水木しげる
ねぼけ人生
目 次
T 落第
先祖のこと、家族のこと
のんのんばあと妖怪たち
死と霊におびえる
熱中した趣味と遊び
ガキ大将として君臨する
学校も就職もつとまらない
戦争がせまってくる
U 戦争
兵役につき、ラバウルへ
決死隊に入れられる
爆撃で片腕を失う
土人とトモダチになる
終戦、ラバウルを去る
復員兵たちの戦後
魚屋を開業する
街頭募金をはじめる
「水木荘」の怪人たち
V 貧乏
紙芝居作者となる
壊滅状態の紙芝居業界
貸本マンガで苦闘する
貸本マンガ界の奇人たち
貧困の中で結婚する
鬼太郎・河童の三平・悪魔くん
W 多忙
貧乏神が去り、福の神が来る
変わったアシスタントたち
多忙地獄の中で
南方の楽園に帰る
失われた楽園
あとがきねぼけ人生
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T 落第
先祖のこと、家族のこと
人間は、この世に生を受け、七十年か八十年生きるわけだが、どんな所に生まれるかは、偶然と神秘の谷間に住むナニカの指令によるものらしい。
平田|篤胤《あつたね》というと、狂信的な皇国思想の持ち主だったようで、あまり評判もよくないが、神秘的な話の記録が多いという点では、僕は好きだ。「勝五郎の再生」という話には、八王子近くの勝五郎という五歳ほどの子供が死んだ後,もやの中で一人の老人に会い,その命ずる道を歩いていくと,八王子在の別の村の家に赤ん坊として再生したということが記されている。勝五郎は、前の家の様子も細かく覚えており、口ぐせのように前の家のことを言うので、庄屋や村役人が調べてみるとその通りだったという。
この話がどこまで事実かわからないが、生まれるとか生きているとかいうようなことが偶然と神秘にあやつられているとしか思えない感じがよく出ている。
僕の親父は、いつも僕たちに言っていた。
「おまえたちゃ、俺がヨコネをやってなかったら、生まれておらなんだなぁ」
「ヨコネ?」
「ちょうど大学を出て、商事会社に勤めていた時のことだが、若き日のあやまちというやつで軽い性病になってしまった。手術をして寝ついていると、田舎の親父から『いい嫁が見つかったから、見合いにすぐ帰れ』という電報が来た。ところが、俺は手術後で動けないし、正直なことをいうとしかられるから『ヨロシクタノム』と返電を打ったんだ」
「『ヨロシクタノム』?」
「いや、適当にたのむという意味のつもりだったんだ。ところが、親父は、凡てをまかされたという意味にとっちまったんだな」
親父は祖父を雷のように畏れていたから、ともかくも帰らなければならないと、病気が治りしだい田舎に帰った。すると、適当にたのんでおいたはずなのに、祖父は親父に、
「亮一(父の名)、俺が代わりに見合いをしといてやった。田舎風のおとなしい娘だ」
我が親父は、事態の重大さに驚き、
「それで……」
と、思わずひざをのり出して聞くと、
「話は、決めておいた。結婚式の日取りは十六日だ。会場は……」
といった具合で、後半部分は、気が動転して聞きとれないほど。「ヨロシクタノム」という変な電文のために、運命の流れが思わぬ方向に変わり、親父の予期しない事態になってしまったわけだ。
僕は、昔から、カミサマというようなものがいるとすれば、その意志は偶然という形で伝達されるだろうと思っていたが、親父の話を聞くと、まったく奇妙な事情が重なって、父は母と結婚し、我々兄弟が生まれたことになる。父がネボケ人間でなく、普通の人間だったら、別な形の僕が別の場所に生まれていたかもしれない。
ともかく、こうして、偶然の谷間からの指令は、僕を鳥取県|境港《さかいみなと》入舟町の武良《むら》という家の三人兄弟の次男として生まれさせたのである。
境港は、出雲《いずも》と伯耆《ほうき》の境にあたり,宍道《しんじ》湖と中海が日本海へ出る所である。このあたりの民話を研究した小泉|八雲《やくも》は、境港の盆踊りが一番元気があって面白いと記しているから、昔から元気のいい変わった人が多かったのだろう(今でも多いような気がする)。
僕の祖先のことは、マジメに調べたことはないが、武良という姓もちょっと変わっているし、古い記録にも時々出てくる。最近読んだ「出雲祭事記」(講談社)という本によると、隠岐《おき》諸島の島後《とうご》(諸島の北側の島)に武良《むら》郷という村があって、ここでは、ずいぶん昔から、二年に一度村民が寄り集って「武良祭り」という祭りをやっていたらしい。隠岐と境港は、海をへだてた隣どうしだから、たぶん、武良郷あたりから、空腹に耐えかねた連中が食い物を求めて境港にやってきたのだろう。それが僕の遠い先祖ではないかと、推測している。
子供の頃に親父によく聞かされた話では、戦国時代に、武良|隣左エ門《りんざえもん》という豪族がいて、この人が、わかっている一番古い先祖ではないかということだった。当時、境港あたりは、毛利《もうり》と尼子《あまこ》の勢力争いの場だったが、尼子側の亀井|能登守《のとのかみ》が毛利側のダマシ討ちにあった時、その手引きをしたのが武良隣左エ門だというドラマチックな話で、ちょっと面白すぎるし脚色も多すぎる。親父は、若い頃から歌舞伎にもこっていたし、
「亀井能登守のことは、マンガに描いてくれるな。いずれ俺が小説に書いて直木賞をとるから」
と言っていたから、小説のプロットの練習のつもりだったかもしれない。しかし、親父は、もう八十六歳になるが、直木賞どころか、小説も書いていない。
それでも、郷土史書「伯耆志」を見てみると、親父の話も全くのフィクションというわけでもないようだ。それによると――
昔、出雲守護職は亀井氏だったが、戦国期には、その親類である尼子氏がこの地方を支配し、亀井氏は尼子氏に仕える有力な武将という関係になっていた。
永禄九年(一五六六年)、尼子氏と毛利氏の戦いは熾烈《しれつ》になり、尼子氏は、境港の前の島根半島に鈴垂《すずたれ》城を築き、亀井能登守安綱に守らせた。
その頃、境港の竹之内に、武良氏という勢力家があった。武良氏は、亀井能登守と親交があったのだが、毛利氏は、それを利用しようと思い、武良氏に近づき、能登守を招いて漁の宴をするようにすすめた。
三月二十日、武良氏は、能登守を館《やかた》に招いた。能登守の家臣で、人の心は計《はか》り難いこととて行かぬように諫言《かんげん》する者もあったが、能登守は、
「何ほどのことぞある」
と、五十名ばかりの供を従えて、武良氏の館へ出かけた。
武良氏は、沢山の漁船を出し、魚を釣っては料理し、夕方まで宴を続けた。
ところが、日の落ちる頃、突然、毛利の兵が押し寄せ、館を包囲し、戦いが始まった。能登守は、辛うじて囲みの一角を破り、境港の浜辺まで逃れたが、その時、既に、目の前の鈴垂城は炎に包まれていた。島根半島の裏側から乱入した毛利兵が火を放ったのだ。
亀井能登守は、前後に敵を受け、境港で自決したのである。
その後、祟りがあったので、神社を作って能登守を祀ったといわれている。この神社は、今も境港にある。
境港の竹之内には、高岡城址といわれる所があり、古松が三本はえている。「伯耆志」によると、ここが武良氏の館の跡だということになる。米子の郷土史家の説では、僕の家の墓地のあたりが武良|館《やかた》のあった所だそうだ。どっちが真実かわからないが、どうやら、ずっと昔に、このあたりに武良氏という一族がいて、それが僕にまでつながっていることだけは本当らしい。
戦国ドラマの武良一族がその後どうなったかはよくわからないが、江戸時代には、我が武良家は、境港で回船問屋をやっていた。幕末の頃には、かなり金持ちになっていたらしいが、明治になって祖父の代になると、鉄道が発達するようになって回船業は儲らなくなった。
やがて、祖父は、米子の町長で呉服商をしていた住田善兵衛の長女と結婚する。そして、僕の父の亮一が誕生するのだが、その頃には回船業がいよいよダメになり、大きな家は人手に渡ってスッカラカンになった。
それでも、祖父は多少やり手だったので、また努力して、昔日のおもかげはないものの、何とか家も建てた。
だが、その子、つまり、僕の親父は、どういうわけだか、全然やり手ではないタイプだった。境港近辺では初めて東京の大学を出たというのだが、東京では、勉強より、歌舞伎や活動写真に熱中していた。境港に船を浮かべ、大勢の芸者を乗せてドンチャン騒ぎをしたのも、境港で初めて、というようなバカげた記録も持っている。
もっとも、親父ばかりが悪いのではなく、親類に遊び好きの奇人がいっぱいいて、どうも親父を助長したらしい。なにしろ、親父の弟というのからして遊び好きで、遊び暮したまま四十歳で死んだのである。
こんな親父だったから、前記のように「ヨロシクタノム」という偶然によって結婚することになった母の実家というのが、三島という米子市の旧家で、元禄時代から今日までの墓がずらりと並んでいるほどなのだが、これも先代でボツラクしている。この先代という人は風流人なのはいいが、俳句だの書画だのをひねくるばかりで、仕事というものを全くしなかった。
親父は大学を出ると、当時の金で五千円という大金をもらい商売するが、失敗して大阪の会社に勤めた。ところが、勤務時間中に映画を見ていたのが社長にバレて即日クビ。境港に帰って銀行に勤めるようになったが、夜は、近所の芝居小屋を借りて映画を上映し、銀行員が本業か映画館が本業かわからないといったぐあい。ある時、銀行強盗が横行したことがあった。親父が宿直をしていると、警察から、「どうも強盗がそちらの方をねらっている気配があるので用心をしてください」という電話があった。すると、親父は、銀行を強盗から護るのが宿直の仕事なのに、まだ強盗が来もしないうちから、家へ逃げ帰った。翌日、支店長に知られて、当然のことだがクビになった。
しかし、親父は平気だった。親父の主義は「なんとかなる主義」という奇妙な主義だった。
そして、この主義に共鳴しかねないのが、親父の周辺に何故か多かった奇人たちだった。
その頃、家の二階に下宿していた親類のおじさんと親父は非常に意気投合していた。このおじさんは、一生涯、英語の原書を読む以外何もしないですごしたという奇人だった。親父とおじさんは、金持ちの親類の家を廻っては「金儲けがいかに愚劣であるか」ということを説いて歩くことをヨロコビとしていた。二人で、金持ちの親類を前にして、富をあざ笑い、成功をののしる、というバカなことをやって、逆に、陰では親類中の笑い者になっていた。
奇人というものには種類が色々あるが、親父の周辺にいた奇人たちは、だいたいがこういったホガラカな奇人であり、陰にこもるという感じがなかったので、囲りの人々も根に持って憎悪するということがなかったようだ。
他にも、祖父の方の親類に、定《さだ》やんという奇人がいた。この人は、妖怪の「倉ぼっこ」じゃないが、倉の中で一生を働かずにすごした。働かずにといっても、決して暗い一生だったわけではなく、恋愛はする、読書|三昧《ざんまい》にふける、結婚もする、町会議員には立候補する、といったあんばいで、人一倍楽しい人生を送った。
また、親父の母方の親類には、虎次郎という奇人もいた。米子市で初めて東大を出たという人だったが、この人も一生働かずに遊んでくらした。「東大を出ると虎次郎みたいになるぞ」というのが、近所や親類の人の口ぐせというか、教訓みたいなものだった。こういう教訓を身をもって後世に残したのが、虎次郎の唯一つヨノナカの役と立ったものだったかもしれない。
親父は、銀行をクビになってからは、保険会社に二十年ばかり勤めた。これは、ジャワ支店に海外出張になったりしたから、変化が多くて楽しめたからだろう。終戦後は、英語が得意だったので、米軍の通訳を十五年ほどしていた。その時、司葉子の兄貴の結婚の世話をした。親類の女性がちょうど結婚相手を探していたからであるが、親父は、芸能人が好きなのである。
さて、親父は、二歳ずつちがう三人の男の子供を持つことになるのだが、子供たちは、僕を除いて、兄も弟も普通だった。兄は、大阪の高等工業(いまの大阪工大)を出て、海軍に入り、弟は、松山の高等商業(いまの松山商大)を出て、会社員になった。
親父は、八十六歳で健在だが、昔から、働いている姿はあまり見たことがない。のんびり談笑したり、静養と称する休息を好んでいた。それでも不思議なことに、どこからともなくお金が入っていた父の生活こそ、僕にとって七不思議の一つだった。普通のサラリーマンとはかなりちがうようだが、これが長生きの秘訣なのかもしれない。
のんのんばあと妖怪たち
肉体と霊魂ということについて、僕が考えていたのは、肉体があって、そこに霊魂とか心とかが発生するというものではなく、霊魂が肉体という衣を着る、というものだった。
これは、誰に教えられたというわけではなく、子供の時から、なんとなくそう思っていた。
だから、霊魂が虫という衣を着た場合は虫になり、木という衣を着た場合は木になる。木になった霊魂は、一生じっと立ち続けていなければならないから、大変だろうと思っていた。
また、衣をまといたくても衣がない霊魂というものも、目に見えないだけで空間に満ち満ちており、それで、目の見えない闇夜などは、かえって、不思議な存在感みたいなものがせまってくるのだ、と思っていた。
だから、お化けというものを教えられる前に、既に不思議な存在を感じていたから、お化けの教師が現われると、スラスラと理解できた。
三つ四つの頃、近所にいた「のんのんばあ」というおばあさんに、いろんな不思議な話を聞いた。こののんのんばあが、僕のお化けの教師である。
「のんのん」というのは、神様や仏様の意味だから、巫女《ふじよ》のようなおばあさんということだったのだろう。若い頃には、僕の家の女中をしていたという話で、それ以後もよく出入りしていたのだ。
のんのんばあは、胴まわりがたらいほどもある大蛇の話だとか、狐に化かされる話だとかを、さも本当らしく聞かせてくれた。
とぼけた若者が、夕方、野道を歩いていると、ぼたもちが落ちている、これはうまそうだ、と拾って食べると、馬糞だったとか、旅の人が夜道を歩いていると、美しい女が現われて、風呂に入らないか、とすすめるので、喜んで入ると肥だめだったとか、こういう話だった。
また、近くの「下の川」には、河童《かつば》や小豆《あずき》とぎがいるとか、川岸の「病院小屋」と呼ばれた廃屋には、子取坊主《ことりぼうず》がいるとかいったような話も、聞かせてくれた。なにものかが隠れているようなフンイキのする下の川の浮草の間に河童がいるといわれると、いないとはとても考えられない。また、松林の中の病院小屋の近くで松風の音を聞けば、妖怪がいないという方が不思議に思われるほどだった。場所が具体的な話だったため、きわめてリアルなのだ。
また、むこうの山(狭い海峡を隔てた島根半島を、僕らは、こう呼んでいた)には狐がおり、陽がさしているのに雨がぱらつく時は、むこうの山では、必ず狐の嫁入りがあるという話も聞いた。狐の嫁入りの話はウソじゃないかと、僕が問い返すと、「夜中にむこうの山で狐が鳴く」という。僕は、狐が鳴くのを聞いたことがないから、夜中に起こしてくれと、何回もたのんでおいた。すると、ある夜、本当に起こされた。耳をすますと、静かなむこうの山から確かに「コンコーン」という狐の鳴き声が聞こえるのだ。
こうなると、狐の嫁入りだって信じないわけにはいかない。外で遊んでいる時、晴れているのに雨が降りかかると、遊ぶのをしばらくやめ、むこうの山を眺めながら、しばし狐の嫁入りの瞑想にふけるようになった。この雨の下、むこうの山のどこかで狐の嫁入りが行なわれているのだ。山のむこう、そのまたむこうには、どんな神秘なことがあるのかわからない。そんな気持ちになったものである。稲荷神社の巻物を口にくわえた石の狐も、見るたびに、これも夜になると動きだして、むこうの山へ行って何かするのだろうと想像した。
そういえば、五歳か六歳の時、船がけむりを出しながら山の上へ登っていくのを|見た《ヽヽ》。たぶん夢の中のことだったろうが、僕にとっては、現実のものとして記憶されてしまったのだ。
船が山を行く!
これは重大な問題だった。人に聞いても一笑に付されそうだ。だけど、海に浮かんでいる船は|山も走る《ヽヽヽヽ》。船の山登りを目撃《ヽヽ》してしまったのだから、一ケ月ばかり自問自答をくりかえしていた。結局、誰も見ていない所で、船は山に登っているにちがいないという結論に達した。即ち、船は人の見ていない時には山を走り、人の見ている時には、知らんふりして海に浮かんでいるというわけである。つまり、僕の見ていない時に本性を現わすのだ。僕は、小学校に入るまでは、家の前の高尾山に船が登ってやしないかと思って、時おり見てみたものだった。
こんなことを考えたのは、のんのんばあが狸や狐の話をよくしたためだろう。狸も狐もよく化ける。「カチカチ山」でも、おばあさんを殺して、その姿に化けているし、「九尾の狐」はさまざまな美女に化ける。妖怪変化の類《たぐい》は、本性を隠して人を欺くことなんか朝めし前なのだ。その上、町角などでは、何かに食べさせるかのように、油揚げとめしがわらの上にのせてあるのを見かける。一体誰に食べさせるのかと、のんのんばあに聞くと、「人に憑《つ》いた狐をおびき出すためだ」という。「狐が人に憑く」と聞いて、おどろきはさらに大きくなる。山陰地方では、昔から、狐憑きなどの憑きものの迷信があったから、それと入りまじって、人間の目に見えない所には別の世界があるように、子供心に感じていたのだ。
夏には、七夕とかお盆とかいった伝統的な行事が多い。これは、雰囲気からして神秘的な感じがした。日頃ノンキにしている寺の坊主があちこち走り廻ったり、町中こぞって提灯をつったり、なんとなくいつもとちがう。やがてムードがもりあがった頃、むかえ火がたかれるものだから、いかにも霊魂がさまよい出るのにふさわしく思われた。何日かすぎると、今度はおくり火がたかれ、それとともに、何もない空間にむかって、のんのんばあが「来年またござっしゃれや」と叫ぶと、僕は、きっと大人になれば見える何者かがいるにちがいないと、ますます信じるのだった。
「燈籠《とうろう》流し」や「精霊《しようりよう》流し」も行われた。板の上に燈籠をつけて、ロウソクに火をともし海に流すのだが、何百もの燈籠が海面に火影を映して静かに流れて行くのだ。精霊流しは、わらの船の上に、なすやきゅうりやほおずきといった仏様の供物を乗せて流すものだ。こういうものはどこへ行くのだろうかと思って、のんのんばあに聞くと、「十万億土に行くのだ」という。すると、海上の遠い所に何かあるのだ。だから、大人たちは、燈籠や供物を流して送るのだ。僕は、いよいよ、まだ知らない世界の実在を信じこんだ。
お盆が終る頃、海で泳ぐと、十万億土に行きそこねた精霊舟が、しおれたほおずきを乗せて岩陰に打ち寄せられているのをよく見た。哀れなような、怨念を感じさせるような、不思議な気持ちにさせられた。
のんのんばあの夫は、「拝《おが》み手」だった。祈祷師のようなものだが、主にやるのは、神様だか仏様だか知らないが、それを拝んで病気を治すということだった。四畳半二間だけの小さな家の、その一間が、家には不相応なにぎにぎしい祭壇に占領されていた。拝み手の商売というか宗教活動は、あまり繁盛しておらず、お客があったのを見たことがなかった。冬の寒い日に、食物がなくなったのだろうか、米や野菜や小銭を求めて、よく托鉢《たくはつ》をして廻っていた。
僕が小学校一年の頃、拝み手のじいさんは亡くなり、のんのんばあは一人になってしまった。のんのんばあは、拝み手の助手のような存在だったが、自分で祈祷師をやるほどの才覚はなかった。それで、以前女中をしていた僕の家に来て、雑用やら子供の世話をして生活するようになったようだ。
僕は、のんのんばあが米びつから米を盗むところをよく見た。また、酒びんが、誰も飲まないのに、しばしば空《から》になるという事件も起きた。事件のあと、のんのんばあは、少し顔が赤かったり陽気だったりした。
しかし、二階には、英語の原書を読む以外には何の仕事もしないという例の親類のおじさんが住みついていて、この奇人が酒好きだったから、犯人は複雑だったかもしれない。いずれにしろ、問題になるようなことはなかった。のんのんばあは、そういう存在だった。
ある時、のんのんばあは、島根半島の奥の「もろか(大人になって「諸喰」と書くことを知った)」という所に、僕を連れていった。そこは、のんのんばあの故郷だったらしい。
古い石仏などのある山道を歩いているうちに、僕は奇妙な感じがしてきた。この道は以前一度通ったことがあるのだ。しかし、そこは初めての場所である。そこで、僕は、きっと生まれる前にここを通ったことがあるのだと思った。生まれ変わりということは、その頃はまだ知らなかったが、非常に不思議な感じがした。
のんのんばあは、寺にもよく連れていってくれた。寺には、地獄極楽の絵がかかっている。僕は、その絵にじっと見入る。本当にある世界を描いたものだと思っているから、真剣になるのだ。そこへ、のんのんばあの真に迫った解説が入るのである。
四十年後、故郷へ帰ったついでにその寺を訪ねてみたら、その地獄極楽の絵は、以前と同じようにあった。幼い僕を驚かした細い部分も記憶のままで、なつかしさをおぼえたが、おかしなもので、子供の時に受けたほどの迫力はなくなっていた。
山陰の冬は長く、曇りの日が続く。しかし、三月の春休みの頃になると、雪も溶け、空も青く晴れるようになる。子供たちは、待ってましたとばかり、山へ遊びに行く。早春の山は、若芽が萌え、鳥が鳴き、子供たちは、思いきり開放感にひたるのだ。
小学校三年生の春だった。
僕の同級生のキータン、それに僕の弟の三人で、山の中の法田《ほうだ》という所へ遊びに行った。出がけに、のんのんばあは、
「法田には、狐が多いから、化かされんように」
と注意を与えた。
さて、三人で元気よく山道を登っていくと、後からキンカ頭(ハゲ頭)の老人がにこにこしながらついてくる。そして、親切に、坊やたちはどこから来たかとか、このあたりでは間もなくうぐいすが鳴くとか、話しかけてくる。
しかし、僕は、のんのんばあの注意を思い出した。これはキツネである。いずれ、このじいさんは、僕らをだまし、悪さをするか、果ては食べてしまうにちがいない。僕は警戒した。
だが、じいさんは、まだ僕が見破ったことに気づいていなかった。このあたりには、あけびの林があるが、あれは、秋にならぬと実をつけないなどと言いながら、思い出したように、包みからぼたもちをとり出して、にこにこしながらすすめる。
食べないのも怪しまれるし、といって、馬糞だったらいやだし、僕は迷いながら、弟とキータンが食べるのを観察しつつ、恐る恐るぼたもちを食べた。
やがて、法田に着いた。
じいさんは、
「そこが、おらが家じゃ。お茶でも飲んでけや」
と、前にもましてやさしそうに言った。
僕は、いよいよおいでなすった、と直感した。弟やキータンにくわしい事情も告げず、「逃げろ」と一言、二人をひっぱるように駆け出した。
少し逃げてからふりかえって見ると、じいさんは、気の抜けたようなさびしいような表情で僕たちを見送っていた。
今になれば、僕は、じいさんの落胆がよくわかる。
早春の山の中を、元気な子供たちと歩くのは楽しいことだ。それは、昔からくりかえされてきた老人と子供の結びつきのようなものだ。じいさんは、山の中を歩いていく僕たちを見て、思わず声をかけ、ぼたもちもくれたのである。おびえるように逃げていった僕たちに、事情を知らないだけに、悲しく思ったにちがいない。もっとも、事情を知ったら、目を丸くして驚いたことだろう。
数年前、僕は、NHKの仕事で法田に行った。じいさんの家を探してみると、たしかに見おぼえのある家があった。しかし、それは戸が閉まり、人が住まなくなってから長い時間がたっている様子が屋根や壁に見られた。もちろん、じいさんがまだ生きているはずもなかった。僕は、少しこっけいで少し悲しい思い出にふけった。
僕は「ズイボ」とか「ズイタ」とか言われていた。
これは「食いしんぼ」をもっと下品に言った言葉で、「餓鬼《がき》」と言うのに近い。ズイボと言われてもしかたないほど、確かに僕はよく食べた。菓子も好きだったし、めしも朝から五杯くらい食べた。
小学校へ行くようになると、学用品などを買うために金をもらうようになったが、僕は、兄や弟とちがって、旗《はた》アメやヤキイモを買っていた。旗アメというのは、ストロー状の蝋紙《ろうがみ》の中に水アメが入っており、小旗が飾りについているものだ。学用品は、友だちにもらったり借りたりしていたから、小遣いは潤沢だった。時にはビスケットなども買った。ホシイモもよく買って食べた。全くのズイボだった。
境港から弓ケ浜にかけては砂地だったので、農作物は芋が多かった。だから、食うものはやたら芋ばかりだった。米子などの都会に住んでいる人たちは、僕たちのことを「浜の芋太《いもた》」と呼んでいたが、僕は芋が好きだったから平気だった。砂地を走って足を鍛えた上に、砂地で採れた芋を食っているから、僕は足が速かった。特に百メートル競走は得意だった。
学校から帰ると、母は、釜いっぱいに芋をふかしておいてくれた。僕たち三人兄弟は、夕食までに釜一つ分の芋をたいらげた。中心になったのは、ズイボである僕である。
芋は、普通のおやつで、毎日のように食べた。しかし、楽しみなのは、何か行事のある時だった。
僕は、のんのんばあの「ほんそご」だったから、とりわけ、年中行事が楽しかった。ほんそごというのは、その人が一番可愛がっている子という意味である。のんのんばあには子供がなかったから、僕たち兄弟を可愛がっていたのだ。とりわけ、神秘なことに興味を持つ僕が、ほんそごとして可愛がられたのだろう。
夏祭りに連れていかれると、神社の太鼓が響く中に、夜店が何十軒も出ていた。アセチレンのガス灯がついた店で買ってもらったアメは、ことのほかうまかった。
しかし、五月の節句は、ものを食べる以前の作るところから、わくわくさせられた。山へ柏の葉を採りに行って、前の日から準準して柏もちを作った。こういう作業は、のんのんばあの仕事だったから、僕は、つきっきりで様子を見ていた。屋根には、菖蒲《しようぶ》の葉と菊の葉を乗せ、風呂は、香りのよい菖蒲湯になった。そういう雰囲気の中で食べる柏もちやちまきは、格別のうまさだった。
伝統行事というものは、めんどうくさいようだが、一種のゆとりのようなもので、自然や祖先の霊と共生しているような和やかな気分にさせてくれる。しかし、これも、しだいに衰えたり、画一化したりして、つまらなくなっている。柏もちも、作るところから見ていると、うまさがちがうのだ。のんのんばあは、そういうことも教えてくれたのである。
のんのんばあとの出会いが、僕の心の中に妖怪や伝統行事を住みつかせることになったのである。
死と霊におびえる
小学校三年頃のことだ。婦人雑誌に手相の話が出ていたので、面白半分に見ていると、僕の生命線は半分に切れているのだ。計算すると二十歳ぐらいの所である。若死にする――これはショックだった。それから二、三ケ月は死の恐怖におびえた。
その頃、僕は「引っぱられる」という少し気味の悪い響きの言葉が非常に気になっていた。
僕の家には、祖母が臥《ふ》せっていた。祖母とはいっても、祖父の妹だから、正しくは「従祖母《おおおば》」とか何か言うのだろうが、僕たちは、普通に「おばあさん」と呼んでいた。病弱だったため、ずっと家にいたのである。
この祖母が死の床にあった時、見舞(というより、最後の別れの挨拶だったのかもしれない)に来た友達の老婆が「誰それを引っぱってやりなされ」などとヒソヒソ声で話すのを聞いたりしたのである。どうやら、死者が生者を引っぱりこむということらしい。話している人たちの周囲には何か真剣そうなフンイキがあり、死にゆく人にはそういった特権のようなものがあるようだった。
やがて、祖母が死んだ。十日ばかりしたある夜、便所に行き、入ろうとして前を見ると、白い着物を着たものがぼんやりと立っているのが見えたような気がした。びっくりして部屋に走ってもどり、父母にいうと、「やっぱり、出たんだ」と言う。それから何日かは、夕方をすぎると便所に行けなかった。
数日後、読みかけの本を持ったまま便所に入ったところ、今度はまぎれもない幽霊がいる。驚いたとたん、大切な本を便所の中へ落としてしまった。ところが、その幽霊をよく見ると、弟が便所の壁にいたずらがきしたものだった。少しほっとしたが、本は暗い便所の底に行ってしまった。
翌日、便所の底をのぞいてみると、本はうまくクソの表面(かちかちに固まっている)にのっている。そこで、くみとり口から取ろうとしていると、のんのんばあに見とがめられた。
「それは、霊が本を引っぱったんだ。しげるさぁでなくてよかった」
そう言って、本をとることはあきらめさせられた。
二、三日後、夜寝ていると、蚊帳《かや》の外をしのび足で歩く者がいる気配がする。恐かったので、目をつむったまま耳をすますと、たしかに人の足音のように思える。そのうち、だんだん近くで聞こえるようになった。僕は思わず、
「何者だーっ」
と、大声をあげた。しかし、あたりは静まりかえっている。足音も聞こえないし、家族の者も起きてこない。大声をあげたこと自体がすでに夢だったのだろうか、それとも、声をあげたつもりでも、舌がこわばって声にならなかったのだろうか。ともかく、おかしいと思いながらも寝入ってしまった。翌朝、家族の者のようすをうかがってみたが、何かあったようなそぶりは誰も見せていない。僕一人だけは、祖母の霊が家の周囲にいるように思われてしかたがないのだ。
そんなある夜、風呂に入っていると、目には見えないが「存在感のあるもの」が風呂場に充満してきた気配がする。僕は恐くなって湯の中に深くつかり、鼻だけ水中から出してじっとしていた。ところが、「存在感のあるもの」は、いっそうひしひしと迫ってくるように感じられる。こらえきれなくなって、
「助けてくれーっ」
と叫んで湯船から跳び出したのと、風呂場の戸が倒れてきたのと同時だった。その勢いで、顔はまた湯の中に逆もどり。「助けてくれーっ」の後半部分は湯の中で叫んでいたことになる。鼻から湯を噴きながら起き上がると、あたりは、戸が倒れてきていること以外何の変化もない。シーンとしている。耳をすますと、遠くの部屋で、家族の談笑する声が聞こえる。裸同然のまま、家族のいる部屋へ逃げこんだ。家族たちは、何の音も聞こえなかったと言うし、兄貴は、僕を臆病者だとしてアザ笑った。
近所の信心深い年寄り連中は、人の死後、四十九日間は、そうした現象があることは当然だと信じ込んでいた。僕も、のんのんばあとの交流《ヽヽ》の中で、かなり信ずるようになっていた。
だから、祖母の死んだ部屋は、四十九日の間は何となく不気味だった。しかし、昼間は遊びに熱中していると恐さも忘れてしまう。部屋中ちらかして遊んでいた。夕方、母が後片づけをしなさいという。遊びの熱気が突然中断され、ふとあたりを見まわすと、うすぐらくなっているのに気づくのだ。祖母が見舞客と「引っぱる」話をヒソヒソしていたのが思い出される。兄貴は平気そうなようすでおもちゃを片づけている。僕は、自分の恐怖心を隠すようなつもりで、兄貴のうしろへまわって、
「わあっ!」
と言ってみた。すると、兄貴は、それまで必死で恐怖心をこらえていたものとみえて、
「う、う、うきゃあ」
と、魂の消えるばかりの悲鳴をあげたのだ。これには、おどかした方の僕がもっとおどろき、自分の恐怖心まで爆発してしまった。そして、二人とも腰がぬけてしまった。
どこまでがホントの祖母の霊のしわざであったか知らないが、たしかに、四十九日の間は、|恐怖の日々《ヽヽヽヽヽ》が続いたのだ。僕は、四十九日の法要のいわれに、子供心ながら、かなり十分に納得したのだった。
境港は海の町だから、夏には水泳が盛んだった。そして、子供が水死することもよくあった。水死した子供も、友達を「引っぱる」ものとされていた。
近所に勇二という子供がいた。水遊びに出たまま夜になっても帰らないので、近所中で川や海を探した。僕も提灯を持って出かけた。ちょうど僕の見ている所で、足の裏が二つ水面に浮かんでいるのが発見された。青年団の若者が船の上に勇二を引きあげると、勇二は水を飲んでいて、腹が丸くふくらんでいた。青年たちが腹を押すと、あとからあとから水を吐き出した。それから、いろいろ手をつくしたが、勇二はとうとう息を吹きかえさなかった。
それから十日ほどたったある日のこと。墓場で鬼ごっこをして遊んでいた。僕は元気よく墓石や卒塔婆《そとば》の間を走りまわっていた。ある土マンジュウのそばを駆けぬけようとしたとたん、ぼこっと地面がへこみ、足が十センチばかりめりこんだ。
「うわっ、引っぱられた」
僕は恐怖の声をあげた。遊びは一時中止となってみんなが集まってきた。当時は土葬が多かったが、そういった墓地に足がはまることは、典型的な「引っぱられる」ことだとされていた。「引っぱられ」れば、間もなく|死ぬる《ヽヽヽ》のだ。僕は真青になっていた。僕をとり囲んだ子供たちの間から、コブヤの政が一歩ずいと出た。コブヤの政は、当時副ガキ大将だった。
「わぁやちゃ(お前たち)、こんなことぐらい、引っぱられたうちにゃ入らん」
コブヤの政は、学校の成績もいいインテリ少年だったから、僕たちを啓蒙《ヽヽ》するかのように言った。
「だけん、おらぁ死ぬるんだ」
僕は、ふるえ声で言う。
「バカモン」
コブヤの政は、僕が作った十センチばかりの穴を、何だこんなもんといわんばかりに強く踏みつけた。すると、さらにガボリと足が入ってしまった。三十センチはある。みんなドキリとした。しかし、政は平気で足を抜き、泥をはらった。
あとで、その墓が水死した勇二のものだとわかった時、みんなは口には出さなかったが恐ろしがっていたにちがいない。それから間もなく、コブヤの政は熱病で死んでしまった。僕は、「引っぱる」ことは本当にあるのだとますます信じ込んだ。
その翌年、僕が四年生の時だったろう。こんな事件が起きた。
今では見られなくなったが、当時は、「歯換《はか》え屋」という下駄の歯を換えて歩く商売があった。「はがえ――」と言って廻ると、家々では、下駄の歯のすりへったのやら、鼻緒の切れたのやらを出し、修理してもらう。
境港のようなあまり大きくもない町には、せいぜい一人か二人くらいいれば十分な商売だったから、歯換え屋のおっさんといえば、町では誰もが顔を知っていた。おっさんは、どういう縁があったのか、そのうち「エケスのババ」というスケベばあさんと夫婦になった。エケスというのは、魚の生《い》け簀《す》のことで、生け簀の番人をしていたのである。僕は、歯換え屋のおっさんとエケスのババが夫婦になったことが何だかとても面白く、学校の行き帰りに、家をのぞいたりしていた。
ある日、学校から帰って、ヤキイモを食いながら海岸を散歩していると、鉄工場のあたりに人だかりがしている。しかも、海の色が赤くなっている。何かあった。僕がすっとんで行くと、何と、馬が大けがをして石垣のあたりでもがいているのだ。馬は腹が大きく切れ、腸が二、三メートルはみ出し、必死に海の中から石垣にはい上ろうとする。その度に、おびただしい血が出ていた。
まわりにいる人たちの話では、鉄工場の石垣の所に馬をつないでおいたのだが、何かのはずみで海へ落ちかけ、ふんばったところがその下に鉄の杭があって馬の腹にささった、ということだった。しかし、みんな騒ぐだけで、どうすることもできない。その時、歯換え屋のおっさんが来た。
おっさんは、
「馬子《まご》はどうしとる。早う手綱《たづな》を引いて、海岸の段橋《だんばし》から陸《おか》へ引き上げんか」
と怒鳴り、陣頭指揮をとりだした。
やがて、馬は、歯換え屋の指示通り陸へ上げられたが、出血多量のためか弱っており、横になったまま、頭だけ地にたたきつけている。馬子は、むしろを頭の下に入れて、苦しみをやわらげようとした。しかし、歯換え屋は、こんなに苦しんでかわいそうだから、頭をたたきつけさせて、早く成仏させた方がいいと、むしろを取ってしまった。
馬は、苦しそうにあがいていたが、誰が呼んできたか、ほどなくして獣医が来た時には、もう死んでいた。
それから十日ばかりして、歯換え屋のおっさんは、ぽっくり死んでしまった。そして、次の日、女房のエケスのババも死んでしまった。
「なんと、あげな元気なエケスのババも死ぬるなんて」
人々はささやきあった。
僕は、歯換え屋のおっさんもエケスのババも、馬に引っぱられたのだと思った。
歯換え屋は、馬の臨終の時にむしろを敷かせなかったから、馬のうらみを買ったのだ。しかも、エケスのババまで引っぱるなんて、馬の引っぱる力は強いなあと、僕は、海を見ながら一人合点をした。
熱中した趣味と遊び
僕は、よく食べよく寝る子供だったから、ゆっくり朝寝坊をした上、ゆっくり朝めしを食ってから学校へ行く。それで、一時間目の算数は、0点ばかりちょうだいした。
しかし、勉強以外では得意なことが多かった。だから、きわめて充実した少年時代を送ることができたのである。
夏になれば、毎日が海水浴だったし、秋の運動会では、常に良き代表選手だった。趣味も多かったし、楽しみにこと欠くことはなかった。ケンカも強かったので、しだいにガキ大将の地位につくようにもなった。
僕には、猫そっくりの顔をしていたため「ネコ安」と呼ばれていた子分がいた。僕はガキ大将だったから、クラスや近所の子供たちは全部子分のようなものだったが、ネコ安はとりわけ親しい子分、いわば、近衛《このえ》兵か親衛隊か副官とかいったところ。ガキ大将と副官は、授業中によく立たされた。音楽の先生は、好色で怠け者で、評判が悪かったが、この先生が僕とネコ安をよく立たせた。すがすがしい唱歌をクラス全員で合唱していると、いつのまにかリズムが八木節風になっている。これは、僕とネコ安が二人でリズムを狂わし、メロディを変えているためで、しだいに生徒の半分ほどが八木節風文部省唱歌を歌いだす。すると、先生は、首をかしげながらピアノをたたき、「はい、もう一度やってみて」とやる。先生がうすうす犯人に気づきだすとやめる。こんなぐあいだったから、半年ほど犯人は発覚しなかった。
発覚してからは、僕とネコ安は、すぐ立たされるようになった。しまいには、まだ八木節になる前に、つまり、何もしないのに立たされるようになった。まるで、予防検束のようなものだった。
ガキ大将と副官は、歌唱指導の他に、探険の指導もした。休み時間に、教壇の下から縁の下に入れることに気づいた。入ってみると、まるで地底の国である。
「おーい、地下室だぞ」
クラス一同を指導《ヽヽ》すると、みんな面白がって縁の下に入った。ところが、授業が始まり、先生が来た。生徒の姿が見えない。
「誰もいないのか。どうしたんだ」
先生は、教壇の下の穴に気がついた。みんなは、おそるおそるクモの巣だらけになりながら出てきた。
「いったい、誰がこんなことを考えたんだ」
先生は追求するが、先生の見えない所で、僕とネコ安がゲンコツをふりかざしている。シャベルナ! という意味だ。先生は、クラス一同を共謀共同正犯と認定し、連座制を適用して、雨の降る校庭に全員立たせた。そして、反省の色を表わした者から、順に教室に帰らせたのだが、どういうわけか、僕とネコ安が一番最後まで校庭に残された。先生に、犯人はわかっていたのである。
ガキ大将は、副官なしの単独でもゲリラ戦を展開した。
それは、学校の講堂兼体育館で神聖な式典がある時、一日前から蓄めておいた屁《へ》を大きく放つことだった。式典の神聖な雰囲気が盛り上がった時、生徒たちの爆笑をひきおこすのがたいへん楽しみだったのである。
紀元節などというと、町の名士がたくさん集まり、先生たちも、会場の前の方にかしこまっている。僕が後の方で爆音を響かせても、前の方の先生たちにはわからない。生徒たちの後半分でドッと笑い声が起きても、先生たちは、何事ならんとキョロキョロし、「気をつけ」をかけたりするが、生徒たちが口を割るわけでもなく(面白いから)、僕のシワザとは知られなかった。
そうなると、僕の方でもスリルを感じ、一方、上級生なんかは、今日は式があるというだけでわくわくし、
「武良の屁が楽しみだな」
と、ささやきあうというぐあい。
僕は、発見されたらエライ目にあうという恐怖は感じていたが、式場に入ると、全生徒がひそかに僕に注目し、
「あっ、武良が入ってきたぞ」
と、まるでスターみたいに期待されるので、奇妙な責任感を感じてしまうのだった。
ある時、校長先生の読む教育勅語が爆笑のため中断したことがあった。この時が最も危なかった。教育勅語といえば、一番大切な御言葉だから、見つかったら一大事だったが、あやうく助かった。しかし、この事件以後、生徒たちから「武良屁」という諢名《あだな》で呼ばれるようになった。
当時の田舎の楽しみというと、五ケ町村連合の運動競技会だった。もちろんテレビなどない時代だし、ラジオだってそんなにあるわけではなかったから、人々は、全日本的な事業より、むしろ、こういった催し物に熱狂した。この運動競技会のコーフンぶりは、まるでオリンピック以上で、村会議員や町会議員が選手の順番やら勝負の判定やらで取っ組み合いのケンカをするほどだった。
僕は、いつも境港小学校の代表選手であり、ホープだった。選手が負ければ、町の名誉に傷がつくことになるから、ちょうど、ソ連などがオリンピック選手を特別に訓練するのと同じで、大会が近づくと、いつも、僕は、放課後に残されて練習させられた。その秋も、僕が練習をしていると、指導の先生たちが困惑げに話しているのが耳に入った。
「なんと、武良は、講堂の式では、いつも|屁をふる《ヽヽヽヽ》そうな」
すると、先生たちは知っていたのだ。知っていて、かばっていてくれたのだ。代表選手の非行《ヽヽ》なのでかばってくれたのだろうか、あるいは、「特異児童」ということで、あきれ半分に許してくれたのだろうか。たぶん、後の方だったろうと思う。
僕は、屁や運動ばかりしていたわけではなかった。趣味が多かったのである。
僕は、絵が好きだった。紙切れとエンピツかクレヨンがあれば、いつも絵を描《か》いていた。
主に風景画を描いていたが、妖怪や冒険の絵も好きで、「ケンケツ島の不思議」という絵物語を描いて、兄弟に見せたりして楽しんでいた。
小学校四年の頃だったか、兄弟以外にも一般公開《ヽヽヽヽ》したことがあった。「少年倶楽部」のマンガを紙芝居に仕立て、紙芝居小劇場として近所の子供たちに見せたのだ。これは、みんなにもよろこばれ、僕も得意で、夏休みの間中、何度も何度もやった。
そのうち、|見せぐせ《ヽヽヽヽ》がついたわけでもないだろうが、もっと本格的に見せることが起きた。
小学校六年生の時、親父が油絵の道具を買ってくれた。それまでは、水彩絵の具だったから、本式の絵をやっているようでとてもうれしかった。親父が何故そうしてくれたかというと、親父の尊敬していた絵の好きなおじさんが三十歳の若さでパリで客死《かくし》し、ちょうど、その日に僕が生まれたので、生まれ変わりだというわけだった。
僕は、学校から帰ると、毎日のように油絵を描いた。画題は、幻想的なものが多く、海に潜って見た海底の様子などだった。
絵がいくらかたまると、学校にいた絵の好きな先生があれやこれやと批評してくれるようになった。先生は、僕の家まで絵を見に来たり、逆に、先生の絵を見に先生の家へ来るように言ってくれた。先生は、やがて、
「お前の個展をやろう」
と言いだした。僕もうれしくなって賛成したが、ガクブチが足りないのには困った。ところが、先生は、町中のどの家にどれくらいの大きさのガクブチがあるのか、よく知っており、
「あそこの干物屋には、二十号のガクブチがあるから借りてこい。消防団長の所には、十号が二つあったはずだ」
といったぐあいで、町中走りまわってガクブチを借り集めて個展を開いた。
間もなく、毎日新聞の地方版に、
「天才少年画家現わる!!」
と出た。よほど記事の種に困っていたのであろうか。
絵を描く以外の雑多な趣味や遊びとなると、数えきれないほどだった。
四年生の頃だった。動物園を作ったら、友人にも見せられるし、面白いだろうと思いついた。元来、僕は、何かを集めるのが好きなのである。動物をいろいろ集めれば、これは楽しい。
僕が母に動物園の着想を話すと、たちどころに反対された。協力をあおぐどころではないから、僕は、独力で針金や材木を集めて、檻を作った。
動物園といっても、まさか、田舎の小学生が、象やキリンやゴリラを集められるわけもないから、身近な動物である。まず最初は、友人に山羊を飼っているのがいたが、成長した山羊を持てあましていたので、それに目をつけてただでもらってきた。
次は、犬である。しかし、犬なんぞはどこにでもいるから、平凡な犬では面白くない。そう思っていると、弟が、自分の友人の家で大きな犬を、これも持てあましているというので、もらうことになった。翌日、期待して待っていると、弟が連れてきた犬は、なるほど大きい。しかも、まだ生後一年にもならない。もっと大きくなる気配だった。父や母は驚いて、返してこいと言ったが、僕と弟が動物園作りにあまりに熱心だったので、とりあえず二、三日飼っておくことにした。しかし、大犬と山羊を同居させるわけにもいかないから、犬は玄関につないでおいた。
ところが、翌日、僕の枕元や廊下に、点々と犬の糞がころがっている。犬がやったのだ。これはイケナイ、ということになって、しかたなく、犬は返した。
山羊だけでは動物園にならないと困っていると、兎を飼っている友人が、子兎が生まれたと言う。そこで、子兎を二匹五銭で売ってもらった。
山羊も兎も草を食うので、餌代がかからないのはいいが、草刈りが大変だった。
兄貴は、鳥類がいない動物園はないと言う。そこで、「タライ落とし」で雀を取ることにした。
タライ落としというのは、伏せたタライを箸で支え、あたりに米をまいておいて、雀がタライの下に入ったら、箸につけてあるヒモを引くという簡単なワナである。仕組みは原始的なものだが、世の中には腹をすかしている雀が多いとみえて、兄貴と半日ほどタライ落としをやると五羽ほど捕まった。
これで、山羊、兎、雀と、いくらか動物園らしくなったが、餌集めがいっそう大変になった。ところが、少し慣れてきた頃、遊びに夢中になって、二、三日動物園のことを忘れていた。母に注意されて見に行くと、動物たちは皆死んでいた。わずか一匹の小兎が、あわてて与えた草を力なく少しだけ食べたが、それもあくる日は死んだ。
僕は、動物園主から、一転して葬儀屋になった。
いざ触れるとなると、死体というものは気味の悪いものである。生きている時に抱きかかえるのとはちがい、その冷たさといい、重さのつかみどころのなさといい、死の恐ろしさが伝わってくる。それでも、海の町の風習に従って、動物たちは水葬にした。ふだん陽気な僕にしてはめずらしく、冷汗の出ることだった。
それ以後、隣の犬が仔犬を生んだので一匹もらい、ベルと名づけて飼うことにしたが、動物園は、もうやめにした。
昆虫採集もよくやった。
特に夏休みの間は、近所の子供たちを引きつれ、畠の道を駆け、台場という丘を走りまわった。蝶、蜂、甲虫、トンボといった様々な虫が僕たちを楽しませた。
小遣に余裕がある時は、向うの山(島根半島)まで渡し舟に乗って遠征した。山には、もっと豊富な昆虫がいたし、単に虫を採る以上に、虫のいる場所に変化があって楽しかった。巨大な岩が、どういう自然の力でか、二つに割れていたり、大木の節《ふし》くれだった根に洞《うろ》がぽっかりあいていたりすると、今追いかけてきた蝶の行方を追うのも忘れて、僕は見とれてしまうのだった。そんな場所にかぎって、小さな鳥居の注連縄《しめなわ》が飾ってあり、祠《ほこら》になっていた。僕は、ますます神秘的な気分にひたるのだった。
漂着物の採集も、僕は好きだった。
マトモな漂着物、というのも変だが、ワカメやサザエなどは、風の強い日が続くと、海岸に打ち寄せられる。これは、実用的なものだ。しかし、僕は、竹や木の根、形の面白い貝殻、猫の頭蓋骨、こういった無用のものを集めることが好きだった。今でいえばオブジェということになるだろうか、抽象的でまた幻想的、まるで海の中に異次元の世界があって、そこから送られてくるように思えた。
僕は、こういったものを集めては、行李に入れて押し入れにしまっておいた。
しかし、このコレクションは、ある日、忽然と消失してしまった。押入れから嫌な匂いがただよいはじめたのに母が気づき、開けてみると、猫の骨やら木の根っこが出てきたから、驚いて捨ててしまったというわけだ。
学校仲間の間では、奇妙な収集が流行していた。新聞の題字を切りぬいて集めるのだ。
朝日、毎日といった大新聞の他に、地方紙、業界紙、外国紙、というように、めずらしい新聞の題字を集めて自慢しあうのである。しかし、おいそれとは、自慢のタネはない。すると、僕の子分のネコ安が穴場へ案内してくれる。穴場というのは、つまりはゴミ捨て場のことで、ここに、ネズミの死骸やらショウユびんやらに混じって、汚い新聞が捨ててあった。僕は、悪臭や蠅と闘いながら、それを拾うのだった。
ネコ安は、この他にも、家からホシイモを持ってきたりして、ガキ大将閣下につくした。ガキ大将の方は、図画の時間に、ネコ安がそっと手渡した画用紙に、代わって絵を描いてやった。ネコ安は、これによって「甲」をとっていた。
ネコ安は、「トンドさん」と「セッタイ」が大好きだった。トンドさんとセッタイについての情報をすぐ嗅ぎつけた。
トンドさんというのは、正月が終わった後、注連縄《しめなわ》を持ち寄って焼く行事だが、その火でもちや芋を焼くのが子供たちの楽しみだった。大勢でもちや芋を焼くのだから、誰のもちやら芋やらわからなくなる。それをいいことに、ネコ安情報将校の先導で、ガキ大将が食いに行くのだった。
「人のもちや芋を取って食うと、うめえな」
これが、僕とネコ安の結論だった。セッタイというのは、たぶん「接待」と書くのだろうが、各家が、小皿に菓子やくだものなど入れて門前に置き、子供たちの取るのにまかせる行事である。取る子供たちには一応の義務があって、紙に「南無妙法蓮華経」と書いて菓子の皿に入れるのである。セッタイは春の行事だったが、子供たちは、菓子欲しさに、ひたすら御題目を書いた。
これは、正々堂々と菓子やくだものや芋が取れるものだから、僕とネコ安は、南無妙法蓮華経の紙をいっぱい作り、大きな袋を準備して、セッタイの家々を廻った。僕もネコ安も、根っからズイボだった。
ガキ大将として君臨する
やっぱり、ガキ大将がガキ大将らしいのは、戦争の時である。
日本が満州や中国で戦争をしていた頃、ガキの国々でも戦争がさかんだった。各ガキの国ごとにガキ大将が君臨し、戦争をしかけては得意がっていた。戦前、いや、ほんの二十年ほど前までは、子供たちは、学校の結びつきの他に、地域・近所の結びつきも強く、地域ごとにガキ世界ができており、そこでは、学校での成績の優劣とか学校での腕力の強さだけでは計れない価値が評価された。かけっこや水泳が上手でも、それを年少の子供たちにうまく教えてやれるだけの指導力がなければならない。カニのいる場所を知っているだけの知識力も必要である。輩下の者をタイクツさせない遊びを次々に案出する企画力も要求される。だから、僕は、学校のクラスでは、副官もいるガキ大将だったが、町内のガキ大将になるには、まだまだ年齢も経験も貫禄も不足していた。
ガキの国の戦争の原因は、学校帰りに、隣の忠助組にののしられたとか、獰猛なタケヤス組にたたかれたとか、とるに足りないことだった。だから、本当の原因は、敵地(敵の遊び場所)を占領したり、敵を追っかけたりして、「オレたちゃ、なんて強いんだろう」という陶酔感にひたりたいだけのことだった。力がありあまっているのに遊びにもあきているといった時、敵の姿が現われたりすると、緊張の快感が五体にみなぎる。
いきなり石が飛び交って、戦争開始となる。戦争は、何回かの会戦をはさんで、けっこう長く続く。そして、長い寒い冬や梅雨の季節になると、自然に終結するのだった。
僕が小学校三、四年の頃、ガキ世界に緊張が高まった。そこで、僕たちの国でも軍事訓練をすることになった。
それには、まず、軍隊の階級を定めなければならない。ガキ大将の五郎、通称ゴロズンは、いくらか謙虚なのか、ガキ大将《ヽヽ》なのに、自分を中尉《ヽヽ》だとした。僕の兄貴が少尉、勝ちゃんが伍長、僕が上等兵、他に、一等兵と二等兵が十数人できた。軍隊は三隊に分けられ、僕は、その一つの分隊長だったが、指揮がうまいというので、即日、兵長に昇格した。
そのうち、隣の忠助の組と戦端が開かれた。
僕は機転をきかせ、昼めし時で敵がいないのを見はからって、敵の本陣の|モクの木《ヽヽヽヽ》に行き、敵の旗をもぎとってきた。先制攻撃というわけだ。その手柄で、ただちに、僕は伍長に昇進した。
午後、忠助軍が攻めてきた。
「旗を返せーっ」
もっともな言い分だが、そこは戦争だから、降伏しないかぎり返すはずはない。それで、交戦状態になった。
石の投げ合いになったが、兄貴は、小学校の野球の投手をしていたから、主砲である。敵の正《しよう》タンのひたいに命中し、血が出る。敵軍は、
「あとで思い知らせてやる」
と捨てゼリフを残して敗走した。
我が軍の本陣は、氷会社のノコクソ場だった。ノコクソというのはオガクズのことで、氷会社が保温用に使うオガクズやむしろが置いてある小屋を、僕たちは遊び場にしていたのだ。
忠助軍が敗走した後、我が軍は、ノコクソ場で作戦会議を開いた。やがて、夜になったので、会議の場は、僕の家へ移された。ところが、ガキ大将のゴロズンは、手帳をノコクソ場に残してきてしまった。
「手帳が敵の手に渡ったら、大変なことになる」
将校たちは、あわてふためいている。
実は、そんな手帳が敵の手に渡ったからといって、大変なことになんかなるわけがない。長びいた作戦会議にしてからが、正タンが痛がった姿をあざ笑ったり、忠助が本気だしたら恐いだろうなと語りあったり、それだけのことなのだ。ガキ大将ゴロズンの手帳に、作戦会議の様子が克明に記録してあったとしても、知れたものである。そのうえ、僕が以前その手帳をちらりと見たところ、ただ「江下、北川、作江」とメモしてあるだけだった。これは、肉弾三勇士の名前だった。こんな手帳が敵の手に渡っても、どうということはないのだが、問題なのは、体面であり、プライドなのだ。
将校たちは、僕に、ノコクソ場へ行って手帳をとってこいと言う。田舎の夜道は暗くて恐いし、誰もいない夜のノコクソ場は、特にいやなのである。
「とってこい。とってきたら、お前、軍曹にしてやる」
僕は、栄誉をエサにされ、ノコクソ場に行き、闇の中であちこち頭をぶつけながら、手帳を持って帰った。ガキ大将は、僕の勇気をほめたたえ、約束通り軍曹にしてくれた。
その頃は、勇気とか勇敢とかいう美徳が最も人気があり、重んじられていたのだ。
僕たち子供は、みな「少年倶楽部」の「ああ古賀連隊長」とか「ああ空閑《くが》少佐」とか「肉弾三勇士」などという勇ましい記事を愛読していた。強くて勇敢なものが好きで、だから軍人にあこがれていた。
強くて勇敢ならそれでいいわけだから、軍人以外にも、あこがれるものは多かった。近藤勇、坂本龍馬、楠正成、源義経、こういった人たちも人気があり、「少年倶楽部」に、やはり、よく記事が載った。映画の阪妻《ばんつま》なんかも、バタバタと敵を斬り倒すので人気があった。やはり雑誌などによく載る雷電だの谷風だのという昔の力士の口絵も、僕は好きだった。雷電が、人の入ったままの風呂桶をかつぎ上げている絵なんか、自分もそうできたらどんなに楽しいだろうと空想しながら見ていた。
僕が学校の綴《つづ》り方で書くのは、毎日「肉弾三勇士」で、いつも、時間内に書ききれないほど熱を入れた。
話の内容は、元の「肉弾三勇士」と同じなのだが、僕の願望と空想が少しまじっていた。江下、北川、作江の三人が朝寝坊して整列に遅れるというファーストシーンを長々と書いた。豪傑は細かいことにこだわらないから、朝寝坊ぐらいは当然というつもりだった。
さて、忠助軍を敗走させたあくる日。
心配していた通り、学校から帰ると、すぐ戦争だった。忠助軍は、猛烈な石の雨を降らせながら攻めてきた。
我が軍は、その時、ガキ大将のゴロズンが不在で、僕や兄貴の他七、八人で応戦した。だが、多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》で、遂に、僕の家へ逃げ込んだ。自分の家へ逃げ込むのは女々しいことだとされていたが、背に腹はかえられなかった。しかし、それでも、忠助軍の攻撃は止まず、家をめがけて石を投げてくる。僕の親父がとび出して怒鳴ると、やっと忠助たちは逃げていった。
この会戦の勝利は、一応忠助軍のものとなったが、僕たちは、ガキ大将のいない非正規戦だから、本当に敗けたことにはならないと思っていた。そして、双方が自分勝手に勝利を決めこんでいるのだから、自動的に終戦になった。これで、忠助組との南側国境は、一時的に落ちついた。
しかし、北側国境の向こうには、タケヤス組がいた。タケヤス組は獰猛で、タケヤスとゴロズンがささいなことから言い合いになったのが戦争にまで発展したのである。
僕が学校から帰ってノコクソ場へ行くと、もう戦闘は開始されていた。
敵影が二百メートルばかり先の材木小屋のあたりに見え、石が飛んでくる。
頭にガガッと衝撃があって、クラクラっとして、僕は倒れた。帽子をとってみると、徽章に石があたってへこんでいた。もうちょっと下だったら危いところだった。
我が軍は、ゴロズンの指揮下、バケツの古いのや木箱をかぶり、タケヤス軍に石を投げ、反撃を開始した。敵軍は、人数は五、六人なのだが、タケヤスの投げる石は赤ん坊の頭ほどもある。我々は、非常に危険を感じたが、むこうも内心は不安だったのか、その日は、それだけで退却した。
次の日が大変だった。
今日はいよいよ決戦だろうと、学校が終わると急いで帰り、昨日役に立ったバケツや木箱の他に、大きい木箱を集めて、これを戦車にした。
やがて、敵影現わる。
例によって、石合戦となった。
僕は、戦車の中へ入って先頭に立たされた。しかし、大きな石がゴツンゴツンとあたるから、前進の速度は遅い。ガキ大将は、戦車の後から突撃命令を叫ぶが、なかなか進めやしない。しかも、我が軍も砲撃をくりかえしているはずなのに、タケヤス軍は、前進地点から一歩も退《ひ》かないのだ。これが、我が軍の士気を沮喪《そそう》せしめた。
僕の脇で、やはり戦車をウンテンしていた僕の弟が、戦車に石の25サンチ弾の直撃を受け、こりゃたまらんとばかりに|戦車を脱いで《ヽヽヽヽヽヽ》逃げ出したのが退却の合図のようなものだった。
まっ先に、ガキ大将が逃げた。これで味方は総くずれとなり、我先に逃げる。僕は最前線にいたから、逃げる時は最後尾だった。それでも、足には自信があったから、いくらかうまく逃げた。最後尾になった者に、タケヤス軍があびせる竹の棒の音がビシビシと聞こえ、ウエーンという泣き声が聞こえる。しかし、恐怖のため、ふりかえる余裕などなかった。
やっとのことで近くの勝ちゃんの家まで逃げ込んだ。敵は追撃を止めたのでほっとしたが、落ちついて気がつくと、しんがりで敵将になぐられていたのは、なんと、僕の弟だった。弟の頭は、コブだらけで、一同「にっくきタケヤス!」と、復讐心に燃えた。そして、数日後、タケヤスを墓場に追いつめ、頭に一発5サンチ砲をぶちこんで引き上げた。
しかし、逆に、それは戦争を拡大させることになった。
何らかの情報が入ったとみえて、幹部将校たちは、ノコクソ場に集まって今後の作戦について協議した。
「タケヤス組は、花町組と連合してやってくるだろう」
ガキ大将ゴロズンは、青ざめて言った。他の者もみんな、花町と聞いて驚いた。
花町のガキ大将集団といえば、このあたりで最強最大の超大国で、四十人もの軍団を擁している。
「タケヤス組が花町といっしょに来るなら、このノコクソ場で守るしかないだろう」
ということになった。その時、けたたましい女の声で、
「ゴロー、お前、まだこんなことしちょーだか」
ゴロズンは、青い顔をいよいよ青くして逃げだした。ゴロズンが、敵のガキ大将より恐れていた母親だった。
ゴロズンの母は未亡人だった。夫は、以前僕の家がやっていた回船問屋で三番目の番頭をしていたこともあるが、若くして亡くなった。その後、ゴロズンの母親は、行商をしながら子供を育てていたのである。母親は、ゴロズンを工業学校に入れさせようとしていた。しかし、ゴロズンは、高等小学校二年で工業学校を受験したが不合格で、現在浪人中なのだった。
だいたい、ガキ大将の任期は、一年で、高等小学校のものがつとめることになっていた。名ガキ大将といわれた正ヤンが二年つとめたのが例外で、普通は一年だったのである。ところが、ゴロズンは、三年間もガキ大将をやっていた。母親にしてみれば、浪人中でありながら、実に情けないということだろう。
あくる日から、陣地作りが始まった。
ノコクソ場の壁板に、外を見るための穴をあけたり、弾丸用の石をたくわえたり、小屋の中に仕掛けを作ったりした。この仕掛けは、敵に突入された時のためのもので、出入口の上にむしろをつるし、その上に灰を入れたり石を入れたりした。奥の方でひもを引っぱると、灰が落ちて目つぶしになり、石が爆弾となって落ちるのである。
陣地改築中のその日は、幸いにも敵は来なかった。
次の日、僕は、斥候《せつこう》を命ぜられた。
花町の本陣の御台場の近くまで行くと、十人余りの敵兵がたき火を囲んでいるのが見えた。斥候の任務は、正確な情報を得ることである。僕は、できるだけ接近しようと、通りすがりのただの子供のようなふりをして、たき火の輪の方に近づいていった。
連中は、僕より三、四歳年上の下士官級の者ばかりで、僕なんかぜんぜんモンダイにもしていないふうだった。僕が彼らの様子をよく見ると、なんと、彼らは、蛙を焼いて食っている。僕は、すごいなァ、と思った。すると、中の一人が、
「おい、ゴロズンになあ」
と、僕に話しかけてきた。そして、団扇《うちわ》状の変なものをさし出した。僕は、おどおどしながらそれを受け取り、よく見ると、木の枝に鼻クソをいっぱいまぶしつけ、クモの巣がかかったようになっているのだ。まるで、木の枝に|花クソ《ヽヽヽ》が咲いたといった感じ。僕があっけにとられていると、
「それをなあ、花町の土産《みやげ》だと言って渡してやってくれや」
と言う。
僕は抵抗するわけにもいかず、鼻クソの小枝をおし頂き、ゴロズンに持って帰った。
ゴロズンは、それを見ると烈火の如く怒り、その頃は、特務曹長に昇格していた僕を曹長に降格させた。僕の人事問題はともかく、花クソの小枝は、いわば最後通牒だった。まもなく、
「来たーっ」
なんと、四列縦隊になって、道も狭しと、進軍してくるではないか。よく見ると、前列に、子供でない奴が混じっている。ならず者のフデだ。その脇に、ブタ正《しよう》、そして、タケヤスだ。
僕は、恐怖のために腰がぬけそうになった。どうなるだろうか。えらいことだ。
一同あわてて小屋の中に走り込み、戸を閉めた。
タケヤス・花町連合軍は、ノコクソ場を囲んで、
「ゴロズン、出てこいっ」
と叫んでいる。
我が軍は全員恐怖にとらわれてしまい、石を投げる闘争心が起きない。
そのうち、敵軍は、戸を開けかかった。しかし、強いカンヌキがしてあるから、なかなか開かない。やがて、彼らは、道ばたに捨ててあった古い電柱を持ってきて、突入を敢行してきた。
メリメリ。戸がこわれた。
「ゴロズン、出てこんかっ」
無条件降伏を要求しているわけだ。
我が軍が応じず沈黙を守っていると、三、四人が中へ入ってきた。すかさず、勝ちゃんがひもを引いた。
バサーッ。
灰が煙となって立ちこめた。
「仕掛けしてやがるな」
フデの声だ。敵は、少しひるんだものの、また進入を試みた。
ガラガラガラ。
今度は、石が落ちた。敵は、あわてて出ていった。しかし、仕掛けは、これで終りだ。そっと小穴からのぞくと、彼らも、さすがに恐くなったようだ。
「ゴロズン、おぼえとれよ」
捨てぜりふを残して、敵軍は引きあげていった。全員、胸をなでおろした。
花町との戦争は、この本土決戦で、うやむやのまま休戦になってしまった。
一年の後、ゴロズンは、また工業学校の試験にすべった。そして、大阪へつとめに行ってしまった。
僕は、高等小学校二年の時、ガキ大将になった。僕は、サービス精神が旺盛でめんどう見のいいガキ大将だった。
夏には、こんなことがあった。
境港あたりの子供たちは、ガニタモによるカニとりをよくやった。ガニタモというのは四十センチほどの円い鉄ワクに網をつけ、魚の頭をエサにしたもので、これを海に投げ入れ、十分ほどして上げると、カニがかかっているのだ。このカニをゆでたり焼いたりして食べるのが、夏のオヤツだった。
僕の家の前の海岸には、材木が何本も海の方へつき出すように置いてあり、子供たちは、材木の上でよく遊んでいた。僕は、小さい子たちに、模範的なガニタモのやり方を教えてやるのがガキ大将の重要な任務だと考えた。そこで、ガニタモを持ってきて、
「わぁやちゃ(お前たち)、見ちょれ」
と、ガニタモを力いっぱい沖の方へ投げてみせた。
突然、目の前が真暗になった。僕は、海底にいた。足がすべり、材木の上から海へ落ちたのだ。その上、落ちる時、材木のふちで脇腹を打ったらしい。わずかの時間だったが失神状態で海底へ沈んだのだ。
上の方に明るい海面が見える。僕は、あわてて、泳ぎ上った。
海面に出ると、ガキ共のゲラゲラ笑いが僕を待っていた。これほど面白い見せ物はないというわけだ。
まあ、このヘマは、ガキ共へのサービスということにしておいた。
しかし、近隣諸国との外交関係は、僕の治世下ではうまくいっていた。僕は、ケンカには強く、勇敢だったからだ。
強大な花町組ももはや攻めてこず、いや、むしろ一目置いているぐらいだった。忠助組は、忠助がいなくなって次の代になり、今では、完全な同盟国だった。こんなぐあいだったから、僕は、境町全体のガキ大将のようになっていた。
学校の帰りだった。花町の連中が、腰を低くして、相談があると言う。僕は、非常に気分がよくなって、話を聞いてみると、上《あが》りが花町をおかそうとしていると言う。
上りというのは上道《あがりみち》村のことで、現在では、上道村と境町とが合併して境港市になっているが、当時は、両者は別々で、仲が悪かった。昔は、どこでもそうだが、隣の町村というとまるで外国と同じで、とりたてて仲が悪くなる原因がなくても、仮想敵国のようなものだったのである。
境港の海水浴場にブランコがあった。これがしばしば、境町と上道村の子供たちの間で取り合いになった。上りのガキ共は、非常にタフでかけひきがうまかったから、境のガキ共は、いつもしてやられていた。ブランコをひっぱりあっている時に、上りのガキは、ひょいと手を離したりする。境のガキは勢い余ってよろけ、ブランコの板に、ゴーンと頭をぶつけたりするのだ。すると、上りのガキ共は、
「いい音ばえ(いい音の冴え)」
と、鼻で笑ってブランコに乗り、スイスイとこぐのだった。僕自身、小さい時、寺にぼたもちを持っていく途中、上道村を通ったところ、ガキ共に追いまわされたりしたことがあった。
そんなわけだから、僕は、上りが侵略しようとしていると聞いて激怒した。しかも、先日、一人が捕虜になって松の木に縛られたこともあったという。
「ゆるせん」
すぐに、荒神《こうじん》さんのあたりで両軍の会戦になった。例によって石の砲弾が飛び交い、竹の棒がぶつかりあった。
しかし、この戦争は、あまりに規模が大きくなりすぎて、簡単に結着がつかなかった。
そのうち、出征兵士の壮行会があった。ガキ共も学校ぐるみで、旗をふったりバンザイを唱えたりしに行った。ところが、ここで、境のガキと上りのガキがいっしょになったため混乱が起きた。罵声が飛び交う中で、上道小学校の景山校長があわてて言った。
「同じ日本人じゃないか」
この声で、その場はなんとかおさまった。おさまらなかったら、出征兵士の立場はなかったであろう。日本を強調するのが、当時の決まり文句だった。
学校も就職もつとまらない
小学校の成績はきわめて悪く、上の学校は受けることさえ教師が禁じたほどだった。試験で最も重視される算数がカラッキシだめだったのである。
遊んだり絵を描いたりしながら高等小学校(これは試験がない)に通い、それを卒業すると、就職することになった。僕の父は神戸で勤めていたし、大阪にはわりと金持ちの親類もいた。境港よりはいいということで、大阪は谷町の小さな石版印刷屋の住み込みになった。朝五時にたたき起こされてボロ自転車の掃除をやらされたりしたが、寝不足でぼおっとしているものだから、兄弟子の下駄に油をひっかけるやら、うつぶせになって新聞を読んでいた親方の頭を踏みつけるやらで、一ケ月もしないうちにクビになった。
大阪の親類の紹介で、中村版画社というところへ移ったが、版画社というからには絵を描かせてもらえると思っていたのに案に相違して、自転車で使い走りばかり。これはいったいどうしたことかと上役に聞くと、何をしでかすか分からん危険人物《ヽヽヽヽ》というレッテルが貼られており、版画の仕事は、社長がしばらく様子を見た方がいいと言っているという。
僕は、勤務中でも、自分の興味の方を優先させることにしていたから、例えば、太鼓屋の店先で、大きな木の筒に皮を張っているところを見かけたりすると、自転車を止めて、じっと観察した。なにせ、太鼓を作るのなんか今まで見たこともなかったから、道具にしろ、その使われ方にしろ、一々感動することばかりで、本当に面白かった。
こんなふうにして会社へ帰ると、たいてい、得意先から激怒の電話がかかってきていた。
大切なジンク版(亜鉛の印刷原版)を届けたのはいいが、一言もなく家の前においてあるだけだったとか、二時間で届くはずのジンク版が夕方に着いた、機械をあけて待っていたのに大損害だとかいうわけだ。
ある日、「おまえの親父呼んでこい」ということになった。父が出むくと「どうにも使いもんにならん」と言われて、十七円もらってクビになった。
ただ遊んでいるわけにもいかないので、新聞の求人広告を見てみると、松下電器が職工を募集していた。さっそく、守口の工場へ出かけると、中年の人物の|ねれた《ヽヽヽ》感じの職工長と若くてやる気十分の副長が現われて、積木《つみき》の組み立てのようなテストをやらせた。こんなテストなら僕にもできると、気楽にやると、できるにはできたのだが、副長の青年が何やら激怒している。初めから態度が大きく、「ナマイキや」というわけ。人格者ふうの職工長は、まあまあ、というしぐさで、僕を仕事場まで案内した。
仕事場は、二十人ばかりの女工が部品を木箱の中につめている所だった。木箱に釘を打つのに男手がいるということらしい。しかし、女二十人の中に男一人というのはどうも落ちつかない。そこで、職工長に「もっと男らしい仕事場にかえて下さい」と言うと、傍にいた副長がまた激怒。例によって「ナマイキや」というしだい。
間に職工長がまあまあと入って、今度は別の仕事場へ連れていかれた。そこは、自転車のライトの金属の胴を型抜きする所で、ボーン、ボーン、と機械の音も力強い。とりあえず、機械の掃除をやっていたが、どうも職工たちに指や手のない人が目立つ。金属板といっしょに手まで打ち抜いてしまうようだ。こんな危険な仕事はかなわんと思い、夕方帰る時に、職工長のいる所へ寄って、危なくない仕事場に換えてくれと申し出た。すると、ついに副長の青年の怒りが爆発した。
「な、なんやとお」
今度は口だけでなく、つかみかかろうとする。中年の職工長は、今度も穏やかに、まあまあと間に入った。僕は、この職場には自分に合った仕事はないだろうと思い、
「やめます」
と言った。すると、またまた副長が激怒し、こぶしをかためてせまってくる。どうしてあんなに怒るのか僕にはよくわからなかったが、とりあえず、こちらも応戦しなければならんと、げんこつをぎゅっとにぎった。すると、今度も職工長が、まあまあと割って入り、
「この人は|コレ《ヽヽ》だから」
と、頭を指さしながらクルクルやる。なぁんだ、副長はキチガイなのか、それならしかたがない、許してやろう。僕はそう思って、おかしくもなかったがムリに微笑み、会社から帰った。それから思い返すと、職工長のいった|コレ《ヽヽ》とは、副長の青年のことではなく、どうやら僕のことだったと気がついた。してみると、あの場合ムリに微笑んだのはよけいまずかったようだ。
そんなわけで、松下電器は入社したかしないか定かでないうちに、やめることになった。
両親は、この子をふつうのように勤めさせることは不可能だという結論に達したらしい。大阪の上本町《うえほんまち》に試験のない図案学校があるから入れと言う。修学年限は三年だが、それくらいはお前でもシンボウできるだろう、というわけだ。
学校は精華美術学院といった。現在似たような名前の大学があるらしいが、全く無関係である。入学手続きをとりに行くと、タタミ敷きの教室に校長先生が一人いるだけ。ぼくがケイベツのまなざしで部屋を観察していると、校長先生は隣の部屋から、百科辞典ほどもある分厚い「全国学校総目録」とかいう本を持ってきて、ぱらぱらとめくり、
「ほれ、本校もちゃんとここにのっとる」
という。たしかに、三行ばかり小さい字で書いてあった。
僕は、桃谷にアパートを借りて学校へ通うことになった。
先生はアメリカ留学の経験もあると言っていたが、そのわりには教え方が悠長で、まるで江戸時代の寺小屋ふう。時間をもてあますので、自分でマンガ全集を作ったり、グリムやアンデルセンの童話に絵をつけて絵本にしたり、こういうものを何冊も作った。
それでもまだヒマなので、大阪の中之島図書館へ行って人体解剖図を模写したりするという猛勉強ぶり。朝から晩まで、だまって絵を描いていたから、ある時、父が様子を見にきたが、声がのどにつかえてうまくしゃべれない。父は、
「しげるがしゃべれんようになった」
とあわてだすしまつ。
こんな生活をしているぐらいだから、絵は好きだし、成績は悪くはなかった。しかし、二年もしないうちにタイクツになる。それに、この学校を卒業しても、どうせ図案家として勤め人になるしかない。上野の美術学校へ行けばエライ画伯になれるようだ。だが、そのためには、中学卒(現在の高卒)の学歴が必要である。
その時、大阪府立園芸学校が生徒を募集していることを知った。この学校は五十人募集していたのだが、志願者は五十一人。一人が腹痛にでもなれば全員合格、その上、受験科目も国史(日本史)だけときている。国史なら、僕は、人名なんかかなりたくさん暗記していて得意だ。受かったも同然で、受験日には新しい友人もできるという気楽さだった。
しかし、合格発表を見に行って驚いた。僕の名前だけがないのだ。即ち、たった一人、僕だけが不合格となったのである。
おそらく、面接がまずかったのだろう。
学科試験は、我ながらよくできて(国史だけだから)、百点はまちがいないとほくそえんでいたほどだった。午後、面接試験があった。控室で待っている間、僕は、五十一人のこの受験生のうち、たった一人落ちるのは誰だろうと、じろじろ顔をながめまわしていた。口からよだれをたらしたのや、眼の光のよどんだのが二、三人いたので、必ず、こいつが不幸な一人になるのだと思ったが、まさか、自分がその一人になろうとは思ってもみなかった。
面接の口頭試問は、「この学校を卒業したら、どうするか」というもので、僕は、「美術学校へ行く」と答えた。
これがどうやら校長にはひっかかったらしい。校長は、じーっと書類をながめながら、
「君、園芸というと花作りなんかで楽しいと思っとるか知らんが、百姓仕事は、時には、くさったクソをなめなきゃならんこともあるんだよ」
と言う。校長は、おどかしたつもりだったろうが、僕は、かえってふるいたった。
「僕は、クソは平気です。赤ん坊の時には、手についたクソをなめたことがありますし、小学校では、教室でよく屁もしました」
と答えた。その上、さらに勢いづいて、ここぞとばかり、
「猫のクソを菓子とまちがえて食べたこともあるんですよ」
と力説した。
すると、校長は、自分がクソの話を切り出したくせに、急に不機嫌そうな顔になった。
どうも、このあたりがまずかったようだ。模範回答は「満蒙開拓団に入って食糧増産に励みます」というものだったらしい。他の受験生はみなこう答えていたようだ。
僕は、父に、
「やっぱり、満蒙開拓団に入ると言わんかったのがまずかったかなあ」
といった。すると、父は、
「ばか、そんなことをいって、本当に入れられたらどうするんだ」
と言う。それももっともなことだと思った。
入試にも落ちて、どうしようかと、ぼんやりと毎日新聞を見ていると、淀川の塚本という所で新聞配達員募集と出ている。さっそく出かけ、駅を降りると、目の前が新聞屋。そこの親父が駅から出てくる人を眺めていた。その目と僕の目がピッタリと合うと、同時に双方から微笑がおこった。試験があるのではないかと心配していたが、これで採用が決まってしまった。こうして、住み込み配達員の仲間入りをしたのである。
朝は三時半頃に起こされる。こんなに早いと、体は起きても頭はまだ熟睡中だから、一種の麻酔にかかっているようなものだった。予期していたのと反対に、寒さも感じないほどである。ある朝なんか、配達を終えて戻ってくると、主人がびっくりしている。靴をはかずに走りまわっていながら、気づいていなかったのだ。
僕は、ものごとの本筋以外の所にえてして面白さを見出す。配達で面白かったのは、家というものは、どこかに必ず新聞を入れることのできるくらいのスキマがあるということだった。初めの数日は、先輩といっしょにまわって配達する家をおぼえる。ぼくについてくれた先輩は、朝鮮人の青年で、あれこれ教えながら、どんなにがっちりした家にもスルスルと新聞をすべり込ませる。これがむやみに面白くて、三百軒の配達区域は三日でおぼえてしまった。そうすれば、あとは「麻酔」だから楽なものである。「麻酔」がさめた頃は仕事が終っているのだ。但し、時たま、新聞が入ってなかったと怒られることがあった。
その頃、支那事変だの何だので戦争が始まりかけていたが、僕のまわりでは、毎日と朝日が戦争をしていた。毎日新聞では「ニッポン号」という飛行機が世界一周をするというので気勢をあげ、拡張合戦で朝日に勝とうとしていた。配達所の主人も大ハリキリで、配達員全員を中華料理屋に集めて、ニッポン号が世界一周で国威発揚するのだから、みんなも、御国のために毎日新聞を拡張してくれと|ぶった《ヽヽヽ》。僕たちも中華料理を腹いっぱい食って拡張合戦にのぞんだ。しかし、たいていの家は既に朝日か毎日をとっているので、なかなかふやすことはできない。「うちは朝日とっとるから、いらんわ」というようなぐあい。そこで、
「毎日新聞のニッポン号が世界一周するんや。今、毎日新聞とらんもんはコクゾクや!」
とやる。当時の「国賊」の一言は、現在の「民主主義」や「人権」よりききめがあった。しかし、しぶとい相手は、姿さえ見せずに奥の方から、
「国賊でも何でもええから、早よ帰れ」
と言う。そこで、僕は、大声で、
「コクゾク!」
と言って帰ろうとすると、奥から二、三人どどっと出てきて、
「国賊言うたんは、お前か」
|どつかれ《ヽヽヽヽ》そうになって、あわてて逃げたりした。
仕事になれるにしたがって、朝刊と夕刊との間のヒマを持てあますようになってきた。どうしようかと思っていた時、新聞広告で、日本工業学校というのが生徒を募集していることを知った。採鉱科が、鉱業技術者を速成するために楽に入れそうなので受けてみると、合格した。
朝刊の配達が終ってから登校するのだが、結局、寝るために通学しているような結果になってしまった。これぐらいなら、配達所で昼寝していても同じようなもので、当然、成績も悪い。英語の成績の悪い奴が数人(もちろん、僕も入っていたわけだ)が教員室へ呼ばれ、何か言うことがあったら言ってみろと、|しぼられた《ヽヽヽヽヽ》。そこで、僕は、「今や、英語なんかやったって、アメリカへ石炭掘りに行くわけにもいかんから、マレー語でもやった方がいいのではないか」と提案した。すると、英語の先生は激怒、教員室中の他の先生たちは爆笑。やがて来た試験は、ほとんど0点同様。その頃、仕事の都合などで、父母はそろって大阪に住む意向があったので、「しげるも安心して学校へ行けるように」といって、大阪の甲子園口に家を借りて出てきた。
しかし、その頃すでに遅く、僕は成績不振で、学校はやめることになったのだ。しかたなく、家にごろごろしていたが、それを知った親類が、「しげるはん、絵が好きやったら、『中之島洋画研究所』いうのんあるから、そこ行かはったらよろしのに」と言う。絵なら嫌いではないので、通ってデッサンなどすることにした。
その頃、世間では、しだいに国防婦人会が催し物をしたり、町内会がゲンコツ体操を普及しようとしたり、日本中のフンイキが妙になりかかっていた。家のすぐ前を東海道線が通っていたが、中国の戦場へ送られる兵隊たちが不安気な表情で汽車に満載されて行くのが見えた。こんなふうでは、のんびり洋画研究所へだけ通っているわけにもいかない。知りあいが、「働く人をさがしとるんや、誰かつとめる奴おらんか」と言う。「おれが行く」といって勤めることになったのが「支那通信」という市況ニュースなどをガリ版刷りにして商社に配達する会社だった。
戦争がせまってくる
洋画研究所では、デッサンばかりやらされた。絵は好きなのだから、それに不満があったわけではない。しかし、エライ絵描きになるには、上野の美術学校を出ないといけないと思いこんでいたので、とにかく、その入学資格になる学歴がほしく、またもや適当な学校を物色しはじめた。
僕は、子供の頃から、学校というものはねむたい所だと思ってきたが、新聞を見ていると、日本大学付属大阪中学の夜間部が生徒募集をしている。夜間中学なら、僕の目がパッチリさめている時に授業になるのだから好都合である。その上、途中でやめた工業学校の続きということで二年に編入できるようだ。
そうすると、兵役直前という時に美術学校へすべりこめる(当時、美術学校は、そんなにむつかしくなかった)。
これはいいアイデアだ。試験も簡単で、すんなりと入れた。
入ってみると、たっぷりと朝寝坊してから行けばいいので、とても楽だ。僕は、うれしくてしかたなかった。
だが、ここにも、軍国主義の波が押し寄せてきていた。
校長先生は、やたらと、「非常時」を口にした。僕は、しばしば学帽をかぶるのを忘れて学校に行った。わざとやったわけではないが、結果的に、帽子が頭の上になかった。こんなことが重なると、生徒が集まっている中で、僕は、高い壇上に立たされ、校長自ら訓示を垂れた。
「この非常時に、実にだらけた生徒がいる。この生徒の頭を見たまえ。制帽をかぶらず学校に来て、しかも、反省の色も見えん」
たかが帽子のことで、稀代のぐうたら生徒ということにされてしまった。僕は、夜間中学に入れたのですっかり安心していたのだが、日本は、ちょうど日本軍が仏印(フランス領インドシナ)に進駐した頃だったから、全国民が緊張と胸さわぎを感じている時だったのである。
数学の答案用紙に、答えが書けない(即ち、わからない)ので、「アーメン」と書いて提出した。アーメンというのは「かくの如し」という意味だから、文字通り、|アーメン《かくのごとし》なのだが、校長室に呼ばれて、「ふざけすぎだ」と叱られた。僕は、ただ白紙で出すのも愛嬌がないと思って、ユーモアを示したつもりだったが、世の中は、どんどんギスギスした感じが強くなってきた。
昭和十六年十二月八日の朝。
ラジオがバカにやかましく軍艦マーチを流す。ねむい目をこすりながら母に聞くと、戦争が始まったという。
「あっ」
と思ったが、僕が開戦を決めるわけではないから、どうにもなるものではない。
この時から、僕の灰色の人生が始まることになる。しかし、しばらくは、そういうことはわからなかった。
町の中は、祭りのようなコーフン状態になり、ラジオは、やたら勇ましい放送ばかりしていた。
学校では、校長先生が先頭に立って、日の丸のハチマキをしめて建国体操とか称するものを始める。祭日には、天皇陛下に尽した忠臣の話ばかり。教練の元少尉は、やたらはりきりだし、僕が夜間中学じゃ教練はないだろうと安心していたのに、校庭に電灯をつけて軍事教練をやりだす。元騎兵大尉だった漢文の先生は、授業そっちのけで、武勇伝を話しだす。
自由な発言というほどのものでもないが、僕が、
「先生、戦争も満州まででエエんじゃないですか」
などと言ったら、教室から引きずり出された。町内会あたりでも、何かというと、“非国民”ということにされた。
僕は、子供の時、軍人にあこがれていた。それは、勇ましいからだったが、勇ましいというのは、他人がやっているのを鑑賞している時の気分で、自分が参加すると、勇ましいというより恐いものなのだ。自分が、いやでも参加させられる年齢が近づき、しかも、もはや絵描きになるつもりになってしまうと、軍人や戦争や、ましてや戦死なんかは、うとましいばかりだった。
ところが、新聞や雑誌では、文化人や有名人といった連中が、若者は国のために戦争で死ぬのが当り前で、天皇陛下のために死ぬのは名誉なことだ、というようなことを言って、自分に都合のいい万葉集の歌なんかを引用して力んでいた。
駅頭の人ごみでは、千人針といって、千人の女の人の手によって縫われた腹巻を作り、それでタマヨケになるという不思議な運動をやっていた。そのすぐ後では、歓呼の声に送られて汽車に乗る出征兵士の姿が見られた。
そうこうしているうちに、僕の好きな菓子が菓子屋から消え、砂糖が配給制になりだした。
僕は、それまで、胃腸も丈夫なズイボで、寝ることも好きで、動きまわったり絵を描いたりして楽しく生きてきた。だから、ここへ来て、死がせまっていることを考えるのは、非常につらいことだった。
哲学なんていうものも無縁に生きてきたわけだが、どうしても、書物らしい書物も読むようななりゆきになる。哲学史の概説書のようなものを読んで、どんな考えを持っている人がいるかをざっと調べ、面白そうな人の本を買うことにした。
ニーチェだとかショーペンハウエルだとかがよさそうなので読んでみたが、もっともだと共感することもあるのだけれど、読後少したつと、どうもしっくりしてこない気がした。聖書も読んでみたが、どうも僕には向いていないようだ。ただ、語調がよかったので(当時のは、美しい文語調だった)、新約聖書は何度か読んで、暗記した文章もある。
そのうち、年齢も二十歳に近づき、戦争もきびしくなってきた。いつ召集になるかもしれない。そんな時、河合栄治郎編「学生と読書」という本に、エッケルマンの「ゲエテとの対話」という本が必読書としてあげられているのを知った。岩波文庫のこの本を買って読んでみると、はなはだ親しみやすく、人間とはこういうものであろうという感じがする。これで、ゲエテに関心を持ち、「ファウスト」や「ウィルヘルム・マイステル」や「イタリー紀行」を読んだが、「ファウスト」は何回くりかえしてみてもわからなかった。
僕には、むしろ、ゲエテ本人が面白く、だから「ゲエテとの対話」が好きなのだ。この本では、いろいろな人がゲエテ家に出入りし、それについてのゲエテの感想や生活ぶりがまるで劇でも見るようにうかがわれて楽しかった。後に軍隊に入る時も、岩波文庫で上中下三冊を雑嚢《ざつのう》に入れて南方まで持っていった。
人に「ゲエテをどう読んだか」などときかれてドギマギすることがよくあるが、簡単にいえば、父親がたよりなかったから“代理の父親”みたいな気持ちで愛読したわけだが、もう一つは、僕は、ゲエテのような生活がしてみたかったのである。
家は四階建てで屋根裏部屋があり、部屋数は多く、美術品がたくさん飾られており、近くには、散歩に適した所があり、ガーデンハウスなぞという別荘がある。宮殿で美しい女性に囲まれ、皇太子の頭をなでてみたりする。近所には、シラーという意見の合う友人がおり、家には、ヨーロッパ中の文化人が訪問してくる。時たま、ナポレオンなんかも戸をたたく。こんな生活を僕は空想して楽しんでいた。
ゲエテが関心を持ったり体験したりしたことを、僕もできるだけ真似をしてみようとも思った。
ゲエテは、自然に関心があり、動物や植物の研究をしていたというので、僕も植物学の本を買って読んだし、また、ゲエテは、スピノザを尊敬していたので、僕も古本屋で「エティカ」を買ってきて読んだ。その他にも、「ゲエテとの対話」の中に出てくる詩人や作家のものは、気をつけていて読むようにした。ゲエテがシェイクスピアやモリエールを賞めるので、これも読み、ずっと後には、全集まで買った。
「若きウェルテルの悩み」は、二回か三回読み、住んでいた甲子園口あたりの景色を勝手になぞらえてあてはめ、空想の中でゲエテになって散歩して楽しんでいた。以前は、あのあたりには家も少なく、美しい景色だった。ただ、ゲエテとちがって恋人もいなかったし、あまり女にももてなかったから、女と口をきいたこともなかったのが、少々さびしい。
それでも、空想の散歩は楽しく、近くの別荘を見ると、これはシュタイン夫人の家、甲子園ホテルを見ると、これはワイマール公国大公夫人の家、などと考え、もはや、ワイマールが甲子園だか、甲子園がワイマールだかわからないほどだった。
僕自身も小川を散歩する時は、完全にゲエテで、自分でも、僕なのかゲエテなのか定かでなかった。
僕は、ゲエテがベートーベンと会う話を母に聞かせたが、熱心なのは僕一人で、母はポカンとしていた。おそらく、おかしくなったんじゃないかと思っていたのだろう。
[#改ページ]
U 戦争
兵役につき、ラバウルへ
昭和十八年、夜間中学三年の時、召集令状が来た。いわゆる赤紙である。徴兵検査から七、八ケ月後のことだった。これで、夜間中学も中途退学ということになった。
僕は、ムシ歯をなおし、眼鏡を余分に二つ作って、入営することになった。連隊は、本籍地の関係で、鳥取連隊だった。
僕が初年兵として鳥取連隊に入ったとき、班長はこう言った。
「軍隊では、大小便をする時間はない。クソをしたいのなら、早起きをするか、寝る時間のうちに便所へ行っておけ。訓練中は大小便はまかりならぬ」
なるほど、戦闘中にクソをしたくなったら困るだろう。しかし、しないわけにはいかない。僕は、点呼前に起きてクソに行くことにした。
入隊してほどない日、二、三日|たまり《ヽヽヽ》気味だったものだから、非常に固いのが出はじめた。その時、点呼のラッパが聞こえた。僕は、あわてて切ろうと思い、コウモンに力を入れたが、まるで鉄のクソといった感じで固い。紙でつまんでむしり取ろうとしたが、紙は貴重品で一枚しかない。いっそ出してしまおうと、顔を赤くして最大の力をふりしぼったが、のろのろとしか出ない。点呼のラッパはマーチのリズムだが、クソは生命のリズムだからどうしても遅れるのだ。五分もかかって、やっと出しおわった。
あわてて点呼の現場へ行くと大騒ぎだった。脱走兵が出たらしいというので、「番号ッ」などと、血相かえてくりかえしやっている。僕が入って人数はあったことになるのだが、軍隊はそれではおさまらない。一人だけ呼び出され、「なぜ点呼に遅れたか」と、班長に詰問された。僕は、事こまかにクソの説明をした。口だけでは足りないかと思って動作もまじえて説明したのだが、「ふざけるんじゃない」となぐられた。
そのせいじゃないだろうが、二ケ月するとラッパ卒にさせられた。しかしなかなかうまく吹けない。吹けない者は、かけ足をやらされる。罰としてやらされるのだから、これがえらくきつい。仲間のラッパ卒はだんだんうまくなって、かけ足をやらされる奴は少なくなった。ところが、僕だけは、いつまでもかけ足だった。
後になって考えると、よせばよかったのだが、僕は、中隊の人事係の曹長に、ラッパ卒をやめさせてくれるように頼んだ。
「まあ、そう言わずに、やってくれや」
これが曹長の御返事であった。僕は、こりずに、二度、三度と頼んだ。三度目の時、曹長ドノは、本性を現わし、
「お前、南と北とどっちが好きだ」
と、おかしなことを聞く。僕は暖い方が好きだから、南です、と笑って答えた。
数日後、土手の橋の下で今日もラッパの練習にはげんでいると、
「おい、武良《むら》、ちょっと曹長殿の所へ行ってこい」
と、お呼びである。曹長の所へ行くと、「お前は南方行きに決まった」という思いもよらぬ話。先日の質問の真意がやっとわかったわけだが、軍隊では、「いや」ということはないのだ。二泊三日の外出許可が出て、家へ帰った。その頃は、両親は、甲子園口から境港へもどっていたので、都合はよかった。
家へ帰ると、父も母もとても心配する。日本国内の連隊なら殴られる程度だが、南方の野戦では、人がどんどん死んでいるからだ。これが最後かもしれないと、毎日ごちそうぜめ(漁村だから、魚ばかり)で、三日の外泊も終った。
両親は、これが別れになるからと、連隊のある鳥取駅まで送ってくれたのだが、駅を出ても兵隊たちの姿が目につかない。変だなと思って時計を見ると、もはや、帰営時刻なのだ。これは大変と、走って営門まで来たとたん、ラッパが鳴り響いた。
兵営の中では、おそろしい顔で班長が待っていた。僕は、中隊長室まで連れて行かれて、「ラッパが鳴った時、営門の内側に足があったかなかったか」、きびしく問い糾された。僕は、小学校以来、遅刻はよくやっていたから、さほどのこととも思わず、
「片足は入っておりました」
と、答えた。すると、間髪を入れず、目から火の出るようなビンタ。続いて、中隊長が、
「片足だけは、いちおう入っていたんだな」
と聞く。僕は「はい」と答えると、ほっとしたような空気が流れた。片足が営門の中にあるかないかが、何か軍法上の大問題であるかのようだった。ついでみたいな感じでまた二つ三つビンタをくらって、その日は終わった。
あくる日、朝のビンタを五つばかりちょうだいして、元タタミ屋の伍長に連れられて汽車で某方面に向かった。軍隊では、行先が正式に兵隊に告げられることはない。到着して岐阜だとわかった。岐阜連隊がガダルカナルで大きな損害を受けたので、その補充に、僕たちがわりあてられたのだ。岐阜では一ケ月間ほど、外出も許されぬまま、混成部隊が組織された。そして、今度は、門司に送られた。
門司からは、いよいよ日本を離れるわけである。
輸送船は一万トンもある大きなもので、二十二ノットの高速でパラオまで運ばれた。船内の待遇が悪かったことを除けば、どこで戦争をやっているのかという平和な感じだった。パラオに着くと、疲れもとれないうちに、炎天下を四十キロばかり行軍させられて、ガスパンという所に着いた。
そこで一ケ月。やがて、いつ沈められても惜しくないようなボロ船が数隻入港した。これで、我々が最前線に送られるのだ。僕が乗せられた船も、ひどいボロ船だった。僕が舷側に手をついていると、鉄板がぽろっと取れるのだ。聞いてみると、それも道理で、この船は、日露戦争の時、バルチック艦隊を発見し「敵艦見ユ」を打電した信濃丸だというのだ。浮いているだけでやっとという感じで、スピードも出ない。
船に乗ると、「これより、ラバウルに向け出航する」という船内放送があった。ガダルカナルもやられたことだし、無事では着けまいと思って船員に聞くと、最近出港した船団で、ラバウルに到着し得たのはほとんどないらしい。
「まあ、やられると思えばまちがいありませんな、はははは……」
といったぐあい。
びくびくしながら、塩水のまざったメシを食っていた時、味方の駆潜艇が二隻どこからともなく現われた。右になったり左になったり、すばやく動きながら、我々ボロ船団を守ってくれる。はなはだ心強い感じがする。これで少しは安心した。ともかく、敵の潜水艦がウヨウヨしていることは確かなので、甲板に出てのんびりなどしていてはいけないと言いわたされた。船底の三段ベッドにじっとしているよりしかたがないのだが、機関がそばにあることでもあり、まるで焦熱地獄だ。なかば煮えかけた時、
ボー、ボー、ボー
と、汽笛が三度鳴った。「総員退船!!」の非常命令である。あわてたの何の、自制心は完全に喪失してしまった。兵隊は船底にいるのだから、船腹に魚雷をくらえば真先にオダブツなのだ。上からおろされた縄梯子《なわばしご》に我先にとびついた。僕は、人が登っている上を登ろうとしたのだが、その僕の上をさらに登ろうとする奴までいる。にっちもさっちもいかなくなった所へ、
「今のは練習である」
という放送。ばからしいやらホッとするやら、それでも落ち着いて足の下を見ると、僕がよじ登ろうとして足場にしていたのは分隊長どのの頭だった。分隊長どのは、くやしそうな顔をして、僕の足を見ていた。
それがわざわいしたのか、僕は対潜警戒の当番にまわされた。
当番になったものの、海をじっと見ていても敵潜水艦らしきものも見えず、僕は少しサボろうと思った。つるしてあるボートの中なら見つかるまいと、苦心してボートによじのぼると、どういうわけだか、ボートの中に大きなウンコがしてある。びっくりして、おりようと目を海の方へやると、白い波が一本、その後から、さらに二本、船団に向かってくる。
「魚雷だ!」
すぐ大声をあげた。三本の魚雷はめだたぬようにおりからの夕日を逆光にして、斜め前方からせまって来る。スピードは、予期していたほどない。しかし、船の方もじれったいほど緩慢な反応だ。轟音がするのは今か今かと、こわいもの見たさのような期待感で見守っているうちに、船尾スレスレで魚雷はそれた。
こんなふうにして、半月ほどすぎた。塩からいメシとゴボウの煮つけばかりの食事にあきあきした頃、誰かが、
「島が見える」
と、叫んだ。
これがニューアイルランド島だった。その横がラバウルのあるニューブリテン島である。だが、その頃は既に、ニューブリテン島は半分ほど連合軍によって占領されていた。
しばらくすると、ラバウル港から来たものと思われる第八艦隊が姿を現わした。護送空母と巡洋艦と駆逐艦である。なんとなく見物気分になっていると、
「空襲だーっ」「艦内にひっこめ」
という騒ぎになった。
頭上では、敵機と一式陸攻との空中戦。飛行機の轟音と機銃の発射音がすさまじい。海面には爆弾が炸裂する。船にいてはやられるのを待つだけだというので、敵が少し劣勢になったすきをついて、船から海にとびこみ、胸まである水の中をココボという海岸に上陸した。ラバウル(ニューブリテン島全体もラバウルと呼びならわしていた)は、到着の時から災難であった。
決死隊に入れられる
命がけでラバウルに上陸すると同時に、ビンタだった。「ここはどこですか」という愚劣な質問を上等兵に発したのが悪かったのだ。質問もちょっとボケてはいたが、それよりも、その態度が軍隊で最も悪《ヽ》とされている「地方人(軍隊以外の人)」に近いというのである。僕は、たどりつくだけでやっとというこのラバウルに到達したのだから、死ぬ時は皆いっしょだし、人間はみな兄弟のようなキモチで発言したのだが、それがまずかったらしい。
いずれにしても、以後ビンタだらけの毎日が続く。日本が制海権を失い、僕たちの船団が最後の船団になったため、僕たちは終戦まで常に最下層兵だったからである。
我々の分隊は椰子《やし》林の中の小屋で寝ることになった。鳥や虫の声が心細さをかきたてるように聞こえた。小屋の中には、もちろんフトンなどなく、ワラがしいてある。夜が更けると、ワラの間から変なものがいっぱい出てくる。月明りで見ると、ネズミだ。僕はネズミが大嫌いである。追っぱらっていると寝ることができないのだが、眠気には勝てず寝てしまった。
そのあくる日、船の中とちがって水があるのを幸い、椰子林の中の水場で洗濯に|うちこんで《ヽヽヽヽヽ》いると、パンパンと音がして、空を見上げると空中戦だ。これは面白いと見ていると、機関砲の弾がバラバラ落ちてくる。びっくりして小屋に帰ると、誰もいない。どうしたのかと思っていると、
「バカ者、死んでしまうぞ」
という声。見まわすと、防空壕の中からだ。あわてて、壕の中へ逃げ込んだ。
数日後、陸路、バルチン山という所へ行かされた。ここでは、毎日穴掘りとヤシの葉編みをやらされた。頭上には常に敵機がいたが、戦場というよりも土木現場か工場のようなもので、ただ、軍隊式に殴られる点がやはり戦場という感じだった。
ある日、作業が休みになり、タバコ十五箱と菓子が支給された。喜んでいると、今の者は軍装を整えてココボまでもどれという。他の兵隊たちのうわさ話によると、敵が占領している地点に、海上から廻って逆上陸するのだという。えらいことになったなあと、僕は、支給されたばかりのタバコをたてつづけにすった。
ココボに行くと、遺書を書かされたり、認識票の確認をさせられたりした。
二、三日後、部隊長という大佐が訓示をし、やたら決死、決死と口走った。次いで、ものすごくハリキッた大尉が訓示をし、これは、やたら玉砕、玉砕と口走った。
翌日、ダイハツ(陸軍の小型艇)が来て、弾薬や食糧を積み、夕方には我々も乗り込んだ。一隻に四十人くらい乗った三隻のダイハツが出発すると、
「今夜、ウルグットを占領する。途中、敵の魚雷艇との遭遇はさけられない」
という話があった。全員、銃に装弾して舷側に置き、射撃できる体勢である。あたりは静かで、ダイハツのエンジンの音が低く聞こえるだけだ。僕は、兵長に小声で聞いた。
「ウルグットはどういう所ですか」
「パパイヤがたくさんある」
「え、では、パパイヤが腹いっぱい食えますね」
「取る者よりパパイヤの方が多いので、落ちて腐っとるらしい」
僕は、決死や玉砕よりも、パパイヤが目の前にちらついてしかたがなかった。
さいわい敵襲がないまま、ウルグットについた。このあたりは河口で、半月状の島みたいな所に上陸した。ダイハツは隠して、その夜はそのまま寝た。
翌朝、僕は、さっそくパパイヤさがしに出かけようとしたが、
「バカ者、勝手に行動する奴があるか」
と、一喝された。しかたなくあたりを見まわしたが、話に聞いたようなそれらしきパパイヤの樹などどこにもない。これには本当にがっかりした。
ここでやらされたのは、またしても穴掘りだった。ところが、ここは、サンゴ礁でできた島だから、少し掘るとすぐ固いサンゴ礁にぶちあたる。これを取り除くのがなかなか難儀なのだ。しかし、なぜか僕はこれが上手だった。もともと、僕は熱中しだすと、とことんやるたちだったので、それが幸いしたのかもしれない。サンゴ礁にぶちあたった他の兵隊たちから応援をたのまれると、つい助けてしまって、サンゴ礁とりの名人などというばかげた称号もいただいてしまった。
毎日、穴掘りが続いた。だから、夜はぐったり疲れて、よほどのことがないかぎり目は覚めない。僕はもともとよく眠るたちなので、特にそうだった。しかし、その夜は目が覚めたのだ。クソがすでに肛門まぎわまで来ていたからである。僕は、文字通り夢中で靴をつっかけるようにして便所へ突進した。よほどあわてていたとみえて、僕は足をふみはずして片足をクソの中につっこんでしまった。そのクソたるや、南方の猛暑のために水分が蒸発してしまっており、まるで、つきたてのモチのように粘っていた。そこへ全体重をかけた片足がつっこんだのである。その時、僕ははじめて目が覚め、その瞬間、僕のはいている靴が班長殿の靴であることに気がついた。
えらいことになった、ともかくも、この|モチの沼《ヽヽヽヽ》から靴をとりあげなければならない。僕は必死で、ありったけの力を出し、モチに靴をとられないように足をあげた。
やがて、苦闘の果てにモチの沼から足をあげ、星あかりにすかして見ると、靴が|鏡モチをはいている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。何とかしようと思ったけれど、このあたりは丘の上で、クソを洗えるような川はずっと下の方だ。ジャングルの夜はまっ暗だし、途方に暮れていると、飯桶《めしおけ》に水がはってあるのに気がついた。ところが、飯桶の水を少しぐらいかけてみたところで、モチは落ちない。じれてきた僕は、靴をモチごと飯桶につけた。こうすれば、水分を吸っていくらか軟らかくなるかと思ったのである。しかし、だめだった。僕は、班長の靴はジャングルの中に放り投げ、飯桶の少し黄色っぽい(と思う。暗いからはっきりしない)水を捨てて寝た。
翌朝五時。点呼である。全員整列したのだが、班長は靴の片方が見あたらないのでうろたえている。僕は、飯桶が気になって落ちつかない。その日は食事当番ではなかったが、丘の下にある炊事小屋まで飯を取りにいく役を買って出た。下の方の川で、飯桶を洗おうと思ったわけだ。しかし、当番が行くから必要ない、と断わられた。
飯が運ばれてきた。まごうかたなきあのおそるべき桶に、飯が入れられている。水は常日頃から不足気味なので、飯を入れる前に桶を洗ったりすることは絶対ない。僕はあわてて、なるべく中央のあたりの飯を自分用によそい、いつも初年兵に意地悪をする軍曹には、桶に接触している部分をよそって並べておいた。食事が始まった。しかし、誰も気がついていない。そんなことに気がつくゆとりもないのである。これで一件落着かと胸をなでおろしているところへ、「今朝は本部で食ってきたぞ」という声。見れば、意地悪軍曹である。そういえば、食卓で見かけなかった。本部へ行っていたのである。「おれの飯が残っているが、ほれ、お前、食っていいぞ」、そういって軍曹は、いとおしげに僕の肩をたたいた。
しまった、こんな時こそ早メシをすませて立ち去るべきだった、と思ったが、後の祭り。みんな恒常的な腹ペコなのだから、食べないと怪しまれる。僕は、この場に恐慌状態が発生するのを避けるため、カンネンのマナコを閉じてクソ飯を食べた。
軍隊では、他にも、食い物のからんだ話をよく記憶している。二、三想い出を書いてみよう。
僕がまだ国内の連隊にいたある日のことである。隣の班の小林という二等兵が便所でアンパンを食っているところを目撃した。僕は「アンパン、どこから盗んだ」とおどろいて問いつめた。小林とは面会所で偶然両親同士で会ったことがありなんとなく親しかった。小林は「酒保に知っとる人がおるんや」と言って、ポケットからもう一つアンパンを出して口に入れるではないか。
「おれに一つくれ」
僕がつめよると、小林は大便所の中へ入ってカギを閉めた。僕は、
「今日のところはええ。しかし、次は、おれにも分けるようにせえよ」
と、ののしって便所を出た。
ある日、班に帰ってみると、僕の枕に赤いチョークで魚の絵がいたずらがきしてある。何か意味ありげなのだが、周囲の初年兵たちに聞いても、誰も知らない。しかたなく班長ドノの所へ聞きに行くと、「魚には水が必要なんだよ」という返事。「水と申しますと……」と僕。
「洗濯しろってことだよっ」
としかられた。禅問答みたいなナゾかけじゃ分かりはしないと思いながら、枕カバーなどを持って洗濯場へ行くと、あっと驚いた。
小林がアンパンを二つ両手に持って食べているではないか。
「小林っ、おれにも一つよこせーっ」
僕は小林に跳びかかったが、小林は、よほどアンパンが好きだったとみえて、洗濯場中をたくみに逃げまわり、遂にアンパン二個を口中に収めてしまったのである。僕の腹立ちは、ひとかたならぬものがあった。
それから数ケ月後、小林も僕も南方行きとなった。
小林とは同じ小隊だった。彼は体も小さく、力もあまりないようで、作業はかなり大変なようだった。特に、月に二度ほど、船が食糧を持ってきた時に、山の上の穴蔵までカマス入りの米を運ぶのは大変だった。兵隊一人がカマス三袋を運ぶのだが、足場の悪いジャングルの道だから重労働である。たいてい、小林は途中でへたりこんでしまうのだった。そして、僕の顔を見て、「おい、助けてくれや」というのだ。しかし、僕は、アンパンのうらみがあるものだから、とても手伝ってやろうという気がしない。
「ゆっくり運んだらええ」
などと答えていた。
今から考えると、大柄な僕に較べて、小林は実際に半分ほどの力もなかったのだろうから、助けてやった方がよかったと思う。だが、その頃は、若さのためか、小林はなまけているというぐらいにしか思わなかった。
小林は、やがて、戦闘の最中(といっても、おもに、逃げること)に、行方不明になった。それまでも、隊が移動する時は、ビリの方にいるのが常だったから、ジャングルのどこかで淋しく死んだのだろう。
僕は今でもアンパンというと、アンパンに異常なまでの執念を見せた小柄な小林のことを想い出すのだ。
ある時、ジャングルの中か|ら屍《しかばね》のにおいがしてきた。「なんだろう」ということになって、松田という二等兵と僕がジャングルの中に入ってみると、二十体ほどの白人の死体がころがっていた。戦死したのか、行軍中に事故で死んだのかわからないが、ほぼ白骨化している。腐肉は全くない。だから、被服や靴は新品のように感じられた。なにしろ、戦地のことだから、死といってもさほど異常なことでもないし、松田は、その靴がほしいといいだした。松田は、骨から靴をぬがし、はきながら、僕にもすすめる。僕は、少し気味が悪かったが、自分のボロ靴にあきていたところだったので、彼のすすめに従ってはきかえた。
ところが、分隊へもどると、上等兵が「死人の靴をはくなんて、お前らバカか」と言う。僕は、もとの所へもどって、靴を白骨に返してやった。
しかし、松田は何くわぬ顔で、骨からとった靴をはいていた。
ある日、松田と僕は、海へ魚とりにやらされた。海へ手榴弾《てりゆうだん》を投げ込んで、魚を気絶させて手づかみで捕えるのだ。魚は完全に死んでいるわけではないので、早く捕えないと息をふきかえしてしまう。僕と松田は、手榴弾が水柱をあげるや、すぐに海に入り、両手につかめるだけ魚をつかんだ。松田は、欲ばって、両手に二、三尾ずつつかんだ上に、口にまで魚を頭からくわえて浜に上がろうとした。しかし、口にくわえた魚が急に生きかえったのだ。そして、ピチッと跳ねて、のどに入り込んでしまった。松田は目を白黒させたが、すぐに息がつまってしまった。魚の鱗がひっかかって簡単には抜けないのだ。僕が気づいて助けた時は手遅れで、松田は珍しい窒息死をしたのである。
死に方が不思議であったせいもあり、みんなは、死体から盗った靴のことを思いうかべた。
ウルグットにはどれぐらいの間いたのだろうか。二ケ月か三ケ月か、戦地では、そういった時間の感覚もなくなってしまうので、はっきりしたことはわからないが、いちおう防空壕ができあがって基地らしきものができた頃、二百数十人の中から十人がダエンに行くことになった。ダエンは、ウルグットから陸路百キロほども行った小部落で、ウルグット自体がラバウルから孤立しているのに、その上、もっと先ということになる。そこに、十人ほどが送られるのだから、決死隊の中でもさらに決死隊なのだ。つまり、死んでしまえ、といっているようなものである。
この決死隊の一人に僕が選ばれた。チョビ髭《ひげ》をはやした兵長が分隊長になり、ありがたくないこの決死隊は、ダエンめざして黙々と進んだ。内陸部に入ると、ジャングルで道がわからなくなるので、海岸線を見ながら歩いた。途中、いくつかの土人部落を通過した。いくつかは無人であった。無人であることは安心といえば安心だが、逆に無気味でもある。人がいる部落もあった。そういう部落では、タバコを与え友好を求めるわけだが、歓迎のフンイキでない部落もある。といって、表だって敵対してくるわけでもなく、かえってこわいのだ。海軍の小さな部隊が野営しているのにも出会ったが、彼らの情報によると、このあたりには「ナンバーテンボーイ」がいるという。「ボーイ」というのは、ふつう土人のことを指すのだが、「ナンバーテンボーイ」というのは、おもにオーストラリアで訓練を受けた連合軍側の土人兵なのである。
こんなふうにして、一週間ほどかかってダエンに着いた。ダエンには、海軍が十数人駐屯しており、我々を見ると、少しほっとしたようだった。ここから数キロ先のジャキノットに、海軍は二十人ほど情報部隊を派遣したのだが、連絡がずっと途絶えており、全滅したらしいという。数キロ先で、敵味方が相接しているわけだ。
しかし、僕は危機が現実に迫って来るまでは平気なタイプなので、しごくホガラカだった。あくる日からは、部落の土人たちを集めて兵舎作りをしたり、海軍サンの兵舎にもらい風呂に行ったりしていた。
そのうち、徴用の土人たちが急にいなくなった。こりゃおかしいというわけで、警戒態勢に入った。
全員不寝番につくことになり僕は、一番最後の、夜明け近くの不寝番をわりあてられた。自分の番が来るまでは、兵舎の小屋で寝ているわけだが、なかなか寝つかれない。寝返りをうっていると、隣の古兵が「寝られねえのか。胆っ玉の小せえ野郎だな」と言う。自分だって寝つかれないのだ。遠くで犬の吠える声が聞こえたりすると、みんなガバッと起きるのだった。
それでも、ウトウトしているうちに、不寝番の順番になった。
僕は起き出して、波打ち際の望遠鏡の置いてある場所まで行った。望遠鏡で海を見まわしたが、今のところ敵の姿はない。僕は陸の方の森に目をやった。すると、ちょうど夜明けのことだから、たくさんの美しい鳥たちが飛び交っている。熱帯の鳥だから色鮮かで実に美しい。そこへ、朝日が刻一刻と色調を変えて照らすから、この世のものとも思えないくらいすばらしい。うっとりしているうちに、日がすっかり上った。起床時刻である。兵隊たちを起こさなければならない、こう思った時、兵舎のある山の側から、パラパラと自動小銃の音が聞こえた。そして、僕が背にしている海面に、ピシピシと水音があがる。一瞬、何が起きたか理解できなかった。敵は海の方から来るものとばかり思っていたからだ。もちろん、すぐ気がついて伏せた。兵舎の方に目をやると、中から兵隊たちが跳び出して来ては倒れるのが見えた。僕にわりあてられた不寝番の順序が最後であったことが、兵舎で殺されるかどうかのカギになったわけだが、その時は、ジャキノットの二の舞になったらかなわんとしか考える余裕はなかった。しかし、逃げ場は海の方しかない。海は、潮流の関係で渦巻いている。だが、しかたがない。僕は崖から海に跳び込んだ。
背後では、ダダダダダダという機関銃の音がした。
爆撃で片腕を失う
潮の流れは、浜から見たよりも強かった。渦に巻き込まれると、泳ぐどころではなかった。僕は銃を捨てて岩にしがみつき、少し離れた陸にはいあがった。「陛下にいただいた銃」を捨てるということは、軍隊最大のタブーの一つとされていたが、それどころではなかった。機関銃の音はまだ聞こえる。必死で射程外まで逃げた。
二、三時間も逃げただろうか。あの丈夫な軍靴が穴だらけになっていた。サンゴ礁や岩場の多い海岸線を登ったり降りたりしながら走ったのだから、当然だ。敵の追跡もないようなので、ひと安心といえばひと安心だが、どこにナンバーテンボーイが潜んでいるかもしれない。警戒しながら歩いた。途中、パパイヤがなっているのを見つけ、食べた。たしかに、時にはパパイヤも容易に手に入るようだ。
逃げる方向はウルグットで、これは、ダエンに来る時に歩いた逆方向だから、だいたいわかった。やがて、来る時に通った、見おぼえのある部落に来た。しかし、人の気配がない。連合軍側についている可能性がある。僕は、夜を待って海の中に入り、頭だけ出して、部落を通りすごそうとした。ところが、風が強い。浜から一定の距離をとることができず、沖へ流されそうになったり、岩礁にぶつけられそうになったりする。しようがないので、また浜に上がり、物陰に隠れながら、部落を通りすぎた。
部落をすぎると、崖に刻まれた一本道である。迷うことはない。ただひたすら歩けばいいのだ。そう思って、重くなった足をひきずりながら進むと、むこうの方に、たいまつの火のようなものが見えた。敵かもしれない。あるいは、ただの通りすがりの土人かもしれない。しかし、それが、さきほどの部落を捨てて連合軍側についた土人であれば、せっかくここまで逃げのびた苦労が無駄になってしまう。僕は必死に考えて、崖下の岩にぶら下がった。風はピューピュー吹きつけ、下では海がざわざわ鳴っている。数分後、僕の頭からほんの少し上を通過する足音が聞こえた。僕は目をつむり、息を殺して、じっとしていた。足音はやがて遠のいていった。そっと目を開けると、たいまつの火がゆらめきながら去っていく。助かった。ほっとして崖をのぼると、疲れが出たのか、ねむくてしかたがない。はいずるようにして少し進み、大きな木の根元で眠り込んだ。
目がさめると、午後少しすぎた感じだった。僕はまた歩きだした。
やがて、小さな部落に着いた。この部落もひっそりしている。警戒しながら通りすぎようとしていると、子供が走っていくのが見えた。ますます不安になって、僕も走ろうとすると、副酋長《ふくしゆうちよう》といったようすの男が現われて、
「お前は山の道を行くか、海の道を行くか」と聞く。僕がわざと、
「山の道を行く」
というと、彼は、それだけで、去っていった。僕は、これは何かあると思い、山道を歩かずに海へ出た方がいいと考えた。そして、ふんどし一本になり、万一のことを考え、短剣だけは身につけて海へ入った。ちょうどいい具合に、椰子《やし》の実がいくつも浮かんで、潮流に乗って流れている。僕が頭だけ出して泳いでいると、椰子の実にまぎれてしまうのだ。僕は子供の頃から水泳は得意だったし、いっそこのまま五十キロほど泳いでウルグットまで帰ろうかとも思った。しかし、体力もなくなっているし、ここいらの海にはサメもいるし、のんびりと泳いでいるわけにもいかない。五時間ばかり泳いで、夕方浜に上がった。ところが、それまでは浮力で支えられていた体重が、二本の足では支えきれない。しかし、休んでいるわけにもいかないから、はいながら進んだ。じっとしているのがひどく不安なのだ。
やがて、日が暮れた。足はいくらかなれてきたが、体が疲れていることには変わりない。危険はふえる一方だ。不安をつのらせていた時、目の前に大きな火があがり、ガヤガヤガヤという声がした。ナンバーテンボーイたちだ。炎をおとしたたいまつを隠し持っていて、僕の姿を見つけると、一箇所にそれを投げたのである。燃え上がった炎で、僕の姿がはっきりした。同時に、僕につかみかかってきた。僕は一目散にサンゴ礁の上を走った。あんなに疲れていたのに、よく走れたと思うほど走った。凸凹がはげしく、ギザギザの岩の上を転びそうになりながら逃げた。だいぶ引き離して、それから、海へ入った。このまま、ゆっくり泳いで行こう。そう思った時、僕は愕然《がくぜん》とした。暗い海の中で、まるで僕の場所を明示しているように、僕の体が光っているのだ。転びながら走っているうちに体中に小さな傷がいっぱいつき、そこから滲み出る栄養分《ヽヽヽ》に夜光虫がびっしりと付いているのだ。陸の方を見ると、土人たちがカヌーを出している。こうなったら、彼らが僕の所に来る間に、敵前上陸《ヽヽヽヽ》した方がましだと考えた。さいわいなことに、浜にいる土人たちから死角になった場所に巨木が倒れている。そのわきなら、かえって大丈夫だと思い、いそいで上陸して巨木の陰に行った。倒れていた巨木は中が腐ってトンネルのようになっており、僕は、そこを通って、椰子林のむこう側まで逃げた。
土人たちは海を探しているはずだから、僕は、奥地の方へ向かった。真暗な中をおびえながら進むと、木や|つた《ヽヽ》が人間の姿に見え、何度もどきりとさせられた。今度は、海の中とはちがって、体中に蚊がたかる。たたいてもたたいても、血のにおいをかぎつけるのか、おびただしい蚊なのだ。そのうち、木でもつたでもないものが目の前に出現した。むこうもこちらの動きを待っているのか、ハーハーハーという息づかいだけが聞こえる。両者とも金縛りになったように、一歩も動けない。このままではどうしようもないと思った僕は、短剣を握りしめたまま、
「ボーイ」
と、声をかけた。すると、相手は、
「ブーワー」
という。土人の言葉はピジン語といって、土着語と英語の混じったものなのだが、「ブーワー」というのは聞いたことがない。変だなと思ったら、ブタなのだ。僕はブタだとは知らず、ブタは日本兵だとは知らず、長い間、無言の対決をしていたわけだ。もっとも、このあたりのブタは、放し飼いのために半分野生化し、まるでイノシシのようだから、うっかり白兵戦《ヽヽヽ》に移らなくてよかった。
ブタはどこかへ去り、僕もさらに奥地へ進んだ。やがて、小高い山に行きあたったので、その夜は、そこで寝た。
翌日、目がさめると、体が自由に動かない。のどがからからだから、水をさがしたいのだが、その気力もない。そのままあたりを見ていると、小さな椰子の実が目に入った。木には、二メートルくらいの所に実がなっている。椰子の実にはうまい水が入っている。しめたと思ったが、木まで歩いて行けないのだ。しかたなく、はっていったが、今度は実を採るのにひと苦労。ゆさぶるやら、跳びつくやら、石を投げるやら、小一時間ほどしてやっと採った。ところが、苦難はまだ続いた。中の水を飲むには、固い皮に穴をあけなければならない。これも二時間ほどかかってやっとのことで穴をあけ、いざ飲もうとすると、疲労とカンゲキのあまり、手がふるえてうまく飲めない。ただでさえ小さい実の中の水は、半分も飲めないでこぼれてしまった。
とにかく、水だ。僕は平地の方に向かった。すると、ほんの小さな滝に出くわした。ここで水を飲んで、やっと正気にかえった。そして、川にそって歩いていくと、小さな土人部落があるのを発見した。これも敵か味方かはっきりしないので、日暮まで隠れていた。
そのうち、どうしたわけか、この川の下流の方に、中隊の炊事場があったことを|思い出した《ヽヽヽヽヽ》。よし、川にそって歩こう。もう助かったようなものだ。こう思って、僕は、夜の暗闇で浮草をまちがって踏まないことだけを気づかいながら、川にそって進んだ。まちがって浮草を踏みつければ、川の中に入ってしまう。熱帯とはいっても夜は寒いので、水に濡れることは特に禁物だし、川の中にはワニもいるのだ。
どんどん行くと、広い三角洲のような所に出た。月明りの下に断崖らしきものも見え、何かとても不気味な感じさえする。魔境というにふさわしい所だった。しばらくじっと見ているうちに、絶対に、中隊の炊事場など|あるはずがない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことに気がついた。おそろしくなって、川にそってもとの所にひき返した。
もとの地点の部落では、夜の宴会なのだろうか、タイコや歌が響き、たき火も見える。その様子を対岸から見ながら、木の間に入って寝た。
翌日、目がさめると、昼頃だった。対岸の部落を見ると誰もいない。テイサツに行くと、家はもぬけのからだったが、カマドが暖い。カマドといっても、土を掘っただけのもので、中はふわふわした灰でいっぱいである。そこが暖いものだから、とても心地よさそうだ。体を入れてみると、真綿かマシマロに包まれたようで、知らぬまに目を閉じていた。
起きた時は、日差しは午後の四時頃を示していた。体はもちろん灰だらけ。寝ている間に何もなかったのが幸運だった。しかし、ぼやぼやしてもいられない。僕は、小屋を出た。部落からは一本の道が出ていた。とりあえず、これにそって行くことにした。
やがて、海岸に着いた。そこには一軒の小屋があった。土人の家にしては感じがちがう。中をのぞいてみると、日本軍の被服がある。その上、食い物らしきものもある。梅干精《うめぼしせい》という丸薬のようなものだ。思わず口に二つ三つ放り込むと、とてもあまい。本来なら塩からいはずなのに、あまく感じたのだ。その時、足音が聞こえた。どきっとしてふりかえると、海軍だった。この小屋は、海軍の小基地だったのである。海軍サンは、僕に砂糖水を飲ましてくれた。甘露とはこのこと、本当にうまかった。
「もう一杯」
僕はそういったが、ことわられた。砂糖は貴重品なのであった。
海軍は大きな無線装置を持っていたので僕らの事情はよく知っていた。
しばらく海軍サンの所にやっかいになることになった。同じ軍隊でも、海軍と陸軍は別物ということになっていたので、陸軍では二等兵にすぎない僕も、海軍にとってはお客様だから、まるで下士官待遇だった。近々、ウルグットから小隊が来るというので、僕はそれまでゆっくりと休んでいた。
やがて、陸軍がやってきた。すると、もはや、単なる二等兵になってしまった。陸軍は数日後、ウルグットに帰ることになり、僕も一緒について帰った。
ウルグットの中隊では、人事係の曹長などは、ニコニコして迎えてくれたが、小隊長からはひどくしかられた。
「陛下からもらった銃を捨てて、よく帰ってこられたな」
と、いうわけだ。そんなものかなと、たいして気にもかけなかったが、次は、中隊長がお呼びである。中隊長室に行くと、
「みんなが死んだのに、お前はなぜ逃げて来たんだ。お前も死んだらどうだ」
という思いもかけない言葉。これでは、何のために、あれほど苦労して逃げまわったのかわからなくなる。
中隊長も、口では怒ったけれど、まさか僕を殺してしまうわけにもいかない。間もなく死に場所を与えてやるから、その時は、まっ先に死んでくれということだった。
僕は、みんなに喜ばれ、祝福されるものだとばかり思っていたから、ガクゼンとした。
そのうち、ラバウル全体(つまり、ニューブリテン島全域)で、じりじりと戦況が不利になってきたようだった。僕が世話になった海軍の小隊も敵襲に会って退却した。空襲もはげしくなったし、魚雷艇もよく出没するようになった。我々の中隊では、敵が裏山にいて通信をしていると推測し、出動することになった。雨の午後、出撃し、いくらかの負傷者を出したが、戦果はさほどあげることができないで終った。
この時、体がずぶ濡れになったのが悪かったのか、数日後四十二度の高熱が出た。マラリヤである。十日ばかり、高熱にうなされながら寝て、やっとおかゆが食えそうになった頃、空襲である。爆弾が落ちたと思ったら、左手に痛みが走った。
すぐ近くに衛生兵がいたから、かけ寄って止血してくれた。それでも、血はバケツ二杯も出たような気がした。もっとも、実際にそんなに出たら、とっくに死んでいることになるのだが、印象としては、そう感じるほどひどかった。いずれにしても、衛生兵の機敏な手当てがなかったら、死んでいたことはまちがいない。
翌日、軍医が、軍用の七徳ナイフのようなもので腕を切断した。この時、軍医が「出血多量だから、輸血した方がいい」と言った。すると、小隊長が自分の血を輸血してやると言い出した。
「お前の血液型は何型だ」
僕は、A型なのだが、うちつづく打撃のためにぼんやりしていたのであろう、思考力が減退してしまって、
「たぶんO型でしょう」
と答えた。
もし、この時、軍医が僕の言葉を信じていたら、血液型が合わず死んでいただろう。しかし、軍医は、「こいつは、マラリヤで何日も高熱を出しているから、正常なアタマではない」と判断し、輸血は中止し、安静にさせる、ということになった。これが、偶然僕の一命をとりとめたわけだ。
人間が生きているということには、自分の力以外にどんなものの力が作用しているか知れない。自分の意志以外の様々な要素が自分を生かしているとしか考えられないことを軍隊生活では如実に体験した。
出血多量と腕の切断とで意識を失い、気がついたら、あくる日の午後だった。
薬も足りなければ、栄養状態も悪かったので、腕を切った後はなかなかよくならなかった。ウジがわいたりするほどで、「これでマラリヤが発症したら終りだ」といわれた。だが、奇蹟的にマラリヤも発症せず、腕のきず口もしだいになおってきた。
それから一月ほどして、ココボから食糧輸送のダイハツがウルグットについた。ダイハツがココボに帰る時、「負傷者は乗れ」ということで、僕のほか数人だけが便乗した。途中、魚雷艇に襲われるのではないかと思われたが、海が荒れて塩水をかぶるという被害だけで、ココボに無事帰着した。
クラクネイの野戦病院では一日中寝てばかりいた。食糧は今までの半分で、常に空腹だった。ある日、
「おまえの中隊の者が一人入院したぞ」と言われたので、誰だろうと思って見にいくと、気の荒い兵長だった。病名は知らないが、下半身が爛《ただ》れて腐ったようになっており、上半身もそうなりかけ、皆から疎んじられたのか、防空壕の入口に寝かされていた。
僕の姿を見ると、力なげにニヤニヤと笑い、
「おらぁもう長うない。|お前さん《ヽヽヽヽ》、最後の願いを聞いてくれ」
という。僕は、彼に「さんづけ」で呼ばれた記憶はそれまでになかった。彼は、そういいながら、僕に手を伸ばしてくる。あんまり握手したいような手ではなく(カサブタだらけ)、僕は、ふりほどきながら、「な、なんでしょうか」と尋ねた。
「おらぁ、パパイヤがほしい。お前さんなら、何とかしてくれると思って」
兵長は、からみつくようにいう。僕は、
「兵長どの、二、三日中に手に入れます」
と約束した。
運よく、あくる日、大きなパパイヤを手に入れることができた。兵長の所へ持っていこうと思ったが、「二、三日中に」と言ってあるし、慢性ハラペコ状態の僕にとって、目の前のパパイヤの誘惑は強すぎた。僕は、そのパパイヤをとうとう自分で食べてしまった。
その次の日の夜。
「お前の中隊の兵長が死んだぞ」と衛生兵に言われた。僕は、びっくりして、すぐに防空壕に駆けつけたが、誰もいなかった。「安置所の方だろう」と言う人がいたので行ってみると、係の衛生兵は、「最近は死人が多いので、すぐ埋葬する」と言う。
しかたなく、自分の病舎に帰りかけたが、夜のことでもあり、道をまちがえてしまった。野戦病院は空襲を避けるためジャングル内にある上、道も細いので、まよったわけである。
それでも、さほどのことはないので、気をつけて道をとって返した。しかし、気になるのは、兵長に食わせるべきパパイヤを自分で食ってしまったことである。うしろめたい罪悪感が胸に去来した。
土人とトモダチになる
やがて、半年ほどすぎて腕の傷口もふさがり、マラリヤの症状も止まった頃、実戦に使えない傷病兵だけをナマレという所へ集めるという話が広まった。僕の隣の病床にいた軍曹は、
「ツルブ撤退の時、足手まといの傷病兵を一箇所に集めて、強制自決をさせた」
などと不穏なことを言う。
皆の間に不安が拡がるうちに、結局、傷病兵たち全員は、ナマレに送られた。
ナマレでは、噂のような集団自決をさせられはしなかったが、空腹に悩まされた。軍律はわりとゆるやかだったが、その分、エサが少ない。
掃除などの軽い作業がすむと、僕は、近所をテイサツに出かけた。食い物を求めてである。しかし、なかなかうまくいくものではない。ゼンマイや食えそうな草などを探してきて食おうとしたが、アクが強すぎてだめだった。うっかり広い所を歩いていて、敵機の機銃掃射を受けたこともある。走ろうとしても、まだ片手を無くしたばかりで重心がうまくとれず大あわてだった。
そんなある日、土人の小部落を見つけた。病舎のあたりにも、時々土人たちが通りかかったりしていたが、彼らの部落なのだ。その部落は、いかにも住み心地がよさそうなフンイキをただよわせている。南国だからただでさえ景色がいい上に、そのあたりは、草花や樹々が美しいのだ。僕は、一目見て、これは「天国の部落」であると思った。
ぼんやり部落を眺めていると、一軒の家から婆さんが出てきた。僕と目があうと、婆さんはにこりと笑った。僕も、にこりと笑った。それから、一人の少年が出てきた。少年も僕の顔を見ると、にこりと笑った。僕は、ピジン語(土着語と英語との混合語)のカタコトで少年と話をした。
少年の名はトペトロ、婆さんはイカリアンといった。彼らに連れられて家に入ると、ちょうど食事の時間だったので、土人たちはメシを食いはじめ、僕にも食えという。僕は、本当にここは天国だと思い、もしゃもしゃ食いはじめた。よほど腹が空いていたのか、そのあたりの食い物はほとんどたいらげてしまった。
イカリアンとトペトロは困ったような顔をしている。そこへ、男女二人の土人たちが入ってきた。女の土人はなかなか美しく、病舎のあたりを時々通りかかった見覚えのある顔だった。そんな時、僕は、ステキな女だと思って見とれていたので、この男女が入ってきた時、うれしくなった。しかし、すぐ、この二人が夫婦であるとわかって、がっかりした。女はエプペという名で十六、七歳なのに、もう主婦なのだ。夫はトユトといった。がっかりしただけではすまなかった。僕が食物を食べてしまったので、二人の分がないのだ。二人は(たぶん仕事をして帰ったのだろう)腹が空いているので文句をいっていたが、まあ、食べてしまったものはしかたなかろう、というようなことになったらしい。
二、三日後、僕は、また土人部落をおとずれた。ちょうど、月に一度の煙草の配給があった時なので、先日のおわびといおうか、お礼といおうか、煙草をあげようと思ったのだ。
エプペとトユトは、パンの木の実を焼いていた。これは、焼くとパンそっくりの味のする実がなる木で、南方だけのものだ。僕が煙草をさし出すと大喜びで、焼きたてのパンの実をくれた。今度も、僕は、彼らの食い分を侵す勢いで食べた。
こんなふうにして、僕は土人たちと仲好くなった。だが、こういうことは、ラバウル中でも珍しいことだったらしい。土人たちにあまり親しくつきあってはいけないというような上層部の方針もあったようだし、そうでなくとも、ブンメイ人とミカイ人という双方の警戒感とでもいうものが働いて、仲好くなるということはあまりなかったのだ。
しかし、僕にしてみれば、部落の最初の印象が「天国の部落」だったわけだし、食い物はあるし、ハダカの人間どうしのつきあい(なかば文字通り)という感じはするし、何のカキネもなかった。
土人たちの生活ぶりは、僕が子供の頃からあこがれていた「遊びと食うことが一致している」生活のようで、軍隊で苦しい目にあっている僕にとっては全く天国なのだ。僕は、部落へ遊びにいくたびに観察していたのだが、彼らは、一日に三時間ぐらいしか働かない。熱帯の自然は、それぐらいの労働で十分に人間を食べさせてくれる。熱帯だから、衣料や住居も簡単でいい。人間が自然に対して闘いを挑むのではなく、自然が人間を生かしてくれるのだ。
土人部落に入りびたっているうちに、僕は「パウロ」と呼ばれるようになった。彼らの小屋に、宣教師の持ち込んだものらしいローマ字の聖書があったので、何気なく大声で読んでいると、その箇所に、やたらパウロ、パウロと出てきたため、聞いていた土人たちが僕を「パウロ」という名にしてしまったのである。
やがて、あまりタダメシばかり食っているのも悪いと思って、僕は畑でも作ろうと考えた。そのあたりの草をとったり、ヘラで土を掘り返したりしていると、トペトロやイカリアンは「だめだ、だめだ」という感じで冷笑的である。そんな場所では、イモは育たないというわけだ。僕は、日本にいる頃からイモが好きで、少年時代はよくイモを食った。土人たちのくれる食い物は、パンの木の実や落花生や果物などいろいろだったが、中でも、紫色をした小さなイモが一番うまかった。僕は、このイモの畑を作ろうとしたわけだ。
ある日、トペトロ少年が病舎に僕を呼びにきた。
「パウロのガーデン(畑)ができた」
というのだ。行ってみると、僕のために、ジャングルが切りひらかれ、三十坪ほどの畑が作られていた。もはや、単なるトモダチ以上の存在になりかけていた。
傷病兵としての仕事は、軍務はできないから、作業だった。足をやられた者は、縄を作ったりする手仕事だった。手のない者は、畑仕事だった(といっても、片手のない者だけだったが)。
僕も畑仕事をやらされたが、頭上にはいつも敵機がいて、仕事中に機銃を射ってくるから、芋畑のうねに頻繁に隠れるという畑仕事だった。
我々のいた所は、山の上の方だったから、雨が降らないと水がなかった。
洗面などは、天水をためておいた水槽からほんの少しだけ出した水でした。水が少なくなってくると、一口の水で口をゆすぎ、その水を手に出して顔を洗うといった省エネの水の使い方だった。この習慣が身についてしまった僕は、後に復員してからも一年ほどは、一口の水で、口と手と顔を洗っていたほどだ。
だから、風呂へ入るとか体全体を洗うなどということは、スコールの時ぐらいしかできなかった。しかし、僕はマラリヤだったから(マラリヤは、出たりひいたりする)、体を冷やすのはよくなかった。それで、もうかれこれ一年ばかり体を洗ってなかった。熱帯で重労働をさせられているのだから、体はベタベタして気持ちが悪かった。
ある時、スコールが来た。僕は、思わずとび出して体を洗い、一年分のアカを落とした。まるで体が地上から三十センチばかり浮いたような気がするほどさわやかになった。
しかし、それがいけなかったらしく、四十二度の高熱が出て、三日たっても下がらない。マラリヤは、マラリヤ三日熱といって、三日でいったん熱が下がるものだが、今度は、一週間たっても十日たっても下がらなかった。食物も食えず、どんどんやせていった。
僕たちは、防空壕兼用の穴の中で寝ていたのだが、十日目には、もうだめだということになったのだろうか、入口付近の風通しのいい一等席に寝かされた。
それから、二、三日して、頭が熱でおかしくなってしまったのだろう、夜中、大雨の中を歩き出した。おぼろげながらおぼえているところでは、軍医の所へ行くつもりだった。穴の前にある道は、雨が降るとまるで川のようになる。僕は、その川にそって歩いているうちに、足をとられて流された。気がついた時は、どしゃぶりの雨のジャングルの中で倒れていた。
ああ、これで俺はおしまいだな、こんな所で、こんな死に方をするとは思わなかった――こんな懐《おも》いが、不思議に大した恐怖心もなく湧きあがってきた。その時、自分を照らしている懐中電灯の光には気づいていなかった。
何人もの兵隊が、僕を探しにきていたのだ。
「脳症だ」
という声だけをおぼえている。
僕は、やたらと注射をうたれた。
それまでは、僕は、少しぐらい熱があっても物が食えるというのが自慢だったが、さすがに今回だけはダメだった。食事は、芋か「乾《かん》パンめし(乾パンとめしをいっしょに煮たもの)」だったが、全く食う気がおきなかった。果物なら食えそうだったが、日本軍には果物はなかった。
少しして、注射が効《き》いたのか熱は下がったが、食欲だけは相変わらずなかった。
壕の入口でぼんやり外をながめていると、トペトロが来た。様子を見に来たらしい。
「おい、トペトロ」
僕は、彼を呼び寄せて、
「果物を持ってきてくれ」
と言うと、「OK」と答えて帰っていった。
やがて夜になり、虫が鳴きだした。僕の足を冷たいものがぴたぴたとさわる。トペトロだった。パパイヤやバナナをかかえている。僕は、果物をむさぼり食った。
一週間ほど、トペトロや、その友人たちの持ってきてくれる果物を食っていると、僕は、みるみる元気を回復した。乾パンめしもノドを通るようになった。
体の調子もよくなり、これで生きられるかもしれないと思った。
終戦、ラバウルを去る
少女(で主婦)エプペの両親は、この部族の小|酋長《しゆうちよう》だった。酋長は、この小部落から少し離れた部落に住んでいた。僕は、この酋長の所へ遊びにいった。
僕が、エプペや、トペトロやエプペの夫トユトたちのトモダチであり、イカリアン婆さんなんかは、トモダチ以上のナカマと見做している、というようなことが告げられると、酋長はにこにこと笑った。彼は、小さな貝を竹に通した「カナカ・マネー」をたくさん持っており、「どうだ、すごいだろう」とばかりに、僕に見せた。そして、一メートル分ほど僕にくれた。この貝の貨幣は、三センチ分で煙草の葉一枚、四センチ分でパパイヤ一個、十センチ分でバナナ五本と交換できるのである。酋長の家には夕方までいて、心も腹も豊かになって帰った。夜道には、バクテリアの作用か、腐木が光を放ち、まるで童話の世界のように楽しい感じだった。
ある日、トペトロ少年が走ってきた。「パウロの大切なガーデンが荒らされている」というのだ。あわてて行ってみると、日本軍の通信隊が電柱を一本立てていったのだった。イモ五、六本の損害にすぎないのだが、わざわざ知らせてくれたのだ。僕は、トペトロにフンドシを一枚やった。フンドシということは、晒木綿《さらしもめん》の未加工の布ということだし、当時の物のないラバウルではとても貴重なのである。トペトロはそれでマスクを作った。このあたりの日本軍は、傷病兵か衛生兵がほとんどだから、マスクをしている者が多い。トペトロ少年はそれを見ていて真似たのである。カッコいいと思ったのだろう。
僕が食事当番をしている時だった。トペトロとエプペがやってきて、
「パウロ、シンシンだ」
と、目を輝かせながら言う。シンシンというのは祭りの踊りのことである。季節が近づくにつれて、土人たちはシンシンの話でもちきりになり、僕はシンシンが見たくてたまらないものだから、ぜひさそってくれといっておいたのだ。
僕は、バナナ一房で食事当番をかわってもらい、シンシンを見にいった。
シンシンの場所に近づくにつれて太鼓の音が聞こえてくる。すると、トペトロやエプペたちは浮き浮きしだし、驚いたことに、イカリアンのような婆さんまでもキャッキャッと叫びながら走りだすのだ。
シンシンの会場には、三百人ほどの土人たちが集まっており、トペトロの父親が中央にいた。僕は、この酋長は支族の酋長だと思っていたのだが、部落の総酋長らしいので驚いた。僕の姿を見ると、にこにこ笑って、自分の隣の一番いい席にすわらせてくれた。
シンシンは、しだいに佳境に入っていった。五十人ほどの土人が四列に並び、大地を踏み鳴らし絶叫する踊りに僕はコーフンした。ジャングルにこだまする音響は、人を酔わすのに十分だった。続いて、百人ばかりの「メリー(女)」たちの踊りが始まった。男たちはトカゲの皮の太鼓をここぞとばかりたたく。僕も、まるで大昔からこの地に住んでいたかのような錯覚をおぼえ、すっかり陶酔してしまった。
こんなふうに土人と「ナカマ同然」のつきあいをしているうちに、だんだんそういう噂が皆に知られるようになった。そして、土人と日本兵とのケンカの仲裁役に呼び出されるようにもなった。たいていは日本兵のイモ泥棒だった。土人たちのいうには「やらんというのではない。腹がへっておればやる。しかし、黙ってとっていくからいけない」というわけだ。土人の方が筋が通っているのだが、僕を呼び出したのは、同じ日本兵としてのヨシミを期待してのことだったから、板ばさみになって僕はいつも苦労した。
僕の軍律を半ば無視した土人部落通いは、軍の上層部の耳にも入り、「どうもあいつは狂人だ、何度注意しても言うことをきかない」ということになった。だから、普通の病舎ではなく、オリのついたアナグラに閉じこめるべし、とウルサ大尉は主張した。しかし、上層部の中に、軍人らしからぬ軍医がいて(よく軍刀を紛失していた)、僕をかばってくれた。それでオリに閉じ込められずにもすんだ。
やがて、僕のガーデンのイモが食えそうになった頃、終戦の報が入った。
僕は、土人部落へ行った。そして、お別れであると言った。皆、口をあんぐりとあけて聞いていたが、やがて、他の者もイカリアンの家に集まってきた。そして、口をそろえて、ここに留まれという。家も作ってやる、畑ももっと大きなのを作ってやる、軍隊を脱走してこい、というのだ。特にあばたの未亡人のトンブエは、僕に気があるらしく、熱心だった。イカリアンとエプペは、この小部落にもまもなくシンシンの会場ができる、という。
たしかに、こんな美しい景色の下で生活し、夜は虫たちのオーケストラ、昼は小鳥のさえずりが聞けるとなれば、何も日本へ帰る必要もないはずだ。
僕は、その夜、例の軍人らしからぬ軍医に、現地除隊したいと話を切り出した。すると、さすがに、僕の良き理解者だった軍医もおどろき、
「現地除隊は可能ではあるが、そんなバカなことをする奴は、ラバウル十万の将兵の中に一人もいまい。とにかく、一度日本に帰って、両親に相談してからでも遅くはないだろう」
と言う。そう言われれば、そうかもしれない。様子を見に来たトペトロに、やはり日本に帰ることになりそうだと告げ、その夜は寝た。
あくる日。部落中のほとんどの土人が病舎にやってきて、日本兵たちは何事ならんとびっくりしている。
「イカリアンがひどく悲しんでいる。来てやってくれ」
と言うのだ。顔を見ると、みんな真顔だ(土人は、ふつう笑顔)、僕も神妙な気持ちになって、すぐに部落へ行った。
イカリアンは婆さんだが、日本の老人という感じではなく、皆から尊敬と信頼を受け、いわば「大地の母」という存在だった。イカリアンのまわりに土人たちが集まり、悲しそうな目で僕を見るのだ。僕も、土人とナカマ同然だったといっても、心の片隅に、僕はブンメイ人、土人はミカイ人というさげすみの心がなかったとはいえない。ここで楽しく仲好く過ごすことは大好きなのだが、日本に帰らなくなることを予想していたわけでなかった。しかし、土人たちは、完全に僕をナカマそのものだと信じていたのだ。その衷心《ちゆうしん》からの信頼の前に、僕は真剣に考え込まずにはいられなかった。僕は、イカリアンに「十年したら、必ず来る」と約束した。すると、部落の者全員が一勢に、ウエーという声を出し、
「ダイピニス(死んでしまっている)」
と言う。そして、トユトが「三年で来い」と言う。三年では、ラバウルまでの旅費ができているかどうか自信はない。
「七年したら必ず来る」
僕は、そう言った。
やがて、イカリアンたちは、プチ(犬)を丸焼きにした。中国、朝鮮、東南アジアなどの一部では、犬を食う風習があるが、土人たちも犬を食べるのだ。犬は、残飯だけでなくクソもエサにしているので、僕は、あまりうれしくはなかったが、土人たちにしてみれば、プチをつぶして食うなどということは、年に二回か三回の大ばんぶるまいなのだ。
いよいよ、ナマレから離れるという日、エプペの父までやってきて、僕は固い握手をした。それは力のこもった真実の握手だった。ポカンと見ていた他の日本兵たちには、この土人たちとの握手は理解できないものだったろう。
復員兵たちの戦後
すぐに復員するのかと思っていたら、ラバウル十万の兵隊は、一万人ぐらいずつの単位に分けられて、順番を待つことになった。船が足りないのだ。
僕は、ガゼル集団という所に連れて行かれ、静岡の部隊に転属させられた。僕の中隊は、その後、玉砕したことになっていたから、帰るべき隊はないのである。しかし、|現実には《ヽヽヽヽ》僕と同じように五、六十人は生きており、ばらばらに転属させられた。
戦争が終った軍隊が何をしていたかというと、食料の自給だった。朝暗いうちから起こされ、ジャングルの前に一列に並ばされ、そのまま前進して開墾という作業だった。遅れをとってはいけないと、僕も他の兵隊と同じように並んで仕事をした。
僕は、五体満足な者に負けないという自信を持っていたから、「起床」と掛け声がかかると同時に、片手だけでも三十秒でゲートルを巻いて作業にかかった。
ナマレで、手足がなくても普通の人と同じように作業ができる訓練を受けていたから、風呂当番でも何でもやった。蚊帳《かや》のつり方がわるいといって、曹長になぐられたこともあったが、僕にしてみれば、五体満足な者と区別されたくないから、それほど腹も立たなかった。
何をやらされてもできるというキモチでいたし、現に、工夫すれば何だってできた。不具でも、普通の人と同じようにできれば、それは不具ではないのだ。
しかし、中隊では、不具の者に同じ作業をさせるのはかわいそうだということになったらしく、僕は、開墾作業から除かれ、一人だけ兵舎のまわりの掃除と風呂たきなどを命じられた。ところが、僕は、やればできるのに、一人だけ軽作業の方にまわされたことが、かえって面白くない。自分だけ差別されたような気持ちになった。
兵隊たちの間に、病気が流行《はや》りだした。重労働で低栄養だったから、無理もない。マラリヤも多かったし、黒水病というものも発生した。これは、昨日まで元気だった者が、次の日には、血の小便を出して死ぬというものだった。
兵舎の前に墓標がズラリと並び、それが毎日のようにふえ、明日は自分が黒水病になるんじゃないかと、皆が思っている頃、突然、駆逐艦「雪風」が来たという。これが引き上げ船だった。
昭和二十一年の三月だったと思う。
「雪風」に乗ってラバウルを出港する時は、感無量であった。何度も死にかけて、左腕を無くし、人生の一大転機を体験したからだ。
浦賀に上陸して、第三陸軍病院(今の相模原病院)に入った。左腕は、戦地では応急処置だけだったから、本格的な手術をする必要があったのである。
しかし、順番待ちが大変だった。なにしろ、患者は多い。その上、医者が少ない。医薬品は足りない。だいたい、病院そのものが、名前は立派だが、タタミ敷きのバラック同然の建物だった。
僕の順番が来るまでに三ケ月はかかると言われ、しかたがないから、いったん郷里の境港に帰ることにした。
僕は、片腕になったことは、戦地からは知らせてはなかった(ラバウルは孤立していた)。だから、上陸してすぐ、いちおう知らせておかなければいけないと思って、手紙を出しておいた。だが、文を書くのもメンドウなので、ハガキに片腕になった僕の絵をかいて送っておいた。命をなくした人も多いのだから、片腕ぐらいと、わりと気楽に思っていたが、親はショックを受けたようだった。
僕が帰ると、母は、片腕というのがどれくらい不自由なものか、ハガキが着いてから一週間ばかり、片腕で炊事をやってみた、と語った。しかし、父はちょっと変わりものだから、僕を駅まで出向かえに来たまではいいのだが、
「お前、片手はどのくらいになったか」
と言ってソデをさわり、
「あっ、あっ、えらい短いな、これくらいはなけらにゃいかんよ」
と言って、指で三十センチぐらいを示した。家に着くと、兄弟たちは、
「しげるは、昔から横着者で、両手を使うところを片手でやっていたから、一本になっても同じだろう」
と言う始末。母は、僕の仕事についても心配していて、
「お前は孤独に強いから、灯台守りなんかどうか」
とも言った。しかし、僕は、ねむたがりだし、灯台守りはむかないと思った。
僕は、もともとわりと楽天的なところへもってきて、南方ボケとでもいおうか、物事を考えるリズムが少し|ゆるく《ヽヽヽ》なっていたらしく、生きているというだけで、なんとなく楽しい感じで故郷の生活をすごしていた。少しすると、相模原病院から連絡が来た。腕の手術も受けなければならないし、田舎にいてもしかたがないし、上京することになった。当時、相模原病院は、傷病兵の暫定的宿泊施設のようなものであった。
腕の手術というのは、切断面に露出している骨をつつみこむ手術である。麻酔剤が不足しているため、ずいぶん痛い手術だったが、経過はよく、十日ばかりで完治した。
しかし、食事がソマツで、トウモロコシの粉で作ったかちかちのコッペパンばかりだからたまらない。といって、仕事をしようにも手足のないものができるような仕事は、戦争直後といった状況では、ほとんどない。僕は、左腕がないこと以外、いたって元気だし、とりわけ胃は元気すぎるので、非常に困った。そこで思いついたのが、ヤミ米の買い出し屋である。
千葉の農家まで出かけて米を買い、東京へ持ってきて売ると、一回で五百円ばかりもうかる。その金で、新宿の闇市のオカラずしを食ったりするのだ。オカラずしというのは、オカラの上にタラやイカをのせたものだ。安いのがとりえで、十円で十個だったから、五百円もあれば豪遊できた。そのうち、買い出し屋を本格的にやろうという気になってきて、東北方面にまで足を伸ばした。超満員列車で苦闘しながら、秋田まで着くと、大切なサイフがない。米を買う金がなくなったどころか、帰りのキップを買う金もなくなってしまった。やむなく外套を売って(当時は、衣類はすぐ金になった)、やっとのことで帰った。買い出し屋のプロにはなれないなあというのが教訓だった。
相模原病院には、奉仕活動に来ている中年のクリスチャンの女教師がいた。僕が、彼女に、買い出し屋失敗談の話をすると、彼女は、
「ヤミ屋というような罪深い仕事をしてはなりません」
と言う。そして、僕が絵を描くことが好きだと知ると、「わだつみ像」などで知られる彫刻家の本郷新氏のデッサン教室を紹介してくれた。スケッチが主だったが、モデルは、裸婦ならぬ裸夫。少しがっかりしているところへ、例の南方ボケで細かい所に気がつかず失敗をする。寒い頃だったので、ストーブをたくのだが、燃料のマキは自給しなければならない。なにしろ、外食する時は、メシ屋に外食券なるものを持参するような時代だから、マキだって豊かにあるわけではない。生徒たちが持ち寄らなければならないのだが、僕には、それができないし、その上、それを気にもかけない。南方に慣れて暖い所が好きだから、あたる時だけ一番前で手をかざしていた(片手だが)。これには、先生も、かなりズブトイと思ったらしく、「お前は、何もせんのか」と一喝。こんなぐあいで、しだいに足も遠のいていった。
ちょうどそんな時、病院直属の染物工場で、染物の下絵の見習い職人を募集していた。ここへ就職すれば、このまま病院にいる都合もいい。さっそく仕事をやらせてもらったが、ここでも例の南方ボケで細かい所を気にしない。円い図柄をタマゴ型に描くという鷹揚ぶりを発揮。見習いだということで、なんとか許してもらっていた。
その頃、武蔵野美術学校というのが学生を募集していることを知った。タマゴ絵ばかりいくら描いていてもしかたがないし、ここで勉強すれば、将来は、好きな絵を描いて食っていけるだろうと思って、鬼門である受験に挑戦してみることにした。武蔵野美術学校は、現在では、武蔵野美術大学となって、有名な美術関係者たちが輩出しているが、当時はまだ、田舎の分教場のようなもの。それだから、あえて挑戦したのだが、やたらと受験生がつめかけていたので、ほぼあきらめていた。ところが、年齢もいっている上に、片腕で受験したことが評価されたのか、奇蹟的に入学できた。
ほっとした折も折、病院直属の染物工場が閉鎖ということになった。こうなると、いつまでも病院にいすわっているわけにもいかないし、何よりも、トウモロコシ粉のパンだけでは、病院を出るまでに飢え死にしてしまう。困っていると、同室の「馬」というあだ名の顔の長い男が、しきりに髪をとかしてニタニタしているのに気づいた。どうしたのかと聞くと、教会へ行くのだという。馬氏は、教会に集まってくる可愛いい娘たちが目当てで、僕にも、行こうとさそう。娘たちだけではなく、親切な牧師がイモを食わしてくれるともいう。僕は、娘よりもイモに惹かれて、馬氏とともに教会へ行った。行ってみると、たしかにイモが出された。牧師の考えでは、まず肉体を救い、同時にタマシイを救うという発想だったのだろうが、僕は、おおむね肉体ばっかり救っていた。当時、あれだけ肉体を救ってくれる人は少なかったので、僕は今に至るまでこの牧師には深く感謝している。
教会の集会は毎日あるわけではなし、おいおい病院も出なければならないし、南方ボケの頭で、深刻にならない程度に悩んでいると、やはり同僚で、片腕がない上に残った手も指が二本ばかり欠けている熊谷《くまがい》という男が「秘密の会合があるから、出てみないか」と言う。政府転覆の秘密結社でもあろうかと、退屈しのぎで出かけると、青山の旧陸軍兵舎跡の一角に「新生会」なるものがあった。ところが、この新生会、何のことはない、引揚《ひきあげ》者や傷病兵たちの圧力団体を作って、国からいくばくかの助成金をせしめようというチャチな秘密結社。会長なる大人物というのが、上海で土木事業をやっていて片手を切断したという四十歳ほどの小男。この会長は小谷氏といった。
小谷会長のいうには、新生会を大きくするには、まず建物が必要であるという。そして、好都合なことには、青山に四階建の焼ビルがあり、所有主は東京都なのだから、住みついてしまえばこっちのもんだ、というわけだ。
「どうです。こうして、ゆくゆくは、傷病兵たちの会として大事業をやるんです」
てな話を聞いているうちに、僕も新生会の会員にされてしまった。
小谷会長は敏速な人だった。ただちに行動に移ることになった。
握りメシとフトン数枚とムシロ数枚を携行し、これより、夜陰に乗じて占領を決行する、というしだい。小谷会長を先頭に、人通り絶えた大通りを通り、無人の焼ビルに無血入城した。
ビルは電気はなしガスはなし、窓は破れて風は入り放題。まだ寒い季節だったから、住み心地はいたって悪い。最上階の四階に、三畳ばかりの便所か炊事場かだったとおぼしい場所があり、ここだけは落ち着けそうなのでムシロを敷いて占拠した。やがて、就寝ということになったが、掃き出し口なのか、換気用なのか、窓が下の方についていることに気がついた。寝ているうちに、窓から地上まで真逆さまとなっては一大事だから、トタンをさがしてきてふさいだ。
夜半、足音が聞こえ、入口をゴトゴトやる音がする。何事ならんと開けると、アメリカ兵とパンパン嬢である。毛布を貸してくれという。寒くて、デケナイというわけだ。毛布なんてものはないので、ムシロを一回十円で貸してやった。
翌朝、まだ明けきらぬうちに、下半身が寒くて目がさめた。寒いも道理、トタンをけとばして、両脚を虚空につき出していたのである。
魚屋を開業する
我が新生会は、このまま焼ビルに住みつくことになり、僕も、相模原病院をすっかりひきはらったのだが、東京都から文句が出た。小谷会長は、それも予想されたテキの行動とばかり、はりきって交渉にあたったのだが、もともとこちらは不法占拠なのだから理はない。ぎりぎりがんばって、七十万円で払い下げるという結論が出た。しかし、当時の金で七十万円といえば、家の三、四軒は建つ金。そんな大金があれば、はじめから焼ビル占拠なんかはしない。とうてい買い取りはできないというと、東京都は、月島《つきしま》に引揚者用の寮が五室ばかり空いているのを斡旋してくれた。住む所はなんとかなったが、食うためには仕事もしなければならない。
ちょうど、そんな時、海軍大尉だった兄が戦犯になったという連絡が入った。ニューギニアで、B29の搭乗員を命令によって処刑したのが有罪だというわけだ。命令を下した上官たちは戦死してしまっているので、兄に責任がかぶさってきたのである。兄はローヤにぶちこまれてしまった。残されたのは、両親と病妻と子供一人だった。
こりゃ、僕もしっかりやらにゃならん、と思ってはみたが、なにせ、指導者と仰ぐ小谷会長閣下が、なかなか大事業に着手されない。そうこうするうちに、渋谷のマーケットで魚屋を経営している大井という野心家が、新生会の組織力にチャクモクした。
当時、魚屋などの食料品店は配給制だったから、新規に商売を始めようとするには、顧客の登録を三百軒分とらなくてはならなかった。登録があってはじめて、魚市場がその人数分だけの配給品を魚屋に卸すのだ。ところが、どこの家でも登録をしておかなければ配給が受けられないから、既に、登録をすませている。そこをなんとか登録を三百軒分受けつけて新規開店ということは至難の業である。野心家の大井は、販路拡大を夢見て、この難事業を新生会の組織力で人海戦術でなしとげようと思ったわけだ。
新生会は登録とりを開始したが、なかなかうまくいかない。渋谷のマーケットに様子を報告に行くと、魚屋の隣の下駄屋の元陸軍大佐は、
「今、日本は、ちょうど天照大神が岩屋に入っておられる時期じゃが、間もなく岩屋も開く。それまでのしんぼうじゃ。がんばれいっ」
と、ゲキレイ。魚屋のむこう側の隣は運動具店で、ここの主人は、元陸軍中将。元気のない僕たちにむかって、
「登録がとれぬ? 突撃! 突撃! また突撃あるのみだよ!!」
白髪頭《しらがあたま》をふるい、杖をふるって力説。しかし、こんな声援があったところで、登録がとれるわけでもない。みんな、数軒ずつ義理のようにとってきては、もう、おれはおりる、などといって新生会を去っていく。結局、かなりの会員が、鮮魚大販売事業計画が始まらないうちにやめてしまい、ちびちび集まった登録だけがどうにか三百軒に達していた。こうなると、なにせ統制経済なのだから、登録は集まりましたが、営業はやりませんというわけにはいかない。
「あんた、月島方面だけでいいから、やってくれや」
野心家の大井氏と指導者の小谷会長は、一番、魚屋をいやがっていた僕に仕事をおしつける。
「片手じゃ、魚屋なんかできませんよ」
ぼくは固辞するのだが、「若い衆、一人つけるから」というわけで、大井氏の店の見習い少年をつけてもらって、月島方面を引き受けることにした。
魚屋といっても店はなく、引き売りである。しかし、客は登録された分だけだから、その点はラクだろうと思っていた。
魚市場へ行くと、まるでシーラカンスのような大魚を渡された。それをリヤカーに積んで、見習い少年とともに切っては売り歩いた。しかし、この少年は、店から引き売りにまわされたのでおもしろくないのか、あまり熱心に仕事をしない。おもに僕が仕事をするのだが、切り身に大小ができて客に叱られるやら、終りの方では売り切れてしまうやら(配給だから、売り切れでは困る)、もうけもほとんどないようなありさまだった。ふつうは、少し小さ目に売っておいて、最後に残ったものを自分用にまわしたりするらしいのだが、にわか魚屋ではしかたがなかった。
しかし、反対に、無知が幸いしたこともあった。僕は魚の種類もあまり知らないし、うろおぼえのまま積んで帰り、魚の塩づけをまず一切れ焼いて食うと、これがうまかった。マグロである。「今日は、マグロの塩づけの配給ですよ」などと売って歩くと、おかみさんたちはニコニコして買っていった。翌日、魚市場では、「昨日のサメは売れが悪かった」という話が交されている。あっ、では、あれはサメだったのか。僕は、その日は、お客の顔色をうかがいながら売り歩いたが、苦情は聞かれなかった。
月島あたりにはユカイな人たちが多かった。月島の川ぞいに、木原万助という民生委員をしている老人がいて、この人がいろいろ僕の面倒を見てくれた。
魚河岸(月島のすぐ隣にある)の親方に何かおくりものをしておいた方がいいとか、近くの区会議員にアイサツに行った方がいいとか、助言もしてくれた。
おくりものはともかく、アイサツなら簡単だから、さっそく区会議員の家へ行くと、何だか自慢話の押し売り。
「そうだねえ、僕がこの月島へやってきたのも、あんたぐらいのトシの時だったねえ……」
まるで今日の成功《ヽヽ》をしみじみと反芻《はんすう》するふうだったが、なにしろ、区議どのの御屋敷は長屋の一軒なんだから、拝聴する方としては成功《ヽヽ》が実感できなかった。それでも、区議どのは、さらに、
「三号地の水道だってね、アレ、僕がひいたんだ、うん、これ、一本喫いたまえ、うん」
と、自分の言葉を反芻しつづけながら、外国タバコのキャメルの缶をすすめる。しかし、大きな缶の中に、タバコは一本しか入っていない、さすがの僕も遠慮したが、その遠慮を待っていたかのように、さらにすすめられた。結局、一本のタバコは喫わないまま帰りかけると、
「まあ、キミもがんばりたまえ、ははは」
と、長屋暮らしとは不釣合な余裕ある態度ではげましを受けた。
リヤカーに魚を積んで売り歩くうちに、お松ちゃんという中年のおかみさんと仲好くなった。お松ちゃんは、二階に(階下は別の人が借りていた)招き上げ、お茶などを出してくれた。お松ちゃんは、五十すぎで、若い頃は、今の亭主に女郎屋に売られ、十年ばかり女郎屋暮らしをしていたという変な体験を持つおかみさんだった。お松ちゃんの親父は、月島の海で(むかしは、このあたりは、海の町だった)貝をとっており、その貝の干物をよく買わされた。
やがて、このお松ちゃんの尽力によって、大地主の土地を只で借りることができ、八百屋の源さんの家(といっても小屋)をその土地まで引っぱってきて店を開くことができる――というところまできた時、田舎の母が病気だというので少しの間、帰省した。そして、再度上京してみると、金に困った新生会の連中が、店を八百屋の源さんに売り戻してしまっており、店を開く計画はオジャンになった。
街頭募金をはじめる
新生会に残っていた連中で、魚屋はいやだという者たちは、街頭募金を始めた。以前はよく見かけた「傷痍《しようい》軍人の街頭募金」というやつである。これは、たぶん新生会が第一号だったはずだ。今から考えても、なかなかの新発明で、初めの頃はよく金が入った(すぐ、アキられたり、同業者が出てきてダメになったが)。
最初は数寄屋橋でやった。一人で大声を出すのは恥ずかしいのだが、そこは元軍人、十人位でキヨツケしてやると難なくできる。慣れてくると、浅草の大勝館の前でも始めた。ここでは、机を借りてきて、一人ずつ上り、軍歌を歌ったり、戦場のつらさを訴える演説をしたり、一日中、声を絶やさぬようにした。声の切れ目が金の切れ目だったから、皆がんばった。
募金活動が調子よくなると、相模原病院から新手が加わった。元兵長のモッちゃんなんていうのが来て人数もふえる。そこで部隊を新設してはりきって活動した。
一方、魚屋の方はというと、区役所から苦情が来る。店がないものだから、道端に魚箱を放り出しておくので、臭くて不衛生でしかたがないというのだ。そのうちに、募金の金は個人にはなかなか還元されず、公金という形になってしまうので不満が出てきて、魚屋の方がいいんじゃないかという声も出るようになった。いくらか資金もできたので、勝鬨《かちどき》橋のたもとにマーケットを二つ買い、一つは僕、一つはモッちゃんが店主になった。
ところが、僕の店は、すぐ手離すことになった。
それは、半分忘れかけていたような武蔵野美術学校から通知が来たからである。あまり出席がないようだがどうしたのか、というのだ。僕は、やはり絵が好きだし、片手でいつまでも魚屋はやっていられない。ちょうどモッちゃんが四万円で僕のマーケットの権利も売ってくれといってきていた。それで、月島の寮から学校のある吉祥寺までは遠すぎるし、店を売って、吉祥寺の井の頭公園近くに引越すことにした。
仕事は片手でできるものをいろいろ考えて、リンタク屋をやることにした。リンタクというのは、二輪タクシーということで、自転車の後に箱がついていて客を乗せるのだ。リンタク屋をやるといっても、自分では大変だから、魚屋の権利を売った金から二万円でリンタクを買い、一日五百円で運転する人に貸した。この金を貯めておけば、二ケ月で一台、自動的にふえる。僕は寝ておればいいわけだから、昼ごろまで寝ていて、パチンコをしたりしてから学校へ行った。
学校では、もう午前中の授業は終っている。そこで、二、三人の学生と石膏デッサンなんかやって、夕方帰る。
こんな生活を一年ばかりやっていたが、学校が、空いている教室の半分をうどん工場に貸すという事件が起きた。その頃は、日本中が経営難だったが、学校も経営難だったらしい。
パチンコをして、ねぼけ顔で学校へ行ってみると、神聖な校庭が干しうどんに占領されている。あっ、と驚いて教室に入ると、教室の半分ほどは、火星人の手足のような干しうどんに、これも占領されている。
学生たちは、あまりのことに怒り、うどん反対の大集会を開いた。
僕は、自分の生活も経営難だったから、学校のやることもしかたがないとは思っていたが、みんなが騒ぎだすと、その言い分ももっともだし、だんだん面白そうだと思いだした。
そこで、僕も、うどん反対だと言っているうちに、委員になってしまった。そして、何人かでいっしょになって、有名な画家などを訪問し、運動への協力を訴えてまわった。
ところが、みなキタナイかっこうをしているものだから、浮浪者と思われたのか、たいてい留守ですと言われ、応対に出てきた奥さんたちも歓迎していない目つきだった。僕もずいぶんキタナイかっこうをしていた。その上、時々、ふんどし(これは、軍隊以来つづけていた)のひもが解けて、ズボンの中を落ち、足の方に出て、ふんどしをひきずって歩いているのを通行人に注意されたことがあったほどだったから、服装だけでなく、顔つきの方も、かなりゆるんでいたかもしれない。体つきも太っていたから、まるで山下清ふうだった。
僕と山下清は、同年同月生まれだったから、非常に親しみを感じている。山下清は、僕の少年時代から既に有名で、僕の母は、彼が新聞に出るたびに「お前によく似た子供がいる」と言っていたから、山下清式の生き方をほほえましく見ていた。だから、無意識のうちに、山下清の影響を受けていたのかもしれない。
うどん反対運動もなんとなく終って、やがて、試験の季節となった。だが、フランス語などの主要な授業は午前中にあったものだから、授業には出ておらず、成績は、例によって芳しくなかった。
成績の悪かった者が五、六人教員室へ呼ばれ、僕もふんどしをひきずって教員室へ行くと、
「あ、君はいいですよ」
と、たいした話もしないうちに、スベテを了解したような感じになって、二年生に進級した。
それは、まあよかったのだが、新たな不安感が湧き上がってきた。当時は日本中が貧乏だったが、先生たちもゾウキンのような服を着ていた。そういう先生が「君たちは絵描きになりたいかもしらんが、絵描きになるには、一千万円はないとだめだ」と言うと、甘い未来を打ち砕くだけの迫力が感じられた。考えてみれば、まず食えなければ、絵筆を持つ力も出ないわけだ。
その頃、僕は、家へ帰ってからは、南方の敗走記を絵物語に描いていた。だんだん描いていって、クライマックスに達する頃のある夜、どういうふうに探してきたのか、新生会の副会長をやっていた男が訪ねてきた。新生会も事実上解体してしまっており、いい事業計画があるが、僕にしか相談できないというわけだ。
「ボロゴン島という島は海鳥の糞でできているんだ。これがとてもいい肥料になる。ボロゴン島のことは、日本で知っているのは、おれだけだ。これでもうけようじゃないか」
と言う。しかし、先立つ物がない。そこで、
「募金だ! 全国を募金旅行して、船を買う」
元副会長は、すでに募金箱まで準備してきている。僕も、このままではどうしようもないと思っていたから、旅行ができるだけでも面白かろうと思って、東海道募金旅行を決意した。
翌日、二人は、まず小田原で募金をやり、かなりの成果を収めた。それに勢いを得て、東海道をつき進んだ。
ところが、雨にたたられる時もある。そうすると旅館代がかさむばっかりで、出歩くことができないから募金はできない。少しばかりの戦果も食いつぶすことになるわけだ。一番ひどかったのが岐阜の安宿であった。長雨のため出るに出られず、ゴロゴロしていると、セイケツな僕にシラミが発生したのである。シラミという奴は、一匹二匹発生ということはなく、発生となるとおびただしいものだから、一匹ずつつぶしていては間にあわない。仕方なく、宿の女中に二百円のチップをはずんで衣類一切を釜ゆでにしてもらった。ところが、ゆで足りなかったのか、逆に温度に刺激されて卵が孵化《ふか》し、シャツはもはやシラミの巣窟と化した。うわーっ、と言いながら捨てたのはいいが、宿の女中たちは、僕のことを「シラちゃん」というアダ名で呼ぶようになってしまった。
「これではだめだぞ」
僕は、元副会長にそう言うと、彼も力なくうなずき、旅費があるうちに東京へ帰ろうということになった。
東京では、ぼつぼつタクシーが出廻りだした。僕の所有するリンタクは、七、八台にふえていたが、いつまでもリンタクの時代ではなかった。いったん郷里にでも帰ろうと、身辺を整理し、リンタクを売り払うと、十万円になった。
東京を発《た》って、神戸で一泊したところ、その安宿を「二十万円でどないだす」と言う。いくらボロ宿でも、二十万円は安すぎるんじゃないかと問うと、別に百万円の借金があるんだが、それを肩代わりして、月賦でいいから払い、頭金の形で二十万円だという。ちょうど十万円あることだし、田舎の親父に十万円たしてもらってアパート業でもすればいいと考えて、その安宿を買うことにした。そして、ただちに鳥取に連絡して、父に来てもらった。管理人などの人手もないからである。父は、兄貴の嫁も連れてやってきた。兄貴はスガモ・プリズンに入っているから、その間、内職がわりにアパートの掃除したりするのにいいというわけだ。
少しして、弟も神戸の会社に勤めることになり、同居することになった。
アパートは、神戸の兵庫区水木通りにあったから、平凡に「水木荘」と命名した。これが、やがて「武良茂」のペンネーム「水木しげる」のモトになるのである。
「水木荘」の怪人たち
このアパートは、外から見ると堂々たる建物だったし場所も便利なところにあったが、もとが安宿なものだから、部屋割りもアパートらしくなく、昼間でも真暗な部屋があったり、流しも共同だったり、その上、一部だが雨もりがひどかったりして、とてもマトモな人の入るようなものではなかった。
このアパートの住人の一人に紙芝居画家がいて、僕が紙芝居を始めるきっかけになるのだが、他にもアヤシゲな住人がいっぱいいた。
神戸という町は、港町で人の移動もはげしく、どことなくタイハイの匂いもただよっているから、奇妙な人たちが我が水木荘に流れつくのであろう。そんな人たちの話を少し書いてみることにする。
二階の一室には、ストリップおばさんが住んでいた。「ストリップ嬢」とか「踊り子」というには少し年齢が行きすぎていて、まさしくストリップおばさんなのだが、彼女は、僕に劇場のタダ札をくれて、ぜひ来てくれるようにいう。せっかくの好意を無にするのもよろしくないというわけで、見に行った。出し物は、日本の夏の風物詩というような趣向で、おばさんがタライの中で双肌ぬいで背中をこするというもので、エロというより、グロなのだ。あほらしいようなものだが、おばさんにスポットライトがあたると、ひときわけたたましくトランペットが鳴りわたる。実は、このトランペット吹きというのが、おばさんの亭主で、いっしょに暮らしているのである。この亭主は、東大の哲学だか文学だかを卒業しているのだが、何をどうまちがったか、こんな暮らしをしているという噂であった。
ちょうどストリップおばさんの部屋の下あたりに、チビの一団が住んでいた。小柄ですばしっこそうな奴らが、何人も出入りしているのである。はじめは一人に貸したのだが、いつのまにか十人ほどになってしまった。チビといっても、サーカスなんかにいる小人というのではないのだが、いつもいそがしそうにしているわりに、仕事らしい仕事に就いてはいないらしく、どことなくアヤシイ。
ある日、掃除をしていた義姉(つまり、スガモ・プリズンに入っている兄貴の嫁)が青くなって、あの部屋でピストルを見た、という。二、三日後に、刑事が数人がやってきて、チビたちの部屋を見張らしてくれという。
「何ですか、きゃつらは」
「よく命が無事でしたなぁ。ありゃ、国際ギャング団ですわ」
「え、えーっ」
と逃げようとすると、刑事たちは、ギャング団を油断させるために、普通にふるまっていてくれ、と言う。そんなことを言われたって、命あっての物種だし、などと緊張していると、表の方でドタバタという音。アパートの中で張り込んでいた刑事もドヤドヤと跳び出した。僕も後からついて出ると、ちょうど帰ったところを首魁《しゆかい》のチビがとりおさえられたのだった。さすがに首魁ともなると胆がすわっているのか、僕の顔を見ると、や、どうも、といった感じで、手錠のかかったままの手をあげてアイサツを送った。
翌日の新聞には「国際ギャング団逮捕さる」という大見出し。
彼らの部屋をそのままにもしておけず、入ってみると、フトンのほかはフロシキ包み一つあるだけだった。これをどうしようかと考えているところへ、国際ギャング団長の両親が訪ねてきた。「荷物をとりにまいりました」というわけ。おだやかな感じの老夫婦は、言葉少なく、ギャング団長の生い立ちについて話したのだが、どうやら、一人息子だったのを溺愛《できあい》して育てたのがよくなかったらしい。大学まで入れたのが、なぜかグレて、悪の道に踏み込んでしまったという。当人はしかたがないにしても、この老夫婦は、息子が事件をおこすたびに、こうやって後始末にまわっているのだ。荷物を片づけ、手配の自動車を待つ後姿はなんとも淋しげで、それを見ていたいつもは陽気なストリップおばさんも、涙ぐんでいた。
この|犯罪の部屋《ヽヽヽヽヽ》のあとに入ったのが、四国から来た初老の夫婦だった。何だか裕福な様子で、顔にも笑みをたやさず、僕の部屋に菓子なんか持ってきて、ゆくゆくは牧場をやりたいという話をしていた。食事時に、なにげなく部屋をのぞくと、牧場をやる時の予行演習か、ぶあついビフテキを食っている。あとで聞くと、あれはビフテキではなく、鯨《げい》テキだということで、うらやましさも半減したが、それでも、当時の鯨テキといえば庶民は月に一、二度しか食えるものではなかった。
そのうち、鯨テキ男と僕の親父は親友になり、いつも話をしていた。
隣の部屋には、朝鮮人の共産党員もいた。当時は、彼の祖国は民族分裂の悲劇の真最中で、彼は、日頃からそれを憂えているのだった。彼は下積みの生活をしながらこつこつと金をため、三の宮に何かの店を持つつもりでいた。ところが、ある日、彼の部屋の窓ガラスがガラス切りで切りとられ、彼の貯金がすっかり盗られてしまった。さすがの憂国の理論家も、この時ばかりはショックのために理論どころかグチ一つ出せず、ただため息ばかりついていた。ともかく、隣の人にも様子を尋ねようと、富裕な老夫婦の部屋を訪ねると、荷物も何ももぬけのカラ。あいつらが、ドロボーだったんだ、と叫んでみたものの後の祭り。この夫婦は、ドロボーをやっては、鯨肉ステーキを食っていたわけだ。親友だった僕の親父は、ショックのあまり、少しの間、田舎へ帰ると言いだすほどだった。
ところが、そのあとに、ホンモノの金持ち、浅野セメントの御曹司《おんぞうし》が、この部屋を借りたいといって下男とやってきたのだ。とりあえず部屋を見せると、狭すぎるといって、破談になった。彼らは、この部屋にこもる|犯罪の匂い《ヽヽヽヽヽ》をかぎつけたのかもしれない。だが、それなら、この水木荘に部屋をさがしに来たこと自体、すでに妙ではある。
僕の部屋というのは、その時ごとの空き部屋だった。だいたいが、とりわけて日あたりの悪いような借り手のない部屋だった。即ち、昼でも真暗だった。
ある日、寝ているところを、突然ナニモノかに踏みつけられた。びっくりして電灯をつけると、見も知らぬ老人が立ちはだかって、
「ここは、ワシのウチやー」
とわめいている。何事がおきたのか想像もできない。
「何ですか、あんた、ここは、僕の家や」
「いんや、ワシのや、ワシのウチなんやー」
僕は、すっかりたまげて、逃げるように入り口の方へ行くと、そこに、また、見知らぬ若い男がいた。彼は、部屋の中の老人に、やさしく声をかけた。
「あのなぁ、ここはヨソのウチやでぇ」
若い男はそう言って老人の手をひいて出ていこうとする。僕は、わけがわからないし、このまま出ていってしまうのは、あまりにもブレイであると思ったので、
「何ですか、あんた、めちゃくちゃやないですか」
と怒った。すると、若い男は、予期に反して、
「なんやぁぁ!」
と、語尾上がりに叫び、僕をにらみつける。その目は、異常に燃えているのだ。あ、これは、何かわからんが、エライことになったようだ、と、僕がおびえると、またもや見知らぬ中年のおばさんが出現。
「あ、ここやったか」
おばさんは、若い男と老人の手をとり、僕の方を見た。
「かんにんしたってください。二人ともカワイソウな人ですねん」
と言う。どうやら、老人と若い男は父子らしいのだが、二人とも錯乱しているというわけのようだ。おばさんは、二人をあやすようにして、連れて帰った。
僕の家も大変だったが、このおばさんも大変だなあと、僕は思った。
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V 貧乏
紙芝居作者となる
水木荘住人の中で、僕の生涯を決定することになったのは、久保田という慢性便秘の紙芝居絵かきだった。あいさつは、「今日はクソが出ましたか」という言葉だった。
僕が絵が好きだということを知ると、彼は、いかにも先輩ぶって紙芝居の世界を解説し、僕にもやるようにすすめた。
紙芝居の仕組みは、次のようなものだった。
本部があって、これはカシモトとかエモトと呼ばれており、プロデューサーにあたる。これは、たいてい「〇〇画劇社」という名称がついている。「画劇」というのは、紙芝居の格式ばったいいかたで、古本屋を「古書籍商」、八百屋を「青果販売業」などというのと同じことだ。紙芝居のあとには劇画が栄えるようになるのだが、「画劇」と「劇画」では、字が逆になっただけである。
紙芝居をかく絵かきは、十枚を一組みとして制作し、これを「一|巻《かん》」といった。紙芝居作品は、学校などでやった教育用紙芝居を除くと、印刷をしない。すなわち、原稿がそのまま商品だった。だから、いたみを防ぐために、彩色したあと透明ニスを塗った。そして、ボロボロになるまで、全国津々浦々で演じられた。だから、昭和二十年代から三十年代にかけて、あれほどどこでも見られた紙芝居だが、現物は全く残っていない。
演じるのは、バイニンと呼ばれるオッサンで、スルメやコブやアメを売るから「売人」と呼ばれたのだろう。
こんなような話を、久保田は、僕に話し、巨匠相沢先生について語るのだった。
「先生あたりになると、あんた、毎朝、コーヒー!」
「喫茶店で?」
「もちろん!」
当時、喫茶店なんか、なかなか入れるものではなかったのである。久保田は、自分もやがては相沢先生のようになるんだという夢を持っていたのである。彼にいわせると、相沢先生の他にも二人の大物がいて、
「先生だと、一巻で千円……」
「え、千円」
「……やが、永松健夫、加太こうじあたりになると千三百円!」
という話。永松健夫は、「黄金バット」で大ヒット、加太こうじは、現在評論家をやっている人だ。
僕が紙芝居に食指が動きそうになると、久保田は、染粉《そめこ》(絵の具)は、大丸デパートのが一番、とか言って、売り場に案内し、得意気だった。
僕は見本用に一巻描いて、散歩途中に見つけた「トモエ画劇社」へ持っていった。画劇社には、中年の小男がいて、僕の作品を見ると、百五十円だという。これでは、永松・加太両大先生はおろか、相沢先生の五分の一にも及ばない。「もう少し、なんとか」などと話し合っていると、家の奥から「帰ってもらいっ」と、きつい声。トモエ画劇社では、どうやら、トモエ御前が実権をにぎっているようで、僕は、すごすごと帰った。
久保田に話すと、林画劇社を紹介してくれた。彼の地図をたよりに林画劇社を訪れると、そこは、焼跡の元小学校を引揚げ者用に改造した市営住宅。まっくらな廊下をぎしぎしならしながら歩いて、林画劇社のドアを開けると、夏だというのに、黒マントの男がいた。立ち上がったいきおいでマントがゆらぐと、その下はフンドシ一枚。彼にとって、黒マントはネマキでありセビロであるようだった。
林社長は、「当社の鈴木勝丸先生にあんたの絵を見てもらって決めるから、明日また来てくれ」と言う。この鈴木勝丸先生は、林画劇社の顧問格のバイニンで、その語りのワザは名人の域に達しており、関西ではもちろん、日本中でも、これだけの人はいないという。「なんせ、キングレコードにも吹き込んではるんやから」というぐあい。
翌日また訪れると、マントの怪人林社長の隣に、ジャン・ギャバンまがいのいかつい顔のがっしりした男がいる。その男が口をひらくと、これがやわらかい口調で「鈴木勝丸でぇす」といった感じ。さすがに話術の名人だけあって、語りの間《ま》がうまい。僕が見本の作品を見せると、さっと目を通し、
「とてもおもしろい絵です。二百円でいただきましょう」
僕は、トモエ画劇社でなくてよかったと思い、顔がほころんだ。勝丸先生は、続けてやさしく、新人の僕に声をかけて下さり、
「どこに住んでらっしゃるの」
「はあ、新開地の水木通りです」
「水木通り。じゃ、私の家のそばだ。遊びにいらっしゃい」
こんなやりとりで、ほっとして家へ帰った。
ところが、第二作、第三作を持っていくにつれて、林社長は払いを滞らせるようになった。昭和二十六年頃の二百円といえば、やっと一日の日当で、一巻描き上げるのには二日か三日かかる。その上、払いが遅れるのではたまらない。
僕を紙芝居の道に引き込んだ久保田は、便秘がひどくなって、野菜が豊富に食える郷里へ帰ってしまったし、相談もできない。そこで、勝丸先生のやさしいオコトバを思い出し、訪問してみようと思った。
僕は、鈴木勝丸先生に教わった通りの住所をさがしてみたのだが、先生の家は見つからなかった。それも道理で、先生の家は、「家」ではなく「小屋」だったからである。
戸をあけると、「やあ、いらっしゃい」、元気な勝丸先生の声。「いらっしゃい」はいいのだが、すわるどころか、先生のそばにも近よれないような乱雑ぶりである。先生は、それをてきぱきと片づけながら、どこやらからデコボコのヤカンを発掘《ヽヽ》してきてお茶を入れてくれた。
「いや、いいところへ来た、水木さん」
「私、『武良《むら》』ですが」
「そんなことはいいでしょう、水木さん」
先生は、僕のことを水木通りに住んでいるから水木さんと呼ぶのである。僕が画稿料のことで相談を持ち出すと、勝丸先生は、渡りに舟とばかりに、
「私、林画劇社から独立して、阪神画劇社を始めます。絵かきが欲しいので、水木さんにもお願いしようと思っていました」
と言う。さらに、
「近々、加太こうじ先生も東京から仕事で来られるので、紹介しましょう」とも言う。僕は、林画劇社は見切りをつけて、阪神画劇社の専属になることにした。
その頃、僕がどんな紙芝居をかいていたかというと、まず、勝丸先生の考察で怪談ものから始めた。記憶に残っている一番古いものは、「怪談・雨夜の傘」というものである。ところが、子供たちには、新開地の映画館でやっている西部劇が人気があるらしいというので、ぼくも映画を見ながら話をこしらえて、西部劇の方も手がけるようになった。「謎の西部王」とか「アパッチ断崖」とかいったものだった。だいたい、五回から十回ぐらい(つまり、五巻から十巻)の続きものが主であった。
やがて、加太こうじ先生が神戸へ来ることになった。
加太大先生は売れっこなので、東京で仕事をするだけでなく、時々地方へ行っては、そこのプロデューサー(つまり、カシモトである画劇社)のもとでも制作されるわけだ。
勝丸先生の阪神画劇社は、「社」はおろか「家」でもないので、とても、大先生をお泊めすることはできない。「そこで、水木さん、あんたのアパートの空いている一室に、お泊めしてください」ということになった。僕も、これは光栄なことだと思って、安い牛肉とサッカリンを買ってすき焼きの準備をした。
やがて、御来駕《ごらいが》された加太こうじ大先生は、まず、時代劇におけるキセルが、武士と町人とでどのように扱う手つきがちがうか講義された。これはエライ先生だという迫力が十分で、僕は、すぐ尊敬した。さっそく、すき焼きを作って召し上がっていただきながら、僕の作品を見てもらった。僕が、おずおずとさし出すと、一目見て、
「これじゃあ……」
と、あとが続かない。しばし、サッカリンの味のしみた肉をかみしめながら、
「努力しだいで、モノになるかもしれん」
と、おっしゃった。
後年、この間《かん》のチンモクの意味を問いつめると、加太こうじ先生は、「まるで埴輪《はにわ》のような絵なので驚いた」と語った。それだけでなく、「水木さんは、僕が会った奇人を三人あげろといったら、まっ先に入る」とも言った。実は、僕は、この頃、頭がオカシクなりかけていたのだ。というのは、水木荘の住人の一人であるバンドマンにヒロポンの味を教えられていたからである。当時は、ヒロポンは何ら禁制品ではなく、薬屋で百円ぐらいで売っていた。「ヒロポン」というのは、何とかいう製薬会社の商品名で、他の会社では「ゼッドリン」とか「ホスピタン」という名称だった。小説家たちが競って服用(注射の他に内服もあった)したりして、やがて、中毒による妄想なんかが問題になるようになったわけである。バンドマンは、全くの善意で、「ええ薬でっせ」と言っては、ヒロポンを|おごって《ヽヽヽヽ》くれるのだ。僕が、一本しかない手を出すと、注射までしてくれるサービスぶり。注射すると、まるで、天下をとったようにいい気持ちになった。しかし、ふだん眠たがりの僕が全然眠くなくなるので、これはマズイと思いやめた。僕は、そんなに何回もやったわけではなかったので、軽い中毒だけですんだのである。ところが、僕自身は軽いと思っていたのだが、他人から見れば、|かなり中毒《ヽヽヽヽヽ》だったらしく、ちょうどやめた頃に加太大先生に会ったのだから、ずいぶん変人に見えたのかもしれない。
ともかくも、加太先生とはコネができたわけで、先生が神戸で仕事をする時は、色ぬりの手伝いをよくやった。
そのうち、世間が不景気になってきて、紙芝居の方もだんだん悪くなってきた。加太先生あたりは、画稿料も高い上に、一日に三巻とか五巻(僕は、一日で一巻)も描くからまだしも、僕などは、少し画稿料が遅れると、全然金がなくなってしまう。アパートの住人たちは怪人物ばかりだったし、月賦の借金はあるし、大変なのだ。しかし、加太こうじ・鈴木勝丸両先生は「紙芝居は不景気になるほど強い」というのが持論だった。
その強気の一人勝丸先生がアカンようになった。姿を消したと思ったら、北海道で服毒自殺をして病院に収容されているという情報が入った。加太先生は、阪神画劇社に絵をかいているものだから、あわてて神戸までとんできて、善後策の協議となった。病院の勝丸先生は、毒が弱かったのか、元気になったが、加太先生たち東京の画家たちからは信用をなくして、絵をもらえなくなったのである。
そうすると、阪神画劇社の制作係は、ほとんど僕一人ということになる。しかし、かけどもかけども、画稿料は遅れがちだった。
その頃の僕の作品のヒットは「鬼太郎もの」だった。昭和二十九年頃だったろうか、紙芝居を始めて三年ぐらいたった時、鈴木・加太両先生が、「戦前、東京で、伊藤正美という人が『ハカバキタロー』というのをやったが、あんたも怪奇ものをどうか」と言う。聞いてみると、その「ハカバキタロー」というのは、伝説の「飴《あめ》屋の幽霊(死んだ母親が赤子のために飴を届ける話)」のような話で、少しフルイ。現物を参照しようにも、紙芝居は、現品限りなものだから、見ることもできない。結局、題名だけは似ているが、全く別の物を自分で考え出し、「墓場の鬼太郎」とした。勝丸先生にしてみれば、ぼくの「墓場の鬼太郎」だけがたよりといったありさまだったが、ただ怪奇なだけでは、いま一つ人気に熱狂さが出ない。ユーモアとアクションが欲しいと思っていたところ、三歳になった兄貴の子供のしぐさがユーモラスであることに気がついた。顔に髪がかかったりしていておもしろい。そこで、この子をモデルにして、怪奇ではあってもグロテスクにならないようにしたら、人気がどんどん出るようになった。
この頃には、ぼくもウケる要領をつかんでいて、五十巻、百巻という|大河ドラマふう《ヽヽヽヽヽヽヽ》にかいていた。しかし、こういうことは、局外者の想像を絶する大変なことなのだ。というのは、紙芝居は、一巻十枚ごとが勝負で、一巻失敗したらスルメやアメが売れない。ウケなかったといって中断することもできない。初めからかきなおすわけにもいかない。とにかく、始めてしまったら、何が何でも続け、ウケさせなければならないのだ。それを百巻かくとしたら、三ケ月間、毎日、必ずおもしろい話を作り続けなければならないわけで、こんなおそろしい創作活動は、ちょっと他にはないだろうと思う。
壊滅状態の紙芝居業界
昭和三十年代に入ると、紙芝居に危機が近づいてきた。テレビという怪獣の迫りくる足音が響きだしたのである。
一方、僕の水木荘も、ちっとももうからない。考えてみると、前の所有者だって、もうかるものなら手離しはしなかったわけだから、もうからなくて当り前なのだ。このままずるずるアパート業をやっていてもしかたがないので、心機一転をはかってアパートを売り払い、引越すことにきめた。百万円ぐらいで売ろうと思ったのだが、やっと九十五万円にしかならず、月賦の借金やら、他の借金やらを清算すると、手元には、二十五万円しか残らなかった。この二十五万円で、西宮《にしのみや》の今津《いまづ》に弟の知人が売りに出していた二階家を買った。そのあたりは商店街だったので、一階を何か店にでもしようと思ったのである。
ところが、紙芝居の方に必死で、店どころではない。そうこうしているうちに、スガモ・プリズンから兄貴が出てきたので同居することになり、金もかかるので、階下は人に貸すことにした。パチンコ屋になったり(すぐに倒産)、歯医者になったりした。
僕は、管理人の仕事がなくなった分だけ、少しはヒマになった。それで、本格的な絵の勉強がしたくなった。武蔵野美術学校だって、中退だか、立ち消えだかわからないまま、やめてしまっていたからである。ちょうど、神戸市立美術研究所というものがあるのを知った。といっても、これは、北野小学校の校舎を夜間使用するだけのものだった。講師はわりあいによく、小磯良平、田村孝之介、小松益善といった人たちで、デッサンの指導をした。週に三回ほどここに通い、僕に性《しよう》があっていたのか、小学校以外では、一番よく通った学校だった。
そんなことをしながら、悪戦苦闘して紙芝居をかいていた。画稿料は安いし、その上、毎日が締切りだったから、必死だった。僕は、何千枚紙芝居をかいただろうか。紙芝居は、作品が残らないから、全ては、時間の彼方へ消えてしまっているわけだが、それでも記憶に残っているものを、いくつか思い出して紹介してみることにする。
前に書いた「謎の西部王」「アパッチ断崖」といった西部劇も映画からヒントを得たものだったが、「キングコング」も映画からヒントを得て作った。といっても、映画のネタだけでは、とてもモタナイ。一回ごとに見せ場を作って、百巻(つまり百回分)ほどもやったろうか。これは、人気があった。
「猫娘」というのも、九十巻か百巻やったが、これも人気があった。ねずみや魚を見ると、猫に化ける美少女の話で、グロ悲劇というジャンルに属するものだろう。
母ものも時たまやった。「ひまわりの母」とか「母をたずねて」とか「母子草」とかいったものだったが、十巻か十五巻で、“つなぎ”と称する、大作と大作の間にちょっとやるものだった。僕は、母ものは、あまり得意なジャンルではなかった。
「巨人ゴジラ」、これは好評で百巻。後に、雑誌に鬼太郎ものを描いた時、このストーリーを再構成して「大海獣」にした。この話は、人間に起こり得る最大の悲劇、怪獣に変身してしまった自分が肉親にも理解されないとか、肉親の目の前でノコギリでひかれるとか、とにかく極限の悲劇を描いた。僕自身、気にいっていたストーリーだったし、受けもよかった。僕は、はじめ、「人間ゴジラ」でいこうと言っていたが、勝丸先生が「巨人ゴジラ」の方がいいと主張したので、このタイトルに決まった。
つづいて、初の戦記もの「南十字星」をやったが、不評のため、四十巻ほどで終った。
今度は、「一つ目小僧」というのをやった。年に一度やってくる妖怪の集団が、一つ目小僧だけを残して帰ってしまうという話だった。一つ目小僧は、ブランコが面白くて、妖怪の車に乗り遅れたという設定で、やむなく、一年間、人間の家に飼われていて、翌年、妖怪の車が来た時に帰るという、わりとかわいいストーリーだった。
カシモトは、業界の不振をしきりと訴えるので、ひとつ、不景気を吹きとばすようなものすごくこわいものをやろうと、思案の末にやったのが「化烏《ばけがらす》」だった。
この「化烏」をかきはじめると同時に原因不明の高熱が出て下がらず、ついに七巻で中断した。中断すると、ただちに熱が下がったが、うなされているうちにストーリーは忘れてしまっていた。
あまり不思議なので医者に診てもらったが、やはり原因はわからず、どうやら、おそろしい話がたたって、自家中毒のようになったのだろうという結論に達した。
そこで、次は、ガラリと趣向を変えて、ユーモラスなものをやった。「チビ武蔵」である。
山の中に生まれた子供で、手足、内臓、体のあらゆる部分が自由に伸び縮みする武蔵が主人公だった。武蔵は、野球をすればほとんどいつもホームラン、柔道も強ければ、足も速い。その上、手を遠くまで伸ばして柿をとったり、遠くにいる暴力団をごつんとやってスッと手をひっこめたりできる。こうして愉快な活躍をするという話で、これは、僕がふだんから体が自由になったら便利だろうと空想していたのを紙芝居にしたわけだ。だが、しだいにネタづまりになってやめた。
僕の紙芝居最後の作品となったのは、「小人横綱」だった。
これは、山奥で生まれた何のいい所にも恵まれなかった子供の話だった。この子供は、両親にも早く死なれ、頭も悪く、体も貧弱で、顔もマズイ、といった三重苦《ヽヽヽ》なのだが、山の動物のクマネコ(パンダみたいな顔つきで、タヌキのように知恵がある)がいつも陰になって援助してくれる。
子供は、やがて都会に出てくるのだが、他の人間たちにいじめられ、自殺しかけているところを相撲とりに助けられる。そして、相撲の世界に入るのだが、体は小さいし、力はないので全然ダメ。しかし、クマネコに助けられたり、偶然というカミサマの祝福を受けたり、さらに、下積みの人たちに声援されたりして、少しずつ出世する。
と、こんな話だったが、これが地味なわりにすごく受け、僕が紙芝居に見切りをつけて上京してからも続篇の要望があり、東京でかいては阪神画劇社へ送ったほどだった。しかし、小人横綱がやっと幕下あたりまでいった頃、紙芝居業界はカイメツし、百二十巻ほどで「小人横綱」はオサラバとなる。
紙芝居は、日に日に悪化の一途をたどっていたのである。昨日、十人の子供が見ていた紙芝居が、今日は八人になっているといったぐあいで、その差の二人とは、テレビを新しく買った家の子であった。バイニンたちも、五円でアメやスコンブを売るより、工場に勤めた方がいいと思うようになった。強気だった鈴木勝丸先生も、めっきり弱気になり、「四国の支部なんか、絵は送っているんだが、金は全然送ってこないし」と言う。
僕は、紙芝居は、本当にアカンようになりかけているのだと思った。子供の頃に、日露戦争の広瀬中佐の映画を見たことがあるが、沈みゆく船では、ある時機を逸すると、もはや逃げることもできず、まきぞえをくってしまう。僕は、今こそが、紙芝居丸の沈没の時だと思った。
逃げなければならぬ、遅れるとアブナイ。
貸本マンガで苦闘する
とにかく、紙芝居の世界から脱出しなければならない。このままでは、底無し沼にすいこまれてしまうようなものだ……。
僕を紙芝居の世界にさそいこんだ便秘の久保田が理想像にしていた相沢先生は、東京で貸本マンガをやっているという。相沢先生には、いちおう面識もある。かの加太こうじ大先生も、絵物語で成功しているという。こういったコネをたよって、貸本マンガに活路を見出そう。僕は、そう思って、絵の道具と身のまわり品をまとめて、決死の東京行きを単身敢行した。紙芝居を満六年やった昭和三十二年のことだった。
東京では、小寺国松という男の経営する下宿に入った。小寺氏はアメ屋で、紙芝居のバイニン用のアメを製造して卸していた。加太こうじ先生とともに神戸へ来た時に紹介され、知り合いになっていたのである。小寺氏の下宿というのは、東京の下町の亀戸にあり、無理な部屋割りで屋根裏部屋のような部屋もあった。本来は下宿なのではなく、アメ工場の女子寮になっていたのだが、空き部屋を貸していたわけだ。下宿代は、四畳半、二食つき(メシは食い放題だが外米)で七千円だった。
下宿代は安い方だったが、フトコロの方は淋しいから、すぐさま仕事をさがさなければならない。加太こうじ大先生の所へアイサツに行くと、やはり、神戸紙芝居界の巨匠で現在は東京貸本マンガ界の彗星《すいせい》・相沢先生を訪ねるがヨイとのこと。ただちに相沢先生宅におもむいた。
相沢先生は、自宅で応接セットを製作している真最中だった。つまり、リンゴ箱を解体して、ベッドやらイスやら棚やらを作っておられたのである。先生は、大工仕事に熱中して、返事もぶっきらぼうであった。
「貸本マンガをやりたいんですが」
「あんた、マンガったって、腕がなきゃだめよ。実力の世界だから」
というやりとり。イスの下あたりに、ヘタクソなマンガがあったので、
「これくらいならできますが」
と言うと、相沢先生は、急に不機嫌そうな顔になって、
「また、そのうち来いよ」
と言った。
相沢先生は、特に仕事を紹介してくれそうでもなかったので、加太こうじ大先生の所へ行って話すと、
「あんたが『これくらいならできる』と言ったのは、相沢先生がかいたマンガだ」
と言う。しまった、と思ったが、もう遅い。加太先生は、
「すぐに、ウィスキーを持って、あやまりに行け」
と、入れ知恵をしてくれた。
ウィスキーを持っていくと、相沢先生は機嫌をなおし、水道橋にある兎月《とげつ》書房という小さな出版社を紹介してくれた。一冊百二十ページぐらいで、三万円(税金が引かれるから、手取りは二万七千円しかない)という条件だった。僕は、初めてのマンガの仕事だから悪戦苦闘して、処女作「ロケットマン」をかきあげた。これには二ケ月の間、かかりっきりだった。
作品をかきあげて持っていくと、ペンネームの問題で一もめあった。ぼくは「武良茂」のつもりだったが、会社側では、そんな読みにくい名前はいけないという。そして、「大東勇之助」なんていうシャラクサイ名前を勝手につけようとする。
「紙芝居では、『水木しげる』だったんですが」
「本名よりはマシだ」
ということで、貸本マンガでも「水木しげる」で行くことになった。
それから、何作か仕事をした頃、鈴木勝丸先生が、阪神画劇社をたたんで、ほうほうの体で上京してきた。とにかく、どうにもならんということで、子供の自転車まで売り払ったというのだ。しかし、やっと、貸本マンガをやりかけた僕には、何の援助もできない。せめてもと思って、コーヒーをおごった。
「コーヒーは、一年ぶりです」
というのが、勝丸先生のタメ息とともに出た発言だった。勝丸先生は、紙芝居丸の沈没にまきこまれたわけだ。僕は、かろうじて救命ボートに乗ったのである。
実は、その頃の僕には、貸本マンガ界の新人でありながら、アシスタントがいた。その上、このアシスタントは、僕が交通費のない時には、十円貸してくれた(水道橋駅まで十円だった)。このアシスタントは、僕と同じ下宿屋に住んでいた田辺一鶴さんである。彼は、後にポルノ講談で有名になるが、当時は、まだ売れない芸人で、この下宿にごろごろしていた。僕の部屋も寒かったが、彼の部屋はもっと寒いらしく、僕の部屋へ遊びにきたりしているうちに、マンガの手伝いをするようになった。寒さのために垂れ落ちる鼻水を原稿用紙につけないようにしながら、ベタ(黒い部分)をぬってもらって、二時間百円払っていた。
良きアシスタントを持ったものの、作品の人気の方は、特に出るわけではなかった。人気がないものだから原稿料もあがらず、払いは遅く、注文も少なかった。貧乏状態は少しも改善されなかった。貸本マンガをやりだして一年ほどたった頃、「地獄の水」という怪奇ものをかき上げた。僕は、ゲタをはいて、出版社へ行った。クツは質屋に入っていたからである。ところが、出版社は、「そんなもの、たのんでない。何かのまちがいじゃないか」と言う。金に換えられてこそマンガの原稿で、金に換わらなければ、こんな画用紙、何の役にもたたない。いくらがんばっても水かけ論でとってくれない。とにかく金は入りそうにないのだ。しかたなく、近くの(このあたりには、小さな出版社が多い)日昭館という出版社へ持ち込みで入った。
日昭館のオヤジは、親切な人で、
「ウチではとれないが、ヨソを紹介してやろう」
と言って、暁星《ぎようせい》を教えてくれ、
「電話しといてやる」
とまで言ってくれる。僕は、あたふたと浅草橋の暁星に行った。
暁星の編集長は、でっかい男だった。編集長が僕の作品を見ている間、僕は、首をちぢめて、びくびくしていた。単なる画用紙か、三万円か、彼の一言で決まるのだ。
やがて、彼は読み終わり、
「とても面白い。いいですか、三万円で」
僕は、ほっとした。そして、うれしさのあまり、何もいえなかった。ところが、編集長は、僕のその態度を勘ちがいした。
「よし、四万円出しましょう。これなら、どうですか」
僕は、声にならない声を出し、四万円をわしづかみにして外へ出た。そして、走った。金をとり返されはしまいかと思ったからである。ところが、案の定、背後から声。
「ちょ、ちょっと、待ってくださーい」
ふりかえると、大入道みたいな編集長が必死の形相《ぎようそう》で追いかけてくる。ああ、やっぱりだめだった。僕が立ち止まると、編集長は、すぐ追いついて、
「次の作品もお願いしますよ」
僕は、心の底からほっとした。
しかしながら、次の作品を描き上げた時、暁星は倒産していた。
そんな時、郷里から、父が上京してきた。その頃、父は、郷里で米軍の通訳をしていたのだ。
「東京で、マンガの先生になって成功しているしげるに、嫁の世話をせねばならん」
と言うのだ。これはエライことになったと思ったが、とりあえず、オヤジの金でうまいものを食ったりして、その場をうまくごまかしていた。しかし、だんだん、僕がゲタしかはかないことなどを怪しまれ、ごまかしきれなくなった。しかたなく、一部始終をうちあけ、
「おとっつぁん、東京の出版社ちゅうのがワルでな、マンガ描いてもゼニを払いきらんのだ」
と説明した。父は、僕の詳細な説明を聞くと、
「なんとワルい奴らであろう。そんなことなら、早く境港へ帰った方がいい。前から言っていた、無人島の灯台守りの仕事もまだあるはずだ」
と言う。僕は、とにかく、ああいった、寝ない仕事は絶対むかないから、「もう少しガンバル」と、強い意志を表明したのだった。すると、親父は、とりあえず、もう少しいい部屋に越すがよかろうと、敷金を出してくれた。僕は、新宿南口にアパートを借り、親父は、鳥取へ帰った。
部屋がよくなったのはいいが、その分、部屋代はかさむ。僕は、また兎月書房に顔を出さざるをえなかった。兎月書房では、
「前みたいのは、もういらん。ギャグなら、一冊はやってもらって様子を見よう」
と言う。僕は、「飛び出せピョン助」「ブル探偵長」といったギャグマンガを必死で描いた。これは、まあまあの成績だったようだが、決して大ヒットというわけではなかった。
他の出版社でも時々仕事をさせてもらったが、原稿が本になり、ぼつぼつ貸本屋に並ぶ頃、ひょいとのぞいた店頭に、僕そっくりの絵で「武取いさむ」なんていう人の本が並んでいるので驚いたことがあった。中身をパラパラと読むと、まさしく「武取いさむ」氏は「水木しげる」氏なので二度びっくり。出版社に問いあわせると、「水木しげる」では、店がいやがって引き受けないから(勝手に)変えたと言うのだった。
こんなふうだったから、原稿料の入る五日前は、たいてい絶食状態だった。そういった時は、出前をとっては居留守を使ってツケにしていた。楽しみといえば、たまに金がある時に、バナナを食うことだけだった。商品にならないような腐りかけのバナナが一山百円ほどで売られているのを買うのだ。ラバウルの体験から、バナナは腐りかけの方がうまいことを知っていたから、それはそれでよかった。しかし、そうはいっても、たまには、腐っていないバナナも食ってみたかった。だが、僕は、おそらく生涯、腐っていないバナナを食べることはないだろうと予感していた。
アパートの管理人は、僕の生活の実態を知っていたから、部屋代はよく待ってくれた。
「仕事をしていて金がないんだから、それはアンタをせめてもしかたがない。世の中が悪いんだろう」
まるで評論家ふうの言い方だったが、それは真実なのだった。
貸本マンガ界の奇人たち
兎月書房は、専属契約こそしてなかったが、他社の仕事をすることを心よく思っていなかった。しかし、そのわりには金払いが悪い。描いて持っていってもカンジンの原稿料がもらえないことがしばしばあった。
どこか新しい出版社を開拓したいのだが、名の知れた所は相手にしてくれない。そのうち、「マンガ家募集」という奇妙な広告が新聞に出ているのを見つけた。
さっそく行ってみると、渋谷の先の方にある小さなアパートの一室がその出版社だった。やはり広告を見たのか、ルンペンのようなマンガ家が三、四人来ていた。
僕は、ここで、「東真一郎」というペンネームで一冊やることになった。
帰りがけに、出口のあたりでミスボラシイ男が待っていて、僕の後をついてくる。何だろうと思って問いつめると、
「あの、ちょっと、その、あの……」
と、はっきりしないまま、まだ僕についてくる。僕がまた強く問うと、渡辺あらきとかいうマンガ家だと言う。そういえば、先ほどのルンペンのような何人かの中で見かけたし、名前も聞いたことがあった。
マンガ家同士で何か話でもしたいのかと思ってアパートまで連れてきた。
アパートの電灯の下でしげしげと見ると、やせたサルのようで、聞けば体も弱いという。一、二時間、マンガの話などをしたが、話がとぎれても帰ろうとしない。そのうち、深夜近くになったが、渡辺エテ男氏は、やはり帰ろうとしない。僕が、ぼちぼち帰ったらどうかとうながすと、
「川の水が増水してますし、ちょっと帰れないのではないかと……」
「すると、あんたは、水の中に棲んでいて、その、カッパかなんかじゃ?」
「いえ……」
エテ男氏がぽつりぽつりと告白したところによると、自分は兄夫妻の家にやっかいになっていて、金を持って帰らないと家へ入れてくれないのだという。
「それで、しばらく、手伝わせて下さい」
「手伝うというと」
「寝かして、めし食わしてもらえればいいんです」
つまりは、|居 候 《いそうろう》志願だったわけだ。
僕は、気がすすまないから、「はァ」と、あいまいな返事をしたが、
「この板の間でいいです」
と言うと、ごろりと横になった。
「フトンは」と聞くと、「いいです」と答えて、そのまま寝た。思わぬ侵入者である。
僕も食うや食わずだったから、朝食はヨーグルト一びんだったが、僕一人が食べていると、エテ男氏は、じーっと見つめる。やがて、
「ひとさじ食べさせてくれませんか」
と言うので、半分提供することになった。
しかし、居候をさせておく余裕など全くないのに、エテ男氏に住みつかれたのには困った。出てくれと、何度も言いだそうとしたのだが、それが事前にわかるらしく、先制攻撃といおうか、自分がいかに苦しい立場にあるかということを弱々しく語るのだった。
たしかに、あの貸本マンガの世界は、並のエネルギーの持ち主でもなかなかやっていけない。まして、エテ男氏のような、三十キロぐらいしかない体では大変であろう。しかし、僕も困る。
ある日、一計を案じて、近日中に田舎から両親が上京するので、と、やんわりときりだすと、はじめ静かに聞いていたが、カンジンの部分に来たら「ウギャッ」という悲鳴があがった。僕はびっくりしたが、エテ男氏は、口から泡をふいて失神している。えらいことになったと、僕は医者を呼びにいき、帰ってみると、エテ男氏は、いなかった。
おそらく、ショックのあまり失神して、僕が医者を呼びにいっている間に、正気をとりもどし、とぼとぼと出ていったのだろう。僕にしてみれば、何とも不可解な話だったが、渡辺あらきという名前は、気の毒な人という記憶として残った。
七、八年前だったか、一人の少年読者から手紙が来た。
「貸本マンガの渡辺あらきという人を御存知ですか。僕の家の近くの小屋に住んでいて、毎日のように遊びに行っていましたが、口ぐせのように、水木しげるとは友達だったと話していました。
僕が、試験で、しばらく行かなかった後、久しぶりに行ってみると、渡辺さんは死んでいました。警察で調べると“餓死”ということでした。渡辺さんの御冥福を祈ってあげて下さい」
こんな内容の手紙だった。
すると、渡辺あらき氏は、あれから、結局、魔の貸本マンガ界から逃げきれず、餓死に至ったということになる。
そんなことが、と、貸本マンガ世界を知らない普通の人は思うかもしれない。しかし、本当に、こういうことがあり得る世界だったのだ。貸本マンガの世界には、餓死か栄光かの二つに一つしかなかった。栄光とは、雑誌マンガに移行して生き残ることである。
あの白土三平氏ですら、出版社に原稿を持って行って断わられると、その原稿の裏に、別の作品を描いて再度の持ち込みをしていたというぐらいだから、文字通り「栄光か、しからずんば餓死か」だった。
そんな世界だったから、僕の生活も、かろうじて餓死をまぬかれているようなもので、働けど働けどラクにならざる生活は、いっこうに改善されなかった。締切の一週間ぐらい前は、無一文同然。まともな食事もできなかった。
僕は貧しさの原因は、家賃だと考えた。ふつう、金は使えば何かに|なる《ヽヽ》ものだ。しかし、家賃は何にもならない。考えてみれば、神戸にいた頃、あんなに貧しくても何とかやっていけたのは、他人の家賃が入ってきたからで、入ると出るとでは二倍ちがう。これは何とかしなきゃならんと考えていた時、西宮の兄貴たちが、東京で仕事を見つけたので、家を売って上京してくるといってきた。そこで、この金を頭金にして、二軒つづきの小さな家を買うことにした。それが、現在も住んでいる調布の家である。当時は、まだ畑の中で一軒三十五万円だったから僕にも買えたのだ。月賦は残っても、これは、形になる金である。
こうして、住む所だけはできたのだが、貧乏はあいかわらずで、むしろ、遠くなった分だけ交通費の負担が大きくなったほどだ。神風特攻隊よろしく、片道の燃料(キップ代)だけで、原稿を持って神田の出版社に行くものだから、出版社側の猛攻にあったりして引き返さざるを得ない時が大変だった。神田から新宿までは何とかなっても、たいてい、新宿あたりでツイラク。しょうがないので、交番に行き、サイフを落としたというようなことをいって、金を三十円ばかり借りるのである。
貧乏なのは、僕一人ではなかった。
久留目《くるめ》防人《さきもり》というマンガ家には、出版社でよく会った。
「ソバ、食いにいきませんか」
彼は、出版社の用がすむと、よくこういった。ふつうは、「お茶でも」というのだが、彼にいわせれば、コーヒーなんていう腹のタシにならないものを飲んでいる余裕はないのである。彼は、ソバを食いながら、「何です、あの出版社は」と怒りをぶちまけ、はては、総理大臣をヨビステにして、その福祉政策の欠陥を指摘するのだった。
僕は、家の二階の一室を川本よかはるというマンガ家に貸すことになった。これは、兎月書房の紹介だったが、この川本先生が、やはり貧乏だった。川本先生は、ひと頃、雑誌マンガの世界にもいたのだが、貸本マンガの世界に転落してきたのである。腕はたしかで、構成もデッサンもよかったのだが、貸本マンガの世界特有のファイトがなかった。僕と川本よかはる先生と、いっしょに出版社へ出かけることがあった。僕の用がすんで、先生につきあうことになった。先生のは持ち込みなのだ。まず、ひばり書房へ行った。
「うちは、剛夕先生がいるからねえ」
剛夕先生とは、後に「子連れ狼」で大成功する小島剛夕氏のことである。彼は、ひばり書房のスターだった。
「おれは、マンガ家としてはトシがいきすぎているのかもしれんな」
川本先生は、ひとりごとのようにそう言った。僕は、口では「いやあ」と言ったものの、たしかに、川本先生の頭には白いものがいっぱいあった。ふりかえって自分のことを思うと、僕自身、もう数年で四十歳なのだ。
「日昭館へ行きませんか。あそこのオヤジは親切だから」
僕と川本先生が日昭館へ行くと、休業している。オヤジは病死したのだという。僕と先生とは、暗い気持ちになるのだった。
家へ帰ると、川本先生の細君から速達が来ていた。病気になったから、すぐ帰宅してくれという内容だったが、金ができていないのにオメオメとは帰れない。
そのうち、川本先生は、やけ酒を飲むようになり、蒸発同然にしていなくなった。
一方、日の出の勢いといおうか、鼻息の荒い連中もいた。
さいとうたかを、佐藤まさあき、辰巳ヨシヒロといった劇画工房を名乗るマンガ家たちだった。出版社へ行っても、待遇が全然ちがうのだ。彼らにはイスがすすめられ、喫茶店からとりよせたコーヒーがさし出されるのだった。
僕がその頃やっていたのは、戦記ものだった。劇画工房の作家たちは、「摩天楼」といった短編集形式の貸本誌で大当りをとっており、同じような形式の「少年戦記」という貸本誌が出された。これの責任編集という形で僕が受けもったり、自分の作品を掲載したりした。当時、映画などでも戦記ものが流行し、「少年戦記」は、わりと評判がよかった。そこで、読者を確保しておくために「少年戦記の会」というものを設立《ヽヽ》し、事務所を僕の自宅にした。読者のハガキとか、似顔絵、カットなどを「少年戦記の会」の作品として、「少年戦記」に掲載するわけだ。
ところが、私服刑事が我が家をうかがうようになった。どうやら右翼団体だと過大評価をしているようだ。しかし、三ケ月もすると、人畜無害のマンガ団体だと納得できたようで、張り込みもなくなった。「少年戦記」は右翼と関係ないどころか、僕としては、戦争のミジメな感じをいくらかでも出せれば、と思っていたのだ。その上、「少年戦記の会」設立には、|欲のからんだ《ヽヽヽヽヽヽ》イキサツさえあったのである。
僕のマンガのキャラクターに「ねずみ男」というタフな悪役がいる。僕は以前から、ねずみという動物に不気味さとしたたかさを感じていたが、ある時、怪奇小説を読んで、そこに描かれていた|ねずみ人間《ヽヽヽヽヽ》に感心した。これに、雑草のようなたくましさが加われば、いいキャラクターになるのにと思っていたが、山田円太郎という男と知りあった時、これだと思った。彼は、貸本マンガの出版社に勤めたり、自分でも少女マンガを描いたりしていた。彼は、のべつ金もうけのことばかり考えており、しかも、それにほとんど生きがいすら感じているように思われた。ところが、そのコスイ考えというのが、傍から見ているとユーモラスなのだ。彼の持論というのが「人に会う前には、相手がこういうだろうから、それには、こう対応する、ということをメンミツに予行演習しておかなければならないのです。これをしっかりやっておくと、相手は自由にふるまっているつもりでも、結局は、私の意のままに動く。あたかも、パチンコ玉は自由勝手に動いているように見えながら、その実、釘の通りに動くようなものです」というものだった。
「たとえば、ここに十円玉があるが」
と、山田策士は、十円玉をとりだし、
「どのように使えば、どれだけの効果があるか、前の晩からよく考えておかなければならんのよ」
などと語るのだった。しかし、彼の実績《ヽヽ》といえば、彼が何かのきっかけに住みついてしまった公民館を追い出されそうになった時、裁判に持ち込んで市役所に勝ったということぐらいだった。
その山田策士は、僕が「少年戦記」の編集をやりだした時、「少年戦記|の会《ヽヽ》」をつくれとそそのかしたのである。僕は、普通の「ファンの集い」としてよかろうと思ったのだが、山田策士は、会員名簿を作って、彼の製作による模型紙飛行機を特価販売《ヽヽヽヽ》しようと考えていたのである。遠大なる計画をたてる策士だったが、成功したためしがなかった。彼もまた、貸本マンガ界の底辺の一人だった。
僕は「少年戦記」で|みじめな《ヽヽヽヽ》戦記物をやってみたのだが、あんまり売れない。そこで歴戦の撃墜王坂井三郎氏に話を聞くと、氏はそのころ両国かどこかで謄写印刷をやっていたが、戦記物のコツを心得ていた。
「勝たんとだめなんですよ」
なんという名言だろう。
「たとえば一機で空母に突入した場合は、死んでも勝ったことになる。それは一人でたくさんの人を殺すからです。とにかく子供は勝たんとみてはくれませんよ」
僕は早速「作戦シリーズ」というのをやってみた。
なるほど「ハワイ・マレー沖海戦」「サンゴ海海戦」はまあとにかく「ガダルカナル」まではどうにか売れ行きがもったが、「マリアナ海戦」から「レイテ沖海戦」となると、いくら本人が熱心にかいても、読者がみてくれない。
坂井三郎氏の原理があてはまったのであろう。いやこれはプロレスをみる観客と同じ心理だろう。負けいくさをかくにしたがって、本の部数も落ちた。二、三十冊出したが、とにかく出版屋は売れなきゃだめだというので、出すものも決まってくる。「大和」とか「零戦」となってくる。
どうしたらよいものかと、懸賞つけて投書を集めてみる。するとたくさんくる。
熱心な読者だろうと、毎月みかん箱に二ハイもくる投書を参考にしてやっていると、だんだん専門誌めいてくる。あげくのはてはマニア誌になって、売れ行きガタン。したがって原稿料の方もガタン。
貧困の中で結婚する
その頃の僕の趣味は、金がかかるものでは(といっても大したことはないが)軍艦模型作り、金のかからないものでは、墓めぐりだった。なにしろ、僕は、どんな深刻な時にも、趣味がなくてはいられないタチなのだ。
墓めぐりは、最初に中古自転車一台を買えば、あとは一銭も要らず、しかも健康にいい。僕の家から少し行くと、巨大な墓の町、多磨霊園がある。ここを自転車で廻るのだ。その他にも、今は見られなくなったが、あの頃は近郊にまだたくさんあった名もない荒れた無縁墓地を廻ったりした。クモの巣のかかった墓石なんかを見たりしていると、少年時代の冒険ごっこに似た気持ちが湧き上がってきて、楽しいのである。僕が立ち去ろうとすると、墓がいかにも名残り惜しそうな表情を見せることがあるが、そういう時は、小便をひっかけてやり、“小便無線”によって死者の気持ちと交信してやった。特に古い墓ほど、死者の気持ちがナゴヤカで、これが墓めぐりのダイゴ味だった。
貸本マンガの曙出版で「墓の町」を描いたのも、その頃だった。
曙出版は、水道橋の線路の下にあって、電車が通過する時には、話が聞こえなくなった。曙出版で出した僕の本は、あまり売れないらしく、二、三冊出した後、原稿料を値下げされた。わずかな原稿料をもらって帰る途中、水道橋のガード下にあった、二ケ十円の「ふくふく饅頭」を食うのが、その頃のささやかな楽しみだった。近くには、神田古本屋街があったが、見まわるだけで、なかなか買えなかった。
「ガロ」の長井勝一氏が当時やっていた三洋社で「鬼太郎夜話」を描いている頃のことだった。何の予告もなしに、両親が上京してきた。
「お前も、もうすぐ四十だ。四十にもなったら誰も嫁に来なくなる」
と、写真を持って、嫁の話である。
「お父っつあん、俺は、もう少し成功してからにするから、それまで待ってくれよ」
と、僕はあわてておしとどめる。しかし、両親は、アトへは退かない。
「冗談じゃない。四十になって、しかも片手しかない者に、嫁になんか誰も来ん」
と御説教。
「もうお前一人だから(兄も弟も結婚していた)、ここらで安心さしてくれ」
と、母はガンバル。どうやら、両親は、既に嫁(候補)にも会ってきており、話も半分以上決まっているらしい。写真を見ると、長い顔の女がホホ笑んでいる。
「そんな急な話をされても……」
と、僕は頑張ったのだが、両親も今度ばかりはと執拗で、とにかく見合いには行くからと約束して、両親には先に帰ってもらった。
僕にしてみれば、貧困のドン底にいたのだから、見合いどころではない。大急ぎで「鬼太郎夜話」を描き、原稿料を受け取り、やっと田舎へ帰った。
両親は、帰った僕にむかって、必死で、これがおまえの最後のチャンスだとおどかす。金もちょうど、父に何かの一時金が入ったところだった。たしかにチャンスのような感じがして、ぼくは、ただちに結婚を決意した。
結婚式は、見合いのあくる日にと、急に話がまとまったものだから、大あわてである。結婚式場に入ってからも、あわただしい。父が大声で、「酒は二級酒でいい、酒は二級酒でいい」と叫びながら走りまわっていたことだけが強い印象を与えたというほど、厳粛さとは縁遠い結婚式だった。
上京しても、甘い新婚生活という感じではなかった。第一、新婚旅行というものがなかった。
「鬼太郎夜話」の第四巻を描いたものの、三洋社の長井氏が病気で入院してしまい、原稿料を三万円に下げられてしまった。それでも、第五巻の「亀男《かめおとこ》の巻」を描いて持っていったのだが、その直後に、三洋社は倒産してしまった。三万円はもらったが、「亀男の巻」は永久に日の目を見ることはなくなったのである。その原稿は、解散の際に、ゴミといっしょにすてられてしまったらしい。
悪いことは続くもので、一年ほどして、兎月書房の倒産。その少し前に、約束手形で二十万円ばかり原稿料を受け取っていたので、それを不動産屋に割引きしてもらっていたから、倒産と同時に、不動産屋に二十万円の借金ができたことになった。
兎月書房に行ってみると親父はコブだらけ。
「俺ぁなあ、迷惑かけた人に言ってるんだ。気がすむならなぐってくれと……」
なにか目ぼしいものはないかと思ったが、坐るとこわれる椅子が二つ位あるだけでなんにもない。
そこへもってきて、妻が、子供が生まれそうだと言う。「しばらく待て」とは言ったものの、大自然の力だから、意のままにはならない。
そんな時、地主がやってきて、
「この建築は、無断建築です」
と言う。九坪の建物が二軒建っているが、所有地からハミ出しているというのだ。
「とんでもない。こんなに頭金も払っているんですよ」
と言うと、
「ああ、それなら、建築業者がちょろまかしたんでしょう。しかし、私は、その分の土地代は受け取ってないから、あんたが払わないのなら、土地の登記はしないし、家の片方は明け渡してもらいます」
寝耳に水の話だ。
「しかし、そんなこと、急に言われても……」
僕がそう言うと、地主は、
「じゃあ、法廷で争いましょう」
と一言残して帰っていった。
そのすぐ後へ、税務署員がやって来た。何事かと思えば、申告所得があまりにも少ないが、ごまかしがあるのではないか、というわけ。
「だって、現に、所得がないんです」
「ないんですといったって、生きている以上は食べてるでしょう。これじゃ、食べてられる所得じゃありませんが」
と、食いさがる。
「我々の生活がキサマらにわかるかい!」
僕が、怒りと絶望とでかなり迫力のある声をあげると、その後、税務署からは何もいってこなくなった。
しかし、別に貧乏神はいなくなったわけでもなければ、困難が解決したわけでもなかったから、質札は三センチの厚さにまでたまり、家の中はガランとしていた。やがて、地主の代理人の弁護士から通知が来た。何だかわけのわからない法律のことがごちゃごちゃ書いてあった。
いよいよ、地主との戦いが始まったことになるのだが、こちらは、それ以前に、まず、めしとの戦いがあるのだから苦戦である。
弁護士が何度もおどかしの手紙をよこすので、彼の事務所へ行くと、彼には、一文もない人間が世の中にいるということが信じられないらしく、
「三十万、いや、二十万だっていいんですよ」
と、促すのだが、僕のポケットには百円くらいしかないのだ。ところが、「ない」という僕の弁明を、弁護士の方では、ふてぶてしい挑戦と受け取ったようで、
「では、八王子の法廷で争いましょう」
などと言いだした。
僕としては、話がこじれても困るし、しかたなく、二軒のうち一軒をあけ渡すことに同意した。僕の方は、子供が生まれることでもあり、兄貴夫婦が市営住宅の空いているのを見つけて引越すことになった。
これで、ごたごたが解決かと思っていたら、突然、大蔵省の役人がやってきて、図面を見せながら、ここは半分大蔵省の土地であるから、ただちに立ち退いてくれと言う。
僕は、もうすっかり絶望的な気分になって、「どうにでもしてくれ」と言った。ところが、翌日、また大蔵省の役人が来て、「昨日はすみません、図面のまちがいでした」と言う。ほっとするやらあきれるやら、返す言葉もないうちに、役人は帰っていった。
そのうち、金もどんどんなくなって、原稿料の入らなかった時には、とうとう電気料が払えなくなり、電気を切られてしまったこともあった。僕はしかたなく、ロウソクの光の下で仕事をした。
全く、金のない人間には、世の中は無情なもので、何一ついいことがない。とにかく、この貧乏をコクフクしなければ、笑い声一つあげられない。
しかし、かんじんの貸本マンガ界が絶望的な状態にあった。それは、ちょうど、紙芝居の世界がカイメツする時によく似ていた。
やっと移住してきた貸本マンガの世界もカイメツするのか。僕が悩んでいると、やはり同じカイメツ仲間の宇治川雅夫、伊藤|大樹《だいじゆ》の御両人が現われた。宇治川氏は、苦悩のためであろうか、バスター・キートンのような無表情な顔になっており、伊藤氏は、もっと苦悩しているのか、ベートーベンのような重苦しい顔になっていた。
二人は、貸本マンガのカイメツ状態を語り、このまま貸本の世界にとどまるかぎり餓死が待っているということに意見は一致した。
それでも、宇治川センセイには、一条の希望の光が見えているようで、業界紙という新分野にマンガを載せる路線を開拓したから、一度ぜひ自宅に来て詳しく打ち合わせをしよう、という親切な御言葉があった。
宇治川センセイは、紙芝居出身で、その全盛期には、白いセビロを着こなし、家まで建てたという人だったから、僕も、センセイにすがるような気持ちで、御宅を訪問することにした。
さて、数日後、教えられた家を訪ねてみると、六畳一間のキタナイ家。奥様は病気のため入院中ということでセンセイ一人、ハダカ電球の下にすわっておられた。センセイの尻の下には、ワタのはみ出しかけたザブトン、その下は、まっ黒なタタミというありさま。宇治川センセイは、新分野が希望に満ちていることをこまごまと語ってくれたが、まだ仕事は僕に廻すほどない、と残念そうに言われた。
新分野どころか、旧分野の貸本マンガ界でも、ロクな仕事はない。その頃、僕は、小屋みたいな社屋の無用社という出版社で一冊描いたが、原稿料を三千円しかくれない。
「三万円じゃなかったんですか」
「だから、払うといってるじゃないの、あとで」
顔の長い老社長が言う。
「あとと言いますと、いつですか」
僕も必死である。顔長社長は、十日後だ、などと答える。その日に、僕が行くと、ちょうどナニがナントカしたので五日後と言う。また、僕が五日後に行くと、妻が交通事故で……と言う。
「それで亡くなられたのですか」
「いや、生きてる。だから大変なのよ」
「原稿料は、どうなりますか」
僕が言うと、五百円くれる。
「たった五百円!」
僕があきれると、
「つけあがっちゃいかん。わしゃ、一日三百円でやっとる」
五百円もらって叱られていれば世話はない。これ以上ねばってもしかたがないので、無用社を出た。家へ帰る前に、やはりカイメツ業の仲間である佐々木骨次郎の家を訪ねようと思い、日暮里《につぽり》へ廻った。
出てきたのは骨次郎の母親のようで、これは、二十貫ぐらいありそうな大女だったが、骨次郎は、その名の通り、骨ばかりの体をさらにやせさせていた。
「もうダメだ」
話は初めから、ダメで始まった。
「わしゃあ、一頁百円でやっているが、その百円の仕事も今日でおしまいよ。宇治川雅男が『バッタ|リ侍《ざむらい》』を描いてバッタリ倒れたが、わしもバッタリいくよ」
骨次郎は、ミイラのような体をふるわせて自虐的に笑った。
僕は家へ帰ると、軍艦模型の作製に向かった。原稿料が入った時、模型屋に行って、千分の一の部品を買い、こつこつと連合艦隊を作っていたのである。部品のないものは、自分で木をけずったり針金を切ったりする。船体ができると、ペンキやニスを塗り、旗などのかざりをつける。こうして、軍艦は少しずつふえていき、やがては、連合艦隊全部を作りあげようというのだ。僕の横では、妻が軍艦作りに協力している。
なにしろ、現実は、果てしない泥沼みたいなもので、“思いわずろうても”キリがないのだ。子供が寝ると、僕は、妻と二人で模型を作り、その間だけ現実を忘れることができた。
妻は手先の仕事が好きで、軍艦作りは僕よりもすぐに上手くなった。赤ん坊は、寝かしておけば、くてくてといつまでも寝ている便利な赤ん坊だった。
鬼太郎・河童の三平・悪魔くん
ここらで、僕の代表作の成立のいきさつについて書いてみよう。
鬼太郎は、神戸時代に、まず紙芝居として始まった。紙芝居をやりだして二、三年後の昭和二十八年頃のことだった。前にも書いたように、鈴木勝丸、加太こうじ両先生が、戦前の紙芝居「ハカバキタロー」の話をしてくれたので、それをヒントにして僕が創作した。
第一回目は、必死に考えた末、「蛇人《じやじん》」とした。ヘビのうらみというような話にしたのだが、あまり受けなかった。
この「受けない」ほどまずいことはなかった。
カシモトの勝丸先生は、もともと貧乏なところへ、子だくさんだったから、受けない、ハイそうですか、とはいかないのだ。僕は僕で、例の貧乏である。
その上、元海軍大尉だった兄貴がスガモ・プリズンから、八年のカンゴク生活を終えて出てきた。インフレが進んでいたので金の計算もできないというありさまだったから、その面倒も見なければならない。
とにかく、受けさせなければ、カシモトも作者もその家族も総|討死《うちじに》となるわけだ。僕は、その頃は、力もあまりなく、絵もストーリー作りも自信があるとは言えなかったから、本当に苦しかった。
ちょうどその頃、空手映画が流行《はや》っていた。空手が子供に人気があるらしいというので、「空手鬼太郎」というのをやった。これが万一受けないようなことがあったら、それこそ死が待っている状態だった。僕は、ひたすら、便所の中でも夢の中でもストーリーを考えていた。
紙芝居は、毎回、最後のところで、ああどうなるんだろうとハラハラさせながら終り、ジャリを惹《ひ》きつけなければならない。
鬼太郎は、何回も死ぬが、そこにいろいろな工夫があって、実はコレコレしかじかで生きていたとなるのだが、これをやっているうちに、超能力のようなものを持っているということになった。後のマンガやアニメになった鬼太郎は、初めから超能力を持っているが、初期の鬼太郎には、超能力というものはなかった。不幸な環境に生まれた子供が、“どうしても生きよう”という強い意志によって、普通の人間にはできないことができるといった話だった。
鬼太郎の不幸というのは、母の死、そして、父の死、思いやりのない世間、といったものだが、そういう不幸に、弱い子供が一人で立ちむかっていく。そして、子の行く末を思う親の心が目玉と化し、鬼太郎のポケットに、いつしか入ることになる。
鬼太郎は、唯一人の肉親である目玉を守って戦うが、相手は、沖縄空手の達人、義珍《ぎちん》である。
鬼太郎は、生きるために、相手がどんなに強いものであろうと、打ち負かさなければならない。義珍は、さまざまなことをして鬼太郎をいじめる。
鬼太郎の弱点となっている目玉をポケットから取って、握りつぶそうとしたりする。目玉は、「俺はどうなってもいい。お前さえ生きていれば。いいから逃げろ」と言うが、鬼太郎は逃げない。この世界に、たった一人の肉親である目玉をおいて逃げるわけにはいかないのだ。
しかし、鬼太郎は、十歳ほどの子供。義珍は、その十倍以上もの力のある空手の達人。鬼太郎は、敢然とむかうが、義珍のために打ち殺されてしまう。
鬼太郎は、棺桶に入れられて、火葬にされるが、火葬場の管理人が燃え方がおかしいので開けてみると、鬼太郎の形をした砂が入っていた。
鬼太郎は、どこかに生きているのだ!!――といった調子だった。
当時は、物もない苦しい時代だったし、娯楽も少なかったから、この悲壮な鬼太郎の話は大人にも受けた。初期の鬼太郎は悲劇ものだったのだ。これは、勝丸先生と僕とその家族の必死で生きる姿そのものでもあった。
これが大ヒットして、僕は、作画にいくらか自信がついた。
次いで、「ガロア」というSFふう鬼太郎をやってみたが、あまり人気はなかった。
「幽霊の手」という怪奇なものの鬼太郎もやった。この頃初めて、ねずみ男らしいものも登場するが、それもグロテスクさが強すぎ、そのせいか、人気もいま一つだった。
鬼太郎が鬼太郎らしくなるのは、それから五年ほど後の貸本時代だろう。
兎月書房で戦記ものをいくらかやった後、新しいものをということで、「妖奇伝」という怪奇短篇集の責任編集と、その中の一篇を描くこととをやることになった。この「妖奇伝」は短篇集として続けて出ることになっていたので、いいキャラクターが必要だった。
そこで、鬼太郎ものがいいと思い、「墓場鬼太郎」をやることにした。
この鬼太郎については、設定をいろいろ考えた。
鬼太郎とは、一体何者なのか。普通の人間なのか、幽霊か、妖怪か、あるいは、他の星の人間か。紙芝居の時は、バクゼンとした設定でよかったのだが、貸本は、まがりなりにも本だから後に残る。読者は、くり返して読むから、アイマイであったり、デタラメであってはまずいのである。
いろいろ考えてみたが、名案はなかった。
幽霊だとすると、足がないし、全体の印象がそれこそ幽《かす》かなぼんやりしたものになってしまう。
妖怪ということにすると、人間とははっきり異類だから、読者の共感は呼びにくい。しかも、幽霊と妖怪とのちがいから説明しなければならなくなる。
SFふうに異星人とするのも、唐突である。
僕の求めていたイメージは、人間に近いけれども、妖怪や幽霊と同類か近所づきあいしていて、しかも、古くから日本にいて、いわば、柳田国男の「妖怪談義」に出てくるお化けたちの本家のようなモノということだった。これを必死に考えた。
ちょうど、兎月書房が僕を御払い箱にしようとしている頃だったから、我ながら涙ぐましい努力だった。とにかく、設定を誤まれば、ストーリーをいくら展開させようとしても、面白くはならないのである。
一ケ月か二ケ月も考えただろうか。今から思えば何でもないことだが、鬼太郎の設定がふとひらめいた。人類が誕生する前から地球上にいた、いわば地球の先住民みたいなもの、それが“幽霊族”だ。“幽霊族”は、しだいに今の人類に滅ぼされ、鬼太郎一家だけが生き残る。鬼太郎の父は、自分の血筋を断やさないため、目玉となって子孫を見守る。
こうすれば、柳田国男に出てくる妖怪や、僕が子供の時にのんのんばあから聞かされた伝説や、祖先崇拝などとも連なることになる。
そうすると、小道具のチャンチャンコも、わりと簡単にできた。“幽霊族”が死ぬ時、思いを込めた毛を一本残す。これを“霊毛”とする。その“霊毛”で編まれたのが鬼太郎のチャンチャンコなのだ。だから、鬼太郎のチャンチャンコは、鬼太郎を守ろうという何万人もの祖先の思いのかたまりなのだ。それは、一人の人間が生きているということは、その背後に、おどろくほど永い祖先というものがあるのだという考えから来ている。こうすると、柳田国男が書いている妖怪や古い神々とも親類づきあいができることにもなる。
こうして、「妖奇伝」の鬼太郎もの第一回「幽霊一家」ができた。
ところが、「妖奇伝」は、第一回はまだよかったが、第二回が極端に売れなかった。兎月書房は、「妖奇伝」を廃刊することに決めた。僕は、失職である。
報われない努力というものもいろいろあるが、僕が苦労した「妖奇伝」二冊で手に入れたものは、二万円ばかりの金と失職だったのだ。
世の中の仕組みに対するイカリが燃えあがったが、どうすることもできない。イカリは自分を苦しめるだけのことだった。
仕事もなくモンモンとしていると、兎月書房からハガキが来た。
出向いてみると、熱心な読者が長文の手紙をよこし、「妖奇伝」はなくなっても、「鬼太郎」だけは傑作だから何とか続けてくれ、と強く訴えてきたという。
兎月のオヤジは、その熱意にうたれ、「妖奇伝」の後釜として「墓場鬼太郎」という怪奇もの短篇集を出すことにしたと言うのだ。短篇集の中心になるのは、もちろん、僕の「墓場鬼太郎」である。
人間の運命というものは、本当にさまざまな回路から成り立っているらしい。この熱心な読者の手紙によって、鬼太郎はよみがえることになり、後の僕の代表作の一つともなるのである。
しかし、鬼太郎が継続できたからといって、僕の生活がよくなったというわけではなかった。「妖奇伝」そして「墓場鬼太郎」の頃は、昭和三十四年で、貸本界は全体的に見れば、ぼつぼつかげりが見えだした程度だったが、兎月書房は、もともと小さい貸本界の中でも小出版社だったから、既に全面的に不景気になっていた。そんな兎月でも、僕としては、他の出版社では仕事をもらえないからやるわけだが、「墓場鬼太郎」第一巻で三十頁、続いて第二巻で百頁、第三巻で百頁と描いても、兎月書房は、ビタ一文払ってくれない。原稿料は、二十万円近くたまっていた。
仕方なく、近くの三洋社に顔を出すと、
「よおー、あんたが来ないかと思ってたんだよ」
と、長井勝一氏(後の青林堂社長)が言う。
僕は、鬼太郎ものを描きたいものだから、三洋社で、「鬼太郎夜話」として四巻出した。昭和三十五年のことである。
ところが、第四巻目を出してすぐ、長井氏は病気で入院し、三洋社も解散してしまった。
僕が不運にうちひしがれているのに、兎月書房からは、「墓場鬼太郎」が第四巻、第五巻と出る。おかしいと思ったら、竹内寛行氏に「墓場鬼太郎」を続けさせていたのだ。僕は、さっそく兎月書房に抗議したのだが、兎月では、あれは短篇集の名称だからウチが使っていると言う。たしかに、その頃の貸本マンガ界は、著作権もなにもないようなものだったが、これは、ちょっとひどかった。兎月書房は、あんたがまたウチで描いてくれれば、原稿料(たまっていた分)も何とかするし、鬼太郎もやめる、と言う。
そこで、僕は、兎月で新たに「河童の三平」を描くことになった。たまっていた原稿料は、いつもの通り、アブナイ約束手形でくれた。鬼太郎ものは、後に、少年誌に連載され、テレビ化もされて、僕の代表作となる。
「河童の三平」は、昭和三十七年に、兎月書房で描いた。
「河童の三平」も、紙芝居の時に、前篇四十巻、後篇四十巻、計八十巻でやったことがあり、僕の好きな題材だった。ユーモラスな河童がいたら、という設定そのものが、楽しそうで僕は好きなのだ。登場人物は、じいさんと子供ぐらいで、あまり人間のいない山奥に、河童たちの小国があって、などと、僕は考えた。
もともとの話は、僕が復員して、少しの間、田舎に帰っていた時、姪(兄貴の子)に、寝る前のおとぎ話をせがまれて作ったものだった。
僕は「河童のカー坊」という話を即興的に作って話してやったが、それが、この三歳ほどの姪には非常に面白いらしく、毎晩、「カー坊の話して」とくる。
二回や三回は、苦もなく作って話したが、五回十回となると、かなり苦しい。しかし、姪は、熱心に「カー坊」の話をせがむ。タネギレになったオジサンは、自分の少年時代の水泳大会の話などを「カー坊」に置き換えて、えんえん三十回ほど千一夜物語をやった。
紙芝居の「河童の三平」は、この「河童のカー坊」の話をもとにしてやり、自分自身でも楽しく、あまり苦労もなく、受けもよかった。
そこで、続きをやれということになり、これまでのを前篇だということにして、後篇を新たに始めることにした。その時の「|より《ヽヽ》面白くしてくれ」という注文がいけなかった。
河童の集団を都会に出してしまったところ、収拾がつかなくなってしまった。どうも話がちぐはぐになり、河童たちの存在感が稀薄になってきて、あわてて終りにしてしまった。
兎月書房の「河童の三平」は、紙芝居の後篇の失敗をふまえて、人間の世界に出ていく河童は一匹だけということにした。一匹だけ出現させると話もリアルになり、八冊描いた。
それからほどなくして、兎月は倒産する。
後に、「ぼくら」や「少年サンデー」にも「河童の三平」を連載するが、貸本版とは内容も少しちがっている。「河童の三平」もテレビ化されたが、「河童の三平 妖怪大作戦」という特撮もので、内容も全然ちがったものだった。
「悪魔くん」は、東考社社長桜井昌一氏の熱望に応えて、昭和三十九年に描いた。
桜井氏は、自分でもマンガを描いていたから、以前から親交があった。
セントラル出版の帰りがけに、松本正彦、辰巳ヨシヒロといった劇画工房の連中の中から、ちょこまかと動く男が一人、僕の方に近づいてくる。僕が逃げようとすると、
「桜井昌一です。僕、水木さんのファンです」
と言う。これが初対面だったが、その個性的なマスクには、初めから惹かれた。やがて、僕のマンガに、重要なキャラクターとして、ちょくちょく登場してもらうことになる。僕は、このキャラクターにこそ、働いても働いても落伍していく善良な現代人という感じがよく現われていると思う。
桜井氏と僕とは、よく気が合い、趣味も一致して、喫茶店でコーヒーを飲みながら一日中話をしたりした。桜井氏も、奥さんに家を追い出された(?)時など、ふらりと寄ったふりをして、僕の家へ来たりした。
桜井氏の劇画作品は、初期劇画特有のアクションとサスペンスの中に、非常に繊細な神経が感じられたが、それが逆に作用したのか、自分であまり描かなくなり、東考社を始めた。
東考社で、僕は好きなようにやっていいと言われ、僕や桜井氏を苦しめている貧乏を打ち砕く魔法の話を考えた。セリグマンの「魔法」(平凡社)を読んでいると、中に、ものすごくたくさんの魔法の話が出てくる。ああ、昔から、人間は、幸福になるために、こんなにたくさんの魔法を考えていたのだなと思い、この本とゲーテの「ファウスト」をヒントに、ノート二冊分のストーリーを作って「悪魔くん」を開始した。
とにかく、長年の貧乏は、あの半死半生の目にあった戦争よりも苦しいほどで、一山百円の腐ったバナナを買って食うのが無上の楽しみという、人には話せないような思いをさせる貧乏を、せめてマンガの中だけでも、魔法の力によって撃破できたらと、ペンを握る手にも思わず力が入るほどの意気込みだった。
桜井氏は、国分寺の長屋のような家に住んでおり、僕は調布から、いつも自転車で原稿を届けた。どういうわけか、桜井氏に原稿を届ける時は、夜で、しかも小雨が降る夜が多かった。僕は、近道をしようと多磨霊園を通るのだが、道に迷って冷汗をかくようなこともあった。
こうまでして頑張った「悪魔くん」だったが、第一巻、第二巻の売れ行きが悪く、桜井氏も気落ちしたが、僕は、原稿料を一冊三万円から二万五千円にさげられてがっかりした。その上、全五巻ぐらいのつもりだったが、後はまとめて第三巻とすることになり、むりなつじつまあわせをして盛り上がりがなくなったのは、本当に残念だった。
東考社も桜井氏も非常に良心的な出版社だし、いうところのない人物だったのだが、貧乏神にとりつかれている点が最大の玉にキズだった。その貧乏神を追い出す悪魔くんのはずだったが、うまくいかなかった。
「悪魔くん」も、後に雑誌用に描きなおし、また、特撮ものでテレビ化もされた。
[#改ページ]
W 多忙
貧乏神が去り、福の神が来る
昭和三十八年夏、青林堂の長井勝一氏がセンベを持って家へ来た。三洋社をやっていたが病気になってやめてしまい、病気が治ったので、今度は、青林堂を作ったのだ。
「『忍法秘話』ての出すから、あんたも描いてよ。三平さん(白土三平氏)も描くし。一頁三百円出すよ」
「うわっ、三百円も」
「うん。それからな、ゆくゆくは『ガロ』というのも出す。これは、一枚五百円」
「五百円! そりゃ雑誌クラスですな」
五百円なんていうのは、大手の月刊誌の原稿料(但、最低ランク)なのだ。
翌年、「ガロ」が創刊されると、毎号連載になった。原稿料は、たしかに五百円だったが、頁数が少ないから、あまり金にはならない。他の貸本誌にも描くのだが、もはや、貸本の時代ではないという実感だった。昭和三十四年に創刊された「少年サンデー」「少年マガジン」が定着してきて、月刊誌すらおされ気味になっていた。ねずみ男のモデルの山田円太郎策士は、その頃、宏文堂という貸本誌の編集をやっていたが、話を聞いてみても、貸本世界には、あまり未来がありそうになかった。
「ガロ」には、マンガマニアの大学生などが熱心な愛読者になり、僕の作品も多少人気が出たようだった。むつかしそうな学術書といっしょに「ガロ」を読んだりするのが学生らしいというような風潮になり、僕なんかも、あっちこっちに引っぱり出されるようになった。
東大の学生グループに呼ばれたのも、この頃のことだった。
長井氏から電話がかかってきて、東大で講演をやってくれという。何でも、マンガ好きの学生たちが、長井氏に、誰かマンガ家を斡旋してくれと言ってきたのだが、白土三平氏はいやがるので、僕に出てくれということらしい。僕も大勢の人前でしゃべったことなどないので困ったが、長井氏は、どうしても行ってくれと言う。
しかたがないので、引き受け、長井氏と一緒に東大へ行って、講演のようなことをやった。話の内容は、マンガについてであったことはまちがいないが、自分でもハッキリわからないようなもたもたしたものだった。おぼえていることといえば、講演の内容ではなく、次のようなことだ。
その帰り、東大の近くのめし屋で長井氏と食事をしたが、氏は、野菜いためと大盛りごはんを注文し、あれこれ話をしながら、ぱくぱくと食った。僕は、長井氏の話す話より、こんな小さな体でよくこんなに食べられるなあと、その食欲の方に感心し、思わず「ははあ」と声をあげたのだが、長井氏は、話の内容に感心したのかと思って、いっそう熱心に話しかけてきた。その間にも、野菜いためとめしは休むことなく口に運ばれていた。全くまずそうな野菜いためと大量の|めし《ヽヽ》をこんなに食う人がいるだろうかと思った。いつだったか、長井夫妻が僕の家へ来た時、何も出すものがなかったので、たまたま買ってあったソーセージを出したことがあった。夫妻が出されたソーセージに手をつけずに見ているだけだったので、僕がまず食べねばいかんと思って一枚二枚と食べているうちにとうとう一人で全部食べてしまったことがあったが、その時、夫妻の目には驚きの光が輝いていたが、ちょうど、野菜いためを長井氏が食べるのを見ていた僕の目も、同じようだったにちがいない。僕と長井氏は、お互いの食欲に驚きあっていたわけだ。
こんな腑甲斐《ふがい》ない講演会だったが、それでも、いくらか運が開ける兆候だった。
その頃、「少年マガジン」の編集者がやってきて、宇宙ものを描いてくれという。しかし、僕は、宇宙ものは得意ではない。貸本マンガの連中で、雑誌から注文が来たのはいいが、不得手な分野なのに引き受けて、後で苦労した人が何人もいた。貸本マンガに引き返そうにも引き返せず、不得手な分野は当たらない、というわけだ。そういう例を知っていたから、僕は、この話は断った。
僕は、とりあえず青林堂の常連としてマンガを描いていた。
ある日、青林堂へ原稿を届けにいくと、長井氏が、ぼそぼそと、「明日、マンガ大会みたいなものがあるから、出てくれ」と言う。
王子の公民館のような所で、マンガ家と読者の交歓会のような催しをやるらしい。そして、白土三平氏が僕に会いたがっているし、ぜひ出てくれ、というのだ。
次の日、待ち合わせ場所の王子駅に行ってみたが、まだ誰も来ていない。僕に会いたがっている三平氏も、早目に来るようなことだったのに来ていない。駅のベンチには、真黒な足をしたルンペンのような男が一人寝ているだけだ。
古武士のような厳格な三平氏が時間に遅れてくるはずはないと考え、ひょっとするとと思って、ベンチのルンペンふうの男の顔をのぞいてみると、長髪とヒゲとホコリにまみれた中に、写真などで見たおもかげがあった。
「三平さんですか」
おそるおそる尋ねると、
「三平です」
偉大な白土三平先生だということがわかったのだが、それにしても、あまりにも足の裏が黒い。きいてみると、
「このゴムゾウリのせいです」
ということで、見ると、なるほど、足が二センチほどはみ出していた。
この原始人のような三平氏は、いきなり「うははは」と笑ったりするので、困ったなと思っていたが、しばらくして、長井氏が数人のマンガ家たちを連れ、「よーっ」と言いながら現われたので救われたような気がした。王子駅頭でのこの驚きの対面は、後に「カモイ伝」という短篇にしあげることになった。
ところが、僕が長井氏の顔を見て救われたような気がしたのもつかのま、長井氏の連れてきた男たちの中に、もう一人ルンペンふうの男がいるのには驚かされた。それが、つげ義春氏であった。つげ氏は、何度か後姿を見かけたことはあったが、近くで正面から見たのは、これが初めてだった。
こんなふうにして、何人か揃ったところで、会場の方へ向かった。僕は、まるで、真田忍群か何かに囲まれているようなおかしな気持ちだったが、町の人から見れば、僕自身もその忍群の一人に見えたかもしれない。みんな異様な風体だった。
会場には、他のマンガ家たちも来ており、貸本マンガ家以外にも手塚治虫氏の顔なども見られた。会の内容は、読者がマンガ家に質問したりするようなものだったが、これも、僕は、あまりくわしいことはおぼえていない。おぼえていることは、やはり、会が終わってからのことである。
僕たちの周辺では、三平氏一人が金持ちだったから(といっても世間から見れば、知れたものだったが)、みんなに食事をおごってくれることになり、食堂に行った。僕は、すごく期待していたのだが、おごられたのはスパゲティだった。スパゲティのできてくるまで、三平氏は、どういうわけだか、自分の夫婦げんかの話を身ぶりをまじえて熱心に語った。僕を奇人のように言う人が時々いるが、僕から見ると、三平氏もずいぶん変わっているような気がした。
僕と三平氏は似たコースをたどっている。僕が関西から上京して、加太こうじ氏のところで仕事を手伝う前、三平氏も加太氏のところにいた。三洋社で「忍者武芸帳」を出した頃、僕も三洋社で「鬼太郎夜話」を描いた。三平氏が雑誌にデビューして二、三年後に、僕も雑誌に描き始めることになった。
雑誌の初仕事は、このマンガ大会から数ケ月後のことだったと思う。
夏の暑い日のことだった。また「少年マガジン」からやってきた。暑そうだったので、コップに水を入れて出すと(ただの水)、ぐぐっと飲んで、
「編集方針が変わりましたので、自由に三十二ページやってください」
と言った。僕は、ひきうけた。
作品が掲載されたのは、昭和四十年八月の「別冊少年マガジン」だった。「テレビくん」という幻想マンガだった。
これを機会に、雑誌の注文がどんどん来はじめるようになった。
雑誌の原稿料は、貸本マンガの十倍くらいだったから、妻は驚いた。
「こんなにもらっていいの」
「バカ、貸本マンガと同じに考えちゃいかんよ」
たしなめたものの、僕自身、半信半疑みたいなものだった。
考えてみれば、貸本マンガの原稿料は人間の原稿料ではなかったのだ。とにかく、それでは食えないのだから、幽霊か餓鬼の原稿料だったといっていいだろう。
僕は、三センチほどの厚さになっていた質札を整理しはじめた。
幸い、十年間、質草は流れることなく残されていたが、一番最初に質に入った背広は、返ってきたのはいいが、もうすっかり型くずれしてしまっていた。おかげで、昭和四十年末にマンガ賞をもらった時は、一着新調しなければならないハメになった。
その頃から、電話がやたら鳴り響くようになった。
仕事が手につかないから、近くに住んでいた義姉に、電話番と事務の手伝いを頼んだ。
どんどんふえる仕事をこなすには、アシスタントが必要である。僕は、以前から、講談師の一鶴《いつかく》さんをアシスタントに使ったり、美術学校の学生に声をかけてアシスタントをやらせたり、この方面の着眼は早かった。プロダクションシステムにしたのは、昭和四十三年頃からだったが、これは、税金対策という面もあり、仕事の助手をやとうということは、もっと前からだった。
この頃のアシスタントは、Kという少年だったが、ワク線とテンテンを打つことしかできない。だから、さほど効率は上がるわけではなかった。
一方、編集者は、群をなして現われる。
初めは、福の神の御来臨と考えていたが、やがて、これは、僕の寝る時間を奪いに来る悪魔だということがわかってきた。
何とかせにゃならんと、同業者の知恵を借りるべく、白土三平氏に電話して、
「ケンカして断わろうと思うが、どうかなあ」
僕がそう言うや否や、三平氏は、
「アブナイ、それは」
と叫んだ。編集者とけんかをするのと、原稿料値上げの要求をするのと、この二つは、非常にアブナイというのである。
しかたなく、僕は、なるべくおだやかに、三ケ月後に描きましょうとか、半年後ならやりましょう、というような対応をすることにしたのだが、三ケ月後や半年後は、ますますいそがしくなっているものだから、結局は、約束は空手形になることが多かった。
編集者は約束だからといってねばったりする。
そうなると、僕は、おだやかどころか、寝不足も手伝って激昂し、
「描けないものは描けません」
と叫んで、バットをふり上げようとまで考えた。
もっとも、ふり上げたバットが編集者の頭上に降りるということは一度もなかったが、水木しげるはコワイという評判がたってしまった。
今から考えれば、あまりにも急激にいそがしくなったために、アタマが少しおかしくなっていたのかもしれない。
変わったアシスタントたち
どういうわけだか、僕のところへは変わった人が訪れる。アシスタントにも変な人物が多いのだが、それ以外にも、ファンだの読者だのと称する変わった人がよく訪ねてくるのだ。
僕が散歩していると、死神みたいな顔つきの青年がどこかの家を探しているのに出会った。
「どうしました」
僕が聞くと、
「あっ、水木さんでしょ。今、お宅を探していたんです」
僕がびっくりしていると、
「実は、これを届けようと思いまして」
と言う。見ると包みを持っているが、全く知らない人だ。気持ち悪いので手に取らず、ジーッと見ていると、
「僕、ファンなんです。ぜひ受け取って下さい」
と言う。せっかくだから受け取って、家でこわごわ開けてみると、頭骸骨が出てきたのには驚いた。
僕は、幼い時から奇人・変人のたぐいには興味をもっていたが、どうも、こういう陰気な変人はイケナイ。
ほがらかな奇人も、よく現われる。
自称詩人というのが、夜中の十二時頃来たりする。話が面白いからいいようなものの、三時になっても四時になっても帰らず、とうとう朝までいたこともあった。
この時は、「縄文祭《じようもんさい》」なるものの帰りだとかで、詩人氏もコーフンしていたのかもしれない。その「縄文祭」について聞くと、
「村の丘の上で式典をやり、あとは、五、六人で、ひもでゆわえたカンカラをひっぱって町をねり歩くんです。これをやると、町の人は驚いて見ますが、その顔を見るのがまた面白いのです」
と言う。たしかに、縄文時代の人の魂が乗り移ったようで面白そうだけれど、生活はどうなっているのだろうかと思って、
「しかし、あんたらは、何をやってメシを食っとるんですか」
と聞くと、
「イロイロですねえ」
「今は何をやっとるんですか」
「今は米屋の配達やってますが、働くのは余程困った時で、普通は旅してます」
「旅? あんた、旅といったって只じゃできないでしょう」
「いや、できます」
「どのあたりを」
「日本中ですね」
「へえ、どういうふうにするんですか」
「歩くんです」
「一文なしで」
「そうです」
「メシはどうなりますか」
「畑の大根を抜いて、谷川で洗って食べるんですよ。新鮮だからとてもうまいです」
「寝るのはどうなりますか」
「山の中だと、小学校の分教場に泊めてもらいます。分教場は、日本全国どこにもありますし、田舎の人は親切ですから。次の朝、ベントウまで作ってくれますよ、ハハハハ」
といったぐあいだから、驚かないわけにはいかない。
一見何でもないようだが、この詩人氏は|偉大な人物《ヽヽヽヽヽ》だと僕は見た。
詩人氏は、乱交パーティなんかも企画しているようで、一度招待状を送ってきたが、僕は仕事の都合で行けなかった。もっとも、後で聞くと、この乱交パーティは、開きはしたものの男だけしか集まらなかったということだったので、行かなくても少しも悔いは残らなかった。
こんなふうに愉快な奇人である詩人氏だったが、海水浴の時に、浅い海に跳び込んで岩にぶつかって死んでしまった。これは、非常に残念なことだった。
こういう奇人に、僕は、アコガレと興味を持っているのだ。
今でもそうかもしれないが、僕の子供の頃に学校で教えられた人間像というものは、二宮金次郎なんかの一生真面目に刻苦勉励するというもので、これが僕にはガマンできなかった。だから、つい奇人・変人に興味を持ってしまうのだろう。
ところが、アシスタントを使うという時には、これが悪い方へ作用することもあった。面接して「変わっとる!」と思うと採用してしまうことがしばしばあり、後で仕事ができないことがわかって困ったりした。
アシスタントをたくさん使わざるを得ないと痛感したのは、やはり、怪物のようなマスコミの攻勢にさらされたからである。怪物マスコミに対決できるのは、人海戦術しかないわけだ。
上手くて、早くて、僕の絵に合う、ということになると、つげ義春先生だ。しかもつげさんなら、ヒマそうだ。
早速、青林堂の長井勝一氏に電話した。
「あれは、やるかなあ。なにしろ、描かない男だからなあ」
ということだったが、僕はもうマスコミ攻勢の中で戦争状態だったから、とにかく、連絡だけとってもらった。
大方の予想では来ないだろうという話だったが、正月に徹夜してボンヤリしていると、電話がかかってきた。「すぐ行く」という奇蹟のような返事だった。
つげさんは、たしかに、すぐ来たのはよかったが、着のみ着のまま。後でわかったことだが、どうやら恋愛問題で逃げ場をさがしていた時だったので、かくも敏速に事がはこんだようだ。
早速、石油ストーブやらフトンやらを用意したが、仕事にかかると、さすがに、つげさんはベテランで細かい神経もいきとどくから、何も言わなくても仕事はどんどんあがる。
他にも桜井氏にたのんでアシスタントを二人ぐらいかかえたが、まだ足りない。「ガロ」を見ていると、池上遼一という新人が投稿している。これがやけに絵がうまい。つげさんに相談すると、「これは水木プロにピタリですよ」と言う。そこで、またもや青林堂に電話して、大阪から呼び寄せてもらうことにした。しかし、池上君は、看板屋に勤めているため、急には来られなかった。仕事はいそがしくなる一方だし、待ちかねていたが、やがて、大阪から、期待の池上少年が現われた。二十一、二歳だということだったが、顔つきは十六歳の少年のようだった。二、三十分も話をすると、筆箱をとりだして、やおら立ち上がり、
「仕事さしてもらいまっさ」
「いや、今日は疲れているだろうから、明日からでいいですよ」
「疲れなんか、なんでもありませんよ」
と、勤勉そのもの。つげさんの横に坐ると、バリバリ描きだした。
池上君は、すぐに有力なアシスタントになった。彼は、仕事のあいまには、たいてい、座頭市の話か根性の話をした。
「いっつぁん、いうてなぁ、ええで、座頭市は」
隣のつげさんは「ふァ」という返事とも空気の漏れともつかないようなあいずちを打つが、それがまた、池上少年を奮いたたせるらしく、根性の話に移り、
「そいつ、根性のあるやつでなぁ、ビルのてっぺんから落ちて、傷だらけになってもまだ生きとった。ほんま根性のあるやつやったなぁ」
「どこへ落ちたの」
と、静かにつげさん。
「屋根の明り窓の上やったんや。根性なかったら死んどるわ。ほんま、人間は根性やなぁ」
もちろん、池上君も根性があって、仕事は一日に十五時間ほども続けられた。
そのうち、白土三平ファンという東北弁の男がアシスタント志望で来た。よさそうな感じなので採用しようと思って年齢をきくと、二十七歳だと言う。おどろいて、現在の職業をきくと、銀行員だと言う。もっとおどろいて、
「銀行員なら、その方がええじゃないですか」
僕はこの世界の、苦しさを知っているからそう言った。銀行員は、その時はそのまま帰ったが、一年ほどして、どうしてもマンガがあきらめきれないというので、銀行をやめてまた上京してきた。彼は、間もなく「釣りキチ三平」で大当りをとり、矢口高雄と名乗るようになった。僕の家へ来た頃は、「ガロ」に新人として描いていた。
それから、少しして、顔の長さが五十センチはあろうかというTという男がアシスタントに入った。
Tは、便所の手洗いで顔を洗うのだが、手洗いは三十センチぐらいだったから、二十センチ分はみでるのだろう、彼の使ったあとは水びたしだった。
これくらいのことはまだよかったが、Tは、人にタバコの煙をふきかけたり、議論でも、人を煙にまくのがうまいという奇癖を持っていた。十九歳で美術文化展に入選したという経歴をホコリ、文学書もよく読んでいて、天才モドキだった。このモドキがよくなかった。
仕事もあまりやらない。机の引き出しに自分の描きかけのマンガを入れておき、僕の目を盗んでは、自分のマンガを描いていた。アシスタントに来ているのか、自分のマンガを描きに来ているのか、わからない。僕が不意を衝いてのぞくと、Tは、フーッとタバコの煙を吹きかけて煙幕の中に自分のマンガを隠すのだった。
僕は、当時、毎日が締切りという状態で、のべつアイデアをしぼり出さなければならず、毎日毎夜、苦しみぬいていた。そんな夜は、アシスタントを連れて、おにぎり屋とか喫茶店をウロウロして苦悶していた。そういう時、Tと他のアシスタント連中とが議論を始めるのだが、他のアシスタント連中は、いつもT一人に言い負かされ、すこぶる不快だったようだ。
Tは、新入りだというので、コーヒーをわかすように命ずると、コーヒーのわかし方がわからないと言う。それで、兄弟子《でし》が手伝ってやると、自分は横で何もせず、タバコの煙を吹きかけながら見ているだけ、といったぐあいだったから、みな面白くなかった。
しかたなく、彼を僕のネイム室(セリフや文字をネイムというが、それを考える部屋。僕は、絵もここで描く)の助手にした。といっても、タバコの助手である。僕は、その頃は、一日に七十本ぐらい喫っていたのだが、一本の手でタバコとペンを同時に持つことはできず、交互に持っていたら、締切り時間に間にあわなくなる。それで、絵を描きながら、
「タバコ」
と言うと、Tが文字通り僕の片腕となってタバコを僕の口に持ってくるのだった。
そのうち、Tは、荷物を送ってきて本式に住む(僕の家の仕事部屋の二階がアシスタントたちのアパートになっている)ことになったが、本がたくさんあって、二階がきしむ、どこか他に引越さざるを得なくなった。
「どこかないかなあ」
Tが言うと、つげさんが、
「僕、もうすぐ引越すから、僕のあとに入ったらいいや」
これがよくなかった。つげさんは軽く言ったのだが、つげさんは、幼少の時から「ぐず義」とあだ名されていたほどだから、ぐずぐずしているうちに二ケ月ほどたってしまった。
ところが、Tは、出あうたびに、
「つげさん、どうなりました」
とやる。つげさんは、いろんな事情で引越せなくなったらしいのだが、Tは、意に介さない。
ある日、いつもより強く、
「部屋の件は、いったい、どうなるんすか」
とやった。それを聞いた池上君が激怒、
「おのれは、つげ義春先生に向かって、なんちゅう失礼なことを言うんだ」
その場は何とかおさまったが、二、三日後のこと。僕は「テングス」という喫茶店でコーヒーを飲んでいた。ここのママにつげさんは気に入られていたが、ちょうど、つげさんも来た。つげさんは、僕に、
「Tがいる限り、みんな水木プロをやめると言っていますよ」
と言う。声はボソボソと小さいが、内容は重大だった。
さっそく、Tに、やめてほしい、と言うと、彼は、行く所がないため、やめられないと言う。
僕は、知り合いのSプロに電話をして、なんとか入れてもらい、これで一同ホッとした。
ところが、二日もすると、Tは戻ってきた。
「徹夜徹夜の連続で、カンゴクみたいです。机の下で寝ていたら、いきなりマネージャーに脇腹を蹴られました」
と言って、去ろうとしない。
しかたがないので、今度は、時代もののH氏に紹介すると、新婚ホヤホヤの氏は、バリバリ仕事をしたいから一人ほしいところだった、と言って大いに喜んだ。
ところが、十日ばかりすると、Tは、また戻ってきた。
「仕事中、H氏の奥さんが『あなた』と言って呼ぶんです。すると、二、三時間、別の部屋へ行って帰ってこないんです。しかたなくいねむりしていると、『そんな根性のないことで、どうする!』と、いじめられます。しまいには、奥さんと二人で、根性のなさをせめられました」
と言う。
「しかし、せっかく行ったんだから、そんなことで戻ってこられても困るんだが」
僕がそう言うと、Tは、
「でも、なにしろ仕事が一つもないんです」
「ない? というと」
「いや、H先生は、仕事をしないんです。だから何もぼくの仕事がないんだけれど、毎日机に向かって坐らなければならず、とても苦しいです。水木プロに置いて下さい」
しかたなく、僕は、アシスタント一同に、
「Tは、どこもつとまらないし、うちのアシスタントとしてもダメだから、運転手として置こうと思うが……」
と言ったが、一同は、
「運転手かかえているようなマンガ家がいますか」
と、手厳しい。
ちょうど、Tの父親が亡くなったという連絡があったので、これを機会に、実家に帰るようにと、退職金がわりの金一封を与えて帰らせた。
Tが実家に帰った後、新しいアシスタントが一人入った。これがまたクセ者だった。
昼近くなっても、二階から仕事場へ降りてこない。見に行くと、もぬけのカラ。他のアシスタントにきくと、
「おかしいなあ、ゆうべはいましたよ」
「じゃあ、明日からでもやるだろう」
と、待っていたのだが、何日たっても仕事場へ出ない。部屋を見に行くが、やはりいない。またもや、
「ゆうべはいましたよ」
「別の勤め先へ通っているのかな」
「東京見物してるんじゃないですか」
というような会話が交された。
とにかく、怪アシスタントをタイホせねば、話にならない。僕は、腹が立ってきたから、仕事を休んで見張っていた。すると、真夜中、友人らしき者を連れて戻ってきた。僕は、さっそく、
「キミは、どうして働かないの」
と問いつめた。すると、
「友人の職業が決まらないので、毎日さがしています」
と言う。
「二週間もいったい何してんの。ここは、職業紹介所じゃないんだよ」
「ハァ」
というような、怪人アシスタントと妖怪マンガ家のとんちんかんな問答になった。
その頃は、一番忙しい時期だった。仕事量は多く、アシスタントは、七、八人は必要だった。補充しようと思って、いろいろ雑誌を見ていると、ハラワタを食うマンガを描いている新人がいた。これがいい、ということになって、連絡をとった。
やがて、出雲の山奥から来たのがSだった。Sは、通信教育でマンガの勉強をし、どこかのアシスタントもしたことがあるという。
さっそく仕事に入ってもらったが、Sは、イヤホーンでラジオを聞きながら仕事をする。そして、ラジオで面白いことを言うと、けたたましく笑うのだ。いや、その他にも、やたら、唐突に笑うのである。
その度に、池上君は、驚いたように手を休めて、Sをじーっと見つめる。笑いが止んで、みんながホッとしたと思うと、また、津波のように|笑いもどり《ヽヽヽヽヽ》が起き、一同はドキリとし、池上君は、あわてて立ち上がる。そうしたしぐさが、かえってSの笑動《ヽヽ》をさそうようだった。
奇人・変人も面白いが、アシスタントとして使うには、かなりつかれるのである。
しかし、折にふれて彼らに聞いてみると、どうやら、|社会に受け容れられない人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が流れ流れて僕のアシスタントになりにきていることが多いようだった。だから、彼ら自身としては必死だったわけだ。
その必死さが、かえって奇妙な行動になったのかもしれない。
多忙地獄の中で
いそがしくなりだすと、それまで思ってもみなかったことだが、マンガ以外の仕事も入ってきて、輪をかけていそがしくなる。
キャラクター商品と称して、子供用の水遊びプールとか茶碗とかハンカチとか、そういうものに鬼太郎や悪魔くんの絵をつけるのだが、その業者がやってきて、あれこれ絵を描かせる。
テレビやアニメ関係の人がやってきて、これもいろいろ交渉しなければならない。
僕自身がテレビに出る仕事もあって、そのうちあわせの時間もとらなければならない。
雑誌でインタビューだ、座談会だ、なんてのもある。
夏ぐらい、世間はみんな休みをとるのだし、僕は子供の頃から水泳が好きだったから、海へも行きたいのだが、これがいつもよりいそがしい。あちこちで、お化け大会や妖怪関係の催物があるから、そんな仕事が入ってくる。多忙になりだしてから十年ほど、僕は、夏の海水浴に一度も行ったことがない。子供たちを海へ連れて行ってやったこともないわけだ。
とにかく、机から離れることが許されないのだ。
寝る時間はどんどん少なくなり、時には、寝ないことさえある。これも、二十代、三十代ならともかく、四十代も後半に入ってからでは体にこたえる。五十代になれば更にこたえる。
ヤリ手のマンガ家の中には、アシスタントをうまく訓練して、チーフというのを育て、チーフに陣頭指揮をとらせているらしいが、我が水木プロは、オヤカタ自らが陣頭指揮をとらねばならない。オヤカタがアシスタントの何倍も仕事をして、その上、アシスタントがなまけたがるのを監視し、さらに、時には、アシスタントをおこらなければならない。おこるというのは楽しいことではないから、これがまたこたえるのである。
そのうち、最も戦力になっていたつげさんが奇妙な手紙のようなものを残して蒸発した。
ちょっとヤスミタイというようなことだったが、つげさんは、過去に自殺未遂の経験があるので、どうしても永遠のヤスラギを想像してしまう。一同で手分けして、そば屋の二階のつげさんの部屋へ調べに行くやら、京王線の線路ぎわを見まわりに行くやら、池上君は、
「なにしろ、センサイな人やったからなあ」
と既に涙ぐむしまつ。
しかし、何事も起こらないまま三ケ月ほどすぎ、ある日、つげさんは、またひょっこりと姿を見せた。手紙の文面通りのヤスラギを求めてのあてのない旅だったわけだ。
つげさんの事件は、それでよかったが、池上君が、才能を認められて週刊誌の連載の話が来たので独立することになった。池上君がぬければ水木プロはさらに戦力が低下するので、またアシスタントを補充しなければならない。ところが、入社テストが面接して十秒以内に即決するという採用のしかただから、失敗が多い。
新しく入ったのは、YとHという二人だった。これがまた奇人だった。
Yは、アシスタントのくせに絵を描くのをいやがるという性格で、仕事をさせるのにひと苦労。
Hは、あわてもので、やたら階段でつまずいてはころんでいた。僕が見かねて、
「あんた、階段は注意しないと、そのうち落ちて死んでしまうよ」
と注意したが、
「はあ、わかってるんですが、右足が段をまだ踏んでいないうちに左足を上げますから、よくひっかかるんです」
「ちゃんと、足を踏みしめてから、次の足を出すように」
と、僕は注意した。オヤカタは、アシスタントの歩き方にまで気を配らなければならないから、たいへんなのである。
僕と対照的な立場にいるのが、つげ義春氏だ。
つげさんは、例の蒸発旅行から帰ってから水木プロをやめていたのだが、時々仕事を手伝いに来た。それ以外にも、気がむくと、ふらりと遊びに来ることがよくあった。
つげさんの脱俗ぶりは、まるで仙人のようなオモムキがあった。
つげさんは、そば屋の二階の部屋で、折りたたみ式のベッドにもたれて一日中、窓の外を眺めているのを好んだ。そのうち、雀が遊びに来るようになり、やがて室内にも入るようになって、しまいには、つげさんの足の上で遊ぶようにまでなった。そして、足のあたりに巣を作りそうになった。
というような話を、僕のところへ遊びに来て、一番すわり心地のいい椅子にすわって二時間ばかり語って帰る、という生活ぶり。
不思議なことに、つげさんが帰った後、彼がすわっていた椅子にすわると、誰もがつげさんになったように、仕事ができなくなった。つい、楽しい話を|しゃべりこけ《ヽヽヽヽヽヽ》てしまうのだ。どうやら、つげさんには生物磁気のような「なま気《け》」というようなものがあり、その残留磁気が他人にも影響を与えているらしい。
つげさんにしてみれば、この「なま気椅子」にすわって構想をねっていたのかもしれない。「メンスの話を描こうと思っているんですよ」と話していたが、それが「紅い花」になったようだ。
しかし、僕には、こんなにゆっくりとマンガの構想をねることなど夢のまた夢であった。
そのころの僕の多忙生活ぶりは、ざっと次のようなものだった。
午前四時になって、僕がやっと寝る。アシスタントは交替制で、遅番の者が二、三人、僕が起きるまでに、背景とベタ(黒い部分)を仕上げる。
さて、僕は、五時間も寝たかと思うと、九時には起きなければならない。編集者は、のばしのばしになっているから、朝十時には取りにくる。それまでに、ネイム《せりふ》修正や、アシスタントではできなかったことを、オヤカタとしてやらなければならないのだ。首尾よく原稿を渡した頃、ホッとしてメシになるのだが、往々にしてこういう時にかぎって、予告なしに、別の編集者やその他モロモロの来客がある。やっとメシを食う頃には、午後三時近くなっている。
しかし、決して味覚を味わうどころではない。夕方七時には、次の締切りが待っているのだ。オヤカタがやるだけのことをやって、アシスタントに渡しておかなければならない(朝までやっていたアシスタントは寝ている。別のグループが昼頃起きてくる)。だから、自動車があわただしくガソリンをつめこまれているようなもので、何を食べても大差がない。物を食べるヨロコビが失われているのだ。
苦心惨憺して七時に間にあわせたまではよかったが、その夜の十一時にもう一つ締切りがあったことを思い出す。
アシスタントをみんな寝かし、アイデアを考えようと思っていると、夜十一時に、蒼白な顔の編集者がやってくる。いくらかでもできた分だけ持って帰ろうというわけだ。
そして、机の上の真白な紙を見て、
「あーっ」
と叫ぶ。
本当に驚いた声なので、迫力があるのだ。
「白紙じぁありませんか!!」
「ええ、もう一息なんです」
「もう一息って、本来は、十一時という約束だったじゃないですか」
僕は冷汗を流しながら、
「すぐネイムをやりますから」
「ええっ、ネイムもまだできてなかったんですか」
相手の怒りはますます迫力をますから、僕はドキドキしながら机に向かうのだが、こんな状態では一字も書けない。息がつまりそうに苦しくなって、外の空気でも吸おうと立ち上がると、
「どこへ!?」
「いや、ネイムは、自転車に乗って考えるといいんです。ペダルを回転させてやる足の運動、あれが頭の回転も促進させるのでしょうねえ。すぐアイデアが浮かびます」
とか何とか言って外へ出ようとするが、
「あっ、だめです。事態は緊迫してるんですから」
「だめですといったって、だめですよ」
と、理由にもならない理由を言って、とにかく外に出る(出るというより逃げる)。
頭の中は、毎日の激闘のために、まるでオカラがつまったようになっており、月を見ようが虫の音《ね》が聞こえようが、何も感じられない。アイデアが浮かぶどころではなく、しばしの解放感に、ただペダルを踏むだけ。
それでも、自転車をこいで行くうちに、いくらか人間らしい感覚がよみがえってきたのだが、それがコーモンの方に来た。即ち、クソがしたくなったのだ。思えば、クソもゆっくりしていられなかったのである。
幸い深夜十二時頃だから、人通りはない。畑の中で尻をまくってしゃがみこむと、ウーッといううなり声がする。野犬とおぼしき凶暴そうなのが三、四匹、僕を囲んでいる。
なぐるにも棒も石もないから、逃げるよりしかたがない。ズボンをあわててずり上げ、自転車にとび乗った。しかし、犬は、逃げればよけい追ってくる。僕がボロ自転車でいくらスピードをあげたところで、たかが知れている。猛犬どもに追いつかれそうになった時、警官が二人現われた。
さすがは、優秀な日本警察、犬に追われる僕を救出に来てくれた、と思って自転車を止めると、犬は、警官のライトに恐れをなしたか逃げていった。
「どうもありがとうございました」
僕が言いかけると、
「あんた、無灯で走って困りますな」
というわけ。その上、失礼にも僕の顔をライトで照らし職務質問。
「こんな夜中に、なんで走ってるんですか」
「はあ、ちょっと考えごとを」
「考えごと……ねえ」
「住所、どこです」
「そこの寺の裏です」
「職業は何ですか」
「はあ、マンガを」
「マンガ?」
最近、痴漢が横行し、パンティがよく盗まれるといううわさがあったので、警官は、僕をソレと思っているらしい。
「ちょっと署まで……」
「じょ、じょうだんじゃありませんよ。そこの寺の裏に住んでいるレッキとした紳士ですよ」
「では、ちょっと調べさせてもらいます」
ポケットなどを調べたが、あやしい所はない。警官は、急に無灯の方に話題を変え、
「無灯は危険ですから、くれぐれも注意して下さい」
というようなことで、やっと解放された。
家へ帰ると、
「まとまりましたか」
編集者につめよられ、僕は、ただ無言で汗をふくばかりだった。
こんな日々が毎日続いた。毎日が|ドキドキ生活《ヽヽヽヽヽヽ》だった。
僕は、何とかして仕事を減らそうと思った。頭がオカラのようになるだけでなく、体の調子も悪くなったからだ。とにかく起きられない。起きる気力がなくなった。医者に診てもらうと過労だという当然の診断だった。それから原因不明の|めまい《ヽヽヽ》になやまされるようになった。
いっそ思いきって仕事をやめてしまおうかと考えたこともあるが、南方の土人の生活ならともかく、このジャパンでは、また以前のあの貧乏生活に逆もどりするわけだ。
貧乏というのは本当に大変なことで、明日にでも金の要ることが起きやしないかと、毎日がドキドキの生活なのだ。締切りに追われるドキドキ生活も苦しいが、貧乏に追われるドキドキ生活ももっと苦しい。
それを考えると、今が人生の収穫の秋なのだ、今、後へ退いてはいけないのだ、そう思って、必死にがんばった。
南方の楽園に帰る
毎日多忙な生活をして時間に追われていると、いつも頭に去来するのが、あの南方の“無時間の天国”。
七年たったら必ず行く――それから七年どころか、二十六年もたってしまった。トペトロたちは、どうしているだろうか。楽園への“望郷”の念がつのった。
土人たちの生活のノンキさが実にいいのだ。もっとも、彼らには彼らなりの苦労があるのだが、生き方全体が自然のリズムに合っているというノンキさが感じられるのである。
つまり、自然が生きることを|許してくれて《ヽヽヽヽヽヽ》いるという感じがするのだ。
必要以上にうまい物を食べようとしたり上等の服を着ようという野心さえ起こさなければ、昼寝をしてくらせる。これが楽しいのだ。
バナナはいくらでもなるし、青い実は焼いて食えば芋とパンのあいのこのような味だ。ヤシは、葉は家の材料となるし、実からは油もとれる。こういったものが、ほとんど労力を要さず手に入る。戦争中、日本兵は食い物がなくて栄養失調になったりしたが、土人たちに餓死ということはなかった。
こういうことが土人たちをノンキにさせるのだろう。日本でノンキにしていられる所といったら、カンオケの中ぐらいのものだ。生きている限りは、多忙と不安にさいなまれる。土人たちは、よく、日本人は働きすぎると言っていたが、全くそのとおりで、彼らの基準からすれば、人間は働かないのが幸福、日本人は不幸ということになるのだ。
僕は、多忙な上に、もともと、寒いのがきらい、あまり働くのは好きではない、ノンキなくらしがしたい、という性格だったから、どうしても南方へ逃げ出したくなる。
昭和四十六年の夏、関西の遊園地で、お化け大会があった。僕が監修者になって、妖怪の話なんかをしたのだが、話を終えると、客の中から、
「お前、えろなったもんやな」
と、声をかける者がいる。
見ると、軍隊時代の軍曹どのだった。思わず敬礼しかけたが、僕が二等兵だったのは三十年近く前だったと気づいて苦笑。習慣というものは恐しいものだ。
まあ、お茶でも、と、喫茶店に入ったが、軍曹どのは、開口一番、
「南方はよかったなぁ」
と、目を細める。心は南方にあるふうで、やたらタバコの煙を吹きかけてきた。
「今、何やっとるんですか」
僕がきくと、
「H社の次長や」
「ほう」
「役はついとるんやが閑職や。ヒマでしょうがないのや」
「なるほど。それで、南方に……」
「そや。行こやないか」
軍曹どのは、タバコの灰をぽろりと落とした。
この軍曹どのが、やはり南方狂とは知らなかった。彼は、僕とちがって、土人たちと特別仲好くなったわけではなかったが、あの気候と景色に魅せられているのだ。それに、これは、軍隊で死にかけた体験をした者は誰でもそうなのだが、自分の生命が助かった土地というものが、格別楽しく思えるものなのだ。
その上、軍曹どのは、旅行好きだということだから、南方行きを考えていたとしても不思議はなかった。
その時はそれだけの話で、南方行きのことは多忙の中にまぎれてしまった頃、軍曹どのから、南方行きの細かいスケジュール表が送られてきた。
「あ、本当に行くんだ」
とぼくは思わずさけんだ。
こうなると、大あわてだ。十日間もあけるとなると、まず、二本は仕事が落ちる。落とさないようにするには、徹夜をしなければならない。関西で会った時に同意をしてしまっているから、今さら自分の都合を云々するわけにはいかない。二、三日徹夜して、やっとスケジュールを空けた。
その年の十二月のことだった。
僕と軍曹どのは、南の楽園に飛び立った。
二十六年ぶりにラバウルの土を踏むということは、もう、感激なんていうものではなかった。日本では冬だというのに、ここでは夏だ。これだけでも、南方は楽園なのだ。
僕たちは、まず、戦闘のあったウルグット河まで小型機で行った。
ここは、景色も昔のままだった。三十年近く前も、美しい所だったが、全く同じだった。
「この大木のあたりが中隊本部や」
と言ってみたものの、ジャングルに少し入ると、もう何が何やら定かではなかった。とにかく、板切れを立てて墓らしきものを作り、戦死者たちの霊を慰めることにし、花とタバコを供え、酒を注いだ。
すると、酒の匂いのためか、どこからか蝶が飛んできて墓のあたりを舞いはじめ、去ろうとしない。これは、戦死者の霊の化したものであろうと思い、しばしもの思いにふけった。
軍曹どのは、戦争の時からこのあたりの景色が好きだったから、
「オレ、ここに十日ほどおるから。土人部落に行くんやったら一人で行ってこい。空港で落ち合うことにしようや」
と、動こうとしない。
僕は、景色も景色だが、土人たちと会うことが大きな目的だったから、一人だけまた小型機で、前に野戦病院があった方に戻った。そこから自動車をやとって、土人部落さがしである。
三十年近く前のことだ、景色も道も部落も変わってしまっている。人間も、誰と誰が生きているやら死んでいるやら、わかりはしない。
半日ばかり自動車を走らせ、もうだめかとあきらめかけていたら、道に、数人の土人が現われた。これが最後と思って、
「このあたりに、トペトロという男はいないか」
と尋ねると、
「おお、トペトロは酋長だ」
「僕は、三十年近く前、このあたりにいた通称パウロという日本の兵隊だ」
「あっ、パウロ。おれ、トマリルだ。トペトロの妹と結婚している。おれの顔、おぼえていないか」
残念ながら、トマリルに記憶はなかった。何人かいた少年の一人だったのだろう。
トマリルは、トペトロの下で副酋長のようなことをしているらしい。
トマリルは、喜びいさんで部落まで案内した。
部落につくと、トマリルが大声で何か叫んだ。子供たちがイナゴの大群のように現われて跳びついてくる。
僕のことを伝説のように、日頃からトペトロが口にしていたのだろう。子供たちは、親愛の情を示して、やたらしがみついてくる。子供たちの手は泥だらけだから御遠慮ねがいたいのだが、ムゲに断わるわけにもいかない。適当に握手をした。
部落を見わたすと、さすがに昔のおもかげはなく、家もヤシの葉の屋根ではなく、トタン屋根になっていた。
間もなく、トペトロが姿を見せた。にやにやしながら、大きな手をさし出した。
「パウロだ、わかるか」
と言うと、
「ワカル、ワカル」
食用蛙のような声で返事をし、手を握りしめた。
女たちは、客人だというので、やたらバナナやパパイヤを持ってくる。食わなきゃ失礼だから、二十本ばかりバナナを食べ、苦しくなっていると、名士たちが現われた。
オランウータンのような顔をした元村長のトワルワラ。富豪(貝貨が他の人より二まわりばかり多い)のチアラ老。この二人とも握手を交した。名士といっても、日本の名士とちがって、おおらかで、ノンキである。そのノンキが移ったのか、僕が居眠りをしかけていると、
「メシだ」
うす暗い家の中に入ると、机の上に、赤ん坊のアタマくらいのサツマ芋が三個置いてある。
「とてもこんなに食えない」
僕が言うと、
「遠慮するな」
トペトロは、大きな手で僕の肩をたたいた。芋の横には、どこで手に入れたのか、うすいインスタントコーヒーがカップに入っていた。僕は、そのコーヒーをすすりながら芋に挑戦してみたが、芋は、豚の脂で煮たもので、しつこい上に塩気がない。その上、戦時中の日本で食糧増産用に品種改良した農林一号とかいう芋らしいから、まずくて食えない。
巨大な芋をやっと一個だけ退治して、胃袋の中におさめたものの、全身汗ぐっしょりだった。
残った二個は、食べたことにしないと、トペトロの機嫌が悪くなると思って、部屋のすみに隠しておいた。
夜になると、トペトロが一つしかないベッドに僕を寝かせてくれた。
深夜、僕は小便がしたくなり、ついでに、隠しておいた芋を捨ててこようと、ベッドから起きた。すると、ベッドはシーソーのようにゆれる。暗くて気づかなかったが、ベッドは急造のもので、どうやら、もとはただの板らしい。
気をつけながら外へ出ると、星が美しい。まわりは、人工の光はない上に、空気もきれいだから、星がすばらしく美しいのだ。
僕は、芋をジャングルの方へ放りなげ、小便をして小屋へ戻った。
安心して寝ようとすると、クーとかガーとかいう妙な声がする。
おかしいと思ってトペトロを呼ぼうとベッドの上に立ち上がったのがいけなかった。シーソーベッドは重みに耐えかねたのであろう。中央に足状の穴があいた。
足はやんわりとした肉体にふれて二度びっくりした。なんとベッドの下に土人が寝ていたのである。しかも大きな口をあけていびきをかいているのだ。熟睡というやつであろう。口の中に鼠《ねずみ》の糞のようなものが二、三個落ちたが、いびきは少しもみだれなかった。ベッドの下で寝るなんて考えられないことだ。
おかしいと思ってランプをもち上げると、なんと部屋の隅にゴロゴロと土人が寝ていた。色の黒いものが暗いところに寝ているから、わからなかったのだ。
なるほど、これでなくちゃ、木や虫と共存できないなと思った。
朝になって、顔を洗おうと思い、雨水をためてあるドラムカンから水を汲むと、なんとボーフラだらけ。すると、昨日のコーヒーは、ブラックコーヒーではなくボーフラコーヒーだったのかと、気持ちが悪くなった。トペトロは、それを察してか、
「煮てあるから平気だ」
と言う。たしかにそうなのだが、それからのコーヒーは、なるべく上の部分だけを飲むことにした。
「昔、僕に畑を作ってくれたイカリアンはどうしているか」
僕がボーフラコーヒーを飲みながら聞くと、
「イカリアンは、お前が七年で来るというので待っていたが、間もなく死んだ」
ということだった。
「あの美人のエプペはどうしているか」
「夫のトユトは亡くなって、再婚している。子供が四、五人ある」
あのエプペは、どんなふうに変わったのだろうか。そういえば、このあたりも、僕のほんのわずかの観察では、縄文人から弥生人へというぐらいは変わっているようだ。土地の所有権などが、だんだんはっきりしてきているみたいだ。
僕が弥生人というのは、バカにしているのではなく、ほめていっているのだが、縄文人というのは、もっとほめているのだ。人類が進歩するといったって、僕は、進歩が必ずしも尊いとは思わない。世の中で一番大切なことは、幸福である。僕が戦時中に見た土人たちの生活は、幸福度《ヽヽヽ》がかなり高かったように思う。それは、僕の子供の時の、わけもなく楽しかった、あの気分に近いのだ。今は弥生時代ぐらいになっているから、トペトロが土地を私有しているが、それでも、美しい自然と常夏の気候は昔のままだ。トペトロは、家を建ててやるから、ここに住めと言う。僕は、だんだん、その気になってきた。
僕が部落を散歩しながら、永住の決心をしかけていると、ボロ自動車が現われた。
トペトロ一族が荷台にぎっしりと乗っている。僕に「乗れ」と言う。そして、助手席を示された。バネがとびだしてはいたが、そこが特等席というわけだ。
ボロ自動車がどこへ行くのかと思っていたら、少し離れた別の部落へ着いた。
ここに、エプペがいた。
エプペは、さすがにビボウも衰えていたが、気もきくし頭もいいところは昔のままで、当時の僕の好物をおぼえていて、バナナやパンの木の実などを出してくれた。
彼女は、「子供が病気で入院している」と言って元気がなかったが、病院は、政府がやっていて只らしい。政府がやることは、病院と学校(教会の中にあり、午前中だけ)の二つぐらいだけなのだが、この楽園では、それだけで十分なのだろう。
こちらの部落では、元村長のトワルワラや富豪のチアラ老の招きで、ドクドクという伝統の踊りを見せてもらった。
日程が終りになった。帰る日が来た。
どんなに楽しくても、とにかく一旦は日本へ戻らなければならない。むかえの自動車が来た。僕が自動車に乗ると、ワーッという歓声とともに、何十本という手がさし出された。僕は一本しかない手で、次々に握手した。
僕は、また楽園に帰ってくるぞ。そう思いながら飛行場へ向かった。
飛行機の中で、僕は、軍曹どのに、
「永住しようと思うのだけれど……」
と言うと、
「あ、オレもそう決めたんや、もう土地の手配もした」
「ええっ」
これには、僕の方が驚いた。
「いや、オレ、ここへ来たら、えらい体の調子がええんや。景色もええけど、体にもええぞ」
「そういわれてみると、僕もこっちに来てから元気が出てきたみたいだ」
「そうやろ」
二人は、すっかり南方狂がひどくなった。
帰国してから一年ほどして、軍曹どのの家に行ってみると、驚いた。部屋中、南方の花だらけ。
「これ、どうしました」
「イロイロ集めたんや。花咲かすのがたいへんなんや」
「へえ」
柱を見ると大きな寒暖計がかかっている。
「冬でも、二十度切ったらいかんのや」
五十ばかりの鉢が、床の上といわず廊下といわず、ところせましと置いてあり、室温もたしかに南方の気分である。
奥さんは、
「五十もの鉢を、日に当てるために出したり入れたり、そらまあえらいことで」
とこぼす。
全く僕を上まわる南方狂ぶりだった。
それから、またしばらくして、軍曹どのに連絡をとると、高血圧で倒れたから、南方に永住することはあきらめた、と残念そうに語った。
しかし、僕の南方狂は少しも衰えなかった。楽園では、まちがいなく幸福度《ヽヽヽ》が高いのだ。生活と欲望のいたちごっこをしているブンメイの日本より、土人たちの方が幸福なのだ。
僕は、多忙な生活のあいまに、南方でのくらしを空想しては、一人でほくそえんだ。
失われた楽園
僕は、南の楽園から帰国すると、三年間は毎日、録音してきた土人の歌をかけていた。
「あ、また始まった」と言って、家族は、僕の部屋に入りたがらなかった。
僕は以前から、食いものにしても趣味にしても、一つのことにのめり込むという癖があったから、ついそうなるのだった。
だが、家族に、いかに南方が楽園であるかを説明し、撮ってきた8ミリを上映してやっても、コワイだの、気持ちワルイだの、共感を得られない。
僕は、ゆくゆくは、楽園に移住しようと思っていた。といっても、仕事もあるし、楽園に半年、日本に半年といったやり方だったが、どうしても家族の問題がある。
「この世に生まれて楽園で生活しないなんて、バカだよ」
僕はひたすら“楽園学”を夕食後に説き続けたのだが、成果はあがらない。といって、あきらめきれないから、一人で行こうと決めた。そこで、家族を説得しているうちに五年もたってしまったことだし、様子を見に行くことにした(小屋も建てなければならない)。
ところが、この五年間で、楽園はがらりとヘンボウしていた。
道はアスファルト、海にはモーターボート、町のスーパーには何でも売っている、といったありさま。
我が友トペトロも、前はバナナや芋を常食にしていたのに、今ではライス(米)にカンヅメ。タバコも、以前は自家製のタバコの葉にバナナの枯れ葉をまいて喫っていたのが、今じゃパイプ。家は、ヤシの葉で壁も屋根も涼しげに作られていたのに、今では、コンクリートの床に板壁。白ペンキなど塗って、中古のボロ車だが自家用車を持っているものまであり、オーストラリア人の家のようになっているのも多い。
何でも金で買える時代になったせいか、その金を得るために、バカによく働くようになっている。
こないだまで昼寝ばかりしていたトペトロが、朝起きるや、コプラ(ヤシ油)採り、コプラの乾燥、と、多忙をきわめている。乾燥中のコプラヤシに、スコールでも降れば、一家大あわて。走りまわるやらトタンをかぶせるやら、まるで戦場だ。
コプラは、一袋四十キロが六千円ぐらいだということだが、オーストラリアから入ってくる米やカンヅメがけっこう安いものだから、それを常食するようになる。そうすると、金が必要となり、そのために働かなければいけなくなる、という循環らしい。一度この循環がまわりだすと、ここから離脱できなくなるのだ。
こうなると、昔のように、のどかな会話や昼寝といったものがあまり見られなくなる。何かに追いたてられているようになっていた。僕は、数日間、またトペトロの家に居候していたのだが、昔のようにはのんびり居候ができない。夕方には乾燥したコプラを袋に入れるのを手伝わないと具合が悪いといったあんばいで、ぼんやりと虫の音を聞くといった生活ではなくなっている。
トペトロは、それでも誠意ある男であることに変わりはなかったが、三十数年前の初対面の時に、既婚者だとは知らずに結婚まで考えた美女エプペは、この五年間に強欲ババアと化していた。土産に持っていった腕時計を見て、「ラジオの方がよかった」と言うありさま。その上、ニワトリをつぶして食事に提供したのはいいが、
「私には、美しいラプラプ(腰巻き)をくれないのか」
と、対価を要求するしまつ。
帰りぎわには、トペトロの兄弟というのがニワトリを手土産にやってきて、ココア工場に資本の協力をしないか、とりあえず自動車を一台……と言う。
地球の番外地とばかり思っていたら、なんだか、日本の競争社会にジリジリと似てきたのに驚いた。
考えてみれば、誰だって、まずいものよりうまいものがいいし、粗末な家より立派な家の方がよく、不便より便利がいい。そして、働いて金を得れば、今はそれが得られるのだ。トペトロたちが働いてそれを得るのを、何も止める理由はない。いや、むしろ、賛成してもいいぐらいなのだが、あのかつてのノンキさ、のどかさがかもしだす不思議な味わいというものが薄れてきたのは、どうしようもなく残念だった。
なんだか、世界中が均一的な価値観に支配され、どこかにはあるはずの(現にあった)楽園が一日一日となくなっていく感じだ。
僕は、帰路、お化けのメッカとも考えているニューギニアのセピック河の上流の方にも寄ってみたが、このジャングルの中にも、店が進出しており、米やカンヅメやビスケットを売っていた。
セピック河には、マサライ(自然霊)という妖怪のようなものが水の中に五十匹ほど、ジャングルの中には十五匹ほど住んでいると、案内の土人は言った。そして、マサライの仮面を見せてくれたが、なるほど自然の中|に跳梁《ちようりよう》する霊たちという迫力があった。しかし、それすらも、二十年もすればつくっている老人がいなくなって、姿を消すかもしれない。
トペトロ宅も、今はまだランプだが、近々電灯になるということだった。電気が来れば、便利な電気製品もほしくなり、欲望はどんどん大きくなって、あわてふためいて送る生活に変わってしまうだろう。
楽園が地上から姿を消した後、新しい楽園が知恵の力で作り出されることになるのだろうか。そんなことを考えながら、かつての楽園を後にして日本に戻った。
こうして、楽園永住計画は頓挫してしまった。しかし、楽園を求めるキモチは捨てたわけではない。僕が楽園を求めるのは、妖怪の世界や死後の霊の世界を求めるのと共通していた。即ち、もっと別の心安らぐ世界がないのかということだ。
だから、南方の楽園の夢がしぼむにつれて、妖怪や死後の世界に対する関心がますます強くなってきた。
文豪なんかの伝記をみると、文豪たちは、「若かった青春の時代にくらべて、老年の今は灰色だ」といったようなことをよく書いているが、ぼくの一生は逆だ。なにしろ四十すぎまで、ごらんの通りのドキドキ人生だったから、外面は平気そうにみえても、内心生きた心地がしなかった。
まぁ、戦争体験から、|死んでもともと《ヽヽヽヽヽヽヽ》という考えをもっていたし、また、あまり現実の人生に期待していなかったから、生きてこれたようなもんだ。
だから、ぼくの心は、子どもの時にもまして「妖怪の世界」とか「死後の世界」とか「楽園」とかいう、この世にないものに対して、ますます燃えるのだ。ぼくにとって、空想の世界だけが、本当の|生きる《ヽヽヽ》世界なのだ。
[#改ページ]
あとがき
「どうです、自伝を書いてみては」
と、松田編集子は言う。
「いや、前にもあちこちに書いているし、それに、自分の貧乏生活をふりかえってみたところで、少しも面白くない」
「いや、この貧乏ってのが、今は珍しいんですよ。だって、今、貧乏ってのはあまりありませんからねえ」
「貧乏ってのがそんなに珍しいのかなあ」
「珍しいですよ。日本中が昔とはちがってますから」
というような話があって、自伝が貧乏に集中してしまった感じになったが、僕自身は、貧乏は珍しいことだとは思っていない。見すぎるほど見たし、体験しすぎるほど体験した。終戦後は、僕以外にも、|日本中みな貧乏《ヽヽヽヽヽヽヽ》だった。
ま、いずれにしても、人の一生というものは、ふりかえってみれば面白いものかもしれない。あの時、ああしていれば、とか、あの時、あれがこうなっていたら、とか、運命の不思議さが如実に表わされているからだろう。
「しかし、前にちょこちょこ書いているから、同じ話が出てくるじゃないの」
「いや、一生通じてのはまだないでしょ。水木さんは、自分のことだからあきあきしていても、他人から見ると面白いですから」
「そんなものかなあ」
というようなことで、少しずつ書き出して二年ほどたっただろうか。ハッキリしない、ねぼけたような自伝ができてしまった。松田編集子は、一読して言った。
「『ねぼけ人生』というタイトルでいきましょう」
水木しげる(みずき・しげる)
一九二二年鳥取県境港に生まれる。マンガ家であり妖怪研究家でもある。戦時中、ラバウルで片腕を失う。戦後、魚屋、リンタク屋、アパート経営などを経て、紙芝居を描きはじめ、のちに貸本マンガに転じる。一九六五年『テレビくん』で第六回講談社児童文化賞を受賞。『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』などで人気作家になる。一九九〇年『昭和史』(全八巻)で第一三回講談社漫画賞を受賞。一九九一年、紫綬褒章受賞。
本作品は一九八二年三月、筑摩書房より刊行され、一九八六年二月、ちくま文庫に収録、一九九九年七月に新装版として刊行された。
なお、電子化にあたり解説は割愛した。