「あなたはなぜ、それを?」スレインが椅子《いす》から立ち上がって、男のそばに近寄っていった。
「いや、オレが乗っていた船が、あいつらに襲《おそ》われたのよ。オレは泳ぎに自信があったんで、海に逃《に》げこんで助かったがね。あいつらは、マストに堂々とマーモの紋章《もんしょう》を掲《かか》げてやがった。投石機《カタパルト》や衝角《ラム》で武装《ぶ そう》しているし、軍船でもなければ歯が立たないだろうなぁ」
「それは本当ですか!」スレインは、愕然《がくぜん》となって叫《さけ》んだ。
「本当だとも。あんたがたをかついだって得するわけじゃないからな」
スレインには、男の言葉などほとんど耳に入っていなかった。頭の中に不吉な考えが、次々と浮《う》かび、それは望みもしないのに勝手に膨《ふく》らんでいった。
スレインは海賊たちがマーモ軍の手先だったことで、衝撃《しょうげき》を受けたわけではない。いかにマーモの正規兵とはいえ、私略[#「私略」に「ママ」の注記]船[#「私掠」の誤記]船の乗員ならば、海の上での戦いしか慣れていないだろう。それ以外の状況《じょうきょう》ならば、歴戦の傭兵《ようへい》であるオルソンやシーリス、そしてフォースが後《おく》れを取るとは思えない。
問題なのは、そこにアシュラムたちがいた場合なのだ。その可能性は少なくない。何しろ、マーモの軍船がわざわざライデンまで乗りだしているのだ。おそらく、青竜《せいりゅう》の島へと渡《わた》ることを考えてだろう。
もし、アシュラムたちがいたら、彼ら若者たちだけで勝つことができるだろうか? 冷静な目で見るならば、それは極めて難しいとしかいえなかった。
「あなた、どうします」レイリアの声も悲痛だった。
「これから行っても間に合うものですか」スレインは唇《くちびる》を噛《か》みながら言った。「彼らを信じて待つしかありませんよ。それに救援《きゅうえん》に行くにしても、わたしたちふたりだけでは勝ち目がありませんからね。数日後には、フレイムの傭兵団《ようへいだん》がやってきます。その中から手勢を借りなければならないでしょう。フォースにしろ、オルソンにしろ、引き際《ぎわ》は心得ているはずですから、それに期待するしかありません。問題はセシルやシーリスが無茶をしないことですが……」
スレインは振《ふ》り返って、厳しい視線で西の方を見つめた。そこには、酒場の石壁《いしかベ》が見えるばかりで、オルソンの姿も洞窟《どうくつ》の風景もあるはずがなかった。
2
「いたいた」
遠目のきくフォースが、満足そうにうなずいていた。
「報告のとおり見張りはふたりだ。他に姿はない」
オルソンたち一行は、昼過ぎには目指す海岸に到着《とうちゃく》していた。隠《かく》れ家を見つけだしたという盗賊《とうぞく》を案内に立て、見張りに見つからないように慎重《しんちょう》に進んでいた。
「敵も海賊《かいぞく》だ。見張りの視力はたいしたもんだろ。先に見つけられたら、まずいところだったが、まずはこちらの先勝だな」
フォースは、後続のオルソンたちに身体を伏《ふ》せて待機しておくように指示した。
「待つのはいいけど、あの見張りはどうするの?」
シーリスも、ささやき声でフォースに尋ねる。
辺りは岩場で、身を隠す場所はふんだんにあった。だが、これから先、敵に気付かれずに移動するのは至難の業だろう。
「眠ってもらうしかないだろうな」フォースは、意味ありげな笑いを浮《う》かべた。
「オレの魔法《ま ほう》はもっと近付かないとかけられないぞ」
「しっ! 声が高いよ、セシル。何もあんたに魔法をかけろだなんて言ってないだろ。眠らせるといったって、文字どおりの意味じゃないんだから」
シーリスが、小馬鹿《こばか》にしたような口調《くちょう》で言った。
「そういうことさ。ここは盗賊の仕事だろう。もっとも、オレひとりじゃ同時にふたりは倒《たお》せないがな。おい、マールとか言ったな。おまえ、忍《しの》び足は得意だろう」
フォースは、このグラスランナーが自分たちの話を立ち聞きしたときのことを思い出していた。
「もちろん」マールは元気よく、しかし小声で答えた。
「なら、一緒《いっしょ》に来い」
「あいよ」
「オレたちが見つけられたら、すぐ援護《えんご 》に来てくれよ」
フォースはオルソンにそう言い残すと、マールを引き連れて音も立てずに前進し、ひとつ先の岩陰《いわかげ》に移っていった。
「大丈夫かな」シーリスがオルソンに尋ねたが、オルソンは首を横に振って、肩をすこし動かしただけだった。
「ここは彼らに任せるしかないな。しかし、盗賊ギルドの長《おさ》、忍び歩きは得意だろう。それに、あのグラスランナーだって、腕利《うでき 》きの盗賊のようだ。信じて待つしかないな。そして、いざというときのために、準備はしておかないと……」
「そうね。待つしかないか」自分を納得《なっとく》させるかのように、シーリスはつぶやき、岩陰から岩陰ヘスルスルと移動するフォースたちの動きと、見張りたちの様子を交互《こうご 》に見やった。
彼女の目には、海賊の見張りなど小さな点にしか見えなかった.あれが人間だとよく見分けられたものだと驚嘆《きょうたん》する。盗賊たちの目は暗闇《くらやみ》をも見通すとよく言われているが、彼らの視力は尋常《じんじょう》なものではないらしい。
岩陰から岩陰へと移動する動きにしても、見事なものだった。見張りのところまでは、身を隠《かく》せるほどの大岩が随所《ずいしょ》にあるものの、その間を移動するには、どうしても自分の身体を晒《さら》さねばならない。
足場だって良いとはいえない。
しかし、彼らはまるで磨《みが》かれた大理石の上を滑《すべ》るように、腰《こし》を屈《かが》めたままの姿勢で、音も立てずにすばやく渡っていくのだ。
シーリスは盗賊たちをただのゴロツキの集団だと軽く見ていた。だが、それが間違《ま ちが》いであることを認めない訳にはいかなかった。彼らは高度な技術を持つ職人と同じだった。手練《てだ》れの傭兵《ようへい》と何等《なんら 》変わるところがない。
しばらくすると、フォースたちの姿も見張りと同様、点になっていた。もはや、どういう状況《じょうきょう》なのかシーリスの目ではうかがいしることはできない。だが、彼らはまだしくじってはいない。それだけは、確信できた。
「任せるしかないか」シーリスはそっとつぶやいた。
だが、その頃《ころ》、フォースたちは行きづまっていた。
敵の見張りにはまだ気付かれていない。しかし、彼らの身を隠してくれるような大岩は、もはやなかった。
見張りのところまで、まだ三十歩ばかりはあった。その間は、どうしても自分の姿を晒すことになる。いかに盗賊とて、これでは見つけられないはずがない。
どうするか。フォースは、身を隠《かく》している岩の冷たさを右腕《みぎうで》に感じながらじっと考えこんだ。彼の後ろには、マールが縮こまっている。
「考えたって仕方がないよ。後は堂々と行くしかないさ」マールが小声でフォースの背中に向かって声をかけてよこした。
「それじゃあ、今までの苦労が水の泡《あわ》だろうが。ここから、短剣《ダ ガ ー》で相手を仕留める自信はあるか?」
「この距離《きょり 》で? 無理に決まっているじゃないか。あんたはできるのかい?」
「いや、オレにも無理だ。届くかもしれないが、一撃《いちげき》で仕留めないと意味はないからな。一万回に一回ぐらいしか成功しないだろう」
「やるの? 成功すれば金貨を一万枚あげるよ」マールは珍《めずら》しく意地の悪そうな声を出した。
「おまえには、考えがあるのか」
「だから、堂々と行くしかないって言ってるじゃないか。僕《ぼく》が出るよ。堂々と出ていけば、向こうは案外、大声を上げたりしないもんさ。それも、小さい僕なら、なおのことね。そう思わないかい?」
マールは自信たっぷりの様子だった。
「ここから短剣を投げるよりかは、見込《みこ》みはあるな。いいだろう。ここはおまえに任せよう。成功したら、金貨を十枚やろう」
フォースはマールと位置を入れ替《か》わりながら、ニヤリと笑ってみせた。
「それは多すぎるよ。二枚でいい」マールは答え、愛敬《あいきょう》のある丸顔に満面の笑みを浮かべた。
「その顔は、盗賊にとって十分な武器だな」
フォースはグラスランナーの背中をポンと叩《たた》いた。
それが合図であったかのように、マールはすっくと立ち上がると、手を後ろに組んで岩陰《いわかげ》から姿を現わした。
ゆっくりと散歩でもするように、マールは見張りの立つ大岩へと近づいていった。
フォースはその様子を見守りながら、身体の前で腕を交差させて、腰《こし》に吊《つ》るしてある二本の|小 剣《ショートソード》の柄《つか》を握《にぎ》りしめていた.
その小剣の一本は、彼を庇《かば》って死んだ兄サーディーの形見の品であり、もう一本は砂塵《さ じん》の塔≠フ宝物庫で手に入れた魔力《まりょく》を帯びた小剣である。
背中には|両手持ちの細剣《エ ス ト ッ ク》も用意してあるが、今の彼の戦法はこの二本の小剣を両手で使うことである。
十歩ばかり歩いたところで、見張りのひとりがマールの姿を見つけた。
「なんだぁ」と、間の抜《ぬ》けた声をその男は上げた。その声を聞いて、もうひとりの男もマールの存在に気がついた。
「なんで、子供がこんなところにいるんだ」
「それは、こっちが聞きたいぐらいだぜ」
などと、ふたりはマールが近寄ってくるのを気にもしないで、そんな会話を交わしていた。その隙《すき》にマールはスッと動いて五歩ばかり距離《きょり 》をつめた。見張りのいる岩まで、ちょうど半分ぐらいのところまできた。
「おい、おまえ。こんなところで何をしているんだ」
男が疎《うと》ましげにマールに声をかけてきた。
「海鳥の卵を探しているんだ。おじさんたちもだろ?」マールはそう言って、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「海鳥の卵ぉ?」男のひとりがすっとんきょうな声を上げた。
「そうさ。とっても栄養があるんだぜ。ここは、僕の穴場でめったにやってこないんだけど、おじさんたちに見つけられちゃったのかぁ」
マールは人間の子供のふりを見事に演じていた。吟遊詩人《バ ー ド》だけじゃなく、役者の心得もあるみたいだな、とフォースが岩の後ろで感心していた。
フォースの目には、背中に回されているマールの手に、いつの間にか短剣《ダ ガ ー》が二本|握《にぎ》られているのが見てとれた。
「へえ〜。栄養がねえ。でも、このあたりにゃ、海鳥の巣《す》なんてなかったぜ」言いながら、見張りのひとりが岩から飛びおりてきた。
「それより、後ろに隠《かく》しているのは、その卵とやらだろ。オレに見せてくれるよな」
男はうすら笑いを浮《う》かべていた。その腰《こし》にはカトラスが吊《つ》り下げられている。船乗りたちがよく使う刀身の曲った小剣である。特に帆船《はんせん》に乗りこむ船乗りは、緊急《きんきゅう》の場合に帆綱《ほ づな》を切断する必要から、必ずといっていいほど携帯《けいたい》している。
しかし、この男のカトラスは、綱ではなく獲物《え もの》となる船の船員を切り殺すためのものだろう。今は僕を切るためかな、とマールは心の中でつぶやいた。
「取っちゃやだよ。これは、僕の夕食なんだから……」
言いながら、マールの手がすばやく前に差し出された。
と同時に、その手の先からは白く光る物が放たれていた。
それは目の前の男にではなく、岩の上で中腰になって、ニヤニヤ笑いを浮かべているもうひとりに向かって飛んでいた。
「なんだぁ」
目の前の男はとぼけた声を上げて、岩の上を振り仰《あお》いだ。
と、何か赤いものがボトボトと落ちてきた。それが相棒の喉《のど》からあふれでた血だと理解することは、男には永久にできなかった。それよりも前に、男自身の喉元も真横に切り裂《さ》かれ、笛《ふえ》のような音を立てて、空気と鮮血《せんけつ》とを同時に噴《ふ》きだしていたからである。
頭が不自然な角度で後ろに傾《かたむ》き、男は頭頂部から岩に倒れていった。何かが砕《くだ》けるグシャッという音が、マールの耳に聞こえてきた。
「いつのまに……」
と、驚《おどろ》きの声をあげていたのは、他ならぬマールだった。
なぜなら、目の前の男を倒《たお》したのは、マールではなかったからだ。いつ岩の陰《かげ》から躍《おど》りでてきたものか、フォースが魔法《ま ほう》の|小 剣《ショートソード》の方を使って、マールの短剣よりも早く、男を始末していたのだ。
「油断も隙《すき》もないんだねえ」
マールは珍《めずら》しく真顔になっていた。
「盗賊《とうぞく》には油断も隙もないものさ。さからうもんじゃないぜ」
「そうだったね」そう言ったときには、すでにマールはいつもの人なつっこい顔に戻《もど》っていた。
「スレインの忠告を聞いておいてよかったよ」
「お互《たが》いにな。さ、他の連中を呼ぼう。後は力|押《お》しで片をつければいいからな」
しかし、そんなフォースたちの行動を最初から最後まで残らず見届けていた男がいることには、さすがのふたりの盗賊たちも気がついていなかった。
フォースたちが手を振《ふ》って合図を送ってくるのを見届けてから、した。オルソンたちは移動を開後ろに続いている盗賊ギルドの襲撃隊《しゅうげきたい》も、それまで隠《かく》れ潜《ひそ》んでいた岩陰から姿を現わし、フォースたちのいるところまで音もなく進んでいく。
「わたしもスレインの意見に賛成したくなったわ」シーリスは毛皮でできたブーツの先を岩に取られないように注意を払《はら》いながら、オルソンに話しかけた。
「盗賊ギルドには逆らわないことにする。できれば関わりあいにはなりたくもないわね」
「オレは前からそう思っていたさ」
オルソンは答えた。
「だったら、最初からそう言いなよ。嫌《いや》なものは、嫌ってさ。理屈《り くつ》じゃなく、感情で考えなって言ってるだろ」
オルソンのすましたような答が気に入らず、シーリスは文句を言っていた。
言ってしまってから、気がついたことがある。
オルソンは果たして理屈で行動しているのだろうか。
オルソンは自分の言うことには何でも従ってくれているではないか。自慢《じ まん》ではないが、シーリスは理屈に合わないところが多い。そんな自分の言うことに、なぜオルソンは従っているのだろう。
それこそ、理屈に合わないことではないか。
これは十分に検討してみる価値があるわね、とシーリスは心の中にその考えをそっとしまいこんだ。
3
「敵だぁ!」
急を告げるあわただしい声が洞窟《どうくつ》の中に響いたとき、アシュラムは海魔《かいま 》の角《つの》号の船室の中にいた。
すでに戦いの準備をあらかた終えている。
漆黒《しっこく》の甲冑《ス ー ツ》に、裏地に蠍《さそり》の刺繍《ししゅう》が入ったビロードの真っ赤なマント。そして、左の腰《こし》には魔法の|大 剣《グレート・ソード》魂砕《たましいくだ》き≠ェ下げられている。長い金属製の鞘《さや》の先端《せんたん》は、波の揺《ゆ》れに調子を合わせて船室の床板《ゆかいた》をトントンと叩《たた》いていた。
「ホッブの忠告を聞いておいて正解だったな。グローダーを見張りに立てたおかげで、外の馬鹿騒《ば か さわ》ぎに加わらずにすんだ」
戦《いくさ》の神の司祭から、こて[#「こて」に傍点]を受《う》け取りながら、アシュラムはそう言って、冷たい笑いを浮《う》かべた。アルハイブやその手下どものあわてふためく様が目に見えるようだ。
地上の入口付近ではすでに戦いが始まっているらしく、金属の打ち合う音や断末魔の悲鳴が遠く交錯《こうさく》し響いてくる。
「なかなかに素早い動きをする敵のようですな」
ホッブも外で起こっている騒動《そうどう》など気に止めていないかのようであった。これから宴《うたげ》にでも出かけるような風情《ふ ぜい》でゆっくりと戦支度《いくさじたく》をしているアシュラムの手伝いをしているだけである。
室内にいるのは彼らふたりだけではなかった。
共に旅をしてきたふたりの戦士、ギルラムとスメディ。魔術師《ソーサラー》のグローダー。ダークエルフの魔法戦士アスタール。そして、ファラリスの司祭ガーベラも、それぞれ戦いの準備を終えて傍《かたわ》らに控《ひか》えている。
「誰が来ようとかまいやしないね」女戦士スメディが筋肉の盛りあがった腕《うで》を組みながら、あざけるような言葉を吐いた。腰に下げた二本のブロードソードが小さく音を立てている。
「余裕《よ ゆう》だな、スメディ。だが、おまえでは絶対に勝てない敵がひとりいたよ。そいつも女戦士なんだがね」
そう言ってグローダーは、咳《せ》きこむような忍《しの》び笑いを洩《も》らした。
「あたしが勝てないだって!」
色めき立って、スメディは黒装束《くろしょうぞく》の魔術師を睨《にら》みつけた。
「ああ、勝てないとも。何しろ、その女戦士は細っそりとした赤毛の娘《むすめ》。若さでも、美貌《び ぼう》でもすべて向こうが上だ。おまえを見て、欲情する男はいまいがな。そいつは違《ちが》うぞ」
グローダーの言葉に一同が笑い声を上げる。ただ、ひとり巨漢《きょかん》の戦士ギルラムを除いて。
「スメディの肉体、美しい、思える」
半裸《はんら 》の戦士はまったくの真顔だった。
マーモの中央部に広がる闇《やみ》の森を住みかとする蛮族《ばんぞく》の出のギルラムは、たどたどしい言葉でしかしゃべれない。しかも、部族語のなまりがひどい。
「ありがとうよ、ギルラム。でも、あたしは美しくなくったってかまいやしないのさ。強ければそれでいい。男に力で負けぬために、鍛《きた》えた身体なのさ。女らしさなんて残っているものか」
スメディは、本当に平気な様子だった。
「戦士は強さがすべてさ。それを証明してやるよ。その赤毛|娘《むすめ》はあたしの相手だからね。もっとも、あたしが出るまで、生きていればだけどね」
「生きているだろうさ。裸《はだか》にひん剥《む》かれているかもしれんがな」と、ファラリスの司祭ガーベラが笑う。床《ゆか》に立てた長槍《ロングスピア》に、身体をあずけるように立っている。
他の神の司祭では考えられぬ言葉ではあるが、ファラリスの教えはすべての欲望に対して忠実であれ、である。自らの思うことを語り、自らの望むことをなせばよいのだ。
彼らの教えに否定はない。完全な自由だけが存在するのだ。
「スメディの楽しみがなくならんように、我々も出かけることにしようか」
アシュラムは一同に号令をかけると、先頭に立って船室の扉《とびら》を押《お》し開いた。
「宝だけは何があっても守るんだぞ!」
アルハイブは金切り声を上げていた。
敵の動きはあまりに迅速《じんそく》だった。アルハイブが襲撃《しゅうげさ》を知る前に、敵は洞窟《どうくつ》の中に深く入りこんでおり、不意をつかれてあわてふためく船乗りたちに襲《おそ》いかかっていたのだ。
中には武器さえ帯びていない者もいた。味方は次々と殺されており、いったい何人が殺されたのか、アルハイブにもまるで見当がつかなかった。
しかし、そこは訓練されたマーモの兵士である。反撃《はんげき》の準備も次第に整いつつある。洞窟の地上近くに取り残された者も多いだろうが、その者たちはあきらめ、近くにいた者だけに号令をかけ、宝物が積みあげられている岩屋で迎え撃つ態勢を整えた。
「侵入者《しんにゅうしゃ》の数は!」
アルハイブは見張り頭《がしら》に向かって怒鳴《どな》りつけた。
責任はすべてこの男にある、とアルハイブは頭の禿《は》げあがった見張り頭を憎々《にくにく》しげに睨《にら》みつけた。もし、宝物が少しでも奪《うば》われたら、この男を切り刻んで魚の餌《えさ》にしてやろうと心に決めた。
「分かりやせん。でも、こちらより多いとは思えません」
見張り頭は、額に汗《あせ》をかきながら答えた。
「分からないだと。侵入者をむざむざ入れておきながら、分からないで済むと思うか!」
あきらかに職務|怠慢《たいまん》である。すべてはこの男の責任なのだ。自分には少しも責任はない。アルハイブはそう考え、そして、自らの考えに満足した。
アルハイブは遅《おく》れてやってきた切りこみ頭に向かって、侵入者をひとり残らず始末しろと厳命した。
自分には船を守らねばならない使命があるから。彼は集まった配下にそう言い残すと、足早にその場を立ち去った。
彼が去ったほんのすぐ後に、敵はやってきた。
「ようやく、こちらに気付いたようね」
急な下り坂になった狭《せま》い洞窟をシーリスたちは降りきっていた。すると、少し先に広間のようになった場所があり、そこに、敵が集合しているのが目に入った。
シーリスはこれまで、ただ遊げ惑《まど》うだけの海賊たちを、先頭に立って次々と切り捨てていた。簡単すぎる仕事だった。たとえ、左手で剣を振るっていたとしても、結果は同じだったに違いない。
だが、ようやく敵は反撃《はんげき》の態勢を整えたようだった。
「数がけっこういるけど。どうする、オルソン?」
調子に乗っているな、とオルソンはシーリスの言葉からそのことを知った。だが、この女戦士は調子に乗れば乗るほど剣《けん》の腕《うで》も冴《さ》え、視野も広がっていくようなのだ。
「誰かが切りこんで道を開くしかないだろう」
オルソンはシーリスが望んでいるとおりの答を返してやった。
「そうよね。そして、それはわたしたちの仕事よね」
「もちろんだとも」
言いながら、オルソンはシーリスよりも半歩だけ先に出た。
彼の方が楯《たて》も持っていれば鎧《よろい》だって頑丈《がんじょう》である。飛び道具で|攻撃《こうげき》されたらかわしようのない狭い自然の通路なのだ。
案の定、弩弓《クロスボウ》から弓が何本か射かけられてきた。オルソンは、そのうちの一本を楯で弾《はじ》きかえし、残りは甲胃《ス ー ツ》に当たるに任せた。
そのうちの一本が、彼の右の太股《ふともも》に突き刺さったものの、残りはすべて甲冑の表面を滑《すべ》り、洞窟の内壁《うちかべ》にぶちあたっていった。
太股の傷も問題にならないぐらいに浅いようだ。オルソンは楯を持った左手で、鎧に突き刺さったままの矢を引き抜いた。
一方、シーリスは彼女の方に向かってきたうちの一本を剣で叩《たた》き落とし、もう一本は身体をのけぞらせるようにしてかわしていた。
そして、二の矢が射かけられるより先に、ふたりは岩屋へと躍《おど》りこんだ。
数十人ばかりが、そこに集まっていた。もちろん、ふたりだけでは勝てない数だ。しかし、後ろから盗賊ギルドの襲撃隊とセシル、シャリーの魔法《ま ほう》使いたちが続いているのを、ふたりは承知していた。
ほんの少しの間だけ敵を混乱させていれば、それで事は足りるのだ。
気合いの入った声を上げながら、シーリスは剣《けん》を縦横に振《ふ》るった。
彼女は速さを優先させた戦い方をする。敵が切りつけてくるより速く相手を切り倒《たお》す、それが彼女の剣技なのだ。だから、彼女の剣はふつうのより、やや軽いめに作ってあるし、鎖《くさり》かたびらもあまり頑丈《がんじょう》な物を使っているわけではない。
一方のオルソンは、技よりも力を重視した戦いぶりである。
身体が傷つくことなどまるで意に介《かい》さないように、弱い一撃や急所をはずしている攻撃ならば、避《さ》けようともしない。頑丈な板金鎧《プレートメイル》に全幅の信頼《しんらい》を置いているのか、それとも痛みや死を恐《おそ》れていないのか。正面から剣を叩《たた》きつけ、力で圧倒《あっとう》する。勢いのついた彼の剣を受け止めたり、受け流したりするのは、相当な手練《しゅれん》が必要だろう。
ふたりの異なるタイプの戦士は、群がる海賊《かいぞく》たちをまったく寄せつけなかった。
「おらぁ〜!」
そこに、大声を上げてマーシュが突《つ》っ込んできた。マーシュは、海賊たちの集団に向かって、両手に構えた魔法の|大 剣《グレートソード》を大きく横に振るった。
かたまりすぎていたことが災《わざわい》して、誰もそれを避けることができなかった。カトラスで受け止めようとした者もいたのだが、マーシュの怪力《かいりき》から繰《く》りだされる魔法の大剣の前では、小振りのカトラスなど木の棒とすこしも変わるところがなかった。
胴《どう》を切断され、三人の海賊が岩の上に転がった。噴《ふ》きだした血が岩の間を伝って、川のように流れていった。
と、今度は薄暗《うすぐら》い洞窟《どうくつ》の中を閃光《せんこう》が走った。閃光はまっすぐに伸《の》びて、ひとりの海賊の胸を打った。古代語《エンシェント》魔法のひとつ、光の矢の呪文《じゅもん》であった。
呪文の犠牲《ぎ せい》となった海賊は、不気味な悲鳴を上げながら胸を押《おさ》えて岩の上を転げまわった。
「わたしはスレイン師とは違う。正義のためなら、破壊の魔法を使うことも厭《いと》わないのだ」
セシルがそう息まきながら、岩屋の中へと駆《か》けこんできた。賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を左手に持ちかえ、右手には|小 剣《ショートソード》を握《にぎ》りしめている。
「使えるの?」
シーリスが、噴きだしそうになるのを堪《こら》えながら、セシルに尋ねた。正義だとか、破壊の魔法だとか大げさな物言いが、おかしかったのだ。
「パーンに習った」
セシルは答え、突っこんできた海賊のひとりと剣を交えた。
甲高《かんだか》い金属音が響き、セシルの|小 剣《ショートソード》と海賊のカトラスがぶつかりあった。セシルは魔術師ながら体力もある。戦いなれた海賊《かいぞく》相手でも、少しも力負けしていなかった。勇敢《ゆうかん》というか、無謀《む ぼう》というか、とにかく怖《こわ》いもの知らずの戦い方だった。
しかし、パーンから基本の型だけでなく、実戦向けの戦い方をみっちり仕込まれているらしかった。海賊が相手ならば、十分な腕前《うでまえ》とみえた。
やるじゃない、とシーリスは素直にそう思い、この若い魔術師をすこしだけだが見直すことにした。
すこし遅《おく》れてフォースと、それに盗賊ギルドの襲撃隊が到着した。その頃《ころ》には海賊たちの数はかなり減っていたが、それでも味方の数よりやや多いぐらいだった。
「次から次へと、よくいるものね」シーリスは荒い息をつきながら、隣で剣を振るっているオルソンにこぼした。
オルソンも肩《かた》で息をしていたが、まだ平然としたものだった。新たな敵を見つけては、挑《いど》んでいくのである。普段《ふ だん》から狂戦士《バーサーカー》のように疲《つか》れを知らないのね、とシーリスはなかばあきれ顔で、オルソンの戦う姿を見つめた。
わたしはすこし休ませてもらうわよ、とシーリスは勝手に決めた。疲れたまま戦っては、思わぬ不覚をとることがある。そうなってからでは、取り返しがつかない。
自分は役目を果たしたのだから、とシーリスは自分自身を納得《なっとく》させ、乱戦が続いている場所から遠ざかった。
海賊にしては、敵の反抗《はんこう》は予想外に激《はげ》しかった。こちらも無傷というわけにはいかず、盗賊ギルドの襲撃隊の中にはかなりの被害《ひ がい》が出ている様子だった。
マーシュやフォースは、もと傭兵《ようへい》というだけあって、乱戦にも慣れているのだが、やはり盗賊は正面からの戦いには向いていないようだった。数十人の人間が入り乱れた中では、敵の攻撃《こうげき》を避《さ》ける場所にだって事欠くし、ひとりにだけ神経を集中させることなどとてもできない。
フォースの心配は的確だったわね、とシーリスは彼の冷静な判断ぶりを賞賛した。同時に彼らの戦いぶりにも満足していた。合格点を与《あた》えてよい戦いぶりだった。|大 剣《グレートソード》を振《ふ》りまわすマーシュと、二本の|小 剣《ショートソード》を巧《たく》みに使いこなすフォース。タイプこそまるで違うが、ともに手練《てだ》れの戦士であることは間違いがない。たしかに勇者といえるような戦いぶりではなかったが……
「でも、十分に魅力《みりょく》的よ」シーリスは乱れた呼吸を整えながら、戦いつづける戦士たちの姿にじっと見入っていた。
岩屋から逃《に》げるように戻《もど》ってきたアルハイブと、アシュラムたちとが出会ったのは、ちょうど船の甲板《かんぱん》でのことだった。
彼のあわただしい歩き方から、洞窟の中での戦況《せんきょう》がアシュラムにはだいたい分かった。陸に上がっていた船員たちは、おそらく侵入者《しんにゅうしゃ》を防ぎきれぬだろう。
「これは、アシュラム様……」
アシュラムとはちあわせして、アルハイブはこれ以上ないというぐらいに狼狽《ろうばい》していた。
悪いのはオレではない、見張り頭なのだ。そう自分に言い聞かせて、何とか心を鎮《しず》めようとする。
「敵が来ているようだな。アルハイブ」
アシュラムが声をかけてきた。その声は感情を押《お》し殺しているようで、それがかえって不気味であった。仮面のように白い顔からは、いかなる思考も感情も読み取ることができなかった。
自分に非はないのだ。祈《いの》りの言葉のように、アルハイブは心の中で繰《く》り返した。
「はい。しかし、今、切りこみ頭が中心となり、迎え撃っております。間もなく侵入者どもは血祭りに上げられるでしょう」
「真《まこと》かな?」
戦の喧騒《けんそう》が地上へと続く洞窟《どうくつ》の方から、この船のところまで届いてきていた。その物音にはアルハイブの言葉を肯定《こうてい》するようなものは、何ひとつ伝わってきていない。
寄せ手の声ばかりが、威勢《い せい》よく響いてくるだけだった。
「おまえには、もはや利用価値がないかな」独り言のように、アシュラムは言った。
その声は、まるで彼が所有する魔剣《ま けん》魂砕《たましいくだ》き≠フ刀身のように暗く冷たかった。
「落度があるとすれば、見張り頭に」
アルハイブは反射的に答えていた。額を冷たい汗《あせ》が伝っていくのが、妙《みょう》に生々しく意識された。
「そうかもしれんな」
アシュラムはそう言い残しただけで、アルハイブの脇《わき》をスッと擦《す》り抜けていった。真紅のマントが、畏《かしこ》まって頭を下げているアルハイブの頬《ほお》を小馬鹿《こばか》にしたようになぶった。そして、彼の伴《とも》の者たちが次々と通りすぎていった。
「そんなに頭を下げるんじゃないよ。思わず切り落としたくなっちまうじゃないか」
女戦士のスメディが、すれ違《ちが》いざまアルハイブの首筋をポンと叩《たた》いた。
「敵を侵入させた落度は見張り頭に。侵入者を倒《たお》せぬならば、その責任は切りこみ頭に」頭を上げることさえできぬまま、アルハイブは何度も何度もそう繰り返した。
「あらかた片が付いたみてぇだな」
マーシュの全身は、返り血と汗とで濡《ぬ》れ、湯気を立てていた。
「そのようだな」答えるフォースの方は、あまり乱れた様子はなかった。金色の巻き毛もいつもどおりに収まっていたし、息こそ荒《あら》いが声も美しく澄《す》んでいた。
マールと同様、彼も吟遊詩人《ぎんゆうし じん》の経験があるとのことだった。彼らはいかに疲《つか》れていようと、声を嗄《か》らすことはないらしかった。
「いや、まだ奥《おく》の方に何人か残っているだろう。ここには海賊《かいぞく》の船長らしい男の死体もないからな」
オルソンは、地面に跪《ひざまず》くようにして辺りに散らばった死体を調べていたが、ふたりの会話を聞くと、立ち上がってそう言った。
「どこかに逃げたんじゃない」
シーリスは岩屋の片隅《かたすみ》に山と積まれた財宝や頑丈《がんじょう》そうな樫《かし》の木のテーブルに目をやっていた。
「ところですごい財宝だけど、これは誰の物になるの?」
「当然、盗賊《とうぞく》ギルドの物だ。だが、みなにも規定の分け前が配られることになるさ。ちょっとした財産になるだろうさ」
フォースが答え、感心したようなあきれたような顔で、膨大《ぼうだい》な量の財宝を眺《なが》めわたした。
「海賊ってのは儲《もう》かるもんだな」
マーシュは濡《ぬ》れた身体や血のりの張りついた|大 剣《グレートソード》の刀身を手拭《て ぬぐ》いで無雑作に拭っていた。
「財宝を眺めるのは後でもできる。とにかく、生き残りがいないかどうか調べよう。のんびりしていると、船に乗って逃げられるかもしれないからな」
オルソンは財宝などまるで関心がないようだった。宝物などでは彼の心は揺《ゆ》さぶられないらしい。
だったら、何が目的で行動しているのだ。シーリスの頭の中で、さっきの疑問がふたたび浮《う》かんでいた。一度、本人に尋ねてみようか、とも考えたが、今はまだそれどころではない。海賊船を奪《うば》ってライデンの港に帰ってからでも、遅《おそ》くはないのだ。
「オルソンの言うとおりよ」そう判断すると、シーリスはすぐにその疑問を頭の奥《おく》に追いやった。そして、莫大な財宝に浮かれている盗賊たちを横目にまっすぐにフォースのところまで、歩みよった。
「スレインとの約束《やくそく》は海賊船を奪うことだったんだから、まだ役目は終わってはいない。違《ちが》うかしら」
「違ぇねぇ」マーシュの豪快《ごうかい》な笑い声が、岩屋の岩肌《いわはだ》を震《ふる》わせた。
「分かったよ」と、フォースも応じた。
「おまえたちの腕前《うでまえ》も分かったし、十分に満足もした。後は早く仕事を終わらせて、青竜《せいりゅう》の島に渡ればいいさ。もっとも、手下をこれ以上失いたくはない。それにあいつらは宝物を見つけて気が抜《ぬ》けているだろうしな」
「そうでしょうね。船へはわたしたちだけで行きましょう。たぶん、この洞窟《どうくつ》の奥に行けば、海まで出られるはずよ」
シーリスはそう言って、岩屋の奥に続いている洞窟を指差した。そして、先頭に立って薄暗《うすぐら》い洞窟の中へと踏《ふ》みこんでいった。
4
シーリスの予想どおり、洞窟《どうくつ》は緩《ゆる》やかな下り坂になっており、やがて陽《ひ》の光が差しこみ波の砕ける音も聞こえてきた。
そして、前方に開けた場所があり、そこに巨大《きょだい》なガレー船の船腹が見えた。
そのとき、海賊船《かいぞくせん》から数人の男たちが下船してくるのもシーリスは見逃《み のが》さなかった。
生き残りが船を捨てて、逃げようとしているのか、それともこちらを迎《むか》え撃《う》つのが目的か。シーリスは自分に問いかけてみた。
もちろん、答えが返ってくるはずもなく、それを確かめるためにシーリスは、ごつごつした洞窟の地面を蹴って走りだした。
「シーリス、ひとりで行くのは危険だ」オルソンが忠告した。
「だったらあたしに続くことね。こんな狭《せま》い洞窟の中でなんか戦いたくないでしょ」
「新手が出たみたいだ」後続のフォースたちにそう声をかけて、オルソンもシーリスの後を追いかけるように走った。
「あいつは、よくあんな女についていけるな」
シーリスはふだんはあまり女性を感じさせないので、女嫌いのフォースにとってはありがたいのだが、彼女を好きになる男がいるとは思えなかった。
「オルソンには、感情がない。だから、シーリスに対しても平気でいられるのだ」セシルがフォースの疑問に答えた。
「そうなのかい。オレにはあの男はシーリスに惚《ほ》れているとしか思えないがね」
オルソンが狂戦士《バーサーカー》であることは、最初にスレインから聞かされてはいた。が、知り合ったばかりでもあり、また実際に狂戦士と化したところを見たわけでもないので、狂戦士がいかなるものかは、フォースの理解の範疇《はんちゅう》を越《こ》えていた。
感情がないということも、フォースには信じられなかった。
人間にはすべて感情がある。それを表に出す人間と出さない人間がいるだけではないのか。セシルに言ったように、フォースにはオルソンがシーリスに好意を持っているとしか思えないのである。
女嫌いではあるが、男と女の関係がどんなものかは、この場にいる誰よりもフォースは詳《くわ》しいつもりでいる。その知識に照らしあわせるならば、間違《ま ちが》いなくオルソンはシーリスに惚れているとなるのだ。
しかし、今はそんな疑問を口にしている時ではない。すでに、シーリスとオルソンは洞窟《どうくつ》を抜《ぬ》け、海洋へとつながる大きな洞窟に走りでていた。そこは自然が造った船着場《ふなつきば 》のようになっていた。
潮の香《かおり》が鼻をくすぐり、波の音が耳を打つ。そして、フォースの目にも巨大なガレー船の姿が目に飛びこんできた。船腹にはフジツボなどがびっしりと覆《おお》い、深い緑色をした海草が苔《こけ》のように張りついていた。
船首の部分は海面に向かってなだらかな曲線を描《えが》いて突き出していた。水面下に隠された先端には、おそらく金属製の衝角《ラム》が取り付けられているのだろう。
よく見れば船腹にも、鉄板が鋲《びょう》で打ち付けられており、あたかも馬鎧《バーディング》を付けた軍馬を連想させた。そして、櫂《かい》を出すための四角い穴が、等間隔《とうかんかく》でずらりと並《なら》んでいた。
「あれが海賊船かよ!」
フォースは、それらを見届けて唖然《あ ぜん》となった。
甲板《かんばん》の上には、二本の柱が立っており、馬小屋のようなブリッジもあった。柱のうちの一本には見張り所が作られ、そしてもう一本の柱には、血で染めたような色の旗が掲揚《けいよう》されていた。
「あれは……」
今度こそフォースは息を飲んだ。
風に吹かれて、旗がひるがえったとき、フォースはそこに描かれている紋章をはっきりと見てしまったからだ。
「マーモの軍船!」
それは、予期していなかっただけに衝撃《しょうげき》的だった。
なぜ、こんなところにマーモの軍船が。動揺《どうよう》を押《おさ》えこもうと懸命《けんめい》になりながら、フォースは目を転じて、船から降りてきた一団の姿を観察した。
今までの海賊たちとはあきらかに様子が違う。
黒い甲冑《ス ー ツ》を身につけた|騎士《きし》を中心に、戦士ふうやら魔法使いふうの男たちが、ずらりと並んでいた。
そのとき、ようやくシャリーが追いついてきた。
彼女にも黒騎士らの一団はすぐに目に入った。そして、彼女は、いや彼女だけは、相手が誰なのかその正体を知っていた。
「ホッブ様……。それに、アシュラム……」
驚《おどろ》きのあまり、その声は掠《かす》れていた。
シャリーの言葉は、全員の心を揺《ゆ》さぶった。
「あれが、アシュラムなの……」
それは、強気なシーリスにしても同じだった。
最初に船から降りてくる一団を見つけたのは彼女だった。向こうも、シーリスの姿は目に入っただろう。しかし、向こうはまるで動じた様子もなく、ゆっくりとした足取りで木の階段を降りると、岩の地面の上に立った。
シーリスは一瞬《いっしゅん》、そのまま突《つ》っ込もうかと考えた。しかし、戦士としての本能が危険を告げ、その一瞬の判断を引き止めた。というより、足が蛇鶏《コカトリス》の羽毛でなぶられ、石に変わったかのように動かなかったのである。
シャリーからアシュラムの名を聞いて、シーリスは自分の本能が正しかったことを知った。
相手が放つ殺気のようなものを、感じとったのだ。さすがに|竜《りゅう》殺し≠フ戦士である。その放つ気は、何物にも動ぜぬはずのシーリスの心をさえ畏縮《いしゅく》させていた。
オルソンもシーリスの隣まではやってきたものの、そこから先はやはり硬直したかのように動かなかった。
彼でも恐怖を感じるのだろうか、と場違《ば ちが》いな疑問がふとシーリスの頭をよぎった。
偶然《ぐうぜん》というにはあまりに出来すぎだった。腕試しのはずの海賊退治だったのだ。それが本当の敵に出会ってしまうとは、神々の気紛《き まぐ》れで片をつけるつもりにさえならなかった。
盗賊《とうぞく》ギルドの連中に担がれたのだろうか、とさえ思ったが、その考えはすぐに打ち消した。さっきまでの彼らの戦いぶりは、間違いなく本物のはずだからだ。
マーシュ、セシル、それにマールの三人も、シーリスたちのすぐ後ろで微動《び どう》だにせず、相手の出方を待つかのようにじっと様子をうかがっていた。
「シャリー……」
ホッブは、船着場へと駆《か》けこんできた冒険者《ぼうけんしゃ》ふうの一団の中に、フレイムに残してきたはずの、侍祭《じ さい》シャリーの姿があることを知って愕然《がくぜん》となった。
まさかとは思うが、事実を知ったカシュー王が、自分たちを倒《たお》す刺客《し かく》として、目の前の冒険者たちを派遣《は けん》してきたのではないのだろうかと疑った。
そして、その刺客の中にシャリーをも加えたのだ。カシューは卑劣《ひ れつ》な男だとのアシュラムの言葉が、彼の脳裏に浮《う》かびあがってきていた。
アシュラムは、彼女のことに気がついていない様子だった。それはそうだろう。ブレードの神殿《しんでん》でほんの少し、顔を合わせただけなのだから。他の者たちも同様みたいだった。ホッブはそれですこし気を落ち着けた。残りの者はともかく、愛弟子《まなで し 》であるシャリーを殺すことは忍びない。
「いったい、誰の差し金かな。フレイムのカシューか、ライデンの評議会か、それとも一攫《いっかく》千金を狙《ねら》ったただの冒険者たちか」
アシュラムが自分に問うていることに、ホッブはしばらく気がつかなかった。
「さあ……いずれとも」
彼は言葉を濁《にご》した。しかし今の自分の立場を考えるならば、おそらくシャリーのことをアシュラムに告げるべきだろう。マイリー神に仕える者としては、それが信仰《しんこう》の証《あかし》だと思える。だが、愛する者を失いたくないという思いがそれを制した。
葛藤《かっとう》の渦中《かちゅう》に彼は叩《たた》き落とされていた。
アシュラムは、そんなホッブの様子を奇異《きい》に思ったが、それよりも目の前の一団の正体に心を奪《うば》われていた。傭兵《ようへい》ふうが三入に、盗賊《とうぞく》っぽいのが二人、そして、魔法使いらしいのが二人。そのうち二人は女性で、子供さえいる。
こんな奇妙《きみょう》な連中が、戦いなれた切りこみ隊の猛者《もさ》を打ち負かしてきたのだろうか?
「アシュラム様、いかがいたします」
しゃがれた声が耳に聞こえた。ダークエルフのアスタールである。彼は戦いということで、邪魔《じゃま 》なカモフラージュ用のローブを脱ぎすてており、その艶《つや》のある黒い肌《はだ》に白い長髪を晒していた。
頬《ほお》がややこけてはいるものの、さすがにエルフだけあって整った顔つきである。だが、その姿形はかつて最も深き迷宮≠ゥら解放され、ロードス島を破壊《は かい》のどんぞこに叩《たた》きこんだという伝説の魔神《ま しん》≠ノも酷似《こくじ 》している。
だが、彼らはエルフの上位種たるハイ・エルフ族に匹敵《ひってき》する能力を持っているとも言われている。
「奴《やつ》らの背後が誰だか知りたい。何人か生かしておけ」
「できれば、女を頼《たの》む」ガーベラが好色な笑いをその顔に浮《う》かべた。
「五体が無事かどうかは、保証できないけどね」
女戦士スメディが腰《こし》から二本のブロードソードをまるで短剣《ダ ガ ー》でも扱《あつか》うかのように軽々と抜《ぬ》きはなった。
「それでは、始めるとしよう。ホッブ、戦《いくさ》の歌の呪文《じゅもん》を」
「心得ました」
かるく一礼してから、ホッブは大きく息を吸いこみ胸を張った。
「戦いを司《つかさど》る偉大《い だい》なる神、マイリーよ。ここに勇者集い、戦いに臨まん。我らに加護あれ。鉄の意志と炎《ほのお》の勇気を与《あた》えたまえ……」
そして、ホッブは唄《うた》うような旋律《せんりつ》で、神聖語の魔法語《ルーン》を詠唱《えいしょう》しはじめた。
それにつれ、アシュラムたちの心に、高揚《こうよう》感がふつふつと湧《わ》きあがってきた。身体と心が軽く感じられ、五感が研ぎすまされていく。
「これが噂《うわさ》に名高いマイリーの力か!」
アシュラムはホッブの呪文の力に十分に満足していた。まるで、自分の身体や心から戦に不要なものがすべて抜けだしていくようであった。
腰に手をかけ、魔剣を収めている鞘《さや》の止め金をはずすと、ずしりと重い手ごたえが返ってきた。アシュラムは、ベルドの形見の|大 剣《グレートソード》を両手でしっかりと握《にぎ》り、構えた。
そして、号令した。
5
ホッブが戦の歌の呪文《じゅもん》を紡《つむ》ぎだしたのを見て、オルソンたちも動いていた。
いや、本心を言えば動きたくはなかったのだが、そうせざるをえなかった。いずれにせよいつかは戦わねばならない相手である。
スレインとレイリアがこの場にいないことが、呪《のろ》わしかった。だが、今となっては仕方がない。
シャリーは最初に祝福の呪文を唱《とな》えた。神に加護を求める呪文である。
それから、彼女も戦の歌の呪文を詠唱《えいしょう》しはじめた。こちらは、戦う者の勇気を鼓舞《こぶ》し、実力以上の力を導きだすための呪文である。
実戦でこの魔法《ま ほう》を使うのは、初めてだった。
極度に精神を張りつめなければならないため、消耗《しょうもう》が激《はげ》しく立っていられなくなるからだ。敵の側にいるホッブの朗々《ろうろう》たる詠唱に比べれば、自分の未熟さを痛感させられる。
「力の根源たるマナよ、物質の束縛《そくばく》を解きて、不可視の楯《たて》となれ!」
セシルも戦士たちを援護《えんご 》するべく、上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱える。
「やるしかない!」
シーリスは気合いを入れて、駆けだした。金属の鎖がシャラシャラとなり、長靴《ちょうか》の鉄鋲《てつびょう》が岩を打ち、甲高《かんだか》い悲鳴とともに火花を散らす。
「あの女ね」
スメディが舌なめずりをして、敵の女戦士に向かっていった。
「オレの相手、あの大男」
ギルラムは自分と生き写しのような巨漢《きょかん》の|大 剣|《グレートソード》使いに向かって、突進《とっしん》していった。
ダークエルフのアスタールは、二本の|小 剣《ショートソード》をかまえた男を相手とし、アシュラムは悠然《ゆうぜん》と進み、板金鎧《プレートメイル》の戦士を最初の獲物《え もの》と決めた。
「わたしは剣《けん》があまり得意ではないゆえに、子供の相手でもさせてもらおう」
暗黒神の司祭ガーベラが長槍《ロングスピア》をかまえ、こちらの背後を取ろうと大きく回りこんでくる小さな盗賊《とうぞく》に向かって、暗黒神への祈《いの》りを捧《ささ》げながら、近づいていった。
「グローダー、後ろのふたりは魔法《ま ほう》で捕《つか》まえられんか!」
ホッブは共にその場に残った黒ローブの魔術師《ソーサラー》に尋ねた。せっぱつまった調子になっているのが自分でも分かったが、このままではシャリーは確実に殺されてしまう。焦《あせ》る気持ちは押《おさ》えようがなかった。
「弱い魔法では効果はあるまい。かといって、強い魔法では命の保証はしかねるな。スメディたちが手加減するのを期待するしかあるまい。もっとも、期待は薄《うす》かろうが」
ローブの陰《かげ》からくぐもった声が返ってきた。しかし、ホッブの言葉や態度に興味を抱《いだ》いたような調子があった。
「何か手頃《て ごろ》な魔法はないのか!」
ホッブは額に汗《あせ》さえ浮かべている自分を意識していた。これほど狼狽《ろうばい》したことは、久しくなかった。まだ、修行《しゅぎょう》が足りないのだ、と彼は思った。人間としての弱さがいまだに払《はら》いきれていないのだ。
「フフ……、何をこだわっているのかは知らんが、ようするに魔法使いは殺さずにおきたいのだな。いいだろう、やってみよう」
そして、グローダーは喉《のど》から絞《しぼ》りだすような声で、上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱えはじめた。
「マナの力もて、空気よ変じよ。心は眠りを欲したり。身体は休みを欲したり!」
セシルとシャリーは、それぞれ次の呪文を用意しようとしていたところだった。
セシルはシーリスの剣《けん》に魔力を与《あた》え、シャリーもオルソンの剣にマイリーの力を導くつもりだった。
だが、それらの呪文が完成するより前に、敵の魔術師から呪文が飛んできた。ふたりの周囲に、一瞬《いっしゅん》だけだが青白い雲が生じたのだ。
セシルがよく使う眠りの雲の呪文に、発現の仕方が似ていた。しかし、生じた雲の色がまったく違っていた。
死の雲≠フ呪文かもしれない、と背筋《せ すじ》が冷たくなっていくのをセシルは感じた。
空気を変質させる古代語魔法の呪文には、いくつかの種類がある。ひとつの系統とさえなっているぐらいで、眠りの雲もそのひとつだった。そして、中でも最も強力なのが、死をもたらす効果を持つもの、すなわち死の雲≠フ呪文なのである。
呪文の効果は早くも現われた。セシルは自分の身体が痺《しび》れ、心が闇《やみ》に落ちていこうとするのに、必死になって抵抗《ていこう》を試みた。
「精神力を奮《ふる》いおこし、自分の身体の中にあるマナを活性化させるのです」スレインから教わった魔法に抵抗するときの心得が頭に浮《う》かんだ。
だが、敵の魔術師から発せられた呪文の魔力は恐《おそ》るべきものだった。
隣《となり》で小さな苦痛の呻《うめ》き声を上げながら、シャリーが崩れおちていった。
セシルはシャリーを支えてやらねばと手を伸《の》ばしかけたが、身体がまるで反応してくれなかった。そして、彼の心にも暗黒が侵入《しんにゅう》してきて、セシルは自分が死ぬのだという絶望的な思いの中で、意識を失った。
シャリーともうひとりの若い魔術師が、グローダーの魔法によって倒《たお》れていったのを見て、ホッブの心の中に暗い考えがふと浮かんだ。
「案ずるな。ふたりは意識を失っているだけだ。決して死んだわけではない。昏睡《こんすい》の雲≠ニいう呪文を使ったのだ」
彼の不安を見透《みす》かしたように、グローダーが声をかけてきた。痙攣《けいれん》しているように肩が震《ふる》えているのは・おそらく笑っているのに違いない。
「そうか」
ホッブはようやく気が休まり、アシュラムたちの戦いに意識を向けられるようになった。
横一文字に並《なら》ぶように一対一の戦いが四つできていた。苦戦をしている者には援護《えんご 》の手を差しのべねばならない。
戦《いくさ》の神の司祭の癒《いや》しの呪文《じゅもん》は、戦場で傷ついた者のためにこそかけられるべきなのだ。
アシュラムと敵の若い戦士との戦いは、ほとんど勝負にさえなっていないように見えた。まるで、剣《けん》の稽古《けいこ 》をつけるようなもので、アシュラムは敵の攻撃《こうげき》を軽く受け流しているだけだった。
だが、当のアシュラムは、相手の戦士に何かとてつもなく不気味なものを感じていた。この若い戦士の技量にではない。彼にまとわりついている気≠フようなものに対してである。
殺気、いや、というより狂気に近い。それは、彼が打ちこんでくる度に、影《かげ》のようにアシュラムの身体に手を伸ばしてきた。
「なんだ、この男は!」
アシュラムは、一見|平凡《へいぼん》そうに見える若い戦士に戦慄《せんりつ》を覚えていた。
残りの三人もそれぞれ苦戦を強いられていた。
くみしやすいと思えた敵だったが、それはすぐに甘《あま》い考えだったと思い知らされた。相手は皆、予想以上の手練《てだ》れだった。
中でも大柄の女戦士スメディは、敵の女戦士のすばやい動きに一方的に押《お》しまくられているように見えた。敵の動きはすばやく、鋭い打ちこみや、驚くほど鮮《あざ》やかなフェイントを使い、スメディを防戦一方に追いやっていた。
この女戦士は正式な剣術を習っている。剣を交えてすぐにスメディはそのことを知った。
だが、スメディの顔には、余裕《よ ゆう》の笑みさえ浮《う》かんでいた。
「どうしたい、お嬢《じょう》ちゃん。肩《かた》で息をしはじめているじゃない」
シーリスは相手の挑発《ちょうはつ》には乗らなかった。確かに疲《つか》れてはいたし、肩で息をしているのは間《ま》違《ちが》いない。だが、あきらかに技量では自分の方が勝っている。その実感があったからだ。
彼女は最初、目の前の戦士が女だとは信じられないぐらいだった。
女はそれほど大きく、たくましい筋肉の持ち主だった。
早くこの大女を倒《たお》して、隣《となり》でアシュラム相手に苦戦を強いられているオルソンを助けたかった。二対一でもちょうどくらいの相手だ。それに、魔法使い同士の戦いはどうやらこちらの負けのようだ。
敵の魔法使いを自由なままにさせていると、こちらの勝ち目はまるでなくなるのだ。シーリスは軟弱《なんじゃく》なセシルに毒づきたいぐらいだった。それから、臆病《おくびょう》なスレインと夫にあくまで忠実なレイリアにも。ふたりが付いてきていれば、もっと楽な戦いができたはずだ。
とにかく早く勝負を決めないと。しかし、本気で防戦に入っている相手を倒《たお》すことは、なかなか骨のいる仕事だった。
シーリスは相手をワナにかけるため、同じパターンの|攻撃《こうげき》を三回繰《く》り返した。左肩《ひだりかた》へのフェイントから右肩への打ち込み、そして首を狙《ねら》っての変化。それはカノンの武官であった父に習った基本の攻《せ》めのパターンである。
そして、次の攻撃も同じ動作からシーリスは入った。
だが、今度は変化の形をまったく変えたのだ。それまで首を狙っていたところを、脇腹《わきばら》を狙って鋭《するど》い払《はら》いをかけた。
「てあーっ!」気合いの声が自然に洩《も》れた。
剣《けん》を握《にぎ》った右手に、肉を切りさく確かな感触《かんしょく》が伝わってきた。しかし――
勝った、と思って刀身を確かめたとき、シーリスはそこに信じられないものを見た。
彼女の剣は、相手の無防備な脇腹に食いこんではいた。だが、まるで鋼鉄製《こうてつせい》の鎧が身体の中にでも入っているかのように、剣の刃《やいば》が半分ほどしか埋《う》まっていなかったのだ。内臓に届くような傷ではない。
あわてて剣を抜《ぬ》こうとしたが、相手の筋肉に咥《くわ》えこまれ、それさえできなかった。
「非力なんだよ、お嬢《じょう》ちゃん!」
顔を歪《ゆが》めて、スメディは嘲《あざけ》りの笑いを浮《う》かべた。
そして、シーリスの腹に足蹴《あしげ 》りを加えた。
「きゃあー!」シーリスの口から悲鳴がほとばしりでた。
猛牛《もうぎゅう》に体当たりされたような衝撃《しょうげき》と痛みがシーリスを襲《おそ》った。重い|鎖かたびら《チェインメイル》を着ているはずの自分の身体が、彼女の身長よりも高く飛ばされ、後方に投げだされた。
そして、新たな衝撃がシーリスを襲った。岩に叩《たた》きつけられたのだろうが、どこから落ちたのかさえ分からなかった。
口から生暖かいものがあふれでる感覚の中で、意識を失いかけたシーリスの耳に、オルソンの発するあの[#「あの」に傍点]声が聞こえてきた。
リィィ……リィィ……、と唸《うな》るあの声が。
フォースは、白髪《はくはつ》のダークエルフに魔法《ま ほう》をかける暇《ひま》を与《あた》えなかった。
敵は最初、貧弱そうな彼を舐《な》めてかかっていたようだ。魔法をかけられていたら、フォースも苦戦を免れなかっただろうが、最初から剣での戦いを挑《いど》まれたおかげで優位に立つことができた。
二本の|小 剣《ショートソード》を巧《たく》みに操り、敵にすこしずつダメージを与えている。傷口から真っ黒な血を流しながら、ダークエルフの戦士はなんとか挽回《ばんかい》のチャンスをうかがっていた。
だが、慎重《しんちょう》なフォースはそれを許さなかった。敵が新月刀《シ ミ タ ー》を得物にしていることも、フォースにとってはありがたかった。この武器を持った敵とは、フレイムでの傭兵《ようへい》時代、いやというほど戦ってきた。
どんな使い方をしてくるか、身体が覚えこんでいる。
フォースは、敵の足に深く切りつけ、ついに敵を転倒《てんとう》させた。
と、そのとき、シーリスの悲鳴が聞こえてきた。
ハッとなって、フォースはシーリスの方に注意をそらした。
一瞬だった。
だが、その隙《すき》をアスタールは見逃《み のが》さなかった。
「レ・サブレ・ナン……アムネ・レーブ。夢《ゆめ》の精霊《せいれい》よ、こいつの目に砂をまけ! 夢の中で遊ばせるんだ」
後悔《こうかい》する暇《ひま》さえなく、フォースは瞼《まぶた》が重くなっていくのを意識した。
瞼の裏に夢の精霊の姿が一瞬|浮《う》かんだと思うと、その小人のような姿の精霊は無邪気《む じゃき 》にこう言った。
「眠れ」
フォースはそれに抵抗《ていこう》することができなかった。
マーシュは、全身が寒くなるような戦いを強いられていた。敵も表情こそ変えないが、同じ気持ちのはずだろう。
共に鎧《よろい》を着けていない。しかも、手にしているのは、一撃《いちげき》必殺の|大 剣《グレートソード》である。
どんな小さなものであれ、失敗をした途端《と たん》に命が吹き飛んでしまうのは目に見えている。
だから、マーシュは無理な打ち込みは仕掛《しか》けなかった。相手もそうだった。
剣を合わせて、敵をねじふせようと、お互《たが》いの力を振《ふ》り絞《しぼ》っていた。ふたりの筋肉がはちきれんばかりに膨《ふく》れあがっていく。怪力《かいりき》のマーシュであったが、相手も自分と五分の力の持ち主だった。
見た目にはまったく動かないが、剣を合わせたまま、両者は激しい戦いを演じていたのだ。
マーシュは押《お》した。何も考えずに押しこんだ。
だが、押し返された。
それを何度|繰《く》り返したことだろう。
他人の戦いに気を配る余裕《よ ゆう》さえなかった。だが、隣《となり》でダークエルフを相手にフォースが優位に立っているのだけは分かった。マーシュにはそれで十分だった。
他の人間などは知り合って間もない。好感を抱《いだ》いてはいるが、ただそれだけだ。
しかし、フォースとは知り合って何年になるだろう。いや、年数では計ることができないぐらいの間柄《あいだがら》である。
最初にフォースと出会ったのは、フレイムの傭兵隊《ようへいたい》でのことだった。そのとき、彼はシュードと名乗っていた。優男《やさおとこ》という別名で呼ばれもしていた。
そして、共に炎《ほのお》の部族と戦った。
砂漠《さ ばく》の蛮族《ばんぞく》に捕《とら》われたパーンを救出に行ったときも一緒《いっしょ》だった。アラニアまでの船旅や砂漠の強行軍。幾多《いくた 》の戦いをフォースと共に行動してきた。
そして、砂走り≠ニの戦いでフォースは最後の兄弟を失った。彼はひとりになったのだ。そして、父親を殺し、盗賊《とうぞく》ギルドを乗っ取ったある人物に復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》っていた。
誰かが助けてやらねばならない、とマーシュは考えた。そして、それは自分の役目であると思った。
マーシュは誰にも話したことがないが、フォースと同じく、自分も親に捨てられた子供だったのだ。彼の場合、育ての親は傭兵だった。そして、同じ傭兵仲間に裏切られて殺された。
フォースが同じ境遇《きょうぐう》であると知って、フォースにただの傭兵仲問を越《こ》えた親近感を抱《いだ》いたのだ。
だから、マーシュはフォースと共にライデンに行く気になったのだ。そして、この商業都市の夜を支配している盗賊ギルドに対し、戦いを挑《いど》んだのだ。
苦しい戦いだった。自分の神経がすり減っていくような戦いだった。
自分の背後や暗闇《くらやみ》の中、飲料水や食事など、敵はどこにでも潜《ひそ》んでいた。
勝利するのに、二年かかった。そのあいだに、彼は毒を三度飲まされ、毒の刃《やいば》で五回切りつけられた。
命を落としそうになった経験は、数えきれないほどあった。
それは、フォースも同じだった。
あるとき、彼が女|嫌《ぎら》いになった理由をマーシュは聞かされたことがあった。
「女はすべて毒使いなのさ」彼はそう言った。「女どもはあらゆる手段でオレたちの身体に毒を入れようとしてくる。オレの親父《おやじ 》も二人の兄もみんな女に毒殺されたんだ」
フォースが昔《むかし》、ただひとり愛した街娘《まちむすめ》も、その秘所に毒を仕込んで、彼と交わろうとしたのだという。
彼の精神が少しばかり歪んだとしても仕方がなかったろう。精神的にタフなマーシュでさえ、気が狂《くる》うのではないかと思ったことが何度もあるのだ。
長く苦しい戦いの末、ようやく彼を盗賊ギルドの長《おさ》にすることができたのである。こんな所で彼の命を落とさせる訳にはいかないのである。そのためには、目の前の敵を一刻も早く倒《たお》し、フォースの優勢を確かなものとするため、援護《えんご 》に行かねばならないのだ。
「負けるわけにはいかねぇ!」マーシュは吠《ほ》えた。
吠えながら、腕《うで》にさらに力を加えた。
相手も吠えた。獣《けもの》のような叫び声だった。そして、マーシュには理解できない言葉を同時に何事かつぶやいていた。
マーシュは押《お》した。
今度は、押しかえされることはなかった。だが、敵はのけぞりながらも、懸命《けんめい》に堪《た》えようとしていた。
マーシュは相手を地面に押しつけようとさらに全身に力を込めた。
浮《う》きあがった血管が今にも破裂《は れつ》しそうだった。
と、ボキッと鈍い音がした。
そして、敵の力が急速に抜《ぬ》けていった。敵の腕《うで》が関節ではないところから、折れ曲っていた。
敵は仰向《あおむ 》けになり、どうと地面に倒《たお》れた。
「おまえ、強い」なまりのある言葉でそう呻《うめ》きながら、敵の戦士はマーシュを見上げた。
「悪く思うなよ」
マーシュはその顔に|大 剣《グレートソード》を振《ふ》りおろした。グシャリと柔らかいものが砕ける物音がした。それで、勝負はあった。
「フォース、今、助けるぜ!」
マーシュは、今度はフォースを助けるべく、右に移動しようとした。
と、その時、シーリスの悲鳴が起こった。
「死んだのか!」
もったいねぇな、と思ったが別に特別な感情は湧《わ》いてこなかった。だが、フォースの注意が、一瞬だけだがシーリスに向けられたのを、マーシュは驚きの目で見た。
「馬鹿野郎《ば か や ろう》。戦いの時に何を!」
と、叫んだ声をフォースが聞いたかどうか怪《あや》しかった。ダークエルフが何やら怪しげな呪文を唱え、フォースは力を失い地面に倒《たお》れていったからだ。
「おまえは、女嫌いなんだろうが!」マーシュは呪いの言葉を吐いていた。
それから、倒れたフォースに向かって、疲《つか》れも忘れて駆《か》けよっていった。
隣《となり》で足の傷を押えて呻《うめ》いているダークエルフには目もくれず、マーシュはフォースの身体を片手で担ぎあげた。
彼の身体に触《ふ》れたとき、マーシュは、ぞくりとした。
冷たかった。異様に冷たかった。身体はまだ、柔《やわ》らかいが、体温がほとんど失われていたのだ。
息はかすかにある。だが、彼の身体から急速に生命の炎《ほのお》が消えていくかのようにマーシュには感じられた。
マーシュはくるりと振《ふ》り返ると、フォースを担ぎあげたまま地上ヘと続く洞窟《どうくつ》を目指して、全力で駆けだした。
すでに体力の限界を越《こ》えているのは承知していた。だが、フォースにかけられた魔法《ま ほう》が何であれ、一刻も早くそれを解いてやらねばならない。
街まで帰ればスレインがいる。それに、レイリアも。あのふたりならば、かならずフォースの意識を取り戻《もど》してくれるだろう。
「待っていろよ、フォース」
マーシュは叫《さけ》んだ。
そのときである。
ブスリ、と背中に熱い物が食いこんでくる感触があった。
ブスリ、それはもう一本、食いこんできた。
「馬鹿《ばか》な奴《やつ》だね。戦場で敵に後ろを見せるとは」
振《ふ》り返ると、大女がいかにも楽しげな笑いを浮かべていた。
「……今は、それどころじゃねぇんだよ。行かせてくれねぇか……」
マーシュは、そう言った。口から血がゴボッとあふれでてきた。
向きなおると、一歩足を踏みだした。
そして、もう一歩。
さらに、一歩。
「化物め!」
大女の声とともに、もう一度、背中を何かが貫いた。それで、マーシュは倒《たお》れた。
腕《うで》を差しあげ、フォースが岩に叩《たた》きつけられないようにしながら。
地面に落ちるより先にマーシュは息絶えていた。
「降参だ、降参だ」
マールはシャリーとセシルが倒《たお》れたのを見ると同時にそう叫《さけ》んで逃《に》げまわった。
魔法使いたちが倒されたときに、勝負がついたことが彼にはよく分かっていたからだ。
目の前にいるのが、無慈悲《むじひ》な暗黒神の司祭なのは承知していたが、彼の最後から二番目の武器は今度も役に立ってくれると信じたかった。
それは、滑稽《こっけい》さであり、無邪気さであり、愛らしさである。敵が怪物《かいぶつ》でないかぎり、彼はいつもこの武器を使って勝利してきた。もしくは、敗北しなかった。少なくとも、殺されなかった。
今度もそうだと願いたかった。
敵は悲鳴を上げながら逃げまわるマールを何とか仕留めようと苦労していたが、やがてあきらめたようだった。敵は取るに足らない相手で、魔法を使うまでもない。
「いいだろう。武器を捨てて、おとなしくしろ」
チラリと顔色をうかがって、どうやら本心らしいと分かると、マールは安心して短剣《ダ ガ ー》を捨て、岩の上に膝《ひざ》をついて叫んだ。
「自由を尊ぶファラリスよ。感謝します」
マールはひとりこの戦いに負けなかった。
もっとも、苦戦をしていたアスタールが勝利を収めたのを見て、アシュラムは自分の戦いにも、もはやけりをつけるべきだろうと思った。
自分が戦いを長引かせているうちに、闇《やみ》の森の勇者ギルラムが殺されたのが誤算であった。
相手の戦士に、隙《すき》はいくらでもあった。目の前の戦士を切り倒《たお》すことは難しくなかったが、奇妙《きみょう》なことに、アシュラムの心の中に、この若者に対する興味が生まれていた。
命がけで戦っているというのに、表情さえひとつも動かさず、ただ黙々《もくもく》と剣《けん》を振《ふ》るうさまに興味を覚えたのだ。今まで何百という戦士と剣を交えてきたアシュラムだったが、目の前の戦士のごとき戦いを行なう者は、ひとりとしていなかった。
相手の余りの平静さに、アシュラムの方が警戒《けいかい》の念を呼び起こされ、自分から仕掛《しか》けることを躊躇《ちゅうちょ》した。だから、戦いが長引いたのだ。
しかし、見せかけではなく、相手の剣の腕《うで》がたいしたものではないことをアシュラムはついに見抜《みぬ》いた。遅《おそ》すぎたぐらいだった。並《な》みの|騎士《きし》よりもすこし腕が立つ程度だ、とアシュラムは踏《ふ》んだ。
騙《だま》されたと思い、腹も立ったが、それがなぜか興味に変じてしまったのだ。
だから、
「降伏《こうふく》しろ。オレに勝てないのは、分かっただろう」と、アシュラムは若者に呼びかけた。
そう呼びかけられるまでもなく、当のオルソンにもそれは分かっていた。
このマーモの黒騎士の圧倒的《あっとうてき》な力が。しかし、他の仲間を見捨ててリーダーである自分が降伏するわけにはいかない。
一分の隙もない敵の守りを切りくずそうと、オルソンは覚えているかぎりの剣技を駆使《くし》して、打ち込み、払《はら》い、そして突《つ》いた。
だが、そのどれもが軽くかわされた。それでも、オルソンは剣を振るいつづけた。表情も変えず、ただ黙々と。
降伏しろ、とふたたび黒騎士が呼びかけてきた。そして、そのとき――
オルソンの耳を若い女性の悲鳴が打った。
苦痛に満ちた悲鳴。それは、シーリスの声に間違《ま ちが》いなかった。
あわてて声の方に視線を走らせると、敵の女戦士に蹴り飛ばされ、身体をくの字に折り曲げたまま、宙を舞《ま》っているシーリスの姿があった。
シーリスは、そのまま背中から岩肌《いわはだ》に叩《たた》きつけられると、口から真っ赤な血を吐き出し、ぐったりと動かなくなった。
「シーリス!!」オルソンは叫んだ。
シーリスがその声に応じる様子は、微塵《み じん》もなかった。
シーリスは死んだのだ、とオルソンは思った。姉のように、殺されてしまったのだ。
あの生気に満ちた笑顔を二度と自分に見せてくれることはないのだ。凜《りん》と透《す》きとおった声を聞かせてくれることはないのだ。
オルソンは、あたりが暗黒と静寂《せいじゃく》に包まれたような錯覚《さっかく》を覚えた。
心の奥底《おくそこ》からなにものかが噴《ふ》きあがってきた。あたかも赤熱する溶岩《ようがん》のように、それ[#「それ」に傍点]は留まることを知らず、急激《きゅうげき》に膨《ふく》れあがると、オルソンの心を支配しようと目に見えない触手《しょくしゅ》を伸《の》ばしていた。
「怒《いか》れ……壊《こわ》せ……」
そして、それ[#「それ」に傍点]はオルソンに命令した。
リィィ……リィィィ……
例の唸《うな》り声が、自分の口から洩《も》れていた。と同時に、全身の筋肉に、平時ではとうてい得られないような力が満ちあふれてきた。このロードスに生きとし生けるものすべてを破壊《は かい》できるかと思えるほどの、巨大《きょだい》な力だった。
オルソンは、自分の魂《たましい》の最後のひとかけらが消え去ろうとしているのを自覚した。それでもかまわないとオルソンは思った。自分に力を与《あた》えてくれるものならば、喜んで自らの魂を捧《ささ》げようと思った。シーリスの復讐《ふくしゅう》をするためならば。それが、たとえ自分を破滅に導く、怒《いか》りの精霊《せいれい》であれ。
リィィ……リィィィ……
自らの口から洩れる狂気に満ちた声を、オルソンは歓迎さえしていた。
もちろん、シーリスの上げた悲鳴はアシュラムの耳にも届いていた。
声を発したのが誰か確認もしなかったが、アシュラムはすぐにスメディの勝利を確信した。あの女戦士は、現在のマーモにあっては自分につぐ戦士だと思っている。剣の技量はともかく、鋼《はがね》のような肉体と疲《つか》れを知らぬ不屈《ふ くつ》の精神は、いかなる手練《てだ》れを相手にしても後《おく》れをとることはない。
目の前の戦士は、自らが置かれた状況《じょうきょう》も忘れ、悲鳴の起こった方を振り向き、倒《たお》された女性の名を叫んでいた。そして、動かぬ女戦士をしばらく茫然《ぼうぜん》と見つめたあと、小さく肩《かた》を震《ふる》わせはじめた。と、次の瞬間には小さな呻《うめ》き声を上げはじめた。
泣いているのか、とアシュラムは思った。が、そうではなかった。
若者の発する呻き声は次第に大きくなり、荒れた夜の海がたてる波のうねりのように轟《とどろ》いた。闇《やみ》の向こうから押《お》し寄せてくるような不気味な声であった。人間が発するものとは、とうてい思えなかった。
やがて若者は、まず顔を、次に身体をねじまげるように、アシュラムの方に向きなおった。例の不気味な声はさらに大きくなっていた。若者の双眸《そうぼう》と口は、獣《けもの》のように開かれていた。燃えあがる怒りの炎で瞳《め》が赤く輝《かがや》いているような錯覚さえ覚えた。
心に針を突《つ》きたてられたようなおぞけを、アシュラムは感じた。
若い戦士は、左手の楯《たて》を地面に投げ捨てると、右手のブロードソードをゆっくりと頭上に振《ふ》りかざした。
「オレの忠告など聞かんというのだな?」
若者の殺気を感じて、アシュラムは警告代わりにベルド皇帝譲《こうていゆず》りの魔剣《ま けん》魂砕《たましいくだ》き≠フ一撃《いちげき》を相手の右腕《みぎうで》を狙《ねら》って見舞《みま》った。
相手はそれを避《さ》けようともしなかった。もっとも、避けようとしたとしても、アシュラムの打ち込みのほうが格段に速かったに違いない。
狙いは違《たが》わず、魂砕き≠ヘ相手の右腕を捕えた。
若者の右腕を守っていた金属製のこてが弾けとび、肉が切り裂かれ赤いしぶきを噴きあげた。傷口は浅い。しかし、魂砕き≠ヘ真っ黒な魔法のオーラを発すると、その恐《おそ》るべき魔力を相手に注ぎこんでいた。
これで敵の意志はくじけるに違いない、とアシュラムは確信していた。それが、魔剣魂砕き≠ノ秘められた力なのだ。
九分九|厘《りん》まで狂戦士《バーサーカー》と化していたオルソンには、腕を切られた痛みなど気にもならなかった。自分ならざるものに心を支配され、痛みを自覚すべき意識さえなかった、というのが正しいかもしれない。
しかし、時を同じくして、心の中に吹き荒《あ》れた嵐《あらし》のごとき変化は、無視することができなかった。オルソンの心のすべてを覆《おお》いつくし、彼自身の意識を飲みこもうとしていたものが、急速に萎《しぼ》みはじめてきたのだ。
断末魔の絶叫《ぜっきょう》を上げながら、それ[#「それ」に傍点]は日《ひ》の光に打たれた朝露《あさつゆ》のように、消え失せようとしているのだ。
オルソンは心の中が軽くなるような解放感を味わっていた。オルソン自身の意志が、ふたたび自らの心の主人となっていた。自分が狂戦士状態から醒《さ》めつつあることが、オルソンには分かった。
全身に満ちていた巨大《きょだい》な力が、急速に失せていくのをオルソンは自覚した。
自分は怒《いか》りの精霊《せいれい》から解放されようとしているのではないか、という考えがふとオルソシの脳裏に浮《う》かんだ。あながち間違いだとは思えなかった。しかし――
「待ってくれ!」と、オルソンは叫《さけ》んでいた。「行くな! 行くんじゃない!!」
自らの心を去ろうとする怒りの精霊に対する必死の呼びかけであった。
「今はいくんじゃない。オレは目の前の戦士を倒《たお》さねばならない。あの女戦士を倒さねばならない。シーリスは死んだんだ。その復讐《ふくしゅう》は完成されていない」
オルソンは怒りの精霊を引き止めようと、ありったけの意志力をふりしぼって呼びかけた。力を失いつつあるこの上位精霊を復活させるために、姉が殺されたときの記億《き おく》を呼び起こし、今またシーリスが殺されたときの場面を何度もはんすうさせた。自分が狂戦士《バーサーカー》化の発作を起こしたのは過去四度あるが、それの原因となった出来事を繰り返し、繰り返し頭の中に思い描いた。
そして、
「怒《いか》れ……壊《こわ》せ……」
あの声が戻《もど》ってきた。
オルソンは、力を取り戻しつつある怒りの精霊《せいれい》に心を委《ゆだ》ねながら、この精神の上位精霊の言葉を自らの意志として取り込もうとさえしていた。
リィィ……リィィィ……
口からあの声が洩《も》れた。圧倒的《あっとうてき》な破壊《は かい》の力が、身体の隅々《すみずみ》にまで行きわたっていった。
リィィ……リィィィ……
「いけない……いけない。オルソン」
と、突然《とつぜん》、背後で声がした。
オルソンは、その声にハッと我に返った。姉の微笑《ほ ほ え》みと、シーリスの安らかな寝顔《ね がお》がオルソソの脳裏をよぎった。
途端《と たん》に、彼の心の中を支配しつつあった束縛が完全に消滅した。
振《ふ》り返ると、死んだと思ったシーリスが岩の上に横たわりながら、首だけをもたげて話しかけてきているのだった。
「いけない……。あいつに心を支配されちゃ」
シーリスはオルソンが発するあの声を聞き、からくも意識を失わずにすんだのだ。痛む身体をもてあまし、顔を上げることさえ難しかった。しかし、オルソンが怒りの精霊に支配されることだけは、何としてでも止めねばならないと思った。
その決意が、彼女の薄《うす》れいく意識を引き止めた。
だが、上体を起こし、声を出すのに渾身《こんしん》の力を振りしぼらねばならなかった。
オルソンが、誰かに向かって叫《さけ》んでいるのが、彼女の耳にも届いていた。待ってくれ、とオルソンは叫んでいた。行くな、行くんじゃない、とも。
「何を言っているのオルソン? 誰に向かって叫んでいるの?」
つぶやきながら、シーリスはようやくオルソンの姿をその目で捕《とら》えた。
そのときには、オルソンはふたたびあの呻《うめ》き声を発していた。
そして、シーリスは残る気力のすべてを費《ついや》やして、オルソンに呼びかけると、暗黒の淵《ふち》の底に小石のように沈《しず》んでいった。
声をかけてよこしたあと、ふたたびシーリスはぴくりとも動かなくなった。
今度こそ死んだのかとも思ったが、よく見ると彼女の胸のあたりがかすかにではあるが上下しているのがオルソンには分かった。
「思ったより、頑丈《がんじょう》な娘《こ》だね」
大柄の女戦士がシーリスの首筋に手を当てて、そうつぶやいた。
オルソンは安堵《あんど 》した。そして、まわりを見渡《み わた》すと、仲間はすべて倒されていることが分かった。マールも降伏《こうふく》し、槍《やり》を持った男に取り押《おさ》えられている。
「勝負はあったのだ。おとなしく、降伏しろ」
黒騎士《くろき し 》の言うとおりだった。今度は、オルソンは黒騎士の言葉に従う気になり、自分の足元《あしもと》に剣《けん》を放りなげた。
「オレがリーダーだ。オレはどうでもいいが、生きている者は助けてやってくれ」
オルソンは黒騎士に向かって、静かにそう言った。
「よかろう」アシュラムは応じた。
アシュラムは、全身に汗が流れているのを感じていた。鳥肌《とりはだ》が立っているのではないかとも思われた。さっき、目の前の男が上げた奇声《き せい》のためだった。地獄から響いてくるかのような異様さだった。人間があんな声をあげるとは知らなかった。
若い戦士の浅黒い顔は、表情らしいものをまったく浮かべず、ただ荒《あら》く息をしているだけだった。
不気味な奴だ、とアシュラムは思った。だが、この男に対する興味は、ますます募《つの》ってきた。
「こいつらは船倉にでも閉じこめておけ。あとでオレ自身が尋問《じんもん》しよう。オレはこれから、向こうのほうで騒《さわ》いでいる者どもを片付けてくるとしよう。ホッブとスメディはオレに付いてこい。ガーベラはアスタールの傷の手当てをしてやれ。それから、新手が来るかもしれん。すぐに青竜《せいりゅう》の島へ立つようアルハイブに厳命しろ。さっきの様子では、もはや嫌《いや》とは言うまいよ」
アシュラムは手早く配下の者たちに命じると、自分は悠然《ゆうぜん》とオルソンたちが姿を現わした洞窟《どうくつ》の入ロヘと向かった。
そんなアシュラムの背中を見送りながら、オルソンは事実だけを受け取ることにした。
自分たちは敗れたのだ。そして、捕《と》らわれの身となったのだ。
これから、どうすべきか考えねばならないことがいっぱいある。
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第Y章 水竜エイブラ
1
ランタンの淡い光が、小さな|火とかげ《サラマンダー》のように躍り、薄暗い室内に怪しげな明暗を作りだしていた。
六つの人影《ひとかげ》が、ランタンの光の中に浮《う》かんでいた。
アシュラムたちとの戦いに敗れ、虜囚《りょしゅう》として捕《と》らわれたオルソンたち一行だった。全員|憔悴《しょうすい》しきって見えたのは、決して灯《あか》りのためではない。
ここは、海魔《かいま 》の角《つの》号≠フ船底にある船倉の中である。
あの戦いからすでに二日が経《た》っている。船が出港したのは昨日《き の う》。
その間に、リーダーを主張したオルソンがアシュラムに呼び出され、尋問《じんもん》されていた。
あらかじめ、オルソンたちは、誰《だれ》が尋問されようともすべて真実を話すことに決めていた。敵には魔法使いがいる。それに、シャリーの師にあたる司祭ホッブもいるのだ。嘘《うそ》をついたところで、どうせ見破られるに決まっている。無駄《むだ》な抵抗《ていこう》をして、拷問《ごうもん》されるなど馬鹿《ばか》らしいことだからだ。
呼び出されたオルソンは、その取り決めどおり、すべて真実を話した。そればかりではない。アシュラムは彼自身にもかなり興味を持っていたらしく、彼自身の身の上についても聞きだそうとした。それについても、オルソンは正直にすべてを話した。自分が怒《いか》りの精霊《せいれい》に取りつかれている狂戦士《バーサーカー》であることをだ。
尋問が終わった後は、もはや用はないとばかりに、ふたたびオルソンはこの船倉に閉じこめられた。それからは、食事が二回運ばれてきただけで、完全に打ち捨てられた。そのうちに漕《こ》ぎ手として鎖《くさり》に繋《つな》がれるのだろう。今は、すべての櫂《かい》に漕ぎ手がいるみたいだが、空席はすぐにできるに決まっているのだ。
シーリスやシャリーの運命はもっと過酷《か こく》だろう。荒《あら》くれ者の水夫たちの慰《なぐさ》みものにされるのだ。シーリスが大怪我《おおけ が 》をしているのは、その意味では、幸運であったかもしれない。
今や誰も動こうとはせず、そして語ろうとはしなかった。
部屋《へや》は大きいのだが、航海に必要な道具やら荷物が詰《つ》めこまれているため、全員がゆっくりと身体を伸《の》ばす空間さえなかった。荷箱や樽《たる》に座ったり、もたれかけたりして、身体を休ませるのがせいぜいだ。身体を伸ばすことさえできないので、今や全身の関節が悲鳴を上げていた。
ギィギィ、と天井《てんじょう》や床《ゆか》の木材が軋《きし》みを上げている。空気は不快なぐらいに湿《しめ》っていた。床や壁《かべ》から水がたえず沁《し》みだし、ところどころに水たまりさえ作っているのだ。
だが、潮の臭《にお》いはまったく感じられなかった。天井《てんじょう》から漂《ただよ》ってくる排泄物《はいせつぶつ》の臭いが堪《た》えがたく、鼻の感覚がとっくに麻痺《まひ》してしまっているからだった。
ガレー船の漕《こ》ぎ手は、一日中|鎖《くさり》に繋《つな》がれたままの生活である。食事も睡眠も、堅《かた》い木の椅子《いす》の上で行わねばならない。汚物《お ぶつ》も垂れ流しなのだ。ガレー船の存在は水平線の向こうからでも分かると言われているが、それもこの猛烈《もうれつ》な臭気《しゅうき》のためである。
海は荒《あ》れているようだった。身体の下から突《つ》きあげられる感覚があり、続いてそれは空中に投げだされる感覚に変わる。波に揉《も》まれるために、木材は激《はげ》しく悲鳴を上げ、壁《かべ》や床《ゆか》の継ぎ目から、海水が侵入してくる。
オルソンたちは、あたりの樽《たる》や荷箱をうまく使って、簡単なベッドを作っていた。
ベッドの上には、シーリスが寝《ね》かしつけられていた。それを取り囲むように、残る五人が思い思いに座っていた。
セシルが自分の賢者《けんじゃ》のローブを脱《ぬ》いで、シーリスにかけてやっていた。
彼女の傷は思った以上に深いようだった。魔法《ま ほう》から目覚めたシャリーが治癒《ちゆ》の呪文《じゅもん》を使ってみたものの、意識はいまだ戻《もど》っていなかった。
ダークエルフの魔法で眠らされていたフォースは、戦いが終わった後も昏々《こんこん》と眠りつづけていた。ふつう魔法は時間が経《た》つと効果を失うものなのだが、フォースにかけられた魔法は例外のようだった。しかし、セシルが何度も魔法解除の呪文を試みたあげく、ようやく数時間前に意識を取り戻させることができた。
「どうだい、シーリスの様子は?」
オルソンがシャリーに尋《たず》ねていた。二時間おきに、彼はシーリスの具合を尋ねていた。心配そうな表情がオルソンの顔に浮《う》かんでいた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だと思う。今は寝息も静かなものだし、それに彼女は若いから」
「このまま、眠ってくれていたほうがうるさくなくていい」
セシルがそっぽを向いたまま、そう言った。
「魔法で一発で倒《たお》されやがった軟弱者《なんじゃくもの》が、偉《えら》そうに言うな!」語気荒く、フォースが怒鳴《どな》った。
「あんただって同じだろうが! 誰が魔法を解除してやったと思っているんだ」セシルも負けていない。
「しっ、静かに。怪我人《け が にん》がいるのよ!」シャリーが眉《まゆ》を逆立てながら、フォースとセシルを睨《にら》みつけた。
ふたりは不機嫌《ふ き げん》そうに黙《だま》った。
「わたしたちは未熟だったのだわ。それは認めなければならない。でも、戦いに敗れたのはひとりひとりの責任ではないのよ。それでも、わたしたちは生きているのだから、マイリーはまだお見捨てになってはおられないわ」
「我々は生きているだって? マイリーはオレたちを見捨てていないだって?」
そっぽを向いていたフォースだが、シャリーの今の言葉は彼の怒《いか》りに火をつけた。振《ふ》り返った顔が真っ赤に染まっていて、声も震《ふる》えていた。
「そりゃあ、オレたちは生きてるさ。しかし、あいつは……マーシュは死んだんだぞ。切り刻まれて、魚の餌《えさ》にされちまったっていうじゃないか! それにオレの手下たちもだ。マイリーは盗賊《とうぞく》などには力を貸さないっていうのかよ」
なぜ、マーシュが死んだのかの理由も、意識が戻《もど》ってからフォースはオルソンから聞きだしていた。自分からしつこく尋《たず》ねたのだ。ようするに、自分がドジを踏んだのが原因なのだ。それも、事もあろうに女に気を取られたためだ。彼にとって、女という生き物は疫病神《やくびょうがみ》以外の何物でもなかった
もちろん、シーリスを責めるつもりはない。気を取られた自分が悪いのだ。
シャリーはフォースの迫力《はくりょく》に押《お》され、そして、彼の気持ちをくんでやり口ごもった。
「あんまり、シャリーを苛《いじ》めてやらないでよ」
声がした。力のない声だった。
「シーリス! 気がついたの」
シャリーが女戦士の血の気のない顔を覗《のぞ》きこんで、額に軽く手を当てた。やや熱っぽく感じられたが、気になるほどではなかった。
「枕元《まくらもと》でいがみあっていられちゃ、気が付きもするわ」
シーリスは悲しそうに難んで、身体を起こそうとした。
「まだ駄目《だめ》だ」オルソンがあわてて、シーリスの肩《かた》を押《お》さえようとした。が、それより先にシーリスの身体は崩《くず》れおちていた。
「まったく、情けない」仰向《あおむ 》けになったまま、シーリスは目を閉じて呻《うめ》いた。
その目に光るものがにじんでいた。
オルソンはシーリスが涙《なみだ》を流すのを初めて見た。
「マーシュは、あの大男は死んでしまったのね……」
「そうさ、シーリス。オレたちは負けた。いや、オレたちがかなうような相手じゃなかったんだ。敵は油断していた。だからまだ、善戦できた。奴《やつ》らが最初から本気を出していたら、オレたちはいとも簡単に皆殺しにされていただろう」
「負けた? そんなことはない!」シーリスが首を横に振《ふ》りながら叫《さけ》んだ。
「わたしは勝っていたのよ。あんな大女なんかに、絶対に負けていなかった。油断したのはこっちだったんだ。まさか、あんなに腹筋が硬《かた》いなんて誰が思う。今度、戦えば絶対に……」
「シーリス……」シーリスの頬《ほお》に手を触《ふ》れて、オルソンが彼女の首の動きをそっと止めた。
「なによぉ」涙声でシーリスが抗議《こうぎ 》の声を上げる。
「……君では、あの女戦士に勝てないよ。次も、その次があったとしてもだ」オルソンが言葉を選びながら、そっと言った。
「偉《えら》そうに言わないで! わたしより弱いくせに、戦いの何が分かるっていうの? あいつにあるのは、男|勝《まさ》りの力だけよ。剣《けん》の握《にぎ》り方だって知らないのよ。あんな奴《やつ》にわたしが、正規の剣術を習ったわたしが、負けるわけがないわ!」
オルソンは迷っていた。苦労してうつ伏《ぶ》せになり、顔を上げようともしないシーリスの背中を優しくさすってやりながら、さらに言葉を続けるべきかどうか考えあぐねている様子だった。
そのとき、フォースと視線があった。
盗賊《とうぞく》ギルドの長《おさ》は、ゆっくりと首を縦に振《ふ》っていた。言ってやれよ、と無言の声が聞こえてきた。それで、オルソンは先を言うつもりになった。
「君は一流の剣士だよ、シーリス。剣術の試合をするなら、たいていの人間に負けやしないだろう。でも、やはり君は女性なんだ。腕《うで》の力が足りない。それに長時間戦えるだけの持久力もない。確かに君の剣さばきは速いよ。だから、先手も取れる。でも、その分、疲《つか》れるのが早いんだ。それに、頑丈《がんじょう》な金属鎧を打ち破るには、君の持っている剣ではいかにも頼《たよ》りない。致命《ち めい》傷《しょう》を与《あた》えるのは、難しいだろう」
かすかに震《ふる》えていたシーリスの肩《かた》の動きが、ピタリと止まった。
「言ってしまうなら、君はオレにだって勝てない。オレは小さな怪我《けが》をいくつも負うことになるだろう。でも、最初に致命傷を与えるのは、オレだ……」
「言わないで!」
喚《わめ》きながら、シーリスは上体を起こした。顔が涙でくしゃくしゃになっていた。オルソンは思い出していた。彼女がまだ十六年ばかりしか生きていない娘《むすめ》であることを。本当はきらびやかなドレスで着飾《き かざ》っているような年頃《としごろ》なのだということを。
オルソンはシーリスに手を伸《の》ばして、腕で彼女を支えてやろうとした。彼女の上体がまったく安定していなかったからだ。
思ったとおり、シーリスはフラリと揺《ゆ》れて、オルソンに身体を預けてきた。シーリスは、オルソンから離《はな》れようともがいたが、身体にまったく力が入らなかった。
「そんなこと、今までおくびにも出したことがないじゃない。今になっていきなり言われたって、信じられるもんか」
悲痛な声だった。いつもの快活な声からは想像だにできなかった。
「今までは言う必要がなかったからだよ。普通《ふ つう》に傭兵《ようへい》をやっているだけなら、今の君で十分だったからね。でも、あいつらには歯が立たない。これから先どうなるか分からないが、命が助かったなら、この件からきっぱりと手を引こう。もうパーンには十分に借りを返したはずだ。ロードス島がどうなろうと、オレたちは生きていけるじゃないか。誰が国を治めようと戦《いくさ》はなくならない。傭兵が食いっぱぐれる心配はない……」
「言わないでって言ってるでしょ!」
シーリスの声は決して力強くはなかった。だが、懇願《こんがん》ではなく、それは命令であった。
「それ以上、言わないでよ、オルソン。わたしは負けないわ。あの女だけには絶対に負けない。あんな女に負けてなるものですか。今度は勝つ。絶対に勝つ。ロードス島のためでも、パーンのためでもないわ。わたしのためよ、わたし自身の名誉《めいよ 》に賭《か》けて、わたしはあの女を殺す」
その声は涙で掠《かす》れて、彼女の身体を抱《かか》えているオルソンでさえ、ほとんど聞き取ることができなかった。だが、彼女の鯲しい心の内は、間違《ま ちが》いなく伝わってきた。
上半身が熱病にでもうかされているように震《ふる》えている。オルソンは細い彼女の肩《かた》を抱《だ》いてやりながら、ふと自分の目が熱くなっているのを意識した。
「すまない、シーリス。オレの力が足りないばかりに……」
シーリスの肩を抱く力を強めながら、オルソンは自分の目から涙がこぼれ落ちていくのを意識していた。同時に、馴染《なじ》みのない感覚が自分の心の奥底《おくそこ》から湧《わ》きだしてきていた。
これは何だろう、とシーリスの肩を抱きしめながら、オルソンは自分の心の中に生じた不思議な感覚に戸惑《と まど》いを感じていた。
自分の心の中に巣《す》くっているあの異物感が、緩《ゆる》みつつあるように思えるのだ。それは突然《とつぜん》の思いつきではなく、ここ数日来ずっと意識している心の変化であった。アシュラムの魔剣《ま けん》で切られたときからだという結論にオルソンはいたっていた。あのとき、自分が怒りの精霊の支配から逃《のが》れる一歩手前までいっていた、とオルソンは記憶《き おく》している。また、去りつつあるそれ[#「それ」に傍点]を引き止めたのが、自分であることも。それは復讐《ふくしゅう》を果たしたいがためだった。あのときは、非力な自分の力になってくれるなら、たとえ相手が死神であろうとも助けをもとめたろう。
今は、あの時に感じた解放感のようなものはない。自分の心の奥底に怒りの精霊が眠っていることも分かる。ただ、その束縛《そくばく》が以前ほどではなくなっているのは、まず間違いなかった。
これから先、自分がどう変化していくのかは分からない。
ただ、込みあげてくる思いに身を任せ、オルソンは力なく泣きつづける相棒をかばうように、静かに自分の胸に引き寄せただけだった。
それは奇妙《きみょう》な光景であっただろう。子供のようにすすり泣くシーリスを抱きかかえながら、表情をすこしも動かさず、しかし涙だけを流しているオルソン。
セシルは咳払《せきばら》いをするようにそっぽを向き、フォースは視線を遠くに向けたまま身じろぎもしなかった。そのフォースは心の中では、シーリスの言うとおりだと、つぶやいていた。これはオレたち自身の戦いになったのだ。勝てるかどうかは分からない。だが、彼にとっては数十人もの自分の手下、何よりかけがえのない仲間であり、友だったマーシュを殺されているのである。復讐を誓《ちか》わずにはおられなかった。
闇《やみ》はどこにでもあるんだぞ、背中は誰にもあるんだ。食事や飲み物は誰もが口にするものだ。盗賊にとって復讐の方法はいくらだってあるのだ。何年かかるかは分からない。だが、フォースは必ず成功させるつもりでいた。父や兄弟の仇《かたき》を討ったときのように……。
フォースの隣《となり》では、身体を丸めるようにグラスランナーのマールが、首をうなだれて静かに座っていた。
そして、シャリーは、彼女の信仰《しんこう》する戦の神マイリーに向かって、いつまでもいつまでも、祈《いの》りの言葉をつぶやいていた。
2
シャリーが武装《ぶ そう》したマーモの水夫に呼びだされたのは、それからしばらく後のことだった。
それはちょうど三回目の食事の差し入れと一緒《いっしょ》で、残飯のようなものを汚《きたな》い木製の器によそわれて配られた時だった。
シャリーをどうする気だとオルソンは尋ねたが、水夫は下卑《げび》た笑いに顔を歪《ゆが》ませただけで何も答えず、彼女を連れ去っていった。
シャリーは別に抵抗するつもりもなかった。戦いに敗れたうえは、敵の要求をすべて受け入れるというのがマイリーの教えである。だから、シャリーは堂々と胸を張るようにして歩いた。
死ぬことさえ、別に怖くはなかった。真の勇者やマイリーの教えに殉《じゅん》じた者は、マイリーの御許《み もと》である喜びの野≠ノ赴《おもむ》くことになる。そこでは、自らが生前に示した勇気の分だけの喜びが得られるとされている。
だから、もし自分が死ぬことになろうとも、マイリーの教えを守り勇気を示してきた以上、悲しむことは何ひとつないのである。ただ、カシュー王やオルソンたちの力にこれ以上なれないのが、残念といえば残念なだけだ。
「おまえは、慰《なぐさ》みものにされるのよ」シャリーの肩《かた》に手を回しながら、水夫は耳元《みみもと》に顔を寄せ、臭《くさ》い息を吐《は》きかけてきた。「この前、捕《つか》まえた女どもみたいにな」
シャリーは、軽蔑《けいべつ》したように水夫の顔を見た。
それから、肩に回されていた水夫の手を捩《ねじ》りあげるようにつかんで、それを水夫に叩《たた》きつけるように送りかえした。
「捕虜《ほ りょ》を連れている時は、もっと真剣《しんけん》にすることね。マイリーの神官戦士は武器を持っていなくとも戦える術を心得ているのよ」
一瞬《いっしゅん》、水夫は右手に抜きもっていたカトラスを振りあげたが、すぐに思いとどまったようだった。顔をしかめながら、彼は手をさすっていた。
「戦《いくさ》の神っていうのは、仲間同士でも戦うものなんだな」軽蔑したように水夫は笑った。「おまえの身体をご所望なのは、他ならぬ戦の神の司祭様なのよ」
「わたしたちマイリーに仕える者は、自らが選んだ勇者のためになら、お互《たが》いに全力を尽くして戦います。それは誇《ほこ》りですらあります」
そう答えながらもシャリーは、少なからず動揺《どうよう》していた。男の侮辱《ぶじょく》に対してではない。自分を呼び出したのが、ホッブということに対してである。
自分にどんな用事があるのか、また何を言うつもりなのか、想像もつかない。だが、ホッブに会うことは、彼女にとって大きな勇気を必要とした。かつては、師弟の関係にあり、今は敵味方に分かれている。ホッブは、自分にどんな態度を見せるのだろう。できれば、そっとしておいて欲しかった。顔を合わすこともなく、何も言わずにいて欲しかった。戦に敗れた屈辱《くつじょく》の姿をホッブに見せることは、どんな苦痛を受けるより、どんな辱《はずかし》めを受けるより、シャリーには辛《つら》いことだった。
「ここだ」
だが、非情にも水夫は、ひとつの船室の前で立ちどまった。
階段を二階分上がったので、漕《こ》ぎ手たちの部屋《へや》よりも、ひとつ上の階だろう。すぐ上が甲板《かんぱん》のはずだ。
規則正しく聞こえてくる波の音は、馴染《なじ》みのあるものだった。船倉に閉じこめられているあいだに聞こえてきた波の音は、海魔《クラーケン》の咆哮《ほうこう》のような長く余韻《よ いん》を残す音だったのだが。
「ホッブ様、連れてきやしたぜ」
水夫は扉《とびら》をノックすると、扉に向かってそう大声を出した。
「すぐに中に入れろ。扉は開いている。それから、おまえはすぐ出ていくんだ。いいな」
中から返事があった。間違いなくホッブ司祭の声だった。
シャリーは、自分の心臓が口から飛びでるのではないか、とさえ思った。頭に血が昇《のぼ》ってきて、めまいがしそうだった。
そして、水夫は部屋の扉を開いて、シャリーを中に押《お》しこめるように入れた。
小さな、そして質素な部屋だった。
ベッドとそれに、机がひとつあるだけである。鎧《よろい》と武器が立てかけられ、半乾《はんがわ》きの衣類が何枚か紐《ひも》に吊《つ》るされて干されてあった。
ブレードの神殿では、司祭の汚《よご》れ物は神官たちが洗っていた。侍祭《じ さい》になるまでは、女性ということから、シャリーがひとりで洗濯を引き受けていたといってもよい。懐《なつ》かしい記憶《き おく》がふと呼び覚まされてきたが、すぐにその考えをどこかに押しやった。
机の前の小さな椅子《いす》に腰《こし》を下ろし、ホッブは静かな視線をシャリーに向けていた。
一瞬、視線を落として目を閉じてから、シャリーは小さくマイリーに祈りの言葉を唱えた。目と心を引き締《し》めてから顔を上げ、ホッブに真っ向から視線を合わせた。
「久しいというほどではないが、なぜか、そんな気がするな」
ホッブの顔は穏《おだ》やかであった。そして、立ち上がって自らが座っていた椅子を差し出し、自分はベッドの端《はし》に腰を下ろした。
「掛《か》けるがよい」
断ろうかと一瞬、思ったが、すぐに思いなおしてシャリーは従った。
「お互いの立場、思いが離れてしまったゆえに、久しいと思われるのでしょう」
椅子にかけてから、シャリーは先程のホッブの言葉に答えた。
「なるほど。そうかもしれん」
ホッブの表情は緩《ゆる》みもせず、厳しくなりもしなかった。
「わたしに御用とは何でしょう」シャリーは背筋を伸ばしたまま、格式ばった口調《くちょう》で尋ねた。
「うむ、おまえの本心を聞きたくてな。なにゆえ、おまえがわしを、いやアシュラム様を追ってきたのかを」
「事情はすでに、オルソンがお答えしたはずですが」
「ああ、実に素直に白状しておったな。自分たちがカシュー王の密命を受けてきたこと。しかし、今回はあくまで海賊を退治に来たのであって、我らと出会ったのは偶然であること。他にカシュー王の命令で動いている人間が四人いること。そして、フレイム軍がシューティングスターと戦いを演じていること、などなど。こちらが求めぬことまですべて話してくれたよ」
「それはようございました」シャリーはよそよそしい態度を取りつづけていた。
「手厳しいな、シャリー」それを見て、思わずホップは苦笑いを浮かべた。
「それよりも、さっきの問いはカシュー王の考えではなく、おまえ自身の気持ちについて問いたかったのだ。なにゆえ、おまえはあの傭兵《ようへい》たちに付いてきたのだ。カシュー王の命令を受けたからか?」
「それは違います!」シャリーは自分の声に驚《おどろ》いていた。むきになったつもりなどなかったのだが、かなり強い調子で否定してしまったからだ。
「違います」今度は声を落として、シャリーは繰り返した。
「カシュー陛下は、司祭様がご出立なされた後、マイリーの神殿《しんでん》においでになられたのです。司祭様にお力を借りようとなされたためです。わたしは、司祭様のお話を申し上げました。もちろん、カシュー王はご立腹になられましたが、わたしに司祭様を討てなどとは決しておっしやっていません」
「ならば、何故《なぜ》だ」
「司祭様は、お別れの前にわたしにこうおっしゃってくれました。神の声は自らの心の内より聞こえてくると。そして、わたしはカシュー王から、アシュラム卿《きょう》の話を聞かされたとき、自らの心に問うてみたのです」
「ほう」ホッブは興味深そうに、シャリーの顔を見つめた。「で、神は何と答えたもうた?」
「カシュー王に協力せよ、と。そして、いまだ勇者ではないものの、その資格を有する若者たちを助けよ、と。神はそう仰《おお》せられたように思いました」
ホッブはもう一度、ほう、と唸《うな》った。そして、天井《てんじょう》を見上げて何事かつぶやいた後、満足げに二度、三度とうなずいた。
「もはや、おまえに教えることは何もないようだな。おまえにアシュラム様の仲間に入ることを勧《すす》めようと思って呼びよせたが、やめておこう。主人を決めた以上、その主人を裏切らぬのが我ら戦の神に仕える司祭というものだからな」
ホッブは立ち上がり、シャリーの肩《かた》に手を置いた。彼がアシュラムに同行することを決意したときにしたように。
シャリーはその手から肌《はだ》をとおして暖かいものが伝わってくるような錯覚《さっかく》を覚えていた。ふと気が緩《ゆる》み、シャリーは涙《なみだ》をこぼしていた。
「では去れ、シャリー。おまえはおまえの思うままに戦うがよい。わしはわしの戦いに臨む。そして、いつか喜びの野にて再会しようぞ」
「はい、司祭様」と、シャリーは涙声で答えた。
「おまえたちのうちの誰かが、この航海の後には、アシュラム様からの伝言を託《たく》され、カシューの許《もと》に帰ることになるだろう。すなわち、いかなる者を差し向けようと、我らには勝てぬこと。我らの企《くわだ》てを阻止《そし》したくば、カシュー王自ら出ること。そのときには、アシュラム様は一騎打《いっき う 》ちにてカシュー王を倒《たお》すつもりであることを伝えるためにな。それがおまえであることを祈《いの》っておくよ。もし、おまえが解き放たれたなら、どうするつもりだ」
「カシュー王にご報告申しあげた後で、ふたたび戦いを挑《いど》みに参るつもりです」
「うむ、そうであろうな。ならば、捕虜《ほ りょ》として船倉へと帰れ。そして、自ら選んだ運命をまっとうするがよい。今度、敵として出会ったならば、わしも全力でおまえと戦おう」
「はい、司祭様」
言ってから、シャリーは思った。目の前の男を司祭様と呼ぶのはこれが最後であると。
3
それから二日がたち、アシュラム一行はようやく青竜《せいりゅう》の島へと上陸した。
隠《かく》れ家《が》を出てから、四日目の夕刻のことだった。
島の近くへは予定どおり一日ほどで着いたのだ。しかし、海が荒《あ》れていたため、島のまわりを取り巻いている暗礁《あんしょう》地帯が抜《ぬ》けられず、三日も沖で待機していなければならなかった。
しかし、自然が相手であっては、いかにアシュラムとて手の下しようがなかった。おとなしく海が静かになるのを待つしかなかったのだ。
そして、ようやく上陸である。
もちろん、島には船着き場などあるはずがなかったから、島の北側にあった砂浜に、乗りあげるような形で船を着けた。
錨《いかり》を下ろし、船を固定させる。それでも、島まではまだ海水に浸《つ》かっていかねばならなかった。溺《おぼ》れずにすむぐらいの深さであったので、アシュラムは鎧《よろい》が海水に濡《ぬ》れることも気にせず、歩いて島へ上陸した。
上陸したのは、アシュラムを含めて七人。ホッブやグローダーらの馴染《なじ》みの配下に加え、フレイムの傭兵《ようへい》であるオルソンという名の戦士を連れてきていたからだ。
アシュラムは自らが目的を達した場合の生き証人とするため、彼を連れてきているのだった。この航海が終了後、彼だけは釈放《しゃくほう》してやるつもりでいる。いかに、自分たちが打ちのめされたか、カシューに伝えさせるためだ。
「エイブラは今は休眠期にあると聞くが、本当だろうな」
浜辺の砂に足を取られぬよう気を遣《つか》いながら、アシュラムは影《かげ》のように自分の後ろを歩くグローダーに尋ねた。このところ、この魔術師は自分に対し、忠誠のようなものを見せている。もちろん、彼の本当の主人はバグナードであることは間違いないのだろうが。
「確実な情報とは言えません。エイブラは水竜《すいりゅう》にて、その餌《えさ》は巨大《きょだい》な魚であると聞きおよんでいます。ですから、昔はこの島の近海ではよく姿が見られたのだそうです。しかし、ここ十年以上も、エイブラを見たとの報告はなく、それゆえに休眠期に入ったのだろうという噂《うわさ》が流れているにすぎません」
「なぜ、それが問題になるのですかな?」と、ホッブが疑問を口にした。
「休眠期のドラゴンと活動期のドラゴンとでは強さがあまりに違うからだ」答えたのは、アシュラムだった。
「今度の旅の始まりは、マーモに棲《す》む邪竜《じゃりゅう》ナースが活動期に入ったことによるのだ。あのエンシェント・ドラゴンが餌を求めて、マーモの国中を荒《あら》そうという気配を見せたので、わたしとバグナードはそれぞれ伴《とも》を連れて、ドラゴンを倒しに行ったのだ。結局、瀕死《ひんし 》の状態まで痛めつけた後、ナースにかかっていた呪《のろ》いを解き、忠誠を誓《ちか》わせたのだがな」
「そのときの邪竜の強さは、氷竜ブラムドなどとは比べようにもならなかったというわけだよ」グローダーがその後をついで言った。「ナース退治に向かったのは数十人。そのうち、生き残ったのは、アシュラム卿《きょう》と我が導師バグナード、スメディとギルラム、そしてわたしの五人だけだったのだ」
「太守の秘宝についての詳細《しょうさい》は、ナースの口から聞いた。そして、わたしたちはマーモを勝利に導くため、支配の王錫《おうしゃく》を求めて旅に出たのだ」
なるほど、とアシュラムの説明にホッブは深くうなずいた。
「それは、さぞかし長く苦しい旅であったでしょう。アシュラム様の旅がこの青竜の島にて終わればよろしいのですがな」
「オレもそう願っているよ。できれば、活動期に入っているシューティングスターとは戦いたくないからな。支配の王錫はエイブラが持っていることを祈《いの》りたい。だが、たとえ宝物を手に入れても旅が終わったわけではない。いや、その後こそが、本物の戦いだと言えるだろう。支配の王錫の力を使い、このロードスを統一せねばならないのだからな」
アシュラムの表情はあくまで厳しかった。
「まさしく、そのとおりですな。わたしも心しておくようにしましょう」アシュラムの言葉に、ホッブが満足げにうなずいた。
エイブラの棲《す》むという洞窟《どうくつ》は、島の東側の岩場にあるとのことだった。その情報はナースから聞いたものだった。満潮時は、入口が海に隠《かく》れるとのことで、干潮時を狙《ねら》っていかねばならないという。アルハイブの潮読みでは、日が沈《しず》んですぐぐらいがちょうど干潮だとのことだった。その頃には海魔の角号が乗り上げた砂浜も干上がっているはずですよ、と彼は付け加えた。
アルハイブの言葉を思い出して、アシュラムは歩く速さをいくらか速めた。陽《ひ》はもう間もなく沈むだろう。真っ赤な夕陽が陽炎《かげろう》のように揺《ゆ》らぎながら、西の水平線に達しようとしていた。
少しでも早く洞窟にたどりつくよう、アシュラムたちは海岸ぞいを通らず、島を斜《なな》めに横切るルートを選んだ。
すこし奥に入ると、足もとは砂ではなく土の地面に変わった。地面には背の低い草が一面に生えていて、上空にはいろんな種類の海鳥たちが奇妙《きみょう》な鳴き声をあげながら空を埋《う》めつくさんばかりに舞《ま》っていた。
人も獣《けもの》も住んでいないこの青竜の島は、海鳥たちにとっては楽園であるらしかった。海からこの島を見たとき、岩の崖《がけ》などが鳥たちの糞《ふん》で真っ白になっていたことを思いだす。あちらこちらの草陰《くさかげ》から、海鳥たちの雛《ひな》が餌《えさ》を求めてあげる口やかましい鳴き声が聞こえてくる。
しばらく行くと、草はしだいに少なくなり、ごつごつとした岩の姿が目立つようになってきた。岩の上半分は鳥の糞で白く、陽に当たらない側は、苔《こけ》が生《む》して緑色だった。
そして、ふたたび海岸に出た。
今度は砂浜ではなく、岩場だった。あちらこちらに変わった形の岩が目立った。獅子《しし》の形をしたものや、巨大《きょだい》なきのこみたいなものもあった。
海岸ぞいの岩を海草に足を滑《すべ》らせないように気を付けながら、一行は進んだ。しばらく進むと、目の前に巨大な崖がそそり立ち、そこに巨大な洞窟が口を開けているのが見えた。
崖の下は平らな岩棚《いわだな》になっており、歩いて洞窟まで通ることができそうだった。そこかしこのくぼみには潮だまりができており、海辺に住む小動物や取り残されてしまった小魚たちの姿があった。
山育ちのオルソンにとっては、見慣れない光景ではあった。だが、今はゆっくりとそれを眺《なが》めている余裕《よ ゆう》はなかったし、別に眺めたいという気も起こらなかった。そんな自分を、まわりにいるマーモの猛者《もさ》たちが、ときおり怪訝《け げん》な顔で見ているのがオルソンには分かった。彼らの目にも、狂戦士《バーサーカー》である自分の異質さが見えているのだろう。
自分が狂戦士であるということを、オルソンはアシュラムに話した。アシュラムには、オルソンの話がにわかに信じられなかったようで、ダークエルフのアスタールを呼び出し、真偽《しんぎ 》の判定をつけさせようとした。
精霊使いとして高い実力を持っているアスタールは、オルソンの言うとおり、彼の精神の精霊の働きが異常なことを指摘《し てき》した。精神を司《つかさど》る精霊たちの働きがあまりにも弱すぎたのだ。ただひとつ、心の奥底に灼熱《しゃくねつ》の溶岩《ようがん》のように澱《よど》んでいる怒りの精霊を除いては。
だが、オルソン自身は、自分の心の変化にほぼ確信を抱《いだ》いていた。
アシュラムの魔剣《ま けん》魂砕《たましいくだ》き≠ナ切られたとき、自分は怒りの精霊の東縛《そくばく》から解放される寸前までいった。結局は、復讐《ふくしゅう》のためにオルソン自身が望んで怒りの精霊を呼びもどしたのだが、この精神の上位精霊は以前ほどの拘東力《こうそくりょく》を失っていた。
シーリスの言葉で簡単に狂戦士状態から脱《だつ》したし、怒《いか》り以外の感情のようなものを感じられるようにさえなった。先日、シーリスを抱《だ》きしめながら涙《なみだ》を流したとき、彼女をいとおしむ気持ちが間違《ま ちが》いなく心の片隅《かたすみ》にあったはずだ。
あとひとつ、同じような衝撃《しょうげき》を受ければ、オレは怒りの精霊の呪縛《じゅばく》を打ち破ってみせる、とオルソンは心の中でシーリスに向かって誓《ちか》った。
と同時に、ある疑問が頭をもたげてきた。
自分は本当に怒りの精霊の呪縛から逃《のが》れたいのだろうか? 普通の人間に戻《もど》りたいのだろうか?
それは、今まで一度も自分に問いかけたことのない疑問だった。そして、答を導きだすことができない自分に、オルソンは小さな衝撃《しょうげき》を受けていた。
それから、しばらくしてからオルソンを含《ふく》めた七人の一行は、洞窟《どうくつ》の中へと入っていった。洞窟の奥《おく》は真っ暗だった。
グローダーが上位古代語《ハイ・エンシェント》の呪文《じゅもん》をつぶやいて、右手に持っている杖《つえ》の先に魔法《ま ほう》の灯《あか》りを浮《う》かべた。魔法の灯りは、滑らかな洞窟の岩肌に青白く反射していた。岩肌は濡《ぬ》れているみたいで、宝石の散りばめられた装飾品《そうしょくひん》のようにきらきらと輝《かがや》いた。足元《あしもと》も滑《すべ》りやすく、一行は注意して洞窟の奥へと進んだ。
先頭はアシュラムとホッブである。その後ろにスメディとグローダーが続き、オルソンが一行の真ん中を進まされた。列の後ろにアスタールとガーベラが控《ひか》えていて、オルソンが変な動きをしないよう警戒《けいかい》の目で彼の背中を見つめていた。
その目は、まるで化け物でも見るようだった。狂戦士伝説は彼らとて知っていた。
しかし、本物に出会ったことは、もちろん、なかった。そして、できれば出会いたくない手合《て あい》でもある。しかし、不思議とアシュラムはこの戦士のことを気に入っているようだった。
「狂戦士の力を自らの意志で制御《せいぎょ》することはできないのか?」と、アスタールに問いさえした。ダークエルフがそれは不可能なことを告げると、さも残念そうな表情さえ浮かべたものだ。
しかし、今は狂戦士どころではない。一行の誰もが、言いようのない緊張《きんちょう》をみなぎらせていた。これから戦うエイブラのことを思ってだ。ドラゴンと戦うのは、これで三度目である。邪竜《じゃりゅう》ナース、氷竜ブラムド、そしてこの水竜エイブラである。もっとも、ガーベラとアスタールは、このエイブラが二度目であった。
オルソンに至っては、ドラゴンを見た経験さえない。
しかし、彼がいちばん平然とした顔をしているのは、いまだ感情に乏《とぼ》しいしいからだ。恐怖という感情は、いまだ馴染《なじ》みのないものだった。それにアシュラムから、おまえはドラゴンと戦わずともよい、と申しわたされている。護身のため剣の携帯を許されてはいたが、ドラゴン相手に使うつもりは毛頭なかった。
万が一、アシュラムたちがエイブラに殺されたなら、自分は逃げだせばよい。
そのときには、絶好の機会に恵《めぐ》まれることにもなる。海賊たちの数はこの前の戦闘でかなり減っているのだ。自分ひとりだけでもうまく立ちまわれば、シーリスたちを脱出《だっしゅつ》させることができるのではないか、という気もする。
そうなれば、期せずして使命を達成できたことになる。あと、誰が支配の王錫《おうしゃく》を持っていようと自分たちの知るところではない。欲しい奴《やつ》が勝手に取りにいけばいいのだ。都合よく事が運ぶとは思えないが、とりあえずそうなることでも願っておこう、とオルソンは考えた。
洞窟《どうくつ》はかなり奥《おく》まで続いているようだった。入口からかなりの時間歩いているような気がする。ドラゴンが自分の巣穴《す あな》に相応《ふ さ わ》しいように、巨大《きょだい》な穴を掘《ほ》ったのではないだろうか、そんな考えがオルソンの頭に浮《う》かんだ。自然の洞窟とはとても思えない。
そのときである。先頭のアシュラムが立ち止まった。
何事かと前を見ると、洞窟が巨大な空洞のような場所に行きあたっていた。海賊たちが宝物を積みあげていた場所に様子が似ている。だが、あの岩屋よりも、ここの空洞は遥《はる》かに大きかった。空洞の中央は澄《す》んだ水が溜《た》まっていて、ちょっとした池のようになっていた。水の深さはそれほどでもない。その池の底は万色の輝《かがや》きをきらめかせていた。想像を絶する量の財宝が、沈《しず》んでいるのだった。
そして、岩の壁が淡《あわ》い青白色の光を放っていた。岩肌に光苔《ひかりごけ》が密生しているようだった。
まるで自然にできた王宮の広間のように、巨大で荘厳《そうごん》であった。そして、空洞のいちばん奥、あたかも王座に腰《こし》を下ろしているかのようにこの島の支配者の姿があった。
「これが、水竜《すいりゅう》エイブラか!」
オルソンはその巨大さに圧倒《あっとう》されてしまった。
エイブラの全身にも光苔がはえ、青白い光で包まれていた。形はドラゴンというより巨大な蛇に近い。どこまでが胴体でどこからが尻尾なのかの区別さえつかなかった。ただ、巨大な翼があることと、四つの足がとぐろの間にかいまみえることから海蛇竜《シーサーペント》ではなく、ドラゴンに間違《ま ちが》いないことが分かった。
エイブラは三重にとぐろを巻きながら、岩の上に静かに横たわっている。
死んでいるのではない。眠っているようだった。ときおり、水竜の身体がゆっくりと収縮しているのは、寝息《ね いき》を立てているからなのだ。そのたびごとに、空洞内の空気が唸《うな》りをあげ、風となって巻く。
水竜の呼吸は、信じられないほど緩《ゆる》やかだった。エイブラが一回呼吸をするあいだに、オルソンは百回以上も息をしていた。それほど、ドラゴンの眠りは深いみたいだった。これなら、子供でも仕留めることができるのではないかという気にさえなる。だが、アシュラムたちはまったく油断していなかった。それどころか、緊張《きんちょう》の度合いをさらに深め、用心深くお互《たが》いの距離《きょり 》をとって水竜《すいりゅう》に近付いている。
もはやオルソンのことなど、眼に入っていないようだった。それで、オルソンはゆっくりと後ずさりし、空洞《くうどう》の入口のところまで下がった。そこで屈《かが》みこみ、アシュラムたちの戦いぶりをゆっくりと見届けようと思った。
考えようによれば、これは最大の見ものである。吟遊詩人《バ ー ド》のマールがいたら、おそらく一生食べられるぐらいの叙事詩《じょじ し 》の名作を完成させたに違いないと思う。船に帰ったらシーリスにも聞かせてやろう。マールにも教えてやろう。
アシュラムたちはじりっじりっと水竜に近寄っていく。魔法《ま ほう》をかけている様子もない。
何をするつもりだろう、とオルソンは彼らの動きを見守った。
と、そのとき声が響いた。それはオルソンの耳には獣《けもの》の咆哮《ほうこう》にしか聞こえなかったが、しかし、何かの意味を持っている言葉だということは直感的に分かった。声は水竜エイブラが発しているのだった。
オルソンの見ている中で、水竜はそのとぐろをゆっくりと解きつつあった。伸《の》びでもするかのように、退化しかけの翼《つばさ》が広げられ、二度、三度と羽ばたかせている。
大きい。自分たちを運んできたあの巨大《きょだい》なガレー船と比べても、遜色《そんしょく》がないほどだった。
そして、エイブラは長い首の先にある頭をもたげ、こちらを見下ろしていた。反射的にオルソンは身を小さくしていた。喉《のど》に何かがつっかえたような気がして、オルソンは冷たい水を飲みたい衝動《しょうどう》にかられた。
水竜エイブラは、もう一度、今度は低く吠《ほ》えた。
「わたしの眠りを妨《さまた》げる者は誰だ」エイブラはそう叫んだのだ。
しかし、彼の咆哮を意味ある言葉として理解できる者は、一行の中ではグローダーしかいなかった。エイブラが使った言葉は古代語である。それも、魔法をかけるときに使われる上位古代語《ハイ・エンシェント》ではなく、昔日《せきじつ》に滅びた魔法王国の時代において日常会話として使われた下位古代語《ロー・エンシェント》と呼ばれる言葉である。この人間の言葉は、彼を支配していた魔術師《ソーサラー》たちから教わった。
「人間だ。それ以上名乗ったとて、おまえには意味のないはず」黒いローブの男が、古代語を返した。
「人間になど用はない。矮小《わいしょう》にして、炎に弱き者どもよ。この場より、早々に立ち去るがよい。我は眠りたいのだ」
何と言っているのだ、と小声でアシュラムが尋《たず》ねてきた。
グローダーは、かなり性格の荒《あら》いドラゴンのようです、と嘘《うそ》をついた。このドラゴンが持っている宝物をグローダーは何としてでも、戦って奪《うば》わねばならないからだ。その口実を作るためだった。
「オレにはあの氷竜《ひょうりゅう》ブラムドよりもさらに知的なドラゴンのように見えるぞ。邪竜《じゃりゅう》ナースなどとは比べようもないほど穏やかなようだ。まあ、よい。とにかく、支配の王錫《おうしゃく》を持っているかどうかを尋ねてみてくれ」
グローダーは無言でうなずいた。平静を装《よそお》っていたが、内心では鋭く真実を見抜《みぬ》くアシュラムの観察力に敬意を抱《いだ》いていた。確かに、目の前のドラゴンは賢明《けんめい》で穏《おだ》やかな性格をしているようだ。
でなければ警告など与えず、眠りを妨《さまた》げた怒《いか》りに任せ、いきなり襲《おそ》いかかってきたことだろう。
「エイブラよ。おまえが守る宝物とは、魂の水晶球[#「魂の水晶球」に傍点]≠セと聞いているが間違いないな」
グローダーは、エイブラに向かってそう尋ねた。
支配の王錫ではない。
魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》を持っているか、と尋ねたのだ。
魂の水晶球は、太守の秘宝のひとつである。その力は魂の失われた肉体に魂を召喚《しょうかん》してくるという力を持つ、強力な蘇生《そ せい》の魔力《まりょく》を秘めた宝物だった。彼の導師バグナードは支配の王錫ではなく、この魂の水晶球こそを欲しているのだ。その理由を彼は知らない。しかし、導師の命令は絶対であった。
そして、自分の真の使命とは、この魂の水晶球を手に入れることにある。いかなる障害《しょうがい》があろうとも。たとえ、水竜エイブラと戦うことになろうとも。それは、アシュラムや仲間を危険に晒《さら》すということであった。
やむをえまい。黒衣の魔術師《ソーサラー》は、自分にそう言い聞かせていた。
「いかにも、そのとおり」エイブラの答が返ってきた。「それを知って、いかんとする、地に縛《しば》られし者よ。汝《なんじ》らが太守の秘宝を奪《うば》いにきたというのであれば、我はそれを阻止《そし》せねばならぬ。それが主人より与《あた》えられた使命のゆえに。それは、汝らにとり不幸なこととなろう」
「いや、違うな。不幸なのは、エイブラ。おまえだ」
「汝らを盗賊《とうぞく》と認めたぞ」
そして、ドラゴンは小さく鼻から息を噴《ふ》きだすと、ゆっくりと戦いの姿勢を取りはじめた。
「交渉《こうしょう》はどうなった!」アシュラムがエイブラの動きに警戒心《けいかいしん》を抱《いだ》き、グローダーに怒《どな》っ鳴った。
「決裂《けつれつ》です。エイブラは支配の王錫を持ってはおりませんでした。ですが、眠りを妨げたことに怒り、我らを殺し喰らうつもりです」
グローダーは答えて、杖《つえ》を横にすばやく振《ふ》るい、上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを詠唱《えいしょう》しはじめた。
「やむをえんな。ホッブ、戦の歌を! ドラゴンの咆哮《ほうこう》は、聞く者の心を打ち砕く。我が大剣《たいけん》の魔力のようにな」
「心得ました」
アシュラムの命令に応じ、ホッブが戦の歌を詠唱《えいしょう》しはじめた。朗々《ろうろう》たる神聖語の声が空洞《くうどう》の石壁《いしかべ》に反響《はんきょう》して、荘厳《そうごん》な重奏となった。
みごとな戦いぶりだ、とオルソンが感心したとき、エイブラは空洞の壁を切り裂《さ》くような甲高《かんだか》い声で吠《ほ》えた。
人間の心臓を凍《こお》らせ、その精神を握《にぎ》りつぶす魔法の咆哮であった。間近で聞けば、命を失うほどの衝撃《しょうげき》となるという。
ホッブの呪文《じゅもん》はかろうじて間に合った。だが、ひとりホッブの呪文の恩恵《おんけい》を受けていないものがいた。
オルソンである。
ドラゴンが咆哮しはじめたとたん、彼の心に嵐《あらし》が吹き荒《あ》れた。
「うわぁぁっ! ああーっ」
オルソンは口から絶叫《ぜっきょう》を上げながら、地面を転げまわった。まるでまわりの空気に圧殺《あっさつ》されるような息苦しさだった。逃《に》げたい、逃げたい。それしか、考えられなかった。だが、足腰《あしこし》がまるでいうことを聞いてくれなかった。エイブラの姿が、まるで巨大《きょだい》な死神のように見えた。
それが、恐怖《きょうふ》という感情であることに、オルソンは思いいたった。
と同時に、オルソンの心の中で、もうひとつ絶叫を上げながらのたうつものがあることを彼は意識した。
しかし、それが、怒《いか》りの精霊《せいれい》のあげる断末魔の悲鳴であることまでは思いいたらなかった。なぜなら、圧倒的《あっとうてき》な恐怖に打ちのめされ、張りつめた糸が音を立てて切れたように意識が空白になり、岩の上に白目を剥《む》いて倒《たお》れこんだからだ。
「右に回りこめ!」
アシュラムの怒号《ど ごう》が響いた。
水竜エイブラは、やみくもに炎を吐くだけではなかった。長い尾を鞭《むち》のように振るい、アシュラムたちをなぎはらおうと|攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けた。
それどころか、このエンシェント・ドラゴンは古代語の魔法すら使ってきたのだ。
電撃や火球といった破壊《は かい》の魔法を乱れ撃《う》ち、自らを守るべく魔法の楯《たて》の呪文で、硬《かた》い鱗《うろこ》をさらに頑強《がんきょう》なものとする。
炎の攻撃には、ダークエルフのアスタールが、宝が沈《しず》んでいる池から水の上位精霊である海魔クラーケンを召喚して対抗した。
戦乙女《いくさおとめ》の名で知られるバルキリーを召喚し、この勇気の精霊を力の源とする投げ槍の呪文を何度も何度も唱えて、ドラゴンの全身を串刺《くしざ》しにした。
だが、エンシェント・ドラゴンは最強の魔獣《まじゅう》の名をすこしも汚《けが》さぬように、圧倒的な力でアシュラムたちに襲《おそ》いかかった。
強靭《きょうじん》なドラゴンの尾の一撃《いちげき》を受け、スメディが空洞《くうどう》の壁《かべ》まで弾《はじ》きとばされた。
アシュラムの全身には、炎《ほのお》の息が吹きかけられた。
そして、呪文《じゅもん》を唱えるため、無防備となったアスタールの胸を電撃が撃った。
傷ついた者には、ホッブとガーベラが走りより、治癒《ちゆ》の呪文を使って、その傷を癒《いや》した。
ふたたび力を得たアシュラムは、気合いの声をあげてエイブラに走りよると、魂砕《たましいくだ》き≠フ暗黒の刃でドラゴンの鱗《うろこ》を切り裂いた。
女戦士スメディも渾身《こんしん》の力を込めて、二本の剣を腹部に突《つ》き立てると、その身体深く埋《う》めこんだ。
それでも、エイブラはなかなか倒《たお》れなかった。尾で、爪《つめ》で、牙《きば》で、炎で、魔法《ま ほう》で|攻撃《こうげき》をしつづけ、グローダーのローブを燃えあがらせ、ガーベラの右腕《みぎうで》をずたずたにした。
このままでは全滅するという思いが、一瞬《いっしゅん》アシュラムの脳裏に浮かんだほどだ。
エイブラが活動期であったなら、そのとおりになっていたであろう。
しかし、休眠期にあるエイブラの動きは遅《おそ》く、アシュラムたちは致命傷《ちめいしょう》を受けずに済んだ。
グローダーの破壊《は かい》の魔法が、アシュラムの大剣がスメディの二本の剣が、エイブラの命を確実に擦《す》り減らしていき、やがてエンシェント・ドラゴンの動きはさらに鈍《にぶ》くなっていった。
それでも、アシュラムたちは、エイブラのしつような反撃に苦しめられた。だから、水竜の動きが止まるまで、その命の炎が完全に燃えつきるまで攻撃の手を緩《ゆる》めなかった。
アシュラムの大剣がエイブラの喉《のど》もとを切り裂き、アスタールの放った魔法の|投げ槍《ジャベリン》が両目をえぐった。
ついに、エイブラは断末魔の悲鳴を上げると、巨大《きょだい》な地響《じひびき》を立てて、地面に倒《たお》れた。
それから、何があったのかオルソンは知らない。
気がついたときには、ホッブのいかめしい顔が目の前にあった。エイブラの咆哮《ほうこう》を聞いて恐慌《きょうこう》をきたし、意識を失ったことを思いだすのにしばらく時間がかかった。
それを思いだしてから、ようやく我に返ったように、ハッとなって、まわりを見回した。
見れば、巨大な水竜の死体が、池の中になかば身体を沈《しず》めるような格好で横たわっていた。そして、その死体の周《まわ》りにアシュラムたちの姿があった。
誰ひとりとして犠牲者《ぎ せいしゃ》は出ていない。だが、さすがに無傷というわけではなかった。ひどい火傷《や け ど》を負ったり、身体のあちらこちらから血を流していた。アシュラムの右腕もだらりと力なく下がっていた。骨が折れているみたいだった。ガーベラがその折れた手に向かって、一心に祈《いの》りの言葉を唱えている。
暗黒神の司祭にも癒しの呪文がかけられるとは、オルソンには意外だった。
「おまえにも、マイリーの助力を頼むべきであったな。忘れていたことを詫《わ》びさせてもらおう」
ホッブが静かに話しかけてきた。
オルソンはまだ、心臓の鼓動《こ どう》が速いのを感じていた。全身に汗《あせ》が流れている。
身体の震《ふる》えが止まらなかった。いくつもの音が頭の中で鳴り響《ひび》き、混乱しきっていた。考えをまとめることもできなかった。頭の中で何百もの人が出席する宴《うたげ》が催《もよお》されているようだ。
そんな、オルソンの様子をホッブは怪訝《け げん》に思った。
「マイリーよ。この者の心に平静を与《あた》えたまえ!」
恐怖に脅《おび》えているようなので、神聖語の呪文を唱えて、オルソンの右肩に手を置いた。
「勝ったのかい?」オルソンは、それで落ち着いてホッブに尋ねた。
「なんとか勝った。だが、無益な戦いであった」ホッブは答えた。「エイブラは支配の王錫《おうしゃく》を持ってはいなかったのだ。アシュラム様は、すでに火竜山《かりゅうざん》へと向かうことを決意されている。……それが、聞きたかったのであろう?」
その通りだった。しかし、正直に教えてもらえるとは思ってもいなかった。ましてや向こうから自発的に教えるなど予想だにしなかった。
そのとき、ホッブを呼ぶ声が空洞《くうどう》の奥《おく》から響いてきた。アシュラムの声だった。その呼び出しに応じて、ホッブは立ち上がり、声の方に歩いていった。
「巨額《きょがく》の富《とみ》だが、どうしたものかな?」やってきたホッブに向かって、アシュラムは池の底に埋《う》もれている財宝を指差した。
「どうしろと言われましても、アルハイブとは違《ちが》い、わたしは財宝などに興味はありませんからな」ホッブは困惑《こんわく》しながら答えた。
「ホッブの意見に賛成です。あの男に教えてやれば、おそらくいつかは取りにくるに違いありますまい。確かにこれだけの財宝があれば、マーモの軍資金に余裕《よ ゆう》ができるでしょう。金で動く傭兵《ようへい》を雇うこともできますし、兵士たちに対する報償金《ほうしょうきん》もあげられましょう。ですが、今は時間こそが何よりも大事なはず。カシューも動きはじめているみたいですからな」
グローダーがふたりのそばにやってきて意見を述べた。その両手には布がかけられており、大きな水晶球《すいしょうきゅう》が大事そうに載《の》せられていた。
その透《す》きとおった水晶球の中心に、虹色《にじいろ》に輝《かがや》く魔法《ま ほう》の光が脈動していることに、アシュラムは気がついた。あたかも、心臓の鼓動のように。周囲に放散された強い魔力は、魔法には無縁《む えん》のアシュラムでさえ感じることができた。
「その手の物はなんだ」興味にかられて、アシュラムはグローダーに尋《たず》ねた。
「はい、これが魂《たましい》の水晶球です」心なしかグローダーの声は震えているようだった。恐怖《きょうふ》で震えているのではなく、興奮しているみたいだった。
「魂の水晶球だと? 太守《たいしゅ》の秘宝のひとつか。確か、死人《し びと》の魂を呼び戻《もど》すとかいう」
「まだ研究しておりませんので、確かなことはいえませんが」
グローダーの声は自信に満ちていたし、また嬉《うれ》しそうでもあった。
アシュラムは普段《ふ だん》は陰気《いんき 》なこの魔術師《ソーサラー》の奇妙《きみょう》な浮《う》かれようを不審《ふ しん》に思った。しかし、マーモの人間に不審を抱《いだ》きはじめたらきりがない、それはよく承知していた。
「何が楽しいのかはしらんが、ずいぶんな喜びようだな。オレは四|匹《ひき》目のドラゴンと戦わねばならぬことで、気が重いというのに」
「その心労は察します。ですが、ご容赦《ようしゃ》ください。魔術師《ソーサラー》の悪い癖《くせ》で、この宝物を研究したいという思いで頭がいっぱいなのです。残りの宝物のことは、いっさい任せますゆえに、お先に船に戻《もど》らしていただきたいのですが、いかがなものでしょう」
アシュラムは、グローダーの申し出を許可した。
グローダーはまるで恋人《こいびと》にでも会いに行くような足取りで、洞窟《どうくつ》の外ヘと戻っていこうとした。
「待て!」
アシュラムが、グローダーを鋭《するど》く引き止めた。
「はっ、何か……」グローダーは足を止めて、振《ふ》り返った。フードを深くかぶったローブの陰《かげ》からわずかにかいま見える口許《くらもと》のあたりが、不安げに引き攣《つ》っていた。
それを見て、アシュラムはニヤリと笑った。
「魔法の灯《あか》りをもうひとつ作っておいてくれ。でないと、帰りは暗闇《くらやみ》の中を通っていかねばならんからな」
グローダーはやや上向きになり、ローブの陰から顔全体を覗《のぞ》かせて、アシュラムを見た。魔術師の顔には、乾《かわ》いた笑いが浮《う》かんでいた。
「御意《ぎょい 》にございます。司祭殿の|戦 槌《ウォーハンマー》を貸していただけますかな。その先にでも術をかけさせてもらいましょう」
4
海魔《かいま 》の角《つの》号は、島に接岸したときに通った海路を逆に伝って、無事に暗礁《あんしょう》地帯を抜《ぬ》けることができた。
おまえを生かしておいた甲斐《かい》があったよ、とアシュラムは褒《ほ》めているのか威《おど》しているのか分からないような言葉をアルハイブに贈《おく》った。
アルハイブは、蒼白《そうはく》な顔をしてありがとうございます、と神妙《しんみょう》に頭を下げた。
それがおかしくて、アシュラムは豪快《ごうかい》に笑った。そして、後を彼に託《たく》し、自分の部屋《へや》に引っ込んだ。
だが、悔《くや》しさは拭《ぬぐ》いようがなかった。今度は活動期に入っている魔竜《まりゅう》と対決せねばならないのである。あの魔竜は、太守《たいしゅ》の秘宝を託された五|匹《ひき》の古竜の中でももっとも狂暴《きょうぼう》で危険だと噂《うわさ》されているのだ。
また、オルソンから、カシュー王がシューティングスターと戦うために正規軍を動かしたという情報も入っている。もっとも、彼は大軍をもって、ドラゴンを葬《ほうむ》ろうと目論んでいるらしい。その戦法ではドラゴンには決して勝てないことを、アシュラムは自らの経験として知っていた。マーモの邪竜《じゃりゅう》ナースが活動期に入ったときにも、最初、アシュラムは大軍を動かして、これと戦おうと考えたのだ。しかし、数百人からの精鋭《せいえい》を派遣《は けん》したにも関わらず、この討伐隊《とうばつたい》は全滅してしまったのだ。
それで、バグナードの協力も頼み、比較的《ひ かくてき》小人数で、しかも敵の巣穴《す あな》に乗りこんでいき、ナースを討ち負かしたのだ。それでさえ、多くの魔法使いや歴戦の|騎士《きし》たちが命を落とした。
活動期に入っているドラゴンは、それほど恐《おそ》ろしい相手なのだ。
苦しい戦いになるであろう。しかし、アシュラムは自分の勝利を疑わなかった。支配の王錫《おうしゃく》は間違《ま ちが》いなく、シューティングスターが持っている。簡単な消去法なのだが、その確信ができたことも大きな収穫《しゅうかく》と考えようと、アシュラムは自分自身に言い聞かせていた。
その頃《ころ》、グローダーも自分の部屋《へや》に引きこもっていた。アシュラムよりも、一足先に彼は船に帰ったのだ。
帰ってくるなり、彼は部屋に飛びこみ、入口の鍵《かぎ》を閉めた。
誰にも邪魔《じゃま 》されたくなかったからだ。彼はついに目的の物を手に入れたのである。
グローダーは、机の上に厚い布を何重にも畳《たた》んで、その上に虹色《にじいろ》に輝く水晶球を慎重に置いた。手に触《ふ》れているだけで、精神が活性化されるような気になってくるのは、水晶球から発散されている魔力の巨大《きょだい》さゆえであろう。
さすがに、太守の秘宝のうちのひとつだ、と魔術師は賛嘆《さんたん》のため息を洩《も》らした。
水晶球を安置してから、グローダーは机に背もたれが向くように椅子の向きをかえ、そこに腰《こし》をおろした。
そして、目を閉じ、彼はゆっくりと瞑想《めいそう》を開始した。唇《くちびる》がわずかに動いているのは、上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを口ずさんでいるからだ。
やがて、心話の呪文《じゅもん》がその効力を発揮しはじめた。目に見えない意識の触手《しょくしゅ》が空中へと伸《の》びていったかと思うと、それは瞬時《しゅんじ》のうちにロードス島を斜《なな》めに横断し、もうひとつ別の島へと飛んだ。
暗黒の島と呼ばれているマーモの島に。そこには、グローダーにとって、導師にあたる人物がいた。名を、バグナードという。
バグナードは、賢者《けんじゃ》の学院出身の天才魔術師だった。彼は学院で教えている魔法の技をすべて修得すると、禁断とされている魔法にまで手を伸ばしたのだ。しかも、秘密裏に暗黒神ファラリスの教団に入信したのだ。そして、またたくまに司祭の地位を手に入れ、暗黒魔法の使い手ともなった。
しかし、そのことが発覚すると、当時の学院長であった稀代《き だい》の大魔術師ラルカスは、断固たる処置を取ることを決定した。
彼はバグナードを呼び出すと、彼に強力な禁忌《きんき 》の呪文《じゅもん》をかけた。それは、魔法をかけるたびに、全身に絶えがたい苦痛が走るという呪《のろ》いである。そして、彼を学院から追放したのだ。魔法の呪縛《じゅばく》は、彼が死ぬまでは解けないはずだった。
確かにバグナードは、その魔法の呪縛をいまだに解くことができずにいる。しかし、強靭《きょうじん》な意志の持ち主であるバグナードは、全身を襲《おそ》う苦痛に耐《た》えて、魔法を使うことができたのだ。バグナードはマーモヘと渡り、時の皇帝ベルドに宮廷魔術師《きゅうていソーサラー》として仕えた。そして、ラルカスの死後、混乱していた賢者《けんじゃ》の学院に復讐《ふくしゅう》を果たし、その歴史に終止符《しゅうしふ 》を打った。
グローダーは、マーモに生きるには脆弱《ぜいじゃく》すぎる体力しか持たぬ自分をよく知っていた。そして、他人よりはるかに優れた頭脳があることも。十五になるまで運良く生き延びると、グローダーはバグナードに師事し、彼から魔法を教わったのだ。
五年の後には、彼はバグナードから杖《つえ》を与《あた》えられるまでになっていた。それからも、彼は魔法の勉強だけにひたすら励《はげ》み、気がつけばバグナードの片腕《かたうで》と呼ばれるまでになっていた。めったなことでは魔法を使えぬバグナードの代りとなって、グローダーは魔法の力を行使するのだ。
その導師、バグナードとはいつでもどこででも心話ができるほどに、緊密《きんみつ》な関係を保っている。今回、グローダーがアシュラムの探索行《たんさくこう》に派遣《は けん》されてきたのも、それがいちばんの理由だった。
グローダーの意識がバグナードの強靭《きょうじん》な意識と接触《せっしょく》を持ち、心話の呪文は完成していた。
(おお、グローダーか)
圧倒《あっとう》されんばかりのバグナードの意思が伝わってきた。彼の身体に今も、制約《ギ ア ス》の呪文による苦痛が走っているとは想像だにできなかった。
(しばらくでございます。導師さま)
(挨拶《あいさつ》はよい。そちらの首尾《しゅび》はいかがであったか?)
(お喜びください。魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》は手に入れましてございます)
(さようか。でかしたぞ、グローダー。後は、その宝物を無事、持ち帰ることだ。くれぐれも無理をしてはならぬ。特に火竜山《かりゅうざん》の魔竜と戦ってはならぬ。あの魔竜めはモスの金鱗《きんりん》の竜王と並《なら》び、もっとも強大なるドラゴンである。姑息《こ そく》なだけのナースや、穏《おだ》やかな性格のブラムド、エイブラとは強さが違う。いかにアシュラムとて、あの魔竜には勝てぬであろう。こちらは魔法の儀式《ぎ しき》を開始する。三日後には儀式は終了しよう。その後ならば、いつでも移送の呪文でおまえを呼び寄せることができる。そちらの準備が整いしだい、心話を送ってよこすのだ。とにかく、よくやってくれた。かねてからの約束《やくそく》であったサルバーンの魔法書《ま ほうしょ》≠フ閲覧《えつらん》を許可しよう。早く帰ってくるがよい)
そして、バグナードは心話の呪文を切った。
グローダーは、自分の心の中にあった高揚感《こうようかん》が、なぜか消えていくのを意識していた。自分は目的を果たしたのである。そして、バグナード秘蔵の魔法書の閲覧を許可された。その魔法書はロードス島最後の太守の所有していた物で、強力な死霊術《ネクロマンシー》の呪文《じゅもん》が記載《き さい》されているのである。
魔力付与《エンチャントメント》の研究にもいささか行きづまっていたこともあり、グローダーはこの魔法書により、新たな魔法の奥義《おうぎ 》を知ることができると期待していたのだ。その夢《ゆめ》がもうすぐかなうのだ。
それなのに、なぜ。理由はすぐに分かった。アシュラムのことが気にかかるのだ。彼と旅をしていくうちに、あの黒騎士《くろき し 》に好感を抱《いだ》くようになっていたのだ。
ベルド皇帝《こうてい》とは間近に接したことがないので、いかなる人物だったのかは知らない。しかし、おそらくアシュラムと同じような人物だったのではないだろうか。ベルドのほうがアシュラムよりいくつもの点で勝っていたそうだが、アシュラムはまだ若い。ベルドに劣《おと》っているところのいくつかは、時間が解決してくれよう。
バグナード導師でさえ、ベルドに対しては心からの忠誠を誓《ちか》っていたというが、その気持ちがよく分かる気がした。
選んだ道こそ違え、自分とアシュラムは同じような境遇《きょうぐう》の人間なのだ。自分は生き残るために魔法という手段を選んだ。アシュラムは剣《けん》を選んだ。自分はバグナードに頼り、彼はベルドに見出された。
グローダーは迷っていた。アシュラムを騙《だま》しつづけているのはさほど心は痛まない。彼に協力していることも間違いないからだ。利用され、利用しているにすぎない。
だが、アシュラムを完全に見捨てることは気が進まなかった。アシュラムはマーモにとって必要な人物と思える。彼が死んでしまってから後悔《こうかい》しても、取り返しがつかないのだ。
そのとき、部屋《へや》の扉《とびら》を叩《たた》く音がした。
グローダーは驚《おどろ》いて、あわてて扉のところまで走っていった。
「アシュラム様がお呼びです」声がした。使い走りの水夫だろう。「すぐに来てくれとのお達しです」
「分かった、すぐに行く」心の動揺《どうよう》と葛藤《かっとう》が冷めやらず、グローダーは水晶球《すいしょうきゅう》もそのままにして立ち上がった。そして、入口の鍵《かぎ》を開けて扉を押《お》し開いた。
こちらです、と先に立って歩く若い水夫に従いながら、心の中ではあいかわらず葛藤の真《ま》っ只中《ただなか》にあった。
鍵を閉め忘れていることにさえ気付かないほど、彼の葛藤は深く、そして深刻であった。
島に上陸していたオルソンが船倉に戻《もど》されたとき、冷たい視線が彼に向けられていた。
まるで裏切り者を迎えるような視線だった。
「そんな顔をしないでくれよ」その刺すような視線に脅《おび》えを感じながら、オルソンは自分の寝場所《ね ば しょ》と決めていた荷箱の上に腰《こし》を下ろした。
「奴《やつ》らに優遇《ゆうぐう》されて、ずいぶんと気持ちがいいことでしょうね。釈放《しゃくほう》されるのは、あなたと決まったみたいなものだからね」シーリスの言いようは冷たかった。
「優遇だって? やめてくれよ、シーリス。何も優遇なんてされていないよ。たんに、奴《やつ》らの強さを見せつけられただけだ。奴らがエイブラを倒《たお》すときの見届け人としてね。もっとも、ドラゴンに吠《ほ》えられただけで気絶してしまったので、肝心《かんじん》のところはすこしも見られなかったけどね」
もったいない、とマールが思わず声をあげた。
この草原の妖精《ようせい》は、船倉に捕《と》らえられてからというものずいぶんと静かになっていたのだが、昨日《き の う》あたりから立ちなおっており、活発に話をするようになっていた。
「わたしより、お強いはずの戦士様がおかしいですわね」
辛辣《しんらつ》な皮肉がシーリスから発せられた。
「シーリス、やめなさいよ」シャリーが眉《まゆ》をひそめてシーリスをたしなめた。
しかし、それで言うことを聞くようなシーリスでないことは、誰よりもオルソンが承知しており、思わず肩《かた》をすくめて苦笑いした。
と、オルソンを睨《にら》みつけていたシーリスの青い目が、突然《とつぜん》、丸く見開かれた。
「これ以上、苛《いじ》めるのはよしてくれよ」
「違うわよ。……あなた、今、笑わなかった?」
「笑った、オレが? まさか!」オルソンは答えた。そして、もう一度――
そして、オルソンは自分が苦笑いを浮《う》かべようとしていることに気がついた。
「今の愛想笑い? ほら、そのう、あなたが意識的にしているやつ……」
シーリスは尋《たず》ねてきたが、茫然《ぼうぜん》としたようなオルソンの顔を見て、その顔に浮かぶ複雑な表情を読みとった。いくつもの感情が、その表情からうかがえた。そういえば、部屋《へや》に入ってきたときのオルソンの態度は、脅えたようではなかったか?
「よかった、オルソン! あなた治りかけているのよ。ディードリットが言ったとおりだわ。わたしの言うことをよく守ったからね」
シーリスの機嫌《き げん》の悪さは、完全にどこかに吹き飛んでしまっていた。
「そうなのかな?」オルソンは自分では、よく分からなかった。何が感情であるのか、よく分からないからだ。長い間、無縁《む えん》であった心の働きだ。
分かるのは、頭の中を掻《か》きまわされるような感覚があいかわらず続いていることだ。ただ、例の異物感だけは嘘《うそ》のように消えていた。
「頭が混乱して、何も考えられないんだ」オルソンは頭を抱《かか》えながら答えた。
眠りたい、とオルソンは思った。それだけが、まとまった唯一《ゆいいつ》の考えだった。
そんなオルソンの様子を、シーリスはなかばはしゃぎながら、見ていた。
「治ったのよ、オルソン! 頭が混乱しているのは、感情が戻《もど》ったことになれていないからよ」
そして、ディードリットがいれば、すぐに分かるのにね、とシーリスはいくぶん平静さを取り戻しながら、オルソンに微笑《ほ ほ え》みかけた。
「それから、意地悪を言ったことをあやまるわ。あなたにこの前、きついことを言われたでしょ。あれを根に持っていたのよ」
シーリスは珍《めずら》しく自分から頭を下げた。悪戯《いたずら》っぽい表情がかすかに見られた。しかし、次の瞬間には彼女の顔は引き締められ、強い決意が表われていた。
「でもね、オルソン。わたしは、やはり負けたくないのよ。あの女戦士だけは、容赦《ようしゃ》することができない」
「だから、戦うのかい?」
眠りたいという衝動《しょうどう》と戦いながら、オルソンは言った。
彼の問いに、シーリスは深くうなずいた。
「分かったよ、シーリス。今までと同様に次も協力を約束するよ。しかし、この前言った忠告だけは守ってくれよ。戦いを長引かせれば、きっと負ける。あの女戦士だけを相手に決めて、他には目もくれるんじゃない」
「はい、リーダー」シーリスは微笑んだ。
「逃《に》げだすときには、みんな一緒《いっしょ》だ」オルソンは皆を見回しながら言った。「何とか逃げだす方法を考えよう」
しかし、それが難しいことは、混乱したオルソンの頭でも理解できた。少なくとも、アシュラムたちがいる間は絶対に駄目《だめ》だ。逃げだしたところで、すぐに発見され、殺されることは目に見えている。
とにかく今は眠ろう、とオルソンは決めた。明日《あす》になれば、頭もすっきりしているに違いない。それから、この船倉から脱出《だっしゅつ》する方法を考えればいい。
そんなオルソンの隣《となり》で、マールはにこにこと微笑みながら、「僕《ぼく》だけは絶対に逃《に》げ出してみせるよ」と、心の中で舌を出していた。
5
勇壮《ゆうそう》な騎馬《きば》の軍団が、ライデンの街に到着《とうちゃく》した。
フレイムから派遣《は けん》されてきた傭兵隊長シャダム率いるフレイム傭兵隊の精鋭《せいえい》、二百騎であった。その数は、フレイム傭兵隊のおよそ半分にもなる。
スレインたち一行のライデン到着から遅《おく》れること六日の昼すぎである。
事情を知らぬ一般の市民は、何事かと色めき立ち、中には新手の野盗《や とう》の集団かと、逃《に》げまどう者さえ出る始末だった。
街の人々の注目を集めながら、騎馬の軍団が街の中心まで来たところで、ライデン評議会のアサーム評議長が出迎《で むか》えた。
「これは、これは、お待ちもうしておりました。遠路はるばるのお越し、さぞお疲《つか》れでございましょう。我が館にて宴《うたげ》の用意をしております。どうぞ、おくつろぎ下され」
しかし、出迎えたのは、評議長ばかりではなかった。
人垣《ひとがき》をかきわけるように前に進みでてきた男が、もうひとりいたのだ。その後ろから、今度は女性が姿を現わす。
傭兵隊《ようへいたい》の猛者《もさ》と評議長警護の私兵たちは色めき立ったが、他ならぬシャダムがそれらの者たちを鎮《しず》めた。姿を現わした人物が、青竜《せいりゅう》の島へと向かっているはずの魔術師スレインとその妻レイリアだったからだ。
「どうした、スレイン。他の者たちは?」
「その件で、急いで話がしたいと思います。お疲れでしょうが、是非お願いします」
スレインの表情は緊迫《きんぱく》していた。それを見てとって、シャダムはうなずいた。
「分かった。その話は評議長の館にてしよう。徒歩で申し訳ないが、ついてきてくれ」
気が焦《あせ》るスレインではあったが、それを認めないわけにはいかなかった。こんな往来で堂々と話せるような内容ではない。
そして、しばらくの後、評議長の館へと到着《とうちゃく》したシャダムとスレインは、歓迎《かんげい》の口上を述べる評議長に頼《たの》んで、落ち着いて話ができるような部屋《へや》を借りると、そこに飛びこむように入っていった。もちろん、レイリアも一緒《いっしょ》である。
「珍《めずら》しいな。おまえが、これほど慌《あわ》てるとは」シャダムは荒い息をついていた。
「慌てざるを得ませんよ。こちらの立てた計画が偶然《ぐうぜん》に邪魔《じゃま 》されて、脆《もろ》くも崩《くず》れてしまったのですから」
そして、スレインはライデンに来てからの事情をかいつまんで説明した。
シャダムの表情はさして動かなかったが、無論、彼にとって朗報《ろうほう》であろうはずがない。話を聞き終わると、深くため息をついた。
「わたしは、カシュー王と同じで神など信じてはおらん。だが、邪神《じゃしん》と呼ばれるものならば、信じてもよいかなという気になった」シャダムはそう感想を洩《も》らし、オルソンたちに起こったという偶然に、あきれていた。
「しかし、その海賊どもの中にアシュラムがいたものかどうか分からないのだろう。可能性とすれば、海賊を相手に全滅したのかもしれんぞ」
「ただの海賊に負けるようなオルソンたちではありません。傭兵《ようへい》たちのしたたかさは、何よりシャダム卿《きょう》がよくご存じでしょう。それに、ここで事実を論じていても始まりません。最悪の事態を考えて行動すべきです。おそらく、評議長も問題の海賊は退治してくれと依頼《い らい》してくるはずです。兵を割《さ》いたとしても、文句を言われるどころか歓迎されますよ」
「もう出港したか隠れ家を変えたかしたのではないか?」
「そうなったのならお手上げです。でも、確かめてみて損はないはずです。もし、まだ海賊たちがいるようなら、傭兵隊の全力を上げても叩《たた》かねばなりません。できれば、評議長の私兵も借りたいところなのですが……」
「それはできんぞ。フレイムの傭兵隊が腰抜《こしぬ 》け呼ばわりされるからな」
「体面なんて問題ではありません。今は、ロードスの未来を心配するべきです。とにかく早く海賊たちを捕えないと。そして、必要ならば青竜《せいりゅう》の島《しま》へ船を派遣《は けん》しなければ……」
スレインは懸命《けんめい》になって、シャダムを説得しようとしていた。だが、フレイムの傭兵隊長は気乗りしない様子だった。
「仲間の安否が心配なのは分かる。だが、おまえの申し出は無茶というものだぞ。最初に多くの手勢が割《さ》けないからという理由で、おまえたち少数で青竜の島に行くことに決めたのだろう。いかに不幸な偶然《ぐうぜん》があったとはいえ、失敗したのはおまえたちの責任だ。わたしは、わたしの責任を果たさねばならない。もちろん、できるかぎりの協力はしてやるが、全面的にというわけにはいかんぞ」
「そうですか」スレインはあきらめたように首を振《ふ》り、右手で額を押《おさ》えた。どうしたものかと、思案している様子だった。彼の言い分も理解できる。遠いロードスの破滅《は めつ》より目の前のフレイムの名誉《めいよ 》のほうが大切なのは、フレイムの貴族としては当然のことだ。
「そうなのだ」シャダムが答える。
「やはり、わたしたちだけで助けにいくしかありませんね」意を決したようにレイリアが言った。
「生きているならば、あの若者たちは何があっても助けてあげねばなりません。本来なら、アシュラムと戦わねばならないのは、わたし……いえ、わたしたちのはずなのですから。そのために、ターバの母が知らせてくれたのでしょう。わたしに考えがあります。帰還《き かん》の呪文《じゅもん》を使えば、皆を瞬時《しゅんじ》に脱出《だっしゅつ》させることができます」
「帰還の呪文は、オルソンたちを見つけてからでないとかけられないでしょう。それに、あの呪文だとザクソンの我が家に帰ってしまうじゃありませんか。なにより、危険すぎます。あなたはともかく、わたしは剣《けん》を使うことができません。魔法《ま ほう》を使う暇《ひま》さえなく、斬《き》り殺されてしまうでしょう。しょせん、戦士の援護《えんご 》がなければ、魔法使いといえども何もできないものです……」
「戦士の援護が必要なのかい?」
扉《とびら》が開く音とともに、突然《とつぜん》、部屋《へや》の入口の方から声が聞こえてきた。
「だったら、喜んで力を貸すわよ」もうひとつ、別の声がした。
「秘密の話をするときには、もっと小声でしろ。声が外に洩《も》れておったぞ」と、さらに別の声。
それらの声に、スレインたちは飛びあがらんばかりに驚《おどろ》いていた。
聞きなれた、あまりにも聞きなれた声だった。しかし、その声の持ち主がこの街にいるはずはないのだ。
そう思いながらも、スレインは声のした方を見た。声は入口から聞こえてきていた。
入口の扉《とびら》が全開に開け放たれており、そこに三つの人影《ひとかげ》が立っていた。
シャダムもおおあわてで振《ふ》り返っていたが、その顔にも驚愕《きょうがく》の表情がまざまざと浮《う》かんでいた。
「パーン!」スレインが口をあんぐりと開けて叫《さけ》んだ。
「ディード、なぜ?」と、レイリアもさすがに平静ではいられない様子だった。
「カシュー王。いつご到着《とうちゃく》に?」そして、シャダムは弾《はじ》かれたように立ち上がってうやうやしく礼をした。
「ここにいるのは、フレイム国王ではない。そう思ってくれ」傭兵王《ようへいおう》として名高いカシューの声は、あまり機嫌《き げん》がよさそうではなかった。
「事情を話そう。その上でそちらの経過も報告してくれ。今の様子では、そちらもうまく行ってはいないようだがな」
「そちらも、ということは……」シャダムは深くため息をついた。「わたしは、明日《あす》から邪神《じゃしん》の信者になってもよろしいでしょうか」
「何を馬鹿《ばか》なこと言っておるのだ、この非常時に」カシューは不機嫌《ふ き げん》さを隠《かく》そうともしないで、片腕《かたうで》の傭兵隊長を睨《にら》みつけた。
「いえ、どこまで話を聞いていらしたのか、知りたかっただけです。それでは、あまり聞きたくないでしょうが、お互《たが》いの情報|交換《こうかん》とまいりましょう」
シャダムはスレインをうながした。
スレインはうなずいて、自分たちがライデンに来てからの経過を語りはじめた。二度目だったので、要領もよくなっていた。
スレインの話を聞いて、悔しさのあまり、カシューは床を蹴りやぶらんばかりに激しく足踏みをした。それから、やや平静にかえって、偶然《ぐうぜん》とはかくも恐《おそ》ろしいものか、と呻《うめ》くように言った。
「まったくです」パーンも痛いほど、唇《くちびる》を噛《か》んでいた。オルソンたちのことが心配だった。もし、相手がアシュラムなら、皆殺しにされていても不思議ではない。
そして、カシューは「我々が敗れたのは、偶然ではない」と前置きしてから、火竜《かりゅう》の狩猟場《しゅりょうば》でのシューティングスターとフレイム軍との戦いの経過をシャダムらに語って聞かせた。説明の中に、余分な弁解や無駄《むだ》な感想をいっさい加えなかった。ただ、事実だけを淡々《たんたん》と語った。
それを見て、シャダムにはカシューの怒りの深さがよく理解できた。この王が本気を出すときには、いつもの気さくな仮面を脱《ぬ》ぎすて、まるで感情がないのかと思えるぐらいに冷静になるのだ。ドワーフの作った機械|仕掛《じか》けのように、精密かつ危険な男となるのである。
一方のパーンは激しく感情を高ぶらせていた。怒りや悔しさ、そして不安。これらの感情が混ざりあって、心を揺《ゆ》さぶるのだ。
「無事だといいが……」と、唇を噛みながらディードリットと顔を見合わせていた。
「さて、お互《たが》いの状況《じょうきょう》が分かったところで、対策を練らねばならないのですが……」
シャダムは、普段《ふ だん》とあまり変わった様子はない。淡々《たんたん》とした話しぶりである。
「傷が癒《い》えれば、シューティングスターはすぐにでもこのライデンなり、ブレードなりを襲《おそ》ってくることだろう。特にこのライデンだ」
「魔竜《まりゅう》を傷つけたのは我らなのにですか」意外そうに、シャダムが尋ねる。
「ドラゴンに人間の王国のことなど分かるとは思えん」
「フレイムの人間としましては、そうあって欲しいと願いますな」
「オレはそこまで割り切って考えられん。とにかく、オレの無能さのゆえに、これ以上人が死ぬなどまっぴらだ。とにかく、フレイムに帰した兵士には、ドラゴンに対して警戒《けいかい》を怠《おこた》るな、と厳命してある。おまえもこの地に連れてきた傭兵《ようへい》に、同じことを警告しておけ。それで逃《に》げだす奴《やつ》はそうさせればよい」
心得ました、とシャダムは頭を下げた。
「しかし、スレインの話も無視するわけにはいかん。アシュラムたちがいるものかどうか、海賊たちの隠《かく》れ家《が》とやらへ出かけていって、確かめよう」
「お願いいたします」スレインが礼を言う。
「誰が行くのですか?」と、シャダムが心配そうに尋《たず》ねる。
「もちろん、ここにいる人間だ。アシュラムの件はあまり公《おおやけ》にはしたくないからな。もっとも、シャダム。おまえは例外だぞ」
「わたしは、自分の立場というものをよく心得ております。ライデンの治安を守ることに全力を注ぐのみです」
「皮肉か、それは?」
「恐《おそ》れながら、そのとおりです。できれば、国王には国王としての義務を果たしていただきたいと願わずにはいられません」
「だから、今のオレは国王だとは思うなといっている」
「カシュー王……」シャダムは苦笑《にがわら》いを浮かべていた。「国王にもしものことがあったならば、フレイムの未来はどうなると言うのですか。まだ世継ぎももうけておられませんのに」
「おまえが国王になればよかろう。風の部族の者は反対しまい。本来ならば、おまえが部族の長《おさ》になっていたはずなのだからな」
「昔とは、事情が異なっております。もはや、フレイムは風の部族の民だけの国ではありません。マーニーやローランの住人、炎《ほのお》の部族の民、そして戦乱を逃《のが》れて流れてきた難民の中にもフレイムヘの定住を望む者も多いことでしょう。これら、雑多な人々をまとめあげるには、もはやわたしでは力不足です。自分が国王の器でないことは、前から承知しておりましたからな」
「自分が王の器であるかどうかなど考えたこともないわ。とにかく、オレは行く。分かったな、シャダム」
「御意《ぎょい 》です」シャダムには最初からカシューがそういうのは分かっていた。しかし、自分は忠告をしておかねばならない立場である。「ですが、隠れ家に海賊たちがいない場合には、いかがいたします」
「そのときには青竜《せいりゅう》の島に渡《わた》って……」
「いや、それはまずいな」カシューがいきなりスレインの話を奪《うば》った。
「青竜の島までは一日ほどの航海だと聞く。もし、海賊たちの中にアシュラムたちがいて、青竜の島に向かっていたならば、そして、エイブラが支配の王錫《おうしゃく》を持っており、彼らがエイブラに打ち勝ったのならば、今から青竜の島に行ったとしてももはや間に合うまい。できることは、ただひとつ。国もととヴァリスのエト王に急使を出して、アシュラムたちがマーモヘと帰れぬように陸路、海路ともに封鎖《ふうさ 》することぐらいだ」
「そうか。青竜の島に支配の王錫があったなら、もはや手後れかもしれないのですね……」
スレインが深くうなだれた。自分がオルソンたちに同行さえしていれば、という後悔《こうかい》が彼の心を苛《さいな》んでいた。
「支配の王錫は、持ち主を選ぶんだろ? 強力な魔法《ま ほう》の宝物は、そういうものだと噂《うわさ》を聞いたことがあるんだが……」パーンが期待を込めて尋ねた。
「おそらくね。所有できるのは勇者でなければなりません。強力な魔法の宝物には、護りの魔法がかけられていて、それに打ち勝つ者でなければ、手にすることはできません。もちろん、護りの魔法の効果は、呪《のろ》いや死と相場が決まっていますからね。ですが、相手は竜殺し≠フアシュラムですからねぇ」
「邪悪《じゃあく》な人間でも勇者は、勇者か……」パーンは悔《くや》しげに言った。
「悲観的になっていても仕方があるまい」カシューはきっぱりと言った。「スレインの言う隠れ家とやらに、海賊たちがいないとなれば、取るべき方法はひとつだ」
「それは」と、パーン。
「知れたことだ。火竜山に向かうのだ。その火口近くの洞窟《どうくつ》にシューティングスターは棲《す》んでいると聞く。我々はそこに向かう。そして、奴《やつ》を倒《たお》す。真実はあの魔竜を倒せば、すべてあきらかになるだろう。もし、魔竜が支配の王錫を持っていないのであれば……」
「ロードスは、マーモの手に落ちるのか……」パーンは、茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。目の前が真っ暗になる気がした。
「かもしれん。だが、オレはあきらめはせん。その時は、堂々と戦うまでだ」カシューはきっぱりと言った。
「いずれとも分からぬ以上、国もととヴァリスヘの急使は仕立てておきましょう」シャダムが立ち上がって部屋《へや》を出ようとした。
「使者にはオレが連れてきた近衛隊《こ の えたい》の|騎士《きし》をあてろ。文句を言うだろうが、傭兵《ようへい》たちを使うわけにはいかん。これはオレからの命令だ、と伝えろ」カシューも立ち上がった。
「それからオレはすぐに立つぞ。疲《つか》れているだろうが、おまえたちも付いてきてくれるだろうな」
「もちろんです」
パーンたちも次々に立ち上がっていった。
「助かる。スレイン、海賊たちの隠れ家へと案内できるな?」
「はい、だいたいの場所は聞いております」
「それではシャダム。後は任せたぞ」
カシューは最後にそう言い残すと、入ってきたときのようにあわただしく、部屋から出ていった。スレイン、レイリアを加え、四人となった仲間を引き連れて。
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第Z章 火竜山の戦い
1
海魔《かいま 》の角《つの》号は、永らく拠点《きょてん》としてきた隠《かく》れ家《が》の洞窟《どうくつ》のすぐ近くまでやってきていた。もう間もなく到着《とうちゃく》することだろう。
青竜《せいりゅう》の島を出港してから、およそ半日ほどしかたっていない。海が穏《おだ》やかだったことと、海流の関係で、行きよりも時間が短縮されていたのだ。そして、何よりアシュラムが帰路を急がせたからだった。
そのために数人の漕《こ》ぎ手が過労で死んでしまった。
死んだ漕ぎ手はようやく足首に繋《つな》がれていた鎖《くさり》から解放され、自由の身になった。そして、海に投げこまれ、その不幸な生涯《しょうがい》を閉じた。
航海の間中、乗組員の誰もが忙しく働かねばならなかった。先の襲撃で、切りこみ隊の兵士のみならず、水夫の命も多く失われていたからである。誰もが普段《ふ だん》の倍は働かねばならなかった。
多忙《た ぼう》だったのは、水夫たちばかりではない。アシュラムにしても、それは同様であった。
アシュラムは全員を召集し、最後の戦いのための計画を練らねばならなかった。それは、活動期にある|古 竜《エンシェント・ドラゴン》シューティングスターといかに戦うかであったし、いかなる帰路を取るかについての相談でもあった。
話し合いは、まだ決着がついていなかった。シューティングスターと戦うのに、六人では少なすぎると、グローダーが強硬《きょうこう》に主張したためだった。
「わたしは、この前取ったエイブラの牙《きば》から、|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》を召喚《しょうかん》するつもりでおります。しかし、それでもシューティングスターに対して十分と言えるかどうか……。ナースとの戦いのおりには、数十人もの犠牲者《ぎ せいしゃ》を出したことを忘れてはなりません」
「分かっている。シューティングスターは五|匹《ひき》のドラゴンどもの中で最強の存在だとも聞いたことがある。その性格の荒《あら》さにおいてもな。しかし、それを恐《おそ》れては目指す宝は手に入らん」
「エイブラのときは、水がわたしの味方をしてくれた。しかし、魔竜の棲《す》みかは、火竜山の火口と聞く。炎《ほのお》では奴《やつ》は傷つかんからエフリートを召喚しても無駄《むだ》だ。苦しい戦いになるだろうな」アスタールが、感想を述べた。
「|大地の魔獣《ベ ヒ モ ス》を召喚して戦うしかあるまい」それに、グローダーが答えた。「火山とはいえ、山には違いない。炎の力のみならず、大地の力は強く働いているのだろう」
「数がいるなら小鬼《イ ン プ》を召喚するぞ。もっとも、ドラゴン相手ではほとんど役にも立たないだろうがな」そして、ガーベラは、自分は魔法で援護するしかできないとも言った。
「ホッブは?」
「炎《ほのお》の息を防ぐことはできませんが、弱めることはできます。あと、わたしにできることは、ドラゴンの咆哮《ほうこう》の魔力を無効にすることぐらいですな。しかるのちには、先頭に立って戦ってもかまいません」アシュラムにうながされ、ホッブはそう答えた。
「ドラゴンと直接戦うのは、わたしの仕事だね。あんたは後ろで援護してくれればいい」スメディが高らかに笑った。
「これでも勝てぬと思うか?」アシュラムがグローダーに尋ねた。
「分かりません。ですが、何とか戦わずにすむ方法はないものですかな。餌《えさ》を求めて飛び立っているあいだに、襲《おそ》うとか……」
「相手がそれを許してくれれば、それに越《こ》したことはないな。そのときには、オレは喜んで盗人《ぬすっと》となろう。それよりも問題は帰路だ、カシューが気付いている以上、海路も陸路も警戒《けいかい》しているだろうからな」
と、そのとき、部屋《へや》の扉《とびら》が慌《あわ》ただしく、叩《たた》かれた。
「何事だ!」
「はい、アシュラム様。実は、捕虜《ほ りょ》がひとり逃《に》げてしまいやして……」
「逃げただと」ただならぬ報告に、アシュラムは思わず立ち上がった。そして、足早に移動して、入口の扉を開ける。「ここは海の上だろう。なぜ、逃げられるのだ」
「それが……」水夫はしどろもどろになりながら、報告を始めた。
「陸が見えたぞ」という声を聞いたとき、マールは自分の計画を実行に移すべきときだと思った。
彼は逃げだす機会をひたすらうかがっていたのである。
彼の着ている革製の上着《うわぎ 》には、いろんな仕掛《しか》けが隠《かく》されている。胸の所にある飾《かざ》り紐《ひも》は、はずせば|小 剣《ショートソード》ぐらいの長さがあり、敵の首に巻きつければ、瞬時《しゅんじ》に相手を絞《し》め殺す暗殺用の武器となった。また、肩《かた》のところの縫目にそって、小さな針金が仕込んであり、これでたいていの鍵《かぎ》なら開ける自信があった。
そして、マールにはもうひとつ武器があった。それは、彼が吟遊詩人《バ ー ド》であるということだ。あまり知られてはいないことだが、吟遊詩人の中には呪歌《じゅか 》≠ニ呼ばれる魔法の歌が唄《うた》える者がいる。彼とてめったに使ったりはしない。マールにとって、これが本当に最後の切り札だからだ。
そのとき、「飯だぜ」という声が、天井《てんじょう》から聞こえてきた。
そして、落とし戸が引き上げられ、水夫がひとり顔を覗《のぞ》かせた。後ろに、もうひとりの水夫の足だけが見えていた。
顔を覗かせた方の男は、粗末な食事の入った器を手に持っていた。
天井に設けられた落とし戸から船倉の床《ゆか》までは取りはずし式の階段がかけられていて、それで上り下りすることができた。ここが唯一《ゆいいつ》の出入口なのである。
男は、その階段を伝って床まで降りてきた。
「漕《こ》ぎ手が数人死んじまったんだとよ。いよいよおまえらが役に立つってわけさ。そのつもりでいなよ」水夫はそう言った。そして、気味の悪い声で低く笑った。「女どももこの航海が終わったら覚悟《かくご 》しておきなよ」
何の覚悟だか、とシーリスは思った。汚《きたな》い水夫《すいふ 》に簡単に身体を許《ゆる》すほど自分は甘《あま》くはない。シーリスはそのときこそ、脱出《だっしゅつ》の機会があるかもしれない、と内心期待していたぐらいだ。
シャリーも同じことを考えていたらしく、視線を合わせると小さくうなずき目配せしてきた。
今だ! マールは深呼吸をひとつして、心を緊張《きんちょう》させた。自分の精神を集中させねば、呪歌《じゅか 》の効果は期待できない。歌の魔力《まりょく》で敵を圧倒《あっとう》する必要があるからだ。
そして、癖《くせ》のある声で、マールは魔法の歌を唄《うた》いはじめた。
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まどろみの小人。眠りの精霊《せいれい》。
目に砂をまき、夢《ゆめ》の世界へいざなう。
沈黙《ちんもく》と闇《やみ》、ささやかな死。
マイム・ライム・アルリーム
夢|喰《く》いの魔獣《まじゅう》、夢魔の接吻《せっぷん》。
リーラ・メディーラ・ルー……
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いきなり歌を唄いはじめたマールに、その場に居合わせた者すべてが驚《おどろ》いた。聞き慣れない言葉が、不思議な旋律《せんりつ》に乗って唄われている。
特に驚いたのはセシルだった。
「下位古代語《ロー・エンシェント》じゃないか」と、彼は叫《さけ》んだ。
「古代語だって!」それを聞いて、フォースが驚いた。
「まさか、呪歌か!」
マールの方に振《ふ》り向いた途端《と たん》に、自分の推測が正しかったことをフォースは知らされた。
猛烈《もうれつ》な眠気が襲《おそ》いかかってきたのだ。この前、ダークエルフの魔法で眠らされたときと同じだった。
「てめぇ、どういうつもりだ……」フォースは眠気と戦いながら、マールの方に向かっていった。
マールは何も答えない。ひたすら、歌を唄いつづけるだけだ。
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忘却《ぼうきゃく》のとき、安らぎのとき。
マイム・ライム・アルリーム
沈黙《ちんもく》と闇《やみ》、新たな生を育《はぐく》む
リーラ・メディーラ・ルー……
[#ここで字下げ終わり]
フォースは、マールの足もとまで歩いて倒《たお》れた。他の者はもっと簡単に呪歌《じゅか 》の魔力の影響《えいきょう》を受けていた。食事を運んできた水夫も、落とし戸のところで、見張りをしていた水夫も、いったい何が起こったのか分からぬまま、眠りに落ちていた。
運ばれてきた食べ物が、床《ゆか》にぶちまけられていた。
「悪く思わないでね」
マールはそう言うと、階段を上がり、ひとつ上の階に出た。そこは、食糧《しょくりょう》などが収められている部屋で、麻《あさ》の袋《ふくろ》や木製の樽《たる》が所かまわず積みあげられ、ロープで固定されていた。
扉《とびら》は船首側にあった。マールはそっと、扉を開けて外の様子をうかがった。
そこは漕《こ》ぎ手たちのいる部屋だった。通路を真ん中に挟《はさ》んで、両側に長椅子《ながい す 》が横に並《なら》んでいた。その長椅子の上には、それぞれ四人の漕ぎ手たちが鎖《くさり》で繋《つな》がれていた。漕ぎ手頭の号令にあわせて、大きな櫂《かい》を前後に動かしていた。
櫂の取っ手の部分は、手の皮が破れ、流れでた血で赤黒く染まっていた。
数人の水夫が、片手に鞭《むち》を持って通路を行ったり来たりしていた。力を抜いている漕ぎ手がいたら、容赦《ようしゃ》なく鞭で打ちつけようと目を見張らせている。中には楽しみのためだけに、漕ぎ手を鞭打つ者もいた。
いくつかの櫂には空席ができていた。また、櫂にもたれたままぐったりしている漕ぎ手の姿もあった。鞭を打っても、ピクリとも動かない。
死んでいるのだ。
自分がそんな運命にならなかったことを神に感謝しなければならない、とマールは思った。幸運の神チャ・ザに、そして吟遊詩人《バ ー ド》たちの神ヴェーナーに。
マールは階段を探した。階段はすぐ近くにあった。漕ぎ手たちは前を向いているし、水夫たちは皆、忙《いそが》しそうだ。
隙《すき》をうかがって、マールは扉の陰《かげ》から躍《おど》りでると、一瞬《いっしゅん》の躊躇《ちゅうちょ》もなく、リスのように階段を駆《か》けあがった。
うまくいった。誰も彼の姿に気づいた者はいない。
もうひとつ上は、水夫たちの居住区に使われている階だった。壁《かべ》で仕切られた通路が真ん中に走っていて、左右に扉が並んでいる。下級の水夫たちは、大部屋《おおべ や 》に泊《と》まり、身分の高い者には個室が与《あた》えられているのだ。
あたりに人の気配はなかった。皆、自分の持場で忙しく働いているのだろう。
通路を突っ切った正面に階段があり、上から陽《ひ》の光が差しこんできていた。階段を上がれば、甲板《かんぱん》なのだ。
マールはすばやく通路を走った。足音をまったく立てない走り方だった。
しかし、階段の前まで来たところで、人の足音が聞こえてきた。マールはあわてて周《まわ》りを見た。
隠《かく》れている場所なんてない。ぞっとする寒気が彼を襲《おそ》った。あるとすれば……
マールは祈《いの》りをこめて、近くにあった扉《とびら》を開けた。鍵《かぎ》はかかっていなかった。
「中に誰もいませんように」彼は、盗賊《とうぞく》の神ガネードに祈った。
願いは聞きとどけられた。中には誰もいなかった。そして、わずかの間があって、誰かが階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
「ついでに、この部屋《へや》に入ってきませんように」
扉に耳を付けて、じっと聞き耳を立てる。足音は騒《さわ》がしく近づいてきて、そしてそのまま通りすぎていった。
マールは身体の向きを変え、扉にもたれかかりながら、ホッと安堵《あんど 》の息を洩《も》らした。気持ちが落ち着くと、部屋の様子もよく見えた。
個室らしかった。ベッドが一段式のもので、机もひとつしかない。そして、その机の上に奇妙《きみょう》な物が置かれていた。
「あれは?」盗賊の癖《くせ》がついでてしまい、マールは反射的に机のところまで近寄っていた。
机の上に赤い布が敷《し》かれていて、その上に大きな水晶球《すいしょうきゅう》が安置されていた。
その水晶球からは、脈動するような巨大な魔力があふれでていた。たとえ、箱の中に隠されていたとしても、その存在を感じさせただろう。
「これはもしかして、オルソンの言っていた魂《たましい》の水晶球?」
エイブラが持っていたのは、支配の王錫《おうしゃく》ではなく、魂の水晶球だったということをマールは聞いていた。そして、彼らが水竜を倒《たお》し、その太守の秘宝を手に入れたことも。
マールは水晶球に向かって手を伸《の》ばしかけたが、すぐにそれを引っ込めた。
「いけない、いけない。護りの魔法がかけられているんだっけ」
マールはスレインから盗み聞いた話を思い出して、そのまま去ろうとした。しかし、魂の水晶球は太守の秘宝のうちのひとつである。大きな魔力が秘められているに違いない。当然、莫大《ばくだい》な価値があるだろう。それが目の前にあるのだ。これを見逃《み のが》す手はない。
「水晶球に触《ふ》れなければ、大丈夫さ」
マールはすこしのあいだ思案し、そして決心した。水晶球の下に敷かれてある布の四隅《よ すみ》を順番に手に取っていき、水晶球を包みこむように上で結んだ。そして、腰《こし》のベルトにしっかりとくくりつけた。
水晶球はそんなに巨大《きょだい》な物ではなかった。マールの拳《こぶし》よりもすこし大きいぐらいだ。これなら、腰にぶら下げて泳いでも、そんなに邪魔《じゃま 》にはなるまい。
何より、魂の水晶球が奪《うば》われたとしたら、敵が悔《くや》しがることだろう。捕《とら》えられ、閉じこめられた悔しさが、すこしは晴れるというものだ。
マールは扉《とびら》まで取ってかえし、また聞き耳を立てた。今度は人の気配はなかった。後は一気に勝負に出るだけだ。
マールは部屋《へや》から飛びだすと、もはや音を立てることなど気にせず、通路を走り、階段を駆《か》けあがった。そして、眩《まぶ》しい日の光が溢《あふ》れる甲板《かんぱん》の上に躍《おど》りでた。
そして、あたりを見回し、マールは船尾に向かって全速で駆けた。甲板に上がっていた水夫が、彼の姿を見つけて騒然《そうぜん》となったが、止めるだけの時間はなかった。
船尾は丸みを帯びていて、甲板が一段高くなっていた。その下にあるのは、船長の私室であるはずだ。
マールは勢いをつけて飛びあがり、一段高くなった甲板の上に乗った。後は、落下防止のために綱《つな》が張られているだけである。マールはそれも飛び越《こ》えた。マールの小さな身体は、海に向かって放物線を描《えが》いて落ちていった。両手でしっかりと腰《こし》に吊《つ》るした魂の水晶球を支えながら。そして、高い水しぶきが上がり、マールの身体は水中へと消えていった。
報告を聞いて、アシュラムはあきれてしまっていた。
水夫たちの間抜《まぬ》けぶりにもだが、それよりも仲間を魔法にかけてまで、自分ひとりで逃《に》げだしたグラスランナーに対してである。
「仲間を見殺しにするとは、いい度胸だ。しかも、ここから陸まで泳ぐつもりとはな」
しかし、報告に来た水夫に泳ぎになれた者なら何でもない距離《きょり 》だと聞かされると、アシュラムはむっと唸《うな》った。
「ひとりは逃してやるつもりだったから、別に構わんか。オレは、あの狂戦士《バーサーカー》を逃してやるつもりだったのだがな」
アシュラムはそう独《ひと》り言のようにつぶやくと、彼の怒《いか》りを恐れて縮こまっている水夫に向かって言った。
「無理をして追う必要はあるまい。たかが、小鼠《こねずみ》が一|匹《ぴき》だ。逃げたところで、どうということはないよ」
「そうでしょうな」ホッブもアシュラムに同意した。
「それより、間もなく隠《かく》れ家《が》にたどりつくのだろう。敵に待ち伏《ぶ》せされている可能性もあるから、用心しておけ。到着《とうちゃく》しだい、オレたちはすぐ下船して火竜山《かりゅうざん》へと出発するとしよう。大丈夫《だいじょうぶ》だとは思うが、カシューに先を越《こ》されたくはないし、逃《に》げたグラスランナーが助けを呼んできて、つまらぬ時間を取られたくはないからな」
アシュラムの言葉で、捕虜《ほ りょ》の件は片付けられた。そして、話し合いはどういう経路でマーモに帰るかという問題に戻《もど》った。
その話し合いは、結局、船が隠れ家にたどりつくまで続けられた。
話し合いが終わり、グローダーが自分の部屋《へや》に帰りついたとき、彼は全身の力が抜《ぬ》けていくような衝撃《しょうげき》を味わうことになった。
なくなっていたのだ。
机の上に置いたままにしてあった魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》がなくなっているのだ。
いったい何のためにエイブラと戦ったというのだ。グローダーは床《ゆか》の上に膝《ひざ》をついて、自分のうかつさを呪《のろ》った。
海に飛びこんで逃《に》げたというグラスランナーの仕業《し わざ》に違いなかった。
怒《いか》りと後悔《こうかい》が同時に彼の心を苛《さいな》んだ。しかし、もはや手後れだった。あのグラスランナーは、絶対に探しださねばならない。そうでなければ、マーモの導師の許《もと》に帰れるわけがなかった。
恐ろしくて、この事実を報告する気にもなれなかった。しかし、アシュラムには事情を話さない訳にはいかないだろう。
グローダーはふらつく足取りで、下船の支度を始めているはずのアシュラムの部屋に向かった。
事情を聞かされてアシュラムは、グローダーの責任をすこしも問わなかった。
「鍵《かぎ》を開けたままにしておいたというのはうかつだったが、どうせ相手は盗賊、魔法の鍵をかけておいてさえ、無事だったかどうか怪《あや》しいものだ。それよりも、責任は食事を差し入れた水夫たちにこそある。まったく、この船の乗組員は使えぬ人間しかいないようだな。ま、幸いだったのは、取られたのが支配の王錫《おうしゃく》ではなかったということだ。魂の水晶球が目的の旅ではないのだからな」
「御意《ぎょい 》にございます」グローダーは、そう答えるしかなかった。しかし、彼にとってこの旅はまさしく魂の水晶球|探索《たんさく》の旅であったのだ。
たとえ、アシュラムが支配の王錫を手に入れたあとでも、自分はこの地に残り、あのグラスランナーを探しださねばならない。そして、魂の水晶球を取りもどさねばならないのだ。
相手はグラスランナーで、しかも吟遊詩人《バ ー ド》である。目立つのは間違いない。探しだすのはそんなに骨の折れる作業ではないだろう。
そう思うと、グローダーはすこし気が楽になった。あわてる必要はないのだ。アシュラムがシューティングスターと戦うまでのあいだ、一緒《いっしょ》に行動したとしても決して手後れではないだろう。
グローダーはそう言い聞かせて、自分を納得《なっとく》させた。アシュラムの手助けだけは、何としてでもしてやりたいと思っている自分になかば驚《おどろ》きながら……
2
洞窟の中には、硫黄《い おう》の臭《にお》いががたちこめていた。
人間ならば、鼻を押さえてむっとするに違いない。しかし、シューティングスターにとっては、この硫黄の臭いや火口から噴《ふ》きあがってくる熱気が何よりも快適であった。
人間どもとの戦いで受けた傷も、ようやく癒《い》えようとしていた。翼《つばさ》の被膜《ひ まく》が元《もと》に戻《もど》るまでには、まだしばらくかかるだろうが、空を飛ぶのに支障があるほどではなかった。問題なのはつぶされた左目ぐらいで、再生までにはまだしばらく時間がかかりそうだった。
シューティングスターは自らの気持ちを押えることができなかった。
それは破壊《は かい》の衝動《しょうどう》であり、自らの復讐《ふくしゅう》心を満足させたいという欲求だった。自分の鱗《うろこ》はかるく百枚以上は傷ついている。最低でも一千人分の人肉を喰らわねば満足できそうになかった。いや、人間どもに宣言していたように、鱗一枚につき百人の人を喰らおうか。そうなると、一万もの人間を喰らわねばならないことになる。実行するならば、ひとつの街の住民がそっくりいなくなるだろう。
人間やエルフは最高の御馳走《ご ち そう》なのだ。肉の味ではなく、殺されるときの恐怖《きょうふ》に歪《ゆが》んだ表情が、シューティングスターには何よりの楽しみだった。その楽しみは、久しく忘れていたのだが、この前の戦いによって鮮明《せんめい》に思いだしていた。
もう待てない。
シューティングスターは翼を大きく広げ、火口から噴きあがってくる熱風を一杯《いっぱい》に受けた。そして、大きく翼をはためかせ、身体をゆっくりと浮かせた。火口の噴煙《ふんえん》の中に躍《おど》りこむと、そのまま激《はげ》しい上昇《じょうしょう》気流に乗りながら上空に舞いあがった。身体を傾《かたむ》け、シューティングスターはゆっくりと旋回《せんかい》し、北西に頭を向けた。
その先には、ライデンの街があった。
その頃《ころ》、四頭の騎馬《きば》の一団が海賊《かいぞく》たちの隠《かく》れ家《が》があるという岩場に向かっていた。
カシューたち五人である。スレインは馬に乗れないので、レイリアの後ろに乗っていた。彼女の腰《こし》に手を回し、しがみついている様はあまり見られた姿ではなかったが、非常の場合でもあり仕方がなかった。
岩場まではもうすぐだった。と、そのとき道の前方から小さな人影《ひとかげ》が歩いてくるのを、スレインは見た。
日は落ちかけているので、誰だか分からない。しかし、その小さな人影は、スレインにあることを期待させていた。そして、スレインのすこし前には視力もよく、また夜目もきくディードリットがいた。
「あれは、グラスランナーじゃない?」ディードリットは、前からふらふらと歩いてくる人影を見て、間の抜《ぬ》けた声を思わずあげてしまっていた。
「なんだい、そのグラスランナーって?」隣《となり》を走っていたパーンが、ディードリッ卜の方に馬を寄せながら尋《たず》ねてきた。
「草原《そうげん》の妖精《ようせい》族のことよ。わたしたちと同じ植物の妖精界を故郷とする同族ね。もっとも、この物質界に住んでいるグラスランナーは、もはや妖精ということさえできないぐらい異質な存在になっているけどね。妖精界に戻《もど》ることも、精霊《せいれい》と交信することもできなくなっているんだから」ディードリットがパーンに説明する。
その会話を聞いて、スレインはやっぱりと思った。
「マールですよ、きっと。彼は無事だったんだ」スレインがレイリアに話しかけた。
「しかし、他の人たちはどうしたのでしょうか?」
「彼に聞いてみれば、分かりますよ」
小さな人影はやはり、マールだった。
最初、スレインたちの姿を見つけると、脅《おび》えたように岩陰《いわかげ》に隠《かく》れようとしたのだが、身体を動かす元気さえなくなっていた。
そして、やってきたのがスレインだったと知ると、もはや一歩も動けなくなってしまっていた。
何しろ、海に飛びこんでから、長い距離《きょり 》をひたすら泳いできたのだ。
しかも、船から離《はな》れるまでは、できるだけ海の中を潜《もぐ》っていかねばならず、それがマールの体力を根こそぎ奪《うば》っていたのである。
しかも、それ以前の数日は、ろくな物を食べさせてもらえなかった。それが今になって応《こた》え[#「堪え」の誤記]えてきたこともあった。
「大丈夫ですか?」スレインが馬から降りると、グラスランナーの小さな身体を抱《かか》えおこした。
「レイリア!」
レイリアはうなずき、マーファに祈《いの》りを捧《ささ》げた。信仰《しんこう》は力である。祈れば、三界《さんかい》に散華《さんげ 》した神の魂に訴えかけ、その力を貸し与えられるのだ。それが、神聖魔法と呼ばれる神の奇跡である。
レイリアは癒《いや》しの呪文《じゅもん》と共に、精神回復の呪文をマールにかけた。
その間に、スレインがマールのことをパーンたちに説明する。
「ありがとう、ねえさん。楽になったよ」マールはそれでもまだ肩《かた》で息をしていたが、疲《つか》れはほとんどとれていた。今更《いまさら》ながらに魔法の偉大《い だい》さには感心させられる。
「マール、話してくれますね」スレインが静かに尋《たず》ねた。
マールはうなずいて、話しはじめた。自分たちが海賊《かいぞく》退治に出かけてから、自分ひとりだけで脱出《だっしゅつ》してくるまでのことをだ。何の隠《かく》しだてもせず正直に話した。
「鎖《くさり》につながれたら、終わりだったからね」マールは弁解した。「それに他の人はきっと泳ぎに自信がなかったろうからさ」
パーンは彼がひとりで逃《に》げてきたことをかなり憤《いきどお》っている様子だった。しかも、味方まで魔法《ま ほう》で眠らせてしまったという。それに、マーシュが死んだという話も、彼にとっては衝撃《しょうげき》的であった。そして、何より海賊たちの中にアシュラムたちがいたということが。
しかし、これは朗報《ろうほう》というべきだろうが、彼らはまだ支配の王錫《おうしゃく》は手に入れていないのだ。
それにしてもだ。
「みんなで一緒《いっしょ》に逃げだせる方法があっただろうに」パーンはマールの方を見ようともしないで、吐《は》き捨てていた。仲間を裏切ったという行為《こうい 》が許せないのだ。
「今はそんなことを言っている場合ではあるまい。このグラスランナーは、海賊の隠れ家を知っているのだ。ちょうどよい、こいつに案内させよう」カシューが言った。
「い、嫌《いや》だよ。やっとの思いで逃げてきたんだ。こんど捕まったら殺されるにきまっているじゃないか」マールはそう主張して、動こうとしなかった。
「自分でやったことに責任が取れないなんて、男のすることじゃないぞ」パーンが子供のようにわめくマールを怒鳴《どな》りつけた。
「偉《えら》そうに言えるのは、あいつらの強さを見ていないからだ。あいつらは、エイブラをいとも簡単に倒《たお》したんだ。向こうは油断してたのに、僕《ぼく》たちでは歯が立たなかった。今度もそうなるよ。あの大男みたいに殺されてしまうよ」
「腕《うで》ずくでも連れていくさ。それから、オレたちは負けやしない。何しろ、剣匠《けんしょう》の誉《ほまれ》高いカシュー王が一緒《いっしょ》におられるんだからな」パーンは自信たっぷりに言った。
「剣匠だって?」パーンの言葉に、わめきちらしていたマールが急におとなしくなった。
「この人が剣匠なの? あの……」そう言ったきり黙《だま》りこくっている。
「安心したか?」と、パーンが尋《たず》ねた。
ゆっくりとマールはうなずいた。
「……うん、安心したよ。案内してあげるよ、にいさん。奴《やつ》らの隠れ家はこの向こうだ。馬ならほんのすぐだよ」
「それでこそ男だ。オレの馬に乗れ! オルソンたちを救うんだ」
パーンは小さなマールの身体をひょいと抱《かか》えあげて、馬の上に跨《またが》らせた。そして、その後ろにパーンは跨り、手綱《た づな》を取った。
「急ぎましょう、カシュー王」
「おうよ、パーン。おまえたちの仲間がまだ生きているというのは、何よりの朗報《ろうほう》だったな。それから、アシュラムはオレが倒《たお》すからな!」
高らかに叫《さけ》んでカシューは馬の腹に蹴《け》りを入れ、全速で駆《か》けさせた。
遅れじと、パーンたちも傭兵王の後に続いた。
敵の隠《かく》れ家《が》は、たとえマールの案内がなくともすぐに分かっただろう。
なにしろ、アルハイブは前の襲撃《しゅうげき》でこりて、八人もの見張りを出していたからだ。
「来たぞ〜!」見張りは声をあげて、敵の襲来を告げた。「逃《に》げたガキも一緒《いっしょ》だ」
アルハイブは海魔の角号の甲板の上で、その情報を聞いた。そして、敵の数が少ないことを知ると、ニヤリと笑った。
「オレも出よう」
アルハイブはカトラスではなく、意匠《いしょう》を凝《こ》らしたブロードソードを持っていた。海の上での実用性はあまりないが、自分が|騎士《きし》であることを誇《ほこ》るためだ。
「捕虜《ほ りょ》の見張りに四人ばかり付けて、残りの者はオレについてこい!」
彼は船に残っている手下にそう命令した。
宝物を船に運びこんでいる最中だった水夫たちは、皆、腰《こし》のカトラスを抜《ぬ》いて、船長の命令に従った。
「オレたちは、モス経由で陸路を通って帰る。海魔の角号は、陽動《ようどう》のため、東回りでフレイム沖《おき》を通って帰れ」
火竜山《かりゅうざん》へと旅立つときに、アシュラムはそうアルハイブに命じた。
「それから、疲《つか》れているだろうが、すぐに出港したほうが無難だぞ。宝物よりも命を大事にすべきだからな」そう忠告もした。
しかし、アルハイブにとって、そんな忠告に従う気など毛頭なかった。アシュラムが去りさえすれば、もはや自分がこの船の指揮者である。アルハイブは、マーモに帰るつもりさえ、もはや失せていた。
このまま、このライデン近海に留まり、海賊稼業《かいぞくか ぎょう》を続けるつもりだった。いや、何なら身分を隠してモスあたりに小さな城でも作って、自由貴族を名乗るのもいいかもしれない。マーモが戦に勝ち、ロードス島を征服しそうならば、大陸にでも逃げればよいだろう。
そのためにも、この隠れ家に蓄《たくわ》えた宝物は置いたままではいけない。マーモヘ帰らないとあれば、食糧《しょくりょう》や水もそれほど必要ではない。すべて宝物を持ち帰ることができよう。それから機会を見て、青竜の島に行き、エイブラの守っていた膨大《ぼうだい》な量の富をも手に入れるのだ。
モスの一小国なら買えるぐらいの価値があろう。そうなれば、自分はもはや騎士ではなく太守《たいしゅ》である。国王になることも夢《ゆめ》ではないのだ。
「この戦いが終わったら、おまえたちはみんな騎士に任じてやる。手柄《て がら》を立てたものには、爵位《しゃくい》をやるぞ」
アルハイブは高らかに叫《さけ》んだ。その言葉を聞いて、疲れきっていたマーモの兵士たちの目に輝《かがや》きが生じた。オーッ、という喚声《かんせい》が巻き起こり、争うように洞窟の中に飛びこんでいった。
「オレの獲物《え もの》も残しておけよ」アルハイブは、満足気だった。
カシューたちは、奇襲《きしゅう》することなど考えてもいなかった。正面から堂々と攻めるつもりだった。敵の数はもはや二十人ほどだとのことだが、マーモの水夫など、しょせん雑魚《ざこ》にすぎない。敵はアシュラムたちだけと考えてよかった。
アシュラムとその配下の構成や強さも、マールから聞かされていた。確かに侮《あなど》りがたい相手だが、恐《おそ》れていては彼らの野望を阻止《そし》することはできないのだ。
岩の陰から、海賊たちが次々と湧いてでる。中には弩弓《クロスボウ》を構えている者もいた。
「風の精霊《せいれい》よ、自由なる乙女《お と め》よ。あたしたちを矢から守って……」すかさず、ディードリットがシルフの守りをかけた。
カシューたちは下馬していた。そして、それぞれの武器を構えていた。
「降伏《こうふく》し、立ち去りなさい。無駄《むだ》な争いはやめるのです」レイリアがひとかたまりになって近寄ってくるマーモの水夫たちに警告を発した。
「無駄ですよ、レイリア」スレインが首を振《ふ》りながら、妻を下がらせた。「あの手の小悪党にはこちらの力が上だと知らせてやればいいのです」
「サラマンダーの脚《あし》、エフリートの吐息《と いき》、始源の巨人《きょじん》の憤《いきどお》る心……」
スレインは上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱えながら、ゆっくりと杖《つえ》を持った手を差し上げた。そして、もう一方の手を添《そ》えていく。すると、スレインの頭上に炎《ほのお》の小球がひとつ、ふたつと浮かびあがっていった。
「万能なるマナよ、破壊《は かい》の炎《ほのお》となれ! ヴァナ・フレイム・ヴェ・イグロルス!」
賢者《けんじゃ》の学院では、導師級の魔術師にしか伝えられていない、火球の呪文《じゅもん》であった。破壊の魔法の象徴《しょうちょう》とされ、使うことは禁忌《きんき 》とされていた。
火球は空中を走り、カトラスを振《ふ》りかざしながら駆《か》けこんでくる水夫たちの目の前で爆発《ばくはつ》した。熱風と衝撃《しょうげき》が走り、海賊たちの動きはぴたりと止まった。
「次は火球をあなたたちにぶつけますよ」スレインが脅《おび》えと戸惑《と まど》いの表情を浮かべている水夫たちに向かい、静かにそう言った。多分にはったりだったのだが、火球の呪文を見た後では、十分な効果があった。
「おまえたち雑魚《ざこ》に用はない。命が惜《お》しくば船を捨てて、この場を去れ」
さすが命令なれしているカシューの声には迫力《はくりょく》があった。水夫たちはどうしたものかと、互《たが》いの顔を見合わせた。
「何をしている!」そのとき、後ろから声がした。アルハイブだった。「すぐに切りかからんか」
「しかし、船長……」
「相手はたかだか六人ではないか、何を恐れているのだ。首を取った者は、貴族の称号と共に、より多くの財宝を分け与《あた》えられると思え」
それで、怖気《おじけ 》づいていた彼らの気持ちが一気に変わった。
「そこまで約束《やくそく》してもらえるなら」と、散開して突《つ》っこんできた。
「ならば容赦《ようしゃ》せん」カシューは魔法の|長 剣《バスタードソード》を正眼に構え、敵の集団の中に躍りこんだ。
パーンも魔法の剣を振りかざして突進《とっしん》していった。
マールは敵の背後に回りこもうと移動した。パーンから、格闘《かくとう》戦用の短剣《ダ ガ ー》を借りていて、それを右手に握っている。
「仕方ありませんね」と、スレインは自分たちの方に駆けこんできた敵に対して、今度は眠りの雲の呪文《じゅもん》を使った。それで水夫たちのほとんどが倒《たお》れたが、三人ばかりが呪文を逃《のが》れ、無防備なスレインめがけて殺到《さっとう》してきた。
それを見て、スレインは後ろに下がった。
代わりにレイリアが前に進みでた。レイリアは|小 剣《ショートソード》を抜《ぬ》きながら、彼らのひとりに向かって気合いと共に片腕《かたうで》を突《つ》きだした。
そして、短音節の神聖語のルーンをつぶやく。
無形の力がその腕《うで》から発せられ、ひとりが胸を打たれて後ろに吹きとんだ。
「この女《あま》ぁ!」
残るふたりが、カトラスを振《ふ》りかざした。
レイリアは最初のひとりの|攻撃《こうげき》をかわすと、ふたり目が剣《けん》を振りおろすよりも先に、すばやい小剣の突きを男の胸に埋《う》めこんだ。
男は瞬時に絶命した。
もうひとりの男は、それでも怯《ひる》まず、二撃目をレイリアの肩《かた》に振りおろした。
それを小剣で受け止めて、レイリアはじっと男の目を見つめた。
その水夫はレイリアに見据《みす》えられて、勇気が急に失せていった。その美しい顔には、氷のような迫力《はくりょく》があった。黒髪《くろかみ》に青い瞳《ひとみ》が、まるで深い湖のような静けさで男の目を、そして、心までも射ぬいた。
男は悲鳴を上げながら、カトラスを投げ捨てた。そして、カシューたちがやってきた方へと、転がるように逃げていった。
「ほら、ご覧なさい。あなたを守る必要などないじゃありませんか」スレインがレイリアのところまで戻《もど》ってきてそう言った。
「わたしは……やはり、魔女《ま じょ》なのかもしれません」レイリアはポツリとささやいた。
「まだ、そんなことを言っているのですか? 成長のない人ですねぇ。たしかにさっきの顔には迫力はありましたが、綺麗《き れい》でしたよ。心にやましさがある人だけが、あなたを見て脅《おび》えるのです」
「はい」子供のように素直にレイリアは答えた。
十人あまりいたマーモの水夫たちは、あっという間に半分以下になっていた。
マールも敵の背後に回ろうとする努力が無駄《むだ》だと知って、地面にしゃがみこみながら、カシューとパーンの戦いぶりを眺《なが》めていた。
勝負にさえなってなかった。それほど、ふたりの戦士の力は凄《すさ》まじかった。
「さすがだよ、剣匠《けんしょう》。噂《うわさ》は本当だったんだ。あんたは王になり、そして今も剣を振《ふ》るっている」そう、マールはつぶやいた。
ロードス島にやってきた甲斐《かい》があった、とマールはカシューの戦う姿にじっと見入っていた。
気がついたときには、生き残っている敵はひとりだった。船長のアルハイブである。
「貴様《き さま》、マーモの騎士《きし》だな」カシューの声は彼が振るう長剣のように鋭《するど》かった。
「い、いや、違うぞ。わたしは雇《やと》われ船長だ」震《ふる》える声で、アルハイブは答えた。自分が逃げだす暇《ひま》さえなく、目の前で手下たちはすべて殺されてしまっていた。
それほど、目の前の男は強かった。
「お、おまえは誰《だれ》だ?」そう尋《たず》ねずにはいられなかった。
「オレか、オレはカシューだ。その名は聞いたことがあろう」
「ひっ!」アルハイブは悲鳴を上げ、腰《こし》を抜《ぬ》かして地面に尻《しり》をついた。「な、なぜ、フレイムの国王がこんなところまでやってくるのだ」
「マーモの騎士団長がやってくるより、ましだと思うぞ。言え! アシュラムたちはどこだ」
「ア、アシュラム卿《きょう》は、もうここにはいない。火竜山《かりゅうざん》に向かった。仲間と一緒《いっしょ》にな」
「そうか、もはや出かけたか。ならば、ここでぐずぐずしてはおれんな」カシューは独《ひと》り言のようにつぶやいた。
「オルソンたちは、無事だろうな!」パーンが語気を荒《あ》らげて、アルハイブに怒鳴《どな》る。
「もちろん、無事だとも。船倉に閉じ……住んでもらっている。宝物もいっぱいある。足らないなら、青竜の島に案内もしよう。……そ、そうだ。わたしをフレイムに仕えさせてください。こう見えても、操船術なら誰にも引けをとりません。そのため、マーモに雇われ、いや、捕《とら》えられていたぐらいでして……」しどろもどろにアルハイブは言葉を並《なら》べたてた。
パーンは唖然《あ ぜん》とした。これがマーモの私掠船《しりゃくせん》の船長だというのか?
「いかがいたしましょう、カシュー王」
「これがマーモの騎士だとはオレにはとても信じられん……」カシューもあきれはてていた。
「こんな男、放っておけ。しょせん、ひとりでは船は動かん。それより、オルソンたちを助けねばならんのだろう」
3
あわてふためくような足音が聞こえてきたかと思うと、天井《てんじょう》から騒々《そうぞう》しい物音が聞こえてきた。
「な、何事なんだ」オルソンが驚《おどろ》いて立ち上がっていた。
「落ち着きなよ」シーリスが眉《まゆ》をひそめて、オルソンに注意をうながした。
この数日のあいだに、オルソンに感情が戻《もど》ったということは、シーリスにもよく分かった。しかし、そうなると、オルソンは以前の冷静さが微塵《み じん》もなくなり、極端《きょくたん》に神経質になっていた。
何か物音がするたびに驚き、ひどいときには殺されるのではないか、とシーリスにしがみついてくる。急激《きゅうげき》なこの狂戦士《バーサーカー》の変化にシーリスは最初|戸惑《と まど》い、そして次には面倒《めんどう》くさく思うようになっていた。オルソンが狂戦士から解放されたと知ったときの喜びなど、すでに吹き飛んでしまっていた。
しかし、今度ばかりはオルソンのあわてようも、大げさとばかりは言えなかった。上の騒動《そうどう》は尋常《じんじょう》ではなかった。どうやら、戦いになっている様子だった。緊張《きんちょう》して耳をそばだてていると、ふたつみっつ悲鳴が聞こえてきて、騒ぎは静まった。
「何だと思う?」シーリスはフォースに尋ねた。オルソンが腑抜《ふぬ》けになってしまったので、今ではこの男がいちばん信頼《しんらい》できた。
「分からないさ。すこし様子を見てみよう」
フォースは柔《やわ》らかく流れるような動作で立ち上がった。やつれきった姿がかえって、この男を美しくみせていた。
と、天井の落とし戸がゴトリと音を立てて、引き上げられた。
そして、ひとりの男が顔を覗《のぞ》かせた。
「待たせたな。オルソン……」
「パーン!」全員が声を揃《そろ》えて叫《さけ》んだ。
「なぜ、ここに」と、フォース。
「おまえには一度、助けてもらったことがあったな」パーンが階段を降りてきた。
「久しぶりだ、フォース。会いたかったよ。本当はマーシュにもだったんだけどな」
パーンはフォースのそばまで近寄ってきて、彼の背中に手を回した。
「オレのせいなんだ.オレの…」フォースは喉《のど》を詰まらせた。
「誰のせいでもあるもんか。仲間を守るためには命だってかける。おまえたちはオレを助けてくれた。デニはおまえを助けた。マーシュだって、そうさ。オレだって、そうするよ。傭兵は誰も守ってはくれない、守ってくれるものがあるとすれば、それは自分の腕《うで》と運と仲間だけだ。そうだったよな」
そう、傭兵たちはたとえ雇主《やといぬし》からでも見捨てられるときがある。たとえば、ヒルトの戦いのおりの自分たちのように。オルソンとシーリスだって、ラスター公爵《こうしゃく》に騙《だま》されたようなものだ。
たとえ、国王でさえ。パーンは心の中でそうつぶやいた。
「そのとおりだよ。マーシュは立派な傭兵だった。オレはただの盗賊《とうぞく》に成り下がっちまったのに……」
そう言って、フォースは絶句した。肩《かた》を震《ふる》わせて手で目を拭《ぬぐ》う。
パーンはフォースの肩を優しく叩いて、彼をそっと離した。
「パーン!」すると、今度はシーリスが抱《だ》きついてきた。「なんで来たのよ。わたしたちは、これから逃げだすところだったのに」
「そうだと思ったんだけど、すこし急がねばならない事情ができてね」
「そう、じゃあ許してあげるわ」
「オルソン……」
「パーン、助かったよ。本当にありがとう」オルソンが目を輝《かがや》かしながら、パーンの手を握《にぎ》ってきた。
「オルソン?」そんなオルソンの様子を見て、パーンは唖然《あ ぜん》となった。
「そうなのよ。こいつ治ったみたいなのよ。でも、てんで腑抜《ふぬ》けになっちまってね」
シーリスが冷たく、そう言った。
「そうか。治ったのか。よかったじゃないか? 狂戦士《バーサーカー》になるよか、よっぽどいい」
「そう言ってくれるんだね、ありがとう」オルソンは握った手を離そうともしない。仕方ないので、パーンの方から無理矢理に離した。
「セシル……。それに、シャリーさんも、本当によかった」
セシルはパーンに申し訳ありませんと頭を下げ、シャリーは力なく微笑《ほ ほ え》んだ。
「再会の喜びはそれぐらいにして、早くこの臭《くさ》い船から出ていかんか? 今、上でスレインたちが漕《こ》ぎ手たちを解放してやっている。もはや、ここに留まっている理由はないぞ」
と、カシューが落とし戸から首を覗《のぞ》かせて、声をかけてきた。
「カシュー王!」シャリーが驚《おどろ》いて、その場に跪《ひざまず》いた。
「今はオレのことを王だとは思うな。とりあえず、シューティングスターとアシュラムを倒《たお》すまではな」
カシューはそう言って、階段を降り自ら手をとってシャリーを立ち上がらせた。すこし顔を赤らめながら、シャリーは素直に従った。
そして、階段を登り、オルソンたちは本当に何日かぶりに船倉から出てきた。そして、もうひとりの人物と再会することになる。
グラスランナーのマールが悪びれた顔もせず、にっこりと微笑んでいたのだ。
「マール! てめぇ!」フォースがマールの顔を見るなり、つかみかかっていこうとした。
それをパーンが引き止めた。
「ごめんよ。あのときは、ああするしかなかったんだ。みんな、泳げないと思ったし、それに誰かが助けを呼びにいかなければならなかっただろ」
「本当ですか?」シャリーが一歩進みでて静かに尋《たず》ねた。問いつめるような目だった。「あなたは、自分の心に嘘《うそ》をついていませんね」
マールはにっこりと笑った。
「もちろん」そして、そう答えた。
シャリーはしばらく間をおいてから、そっとため息をついた。
「では、お礼を言わせてもらわなければなりませんね」と言って、頭を下げる。
「ま、そういうことなら仕方ないか」シーリスは、両腕《りょううで》を頭の後ろで組みながら言った。
「だけど、今度は相談してからにしなよ」と、すこしだけ凄味《すごみ 》を利《き》かせた。
「そうするよ」マールは答え、頭を下げて、ごめんねと舌を出した。
「で、これからどうするの?」シーリスがパーンに尋ねた。その隣《となり》には、ディードリットが張りつくように立っている。
「オレたちは、これからすぐにアシュラムを追って火竜山《かりゅうざん》へ向かう。もはや時間はない。もし、彼らがシューティングスターを倒《たお》し、支配の王錫《おうしゃく》を手に入れたなら終わりだから。きみたちは、疲《つか》れているだろうから、街に帰ってゆっくりしてくれ」
彼らの疲れようは一目で分かるほどだった。無精髭《ぶしょうひげ》がはえ、目は落ちくぼみ隈《くま》ができていた。
「そうはいかないわよ」シーリスは気丈《きじょう》に言いかえした。「わたしは行くわ。ひとり倒さなければならない奴《やつ》がいるの」
「オレも行く」と、フォースが力を込めていった。「オレは、マーシュに復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》ったんだ」
「わたしも参ります」シャリーが一歩前に進みでた。
「わたしも行きますよ。汚名《お めい》を返上しなければ……」とセシル。
「もちろん、僕も行くよ」マールが無邪気《む じゃき 》に笑う。
「ずいぶん、仲間が増えたものだな」カシューが頼もしげに一同を見渡しながら言った。
「いいだろう。皆にもついてきてもらおう。そして、憎むべきシューティングスターとアシュラムめを葬《ほうむ》るとしよう」
カシューたちは、漕《こ》ぎ手たちをすべて解放してやってから、海魔《かいま 》の角《つの》号を降りた。そして、すでに真っ暗になった洞窟《どうくつ》の中を抜《ぬ》けて、地上へと出た。もちろん、敵船の船長の姿は闇《やみ》に溶《と》けてしまったかのようにどこにもいなくなっていた。
そして、全員が息を飲んだ。
東の空が赤く染まっていたからだ。まるで朝焼けのように。しかし、陽《ひ》はたった今、西の空に沈《しず》んだばかりなのだ。
「ライデンが燃えているのではないでしょうか」セシルが叫《さけ》んだ。
「そうに決まっているでしょう」と、スレイン。「シューティングスターが、あの魔竜《まりゅう》がライデンを襲《おそ》っているのです」
まるでドラゴンの吠《ほ》え声さえ聞こえてくるようだった。
「カシュー王、いかがいたしましょう」パーンはカシューに尋《たず》ねた。「このままライデンに取ってかえして……」
「いや、それは駄目《だめ》だ」カシューは苦しげに言った。疲《つか》れを知らぬ傭兵王《ようへいおう》に今、その色がはっきりと表われていた。
「空を飛ぶドラゴンには絶対に勝てない。オレはこの前の戦いで嫌《いや》というほど思い知らされた。戦うのなら奴《やつ》の巣穴《す あな》でだ。だから、一刻も早く、火竜山へ行かねばならない」
「しかし、あのままでは、ライデンの人々が……」
「言うな、パーン!」カシューは怒鳴《どな》り、パーンを制した。「分かっている。オレにもそれぐらい分かっているのだ。だがな、このままライデンに帰っても何の解決にもならん。そればかりではない。このまま、アシュラムに支配の王錫《おうしゃく》を取られてしまっては、より多くの人々が命を落とすことになるかもしれん。それだけは絶対|避《さ》けねばならない」
そして、カシューは悲しげな表情をパーンに見せた。パーンはこんなカシューの表情を見たことがなかった。
「人間は死んでいくのだ。国王がいかに賢政《けんせい》を振るおうともな。それどころか、より多くの人命を救うために、自ら人の命を奪《うば》うこともある。それに、国王とて失敗はある。火竜の狩猟場《しゅりょうば》での敗北のようにな。それらの責め苦を背負ったうえで、国王は自分がよい王であることを信じ、国を治めねばならないのだ。苦しい、そして辛《つら》い仕事ではある。誰かに代わってもらえば、どんなにか楽だと考えたこともある。シャダムがオレに王になってくれと頼んだ気持ちが、今ならよく分かる。だが、オレは自ら望んで王となった。そして、国王とは常に決断を下さねばならないのだ。それがいかに非情なものであろうともな」
「カシュー王の気持ちはよく分かります。しかし……」
「パーン」スレインが近寄ってきて、パーンの肩《かた》に手をかけた。「カシュー王も苦しんでおられるのですよ。国王とはひとりの人間の命ではなく、一万の人間の命を考えねばならないものです。あなたも国王になれば、それが分かるでしょう」
パーンはうつむいて、じっと唇《くちびる》を噛《か》んでいた。ある考えを噛みしめているのだ。それは、自分の中でなかなかはっきりとした形にならなかった考えだった。しかし、一度も忘れたことはなかった。そして、忘れなかったことをパーンは神に感謝しようと思った。
確かに王になれば、多くの人が救えるだろう。しかし、国王の目の届かないところで、命を落としていく人間は絶対になくならないのだ。たとえば、傭兵《ようへい》たちがそうだ。国を追われた難民たちもそうだろう。そんな人たちのことを、誰かが考えてやらなければならないのだ。誰かが救ってやらなければならないのだ。
それが自分の選んだ道だった。だから、ヴァリスの騎士《きし》を辞し、フレイムに仕えぬかとのカシューの誘《さそ》いも断ったのだ。ひとつの国に仕えては、その国の民しか救うことはできない。
「スレイン……。オレは今こそ、決心がついたよ。しかし、今は火竜山《かりゅうざん》へ行こう。シューティングスターを倒すために、そしてアシュラムの野望を阻止《そし》するために」
燃えあがるライデンを背に、一行は街道を逆に進んだ。その先には、炎《ほのお》の川≠ェある。そして、その川に沿って登れば、一週間ばかりで火竜山の火口近くまで出られるはずだった。
東の空から照らしだされる赤い光で、パーンたちの前には自分たちの暗い影《かげ》が長く、長く伸《の》びていた。
「いったいどうなっているのですかな」
アサーム評議長が机を叩くように叫んだ。
「と言われましてもな」と、机に座って手を組んでいるのは、フレイムの傭兵《ようへい》隊長シャダムだった。
「なぜ、あのシューティングスターがライデンを襲《おそ》ってこなければならないのです」
シャダムの肩《かた》ごしに、街のあちらこちらが燃えあがっているのが、アサームにはよく見えた。そして、恐慌《きょうこう》状態になりながら、逃《に》げまどう人々の姿も。
まるで、世界の終わりを迎《むか》えたような光景であった。
「ドラゴンの気持ちなど、わたしには分かりませんからな」シャダムはとぼけたような言い方をした。
「そんなことは分かっております」アサーム評議長は青筋を立てていた。「では、あのドラゴンを今すぐ退治してください」
「これは無茶を言われますな。わたしたちは、たしかにこの街の治安を守りにはきた。しかし、ドラゴンを退治しろなど、無理なことをおっしゃる」シャダムは、アサームを宥《なだ》めるように言った。
「もちろん、これが正規の騎士団《き し だん》であれば、打ち破ってもみせましょう。しかし、傭兵は金大事、命大事。残念ながらドラゴンと戦う勇気の持ち主はひとりもおりませんよ。嘘《うそ》だと思うなら、あなたの私兵の中から有志を募《つの》ってごらんなさい。誰も名乗りでないはずですよ」
「しかし……」
「わたしたちは、善意でこの街にやってきたのです。たしかにいくばくかの報酬《ほうしゅう》はいただくことになっている。だが、金の問題ではありません。ここは無駄《むだ》な抵抗《ていこう》を試みるよりも、ドラゴンからの被害《ひ がい》を少なくすることこそが先決ではありませんかな」
「それはそのとおりだが……、どうするのかね」
「簡単です」と、シャダムは立ち上がって、両手を広げた。「逃《に》げるのですよ。この街から一刻も早くね」
「ば、馬鹿《ばか》なことを言うな! わたしが蓄《たくわ》えた財産は、この街の繁栄《はんえい》はどうなると言うのだ」
「しかし、このままでは命までも失いますからな。……それ、こんな話をしているうちにドラゴンがこちらへ向かってきたようですよ」
そのシャダムの言葉に、アサームは頭を抱《かか》えてしゃがみこんだ。
「しゃがみこんでも駄目《だめ》ですよ。アサーム評議長も一刻も早く脱出《だっしゅつ》してください。わたしたちは、役目を果たすため、この街に留まりますので」
「た、頼《たの》む!」そう言い残してアサームは、部屋《へや》から悲鳴を上げて、飛びでていった。
「ずいぶんな役者ですね、シャダム様は」
評議長と入れ違いに、騎士《きし》姿の男がひとり入ってきた。近衛《こ の え》隊の騎士隊長ルキーニである。カシュー王を守るべくライデンまでやってきたのだが、四人の部下はヴァリスと国もとへの使いに出され、彼自身はシャダムの補佐役に残されたのだ。
「あんな俗物の言うことなど、かまってはおられん。それより、おまえはシューティングスターに恨《うら》みがあるだろうが、決して相手にするなよ。傭兵《ようへい》たちにも、オレからそのことを伝えておいた」
「フレイムの威信《い しん》が下がるでしょうな」
「この際だ、仕方がない。今は戦力を温存しておきたい。火竜の狩猟場での二の舞をすれば、国の存亡に関わるからな」
シャダムの口調《くちょう》は、自らをあざけるようでもあった。
「自らの力で街を守れぬようでは、ライデンの将来も決して長くないな」
「しかし、カシュー王に万が一のことがあれば、我らフレイムの運命も長くないかもしれません」
「そうかもしれんな」と、シャダムはつぶやいた。「しかし、カシュー王はしたたかな方だからな。今回もきっと生きて帰ってこられよう。わたしはそう信じているのだ」
シャダムは窓際に立ち、燃えあがる街と逃げまどう人々、そして上空を舞うシューティングスターの巨大《きょだい》な姿を身動きもせず見守っていた。
わたしは役者なのではなく、ただの悪人なのかもしれない、シャダムはそう考えていた。この悲惨《ひ さん》な情景を見ても、これがフレイムの街ではなくてよかったとしか思わないのだから。
やはり国王の器ではない。いや、それとも意外に適任なのかもしれない。
今どこにいるのかは知らぬが、カシュー王が断腸の思いでこの事実を受け止めていることに、シャダムは確信を抱《いだ》いていた。
4
火竜山は茶色の山地<泣宴Eザの東の端《はし》にある。
ルラウザ山地の中の最高峰《さいこうほう》であり、また分水嶺《ぶんすいれい》にもなっている。この山の東の斜面《しゃめん》からは、熱き川≠ェ流れ、東の平原を通って、北の大海に注ぎこむ。西には、炎の川≠ェ流れ、巨大《きょだい》な渓谷《けいこく》を刻みながら、ライデン湾《わん》に流れこんでいる。
ルラウザは木々の生えない山地だった。植物の精霊の力が弱いためか、それとも単に土壌《どじょう》が植物の生育に向いていないためか。すこし高度があがると、岩と土が剥《む》きだしになっていて、背の低い雑草などが申し訳程度に生えているだけだ。
茶色の山地の由来である。
パーンたちは、すでに火竜山の中腹を越えていた。かなりの強行軍だった。アシュラムたちに追いつくためであり、シューティングスターの被害を最小限に留めるためである。
こうして、炎《ほのお》の川を遡《さかのぼ》っているあいだにも、シューティングスターはときおり頭上を飛びさり、ライデンヘと向かっていた。ライデンの街は、炎の中に消え失せているかもしれないとの不安さえ頭をかすめる。
だから、疲れた身体に鞭《むち》打って、一行は黙々《もくもく》と山道を昇り[#「昇り」に「ママ」の注記]つ[#「登り」の誤記]づけた。体力のあまりないスレインやディードリットは、ときにはレイリアやシャリーに回復の魔法《ま ほう》をかけてもらわねば一歩も動けなくなるときさえあった。弱音こそ吐《は》かないが、シーリスもかなり疲れているようだった。セシルは意外に体力があり、平気な顔をしている。彼は魔術師《ソーサラー》よりも戦士に育てるべきだったんですよ、とスレインがあきれ顔でそう洩《も》らしたぐらいだ。
最初から弱音を吐きどおしだったのは、オルソンだった。ディードリットは、彼が正常に戻《もど》っていることを一目で見抜《みぬ》いた。複数の精神の精霊たちが、普通《ふ つう》の人間と同じように働いている。
「でも、なぜいきなり治ってしまったのかしら」ディードリットは岩の上にしゃがみこみながら、同じ岩に背中合わせで腰《こし》かけているパーンに言った。
今は小休止だった。強行軍がたたって、皆の疲労《ひ ろう》は極限にまで達しており、これ以上無理をするとドラゴンと戦うどころではなくなってしまうとカシューが判断したからだ。
「本当に治っているのかよ」パーンは旨《うま》そうに水袋から水を飲みながら、ディードリットに答えた。喉《のど》には革の臭《にお》いが沁《し》みこんだ水の感触が、背中にはディードリットの柔らかな感触が伝わっている。
「オレには以前の方がまともに見えるぜ。情緒《じょうちょ》不安定で、全然落ち着きがない。シーリスだってもてあましているぐらいだからな」
「長いあいだ感情ってものから無縁《む えん》だったんで、戸惑《と まど》っているのよ。自分の感情をどう扱《あつか》えばいいのか分からないのね。だから、人より感情が激《はげ》しく出てしまうのよ。ちょうど子供と同じ。怒《いか》りの精霊に取りつかれたとき、彼の精神の成長は止まってしまったんだから、仕方ないわよ」
「治るのかい?」
パーンの問い掛《か》けに、ディードリットは肩をすくめた。
「さあ、分からない。でも、病気じゃないんだから、時間が解決してくれるでしょ。でも、以前のオルソンより、よほど安全よ」
「いつまで、いちゃついてるのよ!」シーリスが怒りをあらわに、パーンたちの所にやってきた。隣《となり》にオルソンがいる。
「そんな暇《ひま》があったら、この人をなんとかしてやってよ。このままじゃあ、戦う力にならないわよ」
「戦うのは怖《こわ》いことだよ」シーリスの言葉を聞いて、オルソンは脅えたように言った。
「じゃあ、なぜついてくるのよ」シーリスが怒鳴《どな》る。
「君が行くからだよ」シーリスの剣幕《けんまく》にさらに脅えながらも、オルソンはあっさりと答えた。
シーリスが茫然《ぼうぜん》として、オルソンの顔を見つめた。そこには、ある感情がありありと見てとれた。自分に対する好意である。
シーリスはげっそりした。今まで彼女にこの視線を向けてくる者はたくさんいた。古くはカノンの宮廷で、そして近い話ではアラニアの若い騎士や、同じ傭兵仲間の長剣使い。シーリスはそのすべてを相手にしなかった。
「今まで気付かなかったわたしが馬鹿《ばか》なんだけど、あなたはわたしの事が好きなのね」
「はっきり言うなよ」オルソンは恥《はず》かしそうな顔をした。「でも、そのとおりさ。きっと、怒りの精霊《せいれい》に心を支配されていた頃《ころ》から、ずっと君が好きだったんだ。理屈《り くつ》じゃなくね。心の中のどこかに隠《かく》れていた感情で、君に好意を感じていたんだよ。でなければ、あんなに無茶な君の言うことに従うもんか」
「あきれた……」
「だから、今、僕は幸せなんだ。シーリスの事を理屈じゃなく、心から好きだっていえるんだから。ディードリットなら、分かってくれるだろ?」
「ま、まあね」ディードリットは曖昧《あいまい》な返事をし、ちらりとパーンの方をうかがった。「ねぇ、オルソン、教えてくれる。なぜ、いきなり感情が戻《もど》ったの? 今まで何年も怒りの精霊に支配されてきたのに」
「理由は分からないけど、たぶん……」
「たぶん?」ディードリットは先をうながした。
「アシュラムの|大 剣《グレートソード》で切られたときだ。あのとき、彼の持つ大剣の魔力《まりょく》で、僕の心は激《はげ》しい衝撃《しょうげき》を受けたんだ。でも、僕の心の大部分は、あいつ、怒りの精霊が支配していただろ。だから、衝撃を受けたのは、むしろあいつだったんだ。それで、僕の心を支配する力が弱まった。そして、水竜《すいりゅう》エイブラの咆哮《ほうこう》の声を聞いたときも、魔剣で切られたときと同じ衝撃を味わった。それで、あいつの支配力はさらに弱くなって。だから、僕はあいつを乗り越《こ》えることができたんだ」
「なるほどね」ディードリットは深くうなずいた。「アシュラムの持っている魔剣もドラゴンの咆哮も、人の心を打ち砕く力があるものね。人の心、つまりは、精神の精霊の働きをね。それで、怒りの精霊の力が弱まったんだわ。そして、あなたは自らの心を取り戻《もど》した。でも、決して簡単なことじゃなかったと思うわ。肥大《ひ だい》化した怒りの精霊に束縛《そくばく》されながら、完全に狂戦士《バーサーカー》とならなかった、あなたの自制心。そして、外からの力が働いたとはいえ、怒りの精霊の支配を乗り越えた意志力。すべてに敬意を表したいわ」
「それは、認めるけどね」シーリスは拗《す》ねたような仕草をした。
「僕のことを認めてくれるんだね、シーリス」顔中を輝かせながら、オルソンは言った。
「それとこれは話が違《ちが》うでしょ」
「いいじゃないの、シーリス。このまま、オルソンと一緒《いっしょ》になりなさいよ。きっと、幸せになれるわよ」
「なれるよ」ディードリットの言葉に、オルソンは力強くうなずいた。
「勝手に決めないでよ」シーリスは怒鳴《どな》った。
「でも、怒りの精霊は本当にいなくなったのかな」と、パーンが疑問を口にした。
「まだ、いなくなってはいないよ……」さすがに真顔になって、オルソンは言った。
「僕には感じられるよ。かつてのように、心を支配する力こそ失っているけど、あいつはまだ僕の心の中に住んでいる。いや、僕だけじゃない。人は誰だって怒りの精霊を……、そして狂戦士になる可能性を持っているんだ。それは異常なことじゃない。あいつを押《おさ》える理性があるかぎりね。今の僕は、心というものがよく理解できる。自分の心も、それに他人の心もね」
オルソンの話を聞いて、ディードリットは感心した。
「強い精霊使いなら、なんでもないことだもの。思ったとおり、あなたは精霊使いとしての高い潜在力《せんざいりょく》を持っているんだわ。あたしが、精霊と交信する方法を教えてあげようか? あなたなら、すぐにあたしを追い抜くはずよ」
そう、オルソンは優れた精霊使いになるだろう。もしかすれば、精神の上位精霊さえ支配し、使いこなす者となるかもしれない。|怒りの精霊《ヒ ュ ー リ ー》や|悲しみの精霊《バ ン シ ー》の力を我が物とし、夢魔《サキュバス》を操り、生命の精霊の力を、不死《アンデッド》の精霊の呪《のろ》いを、完全に解放することができるようになるかもしれない。それは、今まで、どの精霊使いも達しえなかった領域である。
「いつかは頼《たの》むよ」オルソンは浮《う》き浮きとして答えた。「楽しみだな。そうなれば、人の心も支配できるようになって、シーリスを振《ふ》り向かせられるかもしれないね」
「やめてよ!」シーリスは、ぞっとして叫《さけ》んだ。|魔法使い《ルーンマスター》など魔物なのにと、パーンたちと一緒《いっしょ》に旅をするようになって、忘れかけていた偏見《へんけん》が今更《いまさら》ながらに頭をもたげてきた。
「オルソンの全快は祝福するわ。残念ながらわたしは、オルソンのことなんて、すこしも好きじゃない。パーンのことが好きなのよ」
えっ、とパーンが驚いた顔をした。シーリスが自分に好意を持っているなど、まったく気付かなかったのだ。
「それは違《ちが》うよ、シーリス」オルソンが微笑《ほ ほ え》みながら、しかし断定するように言った。
オルソンの言葉に、シーリスは自分の心臓が一回だけ大きく鼓動したように感じられた。
「シーリスは、まだ本当の恋《こい》なんてしらないんだ。パーンに負けた悔《くや》しさを好意に置き換《か》えて、自分を騙《だま》しているだけだと思う。君は負けずぎらいなんだよ。好きな男にだけは、負けてもいいなんて、君はやっぱり貴族のお嬢様《じょうさま》だね。だから、女戦士に負けたときには、あんなに悔しがった」
「お黙《だま》り、オルソン! それ以上言うと、容赦《ようしゃ》しないわよ」
シーリスは、本気になって怒《おこ》っていた。顔から血の色が失せ、身体が震《ふる》えてさえいた。怒《おこ》っているのか、恐怖《きょうふ》を感じているのかの区別さえつかないほどだった。それだけに、彼女の怒りの深さを感じさせた。
「他人の心までお見通しってわけ。でも、残念。そんなことは絶対にないわよ。わたしはパーンを心から愛しているのよ。あの女戦士を憎む気持ちと同じにしないで!」
「ごめん、言い過ぎた」
シーリスが怒ったのを見て、オルソンがあわてて謝った。他人の心の中に踏《ふ》みこむことが、当人にとっては耐えがたい苦痛になることがあるのだ、とオルソンは初めてそれを知った。
でもねシーリス、とオルソンは心の中でつぶやいた。
復讐《ふくしゅう》は何も生みださないよ。僕は姉さんの復讐のために、狂戦士《バーサーカー》になった。僕は妖魔《ようま 》どもの命を奪《うば》ったけれど、何も取り戻《もど》せなかった。君を傷つけたことさえあったじゃないか。自分が好意を持っている者さえ、傷つけることがあるんだよ。
パーンたちのやりとりをカシューたちは、少し離《はな》れた大岩の陰《かげ》に入って、見るとはなしに見ていた。
「若いな、あいつらは」カシューが久しぶりに笑顔を見せて、そう言った。
「まったくです。聞いているほうが、恥《は》ずかしくなってきますねぇ」スレインは苦笑を浮《う》かべていた。
「笑いは心の静養にはいちばんの薬ですわ」レイリアがそっと微笑んだ。
「本当ですね」シャリーもうなずいた。
「しかし、アシュラムたちは本当にこの道を通っているんですかねぇ。もうじき山頂ですが、まだ追い付きませんねぇ」スレインが疲れたように、深いため息をついた。
「さて、どうかな」話が問題の核心《かくしん》になったので、さすがにカシューは真顔になった。
「間違いないよ。アシュラムたちもこの道を通っている」マールが保証した。「人が通った跡が、あちこちにあるもの。野営をして、その後を綺麗《き れい》に片付けた跡をさっき見つけたよ」
「どれくらい経《た》っているかわかるか?」カシューが尋ねた。
「それほどは経っていないはずです」その問いにはフォースが答えた。「マール、おまえはどう思う?」
「僕も長《おさ》の意見と同じだよ。向こうも急いでいるみたいだけど、確実に距離《きょり 》を詰《つ》めてきているね」
「じゃあ、こんなところでゆっくりはしていられませんね」
勢いこんで、セシルが立ち上がった。
「あなたは元気ですねぇ」スレインが疲《つか》れたような笑いを見せた。
「しかし、セシルの言葉にも一理ある。せっかく、追い付きかけているんだ。もうひと頑張《がんば 》りするとしよう。それに、頂上は遠くはない」
カシューはそう言って、ゆっくりと身体を起こした。
そして、近付きつつある火竜山の頂上付近を眺《なが》めた。そこに、アシュラムの姿が見えないかとも思ったが、さすがにそんなことはなかった。ただ、その火口から噴《ふ》きあがっている真っ白な煙《けむり》が見えただけだった。
5
アシュラムたちはようやく火竜山の頂上まで登りつめてきていた。
そして、火口へと続くと思われる横穴も見つけだしていた。その横穴は人間が作ったものだった。半円形で洞窟《どうくつ》の表面は磨《みが》かれたように滑《なめ》らかである。床《ゆか》は平らで歩きやすそうだった。五人ぐらいは並《なら》んで歩けるだけの広さがあった。おそらく、古代王国時代に作られたものだろう。
早く入ろうではないか、とアシュラムは提案したのだが、それをグローダーが引き止めた。
「あの火竜はここ数日というもの、毎日飛びたってはしばらくかえってきません。あの魔竜《まりゅう》が留守《るす》のときを狙《ねら》えば、安全に支配の王錫《おうしゃく》が手に入るというものでしょう」
「不要な戦いに正義はありますまい」ホッブもグローダーに賛成した。
「そううまくいくとは思えんが、英気を養うのも重要だろう。ならば、ドラゴンに見つからぬようその横穴に入って、すぐの所でしばらく休憩《きゅうけい》しよう。スメディとグローダーは入口近くで見張っていてくれ。後で交替《こうたい》させるから」
そして、アシュラムたちはそれを実行した。
横穴に入ると、噴煙《ふんえん》の臭《にお》いがかすかに漂《ただよ》ってきた。ただ、風は洞窟の外から中に流れこんできているので、毒ガスなどにまかれる心配はなかった。風が吹《ふ》きこんでくるときの唸《うな》りが、まるでドラゴンが息を吐《は》きだす音に感じられた。
アシュラムたちは待った。横穴の中で食事を取ったり飲み物をあおったりしながら、ひたすら待った。ドラゴンが飛んでいくのを。いつもどおりなら、それはもう間もなくのはずだった。
その頃《ころ》、シューティングスターは、また空腹を覚えはじめていた。人間の肉ならば、最近は飽《あ》きるほど喰《く》っている。だが、まだ喰いたらなかった。まだ、傷ついた自分の鱗《うろこ》には、つりあわない。もっともっと、殺してやる。もっともっと、喰ってやる。
シューティングスターは、翼《つばさ》を大きく広げ、それを羽ばたかせた。
そして、いつものように火山の噴煙に身を任せるように飛びあがった。
しかし、彼はまったく気が付いていなかった。自分の鋭敏《えいびん》な嗅覚《きゅうかく》が過食ぎみの毎日ですっかり鈍《にぶ》ってしまっていることを。でなければ、すぐ目と鼻の先の距離《きょり 》に人間の集団がふたつも近づいてきていて、それに気がつかないなどということがあるはずがないのだ。
いつもならば、たちまち取ってかえして人間たちを襲っただろう。そして、殺し、喰ったことだろう。
だが今、シューティングスターは、まったく後ろを振り返ることなく新しい狩猟場《しゅりょうば》――ライデンの街――に向かって飛び去っていったのである。
シューティングスターが火口から飛びたったのを最初に見つけたのは、スメディだった。
「グローダー、奴《やつ》が出たよ!」
「そうか。これであの魔竜《まりゅう》と戦わずとも、支配の王錫《おうしゃく》が手に入る」
グローダーはフードを外し、巨大《きょだい》な獣《けもの》が西北の空に飛びさっていくのをしばらく見送った。
「アシュラム様に知らせてぎなよ。ここはわたしひとりで見張っておくから」
「ああ、頼《たの》む。わたしはすぐに帰ってくるから」グローダーはそう言い残し、洞窟《どうくつ》の奥《おく》に入っていこうとした。
「いや、待て! グローダー」
「どうした」スメディの鋭《するど》い制止の声に、グローダーは女戦士のところまで引き返してきた。
「あれをご覧」
スメディが指差す方向をグローダーは見た。
山の斜面《しゃめん》を一歩一歩|踏《ふ》みしめるように歩いてくる一団がいたのだ。今は点のようにしか見えないが、その数は十人ほどである。
「フレイムの手勢だろうな」グローダーはつぶやいた。
「あたりまえだろ。問題はどうするかだね。ふたりだけで倒《たお》すか、奥におられるアシュラム様に報告するか」
「報告したほうがよいだろうな。この前のような傭兵《ようへい》ふぜいなら、我らだけで倒せるだろうが」グローダーの唇《くちびる》に嘲笑《ちょうしょう》めいたものが浮《う》かんでいた。しかし、グローダーは魔法《ま ほう》の明かりをつけると洞窟の奥《おく》へと走り、アシュラムにそのことを告げた。
「誰が来たのか見てみたいな」アシュラムはグローダーの報を聞くと、そう洩《も》らして洞窟の入口へ向かおうとした。カシューが来たのかもしれん、と思ったからだ。
「なりません、アシュラム様」しかし、グローダーが強く反対した。「ドラゴンが飛びさっている今は、せっかくの好機なのです。誰が来たのやら知りませんが、それは我らが退治しましょう。アシュラム様とホッブ司祭は、このまま奥へと進み、支配の王錫《おうしゃく》を取られてから戻《もど》ってください」
「説教くさくなったな、グローダー」アシュラムはそう言って、豪快《ごうかい》に笑う。「しかし、その忠告ありがたく思うぞ。では、アスタール、ガーベラは表で来客を歓迎《かんげい》してさしあげろ。油断してこの前のごとき醜態《しゅうたい》はさらすなよ。できるだけ早く片付け、そしてオレのところにやってこい。支配の王錫を手にしたところを見逃《み のが》したとあっては、おまえたちの主人から文句を言われるぞ」
「では、暴れてくるとしよう」
ガーベラはアスタールとうなずきあうと、グローダーに続いて洞窟《どうくつ》の表へと出た。
「来たかい」入口に戻ってきたとき、スメディがそう言ってグローダーたちを出迎えた。楽しそうな顔をしている。
「どうした、スメディ。ずいぶんと楽しそうではないか」ガーベラが欲望に忠実であれ、などとつぶやきながら、陽《ひ》の当たる場所まで進みでてきた。
「だって、おかしいじゃないか。ごらん」スメディは斜面《しゃめん》の下を指差した。「この前やってきた傭兵《ようへい》たちだよ」
「おお、本当だ。さすが、アルハイブ……というところかな」ガーベラは答えた。「だが、何人か見慣れん顔もいるな」
「本当か!」スメディの言葉に、グローダーは期待に胸を躍《おど》らせた。
自らの目で確かめると、草原の妖精の姿も間違いなくあった。魂の水晶球を持参しているのまではっきりと見てとれた。グローダーは忍び笑いを洩らしていた。自分の運もまんざら捨てたものではない。
「油断するなとのアシュラム様の命令だった。それに敵は数が多い。まず、その不利を補っておかんとな」
「どうやってさ、グローダー?」
「まあ、見てろ。スメディ」答えて、グローダーはローブのポケットから白いものを何個か取りだした。
「|竜《りゅう》の牙《きば》には魔力《まりょく》あり。とくに内にならんだ小さな牙には、混沌《こんとん》なる始源の力が含まれたり。それを解放し、ゴーレムを作らば、骸骨《がいこつ》に似た戦士が生まれるであろう」
詩を朗読《ろうどく》するような調子で、グローダーが手の平に載った竜の牙を見せた。それは、エイブラの死体から採《と》ったものだった。
「|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》か、なるほどね。それだけあれば、さぞたくさん作れるだろうね」スメディは、グローダーの手の平から竜の牙をひとつ取りあげて、さも珍《めずら》しそうに眺《なが》めた。
「無理を言うな。魔法《ま ほう》というものは、極度に精神を消耗《しょうもう》させるものなのだぞ」
そして、グローダーは上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱えながら、ドラゴンの牙をひとつずつ地面に放りなげた。
すると、地面から樹木が生えるように白い物体が成長していった。それは人間の骸骨のような姿となっていった。手には新月刀《シ ミ タ ー》と|円形の楯《ラウンドシールド》を握《にぎ》っている。
「便利なものだね。武器持参で現われるとは」スメディが口笛《くちぶえ》を鳴らして、感嘆《かんたん》の声をあげた。
竜牙兵は全部で、七体作りだされた。グローダーは荒《あら》い息をついている。
「これぐらいが限界だな。これ以上作ると、魔法でおまえたちを援護《えんご 》することもできん」
「援護なんていらないと思うけどね。さあ、おいでなすったようよ」
「いたぜ!」
フォースが叫《さけ》んで目を細めた。刃《やいば》のような視線で斜面《しゃめん》の上を見つめている。そこには洞窟《どうくつ》のような半円の穴があいていて、その前にふたつの人影《ひとかげ》が見えた。
敵もこちらの姿に気がついたようだ。ひとりが穴の中に入っていく。
「奴《やつ》らか!」カシューが鋭《するど》い声をあげた。「なんとか、間にあったというところか」
「さっきシューティングスターがライデンの方に飛んでいったわ。今、あの魔竜《まりゅう》は巣穴《す あな》を空けているのよ」ディードリットがパーンの腕《うで》をつかんで、彼の身体を揺《ゆ》さぶった。
「ああ……そうだったな。今なら子供だって支配の王錫《おうしゃく》を手に入れることができる……」
「急ぎましょう! みなさん」セシルが賢者の杖を地面に突きながら、登る速度をさらに早めた。
「やめなさい、セシル。どんなに急いだって、あそこまでまだしばらくはかかりますよ。それに、急いでいっても息を切らしたままでは戦えませんしね」
シーリスは胸に一度手を当ててから、腰《こし》の剣《けん》を抜きはなった。
「見てなさいよ、オルソン。わたしがあの女戦士よりも強いってことを教えてあげるわ」
「駄目《だめ》だよ、シーリス。今、あの女と戦っちゃいけない。きみは今、疲《つか》れているじゃないか。すぐに息が上がるよ」
「大丈夫。一瞬《いっしゅん》でけりをつけてやるから」
一行は戦いの準備を始めながら、ふたたび斜面を登りはじめた。
次第《し だい》に両者の距離《きょり 》が詰《つ》まっていった。そして、互《たが》いに敵の人数や構成をしっかりと把握《は あく》してから、行動を開始した。
スメディひとりが前に進みでて仁王立《に おうだ 》ちになった。
「いつでもかかってきな!」そして、挑戦的に叫んだ。
その後ろでは、ダークエルフのアスタールが、長い召喚《しょうかん》の呪文を唱えている。
グローダーは、敵の中に魔法使いの数が多いと見てとると対抗魔法の呪文を唱え、敵の魔法|攻撃《こうげき》に備えた。
その間にガーベラが先制攻撃をかけた。
「暗黒神よ! 我に力を与《あた》えたまえ。我、力を欲したり。異教の司祭に、石の呪縛《じゅばく》を与えたまえ!」
「きゃあー!」
自分の全身に邪悪《じゃあく》な魔力《まりょく》が及んできたのを知って、シャリーが悲鳴をあげた。魔法をかけられたのだ。見れば、足の先から順に硬直《こうちょく》しはじめている。すでに腰《こし》のあたりまでが灰色に変色している。
あわてて、レイリアがかけよっていった。
「マーファよ。この者の心を体を、あるべき姿にもどしたまえ」
レイリアの呪文《じゅもん》の効果はすぐに発揮され、シャリーはもとに戻《もど》っていった。まだ、下半身が痺《しび》れているが歩けないことはない。
「ほう、あの女、なかなかやる。マーファの司祭か……」
ガーベラは楽しそうにうなずくと、次の呪文を詠唱《えいしょう》しはじめた。自分の相手は、この女司祭だと決めた。
「セシル、対抗魔法《たいこうま ほう》をかけなさい。敵の魔法使いは強力です」
はい、と答えてセシルは呪文を唱えはじめた。
一方、それを命じたスレインは、黒色のローブを着た魔術師《ソーサラー》に向かって電撃《でんげき》の呪文を叩《たた》きつけようと動作に入る。
と、目の前の大地が急に盛りあがった。
巨大《きょだい》な岩のようなものが、その中から現われると、ゆっくりと四足歩行の獣《けもの》の姿を取りはじめた。巨大な犀《さい》のようであった。ただ、その獣皮はごつごつとした岩石で、黒曜石《こくようせき》でできたようなトゲが背中と額、それに尻尾《しっぽ 》に何本も突きでている。
「いけない、|大地の魔獣《 ベ ヒ モ ス 》! 大地の上位精霊……」ディードリットが恐怖《きょうふ》に顔を引き攣《つ》らせながら叫んだ。あわてて、自らも|風の王《ジ ン》を召喚しはじめる。
「いろんな芸を見せてくれる」カシューはつぶやいて、実体化しつつあるベヒモスを避《さ》けて、敵の女戦士に向かっていこうとした。
「いけません」それをパーンが止めた。「ここはわたしたちが引き受けます。カシュー王は洞窟《どうくつ》の中に入ってください。アシュラムとホッブの姿が見えません。おそらくふたりは洞窟の中です。このままでは、支配の王錫《おうしゃく》が奪《うば》い取られてしまいます」
「しかし、こいつらも手ごわそうだぞ。大丈夫《だいじょうぶ》か」
「やります。やってみせます。シャリーさん、カシュー王についていってください」
「よし、分かった」カシューがうなずいて、洞窟へと駆《か》けはじめた。シャリーも、はい、と答えてカシューに続く。
と、中から骸骨《がいこつ》の化物が次々と姿を現わしてきた。
「なんだ、あれは……」カシューは茫然《ぼうぜん》となった。
「|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》だ……あんなに」パーンは、その姿に見覚えがあった。かつて、カーラが召喚したこの怪物《かいぶつ》と戦った経験がある。
「カシュー王は奥《おく》に! こいつらはオレたちが引き受けます。フォース、オルソン、シーリス、マール!」
パーンは叫んで、竜牙兵を挑発するように魔法の剣を高く差し上げた。竜牙兵にそれが見えるのかどうかは分からないが、三体ばかりが彼に近付いてきた。
パーンは、五年前にこの魔物と戦ったことを思い出していた。恐《おそ》るべき相手なのは、間違《ま ちが》いない。しかも、あのときは一体だけだったのが、今度は七体もいる。
「しかし、やらなければ……」
パーンは剣と楯《たて》を慎重《しんちょう》に構え、相手の動きを見極めようと目を見開く。
フォースとマールは一体ずつ、引き受けていた。
シーリスはと見れば、どうやら敵の女戦士しか見えてないようで、ダークエルフが召喚したベヒモスとディードリットの召喚したジンとの睨《にら》みあいを横目にしゃにむに突《つ》っ込んでいる。
オルソンが脅《おび》えながら、彼女の後ろに従っている。
「駄目《だめ》だよ、シーリス! ひとりで突っ込んでいっては駄目だ」
だが、シーリスはオルソンの制止の言葉などまるで耳に入っていない様子だった。
ふたりの動きに気付き、パーンの前から一体が、それから相手を探していた残りの二体のうちの一体が向かっていった。
最後の一体は、カシューの目の前に立ちはだかっていた。
「骸骨ごときに関わりあっている暇《ひま》はないのだ!」
カシューは叫んで長剣を振りあげた。
そして、振《ふ》り下ろす。
竜牙兵は楯でそれを受け止め、シミターを横になぎはらってきた。
「こやつ!」
カシューは後ろに飛びのき、それをかわすと敵の右に回りこもうと動いた。
その後ろからシャリーが直進し、渾身《こんしん》の力を込めた|戦 槌《ウォーハンマー》の一撃《いちげき》を骸骨の頭を狙《ねら》って見舞《みま》おうとした。
だが、それは簡単に相手にシミターで弾《はじ》かれてしまって、シャリーはバランスを崩《くず》され、地面に転げた。
竜牙兵が留めとばかり、シミターを振《ふ》りあげた。その無防備になった胴《どう》を、カシューの長剣が一閃《いっせん》した。ぐらり、と竜牙兵の上半身が揺《ゆ》れて崩《くず》れおちる。
「急ぐぞ、シャリー」カシューが手を貸して彼女を立ち上がらせる。
「ありがとうございます」シャリーはやや蒼《あお》ざめていた。しかし、気力を振《ふ》りしぼるとカシューに従って、さらに進んでいった。
そして、ふたりは洞窟《どうくつ》の奥《おく》へと入っていった。
ディードリットはジンを召喚して、大地の魔獣《まじゅう》ベヒモスの前に立たせたものの、命令を与えることもなく、敵のダークエルフとベヒモスの出方を待つ以外にはなかった。
ふたつの上位精霊が対等に戦えば、両者はまず相打ちになる。召喚した者の魔力《まりょく》の強さも問題になってくるのだが、ディードリットはまだ、完全にジンを支配下においているとはいえない。ひとたび、呪文の力を使えば、上位精霊は召喚者の束縛《そくばく》を離れ、精霊界へと帰っていくのだ。
ダークエルフも同じようなものだと思いたかった。とにかく、相手の動きを牽制《けんせい》するしか、ディードリットにはできなかったのだ。
それは、スレインの場合も同じだった。
スレインは、最初に敵の魔術師《ソーサラー》に電撃《でんげき》の呪文をかけた。すると、報復とばかりに敵からもやはり電撃の呪文が飛んできた。敵にも傷を負わせたが、スレイン自身も傷ついていた。
それから、両者ともに魔法に対する結界を張ったまま、打つ手を失っていた。この呪文を使った以上、お互いの魔法はまったく無効となる。
ふたりは両手に杖《つえ》を構《かま》えたまま、ゆっくりと間合いをつめた。
「剣の訓練も受けておくべきでしたね」スレインはつぶやいた。
肉体を使って戦うのは、はじめての経験だった。
賢者《けんじゃ》のローブの左胸が裂《さ》けて、そこに火傷《や け ど》の痕《あと》が走っていた。引き攣《つ》った痛みが精神の集中を乱すが、魔法の結界を解いたら、その瞬間に自分は殺されるだろう。
気を緩《ゆる》めるわけにはいかなかった。
と、スレインの横を気勢をあげながら通りすぎていった影《かげ》があった。セシルだった。
「いけない、セシル!」スレインは驚いて彼を制止したが、セシルは従わなかった。
グローダーはこの思わぬ伏兵《ふくへい》の攻撃《こうげき》に、意表をつかれていた。強力な呪文を頭に浮かべるが、彼はその呪文を唱えるには、精神力を消耗《しょうもう》しすぎていた。
七体も|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》を作りだしたのが響いているのだ。しかも、敵の魔術師と強力な呪文をかけあってしまった。
突《つ》っ込んでくる若い魔術師は、なかなかに元気で、しかも右手に|小 剣《ショートソード》を握《にぎ》っている。グローダーも武術の心得がなかったわけではないが、敵の方がいくぶん強そうに思えた。
これ以上、この場にとどまるのは命取りだった。
グローダーは自分の負けを悟《さと》り、魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》を奪《うば》いかえすこともあきらめた。
しかし、ひとつだけあきらめられぬものがあった。
そのために、グローダーは上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを一声高らかに唱えると、その姿を消した。
レイリアは暗黒神の司祭と戦っていた。
レイリアは相手が魔法《ま ほう》をかけてくるのに任せ、ひたすら前に進んだ。いくらか傷つきもしたが、暗黒神の魔法はレイリアの信仰《しんこう》の力を打ち破るほどではなかった。
ガーベラはしばらく後ろに下がりながら魔法をかけていたが、あまり効果がないことを知ると、武器で戦う決心をかためた。
相手はたかだか女である。|小 剣《ショートソード》を構えているが、恐《おそ》れることなどないだろう。ガーベラ自身は長槍《ロングスピア》が武器である。このマーファの女司祭が近寄ってくるより先に、一突《ひとつ 》きでけりがつくはずだった。
「おまえの命を暗黒神に捧《ささ》げてくれるわ」槍《やり》の穂先《ほ さき》をレイリアに向けて、ガーベラは叫《さけ》んだ。
レイリアはそれには答えず、無言のまま駆《か》けよっていった。
ガーベラは力を込めて槍を突いてきた。しかし、あまり訓練された|攻撃《こうげき》ではなかった。
レイリアは簡単にその穂先をかわすことができた。そして、相手の懐《ふところ》に飛びこむと、マーファに祈《いの》りを捧げながら、狙《ねら》いすました小剣の一撃を相手の心臓に突き立てた。
|鎖かたびら《チェインメイル》の硬《かた》い感触《かんしょく》に弾《はじ》きかえされそうであったが、レイリアは相手に身体をぶつけるように力を加え、相手の鎧《よろい》を突きとおした。
「ば、ばかな」呻《うめ》きながら、ガーベラは地面に膝《ひざ》を落とした。
「の、呪《のろ》いを……」胸から溢《あふ》れだす血で手を塗《ぬ》らし、それを女司祭の方に伸《の》ばした。
レイリアはその手を払《はら》い除《の》けようともせず、マーファに祈り、その加護を求めただけだった。
相手の身体を自分の血で濡《ぬ》らすと、意識が遠退《とおの 》いていくのに必死で耐えながら、ガーベラは呪いの言葉をつぶやいた。
「ファラリスよ、この者の言葉に災《わざわい》あれ。愛の言葉は憎《にく》しみとなり、慰《なぐさ》めの言葉は罵倒《ば とう》と伝わらんことを」
しかし、それが無駄《むだ》だったということをガーベラは薄《うす》れいく意識の中で悟《さと》った。自らの死を代償《だいしょう》としてさえ、この女司祭を呪うことはできなかった。それほど、目の前の女の信仰《しんこう》は強かった。
まあ、よい。そうつぶやいて、ガーベラは息たえた。暗黒神の信者にとって、死とは最後の、そして完全なる自由であった。
レイリアは当面の敵を倒《たお》し、スレインや他の仲間の無事を確かめようとした。
そして、レイリアは聞いたのだった。
リィィ……リィィィ……と唸るオルソンの声を。
オルソンは絶望していた。
シーリスはまったく冷静ではなかった。自らの疲労《ひ ろう》もまわりの状況《じょうきょう》も確かめることなく、ただただ敵の女戦士に挑《いど》んでいった。
そこに、|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》が二体、やってきたのだ。
まわりを見渡して助けを求めたが、皆、自分の戦いに必死で余裕のある人間はひとりもいなかった。
オルソンは自分が震《ふる》えているのを知っていた。
誰かの陰《かげ》に隠れたかった。ゴブリンが襲ってきたときには、姉が彼を守ってくれた。しかし、今、彼を守ってくれる者は誰もいなかった。
そこに、竜牙兵が襲いかかってきた。
悲鳴を上げながらも、剣を振りたて、竜牙兵の攻撃を受け止めようとした。
剣の使い方は身体が覚えていた。
もう一体の竜牙兵が、加わった。
オルソンはなんとか、二体の竜牙兵を相手に渡りあうことができた。だが、それだけだった。
「シーリス!」
オルソンは悲鳴をあげた。助けを求めるように、シーリスの方をうかがった。
と、シーリスの苦戦ぶりが目に飛びこんできた。やはり、シーリスにいつもの動きはなかったのだ。足もとがふらついていて、剣の動きも鈍《にぶ》い。
「どうしたい、お嬢《じょう》ちゃん。前より、動きが鈍いじゃないか」
スメディはシーリスの攻撃を軽々と受け流しながら、嘲笑《あざわら》うように言った。
「うるさい!」シーリスは叫《さけ》んで、剣を振《ふ》るう。
それは、ただ大きいだけの剣の振りだった。スメディは簡単にそれをあしらった。
「今度は容赦《ようしゃ》はしないよ」
恐るべき腕力《わんりょく》から繰り出される二本のブロードソードの前に、シーリスは追いたてられるように後ろに下がっていた。
「だから、言ったんだ」オルソンは、二体の竜牙兵をなんとかあしらいながら、絶望的な思いに浸《ひた》っていた。このままでは、自分はともかくシーリスが殺されるのは、目に見えていた。
しかし、現状を打開するだけの力は、自分にはなかった。ちょっとでも隙《すき》を見せれば、自分は竜牙兵の餌食《え じき》になってしまうだろう。シーリスを助けることは、自分には不可能だった。しかし、他の仲間も皆、自分の戦いに手一杯《て いっぱい》で、とてもシーリスを助けるどころではなかった。
彼女に近いのは、自分しかいなかった。
それに、オルソンは彼女に好意を持っている。昔から、怒《いか》りの精霊《せいれい》に心を支配されていてさえ、彼女の生命感に溢《あふ》れた若さに、何者にも束縛されない自由|奔放《ほんぽう》な生きざまに。それでいて、思いやりを忘れない彼女の優しさに。
彼女を失うなど、感情を取り戻《もど》したオルソンには耐《た》えられないことだった。
守らなければ、とオルソンは思った。彼女を守らなければ。そのために力が欲しいと、心の底から思った。
そして、気がついた。力を貸してくれるものが、自分の心の中に眠っていることを。
怒りの精霊と呼ばれるものを――
しかし、怒りの精霊の力は、弱くなっている。束縛の力を失い、心の奥底《おくそこ》に眠っている。それを呼び起こすことができるかどうか分からない。そして、そうすることによって、自分がふたたび怒りの精霊に支配され、感情を失うことが怖《こわ》かった。いや、今度こそ完全に心を奪《うば》われ、破壊《は かい》の衝動《しょうどう》の中で死んでしまうかもしれないのだ。
怖かった。自分は死にたくない。そして、二度と感情を失いたくはない。
しかし、とオルソンは思った。死にたくない、感情を失いたくない、という気持ちを越《こ》えて、もっと強い衝動《しょうどう》が彼を責めたてていた。
自分が助けなければ、シーリスは失われるのだ。自分が大切に思う者が、この世から消え失《う》せてしまうのだ。
そのとき、シーリスの悲鳴が聞こえてきた。
スメディの左手の剣《けん》が、シーリスの太股《ふともも》を捕《とら》えていたのだ。
シーリスは膝《ひざ》をつき、苦悶《く もん》の表情で、敵の女戦士を見上げている。
「シーリス!」オルソンは叫《さけ》んだ。
姉さんは僕を助けてくれるために、命を投げ出したじゃないか。その死顔が安らかだったのは、自分が成すべきことを成したという満足感からではなかったか。
ひとつのことができなかったばかりに、一生|後悔《こうかい》することだってある。
「召喚に応じよ、怒りの精霊よ」オルソンは心の中でつぶやいた。懸命《けんめい》になって、自分の心の中に眠っているものに呼びかけた。
自分がここで死ぬことになろうとも後悔すまい、とオルソンの心は決まった。
もぞり、と心の中で鎌首《かまくび》をもたげてきたものがあった。
「怒《いか》れ……破壊《は かい》しろ……」それ[#「それ」に傍点]は、呼《よ》びかけてきた。
「違うぞ、怒りの精霊」オルソンは答えた。「僕は怒る。しかし、怒りは復讐《ふくしゅう》じゃない。すべてを破壊するための力じゃない。愛する者を守るために、振りしぼる勇気なんだ。臆病《おくびょう》な者が、戦うために必要な力なんだ。それを僕に与《あた》えてくれ」
オルソンは、自分の心の中に灼熱《しゃくねつ》する力が湧きあがってきたのを感じた。それが全身に行き渡り、剣と楯《たて》を持つ腕が、鎧を支える足が軽くなっていった。
「リィィ……リィィィ……」オルソンはおたけびをあげた。そして、|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》に背を向け、シーリスの方に向き直った。
ちょうど、シーリスの右肩を狙《ねら》って女戦士の剣が振りおろされたときだった。
シーリスはその攻撃を、剣を立てて受けとめようとしたが、疲労《ひ ろう》と太股《ふともも》に走る激痛とでまるで力が入っていなかった。相手の怪力の前に、シーリスの剣は弾きとばされ、冷たい刃が肩に食い込んできた。
鎖《くさり》かたびらが弾けて、血しぶきが彼女の愛らしい顔にかかった。しかし、剣と鎧はその傷をなんとか致命傷《ちめいしょう》にならない程度に和らげていた。しかし、次の攻撃がきたら、終わりだった。
だめだ。
シーリスは絶望の中で思った。
オルソンの言うことはすべて正しかったのだ。自分はプライドのためだけで、この女戦士に挑《いど》んでいった。自らの実力を誤ったがために、死んでいくのだ。彼の忠告を聞いていれば、こんなことにはならなかっただろう。
「オルソン、ごめんね」
シーリスはそうつぶやいた。
シーリスは肩から胸のあたりまで自らの身体から流れでる血で真っ赤に染まっていた。そして、敵の女戦士は彼女にとどめを与えようと二本の剣を同時に振りあげようとしていた。
シーリスは、自分の死を覚悟しながら、最後に自分を好きだと言ってくれた男の方に目を向けた。
驚《おどろ》いたことに、オルソンも自分の方を見ていた。そして、その口からは、あの[#「あの」に傍点]声が洩《も》れていることに心が張り裂《さ》けるような衝撃《しょうげき》を覚えていた。
「いけない! いけない、オルソン!!」シーリスは自分の状況《じょうきょう》を忘れて、悲鳴にも似た声を張り上げていた。
オルソンが後ろを向いたのを二体の竜牙兵が見逃すはずはなかった。彼らは非情であり、しかも優秀な戦士なのだ。
ふたつの竜牙兵はオルソンに切りつけていった。ひとつの刃が彼の首筋を裂《さ》き、もうひとつは胴《どう》に深く食い込んだ。
ともに、致命傷だった。
だが、オルソンは痛みも苦しみも感じていなかった。身体に行き渡《わた》った力が、すべての感覚を麻痺《まひ》させていた。
彼はただ、シーリスにとどめを刺《さ》そうとする、敵の女戦士に向かって駆《か》けた。
敵の女戦士は、走りよるオルソンに気付いたようだった。シーリスの頭を狙《ねら》っていた剣《けん》を振《ふ》り下ろすのを、思いとどまるとオルソンを迎《むか》え討とうと体勢を変えた。
その目が恐怖《きょうふ》に見開かれた。
オルソンの脇腹《わきばら》には、|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》のシミターが深く食いこんだままであり、それどころか竜牙兵自身までをも引き摺《ず》っていたのだ。
激《はげ》しい出血のために意識が薄《うす》れてきたシーリスであったが、そんなオルソンの様子だけは、やけにはっきりと見えた。オルソンが狂戦士《バーサーカー》になっていることを。そして、首と脇腹に負ったふたつの傷がともに致命傷《ちめいしょう》であることを。
「……馬鹿《ばか》。せっかく治ったのにさ」
シーリスはつぶやいた。しかし、それは自分の責任なのだ。
このまま、自分は狂戦士となったオルソンに殺されることになるだろう。だが、この女戦士に殺されるより、その方がまだ救いがあった。
いいよ、オルソン。あんたの好意を受けとめてやるよ。
シーリスはその顔に微笑《ほ ほ え》みすら、浮《う》かべていた。
一方のスメディは、オルソンの姿に恐怖に震《ふる》えていた。
どんな強敵を相手にしても、最強の魔獣《まじゅう》ドラゴンと戦っているときでさえ、スメディは怖《こわ》いと思ったことは一度もなかった。
しかし、狂声《きょうせい》を上げながら、駅けよってくる戦士を目の前にして、初めて全身が凍《こお》るような恐怖を感じていた。
狂戦士と化したオルソンは、目の前まで迫ってきた。
恐怖に震えながらも、スメディの戦士としての本能が二本の剣を動かしていた。
その|攻撃《こうげき》はオルソンを的確に捕《と》らえ、肩口《かたぐち》から胸のあたりまでざっくりと刃《やいば》を食いこませた。
ふつうならば、それで即死《そくし 》のはずである。
だが、オルソンはまったく動じた様子もなく、スメディの身体に剣を突《つ》き立てた。
避《さ》けられない、と知ったスメディは、鋼《はがね》のように筋肉を引き締《し》めながら、頑丈《がんじょう》な胸当てでその攻撃を受けとめようとした。
絶対に致命傷にならない自信があった。
が、オルソンの剣はズブリ、ズブリとスメディの身体に食い込んでいき、そのまま背中まで貫きとおしていた。その途中《とちゅう》に、スメディの心臓があった。
恐《おそ》るべき力だった。人間|離《ばな》れした力だった。
唖然《あ ぜん》となった。唖然となりながら、スメディは地面に膝《ひざ》を落とした。
そのままの姿勢で、スメディは死んだ。
次はわたしだ、とシーリスは妙《みょう》に安らかな気持ちで、全身が自らの血と女戦士から噴きでた返り血で真っ赤になったオルソンを見つめていた。
オルソンは女戦士の胸に突《つ》き刺《さ》さって抜《ぬ》けなくなった剣《けん》を、女戦士の身体ごと剣を振《ふ》り回して、自由にしようとしていた。
三回転ほどしたところで女戦士の身体は抜けた。その身体は、驚《おどろ》くほど遠くまで飛んでいって、地面の上にひしゃげた音をたてて叩《たた》きつけられた。
シーリスは微笑《ほ ほ え》みながら、オルソンに向かって両腕《りょううで》を差しのべた。まるで、愛しい者を抱《だ》きしめようとするかのように。
女戦士の身体を吹き飛ばし、自由になった血染めの剣を片手に、狂戦士《バーサーカー》がゆっくりとシーリスに視線を向けてきた。
「斬《き》りなさい、わたしを!」シーリスは叫《さけ》ぶように言った。
あなたが死ぬのは、わたしの責任なのだから。わたしも、あなたと一緒《いっしょ》に死んであげるわ。
「斬《き》りなさい! オルソン!!」
だが、一瞬の間の後に、オルソンはくるりと彼女に背中を見せていた。
なぜ、とシーリスは愕然《がくぜん》となった。
なぜ、わたしを切らないの。
――それで、この戦いは終わりだった。
狂戦士と化したオルソンはその後、|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》どもを簡単に破壊すると、そのままダークエルフのアスタールに突進《とっしん》していった。
驚いたダークエルフはベヒモスの力を使って、オルソンを倒《たお》そうとしたが、狂戦士と化した彼を殺すことはできなかった。そこにディードリットの操るジンが風を裂《さ》いて、ダークエルフをずたずたにした。
血まみれとなったダークエルフに、オルソンがとどめをさした。ぼろ布のように切り刻まれ、アスタールは死んだ。
そのときには、パーンとフォース、それにマールもそれぞれが受け持った竜牙兵を倒していた。
そして、気がつくと、オルソンは動かなくなっていた。
死んでいた。
その顔は怒《いか》りに歪《ゆが》んでいるのかと思われたが、そんなことはなかった。安らかだった。満足そうに微笑んでさえいた。
シーリスはレイリアの手当てを受けて、なんとか動けるようになった。しかし、動く気力は取り戻《もど》せなかった。彫像《ちょうぞう》のように、立ったまま死んでいるオルソンを見つめながら、放心状態におちいっていた。
その肩《かた》がしだいに小さく揺《ゆ》れはじめた。
「魂《たましい》の水晶球《すいしょうきゅう》があるんだけど……」
マールが自分の腰《こし》にぶら下げた包みをポンと叩《たた》いた。
「無駄《むだ》よ」ディードリットが静かに横に首を振《ふ》った。「狂戦士《バーサーカー》と化して死んだ者に、魂なんて残ってはいないわ」
「シーリス……」慰《なぐさ》めようと彼女の前に跪《ひざまず》こうとしたレイリアを、スレインが引き止めた。
「そっとしておいてあげましょう。それに、まだ戦いが終わったわけではありません。アシュラムが洞窟《どうくつ》の中にいます。そして、支配の王錫も」
スレインは自分に言い聞かせるように、黒く口を開けた洞窟の方を見据《みす》えた。
そう、まだ戦いは終わったわけではないのだ、と……
6
アシュラムは長くうねった横穴を黙々《もくもく》と進んだ。まるで巨大《きょだい》な生き物の体内に入りこんだような思いがした。エイブラの棲《す》みかに行くときと感じが似ていた。
そして、ようやく視界に明かりが見えてきたかと思うと、前方に巨大な空洞《くうどう》が見えた。ドラゴンの巣穴だと、アシュラムは確信した。火口が近いようで、熱気と噴煙の臭《にお》いが、辺りに漂っていた。
そして、空洞の入口まで進みでたとき、アシュラムは信じられない思いで、空洞の中の光景を見た。
そこには、莫大《ばくだい》な富が積みあげられていた。まるで小山のように金、銀、宝石などの財宝や、様々な工芸品、美術品、魔法の宝物などが折り重なっていた。その宝物の山の裾《すそ》のところに透明《とうめい》な水晶《すいしょう》の箱が垂直に立てられていた。
その中に支配の王錫《おうしゃく》があった。表面に古代語の魔法文字がびっしりと刻まれた金属製の杖《つえ》だった。
長さは腕《うで》の半分ほど。先端《せんたん》には、巨大な水晶が飾《かざ》られていて、その中から巨大な魔力の波動が感じられた。
噂に聞いていたとおりの姿だったので、アシュラムにはそれが一目で分かった。
しかし、宝物の山の向こうに巨大な獣《けもの》の姿があることを、アシュラムはまったく予期していなかった。
火竜山の魔竜、シューティングスターの姿だった。
魔竜はアシュラムがこれまで戦った、どのドラゴンよりも巨大な体格をしていた。血の色よりも赤い鱗《うろこ》で全身が覆われている。ただ、その身体のあちらこちらが傷ついているのが分かった。真っ赤に燃える目も、片方はつぶれ、色を失っていた。巨大な翼《つばさ》の被膜《ひ まく》はところどころ破れ、だらりと力なく垂れていた。
だが、何重にも並んだ鋭い牙も、破壊槌《は かいつち》のような爪も、まともに喰らえば、人間など一撃で身体を失うと思えた。
「そんなはずはない!」怒りを込めてアシュラムは叫んだ。「シューティングスターは餌《えさ》を求めて飛びさったはずではなかったのか!」
自らの勇気をふりしぼるように、気合いの声を上げながら剣《けん》を抜《ぬ》こうとしたアシュラムを、ホッブが背後から抱《かか》えるように引き止めた。
「下がりましょう。下がって、グローダーたちが戻《もど》ってくるのを待ちましょう。ふたりだけでは、あの魔竜に討ち勝つことはできません」
歯噛《はが》みしながらも、ホッブの助言にアシュラムは従った。
そして、ふたりはシューティングスターが低く唸《うな》りを上げるのを聞きながら、入口のほうへとってかえした。アシュラムは屈辱《くつじょく》の思いで全身が震《ふる》えていた。
やがて、正面から足音が聞こえてきた。たいまつの灯《あか》りが近寄ってくる。
「グローダーか」とアシュラムは誰何《すいか 》した。その声が洞窟《どうくつ》の中にこだまする。
「違うな」声がかえってきた。
そして、姿を現わしたのは――
「カシュー!」
アシュラムは叫んだ。
その隣《となり》には、かつて捕虜《ほ りょ》とした戦《いくさ》の神の女司祭がいた。
アシュラムはカシューの姿をこの五年というもの一度も忘れたことがなかった。しかし、不思議なことに、怒《いか》りが湧《わ》いてこなかった。
「久しいな、ホッブ」カシューは剣を構えながらゆっくりと近付いていった。「そして、おまえがアシュラムだな。確かに見覚えがある」
「グローダーたちを倒してきたのか?」アシュラムは尋《たず》ねた。
「いや、オレの仲間とまだ戦っているはずだ。しかし、オレの仲間は頼《たの》もしいからな。おまえの配下の者は決してやってこないよ」
それよりも、とカシューは話を継《つ》いだ。
「さっきドラゴンの声が聞こえてきたが、どういうことなのかな? それに支配の王錫《おうしゃく》とやらも手にしてはおらんようだが……」
アシュラムは、正直にその理由を話した。
「なぜ、シューティングスターがいたのか、オレには理由は分からん。しかし、事実は事実だ。オレたちは、そして貴様《き さま》たちもあの魔竜を倒《たお》さんことには、この山から降りられまいよ」
「ふむ。シューティングスターは支配の王錫を守れという呪縛《じゅばく》を受けているからな。おそらく、支配の王錫によって呼びかえされたのであろうよ」
カシューは言いながら、古代王国の魔力の凄《すさま》じさに腹を立てていた。迷惑《めいわく》きわまりない話ではないか。
「さて、どうしたものかな?」アシュラムが不敵な笑みを浮《う》かべながら言った。
「ここで一騎打《いっき う 》ちをして、決着を付けるか。しかし、いずれにせよ。あの魔竜は倒さねばならんぞ」
カシューは一歩アシュラムに近付いて、そう答えた。
そして――
「オレに、協力せんか」とポツリと言った。
「オレを侮辱《ぶじょく》する気か!」アシュラムの怒《いか》りは、洞窟《どうくつ》の空気を震《ふる》わさんばかりだった。
「あわてるな。おまえほどの人物、むだに死なせるのは惜《お》しいとは思う。だが、おまえが味方にならんことぐらい、オレにも分かる。しかし、オレはおまえよりもシューティングスターのほうに恨《うら》みがあってな」
「かるく見られたものだな。だが、オレはおまえにこそ恨みがあるのだ」
「ならばどうする? ここで、仲間が来るのを待つか? それとも今すぐ決着をつけるか。いずれにせよ、ドラゴンは一対一で勝てる相手ではないぞ」
むっ、とアシュラムは唸《うな》った。冷静に考えればそのとおりだった。
「だから、協力せんかと言っている。まずは、お互《たが》いに仲間を待とう。どちらが勝ったのかは、分からんがな。そして、その上で共にドラゴンを倒すのだ」
「ほう、それから……」ようやく、アシュラムはカシューの言葉を聞く気になったようだ。
「それから、一騎打ちでもして王錫《おうしゃく》の所有者を決めるとしよう。支配の王錫を手にしたならば、いかなる敵であろうとも服従させられると聞く。どちらの仲間がやってこようと、結局は支配の王錫の所有者が勝利者になるのだ」
「貴様の一騎打ちの作法《さ ほう》は見せてもらったことがあるぞ。ベルド陛下との戦いのおりにな」
「あれは、オレも予期していなかったことだ。だが、言い訳はすまい。しかし、今度は誰も手だしはさせんよ」
「勝つのはわたしの仲間だから、結果的にはそうなるがな。グローダー、スメディ、アスタール、ガーベラともマーモの誇《ほこ》る勇者たちだからな」
しかし、アシュラムの言葉と期待を裏切るように、そのとき声が聞こえてきた。
「カシュー王!」
洞窟の壁《かべ》に反響《はんきょう》しながら、声はそう呼んでいた。
そして、息を切らしながらパーンたちが姿を現わした。そして、アシュラムたちの姿を見て、どういうことですかとカシューに尋《たず》ねる。
カシューは事情を説明してやった。
「そんな条件を出す必要なんかありませんよ。こいつらを倒してしまいましょう。そして、シューティングスターをも倒して……」
セシルが顔を真っ赤にしながら主張した。
「オレは奴《やつ》に借《か》りがあってな、それを返さねば気がすまんのだよ。条件は今、オレが言ったとおりだ。皆、納得《なっとく》してはくれまいか」
「……いいでしょう」しばらく考えてから、パーンは答えた。「しかし、条件があります。それは、一騎打《いっき う 》ちでカシュー王が負けた場合のことです。そのとき、アシュラムに支配の王錫《おうしゃく》を取らせる時間は与《あた》えましょう。ですが、その後で我々はアシュラムと戦いたいと思います。もし、支配の王錫の魔力《まりょく》に負けるようならば、それは運命とあきらめましょう」
「オレの剣《けん》にロードス島の運命を賭《か》けるわけにはいかん、ということか」
カシューは苦笑いを浮《う》かベた。しかL、それはもっともなことだ。特に、ロードス島の未来だけを憂《うれ》う目の前の戦士には……
ロードスの騎士という言葉がふとカシューの脳裏に浮かんだ。
「今の条件を飲んでもよいぞ」アシュラムがカシューたちの方に歩みよりながら、そう話しかけてきた。「しかし、後悔することになるぞ。今、ここでオレを殺しておけば、おまえたちの命はともかく、ロードス島はマーモに支配されることがないかもしれんのだからな。自分の命の大事さに、ロードス島の未来を賭けるということなのだぞ」
アシュラムは小気味よさそうに笑った。
「わたしは支配の王錫の力になど負けはしません」レイリアが毅然《き ぜん》とした声でアシュラムに言い返した。「わたしは二度と魔法の宝物の力には屈《くっ》しません。それは断言しましょう」
レイリアの言葉にスレインが強くうなずいた。
「ここはカシュー王の顔を立てさせていただきましょう。わたしは、カシュー王が負けるとは思っていません。しかし、万が一のときには、やはり支配の王錫には屈しないつもりでいます。そのおりには、全力をもってアシュラム卿《きょう》とも戦わせてもらいましょう」
スレインも言った。
「よし、誓約《せいやく》はなされたぞ。ホッブ、聞きとどけたな」
「はい。今の誓約に反した者には、マイリーの鉄槌《てっつい》がくだされることになりましょう」
「では、シューティングスターを倒しにいくとしようか」
カシューはアシュラムと肩《かた》を並べるほどのところまで歩いていくと、敵であるマーモの黒騎士に向かって、静かな声で呼びかけた。
「よかろう」
アシュラムも、悠然《ゆうぜん》とそれに答えた。
シューティングスターはじっと待っていた。
彼は人間を喰らうべく、大空を飛んでいた。そのとき、支配の王錫が警報を発した。そのとたん、彼は瞬時にして、自分の巣穴へと引き摺りもどされたのだ。
例えようのない怒《いか》りが、彼の心に渦巻《うずま 》いていた。
人間どもめ、と全身を震《ふる》わせていた。
エンシェント・ドラゴンたる自分に魔法《ま ほう》の呪縛《じゅばく》をかけた古代王国の魔術師ども。美しい鱗《うろこ》を傷つけた蛮族《ばんぞく》ども。人間はひとりとして許すことはできなかった。このロードスから人間を根絶やしにしたかった。
しかし、怒りに狂《くる》う心とは裏腹に、彼は静かに待っていた。
この巣穴へと続く洞窟《どうくつ》の中に人間たちが潜《ひそ》んでいるのは、臭《にお》いで分かっていた。外へ出たならば、火口から飛びあがり、上空から炎《ほのお》を浴びせればよい。
こちらに来るようなら、そのときは、牙《きば》と爪《つめ》、そして強靭《きょうじん》な尾《お》が彼らを引き裂《さ》くことになるだろう。
だから、待った。
しばらくしてから人間たちの臭いが近付いてきた。彼らは引き裂かれることを望んでいるようだ。
そのほうが楽しみが多い、とシューティングスターは考えていた。人間は生で食べるのがいちばん旨《うま》いのだ。
そして、ふたりの戦士を先頭に、人間たちがその姿を現わした。
「シューティングスター! 貴様に殺されたフレイムの勇士の怒《いか》りを今こそはらしてくれる!」
カシューは、押《おさ》えこんでいたものを吐《は》き出すように、ドラゴンに向かって吠《ほ》えた。
それを合図に、ホッブとシャリーが合唱するように戦《いくさ》の歌≠唄《うた》いはじめた。
そして、カシュー、アシュラム、そしてパーンが、各々の武器を抜《ぬ》きながら、シューティングスターへと突撃《とつげき》した。それぞれが、強力な魔力を帯びた剣《けん》を手にしている。
スレイン、セシル、ディードリット、それにレイリアの魔法使いたちは、戦士たちがドラゴンと戦いやすいようにと防御《ぼうぎょ》の呪文《じゅもん》を順番にかけていった。
炎に対する防御。不可視の楯に不可視の鎧。そして敏捷《びんしょう》性や体力を増幅《ぞうふく》させる呪文。
マールとフォースのふたりは、シューティングスターを牽制《けんせい》する役目を負った。
それから、ディードリットはベヒモスの召喚の準備を始めた。この大地の上位精霊にシューティングスターの足元《あしもと》の地面を引き裂《さ》かせるつもりだった。準備は整い、それぞれの手順も決められた。
そして、戦いがはじまった。
カシューを先頭に三人の戦士たちは、シューティングスターの正面から突《つ》っ込んでいった。
炎《ほのお》の洗礼をあびることは承知の上だった。しかし、レイリアは彼らに強力な耐火《たいか 》の守りを与《あた》えていた。
そして、ディードリットが大地の魔獣《まじゅう》の力を借りて、シューティングスターが踏みしめている地面を引き裂いた。
シューティングスタtは翼をはためかせて舞いあがろうとした。
が、彼は支配の王錫《おうしゃく》に呪縛《じゅばく》されていた。制約《ギ ア ス》の呪文《じゅもん》の力がそれを許さなかったのだ。
シューティングスターは裂けた大地に脚《あし》を挟《はさ》みこまれてしまい、身動きできなくなっていた。
そこに、三人の戦士が突《つ》っ込んできた。
怒《いか》りに任せて炎を吐《は》いた。
全身を焼く熱さは、耐えがたかったが、致命傷とはならずにすんだ。三人の戦士はひるむことなくシューティングスターに挑むと、その硬い鱗に魔法の剣を突き立てた。
シューティングスターは苦痛の呻《うめ》き声をあげた。鉄よりも硬い彼の鱗が、深く貫きとおされていた。
シューティングスターは腕《うで》を振《ふ》りまわして彼らを跳《は》ねとばそうとした。
しかし、戦士たちの動きは素早かった。それに、シューティングスターの左目はまだつぶれたままで、再生していなかった。狙《ねら》いがうまく定まらない。
戦士たちはシューティングスターが振りまわす腕の下をかいくぐって、移動すると、ふたたび剣を突き立てるのだった。
どくどく、と血が流れだしていった。
少し離《はな》れたところでは、ふたりの人間が自分を挑発《ちょうはつ》していた。|攻撃《こうげき》しようとすると、そのふたりはひょいと遠ざかり、また近寄っては剣を振りまわして挑発してくるのだ。
シューティングスターは怒り狂《くる》っていた。脚がちぎれてもかまわぬとばかり、身体をねじり尻尾《しっぽ 》を振るう。
その尾が、パーンとアシュラムを捕《とら》え、ふたりを弾《はじ》きとばした。
すると、今度はふたりの魔術師《ソーサラー》が、次々と魔法をかけてきた。光の矢や電撃が、彼の身体を何度も打った。そして、三人の司祭からは、気の塊《かたまり》が……
人間どもの心臓を握《こぎ》りつぶさんと魔竜は吠《ほ》えた。
しかし、それも効果はなかった。不思議な力が、彼らを包んでおり、咆哮《ほうこう》の魔力を打ち消していたのだ。
シューティングスターは自分が殺されようとしている事実を認めぬわけにはいかなかった。
愕然《がくぜん》とした。
そんなことがあるはずはなかった。
しかし、何百年も前にやはり彼は人間に打ち破られたのだ。だから、彼は人間と棲《す》みわけることを心に誓《ちか》ったのではなかったか。
しかし、それを破ったのは人間なのだぞ。
魔竜は怒りの咆哮を何度も上げた。
シューティングスターは翼《つばさ》を大きく羽ばたかせようとした。しかし、またしても制約の呪文の呪縛が、彼の動きを封じこんだ。
オレは逃《に》げたいのだ、とシューティングスターは叫《さけ》んでいた。
シューティングスターは、いまだ抵抗《ていこう》を続けていた。
しかし、その力はしだいに弱まってきていた。
オレは逃げたいのだ! 最後にもう一度、そう叫んだ。それが、火竜山の主人シューティングスターの最期の声となった。
カシューの剣がドラゴンの心臓を捕《とら》えて、魔竜は数千年の生命活動に終止符《しゅうしふ 》を打った。
7
シューティングスターが、ようやくその抵抗をやめたとき、三人の戦士は疲《つか》れはて、傷ついていた。
全身にはひどい火傷《や け ど》を負っており、あちらこちらに裂傷《れっしょう》が走り、打撲《だ ぼく》で青く腫《は》れあがっていた。
パーンは全身がばらばらになったような思いの中で、その場に倒《たお》れた。
「パーン!」ディードリットが走りよってきて、パーンを優しく抱《かか》えこんだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、ディード。ちょっと、疲れただけだ」
一方、剣《けん》を杖《つえ》がわりに使いながらも、カシューとアシュラムのふたりはその場に立ったまま、睨みあっていた。
それぞれのもとに、シャリーとホッブが駆《か》けよって、治癒《ちゆ》の呪文《じゅもん》で全身の傷を治していく。
レイリアもそれに手を貸した。
「なぜ、こんな戦いをつづけねばならないのですか」ふたりの傷を癒《いや》しながら、レイリアはそう尋ねずにはいられなかった。「あなたがたは、共に立派な勇者です。理想を持ちそれを実現させようと全力を尽くしておられます。それなのに、なぜ争わねばならないのです」
「しいていうなら、理想を持っているからな」アシュラムは答えた。
「立場の違いだ」カシューの答えは違っていた。「オレはそれほど理想主義者ではない。だが、オレはフレイムの王だ。その義務を果たさなければならない。そこに倒れているシューティングスターと同じだよ。王という地位に呪縛されているのだ」
三人の司祭たちはゆっくりと離《はな》れた。パーンもディードリットに支えられながら、その場から下がった。
そして、ホッブが右手をゆっくりと上げ、それを振《ふ》りおろした。
一騎打《いっき う 》ちが始まった。
カシューとアシュラムはお互《たが》いに渾身《こんしん》の力を込めて最初の一撃《いちげき》を打ちあった。
甲高《かんだか》い音が魔竜の巣穴に響きわたり、激しい火花が飛びちった。
両者は互いに後ろに弾《はじ》きとばされていた。
剣《けん》の魔力《まりょく》も互いに五分に見えた。カシューの持つミスリル銀製の長剣は、鉄の鎧《よろい》をも紙のごとく切り裂《さ》き、アシュラムの大剣は敵の魂《たましい》を砕《くだ》くのだ。
そして、双方《そうほう》の剣技もほぼ互角《ご かく》であった。
剣術の教本に載《の》っているような洗練された打ちこみやフェイントが続いたかと思えば、足で蹴《け》りつけたり、身体をぶつけたりといった野蛮《や ばん》な戦いをふたりは行なった。
あるときは間合いを取り、あるときは身体が触《ふ》れんばかりとなり、ふたりの勇者は持てる力と技のすべてを注《つ》ぎこんで戦いつづけた。
戦いは永劫《えいごう》に続くかと思われた。
しかし、パーンには見えた。
「この戦い、カシュー王の勝ちだ」パーンは、傷の痛みにあえぎながら、ディードリットにささやいた。
「あたしには、まったくの五分にしか見えないけれど……」
「カシュー王は勝つよ」
そう言ったのは、マールだった。彼はこの伝説に残るであろう一騎打《いっき う 》ちを最初から最後まで一瞬《いっしゅん》たりとも見逃《み のが》すまいと瞬《またた》きさえしていなかった。
「カシュー王は負けない。あの人はありとあらゆる戦いを経験しているからね。ありとあらゆる武器を使って、ありとあらゆる敵と戦ってきたんだ。そして、そのどれにも打ち勝った」
「詳しいのね。大陸生まれなのに」ディードリットが言った。
「大陸生まれだからだよ」マールは静かに答えて、そして歌うように喋《しゃべ》りはじめた。
「かつて大陸のある王国にひとりの剣闘士《けんとうし 》奴隷《ど れい》がいたんだ。その男は剣匠《けんしょう》のふたつ名で呼ばれていた。若いながらに、彼に勝《まさ》る剣の使い手はひとりもいなかった。彼は無敵を誇《ほこ》ったチャンピオンを倒《たお》し、自らその地位を得た後で剣闘士を引退した。その後は冒険者《ぼうけんしゃ》として数々の伝説を残していったんだけど、ある日|忽然《こつぜん》と姿を消した。噂《うわさ》では南の呪《のろ》われた島、つまりこのロードス島に向かったとされている」
「それが、カシュー王なのか」パーンが尋ねた。「大陸から来たとかいう噂は聞いたことがあったが……」
マールはこくりとうなずいた。
「僕は彼の伝説を完成させたかったのさ。でも、彼の伝説はまだまだ続きそうだね」
カシューとアシュラムとの一騎打ちはようやく誰の目にもその勝敗があきらかになってきた。
カシューの剣が、アシュラムの身体を捕《と》らえるようになり、手傷を負わせていたからだ。
「わたしは癒《いや》しの呪文《じゅもん》をかけるとき、二度とその人が傷を負わないように願いながら、呪文をかけますのに……」レイリアがそれを見て、寂《さび》しそうな顔でスレインに訴《うった》えた。
「戦士たちは戦うのが宿命なのですよ。いつか、争いがなくなる日がくるまでね」
早くそのときがきて欲しいとスレインは願わずにいられなかった。
そのとき、カシューがいったん剣を引いた。そして、肩《かた》で息をしているアシュラムを静かに見つめた。
「もう、止《や》めないか」
ぽつり、とカシューは言った。
「止めるだと? まだ戦いは終わっておらん」アシュラムが荒《あら》い息を整えつつ、言いかえした。
「そのまま放っておくと、血が足らぬようになるぞ。ホッブに止血をしてもらえ」
なぜだ、とアシュラムは絶望的な思いを自らに問いかけていた。なぜ、この男に勝てないのだ。なぜ、自分はかくも非力なのか。なぜ、ベルド陛下と同じだけの力を持ちえないのか。
自分に欠けているものは何だというのだ。天分の違《ちが》いとでもいうのだろうか。だとしたら、神はなぜかくも不公平なのだ。自らの願い、自らの望みをなぜ叶《かな》えてはくれないのだ。
「わたしは、ベルド陛下の望みを、受け継がねばならないのだ!」アシュラムは叫んだ。
そして、そのとき、彼の目に水晶《すいしょう》の箱の中で美しい輝《かがや》きを放っている支配の王錫《おうしゃく》が飛びこんできた。
この魔法の王錫ならば、カシューを倒《たお》す力を自分に貸してくれるだろう。
カシューとの間合いは十分にあった。
オレはベルド陛下の意志を継がねばならないのだ、なんとしてでも。たとえ、誓約を破ってでも!
アシュラムは身をひるがえすと、残る力のすべてを使いはたし、支配の王錫へと走りよった。
むっ、とカシューは唸《うな》ったが、動こうとはしなかった。彼の視界の中に、もうひとつ別の影《かげ》が飛びこんできたからだ。
パーンだった。
「誓約を忘れたのか!」パーンは叫《さけ》んだ。
アシュラムはその声に振り返った。純粋な怒りの叫びだった。その戦士はドラゴンに受けた傷もそのままだった。
一瞬、躊躇《ちゅうちょ》したアシュラムだったが、水晶の箱の蓋《ふた》を開け、支配の王錫を手に取った。
パーンは剣を構え、突《つ》っ込んでいった。
「でやぁ〜!!」
パーンは気合いの声を上げた。
「貴様ごときに負けはせん!」
アシュラムは、片手に|大 剣《グレートソード》を持ち、切りすてようとした。
左手では支配の王錫をつかみながら。
パーンはフレイムの王城アーク・ロードでカシューと剣の稽古《けいこ 》をしたときのことを思いだしていた。
この突きがかわされればあとがないぐらいの覚悟で飛びこんできていたら、おまえの勝ちだったかもしれんぞ。あのとき、カシュー王はそう言った。
今こそ、その覚悟で飛びこんでいった。
アシュラムは捨身としか思えぬ若い戦士の突きがかわせないことを知った。そして、戦士の反射神経が敵の|攻撃《こうげき》を防ごうと動いていた。
重い大剣でではなく、左手に持つ支配の王錫≠ナだ。
空気を切り裂《さ》くような金属音が、主《あるじ》のいなくなったあたりの空気を激《はげ》しく震《ふる》わせた。
アシュラムの左手から、支配の王錫が空中高く弾《はじ》きとばされていた。
そして、それは、まるでスローモーションのように、静かに放物線を描《えが》いて落ちていった。
火口の斜面に何度となく、打ち付けられながら、支配の王錫は下へ下へと転げ落ちていった。
火口の底に。
パーンはアシュラムに二撃目を与《あた》えようと剣を振《ふ》りあげたが、その動きを途中《とちゅう》で止めた。
アシュラムが自分を失ったように茫然《ぼうぜん》としていたからだ。何も握《にぎ》っていない、左の手を見つめながら。
そして、夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のようにふらふらと立ち上がると、支配の王錫が姿を消した火口ヘの崖縁《がけふち》まで歩いていった。むっとする臭気《しゅうき》が彼を襲《おそ》った。
パーンはアシュラムを追おうとしたが、後ろからカシューに腕《うで》をつかまれ、それを引き止められた。
「よろしいのですか」
パーンの問いに、カシューはうなずいた。
「あの男も誓約を忘れたわけではなかったのだ。しかし、自らの目的に固執《こ しつ》するあまり、身体が勝手に動いてしまうときがあるのだ。オレもそうだった。ベルドとの一騎打《いっき う 》ちのおり、彼の肩に矢が刺さったことに、オレは勝機を見出《みいだ 》してしまったのだ。一瞬の躊躇《ちゅうちょ》の後で、オレの身体は動いてしまっていたのだ。オレもまた、誓約を破った卑劣《ひ れつ》な男なのだ……」
「カシュー王……」
静かに見守るふたりの戦士の目の前で、マーモの黒騎士アシュラムは、火口へと身を躍《おど》らせた。
灼熱《しゃくねつ》の風の中に落ちていきながら、アシュラムは自分自身に絶望していた。
疲れと出血で意識が薄れていく。
そのとき、暗黒の中から何者かの手が自分に差し出されてきたような錯覚《さっかく》を覚えた。これが死神の手か、と思ったとき、アシュラムは意識を失っていた。
「終わったな」
そうつぶやいて、カシューはパーンの肩《かた》をかるく叩《たた》いた。
「終わりましたね」パーンもかなり間があってから、そう答えた。
しかし、何が終わったんだろう、とパーンは問いかけずにいられなかった。
魔竜《まりゅう》シューティングスターは死んだ。アシュラムも死んだ。支配の王錫《おうしゃく》は火口の中に失われた。
だが、まだマーモの勢力は衰《おとろ》えをみせず、ウッド・チャックの行方《ゆ く え》も杳《よう》としてしれない。アラニア、モスの内戦は終わらず、巷《ちまた》に難民は溢《あふ》れかえっている。ライデンの街の荒廃《こうはい》は、いかばかりであろう。
それでも、とパーンはすこしだけ気を取り直した。
少なくとも、人間が魔法の宝物によって支配されることだけは、回避《かいひ 》されたのだ。それには、きっと大きな意味があるはずだ。
爽《さわ》やかな笑顔を見せて、ディードリットが小走りに駆《か》けよってきた。
パーンは愛するエルフを両腕で抱《だ》きとめると、疲れも忘れて、彼女の身体を空中に抱《かか》えあげた。
「お疲れさま、パーン」
スレインがパーンのそばにやってきて、右手を差し伸《の》べてきた。パーンはディードリットを離《はな》すとその手を握《にぎ》りしめた。
それから、全員で長く苦しい旅が終わり、それぞれの目的が達せられたことを喜びあった。
その中で、ひとり地面に両膝《りょうひざ》を落として、動こうともしない男がいた。
ホッブだった。
そこに、シャリーがゆっくりと歩みよっていた。
「わしの目は節穴《ふしあな》だったのだろうか。アシュラム様は、なぜ誓約を破られたのだろう。あれほどの戦士、あれほどの勇者にもかかわらず」
ホッブはやってきたシャリーに力のない声でそう尋ねていた。
「わたしの目にも、あの方は間違《ま ちが》いなく勇者と見えました。勇者といえども人間なのですね。そして、人間はなんと弱いものなのでしょう。結局、最後までわたしはホッブ様を敵とは思えませんでした。今でもなお敬愛しつづけております」
そして、シャリーはホッブの前に跪《ひざまず》いた。
「……ブレードの神殿《しんでん》にお帰り願えませんでしょうか。あの神殿の司祭位は、いまだ空いているのです」
ホッブは静かにシャリーの黒い瞳《ひとみ》を見つめた。そして、優しく微笑《ほ ほ え》んだ。
「いや、司祭位はもはや空いてはおらん。……シャリー、おまえこそが、その地位に相応《ふ さ わ》しい。わたしは、もしカシュー王がお許しくださるのなら、自分の信仰《しんこう》を確かめなおすために旅に出たい。真の勇気、真の勇者とは何かを探してみたい。そして、戦いの本当の意味をな」
ちょうどそのとき、カシューがゆっくりと近付いてきた。
「その意味が分かったなら、もう一度ブレードを訪ねてくれ」カシューはホッブを見下ろしながら、静かにそう言った。「おまえの力を、わたしはまだ必要としているのだ。そのことを忘れないでほしい」
「カシュー王……」ホッブは深々と頭をさげた。
「しかし、オレは思うのだが」とカシューはうっすらと笑いながら、自らも片膝《かたひざ》を落とした。
「向こうにいる戦士こそ、真の勇者なのかもしれん」
カシューはそう言って、ゆっくりと首を曲げた。その視線の先に、小さな人の輪ができていた。
その中心には、パーンがいた。
「……そうかもしれません」若者の姿をしばらく無言で見つめた後、ホッブはそうつぶやいた。
「わたしの旅は、あの戦士を追ってみることからはじめましょう」
「そうしてやってくれ。あの戦士の前には、幾多《いくた 》の激《はげ》しい戦いがあるはずだ。それを助けてやってくれ」
そう言って、カシューは静かに立ち上がると、パーンたちの方に戻《もど》っていった。
「……いつかかならず帰っていただけますね」
ホッブはシャリーをうながして、ともに立ち上がった。そして、言った――
「……約束《やくそく》しよう」
「司祭様!!」
シャリーの声は喜びに震《ふる》え、その顔は朝日をあびた水面のように輝《かがや》いていた。
岩が砕《くだ》けて土となっているところに、シーリスは苦労して穴を掘《ほ》った。
石をどけ、土を剣で掘りくずし、それを華奢《きゃしゃ》な手が泥にまみれるのも気にすることなく、ひたすら掘った。シーリスの指の先の皮が破れ、血が滲《にじ》んできたが、シーリスはそれでも穴を掘ることを止めなかった。
やがて、人が入れるぐらいの穴ができると、ようやくシーリスはその作業を中断した。
それから、シーリスは壮絶《そうぜつ》な姿《すがた》のまま息をしなくなったオルソンのもとに、ふらつく足で歩みよっていった。
オルソンは、全身に何箇所《なんか しょ》もの致命傷を受けていた。こんな状態だったにもかかわらず、この狂戦士《バーサーカー》は敵の女戦士を、|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》を、そしてダークエルフまでをも倒《たお》したのだ。
自らの命を代償《だいしょう》として。
だが、オルソンの顔は不思議《ふしぎ》なほどに安らかで、開かれたままの目もまるで笑っているかのように見えた。知り合ったころよりも、よほど表情といったものが感じられた。しかし、そこにいるのは、もはや息をせぬただの骸《むくろ》であった。
シーリスはオルソンのまぶたに手を当てると、そっと閉《と》ざしてやった。それから、硬直しはじめた彼の身体を抱きかかえるように運び、自らが掘った穴の中に横たえた。そして、両手を組ませて鎧《よろい》の胸のところに持っていった。
そして、血にまみれたオルソンの顔を手拭《て ぬぐ》いを濡らし、綺麗に拭《ふ》いてやった。それから、シーリスは冷たくなった彼の唇《くちびる》に、軽くキスをした。
「さよなら、オルソン」
そう声をかけてから、土を戻《もど》し、その上に手頃《て ごろ》な石を積《つ》みあげ、小さな塚《つか》を作った。
その石塚の上に、シーリスは二本の墓標《ぼひょう》を立てた。
一本はオルソンの剣、そしてもう一本は自分自身の剣。
それから、その前にシーリスは倒れこむように跪《ひざまず》いた。
「あなたは馬鹿《ばか》よ、オルソン」そして、ささやきかけた。「満足そうな死顔をしちゃってさ。こんなあばずれを守ったって仕方がないのにさ」
シーリスは、そう言ってふたつの手を固く握りしめ、それを膝《ひざ》の上においた。
「あの洞窟《どうくつ》での戦いのとき、あなたは何かに向かって叫んでいたでしょう。行くな、行くんじゃないって。あれは、怒りの精霊に向かって叫んだ言葉だったのね。それが、今、分かったわ。あなたは力が欲しいとき、怒りの精霊に自らの意志で呼びかけていたのだわ。狂戦士《バーサーカー》となることで、復讐《ふくしゅう》をするため。そして、愛する者を守ろうとするため」
そのとき、涙がシーリスの頬《ほお》を伝って、両の拳《こぶし》に落ちていった。
「けれど、いくら愛する者を守るためだって、自分が死んじまったらなんにもならないだろ!」シーリスは叫んだ。その声には、小さく怒りがこもってさえいた。
「勝手に好きになって、勝手に庇《かば》って死んでいってさ。そうして助けられた者が、本当に幸せになれるとあなたは思っているの?」
シーリスは流れる涙を拭《ぬぐ》おうともせず、オルソンの剣を睨《にら》むように見た。
あのとき、オルソンが狂戦士《バーサーカー》となって、自分の方に向かってきたときに、シーリスは殺されてもいいと思った。オルソンが死にゆくことが分かったから。それが自分の責任だということを知っていたから。一緒に死んでこそ、対等だったのだ。しかし、その機会は永遠に失われた。
「でもね、わたしはもう死にたいなんて思わない。わたしは生きるわ。今までどおり、自分の好きなように生きていく」
オルソンの思いを背負ったままで。
そのとき、洞窟《どうくつ》の中からパーンたちが姿を現わした。
シーリスは思いだしたように涙を拭うと、みんなを出迎えるために立ちあがった。
シーリスは、パーンの存在が自分にとってそれほど大きくないことにすでに気付いていた。もし、本当に彼を愛しているなら、命がけの戦いに赴《おもむ》こうと洞窟に入っていったパーンに何があろうともついていっただろう。
オルソンの指摘は、やはり正しかったのだ。自分はたぶん誰《だれ》も好きになったことがないのだ。パーンに負《ま》けた悔《くや》しさを忘れるために、彼に好意を抱いたように思いこんでいただけなのだ。
ただ、とシーリスは心の中でつぶやいた。
たとえ、人を好きになることがあったとしても、オルソンが自分に示《しめ》してくれたような愛し方だけはすまい、と。愛する者のために自らを犠牲にしたりはしない。わたしは、相手も自分も幸せになるような愛を育《そだ》てるわ。
洞窟の外は、すでに陽が傾《かたむ》きはじめ、西の空は赤く染《そ》まりはじめていた。街《まち》が燃えているためではなく、自然の夕焼けだった。
パーンは、洞窟から出ると真っ先にシーリスの姿を探した。彼女が傷心《しょうしん》のあまり、自らの命を絶《た》っているのではないかとの不安にかられていたからだ。
シーリスの姿はすぐに見つかった。彼女は小さな石塚の前に影絵《かげえ 》のようにたたずみながら、じっとこちらを見ていた。
その石塚がオルソンの墓標であることは、パーンにはすぐに分かった。
手を振りながらパーンは、シーリスの名を呼んだ。
そして、なかば駆《か》けるように、シーリスのもとに走った。
「……勝ったのね」
シーリスは一言だけパーンに尋ねた。パーンは無言でうなずいた。
そして、パーンはオルソンの墓標に向かうと、静かに目を閉じ、胸に右手を当てた。そこには、二本の剣が寄りそうように立っていた。
他の仲間もパーンの後ろに一列に並ぶと、彼に倣《なら》って黙祷《もくとう》を捧げた。シャリーとレイリアが狂戦士《バーサーカー》の失われた魂《たましい》が、神に抱かれやすらぎを得られるように、長い祈りの言葉を詠唱《えいしょう》しはじめた。
ふたりがそれぞれの神に捧げる祈りの言葉は違っていた。しかし、その思いは同じであった。
しばらく黙祷を捧げた後、ひとり、またひとりとオルソンの墓標に背を向けた。そして、火竜山の斜面をゆっくりと下《くだ》りはじめていった。
シーリスが、いちばん最後にオルソンの墓標から離れた。彼女は一行のいちばん後ろに続くと、足もとを確かめながら、静かに斜面を下っていった。その途中で、シーリスはオルソンの墓の方を一度だけ振り返った。
さよならオルソン、優しい狂戦士《バーサーカー》。あなたは、わたしにとって、最高の相棒《あいぼう》だったわ。
[#改ページ]
あとがき
あとがきでは、いつも守られたことのない約束と女々《めめ》しい言い訳しかしていなかった感がありますので、今回、それはなしにします。
ともあれ、ロードス島戦記も、この本で4巻目を数えます。3巻と4巻は上下巻ですから、ストーリー的には第3部が完結ということになります。
これは、最近の小説全般に言えることではありますが、ロードス島戦記はとにかくいろいろなメディアで作品が発表されています。小説、RPG(ロールプレイング・ゲーム)とそのリプレイ、カセット文庫、コンピュータ・ゲーム、そして、アニメ化されることにもなりました(アニメビデオは全13巻でこの本が出版されるころには、第1巻がリリースされているはずです)。これもひとえに読者の皆様の声援のおかげだと感謝の言葉もありません。
ただ、あまりに作品の数が多くなってしまったため、しかもストーリーやキャラクターの設定などが微妙に(!?)違うために、混乱している読者も多いのではないでしょうか? これはある意味では僕の責任で、というのも、それぞれのメディアの特徴を活かすため、自分の作りあげてきたロードス島の歴史、そして中心ともなるべきストーリーを変更することに何の抵抗も感じないからです。むしろ、それで良い作品、面白《おもしろ》い作品が生まれるのならば、大歓迎したいぐらいです。ただし、中心となるものは、はっきりさせておいた方がいいでしょうから、あえて言いますが、この小説こそがロードス島世界の歴史、ストーリーの根幹である、と僕は思っています。
とはいえ、他のメディアに対しても、僕は考えつくかぎりのアイデアを注《そそ》ぎこみ、面白い作品になるよう努力しています。ま、読者の皆さんには、作者の思惑《おもわく》など気になさらずに、お好きなメディアでこのロードス島戦記の世界を楽しんでいただければと思います。僕にとっても、それがいちばん嬉《うれ》しいことですし、何より仕事の励《はげ》みになります。
さて、ここで唐突《とうとつ》ですが、文中で使っている用語などについて若干《じゃっかん》の解説を加えてみたいと思います。僕がゲーム・ファンであるため、やや一般と異なる使い方をしているものがあるからです。特にややこしいのは、魔法でしょう。
ロードス島戦記の魔法には、大きく分けて三つのタイプがあります。ひとつは、物質からマナと呼ばれる魔法エネルギーを引き出してかける古代語魔法(ソーサラー・マジック)です。これをかけるために唱《とな》える言葉――これを魔法語(ルーン)と呼びます――が上位古代語(ハイ・エンシェント〉であり、この系統の魔法使い(ルーンマスター)を魔術師(ソーサラー)と呼びます。
古代カストゥール王国の時代には、この古代語魔法の全盛期でしたので、さらに細かく分けられています。たとえば、死霊術師もしくは死霊魔術師(ネクロマンサー)や、魔力付与者もしくは付与魔術師(エンチャンター)など、すべてこの古代語魔法に属します。スレインやセシル、そしてグローダーなどがこの系統の魔法を使います。彼らは皆、優《すぐ》れた学者であり、研究者です。彼らが魔法書を片時も離さない理由は、このためです。
ふたつめが、ディードリットに代表される精霊使い(シャーマン)で、彼らは精霊を召喚し、この異界の住人の力を借りて魔法をかけます。これが、精霊魔法(シャーマン・マジック)です。これの魔法語は精霊語(サイレント・スピリット)と呼ばれ、これは言葉というより一種のテレパシーです。精霊と交信する能力は、天性の才能に加え、先輩の精霊使いの指導によってのみ得られます。自然の歌に心を傾けられる純粋さと、自らの精神を制御する意志力が精霊使いには必要とされています。古代語魔法が学習によって得られるとすれば、精霊魔法は共感によって得られる魔法ということになるでしょう。
最後が司祭(プリースト)です。エトやレイリア、シャリーがこの系統の魔法を使います。これは至高の存在である神(もしくは邪神)に祈りを捧げることによって行使されます。この魔法のことを神聖魔法(プリースト・マジック)といい、唱える祈りの言葉(つまり魔法語)が、神聖語(ホーリー・プレイ)と呼ばれます。当然のことですが、信仰する神の違いによって宗派があり、特定の神に仕えていなければかけられない呪文もあります。たとえば、〈治癒《ちゆ》〉の呪文などはどの宗派の司祭でもかけられますが、〈戦《いくさ》の歌〉は戦の神マイリーに仕えていなければかけられず、〈帰還〉の呪文は大地母神マーファの司祭に限られています。
暗黒神に仕える司祭を特に闇《やみ》司祭(ダークプリースト)と呼び、彼らがかける魔法を暗黒魔法(ダークプリースト・マジック)と呼びならわすこともあるのですが、これは光の神々と暗黒の神々とを差別化するために、人間が勝手に使いわけているだけで基本的には同種のものです。
司祭たちは、神々の言葉を聞けるだけの深い信仰が必要で、その教えに忠実でなければなりません。ですが、至高の存在である神々の考えは、人間の理解の及ぶところではなく、司祭たちはその生涯をかけてその言葉の意味を探究しなければなりません。それでも、完全に悟《さと》りを得ることはできません。だからこそ、司祭たちにも葛藤《かっとう》があり、神の言葉を間違った解釈で受け取ってしまうこともあるわけです。彼らは自らが神の代理人となることで、奇跡《き せき》を行なうといえます。
さて、この三つの系統の魔法を使う者たちを総称して、魔法使い(ルーンマスター)と呼ぶわけです。一般には、「魔法使い」と「魔術師」は同義に使われることが多いので、これは特に注意してください。それから、紛《まぎ》らわしいところでは、「魔法」「魔術」「呪文」などがありますが、本書においては、魔法は魔法使いたちがかける術の総称として使っており、魔術は古代語魔法の別称としています。呪文は、「〈火球〉の呪文」といったぐあいに、個々の魔法の呼び名として使うようにしています。
こういった用語を理解していただいた上で、本書を読んでいただければ、混乱も少ないのではないかと思います。ですが、これらはあくまで基本的な使い方であることは理解してください。読み返してみれば、今、書いたとおりの使い方がされていない場合もきっとあるはずです。ま、小さな間違いにはこだわらず、魔法とその体系を概念として理解してもらえれば幸いです。
最後に、小説版ロードス島戦記の今後の展開をすこし。この第4巻の終了で、ついに昔から書き貯《た》めていたストックもつきてしまいました。ストックといっても、何しろ学生時代の代物《しろもの》で、ほとんど使い物にならないぐらいに稚拙《ち せつ》なものだったんですけどね。作業としては今までと変わらないのですが、不安といえば不安です(自分で言ってて情けないけど)。
ですが、アイデアはちゃんと頭の中にあるので、それはご安心ください。問題は分量でして、書いてみなければ、残り3巻で完結するか4巻になるのか、ちょっと見当もつきません(やっぱり情けないなぁ)。ただ言えることは、残りあと2部であること。そして、「月刊コンプティーク」誌に連載されていたRPGリプレイをお読みで、今後の展開を知っておられる方には、〈魂の水晶球〉と〈黒の導師〉にまつわるエピソード以外に、もうひとつ末発表のエピソードが加わることをお伝えしておきましょう。
それが、どんなものかは、次巻のお楽しみということです。しかし、いまだ登場していないふたりの英雄の出現だけは予告しておきます。そして、ロードス島世界の鍵《かぎ》を握る人物の再登場にも期待していてください。
なお、本書の執筆にあたりましては、「月刊コンプティーク」の編集者である吉田隆氏、「野性時代」の編集者である永田智雄氏のおふたりに一方ならぬお世話になりました。この場を借りて、感謝の言葉を述べさせていただきます。
[#地付き]水 野 良
[#改ページ]
角川文庫発刊に際して
[#地付き]角川源義
第一次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある、角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい、多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
一九四九年五月三日