鋼鉄の虹 装甲戦闘猟兵の哀歌
水無神知宏
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)雪花石膏《アラバスター》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|人形遣い《イェーガーのり》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目次
序 章 UNDESIDED
第T章 THE LONESOME ROAD
第U章 DON'T BE THAT WAY
第V章 DOWN SOUTH CAMP MEETING
第W章 THE DEVIL AND THE DEEP BLUE SEA
終 章 GOODBYE
あとがき
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時は第二次世界大戦前夜、一九三七年五月。
物語は、中部ヨーロッパの架空国家『ケルンテン公国』山岳地帯を舞台に、開始される。
序 章 UNDESIDED
澄んだ星月夜《ほしづきよ》の山風に、森々と横たわる針葉樹の峰。いまだ人跡到りきらぬ闇の深奥、夜は密やかに息づいていた。
梢《こずえ》をめぐる小動物の瞳が、星明かりを映してきらめく。葉ずれのざわめきの下、見え隠れする青白い双眸《そうぼう》は、狐か。それとも、今や絶滅寸前にまで射ち減らされた、ヨーロッパ狼の生き残りだろうか。木末《こぬれ》に歌う|夜啼き鶯《ナイチンゲール》の優しい声。
そして…………
火線が走った。
機関砲《マシーネンカノーネ》の咆哮《ほうこう》。
微睡《まどろ》みの夜は唐突に牙を剥き、血濡れた顎《あぎと》が、贄《にえ》を求めて開かれる。
赫《あか》く尾を引く曳光弾《えいこうだん》。マズルフラッシュに浮かび上がるのは、異形の巨人[#「巨人」に傍点]だ。
鋼《はがね》の腕、鋼の足、鋼の躯《からだ》。
身長は五m程か。森をかき分け、次々にあらわれる。
巨人は次第にその数を増加させ、表情のない顔をそろって星明かりに晒《さら》した。
手にした機関砲は砲弾のシャワーを浴びせつづける。
誰に? むろん、異なる巨人の一団に、だ。
しかし、なにかおかしくないだろうか。
森を割って現出した巨人達は、重い足音を響かせながらも着実に前進し、破壊と殺戮《さつりく》をまき散らす。だが、もう一方の巨人達は、暗がりにうずくまったまま身じろぎもせず、ただ打ち倒され、崩れ落ちてゆくばかりなのだ。
と、彫像のごとくうずくまった巨人の一人が、大きく身震いし、立ち上がった。携《たずさ》えるのは三十七o口径の巨大なライフル銃。
雷鳴と紛《まご》う爆音と、閃光が、すべてを圧して轟《とどろ》きわたった。
森から現れた巨人の一人が、胸の真ん中を打ち抜かれ、倒れた。しかし、仲間の死に恐怖するでもなく彼らは、相も変わらぬ無表情で前進を続ける。
光条が、集中する。
ぼろ切れのように打ち倒され、ライフルを撃った巨人は臥《ふ》した。
彼らに命は宿っていない。
|Panzerkampfjager《パンツァーカンプイェーガー》――戦闘装甲|猟兵《りょうへい》。古い歴史を持つヨーロッパの小国、ケルンテンの誇る、人型戦闘兵器である。
しかし、地上において無敵を謳《うた》われた彼らが、こうも簡単に蹴散らされるといはいったいどういうことだろうか。
理由はいくつかある。
一つに、彼らが野営中であって、鋼鉄の躯に生命を吹き込むはずの搭乗兵、つまり『人形|遣《つか》い』達を機体の中に納めていなかったこと。
もう一つは、これが完全な奇襲であって、人形遣い達は攻撃を夢想だにできなかったということ。
そして最後に、この卑怯《ひきょう》な不意討ちをおこなった正体不明の敵が、やはり装甲戦闘猟兵を装備していたということ。
これらの条件が重なって、ケルンテン公国軍の巨人達は、その秘められた力を万分の一も示すことが出来ず、いたずらに討《う》ち果《は》たされる結果となった。
もはや|夜鳴き鶯《ナイチンゲール》は歌わない。小動物達は巣に潜《もぐ》り込んで身を隠し、木々の梢は硝煙《しょうえん》と弾痕《だんこん》で引き裂かれ……森は死の静寂をたたえる。
ただ、遥《はる》か高みからこの殺戮《さつりく》を見おろす星々だけが、常と変わらず瞬《またた》いているばかりだ。
圧倒的な勝利を納めた陣営の巨人の一体が、腹部を大きく開いた。
中からあらわれたのは、漆黒《しっこく》の制服と乗馬ブーツに身を固めた、長身の男だ。それほど歳はいっていない。せいぜい三十前半だろう。
彼に向かって、巨人の一人が話しかける。むろん、聴覚の鋭い者なら、それが電気的手段を用いて増幅された人声だと気付いただろう。
「敵は、壊滅《かいめつ》状態であります、大佐殿《ヘル シュタンダルテンフューラー》!」
男は少し不愉快そうに、顔をしかめた。
「その呼び名はやめろと言っている」
「し、失礼しました。司令官閣下」
男は硝煙混じりの夜風に髪をなびかせ、小さくこうつぶやいた。
「これでケルンテンは異変に気付いてしまうな。彼らが真実を突き止めるのが先か……それとも我々の……」
そこまで言うと男は、後ろに控《ひか》える巨人達に、大声で命令を発する。
「速《すみ》やかに退却する。我々が存在したという痕跡《こんせき》は、絶対に残さないように」
操縦席前面の装甲板――大きく開いたように見えた腹の部分――を閉じる直前、彼は今までとは別の臭いが夜気に混入したことを覚《さと》って、嫌な顔をした。
涼やかな高原の、緑の吐息を台無しにしてしまったそれは、大量に流された人血のものだった。
[#改ページ]
第T章 THE LONESOME ROAD
遥《はる》か遠く見上げる蒼穹《そうきゅう》に、細い雲が掃《は》かれてゆく。微かな爆音が、そよ吹く風と混じりあって、耳に低く届いた。
(空冷の十二気筒……GFMW社のエンジンか……多分……ゼーヴェリング社の『鷹《ファルケ》』だな。バリバリの新型戦闘機じゃないか……)
少年は萌《も》え始めた芝の上に座り込み、まっすく昇ってゆく戦闘機雲を視線で追いかける。機体のシルエットをはっきり確認するには距離がありすぎた。ケシ粒ほどの黒い点が見えるだけだ。ゆっくり空を横切っていくその後ろに、純白のレース編みが残されてゆく。藍色《あいいろ》の絨毯《じゅうたん》を滑る、花嫁の裳裾《もすそ》。
しばらくのあいだそうやって空を見上げていた彼は、やがて大きくのけぞらせた首を引き戻し、数回左右に振る。ちぇっ、と小さく舌が鳴った。
ざあっ、と音を立てて梢《こずえ》が揺れ、少し遅れて灰色の髪が風になびく。
「んん〜〜ん……あーあ……」
ひとつ伸びをすると、そのまま仰向けに倒れ込んだ。頭の後ろに組んだ手を枕に、ふたたび天を仰ぐ。
五月の空はどこまでも碧《あお》く澄んで、高い。だだっぴろい演習場の片隅《かたすみ》、やわらかい陽光に落ちる木陰が、少年の細い体を優しく抱きとめた。
しかし、少年の表情には灰色の雲がわだかまり、いっこうに晴れる気配もない。彼は青空から目を外らすように、ぐるりと首を回した。
左手一qほど先に、煉瓦《れんが》作りの古めかしい兵営がある。五世代ほど前に住人のいなくなった湖上を接収し。軍施設として利用しているのだと、入営初日に聞かされていた。もちろんそれは、夜な夜な自分の首を探して歩き回る騎士の幽霊とか、密通が発覚して壁に塗り込められた奥方の啜《すす》り泣きとか、月のない夜になると聞こえてくる、欧州大戦時に全滅した小隊の点呼《てんこ》とかいう、お決まりの伝説が一ダースほどくっついていた。
けれど今、明るい陽差しを受けて佇《たたず》む連隊本部は、子供のころ聞かされたおとぎ話のお城のようだ。そこにはたいてい、王様と王子様、悪い継母、イバラの奥で眠り続けるお姫様や、好奇心に溢れる王妃様、女中に身を落とした王女様などがいて、悪人はこの世の春を謳歌《おうか》し、心正しき人々は艱難辛苦《かんなんしんく》に喘《あえ》いでいた。ところが物語は、ざまざまな紆余曲折《うよきょくせつ》と試練を経た末に、驚くべきご都合主義によって、「それから二人は、ずっと幸せに暮らしました」で終わるのだ。
少年はつまらなそうに、ため息をついた。続いて右手を眺めやる。その表情はいっそう暗さを増した。
(……情けないなぁ……)
もうひとつ、ため息が漏れでる。苦い自己嫌悪が、さざなみのように胸によせた。
視界の先には一体のイェーガーが、頭から大地にめり込んだ姿のまま、身体を二つに折るようにして横たわっている。膝《ひざ》関節は二つとも完全に潰れ、腰部は変な方向に捻《ねじ》れ、左手の指もグシャグシャに折れ曲がっていた。右腕に至っては、肩先からすっぽりと脱落している。
つい五時間前までは、多少年期が入っているとはいえ、完全作動状態の機体だったのだ。彼が乗り込んで、模擬《もぎ》格闘戦を行うまでは。
この部隊に配属されてから、数えて三機目だ。
(向いてないのかな……?)
さらにため息。
見え透いたフェイントに誘われたりしなければ。
組み付かれたとき、相手の右手が自分の肩を押さえつけていたことに気付いていれば。
不利な体勢から、逆転を狙って相手の機体を投げ飛ばそうとしなければ。
足下の地面が、昨夜の雨で滑りやすくなっていることを思い出していれば。
せめて受け身をとって機体を転倒させていたなら。
転がったイェーガーから這《は》い出す自分に向けられた、同僚達の呆れたような、蔑《さげす》むような眼つきを思いだす。羞恥心《しゅうちしん》と絶望が、ふたたび胸にせりあがり、彼は身悶《みもだ》えして寝返りを打った。
落ち込むばかりなので、考えるのはやめることにした。
現実から目を外らすがごとく、スクラップと化したイェーガーに背を向けた。波立つ胸の内に収拾をつけることができず、しばらくは「ああ」とか「う〜」とか唸《うな》りながら芝生の上をころげまわる。
芋虫《いもむし》じゃあるまいし、人がみていないところでのたうち回るのも、これはこれで恥ずかしい行為だと思い至った彼は、元気なく手足を投げ出し、ふたたび仰向けに姿勢をさだめた。嫌な現実ばかりが横行する下界から、自分の精神を切り放すべく、眼を閉じる。
そんなことを続けるうちにも、健康な身体の機能は、消耗した体力を取り返すべく正常に作動を続けていた。閉じた瞼《まぶた》の裏側に、やがてさらさらと眠気が打ち寄せてくる。
うららかな陽差しは、少年の生理にこの際|顕著《けんちょ》な影響力を及ぼした。しどけなく開かれた唇からは、ゆっくりとしたテンポで寝息が流れ出す。
だから彼は、さくり、さくりと草を踏んで近付く足音に、全く気付かなかった。
「おい」
「……ん……」
何者かに呼びかけられて、少年はいちど、うるさそうに寝返りをうった。
「……こら」
軽く頭のてっぺんを蹴飛ばされ、ようやく薄目を開ける。
視界に現れたのは、やたらと背の高い青年士官だった。ざっと六フィート五インチ(約百九十五p)。袖章《そでしょう》は一本線に星二つで、彼が中尉の階級にあることを示している。見下ろす青灰色の目は非友好的な光に染められて、腕組みした右手の人差し指が不機嫌なリズムを刻んでいた。
「……なんだ、先輩か……」
「なぁにが、先輩か≠セ、この野郎。演習場五周はどうした?」
「あと三周残して力つきました。報告書には訓練中に心臓|麻痺《まひ》で急逝《きゅうせい》した、って書いといてください」
たっぷりと後悔を吸い込んだ重い胸を、虚勢《きょせい》という脱水機に無理矢理押し込め、少年はせいぜい軽い口調で答えた。
「あのなぁ、ディー……」
先輩と呼ばれた青年が、手のひらで顔を覆ってため息をついた。
それでもなんとか気を取り直し、軍隊における序列と統制の重要性とか、公私の区別を明確にさせる必要についてひとくさり訓戒を垂れる。
「……だからして君に新しい任務を与えるに当たってだな、我が国土を安んじるべく祖国に命を捧げた軍人としての礼節と自覚を……このやろ、聞いてんのか? ディートリヒ・バルクライン伍長!!」
「うあ?」
おかしな返事になったのは、鼻の頭にとまった薄紫色の蝶が、ディートリヒ少年の注意力を独占していたからだ。美しい色合いの翅《はね》を持つ昆虫は、ふいと風にのって飛び去ってしまった。
「あ〜あ、逃げちゃった」
「ディーよぉ……頼むぜ、おい」
情けない表情で俯《うつむ》いた若い士官の手が、肩に置かれる。
ディーはしゃあしゃあとこう言った。
「わかってますって、先輩。軍人としての礼節と自覚をもって励《はげ》むべし≠ナしょ。連隊長の決まり文句じゃないですか。いつもは頭からバカにしてるくせに、こういう時ばっかり常識ぶるんだから」
「あのな、階級で呼ぶようにと、いつもいつもいつもいつも!……言ってるだろ」
「はいはい。了解であります、ヨアヒム・ヴァルター中尉どの」
ディーはふざけた調子でそう受けると、立ち上がっていい加減な敬礼をしてみせた。諦《あきら》め顔のヴァルターが、それでも拳で頭を小突く。
「……ったくまあ、口ばっかり達者《たっしゃ》になりやがって。同じくらい腕も上がってれば、俺の苦労も多少は減るんだがな、バルクライン伍長?」
いささか刺《とげ》のある言葉に、一瞬、ディーの眉根《まゆね》が寄せられる。落ち込んだ表情の名残《なごり》が、口元を掠《かす》めさった。
「努力はしてるんだけど……」
「その結果がこれか≠ゥ?」
細い顎《あご》をしゃくるヴァルター。そこにはディーの未熟な腕の証明――つまり、大破した訓練機が、無惨な骸《むくろ》を晒《さら》している。
演習場五周、ざっと見積もっても八十qの長距離走は、この結果に対して下された、恐ろしく寛大な処罰だった。
「整備班が泣いてたぜ。あれじゃ修理のしようがないとさ」
「だってあれは……バランサーのフットペダルが滑って……」
もごもごと口の中で呟かれた釈明《しゃくめい》は、ばっさりとヴァルターに切り捨てられた。
「実戦でも、敵に向かってそう言い訳するさ」
残念ながらなにも言い返せない。旗色が悪くなったのを悟り、即座にディーは退却を決意した。
「じゃ、とりあえず僕は残りの三周走ってきますんで……」
厳しい追及をかわすべく、なんとかこの場から逃走しようとする。が、素早くそれを察知したヴァルターの右手が、襟首《えりくび》をぐいとひっ掴《つか》んだ。
「こら」
思わず首を竦《すく》めるディー。
「いや、だってほら、早くしないと日が暮れて、真っ暗になったらこんなとこ、とても走れないし、今日は新月だから、ほら、亡霊小隊に点呼《てんこ》を取られてあの世に連れて行かれちゃうかもしれないし、僕、幽霊苦手だから……」
呆《あき》れ返った様子のヴァルターに、無理矢理後ろ向きにされて、ようやく口を噤《つぐ》む。
「ディー、お前、何聞いてた?」
「?」
「新しい任務って……言ったろ? 俺」
「えっ……そうでしたっけ?」
「そうだよ」
沈黙。ひときわ強い風が二人の間を走り抜け、軍服の裾《すそ》をはためかせた。
やがてどちらからということもなく、間の抜けた笑声が湧きあがる。
「へへへへ」
「ふふふふふ」
「あはははははは……ってぇ」
拳固が一発、灰色の頭を見舞った。
「笑い事じゃない。この阿呆《あほう》」
頭を抱えてうずくまるディーに向かい、後ろに手を組む。この時ばかりは有能な軍人の顔になり、ヨアヒム・ヴァルター中尉は、厳しい声で告げた。
「ディートリヒ・バルクライン伍長に命ずる。直ちに身の回りの品をまとめ、十五分後に連隊司令部前の駐車場《ちゅうしゃじょう》まで出頭するように」
「了解。バルクライン伍長、十五分後に連帯司令部前の駐車場に出頭します」
駆け出しとはいえ、さすがにディーも軍人だった。跳ね起きて背筋を伸ばし、命令を復唱する。
敬礼は意外と板についていた。軽く応えるヴァルターの前で、くるりと踵《きびす》を返し、駆け去ろうとする。と、二、三歩行ったところで振り返り、期待に満ちた眼差しを向けてヴァルターに訊ねた。
「先輩、じゃあ残り三周は……」
彼は澄まし顔でこう答えた。
「心配すんな。任務が終わるまで覚えといてやる」
「そら、乗れよ」
身体を横に倒しながら、ヴァルターが助手席のドアを開けてくれた。
2シーターのオープンカー。流れるようなホイールカバーのラインが、ため息を誘うほど美しい。地を這《は》うようなフォルムに、メタリックシルバーの塗装がとてもよく似合っていた。
BMW328。今年二月に、隣国ドイツの著名な自動車メーカーから発売されたばかりの、高級スポーツカーだ。
「うえ〜、高そ……」
気後《きおく》れしてしまい、ドアを開けるのでさえおそるおそるといった体で、ディーは助手席に腰を下ろした。とたんに車は、甲高いホイールスピンの音を残して発進する。
「ぎゃっ!」
不意を突かれてひっくり返るディー。持っていた南京袋《なんきんぶくろ》にのしかかられて、手足をじたばたさせる。みっともないその姿を、ヴァルターが運転席から笑った。
「この程度でコケててよく|人形遣い《イェーガーのり》≠ェ務まるな」
「ほっといてください」
ずりずりと這い上がってようやく体勢を立て直したディーは、ふくれっ面で答えた。あどけない横顔は、若いというよりも、やや幼い印象を与える。肉付きの薄い胸や、さして広くもない肩幅、ひょろっと長い手足が、よけいにその感を強めていた。
車は基地の正面入口でいったん停まった。顔見知りの歩哨《ほしょう》が、軽く敬礼してからゲートを開きにかかる。
「おでかけですか、中尉?」
「ああ、極秘任務で参謀本部に出頭だ。もう還《かえ》って来れないかもしれん」
「そんなこと言って、また伍長に悪い遊びを教え込もうってんでしょう?」
「ハハハ……あたり、だ」
「ごくろうさまです、お気をつけて」
おどけた調子の捧げ銃《つつ》に、ヴァルターは指をちょっと振って答えた。後ろに遠ざかる歩哨が見えなくなってから、ディーは猛然と噛みついた。
「先輩! さっき任務だって言ったじゃないですか!?」
「言った」
「じゃあ、悪い遊びってのは何です!?」
「酒と女とギャンブルじゃないか? 一般には」
「そうじゃなくて!!」
「違うヤツか? そいつぁ少しばかりヤバいぞ。どうしても、っていうなら教えなくもないが……」
「ち・が・い・ま・す!!」
憤激のあまり頬《ほお》が紅潮する。ヴァルターの腕が伸びてきて、灰色の髪を乱暴にかき回した。
「そう怒るな。冗談だよ」
「どれが、です?」
すげなくその手を払うディー。ヴァルターの肩が軽くすくめられた。
「本当に任務だ。ついでに言っておくと、極秘だっていうのも、還《かえ》って来れないかもしれないってのも嘘じゃない」
「……本当に?」
「くどいね、バルクライン伍長。上官の言うことが信じられないのか?」
「上官の人格によります」
「つまり、全面的に信頼してます、ってことだな」
「……よくもまあそれだけ都合のいい解釈ができますね」
「数多い長所の一つさ」
いつも通り言い負かされて、ディーはため息をつきながらシートに深く身をあずけ――みるみるその表情がこわばった。顔は着ている軍服と同じくらい、鮮やかな青に染まり、額にはみるみる脂汗《あぶらあせ》が浮きでる。
「先輩……」
「ん?」
「……どんくらい出てます? スピード……」
「んー。七十五マイル(時速約百二十q)だな」
スピードメーターを覗《のぞ》き込んだヴァルターがのんきな調子でそう言った。
美しいポプラの並木が、次々と視界の後方に飛び去ってゆく。青々と波打つ麦畑は世界ごと急旋回して、彼の三半規管を激しく揺さぶった。
『これよりはブーヘンドルフ市』の標識を確認する間もなく、車は市街地へとさしかかる。まだゲートを出てから三分と経っていない。軍用のトラックで行くと最低十五分はかかる道程なのに、だ。
「ああああああぶない!!」
先行車両のテールが急激に迫ってきた。
衝突する! そう思った瞬間、車は軽快な挙動《きょどう》で対向車線に飛び出し、黒塗りの高級車を抜き去る。
「俺の腕を信用しろって」
鼻歌交じりにヴァルターが請《う》け合《あ》った。
「そりゃ、先輩が草レースの帝王だってことは聞いてますけどね! 僕がスピード恐怖症だって……」
座席から投げ出されかけたディーは、そこまで言ってから、対向車の存在を知覚して顔をこわばらせる。
「ひ……」
「よ、っと」
稲妻《いなづま》の如く姿勢変更して、もとの車線に飛び込むBMW。
「子供じゃあるまいし、ぎゃあぎゃあ騒がないの。もう十六……だったよな?」
「来月で十七です! 前見て、前!」
声まで青ざめたディーが注意を促《うなが》す。右フロント数十pの所を、ポプラの幹がすり抜けて行った。あとすこし、車体が右に寄っていたら、彼の体は綺麗な放物線を描いて、大地にたたきつけられていたはずだ。
一方、彼の命を危険に晒《さら》している張本人といえば、感慨深げに目を細め、何度も何度も頷《うなず》いている。
「十七ねえ……もう四年になるか、初めて逢ってから」
「三年ちょっと。四年にしたければもう少しスピードを落としてください!」
ディーは器用にも訂正と懇願《こんがん》を同時にやってみせた。ヴァルターは少し口の端を吊り上げてから、アクセルを戻した。
「こっから上が美味《おい》しいとこなんだが……」
「僕はスピードより命の方が好きなの!」
「それでよく戦闘機パイロットなんか志望してたな」
何気ないヴァルターの言葉は、しかし、ディーを激しく動揺させた。
「…………」
軍服の右胸に縫い付けられたエンブレムを、少し引っ張って、複雑な視線を投げかける。五pにも満たない盾型の金属片に、手甲の浮き彫り。
|人形遣い《イェーガーのり》達は皆、この記章を胸に飾っている。さり気なく、まるでそんなことは少しも重要ではないのだというように。
けれどこの国の人間なら、三つの子供でも知っている。エンブレムの裏に隠された、さまざまなことがらを。
燃えるような希望と、餓えにも似た憧《あこがれ》れ。
熾烈《しれつ》な競争と、過酷な訓練。
類希《たぐいまれ》な才能と、不断の努力。
流された汗と、教官の鉄拳。
そして……落伍者達の悔し涙。そういった想いと、積み重ねが、この小さな金属片と一緒に縫い付けられていることを。
彼らは皆、この小さな記章を胸に飾る。さり気なく、そしてほんのちょっぴり、誇らしげに。
だが、ディーにとってだけを論ずるなら、これらの常識はあてはまらなかった。
「僕は……その……」
「まだパイロットの夢があきらめきれない、か」
奇妙に優しい声で、ヴァルターが後を引き受ける。
彼は憶えていた。三年と少し前に、山奥の小さな鉱山町で出会った少年のことを。
親を事故で失ったわずか十三歳の少年が、ただ空への憧れだけを糧《かて》に、辛い労働に耐えていたことを。陸軍の航空機搭乗員応募資格を得るため、夜間労働で疲れた体を引きずってハウプトシューレに通い続けていたことを。週三回やってくる郵便機を見るため、町外れの草飛行場で金網にへばりついていたことを。
そして、ようやく資格を得て臨《のぞ》んだ試験の結果が不首尾《ふしゅび》に終わり、一晩泣き明かした十五のディートリヒ少年を、彼は憶えていた。
「戦闘機乗りからわざわざ転科して、|人形遣い《イェーガーのり》になろうってやつもたくさんいるんだぜ? だいたい試験だってこっちの方がずっと難しいのにな」
「しょうがないでしょう! なりたかったんだから」
「でも落ちた」
これ以上はないというくらい簡単に斬って捨てられ、ディーは言葉に詰まった。何かを言い返そうとしたが、事実は動かしがたい。結局ぼそぼそと、いいわけがましい反論を試みるくらいしかできない、
「……あんな対G(加速度)試験があるなんて思わなかったから……」
「ああ、聞いた聞いた。遠心力テスト装置で、噴水みたいにゲロ撒《ま》き散《ち》らしたってな」
「どうせ!!」
ヴァルターを睨《にら》みつける。その眼光は一見鋭く感じられた。
が、それは上辺《うわべ》だけの取《と》り繕《つくろ》いにすぎないことが、ヴァルターにはよく分かっていた。あどけなさを残す唇には、怒りではなく、屈辱に耐えるために固く引き結ばれていたし、見開かれた灰色の瞳は、まるで飼い主に見捨てられた猫のように頼りな気で、潤《うる》んだように揺れていた。
最初、試験は順調だった。学科試験の結果は満足の行くものだったし、面接もソツなくこなせたと思っている。体力測定は十二種目中五種目で一番の成績をおさめ、健康診断の結果はきわめて良好。自分でも合格は間違いないだろうと、ほとんど確信していたのだ。
が、しかし。運命の女神は、最後の最後になってディーの背中を突き飛ばし、彼を奈落《ならく》の底へと突き落としたのである。
最終科目、対加速度耐性検査。
試験官は何気ない調子で、そこに座るように、と言った。指さした先には、みすぼらしい合成|皮革《ひかく》のシートがあった。ディーは、自分の本能が最大音量で危険信号を発していることに気付いていた。
早く逃げろ、このままじゃ危ない、すぐに廻れ右して、会場を飛び出して、一目散《いちもくさん》に自分の部屋に駆け込んで、頭からベッドに潜り込んで、そのまま二度とパイロットになろうなんてことを考えるな! と。
だが、彼は本能の発した忠告を、無視した。あれほど憧《あこが》れていたパイロットへのパスポートが、ほんの少し手を伸ばせば届くところまで降臨《こうりん》してきているのだ。ここで逃げ出せるわけがない!
鉄製のアームの先端に取り付けられた座席が、何気ない顔で皮製のベルトをディーの手足と胴体に伸ばす。裏に悪魔の微笑みを隠したまま。
試験官がスタートの合図をした。視界の片隅で、緑色のランプが点った。部屋がゆっくりと回転し始めた。いや、そうじゃない。回転しているのは自分の方だ。
身体が硬直し、心臓は壊れたメトロノームみたいに、調子っぱずれの拍を刻む。冷や汗が流れ、視野が狭窄《きょうさく》し、頭はがんがん痛みだす。
みすぼらしい合成皮革のシートは、グロテスクな鉄パイプや回転する台座と結託して、丁度反対側にある支点を中心に回転を速めてゆく。それにつれて、彼の身体にかかる不可視の戒《いまし》めは、輪を狭《せば》めてゆく。頬《ほお》を後ろに引っ張り、骨をきしませ、内臓を揺さぶり、身体をシートにめり込ませる。
やがて回転は縦方向のそれを交えはじめた。その度に彼の血液は頭と足とを往復し、内臓はでんぐりがえしになる。
試験官は何事か叫んだようだった。
ディーは聞いていなかった。
彼は身体と心を遠心分離され、ついでに三時間前に取った朝食も分離された。身体はシートにくくりつけられたまま回転を続け、投げ出された精神はそのまま宇宙の深淵《しんえん》に沈んでいた。
もちろん結果は不合格。その後、見かねたヴァルターの勧《すす》めで、装甲戦闘猟兵《パンツァーカンプイェーガー》搭乗員採用試験を受けた。本来飛行搭乗員試験より数段難しいのだが、結果はあっさり合格。地上兵器たるイェーガーに耐G適性が必要なはずもなく、ディーは優秀な成績で訓練課程に進むことが出来た。
口を開き、さらに何かいいつのろうとしたディーだが、感情と記憶の奔流《ほんりゅう》を上手く言葉に翻訳しなおすことができない。何度か喘《あえ》ぐように口を開閉した挙げ句、泣きそうな表情で横を向いてしまった。
ヴァルターは少しきまり悪そうに言った。
「気持ちはわかるが……」
しばらく沈黙が続いた後で、あさっての方角に顔を向けたまま、ディーはいくらか投げやりに答える。
「……わかってませんよ。先輩、すぐにあの町から出て行っちゃったじゃないですか。ちゃんと第一志望のイェーガー搭乗員採用試験に合格して。そんなんで僕の気持ちなんかわかるわけないでしょう」
行儀悪く足を投げ出す。
「まあ……そうかもな……」
いくらか不分明な調子でヴァルターが語尾を濁《にご》し、そのまま車内の会話が途切れた。
道路はいつの間にか真新しいアスファルトの舗装《ほそう》から、時代を感じさせる石畳のそれへと、面差しを移ろわせている。低いエグゾースト、フロントガラスの風切り音、それから、街特有のさんざめき。このあたりまでくるとさすがに車通りも多い。当然先程のようなアクロバットを演じるわけにもいかず、ヴァルターの運転もおとなしいものだ。
参謀本部のある公国首都ラヴァンタールまでは、ブーツドルフを抜けて、さらに国道を北上しなければならない。
先輩がこの調子で運転するなら、だいたい一時間半ってとこだろう。日が暮れるまでに着かないってことはないはずだ。ところで任務ってなんだろう……
ふくれっ面のままそんなことを考えながら、視界を流れる風景にぼんやり見入っていたディーの耳に、低い声が届いた。
「振り向くなよ、ディー」
「えっ?」
一瞬何のことかわからず、身を起こす。ヴァルターは視線を前に向けたまま、特に緊張した様子もなく、言った。
「尾《つ》けられてる」
さっ、と頬《ほお》に緊張が走るのは、やはり彼がヴァルターに及ばない点ではある。目線だけを動かしてバックミラーを覗《のぞ》くと、軍用の輸送トラックが鏡面いっぱいに広がっていた。
「あのでかい奴がですか?」
「いや、その後ろ」
もう一度目を凝《こ》らすとようやく、トラックの後ろに見え隠れする、くすんだ灰色の国産車が確認できた。
「……いつから?」
「街中に入ったあたりかな。結構回り道してやったんだが、ちゃんと目立たないようについてきてやがる」
「先輩、いったい何やったんです」
「なんだ、お前の知り合いかと思ってたよ」
「こそこそ後を尾《つ》けてくるような、恥ずかしがり屋の知り合いはいません」
「となれば、やっぱり例の『任務』関係だろうな」
「そんくらい僕にだってわかりますよ。一体何なんです、その『任務』ってのは?」
「すぐにわかるさ。それより奴を……」
ヴァルターは瞬間、鋭い視線をミラーに投げかけた。
「……どうしたものかな、バルクライン伍長」
「何をさせられるのかも知らないのに、分かるわけないでしょう。先輩はどうするつもりなんです」
「そうだなあ、エスコート付きで参謀本部に乗り付けるのも、悪くないな。街中で鉄砲ぶっぱなしてくるわけでもないだろうから」
「悠長《ゆうちょう》ですねえ。まあ僕は構いませんが……」
「お、なんか不服そうだね」
「そそ、そんなことありませんよ。じゃあ、このまま知らんふりしておきましょう。そうだ、それがいいかも知れませんね。ほら、これから極秘任務だってんだから、そりゃちょっとは身を慎《つつし》んだ方がいいでしょうし、それにせっかく、相手が大人しくしてくれてるんだから、ここでよけいな波風たてなくても……」
べらべらとまくしたてるディーの背筋を、嫌な感覚が這《は》い昇ってきた。急に胃が重くなり、冷や汗がわきの下を伝った。頭の中で、危険を伝える信号弾が舞い狂った。
おそるおそる、横目で隣を盗み見る。
ヴァルターが、にやり、といやらしい笑みを浮かべた。
「うんにゃ、やっぱブッちぎる!」
高らかな宣言より、車が百八十度回転する方が早かった。
「うわあぁぁぁ!! やっぱりいいぃぃぃぃ!!」
タイヤの軋《きし》みと、ディーの悲鳴。さて、どちらが大きかったろう。鮮烈なスピンターンの余波を喰《く》らって、平和な午後の街角は一瞬にして消え失せた。
車道を外れ、カフェにつっこむトラック。毎秒九・八mの加速度で落下する買い物袋。摩擦《まさつ》抵抗によって、減速を余儀なくされる黒パンの塊。悲鳴を上げつつ分解されてゆく白磁のコーヒーカップ。火の点いたように泣き出す子供。よろめきながらスカートを押さえる若い女性。ひっくり返る老人。腕を振り上げて抗議するネクタイ姿の青年。
巻き上げられた砂塵《さじん》と、クラクションの怒号に包み込まれた混乱は、すぐ遥《はる》か後方に消え去った。
続いて、アールヌーヴォー調の街路灯と、綺麗に飾り付けられた婦人服店のショーウィンドウが猛烈な勢いで突撃してくる。
鉄、オイル、ガラス、ゴム、シルクのドレスを纏《まと》った女性のドレッサー、それから男ふたりの複合的衝突はしかし、ヴァルターの奇跡的なハンドル捌《さば》きとアクセルワークによって、未然に回避された。
偶然そこに居合わせたばかりに、確実に数分ずつ失われた、罪もない通行人達の寿命に対し彼は、芝居がかった敬礼ひとつで哀悼の意を表す。
対するディーには、残念ながらそれほどの余裕はない。皮製のシートに強く背中を押しつけて、喉元にせり上がる心臓を飲みくだすのに精一杯だ。
当然そんなことお構いなしで、直列六気筒はさらなる雄叫《おたけ》びをあげ、タイヤは石畳の街路を激しく切りつける。
「へえ。ついてくるぜ、あの野郎」
口笛で、儀仗兵《ぎじょうへい》のファンファーレをひとくさり奏《かな》でるヴァルター。その言葉通り、灰色のセダンはよたよたしながらも、後方百ヤードほどの位置を占めていた。
「んじゃま、フルコースでおもてなしと行こうか」
「もう満腹ですよう……」
「そんだけ口がきけりゃあ大丈夫だろ!」
正面衝突しかけた路面電車を避けるついでに、キャンパス地で囲まれた工事現場へ突っ込む。布地が風をはらむ鈍い音と共に、銀色のスポーツカーが飛び込み、続いて灰色のセダンが突入する。
次の瞬間、都会の真ん中にぽっかり開いた、石造りの秩序を組み上げるための舞台は、押し寄せるエントロピーの波に対抗すべくもなく、混沌の渦へと吸い込まれた。切り出された石材の間を、四つの車輪すべてを滑らせつつ、真横になったBMWが通り抜ける。五秒遅れて、全く同じ角度、同じスピードのセダンが通過。後には巻き上げられた粘土質の塵芥《じんかい》が残る。
「いい腕だっ!!」
絶妙のカウンターをあてながら、ヴァルターが敵手に賞賛を送った。段差の多い地面に置かれた渡し板をしならせつつ、リズミカルなシフトアップ。残土の小山を乗り越え、一瞬、空中へと身を躍らせるBMW。腹を露《あらわ》わにしたすぐ後に、サスペンションをフルボトムにして着地する。必死にドアにしがみつき、ディーは振り落とされるのを防いだ。右タイヤが踏みつけにしたセメント粉が、もうもうたる煙幕を後ろに残す。
「……まーだついてきやがる」
フロントガラスと車体を真っ白に染め、セダンは煙の中を突っ切っていた。
巧みにテールをスライドさせつつ、手足のように扱うヴァルター。砂利《じゃり》の河と水たまりを横断し、資材|搬入《はんゆう》口から飛び出す。
ふたたび街の真ん中で、派手な追撃戦が展開される。道行く人々は、何事がこの歴史ある美しい街に起こっているのかと、怪訝《けげん》な顔をして二台の車を見送った。ヴァルターが愉快そうに眉をはね上げる。
「お。いいもん見っけ」
それを聞いた瞬間、ディーの顔に残っていたごくわずかな血液は、足の裏めがけて急降下した。さして卓越しているとはいえない彼の視力でも、前方に存在する踏切をはっきり確認することができたからである。
「先輩!」
声はいつもより、確実に一オクターブ半高い。精一杯の抗議は、次のような返答によって、完全に無視された。
「ちょっと揺れるぜ。舌、噛むなよ」
飛び込んだ踏切のなかほどで、右へ九十度、車体が振られた。とたんに、激烈な上下の振動が二人を襲う。銀のBMWはレールを跨《また》いで、枕木の上を疾駆《しっく》していた。
「おおおおお、まああああだ、ついてきやがるせえええええ!」
足と尻から伝わるバイブレーションと、声帯の振動が、ヴァルターの言葉で非音楽的な結合を果たしている。
カクテルシェーカーの中に入れられたって、これよりずっとマシに違いない。そうディーは思ったが、口に出す努力はとっくに放棄していた。昼に食ったライ麦パンが、逆流しそうになる。忌《い》まわしい記憶が浮上して、胃が締め付けられるような感じがした。
今にも吹き飛びそうなバックミラーの中で、例のセダンが果敢にも、ヴァルターの暴走行為に追随していた。
思いきり舌打ちのひとつもしたいディーだったが、打つより先に噛み切ってしまいそうだったのであきらめる。
二分の間に転轍機《てんてつき》を三つ、何とか横転もせずに乗り越えた彼らは、ブーヘンドルフ駅の構内へと突入した。
汽車を待つ人々がどよめく。蒸気機関を動力とする恐竜達のためだけにあつらえられた聖地が、内燃機関の心臓を持つ新参者たちに荒らされているのだ。
誇り高い国営鉄道の職員達は、カンテラを振り回し、制帽を投げつけて、異端者共に天罰を加えようとした。ばさっと音がして、ディーの顔に、一九三七年五月期の時刻表がへばりついた。大きく開いたそのページには、グリューネブルグ行きの急行列車が、十五時四十七分ちょうどに、ブーヘンドルフ駅の三番ホームに到着すると記されている。
が、彼がその事実を認識したのは、時刻表のおかげではなく、転轍機によって大きく右に曲がり、正対コースに偉容を現した蒸気機関車と、もくもくと吹き上がる煤煙《ばいえん》によってだった!
「ひ……!!」
悲鳴が喉《のど》に張りついて、形をなさなかった。かわりに、黒鉄の恐竜が咆哮《ほうこう》した。空気を切り裂く警笛。鉄輪から飛び散る青白い火花。
突然、地平は左に六十度まで傾いた。
地平だけでなく、線路も、黒光りする蒸気機関車も、立ち昇る黒煙も、駅のホームとその上の旅行客も、みんな左斜め六十度に傾いた。BMWは左輪を高く、高く持ち上げ、その前輪は、限度いっぱいまで右に切られている。
車が横転し、二人の首を地面に叩きつけるその寸前。絶妙のバランスで、冷たく光る鋼鉄の蛇《くちなわ》から逃げ出し……。
突進してくる蒸気機関車に、身体を捻切《ねじき》られるその寸前。すれすれのタイミングで、咆哮する鋼鉄の顎《あぎと》から身を躱《かわ》す。
美しいテールエンドに、わずかな傷すらのこすことなく、BMWは虎口《ここう》を脱した。
そして――背後の衝突音。何か重い塊が、地面を転げ、のたうちまわる気配。
おそるおそる、ディーは振り返った。まずその目に飛び込んできたのは、ようやく停止した急行列車の、長々と横たわる姿態だ。次に、自分と同じくおっかなびっくり線路を覗《のぞ》き込む、人々の様子。それから……後半分をざっくりと削り取られ、無惨な姿を晒《さら》す、哀れなセダンの残骸。
「あちゃー、気の毒に」
ヴァルターが言った。
他人事《ひとごと》みたいに……と、ディーは思ったが、いまさらなにを言っても取り返しのつかないことはよくわかっていたので、とりあえず黙っていた。
ヴァルターはしばらく、どうするか考える風だった。腕を組み、鼻を鳴らし、頭を掻く動作を三回ずつ繰り返したところで、彼はこう呟《つぶや》いた。
「……騒ぎが大きくなる前に退散するか」
これより大きな騒ぎとは一体どのような事態を指すのだろうと、ディーはぼんやり考えた。
すっかり薄汚れてしまったBMW328のギアを入れたヴァルターが、つま先で軽くアクセルを踏んだ。車は砂利《じゃり》と枕木の上を、ごとごといいながら走りだす。
「素人《しろうと》め……」
吐き捨てるようなヴァルターの悪態が、どこか場違いに感じられた。
扉を開けると、室内はオレンジ色の洪水《こうずい》だった。射し込む西日が眩《まぶ》しくて、ディーはくしゃみをしそうになる。
「遅かったな、中尉」
アンティーク調の重厚な机の向こう側から、陰険な視線が飛んできた。
「遅参《ちさん》仕《つかまつ》りまして申し訳ありません……と、言おうとしたところなんですが」
ヴァルターが敬礼したまま肩を竦《すく》めてみせる。口調のどこにも、好意らしいものは見あたらない。
「君に、初年兵と同じ服務規程講義を受けろ、とは言わんがね」
「助かりますよ。あの手の講義は眠くなっていけない」
相手は小さく鼻を鳴らし、楽にしろ、と言った。
ケルンテン公国軍参謀本部欧州第一課長、ギュンター・フライヘル・フォン・ミュッフリング中佐。ディーの耳に届く風聞が正しければまだ四十そこそこのはずだが、外見からそれを推測することは困難だ。
異相、という他はあるまい。身長は五フィートを超えるか超えないか。突き出た腹と短い手足が滑稽《こっけい》だ。中心部に向かってめり込んだ造作は、何とかいう日本原産の小型犬に似ていなくもない。おまけに、ちぢれた茶色の頭髪が、まん丸い顔の輪郭を縁どっている。下半分はもちろん髭《ひげ》なのだが、どうにもそうは見えなかった。
(まるで毛の生えた満月だよ……)
ミュッフリングは手にした書類の束に目を落としつつ、無表情に訊ねてきた。
「さて、遅刻の理由を聞こうか?」
「ちょっとしたトラブルに巻き込まれまして」
(嘘つけ)
と、ディーが心の中で毒づいた。
「巻き込まれた? 君が起こした火種じゃないのかね」
「お言葉ですな、中佐」
(正しい[#「正しい」に傍点]お言葉だよ)
いわずもがなの補足はもちろん、口から外に出さない。ディーはヴァルターほどに、顔面皮膚の厚さに恵まれていなかったし、中尉と中佐の会話に割り込むほど命知らずでもなかった。
「過去の経歴に基づく推測だ。スペインでの君にはだいぶ手こずらされたからな」
「わざわざイェーガー担《かつ》いで義勇兵なんざ、我ながらガラじゃないとは思いましたが。命令でしたからね。私としては、フランコの糞《くそ》野郎と|ボッシュ《ドイツ兵》どもに一泡吹かせるべく、最大限努力したつもりですよ。|コムニスト《共産主義者》の連中とまで仲良くお手々つないでね」
「君の反共感情には気の毒だったが、それが全ての免罪符になるわけではないからな。たしかにヨアヒム・ヴァルター中尉の戦歴は素晴らしい。出撃すること五十二回にして撃墜は十五機。これは欧州大戦のエース達と比べても遜色《そんしょく》ない成績だ」
「そりゃどうも」
(なんたって『シェラネバダの狼』だからなあ)
ディーは正直なところ、少しばかり誇らしいものを感じないでもない。
シェラネバダの狼。一九三六年七月に勃発したスペイン内乱の緒戦《しょせん》において、敵手たるナショナリスト側から献呈された、ヴァルターへの綽名《あだな》である。味方には信頼と賞賛を、敵には恐怖と憎しみを与え、アンダルシア地方を席巻した撃墜王。乗機の肩に描《えが》かれた白狼と、鬼神のごとき戦いぶりから、その名は広く人口に膾炙《かいしゃ》していた。
「しかし、規律違反の回数は一段と目を引く」
「さようで」
しゃあしゃあと言ってのけたヴァルターを上目|遣《づか》いに眺めやり、ミュッフリングは手にしたファイルの頁を繰った。やがて指を止め、記載事項を皮肉たっぷりに読み上げる。
「撃墜数は十五、一方の懲戒処分は、大小あわせて十七回、となっている」
「懲戒はまだ十六回のはずですが?」
ミュッフリングが視線を上げた。冷笑とも嘲笑ともつかない様子で、嫌らしく頬《ほお》を歪めると、ファイルから最後の数頁を抜き取り、卓上へ投げだす。
「これが十七回目だ、ヨアヒム・ヴァルター中尉。ブーヘンドルフ駅長から、抗議が届いている」
(あちゃー……)
思わず顔をしかめるディー。
ヴァルターは一瞬、あからさまな侮蔑《ぶべつ》の表情を浮かべた。表面だけは綺麗に取り繕った当てこすりや、持って回ったような皮肉こそ、彼のもっとも嫌悪するものだった。
紙束を拾い上げざっと目を通す。
「ははあ、なるほど。正確無比の運行状況を誇る国営鉄道だけありますねえ。なんとも仕事熱心なことだ」
いかにも感心した様子でそう言うと、ポケットから懐中時計を取り出し、ご丁寧にも付け加える。
「まだ二時間しか経ってない」
(先輩の悪い癖だ)
ディーは呆れ半分、おかしさ半分でそう思う。頭にくると、わざわざ相手と同じ土俵まで下りずにはいられない。そうしておいてから、徹底的に叩きのめすのだ。だから敵も多い。おそらくミュッフリングとも、スペインでさんざ角突き合わせたのだろう。
そのミュッフリングは、むっちりとした手を顔の前で合わせ、責めるようにヴァルターを睨《にら》みつけた。が、さらに皮肉で斬り返すことはせず、直截的《ちょくさいてき》な問いを発した。
「なぜそのまま泳がせて[#「なぜそのまま泳がせて」に傍点]、我々に連絡しようとは考えなかったのだ[#「我々に連絡しようとは考えなかったのだ」に傍点]?」
この際、水も漏らさぬ国営鉄道のダイヤを狂わせた罪より、軍に対する市民の信用失墜より、さらに優先されるべき問題がある。
ヴァルターは尾行されたのだ。
いったい誰が? 何のために? これは国家保安上の大問題だ。
が、尾《つ》けられた当の本人は、興味なさそうにこう答えた。
「俺はスパイ狩りで給料をもらっているわけじゃありませんからね」
「君には公国軍人としての義務があるはずだな」
「ならば、出頭に際して何者かに尾行された場合は、そのまま気付かぬ振りをして情報部に通報せよ、と命令に付け加えるべきでしたね」
「そんな理屈が通用すると思っているのか?」
「処罰はご随意《ずいい》にどうぞ。懲戒が一回ぐらい増えたところで、いまさらじたばたしても始まらない」
口元には薄笑い、目には挑発の光を浮かべ、ヴァルターは言ってのけた。渋面《じゅうめん》を作ったミュッフリングは、黙って彼をにらみ返す。
しばらく両者無言のまま、時が流れた。室温が、少なくとも五度は低下したと感じられる。
やがて、沈黙の跳梁《ちょうりょう》する空気を押しのけ、ミュッフリングが口を開いた。
「……追跡者についてはどう思う?」
「さあ。車の腕はまあまあでしたね、私には及びませんが。捕まえられなかった?」
「そのまま逃走した、との通報だ。現在捜索させている」
「なるほどねえ」
他人《ひと》を小馬鹿にしたようなヴァルターの科白《せりふ》。ミュッフリングの額に、深い縦皺《たてじわ》が一つ追加された。
夕日は七割がた街並みの向こう側に姿を消し、眩《まぶ》しさはずいぶんと解消されていた。おかげで彼のいらつきが、ディーの目にもはっきり見える。部屋の空気は冷える一方だ。
「情報部の腕利きが追っかけてるなら、とっ捕まえるのも時間の問題でしょう」
「どうかな? 世の中ままならぬことはある。こういう仕事をしていれば特に、な。実際世の中全てが思い通りに動いてくれたなら、どれほど楽かと思うね」
「心労はお察ししますよ」
「ならばもう少し協力的な態度を取ってもらえると助かる」
「努力しましょう」
あくまで洒落《しゃら》くさいヴァルターの態度に、ミュッフリングは軽蔑しきった様子で鼻を鳴らした。その様子がまた、愛玩《あいがん》犬を連想させるのだ。
と、彼は何の前触れもなく視線を転じた。
「ところで……」
真ん中に寄った目が、ことさらに非友好的な色を滲《にじ》ませつつディーに向けられる。ディーは思わず身を竦《すく》めそうになるのを、ようやくのところで押さえつけた。
「その少年が、君の選んだ優秀な搭乗員というわけかね」
「そうですよ。口が固くて信用できる優秀な奴、というご命令でしたから。ディートリヒ・バルクライン伍長、我が隊期待の新人でしてね」
冷や汗が出てきた。胸が締め付けられ、胃には鉄の塊が落とし込まれたような感じだ。
(何が期待の新人だよ! 配属されたばっかりのぺーぺーで、今日だって訓練中に一機ぶっ壊したばかりじゃないか!!)
責めるようにヴァルターを睨んだが、彼はニヤニヤ笑うばかりだ。
「任務については?」
「まだ話していません。極秘という指示に従わせていただきました」
「そうか……若いな。歳はいくつだね、伍長」
憮然《ぶせん》としたミュッフリングに訊《たず》ねられ、ディーは慌てて前に向き直る。
「じゅ、じゅう……十七歳であります。中佐!」
「ほう……?」
ミュッフリングは面白そうに顔を歪め、書類置きから一束のファイルを取り出した。
「……手元の資料によると、ディートリヒ・バルクライン伍長は一九二〇年六月生まれで、現在十六歳十一ヵ月となっているが?」
ディーはこの小男を嫌いになることに決めた。
我らが愛すべき中佐は、彼の経歴などとっくに確認済みだったのである。わざわざ訊ねてきたのは、ディーの人物を確認するためであったのだ。
狼狽《ろうばい》して頬《ほお》を染めた彼は、言い訳できずに俯《うつむ》く。
「十六歳十一ヵ月も十七も、大して変わらんでしょう。大目に見てやってくださいよ」
見かねたヴァルターが助け船を出した。
「経歴|詐称《さしょう》を大目に見ろというのかね? ふん……まあよかろう。伍長、君の搭乗時間は?」
「……二百三十時間ほどです」
すっかり意気消沈したディーが、ぼそぼそと答える。ふたたびミュッフリングがその答えを訂正した。勝ち誇った口調で、口から唾《つば》をまき散らしながら。
「正確には二百三十一時間と二十五分だ。つまり装甲戦闘猟兵《パンツァーカンプイェーガー》搭乗員養成課程を終了してから、わずか二十時間程度の経験しかない。そうだな、伍長」
「はい……」
「二十時間だ。実戦部隊に配属されてから、たったの二十時間! 大きな演習に参加した経験もない。しかも、その間に修理工場送りにしたイェーガーが三台。満足に格闘演習すらできないそうじゃないか。さらには、自分の歳すら数えられない。ヴァルター中尉、これが君の言う『口が固くて信用できる優秀な』搭乗員なのかね!? 今回の任務はピクニックではないぞ? 最悪、大きな国際問題か国内暴動まで発展しかねん、その重要なメンバーに雛鳥《ひなどり》みたいな搭乗員を推薦《すいせん》するとは……いやはや、狼の牙もずいぶんと鈍ったものだ」
ディーは震えていた。屈辱で目の前が暗くなる。自分の顔の皺《しわ》に隠れてしまいたい、と思った。だが反駁《はんばく》するには、あまりにも論拠が乏しかった。いわれたとおり、自分はいまだに殻をつけたままのヒヨコにすぎなかった。訓練で何回となく思い知らされた事実だ。それを他人から指摘されるのは拷問に等しい。
突然、猛烈に腹が立ってきた。
ミュッフリングの人を辱《はずかし》める遣《や》り口に。この小男の尊大な態度に。そして、ヴァルターのいい加減な人選に。
もっとちゃんとしたベテランを選べばいいじゃないか、何で僕みたいな駆け出しを連れてきて、わざわざ恥をかかせるんだ。と、そう思った。
もちろん冷静に考えれば、それが子供っぽい責任転嫁だと言うことぐらいはディーにもわかる。しかし、残念ながら現在の彼は、それほど大人になりきってはいなかったし、冷静でもなかった。
いつのまにか煙草に火をつけていたミュッフリングが、勝ち誇ったように訊《たず》ねた。
「何かいいたそうだな、伍長?」
いっそのこと大声で喚《わめ》いてこの不満をぶちまけてやろうかと、一瞬考えた。こいつの横面をはり倒したらどんなに気持ちがいいだろう。椅子ごと蹴倒して、唾を吐きかけてから「|こんなとこ《軍隊》なんか、とっとと辞《や》めてやる!」と宣言できたら。
それは非現実的な空想にすぎない。現実世界のディーにできたのはただ、喰いしばった歯のあいだから、呻くような声で答えることだけだった。
「いえ……特に……」
「ふん、そうは見えなかったがな……まあよかろう。ヴァルター中尉、私としては、もっと適切な資質を持った搭乗員を選び直してくれるよう希望するが……」
ディーの胸中に、失望という感情が新しく加わった。やはり『選ばれた』という事実は、不快なものではなかったから。
やがて、感情の奏《かな》でる室内楽に新たな主題『諦《あきら》め』が加わり、フォルティッシモで高らかに存在を誇示する。
その瞬間、それまで黙ってミュッフリングを睨《ね》め付《つ》けていたヴァルターが口を開いた。
「その必要はありませんね」
ひどく冷たい声に、ミュッフリングが眉を跳ね上げる。
「ほう? 理由を聞かせてもらえるかな」
「彼は私の望む資質を正しく所有していますよ」
「到底そうとは思えんな。養成課程の成績も、第三独立猟兵連隊配属後の評定も、正直見るにたえん。今回のような重要な任務に、彼が適任であるとは考えられない」
「人選は私に一任するとのことでしたが」
「間違った人選だった。過ちは正されるべきだ」
ミュッフリングが決めつける。
ヴァルターは険悪に片頬《かたほお》をひきつらせた。鋭い犬歯が剥き出しになり、目が細められる。肉食獣が低く唸《うな》るような声で、こう吐き捨てた。
「イヌに狼の子供が見分けられるものか[#「イヌに狼の子供が見分けられるものか」に傍点]」
瞬間、室内の分子運動が全て停止した!
(げ……)
ミュッフリングの丸い顔が、たちまちどす黒い怒りに染まった。
思わずヴァルターを振り返ったディーの目に、少なくとも表面上は全く表情を消した端正な面が映った。その姿は、不敵とも傲慢《ごうまん》とも取り難い。
重苦しい数瞬が、沈黙のうちに過ぎ去る。
「……なるほど……」
圧《お》し殺したミュッフリングの声は、地獄の底から立ち昇ったかとさえ思わせるほどに暗く、そして熱い瘴気《しょうき》に満ちている。
「君の言い分はよく理解できた。……これ以上の異論は挟むまい」
背筋が寒くなるような口調だった。固められた拳が戦慄《わなな》いている。
怒りに震えるってのは本当にあるんだなあ、などとやくたいもない考えが、混乱する頭のどこかから浮かんできた。
「……ディートリヒ・バルクライン伍長」
「は、はい」
「ヨアヒム・ヴァルター中尉の指示に従い新しい任務につきたまえ。健闘を期待する」
皮肉と呼ぶにはあまりにも陰惨な声音で、次の一言が付け加えられた。
「……中尉の進退のためにもな」
「りょ……了解であります」
ぎくしゃくした敬礼で応えるディーには目もくれず、ミュッフリングは椅子ごとそっぽを向く。横顔は確かに、とっとと出て行けと言っていた。
「それでは失礼いたします、中佐殿。貴重なお時間を潰して申し訳ありませんでした」
一点非のうち所のない敬礼と共にヴァルターが言い、さっさと後ろを向いて歩き出した。
「し、失礼します」
ディーは慌ててもう一度敬礼すると、バネ人形みたいに廻れ右して、ヴァルターの背中を追いかけた。
重々しい音と共に扉が閉まる。
と、ヴァルターがおもむろに立ち止まり、何かを待つような素振りを見せた。
「先輩……?」
ヴァルターの人差し指が立てられ、ディーの唇を押さえた。思わず身を引いた彼に向かって、ヴァルターはいたずらっぽく片目をつぶった。目を白黒させるディー。
しばしの後、扉の向こう側で、ばさっと何かが叩き付けられる音がした。
「……なんだ書類か。ペン立てくらいは投げつけるかと思ったが」
ヴァルターはつまらなそうに舌打ちすると、唖然《あぜん》とするディーを振り向くこともせずに、すたすたと歩き出した。
まだ柔らかさの抜けない頬《ほお》を夜風の撫《な》でるにまかせ、ディーは流れ去る街の風景をぼんやり眺めていた。日はとうに暮れ、夕日の残した薄紫のヴェールだけが西の空に残されている。ぼんやりと瞬《またた》く星々、車の横を流れ去る、街灯の柔らかい光。
ハンドルを握るヴァルターの低い口笛が、彼を取りまく世界に郷愁めいた彩りを添える。物憂げなメロディー、物憂げな表情。曲はヴァルターが傾倒している、ベニー・グッドマン楽団《オルケスター》のなんとかというやつだ。雑音の多いSPレコードをさんざん聞かされた。
悔しいけどサマになってるよな、とディーは、彫刻のように整った横顔を眺める。
「……ん? どした?」
トランペットのソロにさしかかったあたりで視線に気付き、ヴァルターは口笛を止めた。
「いえ、別に……なんていいましたっけ、その曲」
「サムタイムズ・アイム・ハッピー。何回も聴かせてやったろ?」
「無理矢理ね」
「そうだったかな」
それきりまた、会話が途切れた。首都ラヴァンタールの目抜き通りを、車がゆっくりと流れている。ヘッドライトの光芒《こうぼう》が尾を引いて、暮れなずむ街を彩る。
さっきからディーは待っていた。先ほどの訳の分からない一幕に対する、合理的な説明を。けれどヴァルターは、ディーを乗せたきり黙りこくって、車を走らせるだけだったのだ。結局ディーは根負けして、いささか情けない口調でこう言った。
「先輩、そろそろ教えてくださいよ」
「なにを?」
「なにって……任務の中身ですよ」
「ああ、そういやそうだったな。あのチビ、自分から直接伝えると言ってたくせに、結局俺に振りやがって」
「先輩が悪い」
ディーが決めつけた。
「おお、言ってくれるね。バルクライン伍長」
「だってそうでしょう。そりゃあ僕だってあの中佐、好きになれませんけどね。でも、あれは大人げないんじゃないですか? 黙ってハイハイ言ってれば、なんにも問題なかったでしょうに」
「そんでお前さんは任務から外される、ってわけだ」
「それは………そうだけど」
口をとがらす。ミュッフリングの部屋で経験したいくつかの感情を思い出し、ふたたび内心の葛藤《かっとう》を甦《よみがえ》らせた。
そんな彼の心情も知らぬ気に、ヴァルターはさらに痛いところをついた。
「まあ、すぐばれるような嘘をつく伍長殿には、ちょうどいい上司だろ」
「…………」
「ちょっとうかつだったよなあ」
ヴァルターが、のんびりした口調で、先刻のディーを評した。
「しょうがないけどな、ミュッフリングに会うのは初めてだったんだから。あの野郎、気が小さくてさ。他人の弱みを握ってないと、安心して椅子に座ってることもできない。まあ、あの手の仕事してる奴には、よくいる手合いだ。大方、俺からお前を連れていくと聞いて、すぐに人事ファイルを取り寄せたんだろう」
「……すいません」
ディーは視線を合わせず、呟いた。蔑《さげす》むように「若い」と言われて、よけいな反抗心をかき立てられたあたりが、結局己の未熟ということなのだろう。
ヴァルターは手を伸ばし、ディーの肩を引き寄せた。
「可愛いな、お前は。素直でさ」
笑いながら、また髪の毛を乱暴にかき回す。
「やめてくださいよ、もう。子供扱いして!」
「はは、悪い悪い。たしかに俺も大人げなかったよ。お互い、今後は気を付けようぜ」
とん、と指先で頭を小突かれて、ディーはようやく荒っぽい親愛の表現から解放された。雀の巣みたいになってしまった髪を、どうにかこうにか解きほぐしつつ、ふたたび訊《たず》ねる。
「で? 任務って何なんですか」
ヴァルターが、前を見たまま表情を引き締めた。
「うん……先月グロイスター山脈中心に、大規模な演習が実施されたのは覚えてるか?」
「ああ、グリューネラントでやった奴」
グリューネラント。国土を横切るグロイスター山脈の北側、名前のとおり森林資源に恵まれた美しい土地である。
「そう。あれの最中にイェーガー一個中隊が行方不明になったんだ」
「ええっ!?」
ディーが目を丸くする。ヴァルターは右にハンドルを切りながら、面白くもなさそうに繰り返した。
「なったんだよ、これが」
「だだだ、だって、あんなバカでかい鉄人形が十二機も揃《そろ》って、いったいどこへ消えるっていうんです?」
イェーガーの運用は一個小隊三機が基本単位だ。四個小隊、つまりイェーガー十二機が集まって、装甲猟兵中隊を編成することになっている。普通に考えれば、それだけの戦闘集団が一気に行方不明なることなどありえない。
ヴァルターは手をひらひらと振って、言った。
「俺に聞かれても知らんよ。まあ、演習の野戦司令部もだいぶアワ喰《く》ったらしくてな。すぐに捜索隊を出したんだが、そいつらも返ってこない。そもそも行方不明になった場所ってのが、北グロイスター山脈の奥の奥でさ。まあ、それで今回、わざわざ臨時に部隊を編成して、捜索と調査をやろうって訳だよ」
「……それに参加するのが?」
「ああ、民間からも専門家を動員して本格的にやるらしい。俺んとこに来た命令は、口の固い使える奴を一人選んで、その調査隊に参加するためにアルトリンゲン基地に向かえ、ってことだったな。もちろんその前に、あの馬鹿んとこに顔出せって言われたけど」
「どんくらいの部隊になるんです?」
「イェーガー四個小隊と、他に二十人くらい、後は民間から数人、ってとこらしい」
「ふうん」
ディーは気のない返事をした。大筋においては理解できるのだが、どうしてもしっくりこないところがある。
「なんでわざわざ調査隊なんか編成するんです? それも極秘に。いちばん近い駐屯地《ちゅうとんち》から通常編成の中隊でも抜き出して、それを充《あ》てればいいんじゃないですか」
「お、なかなか鋭いね、ディー。ミュッフリングの毒気にあてられて、少し人が悪くなったんじゃないか?」
「茶化さないでくださいよ」
少しむっとしてみせる。
「言ってみただけさ」
ヴァルターは意に介した様子もなく答えた。
ディーも負けてはいない。
「知ってます。で?」
ふふん、とヴァルターは鼻で笑い、言葉を継《つ》いだ。
「つまり一回目にそうやって捜索隊を出して、それが行方不明になっただろ。だもんで上の連中、今度は用心して腕っこきを駆り集めてるわけだ。世界に名だたる公国軍のイェーガー部隊が、演習でズッコケたなんざ国家の威信にかかわるってとこだな。あとはまあ、こっちの方が重要なんだが――」
少しの間、彼はどこから説明したものか逡巡《しゅんじゅん》する様子だった。おもむろに横を向き、ディーに向かってこう訊ねる。
「お前、新聞読んでるか?」
「なんです、急に? ……そうねえ、あんまり読んでませんけど………」
「少しぐらい読んどけよ、後々困ってもしらんぞ。じゃあ、グリューネラントの帰属問題についてはどんくらい知ってる?」
「こないだ住民投票やって、ドイツ復帰が否決されたって……ラジオで聞きましたけど」
「あそこが大戦前はドイツの領土だったってことは?」
「そんくらいは基礎学校《グルントシューレ》で習いました」
「そっか。まあ、あの辺りは昔っからごちゃごちゃしててな。一応、ビスマルクの親父の時代からこっちは、北半分、つまりダニューブの向こう側がドイツの領土、ってことになってたんだが……ほら、欧州大戦のときにうちら勝っちまったろう」
「ええ。イェーガーの出現でね」
欧州大戦――一九一四年に始まった、人類史上最初の大規模多国間戦争だ。この時期すでに局外中立を宣言していたケルンテンも、残念ながらこの大波と無縁ではいられなかった。一九一四年、オーストリア・ハンガリー帝国がケルンテン公国に対し宣戦布告したのだ。東方から侵入した帝国軍は、アドリア海沿いの地域を席巻した。海岸線は二重帝国の支配するところとなり、西進する帝国軍は一九一五年前半までにイタリア国境へと到達した。
同じ頃、国境を接するもう一つの枢軸国、北方の巨人ドイツ帝国もまた、その魔手をケルンテンへと向けた。東と北から侵略を受け、軍事的には弱小であったケルンテンは、いまや公国という緩衝《かんしょう》地帯を失ったイタリアと同盟を結びつつも、熾烈《しれつ》な退却戦を続けざるを得なかった。ケルンテン国民は、緒戦《しょせん》において国土の実に三十%と、数多くの同胞を喪失した。
しかし彼らは、決してその膝《ひざ》を屈しようとはしなかった。山岳と森林が大きな割合を占める国土にも助けられ、ねばり強く大国相手に戦い続けたのだ。敵の進軍は停止し、戦線は膠着《こうちゃく》する。
やがて、戦争に大きな転機が訪れた。開戦以来三年あまりが経過、ペトログラードでボリシェビキ革命が成立し、カンブレーでイギリス戦車がドイツの塹壕《ざんごう》を蹂躙《じゅうりん》していた頃――疲弊《ひへい》し始めたケルンテンに、新たな福音《ふくいん》がもたらされたのだ。
装甲戦闘猟兵、イェーガーの出現である。
「そのあたりは養成課程で習うもんな」
「一九一七年、ゲルハルト・アイヒマン博士によって開発された鉄騎兵が、ゲルトナー戦に投入されて、以来全戦線で反撃が開始された――でしょ?」
「正解。まあ、ありゃあその前の年に戦車が出てきたときより、ショックがでかかったはずだからな。あんな馬鹿でかい『人型』が森の中からいきなり出てきたら、俺だって小銃ほっぽり出して逃げ出すぜ」
「そんな歴史の授業が、今回の件となんの係わりがあるんです?」
多少いらついた声を出すディー。ヴァルターはどこ吹く風といった体《てい》で聞き流す。
「そう急くなって。順を追って話してやるからさ。ええと、どこまで話したっけ?」
「俺だって逃げ出すあたり」
「あ、そうか。まあ結局、戦線に投入された六十機程度のイェーガーが活躍して、なんとかドイツっぽ共を追い払ったわけだ。戦争が終わってヴェルサイユ条約が締結されたときに、うちの国はドイツがらグリューネラントをかっぱらった。名目的には自治領ってことになってたが、実際はケルンテンの管理下にあったわけだからな。でまあ、今のケルンテン地図ができあがったと。ここまではいいか?」
「|はい《ヤー》、先生《レーラー》」
ため息混じりにディーが答える。しょうがないな、と苦笑いしたヴァルターは前方の赤信号を確認し、車を停止させた。煙草を取り出し、軍用のごっついオイルライターで火をつける。その煙を深く吸い込んで、やおら反抗的な生徒に対する講義を再開した。
「まあ、そんなこんなで二十年経ったわけだが、最近お隣の国がどうもキナ臭い。|ちょび髭の伍長さん《ヒトラー》が目を血走らせて、ヴェルサイユでなくしたものを取り戻そうとしている。ザール人民投票で――これは知ってるか?」
ディーは首を横に振った。
「つまり、ザールっていうグリューネラントと同じような立場のとこがあったんだけどな。そこが一九三五年に住民投票やったら、圧倒的多数でドイツに復帰しちまったんだ。おんなじような感じで、グリューネラントの帰属を決定する住民投票が、今年の頭にあったんだが……」
信号が変わった。スピード恐怖症の同乗者に遠慮してか、ヴァルターとしては非常に大人しく車をスタートさせる。
「………政府としちゃあ、グリューネラントは手放したくない。だからいろいろ曲芸飛行みたいなことをやらかして、結局住民投票で勝っちまった。かなりきわどかったけどな。そんでまあ、グリューネラントはケルンテン公国に吸収され、グリューネラント州になったってわけだ。普通ならこれで一件落着なんだが……あんまりにも手口が露骨だったもんで、グリューネラントの方は収まりがつかない。
「その曲芸ってのは?」
「つまり住民投票を、元々ドイツだったダニューブの向こうだけじゃなく、古グリューネラント――グロイスター山脈の北側全部でやったのさ。ケルンテン公国のゴリ押しで。他にも移民問題とかいろいろあったんだが……だからまあ、グリューネラントも納得しない。もちろん、領土が還《かえ》ってくると思っていたヒトラーも納得しない。あちこちで屋台骨《やたいぼね》がきしむ音が聞こえてくる」
「それが今回の件とどういう関係が……?」
「うん、まあこっからが本題でな。そうやって雲行きが怪しくなってきたもんで、お偉いさん達、ちょっとばかりアワ喰ったのさ。ここらで一発グリューネラントに睨《にら》みをきかせておかなければいかん、と考えたらしい。そこで、件《くだん》の演習をやろうと、って話になった。俺に言わせれば、浅はかもいいとこだが……」
「なんで?」
何気ない反問だったが、ヴァルターは目を丸くしてディーを見返した。心底からの驚きが、表情に表れている。
「そりゃあ、お前……人間普通は、無理矢理頭を押さえつけられていい気はしないよ。住民感情を悪くするだけだと思わないか?」
「そう言われてみればそうですね」
どうにも先輩らしい物の見方だなあ、と思わないでもなかったが、ここはおとなしく同意しておく。
「だろ? でまあ、こけおどしの演習が盛大に行われた。結果は大成功……と公表されてはいるが……」
「本当はイェーガー中隊が一個、行方不明になった? ついでに捜索隊も」
「そゆこと。状況が状況だからな。行方不明になった部隊は、北グロイスター山脈に展開した中でもいちばんドイツ寄りにいた奴らだ。普通に考えれば山奥もいいとこで、戦闘が発生するような地形じゃないんだが……そこはそれ、ケルンテン公国陸軍山岳猟兵の練度を誇示するためとか何とか、いいかげんな理屈がくっついてるのさ。つまり、俺っちのイェーガーは、高い山なんかものともせずにお前らのとこまで侵攻できるんだせ……ってことを見せつけようって腹だ。山岳部隊には腕っこきが集まってるし。ところが、その腕利き連中がいきなり消えちまった。時期も微妙なら場所も微妙、これはうかつには公表できない。そんなわけで、極秘裏に捜索と原因の調査をするため、人間が集められてる」
「うえ〜」
考えていたよりずっと大事《おおごと》だった。最悪、大きな国際問題にまで発展しかねないというミュッフリングの言葉に、誇張はなかったのだ。
もちろん、それより前に自分たちが行方不明になってしまう可能性だって、低いとはいえない。どうも大変なことに首を突っ込んじゃったらしいなあ、とディーは嘆息《たんそく》した。
しかし同時に、重要な任務に自分が選ばれたという事実に、胸が躍《おど》るのを禁じ得ない。自尊心も功名心も、ごく普通に持ち合わせた少年であれば、それも無理からぬことだったろう。
それこそ信号機のように変わるディーの表情を、面白そうに眺めていたヴァルターが、茶化したようにこう問いかけた。
「だいたいこんなところだ。他に質問はあるかね、伍長」
「えーと……」
あとひとつ、どうにも納得いかないことがある。ただ、素直にそれを口にすることが、なんとなくはばかられる。
「そうですね、ないわけじゃないんですけど……」
「なんだ、はっきりしないなあ。発声《はっせい》は大きくしっかり、って初年兵の時仕込まれなかったか?」
「イヤってほど」
「だったらはっきりしろよ」
「うー……」
どうしても聞きたかった。けれど、プライドがそれを押し止めていた。
いや、これは事実を半分しか言い表していない。もっと正確に言うなら、自分の中にある漠然《ばくぜん》とした幻想に、客観的な評価が加えられるのが恐かったのだ。
ヴァルターの答が、自分の矜持《きょうじ》に傷を付けるかもしれない。自分に対する甘やかな期待が、完全に打ち砕かれるかも知れない。そんな苦痛は味わいたくなかった。
自分が無能だと思いたくはない。しかし、ヴァルターの五十人からいる部下の中で、自分が最低のレベルにあることは、ディーにもうすうす分かっていた。彼を除いた隊内の若手で、いちばん経験の少ない搭乗員でも、機上時間は五百時間をこえている。つまり、ディーの倍以上だ。加えて、ヴァルター指揮下の大隊中には、スペイン内乱に義勇兵として従軍した人間もいるのだ。有能な搭乗員を、というヴァルターへの命令に、自分が適格であるとはやはり考え難かった。
一方で、考えているほど他人の自分に対する評価は低くないのではないか、という期待を捨てきれない。さっきの一幕、「狼の子供を……」というヴァルターの科白《せりふ》も、その望みな裏付ける証左《しょうさ》のように思えた。
結局のところ、自分が憧《あこが》れている人に認められたい、能力があると褒《ほ》めてほしい、そんな小児的《しょうにてき》な希望とそれを否定する客観がせめぎあって、彼の心を分裂させているのた。
飼い主に構ってほしくて尻尾を振る子犬と、基本的になんの変わりもない。だが、そんな自分の心の動きさえ、認めるのは辛かった。それは、自分が精神的にはほんの子供であると認めてしまうのに等しいから。
さんざん内心の葛藤《かっとう》を味わった末に、ディーは結局、ヴァルターに疑問をぶつけることにした。ただし、言葉は極端に節約して。
「何で僕なんです?」
ヴァルターは、のほほんとした口調で言った。
「そんなの別に、どうでもいいじゃんか」
「……いいじゃんかですってえ!?」
いきなり頭に血がのぼった。さんざん迷った挙げ句、焼けたフライパンの中に飛び込むに等しい勇気を絞り出して、やっとこさ口にした問いなのだ。冗談ですまされてはたまらない。ついつい、声が荒くなる。
「よくありませんよ! 自慢じゃないけど僕はぺーぺーの新米ですよ!? そんな優秀な連中の中に、僕一人が……」
「まあ、たいした腕じゃないよな。それは確かだ」
冷たいヴァルターの言葉が、胸に深く突き刺さった。
ある程度は予測していた答でも、それが他人の口から発せられれば、鋭い刃となって自尊心を傷つける。まして相手がヴァルターなら……思わず息をつまらせた。
「じゃ……じゃあなんで……」
ただ一言で声帯の機能まで低下する、自分の未熟さを情けなく感じた。窓外を流れ去る街の灯が、不意に輪郭をにじませる。
先輩なら、先輩みたいになれれば、エースになって不動の評価を手に入れれば、こんな感情からは無縁でいられるのに。脈絡もなくそう思う。
不意に言葉を途切らせたディーを、ヴァルターが複雑な表情で眺めやった。小さく吐息を漏らし、それから静かに口を開く。
「まあ……俺もいろいろ忙しいからな。普段はなかなかお前一人を見てやるわけにもいかないじゃないか。けど、今回の任務ではただの小隊長だからさ、俺」
そこで彼は白い歯を見せ、ぽん、とディーの肩を叩いた。
「心配すんな。お前がへマしても、何とかフォローしてやるよ」
静かな微笑《ほほえ》みが、オレンジ色の灯に浮かぶ。
「…………」
「ま、何事も経験だ。お前さんには、早いとこ一人前になってほしいから。人形遣い《イェーガーのり》になれって言ったのは俺だしな」
「…………」
黙って顔をそむけるディー。ヴァルターの顔を、まともに見ることができない。
「どうした?」
「……なんでも……」
ヴァルターが、走行中にもかかわらず身体を倒して、ディーの顔をのぞき込む。
「なんだあ? お前、泣いてんのか?」
「な……泣いてなんかいませんよ!」
ヴァルターはけらけら笑って、またディーの頭を手荒く引き寄せた。
「いいよ、隠さなくてもさ。先輩の暖かい心遣いが身に滲《し》みたんだろ? お前ほんとに素直だね」
「泣いてませんたら! すぐ子供扱いして!」
先ほどのやり取りがもう一度繰り返され、ヴァルターは笑いながらディーを解放した。楽しげに、サムタイムズ・アイム・ハッピーの一フレーズをハミングすると、彼は陽気に宣告した。
「さて、このままアルトリンゲン基地に向かうぜ」
その調子があまりにも軽かったので、ディーが言葉の意味を正確に理解するまで、やや時間がかかった。不信に満ちた表情で訊《たず》ねる。
「このまま、って……まさかこの車で?」
「心配すんな、明日の昼までは着くさ。ちょっと飛ばさなきゃならんけど」
「下ろしてください! 今すぐ!」
顔を真っ青にしてディーが叫んだ。冗談じゃない。拷問だ、こいつは。
「だから心配するなって。事故なんか起こしやしないから」
「そういう問題じゃありません。下ろしてください、お願いだから!」
「やだよ」
言うなりヴァルターは、アクセルを深く踏み込んだ。鞭《むち》の入ったBMW328は、その血統の正しさを遺憾なく発揮して、弓弦を放れた矢のように加速を始めた。
「うわ、うわ、うわ! お、下ろして、下ろして!」
みっともなく泣き叫ぶディーを完全に無視して、ヴァルターはふたたび口笛を吹き始めた。口の悪い同僚達による綽名《あだな》、『|ジュークボックス・ヴァルター《ヴァルター・ディ・ムジークボックス》』の由来《ゆらい》が分かろうというものだ。今度の曲は『|ユー《You》・|キャン《can》・|ディペンド《depend》・|オン《on》・|ミー《me》』。七十マイルでBMWを駆りながら彼は、アームストロングのヴォーカルを完全にコピーしてみせた。
二〇〇〇cc水冷直列六気筒のエグゾーストは、通奏低音として申し分ない。が、時折かぶさる調子外れの助奏《オブリガート》は、彼の音楽性といまひとつ合致しなかった。
当然ながらディーの方は、のんきな自動演奏装置の口笛を心静かに鑑賞する余裕など、これっぽっちも持ち合わせていない。とりあえず不協和音の解決は棚上げにしても、スピードに対する嫌悪感の明確な表明こそが重要だった。
それがスウィングにはほど遠い、無様な悲鳴という旋律形であったとしても。
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第U章 DON'T BE THAT WAY
「そら、起きろディー」
突然開けた視界に映ったのは、ヴァルターの青灰色の目だった。助手席のドア越しにこちらをのぞき込んでいる。
「あ……れ?」
視覚に一瞬遅れて目覚めた平衡感覚が、どうにも僕は寝転がっているらしいぞ、と告げている。右頬《みぎほお》の下に、汗で湿ったなま暖かい革の感触があった。
周囲の様子は、固いベッドとくたびれた毛布に囲まれ、けたたましい起床ラッパに背中をどやしつけられるいつもの起床とは全く異なっており、それがディーの感覚に一時的な混乱をもたらしていた。
ぺったりくっついた頬を引《ひ》き剥《はが》し、上半身を起こす。自分の置かれた状況を認識できず、鼻先にヴァルターの襟章《えりしょう》を見たまま動きが停止した。
「〇九:二三、アルトリンゲン基地だ」
ヴァルターが先回りして、簡潔に現在時刻と位置を伝えた。
その情報と自分の感覚との齟齬《そご》を、頭を数回振って追い出す。後頭部がコンソールにぶつかった。車内の床に座ったまま、シートにもたれて眠っていたらしい。
ヴァルターの背後に広がる空は、初夏の色をたたえて青く広がっている。さっきまで星の散りばめられていたはずの夜空は、跡形もなく消え失せていた。
「いつの間に……」
「お前が泡吹いてひっくり返ってるあいだだよ」
「泡?」
聞き返し、ディーは就寝以前の記憶をたどる。
身体を揺さぶる慣性の力と両わきを飛び去る風景、ごうごうと唸《うな》りをあげる風の叫び。だが、それらの情景はすぐに暗黒へと溶け込んでしまっていた。ヴァルターの強行軍――ディーにとっては拷問にも等しい――が開始された直後、口笛の一曲目が終わるか終わらないかのうちに、記憶はふっつりと途切れている。
「……僕、もしかしてずうっと失神してたんですか」
ヴァルターはにやにやしながらその問いを否定した。
「歯軋《はぎし》りやら寝言つきの失神てのは聞いたことがないなあ。熟睡してた、の間違いだろ?」
ディーは喉の奥で呻《うめ》いた。情けないことこのうえない。
「そら、しゃんとしろ」
言いつつ、ヴァルターが助手席の扉を開いた。腕を伸ばしてディーを引っ張り上げ、地面に降り立たせる。
と、身体にまとわりついていた何かが、ずるずると地面に落ちた。とたんに朝の冷気が押し寄せ、ディーは軽く身震いする。その時になって初めて、自分が今まで暖かい毛布にくるまっていたことに気付いた。
ヴァルターはひょいと身を屈《かが》めると毛布を拾い上げ、手早くたたんでトランクに放り込んだ。
「目は覚めたか?」
「なんとか……」
無理な姿勢を長時間続けたため、すっかり強ばってしまった関節をほぐしながら、ディーが答える。
「じゃぁ、俺はこいつをあずけてくるから」
ヴァルターは身軽にBMWに乗り込み、キーを捻《ひね》った。セルの唸《うな》りが、すぐに低めのエンジン音にとって代わる。
「ちょ、ちょっと。僕はどうすれば……」
頼りなく問いかけたディーに、ヴァルターは謎めいた笑いを返した。親指でひょいと後ろを指す。その先には、大きなイェーガー用の格納庫がそびえていた。
「俺達のイェーガーがあるぞ。今度の任務にあわせて上の方が調達してきたらしい」
それだけ言うと、車を急発進させる。巻き上げられる砂塵《さじん》と排気ガスに、ディーはたまらず咳込んだ。たちまち銀色のBMWは遠ざかり、後には埃まみれの若い伍長だけが残される。
(イェーガー……僕達の?)
ようやく咳の発作をひっこめて、ヴァルターの言葉を反芻《はんすう》する。
自分の[#「自分の」に傍点]イェーガー。
訓練用機でも、いつも乗せられている退役寸前の予備機でもない。自分のためだけに用意され、整備されるイェーガー。
それを支給されることはすなわち、一人前の|人形遣い《イェーガーのり》≠ニして認められたことを意味する。
当然ながら、ディーには初めての経験だ。自然と頬《ほお》が緩《ゆる》む。
一つ咳払いして、大したことじゃない、当然そうなると分かっていたはずだと自分に言い聞かせ、ゆっくりと格納庫を振り返った。扉は半開きになっているが、その奥は暗くてよく見えない。静かに主を待っているはずのイェーガーは確認できなかった。
ディーは大きく息を吐き出すと、ことさら悠然《ゆうぜん》と歩き始める。自分は落ち着いている、舞い上がってなんかいないと言い聞かせるために。
が、そんな演技も、彼の一挙手一投足に注目する観客が一人もいないとあっては、意味のないことだ。はやる心を押さえきれずどんどん歩調は速まり、しまいには駆け足になる。格納庫までの約五十ヤードを十秒フラットで移動すると、胸を弾ませがら扉の隙間に飛び込んだ。
乾いた空気が彼を包む。照明は落とされており、明るい朝の光満ちる外界から薄暗い室内への光量変化は一瞬、彼の視覚機能に障害を生じさせた。機械整備場に特有の、潤滑油《じゅんかつゆ》や焼けた鉄の臭いなどが鼻孔を刺激する。
やがて目が慣れてくると、格納庫内の情景が彼の鼓動をいっそう速めた。整備ハンガーやクレーンに囲まれて、佇《たたず》む人形兵器。身長は二十フィート近い。
焦げ茶色と二種類の緑で施《ほどこ》された、森林地帯用の迷彩パターン。ケルンテン公国軍が世界に誇る装甲戦闘猟兵が十一機、極度に光量の絞られた格納庫内にひっそりと集っていた。片膝《かたけざ》を着いた降着姿勢のまま、ハッチを開いて、搭乗者を待つかのように。
ディーはぽかんと口を開けたまま、それらのイェーガー達を見上げた。脳裏に違和感が走り抜けた。
長い手足に切り立った肩の装甲、精悍《せいかん》な頭部形状。基本的なフォルムは、彼の隊に配備されていた『Gu―208E型 エカテリーナ』と共通だ。
がしかし、その表面装甲の処理や脚部サスペンションの形状などの細部は、明らかにエカテリーナのそれではない。
もしかして……新型か!?
思わず駆け寄って、丹念に機体を観察する。
装甲板には突き出したボルトやリベットがほとんど見あたらず、シャープで洗練された印象があった。ふくらはぎから踵《かかと》にかけては大幅な改良が加えられている。サスペンションアームがモディファイされてショック吸収の能力が増大しているようだ。数カ月前から搭乗員の問で実戦配備が囁《ささや》かれていた、エカテリーナのブラッシュアップに間違いない。
噂が正しければ、形式と愛称は『Gu―208F型 フェオドラ』のはずである。
思わず手を伸ばし、臑《すね》のあたりの装甲に触れた。固く冷たい感触が、指先に伝わる。微妙な曲線を描く装甲板は、ケルンテン公国陸軍|工廠《こうしょう》の高い技術水準を端的に表していた。
僕がこれに乗る! みんなが待ち望んでいた新型に!!
矢も盾もたまらず、ディーは機体側面のステップに足をかけ、一気に機体をよじ登った。首部分の横にあるハッチ開放レバーを回し、ロックを解除する。
おそるおそる、首から上を後ろにスライドさせると、こればかりはあいもかわらず狭苦しい操縦席があらわれた。新品特有の機械臭がかえって心地よい。
肩から上胸部を覆う装甲をはね上げ、さらに、裏側でコンソールパネルと一体化した胸部から腹にかけてを折《お》り畳《たた》む。完全に開放されたコクピットには、イェーガーの基本的な操作系がコンパクトに納められている。
ごてごてとスイッチのくっついた操縦桿《そうじゅうかん》が左右に二本。同じくフットペダルが左右二つずつ。コンソール部分にはたくさんのレバーやらスイッチの類《たぐい》。サイドパネルにパワー調節用のスロットル。基本的にエカテリーナとの相違はないようだ。
おそるおそる操縦席に腰をおろす。クッションは思ったより柔らかで、ブリキのバケツみたいなエカテリーナのシートとはえらい違いだった。長時間の運用を前提とし、搭乗員《とうじょういん》の疲労を押さえるための特別仕様だろうか。
慎重にペダルの位置をスライドさせ、楽な搭乗姿勢をとる。なんとなく尻の下がむずむずするような、おかしな感じだ。この高級なシートに慣れるまでにしばらくかかりそうだ。
操縦桿を握り、静かにコンソールを引き上げる。開放とは逆の手順で、肩装甲を閉じてから頭部を前に持ち上げ、ちょうどヘルメットを被るように引き下ろす。がちん、と機構のロックする音が響いた。
悪くない。
よく考えて配置されたコクピット内部は、実際ほど狭く感じなかった。搭乗姿勢も以前より楽だ。
目の部分に相当する覘視孔《てんしこう》は、厚さ数pの防弾ガラスがはめ込まれて相変わらず視界が良くないが、これはしかたがない。あまり面積を広くすると、防御力ががた落ちになる。
ディーは思わず含み笑いを漏《も》らした。
ピカピカの新型だ。まだ実戦部隊への配備さえ始まっていない最新鋭機。それが自分の愛機になる。飛び上がって喜びたい気分だったが、頭をぶつけるだけなのでそれはやめ、小さく快哉《かいさい》を上げるだけにしておいた。
イェーガー乗りの立場に完全な満足があるわけではないが、それとこれとは話が別だ。より新しく、より強力な道具を所有することは、男の本能みたいなものだ。それが、敵を打ち負かすためのものならなおさらだ。
密閉されたコクピットの中で、ゆるみっぱなしの頬《ほお》を何とか引き締めようとするが、無駄な努力だった。どうせ誰も見ちゃいない。あちこちなでさすったり、ちょっとした改善を見いだしては、一人で「すごいすごい」などと呟《つぶや》いて、新しい玩具《がんぐ》を買ってもらった子供よろしくはしゃぐ。
と、ガラス越しに感じる格納庫内の照明が、急に明るさを増した。慌てて外を見る。
十数人の軍人達がどやどやと格納庫に入ってきたところだった。彼らは林立する新型機を見て一瞬静まったが、次には口々に歓声やら口笛を上げつつ、いちばん手前の機体に走り寄ってきた。つまり、ディーの乗っている機体の前に。
ディーの心臓がいきなり飛び跳ねた。出られない!
「おい、新型だぜ、新型!」
「これに乗れるのかよ?」
「うひゃあ、金かけてやがるなあ」
「見てください、この溶接! 継ぎ目がほとんど見えませんよ」
たちまち足元に人だかりができる。ほとんど全員が、胸に|人形遣い《イェーガーのり》≠フ記章を縫いつけていた。大部分は尉官の袖章《そでしょう》だ。
見たことのある顔も幾つかある。例外なく、軍の広報誌『|Treueid《忠誠の誓い》』で紹介されていた、歴戦の搭乗員達だ。
「これは結構、本腰入れてかからないとまずいかも知れませんね」
スペイン内乱で六機撃墜のエース、サムライ≠フ異名《いみょう》をとるべルナルト・ムラタ大尉が言う。そこにいた全員が一瞬、深刻な顔をして頷《うなず》いた。
「ロールアウトしたばっかりの新型まで引っ張り出してくるんだ。上もかなり焦《あせ》ってる」
|ヴァイス・ドライ《白の三号機》<Aデナウアー大尉が、人差し指で装甲を弾きながら言った。
そのコクピットの中では、ディーが青くなったり赤くなったりしている。まさか今、のこのこハッチを開けて出ていく訳にも行かない。きら星のごときエース達の真ん中で、醜態《しゅうたい》を晒《さら》すのはごめんだ。ただでさえ一人だけヒヨコなのに……
新型機の支給に浮かれた軽はずみな行動を、本気で後悔し始めていた。
「おい、ちょっと開けてみろよ」
ディーの胃が、見えない手で鷲掴《わしづか》みにされる。
当然ながら、意見はたちまち賛同を得て実行に移される運びになった。皆を代表して、アデナウアーがステップをよじ登る。
ディーは泣きべそをかきそうだった。これじゃあまるで道化だ。後悔に苛《さいな》まれながら、結局どうすることもできない。手のひらにべっとりと汗が滲《にじ》んだ。
「よ……っと。なんだ? 開閉ハンドルの位置が変更されてるのか」
岩を削ったようなアデナウアーの顔が貼視孔《てんしこう》のすぐそばにある。彼は姿勢を入れ替え、首の脇にあるハンドルに手を伸ばした。
ディーの心臓は、今にもオーバーワークでストライキを起こすのではないかと思われるほど、激しく脈打った。観念して、きつく目を閉じた。
「やあ、皆さんお揃いで」
格納庫扉に、背の高いシルエットが浮かび上がった。アデナウアーの動作が急停止する。足元にたまっていた搭乗員達が、一斉に背後を振り返った。
「なんだ、ずいぶんくたびれた奴らがいるな。どいつもこいつも、まあだくたばってなかったのか」
たちまち格納庫に歓声が満ちた。
「ヴァルター!? お前か!」
アデナウアーがあっという間に機体から飛び降りて、ヴァルターに駆け寄った。
「久しぶりだな、ヨッへン!」
「スペイン以来か? アデナウアー……っと失礼、大尉殿。昇進したのか」
「よしてくれ、気色悪い」
彼は荒々しくヴァルターの手を握ると、二度三度その肩を乱暴にどやしつけた。
たちまちディーの足元の人だかりは、ヴァルターのまわりへと移動した。本人は、再会を喜ぶ手荒い歓迎の真ん中でもみくちゃにされている。
「なんだヨッへン、お前まだ中尉なのか? とっくに大尉に昇進したかと思ってたが」
「まあな」
「大方《おおかた》また上官を殴り飛ばしたかなんかしたんだろうよ」
親しみのこもった冷やかしに、ヴァルターは澄まして応じた。
「そんなとこだ。昨日も一つ、懲戒《ちょうかい》処分をくらったばかりだよ。ミュッフリングからな」
「ああ、あの犬野郎か」
誰かが絶妙のタイミングで犬の鳴き真似を入れ、一同は大笑した。
とりあえず当面の危機が遠ざかったディーは、深く安堵のため息をついていた。冷や汗で濡れた額を、手の甲で拭う。
(助かった……)
「ところで、俺の部下を見なかったか?」
ヴァルターがあたりを見回し、そう訊《たず》ねた。
「部下? どんな奴だ」
「まだケツに殻がくっついてるヒヨコだけどな。伍長でちょっと子供っぽい感じの……」
「いや……見てない」
「おかしいな。ここにいろと言っておいたんだが」
ディーは慌てて手を伸ばし、ハッチを開放しようとした。今なら、出ていっても笑い話ですむかも知れない。せいぜいヴァルターに拳固の一つももらうくらいで。
が、その動作は途中で凍り付いてしまった。
「|気を付け《アハトゥング》!!」
厳しい号令が響きわたった。
一同は弾かれたように向きなおり、そして、さらに新しく登場した人物を見て一斉に敬礼した。
入ってきたのは三十をこえたくらいの男で、背が高くがっしりとした体格だった。ごつごつした顔立ちで、酷薄そうな青い瞳がディーの気に入らなかった。背筋はぴんと伸び、動作はきびきびして一瞬の遅滞もない。
階級章は、黒地に丸い星一つ。少佐だ。
彼は答礼の手を下ろすと、苦々しい表情で一同を見渡した。
「いつからここは同窓会の会場になった?」
答は反抗的な沈黙だった。あからさまな舌打ちが、ヴァルターのいる方から聞こえた。
男はぴくりと眉をはね上げたが、それ以上の追及は行わなかった。軽く咳払いすると、こう切り出す。
「ヨハネス・シャーフだ。本日から調査団のイェーガー中隊を指揮することになった」
続く言葉は、お決まりの訓示というやつから一歩もはみ出さない、退屈な代物だった。普段ならあくびの一つもかみ殺すところだ。
が、この時のディーは少し事情が違っている。
ふたたび冷や汗が全身から吹き出してきた。タイミングを失ったまま、部隊司令の登場だ。まさか今になってから出てゆけるわけもなく、ただコクピットに収まって、極度の緊張からくる胃の収縮を持て余すしかない。
「……というわけで、諸君には私の指揮下に入ってもらうことになる。第一小隊長は私の兼任、第二小隊長はアデナウアー大尉」
「|はい《Ja》」
「第三小隊長はムラタ大尉に」
「|了解です《Jawohl》」
「第四小隊長、ヴァルター中尉」
「|あれま《O ja!》」
ふざけた調子でヴァルター。シャーフは眉をひそめた。
「返答は明瞭にせよ、中尉」
ヴァルターは大げさに踵《かかと》を鳴らし、畏《かしこ》まってみせた。
「|了解であります《Jawoh Herr》、少佐殿!《Major!》」
「よろしい。諸君らは武勲赫々《ぶくんかくかく》たる強者《つわもの》ぞろいた。スペインで実戦を経験してきた者も多い。ひるがえって私は、実戦経験《じっせんけいけん》もなく敵を撃墜してもいない。だが、だからといって軍の規律、風紀を乱してもらっては困る。隊長は私で、諸君らはそれに従う義務があるのだ。それを忘れないでもらいたい!」
「ヤー」
いささかしらけた返答が、隊員達の口から発せられた。
そんなことは言われなくても分かっている。この発言は、シャーフの度量の無さを示しただけだった。
「……では、今回の任務にあたってイェーガーを支給する。任務の重大さをかんがみて、特別に支給された新型だ。充分注意し丁寧に扱うように」
あちこちから失笑が漏れた。
イェーガーは兵器なのだ。お嬢さんの乗馬じゃあるまいし、丁寧に扱うなどお笑いでしかない。特に、ここにいるような歴戦の搭乗員にとっては。
ここまでのやり取りで、隊員達のシャーフ少佐に対する評価は急速に下落していた。
当のシャーフは冷たい反応にちょっと鼻白んだ様子だったが、咳払い一つだけで、どうにかこうにか動揺を表に出すことなく、次を続けた。
「各々名前とシリアルナンバーを読み上げるので、前に進み出て受領書にサインすること。アデナウアー大尉、Nr・02000025……」
中隊メンバーが次々に呼び出され、返答と共に前に進み出る。サインを終えた隊員達は、次々と自分の愛機に駆け寄って、新型機への興味を満足させていた。先ほどのディーと同じようにハッチを開き、コクピットに収まってゆく。
対してディーは、孤独な密閉空間の中でほとんどパニックに陥《おちいり》りかけていた。
「ヨアヒム・ヴァルター中尉、Nr・03000002!」
「ヤー」
ヴァルターが進み出て、これでシャーフの前には誰もいなくなる。
怪訝《けげん》そうに訊《たず》ねるシャーフ。
「……ディートリヒ・バルクライン伍長はどうした?」
ディーは狭いコクピットの中で、びくっと身を強ばらせた。緊張のあまり大声で叫びだしそうになる。
「ヴァルター中尉、君の部下は」
「いや、ちょっと……」
珍しく少し焦《あせ》った様子で、ヴァルターが頭を掻《か》いた。
シャーフが怪訝《けげん》そうに目を細めた。そうすると酷薄な印象がますます強まる。
「ちょっとどうした?」
「それがその、まあ」
いきなり、シャーフが大声を張り上げた。
「返答は明確にせよ、中尉!! どうしたのかと聞いている!!」
「はい、バルクライン伍長は現在ひどい下痢《げり》のため、トイレで奮戦中であります」
ヴァルターは、口からでまかせでその場を逃れようとした。
「トイレだと?」
「はい、そうです」
シャーフはこの札つきの素行不良士官に、どう攻撃を加えようかと少し思案した。彼の反抗的態度については、ミュッフリングからも警告を受けている。
が、ここで頭ごなしに怒鳴りつけては他の隊員が萎縮《いしゅく》するだろう。とりあえず今回は温情を施《ほどこ》すことに決めた。声を低め、厳しい表情でこう告げる。
「……中尉、部下の健康管理も指揮官の務めだ。今回は見のがすが、次に同じようなことがあったら容赦はしない。わかったな?」
「了解、少佐」
軽く敬礼して、そそくさと機体に向かうヴァルター。シャーフはその背中に向かって大きく鼻を鳴らすと、自分の機体へと歩を進めた。
機敏な動作でステップを駆けのぼり、ハッチ開閉レバーを回す。イェーガーの頭部が持ち上がって――中から首を竦《すく》めた若い伍長があらわれた。
シャーフの動作が、数秒停止する。驚きを表情に出さなかったのは、彼の剛胆さを表す事象として賞賛してもよいだろう。
「……中尉」
静かな呼びかけに、ヴァルターは怪訝な顔をして振り返った。
「これはどういうことかね」
一瞬で状況を見て取り、思わず格納庫の天井を仰いだ。シャーフは確かにミュッフリングと同じ項に分類されるべき人間だ。これからがやりにくい。
シャーフは冷たい笑いを頬《ほお》にはりつかせ、ディーに向かってこ言った。
「伍長。まさか私の機体で腹下しと格闘したわけではあるまいな?」
「ついてないなあ……」
ディーは自分の不運を罵《ののし》ると、デッキブラシをバケツの中にざぶりと突っ込んだ。
「ちぇっ。いいじゃんか別に、壊したわけでもないんだからさ」
言いながら、新型機フェオドラの装甲板をごしごし擦《こす》る。格納庫のいちばん奥で彼は、搭乗員《とうじょういん》としての本来の任務に比して、あまりにも単純な労働に忙殺されていた。
ヴァルターと二人してたっぷり絞られたあと、一人でイェーガー十一機分の清掃とワックスがけを仰せつかったのだ。
ずっと上を向いたまま作業していたので、首と腕がひどくだるかった。不平たらたらでそれでも手を抜かずに一生懸命仕事するあたりは、性格の素直さが現れている。
「あ! あ〜あ」
再度ブランを洗剤に浸《ひた》そうとして手元が狂い、バケツをひっくり返してしまった。がらがらと音を立ててバケツが転がり、彼はデッキブラシを床に叩き付けた。
「またかよ……やってらんないな、もう」
屈《かが》み込《こ》んでバケツを拾い上げると、放水を続けるホースの口を中へ投げ込んだ。ついでに、燃料缶に入った洗剤をぶち込む。適当なところでホースをとっぱらい、ふたたびブラシを洗浄液の中に突っ込んだ。
と、視界の隅で灰色の影が動いた。
よくよく目を凝《こ》らすと、入り口近くの機体、さっきディーが閉じこめられたやつの足元に人影がちらついていた。
(誰だ?)
しばらく眺めていたが、どうも挙動がおかしい。ぐるぐる機体の周囲を回っては、関節部を覗《のぞ》いたり、装甲を撫《な》で回したりしている。
まさか……スパイだろうか。昨日、ブーへンドルフであんな目にあったばかりだ。考えられない話ではない。
ディーは林立する作業台やイェーガーの影に隠れながら、そろそろと人影に近づいて行った。手前のイェーガーを盾にとり、そこから様子を窺《うかが》う。
人影は灰色の作業服を着ていた。軍用のものではない。町の自動車工場の工員あたりが着ていそうな上下つなぎの地味なやつだ。顔は、イェーガーの影になってよく見えない。時折感心したようなため息や、疑問に満ちた呟《つぶや》きが聞こえる。
ディーは二つ大きく深呼吸して息を準えると、デッキブラシを長剣よろしく構えて、一気に遮蔽物《しゃへいぶつ》から飛び出した。
「誰だ!? そこでなにしてる!!」
「きゃっ!」
人影はそう叫んで、頭をかかえるように座り込んだ。ディーはあっけにとられ、あんぐりと口を開いたまま立ち尽くす。
「……おい」
人影は、女だった。
腰まで届きそうなほど長い金髪が、滝のように背中に流れ落ちている。軽くウェーブのかかったそれは、薄暗い格納庫の照明を反射して、金の糸で編まれているかのようにきらきらと輝いた。
彼女はおそるおそる顔を上げた。
「あの……」
おびえながら上目|遣《づか》いディーを見上げる。瞳は、はっとするほど深い、エメラルドグリーンの海だ。
歳の頃は、せいぜい二十歳くらいだろうか。雪花石膏《アラバスター》のように白い肌。すっと通った鼻梁《びりょう》。桜色の形のよい唇。目にかかりそうな前髪が、奇跡のように整った顔立ちへ最後の彩りを添えている。声さえも、鈴を振るようなメッツォ・ソプラノだ。
突然、ディーは猛烈な罪悪感に襲われた。自分が、無抵抗な小動物をなぶり殺す肉食獣になったような気がしたのた。
女性は座り込んだまま、消え入りそうな声を出した。
「あの、ごめんなさい。ちょっと見てみたかっただけなんです……」
両手は頭をかばったまま、いたずらを見つけられた子供のように縮こまっている。
「あ……」
ディーはは頭の上に振りかぶったデッキブラシに気付き、慌てて背中に隠した。
「た、大丈夫、殴ったりしないから」
無理矢理作り笑いを浮かべ、そう話しかけた。女性はほっとした様子で手を下ろし、おずおずと立ち上がった。顔にはまだ不安気な表情が残っている。
ディーはあたふたしてしまい、こう訊《たず》ねるのが精一杯だった。
「ええと、君は誰?」
聞いてしまってから、我ながら間の抜けた質問だと後悔する。ハウプトシューレの生徒だって、今時もう少しマシな口をきくだろう。
まあ、学生がスパイかも知れない人間と出会うこともあまりないだろうが。
「ハミルトン……メイベル・ハミルトン……です」
女性は胸に手をあてながら、ようやくそう答えた。
「ハミルトン? どっかで聞いたような名前だな……」
「あの、私……」
蚊の鳴くような声でそう呟いたが、ディーの耳には届かなかったらしい。詰問口調《きつもんくちょう》で遮《さえき》った。
「イギリス人か? それともアメリカ?」
メイベルと名乗った女性は、びくっと身体を震わせて二、三歩後じさる。
「父が……イングランドですけど、私はケルンテン国籍……」
「ふうん。で、ここでなにしてた?」
「ええと、前を通りがかったらイェーガーが見えたから、すこし覗《のぞ》いてみたくなって……」
しどろもどろになりながら、彼女が答えた。
ディーの顔に不審の色が揺らめく。背後のデッキブラシを握り締め、一歩彼女ににじり寄る。
「なんのために?」
女性は、さらに三歩後ろに下がる。
「私、別になにも……」
「よ〜お、ディー。ようやっと打ち合わせが終わったぜ。手伝ってやるからさっさと終わらせちま……」
陽気なヴァルターの声が、その長身と共に現れた。格納庫の扉をひょいとすり抜けると、驚いたように立ち止まる。
「……なにやってんの、お前?」
デッキブラシを構えたディーと、おびえた様子の女性の後ろ姿を交互に見やり、途方に暮れたような顔をした。
突然の乱入者に、金髪の女性が振り向いた。と、ヴァルターは驚いて口笛を鳴らした。
「こりゃあ……とてつもない美人だな。俺にも紹介してくれよ」
「なに呑気《のんき》なこと言ってるんです。この女、スパイかも知れませんよ」
「スパイだあ? こんな可愛い娘が? そりゃあ穏やかじゃないな」
緊迫感もなにもない様子で、ヴァルターが両手を上げた。
「勝手に格納庫に入ってきて、イェーガーの性能を探るようなまねをしてたんですから」
「ふうん……」
ヴァルターは細い顎《あご》をなで、思案顔になった。
「綺麗なお嬢さん、お名前は?」
ヴァルターの出現によって、むくつけき軍人二人に挟まれる格好になった女性は、それでも気丈に、先ほどと同じ答を繰り返した。
とたんにヴァルターはつかつかとディーの前まで歩み寄り、頭に思いきり拳骨を喰《く》らわせた。
「いて!! 何するんですか!?」
「そりゃこっちの科白《せりふ》だ、馬鹿」
言っておいて彼は、謎の美女を振り返った。
「すいません、部下がとんだ失礼をして」
改まって右手を差し出すヴァルター。
「お会いできて光栄です、|ハミルトンさん《フロイライン・ハミルトン》。俺はヨアヒム・ヴァルター。階級は中尉。で、こっちがディートリヒ・バルクライン伍長。ハミルトンさんは、俺の小隊に入ってもらうことになるはずです」
唐突な態度の変化に目を丸くしたメイベルだったが、一瞬にして事態を理解し、慌ててその手をとった。
「は、初めましてヴァルター中尉、よろしくお願いします。私が中尉の小隊に?」
二人は軽い握手をかわす。
一方ディーは、何が起こったのか全く理解できていない。ことの意外な成り行きにすっかり取り残され、ぽかんと口を開いたまま目を白黒させる。
「先輩、知り合いなんですか?」
ヴァルターは呆《あき》れ顔で振り返った。
「あほう。お前知らないのか? ゼーヴェリング社のハミルトン嬢だぞ」
「あっ!」
ディーの脳裏で、稲妻《いなづま》のごとく、いくつかの記憶が甦《よみがえ》った。
現在、航空機とイェーガー製造の分野で国内最高、世界でも有数の技術力を誇るゼーヴェリング|AG《株式会社》。そのテストパイロットチームに、三年前初めて女性が採用された。それが、彼女だ。
その時まだ二十二歳、アルトリンゲン工科大学に在籍中だった彼女はしかし、すでに航空及びイェーガーの両方面で著名《ちょめい》な存在だった。
十四歳で初めてグライダーに乗り、以降次々と滑空機の国内記録を塗り変えてきた、隣国ドイツのハンナ・ライチュと並び称される女流飛行家。並みいる男性パイロット達を押し退《の》けて、更新した記録の数は十指に余る。その後入学した工科大学では、現在主要なイェーガー設計の全てをこなしている十三博士の一人、カール・ゴットリープ・ヴィンケルマン博士に師事《しじ》し、イェーガーの操縦と設計理論を学んでいた。
ゼーヴェリング社と契約してからの彼女は、主要な新型機の開発にほとんどの場合たずさわり、いくつかの計画では主任パイロットとして活躍している。現在陸軍航空隊で機種改編が進んでいる新型戦闘機『Se32 ファルケ』も、彼女が主任飛行士となって開発を行った機種だった。
(あの[#「あの」に傍点]メイベル・ハミルトン!?)
表情の変化を見て、ヴァルターが呆れたように言った。
「やっと思いだしたか。あれだけ飛行機に詳しいくせに」
「なぜこんなところに、あんな有名人がいるんです!?」
デッキブラシを振り回しながらディーが喚《わめ》く。洗剤の飛沫《ひまつ》が飛び散って、ヴ7ルターの軍服にいくつか染みを作った。
ヴァルターは迷惑そうにブラシの柄《え》をつかみ、ディーの手からそれを取り上げた。ひょいと足下に転がしておいて、質問に答える。
「民間から専門家を動員するって言ってたろ。彼女さ。それとヴィンケルマン博士」
つまり僕は、あの[#「あの」に傍点]ハミルトン嬢にスパイの濡れ衣を着せて、ついでにデッキブラシで殴りかかろうとしたのか?
なんてことだ! 今日は厄日《やくび》に違いない。
「あ、あの……ごめんなさい!」
ディーは潔《いさぎよ》く頭を下げた。
メイベルは目をぱちくりさせ、驚いて「え?」と聞き返した。
「だからその、疑ったりして……すいません」
真っ赤になって謝罪する。どうにもやりきれなかった。
「そんな、謝ることなんか……勝手に覗《のぞ》いた私が悪いんだし……」
かえってすまなさそうにメイベルが言う。
「でも……」
「ほんとに、気にしなくていいです」
「でも、やっぱりごめんなさい!」
さらに深く、頭を垂れるディー。
メイベルは困りきって、目線でヴァルターに助けを求めた。見かねた彼は、吹き出しながら助け船を出す。
「そら、ハミルトンさんがいいって言ってるんだ、頭上げろよ。あんまり美人を困らすもんじゃない」
「中尉、あの、私……」
美人という言葉を聞いて、メイベルが頬《ほお》を染めた。
「ヴァルターで結構。本当のことでしょう」
「あ、私もメイベルでかまいません。でも、なんていうか……」
彼女はなんとか、ヴァルターの評価を訂正しようと努力した。数回、なにか言いかけては言葉を喉に詰まらせ、結局、かわいらしいため息をついてから諦《あきら》めてしまった。
そこで、自分と同じように、うなだれたまま困り顔で立ち尽くす少年に視線を転じる。
ディーの鼓動が、急にアップビートで拍を刻み始めた。
「よろしく、バルクライン伍長。ほんとうに気にしないで」
メイベルが、雪花石膏《アラバスター》細工の美しい手を差し出す。ディーはびっくりしたようにそれを見つめ、完全に硬直してしまった。
数秒後、ようやく彼女が握手を求めているのだと理解して、彼は右手を持ち上げ――慌てて手を引っ込めた。
軍服の裾《すそ》で手のひらをこすり、少しでも汚れを落とそうと躍起《やっき》になる。たっぷり十秒はメイベルを待たせてから、ようやくディーは白いその手を握り返した。
「よ、よろしく。できればあの、ディーって呼んでください」
女の子と話すのにそれほど慣れているわけではない。それがとびきりの美人ならなおさらだ。しどろもどろの自分に内心舌打ちし、子供っぽく見られるのではないかと不安になった。
そんな忙しい心の動きも知らぬ気に、メイベルは、ふわりと彼に微笑《ほほえ》みかける。その笑顔はあまりに邪気がなく、あまりに優しげで、ディーの鼓動はいっそうテンポを速めた。
彼女は、桜色のくちびるの間からすこし、真珠のような歯をみせて、嬉しそうに言いなおした。
「よろしくね、ディー」
握りかえす彼女の手は、なぜかひんやりと冷たく、とても華奢《きゃしゃ》に感じられた。
移動は四日めの夜に開始された。
街のざわめきがようやく収まり、ただ街灯がぽつりぽつりと浮かぶばかりになったアルトリンゲン夜更《よふ》け。街外れにある陸軍基地に、密やかな異変が起こった。
三つあるゲートの内、いちばん人目につかないそれから、十数台の軍用トラックが列をなし、静かに滑り出てゆく。所属を示すプレートのたぐいは厳重に隠蔽《いんぺい》され、ヘッドランプすらシェードによって光量を必要最低限度まで落としたトラックは、闇を縫うように市街を迂回《うかい》して、静かに北西へと向かう。
眠りの精がとうに人々の喩《まぶた》に砂を撒《ま》き終えたこの時刻、時ならぬトラックの放列がまき散らす振動と騒音に気付く者はごくわずかだった。
その少数の善良な市民達も、安息を邪魔するエンジン音から、背後に潜む深い猜疑《さいぎ》と秘密主義、そして不可解な消失を連想することはなかった。
幾重にも防水布の重ねられたトラックの荷台は、積み荷の輪郭を隠すよう厳重にカムフラージュされている。たとえその輸送隊を目撃したところで、何を運んでいるのか窺《うかが》い知ることは、全く不可能だったろう。
最後尾の幌《ほろ》つきトラックの荷台に押し込められた若い伍長は、時折外に首を出しては、流れ去る風景をながめていた。
彼を除く十一人の搭乗員《とうじょういん》達は、腕を組んだり頬杖をついたり思い思いの姿勢をとったまま、等しく眼を閉じ、眠っていた。その神経の図太さが、ディーはうらやましい。
シャーフからは、明朝からの行軍に備え眠っておくように、と指示が出されている。当然ディーは、それに従って眠っておくべきなのだろう。
が、いくらまっても、いっかな眠気がディーを捉えることはなかった。何も考えず眠ろうと努力すれば努力するほど、かえって頭の中は様々な仮定や記憶、そして未来に対する予測が入り乱れ、収拾がつかなくなる。
三日間の機種転換訓練は、自分の腕に対するささやかな幻想を打ち砕くのに充分だった。
選《え》りすぐりのベテラン達は、あっという間に新型機を手足のごとく扱ってみせた。ディーがシートの位置を確かめ、ペダルをスライドさせておっかなびっくり機体を立ち上がらせたとき、アデナウアーとヴァルターは、二人してイェーガーにワルツを踊らせていた。彼がようやく巡航速度でまっすぐ歩けるようになったとき、他のメンバーはすでに武装の照準調整を行っていた。
ただ一人、自分の機体のオーバーホールが終わっていないという理由で手の空いていたメイベルが、つきっきりでディーを手伝ってくれた。そうでなかったら、調査団が正式に結成される前に、愛機を自分向けに調整することすらおぼつかなかったろう。
どうして他の人は、あれほど簡単に新しい機体を乗りこなせるのだろうか。自分はこれほど苦労して、やっぱりよちよち歩きが精一杯なのに。ディーは一度、思いきってメイべルにそう聞いてみた。
フェオドラのテストパイロットも務めていたという彼女は、可愛らしい仕草で首をかしげてしばらく考え込んでから、ただ一言こう答えた。
「やっぱり経験かしら……」
ディーは打ちのめされて、それ以上質問を続けられなかった。
ヴァルターやアデナウアーらスペイン内乱参加組は言うに及ばず、ディーを除くもっとも経験の少ない隊員ですら、搭乗時間は一千時間を超えている。ほとんどが、原隊では小隊長以上の地位にある、ベテランぞろいだ。
差は歴然としている。それを取り戻す手段、つまり『時間』は、いまのところ彼に与えられていないのだ。
乗り心地の悪いトラックの荷台で、絶え間ない振動に身体をゆすられながら、ディーはぶるぶると首を振った。考えれば考えるほど、不安と緊張が精神を支配し、眠ることなどできそうにない。
と、左肩に何かが触れた。驚いて振り向くと、そこには金色の滝がかかっている。
メイベルだ。少女めいて繊細な顔を、ディーの肩にもたせかけて、軽やかな寝息を立てている。
どぎまぎした。わけもなく頬《ほお》が熱くなる。
厚い防水布の隙間から、ときおり射し込む月の光に照らされた彼女は、ちょっと眼のやり場に困るほど無防備で、あどけない寝顔をしていた。
長い睫《まつげ》が、柔らかな金髪が、月光を反射して銀色味を帯び、いっそ人間離れして感じられる。あまい香が、微《かす》かに臭覚を刺激する。
(女の人って、みんなこんなにおいがするんだろうか)
必要以上に深く息を吸い込んだ。
くくくっ、と喉に含んだ笑いが聞こえた。闇の向こう、向かい側に座るヴァルターが、片目だけ開けて笑っていた。
「せんぱ……」
素早く人差し指を口にあてるヴァルターが、
「起こすなよ。寝かせといてやれ」
低くいった。彫《ほ》りの深い顔に影が落ちて、整った造作をいっそう印象深いものにする。
「寝てたんじゃないんですか?」
負けず劣らず声を低め、ディーが問う。ヴァルターは静かに身を起こした。
「お前がいつまでもゴソゴソしてるもんだから、眼が覚めちまったよ」
そこですこし優しい顔になる。
「眠れないか?」
「ええ、ちょっと……」
ヴァルターが軽く鼻を鳴らす。
「ま、そうだろうな。俺も最初は寝付かれなかったよ。明日になったらもう、生きてないかも知れないと思ってさ。ま、人間寝不足じゃ死なないよ。楽に行け、楽に」
そう言ってあくびすると、彼はふたたび眼を閉じた。からかうように、言葉を続ける。
「ま、その状態じゃ、寝るに寝られんだろうしな」
「先輩!」
「起きるぞ」
はっとして振り向く。メイベルは彼にすっかり体をあすけ、規則正しい寝息をたてたままだ。
「じゃな。おやすみ、ディー」
ヴァルターが皮肉っぽくわらって、ふたたび深く座席に身をうずめた。
左肩にメイベルの体温を感じながらディーは、この夜結局、一睡もできずに過ごす羽目になった。
そして翌朝――
ようやく合流を果たした調査団は、意外と小振りな編成に変更されていた。
総員二十人あまり。
通信兵及び工兵が数名ずつ。
民間から参加したイェーガー工学の専門家。これはメイベルと、その師であるヴィンケルマン博士の二人。
シャーフ少佐|率《ひき》いる装甲戦闘猟兵中隊は、メイベルを含んで十二名。
イェーガー整備等を担当する支援人員の十二名。常識からすれば、一個中隊のイェーガーを運用するには少なすぎる数だ。が、秘匿性《ひとくせい》を重視した少数の部隊としては、ぎりぎりの数だという、調査団長の説明であった。
さて、その調査団長だが……
「……先輩。何の冗談です、これ?」
「他の人間がいるところでは隊長と呼べ。俺が知るか」
猟兵第四小隊――小隊長ヴァルター。二番機メイベル、三番機ディーという編成――の三名は、ずらりと並んだ調査団の右端に位置している。不謹慎な私語は、十時方向でえらそうに演説をぶっている人間には聞こえなかったようだ。
短躯《たんく》を精一杯そっくりかえらせ、威厳というものを演出しようという意図が見え見えの調査団長。着るというよりは、詰め込まれるといった形容の方がぴったりくる野戦服姿の中身は、親愛なるギュンター・フライヘル・フォン・ミュッフリング中佐であった。
「たまらないな、これは」
スペイン内乱帰り組のムラタ大尉がふと漏らした呟《つぶや》きは、調査団長の人となりを少しでも知っている者にとって、共通の感想であったに違いない。
ディーは唾《つば》の一つも吐いて、思いきり悪態をつきたい気分だった。それまでは心地よく彼らを取り囲んでいた情景、五月の澄んだ空や、若葉|萌《も》ゆる緑林も、とたんに生気を失ってしまったかのようだ。
これから数週間、悪くすれば一月以上、この愛すべき人物を上司と仰ぎ、共に行動しなくてはならない。その事実は、彼の高揚した気分を萎《な》えさせるに充分以上の重みがあった。
時計の長針がたっぷり百八十度向きを変えるほどの時間が経過し、ようやく、仰々しくも内容|空疎《くうそ》な演説が終了した。調査団は、新緑におおわれたグロイスター山地のとば口に立ち、その奥深く潜《ひそ》む謎に迫るべく、ようやく始動したのである。
「これ、メイベルさんの機体?」
あんまり見ひらいてると目玉がおっこちるぞ、とヴァルターがからかった。メイベルは喉《のど》の奥で笑いをかみ殺し、軽くディーに向かって頷《うなず》いた。
イェーガー搭乗員とその愛機らに遅れること二時間、アルトリンゲン工科大学のトラックは気息奄々《きそくえんえん》の体《てい》がらも、ようやく調査団の集結地点に姿を表していた。同道してきた整備班の軍曹は、ほとんどスクラップと見分けのつかない車体のボンネットを愛しげにさすりつつ、教育機関に対する予算配分について同情的な意見を述べた。
整備兵達のきびきびした作業によって、あっという間にシートを外されたその荷台から、現れたのは、白銀に輝く工芸品だった。
横たわる姿は、スケールこそ五倍強にアップしているものの、基本的に人間の形態を模倣《もほう》たものだ。手足が二本ずつに、胸と腰にパーツ分けされた胴体。もちろん、イェーガーである。が、兵器として分類してしまうには、それはあまりにも優美に過ぎた。
流れるような面で造形された脚部。脆弱《ぜいじゃく》とされる股関節《こかんせつ》は、スカートのような装甲に保護されて、醜《みにく》い関節部を無遠慮な視線から覆い隠している。
穏やかな曲線で構成された胸部は、女性的とさえいえる優雅さにあふれ、同時に防御力の強化を達成していると見て取れた。
滑らかな肩部装甲から続く腕パーツは、すんなりと伸びていかにも取回しが良さそうである。指の関節一つに至るまで、造形美と機能の完璧《かんぺき》なバランスは崩れていない。
小さ目の頭部は基本的にヘルメット型をしていたが、その両わきからまるで羽根飾りのようなパーツが斜め後ろに向かって突き出している。材質は水晶か何かだろうか、幾つものパーツに分かれた透明な結晶体が複雑に組み合わされ、光の屈折を華麗な装飾として輝いている。パールホワイトの機体は、装甲の各所に金色の象嵌《ぞうがん》が施され、ロココ様式の調度品といっても通用しそうな完成度を誇っていた。
「もしかして……原型機《ウービルト》?」
ディーがおそるおそる訊ねる。メイベルはふたたび頷《うなず》いて、こう聞いてきた。
「驚かしちゃった?」
ディーは短く答える。
「すごく」
祖国存亡の危機に際して人型兵器イェーガーを開発した天才技術者の話は、現在すでに伝説として広く流布している。
西炊文化が、末だ世紀末の余喘《よぜん》を保っていた二十世紀初頭。公国西方の山間にある小さな街ネーベルブルグに、小さな工房を構える自動人形《オートマタ》職人がいた。名はゲルハルト・アイヒマン。彼の作品は、オルゴールを身の内に隠し、微細な歯車、チェーン、シリンダ、ドラム等を焼き物の皮膚で包んだ、ゼンマイ仕掛けの人形達であった。
一八世紀に全盛を迎え、以降衰退の一途をたどっていたこの分野において彼は、昔日《せきじつ》の栄光を呼び戻し、いっそう前進させた天才職人として広く知られていた。フランスのヴォーカンソン、スイスのドローズ父子の諸作をも凌《しの》ぐと称された作品群は、単なる玩具や調度品ではなく、工芸品であると認識されていた。
王侯貴族に献呈《けんてい》され、彼らのサロンに話題を提供する存在として。博物館に納められ、見学者の感嘆を誘う存在として。見せ物として各地を巡回し、子ども達に新鮮な驚きを与える存在として。彼の作品は争うように求められ、名声はアルプスの峰と同じくらいに高く、光り輝いた。
が、数々の栄光を生み出した工房も、時代の嵐たる欧州大戦と無縁ではいられなかった。一九一七年、戦火は山間のささやかな街並に魔の手を伸ばす。ドイツ帝国による侵略とその後退し続ける戦線が、とうとうネーベルブルグに達したのだ。
砲火はロマンティックな煉瓦《れんが》の街並を吹き飛ばし、古い石畳の路を抉《えぐ》った。男達は、圧倒的に優勢な敵に対し、絶望的な反抗を挑んだ。しかし兵力、その質、そして装備に至るまで全ての面で、ほとんどパルチザンと変わらぬケルンテン軍が、精強ドイツ陸軍に抗すべくもなかった。彼らは蹴散らされ、打ちのめされて、多くの屍《しかばね》が古い街並に晒《さら》されることになった。
だが、未来が侵略という名の暗黒に飲み込まれようとするとき、なす術もなく成り行きを見守っていた人々の目前で、その時奇跡が現出した。
街の隅にある小さな建物。戦争とは全く無縁の存在であったはずの、砲撃で半壊した自動人形の工房から、身長五mになんなんとする鉄の巨人が身を起こしたのである。
巨人は降り注ぐ銃弾の雨をものともせず、ドイツ軍の制圧部隊に突っ込んだ。手にした機関銃をまるで拳銃のように扱い、ドイツ兵を薙《な》ぎ倒《たお》す。
無人の野を往《ゆ》くがごとき巨人の姿を見て、侵略者達は浮き足立った。
無理もない。身長五mの人型で、鋼鉄の鎧に身を固め、易々《やすやす》と銃弾、時には砲弾すら跳ね返す兵器の存在など、彼らの想像の範疇《はんちゅう》を遥かに超えていた。前年に初めて戦線に投入され、兵士達を恐怖のどん底に陥れた『戦車《タンク》』の出現をさえ、遥かに凌駕《りょうが》する衝撃だった。
たちまちのうちに侵攻軍の陣地は蹂躙《じゅうりん》され、橋頭堡《きょうとうほ》は放棄された。圧倒的な優勢を誇っていたドイツ軍が、たった一体のイェーガーによって退却を余儀なくされたのである。
人々は歓呼して、鋼鉄の騎士を迎えた。そして披らは、その巨大な騎士が、アイヒマンの新しい作品であることを知ったのである。
小さな工房は、以降次々にイェーガーを制作し、前線へと送り出した。活躍するイェーガーの数が増えるにしたがって、戦線は押し戻されていった。
ケルンテンにもっとも必要とされ、そして開戦以来久しく与えられなかったもの――「勝利」が、鉄の騎士達によってもたらされたのだ。
一九一八年、戦争が終結する以前に、ケルンテンの国境は戦前の位置にまで回復していた。終戦の日までに生産されたイェーガーは六十四機を数え、アイヒマンとその工房に働く十三人の弟子達は、国民の英雄となった。
そして、アイヒマンの不可解な失踪《しっそう》事件以降、その技術を継承する弟子達のイェーガーは、軍の制式兵器として採用され、兵器製造会社や陸軍|工廠《こうしょう》によって量産されることになった。
これら弟子達の設計したイェーガーと、アイヒマンが直接手がけて作られたそれを区別するため、後者を『原型機《ウービルト》』と呼び習わすようになったのは、戦後数年が経過してからだった。
「この機体は、十三番目に製造された『ノートゥング』よ」
メイベルが、イェーガーの胸を指した。そこには銀で象嵌《ぞうがん》された流れるような飾り文字がある。文字は『Nr・13 Notung』と読めた。
ウービルトは、量産され、消耗されてゆく兵器とは一線を画した存在だ。それは兵器であると同時に、最高の職人だけが作りだすことのできる、類稀《たぐいまれ》な芸術作品なのだ。
同じ型の機体は一機だけ。そして六十四機のウービルトには全て、シリアルナンバーと固有の名前が付与されている。
「ノートゥング……ジークフリートの剣だな」
ヴァルターが感心したように、北欧叙事詩における英雄の名を呟《つぶや》いた。
「ウービルトなんて博物館にしかないと思ってた……本物を見るのも初めてだよ」
「大学の研究用に貸与《たいよ》されてる機体なの」
ゆっくりとトラックの荷台がせりあがり、整備兵から声がかかった。
「ハミルトンさん、乗ってください。始動させますよ」
「はい! それじゃ、お先に失礼するわね」
メイベルは二人にそう振り返って、身軽に機体のステップを登った。手慣れた様子で搭乗ハッチを開放すると、あっという間にコクピットにおさまる。その動作は、深窓の令嬢のような外見とはなんとなく不釣り合いに感じられた。
頭部を引き下ろす前に、にっこり笑って二人に手を振ったのが、彼女らしいといえば彼女らしい。
「さて、俺たちも乗り込まんと置いていかれちまうぞ」
ぽん、とヴァルターがディーの肩を叩いた。
「あ、はい……」
始めてみるウービルトの始動を眺めていたいという衝動を押さえつけ、ヴァルターの後に続く。
こうして三人は機上の人となり、調査団の最後尾から、グロイスター山地を覆う深い原生林へと足を踏み入れたのである。
森の中は意外に明るかった。
生い茂る梢《こずえ》越《ご》しの陽光は、地面を覆う地衣類の絨毯《じゅうたん》と相まって、世界を綺麗な緑色に染めている。樹間は結構広く、イェーガーが列を組んで歩く分にはほとんど障害にならない。
イェーガーの自重はおおよそ十トン前後、歩行する際にはかなりの振動と音が発生する。
十二機も集まればなおさらだ。
森は平和で、鳥のさえずりや虫の鳴き声は、その歩行音にかき消されて聞こえないが、それをのぞけば、まるでちょっとしたハイキングに出かけてきたかのような錯覚を起こしかねない情景だ。
もちろん、周囲の状況はどうあれ、これはれっきとした軍事行動である。イェーガー隊員達は隊列を組み、相互監視を怠らない。
先頭はシャーフの第一小隊。その後ろに整備、通信兵他の面々が徒歩で続く。その両脇、十数m離れて左右に、アデナウアーとムラタの各小隊。第四小隊は、列のしんがりを務めていた。
最初のうち、進軍は順調だった。だが、二度の小休止をはさんで太陽が中天にさしかかろうとする頃、ちょっとした異変が第四小隊に生じた。
先頭を行くヴァルター機の肩に、軽く何かが触れた。機体の首を少し巡らせ、原因を確認した彼は、狭いコクピットの中で怪訝《けげん》な顔をした。
本来右後方に位置しているはずの二号機のメイベルが、すぐ横を並んで歩きフェオドラの肩に手をかけていたのだ。メイベル機はひょいと左手をあげ、後方を指さした。
ィェーガーの後方視界はほとんど無いに等しい。前方にしかない貼視孔《てんしこう》とせいぜい六十度にしか振れない首の構造上、しかたないのだ。ヴァルターはフットペダルを踏み変えて、腰の関節をぐるりと回転させた。下半身は前を向いて歩き続け、腰から上だけが斜め後ろを向くという、なんとも珍妙な格好になる。が、歩行しながら後方視界を得るには、この方法しかない。
彼はメイベルの指した方向を見やり、しまった、という顔になった。
三号機が行軍のペースについて来れず、遅れ始めている。彼はメイベルに、身体の身振りで先に行けと合図して、自分は少しスピードを落とした。
ディーの機体が追いついてくるのを待ち、首を後ろにはね上げる。
「おい、遅れてるぞ! しっかりしろ」
と、ディーも自分の機体の首を上げる。中から現れたのは、かなり消耗したようすの青白い顔だった。
「すいません……足がだるくなって……」
巡航歩行状態でのイェーガーは、基本的に自動操作で一定速度を保つようになっている。
もちろん電子頭脳はいまだ夢物語の時代である。その制御はきわめて原始的な――そして同時に恐ろしく精巧な――機械仕掛だ。それゆえ、微妙な地形の凹凸や、障害物の回避などは、左右内側のフットペダルとスロットルレバーを使用し、搭乗員が逐次《ちくじ》細かい修正を与えなければならない。
慣れればどうということはない、車を運転するより少し複雑な作業に過ぎない。しかし、経験が少なく技倆《ぎりょう》が劣る搭乗員には、それがけっこうな負担となってのしかかってくるのである。いまのディーが、まさにその状態だった。
「とりあえずもう少しで昼食の休止のはずだ。そこまで何とか頑張れ」
「はい……」
ちらりと心配気な視線を投げ、ヴァルターが隊列に戻る。
幸い、休止の号令は五分と経たないうちに出され、ディーの遅れもそれほど目立たずにすんだ。
が、ヴァルターとメイベルが心配そうに見上げるなか、片膝をついた機体から這《は》い出したディーは、地面に足を下ろした途端、そのままへたり込んでしまった。
「おい、しっかりしろ」
「大丈夫?」
駆け寄った二人に両脇から支えられ、一回は立ち上がった。が、すぐに痛みで顔を引き歪め、ふくらはぎをかかえてうずくまる。
「イテテテ……足、つっちゃった」
ヴァルターが手早く彼を仰向けに寝かせ、足首とつま先を持って筋を伸ばしてやる。
「どうだ?」
「だいぶ……いいです」
二の腕で顔を覆い、ディーが答える。悔しさが口調に滲《にじ》んだ。
たかが数時間の行軍でこのていたらくである。ヴァルターや他のベテラン達はともかく、こんな華奢《きゃしゃ》な身体つきのメイベルさえ、涼しい顔をしているのに、だ。
「はは……情けない」
力ない自嘲混じりに、そう呟いた。そうするほかに何もできないのだ。
「長距離行軍は初めてだったか?」
「いえ、養成過程の最後に一度だけ……」
「まずったな、部隊で少しやらしとくべきだった。すまん」
ヴァルターが舌打ちする。手はディーの足をときほぐしながら。
その間にメイベルが軍靴を脱がせ、きつく足を締め付けて巻かれていたゲートルを外して行く。
「あ、自分でやるから……」
「動かないで。変な格好するとまたつっちゃうわ」
二人の心遣《こころづか》いはありがたかったが、これではまるで赤ん坊だ。少し離れて見守る隊員達の冷たい視線が、鋭くディーの自尊心に突き刺さる。
ヴァルターが袖《そで》で額の汗を拭《ぬぐ》い、ディーの足を地面に下ろした。
「……まあ、こんなとこだろ。だいたい力み過ぎなんだよ、お前。もっと楽に座って、舵なんか逆らわないで軽く当ててやりゃあいいんだ」
「そんなこといったって……」
「ごめんなさい。もっと軽めにセッティングしておけば良かったみたい……」
すっかりしゅんとして、メイベルがうなだれる。まるで全部自分の責任みたいな顔だ。
「……いつから第四小隊は子供連れになった」
背後から唐突に声がかかる。三人の視線の先には、冷酷な笑いを頬《ほお》にはりつかせ、愛すべき調査団の指揮官ミュッフリング中佐が腕組していた。彼はまるで汚物でも見るかのような顔をしてディーを見おろし、こう吐き捨てる。
「伍長閣下はよほど甘やかされて育ったらしいな。自分の上官やうら若い女性に自分の尻《しり》拭《ぬぐ》いをさせて、よくもまあ恥ずかし気もなくいられるものだ。そのエンブレムは……」
そこで彼はディーの右胸を指さした。縫いつけられた金属片、装甲戦闘猟兵搭乗員資格を表す記章を。
「……返上した方がいいのじゃないかね?」
ディーは歯軋《はぎし》りしてその屈辱に耐えねばならなかった。だから、直後に響いた鋭い舌打ちは、彼ではなくヴァルターのものだ。
と、ミュッフリングがさも愉快そうに眉をはね上げる。
「中尉。君は先日私の前で、彼がこの任務に対して必要とされる資質を正しく有していると保証してくれたな?」
長い長い沈黙の後、内にたぎる凶暴な感情をどうにか抑え込み、ヴァルターが返答する。
「その通りですよ」
灼熱《しゃくねつ》の炎を発するかとさえ思わせるその眼光に、ミュッフリングは思わず一歩後じさった。が、さすがにここでうろたえては示しがつかないと考えたのか、何とか踏みとどまってヴァルターを睨《にら》み返《かえ》す。
「ふ……ふん。その言葉を撤回しなくて済むよう祈っているさ。せいぜいはぐれずについて来るんだな、伍長」
言い捨てて、さっさと取って返す。ディーは俯《うつむ》いたままそれを見送った。痛いほど握りしめた拳は、血の気を失って真っ白だった。
「イヌが!!」
団長殿が充分離れた頃合を見計らって、ヴァルターが悪態をついた。が、ディーの練度がこのような形で満天下に示されたからには、それ以上有効な反撃手段があるわけでもない。彼はぴかぴかに磨かれた軍靴で、苔《こけ》に覆われた大地を蹴飛ばし、怒りを発散させるしかなかった。
気まずい雰囲気が小隊のメンバーに覆いかぶさりかける。と、メイベルが多少唐突に口を開いた。
「あ、あの、ディー……?」
「なんですか……」
口を開くのも億劫《おっくう》そうに聞き返す。メイベルの方を見ようともしない――というより、情けなくて彼女の顔をまともに見ることができなかった。
「ええと、その……良かったら、午後から私の機体に乗る?」
何を言っているのか良く分からない、というようにディーが顔を上げる。ついつい眉根に不機嫌がわだかまり、睨《にら》みつけるような表情になってしまった。
自分の言葉が相手を不快にさせてしまったらしいと感じたメイベルは、ひどく狼狽《ろうばい》して続ける。
「私の機体、巡航すごく楽よ。ほとんどペダル操作が要らないくらいなの。進路さえ気を付けていれば、バランスは気にしなくても転ばないわ。だから……」
「よけいなお世話だ」
膨《ふく》れっ面でディーが答え、彼女の瞳が落胆の色に染まった。
次の瞬間、頭に拳骨が落ちる。
「こら。せっかく心配してくれてんのに、その態度はないだろうが」
「ヴァルターさん! なにも殴らなくても……」
「別に本気で殴っちゃいません。本当ならぶっ飛ばしてもいいとこだが」
珍しく固い口調でそう言ってから、彼はディーの肩をつかんで、軽く揺さぶった。
「おい、お前な。彼女がいま、純粋に好意で言ってくれてたことぐらいは分かってるんだろうな?」
「……だって……」
「だってもクソもあるか! お前がやったのは、男として最低の行為だぞ」
その通りだ。
悪いのは自分だし、ミュッフリングの嘲弄《ちょうろう》に反論できないのも自らの未熟ゆえだ。頭ではそう分かっているのだが、どうしても内にこもった怒りを押さえつけておくことができなかった。彼女が自分を気遣ってくれていることは理解できても、いや、それだからこそ、八つ当たり的に生の感情をぶつけてしまう。
それは、ありていに言ってしまえば彼女に対する甘えだったのだが、この認識をディーの心は都合良く無視していた。それも、ほとんど無意識の内に。
自分を追求してみて初めて、心の奥底に引っ込んでいた廉恥心《れんちしん》が、ひどく疼《うず》いた。ミュッフリングの言葉は、確かに悪意から出た嘲罵《ちょうば》の声であったが、真実からはごく近距離にあったのだ。
僕はみっともない。僕はなんて子供なんだろう。そう思った。
「う……すいません」
「相手が違う」
そう言われてディーは、傍らに膝《ひざ》を付く美しい女性を見つめた。その表情は困惑気味で、所在なさそうに作業服の襟元《えりもと》を引っ張る仕草が、どことなく茫洋《ぼうよう》とした印象を与える。
桜色の唇がぎこちなく笑みの形を作り、そこから、澄んだ声がこぼれ出た。
「あの、私はべつに気にしてないから……」
ひどく胸が痛む。ぎゅっと目を閉じて同じ言葉を繰り返した。
「すいません」
「ううん」
彼女は優しげに笑い、細い首を横に振る。その表情を見て、胸の支《つか》えが下りたような気がした。
ぽん、と肩が叩かれる。見上げるとそこには、屈託なく笑うヴァルターがいる。
「で、どうする? 彼女の機体に乗せさせてもらうか?」
確かに、そうするのが一番の解決策だということは、ディーにも分かる。しかし、甘んじてそれを受けるのは、忍びなかった。
「……やっぱりやめときます。そりゃ、ウービルトには乗ってみたい気もするけど……せっかく自分の機体をもらったのに、扱いきれなくて降りるんじゃあんまり情けないから」
土踏まずを刺激しながら、そう答えた。
ヴァルターはちょっと頷いて、鼻をならす。
「ふん、そう言うんじゃないかとは思ってたよ。じゃあ、ペダルとシート位置の調整をやり直しとくか」
「もうやっといたぞ」
にゅっと、上から突き出される首。降着姿勢を取ったディーの機体、その操縦席から身体を乗り出して、伸ばし放題の真っ白な髪と髭《ひげ》に顔の造作を埋もれさせた老人が、ダミ声を上げた。
「博士」
メイベルが呆れたように言った。
彼が、この調査団におけるもう一人の民間人スタッフ、アルトリンゲン工科大学客員教授のカール・ゴットリープ・ヴィンケルマン博士であった。薄鼠色《うすねずみいろ》のギャバジン地のジャケットを取り上げて、内ポケットに工具の類を仕舞いこんでいる。全体にずんぐりした体格、迫り出した腹部に作業ズボンのウエストが喰い込んで、お世辞にも格好良いとはいい難い。
「グービッツのろくでなしめ、良くもまあここまで扱いにくい人形を造りおったわ」
ディーは思わず目を剥《む》いた。彼の助手でもあるメイベルに、もの問いた気な視線を投げかける。
ヴィンケルマン博士といえば、現在イェーガーの設計を行うことができる十三博士のなかでも、筆頭に位置する人物である。それがまるで、その辺の町工場の親父みたいな格好をして、レンチ片手に新米搭乗員の機体をいじっているのだ。驚くなというほうに無理がある。ちなみにグービッツというのはフェオドラを設計した博士の名前で、ヴィンケルマンとはアイヒマン工房以来の同僚のはずである。
メイベルはディーの視線を受けて、ちょっと困ったように首をかしげた。
「博士、皆さん驚いてらっしゃいますよ。あんまり細かな作業に手を出さなくても、博士は失踪《しっそう》の原因調査のために参加を要請されたんですから……」
「やかましい。わしゃいい加減な仕事には我慢ならんのだ。だいたいもとはといえば、お前さんの調整がこの坊やに合ってなかったのが悪いんじゃろうが」
「それは……そうですけど」
しゅんとなって、メイベルが答えた。
「全くこの、粗忽者《そこつもの》め。短時間戦闘を想定してペダルの抵抗を調節したろうが? このボンコツはお前さんのノートゥングと違って、モードの自動変更機能なんぞついとらんのだからして、長距離行軍の前なら抵抗値は軽めに設定するのが常識じゃろうが。あんだけワシの助手の仕事をほっぽらかしといて、こいつの開発に携《たずさわ》ってたくせして、そんぐらいの機転も利かせられんかったのか?」
早口で一気にまくしたてる。ひどい言い言だったが、不思議と陰湿さは感じられなかった。どこか、できの悪い弟子を怒鳴りつける頑固な親方《マイスター》を連想させる。
「でも、もしかしたら危ない仕事だって仰ったのは、博士でしょう? だから少し乱暴に踏んでも大丈夫なように、と思って……」
「かーっ、気がきかんのう。森に入ったばっかりで、危ないことなんかそうそうあるもんかい。あんまりボケ〜っとしとると、来年はクビにするぞ!」
国内最高のテストパイロットも形無しである。さすがのメイベルも、これには苦笑するしかない。と、突然博士は攻撃の矛先《ほこさき》を転じた。
「おい、坊主」
それが自分に対する呼びかけだとディーが気付くまでに、少し時間がかかった。
「お前だお前、そこのチビ助」
さすがにちょっとむっとするディーだが、博士は彼の自尊心には一顧《いっこ》だにくれず、鼻先でドライバーを振り回しながら怒鳴りつけた。
「ペダルはいちばん軽くしといたぞ。下手に踏むとひっくり返るから、手前にフットレストをつくっといた。普段はここに足を乗せておけばいい。進路の修正は軽くな。それから坊主、シートはもう少しリクライニングさせて、楽な姿勢で操縦せい。そうせんと、こんな安物のシートだ、そのうちケツの皮が擦《す》りむけるぞ」
「僕は坊主でもチビ助でもありません! ディートリヒ・バルクラインっていう名前があるし、これでも伍長です!」
「は、威勢だけはいいわな。さっきまでベソかいて、手をひかれてた|坊や《ブービ》にしては」
「よけいなお世話です! ほっといてください!」
「ふん! これで足がつるようなら、とっとと人形遣いなんぞ辞《や》めちまったほうが身のためじゃぞ、坊主!!」
祖父と孫ほどにも歳の離れた二人のやり取りとりとは、到底思えないレベルの低さである。言うだけ言って、ヴィンケルマンは自分の機体の方へ歩み去ってしまった。
その機体というのがまた、ドラム缶に二本足をくっつけたような廃物利用のガラクタみたいなもの。博士はこれで、調査団と同じ道のりを踏破するつもりらしい。
「あの、ディー……博士、口ほど人は悪くないのよ。腕だって確かなんだから、きっとさっきよりずっと楽になってると思うの……お願い、あんまり気を悪くしないでね」
憤懣《ふんまん》やる方ない様子のディーを、メイベルが焦りながら宥《なだ》めようとする。そこに、博士から追い打ちがかかった。
「おお、そうだ。ペダルは毎日少しずつ重くしていくんじゃぞ! でないと、戦闘中にダンスを踊る羽目になるからの! 坊主[#「坊主」に傍点]!!」
おしまいの一言に、必要以上のアクセント。
かっとなってヘッドセットを地面に叩きつけようとするディー。メイベルが慌ててそれを制止した。
呆れたようにそれらのやり取りをただ眺めていたヴァルターは、増加する厄介事と長い前途に思いを巡らし、やがて、ため息混じりに肩を竦《すく》めた。
初日から多難な前途を予感させる滑り出しとなったディーではあったが、その一件以降は不思議なほど、順調に物事は進んだ。
あれだけ手こずらされた巡航航行の操作も、ヴィンケルマンの調整と小改造の後は、拍子抜けするくらい楽に動くようになった。最初は過敏な反応性に戸惑うこともあったが、慣れてしまえば、ごく軽い踏み替えが必要になるだけで、ほとんどペダルから足を離したままでも愛機は勝手に歩いてくれる。
無論、全て手動操作に切り替える戦闘時には、過激すぎて役に立たない設定なのだが、博士の忠告通りに、毎日少しずつ、正常な範囲の操舵力に近づけて行くことで問題は解決するはずだった。
なんとなく、日増しに重くなるペダルが、自らの技倆《ぎりょう》の向上をダイレクトに示しているようで、悪い気はしなかった。
無論、あれだけ派手に啖呵《たんか》を切った身としては、内心悔しい思いもあるのだが、それはまた別の話である。
調査団が、グロイスターの峰々を覆う原生林――地元の人間はただ『森《ヴァルト》』とだけ呼ぶ――の直中《ただなか》に足を踏み入れてから三日目の昼。
ようやく地面の起伏もきつくなり、行軍の速度も鈍り始めた頃、調査団は行方不明になった二つのイェーガー部隊の痕跡《こんせき》を辿《たど》りつつ、ポーゼン川のほとりに達していた。
前の調査団は、このポーゼン川と、さらに北を流れるロイゲン川の地点で伝令を出していた。その報告によれば、最初の部隊は特に支障なくこの二つの河川を渡ったらしい。
「ふん、別におかしなところはないわい。イェーガー二十機と人間がさんざ踏み荒らした痕《あと》は残っとるが、それだけだ」
ミュッフリングに所見を求められた偏屈《へんくつ》博士の回答だ。端の方にまとめて捨てられている携行食料の空き缶やら、使い捨てのバッテリーなども、野営後の風景としては特に珍しいものではない。
一通り周囲の捜索が済んだあとで、ミュッフリングが本日中の渡河を決定し、部隊はその準備にかかることになった。
五十qほど下流で、ケルンテンを横断するナハトブラウ川に合流するポーゼンだが、源流に近いこの位置ではまだ、幅約二十m、水深は深いところで四mというささやかな流れである。
とはいえ、調査団の半分以上を占める徒歩人員が渡るには、多少厳しい条件だ。勾配《こうばい》のきつい地形では川の流れも早くなるし、五月とはいえグロイスターの雪解《ゆきど》け水は冷たい。
心臓マヒを覚悟で泳ぐのは、リスクが大きすぎるだろう。
本来なら工兵部隊が登場し、架橋《かきょう》すべき場面だが、残念ながら本調査団はそれほど恵まれた環境におかれていない。渡河は、イェーガーがそのまま川の中に歩いて入り、一人一人を肩に乗せて向こう岸に送り届けるという方法で行われる。
渡し船が巨大な鉄人形に、渡し守が|人形遣い《イェーガーのり》に代わっただけの、古式ゆかしいやり方だ。
指示を聞いたヴィンケルマンはミュッフリングに対して猛烈な抗議を行った。彼の主張によると、それは「人類史上最高の芸術作品にロバと同じ仕事をやらせる、救いようのない罰あたりども」の愚行《ぐこう》であったが、これはごく少数の意見として、礼儀正しく黙殺されることになった。
さて、指示をするのは簡単だが、それを実行に移すのは大仕事である。イェーガー中隊の所属機は、それまで背中にくくりつけていた食料等の補給物資を、整備兵達の力を借りていったん下に降ろし、操縦席周辺に防水を施《ほどこ》さなくてはならない。ベンチレーターの空気取り入れ孔を閉鎖して、ハッチにはゴムのパッキングをかぶせる。それに二時間かかった。あとは洗濯女よろしく荷物を頭の上に乗せて、しずしずと水に入って行くのだ。
渡河はよほどのベテランでも、極限の緊張を強いられる局面である。もともと、イェーガーというのは水中で動かすようにはできていない。水分はデリケートな機体構造に悪影響を及ぼすし、なにより、大きな表面積に比例する水の抵抗が操作性を激変させる。もし下手にバランスを崩せば、川底で機体ごとスクラップになりかねない。
ヴァルターの機体が、頭の横で指をちょいと回し、無線機を入れろという合図を送ってきた。ディーは慌てて、コンソール下方のスイッチを引っ張る。
「何ですか、先輩。バッテリー消費を押さえるため、非常時以外は無線封鎖でしょ?」
「いいんだよ。それよりディー、気をつけろよ。水の抵抗ってのは結構きついからな。なるべく足は揃えないで、斜めに機体重量を分散させろ。あんまり慌てて歩かないで、一歩ごとに機体を安定させるんだ。多少遅れてもこの際誰も文句はいわん、落ち着いてやれ」
「大丈夫ですよ。養成課程でもやりましたから」
「ま、念のため言ってみただけだ」
そう言って、すぐに無線が切られた。
シャーフの機体が振り返って、かざした手を前方に振り降ろす。イェーガーは一機一機、澄んだ流れに身を沈めていった。
川底はごつごつした岩があちこち突き出ていて、足場はそれほど長くない。水深はだいたいイェーガーの胸もとぐらいまで達し、機体の応答性に影響を与える。
流れの半ばまできたあたりで、ディーの三号機の上体が、ぐらりと傾いだ。
「っと、ありゃ……結構これは……難し……」
あわてて右足のバランサーペダルを踏み込んで修正するが、水流に邪魔されて反応が鈍い。それで思わず操舵が過大になり、今度は反対側に倒れそうになった。焦って左足を踏み込むと、今度は逆に流れが操作を増幅する。酔っぱらいの千鳥足《ちどりあし》みたいにふらふらして、姿勢が定まらない。
「うわ、うわ、うわああ」
あちらにこちらに数度よろめいて、何とか機体を安定させる。冷や汗が腋《わき》の下を伝って気持ち悪かったが、気にしている余裕はなかった。
そろり、そろりと片足ずつ動かして、機体を前進させる。
一歩ごとに、機体のつま先まで神経を張り巡らせ、慎重に、慎重に前進する。たかだか数十mの川幅が、大西洋ほどにも広く感じられる。
関節部から水滴を落としつつ、水から機体を引きずり出し終える頃には、ディーの全身は汗でじっとり濡れていた。豊富な雪解《ゆきど》け水という冷却材のおかげで、操縦室の空気は完全に冷えきっていたにも関わらず、である。
川面《かわも》から離れ、担いだ物資を地面に降ろしてようやく、彼は深く長いため息をついて、全身の緊張を解いた。
すっかり湿ったパイロットグラブから両手を引き抜いて、手のひらの汗をズボンで抑う。
その段になって初めて、自分の心臓がフォルティッシモで激しくロールを続けているのに気付いた。
「こら、おさまれ」
左胸に手を当てて、小さく呟《つぶや》く。
鈍い衝撃が、機体の後方に起こった。首を傾げてそちらを見ると、ハッチを開放したヴァルターの機体が、軽く肩をぶつけているのだと分かった。
ヴァルターはそよ風に髪をなびかせながら、人差し指と親指で、小さな輪を作ってみせる。短い単語が、唇の動きだけで綴《つづ》られた。
ディーは暗い操縦室で、頬《ほお》が緩《ゆる》むのを押さえきれない。
ヴァルターは言ったのだ。「よくやったな」と。
ディーは内心ちょっと誇らしい気分で操縦|桿《かん》を引き、機械の腕を振ることで褒《ほ》め言葉に応えた。
「もたもたしてると、全員渡りきる前に日が暮れるぞ!」
シャープの叱咤《しった》を受けつつ、イェーガーはもう一度川を横切って逆戻りする。そうして、彼らは今一度、肩に兵員達をしがみつかせて向こう岸へと歩を進めて行った。
しかし――
「ま、しょうがないだろ。諦《あきら》めてポーターに徹《てっ》しろよ」
すっかりくさってしまったディーに、多少気の毒そうな声がかかった。つまり誰もディーの操縦に命をあずけようという人間がいなかったのである。
順番待ちの列が、ディー機の番に回ってくると突然、互譲《ごじょう》の精神を発揮して次の人へと席を譲《ゆず》りだすのだ。
最前列の整備班長は、二番目に並ぶ通信料の伍長に。伍長はその後ろに並ぶ兵長に。兵長はさらに後ろの一等兵に……といった具合で、列の最後に並んでいた若い整備員は、途方に暮れた顔をして、いっかな機体のステップをよじ登ろうとしない。
ポーター云々《うんぬん》は、しかたなく口を挟《はさ》んだヴァルターの科白《せりふ》だ。
ディーは打ちひしがれて川辺りをはなれ、残された交換部品や、火器弾薬の類《たぐい》をのろのろと運びにかかった。
自信はあった。最初こそ緊張したものの、引き返した二度目の渡河は、自分でも会心の操作ができたと思う。次もうまくやれるはずだ。が、他人はそう評価してくれない。
「ちぇっ」
残った物資の分量なら、二往復で運びきることができるだろう。ディーは再び急流に機体を進めた。せめて完璧《かんぺき》に仕事をこなして、彼らを見返してやりたいと思った。
確実な操縦で渡りきって、荷物を降ろし、再び戻る。自分でもどんどん落ち着いてくるのが分かった。
川底の微妙な凹凸や、ぐらつきかけた岩の様子まで、シートとペダルに伝わる感覚から分析できる。腰関節を回転させ、上体を斜めにして水流を逃がす方法さえ試す余裕があった。それがまた、操作をぐんと楽にする。
(けっこうやるじゃないか、僕って)
そんな感慨すら覚えるほどだ。
アデナウアー大尉を初めとするベテラン連中に、優るとも劣らぬ速度で渡りきり、最後の荷物を再びかつぎ上げて引き返す。
徒歩人員の最後の一人が川の中程にさしかかるあたりで、楽々と追いついた。
そのまま追い越そうとしたとき、それまでおっかなびっくり歩を進めていたその機体――第三小隊の三号機が、突然バランスを崩した。このままでは確実に水中に倒れ込む!
考えるより先に身体の方が反応した。左右の操縦桿を引っ張り上げて、勢いよくぐるりと回す。機体は正確に操作に応えて、頭上に捧げていた予備火器の束を放り投げた。
フットペダルをばたばたと交互に踏み込んで、同時に操縦桿を押し込む。ディーのフェオドラは、機敏な足さばきで数歩サイドステップし、流れに圧されて倒れかけた機体を、がっしりと支えた。
「ずいぶんしぼられたみたいですね」
第四小隊用にしつらえられた狭いテントの入り口をくぐると同時に、そう声がかかった。
薄暗い空間の奥に、メイベルがちょこんと膝《ひざ》をかかえて座りこんでいた。横にはヴィンケルマンの姿もある。
「まあ、ね」
ため息混じりにヴァルターが答える。後ろにくっついていたディーが入りやすいよう身体をどけて、どっかと腰を下ろした。
「貴様の無思慮《むしりょ》な行動で、貴重な武器弾薬が水の底だ。よけいなことをして調査団の戦力を減少させた責任をどうとるか。ヴァルター中尉、直属の上官たる君の責任も決して軽くはないぞ、とかなんとか。あの|イヌ野郎《ミュッフリング》と、軍国主義者《シャーフ》がうるさくてね」
「ひどい……誰がどう見たって、ディーに落ち度なんかないわ」
「あの脳たりんどもは、イェーガー機と熟練要員と整備員のセットより、予備の機関砲のほうが大切なんじゃろうよ。物の価値のわからん低能めが」
ヴィンケルマンが口汚く罵《ののし》った。
「まあ、いいでしょう。この場で銃殺されずにすみましたからね」
ヴァルターが冗談めかして答え、さっさと寝袋の上に寝そべった。座れよ、とディーに手で合図する。
ディーは襟元《えりもと》を緩《ゆる》め、しょんぼりと腰を下ろした。
「なんだよ、あんまシケた顔するな。メイベルさんが正しいよ」
「けど、また先輩の立場悪くしちゃったみたいだし」
「俺の立場に心を砕く余裕があったら、自分の心配をしろよ。あそこで見過ごしてたら、お前、搭乗員連中から総スカン喰《く》ってたぜ」
「そうですかね……」
「そうよ」
メイベルが珍しく強い口調で相づちを打った。
「でも……」
まだなんとなく煮えきらない様子のディーに、ヴァルターが笑いかけた。
「不安なのは分かるけどな。そら」
と、いつもの調子で顎《あご》をしゃくってみせる。その先、テントの入り口から、第三小隊長のムラタ大尉が顔を突き出していた。
「和《なご》やかにやってるとこ申し訳ない、中尉。バルクライン伍長に用があるんだが……」
「は、はい」
ディーはあわてて立ち上がり、拍子でテントの支柱に頭をぶつけた。
手招きに応じて外へ出ると、若い軍曹――といってもディーよりも三つ四つ年上に見えた――が立っている。その脇には、さっきディーの機体で渡河することを拒んだ整備員もいた。こちらはディーと同じくらいの歳だろうか。
軍曹が口を開いた。
「さっきは迷惑をかけた、伍長。感謝している」
そう言って、階級がディーより上にも関わらず先に敬礼した。慌てて答礼する。
と、軍曹は表情を緩め、笑いかけた。
「どうもぐらついた岩の上にのっかってしまったみたいでね。あのままだと彼も……」
といって、かたわらの整備兵を見る。
「……溺《おぼ》れさせるところだった。うかつだったよ」
悪びれたところのない、友好的な笑顔だった。と、その整備兵が一歩進み出て、声を張り上げた。
「先ほどは失礼な態度を取ったにも関わらず、こうして助けていただいて感謝の言葉もありません! 申し訳ありませんでした、伍長殿!」
「いや、そんな大したことをした訳じゃないから……」
なんとなく照れくさい。手を振って制すると、相手はむきになって言いつのった。
「そんなことはありません! 自分は本当に……」
長くなりそうだと判断したのか、ムラタ大尉が割って入った。
「ま、そんな訳でね。またヴァルター隊長……じゃなかった、中尉に借りを作ってしまったよ。もちろん君にもだけど、バルクライン伍長」
どう答えていいか分からず目を白黒させるディーに、大尉は爽《さわ》やかな笑顔を見せた。
「スペインじゃ、彼が僕の隊長だったのさ。さんざ危ないとこ助けられたよ。あの性格だから、今じゃ階級が逆転してしまったけどね。君、すくなくとも上官には恵まれてるぜ」
大尉は、東洋人の風貌《ふうぼう》を色濃く残したアーモンド型の目を、片方だけ閉じてみせた。
「さて、用はこれだけだ。なんかあったら言ってくれ、いつでも力になる。じゃな」
そういって彼は、二人の下級者を促して自分達のテントへ引き返して行った。途中で一度だけ振り返り、こう付け加える。
「そうだ、装備品を無駄にした件については、僕とアデナウアー大尉でネジ込んどいたから、心配しなくていいと思うよ」
しばらくぼおっとして、彼らの後ろ姿を見送っていたディーは、背後で聞こえたぼやきで、ようやく我に返った。
「あの野郎、余計なことばっかり言いやがって」
「先輩……」
「さて、バルクライン伍長。まだ自分のやったことを後悔してるか?」
ディーは輝くような笑顔を見せて、迷うことなくこう答えた。
「全然!」
こうしてようやく、ディーもお荷物の新米という周囲の認識から、調査団の一員として認められるまでに至ったわけだが、残念ながら第四小隊の不幸はそれで終わったわけではなかった。
確かに最初の渡河から二日ほどは、イェーガー中隊もようやく、ただのべテラン搭乗員の寄せ集めから抜けでて、『部隊』としてのまとまりを見せつつあった。
が、その後は――正確に記述するなら、渡河の翌々日の日没を過ぎた頃から――再び第四小隊は、調査団内部で孤立した存在となった。
理由は簡単である。野営地で一日に一回行われる、小隊長以上の打ち合わせの里で、ミュッフリングが以下の情報を披露《ひろう》に及んだためだ。
その夕方、ミュッフリングあてに情報部からの暗号連絡が入っていた。発信者は情報部長のエヴァルト大佐。通信の内容は、かねてから内偵中だった大規模なドイツのスパイ網が、摘発されたというものだった。
それ自体、きわめて重大なニュースである。グリューネラント帰属問題で、様々な関与が取《と》り沙汰《ざた》されている中での摘発だ。今後の国内情勢にも、必ずや大きな影響を及ぼすに違いない。
が、そんなことで第四小隊の立場が悪くなるわけもない。調査団に持ち込まれた火種は、通信の最後に付け加えられた短い文章のためだった。
『貴官ノ麾下《きか》二情報工作員潜入ノ形跡アリ。詳細不明、留意アラレタシ』
ミュッフリングのテントに集まったメンバーの表情に、いいしれぬ驚愕《きょうがく》と、猜疑《さいぎ》がよぎった。そして彼らの視線は、一斉《いっせい》にヴァルターへと集中したのである。
が、彼らとて何も、ヴァルターを疑ったのではない。彼らの疑いは、ヴァルターの指揮下にある二人の民間人――つまりヴィンケルマン博士とメイベル・ハミルトンに向けられていたのだ。
不幸なことに、十三博士の裏切りには前例があった。五年ほど前に、それまでケルンテン公国陸軍|工廠《こうしょう》にあって、イェーガーの開発に主導的地位を築いていたエドヴァルト・ピュックラー博士が、行方不明となったのだ。
この事件はたちまち一大|醜聞《しゅうぶん》を巻き起こし、軍上層部の将軍達の首が幾つかはね飛んだ。博士の行方は杳《よう》として知れず、暗殺や亡命、自殺など様々な説が飛び交うこととなった。そしてその回答は、一九三五年三月十六日、全世界の知るところとなったのだ。
ドイツのヴェルサイユ条約|破棄《はき》と、再軍備宣言である。そこで第三帝国は高らかに、戦闘装甲猟兵部隊の配備をぶち上げたのだ!
むろん、ケルンテン以外では不可能といわれたイェーガーの開発を成功させた功労者が、行方不明になっていたピュックラーであったことは、言うまでもない。
「納得行きませんよ!! どうしてメイベルさんが疑われなきゃならないんです!?」
今にもヴァルターに掴みかかりかねない勢いで、ディーが叫んだ。
「誰も|自分達の仲間《軍人》がスパイだとは思いたくないさ。二人が拘束されなかっただけでもありがたく思え」
いささか投げやりにヴァルターが応じた。さすがの彼も、内心のいらつきを押さえきれない様子だ。
「だって、二人が疑われてるんですよ!」
「だから! 根拠もなく拘束なんざできないから、現状維持ってことになってるんだよ。これ以上話をややこしくするな!」
わけも分からず周囲からの冷たい視線に囲まれて一日を過ごし、ようやく件《くだん》の若い整備員から話を聞き出したディーが、その足で小隊のテントに取って返し、ヴァルターに喰ってかかったのだ。
「どうりで……向か雰囲気が変だと思ったんだけど」
まるで他人事のように、メイベルが呟《つぶや》いた。気勢をそがれたのか、ディーが肩を落としてため息をつく。
「よく落ち着いていられますね」
半《なか》ば呆れて言った。彼女は気にした風もなく、可愛らしく肩を竦《すく》めただけだ。
「じたばたしても仕方ないから」
「そういうことだ」
ヴァルターが諸手《もろて》を上げて賛意を表した。意外と落ち着いた年長者二人の態度に、ディーも何とか平静を取り戻す。
「クソったれ! ワシなどエッグラーのホモ野郎と一緒にしおって!! 今に目にモノ見せてやるぞ! 奴らのクソまみれのケツの穴から手を突っ込んで……」
一人鼻息の荒いのが、ヴィンケルマンである。たっぷり五分ほどかけ、口をきわめてミュッフリングと、他の隊員と、公国軍の情報部の無能を罵《ののし》り、ドイツとピュックラーに悪意たっぷりの評価を列挙した。本人達が聞いていたら、悶絶しかねないような表現がポンポン飛び出してくる。パイロットという職業柄、男社会における多少下品な言葉遣いにはずいぶん耐性のあるメイベルが、何度か頬《ほお》を染めて俯《うつむ》いたほどだ。
ようやく語彙《ごい》が尽きたか、それとも息が続かなくなったものか、にわかに判別はつけがたかったが、とりあえずヴィンケルマンの罵倒《ばとう》が一段落する。
「で? どうするんです、先輩……いや、隊長殿は」
ディーがちょっと皮肉めいた口調で訊《たず》ねた。
「どうもこうも……何もしないよ」
「何じゃと!? こんだけ蔑《ないがし》ろにされて、ワシに黙って屈辱に耐えていろというのか!?」
「お気の毒ですがそうなります」
ヴァルターが冷たく言った。
「何を言うか! こうなったら我々の手でスパイをひっ捉《とら》えて……」
「無理です」
言下に断定するヴァルター。
「なぜじゃ!?」
「いいですか、博士。敵はこれほど巧妙に調査団に入り込んでいるんですよ。ミュッフリングだって馬鹿じゃない、調査団を結成する時点でメンバーの過去ぐらい洗ったでしょう」
ディーは、最初にミュッフリングと見《まみ》えたとき、自分の経歴がファイルになって彼の手にあったのを思いだし、頷いた。ヴァルターはさらに続ける。
「それで何も出てこなかった。無論出てきてたなら、その時点でそいつは逮捕されてる。天下の公国軍情報部が尻尾も掴《つか》めなかったのに、どうして我々にそんなことができるんです? だいたい、本当に調査団の中にスパイがいるかどうかも分からない。そんな中で下手に周囲を疑うような行動をしたところで、藪《やぶ》をつついて蛇を出すようなもんです」
「しかしだ、若いの……」
「よしんば調査団の中にスパイがいたとしましょう。けどね、そうなるとこの場にスパイがいないなんて保証も、ありゃせんのですよ。本当に博士がスパイかも知れないし、メイベルさんだって、ディーだって、極端な話が俺だって、そうじゃないとは誰にも言いきれない。でもねえ、そうやってお互いを疑ってたら、心の休まる暇なんかどこにもないでしょう。違いますか? 俺はあなた方を疑いたくない。これでも分かってもらえませんか?」
ディーは自分の耳を疑った。
彼の知るヴァルターは、いつも自信たっぷりで、言葉には皮肉な刺があり、ひねくれた冗談が好きで、硬直化した常識を徹底的に馬鹿にして、常に自分のペースを崩すことのない、どこか飄々《ひょうひょう》とした風のある男だった。良識ある大人達が眉をひそめる|ジャズ《シュレーゲムジーク》に耳を傾け、軍人にあるまじき長髪をなびかせて最新鋭のスポーツカーをドライブし、街にあっては数々の美女と浮き名を流し、戦場にあっては敵から恐れられ、味方からは尊敬を一身に受ける撃墜王。
それがディーの抱いていた、ヴァルターのイメージだ。
むろん、彼にとっては気さくな先輩でもあったし、ときには厳しい上官でもあった。決して思いやりに欠けるわけではなく、むしろその逆だったが、それでいてどこか根本的なところで人と交わるのを避ける気色が感じられたのもまた事実だ。
が、今目の前にいるのは、ディーのそんな思いこみとは少し違う存在だ。友人を疑念の眼差しで見つめることを潔《いさぎよ》しとしない高潔さを秘めた――いや、そうありたいと願うことをやめない、希有《けう》な、そしてごく普通の青年だった。
彼は真摯《しんし》な表情で、テントの中にいる自分の部下、そして同時に友人でもある三人を見渡す。
「……よかろ。あんたに従うさ、若いの」
ヴィンケルマンが顎髭《あごひげ》を引っ張りながらそう言った。
「私も、それがいいと思います」
メイベルが静かに目を閉じた。
沈黙が流れる。
「ディー?」
ヴァルターが、少し不安そうな表情でディーを見た。
「あ……」
答が喉に絡《から》んで、変な声になる。彼は一つ咳払いをして、言った。
「異存ありません、僕も」
ある種の心地よい感情が、彼の胸を満たしていた。どこがどう何であると筋道だてるには、あまりにも未整理な心の動きだ。無理に言葉にしてしまうと、その危うい輪郭を損ないかねない、そんな感じだった。
ヴァルターが不意に白い歯を見せ、照れくさそうに笑った。
「ちょっとらしく[#「らしく」に傍点]なかったかな?」
三様の笑い声が狭いテントのなかを行き来する。
そうしながらディーは、ふいに胸に浮かび上がった言葉の連なりに、軽い戸惑いをおぼえる。
(僕はいつか……この人に追いつけるだろうか)
心の声は、そう自分に問いかけていた。
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第V章 DOWN SOUTH CAMP MEETING
翌日は、暖かい木漏れ日が透き通る、五月らしい天気になった。空気は爽《さわや》かで、ブナやナラのよい薫《かお》りが操縦席のディーにまでとどいた。
ただし、イェーガーの重い足音は、とりどりの花をつける背の低い草のクッションの上でさえ、少しばかり無粋に響く。
鋼鉄製の肩が木々の梢《こずえ》にふれるたび、驚いた小鳥の群れが一斉に飛び立った。
(ヒタキかな?)
愛機の歩を進ませながらディーは、ぼんやりとそんなことを思う余裕があった。
進路はいちだんと傾斜が厳しくなり、なおかつ前の部隊の痕跡《こんせき》等を調査しながらの道行きなため、進み具合は遅々としたものだった。切り倒された木や、踏み荒らされた下生えなどが延々と続いて、行方不明部隊の消息を伝えている。
昨日以来、第四小隊の面々への視線はひどく冷たく、猜疑《さいぎ》に満ちて感じられる。小休止時などにも、ヴィンケルマンやメイベルが近くを通りかかっただけで、それまで談笑に興《きょう》じていた隊員達がおしなべて口を噤《つぐ》んでしまう始末だ。
渡河の件以来、ディーの機体担当となっている若い整備兵も、あからさまによそよそしい態度をとる。必要最低限のことしか喋《しゃべ》らず、視線も合わせようとしない。
さすがに頭にきたディーが、機体の陰《かげ》で詰め寄った。
「おい、どういうつもりだよ!? そんなに僕が信用できないのか?」
「……そういうわけじゃありませんけど……」
「じゃあなんで!?」
彼は本当に申し訳なさそうに、告白した。
「班長に言われてるんです。……奴らとは口をきくな、って」
「なんだってえ?」
唖然《あぜん》となるディー。
「僕だって、伍長や他の人を疑いたくないけど……言うこときかないと殴られるし……」
暗い脱力感が全身に満ちた。
(そういうことかよ)
「わかった……いいよ、もう。行ってくれ……」
若い整備兵は、もう一度口の中でもごもごと謝罪すると、逃げるようにその場を立ち去った。
降着姿勢にある愛機の下腿《かたい》に背中をあずけ、ディーはため息をつく。
やりきれなかった。
眩《まぶ》しい陽射しも、鳥のさえずりも、淀《よど》む心を救いはしない。その明るさがかえって煩《わずら》わしい。
不意に、肩が叩かれた。
「暗いな。飯だってのに、一人で何やってんだ?」
「先輩……」
ヴァルターが、笑いながら自分を見おろしていた。その屈託のない表情を見て、ディーは心中の不満をぶちまけようと口を開き――思いとどまった。
自分はまだいい。せいぜい整備兵や、食事当番と顔を合わせる程度ですむのだから。ミュッフリングやシャーフ、そしてほかの隊長連中と嫌でも顔を合わせなければならないヴァルターの苦労は、ディーの比ではないはずだ。
「……別に。何でも」
口の中で呟《つぶや》いた。
「そうか?」
ヴァルターは軽く笑い、もう一度彼の肩を叩いた。
「どうせまた行軍用|口糧《こうりょう》なんでしょ」
「コンクリートみたいな軍用パン。おがくずのライプニッツ・ビスケット。ゴムパッキング並に固い干し肉。色だけで味のないコーヒー。飢えて死ぬよりはずっといいさ」
「そりゃそうだけど」
「ぜいたくいうな。メイベルさんみたいな美人と一緒なら、行軍用口糧も五割方|旨《うま》くなろうってもんだろ。なあ、ディーよ?」
「別に僕はそんな……」
「隠すなって」
「だって、彼女僕より七つも年上だし……」
腹を抱えて大笑いするヴァルター。苦しそうに身をよじる。
「お前ほんとに素直なやつだな。耳まで真っ赤だぜ」
「先輩!」
照れ隠しに怒鳴ってみたところで、ごまかせるものでもない。乱暴に肩を叩いて笑い続けるヴァルターに、せいぜい憮然《ぶぜん》とした表情をしてみせるのが関の山だ。
「うんうん、年上に憧《あこが》れる頃だよな」
「そういうんじゃありませんよ」
口をとがらせる。そこへ、ヴィンケルマンの罵声《ばせい》が飛んだ。
「なに遊んどる! 年寄りを餓死させるつもりか、この放蕩《ほうとう》息子《むすこ》ども!! とっととこっちへこんか!」
ヴァルターが肩を竦《すく》めて見せる。
「そら、じいさんが癇癪《かんしゃく》おこしちまった」
「先輩が変なこというからですよ!」
ヴァルターは、ふふんと鼻で笑った。
「ま、そういうことにしといてやるよ」
そろそろ日も西に傾きかけようかという頃になって、一行は二つめの難所、ロイゲン川へとたどり着いた。
ある程度平坦な森の中を流れていたポーゼンとは違い、この川は明らかに、太古の氷河によって削られた谷底を流れている。川幅こそポーゼンに及ばないものの、険《けわ》しい傾斜の崖を降りて行かなければならないぶん、難易度はこちらの方が上だ。
「さすがはエリートの山岳部隊じゃわい。よくもこんなところを降りていったな」
ヴィンケルマンが、例のドラム缶に脚をつけたような機体から身を乗り出してそう言った。見おろす険しい山肌のそこかしこに、撃ち込まれたイェーガー用のアイゼンや、渡されたワイヤーロープが見える。前にここを通過した二隊の残したものだ。
ミュッフリングが、機上のシャーフと何か言葉をかわしている。と、シャーフの機体が大きく手を振って、中隊全員集合の合図を出した。
それぞれ機体を降着させ、搭乗員達が走り寄る。全員が揃ったのを見届けてから彼は、よくとおる声を必要以上に張り上げた。
「諸君、状況はみてのとおりだ。この地点までは行方不明になった部隊の足どりも判明しているが、これ以降の確かな情報はない。慎重を期して渡河は翌朝とする。中隊は不測の事態に備え、警戒体勢を緩めないように」
さあっ、と音を立てて緊張が走り抜けた。不安気なざわめきが起こる。
「静かに! なお、明日の渡河に備え、ルートの確認をしたい。誰かに先行してもらい、戻って報告してもらうことになるが……志願者を募《つの》りたいと思う」
搭乗員達は、互いに顔を見合わせた。
先の部隊がルートを開拓しているとはいえ、この険しい崖を一人で降りきって渡河したのち、もう一度戻って様子を報告しなければならない。歴戦のパイロットにとっても、決して楽な仕事ではない。
「なんだ、誰も志願者はなしか? 貴様らそれでも公国に忠誠を誓う軍人か!?」
シャーフは眉をつり上げて怒鳴った。
全く嘆《なげ》かわしい。国のために喜んで命を捧げるべき軍人が、臆病風に吹かれて身を屈めるとは。献身と忠誠こそが本分だというのに、これではそのあたりの軟弱な学生共となんら変わるところがない。光輝ある公国軍の誇りを、こいつらはいったいどこに置き忘れてきたのか。こんなことだから、グリューネラントの連中に愛想を尽かされるのだ。彼の地に故郷をもつ者として、肩身の狭いことおびただしい。
厳しい叱責《しっせき》を加えようと口を開きかけたち上うどその時、おずおずとひとつの手が上がった。
一瞬、喜色を浮かべたシャーフだが、その志願者が誰であるかを覚《さと》って、ひどく複雑な顔になる。
「貴様か……バルクライン伍長」
呻《うめ》くように名を呼んだ。
「はい、ぼく……自分が先行し、調査を行います」
ふたたび、ざわめきが一同の間を走り抜ける。この場の誰にとっても、これは意外な成り行きであった。
ただヴァルター一人が、頬《ほお》に薄い笑いを張り付けて、ディーを見ていた。
シャーフはちょっと逡巡《しゅんじゅん》して、背後に控えるミュッフリングを振り返った。えらそうに構えた小男は、表情を消したまま黙って答えない。
「よし……バルクライン伍長に、渡河ルートの調査を命じる」
苦虫を噛み潰したようなシャーフ。
ディーは敬礼をもって、命に応えた。
「……本当にだいじょうぶ? 私がかわりに……」
機体に乗り込もうとするディーに、小走りで追いついてメイベルが訊《たず》ねた。ディーはわざとらしく腕を叩いて振り向く。
「心配ないですよ。これでも少しは、腕を上げたつもりなんだ」
「でも……」
「そんなに僕の腕が信用できない?」
「そうじゃないけど……私たちのために無理してるんじゃないかと思って」
メイベルが上目遣いにそう言った。
「そんなことありませんよ。気にしすぎですよ、メイベルさん」
安心させるように笑ってみせる。
「ワシの助手にいいとこ見せたいんじゃろが?」
長い眉毛の下から、いたずらっぱく目を光らせてヴィンケルマンが言った。
「ち、違いますよ」
ヴィンケルマンは、慌てて否定するディーを無視して、メイベルに耳打ちした。
「ほれ、図星じゃ」
もちろん、わざとディーにも聞こえるように、だ。
「博士……」
メイべルが頼《はお》を赤らめた。
「気をつけた方がええぞ。こういうタイプは純情そうにみせて、裏でなにやっとるかわからんからな」
「いい加減なこと言わないでください! 先輩じゃあるまいし」
「ほお、俺がどうしたって?」
ヘッドフォンとマイクロフォンのセットがいささか乱暴に頭の上へと振ってきた。すんでのところで受けとめる。
ヴァルターが、自分の機体の操縦席から身を乗り出している。彼の方はすでに、ヘッドセット装着済みだ。
「上から指示だしてやる。無線入れとけ」
「は、はい!」
「急げよ、みんなこっちを睨《にら》んでるぜ」
言葉通り、調査団の視線はほとんど彼らの周りに集中していた。ディーはなんとなく気後れしつつ、そそくさとステップをかけ上がる。
慣れた手つきで防水パッキングを施《ほどこ》したハッチを閉じ、フットペダルをゆっくりと踏み込んだ。穏やかな作動音とともに、フェオドラは立ち上がる。
切り立った谷のとばぐちまで、ヴァルターの機体と肩を並べて歩を進める。見おろす谷はかなり深く、角度はほとんど垂直に見える。下まではだいたい五十mくらいか。脚を滑らせたりしたら、ただでは済むまい。
「びびったか?」
ヘッドフォンにヴァルターの声が飛び込んできた。内心の恐れを言い当てられて、ちょっと怯《ひる》んだディーだが、ここはせいぜい強がってみせる。
「楽なもんですよ」
「頼もしい科白《せりふ》じゃないか」
声はヴァルターではなかった。
「ムラタ大尉!?」
「すまない、バルクライン伍長。こんなことぐらいしか言ってやれないが、気をつけて」
首を巡らせると、愛機の肩に腰掛けて通信機を操作する若々しい姿が目に入った。精いっぱい表してくれた好意に、ちょっと手を振って答える。
そうしてディーは、いよいよ崖としか見えない岩肌を降り始めた。棚のように突きだした岩肌を、慎重に一歩一歩確かめながら進む。マニピュレーターを使って、頼りにならない足場にかかる機重を分散させつつの降下だ。
「っ……厳しいな……」
コクピット内で、忙しく手足が動く。操縦|桿《かん》を握りかえ、機体の指先まで操るには、ピアニスト並の器用さが必要だ。無線器からヴァルターの声。
「落ちつけ。左に三m行ったとこに、前の部隊が残したアイゼンとワイヤーがある。うまく使え」
ちょっと首を動かし、確認した。崖にへばりつきながら、蟹《かに》のように横ばいする。むろん自動巡航など切ってあるから、全てを自分で操作し、バランスも取らなければならない。想像を絶する難しさだった。
二、三度|掴《つか》みそこなってから、垂れ下がる鉄製のワイヤーを引っ張る。アイゼンでしっかり固定されているから、フェオドラの機重をかけてもなんとかなりそうだ。
「いいぞ。つま先だけの足場しかないが、慎重にやれば大丈夫だ」
「簡単に言いますけどね」
「弱音を吐くなよ、志願兵くん!」
「ちぇっ」
軽口を叩いてはいるが、実際のところ緊張は極限に達していた。ちょっとでも操作を誤れば数十mをまっ逆さま、確実に挽《ひ》き肉《にく》になれるはずだ。操縦桿を握る手にも力が入る。
「あんまり固くならないで。膝《ひざ》をもっと柔らかく」
「メイベルさん?」
見上げると、ヴァルターの一号横の横に、ノートゥングが立っている。
「ちぇ、まるで手を引いてもらわないと歩けない、子供になったみたいだ」
嬉しさを隠すように、毒づいてみせる。
ほうっ、と息を吐き出すと、肩の力が少し抜けた。
ワイヤーを二の腕に絡ませながら、なおも横歩きを続ける。先行部隊の残した道筋は、かなり大きな岩棚を大きく迂回《うかい》しているようだ。
「先輩、ここはまっすぐ降りた方が早いんじゃありませんか? なんとか降りられないこともないような気がするんですけど……」
「う〜ん、北向きの崖だからな。植物の根っこが育たない分地盤も弱くなる。山岳部隊のプロ連中がそっちのルートを通ったんだ、無茶しないほうがいい」
「はあ」
そうやって、蝸牛《かぎゅう》の歩みほどにゆっくりと降下を続け、どのくらい経過したろうか。ディーのフェオドラはようやくのことで谷を降りきり、飛沫を上げて流れる清水の水際に脚を下ろしていた。
陽気なヴァルターの声が、ほっとするディーの耳へと飛び込む。
「二十分か。まあまあの成績だぞ」
「えーっ、そんだけしか経ってないんですか? 二時間ぐらいかかったと思ったけど」
くすりと笑うメイベルの声が、ヘッドフォン越しに聞こえた。それに重なって、ヴァルター。
「……機体に異常はないか?」
「なんともないみたいです」
「そうか。よし、つぎは川だな。前のポーゼンより少し流れが遅いはずだ。大丈夫とは思うが、慎重に行けよ」
「了解《ヤヴォール》!」
ここまで来れば、あとは楽なものだ。水中機動については、先だってさんざん経験をつんだ。早くも渡りきったあとの、登りの道筋を目で追いながら、ディーは機体を進める。川底は荒い砂利が多く、多少軟弱だった。サスペンションのモードを少し堅めに変更し、遊びを少なくする。
川面の動きを見て、底の平坦そうなルートを選んだ。水深は思ったよりも浅く、歩は快調に進んだ。
上では皆が自分を見ているだろう。今のところ、後ろ指を指されるようなへマはしていない。ディーは自分の首尾に満足していた。
「あっ……」
メイベルが小さく悲鳴を上げた。ディーはべダルを踏み込んで、機体を一歩進めたとこいろだった。
「え?」
「ディー、右足!」
つぎの瞬間、突然機体が右側に傾《かし》いだ。慌てて右ペダルを踏み、バランスを回復しようとする。が、ペダルはなんの抵抗もなく床にべったりとくっつき、機体の反応はなかった。
「ああっ!」
メイベルが絶望的な叫びを上げた。時間の流れは突然引き延ばされた。
ゆっくり、ゆっくり倒れる機体。ディーは成す術なく、シートに張りついたまま呼吸を止めた。機体の腰ほどまでの水流に絡めとられ、フェオドラは水流に沈む。
防水不可能な首の部分から、身を切るような冷たさの水が流れ込んできた。心臓が締め付けられるような感覚。
それはすぐにおさまって、後は心地よい暗黒が彼を包んだ。
「……なあ、ヴァルター。お前が自分の部下を疑いたくない気持ちはわかるよ。けどな……あの坊主のイェーガー、膝《ひざ》のフランジに細工の痕《あと》があったらしいじゃないか……」
「背中のナイフに気を使ってたら、こっちがまいっちまう……」
「せめてあの女だけでもイェーガーから降ろして……」
夢か、現《うつつ》か。
身体が動かない。水底に沈んでいるように、声がぼんやりと遠かった。
「お前にはスペインでだいぶ助けられたが……今回ばかりはな」
「アデナウアー、長いつき合いだろ。だったら俺の返事もわかってるんじゃないのか?」
「……そうかもな」
ヴァルターの声にも、常の覇気《はき》がない。
頭が痛い。頭蓋骨《ずがいこつ》の内側から破裂しそうだ。寒い。息が苦しい。
「隊長……いや、中尉があの坊やを可愛がるのはわかりますけど……」
ムラタ大尉だ。
ああ、前にもこんなことがあった。あれは始めて先輩に逢ったころだ……
父親が死んだのは、ディーが十歳の時だった。南グロイスターの鉱山町で、炭坑技術労働者だった父は、落盤事故に巻き込まれたのだ。母の顔は知らない。ディーを生んですぐ、産褥熱《さんじょくねつ》で死んだときかされていた。
暗い部屋で父の帰りを待っていたディーは、恐い顔をした炭坑夫たちがどやどやと踏み込んでくるや、薄汚れた担架を父のベッドに置くのを見て、すぐに何事が起きたのか悟った。鉱山町ではよくある風景だったからだ。
奇妙に現実感を欠いた情景を、今でもまざまざと思い出すことができる。死体は見せてもらえなかった。
親戚とは疎遠《そえん》で、葬儀に参列したのも、父の仕事仲間と、のっぺりした表情の背広姿の男――勤めていた会社の重役ということだった――だけ。
雀《すずめ》の涙ほどの見舞金を渡され、引き取り手もないディーはしかし、施設行きを頑強に拒《こば》んだ。理由はよく覚えていない。周囲は口をきわめてディーを説得しようとしたが、彼はとうとう聞き入れず、父の勤めていた会社で働けるよう背広の男に頼み込んだ。
以来ディーは、昼は義務教育の学校へ通い、夜は暗い坑道の中で大人達にまじって汗を流した。暮らしは決して楽ではなく、ただ生きるためだけに働く毎日が続いた。
そうやって三年が過ぎた頃、洗練された容姿と颯爽《さっそう》たる物腰をもつ、背の高い若者が同じく炭坑夫として鉱山町に現れた。
彼は田舎の、くたびれた炭坑町とはおよそそぐわない人間だった。斜にかまえた態度を崩さず、周囲とも一線を画し親しく交わろうとはしなかった。それなのに、不思議と彼の周りには人が集まった。
ディーもまた彼に惹《ひ》かれた。
彼も、唯一自分より年下のディーに、なにくれとなく世話をやいてくれた。青年の名はヨアヒム・ヴァルターといった。
ある日曜日、彼はディーを隣町に誘った。大戦時の有名なエースが、アクロバット飛行を披露《ひろう》するという話だった。何もない草原に、その日ばかりは色とりどりのテントが立ち並び、溢れんばかりの見物客が満ちていた。
抜けるような青空と、縦横に飛び回る複葉機を、ディーは驚きの表情で眺めた。
急上昇。
宙返り。
緩横転。
クローバーリーフ。
きりもみ降下。
真っ青に塗装された複葉機は、地上数mまで螺旋《らせん》を描きながら垂直に墜《お》ち続けた。操縦を誤ったに違いない、墜落する!
悲鳴を上げ、目を覆う観客の前で、機体は奇跡のように持ち直し、雲ひとつない青空へ向けて急上昇した。眩《まぶ》しい太陽へむけ、どこまでもどこまでも昇ってゆく。
帰りの汽車の中、ヴァルターが持て余すほどに、ディーははしゃいでいた。衝撃的な、神業のような曲技を手のひらで再現し、感嘆のため息を漏らし、きりもみでどれほど自分が肝《きも》を冷やしたか、機体が上昇するとき自分の魂まで一緒に飛んでいってしまいそうな気がしたかを、何度も何度も繰り返して、ヴァルターを呆れさせた。
彼はその夜、将来の職業を決定した。
ヴァルターから、ハウプトシューレを卒業すれば、陸軍航空隊の航空機搭乗員養成課程受験資格ができることを聞いた彼は、それから猛烈に勉強を始めた。つかれた身体を引きずって学校へ行き、それが終わると坑道へ潜る。クタクタになって家へ帰りついても、一日は終わらない。乏しいランプの油を節約しながら受験勉強だ。
ヴァルターはそんな彼を見て、毎週三回、町外れの飛行場へ連れていってくれるようになった。やってくる郵便機の離発着を、フェンスにへばりついて眺めながら彼は、その度にパイロットへの憧《あこが》れを強くした。
もちろん、まだ身体もしっかりしていない十三の少年がそんな生活を続けて、身体にいいはずがない。ある日学校での授業中、ディーは倒れた。過労と睡眠不足だった。
運び込まれた病院のベッドの中、彼は隣室から聞こえる声に目を覚ました。
「……お前があの子を可愛がるのが悪いとはいわん。しかしな、こうやってあの子を倒れさせてしまったのは、ヴァルター、お前に責任があるぞ……」
坑夫の取りまとめ役の声だった。飛び起きて反論しようとしたディーは、自分の身体がまるで鉛でできているかのように重く、自由にならないことを悟った。せめて「違う、先輩は悪くない」と叫ぼうとしたが、喉からはか細いうめき声が漏れ出るだけで、ちゃんとした言葉にはならなかった。
ディーが退院し、職場に戻ったとき、ヴァルターはすでに町から姿を消していた。陸軍に志願したと、取りまとめ役が教えてくれた。
それ以降、ディーは一人で飛行場に通うようになった。
先輩が悪いんじゃない、僕が下手くそだったから……
今度も、声は出なかった。
朧《おぼろ》に霞《かす》む意識の中で、額にひやりとした感覚がある。
(だれ……)
エメラルドグリーンの瞳が、心配そうに彼をのぞき込んだ。なぜか、ひどく懐かしい気がした。動かない身体に、安堵《あんど》のさざなみが満ちてゆくようだ。
(メイベル……さん……)
それを最後に、彼の意識はふたたび深淵へと沈んでいった。
次に目を開くと、くすんだ色の防水布がまず、視界に飛び込んできた。このところすっかり見慣れた、第四小隊のテントだ。
ゆっくりと起きあがろうとして、自分の身体が寝袋と毛布でぐるぐる巻きにされていることに気付く。
苦労して両腕を引き出すと、ようやく上体を持ち上げる。額から、なま暖かく濡れたタオルがずり落ちた。
厚い防水布越しの日光は弱々しかったけれど、テントの中を確認するには充分だ。
ディーのすぐ横で、地味な作業服を着た女性が、細い腕を枕に、くずおれるような姿勢で寝息をたてていた。
純金を梳《す》いて、その上から銀粉をまぶしたようなつややかな髪が、ふわりと広がって半身を覆っている。不意に彼女は身じろぎし、うつ伏せたまま呟《つぶや》いた。
「あ……眠っちゃった……」
億劫《おっくう》そうに両腕で身を起こす。ディーのタオルを取り替えるべく手を伸ばそうとして、その動きが停止した。
「ディー、目が覚めたの!?」
「うん、いまさっき」
「……良かった……」
彼女は心底安心して、大きなため息をついた。そこで、初めて気付いたように、ディーの肩に手をかけ、柔らかい寝床に押し戻した。
「だめよ、まだ起きちゃ。二日も眠りっぱなしで……」
「二日!?」
驚いて跳ね起きる。
「そ、二日。もう日曜日の午後よ」
メイベルはちょっと頬《ほお》を膨《ふく》らませ、寝てなきゃダメでしょ、と続けた。ディーのほうはそれどころの話ではない。寝袋から飛び出して、立ち上がる。
とたんに目の前が暗くなった。足がもつれ、一瞬意識が遠のく。
脳貧血だ。
「ほら、言うこと聞かないから」
メイベルに支えられるようにして、ふたたび床に横たえられた。
「二日も栄養剤の注射だけだったのに、急に動くんだもの」
そう言うと彼女は、雪花石膏《アラバスター》細工の手のひらを、ディーの額にあてた。
「……まだ下がりきってないわね」
「二日? 二日も寝てたの? ほかの人達は? 先輩や博士は? あ、僕の機体……」
メイベルは、敷布の上に落ちていたタオルを取り上げ、かたわらの飯ごうに入った水に浸す。
「順番に説明するから落ち着いてね」
濡れたタオルを軽く絞りながら、彼女が言った。
「機体が水に沈んでから、すぐに私とヴァルター中尉で機体ごとあなたを引き上げたのよ。息も心臓も止まってて大変だったんだから。急いで心臓マッサージと人工呼吸して……運よく息を吹き返してくれたから良かったけど……心配したのよ」
メイベルが恨《うら》みがましい口調で、上目遣いにディーを見た。
「すいません……」
ディーが小さくなって謝ると、彼女は朗らかに顔を綻《ほころ》ばせた。
「いいわ、許してあげる。ちゃんと生きててくれたから。死んじゃってたら許さなかったところだけど」
冗談めかして言いながら、タオルをディーの額に乗せてくれた。
長い金髪がさらさらと流れ、鼻先をくすぐる。甘い香りに、胸が締め付けられるような気がした。
「あ、顔にかかっちゃった? ごめんなさい」
「いや、別にいいけど……」
へどもどしながらディーが答える。手早く髪を束ね、白いハンカチでまとめてしまうメイベルを、なんとなく惜しい気持ちで眺めた。
「……そのあと、目を覚ましてくれるかと思ったら、ひどい熱がでちゃって二日間も意識不明。医療ケースにぺニシリンがあったから良かったけど、そうでなかったら肺炎で死んでたところよ。本当、運が良かったわ」
「じゃあ、調査団はここに足止め?」
メイベルは黙って首を左右に振った。
「先にいっちゃった。残ってるのは私と、中尉と、それから博士だけ」
目の前がもう一度暗くなるような気がした。
「……僕のせい?」
「あ、それだけじゃないのよ」
メイベルが慌ただしく手を振って否定した。
だが、言外の意味を敏感に察知したディーは、たちまち眉を曇らせる。
「つまり……僕のせいでもあるうてことだよね」
彼女はもう一度首を横に振った。頬から優しげな微笑みが消え、声がひそめられる。
「ううん、違うの。あのあと博士と整備員の皆さんで、引き上げたあなたの機体を調べたわ。どうして急にバランスを崩したか憶えてる?」
「……全然わからない。ふんばろうとしたけど、機体が反応しなくて……」
「でしょうね」
「なにか分かったの?」
ちょっと首を傾げ、逡巡《しゅんじゅん》するようすを見せたメイベルだが、ディーのまっすぐな視線をうけて、意を決したように口を開いた。
「右|膝《ひざ》の二重関節部分、それから下腿《かたい》後部のサスペンション連接部分の……フランジに全部、|クラック《割れ目》が入ってたの」
「初期不良じゃなくて?」
「ほかの機体には、そんな兆候《ちょうこう》なかったわ。それに、金属疲労のクラックじゃなくて、何かの工具を使って、故意に入れられたものだ、って……」
意味するところは明白だ。誰かが調査を妨害しようとしている。
ただ解せないのは、なぜそんなずさんな手口で、それもディーの機体だけに細工を施《ほどこ》したのかだ。
「あなたは動けないし、私と博士は隊員さん達から白い眼でみられちやって。整備班の人は確かにあの日の朝チェックして、機体に異常はなかったって言うし……それで結局、第四小隊だけここに残して、ほかの人達は先にいっちゃった」
肩を竦《すく》めるメイベルだ。
「じゃあ、僕らはどうなってるの?」
「いちおう、ヴァルター中尉がこの後のことを決めるようになってるわ。引き返すなり、先にいっちゃった人達を追いかけるなり、ね。私と博士の処遇についても、責任をもって処理するようにって」
要するにヴァルターというお目付け役を置いて、第四小隊を厄介《やっかい》払《ばら》いしたということだ。
「そういう訳だから、ディーは心配しないで休んでていいのよ。もう、急いで追いかける必要もないし……ちょっと悔しいけれど」
「畜生! やっぱり僕のせいじゃないか!!」
ディーは歯噛《はが》みして自分を罵《ののし》った。拳を地面に叩き付ける。
「どうして? ディーが自分で機体に細工したわけじゃないでしょう?」
「でも……ちゃんと自分で機体を点検していれば、気付いたはずだもの」
今度はメイベルも否定しなかった。ディーの言うとおりだったからだ。
搭乗前の点検は、|人形遣い《イェーガーのり》の最低限の心得だ。初歩の教本にもちゃんとそう載《の》っている。隊員達の注目を浴びて焦《あせ》ったディーは、搭乗前のチェックを省略した。直前までなんの不都合もなく機体は作動していたから、大丈夫だと思った。
それは油断だった。
結果はこのザマだ。
彼女やヴァルターの足を引っ張ってしまった。少なくとも、彼が二日も寝込んだりしなければ、第四小隊が任務から外されてしまうことはなかったはずだ。最初に自分で見つけておけば、他人に悟られないように部品を交換するなりして、メイベルやヴィンケルマンへの疑惑を少しでも軽くすることができたはずだ。
自分の不注意が、それら全ての有り得たはずの可能性を、摘《つ》みとってしまったのだ。
寝返りをうって、メイベルに背を向ける。情けない顔を見られたくはなかった。
「……あんまり自分を責めないほうがいいと思うけど……」
落ちてしまったタオルを、メイベルが身を乗り出して拾い、再度ディーの額に置いた。
「責めたくもなるよ! 先輩に選ばれてからこっち、僕はロクなことやってないじゃないか! さんざん恥かいて、まともに歩くこともできないし、ミュッフリングやシャーフには目をつけられるし、先輩には恥ばっかりかかせて、挙げ句の果てにはメイベルさんや博士まで!」
滅茶苦茶《めちゃくちゃ》な文法は、彼の内心の嵐をそのまま反映したものだ。
悔しかった。
自分のうかつさを呪《のろ》った。
けれど、取り返しはつかない。
メイベルが苦しそうな顔をした。それは、ディーの救い難いまでに傷ついてしまったプライドへの同情だったろうか。
ようやく押し出すようにして、言葉を紡《つむ》ぐ。
「だれもそんなこと気にしてないわ」
が、返ってきたのは激しい拒絶だ。
「慰めなんかいらない!! 僕は人形遣いなんかになっちゃいけなかったんだ。才能もないのに、えらそうに一人前になったみたいな気になって……結果はこれだ! クソっ!!」
「そんなこと……」
「メイベルさんにはわかんないよ! そりゃあんたは有名なテストパイロットで、人形遣いで、ウービルトまで持ってて……あんたみたいな人に、ちゃんと才能を持って生まれついた人に、そうじゃない人間の気持ちなんか、わかるわけないじゃないか!!」
最後のほうは、ほとんど涙声になっていた。
わかっている。これがただの八つ当たりだということは。以前にもヴァルターに諭《さと》されて、後からひどい自己嫌悪に陥《おちい》った。
けれど、どうしようもない。心の声は、自分のうかつさを責めていたけれど、その一方でやはり、自分を弁護する声があるのを否定できない。
あのとき誰かが、一言いってくれればよかったのに。ちゃんと点検したのか、と訊《たず》ねてくれてさえいれば。ヴァルターがせかすようなことを口にしなければ。心は次々に、責任|転嫁《てんか》の対象を見つけだす。
でも、口にはできない。それが子供っぽい言い訳でしかないと、もう一人のディーはちゃんと理解しているのだ。
心中の葛藤《かっとう》をどうしても自分の中でうまく整合させることができず、感情の赴《おもむ》くまま他人にぶつけてしまう。
メイベルはこれほど、自分のことを心配してくれているのに。高熱で倒れているあいだ、ずっと看病をしてくれていたに違いないのに。
情けなくて涙が出た。
それをメイベルに覚《さと》られたくなくて、いっそう身を丸めて毛布の中に潜り込もうとする。恥ずかしくて、悔しくて……でも、どうしようもない。愚かな自分が厭《いと》わしい。
鳴咽《おえつ》をこらえようとして果たせず、彼は忍び泣く。
「ディー……」
メイベルが、途方に暮れたように呟《つぶや》いた。
答えられない。泣いているのがわかってしまうから。
「お願い……そんな風に言わないで……」
自分を傷つけるだけだから……とは、彼女には言えなかった。言えばディーは、もっと傷つくだろう。長い長い沈黙が、二人の間を流れた。やがて――
メイベルが、静かに言った。
「ディー、こっちを向いてくれる?」
彼は動かなかった。いや、動けなかった。すでに激しい後悔が胸の中に渦巻いていた。
「お願い……」
メイベルは消え入りそうな声で、もう一度|懇願《こんがん》した。
涙でくしゃくしゃになった顔を、毛布で拭《ぬぐ》った。目が真っ赤になっているだろう。
大きく数度、深呼吸してからディーは、ようやく身じろぎしてメイベルの方に向き直った。彼女は、あくまでも透き通ったエメラルドグリーンの瞳でディーを見つめている。
深い、深いその輝き。
彼女は右手を額にあて、少しためらってから、目にかかるほどに伸びた美しい金髪をゆっくりとかきあげた。
普段は前髪に隠れて見えない優美な眉が、ちょっと悲しそうに寄せられていた。
色白の滑らかな額が露になり、綺麗にそろった生《は》え際《ぎわ》が晒《さら》されて――まるで次々に美しい花をシルクハットから取り出す奇術師のようだ。
つぎの瞬間、ディーの息は、喉に張りついて悲鳴のような音を立てた。
白く秀麗なメイベルの手のひらが、最後に前髪の下から取り出して見せたもの。それは、額を大きく横切る、醜《みにく》い傷跡だった!
「……メイベル……さん?」
ようやくのことで、それだけ口にした。
完璧に均整《きんせい》のとれた容姿が、いっそう傷の醜さを際立たせている。
彼女は軽くため息をついて、微笑《ほほえ》んだ。その笑顔はどこかぎこちなく、作り物めいていた。いつもの、咲き始める花のような清浄さも、周りの人間までほっとさせるような暖かさも、そこにはない。
笑顔はただ、痛々しいだけだ。
メイベルはゆっくりと手を下ろす。傷跡は金色の波間に没し去り、わずかの瑕瑾《かきん》すらない、美しい女性が静かに座っていた。
彼女はひとつひとつの言葉を吟味《ぎんみ》するかのように、穏やかに語り始めた。
「……この傷ね、私が十三歳の時――初めてグライダーの単独飛行を許可されたときのものなの。飛び始めてから二ヵ月目くらいだったかしら。早く一人で飛びたくてしかたなかった。でも、一人だけ子供だからって、ずっと教官といっしょにしか飛ばせてもらえなかったの。
「本当のこというとね、自信はあったわ。私より年上の人達にだって、絶対負けてないって思ってた。ただ私が若いから、いつまで経っても単独を許されないんだ、って。ちょっとくやしかった。だから初めて許可されたとき、ちょっといたずらしてみようと思ったの。浮いてからまっすぐ飛んですぐに降りるんじゃなく、場周経路を一回りしてみせよう、そしたら私が、本当はみんなより上手なんだ、って認めてもらえると思った。
「離陸はあっけないほどうまく行ったわ。すぐに操縦|桿《かん》を引いて、高度をとってから旋回……完璧な操縦だと思ったわ。旋回したときに、地上のみんなが慌ててるのが見えて、わざと手を振ったりしてね。
「……最後の旋回を終わって、進入コースにぴったり機体をのせて、いよいよ着陸っていうときに……急に横風が吹いたの。全然予測してなかったから、びっくりしちゃって。なんとか風に向けて機首を立てようとしたんだけど、フットバーを踏んだ瞬間に翼端が地面に引っかかって……転覆《てんぷく》、機体は大破。目を覚ましたのは病院のベッドの上だったわ。包帯でぐるぐる巻きにされて、ね。
「母は大泣きするし、頭は痛いLでもうさんざん。頭蓋骨《ずがいこつ》陥没《かんぼつ》で、後遺症もなく回復したのは奇跡だって言われたのよ。でも、操縦桿にぶつけたこの傷だけは、最後まで消えなかった……」
いつも控《ひか》えめで、そう口数の多くない彼女だ。この長い告白が、ディーを慰《なぐさ》めるためのものであることは、あまりにもはっきりしている。
「……とっても後悔したし、恥ずかしくて穴があったら入りたいと思ったわ。もう飛ぶのをやめようかって、一時は本気で考えたのよ」
「……どうして止めなかったの?」
いつのまにか身を起こして聞き入っていたディーが、そう訊《たず》ねた。
彼女が小さく笑った。
「退院して、その飛行クラブに挨拶《あいさつ》にいったの。やめさせてもらいます、って。けど、飛行場の近くまで行ったら、グライダーがちょうど離陸するところで……真っ白な機体がとっても綺麗に見えた。……懲《こ》りない性格だとは思うけど」
ほんの少し自嘲気味《じちょうぎみ》に、彼女はそう言った。
ディーはおそるおそるもうひとつの問いを挟《はさ》む。
「またおんなじことをやるかも知れないとは、考えなかった?」
その質問に彼女は、透き通った、それでいてちょっぴり悲しげな微笑みを見せて答えた。
「……鏡を見るたびに、自分がそれほどえらい人間じゃない、って思い出せるわ。もう二度とあんな馬鹿な真似はしないようにって、思うもの。どう? まだ私のこと、才能を持って生まれた人間だと思う?」
ディーはしばらくのあいだ、凍り付いたように動かなかった。メイベルの深緑の瞳に見|据《す》えられ、呪縛《じゅばく》される。目も外らせない。
良い長い刻《とき》が通り過ぎてからようやく、彼は首を横に振った。
「……ごめん……ひどいこと言った」
自分の言葉が、侮辱ですらあったことを思い知らされた。確かに彼女は、天賦《てんぷ》の才に恵まれているかも知れない。けれど、それはちっとも重要なことではなかった。
本当に大切なのは、もっと別のことなのだ。それを彼女は教えてくれた。普段は隠している傷――身体の傷ではなく、心の――を晒《さら》して。
口笛がテントの外から近づいてきた。
「うるさいわい! お前さんの口笛ときたら、頭のいたくなるような前衛音楽ばっかりじゃ。クソ! 年寄りの心臓には毒が強すぎる!」
「教授、こいつは前衛音楽じゃありませんよ。スウィングです」
ヴァルターの声。
メイベルがくすっと笑い、ディーに向かって目配《めくば》せした。そこにいるのはすでに、ふだん通りの優しい、朗《ほが》らかな彼女だった。
すぐに口笛が復活し、リズミックなフレーズを奏《かな》でだす。
「ワシの寿命を縮めて何が嬉しいんじゃ、この罰あたりめ。年寄りを粗末にすると、ろくな死に方をせんぞ!」
ヴィンケルマンの抗議をものともせず、ヴァルターの口笛はますます冴え渡った。とてつもなく早いフレーズを、完璧に吹きこなす。アームストロングの『|タイガー《Tiger》・|ラグ《rag》』だ。
口笛は次第に近づき、やがて少しばかり乱暴に、テントの入り口が開かれた。ヴァルターが身を屈《かが》めるようにして、中に滑り込む。
「水を汲んで来るのも一苦労だぜ、全く。こんな崖……」
そこまで毒づいて、突然彼は目を輝かせた。
「ディー! はっはあ、ようやく気付いたかこの野郎! さんざ人に心配掛けやがって。具合はどうだ?」
「おかげさまで、何とか」
「そうか……」
ヴァルターは長い足を折って座り込むと、ディーの顔をまじまじとのぞきこみ、一言だけ言った。
「……よかった」
短い言葉に、百万言を費《つい》やしても語り尽くせない、何かが込められている。
「何じゃ、もう目を覚ましよったのか? そろそろくたばっとるんじゃないかと期待しとったのにの。そうすりゃ、余分な機体を整備しなくてもよくなって、手間が省《はぶ》けるってもんじゃったんだが」
ヴァルターに続いてテントに潜り込んできたヴィンケルマンは、さも残念そうな顔そして言った。けれど、その目に輝く喜びの色は隠しようがないほどあからさまで、一同は微苦笑を浮かべざるをえない。
「ま、何にせよ良かった」
ヴァルターが皆を代表して、もういちどそう言った。
「また僕のせいでみんなに迷惑をかけちゃって……」
ディーがちょっと伏し目がちに呟《つぶや》く。
「まあ、気にするなよ。お前ばっかりが悪いわけじゃないし、誰にでも失敗はあるさ。信じないかもしらんが、俺だって新米の頃はさんざ馬鹿なことやったよ。そのたんびに教官からどやしつけられて……」
そこまで聞いたディーは、思わず吹き出してしまった。メイベルも手の甲で口元を押さえ、必死に笑いをかみ殺している。
「なんだなんだ? そんなにおかしいこと言ったか、俺は」
ヴァルターが狐につままれたような顔をする。
それがまた笑いを誘い、ディーはひっくり返ってのたうちまわった。メイベルもこらえきれなくなり、顔を真っ赤にして笑いだす。
「……なんですか、メイベルさんまで。気持ち悪いな」
「だって……先輩……」
ディーがむせながら、切れ切れに答える。
おかしくて、おかしくて――不意に涙がこぼれ落ちた。
続く数日をディーは、その後の長い期間に渡って、忘れることができなかった。
記憶というのはいつも、美しかった輪郭だけを残して焼き付くものだけれど、それを割引いてさえなお、日々は不思議な安らぎと、限りない郷愁《きょうしゅう》に満ちて、心の奥底に特別な地位を占め続けた。
それは例えば、固形燃料の青白い炎に浮かぶ、こんな情景だ。
「なに作ってるの?」
「オートミールよ」
メイベルがそう答えたので、ディーは「げっ」と言ったきり絶句した。
「……嫌い?」
「あんなの好きな奴の気が知れないよ」
「病人がぜいたく言うな」
ヴァルターが横あいから口を挟む。本人は、バサバサのいつ焼いたかわからないような軍用パンに、これまたカビの生えかけた代用バターを擦《なす》りつけた夕食を、どうやって胃の中に押し込もうかと思案しているところだった。
「二日も何も食べてないんだから、急に食べても胃が受け付けないわ。我慢してね」
飯ごうの中に、ちぎったパンや、脱脂粉乳《だっしふんにゅう》や、砂糖やらの材料を放り込んで、時折かき回しながら、メイベルが諭《さと》した。
「近ごろの子供はぜいたくばっかりいいよる」
カチカチに固まったチーズを咀嚼《そしゃく》しながら、ヴィンケルマンが二言、三言毒づいた。
「全くこの……軍隊の糧食という奴は……敵の喉笛を喰いちぎるために……わざと固いもんを支給しとるに違いないわい」
「そいつは同感ですよ」
ヴァルターが、コーヒーで味もそっけもないパンを流し込む。
「……はい、ディー。できたわ。熱いから気をつけてね」
メイベルはどろどろした気味の悪い食物を飯ごうの蓋《ふた》から、安っぽいアルマイト皿に移して、差しだした。なんとも形容しがたい――敢《あ》えていうなら、魔女が鍋で煮込んだ魔法のスープのように得体《えたい》の知れない食物が、ディーの目前で暖かそうな湯気をたてている。
フォークと一緒になった折り畳み式のスプーンを手にして、彼はしばらく固まったまま動かなかった。
「……食べなきゃダメかな?」
ちらっとメイベルを見た。彼女は膝《ひざ》を抱えて座ったまま、ちょっとディーを睨《にら》んでみせた。首をかしげた仕草が可愛らしくて、特に迫力があるとかいうわけではなかったけれど、なんとなく逆らうことができない。
ディーは諦《あきら》めてひと匙《さじ》すくい、目を閉じた。大きく深呼吸したあと、意を決して口に放り込む。
舌の伝える味覚情報は、予想と著《いちじる》しい喰い違いを見せ、彼はあっけに取られた。
「どう?」
「おいしい……」
半《なか》ば呆然とそう答えると、訊《たず》ねたメイベルは、心底嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
あわててがっつくディー。
「現金な奴だな」
ヴァルターが呆れたようにそう言うと、ヴィンケルマンが珍しく素直に同意を示した。もちろんディーは天上の美味を満喫するのに忙しく、そんな言葉に耳を傾ける余裕などなかったけれど。
夜の森に、時ならぬ楽《がく》の音が響きわたる。
ヴァルターが密かに荷物の中に持ち込んだトランペットが、時につややかな音色で鳴り、あるいは哀愁《あいしゅう》に満ちたメロディーをなぞる。
ハリー・ジェームスばりのソロは玄人《くろうと》はだしで、見事といってよい腕前だ。
以前、無理矢理連れて行かれたクラブでディーは、飛び入りでトランペットを吹く彼を見たことがある。やんやの喝采《かっさい》を受けて彼は、そのまま店の女の子とどこかに消えてしまった。置いて行かれた彼はその日、帰営時間に遅れかけてひどい目にあった。
オレンジ色の炎を反射して、きらきらと輝くトランペット。遠くでさえずる|夜鳴き鶯《ナイチンゲール》との二重奏はいっそ幻想的で、ほかの三人は黙ってそれに聞き入っていた。
三曲目の『|アメージング《Amazing》・|グレース《Grace》』が終わると、彼は突然、楽器をディーに向けて放り投げた。
「うわっ」
あわてて受けとめる。ヴァルターが身振りで、吹いてみろよ、と言った。
楽器とヴァルターを交互に見比べたディーは、みんなが面白そうにこちらを見ているのに気付くと、おっかなびっくり吹き口を唇に押しあてた。息を吹き込む。
ぷはっ、と空気の抜けるような音がしただけだった。
「出ないや」
「こうやって唇を閉じて……それから無理矢理唇を震わせるように……草笛とおんなじ原理だな」
見様見真似でもう一度、息を吹き込んだ。今度は音が出た。
が、ヴァルターの輝かしい音色とは似ても似つかぬ、みっともない音だ。
ヴィンケルマンが、眉をしかめてこう論評した。
「まるで巨人の屁《へ》じゃな。臭《にお》ってきそうだわい」
大笑いになった。
ディーの体力がようやく回復し、熱もすっかり下がった頃を見計らって、ヴァルターはほかの二人の前でこう切り出した。
「さて、この後どうしようか」
それはつまり、こういう意味だ。
このまま手ぶらで引き返し、おそらく憲兵隊に拘束されたまま、調査団が引き上げてくるのを待つか。
それとも、先行した本隊を追いかけて、あの非友好的な雰囲気の中、当初の任務を果たすべく努力するか。
とるべき道は、二つにひとつしかない。どちらを選ぼうか、というわけだ。
「博士、どうします?」
ヴィンケルマンはつるりと顔を撫《な》で、
「どっちにせよ胸クソ悪いことには変わりないしな。あんたに任せるわい」と言った。
「メイベルさんは?」
「私も……隊長さんにお任せします」
ヴァルターは軽く頷《うなず》く。そして最後に、ディーを振り向いた。
「どうだ、ディー?」
ディーの答は決まっていた。
「本隊を追いかけたいです」
「なぜ?」
聞き返すヴァルターに、あっさりとこう言う。
「だって、悔しいじゃないですか。このまま引きさがっちゃったら。あんなバカなとこみせて、そのまま尻尾巻いて帰りたくないですよ」
気負いは感じられない。それどころか、余裕めいた色さえあった。
「……フン、一人前の口ききやがって」
どこか嬉しそうにヴァルター。ぽんと膝《ひざ》を叩いて立ち上がり、宣言した。
「よし、第四小隊は明朝〇八:○○をもって、本隊の足跡をたどり出発する。異存は?」
異議を唱える者はない。
ディーはこうして、自らの運命を選択した。
翌朝、渡河は慎重に行われた。
先日ディーが二十分かけて降りきった崖を、やっぱり同じくらいの時間をかけて降りる。
ヴァルターとメイベルは、ディーを救出する際同じルートを二分で降りたとヴィンケルマンから聞かされていたから、かなり慎重になっていたのだろう。
整備兵はいないし、故障しても予備の部品はない。下手に壊したら、そこで立ち往生だから、それも当然ではあった。
川を渡り(ヴィンケルマンの脚つきドラム缶は、ノートゥングが担いで渡った)対岸の傾斜をふたたび昇りきる頃には、陽射しは中天にさしかかっていた。
「さて、こっから先の部隊消息はない。何が起こるかわからないから、気を引き締めて行こうや。武器の点検はやってあるか?」
ヴァルターは言いながら、今までは背負ったままだった二十m機関砲を、イェーガーの右手に握らせる。
「本隊に連絡しようにも、俺達の機体の無線機は近距離用だからな。追っかけるしかないわけだ。行くぞ」
一号機の左手が振り下ろされ、小隊前進が指示された。
三機のイェーガーと一機の脚つきドラム缶は、重い足音を響かせながら、森の奥へと進んでゆく。
一日目は特に何事もなく過ぎ去った。本隊の移動跡を辿り、順調に行軍が続く。進路は切り開かれ整備されていたし、徒歩人員がいないだけ移動速度も速まり、午後三時ごろには本隊が野営したと思われる場所に到着していた。
通信文等が残されていないか一通り捜索した。が、石を並べた進路表示があるだけで、めぼしいものはない。
「やれやれ、徹底的に継子扱いしてくれるみたいだな」
機体から降りてあちこち歩き回っていたヴァルターが、綺麗に並べられた石を蹴り崩してぼやいた。
ヴィンケルマンが、猟犬のように身を屈めて地面に這いつくばり、熱心に痕跡を確かめている。
「博士はどう見ます。何か変わったことは?」
「ないな。三回分の野営跡が残っとるから、とりあえずここまでは全隊とも無事だったはずじゃ。野グソのあとまでちゃんとわかるわい」
「きったないなあ……」
ディーが嫌な顔をする。ヴィンケルマンはからからと笑うはかりで、一向に気にしたようすもない。
「些細《ささい》な痕跡《こんせき》にも真実はひそんどるんじゃ。汚いもクソもあるかい」
「ま、女性もいることだし、スカトロジーに関する講義はそのへんにしときましょう」
ヴァルターがやんわりと制止して、困り顔のメイベルをほっとさせた。このあたり、まだディーにはできない芸当だ。
「さて。と、いうことは、謎の消失点はこの先ってことですね」
「そうなるじゃろう」
至極《しごく》当然といった様子で、ヴィンケルマンは重々しく頷いた。
ヴァルターが、頭を掻《か》き掻《か》き決断する。
「しょうがない。今日はここで宿営といこう」
「さて、じゃあ山岳森林地帯における射撃戦で、特に留意しなければならない事項は?」
オレンジ色の焚火《たきび》を囲み、食後のコーヒーを飲みながら、ヴァルターが訊《たず》ねた。しっとりと湿った苔の上に、木の枝で線やら丸やらを引っかいて、図上演習の講義中である。
「ええと……まず遮蔽物《しゃへいぶつ》、つまり木と地形を最大限に利用する。と。それから、敵も条件は同じだから、周辺への注意を怠《おこた》らないこと」
「よし、まずは教科書通りの答だな」
「試験勉強で必死に丸暗記しましたからね」
ヴァルターの手にする小枝が、得意気なディーの臑《すね》を軽く打った。
「痛ったいなあ……なにするんですか」
叩かれたところをさすりながら、ディーが抗議する。ヴァルターはため息をついた。
「それじゃ役にはたたんのだ。頭で思い出せるんじゃなくて、そういう状況に陥《おちい》ったときはどうするか、いつも想像してないとな。機体に乗ってないときでも、頭の中で操縦したり、戦闘したりしないと、いざっていうときにパニック起こして頭ん中は真っ白、気がついたら死んでました、なんてことになっちまうぞ」
「死んじゃったら気がつかないでしょ」
「ものの例えだよ。いちいち揚《あ》げ足《あし》をとるな」
「は〜い」
舌を出すディーを見て、メイベルが喉の奥で笑ったようだった。
「ふざけた返事をしない。さて、こっからが重要なんだが……こいつは教本に載ってないから、よく憶えとけよ。小隊の相互支援体勢は堅持して、決して単独行動に走るな」
「ええ? それじゃあ教本と逆じゃないですか。基本的にイェーガーは単機戦闘用の兵器だって、習いましたよ」
「欧州大戦時の耄碌《もうろく》ジジイ達が作った教本なんざ、あてにしてたら命が幾つあっても足りないぞ。じゃあ聞くが、何で新型のフェオドラには、隊長機だけでなく、各機に無線装置が搭載されてると思う?」
「……だって……」
「だってじゃない。いいか、イェーガーが無敵の兵器だったのは欧州大戦までだ。そのころは、ろくな戦車もなかったし、だいたいイェーガーは全部ウービルトだった。そうなりゃあ、薄く広く展開させても戦果は上がる。けどな、俺たちが乗ってるのはウービルトじゃない。対戦車砲や戦車の集中攻撃を喰らえは、結構簡単にぶっこわれる。おまけに今じゃ、敵方にもイェーガーはいるしな。そんな中で死にたくなかったら、相互支援だけは忘れないことだ」
「それ、経験ですか?」
ヴァルターは深く領いた。
「スペインで、|ボッシュ《ドイツ兵》どもにはさんざんな目に合わされたからな。気付くまでに何人死んだか……いいか、公国の軍制や戦術ははっきり言って時代遅れだ。花咲ける騎士道の時代はとうに終わったんだよ。先月のゲルニカ爆撃は知ってるだろう?」
ディーは頷いた。四月二十六日に、スペイン北部の小都市ゲルニカが無差別爆撃され、一般市民一千六百人余りが死亡したというニュースは、たちまちのうちに全世界へと広がっていた。
共和国側は反乱軍とドイツ空軍の蛮行を、反乱軍は共和国側の自作自演を主張していたが、非戦闘員が大量に死亡したことだけは、紛《まぎ》れもない事実であった。
「これからは、あんな話も珍しくなくなるさ。死にたくなかったら俺の言うことを守るんだな」
なんとなく背筋がうそ寒くなるような口調で、ヴァルターが言った。声はまるで、闇の底から響いてくるような気がする。
「……先輩の話を聞いてると、まるで明日にもケルンテンで戦争が始まりそうな気がしますよ」
冗談めかしたディーの言葉にしかし、ヴァルターは微笑みの欠片《かけら》さえも見せず、こう呟《つぶや》いたのだ。
「ディー……戦争はもう、始まってるかも知れないんだ」
沈黙が下りた。
ぱちぱちと、焚火《たきび》の中、枯れ木のはぜる音だけが響く。炎の赫《あか》に彩られたヴァルターの、彫刻のように整った顔立ちが闇の中に浮かび上がる。
その横顔は、なんとなく予言者めいて、ディーの瞳に映った。
果たして翌日――ヴァルターの言葉は現実となって、彼らの前に立ちあらわれたのである!
「なんだよ、これ……」
ハッチを開放し、身軽に地面に飛び降りたディーは、目前に広がる光景に絶句した。
朝から歩きどおしで昼も過ぎたころ、彼らはちょっと森のひらけた、平らな土地にでた。それだけなら特にどうということはない。ディーが思わず言葉を失ったのは、そこに夥《おびただ》しい数の残骸が散乱していたせいである。
ヴィンケルマンが、かたわらに脚つきドラム缶をよせて、のこのこと降りてきた。あたりに散らばる装甲板やら、シリンダーやらを取り上げては、ためつすがめつ眺《なが》めて歩く。
ときどき「おお」とか「ふむ」とか「クソったれ」とかいう単語を発しつつ、あちこち嗅《か》ぎ回る彼は、白雪姫に出てくる小人《ドワーフ》のようにも見える。
「ディー。危ないから、操縦席を降りるな」
外部拡声器を使ったヴァルターの一号機がそう指示を出し、ディーはあわててフェオドラに飛び込んだ。二十m機関砲の安全装置を外し、周囲を怠《おこた》りなく警戒する。
「博士、とりあえずここに留《とど》まるのはまずいでしょう。適当に移動して、周囲の状況を把握《はあく》しないと。この戦力じゃ、ちょっと不安です」
ヴァルターがそう呼びかけると、ヴィンケルマンは我に返ったように立ち上がった。
「おい、若いの! こいつは大事《おおごと》じゃぞ! ここにある機体は、機関砲や対戦車砲で破壊されたのがほとんどじゃ。大部分はうちの国の『エカテリーナ』と『フェオドラ』だがな、中にはピュックラーの豚野郎が設計した機体もある!!」
「先輩……」
与えられた情報からごくまっとうな推理を行ったディーは、無線機に向けて怒鳴った。ヴァルターは鋭い舌打ちとともに彼の推測を是認《ぜにん》した。
「……急いでこの場を……」
「ヴァルター中尉、第四小隊ヴァルター中尉。聞こえるか? こちらはシャーフ少佐だ。聞こえてたら応答しろ、どうぞ!」
全員のヘッドフォンに、息|急《せ》ききった調子の通信が飛び込んできた。
「こちらヴァルター、感度良好。中隊長、どこにいらっしゃるんです?」
「詳しくはあとだ。そこをすぐに離れろ。敵に見つかるぞ!」
「了解、でどっちに?」
「とりあえず北の林の中へ移動して身を隠せ。こっちから君達は確認できる。急げ!」
ヴァルターは左の操縦|桿《かん》を操作し、前進の指示を出した。ヴィンケルマンを含む面々は、機体を走らせて森の中へと飛び込んだ。
「中尉、そのまま直進しろ。すぐに合流できる」
「了解、このまま直進します。状況を知らせてください」
「大休止中に正体不明のイェーガー隊の襲撃を受けた。半数以上が撃破され、身動きがとれん。敵は退却して、近くにはいない模様、以上」
ヴァルターの舌打ちが、電波となってあたりにまき散らされた。
第四小隊の面々は、ほとんどイェーガーの出せる最高速度で北上し、走り続ける。何度も木に衝突しそうになりながらディーは、例の恐怖症が発症するのではないかと本気で心配した。
幸いにも、緊張こそ極限にあったが、身体機能は今のところ正常に機能している。
「ヴァルター中尉、もう少しだ。あと……百m。前進を続けろ」
「了解」
風のように、森を走り抜ける三機のイェーガー。ディーは前二機に遅れないよう、必死でペダルを操作している。走るときは、マニピュレーターを細かく動かして、バランスをとってやらなければならない。人間が走るのとおんなじだ。
どうにか転倒することもなく、前二機のあとを追う。
突然、森が途絶え、高い絶壁が目前に広がった。その手前に、大きく開けた土地と――フェンスに囲まれた軍事基地があった!!
「な……」
先頭を行くヴァルターのフェオドラが、急停止した。メイベル、ディーもそれに倣《なら》う。
そして彼らは信じられないものを見た。
呆然と立ち尽くす第四小隊の面々を取り囲むように、三十機を優に超えるイェーガーが、立ち並んでいたのだ!
低い重心、長い手に短い脚。頭部はあからさまに鉄兜《てつかぶと》の形を模している。乱暴に消された肩の国籍標識。少なくとも、ケルンテンの機体ではない。
「……なんてこった……」
ヴァルターが呻《うめ》いた。その声に、微妙な敗北感が混じっている。
正面のイェーガーがハッチを空け、中からマイクを持った男が現れた。奇妙なことに、彼のまとう服は、公国軍の真っ青な士官用制服だった。
「貴様……」
ヴァルターが歯軋《はぎし》りして、ようやく言葉を押し出す。
初めて見るイェーガーから降りたケルンテン軍服の男は、朗々《ろうろう》と通る声で無線機越しに勝ち誇ってみせた。
「ようこそ、グリューネラント独立戦争義勇軍『パンテル軍団』の前線基地へ」
男は、公国軍少佐にして彼らの上官、ヨハネス・シャーフだった。
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第W章 THE DEVIL AND THE DEEP BLUE SEA
「逃げろ、ディー!」
「ディー! 逃げて!!」
二つの叫びが耳に届いたのは全く同時だった。一瞬遅れて、ヴァルターの機体は右に、メイベルの機体は左へ倒れ込みながら、二十o機関砲弾をばらまいた。
なかば反射的に、ディーは機体ごと廻《まわ》れ右して、全速力で走った。
背後の銃声が、幾重《いくえ》にも重なって聞こえた。
機体の両わきを、オレンジ色の火線が追い越していった。
着弾地点に土煙が上がった。
木々の梢が《こずえ》激しく揺れ、幾つかはそのまま地面へと落下した。
茶色の木肌が弾《はじ》け飛《と》び、細かい破片をまき散らした。
幹《みき》を貫通《かんつう》された若樹が、ゆっくりと倒れかかってきた。
無線には聞くに耐えない罵《ののし》りと、悲鳴のような吐息《といき》が飛び交った。
上下に激しく揺れる操縦席で、足音のほかは何も聞こえなかった。
座席の下方で、激しい衝撃が走った。
(やられたか!?)
顔から血の気が引く。だが、フェオドラは主《あるじ》の操作に忠実に反応し、走り続けていた。
ディーは無我夢中で、ひたすら機体を最高速で前進させることに専念した。
途中、木の幹を避けきれず体当たりする羽目になった。思いきり転倒し、操縦者の方は座席から投げ出されて頭をあちこちにぶつけた。幸い、搭乗帽のパッドが衝撃を吸収してくれたので、気を失わずに済んだ。機体が破損しなかったのは奇跡に近い。
すぐに起きあがって、なおも走り続ける。傍受《ぼうじゅ》される可能性があると思い至り、無線のスイッチを切った。
砲声はやがて途切れ途切れになり、周囲への弾着もほとんどなくなった。
恐しかった。
振り向いて背後を確認したかったが、その間に追いつかれ、撃たれるのではないかと思うと速度をゆるめられない。首筋に嫌な感覚がまとわりついて離れない。
ただひたすら、交互にペダルを踏み込んで、森を駆け抜ける。他のことに気を配る余裕はなかった。
「逃げろ、ディー!」
叫ぶと同時にヴァルターは、左のフットペダルを蹴飛ばした。人差し指でトリガーを引きつつ、機体を地面に倒れ込ませる。
肩口から地面に突っ込んだフェオドラは、そのままくるりと回転し、ふたたび二本の脚で立ち上がった。イェーガーの機動としては神業に近い。
一瞬遅れて、それまで機体の占有していた空間を、曳光弾《えいこうだん》が切り裂いた。
なおも右へ、右へ上移動しながら、二十o機関砲弾をばらまき続ける。移動しながらの射撃を命中させることは至難《しなん》の技だが、それでも彼の弾は敵イェーガーの一機を捉《とら》えた。
相手は膝《ひざ》関節を破壊され、よろめくように倒れ込んで擱坐《かくざ》した。むろん、戦果に満足している暇はない。
風を巻いて突進し、敵隊列の端にたどり着く。何度か敵弾が機体をかすめ、装甲を削ったが、全て無視した。距離を詰め、乱戦に持ち込む以外に方法はない。勝利は望めないとしても、時間を稼ぐ必要があるのだ。
あっという間に禅が切れた。弾倉を交換している時間はない。惜《お》しげもなく二十o機関砲を投げ捨てる。
手を背中に伸ばし、くくりつけてあった手斧を掴む。手斧といっても、刃渡りは優に一mを超える鋼鉄の塊《かたまり》だ。樹木の密集した地形を切り開くための装備だが、イェーガー同士の格闘戦では武器としても使用される。
敵の射線を電光のようなサイドステップで外し、肩口から突っ込んだ。鼓膜《こまく》が破れるかと思うほどの轟音《ごうおん》が、操縦室を揺るがす。
重量は敵機の方が優っていたが、スピードに乗ったフェオドラはそれを軽々と吹き飛ばした。相手が背中から地面にたたきつけられたとき、ヴァルターはすでに次の敵に対峙《たいじ》している。振りかぶった腕の下を、火線が通り抜けた。意に介さず、そのまま手斧を叩きつける。
金属がひしゃげる音と共に、刃は八十pほど敵の肩口に喰い込んだ。隣にいた敵機が、あわてて機関砲を持ち上げ、撃ってきた。
素早く体を入れ換え、撃破した機体の陰に身を沈めた。砲弾はそのまま盾《たて》にとった機体に吸い込まれた。すでに機能を停止していた敵機は、着弾のたび断末魔の痙攣《けいれん》にも似て震えた。
喰い込んだ斧を引き抜く。同時に、ぼろ屑《くず》のようになった敵機を、撃ってくる奴の方へ蹴り飛ばす。
相手は横に二歩移動して、倒れ込んでくるスクラップをよけた。が、そこには、回避行動を予測したヴァルターのフェオドラが待ちかまえている。
機関砲を握る右手が吹き飛び、返す刀で膝《ひざ》が砕かれる。戦闘能力を剥奪《はくだつ》された敵機から、パイロットがよろよろと這《は》い出した。
それには目もくれず、ヴァルターはさらなる獲物を求めて機を駆った。火線が集中し、肩の装甲が吹き飛ぶ。
「その程度で!!」
正面の機体が発砲、コクピット前面に被弾した。貫通はしなかったが、破片が操縦室を跳ね回った。
次の瞬間、フェオドラの斧が敵機の腰を水平に薙《な》いだ。噴水のように砲弾を撒《ま》き散《ち》らしながら、ゆっくりと上体だけが地に落ちる。下半身は、独立した生物のように二、三歩進み、膝《ひざ》を折った。
ヴァルターはさらに次の敵へと襲いかかった。血濡れた斧が、陽の光を反射して残酷《ざんこく》な煌《きらめ》きを放つ。彼の往《ゆ》くところ、敵はことごとく打ち倒され、背後にはイェーガーの残骸が累々《るいるい》と屍《かばね》を晒《さら》すばかり。
ヨアヒム・ヴァルター――『シェラネバダの狼』
その二つ名の由来《ゆらい》を知るため、グリューネラント独立義勇軍の面々は高価な代償を支払わなければならなかった。
「ディー! 逃げて!!」
メイベルは叫んだ。ノートゥングはそのまま地面に倒れ込み、左側へ一回転して立ち上がる。そうする間にもトリガーを引き絞り、機関砲弾をばらまいている。別にヴァルターと示し合わせたわけではなかったが、敵の射軸《しゃじく》から逃れるにはこれが最適なのだ。
混乱する平衡《へいこう》感覚を〇・一秒で修正し、機体を走らせる。森へ逃げ込むことができれば少しは楽なのだが、ディーを逃がすためには、攻撃を自分に引きつける必要がある。
火線が自分めがけて宙を縫う様は、控《ひか》えめに表現しても気持ちの良いものではない。砲声は耳に馴染《なじ》んだものだったから、それだけでパニックを起こすようなことはなかったけれど、だからといって恐怖感は拭《ぬぐ》い去《さ》れない。射撃テストは数え切れぬほど経験していても、自分が標的になったのは初めてなのだから。
「神様……」
思わず呟《つぶや》いていた。だが、内心の恐怖とは裏腹に機体操作は正確を極め、その戦法も堅実なあたりが、彼女の非凡さを示す証左《しょうさ》だった。
左手の窪地《くぼち》に飛び込み、機体を伏せる。数体の敵機が、ディーを追って森の中に飛び込もうとするのに、機関砲の連射をあびせかけた。うち一機が、脆弱《ぜいじゃく》な側面装甲を打ち抜かれて倒れる。着弾部位からして操縦者は即死だろう。絶望的な気分になった。
これで自分も立派な殺人者だ。ディーを助けるためとはいえ、それで全ての行為が正当化されるわけではない。一瞬、トリガーから指が離れた。
その際に、撃ちもらした敵機が、ディーを追って森の中へ走り込む。あわてて追撃しようとしたが、前方の敵集団からの射撃で釘付けにされ、果たせなかった。
自分の甘さを呪う。あとは、ディーが自分の力で切り抜けてくれるよう祈るしかない。
と、彼女への火線が急に減衰《げんすい》した。身を乗り出して前方を確認する。
ヴァルター機が、敵機の列へと躍《おど》り込《こ》み、壮絶な白兵戦を展開していた。
いくら経験が不足しているとはいえ、この機を逃すほど彼女も間が抜けてはいない。滑《なめ》らかな操作でノートゥングを立ち上がらせると、二十oを腰溜めに乱射しながら、敵の戦列へ突っ込む。
ヴァルター機に隊形を乱されたうえに、新手の突入を受けて、敵部隊は一気に浮き足立った。
(なんとかなるかも……)
そんな考えが頭を掠《かす》める。
敵集団に肉薄した彼女は、走りながら銃を投げ捨て、背面装甲にマウントされた剣を手に取った。欧州大戦時には多分に装飾的な装備だったのだが、敵方にもイェーガーの存在する昨今では、有効な格闘用兵器だ。
思い切りよく敵の真ん中に突っ込み、駆け抜けながら袈裟懸《けさが》けに振り下ろす。鋼鉄の装甲がバターのように斬り裂かれ、敵機は真っ二つになって地に倒れた。
脚を突っ張り、百八十度回転。
敵弾が胸部装甲を直撃した。強烈な衝撃と、金属の打ち合わされる音が響き……それだけだ。至近距離《しきんきょり》から発射された二十o弾は、ことごとく装甲にはじき返された。
ノートゥングは表面にちょっとした傷をこしらえただけで、無礼な狙撃手《そげきしゅ》に向けてダッシュする。構えた剣の切っ先が、分厚い操縦席前面装甲に吸い込まれ、そのまま背中まで突き抜けた。
これが、量産機一個中隊に比肩《ひけん》すると言われる、ウービルトの威力なのだ。
気圧《けお》されたように後退する敵に追いすがり、なおも剣を振り下ろす。たちまち数機のイェーガーが残骸《ざんがい》と化して、足元に転がった。
このまま敵の体勢を崩せば適当なところで後退しても……そう彼女が考えた瞬間、再度シャーフの声が、第四小隊の無線周波数に割り込んできた。
「そこまでだ! この老いぼれの命が惜《お》しければ、武器を捨てて投降《とうこう》しろ!」
機体ごと振り返った彼女の目に映るのは、敵イェーガーのマニピュレーターに捉えられてもがく、ヴィンケルマンの姿だ。
大きくため息をつくと、操縦|桿《かん》を握った手の力を緩《ゆる》める。ノートゥングの手から剣が滑り落ち、がらりと地面に転がった。
機体から引きずり下ろされ、手錠《てじょう》を掛《か》けられた三人――ヴァルター、メイベル、ヴィンケルマン――の連れて行かれた先は、先ほど唐突に現れた軍事基地の、建物の中だった。
全体的に急拵《きゅうごしら》えの前線基地という風情《ふぜい》だが、イェーガーの格納庫や、連絡機用の飛行場などもあり、規模は結構大きい。
彼らは司令部と覚《おぼ》しい建物に連行された。銃を構えた兵士に周りを固められ、追い立てられるようにして歩く。
やがて一つのドアの前に止まると、兵士の一人がうやうやしくドアをノックした。
「入りたまえ」
返答があり、彼らは銃口で小突《こづ》かれながら部屋の中に追い込まれた。広くもない執務室《しつむしつ》の中で、一人の男が振り返った。彼は真っ黒な制服を着用していたが、奇妙なことに記章類は一切取り外されており、おかげでずいぶんと平板なファッションに見えた。
「奮戦だったね。窓から見えたよ」
優しげな笑みを浮かべながら彼は言い、次いで基地司令のエーリッヒ・フェルストと名乗った。歳は三十前後だろう。肉付きの薄い骨ばった身体つきで、背が不釣り合いに高かった。彼は執務室にしつらえられたソファを捕虜達《ほりょたち》にすすめ、自分は机の上に軽く腰かけた。
ヴァルターは、制服の特徴的な形から、すぐに彼の所属を特定した。
「……SSか。ヒムラーの丁稚《でっち》どもが、こんなところで何している?」
SS。隣国ドイツの政権政党ナチス党――といっても、今や彼《か》の国にはそれ以外の政党は存在しないのだが――の親衛隊《シュツツシュタッフェル》だ。もちろん、彼らがケルンテン公国内に前線基地を造り、あまつさえイェーガーを配備していることに、いかなる正当性も存在し得ない。
それどころかこいつは、明白な侵略行為だ。
憎々しげなヴァルターの質問に、フェルストは穏やかに答えた。
「軍事機密というやつでね。残念ながらお答えできない」
「調査団の人間はどうなった? 全員殺したのか?」
「まさか、我々はそこまで野蛮ではないよ。もちろん不幸な事故で亡くなった方々もいるが、そうでない人達はこれ以上ないほどに元気だ。皆さん、今ごろは本国のどこかでくつろいだ生活を送っているさ」
「山岳部隊と最初の調査団を行方不明にしたのも、お前らか?」
フェルストが沈痛な面もちで肯定《こうてい》した。声にはほとんど同情的な響きさえある。
「不幸な事故だった。彼らがあれほど、我々のささやかな前進基地に近づかなければ、こんな事態を招くこともなかったんだがね」
「何が不幸な事故じゃ! よくもまあいけしゃあしゃあとそんな科白《せりふ》が吐けるわい、この薄汚いナチスの豚《ぶた》め! 貴様らの面の皮は象のケツより厚いに違いないわ、この……」
堰《せき》を切ったように流れ出すヴィンケルマンの罵詈雑言《ばりぞうごん》も、フェルストの表情に漣《さざなみ》ほどの変化さえ呼び起こすことができなかった。彼はヴィンケルマンの息が切れるまで礼儀正しい沈黙を守り、最後にはぜいぜいと肩で息をする老人に向かって、いたわりの言葉までかけた。
「そう興奮されてはお身体に障《さわ》りますよ、博士。あなたにはこれから、我が祖国のために腕を揮《ふる》っていただかなくてはならないのですから、どうかご自愛願います」
「何じゃと?」
とたんにヴィンケルマンの白い眉が、数センチも跳ね上がった。瞳が剣呑《けんのん》な光を宿し、疑念に満ちた声が漏れでる。
「どういう意味じゃ?」
「端的に申し上げるなら、皆さんを我が祖国《ファーターラント》にご招待しようというわけです。なにせケルンテンの最新鋭機と、ウービルトNr・13、そのうえイェーガーの権威たるヴィンケルマン博士までプレゼントしていただいたのですから、そのくらいのお礼はしませんとね」
「冗談じやないわい! 何でワシが貴様らのために働かなけりゃならん!」
「この際、博士のご意向はそれほど重要ではないのです。残念ながら我がドイツ帝国のイェーガーは、性能において今だケルンテンのそれに及びませんでね。今回の任務のため持ってきた新型の『シュツルム』大隊でさえ、ヴァルター中尉とハミルトン嬢のお二人に、さんざんな目に遭わされてしまった。実際大損害ですよ、これから重要な仕事が控えているというのに」
「それが……」
さらなる抗議のため口を開きかけたヴィンケルマンだが、ヴァルターがそれを制した。陰気な声で訊《たず》ねる。
「ケルンテンに内戦を起こすつもりだな?」
いきなり核心に切り込まれた。フェルストは無頓着《むとんちゃく》に頷《うなず》いた。
「とりあえずはそう。最終的にはケルンテンを地上から消滅させることになるがね」
「あんたが言うと、ずいぶんと簡単そうに聞こえるよ」
「それについては楽観的でね。シャーフ少佐のように、協力的な人物もいる」
「どうやって奴を取り込んだ?」
フェルストが、人の悪い笑いを浮かべた。
「おや、どちらが質問しているのか分からなくなってきたな。君には尋問官《じんもんかん》の才能があるようだ。このままではこちらの手の内を全て聞き出されてしまいそうだが……」
彼は机の上に置かれた制帽を手にとり、人差し指でくるくると回してみせた。言外に、自分の圧倒的な優位、つまりヴァルターらの処遇を完全に握っているという事実を滲《にじ》ませた口調で、こう続ける。
「……まあ、よかろう。なに、簡単なことだ。近い内に発足する新生グリューネラント政府内で、然るべき地位を約束したのき。郷土愛|溢《あふ》れる少佐は、快《こころよ》く我々に協力してくれるそうだ。中尉もどうだね? 君ほどに優秀な搭乗員なら、喜んで歓迎するよ。もっとも、君には|SD《SS保安諜報部》あたりのほうが向いているかもしれないね」
ヴァルターは気を悪くしたようだった。苦々しげな様子で吐き捨てる。
「ミュッフリングあたりと一緒にしてくれるな」
「ああ、気の毒な中佐殿か。彼ももう少し有能なら、もっと長生きができたのにな」
「……死んだのか、あの野郎」
フェルストは、死者を悼《いた》む弔問客《ちょうもんきゃく》の表情を浮かべ、優雅に頷《うなず》いた。
「捕虜《ほりょ》になる前に薬物を嚥下《えんか》したようだ」
「ふん、犬には似合いの死に様だよ」
ぞっとするような憎悪と軽蔑《けいべつ》が、ヴァルターの声に青白い隈取《くまど》りを添《そ》えた。青灰色の目に燃える炎は、少なからぬ縁を結んだ知己《ちき》への追悼《ついとう》では、決してなかった。
「あんたもそうならんように気をつけた方がいいんじゃないのか? よくまあ、そうそう簡単に変節漢《へんせつかん》を信用できるな」
「我々の諜報機関《ちょうほうきかん》は、君達の国ほど目が粗《あら》くない」
「この間スパイ網が摘発されてたろう」
ヴァルターの精一杯の皮肉も、この物腰柔らかなドイツ人になんらかの痛痒《つうよう》を与えた様子はなかった。
「ああ、あれか。我々にはさして影響のないことだ。あらぬ嫌疑をかけられた博士と、そちらのお嬢さんには気の毒だったがね。先に本国へご案内した君たちの仲間から、心温まる隊員達の信頼関係については伺《うかが》っている」
「なんでもお見通しってわけか」
「そう。だから実は、こうやって君達にわざわざご足労いただいたはいいが、聞かなければならないことはほとんどないんだよ。天候さえ順調なら、近い内にドイツへご案内できると思う。それまでは、せいぜいゆっくりくつろいでくれたまえ」
そういうと彼は軽く手を振った。それまで直立不動で沈黙を守っていた警備兵が、靴音を響かせて、三人に起立を促《うなが》した。
部屋から追い出されようとするまぎわ、ヴァルターが急に振り返ってこう言った。
「最後に一つ教えてくれないか?」
余計な口をきく、態度のでかい捕虜を、警備兵が銃口で小突いて黙らせようとするのを、視線で制してフェルストが言う。
「よかろう。答えるとは限らないが」
「あんたどこの人間だ? SDか、それとも|VT《執行部隊》か?」
フェルストは初めて、ある種の驚きを表情にだした。それから、いたくユーモア感覚を刺激された様子で、唇の端に微笑を形造った。
「君は思ったよりドイツの情勢に精通しているらしい。一介の人形|遣《つか》いにしておくのは惜《お》しい気がする」
「高い評価をありがとう。でも俺は人形遣いで満足している」
「だと思ったよ」
フェルストはそこで一旦声を低め、額《ひたい》に深刻な縦じわを寄せた。
「さて、ご質問の件だ……これは最高機密なんだがね……」
そこまで言って彼は、突然白い歯を見せ、声を上げて笑った。
「実は|アーネンエアベ《オカルト局》の局員なのさ。魔法の力で君達の国を席巻《せっけん》するべく遣《つか》わされた、黒魔術師なんだよ、私は」
警備兵は今度こそ、彼らを部屋の外へと連行した。閉まるドアの向こう側、フェルストの含み笑いがしばらくのあいだ、聞こえ続けた。
「ディーはちゃんと逃げられたかしら」
メイベルが、なんとなくぼんやりとした口調で呟《つぶや》いた。
「……捕まったら捕まったで、すぐにここに連れてこられるさ」
投げやりな口調でヴァルターは答え、簡易寝台に横たえた身体を億劫《おっくう》そうに伸ばす。
三人がフェルストの部屋からまっすぐ案内されたのは、ごく普通の兵員宿舎の一室だった。ドアの外には二十四時間態勢で警備兵が見張りに立っていたし、窓は外から打ち付けられていたが、囚人《めしうど》の待遇《たいぐう》として考えれば、それほど悪いものではない。
固いベッドも、シラミや南京虫の生息《せいそく》範囲からは外れているようだったし、差し入れられる食事は味と量の面で不満なしとはしないが、少なくとも毒物で隠し味がつけてあるような代物《しろもの》はなかった。さすがに食器類は木製のものが使用されており、そう簡単に脱走や自殺を手助けしてくれるつもりはないようだったが。
当然ながら、ここに押し込められる前に念入りな身体検査が行われ、衣服以外は全て取り上げられていた。山奥の前線基地では女性補助員などいるわけもなく、メイベルなどは多少|屈辱的《くつじょくてき》な試練をくぐり抜けなければならなかったが、固い寝台の上に軽く腰掛けている彼女には特に精神的苦痛の痕跡《こんせき》は見られず、ただ望まざるアクシデントで離ればなれになってしまった年若い同僚を気遣《きづか》う色だけがあった。
「無事でいてくれるといいんだけど……」
言ってからもう一度、彼女はため息をついた。それは他の二人にも共通の想いであり、わざわざ口にだす必要もなかったのだが、心情としてそうせずにはいられなかったのだ。
あのとき――突然敵に包囲されていることに気付いた瞬間、なぜ自分を盾《たて》にしてまで、ディーを逃がそうとしたのか、彼女は明確な答えを出しかねていた。
自分がそれほど、利他的な性格だとは思わないし――もちろん彼女以外の人間はまた別の評価を下すだろうが――身を挺《てい》してまでディーを逃走させる、万人を納得させるだけの理由があったわけでもない。
なぜだろう。
ついさっきまで一緒にいたというのに、ディーの灰色の目が、ひどく懐かしく思い起こされた。表情を思い出そうとしたが、印象に残っているのは拗《す》ねたような顔や、泣き出しそうに潤《うる》んだ瞳ばかりだったので、彼女は思わず微苦笑した。少年らしい彼の直截的《ちょくさいてき》な感情表現は、ときどき戸惑わされることはあったにせよ、決して不愉快な記憶ではなかった。自分の無力に歯噛《はが》みする彼の素直さは、好ましくさえ感じられる。もちろん、本人にそんなこと言ってしまえは、誇り高い少年期のプライドを著《いちじる》しく傷つけてしまうに違いないのだが。
「なんじゃ、ニヤニヤしおって。あの坊主に惚《ほ》れたか?」
冷やかし混じりのヴィンケルマンに、彼女は微笑んで、さらりと答えた。
「そうかも」
「なんと、年下が好みとは知らなんだ。どうりで会社の同僚やら大学の若いのが言い寄ってきても片っ端からソデにしておった訳じゃ」
メイベルは曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んだだけで、ヴァルターの方へ向き直った。
「お聞きしていいですか」
彼は仰向けになって天井を見つめたまま、少しの間動かない。
「……え? ああ、悪い、ちょっと考えごとしてた。どうぞ、なんでも」
彼にしては珍しい反応だったので、メイベルは内心、軽い驚きを感じた。が、それを口には出さず、形良い眉を少し動かしただけで、言葉を継いだ。
「大したことじゃないんですけど……なんであのとき、ディーを逃がそうとしたのかききたくて」
ヴァルターは上体を起こし、頬杖《ほおづえ》をついた。
「そうだな……まあ、あそこで三人捕まるよりは、一人でも逃げおおせて味方に連絡をつけた方がいいだろうと思ったからかな。任務の遂行にも最善の手だし、援軍を呼んで助け出してもらうなり、政治交渉で引き上げてもらうなりできる。ディーに牽制《けんせい》させて俺かメイベルさんが逃げ出すより、逆の方が確率は高い……そんなとこですかね」
あの短い時間の中でそこまで深く考えていたのかと、メイベルは感心したような目でヴァルターを見つめる。と、彼は突然|相好《そうごう》を崩し、笑いだした。
「……なんてね。こいつは自分に言い訳するために後からくっつけた理由ですよ。本当のこというと、あいつを捕虜《ほりょ》になんかさせたくなかった。あいつだけでも逃がしてやりたいと……そう思っただけでね。我ながら安っぽいとは思うけど」
そういって彼は、悪びれずに笑った。つり込まれるようにメイベルも微笑む。
よくよく自分の心を陽に透かして見れば、結論はやはり同じだった。
あの子だけでも、逃がしてあげたい。確か自分もそう思ったのだ。
口にするのも恥ずかしいような、薄っぺらのヒューマニズムに流された自分を、認める勇気がなかったというだけの話だ。
彼女は、波打つ金を梳《す》いたような髪を、綺麗な指先に巻き付けるようにしてもてあそんだ。そうしている彼女は不思議と少女めいた印象を与え、到底テストパイロットにも、人形遣いにも見えはしない。
「ディーの機体には、何が積んであったんでしたっけ。確か…… ?」
不思議そうに小首を傾《かし》げたのは、ヴァルターが急に起きあがって人差し指を唇にあてたからである。彼は唇だけ動かして、こう言った。
<たぶん盗聴されてる。余計なことはしゃべらないで>
たちまち顔を強《こわ》ばらせる他の二人。わざわざ三人を同じ部屋に突っ込んだ理由に、直ちに思い至った。
「忘れたんですか? 奴は下手クソだから、機体を軽くするため何も積んでない。何かあったら、そのまま東に山を降りて、助けを求めろと言っておいたから、そうするだろ。食料もないはずだが、二、三日なら我慢できるでしょうよ」
もちろん、ただのでまかせだ。ディーの機体には三十七oイェーガー用ライフルと弾薬、手斧、充分な食料と水などが積んであるし、不測の事態が起こったときは往路《おうろ》を辿《たど》って帰投するように指示が出ていた。こう言っておけば、少しでもディーの逃げおおせる確率が増えるだろうという、これはヴァルターの芝居なのだ。
「あ、そうでした。ええ、ディーならきっとなんとかしますね」
少しわざとらしく、調子をあわせるメイベル。
しばらくはそのまま、見えざる傍聴人《ぼうちょうにん》の存在を意識して、一行は黙り込んだ。
やがてメイベルが、ばたんと固いベッドに倒れ込んだ。長い髪が細い身体にまとわりついて、まるで金の糸で織った毛布のように見えた。先程と同じセリフを、また口にした。
「ディー、無事だといいですね」
こればかりは言葉を偽《いつわ》る必要もなく、ヴァルターは遠い目をして言った。
「……ああ」
訪れた長い沈黙の中、不意に、メイベルが身じろぎする。板の打付けられた窓に、軽く何かの当たる音がしたのだ。首を巡らせて窓外を見る。
「雨……」
低く雲の垂れ込めた空は、苦しい灰色に覆われて、そこから大粒の水滴が勢いよく、地表向けて落下を開始していた。雨足はみるみるうちに強さを増す。窓といわず屋根といわず、ぶつかる雨音は激しく、そしてなんとなく虚《うつ》ろだった。
冷たく湿った空気が侵入してきて、狭い部屋を占領してしまった。メイベルは毛布を身体の上に引き上げ、体温を調節しようとした。
けれど、身のうちにわき起こったうそ寒い感覚は、なかなか消えてはくれなかった。
薄暮《はくぼ》の森に雨が降る。
あふれんばかりの新緑に満ちていた世界は、急速に色彩を失って、まるで墨絵《すみえ》のように変化した。木々の葉は、天からの恵みにうたれて、つややかな吐息《といき》もらす。
濡れて摩擦《まさつ》抵抗の減じた地表に数度足をとられ、ようやくディーは機体を停止させる適当な窪地《くぼち》を見つけた。機体を降着させ、素早く飛び降りて周囲の状況を確認する。しばらく生身で、木々の幹《みき》に隠れるようにしながら来た道を戻り、耳を澄ませる。聞こえるのはバラバラいう雨音と、寂しげな鳥のさえずりばかりで重い機械の足音は混じっていない。
どうやら完全に、追手は撒《ま》いてしまえたらしい。安堵《あんど》の吐息を漏らし、ディーは自分の機体へと舞い戻った。
操縦室に水が入らないよう、防水シートを機体の背中から取り出し、機首にかぶせる。
念のため、下生えや枝をナタで刈り取り、機体に巻き付けてカムフラージュした。この程度で姿を消してしまえるわけでもあるまいが、ないよりもマシと自分を安心させるくらいの効果はあった。
ついでに機体の点検もした。何箇所か敵弾がかすって、装甲に傷をつけていたが、致命的な破損や、機能に対する障害もないようだ。とりあえずは放っておいていい。
今晩はここで朝を待つことにする。山で夜に動き回るのは、かなり危険だ。経路を誤る心配が大きいし、地形も確認できない。機体のサーチライトを点ければ少しは補《おぎな》えるが、追手が近くにいたときには、自分の位置を知らせることにもなる。この際、動かない方が無難だ。
自分の首尾にとりあえずの満足を得て、彼はすっかり濡れてしまった身体を、愛機の操縦室へと押し込んだ。棺桶《かんおけ》並に狭い室内で、あちこちぶつけながら服を脱ぎ、水分を絞る。このあたりはとんど曲芸に近い。
濡れた搭乗服に再度|袖《そで》を通すのは、あまり気持ち良くなかったが、この際しかたのないことだった。背嚢《はいのう》から取り出した毛布を、ぴったりと身体に巻き付けて、せめてもの暖《だん》とする。装甲板に落ちる雨が、静かな通奏低音として響く。
ひどく孤独だった。自分以外の人間は、全て死に絶えてしまったような気がする。
ヴァルターの皮肉な笑顔を思いだした。大きな手のひらを、それがせっかく櫛《くし》を通した自分の髪を滅茶苦茶にしてしまう感覚を、寂しく思いだした。メイベルの、花の咲くような笑顔。綺麗な髪と甘い香り。エメラルドの瞳。
ヴィンケルマンの悪口雑言《あっこうぞうごん》すら、なぜか好ましく、耳の奥に甦《よみがえ》る。
雨に冷やされた装甲が、否応《いやおう》なしに狭い操縦室から温《ぬく》もりを奪ってゆく。目を閉じても、安らかな眠りは訪れない。孤独がひそやかに忍び寄って、ディーの胸につかえるばかりだ。むやみにため息を吐いても、それは消えてくれなかった。
あまりの静寂に、耐えきれなくなって彼は、無線機のスイッチをいれた。バッテリーはかなり乏しくなっていたが、この際、精神の安定こそが重要に思えた。
レシーバーに入るのは、空電ばかりだ。むやみと周波数をいじってみたが、人の声は聞こえてこない。このあたりに無線を使っている人間は存在しないのだ。もう、ディーは人の声が聞けるなら、それが味方であろうと、敵であろうと構わない気になっていた。追手が引き上げてしまったらしいことさえ、残念に感じられる。
と、思いついて彼は、受信モードを変更した。中波帯、つまり民間放送の周波数域に受信器を合わせ、チューニングのつまみをいじる。波のような雑音が幾つか聞こえた後で、突然、明瞭《めいりょう》なオーケストラの音色が耳に飛び込んできた。
熱っぽい演奏は、誰だかの有名な交響曲のクライマックスだ。何度も念を押すようにオーケストラががなり立て、最後に嵐のような拍手が続いた。
「先月の王立歌劇場管弦楽団定期演奏会から、ベートーベンの交響曲第五番をお送りいたしました。指揮は今回初めて客演の、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー……」
こんなものに興味はなかったが、永劫《えいごう》の闇にも比すべき静寂よりはずっとマシだった。
無意味な言葉の羅列《られつ》が流れていたが、頭に入ってくるはずもない。世界に残ったのは自分一人ではないと、ただそれだけを確かめたかったのだ。スイッチを切ってしまえば、世界と自分との接点は、永久に失われてしまう。そんな気さえした。
「ではつぎのリクエスト、ナーベルブルクのユルゲンスさんから、ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・オーケストラで『スターダスト』を……」
パチパチいう雑音混じりの導入に続いて、輝かしいトランペットのソロがあらわれた。
何度も何度も聞いた曲だった。ヴァルターの部屋のSPレコードで。あるいは彼の奏でる、びろうどのような音色のトランペットで。
ヴァルターと一緒に。
固く握り締められた拳が、コンソールに叩き付けられた。サッチモの濁声《だみごえ》に、耳障《みみざわ》りな雑音が混じる。
肩が小刻みに震える。きつく喰いしばった歯の間から微《かす》かに、本当に微かに鳴咽《おえつ》が漏れでて、冷えた空気に溶け込んだ。
結局、僕は何もできなかった。この調査行の間中何度もうちのめされて、最後につかみとった結末までもが、このざまだ。
本隊を追いかけようと言ったのはこの僕で、尻尾まいて逃げるのが悔《くや》しいと言ったのもこの僕で……それなのに今、負け犬のように雨に打たれ、尻尾をまいて逃げ帰ろうとしているのも、やっぱり僕だ。
おまけにどうだ、先輩とメイベルさんは、僕を逃がすためにあんな無謀な戦闘を仕掛けて……あの人達がそう簡単に死ぬとは思えないけれども、あれだけの敵から逃げ出せるはずもない。
全てが自分の選択の結果だと思うと、やりきれないどころか、死んでしまいたい気分になった。ただ、このままアルトリンゲン基地まで退却して、知り得た情報を伝えること、そして、あの人達を救出してくれるよう依頼すること。それだけが自分の手に残された、彼らへの償《つぐな》いの方法であり、おめおめと生き恥を晒《さら》す自分への、免罪符だった。
もはや彼を暖かく見守る視線はなく、慰《なぐさ》めの言葉をかける人もいない。あるのはただ、冷たい雨の中|膝《ひざ》をつく愛機と、上滑りする陽気さをまき散らすラジオと、そして孤独だけだった。闇に沈み、寂しさに震える、寄方《よるべ》ない心だけだった。
「メイベルさん……」
雨垂れが、前面装甲にあたって、規則正しい音をたてた。
「……博士……」
ラジオのアナウンサーが、新しいレコードの題名を告げていた。
「……先輩……」
操縦席内の暗闇で、結露《けつろ》した水滴が額《ひたい》に落ちて、流れた。
返事はない。
雨音は激しく、ラジオは陽気に、夜気は冷たく――ことさらに彼を無視した。
喉の奥が熱くなった。涙を流したくなくて、きつく目を閉じた。
「……一人じゃ寂しいよ……」
心の奥底に無理矢理押さえつけた科白《せりふ》が、とうとうこらえきれなくたって、こぼれでた。涙をこらえる努力は、無駄に終わった。
いつだって寂しかった。父が死んだときも、先輩が急にあの街からいなくなったときも。
飛行搭乗員試験に落ちたとき、先輩が誘ってくれてほっとしたんだ。今回だって、調査団に呼んでくれたのが嬉しかった。いつだって一緒にいてくれるのが嬉しくて、嬉しくてしかたなかった。パイロットにはなれなかったけれど、先輩と一緒にいられるなら、それでもいいと思ってた。
引き返すのを拒《こば》んだのだって、本当のことをいえば、少しでも先輩や、メイベルさんや、博士と一緒にいる時間を引き延ばしたかっただけかもしれない。格好をつけて意地を張ってみせたけど、本当は子供っぽい、僕のわがままでしかなかったのかも――不意に、音楽が途絶えた。
ラジオの向こうで、紙のかさかさ鳴る音が聞こえたかと思うと、緊迫した調子のアナウンサーが、早口で喋《しゃべ》り始めた。
「番組の途中ではありますが、緊急ニュースをお伝えします。政府は午後七時二十一分、公国北部のグリューネラント州が、本日午後六時をもって独立を宣言したと発表しました。グリューネラント州府はすでに占拠《せんきょ》され、各地で交通が封鎖されております。独立政府の声明は、グリューネラント侯爵《こうしゃく》クリステルの名前で発表されており……」
ディーは毛布をはねのけて、姿勢をただした。ラジオのヴォリュームを上げる。
「……グリューネラント政府を名乗る叛徒《はんと》集団は、国境をグロイスター山脈に定めると発表し、越境者には然《しか》るべき措置を下すとしております。なお、この声明に呼応《こおう》して、アルトリンゲン、オルデンブリュック等の公国軍|駐留地《ちゅうりゅうち》でも、何らかの動きがあった模様です。本件に関して国王ゴットハルトU世は緊急声明を発表……」
「畜生《フェルダム》! なんでこんなことになっちまうんだよ!!」
再度、拳でラジオを殴りつけた。ものすごい音に、自分でびっくりする。
(落ちつけ、ディー。落ちつけ!!)
心の中でそう自分を叱責《しっせき》して、いても立ってもいられず雨の中に飛び出したくなるのをこらえる。
考えろ、どうすればいいのか、何がいちばん大事で、自分が何をするべきなのか。
アルトリンゲンへ戻る選択肢はなくなった。独立に呼応したのか、それとも工作員でもいて動きがとれないか。どちらにしろ、あてにはならない。
山岳部隊が行方不明になったのは、あの『グリューネラント独立義勇軍』の連中のせいだ。奴らの正体は?
決まってる、ドイツ軍だ。あれだけのイェーガーを配備し、この場所に配備できる組織なら、それ以外に考えられない。つまり、グリューネラント独立の背後にはドイツの手引きがある。たとえ駐屯地《ちゅうとんち》の戦力を吸収したとしても、ケルンテンから実力で独立をかち取るだけの力は、グリューネラントにはないだろう。スペインと同じだ。義勇軍の名目で、ドイツがやってくるのだ。
それを知らせるにはどうしたら? このあたりは、グリューネラントの宣言した国境の内側だ。退却して味方に知らせるにしても、アルトリンゲンが押さえられているなら、その後ろまで抜け出さなければならない。発見されないためには山岳地帯を突破する必要があるから、一週間はまず間違いなくかかるだろう。
その頃にはとっくに、グリューネラントの背後に誰がいるのか、ケルンテンにも分かっているはずだ。もし軍事衝突が起こっていれば――ドイツのイェーガーが国内に配備されているのだ、可能性は高い――国境はもっと南に押し下げられているかも知れない。その後に及んで、自分の知っている情報にどれほどの価値があるだろう。それに、メイベル達はどうなる?
このタイミングで独立が宣言されたのはなぜだ? 例のスパイ網の摘発が関係しているのか? どちらにせよ、この緊急時にあんな山奥で戦力を遊ばせておくとは考え難《がた》い。あの基地には、一個大隊程度のイェーガーがあった。今ごろ奴らは、グロイスターの麓《ふもと》目指して進軍しているかも知れない。ならば、あの基地に戦力はほとんど残っていないはずだ。
もちろんこれはあくまでも推測だ。彼らには、何か他に重要な任務があって、あの基地を離れないかも知れない。ただ、確実にいえることがある。
ここで自分が逃げ出せば、ヴァルターやメイベル、博士らがケルンテンに戻るチャンスは、完全になくなるだろうということだ。
そしてもう一つ。
自分は二度と、彼らに逢うことはできない。
一人で逃げれば、ディーはおそらくケルンテンにたどり着くことができるだろう。たかだか一機のイェーガーのために、敵が網を張るとも考えづらい。ただ一機任務を達成して帰還できれば、自分の立場にだって悪いことはない。第一、ヴァルターとメイベルは、自分を逃がすために盾《たて》になったのだ。ありがたく好意を受け取って、安全なところまで帰りつくことを、彼らだって望んでいるはずだ。
帰りつければ、それなりに平穏《へいおん》な日常が待っている。戦争が始まればそうもいっていられないかも知れないが、とりあえずしばらくは、屋根のある部屋と、暖かいベッドと、ちゃんと火の通った食事に囲まれた生活ができるはずだ。
ああ、暖かいベッドと食事。もうどれくらい、それらと無縁の日々を過ごしたことか。ばさばさの軍用パン。くそまずい行軍用|口糧食《こうりょうしょく》。固く冷たい地面に寝ることもない。ケルンテンに帰れるなら。原隊の宿舎、自分の部屋に。そこには見知った顔がいるはずだし、人間らしい暮らしが待っているはずだ。
「暖かいベッド……暖かい食事……」
呪文のように繰り返したディーは、その二つを頭に思い浮かべようとして……その二つがこの世でいちばん素晴らしいと思いこもうとして、結局、失敗した。
記憶の中のベッドは固くて、毛布はいくつもの継《つ》ぎがあたっている安物だった。食堂はいつも薄暗く、食事は冷たくて、ひどくまずかった。そして何より……そこには誰もいなかった。
親しい友も、優しい家族も、慎《つつし》み深い恋人も。
自分一人だけ。彼はいつも、孤独だったのだ。
父が死んでからはいつも、人気のない暗い部屋に帰ってきては、一人で食事を済ませ、冷たいベッドに潜《もぐ》り込んだ。軍隊に入ってからもそう。いちばん年下だった彼は、誰とも打ち解けられず、ただ毎日を訓練とそのほかの味気ない営《いとな》みに埋没させていた。
暖かい団欒《だんらん》も、快《こころよ》く迎え入れてくれる故郷も、気のおけない仲間も。
彼とは無縁の存在だった。
暖かい記憶。心のどこを探しても、そんなものは――
固い地面に直接|敷《し》いた寝袋。すりおろして粉末にできそうなチーズ。板みたいな干し肉に、ライプニッツビスケット。固形燃料の青白い炎。オレンジ色に照り返す、焚火《たきび》の灯。あかがねいろに輝く、長い金髪。|夜鳴き鶯《ナイチンゲール》と、トランペットの二重奏。きらきら輝く、青灰色の瞳。のべつまくなし並べ立てられる罵《ののし》り声。
ヴァルターの、メイベルの、ヴィンケルマンの……屈託《くったく》のない笑顔。自分を見つめる、穏やかな視線。何気なくかわされる、ユーモアの込められた会話。
胸がしめつけられるほどにあたたかい、その記憶。
彼らが本当に生きているかどうか、どこにも保証はない。敵に捕らえられているとも限らない。自分達の力で包囲を突破し、逃げ出しているかもしれないし、あるいは、考えたくないことだが、もう死んでいるのかも知れない。
けれど……けれど彼らは生きているかも知れない。虜囚《りょしゅう》として、自由を拘束されているかも知れないのだ!
「助けなきゃ」
彼らは一つの奇跡だった。いちばん欲しかったものを、惜《お》しげもなく降り注いでくれる。かくありたいと願う自分の姿を、何の気負いもなしに、示してくれる。
そして自分がこのまま逃げ帰れば、彼らは永久に失われる。
命は惜しい。
自由は貴重だと思う。
けれど彼らを見捨てるなら、自分は全ての良心と、そして輝きを、なくしてしまうだろう。世界はもはや光を与えず、心は一生後悔に苛《さいな》まれ続けるだろう。
彼らを救い出す機会は今この時に限られており、その鍵はディーの手にだけ握られている。放り投げるわけにはいかなかった。
急がなければ。
追跡者に気付かれる危険、そして雨に濡れた地形を、暗闇の中突破する危険。それらを考えあわせても、行動に移るべきは今しかない。
ディーは機体にかぶせた防水布をはぎ取ると、装備されたサーチライトの光量を極限まで絞り、操縦桿を引いてペダルを踏んだ。低く唸《うな》るような作動音がして、フェオドラはゆっくり立ち上がり――さっきまで逃げ惑い続けた森の中を、確実な足どりで引き返し始めた。
朝が来ても、雨の降り止む気配はなかった。
ディーは夜通し愛機を駆り続けたが、幸運なことに追跡者は姿を見せず、道行きは順調であった。
森は不気味に静まり返って、よそよそしく佇《たたず》む。昨日あれほど猛スピードで逃げ続けたせいで、最初に異変の起こった残骸《ざんがい》の散乱する場所に辿《たど》りついたのは、午後三時ごろになった。今度は望まざる出迎えも現れず、彼は慎重に、森に紛《まぎ》れるようにしながら、機体を歩ませる。適当なところで機体を降りて、徒歩に切り替えることにした。
機体の背中から雑嚢《ざつのう》を引きずり出し、装備を整える。双眼鏡を胸に下げ、頭からすっぽりとポンチョをかぶって、濡れた下生えを踏みわけつつ前進する。
十分もかからず、悪夢のような記憶が残る森の切れ目まで達した。適当な枝振りの木を選んで、身軽に登った。もちろん、梢《こずえ》の揺れで見つからないよう、細心の注意を払う。
地上五m、だいたいイェーガーの視点と同じところくらいまで登って、幹《みき》に背を持たれ掛けさせ、枝に座る。開けた土地を見渡すと、二面にイェーガーの残骸が散らばっていた。
いきなり背中に冷水を浴びせかけられたような気がする。
(まさか……)
一つ一つを目で追う。幸い、残骸の中にはヴァルターのフェオドラも、メイベルのノートゥングもなかった。少なくとも彼らが、ここで撃破されたという可能性は消えた。安堵《あんど》しつつ、双眼鏡を目にあてて基地を眺めた。
基地はだいたい百m四方程度の広さで、鉄条網に囲まれていた。建物は大きく二つ。
司令部と兵員宿舎があると思われる、木造の二階建て。それから、イェーガー格納庫らしい鉄板で囲まれた大きな建造物。他は、MG34が据え付けられた監視の鉄塔が二つと、草の生えた滑走路、それから申し訳程度の高射砲陣地。滑走路の端には『Fi156 鸛《シュトルヒ》』連絡機が一機、静かに翼を休めている。
ディーは満面に喜色を浮かべた。シュトルヒの後ろに、ノートゥングとフェオドラが二機並んで、降着しているのが目に入ったのだ。横にはヴィンケルマンの『脚つきドラム缶』もある。幾らか被弾したらしい痕《あと》がみとめられるが、操縦席周りにそれほど大きい損傷はない。
(よかった!)
小躍りしたい気分だったが、見つかっては元も子もないのでぐっとこらえる。
と、突然双眼鏡の中で、憲兵がこちらを向いた。心臓を氷の手で鷲掴《わしづか》みされるような気がしたが、憲兵はすぐに横を向いた。ほっと胸をなで下ろす。
なおも基地を窺《うかが》う。格納庫の扉は開いたままで、目を凝《こ》らすと薄暗い内部の様子が窺えた。死角になって見えない部分もあるが、確認できる範囲では、内部はがらんとしてイェーガーの姿は見えない。
(やっぱり。これならなんとか……)
逸《はや》る心をおきえつつディーは、静かに木から滑り降り、愛機のもとへと急いだ。
ヴァルターが大きな口をあけ、喉の奥までを白熱灯の光に晒《さら》した。
「ふぁ……あ〜あ、ヒマだ……」
行儀の悪い欠伸《あくび》だが、それをとがめる者はない。他の二人も、全く彼と同意見だったからである。
「とっととどっかに連れてくなり、拷問《ごうもん》するなりしてくれた方がまだマシだな」
いささか物騒なことを口走る。退屈に対して、堪《こら》え性のない性格なのだ。
ドイツへの移送は明日以降に延期となった。雨のため、連絡機が飛ばないという説明だった。
「根性なしめ。このくらいの雨なら飛べるだろうが。なあ、メイベルさん?」
訊《たず》ねられた女性が小首を傾《かし》げる。
「さあ、山間ですし、気流もよくなさそうだから……できれば大人しくしてた方がいいんじゃないかと思いますけど」
「ちぇっ。こっちは覚悟を決めて、三枚に下ろされるのを待ってるってのに……このままじゃみっともなく腹の出たオヤジになっちまいそうだ」
実際のところ、飯を食うよりほかに何もやることがないのだ。会話で間を持たせるにしても、盗聴の可能性ありとなればそうそう立ち入った話をするわけにもいかない。いきおい、三人はただごろごろと寝転がって、食事がきたときに口を動かす程度の、端《はた》からみれば自堕落ともいえる時の過ごし方を強《し》いられていたのである。
ちなみにヴィンケルマンは、昼食を済ませてからこっち、高鼾《たかいびき》をかいて熟睡中だ。
「……ディー、うまく逃げたみたいですね」
メイベルがぽつりと呟《つぶや》いた。
「まだひったてられてこないからな。大丈夫でしょう、たぶん」
途中で撃破されたとも考えられなくはなかったが、メイベルの心情を思いやって、それは口にしなかった。
「……さっき、ずいぶんたくさんイェーガーが出ていきましたよね。ディーを追いかけて行ったわけでもなさそうだし……」
追跡のためなら、ひと晩時間を与える必要もないだろう。
「そろそろ始まるんでしょうか……内戦」
「さあ? よく分からないな。俺はただの人形|遣《つか》いですからね」
ヴァルターが興味なさそうにそう言い捨てたちょうどその瞬間、砲声が轟《とどろ》いて窓ガラスを震わせた。一瞬遅れて地響きが伝わり、建物が大きく揺れた。
「ななななんじゃ!?」
ヴィンケルマンがびっくりして跳ね起きる。
ヴァルターはのっそりと身を起こし、頭を掻《か》いた。
「あのバカ……」
彼はなんとか苦々しい表情を保とうと数秒努力して、すぐにあきらめた。
「逃げろって言ったのによ」
「まさか……ディー!?」
メイベルがあわてて窓枠から外を眺める。
ヴァルターは、足音をたてないように立ち上がり、数歩移動してドアの横に背中をくっつけた。
ばたばたと慌ただしい靴音が廊下を近付いてくる。外で何事か言い争う気配《けはい》がして、やがて扉が開いた。
「すぐここを出ろ! 我々に……」
鉄兜《てつかぶと》をかぶった警備兵は、最後まで言い終わることができなかった。横あいから伸びてきたヴァルターの手が、彼の腕をぐいと引っ張ったのである。
「うわ……」
前かがみになったところに、首筋へ体重の乗った肘《ひじ》撃ちを受け、彼はあっという間に昏倒《こんとう》した。
「貴様ら何を……」
ドアの外にたっていたもう一人は、あわてて担いだ銃を構えようとした。が、それよりもヴァルターの一撃が迅《はや》い。綺麗な弧を描く軍靴のつま先が、警備兵のKar98kを捉え、銃身をはね上げる。銃声がおこり、天井に穴があいた。
「雨だってのによ!」
言いざまヴァルターは、次なる一撃を兵士の鳩尾《みぞおち》へと叩き込んだ。うずくまる敵兵の顎を、さらに足の甲で蹴り上げる。警備兵は完全に悶絶し、だらしなく床へ横たわった。その二人を部屋の中に引きずり込んで、ライフルと拳銃を取り上げる。
また砲声が轟いた。続いて、機関銃の応射が始まったようだ。
「ディー!!」
メイベルが、ほとんど悲鳴といってもよい声を上げる。森の中から、森林地帯用の迷彩パターンを施したフェオドラが一機、二十o機関砲を構えて突撃してきたのだ!
「だと思った」
これはヴァルター。SS隊員から強制的に徴発したP―08を、メイベルとヴィンケルマンに向けて放り投げた。自分は、最初にのした警備兵のMP―28機関短銃を手にして立ち上がる。
「あの阿呆《あほう》に、他人の好意を理解する頭を、期待したほうが馬鹿だったな」
言葉とは裏腹に明るい笑顔を見せた。すぐに表情を引き締める。
「逃げ出します。俺についてきてください」
頷《うなず》く二人を確認して、扉を蹴り開けた。
廊下では、突然の攻撃に自室を飛び出した兵士達が右往左往《うおうさおう》していた。と、彼らの顔が一様に驚愕《きょうがく》の表情で染められる。
「ほ、捕虜《ほりょ》が……」
軽快な発射音。ヴァルターのMP―28が数人を薙ぎ倒した。残りの兵士は大混乱に陥《おちい》り、我先に逃げ出す。
「腰抜けめ!」
弾倉を交換しながらヴァルターは、飛ぶように廊下を走り抜けた。彼らが二階建ての建物から脱出するまでに、さらに五人が銃弾の犠牲となった。
そぼ降る雨の中に飛び出した三人は、すぐに、拡声器で増幅されたディーの声に迎えられた。
「みんな! 無事でよかった!!」
遡《さかのぼ》ること数分。ディーはフェオドラの操縦席で、慎重に三十七oライフルの照準を定めていた。目標は監視鉄塔。ライフルには榴弾《りゅうだん》が装填《そうてん》してある。
鼓動《こどう》が激しくなる。振動が機体に伝わって、照準がずれるのではないかと心配になった。監視台の上では、一人の兵士がぼんやりと空を眺めていた。
僕が撃てば、あの男は死ぬ。
さすがにためらいが心をよぎった。
(ビビるなよ、畜生!)
意を決して、トリガーを引く。
轟音《ごうおん》と同時に、機体ごと後ろに持って行かれそうな反動がフェオドラを襲った。視界が排煙《はいえん》に閉ざされる。
しばらくそのまま、煙が散るのを待つ。やがて薄紫のヴェール越しに、上半分の消失した鉄塔が目に入った。
「当たった……」
たった今、この世から一つの命が消えた。自分がこの事で消し去ったのだ。
にもかかわらず、ディーは自分の精神が高揚していることを、認めなければならなかった。あれほど訓練に明け暮れたその成果が、こうやって眼前に示されたことに、後ろ暗い喜びを覚えたのだ。
ぶるぶると首を振った。今はそんなことを考えているときではない。
操縦桿を動かし、ボタンを器用に操って、ライフルの尾栓《びせん》を開く。排莢《はいきょう》、再装填。ふたたび射撃位置へ。もう一つの監視塔にむけて照準……発射。
映画のフィルムを再生するように、同じ情景があらわれた。
ライフルを地面に投げ捨てて、二十oを掴《つか》む。突撃開始だ。
完全な奇襲になったらしく、反撃はない。楽々と鉄条網を踏み越えて、基地の敷地内へと足を踏みいれた。
足元で、兵士達がわらわらと走り回っている。幾人かがライフルを構えて撃ってきたが、小銃弾程度でフェオドラの装甲は貫通できない。甲高い音がして、弾は跳ね返るはかりだ。
と、正面の木造二階建てから、見覚えのある三人が走り出てきた。
拡声器のスイッチを入れ、叫ぶ。
「みんな!」
ヴァルターが先頭、メイベルがその後ろ。最後にヴィンケルマン。彼らはそろって、ディーの機体を見上げた。
「……無事でよかった……」
心からのセリフだった。
と、ヴァルターが拳を振り上げてディーを怒鳴りつけた。
「このバカ!! 逃げろと言ったろう!」
「後で聞きますよ、今は早く!」
走り出してきた一個小隊ほどの兵士に、二十oをぶち込んだ。人間の身体がぼろ雑巾のように吹き飛び、後には部品めいた人間の残骸《ざんがい》が散らばる。さすがに胸が悪くなった。
「早く! 向こうに連絡機があります!」
罪から目を外らすように機体を旋回させ、今度は建物に向けて機関砲を撃ち込む。板がちぎれ飛び、窓ガラスは粉々に砕け散る。二秒とかからず、玄関部分は原形を止めぬまでに破壊された。
そこで反撃は途絶えた。硝煙《しょうえん》の臭いと、死の静寂が辺りに満ち満ちて、ディーは一人取り残される。
誰かが叫んだ。機体ごと振り返り、下を見る。
自分の撃った弾で下半身を吹き飛ばされた兵士が、獣《けもの》のような叫びを上げて這《は》い回っていた。その腹の辺《あた》りから、赤く染まった腸を引きずりながら、地面の上にどす黒い模様を描き続ける。喉に酸っぱい塊《かたまり》がこみ上げた。
見かねて銃口を持ち上げ、狙いを定める。呻《うめ》きがひときわ大きく、耳に届いた。
少しためらってから、目を閉じて引き金をひいた。短い発射音。
ふたたび目を開いたとき、その場には弾痕と、僅《わず》かばかりの黒い染みのほか、何も残ってはいなかった。
仲間を助け出すための、これが代償だ。
(これでもう、死んでも天国には行けないな)
乾いた声が、心の中でそう言った。奇妙に頭の芯は冷めていて、次に成すべきことを勝手に判断する。
(みんなは……)
首を上げて、滑走路の方を見た。駆け足の三人が、ちょうどシュトルヒにたどり着いたところだった。
ヴァルターが慣性スターターに飛びついて、クランクを回し始めた。ヴィンケルマンがそれに手を貸し、メイベルはコクピットに潜《もぐ》り込む。
ディーはゆっくりと、フェオドラをそちらへ向けて歩ませた。
プロペラはゆっくり回転を始め、やがてエンジンに火が入った。軽めの爆音とともに、二翅《にし》のプロペラは半透明の円へと変化する。
ヴァルターが大きくディーを手招きした。きっかり三十歩でその脇に到達し、機体の膝《ひざ》を折る。そんな彼に笑いかけながらヴァルターは、エンジン音に負けないよう大きな声で言った。
「乗れよ!」
シュトルヒは最大で五名まで搭乗可能だ。全員がこれで脱出できる。
「はい!」
ディーは返事して、フェオドラの頭部をはね上げた。
次の瞬間、ヴァルターが血相を変えた。
「ディー、後ろ!!」
セリフが終わらないうちに、激烈な衝撃がディーを、フェオドラを襲った。胸あてをはね上げていなかったから、機体から放り出されるのは免《まぬが》れたが、おかげで強《したた》かに胸を打って、息がつまった。目の前が暗くなる。
フェオドラは重力に引かれて前のめりに倒れ始めた。ほとんど無意識に操縦桿を引いて、頭から地面に突っ込むのを避ける。
バランスが崩れ、機体は横に転がった。左腕が脱落していたのだ。両腕で支えるつもりだった機重を右手だけでは受けとめきれず、フェオドラは地面の上を半回転した。
突然の攻撃は、格納庫方面からだった。
(まだ残ってたのか!?)
地面と平行になった機体から身を乗り出すようにして、ディーは敵機を確認した。
五機!
昨日彼らを出迎えた機体ではない。スペイン内乱でさんざん使われていた、ドイツの旧式イェーガーである。
「やったな!!」
残った右腕を無理矢理引き上げて、二十oをたたき込む。三秒ほど発射音が続き、先頭の敵機は胸の辺りを穴だらけにして動きを止めた。
が、そこでディーのフェオドラも、完全に機能を停止した。二十oを握ったままの腕が、重力に引かれて力なく地に落ちた。もはや操縦桿を引いても、スロットルを開けても、機体はぴくりとも動かない。
「シュトルヒに乗れ。ここは俺が食い止めてやる!」
ヴァルターが言い捨てて、傍らのノートゥングに駆け登った。記録的な早業でハッチを閉じると、一気に立ち上がる。本来の愛機フェオドラは、完全に武装が解除されていてものの役に立たない。ノートゥングも条件は同じだが、機体の基本性能が違った。
「ディー、早く!」
シュトルヒのコクピットから、メイベルが手を差し伸べている。ディーはあわてて操縦席から這《は》い出し、羽布張《はふば》りの飛行機へと走り寄った。メイベルの細い腕が、意外なほど強い力で彼を機体に引っ張り上げた。
「飛ぶわ!」
キャビンを閉じるのももどかしげに、彼女は車輪のブレーキを解除した。エンジンの暖気運転はまだ充分ではないが、この際ぜいたくはいっていられない。
二、三度咳込むように悲鳴を上げて、V8エンジンが酷使《こくし》への抗議を叫んだ。が、メイベルがスロットルを全開まで押し込むと、機体はしぶしぶながらに滑走を開始する。
どんどんスピードが上がっている。ディーは身を固くして、襲い来る精神の変調に対抗しようとした。ところが――ヴァルターのBMWよりもずっと遅いスピードで、シュトルヒはあっさりと離陸してしまったのである。
ディーはあっけにとられて窓の外を見た。
緑の草地は、下方数mを滑るように流れ、だんだんと遠ざかりつつある。
「気流が悪いわ。揺れるから気をつけてね!」
メイベルが真剣な顔で前を見たまま、ディーとヴィンケルマンに警告した。
だが、ディーは聞いていなかった。初めて乗る飛行機、初めて飛ぶ空が、この非常時にあってさえ、彼の精神を完全に呪縛《じゅばく》してしまったのである!!
「飛んでる!」
叫ばずにはいられなかった。
シュトルヒはあっという間に滑走路を通り過ぎ、木々の梢《こずえ》をすれすれにかすめて、上昇を続けた。眼下に広がる緑の絨毯《じゅうたん》は折からの雨に濡れていたし、天蓋《てんがい》はあいにく灰色の雲に閉ざされて、どこまでも広がる青空とは無縁だった。
しかし、ディーの鼓動《こどう》は急激にテンポを上げたし、心はシュトルヒの上昇率を遥《はる》かに凌駕《りょうが》して、宙を舞った。
空。
あれほどまでに夢見た空を今、僕は翔《と》んでいる。地べたに這《は》いつくばって見上げるしかなかった空を。
無限に続く、果てしない空を。
地上でおきた諸々《もろもろ》の出来事は、車輪が大地を離れた瞬間意味を失う。
ああ、あんなに焦《こ》がれていたのに、僕は飛ぶことの意味を少しも理解してはいなかった。
飛ぶこと――飛び続けること。ただそれだけが唯一絶対の価値で、ほかの全ては完全に無意味だ。
深い感動が胸に溢《あふ》れた。このままどこまでも、空の果てまでも飛んでゆけるなら、全てを投げ出してもいいとさえ思った。
だから、メイベルが次のように言ったときも、彼は心を見えざる青空へ吹き飛ばしたままで、とっさには意味が理解できなかった。
「まっすぐアルトリンゲンに向かうわね」
耳に入ってから、言葉の意味を咀嚼《そしゃく》し終えるまで、たっぷり十秒はかかったろう。
頭の中で危険を知らせる警報が鳴り響き、ディーは飛び上がった。
「だ、だめ!」
メイベルは機体を上昇旋回に入れながら、不思議そうな顔をした。
「どうして?」
ディーはいささか混乱しつつも、昨夜のラジオから得たニュースを、機上の二人に説明した。
「なんと……もう独立が宣言されたのか。全くドイツ野郎どもときたら、他人の家に泥靴で踏み込むことが生きがいに違いない。まともな神経を持った紳士なら……」
ヴィンケルマンがいつも通り、辛辣《しんらつ》すぎる論評を加える。それは放っておいて、メイベルがこう訊《たず》ねてきた。
「じゃあ、どうすればいいかしら。話の通りだとグリューネラント方面もダメみたいだし……」
その瞬間、途方もない激震と破裂音が、彼らを襲った。窓から放り出されるのではないかと思うほど、機体は激しく揺れながら迷走を開始した。
「う……」
メイベルが一つ呻《うめ》いて、操縦桿を握り締めた。エンジンが停止し、不気味な静けさがコクピットに満ちていた。なにかが、ばたばたいう音まで聞こえてくる。
進路は大方安定したが、細かい上下動はおさまらず、機体は次第に降下を始めているようだ。
「メイベルさん!?」
「……たぶん、高射砲……」
彼女は苦しそうにそれだけ言うと、機体をコントロールすべく、忙しく手足を動かした。
ディーは動揺して周囲を見回す。
プロペラは吹き飛んで、機体前面は完全に抉《えぐ》られている。あちこちからオイルやら、ひしゃげた鋼管が飛び出して、ひどい有り様だ。
おまけに右翼には大穴が開いていた。ばたばたいう音の源は、風に煽《あお》られてはためく剥《は》がれかけた羽布《はふ》だった。
コクピットのガラスもほとんどが砕けて、冷たい雨がキャビンに吹き込んでくる。
「何かにつかまって! 元の滑走路に下ろしてみるから」
メイベルは言ったが、それが至難の技であることは、パイロットではないディーにさえ明らかだ。いくら重量に対して翼面積の大きいシュトルヒでも、離陸直後の上昇中にエンジンが停止しては、そう長く滑空できない。まっすぐ進んで降りられればなんとかなるかもしれないが、不幸なことに前方は深い森ばかりで、不時着《ふじちゃく》に適した地形など存在するわけがない。
かといって機体を旋回させれば、高度は失われ、機体は森に突っ込みかねない。ましてや翼には大穴が開いて、揚力《ようりょく》を減じているというのに。
だが、他に選択肢はない。
メイベルは、持てる技倆《ぎりょう》の全てを注いで、スムースな旋回を続けた。ちょっとでも横滑りさせれば、たちまち高度を失う。手が震えた。
百八十度の旋回を終えたとき、機体に残された位置エネルギーは、森の切れ目を飛び越えるぎりぎりのところまで減っていた。幸い、一箇所を除《のぞ》いて、操縦系統に深刻なダメージはない。
延々と続く森の緑を、この時ばかりは恨《うら》めしく思った。ほとんど超人的な努力を重ね、機体の進路を保つ。何回か、高射砲弾が周囲で炸裂《さくれつ》したが、回避している余裕はない。できるのはただ、普段は特に信じてもいない神に祈ることだけだ。
すれすれの高度を飛ぶうちに、梢《こずえ》が何度か車輪をかすめたようだ。
(もう……持たない!)
観念した瞬間、唐突に森が途切れた!
滑るように緑の草原のうえを飛び抜け、音もなく機体を接地させる。
おそらくメイベル以外の誰がパイロットでも、ここまでうまくは行かなかったろう。機首から森に突っ込んで、乗員はあえない最後を遂げていたはずだ。
この不時着はある種の人間だけに可能な極限の飛行だ。誰かパイロットがこれを見ていたとしたら、すっぱり飛行機を降りる決意をしただろう。とうてい自分が彼女に及ばないことを思い知らされて。
そういった超越的な技術を、人はときにひどく単純化した言葉で呼ぶ。
ただ一語、「神技」と。
「メイベルさん、なにしてるの! 早く降りて!」
もちろん、飛行の専門家ではないディーが、そんな感慨《かんがい》を抱くことはなかった。彼は素早くぼろぼろになった機体から飛び降り、そして、操縦桿につっぷしたまま肩で息をする彼女にそう呼びかけた。
青ざめた顔を上げたメイベルは、のろのろと座席ベルトを外す。ようやくのことで身体を機体の外に押し出し――そのまま地面に倒れ込んだ。
「メイベルさん!?」
ヴィンケルマンとディーがあわてて駆けよる。投げ出された細い右脚、その下腿《かたい》の半分からさらに下あたりが、真っ赤に染まっていた。
「な……ん……」
絶句するディー。この足で彼女は、スクラップ同然の飛行機を不時着させてのけたのか!
と、彼女は額《ひたい》に脂汗《あぶらあせ》を浮かべながら、それでも笑みを浮かべた。
「……傷がひとつ増えちゃった」
砲声はすでに止んでいた。さっきまで精力的に弾を撃ち上げていた高射砲も、いつのまにか沈黙している。戦闘の狂熱を冷まそうとするかのように、雨だけが降り続けていた。
イェーガーの重い足音が近づいた。
「大丈夫か?」
電気的に増幅された声は、ヴァルターのバリトンだ。歩いてくるノートゥングの後ろには、折り重なるように倒れる敵のイェーガーと、煙を吹き上げる高射砲陣地があった。
「先輩……」
安堵《あんど》して、身体の力を抜く。見上げるノートゥングは、あちこちにアバタのような弾痕《だんこん》が残り、側頭部の羽根飾りも片方根元から折れていた。が、その動きに損害の兆候はない。
「凄《すご》いな、ウービルトってのは。丸腰で四対一でも楽勝だったぜ? 面倒だから建物も砲座も全部ぶっ壊してやったら、奴ら尻尾巻いて逃げ出してったぞ」
声に笑いが混じっている。
(そうか、逃げだしたのか……ならとりあえず、当初の目的は果たせたかな?)
都合のいい考えかもしれないが、ディーはそう思った。
ノートゥングは滑らかに降着し、中から余裕しゃくしゃくのヴァルターが現れる。と、苦しそうに喘《あえ》ぐメイベルをみて、その眉が曇った。
「怪我《けが》したのか? ひどい出血じゃないか……」
かたわらにしゃがみ込んで、傷をあらためる。ポケットから取り出したナイフで、作業着の膝《ひざ》から下を切りとった。
「……破片は残ってないし、傷も出血のわりにひどくない。局部圧迫《きょくぶあっぱく》でしばらく大人しくしそたら止まるだろう。ここを……」
太股《ふともも》の付け根を指さした。
「拳でぎゅっ、と押さえててください」
メイベルが頷《うなず》いて、言葉にしたがう。
「詳しいですね、先輩」
「初年兵の時に習ったろ」
「そうだっけ? 憶えてないや」
「このトリ頭め」
ディーは思わず舌を出す。それを見て、メイベルがくすっと――まだ顔色は悪かったけれど――笑った.
暖かい空気が、四人の上を流れていった。
ヴァルターが、不意に表情をあらためた。
「……医療キットはディーの機体に積んであったな?」
「さっきの銃撃でやられてなければ」
「みてこよう。さっさと治療して、なるべく早くこの場を離れたいしな」
「……敵は逃げちゃったんでしょう?」
ディーはびっくりして聞き返した。メイベルが負傷しているのに、移動を急《せ》かすヴァルターが意外だったからだ。
「そうだが……このままここに残って、グリューネラント軍にとっつかまった捕虜《ほりょ》第一号になるのはごめんだよ。国境の封鎖が完全になる前に、ケルンテン側まで戻らないとな」
「なるほど」
素直に頷《うなず》く。言われてみればもっともだ。
ヴァルターは軽く笑って、ディーの機体、いや機体の残骸《ざんがい》へ歩み去った。
なんとなく手持ち無沙汰《ぶさた》になったディーは、メイベルの横に屈《かが》み込んで、傷の様子を確かめた。ふくらはぎがざっくりと切り裂かれ、赤い筋組織が露出している。さっき自分が殺した兵士達を思い出してしまい、また胸が悪くなった。
「……痛む?」
「ちょっとね」
メイベルが顔をしかめた。
血は今のところ、止まっているようだ。手当すれば大事ないだろう。
「ごめん」
ディーは頭を下げた。メイベルに初めて逢ってからこっち、何度同じ言葉を口にしたろうか。彼女は不思議そうにエメラルドグリーンの瞳をディーに向けた。
「なにが?」
「さっきのこと。僕が変なこといってメイベルさんの気を散らせなければ……」
「ああ、アルトリンゲン基地のことね。なあんだ、全然気にすることないのよ。注意してたって、高射砲相手じゃ役にたたないわ。どっちにしたって……どうしたの? 私、何か変なこと言った?」
ディーの顔から急激に血液が失われていった。もともとそれほど血色のよくない方だがが、いまや紙よりも白い。
驚愕《きょうがく》と不信に彩られた表情は、地獄の深淵をのぞき込んだ人間のそれだった。目を大きく見開いて、ただメイベルを見つめている。
「どうしたの?」
「なんで知ってる……?」
メイベルは最初、その呟《つぶや》きの意味が分からなかった。
訊《たず》ねるようにディーの灰色の瞳を見た。彼の目はメイベルを見つめていたが、その心はもっと別のものに捕らわれていた。
「博士……さっき博士、言いましたよね。もう独立が宣言されたのか、って……」
「さよう、確かに言ったが……?」
メイベルの喉に驚愕が引っかかって、笛のような音をたてた。
「……今、先輩……」
ヴァルターは確かにこう言った。『国境の封鎖が完全になる前に、ケルンテン側まで戻らないとな』、と。
「む……」ヴィンケルマンが息をのんだ。
「二人とも、さっきまで知らなかったんでしょう? グリューネラントがもう、独立宣言したことを……」
電文はこう伝えていたはずだ。『情報工作員潜入ノ形跡アリ』。
情報工作員の潜入――裏切りではない。
「まさか……」
「そうさ、ディー」
背後で冷たい声が言った。
「俺なんだよ」
振り向いた彼の眉間《みけん》に、暗い輝きを放つルガーの銃口が突きつけられた。
[#改ページ]
終 章 GOODBYE
「先輩……」
「俺もヤキがまわった。こんな素人に気付かれるとはな」
片頬《かたほお》だけを吊《つ》り上げて、ヴァルターは自嘲気味《じちょうぎみ》に言った。
メイベルとヴィンケルマンは、ただ驚いて、成り行きを見守るばかりだ。
「……嘘でしょう? 先輩……」
ディーが、これは悪い冗談なのだと自分に言い聞かせるため、無理矢理笑おうとして失敗した。
「残念だったな。俺の名前はヨアヒム・ヴァルターじゃないし、正確にはお前さんの先輩でもない。俺がスパイだったんだよ」
「嘘だ……嘘だ!!」
涙で視界が滲《にじ》むのがわかった。
ヴァルターは感情の振幅の感じられない声で、こう言い放った。
「こいつが真実さ」
「あんなに一緒に遊びにいったり、あちこち連れて行ってくれたり……」
「ケルンテン軍に入るには模範的《もはんてき》な移民を装《よそお》う必要があったんだよ」
「今回だって、僕を選んでくれたじゃないですか。腕が上がるように面倒見てやる、って、そう言って……」
「一人でも戦力にならない奴がいた方が、仕事がやり易《やす》いからな」
「嘘だ。信じない……絶対……絶対に信じない!!」
ヴァルターは呆れたように口笛を鳴らした。
「強情だね、お前。どうしても信じたくないなら、最初から説明してやるよ」
そう言ってヴァルターは、引き金に人差し指をかけたまま、自分の生い立ちから話し始めた。
一九一二年、彼はミュンヘンの貧しい家庭に生まれた。彼が四歳のとき、父親はソンムの塹壕《ざんごう》で戦死した。戦争は終わり、ドイツは戦勝国から多額の賠償《ばいしょう》が科せられた。フランスの占領に対するルール地方のサボタージュに端を発したインフレーションは破滅的な進行を見せ、ドイツ全土を席巻《せっけん》した。通貨量は戦前に比べて二千九百四十億倍、卸《おろし》売《う》り物価に至っては一兆二千六百億倍というバカげた数値を記録したのだ。貨幣《かへい》の価値は紙切れ同然まで低下した。
幼い子供達を抱えた彼の母は、小さな印刷会社の経理部門で働いていたが、異常なインフレはそんな母子家庭を直撃した。なにせ給料を鞄《かばん》一杯の札束でもらったところで、店につくまでの間にも物価は上昇し、ひどいときにはパンが一つか二つ買えるだけ。それで家計がたちゆくはずもなく、栄養失調に陥《おちい》った彼の母は、悪性のインフルエンザであっさりとこの世を去ってしまった。兄弟は別々に施設に引き取られたが、そのような社会情勢で割を喰《く》うのは、いつも立場の弱い人間と決まっている。一九二九年のウォール街から全世界に波及した大恐慌が終焉《しゅうえん》したとき、彼はついに天涯孤独の身になっていた。
「……俺達が暖房ひとつない寒い部屋で震えていたとき、お前ら戦勝国の人間は何をしていた? 援助の手を差し伸べようとしてくれたか? 冗談じゃない。貴様らはドイツからさらなる賠償を取り立てることで、自国の安定を図ったじゃないか。だれも、飢えて伝染病にばたばた殺られていく孤児のことなんか、考えもしなかった。ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言したとき、俺は正直小躍りして喜んだね」
「だから……だからあんなナチスなんかに魂を売ったんですか?」
「NSDAPの狂信者やSDのカス共と一緒にしないでくれ。これでもれっきとした国防軍諜報部《アプヴェーア》の人間だ。ケルンテン軍に潜入したのは、ウービルトについて調査するためさ。できれば奪取ということになっている」
そう言ってヴァルターは、メイベルの方を見やった。
「そら、メイベルさん。手がお留守《るす》になってますよ。ちゃんと止血《しけつ》しとかないと、命の保証はできませんね」
彼は左手に持った医療キットを、メイベルの方に放り投げた。
ディーは必死で状況を整理しようとして、ヴァルターに訊《たず》ねた。
「じゃあ……この基地につかまった時点で……」
フェルストに正体を明かせばよかったではないか。なぜこんな危険を犯して、自国の部隊と戦闘までする必要があるのか。
ヴァルターは声にならない質問に、先回りして答えた。
「NSDAPじゃダメなんだよ。こいつは俺[#「俺」に傍点]が国防軍《ヴェアマハト》に渡さなけりゃ意味がない。武装《ヴァッヘン》SSなんてのを夢見てる連中に、ウービルトなんか渡せるか」
「先輩!」
無性に腹がたった。
怒りは、こうまで見事に自分を欺《あざむ》き続けたヴァルターに対するものか、それとも騙された自分に対するものか。
もう、よくわからない。
ただ情けなくて、悔しくて……
「すぐ泣くね、お前は」
ヴァルターの顔が、少し悲しげに歪《ゆが》んだ。
「先輩……」
「そんな奴は最初からいなかった」
「みんな……みんな嘘だったんですか?」
あれほど僕をかばってくれたのも。あれほど目をかけてくれたのも。自分の立場が悪くなるのも省《かえり》みず、僕をかってくれていたのも、全て。
ヴァルターはちょっと逡巡《しゅんじゅん》するように、口を閉じた。二人の視線が一瞬、絡み合うかに見えた。
が、すぐにヴァルターが目を外らす。
「……そうさ、大嘘だ。お前なんか単なるお荷物だったよ」
その言葉がディーの肺腑《はいふ》を深く、深く抉《えぐ》りとった。白くなるほどに握りしめた拳が、わなわなと震える。
もはや質問も、恨《うら》み言さえもでてこない。なにか熱い塊《かたまり》が胸につかえて、口を開くと体が爆発してしまいそうだ。目は眩《くら》んで、立っているのがやっと。
ヴァルターはすこし表情を変えた。
それがメイベルの目にはなぜか、目前に立つディーと奇妙な相似を成しているように見えた。
「じゃあな」
短く言ったヴァルターは、拳銃を持った腕を振り上げる。
頭頂に熱い衝撃を感じて、ディーの意識はふっつりと途絶えた。
「……気付いたのね」
メイベルが、悲しげな表情でこちらを見ている。
(前にもこんなことがあったな……)
短い既視感《きしかん》に捕らわれたディーは、すぐに明確な意識を取り戻した。
長い金髪から水滴がしたたり落ちて、彼の頬《ほお》を濡らしていた。
綺麗な女性《ひと》だな、と脈絡もなく思う。
降り続く雨の中彼女は、ディーの頭を膝《ひざ》に乗せて覚醒を待っていたのだ。
「何分ぐらい気絶してました?」
腹筋だけで起き上がる。
彼女のふくらはぎには包帯が巻かれ、うっすらと血は滲《にじ》んでいたれど、ちゃんとした手当が施されていた。
「五分ぐらい……かな」
濡れた地面に座り込んだまま、彼女はディーを見つめた。
「先輩は?」
「ノートゥングに乗って行っちゃったわ……」
メイベルがのろのろと腕を上げ、南の方角を指した。
ディーは立ち上がって周囲を見回す。特に変わったところはない。残骸《ざんがい》は相変わらずあちこち散らばっていたし、基地のそこかしこから立ち昇る煙は、幾らかその濃さを減じていたとはいえ、全く消えてしまったわけでもなかった。
そして――
「フェオドラ……残していったの?」
滑走路の端に、ヴァルターのフェオドラが降着姿勢のまま置き去りにされていた。破壊の痕跡《こんせき》はない。ディーの機体の三十七oライフルさえ、残骸の横にそのまま転がっている。
「……このままじゃ風邪《かぜ》ひくわ。どこか……」
「行かなきゃ」
我知らず、ディーの呟《つぶや》き。
「……?」
「先輩を追いかけて、ノートゥングを取り返さないと」
雨の中、走りだそうとする。メイベルが、傷ついた足を引きずりながら立ち上がり、その肩を掴《つか》んだ。
「いたっ」
悲鳴をあげたのはメイベルで、
「あ、ごめん……」
思わず足を止めたのはディーだ。
メイベルは彼の肩につかまるようにして体重を支え、間近で顔を見上げた。
「無駄よ」
「……どういうこと?」
「今からじゃ絶対に追いつかないわ。|あの機体《ノートゥング》は、その気になれはフェオドラの三倍の巡航速度がだせるもの。とっくにヴァルターさん……追いつかないところまで逃げちゃってるわ」
なぜだか必死な目の色で、追いつかないと繰り返す。
「でも……行かないと」
ディーもやはり同じ言葉を繰り返した。まるで傷の入ったレコードのように。
「行ったらあなた、死ぬわ」
老婆《ろうば》のように嗄《しわが》れて抑揚のない声が、桜色の艶《つや》やかな唇から発せられるのは、どこか背徳的な感じがする。
「だって……」
「いい? 相手は『シェラネバダの狼』なのよ。あの人がドイツのスパイだったからって、その事実まで消えてしまうわけじゃないわ。おまけに、乗ってる機体はノートゥングで……あなたじゃ絶対|敵《かな》わないわ。返《かえ》り討《う》ちにあうのがオチよ! お願い、あんな機体なんか、取り返せなくたってかまわない。行っちゃだめ!」
常の彼女に似合わず、思いやりのない科白《せりふ》だったろうか?
ディーは軽く微笑《ほほえ》んで、こう聞き返した。
「追いつかないんじゃ、なかったんですか」
「…………」
言葉に詰まって、俯《うつむ》くメイベルだ。
「行きますよ」
静かに、だがきっぱりと。ディーは宣言した。
突然、彼女は顔を上げた。
エメラルドの瞳が揺れながら、それでもまっすぐにディーを射《い》た。濡れた髪が大きく波打って、水滴をあたりに散らす。
「死んでほしくないのよ、あなたに!」
初めて彼女がみせた激情に、ディーは言葉を失い、立ち尽くす。彼女はすがるようにディーを見上げ、言った。
「お願い、行かないで……」
そのままディーの胸に顔を埋める。細い肩が震えていた。
ディーはゆっくりと彼女の肩に手をかけて、体を引き離した。
「ごめん」
そうとだけ言って、後は振り返らずに、雨の中を駆けだした。見送るメイベルは、やがて崩れるように膝《ひざ》をつき、冷たい雨の降るに身を任せた。
「おい」
「うわっ」
ヴァルターの乗機だったフェオドラに駆け登ったディーは、操縦席からぬっと顔を突きだした老人に驚いて、危うく濡れた地面に転落するところだった。
「博士……脅かさないでくださいよ」
「そっちが勝手に驚いたんじゃろうが。なんでも年寄りのせいにするな!」
スパナをぶんぶんと振り回しながら、ヴィンケルマンが毒づいた。
「すいません」
ディーはぺこん、と頭を下げる。
「ふん、素直でよろしい。若いのはそうでなくちゃいかん」
「どうも」
のどかなやり取りを終えたところで、ヴィンケルマンが操縦席から飛び降りた。ぶっきらぼうな口調でこう告げる。
「座席とペダルを、お前さんむけに調整しといた」
「ありがとうございます」
「ふん! 可愛い弟子を泣かせおって。帰ってきたらひどい目にあわせてやるからな、覚悟しとくんじゃぞ!」
「憶えときますよ」
軽く受け流して、ディーはハッチを閉じにかかった。
「おい坊主」
「坊主じゃありません。ディートリヒ・バルクラインです」
「大して変わらんわい! いいか、坊主。お前さんが寝てる間に、この機体にちょっとした細工をしといた。もしあの若いのと戦闘になったら、いざというときまでスロットルを全開にするな。必ず小指一本分、余力を残しておけ」
「小指一本? どうしてです?」
ヴィンケルマンは得意げに胸を反らし、得々と説明を始める。
「三十秒だ。全開にいれてから三十秒だけ、この機体はウービルト並の反応速度とパワーを発揮《はっき》できる」
「そんな芸当ができるんですか?」
「おうともよ。ワシらアイヒマン先生の弟子だけに伝わる秘術じゃ。ただし……」
「ただし?」
そこで老人の言葉は、急に歯切れが悪くなった。
「ただしな、それを過ぎるとこいつは、二度と動かなくなる。機体構造が追いつかなくて、焼き切れちまうんじゃな」
「……なんか、ヤバイ話ですね」
呆れたようにディーは言って、今度こそハッチを閉じた。
「とりあえずお礼は言っときます。それじゃ」
フェオドラを起動し、立ち上がらせる。ヴィンケルマンは急いで機体から離れ、両手をメガホンのように口に添《そ》えて叫んだ。
「いいか、いざというときまで絶対に使うんじゃないぞ! 絶対だ!!」
「はいはい」
「必ず帰ってこいよ。これ以上ワシの弟子を泣かせたら、本気で折檻《せっかん》じゃからな」
矛盾《むじゅん》してるなあ、と思いつつディーは答える。
「了解、博士」
軽く博士に向けてフェオドラの手を振ると、かたわらに倒れている自分の機体の残骸《ざんがい》から、三十七oライフル、予備弾、そして手斧を取り外し、手に持った。
そうして、メイベルの指した南の方角へ向かって歩き出す。森の中へ分け入る直前に、一度だけ腰から上を回転させ、後ろを振り返った。
覘視孔《てんしこう》越しの狭い視界の中で、メイベルが芝生の上に座ったままこちらを見つめていた。
なぜかひどく頼りなげなその姿は、すぐに木々に紛れて見えなくなった。
そう長く歩く必要はないはずだと思っていた。
ヴァルターは、無傷のイェーガーを破壊せず、武器すら奪うことなく立ち去った。あれほど徹底して合理的な人形|遣《つか》いが、まさかうっかり失念して行ったとは考えられない。これは無言の意思表示だ。
追いかけてこい、ディー。悔しかったらこいつで決着をつけようぜ。
ヴァルターはそう言っているのだ。
雨足が、いっそう激しくなった。まだ五時前だというのに森の中は薄暗く、視界は煙って見えにくい。ディーは周囲に充分な監視を続けながら、用心深く前進した。
基地から南とはつまり、ディー達が進んできた方向を逆に辿《たど》ることになる。彼自身、このあたりを通過するのは四回目になる。
最初は無我夢中で、ヴァルターの後をついていった。二度目は、同じ道を一人で逃げ帰った。三度目は、仲間を救出すべく密かな決意とともに道を辿った。
そして四度目は――
「早かったな」
開きっぱなしにしておいた無線回線に、ヴァルターの声が入った。
「どこです、先輩?」
「そいつは言えない。こっちからはよ〜くお前さんが見えるよ」
背中を冷や汗の筋が伝った。あわてて全周囲|索敵《さくてき》をやる。
発見できない。
もしかしてハッタリだろうか。僕があわてて動き出すのを待っているのかも知れない。
と、見透かしたようにヴァルターの声。
「いま嘘かもしれない、って思ったろう。お前さんキョロキョロしてるのがよく見えるよ」
すでに相手は有利に戦いを進めている。ハッタリにせよ真実にせよ、少なくとも精神的優位は向こうにあるのだ。
とりあえず位置を変えてみることにする、慎重に一歩、また一歩……突然、前方の下生えがざわめいて、そこから何かが飛び出してきた。反射的にペダルを踏んで、横に機体を滑らせる。
なんと機体の股下を、イェーガー用の馬鹿でかい剣がつらぬいていた。損害はない。
ペダルをリバースモードに入れ、最大速度で後進をかける。
繁みの陰から立ち上がったのは、金の意匠《いしょう》が施された、白く優美な機体。
ノートゥング!!
「うまく躱《かわ》したな。地形を利用しろと教えたはずだが……」
剣を引き戻しながら、ヴァルターが言った。
「うわ……」
右手に構えた三十七mライフルを、あわてて射撃位置まで引き上げる。発射!
轟音と排煙。何も見えない。
「外したか!?」
手ごたえがない。急いで射撃した位置を離れた。と、目前で白刃《はくじん》が弧を描いた。
「くそっ」
転がり込むように、木の密集した一角へと移動する。この密度なら、長い剣は振るえまい。急いで排莢《はいきょう》し、次弾を装填《そうてん》。
背後に嫌な気配を感じる。なんの根拠もなかったが、機体を前に倒れ込ませた。
「チッ」
鋭い舌打ち。突き出された剣が、虚しく空を切り裂いていた。いつのまにか背後に回り込んでいたノートゥングだ。
そのまま剣を振り下ろそうとする。
地面の上で半回転し、仰向けになったフェオドラの右足が、ノートゥングの手首を蹴り上げた。バランスを崩し、二、三歩後退するノートゥング。
その間にフェオドラも立ち上がり、素早く左手で斧を構えた。これほどの接近戦では、大砲はあまり役にたたない。せっかく弾を込めたライフルだが、投げ捨てた。
「思い切りがいいな」
言うなり、ノートゥングが雷光のような足|捌《さば》きを見せて間合いを詰めた。袈裟《けさ》がけに剣が振り下ろされる。
金属と金属の打ち合わされる激しい音がして、青白い火花が散った。フェオドラの手斧が、ノートゥングの剣を真っ向から受けとめたのだ。
「ぐっ!」
衝撃に機体が振動し、思わずディーは呻《うめ》く。押し戻されまいと、力を込めて操縦桿を固定する。
不意に押しあう一方の力が消失した。打ち込みと同じくらい疾《はや》く、相手が後退したのだ。バランスを崩して、前のめりにたたらを踏む。そこへ、待ちかまえたようにノートゥングの剣が振り落とされた。
(殺られる!)
その後の操作は、決して頭で考えたものではなかった。ほとんど無意識に手足が動いた。
前に倒れようとする機体の勢いを引き留めるのではなく、そのまま低い姿勢でペダルを蹴飛ばした。同時に両手の操縦桿を思いきり引きつける。結果、フェオドラは頭からノートゥングの股のあいだをくぐり抜け、臑《すね》のあたりに手斧の一撃を叩き込んだ。
「なにッ!?」
信じられないようなヴァルターの声が、ディーの耳朶《じだ》をうつ。ノートゥングの剣は、深々と地面に喰い込んだだけだった。
跳ねおきるようにして機体をたたせ、廻れ右する。斧は右手に持ち換えた。ヴァルターの機体も、ちょうど剣を引き抜いてから振り返ったところだった。
「……なかなかやるじゃないか」
不敵な賞賛《しょうさん》。まだ声に余裕がある。
「先生が良かったから」
せいぜい軽口を叩いてみせるが、実際のところは、それさえもようやっと考えついたセリフだった。先の一撃は、ノートゥングにほとんどダメージを与えていない。やはり装甲部分に命中させても、あまり効果はないようだ。
関節部を狙わなくては……だが、ほんとうにウービルト相手に、ヴァルター相手にそんなことができるのか?
「……どうした。かかってこないのか?」
その声に誘われるようにして、今度はディーが仕掛けた。頭上に高々と構えた手斧を、駆けよりざま振り下ろす――と見せてフェイントを入れ、横殴りに首を狙う!
金属の擦《す》れあう嫌な音。
斧は剣に受けとめられていた。
「読まれた!?」
「小賢《こざか》しいんだよ!」
微妙に角度を変えた剣に、斧の刃が流れた。
あわてて飛《と》び退《の》く。が、自信を持って撃ち込んだ一撃が、あっさり受けられたという動揺が、刹那《せつな》の遅れを呼んだ。
「しまった!」
声と、衝撃が同時だった。フェオドラの左手は、二の腕からすっぱりと、鮮やかな切断面を見せて、濡れた地衣類の上に転がった。
「腕だけか」
これはヴァルター。うまくすれは胴体を一刀両断できたのに、と思う。
フェオドラは、太いミズナラの木を盾にとって、なんとか体勢を立て直した。左腕がなくなった分、バランサーのトリムを軽く左に取る。
「悠長《ゆうちょう》に休ませるか!」
剣風が唸《うな》りをあげ、二機のあいだに立ちはだかるミズナラを、根元から斬り飛ばした。
「げっ」
倒れる幹の向こうから、宙を舞うようにして、ノートゥングが飛びかかってきた! 反射的に上体を捻《ひね》ったが、今度は右肩の装甲が吹き飛んでいた。
「つええ……」
機体性能の差がありすぎる。このままではジリ貧だ。
連続して襲いかかるノートゥングの攻撃を、あるいは躱《かわ》し、あるいは受け流しつつ、じりじりと後退を続ける。
悔しいが、腕も圧倒的に向こうが上だ。
「逃げてばかりじゃ勝てないぞ!」
「そんなこと言ったって!!」
胸の装甲に、斜めの切れ込みが入った。
「くそ!」
後がない。
一気に数mを飛《と》び退《ずさ》って、間合いを取った。顔の前で斜めに手斧を構える。
ヴァルターも一端、攻撃の手を止めた。
しばし睨み合う二体の鉄巨人。動かない。
少しずつ、少しずつ。潮の満ちるように、緊張が高まる。
フェオドラとノートゥング、ディーとヴァルターのあいだに、灼熱の闘気の糸が張り渡されている。
どんどん糸の温度はあがり、緊張はなおも膨れ上がる。次の一撃が、勝負を決するだろう。どちらにもそれが、良くわかった。
そして――
闘気の糸は、目映《まばゆ》いばかりの輝きを放って溶け落ちた!
「おおおおおおお!!」
「いやああぁぁぁぁッ!!」
二体の鉄騎兵は、同時にお互いめがけダッシュした。
ノートゥングの剣が、長い間合いの分だけ疾《はや》く、振り下ろされた。
ディーはスロットルを一杯に押し込んだ。
剣はフェオドラの右肩に喰い込んだ。
途中から急に加速したフェオドラは、姿勢を低めつつ、振り下ろされた剣のさらに内側に飛び込んだ。剣は、柄《つか》の手前で肩装甲に邪魔され、それ以上損害を与えられなかった。
フェオドラの右手が跳ね上がり、斧の刃は、ノートゥングの左手首と、それから剣を、弾き飛ばした。
二体のイェーガーは互いに胸をぶつけ合い、反動で数歩後退した。
「うわああああ!!」
ディーはフットペダルを思いきり踏み込み、ヴァルターが立ち直る前に、再度斧を撃ち込んだ。剣を失ったノートゥングは、今度こそその青白い刃を、避けることができない!
衝撃音。
つづいて、構造材が断末魔の悲鳴を上げてへし折れる音。首筋から入った斧は、五十pほども機体に喰い込んで、ようやく止まった。
二機のイェーガーは完全に静止して、一瞬、睨《にら》み合うかのように見えた。
やがてノートゥングの膝《ひざ》が折れ、足の裏がずるずると、濡れた大地の上を滑った。
「……先輩……先輩!!」
フェオドラは、力なく沈みゆくノートゥングを抱きかかえるように支えた。
と――
突然|弾《はじ》かれたように、ノートゥングの残った右腕が閃《ひらめ》き、地面から何かを拾い上げた。
「……詰めが……甘いんだよ……お前は」
先ほどディーの投げ捨てた三十七oライフルが、ノートゥングの右手に魔法のように現れて、銃口を操縦席前面に押しあてていた。
(死ぬ!)
いくら一番装甲の厚い場所とはいえ、この距離では助からない。おまけに、さっき装填《そうてん》しておいたのは、対イェーガー用の徹甲弾《てっこうだん》だ。
目を閉じて、最後の刻《とき》を待つ。
発射音はなかった。銃口はゆっくりと下を向き、ノートゥングは地に倒れ臥《ふ》した。
「先輩! しっかり……」
ひしゃげたノートゥングのハッチを外から無理矢理開放する。機体を飛び降りたディーは、操縦席のヴァルターに駆け寄り――思わず顔を背《そむ》けた。
フェオドラの斧は敵のイェーガーだけでなく、その搭乗員の体さえ、手ひどく破壊していた。
「……ちっ……こりゃもう……ダメだな……」
ヴァルターが、白日《はくじつ》のもとに晒《さら》された自分の傷を見て、小さく呟《つぶや》いた。
「先輩……」
脇の下に手を突っ込んで、操縦席からヴァルターを引きずり出した。地面にそっと横たえるが、その下の苔類がみるみる、どす黒い血に染まった。
「先輩! どうして……どうして撃たなかったんです!?」
ディーは絶叫していた。あのときヴァルターは、確実に引き金を引けたはずだ。そうすればディーの生涯は、この地で終焉《しゅうえん》を迎えていたはずである。
だが彼は、そうしなかった。
「どうしてです? 先輩……」
「ふん……勝負は、お前の勝ちだった……これ以上、水をさすこともないだろ……?」
喘《あえ》ぎ喘ぎ、ヴァルターが言って、頬《ほお》を笑いの形に歪めた。
「先輩……」
「……さっきも言ったろ。俺はお前の先輩なんかじゃないってさ」
「嘘だ」
いやいやをするように、ディーは首を振った。ヴァルターは、薄く笑ったようだった。
「ほんとに強情だな……お前は。いいさ、そういうことにしとこう……」
「死なないでよ……先輩……嫌だよ、こんなの」
「無茶いうな。これで死ななかったら……俺はただのバケモンだ……」
「それでいいの!? シェラネバダの狼なんてご大層な綽名《あだな》くっつけて、なのにこんなところで僕みたいなヒヨコに殺られちゃって……それで本当にいいのかよ!?」
血塗《ちまみ》れの上体を抱き上げて、激しく詰《なじ》る。ヴァルターはそこで、ほんのちょっぴり自嘲《じちょう》めいた笑いを浮かべた。
「畜生……なにが狼なもんか。……俺は……俺はただの、薄汚い犬だ……」
彼は目を閉じて、そう述懐《じゅっかい》する。
「狼の名前は、お前に譲るさ……」
「…………」
「……ディー」
ヴァルターはそこで、突然目を開いた。育灰色の瞳はもはや、肉食動物の鋭い輝きを放ってはいなかったけれど、代わりに誠実な光をたたえていた。
「……お前、まだパイロットになりたいか?」
ディーは口をつぐんだまま、まっすぐにヴァルターの目を見返した。やがて、彼は静かに、しかし決然と、頷いた。
「そうか……なら、諦《あきら》めるなよ……お前ならなれるさ……自分の……本当になりたかったものに……な……俺の代わりに……」
呼吸が浅くなってゆく。紫色に変色した唇を動かすのも億劫《おっくう》そうに、しかしヴァルターは微笑《ほほえ》んだ。
「畜生……目がかすんできたぜ……」
「先輩!」
「ディー……いいか、俺の宿舎の……いちばん上の……引き出しだ……航空搭乗員……練習生の……推薦状《すいせんじょう》が……お前の……なま……え……」
「先輩!! 聴こえないよ……」
ヴァルターはもう、聞いていないようだった。焦点を失った目が、何かを探すように虚空《こくう》をさまよう。
「……博士と……メイベルさんに……」
骨ばった大きな手が震えながら持ち上がり、ディーの頬《ほお》を確かめようとした。頬に触れるその寸前で、手は急に力を失う。
「先輩、ああ……ああ……」
支えるように手を添《そ》えて、ヴァルターの手を頬に押しつけた。べっとりと血が付いたが、そんなことは気にもならなかった。
「ディー……」
深いため息が、最後にヴァルターの体から抜け出した。全身が弛緩《しかん》して、ディーの腕にかかる力が、急に増えた。
「先輩……先輩?」
答はもう、返らない。永遠に――
ディーはゆっくり、ヴァルターの長身を地に横たえた。
そっと手を伸べ、ひらいたままの瞼《まぶた》を閉じてやる。
そうしておいて、頬を流れ落ちる水滴は、これは雨なのだと自分に言い聞かせた。
雨粒はやけに暖かく、なにかを洗い流すように――いつまでも頬を伝いつづけた。
* * * * *
「ディートリヒ・バルクライン練習生。ディートリヒ・バルクライン練習生はいるか!?」
パイロット控え室に入ってくるなり、ビヤ樽《だる》のような体型の当番兵は大声でわめきたてた。
「あ、います」
立ち上がったのは、灰色の髪と、同じ色の瞳を持った、若い男だった。ケルンテン公国陸軍航空隊の搭乗服で身を固め、ひょろっとした感じの体つき。
「あんたに面会人だ。ゲートのとこで待ってる」
バルクライン練習生は、隣に座っていた少尉の階級章を付けた男に、訊《たず》ねるような視線を投げた。
少尉は、当番兵にこう訊ねた。
「女か?」
「ええ。ものすごい美人ですよ」
ビヤ樽男は目を丸くしてそう答えた。
「……よし、行ってこい。お前の搭乗訓練順は最後にまわしてやる。ただし、一時間で帰ってこいよ」
「あ……ありがとうございます」
彼はそそくさと敬礼を施すと、宙を走るような足どりで控え室を飛び出した。背後で誰かが下品な冗談を言ったらしく、どっと笑い声がおこったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
短距離選手並のスピードで、基地のゲートまで走り抜ける。と、前方に見覚えのある――というより忘れたくても忘れられない女性の姿があった。
スカート丈が踝《くるぶし》まである、真っ白なワンピースに、薄緑のショール。ちょっと寒そうに襟元《えりもと》を押さえる手は、雪花石膏細工《アラバスター》のようだ。彼女は走ってくる若者に気付いて、花の咲くような笑顔を見せた。金を梳《す》いたような長い髪、エメラルドグリーンの深い瞳。
「メイベルさん!」
最後の五十mは全速力で駆け抜けて、あと五十pのところで立ち止まる。
「お久しぶり。会えてうれしいわ、ディー。少し背が伸びたんじゃない?」
伸べられた手に、あわてて右手を差し出して……やっぱりあわてて引っ込めた。搭乗服の胸でごしごしと汗を拭《ぬぐ》ってから、あらためて握手を交わす。
「僕も……会えて嬉しいです、とっても」
枯葉の舞う基地内の小道を、二人は並んで歩いていた。雲一つなく晴れ上がった十一月の風は冷たくて、絶好の散歩|日和《びより》とはいかなかったけれど、それでも心を満たす再会の喜びは、外気の冷たさを補《おぎな》うほどに暖かかった。
「……退院したんだね。よかった」
「ええ。このあいだようやく、機能回復訓練が終わったの。今日はここの衛生班で、航空身体検査を受けてきたんだけど……」
「結果は?」
「おかげさまで。これでようやく、元通りのお仕事ができるわ」
「本当によかった」
「……ありがとう」
なんでもない、というにはいささかぎこちない会話であった。
強い風が吹きつけて、メイベルの髪をなびかせる。一瞬、額《ひたい》の傷が露《あらわ》になって、ディーはどきりとした。なにか喋《しゃべ》らなくてはと、焦《あせ》って話題を探す。
「……ヴィンケルマン博士はお元気ですか?」
「元気元気。毎日学生さんたちに向かって悪態ついてるもの。ディーによろしく言っといてくれ、ってことづかったわ」
「あの坊主[#「坊主」に傍点]じゃなくて?」
彼はくすりと笑った。けれどメイベルは、真面目な顔をして首を横に振った。
「ううん。ちゃんと、ディーによろしく[#「ディーによろしく」に傍点]と言うように、つて言われたわよ」
「逢いたいなあ……僕、博士にどうしても聞きたいことがあるんですよ」
「ききたいこと?」
「ええ。あのとき博士、フェオドラに何か細工したでしょう。僕が死なずにすんだのは、あれのおかげみたいなものだったんだけど……それで、あれだけ短い時間でいったい、どういう改造をしたのか聞きたくて」
突然、メイベルは笑いだした。
「……僕、なにか変なこと言いました?」
「そうじゃ……ないんだけど……」
なかなか止まらない。数十秒間そうやって笑い続けた後、彼女はようやく息を整えて、こう言った。
「……本当は口止めされてたんだけど………時効だと思うから言っちゃうわね。実は博士、なんにも細工なんかしてなかったの」
「なんだってえ?」
ディーのあげた素《す》っ頓狂《とんきょう》な声に、メイベルはまた、身を捩《よじ》るように笑い始めた。
「なんにも?」
「……あんな時間で改造できるなら、誰だってやってるわ。あれはね、百%の力は最後の最後まで取っておきなさい、ってことなのよ」
「へえ……」
ちょっと言葉が見つからなくて、ディーはその後がつづかない。
「大丈夫。全部あなたの実力だったんだから」
メイベルが言って、その話題はそこで打ち切りになった。
ふたたび沈黙が、木枯《こが》らしの吹きわたる小道を意地悪く跳ねまわる。と、前方の滑走路から高等練習機が一機、軽快に離陸して行った。
「そうだ。航空機搭乗員練習生試験、合格おめでとう……って、言ってなかったわよね、まだ?」
メイベルがくるりと、細身の体をひるがえした。スカートの裾《すそ》がふわりと広がって、すぐにつぼむ。
「ありがとうございます。受かったのは半年前ですけどね」
ディーが笑いながら答えた。
「……もう半年経《た》つのね」
ぽつりと彼女が言った。
「ええ……」
ディーが頷《うなず》く。二人の脳裏に、懐かしい顔が甦《よみがえ》った。けれど二人とも、彼について口を開こうとはしなかった。
三たびの沈黙。メイベルが急に上を向いて、眩《まぶ》しそうに空を見上げる。
「いい天気……上にあがったら、気持ちよさそうね」
「ええ。これから搭乗訓練なんですけどね」
「あら、もしかして迷惑だった?」
ディーはあわてて手を振って、メイベルの言葉を打ち消さなければならない。
「とんでもない。美人はいつでも大歓迎ですよ」
「お世辞も上手になったわね」
メイベルが屈託《くったく》のない笑顔を見せた。
「今日の訓練内容は?」
「ええと、高高度飛行訓練」
「まあ……この寒いのに。風邪《かぜ》ひかないでね」
「大丈夫ですよ、電熱服あるし」
「そうね」
他愛もない会話でも、相手によってはそれが無上の喜びとなる。このときのディーが、まさにそうだった。
「パイロットの先輩として、なにかアドバイスをいただければ幸いですが……」
おどけた調子でディーが言った。
「大丈夫よ。教官のいうことさえちゃんと聞いていれば」
「でもやっぱり……メイベルさんのアドバイスが欲しいな。まだ不安なんですよ、単独飛行するたんびに。前の晩はよく眠れないし、その日の朝は飯も喉を通らないし……搭乗前なんか膝《ひざ》震えて………なんでもいいんですよ、ちょっとしたことで。縁起《えんぎ》かつぎの方法でもいいし……お願いします」
頭を下げるディー。と、メイベルが急にいたずらっぽい表情をした。
「本当になんでもいいの[#「本当になんでもいいの」に傍点]?」
「ええ……」
突然、メイベルは猫のように敏捷《びんしょう》な足どりでディーの傍らに立ち――その頬《ほお》に軽く、桜色の唇を触れた。
「え……」
呆然と頬を押さえて立ち尽くすディー。
彼女はおかしそうにくすくす喉声で笑い、上目|遣《づか》いに彼を見た。
「気をつけて。無茶しないでね」
硬直したまま返事できないでいるディーを見て、もう一度笑い、こう付け加える。
「でも、初めての単独飛行で墜落した女のキスなんて、かえって縁起悪かったかしら?」
「バルクライン練習生、単独高高度飛行訓練、出発します!」
敬礼。
「よし」
同じく敬礼が返り、ディーはパラシュートを背負ったまま各部の最終点検を済ませ、高等練習機に乗り込んだ。整備兵が座席ベルトの固定を手伝ってくれる。酸素マスクを顔に掛け、機動によってずれないようにしっかりと留める。
風防《ふうぼう》が閉じられて、整備兵は駆け足で機体から離れた。
ペダルの踵《かかと》を踏んで車輪のロックを解除、タキシングを開始する。スロットルを絞り気味に、慎重な操作で滑走路端まで機体を持っていった。
いったんブレーキをかけて停止、各舵の作動を確認する。問題なし。
離陸滑走開始。スロットルを全開にすると、機体は弾《はじ》かれたようにスピードを上げてゆく。もう、その感覚が恐怖心を刺激することもなくなった。
V1[#原文では「Vの右下に1」]……VR[#原文では「Vの右下にR」]……V2[#原文では「Vの右下に2」]。
前方の視界が全て蒼《あお》く染まり……ディーは機体ごと空に舞った。
エンジンは全開、操縦桿は引いたまま。
上昇、上昇……ひたすらに上昇を続ける。地表近くでは多少|淀《よど》みの見られた空気も、昇るにしたがって澄み渡り、雲ひとつない真っ青な天蓋《てんがい》が頭上を覆いつくす。
遥《はる》かに高い蒼穹《そうきゅう》をめざし、機体は空を駆ける。どことなく頼りなげな太陽が、風防の左側からディーを照らしだしている。
十分以上も上昇を続けたろうか。ふと気付いて、背後を振り返る。
エンジンの排気管からでたガスが、冷たい空気にふれて水蒸気が凍結し、機体の後ろにまっすぐ尾を引いていた。藍色《あいいろ》に近い空を背景に、すんなりと伸びゆく飛行機雲《コントレール》。
蒼い絨毯《じゅうたん》の上を滑る、花嫁の白い裳裾《もすそ》。
耳の奥で、懐かしい声がした。
(まだ.パイロットになりたいか?)
なりたかった。空を飛べるなら、他のなにと引換にしてもいいとさえ思っていた。
(お前ならなれるさ……俺の代わりに……)
あなたは英雄だった。ただ死んだように日々を過ごす僕に、鮮やかな道を示してくれたのだから。
遠い蒼穹を目指す、真っ白い雲の路を。
「……先輩……」
つぶやきは、果てしない空に吸い込まれてゆく。
眩《まぶ》しい陽光が不意に、涙で滲《にじ》んだ。
[#地付き]ENDE.
[#改ページ]
あとがき
私は、この「あとがき」というやつが嫌いです。
もちろん、あとがきの存在自体が悪であると主張するつもりはありません。ただ「嫌い」なのです。
作者の自己紹介に始まって、近況報告、自作の解説、裏話、苦労話、いいわけ、ファンレターへの返事、仲間内の人間関係の暴露《ばくろ》、挙《あ》げ句《く》の果てには最近面白かったマンガやらTV番組についての論評まで。
少なくとも自分の文章の最後に、そんなみっともない(と感じる)ものをくっつけたいとは思いません。私にとって必要と思えることだけを書くことにします。
この小説は、一九九四年十一月から十二カ月間に渡って展開される予定の、蒲V演体運営の『ネットゲーム'95 鋼鉄の虹 Die Eisenglorie』と背景世界を共有しています。小説ではごく一部の世界情報しか使われていませんが、ネットゲーム中ではもっと多くの情報が(そして、この本からはとても想像がつかないような背景が)語られるはずです。
ではネットゲームとは何か? これを説明しようとすると、大幅に紙幅を割かなければなりませんので、ここでは次のようにだけ説明させていただきます。
ネットゲームとは、大規模(数千人単位)なゲーム参加者全員が架空の世界を、そして、自分の分身がそこに存在するという事実を楽しんじゃおうよ! という遊びです。
もっと詳しくネットゲームについて知りたい、という方は、左の三つの方法から一つを選んで、蒲V演体まで資料を請求されるよう、お勧《すす》めします。
どの場合も、おりかえし無料ポスターパンフレットが発送されることになっています。
一、
ハガキに住所氏名を明記し、一九九五年八月までに
『〒228 神奈川県相模原市相模大野六―九―二〇 クレハブカ四〇二 遊演体ネットゲーム事業部「N95資料請求係」』
へ、資料請求のハガキを出す。
二、
住所氏名を明記し、一九九五年八月までに
FAX 0427―46―9767 蒲V演体
へ、資料請求のファクスを送る。受付は二十四時間、年中無休。
三、
TEL 0427―46―9921 蒲V演体
へ、電話をかけて資料を請求する。受付は平日の午前十一時から午後七時まで。
ちなみに筆者は、ネットゲーム95のグランドマスター(簡単に言えば総責任者)を務めることになっています。
最後に、これだけは「あとがき」の定石に従いまして、この小説を書き上げるにあたってお世話になった人々や、もろもろの事象に対して、謝意を表したいと思います。
では、感謝を――――すべてに。
[#地付き]一九九四年八月
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底本
富士見ファンタジア文庫
鋼鉄《こうてつ》の虹《にじ》 装甲戦闘猟兵《そうこうせんとうりょうへい》の哀歌《あいか》
平成6年9月25日 初版発行
著者――水無神《みなかみ》知宏《ともひろ》