ロードス島戦記3 火竜山の魔竜(上)
水野良
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《》:ルビ
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(例)金属|鎧《よろい》
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(例)[#ここから目次]
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目 次
プロローグ
第T章 狂戦士
第U章 傭兵王《ようへいおう》
第V章 火竜の狩猟場
あとがき
[#地付き]口絵・本文イラスト 出渕裕《いずぶちゆたか》
[#ここまでで目次終わり]
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プロローグ
険《けわ》しい山の裾野《すその 》に、その神殿はあった。
高い石壁《いしかべ》で囲まれた敷地の中に、石造りの建物がふたつ建てられている。いずれも白大理石で造られており、山の緑と褐色《かっしょく》の大地を背景に輝くばかりであった。
派手さはなく、押えた[#「押えた」に「ママ」の注記]美[#「抑えた」の誤記]しさだった。近寄ってみると分かるのだが、壁や柱に刻《きざ》まれた装飾《そうしょく》や紋様《もんよう》は神殿にしては少なめで、石本来の持つ美しさを素直に再現したかのような素朴な印象を与えた。
神殿の南側、街道に面したところに正門が設けられてあった。木製のぶあつい門が内側に向かって開けはなたれている。
その神殿の正門をくぐりぬけて、入ってきた者がある。
騎士《きし》ふうの男であった。
飾り気のまったくない、実用性だけを考えて造られた真っ黒な甲胃《ス ー ツ》で全身を包んでいる。
兜《ヘルム》はつけてはおらず、色白の顔がまともに姿を見せていた。黒髪《くろかみ》はまっすぐ伸ばされ、肩のところで切りそろえられている。
一見して、蝋人形《ろうにんぎょう》を思わせる風貌《ふうぼう》である。だが、強い意志力をみなぎらせて輝く双眸《そうぼう》が、その印象をみごとに裏切っていた。
門を入ってすぐのところに、慈悲深い微笑《ほほえ 》みを浮かべながら両腕を広げている女神の像があった。女神の姿は、あたかも敬虔《けいけん》な信者の訪《おとず》れを歓迎しているかのように見えた。
それを見て、黒騎士の口許《くちもと》が皮肉っぽく歪《ゆが》んだ。
大地母神として知られるマーファの神像であった。
ここは、ターバの村にあるマーファの神殿。辺境の村にもかかわらず、この地のマーファ神殿はロードス島最大である。六英雄のひとりとして讃《たた》えられている最高司祭ニースが、神殿の主人であった。
門をくぐると、きれいに掃除された小道があり、正面に立っている礼拝堂の方へと続いていた。
しかし、黒騎士は礼拝堂へは一暼《いちべつ》をくれただけで、もうひとつ別の建物に向かって歩きはじめた。
そこはマーファの神官たちがいつも生活に使っている宿舎である。一般の信者は、こちらへ近づくことは禁じられている。
が、黒騎士は最初から、礼拝堂など眼中にないといった様子だった。
黒騎士に続いて、さらに五人の一団がマーファ神殿の門をくぐった。おそらくは伴《とも》の者であろう。
五人とも冒険者ふうの格好《かっこう》だった。金属|鎧《よろい》で身を固めている戦士ふうの者もいれば、ローブを着た魔術師ふうの者もいた。
ふたりが戦士である。共に巨漢《きょかん》だった。驚くべきことに、そのうちのひとりはどうやら女性であるらしかった。
金属製の胸当ては、乳房《ち ぶさ》にあたる部分を強調するようなふくらみがあり、その部分をわざわざ縁取《ふちど 》りまでしてある。こては填《は》めているものの、肩から下はむきだしで、下半身も太股《ふともも》から膝《ひざ》のところまでは素肌《す はだ》がのぞいている。そこから下はすね当てを着けて、長めのブーツを履《は》いている。
プラチナブロンドの髪《かみ》の毛は、まったく手入れされた様子がなく、無造作《む ぞうさ 》に肩のところまで伸ばされているだけだった。まるで水を浴びたあとのように、ばさばさだった。
おそらく、両刀使いなのだろう。女戦士は、腰に|広刃の直刀《ブロードソード》を二本差していた。それはよほど力がなければできない芸当である。
もうひとりの戦士は、頭に巨大な角《つの》の付いた兜《かぶと》をかぶっている。一方、上半身は、ほとんど裸《はだか》も同然だった。
黒い獣皮《じゅうひ》を左肩から腰にかけて身につけているだけだ。その上から太い鎖《くさり》を二本、同じようにかけて、幅広のベルトについた鉄の輪に取り付けている。
武器は大剣《グレートソード》で、鎖とは反対の肩から、革のバンドで背中に吊《つ》り下げている。
魔術師ふうのふたりは、全身をすっぽり覆《おお》うような、ローブを着ている。
色は黒と濃い茶色。ふたりともフードを深く下ろしており、顔は陰に隠れ、まったくうかがうことができない。
黒ローブの方は手に杖を持ち、茶色の方は腰に新月刀《シ ミ タ ー》を差していた。
残るひとりは、濃い緑色をした普通の衣服を着ていた。しかし、よく見ると袖《そで》のところから、|鎖かたびら《チェインメイル》がのぞいているのが分かる。服の左胸には、奇妙な形の紋章《もんしょう》が刺繍《ししゅう》されていた。それが、暗黒神と呼ばれるファラリスの紋章であることを知る者はすくないであろう。だが、見た者すべてに邪悪なイメージを与えるのは間違いない。
両手に長槍《ロングスピア》を持ち、これを杖代わりにしながら歩いている。
彼らは皆、いちように無口であった。かなり疲れた感じで、身につけている鎧や衣服は、泥《どろ》にまみれていた。
なにか激しい戦いを演じたあとのように見えた。
黒騎士《くろき し 》を先頭に、六人の一団は神殿の宿舎の前庭をゆっくりと歩いていく。
近くを通りがかった数人の神官たちが、無言で近づいてくる六人の一団に目を止めた。当然、宿舎に向かうことを注意しなければならないところである。しかし、六人の発する異様な雰囲気《ふんい き 》に飲まれて、誰も声をかけることができなかった。
ただ、無言で六人の集団に注目している。
黒騎士を先頭とする一団は、そんな神官たちに気を止める様子もなく、まっすぐ宿舎の玄関に近づいていった。
玄関の前で立ちどまったまま、彼らの様子をうかがっていたひとりの女性の神官が、あわてて道をあける。
「最高司祭のニース殿はおられますかな」その瞬間ぼそりと声がした。
その声が先頭の黒騎士から発せられたのだと分かるまでに、しばらく時間がかかった。
「はい、ニース様は奥のお部屋におられます」神官は、まるで催眠術《さいみんじゅつ》にでもかけられたように答えてしまっていた。
思考が麻痺《まひ》してしまったみたいで、自分がどうすべきか完全に忘れてしまっていた。
「ありがとう」丁寧《ていねい》な口調《くちょう》で返事が返ってきた。礼節を心得た騎士らしい返答である。
それが、彼女の混乱をさらに大きなものにした。
黒騎士たちは平然と宿舎の玄関を開けて中に入っていこうとしているのだが、それを止めなければならないという考えさえ起こらなかった。茫然《ぼうぜん》としている間に、黒騎士たちはさっさと宿舎の中に入ってしまった。
宿舎の中は薄暗かった。窓がところどころにあるのだが、それだけでは十分な明るさを得られないのだ。
靴の底に穿《うが》たれた鉄の鋲《びょう》が石の廊下《ろうか 》に打ちつけられ、乾《かわ》いた金属音を立てた。
その音は、マーファ神殿の宿舎の廊下に反響していった。
カーンカーンという甲高い響きは、宿舎のいちばん奥にある自室で書物を読んでいたニースの耳にも届いた。
音はしだいに大きくなってきているようだ。
来客がある様子だった。足音の不規則な感じなどから、すくなくとも四、五人はいるなとニースは判断した。
彼女は本を閉じ、立ちあがると、来客を迎えようと入口に向かってゆっくりと進んでいった。
その歩みにつれて、胸にマーファの紋章《もんしょう》を刺繍《ししゅう》した白い神官衣がゆらゆらと動く。六十歳を越える老齢ながら、背筋はまっすぐに伸ばされ、足取りもまだしっかりとしたものだ。
もっとも、顔に深く刻《きざ》まれた皺《しわ》や白く枯れた髪の毛は、彼女の生きてきた年月を確実に表わしていた。
彼女が行くより靴音の方が先に、扉《とびら》に近づいてきて、トントンと扉を叩《たた》く音に変わっていた。
「お入りなさい」
自分の机の近くまで戻りながら、ニースは外の人間に向かって、そう声をかけた。
「失礼します」太い男の声がかえってきた。
そして、扉を開けて、黒い甲冑《かっちゅう》の男が姿を現した。
後ろに数人の伴の者がかいま見える。
「おまえたちはここで」
黒騎士《くろき し 》はそう伴の者に命じると、ひとりだけでニースの部屋に入ってきた。
そして、後ろ手に扉《とびら》を閉めると、女司祭に向かって一礼をした。
ニースもかるく頭を下げて挨拶《あいさつ》を返す。そのときに、黒騎士の腰に吊《つ》るされた大剣が目に入った。
あれは……、とニースは小さくつぶやいた。
「マーモの騎士殿がこんな辺境の神殿まで、いったい何の御用なのです」ニースは椅子《いす》に腰を下ろしながら、黒騎士に尋ねた。
そして、右手を差しだして、彼にも椅子を勧める。
黒騎士は素直に従い、ニースの向かいに腰を下ろした。甲冑から金属の軋《きし》む音が起こる。
「さすがに見抜かれましたか。マーモの紋章《もんしょう》は外しておったのですが」
黒騎士は軽い笑いを浮かべながら、言葉を返してきた。
「わたしは、ベルドと共に旅をしたこともあるのですよ。あなたがお持ちの剣のことを忘れたりするものですか。それは、ベルドの剣ですね」
「はい、陛下《へいか 》の形見の剣です」
その大剣は黒い金属製の鞘《さや》に収められていた。
鞘とはいっても、腰に差してある大剣を引き抜くのは無理だから、横からかぶせて刃の保護をしてあるだけだ。しかも、手元に付いている止め金をはずすと、簡単に鞘が落ちるような仕組みになっているので、とっさの場合にも十分に対応できるのだ。
「その剣の由来はご存じ?」
ニースは、黒騎士の顔を見ながら、そう尋ねずにはいられなかった。
黒騎士は陶器《とうき 》のような白い肌《はだ》に、黒い髪と黒い瞳《ひとみ》の持ち主だった。髪は後ろに流されていて、肩のあたりで、まっすぐに切りそろえられている。細い双眸《そうぼう》の奥の瞳は、夜の闇《やみ》のするどさで、ニースに向けられていた。
狡猾《こうかつ》さと純粋さをともに秘めたような、不思議な瞳をしているとニースは思った。
「ベルド陛下から由来は聞いています」
黒騎士からは、そう返事が返ってきた。
「そう、聞いているの」ニースは、ほっとため息をついた。「その大剣は人の悲しみをすべて背負って存在しています。本来ならば、あの迷宮《めいきゅう》の底に封じられるべきものなのですが……」
「最も深き迷宮ですな」
黒騎士の言葉に、ニースはうなずいた。
最も深き迷宮≠ニは、モスの山奥にある古代王国時代の遺跡《い せき》の名だった。
地下十数層にも及ぶ、この巨大な迷宮は、魔法文明で栄えた古代王国が華やかなりしころ、召喚《しょうかん》の魔法を得意とする魔術師たちが、異界《い かい》の住人たる魔神を呼びだすために建造したものだ。
魔神たちの持つ、知恵や力を利用するためであった。
ところが、古代王国が滅《ほろ》び、彼らを召喚した魔術師たちがいなくなると、魔神たちは迷宮の奥底に封印《ふういん》されたまま取り残され、もとの世界に戻《もど》れなくなったのだ。
そして、四十年ほど前、モス地方は小国が林立する戦国時代にあった。守るに易く、攻めるに難しい山国ゆえに、戦乱の時代は数百年にわたって続いていた。
そんなモスを統一せんと、ある国の王が魔神の力に頼ろうと考えたのだ。
しかし、古代王国の魔術師ならぬただの人間に、魔神を支配する力などあるはずがなかった。
愚《おろ》かな王は魔神たちの封印を解《と》いたものの、彼らを制することができず、彼らの最初の犠牲者となった。
そして、迷宮の奥底から、魔神とその眷族《けんぞく》どもがこのロードス島に解きはなたれたのだ。
恐るべき力を持っていた魔神たちは、文字どおり死と破壊をまきちらした。
しかし、当時のロードスの人々は、国の枠《わく》を越えて協力しあい、魔神たちとよく戦った。
また、エルフやドワーフら、亜人たちも人間に力を貸し、この異界の者どもを共通の敵としてくれた。
ロードス島の民と魔神たちとの激しい戦いは、三年あまり続いた。
しかし、魔神たちの数がすくなかったことがさいわいし、ロードス島の民は魔神たちを追いかえしていった。
もし、魔神たちが自らの力で異界の門≠開き、彼らの世界から仲間を呼びだすことに成功していたなら、ロードス島のみならず、世界全体が魔神たちの支配下に置かれていたろう。
一説には、その試みはなかば成功していたとも言われている。
しかし、手後れになる前に、ロードス島の民は魔神たちをうちやぶり、彼らの最後の砦《とりで》ともいえる最も深き迷宮≠ノまで追いつめたのだ。
迷宮ゆえに、そこは大軍をもって挑《いど》むには不向きな場所だった。
それゆえ、特に選ばれた百人の勇者たちが最後の戦いに臨むべく、迷宮へと降りていったのだ。
そして、勇者たちは使命をまっとうしたのである。
だが、魔神の王を倒し、彼らをもう一度封印しなおしたときには、その数は六人にまで減っていた。この六人の生き残りが、六英雄としてサーガに歌われ、讃《たた》えられている勇者である。
マーファの最高司祭ニースもそのひとりであった。
あと、マーモの皇帝べルド、ヴァリスの英雄王ファーン、魔神に滅《ほろ》ぼされた南のドワーフ族の族長フレーべ、モスの大賢者ウォート、そして、名前も知られていない魔法戦士がいた。
「あなたの大剣は、もともとは魔神の王が持っていたもの。そして、ベルドのことを心から愛し、彼が魔神の王に倒されそうになったとき、身代わりとなって死んだファリスの女司祭を殺した剣でもあるのです」
「失礼ですが、司祭殿。わたしは、思い出話を聞くためにこの地に参ったわけではありません。うかがいたいことがあってやってきたのです。正直に答えていただけるでしょうな」
「嘘《うそ》は申しません。しかし、お答えできないこともあります」
ニースの言葉に、黒騎士《くろき し 》の視線が厳《きび》しいものになった。
「いいでしょう。では、おうかがいします。あなたは氷竜ブラムドの持っていた宝についてご存じではありませんか?」
「ブラムドの宝……。知らぬわけではありませんが、あなたはそれをどうしようと考えておられるのですか」
「わたしは、その宝を我が物にしようという俗物なのですよ。もっとも、金に困っているわけではありませんが」そう言って、意味ありげな笑いを彼は浮かべた。
「ブラムドの持つ宝を。そんなことをどうして、わたしに聞くのですか? 欲しければブラムドから譲りうければいいものを」
「白々しいことを! ブラムドは宝物などひとつも持ってはいなかった。あなたは、昔、ブラムドにかけられていた呪《のろ》いを解《と》き放《はな》ち、代償としてあのドラゴンの持つ宝物をひとつ残らず譲りうけたと聞いていますぞ!」
語気するどく、黒騎士は言った。
「その言い方……。もう、ブラムドにあったのですか?」
「奴《やつ》には、こっぴどい歓迎を受けましたよ。しかし、あの氷竜はそのことを今、後悔しているに違いありません。死後の世界とやらでね」
「ブラムドを殺したのですか!」
ニースはきっとした表情になり、椅子《いす》を蹴《け》るように立ちあがった。
「こちらの仲間も三人が道連れにされましたよ。それぞれ名のある戦士だったのに」
「なんというひどいことを! あのドラゴンは今、休眠期だったはず。それを襲《おそ》って殺すなど、まるで騎士とは思えないふるまい」
「こちらも好きこのんでドラゴンと戦ったわけではない。ドラゴンの方から、攻撃をしかけてきたのだ。身を守るために、戦うことは自然なことではないですか、司祭殿!」
さらに語調を強めつつ、黒騎士はニースを睨《にら》みつけた。
ニースは、それで動じたりはしなかった。
「わたしにとってあのドラゴンは親しい友人だったのです。友人の理不尽《り ふ じん》な死に対して怒り、悲しんではならないなどと、マーファは教えてはいません。しかも、あの賢いドラゴンがなぜ、あなたがたを襲《おそ》ったのかの理由も分かります。あなたがたのことを宝物を奪《うば》いにきた盗賊《とうぞく》だと思ったのでしょう。そしてそう思われても仕方ないような非が、あなたがたになかったとは言わせませんよ」
「たしかに。わたしはブラムドの持つ宝物を欲している。何としてでも手に入れるつもりでいる。しかし、最初から盗もうなどという気はなかった。金ならいくらでも出す用意がある」
「あいにくと、わたしは金などいりません。森や大地の恵みが養ってくれますから」ニースはそう言うと、ふたたび椅子《いす》に腰をおろした。「たしかにあなたのおっしゃるとおり、わたしはブラムドの持つ宝を譲りうけました。しかし、その宝のほとんどは、この神殿を修理してもらうために、ドワーフの職人たちに手渡しています。手元に残っているのは、ほんのわずかな物だけ」
「金に換えられるような宝などいらない。わたしが欲しいのは、支配の王錫《おうしゃく》≠ニいう名の金属製の杖だけだ」
「支配の王錫?」その名前を思い出すためにしばらく時問がかかった。そして、思い出したとたんに、背筋に冷たいものが走るのをニースは感じた。「その宝物の噂《うわさ》は耳にしたことがあります。あなたはそれを何に使うおつもりなのですか?」
「名前をご存じなら想像できるはずです……」そこまで言って、黒騎士《くろき し 》は口許《くちもと》を歪《ゆが》ませた。
「どうやら、わたしは長話をしすぎたようですな。ここまで、お話しするつもりはなかったのですがね。なかなかに、あなたは聞き上手でいらっしゃる。最後にもう一度だけ尋ねたい。あなたがブラムドから譲りうけた宝物の中に、支配の王錫はあったのか、なかったのか?」
「わたしが譲りうけた太守の秘宝は、真実の鏡≠ニ名付けられた品です。それが、いかなる物かは、支配の王錫を追いかけているあなたには、お分かりでしょう。そして、それももうありません。疑われるなら、わたしどもの宝物庫をお見せいたしましょう。もっとも、そこにあるのは、昨年の秋に取れた収穫物だけですけどね。それから、これだけは言っておきますが、魔法の宝物に頼って己《おのれ》を見失うのは、愚《おろ》か者のすることです。あなたは、強い意志をお持ちのようです。それに、すぐれた知恵と力もお持ちとお見受けします。もっとご自分を大切になさい。たいていの運命なら、独力で切りひらけましょう」
「おまけに褒《ほ》め上手のようですな。初対面の人間のことが、よくそこまで分かるもの」
「人より長生きしていますので、多少は物事もよく見えます」
黒騎士はその顔に皮肉めいた笑いを浮かべた。
「自分で乗り越えられない運命を背負い、しかもどうしてもそれを乗り越えねばならない場合に、人間はどうすればよろしいのですかな」
「わたしならば、神に祈りますね」
しばらく、その意味を考えてから、ニースはそう答えた。
「忠告いたみいります」黒騎士は、今度は豪快な笑い声をあげた。
そして、ふたたび甲冑《かっちゅう》を鳴らしながら、すっくと立ちあがる。
「無礼があったことは、お詫《わ》びしましょう」
「それよりも、あなたのお名前をうかがっておきたいのですが。もちろん、よろしければですが」
「アシュラムと申します。ベルド陛下《へいか 》の近衛隊《こ の えたい》にいた者です」
アシュラムと名乗った黒騎士《くろき し 》は、入ってきたときのようにニースに一礼をして、背中を見せて扉《とびら》から出ていった。
ニースはその後ろ姿を見送った。
アシュラムは、扉の外で待機していた伴《とも》の者たちと小声で話を交わし、ニースの部屋から足早に遠ざかっていった。
その音を聞きながら、ニースは小さくため息を洩《も》らした。
「人の運命とは、本当に不思議なもの。ベルドが陥《おちい》った過《あやま》ちを受け継ぐ者がいようとは。英雄の資質を持つ者たちは、互いに争う運命にあるものなのかしら。ならば、今の男はいったい誰と戦うことになるのやら」
ニースは、窓の外に目をやりながら、そこにそびえたつ白竜山脈の山々を見上げた。その険《けわ》しい峰を見ながら、ニースは遠くモスの山々を思い、魔神と戦った遠い日々のことと仲間たちのことを思った。
「ウォート……。あなたの考え方は、正しいのかもしれない。他人に干渉せず、自分のことだけを考えて生きていれば、争いなどおこらない。だから、誰にも邪魔されないところに住むのだと。たしかに、人は集《つど》うと争いを起ごす。でも、人はけっして孤独では生きられない。ならば、人同士が争いあうのは、宿命とあきらめねばならないのかしら」
モスの大賢者と呼ばれるあの魔術師が、この問いにいったいなんと答えるか、もう一度聞いてみたいとニースは思った。運命を分かちあって生きてきた仲間たちが、のちに互いの運命をかけて戦いあったことを、ニースはたまらなく悲しく感じているのだ。
彼女は、ベルドもファーンも好きだった。鉄の意志を持ったドワーフ王フレーべも、変わり者の魔術師ウォートも。
もうひとりいた魔法戦士も、ニースにとってはかけがえのない仲間に違いなかった。
その魔法戦士の名がカーラであるということを、ニースは最近知らされた。その正体が、サークレットに自《みずか》らの魂《たましい》を封じこめることで存在しつづけている古代王国の魔女であることも。そして、娘のレイリアを支配し、英雄戦争≠陰から操《あやつ》っていたということも。
ニースは、ほっとため息を洩らしながら振りかえって、さっきまで黒騎士のいた室内を見わたした。
「ニース様……」
そのとき、扉《とびら》が開き、ひとりの女性の神官が入ってきた。さっき宿舎の入口のところで、黒騎士たちを黙って通してしまった神官だった。
黒騎士たちが出てきたのと入れ替わりに、ニースにもしものことがないかと気になって様子をうかがいにやってきたのだ。
「ちょうどいいところにやってきた」ニースは、その神官を手招きして呼びよせた。「すまないけれど、ザクソンのレイリアのところまで、走ってくれませんか? そして、こちらへ来るように頼んでもらいたいのだけれど。夫とそれに子供も一緒《いっしょ》にね」
「それはかまいませんけれども。何のご用事ですか?」
「それは、こちらへ来てからレイリアに直接話します」
かしこまりました、とうやうやしく頭を下げて、神官はニースの部屋を退出した。
神官の後ろ姿を見送りながら、ニースは、
「運命がどう動いていくのかは、あの子たちに任せましょう」
と、そっとつぶやくのだった。
長い冬が終わり、ターバの村は春のまっただなかにあった。
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第T章 狂戦士
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。
そのロードス全土をゆるがした大戦、英雄戦争≠ゥら、はや五年が過ぎさろうとしていた。
しかし、戦の残り火はまだ各地でくすぶっており、平和は遠い昔に置き忘れられて久しい。
モスの諸公国の戦乱は、ますます激しさを加え、各公国の太守はそれぞれ勝手に王を名乗り、モス建国前の戦国時代さながらに、たがいにこの地の覇権《は けん》を巡って争いを続けている。
ヴァリスもようやく新王が決まり、国の体制は落ちついたものの、領土の東の地域はマーモの占領下にあり、神聖《しんせい》騎士団とファリス神殿の立て直しにも、まだまだ時間がかかる様子だった。
また、大戦から受ける直接の被害《ひ がい》こそ少なかった自由都市ライデンであったが、その後の数年間でロードス各地から流れてくる難民《なんみん》と、海賊の横行に手を焼いており、自治制度そのものの存続さえ危ぶまれているというありさまだった。
大戦が始まって以来、常にマーモの支配下にあったカノンの地は、マーモから渡ってきた黒《ダーク》エルフや食人鬼《オ ー ガ ー》たちが新しい支配者となり、古くから住む人間やエルフたちを圧政下においていた。
噂《うわさ》として伝えられてくる支配者たちの残酷《ざんこく》な仕打ちの数々は、耳をおおいたくなるばかりであった。
四百年の歴史を誇るアラニアは、先王派のノービス伯アモスンと王弟ラスター公爵《こうしゃく》との内戦が続いており、小競《こぜ》りあいが今も絶えない。戦《いくさ》を続けるために必要な費用は、結局は国民が負担するものだから、華やかな文化を誇ったこの千年王国《ミ レ ニ ア ム》も、今では栄華のかけらさえ感じられないほど荒れはてていた。
ゆいいつ、砂漠の蛮族《ばんぞく》との戦争にも打ち勝った新興の王国フレイムだけは、国力を着実に回復しつつある。
傭兵王《ようへいおう》≠ニ呼ばれる国王カシューに、ロードス島の統一を期待する声も少なくないが、正直なところまだ自国のことだけで精一杯というところだった。
戦の終わりを告げる兆候《ちょうこう》は、今のロードスを探してもどこにも見られなかった……
なだらかに下る山道が、地をはう蛇《へび》の胴体《どうたい》のようにうねうねと続いていた。
アランの街から白竜山脈ぞいに北へ向かう街道は、大戦の起こる前は婚姻《こんいん》の儀式《ぎ しき》を挙《あ》げるためにマーファ神殿へ向かう若者たちで賑《にぎ》わっていたそうだが、今は旅人の姿などひとりも見られない。
祝福《しゅくふく》の街道≠ニ呼ばれていたらしいが、その名前を今、使おうと思う者はいないだろう。
物々しい|板金の鎧《プレートメイル》に身を包んだ若者は、ぼんやりとそんなことを考えながら、白い花をつけた道ばたの野草に、なにげなく視線を向けていた。
こげ茶色の頭髪が、無造作《む ぞうさ 》に短くまとめられている。
その髪を押えるように、兜《かぶと》がわりに幅広の金属製リングを額にはめており、むきだしの顔は浅黒く日に焼けていた。夏には、おそらく真っ黒になるのだろう。
若者はこれといった印象を与えない顔立ちをしていた。その理由は、観察力のある人間ならすぐに見抜けることだろう。
表情というものが感じられないのだ。
若さは、激しい感情をむきだしにするものだ。それは、野心である場合もあり、恋情である場合もある。
それが表情となって顔に出る。
しかし、この若者からは、それらの感情がいっさい感じられなかった。
それで、彫《ほ》りの深い精悍《せいかん》ともいえる顔立ちながら、印象が薄くなっているのだ。
身体《か ら だ》の方は、全体にひょろっとしているが、重い金属|鎧《よろい》をやすやすと着こなしている様子から、見た目よりはるかに体力はあるに違いない。
鎧を脱げばきっと引き締《し》まった肉体があらわになるだろう。鍛《きた》えられた戦士の肉体である。
一歩進むたびに、金属製の鎧がガシャガシャと鳴り、その音は春風に乗って斜面を伝って流れていった。
日差しは穏やかだが、峠を越えてからというもの、気温はかなり下がってきている。その分、歩くには快適なのだが、噂《うわさ》に名高い白竜山脈の氷の精霊《せいれい》たちが今にも現われそうな不安にかられる。
アラニアは今、内戦のまっただなかにあった。
新王を名乗るアラン公ラスターと、先王派の貴族であり王位継承権の第二位にあるノービス伯アモスンとの大戦は、膠着《こうちゃく》状態を迎えたまま、すでに五年になろうとしていた。
戦っては疲弊《ひ へい》して戦を休止し、戦力を回復させてはまた戦いに臨むという、そんなサイクルの繰りかえしだった。
それは両軍を率《ひき》いる者が現在の地位を失ってまで、相手を倒そうと考えていないためだ、と若い戦士は漠然《ばくぜん》と考えている。今、支配している領域を守ったまま独立した国を興《おこ》せれば、両者とも満足するに違いない。
このままの状態が続けば、いつかそういう話は出るだろう。
今、両者が争っているのは、できるだけ有利な条件で相手と和解することを考えているからだ。薄汚《うすぎたな》い連中だと、若者は思う。しかし、その戦《いくさ》がなくなれば食べていくことさえままならぬ傭兵《ようへい》の身である。自分もその薄汚い連中と同類なのだ。
「オルソン、遅れているわよ!」
凜《りん》とした声が、若者の耳を弾《はじ》いた。
オルソンと呼ばれた若者は、ぼんやりと頭を上げ、先頭を歩く女戦士、シーリスの姿を見た。
小柄《こ がら》で細い身体《か ら だ》をした娘だった。
身体にぴったりとあった|鎖かたびら《チェインメイル》が、彼女の身体の輪郭《りんかく》をはっきりと浮きあがらせている。
空色の瞳《ひとみ》は、顔と比べるとやや大きく感じられるし、燃えるような赤毛に、鼻のあたりにかすかにそばかすが残っているあたり、女性としてまだ成長しきっていないことを感じさせる。
しかし、そのことで、この娘の戦士としての力量を軽くみる者がいたとすれば、その判断が誤っていたことを自分の身体で教えられるはめになるだろう。
細い身体は、無駄《むだ》な肉がついていないからだし、重いチェインメイルを着ていても、俊敏な動きはすこしも損なわれはしないからだ。
なにより剣を扱わせれば、なみの戦士では歯が立たないほどの腕前である。彼女の実力は、ここ二年ほど彼女とロードス島を渡り歩いているオルソンが、いちばんよく知っていた。
シーリスの言うように、総勢七人の一行の中で、彼だけが十歩近く遅れていた。
「そんなに急ぐ必要はないさ。相手は逃げやしないしな。むしろ、逃げてほしいぐらいだと、オレは思っている。そうしたら、無駄《むだ》な血を流さずにすむ」
オルソンの言葉を弱気な発言だとでもとったのだろう。シーリスをのぞく五人の兵士が、大きな声で彼を笑った。
この五人の兵士は、今回の仕事のためにラスター公から借りうけた、アラニア正規軍の兵士だった。
全員、弓兵隊に所属しており、厚手の革鎧《レザーアーマー》を着込み、長弓《ロングボウ》と小剣《ショートソード》で武装している。
シーリスはオルソンの剣の腕前とその気性《きしょう》を知っていたので、笑いはしなかったが、あきらかに気乗りしていない彼の様子に、いらついた気分になった。
オルソンは最初から今度の仕事に対して消極的だった。
今回の仕事の依頼主《い らいぬし》であるラスター公爵《こうしゃく》に、彼が好感を抱いていないからだ。それについては、シーリスにしても同じだったが、引き受けた仕事と支払われる報酬《ほうしゅう》は、雇主《やといぬし》の人柄とは関係ない。
ラスター公は、シーリスとオルソンのふたりに、ザクソンの村から滞納《たいのう》されている税を徴収《ちょうしゅう》してくるように依頼したのだ。
その村は、ここ数年というもの、自らの力で村を治めるからと言って、税を納めようとはしないらしい。何でも、スレインとかいう魔術師がザクソンの村人を扇動《せんどう》しているのだそうだ。
相手が魔法使いと知って、シーリスはその依頼を引き受けることに決めた。
魔法使いなど、すべて邪悪な人間に決まっている。それは魔術師であれ、精霊《せいれい》使いであれ、神の従僕を自称する司祭にしても同じだとシーリスは思っている。
それは、もちろん偏見であったが、同じ考えを抱いている人間は、けっして少なくない。
魔法使いたちの根絶を目的とした秘密結社が存在しているという噂《うわさ》さえあるぐらいなのだ。
それに、魔術師には腕の立つ戦士が護衛についているとのことだった。今までも、何人かの兵士や傭兵《ようへい》がザクソンに向かったのだが、その戦士に阻《はば》まれ、税の徴収に成功した者はひとりとしていないという。
この話も、彼女の心を動かした。
今まで、何人もの戦士と戦ってきたが、どれも彼女にとっては物足らない相手だった。
そのため、彼女は欲求不満に近い感情を抱いていたのだ。一流の腕を持った戦士と手合わせしたいものだと、前々から思っていたのだ。
加えて、報酬の大きさも魅力だった。ラスター公は、徴収した税の四分の一の金額を、シーリスたちに約束してくれた。計算してみると、その額は金貨で一万を越えていた。
しかし、オルソンはそれらの条件を聞いてもいい顔をせず、この仕事は止めておくべきだとシーリスに忠告した。
ラスターという人間が信用できないというのが、その理由だった。
だからといって、ザクソンの村の魔術師が善人とはかぎらないとシーリスは主張し、オルソンを説得してみたのだが、彼にしては珍しいことに、頑《がん》として言うことを聞かなかった。
しかし、最後に彼女が腹を立てて、それならひとりで行くわと言いだすと、この気のいい戦士は、ようやく同行を約束してくれたのだ。
そのことを今さら持ちだしてどうこう言うつもりはない。ただ、オルソンの心の中にあるわだかまりが、彼の剣の振りを鈍《にぶ》らせはしないかと心配する。戦場では一瞬《いっしゅん》の迷いが、命を落とす原因となるのだから。
「ザクソンの村は近いのよ。生き残りたければ、迷いを捨てることね。相手は賢者の学院出身の魔術師なのよ。そこかしこにいるえせ[#「えせ」に傍点]魔術師とは、格が違うわよ」
きびきびと弾《はず》むような声だった。
その声はたとえ怒っているときでも、他人に好感を抱かせる。何より気品の感じられる声だった。
シーリスはカノンの貴族の娘を自称しているが、案外それは本当かもしれない、とオルソンは思うようになっている。貴族の娘が傭兵《ようへい》になるのだから、本当に歪《ゆが》んだ世の中になったものだ。
自分を心配してくれていることが分かったので、オルソンは親指を立てて、大丈夫《だいじょうぶ》だとシーリスに合図を送る。
「しかし、慎重にやろう。向こうの手の内を知らないあいだは、決して強行するべきじゃない」
臆病者《おくびょうもの》め、と罵声《ば せい》が兵士からもれる。それを聞《き》いてオルソンの眉《まゆ》がわずかに動いた。
「その人を怒らせないほうがいいわよ。彼が怒ると、敵も味方も見境《み さか》いがなくなるからね」
シーリスは、兵士たちに向かって、押えた声でそう言った。
オルソンはめったに怒る男ではない。しかし、彼が本当に怒ると、それは誰《だれ》にも手がつけられないほど激しいものになる。
まるで狂ったように剣を振るいはじめ、まわりにいる者をひとり残らず切り倒そうとする。
シーリスの言葉どおり、敵も味方もおかまいなく、だ。
シーリスは、二度、オルソンの怒ったところを見たことがあるが、そのときの事を思い出すたびに、背筋が寒くなる。
反対に、怒りに身を任《まか》せているとき以外は、オルソンは常に自分の行動に対して疑問を抱いているような節《ふし》がある。
それがなぜかはシーリスには分からない。
最初は、優柔不断《ゆうじゅうふだん》な奴なのだと考えていた。
しかし、最近では、もっと根深いところにその理由があるという気がしている。それは勘《かん》にしかすぎなかったが、オルソンに起こった過去の出来事を知ってからは、真実に近いという確信に変わりつつあった。
シーリスの話し方には、真実味があった。その表情からも、ただならぬ気配《け はい》を感じることができたのか、五人の兵士はおたがいの顔を見合わせながら肩をすくめた。それから、自分たちの後ろを歩く戦士の顔を、そっと盗《ぬす》み見るのだった。
その戦士はあくまで無表情に見えた。だが、言われてみれば、そのけだるそうな茶色の瞳《ひとみ》の奥に、狂気に似た暗い炎が燃えているような気がしないでもない。
少なくとも、常人とは違う何かをこの戦士は感じさせた。
何かが喉《のど》につかえるような恐怖《きょうふ》を感じて、アラニア正規軍の兵士たちは、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。
オルソンは、そんな兵士の視線を完全に無視した。
シーリスの言葉は嘘《うそ》ではない。オルソン自身、自らのその性癖《せいへき》を忌《い》まわしく思っていた。
だが、ひとたび怒りをおぼえると、その怒りの感情を制御《せいぎょ》することがどうしてもできないのだ。普段の自分が感情を抱けないでいるのも、怒りの感情だけが突出しているからかもしれないと思っている。
子供のころには、霊感《れいかん》が強いと言われたことはあるものの、他の子供と同じように笑ったり、泣いたりしたし、怒っても自分の力でそれを押えることができた。
しかし、五年前に英雄戦争が始まり、ある事件があってから、オルソンの心の中で何かが変わったのだ。オルソンが戦士になることを選んだのも、その事件があってからのことだ。
それ以来、彼はめったに笑わなくなった。
たまに笑うことはあるが、それもほとんどが愛想《あいそ 》笑いだった。
笑いばかりではない、怒りをのぞくその他の一切の感情から、彼は無縁となっていた。
「見えたわ。ザクソンよ!」
そのとき、シーリスの声が響いた。
彼女は崖《がけ》から身を乗りだすようにしながら、右|膝《ひざ》を地面につき、もう片方の脚の上に左腕をおいた。そして、鋭い視線を眼下に向ける。
重い鎧《よろい》をまったく苦にしていないように、オルソンはシーリスのところまで駆《か》けた。その勢いに驚いて、アラニア王弟軍の兵士たちが道を譲る。
「あれか……」オルソンは、崖の向こうに、大きな村の姿を見つけた。ちょうど昼の支度《し たく》をする時間なので、あちらこちらの家の煙突から、白い煙がたなびいている。
整然と並んだ畑は、青々とした小麦やその他の野菜が植えられており、豊かとは思えないが、けっして貧しいようには見えなかった。オルソンはその様子に、村人の努力を感じたように思えた。
道は曲がっているので、村に着くにはまだしばらくかかると思われた。
「こんな田舎《い な か》の村が独立とはね。税が野菜で支払われないといいけれど……」
シーリスはそうつぶやきながら立ちあがると、膝についた土ぼこりを払って、オルソンと並んでふたたび坂道を下りはじめた。
「作戦を立てておきましょう。いかに村人が無力とはいえ、数に頼られて抵抗されるのは面白くないからね……」
シーリスは、自信に満ちた声で、そう相棒《あいぼう》に話しかけた。
だんだん!
だんだんだん!
玄関を叩《たた》く激しい音がした。そして、彼の名前を呼ぶ声が続いて起こる。
セシル、セシル・ファーレンス、と。
ちょうどセシルは、ささやかな昼食を終えて、魔術書を開こうとしていたところだった。
気合いを入れたところに水をさされたみたいで、セシルは思わず悪態《あくたい》をついてしまった。一瞬《いっしゅん》、居留守《いるす》を使おうかとさえ考えたが、玄関を叩く調子から、もしかすると一大事が起こったのかもしれない。
セシルが師とあおぐスレインは、レイリアとともに北のターバの村に行って留守だから、そのあいだにザクソンの村に何かがあったら、村の自警団長を務める彼の責任となる。
それが居留守を使ったためだったと知れたら、何の申しひらきもできない。
魔術書は、テーブルの上に置いたままにして、セシルは椅子《いす》から立ちあがった。すると背中まで伸びた金色の髪《かみ》が流れて、彼の顔にかかった。
それを両手で無造作《む ぞうさ 》に背中に送ると、髪はしなやかに動いて自然にもとのとおりに落ち着いた。まったく女性が見れば、うらやむような髪である。つやがあり、変な癖《くせ》もない。
もっとも、セシルにとっては、髪などどうでもいいことだった。もちろん、手入れをしたこともない。
セシルは、もともとアラニアの貴族の家の出身だった。
実家は、古くから爵位《しゃくい》をいただく名門である。しかし、彼は五番目の男子だったので、物心つく前に父親が知り合いの魔術師に養子にやってしまったのだ。
養父の話では、セシルの髪は母親譲りらしい。もっとも、養子に出されてからは、両親に会ったこともないので、自分の目で確かめたわけではない。
ふたたび、扉《とびら》を叩く音が響いた。
「今、出る!」
セシルは答えて、こげ茶色の賢者のローブの裾《すそ》を撥《は》ねあげ、小走りに玄関のところまで行くと、樫《かし》の木でできた丈夫《じょうぶ》な扉を押し開けた。
扉の外には、少年がひとり立っていた。
「どうした、アーティン」セシルは少年の名前を呼んだ。
少年は、荒い息をしていた。おそらく、ここまで全力で走ってきたのだろう。
「たいへんだよ。戦士ふうのふたりづれが、村にやってきているんだ。今、表門のところにいて、相談役に会わせろって」
「スレイン師に?」セシルの顔が曇る。「他に何か言っていたかい」
「うん、女の人の方がね、アランから来たんだって。王様の命令で、税を差しだせって言っていた」
少年の話だけで、セシルにはだいたいの察しがついた。
あの恥知《はじし 》らずのラスター公爵《こうしゃく》が、この村から税金を取りたてるために、また兵士か傭兵《ようへい》かを差しむけてきたのだ。ふたりとは数が少ないが、それがかえって不気味だった。
しかし、自分ひとりでも何とかなる、とセシルは判断した。
「よく知らせてくれたね、アーティン。わたしは、これからすぐに表門に行ってみるよ。おまえは、念のためあの人を呼んで来てくれ」
あの人だね、と大きくうなずいて、少年は元気よく駆《か》けだしていった。
セシルは、急いでいったん中に戻《もど》り、部屋の隅《すみ》に立てかけてあった杖を手に取る。それは、昨年の夏にスレインから授けられた賢者の杖である。樫《かし》の古木から取った枝に、魔法の儀式《ぎ しき》をほどこし、その上から上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーン文字で、セシルの名前を刻んであるのだ。
賢者の杖を持つということは、一人前の魔術師の証《あかし》であった。
この杖を授かって、はじめて魔術師を名乗ることができる。それまでは、見習いの身分であり、小振りの棒杖《ワ ン ド》しか与えられない。
セシルは、賢者の杖を右手で強く握りしめながら、村の表門に向かってゆっくりと駆けだした。
セシルが村の表門にたどりつくと、すでに何人かの村人が、アランから来たというふたりの戦士を遠巻きにしていた。中には、鍬《くわ》を構《かま》えている者もいる。
アーティンの報告のとおり、戦士のうちのひとりは女性であった。その女戦士は、村の周囲に巡らされている棚《さく》に腰をかけ、剣の刃先を布《ぬの》で拭《ぬぐ》って、手入れをしていた。
板金《いたがね》の鎧《よろい》を身につけたもうひとりの戦士は、女戦士の後ろで腕組みしながら、威嚇《い かく》するようにするどい視線を村人たちに向けている。
セシルは、村人より三歩ほど前に進みでて、何の用だと大声をあげた。セシルはさらに前に出ようとしたのだが、女戦士はそれを手で制するような合図を送ってよこした。
相手の出方を見るために、セシルはそれに従うことにする。
「おまえが、村の代表なのか?」
女戦士は呼びかけてきた。
そうだ、とセシルは胸を張って答えた。
セシルの姿を見て、村に押しかけてきた女戦士は、拍子抜《ひょうしぬ 》けした気分になっていた。
もちろん、その女戦士というのは、シーリスであった。
彼女の後ろには、オルソンがひかえている。
拍子抜けしたのは、現われた男が想像していたよりも若かったからだ。それに、男にしてはきれいな顔をしているし、表情や態度からも、単純で表裏のない人物に見えた。
それでも、賢者の杖を持っているのだから、この男がスレインという魔術師に間違《ま ちが》いない。魔術師である以上、善人であるはずがなかった。それはシーリスにとっては、信念に近い。
噂《うわさ》に聞く護衛の戦士の姿が見られないのが気になるが、あらかじめ立てた作戦を変更する必要はないと思われた。
そう判断して、シーリスはオルソンに目で合図を送った。オルソンは小さくうなずいて、了解《りょうかい》した旨を伝えかえしてきた。
魔術師は、胸を張るような姿勢で、シーリスに向かってもう一度、用向きを尋ねてきた。男にしては声のトーンが高いが、女性的な顔だちをしているので、かえって違和感がなかった。
「せっかちなのね。国王の使者に対して無礼でしょう。それとも、田舎者《い な かもの》の魔術師には、礼儀という言葉はないのかしら」
シーリスは、多分に挑発《ちょうはつ》するような調子で話しながら、魔術師に向かって鼻で笑うような仕草をした。
シーリスの声は、いつもは耳に気持ちいいぐらいなのだが、ひとたび悪意がこもると、それは確実に相手の神経を逆《さか》なでする。なまじ上品できれいな声だけに、侮辱《ぶじょく》されたという気持ちが先に走ってしまうのだ。
オルソンが打ち合わせのとおりに、下品な笑い声を上げる。感情がこもっていない分、シーリスほどの名演技とは言えないが、それでも十分に効果は期待できた。
案の定《じょう》、若い魔術師は顔色を変えた。
「オレを侮辱するつもりか。ラスターの手先め!」
「あら、侮辱だと理解できるだけの頭はあるみたいね。いかさま魔術師にしておくのは、もったいないわ。どう、あなた、アランの城で働いてみない。その髪《かみ》の毛は、汚《よご》れ物の掃除をするにはきっと便利よ。雑巾《ぞうきん》がいらないものね」
シーリスは左手の甲を口に当てるようにして笑った。
それから、右手で道端の畑に植えられていた熟しかけのトマトの実を一個ひきちぎり、そのまま口に運んでかぶりついた。そして、口に含んだ実をいかにも不味《まず》そうに吐きだすと、食べかけの実を魔術師の顔を狙《ねら》って投げつけた。
あわてて、それを避《さ》けたセシルの顔色は、怒りのあまりみるみる紫色に染まっていった。
今にも、血管が破裂《は れつ》しそうな表情だった。
「許さんぞ、女ぁ!」
セシルは、絶叫《ぜっきょう》して賢者の杖を振りあげた。そして、上位古代語のルーンを唱《とな》えはじめる。
とにかく魔法の力で捕《つか》まえてから、そのあとで、自分を侮辱《ぶじょく》したことを後悔させてやろう。そう、セシルは考えていた。
「何よ! 本物じゃない!」それは、最初から用意されてきた台詞《せ り ふ》だった。もちろん、内心では相手が自分の立てた計略にひっかかったことをほくそ笑んでいた。
シーリスは狼狽《ろうばい》したようなふりをして、後ろを向いて逃げだした。オルソンも、そんなはずはない、とか言いながら、やはりあわてたようにシーリスに続く。最初から、だいぶ距離は離れていたので、すぐにふたりは魔法の届く範囲から、逃れることができた。
「逃さんぞ!」
魔術師は力んだ叫びをあげながら、ふたりの後を追いかけてきた。
もちろん、重い鎧《よろい》を着ているふたりより、彼のほうが速いに決まっている。たちまち、両者の距離が縮まってくる。
「魔術師にしては、なかなかいい脚をしている」シーリスは、なかば感心するようにつぶやいた。
すぐに追いつかれるのは目に見えている。シーリスはチラリと道端に視線を走らせた。
シーリスたちが今、走っている道の両側は一面の畑であり、長い冬を越した小麦の穂が膝《ひざ》の上あたりまで育っていた。その密生した穂が、シーリスたちにとっての切り札だった。
シーリスは、自分たちが予定の場所まで相手を誘《さそ》いだしているのを確認した。首だけを曲げて後ろを確かめてみると、すでに向こうは立ちどまっていて、魔法をかける動作に入りはじめている。
「もう、いいわね」
突然、シーリスは走るのを止めて、魔術師の方に正面から向きなおった。そして、右手を上げて合図を送る。
その合図と同時に、麦畑の中から突然、五人の弓兵が立ちあがって、セシルに向かって弓を引き絞《しぼ》った。
「それまでよ。魔術師さん」シーリスは、にっこりと微笑《ほほえ 》んで腕をかるく組んだ。
「だましたな!」セシルは、悔《くや》しそうな声をあげる。五人の弓兵は、それぞれかなりの間隔《かんかく》を取っていたので、全員まとめて魔法をかけることはできそうにもない。
それに、呪文《じゅもん》が完成する前に矢で串刺《くしざ 》しにされるだろう。
「こんな単純な手にひっかかるとは思ってもいなかったけどね。正面から切りあう覚悟だってあったのよ」
勝ち誇ったようにシーリスは答えて、セシルに賢者の杖を捨てるように命令した。
セシルは、悔しさに歯がみしながら、自分の手に握《にぎ》られた賢者の杖を見た。このまま生き恥《はじ》をさらすよりも、殺されてしまったほうが楽なのではないかとさえ思う。
「勇気があるのはいいことだけど、無駄死《むだじ》になんて馬鹿げたことよ。わたしは、たんにアラニア王から税金を取りたててこいと頼まれただけなのだから。三年分の税金をおとなしく支払えば、あなたの無事《ぷじ》は保証してあげるわ」
シーリスの声は、猫なで声というのがぴったりくるような調子だった。
セシルは、その言葉に安心したわけではないが、やけになるのはまだ早いと判断《はんだん》して、賢者の杖を自分の前に放りなげた。
「いい心がけね」シーリスは満足そうに答えて、賢者の杖を拾いあげようと、セシルの方に歩みよっていった。
そのときだった。
彼女の視界の中に、村の方からやってくる人間の姿が目に入った。
数はふたり。
「例の護衛か!」
そのうちのひとりが、戦士ふうの男だったので、シーリスの心は躍《おど》った。
もうひとりは、まだ子供なのだろうか? やけに背が低いし、身体《か ら だ》の線も細い。髪《かみ》の毛の長いところを見ると、女性かもしれない。
とにかく、向こうの出方を待つことにする。
「あれは、あなたのお仲間かしら、賢者スレインさん」
シーリスは、顎《あご》を前に突きだすことで、長髪《ちょうはつ》の魔術師に後ろを向くように指示を与えながら、そう尋ねてみた。
「スレインだって?」それまで、怒りと悔しさで胸が張《は》り裂《さ》けそうだったセシルであったが、今の女戦士の言葉で、すこしは心が晴れたような気がした。
こともあろうに、相手は自分とスレインとを間違《まちが》えているのだ。
「おまえは、オレたちに勝ったつもりでいるようだが、それは大きな間違いだぞ。まず、オレは、スレインという名前ではない」そして、セシルは後ろを振りかえって、予想したとおりのふたりがやってきているのを確認して安堵《あんど 》した。「それに、あの人たちが来てくれたんだからな」
「そんなでまかせには、乗らないわよ」
そう言いながらも、シーリスはこの若い魔術師は、彼自身が言うとおりスレイン本人ではないだろうと判断していた。
しかし、ここで自分が狼狽《ろうばい》しては、オルソンはともかく、弓兵たちが動揺すると思い、そう答えたのだ。
「それに、あなたが誰であろうと人質《ひとじち》には違いないわ。ご覧なさいな。あなたが期待しているふたりの救援も、立ちどまったまま動こうともしないじゃない」
しかし、セシルにはなぜ、ふたりが立ちどまっているか、理由が分かっていた。思ったとおり、彼の身体の周囲《しゅうい》に自然の風とはあきらかに違う、不規則な空気の流れが起こりはじめた。
そして、セシルの耳にささやきかけてきた声がある。それは、風の精霊《せいれい》、シルフの力による遠話の呪文《じゅもん》に違いなかった。
「いいわよ、セシル。シルフの守りをかけた。もう弓は気にしないで大丈夫《だいじょうぷ》」
その声は、間違いなくハイ・エルフの精霊使い、ディードリットの声だった。
「ありがたい!」
セシルは足で賢者の杖を蹴《け》りあげると、それを空中でうまくつかまえた。そして、上位古代語《ハイ・エンシェント》のルーンを唱《とな》えようと、杖を構《かま》えなおす。
もちろん、それを黙って見ているようなシーリスではなかった。
「警告したわよ」と叫びながら、弓兵に矢を射るように合図をした。
そして、自《みずか》らは剣を抜いて、用心深く身構える。そのときにはすでに、若い魔術師の後ろから走りくる戦士の方に意識が向いていた。
隣《となり》で、オルソンが剣を抜く気配《け はい》も感じる。
「殺さなくてもいいだろうに」オルソンは、そうつぶやいたようだ。
だが、もはや弓兵たちの矢は放たれていた。
風を切り裂《さ》いて五本の矢が、セシルに向かって飛んでいく。
その矢は、たがうことなく、セシルの身体《か ら だ》に突きささった――いや、そのはずだった。
しかし、矢は彼の身体の前までくると、急に向きをかえ、あらぬ方向に飛んでいったのだ。
「風の精霊の仕業《し わざ》なの!」
それを見て、シーリスははじめて自分が大きな見落としをしていたことを知った。
新手《あらて 》のうちの戦士の方に気を取られるあまり、もうひとりに注意を怠《おこた》っていたのだ。
駆《か》けよってきて、距離が近くなっている今ならばはっきりと分かるが、新手のもうひとりは、エルフだったのだ。エルフならば、精霊使いであって当り前である。
「そんな話は聞いていないわ!」
シーリスはラスター公爵《こうしゃく》に向かって唾《つば》を吐きかけてやりたい気持ちになった。
魔術師が、スレインという人物の他にもうひとりいて、それにエルフの精霊使いがいるなど、これでは手練《てだ》れの戦士が十人でかかっても勝ち目がない。
魔法使いがひとりだけなら、対処《たいしょ》のしようもあったのだ。
しかし、魔法使いはその数がひとり増えるだけで十倍にも強くなっていくものだ。特に、異なる系統の魔法使いが協力したときには、その力は恐るべきものとなる。
シーリスは、自分のもくろみが甘かったことを認めないわけにはいかなかった。
「眠りをもたらす、安らかなる空気よ!」セシルの眠りの雲の呪文《じゅもん》は、完成した。
自分の魔法の力では、ふたりの戦士には効果が及ばないかもしれないと判断《はんだん》して、後ろの弓兵のうちの三人を目標に、呪文の力を解放する。
効果はあり、狙《ねら》った相手がパタパタと倒れていった。
それから、間髪《かんはつ》を入れず、セシルは後ろを向いて駆《か》けだした。例の女戦士が、剣を抜いて向かってきたからだ。
自分の力で何とかしてやりたいのは山々だが、今は杖以外の武器は持っていないし、鎧《よろい》も身につけていない。
対して、相手は完全武装である。どう見てもセシルのほうが不利だった。
「セシル! あとは、任せろ!」
そのとき、気合いのこもった声がセシルの耳に届いた。セシルは、自分の方に駆《か》けよってきている戦士の姿を見た。
薄い茶色の服に革《かわ》製のズボンを身につけただけの軽装《けいそう》だった。
しかし、その手に握っている剣は、魔法のオーラを発しており、刃に反射する春の日差しをさらに増幅させて、白く輝いている。
左手に握られている|方形の楯《ヒーターシールド》も、強い魔力を帯《お》びている。
パーンだった。
パーンは村の少年アーティンが玄関から飛びこんできたとき、ディードリットが食事の後片付けをしているのを眺めながら、ぼんやりと考え事をしていた。
それは、先日、ターバのマーファ神殿から使いがやってきて、スレイン夫妻を呼びだしたことや、神聖《しんせい》王国ヴァリスの新王誕生の噂《うわさ》に関することだった。
そのくつろぎを突然、破られて、パーンはあやうく椅子《いす》から転げおちそうになったものだ。
しかし、アーティンから侵入者《しんにゅうしゃ》の話を聞くと、すぐに冷静になって行動に移った。
鎧《よろい》を着ている時間はないと判断し、剣と楯《たて》だけを手に取ると、村の表門に向かって駆《か》けだしたのだ。
そのとき、後ろで木製の皿が落ちる乾《かわ》いた音が聞こえたのは、ディードリットもパーンに続いたからだ。
表門のところで、村人からセシルがふたりの戦士を追いかけて、畑の方に向かっていったという話を聞いて、パーンたちはそのままセシルを追って、駆けつづけてきた。
しかし、そこは幾度もの戦いで鍛《きた》えられたパーンのこと、相手の女戦士と向かいあったときも、息の乱れはまったくなかった。
パーンは、楯《たて》を前に押し出すように構《かま》えながら、女戦士と対峙《たいじ 》した。
「剣を収めろ! さもないと、容赦はしないぜ」
パーンは、相手が女だと聞かされていたので、最初から剣を交《まじ》えるつもりはなかった。とは言うものの、もちろん、それは相手|次第《し だい》のことである。相手があくまで手向《て むか》う気ならば、パーンとて応じないわけにはいかない。
三年前のナルディアの一件以来、パーンは女性と戦うことだけは二度とごめんだと考えていた。
「あなたのことは、噂《うわさ》には聞いているわ。手に持っているのは、どうやら魔法の剣のようね」
シーリスは答えながら、パーンを値踏みするように横に移動する。
すこし遅れたオルソンが、そのとき隣《となり》にやってきた。
「手は出さないでよ、オルソン。こいつはわたしの相手なんだから」
「馬鹿なこと言うなよ。相手は噂以上の手練《てだ》れみたいだ。ひとりでは、あぶない」
「だから、面白いんじゃない。わたしはこんな相手と手合わせしてみたかったのよ。それより、あなたは後ろにいるふたりの魔法使いを牽制《けんせい》してちょうだい。魔法で援護されたら、こちらに勝ち目はないんだから」
どうあがいても勝ち目はなさそうだ、とオルソンは思った。しかし、シーリスにとっては、勝ち負けよりもこの目の前の戦士と戦ってみたいという欲求のほうが強いのだろう。
オルソンは、仕方なく目の前の戦士を迂回《う かい》するために、畑に足を踏みいれながら、魔術師とエルフ娘に向かっていく。
見れば、残るふたりの弓兵も、すでに若い魔術師によって魔法で眠らされてしまっていた。
エルフ娘の方も精霊語《サイレント・スピリット》のルーンを唱《とな》えはじめていた。
ディードリットは、森の精霊ドライアードの魅了《みりょう》の力を使おうとしていた。
一方のセシルは賢者の杖を構《かま》えて、彼女の前に立ちはだかっていた。彼はパーンから剣術も学んでいたので、並みの戦士ならば五分に戦えるだけの実力がある。
だが、その必要はなかった。
オルソンが自分の心に侵入《しんにゅう》してくる魔法の力に、かんたんに屈してしまったからだ。
彼の心に不思議な感情が満ちはじめてきた。それは、彼には決して感じられないはずの、怒り以外の感情だった。
目の前のエルフ娘がもっとも親しい仲間のように思えてくる。
「そんなはずは?」
ディードリットは、想像していたよりはるかに簡単に、相手の戦士を魅了の呪文《じゅもん》で捕《つか》まえることができたので、むしろ驚いていた。
ディードリットの精霊使いとしての能力は低いものではない。
それにしても、当然あるはずの抵抗さえ感じさせず、この戦士は呪文の影響を受けてしまっていた。まるで、もとから対抗する感情がないみたいだった。
普通の人間では、絶対に考えられない。
しかし、今はそれについて深く考えている場合ではないので、ディードリットはパーンの方に注意を向けた。
魔法で援護しようと思ったのだが、どうやらそれも必要なさそうだった。
パーンは三年前よりも、さらに剣の腕を上げており、しかも魔法の剣の力もあってよほどの戦士でなければ太刀打《たちう》ちできないまでになっていた。
パーンは、相手の女戦士を確実に追いつめており、決着が今にもついてしまいそうだった。
「剣を捨てろ! おまえじゃ、オレに勝てない!」
すばやく剣を振るい、相手を防戦いっぽうに追いつめながら、パーンは女戦士に呼びかけた。
当のシーリスにも、それは十分に理解できた。相手が自分よりも数段に強く、いつでも自分を切りすてられるということを。
シーリスは、自分の戦士としての限界をはじめて知り、同時に相手に対して尊敬の気持ちさえ感じていた。
負けた、とシーリスはあっさりと認めた。
負けたうえは、殺されてもやむをえない。それが戦いというものだからだ。
シーリスにとって、戦いは殺しあいである以前に、勝負である。無抵抗な人間を切り殺すのとはわけが違うのだ。お互い、命をかけて戦っている以上、負けて死んだとしても、相手を非難できる理由はない。
もちろん、逆の場合も同じである。
しかし、シーリスは殺されたくないと正直に思った。
死ぬことに対する恐怖《きょうふ》からではない。
生きるということに執着《しゅうちゃく》しているからだ。どんな恥をかこうとも、生きる方を選ぶというのが、シーリスの考えの根底にあった。
「負けを認めるわ、戦士さん」
シーリスは、その意志を示すように、左手を大きく上げ、右手の剣を地面に投げすてた。
相手の戦士は、シーリスが予想以上に素直に従ったので、かえって怪しいと思ったのだろう。剣をシーリスの胸もとに突きつけたまま、用心深く彼女の動きを観察していた。
視線をそらすことなく、つま先で落ちた剣を探しあてると、それを後ろに蹴《け》りとばす。
後ろで様子をうかがっていた若い魔術師がその剣を拾いあげる。
「さて、話を聞かせてもらおうか」相手の戦士はようやく安心して、シーリスに呼びかけてきた。
「もちろん、負けたのだから、あなたの言葉には何でも従うわ。わたしの身体《か ら だ》が欲しいというなら、あげてもいいわよ。それで命を助けてくれるというならね」
シーリスは表情も変えずにそう言ってのけた。
その言葉を聞いて、パーンは唖然《あ ぜん》とした顔をした。そんな言葉をこんな若い女性から聞くとは思ってもいなかったのだ。
彼は、助けを求めるようにディードリットの方をうかがった。しかし、ディードリットは一言、二言文句らしいことを言って、そっぽを向いてしまった。
言葉のやり場のなくなったパーンは、どうしたものかと、ふたたびシーリスの方に向きなおる。しかし、適当な言葉も見つからず、視線をシーリスと合わせることさえできない様子だ。
シーリスは、エルフとのやりとりからこのふたりの関係を察すると同時に、純情なところもあるこの戦士に、ふと、好感を覚えていた。
「あなたが望まないのなら、べつに構《かま》わないのよ。無条件で助けてくれるなら、それに越したことはないからね」
微笑《ほほえ 》むように、シーリスは言った。
パーンの剣先はまだシーリスに向いていた。どう自分を扱うべきか判断《はんだん》がつきかねているのだろう、とシーリスは思った。
そのとき、不気味《ぶきみ》なうなり声が、シーリスの耳に届いた。
リィ……リィィ……、と響《ひび》く、低い声。
シーリスは背筋が冷たくなっていくのを押えることができなかった。
その不気味な声は、オルソンが発していたのだ。
シーリスは彼が、この不気味な呻《うめ》き声を上げるのを、今まで二度聞いたことがある。
「早くわたしに向けた剣を下ろして! でないと、オルソンが……、あの戦士が抑えられなくなってしまう!」
シーリスはパーンに向かって絶叫するように呼びかけた。
しかし、パーンには相手の言葉の真意がまったくつかめなかった。
「おまえが、おとなしくしていると誓うならな」相手の豹変《ひょうへん》ぶりに驚きながら、パーンは答えた。
「さっきから、そうしている!」
と、シーリスが言ったときだった。
リィィィィッ!
大きく響きわたる唸《うな》り声がオルソンの口から発せられた。
その声の大きさと異様《い よう》さに驚いて、ディードリットとセシルも若い戦士に注目する。
「あいつは、何者なんだ!」
パーンが男の異様さに不安なものを感じたのか、シーリスに尋ねてくる。
「やめなさい、オルソン!」もう遅いと思いつつ、シーリスはオルソンに呼びかけた。
思ったとおり、オルソンから返事は返ってこなかった。
「どういうことなんだ」ふたたびパーンが尋ねてくる。
「あいつは、一度、怒って暴れだすと誰《だれ》にも手が付けられなくなるの。だから、あなたに剣を引けと警告したのに。あいつは、昔、実の姉を目の前で殺されて以来、女性が殺されそうになるのを見ると、ああして狂ったように戦いはじめるの。一度、そうなってしまったら、あいつが疲れて倒れるまで逃げるしかないわ。狂人と戦うのは、正気の人間のすることではない」
「パーン、その人の言うとおりよ! ここは逃げたほうがいい。その男、もしかすると狂戦士《バーサーカー》かもしれない」
後ろから、ディードリットが緊迫《きんぱく》した声で呼びかけてきた。
「狂戦士だって!」パーンは、驚いて叫び声をあげた。
狂戦士の話は、パーンも聞いたことがあった。それは、人間が本来持っているはずの限界を越えた戦士の伝説である。
狂戦士は疲れを知らない。戦場でのあらゆる恐怖《きょうふ》からも、解放される。
そして、超人的な体力を発揮し、戦いつづける。
狂戦士には、もはや敵や味方さえ関係なくなる。その場にいる者、すべてに襲《おそ》いかかるのだ。
しかし、狂戦士伝説のもっとも恐ろしいところは、戦いのあとにひとりの生者も残らないということだ。
狂戦士は自分の死にさえ気がつかずに剣を振るい、戦いが終わったあとにそれを知り、死ぬ。
燃えあがる王城から炎に包まれたまま姿を現わし、敵の兵士、百人あまりを切り殺したある小国の騎士《きし》の伝説や、アラニアの軍船五|隻《せき》を道連れにした海賊王《かいぞくおう》の伝説など、狂戦士にまつわる伝説はロードスにもいくつかある。
しかし、あくまで伝説の話だとパーンは思っていた。
「こいつは、本当に狂戦士なのか?」パーンには、ディードリットの言葉が信じられなかった。
「たぶん……。あたしには見えるの。あの男に取りついている精霊《せいれい》の姿が……。あれは、怒りを司《つかさど》る精神の上位精霊、ヒューリーよ」
ディードリットは、そう言いながら、パーンのもとに駆《か》けよってきた。
「さっき、あたしはあの男にドライアードの力を使ったの。ドライアードは、植物に宿る精霊だけど、精神を司る精霊でもあるの。相手に偽《いつわ》りの感情を与え、魅了する力を持っているわ。でも、ドライアードの力は、すでにあの男を束縛《そくばく》してはいない。怒りの精霊の姿が見えるだけ……。おそらく、ドライアードは引き裂《さ》かれてしまったんだわ」
「それが、狂戦士とどんな関係があるというんだ!」
「あるのよ。怒りは、すべてのものを破壊しようという衝動《しょうどう》なの。だから、生きとし生けるすべてのものを殺そうと戦う。そして、自《みずか》らの精神を爆発《ばくはつ》させて、死ぬ。怒りの精霊に取りつかれて死んだ者は、魂《たましい》すら消滅してしまうと言われているわ」
「つまり、怒りの精霊とやらに取りつかれた者が、狂戦士になるってことか」
パーンはごくりと唾を飲みこんだ。そして、思いだしたように剣を構《かま》えなおす。
「だから、逃げないと……」ディードリットは、パーンの服の袖《そで》を引っ張《ぱ》った。
リィィィッ!
狂声をあげながら、若い戦士が突っこんできた。剣先が、あきらかにディードリットを狙《ねら》っていた。
「ディード! 危ない!」
「きゃあー!!」
パーンの絶叫《ぜっきょう》にディードリットの悲鳴が重なった。
狂戦士の攻撃《こうげき》は、おそるべき速さだった。
パーンがディードリットを突き飛ばさなければ、ディードリットは間違《ま ちが》いなく殺されていただろう。それでさえ間に合わず、ディードリットの右腕からは赤いものが飛び散っていた。
「大丈夫か、ディード!」
「だ、大丈夫。傷は浅いわ。それより、早く逃げないと!」
「もう、遅いぜ。それに万が一、村にやってきたら取り返しがつかないしな」
パーンは狂戦士と化した男の動きに注意を払いながら、そう答えた。
「それより、ディード。それに、セシル。おまえたちは逃げろ!」
しかし、ふたりは彼の言葉に従う様子を見せなかった。
「あんたも、逃げていいんだぜ」
パーンは、唇《くちびる》を噛《か》むように駆《か》けよってきた女戦士にも、そう声をかけた。
「あいつは、わたしの相棒《あいぼう》なのよ。それに、あなたには、命を助けてもらった借りがある。どちらも、殺させるわけにはいかないわ!」
シーリスは、馬鹿にするなというように強い調子で言いかえしてきた。
「せっかく助かった命、無駄《むだ》にする必要もあるまいに……」
妙なところで義理がたい女性だと、パーンは苦笑いを口許《くちもと》に浮かべた。案外、悪い人間ではないのかもしれない。
リィィィィィッ!
そのとき、ふたたび若い戦士から奇声が発せられた。一旦は、駆けぬけて離れていたのだが、ふたたび攻撃を仕掛けてこようとしていた。
ディードリットは、傷口を押えながら懸命に苦痛に耐えていた。押え切れぬ痛みに、ときおり、あえぎを洩《も》らしている。
自分で言った以上に、傷は深いらしい。
セシルはディードリットを庇《かば》うように立ちながら、古代語の力でパーンを援護しようと、複雑な身振りとともに上位古代語のルーンを発している。
そして、シーリスはオルソンの前に進みでて、自分の無事《ぶじ》を示すように手を横に広げた。
「やめるのよ、オルソン! 誰《だれ》も殺されやしないわ。あなたが怒る理由なんてないのよ!」
しかし、狂戦士と化したオルソンは、そんな説得などには耳をかさず、剣を振りまわすように、今度はシーリスに向かって突っこんできた。
「あぶない!」
パーンは狂戦士の攻撃《こうげき》を女戦士の目前で、自分の剣を使って受けとめた。人間離《ばな》れした恐るべき力が、パーンの右腕にずしりと伝わってくる。
圧倒的なまでの力に堪《た》えられず、パーンの剣は弾《はじ》かれた。勢いあまった狂戦士の剣が、女戦士の右肩にざくりと食いこむ。
真っ赤な鮮血が傷口から噴《ふ》きだしてくる。
「やめるのよ、オルソン!」
肩を襲《おそ》った激痛に顔を歪《ゆが》めながら、女戦士はなおも叫んでいた。
パーンの剣と鎖《くさり》かたびらが勢いを止めていたので、致命傷《ちめいしょう》にはなっていないだろう。
「剣を引きなさい、オルソン!」
女戦士は、狂戦士に向かって説得を続けていた。
その甲斐《かい》があったのか、狂戦士の放つ奇声が、静まったように感じられた。狂ったような剣の動きも、それにつれて止まる。
隙《すき》をついて、パーンは相手の首を狙《ねら》って剣の一撃を見舞おうとした。いかに狂戦士とはいえ、首と胴《どう》が離れれば戦えまいと考えたのだ。
しかし、その動きを見てとった女戦士が、すばやく彼と狂戦士とのあいだに割ってはいる。
「なぜ、邪魔する!」パーンは、あわてて剣を引きながら怒鳴《どな》る。
「この男を殺さないで! わたしは、こいつがこんなふうになったのを、今まで二回見たことがある。いずれのときも、しばらくしたら気を失って動かなくなった!」
「今度もそうなるとは限らないだろう。このままだと、あんたも殺されてしまうんだぜ!」パーンは叫びながら、女戦士を押し退《の》けようとした。
女戦士は押し退けられまいとしながら、さかんに狂戦士を説得しようと呼びかけているが、その努力も虚《むな》しく狂戦士の口からは、ふたたび例の奇声が洩《も》れはじめていた。
「やはり、倒すしかない!」
「わたしに任せて!」女戦士はチラリとパーンを一暼《いちべつ》して叫んだ。
「やめなさい、オルソン! 剣を引くのよ。もう、争いは終わったわ。誰も殺されやしない。わたしも、それにあなたのお姉さんもよ!」
パーンの後ろでは、ディードリットが傷の痛みに顔を歪《ゆが》ませながら、矢継《やつ》ぎばやに精霊語のルーンを唱《とな》えていた。
「何をするんです」と、セシルが尋ねる。
「いろんな精神の精霊をぶつけてみるの。精神の精霊は、他の精神の精霊を嫌うから。うまくいけば、あの男を支配している怒りの精霊を押えることができるかもしれない。とにかく、パーンを援護しないことには……」
ディードリットは、その言葉どおり、精神の精霊を次々と召喚《しょうかん》していった。
美しい姿をした森の乙女ドライアードが現われたかと思うと、今度は満面に笑みを浮かべた小鬼のような困惑《こんわく》の精霊レプラコーンが姿を現わす。最後に暗黒の球体が一瞬《いっしゅん》、膨《ふく》らんだかと思うと、弾《はじ》けるように消えていった。闇《やみ》と恐怖《きょうふ》を司《つかさど》る精霊、シェードである。
ディードリットはそれらの精霊力を使って、怒りの精霊の力を乱そうと、さまざまな精神支配の呪文《じゅもん》を繰《く》りだしていった。
魅了《みりょう》、混乱《こんらん》、恐怖など、それらは下位に属する精霊の力を利用したものだった。精神の上位精霊であるヒューリーに対しては、有効な手段とならないかもしれない。だが、ディードリットは他にいい方法を思いつかなかったのだ。
一瞬でも、狂戦士の注意をそらせればと期待したのである。
期待どおりの効果があったのか、若者は自分の頭を抱《かか》えてうめきはじめた。
「効いているみたいだぞ。ディード、続けてくれ」パーンはディードリットに呼びかけた。
しかし、狂戦士からは一瞬たりとも視線をそらさない。
ディードリットは、パーンに励まされるように、もう一度、精神支配の呪文を順番に行使していった。
「うっ、うお〜っ!!」
若い戦士の口から、悲鳴がもれた。だが、それは間違《ま ちが》いなく人間の発する悲鳴であった。
そして、彼は膝《ひざ》からくずおれるように地面に倒れていった。
「とどめを、パーン!」
「分かっている」
パーンは、ディードリットに答え、剣を逆手《さかて 》に持ちかえた。そして、倒れて動かなくなった狂戦士に向かっていこうとする。
「待って! お願い、彼を殺さないで!」
シーリスがそう叫びながら、両手を真横に広げて、パーンとオルソンの間に立った。
「そこをどけ!」
「いいえ、どかないわ! こいつは、もう普通に戻っているのよ。だから、意識を取りもどしても大丈夫《だいじょうぶ》!」
「どうあっても、どかないつもりか」
「ええ、どかないつもりよ。どうあっても、彼を殺すというなら、わたしが相手になるわ! 勝てないとは分かっているけど、仲間を見殺しにはできない!」
「仲間を見殺しに……か」
パーンは、その言葉を聞いて深くため息をついた。
レイリアを救うために死んでいったギムのこと、フォースを庇《かば》って死んだデニのこと、そして部族の者の命を救うために死んでいったナルディアのことが、パーンの脳裏《のうり 》をよぎっていった。
その場に張りつめていた、緊張《きんちょう》の糸がプツンと切れたような気がした。
深いため息をついて、パーンは道ばたに腰を下ろした。
身体《か ら だ》も心もくたくたに疲れていた。肩で息をしながら、吹きだしてきた額《ひたい》の汗を、服の袖《そで》で拭《ぬぐ》いとる。
女戦士とディードリットも、パーンにならうように、地面に腰を下ろした。
セシルが自分の衣服の袖を破りとって、ふたりの傷口を縛《しば》る。その作業のあいだ、三人とも一言もしゃべらなかった。
空白の時間が、しばらく流れた。
「礼を言わせてもらうわ。戦士さん」ようやく気持ちが落ち着いたのか、女戦士がパーンに声をかけてきた。
「ところで、わたしたちをどうするおつもり?」
「なんだか、どうでもよくなってきた。二度とこの村に来ないと誓うなら、このまま帰ってくれていいぜ。その物騒《ぶっそう》な戦士を連れてな」
と、倒れたままピクリとも動かぬ狂戦士に目をやりながら、パーンは言いすてた。
「そうはいかない。これだけの恩を受けて、そのままなんて傭兵《ようへい》の仁義《じんぎ 》に反するわ。何か手伝えることがあるなら、ただで協力させてもらうわよ」
「しかし、あんたはラスター公に雇われた傭兵だろう。契約《けいやく》はどうするんだい?」
「奴《やつ》との契約は、もちろん破棄《はき》よ。あいつは、ずいぶんと嘘《うそ》を言ってくれたしね。奴に刃《やいば》を向けないことがせめてもの傭兵の仁義よ。わたしの腕はそんなに安くはないのよ」
シーリスはあわててそうまくしたてた。
言いながら、なぜ自分があわてなければならないのか疑問に思い、そして気がついたことがあった。
この戦士に、何となく惹《ひ》かれるものを感じているのだ。このまま立ち去ってしまうのが、惜しいような気がするのだ。
パーンはラスター公が言ったという嘘とはなんだったのだろうと、疑問に思ったが、すぐにどうでもいいという気になった。
自分たちは村を襲《おそ》ってきた傭兵の命を、わざわざ助けたことになる。しかも、こちらも命がけでだ。
自分の人の好《よ》さに、あきれてしまう。だが、悪い気はしなかった。久しぶりに仲間と一緒《いっしょ》になって、物事を成しとげたという実感さえしている。
「あんたもずいぶん義理がたいんだな。それは立派だと思うが、さしあたりオレたちにはしてもらいたいことはない……」
そのとき、パーンを呼ぶ声が村の方から聞こえてきた。
パーンは、もう首を曲げるのさえ面倒なくらいだったが、聞きおぼえのある声だったので、そうしないわけにはいかなかった。
思ったとおり、紺色《こんいろ》のローブを着た男の姿が目に止まった。
痩《や》せてはいるが、背はかなり高い。まったくあわてたふうもなく、ゆっくりとした歩調でパーンたちの方に近づいてくる。
スレイン・スターシーカーだった。
最近では北の賢者とも呼ばれている魔術師。ザクソンの村の相談役であり、村の自治に関する実質的な指導者である。
「あれが、本物のスレイン師だ」いばったように、セシルがシーリスに説明する。
「そんなこと、もう、どうでもいいわよ」
シーリスは、重い鎖《くさり》かたびらを脱いで水浴びをしたいと心の底から思っていた。雪|解《ど》けの冷たい水に、素裸《すはだか》で飛びこめばどんなに気持ちがいいだろうと。
結局、誰《だれ》も動こうとしなかったので、スレインがパーンたちのところにやってくるまでずいぶん時間がかかった。
そのあいだに、四人はだいぶ疲労から回復していた。しかし、まだ立ちあがる気にはならない。
「何をこんなところで、油を売っているんです」
スレインは、倒れたままのオルソンやシーリスを気にも止めず、いきなりパーンに話しかけてきた。
「ずいぶんな挨拶《あいさつ》だな。こっちは、村のために死にそうな目にあっていたんだぜ」パーンが口を尖《とが》らせて、スレインに文句を言う。
「見知らぬ戦士と仲よく座りこんでおいて、まるで説得力がありませんよ。それより、パーン。どうやら、また旅に出なくてはならないようですよ。マーファ神殿の義母《はは》から、とんでもない話を聞かされました」
「今日は勘弁《かんべん》してくれ。明日でいいなら、竜《ドラゴン》とだって戦ってやるから」パーンは、なげやりに答えた。
その言葉を聞いて、スレインが驚いたような顔をした。
「そうですか、それは助かります。いかにあなたをドラゴンと戦ってくれるように説得すればいいかで悩んでいたんですが、これでその問題は解決しました。明日でけっこうですから、手伝ってくれますよね。しかし、よく相手がドラゴンだと分かったものですね」
スレインの口調《くちょう》が、まったくいつもどおりだったので、パーンは最初、この魔術師が冗談《じょうだん》を言っているのかと思った。しかし、スレインは無駄《むだ》な冗談を言う男ではない。
「ドラゴンと、戦えだって……」
パーンの全身の汗が、一度に凍《こお》りついた。
最強の種族と言われるドラゴンと戦う、それがどれほど無謀であるかは、子供だって知っている。
「どうやら、あなたに恩を返せそうな様子ね。わたしの名は、シーリスっていうの」
女戦士が茫然《ぼうぜん》としているパーンに向かって、そう言って片目をつぶってよこした。
スレインの家には、パーンとディードリット、それにセシルに加え、アランからやってきた女戦士のシーリスまでが顔をそろえていた。
一同は、丸い木製のテーブルに着き、今は雪解けの冷たい水の入ったグラスをおいしそうに口に運んでいる。
狂戦士と化した若い戦士は、あいかわらず意識を失ったままだった。
今は奥の部屋のベッドに寝かされており、スレインとレイリアの介抱《かいほう》を受けている。
シーリスとディードリットも、スレインの妻レイリアの癒《いや》しの呪文《じゅもん》を受けて、傷口を塞《ふさ》いでもらっていた。
「ところで、どうしておまえがここにいるんだ。ついてこいなんて、言ってはいないぞ」セシルが女戦士に向かって人差し指を突きつけながら言う。
かなり腹を立てている声だった。
「あなたには関係ないでしょ。この戦士には勝負に負けたし、そのうえ、命を助けられた。オルソンを殺さないでもいてくれた。これだけの恩を受けて、それを返さないなんて、わたしの主義に反するのよ」
憮然《ぶ ぜん》としたセシルの表情など、気にもしていないように、シーリスはさらりと言ってのけた。しかし、彼らについていきたいと思う本当の理由を、シーリスは語っていなかった。
「まあ、落ち着けよ、セシル。彼女は、そんなに悪い人間じゃなさそうだ。自分の命を危険にさらしてまで仲間を助けようなんて立派な心がけじゃないか。それに、このままこの女性を解放するわけにもいかないしな。オレたちがザクソンを留守にすることを、アランのラスター公爵《こうしゃく》には知られたくない」
セシルはまだ何か言いたそうだったが、パーンの言葉に納得《なっとく》したのか、シーリスから目をそらして、気分を落ち着けさせるように残った水を一気にあおった。
そのとき、スレインが奥の部屋からやってきて、自分の席に着く。
後ろに白い神官衣に身を包んだ色白の女性が続いていた。左胸に大地母神を表わす紋章《もんしょう》が刺繍《ししゅう》されている。
スレインの妻、レイリアである。
「どうなの、レイリア。あの戦士の様子は?」彼女が入ってくるのを待ちかまえていたように、ディードリットが尋ねた。
「ひどい過労ですが、命に別状はないと思います。しかし、いったいあの人は、何をしたというのですか。身体《か ら だ》も心も、ぼろぼろみたいですよ」
レイリアはスレインの隣《となり》の席に腰を下ろしながら、オルソンの状態を説明した。
それを聞いて、シーリスが礼の言葉を言う。
「あの戦士がなぜああなったのか、あまり思いだしたくはないわね」ディードリットは身ぶるいするように言った。
それで、パーンがあとを受けて、さっきのできごとをレイリアに説明した。
レイリアはパーンから若い戦士の狂戦士化の話を聞くと、暗い表情を浮かべながら天井《てんじょう》を仰ぎ、一言マーファの名を唱《とな》えた。
「そうですか、そんなことが……。あの戦士にとっては、つらい試練ですね。それを乗りこえる力になってあげられればいいのですが……」
そんなレイリアの様子を見て、スレインがおやっといった表情になり、ついで大きくうなずいた。
「あなたが思いつめる必要はないんですよ」そう、声をかける。
「ええ」とレイリアがうなずきかえす。
「あたしは狂戦士とかかわりになるなんて、御免《ご めん》こうむりたいわ。もともと、精神の精霊《せいれい》という奴《やつ》はやっかいなものなのよ。特にその上位精霊である怒りの精霊ヒューリーや、悲しみの精霊バンシーときたら、もう最悪。どんなに熟練した精霊使いでも、彼らを支配することはできないわ。それどころか、ひとつ間違うとこちらが支配されてしまう。そうなったら、助かる術はほとんどない。狂戦士となって、精神を爆発させて死ぬか、悲しみに包まれながら自らの精神を消滅させてしまうだけ。彼らと比べたら、まだ炎の魔神エフリートのほうが扱《あつか》いやすいぐらいよ」
ディードリットは、いまいましげに言った。
「精霊たちが、この世界では自由に力を振るえないということに感謝するしかないな。オレはとにかく剣が通じる相手以外は、敵にしたくない」そう言ってから、パーンは苦笑をもらし、「いかに剣の通じる相手とはいえ、ドラゴンだけは例外にしたかったけどな」と、付け加えた。
「とにかく、スレイン師。話とやらを聞かせてください。わたしで役に立つことなら、何でも力になりますから」
セシルの顔は、真剣そのものだった。
それを見て、シーリスがかるく笑う。
「意気込みはけっこうだけど、あなたじゃあきらかに役不足[#「役不足」に「ママ」の注記]だ[#「役者不足」の誤記]わ。すくなくともドラゴンは、わたしよりも強いのよ」
「あなたの剣の腕は知りませんが、彼の魔術師としての実力は、それほど低くはありませんよ。どうやら、あなたに遅れをとった様子ですが、戦うのは魔術師の大切な仕事ではありませんからね」やんわりとシーリスに言ってから、スレインは一同を見渡すように言葉を続ける。「それよりも、義母から聞いた話というのをお伝えしましょう。そして、我々が何をなすべきかを決めなければなりません」
「そんな重要な話を、この女に聞かせていいのですか」
顔色を変えて、セシルが立ちあがる。
「そうですね。先程からの様子ですと、信用できると思えますが。それにわたしの話を聞いても、彼女が損をしたり得をしたりするわけでもありませんしね」
そう言いながらも、スレインはレイリアの方をうかがった。
それに気がついて、レイリアはそっとうなずき、彼の意見に同意した旨《むね》を伝えかえす。
息のあったスレインたちの様子を見て、パーンはかすかに口許《くちもと》をほころばせながら、そっとディードリットに視線を送った。
ハイ・エルフの娘は、ちょうど自分のグラスに二杯目の水を注いでいるところで、彼の視線にはまったく気がつかなかった。
パーンの微笑が、今度は苦笑に変わる。
パーンのそんな表情を見て、シーリスは複雑な気持ちになっていた。それで、パーンに対する好意がそれほど小さいものではなくなっていることを自覚した。
シーリスは、感情が先走るタイプの人間だったから、惚《ほ》れっぽいといえなくもない。だが、初対面の男にこうまで惹《ひ》かれたことはなかった。
しかし、これだけの男だもの当然かもしれない、と、シーリスは自分を納得《なっとく》させる。
「お客人には自分の信じる神にでも誓ってもらうことにしましょう。もちろん、神でなく剣でもかまいませんがね。それでは、本題に入りましょうか。
先日、ターバの義母から使いがきて、わたしたちがマーファ神殿に出かけたのは、みんなも承知のとおりでしょう。そこで、わたしたちは義母からある話を聞かされました。そして、その話が意味するものは、ロードス島の運命を左右するほどに重要なものだったのです」
スレインが、レイリアに視線を送り、その後の話を続けるように彼女をうながした。それを受けて、レイリアが静かな祈りの言葉でも唱《とな》えるような口調《くちょう》で話しはじめた。
「古代王国については、みなさん、くわしくはご存じないと思います。わたしもじかに知っているわけではないのですが、古代王国時代の魔女、カーラの記憶を共有していましたので、みなさんより多少はくわしく知っております……」
そして、レイリアは話を始めた。それは、母ニースから話を聞いたあと、マーファ神殿の礼拝堂《れいはいどう》で瞑想《めいそう》し、自らの、いやカーラの記憶を深くたどっていくことでようやく思い起こした話であった。
それは、カーラが人間であったころの最後の記憶であり、魔術師の支配する古代王国が滅亡《めつぼう》した日のことであった。
静寂《せいじゃく》の湖<泣mアナから、冷たい風が吹きよせていた。
その風の音にまじって、激しい戦いの音が耳に届く。
鼻をつく異臭も漂《ただよ》っている。血の臭《にお》いと肉の焦《こ》げる臭い。
太守《たいしゅ》の館《やかた》は、館とはいうものの城に近い構造をしている。高い石壁《いしかべ》に守られ、中に侵入《しんにゅう》するのは、容易なことではない。今も蛮族《ばんぞく》たちが、門の前で館の守備兵《しゅび へい》を相手に苦戦をしいられている。
五層の建物である太守の館の最上階は、塔のように細くなっており、部屋はひとつしかない。円形のその部屋には、丸い窓がいくつもついており、そこから街の全景を見渡すことができた。
その街、湖上都市クードの都は、今、蛮族《ばんぞく》との戦《いくさ》の中に燃えつきようとしていた。
その燃えつきようとしている街を見下ろす男の姿があった。
窓から少し身を離《はな》し、黒いローブが風に吹かれてかすかに揺れているものの、背筋を伸ばしたままの姿勢はピクリとも動かない。
「戦の状況《じょうきょう》はどうなっていて? 太守サルバーン」
そんな太守の後ろ姿に侮蔑《ぶ べつ》の感情が湧《わ》きあがってくるのをカーラは押さえることができなかった。
「ひどいものだ。もはや、この街で生き残っている貴族は、カーラ、わしとおまえのふたりきりだろう」
ロードス島におけるカストゥール王国の統治《とうち 》者《しゃ》は、太守の名称で呼ばれるこの男、サルバーンであった。
彼は、いつも尊大な男だった。
自分の研究する魔術に絶対の自信を抱いていて、その魔術を高めるためなら、どんな手段でも取る。
この霊術師《ネクロマンサー》の実験のために、いったい何人の蛮族たちが犠牲《ぎ せい》となっただろう。
そのつけ[#「つけ」に傍点]が、今《いま》、支払われようとしているのだ。
サルバーンの隣《となり》まで歩いていき、カーラは自分も窓から戦況を見てみる。
館の門はすでに破られようとしていた。
三体の|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》と、五体の|死人の戦士《ゾンビーウォリアー》たちが蛮族たちと剣を交《まじ》えている。
その竜牙兵はカーラが作りだしたものであり、死人の戦士はサルバーンの従僕《し も べ》である。ともに偉大なるカストゥールの魔術の中では、ささやかな産物にしかすぎなかった。
「カストゥール王国の威光《い こう》も落ちぶれたもの。このクードを守る最後の者が、真の命さえ持たぬ|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》と死人《ゾンビー》とはね」
自嘲《じちょう》するように、カーラは言う。
「彼ら、蛮族《ばんぞく》たちは、この世界を救った者がいったい誰だか知っているのかしら。そのために、わたしたちが魔力を失ったということをね」
「知らぬだろうよ。そして、知っていたとて、奴《やつ》らの行動は変わったりはせぬよ」
「そうでしょうね。わたしたちは、彼らを粗末に扱《あつか》いすぎた。マーファの教えのとおりに、彼らを扱ってさえいれば……」
カストゥールの貴族たちも、しょせんは人間にすぎないことを認めてさえいれば、こんな破壊《は かい》など起きなかったのにとカーラは思う。
だが、それを論じるべき時期はすでに失われていた。
「おまえがマーファの信者だとの噂《うわさ》は聞いていたが、まさか本当とはな。蛮族のような真似《まね》を。おまえのような異端者《い たんしゃ》がいるから、戦《いくさ》に敗れたのだ」
サルバーンは、侮蔑《ぶ べつ》の表情をあらわに浮かべる。
カーラは、それを冷笑で受けとめた。
「違うわね。魔法の力に頼るあまり、人間としての限界を忘れたために、滅《ほろ》ぶのよ。あなたの額にある赤い水晶は、今、あなたにどんな魔力を与えてくれるというの。自《みずか》らの力で魔力を導きだせない魔術師など、蛮族どもに敗れて当然。わたしは警告したはずだわ。あなたにも、そして魔法王<tァーラムにもね」
「確かに魔力の塔は壊《こわ》れ、我らはもはや魔法は使えぬ。額に水晶を持つ者はな。今、このロードスで魔法を使える者は、おまえしかおるまい。皮肉なものだな。あの塔が造られ、我らは、神となったはずだ。かつて神々は竜どもに敗れ、消滅した。だが、わしは五匹の古竜を従僕《じゅうぼく》としている」
「そのドラゴンたちの姿が、まったく見えないのはどうして? 奴らを使えば、わたしたちが敗れる日は、まだまだ先であったはず。なのに、蛮族たちの侵攻《しんこう》が始まってこのかた、姿を見たことさえない」
竜《ドラゴン》は、中でも|古 竜《エンシェント・ドラゴン》と呼ばれる竜の上位種は、もっとも偉大な存在であった。
その巨大な身体と、高い知性は人間が支配するべきものでは決してないはずである。しかし、人間は彼らを下僕《げ ぼく》として使った。
それは、あきらかに不遜《ふ そん》であった。その不遜さが、人間の持てる以上の魔力を引き出すために作られた、魔力の塔≠フ破壊《は かい》をもたらし、カストゥール王国を蛮族に蹂躙《じゅうりん》させるきっかけを作ったのだ。
「あの竜どもは宝物庫にやった。貴重な宝物を守らせるためにな。いつの日か、我らカストゥールの力が蘇《よみがえ》るときがこよう。そのときのために、太守《たいしゅ》の秘宝≠フ魔力はぜったいに欠かすことができない」
「悪あがきね」カーラはそう吐きすてた。
それがもはや手後れであることに、この男は気が付いていないのだろうか。
ふと、窓の外を見下ろすと、ちょうど最後の|竜 牙 兵《ドラゴントゥースウォリアー》が倒されたところだった。まもなく、門は打ちやぶられ、建物の中に蛮族《ばんぞく》たちが侵入《しんにゅう》してくるだろう。
「わたしはカストゥールの貴族としての役目を果たしてきましょう。蛮族たちが、わたしたちに対する恐怖《きょうふ》と憎悪《ぞうお 》を忘れることがないようにね。館《やかた》の中には五体のゴーレムを配置しているから、ここに彼らがやってくるまで、まだ時間はあるはず。でも、かならず彼らはやってくるわ。そのとき、あなたはどうなさる」
「運命には、逆《さか》らわんさ。わしが死んだら、この街は湖に沈んでしまうだけのこと。太守となったときに、そのように魔法を仕掛けておいたからな。この地に攻めよせた蛮族どもも、道連れとなるのだ」
サルバーンは、これ以上楽しいことはないというように高らかに笑った。ネクロマンサーである彼にとって、死は誰《だれ》よりも親しい友であるのかもしれない。
(それとも、自らを不死の王とする呪文《じゅもん》に成功したか、だ)
いずれにせよ、好感の持てる男ではない。
「これ以上の人を殺して、いったいどうするつもり。もはや、あなたの忠実なゾンビーを造りだすことさえできないのよ。敗者は、おとなしく勝者に屈するべきよ。狩られた動物が、自分を狩った動物に食べられるようにね」
階段に向かって進みながら、カーラはロードス島最後の太守となるはずの男と、別れの挨拶《あいさつ》を交《か》わす。
「マーファの自然の教えだな。そんな法になど、わしは従わん。噂《うわさ》によると、マーファの力はこのロードスの地に強く働いていると聞く。が、それとてわしの知ったことではない」
関心がないというように、そっぽを向きながら、サルバーンは答えた。
「勝手になさいな。わたしはわたしの生き方を選ぶまで。このような悲しい破壊は、二度と起こさせはしないから」
「それができるならな、カーラ。それとも、おまえの額にあるその見慣《みな》れないサークレットが、そのための手段となるとでもいうのか? それが魔力付与者としての、おまえの最後の品とならぬよう、心から祈っておいてやるよ」
「……このあと、カーラは蛮族たちと戦い、そして命を落としました。そして、自分を殺した蛮族の戦士の魂《たましい》を支配すると、滅亡《めつぼう》の定めにある湖上都市クードをあとにしたのです」
レイリアは長い話を終わって一同を見回した。
「今の話は、いくつかの点で重要な意味を持っています。それは、カーラが魔力付与の呪文に長《た》けたエンチャンターであるということ。それから、ロードス島における古代カストゥール王国最後の太守《たいしゅ》のこと。彼が太守の秘宝≠ニ呼ばれる宝物を五匹のドラゴンに託し、ロードス島の各地に飛びたたせたことです。その五匹のドラゴンは、強力な魔法による制約《ギ ア ス》を受け、命あるかぎり、太守の秘宝の守護者《しゅご しゃ》たることを命じられたのです」
「その話は聞いたことがある。その太守の秘宝を狙《ねら》って、愚《おろ》かな冒険者たちが何人、命を落としたことか。それも手練《てだ》れの冒険者たちがね。ドラゴンは選ばれた勇者以外の人間でなければ、歯が立つ相手ではない。だからこそ、彼らが持つ太守の秘宝は誰にも手がつけられなかったのよ」
そう答えたのはシーリスだった。
その言い方からは、ドラゴンを恐れているという様子は感じられず、むしろいつか自分が、太守の秘宝を手にするのだという野心のようなものさえうかがえた。
ドラゴンが莫大《ばくだい》な富を持っているというのは、ロードスに住んでいる人々なら、誰もが知っていることだった。
一般の人々でも、太守の秘宝の噂《うわさ》ぐらいは知っているはずだ。
ロードスには実のところ、かなりの数のドラゴンが住んでいる。しかし、上位種たるエンシェント・ドラゴンは、レイリアの話のとおり太守の秘宝を託《たく》されたという五匹だけである。
マーモに住む黒翼《こくよく》の邪竜<iース。
アラニアは白竜山脈の主人、氷竜ブラムド。
ライデン沖に浮かぶ青竜の島を住みかとする水竜エイブラ。
ロードス島ゆいいつの活火山、火竜山に住む魔竜シューティングスター。
そして、モスの守護神、竜騎士たちの大いなる盟友《めいゆう》、金鱗《きんりん》の竜王<}イセン。
それぞれ、その存在を知られながらも、古代王国|崩壊《ほうかい》以来の五百年あまりのあいだ、誰ひとりとして彼らを退治し、その宝物を手にした者はいないのだ。
もっとも、皮肉なことにマイセンとブラムドの二頭は、人間の手により魔法の呪縛《じゅばく》を解《と》いてもらい、それゆえ太守の秘宝の守護者たる使命から解放されていた。
その礼として、金鱗の竜王は竜騎士マイセンの騎馬となり、彼の死後はその名前を引き継ぎもした。
また、アラニアの氷竜ブラムドは、マーファの最高司祭ニースによって呪《のろ》いを解《と》かれ、見返りとして、彼は所有する宝物をすべてニースに譲りわたし、休眠期に入ったのだ。
「ですが、もしドラゴンを倒す力を持った人間が現われ、そしてその人物がドラゴンの所有する太守の秘宝を手にしたとしたら」レイリアはパーンに問いかけるように言った。
「このロードスは、その人間に支配されてしまうかもしれない。その人物が正義の志を持っているならまだしも、野心的な奴《やつ》だったらたいへんなことになる……。まさか! そんな人間が現われたのか。だとしたら、そいつは誰《だれ》なんだ!」
パーンは身を乗りだしながらレイリアに尋ねる。
「アシュラムという名の人物を覚えておいでですか。マーモの皇帝ベルドに近衛《こ の え》隊長として仕えていた男なのですが……」
その言葉を待っていたのだろう、レイリアはすこし微笑《ほほえ 》んで答えた。
パーンはその名に、たしかに聞きおぼえがあった。記憶をたどっていくと、ヴァリスとマーモの決戦のときのことだと思いいたった。
フレイムの傭兵王《ようへいおう》<Jシューが、ベルドを倒したときに、ベルドのそばにいた近衛隊の騎士《きし》隊長が、たしかアシュラムと名乗った。彼は自らが仕《つか》える皇帝の死体を置いていかねばならないことを悔《くや》みながら、ベルドの持つ剣だけをつかんで去っていった。
パーンが見ただけでも、あの騎士が達人だということは分かった。その腕前は、剣匠《けんしょう》の誉《ほまれ》高いカシュー王と比べても遜色《そんしょく》ないだろう。
「一度だけだが、戦場で会った。あの男がドラゴンを倒して、彼らの持つ太守《たいしゅ》の秘宝≠手にしようとしているのか」
「そう義母《はは》から、聞かされました。ある日、黒ずくめの騎士が義母の神殿にやってきて、そして白竜山脈に住む氷竜ブラムドの持っていた宝物の行方《ゆ く え》を尋ねたのだそうです。特に、支配の王錫《おうしゃく》と名付けられた秘宝の行方をね」
「支配の王錫?」パーンは思わず尋ねかえす。
その名前は、初耳だった。
五匹のドラゴンが太守の秘宝≠はじめとして莫大な宝物を託《たく》されたという伝説は有名だが、具体的にどんな宝物を持っているかまでは知られてはいないのだ。
しかし、「支配」の名前がつく魔法の宝物に、強い魔力が秘められていることはパーンはよく知っていた。他人の心を支配し、奴隷《ど れい》のようにしてしまう効力があるのだ。
パーンは、「支配」の名前を冠したある宝物の魔力を欲するあまり、自らの恋人を手にかけてしまった若者のことを思いだしていた。
あまりにも悲しい事件だった。その若者は、一生をかけても拭《ぬぐ》うことのできない傷を心に背負ったまま、いずこへともなく旅立っていった。
五年前、モスの大賢者ウォートの館《やかた》まで行く途中《とちゅう》での出来事である。
強大な力に対する憧《あこが》れは、ときに人の心を狂わせることがある。たとえば、カーラのサークレットを奪《うば》って去っていったウッド・チャックがそうであるように。
人間は弱い生き物なのだ。
それゆえに、間違《ま ちが》いをおかすこともある。
「これはカーラも断片的にしか知らないのですが……」パーンの疑問に対して、レイリアが説明を始める。「代々の太守《たいしゅ》が所有し、ロードス島の支配に使った宝物、それが太守の秘宝です。たとえば、真実の鏡≠ニいう秘宝は、いかなる遠方であれ、望んだ場所の風景を映しだすことができました。しかも、それは人の心の中まで映しだし、心の奥に潜《ひそ》んだすべての秘密を白日《はくじつ》のもとにさらすことができました。この秘宝は、今はカーラが所有しています。それから、生命の杖≠ヘ死体の断片さえあれば、失われた肉体を完全に再生できたといいますし、死んだ者の魂《たましい》を復活させる魂の水晶球≠ニいう秘宝もありました。そして、支配の王錫《おうしゃく》≠ナすが、これは中でももっとも強力な秘宝です。この秘宝の所有者の言葉は、それを聞く者にとっては絶対的な命令となり、よほど強い意志の持ち主でないかぎり、あらがうことができないのだそうです。古代王国時代には支配者である貴族を除く、あらゆる階層の人々が、この宝物の力によって服従させられていたようです。奴隷《ど れい》の反乱や蛮族《ばんぞく》たちの侵攻《しんこう》などのときにも、この秘宝はきっと有効に働いたのでしょう」
「わたしも、ロードス島の支配に使われたという太守の秘宝に関する記述を書物で読んだことがあります。その書物は賢者の学院時代に読んだもので、今は手もとにありませんが、だいたいレイリアが言ったとおりの内容だったと記憶しています」
スレインがレイリアの説明が終わるのを待って、そう付け加えた。
「ようするに、支配の王錫っていうやつは、間違《ま ちが》いなく存在するんだ。そして、その宝物を五匹のドラゴンのうちのどれかが持っている……」
「そういうことです。そして、アシュラムという男が支配の王錫を手にすれば、このロードス全土を征服することだってできるでしょう。義母の話では、アシュラムという人物は、べルド皇帝にも匹敵《ひってき》するだけの実力を備えていそうだとのことです」
「そんな男が、支配の王錫を手に入れれば、冗談《じょうだん》ごとじゃすまない」
それがどんな意味を持つかぐらいは、パーンにも十分に理解できた。
ロードス島は、アシュラムという男に、ひいてはマーモ帝国によって支配されてしまうのだ。
「だからこそ、その人物より先に支配の王錫≠手に入れなければならないんですよ。たとえ、ドラゴンと戦うことになってもね」スレインが言葉をはさむ。
「ドラゴンと戦うというような危険を冒《おか》すより、アシュラムとかいう奴《やつ》を倒したほうが簡単ではありませんか?」
セシルがもっともな意見を言った。
ディードリットも、セシルの意見に賛成するように大きくうなずいた。
「そうとも言えませんね。なにしろ、アシュラムは白竜山脈の主人、氷竜ブラムドを倒しているんですから。おそらく、マーモの邪竜ナースも倒すなり、服従させるなりしているのでしょう。ドラゴンと|竜殺し《ドラゴンスレイヤー》の戦士とを比べて、いったいどちらが強いと思いますか?」
そのスレインの問いに答えられる者は誰《だれ》もいなかった。一同のあいだに重苦しい沈黙が流れる。
「どちらも敵にしたくないさ。だが、やらなきゃ。英雄戦争≠フ再発なんてことだけは絶対に阻止しないと。今度、あんな戦争が起こったら、それこそロードス全土が灰になってしまう」
しばらくたってから、ようやくパーンが声を出した。その声が、うめくような感じであったのは、仕方のないことだろう。
「そうです。だからこそ、旅立たねばならないのです。みんな、手伝ってくれますよね」
「もちろんだとも」
スレインの言葉に、パーンは力強く答えた。
前の二回の冒険のときは、パーンがスレインを旅に連れだした。今回はスレインが、パーンにそれを申し出たのだ。
断ることができるはずがなかった。
「しかし、スレイン師。この村はどうします。今度も留守番なんてことはないでしょうね」セシルがおそるおそるスレインに尋ねた。
スレインはすこしのあいだ考えこんだ。そして、首を二、三度縦に振りながら、セシルに答える。
「そうですね。相手のアシュラムには、仲間も何人かいたそうです。義母の見たところでは、それぞれかなりの手練《てだ》れみたいです。こちらの数も多いにこしたことはないでしょう。マーファ神殿の神官戦士と、北のドワーフ族の戦士が、わたしたちの留守のあいだザクソンの村を守ってくれることになっていますから、その人たちに任《まか》せておいてさしつかえないでしょう」
「そうこなくては!」セシルは嬉《うれ》しそうに叫んで、思わず椅子《いす》から立ちあがった。
「せいぜい、足手まといにならないようにね」シーリスが、セシルに横目で視線を送りながら、からかうように言った。
「そんなこと、おまえに言われる筋合はないぞ!」セシルは顔を紅潮させながら、女戦士に詰《つ》めよっていった。
「今、あなたの恩師が言ったでしょう。仲間は多いに越したことはないって。自分で言うのもなんだけど、わたしは優秀な戦士のつもりよ。絶対に役に立つわ。あなたと違ってね。そうよねぇ、パーンさん」
シーリスは、かるい調子でパーンに話しかけた。
「あんたが、優秀な戦士だってことは認めるよ。しかし、相手はドラゴンなんだぜ、命がけの旅になるのは目に見えている。それでも、あんたはついてくるって言うのかい?」
「もちろんよ。相手が強ければ強いほど、燃えてくるわ」シーリスは自信満々といった感じで答えた。
「どこの馬の骨とも分からない女を仲間にするわけにはいかないでしょう」セシルは、頑強《がんきょう》に反対する。
ディードリットもどちらかといえば、気にいらない様子だった。特に、パーンに対して見せる、女戦士の奇妙《きみょう》な馴《な》れ馴れしさが癇《かん》に障《さわ》るのだ。
「駄目《だめ》と言われたってついていくわよ。でないと、わたしはこちらの戦士に義理を果たせないもの」
それに、パーンという戦士との縁もこれっきりになってしまうじゃない、とシーリスは心の中で付け加えた。
「わたしは反対です!」セシルは、なおも主張する。
「半人前は黙ってな!」ついに、シーリスも頭にきたらしく、セシルに向かって辛辣《しんらつ》な言葉をぶつけた。
さすが傭兵《ようへい》だけに、なかなかの迫力《はくりょく》である。
当然ながら、セシルはさらに感情をたかぶらせた。
「やめなさい、ふたりとも。シーリスさんも仲間になってくれるというのは歓迎しますが、あまりセシルをいじめないでください。仲間の息があっていなければ、困難《こんなん》を乗りきることはできませんからね」
スレインは、困ったような顔をしながら、ふたりの仲裁に入った。
「スレインの言うとおりだ。喧嘩《けんか》するくらいなら、一緒《いっしょ》に来てもらわなくていい」パーンが珍しく説教じみたことを言う。
「じゃあ、認めてくれるのね」その言葉を聞いて、うれしそうにシーリスは言った。
「そ、そうだな」パーンはすこし口ごもって、スレインの方をうかがった。
スレインは、小さくうなずいて考えるとおりになさいというような合図を送ってよこした。
「ディードは?」
「あたしは……、パーンがいいと言うならね」ディードリットは、パーンの問いにそう答える。反対したい気持ちはあるが、その理由を口に出すことがためらわれたのだ。
自分があの女戦士に嫉妬《しっと 》しているなど、絶対にパーンには知られたくないことだった。それに、彼女の嫉妬はシーリスが人間であり、自分がエルフであるということに起因《き いん》しているのに気づいたからだ。それを認めることは、自分がエルフであるという誇りを捨てるようなもので、絶対にできるはずがなかった。
「あの狂戦士も一緒なんですよ!」一方のセシルは、まだ不満でいっぱいの様子だった。
「わたしは、何年か一緒にやってきたけど大丈夫だったわ!」シーリスはぴしゃりと言い、セシルを黙らせる。
「いいだろう。しかし、念を押すが本当に危険なんだぜ」
パーンは、もう一度シーリスに、そのことを確認した。
敵であるアシュラムのことを考えると慎重《しんちょう》にならざるをえないのだ。
なにしろ、相手は|竜殺し《ドラゴンスレイヤー》である。それに、アシュラムが連れているという配下の者も、皆|手練《てだ》れとのことだ。パーンたちが戦って勝てるという保証はどこにもないのだ。
そのパーンの不安を見てとったのだろう。ディードリットが、パーンの左腕にやさしく手をかけてくる。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ、パーン。あたしたちは、カーラにも、そしてエフリートにも負けなかったじゃない。今度もきっとうまくいく」
「そう願いたいな。だが、慎重にいこう。事は重大で、失敗は許されない。オレはまずフレイムに行って、カシュー王に協力を仰ごうと思う」
「そうですね。あの方なら、大丈夫でしょう……」スレインはすこし考えてから、同意した。
「大丈夫さ。カシュー王は秘宝の力を借りようなんて、姑息《こ そく》な手段を使う人じゃない。ところで、スレインはどのドラゴンが支配の王錫《おうしゃく》を持っていると考えているんだ」
「さあ、分かりませんねぇ」パーンの問いに、スレインは首を捻《ひね》る。
「マーモの邪竜、白竜山脈の氷竜は支配の王錫を持ってはいないのはもはや確実です。そうすると、モスの竜王マイセンか、ライデンの火竜シューティングスター、もしくは青竜島に住む水竜エイブラということになりますがね。モスの竜騎士《りゅうき し》たちが、ロードス島を支配していないところを見ると、マイセンも、もっていないと考えてさしつかえないでしょう。すると、残るは二匹。アシュラムがどちらに見当を付けたのか分からない以上、カシュー王にどちらかを見張ってもらえば間違《ま ちが》いが少ない。シューティングスターとエイブラのどちらが支配の王錫を持っているにせよ、フレイムは通り道になりますしね」
「風と炎の砂漢を越えていくことになるのね」と、シーリスがそれは面倒だというように、かるく左肩をすくめる。
「あの砂漠は、今では暑さもそれほどではありませんし、かなり楽に通れるようになっていると聞きますよ。むしろ、ノービスを通るときに、我々の正体を知られることのほうがやっかいですね」
スレインがパーンの方を横目で見ながら、シーリスに説明する。
パーンは笑顔でスレインに答えた。
三年前の一件以来、風と炎の砂漠は雨も降るようになり、昼夜の気温の差もかなり緩《ゆる》くなっていると伝えきく。
風と炎の砂漠は、ゆっくりとではあるが昔日《せきじつ》の姿を取りもどそうとしているのだ。
そのことを、パーンは誇《ほこ》らしく思う。
もちろん、パーンは、あの冒険に加わった仲間たち全員を誇っているのだ。
オルソンは、夢を見ていた。
いつもの夢だった。
村が燃えている。夢はかならず、そこから始まった。
忌《い》まわしい妖魔《ようま 》どもの小軍団が村を襲《おそ》ってきたのだ。
取るに足らないような辺境の村にもかかわらず。
オルソンの姉は、彼を抱きしめながら、じっと納屋《なや》の隅《すみ》にうずくまっている。
このまま抱いていれば、オルソンが小さくなって完全に消えてしまう。そうなればいいとばかりに、力強くオルソンを抱きしめていた。
そんな姉の震《ふる》えをオルソンは全身に感じていた。
恐怖《きょうふ》と悲しみが十三歳の少年の心を支配していた。
父母は殺されてしまった。この目で見たわけではないが、オルソンはそう確信していた。
それは、自分が事実を知っているからだ、と現在のオルソンが少年に教える。
目に涙が溢《あふ》れていた。
涙? と、現実のオルソンがささやいていた。
自分が泣いたのは、このときが最後だ。
そのとき、扉《とびら》が荒々しく開けはなたれて、醜《みにく》いゴブリンどもが数匹、中に入ってきた。
後ろには、屈強《くっきょう》なホブゴブリンもいる。
ゴブリン語で何事か叫びながら、妖魔たちはゆっくりとこちらに向かってくる。
姉はもう一度力強く、オルソンを抱きしめたあと、彼を離《はな》すと短剣を握《にぎ》りしめながら、ゴブリンたちに向かっていった。
もう一本の短剣は、オルソンに手渡していく。
「わたしが死んだら」と、彼にささやきかけてくる。「この短剣で戦いなさい。いい、何があっても生き延びるのよ!」
そして、ゴブリンに向かっていく。
姉は、腕がちぎれんばかりに短剣を振りまわし、ゴブリンに切りかかっていった。
運良くといっていいだろう。姉の短剣の切っ先が、一匹のゴブリンの首筋に当たり、そこからどす黒い血が、納屋《なや》の床板《ゆかいた》を濡《ぬ》らした。
しかし、それで優勢になろうわけがない。
姉は、涙を流しながら戦っていた。
その姿を見つめたときである。
もごりと、自分の精神《こ こ ろ》の中で何かが動くのをオルソンは感じた。
それは、自分の内から湧《わ》きでたようでもあり、また、次元を越えたところからやってきた異物《い ぶつ》のようでもあった。
姉のめちゃめちゃな戦いぶりに、一瞬《いっしゅん》、怯《ひる》んだゴブリンどもだったが、すぐに立ち直って、組織的に攻撃《こうげき》をしはじめた。
そうなっては、もはやオルソンの姉に勝ち目はなかった。
一匹のゴブリンの小剣の一撃《いちげき》が、胸を斜めに切り裂《さ》いた。
青色の衣服が破れ、白い肌《はだ》があらわになる。そこに赤い筋が走っていた。
苦痛に呻《うめ》き声をあげながらも、気丈《きじょう》にも姉はまだ短剣を振るっていた。
そこを後ろから回ったゴブリンが、姉の太股《ふともも》にザックリと小剣を埋《う》めこんだ。
それで、オルソンの姉は、床《ゆか》に倒れた。
「オルソン、ごめんね」姉は涙声で謝《あやま》りながら、自分の足を突いたゴブリンの腹に短剣を力一杯突き刺した。
そのゴブリンは、それで息絶えたが、短剣を腹にくわえこんだまま床に転《ころ》がった。もはや、武器も失われた。
ここぞとばかり、ゴブリンは姉に切りかかった。
「ごめんね……」
苦痛の悲鳴の中から、何度も何度もそう言う姉の声が聞こえた。
姉は、文字どおり切り刻《きざ》まれていた。
村いちばんと褒《ほ》め讃《たた》えられた顔も、細っそりとした足も、可憐《か れん》だった腕も、醜《みにく》く肉が弾《はじ》け、血で赤く染《そ》まっている。
「はぁ……」と、ため息をつくような声を洩《も》らしたあとは、もはや姉は息をしなくなっていた。
それでも、ゴブリンたちは姉の身体《か ら だ》を切りきざんでいる。
「止めろ!」オルソンは叫んでいた。
オルソンの中で蠢動《しゅんどう》していた物が、そのときはじめて形を成した。
どうん、どうん、と脈動《みゃくどう》する塊《かたまり》が、彼の心を満たしていった。
恐怖《きょうふ》も悲しみも、オルソンはすべて忘れていた。
リィ……リィィ……
喉《のど》の奥から、魂《たましい》が軋《きし》みを上げるような声が洩《も》れていた。
「オルソン!」
そのとき、誰《だれ》かが彼の名を呼んだ。
女性の声だった。どことなく、姉の声に似ていた。しかし、姉ではない。姉は死んだのだから……
リィィ……リィィィ……
「オルソン!」彼を呼ぶ声は、もう一度響いた。
魂が、弾《はじ》きだされるような感覚があり、オルソンは目を覚ました。
隣《となり》にシーリスと、もうひとり見たことのない女性が、立っていた。
その女性がオルソンの額に手を当てている。
「気が付かれまして?」そう、声をかけてきた。
「オレは、どうしたんだ……」オルソンは答えた。
「どうしたもこうしたも、いつもの発作《ほっさ 》よ。わたしの肩までばっさりやってくれたわ。他《ほか》の奴はどうでもいいけど、わたしにだけは剣を向けないでね。ああなった時のあなたは、恐ろしく強いんだから」シーリスが、そう言った。
「ああ……あれか」
オルソンは、眠りにつくまでのことを思い起こし、納得《なっとく》して上体を起こした。
発作のあとはかならず、心身ともに疲れきっているはずなのだが、今はそうでもなかった。
どちらかと言えば、気分がいい。安らかに眠ったあとのような気分だった。
「あんた、魔法使いだな」オルソンは黒い髪《かみ》に青色の目をした女性の顔を見ながら、そう言った。
質問ではなく、確認しているのだった。
「マーファの神官をしております。未熟《みじゅく》ですけれど、マーファの魔法が使えます」
「司祭《プリースト》か?」
「正式な司祭位にはありませんが」
「それで、気分がいいのか」オルソンは、ひとり納得して、そうつぶやく。
「気分がいいのなら、立ってちょうだい。あなたには、礼を言わなければならない人が、山ほどいるのよ」シーリスが、そうオルソンに笑いかける。
「まずは、わたし」
「すまない」オルソンは素直に頭を下げた。
「もっと心を込めて、と言っても無理《むり》な話ね。あなたには、もともと感情がないんだから」シーリスはそう言って、真顔に戻って屈《かが》みこむようにオルソンと視線の高さを合わせる。
「さっき戦った相手のことは覚えている? あの中にエルフの精霊使《せいれいつか》いがいたでしょ。名前をディードリットっていうんだけど、彼女があなたの発作の秘密を教えてくれたのよ」
「オレの発作の?」怪訝《け げん》そうに、オルソンは尋ねかえす。
「そうよ、あなたの発作。あなたってば、ときどき、狂ったように戦いはじめるときがあるでしょう。それは、あなたが狂戦士となっているからで、そして、その原因は、怒りを司《つかさど》る感情の精霊にあなたが取りつかれているためだって」
「怒りの……精霊?」
「そう、怒りの精霊よ。ヒューリーとか言ったかな。それで、ふだんは感情がほとんどないくせに、怒りに身を任《まか》せるとさっきみたいなことになるの。あなたは、まだ、完全に怒りの精霊に支配されていないから、狂戦士となっても死ぬことはないけど、押さえがきかなくなったら、狂戦士と化したままもとに戻《もど》らず、そのまま死んでしまうんだって」
「そうなのか」オルソンは、ぼそりとつぶやいた。
「もっとも、原因が分かったからって、どうしようもないんだけどね。でも、エルフ娘の話では、何かが完全な狂戦士になるのを引き止めているとのことだけど、それがなんだか分からないらしいわ。とにかく、あなたはいろんな感情を感じるよう努力するべきだって。そうすれば、失われた感情がもとに戻り、精神の働きも正常になっていくかもしれないそうよ」
「そんなことができるのか」
言いながら、オルソンは寝かされていたベッドから、ゆっくりと立ちあがった。
「そうよ。だから、みんなにお礼を言わないと。彼らは戦った相手であるわたしたちを助けてくれて、おまけに治療《ちりょう》までしてくれたのよ」
シーリスはかるくオルソンを支えるように腕を回しながら、そう話した。
「そうか、それは礼を言わないとな。どうも、ありがとう……、あー」
「わたしは、レイリアと言います」レイリアはそう言ってかるく頭を下げる。
「ありがとう、レイリア」
「それから、向こうの部屋にエルフ娘《むすめ》と、戦士のパーンがいるわ。例の噂《うわさ》の手練《てだ》れよ。それから、魔術師がふたりいるけど、年を取った方がスレインで、若い方はセシル。このセシルという男には、礼を言う必要はないからね」
そう言って、シーリスは悪戯《いたずら》っぽい笑いを浮かべた。
「全員に礼を言ったほうが、無難《ぶ なん》みたいだな。ところで、ただで助けてもらったわけじゃないだろう。いったい、どんな交換条件を出したんだい?」
「察しがいいわね」シーリスは、すこし驚いた様子だった。
「彼らは、ちょっとした理由があって、旅に出なければならないの。もちろん、危険な旅よ。で、わたしたちはただでその護衛をしようってわけ。わたしたちの腕から考えると、手頃《て ごろ》な取り引きだと思わない?」
「手頃かどうかはともかく、向こうはそれを受け入れてくれたのだろ」
「まあね」オルソンの問いに、シーリスは答える。
「なら、それ以上考える必要はない。彼らの旅のあいだ中、付き合っていればいいだけだ」オルソンは、あっさりとそう答えた。
「話が早いわね。じゃあ、残りのみんなに引き合わせるわ」
シーリスは、先に立って寝室の扉《とびら》を開けた。
オルソンはその後ろに付いて歩き、パーンたちがくつろいでいる居間の方へと入っていった。
「気が付いたようですね」
スレインがオルソンの顔を見ながら、立ちあがって挨拶《あいさつ》をした。
「どうも、ご迷惑《めいわく》をおかけしたようで申し訳ありません」オルソンは、そういって一同に向かって頭を下げた。
「ということで、みなさんよろしくね」シーリスの言い方は拍子抜《ひょうしぬ 》けするほどに、あっけらかんとしたものだった。
これがさっきまで、命をかけて戦っていた相手とはとても思えない気安さだった。
「特にパーン。いろいろとよろしく」
「ああ、そっちも気にしないでくれ。とにかく、みんな無事《ぶじ》だったんだから」
パーンはもはやさっきのことなど忘れたみたいに、呑気《のんき 》に挨拶を返したが、ディードリットとセシルの表情はあきらかに複雑なものがあった。
「ねえ、本当に連れていくつもりなの?」ディードリットは、スレインに耳打ちする。
「たしかに厄介事《やっかいごと》を背負いこむことになるでしょうね。でも、それはいつものことでしょう。何の問題もなく、旅立ったことが今までありましたっけ」
「そうか、いつもパーンが一緒《いっしょ》だったものね」答えて、ディードリットは悪戯《いたずら》っぽく笑う。
「そいつはひどい」パーンが口を尖《とが》らせて抗議《こうぎ 》する。「こうして知り合いになったのも何かの縁じゃないか。オレたちは、今まで出会いを大切にしてきただろ。だからこそ、多くの気心の知れた仲間ができた。誰だって、最初は見知らぬ他人さ。あのふたりも、きっといい仲間になれるって、オレは信じられるね」
「そうかもしれません」
しばらく間《ま》をおいて、スレインはポツリと答えた。
パーンはべつに力を込めて話しているわけではない。スレインは長年の付き合いからそのことをよく知っていた。
しかし、パーンの言葉は、いかなる賢者の言葉よりも重く響くときがある。
彼の言葉は飾りも何もなく、ただ自分の心の中から生まれてきた思いを素直に口に出しているだけなのだ。
だからこそ、重いともいえる。人間が生きるうえでもっとも大切なことを目の前に突きつけられたような気持ちにさせられるからだ。
これがパーンの昔からの変わることのない人徳なのだろう。
たしかに、彼の言葉どおり、パーンは様々《さまざま》な人との出会いによって成長を遂《と》げている。だが、反対のことも同時にいえるのだ。
彼と出会った人間も、何かしら変化している。
争いが嫌《いや》で田舎《い な か》に閉じこもっていた自分を旅に連れだし、高慢だったエルフの娘を素直な心の持ち主に変えた。
あの自信の塊のような、カシュー王ですら例外ではないだろう。
だから、戦乱の時代が生んだ歪《ゆが》みの象徴《しょうちょう》のようなこのふたりの戦士、オルソンとシーリスも旅の中で変わっていくに違いないと、スレインは確信できた。
また、シーリス自身もパーンに変えられようとしている予感を覚えていた。
「セシル、あなたもいいですね」スレインはまだ仏頂面《ぶっちょうづら》のセシルに、念を押すように話しかけた。
「スレイン師がいいとおっしゃるなら」
「それじゃあ、旅の準備を始めましょう。出発は、明日でいいですね。レイリア、あなたも用意をしなさい」
スレインは、締《し》めくくるようにそう宣言した。
「はい」微笑《ほほえ 》んでレイリアは、奥の部屋に行こうとする。
「ええっ、あなたも行くの?」ディードリットが驚きの声をあげていた。
「娘のニースはどうするのよ。あの娘はまだ三つにもなっていないでしょ」
ニースはスレインとレイリアのあいだに生まれた娘だった。レイリアの母であるマーファの最高司祭ニースの名をもらい、そう名付けられたのだ。
「あの娘は、ターバの母のところに預《あず》けてきました。気にならないわけではありませんが、わたしには成さねばならないことがあります。あの娘は、母が立派に育ててくれます。たとえ、わたしたちにもしものことがあろうとも、元気に育ってくれるものと信じております」
レイリアは、きっぱりとそう言った。
レイリアはマーファの司祭である。マーファの教義では、子供を生み育てることをきわめて重要な行為としている。
それにもかかわらず、娘を母に預けてまで、旅に出ようとするレイリアの心に、パーンはいまだ癒えぬ深い傷を見たような気がした。
彼女の背負っている罪《つみ》がすべて晴れる日が早くやってくればよい、そう願わずにはおられなかった。
パーンたちは、それ以上なにも言わず、スレインの家を後にした。自分たちも旅の支度《し たく》を始めるためである。
パーンたちにとって、三度目になる冒険行が始まろうとしていた。
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第U章 傭兵王
薄暗い部屋の中で、ふたりの男が静かに向かいあっていた。
共に椅子《いす》に腰を下ろし、相手の顔を無言で見つめている。
お互いに、相手を値踏もうという気配がありありとうかがえた。
男たちのうちの片方は、薄茶色の神官衣を身にまとっていた。長袖《ながそで》で、裾《すそ》も足もとまで届こうかというものだった。
左胸には、|戦 槌《ウォーハンマー》の紋章《もんしょう》が描かれている。戦の神マイリーの紋章である。
その衣服は、ここ砂漠の国フレイムではいかにも暑苦しく映る。しかし、マイリーの司祭らしいその男は、まったく平然としていた。
もっとも、もうひとりの男も司祭に劣らないほど暑苦しいいでたちであった。
身につけているのは金属製の真っ黒な甲胄《スーツ》であり、真紅《しんく 》のマントを両肩に止めている。甲冑と同じ色をした長目の頭髪と瞳《ひとみ》は、まるで黒《ダーク》エルフを連想させた。
しかし、ダークエルフが持つ狡猾《こうかつ》な印象は、まったく感じられない。むしろ、ある種の気品さえ感じられた。
髪《かみ》や瞳とは対照的に肌《はだ》は白い。が、病人特有の肌の白さとはまったく違う。
ふたりがいるのは、質素な造りの部屋だった。
壁《かべ》にタペストリが掛けられている他には、これといった装飾品もない。タペストリは、竜の首を右手に持った勇者の姿を織《お》りこんだものだった。誰かは知らないが、竜殺し≠フ英雄を題材にしたものであるのは間違《ま ちが》いがない。
ふたりが腰掛けている椅子も、クッションさえついていない粗末な代物《しろもの》だった。
ここはフレイムの王都ブレードの街。
その郊外に建つ戦の神マイリーの神殿。
高い石壁で囲まれたL字型の敷地の中に、大小ふたつの建物がある。
大きな方の建物は一般の信者のための礼拝所《れいはいじょ》に使われており、小さな方は司祭や神官たちの私室に使われている。
その小さい方の建物のいちばん奥の部屋にふたりの男はいるのだった。そこは客を迎えいれるためにあてられている部屋である。
司祭は、名をホッブという。この神殿の主入であり、勇者の導き手≠フふたつ名を名乗っている。
ホッブは三年前に、ここブレードを舞台に争われたフレイムと砂漠の蛮族《ばんぞく》炎の部族≠ニの最後の戦いのおりに、傭兵《ようへい》として参加し勲功《くんこう》を上げた。
その功績によりカシュー王の援助を受けて、この街に彼の仕えるマイリー神の神殿を開いたのである。
勇猛《ゆうもう》な砂漠の民の気性《きしょう》もあり、最近では信者の数も増え、現在ではロードス島最大の戦の神の神殿といえるまでになっている。
ホッブは、近隣の信者や神官からは、すでに高司祭と認められており、モスの王都ドラゴンブレスのマイリー本神殿にいる高齢の最高司祭から、その地位を受け継《つ》ぐ日もまぢかだと噂《うわさ》されている。
だが、彼はそんなことには関心がないようだった。あくまで無口に、日々の勤めを行なうだけである。
そして、この日の早朝、ホッブ司祭はひとりの客を迎えたのである。
客は|騎士《きし》ふうの男だった。おそらく配下の者なのだろう、五人の仲間を連れていた。
アシュラム、と男はホッブに名乗った。そして、きわめて簡潔に用件だけを語った。
ホッブに自分の配下となれ、と。
それ以後、沈黙が続いている。
アシュラムと名乗った戦士は、三十代なかばと見えた。壮年である。男が体力、知力とももっとも充実している時期だ。
すでに四十をすぎたホッブよりずいぶんと若い。ホッブとて常から自《みずか》らを鍛えており、体力に自信がないわけではなかったが、さすがに顔には皺《しわ》が刻《きざ》まれ、下腹などには余分な肉も目立つようになっている。
ホッブを見据《みす》えるアシュラムの視線は、あくまでも冷静であり、理知的な男との印象を強くした。
「繰《く》りかえすが、わたしにはあなたの力が必要なのだ。戦の神の司祭は、勇者が戦いに赴《おもむ》くときに、その力となることを教えの第一義としていると聞く。勇者に存分に力を発揮させるためにな。その教義に基づいて、あなたの力を借りたいのだ。わたしは、それに相応《ふ さ わ》しい男と自負している。だから、お願いする。わたしの仲間となり、共に大きな目的のために戦ってくれないかとな」
先のブラムドとの戦いで、アシュラムは三人の配下を失っていた。
その時に知ったのだが、ドラゴンの吠《ほ》える声には、ある種の魔力が込められている。ドラゴンの咆哮《ほうこう》を聞いた者は、心臓が凍《こお》りつくかのような恐怖《きょうふ》を味わう。
もし、まぢかで聞いたなら、本当に死んでしまうと思われた。そのため、こちらも魔法で対抗せねばならないのだが、それにはマイリー神に仕《つか》える司祭が使う戦の歌≠フ呪文《じゅもん》が、もっとも効果的だと考えられた。
戦《いくさ》の歌の呪文《じゅもん》は、味方の士気を高揚させ、同時にあらゆる精神支配の呪文から身を守ってくれるのである。
ブレードのマイリー神の司祭は非常に徳が高いという噂《うわさ》を聞いて、アシュラムはこの神殿に立ちよったのだ。
彼を必要とする理由は、それだけではない。戦の神の司祭を伴にするということは、勇者の証明でもあった。しかも、カシューの膝《ひざ》もとにいるマイリー神の司祭を仲間につけるということは、カシューに対するまたとない挑戦状になろう。
また、このホッブという司祭と言葉を交わし、人間としての大きさを知るにつれ、もっと純粋にこの男を仲間にしたいという気持ちがアシュラムの中に芽生《めば》え、しばらくすると何としてでも欲しいという考えに変わっていた。
「わたしはこの国の国王であるカシュー陛下《へいか 》に一方ならぬ恩義に与《あずか》っております。それを捨てて、あなたに尽くせとおっしゃられるのですか。あなたは、カシュー王に勝る勇者とご自分のことを言いはるおつもりですかな」
アシュラムの言葉に対して、淡々とした調子でホッブは答えた。
「その判断《はんだん》はあなたに任せるしかないが、わたしはそのつもりでいる。そして、それを証明するために、今、こうして旅に出ているのだ」
「ほう。いかにしてそれを証明なさるおつもりか?」
「簡単なことだ。わたしがカシューを倒し、ロードス全土を統《す》べる王になればいい。そうすれば、わたしがあの男より優れていることを万人が認めるだろう」
「それは尋常ではありませんな。フレイムに住む者のひとりとして、わたしはそれを阻止せねばならない立場にあるのですぞ」手厳《て きび》しくホッブは言う。
「カシューが、本当に勇者といえるかどうかあなたは考えたことがおありか!」
同じく厳しい調子で、アシュラムは問いかえした。
「あの男が先に英雄戦争≠ノおいて、いかなる手段をもちいてべルド皇帝を倒したか、あなたは聞いたことがないのか」
「勇敢なる一騎打《いっき う 》ちにて、ベルド皇帝を打ち倒されたと聞きおよんでおります。それは、マイリーのご加護が、カシュー王に味方したからです。神聖《しんせい》な戦とはすべてマイリーの下す鉄槌《てっつい》にて決まるものなのですよ」
「あの戦いのどこが、神聖なものか!」
アシュラムの声は、部屋の石壁《いしかべ》を突きくずすかとさえ思われた。
アシュラムは、ロイドの東の平原で行なわれた、フレイム、ヴァリス連合軍とマーモとの最後の戦いのことを思い出していた。
まず、両軍の総大将であるファーンとベルドとの戦いの場面を、そして手傷を負いながらもそれに打ち勝ったベルドに対し、今度はカシューが挑《いど》んでいったことを。
その戦いも、アシュラムの目には、ベルド優勢のもとに進んでいるように見えた。
そこに、誰《だれ》が放ったものか、一本の矢が飛んできたのだ。常ならば、ベルドはもちろん、それをかわすことができただろう。しかし、剣匠《けんしょう》と名高いカシューと剣を交《まじ》えていては、さすがに無理《むり》な話だった。
矢はベルドの肩口に深く突き刺さった。
その瞬間《しゅんかん》、カシューはベルドの首をはねとばしたのである。
アシュラムはそのとき、確かに見た。カシューが剣を振るのを一瞬ためらったことを。そして、それから渾身《こんしん》の力を込めて、剣を振りなおしたことを。カシューは、あきらかに剣を止めることができたのだ。一騎打《いっき う 》ちの例にならうなら、当然のことである。
肩に矢が刺さってさえいなければ、ベルドはカシューの必殺の一撃《いちげき》をも受け流すことができただろう。
そして、いつかはカシューを圧倒したとアシュラムは信じている。
なにしろ、ベルドの持つ剣は無敵の魔剣である。魂砕《たましいくだ》き≠ニ呼ばれるこの大剣は、名前のとおり、かすっただけで相手の魂を打ち砕くとさえいわれている。倒した相手の魂を刃の中に吸いとってしまうとも。
さすがにそれは噂《うわさ》にすぎないが、相手の精神を消耗《しょうもう》させ、集中力を乱すのは間違《ま ちが》いがない。ベルドもそう判断《はんだん》していたし、アシュラム自身も使ってみて、同じ結論に達した。
集中力が乱れた戦士を倒すのは、簡単なことである。剣匠と呼ばれるカシューとて、集中力を失えば並みの剣士になりはててしまおう。
つまり、ベルドの刃がカシューの身体にかすりでもしていれば、それで勝負は決まっていたということだ。
ファーンが着ていた魔法の鎧《よろい》ならば、魔剣の力を防ぐだけの力があったかもしれない。だが、カシューの着ている普通の甲胄《ス ー ツ》では、ベルドの魔剣を相手にすれば紙切れも同然だった。
そして、その魔剣魂砕き≠ヘ、今、自分が引き継《つ》いでいるのである。もし、カシューと一騎打ちで剣を交える機会があれば、かならず自分が勝つつもりでいる。
魔剣の力を借りて勝つことは、ロードス島のならわしでは、けっして卑怯《ひきょう》ではないとされている。いかなる剣であれ、それを持つ者の腕の延長とされるし、優れた剣を持つことも戦士としての資質を現わしていると考えられているからだった。
「カシューとはそんな男なのだ」言いすてるように、アシュラムは話を締《し》めくくった。
ホッブは、その言葉に茫然《ぼうぜん》とした。アシユラムの話のとおりならば、カシューの勝利は決して正当なものではない。
正当な手段を用いずに相手を倒した者は、マイリーの怒りに触《ふ》れて、たとえ戦の中で死んだとしても、魂はマイリー神が住むという勇者の王宮に招かれる資格を失うとされているのだ。
カシューが卑劣《ひ れつ》な男ならば、彼に仕《つか》える自分もまた同様である。
「それに、ベルド陛下《へいか 》とカシューとの人間の大きさを比べてみるといい。カシューはすでにフレイムの王となり、それで満足しているではないか。自《みずか》らの国の繁栄だけに心を捉われて外の国の惨状《さんじょう》には、見て見ぬふりをする。それが、真の国王の、いや勇者のすることか」
「しかし、現在の惨状を招いたのは、他ならぬベルド皇帝ではありませんかなー[#「ー」に「ママ」の注記]」[#「!」の誤記]さすがに、今の言葉にはムッとなって、ホッブは反論した。
「ベルド皇帝が起こした破壊《は かい》の大きさを、忘れる者はいませんぞ。戦とはたしかに酷《ひど》いものです。しかし、戦で死ぬのは、戦士だけであるべきとわたしは考えております。だが、あの戦では、戦士以外の人も多く死んでおります。女、子供、老人にいたるまでです」
「それは弁解すまい。だが、マーモに生きる者にとって、戦とは常にそういうものだということは知っていてもらいたい。そして、ベルド陛下が夢見たことの大きさもな。あなたは、マーモに行ったことがおありかな?」
「いえ、あいにく」
「そうだろうとも。マーモはまさしく地獄《じ ごく》の島だ。非力な者が生き残るためにはな。そして、人間は決して強い生き物ではないのだ。食人鬼《オ ー ガ ー》ほどの力もなければ、ダークエルフのような魔法の力もない。また、ゴブリンやコボルドどもとて、数が集まるとどれほど恐ろしいものか、あなたは知っているか? 非力な人間があの島で生き抜くためには、剣であれ魔法であれ、とにかく力に頼《たよ》るしかないのだ。 わたしの父親は、もとはアラニアの貴族だった。ところが、政敵の陰謀《いんぼう》にかかり、反逆者の汚名《お めい》を着せられてマーモに流されたのだ。母親とわたしも一緒《いっしょ》にな。母はマーモに渡ったとほとんど同時に病《やまい》にかかって死んでしまった。父親もそのすぐあとに、ダークエルフたちの人間狩りにあい、捕《とら》えられた。知っているか、ダークエルフたちは、オーガーを飼《か》いならすために、生きた人間の肉を与えているのだぞ。マーモでは、人間の価値はオーガーの餌《えさ》ほどにしか考えられていないのだ。
それ以来、わたしは自分だけの力で生きのびねばならなかった。そのためには、何でもした。剣の技《わざ》は父親から教えられていたが、それは基本の型だけだった。型を知っているだけでは敵は切れん。実戦|慣《な》れするために、手頃な相手を見つけては切りかかっていったものだ。
剣の腕に自信がつくと、今度は同じような境遇《きょうぐう》の仲間を集め盗賊《とうぞく》まがいのことをはじめた。十五歳になるころには、わたしはすでにオーガーの餌ではなくなっていた。わたしとわたしの仲間たちは、マーモでももっとも恐れられる集団のひとつとなっていたからだ。力さえあれば、マーモは楽園となる。わたしたちは、掠奪《りゃくだつ》と殺戮《さつりく》を繰《く》りかえして日々を送っていたのだ。
誤解しないでもらいたいが、わたしは自分の生まれや育ちを愚痴《ぐち》っているのでも、自慢しているのでもない。両親を見舞った不幸や、わたしがやってきたことは、すべてマーモでは日常の出来事なのだ」
アシュラムは一気にここまで言うと、興奮した自分を静めるかのようにしばらく口をつぐんだ。
「……続けてください」ホッブが、落ち着いた声で先をうながしてきた。
「そんなある日、マーモにひとりの戦士が現われたのだ。それが、ベルド陛下《へいか 》だった。陛下がなにゆえマーモに現われたかの理由は、おそらく誰《だれ》にも分かるまい。ロードス島を征服するために、マーモの暗黒の力が欲しかったからか? それは事実だ。だが、マーモを統一し、その軍団を率《ひき》いて征服戦争を起こそうなどと考える者がいるとは、わたしには信じられなかった。マーモを統一することは、他のいかなる国を征服するよりも難しいからだ。それは誰の目にもあきらかではないか? カシューとて、一介《いっかい》の傭兵《ようへい》から王になるまでは、それなりの苦労があっただろう。フレイムには蛮族《ばんぞく》、炎の部族が立ちはだかっていたと聞いているからな。しかし、風の部族の結束は固く、彼らの信望さえ得れば王になることは、難《むずか》しくはなかったろう。だが、はたしてカシューにダークエルフの族長たちを支配下におき、協力させることができるかな? マーモに住む者は、法や道徳などを守ることさえ知らないのだ。そんな者どもを、いったいどうやってまとめることができる。
しかし、ベルド陛下はやってのけたのだ。しかも、たったの三年でな。わたしは、最初べルド陛下に敵対していた。マーモの統一を叫んで兵を挙《あ》げるなど狂気の沙汰《さた》としか思えなかったからだ。わたしは、剣の腕には自信があった。伸間を率いて、そのころすでに皇帝を名乗っていたベルド陛下の集団に戦《いくさ》をしかけた。だが、わたしたちは敗れた。それも、ベルド陛下ひとりに、打ち負かされたようなものだ。
戦いに敗れた以上、殺されても仕方がないと覚悟は決めていた。ところが、ベルド陛下は戦いの後、わたしに仲間になれと誘《さそ》いかけてくださったのだ。わたしは、その場は陛下の言葉を承知したふりをして、いつかこの男の寝首をかこうとひそかに心に決めた。しかし、表面的であれ、ベルド陛下に従うにつれて、いつしか陛下の入問としての大きさに心を打たれ、本心から陛下に仕《つか》えようと誓《ちか》っていたのだ。それは、他のマーモの悪党ども、邪悪《じゃあく》な妖魔《ようま 》どもにしても同様だったろう。ベルド陛下は、もっともまとめにくいはずのマーモとその住人の心をひとつにしてしまったのだ。
ベルド陛下以外のいったい誰に同じことができよう。ファーンやカシューにできるか? わたしにはとうていそうは思えない」
「ベルド皇帝が偉大だったというのは、わたしも伝え聞いております。ですが、あなたが英雄であるかどうかとは、今の話は関係ありませんな」
「人の資質というものは、本人が語るものではないと、わたしは思う。だからこそ、わたしはベルド陛下の話を語ったのだ。つまり、わたしの持つ資質を判断《はんだん》してもらうためには、わたしの目的を知ってもらうことがいちばんだからな。そして、わたしの目的とはベルド陛下の意志を受け継ぐことにある。ベルド陛下はマーモに生きる者たちも含めて、誰もが民となれるような国を夢見ていたのだ。一部の貴族や|騎士《きし》たちのためではない。大地主や大商人のためでもない。悪党や妖魔《ようま 》たちもが市民となれるような帝国の建設だ。今までに、そんな自由な心を持っていた人間がいただろうか。こんな馬鹿げた、しかし、大きな夢を見た人間がいただろうか?
そんな帝国を実現するためには、マーモから始める以外になかったのだ。他の国の勢力を地盤にして、ロードスを統一したとしても、おそらくマーモの住人たちは皆殺しの目にあっていたろうからな。ファリスの狂信者どもが言うように、存在そのものが邪悪《じゃあく》であるとか、そんな理由をつけられてな。
マーモの住人が邪悪なのではない。島そのものが邪悪なのだ。そこに住むいかなる者も、すべて邪悪にならざるをえない。いや、邪悪でない者は生き残れぬ土地なのだ」
長い話が終わり、アシュラムはマントの縁《ふち》の部分に顔を当て、額に流れる汗をそっと拭《ぬぐ》った。
「失敗すれば、オレは邪悪な男と呼ばれよう。しかし、成功すれば千年のあいだは英雄と語られる王となるに違いない」
最後にそう付け加えた。
ホッブはアシュラムが話を続けているあいだ、彼の表情を一瞬《いっしゅん》も見逃すまいと注意していた。この男の本心を知り、人間としての器《うつわ》を見極めようとしていた。
男の中にすこしでも偽《いつわ》りの気持ちがあれば、見抜く自信はあった。しかし、男の中には偽りはなかった。あるのは、巨大な野心と同じくらいに巨大な自信だけだった。野心は夢と呼ぶこともできる。巨大な自信は、過信とはまったく異なったものだ。
面白い、とホッブは心の中でつぶやいた。
ひさしぶりに高揚感《こうようかん》が湧《わ》きあがってくる。戦いの場に赴《おもむ》いているような、そんな気持ちの高ぶりだ。
ベルドという男が抱いていた夢に対して。そして、この男がそれを引き継《つ》ごうと公言していることに対して。アシュラムという男の抱いている考えはあきらかに危険な賭《か》けであった。しかし、それはたまらなく魅力的な賭けであり、しかもこの男にはそれを成し遂げるだけの力が備わっているように思えた。
皇帝の相を持っているとでもいおうか。大志を抱きそれを自らの力で完遂《かんすい》する選ばれた英雄だけに見られる相だ。たとえば、カシュー王がそうであるように。
ただ違うのは、カシューはすでに国王であり、この男はまだそうではないということだ。この男の前にはこれから先、幾多の戦いがあり、そしてその戦いの中で自分の力は必要とされるだろう。
カシュー王は、何事も自《みずか》らの力で解決せずにはおられない気性《きしょう》の人物だ。それを成すだけの実力を持っているからこそだが、仕える立場にある者にしてみれば、ときに不満に思えることもある。
目の前の男がどれほどのことを成すか見届けてみたい、とホッブは思った。同時にこの男に協力することで、自らの力も見届けてみたいとも。勇者の導き手≠自称するホッブにとって、この戦士こそまさしく求めていた勇者であるかもしれないのだ。
「分かりました。お伴をいたしましょう。そして、あなたがカシュー王を越えられる人物ならば、喜んで手を貸しましょう。もちろん、資格なしと分かれば、すぐにでも帰らせていただきますがな」
すこしも動かぬかに見えた戦士の表情が、そのときかすかに動いた。口許《くちもと》に笑みを浮かべながら、ホッブの方に手を差し伸べてくる。
「結構だ。あなたの期待を裏切るつもりは毛頭ない。いつの日か、あなたはわたしの王都の城下で神殿を開いていることだろう」
「それは自《みずか》ら確かめさせていただきます」ホッブも微笑《ほえ 》んで、そう答えた。
そして、手を二度ほど大きく叩《たた》き、彼は人を呼んだ。
しばらくして、扉《とびら》が開き、若い女性が姿を現わした。
黒い髪《かみ》が緩《ゆる》やかにウェーブしていて、神官衣の肩のところを越えて伸びていた。眉《まゆ》の端がすこし下がりぎみなせいか、穏《おだ》やかそうな印象を受ける。しかし、そこは戦《いくさ》の神に仕《つか》える神官である。ふたつの瞳《ひとみ》には強い意志力がみなぎっており、黒曜石《こくようせき》のように輝いていた。
年齢は二十代なかばぐらいだろう。飾り気のない神官衣を着ていてもなお、成熟した女性の魅力を漂《ただよ》わせている。唇《くちびる》には薄く紅を差している。
彼女は名前をシャリーという。この神殿では、ホッブに次いで侍祭《じ さい》の地位にいる女性だった。そして、その地位にふさわしい実力を身につけてもいる。神聖《しんせい》魔法の使い手としても、神官戦士としての能力においてもだ。
「お呼びでしょうか、司祭様」
シャリーは部屋に入ると、ホッブと客である黒騎士《くろきし》に向かって静かに頭を下げた。黒騎士に対しては、厳《きび》しい表情で一暼《いちべつ》を加えながら。
「ああ、呼んだ。わたしはこれから旅に出なければならない。偉大なるマイリーの導きによってな。それで、後のことをおまえに任せようと思うてな。おまえには司祭を名乗るだけの実力が十分にある。重すぎる役目ではないだろう」
突然のことだけに、さすがに驚き、シャリーは一瞬言葉を失って司祭の顔を茫然《ぼうぜん》と見つめた。ただ、すぐに気を取り直し、彼女は考えをまとめようと、しばらく視線を宙に泳がせた。
「わたしは、反対いたします」客に気を遣《つか》う様子もなく、きっぱりとした言葉だった。「わたしは、いましがたこの戦士殿のお連れの方を見てまいりました。あの方々はあきらかに邪悪《じゃあく》な意志をお持ちでおいでです。この戦士殿からは感じられませんが……。そんな方々に同行すれば、司祭様の名前に傷がつきます」
今、神殿の中庭には五人の男女が主人であるこの戦士を待っているが、その五人が五人とも邪悪な気を感じさせた。
ふたりは傭兵《ようへい》ふうの戦士だった。しかもひとりは女である。ふたりともかなりの手練《てだ》れであろう。全身から殺気を放ち、間断《かんだん》なく周囲をうかがっている様は、まるで重い罪《つみ》を犯《おか》した罪人のようだった。
ローブを着た男はふたりいたが、そのうちのひとりは、骸骨《がいこつ》のように痩《や》せた魔術師だった。
光沢のまったくないどす黒いローブに身を包んでいる。賢者の学院≠ナ与えられるものとはあきらかに形が違う。ちょうど心臓のあたりに、上位古代語のルーンが一文字だけ刺繍《ししゅう》されていたが、その文字からもまがまがしい印象しか受けなかった。
魔性《ましょう》を感じる、とシャリーは思った。本物の死霊《しりょう》ではないかと疑ったぐらいだ。
もうひとりのローブの男は黒《ダーク》エルフだった。邪神《じゃしん》に心を売った、邪悪なエルフの一族。長いローブを着込み、深くフードをかぶっていたが、手の平などフードから覗《のぞ》いている肌《はだ》の色をシャリーは見逃さなかった。
そして、最後のひとりは胸に暗黒神ファラリスの紋章《もんしょう》が描かれた衣服を着ていた。もちろん、あの邪教《じゃきょう》の信者が善人であろうはずがない。
「正義ある戦いだけに、司祭様のお力は使われるべき……」シャリーは、力を込めてそう進言した。
「それは違うぞ」シャリーの言葉をさえぎり、強い調子でホッブは否定した。
「戦いには善も悪もない。正当であるか否かだけが問題なのだ。それが戦《いくさ》の神の教えであろう。他人が何と言おうともかまわない、自分が正しいと信じれば、あくまで戦いぬけばよい。神はわたしのしようとしていることに反対はなさるまい」
「承知しました」最初からあきらめていたのか、シャリーは素直に師の言葉に従い、頭を下げた。「ですが、わたしはまだ司祭位は名乗りません。司祭様がお帰りになるまで、留守《るす》をお預かりするだけです」
これだけは譲《ゆず》らぬとばかり、シャリーは言う。
「わしに気を遣《つか》う必要はないぞ。だが、どうせ言っても聞かないだろう」
「はい」シャリーはそう返事をする。
ホッブはかるく笑いながら、彼女の前まで歩みよって、肩に手を置いた。
「シャリーよ、神の導きの言葉に耳を傾けるのだ。そして、神の言葉とは心の内側からやってくるものだということを忘れるな」
「はい、決して……」やや喉《のど》を詰《つま》らせながら答え、シャリーはホッブの前にひざまずき頭を下げた。「司祭様に、|戦の神《マ イ リ ー》のお導きがありますことを」
「もちろんだ。そのためにこそ旅立つのだからな。では、我が勇者よ、参りましょうかな。わたしの支度《し たく》はすぐにすみますから」
「そう願おう。日差しが強くなる前に街道《かいどう》まで出たいからな」
アシュラムはそう言うと、悠然《ゆうぜん》とマントをひるがえして部屋の外へと出ていった。
暑い。
すべての思考が焼けつくような乾《かわ》いた暑さだ。
砂漠の太陽が、すでに夏を思わせる激しさで、大地に降りそそいでいる。
だから、暑い。
気が遠くなるような日の光を浴《あ》びながら、七人の旅人が砂漠の道を足を引き摺《ず》るように歩いている。
目前に白っぽい石造りの建物が続く街並みが見える。
七人は、全員冒険者ふうの旅人だった。重い鎧《よろい》を身につけ、武器を帯《お》び、背負い袋が荷物でいっぱいに膨《ふく》れあがっている。
ザクソンの村を発《た》って一月あまり、砂漠の王国フレイムの王都ブレードにようやく辿《たど》りつこうとしているパーンたち一行の姿だった。
ディードリット、スレイン、レイリアという以前からの仲間の他に、今回はようやく見習いを卒業した魔術師のセシル、そしてザクソンの村で知り合いになったふたりの傭兵《ようへい》、女戦士のシーリスと狂戦士のオルソンも一緒《いっしょ》であった。
ザクソンの村は氷の精霊《せいれい》の集《つど》う白竜山脈に近いこともあり、春の訪《おとず》れは遅く、夏が終わるのは早い。一方、砂漠の国フレイムは、炎の精霊が強い力を持っているだけに冬の訪れを知らない。
世界は北に行くほど寒く、南に行くほど暑いと一般に言われている。
北の果てには氷の門、南の果てには炎の門があり、このふたつの門にて世界が閉ざされているからだ、と賢者はまことしやかに語るが、それを確かめた者は誰もいない。
それを言うなら、ロードス島は北のアレクラスト大陸よりずいぶん南にあるのだから、大陸よりもっと暑くて当り前である。確かにロードス島は全体的に温暖な気候にあるが、精霊力の偏《かたよ》った地では、そういった一般論はもろくも崩《くず》れさる。
隣同士《となりどうし》の国なのだがアラニアは寒く、フレイムは暑い。そんな矛盾《むじゅん》した現象が起こるのも、地、水、火、風の四大精霊を始め、自然を司る精霊たちの気紛《き まぐ》れのゆえなのだ。
ザクソンの村からブレードまで旅するあいだに、パーンたちはまるで冬から夏に変わったような気候の変化を体験させられていた。
旅なれたパーンたちではあったが、さすがにこれには悲鳴を上げた。
砂漠を横断するときは、暑さと渇《かわ》きで苦しめられた。ディードリットの手によって、この地を砂漠と変えていたふたつの精霊の王――風の王<Wンと炎の魔神<Gフリー卜――は、この地から解放され、各々の精霊界に帰ってしまっている。
精霊の王たちが封印《ふういん》されていたころの厳しさはなくなったとはいえ、いきなり砂漠が草原に変わるわけではない。厳しい砂漠の気候は、今だ力を失うことなく、ひよわな人間の侵入《しんにゅう》を拒《こば》んでいるのだ。
「やっと、着いた」
ディードリットが、押え[#「押え」に「ママ」の注記]て[#「抑え」の誤記]きたものをすべて吐きだすようなため息と共に、そう洩《も》らした。
パーンたちはようやくフレイムの首都、ブレードの街中にたどりついた。
暑さが変わるわけではないが、さすがに街中はところどころに木陰《こ かげ》もあれば、水を打たれて涼しくなった場所もある。
砂漠のただ中とは、まったく気分が違う。
「ずいぶん、ひさしぶりっていう気がするわね」
ディードリットが、照りつける日差しに目を細めながら、懐かしそうにブレードの街並みを見回し、パーンに話しかけてきた。
「ひさしぶりと言っても、まだ三年だぜ。でも、街の様子はたしかに変わったな」ディードリットにそう答えて、パーンはいったいどこがいちばん変わったのだろう、と街の様子を細かく観察してみた。
「人が増えましたね、それに緑も。人が増えたのは戦乱を避《さ》けて、この街に流れてきたのでしょうし、緑はカシュー王の努力と、それに例の一件で自然の精霊力《せいれいりょく》が正しく働くようになったからですね」
一行のいちばん後ろを歩いていたスレインが、パーンたちの会話にいきなり割りこみ、そう説明する。
何事にも口を挟《はさ》まずにおられないところが、スレインの昔からの性格だった。しかし、もったいぶったり、わざと難《むずか》しい言い回しをしないので彼の言葉には嫌味は感じられない。もっとも、その分、一言の重みをなくしてしまっていることに本人は気が付いていない。
ふつうの賢者のように、知識を語るのを商売にするには、いささか不向きな性格といえた。
「ま、そんなところだろうな。さすがに砂漠の民の姿がいちばん多いが、アラニアやカノンふうの衣服を着ている者もずいぶんいる」
「民は平和を望んでいるのですよ。今のロードスで戦乱を避けようと思えば、ここフレイムかライデンぐらいしかありませんからね」
「それと我らがターバの村でしょう」スレインの言葉を受けてセシルが胸を張るように言う。
「あなたが威張《いば》ることじゃないでしょ」すかさずシーリスが横槍《よこやり》を入れる。
出発前にスレインやパーンたちと交わした約束も忘れ、シーリスは何事につけセシルにちょっかいを出すようになっていた。
彼女にしてみれば、セシルの大上段に構《かま》えたところがおかしくてたまらないのだ。それに、からかったあとの反応も。
セシルはむきになって彼女を遣《や》りこめようとするのだが、傭兵《ようへい》暮らしも長く、世故に長《た》けたシーリスが相手ではいかにも分が悪い。
最初のうちは、パーンやスレインが注意していたが、そのうちよほど険悪《けんあく》にならないかぎり、一行の誰もがこのふたりの口喧嘩《くちげんか 》の仲裁《ちゅうさい》に入ろうとしなくなっていた。
パーンにしてもスレインにしても、些細《さ さい》な事にこだわるほうではない。
ディードリットは自分に被害《ひ がい》が及ばないかぎり、他人のことには口をはさまない主義だし、控《ひか》え目なレイリアもめったなことでは自分の意見を口にしない。
例の狂戦士男のオルソンは、感情が欠落しているのだから、もちろん論外だった。
そんなわけで、セシルはシーリスに何事につけてからかわれていたのだが、それを受け流すということがまだできないでいた。
むきになって、真っ向から反論するだけである。
今も、顔色を変えて抗議しているが、シーリスはまるでそれを取りあおうとしない。
「オレは、スレイン師がやりとげたことを誇っているだけだ」
「人の事を誇るなんて誰にでもできること。それなら、自分がどんな協力をしたか威張《いば》っているのを聞くほうが、よっぽど気持ちがいいわ」
「そんな自慢ったらしいこと、ふつうの人はしないもんだ」
反論するセシルに、シリースは鼻をならしてそっぽを向く。
「つまらない一般論ね。自分がしたことを誇りに思うのなら、自慢したって恥かしくはないでしょう。おおかた、女は戦うもんじゃないとか、偏見《へんけん》を持っている口ね」
「ああ、思っているね。女だてらに剣を振るったりしているから、おまえみたいに口うるさくなるんだ」
「あら、それはあたしに対する挑戦《ちょうせん》?」ディードリットがセシルの言葉を聞きとがめて、ふたりのあいだに割ってはいる。
別に怒ったような感じではないので、ふたりの仲裁をするつもりもあるのだろう。
「そんな意味で言ったんじゃありません」セシルがあわてて弁解する。
「待て、みんな! あそこ」
そのとき、パーンが厳《きび》しい調子で、路地の方を指差した。
その警告の声に、全員がパーンの指差す方向に注目する。
そこでは、何か騒《さわ》がしい物音が起こっていた。
「集団で喧嘩《けんか 》をしているみたい……」
ディードリットは、視力の良いことでは定評のあるエルフなので、路地の方で起こっている騒《さわ》ぎの正体が分かった。
十数人ほどの集団がふたつに分かれて争っているのだ。
「行ってみよう」パーンがそう言って、すかさず走りだす。
「まったく、いつもこうなんだから」
ディードリットはそう文句を言いながらも、パーンの後を追いかけていた。
他の仲間も、すこし遅れて続く。
近づいてみると、どうやら二組に分かれて争っているのが分かった。
片方はあきらかに難民《なんみん》ふうである。その集団の中には女や子供もいて、なんとか争いから逃れようとしている。
もう片方は風の部族の者らしかった。こちらの集団のほうには武器を持っている者もいる。
あきらかに風の部族の者が優勢である。女、子供を守ろうとする難民の男どもに、殴《なぐ》る蹴《け》るの暴行を加えている。
「やめろ!」そこに、パーンが飛びこんでいった。
「貴様らは何だ!」風の部族の男のひとりが言いかえしてきた。
「喧嘩《けんか 》の理由を聞いている。女、子供もいる集団を苛《いじ》めているようにしか見えないぞ!」
「こいつらは、ぬすっとだ。それを成敗《せいばい》して何が悪い!」
「それなら、城に連れていって役人に引き渡せ。カシュー王なら、双方の言い分を聞いて、公平に裁《さば》いてくれるだろう」
「陛下《へいか 》に、そんな手間を取らせる必要はない。他所者《よ そ もの》は引っ込んでいろ!」
言うなり、ふたりの男が偃月刀《ファルシオン》を引き抜いてパーンに向かってきた。
パーンは楯《たて》を構《かま》えて、ふたりを迎えうつ体勢を取る。
「どうしてもやる気なら、相手をするぞ」そして、パーンは腰から魔法の剣を引き抜いた。
「パーン! 怪我《けが》をさせてはなりませんよ」後ろから、スレインが声をかけてくる。
「わたしも手伝います」セシルが、パーンのそばに駆《か》けよろうとすると、
「相手を傷つけないように倒すのは、けっこう難しいもんよ。あんたでは駄目《だめ》ね」
と、シーリスが、セシルを押し退《の》けて前に出た。
「勝手なことを」セシルは抗議した。
「シーリスの言うとおりだ」今度はオルソンがセシルを押し退けて前に出ていった。
「これじゃあ、立場がない」
「立場なんかなくったって、かまいませんよ。ここは戦士たちの出番です。あなたは、引っ込んでなさい」
スレインがセシルに声をかけて、用心深くことの成り行きを見守ろうとする。その横にレイリアが立つ。
「魔法を使ってよろしいでしょうか。誰も傷つけずに、争いをやめさせられると思いますが」
「マーファの魔法ですか? ここは、パーンたちに任《まか》せたほうがいいでしょう。魔法はその場の解決にはなっても、原因を根本から断《た》ち切ることはできませんからね」
スレインは、そうレイリアに答えて、ここはパーンに任せておきましょう、ともう一度付け加えた。
切りこんでくるふたりの動きを注意深く見比べ、パーンは左の男からまず片付けることに決めた。
「でやぁ!」
気合いのこもった声で、男はファルシオンを振りおろしてくる。
パーンは左に回ってそれをかわすと、左手の楯《たて》で相手の顔を殴《なぐ》りつけた。
たまらず吹き飛び、男は地面に倒れた。
もうひとりの男は、吹き飛ばされた仲間に邪魔《じゃま 》される格好になり、最初の|攻撃《こうげき》のタイミングを逸《いっ》していた。
そこに、オルソンがやってきて、男のファルシオンめがけて、力を込めた一撃《いちげき》を見舞った。
相手はそれをからくも受け流した。そこへ、シーリスが低い体勢から、狙《ねら》いすました蹴《け》りを相手の腹をめがけて叩《たた》きこんだ。
鎧《よろい》も身につけていなかったその男は、口から汚物《お ぶつ》を吐きだしながら前のめりに崩《くず》れた。
一瞬《いっしゅん》のうちに、勝負は決まっていた。
「まだ、歯向かう奴《やつ》はいるか!」
パーンは威嚇《い かく》するように、残る男たちを見据《みす》えながら大声で怒鳴《どな》った。
さすがに、今の様子を見ては、手向かってくる者はいなかったが、それでも砂漠の男たちは怯《ひる》むことなくパーンたちを睨《にら》みつけている。
その数がいつの間にか増えているのにパーンたちは気がついた。騒《さわ》ぎを聞きつけた近くの者が、この路地にやってきたのだろう。
そして、奇妙《きみょう》な旅人と戦う仲間を見て、加勢しようとしているのだ。しかも、パーンたちの背後にもいつのまにか人並みができていて、逃げるのも難《むずか》しそうだった。
なにかきっかけがあれば、群衆たちは襲《おそ》いかかってくるだろう。そうなれば、多勢に無勢である。パーンたちとて、無事《ぶじ》に済むとは思えない。かといって、罪《つみ》もない民衆を傷つけるなどできるはずがない。
「困ったことになりましたね」スレインがその様子を見て、レイリアにささやいた。
「ええ、でも我々に非はありません。神はきっとご加護をくださいますわ」
「どうするの?」ディードリットはパーンのそばに駆《か》けよってきて、小声で尋ねた。
「すごくまずい雰囲気《ふんい き 》じゃない」
ああ、とパーンは答えて、集まってきた群衆の様子をうかがいつづけている。
「なんだ、なんだ、何事だ!」そのとき、群衆の向こう側で大きな声がした。
その声に人の壁《かべ》が左右に割れて、武器を持った男たちが五人、姿を現わした。フレイム軍の兵士に間違《ま ちが》いはなかった。しかも、そのうちのひとりは、フレイムの誇る砂漠の鷹《たか》°R士団《き し だん》の一員だった。鷹の紋章《もんしょう》の入った|硬革の鎧《ハードレザー》に身を包んでおり、腰には立派な飾りのついた|広刃の直刀《ブロードソード》を吊《つ》り下げている。
パーンの後ろで、シーリスの舌打ちする声がした。
「どうする、逃げるか? 後ろなら抜けられそうだ」オルソンが抑揚《よくよう》のない声で、そうシーリスにささやいた。
「仲間を見捨てるつもり! いったい、どういう気で……と、あなたには感情がないんだっけ。いい、オルソン。わたしを相棒《あいぼう》だと思ってくれてるのなら、あの人たちのこともそう思ってちょうだい。そして、相棒を見捨てて逃げてはいけないのよ」
シーリスはそうオルソンに言う。
「覚えておくよ……」抑揚のない声で、オルソンは答えた。
「それに、どうせ逃げるにしても、ひとあばれしてからよ。わたしはここの連中、気にいらない!」
そう言って、腰から剣を抜き、刃をポンポンと叩《たた》く。
いかにもシーリスらしいと、オルソンは思った。この女戦士は、いつも楽しそうに人生を生きている。オルソンは、彼女のそんなところに憧《あこが》れていた。
自分の緩慢《かんまん》な生き方より、きっと素晴《すば》らしいに違いない。だから、オルソンはこの女戦士と長いあいだ、連れ添ってきたのだ。
それに、姉に面影《おもかげ》が似ているという理由も手伝っているのだろうと自分では考えている。
女性として魅力《みりょく》があるということは、理屈では分かっているが、そのことは感情のない彼にとって、強い衝動《しょうどう》にはなっていない。しかし、この女性を愛することができるようになれば、それはきっと素晴らしいことに違いないと、オルソンは漠然《ばくぜん》とではあるが考えてもいた。
フレイムの騎士たちは、ブレードの市民たちに向かって、事の次第を尋ねていた。
「こいつらは、そこのぬすっとどもの仲間なんだ。懲《こ》らしめようとしたら、こちらに暴力を振るった」
さっき、パーンに楯《たて》で叩きのめされた男が息を吹きかえして、兵士たちに向かってそう説明している。
「そうだ! 他所者《よ そ もの》なんか、殺してしまえ!」
調子を合わせるように、シーリスに腹を蹴飛《けと》ばされた男が、叫んだ。
「みんな、砂漠に生き埋めにしろ!」
残りの群衆たちの中から、そんな叫び声が聞こえてきたかと思うと、残る者たちも口々に勝手なことを叫びながら、しだいにパーンたちとの間をつめてくる。
「そんな無法は許されていない!」|騎士《きし》がそう叫んで群衆を静める。「カシュー王は民が私刑《リ ン チ》を行うことを望んではおられない!」
その言葉に、パーンたちはほっと息をついた。
「どうやら、話合いで片がつきそうだな」
と、ディードリットにささやいて安心したのも、束《つか》の間《ま》。
「しかし、盗賊《とうぞく》を助け、しかも街の民に怪我《けが》をさせたとあっては許すことはできない。おとなしくするならばよし、手向かうならば、容赦《ようしゃ》なくこの場で切って捨てるぞ!」
|騎士《きし》はそう叫んで剣を引き抜き、パーンたちの方に向かってきた。あとの四人の兵士も、当然それに倣《なら》う。
「なんて、言い種《ぐさ》だ!」セシルが怒りに顔を歪《ゆが》ませながら、怒鳴《どな》りかえした。「そっちこそ、無抵抗な人々に暴力を振るっていたんだぞ! オレたちはそれを止めにはいっただけだ」
「言い訳《わけ》は、詰《つ》め所で聞く」そう言って、騎士は武器を捨てろとパーンたちに命じてきた。
四人の兵士が、パーンたちを取り囲むように、前に進みでてくる。
「あたしは頭にきたわ! ここで、風の王を呼んでやろうかしら! 守護神に立ち向かうことなんて、彼らにはできないでしょう」ディードリットが息まいて、精霊語の詠唱《えいしょう》を唱《とな》えはじめた。
彼ら風の部族は古来より、風の上位精霊であるジンを守護神としてきたのだ。そして、ディードリットはその風の王イルクを召喚《しょうかん》し、助力を頼むことができる。
「礼儀を知らない奴らに、従う気はないわね!」
シーリスも挑戦《ちょうせん》的に叫んで自分の長剣を引き抜いた。
「伸間は守らねばならないんだっけな」
オルソンはそう言うと、剣と楯《たて》を構《かま》えてパーンの隣《となり》まで進みでていく。
「そうよ、オルソン。こんな奴らやっつけてしまっていいのよ」シーリスがうれしそうな声をあげる。
「手向かう気か!」兵たちは、一歩後ろに下がって剣を構えなおす。
「パーン! やめなさい。ここで争ってはなりません!」
「分かっているさ、スレイン。でも、相手がそれを許してくれるかどうか……」
パーンの言うとおり、兵士たちは今にも飛びかからんばかりの様子だった。それを押し留《とど》めているのは、パーンたちがいかにも手練《てだ》れの戦士に見えることだ。うかつに飛びこめば、ただではすまないという予感がするからだ。
しかし、それも限界がある。彼らは声を掛けて、一斉《いっせい》に飛びかかってこようとした。
「待て!」
それを、騎士がするどく制した。
「おい、そこの痩《や》せた男。今、何と言った!」
「痩せた男とは、わたしのことですね。その戦士の名前を呼んだだけですよ。パーン[#「パーン」に傍点]ってね」
スレインは、パーンの名前をわざと強調して答えた。
「パーンって、あのパーン殿か?」騎士はあきらかに狼狽《ろうばい》している様子だった。「このフレイムの危機を救ってくれたという……」
「どういうことよ?」訳が分からず、シーリスがパーンに問いただしてくる。
訳が分からないのは、群衆も、それに兵士たちも同様だった。
いかに先の戦いでフレイムに協力していたとはいえ、パーンの名前を知る者はそんなに多いわけではない。
だが、砂漠の鷹《たか》°R士団《き し だん》の男は、さすがにその名を聞いたことがあるらしかった。
「戦う必要がなくなったのは、間違《ま ちが》いなさそうだね、シーリス。君には、残念なことかもしれないけど……」オルソンは、剣を収めながら、何事もなかったかのように、スレインたちの所まで歩いて戻《もど》った。
「たしかに、オレはパーンさ。フレイムの危機を救ったというのは、大げさだけどな。でも、その手伝いはしたことがある」
パーンの答えを聞いて、まだ若い騎士は、路地の地面に片膝《かたひざ》を落として、礼をした。
「そ、それとは知らず失礼しました。まさか、このフレイムに来られているとは、存じませんでしたので……」
「分かってもらえればいいんだ」完全に拍子抜《ひょうしぬ 》けしながら、パーンも剣を収めた。
「オレも騒《さわ》ぎを起こしたことは悪かったと思っている。ただ、そこにいる難民《なんみん》らしい集団を風の部族の者たちがよってたかって苛《いじ》めていたので、我慢できなかったんだ。風の部族は、勇敢で正義を愛する民なんだろう。さっきのは、ちょっと非道《ひ どう》だったぜ」
「なぜ、そうなったかの理由は、だいたい分かります。実は、今、フレイムは決してうまくいっている訳ではないのです。それは、カシュー王にお会いになれば、分かると思いますが……。パーン殿はこれから、王城へ参られるつもりだったのでしょう?」
「そのつもりだった」パーンは答え、まだ剣を抜いたままのシーリスに、剣をしまうように合図《あいず 》を送った。
「へぇ、カシュー王に面識《めんしき》があるとは聞いていたけど……。まさか、そんなに有名だったとはね。わたしが見込んだんだから、ただの戦士とは思っちゃいなかったけどね」
シーリスは答えながら、パーンに言われたとおり剣を収める。
「城に参られるのなら、ご案内いたします」
おそるおそるといった感じで、騎士はパーンたちに申し出た。その間に集まった群衆たちを解散させるよう、兵士たちに命じた。
「どうする、スレイン?」
「お言葉に甘えておきましょう」
「ね、神のご加護がありましたでしょう?」レイリアがスレインに微笑《ほ ほ え》む。
「まったくでしたね。いつもこうあって欲しいもんです」
「危ないところをどうもありがとうございました」
それまで路地の端の石壁《いしかべ》に縮こまっていた、難民たちの集団がパーンたちに近寄ってきて、礼を言った。
「物を盗《ぬす》んだというのは、本当かい?」パーンは、彼らにそう問いかける。
彼らは互いに顔を見合わせるようにしながら、ええ、とうなずいた。
「お金がなかったんです。このところ、まともな食事もしていなくて、子供がひもじがっていたんです。それで、店先の食料を奪《うば》って逃げたのです」
ふたりの子供を連れた婦人が、涙声でパーンに訴《うった》えた。
「しかし、盗みはいけない。頼めば、誰かが食料を分けてくれたでしょう。それに何か仕事をすれば、お金だってはいる」
「それは……たぶん、無理《むり》でしょう」答えたのは婦人ではなく、|騎士《きし》だった。「我が国は、今、食糧が不足していて、難民《なんみん》にまで充分食糧を分け与えるだけの余裕がないのです。それでなくても、先の戦いで炎の部族の民が加わり、フレイムの人口は増えていたのです。そこに、大量の難民が流れてきたので、砂漠の国であるフレイムにはとても……」
「さっき、あなたが言い掛けていたのは、その事だったのですね」スレインが尋ねると、騎士は素直に認めた。
スレインは首を横に二、三度振って、懐《ふところ》から革製《かわせい》の小袋を取りだし、難民たちのうちのひとりに手渡した。
「仕方ありません。食料を盗んだ店に代金を渡してきなさい。それから、残りは自由に使っていただいてけっこうです。しかし、有意義に使ってください。そして、どうしてもこの街ではやっていけないようでしたら、砂漠を越えてアラニアまで行ってください。北の街道《かいどう》沿いにザクソンの村まで行けば、そこの人たちは暖かくあなたがたを迎えてくれますよ」
「ありがとうございます」スレインから革袋を受けとって、彼らは深々と頭を下げた。
「そこまでしてやる必要はないだろう。難民全員にほどこしを与えるほど、あなたはお金を持っているわけではないはずだ。助けるなら全員を救うべきだし、できないならひとりだって助けるべきじゃない。それが平等だし、理屈《り くつ》にも合う」
オルソンが不思議そうな顔をして、スレインに言う。スレインという男のしていることは、彼の頭の中では偽善《ぎ ぜん》にしか思えなかった。
「あなたの言うことはもっともです。ですが、関わりになった以上は、最後まで面倒を見てやるのが人情というものです。でも、これ以上、砂漠の民と難民たちとのごたごたには巻きこまれないようにしましょう。わたしの路銀《ろ ぎん》は今のですっかりなくなってしまいましたからね」
スレインは、その場から離れながら、オルソンに答えた。難民である彼らに聞かせるのは、まずい話だと考えたからだ。
見れば、部下の兵士たちには引き続き街中を巡回するように命じながら、フレイムの騎士はパーンたちの先頭に立って歩きはじめていた。
オルソンは、スレインの言葉を頭の中で整理しようと試みてみた。自分が会った者だけを助ける。それで自分の気持ちを満足させるのは、やはり欺瞞《ぎ まん》のようにしか思えない。だからといって、誰も助けないというのが肯定《こうてい》されるものではないことも理解できる。結局はどちらも完全ではないのだ。ならば、自分にとっての利益を優先に考えるのが、当然ではないか。
もっともそこに、感情が入ったなら、結論に違いが出てくるのかもしれない。
シーリスがオルソンの隣《となり》を歩きながら、心の中を見透《みす》かしたかのように、
「理屈《り くつ》じゃなく心で考えるのよ、オルソン。あの人たちを見て、かわいそうだって思わない? そう思ったならなんとかしてやるべきだし、それがふつうの人間というものなのよ」
と、言ってきた。
もっとも、彼女自身は、難民《なんみん》たちをかわいそうとはあまり思っていなかった。弱い者が食べられなくなるのは、当然のことだからだ。それがいやなら、強くなればいい。シーリスは、カノンの国で新しい支配者たちからそのことを教わった。
「感情ってやっかいなものだけど、あればけっこう面白いよ」意味ありげにパーンの方を見ながら、シーリスはそうオルソンに言った。
オルソンが怒りの精霊《せいれい》とやらに取りつかれていることを知ってからというもの、シーリスは事あるごとに感情の何たるかを説明するようにしていた。
オルソンがふつうの感情をとりもどせば、二度と狂戦士なんかにはならないだろうし、一緒《いっしょ》に旅をするシーリスにとっては、なにより肩の荷がおりることだったからだ。
「ま、気長にね。相棒《あいぼう》」シーリスが笑いながら、オルソンの肩をポンと叩《たた》いた。
パーンたちは路地から出てもとの大通りに戻り、砂ぼこりで煙るブレードの街を騎士に案内されて、王城アーク・ロード≠ノ到着した。
三つある城の監視塔《かんし とう》の上部が、そりかえるようにパーンたちの目に映った。
涼しい風が砂の川≠ゥらそよいできていた。
三年前に来たときにはこの川は完全に干上《ひあ》がっていたが、今は青々とした水を豊かに湛《たた》えている。海に近いこともあって、流れは穏《おだ》やかなものだ。小舟が二|艘《そう》ほど浮かんでいるのは、猟師が川魚を獲っているのだろう。
パーンたちは、数人の衛兵たちが物々しく警戒していた城門を通りぬけ、そして、城の建物の中に入っていった。
三年前ここに入るときには、衛兵と押問答となったりしたものだが、今は案内の騎士がいることもあって、すんなりと中に通してもらえた。
そして、パーンたちは王城の建物に入り、二階にある謁見《えっけん》の間《ま》に案内された。案内してきた若い騎士は、カシュー王を呼んでくると言って広間から出ていき、彼らだけがあとに残された。
「あなたたちって、ちょっとした有名人なのね」シーリスがそう言って、フフと笑う。
ただ、すこし皮肉めいた調子になっていたのは、王や貴族というものにあまり好感をいだいていないからだった。彼女は王や貴族というものには、仕事を依頼《い らい》して金をくれるということ以外になんの価値も置いていない。
それからあとは、誰も何も語らず、無言の時が過ぎていった。
しばらく待っていると、謁見の間の奥の扉《とびら》が激しい音を立てて開き、中からふたりの男が姿を現わした。
「ひさしいな。まったく、よく来てくれた。心から歓迎するぞ」
そのうちのひとりが満面に笑みを浮かべて、声をかけてきた。
フレイム国王、カシュー・アルナーグ、その人だった。
一介の傭兵《ようへい》から身を興し、このフレイムを築きあげた稀代《き たい》の英雄である。傭兵王≠ニいうふたつ名は、彼を心の底から尊敬する民たちが名付けた呼び名である。もっとも、最近では今は亡《な》き先代のヴァリス王ファーンと同じ英雄王≠フ名で呼ぶ者も多くなっていると聞く。
パーンたちは、歩みよってくるカシューに向かってうやうやしく頭を下げた。
「礼は不要だと、いつも言っているだろう。オレはおまえたちを友としか見ておらんぞ」
カシューの陽気な声が広間中に響《ひび》いた。
低めだがよく通る声だ。戦場では、その声は味方の士気を鼓舞《こぶ》し、敵の戦意を挫《くじ》く。
カシューはいつものように軽装《けいそう》だった。風通しのよさそうな短衣《チュニック》を身につけ、略式の王冠《おうかん》を兼ねた布製の額冠《がくかん》を巻いている。
隣《となり》で、表情を変えずに立っているのは、カシュー王の腹心である傭兵隊長シャダムだった。カシューと同じような服装だが、腰にはファルシオンを帯び、額冠は巻いていない。
ファルシオンは、砂漠の民が好んで使う武器である。刀身の反《そ》った片刃の剣で、その鋭利な刃は敵の身体をいとも簡単に切り裂《さ》く。特に、硬い金属鎧を身につけることができない砂漠の戦いでは、非常に有効な武器であった。
「御無沙汰《ごぶさた》しております」パーンがもう一度頭を下げて挨拶《あいさつ》する。
その間に、カシューはすぐ近くまでやってきていて、ひとりひとりを確かめるように見回していた。
「新しい顔ぶれが三人ばかりいるな。ふたりは傭兵のようだが、何か目的があっての旅なのか……」そこで言葉を切り、カシューは表情を崩《くず》した。「ハハ……これは失言だったか。何の目的もなく、旅に出るようなおまえたちではなかったな。で、今度は何を追いかけている。やはり、あの灰色の魔女カーラか?」
「いえ、ロードスの状況《じょうきょう》を変えないかぎり、ウッドは……カーラは決して姿を現わさないでしょう。辛抱《しんぼう》強く待つしかありません。恐るべき相手であることには違いありませんが、今度の敵はカーラではありません」
「カーラではないが、恐るべき相手?」カシューはパーンに尋ねかえした。
「おまえにしては、まわりくどい言い方だな。はっきり言え、はっきり、もちろん、オレにできることなら協力はしてやるぞ」
カシューはそう言ってひとしきり笑ってから、真顔に戻《もど》り、場所を変えようとパーンに持ちかけた。
そこで、カシュー直々《じきじき》の案内で、殺風景《さっぷうけい》な謁見《えっけん》の間《ま》を出て、豪華な調度品《ちょうどひん》の並んだ客間にパーンたち一行は移った。
おのおの思い思いに自分の席を見つけて腰を下ろしていく。
そして、全員が落ち着くのを待ってから、パーンは今度の旅の経過を順にカシュー王に話していった。ターバのマーファ神殿でニースが出会った男のこと。その男が求める古代の秘宝のこと。そして、秘宝の守護者《しゅご しゃ》のこと。
「それは……なんとも、奇遇《き ぐう》な話だな」
カシューはパーンたちの話を聞くと、驚いたようにシャダムと顔を見合わせ、そう洩《も》らした。
「まさしく、そうですな」シャダムも相槌《あいづち》をうつ。
「どういう意味ですか?」と、尋ねるパーン。
「なに、おまえたちが今度相手にしようというのが、ドラゴンだと聞いて驚いたのだ。というのも我々もまさにドラゴンを相手に戦《いくさ》をしようと思っていたところなのでな。おまえたちも知っている火竜山の主人シューティングスターが活動期に入ったのだ。そして、我々フレイムの西に広がる平原に、餌《えさ》を求めて姿を現わすようになった」
カシューの言い方は淡々としたものだ。しかし、その言葉が示している内容は、けっして軽いものではない。
「ドラゴンでもお腹は空《す》くでしょうからね」と、スレインが言わずもがなのことを言う。
「西の草原のことを我ら砂漠の民は、古来より火竜の狩猟場≠ニ呼んでいた。我らがあの草原に移り住まなかったのは、故郷を捨てられぬという思いが強かったからだが、同時にあの地を火竜が餌場としていることを知ってもいたからだ。でなければ、我々でなくても誰かがあの地に住み、村や街を興《おこ》していたと思わないか」
シャダムが付け加えるようにそう説明する。
確かにフレイムの西には、肥沃《ひ よく》な草原が広がっているが、その地は人が住まぬ空白地帯となっている。北の海岸ぞいにライデンヘと続く街道《かいどう》が延びている以外は、人が立ちよることもないらしい。
パーンは今までそれをべつに疑問に思ったことはなかったが、言われてみればそのとおりだった。
「昔の人はドラゴンと争うよりは、あの地をドラゴンのための狩猟場と認め、そっとしておくほうを選んだのだろう。特に、あの火竜はロードス島に住む他のドラゴンたちと比べてもずいぶん狂暴《きょうぼう》な性格をしているからな。だが、そうとばかりも言っておられない事情ができてな」
そこまで言って、カシューは突然話を変えた。そして、街の様子は見たか、とパーンに質問してきた。
「ええ、ちょっとした事件に巻きこまれましたので……」と、パーンはカシューにさっき遭遇《そうぐう》した事件について語った。
「そうか、そんなことがあったのか……」カシューの声は、いまいましげであった。
「いかに精霊《せいれい》の調和が取りもどされたとはいえ、十年やそこらで砂漠が草原に変わったりはしないだろう。間違《ま ちが》いなく年々すごしやすくはなっているがな。しかし、それを待っている時間は我々にはないのだ。おまえが見たように、この街には多くの難民《なんみん》が流れついてきている。そして残念なことに、我が国には彼ら全員を養っていくだけの余力がないのだ。情けない話だがな……」
パーンにもそのあたりの事情はよく分かった。
あまりに多くの人間が平和を求めて流れついてきたために、もとから豊かとはいえないフレイムの食糧が追い付かなくなったのだ。食糧不足を補《おぎな》うためには当然新しい耕地が必要で、それで西の草原地帯に進出せざるをえなくなったというわけだ。
「古くから住んでいる砂漠の民は、難民たちを決して快くは思っておらん。食糧の不足が深刻《しんこく》になりはじめてからは、両者のあいだでもめごとが頻繁《ひんぱん》に起こるようになった。それが大きな混乱《こんらん》を招くのは時間の問題だ。そこで、我々は危険を承知で、あの草原に難民のための村をひとつ作ってみたのだ。それも、できるだけブレードに近い東の方に、十分な数の兵を守備隊として付けてな。しかし、十日もしないうちに、その村はシューティングスターに襲《おそ》われて、焼きつくされてしまった。守備隊も含めて、村の者は誰ひとりとして、生き残らなかったのだ。皆、焼き殺されるか、ドラゴンに食い殺されてしまったらしい。この事件が伝わると、混乱はますます大きくなった。まるでライデンで起こっている状況《じょうきょう》そのままにな。知っていると思うが、あの自由都市も大量の難民のために、食糧の不足やその他のさまざまな問題が起こり、崩壊《ほうかい》の危機を迎えているのだ。先日、ライデンの評議会の代表が我が国に治安の維持を依頼《い らい》してきたぐらいでな。オレとしてはロードスの混乱をこれ以上大きくしないためにも、彼らの要求に応《こた》えてやるつもりでいる」
「ザクソンの村と同じですね。わたしたちは、古くから住んでいた者と、新しく来た者が協力しあって森を切りひらき、なんとかその危機を乗り越えましたが……。しかし、森にはドラゴンはいませんでしたからね」スレインが暗い表情で言う。
「だから、おまえたちが来てくれたのはありがたい。ドラゴンには、剣の力だけではけっして勝てない。魔法の援護があれば、戦いはずいぶん楽になろう。もちろん、最後にはオレが直接、剣を交《まじ》えるつもりでいるがな」
「それには、もちろん協力させていただきます」パーンはそう申し出た。
助かる、とカシューは短く礼を言う。
「しかし、青竜の島のエイブラはどうします。もし、アシュラムが支配の王錫《おうしゃく》を手に入れてしまえば、たとえ火竜を退治しても、その後のマーモとの戦いが苦しいものになるのは目に見えていますからね」
「それは……その通りだ」スレインの言葉にハッとなって、パーンはうめいた。
支配の王錫をエイブラが持っているのかどうかは分からない。
アシュラムがエイブラを倒すことができるかどうかも定かではない。
だからといって、ロードスの未来をそんな不確かな要素に託《たく》すことはできなかった。
「深刻な問題だな」カシューは、どうしたものかと片腕のシャダムに意見を求めた。
「兵を分けるしかありませんかな」シャダムは珍しく困惑《こんわく》した顔になりながら、カシューに答えた。
「しかし、青竜の島に兵を送る余裕はないぞ。西の草原には、騎士団《き し だん》の大半と民軍の精鋭《せいえい》を差し向けるつもりだったし、傭兵隊《ようへいたい》はライデンの警備に向かわせるつもりだったからな。残った兵力はこの街の治安の維持や、マーモの侵略《しんりゃく》に対する備えに残しておかねばならん。かといって、ヒルトの守備隊やマーニー、ローランの守備隊の数も減らすことはできん」
「いかに|竜殺し《ドラゴンスレイヤー》とはいえ、アシュラムとやらも、しょせん小人数じゃない。なら、青竜島のエイブラの方には、こちらも小人数で行けばいいのよ。肝心なのは数じゃなくて質よ。数を頼んだって、役立たずばかりでは成功するわけないからね」
シーリスが過激《か げき》な意見を述べる。消極的な話合いには、興味がないとでも言いたげだった。シーリスの隣《となり》に座っていたオルソンが肘《ひじ》で彼女をつついて、もっと言葉を選べというように注意をうながした。だが、シーリスはそしらぬ顔だった。
「ずいぶん簡単に言ってくれたな。国王ともなれば、いろいろ迷いたくもなるものなのだぞ」カシューはそう言ってから、かるく笑った。「だがまあよい。おかげでふっ切れた。兵をふたつに分けるのはやはり危険だ。そして、フレイムとしては全力を上げてシューティングスターと戦わねばならん。青竜の島には、選ばれた者を送る以外にないな。その人選を考えねばならんのだが……」
「傭兵の中から手練《てだ》れの者を選びましょうか? しかし、相手がドラゴンや竜殺し≠ニ聞けば、命大事の傭兵なら逃げだしかねませんしな。ここはやはり騎士団《き し だん》から隊長格の者を……」
シャダムがさすがに迷っている様子で、いろいろな考えを口にする。
「その件ですが、わたしに思うところがあります」スレインが、遠慮がちに申し出た。
カシューはうなずいて、先を続けるようスレインをうながす。
「フレイムのシューティングスターとの一戦には、わたしたちは最初から数に入っていなかったはずです。ですからここは、わたしたちが青竜の島へ行くのが、やはりいちばんいいと思います。しかし、パーンとディードリットは、カシュー王に協力してください。ドラゴンとの戦いには、魔法使いは絶対必要ですし、それに青竜の島へ行くメンバーのリーダーには、オルソンになってもらいたいと思うんです」
あまりのことに、ディードリットとセシルが驚きの声を上げる。
パーンとシーリスもさすがに面食《めんく 》らった様子だった。
「それって、あんまりじゃない。あたしたちだけを仲間はずれにするわけ? それに、リーダーがパーンじゃ役不足[#「役不足」に「ママ」の注記]と[#「役者不足」の誤記]でも」
ディードリットが声を荒げてスレインに文句を言う。
「そういう意味ではありませんよ。ディードリットの力があれば、シューティングスターとの戦いが楽になると考えればこそですし、それにこれはオルソンのためでもあるのです」
「オルソンのためって、どういうことよ」
ディードリットはいくぶん、声の調子をやわらげてスレインに尋ねるが、それでもまだ、かなり気分を害している感じだった。
「彼は怒りの精霊《せいれい》とやらに取りつかれているとあなたは言いましたよね。このままだと、いつか完全に狂戦士となってしまうとも。そこで、彼をもとどおりにするにはどうすればよいか、わたしは旅のあいだずっと考えていたんです。怒り以外の感情を感じられるようにするのにはどうすればいいかとね。それで、オルソンには責任ある立場になってもらおうと結論に達したのです。つまり、リーダーですね。これは、パーンを見ていて、思いついたことなのですが……」
「オレを?」と、理由が分からず、パーンは尋ねた。
「そうです」静かにスレインは答え、膝《ひざ》の上で両手を重ね合わせるような姿勢をとった。
「あなたは冒険のあいだ、仲間のことや使命のことなどをいつも考えながら行動してきたではありませんか。そして、いろいろな経験をしてきたはずです。楽しいことや悲しいこと、そして苦しいこともあったでしょう。リーダーであるあなたは、それらの感情をもっとも強く受けとっていたはずです。ならば、オルソンも同じ立場にしてみればどうか。そうすれば、怒りの精霊の支配からも脱することができるのではないだろうか、と考えてみたんです。オルソンは感情がない分、冷静ですから、そうそう判断を間違えたりはしないはずです。その意味でもリーダーに適任だと思いますよ」
「ちぇっ。それじゃあ、オレが間違《ま ちが》えてばかりいたみたいじゃないか」と、パーンは半分笑いながら抗議《こうぎ 》の言葉をあげる。
「わたしは、その器《うつわ》じゃない」オルソンがいつもの口調《くちょう》を変えることなく、スレインに向かってそう答えた。「剣の技量《ぎりょう》でもパーンには及ばないし、聞けば怒りの精霊とやらにとりつかれているという。この次に狂戦士と化したら、仲間を殺さないという保証さえどこにもないんだ。そんな大役を引き受けるわけにはいかない」
この魔術師は何を馬鹿げたことを言いだすのだろう、とオルソンはいぶかしく思っていた。危険な人間ならば追いだそうとするのが、普通《ふ つう》である。少なくともそんな人物をリーダーにして、その指示に従うなど狂気の沙汰《さた》だ。
オルソンは自ら出ていくようなことはしないが、彼らが望むならばそれも仕方がないと思っていた。狂気に走ったときの自分は、間違いなく危険なのだから。
自分がシーリスを傷付けたことは、オルソンにとっても驚きであった。今まで、シーリスだけは傷付けたことはなかったのだが、それはたんに彼女の立回り方がうまかったからのようだ。
オルソンはシーリスのことを気に入っていたから、彼女が拒《こば》まないかぎり一緒《いっしょ》に行動するつもりでもいる。しかし、そのことで彼女に危険があるのだとすれば、いかに感情がないとはいえ複雑なものだ。シーリスがなぜ、自分を仲間と考えてくれているのかが不思議《ふしぎ》なくらいであった。
口にこそ出さないが、エルフ娘と若い魔術師はあきらかに自分の存在を快く思っていないことも知っていた。
「わたしが一緒にいることさえ、あなたがたには重荷のはずだろう」
「そんな事情は分かっていますよ。だからこそ、あなたの意志の強さに期待したいのではありませんか。あなたはリーダーとなって、自分で考えて行動すればいいんです。そして得られた結果にどんな意味があるかを心で感じとるんです。そうすれば、あなたの心の中に残っている正常な感情を呼び戻《もど》すことができるはずです」
「スレインの言うことには一理あるわ。彼がなぜ怒りの精霊に完全に支配されないのか、わたしは不思議に思っていた。ひとつには、彼に精霊使いとしての能力が備《そな》わっているからだと思う。それはまず間違いないわ。訓練しだいでは、あたし以上の精霊使いになれるかもしれない」
ディードリットがいかにも精霊使いらしい発言をした。
「じゃあ、彼に精霊使いの訓練を施《ほどこ》してみればいいんじゃないか? それで、怒りの精霊を制することができるようになれば……」と、パーンが尋ねてきた。
「可能性はあると思う。でも、危険な賭《か》けよ。精霊使いの能力って、精霊の存在をどれだけ感知できるかってことだから、下手《へた》に訓練をすると、かえって怒りの精霊の束縛《そくばく》を強くしてしまうかもしれない……。それなら、スレインの言うように、狂った感情の働きを正常にしようと努力をするほうが、安全だし確実な方法だと思うわ。リーダーって、感情的になりやすくって、しかもそれを制御《せいぎょ》しなければならない立場だってことも分かるしね」
そう答えてみたものの、ディードリットは、自分の言葉に自信があるわけではなかった。何しろ、怒りの精霊を支配することは、自分にもできないことなのだ。召喚《しょうかん》しようとは思わないので、支配されることもなかろうが、もし怒りの精霊と接触《せっしょく》を持ったとしたら、自分が狂戦士とならずにすむとは思えない。
一方のオルソンは、怒りの精霊をある程度、支配しているのである。それは、ディードリットの理解を越えるできごとなのだ。だからこそ、オルソンには精霊使いとして、自分以上の素質があると判断《はんだん》したのだ。
しかし、はたしてそれだけの理由なのだろうか? ディードリットにはそうは思えなかった。怒りの精霊の支配から逃れるための力となっているものが、オルソンには何かあるはずだった。
それが何か、ディードリットには、まるで見当がつかなかった。ただ、人の命に関わることである以上、確証《かくしょう》をつかむまでは、もっとも安全な方法を取るべきなのは間違《ま ちが》いないはずだった。
「うん……、やっぱりスレインの考えのとおりやってみるのが、いちばんだと思う」
ディードリットは、申し訳なさそうな表情をしながらパーンに答えた。
「あなたがたの好意は嬉《うれ》しいが……」オルソンは意見が途切《とぎ》れるのを待ってから、反論しようと、口を開きかけた。
それを、シーリスが止めた。
「オルソン! みんなの好意を受け取りなよ。あなたは、今までわたしの決めたことにすべて従ってくれた。これからは、わたしがあなたの決定に従うわ」
言いながら、パーンとしばらく離れ離れになることについては、これが永遠の別れではないからと、自分を納得《なっとく》させていた。
ディードリットがあいかわらずパーンと一緒に行動するというのは面白くないが、エルフと人間の仲がいつまでも続くはずがないともたかをくくっている。
「話はまとまったようだな。よく事情は分からんが、あいかわらずいろんな問題を抱《かか》えているようだな。だが、いいだろう。水竜エイブラの方はスレインに任《まか》せるとしよう。こちらからも助っ人を出すつもりでいるがな。この街にいる戦《いくさ》の神の司祭は、魔力の高さも戦士としての腕前も相当なものだ。頼めば、きっと力を貸してくれる。それから、ライデンに寄って、あの街の盗賊《とうぞく》ギルドの長《おさ》に協力を依頼してみろ。喜んで協力してくれるはずだからな」と、カシューが思わせぶりな言い方をした。
「盗賊ギルドに頼むんですか……」
これには、スレインが複雑な表情をした。彼は、盗賊ギルドには古い因縁《いんねん》があって、あまり関わりあいになりたくはないのだ。
「そんな顔をするな。だまされたと思って尋ねてみろ。絶対に後悔はせんよ」そう言って、カシューは、今度はパーンの方に顔を向けた。
「ところで、パーン。オレと一勝負してみないか。しばらく見んうちにずいぶん腕を上げたようだからな。ぜひ、見てみたい」
「それは、喜んで」パーンは答えて、頭を下げた。
カシューと剣の訓練をするのは、五年前のロイドのとき以来だから、ずいぶんひさしぶりである。剣匠《けんしょう》と呼ばれるカシューと剣を交える、戦士にとってこれ以上の訓練は他にない。
「あとの者は、適当にくつろいでいてくれ。夜にはささやかながら酒宴《しゅえん》の用意もするつもりでいる。そして、英気を養い、明後日にはそれぞれ出発しようではないか」
カシューはそう締《し》めくくって、席を立った。
鍛《きた》えの間≠ニ名付けられた部屋は、まるで闘技場《とうぎじょう》を思わせるような円形の構造だった。
パーンは鎧《よろい》の下に着る綿入れだけの姿になり、魔法の剣と楯《たて》を構《かま》えて円形の部屋の中央に立った。
カシューは服を着替えず、こちらも魔法の長剣だけを持ってパーンと向かいあった。
ふたりは互いに一礼すると、お互いの剣先をかるく合わせる。それは、正式な試合のときに|騎士《きし》たちのあいだで行なわれる儀礼だった。
それだけで、白い火花が飛びちるのは、両者の持つ魔法の剣に秘《ひ》められた強い魔力のゆえであった。
それから、ふたりは三歩下がって、試合を始めた。
パーンが気合いの声を上げると、カシューはかすかに笑いながら、来いと応じた。
パーンは聖《せい》騎士時代に習った基本の構《かま》えを取り、カシューの動きをうかがう。
片やカシューは、無造作《む ぞうさ 》とも思えるぐらいに、長剣の剣先を下に向けたまま、右に回りこみつつ、パーンとの間合いをつめてきた。
パーンはもう一度、気合いの声を上げた。一対一の戦いは、気圧《けお》されたらそれまでだからだ。
カシューが何を狙《ねら》っているのか、パーンには見当もつかなかった。今のカシューの体勢は、隙《すき》だらけのようにも見えるが、こちらが仕掛けるのを誘《さそ》っているのかもしれない。
かといってこのまま待っていても、向こうの術中にはまるような気もする。
ままよ、とパーンは決心した。
腰を落とし、体勢をひくく構えてから、前に踏みこんで激しく剣を突きだした。
力強く、鋭い|攻撃《こうげき》だった。
風を裂《さ》きながら、剣先がカシューの胸もとに伸びる。
が、カシューは上体だけをそらし、パーンの一撃をなんなくかわしていた。そして、すくいあげるような長剣の一撃をパーンに見舞う。
一瞬《いっしゅん》の間さえ感じさせぬ流れるような動きだった。
その反撃を、パーンはうまくタイミングを合わせて、左手の楯《たて》で受けとめる。
ガツッという激しい音が響く。
パーンはその攻撃を受け流し、相手の体勢が崩《くず》れたところを横からなぎ払おうと剣を手前に引いた。
しかし、想像できないような強い力が、楯には加わっていた。受け流すどころか、弾《はじ》かれてしまいそうな激しい一撃だった。
身体が浮きあがったような錯覚《さっかく》すら覚える。
すらりとした体格の、いったいどこにこんな力が隠《かく》されているのかと疑うばかりのカシューの力だった。
あわててパーンは後ろに飛びすさる。
そこを逃さず、カシューの素速い連続|攻撃《こうげき》がやってきた。
一撃目の突き、二撃目の打ちこみは、かろうじて剣で受け流すことができた。
だが、三撃目の巻きこむような払いに堪《た》えられず、あっけなく剣が宙に舞っていた。しばらくしてから、パーンの背中の方から乾《かわ》いたような金属音が聞こえてきた。
そのときにはすでに、パーンの目の前にはカシューの長剣の剣先が突きつけられていた。
「参りました」
パーンは負けを認めて、頭を下げた。
「最初の突きはなかなか鋭《するど》かったが、まだ迷いがあったな。この一撃をかわされればあとがないというぐらいの覚悟《かくご 》で飛びこんできていたら、おまえの勝ちだったかもしれんぞ」カシューは長剣を下ろしながら、呼吸を整えるようにかるく息をつく。
「それから、オレの下からの一撃を楯《たて》を使って受け流そうとしたのは甘かった。剣は受け流すものだが、楯は受け止めることを第一に考えたほうがいい。受け流しに失敗して、身体に傷を負うことも少なくないからな。剣と同じ使い方をしているようでは、楯の意味があまりないぞ。楯は剣と違って折れることはまずないから、受けた後は力|任《まか》せに押しかえす。それで相手の体勢を崩《くず》すほうが、より実戦的だ。もっとも、力負けしているようでは話にならんがな」
はあ、とパーンが恐縮《きょうしゅく》しているのを見て、カシューは白い歯を見せた。
「なあに、今のままでも、オレから五本に一本は取れるぐらいの腕をしている。もっとも、実戦は一度だし、そのときには決して負けん。それがオレの信念だからな」
カシューは笑いながら、あらかじめ用意しておいた手拭《て ぬぐ》いを取り、その内の一本をパーンに放ってよこした。その手拭いは冷たい水で絞《しぼ》ってあり、カシューは顔や首筋のあたりなどをそれで拭《ぬぐ》った。
パーンは自分が全身に汗をかいていることを知った。
勝負は一本だけでそれも一瞬《いっしゅん》で決まっていたが、心身ともに激しく疲労していた。結果的には完敗だったが、カシューも汗をかいていることがパーンにとっては慰《なぐさ》めだった。
カシューは剣の腕では、ロードス一との噂《うわさ》が高い人物である。かなわなくて当り前なのだ。しかし、負けた悔しさには変わりがないし、もっと剣の修業をつまねばとも思う。
「ところで、パーン」パーンがそんな物思いにふけっていると、カシューが突然、声をかけてきた。「おまえはアラニアで、ずいぶんと名を上げているらしいな。ザクソンをはじめ、北部の村々の独立、自治を呼びかけて、ノービスのアモスン伯爵《はくしゃく》やアランのラスター公爵を苦しめていると聞くぞ。オレのところに流れてくる噂の半分では、おまえは極悪人《ごくあくにん》ということになっているし、残りは英雄と讃《たた》えられているな」
「そんな噂が流れているんですか?」
パーンは驚いて、首筋を拭っていた手の動きを止めた。目を丸くしてカシューの顔をじっと見る。
自分たちのやっていることが、良いも悪いも評判になっているのは知っていたが、そこまで噂が大きくなっているとはまったく思いもかけないことだった。
噂は遠く離《はな》れれば離れるほど、尾ひれがつくものらしい。
「わたしひとりの力ではありません。中心になってがんばっているのはスレインですし、ターバのドワーフ族やマーファ神殿も協力してくれています。また、ザクソンをはじめ、近隣の村の人々の助けがあればこそ、なんとか平和を保っていられるのです」
「それはそうだろうが、民は英雄を求めるものだからな。そして、英雄とは常に戦士に求められるものだ」
カシューは言いながら、パーンのそばに近づいてきた。
そして、
「おまえ王になってみんか」
と、なんでもないような言い方で話しかけてきた。
あまりに簡単な物言いだったので、パーンは最初、何をいったのか分からず、はあ、と答えた。
しかし、その言葉の意味に気がつくと、パーンはこれ以上はないぐらいに驚き、叫ぶような声をあげた。
「わたしが、王に、ですか!」
自分をからかっているのだろうか、とパーンは思い、カシューの表情をうかがってみる。しかし、その表情はすでに真剣なものに変わっていて、からかうような様子は微塵《み じん》も感じられなかった。
「そうだ。おまえには、王となってアラニアを平定してほしいのだ。もちろん、今度の件が終わってからでいいし、フレイムが全面的に支援してやる。おまえが王になれば、アラニアの民もきっと喜ぶと思うのだがな」
「わたしに、王が務まるとは、思えません……」喉《のど》になにかがつっかえているようで、唾《つば》を飲みこみながら、パーンは切れ切れに言った。
「なあに、王とはいわば国の顔だ。細かなところまで、気を遣う必要はない。それに、おまえにはスレインやディードリットといった仲間がいるだろう。適切な助言は得られよう。おまえは自分の思うとおりに国を治めればいいのだ。おまえが悪政を行なうとは思えんし、ラスター公やアモスン伯《はく》が治めるより、よほどいい国ができるはずだ」
カシューの言葉は力強く、説得力に満ちていた。
王になる、これは万人の憧《あこが》れるところだ。すくなくとも、男ならば。
そして、パーンとて男である。自分が野心的だと思ったことはないが、さすがに「王になる」という言葉の誘惑《ゆうわく》は、パーンの心を揺さぶっていた。
「わたしに傀儡《かいらい》の王になれとおっしゃるのですか?」
「まさか。オレはそこまで姑息《こ そく》ではないし、おまえがそれを認めるなどと考えてはおらんよ。ただ、アラニアの未来をオレは心配する。そして、ロードスの未来もな。ベルドが死んで、力が衰えるかに見えたマーモが、勢力を復活《ふっかつ》してきているという気配《け はい》がある。新王は決まってはおらんが、有力な者たちが協力し、支配の体制を確立したらしい。おそらく、おまえたちが追いかけるアシュラムもそのひとりだし、黒の導師《どうし 》≠ニ呼ばれる人物が大きな指導力を握《にぎ》っていると聞く。それに、黒エルフの族長だな」
「それは知りませんでした。マーモは前の戦いでてっきり滅《ほろ》んだものと思っていました。残党はそのうち自然消滅するものと……」
「ところが、そうではなかったのだ。暗黒皇帝ベルドは、想像以上の男だったようだ。彼は自分の死後も、マーモがもとの混沌《こんとん》に帰らぬように、いろいろと手を尽くしていたらしい。まさに恐るべき人物だな」
カシューはすこし悔《くや》しそうな表情で、そう言った。
皇帝ベルドを激《はげ》しい一騎打《いっき う 》ちのすえ倒したのは彼自身である。だが、ベルドはファーン王との一騎打ちで手傷を負っていたし、そして味方の放った矢がベルドの肩《かた》を貫《つらぬ》いたことで、勝敗の決着がついた。
自分の勝利は、けっして堂々たるものではない。ベルドという人物の大きさを知るにつけ、カシューはそのことを残念に思う。アシュラムという男の狙《ねら》いが自分にあることも、容易に想像できた。
もちろん、一騎打ちであろうと、軍勢を率《ひき》いての戦《いくさ》だろうと、相手が挑戦《ちょうせん》してきたら受けて立つつもりでいる。ようは自分がベルド以上の力があったことを納得《なっとく》させればいいのだ。
自《みずか》ら戦えば、おのずとその判断《はんだん》はつくだろう。
「マーモの勢力をこれ以上拡大させぬためには、やはりフレイムだけではなく、他の国々が乱れていてもだめだ。特に、カノンと隣接《りんせつ》するアラニアやヴァリスの立て直しは重大な鍵《かぎ》を握っている。そうそう、おまえはヴァリスに新王が即位《そくい 》したという話を知っているか?」
カシューは突然、話を変え、そうパーンに質問してきた。
「新王が即位したという噂《うわさ》はアラニアで聞きました。しかし、誰が王になったのかまでは知りません。ヴァリスの王位は世襲《せしゅう》ではありませんから、おそらく神聖|騎士団《き し だん》の中から適当な者が選ばれたのではありませんか?」
答えてはみたが、それが誰なのかパーンには見当もつかなかった。主だった騎士は、英雄戦争≠フおりに、皆、戦死してしまっている。
「ならば、驚くなよ。ヴァリスの新王に選ばれたのは、なんとおまえの昔の仲間のエト高司祭なのだ」
「ええっ!!」
パーンは思わずそう叫んでしまった。
驚くな、と言われても無理《むり》な話だ。いくらなんでも、旧友のエトが国王になるなんて思いもよらないことだ。
エトはヴァリスの生まれでもないし、だいいち武人でもない。神官戦士としての訓練は受けていたが、武器の扱《あつか》いにそれほど長《た》けていたわけでもない。
国王は戦士がなるもの、という常識からはとうてい考えられないことだった。
しかし、とパーンは思った。エトなら、あいつなら、きっと立派な王になるだろうと。
「彼はヴァリスの王国とファリス神殿双方を立て直すためにいろいろと尽力《じんりょく》していたが、その功績を認められて、今度の即位《そくい 》となったようだ。エト新王はヴァリスのフィアンナ王女とも恋仲だったから、話は思ったよりもすんなりとまとまったらしい。エト新王はフィアンナ姫を王妃《おうひ 》に迎え、三月ほど前に即位式を挙げた。新王が決まったヴァリスは、急速に国力を回復しつつある。だから、オレは同じことをおまえに期待したいのだ。アラニアをまとめ、そしてフレイムやヴァリスとともに、マーモの支配からカノンを解放するための力となってはくれんかとな」
彼は即位式のときには、わざわざ出向いて、フレイムとヴァリスとの同盟関係がなおも健在であることを新王と誓《ちか》いあってきた。もちろん、対マーモとの戦いでも、ともに協力することを約束している。
特に、ヴァリスは国土の東部をマーモに占領されているので、国土回復のための聖戦《せいせん》を民に呼びかけ、義勇兵を募《つの》っている。今は各地の混乱《こんらん》を収拾するために追われているが、そのうち態勢が整えば、マーモとの戦いを開始することになる。
そのおりに、アラニアが内戦を続けているのといないのとでは、戦の様相はまったく違う。アラニアがカノン領に攻めこむような気配を見せれば、マーモは全軍をヴァリス方面に差しむけることができなくなるからだ。
しかし、アラニアが今の状態から脱する兆候《ちょうこう》はない。また、アモスン伯爵《はくしゃく》、ラスター公爵ともに国王として相応《ふ さ わ》しい人物とは思えない。だから、パーンにその代わりを期待しているのだ。それも軍を派遣《は けん》し、支援してくれるという。カシューの考え方はパーンにもよく分かった。
もし、パーンが立ちあがれば、ザクソンや近隣の民たちは、きっと共に戦ってくれるだろう。北のドワーフ族の戦士も協力してくれるはずだ。また、アランやノービスの市民の中にも、今度の内戦を不満に思っている者はおり、勝利は意外に簡単に手に入るかもしれない。
そうすれば、パーンは王になれるのである。
「オレが王に……」パーンは誰《だれ》にも聞こえないようにつぶやいた。
皆がそれを望んでくれるなら、王になってもよいのではないかという声が自分の心の中から呼びかけてくる。
しかし、それを押しとどめる何かが、パーンの中に同時に存在していた。
それは、まだ具体的な考えにはなっていない。しかし、無視《むし》することができないほど、重要なことのように思える。
「しばらく、考えさせてください」
しばしの沈黙のあとに、パーンはそうカシューに答えた。
本当に考えるつもりだった。一時の激情《げきじょう》に身を任《まか》せて判断《はんだん》を誤《あやま》ってはならない。それに、もっと目前に大切な戦いが控《ひか》えているではないか。
「シューティングスターとの戦いが終わった後で、返事をいたします」
「……いいだろう。だが、よい返事を期待しているぞ。おまえが王になって、同じ立場になってくれれば、お互い気がねなしに付き合うこともできよう。オレには、そのことがどちらかといえば嬉《うれ》しいよ」
そう言うと、カシューはパーンに背中を見せて、鍛《きた》えの間《ま》≠ゥら出ていった。
パーンはしばらくその場に立ちすくんだままで、カシューの投げかけた言葉の重さと自分自身の思いとを秤《はかり》にかけるようにじっと考えにふけっていた。
宴《うたげ》が始まった。
宴の席には、三年前と同じようにフレイムの重鎮《じゅうちん》たちが顔を揃《そろ》えていた。いかめしい男の姿が目立つのは、この宴が火竜の狩猟場へ出兵する騎士たちの意気を高揚する目的を兼ねているためだった。もちろん、フレイムの国政を担《にな》っている文官や宴に花を添える宮廷婦人たちの姿もある。
ディードリットは、前の宴のときには盛装《せいそう》して列席者を嘆息《たんそく》させたものだが、今回はいつもの格好《かっこう》で参加した。
一方、シーリスの方は、自《みずか》ら進んでドレスに着替えたいと言いだした。それを聞いて、パーンは正直驚いたものだが、オルソンから彼女がもとはカノンの貴族の娘《むすめ》だったことを聞くと、なるほどと納得《なっとく》した。
さすが歴史ある王国カノンの貴族の娘らしく、シーリスのドレス姿はなかなか堂に入ったものだった。髪《かみ》を短く切っているので、かなり足してもらって頭の後ろで結いあげていた。赤毛の髪と合わせたように、赤を基調とした飾り模様《も よう》がふんだんに入ったドレスをまとい、自分の若さを際立《きわだ》たせつつ、同時に大人の色気も醸《かも》しだしていた。
彼女の盛装《せいそう》を見たパーンは、思わず感嘆の声を洩《も》らした。そのとき、ディードリッ卜が複雑な顔をしたのに、彼は気づきもしなかった。
そのことにはずいぶん気分を害したディードリットだったが、シーリスの美しさは認めないわけにはいかなかった。普段《ふ だん》の戦士姿からは想像もできないような魅力に溢《あふ》れていた。
ディードリットは、エルフであり、もちろん独特の美しさを持っている。しかし、どちらかといえば人形や絵画のような美しさで、シーリスのように肉感的な美しさは持ち合せていない。女として比べたとき、そして、判定を下すのが人間の男性である場合、どちらが魅力《みりょく》的だと思うだろうか。パーンは、シーリスをどのように見ているのだろうか。
今までこんな不安を感じたことはなかった。しかし、シーリスが現われ、パーンに対する好意を露骨《ろ こつ》に見せるようになって以来、その不安は心の端にひっかかったまま、振りはらうことができないでいるのだ。
そんなディードリットの思いも知らず、宴《うたげ》は華やかに進められていた。楽人たちが奏《かな》でる音楽が鳴り響き、いろんな酒や料理が運ばれてくる。フィアンナ姫を助けたとき、ファリスで催された宴とは、比べものにならないほど質素なものだ。しかし、昼間の事件のことを思うと、パーンは複雑な思いにかられた。
それが顔に出ていたのだろう。踊りの輪の中に入っていたカシュー王が、パーンの席までやってきて、声をかけてきた。
「どうした、浮かぬ顔をして」
パーンは素直に自分の思いを打ち明けた。
「なるほど、民が飢《う》えているときに宴会《えんかい》を開くなど、贅沢《ぜいたく》の極《きわ》みというわけか」
カシューは苦笑いを浮かべながら、パーンの隣《となり》の席に腰を下ろした。その席に座っていたスレインは、魔法の勉強をしているという若い文官に乞《こ》われ、今はその青年と熱心に魔法談義をしている。その文官は、ごつい顔をした大男である。会話にはセシルも混ざっていたが、ちょうど対照的な感じがする人物だった。
ディードリットも今は女官たちに誘《さそ》われて、踊りの輪の中に入っている。人間の女性とは違う美しさを持つ彼女は、フレイムの宮廷婦人たちに人気があった。オルソンとシーリスも踊り組だった。
「民と苦しみを分かちあうのが、国王の務めではない。民を苦しみから救ってやることこそが務めだとオレは思っている」カシューはそう話しかけてきた。
「それが、帝王学なのですか?」
さっきの訓練のあとで聞かされた衝撃《しょうげき》的な話もパーンの頭の中であいかわらず渦《うず》を巻いている。自分の身分を忘れ、民の暮らしのことまで気になったのも、それと無関係ではない。
カシューの言い方は、いかにも国王としての戒《いまし》めを伝えるように聞こえたのだ。
「オレなりのな。オレは、誰からも王になる講義を受けたことはないからな。だから、おまえも難《むずか》しいことを考える必要はないぞ。自分の思うような国を目指してみろ。それが認められるものだったら、民は黙ってついてくる。認められんかったら、文句を言いにくるさ」
パーンは、ハアと気合いのない声で答えた。
「なによ、こんなところで陰気くさく話しこんでるなんて」
そのとき、パーンの後ろで声がした。
弾《はず》むような声に誘いだされるように、ふたりは振り返った。すると、ドレスの裾《すそ》を優雅《ゆうが 》につまみながら近寄ってきているシーリスの姿があった。
隣《となり》で話しているのがカシュー王だったので、さすがにハッとした表情になったが、権威《けんい 》に対して鷹揚《おうよう》なシーリスは、そのままパーンのところまでやってきた。
「楽しんでいるか?」カシューがシーリスに声をかけた。
「はい、王様」シーリスはにっこり微笑《ほ ほ え》んで答えた。
「おまえは、傭兵《ようへい》にしては、かなり宮廷作法にくわしいと見えるが」
「彼女は、もとカノンの貴族だそうです」と、パーンが自分も知ったばかりのシーリスの経歴を説明する。
「そうか。おまえにとっては、辛《つら》い質問だったかな」
カシューは眉間《み けん》に皺《しわ》を寄せながら、そう言った。シーリスが仕えていた王国カノンは、現在では滅《ほろ》びさり、マーモの支配下にある。
「いえ、王様。カノンが滅んだのは、国の力が弱かったからです。それは、当然のことかと思います。いかにすぐれた王国であれ、武力を軽んじていては他国の侵略《しんりゃく》を許します。カノンの建国の由来は、マーモの侵略から国土を守るためでした。しかし、長きにわたる平和のために、国王や貴族、そして民たちは建国の由来を忘れた。それが滅びの運命に繋《つな》がったのは、自業自得《じ ごうじ とく》というものです」
あでやかなドレス姿ながら、やはり傭兵らしいシーリスの言葉に、パーンは暗い気持ちになった。
「平和を守るのは、力か……」そうつぶやく。
「オレは力だけが国を守る礎《いしずえ》とは思わんよ。だが、重要であることを認めんわけにはいかんな。文武《ぶんぶ 》両面において秀でた王国を目指すのが、国王の務めだ。これはオレの自戒《じ かい》だがな」
そう言ったカシューは、真顔に戻《もど》っていた。
「フレイムは良い国だと思います。民には活気があり、そして何より自由です」
「嬉《うれ》しい言葉だな、パーン。オレもそのことは自負している。しかし、現実はままならぬものだ。国をある程度まで豊かにしたはいいものの、まさか今のような事態を迎えるとはな」
それっきり深刻《しんこく》な顔になり、カシューとパーンはそれぞれの思いの中に閉じこもったかのように黙りこんだ。
「沈黙だけは、宴《うたげ》の席に持ちこんではならないものよ。踊ろうよ、パーン。フレイムの踊りも軽快でいいけど、ここはもと|騎士《きし》ともと貴族らしいところを見せて、正式な宮廷|舞踊《ぶ よう》を踊ってみせないとね。宴を開いていただいた、カシュー王に対するお礼のためにもね」
「いい提案だ。他所《よそ》の国に招かれたときに、宮廷舞踊を知っていると何かと役に立つからな。女官や文宮どもにも学ばせねばならん、と常々思ってもいた。しかし、不粋《ぶ すい》なパーンには踊れまい。国王の特権で、オレがまずおまえと踊らしてもらおう」
「踊れるのですか、傭兵王《ようへいおう》?」シーリスは尋ねかえした。
「ふたりの傭兵が宮廷舞踊を踊るとは、おかしな話だな。世の中とは、かくも不思議が多い。だから、面白い」
「同感です、王様」
シーリスはそう答えながら、エスコー卜しようと差し伸べてくる傭兵王の手を取った。しかし、内心では、
(ふうん、さすがに傭兵王。いい男ね。でも、この男が相手だといつも腹の探りあいになりそう。やっぱり、わたしには表裏のない純朴な自由|騎士《きし》のほうがお似合いね)
などと自分勝手なことを考えていた。
カシューは音楽を変えるよう楽人に指示し、宴《うたげ》の間《ま》の中央までシーリスの手を取りながら、進みでた。砂漠の民の民族舞踊を踊っていた人々の輪が解《と》けて、壁際《かべぎわ》へと思い思いに散っていく。そして、カシューとシーリスは、楽人が奏《かな》ではじめた優雅《ゆうが 》な音楽に合わせて、大陸から伝わってきた宮廷舞踊を踊りはじめた。
カシューとシーリスの動きは大河の流れのように、淀《よど》みなく滑《なめ》らかだった。音楽に合わせて踊るというより、ふたりの踊りにつれて音楽が流れていくかのようであった。
力強く、そして優雅な踊りであった。見物人の誰《だれ》からともなく、羨望《せんぼう》のため息が洩《も》れる。
「今のが、他国の宮廷で行われている踊りだ。みんなも試しに踊っておけ。フレイムの踊りは、我らの宮廷でしか通用せんからな」
曲がふたまわりしたところで踊りをやめ、カシューは壁際《かべぎわ》に退《さが》っていた者たちに、そう呼びかけた。
カシューの呼びかけに答え、これから対決しようとする火竜に比べれば、大陸の踊りなど恐れるに足りません、などとつぶやきながら、若い|騎士《きし》隊長たちがそれぞれ自分が密《ひそ》かに憧《あこが》れている女官の手を取りながら、広間の中央に進みでていった。
パーンはもとヴァリスの騎士とはいっても、戦時中のわずかな期間、身を寄せていただけなので、宮廷儀礼などまったく教えてもらっていない。もちろん、大陸伝来の宮廷舞踊など、知っていようはずがない。
しかし、シーリスは当然のようにパーンのところに戻ってきて、不粋な田舎者《い な かもの》を舞台へとさそった。
「なあに、わたしがエスコートするから大丈夫。それにまわりもみんな素人《しろうと》だもの、恥《はじ》をかく心配だってないわよ」シーリスは、明るく笑った。「これから、正式な場で踊る機会だってあるかもよ。覚えておいて損はないって」
「そ、そうかもな……」シーリスの言葉が妙に気になって、パーンは彼女と踊ることをようやく承知し、立ち上がった。
そして、ふたりはすでに何組みかが踊っている広間の中央で、シーリスがリードしながら、ステップを踏《ふ》みはじめた。
壁《かべ》に背中を預けながら、ディードリットがそんなふたりの様子をじっと見守っていた。彼女はフレイムふうの踊りの輪の中に入っていたときから、パーンとシーリスの様子にときおり目を走らせていた。
カシューの話に割ってはいってきたシーリスが、パーンと仲よくしているのを見ると、すぐにでもパーンのところに行きたいと思った。しかし、自分に対する嫌悪感《けんお かん》に引き止められ、それができないでいた。結局、タイミングを失い、今は壁の花となっている。
そして、ディードリットの視線の先には、あかるく笑いながら踊っているシーリスと、必死の表情でシーリスの動きを追いかけているパーンの姿があった。パーンの右手はシーリスの引き締《し》まった腰に伸ばされ、左手はシーリスの右手を軽く握《にぎ》っている。
ディードリットの青色の瞳《ひとみ》が悲しみに沈み、長い耳の先端がすこし下がっていた。
「あんたは、パーンの恋人なんだろ」
いきなり声がした。
声をかけてきたのは、オルソンだった。
オルソンの声を聞くと、ディードリットはいつも不快感に襲《おそ》われる。彼の声には、まるで感情がこもっていないからだ。不死の怪物《かいぶつ》が発した声かと思うぐらいであった。
だから、自分からオルソンに話しかけることは旅のあいだでもそんなになかった。
しかし、今は誰でもいい、言葉を交わしていたいとディードリットは思っていた。でないと、自分の心の中に膨れあがっていく自己嫌悪《じ こ けんお 》に支配されてしまいそうだった。
だから、ディードリットは、
「そう思っていたけどね」と、自信なげに答えた。
「弱気だな。あんたは、パーンのことを好きなんだろ」
「もちろんよ。腹立たしいくらいにね。でも、どうやらシーリスも同じみたいね……。シーリスみたいな人に好意を向けられたら、男の人はみんな嬉《うれ》しいでしょうね」
「そうかもしれない。しかし、オレには感情がないからな。幼いころにはあったから、どういうものかは漠然《ばくぜん》と分かる。だが、あいにくと子供の頃には異性を好きになった経験がない」
オルソンは機械のように無表情な顔を向けてきた。
「オレもシーリスを魅力《みりょく》的だとは思っている。でも、それは言葉で表わせるものなんだ。感情じゃなく、理屈《り くつ》でそう認めている。しかし、好きかどうかは人それぞれなんだろ」
「そうね。でも、好かれやすい人とそうでない人は、けっこうはっきりしているのよ」
「みたいだな。オレにもどういった人間が好かれるかぐらいは分かる。パーンなんか誰からも好かれる人間だな。あんたやシーリスは好みしだいってところだろう」
「あたしは……魅力的かしら?」恥かしそうな顔をしながら、ディードリットはその疑問を口にしてみた。相手に感情がないと分かっているからこそできる質問だった。それでも、顔が真っ赤に染《そ》まっていくのを押えることができない。
「魅力的だと思う。あんたは美しいし、それに可憐《か れん》だ」
「ありがと」オルソンが言葉を選んでいたのはディードリットにも分かったが、オルソンの配慮は喜んで受け取っておくことにした。
「事実をそのまま言っただけだ。自信を持つといい。もっとも、シーリスの奔放《ほんぽう》さや強さ、それに賢《かしこ》さもオレにとっては魅力的だけどな。オレがもし感情を取り戻《もど》したら、彼女を好きだと感じられるようになるだろう。それは、素晴《すば》らしいことのように思えるんだがな」
気のない声なので、それがオルソンの本心なのかは分からない。狂戦士がそんな言葉を言うこと自体、ディードリットには驚きだった。
もしかすると、表には出てこないだけで、彼の心の奥深くでは感情がまだ生き残っているのかもしれない。正常な感情がだ。
「だったら、努力しなさいな、狂戦士。あなたは、精霊使《せいれいつか》いの誰もが支配できない怒りの精霊を自分だけの力で押え込んでいるのよ。その力をもうすこしふりしぼるのね。きっと、まっとうな人間に戻れるから。それから、あたしはあなたに正しい精霊との交信の仕方を教えてあげるわ。たぶん、あなたはすばらしい精霊使いになれるはずだから」
ディードリットは、オルソンの顔をはじめて真正面から見ながら、励ますように彼のたくましい肩に手を置いた。
「ああ、がんばらせてもらうよ。人の期待には答えなくちゃいけないって、シーリスからも、姉からもよく言われていたから」
「シーリスから話を聞いたけど、あなたのお姉さんって、素晴《すば》らしい人だったみたいね」
「もちろんだとも」力強くはない、感情がこもっていないのだから。しかし、答は間髪《かんはつ》をいれずに返ってきた。
「ああ、素晴らしい人だったよ。オレにいろんなことを教えてくれた。しかし、その姉はオレをかばって死んだ。そして、オレに生きろと……」
「そこまでよ、オルソン! あまり、深く考えると怒りがあなたを支配し、狂戦士化してしまうかもしれないわよ」
ディードリットの心の中でふたたびこの狂戦士に関する疑問が首をもたげてきていた。
この男を狂戦士化から引き止めるものが確かにあるはずだ。はたして、それは何なのだろうか? 彼の心の奥底で息づいている感情なのだろうか? それとも、強力な意志なのだろうか?
そのとき、広間の中央から、笑顔を浮かべながらパーンが近寄ってくるのが見えた。
「やっと踊り方を覚えたよ。まだ、うまくは踊れないけどね。ディードも一緒《いっしょ》に踊ってみないかい?」
「あら、ずいぶん時間がかかったわね。あたしなんか見ているだけで覚えたわよ」ディードリットは、挑戦的《ちょうせんてき》に答えた。言葉に嘘《うそ》はない、だが、その調子はまったくの強がりだった。心の底では、パーンの胸にしがみついていきたいぐらいだったのだ。
「踊りましょ、パーン」ディードリットは小走りにパーンに駆《か》け寄って、彼のたくましい腕を自分の胸に抱《かか》えこんだ。
ふたりの様子を見送りながら、入れ違いになるようにシーリスがオルソンのところに戻ってきた。
「ふられたみたいだな」オルソンが、声をかけてきた。
「今はね。でも、最後にはわたしが勝つわ。いつもと同じようにね。わたしは十分に魅力《みりょく》的だし、それをどう使えばいいか知っているもの」
腕を組んで壁《かべ》に持たれながら、シーリスはつぶやくように言った。
「借り物のドレスが痛むよ。それより、シーリス。オレと踊ってみないか。踊り方は見ていて、覚えた」
オルソンの意外な言葉に驚いて、シーリスは相棒《あいぼう》の顔をまじまじと見つめた。そこに感情のかけらが浮かんでいるように期待したのだが、残念ながらいつもと変わった様子はなかった。
「あなたの反応は、わたしにとってけっこう刺激《し げき》的よ、オルソン。面白いわ」シーリスはしばらく間を置いてから、楽しそうに笑った。「いいでしょ。お手並み拝見《はいけん》といきましょ。でも、剣の腕と同様、踊りでもあなたはわたしに勝てないわよ」
そして、シーリスは組んでいた腕を解《と》き、左手を相棒の顔の前に差し出した。
宴《うたげ》は、まだまだ終わる気配《け はい》を見せていなかった。
宴があった日から、二日後。
オルソンがリーダーとなり、スレイン、レイリア、シーリス、セシルの五人は一足早く、青竜《せいりゅう》の島を目指し旅立つことになった。パーンとディードリットも、その日の午後にはカシユー王に同行して火竜の狩猟場《しゅりょうば》へと向かう予定である。
とにかく、仲間が分かれて行動するなど、パーンにとってはひさしく経験していないことだ。ヴァリスでひとりで戦ってきた、エトのことを考えると胸が痛んでいたぐらいである。
しかし、エトは自分の戦いに打ち勝ち、みごとな成功を収めている。
それにスレインがいるかぎり失敗はしまい、とパーンは内心では安心している。自分のほうが頼《たよ》りないのだから、心配するなんておかしなぐらいだ。
だが、理屈《り くつ》では分かっていても、不安な気持ちを押えることはできない。
パーンはディードリットとともに、スレインたちがホッブという名の司祭の協力を得るために戦《いくさ》の神の神殿に赴《おもむ》くのに付き合うことにした。見送りも兼ねていた。
カシュー王もわざわざ同行してくれた。自分が行って頼《たの》んだほうが、話がまとまるのが早いだろうとの判断《はんだん》からだ。
「たまには、街中を歩くのも気分のいいものだ。砂漠はもともとオレの気性《きしょう》に合っていたのかもしれん。湿《しめ》った土地というのは、どうも好きになれなくてな」
カシューは気持ちよさそうにそう言いながら、国王がやってくるのを見て、頭を下げるブレードの市民に向かって、かるく手を上げて挨拶《あいさつ》をしている。
「国王万歳!」という声も聞こえてくる。
カシューの人望は、相当なものだった。砂漠の民たちは、守護神が遣《つか》わした英雄だと、カシューのことをかたく信じている。
かつては敵として戦った炎の部族の民も、先の戦が終わって間もないころには、いろいろと反抗したり、問題を起こしたりしたが、その後のカシューの努力で、フレイムの国民としてようやく馴染《なじ》みつつある。
炎の部族の中からでも、有力な者には貴族として、また|騎士《きし》としてフレイムの国政に参加してもらってもいる。
ようやく、先の戦の傷が癒《い》えようとしていた矢先の、今度の難民《なんみん》問題、そして火竜シューティングスターが活動期に入るという騒《さわ》ぎである。そのことに触《ふ》れると、なかなか気苦労から解放されぬ、とカシューは苦笑《にがわら》いを洩《も》らすのだった。
パーンには、勇者に試練は付き物です、としか答えられない問題だった。しかし、その試練を乗り越える手助けぐらいはするつもりだった。
戦の神の神殿は、ブレードの街外れの新しい館《やかた》が軒《のき》をつらねている一角に建てられていた。周囲《しゅうい》の建物に比べると、ひときわ大きく、また屋根にマイリーの紋章《もんしょう》が飾られているので、一目でそれと分かる。
通りに面した外壁《がいへき》の中央に神殿の入口があった。今は昼間なので、鉄製の門は開けはなたれていて、信者が何人か出入りしていた。
その入口に、神官衣に身を包んだ男が立っていた。
やけに背丈が小さいな、と思ったら、どうやらドワーフらしい。髭面《ひげづら》を日の光にさらしながら、まるで彫像《ちょうぞう》のように立ち尽くしている。
右手に鉾槍《ハルバード》を持っているところを見ると、おそらく門番なのだろう。彼の身長の倍はあろうかという長い柄《え》の先に、頑丈《がんじょう》そうな斧《おの》と槍《やり》、そして鉤爪《かぎづめ》が取り付けられていた。このドワーフの持つハルバードは、飾り気がなく実戦用のもののようだ。
「これは、国王陛下《へいか》ではありませんか」
ドワーフはカシューに気が付き、ニッと笑いながら、頭を下げた。
「いかにも、オレだ。司祭はいるか、いればぜひ会いたいのだがな」
カシューはそうドワーフの神官戦士に話しかけた。
「司祭様か。うーむ、いるともいえますし、いないともいえますなぁ。まあ、ご自分でお確かめあれ。犬の鼻より鼠《ねずみ》の目、とも言いますからな」
いちおう敬語《けいご 》らしいものは使っているが、言葉使いはどちらかといえば横柄《おうへい》だった。ドワーフは身分の上下にこだわらない種族なのだ。
パーンは、そんなドワーフの神官の姿を見て、ふと懐《なつ》かしい思いにかられていた。今はなきギムを思い出したのだ。
「ほんとうにドワーフって、礼儀知らずなのね」と、ディードリットも懐かしそうな顔をしながら、そうつぶやいている。
カシューは司祭がどちらにいるか尋ねてから、門を潜《くぐ》って中に入っていった。
五日前から司祭の代理を務めるようになった侍祭《じ さい》のシャリーには、忙しい日が続いていた。慣れない仕事の連続だった。
礼拝《れいはい》に訪れた人にマイリーの教義を説き、怪我《けが》や病気の人には魔法で治癒《ちゆ》を施《ほどこ》さねばならない。魔法が使える司祭級の神官は、この神殿では彼女の他に二名しかいない。そのふたりも、魔力の強さはそれほどでもない。
また、シャリーはまだ若い女性だけに、信者に信頼《しんらい》を得るためには、いろいろと努力も必要だった。中には、新しい女司祭見たさに興味半分で訪《おとず》れる者がいる。
説教の最中に、からかわれることも度々あり、そのつど、神官戦士の訓練《くんれん》でつちかった経験を活かさねばならぬはめになる。
文字どおり目が回るような忙しさだったのだが、今度は、突然のカシュー王の来訪《らいほう》である。シャリーは、いったい何の用事かしら、といぶかりながらも、カシューに来客の間に通ってもらい、正装に着替えてからその部屋に向かった。
「ごぶさたしております、陛下」
部屋に入るなり、シャリーは丁重に頭を下げ、カシューにそう挨拶《あいさつ》をした。
部屋の中にはずいぶんと人数が揃っていた。カシューを除いては、みな、フレイムの人間ではなさそうだった。服装などから察するに、おそらく旅の冒険者なのだろう。
「久しぶりだな。たしか、シャリーとかいう名であったな。覚えておる。ところで、ホッブ司祭はどうした。彼に用事があって、やってきたのだが」
「ホッブ司祭に……」
シャリーは忙しさで忘れかけていた寂《さび》しさを思いだし、顔をすこし伏せかげんにした。
「司祭様はある方のお伴をされるために、数日前にこの神殿を出られました。今は、わたしが代理を務めさせていただいています」
「それは本当か? 司祭も忙しい奴《やつ》だな。偉くなったのだから、じっとしていればよいものを。もっとも、オレも司祭に協力を頼《たの》もうとやってきたのだから、他人のことは言えぬがな」
カシューは、そう言ってどうしたものかとため息をもらす。
「どのようなご用件でしょうか」シャリーがカシューに尋ねた。
「うむ。ここにいる者たちに協力して、旅に出てもらおうと考えておったのだ。もちろん、司祭に頼む以上は、戦いの旅なのだがな。しかし、いないものは仕方がない。ところで、ホッブを連れだしたというのは、いったいどこの誰なのだ。マイリーの司祭は、めったな人物でなければ一緒《いっしょ》に旅に出たりはしないはずだぞ」
「まさか、アシュラムでは……」パーンがはっとして、声をあげた。
「ありえますね」パーンの言葉にスレインが大きくうなずいた。
カシューもありえる話だな、と相槌《あいづち》を打つ。
「アシュラムというお人のことをご存じなのですか?」
一方のシャリーもカシューらの会話に驚いて、そう尋ねた。
それを聞いて、カシューの表情はさすがに険しくなっていた。カシューにしては珍しいことだが、怒気《どき》をはらんで顔が紅潮《こうちょう》している。
「ああ、知っているとも。オレを敵と狙《ねら》っているマーモの|騎士《きし》だよ。オレはその男の陰謀《いんぼう》を阻止するために、ホッブに協力してもらおうとやってきたのだ。そのホッブが、まさかアシユラムの側に与《くみ》したとはな。オレもかるく見られたものだ」
シャリーはカシューの言葉に衝撃《しょうげき》を受けていた。薄々そうだとは思っていたが、アシュラムという男はやはり、カシュー王の敵だったのである。
「しかし、司祭様は陛下《へいか 》をかるく見たのではないと思います。アシュラムという人には、わたしもお会いしましたが、その人柄にはたしかに惹《ひ》かれるものがあります。それで司祭様は伴をすることを引き受けたのでしょう。そのおりに、カシュー陛下にはわたしは必要ないが、目の前の|騎士《きし》にはわたしが必要なのだ、と申しておりました。陛下がもう少し、この神殿や司祭様のことをお目にかけてくださっていたら……」
「オレはあいにく神を信じることができんのでな。しかし、ホッブをないがしろにしたつもりはないぞ。この神殿を建てるために援助もしたし、王宮での儀式の際にもかならず参加してもらっていた。現に、こうして協力してもらおうとやってきているではないか!」
カシューの物言いは荒い。
「司祭様はもっと精神的な面をおっしゃっていたのだと思います。おそれながら、カシュー陛下は何事につけご自分ひとりの力で行ない、解決しようとなさいます。たとえ味方が何人いたとしても、最後にはいつも自分の力だけしか信頼されておられません。そのことはわたしにもうすうす感じられます」
シャリーははじめて見る傭兵王《ようへいおう》の怒りにやや気圧《けお》されながらも、思ったとおりのことを言った。
「オレは味方の者を信頼していないのではない。自分でできる範囲のことは、自分でやってしまおうと思っているだけだ。それは、生まれながらのオレの性分《しょうぶん》なのだから仕方がなかろう」
「国王たる者が、何でもご自分でされるというのはどうかと存じます。もっと配下の者を信頼しなければ、やはり不満は出ましょう」
「おまえの言いたいことは分かったが、オレは説教をされるためにここに来たのではない。敵に回ったとあれば仕方がない。倒さなければならない男がひとり増えたということだ」
カシューはそう言って、腹立たしげに席を立った。
パーンたちも、ことの成り行きはだいたい分かったが、なんと言えばよいのか分からず、無言のままカシューにならい、席を立とうとした。
「お待ちください」それを、シャリーが引き止めた。
「なんだ」と、答えるカシュー。
「もし、よろしければわたしが、陛下《へいか 》にご協力申しあげましょう。司祭様には及びませんが、わたしもマイリーの司祭として、それなりの修行《しゅぎょう》は積んでいるつもりでおります。けっして足手まといにはなりません」
部屋を出ようとしていたカシューは、振りかえってシャリーの顔をじっと見た。
「ほう、おまえはホッブ司祭の敵に回ろうというのか?」
「そうなっても仕方ありません。お互いが正当だと信じた戦いならば、たとえ司祭様相手といえども戦わないわけにはいきませんから。そして、わたしはカシュー王に協力することこそが、正当であると信じますゆえ」
シャリーは、きっぱりとそう言って、カシューの目をまっすぐに見た。
カシューはしばらく立ちどまったまま、じっと考えに耽《ふけ》った。
「よかろう。ホッブの代わりにおまえに協力してもらうとしよう。ただし、言っておくが戦《いくさ》の相手は司祭ホッブであり、おまえも会ったアシュラムという男であり、そして青竜の島の主人、水竜エイブラなのだぞ」
「協力すると決めた以上、相手が誰であろうと関係ありません」
その言葉には彼女の決意が現われていた。
カシューは、その決意をたしかに読みとった。
「ならば、すぐにでも支度《し たく》をしてくれ。アシュラムがすでに出発したと分かった以上、こちらも急がねばならんからな」
「心得ました。では、しばらくお待ちください。さっそく準備してきますゆえ」
シャリーはそう言うと、カシューたちの脇《わき》をすりぬけ、自室へと向かった。
カシューはその後ろ姿を見送りながら、楽しそうな表情を作って、もう一度椅子《いす》にもどり、かけなおした。
「おまえたちも座れ。彼女の支度ができるまで、ここで待つとしよう。しかし、噂《うわさ》には聞くが、マイリー神の教義とは変わったものだな」
「生きることは不断《ふ だん》の闘争であるとの考えは、間違《ま ちが》ってはいないと思います。生きるためには、戦いぬく勇気が必要だということも認めない訳にはいきません」
そう説明したのはレイリアだった。彼女はマーファの司祭ではあるが、ロードスでおもに信仰されている六大神のうち、ファラリスを除いた至高神《し こうしん》ファリス、大地母神マーファ、戦の神マイリー、知識の神ラーダ、幸運の神チャ・ザの五神は互いの教義を認めあっているという関係でもあるのだ。
なぜなら、神は間違いなく存在しているのだから。
最終戦争と呼ばれる神々同士の戦いが起こり、その肉体は神殺しの竜≠ニ呼ばれる古竜の王に焼きつくされたが、今も不死の魂は存在しており、心を澄ませればその声を聞くことができる。神に祈れば、魔法という名の奇跡《き せき》を起こすことだってできる。
存在しているものを否定することは、愚《おろ》か者のすることだ。
そして、どの神の教えを信じ、生き方を選ぼうとも、それは個人の自由なのだ。信仰とは強制するものではないのだから。
だから、レイリアはマイリー神と自分の信じるマーファ神の教えとの違いを指摘するようなことはしなかった。
ただ、戦うことが人にとって自然な行為だとしたら、それは悲しいことだとレイリアは思う。戦うことが、人の本質に根差しているのだとすれば、これから何万年たとうと争いは続いていくことになる。
それはたまらなく悲しいことだ、とレイリアは思う。
しかし、今、ロードス中で起こっている戦《いくさ》は、自分にも原因があるのだ。
それがレイリアの心を締《し》めつけるのだ。何より、自分の最愛の者たちが、その戦に巻きこまれているということが……
「ホッブという人物には先の戦いのときに出会っていますが、くわしく知っているわけではありません。いったい、いかなる方なのですか?」スレインがカシューに尋ねた。
敵に回った以上、ホッブとは戦わねばならない宿命にあるのだ。相手の力を知りたいと思うスレインの気持ちは当然だった。
「ディードは、覚えていないかい。三年前の戦いのときに、オレたちの隊に神官戦士がいたろう。たぶん、彼のことだと思う。ディードを守って戦っていたオレたちに、マイリー神の魔法で援護してくれた人だよ」
パーンは、三年前の記憶をたどりながら、ホッブという男のことを漠然《ばくぜん》とではあるが思い出していた。
「わたしは、精霊《せいれい》との交信に集中していたから……」ディードリットは、申し訳なさそうにパーンに答えた。
「パーンの言うとおりだ。三年前のブレードでの戦《いくさ》のおりに、あいつは傭兵《ようへい》として我が軍に参加していたのだ。魔法が使えるということで、パーンと同じ部隊に配置した。あのおりの活躍はなかなかのものであったし、それでオレはあいつに援助をして、この地に神殿を開かせたのだ。戦士としての腕も司祭としての能力も、けっして侮《あなど》ることはできん。本心を言えば、敵に回したくない男のひとりではあるな」
カシューがそう説明を加えると、一同の間に重い空気が流れた。
マイリーの司祭は、戦《いくさ》の神に仕えているだけあって、自身が戦士としての訓練を積んでいる者が多い。戦場に身を置く機会が多いためで、そのおりに自《みずか》らの身を守れないようでは足手まといにしかならないからだ。
他の神の司祭と同様に、マイリー神の司祭も魔法を使うが、その魔法の力は戦いの場面では極めて有効に働くのだ。
古来より戦のおりには、双方の軍の長がマイリーの神殿に詣で、自らの戦いの正当性を主張し、司祭たちの助力を仰ぐというのが慣例であった。
マイリー神の勢力が、モス地方で強いのもこの山国がながらく戦国時代にあったがためだ。
戦において、マイリー神の司祭がいるといないとでは、雲泥《うんでい》の差がある。三年前の戦において、パーンが群がってくる炎の部族の兵士を相手に、かすり傷も負わず無事《ぶじ》だったのは、ホッブの魔法の援護のおかげであることを否定することはできない。
パーンも自らの記憶として、ホッブの実力を思い出し、暗い気持ちになった。彼から得られた魔法の援護は、今度は敵として、自分達に向けられるのである。
「しかし、あのシャリーという司祭も女性ながら、その実力はなかなかのものだぞ。まあ、ホッブには及ばないだろうが、若い女性のほうが旅の仲間としては楽しかろう」
カシューの声は、完全に機嫌《き げん》を取りもどした感じだった。
それで、一同のあいだに流れていた緊張《きんちょう》も溶けて消える。
「残念ね、パーン。シーリスといい、シャリーといい、若い女性と旅をする機会を棒《ぼう》に振って」ディードリットが、パーンに向かってそう笑いかけた。
「まったくだわ」答えたのはパーンではなく、シーリスだった。
「なんで、あなたが答えるのよ!」顔色を変えて、ディードリットがシーリスに文句を言った。
パーンが隣《となり》で苦笑を洩《も》らす。
「何をむきになっているんだよ。ディードの方から言いだした冗談《じょうだん》じゃないか」
ディードリットは、黙ってじっとパーンの顔を見つめた。
「どうしたんだい、おかしいぜ、ディード」
なんて鈍感《どんかん》な奴なんだろう、とディードリットはなかばあきれていた。自分が人間ではなく、エルフの女性であるということが彼女の心に、どれだけの負担になっているかをこの無骨な戦士は、理解してくれてないのだ。
シーリスが現われてからずっと抱きつづけている不安が、またもディードリットの心をしめつけているのだ。
人間の男性には、人間の女性こそがふさわしい。それは、間違《ま ちが》いない事実である。
だが、エルフは他の妖精族《ようせいぞく》の者とは違い、人間にもっとも近い種族だ。両者のあいだには、子供もできる。ただ、人間とエルフのあいだの婚姻《こんいん》は珍しく、好ましいと考えられていないこともまた事実だ。
それは、人間の側でもエルフの側でも変わらない。人間とエルフは互いに認めあってこそいるが、人間はエルフを高慢な種族であると考えているし、エルフはエルフで人間のことを野蛮《や ばん》で粗野《そや》な生き物だと蔑《さげす》んでいる。
人間とエルフとのあいだに生まれた子供をハーフエルフと呼ぶが、ハーフエルフは双方の社会から迫害《はくがい》の対象ともなっているのだ。
認めたくはなかったが、シーリスたちと別行動することを心の中では歓迎している自分をディードリットは知っていた。嫉妬《しっと 》という醜《みにく》い感情に支配されている自分を、彼女は今、嫌《けん》悪《お》しているのである。
そんなディードリットの気持ちも知らず、平和そうに笑うパーンのことが癪《しゃく》に障《さわ》るのだ。
ふと気がつくと、パーンはあいかわらずディードリットを見つめていた。その視線には彼女に対する気遣《き づか》いが現われていたので、ディードリットはなんだか悲しくなってきた。
「うん、ちょっと機嫌《き げん》が悪いだけよ。エルフは森の妖精だから、砂漠の気候にはあまり合わないの」
「そうなのか。気が付かなかったよ。砂漠を何度も横断させたりして、悪かったな」
パーンはそう言って、ディードリットに謝る。
謝る理由が違うんだけど、とディードリットは思いながら、それでもすこし気分がよくなった。パーンはパーンなりに、不器用《ぶ き よう》にではあるが自分のことを考えてくれる、心配してくれる、そして、愛してくれている。
そう思うことで納得《なっとく》しなければ、彼女は永遠に自分を嫌悪しつづけていかなければならなくなる。
そして、ディードリットは最近では永遠という言葉さえ忌まわしく思うようになっていた。
シャリーは、しばらくしてから部屋に戻《もど》ってきた。さっきとは打って変わった服装で、|鎖かたびら《チェインメイル》の上からだぶだぶの神官衣を着込んでいる。胸もとには、マイリー神の象徴《しょうちょう》たる|戦 槌《ウォーハンマー》の紋章《もんしょう》が描かれている。
そして、シャリーはその紋章どおりの武器を持ってきていた。意匠《いしょう》を凝《こ》らした小型の戦槌である。短い柄《え》の先に丁字型になるように金属製の頭が取り付けられている。片側が平たい槌状《ハンマー》で、そしてもう片方はにぶくとがった鉤状《ピ ッ ク》になっている。
彼女は、神殿の入口に立っていた門番のドワーフを連れていた。
「どうも、遅くなりました。わたしはこれですぐにでも出かけられます」シャリーは頭を下げながら、カシューに言った。
「うむ。ご苦労だが、よろしく頼《たの》む。こちらが、おまえに協力してもらいたい者たちだ」と、カシューはパーンたちを順に紹介していった。
「もっとも、この戦士とエルフの娘は、わたしと共に火竜退治に協力してもらう。だが、いずれも使命の大きさは変わるものではないぞ。とにかく、心してくれ。我らの戦いの勝敗によって、今後のロードス島の命運が決するといっても過言《か ごん》ではないのだからな」
「心得ました」シャリーは、深々と頭を下げた。
「では、シャリーさん。よろしくお願いします」スレインが一同を代表して、シャリーに挨拶《あいさつ》した。
こちらこそ、とシャリーは簡単に答える。
「では、シャリーさんにも、せっかく支度《し たく》をしてもらったわけですし、わたしたちはすぐに旅立つことにしましょう。アシュラムたちは、我々より確実に先に行っているのですからね」
スレインが、一同に向かってそう呼びかけた。
一同はそれにうなずいて、同意する。
「気をつけて行ってくれよ。オレたちも火竜を退治したら、すぐにあとを追うから」
パーンが神妙《しんみょう》な顔で、スレインの手を握った。
「あなたもね、パーン。あなたがシューティングスターを倒しているころには、こちらも片をつけたいものですね」
「さあ、別れを惜しむのは、それまでよ。二度と会えないわけじゃないんだから」その場がしんみりした感じになりかけていたのを、シーリスの陽気な声がそれを破った。
「さて、リーダー。号令をお願いするわよ」
ああ、とオルソンはシーリスに答えて、
「出発しよう」
と、抑揚《よくよう》のない声で言った。
出発の号令としては、いささか調子はずれなものだったが、アシュラムと水竜エイブラと対決するための旅は始められたのである。
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第V章 火竜の狩猟場
波の砕《くだ》ける力強い響きが、断続的に聞こえてくる。
潮を含んで肌《はだ》にべとつくような風が、思い出したように吹きよせてきた。
それに、船から積荷を下ろす水夫《すいふ 》たちの威勢《い せい》のよいかけ声が混《ま》じっていた。
獲物[#「獲物」に傍点]は大漁だった。
大漁といっても、積荷は魚ではなかった。他の商船から奪《うば》った財宝、食糧、それに女。
そう、彼らは海賊《かいぞく》なのである。
船が係留《けいりゅう》されているのは、垂直に切りたった崖《がけ》に穿《うが》たれた巨大な洞窟《どうくつ》の中であった。
外は晴れあがっており、真夏の日差しが水中深くまで差しこんで海をあかるい青色に染《そ》めていた。
しかし、洞窟の中は薄暗く、数人の水夫たちが照らしているランプの淡い光が、おもな光源であった。
洞窟があるのは、ロードス島最大の貿易港のあるライデンの西北、歩いておよそ二日ばかりのところである。このあたりは陸地が大きく入り組んでおり、外洋の激しい波はここに来るころには力を失っている。海岸が崖ではなかったのなら、良港ができたのだろうが、あいにくと垂直に切りたった崖がその条件を台無しにしていたのである。
だが、この崖にはいくつもの海食性の洞窟が、ぽっかりと口を開けていた。
そのうちのひとつを彼らは利用していたのだ。彼らが利用している洞窟には、無数とも思える支道が走っていた。
そして、そのうちのひとつは地上にまで通じていたのだ。人がひとりやっと通れるぐらいの穴だったが、おかげで陸路を利用することもできる。
しかも、沖合《おきあい》にはライデンヘと向かう商船が、ひっきりなしに通っている。
海賊|稼業《かぎょう》を営むためには、もってこいの場所だったのである。
その地の利を利用して、中型のガレー船海魔の角《つの》″に乗り組む海賊たちは、最近、ライデン沖を通るすべての商船から恐れられる存在となっていた。
海魔の角″は、高速で獲物《え もの》に近づき、水面下に隠された衝角《ラム》の一撃《いちげき》で相手の船腹に穴を開ける。
その混乱《こんらん》に乗じて相手の船に乗りこみ、奪えるだけの荷物を奪って引き揚げるのだ。
船員はひとり残らず海に投げこむか、または小ぶりの曲刀であるカトラスで切りきざんだ。
体力のありそうな者だけが奴隷《ど れい》として船に連れてこられ、漕《こ》ぎ手とされた。しかし、鎖《くさり》に繋がれたままの漕ぎ手としての生活は、ある意味では死よりも苛酷《か こく》な運命であったに違いない。
荷下ろしの様子を見ながら、海賊船《かいぞくせん》の船長アルハイブは、その顔に浮かんだニヤニヤ笑いを押えることができずにいた。
今回の襲撃《しゅうげき》のあがり[#「あがり」に傍点]が思《おも》ったよりも大きかったからだ。獲物《え もの》もライデンの評議会のメンバーでもある貿易商の持ち船で、しかも貿易商の娘までが乗り込んでいたのだ。
「大商人の娘は、身代金《みのしろきん》を要求するから大事に扱えよ。他の女は好きにしていい!」
上機嫌《じょうきげん》のアルハイブがそう声をかけると、水夫《すいふ 》たちは下晶な喚声《かんせい》を上げてワッと盛りあがった。
「マーモからわざわざやってきた甲斐《かい》があったというもんですねえ」
アルハイブのそばに立っていた、側近の者が機嫌をとるような調子で話しかけてきた。
「まったくだ。最初は割の合わない仕事と思ったがな。なんでも、やってみるものだな」
ふたりの会話のとおり、彼らは根っからの海賊ではなかった。マーモ帝国直属の兵士なのである。特に船長のアルハイブは、|騎士《きし》の位を与えられている男であった。
もちろん、海魔の角″もマーモの海軍に属する軍船であり、乗り組んでいる水夫たちもれっきとしたマーモの兵士である。
アルハイブは、ベルド亡《な》き後、マーモを支配している実力者のひとり、もと近衛隊《こ の えたい》の騎士団長アシュラムに命じられ、この地にやってきたのだ。ちょうど、アシュラムがアラニアに向けて旅立つ前日のことである。
もちろん、本来の目的は海賊をすることではない。ライデンの港近くに船を隠し、支配の王錫《おうしゃく》≠求めてロードス各地を巡っているアシュラムがやってくるのを待つことが、当初の任務だったのである。
しかし、せっかく来たのだから、掠奪《りゃくだつ》ぐらいしないと割に合わないとアルハイブは考え、そして臨時の海賊|稼業《かぎょう》をはじめたのだった。もっとも、平時は私掠船《しりゃくせん》となるマーモの軍船である。海賊稼業は彼らの副業ともいえた。
もちろん、乗り組んでいる水夫たちも、過去をたどれば海賊の経験は豊富にあった。年配の水夫たちなど、マーモの統一前は海賊だった者がほとんどである。
しかも、海魔の角″は、れっきとした軍船である。船腹のいたるところに金属板の補強を施《ほどこ》しているし、中型船なのに大型船なみに左右に五十人の漕ぎ手を配置しているので、いざという時にはどんな船よりも早い速度を出すことができた。
いかに、ライデンの船が航海|慣《な》れしており、傭兵《ようへい》を乗せて海賊に備えているといっても、彼らの敵ではなかった。
それでも、平時ならばライデンにも軍船はある。彼らの海賊稼業は危険もあったろう。
だが、ロードス各国から流れついてくる難民《なんみん》のために、ライデンは今や混乱《こんらん》の極にあり、海賊どころの騒《さわ》ぎではなかったのだ。何しろ、名誉ある自治の原則を捨てて、フレイムに治安の維持を頼まねばならないほどの乱れようなのである。
アルハイブは、この数か月のあいだに一生遊んで暮らせるだけの富を手に入れていた。
「お頭《かしら》……」
そのとき、漕《こ》ぎ手頭《てがしら》をしている手下が、アルハイブのそばにやってきて、小声で耳打ちをした。
「なんだ」すこし気分を害されて、ぶっきらぼうな返事になった。
「怒らねえでくださいよ」
「怒ってなどいない。先を続けろ」
「へえ、アシュラム卿《きょう》が到着なされましたんで」
「何だと!」
船長は漕ぎ手頭を石に変えてしまいそうなぐらいに、厳《きび》しい顔になった。無意識に舌打ちしていた。
「せっかく、景気がよくなってきたのにな」吐きすてるようにつぶやいた。
「待たせておくわけにもいかねえ。いっしょに来てくださいよ」
「分かった。荷下ろしはサボるんじゃないぞ!」
船の方に怒鳴《どな》ってからアルハイブは漕ぎ手頭のあとに続くように、洞窟《どうくつ》の支道に入っていった。
アシュラムは、洞窟の中の潮の香を含んだ陰気な空気を疎《うと》ましいと考えていた。 彼らは薄暗い洞窟を通って、今いる場所に案内されてきたのだ。
そこは洞窟の中には違いなかったが、ドーム状に広がっており、城の広間くらいの空間があった。
床《ゆか》の一部はならされ、そこに机と椅子《いす》を置いている。石壁《いしかべ》に沿うように、大きな樽《たる》が大量に積みあげられている。海賊行為で集めた戦利晶の隠し場所にも使われているようだった。
そのとき、アルハイブが漕ぎ手頭と共にやってきた。
「お待ちしておりました。アシュラム卿、よくぞご無事《ぶじ》で来られましたな」
彼は満面に笑みを浮かべながら、そう言って両腕を広げた。
「何がご無事で、だ」そう答えたアシュラムは、不機嫌《ふ き げん》さを隠すような様子もない。「いったい、この有様はどういうことだ。わたしはおまえにこの地で海賊をしろなどと言っていないぞ」
「たしかに命令は受けておりません。ですが、戦時以外は私掠船《しりゃくせん》となるのが、この船の任務でもあります。もちろん、財宝の半分は規則通りマーモに納めるつもりでおります」
「待機していろという命令を出していただろう。退屈《たいくつ》だった貴様の気持ちも分からんではない。それに、財をなしたいという気持ちもな。だが、ライデンの街では、この船のことで話題がもちきりだったぞ。しかも、評議員の娘をさらうなど、まったく愚《おろ》かなことを。いかに、ライデンが混乱しているとはいえ、奴らは体面にかけてこの船を討《う》ちにくるぞ」
「よろしいではありませんか、アシュラム卿《きょう》」真っ黒なローブに身を包んだ男が、フードの奥からくぐもった声をあげた。「やってしまったことは、もはや仕方がありません。それに、我々がやってきた以上、もはやアルハイブも海賊行為など働いている暇はありますまい、ライデンの軍船が動きだす前に青竜の島に行き、用事を済ませてしまえばよろしかろう」
アシュラムは、ローブの男の方をじっと見た。
「なるほどな、グローダー。おまえの言い分はもっともだ。すでに起こったことを問うより、これからのことを成功させるため最善を尽くしてもらうのが賢明だろう」
アシュラムは、グローダーという名らしいローブの男に、嘲笑《ちょうしょう》めいた笑いを浮かべながら、そう答えた。
厳密《げんみつ》にいえば、この男はアシュラムの配下ではない。ドラゴンと戦うためには、魔術師の助けは不可欠である。そこで、べルドのもと軍師である魔術師のバグナードに協力を頼《たの》み、そして彼の高弟であったこの男を借りうけたのだ。
アシュラムの一行の中では、このグローダーにダークエルフの魔法戦士アスタール、そして、ファラリスの闇司祭《やみし さい》ガーベラも、アシュラムの配下ではない。アスタールはダークエルフの部族の戦士であり、この妖魔《ようま 》の一族を統《す》べる族長ルゼーブの腹心であった。ガーベラはファラリスの高司祭であり、最高司祭ショーデルの信任が厚い。
彼らがそれぞれの主人のためにアシュラムの行動を監視《かんし 》する役目を担っているのは、ほぼ間違いないことだった。だが、魔法の力を持たないアシュラムにとって、彼らの力は絶対に必要だった。
ベルドが死んで以来、マーモの内部は複雑な体制で統治が行なわれていた。
何しろ、マーモは皇帝ベルドひとりの力でまとめられていたようなものである。その偉大な皇帝が亡《な》くなった上は、分裂するのは必至と見られていたのである。
その分裂を阻止したのは、皇帝に仕《つか》えていた貴族たちの中でも特に力のある四人だった。
アシュラムも、もちろん、そのひとりであった。
ベルドの軍師を務めていたバグナード、ダークエルフの族長ルゼーブも四人の支配者の中に含まれている。
もうひとりが、闇《やみ》の大僧正《だいそうじょう》ショーデル。暗黒神ファラリスの最高司祭である。
つまり、この四人がベルドの造りあげた勢力を分割し、それぞれの配下として吸収しなおしたのである。しかも、今、マーモが分裂するのは得策ではないと考えた四人の支配者たちは、お互いに協力しあい、帝国を引き継《つ》ぐことにしたのだ。
もちろん、四人が完全に互いを信用しているわけではない。だが、目的はいちおう一致していた。
マーモの手によるロードス島の統一である。四人はそれまでは協力しあうという不文律《ふ ぶんりつ》を決めたのである。
実に脆《もろ》い協調関係なのだ。
だから、アシュラムが行なっている支配の王錫《おうしゃく》≠フ探索行も、きわどいバランスの上に行なわれているのだ。
もし支配の王錫≠彼が手に入れ、その古代王国の宝物が伝説どおりの力を発揮すれば、アシュラムがロードス統一後の支配権を握《にぎ》るのは、ほぼ確実だからだ。
だから、アシュラムがこの話をカノンの王城シャイニング・ヒル≠ナの会議で持ちだしたときに、そのことの是非をめぐって長い討論がなされたものだ。
しかし、ダークエルフの族長は、自分の圧倒的な寿命の長さから、短期的にアシュラムが指導者となっても問題はなしと支持し、闇《やみ》の大僧正《だいそうじょう》は暗黒神を統一後のロードスの国教とする旨《むね》の約束を取り付け納得《なっとく》した。
もうひとりのバグナードは、もっとも強く反対してもおかしくなかったのだが、最初からアシュラムの提案を積極的に支持し、残るふたりを説得する立場に回った。
それが、アシュラムにはかえって不気味だったのだが、この魔術師の真意をつかむことはできなかった。
アシュラムは、その会議での決定を自分がゆるがすつもりのないことの証《あかし》として、残る三人の支配者の配下を自分の探索行のメンバーの中に引き入れたのだ。
潮の香と波の音を背景に、いかに青竜の島に行き、水竜の守る宝物から目指す支配の王錫≠得るかの話しあいがはじめられた。
「我々の目的はドラゴンを倒すことではない。それを忘れてはならない」
アシュラムは、まずそう宣言していた。
「水竜のエイブラは、おそらく莫大《ばくだい》な古代王国の秘宝を守っていることだろう。それこそ、アルハイブが海賊で稼《かせ》いだ額がかすむぐらいのな」
「魅力的ですな」アルハイブは、アシュラムの皮肉を受け流すように軽く言葉を挟《はさ》んだ。
「だが、目的の物はたったひとつだ。もし、エイブラが持っていないと分かれば、ただちに引き返せばいい」
「持っていた場合は?」と、闇司祭《やみし さい》のガーベラがアシュラムに尋ねた。
「その場合は戦わねばなるまい。エイブラはブラムドとは違い、古代王国時代の呪《のろ》いの影響をいまだに受けている。宝物の番人としての使命を果たさないわけにはいかんだろう」
「つまり、得られるときには、すべてが得られるということだ」と、ダークエルフのアスタールが甲高《かんだか》い声でそう言った。「貰《もら》えるものは、みな貰えばいい。ドラゴンを倒すというのは、それだけの見返りがあって当然の仕事だ」
その言葉を聞いて、アルハイブ以外の者は、うんざりとした表情になった。
「わたしは、財宝目当てでドラゴンと戦う気にはなれませんな。ドラゴンは、話し合いができない相手ではない。とにかく、まず敵が持っている宝物が何かを確かめることが先決です」
そう提案したのは、グローダーだった。彼は、薄暗い中でも相変わらずフードを脱ごうとせず、くぐもった声で話をしていた。
「ドラゴンは古代語しか話さんだろう。ならば、会話できるのは、グローダー、おまえだけだ。いずれにせよ、交渉は任せることになる。頼《たの》むぞ」
「それは、お任せください。アシュラム卿《きょう》」そう答えて、グローダーは自分の席から立ちあがった。
「どうした?」いぶかって、アシュラムは尋ねる。
「いえ、どうやら、わたしの役目が決まったようなので、この辺で失礼して、近くを散策したいと思っているのです。わたしも魔術師のはしくれ、この地の珍しい地形を見て心が弾《はず》んでおりますゆえに。勝手をさせていただきます」
「そうか、オレにはただの岩の塊にしか見えないがな。魔術師には、人とは違った見え方がするとみえる」
「まあ、そんなところです」言いながら、グローダーは頭をゆっくりと下げて、アシュラムたちに背中を見せた。
「岩場から、落ちないように気をつけてくれ。それから……」そう笑いかけて、アシュラムはいったんここで言葉を切った。
「バグナード殿によろしくな」
グローダーは、その言葉に思わず振りかえってアシュラムの顔を見た。正面からだったので、フードの奥にある顔までが見てとれた。しかし、表情までは分からない。
「……かしこまりました」
しばらく間をおいたあと、もう一度そう言って、グローダーは頭を下げた。それは、先程の礼よりも短くはあったが、うやうやしいものであることは間違《ま ちが》いなかった。
「アシュラム卿……」去っていくグローダーの姿を見つめながら、アシュラムの隣《となり》に座っていたホッブが彼にだけ聞こえるように、そっと呼びかけてきた。
「なんだ」アシュラムも小声で応じる。
「はい、あのグローダーという男、信用なりませんな。何事か、心の中に秘めるところがあると見受けます」
「知っておるよ」アシュラムはかるく微笑《ほ ほ え》みながら、そうホッブに答えた。「知っている。あいつが、なにか密命を受けて動いていることぐらいはな。それが何かは分からん。だが、ベルド陛下《へいか 》はつねづね口にしておられたよ。マーモの人間で野心を持たぬ者はおらん。裏切られることを恐れていては、マーモの王など務まらん。自分が道をあやまらず、前に進んでいるかぎり、つまらぬ裏切りなどにつまずくものではない。王道を進むということは、そういうものだそうだ」
「おっしゃるとおりです。瑣末《さ まつ》なことにこだわらないのも、勇者の資質でしょう」ホッブは、そう答えた。「しかし、大事にいたらぬように、気をつけておきましょう」
しばらくして、グローダーは崖《がけ》の上の岩場に立っていた。
数歩歩くとまっさかさまに下に落ちてしまうほどの崖の縁《ふち》である。
潮風が彼の着るローブと、フードをはためかせており、痩《や》せた魔術師の身体《か ら だ》を宙に舞いあがらせてしまうのではないかという気さえする。
白い鳥がのんびりした鳴き声をあげながら、魔術師の目の前の空を優雅《ゆうが 》に舞っていた。
そのとき、強い風が吹きよせて、魔術師の被っているフードを頭から弾《はじ》きとばした。
痩せた顔があらわになる。
どす黒く濁《にご》った肌《はだ》の色をしていた。目は吊《つ》り上がり気味で、ダークエルフの血が混ざっているのではと思わせるような顔立ちだった。
グローダーは、フードが飛んだことをすこしも気にする様子はない。何かに精神を集中させているようだった。
しかし、海鳥に心を奪《うば》われているわけではない。
なぜなら、彼の紫色の唇《くちびる》がもごもごと動いているからだ。
それはどんな音も発してはいない。その無音の声を聞く者は、その場にはいなかった。
だが、遠く離れたマーモの地では、彼の声に耳を傾けている者はいたのである。
「……計画通りに、アシュラム卿はエイブラのいる青竜の島へと向かいます。かならずや導師《どうし 》のお求めの物を手に入れてごらんにいれましょう」
彼が、そう思念を送ったとき、彼の口許《くちもと》がわずかに歪《ゆが》められた。
「ですが、やはり侮《あなど》れませんな。アシュラム卿は、導師様の計画に薄々お気づきになっておられるようですよ」
(それぐらいの男でなければ、わたしにとっても不都合《ふ つ ごう》だ。では、心話の術を切るぞ。身体中が焼けるように痛いからな。次の報告は朗報であることを願っている)
「かしこまりました」
グローダーは、誰もいない海に向かって、頭を下げた。
その海の向こうは、入り江の向こう側の崖《がけ》である。その向こうには、火竜山のあるライデンの山々、さらには、静寂《せいじゃく》の湖<泣mアナ、ヴァリス、カノンとロードス島を斜めに横切って、もう一度海に行き着くはずだった。そして、その海の向こうに暗黒の島マーモがあるのだ。
そのマーモの王都ダークタウンのとある場所に、グローダーが導師《どうし 》と呼んだ男の姿はあった。
男はグローダーと同じ色のローブをまとっていた。しかし、細部の形や表面の光沢《こうたく》は少し違っている。
彼の着ているのは、アラニアの賢者の学院で与えられた賢者のローブである。もとは、薄い緑色だったそのローブを、ダークエルフから搾《しぼ》りとった生き血で黒く染《そ》めあげているのだ。
賢者のローブを着た男が立っているところは、巨大な地下|空洞《くうどう》であった。小さな城なら建てられそうなぐらいに広く、そして高い。
そして、男の目の前には、これまたとてつもなく巨大な人型の像が存在していた。空洞の地面になかば埋もれるように、像は斜めに倒れている。
「カーディスよ。まもなく、おまえを復活させてやるぞ。そのときにこそ、わたしはすべての呪縛《じゅばく》を解《と》かれ、至高《し こう》の存在となるのだ」
そうつぶやいて、甲高《かんだか》い声で笑った。
その笑い声は、空洞の壁《かべ》に反響しあって増幅され、何千人もの人間がたてた笑い声のように、空洞の冷たい空気を激《はげ》しく震《ふる》わせた。
緑色の絨毯《じゅうたん》が見渡すかぎりに続いていた。広大な草の海だ。
地平線の向こうから、青空が身を乗り出し、空を覆《おお》っている。
その中に塔のような形の縦長の雲が、いくつか浮かんでいる。
かすかに風が吹いている。すこしのあいだ強く吹いたかと思えば、突然に止んだりする。まるで、|風の乙女《シ  ル  フ》が悪戯《いたずら》をしているようなそんな風だった。
その音に混じって、ザッザッという音がかすかに響いてくる。
馬のいななく声がときおり混じる。
やがて、地平線の向こうから褐色《かっしょく》の塊《かたまり》が姿を現わしはじめた。近づいてくるにつれ、それは何千人もの人の集団であることがあきらかになる。
遠征用の|板 金 鎧《プレイトメイルアーマー》に身を包んだ砂漠の鷹《たか》°R士団の五百騎、そして民軍から志願者を募《つの》って集めた一千騎の軍勢。
フレイムの精鋭《せいえい》である。
騎士たちはフレイムの紋章《もんしょう》の描かれた三角旗を穂先《ほ さき》に付けた騎兵槍《ランス》を手に持っており、背中には長弓《ロングボウ》や大型の弩弓《クロスボウ》を背負っている。
民軍の兵士も、どちらかというと屈強《くっきょう》な男が揃《そろ》っており、重そうな武器を携帯《けいたい》している者が多い。偃月刀《ファルシオン》や大刀《シャムシール》などが武器の大半をしめており、軽めの新月刀《シ ミ タ ー》を帯びた者の姿はほとんどない。
普段《ふ だん》に比べると信じられないほどの重武装だが、そのことがこれから戦おうとする相手の強大さを伝えていた。
投石機《カタパルト》や|固定式の弩弓《バ  リ  ス  タ》など、攻城戦に使われるための大型の武器の姿も目に止まる。それらの大型武器は台座に載せられ、二頭の荷馬によって引かれている。その歩みにつれ、木製の車輪の回るガタガタという音を辺《あた》りに響かせている。
フレイムの軍は全員が騎兵《き へい》である。皆、それぞれ自分の馬に跨《またが》り、軽くダクを踏むように整然と行軍を続けている。
その軍団のいちばん先頭にカシュー王の姿があった。彼は近衛隊《こ の えたい》の騎士数十騎に守られつつ、いつものように戦場での教訓を若い騎士たちに聞かせていた。
その近衛隊の騎士たちに混ざるようにパーンとディードリットの姿もあった。ふたりとも、カシュー王から借りた馬に乗っており、並んで馬を進めながら、カシューの話に耳を傾けている。
「スレインたちは、今ごろどうしているのかしら」
ディードリットはカシューの話にはさほど関心がなかった。実のところ、さっきから退屈していたのだが、パーンが熱心に話を聞いているような感じなので、遠慮して話しかけないでいた。しかし、パーンが考えごとをしているのが分かったので、それならと思い、声をかけたのだ。
うん、と気のないような返事をしながらも、パーンはディードリットの方に顔を向けた。
「なんだか、上の空ねえ。いったい何を考えているの? やっぱり、スレインのこと」
「それもある。けれど、他にもいろいろね」パーンは愛するエルフ娘にそう答える。
「ふうん」ディードリットは小さく首を縦に振って、鼻をならすように相槌《あいづち》を打った。「スレインって、変わってきたわねぇ。昔は、自分から進んで行動するなんてことなかったのに。今じゃ、先頭に立っていろんな事をやろうとしている。やっぱり、レイリアと一緒《いっしょ》になったからかな」
「それはあると思う」パーンは、すこし考えてからそう答えた。ディードリッ卜の意見には基本的に賛成だった。たしかにスレインは変わった。昔は、他人が傷つくことも自分が傷つくことも嫌で、何もしようとしないような感があった。
「でも、分からないのは、なぜスレインがあんなにオルソンの事を気にかけているのかということよ。わたしだって、人間と精霊《せいれい》が歪《ゆが》んだ関係にあるのは、気持ちがいいとは思わないけど。スレインには、オルソンを助けてやりたいという理由なんてない」
「ディードには、分からないかい?」パーンが心持ちディードリットの方に馬を寄せながら、そう言って白い歯を見せた。
「何よ。分からないから、聞いているんじゃない」ちょっと口を尖らせて、ディードリットは怒《おこ》ったような声を上げた。
「それこそ、レイリアと一緒《いっしょ》になったからだよ」と、パーンはディードリットの様子は気にも止めないで、短くそう答えた。
「だから、どういうことなのよ」まだ、訳が分からず、ディードリットは挑《いど》みかかるような視線をパーンに向けた。
「そうカリカリするなよ」パーンは苦笑しながら、さらにディードリットのそばに寄って、彼女の金色の髪《かみ》に手を伸ばした。
ディードリットは片目で、その手の動きを追いかける。
「昔、レイリアはカーラに心を支配されていたじゃないか。そして、自《みずか》らの意志に関係なく、ロードスに混乱《こんらん》をもたらしてしまった。それが彼女の心の中で大きな傷になっているのは、ディードにも分かるだろう。彼女はスレインのお陰でずいぶん立ち直り、あかるく振る舞えるようになっちゃいるが、カーラがいるかぎり心の傷は絶対に癒えやしないはずだ。もしくは、ロードスの混乱が完全に収まるまではね。スレインはそのことを知っている。オルソンが怒りの精霊《せいれい》に心を支配されて、自分が望んでいない破壊《は かい》をもたらしている。レイリアはかつての自分の姿をあいつにだぶらせているんだろう。だから、スレインはオルソンを救ってやりたいのさ。レイリアのためにもね」
「スレインって、もしかして、あなた以上にお人好しなんじゃない」
なるほどね、と納得《なっとく》してうなずいたあと、ディードリットはあきれ顔でそう付け加えた。
「かもな。ただ言えることは、スレインは真の賢者だってことだ。知識だって豊富だし、古代王国の魔法にも精通している。しかし、あいつが本当に立派なのは、物事の真理を見抜いたうえで、表面に見えることだけを大切に生きていくってことだとオレは思う。レイリアの心の傷を理解したうえで、それがどうしました、と澄まし顔で言うような奴なんだ」
「今の言い方、ずいぶん似てたわ」ディードリットが喉《のど》の奥でクックッと笑いながら、あいかわらず彼女の髪をなでているパーンの手を取って、そっと握りしめてから、それを彼の方に送りかえした。
「これはあいつの受け売りなんだが……」パーンは馬の手綱《た づな》に手を戻《もど》しながら、スレインが彼に言った言葉を思いだしていた。「可笑《おか》しいことがあれば笑えばいい。怒りたければ、怒ればいい。ひとつの物事にこだわると、その他の物事が曇って見える。しかし、たとえ物事の真理が見えたとしても、それにこだわるあまり物事の表面に見えるものを見失うのは愚かなことだ。……ようするに、美人で性格の悪い娘がいたとして、いかに性格が悪くて腹が立っても、その娘が美人だってことだけは認めろってことかな」
「なんて譬《たと》えをしているのよ。でも、スレインって、達観しているのねえ。まだ、そんな年でもないくせに」と、ディードリットは楽しそうに笑う。
永遼の寿命を持つディードリットに比べれば、若くない人間などいないのだが、彼女は精神的に自分がそんなに年を取っているとは思っていない。むしろ、自分の年齢の半分も生きていない人間たちから、学ぶことがいかに多いかを知っている。
自分の部族の者たちも人間たちと一緒《いっしょ》に暮らしてみるといい、とディードリットは最近では心の底からそう考えている。
緩慢な滅びの道を歩みながら、それに何の手も打たない部族の長老たち。彼らは神々の時代からこの世界に存在してきたが、狭く閉ざされた森の中だけで、変化のない生活を送っているのだ。そこにどんな成長があるだろう。
帰らずの森≠閉ざし、その中で自分たちの楽園を築き、外界の変化にまったく関心を払うことはない彼ら。
ハイ・エルフは永遠の存在である。それゆえ、存在することに意義や価値を見いだせない種族なのだ。
ディードリットが入間界に出てきてまだ五年あまりしかたっていないが、そのあいだに多くのことを学んだ。今ではそのメンタリティは人間に近いと思っている。
しかし、結局彼女は人間ではない。完全に人間になることはできないのだ。たとえ望んでも、自分に寿命が決められるわけではない。
そのことを思うと、ディードリットは胸が張り裂《さ》けそうになる。悲しいとか、寂しいとか、そんな言葉で表わせるような生易《なまやさ》しい感情ではない。自分の精神が引き裂かれるようなそんな絶望感だ。
パーンが自分より先に、間違《ま ちが》いなく死んでしまうということ。この戦士を愛するようになる前に、なぜそんな簡単なことに気が付かなかったのだろうと思う。
パーンを失ったあとの自分を、ディードリットは想像できないでいるのだ。
「スレインが、達観しているわけがないだろう」ディードリットの気持ちも知らずに、パーンは無邪気《む じゃき 》にディードリットに笑いかけてくる。「だから、忙しく動いているんだろ。本当は食べていけるだけの畑仕事をしながら、子供たちに文字を教えたり、古代語の書物を読んでいたりしたいんだろうが、あいにく今は時代があいつを必要としているからな。当分、そんな暮らしはできないだろうさ」
スレインがそんな生活を送れる日々がくればいい、そう願わずにはおられないが、今のところそんな日がくるような気配《け はい》はない。
自分の力で変えられるものから、ひとつずつよくしていくしかない。
それが、現在のパーンの結論である。
しかし、王になれば、もっと大きな力が得られる。もっと大きなところから、ロードスをよくしていくことだってできるのだ。それは間違いない。しかし、パーンの心の中では、まだそれを引き止めるものがあった。それが晴れるまで、結論を急ぐべきではない。それが今の彼の思いである。
どこまでも、なだらかな起伏《き ふく》のある草原が続くかに見えた行軍だったが、やがて黒いものがポツンと目の前に見えてきた。それが焼けただれた村だということがあきらかになったとき、さすがにフレイムの精鋭《せいえい》たちのあいだからも動揺の声が沸《わ》き起こっていた。
「ひどいものねぇ」ディードリットが曇った表情で、パーンにそっとささやきかける。
パーンは無言でうなずきながら、唇《くちびる》を噛《か》むように黒こげの村の姿をじっと観察していた。
ドラゴンの恐ろしさを、その光景が如実《にょじつ》に物語っていた。
おそらく、シューティングスターは上空から村に炎を吐きかけ、木造の家を焼きつくしていったのだ。
抵抗する者もしない者も容赦《ようしゃ》なかったに違いない。とにかく焼き、そして殺した。おそらく、ドラゴンの餌《えさ》にされた人間もいただろう。
パーンの心の中にふつふつと怒りが湧《わ》きあがっていた。自分もオルソンのように怒りの精霊《せいれい》に取りつかれるのではないかと錯覚《さっかく》しさえする。
生きるためならば、まだ納得《なっとく》もいく。しかし、これではたんなる虐殺《ぎゃくさつ》ではないか。
「全軍、止まれぇ〜」カシューの命令を伝える伝令の声が全軍を駆《か》けめぐった。
パーンはカシューの方に馬を寄せ、これからどうするんですか、と尋ねてみた。
「ここで、村を再建しながら、奴《やつ》がやってくるのを待つのさ。これだけの軍勢を火竜山に登らせるのはことだからな」
カシューからは、明確な答えが返ってきた。
「はたして、来るでしょうか?」
「来るさ。間違いなく、な。あいつは自分の領域に人間がやってくることを極端に嫌っているらしい。絶対に見過ごすものか」
カシューはそう答えながら、作戦を練るから主だった者を集めろ、と側近の|騎士《きし》にそう命令した。
「おまえとディードリットも参加してくれ。いつも、苦労をかけてすまないがな」
風が東から吹きよせていた。
熱い風だった。しかし、彼[#「彼」に傍点]がいつも住む場所の熱気と比べれば、まるで問題にならない。
夏の風を翼《つばさ》一杯に受けながら、草原の上空を滑《すべ》るように飛ぶ。風が吹いてくる方向に彼の頭と心は向かっていた。
彼は巨大な爬虫類《はちゅうるい》を思わせる姿をしていた。大きさはちょっとした貴族の館《やかた》ほどもあろうか。全身は、金属のような光沢《こうたく》を放つ真っ赤な鱗《うろこ》に覆《おお》われており、左右に広げられた翼はちょうど蝙幅《こうもり》のそれに似ていて、太い骨格に薄い被膜《ひ まく》がついている。
頭から尻尾《しっぽ 》の先までは、ちょうど背骨にそって、鋭いトゲが何本も突き出ている。頭部には、特に大きなトゲが斜め後ろに向かって六本生えている。また、尻尾の先端にある四本のトゲも同様に鋭く大きい。
風に乗っているために、翼《つばさ》を動かす必要がほとんどないのが、彼――火竜山の魔竜と恐れられているシューティングスター――の気をいくぶん快くさせていた。
しかし、彼の機嫌《き げん》がまったくいいわけではない。
その機嫌の悪い理由も、やはり夏の風にあった。正確には、風に乗って運ばれてくる不快な臭《にお》いに、だ。
それは、人間の放つ臭いだった。
しかも、かなりの数の集団から発せられる臭いに間違《ま ちが》いがない。
餌《えさ》を求めて巣穴から飛びたった彼は、風の中に漂《ただよ》う人間どもの臭いを遠くに感じとったのだ。そして、不遜《ふ そん》な者どもに自分の実力を知らしめるために、東へと向かったのである。
彼は、シューティングスターは人間が鎌いだった。
それは、偉大なる自分がかつて人間どもに支配され、まるで飼犬《かいいぬ》のように扱《こ》き使われたためでもある。それどころか、現在でも人間たちの魔法による制約《ギ ア ス》を受けており、この火竜山から離れることができないでいるのだ。そして、彼らの宝物を守るというつまらぬ使命を強制されている。
個体として、もっとも強大な存在であるこの自分がだ。
古い記憶が彼の脳裏《のうり 》に蘇《よみがえ》る。
シューティングスターが、自らの存在を自覚したのは、数千年も昔のことになる。それまでは、知能もなく本能だけで動く獣《けもの》のような生き物であった。
ドラゴン族はその期間が一千年ばかり続いたあとで、はじめて知性を得る。
この知性を持ったドラゴンが、エンシェント・ドラゴンと呼ばれる存在なのだ。
遥《はる》かな昔、シューティングスターはこのロードスの地で最強の存在であった。自分たちの姿を目にすると、いかなる種族の者どもも、ただひたすら餌《えさ》にならないように逃げまどうだけだった。中には、自《みずか》らいけにえを差しだしてくる種族もあった。
古代の人間などは、その代表であった。人間は、かならず肉の柔らかい若い女性の個体をいけにえとして差しだしてきた。その肉の旨《うま》さはたいしたことはないが、食べようとしたときの反応が面白いので、シューティングスターは最低でも一年に一度はいけにえを強制した。
しかし、そんなロードス島に、北の大陸から魔法使いたちがやってきたのだ。それまでの人間たちとは違い、彼らは最初からドラゴンを恐れてはいないようだった。
シューティングスターはそんな彼らの態度を不遜に思い、一度ならず彼らの都市を襲《おそ》ったものだ。だが、そのつど、シューティングスターは、彼らの魔法によって痛い目にあい、そしてとうとう魔法の呪縛《じゅばく》をかけられ、彼らの従僕《し も べ》として使われるようになったのだ。
それからの日々は彼にとって屈辱《くつじょく》以外のなにものでもなかった。実にくだらない雑用や、もしくはたんなる娯楽のために様々なことを要求された。
魔法使いたちを運ぶために、はるか北の大陸まで飛ばされたこともあった。
蛮族《ばんぞく》の戦士と闘技場で戦わされたこともある。また、戦ともなれば、かならずといっていいほど駆《か》りだされた。そんな時、シューティングスターは奴隷《ど れい》の立場にある憤《いきどお》りをぶつけるように残忍に相手を殺し、ときにはその屍《しかばね》を喰《く》らった。
魔法使いたちは、彼の残忍さをなかば軽蔑《けいべつ》しながらも、同時に讃《たた》えて魔竜<Vューティングスターと呼んだ。魔竜≠フ名前は、魔法使いたちに敵対するロードス島に先住の蛮族たちからは、古代王国の恐怖《きょうふ》の象徴《しょうちょう》として考えられた。
シューティングスターは、魔竜という呼び名には、なんの関心もなかったが、自分をそう呼び軽蔑する魔法使いたちも、恐れおののく蛮族たちをも同じく憎悪《ぞうお 》した。その人間に対して抱いた憎悪は、今も変わらず続いている。
ことあるごとに、彼が人間を襲《おそ》い、そしてその肉を喰らうのは、そんな理由からなのだ。
だが、シューティングスターは同時に、本気になったときの人間の強さも十分に理解していた。人間をむやみに追いつめることは、自らも危険に晒《さら》すことになる。だからこそ、彼は自らのテリトリーを定め、その中に人間どもがやってこない限りにおいては、容赦《ようしゃ》してきたのである。それが、古代王国|滅亡《めつぼう》以来のゆるがぬ掟《おきて》であった。
その掟を、今、人間が破ろうとしている。先日も、作られたばかりの人間どもの村を焼き、住人を皆殺しにしたばかりである。なのに、人間はまたもやってきたのだ。
もちろん、やってきた人間どもは、ひとりとして生かしでおくわけにはいかない。場合によっては、そのまま人間の街まで飛んでいき、自分の偉大さを誇示するのもいいかもしれない。
ふたたび自分の偉大さを冒漬《ぼうとく》しようなどと思わないぐらいに、だ。
シューティングスターは、一度ゆっくりと翼《つばさ》をはためかせ、咆哮《ほうこう》をあげた。その声は、夏の空に響《ひび》きわたり、まるで雷鳴のように轟《とどろ》いた。
村を再建する活気のある音に混じって、獣の吠《ほ》え声のような物音が遠くの方で聞こえたようにパーンは思った。
材木を運ぶ手を休めて、声がしたと思った方に視線を向ける。
そのとき、「来たぞ〜!」という警告の声が見張りの兵士から発せられた。
見張りの方を見れば、声がしたなと自分が思った方を見ている。
やはり、さっきの声はドラゴンの吠え声かと呟《つぶや》きながら、パーンは見張りの方に向かって全速で駆けた。
カシューたちフレイムの軍勢が火竜の狩猟場≠ノ陣を張り、三日がたった日のことである。フレイムの兵士は、ドラゴンによって燃やされたり、破壊《は かい》された木材や石を片付け、そこに新しい村を興《おこ》すために、慣《な》れない大工仕事をしていたところだった。
もちろん、専門の職人も連れてきてはいるが、遠征の最大の目的は村を再建することではなく、あくまでシューティングスターを倒すことである。職人をあまりたくさん連れてくるわけにもいかないので、兵たちも職人の指示を受けて、いろんな仕事を分担していたのである。
だが、今やフレイムの兵たちはドラゴンを迎え撃《う》つために、あわただしく動きまわっていた。
「弩弓隊《クロスボウ》、前へ!」
「上衣《サー・コート》に水をかけておくのを忘れるな!」
隊長たちの声があちらこちらで起こり、兵士たちはその声に導かれて隊列を整えていく。
「各部隊の間隔《かんかく》はできるだけあけておけよ。ドラゴンの吐く炎は、サラマンダーとは比べものにならんぞ」
馬にまたがり、こう叫んでいるカシューをパーンは見つけた。そのそばにはディードリットもいる。ディードリットは、走りよってくるパーンに気づいたらしく、軽く手を振って合図を送ってよこす。
ディードリットはパーンの馬の手綱《た づな》を握っている。
「乗って、パーン!」
パーンはディードリットから手綱を受け取ると、あぶみに左足をかけ勢いをつけて鞍《くら》にまたがった。
葦毛《あしげ 》の馬は、ぶるっと鼻を鳴らし、前脚を二、三度踏みならした。パーンは、どうどうと声をかけて、馬を宥《なだ》めつける。鞍にかけてあった兜《かぶと》を取って、頭に被《かぶ》る。パーンは、視界を制限されるのが嫌いで、めったに兜は付けないのだが、ドラゴンの炎の直撃を受けたときに、すこしでも威力を削《そ》ぐことができるだろうと、今回は持参してきたのだ。頭全体を覆《おお》う兜で、面頬《めんぼお》は開閉式になっている。
ヴァリスの聖騎士《せいき し 》たちは、このタイプの兜を愛用しており、身体に着る甲胄《ス ー ツ》と併用すると肌《はだ》の露出《ろしゅつ》する部分がまったくないほどの重装備になるのが正式な武装である。
一方、フレイムの砂漠の鷹°R士団の遠征用の板金鎧《プレートメイル》は、関節部などに|鎖かたびら《チェインメイル》がふんだんに使われており、砂漠の民らしく機動性を重視した武装といえる。
兜も開閉式ではない円筒形の|大 兜《グレートヘルム》が採用されており、洗練されたというイメージはまったくない。
パーンは、三年前の砂塵《さ じん》の塔で、古代王国時代に作られた魔法の剣と鎧《よろい》と楯《たて》の一式を手にいれていて、それを着用しているので、同じ武装でも武具の形は他の兵士とはだいぶ違っている。
それぞれ古代王国の品らしく、意匠《いしょう》も凝《こ》らされているし、表面には上位古代語のルーンが刻《きざ》まれている。
鎧の表面は縦方向に波うつように加工されており、板金の強度を高めるとともに、矢や槍《やり》の穂先をその線に沿って受け流しやすいような工夫が施《ほどこ》されてある。
また、方形の楯の表面には、鷲《わし》と獅子《しし》の合成獣であるグリフィンがみごとな腕前で浮き彫《ぼ》りにされており、輝《かがや》くその目には紅玉がはめこまれていた。
広刃の直刀である剣も、握り、刀身ともに真の銀≠ニ呼ばれるミスリルで作られており、びっしりとルーンが刻《きざ》まれ、魔法のオーラが白く発せられている。剣が滑《すべ》らないように握りには、鹿の革《かわ》が巻かれてあるが、それ以外はすべて光沢《こうたく》を放つ銀色で見るものを嘆息《たんそく》させるだけの美しさがあった。
それらはすべてドワーフの鍛冶師《かじし》が作ったものに違いなかった。この大地の妖精族《ようせいぞく》は酒樽《さかだる》に譬《たと》えられる鈍重《どんじゅう》そうな外見に似合わず、人間の技術では及びもつかない業物《わざもの》を作りだすのだ。
「おお、パーンか。いよいよドラゴンがやって来たぞ」そばにやってきたパーンに気がつき、カシューがそう声をかけてきた。「奴にフレイム軍の強さを存分に見せつけてやろう」
パーンは緊張《きんちょう》した面持《おもも 》ちでうなずき、先日の軍議のおりの打ち合わせどおり、魔法で全軍を支援することになるディードリットを護衛するべく彼女の前に馬を進めた。
隊長たちの号令はまだ続いているが、ドラゴンを迎え撃《う》つ、フレイム軍の陣容はほぼ完成しつつあった。
丈の低い草が小さな起伏《き ふく》のある地面をいっぱいに覆っている。よく見れば、夏草の中に茶色の大地がのぞいているが、ふと気を許すと緑色の染料で染《そ》められた布が一面に敷かれているのではないかと錯覚《さっかく》を覚えるような風景だった。
その風景の中でフレイム軍は、小さな部隊に分かれ、それぞれが逆三角の隊形を取りながら、かなりの間隔《かんかく》をとって草原いっぱいに広がっている。
前面には弩弓《いしゆみ》や長弓を持った部隊が並んでいた。また、固定式の弩弓が馬に引かれて運ばれて据《す》え置かれ、最大の仰角《ぎょうかく》を取って空に向けられている。
ふだんは、射手はふたりひと組みなのだが、今回はそれにもうひとりを加え、巨大な木製の発射台をすばやく回頭できるようにしてある。しかも、射手は十分な訓練を積み、実戦慣《な》れもしている城塞《じょうさい》都市ヒルトの守備隊から選ばれてやってきた者たちである。それでも、さすがに空を飛ぶ相手に対しては自信がないのか、それともはじめて見るドラゴンに対する恐怖《きょうふ》からか、緊張《きんちょう》した面持ちを隠せないでいた。
パーンはカシューの本隊からすこし離れた後方で、数名の騎士とともに円陣を組み、中心にいるディードリットを守る隊形を敷いている。
パーンは、鎧の上から|上衣《サー・コート》を着込むと腰《こし》に下げた革製《かわせい》の水袋の口紐《くちひも》をほどいて、中の水を頭からかぶった。厚手の上衣は水を吸いこんで、鎧の表面にびっしりと張りついた。
これは先の炎の部族との一戦で使った手段だが、炎の攻撃に対しては想像以上の効果が発揮《はっき 》されるのだ。精霊《せいれい》使いには、水の精霊ウンディーネの力を使い、水の幕を全身に張って炎から身を守る呪文《じゅもん》があるが、ちょうどそれを人工的にやってしまおうという発想だった。
それで、この世でもっとも熱いといわれるドラゴンの炎を受けとめられるとは思ってはいないが、ないよりはましとの判断《はんだん》から、今回も採用されたのだ。
パーンは西の空をじっと見つめた。
見張りの人間の視力はたいしたもので、最初発見されたとき、ドラゴンの姿は点であったが、今やその姿はかなりはっきりと判別されるまでになった。
それでもまだだいぶ遠くにいるので、広げた翼《つばさ》をゆっくりと羽ばたかせている姿が影絵のように見えるだけだ。大きさは鴉《からす》ぐらいなものだが、相手の距離を考えるとその巨大さが容易に想像できた。
さしものフレイムの精鋭《せいえい》たちも、戦《いくさ》の前のいつもの騒《さわ》がしさは完全に鳴りを潜《ひそ》め、しーんと静まりかえっている。
パーンの耳に、誰かがゴクリと唾《つば》を飲みこむ音が飛びこんでくる。いや、それは自分が発したものだったろうか。
数千の兵士が見守る中で、ドラゴンの姿は、しだいに大きくなってきていた。すでに、全身が黒色ではなく、燃える炎のような赤色であることさえ見分けられた。同時に途方もなく巨大な体驅《たいく 》をいやおうなしに認めさせられた。
全軍の静寂《せいじゃく》が破れ、動揺の声があちらこちらで洩れた。
それを煽《あお》るように、シューティングスターは大きく咆哮《ほうこう》した。
「おおっ!」どよめきが湧《わ》きおこった。
ドラゴンの声は、人間の心を震《ふる》えあがらせもしたが、なにより彼らが跨《またが》っている馬が狂ったようになったのだ。
「ひるむな、フレイムの勇者たちよ!」
隊長たちは声を涸《か》らさんばかりに叫ぶが、自分の愛馬を御《ぎょ》することさえできないでいた。
落馬する者が次々と出て、主人を振り落とした馬たちは、勝手な方向に全速で逃げだしはじめている。
ドラゴンのたったの一声で、フレイム軍は完全に恐慌《きょうこう》状態におちいってしまったのだ。
「ドラゴンの咆哮には、魔法の力があるという噂《うわさ》を聞いたことがあるが、まさか本当だったとはな」
カシューは、馬を落ち着けることを早々とあきらめ、自分から下馬していた。
「各隊に告げよ。馬から降りて、全員徒歩になれとな」
せっかくの陣形《じんけい》もこうまで混乱してしまっては、何の役にも立たない。馬を捨てて、隊列を組みなおさなければ、思ったとおりに反撃することもできない。
シューティングスターはそのあいだに急速に迫《せま》ってきていた。
シューティングスターは自分の咆哮《ほうこう》を聞いて、人間たちが混乱《こんらん》におちいっているのを、小気味よく感じていた。
翼《つばさ》を広げたままにしながら、高度がゆっくりと下がっていくに任せる。息を大きく何度も吸って、喉《のど》の奥に溜《た》める。そこから熱気がゆっくりと這《は》いあがってきた。
鼻の穴と牙《きば》と牙のあいだの隙間《すきま 》から、白い煙が洩《も》れてくる。その煙はたちまち後方に流され、拡散していった。
すでにシューティングスターは、地面すれすれに滑空《かっくう》していた。ちょうど、木の高さと同じぐらいのところだ。
そして、顔をすこし上げて、前方の様子をくわしく観察する。
人間どもはいくつかの集団に分かれている。皆、武装をしているが、彼らの持つ貧弱な武器でこのエンシェント・ドラゴンたる自分を傷つけられると思っているのだろうか、と心の中で嘲笑《ちょうしょう》していた。
フレイムの兵士は、まだ混乱から回復していなかったが、ドラゴンがすぐ近くまで迫ってきていたので、勝手に飛び道具による|攻撃《こうげき》を開始した。
「まだ、早い!」それを見て、カシューは思わず悪態《あくたい》をついた。「もっと、ひきつけて撃《う》たねば、効果などあるものか!」
先頭の弓兵たちは、シューティングスターの巨大さに距離を見誤ったのだ。弦《つる》から離れた矢の大半は、ドラゴンの身体《か ら だ》に届《とど》く前に地面に落ち、かろうじて届いた弓矢のいくつかもほとんど狙《ねら》いを過《あやま》っていたし、偶然《ぐうぜん》に当ったものもまったく威力を削《そ》がれていて、ドラゴンの硬い鱗《うろこ》を貫《つらぬ》きとおすことなどできようはずがなかった。
二撃が放たれる前に、シューティングスターは口をカッと開いた。
ごうっ、と灼熱《しゃくねつ》の炎がその口から放たれる。熱気が自分の顔にも流れるが、炎は彼の身体を傷つけることはできないのだ。それは精霊力《せいれいりょく》が神によって正しく分化させられる前に生まれた古代種族であるドラゴンの持つ特殊な能力のひとつだった。
真っ赤な炎は、放射状に伸びていった。そして、その炎が前面に展開していたフレイムの一部隊を飲みこんだ。
悲鳴を上げる間もあらばこそ、炎の洗礼を受けた兵士たちはばたばたと倒れていった。上衣《サー・コート》にかけた水は、シューティングスターの吐く炎を一瞬《いっしゅん》だけ防いだのだろうが、全身を炎に包まれては、さすがに助かるはずがなかった。
黒焦《くろこ 》げの死体が、いくつもあとに残された。
その屍《しかばね》の上を、シューティングスターが最大速度で通過する。
ドラゴンの身体で太陽が隠れ、大地が一瞬、闇《やみ》に閉ざされたかのような錯覚《さっかく》を覚えるほどだ。
闇が通りすぎたすぐあとに、すさまじい突風が襲《おそ》いかかり、兵士たちは次々と薙《な》ぎ倒されていった。
ごうっ!
灼熱の炎がまたもシューティングスターの口から吐きだされた。その赤熱の舌はフレイムの一部隊をなめつくし、数十人の兵士が黒焦げの動かぬ塊《かたまり》とされていた。
「ドラゴンめ!」
シューティングスターの殺戮《さつりく》のすさまじさを目の当たりにしながら、カシューは何もすることができない自分に対して、憤《いきどお》りの声を上げていた。相手が空を飛んでいるあいだは、どうすることもできないのだ。
だから、カシューの作戦では、飛び道具を構《かま》えた部隊が翼《つばさ》を射ぬいて、シューティングスターを地面にひきずりおろしてから、騎士《さし》たちが突撃して片付ける手筈《て はず》になっていたのだ。
しかし、もはやその機会は完全に失われていた。乱戦になると、弓兵たちはなかなか矢を放つことはできない。流れ矢が仲間の頭上に落ちてくるかもしれないからだ。
それに、兵たちの混乱《こんらん》はなみ大抵のものではなく、おそらくまともに狙《ねら》いを付けることさえできないだろう。
シューティングスターは、フレイム軍の上を飛びさると、ゆっくりと旋回《せんかい》して、もう一度|攻撃《こうげき》をかけようとしていた。
「弓を貸せ!」
カシューは言いながら、近衛隊《こ の えたい》の騎士の背中にかけられていた長弓を取りあげると、弦《つる》の具合を確かめてから、それに矢じりのいちばん大きな矢を選んでつがえた。
「来い! シューティングスター!」カシューはドラゴンに向かって声を限りに叫んだ。
「ディード、大丈夫《だいじょうぶ》か?」
馬から叩《たた》き落とされてうめいているディードリットのそばに駆《か》けよって、パーンはその細い肩をつかんで、彼女の身体《か ら だ》を激しく揺らしていた。
ドラゴンの咆哮《ほうこう》が走りぬけ、馬が恐慌《きょうこう》状態におちいったとき、ディードリットは高度な召喚《しょうかん》の呪文《じゅもん》をかけるために全神経を集中させていたのだ。だから、馬にしがみつく暇もあらばこそ、彼女は地面に叩《たた》き落とされた。
あやうく後頭部を打つところだったが、そこは身軽なエルフのこと、なんとか、身体を回転させてそれだけは免《まぬが》れた。
しかし、背中をしたたかに打ち、しばらく息さえできないありさまだった。もちろん、呪文も中断させられてしまい、また最初から手続きを踏まねばならない。
「よくも、やってくれたわね」咳《せ》きこみながらも、ディードリットは強気《つよき 》なことを言っていた。それで彼女の無事《ぶじ》を確認して、パーンはほっと息をつきながら、彼女を抱《かか》えおこす。
ドラゴンの恐ろしさは、その一撃《いちげき》だけで十分に思い知らされた。だが、パーンの心の中には、恐怖《きょうふ》ではなく怒りが満ちていた。
「正面から戦いさえすれば……」
「そんなのこちらの勝手な言い分よ。ドラゴンには、騎士道《き し どう》精神なんてないんだもの。それに正面から戦ったって、あんな巨大な魔物にどうして勝つことができるの」
ディードリットはようやく息を整えたのか、そうパーンにまくしたてた。馬から叩《たた》き落とされたことでずいぶんと頭にきている様子だった。パーンに話しかけてくる口調《くちょう》さえ、荒々しい。
パーンはふと、このエルフ娘との出会いのときのことを思い出していた。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「もちろん、魔法で片を付けるのよ。最初の計画どおりにね。あたしは、今では風の上位精霊《せいれい》、ジンの力だって借りられる。あいつの翼《つばさ》を竜巻きでずたずたに引き裂《さ》いて、地面に叩き落としてやるわ」
言ってディードリットは立ちあがり、人差し指を突きだすようにしながら、両手を頭上にかざし、それを交差させた。そして、滑《なめ》らかに響く精霊語の呪文を詠唱《えいしょう》しながら、両手をゆっくりと回転させていった。
ドラゴンは、すでに方向をふたたびフレイムの軍勢に転じていて、最大速度で向かっているところだった。今度はずいぶんとパーンたちの近くを通りそうな感じだった。
周囲の騎士たちがそれを知って、あきらかに浮き足だっていた。
「近くを通るんだぜ。弓を使う絶好の機会じゃないか」パーンがそんな騎士たちを叱咤《しった 》して叫んでいる。
今度はディードリットの召喚《しょうかん》の呪文は完成した。
ディードリットからすこし離れたところに、つむじ風を起こしながら、青色の巨人が姿を現わした。その下半身はほとんど透《す》きとおっているが、そこに強い風が渦巻《うずま 》いているのを、ちぎれて舞いあがった草の葉の動きで容易に知ることができた。
風の上位精霊、ジンの姿であった。
「……あたしの親しき友、偉大なる風の王<Cルクよ。風を刃に変える竜巻を起こし、あの魔竜を切り裂いて」
ディードリットは、召喚に応じたジンに向かって、そう言葉をかけた。
「承知」
テレパシーに似た精霊語の言葉が返ってきて、ジンはその姿を瞬間《しゅんかん》で消した。
ちょうど、シューティングスターが、フレイムの最後方の一部隊に接近し、三度目になる炎の攻撃を加えんとしていた時だった。
口を開き、一列に並んだ鋭い牙《きば》をむきだしにしたその瞬間、自分の身体の周囲に異様な精霊力がみなぎるのを感じた。
魔法使いがいる! 驚きが彼の心の中を走った。古代王国の滅亡《めつぼう》とともに魔法使いは死滅したのではなかったのか。
風の王の巻き起こした激しい気流が渦《うず》を巻いて、シューティングスターの身体《か ら だ》を包みこんだ。ドラゴンは身体中の魔力を本能的に活性化させ、魔法の影響が自分の身体に及ばないように、意識を集中させた。
ジンが支配する圧倒的なまでの精霊力《せいれいりょく》が、彼の身体を引き裂《さ》こうとする。シューティングスターは、神々に匹敵《ひってき》するといわれる強靱《きょうじん》な精神力をふるいおこし、それに抵抗する。
力と力のぶつかりあいだった。想像を絶する魔力が周囲に満ち、空間自体が砕《くだ》けるかとさえ思われた。
激しいせめぎあいののちに、ジンはドラゴンを自分の呪文《じゅもん》の影響下に完全には置けなかったことを知りながら、自らの精霊界に帰っていった。
それでも、ジンの起こした強烈な気流は、ディードリットの言葉のとおり、刃《やいば》となってドラゴンの身体を切りきざんでいた。硬い鱗《うろこ》で覆《おお》われた身体は、さしたる被害《ひ がい》はなかったが、右の翼《つばさ》が半分がた裂《さ》けてしまい、バランスを崩《くず》した彼は、地面に向かって錐揉《きりも 》みしながら激突した。
苦痛の声が甲高《かんだか》く上がる。
「やったな」それを見たパーンは、ディードリットに向かって嬉《うれ》しそうに言った。
「駄目《だめ》よ。呪文は完全には効いてはいないわ。わたしの呪文の強制力では、ドラゴンの魔法に対する抵抗を打ち破ることはできないみたい」高度な呪文を使った後の疲労感も手伝い、ディードリットはいくぶんうちひしがれながら、パーンに答えた。
自分の精霊使いとしての能力がもっと高ければ、ジンはより強大な精霊力を行使できたはずだった。
「しかし、効いてはいる。今の呪文をもう一度使えば……」パーンは尋ねる。
「無理だわ。風の王≠ヘ、自分の精霊界に戻《もど》ってしまったもの。もう一度、イルクを召喚することは、あたしにはできない。イルクはあくまで協力してくれただけなのだから。シルフやウンディーネのような下級の精霊みたいに支配することはできないの」
そうか、とパーンは素直にうなずいて、やはり力で押すしかないな、と自分に言い聞かせるように呟いた。
ドラゴンは地面にはいつくばって、苦痛の呻《うめ》き声をあいかわらず上げている。戦いを挑《いど》むなら、今なのだが、いかんせん馬はすでに放棄してしまっている。走ってたどりつくまでに、相手は体勢を立て直してしまうだろう。
「それでも、他にどんな方法がある」叫んでパーンは、近くの騎士たちに突っこむぞ、と声をかける。
今まで、なすすべもなかった騎士たちではあったが、そう声をかけられて、動けないほどの腰抜《こしぬ 》けではなかった。
パーンの呼びかけに、おう、と応じて、それぞれの武器を引き抜いて、走りだしたパーンに続いている。
他の部隊の騎士たちも、パーンたちと同様の動きを見せていた。特にドラゴンが落下した場所の近くにいた部隊は、すぐにたどりつくことができた。
もがいているドラゴンに向かって、ランスの一撃《いちげき》を加えていく。
だが、馬の突進力があってこそ、効果的なこの武器は徒歩で|攻撃《こうげき》を仕掛けてもさほどのダメージを与えることができない。それでも、ひとりの攻撃が鱗《うろこ》を貫通《かんつう》し、緑色の体液がその傷口からほとばしった。
フレイムの軍勢から、おおっという喚声《かんせい》が上がる。
「いけるぞ!」そう、誰かが叫んだ瞬問《しゅんかん》だった。
シューティングスターの首がぐっと持ちあがり、頭が彼に群がりつつあるフレイムの兵士たちに向けられたのだ。その双眸《そうぼう》が怒りに燃えている。
そして、彼の喉《のど》の奥でも、燃えたぎるものが生まれつつあった。
ごおーっ!
轟音《ごうおん》とともに、シューティングスターの口から炎が発せられた。
吐きだされた炎は放射状に伸びて、フレイムの|騎士《きし》たちを次々と飲みこんでいった。
青草が一瞬にして燃えつきて、さながら青い絨毯《じゅうたん》の上に墨をぶちまけたかのような有様になった。シューティングスターは、今度は首を左右に大きく揺らしていて、できるだけ多くの人間をその炎の攻撃にさらそうと意図していた。
なまじかたまって近寄っていただけに、多くの兵士がこの攻撃の犠牲《ぎ せい》となった。
パーンは炎を直接受けるほどには、シューティングスターには接近していなかった。それが幸いして、怪我《けが》はまったくなかったが、襲《おそ》ってきた熱と風のすさまじさに思わず立ちどまり、顔をそむけた。
熱気が去り、顔を戻《もど》すと、目の前には地獄があった。
人間が消し炭のように真っ黒になり、様々な姿勢のまま息絶えていたのだ。
「よくも。化《ば》け物《もの》めえ!」
パーンはほとんど無意識に吠《ほ》えていた。そして、魔法の剣を構《かま》えて、地獄を生みだした張本人に向かって、全速力で向かっていった。
「パーン、無茶をしないで!」ディードリットがその背中に向かって呼びかける。
しかし、パーンがその声を聞いた様子はまったくなかった。
パーンが死ぬ。
ぞっとする考えがディードリットの心に反射的に浮かんでいた。
助けないと、と思うのだが、どんな呪文で援護すればいいのか、皆目《かいもく》見当がつかなかった。すでに自分の持てる最大の呪文を最大の力で相手に叩《たた》きつけているのである。それでも倒れなかった相手に、いったいどんな手段が講じられよう。
だから、ディードリットはパーンのあとを追うように走ったのだ。
腰からレイピアを引き抜いている。しかし、こんな貧弱な武器で、ドラゴンにどれだけのダメージを与えることができるだろう。
仲間の|騎士《きし》たちが目の前で一瞬《いっしゅん》にして炎に焼きつくされるのを見て、他の騎士たちは怒りの感情すら忘れていた。恐怖《きょうふ》に支配されたわけでもない。ただ、頭の中が真っ白になったようで、茫然《ぼうぜん》とその場に立ちつくしていたのだ。
その中で、パーンとディードリットだけが、ドラゴンに近づいていた。
いや、もうひとつ、駆けよる姿があった。
栗毛《くりげ 》の馬に乗った男。
「カシュー王!」
ひとりの騎士がそれに気がついて、悲鳴《ひ めい》に似た声をあげた。
カシューはドラゴンに向かっていく途中《とちゅう》で、偶然《ぐうぜん》そばを通りかかった空馬を捕《つか》まえて、それに跨《またが》ったのである。
すでに、ドラゴンの魔法の咆哮《ほうこう》の影響はなくなっていたので、馬を御《ぎょ》することは簡単だった。馬を駆《か》りながら、ひとりの騎士からランスを掴んでむりやり取りあげた。それを右手で構え、シューティングスターに向かって全力で馬を走らせる。
パーンとディードリットがドラゴンに向かっているのを目に止めたが、何の声もかけなかった。ひたすら、シューティングスターの動きにだけ注意を払っている。
その魔竜は、炎を吐きおえたあと、ふたたび次の攻撃を仕掛けるため首を上に向けて、大きく息を吸いこんでいるところだった。
そして、狙《ねら》いを定めようと前を向いた途端《と たん》に、ひとりの人間が馬を全速で走らせて、目の前に迫《せま》っているのを知った。
甲高《かんだか》い叫び声が、シューティングスターの口から発せられた。
渾身《こんしん》の力を込めたランスの一撃を、カシューがシューティングスターの左目に突き刺したからだ。
勢いあまって、馬ごとドラゴンの頭にぶちあたり、カシューは馬から転《ころ》げ落ちた。そこは、剣匠《けんしょう》の名で呼ばれるカシューのこと、受身をとってすぐに立ちあがった。
そのとき――
「カシュー王あぶない!」
誰かの声が彼の耳を打った。
パーンか!
実際にそのとおりか確かめる間もなかったのだが、カシューは確信をもってそう考えた。
そして、その警告の声の意味するところを悟って、反射的に後ろに倒れこんだ。
一瞬《いっしゅん》遅れてそれまで身体があったところに、巨大な塊《かたまり》が通りすぎていた。
遅れてやってきた風圧がカシューの身体を横向けに転がす。
ドラゴンが立ち上がりながら、するどい鉤爪《かぎづめ》のついた右腕を横になぎ払ったのだ。
相手の片目をつぶしていなければ、カシューの身体は形も残らず消し飛んでいただろう。
カシューが乗ってきた馬が、運悪くその攻撃に首を撥《は》ねられ、頭を肉塊《にくかい》に変えられ、血しぶきを上げながら、どうっと倒れていった。
そのとき、パーンはすでにドラゴンの右脚に回りこんでいた。
ちょうどシューティングスターは太い二本の脚で立ち上がりながら、左目に走る苦痛に人間に対する新たな憎しみを全身にたぎらせて、復讐《ふくしゅう》の相手を捜しているところだった。
ハイ・エルフの娘に助け起こされているさっきの男の姿を、すぐに見つけた。
パーンは、その巨大な足首に向かって、魔法の剣を叩《たた》きつけた。
金属が割れるような乾《かわ》いた音がして、パーンの身体は反動で後ろに弾《はじ》き飛ばされた。しかし、パーンの剣はさすがにするどい切れ味を見せて、ドラゴンの脚を深く切り裂《さ》いていた。緑色の体液がそこからどくっどくっと流れだしている。
ドラゴンはその右脚を襲《おそ》った激痛に身をよじるように、無茶苦茶に両腕を振りまわしていた。
カシュー王を助けようとして、もしくは苦痛にうめくドラゴンに止《とど》めを刺そうとして、ようやく我に返った砂漠の鷹《たか》°R士団や民軍の戦士たちが、危険を顧みずドラゴンに近寄っていたが、運の悪い者が、シューティングスターの攻撃を受けて、身体を粉砕《ふんさい》され絶命していった。
「一旦、離れろ。離れて、弓や弩弓《いしゆみ》を射かけるんだ。むやみにそばによっても、無駄死《むだじ》にするだけだぞ」
カシューは自らも後ろに退《しりぞ》きながら、味方の騎士に向かってそう呼びかけていた。
それでも騎士たちは、カシューがドラゴンから安全な距離に離れるまでドラゴンを牽制《けんせい》するかのように、攻撃をやめなかった。
ドラゴンのまわりに騎士たちの屍《しかばね》が次々と増えていった。しかも、彼らの決死の攻撃はドラゴンにたいしたダメージも与えていないように見えた。
カシューは声を限りに、兵士たちに退くように命じていた。
全員がようやくそれに応じてから、もしくは殺されてから、カシューは、
「弩弓隊、弓隊! 攻撃しろ。相手の頭を狙《ねら》うんだぞ。残りの目をつぶしてしまえば、いかにドラゴンとて恐れるにたらん!」
と新たな命令を飛ばした。
その号令とともに、最初前線に配置されていたために、遅れてやってきた飛び道具の部隊が応じて、猛然《もうぜん》と矢を射かけ始めた。特に、巻きあげ式の弩弓は発射に時間がかかるのが欠点だが、ドラゴンの硬い鱗《うろこ》を貫《つらぬ》くに十分なだけの威力があった。
ドラゴンの身体に弩弓の矢が何本も突き刺さり、そこから体液がほとばしっていた。
シューティングスターは、このまま人間どもと戦うのは、危険であることを認めないわけにはいかなかった。
その決断は屈辱《くつじょく》である。しかし、屈辱は後で晴らすことができる。自分の巣穴で怪我《けが》を治してから、復讐《ふくしゅう》をすればよいのだ。シューティングスターは自分にそう言い聞かせた。
そう決意すると、シューティングスタ1は手近なところにいた人間どもの一団に、最後の炎の洗礼を浴びせかけた。
それから、巨大な翼《つばさ》を羽ばたかせ、フワリと大空に舞《ま》いあがった。弓の届《とど》かぬところまで飛びあがると、シューティングスターはフレイムの軍勢にもう一度、向きなおった。
そして、一声、吠《ほ》えた。
それは獣《けもの》の放つ咆哮《ほうこう》ではなく、言葉のように響《ひび》き、フレイムのすべての軍勢の耳を震《ふる》わせた。
その耳の震えが治まらないうちに、シューティングスターは傷《いた》んだ翼を不器用に動かしながら、火竜山を目指して飛びさっていった。
「なんということだ!」
被害《ひ がい》の報告を聞いて、カシューは唖然《あ ぜん》となった。
全軍のおよそ三分の一ほどの兵が戦死していたのだ。しかも、さらに三分の一ほどの兵は、かなり酷《ひど》い傷を負っていた。
運良くドラゴンの|攻撃《こうげき》にさらされていない者たちは、まったく無傷である。しかし、フレイムの誇る精鋭《せいえい》がわずかの戦いのあいだに半壊してしまったのだ。
それは、まったく予期していなかった事態である。
炎の部族との戦でも、一度の戦いにおいてこれほどの犠牲者《ぎ せいしゃ》は出たことがない。しかも、相手のドラゴンは、手傷を負わせたものの結局逃してしまっているのである。
それを考えると、死んでいった者は、まったくの無駄死《むだじ》にといえた。
「大軍をもって、ドラゴンと対しようと考えたオレがあさはかだった」
カシューは、ひとりの騎士の骸《むくろ》の前に立ち、拳《こぶし》を握りしめ悔しそうに呻《うめ》いた。
「いえ、我らの力が足らなかっただけのことです」
側近の騎士の者が、涙を流しながらカシューに頭を下げる。
「いや、オレの責任だ。オレがドラゴンの力を見誤ったからだ。それに、戦い方もな。もっと慎重になっていたら、これほどまでには、被害《ひ がい》は大きくならなかったろうに」
カシューは、ドラゴンとの戦いが行なわれたばかりの戦場を見渡した。あちらこちらで、草原の草がまだ煙を上げている。
美しかった草原は、黒と緑の醜《みにく》い斑模様《まだらもよう》になっており、その黒い部分には、何人ものフレイムの兵士が焼けただれた骸を晒《さら》していた。生き残りの兵士が沈痛な面持ちで、仲間の死体を回収している。
パーンとディードリットもそれを見守る以外に、何もできなかった。こんなときほど、自分の無力さを痛感することはない。それはたまらなく悔しいことだった。
パーンは下唇《したくちびる》を血が出るほどにかみしめていた。
ディードリットは、そんなパーンの腕にすがるように、小さく肩を震《ふる》わせている。
「これからどうすればよろしいのでしょうか?」側近の者が、下を向いたまま身動きひとつしないカシュー王に向かって、おそるおそるそう尋ねた。
「もちろん、このまま引き下がるものか! オレは、自分の剣に誓ってあの火竜めを倒すぞ。しかし、いくら増援を頼《たの》んでも結局は、ドラゴンを倒すことはできん。いざとなれば、飛んで逃げてしまえばいいのだからな。だが、奴《やつ》は魔法の宝物を守るという呪《のろ》いに縛《しば》られている。宝物を隠してある奴の巣穴からは決して逃げることはできぬだろうよ」
「それなんですけど……」ディードリットがやや蒼《あお》ざめた顔で、カシューに言った。
「なんだ、言ってくれ」
「はい、最後に火竜が何か叫んでいましたでしょう。あれは、古代語でした。といっても、魔術師が使う上位古代語とは違って、古代王国時代に使われていた日常語なんですが。わたしは部族の長老からそれを習っていて、シューティングスターの叫び声の意味が分かったんです」
「まわりくどい言い方だな。これ以上、悪いことなどあるものか。何でも言ってくれ」
「はい、オレはおまえたちの街を襲《おそ》う、傷ついた鱗《うろこ》の一枚に対して、百人の人間を殺す。シューティングスターはそう叫んでいました」
その言葉を聞いて、カシューは何も答えず、奇妙《きみょう》に落ち着いた顔でうなずいただけだった。その後、じっと無言で、火竜山のある方向を見つめている。
もちろん、ドラゴンの姿は地平線のむこうに消えてしまっている。
「カシュー王……」さすがにパーンは気になって、カシューに声をかけた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ、パーン。何、いずれにせよオレのやるべき事は変わらんよ。あの火竜めは、ぜったいにオレの手で殺してやる。兵はブレードに帰すが、オレはこのままライデンに行く。火竜山に行くのは、ライデンに派遣《は けん》した傭兵隊《ようへいたい》のうちから人選しよう。|騎士《きし》たちを信じていないわけではないが、やはりこういう仕事には、傭兵たちのほうが向いていよう」
「ご一緒《いっしょ》します」力を込めて、パーンは言った。
「あたしも、一緒に」ディードリットも、パーンの隣《となり》にまで進みながら、真剣なまなざしでそう申し出る。
カシューはうなずき、そして思い出したように、軽く頭を下げた。
「おまえたちには、世話をかけっぱなしだな。だが、その申し出はありがたく受けよう。オレもかつては傭兵であり、ただの旅の戦士だった。オレは火竜を倒すまで、王の位は忘れよう。だから、共に旅をすることになるが、いらぬ気遣《き づか》いは無用だ」
「行きましょう、ライデンヘ!」パーンは叫ぶように言う。
「よし、行くぞ!」カシューはそう力強く言うと、自分の愛馬にまたがった。
自信に満ちたいつもの彼の顔に戻《もど》っていた。
「オレは、これからライデンに行く! おまえたちは、兵士たちの死体を運んでブレードに戻ってくれ! そして、街の警備を厳《きび》しくしろ。難民《なんみん》たちの暴動が起きぬよう、そしてドラゴンがいつきても立ち向かえるようにな。とにかく、警戒を怠《おこた》るな!」
その王命を伝令が伝えていくと、あちらこちらで不満の声が起こる。しかし、王命に逆《さか》らうわけにはいかない。
それに、ドラゴンの強さを目の前に見て、戦う気力も正直に言って、失せていた。
フレイム軍の|騎士《きし》や兵たちは、仲間の死体を馬の後ろに乗せる作業を急ぎ、隊列を整えていく。
カシューは砂漠の鷹《たか》°R士団の団長を呼んで、彼にこれからのことをこまかく指示していく。その年配の騎士も、あきらかに不満がありそうな様子だったが、カシューの言葉にいちいちうなずいて、最後にかしこまりました、とうやうやしく礼をした。
フレイム軍は、いつもよりしずかに進軍を開始した。戦いに敗れたという悲壮感《ひ そうかん》が全員の心を支配していた。
そして、戦場には、カシューとパーン、それにディードリットが残された。また、近衛隊の騎士の生き残りである五人の若い騎士も、その場に留り続けている。
「我々は近衛の者です。王のおそばに勤めるのが仕事だと心得ております」
そのうちのひとりが、カシューの前に馬を進め、決意に満ちた表情でそう言った。
彼の言葉に、残る四人もうなずいて同じ気持ちであることを見せる。
「いいだろう。だが、今度の任務では自分たちが騎士であることは忘れろ。正面から戦いを挑《いど》む必要などない。体面も何もいらん。任務の成功だけを最優先させろ」
「心得ております。我ら風の部族の戦士は、アラニアやヴァリスの騎士ほど上晶ではありません」
その言葉で、カシューの顔がすこし緩んだ。
「ふ、ロードス一の強国などと言われても、生まれの悪さはしょせん隠せんか」
そう言い捨てるように、騎士に声をかけながら、カシューはかるく微笑《ほ ほ え》んで馬の手綱《た づな》を強く引いた。
馬は甲高《かんだか》くいななき、頭の向きを変える。
「はいっ!」カシューが馬の腹を強く蹴《け》ると、馬は全力で走りだした。
近衛隊の数騎がすぐ後を追いかける。そして、すこし遅れてパーンたちも続いた。
「しかし、ドラゴンがあんなに恐ろしい相手だなんて」
ディードリットは、パーンと並ぶように馬を走らせながら、パーンにそう話しかけていた。
身体《か ら だ》の震《ふる》えがまだ止まっていないことに、彼女はようやく気がついていた。
「まったくだ。予想していなかったわけじゃないが、それ以上だった。スレインたちは、大丈夫だろうか」
パーンはディードリットに答えながら、これから向かうライデンのことを思った。そして、あの街に到着しているはずのスレインたちのことを。
パーンたちが去り、誰もいなくなった戦場では、あちらこちらでシューティングスターの残した傷跡《きずあと》が白い煙を上げながら、まだ、くすぶり続けていた。
[#改ページ]
あとがき
たいへん、長らくお待たせいたしました。ほぼ一年ぶりの第三巻になってしまいました。本当に申し訳ありません。
この巻はいろいろと初めてのことが重なってしまい、たいへんだったんです。そのひとつは、上下巻になってしまったことです。第三部
「火竜山の魔竜」は、全編あわせると五〇〇ぺージを越えると予想されたため、どうしても分冊にしなければならなくなったのです(あんまり厚い本って、読む気がしませんもんね)。
それから、このロードス島戦記が雑誌に載ったこと。
「野性時代」という雑誌に一挙掲載されたんです。この巻は、雑誌に載った分を文庫本にしているわけです。でも、けっこう手を加えています。僕は、性分として読み返すたびに文章を修正したくなってくるので、文庫本になるときに、わがままを言って直させてもらったのです。
情けない話なんですが、小説を書くときって完成原稿と同じくらいのボツ原稿を作っているのが現状なんです。それだけ手間がかかるということです。それでも、まだまだ小説家としては未熟で、うまくない部分も多く、読者の方から間違いやこうしたほうがいいという御指摘や御意見などをよくいただきます。できるだけ減らそうと努力しているのですが、なくなりませんね。どうか、広い心と長い目で見てやってください。本当に努力はしているんです。
さて、言い訳ばっかりしていても見苦しいだけですから、この辺りですこしロードス島戦記世界の全体のことに触れたいと思います。
このロードス島戦記は、従来にない過程で作られている小説じゃないかと思います。僕が高校の頃から温めてきたアイデアをもとにしているということは、珍しいかもしれませんが、特別なことではありません。でも、これからが違う。もとになるアイデア(これは設定資料とか、小説、マンガという形で蓄積されています)があるんですが、これを本書のような形に仕上げるまでに、いっぷう変わった手段を取っているんです。
それが、ロールプレイング・ゲーム(以下、RPGと略す)なのです。僕は自分が温めてきたアイデアをいったん、RPGのシナリオに仕立てて、それをグループSNEの仲間を相手にプレイしてみるわけです。こうすると、自分の考えてきたアイデアの欠点なんかがどんどん浮き彫りになっていくんです。僕のひとりよがりや御都合主義的だった箇所が、ゲームで遊んでいるあいだにビシバシ露見してしまうんです。
他人はこう考えないんだな、とか、こういう行動を取ろうとするのか、などなど。本当にRPGならばこそ見つけられる欠陥というのがあるんです。こうした助言、助力があればこそ、ロードス島戦記は完成していってるのだと、いつも仲間には感謝しています。
もちろん、助言をくれるのは仲間だけではありません。編集の吉田さんには、プロットの段階から、小説が完成するまでお世話になりっぱなしですし、イラストレーターの出渕さんにも、よくアイデアを出してもらっています。本巻で登場しているアシュラムのグループに女戦士がいますが、あれなんか出渕さんの助言をそのまま取り入れたものです。この女戦士は後編ではシーリスとの絡《から》みのなかで、敵役としての味を出したいと考えています。また、ロードス島戦記のカセット文庫の脚本を書いていただいている渡辺さんには、キャラクターの台詞《せ り ふ》まわしなどで学ぶところが多く、いろいろと参考にさせてもらっています。
昔は、小説って自分の世界を独力で完成させていく作業だと考えていたんですが、実際に仕事をしていくうちに、ああこういうやり方もあったんだな、と驚くことばかりです。自分の世界を完成させていく作業であることは間違いないんですが、他人の助言に耳を傾けることがいかに重要かということを教えられています。
そして、気がつきました。世界を作り、それを他人といっしょに楽しみながら物語に作り上げていく。これはまさしくRPGの手法じゃないか。だから、ロードス島戦記はRPG小説なんだと。そんな点で、ロードス島戦記は従来の小説とは違ったものだし、僕も自分をふつうの小説家だとは思っていません。今後も、今のようなやりかたで小説を書いていくことになるでしょう。新しい試みであると、自分では思っています。
ロードス島戦記の世界は、本当にどんどん広がっていってしまいます。まず、カセット文庫が発売されていますし、RPGのシステムにリプレイも出版されました。それに春にはアニメにもなっていくはずです。
世界を作った者として、これは無上の喜びです。特にアニメ化については、僕はもともとファンだったということもあり(ガンダム以来のファンです)、たいへん嬉《うれ》しい。いいアニメになってくれるに違いないと確信しつつ、自分もいろんな形で協力していきたいと思っています。
でも、他人にばかり甘えててはいけない。まず、もうすこし書く速度を上げなければ、いろんな人に迷惑がかかる。一年に一冊のぺースを打破しないといけない、これが目標です。そこで、下巻は半年以内に絶対お届けしたいと思います。雑誌の方なら、この本が出てすぐ掲載されるように書くつもりでいます。
最後に、これら拡大しつつあるロードスの世界すべてを支えていただいている読者の皆さんに感謝の言葉を送らせていただきます。ロードスの世界は、間違いなく読者のみなさんひとりひとりが共有している世界だと僕は考えています。今後もどうか、変わらぬ御声援をお願いします。
[#改ページ]
[#改ページ]
[#改ページ]
角川文庫発刊に際して
[#地付き]角川源義
第一次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある、角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい、多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
一九四九年五月三日