ロードス島戦記 灰色の魔女
水野良==著
安田均==原案
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
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(例)金属|鎧《よろい》
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目 次
プロローグ
第T章 冒険者たち
第U章 アラニアの黒い影
第V章 救 出
第W章 大賢者
第X章 決戦!!
第Y章 マーファの娘
あとがき 安田均
[#地付き]口絵・本文イラスト 出渕裕《いずぶちゆたか》
[#ここまでで目次終わり]
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第T章 冒険者たち
1
マーファ神殿の白い大理石の壁《かべ》が、ようやく訪《おとず》れた春の日差しに明るく輝いていた。所々に白い毛布を残した褐色《かっしょく》の地面にも、黄緑色《おうりょくしょく》の若草が顔を覗かせ、神殿から村の中心へと向かう街道《かいどう》の端々《はしばし》にも、野草が黄色い花を咲かせていた。
ターバの村はロードス島最北の村である。白竜山脈《はくりゅうさんみゃく》の高い峰の間に広がるわずかな平地に、百人ほどの人間が住まっている小さな村だ。ここは氷の精霊《せいれい》たちの集《つど》う寒冷の地で、春の到来はほかの地域よりも遙かに遅い。
この小さな村の周辺には石の王国と呼ばれるドワーフの集落と、ロードス最大の大地母神《マーファ》の神殿がある以外は、山裾《やますそ》から広がる針葉樹の森によって覆《おお》われていた。村人たちは生活の糧《かて》のほとんどをその森から得ており、ほかには、ドワーフ一族との交易、細工物の売り買い、そして大地母神《マーファ》の神殿に訪れる巡礼者《じゅんれいしゃ》たちが落として行く金が、彼らにとっては重要な収入源となっていた。
春になれば、街道を閉ざした雪もなくなり、ロードス各地から若い男女の巡礼者が結婚の守護者《しゅご しゃ》でもある大地母神《マーファ》の祝福を受けるために、この地に旅して来るだろう。
神殿の最高司祭の地位にあるニースにとって、それは忙しい季節の到来でもあった。
「旅に出るというの」
ニースは神殿内にある自分の部屋に一人の客を迎えていた。マーファの神官が着る真っ白な、スラリとした神官着を身にまとい、左胸には大地母神《マーファ》のシンボルが緑色で刺繍《ししゅう》されている。彼女の顔には五十余年の齢を重ねた人生の軌跡《き せき》として、深いしわが何本も刻《きざ》まれていた。しかし、椅子《いす》に腰掛けていてもなお、彼女の背筋は真っすぐに伸《の》ばされ、枯れた感じをまるで与えない。そばに寄っただけで人を振り返らせるような生命力を、全身から感じさせているのだ。
「うむ。旅に出る」ニースと向かいあって座っている客は、短くそう答えた。人間の半分ほどの背丈《せ たけ》しかないずん胴の体格。不釣《ふつ》り合《あ》いと思えるほどの大きな顔には、灰色《はいいろ》の髭《ひげ》がびっしりと生えている。その髭の先端は緑色の服の胸元まで届《とど》いていて、一言声を発するたびにもごもごと揺れる。
客は、ドワーフなのだ。もちろん、こんな体格の生き物がほかにいようはずがない。雪焼けした褐色の肌、茶色の瞳《ひとみ》が上目がちにニースに向けられている。
「どうして?」ニースは椅子から立ち上がり、このドワーフの細工師の近くに寄ってひざまずいた。
「理由など別にあるものか。旅に出たいから出る。それだけだ」ぶっきらぼうな物言いに、いかにもドワーフらしい頑固《がんこ》さが現れている。一見|不器用《ぶきよう》そうに見えるこの山の種族に、細工師としての才能を与えているのは、この頑固さなのだ。彼等は無骨《ぶ こつ》な原石を、見るも鮮《あざ》やかな宝石に変え、きらびやかな細工物を作り上げる。
ニースは、ドワーフの性格をよく知っていた。一度言い出したら絶対後に引かない頑固さを。
「もしも、レイリアのことを気にしているのなら、それは要らぬ気遣《き づか》いというもの。わたしはあの娘《こ》のことを、もうあきらめているのです」
そう言いながら、ニースの顔には苦痛の表情が見て取れるのだった。老いてもなお毅然《き ぜん》とした全身から、疲れがうかがい知れる時があるとすれば、それは彼女の娘レイリアのことに話題が及んだ時だけだ。
その娘レイリアは七年前から行方不明《ゆくえふめい》になっていた。ちょうど七年前の春、彼女はこの神殿に侵入《しんにゅう》して来た何者かと戦い、敗れ、そして連れ去られたらしいのだ。その時、ニースはドワーフ鉱山の事故で瀕死《ひんし》の重傷《じゅうしょう》を負ったギムを癒《なお》すために、神殿を空けていたのだ。
ニースの心は傷《いた》んだ。しかし、それ以上に若いドワーフも心に大きな傷《きず》を負った。以来、ギムは神殿に頻繁《ひんぱん》に足を運ぶようになり、何かとニースのために尽くすようになっていた。
ギムは無言でニースの問いを受け止めていた。ドワーフは嘘《うそ》をつかない。そのかわりに沈黙《ちんもく》するのだ。ニースは小さくほほえんだ。
「ねぇ、ギム。事故で怪我《けが》をしたのはあなたのせいではないでしょう。ましてや、その時に神殿を襲《おそ》う者がいたことが、どうしてあなたの責任になるの。それは女神マーファでさえも知っておられなかった運命なのよ」
ドワーフの沈黙は解けなかった。
ニースはドワーフの太い腕にそっと右手を置いた。そして、ギムの髭面《ひげづら》を見詰《みつ》めた。
「わたしは女神マーファに、あの娘のことを何度も尋《たず》ねたの。生きているのか、死んでいるのか。そして、どこにいるのかなどもね」ニースは言いながら、同じ返答を繰り返す女神の言葉を思い返していた。
「マーファは何と答えたのかね」ギムは静かに尋ねた。
「それは奇妙《きみょう》な|謎かけ《リドル》よ。『生きてはいるが、存在しない』これが女神の答えだったわ」
ギムは悲しそうな目をしているニースの顔を見た。彼女のことは幼い時から知っている。優《やさ》しさと強さとを同時に秘《ひ》めた女性なのだ。彼女の顔が悲しみで曇《くも》るようになったのは、レイリアがいなくなって以来だ。その原因が自分にはないことはギムにも分かっている。だが、理屈《りくつ》ではなく、ギムはレイリアを探《さが》し出さねばならないと感じていたのだ。ニースの心の傷《いた》みが分かり、その傷みが自分にも伝わってくる以上、このまま石の洞窟《どうくつ》の中で安逸《あんいつ》に暮らすことが耐《た》えられなくなったのだ。
「|謎《なぞ》の答えを解くことはわしにはできん。考えるのは得意ではないからな。だが、力には自身があるぞ。おまえの道楽娘を無理矢理連れ帰るだけの鍛錬《たんれん》はしてあるつもりだ」
ぶっきらぼうな物言い。だが、ドワーフは優しい心を持った種族だ。だれよりも正義を愛し、己《おのれ》の信念を貫《つらぬ》こうとする。
ニースの沈黙《ちんもく》はしばらく続いた。やがて、彼女は何かを言いかけようとしたが思いとどまり、首を横にゆっくりと振った。そして目を閉《と》じて二、三度小さくうなずくと、ようやく口を開いた。
「ありがとう、ギム。じゃあ、お願いします。あの子を、レイリアを連れ戻《もど》して下さい」
ニースの言葉にギムの目が細く閉じられた。
「まかしておけ。必ず連れ帰ってやるさ。その時には、女神のくれた奇妙な謎も解けているだろうさ」
トーンの少し上がった声でギムは答えた。
ニースは細い両腕で、そっとドワーフの体を抱きしめた。
「で、いつターバを立つの?」
「うむ。一度家に戻って、それからすぐに立とうと思う」
「旅は危険《き けん》ですよ。わたしがかつて旅をした時とは違うけれど。それでも、気をつけるにこしたことはありません。あなたの無事をマーファに祈りましょう」
ニースも若いころ旅に出たことがある。それは決して楽しい旅ではなかった。それは戦いの旅だったのだ。ロードス南西部の山の中にある『最も深き迷宮《めいきゅう》』から、古代より封印《ふういん》されていた魔神《ましん》どもが解放され、ロードス中に死と破壊《は かい》が満ちた暗黒の時代があった。その魔神どもと戦うために、彼女は剣を手にとって旅立たねばならなかったのだ。そして、激しい戦いの後に、魔神を封《ふう》じ込めた功績《こうせき》によって、彼女は人々から救国の六英雄の一人として称《たた》えられるようになった。だが、その呼び名に彼女は何の価値《かち》も感じていない。「ありがとう、マーファの司祭よ。ついでに、わしがおまえの娘を連れて帰れるように。謎の答えを見つけられるように祈っておいてくれ。祈るのはわしの仕事ではないからな」
「どこを目指《めざす》の?」
「とりあえず、ザクソンに行くさ。ほかに道はないし、それにあの村にはスレインという知り合いもおるしな。それから後のことは、まだ考えておらん。道が自然に導いてくれるだろうさ」
ドワーフの細工師《さいくし》ギムが南に向けて旅立ったのは、それから数時間の後だった。彼が目指す南の空は奇妙《きみょう》に薄暗く、灰色《はいいろ》の雲が厚く垂《た》れ込めていた。
2
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に位置する大きな島だ。大陸からこの島まで、船に乗れば二十日あまりの旅になる。その距離のためか、大陸とロードス島との行き来は少ない。ロードス島北西部にある自由都市ライデンの商人たちが、ガレー船によって行う貿易《ぼうえき》だけが、その少ない行き来のすべてといってよかった。
大陸の住人の中には、ロードスのことを「呪《のろ》われた島」と呼ぶ者もいるという。確かにロードスには呪われたとしか思えないような場所がいくつかあった。「帰らずの森」「風と炎《ほのお》の砂漠《さ ばく》」、そして、「暗黒の島」マーモ。忌《い》まわしい怪物どものうごめく地下|迷宮《めいきゅう》も各地にあり、暗黒神ファラリスの教えも根強く信奉《しんぽう》されている。
三十年ほど前には、「最も深き迷宮」と呼ばれた魔宮《まきゅう》から、強大な力を持った魔神どもが、その封印《ふういん》を解かれロードス中を恐怖《きょうふ》のどん底にたたき落としたという事件があった。
魔神との戦いは三年間続いたが、最後には人間や、エルフ、ドワーフら亜人たちの手によって魔神は再び封じ込まれた。今では、その戦いの傷痕《きずあと》も癒《い》え、元の退屈《たいくつ》ではあるが平和な日々に戻《もど》っている。だが、そお事件は大陸にも伝えられ、呪《のろ》われた島としての風評を確かなものにした。しかし、ロードスに住む人々は自分達が住む島がどう呼ばれていようが、それはささいな問題だった。島の人々は自分たちが日々を暮らしてゆくことだけで、けっこう忙しかったし、もっと深刻な問題をいくつも抱《かか》えているからだ。
そのロードス島には、現在いくつかの王国が栄えている。
もっとも大きいのが、南西部の山国モス。そこはドラゴン・ロードと呼ばれた先王マイセンの駆《か》っていたゴールド・ドラゴンはなおも健在で、国の守り神とも象徴《しょうちょう》ともされている。
島の中央部には神聖王国ヴァリスがある。魔神を地下迷宮に閉《と》じ込めた六人の英雄のうちの一人、ファーン王が治《おさ》めている平和な国だ。そこは至高神《しこうしん》ファリスを信じる人々の数がもっとも多く、当然神殿の勢力も強かった。国王自身、ファリス神殿の指名によって王となったほどで、厳格な神のおきてが国家の法でもあった。
そのヴァリスの来たにある砂漠《さ ばく》の王国フレイムは、蛮族《ばんぞく》たちとの戦いに打ち勝ち、最近建国された国だ。騎士団《きしだん》の強さと、なにより傭兵《ようへい》王と呼ばれる国王カシューの英傑《えいけつ》によって支えられた国で、若い国独特の活気というものがある。
東南部を領土にするカノンは学者|肌《はだ》の王が賢政《けんせい》を行っている。自然にも恵まれ、豊《ゆた》かな国としての評判が高い。
その南にあるマーモという名の島は、暗黒の島とも呼ばれている。邪悪《じゃあく》な魔物どもがこの地には数多く住んでおり、ロードス本島を追われた罪人たちも、ほとんどがこの地に逃げ込む。そこは秩序《ちつじょ》とは無縁《む えん》の場所だったが、二十年ほど前に、皇帝《こうてい》を名乗るベルドという名の戦士が、またたくまにこの邪悪の島を支配下に収め、帝国を築《きず》き上げた。もちろん、その後も、この新皇帝に従わない者たちによる反乱の火の手が何度も上がったが、そのたびにベルドは自《みずか》ら軍を率いて、その反乱を容赦《ようしゃ》なくたたき潰《つぶ》していった。最近では、たとえそれが表面上のものであれ、マーモは争いもなく穏《おだ》やかだった。
そして、島の北東部に位置する王国アラニアはロードス諸王国の中でも、もっとも古くからあり、そして文化の栄えた国として知られている。すべてが石造《いしづく》りの整備された町並みと、ドワーフたちが造った大理石の城が、市民たちの自慢《じ まん》だった。
そんなアラニアにザクソンという名の村があった。アラニアの首都アランの北に位置し、半島のちょうど真ん中にある小さな村だ。アランから十日と離れていない所にあるのだが、アランとは対照的に素朴《そぼく》で小さな村だった。
そんなザクソンの村に今、重大な問題が持ち上がっていた。
「だから、オレが倒してやると言っている」
バンとテーブルをたたく音が、ザクソン唯一《ゆいいつ》の酒場「良き再会」亭の建物|一杯《いっぱい》に響《ひび》き渡った。テーブルの上にのっていた木製のカップが横倒しになり、中の液体《えきたい》がテーブルの上にぶちまけられた。
酒場には三十人ばかりの村人が集まっていた。カウンター近くのテーブルに一人の若者が立ち、残りのものは皆バラバラに椅子《いす》に腰掛けている。若者は頑丈《がんじょう》な|鉄の鎧《プレートメイル》を全身にまとい、腰には長剣《バスタード・ソード》を差していた。剣《けん》の柄《つか》はやや長めで、いざという時には両手でも扱えるように作られている。分厚い鉄製の楯《たて》も背中にくくりつけられていて、これで兜《かぶと》さえかぶれば、立派《りっぱ 》な騎士《きし》のいでたちになっただろう。だが、胸元にはどの王国の紋章《もんしょう》も刻《きざ》まれておらず、削《けず》られたような跡《あと》があるだけだ。
「しかしなあ、パーンよ」感情を剥《む》き出しにして自分をにらみつける若者に、ザクソンの村長はたしなめるように話しかけた。「おまえ一人が力んでいても、事態《じたい》は収まるまい。なにしろ相手は性悪なゴブリンどもだ。しかも数が多い。いかに、おまえが剣の腕前に自身があろうと、やはり数の力には勝てないものだよ」
パーンと呼ばれた青年は、うんざりだと言いたげな表情を見せた。さっきから、この話の繰り返しなのだ。村長も村人も、まったく臆病《おくびょう》で頭の固い連中だった。
「だからこそ、あんたらに応援を頼んでいるんじゃないか。あんたの言うとおり、オレやエトの力だけでは、数の多いゴブリンどもを相手にして勝ち目は少ない。だが、村にはここに集まったように、立派《りっぱ 》に戦える男たちがいるじゃないか。ゴブリンごときを恐れていたんでは、村の名が泣くぜ」
パーンは彼と視線を合わせるのを避《さ》けるようにうなだれている人々を見回し、誰《だれ》かが顔を上げてくれるのを辛抱《しんぼう》強く待った。
村に起こった心配事、それはゴブリンたちのことだった。彼らは雪が溶《と》け終わった頃《ころ》に、近くの丘《おか》の洞窟《どうくつ》に移って来て、そこをすみかに定めたのだ。その数は二十匹ほど。彼らが移り住んでから、およそ三月《みつき》ばかりが過ぎていたが、まだ村には危害《きがい》は及んでいない。しかし、邪悪《じゃあく》なゴブリンだけにこれからどんな災厄《さいやく》が起こるか知れたものではなかった。
だからその前に村人の中から戦えそうな者を呼び集めて、ゴブリンたちを討《う》とうと、パーンは呼びかけてみたのだ。その数は三十人ばかし。ゴブリンの数より遙かに多いのだ。だが、彼らの反応ときたら……
「まだ何も悪いことは起こっとりゃせん。もしかすると、ずっと起こらないかもしれんのだ。なのに何で危険《き けん》を犯《おか》してまで、奴《やつ》らを刺激する必要がある。万一失敗すれば、その時こそゴブリンたちは村を襲《おそ》ってくるんじゃねぇのか」
村人の一人が、ポツリとそうつぶやいた。パーンはその声の主《ぬし》を見て、そして失望した。男は猟師《りょうし》のザムジーなのだ。彼の弓矢の腕前に、パーンは最も期待していたのだ。
「ザムジー。それは危険な考え方だぜ。ゴブリンがいかにおぞましい生き物かは、あんたも知っているだろう。村に危害が加わってからでは遅いんだ。その前に奴らを倒してしまえば、問題は何もなくなるんだぜ」
パーンが言うとおり、ゴブリンは邪悪なことで知られていた。彼らはエルフたちと同じ妖精族の一員だが、古代に暗黒神に仕えてより、醜い妖魔となったのだ。「しかし……」きこりのライオットも顔を上げ、反対の声を上げた。彼は村で一番の力持ちの男なのだ。他の村人も彼に続き、ボソボソっと声を出しては、かってな意見を言い始めた。しかし、その声の中にはパーンの考えに賛成《さんせい》するものは一つもなかった。
パーンは怒《いか》りに身を任《まか》せ、もう一度テーブルに拳《こぶし》をたたきつけた。今度はテーブル自体が跳ね上がり、横倒しに床に倒れ、大きな音を立てた。オレのおやじは三十人の山賊《さんぞく》を相手に戦ったんだ。そのおやじの十分の一の勇気もあんたらは持ち合わせちゃいないというのか」
「その話は聞いたことがあるぞ。確か、おまえのおやじは、騎士《きし》の任務を放り出して逃げる途中で、山賊どもと出会って殺されたのではなかったかな」
雑貨屋の主《あるじ》、モートが皮肉っぽく言った。彼は酒場の主人のジェットじいさんと並ぶ、村の情報通で知られている。パーンの顔が真っ青になった。
「オレの、オレのおやじを侮辱するのか!」
「|噂《うわさ》をそのまま言っているだけさ。その噂が嘘《うそ》だと言うなら、なぜおまえの鎧《よろい》の胸から聖騎士の紋章《もんしょう》が削《けず》り取られている。なぜ、おまえの母親がヴァリスを捨てこんな田舎《いなか》にまで逃げてこなけりゃならなかったんだ」
パーンは腰の長剣に手をかけた。そのまま走りよって、モートの首を刎《は》ねたい衝動《しょうどう》が胸の底から湧《わ》き上がる。だが、村人を相手に剣を抜くことは正義には反することだった。
「分かった」パーンは力なくつぶやくと、剣にかけていた手を離した。「もういい、それならオレとエトとで片をつけるまでさ」
パーンは大股《おおまた》に歩くと、荒々しい動作で酒場の扉《とびら》を押し開けた。鎧の立てるガシャ、ガシャという音が次第に遠ざかり、そして聞こえなくなるまで、残された村人たちは、ただうなだれたまま酒場の椅子《いす》に腰掛けていた。
「あいつ本気でエトと二人で行くつもりじゃないだろうな」そっと、ライオットが隣のモートに話しかけた。
「まさか、いくら何だってそんな無謀なことはしないだろう……」モートの言葉には何も確信はなかった。村人たちはパーンの性格を良く知っている。彼は、自分の正義を貫《つらぬ》くためなら、無謀なことも平気でやってのけるのだ。村長はそんなやりとりをしばらくの間聞いていたが、静かに閉会を告《つ》げると、そっと席を立ち、パーンが開け放したままの扉を抜け、村外《むらはず》れの一軒のあばら家へと足を向けていた。
パーンは自分の家に戻《もど》ると、扉を開けた。大股で歩くと、頼りない木の床《ゆか》がミシミシと厭《いや》な音を立てた。丈夫なロングブーツの底についたスパイクが床に新しい傷をつけていく。
「どうだった、パーン」部屋の奥から声がした。
「どうもこうもねえ」パーンは部屋の奥にスッと立っている男に向かって答えた。男は神官だった。綿をさらして白くしただぶだぶの神官着を着て、腰には鮮《あざ》やかな青色の帯を巻いている。首から胸に下げている護符《ごふ》は、ファリスのシンボルだ。
この神官、エトとは小さいころからの付き合いだった。ともに両親を亡くしているという似たような境遇《きょうぐう》が、二人を結びつけたのだろう。エトはパーンとはまったく正反対の性格で、あまり感情を表に出さず、慎重《しんちょう》に考え行動する。しかし、一度心に決めたことはどんなことがあってもやりとおす意志の強さはパーンと同じだった。
エトはパーンの話を黙《だま》って聞くと、胸の護符に手をかけ、小さくファリスの名を唱《とな》えた。
「しかたないかもね。村人は戦いに巻き込まれたことがなかった。先の魔神《ましん》との戦いでも、この王国だけは戦火を免《まぬか》れている。
「しかし、俺たちだけでは二十匹ものゴブリンを相手にできないぜ」
パーンは小さな部屋の真ん中に無造作に置かれたテーブルに腰をかけると、革製の水袋を腰から取り、中に入っている水を飲み干した。飲み終えると大きく息を吐《は》き出して、そのまま無造作《む ぞうさ 》にテーブルの上に水袋を投げ出す。
「かといって、このままゴブリンどもを放っておくわけにもいかないからね。今は大丈夫でも、いつ村にとって脅威《きょうい》となるかしれたもんじゃない」
エトは軽く拳《こぶし》を握《にぎ》りしめ、村人たちを前にファリスの教えを伝える時のようなそぶりを見せた。彼は神官としての修行を積むために、四年ほどアラニアのファリス神殿に出掛けていて、最近ようやく神官の資格を受け、帰ってきたのだ。まだ、自分の神殿を持つような身分ではなく、せいぜいが道端《みちばた》や集会場で教えを説くだけだ。
「だが、オレたちだけで本当にやれるのか。相手は二十匹もいるんだぜ。オレたちは二人、ちょうど十倍の数だ」
手練《しゅれん》の戦士なら、十匹どころか、二十匹、三十匹を相手にしても負けないかもしれない。だが、パーンがその域《いき》に達するまでにはまだ、何年もかかるだろう。
「何か方法があるかもしれない」
エトはじっと考えこんだ。顎《あご》が、服の襟首《えりくび》のところに埋《う》もれるほどうつむき、目だけが宙《ちゅう》をにらみつけている。
パーンは昔からの付き合いから、エトが考えを巡《めぐ》らせている時には、何も話しかけないことに決めていた。少なくともエトと一緒にいる間は、考えるのは彼の仕事ではなかった。戦士はただ剣の腕を鍛《きた》え、敵を切り倒せばよいのだから。
「あまり、良い作戦とも思えないけれど……」エトはようやく顔を上げ、パーンの方に向き直った。パーンはニヤッと白い歯を見せた。
「決まったか。よーし、そいつでいこう」
3
ザクソンの村の北のはずれに、スレイン・スターシーカーの家はあった。彼は二年前にこの村に越して来て、以来村の人々に文字の読み書きなどを教え、人々から先生として慕われている。
しかし、彼は変わり者としても有名だった。彼の小さな家には、乱雑《らんざつ》に本が重ねられ、奇妙《きみょう》な薬草《やくそう》や昆虫《こんちゅう》たちを乾燥《かんそう》させたボトルが大事そうに戸棚《とだな》にいくつも並べられていた。また、夜中に空を眺《なが》めては、ブツブツと何かをつぶやくなど、その奇行ぶりが目立つのだ。そんなわけで、スレインの家にはめったに客が来ないのだが、その日は珍《めずら》しく二人の客が、スレインの家に訪《おとず》れていた。
村長のフィルマーは、先客がいることにまず驚《おどろ》いたが、その客が人間ではなく、ドワーフだということに二重に驚いた。彼はフィルマーにギムと名乗り、不器用《ぶきよう》な挨拶《あいさつ》をよこした。スレインはちょうどドワーフのために、エール酒のボトルを開けてやっているところだった。
村長はスレインに、パーンとエトの二人が村のためにゴブリン退治に行ったこと。この二人の若者を助ける村人が誰もいないこと。そして、スレインに二人を助けに行ってもらいたいということを告げた。フィルマーはそのためにスレインの家を訪れたのだ。
「ゴブリンだと!」話をきいていきり立ったのは、スレインではなく、ドワーフのほうだった。
「何匹いるんだ。汚《きたな》らしい盗《ぬす》っ人《と》どもが。わしの戦斧《せんぷ》で首を飛ばされるためにやって来たのか!」
ドワーフは全身に|鎖かたびら《チェイン・メイル》を着込んで、巨大な|両刃の斧《バトルアックス》を持っていた。両側に角《つの》のついた頑丈《がんじょう》そうな兜《かぶと》をかぶり、旅姿というよりは戦いに赴《おもむ》く戦士のいでたちといったほうが近い恰好《かっこう》だった。
「ドワーフにとって、ゴブリンは古来からの敵なのです」突然のドワーフの変化に目を丸くしているフィルマーに、スレインが真面目くさった顔で話しかけた。フィルマーが驚くのも無理はない。ドワーフはゴブリンの名前を聞くまでは、人形のように身動き一つしなかったのだから。
「そうとも、奴《やつ》らは忌《い》まわしい盗っ人なのだ。地下に眠る美しい石や金属を使う術《すべ》も知らぬくせに奪《うば》い取ろうとする。古来よりわれわれドワーフは、奴らの首をそれこそ星の数ほど刎《は》ね飛ばして来たのだが、それでも奴らははびこり未《いま》だに地の中に巣《す》くっておる」
「星の数は無限ですからね」スレインがやんわりとドワーフに言った。「幸いにして、この近くにやって来たゴブリンどもの数は二十匹ほどですがね。しかし、パーンとエトの二人だけでは、それだけの数のゴブリンを倒せないでしょう。本当に二人だけで行ったのですか?」
スレインは村長がうなずくのを見て、あのパーンという青年ならやりかねないなと納得《なっとく》した。しかし、最近村に帰って来たファリスの神官のエトは、もう少し頭の働く男のように思えたのだが……。
「若さはいつも、冷静な判断を鈍《にぶ》らせるものですからね」一人言のようにつぶやく。」
「前途有望な若者を二人も見殺しにするわけにはいきませんからね。二十匹ほどなら、わたしの魔法《ま ほう》で片をつけられるでしょう」
「それにわしの戦斧《せんぷ》がな」ギムはテーブルに立て掛けてあった斧を取り上げ、立ち上がって背中にくくりつけた。
「行って下さいますか」フィルマーは顔をほころばせて、スレインにお辞儀《じぎ》をした。
「わたしも村の人間です。気にしないで下さい」
スレインも机から立ち上がり、部屋の奥のほうに無造作《む ぞうさ 》に置かれてあった木の杖《つえ》を取り上げた。その杖は奇妙《きみょう》に歪《ゆが》んだ形をしていて、表面には得体《えたい》の知れない文字が刻《きざ》んである。だが、村の中でフィルマーだけは知っていた。この杖は「賢者《けんじゃ》の学院」で認められた正式な魔術師《まじゅつし》だけに許される賢者の杖なのだ。この杖の持ち主は魔法という奇跡《き せき》の力を、自在に使いこなせるのだ。だから、パーンの呼びかけに村人たちが誰《だれ》も答えようとしなかった時、このスレインなら力になってくれるかもしれないとフィルマーは思ったのだ。もちろん、一緒にゴブリン嫌いのドワーフがいるなどという幸運は願ってもいなかったのだが……。
「パーンなら、おそらく準備《じゅんび》もそこそこに出掛《でか》けたのでしょう。急がないと手遅れになります。わたしたちもすぐに出ましょう」
スレインは、乱雑《らんざつ》に積み上げられた本の中から分厚い一冊の本を取り出した。その本の表紙には、奇妙な文字が金で書かれていた。その文字は古代語が分かる人ならこう読めたはずだった。「スレイン・スターシーカーの呪文《じゅもん》の書」と。
ザクソンから東におよそ、三時間ばかり歩いた丘《おか》の斜面《しゃめん》に小さな洞穴《ほらあな》がポッカリと口を開けている。かつてここには、陽気な小人の一家が住んでいたが、彼らは二十年ほど前にいずこかに引っ越してしまい、その後は猟師《りょうし》小屋の代わりに使われていた。また、村の子供たちの絶好の遊び場にもなっていて、パーンやエトも子供の頃何度となく、この洞穴に遊びに来たことがあった。だが、今はおぞましい生き物がこの洞穴には巣《す》くっており、近くに寄ろうとする者もいない。
森を抜け、丘へと続く岩の道を登りながら、パーンとエトは油断なく辺《あた》りに気を配っていた。巨大な岩があちこちにあり、その影に隠《かく》れられるうちは、ゴブリンに見つかる可能性はまずない。ゴブリンたちはもともとが闇《やみ》の生き物なので、昼間の太陽を極度に嫌《きら》っている。だから、彼らの行動時間は主に夜であり、昼間は洞穴の中の安らかな闇の中で眠っているのが普通だった。
だからこそ、襲撃《しゅうげき》には昼間を選《えら》んだのだ。太陽が天空に輝いている間は、光の種族の時間であり、邪悪《じゃあく》なる闇を討ち滅《ほろ》ぼすファリスの加護《かご》も強い。エトとパーンは春の日差しを全身に受けて、ゴブリンの住む洞穴に一歩一歩近づいていった。
エトの立てた作戦は単純なものだった。まず、見張りを弓矢で倒す。そして、洞窟《どうくつ》の入り口でたいまつと共に、若木を燃《も》やすのだ。すると、煙が洞窟の中に満ちるはずだから、ゴブリンたちは慌《あわ》てて外に飛び出て来るだろう。しばらくは戦闘能力もないはずだ。そこを気づかれぬうちは弓を使い、その後はパーンの剣とエトの|つち鉾《メイス》で接近戦を挑《いど》む。囲まれぬように丘を背にすれば、日の光の中ではゴブリンたちは活発に動けぬはずだから、何とかなるだろうと考えたのだ。
パーンは弓を使うことが、あまり気に入らない様子だったが、相手はゴブリンであり、また数も多いのだからやむを得ないだろうと納得《なっとく》した。作戦が決まると、パーンはこれで、ゴブリンを倒したと言わんばかりに陽気になったが、作戦を立てたエトのほうには不安はまだ残っていた。長剣《バスタード・ソード》を片手に腰を低くしながら進むパーンの横顔を見ながら、エトは小さく祈りの言葉を唱《とな》え、ファリスの印《いん》を切った。
目指す洞穴《ほらあな》に着いた時、エトは自分の悪い予想が不幸なことに的中したのを見て、思わず空を仰《あお》ぎ見た。パーンも唇《くちびる》をかみしめながら、二匹のゴブリンの醜《みにく》い姿を見詰《みつ》める。赤褐色《せつかつしよく》の肌《はだ》に、汚《きたな》いボロ切れを体に巻きつけ、荒縄《あらなわ》をベルト代わりに腰に結び、そこに安物の小剣を吊《つ》り下げている。左手には木製の楯《たて》を構え、背筋を丸めるような姿勢で、まぶしそうに表《おもて》を見張っている。体の形こそ人間に似《に》かよっていたが、背丈は人間の半分ほどで、剥《む》き出しの手足は枯れ木のように細く節くれ立っている。体毛はまったくなく、剥《は》げた顔には異様に大きい目と耳がついていた。鼻は二つの穴が顔の真ん中に口を開けているのかと見まがうばかりに低く、口元は大きく裂け、そこから黄ばんだ犬歯と血のように赤い舌《した》が姿を覗《のぞ》かせていた。
岩陰《いわかげ》に身を隠《かく》しているパーンたちの姿にまだ気づいた様子はなく、見張りのゴブリンたちは退屈《たいくつ》そうに体をもごもごと動かしていた。
「どうやら作戦を変えないといけないようんだね」エトは苦笑した。彼らは見張りの数を一匹だと予想していたのだ。一匹ならば、パーンの弓とエトの投石器《ストリング》で同時に狙《ねら》えば、一撃で仕留《しと》められたはずだ。しかし、今、その考えは脆《もろ》くも崩れ去った。もし、二人のうちどちらかがしくじれば、それで計画はすべて水泡《すいほう》に帰すのだ。
エトは背負い袋の中から、スリングを取り出すと、頼りなさそうに辺《あた》りの手頃《てごろ》な石を拾い集めた。
「オレは右を狙う。おまえは左だ」パーンは肩に吊《つ》るした弓を外《はず》し、弦《つる》を張った。背中から樫《かし》の木と鷹《たか》の羽根とで作った矢を二本抜き取り、根元の部分を弦につがえる。
エトはスリングに石を挟《はさ》み込むと、ゆっくりと振り回し始めた。パーンも弓の弦を引き絞《しぼ》る。
「今だ!」
十分に狙《ねら》いを定めてから、エトは合図を送った。矢と遠心力によって加速された石が同時に見張りのゴブリンたちに向かって飛んでいった。
「グエッ!」
気味の悪い悲鳴《ひ めい》が起こった。矢と石は狙い違《たが》わずゴブリンに命中し、二匹のゴブリンはフラフラとよろけ、そのうちの一匹はズルズルと崩《くず》折れる。
だが、エトは見た。自分の放った石はゴブリンの小さな頭に当たり、頭蓋骨《ずがいこつ》を砕《くだ》いたが、パーンの矢はゴブリンの急所をわずかにそれて、右肩に突き刺《さ》さっただけだったのだ。あのゴブリンはまだ生きている!
「ホフゥーク!」
生き残ったゴブリンの不格好に突き出た原を射抜いた。腹から真っ赤な血を噴《ふ》き出しながら、地面に倒れる。
「こうなりゃ、しかたねえ。一匹ずつ潰《つぶ》してゆくまでよ」
パーンとエトは同時に岩陰《いわかげ》から飛び出した。金属製の鎧《よろい》が大きな悲鳴を上げる。
パーンは長剣をさやから抜き放つと、太陽に向けて突き出すように真上に差し上げた。キラリと鋭《するど》い光が一瞬《いっしゅん》刃から発せられる。
エトはなんとか自分の立てた計画を実行しようと、服のポケットから油の入った小びんを二本取り出し、洞窟の入り口に向かって投げつけた。ガラスが割れる甲高《かんだか》い音が響《ひび》き、そしてヌルッとした液体《えきたい》が辺《あた》りに飛び散った。
しかし、ポケットから火打ち石をつかみ出した時、その試《こころ》みはもはや間に合わないことを知った。
洞穴《ほらあな》の中から、醜《みにく》い生き物が次々と飛び出て来たのだ。
幸いなことに、ゴブリンたちの何匹かは入り口付近に飛び散っていた油に足を取られ転倒した。中の一匹は岩肌《いわはだ》の露出《ろしゅつ》した地面にまともに頭から落ち、「グゲッ」と奇妙《きみょう》な声を立てて、そのまま動かなくなった。
「くたばれぇ!」
横でパーンの絶叫《ぜっきょう》が上がる。
「パーン、岩を背にして後ろに回り込まれないようにしよう」
エトはゴブリンたちの集団にまっすぐに突っ込んで行こうとするパーンを制して、今まで自分たちが姿を隠していた大岩の所まで後退した。パーンもそれにならう。
ゴブリンたちはすぐにやって来た。手には斧《おの》や小剣などの得物《えもの》を持っている。その武器には赤茶けた錆《さび》がついている。まったく粗悪な代物《しろもの》だったが、それがかえって嫌悪《けんお》感を増すのだ。また、刃には緑色のドロリとした液体が塗《ぬ》られていた。
「気をつけろ!刃には毒《どく》が塗ってある!」
岩を背にしたおかげで、背後に回り込まれることこそなかったが、それでも二人は同時に二匹以上の敵を相手にしなければならなかった。また、まわりを何重にも取り囲まれ、もはや逃げることもできなかった。自分たちが息絶えるか、ゴブリンたちが全滅するかのいずれかである。
パーンはさすがに戦士らしく、剣と楯《たて》を巧《たく》みに使いこなしていた。一匹の攻撃を楯で受け止めながら、もう一匹に素早い剣の一撃を繰り出す。その攻撃を防ぎそこねた一匹が、たちまち肩から血を噴《ふ》き出し、どうと倒れた。パーンはその背中にとどめの突きを入れる。さすがに歴戦の勇者とは比《くら》べるべくもなかったが、ゴブリンになら十分な腕前だといえた。エトにせよ、ファリスの神殿で戦闘の訓練も受けたことがある。メイスや楯の使い方もまったく知らないわけではない。しかも、エトの動きはパーン以上に素早かった。ゴブリンの攻撃を見事なフットワークでかわして、渾身《こんしん》の力を込めたメイスの一撃を見舞う。
金属のぶつかり合う鋭い音と、肉の弾《はじ》ける鈍《にぶ》い音が交じりあった。ゴブリンたちは二人の若者によって、一匹、また一匹と倒されていった。
しかし、それにも限界があった。あまり戦い慣《な》れてはいないエトは、息が切れ始め、両腕が鉛《なまり》のように重くなってきたのだ。
パーンは横でエトが苦しそうにし始めたのを見て、何とかしようと懸命《けんめい》に努力していた。剣の振りを大きくして、エトの前にいるゴブリンにも牽制《けんせい》を与える。その分、パーンの疲労は大きくなったが、戦士としての訓練を十分に積んだ彼には、まだ少し余裕《よゆう》があった。
ゴブリンたちの数はいつの間にか半分ほどになっていた。十匹あまりの死体が辺《あた》りに散らばり生臭《なまぐさ》い血の臭《にお》いが漂《ただよ》っている。しかし、残りのゴブリンどもは仲間の屍《しかばね》を乗り越え、それまでになく果敢《かかん》に向かって来るのだった。怒《いか》りが恐怖《きょうふ》に打ち勝ったのだろう。勝てると思い込んでいる時のゴブリンたちは、勇敢《ゆうかん》な戦士だった。
「これまでだな」とパーンはつぶやいた。
さすがに彼も剣の振りが鈍ってきたのだ。エトがせきこみ始め、岩に崩《くず》れるようにもたれかかったのを見て、パーンは覚悟《かくご》を決めた。
楯《たて》を前に投げ捨て、長剣《バスタード・ソード》を両手に持ち換え、体を低く構えた。気力を奮《ふる》い起こすため、体の底から絞《しぼ》り出すような大声を上げる。
「ウォーッ!」
そして、弾けた。
もはや戦闘力のなくなったエトにとどめを刺《さ》そうとしていた二匹に体ごとぶつかり、吹き飛ばすと、まだ五匹ほど残っている集団の真ん中に、狂戦士《バーサーカー》のように剣を振るいながら突進していった。
(オレの死に方は本当に名誉《めいよ》なのだろうか?)と、パーンは剣を振るいながら考えた。戦いの中で果てるのは、戦士にとって名誉なことのはずである。だが、山賊《さんぞく》を相手に絶望的な戦いに臨《のぞ》んで果てた自分の父親の死は、不名誉なことのように言われ、母親は幼いパーンを連れて逃げ出すようにヴァリスを後にしなければならなかったのだ。その母もパーンが十歳の時に流行《はや》り病《やまい》で息を引き取った。以後、パーンは畑を手伝ったり、森で狩りをしながら生きてきたのだ。十六になり、父の遺《のこ》した鎧《よろい》が着られるようになると、傭兵《ようへい》として、彼は二年ほどフレイムに出向き、砂漠《さ ばく》の蛮族《ばんぞく》と戦った。それから村に帰り、村の警備《けいび》を引き受けながら、再び傭兵に出る機会をうかがって過ごしてきたのだ。
もし、自分の死が名誉でなかったのなら、自分の一生とはいったい何だったのだろう。
その時、左肩に熱い固まりがザクリと食い込む感触《かんしょく》が走った。痛《いた》みが全身を走り抜ける。背後からゴブリンの小剣の一撃を受けたのだ。真っ赤な血が噴《ふ》き出し、頬《ほお》に張り付く。
パーンは歯を食いしばって苦痛に耐え、振り返りざまそのゴブリンを切り捨てた。しかし、無理な態勢《たいせい》からの攻撃のために、パーン自《みずか》らもバランスを崩《くず》していた。鎧《よろい》の重さが崩れたバランスに拍車《はくしゃ》をかける。なすすべもなくパーンは、地面にたたきつけられていた。金属と岩とが激しくぶつかる音が響き、火花が飛び散った。
そこに、もう一匹のゴブリンが襲《おそ》いかかって来た。左の大腿部《だいたいぶ》に再び鋭《するど》い痛みが走った。見ると小剣が深々と突き刺《さ》さっていて、ゴブリンはそれを抜き取ろうと力を込めている。ゴブリンが剣を抜こうと動くたびに激しい痛みが襲ってくる。やがて、痛みの感覚が揺《ゆ》らいできたかと思うと、今度は体の自由が利《き》かなくなってきた。刃に塗《ぬ》られた毒《どく》が、早くもその効果を現し始めたのだ。
パーンは立ち上がろうと、懸命《けんめい》にもがいたが、もはや体にはそれだけの余力は残されてはいなかった。極度な疲労《ひ ろう》感に身を任《まか》せながら、エトはどうなったのだろうかと、首を巡《めぐ》らそうとする。
その時、真っ青な空が目に飛び込んできた。抜けるように雲一つない青空。奇妙《きみょう》な爽《さわ》やかさがパーンを満たす。空を見上げたまま、剣からも手を離し、手足を大の字に広げる。
汚《きたな》らしい生き物が、自分の胸を狙《ねら》って剣を振り下ろそうとするのを、パーンは他人事のように見詰めていた。
その時だった!
剣を振り下ろそうとしていたゴブリンの胸に深々と矢が突き刺さった。ヒューと空気の抜けるような声を上げて、そのゴブリンが倒れた時、また別の声が聞こえてきた。
それは耳慣《みみな》れない言葉だった。
その声と共に、空気がふと重くなったように感じると、パーンは目の前が真っ暗になっていくのを意識した。その時、閃光《せんこう》のようにひらめくものが頭の中に走った。
(そうか、そうなんだな。おやじ)パーンは心の中で叫《さけ》んでいた。
そして、闇《やみ》が訪《おとず》れた。
「どうやら、間に合ったようですね」
ギムが石弓《クロスボウ》でパーンにとどめを刺《さ》そうとしていたゴブリンを仕留《しと》めたのを見て、スレインは言った。そして、残ったゴブリンどもを見据《みす》えると、古代語のルーンをつぶやいた。
「眠りをもたらす安らかな空気よ」
呪文《じゅもん》と共に、杖《つえ》をゆっくりと振るう。新手《あらて》のゴブリンたちのうち三匹ばかりが、急に生気を抜かれたかのように前のめりに倒れ伏した。残った数は二匹。
そこにギムが石弓《クロスボウ》から戦斧《せんぷ》に武器を持ち代えて、突っ込んでいった。勝負は一瞬《いっしゅん》にしてついた。ギムの戦斧がいっせんすると、ゴブリンの首は驚愕《きょうがく》の表情を凍《こお》りつかせたまま宙《ちゅう》に舞っていた。残った一匹はもはや戦う意志も失せて逃《に》げようと背中を見せたところを、ザックリと横に払われた。ぽとりと胸から上が横に落ち、下半身はヨタヨタと前に二、三歩よろめくように歩いた後、バタリと倒れた。切り口から溢《あふ》れる血が地面を真っ赤に染《そ》めていった。
「眠っているゴブリンにとどめを刺して下さい」
スレインはそう言いながら、注意深く辺《あた》りを見回した。もはや、動いているゴブリンの姿は見られなかった。
スレインは洞穴《ほらあな》に向けて意識を集中した。そして、短く古代語を唱《とな》えた。魔法《ま ほう》によって拡大された知覚の触手《しょくしゅ》が、ゆっくりと洞穴に向かって伸《の》びていった。その触手は洞穴の中を嘗《な》めるように進み、中にまだ潜《ひそ》んでいる生き物がいないかどうかを探《さが》してまわった。やがて、意識の触手が洞穴の一番奥の壁《かべ》に触《ふ》れたのを確認してから、スレインは古代語を唱えるのをやめた。
「中は大丈夫のようですね」スレインは、嬉《うれ》しそうにゴブリンの首を刎《は》ねているギムに向かって言った。
「こっちも、大丈夫だ。みんなとどめを刺しておいたわい」
スレインはうなずいた。そして倒れている若者のそばに歩み寄ると、ひざまずき首筋に手を当てた。ヌラリとしたものが、スレインの手を濡《ぬ》らした。
(生きてはいるが、この傷《きず》はひどい)スレインは大きな声でギムを呼んだ。
「手を貸して下さい。早く連れて帰らないと手遅れになります」
4
スレインたちは、傷《きず》ついたパーンを彼の家に運び込み、鎧《よろい》を脱《ぬ》がせてからベッドに寝かせた。調べてみると、パーンの受けた傷は思った以上い深かった。エトのほうには外傷《がいしょう》はまったくなかったのだが、パーンは肩に足、それにいつ受けたものか頭にも傷があり、特に肩の傷が重傷だった。傷は疲労《ひ ろう》から回復したエトが、神官としての力を発揮《はっき 》し、治癒《ちゆ》の呪文《じゅもん》ですぐにふさいだ。だが、ゴブリンの刃《やいば》には毒《どく》が塗《ぬ》ってあり、それがパーンの全身を冒《おか》していたのだ。
パーンは高熱を出してうなされ、傷をふさいでも一向《いっこう》に回復する様子はなかった。エトとスレインの二人はいろいろな手段を講じてみた。だが、どれもあまり効果がなく、結局パーンの体力に任《まか》せざるを得なかった。
傷を受けた三日後が峠《とうげ》だった。体中が燃《も》えるように熱く、エトはその熱を冷やすために何度も小川まで足を運ばねばならなかった。
その努力が実ったのか、それともパーンの生命力が毒に打ち勝ったのか、その次の日の朝には熱も下がり、パーンはスヤスヤと穏《おだ》やかな寝息を立てるようになっていた。そして、その日の夕方|頃《ごろ》、ようやくパーンは意識を取り戻した。
一度意識を取り戻せば、若いパーンのこと、回復は速《はや》かった。それでも、ベッドから出られるようになるのには、さらに三日を必要としたのである。
そして、ゴブリン退治の騒動《そうどう》があってから、ちょうど十日後の夜、いつものように魔法《ま ほう》の書に取り組んでいたスレインは、パーンとエトとの訪問《ほうもん》を受けることになる。
「なんだ、おまえらか」
ギムのぶっきらぼうな声が、玄関のほうでした。ギムはレイリアに関する情報を得ようと、スレインの所に滞在《たいざい》し続けていたのだ。
スレインは古代の書物を机に広げ、難解な文章を詠唱《えいしょう》していたところだった。
「どなたですか」スレインは立ち上がって、玄関のほうに歩いていった。
玄関に行くと、パーンとエトの二人が畏《かしこ》まって扉《とびら》の所に立っていた。ギムが盛んにパーンに励《はげ》ましとも、また聞きようによっては悪口とも受け取れる言葉を投げかけ、その都度《つど》パーンは律儀《りちぎ》にギムに頭を下げていた。
「どうやら、元気になったようですね」スレインはパーンの顔色をうかがってから、納得《なっとく》するようにうなずいた。少しやつれた印象《いんしょう》を受けるが、すでに血色はいつもの色に戻っていて、若い瞳《ひとみ》も元気な輝きを見せている。
「その節《せつ》はお世話になりました」パーンは深々と頭を下げた。
「お礼なら、そこにいるあなたのご友人にお言いなさい。あれほど献身的《けんしんてき》に看病《かんびょう》をしてくれなかったら、いかにあなたの体力が強靱《きょうじん》でも、危なかったかもしれませんよ」
言いながら、スレインはパーンが何かもどかしそうにしているのに気がついた。
「どうやら、礼を言うためだけにここに来たのではない様子ですね。中にお入りなさい。小さな部屋で、散らかっていますが」
「お願いします」パーンは頭を下げ、そして扉の中に入ってきた。
スレインが言った以上に部屋は狭く、がらくたで一杯《いっぱい》だった。四人の男が入ると、窮屈《きゅうくつ》極まりない。しかも椅子《いす》が足りないので、エトとギムはベッドに腰掛けねばならなかった。
「今日来たのはほかでもありません」パーンはしばらくどう切り出して良いものか、決心しかねる様子だったが、スレインに促《うなが》されて話し始めた。「わたしは旅に出ようと思っています。もともとこの村で一生を終えるつもりもなかったし、それにこの前はゴブリンを相手に醜態《しゅうたい》をさらしてしまったし。しかも、なにやら知らぬ間に英雄扱いされている。わたしは自分の手柄《てがら》でもないことで、みんなから勇者だの、英雄だのと呼ばれるのは、正直に言って苦痛なんです。分かるでしょう」
「結果はどうあれ、あなたの行為は勇者とも英雄とも呼ばれるにふさわしいものですよ。卑下《ひげ》する必要はありませんが」
言いつつ、パーンという若者はそれが耐《た》えられない男だということも分かっていた。
「世の中には、あのゴブリンと同じように、いや、それ以上に邪悪《じゃあく》な存在も数多くいるでしょう。今のわたしじゃあ、まだそんな悪と対決する力もない。だからこそ、旅に出ようと思うのです。わたしの考えにエトも賛成《さんせい》してくれているのです。仲間がいれば何かと心強いし、旅の間に襲《おそ》ってくる危険《き けん》にも立ち向かうことができる」
スレインはじっとパーンの話を聞いていた。
「つまり、武者修行《むしゃしゅぎょう》の旅に出たいということですね。それは分かりました。で、それでわたしにどうしろと言うのです」
「つまりだ。つまり、あなたにも一緒に旅についてきてもらいたいんだ。あなたは魔術師《まじゅつし》だ。魔法の力は旅の危険《き けん》に対して強力な武器となる。噂《うわさ》じゃ、魔法でなければ立ち向かえないような化《ば》け物《もの》もこのロードスには住んでいると聞く。どうだろう、スレイン。わたしたちと旅に出てはくれないだろうか」
スレインはフムとうなずき、考え込んだ。
「それは良い考えだな。わしは賛成《さんせい》するぞ。わしもそろそろこの村を出て、あてのない旅に出ようと思っておったのだ。この手品師《てじなし》が一緒についてくれば、少なくともその芸で食べるには困らんだろうて」
ギムは目を細めながら、ホッホッと笑った。
スレインは、自分の目をまっすぐに見詰める若い男の視線を受け止めていた。その澄《す》んだ瞳《ひとみ》には見覚《みおぼ》えがある。
スレインは昔、自分がアランの賢者《けんじゃ》の学院で学んでいた頃《ころ》のことを思い出していた。その頃、彼には親しい友人が一人いた。彼は傭兵《ようへい》上がりの戦士で、パーンと同じように正義感に溢《あふ》れた男だった。アランの町で起こるちょっとした事件に首を突っ込んでは、正義の名のもとに剣を振るっていたのだ。
そしてある日のこと、彼はスレインにアランの盗賊《とうぞく》ギルドを倒そうと持ちかけたのだった。それは魔術師であるスレインの力をもってしても、手にあまる仕事だった。
スレインはその申し出を断《ことわ》った。そして、血気にはやる友人を止めようともした。しかし、彼の思いを覆《くつがえ》すことはできなかった。それどころか、スレインは彼のために自分の持っていた姿隠《すがたかく》しの指輪を渡しさえしたのだ。それから三日後の晩に、彼は猛毒《もうどく》の塗《ぬ》られた短剣を胸に突き立てられ、帰らぬ人となった。そしてその後、噂《うわさ》では悪辣《あくらつ》なことで知られていたアランの盗賊ギルドの長《おさ》が何者かに殺され、血を流すことを禁止する正統派の長に変わったと聞いた。それでもスレインには自分の取った行動が正しかったとは、思えなかった。元気な彼と出会った最後の晩に、自分は何としてでも彼を引き留《と》めるべきだったのではないだろうか。その時の彼が自分を見詰《みつ》めた瞳の真摯《しんし 》さをスレインは今まで忘れ去ることができなかったのだ。今また同じ目を自分に向けてくる若者がいる。彼は自分が何と戦おうとしているのか、まるで理解していないまま戦いの旅に赴《おもむ》こうとする。しかも、自分について来てくれというのだ。
「危険《き けん》な考えですね」スレインはポツリと言った。
「どういうことですか」パーンはけげんな顔をして尋《たず》ねた。
神は二度までも同じ決断をわたしにせまろうというのか。スレインは自分の信じる知識の神ラーダの意志がそこに働いているのだろうかとさえ思った。
今この青年を引き留めても、おそらく彼は旅に出るに違いない。そして引くことを知らない若さはきっと彼を滅ぼすだろう。しかし、今、スレインには力がある。それは、アランにいた頃とは比《くら》べるべくもない。今の自分なら、正しい判断が下せるかもしれない。
スレインはしばらく目を閉じたまま押し黙《だま》っていたが、やがてかすれるような声でつぶやいた。
「分かりました。一緒に参《まい》りましょう。ちょうど、ギムも何かの理由か、旅に出たがっている様子ですしね」
スレインはゆっくりと目を開け、チラリとギムに視線を走らせた後パーンに顔を向けた。
「ムッ」とギムはうなって、スレインから目をそらした。
「ですが、危険なことはなしに願いましょう。私は気が小さいのです」
耐えられずギムが大きな笑い声を上げた。エトとパーンは顔を見合わせ、あまりに簡単《かんたん》に承諾《しょうだく》されたことにむしろ戸惑《とまど》いさえ感じていた。
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第U章 アラニアの黒い影
1
森のはずれはなだらかな丘になっていた。雑草がその丘の斜面《しゃめん》一杯に広がっている。その草に膝《ひざ》の所まで埋《う》もれながら、灰色《はいいろ》の影が高く両手を差し上げていた。奇妙《きみょう》な声が風に乗り、流れてくる。
やがて、暗黒の夜空を引き裂《さ》いて、星が流れていった。真っ赤な弾道《だんどう》が残像となって宙《ちゅう》に浮かんでいる。その軌跡《き せき》は見る見る大きくなり、巨大な火の玉となって丘の上に降り注いだ。そこにひとつの城があった。
パッと輝きが起きる。少し遅れてドーンという爆発音が続いた。城壁《じょうへき》が砕《くだ》け落ち、周囲に炎《ほのお》が吹き上がる。その炎に照らされ、カノンの王城シャイニング・ヒルの全景がかげろうのように揺《ゆ》らいだ。
その様子をマーモの皇帝《こうてい》ベルドは神聖な儀式《ぎ しき》を行う神官のようなまなざしで見詰《みつ》めていた。巨大《きょだい》な黒色の軍馬にうちまたがり、血色の鎧《よろい》に黒いマントをまとっている。その姿はまさしく皇帝の名にふさわしい威厳《いげん》があった。
ベルドはすでに齢《よわい》六十を越えている。もはや老人であり、城の玉座でうたた寝でもしているのがふさわしい年齢だ。しかし、その肉体も精神もいまだ壮年の男のままだった。ベルド自身鏡で己《おのれ》の姿を見るたびに、そこに魔物《まもの》が映《うつ》っているようにも思えるのだ。それは、腰に差した大剣の持つ魔力のためだった。かつて魔神の王が持っていたその大剣は、今やその魔神を倒した彼の腰にあり、邪悪《じゃあく》なオーラを発していた。その剣はいくつもの命を切り裂き、魂《たましい》を砕《くだ》いてきたのだ。今も新たないけにえに巡《めぐ》り会える喜びに打ち震《ふる》えているかのように、カタカタと鳴っていた。
炎上《えんじょう》する城の様子に、彼の後ろに付き従う百|騎《き》ほどの騎士たちから、勝利を確信したかのような歓声《かんせい》が上がる。だが、ベルドの表情は動かなかった。
燃《も》え上がる城は丘《おか》の上、そのふもとの森に身を隠し、ベルドはこの瞬間《しゅんかん》を待ってはいた。しかし、むしろ問題はこれからなのだ。城壁《じょうへき》が破れ、炎に混乱《こんらん》しているとはいえ、敵兵の数はベルドが引き連れる数の十倍はいる。
ベルドは森の陰《かげ》から草の中にゆっくりと進み、森の中で自分の合図を待っている精鋭《せいえい》たちを振り返った。右手がゆっくりと上がり、そして閃光《せんこう》のように振り下ろされた。
ドドッと地面を轟《とどろ》かせる響《ひび》きが起こり、森の中から、揃《そろ》いの黒い鎧《よろい》に身を包んだ騎士たちが飛び出し、城を目指して丘の斜面を駆《か》け上がった。気合を入れるための怒号《ど ごう》があちこちで起こり、地面を響き渡らせる音との死の和音を形づくった。ベルドは自《みずから》も駆け出そうと、腰から剣を抜き放ち、それを真横に差し出した。すべての光を吸い込み逃がさない闇《やみ》の剣。それは夜の闇さえ圧倒的に凌駕《りょうが》し、刃《やいば》からは邪悪《じゃあく》な霊気《れいき》が噴《ふ》き出ていた。その気が辺《あた》りに漂《ただよ》い、空気を重くしている。
「|陛下《へいか》自ら、ご出陣?」
ふと、横から声がした。ベルドは馬を操《あやつ》り、声の主《ぬし》に向き直った。そこに灰色《はいいろ》のローブに身を包んだ一人の女性が立っていた。年齢はどう見ても二十代の半ばというところだ。彼女は漆黒《しっこく》の髪《かみ》を後ろに束ね、そのまま背中に流している。額《ひたい》には奇妙《きみょう》な形をしたサークレットがはめられていた。細い金属を鎖《くさり》のようにつなぎ、中央部には緑色の宝石がついている。その宝石は絶えずチラチラと生き物のように動いていた。角度を変えるたびに光の模様《も よう》が変化し、幻想《げんそう》的な雰囲気《ふんい き 》を伝えてくるのだった。
その女の名前はカーラという。それ以上のことはベルドも知らなかった。ただ、彼女が恐るべき力を秘《ひ》めた魔女《ま じょ》で、そして自分に協力してくれる。それだけで十分なのだ。彼に仕《つか》える宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》のバグナードは盛んに彼女の危険《き けん》さをベルドに進言する。バグナードは自分の地位を守るために言っているのでもなければ、カーラを恐れているわけでもなかった。ただ、彼女の得体《えたい》の知れない魔力を危険視しているのだ。
今しがた頑丈《がんじょう》なシャイニング・ヒルの城壁《じょうへき》を羊皮紙《ようひし》のように引き裂《さ》いたのも、彼女の魔法のなせる技《わざ》だった。
ベルドはカーラに剣を見せ、ニヤッと笑って見せた。彼はその大剣を軽々と片手で扱う。
「剣が血を欲しがっているのだ。こやつは人間の血が大の好物なのでな」
「そのようですね。ですが、それはあなたもご同様でしょう。剣はただ持ち主の性格を鏡のように映《うつ》すだけと言いますよ」
「そうともよ」ベルドは声高く笑った。笑い声が風の中に散っていく。かわりに遠くから戦いの音が響《ひび》いてきた。
「しかし、それは魔法とて同様。あの炎《ほのお》こそ、おまえの破壊《は かい》の衝動《しょうどう》そのものではないか」
ベルドは剣で、真っ赤に燃《も》えあがるシャイニング・ヒルを指し示した。
「そうかもしれませんわね」カーラはやんわりと答えた。「わたしの仕事は終わりました。もうカノンには用はありません。これからすぐにヴァリスに立とうと思います。もはや、矢は放たれたのですから、次の手を打っておかねばなりませんので」
「忙しい奴だな。気をつけて行け。アラニアのほうも首尾《しゅび》よく進んでいるだろうな」
「もちろん。手は何重にも打ってあります。必ずやあなたをロードスの覇王《はおう》にしてみせますわ」
「期待しているぞ」
ベルドは馬のきびすを返すと、腹に蹴《け》りを入れた。馬は全速力で駆《か》け出し、燃え上がる城を目指し、斜面を稲妻《いなずま》のよに駆《か》け上がった。
一度駆け出せば、もはやベルドは自分の勝利を疑わなかった。
2
アランの町は、ザクソンの村からおよそ十日ばかり南に下ったところにある。名前のとおり、アラニアの王都であるこの町には、王城ストーン・ウェブがあり、アラニア王カドモス七世とその一族が住んでいる。
建国四百年を数えようというこの古い王国の王都だけに、アランの町はロードスでもっとも文化の栄えた所である。町の建物はすべて石造《いしづく》りで、道路にも平たく削られた石が敷き詰められ、砂ぼこりが舞い立つこともない。
ドワーフの手による町並みは、ここ数百年の間、少しの手を入れる必要もなく、古来より変わらぬたたずまいを見せている。
ザクソンを旅立ったパーンたち一行は、最初西のノービスの町を通ってヴァリスを目指そうとしたのだが、西の砂漠《さ ばく》が砂嵐《すなあらし》のために街道《かいどう》が通れぬと聞いて、急遽《きゅうきょ》予定を変えてアランの町にやって来たのだ。
そのアランは今、ちょうど祭りで賑《にぎ》わっていた。それは二日前に誕生《たんじょう》したカドモス七世の初の王子を祝ってのものだった。静かなことで知られるアランの町に、道|一杯《いっぱい》に屋台が立ち並び、いつもなら想像もできないような喧騒《けんそう》が満ちていた。初夏のまばゆい日差しにも煽《あお》られ、圧倒されそうな熱気が満ちている。石畳の道を歩きながら、パーンたちはその喧騒ぶりを楽しく眺めていた。
「ちょうど良いところに来たものだな」ギムが屋台で買った鳥の股肉《ももにく》を頬張《ほおば》りながら、モゴモゴと言った。
「まったくだ」パーンもギムに同意する。
「王子が生まれたとは本当にめでたいことだね。これで、王家も安泰《あんたい》だ」エトも活気の溢《あふ》れる町を楽しそうに眺《なが》めていた。
「賑《にぎ》やかなのも結構ですが、わたしは長旅で足が疲れています。できれば、先に宿のほうを決めてから祭を楽しみませんか」
スレインは一行の一番後ろをいつものんびりと歩いていた。彼も祭を楽しんでいないわけではなかったのだが、朝から休む間もなく歩きづめだったので、いささか息が切れていたのだ。若いパーンやエト、それに疲れ知らずのギムと一緒に歩くことはスレインにとって大変なことだったのだ。
「おまえは本ばかり読んでいるからそうなるのだ。たまには、体を鍛《きた》えないといかんぞ」ギムはスレインを振り返りながら、まじめくさった顔で言った。
スレインは、はぁと気のない返事を返し、少し足を速めてギムに追いついた。
「とはいうものの、わしも腹が減っておる。これは冗談《じょうだん》ではなく、どこかに宿を決め腹ごしらえをせんと、疲労《ひ ろう》ではなく空腹で動けなくなってしまうわい」
ギムはそう言いながら、再び鳥の股肉にかぶりついた。
確かあれは三本目ではなかっただろうか、とエトはドワーフの底無しの胃袋《いぶくろ》に呆《あき》れていた。ギムはパーンの半分ほどの背丈《せ たけ》しかないが、彼の三倍は多く食べる。ドワーフの突き出た腹はみな胃袋、という噂《うわさ》は本当なのだな、とあらためて思っていた。
スレインの提案《ていあん》もあって、一行は早々とその日の宿を決めた。『水晶《すいしょう》の森《もり》』という名の宿屋は、アランの町の大通りと交《まじ》わる小さな通りを入った目立たぬ場所に建っていた。名前の美しさとは裏腹にお世辞《せじ》にも上等な宿屋とはいえなかったが、大きな通りに面した宿屋はどれも満員で、また、持ち合わせもあまりない一行はそれで満足するしかなかった。
「さて、祭だ!」パーンは宿屋で食事を済《す》ませると、我慢《がまん》しきれないといった様子で、エトを誘《さそ》った。エトは笑いながら、立ち上がり、ギムもそれに続いた。
「スレイン、おまえはどうするのだ」ギムが一人席を立とうとしないスレインを見て尋《たず》ねた。
「わたしのことは気にしないで、祭見物に行ってきて下さい。わたしにはほかに行かねばならない場所があります。夜には帰って来ますよ」
「魔術師《まじゅつし》の身を心配するほど、わしは暇《ひま》ではないわい。例の学院に行くのだろうが」
スレインはコクリとうなずいた。
「なら、わしらは祭見物だ。おまえもたまには息抜きをせんと、しまいに息が詰まってしまうぞ」
気をつけましょう、と答えてスレインも席を立った。
スレインは十二歳の時から、このアランにある賢者《けんじゃ》の学院で学んでいた。それは、下級の貴族の出であるスレインの母親が、小さな頃《ころ》から読書が好きだったスレインの将来を考えて、無理を頼んで入れてもらったのだ。
それ以来スレインは一人でアランの町で暮らしていたのだ。友人を失った忌《い》まわしい事件の後、盗賊《とうぞく》ギルドとのいざこざを恐れたスレインがアランの町を去ってから、すでに二年の月日がたっていた。しかし、この永遠の都アランは、あの頃とまったく様子が変わっていなかった。
賢者の学院への坂道を上がりながら、スレインはアランの町をなつかしく見ていた。
賢者の学院はアランの町はずれ、港を臨む小高い丘《おか》の上にあった。黒い大理石だけを使った威厳《いげん》の感じられる建物だった。大きさは小さな城ぐらい、アランの町のどこにいても、この賢者の学院の黒色の建物と、ストーン・ウェブの白色の塔《とう》だけは見ることができる。
しかし、今スレインの目の前に建つ黒い建物はどこかが前と違っていた。外周の塀《へい》は薄汚《うすよご》れていて、とても掃除《そうじ》されているとは思えない。魔法で召喚《しょうかん》した従者を使って、学院の建物は隅々《すみずみ》までが、奇麗《きれい》に掃除されていたはずだった。
たどり着いた正門も前とはまったく様子が変わっていた。門は閉ざされ、見慣《みな》れた竜牙兵《りゅうがへい》の門番の姿も見当たらない。
スレインの胸が騒《さわ》いだ。これはどういうことだろう。学院に何が起こったというのだろう。
「サマルガン!」スレインの声は、押さえ切れぬ不安のために震《ふる》えていた。彼の声に反応して、大門にはめ込まれていたかんぬきがひとりでに抜け落ちた。ギギーッと音を立てて門が内側に開く。中には学院の中庭が広がっていた。そこは、一目で分かるほどひどく荒れ果てていた。
スレインはショックを隠《かく》すことができなかった。アラニアの賢者の学院は、ロードス中にその名を知られるほどの美しい場所だったはずだ。強大な魔法《ま ほう》の力で満たされ、古代カストゥール王国の再現とまでいわれたものだ。
学院は二百年もの間に、多くの偉大な魔術師たちを生み出し、古代の失われた魔法をいくつも復活させ、新しい魔法をも生み出してきたのだ。
ところが、この荒れようはどうだ。雑草がスレインの背よりも高く伸《の》び、邸内《ていない》の道を完全に隠していた。その草を掻《か》き分けねば建物まで近づけない有様だ。動物の排泄《はいせつ》物の放つ異臭が漂い、スレインは顔をしかめた。
「なぜ、こんなことになったのだろう」
つぶやくスレインの声の震えはもっと大きなものになっていた。
その頃《ころ》、パーンたち一行はアランの大通りを忙しそうに歩いていた。祭は、今日で十日目になるということで、アラニアの各地からこの知らせを聞いて飛んで来た目端《めはし》のきく大道芸人の一座や、甘い声で恋物語をうたう吟遊《ぎんゆう》詩人の姿も見られて、いまや最高潮《さいこうちょう》といった感じがあった。
はっきり言ってしまえば田舎者のパーンは、アランの町の美しさ、何より通りを歩く女性の色とりどりの服装に舞い上がってていた。
ギムは相変わらず、変わった料理に手を出し続けていたし、エトは何が楽しいのかとパーンに言われるほど、朗《ほが》らか表情で祭をただ見物していた。
エトにしても本心から祭を楽しんでいたのである。ただ、楽しみ方がパーンやギムとは少し違っているだけだ。祭の活気のある明るさ。そんなものを眺めていることが、ファリスの神官たるエトにとっては何よりの喜びなのだった。見知らぬ者同士が、旧友のように肩をたたきあい、歌をがなり、酒を飲み比《くら》べる。この様子を見ていると、平和で善なる世界の実現が決して不可能ではないように思えるからなのだ。
「あれは、喧嘩《けんか》かな」
その時、ギムが突然声を上げた。
「喧嘩?」パーンが鋭《するど》く反応して、ギムが見詰める路地のほうを振り返る。
そこでは、何人かの男たちが活劇《かつげき》を演《えん》じていた。身なりもあまりよろしくない男たちが四人と、それに長い金髪《きんぱつ》に草色の衣服を身につけている小柄な人の姿が目にとまる。
「あれは、女だ」パーンは言うなり、路地のほうに駆《か》け出した。
よく見ると、その草色の女と他の男たちが争っているようだった。エトもこれはいけないと叫《さけ》んで走りだした。
「あれが、女じゃと」ギムだけが、気乗りしないような様子でゆっくりと後に続いた。「あれが、女なものか。女は女でもあれはエルフの女だぞ」
「はっ。そんな動きじゃ、あたしに指一本|触《ふ》れることができないわよ」
ディードリットはただがむしゃらにしがみかかってくる男どもから、造作《ぞうさ》なく身をかわしていた。かわしざま、足を引っ掛け、水月《すいげつ》に手刀をたたき込み、背中に蹴《け》りを入れる。
動きの鈍《にぶ》い人間がエルフに喧嘩《けんか》を売ろうというのが、無謀《むぼう》なことなのだとディードリットは心の中で笑う。四人の男は怒《いか》りのあまりなおも向かってこようとするが、向かってくればくるだけ怪我《けが》を治《なお》す時間が長くなるだけだ。
「馬鹿《ばか》な奴《やつ》ら」
ディードリットは、頭を下げて正面から突進してくる男を真上に飛び上がって、身をかわすと、肘《ひじ》の一撃を男の背中に落とした。
その時、新たに二人の男が飛び込んできた。仲間かしら、と一瞬|恐怖《きょうふ》がディードリットの頭を過《よ》ぎったが、負けん気の強さで勇気を奮《ふる》い起こし、新手のうちの一人、体のでかいほうに向かって滑《すべ》るように動くと、足を払うように低い回し蹴りを見舞った。
男はその蹴りを飛び上がってかわすと、驚《おどろ》いた表情を浮かべディードリットを見た。
「違う。オレはあんたの味方だ」パーンは一瞬《いっしゅん》なぜ、自分が攻撃されたのか分からなかったが、とりあえず敵意のないことを示すために両腕を広げ、女に呼びかけてみた。
「味方?」ディードリットは油断なく男を観察《かんさつ》し、変な動きがないかどうかを見極《みきわ》めようとした。純朴《じゅんぼく》そうな瞳《ひとみ》がディードリットの顔をまっすぐに見詰めている。(悪い人間じゃなさそうね)ディードリットはそう判断して、その男に片目をつぶってみせ、合図を送った。ために後ろに一瞬隙《すき》ができた。
四人組のうちの一人が起き上がって、後ろからディードリットをはがい締めにしようと突っ込んで来たのだ。ディードリットは避《さ》けようと横にステップを踏《ふ》んだが、勢いのついた相手をかわし切れずに、まともに体当たりを受けてしまった。
「女一人に男が四人がかりとは、どういうことだ」パーンはディードリットをはがい締《じ》めにしている男の髪をつかみ、顔を浮かせてから、そこに拳《こぶし》を突き入れた。男は吹き飛び、石畳《いしだたみ》の上に投げ出されて動かなくなった。それを見て、他の三人は、ほうほうのていで逃げ出していった。
パーンは男たちが路地を曲がって見えなくなるまで、身構えていた。やがて、男たちの姿が消えたのを確かめてから、女のほうを振り返った。
女はコンコンと小さく咳《せ》き込んでいた。男に体当たりされた時に、背中をまともに打ったらしい。長い金髪《きんぱつ》がうつむいた顔を覆《おお》い咳き込むたびに大きく揺《ゆ》れる。
エトは背中をさすってやろうと、娘に手をかけた。すると、彼女は素早く反応して、上体を起こし、油断なくその場から飛び退《の》いた。
エトは拍子《ひょうし》抜けしたような視線を、パーンに送った。パーンはニヤリと笑い、体についたほこりを手で払う仕草を見せた。
薄暗い路地の壁《かべ》に体を預《あず》け、ディードリットはじっと二人の男を観察した。一人は、みるからに気の良さそうな若者だ。しかし、この若者は彼女の素早い蹴《け》りを難なくかわしたのだ。あの蹴りは手加減《てかげん》などしていない。身なりからも、かなりの訓練を積んでいる戦士だと思えた。もう一人の男も、優しそうな顔をしていた。白いゆったりとした服を着て、首から何かを下げている。どうやら、それはファリスの護符《ごふ》のようだ。ファリスの神官だろうか。それとも、ただの熱心な信者かもしれない。背中に触れようとしたので、思わず嫌悪感《けんおかん》に任《まか》せて飛び退いたのだが、別に下心があったわけではないようだ。
「礼を言わなければならないわね」ディードリットは顔にまとわりついていた髪を後ろにはらいのけ、穏《おだ》やかな口調で言った。
「礼などいりませんよ」パーンは少しドギマギして答えた。初めてこの女性の顔を見てしまったからだ。女性にしても小柄なので、最初は子供かとも思った。目は少し吊《つ》り上がり、瞳《ひとみ》は青色。眉《まゆ》は細く、目と同じ角度に上がっている。鼻は小さいけれども形良く整っており、その下に小さな赤い唇《くちびる》が、息を整えるために少し開かれていて、間から白い歯が顔を覗《のぞ》かせている。そして、耳。
「エルフだ」エトはパーンにそっとつぶやいた。
先端《せんたん》の尖《とが》った長い耳が、くっと動きを見せた。道理で小柄なはずだ。エルフの慎重は人間よりもわずかに小さい。ましてや、女性なら子供と見まがっても無理はない。パーンはこの森の種族を生まれて初めて見た。そして、噂《うわさ》に聞く以上の美しさに圧倒されていた。
「い、いや、礼なんかいりません。オレは当然のことをしたまでです」
「当然のことだって。ハン、余計なお世話というんじゃ」ギムはさっきから、パーンたちの様子を黙《だま》って見ていた。
「ドワーフ!」ディードリットは横合いから、突然言葉をはさんできた無礼な男のほうに一瞥《いちべつ》をくれた。そして、見なければよかったと後悔《こうかい》した。そこにいたのはドワーフだったからだ。醜《みにく》い山の種族。
ディードリットの声には明らかな嫌悪《けんお》が含《ふく》まれていた。「そうともさ。エルフの嬢《じょう》ちゃん」ギムは気にせず答えた。「おまえらが行かずとも、その森の娘は男どもに指一本|触《ふ》れさせなかっただろうて。エルフとはそういう種族なのだ。抜け目がなく、動きも速い。生まれながらの盗賊《とうぞく》なのじゃよ」
ギムの言葉にディードリットの表情がさっと変わった。
「無礼な!」
ディードリットの体がスッと低くなり、獲物《えもの》に飛びかかろうとする猫《ねこ》のように背中が丸められた。
「そして、このとおり自尊心が強い」ギムはなおも続けた。「おおかた喧嘩《けんか》の原因も、このエルフのほうにあったんだろうて」
「言わせておけば!」
ディードリットはドワーフに飛びかかろうとした。その動きよりも一瞬《いっしゅん》早く、パーンの右手が彼女の左腕を捕《とら》え、それを制した。「言いすぎだぞ、ギム!」パーンは本気になって怒《おこ》っているようだった。ギムに向き直り、険《けわ》しい表情で一歩彼のほうに詰《つ》め寄る。
「ふむ、そのようだの。おまえまでも怒らせるつもりは、あらなんだ。あやまろう」ギムはそう言って、クルリとパーンに背中を見せた。「後のことはおまえに任《まか》せるとして、わしは一足先に宿屋に帰っておこう。わしはエルフの娘は苦手《にがて》だからの」
ギムは、のそりと大通りに歩み去った。
パーンは拍子《ひょうし》抜けしたように、その姿を見送ったが、はっと気がついてエルフの娘の腕を離す。
「やっと、気がついていただけまして」
ディードリットはパーンにつかまれていたところを右手で押さえ、さするような動作をした。見れば、その部分が赤く変わっている。この無骨《ぶ こつ》な若者は加減というものを知らないのだろうか。ディードリットは怒鳴《どな》ってやろうかと口を開きかけたが、なぜかそれが笑いに変わった。
ディードリットが噴《ふ》き出すように笑ったのを見て、パーンも吊《つ》られて少し笑った。照れた笑いだったので、少し口元がひきつっていたような気もする。
「あたしはディードリットというの。若い人。お礼の代わりに今晩は何かごちそうさせて下さらない?」
パーンは小柄なエルフにいたずらっぽく見詰められ、顔が赤くなっていくのを意識した。
「え、は、はあ」
「じゃあ、決まりね。ちょうど今日は祭だから、選《えら》ぶお店には不自由しないわ。エルフが礼儀知らずだって思われるわけにはいかないもの」
言いながら、ディードリットはパーンの腕を取って、さっさと歩き始めた。
3
夕方にもなると、酒場の喧騒《けんそう》は最高潮《さいこうちょう》に達していた。昼間の祭の賑《にぎ》わいは収まりを見せていたが、騒《さわ》ぎ足らぬと感じる者は、新たな楽しみと酒を求めて酒場の扉《とびら》を開けた。エトと分かれたパーンもその中に交じって、空いたテーブルを求めてアランの町中を、ずいぶん歩き回ったものだった。そして、一軒《いっけん》の小さな店にたどり着いた。
パーンはおかしなことになったものだと、内心では、首を捻《ひね》っていた。『|水晶《すいしょう》の森《もり》』亭を出る時には、エトとギムの二人が隣にいたはずだった。ところが、今、自分と向かい合って酒を酌《く》み交わしているのは、まだ若いエルフの娘だ。もちろん、若いといってもエルフのこと、実際の年齢《ねんれい》は知れたものではなかったが、それでもパーンはあえて彼女を若いエルフだと思うことにした。
パーンはディードリットに勧《すす》められるまま、カップになみなみと注《つ》がれたエール酒を呷《あお》りながら、話すとはなしに自分のことを語っていた。
「そう、旅の途中なの」ディードリットはそれがさも大変なことのように大袈裟《おおげさ》に驚《おどろ》いて見せた。目を丸くして、コクリと二、三度うなずく。パーンはかなり酒がまわっていたので、彼女の芝居《しばい》がかった仕草にも気がついた様子はなかった。
「お連れは昼間、あなたと一緒にいたファリスの神官と、それにドワーフの二人だけ?」
「いや、もう一人|魔術師《まじゅつし》がいる。変わり者だけどよ。強い力を持っている。悔《くや》しいけど、オレの剣より、スレインの魔法《ま ほう》のほうが遙《はる》かに強力だ」
スレインというのは、魔術師の名前ね。とディードリットは納得《なっとく》しながら、あなたの剣も自分で思っている以上には力があるはずよ、と付け加えることも忘れはしなかった。それには、お世辞《せじ》だけではなく、本心も少しは含まれていた。何しろ、自分の動きを見切ってみせたのだから、とディードリットは昼間の出来事を思い出していた。
自分の言葉に照れたように頭を掻《か》きむしるパーンの姿を見て、ディードリットは喉《のど》の奥で忍《しの》び笑いを漏《も》らした。耳が少し下がって目が細められる。
ディードリットは退屈《たいくつ》な森の暮らしに飽《あ》きて、つい最近故郷のエルフの森を飛び出してきたのだ。人間の世界では、見るもの、聞くものすべて目新しいものばかりだった。もちろん、愚《おろ》かさや野蛮《やばん》さは目につく。しかし、人間にエルフと同じ考え方や、文化を持てといったところで、それは無理な注文なのだ。
そうと認《みと》めてしまえば、人間の社会にいることもそれほど気にはならない。時々は、昼間の男たちのような無礼な輩《やから》がいるが、本気さえだせばディードリットはなんとでも対処できる自身があった。
この若者が割って入ってこなくても、ディードリットは昼間の男たちにぶざまなまねは見せなかった。むしろ、飛び込んでこられたために、不覚《ふ かく》を取ってしまったのである。ただ、この若者は彼女の動きを簡単《かんたん》に抑えることができた。手練《しゅれん》の戦士なら知らず、こんな若者に後れを取ったことは、彼女のプライドをいたく傷《きず》つけていた。実のところその反動こそが、ディードリットをパーンにまとわりつかせている動機だったのだが、彼女自身もまだそのことには気がついていなかった。しかし、異性に不慣《ふな》れなパーンのぎこちない対応をおもしろがることで、昼間の件も許せるのだった。
パーンの話はかなりさかのぼっていて、自分が旅に出る動機となったゴブリンとの戦いを、ろれつが怪しくなった話し方で、さかんにまくし立てていた。
「あんときゃ、オレはもう助からねえと思ったもんさ。だけど、満足だったね。おやじもそう言ってくれたんだぜ。なんて、言ってたかな。もう、忘れちまったけどよ。そうだ、だからオレはここにいるんじゃねえか。オレが見たものと、よ。おやじが見たものが一緒じゃねえかって思ったからさ。それを、それを確かめるためにヴァリスに行くんだ。あそこには、英雄王ファーンがいる。それに、数百|騎《き》の聖騎士たちがよ。おやじも、その一員だったんだぜ。だから、オレも戦士になった。まだ、しがない傭兵稼業《ようへいかぎょう》だがよ。でもよ、オレが傭兵に行ったフレイムの王様だって、昔は流れの傭兵だったのよ。だから、だからさ。オレも王に――。いや、王は無理かな。せめて、勇者とか英雄とか呼ばれる身分になりたいんだ」
ディードリットは、半《なか》ば呆《あき》れ顔でパーンの長口上を聞いていた。
「ヴァリスに行って、何を見つけるつもり」ディードリットは静かに尋《たず》ねた。
「何を?何をかな。きっと、今は見つからない何かをだよ」そう言ってパーンはカラカラと乾《かわ》いた笑いを見せた。
「まるで、|謎かけ《リドル》ね。あなたは、優秀な謎かけ師になれるわよ」
「謎《なぞ》を解くのは、スレインの仕事さ。聞けば、奴《やつ》は自分の星を探《さが》しているんだそうだ。だから、『スターシーカー』なんて変な名前をつけてまでいるんだぜ。オレは親から貰《もら》った名前だけで十分だね。パーンってよ。ほかの呼び名は人がつけるもんだ」
パーンは眠そうに目をこすりながら、目の前の美しい生き物をボンヤリと眺《なが》めた。
「あんたも一緒にこねえか。旅は楽しいぜ。仲間もいるしよ。ギムも無愛想《ぶあいそう》な奴だが、根はいい奴なんだぜ。スレインだって、変わり者だが、力はある。オレの剣以上にね。これはもう言ったかな。それにエト、優《やさ》しい奴さ。それに頭もいい。きっと、奴はファリスの大司祭になるね。そして、オレに騎士への祝福を授《さず》けてくれるんだ」
ディードリットはこのままパーンが、倒れて動けなくなるまでに宿屋に帰るべきだと思った。この男の宿屋は確か『水晶の森』亭とか言った。その上で、自分もその宿屋に落ち着こうと心に決めた。
『水晶の森』亭にパーンとディードリットの二人が着いた時には、スレインもすでに帰っていて、三人の姿がちょうど一階のテーブルにあった。この宿屋は飲み屋も兼《か》ねているらしく、すでに十分出来上がった酔っ払いたちが、アラニアの国家をがなり立てていた。
三人の座るテーブルにも見ず知らずの二人組がグラスを傾《かたむ》け合っていて、何度も国王万歳と唱《とな》えては乾杯《かんぱい》をしている。
スレインは帰って来たパーンの様子と、その連れのエルフの女との奇妙《きみょう》な取り合わせに、とっさに椅子《いす》から腰を浮かせた。エトたちから、話には聞いていたものの、現実に見る二人の様子には、驚《おどろ》かずにはいられなかったのだ。ギムが隣で不機嫌《ふきげん》そうな鼻息を漏《も》らし、エトは苦笑とも取れる笑《え》みを浮かべていた。
なぜ、エルフが?スレインは精神を集中させて、パーンの横で小鬼《インプ》のような笑いを湛《たた》えているエルフの娘を観察《かんさつ》した。まだ若いエルフだ。おそらく、年齢《ねんれい》は二百歳を数えてはいまい。ただその瞳《ひとみ》には、怪しげな光が感じられるようにも思えた。スレインは右手で、そっと賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を手繰《たぐ》り寄せていた。
その動きはディードリットの目にもとまった。パーンの話では連れに一人|魔術師《まじゅつし》がいると聞いたが、どうやらあの男がそうらしい。名前は確かスレインと言った。ディードリットの動きが、鋭《するど》さを増した。左手が腰にはい寄り、革のベルトに下げた水袋からの口紐《くちひも》に触る。そこにディードリットは、いつも一人の|水の精霊《ウンディーネ》を住まわせていたのだ。ウンディーネの持つ力はたかだか知れているが、魔術師の牽制《けんせい》ぐらいには十分になる。
一瞬《いっしゅん》、二人の間に緊張《きんちょう》が走った。しかし、その糸を解いたのはスレインのほうだった。よく考えてみれば、このエルフがパーンをわなにはめたところで、何の意味もないのだ。莫大《ばくだい》な金があるわけでもなく、ましてや権力や地位とは縁遠《えんどお》い集団である。もしかすれば、盗賊《とうぞく》ギルドの手の者かとも思えたが、よもやエルフが盗賊ギルドに協力しようはずもない。賢者の学院の末路を聞いた後だけに、自分は少し神経質になりすぎているのだ、と、スレインは自分を納得《なっとく》させた。
「はじめまして。今、あなたの話をしていたところなんですよ。パーンを連れてきていただいて、どうもありがとうございます」スレインは杖から手を離し、元のとおりにテーブルに立てかけると、エルフの娘にいつもの間延《まの》びした言い方に戻《もど》って挨拶《あいさつ》を送った。深々と頭を下げ、右手は胸の所に指を揃《そろ》えて置く。
「オレは大丈夫だ」パーンがおぼつかない足元と声で、スレインに合図を送った。
「何が、大丈夫なものですか。これは寝かせたほうがいいですね。エト、お願いできますか」
エトは、うなずいてパーンのそばに駆《か》け寄った。
「酒で酔うとは情けない奴《やつ》め。それともエルフの毒気《どくけ》に酔ったのかな」ギムはディードリットに聞こえるような声で言った。
「ドワーフと人間を一緒にしてあげたらかわいそうと言うものよ。それにエルフには毒なんてないわ。ドワーフとは違ってね」
ディードリットはにっこりと笑って、ギムに向かって優雅《ゆうが》に挨拶した。
「ホホ、気の強い娘だ。気に入ったぞ。昼間の無礼を含《ふく》めて、わしから謝《あやま》らせてもらおう。元来わしらが仲が悪いのは、別にあんたのせいでも、わしのせいでもないのだからな」
ギムは野太い笑いを漏《も》らし、ディードリットのほうに手にしていたエール酒のジョッキを掲《かか》げて見せた。
「古い喧嘩《けんか》仲間に乾杯《かんぱい》じゃ。わしらは、魔神との一戦以来、お互いを認《みと》め合うことにしたのではなかったかな」
「でしたね」ディードリットは気のない返事を送り、エトの肩を借りて二階へと上って行くパーンの姿を見送っていた。
「まあ、掛けて下さい」スレインは空《あ》いた椅子《いす》を後ろに引いて、ディードリットに勧めた。ディードリットは自分の立場を考え、一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したが、なぜかこのまま立ち去るのが惜《お》しいような気がして、魔術師の勧めに従うことにした。
「さっきのような誤解《ご かい》がないように、わたしたちはもう少し話し合わなければなりませんね」スレインは、ディードリットの青色の瞳《ひとみ》を真《ま》っ向《こう》から捕《と》らえた。
「わたしの名前は、ディードリットと言います」
この魔術師の魔法にかかってしまったのかと思えるほど素直に、彼女は自分のことをスレインに話し始めていた。
4
祭の終わった翌朝というものは、どこかしら空虚《くうきょ》な感じが漂《ただよ》っているものだが、その日のアランの朝は人通りも少なく、いつにもまして静かだった。
ウッド・チャックは、その静かな朝のアランの町を大通りを避《さ》けるように、フラフラと歩いていた。盗賊《とうぞく》の習慣《しゅうかん》が知らず知らずのうちにそうさせていたのだ。
彼は、濃《こ》い茶色のシャツに、同じ色のズボンを身に着けている。その上から艶《つや》の消された黒い|革の鎧《レザー・アーマー》を身に着け、足にも黒革の短ブーツを履いている。そのブーツの底には柔《やわ》らかい動物の毛皮が張りつけてあり、忍《しの》び足をするのに最適の作りになっている。もちろん、滑《すべ》り止めの役割も果たしていた。
この鎧《よろい》や衣服、腰に差した小剣と四本の短剣、それに懐《ふところ》の中に入っている数枚の金貨が彼に残された財産のすべてだった。
「まったく、ギルドも冷たいものさ」ウッド・チャックはブツブツ言いながら、久し振りに見るアランの町を眺《なが》めていた。といっても、旅から戻《もど》って来たわけではない。彼はこの二十年余りという年月を、このアランの町で過ごしていた。だが、ストーン・ウェブの地下牢《ちかろう》から見えるものは、向かいの鉄格子《てつごうし》と、その中にいるくたびれた老人。それに日に二度食事を運びにやってくる、気難しい看守のじいさんの姿だけだった。
息のつまるような地下牢の中で、よく窒息《ちっそく》して死ななかったものだと、ウッドは新鮮《しんせん》な朝の空気を胸|一杯《いっぱい》に吸い込みながら思うのだった。アラニア王の王子誕生《たんじょう》により恩赦《おんしゃ》が出て、ウッド・チャックは二十二年ぶりに、娑婆《しゃば》に出ることができたのだ。だが、もはや彼の中から若さは失われていた。
(たかが、盗《ぬす》みに入ったくらいでよ)思い返すたびに、腹立たしさも蘇《よみがえ》ってくる。ウッド・チャックは二十二年前にある金持ちの館《やかた》に盗みに入り、そしてドジを踏《ふ》んで捕《つか》まってしまったのだ。王城で裁判にかけられたのだが、まだその時にはアラニア国王カドモス七世は若かった。引き立てられたウッドの顔を一瞥《いちべつ》して、王はウッドに弁解の言葉も与えず、城の地下牢に三十年と宣告したのだった。その一言のために、人生で最も楽しいはずの期間を、彼は暗い牢獄《ろうごく》の中で過ごさねばならなかったのだ。
恩赦で外に出されても、その恨《うら》みは未だに消えていない。祭の間中ウッド・チャックは、これで国家は安泰《あんたい》だと叫《さけ》ぶ連中に、へどでも吐《は》きかけてやりたい気持ちにかられていたのだ。かわりに彼らの懐《ふところ》から、財布を頂戴《ちょうだい》することで胸のわだかまりをなくしていた。
しかし、失敗こそはしなかったが、同時にスリの腕前が昔のままではないということも教えられた。薄暗い地下牢の灰色《はいいろ》の壁《かべ》の中では、スリの腕がにぶっていくのは当然のことだったし、それに年をとったということがウッド・チャックから、敏捷《びんしょう》さをも奪《うば》い去っていたのである。
やむなく盗賊《とうぞく》ギルドに行き、どこかのギルドの役員にしてもらえないだろうかと頼んでもみた。だが、二十二年前と違うギルドの長《おさ》は、金貨で一万、それが相場だと素っ気なくあしらってくれた。普通に働いていれば、役員どころか、どこかの支部の長になっていてもおかしくないようなウッド・チャックに向かってである。
ウッドは、頭にきたがそこでギルドと喧嘩《けんか》をするわけにもいかず、ヘヘッと薄ら笑いを浮かべてその場を取り繕《つくろ》った。
さすがに哀《あわ》れに思ったのか、ギルドの長は特別に彼のために金になりそうな情報を一つ教えてくれた。しかし、それは一人で成し遂《と》げるには困難な仕事だった。
(仲間がいる。それも、盗賊じゃない、腕の立つ戦士がよ)ウッドは心に決めていた。ほかに自分が成り上がるための手段は残されてはいないのだから。(だが、その前に腹ごしらえだな)
ウッドは朝の食事を求めて、一軒の宿屋に飛び込んだ。その玄関には『水晶《すいしょう》の森《もり》』|亭《てい》という看板が下げられていた。
パーンは、昨日の深酒がたたったのか、あまり食が進まない様子で、パンを一切れ口にすると、後は水を飲むだけだった。果物《くだもの》の汁《しる》で味の付けられたその水は、荒れた胃《い》にしみ込んでいくようで快適だった。
エトはパーンの隣で瞑想《めいそう》しながら、朝の祈りに耽《ふけ》っている。放っておくと、彼はいつまでもそのまま瞑想を続けているような様子だ。
ギムだけはまだ、朝食がすんでいない。彼はとうもろこしのパンの二本目に取りかかりながら、エール酒のジョッキを三杯|空《あ》けていた。
そのギムの食べっぷりを、ディードリットはできるだけ見ないようにしていた。彼女は果物と甘めの果実酒を一杯飲んだだけで、元気のないパーンをつまらなそうに眺《なが》めている。
スレインはミルクの入ったカップに口をつけながら、昨晩のエルフの娘との会話を思い出していた。このエルフの娘は、エルフの森の変化のない生活に飽《あ》き飽きして飛び出して来たのだという。それ以上に、緩慢《かんまん》な滅《ほろ》びの道を歩んでいるエルフの一族が、それに対して何の手だてをも打とうとしないことに、言いようのない腹立たしさを覚《おぼ》えている様子で、エルフにしては珍《めずら》しい考え方をしているものだ、と感心した。だからこそ、エルフの一族にあっては彼女は異端児《いたんじ》だったのだろうが、その異端ぶりは人間の目から見ると好ましくも思えた。一時《いっとき》、同族に対しての感情を爆発させた後、ディードリットは恥ずかしそうに顔を伏せて、宿屋の主人に言って自分の部屋を確保すると、そそくさと二階に上り、眠りについたのだ。
その時、表の扉《とびら》を開けるガチャリという音がした。スレインはさっと扉に向かって一瞥《いちべつ》を送り、そして顔の表情が引きしめられた。入ってきた男は見るからに盗賊《とうぞく》風の格好をしていた。盗賊である以上は、もちろんギルドの一員に決まっている。スレインは緊張《きんちょう》した面持ちで、その男の行動を見送り、男がカウンターに落ち着くまで、すべての行動に目を離さなかった。
「軽い物を頼むわ」と、カウンターに座った男の声が、部屋の中に響《ひび》いた。
緊張はそれまでだった。スレインは再び、古代の書に目を落とし、パーンは頭がまだ傷《いた》むのか、しきりに髪《かみ》の毛に手をやっている。
「だらしない」ディードリットの笑い声がとんだ。
「それはそうと、スレイン。おまえの賢者《けんじゃ》の学院のほうはどうだったのだ。祭を棒《ぼう》に振ってまでの、収穫《しゅうかく》はあったのかな」ギムがようやく、満腹したのか空《あ》いた皿《さら》を重ねながら、スレインに尋《たず》ねた。
「ひどい有り様でしたよ」スレインは寂《さび》しそうな顔をしながら、本から目を離した。それを閉《と》じると、テーブルの上に両肘《りょうひじ》を乗せ、手を組み合わせ話し始めた。
賢者の大学に入ったスレインは、学院の機能が完全に失われていることを知ったのだ。構内は荒《あ》れ放題に荒れ、人が住めるような状態ではなかった。そして、崩壊《ほうかい》した学院を一人見守るように暮らしているジャグル老師に出会ったのだ。
ジャグル老師は、スレインに何故《なぜ》賢者の学院がかくも荒れ果てたのかその理由を教えてくれた。それは三年前、近代の大魔術師《だいまじゅつし》といわれた学長ラルカスの死と、一人の魔術師バグナードのために起こった悲劇《ひげき》だった。
バグナードの名前はスレインもよく知っていた。彼は学院始まって以来という有数の成績を上げて、早くから魔術師の称号《しょうごう》を受けた才能の持ち主だった。だが、彼は己《おのれ》の才能をもっと極限にまで到達させたいと欲した。その欲望が彼に魔神の力なる暗黒の魔法にまで手を染《そ》めさせる結果となったのである。それは、学院の厳格《げんかく》なおきてに違反することだった。賢者の学院では、魔法は善なることにしか使ってはならず、邪悪《じゃあく》な魔法を身につけることを厳《きび》しく戒《いまし》めていたのである。
この事実を知り、ラルカスは断固とした処置でバグナードに臨《のぞ》むことにした。ラルカスは彼に強力な禁忌《きんき》の魔術をかけ、大学から追放してしまったのである。その禁忌の呪文《じゅもん》は、もし、バグナードが魔法を使えば、全身を耐《た》え難い苦痛が走るようなものだったという。
だが、その禁忌の呪文の呪縛《じゅばく》にも、この天才は耐えてみせた。全身を駆《か》け巡《めぐ》る苦痛の中で、バグナードは精神の集中を乱すことなく、魔法の呪文を唱《とな》えることができるのだ。その忍耐力《にんたいりょく》はラルカス、そして賢者の学院に対する復讐《ふくしゅう》の思いからきていた。彼は魔法の力で、カノンで巨万の富を得ると、そのままマーモに渡り、当時その地を征服したばかりの、六英雄の一人にして暗黒|皇帝《こうてい》であるベルドの宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》として仕《つか》えたのである。だが、彼の復讐は結局ラルカスの存命の間には成功しなかった。しかし、ラルカスが亡くなった後、彼の黒い陰謀《いんぼう》は学院を確実に侵《おか》していったのである。学院で学ぶ若い学徒や魔術師たちが、アランの町のあちらこちらで惨殺《ざんさつ》されるという事件が起こり始めたのだ。もちろん、学院側もいろいろな手段を講じて対抗しようとしたのだが、結局どの試《こころ》みも成功しなかった。
追《お》い討《う》ちをかけるように、導師《どうし》の一人までもが殺され、さらに学院の書庫《しょこ》と宝物庫が襲《おそ》われ、中に収められていた価値《かち》の計りしれない書物や、古代の工芸品が奪《うば》い去られ、さらに残された、しかしそれでさえ二度と手に入らぬ貴重《きちょう》な品々までが、炎《ほのお》の中で灰《はい》と化してしまったのである。
ここに、長い歴史を誇《ほこ》った賢者の学院もついにその存在価値を失ってしまったのである。生き残りの導師や魔術師たちは、一人、また一人と学院を去り、ロードス各地に消えていった。そして、最後に導師の中でも最長老であった、ジャグル老師だけが学院に残っていたというわけなのだ。
「なんて、ひどい話だ」|怒《いか》りを込めてエトが拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
「ひどい話です」スレインは組んだ手をほどき、膝《ひざ》の上に置いた。「わたしはすでにアランを離れていただけ幸運だったのかもしれませんね。おかげで、バグナードの標的《ひょうてき》にならずに済《す》んだのですから」
「その事件に対して、国王は動かなかったのでしょうか」エトはスレインに尋《たず》ねた。
「古代の偉大な力に対して、国王の力が何になるというのですか。おそらく何百人という警備《けいび》の兵を置いたとしても、学院の崩壊《ほうかい》は避《さ》けられなかったでしょうね。バグナードという男はそれほど恐るべき魔術師なのです。
「あなたには、もはや危険《き けん》はないの?」ディードリットが細い声で尋ねた。
「ないでしょうね」と、スレインは簡単《かんたん》に答えた。「もはや、バグナードの復讐《ふくしゅう》は完成されたのです。また新たな破壊《は かい》の計画が彼の頭の中には生まれているかもしれませんがね。その計画は暗黒|皇帝《こうてい》のもとで、すでに進んでいるのかもしれませんよ」
スレインはこともなげに言ったが、その言葉の意味の深さに、パーンは息が詰まる思いがした。
「オレは、そのバグナードっていう奴《やつ》が許せないな」パーンが突然大声を上げた。一同がびっくりしてパーンを見詰める中で、パーンは椅子《いす》を蹴飛《けと》ばすように立ち上がって、拳《こぶし》を振り上げた。
「オレは許せない。その男がやったというのが明らかならば、何故《なぜ》魔術師たちは立ち上がらなかったんだ。自分たちも力を持ちながら逃げ出すだけなんて、臆病《おくびょう》にも程《ほど》がある」
「魔術師たちをあなたと一緒にしないで下さい」スレインは鼻息《はないき》の荒いパーンをなだめるように言った。「魔法《ま ほう》は、戦士の剣とはまったく別の物なのです。確かに人を殺すための手段にもなりますが、魔術師は戦いに勝つために魔法を学んでいるのではないのです」
「じゃあ、ウォートはどうなんだい。あのモスの大賢者《だいけんじゃ》は魔神と戦うために『最も深き迷宮《めいきゅう》』の底にまで潜《もぐ》っていったじゃないか」
パーンは伝説で語られている六英雄の話を持ち出してきた。彼は魔神の王を倒した最後の六人の中にいた魔術師ウォートのことを言っているのだ。スレインは、沈黙《ちんもく》してパーンの上気した顔を見詰めた。
「なぜ、魔術師たちが立ち上がらなかったのか。オレには不思議《ふしぎ》だな」パーンはもう一度言った。「オレなら……」
「オレなら、立ち上がって、バグナードをたたきのめすっていうわけかい」 声は、パーンの後ろからした。ギョッとなって、パーンは後ろを振り返る。右手がさっと剣の柄《つか》に伸《の》び、危険《き けん》に備《そな》えて上体が低く沈んでいた。
「誰《だれ》だ!」パーンは叫《さけ》んだ。
「おっと、驚《おどろ》かしたのは謝《あやま》るぜぇ」
男は一歩後ろに飛び退《の》き、両手を前に出して手の平を左右に振った。男は、カウンターに座っていたはずの盗賊《とうぞく》だった。いつの間にかパーンの後ろに回っていたのである。これにはパーンのみならず、他の四人も気がつかなかった。
ウッド・チャックは、盗賊の習癖《しゅうへき》だけでパーンの話を聞くとはなしに聞いていたのだ。他人の話に聞き耳を立て、その中でうまい話があれば、のっかっていき分け前を戴《いただ》く。うまい話でなくても、情報はどんなものであれ、価値があるのだ。もっとも、パーンの声は聞こうという努力をしないでも、聞き取れるほどの大きさだったのだが。
「いや、あんたの話を聞いていて、あんたなら本当にバグナードを倒せる勇者かもしれねえと思ったのさ。だったら、あんたの怒《いか》りをぶつける格好の場所をオレは知っているぜぇ」
ウッドは顔中に愛想《あいそ》笑いを浮かべて、パーンの様子をうかがった。パーンの顔から、驚きの表情が消え、変わってウッドの話に興味《きょうみ》をひかれたのがはっきりと分かる表情が浮かんでいた。
「盗賊の話に耳を貸すのは危険です」珍《めずら》しくスレインの鋭《するど》い声が飛ぶ。
「これはあんたにとっても耳寄りな話だと思うけどよ。学院出の魔術師さんよ」
ウッド・チャックはここが賭《か》けどきとばかり、顔に浮かべた愛想笑いを絶やすことなく、痩《や》せた魔術師のほうに向き直った。
「あんたらの学院から盗《ぬす》まれた財宝が、そこには隠《かく》されているって、噂《うわさ》もあるんだ。それがもし、本当なら、潰《つぶ》れちまった学院の立て直しもできるんじゃないかな。そん時はあんたもきっと導師様だよ」
耳を貸すなと言ったものの、当のスレインも今の言葉には魅力《みりょく》を感じ始めていた。学院の再興《さいこう》がもはや無理なのは分かってはいたが、その書物や宝物を取り戻《もど》すことは、きっと何かの役に立つ。ジャグル老師もきっと喜ばれることだろう。もし、それが本当ならばだ。
「真を聞き分ける聖なる耳よ」スレインは、古代語のルーンをこっそりと唱えた。一瞬《いっしゅん》体内に魔法の気が満ちるのを感じ、その気が徐々《じょじょ》に二つの耳に集中していくのを意識した。呪文《じゅもん》は完成された。これで、もしこの盗賊が嘘《うそ》をついても、スレインの耳はそれは聞き分けることができる。
「詳しい話を聞かせて戴《いただ》きましょうか」スレインは、改まってウッド・チャックに向き直った。空《あ》いている椅子《いす》を指し示して、そこに座るようにウッドに勧めた。
「ようやく、話を聞く気になってくれたんだな」ウッドは内心ニヤリとして、勧められた椅子に腰を下ろした。(オレ様の運もまんざら捨てたもんじゃないぞ)
「話すのは、いいがよ。話だけ聞いてさようなら、というのは勘弁《かんべん》願いたいぜ。聞いた以上はそれなりの対応はしてくれるんだろうな」エルフ、ついでにドワーフにと視線をやり、ウッド・チャックは念《ねん》を押した。(エルフにドワーフ、戦うのにこれほど便利な組み合わせはないな)
「それは、おまえの話しだいだな」パーンは威張《いば》りくさって言った。「オレは正義のためにしか、抜く刃《やいば》をもってはいないんだ」
「もちろんさ。若い戦士さん。あんたの名声に傷《きず》をつける話じゃないってことだけは、保証してやるよ」
(今の言葉は嘘ではない)スレインの耳には、その言葉ははっきりと聞こえた。(名声という言葉に嘘はありましたがね)
ウッド・チャックはこの男なら大丈夫だろうと考えて、すべてを話す気になった。(いずれにせよ。オレにはほかに金儲《かねもう》けの手段は残されてはいないんだからな)
5
盗賊《とうぞく》はウッド・チャックと名乗った。どうやら本名ではなく、盗賊仲間の通り名のようだった。
パーンたちは場所を変え、彼らの部屋に移っていた。ちょっとした食べ物や、飲み物を運び込み、それを小さな木のテーブルに広げる。早速、ギムがそれを平《たい》らげにかかる。部屋はかなり広かったが、それでもさすがに六人も入ると窮屈《きゅうくつ》になった。
「ここから東に三日ばかり行った森の中に、古ぼけた館《やかた》が建っているんだ。館の主《あるじ》は二十五年ほど前におっちんじまって、今じゃ住む者とてねぇ廃屋《はいおく》のはずなんだ。ところがよ、数年前からここに怪しげな一団が住みついていたんだな。それが、ちょうど学院の宝が盗《ぬす》まれた頃《ころ》と一致しているってわけさ」ウッドは得意そうに言うと、うまそうに果実酒に口をつけた。「信じるか、信じないかはあんたらの勝手さ。しかし、中にいる奴《やつ》らはどうも盗賊じゃねぇ。もし、そうならもぐりの盗賊ってわけで、それはギルドのメンツにかかわるからよ。ま、盗賊仲間の一人がそれを確かめに、館に行ったんだな。で、面白い物を見ちまったんだ。建物の前には一人の黒《ダーク》エルフと、それに食人鬼《オーがー》の見張りが立っていたんだそうだ。そして、中から立派《りっぱ 》な鎧《よろい》を着込んだ男が、現れたというんだな。で、その野郎の着ていた鎧の胸の部分には、何とマーモの紋章《もんしょう》が刻《きざ》み込まれていたってわけよ」
「マーモ、あの暗黒の島」エトはうめくようにつぶやいた。「なぜ、このアラニアに」
マーモとは、『呪われた島』ロードスでも名高い魔《ま》の領域《りょういき》として知られている。黒エルフやオーガー、それにトロールどもが数多くその地には住むという。しかもその王ベルドは、かつては六英雄の一人として称《たた》えられもしたのだが、今では慈悲《じひ》のかけらもない残酷《ざんこく》な王として、彼《か》の地を力で制していると聞く。
「何かをたくらんでいるのかな」エトはスレインに向かって尋《たず》ねた。
「分かりませんよ」スレインは両手を開いて首をすくめた。「ですが、もしベルド王が噂《うわさ》どおりの人物であるとすれば、想像はつきますけどね」
「このアラニアを乗っ取ろうというのか」パーンは言い、ゴクリと唾《つば》を飲み込んだ。
「ただの想像にしか過ぎませんが……」
パーンは、うむ、とうなって考え込んだ。スレインの話はもっともなことである。もし、マーモがこの国に兵士を送り込み、何かをたくらんでいるのだとすれば、本当にアラニアを乗っ取ろうという計画があるのかもしれない。バグナードが賢者《けんじゃ》の学院を崩壊《ほうかい》させたのも、私恨《しこん》だけではなく、いざという時に学院がマーモの脅威《きょうい》になることを恐れてのものかもしれない。
「冗談《じょうだん》ではなく、一度様子を見に行ったほうが良いかもしれないな」
パーンは、腕を組み、考えをまとめるようにそう言った。
「なぜ、そんなことに首を突っ込まなければならんのだ」ギムが憮然《ぶぜん》とした調子で言った。
「アラニアの兵士に任《まか》せれば良いことではないか?」
「それは、オレが困る。これは貴重な情報なんだ。学院の宝、それに陰謀《いんぼう》を阻止《そし》したっていう褒美《ほうび 》。この情報をギルドから買うのに一体オレはいくらの金を使ったことか」
(金を使ったというのは、嘘《うそ》でしたね)スレインは思ったが、あえてそれを言うことは避《さ》けた。
「黒《ダーク》エルフに食人鬼《オーガー》ですか、危険ですね。特に黒エルフは、魔法も使ってきますからね」
「あいつらもエルフじゃからの」
ギムの言葉に、ディードリットが顔色を変えた。「黒エルフは魔神《ましん》に魂《たましい》を売った忌《い》まわしい連中よ。われわれと一緒にしないで頂戴」
ディードリットらエルフにとって、黒エルフは憎むべき存在だった。その名の通り全身黒色の体は、暗黒神のしもべとなった時に、その証として変えられたものだった。そして、神話で語られる光の神々と闇の神々の戦いにおいて、彼らは暗黒の軍勢の先頭に立って、光のエルフと戦ったのだ。
人間たちにとっては、もはや伝説の話にしか過ぎぬが、エルフにとっては、その戦いは確かな記憶の中にある。彼女の一族の中には、その戦いに実際に参加した者もいるのである。彼ら長老たちは、黒エルフの残酷さをいろいろ教えてくれた。彼らはエルフの男も女も容赦《ようしゃ》なく殺す。また乙女たちは、暗黒神のいけにえとして、捧げられるとも聞く。
そして、醜さと怪力とで知られる食人鬼《オーガー》は、エルフをまるで野菜のように食らう。黒エルフらとともに、食人鬼《オーガー》どもも太古からの憎むべき敵だった。お互いに何度も戦い、血を流し合った間柄だ。
先の魔神との戦いの時にも、黒エルも食人鬼《オーガー》も、魔神の側に与《くみ》し、破壊と死の先兵となったのだ。ディードリット自身は、あの戦いには参加していなかったが、村の仲間が何人も殺された。彼女にとっては、まるで昨日《きのう》の出来事のように忘れられぬ記憶である。
「あたしたちが黒エルフと違うことを見せてあげるわ」隣でディードリットが息巻いていた。
「オレも」パーンはスレインの顔をうかがいながら言った。「オレもこの件は、自分で解決したいと思う。この人の事情も分かるし。それに、オレたちがアラニアの警備兵《けいびへい》に言っても、信じてもらえるかどうか疑問《ぎ もん》だしな。それに、黒エルフや食人鬼《オーガー》など、オレはその存在自体を許しちゃいないんだ」
「そ、そうともよ」ウッドの声が飛ぶ。
「ヤレヤレ、仕方がありませんねぇ」スレインは、溜息《ためいき》をつきながら言った。「ここはパーンに便乗することにしましょう。わたしにしてみても、もし学院の宝があるのなら、得る物は大きいでしょうし、それに人間として黒エルフをのさばらせておく訳《わけ》にもいきませんからね」
「フム、おまえがそう言うのならば、わしも反対すまい。黒エルフの首はわしが取らせてもらおう。わしらドワーフにとっても、黒エルフは憎むべき敵だからの」
ギムは、太くたくましい腕をディードリットに見せながら、髭《ひげ》をゆらして笑った。
ディードリットは真剣《しんけん》な顔でギムをにらみかえしていたが、自分がていよくドワーフにからかわれているんだと気がつき、態度を変えてニッコリとほほえんでみせた。
「そうこなくちゃよ。あんたらならきっとうまくやれるさ。もちろん、オレも手伝うからよ。こう見えてもオレは短剣を扱わせたら、ちょっとしたものなんだぜ」スレインはそのことをよく知っていた。盗賊《とうぞく》の短剣は闇《やみ》の中、しかも背後から迫ってくることが一番恐ろしいのだ。彼の旧友も、その刃《やいば》にかかって倒れた。彼は戦士としての腕前も、今のパーン以上だったはずだ。
「報酬《ほうしゅう》はあんたに半分渡そう。それでいいな」パーンは精一杯《せいいっぱい》の威厳《いげん》を込めて言った。
「そう願いてぇ」ウッドはパーンに頭を下げて薄ら笑いを浮かべた。
不気味な笑いだと、スレインは思った。この盗賊には油断をしてはならないと、自分にそう言い聞かせた。そして、隊列の一番後ろを歩いて行こうと、スレインは心に決めながら、旅立つ準備《じゅんび》をするために席を立った。
善は急げというわけではないが、パーンたち一行は盗賊のウッド・チャックも加え、その日の午後にはすでに『水晶《すいしょう》の森《もり》』亭《てい》を引き払い、アランの町から郊外に出ていた。
東に向かう街道は、南北に延《の》びる街道ほどには人通りも多くない。この先には漁師《りょうし》町のマーガスがあるだけで、街道はそこで途切れているからだ。新鮮《しんせん》な魚を運ぶ馬車が、時々すれ違う以外には人の姿も見うけられず、のんびりとした気分に浸《ひた》って、パーンたちは街道を進んでいった。パーンとディードリットが一行の先頭だった。その後にギムが続き、ウッドはなぜかエトと並んで歩いていた。最後尾にスレインがとぼとぼと歩いていたが、目だけは鋭《するど》くウッド・チャックのほうに向けられていた。
(それにしても暑くなってきましたねぇ)スレインはすでに夏の日差しを感じさせる太陽をまぶしそうに見上げた。彼は日よけのためにローブのフードを上げて、それを深くかぶった。
そんな道中が二日ほど続き、三日目には森の端《はし》を通るようになっていた。
「ここだ」ウッドは森の中に延《の》びる小道を指さして、得意そうに言った。「この奥に目指す館《やかた》があるんだぜぇ」
「どのくらいで着く」パーンは尋《たず》ねた。
「だいたい一時間ってところかな」
「ずいぶん、変わったところに家を建てたものね」ディードリットが森の木々を懐《なつ》かしそうに眺《なが》めながら、つぶやいた。
「オレが建てたんじゃねえからよ」ウッドは真面目《まじめ》な顔で答えた。
「これから先は用心して進まないといけませんねえ」スレインはフードの奥からくぐもった声で言った。太陽はちょうど一番高く昇《のぼ》っている時間で、スレインの顔は完全に陰の中に隠《かく》れていた。
「そうだな」パーンは唇《くちびる》をかみしめるように厳《きび》しい表情を見せた。「森の中を通って行くか」
ディードリットが嬉《うれ》しそうにそれに同意した。
パーンの決定に従って、一行は森の中を通って館まで行くことに決めた。初夏の森は生命の息吹《いぶき》が直《じか》に感じられ、それに木の葉の匂《にお》いも心地よかった。パーンはあいかわらず先頭に立って、道を踏《ふ》みならして後続のエトたちが進みやすいように心がけていた。
スレインは足元が草の露《つゆ》に濡《ぬ》れているのを、盛んに気にしていた。ローブが木の枝に引っ掛かるのにもうんざりとした様子だった。そこらじゅうにほころびができ、スレインは新しいローブを買い替えねばならないな、と考えていた。しかし、賢者《けんじゃ》のローブを売っている店などはもはやアランには、残っていないだろう。
館に近づくにつれ、一行は歩みの速度を落として行き、できる限り音を立てないように心掛けた。それでも、パーンとエトの金属の鎧《よろい》はガチャガチャと音を立てていた。
「わしの|鎖かたびら《チェイン・メイル》は真の銀を編んで作ってあるからな。音を立てんのじゃよ」ギムは自慢《じ まん》げにパーンに言ったものだ。
ディードリットも今は草色の服の上から紫色《むらさきいろ》の鎧を身につけていた。その鎧は最初金属のようにも思えたが、どうやら革を堅《かた》くなめしたものらしい。山ぶどうの実で染《そ》め上げたその胸当てには簡素《かんそ》ではあるが美しい文様《もんよう》が刻《きざ》み込まれ、赤く色づけられた鋼《はがね》が止められていた。その鋼は、ただの飾《かざ》りだけではなく、鎧の機能を高める働きもしているようだった。
ついに館《やかた》が一行の前に姿を現した。森の下藪《したやぶ》に身を潜《ひそ》め、そっと玄関《げんかん》の様子をうかがう。
玄関の前に立つ巨大な食人鬼《オーガー》の姿は、一行の誰《だれ》の目にもすぐに目についた。もう一人の見張りである黒《ダーク》エルフはオーガーに比《くら》べると半分ほどの背丈《せ たけ》しかなかったが、その分いかにも小ずるそうな光をその目に浮かべて、辺《あた》りを油断なく見張っていた。オーガーは巨大な棍棒《こんぼう》を、黒エルフは槍《やり》を手にしている。
「さて、どうしよう」
パーンはつぶやいた。これ以上進まねば詳《くわ》しいことは分からないが、それは見張りに発見される危険《き けん》を犯《おか》すことになる。頼むぜと言わんばかりに、エトのほうを見る。「弓を使うか」
「あの時は、それで失敗したんだったね。今度は鎧を着た黒エルフと体力自慢のオーガーだよ。矢が一本や二本突き刺《さ》さったところで、びくともしないだろうね」
エトは、ザクソンでのゴブリン退治の時を思い出していた。
「ならどうするんだ」パーンは弱みをつかれて、ふてくされたような声を上げた。
「わたしの魔法《ま ほう》が通じればいいんですが」スレインが遠慮《えんりょ》がちに話に割り込んできた。「黒エルフは魔法に強い抵抗を持っているんです」
「魔神に魂《たましい》を売った代償《だいしょう》として得たものね」ディードリットが蔑《さげす》みをこめて言った。彼女は|細身の剣《レイピア》をさやから抜き放ち、左手は肩当てに差し込んだ小形の短剣を確かめていた。その短剣は、ウッドの持っている三本の短剣と同じで、投げ専門の物で彼女はこの短剣に麻痺性《まひせい》の毒《どく》を塗《ぬ》っていた。それは、動物を生《い》け捕《ど》る時に使う物だが、今は確実に相手を倒すための手段だった。
ギムも背中から戦斧《せんぷ》を取り出して、いつでも飛び出せるように構えていた。
「一つ方法があります」スレインは自身なさそうに言った。
「聞かせてくれ。スレイン」パーンは促《うなが》した。
「ええ、相手に直接|影響《えいきょう》を及ぼす魔法は、黒エルフには効《き》かないでしょう。ですから、相手の注意を別の方向に引きつけるためだけに、魔法を使ってみようと思います」
「幻覚《げんかく》ね」ディードリットが言う。
「そうです。でも、音だけですけどね。いずれか一方でもそちらに様子を見に行ってくれたら、少なくとも二人同時に相手にすることはありませんし、仲間にわたしたちのことを知らせる間もなくなるでしょうしね」
「もし、二人ともがそちらに行った時には、どうする?」
パーンの言葉にスレインは、肩をすくめた。
「その時はこっそり中に入ってしまいましょう」
「違いない」ギムは声を押さえて顔だけで笑った。髭《ひげ》が嬉《うれ》しそうに震《ふる》える。
スレインは館《やかた》の横、自分たちがいる側の反対にある草むらに意識を集中した。小声で古代語の呪文《じゅもん》を唱《とな》え、手で微妙な印《いん》を結ぶ。その試《こころ》みがしばらく続いた後、スレインは手近の下草を揺《ゆ》すって見せた。
「スレイン!」ハッとしたパーンが、思わず大きな声を上げた。
しかし、そのパーンの声も下草を揺らす音もその場では聞こえなかった。スレインの見詰める草むらのほうから、草の擦《す》れ合うガサリという音と、「スレイン!」という叫《さけ》び声が聞こえてきた。
その音はパーンたちの耳にはかすかにしか聞こえなかったが、距離の近い二人の見張りにはもっとはっきりと聞こえただろう。黒エルフはハッとしたように身構えると、オーガーに奇怪《きかい》な発音の言葉で二言《ふたこと》三言《みこと》何かを命じたようだった。オーガーは、大きくうなずくとその場で棍棒《こんぼう》を構え、ウーッと軽くうなった。黒エルフは槍《やり》を構え滑《すべ》るように動くと、声のした草むらに向かって歩み去った。
「へぇ、魔法ってのは便利なもんだな。今度オレにも教えてくれよ」ウッド・チャックは感心しながら、盗みに入るときの役に立つだろうかと考えを巡らせていた。
「今です」スレインが合図を送るまでもなく、スッとディードリットが動いていた。パーンを振り返って片目をつぶってみせ、まるで猫《ねこ》のような動きで玄関《げんかん》まで走り出す。
その大胆な動きにパーンはあっけに取られ、一瞬《いっしゅん》からだを動かすことができなかった。
「優《やさ》しき|森の精霊《ドライアード》よ。あのオーガーは我が友なり」ディードリットの不思議《ふしぎ》なしかし、スレインの唱《とな》える古代語のルーンとは別種の呪文《じゅもん》の言葉がその口から漏《も》れた。それは微《かす》かなつぶやきだったが、確実に効果を発揮《はっき 》していた。
オーガーは一声大きくほえようとしたのだが、ディードリットの呪文が完成されると、呆《ほう》けたように口を開け、そのまま動かなくなった。おそらくオーガーの少ない脳みそでは、自分が魔法にかけられたということも理解できないに違いないだろう。彼の目に映《うつ》るディードリットは怪しい侵入者ではなく、親しい仲間、おそらく威張《いば》りくさって自分に命令を送る黒エルフよりは、ずっと心休まる相手に見えたことだろう。
ディードリットはオーガーに向かって、全速で走った。ディードリットの倍近くある巨体。全身は野蛮《やばん》な筋肉で膨《ふく》れ上がり、赤土色の肌《はだ》には申し訳程度に布が巻きつけられているだけである。鋭《するど》く尖《とが》った牙《きば》と、醜《みにく》く歪《ゆが》んだ鼻は、ディードリットを不快にさせた。
「バーク(醜い)」ディードリットはエルフ語でそうつぶやくと、走り寄る彼女を呆然《ぼうぜん》と見詰めるオーガーの心臓に目がけて鋭いレイピアの突きをたたき込んだ。鋭い切っ先が厚い胸板を貫《つらぬ》き、背中まで突き抜けていた。
オーガーは今やはっきりと悟《さと》っていた。自分の目の前にいるエルフは敵なのだ。オーガーは自分が死ぬことにも気がつかず、目の前のエルフの娘を心底|食《く》らいたいと考えていた。
ディードリットは渾身《こんしん》の力を振り絞《しぼ》ってレイピアをオーガーの体から引き抜いた。前のめりに倒れてくるオーガーの胸から真っ赤な血が噴《ふ》き出す。ディードリットは返り血を浴《あ》びぬように身を翻《ひるがえ》すと、黒エルフが走り去っていったほうに注意を集中した。
「危ない! ディード!」パーンの鋭い声が飛んだ。
ディードリットはハッとして、反射的に体を大きく宙《ちゅう》に弾《はず》ませていた。その真下をうつぶせに倒れたまま、振り回したオーガーの丸太のような腕がうなりを上げて通り過ぎていった。
あの一撃をまともに受けたら、ディードリットの小柄な体は間違いなく吹き飛ばされていただろう。。運が悪ければ、背骨を折られていたかもしれない。エルフはオーガーの強靱《きょうじん》な生命力に寒気すら覚《おぼ》えた。見れば、オーガーは起き上がろうと、必死に手足をばたつかせている。声を上げようとあがくたびに、口から血の泡《あわ》がブクブクと噴《ふ》き出てくる。
ディードリットは、冷たい汗が全身を伝うのを感じて、とどめを刺《さ》す気にもなれなかった。そして、その小さな体は風に吹かれる小枝のように細かく震《ふる》えていた。
6
草むらを確かめに来た黒エルフは、自分が計られたことを知った。聞き慣《な》れない鎧《よろい》の音が玄関《げんかん》のほうからいくつか聞こえてくる。食人鬼《オーガー》は倒されたのだろうか。戦いの音は聞こえてこないが。
黒エルフはこのまま持ち場に戻《もど》ることは危険《き けん》だと十分に分かっていた。
「|小さき精霊《スプライト》よ。姿無き者よ。汝《なんじ》が姿を我が物とせよ」黒エルフは、精霊《せいれい》のルーン語を唱《とな》えた。たちまち彼の姿は薄れていき、まったく見えなくなってしまった。そのまま、玄関に向かって黒エルフは駆《か》け出した。足音もほとんどない。
「黒エルフが戻ってこないな」
パーンは|長剣《バスタード・ソード》を|握《にぎ》りしめて叫《さけ》んでいた。
ディードリットはようやく恐怖《きょうふ》から脱出した様子で、そのパーンの後ろに影のように控《ひか》えている。さしもの生命力を見せたオーガーも、ギムが戦斧《せんぷ》を使って、その首を刎《は》ね飛ばした後は、さすがに動かなくなった。ただ、ピクッピクッと筋肉が震え、命の残り火を燃《も》やしているあたりは、まさにおそるべき生命力といえた。
エトとウッド・チャックも玄関《げんかん》の所まで飛び出ていた。
「ギムとディードリットは早く建物の中へ。中の連中に気づかれたかもしれない。黒エルフはオレが引き受ける」パーンは叫び、黒エルフが飛び出てくるのを待った。
「馬鹿《ばか》なことを。黒エルフの魔法《ま ほう》はあなたの手には負えないわ。ここはわたしと魔術師にまかせて、あなたこそ中に入って」ディードリットはパーンを横に押し退《の》けるように、前に進み出ると腰に吊《つ》るした水袋の口紐《くちひも》をすばやくほどいた。
「水の精霊よ。あなたの目には見えるでしょう。黒エルフはどこかしら。きっと、奴《やつ》は姿を隠《かく》して来ているのよ」
ディードリットは精霊語で袋の中の小さな青い固まりに呼びかけた。その声に反応して|水の精霊《ウンディーネ》は、スルッと袋から飛び出て来た。そして、大きく広がるとまるで布切れのような水の膜《まく》となって空中を踊《おど》るように進んだ。
(そこですか)スレインは、|水の精霊《ウンディーネ》の漂《ただよ》う方向に解除の呪文《じゅもん》をぶつけてみた。その呪文は他の魔法の力を打ち消す働きをする。スレインは古代のルーン語を唱《とな》えて、杖《つえ》を突き出すように振るった。
スレインの声と共に、賢者《けんじゃ》の杖から白い輝きに似たものがほとばしり出た。その輝きはウンディーネの脇《わき》を擦《す》り抜け、大地と平行にまっすぐ伸《の》びていった。
「ウグッ」うめき声が聞こえ、黒エルフは姿を現した。
黒エルフは、自分が相手にしたのがエルフと、そして古代語のルーン・マスターであることを呪《のろ》わずにはいられなかった。共にかなりの力を持っているようだ。魔術師の解除の呪文は、自分のスプライトの守りを完全に打ち砕いたのだ。だが、彼にはまだ右手の槍《やり》が残されていた。見ればエルフは小娘で、人間は痩《や》せた魔術師である。力の戦いになればまだ勝機があると思った。
だが、その考えは後ろから突《つ》き崩された。「ウアーッ!」黒エルフは今度こそ苦痛の悲鳴《ひ めい》を上げねばならなかった。彼の背中に立て続けに三回焼ける傷《いた》みが走ったのである。歯を食いしばって、黒エルフは後ろを振り返る。
見ればいつのまにか黒い革鎧《かわよろい》に身を包んだ盗賊《とうぞく》が、小剣を逆手《さかて》に構えて立っていた。
「へっ、オレ様の腕もまだなまっちゃいねぇようだな」ウッドは満足そうに口元を歪《ゆが》めた。
彼の投げた三本の短剣は、すべて黒エルフの背中に当たり、致命傷にこそならなかったようだが、確かに手傷《てきず》を負わせていた。
そこに、閃光《せんこう》のようにディードリットが突っ込んできた。黒エルフはそれを察知《さっち》し、向き直りざま鋭《するど》い槍の攻撃を、エルフの娘に加えた。ディードリットはその動きを左にステップを踏《ふ》んでかわし、上体と右腕をありったけ伸ばし、黒エルフの脇腹《わきばら》に目がけてレイピアの一撃を突き出した。
無傷だったなら、黒エルフはその攻撃をかわすこともできただろう。だが、動こうとした瞬間《しゅんかん》、背中に刺さったままの短剣がズキリと響《ひび》き、動きが一瞬遅れた。
断末魔《だんまつま》の悲鳴が森に響き渡っていった。ディードリットのレイピアが脇腹をとらえ、ついでウッド・チャックの小剣が深々と背中に突き刺さっていった。黒い動かぬ固まりとなって、黒エルフはどうと倒れた。
その頃《ころ》、館《やかた》の中に飛び込んだギムとパーン、それにエトの三人もすでに戦闘に入っていた。出てきたのは四人、共に人間だった。彼らは明らかに不意を突かれた様子で、鎧《よろい》も身に着けず武器と楯《たて》だけを手に持っていた。
いずれも相当の手練《てだれ》らしく、ギムもパーンも苦戦を強《し》いられている。
「聖なる光よ!」
エトはその様子を見て、一声祈りの言葉を唱《とな》えると、手を真上に差し上げた。そこに、光がパッと弾《はじ》けた。それは一瞬で消えたが、エトのほうに向いていた敵は、そのまばゆさに思わず目をそむけた。そこに隙《すき》が生まれた。その隙をギムもパーンも見逃しはしなかった。二人はエトの前に立ち、彼に対しては背を向けていたため、その光を直視せずにすんだのだ。
二人は同時に相手を一人ずつ切り倒した。その様子に残った二人の敵はひるんだ。しかも、ちょうどその時、黒エルフを倒したディードリットら三人が館の中に飛び込んできたのだ。
戦意を失った戦士を切り倒すのに、さしたる苦労も必要ではなかった。
館の中にはほかにも誰《だれ》もいないようだ。パーンたちは、死体を調べて何も持っていないのを確認《かくにん》してから、ゆっくりと館の中を探索《たんさく》して回った。一階は四部屋に区切られていたが、保存されていた食料《しょくりょう》と酒の入ったボトルが数本置かれていただけで、ほかには何もなかった。
「ほほ、これは結構なお宝だわい」ギムはその食料を背負い袋の中に詰め込めるだけ詰め込んで目を細めた。
「オレは二階を調べてくる」言うなり、パーンは階段を上っていった。館の中はかなり奇麗《きれい》に手入れされてあった。新しい家具なども並べられていたところから、この館の住人たちは、長い間にこの廃屋《はいおく》を快適な住家《すみか》にしたのだろう。階段にもまだ新しいじゅうたんが敷かれている。そのじゅうたんを踏《ふ》みしめながら、パーンは二階の廊下《ろうか 》に出た。後ろから小走りにディードリットもやって来た。
「どう?」
「まだ、何も見てないさ。気をつけないと」
「あなたこそ」ディードリットは背を屈《かが》めて、廊下を覗《のぞ》き込んだ。窓からは傾《かたむ》きかけた太陽の光がまともに差し込み、二つの扉《とびら》を照らしていた。手前の扉は開け放たれたままだ。
「行く?」
「決まっているだろ」
二人は開いたままの扉の前に立ち、中を調べた。そこには、まだ人の気配が残っていた。かなり広い部屋だ。中央に縦《たて》に長いテーブルが置かれ、回りに八|脚《きゃく》の椅子《いす》が並べられている。その椅子の幾《いく》つかは、後ろに倒れていて、先程《さきほど》の男たちが慌《あわ》てて飛び出した様《さま》が目に浮かぶようだった。
「あれは?」ディードリットは、テーブルの上一番奥に、何か書類のようなものが載《の》っているのに気がついた。小走りに駆《か》け寄り、その紙切れを取り上げると、紙は上質の羊皮紙で、全部で四枚あった。
「何が書いてあるんだ」パーンはディードリットのそばに寄って行って、後ろから羊皮紙を覗き込んだ。そして、思わず彼女の細いうなじに気がついてハッと身を固くして、頭を振った。
「どうしたの?」ディードリットは無邪気《む じゃき 》に尋《たず》ねた。
羊皮紙の中には、恐るべきことが書かれていた。それは、アラニア王カドモス七世の行動に関するものだった。カドモス七世の狩《か》り好きは有名だが、王がよく行く狩猟《しゅりょう》場の一つにこの館《やかた》近くの森も含《ふく》まれていた。しかも、狩りの時には国王は少数の供の者しか連れないという。そして、護衛《ごえい》のうちの一人を彼らは買収《ばいしゅう》しているらしく、一人の近衛《こ の え》兵の名前と人相までもがはっきりと描《えが》かれていた。
「これは?」パーンの手は震《ふる》えずにはいられなかった。
「暗殺の計画かしら。アラニア王の?」ディードリットのほうは幾分冷静だった。
「かもしれない。いや、きっとそうだ。こいつはとんでもないものを見つけたぞ」
ディードリットも、すごいものを見たと思った。そして、この計画は実行されれば成功しているな、とも。
パーンの興奮《こうふん》を見ながら、ディードリットは羊皮紙をそっとたたんで懐《ふところ》にしまい込んだ。
「次の部屋を調べなくては」ディードリットは、まだ興奮の覚《さ》めやらぬ様子のパーンを促《うなが》して、その部屋を後にした。
隣の部屋は館の位置関係から、最初の部屋よりは小さいことが想像できた。パーンは扉《とびら》を開けようとして、扉の取っ手に慎重《しんちょう》に手を掛けた。そっと、押して見る。
扉は開かなかった。今度は少し力を込めて引いてみる。それでも扉は開かなかった。
「だめだな」パーンは、ディードリットに言い、階段の所まで駆《か》け戻《もど》った。
「スレイン! ウッド・チャック! ちょっと来てみてくれ。扉に鍵《かぎ》が掛かっているんだ」
ディードリットも何度か扉を試《ため》してみたが、やっぱり開かない様子なので、もはや、じっと、ウッドとスレインの二人を待つことにした。
「盗賊《とうぞく》だけじゃなく、魔術師《まじゅつし》も呼ぶとは気がきいているわね」ディードリットは、取っ手の下についている鍵穴《かぎあな》から、中を覗《のぞ》き込もうとしながらパーンに言った。
パーンは照れた笑いを浮かべた。
「うかつに鍵穴を覗き込んじゃいけねぇな」ウッドの乾《かわ》いた声が廊下《ろうか 》に響《ひび》き、足音が三つ近づいて来た。「毒矢が飛び出してくるかもしれねぇからよ」やってきたのはウッドとスレイン、それにギムの三人だった。ディードリットはあわてて、鍵穴から目を離す。
「下はエトだけで大丈夫か」パーンは不安になって尋《たず》ねた。
「なーに、もはや外からは誰《だれ》も来んだろうて。エト一人でも問題なかろう」ギムは言いながら、扉の辺《あた》りを注意深く調べて回った。「どうやら変わった仕掛けはないようだの」
代わってウッド・チャックが鍵穴のあたりを調べ始めた。針金のようなものを差し込みながら、それを小さく回転させたり、上下にゆらしたりする。取っ手にも十分な注意を払い、周囲を拳《こぶし》でたたいて音を確かめる。
スレインは、そのウッドの後ろに立ち、魔法の呪文《じゅもん》を唱《とな》えると「ムッ」とうなった。
「何かあったのか?」ギムが尋ねる。スレインはうなずき、「扉には、魔法がかかっていますよ」と、ポツリと言った。
「だろうな。この扉には鍵はかかっちゃいねぇし、ワナなんかもねぇようだ。こいつはあんたの領分《りょうぶん》だな」
ウッドは下がって、場所をスレインに譲《ゆず》った。
ゆっくりと印《いん》を結びながら、スレインは解錠《かいじょう》の呪文を唱えた。そして賢者《けんじゃ》の杖《つえ》で扉をコンコンとたたく。
扉は二、三度|揺《ゆ》れてから、ゆっくりと内側に開いた。扉が開くと同時に室内に明かりが灯《とも》る。パーンははっとして剣に手をかけた。
「心配ありません。ただの仕掛けですよ。初歩的な魔法です」スレインは宣言《せんげん》して、中に足を踏《ふ》み入れた。中には誰《だれ》もいなかった。部屋の一番奥に古ぼけてはいるものの、凝《こ》った造りの机が置かれ、その両側に本棚《ほんだな》があった。
「大学の書物かな」スレインは近寄っていった。よく見ると、ドアのすぐ近くには戸棚があり、ガラスの小びんや厳重《げんじゅう》に油紙に包まれている巻物《まきもの》も保管されていた。
だが、スレインの期待はすぐに、失望に取ってかわった。(違うな、これは)だが、その失望は顔の表面には出てこなかった。最初から、その件に関してはさほど大きな期待はしていなかったのだ。もし、自分がバグナードなら、盗《ぬす》み出した魔法の品々は、すぐに手元に運ばせるだろう。
「へっ、どうだい。オレの言ったとおりだろう。おっと、宝箱もあるぜぇ。へっへっこいつを探《さが》していたのさ」ウッドが奇声《きせい》を発しながら、机の横にあった木製の箱に取りついた。
スレインは、机の所まで歩き、その引き出しを慎重《しんちょう》に開けた。中から一本の見事な飾《かざ》りのついた短剣と、そしてどうやら手紙らしい物が見つかった。
スレインはそれを、取り上げざっと目を通した。それは、短い手紙だった。
こちらはすべて順調です。
そちらはいかがでしょうか。
連絡《れんらく》は定期的にいつもの手段で行うように。
カーラ
「よく意味が分かりませんねぇ」スレインはボソボソとつぶやき、手紙を一応|懐《ふところ》の中に収めておくことにした。
その時、スレインはふと気がついた。ギムが何か真剣《しんけん》な面持ちで、こちらをにらんでいるのだ。しかし、その視線はスレインに向けられたものではなく、彼の頭上高くに向けられていた。
スレインはギムの視線を追って、奥の壁《かべ》の天井《てんじょう》近くを見渡した。
そこには、一枚の大きな肖像画《しょうぞうが》がかけられていた。美しい女性の肖像画だ。大きく胸の開いた紫色《むらさきいろ》のドレスを身にまとい、バックには真っ赤なカーテンが描《えが》かれ、その隙間《すきま》から窓と、さらに外の風景までが克明《こくめい》に描かれていた。女性はディードリットと同じ肌《はだ》の色をしていた。だが、髪《かみ》は夜空の色をしていた。そして、彼女はまるで詰問《きつもん》するようにスレインを見下ろしていた。
(この女性がカーラなのかな)スレインはその名にどこか引っ掛かりを覚《おぼ》えた。記憶《き おく》を少し探《さぐ》ってみたが、思い出すことができなかった。
「いつか、思い出すでしょう」スレインは自分を納得《なっとく》させるようにつぶやき、相変わらず肖像画を食い入るように見詰めるギムの姿を不思議《ふしぎ》そうに眺《なが》めた。
「似ている……」
ギムの口から、わずかなつぶやきが漏《も》れた。
7
それから三日後の晩、パーンたち一行の姿は、再び『水晶《すいしょう》の森《もり》』亭《てい》にあった。パーンたちの持ち帰った計画書は、城の衛兵《えいへい》に手渡され、金貨一千枚の褒美《ほうび 》を受け取った。
パーンは上機嫌《じょうきげん》だった。金の問題ではない、自分の行為が正しく評価されたのが嬉《うれ》しいのだ。買収《ばいしゅう》されていた近衛《こ の え》兵は、裁きにかけられ、国王暗殺のもくろみは潰《つい》え去った。パーンは、司法官であるパーシア公爵《こうしゃく》に直接会い、ねぎらいの言葉さえ受けたのだ。エールを飲みながら、パーンはあまり上手《じょうず》だとはいえない歌を唄《うた》ってもみせる。
「それよりよ」ウッド・チャックはパーンに言ったものだった。「オレもあんたらの仲間に入れちゃくれないか。オレが役に立つってことは十分に分かってもらえたろう。オレはあんたらが気に入ったんだ。それによ、あんたらといると面白いことに出会えそうでよ」
「別に反対する理由もないな」パーンは簡単《かんたん》に答えた。この成功は、すべて彼のおかげなのだし、それに旅には盗賊《とうぞく》の技能が必要な時もある。「ただし、法に触《ふ》れるようなまねだけはしないでくれよ」
そして酒宴《しゅえん》は進み、みんなかなり酔いがまわってきている。もちろん、ディードリットとスレインの二人は例外だった。
「手に入れた宝石が金貨六百枚たぁ、ちょっと割に合わないようにも思うがよ」ウッドは盛んに、宝石を引き取ってくれた商人の鑑定眼《かんていがん》のなさをまくし立てていた。
「いや、あんなものだったぞ」ギムは、値《ね》を吊《つ》り上げようと食い下がるウッドを制してさっさと取引を済《す》ませてしまったのだ。ウッドにはそれが不満だったらしい。もっとも、宝石や細工物《さいくもの》のことでドワーフと議論するつもりもないので、それ以上追求しなかったが。
むしろ、館《やかた》で手に入れた書物や巻物《まきもの》を、知り合いの魔術師《まじゅつし》に引き取らせた額《がく》が思った以上に大きかったので、ウッド・チャックも満更《まんざら》機嫌が悪いわけでもなかった。
スレインもエトも、陽気に振る舞っていた。
ただ一人ギムだけが寡黙《かもく》に酒をあおっていた。
六人の冒険《ぼうけん》を祝う宴《うたげ》が、ちょうど最高潮《さいこうちょう》に達した時、表の扉《とびら》を開けて男が一人飛び込んできた。
そのただならぬ気配に、さすがに盛り上がっていたパーンたちも静まり、男が息を整えるのをじっと見守った。
「大変だ」その男は、かすれる声で大事を告げた。「カノンが攻め滅《ほろ》ぼされた。ベルドが、マーモのベルドがやったんだ」
「なんだって!」パーンは、陽気な気分からどん底にまでたたき落とされたような気分になった。そのまま椅子《いす》を蹴《け》って立ち上がり、次の言葉を忘れたかのように呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
「ついに、動きましたか。これは、大きな戦争になりますね」スレインが予言でも告げるような調子でつぶやいた。
冷たいものが一行の心を駆《か》け抜けていった。酔いはどこにも残っていない。
『カノン滅ぶ!』の急報は、もちろんストーン・ウェブのカドモス七世のもとにも届けられていた。その報を受け、王は主《おも》だった貴族に招集をかけ、緊急《きんきゅう》会議を催《もよお》した。カノンとアラニアとは昔から緩《ゆる》い同盟《どうめい》関係を結んでいた間柄《あいだがら》でもあったからだ。カノンはアラニアに次いで古くからある王国で、建国して二百年は優に経過している。アラニア王家との間に血のやり取りも何度か交わされ、特にカドモス七世の実母は、カノン王家の直系であった。それだけに、このマーモの侵略《しんりゃく》は、アラニア王家にとっても重大な挑戦《ちょうせん》であり、何人かの重臣はマーモ撃《う》つべしとの強硬論《きょうこうろん》を唱《とな》えたりもした。特に、ヴァリスのファーン王を中心とした諸王国会議において、いかなる侵略戦争にも協力し、立ち上がるべしとの取り決めもある。その声明文に自らも署名《しょめい》している以上は、真っ先に立ち上がり、他の王の先頭を切らねばならない立場にさえあった。
だが、カドモス七世は、それでもカノンへの出兵を見送った。今は南の街道《かいどう》を封鎖《ふうさ》し、マーモの軍勢の侵入に備《そな》えるにとどめ、他の国の出方を待とう、それが、カドモス王の下した決断だった。しかも、ベルドを刺激しないように傭兵《ようへい》の募集や、民兵の招集等の手段も講じない旨《むね》の命令を伝えた。これは、消極的にマーモの侵略とその後のカノン領の統治を認《みと》める態度だった。
翌日には以上の結論を記した布告文が町に貼《は》り出され、パーンはそれを見て、悔《くや》しさに歯噛《はが》みする思いだった。
「なぜだ!」彼は往来の中ということも忘れ絶叫《ぜっきょう》したものだった。
「これからどうします」スレインは力なく肩を落とすパーンを慰《なぐさ》めるようにそっとその肩に手を置きながら尋《たず》ねた。
「どいつも、こいつも、腰抜け野郎が」パーンは目に涙すら浮かべていた。「何とかヴァリスにまで行こう」パーンは、決心したように顔を上げ、赤らんだ目を何度もこすった。「ヴァリスならきっと立ち上がるさ」
「しかし、南の街道は封鎖されていますし、西は砂嵐《すなあらし》が収まっていないと聞きます。もし、噂《うわさ》のとおり精霊《せいれい》の王が解放されたなら、まだしばらくは砂漠《さ ばく》の道を通ることは不可能でしょう。今は、ヴァリスに行く術《すべ》がありません。残念ですが……」
「なんとしてでも行くさ。たとえ、『帰らずの森』を通ってでも」パーンは宙《ちゅう》をにらみつけながら、断固として言った。
「正気かい、パーン。あの森がどんなに危険《き けん》な場所か、知らないわけじゃないだろう。『帰らずの森』と呼ばれているのは、その名のとおり、あの森に踏《ふ》み込んで、戻《もど》って来た者がいないから……」
「なら、オレが最初の一人になってやる!」パーンはエトに怒鳴《どな》った。
「古代のエルフの呪《のろ》いがかかっておるとも聞くぞ」ギムがディードリットの顔をチラリと見てからそう付け加えた。
「パーン……」スレインがなだめようと口を開きかけた時だった。
「それ、いい考えだわ」それまで無言でパーンの様子を追っていたディードリットがポツリと言った。「森を抜けて行きましょう。それが一番の早道ね」 ディードリットは、平然としていた。
「何か手段があるのですか」
「もちろん」ディードリットはギムを一瞥《いちべつ》してから、得意そうにつぶやいた。「あたしはエルフなのよ。そして、エルフに古代も現代もないわ」
8
パーンたちがアランの町を立ったのは、カノン滅亡《めつぼう》の情報がもたらされてから、ちょうど三日後のことだった。結局、一行はディードリットの言葉に従って、森の中を通ってヴァリスへと抜けるルートを取ることに決めたのだ。
その考えは、もちろん、スレインを始め全員の反対を受けた。それほど『帰らずの森』は恐ろしい場所だとされているのである。その凶々《まがまが》しい名は単なる伝説や出まかせの類《たぐ》いではない。事実としてここ何百年というもの、『帰らずの森』に入って、再び戻《もど》って来た者はいないのだ。もちろん、その間に何人もの冒険《ぼうけん》好きの勇者が、この森に挑《いど》んでいた。しかし、その勇者たちもすべて同じ運命をたどっていた。多くの命を飲み込み、『帰らずの森』は年中姿を変ることなく、黒々とその危険《き けん》な姿を見せている。ギムがいみじくも言ったように、それは古代のエルフの呪《のろ》いのためだとも伝えられている。
その真偽《しんぎ 》を知る者も一人としていない。おそらく、この森に消えていった犠牲者だけが、真実を知っているだろう。
その闇《やみ》の森は一行の右手に姿を現している。アランを過ぎてから三日目ぐらいにはすでにその姿は見ることはできた。しかし、ディードリットは街道《かいどう》に沿っておとなしく進むだけで、別に森の中に向かおうという様子は見せなかった。
「ここよ」ディードリットが明るく弾《はず》むような声で言ったのは、その街道をさらに二日ばかり南へ進んでからのことだった。その言葉に対する皆の反応が思ったより暗いのを見て、彼女は困ったような顔をし、街道の右手を指さした。
そこには森に向かって延《の》びる細い道が続いていた。スレインは誰《だれ》がこんな道を使うのだろうと、信じられない気持ちだった。
「この先にわたしの言う『道』があるの。でも、これだけは守って。森の中では決して休んじゃ駄目《だめ》。それから、あまり驚《おどろ》いたりしないこと、強い感情の爆発は回りの木々に悪い影響《えいきょう》を与えるから」
「それだけを、守れば大丈夫なんだな」パーンは不安そうな様子を隠《かく》すことができず、ディードリットに言った。
「それだけを守れば、後はわたしに付いて来るだけで、目指すヴァリスにたどり着けるわ」ディードリットはパーンの目をまっすぐに見据《みす》えて言い切った。「さあ、急ぎましょう」
一行の不安は『帰らずの森』の姿がだんだん大きくなっていくにつれ、否応《いやおう》なしに増していった。だが、もはや後戻《あともど》りはできないのだ。
一時間ばかり、森への小道を歩いただろうか。ついに、一行は目指す『帰らずの森』の入り口に立っていた。近くから見ると、どこといっておかしなところも感じられない普通の森のようにも見える。が、ややもすると邪悪《じゃあく》な霊気《れいき》の高まりが感じられるような気もする。
小道の終わりには二本の高い針葉樹が生えていた。その二本の木は、まるで双生児《そうせいじ》のように高さや太さ、それに枝の張り方まで同じだった。二本の木にはさまれた空間がまるで、何かの門のような印象《いんしょう》を受ける。
「ここよ。ここを抜けて行くの。ディードリットの声は抑え切れない喜びに満ちているようだった。「さっきのあたしの言葉は守って。それから、絶対にあたしから離れないで。でないと、古代のエルフの呪《のろ》いは、あなた方を捕《と》らえてしまうかもしれないから」
それだけを告《つ》げると、ディードリットは森に向かってエルフ語で、「フォム・アラニス・カトゥルー」と高く叫んだ。双子《ふたご》の木の間に、何か異変が起こったようだった。その空間の風景がぼやけ、変わって黄金色の輝きが満ち始めた。
「あたしについて来て。門が閉じぬうちに」ディードリットはそう言い残し、跳《と》びはねるように、光の中へ姿を消した。
パーンが覚悟《かくご》を決め、その後に続く。次いで、エト、ギム、ウッド・チャックの順で飛び込む。スレインが最後だった。スレインは覚悟を決めたように目を閉じ、輝きの中に走り込んだ。
「わあ」ドンと何かにぶつかる感触《かんしょく》があり、スレインはあやうく賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を取り落とすところだった。目を開けるとそこにウッド・チャックの黒い背中があった。
「驚かすない。心臓が止まるかと思ったじゃねぇか」振り返ってウッド・チャックは文句を言う。
「ここは?」そんな言葉も耳に入らず、スレインは周囲の景色に心を奪われていた。そして、息を飲む。
そこは、黄金色に輝く森だった。背の低い常緑樹が、日の光を受けて、金色に輝いている。外から見た時にはあったはずの、トゲの生えた灌木《かんぼく》や、シダの茂みは跡形《あとかた》もなく消えていた。地面には適度に積もった落ち葉が格好《かっこう》のクッションとなって、一行の体を優《やさ》しく支えていた。
「ここが、帰らずの、森かよ」パーンはゴクリと唾《つば》を飲み込んで、切れ切れにうめいた。「まるで別世界じゃないか」
別世界! スレインはその言葉にようやく、気がついた。
「そうか、ここは本物の別世界なんだ。違いますか? ディードリット」
スレインは興奮《こうふん》して叫《さけ》びながら、地面を確かめるように杖でつつき、そして空をじっくりと見上げた。
空には太陽はどこにもなかった。空が一面に輝いているようだった。
「どういうことなんだ」パーンはスレインを振り返った。
スレインは列の一番先頭にディードリットの全身を見詰《みつ》めながら、ゆっくりと言葉を紡《つむ》ぎ出した。
「あまり知られていないことなんですが、世界は三つの異界からできていると言われています。一つはわれわれ人間の住む世界です。魔術師《まじゅつし》たちはこの異界のことを、物質界と呼んでいます。もう一つは精霊《せいれい》たちが住む世界です。ここはさらにいくつかの小さな異界に別れていますが、ひっくるめて精霊界と呼びます。そしてもう一つ、物質界と精霊界を結ぶ中間の世界があります。これが、いわゆる妖精界《ようせいかい》。今、われわれが立っている場所なんです」
「知っているのなら、説明してもよかったわね。人間には説明しても理解してもらえるかどうか、疑問《ぎ もん》だったから」ディードリットはばつが悪そうに言った。「そう、あなたのおっしゃるとおり、ここは妖精界よ」
「教えて下さい、ディードリット。エルフは故郷を失ったのではないのですか? 物質界に縛《しば》られ、もはや妖精界の住人ではなくなっているはず。それなのに、あなたはどうして?」
ディードリットは弾《はず》むように身を躍《おど》らせた。彼女の体は信じられないほど高く舞い上がると、フワリと地面に着地した。
「そんなことより、早く行かなければ」ディードリットは皆についてくるように合図を送ると、夢の世界で走るように、体を完全に宙《ちゅう》に浮かび上がらせながら、森を駆《か》け抜けていった。
「スレイン。あたしは故郷を失ったつもりはないわ。ここが、いえ、この妖精界こそがわたしの住む本当の世界なの」
「そうか」スレインは自分の唯一《ゆいいつ》の頼みとする頭脳《ずのう》が、時にはまるで働かないのだなと思いながら、前を行くディードリットに呼びかけた。「あなたは、ハイ・エルフなんだ。知らなかった。もはや絶滅《ぜつめつ》したと思っていたのに」
それは、伝説の種族だった。古代王国期の人間がその文化だけではなく、種としてもより高級な一族だったと言われるように、エルフにも古代の上位種族がいると伝えられている。それが、古エルフ、またはハイ・エルフと呼ばれる種族だった。
「いつかは、滅《ほろ》んでいくのでしょうね。でも、それはまだずっと先、神の魂《たましい》さえも薄れ、竜の肉体さえも朽《く》ちるほどの未来でしょうね」
スレインは深く感動している様子だった。パーンには、何のことだか良く分からなかったが、どうもスレインの話しぶりでは、ディードリットはエルフの中でも上級の部族に属《ぞく》しているようだ。
「われわれドワーフもかつてはこの世界の住人だったと聞く。だが、われわれはこの世界から遙《はる》かな昔に旅立ったのだ。それは、偽《いつわ》りの黄金ではなく、真の黄金を見つけ出したからだと聞くぞ。少なくとも、大地の恵みはここには存在しないのだから」
ギムは自分の手の中にある戦斧《せんぷ》の先を眺《なが》めながら言った。「無論、鉄は妖精《ようせい》が嫌《きら》う物だ。この世界にあろうはずがない」
そこにあるはずの斧の刃が消えうせていた。パーンはそれを見て、慌《あわ》てて自分の着ている鎧《よろい》を確かめた。いつの間にか鎧も姿を消していた。麻のシャツと短い腰布という姿になったいる。
「重さは感じられるのに」
だから、まったく気がつかなかったのだ。ずっしりとした鎧の重さは体に伝わっている。
「大丈夫よ。鉄はこの世界に存在できない物だから見えないだけ。物質界でも、神の真の姿や、多くの精霊《せいれい》たちの姿が見えないのと同じことよ。それより、早く。休んじゃ駄目《だめ》って言っておいたでしょう」
ディードリットは本心からいらいらしているようだった。パーンも足の動きを早め、飛ぶように前を駆けるディードリットに追いつこうとした。
「どういうことなんだ」パーンはそれでも、横に追いついてきたスレインに問いかけずにはいられなかった。
「簡単《かんたん》ですよ。妖精界では、時間はわれわれの世界よりもゆっくりと進むんです。まごまごしていると、物質界では数百年も過ぎ去ってしまいますよ」
「そいつは、大変だ」パーンの顔が青ざめた。「ディードリット、早くここを抜け出してしまおう!」
「オレもこれ以上年はとりたくねぇよ」ウッドは悲鳴をあげていた。どうもスレインの言葉を誤解したらしい。
(だから、さっきから急げって言っているじゃないの)ディードリットはいらだったが、走る速度を早めて自分に追いつこうとするパーンの必死の形相《ぎょうそう》に、思わず噴《ふ》き出していた。
ディードリットは、十数分ほどの間黄金の森の中を進むと、また奇妙《きみょう》な言葉を唱《とな》えた。すると、入ってきた所とまったく同じような双子《ふたご》の木が現れ、一行はその間を通り抜け、妖精《ようせい》界から出た。
外は夜だった。
「本当だ。さっきまでは昼間だったのに」パーンは感心とも驚《おどろ》きともつかぬような声を上げると、自分の着ている鎧《よろい》が再び姿を現しているのを、暗がりの中で確認《かくにん》した。安心感が若い戦士を包み、彼は走り続けだったことを今更《いまさら》思い出したように、地面に腰を下ろすと息を整えるために数度深呼吸を繰り返す。
隣でパッと輝きが起こり、スレインの紺色《こんいろ》のローブ姿が、魔法《ま ほう》の明かりに照らし出された。
「でも、何日後の夜なんでしょうね」スレインは、フードを外《はず》して回りの風景に目を凝《こ》らす。わずかな明かりを通してみると、正面はどうやら丘陵《きゅうりょう》地帯のようだ。後ろには当然ながら『帰らずの森』が広がっている。その姿は暗闇《くらやみ》の中では、噂《うわさ》どおりの魔性を漂《ただよ》わせ、触手《しょくしゅ》を今にもスレインのほうに伸《の》ばさんとしているかのようにうごめいていた。
「今の行程《こうてい》なら、そうね、三日ぐらいかしら。あなたがたが、まごまごしていなければもっと早く出られたのに」
「あの様子を見て平然としていられるものですか。でも、良い経験をさせてもらいました。妖精界に入った人間は多いかもしれませんが、無事に物質界に戻《もど》ってこられた人間は数少ないでしょうからね」スレインは一人元気そうなエルフの娘に向かって答えると、ようやく立ち上がり、ローブについた土を手で払い落とした。
「ここは、どのあたりなのでしょう」エトは不安そうに、後ろの森を振り返りながらポツリと言った。
「だいたいヴァリスの東に三日ほどの所よ。目の前に見える丘陵地帯を越えると、カノンとヴァリスを結ぶ北の街道《かいどう》に出るはずだわ。でも、あえて山越えを覚悟《かくご》で真西に進んだほうがいいでしょうね。でないと、マーモとヴァリスの戦争の真《ま》っ只中《ただなか》ってことにもなりかねないから」ディードリットは答えながら、斜面《しゃめん》の厳《きび》しい方角を指さし、それが正しく真西を向いているかを確かめるために、空を見上げて星の位置を確認《かくにん》しようとした。
「とにかく、早く行こうぜぇ」ウッド・チャックは気味が悪そうに森を振り返りながら、一度降ろしていた荷物を、再び肩に担《かつ》ぎ上げた。
「そうだな。夜と言われてもどうせ、眠くはないんだ。このまま、夜じゅう歩き通してできるだけ森から離れよう。山道になるから覚悟《かくご》はいるがな」
パーンの言葉に、一行は先に進む準備《じゅんび》を整え、ゆっくりと坂道を登り始めた。
「この時差には苦しみそうですね」エトは夜空を恨《うら》めしそうに見上げながら、隣のウッド・チャックに話しかけた。(いったい何日、朝夕の祈りを怠ったのだろうか)
盗賊《とうぞく》はうなずき、おどけた表情を見せた。
「まったくだぜ。月があんなに高いのにまったく眠くならねぇ。もっとも、腹は減《へ》っているけどよ」
「そのとおり、まるで三日も食っていないような気分じゃ」
ギムの言葉に、一行の顔にようやく笑顔が戻った。
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第V章 救出
1
一行がカノンからヴァリスへと通じる街道《かいどう》に出たのは、それから二日後の昼だった。街道は上り下りが激しく、さすがに山岳《さんがく》地帯を通る道のことだけはあった。
そして、今、一行は峠《とうげ》を越え、下り坂を進んでいる。もっとも、道はでこぼこしてかなり歩きづらい。スレインは、暑さで参った様子で、いつのまにか言葉を出す元気さえ失ってしまっていた。すでに太陽は、容赦《ようしゃ》ない夏の日差しを見せている。どこからか、蝉《せみ》の鳴く甲高《かんだか》い音も聞こえてきた。
「これから、どんどん暑くなってくるのでしょうね」スレインは、フードの奥から溜息《ためいき》を漏らした。昼間歩くことさえ気が滅入《めい》ってくる。
「そりゃ、夏だからな」ウッドが横目でスレインを見ながら、ニヤリと笑った。
「初めて知りましたよ」スレインはうんざりとした顔で答えた。
「あら」と、ディードリットが突然立ち止まった。「馬のひづめの跡《あと》かしらね。道が随分《ずいぶん》ぼこぼこしているように思うけれども」ひざまずき、地面に指を当ててそれを確かめようとする。
パーンも足を止め、ディードリットの様子に視線を向けた。
「やっぱり、ひづめの跡ね。かなりの数が通っているようだわ。ヴァリスのほうから来ているみたいだから、もしかするとヴァリスの軍隊がこの街道を通ったのかもしれないわ」
「ヴァリスはやはり、立ったんだ」エトがうなずいた。「マーモの暗黒の軍団は、ファリスの法に背《そむ》くものだから、立ち上がらないはずがないと思っていたけどね」
「もちろんだとも。無敵の聖|騎士《きし》隊《たい》を擁《よう》する偉大なファーン王がベルドの暴虐《ぼうぎゃく》を許すものか。これで、ベルドの野望も打ち砕《くだ》かれたも同然だな」パーンも嬉《うれ》しそうに言う。
パーンは単純に考えているようだが、スレインはそうは簡単《かんたん》に事が収まるまいと思っていた。
ヴァリスの騎士団の強さは認《みと》めもするが、マーモの軍団には暗黒の力を持った怪物《かいぶつ》どもがいる。特に黒《ダーク》エルフの魔法《ま ほう》戦士。その実力は、一度手合わせしているスレインには、恐ろしいほど理解ができた。もし、あの場にディードリットとウッド・チャックがいなかったら、倒されていたのはスレインのほうだっただろう。そう思うと、冷たいものが背中を走り抜けたが、それはすぐに夏の暑さに溶《と》かされてしまい、かわって生ぬるい汗が噴《ふ》き出てきた。木綿《もめん》の下着が肌《はだ》に張りつき、不快なことこのうえない。
(この戦いは長くなりますね)スレインは、パーンの機嫌《き げん》をあえて損なうこともないだろうと考え、それを口に出しこそしなかったが、確信に近い思いでそう考えていた。
翌日も、同じような道中だった。山道を抜け、道は平らになり、かなり歩きやすくはなった。しかし、雲一つない天気が、一行を苦しめた。隊列は変わらず、パーンとディードリットが先頭、ついでギム。ウッドとエトがその後に並び、しんがりがスレインだった。彼は苦しそうに息をしながら、一行に遅れまいと懸命《けんめい》に歩いていた。賢者《けんじゃ》の杖《つえ》をつきながら、顔も上げられない様子だった。
いつのまにか辺《あた》りは田園《でんえん》の風景に変わっている。もしかすると、ヴァリスの領内《りょうない》に入ったのかもしれない。途中、小さな家や大きな館《やかた》も見られた。おそらくはこの一帯に住む農民の家だろう。大きな館は、地主のものかもしらない。だが、今は人は住んでいないようだった。戦いがこの地で行われることを予想して、どこかに疎開《そかい》したのかもしれない。
「やはり、ヴァリスは対マーモの戦いのために立ち上がっているのだね。この辺りにヴァリスの兵の姿が見られないことを考えると、前線はもっと東のほうなのだと思うよ」
「すると、ヴァリスが優勢ってわけかい」ウッドがエトに尋《たず》ねた。「ええ、たぶん」エトは隣の盗賊《とうぞく》に答えた。
「ヴァリスはきっと勝っているさ」パーンは振り返らずに声だけを送ってよこした。
前方から、何かがやってくるのに気がついたのは、その時だった。最初に気がついたのは、三列目のウッド・チャックだ。
「向こうから何かが来るぜぇ」盗賊は目を細めて遠くを見ながら言った。
たちまち、一行の間に緊張《きんちょう》が走った。
「気にせず行きましょう。変な動きを見せるとかえって怪しまれます」スレインが後ろから呼びかけた。
「そうだな」パーンは前方を見て、自分でも正体を見極《みきわ》めようと目を凝《こ》らした。砂ぼこりが上がっている。どうやら馬、それに馬車の姿もあるようだ。強い日差しに輪郭《りんかく》がぼやけて分かりづらいが、商人のキャラバンのようにも見える。それとも、ヴァリスの補給《ほきゅう》部隊だろうか。一行はできる限り平静を装《よそお》い、変わらぬ歩調で前に進んでいった。しかし、さすがに言葉はなくなっていた。相手の挙動《きょどう》を少しも見逃すまいと、皆、神経を集中させている。
「カーラ様、前方に人の姿が見えます」
緊張《きんちょう》した声が、カーラの瞑想《めいそう》を中断した。彼女は、ゆっくりと動き、馬車の日よけを上げた。
「何事か」馬車の回りを固める傭兵《ようへい》のうちの一人が、馬を寄せてきた。
「はい、前方から数人の徒歩《とほ》の集団がやってきます。武装をしている様子ですが、子供のような者もいますね」
「子供? よく分からない構成ね。ヴァリスの兵ではないのね」
「おそらく……」
「分かりました。いずれにせよ、相手が何もしてこぬうちは、こちらから手を出さぬように。ですが、警戒《けいかい》は怠《おこた》ってはなりませんよ」
それだけを命じると、カーラは座席に深くもたれかかった。馬車の振動が背中から伝わってくる。(あと少しだと言うのに)カーラはほっと溜息《ためいき》を漏《も》らし、隣の座席に座る少女を見た。その娘は、虚《うつ》ろな眼を開き、前方をぼんやりと見ている。その視線には生気がまるで感じられない。カーラは満足そうにうなずくと、目を閉《と》じてこれからの自分の取るべき行動について、考えを巡らせ始めていた。
馬車の一隊はゆっくりと近づいてきた。その姿がはっきりと見て取れるようになると、パーンはそのただならぬ様子に、警戒心を呼び起こされていた。二等引きの豪華《ごうか 》な馬車の回りを、思い思いの武装に身を固めた戦士ふうの男が、七人ばかり取り巻いているからだ。明らかに行商人とは様子が違う。馬車は荷を運ぶための物ではなく、人を乗せるための物だった。あれでは、荷物はほとんど入るまい。それに、警護《けいご》する数の多さはどうだ。どこかの貴族とその護衛という組み合わせだろうが、それにしては回りを固める戦士の武装の統一のなさが気になった。馬はだく足を踏《ふ》み、駆《か》け足ほどの速さで近づいてくる。
「どう思う」パーンは、隣のディードリットだけに聞こえるような声で尋《たず》ねた。
「あたしにも分からないわ。とにかく変な一行ね。でも、それはわれわれにしても同様だし」
確かに向こうにとっても、この六人の組み合わせは異様なものに見えるだろう。パーンは口元に笑いを浮かべたが、すぐにそれを引きしめ、また前からやってくる一隊に神経を集中させた。
その緊張《きんちょう》は両者が近づくにつれ、ますます大きくなってくる。お互い、相手の風変わりな様子に警戒を解くわけにいかなかったのだ。共にいつでも動けるように構えながら、最後には徒歩《とほ》の者の礼儀で、パーンたちが道を相手に譲《ゆず》った。
「暑くなったな」ウッドが、すれ違いざまに、先頭の男に挨拶《あいさつ》を送った。さすがに場慣《ばな》れした対応だとパーンは舌《した》を巻いたが、どうやらその一言で幾分《いくぶん》向こうの緊張も解けたようだった。
「徒歩だと大変だな」馬上の男の一人が、安心したような笑いを浮かべながら、ウッドに挨拶を返してきた。
「まったく」ウッドは、もう一度言葉を返し、あとは視線を男からはずしたまま、口を閉ざす。(早く通り過ぎやがれ)ウッドは心の中でつぶやいた。
その横を馬車の音も喧《やかま》しく、彼らは通り過ぎていった。
スレインは何気なく馬車に目をやっていた。豪華《ごうか 》な造りだ。中には誰《だれ》が乗っているのだろうと興味《きょうみ》が湧《わ》く。目を凝《こ》らすと、車内の薄闇《うすやみ》の中に、人影が二人見て取れた。衣服の形から、どうやら二人とも女性であるらしかった。そのスレインの様子に気がついたのか、馬上の戦士が一人、スレインの視線を遮《さえぎ》る形で動き、スッと馬車の前に進んで来た。男はスレインをにらむと、そのまま微妙《びみょう》に速度を落とし、最後までスレインと馬車との間にいるように馬を操《あやつ》った。
(何か見てはならない人でも、乗っているのだろうか)スレインは不思議《ふしぎ》に思い、通り過ぎて行く馬車の一行を立ち止まったまま見送った。
「まったく、驚《おどろ》かせやがるぜ」ウッド・チャックは相手が離れてから、言葉と共に唾《つば》吐《は》き捨てた。
「変な集団だな。これから先は戦場だというのに」パーンが、呆《あき》れたように言いながら、道に戻《もど》った。
「馬車の中にいたのは女性のようでしたよ。姿は二人見えましたが」スレインがなおも馬車のほうに視線を向けたままそう言った。
「女? なら、オレも見てりゃよかったな」ウッドはおどけて言い、もはや安心とばかりさっさと歩き始めた。ディードリットも動き始める。
(それにしても、わたしの視線を遮ろうとした男の動きが気になりますねえ)スレインは、道を歩きながら何度も首を傾《かし》げていた。
「またかよ」
それこそ、エール酒を一杯《いっぱい》空《あ》ける間もあらばこそ、突然ウッド・チャックの投げやりな声が聞こえてきた。
「どうしたんですか」フードをしていてもなお、容赦《ようしゃ》なく襲《おそ》ってくる夏の日差しから逃れようと、ただひたすら足元だけに気を配っていたスレインだったが、そのウッドの声にやむなく顔を上げた。自分のすぐ前を歩いている盗賊《とうぞく》に尋《たず》ねようとしたのだが、それを問うまでもなく、彼が何を言おうとしていたのかが分かった。
ウッド・チャックは無言で前方を指さす。そこにはまだ砂ぼこりが舞い上がっている。今度も馬の集団のようだ。しかし、舞い上がる砂ぼこりの量や、それにひづめの轟《とどろ》く音から、今度の集団はかなりの速度で走ってきていることが知れる。
「今度はヴァリスの騎士《きし》みてぇだな」遠目のきくウッドが、きっぱりと言った。「白い馬に白い鎧《よろい》。あんな目立つ格好は、ヴァリスの騎士団以外にはいねぇ」
「ヴァリスの騎士団だって!」先頭にいるパーンが叫《さけ》んだ。彼も目を凝《こ》らして砂ぼこりを引き連れてくる騎馬の一段を追いかけた。
(聖騎士……)複雑な思いが彼の中を駆《か》け巡《めぐ》っていった。パーンの目にも迫り来る白馬の一団が目にとまっていた。その何と美しいことか。白い風のごとき動きで、騎士たちは馬を駆《か》っていた。
慌《あわ》てて道を避《さ》けながら、パーンはそれでも心の中に生まれた微妙な感情の動きを押さえることができなかった。それは怒《いか》りにも近かったし、そしてもっと根底の部分では純粋な憧《あこが》れだったのだろう。
(オレのおやじは、この白い鎧《よろい》にどんな夢を託《たく》したのだろう)パーンは、自分の着る古ぼけた鎧を目で確かめた。それは白というより、もはや灰色《はいいろ》に近かった。胸の部分が、銀色に輝いているのは、彼の父親の不名誉《ふめいよ》の証《あかし》だった。雑貨屋のモートの言葉が思い出される。同時にあの時感じた羞恥《しゅうち》と怒《いか》りもよみがえってきた。
あの騎士と、オレとではどんな違いがあるのだろう。鎧の形が同じであるだけに、パーンはそれが悲しくも、また悔《くや》しくも感じられた。目の前で騎士たちの姿がどんどん大きくなっていくにつれ、同じように大きくなってくる自分の感情に、パーンは戸惑《とまど》いさえ覚《おぼ》えていた。
「どうしたの」ディードリットの心配そうな声が左の耳に流れ込んできた。その美しい音色にパーンは救われたような思いがした。
「なんでもないよ、ディード」パーンは優《やさ》しい表情をディードリットに送りながら、胸を張った。そのまま直立の姿勢を取ると、疾走《しっそう》する騎士たちに毅然《き ぜん》とした態度で向き直った。
騎士たちはパーンの前まで来ると馬の歩みを落とし、やがて完全に止めた。スレインとエトがうやうやしく頭を下げ、パーンは騎士の礼をし、それに応《こた》えた。
「おまえたち、いずこから来た」
騎士のうちの一人が一歩前に進み出て、そして詰問した。
「アラニアより参りました旅の者です。このたびカノンにて戦災に会い、慌ててこの地に逃げたのです」スレインは、頭を下げたまま言った。
「へへっ、その通りで」ウッドがすかさず調子を合わせた。
「ふむ、カノンの地より逃げてまいったと言うのか」騎士はうさん臭《くさ》そうに一行を眺《なが》めた。「話は分かったが、そのまま信用するわけにもいかんな。失礼する」
騎士はそう言うと、小声で祈りの言葉を捧《ささ》げた様子だった。スレインの耳にファリスのルーン語の響《ひび》きが聞こえてくる。
(さすがに聖騎士というところですか)スレインは感心した。この騎士は剣の腕前だけではなく、ファリスの魔法《ま ほう》にも長《た》けているのだ。いかなる魔法が使われようと、ファリスの力なら害はないだろう、スレインは納得して、そのまま動かなかった。だが、隣で畏《かしこ》まっていたエトははっとしたように顔を上げ、騎士の顔を厳しい表情で見据《みす》えた。
「魔法を使うとは、無礼でしょう。わたしの名はエト。アランのファリス神殿にて、正式な神官の地位を与えられている者です。いかに役目とはいえ、聖なる力を懐疑《かいぎ》のゆえに使うとは何という非常識な」
「これは失礼つかまつった。ファリスの神官殿がおられるとは、存じませんので。ですが、我らには急ぎの用あり、時間をかけているわけにもいかず、やむなくファリスの力に頼った次第です。もはや、あなた方に疑わしいところあらず、これ以後はどこに行こうとご自由。ご無礼の段、ご容赦《ようしゃ》願いたい。さらば」
騎士は言うと、先に進もうと馬の腹に蹴《け》りを入れた。
「急ぎの用とは馬車の一隊のことでしょうか」スレインが顔を上げて騎士を呼び止めた。
「なんだと」騎士は駆《か》け出そうとする馬のたづなを絞《しぼ》った。馬は、前足を上げていななき不平の意を表した。
「いえ、先程《さきほど》風変わりな馬車の一隊が通ったもので、わたしも不審《ふしん》に思っていたのです。あの者たちは何者なのですか」
「余計な詮索《せんさく》は無用に願おう。これは国家の大事ゆえ。そのこと、あまり公言せぬように願いたいものだ」
騎士はそれだけを言うと、今度はスレインが呼び止めるのも聞かず、まっすぐに馬を走らせた。白い稲妻《いなずま》が走り抜け、あとには舞い上がった砂ぼこりが、弱い夏の風に揺《ゆ》らめくだけだった。
「いったい、どういうことなんだ」パーンは、しばらく騎士たちを見送っていたが、その姿が小さくなると、紺色《こんいろ》のフードを上げようとしていたスレインに尋《たず》ねた。
「気になりますね。あの馬車の一行の様子といい、今の騎士たちの慌《あわ》てぶりといい」
「様子を見に行ったほうがいいかな」
「それはわたしが決めることではありませんね。私見を言わせてもらうなら、かかわらぬほうが得策ですよ」スレインは、感情を込めずにそう言った。内心ではその言葉にあまり期待してはいないのだ。いかに言おうと、パーンの性格はそれをはねつける。
「気になる。あの騎士は国家の大事と言った。それが、あの馬車の一隊と関係しているのだとすると……」
パーンはその場で腕を組み、深く考えに浸《ひた》っている様子だった。
「さあて、パーンが考え込んでしまった以上は、もはや結論は出たも同じだの。また、暑い日差しの中を逆戻《ぎゃくもど》りというわけか」
ギムはブツブツとぼやきながら、肩に担《かつ》いだ荷物の紐《ひも》を引っ張り上げ、ノソリと足を踏《ふ》み出した。
「まったく、面倒な話さ」ウッド・チャックもドワーフの後に続き、そしてパーンを振り返った。「何をしているんだ。どうせ、止めても行くんだろうが。考えるだけ無駄《むだ》だぜぇ」
「そういうことね」ディードリットは小走りに動き、パーンに手を差し延《の》べた。「行きましょう。悩《なや》むなんて、あなたらしくもないことよ」
「ひどいことを言う」パーンは真顔で不平を言ったが、体は反射的に動いていた。「オレだって、人並に考えもすれば、悩みもするさ」
「初耳だな」ウッドは高く笑った。
「急がないと、見失ってしまいますね」スレインは、顔を引きしめて前を見詰《みつ》めた。強行軍になりそうだった。
「われわれも馬が欲しいところね」先頭のディードリットが振り返って声を出した。太陽の光が、彼女の金髪《きんぱつ》を捕《と》らえ、虹《にじ》の輝きを見せながら、フワリと宙《ちゅう》を踊《おど》った。
「何、この音?」ディードリットが、急に立ち止まって尖《とが》った耳に両手を当てた。
「どうした、ディード」パーンはまわりを見て、何も変わったものがないのを確かめてから、ディードリットに尋《たず》ねた。
「しっ、静かにして、向こうから何か音が聞こえてくるの。鎧《よろい》の音を立てないでちょうだい」
パーンはあわてて、動きを止めた。律儀《りちぎ》に息まで止めて、物音を立てないように気を使う。後ろに従う残りの四人も、先頭の二人の様子に気がつき、歩みを止めてディードリットが聞き耳を立てるのを邪魔《じゃま》しないようにする。
エルフの耳の良さは名高い。彼らは、森の小動物が枯れ葉を踏《ふ》む微《かす》かな音さえも聞き分けると言われている。
「どうやら間違いないわ。争いの音よ。人の悲鳴《ひ めい》や、金属の打ち合う音が聞こえてくるわ」
「さっきの騎士たちが戦っているんだ! 急がないと」パーンは、ディードリットの言葉を聞くなりあわてて走り出した。「相手はおそらく馬車の一行だろう。数で劣っているとはいえ、傭兵《ようへい》などには負けないと思うが」
「分からないわよ、そんなこと。とにかく、急ぐのでしょう」
「もちろん」
「足手まといにならないようにね」ディードリットは皮肉っぽく笑って、軽やかにパーンの前に出た。元から身軽なのに加え、彼女はパーンより軽装なので、走る速さは問題にもならない。
パーンが重い鎧《よろい》に苦労しながら駆《か》けていくのに、スレインやウッドたちが追いつくのは、訳ないことだった。もっとも、さすがにギムだけは、絶対的に足が短いというハンディがあるため置いていかれた。
「いきなり駆け出すなよ」エトが、息を切らしながらパーンに呼びかけた。
「聖騎士たちが戦っているんだ!」
「状況を見極《みきわ》めたほうがよいと思いますよ」スレインも息を弾《はず》ませながらそう言った。
ディードリットは、気持ち良く走っていたのだが、いつの間にか後続との間が離れてしまったので、少し足踏《あしぶ》みをしながら、みんなが追いついて来るのを待った。かなりの距離を走ったので、戦いの音はさっきよりはっきりと聞こえてくる。目を凝《こ》らすと、街道《かいどう》の先に重なり合うように動く、いくつかの影が目にとまる。
「あれね」つぶやいて、ディードリットはその影を見詰めた。
パッと赤い輝きが起こったのは、ちょうどその時だった。と、同時にドーンという音が轟《とどろ》く。まるで、雪崩《なだれ》でも起こったかのような大きな音だった。なまじ聴力《ちょうりょく》が良いだけに、ディードリットはその音をまともに聞いてしまい、思わず悲鳴《ひ めい》を上げて、耳を押さえた。
「なんだ、今の音は? それに向こうに赤い光も見えたようだが」追いついて来たパーンが、耳を押さえてうずくまっているディードリットの肩を押さえ、叫《さけ》ぶように言った。視線は前方を見据《みす》えたままで、ちょっとした変化をも見逃すまいと神経を集中させる。
「わたしにも聞こえました」やっと、追いついたスレインが二人のそばに寄ってきた。「それに光も。いえ、光というより、おそらくあれは炎《ほのお》でしょうね。魔法《ま ほう》による炎に違いありません」
「魔法ですって。誰《だれ》がかけたのよ。馬車の護衛《ごえい》に就《つ》いていた戦士たち? それとも、ヴァリスの聖騎士たち?」ディードリットが、肩に置かれたままになっているパーンの手に何気なく手を合わせながら、目だけでスレインの姿を捕《と》らえ、尋《たず》ねてみた。
「分かるわけがありません。確かなのは、わたしがかけたものではないということぐらいですよ。今の炎の魔法は賢者《けんじゃ》の学院では禁忌《きんき》とされているものです。導師《どうし》か、それに準ずる資格のある者にしか伝授《でんじゅ》されていないはずなんです。姿を変えていないのであれば、今の二つの集団の中に賢者の学院で見かけた顔はいませんよ。それにわれわれ魔術師は、剣を帯びることを好みません。マーモのバグナードならいざ知らず」
「やつかな。奴が、馬車の中に乗っていたんじゃねぇか」パーンが、興奮《こうふん》して言った。
「馬車の中に乗ってたのは、女が二人だったろう。バグナードってのは女なのかい」
ウッドが両手を広げて、首をすくめた。
「待って、もう、戦いは終わったみたい。戦いの音は聞こえなくなっている」ディードリットがパーンの手を取ったまま立ち上がって静かに、言った。
「なんだって、で、どっちが勝ったんだ」
「無茶言わないでよ。音だけでそんな判断がつくものですか。ちょっと待って、風に尋ねるから」
「風? シルフですか? それならわたしが遠見の魔法を使いますよ。それが一番確実でしょうから」
「そんな便利な魔法を知ってるんなら、最初から使ってくれりゃいいんだ。別にもったいぶることもねぇだろう」
ウッドが呆《あき》れたような声を出した。「まったくだわい」と、ギムも同意の文句を言う。
「魔法はむやみに使うものではありませんからね」スレインは息を整《ととの》えながら、ゆっくりと古代語のルーンを唱《とな》え始めた。
2
スレインの呪文《じゅもん》の声が、静かに流れていった。遠見の魔法《ま ほう》は、人間の視力を数倍にも拡大し、見える範囲《はんい》を広げる効果《こうか》を持っている。ただ、慣《な》れるためにしばらく時間がかかるのが、やっかいなのだ。スレインは、何度か空を見上げたり、逆に目を閉《と》じたりしながら、自分の拡大していく視覚《しかく》を調整しながら、道の先に目を向けていった。
「これはひどい」そして、視覚の調整が終わった時、スレインは思わず声を上げた。
スレインの見た情景は、まさしく地獄《じごく》だった。地面に黒い染《し》みが広がっていて、その染みの中に黒焦《くろこ》げの死体がいくつもいくつも転《ころ》がっている。辺《あた》りには白い煙が立ちのぼり、肉の焦げる不快な臭《にお》いさえも感じられるようだった。
スレインは視点を変え、今度は馬車の周囲に目を向けた。そこには紫色《むらさきいろ》のドレスをまとった女性が一人立っていた。彼女はまわりの男たちに何事か指示をしているらしく、忙しそうにあちらこちらに向きを変え、そして手を激しく動かしている。
(この女が、魔法を使ったのかもしれない)と、スレインは思った。彼女は明らかに古代王国の工芸品と分かるサークレットを額《ひたい》にはめており、指にも飾《かざ》りの役を果たしていない、無骨《ぶ こつ》な指輪を数個はめていた。それに右手に持っている杖《つえ》、その杖は賢者《けんじゃ》の杖でこそなかったが、良質の樫《かし》の木を素材に作られており、それに種類までは判別できなかったが、ルーン文字も彫り込まれていた。
「どうなんだ」パーンの声が聞こえてきた。一度視線をはずすと、また視線を合わせるのに苦労すると考え、スレインは女を観察《かんさつ》したまま声だけで、パーンに答えた。
「魔法ですね。ヴァリスの騎士《きし》たちは全員倒されてしまったようですよ。今、動いているのは、馬車の一行の戦士が四人と、もう一人女性の姿ですね。奇麗《きれい》な顔をしていますが、この人がどうも魔術師のようです。でも、恐るべき力だ。炎《ほのお》の魔法の一撃だけで、ヴァリスの騎士を全滅《ぜんめつ》させてしまうなんて」
パーンは信じられない気持ちで、スレインの言葉を聞いた。「そんな、馬鹿な」絞《しぼ》り出すような声をあげた。
「でも、真実です」スレインは、冷たく答えた。
スレインは、馬車の周囲の状況を一通り観察した後は、なおも命令を下し続ける女だけに注意を払った。彼女はスレインよりも少し若く見える。もちろん、魔術師、特に女の魔術師の外見をそのまま信用することはできないが、彼女の動きには躍動《やくどう》感が感じられた。姿形は変えられても、身についた動作はなかなか変えがたいものだから、もしかすると外見のとおり、本当に若いのかもしれない。いずれにせよ、恐るべき力を秘《ひ》めた魔術師である。こんな力を持った魔女の存在を、自分が知らなかったとは。いや、しかし、その顔にはどこか見覚《みおぼ》えがある。それも、遠い記憶《き おく》ではない。
スレインは女魔術師の端正《たんせい》な顔に意識を向けたまま、その片方で記憶をどんどんたどっていった。
「思い出した」スレインは思い出したと同時に大声で叫《さけ》んでいた。「今、わたしが見張っている女は、アランの廃屋《はいおく》で見た肖像画《しょうぞうが》の女ですよ。紫色《むらさきいろ》の服、それにサークレット、間違いない。確かにあの女です。名前はカーラとかいったのではなかったかな。ギム、覚えているでしょう。あなたが、見とれていたあの絵の女ですよ」
「……知らんぞ。そんな絵のことは。まして今わしの目には見えていないのだから、確認《かくにん》のしようもないわ。それより、現場に急ごうではないか。その女は敵なのだろう。逃げる前に捕《と》らえないといかんのではないのかな」ギムは少し間をおいてから、スレインに答えた。そして、戦斧《せんぷ》を肩から外《はず》す。
「そうだ。マーモの手先に違いない。何かの理由で、このヴァリスに入り込んでいたのだろう。聖騎士たちが追いかけて来たぐらいなんだから、何かとてつもないことをしでかしたに違いない」パーンは、ハッとして走り始めようとした。
「お待ちなさい!」スレインが珍《めずら》しく鋭《するど》い言葉を発し、パーンの動きを制した。魔法にかけられたように、戦士の動きが止まる。
「このまま、のこのこ行ってどうするというのです。あの人たちと戦うつもりですか? およしなさい、われわれの手に負える相手ではありませんよ。五人の聖騎士が破れたということを忘れてはなりません」
「しかし……」パーンは言い返そうと振り返り、スレインの顔を見た。しかし、いつになくその表情が厳《きび》しいのを知って、後を続けることができなかった。
「命を捨てたいなら止めません。ですが、無駄《むだ》に死んでゆくことは勇気ではありませんよ。生きて目的を成し遂《と》げることこそが重要なのです。今は我慢《がまん》なさい、そして、機会をうかがうのです」
「そして、機会をつかめぬまま、逃げられてしまうのかね」答えたのはパーンではなく、ギムだった。彼はのそりとスレインに近寄り、静かだが力強い言葉で魔術師の細い体を揺《ゆ》さぶった。
「まさか。今は機会ではないと言っているだけですよ。しかし、なぜあなたまでがそんなにむきになるんです。おかしいじゃないですか、パーンなら知らず」スレインは意外なところからやってきた反撃に少なからず戸惑《とまど》いを見せていた。
「わしには、わしの考えがある」ギムはボソリと言い、そしてクルリと向きを変えるとドスドスと走り始めた。パーンはスレインの顔を申し訳なさそうに一瞥《いちべつ》してから、後を追い始め、ディードリットとエトも黙《だま》ってそれに続いた。
「嫌《きら》われたものだな、魔術師さんよ。だが、あんたの考えは正しいぜ。オレたちは後からゆっくりと行くとしようや」
いつのまに近寄って来たのか、ウッド・チャックが後ろで影のようにささやいた。その声はスレインには、まるで自分の中の邪悪《じゃあく》な魂《たましい》が呼びかけているように聞こえるのだった。
「そうは、いきませんよ」スレインは答え、そのまま走り出した。後ろは振り返らなかった。もし、振り返れば、己《おのれ》の影に捕《と》らわれてしまう、そんな気持ちさえした。
「同じ間違いは二度と繰り返しませんよ」スレインは色が変わるほど強く唇《くちびる》をかみ、賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を握《にぎ》りしめていた。視界を妨《さまた》げるフードを脱《ぬ》ぎ、顔を夏の日差しの中にさらす。かなり傾《かたむ》き始めてはいるものの、白い爆発にも似た光が、スレインの目を焼き、そして熱気が彼の肌《はだ》をなぶった。スレインは目を細めて、その光と熱とに耐《た》えると、パーンたちに追いつこうと懸命《けんめい》になって走った。
(みんなおめでたい奴ばかりだな)ウッドは心の中でつぶやきながら、一行から少し離れた後はゆっくりと走っていくことにした。
幸運だったのか、それとも不幸だったのか、スレインの心配はとにかく現実のものにはならずにすんだ。パーンたちが惨劇《さんげき》の現場に着いた時には、すでに馬車の影はなく、街道《かいどう》の彼方《かなた》に姿を消していたのだ。
ギムはなおも追いかけようと主張したが、パーンはその惨状を放っておいて、先に進むことはできなかった。それに今更《いまさら》走っても、馬車に追いつくのは難しい。
夜には野営もするだろうという、スレインの言葉にギムもやっと納得《なっとく》した。(あくまで馬車の一行と対決する気なのですね)と、スレインは覚悟《かくご》を決めねばならなかった。破壊《は かい》のために魔法を使う覚悟だ。スレインもまた炎《ほのお》の魔法の掛け方は知っているのだ。
パーンは、破壊の現場のあまりのむごたらしさにしばらく言葉を失っていた。ディードリットは、そのパーンの背中に隠《かく》れるように身を縮《ちぢ》めながら、顔だけを覗《のぞ》かせていた。パーンの肩当てに寄せられている小さな手が、微《かす》かに震《ふる》えているようにも見えた。彼女は顔をしかめながら、小さくエルフ語で祈りの言葉をつぶやいていた。
地面が炎に焼かれ黒く変色していた。その中に倒れている姿は七つ。うちの五つがヴァリスの騎士《きし》の鎧《よろい》を身に着けていた。
エトが屈《かが》み込んでその一人一人を調べてまわっている。いつもは、温和なその顔が怒《いか》りと哀《あわ》れみのために歪《ゆが》められている。
ヴァリスの騎士たちは全身を高熱の炎で焼かれ、息絶えていた。凄《すさ》まじい熱気だったに違いない。皮膚はただれ、触《ふ》れるとその黒焦《くろこ》げの肌《はだ》がめくれ、ズルリと赤い肉が顔を覗《のぞ》かせるのだった。まぎれもない怒りが彼の心に満ちる。(あの者たちは、ファリスの名の元に、正当なる裁きにかけねばならない)エトは心の中で激しく叫《さけ》んでいた。
最後の一人の体に触れた時、その男の体がまだ温かいのを感じて、エトの怒りが一瞬《いっしゅん》とけた。よく見れば胸もわずかに上下しているようだ。「この人は生きていますよ!」
エトの叫び声を聞いて、残りの五人も走り寄って来て、エトのまわりを取り囲んだ。
「息さえあれば、僕《ぼく》の力でなんとかできるかもしれない」エトはそう言いながら、心配そうに見ているパーンの顔を見上げて、目で合図を送った。
パーンはうなずいた。「オレたちは下がっておこう。これはエトの仕事だ」
ディードリットは、不満そうな様子を見せたが、「エトはファリスの魔法《ま ほう》を使うのですよ」というスレインの言葉に納得して、引き下がった。
「オレたちは不幸な騎士たちの骸《むくろ》を埋葬《まいそう》しよう。このまま放っておくわけにはいかないからな」
パーンの言葉にギムは無言でうなずくと、肩から紐《ひも》をはずして戦斧《せんぷ》を取り出した。刃の付いている側の反対は先端《せんたん》が細く尖《とが》った爪《つめ》のような形をしているのだが、そちらの側を下に構えると、適当な場所を選んで斧を振り上げ、地面にたたきつけた。ザクッと鋼《はがね》の爪が地面に食い込み、土の固まりが砕《くだ》けていった。パーンは、近くから木板を拾ってきて、砕けた土を掘り出していく。小さな穴が空《あ》き、そしてその穴はゆっくりと大きくなっていった。
スレインは大地に腰を下ろすと、できるだけ破壊《は かい》の現場を見ないように街道《かいどう》に対して背を向けて、のどかに広がる畑の景色にぼんやりと目を向けた。彼の頭の中でいくつかの疑問《ぎ もん》が渦巻《うずま》いていた。一つは、もちろんあの女魔術師のことであり、もう一つはギムの言動だった。ギムは、あのアランの廃屋で、確かに肖像画《しょうぞうが》に見入っていたではないか。あれほど熱心に見ていたものを、忘れるというのは、どう考えてもおかしい。それに、いつもは何事につけ無関心なギムが、今はまるでそれが自分の使命だとばかりに、先頭にたって行動しようとしている。しかし、ギムがなぜマーモの配下に執着《しゅうちゃく》する理由があるのだろう。スレインには皆目《かいもく》見当もつかなかった。考えてみれば、地中の生活と己《おのれ》の作り出す細工物だけによろこびを見いだすドワーフが、旅に出るというのもおかしな話ではある。確か最初にギムがわたしの家を尋《たず》ねた時には、何か調べ物をしているようだった。それは謎《なぞ》に関する記述だったり、ロードス各地の地形図だったように思う。
(ギムは何か目的を持って旅に出たのではないだろうか。そして、今、その手掛かりを見つけたのでは?)
スレインは、厳《きび》しい表情を浮かべたまま斧《おの》を振るうギムの姿を、そっと観察《かんさつ》し続けた。
エトの呪文《じゅもん》の詠唱《えいしょう》の声はいつまでもやむことなく続いた。その間に、ギムとパーン、それにディードリットも手伝って、倒された騎士《きし》を埋葬《まいそう》するための穴は、次々と完成していった。穴に一体ずつ、騎士たちの亡骸《なきがら》を運び込み、土をかぶせ、その後に彼らが手にしていた剣を突き立て、墓標《ぼひょう》とした。少し離れた場所に、馬車の一隊の戦士の死体も埋《う》め、同じように埋葬する。そうした陰鬱《いんうつ》な作業が続く間に、太陽は大地にその姿を隠《かく》そうとし始め、空の青さが急速に抜けていった。
「この魔術師は仲間を巻き込んでまでも魔法を使ったんだな」パーンが憎しみを込めて言った。
「でもなかったようよ。わたしも死体を調べてみたけど、馬車の戦士の死因はどうやら、刀傷《かたなきず》のようだったから、ヴァリスの騎士に倒された後に魔法をかけられたのだわ。地面に接していた側は、焼けてはいなかったもの」
「いかに死体とはいえ、仲間に対して魔法を使うなんてオレは許せない」
「それ以上に魔法は、破壊《は かい》のために使うべきではありませんよ。それより、これからどうします?」スレインがパーンに尋《たず》ねた。
「もちろん、先に進むさ」パーンが当然だとばかり宣言《せんげん》した。ギムが隣で、相槌《あいづち》を打つ。
「本気なのですね」スレインが静かに尋ねた。「相手はこれほどの数の騎士を一撃で倒してしまうほどの魔法の使い手なんですよ。こう言ってはなんですが、勝てる自信があるんですか」
「それはない」パーンは苦しそうにうめいた。「だが、このままあいつらを放っておいていいわけがない」
「あいつらを倒すのはいいとしてよ。報酬《ほうしゅう》はどこから来るんだい?」ウッドが白けたように、パーンに言った。「ただ働きはごめんだな」
「報酬は自分の心から来るよ」
背後でエトの声がそう答えた。ウッドは振り返りエトを見た。彼はかなり疲労《ひ ろう》している様子で、魔法に使った労力の激しさを物語っていた。だが、その甲斐《かい》はあったようだ。彼の後ろには苦しそうにはしているものの、なんとか自力で立っている騎士の姿があった。パーンの表情が喜びで輝く。
「そして報酬は、ヴァリス国王からも出る」彼は静かに言った。
「理由を話してくれますね」
パーンは騎士に尋ねた。騎士は無言でうなずき、そして静かに語り始めた。
「わたしはヴァリスの近衛《こ の え》隊の者で、フィアンナ姫の護衛《ごえい》する任務にあった」
「フィアンナ姫だって! ヴァリスの王女じゃないか」パーンは驚《おどろ》いたように叫《さけ》んだ。ディードリットがそれを鋭《するど》くたしなめ、彼を黙らせる。
「そおとおりだ。フィアンナ姫はファーン王のたった一人の娘であり、ヴァリスの王女陛下であらせられる。今度の戦いが始まった時、姫はたいそう心を傷《いた》められ、前線で戦う兵士たちを激励に行きたいと仰せられてな。もちろん、王を始めとして、城のすべての者がそれに反対した。ところが姫はあろうことにか、城を抜け出してしまっっというわけなのだ」
「それで捜索隊《そうさくたい》として、あなたがたが駆《か》り出されたわけなのね」ディードリットは、騎士の話が切れるのを待って、そう尋ねた。
「そういうことだ。姫は城を抜け出す時にある商人の手引きを受けたらしくてな。その商人というのが、怪しげな女で、われわれはその後を追ったのだ。ようやくその隊商に追いつき、姫を連れ戻《もど》そうとしたのだが、結果はご覧《らん》のとおりのぶざまなものだ。手向かう隊商の護衛を数人切り倒し、いざ馬車から姫をと思ったとたん、馬車の中から女が現れたのだ。女が怪しげな言葉を唱《とな》えた途端、恐るべき炎《ほのお》がわれわれのまわりで爆発し、わたしは馬から吹き飛ばされ、全身が焼けつくような傷《いた》みの中で不覚《ふ かく》にも意識を失ってしまったというわけなのだ」
「報酬《ほうしゅう》が出るという話は本当だろうな」ウッドが騎士の顔を覗《のぞ》き込むように尋ねた。
「もちろん、無事助けだすことができたなら報酬は約束しよう。望みの額を言ってくれればおそらくかなえられるはずだ」
「それを信じる以外に救いはねぇな」ウッドは手を上げて、自分の荷物を拾いに戻《もど》った。(オレもおめでたくなったもんだな)
「かたじけない」騎士は一同に礼をした。そして顔を上げると、口元を引きしめ、すっかり闇《やみ》に覆《おお》われた街道《かいどう》を、馬車の一行が消えていったほうをにらみつけた。その闇の中に女の姿が見えてでもいるような、憤怒《ふんぬ 》の形相《ぎょうそう》だった。
パーンもその思いに及ばない者も、胸の中に燃《も》えたぎる炎は同じだった。
その様子をディードリットは不思議《ふしぎ》そうに見詰《みつ》めていた。なぜ、パーンは自分のものではない恨《うら》みにまで腹を立てられるのだろう。そのために、命をかけようとするのだろう。
闇は自分はともかくパーンたちが歩きづらそうだなと、彼女は|光の精霊《ウィル・オー・ウィスプ》を呼び出すために、しかるべき呪文《じゅもん》の言葉を唱《とな》え始めた。
「光の中にすまいし、輝ける者よ。集《つど》いてその姿を現せ」ディードリットの呪文の声に応じて、小さく弾《はじ》ける光の球《たま》がうっすらと浮かび始めた。そしてその輝きは次第に明るさを増していった。
隣でスレインも杖《つえ》の先に魔法の光を灯《とも》している。二つの魔法の明かりに照らされ、一行はまだ肉の焼ける臭《にお》いの漂《ただよ》うその場を後に、カノンへと向かう街道《かいどう》を緊張《きんちょう》しながら、進み始めた。
3
パーンたちは、馬車の一行の後を追い、街道を東に進んでいった。そして、その姿を見つけることができたのは、かなりの時間が過ぎ去ってからのことだった。
馬車は一軒《いっけん》の古びた館《やかた》の前に停《と》められていた。二階建てのしっかりとした造《つく》りで、館の周《まわ》りに柵《さく》が作ってある。騎士《きし》の話ではこの近くのヴァリスの民はすでに戦火を逃れるために留守《るす》のはずだということだった。おそらくそれを知っていて、逗留《とうりゅう》の場所に使ったのだろう。
見ると馬は車から離され、安心した様子で寝藁《ねわら》の上に横になっている。
「油断をしているようですね。好都合です」スレインはそう言った後、小さな声で何事かつぶやき、吹き消すように杖《つえ》の明かりを消した。ディードリットも|光の精霊《ウィル・オー・ウィスプ》を呪文《じゅもん》の束縛《そくばく》から解き放った。かりそめの命を与えられていた小さな光の精霊《せいれい》はまるで、お辞儀《じぎ》をするように二、三度|揺《ゆ》らめくと形を失い、闇《やみ》の中に散華《さんげ》していった。パチパチという音が弾《はじ》けていく。
「さて、どうします騎士殿」パーンが横目で騎士を見ながら、スラリと剣を抜き放った。
「小細工《こざいく》は不要だろう。一気に駆《か》け込んで、敵の寝込みを襲《おそ》えば、勝機は十分にある」
彼は両手に大剣を構えると、視線を館の入り口に向けたまま息を整《ととの》えている様子だった。
辺《あた》りは彼らの鎧《よろい》のたてるカチャカチャというかすかな音以外には何の物音もなく、不気味に静まり返っていた。館の入り口からは微《かす》かに光が漏《も》れているのが解る。どうやら見張りは起きているようだ。
騎士はゆっくりと前に進み始めた。パーンとギム、ディードリットもそれに続く。残りの三人はその後、少し離れてから歩き始めた。
「気をつけて下さい」スレインが小声で言う。言いながら、スレインは手に汗がにじんでいるのを感じていた。それもやむを得ないだろう。自分より遙《はる》かに強力な魔術師に戦いを挑《いど》もうというのだから。
十分な距離まで近づいたのを見計らって、騎士が剣を振りかざし走り始めた。その物音に目を覚《さ》ました馬たちが甲高《かんだか》くいなないた。彼は勢いをまったく落とさず、扉《とびら》を蹴破《けやぶ》ると素早く中の様子を見渡した。続いて、パーンとディードリットが部屋に駆け込み、少し遅れてギムが入った。二人の見張りが呆然とした顔で、飛び込んできた四人の顔を眺《なが》めた。そして、慌《あわ》てて剣を拾い、立ち上がる。
「この見張りはオレとディードリットでかたをつける。あなたとギムは階段を上がって下さい」
パーンは楯《たて》を構えて、向かってくる二人の敵をにらみながら叫《さけ》んだ。彼は左の男を相手と見定め、剣を軽く振って相手を挑発《ちょうはつ》する。ディードリットが右に回り込んで、レイピアを右の戦士の胸元に向かって突き出した。
二人が剣での切り合いに入った時、騎士とギムは階段を駆《か》け上がっていた。二階は回廊《かいろう》のようになていて一階の部屋の壁沿《かべぞ》いに突き出ていた。その回廊の右側に五つ扉《とびら》がついている。
そのうちの一つがバタンと開いて、中から夜着姿の女がゆらりと現れた。彼女は階下の様子を確かめてから、駆け寄ってくる騎士とドワーフに注意を向けた。
馬のいななく声がして、カーラは目を覚《さ》ましたのだ。日ごろの鍛錬《たんれん》からすぐに、意識が鮮明《せんめい》になる。
(侵入者《しんにゅうしゃ》かしら。ヴァリスの兵?)カーラは毛布をはねのけ、手近に置いてあった象牙色《ぞうげいろ》のガウンを薄い絹《きぬ》の夜着の上に羽織《はお》った。紐《ひも》をくくり終える間もなく、階段を駆け上ってくるドタドタという音が聞こえてきた。
カーラは諦《あきら》め、そのままの姿で、扉を開けて、廊下に飛び出た。
どうやら昼間の生き残りらしいヴァリスの騎士と、もう一人ドワーフが戦斧《せんぷ》を構えて、彼女のほうに向かってきている。カーラはこの状況《じょうきょう》に冷静に対処しなければならないと考えた。向かって来る二人のうち、おそらく騎士のほうが腕が立つだろう。あの男は確かに昼間倒したはずだった。自分の使った炎《ほのお》の魔法《ま ほう》に出会ってさえ生きていられるほどの生命力の持ち主だ、油断のできない相手といえた。
(ならば、わたしの持てる最大の魔法で葬《ほうむ》りましょう)カーラは両腕をさっと上げて、複雑な形に踊らせた。そして、古代語のルーンを唱《とな》える。
「万物を形造りし元なる物質よ、己《おのれ》が姿を思いだせ! 偉大なるマナの力を借りて、すべての交わりを断つがよい!」
そして両腕をまっすぐに差し出す。
光の線が、彼女の差し出された腕の先から飛び、まっすぐに騎士の体に命中した。
騎士はカーラの放った光をまともに受け、その瞬間《しゅんかん》、彼の姿は光を発すると一瞬のうちに掻《か》き消すようになくなっていた。
ギムは隣で騎士が光を発して消えてしまったのを見て、戦慄《せんりつ》を覚《おぼ》えた。だが、彼はひるまなかった。もはや、次の呪文を用意している時間は残っていないはずだ。ならば、鎧《よろい》も着けていない女など、彼の戦斧《せんぷ》の一撃でかたがつくはずだ。ギムは十分な間合いに踏《ふ》み込んでから、女の頭を狙《ねら》った。女はその攻撃を十分に予想していたらしい。軽く後ろに飛びのいて難なく逃れ、態勢《たいせい》を立て直すと次の呪文《じゅもん》の言葉を唱《とな》え始める。
「レ……」慌《あわ》てて後を追おうとしたギムの動きがピタリと止まり、口が微《かす》かに開いた。だが、その時には女の魔法は完成していた。
パッと白い雲のようなものが、浮かび上がった。ギムはその雲に包まれるとそのままバッタリと前に倒れ込んだ。
「ギム!」スレインはその光景を、見ていた。無駄《むだ》とは知りながらも、眠りの雲の呪文を唱えようとする。
女は階下のローブの男が自分に魔法をかけようとしているのを見た。簡単《かんたん》な眠りの魔法だ。見張りの二人は倒されている。手の空《す》いた戦士が二人、こちらに駆《か》け上がろうとしている。残りはどこかの神官とそれに懸命《けんめい》になって隠《かく》れ場所を探《さが》している無力な盗賊《とうぞく》だ。
殺してしまう必要もない。
カーラの次の呪文はドワーフを倒した時と同じだった。再び白い雲が湧《わ》き上がり、階段からゆっくりと一階に広がっていった。その煙りに巻き込まれて、パーンとディードリットが、ついでスレインが倒れた。ウッドも自分の隠れ場所が見つからないように願いながら、ちぢこまった態勢で、そのまま意識を失った。
エトも体が重い鉛《なまり》に変えられたように、膝《ひざ》からゆっくりと倒れ込んだ。そのまま、頭を襲《おそ》う暗黒と戦いながら、彼は気力をふりしぼった。このまま意識を失って運命を委《ゆだ》ねてしまうことは彼にはできなかった。たとえ、このまま朽《く》ち果てるにしてもそれは自分に起こることをすべて見届《みとど》けてからだと考えていた。
彼は頭の中でファリスの祈りの言葉を唱えながら、自分の指先を見詰めた。聖なる力を体内に蓄《たくわ》え、魔法に抗しようと試《こころ》みる。指先にも感覚はまるでなくなっていた。全身の神経が寸断《すんだん》されたようだ。苦痛ではない、いや苦痛さえ感じられないのだ。エトは、その無感覚が意識を犯《おか》さぬように、ファリスへの祈りの言葉を頭の中で浮かべた。
そして、エトはこの戦いに勝利した。彼はついに意識を失うことなく、魔法に耐《た》えてみせたのだ。だが、そのまま動かぬふりをする。止どめをさそうという様子さえなければ、そのほうが得策だと思えたからである。
カーラは倒れた侵入者《しんにゅうしゃ》たちを見下ろしながら、ゆっくりと階段を降りた。ようやく準備《じゅんび》を整《ととの》えたのだろう、残った二人の傭兵《ようへい》たちが、武器を手に一階の奥の扉《とびら》から姿を現した。そして、目の前にある光景に息を飲む。
「これは、カーラ様」
「見てのとおりよ。あなたたちも傭兵なら、大事の時はすぐに駆《か》け出せるようにしておきなさいな。わたしが目覚《めざ》めるのが遅ければ、あなたたちもこうなっていたはずよ」
カーラは死んでいる二人の傭兵を首を振って示しながら、冷たい声を出した。
「とにかく、このままにしておくわけにもいきません。魔法《ま ほう》の効果《こうか》は永遠に続くわけではありませんからね。この侵入者たちは、二階の空《あ》いている部屋に閉《と》じ込めておきなさい。武器は取りあげ、別の部屋に置いておくこと。それと娘の隣の部屋は使わぬように気をつけなさいな」
これで、この侵入者たちは大丈夫だろう。殺してしまってもいいが、放っておいても問題はない。魔法で閉じ込めておきさえすれば、われわれが安全な所に行くまで、手出しはできぬはず。いや、おそらくそんな気力も残っていないだろう。
それよりも、これから先どうするか。護衛《ごえい》の傭兵はすでに二人になってしまっている。このままでは娘を連れて、ヴァリスの前線を突破するのは難しいように思えた。部下の損耗《そんもう》を避《さ》けるため、今回は傭兵《ようへい》たちを雇《やと》うことにしたのだが、このままでは心もとない。やはりカノンに帰り、自分の配下を連れて来るほうが得策だろう。侵入者たちさえその気になってくれれば、仲間として迎えるのもいい。今の手際《てぎわ》はなかなかに良かったし、それにエルフや魔法使いまでいる。|魔法の使い手《ルーン・マスター》が少なくなっている今、魔術師は一人でも多く必要だった。
ただの冒険者《ぼうけんしゃ》たちなら、とカーラは説得の言葉を考えた。富、名誉《めいよ》そんなもので彼らは喜んで味方につくだろう。もし賢明《けんめい》ならば、彼女が戦う真の意味を理解してくれるかもしれない。その者たちはきっと心強い味方になってくれるだろう。彼女はそういった手下を何人か持っていたが、今は各地に飛んでいてそれぞれの使命を果たしているはずだった。アラニアでは魔術師のアキムが国王暗殺に失敗したようだが、今回はどうやら無事に目的を達せられそうだった。フィアンナ姫をさらったことで、対ヴァリスの戦局は有利に働くだろう。ファーン王は娘がさらわれたとしても、それに心を動かすような人物ではない。正義のためなら、娘の命さえ顧《かえり》みないだろう。だが、聖騎士にしてみれば、そう簡単《かんたん》に割り切れたものではない。少し揺《ゆ》さぶりをかけるだけで十分だ。彼らは決していつもの力では戦えないようになるはずだ。
それより今は、配下の兵を頼むことが先決だった。カーラは決心すると、残った二人の傭兵の所に行くために階段を昇《のぼ》った。二人は最後に残っていた長身の盗賊《とうぞく》を運び込んで部屋から出てきたところだった。
「終わりましたぜ、カーラ様。で、これからどうしやす」下品な声だった。しかし、彼らは腕はまあまあ立つし、それに正当な報酬《ほうしゅう》さえ払えば、決して雇《やと》い主《ぬし》を裏切ったりはしない。またそういう人間を選んでカーラは雇ったのだ。「このままヴァリスの国境を抜けるのにはかなり危険があります。前線にはヴァリスの兵士がたくさんいるはずですし、それにわたしたちのことも伝令で行き渡っているかもしれません。万が一のことを考えると、護衛《ごえい》はもっとたくさん必要でしょう。そこで、わたしはいったんカノンに帰り、仲間を呼び集めて来ようと思う」
「それは分かりますが、で、オレたちはどうしてればいいんで」
「心配なく。わたしはすぐに帰って来ます。それまで、あなたがたはここで娘と侵入者の番人を務《つと》めてくれれば十分です。侵入者の部屋には魔法で護衛を召喚《しょうかん》しておきますし、世話も必要ありません。ただ、娘だけは大事がないようくれぐれも気をつけて。それと、もしヴァリスの兵に襲《おそ》われた場合は逃げるか降伏するかしなさいな。そういう事情ではわたしはあなたがたを責《せ》めはしませんし、牢《ろう》から出すことも約束しましょう。でも、それ以外の理由でこの場を離れた時には、たとえどこに潜《ひそ》もうともあなたたちの命はないものと思いなさい。わたしはそういうことが許せない性格なのです」
男たちは息を飲み、分かったと答えた。
「そうお願いするわ」カーラは二人の不安を取り除《のぞ》くように、にっこりと笑った。「じゃあわたしは準備《じゅんび》をした後、すぐに出発するわ。そのほうが早く帰って来られるから。あ、それと侵入者たちを閉《と》じ込める部屋の開《あ》けかたも念《ねん》のため教えて置きましょう。万が一の時には、不利な証拠《しょうこ》は残さないに限るから。そうね、ラスタと唱《とな》えなさい。そうすればこの扉《とびら》は開きます。逆に言えば、この言葉を唱えない限り、決してこの扉は開きません。力で開けようとしても、扉を壊《こわ》そうとしても無駄《むだ》。この扉は魔法によって鋼鉄《こうてつ》よりも固くなり、そして一つの岩を開けることができないように、強く閉じてしまうはずです」
カーラは二階に上がり、侵入者を捕《と》らえて放り込んだ部屋の前に立つと、呪文《じゅもん》を二つ唱えた。一つ目の呪文で、扉はゆっくりと閉まった。二つ目の呪文では、彼女は髪《かみ》に止めていた竜《りゅう》の牙《きば》を取り出し、それを廊下《ろうか 》の床《ゆか》に放り投げた。牙は弾《はじ》けるように消えうせると、代わりに白い固まりがむくむくと起き上がってきた。それは、一体の武装した骸骨《がいこつ》で、剣をだらりと下げたまま立ち上がると、そのままの姿勢で動かなくなった。
「なんですか、こいつは」恐慌《きょうこう》をきたして傭兵《ようへい》たちが逃げ腰になる。
カーラはその骸骨に得体《えたい》の知れない言葉で話しかけた。
「大丈夫よ。この骸骨の戦士はあなた方は決して襲《おそ》いません。竜牙兵《りゅうがへい》は単純な命令しかこなせませんが、剣の腕だけならきっとあなたたちよりも上のはずですよ。それにこの戦士は恐怖《きょうふ》を知りませんから」
二人の傭兵は不気味な骸骨の戦士の姿に圧倒され、侮辱《ぶじょく》されたとも思わなかった。二人は顔を見合わせ、けっしてこの部屋には近寄るまいと無言で合図をした。
「じゃあ、わたしは参ります。くれぐれも気をつけるように」
カーラはそう言い残すと、自室に戻り、支度《したく》を整《ととの》えている様子だった。そして、出てきた時には、すでに紫色《むらさきいろ》のドレスをまとっており、右手に杖《つえ》を握《にぎ》っていた。彼女は血で汚《よご》れた一階の広間まで出ると、激しい身振りと共に呪文の言葉を紡《つむ》ぎ出した。そしてその呪文を唱え終わった時、彼女の姿はその場から消えていた。
二人の傭兵は深く溜息《ためいき》をついて、かつて仲間だった死体を片付け始めた。
4
話し声が聞こえなくなるのを待ってから、エトは起き上がり、あたりを見回した。体中に魔法《ま ほう》によって受けたしびれがまだ残っている。それに歩きづめだったのと、何回も魔法を使ったため、彼は心身共に激しく疲労《ひ ろう》していた。
だが、今はそんなことを気にしている時ではない。一刻も早くこの状況《じょうきょう》から抜け出さねばならないのだ。カーラと呼ばれた魔法使いと、二人の手下の話は残らず聞いた。脱出するなら今がチャンスなのだ。
だが、一人では何もできない。エトは残りの仲間が目覚《めざ》めてくれるのを待つことにした。確かめてみるまでもなく、みんなが生きていることは分かっていた。静かに息をする音も聞こえているし、胸も微《かす》かに上下している。ただ、魔法に倒された以上は、自然に起きるのを待っているほうが良いだろうと思われた。エトは座り込んだまま、膝《ひざ》を抱《かか》え自分の考えに浸《ひた》り込んだ。
あのカーラという女は、マーモの手先であり、ベルドのためにヴァリスで暗躍《あんやく》していたようだ。しかし、あれほどの魔法の使い手をスレインは知らないという。マーモにはもう一人、バグナードという名の魔術師《まじゅつし》がいるそうだが、もしかするとその人本人が正体を偽《いつわ》って女に化《ば》けているのかもしれない。
その真偽《しんぎ 》はともかく、自分たちがそのたくらみに二つもかかわってしまったということは驚《おどろ》くべきことだ。神の与えた試練《し れん》かもしれない、エトは神官としてもっとも常識的な答えで満足した。ファリスはわたしと共にいる。その考えはエトの疲れた心を何より癒《いや》してくれるのだった。
ギムが意識を取り戻《もど》したのは、それからたっぷり二時間もたってからのことだった。ついでディードリットが目覚め、さらにパーン、スレイン、ウッド・チャックの順に意識を取り戻した。
エトは全員が揃《そろ》うのを待って、仲間に自分の聞いたことをすべて話した。
「これからどうしようか」話し終えてから、エトはパーンに尋《たず》ねた。
パーンはまだもうろうとしている頭を振って、意識をはっきりさせようとした。
「そうね、やるとすればすぐでしょうね。今は残りの二人も疲れて眠っているはず。起きているとしても一人だけのはずね」ディードリットは、肩当てにまだ短剣が止められているのを確認《かくにん》して、引き抜くとその刃《やいば》の先を見詰めた。
「武器がそれじゃあ、ちょっと辛《つら》いんじゃねえのか」ウッドがディードリットの短剣を見ながら、大きく伸《の》びをした。「表の骸骨《がいこつ》野郎は強いんだろう」
「竜牙兵《りゅうがへい》ですか? 並みの戦士より余程《よほど》腕が立ちますよ」
だからこそ、賢者《けんじゃ》の学院でも番兵として、使っていたのだ。スレインは、扉《とびら》まで静かに近寄って隙間《すきま》から外を覗《のぞ》き見た。そこには確かに武装した骸骨が空洞《くうどう》の目でこちらを見張りながら、立っていた。
「本物の竜牙兵ですね」
スレインはそう言って振り返った。
「だが、やるしかあるまい」パーンは立ち上がって拳《こぶし》を握りしめた。
「これは武器になりそうじゃよ」ギムがベキッという音を立てて、部屋の中に置かれていたテーブルの脚《あし》をへし折った。「頼りなさそうじゃが、これでも棍棒《こんぼう》の代わりくらいにはなる。いずれにせよ、何もないよりはましじゃ」
パーンは二本受け取り、もう一本はエトが引き受けた。ディードリットはそれより短剣のほうが、と断《ことわ》ってその短剣を右手に構えた。
「骸骨には通じそうにもないけれどね」ディードリットはそのまま流れるように扉の横に立つと、背中を壁《かべ》につけ、いつでも飛び出せる用意をした。
「ここはオレとギムの二人に任《まか》せてくれ」パーンは言いながら、両手にテーブルの脚を構えた。あまり様《さま》にはならないが、今は格好を気にしている時ではない。
エトは扉の正面に離れて立ち、ギムとパーンを前に出した。そしてカーラが話していた扉の文句を一語一語区切るように唱《とな》える。
「ラ・ス・タ」
扉はゆっくりと開き始め、その向こうから骸骨《がいこつ》が姿を現した。ギム、パーンがすかさず飛び出し、骸骨戦士の正面に立つ。
今や骸骨は与えられた使命を果たすべき時だと知った。力なく下げられていた|返り身の剣《シミター》が、肩のところまでゆっくりと引き上げられ、左の手の|円形の楯《ラウンド・シールド》も胸元に構えられる。パーンは最初の一撃を、無防備な頭を狙《ねら》って放ったが、それは骸骨が素早く動かした楯《たて》で簡単に防がれてしまった。まるで別人のように鋭《するど》い動きを見せながら、骸骨の戦士はシミターを振るい始めた。
パーンは巧《たく》みに左手の武器でそれを受け流しながら、右手では牽制《けんせい》のために盛んに骸骨の体を狙って差し出す。円形の楯はそれに合わせて動き回り、パーンの攻撃をすべて受け止めている。まさに達人の技だ、パーンは驚嘆《きょうたん》せずにはいられなかった。何とか、敵の剣が体に触《ふ》れるのは防いでいたが、竜牙兵の強い一撃を受け流すたびに、左手に持ったテーブルの脚《あし》は徐々《じょじょ》に削《けず》られていく。
(長くは持たないな)パーンの額《ひたい》から汗が流れ落ちた。
ギムはその隣で、脚を両手に構えながら微動《びどう》だにしなかった。彼は機会を待っていたのだ。一撃でけりをつける、それがドワーフの戦い方だ。ギムはじっと、骸骨の動きを目で追いながら、冷静に相手を見定めようとしていた。
こんな武器で殴《なぐ》ったぐらいでは、おそらくこの怪物《かいぶつ》は倒れはしまい。だが、方法はある。そのためにはもう少し、パーンに持ちこたえてもらわねばならぬ。
「何をしているの、ギム。パーンが危ないじゃないの」悲鳴《ひ めい》のような声を出して、ディードリットが後ろから叫んだ。
「うるさい、ドワーフにはドワーフの戦い方がある」ギムはエルフに怒鳴《どな》り返し、そのまま神経をすべて、骸骨《がいこつ》に集中させた。エトとディードリットはすぐに戦えるように、パーンたちのすぐ後ろに控《ひか》えていた。そんな時がこなければ良い、と願いながら。
ついにパーンの左のテーブルの脚が強い一撃をまともに受けてしまい、真っ二つに折れ飛んだ。余った勢いで、シミターはパーンの体をも捕《と》らえたが、その打撃は鎧《よろい》が防いでくれた。後ろで、ディードリットが悲鳴を上げて目を伏せた。
「もう、もたねぇ!」パーンは折れたテーブルの脚をチラリと横目で見て、絶望の声を上げた。防いでいるだけでは勝てないのは分かっているが、ほかにパーンには打つ手はなかった。
だが、ギムにとってそれは待ちに待った瞬間である。骸骨の右手の動きはパーンの体にまで剣が届《とど》いてしまったため、かなり大振りになり態勢《たいせい》が崩《くず》れている。剣を戻《もど》そうとする骸骨の動きに合わせて、ギムはタイミングを見計《みはか》らった。
ブン! ギムは下からすくい上げるような棍棒《こんぼう》の一撃を、骸骨戦士の武器を持つ腕を狙《ねら》って振るった。狙いは違《たが》わず、二の腕部分にぶち当たりグシャという不快な音を発して、右腕の骨が砕《くだ》け散った。剣がカツンと床《ゆか》に落ち、金属音を発して弾《はず》んだ。ギムの武器も同じように砕け散っていたが、ギムはもはや気にはしなかった。
「ウオオオオオオッ」
間髪《かんはつ》を入れず、ギムは態勢を低くし、雄叫《おたけ》びを上げた。そして右肩を突き出し、骸骨《がいこつ》に向かって突進した。
骸骨は楯《たて》で体当たりを防ごうとした。ガツンという鈍《にぶ》い音が響き、ギムは肩を襲《おそ》った激痛に顔をしかめた。だが、勢いを止めずにそのまますくい上げるように下からぶちかますと、一気に相手の体を持ち上げた。
「グオオオッ」
ドワーフの怒声《どせい》はもう一度響いた。骸骨の体は大きく持ち上げられ、手足をバタバタとさせたがその動きは空《むな》しく宙《ちゅう》を切った。
骸骨は廊下《ろうか 》の手すりを乗り越え、階下の石の床に落ちていった。グシャリという鈍い音が響いた。それでも骸骨戦士は二、三度もがき、立ち上がろうという動きをみせたが、やがてバタリとつぶれた手を床に置き、そのまま動かなくなった。
「やったな」パーンがほころんだ顔をギムに見せた。ギムは髭《ひげ》をゆらしてそれに答えると、階下を覗《のぞ》き込んでウヒョと奇妙《きみょう》な叫《さけ》びを上げた。
「ねぼすけ共がやってきたようじゃよ」
パーンも下を覗き込んだ。二人の傭兵《ようへい》が扉《とびら》を開け、一階の広間に姿を見せていた。二人はつぶれた骸骨を気味悪そうに見たが、パーンたちに武器がないことを見て取ると、階段を一気に駆《か》け上り始めた。二人は剣と槍《やり》で武装し、楯《たて》も構えていた。どう見てもこれは分が悪い。
「ここはわたしに任《まか》せて!」
ディードリットがパーンたちの前を擦《す》り抜けるように進みでた。そして短剣を右手に持ちながら、手早く精霊魔法《せいれいまほう》の呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。一瞬《いっしゅん》あたりが暗くなると、|光の精霊《ウィル・オーウィスプ》がボーッと姿を現した。その光球《こうきゅう》はゆっくりとたわむれるように漂《ただよ》いながら、階段を上り切ったところにまで動いた。
「武器を取ってくる」
エトは叫《さけ》びながら、くるりと後ろを向いた。確か武器は隣の部屋にしまわれているはずだ。
ディードリットは青色の瞳《ひとみ》を細くしながら、短剣を投げる構えを取った。そしてウィル・オー・ウィスプには、廊下《ろうか 》の幅|一杯《いっぱい》に階段を上ってくる傭兵を阻《はば》むように踊《おど》り狂わせる。
「なんだ、こいつは」
剣を持った傭兵は階段を上ると一瞬立ち止まり、その光球を剣で払いのけようとした。その途端、男はギャッという叫び声を上げて右手を押さえると、そのまま階段を転《ころ》がり落ちていった。ウィル・オー・ウィスプは剣で切られ消えてしまっていたが、その時に強力な衝撃《しょうげき》が剣を伝わって右手を襲《おそ》っていたのだ。
槍の男はそれに一瞬気を取られ、それが命取りとなった。ディードリットの狙いすました短剣が男の喉元《のどもと》に突き刺《さ》さったのだ。
エトが武器を抱《かか》えながら、息急《いきせ 》き切って戻《もど》って来たときにはすでに勝負はついていた。ディードリットはしびれた右手でなおも挑《いど》んでこようとした男を、死んだ傭兵から奪《うば》った槍を使って仕留《しと》めていたのだ。
「ディード。あなたの武器です」
エトはレイピアを彼女に手渡しながら、彼女の手並みに感心していた。
「さて、どうするの。パーン」ディードリットは受け取ったレイピアを腰に収めると、乱れた髪《かみ》を、両手で落ち着かせた。
「もちろん、王女を助ける」パーンは宣言《せんげん》し、階段を再び上り始めた。
王女がいる部屋は、すぐに見当がついた。そこは鍵《かぎ》がかけられていて、中は暗く静まりかえっている。
ウッドがパーンの目《め》配《くば》せで、スッと扉に近づきポケットから針金のようなものを取り出すと、それを扉の鍵穴《かぎあな》に差し込んだ。
「わなはねぇようだな」ウッドはつぶやきながら、針金を二、三回こじる。するとカチリという音がして鍵が開いた。
扉を開けたのは、パーンだった。部屋の中は廊下《ろうか 》から漏《も》れる光で入り口の所まで照らし出されたが、その奥は真っ暗だった。パーンはそのまま前に進み出ようとしたが、ディードリットがそれを制した。
「ここは、姫君《ひめぎみ》の寝室なのよ。あなた方は下がっていて」
小声でパーンにささやき、ディードリットは一歩前に踏《ふ》み出した。そして闇《やみ》を見通す目で、奥の様子を詳《くわ》しく観察《かんさつ》する。彼女の目には、布団《ふとん》に隠《かく》れるように震《ふる》えている小さな姿がはっきりと映《うつ》った。その娘は明らかに脅《おび》えている。無理もないわ、ディードリットは溜息《ためいき》をつき、優《やさ》しく手を広げた。
「大丈夫です、お姫様。あたしはディードリットと申します。あなたを助けるために参りました。安心してこちらにおいで下さい」
ディードリットはしばらく中の反応をうかがってみたが、娘は一言も言葉を発しなかったし、また身動きもしなかった。ただかすかに息をついた音が彼女の耳に聞こえた。
「ラウマ・アドニア・モイル・デ・ファリス」戸口の所に立っていたエトが朗々《ろうろう》とした声でそう言った。ディードリットはチラリとエトの顔を振り返った。
「モイロス・ラーム」奥から掠《かす》れるような声が聞こえた。娘の声だった。「ファリスの司祭様がおられるのですか?」
「まだ、神官の身分ではありますが」エトはそう言うと、闇に向かってうやうやしく頭を下げた。
「あたしたちはあなたを助けに参ったのです。どうか、安心してこちらにおいで下さい」ディードリットが後をついで、もう一度言った。
奥の布団が動き、小さな影がこちらに向かって歩いてきた。影はためらうように進み、やがて明かりの中にその姿を現した。白い夜着姿が一行の目に映る。おそらく、向こうも一行の様子が見て取れたのだろう。何より、エトのファリスのシンボルの入った神官着が。
娘はディードリットの横をすり抜け、そのまま一直線にエトの所まで走り寄ると、飛びつくようにその白い神官着を抱きしめた。
そして一同の耳に甲高《かんだか》い泣き声が聞こえた。
エトは娘の体を支え損《そこ》ねてよろめいたが、パーンが横から素早く手を差し延《の》べたため、何とか倒れずにすんだ。パーンはそしてはっと娘から目を離した。パーンの顔が真っ赤になっていた。娘は薄い夜着姿のままだったのだ。ディードリットはパーンをにらみつけながら自分が身に着けている旅用のマントを外《はず》して、娘の肩からそっとかけてやった。
5
娘はしばらくしてから、エトを束縛《そくばく》から解放した。エトは少し顔を赤らめながらも毅然《き ぜん》とした態度を崩《くず》さなかった。
「王女様、出発の準備をして下さい。いつ、あの女魔術師《おんなまじゅつし》が戻《もど》って来ないとも限りません。早々にここを立ち去りましょう」
スレインはその言葉を聞くと、自分たちの荷物を取りに行くためにその場を離れた。それにギムとウッド・チャックも従った。
「まったく、ご苦労なこった。またこれから夜道を行軍かよ」ウッドは、ボソリと文句を言った。朝から歩きづめだったためか、それとも魔法にやられたためか、いつもより体の動きが鈍《にぶ》いように感じられる。
「魔女に食われたかったら、ここでゆっくり寝ておくこったな」ギムがジロリとウッドをにらみつけた。「誰《だれ》だって疲れているんだ。グチをこぼすな」
「へい、へい」ウッドはおどけて答えた。
「表の馬車が使えるといいけど」
ディードリットはつぶやきながら階段を降りて行こうとした。気をつけろというパーンの声がその背に投げかけられる。ディードリットは振り返らずに、手を上げてそれに答えた。彼女は軽やかにステップを踏《ふ》みながら階段を降りていった。
「あの、あたしは……」
フィアンナは言いかけて、そして口ごもった。フィアンナは、自分も何か手伝いましょうかと、申し出ようとしたのだ。エトはその申し出を首を振って断《ことわ》った。
「出立の準備はわれわれで整《ととの》えます。姫はとにかくご自分の支度《したく》をお急ぎ下さい」
エトは姫に一礼すると、自分もディードリットを手伝うために、下に降りようとした。パーンも荷物はスレインたちに任《まか》せて、表の準備を手伝うことにする。フィアンナはおとなしく従って、自分のあてがわれていた部屋に戻っていった。
フィアンナは、部屋に戻《もど》って始めて、自分が薄い夜着姿だったことに気がついた。恥ずかしい思いが心に浮かび上がり、顔がカーッと熱くなった。自分はこんな姿で、あの若い神官に抱きついたのだ。侍従長のエルモアに知られたら、何と叱られることだろう。
助けられた安心感よりも、見慣《みな》れた顔がない不安のほうが、まだ大きかった。心臓の音が激しく波打っている。その中で、ファリスの神聖語を知っているエトと呼ばれていた神官だけは、心を許すことができた。残りは、皆|宮廷《きゅうてい》では見かけることのできないタイプの人ばかりだった。
(早くロイドの城に戻りたい)フィアンナはそう思わずにはいられなかった。彼女は前線の兵士を見舞いに行こうとして、あの女商人にだまされ、捕《と》らえられてしまったのだ。彼女に魔法で心を縛《しば》られ、昼間は自由さえ与えられなかった。夜は夜で、監視《かんし》をつけられて逃げ出す機会もまったくなかった。自分はマーモに連れて行かれるのだと、半《なか》ば諦《あきら》めてもいた。しかし、全能なるファリスは、わたしを見捨ててはおられなかった。救いの使徒を差し向けられたのだ。フィアンナはファリスの印《いん》を切って、祈りの言葉を唱《とな》えると、夜着を脱《ぬ》ぎ捨て、手近のテーブルに置いてあったドレスに手を伸《の》ばした。
(今はあの人たちを頼るしかないのだ)フィアンナの顔は、そう決心してもなお押さえきれぬ不安で曇《くも》っていた。
エトが表に出ると、ディードリットは不思議《ふしぎ》な言葉を使って話しかけ、暴《あば》れている馬たちの気を落ち着けようとしていた。馬車はすでに一頭をつなぎ終えている。
「エト。あなたは馬車に乗り込んで、早く寝てしまいなさいな。足元がふらついているし、それに顔色がだいぶ悪いわよ」
ディードリットがもう一頭の馬を馬車に引き寄せながら、フラフラとやってきたエトの顔を見るなりそう言った。
「しかし……」
エトは反論しようとしたが、エルフの青く輝く目が自分を見詰め、小さな首が横に振られた。ディードリットは、エトが疲労《ひ ろう》しきっていることに端《はな》から気がついていた。今も義務感から、自分を手伝いにこようとしているのだろうが、夜目のきくディードリットの目に映《うつ》るその姿は、死を目前にした重病人さながらだ。
「今あなたが一番役に立つことは、この馬車の中に潜《もぐ》り込んで毛布にくるまり眠ることよ」
ディードリットの言いかたは穏《おだ》やかだったが、反論を許さない迫力があった。エトはもはやディードリットに抗《あらが》うのをやめ、飾りのついた馬車の扉《とびら》を開けると、中に潜り込んだ。彼は暗い車の中を手探《てさぐ》りに進み、椅子《いす》のある位置を確かめると、そこに長く体を横たえた。その途端に、まるでカーラの魔法が今頃《いまごろ》その効力を発揮《はっき 》したかのように、意識がスーッと遠のき深い眠りに入った。
馬車にはエトとフィアンナ王女が乗り込み、ディードリットもそれに付き添うことにした。パーンはいやがるギムを無理やり鞍《くら》にまたがらせ、自分の腰にしがみつかせた。ギムは馬の背に乗るとその高さに仰天《ぎょうてん》し、ワアワアとわめいた。ウッドは馬車馬のたづなを取り、スレインがその横に座る。
エトだけではなく、皆疲れきっていた。しかし、カーラという魔女のことを思うと、疲れさえも凍《こお》りつくのだ。今度出会えば、きっと容赦《ようしゃ》なく殺されるだろう。あれだけの魔法の使い手だ。自分たちが逃亡したという事実を何かの手段で知ってしまうかもしれない。
その考えがあながち冗談《じょうだん》とも思えないだけに、真夜中をとぼとぼと進む一行にとって周囲の闇《やみ》は真に恐怖《きょうふ》だった。スレインの杖《つえ》の先からはっせられる光だけが、ボウッとおぼろに浮かび、一行の進む道を淡《あわ》く照らしていた。
朝はまだ遠く、そして目指す町はさらに遠かった。
闇《やみ》の中の行軍は永遠に続くかとも思われたが、時はいつものように過ぎ去っていったようだ。いつのまにか、闇は徐々《じょじょ》に薄れていき、やがて朝の太陽の光が差してきた。一行を捕《と》らえていた不安は闇と共に徐々に去っていったが、同時に緊張感《きんちょうかん》もなくなっていた。パーンは馬上でうつらうつらし始め、スレインに御者《ぎょしゃ》を代わってもらったウッドは、完全に眠り込んでいた。スレインは道の上をまっすぐ馬が進むのに任《まか》せ、ほとんどたづなの操作はしなかった。周《まわ》りは畑で、道の脇《わき》には天の恵みを受けようと木が緑の葉を一杯《いっぱい》に広げていた。どこからか鳥の鳴き声も聞こえてくる。置き去りにされた鶏《にわとり》か何かだろう。
「町に着くまでには、まだ半日ほどかかるなあ」パーンが昇《のぼ》ってゆく朝日を見ながら、憂鬱《ゆううつ》そうにスレインに話しかけた。スレインはパーンの馬の速度に馬車の歩みを合わせながら、首を二、三度縦《たて》に振った。
「着くのは昼前ですか。暑くなりそうですね」
「途中、一度|休憩《きゅうけい》したほうがいいかな」
「そうでしょう。われわれも疲れていますし、馬も疲れていますからね。できれば日中はどこかの木陰《こ かげ》で休んで、夕方に再出発といきたいものですね」
だが、そんな余裕《よゆう》はないだろう。あの魔女《ま じょ》がいつ戻《もど》って来るかもしれないのだ。一刻も早くヴァリスの軍隊が駐留《ちゅうりゅう》する所まで、フィアンナ姫を送り届けねばならない。
昼近くになってようやく休憩を取ろうとパーンは決心した。その頃《ころ》にはエトとギム、それにウッド・チャックが目を覚《さ》ましていた。ディードリットと、フィアンナ王女も起きて、馬車から出る。一同は休憩場所に選《えら》んだ大きな木の下に腰を落ち着けた。
下草は柔《やわ》らかく一行を受けとめ、パーンはその上に大の字に寝そべるとたちまち寝息を立て始めた。そんなパーンに、ディードリットは穏《おだ》やかな視線を投げかけた。スレインもギムの隣で、座ったままウトウトし始める。
「ここまで無事にこられたけど、まだカーラとかいう魔女を振り切れたわけじゃないんだ。ある程度数のまとまったヴァリスの軍と出会わなけりゃ、安全とも言えそうにないね」
エトはまだ少しだるそうな感じに見えたが、一同の中心に座ると一人一人の顔を確かめるように見ながらゆっくりと話し始めた。
「とにかく町まで行けば安心なんだ。それまでは警戒《けいかい》を怠《おこた》らず進むしかない。ここで休憩を取るのはいいとして、次には誰《だれ》が馬に乗るか、御者《ぎょしゃ》をやるかも決めないといけないだろうね。僕《ぼく》も御者ぐらいなら、できるから」
エトは横でいびきを立てているパーンと、座ったままの姿勢で動きもせず、完全に眠り込んでしまったスレインの姿を見ながら主張した。
「それならあたしは馬に乗りましょう。スレインとパーンは車の中で休ませるとして、エトとウッドが御者。その横になんとかギムも乗れないものかしら」
「わしの体では無理だな」
「なら、ギムはあたしの後ろね。鞍《くら》の後ろに握りがあるから、それにつかまってちょうだい。体につかまったりなんかしたら、遠慮《えんりょ》なく馬から落としますからね」
「うむ、気をつけよう」ギムは真顔で答えた。
「とにかく少し休んでから、出発だ。町までそんなに距離はないはずだから」
日差しが強くなっていた。午後の行軍は厳《きび》しいものになるだろうと、エトは思った。
6
再び一行が出発したのは太陽が頂点《ちょうてん》をすぎて、しばらくしてからだった。暑さは相変わらずだったが、日差しは少し弱まっていて、幾分《いくぶん》歩きやすくなっていた。
一行は後ろにギムを乗せたディードリットの馬を先頭に、ついでエトが御者《ぎょしゃ》を務《つと》める馬車が続いた。太陽が辺《あた》りを照らし出し、魔女《ま じょ》が隠《かく》れる場所さえ見当たらないというのに、一行は常に誰《だれ》かに見張られているという意識に捕《と》らわれていた。今は夢の中にあるパーンとスレインにしても、おそらくその意識は強かったのだろう。フィアンナの目の前で、馬車が揺《ゆ》れるたび彼らはうなされていた。
「あと少しだ」エトは空を見上げながら、つぶやいた。遠くに巨大な塔《とう》の形をした雲が何本か立っている。その白い固まり以外は明るい夏の青空で、これが逃避行《とうひこう》でなければ気持ちのいい一日だったろうにと、思わせるのだった。
エトが正面に視線を戻《もど》そうと思った時、青空の中にポツンと黒い点のようなものが写ったように見えた。エトはハッとして、再び空を見上げ、その一点に意識を集中させる。黒い不安が胸をよぎった。
「ウッド! あれは何だと思う」エトは隣の盗賊《とうぞく》を肘《ひじ》でつついた。ウッド・チャックは変化のない田園《でんえん》風景を眺《なが》めながら、自分の考えに浸《ひた》り込んでいるところだった。その考えの大部分は、ヴァリスの王家から貰《もら》える報酬《ほうしゅう》のことだった。おそらくそれは膨大《ぼうだい》な額になるはずだ。どう、使ってやろう。金を積んでどこかの盗賊ギルドの支部を任《まか》せて貰《もら》うか? ウッドは自分なりに幸せな気分に浸っていたのだ。
だが、と彼はその平凡な考えを否定《ひ てい》した。自分にはもっと大きなことができるはずだ。そんな小さなことで満足してしまっては、自分の失った二十年もの年月を埋《う》めることはできない。もっと、もっと、大きなことがあるはずだ。
そう決心した時にエトにつつかれ、ウッドは現実に意識を引き戻された。エトに促《うなが》されるまま、ウッドは空を見上げた。もともと細い目をまぶしそうにさらに細くし、エトに言われた方角に目をやる。
「なるほど、あの黒い点だな。だいぶ遠いからよく分からんが、あいつはきっと鳥だぜ」
ウッドは何だつまらんとでも言いたげに、鼻を鳴らした。
「ただの鳥かな」エトは自分の胸が激しく音を立てているのを感じていた。
「ウッド! スレインとパーンを起こそう。あれはきっとただの鳥ではないよ。だって、遠くを飛んでいるようなのにあの大きさ。それにあの鳥は、まっすぐこちらを目指して飛んできてるようだ。位置はまったく変わらないのに大きさだけが、どんどん膨《ふく》らんでいるもの」
改めて言われて、ウッドはもう一度空を見上げてみた。確かにエトの言うとおりで鳥の大きさは尋常なものだはなさそうだった。
「まさか、ドラゴンじゃねぇだろうな」ウッドは震《ふる》える声で後ろの車を振り返った。
「スレイン! パーン! 起きろ! おまえたちの出番かもしれねぇんだ」
彼は叫《さけ》びながら腰から短剣を抜き出すと、身を構えた。エトはどうどうと声を上げて、馬を道の真ん中で停止《ていし》させた。けげんな顔をしながら、ディードリットが馬を寄せてくる。
「どうしたんですか」眠たげなスレインの声が車の中から聞こえてきて、やせた魔法使いがエトとウッドの様子にただならぬものを感じたのか、そのまま何も言わず顔を引っ込めるとガチャリと扉を開けて車外に出てきた。ローブの乱れを直しながら、彼は夏の太陽の強さにたまらず、フードを深く頭に被《かぶ》る。
「あれを見て!」
エトの指さすほうを、スレインは目を凝《こ》らして見詰めようとした。そして、「よく分かりませんね」と首を振ってつぶやいた後、口の中でモゴモゴと何かを唱《とな》えた様子だった。
スレインは遠見の呪文《じゅもん》の効果で拡大された目で、もう一度黒い固まりを見詰め直した。
数瞬の後、彼の口元が驚《おどろ》きの形に歪《ゆが》む。「あれはロック鳥ですよ。フレイムの東の砂漠《さ ばく》でさえ珍《めずら》しくなった伝説の鳥です。神の使いとも言われている鳥なのですが、でも、まさかこんなところを飛んでいるなんて!」
スレインの言葉は驚《おどろ》きからくる震《ふる》えに微《かす》かに揺《ゆ》れていた。だがスレインの言葉に答えるエトの声は、まぎれもない恐怖《きょうふ》で震えざるを得なかった。
「そんなはずはない。あの鳥はきっとあの魔女《ま じょ》の変身した姿だよ。見て! もうあんなに大きくなっている」
エトの声はもはや悲鳴《ひ めい》に近かった。いつもは冷静な彼ですら、空の一画を黒く遮《さえぎ》る巨大な鳥の姿に圧倒されていた。いや、それ以上にカーラという魔女の巨大な力に畏怖《いふ》を覚《おぼ》えていたのだ。
「でしょうね」スレインもエトの考えを認《みと》めざるを得なかった。賢者《けんじゃ》の杖《つえ》を握《にぎ》り直して、魔法の準備《じゅんび》を始める。
パーンとフィアンナが、馬車から姿を現したちょうどその時、ロック鳥は彼らの頭上を飛びすぎ二、三度|翼《つばさ》をはためかせると、一行の行く手を遮るように道の真ん中に降り立った。鳥が通過した後に起こったつむじ風で、乾《かわ》いた土がほこりとなって舞い上がった。パーンたちは砂塵《さじん》に目をやられ、涙を流しながらその場にうずくまった。何度も目をこすり、ほこりを目から追い出そうとする。
そして、一行が目をなんとか開けるようになった時には、すでに巨鳥の姿はみじんもなかった。かわりに薄紫色《うすむらさきいろ》のドレスに身を包んだ女の姿が光の中にひっそりとたたずんでいた。彼女はゆっくりとパーンたちのほうに歩み寄りながら、なにか楽しいものを見つけたとでも言いたげなほほえみを口元に浮かべていた。
「お久し振り、というにはまだ時が経《た》っていないかしらね」
その額《ひたい》に怪しく輝くサークレットの緑色の炎《ほのお》までがはっきりと見えるようになった時、カーラは穏《おだ》やかな口調で声をかけた。
パーンは剣を腰から引き抜くと、他の者を庇《かば》うように一歩進み出て、そしていつでも行動に移れるように身構えた。彼の褐色《かっしょく》に焼けた両腕は、しっかりと武器を握りしめて、あたかも赤銅《しゃくどう》の彫像《ちょうぞう》のように身じろぎもしない。魔法使いも右手に持った杖を真横に差し出した。そのまま頭の中で呪文《じゅもん》の言葉を繰り返し、精神を徐々《じょじょ》に高めていこうと足をトントンと踏《ふ》みならした。
「なぜ、ここへ」エトは掠《かす》れる声でそれだけを魔女に告《つ》げた。恐怖《きょうふ》を押さえることは不可能だった。だが、それに打ち勝つことはできる。今は絶望しか見えないが、それに身を委《ゆだ》ねてしまってはならない。エトは魔女の端正《たんせい》な白い顔と、光をすべて吸い取ってしまうような漆黒《しっこく》の髪《かみ》を凝視《ぎょうし》した。圧倒的な魔力がその姿から感じられる。スレインはその魔女の姿に、不思議《ふしぎ》な悲しさのようなものをふと感じていた。だが、次の瞬間には女の目は冷酷《れいこく》な英知を浮かべて、青く輝いていた。やがてカーラの真っ赤な唇《くちびる》が妖艶《ようえん》な踊《おど》りを刻《きざ》み始めた。リュートの音色にも似たささやきが聞こえ、パーンははっと身を堅《かた》くした。彼は一行の先頭に歩み出ると、剣と楯《たて》を広げるように構えた。自《みずか》らの力で、魔女の魔法をすべて受け止めて見せようかという態度にも見えた。その怒《いか》りの感情の中に、カーラの声が、踏み込んできた。パーンははっとして、目をしばたかせた。
目の前で再び、カーラがほほえんでいる。抗しがたい魅力を持った容姿《ようし》には、一瞬前までは感じていた氷の冷たさはみじんも感じられない。むしろ慈悲《じひ》の女神のようにその笑顔はやさしく包容力《ほうようりょく》に満ちていた。白い肌《はだ》と暗色《あんしょく》の髪との奇妙《きみょう》な調和が、麻薬《まやく》のようにパーンの心を犯《おか》し始めた時、スレインの警告《けいこく》の声が聞こえた。
「意識をしっかり持って下さい。あの人は魔法をかけています」
「スレインの言葉に揺《ゆ》り起こされ、パーンはハッと意識を引きしめ、心を大地に縛《しば》りつけた。
「小細工《こざいく》を使うな、魔女め!」パーンは初めて動きを見せ、剣を自分に絡みつくクモの糸を断《た》ち切るように真横に振るい、怒《いか》りのこもった声で叫《さけ》んだ。エトは一瞬《いっしゅん》、パーンがそのまま駆《か》け出すんじゃないだろうかと思ったが、若い戦士は元の姿勢に戻《もど》ると、再び燃《も》える目を女魔術師に向けながら、剣と楯《たて》を構える彫像《ちょうぞう》となった。
「館《やかた》から娘を連れ出した手並みといい、そして今わたしの魔法を破った用心深さ。あなたたち、なかなかに立派《りっぱ 》な冒険者《ぼうけんしゃ》たちじゃないの」
カーラは心底感心したように視線を下げた。だが、再び視線を戻した時にはすでに氷の冷たさを秘《ひ》めた瞳《ひとみ》が一行を見詰《みつ》めていた。
「まったく、このまま殺してしまうには惜《お》しいほどね。どう、あなたがた。わたしの仲間にならない? わたしは人間の望むものすべてを与えることができるわ。例えば富、例えば名声、そして例えば知識ね。それとも美しい娘がお望みかしら? あなたたちの誤解《ご かい》を解くために言ってあげるけど、わたしのしていることは結局はロードスのためになることなのよ」
「ふざけるな!」再びパーンの怒声《どせい》が響《ひび》く。
「何も求めぬならそれも良い。娘を渡してとっととこの場を去っておしまい。それさえも拒《こば》むというなら容赦《ようしゃ》はすまい。この場で果てて冷たく物言わぬ骸《むくろ》となるがいい!」
カーラは激しく手を動かし、流れるような旋律《せんりつ》で言葉を次々と並べたてた。その呪文《じゅもん》の言葉が刻《きざ》まれるにつれ、彼女の頭の上に赤い光の固まりが何本も姿を見せ、まるで生き物のようにグルグル回転し始めた。
「信じられない。あの輝き一つ一つが炎《ほのお》の呪文なんだ。あの輝きの一つでさえ、わたしたちの命を奪《うば》うには十分でしょう」スレインの震《ふる》える絶望的な声が聞こえる。
「なんとか、ならないのか」パーンがスレインに尋《たず》ねる。
「無理ですね。わたしは、あの輝きの一つか二つを作り出すために、すべての精神力を使い果たしてしまいますよ」
「分かった」パーンはもはや決心した。この場で生き恥をさらすよりも、父のように勇敢《ゆうかん》に戦い果ててしまおうと。彼は呼吸を整《ととの》え、敵の立つ位置を見定めると剣を肩のところまで持ち上げ、女の胸元を狙《ねら》い剣先をまっすぐに向けた。そして、駆《か》け出そうとする。ディードリットがその様子に気がつき、一瞬《いっしゅん》息を飲んでから、声を出そうと口を開く。
「待って下さい!」しなやかに弾《はず》む娘の声が、パーンの動きとディードリットの言葉を一瞬早く制した。
「待って下さい。あたしがあなたと共に行けば、この方々は許して下さるのですね」
フィアンナ姫だった。その目はかたくなな勇気をたたえて凛《りん》と見開かれている。エトはその横顔に王女としての威厳《いげん》を感じた。そして、その威厳の中に若い娘の愛らしさと本当の感情をも。彼女の体は微《かす》かにだが、震《ふる》えてもいた。エトは、そっとフィアンナのそばに立った。
「王女様、ここはわれわれが時間を稼《かせ》ぎます。おそらくカーラは、姫を傷《きず》つけるような魔法はかけないでしょう。われわれが全員で、走り寄れば姫の逃げられる間の時間が稼げるやもしれません。馬には乗れますね? 畑を抜け、森を目指して走りなさい。それから後、町を目指されるがよろしいでしょう。ファリスの加護《かご》を信じて、さあお行きなさい!」
エトは両手を上げて、聖なる光の魔法を瞬《またた》かせた。一瞬ではあったが、まばゆい光が太陽の輝きさえも凌駕《りょうが》し、エトの頭上で炸裂《さくれつ》した。カーラは目を伏せ、思わぬ神官の反撃に不意を打たれた様子だった。フィアンナもまた、どうすればよいか分からぬというように、エトの横顔を見上げた。
「早くなさい!」エトは娘に命令した。娘は弾《はじ》かれたように真後ろに走った。 スレインは暗黒の呪文《じゅもん》を唱えて、娘とカーラの間に闇《やみ》の壁《かべ》を作り、彼女の視界から娘を遮《さえぎ》った。そして次の呪文の準備《じゅんび》をするため、横に動きながら古代語のルーンを口早に唱《とな》え始めた。
「自由なる|風の乙女《シルフ》よ。大気の震えを止め、すべての音を消し去って」ディードリットは、沈黙《ちんもく》の呪文《じゅもん》を魔女のいる場所に唱えると、レイピアを抜いた。パーンとギムはすでに走り出している。
カーラはその二人に頭上の光球《こうきゅう》をたたきつけようと、手で複雑な印《いん》を切りながら呪文を唱えようとした。しかし、その言葉はまったく動かず、口が空《むな》しく開いただけなのを知った。エルフの娘のかけた沈黙の魔法だ。シルフい命じて空気の動きを止めているのだ。
「こざかしいまねを!」カーラは左手の薬指《くすりゆび》にはまった指輪を軽く振って、目に見えない魔法の障壁《しょうへき》を目の前に作り出した。そして、後ろに下がり、エルフの沈黙の呪文の効果の及んでいる場所から逃れ出る。パーンはその前に走り込み、素早く剣を振るったが、その攻撃はカーラの作り出した魔法の障壁に簡単《かんたん》に弾《はじ》き返された。手にしびれが走り、パーンは剣を落とさぬために楯《たて》を持った左手を使って支えねばならなかった。
「よほど命がいらないようね!」カーラは叫《さけ》んだ。そして、精神を集中して自分の体の回りに展開《てんかい》されている目に見えない力の場を、ゆっくりと大きく広げていった。膨《ふく》れ上がる魔法の球体に押され、パーンたち三人の戦士の体はたちまち弾き飛ばされた。カーラは自分が呪文を唱《とな》える時間を得られる距離まで三人を引き離そうと、なおも球体を大きく広げていった。
パーンはその圧力に抵抗しようと無駄《むだ》な努力をしながら、何もできない自分に怒《いか》りすら覚《おぼ》えていた。
その時だった。絶望に沈む一行の目に遠くから向かってくる砂ぼこりが見えた。スレインには、まださっきの遠見の呪文の効果が残っていたので、その砂ぼこりを立てている者の正体を簡単に見極《みきわ》めることができた。
フードを取り、スレインは喜びに満ちた表情で隣の神官と、馬車の下に身を隠《かく》している盗賊《とうぞく》の二人に声をかけた。
「あれはヴァリスの騎士団です。二十人はいますね。それに先頭にいるローブ姿。あれは賢者の学院の者です。きっと、ヴァリスの宮廷魔術師エルムに違いありません」
エトは深く、深く神に感謝した。そしてパーンたちに大声で、援軍《えんぐん》の到着を知らせる。
「ありがてえ!」パーンの顔が、明るく輝く、一瞬《いっしゅん》前まで自分の無力さに絶望を感じていた彼とはまったくの別人のような表情だった。
カーラもまたそのエトの叫《さけ》びを聞いた。いや、あえて聞こえるように言ったのだ。あの生意気な神官は。怒りが全身を走ったが、すぐにその怒りは解《と》けていった。
(運命に味方されているうちは、決して死なないというけれどね)
カーラは用意していた呪文を替え、ちらりと後ろを振り返った。なるほど神官の言うとおり、何頭もの騎馬《きば》の一団が彼女を目指して走り寄って来る。姫と叫ぶかすかな声も聞こえてくるようだ。カーラはあきらめ、むしろ微笑《びしょう》さえ口元に浮かべ、大きく息を吸い込んだ。
「あなたたち、その運の強さを大事にしなさい。しかし、決して過信はしないように。それから二度とわたしの前には現れないことね。その時には、奇跡《き せき》が何度も起こらないことを教えられることになるのだから」
カーラは障壁《しょうへき》を解き、即座に次の呪文《じゅもん》を発した。それは、古代語のルーンとはかすかに違う響《ひび》きを持っていた。むしろエトの行う祈りの言葉に近い。
「あれはマーファの魔法ですよ」スレインは驚嘆《きょうたん》しながらエトに言った。
エトはなぜ神官でもないスレインが自分以上に神の魔法について詳《くわ》しいのか、いぶかしく思った。彼は確か知識の神ラーダを信仰していると聞いた。しかし神官だという話は聞いたことがない。
一行の見守る中で、カーラの姿は、その顔に笑《え》みを浮かべたまま、ふっと消えてしまった。
「あの魔女はマーファの司祭でもあるんですねぇ。今使った魔法は、確か帰還《きかん》の呪文とかいう、マーファの司祭だけが使える特殊な力ですよ」
「マーファの司祭が使う魔法とか言ったな」ギムは目になにやら真剣《しんけん》な光をたたえて、スレインに詰め寄ってきた。スレインはその迫力に気圧《けお》されながらも、ええ、とうなずいた。
「マーファの司祭のそれもかなりの高位の者にしか使えないはずですよ。すくなくともわたしはそう聞いています」
「やっぱり、そうなのか!」ギムは叫んだ。
「そうなのかって、どういうことです」スレインは、尋《たず》ねた。「あなたは何か真実をつかんでいるのではないですか。そしてその真実を隠《かく》している」
「隠し事など、しておらんわい」ギムはむきになって怒鳴《どな》った。
(まさかとは、思っておったが)ギムの中で怒りとも、喜びともつかない思いが渦巻《うずま》いていた。(だが、なぜ古代語の魔術なぞ使う。なぜ、マーモの味方なぞするんだ)
7
スレインは、安堵《あんど》の溜息《ためいき》をもらしながら、パーンの所まで歩み寄ってきた。エルムとは、数年の間とはいえ、賢者《けんじゃ》の学院で共に学んだ間柄《あいだがら》である。彼はスレインよりも十数年は年上だったが、スレインは十二歳の時に、学院に入ることを許されていたからである。エルムは、バグナードと並ぶ学院きっての秀才で、しかもファリスの熱心な信者でもあった。
ファーン王が即位した時、ヴァリスの宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》としてエルムは迎えられ、アランを離れてから十年以上がたっている。
「お久しぶりです、エルム様。覚《おぼ》えておいででしょうか。わたしです、スレイン・スターシーカーです」
スレインは、やってきた騎士《きし》たちの先頭にいる初老の魔術師に向かって、恭《うやうや》しくお辞儀《じぎ》をした。
騎士たちは危《あや》ぶむように、スレイン達をねめまわしていたが、スレインと同じ色のローブを身に着けた魔術師は、スレインの賢者のローブと杖《つえ》を一瞥《いちべつ》し、そして痩《や》せた顔を覗《のぞ》き込んだ。
「特徴のある顔と、声とに感謝するのだな。確かにおまえのことは覚えているぞ。少年よ、大きくなったものだな」
「恐れ入ります」
「では、尋《たず》ねるが、何故《なぜ》おまえがここにいる。噂《うわさ》では賢者の学院は、潰《つぶ》れたと聞くが、そのため流浪《るろう》の旅にでも出たのか」
「そんなところです」スレインは、あやふやな言い方をした。今は自分の身の上話をしている時ではない。「それよりも、エルム様はフィアンナ姫を求めてこの地に参ったのでしょう」
「うむ、そのとおりだ。なぜ、それを知っておる。わたしたちは行商人の一行を追って、この地に向かっていたのだ。前方で、おまえたちが、どうやら魔法の戦いを演じているのを見て、まさかとは思ってやって来たのだが、姫君はおられるのか」
スレインはうなずいた。「話せば長くなりますが、確かにフィアンナ姫はわれわれと共においでです。今しがた、対決していた魔術師のもとから、訳《わけ》あってお救い申し上げたのです」
騎士《きし》たちの間から、喜びの声が漏《も》れる。スレインは、後ろを振り返った。タイミングよく、フィアンナ姫がスレインがかけた暗黒の壁《かべ》の向こうから姿を現した。結局、彼女は自分一人だけで、逃げることを選《えら》ばなかったのだ。数人の騎士が、走り出して彼女を出迎えに行く。
「その話、どうやら本当のようだな。なら、頭を下げねばならぬのは、こちらのようだ。スレインよ、礼を言わせてもらおう。わしの知らぬ間に、立派《りっぱ 》な魔術師となったものだな。星は探《さが》し当てたのか?」
「いえ、未だに」スレインは頭を下げた。「それ以上に、ここに控《ひか》えている若者の活躍《かつやく》こそが、姫君を救うことができました本当の理由なのです。彼の機転がなかったならば、姫君をここにお連れすることなど決してできなかったでしょう」
「そうか」エルムは言って、ヒラリと馬から舞い降りた。「では、その若い戦士にも礼を言わねばならぬな。若い戦士よ、名は何と言う」
「パーンと申します、エルム殿」パーンは騎士《きし》の礼でエルムに挨拶《あいさつ》を送った。だが、彼の心はエルムには向けられていなかった。聖騎士隊の白い姿を捕《と》らえていたのである。昨日も感じたあの思いが、パーンの頭の中をめぐった。「聖騎士隊の一員として、命を落としたテシウスの息子《むすこ》です」ふと、飛び出た自分の言葉にパーン自身が驚《おどろ》いた。だが、言ってしまった上は、パーンはその言葉がどんな衝撃《しょうげき》を彼らに与えるのかを知りたいと思った。ヴァリスの騎士なら、父親の死の本当の理由を知っているだろう。
「聖騎士テシウス、だと?」エルムは、その言葉に意外に激しい反応を見せた。パーンの胸が騒《さわ》ぐ。「その話本当か? 本当におまえはテシウスの息子なのか」
「はい、わたしの着ている鎧《よろい》こそが、何よりの証拠《しょうこ》です。この鎧《よろい》は汚《よご》れこそしていますが、ヴァリス騎士団の正式な鎧にほかなりません」
「うむ、そういえば似ておるの」エルムは言った。
「間違いありません、エルム様。その者の鎧、確かにわれわれの物と同じです」
「おまえたちが、そう言うのなら間違いはなかろう。それに、意味も知らずにテシウスの息子を名乗る男もいないだろうからな」
「聞かせて下さいませんか。わたしの父は、どうして死んだのです。母はその理由を聞かせてくれなかった。ただ、父の勇気を信じろとだけ。だが、噂《うわさ》では父の死は不名誉《ふめいよ》だったとも伝えられている。臆病者《おくびょうもの》テシウスとも」
エルムは、パーンに近寄ってきて、その肩にいとおしそうに片手を置いた。
「おまえの父親は、確かに騎士《きし》のおきてに違反した。だが、その死は決して不名誉なものではなかったぞ。おまえの父親は、その時、もう一人若い騎士と共に北の国境の守りの任務に就《つ》いていたのだ。砂漠《さ ばく》の遊牧民たちの、侵攻《しんこう》があってな。テシウスの任務はただ一つ。持ち場を守り、敵の侵攻があったら、報告することだった。そこに、近くの村の男が駆《か》け込んできたのだ。彼は村が山賊《さんぞく》に襲《おそ》われていることを、テシウスに告《つ》げたのだ。騎士のおきては厳格《げんかく》だ。命令されたことは、たとえいかなる事態《じたい》になろうと、守らねばならない。だが、それでは村人たちは、犠牲《ぎせい》になってしまうだろう。山賊の数は多かった。たとえ、彼一人が行ったところで、防ぐことはできないだろうと思われた。その二つの事実があってさえ、騎士テシウスは村を助けるために馬を走らせたのだ。仲間の騎士も共に行こうと申し出た。だが、任務のためにテシウスはその申し出を断《ことわ》った。あたら、若い命を落とすことはない。それに、自分はいかな理由があるのであれ、命令に反する行為をするのだから、当然|罰《ばっ》せられなければならないのだとも。だから、彼は一人で村を助けに行ったのだ。村は彼の活躍《かつやく》で全滅《ぜんめつ》だけは免《まぬか》れた。だが、その戦いの中、テシウスは帰らぬ人となったのだ」
「その話、本当なのですね」パーンの声はかすれていた。
「本当だとも。本来なら、われわれは彼の勇気を称《たた》えねばならないのだ。しかし、騎士のおきては神聖だ。例外があってはならない。そのため、騎士団はテシウスの騎士の位を剥奪《はくだつ》せねばならなかった。だが、真実を知っている者は、彼の勇気の真の価値《かち》を理解している」
「われわれ騎士たちにとって、テシウスの名は名誉《めいよ》の一つの形ですらあるのです。真実を伝えることができぬために、歪《ゆが》んだ噂《うわさ》も流れているようですが、悪い噂だけでは、一人の騎士の名がそれほど長く語られたりはしませんよ」
騎士の一人がパーンに声をかけた。
「よかったわね」ディードリットが、優《やさ》しくパーンの腕を取った。
「今、テシウスの名はまた新たなる名誉を、われわれにもたらしてくれた。行方《ゆ く え》知れずの姫を救ったのが、ほかならぬテシウスの忘れ形見だとは、これこそファリスのお導《みちび》きに違いない」
「そうか、オレのおやじの死は決して不名誉なもんじゃなかったんだな」
パーンは、自分の着ている鎧《よろい》がそのおやじが身に着けていた物だということを初めて心から誇《ほこ》りに思えた。おやじの選択《せんたく》は、間違ってはいない。オレでも、そう行動しただろう。それは、おやじの血が自分に流れている証拠《しょうこ》でもあった。
(|神《ファリス》よ。オレの体の中に、テシウスの血が流れていることを感謝します)パーンは深く息をして、まぶしい空を見上げた。
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第W章 大賢者
1
ヴァリスの首都ロイドまではのどかな旅が八日ほど続いた。ロイドはさすがに一国の首都だけに巨大な街《まち》で、その賑《にぎ》わいはアランと比《くら》べても遜色《そんしょく》なかった。三角州の上にできた都市ゆえに、あまり高い建物は見当たらず、城とファリス神殿の建物のみが、周《まわ》りの町並みから飛び抜けて高く突き出ているように見えた。そのファリスの王城とて、アラニアの王城や、カノンの名城シャイニング・ヒルなどから比べると高さという点では、かなり見劣《みおと》りがした。そのかわり広さはかなりのもので、町の中心部の大部分を城の塀と石垣《いしがき》が占めている。
「ここがロイド? 思っていたよりも小さな街ね」ディードリットは近くにエルムがいることも気にせず、感想をもらした。
パーンも、ディードリットの言葉にこっそりとうなずいた。
「アラニアの千年王国《ミレニアム》とは比べないでいただきたい。ご存じのようにヴァリスは建国してから百余年。まだまだ新しい国だ。しかし、国民の国家に対する忠義ではどこに国にも負けませんぞ」
エルムは誇《ほこ》らしげに言って見せ、自分たちに頭を下げて、道を譲《ゆず》る街の人々に挨拶《あいさつ》を返していた。
ロイドの街は迷路のように道が何度も折れ、初めて来た者にはまっすぐに城門を目指すことは困難なように思えた。もちろん、それは防衛のためで平地に建てられたこの城に一気に騎馬《きば》で駆《か》けてこられぬようにとの用心からである。
アランのような奇妙《きみょう》な形をした建物があるわけでもなく、町並みはすべて平凡な造《つく》りで、建物は馬車が通りやすいように広い道の両側に整然《せいぜん》と立ち並んでいた。もちろん一国の首都だけに、店の種類も様々で活気のある商取引の声があちらこちらから聞こえてくる。国は戦争の真っ最中とはいえ、この街《まち》の人にとって戦争は遠いかなたの出来事にしかすぎないのだろう。
街に入ってからかなりの距離を進んだに違いない。一行はようやくヴァリスの王城の城門にたどり着き、その跳《は》ね橋《ばし》を渡り広い場内に入った。
一行の真ん中にフィアンナの姿を認《みと》めた城の衛兵《えいへい》は口々に彼女の名前を叫《さけ》びながら、その無事を喜んでいるようだった。どうやらこのおてんば娘は城の誰《だれ》からも愛されているようだった。少し恥ずかしそうに笑いながら、フィアンナは手を振ってそれに答えていた。
中庭に入ってしばらく行ったところで、パーンたちは馬から降ろされた。ここから先は歩いてゆく決まりという騎士《きし》の言葉に従って、一行は建物の中に通された。エルムたちはフィアンナを連れて先に行ってしまい、取り残された格好《かっこう》のパーンには不満に近い感情が走ったが、反対できるはずもないのでそのまま案内役の騎士に従って、城の一室に案内された。
通された部屋は客間のようで、豪華《ごうか 》な調度品が並べられていた。大きさはスレインの家ほどもあり、クッションのよくきいたソファーやら、桐《きり》の木に何重にも漆《うるし》を塗《ぬ》って固めた大陸製の広いテーブルが並べられている。ガラスの開きのついた棚《たな》には、高価なワインやブランデーが並び、色付きガラスのグラスも用意されている。壁《かべ》には名匠《めいしょう》の手によるものだろう、魔神《ましん》との戦いを描《えが》いた巨大な絵画が一面に飾《かざ》られ、他の壁面にもそれに劣《おと》らぬ高価な装飾《そうしょく》の品が並べられていた。窓側の壁にはステンド・グラスがはめ込まれ、さすがにファリスの信仰厚い国だと、スレインをうならせた。
「これ、飲んだらいけないんだろうな」パーンが棚に並んだ酒類に目を輝かせながら、ディードリットに尋《たず》ねた。エルフの娘はそんなこと知るもんですか、と一蹴《いっしゅう》してソファーに腰を落ち着けた。
パーンはおやつを取り上げられた子供のように、うらめしそうに棚に並べられたびんを見詰《みつ》めた。ギムはあまり高級な酒には興味《きょうみ》がないのか、室内で見つけたドワーフ細工の一つを右手でもてあそびながら、ウロウロと部屋を行き来している。
「なんだか、落ち着きませんねぇ」
スレインはその言葉とは裏腹にいつもと変わらぬ話し方で、感想をもらした。彼もあまり室内の調度品には関心のない様子で、やることさえなければいつでも荷物の中から本を取り出そうという気でいた。
「まったく、こんな立派《りっぱ 》な部屋はオレには向いていねぇや。まるで豪華《ごうか 》な牢屋《ろうや》にでも閉《と》じ込められたような気分だぜ。こんな所じゃ、酒も飲む気になれねぇしよ。まったく、はやくなんとかしてくれと言いたいぜ」
ウッドも居心地が悪そうに、ソファーの上に腰を下ろしながら不平を並べたてた。
その時、扉《とびら》をノックする音が聞こえてきて、一人の召し使いらしい男が入って来た。ウッドが飛び上がらんばかりに驚《おどろ》いたのを見て、一同から笑いがもれる。
「国王様がお待ちです。こちらへおいで下さい」彼は一礼をして、自分について来るよう合図をした。さすがに王家に仕《つか》える者だけにその正しい対応の仕方に、パーンはかえってドギマギし、意味もなく頭を下げて剣を腰に吊《つ》るした。自分の鎧《よろい》があまりにも薄汚《うすよご》れているのが気になったが、いまさらどうしようもない。汚れの目立つ部分だけを手拭《てぬぐい》で拭《ふ》きとり、それを無造作《む ぞうさ 》に背負い袋の中に押し込んだ。
謁見《えっけん》の間までは最初に案内された部屋からは、かなり歩かねばならなかった。城の広さに感心しながら、パーンは場内のいろんなものを心に留《と》どめておこうと、あちらこちらに視線を走らせた。
途中、見慣《みな》れぬ鎧《よろい》に身を包んだ騎士《きし》の一団とすれ違い、スレインは不思議《ふしぎ》な面持ちでそれを眺《なが》めた。通り過ぎる時に彼らは一同にも頭を下げ、、スレインは鋭《するど》く相手を観察《かんさつ》しながら、礼を返す。
「今の騎士の一団を見ましたか」スレインはエトに耳打ちした。
「見たけど、何か?」
「フレイムの騎士団だって。もしかすると、フレイムも対マーモとの戦いに参加しようというのだろうか」
「もし、そうだとすればそれは朗報《ろうほう》ですね」スレインは言った。フレイムの騎士団、特に傭兵王《ようへいおう》カシューの剣の技《わざ》は、ロードスでは並ぶ者がいないとも言われている。スレインの言うとおり、もしフレイムが対マーモ戦争に参加するのだとすれば、心強い味方になると思った。
謁見《えっけん》の間は客間の贅《ぜい》をつくした造《つく》りに比《くら》べると、むしろ質素《しっそ》な造りで国王の人柄《ひとがら》を偲《しの》ばせた。石の床《ゆか》の中央に真っ赤なじゅうたんが敷《し》かれ、その両側に白い鎧《よろい》の騎士《きし》たちやその他の貴婦人、また正装をした宮臣たちがズラリと並んでいた。パーンは圧倒され、めまいがするような気がしたが、戦士としての誇《ほこ》りを思い出し、取り乱すことなくじゅうたんの上を進んでいった。
じゅうたんはそのまま石段に続き、二、三段上った所に玉座があった。その奥の壁《かべ》には巨大な国王の肖像画《しょうぞうが》がかけられ、それにヴァリスの銀十字の紋章とファリスのシンボルが並べられている。
そして伝説の王が玉座に腰を下ろしていた。
ゆったりとしたガウンをまとい、ドワーフもかくやというような髭《ひげ》を蓄《たくわ》えている。その顔に刻《きざ》まれた年輪の数は彼の残した偉業の記念碑《きねんひ》でもあった。六十をすでに越える年齢《ねんれい》にありながら、彼は衰《おとろ》えを知らぬ鋭《するど》い、しかし大海のような優《やさ》しさを持った視線で、六人の冒険者《ぼうけんしゃ》たちを見下ろしていた。その瞳《ひとみ》に見詰められていると、パーンは息のつまるような圧迫を感じ、彼は崩《くず》折れるようにその場にひざまずいた。残りの五人もそれに習う。
ファーン王の横には、立派《りっぱ 》な白いローブ姿に身を変えた宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》エルムと、ファリスのシンボルを刺繍《ししゅう》したガウンを着た老人が並んでいた。ファリス神殿の最高司祭、ジェナートに違いなかった。エトは初めて見る彼の姿に息が詰まる思いで頭を下げていた。
それにもう一人、仮に設けられた玉座に王冠《おうかん》をつけた男が腰を下ろしていた。
スレインはその男の装束《しょうぞく》に鷹《たか》の紋章《もんしょう》が縫《ぬ》い込まれているのを、瞬間《しゅんかん》で見て取った。なるほど、あの男が噂《うわさ》に聞く傭兵王《ようへいおう》カシューなのだな。やはりフレイムが対マーモ戦争に参加するというわけだ。
「おまえたちが、娘を助けてくれた恩人だな。心から礼を言うぞ。あの娘は、今、自分の犯《おか》した罪《つみ》を償《つぐな》うために、ファリスの神殿にてざんげの祈りを捧《ささ》げておるため、ここには出席できぬことを容赦《ようしゃ》願いたい」
穏《おだ》やかではあるが、威厳《いげん》に満ちた声が広間の隅々《すみずみ》にまでとおっていった。
「だが、いかに愚《おろ》かな娘とはいえ、わしはあの娘の父親である。その娘の命を救ってくれたことを、感謝する気持ちには変わりはない。差し出がましいことかもしれぬが、わしからの心ばかりの謝礼だ、どうか受け取ってもらいたい」
王の言葉に、一人の宮臣が重そうな布袋を抱《かか》え、パーンの前に進み出た。彼はひざまずくと、どうかお受け取り下さいと言いながら、その袋をパーンの目の前に差し出した。
「ありがたく、頂戴《ちょうだい》いたします」断《ことわ》るのも無礼なことだろうと判断して、一礼をしてパーンは布袋を受け取った。ズシリとした手ごたえが伝わり、謝礼が莫大《ばくだい》な金額に及んでいることを彼に伝えた。
(ウッドがさぞ、喜ぶだろう)パーンはその袋を後ろに控《ひか》える盗賊《とうぞく》に手渡すと、向き直って再びかしこまった。
「もっと楽にしていただきたい。わしは国王なれど、娘の命の恩人を迎える一人の父親でもある。本来はひざまずかねばならないのはこちらのほうなのだ。だが、皆の者は聞けよ。わたしは父親としてではなく、国王として王女フィアンナを罰《ばっ》せねばならない。無断で城を抜け出したその罪により、王女フィアンナには二月《ふたつき》の間公式の場には出さず、自室にて謹慎《きんしん》させるゆえにそう心得よ。
さて、娘をさらった女の正体についてだが、エルムからも簡単《かんたん》に報告を受けた。娘の話も合わせて考えるに、どうもマーモに仕《つか》える魔術師《まじゅつし》のようだが、おまえたちの意見も聞いてみたい。何しろ実際にその女魔術師と戦った人物の中で生きているのはおまえたちだけなのだからな」
パーンは後ろを向いて、スレインに合図をよこした。スレインはうなずいて立ち上がり、一同を見渡してから、深々と礼をした。
「それはわたしから申し上げましょう。わたしの名はスレイン。エルム様と同じ賢者《けんじゃ》の学院で学んだ魔術師にて、偉大なるラルカス師に教えを受けた学徒です。田舎者《いなかもの》にて、ご無礼があるかもしれませんが、なにとぞご容赦《ようしゃ》いただきたいと思います。
さて、あの魔術師の魔法の力はわたしから見ればとてつもなく強大なものでした。古代語の魔法と、さらにはマーファ神の力を持ち、しかも彼女の魔法の威力《いりょく》たるや、めったな者には使えぬほどの大魔術で、今は亡きラルカスさえもかくや、というようなものでした。恐れながら、エルム殿でも六人もの神聖騎士を一撃のもとに打ち倒す力はありますまい」
「確かにわたしには無理だ。炎《ほのお》の術は強力ではあるが、その一撃だけではきっと我が騎士たちは倒れぬはずだ」
「ですが、あの女性はそれを成し遂《と》げたのです」スレインは力を込めて言った。
動揺《どうよう》が広間を走り、ざわめいた声が沸《わ》き上がった。
「静かに」ファーンは右手を上げてそのざわめきを制した。
「つまり、かの魔女《ま じょ》は我が信頼するエルム以上の魔法の使い手だと言うのだな」
「そのとおりです」スレインは答え、再びひざまずいた。
「ふむ。ラルカスの最高の弟子とまで称せられたエルムよりも強い魔法を使うとはな。まさに恐るべき、という形容の似合う魔女だな。エルム、心当たりはないのか? 確かカーラとか言ったな。その魔女の名前は」
「わたくしもスレインの話を信じられず、記憶《き おく》の中を手繰《たぐ》りましてカーラを名前を思い出そうと務《つと》めておりました。そして、ようやく一つの伝説を思いだしました」
「ほう、さすがよの。で、その伝説とは?」
「その伝説とははるかな昔、この地にも古代王国の力が及んでいたころの話です。当時の魔法は現在をはるかに越える力を持っていたというのは承知の事実。われわれが使う古代語など、まったくの片言でしかありません。さて、その王国の滅亡《めつぼう》の時、多くの魔術師たちは王国と運命を共にしたと言われております。この破局の中、たった一人その難を逃れ、自らの力を残したまま生き延《の》びた一人の女の魔術師がいます。この者の名がカーラと言い、その後彼女は蛮族との戦いにその名を残し、強大な魔術をもって大いに彼らを苦しめたと記されています」
ファーンはエルムの話を聞きながら、首を微《かす》かに横に振った。指輪のはまった左手が玉座の取っ手から浮き上がり、指さすようにエルムに向けられた。
「で、おまえはその伝説の魔術師と、我が娘をさらった魔女めを同じ者だと思うのか。魔術師にとっては、自分の姿を変えることなぞ、造作《ぞうさ》はないだろうからな。しかし、そうだとすれば、その者は五百年の齢《よわい》を重ねた老人ということになるぞ」
「ですから、その真偽《しんぎ 》わたくしには申せません。大賢者ウォートならぬ未熟者《みじゅくもの》ゆえに」
ウォートの名を聞いて、ファーンは笑った。
「ハハ、あの男は変わり者よ。確かに賢者と呼ばれるだけの知識は持っておるがの。わしはあの男を一時《いっとき》であれ仕《つか》えさせた先王に敬意を表しておるのだ」
「ですが、あの魔女の正体を知る者がいるとすれば、ウォート以外にはおりますまい」
「そうかもしれん。いや、そのとおりだろう。だが、誰《だれ》があのモスの山奥まで、ウォートを尋《たず》ねて行くのだね。これからはマーモとの戦いはますます激しいものになるぞ。その時には一兵たりとも無駄《むだ》にするわけにはいかんのだ」
「しかし、カーラという魔女の存在が気になります。もし、本当に古代王国の生き残りならば、われわれは古代王国の魔力とも対決しなければならないのですぞ。カノンの王城シャイニング・ヒルが落ちたのも、空から落ちて来た巨大な隕石《いんせき》のためなのです。わたくしは敢《あ》えて断言いたしますが、かの妖術師《ようじゅつし》バグナードには、そんな力はございません」
「分かった。つまりはあくまでかの魔女の正体を突きとめよと言うのだな」エルムの強い言いように苦笑しながら、ファーンはうなずいた。「ふむ、その大事、めったな者ではできぬことよの。あの偏屈《へんくつ》めは人と会うのを嫌《きら》うばかりに、モスの山奥の塔《とう》を決して離れぬし、それにその塔へ行く一本の道には、魔の洞窟《どうくつ》で知られる南のドワーフの廃墟が横たわっている。かの洞窟にはドラゴンが眠り、食人鬼《オーガー》どももすみかとしていると聞くからな。レオニス、重大な任務である。人選《じんせん》は任《まか》せるぞ。騎士隊《きしたい》の中から、適切な人物を選《えら》び出せ」
ファーンは騎士隊長らしいりぱな飾《かざ》りのついた兜《かぶと》を左手に抱《かか》えた男に声をかけた。
「その役、わたくしが引き受けましょうか」
パーンはその言葉を出そうかどうか、かなり迷いはしたのだ。だが、言ってしまった上はかえって落ち着き、その役こそ自分にふさわしいと心に思った。
「わたくしは流れの戦士です。傭兵《ようへい》として参戦する以外にはお役に立ちそうにもありません。どなたが行くにせよ、聖騎士隊から人を募《つの》るのは、戦力として大きく影響《えいきょう》するでしょう。それならむしろヴァリスにとって戦力外のわたくしが行くほうが、ヴァリスにとっては有利なはずです」
ファーンは目の前にひざまずく若者の真剣《しんけん》な顔を見ながら、久し振りに心が若返った気になっていた。
「あの男か。テシウスの息子と名乗ったのは」小声でファーンはエルムに尋《たず》ねた。エルムはうなずき「さようです」と答えを返した。
なるほど、そう言われればパーンの声や顔には騎士テシウスの面影《おもかげ》がうかがえる、とファーンは思った。それに行動まで似ている。名誉《めいよ》ある戦いよりも、地味な探索《たんさく》の旅に赴《おもむ》くほうをパーンは選びたいという。
ファーンは、この若者はおそらくヴァリスの騎士になりたいと申し出てくるものとばかり思っていた。エルムから彼にその意志があるという話はすでに聞いている。立派《りっぱ 》な若者だと、彼はその人柄《ひとがら》も褒《ほ》めていた。騎士たる資格にふさわしい人物だとも言えます。もちろん、いろいろと教えねばならぬこともありますが、とエルムは付け加えもした。フィアンナを救った武勇はその資格にふさわしいものだし、しかもあのテシウスの実子である。しかし、その理由だけでパーンを騎士として認《みと》めてしまうことは、テシウスの名を知らぬ若い騎士たちに不満が起こるかもしれない。彼らは難しい資格|審査《しんさ》を受けた後に、聖騎士の名誉を受けたのだ。流れの戦士がふいに騎士の位を得れば、聖騎士とて人間、腹を立てる者もいるだろう。だが、この試練《し れん》を見事果たしたならば、若い騎士たちも認《みと》めぬわけにはいかぬ。テシウスの名は知らぬとも、ドワーフの廃墟《はいきょ》の噂《うわさ》を知らぬ騎士たちはいないからだ。その魔の廃墟は東の『帰らずの森』と並ぶ、魔物《まもの》の聖域《せいいき》なのである。
「パーン。おまえの父親、騎士テシウスのことだが、わしは本当にすまないと思っているのだ。名誉ある騎士として葬《ほうむ》ってやれず、しかも心労からおまえの母親をヴァリスの地から離れさせてしまったのだからな。だから、せめておまえには名誉ある騎士として、わたしのもとで戦ってもらおうと思ってもいるのだ。だが、我が騎士団に入るには試練が必要なのだ。だから、パーンよ。おまえの申し出ありがたく思うぞ。ウォートへの手紙はわしがしたためる。見事この役目引き受けてみせてくれ。そして、その武勲《ぶくん》を手《て》土産《みやげ》に、我が臣下として仕《つか》えてはくれまいか」
「一命に代えても」パーンは高揚《こうよう》感に包まれていた。
「言っておくが、ウォートの館《やかた》への道程《みちのり》は厳《きび》しいぞ。先にも言ったように、魔物の巣《す》くう廃墟を抜けて行かねばならないし、またかの魔女めに狙《ねら》われるかもしれん。それでも、行ってくれるのだな」
「もちろんです」パーンは自分が今、英雄だと思った。ささやかな英雄であってもそれが自分には似合《にあ》っているようにも思えた。
「いや、愉快じゃ。わしは久々に愉快な気分になれたぞ」英雄王は豪快《ごうかい》に笑って、玉座から立ち上がって手をたたいた。
「さて、今日は何とも良い日じゃ。正義を愛する砂漠《さ ばく》の王と、勇敢《ゆうかん》なるテシウスの息子を迎え、マーモとの戦いに勝利することにもはや疑いはなくなったぞ。さあ、皆の者|酒宴《しゅえん》の用意じゃ。今日は一日、存分に楽しもうぞ」
ファーンがそう宣言《せんげん》すると、広間に居並ぶ一同から歓声《かんせい》が起こった。扉《とびら》が大きく開放され、幾人《いくにん》もの召し使いたちが、準備《じゅんび》のために広間に入ってきた。ファーン王|自《みずか》らはエルムとジェナートを伴って広間を退出した。
音楽が響《ひび》き始め、宴《うたげ》が始まった。
宴は別にパーンたちの労をねぎらうために開かれたわけではなく、砂漠の傭兵王《ようへいおう》カシューを歓迎するために開かれたもののようだった。
そのフレイムの王カシューは、まだ齢《よわい》三十歳にも満たない。だが、若いころから武勇で知られ、砂漠の蛮族《ばんぞく》をフレイムの地から追い払い今のフレイム王国を二十代の前半で建国した英傑だった。傭兵上がりの経歴から傭兵王の名前を冠しているが、剣の腕前だけではなく、政治的手腕もなかなかのもので、建国して十年にも満たぬ若い王国ながら、人心はカシュー王に完全に集まっている。
砂漠の蛮族は暗黒の魔法《ま ほう》を使うことでも知られ、ヴァリスとも何度も戦《いくさ》をしていただけに、この正義感に満ちた王が新たな国を建ててくれたことは、ファーンを始めヴァリスにとっても喜ばしいことであった。また、カシューは早速ヴァリスに同盟《どうめい》を求める使いを送り、ファーンの六十歳の誕生日《たんじょうび》には自《みずか》ら馬を駆《か》り、まっさきに駆けつけるなど、ヴァリスとの同盟の意志の強さを見せもした。
それ以来ファーンは、カシューに年を忘れての友であると、公言している。
その傭兵王はヴァリスの宮廷《きゅうてい》でも人気者の様子だった。
未だ独身であるこの王の行くところ、宮廷の貴婦人たちや、それに彼の武勇談を聞こうと集まる若い騎士たちで溢《あふ》れかえっていた。
パーンのまわりにもまた、騎士たちが集まっていた。騎士たちはテシウスの息子であるパーンを、まるで旧知の友のように扱い、彼の立てた武勇を称《たた》えた。人だかりは、ディードリットやギムの周《まわ》りにもできていた。エルフやドワーフの姿は、宮廷ではめったに見かけぬものだったからだ。ディードリットは、周りを取り囲まれるように質問を浴びせかけられ、半ば当惑を隠し切れぬ様子だった。反対に宮廷《きゅうてい》婦人のドレスを見ながら、こんな動きにくいものを着ていて、さぞ疲《つか》れることだろうと愚にもつかぬ考えに浸りながら、適当に質問に対して答えていた。
エトの周りにもまた若い婦人たちが取り巻き、旅のファリスの神官の勇気ある行為を称えていた。
ウッド・チャックはただ一人、周りの華《はな》やかさから取り残されていた。他の者には(それはギムやスレインにいたってもだ)苦労をねぎらう言葉がかけられ、酒を勧《すす》められたりもしているのに、自分だけはのけ者にされたように、誰一人として声をかけようとする者がいあいのだ。
(オレがやったことと、パーンがやったことに違いでもあるって言うのか)ウッドは心の中に暗い炎《ほのお》が燃えるのを感じていた。
夜が来て、舞踏会も始まった。もちろん優雅な宮廷のしきたりにパーンたちがついていけるわけがない。彼らはたちまち広間の隅に逃げ込み、そこだけが魔法で結界を張られた場所であるかのように、身内の話をしては飲み食いをしていた。
「わたしたちはパーンの気まぐれで、これからモスくんだりまで出向かなければならないのね」ディードリットはそうすることに反対ではなかった。むしろ内心ではパーンとまた気楽な旅に出かけられることに喜びすら感じていたのだ。
「すまないと思っている。だから無理にとは言わない。もちろん、みんなにも来てほしいが、他にやりたいこともあるだろう。また、これだけの大金を戴《いただ》いた上は、もはや命の危険を犯す必要もないと思っているかもしれない。だからオレは一人で行くことになっても仕方がないと考えているんだ」
ディードリットはパーンの意外な反応に驚いた。困惑の表情を浮かべて黙《だま》ってしまうのだろうと思っていたのだ。ところが、パーンはずいぶんと生意気な口をきく。
「立派になったわね、戦士殿。今はあたしの負け、あなたについて行くわ」
「わしも行くぞ。感謝されるいわれはない。これはわし自身の問題でもあるんじゃ」ギムがいささか酒によったような調子で気勢を上げた。
「わたしも行きますよ。大賢者ウォートに会いに行くというのに、わたしが行かないわけがないじゃありませんか」スレインだった。
「僕が返事をする必要があるのかな、幼なじみのこの僕が」エトも明るい顔をしていた。そしてウッド・チャックの顔をチラリと見る。
「分かってるよ。毒食《どくく 》わば皿《さら》までだ。おめえたちについてゆくぜ。第一このオレの腕が不要なはずがねぇもんな」ウッドは、暗い気持ちを隠《かく》したまま、明るい声を出して言った。(それでも、褒《ほ》められるのはおめぇらだけなんだ。苦労をねぎらってもらえるのもよ)
舞台の中央で、主賓《しゅひん》のカシューと一人の宮廷婦人が見事な踊《おど》りを見せていた。
カシューは王としての経験も浅く、ましてやそれ以前は一介《いっかい》の戦士に過ぎなかったのである。どこで宮廷儀礼を覚えたのだろうというのが、口やかましい貴婦人たちの間での噂《うわさ》の種になっていた。なかには彼はカノンの出奔《しゅっぽん》した第二王子に他ならないと言うものもあり、また大陸から流れて来たいずこかの王家の末裔《まつえい》であると言うものもある。
ことの真偽は彼は口にしない。今の自分がすべてですよ、カシューはそういった問いにはこう答えることにしていた。
ファーン王はついに舞踏会《ぶ とうかい》の間にも姿を一度も見せなかった。やがて、夜も更《ふ》け宴《うたげ》は無礼講の様相を見せてくる。ウッド・チャックとギム、それにスレインの三人は早々に宴から抜け出し、与えられた寝室に引き込んでしまっていた。
パーンとディードリットは目的のないまま、宴の中に取り残され、エトもフラフラとあちこちを歩きながら、残った若い貴婦人たちに捕《つか》まっては冒険談《ぼうけんだん》を語らされるはめになっていた。
「チェッ、あいつもてるんだな」
パーンはその様子を見ながら、僻《ひが》んだように口をとがらせていた。
「当たり前よ。顔だってあちらのほうが上だし、それに神官らしい真摯《しんし 》さも、ファリスの信仰の厚いこの地では好まれるでしょうしね」
ディードリットはククッと喉《のど》の奥で笑い、壁《かべ》にパーンと並んでもたれながら、エトとその周りに集まる何人かの貴婦人たちをぼんやりと眺《なが》めていた。
「失礼してよろしいですかな」突然の声に、パーンはギクリとし、ディードリットはせっかくのんびりとしていたところを邪魔《じゃま》をされ腹を立てた。
「何の用ですの」彼女は近づいて来た男を鋭《するど》くにらみつけた。
「なかなか気の強そうなエルフだな」声の主はそう言って、声高く笑った。それはカシュー王その人だった。
「ご無礼を」パーンは酔いが一度に醒《さ》める気持ちがして、慌《あわ》てて頭を下げた。
「かまわん。オレには礼儀など不要だ。オレも元をただせばおまえと同じ流れの戦士よ。剣一本を頼みに世間を渡ってきた」
「何かわたくしに?」
まだパーンは落ち着かないでいたが、カシューという男の気さくさが、気に入り始めていた。隣のディードリットは機嫌《き げん》の悪そうなのを隠《かく》そうともしないで、ひたすらだんまりを決め込んでいる。
「用というほどのものはない。だが、久しぶりに若い戦士と話をして、冒険談を聞くのも一興《いっきょう》かと思ってな」
「恐れ入ります」
パーンはこの若い王と自分とではどこが違うかを、見《み》極《きわ》めようと相手を観察《かんさつ》しながら、ゆっくりと自分の話を始めた。別に彼は身分の違いを羨《うらや》んでいるわけではない。むしろ、その違いを埋《う》めることで、自分ももっと立派《りっぱ 》な人物と呼ばれるようになりたいと、思っていたのだ。
パーンの話を楽しそうに聞きながら、カシューはこの若い戦士に戦う上での注意を付け加えることを忘れはしなかった。そして、あしたでよければ剣の稽古《けいこ 》をつけてやろうと、彼に約束してくれさえしたのだ。
話が一段落ついた時に、どこからか吟遊《ぎんゆう》詩人の歌が聞こえてきた。リュートを弾《ひ》きながらの語りは、先の魔神との戦いを描《えが》いたサーガだった。
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過《あやま》ちが、暗黒から魔《ま》物《もの》を呼び出した。
世界を闇《やみ》が包み、暗黒の中で人は息絶え、王国は滅《ほろ》んだ。
だが、暗黒と戦うために光は集まった。
人は立ち上がった、その手に剣を持ち。
エルフは立ち上がった、輝ける森の奥から、弓を取って。
ドワーフは立ち上がった、つち打つその手に斧《おの》を持ち代え。
光はまとまり希望の太陽となった。
太陽は暗黒を切り裂《さ》き、勝利した。森で、山で、平野で、そして海で、空で。
闇の魔物は自らのすみかに逃げ帰った。
そこは魔物の聖なる地、世界で最も深き迷宮。
その奥に異界への扉《とびら》はあり、魔神の王が暗黒の玉座につき、邪悪《じゃあく》なる右手を上げて、呪《のろ》いを世界に送っていた。
選《えら》ばれし百人の英雄たち、その暗き死の迷宮に挑《いど》む。
あまたの英雄たちは、暗黒の地で闇と戦い、そして冷たき骸《むくろ》となった。
それでも、光は迷宮の奥底までを照らし出した。
七人の英雄が魔神に挑み、そして六人が生き残り、世界は救われた。
一人は騎士。白き鎧《よろい》をまとい、聖剣を手にしたヴァリスの王、ファーン。
一人は戦士。魔神を打ち取り、そして心を魔神に奪《うば》われた暗黒|皇帝《こうてい》ベルド。
一人はドワーフ。失われし石の王国の最後の王、フレーベ。
一人は魔術師。世界の知識を知る、大賢者ウォート。
一人は神官。大地の法を守る、清きマーファの神官ニース。
そして最後の一人は無口な魔法戦士。名前も告《つ》げず去っていった光の使徒。
かくして光は戻《もど》り、闇は去る。
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そんな戦いがあったということは、パーンも話には聞いている。今またロードスに大戦の火ぶたが切られているが、皮肉なことにその戦いは、先の魔神との戦いで共に戦った二人の英雄、ファーンとベルドとの戦いなのだ。
(運命とは皮肉なものだ)パーンは、そう思わずにはいられなかった。なぜ、ベルドは英雄の名を捨て、暗黒の島の皇帝となったのだろう。そして、カノンをも滅《ほろ》ぼしたのだろう。パーンにはその理由がわからなかった。何が彼を変えたのだろうか。
舞踏会《ぶ とうかい》は終わりをしらず、夜が更《ふ》けてもなお、いつまでも続く様子だった。パーンと砂漠《さ ばく》の若い王との会話もまだまだ続く気配《けはい》だった。
ディードリットは舞踏会の華《はな》やかさにパーンと初めて会った時のことを思い出していた。そして、ふと、故郷の森のことも。無意味と思えた営みの中に、ちりばめられている真実の葉を拾い集めるにはまだ時間がかかりそうだ、と心に思う。真剣《しんけん》な顔でカシューと話を続けるパーンの姿を見詰めながら、この男の一生を見送るぐらいの時間をかけてもかまうまいなどと考えていた。
2
醜悪《しゅうあく》な顔のゴブリンの兵士が、背中を屈《かが》めながら城門を行き来していた。ベルドはその様子を吐《は》き気のする思いで眺《なが》めながら、あの忠実な部下の腐《くさ》った性根と、自分のねじくれた心のどちらがよりまともなのだろうかと、愚《ぐ》にもつかぬ思いに身を任《まか》せていた。
左の腰に吊《つ》るした魔《ま》剣《けん》がカチャリと鳴り、彼の考えを嘲笑《あざわら》った。ベルドは剣の柄《つか》を握《にぎ》りしめ、まるで憎い敵をくびり殺すように力を込めた。
「どうなさいました。昼間から物思いに耽《ふけ》られて」
背後で声がした。バグナードの声である。彼のもっとも信頼する参謀《さんぼう》、訳《わけ》あって、その魔法の力はあまり使えぬが、その力を抜きにしても有用な軍師《ぐんし》である。
暗黒の島と呼ばれていたマーモを、ベルドがわずかの手兵でもって平定した時に、この魔法使いはふらりとやって来た。以来、彼はベルドの宮廷魔術師《きゅうていまじゅつし》として、表向きであるか、本心であるかはともかく、忠実にその役を果たしてきた。
「なに、門番のゴブリンの醜《みにく》さを眺めておったのよ。かつてはロードス一の名城とうたわれたこのシャイニング・ヒルも主《ぬし》が変われば、かくも無残になるものかとな」
ベルドは赤い鎧《よろい》に身を包み、暗黒色のマントを風に吹かれるにまかせていた。
腰の魔剣がカタカタと笑っている。
「それよりも、例のカーラという女、ファーンの娘をさらって来ることに失敗したようですな」
「ああ、らしいな。だが、オレはあんな姑息《こそく》な手は使わぬともファーンごとき破って見せるさ」
ベルドはバグナードの黒色のローブを頼もしそうに見ていた。彼は賢者の学院で手に入れた賢者《けんじゃ》のローブを黒エルフの血で染《そ》め上げていた。彼は黒エルフと同じく、ファラリスの暗黒の魔法の使い手でもある。
魔術師にしてはたくましいその体は、剣を握らせてもなかなかに腕が立つ。もともと、剣を蔑視《べっし》する魔術師たちの中では、それだけで彼は異端児《いたんじ》といえた。
バグナードはよほどのことがない限り魔法は使わぬ。いや、使えぬのだ。それは彼の師ラルカスにかけられた禁忌《きんき》の魔術のためだった。魔法を使うたびに、たとえそれがいかに単純なものであれ、バグナードの全身に耐《た》え難い苦痛が走るのである。だが、常人なら気を失いかねないその苦痛さえ、この魔術師は耐えてみせるのだ。暗黒の魔法をかけるために数時間もの儀式を精神集中を失うことなく行うことができるのだ。
ベルドがこの妖術師《ようじゅつし》に全幅《ぜんぷく》の信頼を置いているのも、彼のその邪悪《じゃあく》な意志の強さのゆえである。
「アラニアでも、あの魔女めは失敗しましたからな。噂《うわさ》よりは案外、無能なのかもしれません」
「そうかな。あの女は結構したたかで、二重三重のわなを張り巡《めぐ》らしておるようだぞ。ヴァリス以外は、勝手に自滅《じめつ》しますよと、いまだに公言しておる」
「それが誠であればこちらとしては手間が省《はぶ》けるのですがな」
「ところで、バグナード。何か、報告を持って来たのではないのか。先程《さきほど》早馬が駆《か》けて来た様子だったが」
ハハ、とバグナードは乾《かわ》いた笑い声を上げた。「さすがに、皇帝陛下《こうていへいか》。お目が高い。ヴァリスに放っております間者《かんじゃ》からの報告ですが、ロイドにフレイム王カシューが百騎ばかりを伴って、到着したとのことです。どうやらファーンはこの城を目指していよいよ進撃を開始するようですな」
「そうか、ついに来るか」ベルドは薄笑いを浮かべた顔で、空を見上げた。「戦いの日には太陽を隠《かく》しておけよ。ゴブリンどもは日の光を嫌《きら》うからな」
「御意《ぎょい》。ところで、例のカーラは今、どちらに?」
「カーラか。あの女は今頃《いまごろ》はモスのはずだ。モスでの細工《さいく 》の仕上げと、それに旧友に会いに行くんだそうだ」
「さようで。あの女も何かと忙しいようですなあ。まったく何が目的でわれわれに協力しているのやら」
「分からぬよ」ベルドは軽く言い放った。「分からんほうが面白いことが世の中には一杯《いっぱい》あるぞ」ベルドはマントを翻《ひるがえ》すと、カツカツと石床《いしゆか》を踏《ふ》み鳴《な》らして、屋内《おくない》へと入って行った。バグナードは音も立てずに、主《あるじ》の後ろを影のように付き従った。
その頃、モスの国の山奥にパーンたちの姿はあった。ロイドを出発して、およそ半月ばかりが過ぎていた。途中、石の王国と呼ばれた南のドワーフ族の廃墟《はいきょ》を通り、様々な魔物を打ち倒しての戦いの旅でもあった。
だが、パーンたちは、その過酷《かこく》な旅をなんとか切り抜け、ようやく目指すウォートの館《やかた》までたどり着こうとしていた。
だが、今は厳しい山道で、一歩進むごとに息が切れ、汗が噴《ふ》き出した。崩《くず》れやすい足場にも神経を使わねばならず、一行の進む速度はかなり遅くなっていた。
「ひどい所に住んでいるものね」
ディードリットが途中で拾った枯れ木を杖代《つえがわ》りに使いながら、溜息《ためいき》をついた。
「まったくだぜぇ。ウォートっていうのは、もうじじいなんだろ。よくこんなところに住んでられるなぁ」ウッド・チャックも同意してうなずいた。
辺《あた》りは岩山で、野草がまばらに生えているだけだった。峰《みね》を伝って一行は進んでいた。途中、風に煽《あお》られバランスを崩したスレインが一度|斜面《しゃめん》を滑《すべ》り落ち、ウッド・チャックに縄《なわ》で引き上げられるはめにあった。怪我《けが》はエトの呪文《じゅもん》で回復したが、その後彼はかなり参った様子で、一言も言葉を出さずに足元だけに注意を集中させている。
「あれじゃ、ねぇのか」
先頭のウッドが上体を起こし、額《ひたい》に手を当てながら遠くを見詰《みつ》める姿勢になる。
ディードリットの目にも微《かすか》に塔《とう》の先端のようなものが映った。だが、岩山の頂《いただき》のようにも見える。スレインが遠見の魔法《ま ほう》を唱《とな》え始め、一行はその結論が出るのを待つために、しばらくの間休止した。
「間違いありませんね。確かに石造《いしづく》りの塔ですよ」スレインは明るい声を出した。それをもっと確かめるために、彼は浮遊《ふゆう》の呪文も唱え、長身のウッドの二倍ぐらいのところまで体を浮かせた。
「あと、数時間ほどでたどり着きますよ」
スレインはもう一度言ったが、まだ数時間もかかるのかとの思いのほうがどうやら強いようで、安堵《あんど》の声は返ってこなかった。
「もう少しここで休んで、それからもう一頑張《ひとがんば》りだ」
パーンは宣言《せんげん》し、手《て》頃《ごろ》な石の上にどっかと腰を下ろした。手拭《てぬぐい》いを取り出し、額ににじむ汗を拭《ふ》き取る。強い日差しから逃げる場所もなく、重い鎧《よろい》が恨《うら》めしかった。
一行を見詰める姿があることに、まさか彼らが気づいていようはずもない。腰を落ち着け休んでいる場所から、少し離れた場所、彼らが目指す塔《とう》の頂《いただ》きの小部屋の中で、二人の魔術師がその様子を覗《のぞ》いていた。
「あの者たちか、おまえを見事に出し抜いたという若者たちは」
全身|灰色《はいいろ》ずくめの男は、皮肉のこもった口調で言った後で、ヒヒヒと笑った。
「なんとでもおっしゃいな、ウォート。わたしとて運命の前には赤子《あかご》も同然なのよ」
答えるもう一人の魔術師は紫《むらさき》の衣《ころも》をまとった女性だった。彼女は腹を立てた様子もなく、水晶球《すいしょうだま》に映《うつ》るパーンたちの姿を見詰めていた。
薄暗い部屋の中には二人のほかには、誰《だれ》もいない。わずかにテーブルと椅子《いす》が四つばかり、円の形をした部屋の中央に並べられているにすぎない。扉《とびら》は二つあり、一つはガラス張りの扉でバルコニーに通じており、そこからはモスの山々や、遠く『空の上なる湖』を眺めることができた。
ただ机の上に怪しく光る水晶球は、もっと遠方まで見ることができる。正確にいえばロードス中のいかなる場所でも映《うつ》しだすことが可能なのだ。
「ところで、あの者たちをどうするね。これから出て行ってひねりつぶしてくるか?」
ウォートは白くなった髪《かみ》を長く背中まで伸《の》ばしている。かつてはその髪は彼の使い魔のカラスのように黒かったのだが、さすがに寄る年波には勝てない。髭《ひげ》は生やさず、しわだらけの顔がまともに覗《のぞ》いている。その目は子供のようにいたずらっぽく開かれ、口元は苦《にが》い物でも頬張《ほおば》ってしまったかのように、真一文字に押し広げられている。
女は怪しく笑った。妖艶《ようえん》な赤い唇《くちびる》から白い歯がもれ、額《ひたい》の緑の宝石がキラリと光を放つ。もちろん、女はカーラだった。彼女はモスでの仕事の仕上げを済《す》ますとこの塔《とう》まで出向き、二日ほどの間パーンたちがやって来るのを待ち構えていたのだ。彼らがこの地を尋《たず》ねに旅だったという話は、真実の鏡を使って知ることができた。
そして彼らはついにやって来たのだ。
「ひねりつぶすと簡単に言うけれど、どうして彼らはなかなかにしたたかよ。特に魔術師《まじゅつし》は若いながらにたいした切れ者。油断をしていたとはいえ、わたしは二度も出し抜かれたのですからね」
「五百年も生きたおまえがの。それは立派《りっぱ 》な冒険者《ぼうけんしゃ》どもじゃ。これは一度会うまでは殺さずにおいてもらわねばの」
「会った後なら、殺してもいいの?」
「わしの目の届かぬところならな」
ウォートの灰色《はいいろ》の目が細くしまった。蛇《へび》の目を思わせる瞳《ひとみ》が、カーラの白い横顔を捕《と》らえていた。
「あなたの目の届かぬ所など、このロードスのどこにあるというのかしらね。この物見の水晶球の力は、わたしの知る限りでは無限のはずよ」
カーラは口に手を当てて、高く笑った。顔が上を向いてうなじがあらわになる。笑いの余韻《よいん》を口元に残したまま、逆に冷めた刺《さ》すような視線が老人の顔に向けられる。
「いいでしょう、ウォート。わたしも個人的な恨《うら》みで彼らを殺すつもりもないわ。それは無益《むえき》なことだし、わたしの主義には合わない。わたしの使命はもはや終わっているのだから、あの者たちが向かってこない以上は、こちらから手出しをすることはしますまい。でも……」カーラはいったん言葉を切り、そして水晶球を覗《のぞ》き込んだ。
「彼らがあたしを許してくれるかしら。もし、彼らが挑《いど》んでくるならば、ねぇウォート、その時にはあたしはあの者たちを倒してしまってもいいでしょう」
「それを止めることはわしにはできんな」
「心配しないで。わたしもそれを望んでいるわけではないの。わたしも彼らは気に入っているし、できれば仲間になって欲しいぐらい。でも、きっと彼らはわたしを倒しにやってくるでしょうね。あの若い戦士は、わたしを心の底から憎んでいるもの」
「何を考えておる、カーラ」ウォートは厳しい顔で、カーラに尋ねた。
「何を、ですって。あの者たちを見て気が付かない? かつてのあなたやファーンと同じじゃないの。運命に導かれるように、危機を乗り越えて、目的を果たす。いつかきっと、彼らはわたしの恐るべき敵として、立ちはだかってくるわ。今なら彼らを倒すことはたやすいことなのよ」
「なるほどな」
「彼らはきっとあなたに、わたしの居場所を尋《たず》ねてくるわ。その時には、構わないから教えてあげてちょうだい。もちろん、わたしがどこに住んでいるかなど、あなたはご承知《しょうち》でしょう?」
「知っておるさ」ウォートは憮然《ぶぜん》として答えた。「おまえとの盟約《めいやく》は守る。わしはファーンには手を貸さん。おまえがベルドから手を引く代償《だいしょう》としてな。わしらが戦いに参加すれば、人の死ぬ数は倍以上に膨《ふく》れ上がるでな。しかし、盟約はあの者たちまで、含んでおらんぞ」
「わたしと戦うつもり? 大賢者ウォート。それはあなたの主義には合わないはずよ。あんな者たちのために、危険を冒す必要がどうしてあるの? あなたは、あなただけは、わたしと戦う無益さを知っているでしょうに」
「いかにも知っておる」魔法の対決だけなら、彼は決してひけを取らないつもりだった。しかし、カーラを殺すわけにはいかないのだ。それは、同時に自らの破滅《は めつ》を意味するからだ。しかし、殺さずにカーラを屈服《くっぷく》させる手段は、さすがにウォートも知らない。
「惜《お》しい若者たちだけど」
カーラは椅子《いす》から立ち上がり、もう一度|水晶球《すいしょうだま》の中に映《うつ》るパーンの姿を眺《なが》めた。いとおしそうに水晶球を手に抱《かか》え、その手をなでるように動かすと、水晶球はもはや何も映しておらず、黒い固まりに変わっていた。
「さて、そろそろ勇者たちを出迎える準備《じゅんび》をしなければ。何か飲み物を用意しましょうね。それに軽い食べ物も。心配なく、あなたのもの言わぬ下男にやってもらう必要はないわ。あの者たちはわたしの客でもあるんだから、わたしが料理の腕をふるったとて、何もおかしいことはないでしょう。だから、申し訳ないけれど台所を借りるわね。そうそう、ウォート。あなたも好みがあれば言って頂戴《ちょうだい》。わたしはたいていのものを作ることができてよ」
「おまえがではなく、おまえが支配している娘がであろうが」
ウォートは少なからずの嫌悪《けんお》感《かん》をこめて言いはなった。
「そのとおりよ。でも、この体はわたしのものだわ。もはやレイリアという名のマーファの司祭ではなく、カーラという魔術師、いえ魔女なのよ」
ウォートは魔女と視線を合わすのを避《さ》け、水晶球をまたも発動させた。ボッと浮かび上がるその画像の中に、ベルドの姿が大写しになった。その若々しい顔はかつて、共に『最も深き迷宮《めいきゅう》』に魔神の王を倒しに行ったころと、ほとんど変わりがない。魔剣の持つ力のために若さが失われないのだ。齢《よわい》わずかにウォートよりも下ながら、すでに六十を越える老人のはずである。
だが、呪《のろ》われたようにその若さは凍《こお》りついたままだ。そして彼はロードスを統《す》べる覇王《はおう》にならねばならぬとの呪いに今も縛《しば》られているのだ。
魔《ま》神《しん》の王との最後の戦いの時、彼の身を庇《かば》って倒れたファリスの女司祭がいた。その娘がベルドに託《たく》した最後の言葉。「ロードスに平和を。そのためには一人の偉大な王が必要なの。ねえ、ベルドあたしには思えるの、あなたがその資格を持つ唯一《ゆいいつ》の人なんだって」
その司祭の名はフラウスという名だった。若い頃《ころ》から、ベルドと三人でロードス中を旅をしたものだ。あの呪文《じゅもん》に縛られぬうちは、ベルドは本心から王になりたいなどと思ったことはあるまいに。
だが、もはや矢は放たれたのだ。ベルドの心はあの迷宮の奥底でフラウスと共に死に、永劫《えいごう》の奈落《ならく》の中をさまよっているのだ。残った体はすでに娘の言葉を果たすためだけに動いているに違いない。
ファーンが目指すものと、ベルドが目指すもの。その二つはまったく同じ「ロードスに永遠の平和を」という幻想《げんそう》でしかないのだ。
「愚《おろ》かなことだ。そして、なんと悲しいことなのだろう」
ウォートは自分の館《やかた》に、平気で入り込んでいる灰色《はいいろ》の魔女に底無しの怒《いか》りを感じ始めていた。あの女は、いや、唯一の古代王国人の魔女は、彼らの真剣《しんけん》な思いを手駒《てごま》として、バランスの天秤《てんびん》の平衡《へいこう》を保つためだけに利用しようというのだ。
(白ではなく、黒でもなく、またも灰色が勝つのか)ウォートにはこれから先の戦いの結末が読めるのだった。その結末をもはや動かす術《すべ》はなく、また動かせないことを知っているからこそ、カーラはわしとの戦いを避《さ》けるべくやって来ているのだ。
カーラは歴史の陰に立ち、力ある勇者たちをチェスの駒に使って、世界を絶えず動かし続けてきたのだ。ロードスに古代王国以降、統一した王国が立たぬのも、または立っても長くは続かないのも、この魔術師の存在のためなのだ。
ウォートは水晶球の中に映るベルドの姿に飽《あ》きることなく見入っていた。
3
「やっと、着いたぜ」パーンは心底疲れたように膝《ひざ》に手をつき、大きく息を吐《は》いた。結局、休憩《きゅうけい》してからたっぷり四時間は歩かされた。山道のうねりが、思った以上に激しかったのだ。その道のうねりさえ、ウォートの画策《かくさく》したもののように思えて、正直に言うと、パーンは大賢者《だいけんじゃ》と呼ばれる人物が嫌《きら》いになっていた。
「ただの偏屈《へんくつ》のじじいじゃねぇか」と、何度もディードリットに愚痴《ぐち》をこぼしたものだ。ディードリットはそのたびに、「そうね」と賛成《さんせい》の意志を示したのだが、最後にはとうとう腹を立て、「そんなに会いたくないのなら、このままロイドまで帰ればいいじゃない」と怒鳴《どな》った。
それ以来、二人はまったく口をきいていない。最近ではよくあることだった。パーンが譲《ゆず》らなくなった分だけ、二人の間で起こる喧嘩《けんか》の回数が増えているのだ。だが、それは同時にパーンの成長の証《あかし》でもあった。彼は、戦士としての腕前もさることながら、人間としても大きな成長を見せていた。ファーン王とカシュー王という二人の英雄に感化されたところが大きいのだろう。
ロイドを立っていらいの、彼のリーダーぶりには、目を見張るものがあった。もはや、スレインはこの戦士に助言を与えるだけでよかった。スレインはこの旅が終わった後は、ギムが捜し求めているものにでも付き合ってやろうか、とふと思った。
ウォートの館《やかた》は館といってもただの石の塔《とう》であり、外から見る限りなんの飾《かざ》りもなく、どこかの王国の見張り用の塔といった感じがした。
息を整《ととの》えてから、塔の正面壁に見える両開きの扉《とびら》に慎重《しんちょう》に向かった。山の頂《いただき》に建っていることもあり、周囲に目立った景色はまるでなく、よくこんな場所で人が暮らしていけるものだと、驚嘆《きょうたん》を禁じ得なかった。
扉《とびら》には竜《りゅう》を型取ったノッカーがついており、パーンはそれをたたこうと手を伸《の》ばした。
ギギーッと不気味な音を立てて、パーンの手がノッカーに届《とど》かぬうちに扉は、錆《さ》びた音を立ててひとりでに開いた。
「うわっ!」パーンは叫《さけ》んで出していた手を引っこめた。「まったく、趣味《しゅみ》の悪いじじいだ。驚《おどろ》かせやがるぜ」
中は薄暗くどんな様子かよくわからない。だが、パーンが覗《のぞ》き込むとこれまた勝手にパッと明かりが灯《とも》った。
「どんな性格をしてやがるんだ!」パーンは半《なか》ば腹を立て、半ば呆《あき》れて拳《こぶし》をにぎりしめた。
「単純な魔法《ま ほう》ですよ。さすがに大賢者。やることが意表をついてます」
「つきすぎだぜ!」パーンはスレインに怒鳴《どな》った。
「とにかく中に入りましょう。ここで怒鳴っていても、何も得ることはなくってよ」
ディードリットはそう言うと、さっさと中に踏《ふ》み込んだ。
「失礼します。わたしは旅のエルフで、ディードリットという者。ヴァリス王ファーンの使いでやって参りました。大賢者《だいけんじゃ》ウォート、おられませんか」
ガランとした塔《とう》の中に彼女の澄《す》んだ声が響《ひび》き、壁《かべ》に反響《はんきょう》していつまでも消えてなくならなかった。見れば中に地下へ向かう階段と、塔の内壁《ないへき》にそって螺旋状《らせんじょう》に上っていく階段がついているだけだ。その螺旋階段は二重に塔の内壁を巻いた後、一つの扉にたどり着き途絶《とだ》えている。しばらくディードリットは待っていたが、返事は返って来なかった。
「どうする?」ディードリットは振り返って不安そうにしているパーンに尋《たず》ねてみた。
「まさか、留守《るす》ということはないだろうな」パーンは答えて、その考えにゾッとした。もし、はるばる尋ねてきた当の本人が留守だとしたら、これほどの笑い話はない。
「上に誰《だれ》かいるようですよ。話し声が聞こえてきます」
スレインはローブのフードを外《はず》しながら、扉《とびら》をくぐり抜け、中に入ってきた。
「いろいろな魔法の力を感じますね。さすがに大魔術師、その力は多彩《たさい》なようです」
スレインは螺旋《らせん》階段のそばまでゆっくりと近寄ると、試《ため》すように一段目に足をかけた。途端に階段が青白い光を放ったかと思うと、低いうなりを上げて上に向かって動き始めた。
「これは便利だ。巨大な城の階段全部にこの魔法がかかっていたなら、どんなに楽《らく》ができるでしょう。わたしはヴァリスの王城ではそれで苦労したんです」
スレインは上に運ばれながら、声高く笑ってパーンを振り返った。
彼らは舞踏会《ぶ とうかい》の後、三日ばかりあの王城で過ごしたのだ。スレインやパーンにしてみても有意義な日々だった。というのも、スレインではエルムについて古代語とその魔法を学び、パーンは約束どおりカシューについて剣の稽古《けいこ 》をつけてもらったからだ。
そして、エトも大司祭ジェナートから、司祭として正式に任命を受け、この旅から帰って後は、ヴァリスの王宮に仕《つか》える司祭として国事の手助けをせよ、との命を受けているからだ。
ギムはウッドから金貨を十枚ばかり貰《もら》うと、それを王城の鍛冶場《かじば》に持って行き、なにやら作り始めた様子だった。ドワーフはもともとが鍛冶屋であり、細工師《さいくし》だったからこれは驚《おどろ》くことではなかった。退屈《たいくつ》だったのはウッドとディードリットの二人で、城内のきらびやかな飾《かざ》りを眺《なが》める以外にすることは何もなかった。
スレインは動き始めた階段をどんどん上に昇《のぼ》って行く。
「勝手なことを!」
パーンもしかし、興味にかられて階段に飛び乗った。
「食われることだけはねぇだろうさ」ウッドも、タイミングを計って、階段に足をかける。
残りのみんなも階段を使って昇《のぼ》ってくるが、踊《おど》り場《ば》はあまり大きくなく、六人ともが立っているだけの余地はない。
「失礼する。わたしは旅の戦士パーン、入る」パーンは扉《とびら》に向かって一礼すると、扉の取っ手をつかみ、それを押し開けた。今度の扉はパーンの意のままに開き、螺旋状《らせんじょう》の通路に出た。その通路はゆっくりとした昇りのスロープだった。滑《すべ》らないための配慮《はいりょ》からか、床石《ゆかいし》は粗《あら》くざらついた感じがした。
パーンはそのまままっすぐ進んだ。壁をまた一周ばかり、グルッと回った感じがする。そして、パーンは再び扉にぶつかった。今度は両側に扉がある。耳を澄《す》ますと、どうやら右のほうから話し声がするようだ。どうやら先客がいるようだ。
「失礼する。返事がないので勝手に上がらせてもらいました。わたしはパーン、旅の戦士です」
「早く入れ!」いらだったような返事が返ってきた。老人の声のようだ。留守《るす》でなくてよかったなと胸を撫《な》で下ろしながら、パーンは扉をゆっくりと押し開けた。
パーンは部屋に入ると再び頭を下げた。そして顔を上げた時、パーンは信じられないもの、信じたくはなかったものをそこに見た。
「カ、カーラ」
うめいて、パーンは絶句した。
「なぜここに、あなたが」ディードリットの顔も青ざめていた。左手が口に当てられ、もう片方の手は腰のレイピアを探《さぐ》っている。
「ここで、刃物ざたはさせんぞ!」
その動きを見て取った老人が鋭《するど》く叫《さけ》んだ。その言葉に筋肉が硬直《こうちょく》したように、ディードリットの動きが止まった。いや、止められた。
「安心なさいな。ここであなたがたと争うつもりはないわ。心配せずにお入りなさい。わたしはあなたがたと、話す機会が欲しかっただけです」
見ればテーブルにはグラスが人数分と、ワインのびんが何本か。それに白い湯気を立てている鹿《しか》か何かの股肉《ももにく》が、大皿《おおざら》に盛《も》ってあった。新鮮《しんせん》そうな果物《くだもの》や野菜も用意されている。明らかに彼らがやってくるのを知っていた様子だ。
「分かった。ここは話を聞こうじゃないか」パーンはまだ最初に受けた衝撃《しょうげき》から立ち直っていなかったが、カーラの言葉を挑戦《ちょうせん》と受け取ったのか部屋の中に入っていった。いつでも腰から剣を抜けるように警戒《けいかい》しながら、テーブルの横に並べられた椅子《いす》のうちの一つに腰を下ろし、憎々《にくにく》しげにカーラの顔をにらみつける。
もう一つ開いた席にはギムが進んで座り、残りの四人は二人の後ろにそっと立った。ウッド・チャックはカーラから一番遠い場所で目だたぬように長身をかがめ、身をすくめている。
沈黙《ちんもく》がしばらく、部屋の主となった。
カーラは一行に飲み物を勧《すす》めながら、あたかも毒味《どくみ 》をするようにボトルから自分のグラスにワインを注《つ》ぎ、それを優雅《ゆうが》な動作で飲み干した。
「ワインもグラスもわしの物じゃ、安心するがよい」横から老人――おそらくこの老人がウォートなのだろう――が口をはさんだ。
「いや、先に話だ。カーラ、なぜおまえがここにいる。そしてオレたちが来ることをなぜ知っていた」
パーンはカーラに詰め寄った。カーラはその若い戦士のけんまくを軽く笑顔で受け流しながら、彼の隣に腰を落ち着け、まじまじと自分の姿を眺《なが》めるドワーフの視線を意識した。
カーラは一瞥《いちべつ》を小さな髭《ひげ》の固まりにくれると、すぐに力んでいる戦士に注意を戻《もど》した。
「別に答えるいわれはないけれどね。まあ、いいわ。教えてあげましょう。まず、ここに来た一つの理由は、わたしとウォートは旧友でもあるからよ。その昔、共に旅したこともある仲間の一人でね。それともちろんあなた方にもう一度会いたかったというのも大きな理由。それをどうして知ったかなどは、答えるまでもないほど簡単なことよ」
カーラは肘《ひじ》をテーブルの上につき、両手を組んだ。組み合わされた両の手から、左の小指だけが一本立っている。白い指の何本かには、様々な大きさと形をした指輪がはめ込まれている。それが飾《かざ》りのためだけではないことはこの前の戦いの時に教えられている。この魔女は指の一振りでさえ、巨大な魔力を使うことができるのだ。
「オレたちに話があるとか言ったな」
「そう、話が。というより、提案《ていあん》ね。つまりわたしはあなた方の能力を高く評価《ひょうか》しているわけよ。前にも言ったことがあるけれど、もう一度言うわ。あなたたち、わたしの仲間にならない? 今までの不幸な出会いを忘れてね」
パーンの眉毛《まゆげ 》が怒《いか》りのために、吊《つ》り上がった。そのまま怒りに任《まか》せて怒鳴《どな》ってやろうかと、口を開きかけたが、ウォートの手前も考えて自重することにした。
「話は聞いた。そんなことを、オレたちが承知《しょうち》するとでも思っているのか。マーモの手先にはならんぞ」
声が怒りのためにいくぶんひきつっていたが、それでもパーンは穏《おだ》やかな口調で話したほうだったのだ。自分も安く見られたものだという腹立ちが押さえ切れない。信念を曲げて、邪悪《じゃあく》な連中に魂《たましい》を売るほどに自分は腐《くさ》ってはいないつもりだった。
「どうやら、あなたたちはわたしのことを誤解《ご かい》しているようね」カーラはホッと溜息《ためいき》をついて、視線をいくぶん下におろした。グラスに半分ほど残っている赤い液体《えきたい》が、室内の明かりを反射して揺《ゆ》らいでいる。「わたしは別にベルドの手下なんかではないわ。確かに協力はしていたけれどね。でも、それは偉大なる目的のためなのよ」
「あなたがた、古代王国の名は知っているわね。ロードス――いえ、フォーセリアの世界全体に栄えた魔法文明のことよ。その強大な王国がなぜ、失われたか。あなたはその本当の理由を知っていて?」
「伝説では、強大な魔法の失敗が原因だったとされていますね。でもその時に生きていたわけではなし、ことの真相は分かるはずがありませんよ」スレインが後ろから声をはさんだ。彼はディードリットのほうをチラリと見たが、彼女は首を横に振って、それ以上説明することができない旨《むね》の合図をよこした。
「われわれエルフは、あまり人間界の出来事に関心がないのよ」ディードリットはそう付け加える。
「ま、そこの魔術師《まじゅつし》の言葉はだいたい合っているわ。確かに古代王国は強大な魔法の失敗によって滅《ほろ》んだと言えなくもないわ。その昔、古代王国末期の魔術師たちは、魔法を無尽蔵《む じんぞう》に使うために魔力を封《ふう》じ込めた巨大な聖地を作ろうとしたの。その聖地と空間を越えて接触《せっしょく》する小さな水晶球《すいしょうだま》を額《ひたい》に埋《う》め込んで、無限の魔力を得ようとしたわけね。そしてこの試《こころ》みは成功した。古代王国最後の五十年ほどは、魔力は最も栄え、偉大な魔法が使われたわ。都市を空に浮かべ、精霊界《せいれいかい》をも完全に支配し、成長したドラゴンどもさえ下僕《げ ぼく》として使ったわ。でも魔術師たちはいつしか聖地なくしては、魔法を使えなくなっていたのね。
だから、数百人もの儀式《ぎ しき》を必要とした巨大な魔法が失敗し、聖地が失われてしまった時、もはや力を持った魔術師はいなかった。蛮族《ばんぞく》どもの本格的な侵入《しんにゅう》が始まったのはちょうどその頃《ころ》ね。魔法を使えなくなった無力な魔術師たちはその侵攻になすすべなく、殺されていったのよ。あれほど巨大だった王国が、滅《ほろ》びていくのに、五年とかからなかったのよ」
パーンは腕組みしながら、カーラの話を聞いていた。目は彼女の白い顔と青色の瞳《ひとみ》を捕《と》らえて離さない。瞬《またた》きさえも忘れたように、パーンは魔女の顔を凝視《ぎょうし》していた。
「それで、どうしたというんだ」
カーラがパーンの様子をうかがっているようだったので、パーンはそうボソリと答えた。この女がいかなる意図で、古い王国の話をしだしたのか皆目《かいもく》見当がつかない。
「分からないかしら、戦士殿。なぜ、古代王国が滅びたのかの理由が」カーラは一瞬《いっしゅん》目を閉じ、昔の記憶《き おく》を掘り起こそうとした。自分の仲間のかつて偉大だった魔術師たちが、蛮族の剣によって次々と切り倒されていく様が、あたかも昨日の記憶のように思い起こされる。
「つまり世界は一つの力を頼りにしてはいけないということよ。それはどのような力であろうと、結局は破滅《は めつ》へと暴走しているだけなのよ。あたかも魔法の力の神髄《しんずい》をきわめんとして、古代王国が滅び去ってしまったようにね。だから、ファーンの理想も、ベルドの野望も共に危険《き けん》なものなのだわ。両者が戦い疲弊《ひ へい》してくれれば、世界は光、闇《やみ》いずれの側にも偏《かたよ》ることなく万事うまくいくのよ。世界は常にバランスが保たれてなければならない、でなければ最後には取り返しのつかない破壊《は かい》が起こるから。でも天秤《てんびん》をバランスの取れた状態のまま、維持《いじ》していこうとするのはしょせん不可能なこと。でも天秤をゆらしてみればどうかしら、一時《いっとき》を見れば確かに天秤はいずれの側にか傾《かたむ》いていることでしょう。でも、長い目で見れば天秤は静止しているのとまったく同じことなのよ。
わたしが絶えず歴史に干渉して、天秤をゆらしているのは、それが最終的にはロードスのためになると信じているからだわ。ファーンの光の法を信じる力。ベルドの持つ闇《やみ》へと導《みちび》く破壊《は かい》の力。この両者のいずれかがロードスの覇《は》を握《にぎ》れば、きっとロードスは一つの力によって、安定するでしょう。でもそれは見せかけの安定だわ。将来、その安定が破れ去る時には、神たちの最後の戦いもかくやというほどの、恐るべき破壊が起こり、文明は崩壊《ほうかい》するでしょう。古代王国の文明の力をわれわれは未だ取り戻《もど》せていないし、これからもきっと取り戻せないことを忘れてはならないのよ。
わたしの言うことが理解できるなら、それが真実であることも分かるはずよ。もう一度だけあなた方に言うわ。わたしの仲間になりなさい。世界を破壊から救うためにね」
「言うことはそれだけか」パーンは低い声で尋《たず》ねた。カーラは首を振って答え、次の戦士のせりふを待った。
「なら、答えを聞かせてやろう。オレの答えは否《いな》だ。誰《だれ》がおまえの仲間になどなるものか。おまえの言うことにはもしかすれば真実が含《ふく》まれているかもしれん。だが、いかなる理由があれ、人の心を、命を弄《もてあそ》んでいいなどという法はないぜ。おまえの画策《かくさく》した戦いの中で、いったいどれほどの人が命を落とすと思っているんだ!」
パーンは立ち上がりテーブルをバンとたたいた。空《から》のグラスが一つ乾《かわ》いた音を立てて倒れ、コロコロと転がって、ワインのびんに当たって止まった。
「でも、破壊の日が来た時には、その数倍もの人が命を落とすのよ」カーラの表情は少しも動いていなかった。立ち上がって自分を見下ろす戦士の怒《いか》りの視線を真《ま》っ向《こう》から受け止める。
「それでも人が、一人の人間が破滅の運命を決めることはない! そんな作業は神に任《まか》せればいいんだ」
カーラはしばらく無言でいたが、やがてうなずくと分かったわ、と一言発した。
彼女はスッと立ち上がった。一同は警戒《けいかい》して身構えたが、カーラはそのまま一行の横を通り過ぎるとまっすぐに扉《とびら》に向かった。
「いいでしょう。あなたがたの答えは分かりました。ならば、もはや何も言いません。あなた方が、わたしを許せないというのならそれもけっこう。挑戦《ちょうせん》するつもりなら、いつでも受けて立ちますからね」
「ならば、今決着をつけてやる」パーンは叫《さけ》んで、剣の柄《つか》に手をかけた。ウォートがむっとうなって、杖《つえ》に手を伸《の》ばす。
「ここでは、刃物は使わせんと言っただろう!」
カーラは、右手を振るってパーンを止めようという動きを見せた。だが、カーラが魔法《ま ほう》を発動させるよりも前に、ギムがパーンを後ろから抱きとめていた。
「待ってくれ、パーン! 今は待ってくれ!」
「どういうことだ、ギム。このままカーラを見逃すつもりか」
「ギムはここでは駄目《だめ》と言っているのよ」ディードリットも割って入って、パーンを押し止めようとする。
「失礼を。大賢者《だいけんじゃ》様」スレインがウォートに向かって頭を下げた。
「そこの戦士は、礼儀というものを知らねばならないようね」カーラは、半《なか》ばからかうような笑いを見せて、振り返った。そして、扉に向かって歩き始める。
「一つ聞いていいですか」スレインが去って行こうとするカーラをとどめて、一歩前に進み出た。「あなたは五百年もの間、本当に生きてこられたのですか。不老の魔法は知られていませんが、存在しているのですか?」
「それを聞いてどうするの。あると知ればその力を求めるの?」
「それは分かりません。ただ、あなたが五百年もの間、生きてこられたというのが驚《おどろ》きなのです。不老の魔法は古代書の中にも一度も出てきていない。でもそんな魔法が存在していると知るだけで、魔術師たちはきっと研究に意欲が湧くでしょうね」
「あなたは、面白い考え方をするのね」
「そうですか。でも、あなたほどではないかもしれませんよ。その力をもってすれば、ほかにも世界を破滅《は めつ》から救う手段は考えられそうなものですからね」
「違うわね。わたしは主役ではなかったから、今でもこうして生きているけど、もし舞台の表に上がっていたら、きっとこうして生きてはいなかったでしょう。
それじゃあ、ウォート。長い間おじゃましたけど、わたしはこれで失礼するわ。そして勇敢《ゆうかん》な冒険者《ぼうけんしゃ》たち、あなた方にも大地の女神の幸運が授《さず》かりますように」
カーラはそう言い残すと、扉《とびら》を開け外に出ていった。
ギムはパーンを押さえながら、その足音が完全に消えるまで、彼女が出ていった扉をじっと考えこみながら見詰めていた。
「さて、大賢者ウォート。あなたにも尋《たず》ねなければならないことが山ほどあるんだ。そのために、オレたちはここに来たんだからな」
パーンはギラリと光る目で老人をにらんだ。
4
カーラが出て行き、空席となった所へディードリットがゆっくりと腰を下ろした。そしてグラスを手にとり、ワインを半分ほど自分で注《つ》ぐ。その後ろでエトがホッと溜息《ためいき》を漏《も》らした。
カーラが去って、明らかに室内の雰囲《ふんい》気《き》は軽くなっていた。しかし、衝撃《しょうげき》的な事件であっただけに、一行はまだ完全に安心しているわけではない。むしろ、大賢者《だいけんじゃ》を名乗る老人に不信感を抱くことを抑えきれないでいた。
パーンがもっとも不信感をあらわにしていた。彼はカーラを見ていた時とまったく同じ視線を、老魔術師《ろうまじゅつし》に向けていた。
老人はそのパーンの視線をほとんど気にもとめていないようだった。自分もグラスを取り、皿《さら》から肉料理を一つ取りあげるとうまそうにそれを口にほおばる。
「おまえさんらが、わしに不信感を抱《いだ》くのはもっともなことじゃ。だが、断《ことわ》っておくがわしは本物のウォートにほかならず、そして、カーラの仲間なんぞではないのじゃからな」
口に肉をほおばったまま、ウォートはモゴモゴとそう言い、グラスを持った左手をパーンの険《けわ》しい顔をちゃかすように振ってみせる。
パーンはその態度に怒《いか》りを覚《おぼ》え、ますますにらみつける視線を厳《きび》しいものに変えた。しかし、ウォートを名乗る老人の表情は変わらない。
「無論、あの女の言うことにも真実はある。確かにわしとカーラとはかつて同じ仲間として共に冒険《ぼうけん》したことがある。ちょうどおまえたちが今そうしているようにな。だが、それを言うならファーンもニースも、皆カーラの仲間ということになるぞ。なにしろわしたちが共に冒険したのは『最も深き迷宮《めいきゅう》』の時だけじゃからな。もっとも、あの時のカーラはいましがたのご婦人のような美しい姿ではなかった。無骨《ぶ こつ》な鎧《よろい》をつけた戦士であった」
ウォートはそう言うと、一行の顔を見回してニタリと不気味な笑いを浮かべる。
「まさか!」パーンは、驚《おどろ》きの声を上げた。「サーガは、オレだって聞いたことはある。六英雄の最後の一人か。名前も知られていない魔法《ま ほう》戦士。それが、カーラのことなのか。あの魔女は、魔神の戦いにも一役買っていたというわけだ」
「魔神の復活は確かに世界のバランスを破壊《は かい》するものですからね」
スレインの目は驚きのため丸く開かれた。
「どういうことなんでぇ」ウッド・チャックが尋《たず》ねた。
「若い戦士の言うとおり、あの時おった魔法戦士こそ、バランスの魔術師カーラにほかならないのじゃ」ウォートは低く笑い、グラスに口をつけた。「おまえさんがたはカーラが五百年もの間、肉体を滅《ほろ》ぼすことなくそのままの姿で生きていると思うとるようじゃが、それは大きな間違いじゃ。そんな大魔法は古代王国の時代にもありゃせんわ。確かにカーラの魔法は偉大じゃ。だが、しょせん魔術師といえどもせいぜいが二百年ほどしか自分の命を延《の》ばすことはできん。それ以上はいかなる魔力を使っても無駄《むだ》なことじゃ、精神はともかく、肉体が滅《ほろ》んでしまうでの。だが、カーラはその限界を破る一つの方法を考えだしたのじゃ」
「それは他人の肉体を支配することではないのかな」ギムが椅子《いす》に体を沈《しず》めたまま、ボソリと言った。
「ギム!」スレインは今度こそ驚かされた。だが、それは納得《なっとく》のいく驚きでもあった。ギムは元からカーラの正体に一番近いところにいた。「話してくれますね」スレインは静かに言った。ギムはうなずき、「今こそ、その時だからな」
「おお、まさかドワーフが真実に気がつくとはな。おまえさんは魔法には詳《くわ》しいのか」
「まさか。魔法などわしには無縁《む えん》のものよ」
「それで気がついたとは立派《りっぱ 》なドワーフじゃ。そこの頭の良い酒樽《さかだる》の言うとおり、カーラは自分の精神を一つの物に封じ込めて、他人の精神を支配することによって、存在しようとしたのじゃ。奴《やつ》はこの魔法に成功した。女の額《ひたい》にサークレットが輝いておったじゃろう。あのサークレットこそがカーラの力の源《みなもと》じゃ。だが、それにしても奴が今でも生きているかと問われれば、疑問《ぎ もん》だと言わざるを得ないな。カーラの思考はもはや五百年の昔、つまり肉体を捨てたその時以来、まったく変わりはないはずじゃ。そんなものを生きている人間と呼びはせんよ。今のカーラは、もはや亡霊《ぼうれい》と同じじゃろうな」
「すると今の姿はカーラに支配されている女というわけだな」パーンはようやく目の前の老人を信じる気になったのか、安心した様子で食べ物にも手を伸《の》ばし始め、二杯目のワインを自分のグラスに注《つ》いだ。
「そのとおりじゃ。カーラは古い肉体を滅ぼした相手の精神を乗っ取る魔法を使うのじゃ。その魔法は強力なもので、おそらくいかなる勇者であってもその魔法の前から逃れることはできないじゃろう。だから、カーラを倒すことはできぬのじゃ。倒せばその者が次のカーラになるわけじゃからの」
「倒してもらっては困る。わしはあの娘を連れて帰る約束を、ある女司祭に約束したのだ」ギムがボソリと言い捨てた。
「どういう意味ですか?」スレインはドワーフに尋《たず》ねた。
「そう、わしはあの女の正体を知っているということよ。最初に肖像画《しょうぞうが》を見た時はまさかとは思ったがな。それに実物に会ってさえ。だが、マーファの魔法を使った時に、もはや間違いはないと確信したのだ。あの女は、わしの知り合いの司祭の娘だ。娘の名はレイリア。そしてその母親の名前はニース。マーファの最高司祭にして、六英雄の一人でもある。レイリアという娘もマーファの司祭としてかなりの修行を積んでおる。わしの故郷ターバの村から出て行く時に、わしはニースに行方《ゆ く え》知れずの娘と出会ったなら、必ず連れて帰ってやろうと約束したのだ。ニースの謎もかくして解けたというわけじゃ。生きてはいるが、存在しないもの。まさに今のレイリアのことじゃ。なぜなら、カーラという魔術師《まじゅつし》は生きてはいないが、存在しているのだからな」
「そういうわけだったのですね」スレインは感心したように言った。
「待ってくれ。それじゃあ、カーラを倒すことはできないのか。オレはどんな理由があろうとも、あの魔女を見逃すつもりはないぜ」
パーンは勇ましく宣言《せんげん》した。
「大賢者《だいけんじゃ》の話は聞いたでしょう。勝てるわけがないじゃない。それにもし勝ったとしても、憎むカーラの魔法によっって、あなたの精神が支配されてしまうだけなのよ」ディードリットは呆《あき》れたような顔をしていた。
「それじゃ、あの娘を救う手段はないというのか」ギムの声は絶叫《ぜっきょう》に近かった。
「いや。ないわけではないぞ」ウォートはそう言って、一同の顔をじっくりと見渡した。「それはひどく危険《き けん》なことじゃ。しかし、勇気があれば決して不可能なことではない」
(カーラよ。滅びの運命がいずれの側にあるかは、誰にも分からんものじゃぞ)
ウォートは椅子《いす》から立ち上がると、部屋を円形に取り囲んだ石の壁《かべ》の一画まで歩いて行き、壁をポンポンとたたいた。
壁のその一画が音を立てて両側に開き、ガラクタがつまった小部屋があらわになった。
「カーラの最後の魔法は、自分が支配する肉体が滅《ほろ》んだ時に発動されるもの。だから、生きているうちに、額《ひたい》のサークレットを引きはがしてしまえばいいのじゃ」ウォートはその小部屋に一人入っていった。声だけが返ってくる。
「簡単《かんたん》に言うけれど、賢者様。それがいかに難しいことかはお分かりでしょう。あの者は古代王国期の魔力をまったく損《そこ》なうことなく、使うことができるのです。その魔女を生《い》け捕《ど》ることはそれこそなまじ倒そうとするよりも難しい」エトは姿の見えぬウォートに向かって話しかけた。
「そんなことは言われんでも分かっておるわ」ウォートはどうも何か探《さが》し物をしているようだった。小物を引っかき回す音が小部屋の中から聞こえてくる。
「やっと見つかったわい」声が再び聞こえて、老魔法使いは姿を現した。右手に小さな棒《ぼう》のようなものを握《にぎ》っている。
「確かにそこの神官の言うとおり、カーラの魔法と正面から戦ってもまず勝ち目はあるまいて。ましてや、おまえたちはベルドやファーンに比《くら》べればまだまだ未熟《みじゅく》だ。そこの魔術師にしたところで、わしほどには古代語の力に通じてはおるまい」ウォートはテーブルの上に無造作《む ぞうさ 》ともいえる手つきで、小部屋から持ち帰ってきた棒を放り出した。「だから、おまえたちにはこの魔力の棒杖《ワ ン ド》をくれてやろう。この棒杖も古代王国の遺産というべき代物《しろもの》で、強い力を持っておる。正しく呪文《じゅもん》を唱《とな》えてこれを振るうと、魔力が解放されるわけじゃな」
「魔力? どんな効果をもたらすのですか」スレインは興味《きょうみ》深そうにテーブルから棒杖を取り上げ、しげしげとその黒い物体を観察《かんさつ》した。金属とも木ともいずれともいえぬ材質をしていて、そこに古代語のルーンが彫《ほ》り込んである。「ラウラ? これがこの棒杖を使う時の呪文の言葉なのですか」
「そのとおりじゃ。そして、発せられた棒切れの力はおそらくおまえたちの役に立つことじゃろう。何しろ周囲の魔法をすべて打ち消し、その効果をなくしてしまうような代物なのじゃからな。もっとも、こちらの魔法も効《き》かぬようになるがな」
「なるほど、この棒の力でカーラの魔法を封《ふう》じているうちに、何とかすればいいんだな」パーンはニヤリと自身ありげな笑いを浮かべた。「それなら確かに、あの魔女を生きたまま捕《と》らえることも可能だ」
「オレの力が役に立ちそうだな。背後から忍《しの》び寄って小物を額《ひたい》から奪《うば》うくらい、まったくオレにとっちゃあ簡単《かんたん》な芸当だぜぇ」ウッド・チャックだった。彼は退屈《たいくつ》そうに、仲間のやりとりを聞いていたが、ようやく自分の出番とばかりに話に割り込んだ。
「それよりもよ。手に入れたそのサークレットはどうする。壊《こわ》しちまうのかい、それともどこかに売ってしまうのかい。あの飾《かざ》り物《もの》は細工物《さいくもの》としての価値《かち》も相当ありそうだぜぇ」
「棒切れの力が効いているうちに、壊してしまうのが賢明じゃろうな。支配の力はいつかはまた新たな犠牲者《ぎせいしゃ》を見つけだすじゃろうからな」
「じゃあよぉ。その支配の力に抵抗することはできねぇのかい。つまり、カーラの力を手に入れ、しかも自分の意志を残しておくようなまねはよ。そうすりゃ、失われた古代王国の秘密《ひ みつ》を取り戻《もど》すことだってできるんじゃねぇのかい。支配の力が及ぶのを予想して、その力に備《そな》えておけば、呪文《じゅもん》の力に打ち勝つことも可能かもしれねぇだろ」
「盗賊《とうぞく》よ。何を考えておる」ウォートの目がすぼめられた。「いらぬことは考えぬほうがよい。確かにカーラの力を手に入れればその価値は計りしれないものじゃろう。だが、危険《き けん》じゃ。支配の力に抗することができなければ、自分の意志はサークレットに、いやカーラに全て奪《うば》われてしまうのじゃよ。ましてや、歴代のカーラはおそらくすべて力のある者たちであったじゃろう。その力ある者たちが今まで一人のこらずカーラの支配に屈《くっ》してきたのだ。無理はせぬにこしたことはない」
「そうかい」ウッドはとぼけた答えを返した。
「さて、わしの話はこれまでじゃ。早く、ファーンのもとに帰って、事の真相を告《つ》げるがよい。そして、わしはいずれの側にもくみせぬこともな。そのかわりに、カーラももはやベルドには手を貸さぬとのことだ。存分に戦うがよい」ウォートは静かに言った。
「あとひとつだけ教えてくれ」パーンだった。
「なんじゃ」
「カーラの隠《かく》れ家《が》を、教えて欲しい」
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第X章 決戦!!
1
午後になってから、照りつける太陽の日差しは急に弱くなり、変わって湧《わ》き上がった積乱雲《せきらんうん》から、大粒《おおつぶ》の雨が稲妻《いなずま》を輝かせながら降り注いできた。ロイドの城門を守る衛兵《えいへい》は、外套《がいとう》を着込む間もあらばこそ、早々に番兵小屋に身を隠《かく》し、その中から任務を続けねばならなかった。
その時、雨のカーテンの中から、黒い影が近寄ってきたのを見て、番兵ははっと身をかたくした。
「何者か?」緊張《きんちょう》した声を上げて、影に対して呼び掛《か》ける。影は六つ見えた。
「わたしです。パーンです。城門を開けていただきたい」パーンは、マントをかぶり、顔は雨に打たれるに任《まか》せていた。その後ろから続く五人もすべてずぶ濡《ぬ》れだった。
「ウォートの館《やかた》から帰ってまいりました。ファーン王にお目通りしたい」
「パーン殿ですか?」
パーンがロイドの城を立ってから、一月《ひとつき》余りが過ぎ去っていた。パーンはウォートの館への旅をようやく終えて、今、ロイドの王城へ帰ってきたのだ。
「よくぞ、ご無事で。早速、門をお開けいたします」門を守る衛兵は、明るい声を上げて、小屋の中から濡れるのも構わず、表に出てきた。そして、城の跳《は》ね橋《ばし》を降ろす合図を城に向けて送った。
パーン帰る、その報はすぐファーンのもとに届けられた。ちょうど、ファーンはエルムを伴いカシューと軍議《ぐんぎ 》をしていたところで、ちょうどとばかりに、その部屋でパーンたちを出迎えることにした。城の中に通されて、着替えを与えられ、一行は濡れて重くなった服を脱《ぬ》ぎ捨て、湯を浸《ひた》したタオルで全身を拭《ふ》いた後、その新しい装束《しょうぞく》に身を包んだ。
「これは?」パーンは、軽い麻のシャツに身を通した後、与えられた新しい鎧《よろい》を見て、驚《おどろ》きの声を上げた。その鎧は白く塗《ぬ》られ、それに銀で文様《もんよう》が浮き彫《ぼ》りにされている。
「はい、ファーン様よりのお言いつけです」着替えを持ってきた従者が、うやうやしく頭を下げた。
「良かったわね」ディードリットは草色の軽そうな服に着替えており、腰に絹《きぬ》の帯《おび》を無造作《む ぞうさ 》に巻きつけていた。髪《かみ》の毛はまだ、かなり湿《しめ》っているようで、少し重苦しい感じがしたが、それでも彼女の愛らしさは少しも失われていない。パーンは彼女に笑顔を向けると誇《ほこ》らしそうにその鎧を身につけ、父親|譲《ゆず》りの剣を腰に吊《つ》るした。その剣は、まるで一対《いっつい》の工芸品のように新しい鎧にピッタリと収まった。
「さて、行こうか」パーンは、着替え終わった五人に声をかけた。スレインは白色の賢者《けんじゃ》のローブ、エトもファリスの司祭を現す衣服にガウン。それに儀礼用のメイスを与えられている。ギムは下着などを変えただけで、後は自前の|真の銀《ミスリル》の|鎖かたびら《チェイン・メイル》を着込んだ。愛用の戦斧《せんぷ》も離そうとはしない。
ウッド・チャックも新しい服に着替えた上で、愛用の革の鎧と暖炉《だんろ》で十分に乾《かわ》かした、黒のロング・ブーツを履《は》きこんでいた。
そして、一行はファーンたちのいる部屋に案内された。
「ご苦労だったな」ねぎらいの言葉が、ファーンからかけられ、一行はうやうやしく頭を下げた。
案内された部屋は、王城の塔《とう》のうちの一つで、他の場所からは、厳《きび》しく隔離《かくり》されていた。窓は一つもなく、外の激しい雨音とて聞こえない。しかし、中にはゆっくりと風が舞っていて、蒸《む》し暑《あつ》さは感じられなかった。
ディードリットは一人|宙《ちゅう》を見上げて、ご苦労様と声をかけていた。パーンが眉《まゆ》を寄せて不思議《ふしぎ》そうな顔をする。スレインは、「シルフですか?」と、彼女に尋《たず》ねた。ディードリットは「そう」と答えて、右手を宙に伸《の》ばした。風が一瞬《いっしゅん》の間やみ、そしてまた動き始めた。
部屋の中央に円卓《えんたく》が置かれていて、その周《まわ》りをファーン、カシュー、エルムの三人が取り囲んで立っていた。円卓の上には飲みかけのワインが入ったグラスと、それにボトル。さらにはロイド近辺の地図が広げられ、地図の上には様々な色の線が描《えが》き込まれていた。
入ってきた六人を出迎えて、カシューが席を離れてパーンの前に立った。
「ほう、さすがに聖なる鎧《よろい》が似合《にあ》うような面構えになって帰ってきたな。もはや、オレが教えるようなことは何もないかな」カシューは笑いながら、パーンの全身を楽しそうに足元から順に見上げていった。そして、右手を伸ばしてパーンの腕を強く握《にぎ》る。
「帰って来るとは思っていたが、道中|厳《きび》しかっただろう」
「はい」パーンは、そのままの感想を述べた。「石の王国の廃墟《はいきょ》には、まだまだ潜《ひそ》む怪物は多そうです。モスとも協力して、いつかのあの地は一掃《いっそう》せねばならぬと感じました」
「頼もしいな」カシューは大きな声で笑った。
「さて」ファーンはパーンを円卓まで呼び寄せておごそかに言った。パーンには後で騎士《きし》としての叙勲《じょくん》を受けてもらわねばならぬが、まずは、本題から入ろう。パーンとスレイン、それにエト殿にはこの場に残り、軍議に加わってもらいたい。残りの方々は別室でおくつろぎいただき、そして褒美《ほうび 》を受け取っていただこう。方々もよくパーンに協力され、この試練《し れん》を果たしてくれた。厚く礼を言うぞ」
「あたしは報酬《ほうしゅう》が目当てで、この旅に参加したのではありませんので」ディードリットが、やんわりと答えた。
「わしもそうじゃ、褒美はいらん」ギムもぼそりと言う。「それより、この男にわしらの分も与えてやってくれ」
「へっ、ありがてえ」ウッドは臆面《おくめん》もなく、言ってのけた。
「それは構わん。配分はおまえたち次第じゃ」ファーンは言うと、すでに向き直って地図に目を落としていた。
ウッド・チャックたち、三人は外に出され、厚い木の扉《とびら》が閉《し》められた。
「別室にお食事が用意してございます」従者が、うやうやしく告《つ》げた。
(どうせ、こんなもんよ)ウッドは、閉められた扉を一瞥《いちべつ》し、従者の後におとなしく従った。
「まったく、つまんないわね」ディードリットは両手を頭の後ろに組んで、大きくあくびをした。
「下品になったの」ギムがボソリと言う。
「あんたたちと、一緒に旅をしてたんじゃ、下品にもなるわ」
「違えねえ」ウッドは、ニヤッと笑って、ギムを横目で見た。「オレたちは腹ごしらえができて、幸せかもしれないな」
「たぶんな。軍議は長引くだろうて」
ギムの心は、すでにこれから食べる遅い昼食のことで一杯だった。
「なるほど、それがカーラという女の正体というわけか。まさか、あやつがカーラであったとはな」うなってファーンは考えに沈《しず》んだ。まさか、自分が最もカーラに関わりの深い人間だったとは、思ってもみなかったのだ。
「もはや、マーモに協力するつもりはない、とウォートは言ってましたが、それを信用してよいものやら」パーンは、恐る恐る意見を述べた。
「もし、真にカーラがバランスにこだわるならば、もはやマーモに付く意味はないかもしれないな」カシューが感想をもらした。
「噂《うわさ》には聞いていましたが、戦いはそんなに悪い状況なのですか」
「悪いな。はっきり言って、悪いな」
カシューは、顔色も変えずに言った。
事実、戦いはマーモの優勢のままに進んでいた。パーンたちのいない一月《ひとつき》あまりの間に、事態は二転、三転したのだ。まず、最初の転機はアラニアとモスの対マーモ戦争への参戦だった。これは、モスのドラゴン・ロード、ジェスター公爵《こうしゃく》が、仲間の十二人のドラゴン・ライダーと共に駆《か》けつけたことを機とするものだった。彼らはモスの命令によって動いたわけではなく、「正義のために」と駆けつけてくれたのだ。この十三人の竜騎士《りゅうきし 》とその騎馬たるドラゴンたちは、あっという間に、カノンの南に展開《てんかい》していたマーモの軍を破り、マーモ本国までに飛来し、町に炎《ほのお》の洗礼を浴《あ》びせかけたのだ。
その行動が、人々に情報としてもたらされると、今度は民衆が熱狂し、マーモ討《う》つべしとの声が大きくなっていった。そこで、やっとモス、アラニアの両大国も立ち上がり、北と南の方から、カノンに攻め寄った。ここに至って、マーモの崩壊《ほうかい》はまぢかとまで叫ばれ、一時はシャイニング・ヒルのすぐそばまで、連合軍が押し寄せたのだ。
だが、ここで、相次いで異変が起こる。その一つは、アラニアの国王カドモス七世が、王弟ラスター公に暗殺されたことだった。王の一家は幼い世継《よつ》ぎ共々皆殺しにされ、内乱となったのだ。ほとんど、同じ時期にモスの一公国であるドラゴン・スケールの太守が反旗を翻《ひるがえ》し、首都ドラゴン・ブレスの王城にまで攻め寄せるという事件が起こる。そして、フレイムでも砂漠《さ ばく》の蛮族たちの大侵攻《だいしんこう》が始まり、フレイムの手薄になった首都が強襲《きょうしゅう》されたとの報がもたらされたのだ。
そして、マーモ本国から黒エルフの魔法《ま ほう》戦士たちが、上陸してきた。これで様相は一変し、アラニア、モスの軍は皆国もとに帰ってしまい、残った連合軍は黒エルフの操《あやつ》る暗黒の精霊《せいれい》たちによって、敗走を余儀《よぎ》なくされた。もし、ここでカシュー王の英断がなければ、ヴァリスは敗れ去っていたかもしれない。彼は国の大事の報を聞いても、国もとに取って返すことはなかった。彼はそのことも予想し、右腕と頼むシャダムを国もとに残していたし、彼に留守《るす》の間の全権を任《まか》せていたからだ。それにフレイムの民は、すべて勇敢《ゆうかん》な戦士でもある。めったなことでは、敗れぬとの確信もあった。
そのため、カノンに向かった遠征軍《えんせいぐん》は最大限の戦力を残したまま、無事ヴァリスに帰還することができたのだ。その後を追って、マーモ軍はすでにヴァリス領内に潜入《せんにゅう》している。彼ら暗黒の軍団は、村を焼き、畑から作物を奪《うば》い悪虐《あくぎゃく》の限りを尽くしていた。
そして、最後の決戦はまぢかに迫っていた。ロイドの東の平地に両軍は展開《てんかい》しつつ、その距離をゆっくりと詰めていたのだ。
「それはひどい」|状況《じょうきょう》を聞いてパーンの顔が曇《くも》った。つまりはすべてカーラの筋書きどおりに事が運んだようだった。各地でカーラは暗躍《あんやく》し、すべての手《て》筈《はず》を整《ととの》えていたのだろう。
「もはや、カーラが出て来ようとも、われわれには打つ手は残されてはいない。情けない話だが、ウォートの言葉を信じる以外には、道はないな。だから、パーンよ。心しておけよ。おまえの聖騎士としての初陣《ういじん》は、大戦争になるからな」ファーンは言った。
「覚悟《かくご》はしています」パーンは胸を張って答えた。
「覚悟なぞしないほうがいい。とにかく慣《な》れぬうちは相手を倒すことよりも、生き残ることに神経を使っていればよいのだ。それで十分に戦果は上がる。無駄《むだ》死には愚《おろ》か者のすることだよ」カシューはパーンのかたさを解きほぐすような軽い口調で話しかけた。
「そのとおりだ。功をあせる必要はないぞ」
「恐れ入ります」
「ファーン王、この騎士をわたしに預《あず》からせてくれませんか。彼はまだ、他の騎士たちと共に戦ったことはありません。むしろ、その戦い方はわれわれ砂漠《さ ばく》の兵に近いでしょう。新たに募《つの》った傭兵隊《ようへいたい》の指揮《しき》を取らせ、わたしの軍に配属《はいぞく》していただけたらと思います」
「なるほど、それは良い考えかもしれぬな。あなたの剣技をまぢかで見るのは後々のためにも良いこと。それに聞けばパーンは昔は傭兵としてフレイムのために戦ったことがあると言う。慣れぬ騎士の戦いよりも、そのほうが余程《よほど》実力を発揮《はっき 》できよう。パーンには不満はあるかもしれぬが、ここは無理にでも引き受けてもらわねばならぬな」
「仰《おお》せのままに」パーンは答えた。
「さて、エト殿と、スレイン殿にはまた、別の話がある」ファーンは今度は、エトとスレインの二人のほうに向きを変えた。
「何でしょう」エトは畏《かしこ》まった。
「うむ、エト殿はジェナード殿より、宮廷《きゅうてい》付きの司祭の命を受けたと存ずるが、その役はお引き受けいただいたかな」
「はい、謹《つつし》んでお引き受けいたしました」
「そうか、ならば今後は宮廷でのファリスの儀式《ぎ しき》はすべて貴殿にお任《まか》せするので、よろしくお願いしよう。次にスレイン殿だが、貴殿はこれから先、いかがなされるつもりかな。実は貴殿を宮廷|魔術師《まじゅつし》として迎えたいと、カシュー王が申されているのだがな」
スレインは、カシュー王の顔をチラリと見て、深々と頭を下げた。
「勿体《もったい》ないお言葉にて、恐縮いたしますが、わたしにはまだ成さねばならないことがあります。それに縛《しば》られているうちは、わたしは誰《だれ》にも仕《つか》えるわけにはまいりません」
「ギムのことだね」エトが静かに尋《たず》ねた。
「そうです」
「そいつは、残念だ。オレはおまえも気に入っていたのだがな。だが、おまえのためにいつでもフレイムの城門は開いていると思っていてくれ」
「ありがとうございます」スレインは、また頭を下げた。
「僕《ぼく》もギムのことは気になるけど、ファリスに仕える神官としての使命を果たさなければならないんだ」エトが苦しそうに言った。
「気にしないで下さい。わたしは気長にやりますよ。それが、きっと一番でしょう」
「だが、相手はあの女だぜ」
「ウッド・チャックにさえ手伝ってもらえば何とかなりますよ」スレインは答えた。
「オレもその時には参加させてくれ。カーラを倒すためなのだから、ファーン王もお許しいただけるはずだ」
「カーラを倒す? おまえたちだけでか」ファーンは厳《きび》しい顔で言った。「それは無茶だぞ。あの者の力は、おまえたちが一番良く知っているはずではないか」
「そのための武器は、すでにウォートより、預かってきています」スレインは、居並ぶ一同に魔力の棒杖《ワ ン ド》の話をした。
「なるほど、それなら確かに倒せるやもしれん。どうせ、いつかは倒さねばならぬ魔女《ま じょ》。その時には、ヴァリスの国を挙《あ》げてでも、あやつを討《う》とう。もし、今度の戦いにカーラが出てきたなら、その棒杖の力、使ってもらうことになるやもしれん」だが、ファーンはおそらくカーラはこの戦いには参加せぬだろうという気がしていた。それほど、カーラという魔女は愚《おろ》かではない。集団戦争の中に自《みずか》らの身を置く危険性《きけんせい》を十分に知っているはずだからだ。
「魔女めが出てきたら、オレが自ら手を下してやるさ」カシューが軽く言った。この若い王の言葉を聞いていると、どんな不可能なことでも可能にしてしまうような、安心感を得るのだ。
「そうすれば、スレインも我が宮廷にやって来てくれるだろうからな」カシューは大声で笑った。
「さて、だが今はカーラより、目前のベルドだ。彼らは三つに軍を分けて、東の平野からロイドを目指している。そこで、われわれも三軍に分かれてこれを迎え討たねばならん。わしはレオニスと共に中央を、エルムは右翼《うよく》を、カシュー王は左翼《さ よく》に回り、それぞれ接触《せっしょく》した敵をたたく」
「正面からですか?」カシューは尋《たず》ねた。
「正面からだ。敵ももはや、伏兵など使う余裕はあるまい。魔術師たちは、特に左翼のカシュー王の軍隊に配属《はいぞく》しよう。敵の左翼は黒エルフの魔法戦士たちだからな」
「それには、わたしも参加いたしましょう」スレインが申し出た。「わたしも賢者《けんじゃ》のローブをまとう魔術師です。戦いは本当は望むところではありませんが、このまま安全な地に一人で待つわけにもいきませんからね。魔法の力で、パーンやカシュー王を援護《えんご 》いたしますよ」
「それには、ファリスの神官戦士も参戦するのでしょうか」エトが尋ねた。
「もちろんだとも」とファーンは答えた。「ジェナート殿はこれはファリスと暗黒神ファラリスとの戦いでもあると宣言《せんげん》しておられる。二百名余りの神官戦士が参戦する手《て》筈《はず》になっておる」
「ならば、わたしもその指揮《しき》を取りましょう。アラニアでは神官戦士としての訓練も受けていますから」
「いいだろう、司祭殿。ならば、あなたも左翼の軍に加わっていただきたい。とにかく、中央の騎士よりも、右翼の怪物どもよりも、左翼の黒エルフはよほど強力な相手と言わねばならぬ。持てる魔法使いの総力は左翼に集中せねばならないからな」
ファーンは宣言し、軍議《ぐんぎ 》を締《し》めくくる合図をした。
「で、王よ。決戦の日はいつでしょう」カシューが儀礼に従い畏《かしこ》まって尋ねた。
「うむ、決戦は明後日、正午とする。使いの者を前線に走らせよ」
エルムはその声を聞いて、さっと扉《とびら》を開けて退出した。
パーンたちも緊張《きんちょう》を隠《かく》し切れない顔でそれに続いた。すでに矢は放たれているのだ。
2
そして決戦の日はやってきた。
パーンは千人以上の軍隊同士が争う戦いは、もちろん初めての経験だった。パーンは、フレイムの騎士たちの間に混《ま》じって、カシューと並んで馬を進めながら、雲の湧《わ》き始めた空を見上げていた。
「さっきまではあれほど好天だったのに」太陽は空を覆《おお》う雲に隠《かく》されてすでに見えなくなっている。夕立の時間にはまだ早いし、パーンは雨が近づいているのだろうかと、空気の匂《にお》いをかいでみた。別に湿気《しっけ》を含《ふく》んでいるような感じはない。おかしな天候だった。
「おそらく魔法《ま ほう》で、雲を呼び寄せたのでしょう」スレインが後ろからポツリと言った。彼は馬に蹴《け》られぬように気をつけて歩いていた。これからの戦いのことを考えると、気が重いのだろう。あまり口も開かぬが、パーンはスレインの気持ちを考え、あまり話しかけぬようにしていた。パーンの後ろにはディードリットも馬にまたがり、ついてきている。彼女も、最後の最後になって、パーンと共に戦う決心を固め、傭兵《ようへい》としてついてきていたのだ。
エトもスレインの後ろを歩いていた。彼の後ろからは、ゾロゾロと同じ鎧《よろい》に身を固めたファリスの神官戦士たちが続いており、傍《そば》から見れば、ちょっとした巡礼者《じゅんれいしゃ》の一団のような眺《なが》めだった。
「こんな大きな戦争の時にはな、一対一となりがちな小集団の戦闘とは異なり、絶えず周囲にも気を配っておかねばならんぞ。味方が大勢《たいせい》として押しているか、それとも押されているかの判断をつけることが大切なのだからな」とカシューは周《まわ》りの兵たちにいつものように話をしていた。「その判断ができぬ者はいかに剣の腕が立とうとも結局は戦いの中で朽《く》ちるしかないのだということを忘れてはいかん。特にこれから相手をする連中は、暗黒の魔法や、精霊《せいれい》の魔法を使ってくる邪悪《じゃあく》な連中だ。どんな手段で戦いを挑んでくるか皆目《かいもく》見当がつかん。味方の魔術師たちの声を信じよ。敵の幻覚《げんかく》に惑《まど》わされるな。味方と暗号で声を掛け合い、答えぬ者は構わぬから敵と見なせ。多少の同士《どうし》討《う》ちが起こるかもしれんが、そのほうが被害は少なくなるはずだ。
オレはそうして生き延《の》びたのだよ」
カシューは最後にパーンに向かって言葉をかけた。パーンはその言葉を胸にとめて戦いに臨《のぞ》んだ。
正午、ファーンは剣を下に振り下ろし、合図を送った。角笛《つのぶえ》の音が轟《とどろ》き、戦いの合図を全軍に送る。カシュー王は、その音を遠くで聞いた。そして、自《みずか》ら引き連れる兵に号令をかけ、目前に迫った敵軍に向かって突撃の命令を下した。ベルドの軍も時を同じくして動き、騎馬隊《きばたい》を戦闘に突撃を開始した。
戦闘が始まったのだ。
あちらこちらで怒号《ど ごう》の声が起こり、剣と剣がぶつかりあう激しい音が各地から聞こえた。断末魔《だんまつま》の絶叫《ぜっきょう》の声が聞かれ、戦場はたちまちのうちに修羅場《しゅら ば 》と化す。
「ディードリット、遅れるなよ」パーンは、声を上げて剣を抜いた。
「突っ込むぞ!」カシューの朗々《ろうろう》たる声が向うでも聞こえた。
敵の騎馬隊も駆《か》け込んでくる。その敵に向かってディードリットは、腰のウンディーネを解放する。ゆらゆらと漂《ただよ》う水の膜《まく》が、一人の騎士の顔に張りつき、男はたまらず馬上から転《ころ》げ落ちた。
そして、先頭の騎士たちの目前で、炎《ほのお》が爆発した。スレインが後ろから、炎の魔法を使ったのだ。彼はエトの神官戦士隊に守られながら、透明化《とうめいか》して接近している黒エルフの居場所を示しながら、その魔法を撃ち破るべく、解除の魔法をかけていく。
パーンの隊に配された傭兵《ようへい》たちは皆それぞれかなりの腕の持ち主のようだった。彼らは姿を現した黒エルフの戦士を続々と切り伏せ、進撃を続ける。
「あまり、徒歩《とほ》の兵と離れるなよ。魔法の援護《えんご 》を最大限にいかすのだ」カシューの声が飛ぶ。
パーンはその声を聞いて、部下の馬の足を止めた。今はまわりに敵の姿はなかった。パーンは背中から、矢を抜き遠方の敵に向かって弓の攻撃を四十五度の角度で射かけた。牽制《けんせい》のためだったが、運の悪い一人がその矢をもろに胸に受けて、ドウと仰向《あおむ》けに倒れた。向こうからも矢が数本射返されてくる。パーンは楯《たて》を構えて顔を覆った。近くにプスプスと矢が突き刺《さ》さる。
ディードリットは|風の精霊《シ ル フ》に命じて、自分に打ち込まれてくる矢をすべてそらせていた。彼女はスッと軍の先頭に立って、シルフの力をさらに解放していった。
「無理をするな」パーンが寄って来て、声をかけた。
「矢の攻撃はシルフに守らせるから安心して、それより別の敵を探《さが》したほうがいいんじゃない!」ディードリットは答えて、レイピアで右手の方向を示した。
そこには軍の先頭を切って剣を振るう傭兵王カシューの姿があった。
「すげえ」パーンは感心して、思わず見とれた。彼の剣の腕前は噂《うわさ》以上に物凄《ものすご》いものだった。長剣を一振りするたびに、敵の兵士は一人ずつ確実に倒されていった。そのカシューに従うフレイムの騎士たちも、砂漠《さ ばく》の蛮族《ばんぞく》との幾度《いくど 》もの戦いで、実戦なれした猛者《もさ》ばかりだった。
「われわれも遅れるわけにはいかんな。カシュー王に続け! この地の敵はもはや、浮足だっているぞ!」パーンは叫《さけ》んで、馬の腹に蹴《け》りをいれた。
「おおっ、まだ生きておったか。戦果はどうか」走り込んできたパーンを見つけて、カシューは馬を止めて出迎えた。彼の砂漠の騎士たちは数名が傷《きず》ついてはいたが、まだ一人の使者も出していないようだった。パーンの隊は二人が、黒《ダーク》エルフに倒されていたものの、残りの十人には怪我《けが》もなくまだ元気だった。
「この地に配置されていた黒エルフは思っていたよりも少ないのかもしれないな。これでは、他の隊が苦戦をしているだろうな」カシューは言った。
「ならば、早くこの方面の敵を一掃《いっそう》して、他の部隊の援護《えんご 》にまわらねばなりませんな」フレイムの騎士の一人が言った。
「そういうことだな。敵に魔法戦士の数が少ないと分かった以上、もはや恐れるものはない。このまま向こうに見える敵兵に切り込んで行き、一気にけりをつけてしまうぞ。徒歩《とほ》の者も後に続け! 全軍、突撃!」
パーンはカシューと並んで馬を駆《か》った。こうして、駆けて行っても恐怖《きょうふ》がまったく湧《わ》いてこないのが不思議《ふしぎ》だった。カシューという男には魔力があるのではないだろうかと、いぶかしがる。彼は勇敢《ゆうかん》な王であり、そして、優秀な指揮《しき》者《しゃ》でもあるようだった。彼のもとでは兵はその実力以上のものを発揮《はっき 》できる。
(たいしたものだ)パーンは、舌《した》を巻いていた。
向こうから矢が何本も射かけられてくるが、ディードリットの支配するシルフたちは、その任務を忠実に果たしてくれているようで、味方には一本も当たらなかった。
その時、前方で炎《ほのお》の固まりが幾つか姿を現し、それが、|火とかげ《サラマンダー》の姿を取り始めた。
「サラマンダーよ、気をつけて! 炎を吐《は》くわ!」ディードリットの叫びが耳に飛び込んできた。
パーンは楯《たて》を構えて、そのうちの一匹に馬を走らせた。
右手に持つパーンの剣が、青白い光を放つ。「スレインか」パーンは気づいて、喜びの声を上げた。スレインが自分の剣に魔法をかけてくれたのだ。パーンは擦《す》れ違いざま火とかげの胴《どう》を輝く剣で両断した。炎の固まりはたちまち消えうせ、後には何も残っていなかった。
「このまま突っ込む!」パーンは剣を真横に差し出しながら、馬を全速力で走らせた。
何人かの騎士《きし》たちが、サラマンダーの炎に焼かれ、馬から転《ころ》げ落ちていった。だが、残った兵は敵の部隊の真《ま》っ只中《ただなか》に突撃していく。
「敵の隊形が乱れたところを一気に突く。ファリスの加護《かご》を信じよ!」エトは、騎兵の後ろから、隊列を組んで敵との距離を縮《ちぢ》めていた。そのまま、敵との白兵戦に入ると、ファリスの魔法で、最大限に味方の援護をしながら、メイスを振るう。
「わたしは疲れましたよ」スレインが、隣で荒い息をついていた。「魔法をかけた上に、こうも走らされたのでは、体が持ちません」
エトはその表情を見て、それは冗談《じょうだん》ではないと感じたのだろう。一人の元気そうな神官戦士を呼び寄せ、彼に何事かを命じた。
その男はうなずきファリスの祈りの声を上げながら、スレインの体に軽く触《ふ》れた。たちまち、スレインの心臓の鼓動《こ どう》が鎮《しず》まる。呼吸も楽になっていた。
ファリスの魔法《ま ほう》も便利なものですね」スレインは感心して言った。「ありがとう。おかげで楽になりましたよ。まだ、わたしの力は必要でしょうからね」
スレインは杖《つえ》を振り上げ、また呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。杖の動きに合わせて敵の集団の中の何人かが倒れていく。
「いつぞやの、眠りの魔法ですね」エトが尋《たず》ねた。「そうです。こんな戦いでは、大がかりな魔法よりも、ちょっとした魔法のほうが役に立つということを覚《おぼ》えましたよ。この戦い、乱戦になりますね」
スレインは、周《まわ》りで繰り広げられる戦いを眺《なが》めながら、ポツリとエトに言った。
「そうですね」エトもそれを認《みと》めないわけにはいかなかった。
遠くでパーンがディードリットと並んで剣を振るっているのが見えた。彼は強くなった、とエトは頼もしそうに友人の姿を見詰《みつ》めた。
「この辺《あた》りの敵はすでに一掃《いっそう》したぞ!」カシューの高らかな声が聞こえた。「これから南に向かい、ファーン王の部隊を援護《えんご 》に行く。隊列の組み直しを急げ、徒歩《とほ》の者も無理はするな、走って疲れたら戦いにはならんぞ。
騎馬隊が先頭、その後に神官戦士と魔術師たち。最後は重歩兵隊だ。途中、水以外のものは口にするなよ。空腹の時のほうが調子はいいんだ!」
カシューの号令一下、パーンたちは、踏《ふ》みにじられた作物の上を通ってゆっくりと、進軍を開始した。
カシューの対した部隊は、どうもおとりの部隊のようだった。敵の主力はどうやら右翼のエルムが引き受けた部隊の様子で、エルムの比較的質の劣《おと》った部隊は、敵の精鋭《せいえい》たちの前に簡単《かんたん》に撃ち破られ、エルムは黒エルフの暗殺者の刃《やいば》を心臓に突き立てられ帰らぬ人となっていた。勝ち誇《ほこ》った敵の部隊は、一進一退の攻防を続ける中央での争いに一足先に参加し、有利に戦いを進めていた。それから、三十分ばかりしてから、カシューの軍が敵の横を衝《つ》いた。これで、形勢はまた変わり、戦いの行方《ゆ く え》は混沌《こんとん》としはじめた。
3
それはもはや神聖な戦いではなかった。
ただの殺し合いが延々《えんえん》と繰り広げられていた。その殺し合いの中で、両軍の兵士は次々と倒され、息絶えていった。
「ひでぇ」パーンは自分に向かってきた二匹のコボルドを、数回切り結んだだけで倒し、その死体を見下ろしながら我知らず声を出していた。パーンにすら、戦いがどんな状況《じょうきょう》にあるのか理解できた。もはや馬を捨て、パーンもディードリットも歩いていた。二人の体は泥《どろ》と敵から浴《あ》びた返り血にまみれ、肩で大きく息をしていた。
もはやこの戦いに勝者などいないのだ。死と破壊《は かい》だけが、この戦いの最後にほほえむことだろう。次の敵兵を迎え撃ちながら、切り捨てた哀《あわ》れなコボルドのように、自分が、そしてディードリットが、大地を朱《あけ》に染《そ》め倒れる番はいつ回ってくるのだろう、とパーンは考え始めていた。絶望的な思いが全身を震《ふる》わせる。それでも剣は、パーンの意志から独立してしまったように、新たな血を求め振るわれていた。
その時、パーンの目がふとファーンの姿を認《みと》めた。彼は幾人《いくにん》かの親衛隊《しんえいたい》の騎士《きし》とともに、ゴブリンの戦士数十人を相手にしていた。その向こうにマーモの紋章《もんしょう》を着けた赤い鎧《よろい》の戦士が、パーンの注意を引いた。
「カシュー王。あちらにファーン王です」
カシューも傷《きず》ついた馬からすでに大地におり立ち、長剣を両手に持ち戦っていた。彼に従うフレイムの戦士はいつのまにか数人を数えるばかりになっている。もちろん何人かは倒されたのだろう。だが、はぐれてしまった者も多いはずだ。
カシューはパーンに言われて、振り向いた。
厳《きび》しく見開かれた目が、ファーンの姿を認めて一瞬|和《やわ》らいだが、すぐにまた引きしめられる。それには驚愕《きょうがく》の表情がかすかに含《ふく》まれていた。
「あの赤い鎧の男。あれは確かベルドのはず」カシューはファーンが戦っているほうに、全力で駆《か》け出した。パーンも疲れ切った体を鞭打《むちう》ちながら、傭兵王《ようへいおう》の後を追う。
「国王!」パーンはゴブリンの戦士を蹴散《けち》らしながら、主君のそばにたどりついた。カシューもまた血路を開いてやってくる。
「おお、パーン。無事であったか。それにカシュー王も」
「何とか。ファーン王もご無事でなによりです」
カシューは言いながら、まわりを跳《は》ね回る醜《みにく》い敵兵を次々と打ち倒していく。
「向こうにベルドがいますな」カシューは最後のゴブリン兵を切り倒した後、ファーンのそばにより、話しかけた。ファーンにしてもすでに徒歩《とほ》である。
「うむ。気づいておる。あやつにもわれわれの軍の兵士が何人か挑《いど》んでおったが、どうやら皆倒されてしまったようじゃの」
ファーンは唇《くちびる》をかみしめながら、ゆっくりと近寄ってくる赤い影を見詰めた。その顔はかすかに笑っていた。男の手にする真っ黒な剣の刃《やいば》までもが、満足そうな笑いを浮かべているような錯角《さっかく》が、一同を襲《おそ》った。
(あいつがベルドか)パーンはその戦士が放つ圧倒的な『気』に、吹き飛ばされそうな威圧感《い あつかん》を覚《おぼ》えていた。
ベルドはパーンたちが駆《か》け出せばすぐにでも戦えるほどの距離まで近づいた。パーンは一瞬《いっしゅん》その気配を見せたが、ディードリットがその動きを素早く制して首を横にゆっくりと振った。
「無駄死《むだじ》にすることはないわ。あの男にわれわれがかなうわけがない」
スレインも同意見らしく、防御《ぼうぎょ》の魔法《ま ほう》を準備《じゅんび》しながら、皆に下がろうと促《うなが》した。
「やっと会えたな、ファーン。いつぞやの魔神退治以来かな」ベルドの声は思ったよりも、冷静で理知的な雰囲気《ふんい き 》があった。ファーンは剣を構えて前に進み出ようとするカシューを制して、一歩前に進み出た。
「そうなるかな」ファーンは白く魔法のオーラを発する剣と、紋章《もんしょう》の銀十字を彫《ほ》り込んだ楯《たて》を手に、ベルドとの間合いをゆっくりとつめていった。
「オレは共に戦っていた時から、おまえと一度勝負してみたかったのさ。ましてや今は敵同士、容赦《ようしゃ》なく戦うことができる。オレは満足だよ」ベルドもじわじわとファーンに近寄りながら、黒い刃の大剣を身構え、タイミングを計るようにその剣先をゆらしはじめた。あたかも蛮族《ばんぞく》が戦いに赴《おもむ》く前に踊《おど》る舞いのような動きであった。
「わしはおまえと戦う不幸をかみしめておるよ。運命のいたずらというやつかもしれん。だが、もちろんこの勝負受けて立つぞ」
「ファーンの剣が一度直立して、軽く礼をしたようだった。
「誰《だれ》も手を出してはならんぞ!」ファーンは叫《さけ》ぶと、大きく前に踏《ふ》み込み剣を横にはらった。その攻撃をベルドは寸前のところで見切り、肩口から、稲妻《いなずま》のようなするどい一撃を加えてきた。だが、その攻撃をファーンは楯でたやすく受け止めると、力を込めて弾《はじ》き返し、高く差し上げた楯の影になるように剣をふるい、ベルドの胴《どう》を狙《ねら》った。
ガキッ、という不気味な音がした。
ベルドの赤い鎧《よろい》から、火花が飛び散り、ベルドは小さくうめき声をあげた。だがファーンの一撃は切っ先がわずかに掠《かす》ったぐらいで、ベルドの体まで刃が届《とど》いたかどうか疑問《ぎ もん》だった。
「やるな、おいぼれ!」ベルドが渾身《こんしん》の一撃を振るう。ファーンはその稲妻のような攻撃を難なく避《さ》けた。見守る両軍の兵から、ウォーという歓声《かんせい》が上がる。
その後、数回両者は剣を合わせ、その都度《つど》金属と金属のぶつかり合う激しい音が響《ひび》いた。
両者の腕前はまったく互角《ご かく》といってよかった。パーンは見ているだけで気圧《けお》され、額《ひたい》から汗がしたたり落ちるのを感じていた。
その『気』には相手を倒すために全力を尽くそうとする憎悪《ぞうお》はなかった。むしろ両者の顔には親しい友人同士が剣の稽古《けいこ 》でもつけているような爽《さわ》やかな表情すら、見受けられた。
「二人は昔から考えも行動も正反対だったと聞く」カシューが両者の戦いを見守りながら、そっとパーンにささやいた。「だが、それでも二人は信頼する戦友だったのだ。運命が二人をかくも別《わか》ち、ついには敵として巡《めぐ》り会わせても、その思いは変わっていないのかもしれない」
「あの男が本当の悪人だとは、わたしにも思えません」エトも静かに言った。「あの男の目にはむしろ清らかさといったものまで感じます。彼の姿を見て、すべての原因はカーラにこそあるのだという確信をますます強くしましたよ」
「ロードスに究極《きゅうきょく》の平和を。二人の考えは逆の手段を取りこそしましたが、結局は同じものだと、ウォートは言っていましたね。その考えはカーラにとって危険《き けん》なものだったわけです。そのためこの戦いが、破壊《は かい》が起こったのだとしたら、わたしは悲しく思いますね」
スレインもポツリと言った。足元で転《ころ》がるゴブリンの死体さえ、哀《あわ》れに思う。彼らは自分のすみかの洞窟《どうくつ》にさえいれば、こんな最期《さいご》を迎えることもなかったのだ。
ファーンと、ベルドの戦いはいつ果てるともなく続いた。両雄の一騎《いっき》打《う》ちのまわりで、生き残った兵たちの争いも始まり、やがてこの周囲には動いている者は、彼らのほかには見えなくなった。わずかにカシュー王と、パーンたち、それに敵の親衛隊の男が二人、主《あるじ》の戦いぶりを見守っているだけだった。
おそらく剣の腕前だけではファーンのほうに分があったかもしれない。だが、すでに老人となったファーンの体力は限界に達しているようだった。対するベルドは魔神《ましん》の王が手にしていた魔剣の力でいまだ壮年期の男の肉体を保っている。ファーンの剣の振りが鈍り始め、楯《たて》で受け止めきれぬ剣の攻撃が、鎧《よろい》にまで当たり、そのたびに鈍《にぶ》い金属音が響《ひび》くのだった。
「いかん!」
カシューは言い、思わず一歩足を踏《ふ》み出《だ》した。すかさず敵の親衛隊の戦士が回り込んで駆《か》け寄ろうとする。
「一騎打ちであろう。手出しをするとは、卑怯《ひきょう》だぞ」
カシューは自《みずか》らの騎士道精神よりも、ファーン王の名誉《めいよ》のためにそれ以上前に進み出ることをためらった。
「国王!」
その時、パーンの悲痛な声が響いた。
カシューはハッとしてファーンの姿を見る。
それは壮絶《そうぜつ》な情景だった。ファーンの剣はベルドの左肩に食い込み、そこから赤い血が剣を伝ってしたたり落ちていた。
だが、ベルドの剣先はファーン王の胸板を貫《つらぬ》き、マントをも抜いて暗黒の刃《やいば》を覗《のぞ》かせていた。
どう、とファーンの体が前のめりになり、そのままゆっくりと倒れていった。
「国王!」パーンはもう一度|叫《さけ》んで、憎悪《ぞうお》に燃《も》える瞳《ひとみ》を赤い鎧《よろい》の男に向けた。そして怒声《どせい》を上げて、ベルドに向かって駆け出した。
敵の親衛隊の一人がパーンを阻《はば》んでいなかったなら、きっとパーンはベルドに倒されていただろう。
パーンたちが敵兵に阻まれているうちに、カシューはベルドと一騎打ちに持ち込むことができた。この戦いもいつ果てるともしれぬ緊迫《きんぱく》したものだった。
だが、勝負は意外な幕《まく》を迎えた。いずこからともなく、一本の矢が飛んで来てベルドの左肩に深々と突き刺《さ》さったのだ。
カシューの一撃はその時、まさに振るわれようとしていた。ベルドは肩を襲《おそ》った傷《いた》みに剣を立てる動作が一瞬《いっしゅん》遅れたのだ。暗黒|皇帝《こうてい》の首は見事に宙《ちゅう》に舞い、黒い体は大地に打ちつけられた。
「|卑怯《ひきょう》な!」敵の親衛隊の戦士はありったけの蔑《さげす》みの言葉を並べ、カシューを罵《ののし》った。
「オレの名はアシュラム。覚《おぼ》えておけ! オレは貴様たちを決して許さん。ベルド陛下の悔《くや》しさをいつか貴様たちにも味わわせてやるぞ!」
言うや、戦士は体を翻《ひるがえ》した。パーンは背中から一撃を加えようかと思ったが、その行為は自分の信念に反すると思いとどまった。
カシューが全身に疲労《ひ ろう》を漂《ただよ》わせながら、パーンたちのもとに戻《もど》ってきた。その顔にはいつもの生気がなく、さしもの傭兵王《ようへいおう》にも限界があることを、パーンたちは知った。
「ご無事で何よりです、カシュー王」パーンは頭を下げた。
「オレは偶然《ぐうぜん》であれ、なんであれ、卑怯な手段を用いてベルドを倒した。この功罪《こうざい》がいかに出るかは今後のオレ自身の戦いの結果に任《まか》せることにしよう。
辛《つら》い役だろうが、ファーン王の体は何としてでもロイドまで届《とど》けてくれ。思えば、おまえたちと出会えたことだけが今回の戦《いくさ》の中での、唯一《ゆいいつ》の収穫《しゅうかく》だったよ。いつでもオレの国へ来てくれ。歓迎《かんげい》するぞ」カシューはそうパーンに告《つ》げ、両雄の変わり果てた姿に深々と礼をしてから、戦乱のフレイムに帰っていった。
戦場は夕闇《ゆうやみ》に閉《と》ざされようとしていた。
「わたしはカーラという存在が本当に許せなくなりましたよ」スレインが、パーンたちの前に初めて見せる感情――怒《いか》りをあらわに叫《さけ》んだ。
パーンはぼんやりと、ファーンの亡骸《なきがら》と、ベルドの死体を見《み》比《くら》べた。二人の英雄の屍《しかばね》は、一つの時代の終わりを告げているかのようだった。
「すべてはあの女の思いのままに進んだというわけだね」エトが、悔《くや》しさを込めて言った。「これで、ロードスの地にファリスの威光《いこう》が蘇《よみがえ》るまでにしばらくはかかるだろう。でも、僕《ぼく》はそれを成し遂《と》げねばならないんだ。ジェナート様を助け、荒れ切ったロードスをきっと立て直してみせるよ」
「あなたなら、できるわ」ディードリットが優《やさ》しく声をかけた。そして、無言でパーンのそばに寄るとその体に両腕を回し、細い腕で力一杯抱きしめた。パーンもディードリットの背中をたたきながら、大きく息をしていた。
「カァラァー!」そして、パーンの絶叫《ぜっきょう》が、聞く者とていなくなった荒野にいつ果てるともなく流れていった。
すでに日は傾《かたむ》き始め、大地は赤く染《そ》まっていた。雲もいつのまにか消えている。誰《だれ》がこの戦いで生き残っているのだろう? スレインには見当もつかなかった。(エルム様は死んだと聞いた。だが、バグナードは死んだのだろうか)
「帰りましょう、ロイドへ」ディードリットは涙まじりの声で、パーンにもう一度抱きついていた。「まだ、きっとロイドは無事よ。そこで、気持ちを落ち着けましょう。今は悲しいことが多すぎるわ。なぜかしら、今は足元に横たわっているゴブリンの死体さえ、悲しく思うわ。たとえ、生き返ってくればまた戦わねばならない相手とは分かっていても、今は生きていて欲しい。動いて欲しいって、思うの」
「帰りましょう、パーン」スレインが静かに言った。「われわれはまだ生きています。生きている者は、死んだ者よりも、多くのことができるのです。それを忘れてはなりません。帰りましょう。そして、それから、この戦いの後始末《あとしまつ》をわれわれなりにつけようじゃありませんか」
スレインは、これが自分の求めたものの結末なのだろうかと考えていた。もし、そうだとすれば、昔の友人はむしろ幸福だったのかもしれない。彼は完全なる悪と、完全なる正義をだけ、見ていれば良かったのだから。だが、今は正義はない。悪さえも存在しない。パーンの絶叫は、スレインの気持ちでもあった。(カーラ)スレインは、激しく体を震《ふる》わせた。(わたしはおまえを決して許しはしませんよ。あなたの存在を許しはしませんよ)
そしてパーンたちは一度ロイドに戻《もど》る。ロイドもまた敵の別動隊の攻撃を受け、かなり破壊《は かい》されていた。それでも王城は無事で、フィアンナは目に涙を浮かべて一行と、そして変わり果てた父王を出迎えた。
悲しみだけが後に残った。かつて正義の象徴《しょうちょう》であったその人がいなくなった今、ロードスには無《む》秩序《ちつじょ》と暗黒だけがその支配者であるかのように思えた。
ここにいたって、ファリス神殿がついに動いた。最高司祭ジェナートはしばらくの間、ヴァリスの治安を守る役を自《みずか》ら引き受け、傷《きず》ついた者と、家を焼かれた者の保護のために、蓄《たくわ》えてあった寺院の財を放出し始めたのだ。その試《こころ》みは成功を収め、ロイド近辺のわずかな地域だけに限られていたもののヴァリスは危険《き けん》な中にも一応の形をとどめおくことができた。
もちろん、パーンたちはそのためにそれこそ走り回らねばならなかった。今や、戦士も魔術師も司祭もすべてが貴重《きちょう》な人材だった。ディードリットもギムも、パーンたちと共に各地に残るマーモの残存の兵を捕《と》らえ、怪物たちを打ち倒した。
そのために一月《ひとつき》がいつの間にか過ぎていた。ようやく、ヴァリスが落ち着きを見せ、人々に笑顔も戻り始めた頃《ころ》、パーンたち六人の姿は掻《か》き消すようにロイドの町からいなくなっていた。
[#改ページ]
第Y章 マーファの娘
1
ロイドを離れて、十日ほどが過ぎ去っていた。
ロイドの西北|大湿原《だいしつげん》の北に位置する静寂《せいじゃく》の湖《みずうみ》、ルノアナ湖《こ》に浮かぶ小島にパーンたちは姿を見せたのだ。もちろん目的は一つ。灰色《はいいろ》の魔女《ま じょ》、ロードスを吹き抜けた破壊《は かい》の運命を定めた古代王国の魔術師《まじゅつし》カーラと対決するためである。
スレインの手にはすでに大賢者《だいけんじゃ》ウォートから貰《もら》った魔法の棒杖《ワ ン ド》が握《にぎ》られている。これをしかるべき言葉を唱《とな》えて振るえば、カーラの魔法を封《ふう》じることができるのだ。
六人は無言で霧《きり》の中を進んでいた。ルノアナ湖近辺には珍《めずら》しいものではない。特に冬の季節には太陽が湖岸《こがん》に届《とど》くことすら希《まれ》だといわれる。この湖の底にはかつて古代王国の都市の廃墟《はいきょ》が沈《しず》んでいるという。
「まさにカーラの隠《かく》れ家《が》にうってつけというわけだ」
パーンは乾《かわ》いた声で一人言《ひとりごと》を言う。
やがて霧の中から古い造《つく》りの館《やかた》が姿を現した。二階建ての館だ。壁《かべ》の色は灰色だった。まったく館の主《あるじ》にふさわしい色だと言えた。
ギムがゴソリと懐《ふところ》から何かを取り出したのを、スレインが目ざとく見つけた。そっと、近寄ってその手の中の物を覗《のぞ》き込む。
「新しい武器ですか?」スレインはドワーフに尋《たず》ねた。ギムは少し迷った様子を見せたが、うなずいて手の中の物を魔術師に見せた。
「これは髪飾《かみかざ》りですね。あなたが作ったんですか? さすがにドワーフの細工《さいく 》物《もの》だけあって、見事なものですね。でも、少し地味ですね」スレインは素直な感想を述べた。なるほど、彼の言うとおり、ギムの手に握られた髪飾りは飾り気のない地味な作りをしていた。長い金の串《くし》の先に星形に刻《きざ》んだ宝石が取り付けられている。その部分には精密《せいみつ》な模様《も よう》が彫《ほ》り込《こ》まれているが、あとはまったく単純な構造だった。
「こいつを、わしはロイドの城の中で作っておったのだ。地味だとおまえは言うが、こいつはきっとわしの最高|傑作《けっさく》だよ」ギムは力を込めて言った。「確かにおまえの言うとおり、これは地味に見えるかもしれん。だがね、細工自体をいかに丹精《たんせい》を込めて作ったところで、無駄《むだ》なのだ。細工物はそれ自体の美しさもさることながら、それ以上に他の物との調和を考え、両者ともに美しくなるような工《く》夫《ふう》がなければならないのだ。使われて初めて美しさが分かるような細工物こそが本当に素晴らしい物なのだ」
「なるほど」スレインは素直に感心した。
「わしは旅の目的を今果たそうとしておる。後は、レイリアをターバにいるニースのもとへ届《とど》けるだけじゃな」
「そのためにここまでやって来たんですからねぇ」スレインは目の前に立つ、灰色《はいいろ》の館《やかた》を見詰めた。
パーンはここまでカーラの配下からの攻撃を受けなかったことを、かえって不気味に感じていた。エトもそのことが気にかかっているらしく待ち伏せを警戒《けいかい》して、周囲に注意を払っていた。カーラに実際のところ何人の部下がいるかしらないが、少なくとも二十人より少ないということはないだろう。
「待ち伏せはありませんよ」スレインは館の中に自分の意識の目を飛ばして、中の様子を探《さぐ》り出そうとした。
「魔術師の館だけに強力な結界《けっかい》が張られているはずなんですがねぇ」スレインが屋敷の入り口で自分の意識が弾《はじ》き飛ばされるだろうと思っていたのだ。ところが、彼の意識の目はたやすく館に入り込み、内部をくまなく歩き回ることができた。
「いました!」スレインの声が一際《ひときわ》上がる。「カーラです。彼女は二階の奥の部屋です。鎧《よろい》を着て、武器を持って、ああ、こちらを見ています。きっと、彼女はわたしが見ていることに気がついているんだ。口元が笑っている」
スレインは精神の集中を解いた。
「おそらくカーラはこの館を引き払うつもりなのでしょう。彼女のほかには誰《だれ》の姿も見受けられませんでしたし、それに中はがらんどうみたいでしたよ。ただ、カーラは|鎖かたびら《チェイン・メイル》に小剣を手にしていますよ」
「オレたちが来ることは知っていたわけだな」パーンは言い、腰の剣を抜きはなった。「ならば存分に戦ってやろうじゃないか」
「われわれはカーラを倒しに来たのではないことを忘れんでくれよ」ギムが警告《けいこく》を発する。
「無論だ。それでもオレは剣での戦いなら、引けはとらないつもりだ」
パーンは振り返り、黙《だま》って一行の一番後ろに従うウッドの姿を確かめた。
「それに今回はウッドが主役だから」
パーンたちはカーラとの戦いに備《そな》えて十分な打ち合わせをしていた。スレインがその一番手だった。スレインは魔法《ま ほう》の棒杖《ワ ン ド》を使い、カーラの魔力を封《ふう》じる。その後、パーン、ディードリット、ギムの三人がカーラと接近戦を行い、カーラの注意を引く。そして、仕上げがウッド・チャックだった。彼はカーラの背後に回り込み、カーラの額《ひたい》からサークレットを外《はず》し取るのだ。ウッドは危険《き けん》なこの役を黙って受け入れた。
パーンは館の玄関《げんかん》を開け、その中に足を踏《ふ》み入れた。そのまま無《む》造作《ぞうさ》に階段を目指し、その石造《いしづく》りの階段をどんどん上っていった。ほとんど警戒もしていなかった。まっすぐ進んでいっても、ワナとか伏兵などがいるはずがないという確信があった。
(そんな小細工《こざいく》をするつもりなら、館中に結界を張ってスレインの魔法を封じるだろう)それをしなかったというのは、自分たちの接近を知った上で、受けて立とうという意志の現れだった。
だからパーンは自信をもって、カーラがいるという広間へとまっすぐに向かった。その運命の扉《とびら》がついに目の前までやってきた。パーンは両開きの扉のノブに手をかけ、それを力を込めて押し開いた。
広間は城の謁見《えっけん》の間を思わせる造りをしていた。両側の壁も床《ゆか》も磨《みが》いた黒大理石を使っている。そして、一番奥にカーラは立っていた。
「あなたがたを待っていたのよ」カーラの澄《す》んだ声が広い室内に反響《はんきょう》して、虚《うつ》ろに響《ひび》いた。彼女は一歩足を踏み出し、やって来た侵入者《しんにゅうしゃ》一人一人を眺《なが》め渡す。「さあ、決着をつけて上げましょう。どこからでもかかってきなさい!」
カーラは言って、その場で立ち止まって不動の姿勢を取った。
「カーラ。人の運命を弄《もてあそ》ぶ魔女め!」パーンは叫《さけ》び、走り出す。「我が主君ファーンの仇《かたき》だ!」
スレインは握《にぎ》りしめていた棒杖《ワ ン ド》を今こそその時とばかり大きく振るい、一言、呪文《じゅもん》の言葉を唱《とな》えた。
「ラウラ!」
確かな魔法の圧力がスレインには感じられ、その領域《りょういき》が部屋中に広がるのを感じた。
カーラは右手を差し出し、向かってくる戦士とドワーフ、それにエルフに向かって炎《ほのお》の呪文をたたきつけるためのしかるべき手続きを実行した。しなやかな指先から鈍《にぶ》い赤色の輝きが帯《おび》を引いて延《の》びていった。
が、その輝きはパーンの体に届《とど》くか、届かないかという時に、フッと蝋燭《ろうそく》の火でも吹き消すようになくなっていた。
(どういうこと)カーラの顔に困惑《こんわく》の表情が浮かんだ。(ウォートの仕業《しわざ》だろうか)
カーラは次の魔法は大魔術になると、精神を集中してそれに備《そな》えた。パーンたちが飛び込んでくるのも構わず、魔法の動作を実行する。
「万能なるマナよ。魔法の源《みなもと》にして、すべての物質を支配するものよ。今こそその力を解放せよ。
消えよ! 不可思議な力よ!」
バシッという弾《はじ》ける音が聞こえた。
スレインは恐怖《きょうふ》のこもったまなざしで、自分の手の中で砕《くだ》けた棒杖《ワ ン ド》を見詰めた。
「気をつけて! カーラは魔法の結界《けっかい》を撃ち破りました」
パーンたちはその時、すでにカーラと剣を交《まじ》えられるだけの距離までやって来ていた。エトはチラリと壁沿《かべぞ》いに走る黒い影に視線を送る。
(頼むよ。みんな)
パーンはカーラの右手に回った。そして、鋭《するど》い一撃を剣を持つ右手に向けて加えた。カーラはその剣の攻撃を小剣で受け流しながら、口では小さく呪文《じゅもん》を唱《とな》えていた。
左に回ったディードリットも足を狙《ねら》って突きの攻撃を入れたが、それも簡単《かんたん》にかわされていた。カーラは確かに戦士としてもかなりの修行を積んでいることが分かった。
(ウッド手早く頼むぜ)パーンは容赦《ようしゃ》のない攻撃を連続で魔女に向けて見舞った。ディードリットもレイピアを突き出しながら、その動きを封じようと、懸命《けんめい》になっていた。二人ともウォートの警告《けいこく》を忘れたわけではなかった。しかし、攻撃の手を緩《ゆる》める危《き》険《けん》を犯《おか》すわけにはいかなかった。その隙《すき》を突かれれば、自分たちが倒されてしまうからだ。
「目を覚《さ》ませ、レイリア。おまえはニースから何を習ったというんじゃ」突然ギムの大きな声が聞こえた。ギムは戦う構えも見せず、正面からただカーラを見詰めていた。
(このドワーフは、この体の主《ぬし》のことを知っているのか)カーラは、小剣と楯《たて》を使って二人の攻撃をすべて受け止めながら、呪文の言葉をどんどん紡《つむ》ぎ出していた。
(でもおあいにく、娘の意識はもはやどこにもないわ。わたしがすべていただいた。だからあなたのことだって覚《おぼ》えていないのよ)
カーラは長い呪文の言葉を正確に刻《きざ》み続けていた。彼女はあくまで魔法でけりをつけるつもりなのだ。
「思い出せ、レイリア! おまえの信じる大地の法を。すべての生き物の命をいとおしみ、自然であれと教える慈《じ》愛《あい》のマーファの法を!」ギムはなおも続けた。「結婚の守護者として愛し合う若者の誓《ちか》いを見守ったのは、何のためだ。ロードスを戦乱に巻き込むためか。愛し合う者たちの命を奪《うば》うためか」
エルフと戦士の攻撃よりも、ドワーフの執拗《しつよう》な言葉に呪文の完成が遅らされているのに、カーラはいらだった。心に動揺《どうよう》が走っているのだ。
まさか、とカーラは思った。なぜ、動揺などしなければならぬ。自分にはマーファの法など無《む》縁《えん》のはずではないか。レイリアの記《き》憶《おく》は、今や心の片すみにさえ残っていないはず。
だが、カーラはギムの言葉が発せられるたびに、自分の中に異質な感情が湧《わ》き上がるのを押さえることができなかった。もう一人の自分が自我を取り戻《もど》し、侵入者《しんにゅうしゃ》を追い出そうとでもしているかのように激しい頭痛がカーラを襲《おそ》った。
「えーい! 黙《だま》れ!!」カーラの呪文《じゅもん》は完成した。弾《はじ》ける輝きが左手に生まれ、その手がすっとドワーフに伸《の》びていった。
ギムはその手を避《さ》けることができたはずだった。
だが、ギムはそれをしなかった。
「思い出せ! レイリア!」絶叫《ぜっきょう》がドワーフの口から漏《も》れた。
輝きはカーラの左手から、ギムの体に移り、体に染《し》み込んでいくように薄れていった。
ドウッとギムは倒れた。
「ギム!」叫《さけ》んだのはディードリットだった。倒れたギムの体にはもはや生気は感じられない。怒《いか》りと悲しみが同時にエルフの心を駆《か》け抜けた。
衝撃《しょうげき》は魔法をかけた当人にも同じように弾《はじ》き返っていた。
「ギム?」自分の言葉とは思えぬつぶやきがカーラの口からこぼれた。カーラは混乱《こんらん》した。頭痛が激しく彼女を襲う。次の呪文を唱えねばとの意志も、混乱した頭のどこかに吹き飛ばされていた。
その時、背後に黒い影が忍《しの》び寄っていた。
「貰《もら》った!」ウッドの高らかな勝利の声が響《ひび》く。スレインとエトはその光景をはっきりと見《み》届《とど》けた。
盗賊《とうぞく》の素早い右手の動きがカーラの額《ひたい》からサークレットをもぎ取った。黒い髪《かみ》の毛がバサリと流れ、カーラは声にならぬ悲《ひ》鳴《めい》を上げながら、人形が押されて倒れていくように、ぎこちない動きを見せ床《ゆか》に崩《くず》折れた。
「ギム!」パーンは叫《さけ》んで、倒れているギムを抱《かか》え起こした。その手の中でドワーフの体から、温《あたた》かさが急速に抜けていった。パーンは、ギムの名を何度も叫んでいた。エトも駆け寄ってきて、何とかギムの命の火を取り戻《もど》そうと、長い祈りの言葉を唱《とな》え始めた。スレインは静かに手を胸においた。ディードリットも目に涙を浮かべていた。そして、レイピアを構えて、近くに横たわる女性の胸に狙《ねら》いを定めた。
スレインがその手を押さえる。
「離してよ!」ディードリットの声は、虚《うつ》ろに広間の壁《かべ》に響き渡っていった。「この女がギムを殺したのよ。だから、この女も死ななければならないんだわ」
「そんなことをして、ギムが喜ぶと思っているのですか。ギムは、この女性を助けるために、それだけのために命を捨てたのですよ。わたしは、薄々《うすうす》気がついていたんです。ギムはとうとうその本当の理由は語ってくれませんでしたがね。ギムは昔、鉱山で大《おお》怪我《けが》を負ったんです。その時、命を助けてくれたのが、この人の母親だという話を聞いたことがあります。そして、その時にこの女性が、何者かにさらわれてしまったということも。実は、さらわれたのではなく、カーラに精神を奪《うば》い去られていたのですね」
「だめだ」エトの悲痛な声が聞こえた。スレインは、目を下に落とした。ギムの両手をそっと組ませ、エトがその上体をゆっくりと、石の床《ゆか》に寝かしているところだった。
「かわいそうな、ギム」ディードリットは顔をパーンの胸に預《あず》けたまま、目からこぼれる涙を隠《かく》そうともしなかった。エルフがドワーフのために涙を流すなどという話をスレインは聞いたことがなかった。
「カーラにとどめを刺《さ》しましょう。今、新たにわたしはあの魔女を許せない理由ができましたよ」
スレインは静かに言ってウッド・チャックのほうに体を向けた。
「さあ、ウッド。お願いします。そのサークレットを床にたたきつけて下さい。それで、すべてが終わるのです。われわれは長年の呪縛《じゅばく》から解放されるのですよ」
ウッド・チャックはそれまで、呆然《ぼうぜん》と立っていた。動かぬギムを見ながら、胸の中に空《あ》いた空洞《くうどう》に戸《と》惑《まど》いを覚《おぼ》えながら。ウッド・チャックは我に帰ったように一歩後ろに下がった。ただならぬ気配を感じ、ディードリットははっとレイピアを拾い上げた。
「何を考えているのウッド。まさか……」
「そ、そのとおりだ」ウッド・チャックはなおも後ろに下がりながら、口を開いた。黒い革《かわ》の鎧《よろい》は少しの音もたてない。滑《すべ》るようなステップで、ウッド・チャックはパーンたちから遠ざかろうとしていた。
「どういうことだ? 早くそのサークレットを壊《こわ》しちまえ」
パーンはまだ事の成り行きに気がついていない。
「おまえたちには、分からねぇだろう。オレがどんな気持ちで二十年もの間、牢獄《ろうごく》につながれていたのかをよ。オレは確かに盗賊《とうぞく》だ。だが、そうする以外にオレには生き方はなかったんだ。オレにはパーンのような力もなかったし、スレインのように古代語を理解する頭も、それに金もなかった。物心ついた時には神はオレを裏切るためだけにいた。オレはファリスもマーファもラーダもまるで信じられなかったよ。唯一《ゆいいつ》、盗賊ギルドの連中はオレの気持ちを理解してくれた。そんなオレが力を得るためには、このサークレットはかっこうの獲《え》物《もの》なんだ。オレは、このウッド・チャック様はカーラの力を手に入れて見せる。そして、オレを認《みと》めなかった、そしてオレの若さを奪《うば》った世間の奴《やつ》らを見返してやる。偉大なるウッド・チャック。ジェイ・ランカードの名前を唱《とな》えさせてやる」
「馬鹿《ばか》なまねはやめろ」パーンは叫《さけ》んだ。
「パーン。おめえはいいやつだよ。オレはおめえの一本気なところが気に入っていたのさ。だが、人を疑うことも覚えろ。さもなきゃいつか、後ろから命を奪われるぜ。それにディード。おめえの鼻持ちならないところも、オレは嫌《きら》いじゃなかったさ。美しい恵まれた、森の娘。エト、スレイン。死んじまったドワーフもよ。おめえらと一緒にいた間は本当に楽しかったさ。本当にな。そうさ、おれたちゃ仲間だ。そうだろう。だからオレはおめえらにはいつでも手を広げて待っているぜ」
「ウッド、嘘《うそ》だろう。悪い冗談《じょうだん》はよせ」
「パーン、あばよ。オレもおまえのような考え方ができりゃ、幸せだったのによ」
ウッド・チャックは体を翻《ひるがえ》して、窓に駆《か》けよった。そして、その窓をバンと開いて、唖然《あ ぜん》とする四人に顔を向ける。
寂《さび》しい笑いが、その口元に浮かんだ。
「ウッドー!」パーンの絶叫は、広間の壁《かべ》をゆらし、何度も繰り返すこだまとなって、ウッドの耳に響《ひび》いた。
あばよ、もう一度ウッド・チャックの口が動いた。そして、窓の外に身を翻して飛び降りる。パーンは慌《あわ》てて窓に駆け寄った。しかし、すでにウッド・チャックの姿は森の中に消えていた。
「ウッド。馬鹿野郎」パーンはうめいた。
彼はそのまま振り返ると、ドワーフの死体のそばにゆっくりと近づいた。ひざまずき、ファリスの印《いん》を切って冷たくなった手を握《にぎ》る。
「おまえの仇《かたき》は討ってやるからな」
パーンは立ち上がると、残った三人の顔を見渡した。
「オレはウッドを追う。ウッドがカーラを支配できるとは思えないからな。ギムのことをよろしく頼む」パーンは言った。
「あたしもついていくわ。あなたの背中を守る者もいなければならないでしょう。相手は忍《しの》び足に長《た》けたカーラなのよ」
「ありがたいな」パーンは小走りに近づいて来るエルフの娘を笑顔で迎えた。
「ディード、笑わないで聞いてくれ。オレは英雄になりたいと思っていたんだ。だが、その器《うつわ》じゃないな。今、オレが本当にすべきことはロードスを立て直すために剣を使うことなんだろう。だが、オレは敢《あ》えて歴史の陰《かげ》に潜《ひそ》む灰色《はいいろ》の魔女《ま じょ》を打ち倒そうとしているんだからな」
(そうかしら)とディードリットは思った。(確かに、あなたの名前が歴史書のどこかに載《の》ることはないでしょう。あなたは王や、勇者として称《たた》えられることはないかもしれない。でも、あなたのまっすぐな信念は、きっとロードスの各地に伝えられることでしょう。あなたの冒険《ぼうけん》は人々の間で語り伝えられ、ロードスの伝承《でんしょう》の中に残るでしょう。ささやかな英雄の名と共に。あたしにはそれが分かるわ)
「すまない、パーン。僕《ぼく》はファリスにこの身を捧《ささ》げているんだ。ヴァリスを立て直すために、まだまだしなければならないことがある」エトが苦しそうに、言った。パーンは笑顔で答え、彼に手を差しのべた。
「わたしも、一緒には行けません。今はカーラより、ギムの思いを晴らしてやりたいと思います。彼にかわって、レイリアという娘を、ターバの町に連れて戻《もど》らねばなりません」
「そうか、残念だな」パーンはディードリットの手を取りながら、小さく言った。「それじゃあ、またな」
二人の影は並んで、扉《とびら》から消えていった。
「僕《ぼく》は、ギムを救えなかったばかりか、ウッド・チャックさえ救うことができなかった」エトは自分の非力さを、呪《のろ》うようにつぶやいた。白いファリス司祭の衣《ころも》についたほこりを払い取り、立ち上がってギムの亡骸《なきがら》に向かって、祈りの言葉を唱《とな》え始める。「僕がギムにしてやれることといっても、これぐらいだ。後はスレイン、あなたに任《まか》せましょう。僕にはファリスの司祭としての使命が待っています。ヴァリスをそしてロードスを立て直さなければならないんだ」
「そうですか。では、ここでお別れですね」スレインは手を振って、エトを見送った。
エトもかすかに笑って手を振った。
「|賢者《けんじゃ》スレイン・スターシーカー。あなたの求める夢がかないますように。そしてドワーフのささやかな夢を無事彼のもとに送り届《とど》けられますように。哀《あわ》れな女性の魂《たましい》を救うことができますように」
エトの白い影もゆっくりと去っていった。
2
スレインはカーラの館《やかた》にただ一人動く者として残った。彼はギムの死体のそばに座り込み、じっと待っていた。ドワーフの死に顔には満足そうな表情さえ浮かび、自分の人生を誇《ほこ》るように横たわっている。
(あなたの願いを叶《かな》えてあげますよ)スレインは心の中でつぶやき、そっと彼の懐《ふところ》から形見となった金の細工《さいく 》物《もの》を取り出した。その質素な髪飾《かみかざ》りがこのドワーフの生み出した最期の作となったわけだ。
この髪飾りは持つべき者に渡せばいい。決心してそれをローブのポケットにしまい込むともはや、彼はカーラの、いやレイリアという女性の回復を待つしかなかった。
それには、さほどの時間も必要ではなかった。しばらくすると、彼女は息を吹き返し、かすかにうめいた。
「大丈夫ですか。気分はいかがですか」スレインはそばに近寄り、女性の顔を覗《のぞ》き込んだ。美しい顔をしていた。カーラはこの女性の美しさをまったく表にだすことができなかったのではないかという疑《ぎ》問《もん》が、スレインの脳裏《のうり》に浮かんだ。澄《す》んだ青い瞳《ひとみ》に自分の姿が映《うつ》っているのが分かった。肌《はだ》は雪の白さをしていたが、血行を取り戻《もど》して、ほんのりと朱《しゅ》にそまっていた。
「あなたは、それにあたしは何故《なぜ》ここに」言いかけたその顔が、苦痛に歪《ゆが》んだ。スレインはその様子を見て、彼女はカーラの間の記《き》憶《おく》を残しているんだなということが分かった。それは何と哀《あわ》れなことだろう。何と悲しいことだろう。
レイリアは我に返ったように、辺《あた》りを見回した。そしてドワーフの死体が目に止まった。
「ギム。優《やさ》しいドワーフの細工師」彼女は喉《のど》の奥から掠《かす》れた声でポツリとつぶやいた。「覚《おぼ》えているわ。あなたのこと、それにあなたの声、闇《やみ》の中で閉《と》じこもっていたわたしの意識に、あなたの声が聞こえてきたの。あれは悪い夢だと思っていたわ。でも、これは、現実なのね」
彼女はフラフラと立ち上がってよろめきながらそのギムの亡骸《なきがら》に近寄った。そしてそっと手を取る。その手が冷たいことを確認《かくにん》すると、力なくその場に倒れ伏し、ドワーフの物言わぬ体にしがみついた。
「全部、夢ならば良かった。あのターバの神殿で見ている悪夢だったなら、でも、これは現実なのね」
忍《しの》び泣く声がスレインの耳に聞こえた。やがてその声は大きくなり、自分を呪《のろ》う声がおえつの中にまじって聞こえた。
スレインはレイリアが泣きやむまでじっと待った。
その泣き声はいつまでも続くかとも思われたが、そのうちに小さくなってゆき、やがて完全に止まった。
「あたしはどうしたらいいのかしら。取り返しのつかないことをしてしまったわ。ギムをこの手にかけ、その他のあまたの者を死に追いやり、そしてロードスに破《は》壊《かい》をもたらした。いったいどんな償《つぐな》いをすれば、この罪《つみ》は許されるのでしょう」
レイリアはそばにいるローブの男に話しかけた。男の穏《おだ》やかな顔は彼女の胸の苦痛を和《やわ》らげてくれるようだった。
「生きることですね」スレインはきっぱりと言い切った。「自分の罪と思わないことです。それは難しいことでしょう。でも罪を犯《おか》したのはあなたではなく、カーラなのですから。それでももし罪を償いたいと思うのなら、生きてロードスの現状を回復させるために努力すべきです。あなたにはその力があるのですから。でも今一番にしなければならないことは、あなたのお母様を安心させて上げることです。それが死んだギムの何よりの望みでもあったのですから」
レイリアはしばらく無言でいた。血がにじむほど唇《くちびる》をかみしめている。
「分かりました」レイリアはポツリと言った。「あたしのこれからの一生はロードスのために捧《ささ》げましょう。そして母に会うために故郷のターバに帰りましょう」
レイリアはうなだれたまま、スレインのそばにやってきた。
「わたしもお供しますよ。マーファの司祭。わたしの名前はスレイン・スターシーカー。賢者《けんじゃ》の学院で学んだ魔術師《まじゅつし》です。わたしの力もお貸ししましょう」
「今は魔法のことは話さないで下さい。でもあなたのことは知っています。愉快な考えをする魔術師よ。わたしはこの七年の間の記憶も残らず持っていますから」
だから彼女は辛《つら》いのだと、スレインの心は傷《いた》んだ。今は彼女は笑えまい。しかし、いつかはその美しい顔に笑顔が戻《もど》ることもあるだろう。そのためにも自分は自分の力を振り絞《しぼ》ろう。パーンのように剣を振るうことはできないが、自分の魔法の力も決して不要ではないはずだ。
スレインはレイリアの腕を取りながら、カーラの館《やかた》を後にした。そして発火の呪文《じゅもん》を唱《とな》えて、館のあちこちに火をつけて歩く。おそらくその火の中でギムの魂《たましい》は、やすらかな天上界へと旅立っていくことだろう。
カーラの館は炎《ほのお》に包まれ、ゆっくりと焼け落ちていった。その最後の炎が消え去るまで、スレインはその場にとどまり続けた。
スレインはレイリアを前にして、歩き始めた。すでに霧《きり》は晴れ初秋の太陽の日差しが二人に降り注いでいた。
前を行くレイリアの姿を、スレインは日の光のもとでもう一度じっくりと観察《かんさつ》する。背後から見れば漆黒《しっこく》の髪《かみ》はまるで夜空で、肌は大理石の彫像《ちょうぞう》を思わせた。
ふと気がついて、スレインはローブのポケットからギムの作った髪飾《かみかざ》りを取り出した。
「失礼します」
断《ことわ》って、スレインは彼女の髪にその髪飾りを差した。
(そうか)スレインは納得《なっとく》して、大きく息をついた。(ギムの言っていたことはまったく正しかったんだ)
レイリアの髪に収まった途端《と たん》、一見地味に見えた髪飾りの輝きが、まるで別の物のような輝きを見せ始めたのである。あたかもその場所が、収まるべき唯一《ゆいいつ》の場所だとでもいうように、髪飾りは七色の光をひそかに発していた。
(調和により、生まれる美しさか)スレインはギムの戦士としての力しか見ていなかった自分を恥ずかしく思った。
そして、スレインは思うのだった。再び口元を手で覆《おお》い、目を赤くする女性の姿を見ながら、その髪飾りをつけた漆黒の髪を見ながら。
(僕は、星を捜《さが》し出したのかもしれない)
レイリアの髪に収まるギムの最後の細工物は夜空に輝く本物の星のように、流れる暗色《あんしょく》の宇宙の中に明るく輝いていた。
[#改ページ]
あとがき
――ロードス島創世記
安田 均
本書は、ちょっとおもしろい形をとって書かれている。
まず、お読みになっていただければわかるとおり、内容はファンタジー小説である。
ロードス島という架空《かくう》の世界(エーゲ海に同じ名の島があるけれども、偶然《ぐうぜん》の一致《いっち》である)を舞台に、若き冒険者《ぼうけんしゃ》たちが、ファンタジー界の異形《いぎょう》の生物を相手に、血沸《ちわ》き、肉躍《にくおど》る冒険を展開する物語だ。ヒロイック・ファンタジーという分野があるけれども、かなりそれに近い感触《かんしょく》をもっている。ただ、普通の読み物としての他に、もう一つ大きな特徴《とくちょう》がある。
つまり、本書はゲーム小説≠ネのだ。
と、こう書くと、ああ、最近流行のコンピュータ・ゲームの小説化ですか、とものわかりのよい人はうなずいてくれるかもしれない。確かに近頃はファミコンでも|R P G《ロールプレイング・ゲーム》を中心として物語性のあるゲーム≠ェ登場し、そのおもしろさを逆に本家である小説に移し変える現象がおきている。これはこれで、なかなか興味ぶかい試みだし、まだまだ限界のあるコンピュータ・ゲームとは、また違ったストーリーの展開を楽しめるのは事実だろう(『ラプラスの魔《ま》』 ―本文庫既刊―もよろしく)。
だけど、この本に限っては、そうしたゲーム小説≠ニもちがっている。なにしろ、もとになるゲームは存在するのだが、まだ公《おおやけ》には発表されていないのだ。
あまりもって回った言いかたもよくないので、このあたりではっきり書こう。実は〈ロードス島戦記〉とは、ぼくやこの作品の著者である水野良をはじめとするグループSNEの中で存在してきたRPGの世界[#「世界」に傍点]なのである。
RPGというのは、おもしろい。それは、もちろんゲームだが、と同時に、同じくらいストーリー性を含むものだし、想像力・創造力を必要とする。特に、コンピュータ・ゲームではない、テーブルトーク(会話型)の元祖RPGは、ゲーム(ストーリー)を作り、進めるゲームマスターという役が存在し、また複数のプレイヤーがそこで自由に役割を演じることから、ゲーム全体で一つの世界≠形造っていくことが多く、また、それが醍醐《だいご》味《み》となっている。
こうしたRPGの傾向は、海外では初期の『D&|D《 R》』の頃から見られたけれども、RPGが拡《ひろ》がり、進化していくにつれて、ますますはっきりしてきた。最初の頃のゲーム・システム重視(どんなルールがおもしろいか)から、最近では完全に、シナリオ・背景世界重視(どんな世界・ストーリー・キャラクターがおもしろいか)に、重心は移ってきている。プレイヤーは正直だ。遊んでみて、おもしろくない形はどんどん切り捨てられる。いかにルールやシステムが厳密《げんみつ》で立派でも、機能しないもの、しにくいものは不要なのである。そして、このごろのRPGでは、ルールなどの不要な(つまり、先行して存在するRPGのルールのどれでも使える)、背景世界のソースブックが多くなり、汎用《はんよう》RPGという形で定着しはじめている。
ちょっと話が横道にそれたが、グループSNEでも、以前からこうした独自のRPGの背景世界は、いくつか存在してきた。その中で、最大のものが水野良を中心クリエーターとする〈ロードス島戦記〉である。あるときは、この世界を使って『D&|D《 R》』を遊び、また別なときには、『トンネルズ&トロールズ』や『ルーンクエスト』といったRPGで壮大《そうだい》なゲームをする。そのうち、プレイヤーの扱《あつか》う架《か》空《くう》のキャラクターがどんどん生き生きとしはじめ、またゲーム・システムもオリジナルのものが考案され、一つの完全なゲーム世界としての体裁も整ってしまった。
ということで、本書はまだ発表されてはいないものの、背景にそうした確固たるゲーム世界を持つという意味でのゲーム小説なのである。
ところで、熱心な読者の中には、本書に先行して、雑誌で連載されていた「ロードス島戦記」はどうなったのか、気になる人もあると思うので、そのことにちょっと触《ふ》れておこう。
二年ほど前、ぼくをはじめとしてグループSNEには、まだ日本ではあまりなじみのないテーブルトークのRPGを紹介するという急務があった。そこで、〈ロードス島戦記〉の世界を最初、あるゲームのリプレイ(ゲームの実際のやり方を読みもの風《ふう》にする)という形で、コンプティーク(角川書店月刊誌)に掲載《けいさい》した。お断りしておくが、リプレイという形式自体は以前からあったとはいえ、それを読み物として楽しめるものにし、長編一冊分くらいの分量まで徹底して書き込んだというのは、RPGの本場アメリカでもいまだに存在していないはずである。幸いにして、この企画《きかく》はコンプティーク誌では、読者の方々から非常な好評をいただいたが、それをそのまま本にするのは、特定のゲームを使っているということで(版権面から)問題が生じてきた。だから、当面のところ、あの連載は雑誌掲載のみということになるだろう。
それはともかく、もともと〈ロードス島戦記〉は、特定のRPGのルールにはしばられない汎用RPGの世界なのである。そして、最初からストーリー志向の強いものだった。
だから、それがまずこのような小説の形をとっても何ら不思議《ふしぎ》はない。
作者の水野良は、〈ロードス島戦記〉の世界設定の中心(つまり、ゲームマスター)であるばかりか、SF・ファンタジーをはじめとして小説も大好きで、作家修業も積んでいる。〈ロードス島戦記〉は、最初ゲームとして始められたものの、彼は当初からストーリーを小説風シナリオとして綿密《めんみつ》に組み上げていた。リプレイにあれだけ人気が出たのも、もとはといえば、この骨太のストーリー部分のおかげだろう。その彼が原型をみずから小説化したのだから、本書はこれまでにないおもしろい作品になっているのはまちがいないと思う。(ぼくが原案ということになっているけれども、実際にはゲームやリプレイなどで、キャラクターを作り、いくつかの修正をしたくらいだ。中心になるのは、あくまで彼である)。
今後〈ロードス島戦記〉は、ゲームとしてもいろいろな形で発表されていくと思うが、まずRPGの中心となる世界の魅力《みりょく》を、この作品で感じていただけたらと願っている。
PS この本を手にする頃には、本書をもとにしたコンピュータ・ゲーム版『ロードス島戦記』が、ハミングバードソフトより発売されていることでしょう。機会があればぜひお楽しみ下さい。またテーブルトーク版のRPGも、より広い世界を含《ふく》んだ形で完成しているので、いずれ機会があったら、お見せできるでしょう。お楽しみに!
[#改ページ]
角川文庫発刊に際して
[#地付き]角川源義
第一次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある、角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい、多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。
一九四九年五月三日