ロードス島伝説 太陽の王子、月の姫
水野良==著
四頭の白馬に引かれた壮麗な馬車が、城門を通り、スカード王国の王城グレイン・ホールド≠フ中庭へと進んでくる。
馬車の前後は、四騎ずつ合計八騎の騎士により守られている。騎士たちは儀礼用の甲冑《かっちゅう》を身に着け、形も大きさも同じ、そろいの剣と楯《たて》を帯びていた。淡い緑色をした甲胄の胸には、炎と竜を意匠化した二分割紋章が描かれている。
モス公国の人間であれば、その紋章が|竜の炎=sドラゴンブレス》ハーケーン王国のものだと知っている。竜の紋章は竜《ドラゴン》の盟約≠ノ従っていることを現わし、炎はハーケーン王国の王家の紋章である。
普段は、ハーケーン王国の紋章だけが入った鎧《よろい》を着用しているはずだ。二分割紋章を使用しているのは、この馬車の一行が。竜の盟約≠ノ基づく正規の使者であることを示している。
北の隣国であり、スカード王国にとって盟主国に当たる竜の鱗<買Fノンから急使が到着したのは二日前のこと。急使は、ハーケーン王国の使節団がスカード王国へ向かっていると伝えた。
本来ならば、ハーケーンから先触れの使者があり、訪問国の意向を確かめてから、正規の使者が派遣されるはずである。先触れの使者を務めたのがヴェノンの騎士であり、スカードの返答を待たずに使節団を派遣するというのは、まったく前例のない出来事だった。
危急の事態でも発生したのか、とスカードの騎士たちは色めきたったが、竜の盟約にさえ加盟していない小国のスカードであれば、そのようなときに使者が差し向けられるはずもない。
ハーケーンにとっては、スカードなど「自治性の強いヴェノン領」程度の認識しかなかろう。
来訪の目的は分からないものの、大国ハーケーンの使者に対し、非礼を働くわけにはいかない。スカードの宮廷は歓迎の準備に追われ、この二日間というもの多忙を極めた。
馬車は中庭の中央まで進み、止まった。
護衛の騎士たちも馬から降り、王城の建物の入口に立つ三人の人間に、恭しく一礼をした。
三人とも、頭に冠を着けている。
スカード国王ブルークと王子ナシェル、そして王女のリィーナであった。
ブルークは、齢《よわい》四十を数える。長身で無駄な肉は一片もない。賢者のような雰囲気をまとっているが、武人として彼に勝る者は、モス広しといえども数えるほどしかいないだろう。
王子ナシェルは顔などにまだ幼さを残しているものの、身長ではすでに父を超えている。赤みがかった金髪は長く伸び、邪魔にならぬよう金属製の環でまとめている。そのせいか、どこかしら女性的な印象を受ける。
リィーナ王女は兄とは異なり、黒髪と黒い瞳《ひとみ》の持ち主だった。白い肌にその髪と瞳がひときわ冴《さ》え、まるで人形のような愛らしさをたたえていた。その瞳はいっぱいに見開かれ、興味深そうに馬車の一行を見つめている。
ハーケーンの騎士たちは馬車の扉を開け、スカードの王家の者に対したときより一段と深く頭を下げた。
ひとりの侍女に伴われ、馬車から高貴な身分と思われる女性が降り立った。薄紅色のドレスに身を包み、その額には略式の小冠を着けている。
「エランタ王女だ」
父王が左隣に控えている兄に声をかける。
「第三王女……でしたね」
兄が答えた。
「ハーケーンの王女様が、どうしてこの国へ?」
素朴な疑問を覚えて、リィーナは兄の袖《そで》を引いた。
「分からないよ」
ナシェルの答は、そっけなかった。
「兄様、ひどい」
リィーナは頬《ほお》を膨らませ、恨めしげに兄王子を見上げる。
スカードは、大国の姫が訪れて実りある国ではない。政治には疎いリィーナであっても、それぐらいは分かる。
この国の名産といえば、大地の妖精《ようせい》ドワーフ族との貿易品である上質の麦酒《エール》と、ドワーフ族からもたらされる武器、鎧、工芸品などである。
ドワーフ族との貿易を独占できるがゆえに、スカードは小国ではあるものの、その経済状態は豊かだ。盟主国であるヴェノンから、何かと理由をつけて金品の供出を求められるが、それに応じてもなお、国庫には豊富な財宝が蓄えられている。
だが、それが目当てということはあるまい。
護衛の騎士たちにエスコートされ、エランタ王女が進みでてきた。
「使節の来訪は聞いておりましたが、まさか姫君がお越しとは……」
父王が迎えて、王女の手を取ろうとした。
「スカードとの友好のためです」
エランタは笑顔で答えたが、父王の手を取ろうとしなかった。
その視線がリィーナの隣に立つ兄ナシェルに向けられる。
「こちらがお噂《うわさ》の……」
「王子のナシェルにございます」
父王が誇らしげにナシェルを紹介した。そして、兄に軽く目配せする。
心得たように、ナシェルはエランタ王女の前に歩み寄る。そして、王女の右手を取り、かるく口づけをした。
エランタの頬が、薔薇《ぱら》の花がほころぶように紅潮する。
「お疲れでございましょう。歓迎の宴《うたげ》まで、部屋のほうでお休みください」
ナシェルは王女の手を取って、城のなかヘエスコートしようとした。
「疲れてなどおりません。それより、滅多にない機会です。宴まで、お城のなかを案内していただきたいわ」
反対に、王女はナシェルの手を握って、まったく別の方向に歩こうとした。
あまりの強引さに、ナシェルは戸惑いの表情を浮かべる。
「案内なら、わたくしが!」
兄の困惑を見たリィーナは、思わず声をあげていた。
その声に、エランタ王女は、ゆっくりとリィーナを振り返る。
「御好意は嬉《うれ》しいけれど、ナシェル王子に御案内いただきたいと思います」
言葉遣いこそ丁寧だが、その視線は冷たかった。まるで粗相《そそう》をした侍女を咎《とが》めているような目つきである。
見下された、とリィーナは思った。激しい羞恥《しゅうち》に、顔が真っ赤になる。
エランタの笑い声が軽やかに響く。
王女はナシェルを引っ張るように、裏庭の薬草園の方へと歩きはじめた。
ハーケーンの騎士が続こうとするが、エランタは激しく手を振って、彼らを下がらせた。
「ナシェル王子は、公国中に聞こえた剣の使い手。護衛など、無用です!」
騎士たちは互いに顔を見合わせる。どうしたものか、と目で合図をしている。
結局、騎士たちは無言で引き下がった。
引《ひ》き攣《つ》ったような表憤が、彼らの内心を現わしていた。王女の言葉は、剣持つ者にとって、これ以上ない侮辱である。
エランタとナシェルは腕をからませながら去ってゆく。
リィーナにできることは、二人の後ろ姿を見送ることだけだった。
その瞳の奥には、リィーナ自身も気づかぬ感情が、炎となって燃えあがっていた。
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。
大陸の住人のなかには呪《のろ》われた島と呼ぶ者もいる。激しい戦乱がうちつづき、人間《ひと》を寄せつけぬ魔境が、各地に存在するがゆえ。
ロードス島の南西部は、急峻《きゅうしゅん》が連なる山岳地帯である。だが、ここにも人の営みはあり、国も栄えている。
王国の名前は、モスという。
だが、国王は存在しない。魔法文明で栄えた古代王国カストゥールの滅亡後、この地方には幾つもの小国が群立した。守るに易《やす》く攻めるに難しい土地がらのため、統一された王国が誕生しなかったのだ。
だが、近隣の地方では統一が進み、強大な王国が誕生してゆく。やがて、その軍事力はこの山岳地帯にも向くようになり、防衛のためにこの地の小国は同盟を結ばねばならなかった。
かくして調印されたのが竜の盟約≠ナある。
古来より、この山岳地帯には、最強の幻獣にして魔獣である竜《ドラゴン》が多数生息している。諸国をその肉体になぞらえることで、ひとつの国モスとして結束しようとしたのだ。
盟約に調印したモス諸国には竜の名が冠せられ、隣国からの侵略に対しては団結して、戦うことを誓いあった。
この誓いは守られ、モスは外敵からの侵略をはねのけてきた。
その一方で、この地方では内戦が絶えたことはない。自国の勢力を伸張させるため、飽くことのない闘争に明け暮れたからだ。ある王国の勢力が拡大しすぎると、自浄作用が働くように、他の国々が結束する。
それゆえ、小国の群立する状況は、現在に至っても変わっていない。
やがて、それぞれの国の支配者は王を名乗るようになり、諸国を統合するモス王国という名がそぐわなくなった。そこで、モス公国という呼び名にとってかわられた。
本来、公国は王国に比べ、小さな国に対する呼称である。それを敢《あ》えて逆に使うあたりに、モスという連合国家の実体の弱さと、諸国の独立性の強さがうかがいしれる。
だが、他国からの侵略があれば竜の盟約≠ヘ必ず発動される。たとえ、昨日まで剣を交えていようと、盟約が発動されれば楯を並べるようになるのだ。
他国から見れば、奇妙というしかない結束である。
それが、モスという地方なのだ。
そんなモス公国の南の端に、スカードという小国がある。
人口は一万あまり。王国を守護すべき騎士の数は百人にも満たない。竜の盟約にも加盟しておらず、北隣の大国竜の鱗<買Fノンを盟主国と仰ぎ、その保護下にある。
現王の名は、ブルーク。
ブルークには二人の子がいた。正妃とのあいだに生まれた兄王子ナシェルと、妾妃《しょうひ》が産んだ妹のリィーナ王女である。金髪の兄と黒髪の妹、姿こそ似ていないが、その兄妹の美しさはスカードの民の誇りでもある。
スカードの民は二人を太陽の王子、月の姫≠ニ呼んで讃《たた》えた。その賛辞は宮廷にも伝わり、騎士たちも使うようになっている。太陽の王子ナシェルは十五歳、月の姫リィーナは十三歳。無邪気でいられた子供の時代から、決別しなければならない年齢であった。
竜の炎ハーケーン王国の使者を歓迎する宴は、夕刻から始められた。
贅《ぜい》を尽くした食事が並べられ、ドワーフ族に輸出するため国内での飲料が禁じられている特上の麦酒《エール》の樽《たる》が運びこまれた。
楽曲が入り、道化が無言劇や奇術を披露する。
騎士や婦人たちは飲食に興じ、談笑をし、そして踊った。恋を語らうため、宴からそっと抜けだす男女も現われはじめる。
華やいだ空気が、宴の間には満ちていた。
だが、リィーナにはそんな宴の間の空気が息苦しく感じられていた。葡萄酒《ぷどうしゅ》の入ったグラスを片手に、石の壁に背を預けている。
冷たい感触が、純白のドレスを通して伝わってくる。
彼女の視線は、一組の男女にずっと向けられたままだった。
広間の中央で踊る主賓エランタ王女と兄ナシェルである。
エランタは、心の底から楽しんでいるように見える。ナシェルも微笑《ほほえ》みをたやさず、王女の要求に礼儀正しく応じている。
エランタが兄を専用の給仕のごとく使うのを見て、リィーナは内心では激しい憤りを感じていた。だが、それを表情に出すわけにはいかない。
王女に無礼な態度を取ることはハーケーン王国を侮辱することになり、最悪の場合、戦の口実にされるかもしれないのだ。そのときには、ヴェノン王国が受けて立つわけだが、落度がスカードにあったとなれば、莫大《ばくだい》な戦費を要求されるのは目に見えている。
悔しいが、我慢するしかない。
兄も同じ気持ちだと思う。だが、ナシェルの表情を見るかぎり、そんな気持ちはうかがいしれない。むしろ、大国の姫君の相手を務めることが嬉しいといったふうにも見える。
エランタ王女は十四歳、ナシェルよりひとつ年下である。
大国の姫らしく気品に満ち、容姿も美しい。年齢の割には胸も腰も豊かだ。彼女に憧《あこが》れる男たちは、ハーケーン国内にはいくらでもいるだろう。
もしかしたら、兄の態度は偽りではなく、本当に王女に心奪われたのかもしれない。
曲が三度変わったが、ナシェルとエランタは踊りつづけている。
王女の踊りはお世辞にもうまいとは言えないが、ナシェルの巧みな誘導で華やいで見えた。
「いつになったら、兄様と踊れるのかしら……」
退屈そうに、リィーナはため息をつく。
そのとき、
「リィーナ王女、よろしければ一曲、わたくしめのお相手を」
ハーケーンの騎士がひとり近づいてきて、リィーナを踊りに誘った。
騎士の顔を、リィーナはじっと見た。年齢は二十歳前後、この若さで王女の護衛に抜擢《ばってき》されているのだから、騎士のなかでも名門の生まれなのだろう。
すらりとした体格で、物腰も柔らかい。薄く髭《ひげ》を蓄え、自信に満ちた微笑を浮かべている。女性の扱いには、いかにも慣れていそうだ。その誠実そうな表情の向こうで、何を考えているのかは容易に想像できる。
スカードの騎士団長サイラスが、似たような人物だった。その騎士団長は、宴が始まっていくらもたたないうちに、広間から退出していた。彼の後を追うように、ひとりの伯爵夫人が姿を消している。
「遠慮いたします」
リィーナは、そっぽを向いた。
予想もしなかった反応に、自信に満ちていた騎士の微笑が凍りつく。
近くにいたスカードの騎士たちが失笑した。
屈辱に震えながら、ハーケーンの騎士は踵を返した。
「我が姫君は、最初に必ずナシェル王子と踊られる。王子と踊られぬうちは、他の男の相手は絶対にしないのだよ」
なみなみと麦酒《エール》が注がれたジョッキを片手に、ひとりのスカード騎士が歩み寄ってゆき、ハーケーン騎士に手渡した。
「ナシェル殿下も大変な妹君をもたれたものだな」
皮肉っぽく、ハーケーン騎士は応じる。
「まあ、そう言うな。リィーナ姫にとって、ナシェル様が兄であられたのが最大の悲劇なのだ。王子に勝る人物は、そうそういるものではない。貴国の姫君も、はや夢中でおられるだろう」
ハーケーン騎士は面白くなさそうに、鼻を鳴らした。
「小国の王子に生まれては、いかに器量が優れていても、埋没するだけだろうに」
「そのとおりだ」
スカード騎士は答えた。彼の言葉は真実だから、別に侮辱されたとも感じない。
「だが、スカードは平和な王国だ。その平和を王子が支え、王子もその平和に安住できる。血《ち》生臭《なまぐさ》い闘争と無縁でいられることを、王子のために、わたしは心からお喜びもうしあげているのだよ。もっとも、大国の騎士である貴卿には、その価値は分かるまいがな」
薄気味悪そうな表情を浮かべて、ハーケーンの騎士は食事が並ベられたテーブルの方へと去っていった。
そのとき、曲が終わった。
踊り疲れた男女が飲みものを求めて広間の中央から離れ、踊りの列に新たに加わろうとする者たちと入れ替わってゆく。
エランタ王女とナシェル王子も、リィーナのいる方向へ歩いてくる。
エランタ王女は全身に汗をかいており、荒い息をしている。だが、ナシェルのほうは、まったく普段のままだ。剣術をはじめ馬術や水練などで、兄は身体《からだ》を鍛えているから、何曲踊ろうと平気なはずだ。
ようやく、兄と踊ることができる。
ドレスの裾《すそ》をつまみながら、リィーナは兄のもとへ急ぎ足で向かった。
「踊ってくださいませ、兄様」
そして、勢いこんで言う。
ナシェルの右手は、エランタの背中にまわされている。空いているほうの左手を、リィーナは強引に取ろうとした。すると、
「ナシェル様は、お疲れですわ。お相手なら、他をお捜しくださいませ」
エランタがたしなめるように言った。
(兄様は疲れてなんかいないわ)
心のなかで抗議の叫びをあげるが、もちろん、声に出せるはずもない。訴えるように、リィーナはナシェルを見つめた。
「姫君の言うとおりに」
ナシェルは小声で言った。そして、目配せで、何事かを伝えようとする。
その意味が分からず、リィーナは立ち竦《すく》んだまま目をしばたたかせた。
「父上が怒っておいでだよ」
リィーナの耳元に口を寄せ、ナシェルは言った。
あわてて、リィーナは父王の方を振り返った。
父ブルークも、リィーナを見つめていた。その表情が厳しい。
(また、あの表情……)
リィーナは、深い哀《かな》しみを覚えた。
不出来な麦酒《エール》を飲んだときに見せる表情であった。リィーナを叱《レか》るとき、父はいつもそんな表情になる。兄ナシェルに対しては、一度も見せたことはない。
「踊りのお相手なら、我が騎士団の者に務めさせますわ」
エランタの勝ち誇ったような笑いが、リィーナを打ちのめした。兄を独占できるのが楽しくてしかたないという笑いだった。
(ナシェル王子は、わたしのものよ)
そう言っているように、リィーナには思えた。
怒りと恥辱とで、顔の色が赤を通りこして青くなる。
「リィーナ姫……」
その顔色を見たスカードの騎士のひとりが、心配そうに寄ってきた。
「気分が優れないの。退席します」
これ以上、宴の間にいれば、窒息してしまうと思えた。走り去るように、広間の入口まで行く。振り向けば、兄ナシェルは、エランタ王女と談笑しており、リィーナのことなどもはや気にも止めていない様子だった。そして、父はあからさまに安堵《あんど》の表情を浮かべ、ハーケーンの騎士と何やら話しこんでいる。
(誰も、わたしなんて必要としていない)
絶望にも似た思いであった。
小走りに廊下を進み、中庭へと出る。
月明かりに照らしだされ、戸外は思ったよりも明るかった。
リィーナは、馬小屋を目指した。
誰も必要としていないなら、この城にいてもしかたない。
そんな思いが、リィーナの心を支配していた。
馬小屋に着くと、一頭の馬の馬房の前に立つ。兄が、もっとも気に入っている栗毛の馬だ。
鞍を置き、その背に跨《また》がる。
そのまま、馬小屋から出た。王城の中庭から、裏門を目指して馬首を巡らせる。
馬の腹を蹴《け》り、鞭《むち》まで入れた。疾風《しっぷう》のごとく馬は走りはじめる。どこからか、狼《おおかみ》の遠吠《とおぼ》えが聞こえてきた。
宴の間に城門の門番を務める衛兵が駆けこんできたのは、それから数刻の後だ。
門番は、あわただしくブルーク王の許《もと》ヘ走り、何事かを耳打ちした。
それを聞いたとき、ブルークの眉《まゆ》はぴくりと引き攣り、何かを言いたげに口も動いた。
「いかがいたしましょう?」
衛兵がたずねた。
ブルークは宴の間の様子を見回して、憂鬱《ゆううつ》そうに首を横に振る。
「放っておけ」
言い捨てるように、ブルークは衛兵から背を向けた。
「あれの母親も、身勝手な女であった」
夜の森は、安らかな静寂に満ちていた。
天頂で輝く満月の明かりは木々の梢《こずえ》で遮られ、地面まで届くのはほんのわずか。注意深く馬を進めないと、木の根につまずいてしまいそうだ。
昂《たか》ぶった感情から冷めると、孤独と空虚感とが心を満たした。
愚かなことをした、と思う。
だが、エランタ王女の見下したような態度には我慢できなかったのだ。兄を奪い、独占しようとする。そんな王女に兄は媚《こ》びているかのような笑顔を見せるだけ。
そのとき、夜風が吹き抜けた。風に流された黒髪が、そっと頬を撫《な》でる。
手綱から片手を放し、その髪を手に取った。
「なぜ、わたしは兄様と違うのだろう。兄様の髪は、まるで黄金《こがね》のように光り輝いているのに。わたしの髪ときたら、まるで鴉《からす》の羽根のよう。兄様の瞳は澄んだ泉の水の色なのに、わたしのは井戸の底で澱《よど》む水の色」
リィーナは、自分を産んだ母親が嫌いだった。身分も卑しく、ナシェルの母である正妃に対し、いつも嫉妬《しっと》の炎を燃やしていた。だが、王妃は母に対しても寛容で、リィーナのことも実の子供のように愛してくれた。
王妃が亡くなったとき、母が毒を盛ったという噂さえ流れた。
薬草師のタトゥスが、その噂を否定しなかったら、母は罰せられていたかもしれない。だが、そのほうがむしろよかった。
その後の母の振る舞いようは、娘の目から見ても耐えられなかった。
高価な品物を買い求め、生まれの卑しさを隠すように身を飾りたてた。王妃付きだった侍女たちを徹底的に苛《いじ》め、そのうちの一人は王城の窓から身投げさえした。
その母が流行《はや》り病で亡くなったとき、リィーナは哀しいどころか、ほっとしたものだ。
それほど母が嫌いだった。そして、母親から受け継いだ自分の髪も瞳も、すべてが嫌いだった。
太陽の王子と月の姫、騎士たちがそう呼んでいるのをリィーナは知っている。
父ブルークは、その呼び名を気に入っているらしいが、騎士たちは兄ナシェルと比較して自分のことを蔑《さげす》んでいるのだ。身分の卑しい母が産んだ不肖の娘だ、と思っているのだ。
月は、夜にならなければ輝かない。
太陽の光のもとでは、月の光など飲みこまれ、存在しないも同様なのだ。
どうせなら、父も違えばよかったのに。
そうも思う。
そうすれば、兄と一緒になることもできたのだ。
父王ブルークは竜の鱗<買Fノン王国の王子と自分との婚姻を望んでいる。スカードの盟主国であるヴェノンとの結びつきを深めるために、だ。
これまで、兄はいつもそばにいた。
だが、そんな日は二度とこないと思われた。
兄の許には、やがて大国の姫君が嫁いでくるだろう。それは、エランタ王女かもしれない。
「兄様……」
涙が、こぼれた。
もっとも大切なものが、涙と一緒に心のなかから流れ落ちた気がした。
そのときだった。
狼の遠吠えが、響いた。
そう遠くない場所である。
獣の咆哮《ほうこう》に驚き、リィーナを乗せた馬が激しく暴れだした。
リィーナは手綱を操り、何とか馬を鎮めようとする。
だが、できなかった。
馬が前脚を高くあげた拍子に、リィーナは馬から投げだされた。地面に転げ落ち、木の幹で強《したた》かに背中を打った。
ドレスの布地が、裂ける音がした。
息の詰まるような痛みに、リィーナは喘《あえ》いだ。
いななきながら、馬は街道の方へ走り去る。
痛みは次第に治まってきたが、動く気力は完全になくなっていた。
誰も、そばにいない。
このまま、死んでしまうかもしれない。そうも思えた。
「わたしがいなくなっても、誰も哀しむ者なんていないのだわ……」
リィーナは哀しみにうちひしがれつつ、夜空を見上げた。
厚い雲の陰になり、月もいつのまにか、その姿を消していた。
夜は更けたが、宴は続いていた。
だが、ブルーク王はすでに退席しており、上級騎士たちの多くも館への帰路についている。宴の間に残っているのは、比較的、若い騎士と婦人たちである。今宵《こよい》一夜だけの恋を探そうとしているのかもしれない。
ナシェルとエランタ王女も、まだその姿があった。もっとも、今はベランダに出て、酒と踊りで火照《ほて》った体を涼ませている。
お休みになられてはいかがかと、ナシェルは何度か勧めたのだが、王女はまったく言うことを聞かなかった。
(我《わ》が儘《まま》な御方だ)
ナシェルは、うんざりしていた。
だが、彼女は大切な国賓であり、いささかも無礼があってはならない。
父王からも、そう念を押されている。
エランタ王女の来訪の目的が、どうやら自分だということに、ナシェルは気づいていた。
王女は親書などを携えてはいなかったし、父と会談する気もないようだった。王女はおそらく、ヴェノン王国への使者だったのだ。そして、ハーケーンヘの帰路、マスケトの街から南に下り、このスカードヘ立ち寄った。自分に会うため、だ。何かの噂を聞いて、自分に興味を覚えたのだろう。
護衛の騎士たちにとっては、迷惑きわまりない話である。もっとも、彼らにしてみれば、スカード産の麦酒《エール》が飲めるというのは、魅力的な誘いだっただろうが。
いずれにせよ、そう長い間、寄り道をしているわけにもゆくまい。二、三日もすれば、エランタたちはハーケーンヘの帰路につくだろう。
それまでは、この王女の相手を務めるしかない。それが一日でも早いことを、ナシェルは心のなかで願っていた。
そのとき、夜風が吹いた。
「身体が冷えます。中へ入りましょう」
「そうですわね」
王女は、うっとりとした顔で答えた。
「素敵な一日でしたわ。ナシェル王子は噂どおりの、いえ噂以上の御方でしたもの。許されるなら、このままスカードに嫁ぎたいくらい……」
「恐縮です」
ナシェルがそう答えたとき、王女がいっぱいに背伸びして、ナシェルの耳元に口を寄せてきた。
「わたしのお部屋へ参りませんこと?」
恥じらいをこめて、エランタは言った。
何を言うのか、とナシェルは王女の顔を見つめた。ハーケーンの王は、この王女にどんな教育をしてきたのだろう。
妹のリィーナも我が儘なのは同じだが、この大国の姫君ほどではない。
どう返事をすべきか、とナシェルは迷った。宮廷儀礼はすべて修めてはいるが、このような申し出に対してどのように返事をするかは、教わっていない。
素直に断わろうと、ナシェルが口を開きかけたときである。
城の裏門から、一頭の馬が駆けこんでくるのが見えた。
空馬だった。
門番がその前に立ちはだかり、気を荒くしている馬の手綱を捕まえようとしている。
「何があったんだ?」
エランタ姫を押しやって、ナシェルはベランダから身を乗り出した。王女が不満そうな声をあげるのも聞き流す。
(わたしの馬……)
ナシェルは、はっとなった。
宴の間から、リィーナの姿が消えていたことを思い出した。部屋に帰ったのだろう、と勝手に思っていたのだが、もしかすると……
「エランタ姫、御無礼をいたします!」
ナシェルはベランダの階段を駆け降りる。
悪い予感がした。
その予感が当たらぬことを、ナシェルは心の底から思った。
緑色の光がふたつ、揺れながら近づいてくる。
木の幹に背中を預けたまま、リィーナは魅入られたように、その光を見つめていた。
闇《やみ》の向こうから、影がひとつ迫ってくる。
唸《うな》り声が聞こえた。
そのとき、雲に隠れていた月が姿を現わし、森の中に銀色の光を投げかけた。
月明かりに照らされて、浮かびあがったのは狼の姿だった。
群から追いだされた一匹狼なのだろう。空腹を抱えているようで、口から糸のように涎《よだれ》を垂らしている。
狼は、ひくく吠えた。
ゆっくりとした足取りで、リィーナとの距離を詰めてくる。
喉《のど》が詰まったようで、声もたてられなかった。
全身ががたがた震え、冷たい汗が流れた。
恐怖のために脳が焼き切れたようで、逃げようとする気持ちさえ起こらない。
殺される、と思った。
鋭い牙《きば》で腹を噛《か》み破られ、内臓を喰《く》いちぎられる。生きたまま喰われる感触は、どんなものだろうか。
助けを求めようと、リィーナは口を開いた。
だが、声を出すこともできなかった。
もっともそれでいいのかもしれない。叫び声をあげれば、それが合図で襲いかかってくることも考えられた。
狼は五歩のところまで近寄ったが、それ以上、距離を縮めようとはしなかった。
隙《すき》をうかがうように、同じ場所を行ったり来たりしている。
狼は賢い動物だ。人間が手ごわい相手であることを知っている。鋭い鉄を帯びていて、それで傷つけることを知っているのだ。
人間が獲物には、向いていないことを、思い出させてやらねばならない。
リィーナは精一杯の虚勢を張って、狼を睨《にら》みつけた。
狼は半歩ほど後ろに下がり、ふたたび左右に歩きはじめる。気が狂いそうだった。いずれ我慢しきれなくなって、声が洩《も》れてしまう。狼はまったく去ろうとする気配は見せない。
よほど空腹なのか、その目が血走っているようにも見えた。
(もうだめ……)
睨みつける気力が、失われていった。
意識が遠くなってくる。このまま気を失えば、どんなに楽だろう。
意識がないあいだに殺されるなら、それもいいかと思う。
そう思ったのが、いけなかった。
無意識に、リィーナは悲鳴をあげていた。
いったん声が出てしまうと、もはや、とどめようがなくなった。
リィーナの悲鳴に合わせるように、狼が長く吠えた。
狼の体勢が、深く沈みこむ。
そして、跳んだ。牙が迫ってくる。
そのときだった。
リィーナの目の前に白い影が現われ、狼とのあいだを塞《ふさ》いだ。
「逃げるんだ!」
叱咤《しった》の声が飛んだ。
「ナシェル兄様!」
その声は間違いなく兄ナシェルのものだった。
助けに来てくれたのだ。
深い安堵感に包まれた。
それで、限界がきた。
目の前が真っ暗になり、糸が切れたように意識が途切れた。
「……リィーナ」
暗闇の向こうから、自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
誰かが、身体を揺すっている。
意識が戻って、リィーナは憂鬱そうに目を開いた。
目の前に、兄ナシェルの端正な顔があった。
髪は乱れ、額から血を滴らせている。その滴りが、リィーナのドレスに染みをつくっていた。
「兄様……」
リィーナは、兄の傷に手を伸ばしかけた。
よく見れば、兄は全身に傷を負っている。立っているのも辛いのではなかろうか。
「怪我《けが》はないか?」
そうたずねてくる兄の目に、冷たい光が宿っていた。
リィーナの手の動きが、止まった。
兄の目は、父王が向ける視線に似ているように思えた。
深い怒りと蔑みが入り交じったような視線。
(なぜ、助けにきたの?)
そう問いかけようとしたが、かろうじてリィーナはその言葉を飲みこんだ。
エランタ王女にお愛想をしていればいいではないか。自分など、どうせ不要なのだから、放っておけばよかったのだ。そうすれば、狼が片をつけてくれた。
その狼はナシェルの後ろで、冷たい骸《むくろ》になっていた。
兄は短剣すら帯びていない。
素手で、狼を倒したのだ。兄の剣術師範を務める傭兵《ようへい》隊長ベルドは格闘術にも秀でており、兄はその教授も受けている。
だが、これほどとは思いもしなかった。並の人間では、狼相手に素手で勝てるはずがない。
兄と自分が違う人間だということを思い知らされた。
どんなに近くにいても、兄との間には無限の距離があるのだ。兄が自分だけのものであった日々は、もう戻ってこない。
「怪我は、ないか?」
兄が、同じ質問を繰り返した。
「足を挫《くじ》いて、動けないわ……」
リィーナは答えた。
自分の言葉に、驚いていた。思ってもいなかった言葉だった。
兄を困らせたい、という気持ちが形になって、口をついたのだ。
そうすることで、兄が自分を振り向いてくれると思えた。いや、そうしないと、振り向いてくれないと思えたのだ。
ナシェルは無言でうなずき、後ろを向いて、腰を屈《カカ》めた。
兄の首にリィーナは手を回し、その背中に身を預ける。
リィーナを背負って、兄は立ち上がった。
兄の血の臭《にお》いが鼻をついた。手にも、濡れたような感触がある。思った以上に、怪我はひどいようだった。
だが、兄ナシェルは苦痛など感じていないかのように、しっかりした足取りで王城への道を戻りはじめる。
「兄様?」
思い迷ったあげく、リィーナは声をかけた。
謝ろう、と思った。そして、自分の足で歩けることを告げようと。
だが、兄からの返事はなかった。
(怒ってらっしゃるのだわ)
絶望にも似た哀しみが、リィーナの心を微塵《みじん》に砕いた。
(もう兄は一生、わたしを許してはくださらないだろう。優しい笑顔を向けてはくれないだろう)
それも当然だろう、と思った。
すべて自分の責任なのだ。兄は傷つき、エランタ王女は、ひどく気分を害したことだろう。
どうすれば、償うことができるのか。
リィーナは、自問した。
危険も顧みることなく、兄ナシェルは自分を救ってくれた。
それに応《こた》えるには、やはり自分の命をかけるしかないだろう。
この兄のために、命を捧げなければならないとしたら、喜んで自分はそうしよう。
リィーナは、心に誓った。
そうすれば、兄も自分を許してくれるだろう。自分のことを一生、忘れないでくれるだろう。
そして兄の心のなかで、自分は生き続けることができるのだ。
そのときこそ、兄はふたたび自分のものになる。
その日から数えて半年後、リィーナの誓いは果たされることになる。
そして、悪魔《デーモン》がロードスに解き放たれるのだ。
血の絆
1
ロードスという名の島がある。
アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。大陸の住人のなかには、呪《のろ》われた島と呼ぶ者もいる。
人間《ひと》を寄せつけぬ魔境が各地に存在し、忌むべき戦いが打ち続くゆえに。
そんなロードスの南西部は、モスと呼ばれる山岳地帯である。比較的小さな王国が群立しており、何百年ものあいだ勢力拡張のための争いがつづいてきた。しかしながら、守るに易《やす》く、攻めるに難しい土地がらゆえ、この地方を統一する王国は現在に至っても現れていない。
それゆえ、戦乱は続いている。
もっとも、ここ十年あまりは大きな戦は起こっていない。だが、モス地方に住むすべての人々は、この平和がかりそめ[#「かりそめ」に傍点]のものであることを承知している。
そんなモス地方の南端に、スカードと呼ばれる王国がある。人口は、およそ一万。王国を守護する騎士の数は、見習いを含めても、百人に満たない。騎士たちのほとんどは、由緒も謂《い》われもない農民の出で、領地に戻れば葡萄《ぶどう》や麦の栽培を自ら手掛けたりする。
そんなスカード王国の現在の王は、名をブルークといった――
「魔神の軍団だと?」
スカード王ブルークは、驚きと疑いの入り交じった目で、正面に立つ魔術師の顔を覗《のぞ》きこんだ。無造作に肩まで伸びた魔術師の髪は、手入れがよくないので、先端のほうがざんばらになっている。身に着けている白色の長衣《ローブ》も、ここ数日、着替えた気配もなく、染みや汚れが目立っている。
いかにも魔術師らしく、世間のことには無頓着《むとんちゃく》なのだ。もっとも、他国から賓客が来るときは、ブルーク自身が驚くほど、身だしなみを整えて出仕してくる。
「さようです」
魔術師は、静かに答えた。
三十を過ぎたばかりのはずだが、見かけよりも十歳ほどは年老いているように思える。
魔術師の名前は、ウォート。
荒野の賢者≠フ別名は、ロードス全土に鳴り響いている。昨年、ブルーク自身がルノアナ湖畔に建つ彼の居館へと足を運び、宮廷魔術師としてスカードに招き入れた。
もっとも、彼には宮廷魔術師の職務よりも、もっと大切な仕事を委ねている。息子ナシェルの教育である。
民衆から太陽の王子と謳《うた》われ、慕われているナシェルには、もうひとり教育係がいる。武術全般を師範する赤髪の傭兵<xルドである。
彼もまた、ロードス中にその名の知れた傭兵だった。彼を雇うための値段は、並の傭兵なら百人は雇えるほど。だが、ベルドの武術の力量は、それでも安いとさえ思える。彼がその気になれば、小さな国のひとつくらいなら、楽々、征服できよう。それをしないのは、国を統治するのが面倒だからだそうだ。
かくも高名な二人を教師に迎えたくなるほど、ナシェルは傑出した少年だった。
親の欲目で見ているわけではない。ブルークは、己の観察眼の確かさには自信を持っている。もっとも、相手が女性でなければ、だが……
女性に対しては、その能力や人柄よりも肢体の美しさや容姿の美しさのほうに、どうしようもなく惹《ひ》かれてしまう。
ただし、ナシェルの母親となった女性、エリザに出会ったときだけは、例外だった。彼女が美しい女性でなかったわけではない。それどころか、それまでにブルークが出会ったどの女性より、彼女は美しかった。その肉体も、豊かとはいえないものの均整が取れていた。
ただ、それらの美徳がどうでもよいと思えるほど、彼女は知的であり、聡明《そうめい》だった。ブルークはそれに心、奪われた。
エリザはモスの国々のなかで大国に属する|竜の目=sドラゴンアイ》ハイランドの王女だった。竜の名称すら戴《いただ》けぬ小国の王子であったブルークとは身分違いだったが、時のハイランド王は、ブルークからの結婚の申し出を受け入れてくれた。
そんなエリザとのあいだに生まれた子供がナシェルだ。ナシェルの優秀さは、母親が彼女ならばこそだろう。
若き日、ブルークは己のことをモスの国々の盟主たる公王に相応《ふさわ》しい器と思い込んでいたが、ナシェルが育ってゆくのを見て、それが愚かな妄想であったと思い知らされた。
自分には、ただ小才《こさい》があるにすぎない。英雄とはほど遠い人間だ。赤髪の傭兵ベルドや目の前にいる荒野の賢者ウォートこそ、そう呼ばれるに相応しい人物だ。かくも偉大なこのふたりが、ナシェルの教育係を引き受けてくれたのは、自分の目に曇りがなかったことの証《あかし》であろう。
惜しむらくはナシェルが、小国がひしめくモスにあって、そのなかでも更に小さな王国の王子として生まれたことだ。こんな国に生まれてしまっては、どのような大器であれ、陽の当たる舞台には出られぬまま、埋もれ、朽ちてしまうしかない。
若き日に自分がかみしめた悔恨を、ナシェルには味わってほしくない。そのため、ブルークは残る人生を賭《か》けるつもりでいる。
戦乱に明け暮れるモスを統一し、近隣の大国をも領土に組みこむ。最後には千年王国アラニア、暗黒の島マーモまでをも版図に収め、このロードスに剣の時代が幕を開けてのち初めて統一王国を樹立させるのだ。
だが、そのためには強大な軍事力がいる。
そのことを愚痴るかのごとく訴えたとき、宮廷魔術師ウォートから返ってきたのが、先刻の言葉であった。
魔神の軍団である。
石の王国≠ニ呼ばれる南のドワーフ族が集落を営む地下道を抜け、更に南に下った場所に五百年ほどまえに滅びた古代王国の遺跡があり、古代に召喚された異界の住人が、封印されているというのだ。
異界の住人の名は、魔神。肉体において人間を遥《はる》かに超越し、人間にはない多種多様な特殊能力と恐るべき魔力を操る闇《やみ》の者どもだ。その軍団は、ロードス全土の騎士団を合わせたよりも強力だという。それが、真実ならば……
「魔神の軍団を率いれば、このロードスなど容易《たやす》く征服できるということか?」
ブルークは、素直な疑問をぶつけてみた。
「できるでしょうな」
ウォートは、無関心そうにうなずく。
「もっとも、そのような手段でロードスを統一したとしても、長く王国を維持することはできないでしょう。ただ邪悪な異界の魔物を使ったという汚名だけが歴史に残ることになる。ナシェル王子に、そのような不名誉きわまりない王座を譲られるつもりですか?」
「それは……」
ブルークは、返事に窮した。
たとえば、名誉ある王座であっても、王国が小さかったならば、いったい誰が讃《たた》えよう。反対に、血塗られた王座であれ、それが大国であれば、巨大な権力を手中にできるではないか。
だが、ナシェルには英雄王として歴史に名を残してほしい。王子は、それに相応しい千年にひとりの英雄なのだから。
「そもそも、魔神の軍団を従えるためには、魔神の王を封印から解き放ち、支配下におかねばなりません。他の魔神どもは、魔神王に従属しているため、解放者は全魔神を支配することになります。ただし、そのためには、いくつもの障害があります。迷宮に仕掛けられた数々の罠《わな》、迷宮を守護する魔法生物たちを突破しなければなりません。そして、生贄《いけにえ》をひとり必要とします」
「生贄か?」
「それも、ただの生贄ではいけません」
「純潔を守る乙女《おとめ》とか、か?」
ブルークが投げかけた皮肉っぽい問いかけに、ウォートは苦笑まじりにうなずいた。
「古代王国の魔術師も、暗黒神の司祭と同様、生贄には純潔の娘を多く用います。処女の娘は、生命の起源に、もっとも近い存在だからだそうですが、わたしの研究したところでは、あまり重要な要素とは思えませんね。むしろ儀式的な装飾という気がします。自然崇拝が行なわれていた暗黒時代の名残ではないかと……」
「魔法の講釈など、わたしには不要だ」
ブルークはウォートの話が逸《そ》れかけているのを咎《とが》め、魔神の話を続けるよう促した。
「魔神王を解放するために用いる生贄は、解放者と血縁がなければならないのですよ。魔神王は、肉体というものを持たず、不滅の魂のみの存在なのです」
「神々と同じ、ということか……」
その言葉で、魔神王の恐ろしさが実感できた。
神々は太古の昔に、光と闇の陣営に分かれて戦い、その肉体を失い、魂だけの存在となった。
神々の魂は不滅であったが、肉体が滅びたゆえに、この世界に介入する手段がなくなった。だが、行使できなくなっただけで、神々の力ははかりしれないほど巨大だ。最高位の司祭は、自らの肉体に神を降臨させることで、神の力を発動させる。そのときの力たるや、人間の想像を絶するものがある。
魔神王は、神に匹敵する力を持っているのだろう。あるいは、邪神そのものかもしれない。
「あなたの血縁者で、純潔の乙女を生贄に捧げることができますか?」
そう問いかけるウォートの声には、からかうような響きがあった。
ウォートが指摘する条件を満たす者は、この世にひとりしかいない。ナシェルとは腹違いの妹にあたる月の姫<潟Bーナである。ナシェルよりふたつ年少で、今年で十四歳になる少女だ。
昨年、初潮を迎え、ようやく女性らしい身体《からだ》つきになってきたとはいえ、精神はまだまだ子供で、その我《わ》が儘《まま》ぶりにはときどきうんざりさせられる。
母親に似たのだろう。
妾妃《しょうひ》であったリィーナの母の名は、ナターシャ。元は旅芸人の踊り子で、自由奔放な性格の持ち主だった。漆黒の髪と瞳、そして豊満で柔軟な肉体の持ち主で、寝床で男を喜ばせる技のすべてを知っていた。
それだけに、ナターシャは淫蕩《いんとう》な性格だった。もっとも、その点も気に入って、ブルークは彼女を妾妃に迎えたのだが……
正妃であるエリザが存命のあいだ、ナターシャは比較的、おとなしかった。ナターシャはエリザを憎んでいたのだろうが、同時に畏《おそ》れてもいたようだ。
その後、エリザが病で亡くなると、ナターシャの悪癖が現れはじめた。あたかも女帝のごとく振る舞い、人々の憎しみを買ったのである。正妃つきだった侍女を自殺に追いやり、高価な宝石、服飾を飽くことなく買い求めた。そして、ついに越えてはならぬ一線を越えた。使用人のひとりと、情を通じたのである。
ここに至って、ブルークは決意した。
彼女が軽い病を得たとき、宮廷つきの薬草師タトゥスに命じて、毒薬を調合させたのだ。事情を知らぬ者には、病が悪化して死んだように見えたはずだ。
もっとも、本人だけは毒を盛られたことに気づいていたようだ。
彼女の最期の言葉は、ブルークの耳に焼きついて今も離れない。
「お恨みいたします。スカード王国と王家に、呪いが降りかからんことを……」
王女リィーナは髪や瞳の色を、母親から受け継いでいる。成熟すれば、リィーナも母親のようになるのかもしれない。
王族の姫として、それはそれで大切な資質だ。いつかは政略結婚で、他国の王族に嫁いでゆくことになるのだから。結婚相手を虜《とりこ》にできるかできないかは、重要な問題である。
ただ、今はまだ、娘を嫁がせようとは考えていない。彼女がもっと精神的に成長してからでいいと思っている。それに、自ら好きな相手を見つけてくるかもしれない。その相手との結婚に、政略的な意味があれば、ブルークは喜んで認めるつもりだ。嫌がる結婚を無理強いして、娘を哀《かな》しませるつもりはない。
リィーナは誤解しているだろうが、ブルークは彼女を愛している。溺愛《できあい》しているといってもいい。ただ、国王という立場上、態度にあらわせないだけである。心の内を見透かされないために、かえって厳しくあたってしまうことが多い。
だが、この宮廷魔術師には、ブルークの心などお見通しのようだ。憤然たる思いで、ブルークは壁際に寄せられていた長椅《ながいす》子に身体を投げだした。
「魔神王のごとき存在は、いつまでも支配しつづけることなどできません。やがては暴走し、このロードスに災厄をふりまくことになります」
「だろうな……」
それは、納得できた。
魔神王を解放した者が死ねば、それだけで魔神は血の束縛から自由になる。ならばこそ、古代王国の魔術師も、魔神王を地下深い迷宮に封印していたのだろう。
「最近の動静を見るかぎり、この地方は早晩、乱れます。また、そうでなくてはなりません。最初の目標はモスの統一、それからライデンを盟主とする自治都市群を従属させ、火竜の狩猟場、風と炎の砂漠の小部族と平らげてゆけばいいのです」
「簡単に言うものだな」
皮肉っぽく、ブルークは言い放った。
ウォートは平然とその言葉を受け止めた。そして、言った。
「簡単なことです」
そのために自分を招聘《しようへい》したのだろう、とでも言いたげに、ウォートはブルークを見下ろした。
その通りだった。
ブルークは、苦笑いを浮かべた。
「頼んだぞ、軍師殿」
「おまかせください。ただ、あわてて事を成そうとすれば、仕損じることになります。ゆっくりと準備し、慎重に事を運んでゆかねばなりません。ナシェル王子はまだまだ若い。そのための時間はたっぷりあるのです」
ウォートの表情は、自信に満ちていた。
この宮廷魔術師の夢は、ロードスの統一王となったナシェルの傍らで、権力を振るうことにある。この一点で、ブルークとは利害が一致している。荒野の賢者はただの宮廷魔術師ではなく、ブルークにとって盟友ともいうべき人物だった。ならばこそ、このような謀議を交わすことができる。
だが――
(時間はたっぷりあるか……)
ブルークは心のなかで、つぶやいた。
心の声ばかりは、いかな盟友にも聞かれるわけにはいかない。
ブルークは、ウォートに下がるように命じた。
恭しく一礼して、ウォートは部屋を辞してゆく。
重たげな音をたてて、部屋の扉が閉じられる。
「ナシェルには確かに時間がある。だが、この儂《わし》には……」
宮廷魔術師のウォートが去って、音がした。しばらくすると部屋の扉を叩《たた》く音がした。
誰か、と声をかけると、
「薬草師のタトゥスでございます。薬湯をお持ちしました」
と、返事がかえってきた。
「入れ」
促されて、四十前後の太った男が部屋に入ってきた。もっとも、たるんだ感じはなく、骨と肉とががっしり詰まっているとの印象を受ける。
タトゥスは、幼少の頃に先代の薬草師に弟子入りしてから、ずっとスカードの宮廷に仕えている。身分としては騎士ではないが、ブルークの彼に対する信頼は、上級騎士ヘのそれよりも遥かに厚い。
薬草師としては、おそらく、ロードスでも屈指であろう。スカードが宮廷つきの司祭を置いていないのは、生半可な司祭よりも、彼が調合する薬草のほうが効果的だからである。
魔法でこそないが、ドワーフの細工物と同様、それに準じる効能を有しているのだ。
タトゥスの右手には、銀製の酒杯が握られていた。そこから、淡く白い湯気が立ち上っている。
ブルークは手を伸ばして、タトゥスから薬湯を受け取った。そして、苦味のあるどろりとした液体を、息を止めて飲みほす。
「もっと、飲みやすいように調合できんものか?」
長椅子の腕《アーム》のところへ、空になった銀杯を置くと、ブルークは窓際に配されている机のところまで歩いた。そのうえに置かれてあった水差しを手に取ると、グラスに注ぎなおそうともせず、直接、口をつけて喉《のど》の奥に水を流しこんだ。
この男が調合する薬は、わざとそうしているとしか思えないほど、ひどく不味《まず》いのだ。
「お口を開けていただけますか?」
水を飲み終えるのを待って、タトゥスがそばにやってきた。
ブルークはうなずき、手近にあった椅子に腰を下ろすと、窓に向かって大きく口を開ける。窓から差し込む光で、喉の奥が照らされるように。
そこに、異物感を感じるようになったのは、半年ほど前のことだ。喉でも痛めたのだろう、とブルークは勝手に思っていたが、その異物感は次第に大きくなっていった。
大事はあるまい、と気軽な気持ちで、タトゥスに診てもらうと、滅多なことでは動じないこの薬草師の顔色が一変した。
「この腫《は》れ物は、命にかかわるものです」
タトゥスは額に汗を浮かべながら、そう言った。
「治るのか?」
ブルークは、それだけを聞いた。
タトゥスは、ゆっくりと首を振った。
「強い薬を使えば、腫れが大きくなるのを防ぐことはできます。しかし、治すことはできません。神の奇跡にすがるしかないでしょう」
司祭を呼べ、とタトゥスは言外に言ったのだ。高徳の司祭ならば、神聖魔法とも呼ばれる神の奇跡を頼み、いかなる病であれ癒《いや》すことができる。
それには答えず、
「何年、保《も》つ?」
とだけ、ブルークは問い返した。
「薬を飲みつづければ、五、六年は保ちましょう。強い薬ゆえ、それ以上は内臓のほうが保ちません」
「……薬を調合してくれ」
ブルークは、タトゥスに命じた。
司祭を呼ばうという気には、なれなかった。自然に得た病の場合には、神聖魔法の癒しは通じないことが多い。人間の寿命だからだ。そして、もし治らなかった場合、自分の病のことが、外部に洩《も》れるかもしれない。
それだけは、避けたかった。
ナシェルが若年であることにつけこみ、北の隣国竜の鱗<買Fノンが国政に介入してくるのは必至だからだ。スカードは、唯一の隣国であるこの大国に、従属的な同盟を結ばされている。
そして、ヴェノン王国は本音では、小さいが豊かな王国であるこのスカードを併合したいと思っているはずだ。娘のリィーナを、王子の嫁にと申し出てくるのも、スカードの王位継承権が欲しいからに他《ほか》ならない。
リィーナとの結婚が成立したあとで、ナシェルを暗殺すれば、労せずしてスカードを手に入れることができる。
だが、五年もたてば、ナシェルは立派な青年となっていよう。ヴェノンごときの介入を許しはしないはずだ。ブルークにとっては、それまで寿命が保てば十分なのだ。
ただ、残念なのは、彼が王道を歩んでゆくのを、この目で見られぬことである。それだけが、唯一の心残りだった。
死病を得てから、半年が経過している。
「腫れ物の具合はどうだ?」
「薬が効いているようで、大きくはなっていません。ただ、喉がかなり傷んでおります。くれぐれも、強いお酒はお飲みになられないように」
ブルークは、ふんと鼻を鳴らした。
酒は、強ければ強いほどよいと思ってきた。麦酒《エール》など、水のようなものだ。出来具合を味見するだけで十分だった。
ブルークは、北のドワーフ族が葡萄酒から精製する火酒《スピリッツ》を愛飲していた。この酒を喉に流しこむと、文字どおり喉から胃が燃えるように熱くなる。そして、心地|好《よ》い酩酊感《めいていかん》に浸ることができるのだ。
だが、その火酒は人間には強すぎたのかもしれない。喉に腫れ物ができたのは、おそらく、この強い酒を飲みすぎたせいだろう。
自ら招いた災禍である。自分の運命については、もはや覚悟している。
ただ、ナシェルのためにしてやれることが、残された時間では少なすぎることが残念だった。ウォートやベルドに、ナシェルの将来を委ねることが悔しくもあり、妬《ねた》ましくもある。
英雄王の武勲詩に、自分の名前を登場させたかった。
だが、それはかなわぬ夢となりつつある。
「口惜しいな……」
ブルークは、独り言を洩らした。
「命には限りがあります。人生とは天寿をまっとうして、後悔せぬことかと……」
タトゥスが、言葉を選ぶようにして言った。
ブルークのつぶやきを、誤解したようだ。
「そう心掛けよう」
ブルークは微笑《ほほえ》んで、タトゥスに下がるよう命じた。
「先刻、ヴェノン王国から使者が参られ、国王に面会を求めておいでです。体調のほうがよろしければ、お会いしていただきたく……」
「ヴェノンの使者が?」
ブルークの表情が、たちまち曇った。
ヴェノンからの使者が、これまで良い知らせを持ってきたことはないのだ。
「また、何を要求してくるのやら」
ブルークはぼやきながら、部屋の隅のクローゼットヘと移動した。ヴェノンからの使者に対し、正装して出迎えるためである。
「謁見の間へお通しせよ」
「それが……」
いつも明快なこの男にしては珍しく、タトゥスは言いよどんだ。
ブルークが先を促して、ようやく薬草師は言葉を続けた。
「内密の用向きらしく、陛下にのみ面会したい、と御使者の方は申されています」
「内密の用向き?」
ブルークの心のなかには猛暑の日の夕刻のように、暗雲が広がった。警報が雷鳴のように心に鳴り響く。
「是非もないな……」
ブルークは肩を落とし、そう答えた。
スカードの非力さが心を締めつける。無礼きわまりない申し出であれ、受諾する以外にないのだ。
「客間で待たせよ。こちらから出向く」
ブルークは、言った。
病を得ているとはいえ普段は健康そのものに見える彼の顔が、その一瞬、死人のそれのように昏《くら》く濁った。
「我が王女をアロンド王子の妃にと……」
使者が伝えた言葉を、ブルークは魂の抜けたような声で繰り返した。
スカードの王城に、複数ある客間のうちのひとつである。荒野の賢者ウォートを招聘してから、客間のひとつひとつには、魔法遮断の結界が張られている。
ウォートは魔術をただ識《し》っているだけではなく、それをいかに使うかも、よく心得ていた。賢者の学院にいるような研究家肌の魔術師とは、その点が異なっている。彼にとって魔術とは身を立てるための手段に他ならず、戦士の操る剣と変わることがなかった。
「そうだ」
尊大な態度を崩さず、ヴェノンからの使者はうなずいた。
「ヴェノン国王からの再三の申し出にも拘《かか》わらず、貴国はこの申し出を拒絶されてきた。リィーナ姫が幼少だからとの理由でな。だが、姫君も今年で十四歳、結婚するに何の不足もない年齢のはず」
「年齢は、どうであれ、あれは、まだまだ子供です。今のまま嫁がせては、王子殿下に御迷惑をかける。もうしばらく、お待ち願えませんかな」
「我が陛下は、仰《おっしゃ》られた。もう十分、待ったとな。このうえ、この結婚を承諾せぬのは、スカード王には他に考えあってのことだろう、と」
「いえ、そのようなことは……」
ブルークは、使者の言葉をあわてて否定した。この場合、そう答える以外ないのだ。
正規の使者ではなく、密使を寄越《よこ》してきたのは、正論を封じるための策である。外交などではなく、これは一種の脅迫だった。
「我が国王は、こうも仰せられている。スカードは、ヴェノンからの独立を画策している、と。赤髪の傭兵ベルドや荒野の賢者ウォートを招聘したのは、その証であろう」
「な、何を仰います」
ブルークは驚きの表情をあえて浮かべた。
「ヴェノン王国あっての、このスカードでございます。賢者を招き、傭兵を雇ったのは、この王国が将来の戦において、ヴェノン王国の一翼を担わんと思ってのこと。わたしはヴェノン国王こそ、このモスの公王たるに相応しい御方であると……」
「見え透いたことは言わずともよい!」
ヴェノンの使者は、ぴしゃりと言った。
気圧《けお》されたわけではないが、ブルークは反射的に頭を低くした。
使者はブルークよりも十は若く、どう見ても優れた人物とは思えなかった。ただ愚鈍であるゆえに、言いくるめることはできそうにない。その瞳にはブルークに対する敵意が満ちており、ヴェノン国王から与えられた使命を果たせなければ刺し違えるぐらいの覚悟はしているようだ。
(若造が、この儂を倒せると思っているのか)
心のなかでは憎悪の炎を燃やしつつ、表面的にはあくまでも動揺しもいるように装う。まるで、自分が道化になったような気がした。
いかに人間が優れていようと、小国に生まれては、目の前にいるような愚者に対しても、頭を下げなければならないのだ。
これまで嫌というほど分かっていた事実を、ブルークは今一度、心に刻みつけた。ナシェルには、このような屈辱を味わわせない。そんな決意とともに……
「分かりました」
萎《しお》れたような態度を見せながら、ブルークは言った。言質《げんち》を取られないための答だったが、目の前の騎士はそれで満足した様子だっ
「今ひとつ、求めたいことがある」
ヴェノンの使者は、更に態度を大きくして、言った。
「何でしょうか?」
怒りが爆発しそうになるのを意志の力で抑えつつ、ブルークはたずねた。椅子の腕《アーム》にかけている指の先が、痙攣《けいれん》するように震える。
「ドワーフ族との交易からあがる利益の八割を今後、税として納めるように」
胸を張るような姿勢を取って、使者は尊大に言った。
「何ですと!」
要求のあまりの非常識さに、ブルークは思わず、椅子から立ち上がった。
「先年、竜の炎<nーケーンと戦火を交えたは、貴国の落度であろう。あの戦で、我が王国の騎士三名が戦死したことを、忘れてはおるまいな!」
そう怒鳴るヴェノンの使者に対し、ブルークは本物の殺意を抱いた。
「忘れてなどおりません。そのために、我がスカードは莫大《ばくだい》な戦費をお支払いいたしましたからな」
昨年、ハーケーンの王女エランタが突如、スカードを訪れるという出来事があった。このとき、エランタ王女が、王子のナシェルに乱暴を働かれた、と帰国後、父王に報告したらしい。激怒したハーケーン国王は、ナシェル王子の身柄の引き渡しを要求して出兵。盟主国であるヴェノンは、受けて立ち、両国のあいだで小規模の戦が起こった。
ナシェルがエランタ王女に乱暴を働いたなど、もちろん、事実無根だ。エランタ王女がナシェルを誘惑したというのが真相で、それを断られた腹いせに嘘《うそ》の報告をしたのだ。
自分の嘘が招いた事態の大きさに怯《おび》えたエランタ王女が、ハーケーン王に真実を話し、停戦はすぐに成立した。だが、ハーケーンからは一言の謝罪の言葉もなく、盟主国ヴェノンも理由はどうあれ、ハーケーンとの関係が悪化したのは、あくまでスカードの落度と決めつけた。
そして、多額の戦費を要求してきたのだ。
そのときには、ブルークはおとなしく従った。責任の一端は、娘のリィーナにあることを知っていたからだ。だが、今度の要求ばかりは……
「この王国を経営してゆくためには、ドワーフ族との交易だけが命綱なのです。他には、いかなる産業もない小国ゆえ」
「その割には、貴国の国庫には財宝が溢《あふ》れかえっているそうだな」
どっかりと椅子に腰を落ち着けたまま、使者は腕組みしながらブルークを睨《にら》むように見上げる。
「そのような根も葉もない噂《うわさ》……」
「黙れ!」
言い訳しようとしたブルークを語気荒く制し、使者は椅子を蹴《け》るように立ち上がった。その顔に、自らの勢いに酔いしれているような表情が浮かんでいる。
「確かな筋から情報を得たのだ。なんなら、どれほど蓄えられているか、この場で言い当てようか」
言うなり、使者はスカードの国庫に蓄えられている財宝の目録を並べはじめた。
唖然《あぜん》としながら、ブルークは使者の口上を聞いた。使者の述ベる財宝の数量は、ブルークが把握しているのと、ほぼ一致していた。スカードの重鎮の誰かが、ヴェノンと内通したのだろう。この小国の運命に、見切りをつけたのかもしれない。スカードを併合したあかつきには、おそらく、厚遇を約束されているに違いない。だが、それ以上に驚くべきは、他国が豊かなのを妬み、盗賊まがいの要求をしてくるヴェノン国王の神経である。
何を焦っているのだろう。
何を恐れているのだろう。
疑問が次々と浮かんでは消えた。何か理由がなければ、かくも非道な要求はできないはずだった。
「この要求を拒絶した場合には、武力に訴えると心得よ」
今の言葉こそが、ヴェノンの本音かとも思う。武力を用いて、この王国を併合したいのかもしれない。そうすれば、ドワーフ族との交易も独占でき、莫大な富が手に入る。ヴェノン王は、その豊富な資金を背景に、モス地方の統一を考えているのかもしれない。
ヴェノン王が野心家であることは、ブルークが以前から承知していることだった。それを責める資格は、ブルークにはない。
ブルーク自身、同じ野望を抱いているからだ。ただし、ブルークの場合、それは己のための野心ではなく、息子ナシェルを思ってのことだったが……
「貴国の要求は、あまりにも重大。私の一存で決められるような問題ではありません。宮廷会議を開き、臣下と相談のうえ、返答いたしましょう」
「そのようなその場しのぎが通じると思うか!」
腰の帯剣に手をかけながら、使者はすごんだ。こめかみに青筋が浮きあがっている。
「……抜いてみるがいい」
一瞬の沈黙の後、ブルークは低く、つぶやいた。
「な、なんだと?」
「抜いてみろ、と言っておるのだ。貴公は知ら譲らしいが、儂は過去にハイランド主催の剣術試合において、最後まで勝ち抜いたことがあるのだよ。ハイランドのマイセン王には及ばなかったがな」
抑揚のない声で、ブルークは言った。
その一言で、使者の顔色がはっきりと変わった。竜の目<nイランドの騎士たちの武勇は、モス公国のみならず、ロードス全土にその名が高い。その王国で開催された剣術試合において、決勝まで残るという芸当は、ヴェノン王国の騎士には不可能なはずだ。
ブルークがその剣術試合に出場したのは、だからこそなのである。ヴェノン王国の名誉のために、属国であるスカードから代理として出場したのだ。もっとも、あのとき剣術試合に参加していなければ、エリザと出会うこともなかったし、ナシェルという息子を得られることもなかったのだが。
初めて見せたブルークの迫力に、ヴェノンの使者はそれまでの勢いを失い、戸惑いの表情を浮かべた。何かを言おうとするのだが、口を動かすだけで、実際には一声も出ない。
「一日、二日で出せる結論ではありますまい。御使者には、一度、ヴェノンヘお戻りになられますよう。十分に検討したうえ、要求された件につきご返答申し上げます」
「そ、そうか。ならば、そのように陛下には申し伝えよう」
ブルークがふたたび慇懃《いんぎん》な態度を示したので、ヴェノンの使者はやっと自分を取り戻したようで、虚勢を張るように答えた。
それから、逃げるように踵《きびす》を返すと、扉を開けて、廊下へと出る。
ブルークは使者の後に従い、建物の外まで見送った。間の抜けた顔をした使者の従者が、葦毛の馬の手綱を握り、中庭に控えていた。
「国王陛下に、よろしくお伝えください」
ブルークは使者に向かって恭しく頭を下げた。
従者の助けを借りて馬に跨《また》がると、ヴェノンの使者は無言で馬首を巡らした。そして、城門と兼用の跳ね橋に向かって、馬の歩を進める。
その姿が視界から消えるまで、ブルークは建物の入口に立っていた。見送っているのではない。使者が城から消え去るのを、確かめずにはいられなかったのだ。
その姿が消えた瞬間、ブルークは地面を思いきり強く踏みつけた。
使者にはそう言ったが、臣下の誰とも相談するつもりはなかった。この問題ばかりは自分ひとりで考え、結論を出さねばならない。
ヴェノンに対し、いつかは独立を宣言するつもりでいた。だが、それより先に、向こうから行動に出てくるとは思いもよらなかった。
ヴェノン王を甘く見すぎていたのかもしれない。胸に秘めた野心を、看破されたのだ。
現在はナシェルも若く、独立のための準備も整っていない。戦えば、間違いなく負ける。救援を求めるべき、竜の炎<nーケーンとは先年の事件で関係が悪くなっており、亡き王妃の実家にあたる竜の目<nイランドは、救援を乞《こ》うにはあまりにも遠い。麦酒《エール》の誓い≠ニ呼ぼれるドワーフ族との同盟だけが頼りだが、彼ら大地の妖精《ようせい》が人間たちの争いにどこまで本気で介入してくれるか分かったものではない。
状況はあまりにも絶望的だった。かくも、切迫した事態を、どう切り抜けばよいのだろうか。
ブルークは眼前が暗くなってゆくのを感じながら、ともすれば、よろめきそうになる両足を叱咤《しった》しつつ、私室へと戻りはじめる。
王城グレイン・ホールドの廊下が、いつもより狭く、そして長く感じられた。
遠慮がちに扉を叩く音がした。
三本の蝋燭《ろうそく》に火を灯《とも》した燭台《しょくだい》のそばで、ハンカチに刺繍《ししゅう》をしていたリィーナは、いぶかしそうに顔をあげた。穏やかな闇が、窓の外には広がっている。
夜は更けている。
いつもなら、眠っているはずの時間だった。起きていたのは、この刺繍が終わるまで、と心に決めていたから。
リィーナは薄い夜着に着替えていて、そのうえに毛皮のガウンを羽織っている。
作業に熱中していたので気にならなかったが、部屋のなかには戸外の冷気が忍びこんでおり、思い出したようにリィーナは身を震わせた。
(もしかして、兄様……)
淡い期待を一瞬、抱いたが、兄ナシェルがこんな夜更けに訪ねてくるはずがない。いや、たとえ昼間だったとしても、兄のほうから訪ねてくることはない。
武術の鍛練と学問とで、最近の兄はほとんど一日を費やしている。妹のことなど、忘れてしまったかのように日々を過ごしている。
心のなかに穴があいたようで、それを埋めようとして、様々な手慰みを覚えた。刺繍も、そのひとつ。
侍女のひとりから習ったのだが、最近ではだいぶ巧《うま》くなり、他人に見せても恥ずかしくないだけの作品ができるようになった。
熱中しているあいだはいい。だが、ふと我に返ると、喪失感はますます大きくなる。
「誰なの?」
扉の近くまで寄って、そう問いかけた。
返事は、すぐに戻ってきた。
「儂だ」
「お父様!」
リィーナは、驚いた。
こんな夜更けに父が訪れたことなど、記憶にあるかぎり一度もない。
何か父を怒らせるようなことをしたのだろうか。胸に手を当てて考えてみるが、心当たりはない。
「起きているのなら、開けてくれないか」
父の声は、いつになく優しく聞こえた。
父のそんな声を聞くのも、初めてだった。それだけに、父はひどく怒っているのではないかという気になった。
震える手で、扉の把手《とって》を握った。
少しだけ扉を押し開き、その隙間《すきま》から廊下に立つ父の表情を窺《うかが》った。
父王ブルークは、何かを思いつめたような顔をしていた。だが、怒りは感じられない。
少しほっとして、リィーナは扉を一杯に開けた。
父はその手に銀製の酒杯をふたつと、細長い壷《つぼ》を二本持っている。
「お入りください」
リィーナは無理に笑顔を作り、父王を部屋に誘った。ブルークは無言でうなずくと、部屋に足を踏み入れた。
部屋の隅には小さな丸テーブルがあり、椅子が三脚、まわりを囲んでいる。ブルークはまっすぐそこへ進み、椅子のひとつに腰を下ろした。そして、テーブルのうえに、酒杯と壺を無造作に置く。
リィーナは、父と向かいあうように座った。
「いったい、どうなさったのですか?」
父の様子は、普段とまるで違っている。
いつもは厳格で、近寄りがたい雰囲気なのだ。それが今は、どことなく弱々しげに見える。
その表情には深い苦悩が刻まれ、それを隠そうともしていない。他人に弱味を曝《さら》けだすなど、これまでになかったことだ。
リィーナに対して、父はいつも厳しかった。兄ナシェルを愛するほどには、愛情を注いでくれなかった。
それは当然だと思う。
ナシェルは、太陽の王子。気高く、強く、賢く、そして美しかった。兄と比べれば、月の姫たる自分は、その輝きに飲み込まれ、存在しないも同然なのだ。
「今日、ヴェノンから密使が来た……」
ブルークはゆっくりと口を開きながら、酒杯のひとつに透明な液体を注いだ。そして、もうひとつの酒杯には真紅の色をした果実酒を満たし、リィーナに手渡す。
「密使?」
リィーナは、政治のことはほとんど知らない。普通の使者と密使はどう違うのだろう、と素朴な疑問を抱いた。
「そうだ。その密使は、おまえとヴェノンの第三王子との婚姻を迫ってきた。拒絶すれば、武力行使も辞さない……」
「いやです!」
父の言葉が終わるのも待たず、リィーナは叫び声をあげた。
「あの方は、好きになれません。わたしを見るとき、あの方は娼婦《しようふ》を品定めするような目をされます。口を開けば、食事や財宝のことばかり。あの方にとって、わたしは夜の慰みものか、莫大な持参金をもたらすだけの女にすぎないのです。そんな方と結婚するぐらいなら、死んだほうがまし」
全身で拒絶する娘の様子を、ブルークは哀れむように見つめていた。
(死んだほうがまし……か)
ブルークは娘の顔を見つめ、その言葉がいかにも少女らしい思い込みから出ていることを理解した。それだけに、その思いは純粋で、言葉どおりの事を実行しかねない。
「……拒絶すれば、ヴェノンはこの国に攻めてくる。スカードなど、ひとたまりもないのだぞ」
「攻めてくるのなら、くればいいのだわ。この国には兄様や、ベルド隊長がいるんですもの。ヴェノンなんかに負けたりしないわ。ドワーフ族だって救援してくれます。ハイランド軍だって、きっと援軍を派遣してくれるでしょう」
必死になって言う娘の顔を見ていると、戦ってみてもよい、という気がしないでもない。だが、勝算のない戦いを挑むのは愚者のすることだ、とブルークは思っている。
いかに知恵を絞ろうと、蛮勇を奮おうと、勝てるような戦力差ではないのだ。ドワーフ族の援軍がくれば、一度ぐらいはヴェノン軍を撃退できるかもしれない。だが、スカードにとって、ヴェノン領へ向かう街道は、唯一の出入口であり、生命線ともいえる。街道を封鎖されたら、交易が行なえるはずがない。スカードの唯一の財源が、断たれることになるのだ。収入がなくなれば、いかに豊かな蓄えとてすぐ底をつく。次にヴェノン軍が侵攻してきたとき、王国を守る力は残っていないだろう。
そんな予測を説明したところで、リィーナには理解できないだろう。だいたい、彼女がヴェノンの王子との結婚を拒絶する真の理由は、王子の人格とは別のところにある。
彼女が兄をいかに愛しているか、ブルークは知っている。その愛は、今のところ偉大な兄に対する敬愛にとどまっている。
だが、大人になってくれば、その想いは男女のそれに変わってゆくだろう。だが、血の繋《つな》がりがあるゆえに、それは禁断の愛となる。
「ヴェノンと戦っても勝てぬよ。それは、儂がいちばんよく理解しておる。だが、おまえの望まぬ結婚を無理強いしたくはない。それに、もしも、おまえとヴェノンの王子が一緒になったら、ヴェノン王国は、儂とナシェルの暗殺を謀るだろう。儂らがいなくなれば、王位継承権は王女の婿となるアロンド王子のものとなるからな」
ブルークの言葉で、リィーナの顔色が一瞬にして変わった。
「兄様と父様を……」
「それが政治というものだ。ヴェノンはひとりの犠牲を出すこともなく、このスカードを手に入れることになる。この国の上級騎士のなかには、すでにヴェノンと通じている者もいよう。我が国の国庫の品目を、密使は正確に知っておったよ。モスの覇者を望むヴェノン王にとって、スカードの財力は魅力であろう。残らず自らの物として、本格的な戦いをはじめるつもりなのだ」
「そんなことを……」
リィーナは言葉を失い、口を手で覆った。
哀しいことは別になかったが、涙が一筋、頬《ほお》を伝った。
「だったら、なおさら、戦うしかないではありませんか? 結婚して祝福されるならまだしも、父様と兄様を暗殺させるために一緒になるなんて、わたしには耐えられません。そんな醜い政治の道具になるくらいなら……」
「命を絶つ……か?」
ブルークは、静かに尋ねた。
「昨年、兄様に命を助けられたとき誓ったのです。兄様を助けるためなら、わたしの命なんか捨ててもいいと……」
そう言うとき、さすがに声は震えた。だが、その決意に嘘はない。
本当にそう誓ったのだ。
昨年、ハーケーン王国の王女エランタが、この国を訪問するという出来事があった。使節と名乗ってはいたが、彼女の目的は兄ナシェルに会うことだった。
エランタ王女は兄を下僕のように扱い、それを見かねたリィーナは宴《うたげ》の席を飛びだし、夜の森へ馬を走らせたのだ。そして、飢えた狼《おおかみ》に襲われそうになった。
危ないところを助けてくれたのは、兄のナシェルだ。ナシェルは素手で狼に立ち向かい、全身に傷を負いながらも、見事、狼を討ちはたした。
傷口が化膿《かのう》して、兄は三日ほど生死の境を彷徨《さまよ》った。もし、兄が命を落としていたら、父は自分を容赦しなかったろう。
なにより、リィーナ自身が生きているつもりはなかった。兄の後を追い、自ら命を絶つ気でいた。兄はそれほどの深手を負いながら、王城までの帰り道、足を痛めたと偽ったリィーナをずっと背負いつづけてくれたのだ。
エランタ王女は気分を害したらしく、翌日にはスカードを発《た》った。そしてあろうことか、自国へ戻ってから、彼女の父ハーケーン王に、兄ナシェルが乱暴を働いたと嘘をついたのだ。ただちに、ハーケーンは騎士団を出動させ、スカードの盟主国たるヴェノンとのあいだで、小規模な戦となったのだ。
それら一連の事件の責任が自分にある、とリィーナは心を痛めていた。
だが、不思議なことに、いつもは厳しい父が、その件に関しては、一言も叱《しか》らなかった。兄ナシェルも、同様だった。叱られたほうが、むしろ楽だったかもしれない。そうされないのは、見捨てられたからだ、と本気で思ってきた。
罪を償いたかった。
兄が喜んでくれるなら、どんなことでもするつもりだ。反対に、兄のためにならないことは、なんであれするつもりはない。
「儂は、焦りすぎたのかもしれん。大人になったナシェルが、このスカードという国に絶望する前に、あいつの実力に相応しい舞台を用意してやりたかった……」
ブルークはそう言うと、片手で目を覆った。
泣いているのか、とリィーナは驚いて、父を見つめた。
父が、ひどく小さく見えた。
気がついたときには、リィーナは立ち上がっていて、背後から父の肩を抱いていた。
そんなことをしている自分が、不思議だった。だが、これまでただ恐《こわ》かっただけの父が、驚くほど身近に感じられた。父の温《ぬく》もりが、安らぎとともに、リィーナの腕や胸に伝わってくる。
「……覚えているか? 三年前、父親殺しの罪で捕えられた若者のことを」
リィーナは父と離れ、その隣の席に改めて腰を下ろした。
話が突然、変わったのに戸惑いながらも、あわてて首を縦に振った。
「覚えています。あの若者の助命を、必死になって嘆願しましたもの。彼の父親はひどい乱暴者で、放っておけば、母親や妹を殺してしまったかもしれなかった。若者のいた村人たちが、全員、若者の命乞いを訴えていました。だからこそ、わたしも……」
「その通りだ。父殺しは、許されざる罪だ。だが、世の中には、殺さなければならないような父親もいる。そんなとき、実の子供が手を下したとして、世間の者は、誰も非難したりはせん。むしろ、賞賛するぐらいだ」
「お父様の裁断は、御立派でした。罪は罪として処刑を宣言し、だが、刑は行使されなかった。そして、ナシェル兄様の立太子式のおり、恩赦を出して若者を釈放された。スカードの人々は、お父様の措置に心の底から感激したはずです」
ブルークは、別に若者に同情したわけではない。そんな裁断を下したのは、民心に配慮してのことだ。人気取り、といってもいい。
その効果たるやブルークが予想した以上で、吟遊詩人たちは
「若者と賢王」の詩を謳《うた》い、ナシェルの立太子祝いと称して、各地の村落からあきれるほど大量の品々が届けられた。
「スカードのために、ナシェルのために、儂も命を捨てるつもりなのだ」
ブルークは、正面からリィーナを見つめた。
その言葉を、リィーナは驚くほど素直に受け入れていた。その顔には、微笑みさえ浮かんでいる。
いつまでも幼いと思っていたが、いつのまにか娘は大人になっていた。その瞳には心のなかだけでは押えられないような激情が奔流となって溢れている。
恋する娘の瞳だった。
リィーナの母、ナターシャのことを、ブルークは思い出した。彼女の愛は、いつも真実の愛だった。自分のなかに迎え入れたすべての男たちを、彼女は真剣に愛したに違いない。
ブルークに対する愛も、本物だった。そのことを疑うつもりはない。妾妃として独占しようとしたことが、過ちだったのだろう。ナターシャは、立場が変わったからといって、生き方を変えられるような女性ではなかめたのだ。確かに、彼女は賢明な女性ではない。だが、賢明さと狡猾《こうかつ》さは、紙一重ではないか。
「ナシェルのために……」
ブルークは、ひとりごとのようにつぶやく。それが、あたかも合言葉だったかのように、
「兄様のために……」
と、リィーナも囁《ささや》いた。
廊下の方から金属|鎧《よろい》が鳴り響く音が、扉を通して伝わってきた。
そのとき、スカード王国宮廷魔術師ウォートは、机に座り、書物を調べていた。
机の脇《わき》には、昨日から徹夜で読み耽《ふけ》っていた古代書が崩れんばかりに積みあがっている。
朝方、短い睡眠を取り、日差しが高くなりかけた頃、ふたたび目を覚まし、昨晩の続きを読んでいた。
ブルークの王の許《もと》に、ヴェノンからの密使がやってきたという話は、スカードの宮廷中に噂となって広がっている。もちろん、ブルークはその件に関して公式な発言は一切していない。ウォートに対しても、それは同様だった。もっとも、ヴェノンがどのような要求をしてきたのかは、ウォートには予想がついている。
行動を起こす時期を、早めねばならないかもしれない。明らかに準備不足である。あまり気は進まないが、自分自身の魔力も、直接の戦力として考慮しなければならないだろう。
具体的にいえば、アラニアの王都アランの街にある魔術師たちの組織、賢者の学院が禁忌《タブー》とするような攻撃魔法を使うこと、である。
ウォート自身は賢者の学院とは関係がないので、その規則に縛られることはないが、魔法を用いて戦に勝っても、民衆や周辺諸国から良い評判は得られない。だが、今は負けないことが、大切なのだ。負ければ、そこでスカードの運命は終わる。
魔術書を読みなおし、騎士団や傭兵部隊と魔法を組み合わせた戦術を組み立てておくつもりだった。敵が密集しているところに、|〈阻石召喚〉《メテオストライク》の呪文《じゅもん》を叩きこめば、それだけでひとつの軍団を壊滅させることができるのである。
ヴェノンの本格的な侵攻前に、戦術書を書き上げ、戦闘の訓練もはじめねばならない。国庫の蓄えを使いつくしても、傭兵たちを雇い入れなければならないだろう。農民からなる民兵を組織し、戦力の少なさを補わねばならない。
ウォートの思惑では、五年でモス地方を統合し、北の自治都市連合に向かって、侵攻をかけるつもりだった。ライデンの街を屈服させれば、大陸貿易による莫大な富と、強力な海軍を手に入れることができる。その時点で、ロードス島の統一は、なかば以上、達成したといっていい。
後は、軍事力と経済力を背景に、残る大国をひとつひとつ攻め滅ぼしてゆくだけだ。
全ロードスの制覇は十五年もあれば達成できる、と見積もっている。そのとき、ナシェルは三十余歳、男として充実しはじめる時期だ。建国皇帝ブルークの後を継いで、ロードス帝国の基盤を完成させる名君となるだろう。
思っていたより早まったが、ロードス島の未来に向けて、偉大な一歩を踏みだすときがきたのだ。胸のなかで膨れあがってゆく希望に、ウォートは息苦しささえ覚えていた。
金属が打ち鳴らす不協和音が次第に大きくなってくるのに気づいて、ウォートは書物から目を離した。何か異変が起こったのかもしれない。
ヴェノンが圧力をかけるため、スカードとの国境に騎士団を進めたとか、有力な騎士がヴェノンに内通し、蜂起《ほうき》したというところだろう。
そのいずれが起ころうと、対処の方法は考えてあった。陣頭指揮を執ろうと思い、ウォートは机の横に立てかけてあった魔術師の杖《つえ》を手にとった。
椅子から立ち上がり、扉に向き直る。
「宮廷魔術師殿……」
若い声がした。
その声には心当たりがあった。国王の身辺を守る、他国では近衛《このえ》騎士に相当する騎士だ。
ウォートは扉に向かって、上位古代語の合言葉を唱えた。
次の瞬間、扉は音もたてずに内側に開く。
戸口に立っていたのは、思っていたとおりの人物だった。他にも数人の若い騎士が続いている。
彼らの表情を見て、ウォートは異常を感じた。
若者たちの表情は、殺気のような雰囲気に満ちていたのだ。
「宮廷魔術師殿! 国王陛下の御命令です。あなたを反逆の罪で捕らえます」
「反逆罪だと?」
笑おうとしたが、顔を引き攣《つ》らせただけだ。
蜂起した反乱者が、彼らを扇動したのだろうか?
だが、彼らは家柄もあり、国王の信任の厚い者ばかりだ。よもや裏切るはずはなかった。
それに、彼らは国王の命令だと言った。
「抵抗すれば、斬《き》ります」
もうひとりの若い騎士が、緊張した声をあげた。抵抗するつもりはなかったのだが、魔術師の杖が自然に動いたのを見て、騎士たちは剣を一斉に抜き放った。
「何を証拠に、わたしが反逆者だと?」
ウォートは突然の出来事に、まだ対応できずにいた。誰よりも優れていると自負してきた自らの頭脳が、麻痺《まひ》してしまったかのように、まったく働かない。
若い騎士たちは、何も答えなかった。答えられなかったのかもしれない。
答が分かったのは、ひとりの人物が騎士たちの後方に姿を現わしたからだ。
スカード王ブルーク、その人であった。
未来に向かって開かれていた扉が凶々《まがまが》しい音をたてて、閉ざされてゆくのを、ウォートは感じた。
「どういうことですかな、国王陛下?」
ブルークを見据えつつ、ウォートは問いかけた。
ヴェノンの密使に脅され、野心を捨てたのだろうか。すべての罪を宮廷魔術師に押しつけ、反逆の意思がないことを示すつもりなのか。
だが、その程度のことで、ヴェノンがスカード併合をあきらめるはずがない。それぐらいは、ブルークとて十分に承知のはずだ。
ブルークの真意を、ウォートは掴《つか》みかねた。だが、はっきりしていることは、このままでは虜囚の身となってしまうことだ。それを拒めば、若い騎士たちは容赦なく斬りかかってくるだろう。
呪文を唱えれば、この場から一瞬で立ち去ることはできる。決死の覚悟を決めて戦うなら、ブルークたちを冥界《めいかい》への道連れにもできよう。
だが、ウォートはそのいずれも選ばなかった。
「分かった……」
とだけ言い、魔術師の杖を騎士たちに向かって投げ捨てた。
若い騎士たちの表情に、はっきりと安堵《あんど》の表情が浮かんだ。だが、ブルークの表情はまったく変わらない。
騎士たちがふたり、ウォートの両脇をかためた。彼らに促され、ウォートは歩きはじめた。
地下|牢《ろう》へと幽閉されることになろう。そこで、しばらく頭を冷やすのもよい、と思った。自らの愚かさを戒めなければ、同じ過ちを繰り返すだけだ。
ブルークの横を通りすぎるとき、ウォートは無言の言葉を彼に投げつけた。
なぜ、と。なぜ、わたしを捕らえるのか。おまえの野心はどうなったのだ、と……
彼の表情から返事は戻ってこなかった。
毅然《きぜん》たる態度で、自分を見つめてくるだけ。その視線には、怒りも憎悪も哀れみも感じられなかった。不退転の決意、不動の覚悟だけが、伝わってくる。
それが、どのような意志なのかは分からない。
(まるで何物かに憑《つ》かれているようだ)
ウォートは、思った。
ブルークが何をしようとしているのか、荒野の賢者と謳われた自分にも見当がつかなかった。
それだけに、恐ろしい気がした。
自分でさえ予想できないことを、ロードスのいったい誰が予想できよう。
想像を絶する災厄が起こるかもしれない。
そんな不安が、ウォートの脳裏をちらりとかすめた。だが、その不安を、すぐに拭《ぬぐ》いさる。
ロードス島を戦乱に巻きこもうとしていた男を幽閉するのだ。
災厄は、むしろ回避されたといっていい。
スカードという小国が、隣の大国に併合されてしまうだけのことだ。ロードス全体にとって、それは些細《ささい》なことでしかない。
ただ惜しいのは、ひとりの傑出した若者がロードスの歴史に名も残さず、消えてゆくことだ。そして、その傍らに連なるはずだった自分の名前が……
(次の機会は、巡ってくるだろうか?)
石の廊下を騎士たちに支えられるように歩きながら、奈落《ならく》へと落ちてゆくような喪失感を、ウォートは味わっていた。
魔神王の迷宮は、五百年の闇に閉ざされていた。
地下に向かい、何十層にも掘り下ろされた地下迷宮であった。
古代王国においてさえ、最も深き迷宮≠ニ呼称されたらしい。
迷宮の闇のなかは、致死的な罠や、侵入者を排除するためだけに数百年の時を待ち続けた魔法生物で満ちていた。命を落としかけたことは、一度や二度ではない。
だが、もはや後戻りはできなかった。進まなければ、王国と王子の未来は開けぬのだ。
そして、ついにブルークは最深部の広間にたどりついた。宮廷魔術師ウォートから接収した書物によって、その広聞が「魔神王の間」と名付けられていることを、彼は知っていた。
この広間に、魔神王とその眷属《けんぞく》たちは封印されている。彼らの故郷である世界から召喚され、魔法により創《つく》られた疑似空間に幽閉されているのだ。
他の場所と異なり、魔神王の広間だけは、魔法の明かりによって煌《こうこう》々と照らしだされていた。
ブルークは、これまで唯一の光源であった〈明かり〉の魔法を帯びた指輪の魔力を消滅させた。
そして、背後を振り返る。
月の姫リィーナの姿がそこにあった。王女は、柔らかな布地の純白のドレスを身にまとっている。迷宮を旅するあいだに、ドレスのそこかしこに汚れがついていた。
蒼《あお》ざめた表情をしている。
当然だろう。この広間にたどりつくまでの恐怖は、並の娘では耐えられなかったに違いない。それを耐えたのは、兄への想いゆえだ。その想いを利用し、自分は娘を死地へ誘おうとしている。
ブルークは、ひどい自己嫌悪に苛《さいな》まれた。
そのとき、リィーナが不意に微笑みを浮かべた。
「最後に、お父様の偉大さを目《ま》の当たりにできました」
それがいかにも嬉《うれ》しいというように、彼女は目を細める。
その一言で、ブルークは救われたような気がした。娘に笑みを返し、
「儂は、おまえの兄の父親ぞ。あれしきの魔物ごときに後れを取ることはない」
と、言った。
「そうでした」
口に手を当てて、リィーナは笑う。
彼女の覚悟のほどが知れた。死への恐怖は、もはや乗り越えているのだろう。敬愛する兄のために命を捨てられることに、至福の喜びを感じているようにもみえる。恋を知りはじめた少女の想いは、かくも強く、そして、一途《いちず》なのだ。
ブルークは娘の手を取り、広間の中央へ進んだ。あたかも結婚式のとき花嫁を誘う父親のように。
そして、彼女にとって、これからの儀式は、ある意味で本当の結婚式であるかもしれない。血の絆《きずな》ゆえに結ばれることのかなわぬ兄の許に嫁ぐには、他に方法はないのだから……
広間の中央には、五芒星の周囲を二重の円が取り巻いた魔法陣が描かれていた。そして、奥の壁には巨大な両開きの扉がある。ウォートの書物によれば、魔神王は中央の魔法陣より、眷族どもは奥の扉より召喚されるとある。
儀式自体は、極めて簡単なものだ。
魔法陣の中央で生贄を捧げ、魔神王召喚の呪文を唱えればよい。召喚の言葉は下位古代語でいいのだ。魔術を発動させるときに使う、上位古代語でさえない。
ブルークはリィーナを伴って、魔法陣の中央に立った。
自然に、娘と目が合う。
リィーナは笑顔を浮かベていた。ただ、その目には涙も滲《にじ》んでいる。全身がわずかに震えてもいる。彼女の意思とは別に、若い肉体がこれからの運命に抗《あらが》っているようにもみえた。
「衣服を……」
かすれる声で、ブルークは言った。
リィーナはうなずくと、身に着けていた白いドレスをゆっくりと脱ぎはじめる。
やがて、リィーナは一糸まとわぬ姿となった。
魔法の明かりに、若い肢体がまぶしく輝く。青い果実のごとく、胸や腰の曲線にはまだ幼さが残っている。
リィーナは恥じらうように、足を閉じ、両手で胸を抱いた。
「……床に、横たわり、目を、閉じなさい」
ブルークは、切れ切れに言った。
リィーナはこくりとうなずき、石床のうえに身を横たえた。それから、おずおずと目を閉じた。両手をまっすぐ身体の横につけ、心持ち胸をそらすような姿勢を取る。
まだ硬い胸の丘は、仰向《あおむ》けになっても、その形をほとんど変えなかった。
そのあいだに、ブルークは王家の紋章が入った短剣を鞘《さや》から抜いていた。
「至高なる光の神……」
リィーナは、小声で神への祈りを捧げはじめる。
彼女の魂が天に召されることを、ブルークも心の底から祈った。
ブルークは両膝《りょうひざ》を床に落とし、短剣を逆手に持った。左手を添えて、目の高さに短剣をかざす。よく磨かれた刀身が、魔法の光を鋭く反射させる。
見下ろせば、白く輝く裸体があった。
心臓の位置を、ブルークは見定める。同時に、自らの心を殺した。娘への哀れみや禁断の所業を成すことへの畏れを捨てるのだ。魔神の軍団を率いて、ロードスの支配を目論《もくろ》む者に、人間的な感情はかけらも必要ない。
それから、おもむろに唱えはじめる。魔神王を召喚するための呪文を……
「魔神の王よ、降臨せよ! この無垢《むく》なる処女《おとめ》の肉体に!!」
呪文が完成すると同時に、ブルークは力を込めて短剣を振り下ろした。
娘の左の乳房に、鋼の刃《やいば》が深く滑りこんでゆく。ほとばしる鮮血がブルークの顔を濡《ぬ》らす。
その瞬間、リィーナの手足が跳ね、目と口が開いた。黒い瞳からは涙が、紅をさした唇からは苦痛の呻《うめ》きが洩れる。
「ナ……」
兄の名を呼ぶ形に、唇が動いた。だが、声にはならなかった。
そして、こときれた。
ブルークは、虚《うつ》ろに開いたままの娘の目を閉じてやった。
冷めた心で、ブルークは改めて娘の骸《むくろ》を見つめる。そこにある肉体は、もはや娘ではない。魔神王の魂を受け入れる器にすぎないのだ。
ブルークは、待った。
魔神王が降臨するのを……
魔法陣の外に出て、魔神召喚の呪文をもう一度、繰り返す。
しばらくのあいだ、変化は訪れなかった。
もし、魔神王の封印が解けなかったら、リィーナの死は、無駄死にになる。
だが、凍りついた心は、焦りを感じることさえなかった。
そして、ついにそのときがきた。
動かぬはずのリィーナの肉体が、ぴくりぴくりと痙攣をはじめたのだ。
魔法陣から赤い輝きが、光の柱のように立つ。
ブルークは、息を飲んで見つめた。
リィーナの肉体は全身がわなないている。だが、その震えは、次第に収まっていった。
輝きも、消えた。
目が、開いた。
瞳が真紅に燃えあがる。
口が、開いた。
嗚咽《おえつ》のようなものを洩らす。
そしてリィーナの肉体に宿ったもの[#「もの」に傍点]は、ゆっくりと起きあがった。それから、胸に突き刺さったままの短剣を両手で握りしめる。
そして、一気に引き抜く。
鮮血が泉のごとく溢れでた。
白い裸体が、真紅のドレスをまとったかのように真っ赤に染まる。
頭が、ぐるりと回った。
目が合う。
瞳は、元に戻っていた。だが、その瞳に宿る輝きは、娘のそれではなかった。この世の物とは思えぬ魔性が感じられる。
「貴様が、魔神王か……」
ブルークは、威圧するように言った
返事は、なかった。
長い舌を出し、口の周囲に飛び散っていた赤い液体をなめとる。それから、ブルークに向かってよろめく足取りで近づく。
だが、魔法陣の縁で、その動きは止まった。
「汝、我を解放せし者か?」
血色に染まった唇が、ゆっくりと動いた。
下位古代語だった。
魔神たちは古代王国期に封印されたので、剣の時代になってからの言葉は知らないのだ。
「そうだ。我こそ、汝を解放せし者」
ブルークは、胸を張って答えた。
押えきれぬ高揚感が、全身を包む。大きな犠牲を払いはした。だが、目的は果たされたのだ。
これからブルークは魔神の軍団を組織し、ロードスを征服することになる。五年のあいだに、それを果たさなければならない。その後、魔神を支配した非道の皇帝は、英雄の器を備えた皇太子によって倒されることになる。
民衆は、皇太子を讃えるだろう。非道の父を討つのは、子の使命であるゆえ。
そして、千年の安定が得られる。剣の時代が幕を開けてより、ロードスで初めての統一国家が誕生するのだ。
「魔神王よ、我に従え! 汝が支配せし肉体に結ばれし血の絆によりて!!」
ブルークは、高らかに命じた。
魔神王は、答えなかった。
無言のまま一歩を踏み出し、魔法陣を越えた。
「我は、解放されたり」
魔神王はぬめりとした笑みを浮かべ、妖艶《ようえん》に迫ってくる。それが娘の顔であり、肉体であると分かっていても、背筋がぞくりとする。
娘の肉体に降臨した魔神王を抱いたとすれば、それは背徳の極みだろう。非道の皇帝を演じるには、それもいいかもしれない。
「そうだ、我こそ汝の解放者。血の絆によりて命じる。汝、我に従え!」
顔が裂けたと見えたほどに、魔神王の口が横に大きく広がった。不気味な笑いだった。黒い双眸《そうぼう》に、残忍な輝きが宿る。
「いかにも、汝は解放者なり」
魔神王は、歌うように言った。
「それゆえ、我は自由!!」
娘の口から出てきた言葉に、ブルークの高揚感が瞬時にして冷めた。
「どういうことだ!!」
反射的に出た言葉は、ブルーク自身気づいていなかったが、下位古代語ではなく、ロードス島で日常使われる言葉だった。
「我が支配せし肉体には、汝との血の絆は存在せず。ゆえに……」
魔神王は、かっと目を見開いた。そして、虚空に向かって叫ぶ。
「我は自由!」
その叫びは、遥か彼方《かなた》に向けられたようにも、遠い過去に向けられたようにも感じられた。
「馬鹿な……」
ブルークは魔神王の言葉を打ち消そうと激しく首を横に振った。
そんなことがあるはずはなかった。
魔神王は、目の前に迫っていた。妖《あや》しい魅力が、全身から溢れている。その肉体は、まぎれもなく娘のものだ。妾妃であった母親に生き写しの……
生き写しの……
「そういうことなのか……」
ブルークはようやく叫んだ。
「ナターシャよ! これが、おまえの復讐《ふくしゅう》なのだな!!」
ブルークは、絶叫した。
ナターシャの呪いは、スカードの国土と王家とに降りかかるだろう。強力無比な魔神の軍団を相手に、いかに戦うことができよう。
滅びるしかないのだ。
王族も、貴族も、民衆も……
「すまぬ……」
ブルークはその場に崩れ、両手を床についた。
同じ言葉を、ブルークは心のなかで繰り返した。
愚かな自分を呪いつづけた。悔恨が、怒濤《どとう》のように打ち寄せる。
運命の悪戯《いたずら》というには、その結果はあまりにも苛酷《かこく》すぎた。
だが、それを招いたのは他の誰でもない。ブルーク自身なのだ。
自由奔放な女性を、妾妃として束縛したのは、いったい誰か? 若い娘の純情を利用し、魔神王の生贄としたのは、いったい誰か?
一人芝居を演じて、英雄の器を秘めた若者の未来を閉ざした道化はいったい誰か?
「呪われた島ロードス……」
ブルークは血を吐くような思いでつぶやいた。
「まさに……だな」
ブルークは、顔をあげた。魔神王が、未知の言葉で何事か詠唱していた。
ブルークの背後で、重い扉が開こうとする音が聞こえはじめた。
魔神王の手には、ひとふりの大剣が握られていた。小柄な娘の肉体には、不釣り合いなほどの巨大さだった。
魔神王は、その大剣を片手で担いでいる。
よろめきつつ、ブルークは立ち上がった。
腰の長剣に、右手をかける。何十もの魔法生物を斃《たお》してきた魔法の長剣だ。宮廷魔術師ウォートから贈られた銘のある宝剣である。
ブルークと魔神王は、正面から向かい合った。
気合いを込めて、ブルークは剣を振るった。魔神王は、それを避けようともしなかった。
左の肩から乳房まで、ざっくりと裂けた。だが、血は流れない。少女の血は、もはや流れつくしたのかもしれない。
魔神王は、魔性の笑みを浮かべた。
そして、大剣が一閃《いっせん》された。
後に、魔神王の剣≠ニも、魂砕き≠ニも呼ばれる呪われた魔剣である。
だが、ブルークはそのことを知らない。次の瞬間には、首と胴が離れていたからだ。
剣の魔力により、彼の魂が失われたことは、ブルークにとって幸いであるかもしれない。
救われぬ魂の働哭《どうこく》が、冥界で響くことがなかっただけでも……
初出
『太陽の王子、月の姫』 ザ・スニーカー 95年12月5日発売号
『血の絆』 ザ・スニーカー96年8月号