ヴァンパイア・プリンセス
水戸泉
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序章 絶対零度のキス
目の前に死体がある。
ファウスリーゼ・フォン・ザワークシュタインにとって、それはかつてありふれた日常だったが、今は事情が違った。ここは日本で、今が二十一世紀である以上、死体の始末は以前ほど容易ではない。
ファウスリーゼは細い眉《まゆ》を顰《ひそ》め、傍《かたわ》らに立つ男を責めた。
「なぜ拾ってきたのですか」
「敷地内に死体があったらまずいだろ。まあ別に、てきとーに埋めてきてもよかったんだけどな」
男は煙草《たばこ》を銜《くわ》えたまま、肩を竦《すく》めてそう言った。埋めればいいとわかっているなら、なぜ持ち帰ったのかという理由は明らかだ。ファウスリーゼに対する嫌がらせである。それが被害《ひがい》妄想《もうそう》でないことは、ファウスリーゼにはよくわかっている。
その証拠に、たった今気づいたような口ぶりで男が呟《つぶや》く。
「ああ、あんた、ガキの死体だけは苦手なんだっけ」
その指摘に、ファウスリーゼは答えなかった。ファウスリーゼの周囲に侍《はべ》る男たちの中で、彼女にこんな『嫌がらせ』をするのは彼こと真木名《まきな》逸輝《いつき》だけだ。
自分が子供の死体だけは苦手としていることを、いつ知られたのかも曖昧《あいまい》で、ファウスリーゼにとって真木名は得体が知れない存在だ。確かに自分が造った屍鬼《しき》であるはずなのに、真木名は他のどの屍鬼とも違っていた。
死体を前にして、真木名はファウスリーゼを急《せ》かした。
「どうする? そろそろ二十四時間経過するんじゃないのか? そしたら埋めるか燃やすかするけど」
ファウスリーゼは、青白く褪色《たいしょく》した死体の顔をじっと見た。天蓋《てんがい》つきのベッドに寝かされた死体は平凡な学生服姿で、ゴシック調のこの部屋では浮いた存在に見えた。緋色《ひいろ》の絨毯《じゅうたん》もレースのカーテンもファウスリーゼ自身の好みではないが、ファウスリーゼの服装や雰囲気はこの部屋によく似合っていた。
暫《しば》しの逡巡《しゅんじゅん》の後、ファウスリーゼは言った。
「子供は、屍鬼にはしない」
「子供ってほどの年じゃねーだろ。ほら」
真木名が死体のポケットを漁り、手帳を取り出す。手帳は、写真つきの学生証だった。
名前と住所、氏名、所属が記されている。
内藤《ないとう》波留《はる》。十五歳。私立|繻司《しゅじ》高校一年二組。それが死体のプロフィールだ。
(繻司高校……)
その学校名も、ファウスリーゼにとっては初耳ではない。真木名がこの死体を拾ってきた本当の理由は、もしかしたらそこにあるのかもしれなかった。
「あんたと同じくらいの年か。役に立つかもしれないぜ」
真木名の指摘通り、ファウスリーゼ自身の見た目も十五歳ほどだ。実際に彼女の時が止まった時、彼女は十五歳だった。
それでも彼女が死体を『子供』と評したのは、死体こと内藤波留の顔が少し幼かったのと、自身が長く生きすぎているためだろう。内藤波留は体も小さく、十三歳くらいにしか見えない。
ファウスリーゼの指が、死体の首をそっと探り、頸椎《けいつい》が折れていることを確かめた。縊死《いし》なら残るはずの縄《なわ》の痕《あと》がない。恐らくは事故か他殺だろうと推察《すいさつ》された。
躊躇《ためら》っているいとまはなかった。
ファウスリーゼが死体を屍鬼として蘇《よみがえ》らせられるのは、死してから二十四時間以内に限られる。二十四時間以内なら、どれほど損壊《そんかい》の激しい死体でも蘇らせることができる。たとえそれが、千の肉片に刻まれていたとしてもだ。
しかし二十四時間を経過したら、どれほど保存状態のよい死体でも屍鬼にはできない。千年の間、その原則だけは変わらなかったし変えられなかった。
死体を前にして、ファウスリーゼが躊躇っているのは、これ以上屍鬼を増やしたくないからだ。
ファウスリーゼ・フォン・ザワークシュタインは、千年前にこの世に生を受け、十五年間を人間として生きた。彼女が人間でいられたのはわずか十五年で、以降、彼女は屍鬼を造り出すリリスの母胎《ぼたい》として生きた。彼女をそのような存在に変えた者は、すでにこの世にはない。ファウスリーゼがリリスとなった直後、その者は人間によって滅せられた。
千年もの永きに亘《わた》り彷徨《ほうこう》し続けながらも、ファウスリーゼが造り出した屍鬼はわずか六十六体。そのうち五十体は歴史の陰で人間によって滅せられ、またある者は屍鬼同士で殺し合い、現存しているファウスリーゼの屍鬼は、目の前にいる真木名を含めて十六体のみだ。
(いっそ他のリリスを見つけて、その家の庭に捨ててきてくれたらよかったのに)
ファウスリーゼは甚《はなは》だ身勝手なことを考えた。そうすれば運良く、そのリリスによって蘇らせられることもあるかもしれない、と。屍鬼として蘇ることが幸せであるかという命題について、ファウスリーゼはあえて今考えることをやめた。
屍鬼を生み出すリリスは、ファウスリーゼの他にもいるはずだった。その証拠にファウスリーゼは千年の間、何度も自分が造ったのではない屍鬼に遭遇《そうぐう》した。
が、その母胎たるリリスには、未だ一度も相見《あいまみ》えたことがない。そのことがファウスリーゼにはずっと不思議だった。
(探しても見つからないということは、意図的に姿を隠しているんでしょうね)
『他のリリス』を見つけ出すことが真木名の仕事だ。なのに現在まで、真木名が掴《つか》んできた情報は何もない。屍鬼の一人である繻宇司《しゅうじ》鳴瀬《なるせ》によって周到に用意された隠れ家に移動してきて一ヵ月、真木名が初めて起こした行動が、この死体を拾ってきたことだった。
屍鬼は、母胎たるリリスから一ヵ月以上離れては生きられない。そのため、なるべくリリスのそばにいようとする。生きるための本能がそうさせるのだ。
(屍鬼になるのは、幸せなことなんかじゃない)
死にたくないと願う人間にとって、一度でも死から免《まぬが》れるのは僥倖《ぎょうこう》に思われるだろう。しかしそれには、対価を要求される。とてつもなく大きな対価を。
その対価を、目の前に横たわった死体に背負わせるべきか否か。ファウスリーゼが迷うのは、まさにその点だった。
ファウスリーゼに蘇らせられた屍鬼は、一見しただけでは生前となんら変わりない外見と行動を保つ。が、その内面には一点だけ、決定的な変化を生じさせる。
ファウスリーゼはじっと、金色の眸《ひとみ》で内藤波留を見つめた。内藤という、日本ではありふれた名前が、ファウスリーゼの心を掻《か》き乱す。
(確かに、この街だった)
北関東に位置する、繻司市《しゅじし》。盆地に囲まれ、夏は暑く冬は寒い。工場地帯と田園が入り交じる、平凡極まりない地方都市だ。
平凡な町並みは二十年前に一度、灰儘《かいじん》に帰した。戦後史上最大最悪の大火災は、今でも人々の記憶に新しい。その火災の現場に、ファウスリーゼは居合わせた。火災の発生原因は児童養護施設からの不審火と断定されたが、真実は違っていた。
焔《ほのお》は、ファウスリーゼと敵対する屍鬼との戦闘で生じたものだった。結果、小さな町はほぼ壊滅《かいめつ》した。人が死んだのは、火事のせいばかりではない。屍鬼たちが殺戮《さつりく》し、喰《く》らい尽《つ》くし、燃やし尽くしたせいでもある。
遅れて現場に駆けつけたファウスリーゼが救えたのは、わずか一名の子供だけだった。
(あの子に似ている)
屍肉《しにく》の焼ける施設の外れに、その子供、〈ナイトウケイ〉はいた。戦闘の開始地点となった児童養護施設内で生き残っていたのは、その子だけだった。ファウスリーゼは彼を連れ出し、それから一ヵ月ほど、ともに過ごした。痩《や》せた、小さな男の子だった。
ナイトウケイは、ファウスリーゼと暮らすことを望んだ。自分の造り出した屍鬼以外の生命体と暮らすことなど、リリスにはあり得ない。なのに一ヵ月だけとはいえファウスリーゼがその願いを聞き入れたのは、贖罪《しょくざい》のつもりだった。ケイが住む街を燃やしたことへの。
ケイは漢字が書けないらしく、片仮名で名前を書いた。幼くして天涯孤独《てんがいこどく》となり、施設にいたという生い立ちを感じさせない、天使のように優しい子供だった。
人間の子供と暮らすのは初めてで、当初は戸惑《とまど》ったものの、ケイは無邪気《むじゃき》な優しさでファウスリーゼの心を和《なご》ませた。
一ヵ月を隠れ家で過ごした後、ファウスリーゼはケイを薬で眠らせて、里親のもとへ届けさせた。そうすることがケイの幸せにつながると信じてのことだった。自分のような化け物といれば、またいつか必ず危険な目に遭《あ》う。そうでなくても、年を取らない自分に対してケイはいつか違和感と恐怖を抱くに違いない。だったら、別れは早いほうがいい。そう信じてのことだった。
里親は屍鬼の一人が通じている資産家で、子供一人育てるのになんの不自由もない環境が整えられていた。なのにケイは、三日と経たずにその家から逃げ出した。ファウスリーゼが慌《あわ》てて捜させても、二度と見つからなかった。
ケイの意思を無視して別れたことを、ファウスリーゼは悔やんだ。謝罪しようにも、ケイは行方不明だ。屍鬼たちを使い、全力を尽くしても見つけられない以上、ケイはもう死んでいる可能性が高かった。
思い出すたびに、今でもファウスリーゼの胸は痛む。ケイと過ごした日々が穏《おだ》やかであったことが、逆に彼女の心を傷つけた。
最初から何も持たなければ、失うこともなかった。一度手にしてしまった温もりから引き離されるのは、千年の時を生きて尚《なお》、こんなにも哀《かな》しいものなのかとファウスリーゼは絶望した。
だからこそファウスリーゼは、子供を屍鬼にしてそばに置きたいとは思えない。
(この子は)
冷たい頬に、それよりさらに冷たい指が触れる。
(生きたいと、願うだろうか?)
あの子供と同じ苗字《みょうじ》を持つ子供。もしやナイトウケイは生きていて、この街に戻り、幸せに暮らしているのではないか。ファウスリーゼは、そんな甘い夢を見たくなる。
屍鬼になることは、決して幸せなことではない。そのことはファウスリーゼも確信している。
それでも、終わる命をつなぐことに意味があるとしたら。
(せめて、『呪《のろ》い』が解ければ……)
幸せに、なれるかもしれない。
そう願わなければ、千年もの時を生きるのは不可能だった。自分を保つことができなかった。
長い髪を床に垂らして、ファウスリーゼはベッドの脇《わき》に跪《ひざまず》いた。顔を傾けて、少年に顔を近づける。
氷のように冷たい死体の唇《くちびる》に、同じく絶対零度《ぜったいれいど》の薔薇色《ばらいろ》が重なった。瞬間、死体が青白く発光した。
一縷《いちる》の願いが、唇を介して死体に流れこんでいく。
真木名がそれを、無表情に見守っていた。
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断章 銀の吸血姫
業火《ごうか》が町を覆った。乾ききった冬の風は焔《ほのお》を運ぶ絶好の遣《つか》い手となり、小さな集落を焼き尽《つ》くした。焔が人を、建物を、すべての命と造形物を貪欲《どんよく》に呑みこんでいく。
昭和六十三年十二月十四日午前二時、北川《きたがわ》児童《じどう》養護《ようご》施設《しせつ》から発生した火災は、吹き荒れる空《から》っ風に乗じて、凄《すさ》まじい速度で拡大した。
集落はもともと、高度経済成長の頃に高い稼働率《かどうりつ》を誇った工場に勤める者たちのベッドタウンとして発展し、当時すでに寂《さび》れていたとはいえ、古い木造家屋はもたれあうように密集していた。生まれた当初はほんの小さな種火だったそれを、大災害へと至らしめるにはあまりにも条件が揃いすぎていた。
発火地点となった児童養護施設は、森の奥にあった。立ち枯《が》れて乾ききった木々は防火壁にはなり得ず、ただ火を熾《おこ》すための薪《まき》と化した。かつては緑に覆われていた森を枯らしたのは、工場から溢《あふ》れ出す汚水だった。
命の枯れた森の奥に、子供は一人で座っていた。じわじわと肌《はだ》を炙《あぶ》る火は、真冬の折、温かくさえあった。少なくとも施設内の薄い毛布よりは、ずっと。
子供は、迫り来る焔に手を翳《かざ》してみた。手のひらの静脈《じょうみゃく》が、淡《あわ》く透けて見えた。小さな手には、幾《いく》つもの傷があった。幾つかは古く、幾つかは新しい傷だった。古い傷は様々な実験によって刻まれたもので、新しいのはさっき、『あれ』と対峙《たいじ》した時に負った傷だ。
『あれ』はなんだったのだろう?
子供は乏しい知識の中から、『あれ』の正体を突き止めようと考えた。子供とはいっても彼はすでに、夢物語をすべて信じられるほど幼くはなかったし愚鈍《ぐどん》でもなかった。だから、純粋に不思議だった。
あんなものが、目の前に現れたことが。
(ああいうのは、テレビとか本の中にしかいないんじゃないのか)
施設ではあまりテレビを見せてもらえないから、彼のささやかな娯楽《ごらく》は図書室で本を読むことだった。廃品《はいひん》の中から拾ってこられたものや、一般家庭の不用品の中から寄付という形で投棄《とうき》された本たちは種類も数も多く、難解《なんかい》なものから猥雑《わいざつ》なものまであって飽きなかった。
閉鎖的な環境下で育った彼が、彼なりに身につけた常識の中でも、あんなのは実在しないものとして認識されていた。
おかしいな、と彼は焔の中で何度も首を傾《かし》げた。が、その思考自体、長く続く状況ではなかった。
多分、というよりほぼ確実に、自分は今ここで死ぬのだろうと彼はわかっていた。すでに右肩に、大きな火傷《やけど》を負っている。ここまで逃げる途中で、火の粉をかぶったのだ。
だからそれ以上考えるのをやめた。生きていくのに無関係な、無駄なことをするゆとりは、彼の短い人生の中にはなかった。
生きているという『状態』がなんなのかは終《つい》ぞ理解できなかったが、生きているのはそれ自体がしんどい作業だった。心臓や呼吸器が、頼んでもいないのに勝手に動くのは、彼にとってはありがた迷惑以外の何ものでもなかった。
やっと終わるのだと、子供は安堵《あんど》した。焼け死ぬのもなかなかしんどそうだが、終われば続きはないとわかっていれば怖くない。もしも万が一、死後の世界なんてものがあったらどうしようかとそれだけが心配だった。頼むからそんなものは存在しないで欲しいと願うばかりだ。
死んだら灰になって、無に還《かえ》る。絶無《ぜつむ》とか皆無《かいむ》とか、とにかく物理的にも形而上《けいじじょう》的にも何も残らない状態にして欲しい。でないとせっかく苦しいのを我慢して死ぬ意味がないじゃないかと、そこまで考えた時。
冷たい何かが、後ろから子供を抱きすくめた。
また『あれ』が襲《おそ》ってきたのかと、子供は瞬時に身構えた。火に焼かれるのには耐えられても、あんなものに喰い殺されるのだけはご免《めん》蒙《こうむ》りたかった。
『あれ』は火よりも怖ろしい何かだと、子供の本能が叫んでいた。
焼き殺されるよりもずっと怖ろしい、生存本能そのものを脅かす、異質の何かだ。そんなものに捕まるくらいなら、自ら首を掻《か》き切って死んだほうがマシだとさえ思えるほどの恐怖だ。
子供は、先刻逃げる際に施設の台所から失敬《しっけい》してきた包丁《ほうちょう》で自分を包む何かを刺した。刺してから子供は気づいた。
それはおぞましい異形《いぎょう》の何かではなく、白くなめらかな人の手だった。
白い手が、刺されたことで赤く血に染まった。血塗られた手で抱き寄せられて、子供は顔をあげた。
白銀が、焔の赤を背にして揺らめいていた。白銀の髪だった。老人の白髪とは明らかに違う、プラチナ色だ。
子供は、自分はもう死んでいて、夢でも見ているのかと暫《しば》し呆然《ぼうぜん》とした。夢でもなければ、こんなものには会えないはずだと彼なりに認識していた。
白銀の髪に、黒猫のような金の瞳《ひとみ》。動いて喋《しゃべ》る、精巧な人形が自分を助けに来たのかと子供は思った。もしかしたらどこかの工場で、そういう人形が造られていたのかと。
人形の頬《ほお》は白磁《はくじ》のようで、明らかに東洋人のそれではなかった。白銀の髪、金の虹彩《こうさい》、紅い唇《くちびる》。どのパーツに着目しても、子供の目には人形にしか見えない。
人形の性別は、女だった。これも、童話に出てくるような華美なドレスを着ている。
子供は手を伸ばし、その頬に触れてみた。焔の中にいるのに、その頬は死者のように冷たかった。やはりこれは生きてはいないものなのかと子供が訝《いぶか》ったその時。
人形の口から、声が漏《も》れた。
「ごめんなさい」
弱く、小さな声で人形は謝罪した。謝罪しながら子供を抱き寄せた。密着しても心音はせず、肌や髪からはなんの匂いもしなかった。
子供は人形に抱かれながら、今度はその髪に触れてみた。
こんな綺麗《きれい》なものを見るのは、子供には初めてだった。辛《かろ》うじて彼が知っている美しいものと言えば、写真で見た花や森や水くらいのもので、しかもそれらは子供の生きている世界には存在しない。美しいものは写真かブラウン管の中にしかなく、恐らく自分はそれらを実際に見ることもなく一生を終えると確信していた。子供の手が届く範囲内に存在するのは、枯れた森と汚れた水と仏前に供えられた菊《きく》くらいのもので、それが世界のすべてだった。
死ぬ間際、人形に出会えてよかったと子供は思った。花よりも水よりも森よりも綺麗なものが見られてよかった、と。
抱きしめられたまま鼻孔《びこう》を押しつけると、薄いレースのブラウス越しに密着した胸は、微《かす》かに膨《ふく》らみ、柔らかかった。子供は奇妙な高鳴りを感じた。心臓と下腹部の辺りが、じわりと熱くなった。
「ごめんなさい」
もう一度人形が、震える声で謝罪した。その声を、子供はもっと聞いていたかった。この先千年でも聞いていたいと願った。
初めて、死にたくないと思った。
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第一章 恋という名の呪い
目が覚めると、なんだか妙にふかふかした布団《ふとん》に寝かされていた。何ヵ月も干していない、自宅の布団とは明らかに違う感触だ。
(……あれ?)
人の声で目を覚ましたものの、内藤《ないとう》波留《はる》はまだ夢の中にいるのかと思った。目が覚めたのに自宅の寝室ではないという状況に違和感があった。
(えーと)
俺はどこかに旅行でもしてたんだっけ、と波留は考えた。が、そんな記憶はない。では、昨日までの自分は何をしていたっけ? と考える。
(トリュフ、探してた)
あーそうだった、と波留はぽんと手を打とうとしたが、体中が痛くて簡単には動けなかった。目を開けることさえ苦痛なほどだ。耳だけははっきりと聞こえていて、なんだか怒っている感じがする少女の声がした。
(あの山って誰かの私有地だから、ほんとは入ったらいけないんだけど)
繻司市《しゅじし》の北東にある繻司山は、丸ごとどこかの金持ちに買い占められていて、一般人の立ち入りは禁じられている。が、広い山のことだ。入ろうと思えば、どこからでも入れる。なのに地元の人間が繻司山に入らないのにはわけがある。
(なんだっけ、呪《のろ》われるとか、化け物が出るとかそういう都市伝説的な?)
いや、山だから都市じゃないなと、波留はどこまでも暢気《のんき》に考えていた。繻司市は、田舎だ。なんらかの伝説が発生したとしても、その上に『都市』という修辞句《しゅうじく》をつけることを地元の人間が躊躇《ためら》うくらいには田舎なのだ。その『伝説』の中に、繻司山にはトリュフが自生しているという話があったのだ。
(そして俺は食い意地に負けた気がした……)
波留は、自分が意識を失った理由をようやく思い出した。思い出した途端に落ちこんだ。
(キノコ盗みに山に入って、崖《がけ》から転げ落ちるって俺はどんだけ……)
間抜けだ。食い意地が張っている上に、ものすごく間抜けだと波留は唇《くちびる》を噛みしめた。
(でも食べたかったよ、トリュフ)
波留は十五年の人生で、今まで一度もトリュフを食べたことがなかった。両親はすでに亡く、決して裕福《ゆうふく》ではないのに波留を引き取ってくれた伯父夫婦に、「トリュフが食べたい」と言えるほど波留は図々しくできていなかった。
だったら、採れるものは自分で採ってみたらどうだろうか? と変なやる気を出したのが運の尽《つ》きだった。
(あ〜でも、死ななくてよかったー)
あの高さから落ちたら普通死ぬよなあと、波留は最後に見た景色を思い浮かべる。
と同時に、頭の奥でキィンと嫌な音がした。
(あれ? でもその前に)
崖から落ちる、その直前。
何かすごく、怖いものを見た気がした。なのに、波留はそれを具体的には思い出せなかった。
(まあいっか)
どこまでも楽天的な波留の横では、さっきからずっと男女が言い争いを続けている。正確には言い争いですらなく、女のほうが男に対して一方的に怒っている様子だ。波留は薄目を開けて、まずは女のほうを見る。
途端に、血液が逆流しそうな興奮に襲われた。視線が彼女に釘付けになり、離せなくなる。
(うわ……)
銀色の髪を、波留を初めて間近で見た。銀髪なんてきっと白髪のことで、実在しないだろうとずっと信じていたのが覆された。それは透き通るプラチナ色で、自然の造形物としては不自然なほど美しかった。
女と呼ぶにはまだ少し若すぎる少女が、波留の視線にも気づかず男に食ってかかっている。その眸《ひとみ》は、琥珀《こはく》を少し薄くしたような金色だ。
「この子は事情を説明した後で、家に帰します」
「そううまくいけばいいけどな」
少女の主張を、男は嘲笑《あざわら》うように肩を竦《すく》めた。
「本人が帰りたがらないと思うぞ。これはあんたの『屍鬼《しき》』なんだし。いい加減学習しろよ、千年も生きてんだろ?」
どれくらい言い争っていたのかは眠っていた波留には不明だが、どうやらちょうど今が少女の臨界《りんかい》点だったらしい。華奢《きゃしゃ》な手のひらが振り上げられ、男の頬《ほお》を叩いた。男と少女では三十センチ以上の身長差があるため、少女は彼の頬を打つのに背伸びをしなければならなかった。
その打擲《ちょうちゃく》から逃れることもせず、男は彼女の後ろを指さした。
「目を覚ましたみたいだけど」
少女が腰まで届く銀髪を揺らし、振り向いた。波留はまだどぎまぎしていた。
波留が目覚めるのを見届けると、男は部屋から出て行った。波留は改めて、少女と部屋の中を見回した。
(ここ、どこだ?)
波留にとっては、舞台セットのように現実味のない光景だった。石造りの壁、金色の手|摺《す》りに飾られた窓、アンティークな家具、そして天蓋《てんがい》つきのベッド。すべてが波留にとって馴染みのない品物だ。
その内装と、自分の昨日までの行動とをすりあわせて、波留はあることに思い至る。
(そういえば、山の奥には屋敷があるとかって聞いた)
繻司山を所有する金持ちの別荘が、山の奥深くにあるというのは有名な噂《うわさ》だったが、別荘を実際に見た者は繻司市には一人もいなかった。奥へと続く一車線の細い道はあるものの、そこへ至るルートはすべて鉄条網《てつじょうもう》と高い塀《へい》に囲まれており、誰も侵入することはできなかった。
(まさか、ここ、その別荘?)
そうだとしたら合点がいく。こんな派手な内装の病院というのはちょっと思いつかないし、どこかに運びこまれるにしても、繻司市唯一の市民病院はこの前財政難と医師不足でつぶれたばかりなのだから。
波留は、痛む体を無理矢理起こして、ベッドの上で土下座のポーズを取った。
「ごめんなさいっ」
「…………え?」
銀髪の少女が、呆然《ぼうぜん》と波留を見つめる。波留は一方的に捲《まく》し立てた。
「勝手に山に入ってごめんなさい! え、えと、でも、結局トリュフ盗《と》ってないし……っ……あの、できれば見逃してもらえたら……!」
何も盗らなくても不法侵入にはなるんだよなあと、波留は内心恐々としていた。そんな波留を、少女は何か珍《めずら》しい生き物でも見るような目でしばらく見つめた後、口を開いた。
「トリュ、フ……?」
「え、うん、それ、採ろうと思って……でも盗らなかったよ」
波留は両手を挙げて、ひらひらと振った。少女は何かを考えこむように、額《ひたい》に手を当てる。
「……ああ、トリュフね」
ようやく彼女は、波留の言いたいことを理解したようだった。その口から流暢《りゅうちょう》な日本語が語られたことに、波留は感動した。
(すごい……美人、つーか、かわいい……)
「そんなことはいいから、少し休みなさい。何かあったらそこの内線を使って」
見とれる波留に、少女は毅然《きぜん》と言い放った。命令口調が妙《みょう》に様になっていて、耳に心地好い声だった。
波留は少女が指さした先にある、サイドボードを見た。確かにそこには電話があった。
アンティークな部屋の中で、そこだけが近代的でなんだか違和感がある。
そのまま踵《きびす》を返して出て行こうとする少女を、波留は必死で呼び止めた。
「あのっ!」
まだ何かあるのかと、胡乱《うろん》げに少女が振り返る。波留は自分の顔を指さし、懸命《けんめい》に言った。
「名前! 教えて! 俺、内藤波留!」
波留の質問に、一拍間をあけて少女は答えた。
「……ファウスリーゼ・フォン・ザワークシュタイン」
波留はその名前を、頭の中で急いで三回復唱する。よし、覚えた、と確信して、さらに会話をつなぐ。
「日本語うまいね、どこの国の人? この屋敷って……あ、ちょっと!」
それ以上の会話はままならなかった。少女ことファウスリーゼは、そのまま部屋から出て行った。今度は波留の呼びかけにも答えてはくれなかった。
(ファウスリーゼ。ファウスリーゼっていうのかー)
波留はごろりとベッドに寝転がり、何度もその名を心の中で呼んだ。さっきまでの激しい痛みが急に引いたことが不思議だったが、目の前に美少女が現れたことですぐに忘れた。
(あんな綺麗《きれい》な子、初めて見た)
波留のクラスにだって美人はいるが、あれは格が違うと波留は興奮していた。
(銀の髪に金の目って、人形みたいじゃん)
服だって、あれはゴシックロリータというのだろうか。波留には女の子のファッションはよくわからないが、黒いレースがあんなに似合う女の子は日本人にはなかなかいないだろう。声もいい。澄《す》んでいて、高くて、それでいて落ち着いている。
身長が波留より少し小さいのも、波留にとっては大きなプラスポイントだ。波留は自分の背が小さいのを気にしている。
あんな子を彼女にできたら、どんなにいいだろう。どれだけ自慢できるだろう。そんなことを想像しているうちに、あっという間に小一時間が過ぎる。
(そういえば今、何時だろ?)
この部屋に時計がないことに気づいて、波留はソファの上に折り畳《たた》まれていた自分の服から携帯電話を取り出した。が、あいにく電池が切れていた。
(着替えまでさせてくれたのか)
寝ていた波留が身につけていたのは、白いバスローブだった。バスローブなんてものを着るのも波留は初めてだ。
(ま、まさか、あの子が着替えさせてくれたとか……!?)
妄想を膨らませる波留の耳に、電話の呼び出し音が届く。さっき、ファウスリーゼが指さした内線電話が鳴ったのだ。
波留は飛びつくように受話器を取った。
「はいっ」
電話の向こうから、涼やかな声がした。
『食堂へ来られる? 食べられるようなら迎えを出すけれど』
「行く!」
波留は即答した。
もともと着ていた制服はきちんと洗濯されていたから、波留はそれに着替えた。崖から転げ落ちたわりには服は破れてもおらず、ほっとする。もしも服が破けていたら、家に帰った時伯父夫婦に、なぜ破れたのかを説明しなければならない。
内線を切った数分後に、波留の部屋に迎えがやってきた。背の高い、スーツを着た男だった。
「こちらへ」
男は淡々《たんたん》と無表情に、波留を案内した。さっきまで部屋にいて、ファウスリーゼに平手打ちを喰らっていた男も背が高かった。あの男は服装もしゃべり方もラフだったが、波留を迎えに来た男のほうは、どこかの大企業に勤めていそうなスーツ姿だ。髪もきちんと整えられており、眼鏡《めがね》をかけていて知的そうだ。
(お兄さん? ではないよな、この人は日本人だし。ファウスリーゼとどういう関係なんだろ? なんかどっかで、見たような感じがしなくもないんだけど……)
波留はじっと男の後ろ姿を観察しつつ長い廊下《ろうか》を進み、ダイニングルームに辿《たど》り着いた。波留にとっては、屋敷の中のすべてがゲームの|CG《シージー》のようにリアリティがなかった。赤い絨毯《じゅうたん》も、壁にかけられた絵も剥製《はくせい》も。
(エアコンとか見あたらないけど、全然寒くないなー。空調とかどうしてるんだろ?)
今は四月だが、北関東に位置する繻司市はまだ冷えこむ。なのに波留は少しも寒さを感じていなかった。寒さだけでなく、さっきまでの傷の痛みも。
重い扉が案内の男の手で開かれて、長く伸びるダイニングテーブルが視界に飛びこんでくる。テーブルの先、暖炉《だんろ》の前の席にファウスリーゼが座っていた。左隣にはさっきファウスリーゼに頬を叩かれた男がいる。
波留が勧められたのは、男の隣の席だった。
「どうぞ」
「は、はい、どうも」
案内の男に椅子《いす》を引かれ、波留はたどたどしく腰掛ける。料理が運ばれてくるまでの合間に、ファウスリーゼが男を波留に紹介した。
「こちらは真木名《まきな》逸輝《いつき》。この屋敷の使用人です」
「よろしく」
「よろしくお願いします。お、僕、内藤波留です」
俺と言いそうになるのを僕と言い直して、波留も名乗る。
(使用人って、全然それっぽく見えないけど)
使用人が主と同じテーブルで食事をすることは、普通だろうか? 庶民《しょみん》育ちの波留にはわからなかったが、常識的に考えればあまりないことのように思えた。
(まあでも、今日が特別なのかもしれないし、そういう家なのかもしれないし)
料理を運んできたのは、さっき波留を案内してくれたのと同じ男だ。彼のこともファウスリーゼが紹介した。
「こちらは繻宇司《しゅうじ》鳴瀬《なるせ》。同じく使用人です」
繻宇司鳴瀬は波留に向かって軽く目礼した。波留もつられてお辞儀《じぎ》を返す。波留はその名前に聞き覚えがあった。
(繻宇司って、政治家にそんな名前の人がいたよな)
繻宇司というのは、何百年も前からこの繻司市に君臨《くんりん》していた有力者で、繻司市の市議会のみならず中央政権にも議員を輩出している名家だ。繻司市という地名が、繻宇司一族にちなんでつけられたことはこの町の人間なら誰でも知っているし、波留の通う繻司高校も繻宇司家によって経営されている。
まさか、と波留は考えた。
(あれ、でも、繻宇司さんの屋敷って駅のほうにあったよな? あのすげー日本家屋。あと他にもビルとかたくさん持ってたし……そんな人がこんな山の中に、わざわざ別荘を建てるのか? そしたら絶対誰かが気づくはずじゃないか?)
繻司山の中に屋敷があるというのは単なる噂話で、大人たちでさえその真実は知らなかった。波留たちのような高校生には無理でも、大人なら登記簿《とうきぼ》を調べたりできるはずだ。そういったことが、狭《せま》い町の中で噂にもならないのはおかしい。
(聞いてみようかな。でもなんか、聞いたらまずいような空気だし)
料理を運んできたのは、繻宇司鳴瀬だった。他に人の気配はない。厨房《ちゅうぼう》はどこなのか、その厨房には料理人がいるのか、それさえもわからないし気配も感じられない。
今頃になって波留はようやく、この屋敷に違和感を感じ始めた。
(……おいおいおいおい。これってホラー的な何か?)
だんだん怖くなってきて、助けを求めるように波留はファウスリーゼに視線を送る。金色の目が、視線に気づいて波留を見つめ返す。
途端に、波留の胸から不安が吹き飛んでしまう。
(……あー、でも、この子になら殺され……るのはやだけど、なんかされるのはいい。すごくいい)
むしろ何かして欲しいと、よこしまな妄想《もうそう》を膨《ふく》らませる波留の前に料理が並べられる。すっかりファウスリーゼに見とれていた波留は、料理を見て新たに驚いた。
「うわあっ」
子供っぽい声を、波留が出した。見るからに高そうな器に盛られたフランス料理だった。フランス料理なんて波留は食べるのは初めてだ。しかも、料理のメインはトリュフだった。
思わず波留は、ファウスリーゼに聞いた。
「なんでこんなご馳走《ちそう》してくれんの!?」
波留の正直な質問に、ファウスリーゼは怪訝《けげん》な顔をした。
「これ、ご馳走?」
「恐らく、庶民には」
「お姫様にとってはただの、山に生えてるキノコだもんな」
主の質問に、繻宇司鳴瀬は妙に冷静に答え、真木名逸輝はふざけて答えた。真木名の答えに、ファウスリーゼがいちいちむっとしているのがわかった。
(そうか、お姫様みたいな暮らしをしてる子にはトリュフってただのキノコなのか)
勝手に納得して波留は、元気よく手を合わせた。
「いただきます!」
「どうぞ」
ファウスリーゼは静かに答え、食事をする波留を眺《なが》めた。その視線に、波留は気づいて顔をあげる。
「なに?」
波留と目が合うと、ファウスリーゼはじっと金色の目で見つめてくる。波留の胸がまたどきりとする。
波留がファウスリーゼに見とれている隙に、横からぬっと手が伸ばされた。その手がしていることを見て、波留は悲鳴をあげた。
「うわぁっ!? 何するんですか!」
「いや、なんとなく」
隣に座っていた真木名が、波留の料理に煙草を入れたのだ。その蛮行《ばんこう》に驚いたのは波留だけで、ファウスリーゼは真木名を見もせずに繻宇司鳴瀬に命じる。
「鳴瀬、新しい料理を」
「はい」
(いつもこんなことしてるのか? この人……)
真木名の行動に驚いているのは波留だけで、ファウスリーゼも鳴瀬もまるで動じていない。鳴瀬によって、速やかに新しい料理が運ばれてくる。
(なんなんだろう、この人たち……)
波留は、改めて不安になってきた。
冷静に考えてみれば、助けてくれた初対面の人の家で夕飯までご馳走になるって俺は相当図々しくないか? と波留が気づいたのは食事が終わってからのことだ。食前と食事中は、あまりに空腹だったのと美味だったのとでそのことに思い至らなかった。
波留は時間を知りたくて、ダイニングルームの中をぐるりと見回す。が、やはりこの部屋にも、時計はなかった。
(でも、いくらなんでもそろそろ帰らなきゃなあ)
時計はなくても、窓の外が暗いことから時刻がすでに遅いことはわかる。崖から落ちたとはいえ無傷だし、じゅうぶん歩いて帰れるはずだ。
にも拘わらず、波留はどうしても椅子を立つ気にはなれなかった。
(だめだ、ほんとに、もう帰らないと)
夜中まで帰らなかったら、伯父夫婦だってきっと心配する。それに、初対面の人の家に長居をするのは迷惑になる。
そう思うのに、体が言うことをきかない。
(なんで……?)
理由は、自問するまでもなく明らかだった。
ファウスリーゼだ。
波留はまたじっと、ファウスリーゼの白い横顔を見つめた。蝋《ろう》のように白い頬を。
離れたくない。
ずっとそばにいたい。
そんな欲求が、胸に痛いほど湧き出てくる。
その欲求を、波留は懸命《けんめい》に打ち消した。
(そ、それはいくらなんでも、相手の迷惑になるよな。初対面の人に、いきなり……!)
第一自分は女の子に対して、そんなに情熱的なタイプでもなかったはずだと一人で葛藤《かっとう》する波留に、隣の席で煙草を吸っていた真木名が言った。
「残ってもいいけど」
「はい?」
「いじめられるぞ」
「え、はい?」
突然笑顔で宣告されても、波留には何がなんだかわからない。
「誰に、ですか?」
問い返すと、真木名はにやりと意地悪そうに笑った。
「俺とか繻宇司とか鳴瀬とか」
「え、あの、もう一人繻宇司さんて人がいるんですか?」
「いません」
初めて繻宇司鳴瀬が会話に参加した。真木名がさらに混ぜっ返す。
「おまえが二人分いじめるって意味で言ったんだけど」
「いじめません」
「嘘《うそ》つけ」
口数の多い真木名に対して、鳴瀬はほぼ一文節でしか返事をしない。その上、鳴瀬は無表情だ。仲がよいのか悪いのか、判然《はんぜん》としない遣《や》り取りだった。
「ま、あとは自己責任だよな」
それだけ言い残して、真木名はダイニングテーブルから離れた。皿を片づけるのも鳴瀬の仕事らしい。続いてファウスリーゼも立ち上がり、ダイニングルームから出て行く。
「あ、ファウスリーゼ、さん」
波留は呼び止めたが、ファウスリーゼは立ち止まらない。
(嫌われてるのかな)
さっきまでは優しかったしなーと、波留は頬を掻《か》いた。気高くも見えるその冷たさがミステリアスで、逃げられるとなんだかますます追いたくなった。
(帰る前にお礼言ったりとか、いろいろ用事あるし)
上手く自分に言い訳して、波留はファウスリーゼを追った。
(あれ? どこに行ったんだろ?)
赤い絨毯の敷かれた廊下に、ファウスリーゼの姿はなかった。ほんの数秒の差で部屋を出たのに見失うなんてと、波留は訝《いぶか》った。長く続く廊下は迷路のようで、迂闊《うかつ》に入りこんだらすぐに迷いそうだ。
(真木名さんか鳴瀬さんに聞こうかな。でも二人とももう食堂にいないか)
食堂の出入り口さえ一つではないのだから、一度見失ったら携帯電話でも使わない限りなかなか見つけられなさそうだ。その携帯電話も今は電池が切れているし、それ以前に波留は彼らの電話番号を知らない。
(ここ、一階だよな? 窓が少ないからわかりにくいけど)
長い廊下には点々と、古めかしい洋燈《ようとう》の灯りが灯されているだけで、注意して歩かないと足元さえ覚束《おぼつか》ない。ファウスリーゼの姿を求めて、波留は廊下を小走りに進んだ。突き当たりをひたすら右に曲がれば、迷うことはないだろうと波留は踏んだ。やがて洋燈の灯りも減っていき、黒いオーク材の扉へ辿り着く。
扉の隙間《すきま》からは、微《かす》かに外の気配が感じられた。
「ファウスリーゼさん?」
波留は扉に向かって声をかけた。返事はない。
(この扉の向こうって多分外だよな?)
屋敷の外の景色に興味があって、波留は「失礼します」と断ってドアノブを回した。突風が波留の髪を撫《な》でた。ドアの向こうの景色に、波留の口からため息が漏《も》れる。
「うわあ」
一面に広がる薔薇園《ばらぞの》が眼前に現れた。咲き誇る赤い薔薇は、みっしりと絡まりあい、屋敷の向こうの景色を塞ぐ。
夜なのに仄《ほの》明るいのは、薔薇園の至る所に据《す》え置かれた外灯のためだけではない。蒼白い燐光《りんこう》が、綿埃《わたぼこり》のようにあちこちに舞っているせいだ。燐光の正体は波留にはわからなかったが、機械的なものだろうと彼は判断した。
(日本じゃないみたいだ)
ぐるりと薔薇園を見回して、波留はその真ん中に噴水《ふんすい》を見つけた。噴水の傍《かたわ》らに、銀の髪が揺れているのが見えた。
髪は燐光を纏《まと》い、蒼白く光っていた。ファウスリーゼが、何やら思案顔で噴水の縁に腰掛けている。そちらに向かって波留は、一歩足を踏み出した。
「ファ……」
声をかけようとした波留に気づいたファウスリーゼが、はっと顔をあげて叫ぶ。
「来てはだめ!」
「え?」
戸惑う波留の頬を、鋭い風が撫でた。不可視の風は、そのままファウスリーゼに向かって駆けて行った。
「な、に……?」
急に頬が痛んだ。触れてみると、指にべったりと血がついた。
赤い花弁が宙に舞う。波留は瞠目《どうもく》し、ファウスリーゼの姿を見つめた。黒いスカートが、ふわりとたくし上げられる。夜目にも白い太股がほんの一瞬だけ露《あら》わになる。太股に巻かれた黒いガーターに、銀色に光る刃物が装着されているのを波留は見た。そこから先の動きは、速すぎて見えなかった。
風だと思ったのは、何かの塊《かたまり》だった。ファウスリーゼの五指に各々握られたナイフが、塊を切り裂く。
ギギィ、と古い扉が軋《きし》むような音がした。
それは音ではなく、声だった。不可視であった塊は、ナイフに裂かれてその動きを止め、石畳の上に転がった。
波留の視線が、そちらに釘付けになる。
『それ』もまた、波留を見返している。
「……CG?」
目の前の光景に、どうしてもリアリティを感じられなくて波留はつい、呟《つぶや》いた。こんなものが実在するはずがない。こんなものは、コンピューターグラフィックの世界にしか存在しないはずだ、と。
しかし、だったら頬から流れる血の温かさと痛みはなんなのか。
目の前のこの、たくさんの目玉を持つ、サッカーボール大の肉塊《にくかい》はなんなのか。
呆然《ぼうせん》と立ち尽くす波留に向かって、ぬらぬらと蠢《うごめ》く触手が伸ばされる。触手は粘液《ねんえき》にまみれながらも、鋭利に尖《とが》っている。
先刻、波留の頬を切りつけたのはこれだ。
ファウスリーゼが、波留に向かって走りながら叫ぶ。
「逃げて!」
その声の切実さに、波留の肩がびくりと震える。が、咄嗟《とっさ》に体を動かすことはできなかった。波留はそういった非常事態に慣れていない。
触手が、まっすぐに波留の心臓を目指して飛ぶ。波留は頭の中が真っ白になった。崖《がけ》から落ちた時も、こういう感じだったことを思い出す。
「波留!」
ファウスリーゼが、波留の名前を呼んだ。こんな状況なのに、その声は波留にとって甘美だった。その声で名前を呼ばれることに、無上の喜びを感じた。
波留の心臓に、触手の放つ一撃が届く直前。
銃声が、轟《とどろ》いた。
銀の弾丸に撃ち抜かれ、触手が飛び散っていく様は、奇妙なほどゆっくりと見えた。その間に駆けつけたファウスリーゼが、目玉の化け物を銀のやいばで貫《つらぬ》く。
ギュイィ、と断末魔の叫びをあげて異形は力尽き、直後に灰燼《かいじん》に帰す。白い灰は突風に攫《さら》われ、そのまま大気に消えた。
波留はただ呆然とそれを見ていた。見ている他に、何もできなかった。
ファウスリーゼは素早くナイフをスカートの中にしまうと、波留の後方を睨《にら》んだ。
「これくらい、一人でできます」
誰に向かって言っているのかと、波留は振り向く。知らぬ間に、波留に向かって歩いてくる者の姿があった。真木名逸輝だ。
石畳を踏《ふ》んでも、真木名の足音はしなかった。ファウスリーゼの言葉に、真木名は銃《じゅう》を手にしたまま答えた。
「足手まといを見殺しにできるんだったら、そうだろうな」
ファウスリーゼの眉《まゆ》が、きつく寄せられる。真木名は皮肉っぽく笑ったままだ。波留は、思わず自分を指さして呟いた。
「それ、俺のこと?」
「他に誰がいるんだよ」
真木名は銃底で波留の頭を小突いた。ファウスリーゼが、さっとスカートを靡《なび》かせて踵を返す。
「あ、ファウス、リーゼ」
たどたどしく波留が呼び止めたが、ファウスリーゼは振り向かなかった。取り残された波留に、真木名が告げた。
「あんたはもう、ここから出られない」
「……え?」
胡乱げに、波留が真木名を見上げる。真木名はポケットから煙草を取り出し、火を点し一服した。
「屋敷から出ることはできる。家に帰ろうと思えば帰れる。でも、『離れられない』んだよ」
真木名の、銃を握っていないほうの手がすっと翳《かざ》される。
「あれから」
あれ、と真木名が指さしたのは、ファウスリーゼが立ち去った方角だ。
「ええと、意味がわかんないんですけど」
思ったままを聞き返した波留に、真木名はほんの少しだけ驚いたようだった。
「意外といい度胸してんな。あんなもの見たあとで」
あんなもの、とは、今や塵《ちり》一つ残さず消えたあの異形のことだろう。『あれ』をどう呼称するべきか、波留は考えた。それに、現物が目の前から消えると、途端に全部夢か幻だったのではないかという気になってくるから困る。
しかしそれが夢でも幻でもなかったことは、目の前の真木名が証明している。波留は、真木名の右手に握られたままの銃を見た。
硝煙《しょうえん》の匂いは未だ生々しく庭園に漂っている。
『あれ』が手品でないなら、本物だろう。
いい度胸と言われるのは初めてで、波留はどう反応していいのか少し困った。悪い気はしないけれど、素直に喜んでいいものとも思えなかった。
自分が今落ち着いているのは、肝《きも》が据《す》わっているからではなくリアリティを感じられないだけだと自覚しているからだ。
(それより、帰れないってどういう意味だろ?)
まさか真木名は、自分をここに監禁《かんきん》するつもりだろうか。波留はそう疑ったが、真木名は言うだけ言うとそれ以上波留には目もくれず、屋敷の中へ戻って行った。
また波留は一人になった。他に人影もないし、屋敷の扉には鍵はかけられていなかった。逃げようと思えば、いつでも逃げられそうな状況だ。
しかし、いみじくも真木名の予言通り、波留は屋敷から逃げ出さなかった。ファウスリーゼのことが気になって仕方なかったのだ。
(あの変な生き物は、ファウスリーゼを狙《ねら》ってた?)
途中からは波留に襲いかかってはきたものの、最初に狙われていたのはファウスリーゼだ。もしも他にあんな変な生き物がいるとしたら、彼女の身が危ないのではないか。
そう思うと、波留はいてもたってもいられなくなった。今までに感じたことのない、身を焦《こ》がすような焦燥《しょうそう》に駆られた。
(ファウスリーゼ、どこに行ったんだろう)
一人になっては危ないのではないか。波留の足は自然に、ファウスリーゼを追って動き始めた。
彼女の姿を見つけるのは簡単だった。これほど広大な屋敷の中でも、波留は容易《たやす》くファウスリーゼの居場所に辿り着くことができた。そういえばさっきも、意外に早く彼女のもとに辿り着けたことを波留は思い出す。自分の勘が磨《みが》かれたようで、波留はなんだかうれしかった。
ファウスリーゼは、屋敷を横断した反対側の庭園にいた。どうやらこの屋敷は、薔薇園に囲まれているらしい。
東屋の陰に隠れるように座っている彼女に、波留は駆け寄った。波留の姿に気づくと、ファウスリーゼはゆっくりと顔をあげる。
「だいじょうぶ?」
先に聞いたのは波留だった。ファウスリーゼは、微かに微笑んで自分の頬に人差し指で触れて、聞き返した。
「傷は……」
言いかけて、ファウスリーゼはすぐに何かに気づいたようにはっとして手を下ろす。そういえば自分も頬に怪我《けが》をしたんだっけと思い出して、波留も自分の頬に触れてみた。
「……あれ?」
おかしい、と波留は頬をこすった。
さっき確かに、異形の化け物によって切りつけられたはずの頬には、一筋の傷も残っていなかった。流した血は未だ指に付着しているのに、傷だけが消えているのだ。
(怪我なんかしてなかったのか? でも、血が……)
訝る波留の横を、ファウスリーゼは黙って通り過ぎようとする。その銀色の影を、波留は慌てて呼び止めた。
「あ、待って!」
ファウスリーゼが、ゆっくりと振り返る。波留は「えぇと」と、血のついた指で頬を掻いた。
「一人じゃ危ないよ」
「だいじょうぶ」
玲瀧《れいろう》とした声でファウスリーゼは答えた。その言葉に嘘がないことは、さっき立証されている。
彼女は、武器を持っていた。それに、戦う力も持っていた。ただ呆然としていただけの自分より、この華奢《きゃしゃ》な女の子のほうが強いのだという事実を波留はさっき目の当たりにしている。
なのに波留は、彼女のことが心配でたまらない。
「でも、やっぱり危ないよ。いっしょにいようよ」
「…………」
ファウスリーゼは答えない。波留は、ちょっと図々しかったかなと反省しつつも彼女に呼びかけた。
「ファウスリーゼさんは……」
「ファスでいいわ」
突然返事をされて、波留は驚喜した。
「え!? いいの!?」
しまった、はしゃぎすぎたと、すぐに波留は後悔したがファウスリーゼが気分を害した様子はなかった。波留は、ファウスリーゼの隣に座ることを許された。さっき異形のものに出会った時には少しも高鳴らなかった波留の心臓が、どきどきと早鐘を打つ。
東屋の椅子に腰掛けたまま何も話さないファウスリーゼに、波留は質問を始めた。聞きたいことが、たくさんあった。
「ええと、俺、さっき真木名さんに変なこと言われたんだ」
ファウスリーゼは俯《うつむ》いたまま、黙って聞いている。
「俺が、もうここから出られないとかなんとか」
「それはあなた自身が決めることでしょう」
無表情なままファウスリーゼに言われて、波留は自分でもびっくりするほど傷ついた。むしろ、ここに閉じこめると言われたほうがよほどうれしかったことを自覚して、二重、三重の意味で驚いてもいた。
つまり自分は、どうしてもこの少女のそばにいたいのだ、と。
(そ、それはちょっと、自分でも驚く……)
波留は自分が凡庸《ぼんよう》であることを、自覚している。その自分が、初対面の美少女に対してそんな激しい気持ちを抱くことに驚いている。
頭を抱えて俯いてしまった波留に、今度はファウスリーゼが質問をする番だった。
「あなたの、ご家族は?」
「え?」
ファウスリーゼが、自分に何か聞いてくるなんて思わなかったから波留は意外に思った。波留は正直に、かつ簡潔《かんけつ》に答えた。
「親は二人とも亡くなったんだ。兄弟もいない。今は伯父さんちで世話になってる」
その答えを聞いた刹那《せつな》、ファウスリーゼの眸が泣きそうに揺れたのを波留は見逃さなかった。思わず伸ばしかけた手を、波留は慌てて引っこめる。いきなり彼女に触れるのは、さすがに躊躇《ためら》われた。
暫《しば》しの沈黙が、二人の間に流れる。噎《む》せ返るような薔薇の芳香を夜風が洗う。
やがてファウスリーゼは、重い口を開いた。
「あなたの、お父様の名前は?」
「圭《けい》。内藤《ないとう》圭っていう」
ナイトウケイ。波留の言葉に、ファウスリーゼの確信が深くなる。重ねてファウスリーゼは聞いた。
「お父様は」
「うん」
ファウスリーゼの言葉を、ほんの少しの息遣いさえ聞き漏らすまいと波留は身を乗り出す。
「火事に、遭《あ》ったことはある?」
「え、火事? 火事って、ええと、昭和六十三年のあの大火災のこと?」
ファウスリーゼは頷《うなず》いた。火事と聞いて波留がすぐにその大火災について思い至ったのは、当然だった。この町の人間なら、あの火事のことを知らずに暮らせるはずはない。それほどの大惨事《だいさんじ》だったのだ。
「うん。俺が子供の頃に、父親がその話してたよ。火事に遭ったけど、人に助けられてなんとか生き延びたって」
それからまた少しの間、ファウスリーゼは無口になった。もう泣きそうな顔はしていない。悲しみを隠すような、冷たい無表情だ。
もう一度、確かめるようにファウスリーゼは尋《たず》ねた。
「お父様のご両親は?」
「じいちゃん、ばあちゃんのこと?」
なんでそんなことを聞くのかと不思議に思いつつも、波留は正直に答える。
「それなら最初からいないよ。うちの父親、孤児《こじ》だったんだって。俺が今お世話になってる伯父さんは、母方の伯父だから苗字《みょうじ》も違う。うちの親、ちょっと特殊っていうか、実は中学くらいで子供作っちゃって。つまりそれが俺なんだけど。だから俺、子供の頃から母方の親戚《しんせき》の世話になること多かったんだ」
「……そう」
それきりまたファウスリーゼは口と眸を閉ざした。
「あの、さ。俺も聞いていい?」
「どうぞ」
存外あっさりとファウスリーゼは質問することを許してくれた。波留の目から見ても、ファウスリーゼはなんだか頑《かたく》なに見える。
「さっきのやつ、何?」
あれは誰? と尋ねるような気安さで、波留は質問した。ファウスリーゼは閉じていた瞼《まぶた》を開き、まっすぐに波留を見た。
金色の眸に自分の姿を映されて、波留は恍惚《こうこつ》で目が眩《くら》みそうになる。桜色の小さな唇《くちびる》が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「屍鬼《しき》」
「……シキ?」
耳慣れない単語を口にされ、波留は復唱する。構わずファウスリーゼは続ける。
「人間ではない、理性を持たない、異形の者。限りなく不死に近い怪物。屍鬼には二種類いて、ヒト型で理性を保っている者とそうでない者とがいる」
「え、えー?」
一気に説明されて、波留は思わず苦笑いした。ファウスリーゼの顔が、ふっと背けられる。
「別に信じなくてもいいけど」
「あ、ごめん、信じないわけじゃないよ」
彼女の機嫌を損ねてしまったのが惜しくて、波留は慌てて否定した。が、波留がそれを信じていないことは、ファウスリーゼの目にも明らかだろう。
それでもファウスリーゼは、説明を続けた。
「わたしはリリス。屍鬼を生み出す母胎。と言っても、人間が子供を産むようにお腹を痛めるわけではないの」
波留は、ファウスリーゼの話に聞き入った。話の内容そのものよりも、綺麗な音としてその声を聞いていた。
「一度死んだ人間を、二十四時間以内に蘇《よみがえ》らせる。するとその人間は、屍鬼になる。今の」
と、ファウスリーゼは波留の顔を指さした。
「あなたみたいに」
「……そうなの?」
あまりにも荒唐無稽な話で、波留が咄嗟《とっさ》に信じられないのは当然だった。
「……っていうおとぎ話よ。言ったでしょ。信じなくてもいい」
「いや」
波留は即答した。
「信じるよ」
決して阿《おもね》るつもりではなく、波留は本心から言っていた。
「ファスの言うことなら、なんでも信じる」
「でしょうね」
力無くファウスリーゼは呟いた。それがむしろ、絶望的な事実であるかのように。
「だってそれは、あなたの意思ではないから。呪《のろ》いのようなものだから」
何が? と波留が目で聞き返す。
ファウスリーゼは波留を見ないで続ける。
「屍鬼は、自分を蘇らせたリリスの下僕《しもべ》となって理性を失うの。わたしの造った屍鬼は、他の部分の理性は残るけれど、その点だけは変わらない」
淡々と、ファウスリーゼの『おとぎ話』は続く。
「あなたがわたしの話を盲目的に信じるのも、わたしのそばから離れられないのも当然のこと。それはあなたの意思ではなく、仕方のないこと」
ようやくファウスリーゼが顔をあげる。今度は諦《あきら》めではなく、しっかりとした意思をもって波留に告げる。
「それだけは、覚えておいて」
「なんで?」
波留は咄嗟に聞き返した。
「ちゃんと俺の意思だよ。俺は」
まさか自分の口から、そんな大胆な言葉が自然に出るとは、波留自身にとっても驚異的だった。夜の帳《とばり》と、日常からかけ離れたファウスリーゼの美貌《びぼう》に酔《よ》っていたのかもしれない。
「初めて見た時から、ファスが好きだよ」
真っ正面から告白されても、ファウスリーゼの顔色は変わらなかった。恥ずかしがったり、驚いたりもしなかった。
変わらぬ冷たい声で、ファウスリーゼは聞いた。
「なら、わたしの言うことを聞いてくれる?」
「もちろん」
これにも当然の如く、波留は即答する。波留のほうは、心臓がどきどきしていた。何かが始まる予感に、胸が詰《つ》まりそうだった。
「屍鬼を解放したいの」
ファウスリーゼは、真剣だった。波留がこの話を信じることなどまるで期待していないように見せかけて、彼女には誰よりも真剣にならざるを得ない理由があった。
「屍鬼が屍鬼でなくなれば、死ぬかもしれない。屍鬼から人間に戻ったなんて話は、この千年の間にも聞いたことがない。それでもわたしは」
それを言う時のファウスリーゼが悲しそうなのは、屍鬼が死んでしまうかもしれないからかと波留は想像した。風が強く吹いて、薔薇の花弁が舞った。
「屍鬼に、自分の意思を取り戻させたい。せめて最期は」
最期、という言葉は、波留の耳にも重く聞こえた。
「自分の心を、取り戻させたい」
「いいよ」
もしもファウスリーゼからの要請がなかったとしても、波留はもう、ずっと彼女のそばにいたいと思っていた。まるでそれが定められていたことのように感じられた。なるほど、確かにこの劇的な感情の変化は、ファウスリーゼの言う通り呪いのようだ。けれども波留は、それを呪いだとは思わない。
それを波留は、恋だと思う。
だから波留は、ファウスリーゼに告げた。
「でも俺は、屍鬼じゃなくても絶対きみを好きになるよ」
「屍鬼はみんなそう言うのよ。理性を失っているから、わたしなんかの寵愛《ちょうあい》を奪い合うの」
無表情に言い返してくる氷の美貌に、波留は強く反発した。
「俺だけは違うよ!」
「あなた、恋人は?」
少し呆れたようにファウスリーゼが話を変える。波留は少し恥ずかしそうに首を振った。
「いないよ。いたことない」
「そう」
それはせめてもの救いだと、ファウスリーゼは安堵《あんど》して目を伏せた。
こんな光景は、千年の間に何度も見てきた。こんな遣り取りは、千年の間に何度もした。ファウスリーゼにとって、すべてが苦《にが》い思い出だった。
死者を蘇らせることができるファウスリーゼは、かつて大衆に女神と崇《あが》められた。が、それは本当に短い間のことで、ファウスリーゼへの評価はすぐに女神ではなく魔女へと変わった。
ファウスリーゼは最初、知らなかったのだ。生前とまるで変わらぬ姿と理性を持って蘇生《そせい》した屍鬼が、唯一、恋情に関してだけは変わってしまうことを。
蘇った屍鬼たちは全員、生前の恋人を捨て、ファウスリーゼに強い恋情を抱いた。
屍鬼は、ひと月に一度、リリスたるファウスリーゼから精気をもらわないと生きていけない。
だがファウスリーゼに言わせれば、そのことに対して負い目や恋情を感じる必要はまったくない。ただ、主従としての関係が築ければそれでよかった。
ファウスリーゼもまた、下僕たちの精気をもらわないと生きていけない。純然たる共生関係であり、余計な感情はいらないとファウスリーゼは思うのだ。
吸血鬼はその血を吸った者を虜《とりこ》にするという伝承がある。ファウスリーゼの現状は、まさにそれだった。
長い彷徨の中で、ファウスリーゼは恋人を盗られたと信じた女に何度も復讐《ふくしゅう》されそうになった。その恋人を、元は恋人だったはずの屍鬼が殺すという悲劇にも見舞われた。
ただでさえファウスリーゼには敵が多い。人間からも、同族であるかもしれない他のリリスからも、彼女は命を狙われた。
人間の目から見れば彼女は異端の化け物だ。その中で腑《ふ》に落ちないのは、恐らく他にも存在しているはずの、他のリリスにも命を狙われることだった。
その原因を、ファウスリーゼは下僕たる屍鬼たちを使って調べていた。
そんな日々にファウスリーゼは疲れていた。
生きていて楽しかったのは、二十年前のあの火事で出会った子供、ナイトウケイと暮らしていた時だけだ。だからファウスリーゼは、その子供と同じ苗字を持つ内藤波留を突き放せなかった。それに今の話から、波留がケイの息子なのではないかという疑念、否、期待も生まれてしまった。
ファウスリーゼの乾いた心を癒《いや》すには、じゅうぶんな出会いだった。
表向きは冷たい態度を取りつつも、ファウスリーゼは波留を突き放さない。その空気を、波留はちゃっかりと読んでいた。
「俺、ここにいてもいい?」
「…………」
帰れ、とはファウスリーゼは言わなかった。
言ったところで無駄に終わることは、今までの経験から身に沁みている。それに、最低でも月に一度は精気の交換をしないと、波留は死んでしまう。
屍鬼はそのことを本能的に知っているのだ。
飢《う》えや渇きを感じたら、水や食料を求めることはどんな生き物でもする。誰にも教えられなくてもだ。
だから屍鬼は、リリスであるファウスリーゼのそばを離れたがらない。ファウスリーゼはそう理解していた。
それでもファウスリーゼが、常に自分のそばにいることを許した屍鬼は今のところ繻宇司鳴瀬と真木名逸輝だけだった。多弁な波留が、そのことに触れた。
「鳴瀬さんと真木名さんて人も、屍鬼なの?」
もはや隠す意味もないから、ファウスリーゼは首肯《しゅこう》する。波留は、今までにファウスリーゼが話したことを自分なりに整理した。
「屍鬼っていうのは、自分を屍鬼にした相手に絶対恋をしてしまう、ってことだよね?」
「そうよ」
「じゃあ、鳴瀬さんと真木名さんも、ファスを好きってこと?」
「呪いのせいでね」
あくまでもファウスリーゼは強調した。
彼らが自分に恋い焦がれるのは、彼らの意思ではないのだと主張しておきたかった。他人から誤解されるのは、千年の時を生きても心地よいものではなかったし、ファウスリーゼはどうしても屍鬼たちに自分の意思を取り戻させたいのだ。
死して蘇ったことによる代償《だいしょう》は、あまりにも大きい。
心を失ってまで生きたいとは、ファウスリーゼには思えない。呪いによって強制された恋など受け容れ難《がた》いし、そんな屍鬼たちが哀《あわ》れでもあった。だから一刻も早く、解放したいのだ、と。
波留はそんなファウスリーゼを見て、何か言いたげに頬を掻いた。
「でも」
と、波留は言いにくそうに言った。
「あの人は何か、違うっぽくない?」
「あの人?」
「真木名さん」
どちらのことを言っているのかと聞き返したファウスリーゼに、波留は真木名の名を伝えた。少し考えてファウスリーゼも認めた。
「……そうね。真木名は今まで飼ってきた屍鬼の中でもかなり特殊ね」
うわ飼ってきたとか言っちゃったよ、美少女の口から言われるとなんかエロいなあと波留は胸が高鳴った。
確かに波留の指摘通り、真木名の態度は下僕のそれではない。千年の中で、真木名ほど態度の悪い屍鬼をファウスリーゼは見たことがない。
真木名のことになると、ファウスリーゼは少し饒舌《じょうぜつ》になった。
「生意気だし」
「へー」
「言うこときかないし」
「ふーん」
「態度大きいし」
「そう」
「煙草吸うし」
「大変だね」
「下僕のくせに、主人の名前を勝手に略して呼ぶし」
「ファスって?」
「そう」
淡々と真木名の悪口を言うファウスリーゼがおかしくて、波留の口元に笑みが浮かぶ。それに、真木名に対しては『勝手に略した』と怒るくせに、自分にはファスと呼ぶことを許可してくれたのがうれしい。が、暢気に笑ってばかりもいられなかった。
ファウスリーゼが真木名のことを話すたびに、波留はなんだか胸がもやもやした。
『嫌な感じ』がして、波留は真木名についてさらに聞いてみた。
「真木名さんて何歳くらい?」
「屍鬼になる前までの年齢なら、二十九って言ってたけど」
「鳴瀬さんは?」
「二十五。どうしてそんなこと聞くの?」
「や、なんとなく」
波留は、彼らとファウスリーゼの寵愛を奪い合うことを想像して、少しぞっとした。彼らは二人とも長身で、俳優みたいな整った顔をしていた。
(いじめられるぞって真木名さんが言ってたのは、こういう意味だったのか)
同じくファウスリーゼの寵愛を奪い合うのなら、屍鬼同士は決して仲間ではあるまい。そのことは聞かずとも波留にもわかる。たった今、ファウスリーゼが真木名のことを話すだけでこんなにも不快な気持ちになったのだから。
話を逸《そ》らすために波留は呟いた。
「二人とも、大人だなあって」
「…………」
ファウスリーゼは急に黙りこんだ。
彼ら二人は大人だけれど、ファウスリーゼが愛した唯一の人は、子供のまま時を止めた。
愛というにはあまりにも拙《つたな》い感情だったが、ファウスリーゼがずっと一緒にいたかったのは、二十年前の火事で出会ったあの子供、ナイトウケイだけだ。
しかしあの子はきっと、もういない。
皮肉にも今日、その事実が明るみに出た。あの子供は生き延びて、再びこの街に戻ったのだろう。そうして、どこかの女との間に波留という子供を作った。中学くらいで子供を作った、という波留の弁を信じるなら、計算は合う。
ファウスリーゼは、失踪《しっそう》から三年ほどでケイを探すことをやめた。名乗り出てこないということは、ケイはもう自分には会いたくないのだろうと察したのだ。
淡《あわ》い恋は今宵《こよい》、完全に終わった。そのことを悲しんではいけないと、ファウスリーゼは自分に言い聞かせた。
波留の手が、無意識に握りしめていたファウスリーゼの手に重ねられる。ファウスリーゼはそっとその手を振りほどいた。
少しだけ傷ついた目をして波留は、ファウスリーゼに確認をした。
「ここにいてもいい? ファスのそばにいたい。ちゃんとファスの役に立つように、努力するから」
「……好きにすればいいわ。ただし、捜索願《そうさくねがい》を出されない程度の配慮《はいりょ》はしなさい。後々面倒だから」
「うん」
ファウスリーゼは波留の返事を聞くと、「一人になりたいの」と波留の手を振り切って自室へと戻った。
久しぶりに泣きたい気分だった。理由は知れている。あの子供の行く末を知ってしまったせいだ。ファウスリーゼは、自室に入るなり内側から鍵《かぎ》をかけた。すでに侵入者がいるとも知らずに。
侵入者は寝室ではなく、寝室とは一続きになっている書斎《しょさい》のほうにいた。気配に気づいたファウスリーゼは、無感情な声で告げる。
「勝手に部屋に入らないで」
「悪かったな」
真木名逸輝は本を手にしたまま、ファウスリーゼの前へ歩み寄った。ファウスリーゼは、真木名の足元をじっと見た。
真木名は、足音をたてずに歩く。
この部屋の床には毛足の長い絨毯が敷《し》き詰《つ》められているから、足音を消すのに難儀することはないだろうが、彼は石畳の上でも、リノリウムの床でも同じように気配を消す。
そういう行動が癖《くせ》になっている職種の者に、ファウスリーゼは何度か出会ったことがある。大抵は、真っ当な職種ではなかった。
真木名と距離を保ちつつ、ファウスリーゼは真木名との出会いを思い返していた。多少の苦《にが》い後悔《こうかい》とともに。
『この男は、必ず貴女の戦力になります』
ファウスリーゼのもとへ真木名の死体を運びこんだのは、屍鬼の中でも最古参のアルノートだった。アルノートはファウスリーゼとほぼ同じだけの時を生き、ファウスリーゼがもっとも信頼している従卒《じゅうそつ》だ。
元は大国の王に仕える騎士団長であったアルノートの推薦ならばと、ファウスリーゼは真木名を屍鬼として受け容れた。アルノート自身は今、ファウスリーゼの故郷である旧フランク領で密命に就《つ》いており、日本にいない。面会は精気を与えるための月一度だけだ。
その間、アルノートが自身の代わりにファウスリーゼの護衛《ごえい》を任せたのが真木名だった。
(アルノートの言葉を疑うわけじゃないけれど)
もっとも旧く、もっとも忠実だったアルノートに、ファウスリーゼは全幅の信頼を置いている。それでも、なぜ真木名なのか、という疑問は尽きなかった。
真木名に対して、ファウスリーゼは初対面の時から強い警戒心《けいかいしん》を抱いた。確たる理由はないが、そばにいられるとなんとなく落ち着かないのだ。
屍鬼が生きるために必要なのは、リリスの血か、体液だ。それも月に一度、たった一滴で事足りる。対価として、リリスも屍鬼からわずかな精気を得る。リリスと屍鬼はそのように共生していた。
真木名以外の屍鬼たちは、リリスであるファウスリーゼに畏敬《いけい》の念を抱き、〈それ以上〉を要求したりはしない。
なのに真木名だけは、戒律《かいりつ》にも等しい諒解《りょうかい》を破った。
一ヵ月前の夜。
真木名は、この部屋でファウスリーゼを無理矢理抱いた。
『精気を交換するっていうのは、本当は』
屍鬼の誰しもが勘付《かんづ》いていながら口にしなかったことを。
千年の禁忌《きんき》を容易く破って、真木名は指摘した。
『セックスだろ』
ファウスリーゼは真木名を無視しようとした。が、それは叶わなかった。真木名は、フアウスリーゼの手首を掴《つか》んで逃がさなかった。
『誰にもさせてやらないんだ?』
きつい視線を、ファウスリーゼは真木名にぶつける。引き寄せたその指に、真木名は口づけた。
『俺でもだめってことか?』
『……何を自惚《うぬぼ》れているの。当たり前でしょう』
真木名の指摘は、真実だった。リリスとはヴァンパイアであると同時に、淫魔《いんま》でもある。精気の交換とは、セックスそのものだ。屍鬼はリリスの血の一滴でも生きることはできるが、真から望むのは性交だった。
けれどファウスリーゼは千年の間、それを拒絶した。身も心も、誰にも許さなかった。唯一心を許した相手は、ケイという子供だけだ。
ファウスリーゼは無力だった。屍鬼に対してはそれを調伏《ちょうぶく》する力を発揮できても、人間の手によって行われる暴力に対しては非力な少女でしかない。屍鬼に守られていなければ、身を守ることもできない。
そんな自分が、ファウスリーゼは歯痒《はがゆ》くてたまらない。
屍鬼たちにとって、自分の創造主であるリリスは神聖不可侵のものだ。もしも真木名がファウスリーゼを犯したことが鳴瀬やアルノートを含む他の屍鬼たちに知られたら、真木名は間違いなく殺される。千年もの間、なんとか保たれてきた均衡《きんこう》が崩《くず》れてしまう。
殺させてもいいと、最初は思ったのに。
ファウスリーゼは結局、それを忌避《きひ》した。
自分の屍鬼たちが殺し合う。
ただでさえ理性を、自分の意思をなくして自分に仕えている者たちが、自分の意思ではないはずの戦いに身を投じる。そんなのは過去の確執《かくしつ》だけで、もうたくさんだった。
敵である他の屍鬼たちと戦うだけでも傷つくのに、身内同士で殺し合えばますます被害は拡大する。
『触らないで』
あの夜、手首を掴まれたままファウスリーゼは真木名に告げた。
『それ以上わたしに触ったら、殺す』
『殺せば?』
真木名は即答した。ファウスリーゼの指に口づけたままで。
そんなことを言われたのは初めてで、ファウスリーゼは驚愕《きょうがく》とともに深い悲しみを覚えた。
殺せない、殺したくない自分のことを、ファウスリーゼは千年の間に痛感し続けている。
千年前、深い霧の森に迷いこみ、ファウスリーゼはそこで銀狼《ぎんろう》に出会った。銀狼に首を噛《か》まれて以来、ファウスリーゼは屍鬼を生み出すリリスとなった。呪いを解く方法もわからないまま、千年生きた。
その間、不死の秘密を求める者たちの争いに幾度《いくど》も巻きこまれた。幾千もの骸《むくろ》を見た。
死ねないファウスリーゼは、絶対的に孤独だった。
大勢の屍鬼たちに傅《かしず》かれても、彼らと心が通じ合うことはないとファウスリーゼは信じている。彼らが自分に仕えるのは、あくまでも理性をなくしているせいなのだと。
だから真木名の出現は、些《いささ》か衝撃的ではあった。千年生きて、初めて自分に逆らう屍鬼と出会えたという点に於《お》いて。
(でも、そんなのはうれしくない)
真木名が顔を傾け、ファウスリーゼに唇を重ねる。ファウスリーゼはそれをよけることができなかった。
うれしくなんかない、はずなのに。
『俺があんたのこと、嫌いだとでも思った?』
そう言われた時、ファウスリーゼは言葉が出なかった。どんなに冷たい態度を取っても、真木名が自分を愛していないはずがない。
なぜなら彼は、ファウスリーゼが蘇らせた屍鬼だからだ。
どのみちその愛情は、彼の本心ではないのだ。ただ意思をなくしているだけの、偽《いつわ》りの愛だ。
ファウスリーゼは恋をしたことがない。
まだほんの少女のうちにリリスと化した自分には、恋をする資格がない。屍鬼から寄せられる愛情は単なる生存本能だし、屍鬼ではない普通の人間と恋をすることなどあり得ない。普通の人間の目から見たら、自分はきっと化け物のように見えるだろう。そう信じているファウスリーゼに、恋はできない。
キスならば屍鬼を生み出すために何人もとしてきたけれど、真木名のキスは特別だった。
「……ン……ッ」
顔を背けようとすれば、顎《あご》を掴まれ引き戻される。屍鬼に限らず、ファウスリーゼにそんな仕打ちをした男は千年の間でも真木名だけだった。
「こ、の前も」
息が乱れて、言葉が途切れる。
「した、ばかり……っ」
「燃費悪いんだよ、俺」
燃費、という言い方に腹が立って、ファウスリーゼは真木名の足を蹴った。蹴られても真木名は、楽しげに笑っている。くくっ、と低く漏れる忍び笑いが、ファウスリーゼの耳を擽《くすぐ》る。
真木名の腕に強く抱きしめられて、ファウスリーゼの爪先は宙に浮いた。身長差がありすぎるせいだ。
「……っ……」
ファウスリーゼはまた息を詰めた。抱きしめられると躰《からだ》が竦《すく》む。
屍鬼の特徴は、母胎たるリリスによって規定される。ファウスリーゼによって造り出された屍鬼は、誰もが生前と変わらぬ肉体を維持できた。さっきファウスリーゼに襲いかかってきた異貌《いぼう》のようなものに変化する屍鬼も少なくない中で、ファウスリーゼの屍鬼たちは幸運と言えた。
密着した真木名の胸からは、とくとくと規則正しい心音さえ伝わってくる。その音をファウスリーゼは、切なく聞いた。
こんなにも温かいのに、彼はもう死んでいるのだ。彼だけではなく、この屋敷にいる者たちすべてが。
ファウスリーゼが感傷に浸っていられるのはそこまでだった。真木名は、ファウスリーゼの躰を易々《やすやす》と抱いて運ぶ。
ファウスリーゼの細い肩が、ぎくりと竦んだ。
殺す気で抗《あらが》えば、ファウスリーゼは屍鬼である真木名には絶対に負けない。直接|対峙《たいじ》しなくても、精気を与えないことで餓死《がし》させることもできるし、他の屍鬼に殺させることもできる。
屍鬼がリリスを犯すことは、実質上不可能なのだ。
だからこの行為を、なんと呼べばいいのか。ファウスリーゼは困惑《こんわく》し続けなければならない。
「……ぅ……」
「いつも思うんだけど」
ドレスのボタンを外しながら、真木名が呟いた。
「あんたの服、脱がせにくい」
「脱がせなければいいでしょう……!」
腹立ち紛《まぎ》れにファウスリーゼが叫ぶと、真木名はしたり顔で答えた。
「それもそうか」
「え……な……っ」
真木名の左手が、ファウスリーゼの太股《ふともも》を掴む。左手は、そのままスカートの中に潜りこみ、下着を剥《は》ぎ取ろうとした。下着を下ろす途中、ガーターに引っかかって、真木名はまた言った。
「これも面倒くさい」
「ば、か……っ!」
ファウスリーゼは足を閉じ、下着を取られまいと抗う。が、真木名のほうが一枚上手だ。下半身を守ろうとしている間に、胸元が大きくはだけられる。
胸元のビスチェも真木名には不評だったが、もちろん真木名のために服装を変える義理はない。ファウスリーゼは敵を見る時と同じ視線で、真木名を睨《にら》みつけた。なのに真木名は、うれしそうな顔をする。
「何を笑っているの」
「別に」
子供のような返事をして、真木名はファウスリーゼの唇を舐《な》めた。またファウスリーゼが肩を疎める。
「あんたが俺のこと見てくれるのって、こういう時だけだし」
「…………」
ファスリーゼは押し黙ったが、内心少し安堵していた。真木名が、気づいていないことに。
本当は、ファウスリーゼはよく真木名のことを見ていた。
初めて見た時から、目が離せなかった。
理由はファウスリーゼ自身にもよくわからない。
「……ふ……っ」
真木名の顔が、ファウスリーゼの胸に沈んだ。柔らかな黒髪に胸を櫟られ、ファウスリーゼは身を捩《よじ》る。真木名の顔が伏せられているのを幸いに、ファウスリーゼは真木名の頭をそっと見下ろす。
極東のこの国に来て、ファウスリーゼは自分の意外な好みに気づいた。金髪や碧眼《へきがん》よりも、黒い眸や髪のほうが好きだということだ。ナイトウケイと名乗っていたあの子供も、黒髪で黒い眸だった。
真木名の髪と目も、東洋人らしく黒い。
ただし好きなのはあくまでも髪や眸の色だけで、断じて真木名自身ではないとファウスリーゼは自分に言い訳をした。
ファウスリーゼの胸の膨《ふく》らみに、真木名が頬擦りする。敏感な部分に髪が当たって、乱れる息をファウスリーゼは押し殺す。
「……ん……っ」
今、この屋敷に鳴瀬と波留しかいないが、どちらに知られても困る。声を出すわけにはいかなかった。
ファウスリーゼの思惑《おもわく》などまるで無視して、真木名はファウスリーゼの胸を弄《もてあそ》ぶ。
「……ゃ……」
嫌、と言いたいのを、堪《こら》える。
真木名の指先が、ファウスリーゼの微かな胸の膨らみを掴む。少女のままで時を止めた躰は、細く頼りないままだ。そういう肉体にこういう行為を強いられたことが、ファウスリーゼには意外だった。
千年の間に、ファウスリーゼは求婚されたことが何度もあった。その際、不死の美姫との賞賛を一身に浴びながらも、ファウスリーゼ自身が自分の肉体を愛することはなかった。自分は、永遠に大人にはなれない。そのコンプレックスは、ファウスリーゼの心を固く閉ざさせた。ファウスリーゼにとって女とは、もう少し成熟した肉体を指して言う。だから自分は、女ではないのだ、と。
女ではない自分に欲情するのは、屍鬼でもなければ忌むべき幼児性愛者だとファウスリーゼは思う。屍鬼である真木名が創造者・リリスたる自分に欲情するのは致し方ないことだが、屍鬼にならなければ真木名は決して自分に欲情しなかっただろうという確信もあった。
胸の膨らみを掴んでいた手のひらが離れて、今度は指先を宛《あて》がわれる。乳房《ちぶさ》ではなく、胸の突端に。
刹那、ファウスリーゼはまた息を詰める。
「ひ、ぅ……!」
指の腹でそこを押された途端、悲鳴にも似た声が漏れた。咄嗟に真木名の腕を掴んで引き離そうとするが、真木名の腕はファウスリーゼの力ではびくともしない。
真木名はファウスリーゼの耳朶《じだ》に唇を寄せて、そのまま指先に触れる突起を弄《いじ》った。
「ん、く……」
真木名の躰の下で、ファウスリーゼが微かに身を振る。薄桃色の小さな乳首は、真木名に触れられるまでは柔らかく、なめらかだった。なのに真木名に触れられた途端、きゅんと縮こまって硬くなる。触れられている箇所《かしょ》を震源にして、じくりと甘く刺されるような奇妙な感覚が体中に拡散する。
(そこ、嫌……っ)
胸を弄られるのが嫌で身を振っているのに、真木名はまるで素知らぬふりだ。真木名の指は男にしては細いほうだが、銃器を取り扱うためか骨張っていて硬い。真木名に限らず、男の肌は女よりは硬い感触であることを、ファウスリーゼは知らなかった。
その指が、ファウスリーゼの敏感な突起をコリコリと押し潰す。円を描くように軽く撫で、尖りを増した部分をキュッとつまみ、軽くひねる。
「う……ン……ッ……」
ファウスリーゼはせめてもの抵抗に、真木名の髪を強く引っ張った。噛みついたり引っ掻いたりしたこともあったが、そのどれも真木名には効かなかった。せいぜい小さな傷を作る程度だ。
無言でファウスリーゼを辱めていた真木名が、不意に耳元で言った。
「いい加減、素直になればいいのに」
「な、に、言って……あ、だ、だめっ……!」
真木名の顔が胸に沈められたのを見て、ファウスリーゼの抵抗がひときわ激しくなる。が、やはり真木名は聞かない。
熱く濡《ぬ》れた舌が、ぬるりとファウスリーゼの胸の突起を舐めた。ファウスリーゼの膝が、びくんと大仰なほど跳《は》ねる。
「い……ぁ……っ!」
尖らせられた舌先で硬く凝《こ》った先端をコリコリと転がされる。
指で同じことをされた時よりも強烈な刺激が、ファウスリーゼの躰を突き抜ける。それだけでなく、合間に強く吸われ、絡みつく舌で扱《しご》かれて、ファウスリーゼは遮二無二《しゃにむに》四肢をばたつかせた。
「嫌、それ、嫌っ! は、はなし、て!」
「もう何回もやったでしょ、これくらい」
真木名が顔をあげ、呆《あき》れたように言う。ファウスリーゼはそれを、涙目で睨み返す。
「ゆ、許してなんか、ない……!」
すべて無理矢理されたことだった。初めてされた時は本気で殺してやろうかと思ったのだ、と。
真木名は怒るファウスリーゼを、面白そうに見ている。
「ふうん」
笑いながら真木名は、ファウスリーゼのスカートの中に手を入れた。閉じようとする太股の間に、容易《たやす》く手がねじこまれる。
「あ……!」
さっき必死で守ろうとした箇所の中に、真木名の指が侵入した。
暴れるファウスリーゼに体重をかけて抑えつけ、真木名は存分にファウスリーゼの太股の奥を探った。
「でも、あんたのここは気持ちよさそうだけど?」
「……ッ……!」
ファウスリーゼの目が、きつく閉じられる。
(酷《ひど》い……)
真木名は酷いと、ファウスリーゼは責めたくなる。
太股の左側から、下着の中に指が二本、入れられている。その指は、さっき胸を辱めたのと同じようにファウスリーゼの局部を弄り回す。遠慮も躊躇いもなく、千年もの間ファウスリーゼが守ってきた秘所を滅茶苦茶にした。
真木名に出会う前までは、ぴったりと慎《つつ》ましく閉じられていた花弁の奥に、中指が侵入する。いくらファウスリーゼが足を閉じても、無駄だった。小さな二枚の花弁は熱く潤《うる》んで、真木名の指の侵入を許してしまった。
「い、ゃ……ぁ……っ」
ファウスリーゼの声が小さくなる。気丈に睨みつけていた眸が、悲しそうに潤む。それくらい、そこに触れられるのは衝撃が大きかった。
ぬるりとした熱い粘膜が、真木名の指に絡みつく。
「だいぶ柔らかくなってきたな、ここ」
指はまだ浅い部分までしか入れられていない。いつ奥まで入れられるかわからない状態は、ファウスリーゼを緊張させた。その行為は、まだ怖いのだ。
真木名はすぐには奥を探らず、膣《ちつ》の浅い部分で指をクチュクチュと出し入れさせた。まるでファウスリーゼの反応を愉しむように。
「最初はきつすぎて、食いちぎられるかと思った」
ファウスリーゼの胸に頬擦りしながら、真木名が囁《ささや》く。最後の気力を振り絞《しぼ》って、ファウスリーゼは自分の『屍鬼』に命じた。
「は、早く……」
矜持《きょうじ》を保つのがこんなに難しいことだなんて、ファウスリーゼは千年間、一度も思わなかった。
「終わらせ、なさい……!」
「何度も言ったけど」
「やぁっ……!」
また指を動かされて、ファウスリーゼの声が頼りなく滲《にじ》む。指は、花弁の奥からねっとりと濃い蜜《みつ》を搦め捕ると、ファウスリーゼの秘部の上部へと移動した。ファウスリーゼの眸が、不安げに揺らぐ。
「あんたが俺を好きって認めれば、なんでも言うこと聞いてやる。でも」
酷く理不尽《りふじん》なことを真木名が言う。それは理不尽であるはずなのだと、淫欲で霞《かす》んだ意識でファウスリーゼは考え続ける。
「あんたが嘘をつき続けるなら、言うことを聞いてやる義理はねえな」
「……ッ……」
汚いものから顔を背けるように、ファウスリーゼは首を振った。くっ、と真木名が喉《のど》の奥で嗤《わら》う。
「強情なお姫様だねえ」
「ひぁっ!?」
両足の太股を掴まれ、膝《ひざ》を大きく曲げさせられて、ファウスリーゼは平静をなくした。真木名の顔が、ファウスリーゼの太股の奥へ近づけられている。
怯《おび》えを隠しきれない声で、ファウスリーゼが叫ぶ。
「や、めてっ……何、するの……っ!」
「何って、舐めるだけだけど」
答えながら真木名は、隠し持ってきたナイフでファウスリーゼの白い下着を切った。真木名は、紹介者であるアルノートが言った通り歩く武器庫のようだった。ファウスリーゼが協力的ではないせいで、下着を切られるのはほぼ毎回のことだ。
真木名の返事は、ファウスリーゼの恐慌《きょうこう》を深めただけだった。それだけは絶対に嫌だと、ファウスリーゼは何度も真木名に言ってあるのだ。
「だめっ! そ、そんな、の、許してない……っ!」
「ああ、そういえば」
ファウスリーゼの抵抗などものともせずに、真木名は容易く目的の箇所に辿り着く。左手の人差し指と中指を使って、真木名はファウスリーゼの割れ目を拡《ひろ》げた。自分が今、何をされているのかを察して、ファウスリーゼは遂《つい》に悲鳴をあげた。
「だ、めえぇぇっ!」
「簡単にイッちゃうから駄目なんだっけ?」
「ひうぅっ!」
右手の人差し指が、無惨《むざん》に暴かれた紅い割れ目の上部を押した。まだ鞘《さや》に収まったままの小さな肉粒が、軽く押し上げられる。
「前にここ、吸ったり噛んだりしたら」
ファウスリーゼの爪が真木名の腕に食い込む。
「あんた、泣きながらイッちゃったんだよな。こっちの小さい割れ目から、愛液《あいえき》漏らして」
「う……ぁ……っ」
親指で真木名はファウスリーゼの小さな蜜口《みつぐち》を掻き混ぜた。再び顔が、その部分に近づいてくる。ファウスリーゼは刺激に耐えるために奥歯を噛みしめたが、到底耐えきれるものではなかった。
「アァ、ぅ……っ!」
背中に電流を流されたような刺激に、ファウスリーゼは身|悶《もだ》えた。舌先が、割れ目の上部の尖りに触れた瞬間だった。
ファウスリーゼを辱める合間に、真木名は続けた。
「かわいそうにな。処女《しょじょ》だったのに、最初からそんな恥ずかしいイキ方して」
初めて犯された夜のことを言っているのだと気づいて、ファウスリーゼは泣きたくなる。あの時に真木名を殺しておけばこんなふうにはならなかったのに、殺せなかった自分を呪った。
「今はもう少し、耐性ついた?」
真木名はそう揶揄《やゆ》するが、耐性などつくはずがなかった。それどころか、ますます酷くなる一方だ。
(どうして……)
絶望的にファウスリーゼは思った。
真木名に触られると理性が飛ぶ。躰から力が抜けて、抗えなくなる。だからファウスリーゼは疑っていた。
真木名はただの屍鬼ではないかもしれない、と。
(リリスを超える屍鬼……?)
そんなにものは千年、現れなかった。屍鬼は、リリスのしもべだ。如何《いか》に傲岸不遜《ごうがんふそん》な性格の屍鬼でも、ファウスリーゼの命令には本能的に逆らえない。リリスに見捨てられるということは、屍鬼にとっては死を意味する。
その力関係が覆《くつがえ》されることなど、あり得ないはずなのに。
ファウスリーゼの思考はそこで途切れた。
「たくさんしなきゃ慣れねーし。あきらめな」
「い、ゃっ……!」
敏感すぎる陰核《いんかく》の鞘を剥かれ、舌で転がされながら膣内を指でまさぐられて、ファウスリーゼの嬌声《きょうせい》が高くなる。きつい肉孔の中に潜りこんできた指は、内部からじっくりとファウスリーゼを浸食した。
「ひ、ゃ……拡が、っちゃ……ぅ……っ」
濡れていてもまだきつい小さな蜜口を、指が押し開く。無理矢理くつろげられた花弁の奥にまで、舌が差しこまれる。尖らされた舌先が、桃色の粘膜を掻き回す。
「あうぅ……っ!」
「中も感じるんだろ」
ファウスリーゼの中を探りながら、真木名が呟いた。その声は妙に醒《さ》めていて、ファウスリーゼの心をささくれ立たせる。
「も、もぅ、じゅうぶん、でしょう……!」
体液ならじゅうぶん与えた。ファウスリーゼは言外にそう責めたが、真木名にとってはまだ序盤だった。
「俺はじゅうぶんもらったけど」
真木名が顔をあげ、ファウスリーゼの上にのしかかる。
「あんたのほうがまだだろ?」
これからされることを予想して、ファウスリーゼは両手を突っ張らせ、少しでも真木名を突き放そうとした。太股の間に胴《どう》をねじこまれたため、足を閉じることはできない。
(どうして……)
どうして最初に、あんなことを許してしまったのだろう。ファウスリーゼは眩暈《めまい》がした。自分の、愚《おろ》かさに。
「う、ぁ……ッ……」
下肢《かし》が、密着する。
散々に暴かれた秘部に、熱い何かが宛われ、ヌルリと表面をこする。
ファウスリーゼは急に、今の自分の姿を思い出してたまらなくなった。胸と下半身だけを曝《さら》された姿態は酷く淫らだった。真木名のほうは、ズボンの前をくつろげただけでシャツは着たままだ。真木名はセックスの最中でも服を脱がないから、ファウスリーゼは真木名の裸《はだか》をまともに見たことがなかった。
リリスには、一般的な生殖《せいしょく》能力はない。生きた命を生み出すことはなく、ただ死者を蘇らせるだけの存在だ。
だからファウスリーゼは、自分の肉体にこんなことをする意味がないと思う。
「また余計なこと考えてるだろ」
ファウスリーゼの心を読んだかのように、真木名が囁き、唇を重ねようとする。ファウスリーゼは顔を背け、そのキスを拒《こば》んだ。真木名は決して激昂《げきこう》することはないが、報復は必ずする。
「ひぁうっ!」
柔らかな媚肉《びにく》が歪《ゆが》むほど強く、真木名のものが押しつけられた。愛液にまみれた紅い花弁の上を、太い肉杭《にくくい》が何度も行き来する。それが敏感な部分に当たるたびに、ファウスリーゼは躰を振らせる。
「入れて下さいって言ってみな」
ファウスリーゼの顎を掴んで、真木名が告げる。まるで自分こそがリリスの主であるかのように。
「俺にしがみついて、キスして、抱いて下さいって言えばもっと気持ちよくしてあげる」
息を乱しながらファウスリーゼは、精一杯の罵声《ばせい》を浴びせた。
「……………き、らぃ……」
その声は、罵声というにはあまりにもか細く、甘く掠《かす》れている。
「大、嫌い……っ!」
「ああ、そう」
最初から真木名は答えを予想していたのだろう。別段傷ついた様子もなく、下肢に手をやって自身の肉杭に手を添えた。
そのままぐっと、体重をかける。
「うぅあぁっ!」
押し殺した悲鳴が寝室に響いた。ファウスリーゼは、真木名の腕に爪を立てて衝撃に耐えていた。
何度されても、慣れることができない。
(あ、や、だ、だめ……っ!)
少しでも侵入を拒もうと力を入れるが、そうすると余計に酷く感じてしまうことにも気づいていた。なのに、やめられなかった。息を詰めてぎゅっと身を縮こまらせると、太い肉杭で串刺しにされている部分もキュッと収斂《しゅうれん》する。それは抵抗という意味ではまったく意味をなさない。
ファウスリーゼが知らなかったその部分は、さっきまでの愛撫《あいぶ》で濃い蜜を滴《したた》らせ、とろけている。その狭間《はざま》に、熱く脈打つ真木名の一部が押し入ってくる。拒むために締めつけていたはずなのに、今では逆に絡みついているような有様だ。
「ふぁ、ぁ……っ」
決してしがみついたりはしないものの、顔を赤らめて腰を揺するその仕草に、真木名は満足したようだった。
「やっぱり少しは」
「ひうぅっ!」
真木名が腰を進める。ほんの入り口にだけ含まされていた屹立《きつりつ》が、さらに深くまで侵入してくる。
「慣れてきた?」
「やぁっだ、めっ……そ、それ、無理……っ!」
百八十センチを超える長身の真木名に比べて、ファウスリーゼの体躯《たいく》は少女のままだ。ほんの入り口に含まされただけでも、蜜口は目一杯に拡げられている。真木名は半分ほど自身を埋めると、そこで侵入を止めた。
「今日は奥まで入れてみる?」
淫らな質問に、ファウスリーゼは激しく首を振った。真木名のすることなんて、何もかも拒みたかった。
真木名はファウスリーゼの手を取って指を舐めると、ファウスリーゼの下肢を軽く突き上げた。
「ひぁぅっ……ン……ぁ、ぅっ……!」
ぬちっ、くちっ、と断続的に粘膜がこすれあう濡れた音がする。躰の中から響いてくるその音が、ファウスリーゼの官能《かんのう》を刺激する。
(中で、動いて、る……)
ファウスリーゼはふるりと肩を震わせて、無意識に少しだけ力を抜いた。そうすると、躰が楽になる。つながっている箇所から響いてくる快感が増す。
最初からファウスリーゼは、酷く感じていた。けれど、リリスだから淫乱なのだと言われることには耐えられなかった。認めたくなかった。好きでそんなものになったわけではないのだ。
真木名の指が結合部分に伸ばされたのに気づいて、ファウスリーゼははっと顔をあげる。
「やぁっだめっ! さ、さわら、ないで……っ!」
(今、そこにさわられたら……!)
また初めての時のように、痴態《ちたい》を曝すことになる。そのことを予想してファウスリーゼは拒んだ。
その時、最悪のことが起きた。誰かが寝室のドアを、外側からノックした。
「ファウスリーゼ様?」
「…………!」
鳴瀬の声だ。ファウスリーゼは慌てて両手で口を塞ぎ、淫らな声と息を殺した。その瞬間に、真木名は小刻みにファウスリーゼを突き上げた。
「あンンッ……!」
両手で口を押さえたまま、ファウスリーゼは背筋を撓《しな》らせる。小刻みに出し入れされる陰茎にこすられた媚肉から、クチュクチュと音がした。
鳴瀬の心配そうな声が続く。
「どうかなさいましたか」
返事をしなければいけない。鳴瀬にはこんな無様な姿を知られたくない。そう願いながら唇を動かそうとした瞬間、真木名の指が結合部分をまさぐった。
「……んぅ、ンンッ……!」
無惨に押し拡げられた割れ目の上部を、指で弾かれる。そのまま固く凝った突起を揉《も》まれて、ファウスリーゼは達した。真木名のものを突き立てられている柔肉がきゅぅっと真木名を締めつけ、新しい蜜を大量に滴らせた。真木名のもので蓋《ふた》をされているため、新たな蜜はつながっている部分からじわりと滲《にじ》むだけだった。
声を堪えられたのが奇跡のようだった。
「な、なんでも、ない、わ……」
必死で平静を装《よそお》って、ファウスリーゼは返事した。
「こ、怖ぃ、夢、見た、だけ……っ……下がり、なさい……」
「……そうですか」
鳴瀬の声は、明らかな猜疑心《さいぎしん》を感じさせた。
「何かあったらお呼び下さい」
鳴瀬はファウスリーゼに忠実な屍鬼だった。真木名とは違う。ファウスリーゼの命令に逆らうようなことはしない。
「いなくなったな」
鳴瀬の気配が消えた途端、ファウスリーゼは真木名の頬を叩いた。その手首を掴んで引き寄せて、真木名は行為を再開させる。
「じゃ、好きなだけ泣きわめきな」
「ふあぁっ……!」
ねじこまれていたものが、ファウスリーゼの膣孔《ちつこう》からぬるりと引き抜かれる。さっき達したせいで新たに滲んだ蜜が、蓋を失って一気に溢れ出す。それらはすべて、真木名の淫行を助けた。
「や、め……や、ら、めえぇぇっ!」
達したばかりの蜜壺《みつつぼ》をぐじゅぐじゅと掻き回されながら快楽の芯《しん》を親指で転がされ、ファウスリーゼは今度は声をこらえられない。一度達しただけでは、ファウスリーゼの躰は治まらない。ファウスリーゼ自身の意思など無視して、躰は快楽を欲しがってしまう。
「あぅっンッあうぅっ!」
「どういう感じがする?」
「ひ、ンぅっ!」
胸の突起までつままれて、ファウスリーゼはまた乱れた。銀の髪がさらさらと生き物のようにシーツの上でうねる。
「言ってみろよ、お姫様」
「い、やっ……!」
答えないファウスリーゼの代わりに、真木名が言う。
「中で絡みついて、ヒクヒクしてる」
「ちが、ぁ、やぁっ!」
「もっと奥まで入れてって、誘ってる」
「だめっぇっ……! 奥、だ、めっ……!」
際限なく乱れながらも拒むファウスリーゼの髪を、真木名の指が撫でる。
「でもあんたは、認めないんだよな」
「ひっ……」
散々出し入れされた硬い肉杭が、ファウスリーゼの中で動きを止める。ドクンと、熱く脈打つのを感じる。
「きゃうぅっ……!」
体内に放たれたものは、ファウスリーゼにとっては酷く熱く感じられた。流れこんでくる精液《せいえき》を味わうように、ファウスリーゼはうっとりと目を閉じ、しどけなく足を開いたまま全身を震わせた。
屍鬼の精液は、リリスの精気になる。体中を満たされて、それでもファウスリーゼの心は否定する。
(違う……のに……)
「いいんじゃねえ? 別に」
ようやく凌辱《りょうじょく》を終えると、真木名は言った。
「どうせ俺しか見てないし」
ファウスリーゼは顔を逸《そ》らした。本当なら、真木名にだってこんな姿は見せたくなかった、と。
「俺以外の男は、一生あんたの躰にはありつけないんだし?」
そう言う時の真木名の口調には、隠しきれない優越感が滲んでいる。絶頂の余韻《よいん》に震えているファウスリーゼの耳元に、真木名は淫靡《いんび》に囁いた。
「この程度でいやらしいって思ってる?」
当たり前だと反駁《はんばく》したくても、力が抜けて声が出ない。
「もっと、いくらでもいやらしくできるけど」
「や……、ん……っ」
ファウスリーゼの中から溢れ出してくる白濁《はくだく》を、真木名は指で掬《すく》ってぬるりと掻き混ぜた。リリスと屍鬼の混じり合った淫液は、見た目は普通の人間のそれとなんら変わらなかった。
「いきなり全部やったらもったいねえし」
これ以上何をする気なのかと怯えるファウスリーゼにキスをして、真木名は寝室から去った。キスは煙草の味がした。
こんなのは知らないと、ファウスリーゼは否定し続けた。
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第二章 リリスの骨
翌朝。屍鬼《しき》であるにも拘《かかわ》らず、波留《はる》は早朝に目が覚めた。
「お〜いい天気」
客間の窓を全開にして、緑の匂《にお》いがする空気を波留は胸いっぱいに吸いこむ。花の香りと小鳥の声が、素晴らしい朝を演出する。
昨夜の出来事が嘘《うそ》のような、明るい日差しだった。
(っていうかほんとに全部、夢だった気がしてきた)
変な化け物に襲われたこととか、真木名がそれを銃《じゅう》で撃ったこととか、ファウスリーゼの話とか。
一連の事件を思い出しても、どうにも波留にはまだリアリティが感じられない。
(怪我《けが》も治っちゃってるしなあ)
波留は昨日、化け物に切られたはずの頬《ほお》を撫《な》でた。せめてあの傷が残っていればまだ少しは信じていられたのにと、妙に惜しいような気持ちになる。
(傷がすぐ治るのも、もしかして屍鬼の能力ってやつ?)
部屋に備え付けのパウダールームで洗面を済ませ、身支度を整えてファウスリーゼからの呼び出しを待つ。身支度とはいっても、借りているバスローブから制服に着替えただけだ。いきなりここに運びこまれた波留は、もちろん自前の着替えなど持っていない。
昨夜と同じように内線電話が鳴った。
波留は、待ちかねていたかのように受話器を取る。
「ファス?」
『俺で悪かったな』
「あ、真木名《まきな》さんですか」
受話器の向こうからしたのは、ファウスリーゼではなく、真木名の声だった。正直波留はがっかりしたが、もちろん口には出さない。
『朝飯食うなら食堂に来いってよ』
それだけ言うと、真木名は電話を切った。
昨日は鳴瀬《なるせ》が迎えに来てくれたが、今朝はもう道順を覚えている。波留は小走りに食堂へ向かった。
角を曲がる時、波留は誰かにぶつかりそうになって急停止した。
「わっ」
「廊下《ろうか》は走らないように」
「あ、鳴瀬さん、おはようございます」
しっかりとスーツを着こんだ繻宇司《しゅうじ》鳴瀬が、波留の前に立ちはだかっていた。ファウスリーゼが『鳴瀬』と呼ぶせいで、波留もつられてそう呼んでいた。本当だったら『繻宇司さん』と呼ぶべきかもしれないとは思うが、今さら直すのも不自然な気がした。
(そういえば、繻宇司さんてやっぱりあの繻宇司家の人なのかな)
繻宇司鳴瀬が、繻司《しゅじ》市の名士で中央政界にも進出している繻宇司一族の関係者であるのはきっと間違いないだろうと波留は思う。繻宇司という苗字《みょうじ》は珍《めずら》しい。
ダイニングルームへ向かう道すがら、波留は鳴瀬に聞いてみた。
「あの、この屋敷って繻宇司さんちですか? それともファスの?」
質問してくる波留を、鳴瀬は歩きながら一瞥《いちべつ》した。その視線の冷たさに、波留は一瞬、どきりとする。
(もしかして、何かまずいこと聞いた?)
波留はそう懸念《けねん》したが、まずかったのは質問の内容そのものではなかった。鳴瀬はすぐに前を向き、波留に命じた。
「ファスではなく、ファウスリーゼ様と呼びなさい」
「え、でも、本人がそう呼んでいいって」
空気を読まずに波留が反論すると、鳴瀬はそれ以上怒るでもなく無言で先に進んだ。食事の支度《したく》は鳴瀬がしているようだから、厨房《ちゅうぼう》へ向かったのだろう。ダイニングルームには、結局波留は一人で行った。
(真木名さんが言ってたことって、ほんとにほんとなんだなあ)
いじめられるぞ、と真木名のほうは軽く言っていたが、ファウスリーゼは深刻そうだった。
屍鬼は、ある一点に於《お》いてのみ理性を失う。自分の創造主であるリリスの虜《とりこ》になってしまう。だから屍鬼同士の関係は決して良好にはなり得ないのだと、ファウスリーゼは気に病んでいた。
一見して普通以上に理知的に見える鳴瀬も、例外にはなり得なかったということだろう。
(真木名さんよりは真面目そうだし、なんか気苦労が多そうだ)
勝手な想像をしつつ席に着くと、少し遅れてファウスリーゼと真木名がやって来た。二人が揃って現れたことに、波留はなんとなくムッとした。ムッとした直後に、なるほど、これが嫉妬《しっと》という感情かと妙に冷静に納得した。
波留は、席に着いた真木名の頬《ほお》に引っ掻《か》き傷を見つけて「あれ」と呟《つぶや》き顔を近づけた。
(屍鬼の傷って、わりとすぐ治るんじゃないのかな)
ファウスリーゼの言葉を信じるならば、屍鬼は限りなく不死に近い怪物だ。実際、波留の傷はすぐに治った。なのにどうして真木名の傷は治らないのかが不思議だったのだ。
「その傷は?」
「ああ」
真木名は、自分の頬を指さして笑った。
「ファスにやられた」
真横でファウスリーゼは否定も肯定もせず、横を向いている。なんとなく、ものすごく『嫌な感じ』がしたけれど、波留はその可能性を無理矢理にでも否定した。単純に、また喧嘩《けんか》をしたのだろうと信じたかった。
本当に知りたいことの代わりに波留は、他の質問をしてみた。
「あの、でも、屍鬼の傷ってわりとすぐ治るんじゃないんですか? 俺はすぐに治っちゃいましたけど」
「女にやられた傷っていうのは、人に見せびらかすもんだろ」
なるほど、と波留は妙に納得した。たとえそれがファウスリーゼの怒りを買ったことによる傷だとしても、それだけファウスリーゼに構われるのは波留にとってはうらやましい。ここにはいない鳴瀬や、他の屍鬼にとっても同様だろう。
自慢するためにわざと残したのかと、波留はますます不機嫌になったが顔には出さない。この中では一番年少のはずなのに、波留は一番理性的だった。
◆◇◆
食事を終えると、ファウスリーゼは一旦《いったん》自室へと下がった。真木名と鳴瀬も、各々《おのおの》用があるのか、足早にいなくなる。ダイニングルームに一人残された波留は、さて今日はどうしようかと思案した。
(俺が行方不明になって、三日目になるんだよな)
伯父夫婦はそろそろ捜索願《そうさくねがい》を出しただろうか。ただの家出だと思われているだろうか。どちらにせよこのままずっとここに引きこもっているわけにはいかない。
(一度家に戻って、それから……)
それから、どうしよう? と波留が考えていたその時、窓の外から車の音が聞こえた。
(誰か来た?)
波留は窓辺に駆け寄り、車の位置を確かめた。窓からは、鬱蒼《うっそう》とした山道をまっすぐに続く一車線の道路が見える。ろくに舗装《ほそう》もされていない、狭い砂利道《じゃりみち》だ。もしも車がこの道を通ってきたらすぐにわかる。
どうやら車は外から来たのではなく、屋敷の敷地内から出されたもののようだった。
(おおーすごい、ロールスロイスだ)
波留は窓から身を乗り出した。こんな田舎では滅多に見られない高級車だ。
運転席でハンドルを握るのは、鳴瀬だった。どうやら車を取りに出ていたらしい。
その車に向かって歩いて行くファウスリーゼの服装を見て、波留は「えっ!?」と声をあげた。
「ファス!」
波留の声に、ファウスリーゼが振り返る。玄関に回るのももどかしくて、波留は窓から飛び降りた。
「なんでうちの学校の制服着てんの!?」
「学校に行くから」
ファウスリーゼは淡々《たんたん》と答えるが、波留が聞きたいのはそんなことではない。
「まさかファス、うちの学校に転校するの?」
波留が驚いたのは、ファウスリーゼが繻司《しゅじ》高校《こうこう》の制服を着ていたせいだ。彼女がもともと繻司高校の生徒でないことは、波留には確信をもって言える。田舎の高校にこんな目立つ美少女がいたら、話題にならないはずがない。
波留の通う私立繻司高校は、県内でも中の上程度の、これといった特徴もない退屈極まりない学校だ。海外からの留学生もいない。もしも本当にファウスリーゼが転校してきたら大騒ぎになるだろうと、波留は考えるだけで胸が高鳴った。
車に乗りこもうとするファウスリーゼを、波留は慌てて呼び止める。
「学校に行くんなら俺もついて行くよ! ちょうど制服着てるからこのまま行け痛ぁっ!?」
一気に捲《まく》し立てる波留の頭を、誰かが後ろから鷲掴《わしづか》みにした。誰かも何も、この屋敷には自分とファウスリーゼ、それに鳴瀬の他には、あと一人しかいない。その誰でもないとしたら、昨夜襲ってきたような怪物だろう。
怪物にも劣《おと》らない握力《あくりょく》で、真木名は波留の頭を片手で締め上げた。
「てめーは引きこもってろよ、引きこもりが似合う容姿だし」
「にっ似合いませんよ、そんなの!」
「真木名、やめなさい」
ファウスリーゼが言うと、真木名はぱっと手を離す。波留はその場に尻餅《しりもち》をついた。
(なんなんだ、この怪力……!)
掴まれた頭を撫でながら、波留は真木名を見上げる。真木名のこの力は、屍鬼だからなのか。屍鬼になったら超人的な力が手に入るのなら、自分だってもっと強くなっていてもいいはずなのにと波留は内心、悔《くや》しがった。
それはそうと、と波留は改めて真木名を見て、また嫌な予感がした。
「真木名さん、なんで、スーツ……?」
今朝までのラフな服装とは打って変わって、真木名はスーツを着ていた。西洋人モデルのような体型だからスーツもよく似合うが、鳴瀬がエリート然として見えるのとは対照的に、こちらは同じエリートでもエリートヤクザにしか見えない。
まさか、と顔を引きつらせる波留に、真木名はひらひらと一枚の紙を見せつけた。
「きょーいんめんきょ。あと、こいつのコネ。なー理事長」
理事長、と呼ばれたのは鳴瀬だった。学校に限らず、この街にあるもののほとんどは繻宇司家のものだ。本人の口からは確証を得られなかったが、鳴瀬があの繻宇司家の関係者であることはこれで明らかになった。
「きょ、きょーいんめんきょ……?」
地べたに座ったまま、波留は復唱する。ああ教員免許ね、と漢字に変換してすぐに「胡散臭《うさんくさ》い」と思った。
鳴瀬ならともかく、真木名が教師というのは如何《いか》にも嘘くさい。
(少年院の教官とかなら、似合うかもしれないけど)
また頭を掴まれたら嫌なので波留はそれも言わずにおいた。
車に乗りこもうとする三人に、波留は尚《なお》も食い下がる。
「待ってよ! 俺も行くってば!」
ファウスリーゼの予言した通り、波留はファウスリーゼから離れることに苦痛を感じた。二十四時間独占することが無理でも、少しでもそばにいたかった。
もしもファウスリーゼがこの屋敷にいてもいいと言ってくれたら、波留はもう家には帰らないつもりだった。が、そのファウスリーゼが学校に行くと言うのなら、話は別だ。自分もそれについて行きたい。
ファウスリーゼは最初、あまり歓迎していないような顔をしていたが、意外にも助け船を出したのは真木名だった。
「もともと繻司高校の生徒なら、案内くらいできるだろ。連れてけば?」
「え!?」
さっきは引きこもりが似合うとか酷《ひど》いことを言ったくせに、この豹変《ひょうへん》ぶりはなんなんだと波留は目を剥《む》く。鳴瀬が、会話に割って入る。
「しかし、彼は」
「ある程度は話してあります」
ファウスリーゼがそう言うと、鳴瀬は黙って頷《うなず》いた。主である彼女がいいと言うのなら、異存はないのだろう。
改めて真木名が確認する。
「全部話していいのか?」
「いいわ」
ファウスリーゼが頷くと、真木名が波留に説明を始めた。
「ファスの目的については、聞いてるな?」
「はい。屍鬼を、人間に戻したいって」
「そ。んで、その方法っていうのが」
真木名は携帯電話のディスプレイを波留に見せた。液晶には、学校の地図が映っている。
「リリスの骨を見つけるってこと。そのために学校に行くんだよ」
「リリスの骨?」
真木名の説明に、波留はきょとんと目を瞬《またた》かせる。
(リリスっていうのは、ファウスリーゼのことだよね? あ、でも他にもリリスはいるって言ってたから、他のリリスのことか)
そうでなければ辻褄《つじつま》が合わない。じっと聞き入る波留に、鳴瀬が話を引き継いで教えた。
「リリスの骨は、万病に効くとか不老不死の肉体を得られるなどと言われています。ならば屍鬼を元に戻すこともできるのではないかというのが、ファウスリーゼ様のお考えです」
「わたしの骨を提供できればいいんでしょうけれど、わたしが死んだ瞬間にあなたたちも灰になる。それは無意味だから、できない」
「無意味っていうか、だめだよ、絶対!」
ファウスリーゼか死ぬなんて絶対だめだと、波留は大仰にかぶりを振った。
説明を終えると、真木名が波留を急《せ》かした。
「来るなら早く車に乗れ。遅刻するだろ」
「は、はいっ。いいよね? ファス?」
捨てられそうになっている子犬のような目で、波留はファウスリーゼに許可を求めた。
最初は難色《なんしょく》を示したものの、ファウスリーゼは結局折れた。『ナイトウ』という名のこの子供に、ファウスリーゼは少しだけ甘かった。
「わかったわ。でも、屍鬼やわたしのことは絶対に内緒にね。でないとここにいられなくなる」
「うん!」
波留は元気よく答えた。
舗装されていない一車線の道を抜け、市街地に出る。車を走らせて十分ほどで、私立繻司高校に着く。鳴瀬は車を、体育館の隣の駐車場に停め、後部座席のドアを開けた。
見慣れない高級車の到着に、生徒たちが落ち着きをなくしている。校門を通り過ぎた辺りから少しずつ見物客が増え続け、遠巻きに車を見守り始める。
車からファウスリーゼが降り立った瞬間、人垣からざわめきが漏れた。
「誰? 転校生?」
そんな声が聞こえる中、波留が車を降りるのには多大な勇気がいった。
(うわあああファスの後って降りにくい……!)
しかし、ファウスリーゼについて行きたいと言ったのは自分だ。腹を括《くく》って、波留も車から降りる。降りた途端に、同じクラスの友達から声が飛ぶ。
「内藤!? おまえ何やってんのつーか学校休んでどこ行ってたの!?」
「あ〜……あとで説明する」
波留は恥ずかしそうに俯《うつむ》いて答えた。小学校・中学校・高校すべて通して、こんなにも人から注目されたのは波留には初めてだ。それに比してファウスリーゼのほうは、注目されることに慣れているのか悠然《ゆうぜん》としている。
運転席から鳴瀬が、後部座席の反対側のドアから真木名も降りる。
「波留、来なさい」
「は、はいっ」
ファウスリーゼに促《うなが》されて、波留は慌《あわ》ててその後を追った。今の自分とファウスリーゼの姿は、どう見てもお嬢様と下僕だよなーとちょっと悲しくなった。
(真木名さんはボディガードで、鳴瀬さんは保護者って感じか)
言うまでもなく、下僕が一番地位が低そうで波留はせめて身長が欲しいと思った。ファウスリーゼが華奢《きゃしゃ》なお陰で自分のチビが目立たないが、それも、百八十センチをゆうに超えている真木名と鳴瀬のせいで台無しだ。
学校側は、あらかじめ連絡を受けていたのだろう。校長が出迎えに駐車場までやって来る。
「繻宇司理事長、お待ちしておりました」
校長は鳴瀬と一言、二言挨拶を交わして、校長室のほうへいざなった。自分の息子のような年齢の鳴瀬にぺこぺこする校長の姿は、波留の目には痛快に映った。
途中までついてきた波留に気づいて、校長が叱責《しっせき》する。
「なんだ、おまえは」
「え、えーと」
どう説明しようかと、波留は視線で真木名と鳴瀬、それにファウスリーゼに助けを求める。が、しかし。
「内藤! おまえ三日も無断欠席して何やってた!」
「ひっ」
担任教師が、波留の帰還を聞きつけて校長室の前まで飛んできた。いきなり首根っこを掴まれて、波留はばたばたと四肢を暴れさせる。
「い、今説明を……あ、ちょっと、鳴瀬さん、真木名さん!?」
せめて二人の口から助け船を出して欲しかったのに、二人はさっさと校長室に消えた。
ファウスリーゼは一瞬だけ振り向いたが、鳴瀬に背中を押されて急かされ、連れて行かれてしまう。真木名は意地悪そうに笑ってひらりと手を振った。彼だけは最初から波留を見捨てる気満々だったのだろう。
(酷い)
波留は生活指導室に連れこまれ、たっぷりと油を絞《しぼ》られた。もちろん、伯父夫婦にも連絡がいった。
担任教師と、生徒指導室に駆けつけた伯父夫婦になんとか説明をして、波留は昼休みの前にやっと教室に戻された。が、ここでも休む暇《ひま》は与えられず、教室に入るなりクラスメイトたちに囲まれた。
「内藤、どこ行ってたんだ!?」
「あの子、知り合いか!? 紹介しろよ!」
「あ〜うん……」
一体どこから説明したらいいものかと、波留は頭を抱える。
「えーと俺、三日前に繻司山に入って、そこで頭打って意識なくして、繻宇司さんちで助けてもらったんだ」
「三日も? 救急車とか呼ばれなかったのか?」
波留と一番仲がいい古田《ふるた》智宏《ともひろ》が、怪訝《けげん》そうに聞き返す。その質問は予想していたから、波留は鳴瀬たちと車の中で打ち合わせをしておいた。
「俺が繻宇司さんに発見されたのは、今朝早くなんだ。どうも山の中で三日間、気を失ってたみたいで」
「三日も山の中で寝て、無事でいられるか? 昨日も一昨日も夜は結構冷えこんだぞ」
「自分でも不思議なんだけどな」
あとはもう笑って誤魔化《ごまか》すしかない。家出ではないということは、地元の名士でこの学校の持ち主でもある鳴瀬が説明してくれるはずだから、なんとか丸めこめるだろう。
幸か不幸か、波留に対する質問攻めはあっさりと終わった。生徒たちの関心は、教室の一番後ろの席で頬杖《ほおづえ》をついて外を見ている少女に集中していた。
「それで、あの子、ファウスリーゼちゃんだっけ? なんかすげー貴族みたいな名前の」
クラス中の男子に寄ってこられ、やっぱり来たか、と波留は身構えた。
「知り合いだろ? ちょっと声かけて、こっち来てもらえよ」
「自分で言えばいいじゃん」
仲立ちなんかしてやる義理はないと、波留は横を向く。すると並み居る男子たちは、一斉に顔を見合わせた。
「いや、だって、なあ」
「近寄りがたいじゃん」
(まあそーだろうね)
波留はふふんと誇らしげに笑った。ファスは、そのへんの女の子とは違う。特別なのだと。
男子が手をこまねいている間に、ファウスリーゼに声をかける者があった。クラス委員の初瀬《はつせ》紀香《のりか》だ。人懐っこい紀香は、同性の気安さもあって簡単にファウスリーゼに近づいてきた。
ファウスリーゼの机に身を乗り出して、紀香は尋ねた。
「ザワークシュタインさん、どこから来たの?」
「ドイツから」
ファウスリーゼが短く答える。教室に入ってきて、担任教師に紹介された時からずっとファウスリーゼは無表情のままだ。凄味《すごみ》さえある美貌《びぼう》の少女が無口、無表情だと、近寄り難《がた》いことこの上ない。しかし、紀香はそういう見えない壁を乗り越えるのを得意としていた。
「ずっとドイツにいたの?」
「いいえ。一年前から日本で暮らしてる」
「あのさー」
さらにぐっと身を乗り出して、紀香が声を潜《ひそ》める。
「理事長と、どーゆー関係?」
紀香がそう質問した途端、教室の中が水を打ったように静まりかえった。畢竟《ひっきょう》、男子も女子もそれが聞きたかったのだ。繻宇司鳴瀬に憧《あこが》れる女は、ファウスリーゼの姿を見て胸を高鳴らせたクラス中の男子の数より多い。
繻司高校の理事長は、鳴瀬の他にも三人いる。そのせいかファウスリーゼは、一瞬だけ不思議そうに金色の瞳を揺らめかせた。
「理事長? 鳴瀬のこと?」
「よ、呼び捨てか、理事長を……!」
クラスの誰かが、思わず叫んだ。それを聞きつけたファウスリーゼが、軽く小首を傾げる。
「いけないこと?」
その仕草と台詞《せりふ》はそこはかとなく官能的で、思春期の少年少女には刺激が強すぎた。十五歳にしては少し幼くも見える美少女が、若き理事長の車で送られてきて、しかも理事長を呼び捨てにする、というのは、田舎でなくてもあまりない。
紀香はあわあわと首を振りながら、少し離れた場所で見守っていた友達に奇妙な同意を求めた。
「い、いけな、なぃ、くも、なぃ……?」
「さ、さあ……」
全員の顔が紅《あか》かった。それを見たファウスリーゼが、くす、と小さく、初めて笑った。その微笑《ほほえ》みが、近くにいた生徒たちの緊張を解《と》きほぐした。
紀香が、もはや声を潜めることもせずに堂々と聞いた。
「で、どうなの理事長とは、つきあってるの?」
ファウスリーゼは念のため確認した。
「恋人かどうか、という意味よね?」
「う、うん、そう」
その直截な言い方に、初瀬紀香のほうが少し照れる。いくら日本語が流暢《りゅうちょう》でも、言葉の選び方はやはり外国人のそれだと紀香は思った。ファウスリーゼはあらかじめて決めておいた嘘《うそ》をついた。
「だったら違うわ。鳴瀬は、父の知り合い。こちらにいる間、後見人になってもらっているだけ」
「そうなんだ」
ファウスリーゼを囲む少年少女の一部から、ほっと安堵のため息が漏れる。
今度は紀香ではなく、別の女子が聞く。
「じゃあ、ちょっと目つき悪いほうのイケメンは? お兄さんとかじゃないよね? どうしていっしょに学校に来たの?」
「真木名ね」
目つきが悪い、という表現に、ファウスリーゼは即座に同意し反応した。ああうん、目つきは確かに悪いよね、美形だけど悪人顔だよねと、波留も遠巻きからこっそり相槌《あいづち》を打った。
「真木名は、古典文学の先生になるって言ってたけど」
「え! 古典なんだ!」
離れた席から、波留が驚きに叫ぶ。さっき駐車場で真木名の姿を見ていた古田智宏が、実感をこめて呟《つぶや》く。
「似合わねー……」
男子の反応は頗《すこぶ》る鈍かったが、女子たちの反応は良好だった。滅多に現れない理事長の他にも、もう一人非日常的な美形が来れば、話題には事欠かない。
「いつ!? いつから赴任するって!?」
「多分近いうち、紹介されると思うけど」
皆の勢いに、ファウスリーゼは少し押され気味に答えた。矢継ぎ早に質問を浴びせるのは女の子ばかりで、男子はおおむね不甲斐《ふがい》なくそれを見ているだけだった。本当は自分たちも質問したいのだが、女子の勢いに押されて入りこめないのだ。
誰かが、万感の思いをこめて言った。
「いいなー女子は。俺も女子になりてえ」
「女子になったらちんこないじゃん。無意味じゃんそれ」
「あーそうか」
どうして自分たちはこんなにバカなのだろうかと、波留は少し目頭が熱くなった。少なくとも、鳴瀬と真木名は絶対にしない会話だろう、と。
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第三章 薔薇の独占欲
千年の間に、ファウスリーゼは学校に通った経験が何度かある。しかしそれは数百年も前のことだし、日本の学校ではなかった。
ファウスリーゼにとって普通の高校というのは、目に映るものすべてが珍《めずら》しく見えて、飽きなかった。千年生きても、同じくらいの年の子たちの間に入れるのはうれしい。ファウスリーゼが本当に十五歳だった頃は、学校というもの自体がなかった。
ファウスリーゼには、友達という存在がいない。千年の彷徨《ほうこう》の間、心を通わせた人間もいなくはなかったが、皆、先に死んだ。不老不死のリリスにとって、人間の寿命はあまりにも儚《はかな》すぎた。
先に死なれるくらいなら、心を通わせないほうがいいと。
いつしかファウスリーゼは心を閉ざした。
自分と同じく不老不死となった屍鬼《しき》以外を、そばに置かなくなった。
この学校の生徒たちは皆、人懐《ひとなつ》こくて、何度もファウスリーゼを遊びや部活動に誘ってくれた。そのことはうれしかったが、ファウスリーゼは病弱と家庭の事情を建前にして、すべて断った。誰にも心を開かないファウスリーゼは、自然と孤立していく。それでいいと、彼女は思った。
ファウスリーゼにとって、真昼の光は毒《どく》だ。浴び続ければ、少しずつだが躰《からだ》は弱っていく。夜のほうが、屍鬼を統《す》べるリリスの力は圧倒的に発揮できる。病弱を理由に、昼間外へ出ないのは合理的だった。
放課後に誰もいない図書室の窓から校庭を眺めるのが、ファウスリーゼは好きだった。校庭では、日によってサッカーや野球をしている生徒たちの姿が見られる。
(あの子たちも)
活き活きと動き回る人の群れが、ファウスリーゼの心を切なくさせる。
(皆、先に死んでしまう)
金色の目を細めて、ファウスリーゼは飽くことなく彼らを眺《なが》めた。背後から近づいてくる者が誰なのかは、振り返らずとも気配でわかった。
彼は、真木名と違ってファウスリーゼに対して気配を消したりはしない。そんな無礼なことをするのは真木名だけだ。
「ファウスリーゼ様」
「学校では呼び捨てにしなさい。不自然でしょう」
視線は外に定めたまま、ファウスリーゼは答えた。制服に包まれた細い肩に、そっと手が置かれる。
「今は私しかいません」
ファウスリーゼの背後に立って、鳴瀬《なるせ》が答える。ファウスリーゼは、肩に置かれた手をそっと下ろさせ、鳴瀬と向かい合った。
「報告を」
なるべく感情をこめずに、ファウスリーゼは命じる。鳴瀬は、この学校の理事という地位を利用して、リリスの骨を探す努力をしてくれている。ファウスリーゼはその経過について尋ねたつもりだった。
しかし鳴瀬は、質問に対して質問で返した。
「真木名《まきな》は」
平素は無感情に近いほど冷静な鳴瀬が、その名を口にする時だけは少しだけ激情を滲《にじ》ませることにファウスリーゼは気づいている。気づいていても、気づかないふりをするしかない。
「役に立っておりますか」
「それなりにね」
目を伏せて、ファウスリーゼは答えた。ファウスリーゼの護衛として側近に配された真木名は、屍鬼としての魔力《まりょく》に頼らず、専《もっぱ》ら銃《じゅう》や刃物で戦うことをよしとする不思議な男だった。
人間の叡智《えいち》や膂力《りょりょく》のみで異形を倒した『英雄』は過去に存在はするが、屍鬼でありながら魔力を使わない真木名はやはり特殊だ。理由を聞けば、「あの程度なら素手でもいける」とのことだった。元は傭兵《ようへい》だったという過去が、真木名をそうさせているのかもしれなかった。
真木名のことを思い返すファウスリーゼに、改めて鳴瀬が呼びかける。
「ファウスリーゼ様」
その声は低く澄《す》んでいて折り目正しい。真木名のように、勝手に略して呼び捨てにしたりは決してしない。彼は、忠実な下僕だ。
「私は、理性を保っているつもりです」
ファウスリーゼは黙って聞いた。平素は決して出しゃばらない鳴瀬が言うのなら、最後まで聞こうと。
「しかし、真木名の振る舞いには我慢《がまん》がなりません」
まさか、鳴瀬は『あのこと』に気づいているのかとファウスリーゼは内心|焦燥《しょうそう》を感じた。
屍鬼は、ある一点に於《お》いてのみ理性をなくす。創造者たるリリスの寵愛《ちょうあい》を奪い合う時だ。
数百年前の悪夢が、ファウスリーゼの脳裏に蘇《よみがえ》る。
きっかけは、些細《ささい》なことだった。屍鬼の一人に、ファウスリーゼは薔薇《ばら》を一輪、与えた。その行動に、深い意味はなかった。新しい薔薇が咲いた時、たまたまそばにいたのがその屍鬼だっただけだ。
しかし、それはやがて、屍鬼同士の殺し合いへと発展した。命の源《みなもと》であるリリスからの寵愛を失うことは、屍鬼には死を意味する。その恐怖に、抗《あらが》える者はいなかった。
ファウスリーゼが知る限り、この千年の間に例外は発生していない。
鳴瀬は冷静すぎるほど冷静な男だ。もしも屍鬼にならなければ、過《あやま》ちを犯すこともないはずだ。そう思うと、ファウスリーゼは罪悪感で胸がつぶれそうになる。
ファウスリーゼは一切の感情を殺し、毅然《きぜん》と顔をあげ宣告した。
「誰も、愛しません」
まるで、自分に言い聞かせる呪文《じゅもん》のように。
「わたしはリリスで、あなたたちは屍鬼。それ以上の感情は、誰にも抱いていない」
鳴瀬の眸《ひとみ》に、疑問が浮かぶ。ファウスリーゼはそれを責めた。
「わたしの言うことが信じられないの?」
「……いいえ」
鳴瀬は静かにかぶりを振った。
「出過ぎたことを申し上げました。お許しを」
ファウスリーゼの前に跪《ひざまず》いて、鳴瀬は彼女の手に口づけた。ファウスリーゼは黙ってその忠誠を受け容れる。
「そろそろ本題に入りなさい。リリスの骨は見つかった?」
「恐らくは、ここに」
と、鳴瀬はメモ帳に書き出した地図を見せた。学校の見取り図だ。体育館に当たる場所に、×印がつけてある。
「体育館?」
「この土地には、天女が来迎《らいこう》したという伝承《でんしょう》があります。それを祀《まつ》った祠《ほこら》もあったのですが、現在は」
「地下なのね?」
そういうことはよくあったから、ファウスリーゼにはすぐに予測できた。リリスは各地で、その国に見合った名称で呼ばれている。数百年前にここへ流れ着いたリリスは、天女と呼ばれたのだろう。不老不死のリリスがどうやって死んだのかはわからないが、歴史や伝承にはリリスと思しき存在が散見された。
この土地の所有者、先代の繻宇司氏はそれほど信心深くはなかったようで、祠は体育館建設に際して埋《う》められていた。幸いだったのは、今現在の持ち主が目の前の鳴瀬だということだ。
鳴瀬はすでに、リリスの骨を発掘する手筈を整えていた。
「耐震構造《たいしんこうぞう》に問題があるとして、急遽《きゅうきょ》建て替えさせることにしました。それならば怪しまれずに地下を掘り起こせる」
「任せます」
ファウスリーゼは頷いた。鳴瀬に任せておけば、何も心配はない。本来ならば、ファウスリーゼが自らこの地へ赴《おもむ》く必要はなかった。
ファウスリーゼの目的は、もう一つあった。再び視線を窓の外に向ける。
(この街には、もう一人リリスがいるはず)
未だかつて一度も相見《あいまみ》えたことのない、自分以外のリリス。ファウスリーゼはそれを探していた。リリスがもう一体、否、一体かどうかは不明だが、存在することは確かだ。それは、ファウスリーゼを襲ってきた屍鬼たちが証明している。
(どうしてわたしを狙うの?)
ファウスリーゼにはそれが不思議だった。もしも他のリリスや屍鬼を見つけたとしても、ファウスリーゼならば攻撃はしない。しなければいけない理由がないからだ。
しかし、一つだけ心当たりがないでもない。
『リリスの骨』だ。
(リリスの骨が欲しくてわたしを狙《ねら》うのなら、理由はわかる)
リリスの骨は、不老不死さえ叶える万能の妙薬と言われている。すでに歴史上の遺物とされている骨を探すよりは、今生きていて所在の知れているリリスを殺して骨を手に入れるほうが手っ取り早くはあるだろう。
ファウスリーゼへの攻撃が激化したのは、ここ数十年のことだった。千年を生きる彼女にとってはつい最近の出来事とも言える。その中でも、もっとも激しい戦闘は、二十年前にこの街で起こった。街の半分以上を焼き尽くすほどの激闘だった。
それでもなんとか生き延びてこられたのは、ファウスリーゼの屍鬼たちが強靱《きょうじん》だったお陰だ。
身を隠すのには慣れているが、逃げの一手しか打てない生活には、ファウスリーゼも業を煮《に》やしつつある。
(外に出れば、必ずまたわたしを狙ってくるはず)
ファウスリーゼはそう踏んだからこそ、因縁《いんねん》のこの地に降り立った。いつまでも屋敷に引きこもり、屍鬼たちに守られているばかりでは埒《らち》があかない。町の中で襲われて、無関係な人間たちに被害が及ぶことにももう耐えられなかった。二十年前のような惨事《さんじ》は、二度と引き起こしたくないのだ。
リリスの骨の探索《たんさく》は鳴瀬に、他のリリスの捜索《そうさく》のほうは真木名に任せてある。リリスの骨については波留《はる》に教えたが、『もう一人のリリス』がこの街にいる可能性については教えていない。
(あの子は、なるべく巻きこみたくない)
不思議なことに、波留には屍鬼としての異能がまったく発現していない。屍鬼の力は、ヒトを超える。ファウスリーゼの造り出した屍鬼の中で、異能が一切現れなかったのは波留が初めてだ。
それゆえにファウスリーゼは、波留を戦いから遠ざけておきたかった。あの子供が戦力になるとは思われ難い。
(学校なら、不特定多数の人が出入りするから狙いやすいはずよね)
ファウスリーゼの管轄《かんかつ》下にない異貌《いぼう》の屍鬼が、この学校に出入りしているのを鳴瀬が以前、発見していた。その時は辛《から》くも逃げられたが、まだ校内に留まっている可能性はある。ファウスリーゼが、鳴瀬の反対を押し切ってまでして繻司高校に転入したのは、ただ敵を待つことに倦《う》んだからだ。
リリスは女であるはずだから、もしもファウスリーゼに近づくために『なりすます』のならば、生徒か教師、どちらかである可能性が高い。
(女性の教職員は、全部で二十九人。教師であるとは限らないけれど、この中から少しでも候補が絞れれば……)
真木名を教師として潜入させたのも、教師の側を探らせるためだ。
リリスの骨が目的ならば、この学校内に敵が潜んでいる可能性は高い。彼らはファウスリーゼやその屍鬼たちの動向を、かなり正確に掴《つか》んでいる。
ファウスリーゼは下校する前に、真木名に会いに行った。捜査の進捗《しんちょく》を聞くためだった。
真木名との待ち合わせ場所は、理事長室とあらかじめ決めてあった。ファウスリーゼは鳴瀬を先に帰し理事長室で待ったが、約束の五時を過ぎても真木名は一向にやってくる気配がない。
痺れを切らしたファウスリーゼは、真木名を探しに校内へ戻った。
(まったく、何をしているの)
ファウスリーゼを待たせるような不届者《ふとどきもの》は、真木名の他にはいない。見つけたら文句一つでは済ませられないと、我知らず歩調が速くなる。真木名に対してだけは、ファウスリーゼはいつもの冷たい仮面を維持できない。
職員室を覗《のぞ》くと、明日の準備やら残業やらで居残っている教師たちの姿がちらほらと見える。
ファウスリーゼの姿を見ると、教師たちの間に微《かす》かな緊張が走る。ファウスリーゼはこの学校では、ただの生徒ではない。理事長である繻宇司鳴瀬の、彼女への態度を見れば自ずとわかる。ファウスリーゼを一介の生徒として扱うのは、彼らにはあまりにも難しい。
そんな空気をものともせずに、ファウスリーゼはすたすたと足早に職員室に入りこみ、一番手近な場所にいた男性教師に聞いた。
「真木名はどこ?」
「真木名先生なら、保健室へ行きましたよ。頭が痛いって」
「ありがとう」
礼を言って、ファウスリーゼは踵《きびす》を返した。教師のほうが敬語を使い、生徒のほうが教師を呼び捨てにするのは社会通念上よろしくないということを、ファウスリーゼは職員室を出た直後に思い出したがもう遅い。もっと常に冷静にならなければと、千年生きても反省することは多々ある。
(でも、悪いのは真木名なんだから)
自分をこんなふうに怒らせる真木名が悪いと、ファウスリーゼは保健室へと向かう道すがらも怒っていた。
そろそろ日も暮れて、校内から生徒たちの姿も消え始めた。
長い渡り廊下《ろうか》を通り過ぎ、北校舎の一階に位置する保健室の前へ立つ。ドアをノックしようとした白い手が、ふとただならぬ気配を室内から感じ取って止まる。引き戸は、薄く開いていた。
「真木……」
名前を呼びかけようとした声が凍《こお》る。覗き見なんてはしたないことはしたくないし、する必要もないはずなのに。
ファウスリーゼの視線は、ドアの隙間から見える光景に釘付けになる。
真木名がいた。が、真木名は一人ではなかった。
真木名の前に、白衣姿の女性がいる。保健医に違いない。彼女は爪先立ちで背伸びをし、真木名の首に手を回していた。
真木名は両手をポケットに突っこみ、ただ立っているだけだが、拒んでいる素振りもない。
二人がしていることを見て、ファウスリーゼは生まれて初めて、頭に血が昇る、という感覚を知った。
引き戸を開け放ち、そのまま保健室の室内に入る。ファウスリーゼの出現に気づいた真木名が、別段驚いたふうもなく、女の肩を突き放す。女のほうはといえば、こちらもなんら変化を見せない。ただ嫣然《えんぜん》と笑うのみだ。
ファウスリーゼはそのままの勢いで、真木名の頬《ほお》を平手で叩いた。なるべく無表情を保つのに苦心した。
暴力は好きじゃないのに。
真木名の顔を見ると叩きたくなる。
その感情がなんなのか、わからないしわかりたくもないのだ。
叩かれた直後に壁の時計を見て、真木名は「ああ」と呟いた。
「悪ィ。時間過ぎてたな」
謝るべき点はそこなのか、それとも他の何かなのか。曖昧《あいまい》にしたまま、真木名はファウスリーゼの肩を抱いて保健室から出て行こうとする。
ファウスリーゼはその手を振り払い、一人で立ち去ろうとした。保健医を置いて、真木名が追いかけてくる。
「待て」
ファウスリーゼは振り向かないし、返事もしない。真木名の顔なんか見たくもなかったし、声も聞きたくなかった。
渡り廊下の途中で追いつかれ、肩を掴《つか》まれる。
「人の話を聞け」
「あなたは、自分の仕事だけしていればいい」
淡々と、感情をこめずにファウスリーゼが告げる。それを聞いた真木名が、ふと皮肉っぽく笑う。
「だから、仕事してたんだよ」
「若い女性教諭とキスするのが仕事?」
精一杯の皮肉をこめてファウスリーゼは言ったつもりだったが、それは結果的に、皮肉にはならなかった。
「そ。仕事。怪しいと思う女全部調べてて、たまたまあの女の番だっただけ」
当然のように説明されて、ファウスリーゼは肩の力が抜ける。
「まさか、女性の生徒と職員、全部とああいうことをする気?」
「遠回りなようで意外と近道だぞ」
真木名は、校内では禁止されている煙草《たばこ》に火をつけた。だいぶ日が暮れて人目はないが、それにしても真木名は規律を守らない。
煙草を銜《くわ》えたまま真木名が続けた。
「俺が裏切るふりをすれば、あんたに敵意を持っているリリスなら必ず食いついてくる」
「屍鬼がリリスを裏切るなんて、あり得ない。そんなことは、同じリリスならわかるはず」
「何事にも例外はあるんだぜ、お姫様」
自信満々で言われて、ファウスリーゼはそれ以上の議論をやめた。今は一刻も早く、真木名の前から立ち去りたかった。
「それで、首尾《しゅび》は?」
「怪しいのは、さっきの保健医を含めて三人。名前は」
「鳴瀬に伝えなさい。わたしは鳴瀬から聞きます」
話を中断し、駐車場を目指してファウスリーゼは歩き出す。自分で尋《たず》ねておきながら身勝手な振る舞いだったが、ファウスリーゼはどうしても、真木名に対してだけは素直に接せられない。他の屍鬼たちには決して見せない感情を、真木名にだけは見せてしまう。
立ち去ろうとする主の細い肩を、真木名が後ろからまた掴んだ。そしてそのまま、校舎の陰に引っ張りこむ。
「離しなさい」
校舎の外壁に押さえつけられて、ファウスリーゼは真木名を睨《にら》みつける。が、真木名の腕は、ファウスリーゼを逃がさない。
感情に任せて、ファウスリーゼは叫んだ。
「離して!」
「嫉妬《しっと》なら、もう少しわかりやすくしろ」
決して怒っている様子でもなく。
まるでこの状況を愉《たの》しんでいるかのように、真木名は囁《ささや》く。
「そしたらもっと可愛がってやるよ」
ファウスリーゼはもう一度真木名の頬を叩き、駆けだした。泣きたいような、奇妙な気持ちだった。
こんな感情は知らない。真木名には、怒りしか感じないはずだ。怒り以外の感情を抱いてはいけないのだと、自分に言い聞かせなければ何かが保てなかった。
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第四章 サディスティックな純愛
真木名《まきな》とは絶縁状態での登校が続いたが、鳴瀬《なるせ》も波留《はる》も、そのことについて何も言わないし気にも留めなかった。もともと二人が険悪であることは知られているし、真木名とフアウスリーゼの関係に薄々|勘付《かんづ》いている鳴瀬からすれば、二人の関係が悪化することは歓迎すべきこと以外の何ものでもない。
それでも、ファウスリーゼを護衛するのに真木名以上の力を持つ屍鬼《しき》はすぐには手配できないし、ファウスリーゼのほうが妙《みょう》な意地を張って真木名を外そうとはしない。表面上は何も変わらない日々が続いた。
リリスの骨を発掘するための工事は、すでに着工した。これで無事目的のものが見つかれば、あとは敵であるリリスを見つけるだけだ。真木名はその候補をすでに三人にまで絞《しぼ》っている。
一人は、先日真木名にキスをした保健医である高田遥香《たかだはるか》。キスは無理矢理されたのだと真木名は言っていたが、もちろんファウスリーゼは聞く耳など持たない。
もう一人は、三年二組に在籍している紀藤《きどう》美奈《みな》。生徒会長を務める才媛で、和風の美貌《びぼう》の持ち主だ。リリスは概《がい》して人間とは異質の美貌を持つ者が多い。
三人目は、同じく生徒の紫藤《しとう》みつき。こちらは一年生で、ファウスリーゼと同じクラスだ。眼鏡《めがね》をかけていて、いつも教室の隅で本を読んでいるような目立たない生徒だったが、よく見れば美しい顔をしていた。
真木名の調べによると、多少なりとも怪しい動きを見せたのはこの三人に限られるという。
いつも通り登校し、一日の授業を終えたファウスリーゼは、図書室で一人物思いに耽《ふけ》っていた。
(屍鬼《しき》とは何度も戦ったことがあるけれど、リリス同士で戦ったことはないし、そういう記録もない)
ファウスリーゼは今までに何体もの敵性屍鬼を倒したが、その大本であるリリス本体とは戦った経験がない。戦うどころか、顔を見たこともないのだから当然だった。
(屍鬼に対してリリスは最強でいられるけれど、リリス同士の場合はどうなる?)
恐らくは互角《ごかく》か、互いの手持ちである屍鬼の力によって勝敗は決まるだろうとファウスリーゼは予測した。どちらにせよ、今までにない戦いになりそうだった。
ファウスリーゼは鞄《かばん》を手に取り、下校の準備をした。この学校へ来て二週間が過ぎたが、今日も特に収穫はなかった。
五時を過ぎても、外はまだ仄明《ほのあか》るい。春から初夏へ向けて季節は走り、日が長くなってきた。
真木名の迎えを待たずに、駐車場へと向かう。最近はそれが当たり前になっていた。校内にいれば、何かあってもすぐに真木名が駆けつけることはできる。そのための通信手段として、携帯電話の他に発信器も持っている。襲い来る相手が屍鬼ならば、リリスであるファウスリーゼが簡単に負けることはない。
それでも真木名や鳴瀬たち屍鬼はファウスリーゼを一人で行動させることを嫌がったが、なにぶん今のファウスリーゼは機嫌が悪かった。ほぼ百%、真木名のせいで。今はどの屍鬼とも行動をともにしたくない。
(わたしを守るのは、彼らの意思ではなく本能なのだから)
そんな思いもまた、ファウスリーゼの心を固くし続けている。もうあと千年生きても、自分は本当の愛を知ることはないだろうとファウスリーゼは思う。
西日の差す渡り廊下《ろうか》を小走りに通り過ぎる時、ファウスリーゼは校舎の窓から誰かが手を振っているのに気づいた。その相手を視認して、また不愉快になる。
保健医の、高田遥香だ。この前、真木名とキスをしていた。
彼女は明らかに、ファウスリーゼを呼び寄せようとしていた。もちろん、素直に招集されてやる義理はファウスリーゼにはない。彼女は一応、『容疑者』だ。
なのにファウスリーゼの足は、自然とそちらに向かっていた。
(この目で確かめればいいし、鎌をかけてもいい)
もう真木名なんか信用できないと、ファウスリーゼはむきになっていた。高田遥香がリリスであるかどうかを、早く知りたかった。真木名は慎重すぎるのだ、と。
今来た渡り廊下を戻り、北校舎へ足を踏み入れる。北向きのせいか、空気が他よりも冷たい。ひんやりとした空気が、頬《ほお》に触れる。
保健室の引き戸を開き、挨拶《あいさつ》もなくファウスリーゼは室内へと足を踏み入れた。高田遥香は白衣姿で、スチール椅子《いす》に腰掛けていた。
「呼んだかしら」
ファウスリーゼが居丈高《いたけだか》に聞くと、高田遥香はこの前と同じ、妖艶《ようえん》な笑みを浮かべた。
「ええ。真木名先生についてちょっと聞きたくて」
真木名の名前が出たことで、ファウスリーゼの不機嫌がまた増す。それに気づいているのかいないのか、判然としないまま高田は続けた。
「あなた、真木名先生の恋人?」
「違うわ」
ファウスリーゼは即答した。
「真木名は元は、うちの使用人だったの。ただそれだけ」
「嘘《うそ》」
と、高田は即座に否定する。笑ったままで、短く。
「あたし、人の心が読めるのよ」
それこそ嘘だろうと、ファウスリーゼは嘲笑《ちょうしょう》を浮かべる。リリスや屍鬼にだって、そんな能力はない。
しかし高田は長い髪を掻《か》き上げ、独白を続けた。
「真木名先生は、あなたのことがとても好き」
「どうしてそんなことがわかるの」
挑発的に、ファウスリーゼは聞き返す。その切り返しには、高田のほうがほんの少しだけ意外そうな顔をした。
「女なら誰でもわかることだと思うけど?」
それこそ意味がわからない。何を根拠《こんきょ》にそんなことを言うのかと、ファウスリーゼは眉根《まゆね》を寄せた。
構わずに高田は言う。
「あたしが彼を好きなのと、同じように」
結局この女は、真木名の情報を聞きたいだけなのかとファウスリーゼは興醒《きょうざ》めした。もしも彼女がリリスなら、一刻も早く尻尾《しっぽ》を出せと苛立《いらだ》つ。
「彼もあなたを、好きなのよ」
「そう」
ファウスリーゼは会話を遮《さえぎ》った。
「話はそれだけ?」
「ええ」
高田が答えたので、ファウスリーゼはそのまま帰ろうとした。まったくつまらない時間を過ごしてしまったと、憤《いきどお》りながら。
しかし、背中を向けた途端後ろから何者かに抱きつかれた。
「……なっ……!」
屍鬼の気配ではなかった。屍鬼ならば接近されれば勘《かん》が働くが、それはただの、人間だった。この学校の制服を着た少年が、突如《とつじょ》カーテンの陰から飛び出し、ファウスリーゼに抱きついたのだ。
「何をするの!」
ファウスリーゼは咄嗟《とっさ》にポケットに手を入れ、発信器のスイッチを入れようとする。が、その動きは最初から高田と少年に読まれていた。
「あっ……!」
床に叩き落とされた発信器は、そのまま高田の手に渡り、白衣のポケットにしまわれた。鞄に入れてある携帯電話には手が届かない。太股に巻いたガーターにナイフを仕込んでいるが、両手を後ろ手に押さえられているため、それを取り出すこともままならない。
高田の手が、ファウスリーゼのスカートに伸びる。シンプルな制服のスカートを捲《めく》り上げられ、ファウスリーゼは歯噛みした。
「……ッ……」
「こんな物持ってきたら、校則違反でしょ。その前に銃刀法違反《じゅうとうほういはん》だけどね」
屍鬼を滅《めっ》するのに使うナイフを取り上げられて、ファウスリーゼは高田を睨《にら》みつけた。後ろからファウスリーゼを拘束《こうそく》している少年の顔は、さっきちらりとしか見えなかったが、同じクラスで見た顔だ。ファウスリーゼはすでに、全校生徒の名前と顔を暗記している。
少年の名前は、江崎《えざき》賢《けん》。時折こちらに絡みつくような視線を送ってきていることは知っていた。平凡な少年だが、同じ平凡でも波留のような明るい無邪気《むじゃき》さは感じさせなかった。
「く……ッ」
しかし、如何《いか》な凡人《ぼんじん》とはいえ、その腕力はファウスリーゼを上回る。ただの人間相手には、ファウスリーゼもまた平凡な力しか持ち得ない。否、華奢《きゃしゃ》な分だけその腕力は、平凡にすら届かない。
「ご、ごめんね、ファウスリーゼちゃん」
謝りながらも江崎は、ファウスリーゼの髪の匂《にお》いを嗅ぎ、下肢を押しつけてくる。
(嫌……っ)
ファウスリーゼは嫌悪感に身を捩《よじ》った。真木名にされても少しも嫌じゃないことが、他の男にされると吐き気がするほど気持ちが悪い。
江崎が少し怯《おび》えた声で、高田に確認した。
「ほ、本当に、やっちゃっていいのかよ? 先生……」
「いいわよ。あたしが命令したってちゃんと証言してあげるから」
(何を言ってるの……!)
まさかこの女は、この少年を使って自分を犯させる気かとファウスリーゼはぞっとした。それは真木名に関する嫉妬《しっと》によるものなのか、或《ある》いは。
「……やっぱりあなたが、リリスなの?」
「さあ」
高田は艶《あで》やかにとぼけてみせた。が、次の瞬間に、容易《たやす》く自白した。
「リリスっていうのは、こういうことができる人のことを言うのかしら?」
翳《かざ》された白い手のひらが、柘榴《ざくろ》のように裂けた。血は溢れず、その裂傷《れっしょう》からは無数の触手が伸びた。それが、人の業であるはずがない。江崎はすでに洗脳されているのか、その異様さに驚きもしない。
(リリス……ではなく、屍鬼!?)
リリス本体には、異形の能力はない。異形へと変化できるのは、リリスに造られた屍鬼だけだ。
(でも、女の屍鬼なんているの……?)
ファウスリーゼの知る限り、リリスが屍鬼に変えられるのは男だけだ。女のリリスに、女の屍鬼は造れない。
高田遥香はリリスではなかった。が、屍鬼がいる以上、その創造主たるリリスは必ず近くにいるはずだ。
ここまで接近しておきながら、みすみす捕らえられてしまったことが返す返すもファウスリーゼは悔《くや》しかった。
「う、ぁっ……!」
高田の手が、ファウスリーゼのスカートを脱がせる。白く細い足に、黒いガーターが目立つ。次にその手は、ファウスリーゼの下着にかけられる。声など出すものかと、ファウスリーゼは歯を食いしばる。
黒いレースの下着が、するりと太股まで下ろされた。背後からファウスリーゼの躰《からだ》を縛《いまし》めている江崎が、ファウスリーゼの肩越しにそこを見ようとする。
「くそ、こっち側からだとよく見えねー」
逸《はや》る江崎を、高田が窘《たしな》める。
「あとでゆっくりやらせてあげるから、しっかり押さえてなさい。両手を自由にさせると、ちょっと厄介《やっかい》なのよ、この子は。今逃げられちゃったら、あなたには二度とチャンスなんてないんだから」
「う、うん」
二度とチャンスがないと聞いて、江崎は大人しく従った。高田はファウスリーゼの前に跪《ひざまず》き、その秘部に顔を寄せる。
「ふうん」
淡《あわ》い茂《しげ》みを指で探られて、ファウスリーゼは膝《ひざ》を震わせた。
「下の毛も銀なのね。天然ってうらやましい」
同性に辱《はずかし》められるという異常な事態に、ファウスリーゼは眩暈《めまい》がしそうだった。高田の手から伸びる触手が、ファウスリーゼの恥部《ちぶ》に触れる。閉じようとする足に絡みつき、無理矢理開かされる。
そうして露《あら》わにされた割れ目を、触手は最初、舐《な》めるように撫《な》でた。
「ひ、……ぅ……ッ!」
歯を食いしばったまま、ファウスリーゼは喉《のど》を仰《の》け反らせる。嘲《あざけ》るように、高田が言った。
「何を純情ぶってるの? リリスのくせに」
その間にも触手は動き続け、きつく閉じていた割れ目を左右に拡げる。
「処女《しょじょ》みたいな可愛い色して、さすがリリスってところ? 淫魔《いんま》は純情なふりをするのも上手いのかしら?」
暴かれた桃色の花弁に、細い触手が殺到する。触手の表面は、ねっとりと濡《ぬ》れていた。いくらファウスリーゼが拒《こば》んでも、それは容易くファウスリーゼの中へ入りこむ。
「ひぁっ!」
小さな割れ目の中に、細い触手が三本潜りこむ。それらはファウスリーゼの肉筒の中で、吸いつくような動きをした。外陰部《がいいんぶ》では、一本の触手がファウスリーゼの敏感《びんかん》な突起を目指して蠢《うごめ》いていた。
(い、嫌……っ……そこ、やめて……!)
心の中で悲鳴をあげて、咄嗟《とっさ》に腰を引こうとするが無駄だった。触手はファウスリーゼの小さな突起に巻き付いて、そのまま淫《みだ》らに扱《しご》きあげた。
「ひ、やあぁっ!」
がくん、とファウスリーゼの膝《ひざ》が崩れる。
ファウスリーゼ自身の意思とは関係なく、その身は淫らだ。特に真木名に犯され続けて以来、秘められていた淫性《いんせい》は開花してしまっている。
こんな時でさえファウスリーゼは真木名を恨《うら》んだ。真木名があんなことをしなければ、こんなに淫らにはならなかったのに、と。
ファウスリーゼの恥部をくちゅくちゅと掻き混ぜながら、高田はさらに彼女を追いつめた。
「江崎くん、この子はね、あなたが想像しているような綺麗なお姫様なんかじゃないわよ」
(何……言って、るの……)
ファウスリーゼはそれを、羞恥《しゅうち》で赤く染まった頭の隅で聞いた。
「この子はリリス。本質は淫魔であるあたしと変わらない。たくさんの男を屍鬼として侍《はべ》らせて、その代償に躰《からだ》を与えているのよ。そんな女の子でも、あなた、まだ好き?」
「……マジかよ……」
江崎の声に、驚愕《きょうがく》と怒りのようなものが滲んでいる。高田はさらに江崎を煽《あお》った。
「そうよ。こんなに取り澄《す》ました綺麗な顔と、こんなに小さなおっぱいと××××でたくさんの男と毎晩セックスしてるの」
「んあぅっ!」
制服のブラウスをはだけられ、小さな胸を包んでいたブラジャーが毟られる。剥《む》き出しにされた乳房《ちぶさ》を掴《つか》まれ、いやらしく捏《こ》ねられてファウスリーゼはまた声をあげた。
(そんなことしてない……!)
屍鬼たちとセックスなんかしていない。
真木名だけだ。
真木名としかしていないとも言えず、ファウスリーゼは喘《あえ》ぎ続けるしかない。高田の指がファウスリーゼの乳首をつまみ、くりくりと縦横に弄《もてあそ》ぶ。と同時に下半身の秘められた箇所は、触手で蹂躙《じゅうりん》され続けている。耐えきれずにファウスリーゼの秘唇《ひしん》は、濃い蜜《みつ》を溢れさせた。
膝にまで滴《したた》るその愛液《あいえき》を見て、江崎はますます激昂《げきこう》した。
「このっ……淫売《いんばい》! 絶対処女だと思ってたのに!」
「あぅっ!」
さらにきつく腕がねじ上げられる。高田の言う通り、江崎はファウスリーゼに一方的な妄想《もうそう》を抱いていたようだった。それが裏切られたのが憤ろしいのだろう。
(そんなの、知らない……!)
腹立たしいのはファウスリーゼも同じだった。好きになってくれなんて、頼んでいない。顔と名前くらいしか知らないクラスメイトにまで想いを寄せられる筋合いはない、と。
(どうして……っ!?)
江崎は間違いなく人間だ。ファウスリーゼによって造られた屍鬼ではない。なのにどうして自分なんかを好きになったり欲しがったりするのか、ファウスリーゼには皆目《かいもく》理解ができないのだ。普通の人間にまでこんな目に遭《あ》わされる我が身を、ファウスリーゼは呪《のろ》った。
ファウスリーゼを嬲《なぶ》っていた指と触手が、ゆっくりと離れて行く。ただし触手のほうは完全には離れず、ぬるりとファウスリーゼの背後へ回った。
「可愛いリリスちゃん。同じ女として、究極の淫魔っていうのには興味があるわ。ご主人様のところへ連れて行く前に、味見させてね?」
今までは江崎によって押さえつけられていた両手首が、今度は触手によってきつく束《たば》ねられる。ファウスリーゼの肢体《したい》は、後ろ手に縛られたまま保健室のベッドへ転がされた。スカートと下着は剥《は》ぎ取られ、胸もはだけられたままの状態で。
それが何を意味するのか、わからないはずもなく。ファウスリーゼは遮二無二《しゃにむに》躰を捩《よじ》った。
「嫌っ、やめて! 離して!」
高田に足を開かせられて、ファウスリーゼは叫ぶ。高田はそれを嘲笑《あざわら》う。
「何十本も銜《くわ》えこんだくせに。今さら一本くらい増えてもいいんじゃなあい?」
はあはあと犬のように息をしながら、ズボンを下ろした江崎が近づいてくる。
その股間《こかん》に隆々と聳《そび》えるものを見て、ファウスリーゼは吐き気を催《もよお》す。醜《みにく》い、と心底嫌悪する。
「誰が、あなたなんかと!」
気丈に言い放った次の瞬間、ファウスリーゼは強く頬《ほお》を叩かれた。江崎が、怒りに目を充血させている。男に顔を叩かれるのは、ファウスリーゼは初めてだ。屍鬼たちはもちろんそんなことはしないし、他の人間たちの暴力からも、ファウスリーゼはずっと守られてきた。
ファウスリーゼは金色の目を怒りに燃えさせて、目の前の男を睨み続ける。
「い、ゃ……」
嫌悪感で、怖気が立つ。
違う。
こんな奴じゃない。
自分に触れていいのは、こんな奴じゃない。
『それ』が誰なのかを、ファウスリーゼは本当はわかっている。
真木名でないと、嫌だ。
真木名しか、嫌だ。
「ま……」
犯される寸前、ファウスリーゼは堪《こら》えきれず、絶対に呼ぶまいと誓《ちか》っていたはずの男の名を呼んだ。
「真木名……!」
声は、最後まで響かなかった。硝子が割れる衝撃音に掻き消されたせいだ。
ファウスリーゼは呆然《ぼうぜん》と、その光景を見ていた。
窓を突き破り保健室に侵入した真木名は、何発もの弾丸を高田に撃ちこんだ。銀製の銃弾だ。高田の手から、何本もの触手が空気を裂くようにして真木名に襲いかかる。が、それが届くより速く真木名は間合いを詰めた。
真木名は片手で、高田の細い首をへし折り、素手で首を引きちぎった。鮮血がシャワーのように散った。
首を切り落としても、屍鬼はまだ死なない。不死の怪物を倒す方法はただ一つ。
心臓に、銀の杭《くい》を。
真木名は懐《ふところ》から取り出した長い釘のような杭を、高田のふくよかな左胸に突き立てた。
びくん、びくん、と何度か痙攣《けいれん》した後、高田遥香の肉体は灰となり消えた。とっくに死んでいる肉体は再び死しても肉体を残さない。
それが屍鬼の、呆気《あっけ》ない最期だった。
ファウスリーゼは、自分が生み出した屍鬼の蛮行《ばんこう》を呆然と見ていた。
これが、屍鬼の力。ファウスリーゼが生み出した、最強の死者。その行いは時にファウスリーゼ自身までをも怯《おび》えさせる。
高田を倒した真木名はファウスリーゼには目もくれず、今度はベッドで腰を抜かしている江崎にターゲットを変えた。
「や、やめてくれ! 俺は化け物なんかじゃない、人間だ! やめてくれ!」
江崎は叫びながら後ずさる。それを止めるためにか、真木名は江崎の親指の爪に杭を刺した。
「ぎぃあああ!」
虫の標本のようにピンで留められ、江崎は絶叫する。
この時間帯、北校舎はほぼ無人だが、あまり声を出されるとまずいと思ったのか。真木名はベッドの枕カバーを裂いて、江崎の口に突っこんだ。そうして黙々と『作業』を続ける。拳で江崎の鼻を潰《つぶ》し、股間を蹴《け》り床に転がす。抜けた杭からぶしゅっと血飛沫《ちしぶき》が噴き上がる。
「ま、真木名っ!」
ファウスリーゼはようやく声をあげた。と同時に真木名の動きが止まる。
「もういいわ。それ以上は……!」
それ以上やったら、本当に死んでしまう。江崎はただの人間だ。いくら憎くても、殺す意味はないし殺したくもない。そう言外に告げるファウスリーゼの前で、真木名は少し迷うふりをした。
「んー。どうするかな」
言いながら真木名は江崎の口から枕カバーを引き抜いてやる。が、それがまずかった。江崎は、恐怖で思考が飛んでいた。今言ってはいけない、最悪の言葉を口にした。
「そ、そんな女……ただの、淫売だろ! 売りやってる汚い女と同じだろ!」
「まあとりあえず」
ファウスリーゼにも見せたことのない、妙に明るい笑顔を真木名は見せた。ファウスリーゼの背筋に、悪寒《おかん》が走る。
「死んどくか」
「ひぎぃぃっ!」
一本ずつ、江崎の指が外側に折られていく。高田が死んだことでようやく触手の縛めから解放されたファウスリーゼは、真木名の腕を掴《つか》んだ。
「やめなさい! 殺せなんて言ってない!」
ファウスリーゼの叱責に、真木名は心から残念そうな顔をした。それから少し考えて、ようやく江崎から手を離す。
ファウスリーゼがほっと息をついたのも束《つか》の間。何を思ったのか、真木名はファウスリーゼを抱き上げ、ベッドに押し倒した。
「きゃ……!?」
わけがわからず、ファウスリーゼが戸惑《とまど》いの声をあげる。それからはっと、今の自分の姿を思い出す。
胸も、下肢の恥ずかしい部分も、すべて暴かれた状態のままだ。犯されそうになっていたのだから、当然だった。それを隠そうとしたファウスリーゼの手は、真木名によって搦め捕られた。
真木名は、血まみれの床《ゆか》に腰を落とした江崎をちらりと見ながら『宣告』した。
「んじゃ、魂《たましい》だけでも殺しておくか。二度とこーゆーことができないように」
「な、何を……」
意味がわからず問い続けるファウスリーゼの太股に、真木名の手が触れた。はっとして足を閉じようとしたその奥に、大きな手がねじこまれた。
「い、嫌……っ!」
さっきの凌辱《りょうじょく》で不本意にも濡《ぬ》れてしまっている部分に、触れられるのは嫌だった。それに、まだ。
(だめ……今、さわられたら……!)
まだ、淫欲《いんよく》の火種が残っている。中途半端なままで中断された行為は、リリスの身にはつらいのだ。
「やめてっ……ど、どうして、今、こんな……!」
「ファス」
真木名の声が、ファウスリーゼを呼ぶ。名前を呼ばれた途端、ファウスリーゼの躰がびくっと震える。ファウスリーゼをファスと呼ぶのは、かつて愛したあの子供と、ファウスリーゼ自身が許可を与えた波留の他には真木名だけだ。
「愛してる、ファス。ずっと」
真木名からは初めてされる告白に、ファウスリーゼの心が震えた。
屍鬼がリリスを愛するのなんか、当然のことなのに。
真木名の告白は、ファウスリーゼを泣きたくさせた。
無意識に、ファウスリーゼの両手が真木名のシャツを握る。真木名は左手を、ファウスリーゼの胸へ移動させた。指先で乳首を押し潰されて、ファウスリーゼが泣くように喘《あえ》ぐ。
「あぅ……っ」
「ファスも俺が好きなんだよ。好きじゃなかったら、俺はとっくに殺されてるはずだ」
真木名はわざと、床に転がっている江崎に聞こえるように言う。
「殺せないとしても、他の屍鬼どもを使って俺を遠ざけることくらいはいつでもできたはずだし?」
「ちが、ぅ……っ……違う、の……っ」
否定する声さえ甘かった。ファウスリーゼの両手は真木名にしがみつくばかりで、決して突き放そうとはしない。
(こんなの、だめ……っ……! 変になっちゃう……!)
リリスはもともと淫魔だ。その本質をファウスリーゼは、強靱《きょうじん》な理性で抑《おさ》えつけてきた。だから恋もしなかった。
そして恐らく、さっき滅せられた高田も淫魔の類の屍鬼だった。その触手でまさぐられた躰がどうなってしまうのか、ファウスリーゼにはそれが怖ろしい。
今、真木名にされたりしたら。どうなってしまうかわからない。
「ね……や、やめ、て……今は、だめ……っ」
初めてファウスリーゼが、真木名に懇願《こんがん》した。今までどんなに犯されても、毅然《きぜん》とした態度を取り続けたファウスリーゼが、気の強そうな金色の目に涙さえ浮かべて。
それが媚態《びたい》にしかなり得ていないことに、ファウスリーゼだけが気づかない。
「じゃ、キスして。ファスのほうから」
真木名にねだられて、ファウスリーゼは一瞬の躊躇《ためら》いの後、真木名の首に手を回し自ら唇《くちびる》を重ねた。
ファウスリーゼのキスは、不器用だった。ただ唇を押し当てるだけの拙《つたな》いキスだ。真木名は最初だけファウスリーゼにさせて、すぐに深く唇を貪《むさぼ》った。薄く唇を開かせて舌をねじこみ、口の中まで蹂躙した。
「ン、ふ、……ぅ……ンン……ッ」
初めてファウスリーゼは、自ら舌を絡ませた。音がするほど吸われながら、また無意識に腰を揺すっていた。
キスなんか、もう何度もされているのに。
ファウスリーゼはキスだけで酷《ひど》く感じていた。
やめたいのに、やめられなくなった。
最後にほんの少しだけ残っている理性で、ファウスリーゼは今の己《おのれ》の身を恥《は》じた。
(また……溢れ、ちゃう……)
キスをしているだけなのに、ファウスリーゼの羞恥《しゅうち》の部分からは、ひっきりなしに新しい蜜が溢れてきていた。我慢しようとして力をこめても無駄だった。力を入れたことで空虚《くうきょ》な媚肉《びにく》が締まり、溜《た》まっていた愛液がピュッと零れるのが自分でもわかった。
「やぁ……っ!」
キスの合間に、ファウスリーゼは声をあげた。真木名の手が、いよいよファウスリーゼのそこへと滑り降りてきている。
「お、ねが……っ……い、やめ……」
言われた通りにキスをしたのに。
やはり真木名は、やめてはくれなかった。
もっともファウスリーゼが、それを本気で怒ることはない。真木名はそれに気づいている。
「やっ、だめえぇっ!」
いきなり快楽の雌芯《めしん》をつままれて、ファウスリーゼは嬌声《きょうせい》を響かせた。そこは、さっきの触手の悪戯《いたずら》ですでに剥《む》き出しにされ、固くしこってしまっている。
「や、なの……っ……今、そこは、や、あぁんっ!」
甘ったるい悲鳴で拒絶《きょぜつ》するファウスリーゼの耳元に、真木名が唇を当てて囁《ささや》く。
「屍鬼かロリコンくらいにしか、狙《ねら》われないとでも思ってた?」
「んひゃぅっ!」
ヌルヌルと愛液にまみれた親指で押され、また可愛い声が続く。
「だったらよかったのにな」
酷い淫行を続けながらも、真木名の声は優しい。
「あんたがそうやって可愛いのが悪いんだよ」
真木名はファウスリーゼの足をさらに開かせ、指で悪戯されている秘部を丸見えにさせた。江崎に、見せつけるためだ。
(嫌……全部、見られてる……)
淫熱に浮かされた頭の隅で、ファウスリーゼはぼぅっと思った。
真木名の指で弄《いじ》られている自分の陰部《いんぶ》の状態を考えて、泣きたいほどの羞恥に苛《さいな》まれる。それは苦行のはずなのに、ファウスリーゼの下腹部をさらに熱く疼《うず》かせた。
「いぁ、あんっ!」
ぷちゅ……と果実を潰すような音がする。真木名の指が、ファウスリーゼの小さな花弁の奥に潜りこんだ音だ。熱くとろけた媚肉を冷たい指で掻き回されて、ファウスリーゼはびくびくと腰を震わせた。
「なのにあんたは、俺のことしか好きじゃないし。かわいそうだよなあ、他の奴らは」
床で腰を抜かしている江崎が震えている。ファウスリーゼはようやく、真木名の言ったことの意味を理解した。
あの少年は、自分に惚《ほ》れていたという。
自分に、一方的な幻想さえ抱いていた。
その理想の少女が、他の男の指で性器を弄られて睨《にら》んでいる。これは最悪の光景だろう。
(酷い……)
そこまでしなくてもいいはずだと、ファウスリーゼは真木名を止めたかった。しかし、止まらないのはもう真木名ではなくファウスリーゼのほうになっていた。
「感じやすいのは体質だからしょーがないとしても」
「きゃうぅっ!」
濡《ぬ》れそぼった肉孔の奥まで指でピストンされて、ファウスリーゼはシーツを握りしめる。真木名の指は簡単に、ファウスリーゼの感じる箇所に届いてしまう。
「い、嫌っ! や、なの……ぉっ!」
子宮口《しきゅうぐち》よりはだいぶ浅い、胎内《たいない》の感じる箇所を指で弄られて、ファウスリーゼは子供じみた声を出す。指が出し入れされるたびに、ピュッと愛液が飛び散ってしまう。外陰部で感じるのとは少し違う重い快感が、ファウスリーゼの子宮にまでこみ上げてくる。
淫核《いんかく》を弄られた時は性器全体が痺《しび》れるような感じだったが、膣内《ちつない》で感じる快感は子宮にまで響く。
「俺から離れるのは、許せないし?」
「ひ、ひどく、しなぃ……で……」
彼女らしからぬ舌足らずな声での哀願《あいがん》は、まるで無視される。真木名はどうやら、怒っているらしい。ファウスリーゼが、他の男に犯されかけたことに対して。
真木名はもっと江崎の、淡《あわ》くも歪《ゆが》んだファウスリーゼへの想いを踏みにじりたいのだ。
「リリスは確かに多淫だけど」
「や、だ……やめ、て……は、恥ずか、し……きゃあぁぅっ!」
剥き出しにさせた媚肉を、真木名は滅茶苦茶にした。淫核から割れ目をなぞり、会陰《えいん》の辺りまでをこする。すでに滴るほど濡れた少女の恥部が、ビクビクと痙攣して何かを耐えている。その様が、江崎という第三者の前に突きつけられている。
「俺のお姫様はお堅くて、この可愛い孔《あな》の中に俺のしか銜《くわ》えこんだことないんだぜ?」
「あぅっ、うっ、ふ、ああぁぁっ!」
(だめ……も、もう……イッ……ちゃ……ぅ……!)
何度も絶頂を迎えそうになりながら、ファウスリーゼは懸命に耐えていた。潔癖《けっぺき》すぎるファウスリーゼにとって、エクスタシーは悦びではなく罪であり、羞恥だった。たとえ相手が真木名でも、それはしたくない。
なのに真木名は、容易くファウスリーゼを追いつめる。
「ここでイかせてやるよ。いつもみたいにここをこすられて、俺にしがみついてイくところを見せてやれ」
ここ、と指摘した箇所を、真木名は指でコリコリと弄った。そこはファウスリーゼの膣内のもっとも感じる箇所だった。
まだそれほど奥まで入れられたことはないが、比較的浅い部分にあるその箇所は、とっくに真木名によって暴かれて、快感を覚えこまされていた。
「ひゃううぅっ!」
愛らしく啼《な》いて、ファウスリーゼは達した。達している間にも、真木名の指は止まらない。人差し指で探り当てた蜜穴の奥を、猫の喉を擽《くすぐ》るように弄り続けている。クチュクチュと小刻みに音をさせながら。
「あうっンッは、あぅぅっ……!」
激しく息を乱しながら、ファウスリーゼは腰を突き上げる。絶頂の波が、少しも引かないのだ。真木名の指のせいで。
「や、やめ、て、も、ぅっ……」
ファウスリーゼの哀願《あいがん》を聞き入れたのか、真木名はようやく指を引き抜いた。とろりと粘《ねば》る糸が、指と花弁の間にかかる。
ファウスリーゼが安堵《あんど》したのも束の間、今度は胸をまさぐられた。
「ふ、うっ……あ……っ」
金の眸《ひとみ》が、困惑に揺れる。ファウスリーゼ自身の愛液でぬめる指が、小さな胸の突起を弄っている。
今度は指だけでなく、顔を寄せられ、唇で吸いつかれる。
「やぁっ……」
秘部への激しすぎる愛撫の後に、胸を吸われるのはもどかしかった。消えない火種が、ぐずぐずと子宮の奥で燻《くすぶ》り続けている。
(やあ……っ……乳首、弱いの……)
夜毎真木名に可愛がられた小さな果実は、すでに性感の塊《かたまり》だった。最初はそんな箇所を弄られてもくすぐったいだけだったのに、今はもう酷く感じてしまう。
指で片方を弄りながら、真木名はもう片方の乳首にねっとりと熱く舌を絡ませた。そのままぬりぬりとこすり、時折軽く歯を立て、強く吸う。
ファウスリーゼは耐えきれず、身|悶《もだ》える。
「や、だっ……や、い、いら、なぃっ……そ、れ、もぅ……っ……う、んんっ……!」
真木名の髪を強く引っ張り、ファウスリーゼは抗議する。乳首だけでは、決して達せないのだ。これ以上の愛撫は、責め苦だった。もちろん真木名は、責めるつもりでそうしているのだろう。
「ン……っ……く、ンン……ぅっ……」
身じろぎしながら、ファウスリーゼは待っていた。早く、真木名が自分の空洞を埋めてくれることを。しかし真木名は、焦らすばかりで一向にファウスリーゼを犯さない。
「きゃぅっ……ンッ……!」
下半身を強く密着させられ、ズボンの布越しに勃起《ぼっき》を押し当てられて、ファウスリーゼの口から我知らず物足りなさげな声が出る。真木名はもう、ファウスリーゼの欲しい箇所に触れてくれない。未熟な胸の膨らみばかりを捏《こ》ね、その天辺の果実を啜《すす》り続ける。
理性が瓦解していく。固く閉じていた扉が、壊れてしまう。ファウスリーゼは泣きながら真木名にしがみつく。
「も、もぅ、や……っ……もう、こんな、の、嫌あぁ……!」
酷い。早く。早く、して欲しい。ファウスリーゼは全身でそう訴えていた。真木名がようやく顔をあげ、ファウスリーゼと向き合う。
「俺のことが好きって認めたら、少しは楽になれると思うけど?」
「ち、が……」
ファウスリーゼは泣きながら否定する。
「ちが、ぅ、の……」
望んでリリスになったわけじゃないのに。真木名だって、望んで屍鬼になったのではないはずなのに。
こんなのは違うと、ファウスリーゼは否定し続ける。
真木名がズボンを下ろし、自らの性器を曝した。さっき江崎のものを見た時は嫌悪感しか感じなかったのに、真木名のそれにはファウスリーゼは欲情した。また躰の奥が熱くなって、新たな蜜が溢れ出す。
早く入れて、と、絶対に口には出せない淫らな願いに震えるファウスリーゼの割れ目に、真木名は自身の屹立《きつりつ》を押しつけた。そして。
「く、ひっ!」
ファウスリーゼが、はしたない悲鳴をあげる。真木名は、待ち望んでいる花弁の奥にそれを突き立てなかった。
代わりに、その太い先端でファウスリーゼのそこを弄んだ。特に、硬くしこったままの淫核の辺りを。
「ひゃ、やああっんっ!」
濡れた小さな雌芯をコリコリと押し潰されて、ファウスリーゼはまた容易く達した。が、とろけきった躰はそれだけでは治まらない。下腹部の奥の疼きが止まらない。
「く、狂、っちゃ……ぁ、ぅっ……狂っちゃ……ぅ……っ!」
銀の髪をさらさらと乱して、ファウスリーゼは噎《むせ》び泣いた。もう正気はほとんど残されていなかった。
「愛してるって正直に言えないんなら」
真木名の唇が、ファウスリーゼを堕とす。まるで真木名のほうが、淫魔のようだ。
「せめて、こういうふうに言ってみな」
命じられたことのあまりの淫らさに、ファウスリーゼは一瞬だけ理性が痛んだ。が、それも長くは続かない。
白く細い指が、紅く爆《は》ぜた媚肉に添えられる。自ら足を開き、割れ目の左右に指をかける。
ファウスリーゼは目をきつく閉じ、思い切って指に力を入れる。
誇り高き吸血姫《きゅうけつき》が、完全に堕ちた瞬間だった。
「い……」
割れ目が、くぱ……といやらしく愛液の糸を引いて、開かれた。花弁の奥の小さな孔は、蜜を垂らしながらヒクついている。さっき指で中まで弄られたせいで、少し綻《ほころ》んでしまっている。
「いれ、て……ほしい、の……っ」
「誰のを?」
すかさず真木名が聞き返す。ファウスリーゼは羞恥に掠れた声で、正直に答えた。
「真木名、の……っ……」
「ふうん」
別段勝ち誇るわけでもなく、真木名はファウスリーゼの淫乱な孔を指でつついた。途端にまた、熱い蜜が飛び散る。
「あんうぅっ……!」
「誰のでもいいってわけじゃ、ないよな?」
「い、ゃ……」
そんなのは当たり前だと、ファウスリーゼは悲しくなった。
「真木名じゃないと……っ……嫌……!」
ふっと、真木名の口元が緩《ゆる》む。今日初めて、悪意のない笑顔を見せる。
「……今日はこれくらいで許してやるよ」
「ンッ……く、ふ、ああぁぁっ!」
ずぐく……と太く熱いもので空洞を開かれて、ファウスリーゼはまた軽く達した。息さえもできない。もう何も考えられなかった。ただ真木名の背中に腕を回し、つながっている部分に意識を集中させる。
(熱い……の……いっぱい、入ってくる……)
疼きすぎてヒクヒクと痙攣を繰り返している膣奥《ちつおく》の媚肉を、あやすようにゆっくりと肉杭が挿入される。ズズッ……と一ミリ肉棒が進むたびに、ファウスリーゼは満たされていく。
(いつもより、中、熱い……)
ファウスリーゼはうっとりと眸を潤ませて、真木名の肩を噛んだ。もっと激しくして欲しかった。そんなことを思うのは、初めてだった。
真木名は半分ほどファウスリーゼの中に自身を収めると、まだ床に転がっている江崎に言った。
「処女ならとっくに俺がいただいちゃってるけど、まだそんなに奥までは入れたことないんだよな」
(え……)
と、壊れそうな理性の下で、ファウスリーゼは戸惑った。真木名の体重が、ぐっとファウスリーゼを押さえつける。
「今日は奥の奥まで入れるから、あんたそこで見学してな」
「や、だ、めっ……!」
それはまだ怖いのだというファウスリーゼの願いは聞き届けられなかった。真木名がぐっと腰を突き上げる。太いものが、ぐちゅりとファウスリーゼの紅い秘唇《ひしん》の奥まで押しこまれていく。
「うああんぅっ!」
初めての感覚に、ファウスリーゼは悲鳴をあげる。
(そんな、嘘《うそ》、無理……!)
真木名のものは、ファウスリーゼの躰には大きすぎる。セックスすること自体に無理があるはずだと、ファウスリーゼはずっと信じていた。真木名も、そこまではファウスリーゼに強要してこなかった。
しかし、壊れてしまう、と彼女自身が危惧《きぐ》した女陰《にょいん》は、いとも容易く真木名を受け容れた。狭隘《きょうあい》な肉筒の締めつけを押し分けて、真木名の陰茎《いんけい》は奥までファウスリーゼを犯した。
「や、ぁぁぁっ! だめ、ぇっ!」
ごりっ、と躰の奥で音がした。ファウスリーゼを悩ませていた疼きの震源に、真木名の躰が触れたのだ。瞬間、ファウスリーゼは下腹部に電流を流されたような衝撃を感じた。今までで一番大きな、絶頂の波に呑まれた。
「ひぅっンっうっああぁっ!」
「はは……今、子宮の辺りに届いた。先っぽが当たってる」
ファウスリーゼの髪を撫でながら、真木名が江崎に教えてやる。江崎は股間を膨らませたまま、息を乱し涙を流している。
そんな異常な光景さえ、ファウスリーゼには恥じらう余裕がなくなっていた。真木名に貫かれている部分から躰が痺れて、どうしようもない。
「やだ……い、やぁ……っ」
絶頂の余韻《よいん》で泣くファウスリーゼに、真木名が優しく聞く。
「何がやなんだよ?」
ファウスリーゼはすっかり自我をなくしたように、甘い声で答えた。
「気持、ち、いい……の、いや……っ」
淫魔である自分を否定し続けてきたのに、これでは何もかも台無しだと思った。
このまま自分が自分でなくなり、怖ろしく淫らで浅ましい淫魔に変化してしまいそうで怖いのだ。怯えるファウスリーゼに、真木名は宣告した。
「相手が俺だけならいいんだよ」
「ふあぁぁっ……!」
奥まで突き入れられていた陰茎が、ずるりと愛液の糸を引いて引き抜かれ、また奥まで突き立てられる。きつかった膣肉が、何度も暴かれ、こすられて、熱く溶けていく。小さな花弁は裂けもせず、目一杯に口を拡げて真木名のものを銜えこんでいる。子宮まで突かれても、ファウスリーゼはもう嫌がらなかった。
「あぅ……んっ……あンッ……」
ファウスリーゼは目を閉じて、その快感に溺《おぼ》れた。早くも躰が慣れつつあった。連続した絶頂で溶けきった後は、緩《ゆる》やかな波が何度も来る。
真木名はとどめを刺すように、また江崎に伝えた。
「ファスの中、好きな男に抱かれて気持ちいいって、絡みついてきてる。あんたには一生味わえない感覚だよなあ? 童貞《どうてい》くん」
「だ、め……っ……」
そんなこと言わないでとファウスリーゼは言いたいが、まともな言葉は紡げない。ズヂュッ、グヂュッと媚肉を突き上げられる音に掻《か》き消されてしまう。
「さっきから、何回イッた? ファス……」
「ん……ふ……っ」
「濡れすぎて、すごいことになってる。入れた隙間からまた溢れてきてる」
「やあっ……」
「中で出すよ。ファスの子宮まで俺の精液《せいえき》でいっぱいにしてやる」
「あぅっ……う、あぁっ……!」
言葉通りのことをされて、ファウスリーゼは真木名に強くしがみついた。
熱い精液が、自分の中で溢れているのを感じる。それでようやく、ファウスリーゼの熱は治まる。
「真木、名……」
最後に自分からキスしたことは、ファウスリーゼは覚えていられなかった。
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第五章 緋色の記憶
燻《くすぶ》るような眠りに包まれ、ファウスリーゼは夢を見ていた。一番幸せだった頃の夢だ。千年も生きてきたのに、ファウスリーゼが心から幸せだと思えたのはほんのいっときだった。大火災で出会ったあの子供、ナイトウケイと一緒に過ごした日々だけだ。
ただ寄り添って、そばにいるだけだったけれど。
あの時だけは、決定的に孤独ではなかった。
これほどたくさん、地上に溢れるほど人間はいるのに。なぜあの子供だったのかはわからない。
千年生きても、その謎だけは解けない。多分、永遠に。
頬《ほお》に温かく濡れた感触があった。それでファウスリーゼは、自分が泣いていることに気づいた。が、温かく感じたのは涙だけではなかった。
誰かの指が、その涙を拭《ぬぐ》っていたのだ。
(ケイ……?)
あの子供が帰ってきたのかと、夢うつつの中でファウスリーゼは思った。もう二度と離したくなくて、その手を強く握り返す。しかしその手のひらは小さな子供のものではなく、骨張った男のものだった。
(真木名《まきな》……?)
ファウスリーゼはゆっくりと瞼《まぶた》を開ける。が、その目に映ったのは真木名ではなかった。
鳴瀬《なるせ》が、ファウスリーゼを見つめていた。いつもの優しげな目で。
(……ああ)
それでファウスリーゼは、ここがもう学校ではなく、屋敷なのだとわかった。見慣れたベッドの天蓋《てんがい》が目に入る。寝間着に着替えさせられたファウスリーゼは、自室のベッドに横たえられていた。着替えをさせてくれたのは、真木名なのか、それとも鳴瀬か。考えると少し、ファウスリーゼは憂鬱《ゆううつ》になる。
この屋敷には時計がない。ファウスリーゼが時計の音を嫌っているせいだ。それでも生活に支障はなかった。ファウスリーゼは体感で、正確に時間を知ることができる。
あの痴態《ちたい》の数々を曝《さら》してから、まだ二時間も経っていない。
顔が赤らむのを堪《こら》え、いつもの冷たい無表情を保つファウスリーゼに鳴瀬が告げた。
「真木名が、気を失っているあなたを運んできたんですよ」
「……そう」
まさか裸のまま運んだはずはない。真木名のことだから、きっと上手く誤魔化《ごまか》しただろう。そう安堵《あんど》するファウスリーゼの予想を、鳴瀬が初めて裏切った。
「真木名は、特別ですか」
言葉に含まれた棘《とげ》の鋭さに、ファウスリーゼははっとする。鳴瀬の顔から、平時の穏《おだ》やかさが消えていた。
険《けわ》しい顔をした直後に、鳴瀬はふと自嘲《じちょう》気味に笑った。
「私が何も、知らないとでも?」
「…………」
ファウスリーゼは押し黙り、俯《うつむ》いた。何を言っても、言い訳になる。
千年の間、ファウスリーゼが保ってきた均衡《きんこう》は崩《くず》れた。誰のことも愛さない。誰のものにもならないと決めた心と躰《からだ》は、あんなにも容易《たやす》く奪われてしまった。
そのことをファウスリーゼは、誰にも言えない。真木名自身にすら、言えない。屍鬼《しき》である真木名には、ファウスリーゼに対する理性がないはずだから。
思い出して、消えたくなる。
自分から淫《みだ》らにねだった。自分で躰を開いた。
それでもファウスリーゼは最後まで、「愛している」とは言わなかった。
真木名はそれを口にしたけれど、屍鬼の言う「愛している」をそのまま受け取れるほどファウスリーゼは愚《おろ》かではない。
無表情の仮面で鳴瀬の質問を拒《こば》むファウスリーゼに、鳴瀬は再び手を伸ばす。頬に触れられて、ファウスリーゼはびくりと躰を引いた。
その反応が、鳴瀬にある決意をさせてしまった。
鳴瀬はまた微笑むと、有無を言わせない決然とした声で言った。
「真木名を、ドイツにやります」
「……何を言ってるの」
金色の眸《ひとみ》が、鳴瀬を睨《にら》む。
「そんなのはわたしが決めること。勝手なことは許しません」
「しかし、あなたは」
鳴瀬は、冷静だった。
「このままの状態が、いつまでも続くとお思いですか?」
「…………」
また沈黙が二人を包む。鳴瀬の意見がどれだけ正しいかは、ファウスリーゼにだって痛いほどわかっている。
屍鬼は、リリスに執着する。リリスの血や体液がないと生きられないのだから、当然だ。それは愛という欺瞞《ぎまん》に包まれた生存本能だ。
もしもリリスの寵愛《ちょうあい》がたった一人の屍鬼に注がれれば、他の屍鬼たちは生存本能に基づいてその『たった一人』を殺そうとするだろう。
だからファウスリーゼは、今までどの屍鬼たちとも親密にならなかった。生活を維持するのに必要な最低限の人数しか、屋敷にも置かない。
血を与えるのは月に一度だけ。それだけあれば、屍鬼は普通の生活を維持することはできる。屍鬼たちは月に一度だけ、ファウスリーゼの膝元《ひざもと》に額《ぬか》ずくことを許される。
そのルールを、真木名は決定的に破った。
いずれ屍鬼同士で殺し合いになる。それは止められない必然だ。だったら今のうちに真木名を遠ざけ、他の屍鬼たちと同じように遇《ぐう》し、月に一度だけの面会だけ許せばいい。そう言う鳴瀬の意見は、まったく正しい。
(そんなことは、わかっている……)
『ファスも俺が好きなんだよ。好きじゃなかったら、俺はとっくに殺されてるはずだ』
そう言った真木名の言葉もまた、紛《まぎ》れもない真実だった。罰ならいつでも与えることができた。いつでも突き放すことはできた。
それを、他の屍鬼に知られるとまずいから、なんて苦しい言い訳をして引き延ばしたのは自分だ。これは自分の罪なのだと、ファウスリーゼは震えた。
平素はどこまでもファウスリーゼに甘い鳴瀬も、今度ばかりは譲《ゆず》らない。
「私も、いつまで『保つ』かわかりません」
今すぐにでも、鳴瀬は真木名を殺したいと思っているだろう。鳴瀬の言う『保つ』は、理性のことだ。食欲、性欲、睡眠欲、それらすべてを含んだ生存本能。本能を理性で抑えるのは、どんなことでも負荷がかかる。
このまま、真木名を遠ざける。今度は真木名がどんな身勝手を言っても聞き入れない。
それが最良の選択だ。
わかっているのに、ファウスリーゼは声が出ない。
(……嫌)
離れたくない。真木名と離れたくない。もう何度も、失ってきたのに。誰かにそばにいて欲しいと、願うだけで罪になる。そしてまた失う。
あの子供、ナイトウケイは、人間だからそばにいられた。屍鬼ではなくただの人間だから、どれだけファウスリーゼの寵愛を受けても屍鬼からの攻撃対象にはなり得なかった。
けれどあの子は人だから、たかだか百年足らずで死んでしまった。
泣きたいのを、ファウスリーゼは懸命に堪《こら》えた。千年我慢できたことを、今さら我慢できないなんて、おかしい。今までできたのだから、今度もきっとできるはず。そう自分に言い聞かせる。
けれどそんな生に一体なんの意味があるのか。
ファウスリーゼが何か言う前に、寝室のドアがノックされた。
「あのー」
この場にそぐわない、緊張感の薄い声で呼ばれてファウスリーゼは少し力が抜けた。波留《はる》が、ドアの外で言いにくそうに伝えてきた。
「えーと、あの、ファスが、学校に鞄《かばん》、忘れてったからそれ、届けに……」
きっと室内の遣《や》り取りを、聞いていたのだろう。立ち聞きは褒《ほ》められた行為ではないが、波留に悪気がないことはわかっている。ファウスリーゼは平坦《へいたん》なトーンで命じた。
「いいわ。入りなさい」
「うんっ」
飼い主に許可をもらった子犬のように、波留は喜んで部屋に飛びこんだ。波留の声を聞くと、ファウスリーゼは心が和《やわ》らぐ。
「鞄を届けてくれてありがとう」
「うん。車はあるのにファスがいないから学校中探し回ったんたけどさ、保健室に置きっぱなしだったよ。あと保健室がすごい壊れてて江崎って奴が血だらけで倒れてて、真木名さんが鞄だけ俺に届けろって。あれ、だいじょうぶなのかなー、江崎くんとか」
波留が保健室に来るのがもう少し早かったら、もっと凄《すさ》まじい光景を見せてしまうところだった。そうならなかった偶然に、ファウスリーゼは感謝した。江崎と高田のことは、鳴瀬が揉《も》み消してくれるはずだ。
鳴瀬が、ファウスリーゼと波留の間を制して言った。
「波留。今は大事な話をしています。あなたは外へ」
「あの、それなんだけど」
と、急に波留は鳴瀬に向かい合った。
「まずは、立ち聞きしてすみません。でも、あの」
臆病《おくびょう》なくせに、波留は意外な胆力《たんりょく》を見せる時がある。こういう時には毅然《きぜん》とする。ファウスリーゼの目から見ても、少し不思議な少年だった。
「真木名さんをファスから離すのは、やめたほうがいいと思います」
鳴瀬が、波留の意外な進言に眉《まゆ》を顰《ひそ》める。ファウスリーゼはただ驚いていた。
「なぜそう思う?」
鋭く聞き返す鳴瀬の質問に、波留は意外そうな表情になる。『なぜそんなことがわからないのか』という顔だ。
「それはもちろん、ファウスリーゼが寂しがるから」
「さ、寂しくなんかない!」
ファウスリーゼが紅くなって叫ぶ。立つ瀬を失った波留が「えっ、そうなの……?」と間抜けなことを言う。
思わず反射的に否定してしまったけれど。
本当は、波留の指摘は的を射ていた。
(この子……)
ファウスリーゼは、戸惑《とまど》いをもって波留を見た。
(屍鬼であるはずなのに、どうして?)
屍鬼は、ある一点に於《お》いてのみ理性を失う。リリスを他の屍鬼に奪われないためならば、殺意さえ抱く。今まで、平素はどんなに理知的な屍鬼でもリリスであるファウスリーゼが絡めば理性を失った。
なのに波留は、ファウスリーゼの心と躰を独占した真木名をここに置いてもいいと言う。その優しさは、やはりあの『ナイトウケイ』という子供にそっくりで、ファウスリーゼの胸を締めつける。
だが、もしかしたら波留は子供ゆえに鈍くて、真木名のしたことにまったく気づいていないのかもしれない。だからこんな暢気《のんき》なことが言えるのかもしれない。ファウスリーゼはそう考え直した。
波留のその『理性』も、いつまでも保てるものではないだろう、と。
ファウスリーゼは一旦目を閉じ、再び瞼《まぶた》をあげて眸から迷いを消した。
「……わかりました。真木名は、この屋敷から出て行かせます」
鳴瀬はまだ少し、疑いを含んだ目でファウスリーゼを見ている。本来ならば決して猜疑心《さいぎしん》の強い性格ではないはずの鳴瀬に、そんな顔をさせるのは悲しかった。
「ただし、ドイツには行かせない。日本国内での、他のリリスの捜索《そうさく》に当たらせます。血を与えるための面会は、他の屍鬼たちと同じように、月に一度と定めます」
「適切かと思います」
鳴瀬もそこは妥協《だきょう》した。真木名を海の向こうに追放できれば一番いいのだろうが、面会さえ制限できればこれ以上気を揉《も》まなくて済む。
ファウスリーゼは用件を言い終えると、疲れた声で言った。
「これでいいでしょう。下がりなさい。少し眠りたいの」
「はい」
鳴瀬は素直に下がろうとしたが、波留は逆に食い下がった。
「ファス!」
名前を呼ばれても、ファウスリーゼは反応しない。ファウスリーゼのことをファスと呼ぶのは、波留と真木名だけだ。他の屍鬼たちは皆|牽制《けんせい》しあい、ファウスリーゼから許可を得ようともしなかった。
「ほんとに、それでいいの?」
心配そうに確認されて、ファウスリーゼはうっすらと微笑んだ。
「……いいの」
真木名を遠ざける。それが一番いい方法だし、屍鬼同士の殺し合いを回避させるためにはそれしかない。ならばもう、悩む余地はなかった。
鳴瀬と波留を部屋から出て行かせ、ファウスリーゼはベッドに顔を伏せた。このベッドでも、ファウスリーゼは真木名に抱かれた。
最初はただ、真木名のことが腹立たしくて憎らしいだけだった。ずっとそのままでいられればよかったと、今はただ悔やみながら。
ファウスリーゼは再び孤独に還《かえ》った。
夜半を待って、ファウスリーゼは真木名を自室に呼び出した。
「あなたには別動を命じます」というファウスリーゼの言葉にも、真木名は特に動じなかった。感情をこめずにファウスリーゼは淡々《たんたん》と告げた。
「護衛は、日本国内にいる他の屍鬼を代わりに呼び寄せます。あなたは他のリリスの探索に専念しなさい」
真木名はもともと、ファウスリーゼの護衛として古参であるアルノートの推挙《すいきょ》を受け屋敷にやってきた。各地に散らばるファウスリーゼの屍鬼たちの中でも、真木名ほど腕の立つ護衛はいない。それは保健室での一件でもわかる。真木名は確かに、ファウスリーゼの身の安全を保障する。他のリリスからの攻撃がある今、真木名を手放すのにはリスクが伴う。
それでも、仲間内で殺し合う危険を回避《かいひ》させるには他に方法がない。
燭台《しょくだい》の炎が、真木名とファウスリーゼの影を壁に描く。ファウスリーゼは真木名の目を見なかった。ただ真木名の、気配と影だけを感じ取ろうとしていた。
どうして、と自分でも不可解に思う。
他の屍鬼たちは皆、ファウスリーゼに優しすぎるほど優しい。あんな酷《ひど》いことをファウスリーゼに強いたりしないし、ファウスリーゼが望む通りになんでもしてくれる。
なのに自分が心を奪われたのは、真木名だった。
意地悪で強引で何を考えているのかよくわからない、真木名だけだった。
(趣味が悪い……)
ファウスリーゼは自分のことをそう思った。いくら容姿が端麗《たんれい》でも、真木名は独尊的《どくそんてき》な性格だ。屍鬼のくせに、決してファウスリーゼの思う通りにはなってくれない。ファウスリーゼの願いを叶える時は、必ず条件付きだ。
即《すなわ》ち、自分のものになれ、と。
(もしもわたしが、あなたのものになれば)
ファウスリーゼは一瞬だけ、逸《そ》らしていた視線をあげた。
(あなたはずっと、そばにいてくれるの?)
ファウスリーゼはもう、自分の心を知っている。本当は、真木名と離れたくない。
けれど自分が真木名以外の屍鬼を見捨てたら、彼らを飢《う》え死にさせることになる。真木名とともに歩み、時を同じくして他の屍鬼たちに血を与えることは不可能だった。必ず誰かが真木名を消そうとし、争いが起きるだろう。
真木名はいつになく真面目な声音で、最初に確認した。
「本当に、それでいいんだな?」
「ええ」
ファウスリーゼが即答すると、真木名はもうそれ以上、追及はしなかった。その冷たさも、他の屍鬼にはない真木名の特性だ。
「一つだけ頼みがある」
真木名が、ファウスリーゼに頼んだ。
「あのガキを貸してくれ」
「波留のこと?」
「そう。どうせ別動なら、リリスの骨について俺も調べたいことがある。そのために人手がいる」
ファウスリーゼは本当は、波留のことも手放したくなかった。波留は、真木名とは違う意味でファウスリーゼにとって大事な存在になりつつある。波留の柔らかさは、ファウスリーゼを癒《いや》してくれる。
しかし、今は真木名の願いを叶えたいとファウスリーゼは思った。こうして突き放すのだから、せめて一つくらいは。
「わかりました。連れて行きなさい」
「ああ」
それだけ確認すると、真木名はあっさりと背中を向けた。
「じゃあな。お姫様」
真木名は絶対に逆らうと信じていたのに。こういう時だけ妙に素直な真木名の態度に、ファウスリーゼはまた悲しくなった。どこまでも真木名は、ファウスリーゼの予想を裏切る。
「……大嫌い」
真木名が出て行ったドアに向かって、ファウスリーゼは小さく呟《つぶや》いた。それは自分の心を封じるための、大切な呪文だった。
◆◇◆
真木名が屋敷からいなくなり、ファウスリーゼにはまた長い日常が戻ってきた。真木名と出会う前の、平坦《へいたん》な日常だ。他のリリスが放ったのであろう屍鬼からの攻撃は、保健室での一件以来、まだない。
いっそまた屍鬼に襲われれば、真木名を呼び戻せるかもしれない。ともすればそんなことさえ考えるようになってしまった自分を、ファウスリーゼは否定し続けなければならなかった。
(そういえば、真木名に対しては怒ってばかりいた)
屋敷でも学校でも、考えるのは真木名のことばかりだった。
好きな人に対して、怒ってばかりの自分のことも嫌だった。本当は優しくしたかった。恋をしたことがなかったから、ファウスリーゼは好きな相手にどう接していいのかがわからなかった。
真木名がいなくなって、ファウスリーゼは元の無表情な、冷たい吸血姫《きゅうけつき》に戻ることができた。誰かの顔を見るだけで感情が乱れるようなこともなくなった。
真木名がいないなら、もう怒ることもない。泣くこともない。
そしてきっと、笑うこともない。
新しい護衛には、日本に滞在している中から元は警察官僚《けいさつかんりょう》だった高宮《たかみや》眞二《しんじ》が選ばれた。選んだのは鳴瀬だ。高宮は寡黙《かもく》かつ謹厳実直《きんげんじっちょく》で、出過ぎた真似は決してしない。ファウスリーゼもまた、他の屍鬼に接するのと同じように高宮に対して冷静に接することができる。
真木名が例外過ぎたのだと、改めて思う。
学校への送り迎えと校内での待機を高宮に任せ、ファウスリーゼは登校を続けた。古典教師として赴任《ふにん》していた真木名が急にやめたことについて、ファウスリーゼは同じクラスの生徒たちから質問責めにあった。意外にもクラスメイトたちからの評判は、高宮よりも真木名のほうがよかった。
真木名がいなくなって十日後。学校から屋敷へ帰宅したファウスリーゼを、鳴瀬が上機嫌で出迎えた。
玄関ホールでファウスリーゼのコートを脱がせながら、鳴瀬が耳元で伝える。
「お帰りなさいませ。ファウスリーゼ様にお会いになりたいという客人がおられます」
「……客人?」
ファウスリーゼは怪訝《けげん》な顔をした。この屋敷を訪れる者は、基本的にはファウスリーゼに造られた屍鬼だけだ。彼らは身内であって、客ではない。
鳴瀬の言い方と、珍《めずら》しいほどの機嫌のよさが不思議で、ファウスリーゼはそのまま客間へと向かった。客間に至るまでの間に、それが誰なのかを鳴瀬から教えられることもなかった。どうやら鳴瀬は、ファウスリーゼを驚かせたいらしい。
客間のソファに、二十代半ばほどの青年が座っていた。上等のスーツを着ており、雰囲気は少し鳴瀬に似ている。一瞬、鳴瀬の兄弟かとも思った。
「ファス……ファウスリーゼ・フォン・ザワークシュタイン?」
青年は制服姿のファウスリーゼを見るなり、立ち上がった。ファウスリーゼは怪訝そうな顔のまま、「ええ」と首肯《しゅこう》する。
青年は胸に手を当て、頬を紅潮させて名乗った。
「俺です。内藤《ないとう》渓《けい》です」
「……ケイ?」
ファウスリーゼはまじまじと、青年の顔を見た。ナイトウケイ。あの子供の名前だ。顔立ちにも少し、面影《おもかげ》がある。
あんなに会いたいと願い続けていた少年との再会なのに。ファウスリーゼはただ驚くだけで、すぐには喜べなかった。
「本当に、ケイなの?」
「うん。あまりにも時間が経ってしまったから、わかりにくいだろうけど。ええと、これ、覚えてる?」
ケイと名乗った青年は、シャツをはだけて右肩を見せた。そこには懐《なつ》かしい、火傷《やけど》の痕《あと》があった。ファウスリーゼに助けられる直前に、火事で負ったはずのものだ。自分で手当てをしたから、ファウスリーゼはよく覚えている。
(本物の、ケイ……)
ファウスリーゼはちらりと鳴瀬に視線を送った。ナイトウケイがここにいるのは、鳴瀬の差し金のはずだ。
(どういうこと?)
彼が本物のケイだとしたら、今のファウスリーゼを見て驚かないはずがない。ケイと暮らしたのはもう、二十年も前だ。当時九歳だったケイが、生きていたなら二十九歳になっているのは当然だ。
しかし、ファウスリーゼのほうは二十年前と変わらぬ少女のままだ。ケイが、そのことを疑問に思わぬはずがない。
ファウスリーゼはその質問を鳴瀬に無言でしたが、答えたのはケイだった。
「知ってたんだよ、ファス」
二十年前と変わらない、優しい目をしてケイは言った。ファウスリーゼのことを、初めてファスと呼んだのは彼だったことをファウスリーゼは懐かしく思い返す。
「最初に助けてもらった時から、気づいてた。ファスは人間じゃないんだろう?」
「…………」
ファウスリーゼは押し黙った。ケイには、知られたくないことだったからだ。けれどケイはむしろ、ファウスリーゼの正体を知って喜んでさえいた。
「ファスも俺を探していてくれたよね」
「……ええ」
確かにファウスリーゼは、ケイを探していた。けれど、もう再会することは諦《あきら》めていた。それに。
「……内藤波留という子を、知っている?」
「波留? いや、親戚《しんせき》にも知り合いにもいないな」
ファウスリーゼの質問に、ケイは首を振った。
(勘違《かんちが》い、だったのね……)
波留の父親は、ケイではなかったのだ。ファウスリーゼは、ケイの名前を音でしか知らなかった。波留の父親は『圭《けい》』といったが、本物のケイの名前は『渓《けい》』だったのだ。
ずっと捜《さが》しても見つからなかったケイが、どうして今になって急に名乗り出たのか、という疑問に、鳴瀬が答えた。
「私もファウスリーゼ様とは別に、内藤渓を探していたんです。それがあなたの望みだったでしょう?」
ケイが、鳴瀬の説明に付け足す。
「ずっとアメリカにいたんだ。最近日本に帰ってきて、俺を探してる人がいるっていうのを知り合いに教えられてさ。すぐにファスだって気づいた」
「わたしの正体を、知っていても?」
ファウスリーゼは微笑まない。懐かしい、誰よりも大切だった人を目の前にしても、もう笑えない。
「知っていて、ここへ来たの? どうして?」
「ファスが何者でもいいんだ」
詰問にも近い問いに、ケイは笑って答えた。
「またファスと暮らしたい」
その目には確信の光が満ちている。屍鬼たちと同じ、狂信者の目だ。
「ファス」
名前を呼んで、ケイがまた一歩、ファウスリーゼに近づく。その足元に、膝《ひざ》をつく。
「俺を、あなたの屍鬼にして」
ファウスリーゼは、自分よりもずっと大きく、凜々《りり》しく育ったケイの頭をじっと見下ろした。
「そしたらもうずっと、離れないでいられる」
それは誰よりも、ファウスリーゼが望んでいたことだ。望んで、求めて、諦め続けてきたことだ。
子供は屍鬼にはしない。
子供のままで時を止めるつらさを、ファウスリーゼは知っている。ケイはもう、子供ではない。
けれど、ファウスリーゼの中でケイは永遠に子供だ。永遠に、守るべき存在だ。子供は屍鬼にはできない。そのことをファウスリーゼは少し表現を変えて伝えた。
「生きた人間を、屍鬼にはできない」
「じゃあ今、ここで死ぬよ」
「ふざけないで」
ファウスリーゼは、ケイを睨んだ。
「あなたはもう大人なの。わたしの手が必要な年じゃないはず」
「冷たいね。ファス」
ケイが立ち上がり、寂《さび》しそうに微笑《ほほえ》む。
「あんなに優しかったのに」
最後までは聞かずに、ファウスリーゼは踵《きびす》を返した。客間から出た途端、鳴瀬が後を追ってくる。
「ファウスリーゼ様」
無視して廊下《ろうか》を歩き続けるファウスリーゼに、鳴瀬は進言した。
「彼を屍鬼にしてはどうです?」
「鳴瀬まで、何を言ってるの」
立ち止まり、今度は鳴瀬を睨みつける。すると、鳴瀬は。
「だってあなたは」
鳴瀬の目には、一点の曇《くも》りもない。彼の愛もまた、紛《まが》い物ではないのだ。
「ずっと、寂しかったのでしょう?」
鳴瀬は、真木名より古いファウスリーゼの理解者だ。ファウスリーゼがずっと押し隠してきた寂しさに、気づかないはずがなかった。
だったらどうして、真木名を追放したの。どうして真木名をそばに置かせてくれなかったの。
そう言いたいのを、ファウスリーゼはまたこらえる。
理由は明確だ。ケイは、鳴瀬と同じ目をしている。狂信者の目だ。彼ならば他の屍鬼たちと上手くやれる。ファウスリーゼの『お気に入り』にはなっても、ちゃんと自分の立場を弁《わきま》えて、ファウスリーゼを独占したりしないはずだ。だから鳴瀬は、彼のことは受け容れたのだろう。
鳴瀬は、ファウスリーゼの寂しさを紛《まぎ》らわせるための玩具《がんぐ》を調達したというわけだ。
真木名が追放されたのは、真木名が狂信者ではないからだ。彼は平気で禁を犯す。ファウスリーゼを独占することで、他の屍鬼たちを脅かす。
「すぐにお決め下さいとは申しません。内藤渓は、しばらくここに逗留《とうりゅう》させます」
そう告げて鳴瀬は一礼し、ファウスリーゼの前から去った。一人になったファウスリーゼは、唇を噛んだ。
懐かしさは確かにあるのに。
以前と同じようには触れられない。彼はもう子供ではないからだ。
(わたしも)
ずっと子供のままだと思っていた。この先さらに千年生きたところで、もう何も変わらないと諦めていた。
それを、真木名が否定した。
(もう、子供ではない、から)
ファウスリーゼはぎゅっと胸を押さえた。真木名に触れられた胸に。
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第六章 真夜中の花嫁
時を前後して、繻司《しゅじ》市中心部、深夜。
鄙《ひな》びつつもなんとか頑張っている店の連なる繁華街《はんかがい》を、波留《はる》は真木名《まきな》に連れられ歩いていた。制服姿で歩いたら補導されそうな場所だ。補導されそうになったら、今度はちゃんと助けてくれますよねと波留は何度も真木名に確認しておいた。
「ほんとにこんな場所に、リリスの骨があるんですかぁ?」
真木名に連れられた波留は、間延びした暢気《のんき》な声で聞いた。真木名の黒い服は闇《やみ》に溶けるようで、うっかりすると背中を見失いそうになる。真木名は大きなスポーツバッグを持っていた。
足早に、というより足の長さの差によって歩幅の差が生まれ、真木名に追いつくために波留は小走りにならざるを得ない。ちょこちょこと犬のようについてくる波留に、真木名が説明した。
「骨っつーか、これから骨になる予定のリリスがいるんだよ」
真木名|曰《いわ》く、体育館のあれとは別に、リリスの骨の在処《ありか》を知っている、これからもらいに行くからついて来い、とのことだった。
「そんなすごい情報、どこで仕入れたんですか」
「それは企業秘密」
真木名は平然ととぼけるが、ファウスリーゼが自分以外のリリスを必死で探していることは波留だって知っている。他のリリスの居場所を知っているならどうして真っ先にファウスリーゼに教えてやらなかったのかという波留の質問は、いとも容易《たやす》く封殺《ふうさつ》された。
「むかつくから教えてやらない」と。
(真木名さんがむかついてるのって、ファスに対してじゃなくて絶対|鳴瀬《なるせ》さんに対してだよなあ……)
真木名を追放したのは鳴瀬だ。真木名が手柄《てがら》を独占するために単独行動に出たとしても、なんら不思議はない。ちなみに今夜の作戦について波留は、「鳴瀬に知らせたら殺すよ?」と真木名から笑顔で脅迫されていた。
(なんつーか屍鬼《しき》って、共闘できないんだよね、仲が悪すぎて)
これじゃあファウスリーゼの気苦労も絶えないだろうと、波留だけは彼女に同情していた。
真木名は路地裏に犇《ひしめ》いている、古ぼけたビルの前で足を止めた。波留は真木名の後ろから、ビルを見上げた。
(如何《いか》にも不思議な現象とは無縁そうなビルだな)
灰色にくすんだビルには、幽霊は出てもファウスリーゼのような美貌《びぼう》の少女はいなさそうだった。中世の匂いのするあの屋敷とはまったく対極的だ。
(しかもここ、ヤクザ紛《まが》いの商売でのし上がったよそ者が買ったビルだから、地元の人間はまず近寄らない場所だ)
なぜそんな場所に? と訝《いぶか》る波留を連れ、真木名はビルの玄関ではなく、裏手に回った。
(裏口から入るのかな?)
波留もひょこひょこついて行くが、真木名は裏口どころか、窓の前に立って小さな機械を翳《かざ》し始めた。箱形の機械は、ピーと電波的な音を出して少ししてから静かになった。次に真木名は透明シールを窓に貼り、素手で硝子《ガラス》を打ち砕いた。シールのお陰でほとんど音もせず、破片も飛び散らなかった。
「ちょっ……!」
真木名の所作に、波留は当然|慌《あわ》てる。
「何やってるんですか、空き巣ですか!?」
「なるべくなら空き巣で済ませたいところなんだよ。声出すな。黙って来い」
破った窓を越えて、真木名はビルの中に入りこんだ。さっき機械を翳していたのは、警報装置をオフにさせるためだと波留にもやっと察せられた。
ビルの中に入ってもすぐには進まず、真木名はゴーグルをつけて蛇行《だこう》して進む。後ろからついてくる波留にも同じようにさせる。
「赤外線が張り巡らされてる。ルート指示するから、絶対に外れるなよ」
この人は仕事とか、一体何をしてる人だったんだろうと波留は訝った。
(警察……っていうより、軍隊?)
そういえば銃《じゅう》を持っていたし、ファウスリーゼの護衛も任されていた。そういう人が、なぜ自分なんかをこんな場所へ連れて来たのかが波留には不思議だった。
(人手がいるって言ってたけど、俺、明らかに足手まといにしかなってない気が……)
「ああ、そういえば」
慎重に、ゆっくりと先を行く真木名が、唐突《とうとつ》に言った。
「ここのボスの名前も、内藤っつったかな」
「あー、よくある名前ですもんね」
波留も適当に答えた。頭の中は、今していることに対する疑問でいっぱいだった。潜入作戦を実行する特殊部隊みたいでちょっと楽しくもあったが、楽しんでいる場合では絶対にないこともわかっている。
ビル内は酷《ひど》く荒れていて、人の気配がしなかった。なのに警報システムだけが厳重なのが不思議だ。
暗いビルの中で、真木名はいつになく饒舌《じょうぜつ》だった。
「おまえは、ファスを独占したいと思ってないのか?」
真木名の質問は、屍鬼として当然のものだった。屍鬼は、リリスを独占したがる。その欲望は、強い恋愛感情となって発露する。屍鬼ならば誰でも苦しむ感情だ。
しかし、波留は。
「いやー、正直思ってます」
いつもの、茫洋《ぼうよう》とした声で答えるのだった。
「ファスが俺を選んでくれるように努力はしてます」
「無駄だろ、そんな努力」
断言されて、波留は少しムッとした。構わず真木名が続ける。
「他の屍鬼どもはバカだから、律儀《りちぎ》にルールを守ってる。そんなにファスの躰《からだ》に餓《う》えてるなら」
真木名が、廊下《ろうか》の途中で足を止めた。
「攫《さら》って閉じこめてでも、自分のものにすればいい。そうは思わなかったか?」
「思わないです」
波留は即答した。
「そんなことしたら、ファスがかわいそうだ。ファスの嫌がることはしたくないです」
「ふうん」
興味なさそうに言って、真木名は再び進み始める。
「俺はあいつが俺以外の誰かのものになるなら、この手で殺すか閉じこめるかするね。現実的には閉じこめるほうだ」
「それも思わないです。死んでしまうくらいなら、他の誰かとでも幸せになってくれたほうがいい」
「おまえは変な屍鬼だ」
真木名が笑っているのが、気配で伝わってくる。
「屍鬼にしては、肉体的に弱すぎる。今まで見てきたファスの屍鬼は、全員が人間離れした力を持ってた。獅子を素手で殺せる程度の力はな。俺でもファスの造った屍鬼が相手なら、全力で殺らなきゃ多分殺られる。屍鬼っていうのは洩《も》れなくそういう『特典付き』になれるはずなんだ」
「それ、前にも言われたんですけど、なんで俺だけ非力なまんまなんでしょうねえ……」
その点については波留も不満を抱いていた。そんな力があれば、ファウスリーゼを守れるのに、と。
「そろそろ終点だ。喋《しゃべ》るなよ」
一方的に会話を始め、一方的に中断させて、真木名は鉄製のドアの前に立った。ドアの向こうからただならぬ気配を感じ取って、波留はごくりと喉を鳴らす。
真木名が、上着に隠していたホルダーから銃を抜く。
「目ぇ閉じて耳|塞《ふさ》いで、廊下の隅《すみ》にいろ。五分で終わる」
言われた通りに波留は廊下の隅へ走った。が、それより早く、真木名がドアを蹴《け》り開けた。
鼻を衝《つ》く腐臭《ふしゅう》が漏れ出した。以前|嗅《か》いだことのある、ヒト型ではない屍鬼が発する臭いだ。
「う、わ……」
目を閉じていろと言われたのに、波留は目を閉じていられなかった。目の前で火蓋《ひぶた》が切られた戦闘から、目が離せなくなった。
否、戦闘という表現が間違っていることを、波留はすぐに認めた。これは、一方的な虐殺《ぎゃくさつ》だ。
部屋の中にいた屍鬼は五体。いずれもヒトではなく、爬虫類《はちゅうるい》や両生類、それに狒狒《ひひ》に似た形態をしていた。ファウスリーゼによって造られた屍鬼たちを、波留は真木名と鳴瀬の二人しか知らないが、二人とも並はずれて容姿は端麗だ。この違いはなんなのかと、波留にはまた一つ疑問が増えた。
(俺だってチビだけど別に不細工じゃないし)
ちゃっかり自分を加えている間にも、戦闘は進む。真木名は銃を二丁用意し、両手で撃った。弾丸はきっと銀だ。それで心臓を撃ち抜けば屍鬼は死ぬ。銃にはサイレンサーがつけられているため、銃声はしない。
屍鬼たちも易々《やすやす》と殺されたわけではない。ある者は牙《きば》を剥《む》き、ある者は床を溶かす酸《さん》を吐き、またある者は鋭利な刃物のような触手でもって真木名に襲いかかった。が、そのどれも、真木名ははね除けるかかわすかした。
三体を銃で片づけて、二体を残したところで真木名は銃をしまった。どうするつもりなのかと見ていれば、真木名は屍鬼を蹴《け》り飛ばし、殴《なぐ》りつけ、最終的には素手で屍鬼の心臓を抉《えぐ》った。ボッ、と屍鬼の胸に拳大の穴が穿《うが》たれる。真木名の、拳によって。
「う……っ」
その光景の凄惨《せいさん》さに、波留は吐き気を催《もよお》した。ブチッ、ブチッ、と体組織が千切られる音がする。取り出した心臓を、真木名は片手で握り潰す。
真木名はそれを、笑いながら行った。波留は確信した。真木名は、戦闘を楽しんでいる。
心臓を潰された屍鬼も、撃ち抜かれた屍鬼も、ほどなくして灰になり雲散霧消《うんさんむしょう》した。
(リリスの骨をもらうって言ってたけど)
これじゃあもらうっていうより、盗《ぬす》む、否、もう少し正直に言うなら強奪する、という表現のほうが限りなく正しいと波留は呆《あき》れた。
五分もかからずにすべてを終えて、真木名は波留のもとへ戻った。
「お疲れ様です」
「前から思ってたけど」
真木名のほうも呆れ顔だ。
「おまえ、変な度胸はあるよな」
「いえ、まあ、慣れたというか」
ヒトならざる者たちの惨状《さんじょう》を見ても、まるで動じていない波留のことを真木名も少しは認めているらしい。
(なんかこういうのって目の当たりにすると、逆に感覚が麻痺《まひ》するんだよなあ)
決して怖くないわけではないけどと、波留は頬《ほお》を掻《か》きつつ本題に入った。
「あの、目的ってリリスの骨をもらうことですよね? それは見つかったんですか?」
「いや」
真木名は血に濡《ぬ》れた手で煙草《たばこ》を取り出し、火を点ける。
「ここにはいない。こいつらを造ったリリスは、別の場所に移動した」
「え、じゃあどうするんですか」
こんなに相手方の屍鬼を殺しちゃっていいんですかと、波留は変なことを心配した。相手が激怒して襲ってくるのではないかとか、極めて暢気なことを。
真木名は煙草を銜《くわ》えたまま喋った。
「もう一度確認するけど」
「なんです?」
「おまえ、ファスが好きか?」
「はい」
「ファスのためなら、なんでもできるか?」
「できます。それは、誓《ちか》えます」
なんでそんなことを今聞かれるのかはわからなかったが、それは波留の、偽らざる心情だった。それだけは誓えた。
まっすぐに答えた波留の頭に、真木名の手が乗せられる。
「よしよし、いい心がけだ」
「はあ」
なんの話なのかと訝りつつ、波留は大人しく撫でられる。
「つーことで、波留よ」
真木名の、頭を撫でていないほうの左手が動いたけれど、速すぎて波留には見えなかった。
「死ね」
「はい?」
最後の返事まで、間抜けだった。波留は最後まで、意味も理由もわからないままだった。
パシュ、と空気が抜けるような音がした。サイレンサーつきの銃口から発せられた音だ。腹部の真ん中に、熱湯をかけられたような痛みが走って、波留はそこを手で押さえた。奔流《ほんりゅう》のようにどっと血が溢れ出ていた。
「え……」
そのまま床に引き倒されて、後頭部を強打した。そのせいで、意識が霞《かす》む。完全に意識を失う直前。
波留の右腕の付け根に、また激痛が走った。
(……どうして)
いきなり「死ね」と言われたことよりも、強く。
どうして波留は『それ』を忘れていられたのかに、戸惑《とまど》った。
波留は、この恐怖を知っている。屍鬼よりも怖ろしいものを、一度見ている。
悪戯《いたずら》心で繻司山に分け入ったあの日。
波留は、黒い服を着た男に、崖《がけ》から突き落とされた。
嗤《わら》っている男の顔を、崖から落ちる直前、波留は確かに見ていたはずなのだ。
なのに、記憶が飛んでいた。頭をぶつけたせいなのか、或《ある》いは心理的な衝撃が大きすぎて思い出すことを無意識に拒否していたのか。いずれにせよ波留は、自分は足を滑らせて崖から落ちたと錯誤《さくご》していた。
あの日、足音もなく近づき、波留を襲ったのは、真木名だった。波留はその時、確かに真木名に恐怖していた。ヒトならざる姿をした屍鬼よりも、よほど怖ろしいものとして。
その一時間後。
屋敷の薔薇園《ばらぞの》では、ファウスリーゼが夜のティータイムを過ごしていた。いつもは一人で過ごすその時を、ファウスリーゼはケイといた。ケイがそれを望んだからだ。ファウスリーゼは最初|難渋《なんじゅう》を示したものの、結局はケイを説得するために応じた。
鳴瀬は茶の用意だけし、気を利かせて席を外した。夜の薔薇園でファウスリーゼと向かい合い、ケイは始終、上機嫌だった。
「鳴瀬って人からファスの居場所を聞いた時は、驚いたよ。まさかこんなに近くにいるなんて」
「どうしてケイは、里親のもとからいきなりいなくなったの?」
ファウスリーゼの質問に、ケイは一口紅茶を飲んでから答えた。
「ファスが俺を、よそにやったりするからだよ。俺はファスのそばでないと嫌だ」
「だったらどうして、わたしのもとに帰ってこなかったの」
「帰ってもまた、里親のもとに戻されると思ったから。でも結局一人じゃ生きられなくて、貨物船に密航《みっこう》した時に助けてくれたアメリカ人夫婦の養子になった」
ファウスリーゼは黙ってケイの話を聞いた。内容は、さっきこっそりと鳴瀬に確認したのとほぼ同じで矛盾《むじゅん》はない。
昔の面影《おもかげ》をそのまま残した眸《ひとみ》で、ケイはファウスリーゼを見つめた。
「いつか大人になったら、ファスを迎えに行こうとずっと思ってた」
ファウスリーゼも、それを夢見なかったわけではない。けれど今それが実現して、どうして素直に歓喜できないのか。理由はわかっている。真木名のせいだ。
ファウスリーゼの心はもう、二十年前の甘い夢の中にはいない。ケイの手が、白いテーブルの上でファウスリーゼの手に重ねられる。昔はあんなに小さかった手も、今ではファウスリーゼの手をすっぽりと包みこむほど大きい。
「俺、あの火事の時死んでもいいって思ってた」
大火災の中、ファウスリーゼに助けられた時。ケイは、確かに虚《うつ》ろな目をしていた。猛《たけ》り狂う炎にも、血みどろで争いあう屍鬼にも恐怖を示さなかった。
「施設にいた頃は、生きていてもつらいだけだったから。ファスは俺を迎えに来た天使かと思った」
「違うわ」
少なくとも自分が天使なんかじゃないことは確かだ。むしろ、天使とは真逆の、ヒトに不幸をもたらす存在なのだとファウスリーゼは言った。が、ケイの意見は変わらなかった。
「ファスは、それでいいの?」
畳《たた》みかけるようにケイが尋《たず》ねる。その声は昔と違うけれど、静かにファウスリーゼの胸に響く。
「いつまでもそうやって、閉じこもったままでいいの?」
「閉じこもってなんかいない」
決然と、ファウスリーゼは目をあげて言い返す。
「わたしには目的がある。屍鬼にしてしまった人たちを、人間に戻すという目的が」
「でも、屍鬼たちはそんなの望んでないんだろ?」
「それは……」
確かに、屍鬼たちは誰一人として人間に戻ることなど望んでいない。月に一度、ファウスリーゼに血をもらわないと生きられないということを除けば、屍鬼たちは人間よりもずっと強く完璧な存在なのだ。それに彼らは、自分が屍鬼ではなくなってファウスリーゼから離されることを何よりも怖れている。最後にとどめを刺《さ》すように、ケイが告げた。
「だったらそれは、ファスの独り善がりなんじゃないの?」
「…………!」
否定できずに、ファウスリーゼは一瞬口ごもる。が、ここであっさりと引くわけにはいかない。
「彼らは理性をなくしているの。自分にとって何が幸せなのか、わからないのよ」
「幸せなんて、誰かに決めてもらうことじゃないよ。自分で決めることだ」
ケイの意志は堅かった。有無を言わさぬ力強さで、ファウスリーゼに迫る。
「俺を屍鬼にして。ファス」
握られた手に、力がこめられる。痛いほどに。
「俺がファスをずっと守るよ。ファスだって俺のこと、捜してくれてたじゃないか」
ファウスリーゼはそれでも首を縦には振らない。
「俺と逃げよう。また二人で暮らそう」
「だめ」
短く、しかしきっぱりとファウスリーゼは拒絶した。ケイの目が、悲しそうに揺らぐ。
「どうしても?」
「ええ」
これ以上の話し合いを拒絶するために、ファウスリーゼは立ち上がった。
「屍鬼になることは、自分の意思をなくすこと。自分の命をリリスに握られてしまうこと。それは絶対に、幸せではないの」
「じゃあ仕方ないな」
意外なほどあっさりと、ケイは手を引いた。そして、薔薇園に響くような大きな声で叫んだ。
「真木名、いる?」
「……え?」
ケイが突然真木名の名を呼んだことに、ファウスリーゼは驚き、振り返る。ケイは続けて、薔薇園の茂《しげ》みに向かって言った。
「説得は失敗した。出てきていいよ」
(な、に……)
がさりと薔薇の茂みを揺らして、真木名が出てきた。いつからそこに隠れていたのか。
いつ戻ったのか。ファウスリーゼには何も知らされていない。もしかしてまた鳴瀬の差し金かとも思ったが、それは違っていた。
なぜなら鳴瀬は、血まみれで引きずられていたからだ。真木名の左手に。
鳴瀬は、気を失っていた。四肢に銀の杭《くい》を打たれ、どくどくと血を流していた。屍鬼は心臓を銀で貫かれない限り死なないが、同じく銀製の何かで心臓以外を傷つけられれば、死には至らなくても重傷は負う。
真木名は、死ぬ寸前まで鳴瀬を痛めつけたのだろう。
「…………!」
ファウスリーゼは反射的に、ポケットの中の発信装置を押した。近くの部屋には、同じく屍鬼である高宮《たかみや》眞二《しんじ》が護衛として控《ひか》えているはずだ。が、何度発信装置を押しても応答はない。きっと、鳴瀬と同じようにやられたのだろう。真木名の手によって。
「どういう……こと?」
ファウスリーゼはケイではなく、真木名に尋ねた。真木名にしか、聞きたくなかった。ファウスリーゼの心にはもう、真木名しかいない。
しかし真木名は答えない。いつもの薄い笑いを浮かべ、ただファウスリーゼを見ている。ケイが、真木名に対して親しげに言った。
「例のガキは?」
真木名は黙って、右手に持っていたスポーツバッグから何かを取り出し、石畳《いしだたみ》の上に投げた。それは肩から千切られた、人間の腕だった。もげた腕を包んでいる制服に、ファウスリーゼは見覚えがある。繻司《しゅじ》高校《こうこう》の制服だ。
(波留……!)
それが何を意味するのか、ファウスリーゼは瞬時に理解した。満面の笑みを湛《たた》えて、ケイが言う。
「これで邪魔者はいなくなったね」
「どういうことなの!」
ファウスリーゼはケイを無視して、真木名に掴《つか》みかかった。掴んだ真木名の上着は、べっとりと返り血に濡《ぬ》れていた。服が黒いせいで遠目からはよくわからなかった色だ。
ファウスリーゼは俄《にわか》に冷静さを取り戻し、自らのスカートの中に手を入れ、素早く銀製のナイフを手にした。リリスは屍鬼を超越する。ただの人間に対してはか弱い少女でも、リリスたるファウスリーゼは屍鬼に対しては最強を誇《ほこ》る。屍鬼は、生死に関わる究極の場面ではリリスの命令に逆らえない。
「動くな!」
強く念じてファウスリーゼは、銀のナイフを真木名の肩に目がけて突き立てようとした。四肢の間節のすべてを刺せば、一時的にでも屍鬼の動きは止められる。
しかし真木名は、容易《たやす》くその襲撃をかわし、逆にファウスリーゼを腕に捕らえた。
「え……」
簡単に掴まえられて、ファウスリーゼは真木名の腕の中で愕然《がくぜん》とする。
(どうし、て……)
いくら真木名が傲岸不遜《ごうがんふそん》な性格とはいえ、ファウスリーゼが本気になれば、創造主であるリリスには服従するはずだ。なのに、まったく効果がないのはなぜなのか。
ファウスリーゼは真木名を、新種の屍鬼だと信じていた。
そもそもその発想が間違っていたことを、最悪のタイミングで思い知らされる。
呆然とするファウスリーゼの手を、ケイが取る。その手の甲に唇《くちびる》を寄せて、ケイはねだった。
「俺の子を産んで。ファス」
「何を言ってるの!」
振り払おうとする手を、強く握られる。痛いほどに。
その目的を、ケイは口にした。
「俺は、リリスだよ。ファスと同じだね」
(う、そ……)
信じようとしないファウスリーゼの前で、ケイはリリスの証《あかし》を見せた。即《すなわ》ち、自分の屍鬼を呼び寄せた。
うぞ、と醜《みにく》い触手を蠢《うごめ》かせ、屍鬼が薔薇園を囲み始める。その屍鬼たちに、ファウスリーゼは見覚えがある。今までたびたびファウスリーゼを襲ってきた屍鬼たちだ。
(男のリリスなんて、いるの……!?)
屍鬼を『生む』存在であるリリスは、女であるはずだ。しかし、思い当たることはある。
(保健室で襲ってきた屍鬼は、女だった)
リリスは原則として異性しか屍鬼に変えられない。女のリリスなら男しか屍鬼にできないし、もし仮に男のリリスがいるのなら、女しか屍鬼にはできないだろう。
ケイがリリスなら、造られる屍鬼は当然女だ。
「俺は男だから、ファスみたいに完璧な屍鬼は造れないけど。下僕に使うなら、まあこんなものでもいいでしょ。保健医の先生みたいにレベルの高い屍鬼は、滅多にできないんだ」
こんなもの、と指さした先には、醜く姿を変えた屍鬼がいる。リリスが男であるせいか、『出来損ない』にしかなり得なかったのだろう。
「そして、残念ながら内藤《ないとう》渓《けい》っていうのは本当の名前じゃない。この火傷《やけど》も、ニセモノ」
ケイはそう言ってシャツを脱ぎ、火傷のケロイドをピッと剥がした。ケロイドは、シールでできたニセモノだった。
そして会話は原点に還《かえ》る。ケイの、『目的』について。
ファウスリーゼは当初、自分を狙うリリスの目的は、万能と呼ばれるリリスの骨であると確信していた。が、ケイはさっき、別のことを言った。
「あなたは知らないかもしれないけれど、リリスには生殖能力がないのよ」
強張った声で言うファウスリーゼの銀髪を、ケイは一房《ひとふさ》つまんで唇で触れた。
「ファスこそ知らないんだね。リリスは人間や屍鬼が相手では繁殖《はんしょく》できないけど、リリス同士ならできるんだよ?」
(そんなの、知らない……!)
ファウスリーゼは首を振った。そもそも彼女は、自分以外のリリスと出会うことさえ初めてなのだ。そんな仕組みを、知るはずもない。ケイはすでに、ファウスリーゼに夢中のようだった。屍鬼たちとは少し違う、狂気を湛えた目でファウスリーゼを見つめる。
「やっと見つけたよ。綺麗《きれい》なファス。俺の子供を、純血のリリスを産むのに誰よりも相応《ふさわ》しい」
「そんなものを造って、どうするの!」
「別に、どうも。自分の子供が欲しいって思うのに理由がいる?」
うっとりと、夢を語るようにケイは言う。
「ファスだけが俺の子供を産めるんだ。俺には未来永劫《みらいえいごう》、ファスしかいない」
「……さっきの話だけれど」
それ以上聞いていたくなくて、ファウスリーゼは話題を戻した。
「あなたがケイでないなら、一体誰?」
「俺の名前なら聞いても無駄。五百年もうろうろしているうちに忘れちゃった」
空惚《そらとぼ》けてケイは、真木名に意味深な視線を向けた。
「でも、本物の内藤渓ならそこにいるよ」
意味が、わからない、と。ファウスリーゼは、眸を瞬かせる。
「俺に名前と思い出を譲《ゆず》ってくれた、恩人だ」
衝撃で、頭が霞《かす》んだ。きっとまたケイは嘘《うそ》を言っているのだと思いたかった。
(真木名が、ケイ……?)
年齢はケイと合致する。けれど、年齢以外のすべてが、似ても似つかないのだ。
背後から抱きしめられているため、真木名の表情はファウスリーゼには見えない。一体今、真木名がどんな顔をしているのか。
真実を確かめる勇気が出なくて、ファウスリーゼは押し黙る。ケイは両手を差し伸べて、真木名の腕からファウスリーゼを奪おうとした。
「触らないで!」
ファウスリーゼは身を捩《よじ》り、その手から逃れようとする。意外にも真木名が、ファウスリーゼを守った。
「ちょっと待て」
「なんだよ?」
伸ばした手を真木名に振り払われて、ケイは不機嫌な声を出す。真木名は堂々と主張した。
「約束だろ。リリスを掴まえたら、真っ先に俺にやらせてくれるって」
(そんな約束まで……!)
真っ先にも何も、ファウスリーゼはとっくに真木名に犯されている。何を今さら言っているのかわからないが、あえて口にしたくもないから言わない。
ケイは、その約束を忘れていたか、忘れたふりをしていたのだろう。或《ある》いは実物のファウスリーゼを見て、真木名に貸してやるのが惜《お》しくなったのかもしれない。
「ただの人間であるおまえが抱いたって意味がない。ファスは俺の子供しか産めないんだから」
「約束は約束だ。守れよ。こんな綺麗な女なら、俺もやってみたい。どうせ俺がやったって孕《はら》みはしねえんだ。あんたは屍鬼じゃなくてリリスだから、ファスに対する変な独占欲もねえだろ」
(ただの、人間……?)
二人の遣《や》り取りよりも、ファウスリーゼはケイが真木名を『ただの人間』と言ったことが引っかかった。
「真木名は、屍鬼でしょう」
「あれ、まだ気づいてない?」
おかしそうに、ケイが嗤《わら》った。残酷《ざんこく》に。
「そいつ、ただの人間だよ。屍鬼なんかじゃない」
「それこそ嘘よ!」
だって、それじゃあ、とファウスリーゼは恐慌状態に陥る。リリスは、屍鬼に欲情するのだ。精気《せいき》を交換するために、屍鬼にしか欲情しないはずなのに。
「アルノートの奴に取り入って、信頼を得るのに三年かかった」
やっと真木名が、口を開く。
「自分そっくりに整形させた死体を造るのにも難儀《なんぎ》した。あんたが蘇《よみがえ》らせた俺そっくりの屍鬼は、すぐに俺が始末した」
ファウスリーゼを抱く腕に、力がこめられる。
「俺は、屍鬼じゃない。ただの人間だ」
(そんな……)
そんなの、あり得ない。だったら自分が真木名としたのは、なんだったのか。
屍鬼にしか欲情しないと思っていたのに。
ファウスリーゼは確かに、真木名の肉体に欲情した。真木名に、心を奪われた。
だったら自分はなんだったのか。それじゃあ本当に、ただの。
(わたしは……)
ただの淫乱《いんらん》ではないかと、ファウスリーゼは愕然《がくぜん》とした。屍鬼でもない男に、欲情したなんて、と。
ファウスリーゼを無視して、ケイは真木名に許可を出した。
「貸すのは、一度だけだぞ」
「ああ。一晩でいい」
交渉は成立し、ファウスリーゼは真木名によって、自身の寝室に連れ去られた。
引き裂いたシーツで手首を後ろ手に縛られ、ベッドに突き飛ばされてファウスリーゼは痛みに呻《うめ》いた。ドレスのスカートが捲《めく》れ、白い足が露《あら》わになる。初めて犯された時でさえ、ここまで乱暴にはされなかった。
自分にのしかかってくる真木名を、ファウスリーゼは罵《ののし》った。
「裏切り者!」
「ああ、そうだな」
真木名は相変わらず動じない。行為の惨《むご》さとは裏腹に、その声は優しい。
「裏切りついでに、もう一回くらい裏切ってもいいぞ」
「何を言ってるの!」
「本当のことを言うなら、助けてやるよ」
ファウスリーゼの顎《あご》を掴《つか》み、真木名は甘く誘惑する。いつも口にしていた願いを、こんな時まで口にする。
「愛してるって言ってみな。そしたらなんでも言うこときいてやる」
「誰が……」
涙声で、ファウスリーゼは叫んだ。
「誰が、あなたなんかに!」
「ふうん」
真木名の手が、ファウスリーゼの銀髪を梳《す》く。それだけでぞくりとした快感を感じて、ファウスリーゼは身を捩《よじ》る。
「この前は可愛く俺にしがみついたのに?」
「……ッ……」
保健室でのことを言っているのだろう。聞きたくなくて、ファウスリーゼは顔を逸《そ》らす。
「感じすぎてワケわからなくなって、自分から『入れて』って可愛くねだったくせに」
(違う……)
あれは、淫魔の触手であそこを弄られていたせいだ。そのせいで正気を保てなかったのだと、ファウスリーゼは言い訳したかったが恥ずかしくて言えなかった。
「今日もそういうふうにしてみろよ」
(違う……!)
リリスが屍鬼に欲情するのは、精気を交換するという意味で仕方がなかった。けれど真木名は、屍鬼ではなかったのだ。ファウスリーゼは、ただの人間に対してあんなにも恋い焦がれ、欲情してしまっていたということになる。
(どうして……!)
悪夢のようだった。真木名の正体がケイであったことも。真木名が屍鬼ではなく、ただの人間だったことも。
肩で息をするファウスリーゼを、後ろから真木名が抱く。ファウスリーゼの悲鳴が高くなる。
「嫌っ、もう嫌ああっ!」
「あんたが悪いんだよ」
優しい声で、真木名は責める。
「いつまでも嘘ばかりついてるから」
唇が、髪に触れる。
「夜だけは正直にさせてやるよ。いつもみたいに」
「うぅ……っ……」
動きを封《ふう》じられて、ファウスリーゼは呻いた。背後から抱えられ、ドレスの中に手を入れられ、胸をまさぐられる。ファウスリーゼはドレスを着る時は、ブラジャーをしていなかった。小さな胸は、レースがあればじゅうぶんに隠せた。
直接胸の突起をつままれて、自ずと息が乱れる。
(触らないで……!)
真木名に触れられると、変になる。淫乱なリリスの本性を暴かれてしまう。ファウスリーゼにとって、もっとも否定したい資質が。
真木名が暴こうとしているのはまさにそれだった。ファウスリーゼの感じる箇所など、真木名はもう知り尽《つ》くしている。特に弱い乳首を指の腹で転がし、硬く勃起《ぼっき》したそれを軽く引っ張る。もがく細い躰《からだ》を押さえつけて、ドレスのスカートに手を入れる。
「や……!」
太股の横から、指が下着の中に侵入してくるのをファウスリーゼは感じた。下着の中を、まさぐられる。程なくして引き抜かれた指には、ぬるりと熱く光る愛液《あいえき》が絡みついていた。真木名はそれをファウスリーゼに見せつけた。
「乳首だけでこんなに感じるんだ?」
「……く……っ」
ファウスリーゼは歯を食いしばり、顔を逸らす。そういう態度が真木名の嗜虐心《しぎゃくしん》を煽《あお》っていることにも気づかずに。
「俺に抱かれるの、嫌なんだよな? じゃあ今夜は、ここ弄《いじ》るだけで我慢してやるよ」
そう告げて真木名は、それから小一時間もずっと乳首だけを執拗《しつよう》に弄り続けた。合間に耳朶《じだ》を甘噛みされ、息を吹きかけられ、首筋に舌を這わされ、ファウスリーゼの躰は焦らされ続ける。
「ひぁっ……は……っ……」
感じたくなんかなくて、ファウスリーゼは懸命《けんめい》に首を振る。
(嫌なのに、どうして……!)
小さな膨《ふく》らみを揉《も》まれ、突起を弄られるたびにファウスリーゼの下腹部は熱く疼《うず》いた。胸とは関係ないはずの恥ずかしい少女の部分が、うずうずと痒《かゆ》いような感覚を伝えてくるのだ。自分のそこが、勝手に蠢《うごめ》いているのがわかる。どんなにきつく閉ざそうとしても、柔肉の割れ目からとろりとした熱いものが溢れてくるのがわかる。
やがて真木名は不意を衝《つ》き、再びファウスリーゼのスカートに手を入れ、恥丘《ちきゅう》の辺りをまさぐった。
「ひうぅっ!」
「すごい濡《ぬ》れ方だな」
真木名の指摘通り、ファウスリーゼの下着はもうねっとりと濡れていた。下着の中の熱い部分を、真木名は指で掻《か》き回す。ぬちゅ……と卑猥《ひわい》な音をたてて。
「まだここに入れられるのが嫌って言う?」
「い、やっ……!」
「じゃあ今日は、ここには入れない」
後ろ手に縛られたまま、ファウスリーゼはベッドに這《は》わされた。胸をぺたりとシーツに押しつけ、腰だけを高く掲げさせられる。
そのままの体勢でスカートを捲られ、下着を膝まで引きずり下ろされる。染み一つない雪のような双丘《そうきゅう》が、剥き出しにされる。
(嫌……後ろから、なんて……っ)
逃げようとして腰を揺すれば、余計に淫らがましくなる。
「丸見えだよ、お姫様」
「んうぅっ……!」
ファウスリーゼの全身が、かっと熱くなる。
見られているのがわかる。後ろから、全部。きっと全部暴かれている。恥知らずなほど濡れそぼった花弁も、いやらしく突き出た雌芯《めしん》も、全部。
それだけでは飽きたらず、真木名は柔らかな双丘に手を置いて、ぐっと左右に押し拡げた。
「やめてぇっ!」
ファウスリーゼは思わず叫んだ。そんなことをされたら、もっと恥ずかしい部分まで見られてしまう。
「言っただろ。全部見えてるって」
(やだ……っ……嫌……!)
何度も犯されたけれど、その部分だけはまだ真木名にもちゃんと見せたことがないのだ。それを、真木名は平気で蹂躙《じゅうりん》する。
「さすがにお姫様だけあって、こんな孔《あな》まで綺麗なもんだな」
「ひぃぁっ!」
尻の割れ目の奥の、慎《つつ》ましく閉じられた後孔の表面を、指でなぞられる。もっとも恥ずかしい小さな孔が、指で弄られるのを嫌がるようにキュンと縮こまる。
「綺麗《きれい》すぎて、人形みたいだ。あんた見てると、滅茶苦茶にしたくなる」
また不意に、冷たく濡れた何かで触れられ、ファウスリーゼは怯《おび》えを増す。
「な、に……っ……きゃああぁっ!?」
ヌルヌルとした粘液にまみれた指が一本、その孔に突き立てられた。痛みはなかったが、羞恥と衝撃は大きい。
「嫌っ、冷た、い……!」
ファウスリーゼは、性交用のジェルなんて知らなかった。後ろを向けないため、真木名が何をしているのかもよくわからない。それが余計に恐怖を煽る。
(どうしてっ!? どうしてそんなところを弄るの!?)
そこは、性器ではないのだ。たとえセックスの時だって、触れられていい箇所《かしょ》ではないはずだ。そう信じていたファウスリーゼの常識を、真木名は容易《たやす》く覆《くつがえ》した。
「お姫様の大事な場所には、入れさせてくれないんだろ?」
「あうっ……!」
つぷ……とまた少し指が深く入ってくる。
「だったら代わりに、こっちに入れさせてもらうよ」
(う、そ……)
入れる、というのは、真木名のペニスのことだろうとファウスリーゼは察した。そこは性器なんかじゃない。そんな太い、大きなものを入れられたら、裂けてしまうだろう、と。
「う、嘘、そんな、の、無理……!」
「だから今、慣らしてるんだよ。ちゃんと奥までぶちこめるようにな」
「い、ああぁっ!」
また指で掻き回される。今度は入り口ではなく、もっと深くまで。ジェルのぬめりを借りて、簡単に指が入ってきてしまう。
「嫌、やだあぁっ! やめてっ、やめてえぇっ!」
今度こそファウスリーゼは本気で泣き叫ぶ。そんな箇所を犯されるのは、絶対に嫌だった。
「じゃあどうする? ファス」
残酷《ざんこく》な取引を、真木名は続ける。
「嘘をつくのをやめて、俺のものになる?」
「…………ぅ………ぁ……」
心も、躰ももうとっくに真木名のものなのに。ファウスリーゼにはそれが言えない。今言えば余計みじめになる。
だからファウスリーゼは、小さくかぶりを振る。
「……だ、め……」
「あーそう」
「ひうううっ!」
突き立てられているのは、中指だった。骨張った男の指が、希有な美少女の羞恥《しゅうち》の箇所をさらに深く掘り下げる。
「男じゃねーから、前立腺《ぜんりつせん》はないんだよな。でも、ココはどう?」
「ひ、ぁっ!?」
後孔の中から、膣《ちつ》のある側を中指で擽《くすぐ》られ、ファウスリーゼはびくりと背筋を撓《しな》らせる。感じるはずがないと信じたかった快感が、早くも芽生えつつあった。
「奥までたっぷりジェルを塗りこんで、この強情な孔を揉みほぐしてやらないとな。ぶっ壊すのは趣味じゃねーし」
「アァ、う、んっ……!」
もう片方の手で前をまさぐられ、ファウスリーゼは痛みを忘れる。
「だ、めっ……りょ、両方、いじ、ったら、やあぁっ!」
ぷっくりと膨らんだ陰核《いんかく》が揉まれ、直後に指で割れ目をなぞられ、濡れた花弁の奥をつつき回される。時折花弁の奥にも指を入れられ、クチュクチュと出し入れされる。
「ふぁ、あぁ……っ」
ファウスリーゼは薔薇色《ばらいろ》の小さな唇を開き、我知らず甘ったるい息を漏《も》らした。
(だめ……とけ、ちゃう……)
ファウスリーゼの少女の部分は、もうとっくにとろけている。真木名と出会う前までは、濡らすことさえなかったのに。
ファウスリーゼは、初めて犯された時のことを思い出していた。今みたいに縛《しば》られて、何時間も舐《な》め回された。最初は気持ち悪いだけだったのに、最後は今と同じようにとろけてしまった。ぴっちりと閉じていた花弁は綻《ほころ》んで、いやらしい蜜《みつ》を溢れさせた。何度も突き立てられ、暴かれたせいで、固かった処女肉《しょじょにく》はもう襞《ひだ》まで柔らかくなってしまっている。
同じことを恥ずかしい後孔にまでされて、ファウスリーゼはたまらなくなる。肉孔の中から膣を押されて、感じ始めてしまっているのだ。
「あ、ァ……ッ」
暴かれていく感じが、確かにした。あり得ないと信じていた箇所に、冷たい外気を感じる。もうそれくらい、拡げられてしまった。
そして、その後には。
「お、願い、入れな、ぃで…………!」
真木名の手が、高く掲げられたファウスリーゼの尻《しり》を掴《つか》む。熱い肉杭《にくくい》が迫ってきているのを感じ取って、ファウスリーゼは懇願《こんがん》する。聞き入れられず、ぴとりと後孔に先端を押しつけられる。
「やだ……や、なの……お、尻、嫌っ……!」
逃げようとして振られる腰を引き寄せて、真木名はファウスリーゼの中に自身の肉杭を打ちこんだ。
「ひ、やああぁっ!」
ずくん、と後ろから突き上げられて、全身に痺れるような快感が拡散した。真木名が犯したのはファウスリーゼが怖れていた後孔ではなく、すっかりとろけた少女の部分だった。
「あぅっ……! ふ、うぅつ……ンッ……!」
ぬちゅくちゅと肉襞を掻《か》き回されて、気持ちよくて声が出る。無意識にファウスリーゼは、真木名に腰をすりつけそうになる。
そうして優しくファウスリーゼを堕《お》とした後で、もう一度真木名は迫る。
「言えよ。愛してるって」
「……や……っ」
それでも拒《こば》んだファウスリーゼの割れ目から、真木名は自身を引き抜いた。そして。
「きゃああぅっ!」
ずぐっ、と固い処女孔を押し開かれて、ファウスリーゼは悲鳴をあげた。後ろを、犯されたのだ。恥ずかしい排泄孔《はいせつこう》を。
「い、痛……ぃ……」
初めてのことはさすがに痛くて、ファウスリーゼが弱く喘《あえ》ぐ。が、それも束《つか》の間だった。
「あぅ……ふ、うぁぁ……っ」
塗りこめられたジェルのぬめりを借りて、ゆっくりと出し入れされると、固く狭い肉孔が徐々に肉棒に馴染《なじ》み始める。初めての時、肉襞にされたのと同じように、肉孔が馴染んでいってしまう。どうしようもなく淫蕩《いんとう》な資質が開花する。
真木名が、ふと嗤う。
「こんなところまでいやらしくて、可愛い」
「あぅっ……ふ、あぁっ……!」
硬くて熱い肉棒が、自分の中をねっとりとこすりあげるのをファウスリーゼは味わっていた。さっき指で暴かれた、膣の裏側に当たる部分を特に念入りにこすられて、声が抑えられなくなる。
「や、だっ、だめ、も、もぅ、だめえぇっ!」
このままされたら、後ろで達してしまう。あんなに嫌だった、恥ずかしい孔で達してしまう。それに抗《あらが》うファウスリーゼに、真木名がとどめを刺す。
「あきらめな。あんたはリリスだ。ただでさえ淫乱《いんらん》なのに、好きな男にされたらそりゃあ堕ちるの早いだろ」
「あ、う、あああんっ!」
また柔らかく性器を擽られ、ファウスリーゼは後孔で達した。指で弄られている割れ目から、大量の蜜を噴き上げた。まるで射精でもしているかのように、ピュッ、ピュッ、と愛液を飛ばしながら、きつい肉孔で真木名を締めつけた。
(こんな、躰……)
好きでリリスになったのではないのに。
ファウスリーゼは、絶望した。
◆◇◆
翌日の夜を、ファウスリーゼは囚人《しゅうじん》として迎えた。一体いつの間に用意したのか、ケイはファウスリーゼに純白のウェディングドレスを着せた。銀の髪や金の眸が純白に映《は》えて、輝くようだった。ファウスリーゼは常に、黒い服しか着ない。死んでいった屍鬼たちの喪《も》に服すためだった。無理矢理白い服を着せられたことにも、ファウスリーゼは悲しみを感じた。絶対に着ないと決めていた白を、それも花嫁衣装を着せられたことに。
「綺麗だよ、ファス。俺の花嫁」
真木名に捕らわれ、薔薇園に連れて来られたファスの手に、ケイは恭《うやうや》しく口づける。
ウェディングドレス姿の囚人は、そのままケイに引き渡された。ファウスリーゼはもう、抗わなかった。ただ一つ、ケイに条件を出したのみだった。
「わたしの屍鬼たちを、殺さないで」
屍鬼は、最低でも月に一度、リリスに面会し血をもらわないと生きられない。ファウスリーゼがケイだけのものになれば、彼らは遠からず死ぬ。だからせめて、月に一度彼らに会って、一滴の血を与えることだけは許して欲しい、と。
ケイはその願いを聞き入れた。
「いいよ。ファスの造った屍鬼はみんな優秀だからね。いい下僕になってくれるだろうし」
取引は成立した。ファスは震えることもなく、ケイの手を取った。
もともと屍鬼たちのために生きてきたのだ。どういう形であれ、彼らの命を保障できるのなら耐えられるはずだとファウスリーゼは自分に言い聞かせる。
隣には、真木名がいる。目を覚ましてからファウスリーゼは一度も真木名と目を合わせていない。だから真木名が今、どんな顔をしているか知らない。
ファウスリーゼが想像していた以上に、真木名は酷《ひど》い男だった。彼の言う「愛している」は、完全に嘘だった。屍鬼ではない彼が、そもそも自分を愛するはずもなかったのだとファウスリーゼは理解した。
(それでも)
夜の花園で、哀《あわ》れな花嫁は目を伏せた。
それでも自分は、初めて恋をしたのだ、と。
最悪の結末を迎えても、千年の間、否定してきた感情を芽生えさせた。それはもう否定できない、確かな真実だった。
(真木名が、ケイじゃなかったとしても)
ファウスリーゼは、きっと真木名を愛した。ケイの面影《おもかげ》など、真木名には微塵《みじん》も感じなかった。ケイと真木名は、少なくともファウスリーゼの中では完全に別人だ。それでも惹《ひ》かれずには、いられなかった。
ファウスリーゼは最後に一度だけ真木名の顔を見た。
「真木名」
気高く、静かにその名を呼ぶ。
「愛しています」
初めて真実を、口にした。今言わなければ、もう二度と言う機会はない。リリスとしての命がどこまで紡《つむ》がれるのかは彼女自身にもわからないが、この先何千年生きても、きっともうすることはないはずの告白だった。
だから言っておきたかった。真実を残したかった。それがいくら残酷《ざんこく》なものでも。
愛している、と言われても、真木名は変わらぬ無表情のままだった。彼は、屍鬼よりもリリスよりも人間的ではなかった。異形よりも異形の精神を持ち合わせた、人間だった。
真木名に対する告白を聞いたケイが、不機嫌さを露《あら》わにし、ファウスリーゼの長い髪を掴《つか》む。
「ご主人様の前で、他の男に告白? ゆうべのセックスがそんなによかった?」
侮蔑《ぶべつ》の言葉にも、ファウスリーゼは表情を変えない。もう、何を言われてもよかった。心はとうに凍《こお》っていた。
「……さようなら」
最後に別れを告げた。これでもう、思い残すことはない。ケイが、ファウスリーゼの手を引いてゆっくりと歩き出す。このままどこかへ連れて行かれ、閉じこめられるのだろう。そうしてそこで今度はケイに抱かれ、純血のリリスを産まされるのだ。
何もかもをファウスリーゼが諦《あきら》めたその時。
ガゥン、と空気が振動した。銃声だった。
「な……っ」
ファウスリーゼの手を引いていたケイの肩から、血が溢れ出す。リリスもまた、屍鬼以上に再生能力には優れている。銃で撃たれた傷など、すぐに塞《ふさ》がるはずなのにその血は止まらなかった。
(真木名!?)
てっきり真木名が撃ったかとファウスリーゼは振り向いたが、違った。真木名はさっきと同じように両手をポケットに入れ、二人を見送っている。
「誰だ!」
ケイが鋭く誰何《すいか》する。ケイの号令で、配下の屍鬼たちが夜の薔薇園に集まり始める。
真木名は肩を疎めて、皮肉っぽく嗤った。
「あーあ。やっぱり外しやがったか」
「む、無理です、いきなり射撃とかー! しかも左手だし! っていうか屍鬼怖い!」
「おまえも屍鬼だっつーの」
真木名は誰と会話をしているのか。ファウスリーゼはその声の主を探した。声は、薔薇の茂みからした。
右腕を失い、隻腕《せきわん》となった波留が、ケイの屍鬼たちに追われて茂《しげ》みから飛び出してきた。手には慣れない銃を握っている。
「波留!」
波留の姿を見て、ファウスリーゼは叫んだ。腕はなくしていても、生きてはいたのか、と。
真木名は右手を差し出して、波留に命じた。
「銃、こっちに投げろ」
波留は思い切り、銃を投げた。コントロールを狂わせたそれを、真木名は落下地点まで走って空中で受け取り、そのままま銃口をケイに向ける。
「貴様……っ!」
綺麗な顔を歪《ゆが》めてケイは、屍鬼たちを一斉にけしかける。真木名はそれを飛び越えて、ケイとの間合いを詰める。
「屍鬼は心臓を銀で貫かれたら死ぬが、リリスってのは不死身の化け物だろ?」
改めて真木名が指摘した。そうだ、とファウスリーゼは焦燥《しょうそう》に身を焦《こ》がす。
リリスは銀で心臓を撃ち抜かれても、首を切り落とされても死なない。屍鬼よりもずっと怪物じみているのだ。
(ケイと戦ってはだめ……!)
ケイはリリスだ。倒せない。殺される。だったらせめて、と庇《かば》いに飛び出す前に、真木名の銃口は火を噴いた。
「どうやったら殺せるのか、ずっと考えてたんだけどなあ」
心臓を狙《ねら》って放たれた一発を、ケイは超人的な動きでかわした。無駄だと嗤うケイの顔が、次の瞬間、歪む。
「やっぱり、これしかないよな?」
真木名は白い石灰石《せっかいせき》のようなものを石畳に散らし、それから自分の銃を指した。石灰石の正体を、屋敷から出てきた誰かが苦々《にがにが》しそうに言った。
「リリスの骨を、そんなことに使うとは」
鳴瀬だった。服は乱れて血で汚れ、四肢を不自由そうに引きずっているのは、昨夜銀の杭《くい》を真木名に打ちこまれたせいだろう。銀でやられた傷は、屍鬼とはいえ治るのに時間がかかる。
ファウスリーゼはそれで、弾丸の中身を察した。中身は火薬と、それから。
(リリスの、骨……?)
体育館の地下に眠るとされるリリスの骨は、まだ発見されていないはずだ。が、発掘は着々と進んではいた。では鳴瀬はそれを、ファウスリーゼに報告する前に真木名に奪われていたのか。
ファウスリーゼのその予想は、ほぼ的中していた。
ケイは顔を歪めたまま、肩から血を流し走り出す。当然背後からとどめを刺すと思われた真木名が、意外にも銃を下ろした。
「残念ながら弾切れだ。リリスの骨、さすがにボロボロでな。二発しか作れなかったんだよ」
逃げて行く男のリリスの背中に向かって、真木名は勝利を宣言した。
「人間は、もうとっくに屍鬼もリリスも超えてるんだよ」
呆然と石畳にしゃがみこむファウスリーゼに、波留が駆け寄る。
「ファス! 平気!?」
「……波留」
空っぽになってしまった波留のシャツの右腕部分に、ファウスリーゼはしがみついた。
「ごめんなさい、波留。ごめんなさい……」
波留が生きていたことが、うれしかった。けれど同時に、こうなるまで守れなかったことをファウスリーゼは詫《わ》びた。
「腕は、すぐに再生してあげる。二十四時間以内なら、どんな細胞でも再生させられる。だいじょうぶ、だいじょうぶだから……」
「い、いや、腕は平気だよ、俺、屍鬼だから」
残った左手を振ってファウスリーゼを励《はげ》ます波留の横で、真木名が告げた。
「そいつこそが、新種の屍鬼だ」
ファウスリーゼが、困惑に濡れた眸をあげる。
「人が進化するように、屍鬼も進化する」
その言葉に、真っ先に反応したのは鳴瀬だった。誰よりも屍鬼らしい屍鬼である鳴瀬が、きつく眉根《まゆね》を寄せる。
真木名はまっすぐに波留を指さした。
「そいつは屍鬼になっても、完璧に理性を保っている。それは進化であり、新種じゃないのか?」
「……あ」
ファウスリーゼははっと気づいた。今まで、目立たなさすぎて気づかなかったことに。
波留は、ファウスリーゼに対する異常な独占欲を制御している。屍鬼ならば当然|囚《とら》われるはずの狂気に、囚われずにいる。ヒトであった頃と変わらずに、ファウスリーゼの心を思いやることができる。そんな屍鬼は、確かに今までいなかった。
波留は、千年の間現れなかった『新種』だ。屍鬼と共存できる屍鬼なのだ、と。
波留のシャツを握るファウスリーゼの手に、力がこもる。真木名は波留ではなく、鳴瀬に告げた。まるで挑発するように。
「そんなガキにできることが、他の屍鬼には本当にできないのか?」
「おまえみたいな人間には、わからない!」
血を吐くような勢いで、鳴瀬は否定した。
「リリスの骨を、こんなことに使うようなおまえなんかに何がわかる!」
「仕方ないだろ。リリスを倒せるのはリリスだけだ」
まるで悪びれずに、真木名は言った。
「あんたがもっと早くリリスの骨を見つけてくれれば、小僧まで巻きこんであんな小芝居を打つ必要もなかったのにな」
「……ッ……」
鳴瀬はそれ以上何も言わず、その場を去った。それは仕方がないことなのだと、ファウスリーゼは目を伏せた。今までのことを考えれば、鳴瀬のほうが『普通』だったのだ。ましてやただの人間である真木名に、そんなことは言われたくないだろう、と。相変わらず真木名には思いやりがない。
「ごめんなさい……」
ファウスリーゼは、石畳に散った骨の残骸《ざんがい》を指で掻《か》き集めた。
(これがあれば、屍鬼たちを人間に戻せたかもしれないのに)
リリスの骨は見つかった。けれど、同じリリスを倒すための切り札として使われてしまった。もう一度見つけられる可能性は、高くはない。
項垂《うなだ》れるファウスリーゼに、真木名が気楽に提案をする。
「逃げてったあいつをぶっ殺して、骨をもらえばいいんじゃねえ?」
乱暴な提案に、ファウスリーゼは鋭く反駁《はんばく》する。
「そんなことができるわけないでしょう!」
「ていうかな」
へたりこんだファウスリーゼの前に、真木名がしゃがんで視線を合わせる。
「あんたが、人間になれば?」
突拍子《とっぴょうし》もないことを言われ、ファウスリーゼは目を見開く。真木名は本気のようだった。
「リリスであるあんたが人間に戻れば、あんたに造られた屍鬼たちも人間に戻れるんじゃねえの?」
(人間に……)
夢を見るような眸で、ファウスリーゼは真木名を見上げた。
考えたこともなかった。自分が、人間に戻れるなんて。
心配していたのは、自分の運命に巻きこまれた屍鬼たちのことばかりで。屍鬼に対する責任感だけで、千年を生きた。自分が人間に戻るなんて、思いつきもしなかった。
(でも……)
もしも再び、平凡な血の通う人間に戻れたとしたら。
(真木名と……いっしょにいられる?)
いつか死が二人を分かつとしても。
それは決して、不幸ではない。人として生きて死ねるなら、それは地上の営みだ。
その輪の中から弾かれ続けているのが、リリスと屍鬼だ。もしもまた、その輪の中に還れるのなら。
(真木名の子供を、産むことだってできる)
永劫《えいごう》と思われた孤独が終わる。
その想像は眩暈《めまい》がするほどの幸福を生み、ファウスリーゼの心を掻き乱す。
けれど問題は、当面、その方法がないことだ。同じリリスの骨を持つケイは逃げた。彼を捕まえたところで、彼を殺して骨を奪うことはファウスリーゼには考えられない。何があろうともファウスリーゼは、誰も殺したくはない。
「……どうやって?」
不安げに問う金の眸に、真木名の姿が映る。
「これから考える」
無責任に、しかし迷いなくそう答え、真木名は再度確認した。
「人間になりたいか?」
「……なりたい」
自然に、ファウスリーゼは答えていた。
「真木名と……ずっといたい」
「やっと言ったな」
真木名の腕が、ファウスリーゼの躰をきつく抱く。ファウスリーゼは初めて抗わずに真木名に抱かれた。
鳴瀬の前では言えなかったことも、波留しか見ていないならファウスリーゼは言える。波留はその我が儘《まま》を、許してくれるから。
(いやーでも、心から許してるってわけじゃないんだけどね……)
抱き合う二人の隣で、波留は苦虫を噛み潰したような顔をしているしかなかった。
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第七章 千年目の初恋
新たな夜を迎え、ファウスリーゼは真木名《まきな》だけを寝室に呼んだ。もっと詳しく、事情を聞くためだった。寝室にやって来た真木名は、ファウスリーゼの姿を見て意外そうに尋《たず》ねた。
「着替えてないのか」
「それどころじゃなかったから」
ファウスリーゼは白いウェディングドレスを着たままだった。昼間は鳴瀬《なるせ》を通して、世界各地に散らばる屍鬼《しき》たちへの連絡をするのに忙殺《ぼうさつ》された。ケイという新たなリリスの存在を、知らせないわけにはいかなかった。もしかしたら彼らの身にも危険が迫るかもしれない。
(鳴瀬は、納得していないみたいだけれど……)
表面上は冷静にファウスリーゼの命令を聞いていたが、鳴瀬の内心が今どのようになっているか、考えるだけでファウスリーゼは暗く沈んだ。
『そんなガキにできることが、他の屍鬼には本当にできないのか?』
真木名にそう言われたことが、今の鳴瀬を縛《しば》っているようだった。プライドの高い鳴瀬のことだ。そう言われれば、しばらくは我慢《がまん》するのだろう。それがいつまで続くかは不明だけれど。
ファウスリーゼは気を取り直し、真木名に事情を聞いた。
「あなたが裏切ってなかったことはわかったわ。でも、どうしてあんなことをしたの」
真木名のしたことはあまりにも過激で、残酷《ざんこく》すぎた。結果的にはうまくいったからよかったものの、ファウスリーゼを本気で絶望させたのも一度や二度ではない。
それに何よりも、ファウスリーゼを驚かせ、傷つけたのは。
「どうして……ケイだと、名乗らなかったの」
真木名が、自分があの子供であったのを隠し続けたことだった。一言、言ってくれたら済むはずのことなのに、と。ファウスリーゼの声が、悲しげに沈む。
真木名はファウスリーゼの傍《かたわ》らに立ったまま、平然と答えを口にした。
「あんたのことが、ちゃんと欲しかったから」
「理由になってない」
「なってるよ。だってあんたは」
真木名の指が、ファウスリーゼの長い銀髪に絡みつく。
「うじうじ悩む上に、俺を子供扱いするだろ」
「な……」
自分よりずっと大きな男に『子供扱い』と言われて、ファウスリーゼは面食らう。
それはファウスリーゼも気づかなかった、内藤《ないとう》渓《けい》の真実だった。
「むかついてたんだよ、保護者気取りで、初対面の時からガキ扱いされて」
「あ、当たり前じゃない! 二十年前は……!」
真木名こと内藤渓は、九歳の子供だったのだ。子供を子供として遇《ぐう》して何がおかしいのかと、ファウスリーゼは怒った。
「関係ねーよ」
抱きしめようとする真木名の腕から、ファウスリーゼは逃げようとする。
「初めて見た時から、俺の女にしようって思ってたし」
「性格が、昔と違いすぎる……!」
二十年前の真木名こと内藤渓は、優しくて無邪気《むじゃき》で本当に天使のような子供だったのだ。如何《いか》に二十年の時を経たとはいえ、豹変《ひょうへん》しすぎだとファウスリーゼは思う。
真木名はいけしゃあしゃあと、『種明かし』をした。
「ああ、それ、猫かぶってただけだから」
「……な……」
「あんた好きだろ、ああいう天使みたいなガキ」
ファウスリーゼは絶句した。たった九歳の子供に、騙《だま》されていたという事実に。今度は真木名が、本気で心配そうに聞いてきた。
「まさか、大人の男よりガキのがいいとか言わないよな?」
「知りません!」
「あっちのケイが言ってた俺の過去は、本当だ。うっかり密航なんかしたせいで、帰れなくなった。まあ帰れたとしても、すぐには帰らなかったけど」
「どうしてよ……?」
ファウスリーゼが悲しい声で聞く。本当はもっと、すぐにでも会いたかったのに、と。
「あんたがリリスだって、知ってたから」
幼いながらに真木名こと内藤渓は、恐るべき子供だった。
「あんたが納得して幸せになる方法は、『あれ』しかないだろ」
「…………」
それをずっと探していたのかと、ファウスリーゼは胸が痛くなった。ファウスリーゼが幸せになるという結末。それは恐らく、彼女自身が屍鬼ではない者を愛し、人間に戻ることだ。
その相手が屍鬼ではいけないことは、ファウスリーゼ自身が過去に幾度《いくど》も主張してしまっていた。屍鬼から与えられる愛を、ファウスリーゼは絶対に信じることができない。それは生存本能であり、愛ではないのだ、と。
だから真木名は、意地でも屍鬼にはなりたがらなかったのだろう。屍鬼になったら、ファウスリーゼの心は手に入らない。屍鬼でもないただの人間として愛されたことに意味があるのだ、と。
「言っただろ。人間はもうとっくに、屍鬼もリリスも超越してる。俺がその証拠だ」
真木名はシャツを脱ぎ、肩の火傷《やけど》を見せた。ファウスリーゼは今、初めて真木名の裸を見た。今まで服を脱がなかった理由は、これだったのかと切なく思った。
「燃え盛る児童養護施設で、初めて屍鬼を見た時はさすがに怖かった。だから俺は、あらゆる手段を身につけてそれを克服《こくふく》した。そうしないと欲しいものも手に入らねーしな」
欲しいもの、と言いながら、真木名はファウスリーゼの頬《ほお》を撫《な》でた。ファウスリーゼももう抗《あらが》わず、今さらながらに頬を染める。ただの人間に、あんなにも恋い焦がれ乱れたことを恥じる。
けれどそれは、ファウスリーゼの芯《しん》がまだ人間であるということの証《あかし》だった。
ファウスリーゼは共生する運命に縛られた屍鬼ではなく、人間に恋をした。自分では抑制できない、理不尽な感情に生まれて初めて翻弄《ほんろう》された。
不意に激情に駆られて、ファウスリーゼは真木名の頬を叩こうとした。今までのことに腹が立っていたせいもある。が、その手のひらは、すんでのところで止められた。
叩く代わりに、ファウスリーゼは真木名の胸に額を押しつけた。とくとくと規則正しい心音が聞こえる。生きた者の血が巡る音だ。
「キスしてくれるんじゃないのか?」
煽《あお》られてファウスリーゼは、意地になったように爪先で背伸びをし、真木名にキスをした。真木名が少し驚いた顔をする。まさか本当に、ファウスリーゼがキスをしてくれるとは思っていなかったのだろう。
「ン……」
唇《くちびる》を押しつけるだけの不器用なキスだった。もちろん真木名がそれに応じない手はない。ファウスリーゼがもう逃げないのをいいことに、真木名は好きなように柔らかな口腔《こうこう》を貪《むさぼ》る。
「ん、く……っ」
戸惑《とまど》いがちに、ファウスリーゼもそれに応じる。無理矢理されるのではなく、自分からするのは初めてだから、ファウスリーゼはこの先どうしていいのかわからない。
(いつもは……)
いつもはファウスリーゼが望まなくても、勝手に真木名がことを進める。が、真木名はキス以上のことをしようとはしなかった。
チュ……クチュ……と舌が絡まる音がする。その音とキスの感触だけで、ファウスリーゼは高ぶってしまう。無意識に、真木名に躰を寄せる。細い腕が真木名の背中に回され、白いドレスに包まれた小さな乳房が真木名の胸板に押しつけられる。
それでも真木名は、自分からはファウスリーゼに触れない。
「やぁ……っ」
キスの合間に、ファウスリーゼは身を捩《よじ》った。このまま抱いて欲しいのに、と。
(どうして、意地悪ばかりするの……)
前にもこんなふうに酷《ひど》く焦らされた。真木名は屍鬼ではないから、屍鬼のようにファウスリーゼの言いなりにはなってくれない。真木名が欲しかったら、口に出してねだるしかない。
それでも言いたくなくて、ファウスリーゼは乱暴に真木名の胸を押した。真木名は確信的に笑って、されるままになる。
「なんだよ?」
ベッドに押し倒され、ファウスリーゼに上に乗られて、真木名は悪戯《いたずら》っぽく聞いた。ファウスリーゼは耳まで紅く染め、怒ったような顔で告げる。
「きょ、今日は……」
今まで散々好き勝手にされたんだから、一度くらい自分が真木名を自由にする権利があると思った。
「わたしが、好きにするの……っ」
「ふうん」
真木名は別段、抵抗はしない。
「どうぞ、ご自由に」
真木名の許可を得て、ファウスリーゼは再び真木名に口づけた。それから広く平らな胸に、手を這《は》わす。
真木名にされてきたことをつぶさに思い出し、ファウスリーゼは躰《からだ》を熱くさせていた。早く真木名がしてくれればいいのにと焦れた。
(自分でするのは、嫌……)
いつも拒絶してばかりだったから、ファウスリーゼの羞恥心《しゅうちしん》はまだ残されたままだった。躰はこなれていても、心にはまだ深い躊躇《ためら》いが残されている。
いつまでもそうしてキスばかりしてくるファウスリーゼの手を、真木名が掴《つか》んで自分の下肢へと引き寄せた。ジーンズの固い布越しに真木名の性器に触れさせられ、ファウスリーゼは反射的に手を引こうとする。
「や……!」
「まどろっこしいんだよ」
怒っているふうでもなく、真木名が急かす。
「俺に言われなきゃ、何もできない?」
「…………」
ファウスリーゼは拗《す》ねたように、ぷいと顔を逸《そ》らした。機嫌を取るように、真木名が上体を起こし、ファウスリーゼの髪を撫《な》でながら頬に口づける。
「可愛い、ファス」
優しい声で言われて、ぴくんとファウスリーゼの肩が揺れる。頬の赤みが増す。
「俺はファスを好きなんだよ。俺は屍鬼じゃないから、生存本能だけでファスを好きになったんじゃない」
無意識にファウスリーゼは、真木名の胴《どう》を足で締めつける。
「ファスも、屍鬼みたいに精気を得られない、ただの人間である俺に欲情したんだろ?」
真木名の言うことは半分は真実だ。ファウスリーゼは、ただの人間である真木名からも精気を得ていた。もしも精気を得られていなかったら、ファウスリーゼだって真木名が人間なのだとすぐに気づくことができた。
真木名は人間なのに、特別だ。ファウスリーゼにとって、すべてが特別だったのだ。
「最初から、ファスは俺を好きだろ」
いつになく素直な真木名の告白に、ファウスリーゼはほんの少しの逡巡《しゅんじゅん》の後、こく、と小さく頷いた。長い髪で紅い顔を隠すように、俯《うつむ》きながら。
途端に真木名が、妙に平坦な声で呟《つぶや》いた。
「あー、やばい」
「……何……きゃ……!?」
スカートの中に手を入れられて、ファウスリーゼは腰を跳《は》ねさせた。
「今の、すげえ可愛い。俺のこと好きすぎて、こんなにヌルヌルにしちゃってるし」
「や、だめっ!」
下着の中にまで侵入されて、恥ずかしい秘部を指で確かめられて、ファウスリーゼは真木名の手を振り払った。
「わ、わたしが、するの……っ……真木名は、したらだめ……っ!」
ファウスリーゼの抵抗を、真木名は容易《たやす》く受け容れる。
「じゃ、早くして」
「……ッ……」
ファウスリーゼは意地になって、震える手で真木名のズボンと下着を下ろした。途端に大きな肉杭《にくくい》が、反り返るように頭を擡《もた》げる。
「や……っ」
ファウスリーゼは目を逸らす。もう何回も胎内《たいない》の奥にまで銜《くわ》えさせられたものだけれど、間近で見るのは初めてだった。
(こんな……大きいのが……)
自分のあそこに入っていたことが、ファウスリーゼには信じ難かった。少女のままで時を止めたファウスリーゼの躰は華奢《きゃしゃ》で、どこも小さい。真木名の性器は、ファウスリーゼの躰には大きすぎるようにしか見えない。
けれどそれが、もう何度も自分の中に入れられたことを、ファウスリーゼは覚えている。自分の躰がどんなふうに拓《ひら》かれて、どれくらい奥までこの太いもので犯されたのか。
「ここ、触って」
手を掴まれ、そこに触れさせられてファウスリーゼは逃げ腰になる。
「してくれないなら、俺が勝手にやっちゃうけど?」
また急かされて、ファウスリーゼはふるりとかぶりを振った。頬を紅潮させ、長い睫毛《まつげ》を伏せて、ファウスリーゼはなるべく考えないようにしながら真木名のペニスに触れた。
白く小さな手のひらに、熱いものが触れる。
「ここ、いつもファスの中の気持ちいいところに当たってるのわかる?」
考えないようにしていた淫《みだ》らな記憶を、真木名が呼び起こす。ファウスリーゼは目を閉じたまま震えた。
(いつも、意地悪されてるところ……)
ファウスリーゼの狭い肉孔の中にある敏感な箇所は、初めての時に真木名の指で探り当てられた。一晩中|弄《いじ》り回されて、泣きながら喘《あえ》がされた箇所だ。小さな蜜孔の上部で、比較的浅いところ。そこの部分の内壁を指で執拗《しつよう》に弄られて、ファウスリーゼは少年が射精するように大量の蜜《みつ》を漏《も》らした。同じことを指ではなく、もっとずっと太い真木名の雄蘂《ゆうずい》でされた時は、恥さえ忘れて真木名にしがみついた。
記憶が蘇《よみがえ》るにつれ、ファウスリーゼの躰は素直になる。陰茎《いんけい》を握る小さな手のひらに、きゅっと力がこめられる。
「そのまましごいて」
「……ン……ッ」
まだ目を閉じたまま、ファウスリーゼは軽く手を動かした。どくどくと脈打つ茎《くき》を包み、上下にしごくと、真木名のそれはさらに硬くなった。
素直になったファウスリーゼに、真木名の要求はエスカレートする。
「ここにキスして」
「……えっ……」
思わず目を開いて、ファウスリーゼは真木名が「ここ」と指摘した部分を見てしまった。瞬間、金色の虹彩《こうさい》が恥ずかしそうに潤《うる》み、顔を逸らそうとして首が振られた。銀色の髪がさらりと揺れる。が、真木名が引くはずもない。
「今日はファスがしてくれるんだろ? さっきそう言ったよなあ?」
「……ぅ……」
そこまでするとは言っていないと、ファウスリーゼは言葉に詰まる。今までも、真木名がファウスリーゼの口唇《こうしん》を犯そうとしたことは何度もあったが、ファウスリーゼは絶対にそれだけは拒《こば》んできた。男の陰部《いんぶ》に口をつけるなんて、プライドの高い吸血姫《きゅうけつき》には受け容れ難いことだったからだ。
「ファスは俺の花嫁なんだから、全部くれてもいいんじゃねえ? 俺もファスに全部やるよ。俺は全部、ファスのものだ」
(真木名が、わたしの……?)
その言葉は、ファウスリーゼの固かった心を開かせた。本当は、ずっと真木名が欲しかった。心も、躰も、魂《たましい》も骨も、真木名の全部が欲しかった。
それが自分の一部だと思えば、嫌悪感は和《やわ》らいだ。長い銀髪を揺らして顔を傾け、ファウスリーゼは真木名の屹立《きつりつ》に顔を近づける。
紅い唇が、浅黒いそれに怖ず怖ずと触れた。初めて真木名が少しだけ、息を乱す。ずっと自分を拒んできた気高い吸血姫が、自分のものにキスをしているという状況に興奮したのだろう。
(真木名も、気持ちいい、の……?)
どんな時も本音を見せない真木名が、ほんの少しだけれど息を乱したことが、ファウスリーゼを煽《あお》った。ファウスリーゼは長い銀髪を掻《か》き上げ、目を伏せてさらに強く真木名の先端に唇を押し当てる。
「ン……ッ」
唇からはみ出した舌が、ちろりと先端のくびれに触れた。真木名のそれが、また大きくなるのが伝わってくる。
命じられたわけでもないのに、ファウスリーゼは大胆に舌を差し出し、屹立の先端を舐《な》め始めた。紅い舌が、ぬるぬると亀頭の辺りで蠢《うごめ》く。
(おいしい……)
淫蕩《いんとう》なリリスの資質が、開花しつつあった。唇で味わうたびに、ファウスリーゼの下腹部も熱くなった。白いレースに隠された少女の源泉は、すでにとろけきっている。少し腰を動かすだけで敏感な部分が布でこすれ、それだけでファウスリーゼは達しそうだった。溢れすぎた愛液は、下着を濡《ぬ》らすだけにとどまらず、すでに溢れて太股にまで伝い落ちてきている。
ファウスリーゼは躊躇いながらも、自分のスカートの中に手を入れた。ぐっしょりと濡れたそこを、自分で慰《なぐさ》めてしまいたかった。が、真木名がそれを阻止《そし》して、ファウスリーゼの口を自身から離させる。
「や、ん……っ」
我知らず不満そうな声が、ファウスリーゼの口から漏《も》れていた。真木名はいつもより性急な仕草《しぐさ》で白いドレスのスカートに手を入れ、下着をむしり取る。
「自分で入れて、ファス」
「んっ……」
いやいやをするように首を振りながらも、ファウスリーゼは真木名の胴を跨《また》いだ。下腹部はドレスの裾《すそ》で隠れて見えない。それはファウスリーゼにとっては幸いだった。恥ずかしい結合部分を見られないで済む。
(多分、ここ……)
ファウスリーゼは手を使わずに、真木名のペニスの上に腰を下ろし、花弁の中に呑みこもうとした。が、自分でしたことのないファウスリーゼには、上手く位置が定められなかった。
呑みこもうとして失敗し、ファウスリーゼは濡れそぼつ割れ目を肉杭《にくくい》でこすられた。
「きゃぅっ!」
花弁と、その上部の小さな尖《とが》りまでをも硬いものでヌルッとこすられて、ファウスリーゼは愛らしい悲鳴をあげる。爪先まで痺《しび》れそうな快感が、こすられた部分から拡散する。
(だ、め……あそこ、こすらないように、入れな……きゃ……)
酩酊《めいてい》したように滲《にじ》む思考の隅《すみ》で、ファウスリーゼはそう決めたものの、二度目もまた同じように失敗した。ぬめりすぎてしまった花弁のせいで。
「ふぁっ……!」
「すっごい生殺しなんだけど」
ファウスリーゼの下で、真木名が不満そうに告げる。ファウスリーゼは首を振るばかりで、答えない。
「……ア……く……っ」
ようやく小さな真芯で真木名のものを捉えたものの、それ以上は腰を落とせなかった。今頃になってファウスリーゼは気づいたのだ。
(このまま入れたら……奥まで、届いちゃう……)
この前保健室で、子宮まで突かれたことを思い出して、ファウスリーゼは身震いした。心が感じている畏《おそ》れとは裏腹に、密着して歪《ゆが》んだ柔肉からはまた蜜が溢れ出し、真木名の陰茎《いんけい》をとろりと濡らす。
「んぅ……っ」
早く入れないと、と思うのに、奥まで突かれるのが怖くて動けない。膝立ちで、中途半端なまま震えるファウスリーゼの華奢《きゃしゃ》な腰を、真木名の両手が掴んだ。
「やあぁぁっ……」
ゆっくりと腰を落とされて、ファウスリーゼは甘ったるい泣き声をあげた。スカートの中で、真木名のものがファウスリーゼの蜜孔《みつこう》の中へ沈んでいく。きつい襞《ひだ》を目一杯まで拡げさせられても、ファウスリーゼのそこは裂けもせずさらに柔らかく真木名に絡みつく。
(もっと、奥まで……)
さっきとは矛盾《むじゅん》したことをファウスリーゼは願っていた。最初から激しくされた所為《せい》か、ファウスリーゼの躰は緩慢《かんまん》な愛撫《あいぶ》に対して堪《こら》え性がない。
真木名はファウスリーゼの腰を押さえ、半分まで入れさせると、その手を離した。
「息吐きながら、腰落としてみな」
「は……ぅ……」
震えながらファウスリーゼは、真木名の胸に両手をつき、言われた通りにした。息を吐くと、躰の芯が弛緩《しかん》して受け容れやすくなることは今までの経験で覚えていた。
「はぁ、あんっ!」
ぐっ、と太い部分が、子宮口にまで届いた。子宮を押し上げられるような感じがして、ファウスリーゼはプラチナ色の髪を振り乱す。真木名はゆっくりと、ファウスリーゼのスカートを捲《めく》り上げる。
純白のウェディングドレスの中は、酷《ひど》く猥褻《わいせつ》な状態になっていた。まだ半分子供のような割れ目が、淫《みだ》らにヒクつきながら太いものを呑みこんでいるのだ。
真木名は満足そうにそこを眺め、指を伸ばした。
「根元まで入ってるな」
「いゃっ……」
拡げられた花弁の縁を指でなぞられて、ファウスリーゼは腰を振る。その動きの所為で真木名を銜えこんだ肉襞が捩《よじ》られ、クチャッといやらしい音を奏でる。その動きが気に入ったのか、真木名はさらに、暴かれたピンク色の粘膜《ねんまく》を探った。小さな孔の上部にツンと突き出している可愛い芽を、くっと指で押す。
「や、だめぇっ……!」
また腰が左右に振れる。熱くとろけきっていても、ファウスリーゼの中はまだきつい。躰自体が小さいのだ。その小さな躰を目一杯に拡げられ、健気に真木名を受け容れている様は真木名の嗜虐心《しぎゃくしん》を煽った。
真木名はファウスリーゼに、ウェディングドレスの裾を銜えさせた。
「銜えてろよ」
「ン……」
ファウスリーゼは素直にそれに応じた。布を銜えることで、喘ぎ声を殺したいという意図もあった。
「ここ、弄りながらしてみな」
真木名の手が、ファウスリーゼの手を結合部分に導く。熱湯に触れたように、ファウスリーゼが手を引こうとするのを止める。
「俺にされるのはやなんだろ? だったら自分でしろって」
「う……っ」
ファウスリーゼが真木名によって触れさせられたのは、さっき真木名が悪戯した淫核《いんかく》の膨《ふく》らみだった。押しつけられたファウスリーゼ自身の指先に、コリッと硬い感触が当たる。
「う……ンッ……」
ドレスを口に銜え、真木名自身を蜜口で銜えながら、ファウスリーゼはそろりと自分の淫核を弄った。本当は真木名にされたいのに、言えなかった。
「う、ふ……っ……」
快楽の芯は包皮を突き上げて硬くしこり、少し触れただけでも電流を流されるような快感が走った。ファウスリーゼが真木名に弄られて、初めて快感を覚えた箇所だ。
「ン、ふうっ……」
硬い雌芯を、自らの愛液でぬめる指でコリコリと押すと、真木名を包んでいる内襞が呼応するように真木名に吸いつく。淫魔の本領であるような、精液《せいえき》を搾《しぼ》り取るような淫らな蠢きだ。
「……ッ……!」
自分でさせておきながら、真木名は思わずファウスリーゼの腰を掴み上げ、陰茎を引き抜いた。口に銜えていたスカートをはらりと落として、ファウスリーゼは淫らに口走った。
「やあ、ぁ……抜かな、ぃで……っ!」
「……ん。ちょっと待ってな」
真木名の息が、隠しきれないほど乱れている。手玉にとって弄《もてあそ》んでいたはずの少女にいかされそうになって、初めて少し焦ったのだろう。
もう一度ファウスリーゼを上に乗せ、深くまで入れさせる。一度奥まで拡げられた蜜孔は、今度は躊躇うことなく根元まで真木名を含んだ。
「ンン……ひっ……」
入れたままの体勢で胸の膨らみを掴まれて、ファウスリーゼは真木名の手首を片手で掴んだ。
「や、胸、だめ、ぇ……っ」
躰の中に導火線を通されたようだった。真木名に弄られている乳首と、真木名を銜えている性器から湧き起こる快感が、子宮に伝わる。性器全体がヒクヒクとわなないて、銜えこんでいる肉棒に絡みつく。
「そろそろ自分で動けねえ?」
「や……っ」
真木名の要求に、ファウスリーゼは応じなかった。
「まだ……もっ、と……」
まだ終わらせたくない。もっとこうしていたい。もどかしいけれど、いつまでも真木名を感じていたい。ファウスリーゼはそう願ったが、真木名のほうは限界だった。
真木名が、急かすように意地悪をした。
「ひぁっ……!?」
後ろに手を回され、性器ではない孔に触れられて、ファウスリーゼは腰を浮かせる。弾みで銜えていたペニスが、ずるりと半分ほど引き抜かれる。
「やぁっそこ、触ったら、だめ……っ!」
「あんまり我が儘《まま》言ってると、またこっちに入れるけど?」
「嫌ぁっ……!」
恥ずかしい後孔に入れられた時のことを思い出し、ファウスリーゼは逃れるように腰を動かした。途端に、焦らされきった肉襞《にくひだ》が剛直でこすられる悦びを伝えてくる。
「ひぁんっ! ア、あんっ!」
追いつめるように後孔を悪戯されながら、ファウスリーゼは腰を上下させた。腰を打ち付けるたびに、つながっている箇所からくちゃっ、ぺちゃっ、と淫靡《いんび》な音がする。
最初は後孔を苛《いじ》める指から逃れたいだけだったのに、もう止められない。
(気持ち、いいの……)
ファウスリーゼはうっとりと目を閉じて、胎内《たいない》に含んだ真木名の感触を味わった。ねだるようにヒクつく襞をねっとりとこすりあげられて、ファウスリーゼももう限界に近い。
真木名が、また結合部分を指でまさぐった。
「ふあぁっ……」
快楽の芯をつままれ、肉棒を含んで目一杯まで拡げさせられた花弁の縁を指でなぞられて、ファウスリーゼの口からとろけそうな声が出る。やはり自分でするより、真木名にされるほうが気持ちよかった。
「んぅっああぁっ……!」
ぬちゅっ、くちゅっ、と二、三度強く襞をこすりつけて、ファウスリーゼは達した。そのまま真木名の腕に倒れこみ、真木名に縋《すが》りついてキスをした。
「ン……ンッ……」
自ら舌を絡めてくるファウスリーゼの髪を、あやすように真木名が梳《す》く。
「だめっ……まだ、抜かない、で……っ」
「ほんとに」
いつまでも甘えるファウスリーゼに、真木名が囁《ささや》く。
「セックスの時だけは素直なお姫様だよなあ」
「んぅっ……」
つながったまま体位を変えられて、膣《ちつ》の中が軽く捩られる感触にファウスリーゼがまた甘く啼《な》く。
「昼間もそういうふうにしてくれよ。結構傷つくんだよ、あの態度」
ファウスリーゼは聞こえないふりをする。今度は前から入れられて、真木名に四肢を絡ませる。
「ふぁ……ん……っ」
「一回出させろよ。それからまた、中で大きくしてやるから……」
「あんっ……ン……あ……」
ひときわ膨らんだ怒張に襞肉を拡げられながら、ファウスリーゼは胎内で真木名の精液を味わった。そのまま動かされて、白濁液と混じり合った淫液《いんえき》が媚肉《びにく》からぴちゃくちゃと弾ける。
「……き……好き……真木、名……だいす、き……」
絶頂の合間に、ファウスリーゼは何度もそう言っていた。そのまま朝まで抱き合って、ファウスリーゼは真木名の腕の中で幸せな眠りに落ちた。千年間、味わうことのなかった安らかな眠りに。
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終章 リリスの魔法
校庭に、桜《さくら》が葉陰で幾何学《きかがく》模様を描く。花弁を舞い散らせてからずいぶん経った桜はすっかり葉桜だ。もうすぐ夏が来る。蒸し暑くなり始めた窓際の席で、内藤《ないとう》波留《はる》は机《つくえ》にぺたりと顔を伏せていた。
「何寝てんだよ。昼飯買いに行かなくていいのか?」
波留と一番仲がいい古田《ふるた》智宏《ともひろ》が、波留の頭を小突く。波留は気のない声で答えた。
「いらない」
「んじゃ先行くよ」
「焼きそばパン買ってきて」
「いらないんじゃなかったのかよ」
文句を言いつつも小銭を受け取り、パンを買ってきてくれる人のいい古田だった。
「パシリじゃねーんだから、今日だけだぞ」
古田がそう念を押して買ってきたパンを、波留は机に突っ伏したまま食べた。通りかかった初瀬《はつせ》紀香《のりか》が、「虫みたいな格好でごはん食べるのやめなよ」と容赦《ようしゃ》のない言葉を投げかける。そういう初瀬紀香に、波留は昨日告白された。返事はまだしていない。
パンを食べ終えると、波留はおもむろにポケットを探り、小さな瓶《びん》を取り出した。瓶の中には、ルビーが一粒《ひとつぶ》、収められている。
波留はそのルビーを、瓶の中で転がした。
(これ飲まないと俺、死んじゃうんだよなあ……)
早く飲まなきゃなと思いつつ、なんとなく踏ん切りがつかない波留だった。右腕の付け根が、しくしくと痛んだ。ファウスリーゼに再生してもらって一ヵ月が過ぎたが、完全に元に戻るにはあと二ヵ月くらいかかるらしい。
ファウスリーゼは今、真木名《まきな》とともにどこか違う街にいる。それが日本国内なのか海外なのかは、波留にも知らされていない。
腹を撃ち抜かれ、腕を切り落とされた直後に波留は真木名から聞いていた。ファウスリーゼも知らなかった真実を。
真木名と、波留の父である圭《けい》が幼少期を過ごした北川《きたがわ》児童《じどう》養護《ようご》施設《しせつ》は、普通の児童養護施設ではなかった。真木名の弁によれば、屍鬼《しき》及びリリスを人工的に造るための実験場だったという。所長の名前は内藤《ないとう》桂《けい》。すでにあの火災によって死んでいた。施設内で身元のはっきりしない子供たちは皆、「内藤」姓を名乗らされていた。要するに「ナイトウ」は、波留の父と真木名《まきな》の他にも数名いたわけだ。
所長である内藤桂が、いつ如何《いか》なる手段でリリスと屍鬼について知ったのかは杳《よう》として知れない。施設での実験は、そのほとんどが失敗で、成功した例はなかったという。
その中には、人間を屍鬼に見立てて行われる、リリスに対する屍鬼の反応実験があった。内藤桂は、リリスではなく自分に従属する屍鬼を造ろうとしていた。
施設では定期的に、子供同士による殺し合いが行われた。内藤桂は、子供たちの間に不信の芽を植えつけ、食事や睡眠を制限し、あらゆる虐待《ぎゃくたい》を加えた後に武器を与えた。子供たちは簡単に、殺し合いに興じたという。ただ一人の例外を除いて。
その例外が内藤圭。波留の、父親だった。
(そんなの、知らなかった……)
波留が覚えている父親は、とくかくぼんやりとした人だった。そんな過去など微塵《みじん》も感じさせない、鷹揚《おうよう》な人だった。波留の見た目は母親似だが、性格は父親に似ているとよく言われた。そう言われることが、昔の波留は嫌だった。あんな無個性な人に似ていると言われても、うれしくなかったのだ。
しかし、真木名の話す父親の姿と、波留の思い出の中の父親の姿は、決して違ってはいなかった。確かに波留の父親、圭は、他人を憎まなかったし傷つけなかった。その当たり前のことが、当たり前でなくなる環境下でも彼は変わらなかったということだろう。
波留の父親である圭だけは、過酷《かこく》な施設の中でも最後まで人を疑うことと殺すことを拒《こば》んだと真木名は言った。極限状態でも、利己的に振る舞うことを拒絶し、仲間を助けようとした、と。
『おまえ、母親似か』
真木名の質問に、波留は答えた。
『顔はそうだと思います』
『あいつ、結局死んだんだな』
確かめるように呟《つぶや》いた時、真木名は確かに、人間の顔をしていた。屍鬼よりも屍鬼らしい、兵器のような男が、波留にだけは人間の顔を垣間見せた。
(ファウスリーゼにも見せてやればいいのに)
そう言ったお人好しの波留に、「こういうのは女には見せないんだよ」と真木名は嘯《うそぶ》いた。
波留の父、圭は、天使のように可愛らしい子供だったと真木名は言った。圭と渓は、似ても似つかなかった。生き残った渓は、圭が生存していることを知らなかった。ファウスリーゼのもとでひととき、渓が圭を演じたのは、渓が圭に対して特別な感情を持っていた証《あかし》だった。圭が生き延びて子供を作り、短いながらも幸福な家庭を営んでいたことを波留から聞いた時、真木名はやはり人間的な顔をしていた。ファウスリーゼが愛した「ケイ」は、最初から二人で一人だったのだと波留は思う。
真木名は波留を、『進化した屍鬼』だと評した。
餓《う》えたらヒトは他人を殺してでも食料を奪うか。欲望のままに犯し、盗み、殺すか。欲望を抑える理性を持つのがヒトのヒトたる所以《ゆえん》だとも真木名は言っていた。それゆえにヒトは屍鬼よりも上位の存在であるというのが、真木名の持論だった。進化してヒトが圭、進化した屍鬼が波留なのだ、と。
それが圭からの遺伝によるものなのか、偶然なのかはわからない。わかりもしないのに真木名は波留を屍鬼にさせたのだから、やっぱり酷《ひど》いと波留は思う。どうせそれもファウスリーゼのためだったのだろう。ファウスリーゼの孤独を癒《いや》すための。
(言ってることは正しいんだけど、あんな好き勝手に生きてる人に言われても説得力ないよなあ)
波留にとっては、屍鬼よりも真木名のほうがよほど怖ろしく見えた。それも当然だ。真木名はとっくに、屍鬼なんか超えていたのだから。波留の直感は、正しかった。
『不死身のリリスっていうのは、本当はどの程度まで死なないんだ?』
あの後真木名は、さらに怖ろしいことを言った。不老不死も、もうあと数十年でヒトの領域になる。さらに、リリスの骨などという最終兵器を使わなくても、既存の兵器を上手く使えば屍鬼もリリスも滅《めっ》せられるのではないか、と。
『最後の手段としては、やっぱ核かな』
『やめて下さいよ、冗談でもそういうこと言うのは』
真木名なら本当にやりそうで、波留はぞっとした。
真木名|逸輝《いつき》こと内藤渓は、二十年の歳月をかけて恐怖を克服し屍鬼をも超越した。そうして生身のヒトのまま、ファウスリーゼを手に入れた。その執着心もまた、波留を打ちのめした。その凄《すさ》まじい執念を愛と呼んでいいのなら、屍鬼の誰も真木名には敵わないはずだった。
そこまでされたら負けを認めるしかないと、波留にはもう争う気も起きない。そもそも最初から、ファウスリーゼは明らかに真木名に惹《ひ》かれていた。本人が否定すればするほど、深みに嵌《はま》っていくのが見えていた。
理性を保ち続けられる冷静さ。それが波留の武器となると、真木名はもう一つ言葉を残した。
屍鬼同士は、いずれ殺し合う運命にある。その運命はファウスリーゼを縛りつけ、苦しめ続ける。波留の存在は、それを覆《くつがえ》す鍵となるだろう、と。いつかまた、おまえの力を借りる日が来るかもしれないと真木名は告げた。
真木名と屋敷を去る間際、ファウスリーゼはとろけるような微笑みで波留の頬《ほお》にキスしてくれた。
「ありがとう」と、波留はファウスリーゼの柔らかな腕に抱きしめられた。
(……なのにファスの嫌がることばっかりしてた真木名さんがファスに好かれるのは、どおおおしても理不尽だ……)
恋愛とは不平等で理不尽だということを、波留は今回のことで思い知らされた。波留のもとには月に一度、ルビーによく似た紅い錠剤が送られてくる。ファウスリーゼの血だ。他の屍鬼たちにも、同じものが送られてきているだろう。
お礼のつもりなのか、銀髪のリリスは波留に魔法をかけていった。あれから波留は、三人の女の子に立て続けに告白された。背も少し伸びた。今までの学校生活を思えば、波留にとってその事態はリリスの魔法としか思えない。
(でもぜんぜん、うれしくない)
夏空の下で、誰よりも屍鬼らしくない屍鬼は恋煩《こいわずら》いに頭を抱えた。
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あとがき
ティアラ文庫さん創刊おめでとうございます! こうして創刊ラインナップに呼んでいただけて光栄です。乙女系でエロありって今まであまりなかったので、新ジャンルとして定着するといいなーと思います。
イラストの南国ばなな先生、お忙しい中本当にありがとうございました。南国先生の描かれる女の子の目が特に好きです!
担当M様、初手からものすごおおおく痛めつけてすみませんでした……お陰様でこうして無事に本が出ました……たた……。最初Mさんにプロット(あらすじ)を見せた時、「これ、二百ページで収まります?」って確認されてたのに、「いやーそんなの余裕ですよ!」って答えてたわたしはなんだったのか。結果的に三百ページ超えそうになって「ぎゃあああっ」ってなった。削るとしたらエロシーンくらいしか削れる箇所がなかったんですけど、「そこは絶対削らないいいいい!!」ってわたしがゴネた結果、一ページあたりの行数が増えました(ほんとは十六行のはずなのに十七行になったの)。
今回書いていてつくづく実感したのは、わたしはBLでも乙女系でも萌《も》え系でも、とにかくつり目の受が好きってことでした(女の子キャラは受とは言いませんけど便宜上)。どっかの芸能プロダクションの社長が、「不景気の時はタレ目・癒《いや》し系のほうが流行る。景気がいい時はきつい顔のほうが流行る」ってむかーし発言してましたけど、どんなに不景気になったってわたしは永遠につり目が好きですよ! 乳は巨乳・爆乳から貧乳、微乳、無乳までわりとなんでもいけます。ってこの発言がすでに乙女系として(以下略)。
そういえばティアラ文庫さん、百合《ゆり》っぽいものも出されるらしいですよ。最初の打ち合わせの時、「水戸さん、百合はいけますか」って聞かれて、「いや〜百合はちょっと、読むのは好きなんですけど書くのは無理です」と言いつつ、ギャグでいいなら書いてみたいかもです。しかし、地の文がギャグだとまったくエロくならないんですよね。やってる最中に笑っちゃったらもうダメだ、エロス終了、みたいなあれ、ありませんか。何を言ってるんですかわたしは。今ちょっと正気に返った。
そういえば今回に限らず、「百合どうですか」ってよく聞かれるのは、多分わたしに女子キャラ萌えがあるせいだと思います。しかし女子キャラ萌えは、二次元限定ですよ。三次元の女は自分も含めて皆、怖ろしいですよ! 三次元の女は皆、心に西太后《せいたいごう》を宿してますよ! 宿してませんか? そうですか。それはともかく三次元での百合萌えはない。まったくない。女子校出身の人は疑われがちですが、わたしが通っていた高校、女子しかいなかったけどあれ、実は女子校じゃなかったんじゃないかな。廊下《ろうか》とか超汚かったですよ。「ごきげんよう」とか言う人、いなかったし。聖書に暴走族のステッカー貼ってる人とかいたし。それはもうなんていうか、女子校じゃないというより、女子じゃない。ないですよ萌えとか。面白かったけど。
そんなわけで完璧な美少女なんて二次元にしかいない、という主張もこめて、主人公のファウスリーゼたんには自分の萌えを詰めこんでみましたよ! 真木名《まきな》には何を詰めこんでしまったのか自分でもよくわかりません。しかし深窓のお嬢様とかお姫様って、ああいう悪そうな男が好きなんじゃないかと思います。なぜなら生活圏内に、突拍子もない言動を取る人がいないから、物|珍《めずら》しくてつい惹《ひ》かれてしまうのではないかと。真木名以外の男キャラがあまりにも不憫《ふびん》な扱いになったので、いつか機会があったら救済したいです。特に鳴瀬《なるせ》とか。鳴瀬とか。鳴瀬とか。かわいそうすぎて三回書いた。
つり目萌えと同じカテゴリーにツンデレ萌えもあるんですけど、今回のお話はツンデレ×ツンデレだったよーな気もします。次に機会があったら、ヤンデレ×ツンデレとか、素直クール×子犬系とかが書きたいです。
それではこのへんで失礼します。ご意見やご感想、こういうのが読みたい! みたいなリクエストなどありましたら、編集部宛にお知らせいただけたら幸いです。
[#地付き] 二〇〇九年吉日 水戸 泉
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