目次
雁《がん》の寺
越前竹人形
解説(磯田光一)
雁《がん》の寺
鳥獣の画を描いて、京都画壇に名をはせた岸本南嶽《なんがく》が、丸太町 東《ひがしの》 洞 院 《とういん》の角にあった黒板塀《くろいたべい》にかこまれた平べったい屋敷の奥の部屋で死んだのは昭和八年の秋である。
老齢に加うるに持病のぜんそくがひどかったせいもあって、蟷螂《かまきり》のように瘠《や》せた南嶽の晩年は意志だけが生きのこっているように思えた。死なはる時はまるで虫喰《く》いの枯木が倒れたようどした、と居合わせた弟子たちが口ぐちにいったほどだから、精力家としても知られ、女あそびも人一倍だった生前を知っているものにとっては、殊更《ことさら》、南嶽の死際《しにぎわ》がそのように思われたのかも知れない。彼は一昼夜、大いびきをかいて寝ていたが、最後は、やはり咽喉《のど》をならし、苦しみもがいて死んだ。南嶽は六十八であった。
岸本南嶽が死んだ日の前日、正確にいうと十月十九日のことであった。夫人の秀子がちょっと外へ出た留守に、見舞かたがた立ち寄ったといって、衣笠山麓《きぬがささんろく》にある孤《こ》峯庵《ほうあん》の住職、北見慈《じ》海《かい》が訪ねてきた。和尚《おしょう》は首に白絹《しろけん》布《ぷ》の護《ご》襟《きん》をまき、黒の被布《ひふ》をきて、どこかの回《え》向《こう》の帰りとみえ、裾《すそ》から紫衣《しい》の襞《ひだ》をのぞかせていた。
「どうや、どんなあんばいや」
慈海和尚は、玄関に出た顔見知りの女中にそんな言葉をあびせながら、つかつかと入ってきた。と、そのとき、うしろに、まだ十二、三歳としか思えない背のひくい小《こ》坊《ぼう》主《ず》が立っていた。この小坊主も和尚の後ろを上ってくる。
岸本家は、孤峯庵の檀《だん》家《か》であった。名誉総代にもなっていたから、和尚がこうして奥の間にさっさと通っても不思議ではないのだが、折から、枕元《まくらもと》に坐《すわ》っていた弟子たちの中で、病人の口もとを水綿でしめらせていた兄弟子の笹《ささ》井《い》南窓が、ちょっと気に病んだ。縁起でもないと思ったのである。師匠はいま虫の息で医者からも見放されている。そこへ、菩《ぼ》提《だい》寺《じ》の和尚の来訪だった。南窓は、皆にしぶい顔をしてみせた。女中が、茶菓をとりに廊下へ下ってゆくと、弟子たちの顔色をまるで無視するように、慈海は風をたてて枕元に歩みよって、臥《ね》ている南嶽の顔をさしのぞき、
「どうや、どんなあんばいや」
とまたいった。その声はたかかったので、ひくい天井《てんじょう》にはねかえって、襟《えり》もとまですっぽり絹《きぬ》蒲《ぶ》団《とん》をかぶって朽木のようにねていた南嶽の耳を打った。南嶽はとじていた瞼《まぶた》をうっすら半びらきにあけると、
「和尚《おつ》さんか」
と、苦しそうな声をだした。
これは、わきにいた弟子たちを驚かせた。朝から南窓がいくら師匠の名をよんでも南嶽はだまっていた。それなのに、いま乾いた口をわずかにひらいて南嶽はかすれ声でいったのだ。
「来てくれると思うとった」
「いやな役目やな」
和尚は、ずんぐりした肩を落して南嶽の顔をさしのぞいてから、横柄《おうへい》な物言いでいった。
「わしは、あんただけは迎えにきとうなかった」
そういうと、広い十畳間に南窓と三人の弟子が坐っているのを、はじめてみるような眼《め》つきで見《み》廻《まわ》して、不意にケラケラ笑いだした。笑い終ると、先程から縁先に立って、じっと庭の色づいた蔦《つた》のからみついている石燈籠《いしどうろう》に見入っていた小坊主をよんだ。
「おいおい、慈《じ》念《ねん》」
小坊主は、びくっと肩をうごかした。首だけこっちへ廻して部屋をみている。剃《そ》っているので、頭の鉢《はち》の大きなのがへんに目立つ子である。額が前へとび出ている。ひどい奥《おく》眼《め》なので顔がせまくみえる。
「こっちへおいで」
慈海和尚は手招きした。小坊主は畳のへりをよけて静かに歩きだした。擦るような歩き方である。
「慈念いうてね。昨日、得《とく》度《ど》式《しき》がすんだ。庭もきれいに掃除してくれる。ようなったら、いっぺん寺へあそびにきてもらわねばならんの」
立ち寄った理由は、これであったか、侍者を育てることになったあいさつのようなものだったか。南窓はつるつるに剃った大きな頭の小坊主の横顔をじいっとみつめていた。ずいぶん陰気な小僧を入れたものだなと思った。禅寺で小僧が得度式をあげた場合、これを檀家総代に披露目《ひろめ》するのがしきたりだったのである。
和尚はやがて枕もとから踵《きびす》をかえして縁の方に歩きだした。と、このとき、南嶽がまたかすれ声をだしていった。
「和尚《おつ》さん、さとを頼んますよ。あれは、孤峯さんの娘《こ》や」
そういったかと思うと、瞼を閉じた。声をだしたのがわるかったとみえて、南嶽ははげしく咳《せ》き込みはじめた。南窓がにじりよって、湿綿を口に何どもあてた。
和尚は、その有様をふりかえってみていた。大きく会釈しながら見下ろしていたが、そのとき南嶽の顔はもはや草色であった。
「大事にな」
いい置いて、ほんの四、五分間のやりとりであった。慈海は得度式がすんだばかりの小坊主の頭を一つ撫《な》でると、小《こ》股《また》歩きにせかせかと岸本家を退去していった。
翌日まで、南嶽はひと言も口をひらかなかった。大いびきをかいて苦しそうに咽喉をならしていたかと思うと、それが急にとまって息をしなかったりした。息をひきとるときは、口をかすかにあけた。何かいったようなので、弟子たちはのぞきこんで耳をかたむけたが、「さと」ときこえたようであった。
弟子たちは枕元の夫人秀子の方をみた。秀子は袂《たもと》を顔に押しあてて、むせび泣きはじめていた。きこえないらしかった。
南嶽が死ぬ間際にたのんだ、さとというのは桐原里子のことで、南嶽が上京区の出町の花屋の二階に囲っていた女である。木屋町の小料理屋につとめていたのを、南嶽がひっこぬいて晩年入りびたりになった相手であるが、この女のことは弟子たちも、慈海和尚もよく知っていた。三十二だが、小《こ》柄《がら》で、ぽちゃっとしており、胴のくびれた男好きのするタイプで、かなり美《び》貌《ぼう》であった。なぜ、南嶽がこの里子のことを慈海に頼んだか。考えてみると理由がないとはいえない。
健康であったころの岸本南嶽は、遠くは中国にも、欧州にも旅をしたけれど、念の入った大作となると、いつも孤峯庵の書院を借りて仕事をする習慣だった。衣笠山周辺から落葉樹林のある寺のあたりが好きだったらしく、ここが、晩年のアトリエになっていた。十年ほど前のことだが、南嶽はひと夏じゅう仕事もしないで孤峯庵の書院で暮らしたことがある。そのとき、つれてきていたのが里子であった。
「これはな、わしの描いた雁《がん》や」
里子をつれて、孤峯庵の庫裡《くり》の杉戸から本堂に至る廊下、それから、下《げ》間《かん》、内陣、上間《じょうかん》と、四枚襖《ぶすま》のどれにも描かれてある雁の絵をみせて歩いた。
襖は金粉がちりばめてあった。根元の大きな古松が、池に匐《は》うように大きく枝をはっていた。針のような葉が一本一本克明に描かれていた。雁のむれは、その下枝にとまったり、羽ばたいたりして宿っていた。とび立ちかけて白い腹を夕空に輝かせている一羽もいるかと思えば、松の幹の瘤《こぶ》の一部のように動かずにすくんでいる一羽もいた。子の雁もいた。口をあけて餌《え》を母親からもらっている雁もいた。それらの幾羽とも知れない雁は、墨一色で描かれていたが、一羽とて同じ雁ではなかった。画家が情熱をこめて、一羽一羽に念を入れて描いていった筆の音がきこえるようであった。雁は生きているかにみえた。
これは南嶽がその年のまだ二年ほど前の春、精根かたむけて描いたものであった。本人が自慢しても、はばからないほど卓《すぐ》れた絵である。
「わしが死んだら、ここは雁の寺や、洛西《らくせい》に一つ名所がふえる」
酒気をおびていたので南嶽は、里子の首すじに手をやりながら微笑していった。
「啼《な》き声がきこえるようやわね」
と、里子は本堂のうす暗い光りの中で恍惚《こうこつ》とつぶやいた。南嶽は微笑しながら、そんな里子の首すじをいつまでも弄《もてあそ》んでいた。
死んだ南嶽が、慈海和尚に里子を託したのは、この夏のことが忘れられなかったからであろうか。
事実、よく書院で三人は酒を呑《の》んだものである。慈海は南嶽より十歳も若かったが、南嶽に似て精悍《せいかん》な躯《からだ》と顔をしていた。里子とも性が合った。
「和尚《おつ》さん、耳の穴の毛ェだけはぬいとくれやすな」
里子が酔いのまわった眼をほそめてそういうと、慈海は笑って二人をみつめている。その眼には好色な光りが宿っていた。慈海には妻はなかった。よく里子は南嶽に、
「和尚《おつ》さんの眼ェがこわい」
といった。慈海が自分を好いていることを知っていたのだ。
慈海も南嶽も、好みが一致していた。女も酒もすべて話が合った。南嶽はいつまでも慈海が妻帯しないことに不満らしかった。孤峯庵は燈全寺派の別格地だといっても、本山塔《たっ》頭《ちゅう》の寺院でさえ、すでに匿女《かくしおんな》は大びらであった。庫裡の奥に、どの寺も女をかくしていた。好色でもある和尚が独身を守る理由がないと面とむかって南嶽はいったものだ。しかし、慈海はへらへら笑って相手にしない。しつっこく南嶽がいうと和尚はこういった。
「髪を断ずるは愛根を断ずるなり、禅《ぜん》家《け》の剃《てい》髪《はつ》の趣意じゃがの」
初七日がきたとき、桐原里子は喪服を着て、細い白い腕に褐色《かっしょく》の瑪《め》瑙《のう》の数《じゅ》珠《ず》をはめて孤峯庵の門をくぐった。この日は曇り空で、風があった。小松の茂った衣笠山は、盆を伏せたように煙っていた。なだらかな裾《すそ》一円は、すっかり葉の疎《まば》らになった落葉樹林にかわっていたが、山の赤い地《じ》肌《はだ》のすけてみえるあたりに、紅葉した楓《かえで》がいくつもはさまれて映えている。
孤峯庵には、山門のわきに鉄鎖のつい耳門《くぐり》があった。里子が草履《ぞうり》の音をさせて入ってくると、この鉄鎖はキリキリと音をたててあたりの静寂を破った。応対に出たのは、里子には初対面の慈念である。鉢頭の大きな、眼のひっこんだ小坊主は、少し長目の青無地の袷《あわせ》をきて板の間に膝《ひざ》をついていた。それが庫裡の煤《すす》けた柱を背にしていやに大人っぽくみえる。里子はちょっと途《と》惑《まど》った。
「出町がきたと和尚《おつ》さんにいうとくれやす」
里子は、上りはなの踏石に立って、そういった。
「はい」
慈念はすぐ隠寮《いんりょう》の方に下ったが、まもなく、奥から廊下を歩く早足の音がして、
白衣《びゃくえ》の袷に角帯をしめた慈海が出てきた。
「あがんなはれ、あがんなはれ」
里子は、なつかしそうに和尚をみた。むっちりとした里子の躯はいつものとおりしゃきしゃきしていたが、顔だけは思いなしか心もち蒼《あお》く澄んでみえた。そんな里子をみて、慈海和尚は喜悦の声をあげた。和尚は里子を書院に通した。そこは、里子にも思い出の部屋であった。南嶽の葬式は、すでにここですんでいた。築山と池のみえる静かな部屋である。里子は掌《て》を畳について瞼をうるませていった。
「和尚《おつ》さん、お久しぶりどす」
里子は、南嶽の葬式に列席するわけにはゆかなかった。出町の花屋の二階でその死を知り、葬式の日取りも知ったが、一人で故人を偲《しの》んでいたという意味のことを語った。
「早よおまいりしたい。和尚《おつ》さん、あの人の雁の絵をみせとくれやす」
里子はあまえるようにいい足した。
本堂に案内され、やがて里子は打敷《うちしき》のかかった戒壇の上に、まだ新仏の位《い》牌《はい》が特別に飾られてあるのを見て息をつめていた。
秀嶽院南燈一見居士
慈海がつくった院号の戒名であった。岸本南嶽はいま、一尺たらずの短冊型《たんざくがた》の板にその躯をちぢこめて立っていた。
里子は香を焚《た》いた。十畳ほどの内陣は香煙で白くなり、煙が畳の上にたゆたいはじめると、南嶽の描いた襖の雁が、霧の中で動きはじめるように思われた。美しい雁であった。里子はふと、南嶽が成仏《じょうぶつ》しただろうと思った。
下間の襖の中央部に、白い腹毛をふくらませた二羽の雁が目についた。その一羽は松の窪《くぼ》みにちぢこまって一羽の雁の脇下を嘴《くちばし》でくすぐっていた。里子はいつまでもその襖絵をみていた。と、このとき、慈海がうしろからいった。
「さ、あっちへゆこ、いっぱい薬酒をさしあげよう」
慈海はうきうきしていた。里子は隠寮の六畳にはじめて通った。そこは慈海の部屋であった。膝をついて、座蒲団を出してくれる小坊主を顎《あご》でしゃくった慈海は、里子にいった。
「これがの、わしの女房がわりや、慈念いうてのう、ついこのあいだ得度したばかりじゃがの」
慈念はぺこんと頭を下げ、ひっこんだ奥眼をきらりと光らせて、里子をみていた。やがて、はにかんだように、さっと顔を伏せ、足早に去っていった。
「玄関ではじめてみたとき、びっくりしたわ。妙な子供さんや思うて……いくつ?」
「十三や」
「へーえ、学校は?」
「大徳寺の中学校へいっとる」
「和尚《おつ》さんの跡取り?」
慈海は、里子の顔をみただけで返事をしなかった。うしろの仏壇の下の小襖をあけに立った。一升瓶《びん》の酒が幾本もみえる。その中から沢之鶴を出して、
「今日はこれをあけよ」
そういうと、慈海は子供のように頬をほころばせて手をたたいた。慈念が顔を出した。
「熱燗《あつかん》でもってきてくれんか」
慈念は瓶をかかえて廊下に消えた。顔に似合わず小まめに働く子供だと里子は思った。膳《ぜん》の用意をして、徳利と盃《さかずき》を運んでくる。里子ははじめ、慈念の顔をみたとき、変になじめないものを感じた。しかし、見馴れてくると、頭の大きなこの子がいじらしくさえなってくるのは妙だった。
「えろう働かはる子や、ええ小僧さんもちなはった」
酔ってくると里子は慈海にいった。
里子は久しぶりに呑んだ。ひどく廻りが早かった。夜になった。よく南嶽も入れて、三人で呑みあかしたこともあるから、里子は落ちつけた。
「わしは南嶽からたのまれたぞ」
慈海がそういったとき、里子は黒眼の大きな慈海の瞳《ひとみ》にキラリと光りが宿るのをみた。
「あんたの面倒をみてくれといいよった。あの男は、わしがあんたを好きなことをよう知っとった。あんたはきてくれるかの」
慈海は白衣の袷の膝をはだけて寄ってきた。じっと返事をまっているようだった。里子はだまっていた。だまっていることがかえって慈海に手だてをあたえる時間をつくった。座蒲団をうしろへ蹴《け》った慈海はうしろから羽交《はが》いじめにして唇《くちびる》を吸いにきた。里子はこんな日のあることは予期していたと瞬間思った。抵抗はしなかった。和尚の精悍な躯がやがて裾を分けて入ってきた。里子は細眼をあけ、その視線のあたった下《しも》手《て》の障子にふと何かが動く影をみた。里子ははっとして和尚を押しのけた。
慈念のように思われた。しかし、それは何でもない影のようでもあった。里子はすぐ意識が遠のき、和尚に力強く躯を吸われた。
「きてくれるかの」
慈海はあえぎながら何どもいった。顔を畳にすらせ、乱れ髪のまま里子は幾度も首を振っていたが、やがてそれも億劫《おっくう》になった。
桐原里子が、孤峯庵の庫裡に住むようになったのはこの翌日からである。ありていにいえば、里子はこのまま帰らなかったのだ。南嶽の初七日が、里子の入山式になっている。
桐原里子が、孤峯庵の内妻に入った理由を分析してみると、まず経済的な事情が作用している。南嶽が死んだあと、里子は自活の道を考えねばならなかった。里子は岸本家から茶掛一本ももらっていない。夫人はそのような思いやりを示す女でもなかった。もちろん手切金もなかった。もらえなくてもまた、当然のことであった。死んでわかったことだが、南嶽は相当の借金を残していた。無頼な生活をしただけに予想もせぬところから債務が出てきて、夫人は丸太町の家だけ残したのが精一杯であった。里子はつとめに出ようと思ったが、三十をすぎたその年では料理屋の仲居ぐらいしか口がない。三十すぎて、これから昔の苦労をするかと思うと億劫だったし、イヤでもあった。もとの古巣にもどるのも、同僚に笑われる気がした。
だから里子にとって、孤峯庵は決してわるい場所ではなかった。本山燈全寺派の別格地でもあるし、寺には檀家も多かった。慈海の妻になれば、まず喰うに困るということはないだろう。それに酒好きの慈海の相手をしておればすむことである。長いつきあいから慈海の性格はよく知っている。
また、里子は、孤峯庵は京都のどの寺よりも好きであった。衣笠山のなだらかなたたずまいを起き伏しに見てすごせるのも魅力であったし、甘柿《あまがき》や、ぐみや、枇杷《びわ》に囲まれた寺の庭も好きでならなかった。
それに、本堂には南嶽の描いた雁の絵がある。
十年間――南嶽といっしょにくらした里子は、孤峯庵にも南嶽と同じ愛着があったようだ。今から思うと、雁を描いて慈海から一文も取らなかった南嶽は、死後をここに委《ゆだ》ねるつもりでいたのだろうか。南嶽がそうであるならば、里子もまたこの寺が最後の家である気がした。
慈海は禅坊主らしからぬ俗気のみえる顔立ちをしていたし、稚気のある笑い顔をするのも里子の好くところである。
「南嶽にたのまれてのう」
慈海が、そういって寄ってきたとき、里子は、つきあげてくる嬉《うれ》しさとかなしみが混って膝を固くした。しかし、慈海に躯をゆるそうとした瞬間、障子にうつった影は何だったろう。里子はふとおびやかされている自分を知った。慈念であったかも知れない。鉢頭の大きな小坊主の影はすぐ障子の向うに去り、里子の酔った脳《のう》裡《り》からは消えた。固い畳に押しつけられ、里子は若者のような慈海の力の下で、背中を吹きぬけてゆく風の音をきいていた。このときみた影が何であったか。わかったのは年数がたってからのことである。
孤《こ》峯庵《ほうあん》の裏の竹藪《たけやぶ》から、衣笠山《きぬがさやま》の裾《すそ》にさしかかる疎林の中に、一本の椎《しい》の木があった。この椎には葉も枝もなかった。まるで黒い巨大な棒が空に向ってつき出ている風にみえた。根もとは二た抱えもありそうな太さである。
いつやらほどから、この椎の木の天辺《てっぺん》に一羽の鳶《とび》がとまるようになった。木の先はまるでぶち切ったように丸く折れているので、とまった鳶は白い空を背景にして剥製《はくせい》の置物のようにみえた。
しかし、この鳶は、ときどき、孤峯庵の庫《く》裡《り》と本堂の上を旋回していた。円を描いてゆるやかに飛翔《ひしょう》するのである。ときどき、庫裡の屋根《やね》瓦《がわら》の端にある鬼瓦にとまって、白砂利を敷いた庭先をへいげいしていた。そんなとき鳶の眼《め》は四囲にむかってキラキラ動いた。
「ああ、こわ、和尚《おつ》さん、とんびん《・・・・》がまた椎の木にとまってる」
里子は隠寮の奥の廊下の端から爪《つま》さきだって叫んだ。
「池の鯉《こい》をねらっとる。けしからん奴《やつ》ちゃ」
と慈海はいった。里子ははれ瞼《まぶた》の眼を見ひらいて和尚の方をみた。
「人の眼をぬすんでな、鯉が水の上に顔をもたげると、さっと下りてきよるんじゃ」
「大きな鯉をとんびんが獲《と》らはる。そんなん、どうしてはこばはるの」
「鳶は、かしこいでの、くちばしでつついて、足ではさんでもちあげよる。空にあげて落しよる。鯉が地に落ちて死ぬ。そいつを巣にもって帰る。えらい奴ちゃ」
「いややな、池に網張ったらええに」
里子は子供のようにいったが、慈海は馬鹿《ばか》なことをいえ、といった顔をして部屋に入りこんだ。
里子は退屈であった。何もすることがなかったのである。慈海は、檀家廻《まわ》りや、本山出頭など、毎日ほど用事に追われていたが、里子は一日じゅう庫裡の奥のこの隠寮の奥にじっとしていねばならない。はじめは、寺の生活が珍しく、煤《すす》けた庫裡の台所や、副《ふう》司《す》寮、納《なん》戸《ど》など、伽《が》藍《らん》の隅々《すみずみ》を見て目新しく思ったものだが、それも馴《な》れてくると、床のたかい寺院の雰《ふん》囲気《いき》は、やはり、花屋の二階の六畳とはちがって、寒々とした感じがした。
里子の部屋は慈海の部屋の奥にある六畳で、南に障子が四枚あるきりだった。三方が壁になっていた。里子はその部屋のまん中にヤグラ炬《ご》燵《たつ》を置き、出町から運んできた絹布の紅《あか》い花柄《はながら》の蒲《ふ》団《とん》をかけて、足をつっこんでいた。
慈海は、暇があると、里子のわきに足を入れた。慈海の性欲は、南嶽《なんがく》とは比べものにならなかった。それは、慈海が雲水時代から独身を通してきて、今日までためてきたものを噴出しているように里子には思われた。事実、慈海は、朝も昼も里子に求めたのである。里子はべつにその慈海に嫌《けん》悪《お》は抱かなかった。南嶽はどちらかというと、里子のくびれた胴のあたりや、臀《しり》のあたりを撫《な》でたり、眺《なが》めたりして楽しんでいるような夜が多かった。慈海のように実行動を楽しむといったことは少なかった。南嶽に不満であったことが、慈海を知ってから里子にもわかるようであった。里子は寺にきて女になった。
慈海とのあいだは、喧《けん》嘩《か》一つすることもなく過ぎていったが、里子になじめないのは、小僧の慈念であったかも知れない。
正直いって、里子はなぜか慈念を好かなかった。だいいち、この少年は、頭が大きく、躯《からだ》が小さく、片輪のようにいびつに見えたからである。気性はそうでもなく、素朴なところがあって、いうことも素直にきく子だったが、見た目の暗い陰気さは里子にはたまらなかった。
「和尚《おつ》さん、あの子、どこで見つけて来やはりましてん」
里子は和尚と寝ていてたずねたことがあった。
「あれか」
と慈海はいった。
「若《わか》狭《さ》の寺大工の子での、本山の普《ふ》請《しん》で話を耳にしてたのんでみたのじゃが、若狭本郷の西安寺の和尚がつれてきよった。成績のええ子じゃいうのでたのんでみたのじゃが、頭はええ。大きな脳《のう》味噌《みそ》をしとる……」
なるほど、あのとび出た額から、うしろにつき出ている後頭部までが脳であったら、脳味噌も重たくてきっと頭もいいであろう、と里子は思った。
「中学は成績はええのんどすか」
「一等賞をもらいよった。たのしみな子や。田舎でもな、酒井藩の藩主から、奨学金をもろたというて賞状をもってきておったが、小学でも一等賞ばかりもろとる。小《こ》賢《ざか》しい子で往生しとる寺は本山の塔頭《たっちゅう》でもうんとあるでな。あんなのは大物になる。かわいがってや」
慈海はそういうと、いびきをかいて眠りだした。性欲をはき出してしまうと、いびきをかいて一時間ばかり寝るのが慈海の習慣になっていた。
若狭の寺大工の子供が、十歳のとき、母親からはなれてこの寺に小僧にきているのであった。寺大工の家庭の事情は里子にはわからないにしても、よくも、まあ、小さい子をこのような寺へ出したものだと考えざるを得ない。そういえば、慈念のひっこんだ奥眼のどこかに、かなしみに充《み》ちた光りがあふれている日がなかったかと里子は思いかえしてみる。自分なら、子供を外には出すまい。里子はそう思うのだ。
実際、慈念は、孤峯庵では孤独であった。庫裡の玄関横の三畳の板の間が慈念の部屋になっていて、板の間の奥に一畳だけ畳が敷いてあったが、そこで慈念は柳行李《やなぎごうり》を一つ足もとに置いて、黒い木《も》綿《めん》地《じ》の蒲団を敷いて寝ていた。三畳の窓は慈念には背の届かないほど高い格《こう》子《し》の一方窓で、陽《ひ》は一日に三時間ほどしかささない。本堂の屋根の端にさえぎられて折角の東向き窓が暗いのであった。格子縞《じま》になって入ってくる光りの中で、慈念は、日課の観音経を写している。
慈念の日課は、朝五時起床。洗顔。勤行《ごんぎょう》。飯炊き。それがすむと、庫裡の台所に茣蓙《ござ》を敷いて朝食。八時半に寺を出て、山道から鞍《くら》馬《ま》口《ぐち》に出る。千本通りを通り、北大路の大徳寺の西隣りにある紫野中学に通う。この中学はもと禅林各派が徒弟養成のために経営した「般若林《はんにゃりん》」が学令によって中学になったもので、学校教練もあった。制服にゲートルを巻いて登校しなければならなかった。しかし、前身が般若林であるから、学校の課程も寺務に多忙な小僧たちのために考えられていて、午前中に授業はすんでしまう。慈念は校舎を出ると、すぐ衣笠山に向って帰ってくる。一時に帰りつく。昼食。二時から作務《さむ》である。作務は掃除だ。時には薪《まき》割《わ》りもある。庭の草取りもあるし、雪隠《せっちん》に糞《くそ》がたまれば汲《く》み取りもしなければならない。作務は日没と共にすむ。六時に庫裡に戻《もど》る。食事の用意。夜食が終るのは八時だ。それから、経文の筆記であった。就寝十時。
慈念の生活をみていると、禅寺の修行というものはつらいものだな、と里子は思わざるを得ない。普通の家の子供ならば、まだ、親にあまえている年頃《としごろ》でもあるし、きめられたこのような日課を判で押したように守ってゆくのも辛労《しんろう》なことだろうと里子は思うのだ。頭の痛いときや、熱っぽい躯で何もしたくないような日があってもよさそうなものだが、子供というものはそうした変調もないのであるか。慈念がついぞ病気を訴えたということもきかなかった。黙々として働き、日課をつづけてゆく子供に里子はふと、好奇なものをもった。
〈この生活が、あの子にはありがたいのか!〉
きっと、寺大工の家はまずしかったにちがいあるまい。温かい蒲団にくるまり、親たちにあまえられた子供だったら、寺につれてこられて、あのように課業を守るなどできるものではない。里子は、そう思うと、慈念がどういう家に育ってきたか、どういう理由でいまの生活をありがたく思っているのかをきいてみたくなった。
冬があけて、まだ、風のつめたい三月はじめのことである。里子は隠寮の裏から庭《にわ》下駄《げた》をつっかけて裏庭に出てみた。慈海が檀家に出かけて留守のときであった。
慈念は池の向う側にある築山の楓《かえで》の下で草取りをしていた。草取りといっても、まだ、庭の杉苔《すぎごけ》の中に丈高い草が生えるわけはない。しかし、慈海は作務《さむ》にはきびしかった。茶褐《ちゃかっ》色《しょく》の根をもちながら先へゆくほど青みを帯びる杉苔は、三月はじめはまだ、茶色く枯れたような色である。その杉苔のあいまに、小指程の草がむらがり生えてくる。この草は放置しておくと無数に繁殖して、杉苔を傷《いた》めてしまう。慈海は春のうちにこの草の根絶を慈念に課していた。だから、慈念は、学校から帰れば、このごろは草取りであった。小さい草は冬の土を割って出てくるから根は強い。慈念の小さい指の力ではとれないから、竹でつくった小刀を慈念は使う。小刀を地面にさし入れて、拇指《おやゆび》で草をおさえ、根切りしながら、一本ずつ抜いていくのである。草はみかん箱大の厚板の箱を用意しておいてそれに入れてゆく。
慈念は無心に草を取っていた。池に落ちてくる衣笠山からの引き水が音をたてている。里子が庭下駄をつっかけて築山の石段を上ってきたのには気づかないようであった。
「慈念はん」
里子は、茶室の前から少しはなれて声をかけた。
「いっぷくおし、和尚《おつ》さんは留守や」
里子は袂《たもと》にしのばせてきたかき餅《もち》を二枚茶室の縁に置いた。
「さ、こっちィ、おいでんか」
慈念はおびえたような眼で里子をみていた。里子は、その眼つきが気になった。よろこんで飛んでくると思ったのである。
「さ、おいでんか」
慈念はまだ、草入れの箱のへりに手をかけてしゃがんでいた。膝坊《ひざぼう》主《ず》の破れたもんぺの下に、すり切れた木綿の袷《あわせ》が出ている。よくみると、慈念の顔は心もちはれ上っている。泣いたあとのように瞼がはれぼったく、充血しているのだった。そう思って、里子がじっとみてみると、たしかに、泣いたらしくて、両瞼とも、手の土がついたものかよごれているのだ。
「慈念はん、あんた、捨吉いうたかいな」
里子はそんなことで話にひき入れようと思った。
「はい」
慈念は、はじめて返事した。
「お父《と》はんも、お母《か》はんも達者?」
「はい」
「手紙きてる」
「はい」
「こっちへきなはれ、ほら、かき餅や」
茶室は六畳ひと間の数寄屋《すきや》風のもので、築山の上に飾りのようにつくられたものであった。めったに戸をあけたことがない。雨露の滴《しずく》が埃《ほこり》のたまった敷《しき》居《い》や縁の板をよごしているので、里子はぷうーっと息をふきかけてからそこに坐《すわ》った。
慈念はゆっくり上ってきた。里子のそばにきたとき汗くさい男の頭の臭いを嗅《か》いで里子はむうっとした。かき餅をやると、腹がへっていたものか、音をたてて口に入れている。歯の白い子である。
「あんた、お母はんのこと思うやろなァ」
里子はいってから、ふと、ずいぶん無責任なことをいったようで顔が赧《あか》らんだ。この子は、母親を忘れて、いっしんに仏門の修行に入っているのである。そのことを考えてやらなかった自分を恥じる気持が擡《もた》げると、里子は押しだまってかき餅を喰《く》っている慈念にこんなことをいった。
「うちかて、慈念はん、お父はんがいるえ。むぎわら膏薬《こうやく》いうて、膏薬つくってはるんや。もうお爺《じ》いちゃんやけどな。精出して膏薬つくってはるんやァ」
慈念の顔がかすかにその話で明るみをましたように思われた。里子はつづけた。
「お母はんは死んでしもた。けど、継母《ままはは》がいてな。うちは小さいとき奉公にだされたんや。それからいろいろ苦労して、今日、ここの和《お》尚《つ》さんのお世話になっとるけど、小さいときは、みんなあんたと同じように、つらい思いをしたわな」
慈念はくぼんだ眼をしょぼつかせて、じいっと聞いている。
「慈念はんは、坊さんにならはるのやろ。ええなあ。将来はもうきまってしもとる。和尚《おつ》さんについて修行積んで、これから僧堂へいくんやろ。学校出たら、僧堂へ雲水に出て、お寺の和尚さんになるんやな。和尚さんもそういうてはる。ええなあ。うちら、女《おな》ごやさかいあかへん。なんぼきばったかて、人の世話になるしか道があらへん」
慈念はじいっと里子の顔をみつめていたが、急に里子が沈んだ表情になったので、早口にいった。
「奥さん、むぎわら膏薬て、どないしてつくりますねん」
「膏薬かいな」
里子は白い餅のような二重顎《あご》をくくくくと動かしてわらった。
「松ヤニをへぎに敷いて、麦藁《むぎわら》を五本ならべて、ぺたんと柏餅《かしわもち》みたいに重ねてな。それで、膏薬やんか」
慈念もわらった。里子は慈念の笑った顔をみたのはこれが最初ではないかと思った。里子はしかし、生家のことをはなしたことで、珍しくしんみりしていた。ついぞ思いだしたことのない八条坊城《ぼうじょう》の伊三郎のことを、どうして、こんなとき口にだしたのか、自分でも不思議なくらいだった。
十三のとき、五条坂の料理屋へ奉公に出されたが、里子が八条の家へ帰ったのはかぞえるほどしかない。父の伊三郎は、慈念にいま話したようなささやかな膏薬卸業者であった。竹の皮や、へぎを四角に切って、松脂《まつやに》と黒粉をまぜて七輪の上の鍋《なべ》で煮たどろりとした液体を、ブラシにつけてひとはけ塗ると、その上に麦藁を割箸《わりばし》の長さに切ってならべるのである。脂が乾くと、両側から麦藁をはさみ、松脂を塗ったへぎを重ねる。伊三郎はそれに、木版刷りの和紙に、“桐原才天堂謹製、むぎわら膏薬。うちみ、いたみ、りょうまちによろし”と印刷されたものを貼《は》りつけた。定価はそのころ三銭であった。今でいう貴真膏かトクホンのようなものなのだが、値段は安い方ではなかったらしい。伊三郎はそれを籠《かご》に入れて、自転車に乗って、京都の南部、鳥羽《とば》、伏《ふし》見《み》、久世《くぜ》の村々へ卸していたのである。里子はよくこの父の仕事場、松脂の煮える鍋に近よって叱《しか》られた。母親の死んだあと、いまの継母のたつが来るまでは淋《さび》しがって泣いてばかりいた。伊三郎が出た留守は戸に鍵《かぎ》をかけられ、里子は八条の軒のひくい長屋の暗い奥で待っていたものだ。
「慈念はん」
里子はいった。
「苦労はするほどええもんや。な、しんぼうおし、あんたも、えらい和尚《おつ》さんになれるえ」
里子は茶室の縁から立つとき、鼻《はな》緒《お》のゆるい庭下駄が石にはさまれたので、ちょっと半身をかたむけた。膝がしらがひらいて、里子は赤い湯文字《ゆもじ》をだした。
慈念の眼が、里子を睨《にら》んだのはそのときであった。里子は、あら、あら、と声をたてて、倒れそうになった躯をおこした。片手です早くまくれた裾を押えたが、風をうけた内股に気がつくと、思わず慈念の方をみていた。澄んだ慈念の眼に、鳶のような光りが走ったのを里子はみのがさなかった。
〈この子は!〉と里子は思った。
〈やっぱり、あのとき、見たのや!〉
直感であった。しかし、里子はこのとき慈念から眼をそらせただけで何もいわなかった。築山の石段を下りるときふりかえっていった。
「早よ、草取りしもうて、上りにしなはれ。和尚《おつ》さんは、今日は法事でよばれてはる。また酒よばれて酔うて帰らはる。早よ上って、部屋で休みんか」
慈念の姿は既に、茶室になかった。大頭だけが楓の枝の下を向うへ走っていた。
慈海和尚の里子に対する愛《あい》撫《ぶ》ぶりはかわらなかったけれど、言動や、挙措のどこかに変化をみせはじめたのは、夏のはじめである。顔はいつも酒焼けがしていて、てかてか光っているのが、梅雨があけるころから、色が冴《さ》えなくなった。瞼《まぶた》の下もたるんできて、黒い隈《くま》がでた。慈海は人一倍大きくひらいた耳とふくよかな耳下の顎《あご》の線を誇っていたが、その両頬からも艶《つや》が失せた。五十八歳であるから、もう中老に入った年輩といえぬこともない。頬や掌《て》に斑点《しみ》のできはじめるのはこの年ごろからであるから、さして気にすることもなかったわけだが、日《ひ》頃《ごろ》から旺盛《おうせい》な体力と色《いろ》艶《つや》を誇っていただけに、容貌《ようぼう》のあせてきたのは目立ったのである。
「和尚《おつ》さん、どないか、しやはったん」
里子は心配になって訊《き》いた。
「なんともない。どこもおかしなとこはない!」
と慈海は女の危惧《きぐ》を一笑に付した。
「お前がみんな吸うてしもうた凾竅v
たしかに里子がきてから、慈海は、二十代のような精力を里子に注ぎこんだといえたが、しかし、それも、一年になるかならずでこんなに顔色に変化がくるものか、慈海自身が風《ふ》呂《ふろ》の中で驚くほど蒼《あお》黒くなっている。しかし内臓がわるいとか、食が進まぬといったことはないのだから、慈海は問題にしなかったのだった。
「わしも、もう五十八やからな」
と慈海はいった。その言葉のうらには、老の意識がはっきりわかったが、慈海が、気短かになり、怒りっぽくなっていることに本人は気づいていなかった。
里子と慈念だけが知っていたのである。慈海は酒を呑《の》んでも、昔のように、興が湧《わ》くと褌《ふんどし》一つの丸裸になって、踊りはじめるというような陽気なところがなくなり、盃《さかずき》を重ねる量は殖《ふ》えこそすれ、酔いも注意してみると沈んできている。
〈和尚《おつ》さんも、かわらはった……〉
里子は相手をしていて、そのことをはっきり感じとったが、原因は何であるかわからなかった。寺に不幸があったわけではない。和尚はいつものとおり、慈念の学校へいっている間は客の応接に忙しい。檀家廻《まわ》りも、本山勤行《ごんぎょう》もちゃんとつとめている。外へ出たとき、何かかわったことに出《で》会《くわ》して、気でも悪くしてそれがしこりに残っているのではないか、といった風にもみえたが、そんなこともなさそうであった。気短かになったのは、里子に対する挙動にも出ていたし、慈念にはもちろんのことである。
朝の勤行は慈念が一人でつとめるようになったのは里子がこの寺へきてからのことだが、慈海は里子を抱いたまま眠ることでもあり、朝になっても、旺盛なときは、眠っている里子を起した。隠寮と本堂とは廊下づたいに行けたけれども、書院をへだてていたので距離はあった。しかし、朝早い五時すぎの慈念の読経《どきょう》の声や、磬《けい》子《す》のひびきは里子の部屋にきこえた。慈念は本堂で約二十分の勤行をする。それがすむのは、磬と木魚の音が緩慢になりはじめるのでよくわかる。本堂には釈《しゃ》迦牟尼《かむに》仏《ぶつ》がまつられてある。本尊に経をあげ終った慈念は、引磬《いんきん》をもって、般若心経《はんにゃしんぎょう》を唱じながら廊下をわたってくる。引磬は紐《ひも》でむすんだ金の棒で、力強く磬をたたくので、本堂の磬子よりは強くひびいてくる。廊下を歩く足音はしないが、引磬の音で慈念の歩いている場所ははっきりわかるのである。慈念は心経を唱じつつ、庫裡《くり》にくると、玄関わきの畳二枚敷きつめた奥にある韋駄《いだ》天《てん》で読経をはじめる。韋駄天の読経は約十五分で終る。ここには木魚はないが、韋駄天はちょうど慈念の背の高さまでの段の上に壁をくりぬいて廟《びょう》がつくられてあるので、慈念は立ったまま読経しているのである。この声はさらに里子の部屋にはっきりきこえる。韋駄天の経が終ると、慈念は衣と袈裟《けさ》をとり、着物だけになって、湯沸しと飯炊きにかかるのだが、この音をきいても、慈海はまだ眠っていた。里子は慈海が眠っている方がよかった。時には、慈念の読経をききながら、慈海は里子を撫《な》でることがあるからである。日課は修行であり、侍者である者の務めかもしれぬが、住職である和尚が、女を愛撫している時間に、侍者が勤行しているのは里子にも気になった。しかし里子は慈海のいうなりである。反抗したことは一どもなかった。心に思っただけで、そのことはいわなかった。
七月はじめのむしむしするような日のつづいた朝まだきであった。いつもの慈念の読経の声がしなかった。と、眠っていたはずの慈海がむっくり里子のわきから起き出ていった。
里子はおやと思った。和尚《おしょう》が珍しく起きたからではなかった。慈念の読経がきこえなかったからだった。廊下を走るように慈海が出てゆく。耳をすましているとその足は庫裡の玄関横の三畳のあたりで止った。何か慈海の怒っている声がきこえた。里子は眼を醒《さ》まして、じっと聞き入っていたが、二、三分すると慈海はもどってきた。
「阿呆《あほ》めが寝とぼけくさって、本堂へもまいっとらなんだ。ぐうぐう寝とりくさったわ」
慈海は吐きだすようにいって、卵色の麻布の蒲《ふ》団《とん》をまくって里子のわきへ入った。
「つかれてはんのや、学校で毎日教練どっしゃろ」
「教練? そらなんや」
慈海は大きな声をだして毛の生えた耳をひらいた。
「そうどすがな。このごろは新聞よむと、どんな中学にも兵隊さんが配属されてはります。生徒はんが鉄砲かついで、兵隊さんの訓練してはるんどすがな」
「阿呆いえ」
慈海は里子の鼓膜がふるえるほどの声をだした。
「禅寺の子弟に兵隊ごっこ教えて何になる。けしからん中学や」
「そんなこというたかて、きめやからしかたあらしまへんが」
慈海は怒った眼をすこしやわらげた。
「きめやてか。だれがそんな阿呆なことをきめよった。禅寺の小僧に鉄砲もたして何になる」
「そら知りまへん。だれが決めはったか知りまへんけど、みんなよろこんで鉄砲もってはりまっせ」
「何ぬかす」
「慈念はんも教練で疲れてはるんどっしゃ。ねむいのしかたないわ」
「そんなことで、修行中の小僧がつとまるかい」
慈海は眼をむいた。里子は、自分が叱《しか》られたような気がしたが、腹の中では一日ぐらい寝すぎたって慈念を叱るにはあたるまいと思っている。きっと慈念は疲れきっているのであろう。四尺そこそこの小さい躯《からだ》に、あんな大きな鉢頭《はちあたま》を重そうに支えているのだから、勤行、作務《さむ》、学校、と不死身の躯でないとつとまるはずがない。里子は慈念を無意識にかばっていた。
「まあ、ええわ、あしたから縄《なわ》でくくって引っ張ったる」
慈海は舌打ちしてそういうと、鳥の足のようにしわのよった眼《め》尻《じり》を下げて、ぬくもった里子の腰巻の紐《ひも》をまさぐりにきた。朝になって躯を欲しがるのが習慣になっていた。慈海はますます眼を細め、毛の生えた短い指で里子の襟《えり》もとをかきわけ、乳房を弄《もてあそ》びだすのである。
その夜、慈念は、日課の写経の終った九時三十分ごろ、隠寮の縁に膝をついていた。
「和尚《おつ》さん、これでよろしおすか」
力のない陰気な声であった。音もたてず、障子のすきまからこっちをのぞいている。暑かったので、敷《しき》蒲《ぶ》団《とん》の上に立膝のまま団扇《うちわ》をつかっていた里子はびっくりして股《もも》を合わせた。
「何や」
慈海は障子の方を向いた。
「これどす」
慈念は障子のすきまから白い麻縄のはしをのぞかせた。
「よし、よし、それでええ」
慈海は麻縄のはしをもって夜具の近くまでひっぱった。
「ええか、そっちのはしを、お前の手にくくりつけるんや、ええか」
と慈海はいった。障子の向うにいる慈念は、庭の月光で背のひくい小人のような影を映しだしている。
「ええか」
慈海はその影にまたいった。
「はい」
小さくいって、床を擦るような歩き方で向うへ消える。麻縄を廊下につたわせて、庫裡までひっぱっているのだった。慈海は翌朝この麻縄の端をひっぱる楽しみに頬をふくらませていた。慈念は三畳の戸をあけ、隙《すき》間《ま》から麻縄をとおし、一畳の畳の上の枕元《まくらもと》にひっぱった。ゆっくりかかって縄のはしに丸い輪をつくると、冬の霜焼け跡ののこっている紫色がかった手首にそれを通して、ごろんと横になった。本堂の磬子の余韻のようにわんわんと啼《な》き声をたてて蚊がまつわりつく部屋であった。慈念には蚊帳《かや》はなかった。
麻縄は眼醒《めざまし》時計の代用であったから、翌朝、慈海はめずらしく五時かっきりに眼をさまして、麻縄をひっぱった。二、三ど、ぴくぴくとひくと、遠くの庫裡まで廊下をつたっていた麻縄は三ミリほど浮いて一直線に張った。やがて、慈海の手に応《こた》えがあった。ぴくぴくと慈念がひいたのである。慈念は慈海の考案どおりに麻縄をたぐりよせていった。それで起床したことが老僧にも判《わか》る仕掛けである。
慈海は縄のはしが床をすって見えなくなると微笑した。
この慈念の過眠を戒める方法は、里子には、「ずいぶん、殺生なことをしやはる」と思われたが、しかし、慈海が毎朝早起きして、ゆっくり痴戯《ちぎ》に入ってくれる習わしに嫌《けん》悪《お》は感じなかった。里子の躯は慈海を待っていた。なぜ躯が燃えるのか。躯は朝になると下半身からじわじわとほてりはじめ、苦しいほど胸が灼《や》ける。和尚を自分から求める時もあった。慈念が小磬をならし、廊下をすって歩いてゆく音と、韋駄天でよむ読経の声が隠寮のそれと唱和した。
いっしんちょうらいまんとくえんまんしゃあかにょうらい、しんじんしゃありほんじほっしんほうかいとうば、があとうらいきょう、いいがげんしんにゅうがあがにゅうぶつか、じーこがあしょう……
韋駄天の読経は六時ごろにこの偈《げ》文《もん》で終るのが習慣だった。里子は次第にこの偈文をおぼえた。
実際、里子の躯は孤峯庵にきて丈夫になった。目方もふえた。むっちりした餅肌《もちはだ》は昔どおりに艶々していた。しかし裸になってみると胴のあたりは昔のようなきりっとしまったくびれを失っていたかもしれない。下腹部には肉が漲《みなぎ》り、筋がついて、心もちたれはじめていた。この躯は、むぎわら膏薬《こうやく》の伊三郎のわきにいて、七輪の火をあおいでばかりいた母親の梨枝《りえ》とそっくりといえた。頑健《がんけん》であったはずの梨枝は、里子の六つのときコレラで死んでいた。避病院の金具の錆《さ》びた寝台で死んでいた母は、生きているようにふくよかだったと里子は思う。母親もむっちりして、小《こ》肥《ぶと》りだった。器量よしだった。里子はその血をうけていたのである。
慈海の方は顔色こそ冴《さ》えなくなっていたけれど、房事だけは一日も欠かさなかった。里子の躯が、それに耐えた理由もあるのだが、何よりも慈海は、里子の躯の見あきない部分を探り、底知れぬしびれをおぼえていたのであろう。
「南嶽は十年もお前を放したがらなんだ。今になって、ようわかるわ。さと。お前は、わしの仏や、愛根じゃ」
慈海はうわずった声をだして里子にいった。あらんかぎりの痴態をつくすのだが、里子は激しい本能の燃えが終ると、小一時間も眠ってまたけろりとしていた。
梅雨があけると、慈海には、棚経《たなぎょう》に歩かねばならない盆が近づいていた。檀家のうちでも信心ぶかい家は、とくに命日をえらんで月まいりは欠かさないが、盆の十六日だけはどの家も仏壇の扉《とびら》をひらいて、菩《ぼ》提《だい》寺《じ》の和尚の勤行を待つのが習わしだった。棚経は、十五日と十六日に限られていた。在《ざい》家《け》は新旧の仏をよび戻《もど》して、仏壇の位《い》牌《はい》を床の間か、それとも棚段に移し並べ、地蔵盆までの七日間をまつるのだった。蓮《はす》の葉にのせた胡瓜《きゅうり》、薩《さつ》摩《ま》藷《いも》、トマト、団子、菓子、果物などが供《く》物《もつ》になっていた。本山からの扶持《ふち》金の少ない小寺にあっては、この盆は財源の書き入れ時といえた。
孤峯庵には、五十八軒の檀家があった。京都市内の中心部と、西陣あたりの機《はた》屋《や》が多かったが、慈海は五十八軒の檀家を一人で廻ったわけではない。一級、二級、三級と檀家の格式を勝手に分類して、三級の家には慈念を廻らせた。慈念は現在、観音経を写経している段階にあるが、すでに棚経をつとめるぐらいの経は暗誦《あんしょう》していた。慈海は今日までにその経文を全部口《く》伝《でん》で教えたのである。
檀家の経文は、般若心経《はんにゃしんぎょう》、大悲心陀羅尼《だらに》、消災妙吉祥陀羅尼、仏頂尊勝陀羅尼、観音経普《ふ》門品《もんぼん》第二十五などが主であって、これで大方の勤行はすむのであるが、慈念はいま観音経の写本を必要とするだけであった。
七月はじめのある日、慈海は、隠寮に慈念を呼んだ。
「盆がくるな。去年のようにまいってもらわんならん。単衣《ひとえ》の白衣は汚れとったらあかんぞ。洗濯《せんたく》したか」
と慈海はきいた。
「はい」
「観音経の写経はどれぐらいすすんだ」
「はい、世尊妙相具《せいそんみょうそうぐ》まできてます」
「もってきてみい」
慈海は疑ったわけでもないのだが、どんな写経をしているか見たかったのである。
「はい」
慈念は畳に頭をすりつけてから立ち上ると、学校教練でならった廻れ右をして出ていった。すぐ庫裡からもどると、慈海に和紙の綴《つづ》りを手渡した。上漉《じょうすき》の藁半《わらばん》紙《し》をコヨリで綴《と》じたものだった。表紙に「妙法蓮華経観世音《みょうほうれんげきょうかんぜおん》菩《ぼ》薩《さつ》普《ふ》門品《もんぼん》第二十五」と書し、孤峯庵侍者慈念記す、と書いている。
「うーむ」
慈海は得意のときのくせでソバカスの浮いている小鼻をふくらませて、ゆっくり半紙をめくった。爾時無《にじむ》尽《じん》意菩《にぼ》薩《さつ》と慈念は楷書《かいしょ》で経文を一字一字たんねんに墨書《すみがき》で書いている。
「よし、よし」
慈海はちょっと機《き》嫌《げん》のいい眼つきになって慈念をみた。そして話題をかえた。
「お前、学校で、教練なろとるてほんまか」
「はあ」
「どんなことするんか、いうてみい」
慈海はぎろりと眼を光らせている。しかし、こんなときにも慈念は無表情に、奥眼をキラリと動かしただけでこたえる。
「みんな村田銃もたされてます。鉄砲の掃除と、撃ち方をなろてます」
「兵隊がきとるんかや」
「はあ、特務曹長《そうちょう》です。金筋三本の肩章つけてはります」
「そら、学校の先生になっとるんか」
「はあ、先生みたいなもんです」
「お前も鉄砲もたされとるんか」
慈念はちょっとだまった。慈海もそのとき、こんなこときいたのは背のひくい四尺そこそこの慈念が、いくら教練だとはいえ、兵隊の担《かつ》ぐ鉄砲をもっているなど想像だに出来なかったからにほかならない。
「はあ、私は村田銃やありません」
慈海はほっとした顔になった。しかし、慈念はいった。
「騎銃をもちますのや」
「キジュウ?」
「はあ、騎兵が背中に負うている鉄砲どすわ。鉄砲はみなのより少し短いどす。でも、わいの肩ぐらいあります」
慈念は作務着のシャツの肩を示してそういった。無表情にじいっと和尚から眼をそらせている。わきで二人の問答をきいていた里子は、慈念が何を思っているのか、心の底がはかりかねるのである。師匠の質問にこたえてはいるけれど、何かほかのことを思いつめているような表情にみえる。慈念の無表情な冷たさ――里子が最初から感じているものなのだ。慈海は裾《すそ》をはだけ、膝坊《ひざぼう》主《ず》をだしてしゃがんでいたが、股《こ》間《かん》の奥の方で、ゆるんだ褌《ふんどし》から浅黒い睾丸《こうがん》がたれているのがみえる。里子は声をあげた。
「和尚《おつ》さん、和尚さん、ちょっと、こっちへきなはれ」
慈念を無視していった。
「あんた、肝心のもん、慈念はんに見られてますがな」
慈海は、里子のいう意味がわかると、お、そうか、そうかと口走って、裾をかきあわした。このときも慈念の表情はひっこんだ白眼の部分を瞬間だけ動かしたにすぎない。
〈強情な子やなァ〉里子は和尚のほどけた帯をうしろから締め直しながらそう思った。
〈けったいな子やなァ、何おもてはんのやろ、さっぱりわからん!〉
しかし、慈海の足もとに置いてある観音経写本表紙は、里子にもびっくりするほどの達筆に思われた。
里子が慈念に恐れを感じはじめたのはこの頃《ころ》からかも知れない。慈海は慈念の師匠であるから、慈念が、いくら押しだまっていても、相通ずる何かがあったのだと思う。しかし、里子には慈念の沈黙の裏側はわからないのだった。慈念と慈海が話している時は尚更《なおさら》、疎外された気持がした。嫉《しっ》妬《と》ではなかった。あくまで慈念が里子にだけ蓋《ふた》を閉じて見せないものがあると思った。慈念は里子を逆に観察している眼《め》つきである。
盆がくるまえの暑い夜なかであった。里子は隠寮の部屋の障子をあけはなして、シュミーズ一枚きりで横になっていた。寝ぐるしい夜で、慈海は一日留守だった。檀家から、本山の法類《ほうるい》である源光寺に廻り、和尚と碁を打って帰ったのは、一時すぎである。だいぶ酔っていた。里子はいつものように和尚にサラシの腹巻をさせ、じんべ《・・・》のような寝巻をきせた。慈海は前合わせの紐《ひも》を結ぼうともせず、すぐにシュミーズの肩紐に手をかけてくる。寝苦しい夜なので、里子は和尚の好むままに裸になった。いつものように躯は燃えたが、汗だくになる。慈海が腹の下方をなめ廻すので、思わず、押し殺していた声を出したとき、足が宙を蹴った。和尚は酒気のかげんもあって、いつもよりしつこい。押しかぶさってくる慈海のうしろに、何やら黒い影が走ったのをみたので里子ははッとした。障子はあけ放してあるのだ。廊下はガラス戸になっている。月明りが庭の池の面を照らしていて、その反射が千本たるきの軒までを透けてみせている。声がしたように思った。
「和尚《おつ》さん」
たしかに廊下から影の声であった。
「和尚《おつ》さん、よばはりましたか」
慈海は思わず、里子をつっ放していた。
「何や」
慈海はじんべ《・・・》の前をかき合わせると廊下へ出た。そこに慈念が立っている。
「よばはりましたんとちがいまっか。麻縄《あさなわ》がひっぱられましたんどす」
「寝呆《ねぼ》けちゃあかん、呼んでへん、呼んでへん」
慈海はそういうと、
「ええ、ええ、もどって寝ェ」
とどなった。里子は息をつめていた。宙を蹴った里子の足が、縄の端をもつらせてひきずっていたのである。
〈見たにちがいない。あの子にまた見られたわ〉
里子は鉢頭のひっこんだ慈念の眼を思いだした。すると、燃えさかっていたはずの下半身がたるみだし、力がぬけたように冷えていった。
慈海は障子をしめると、また暗がりの中で里子をよんだ。
慈念の通学している紫野大徳寺にある中学から、蓮沼《はすぬま》良典という教師が孤《こ》峯庵《ほうあん》をたずねてきたのは七月十二日のことだった。この日、折悪しく慈海は風邪《かぜ》をひいて寝ていた。
玄関に出たのは、慈念である。受持ち教師の来訪は慈念の顔色をかえた。しかし、教師の来訪を和尚《おしょう》に告げないわけにゆかない。慈念が隠寮にきて、その旨《むね》をいったとき、慈海は発汗のため厚着していた蒲《ふ》団《とん》から頬のこけた髭面《ひげづら》を出して、
「ここへ通しなさい」
といった。
慈念がひき下ると、黒被布《ひふ》の上に、紫綸子《むらさきりんず》の絡《らく》子《す》をかけた背のひょろ長い四十年輩の蓮沼がきて、鄭重《ていちょう》に礼拝した。敷《しき》居《い》の所で手をついている。
「寝とりますねや。どんな用かしらんが、まあ上らっしゃれ」
慈海はそれでも元気な声をよそおったが、すぐに咳《せ》き込んだ。里子は奥の間との仕切りの襖《ふすま》を閉め、枕《まくら》もとにきて、蓮沼に低頭してから、ゆっくり教師の顔をみた。何か慈念のことでいいにきたにちがいない直感が走った。
蓮沼良典は茶をすすってからゆっくりいった。ひくい声の江戸っ子弁だった。
「慈念さんのことでまいりました。今学期中の登校日の少ないのが気になりましてね、ちょっと伺ったわけですが、今期中に、二十五日も休みをなさっています。学務課では、欠席届のない場合は操行上の採点とも睨《にら》み合わせるようにしておりますが、一期に二十五日の休みというと、約三分の一に近い日数になります。もし、和尚さんとこの仏務や法要で欠席されたのでしたら、これからは届を出していただきたいと思うんです」
紋切り型のこの言葉に、慈海はもちろん、里子も眼《め》をまるくした。この男は何をいうのか。慈海ははげしく咳きこみながらいった。
「なんじゃと、慈念が無断で休んどる……そんな阿呆《あほ》な。寺は毎日出とる」
里子も大きくうなずいた。
蓮沼良典の方がこんどは顔色を変えた。
「とすると、慈念さんが勝手に」
「勝手に休んどる。高い月謝を払うとるに勿《もっ》体《たい》ない」
慈海は大声でいった。
「さと、ここへよんでこい」
里子はおろおろした。呼んできていいものか。教師の前であった。叱《しか》りつける慈海がわかったし、熱がひどくなると考えて止《よ》そうかと思った。
「阿呆な奴《やつ》ちゃ。早よここへよんでこいいうたら」
慈海は怒りだすときかない。里子はしぶしぶ庫裡《くり》へ出てみたが、慈念は三畳の部屋にいなかった。本堂の縁を廻《まわ》って呼んでみたがどこにもいない。庭下駄《げた》をつっかけ、築山《つきやま》の方から茶室を廻った。楓《かえで》の木の下の杉苔《すぎごけ》の上で、慈念は草取り箱をおいて無心に草を取っていた。
「慈念はん」
里子はよびかけた。
「和尚《おつ》さんが呼んではる」
「は」
慈念は小さく返事すると立ち上った。
「あんた、だまって学校休んどるそうやないの。先生が叱りに来やはったえ」
里子はしかしこの言葉をなるべくやわらかくいったのである。すると、慈念は、
「教練がいやや、鉄砲持つとくたびれるんや」
訴えるようにいって里子を仰いだ。ひっこんだ眼がぬれている。両瞼《りょうまぶた》が充血している。また泣いていたのだな、と里子は思った。
「教練がいやなの」
「は、鉄砲もつと、すぐだるうなるんどす」
慈念はいっそう訴えるような眼になった。哀願するようなその眼もとが里子の胸を打った。
〈小さな躯《からだ》で鉄砲もって、きめやから仕様ないちゅうものの、学校もひどいことしやはる……〉
「そやかてな、先生が来てはる、和尚《おつ》さんも怒ってはる。ちょっと隠寮へきてんか」
「は」
慈念は竹小刀を杉苔の上に投げつけた。と、その小刀は生きもののように地面につきささり、ぶるんぶるんと音をたててふるえた。
里子が慈念をつれて隠寮にくると、慈海と蓮沼は何か笑い興じていたが、急に話を中断した。
「慈念」
和尚は蒲団を半分に折って起き上った。
「お前、なぜ学校休んだか。なぜ、高い月謝払うとる学校をきらうんか、わけをいえ」
蓮沼も里子の顔をちょっと気がねしたように見てから慈念の方をみている。慈念は草の汁のついた泣きはらした瞳《ひとみ》をちょっと動かしただけである。しかし、こういった。
「教練があるのでいやなんどす。和尚《おつ》さん、教練があると死にとうなります」
「なんやと」慈海は思わず里子の方をみて、いいだそうとした言葉を口ごもった。
「いやだといったってこれは教課ですからねェ」
と蓮沼が口をはさんだ。
「文部省の中学校令施行規則によって定められているのです。仕方がありませんね。中学二年から徒歩教練は執銃教練に移行します。このように指示されております……」
慈海にとも慈念にともつかない物言いになって蓮沼はつづける。
「つまり、この教課は一単位でありまして、教練をうけなければ、卒業はできません。特務曹長《そうちょう》の進学会議の発言は大きいのです」
慈念はうつむけた顔を慈海にむけて、どもりながらいった。
「和尚《おつ》さん、教練で鉄砲をもたせないようにたのんで下さい。鉄砲は肩の上まできますし、よう持てまへん」
「ああ」
と蓮沼は妙な音を口の中で出してからいった。
「やっぱり、そういう理由だったのですね」
蓮沼はこんどは慈海の方をみて、
「校庭で訓練をしております二年生をよく窓越しにみるのですが、なるほど、慈念君は人よりうんと躯が小さい。最後尾にならんでいますね。たとえば横隊で、右に向きをかえたり、左に向きをかえたりするときは、慈念君だけは人より二倍の駆け足をしなければ追いつけない凾ナす。見ていてかわいそうな気がします。横隊の場合は、右翼にいる背の高い生徒はかんたんに左右いずれか命令どおりに向けばいいわけですが、最左端におります慈念君は駆け足でその線にまで進まねばなりません。鉄砲を担《かつ》いでおれば尚更《なおさら》です。しかし、そのことは当分の辛抱《しんぼう》です。いまに大きくなりますよ。ね」
とこんどは蓮沼は慈念の方を見た。
「中学生なんだから、中学校の教課を終えなければ何んにもならない」
里子はじいっとだまってきいていたが、慈念の厭《いや》がるのもわかる気がした。この躯で、鉄砲が皆といっしょにもてるものではない。中学校教程では、標準背丈の生徒を想定して、教範をつくっている。慈念は小学校三年くらいの背丈しかないのだ。
「わかった、わかった」慈海がこのとき、大声をだした。
「慈念、あしたからその教練をつとめい。月謝がもったいないわ。中学を出んければ、雲水にもなれんぞ。ええか、辛抱して学校へゆけ、ええか」
慈海は蓮沼に、失礼して……といって横になった。寒気がするらしかった。
慈念は廊下の隅《すみ》でまた泣いていた。その姿を蓮沼良典は冷やかにみていた。困った子供をあずかったという表情だ。同情してもはじまらない。特殊学級をこの子のために造る予算はないのであった。
「大きゅうなるまで、辛抱して、学校へ通うてもらいましょう」
と蓮沼はいうと、里子にも会釈《えしゃく》して立ち上った。
「御病気中のところをおさわがせしてすみませんでした。欠席問題さえなければ、学課はいうことのない成績をあげています。慈念君は欠点のない生徒な凾ナす。どうぞ来学期から欠席のないようすすめて下さい」
教師が紋切り型の言葉で結んで帰っていったあとで、慈海和尚は熱をだした。慈念には何もいわなかった。
蓮沼良典を玄関に送った足で、里子はまた本堂の裏へ廻った。孤峯庵の本堂は廻り廊下になっていた。内陣の仏壇のある部分はうしろに突き出ているので、その下は倉庫になっている。施餓鬼《せがき》の旗や、地蔵盆の式台など、ゴタゴタしたものが入っている物置だが、この物置の蔭《かげ》にきたとき、里子は何げなく裏庭をみて足をとめた。慈念が池の面をじっとみつめて立っていたからであった。茶室のわきの築山の草取りをしていると思ってきたのだが、慈念は池の中の島につっ立って水面をみて動かなかった。廊下に立っている里子には気づかないらしかった。池は水面にうす緑の葉のヒシをうかべ、針のついた果《み》がところどころに浮んでいた。水音がしているので、少しの足音くらいは消されてしまうらしい。里子は慈念が何をみているのか気になった。池の鯉《こい》かと思った。と、とつぜん、慈念は掌《て》を頭の上にふりあげたと思うと、水面に向ってハッシと何か投げつけた。鉢頭《はちあたま》がぐらりとゆれて、一点を凝視している。里子もしゃがんだ。廊下から池の面を遠眼にみつめた。瞬間、里子はあッと声を立てそうになった。灰色の鯉が、背中に竹小刀をつきさされて水を切って泳いでゆくのだ。ヒシの葉が竹小刀にかきわけられ、水すましがとび散った。それは尺余もある大きなシマ鯉であった。突きさされた背中から赤い血が出ていた。血は水面に毛糸をうかべたように線になって走った。
里子は、慈念を叱りつけようと思ったがやめた。
〈こわい子や。何するかわからん子や〉
里子は廊下をそっと本堂の横にそれ、隠寮にもどった。慈海は湯気の出る顔にぬれタオルをずらせて、いびきをかいて寝ていた。
裏庭でみたことは慈海にも話さなかった。
慈念が池の鯉の背中に、草取り道具の竹小刀を投げつけて突きさしたのは、学校の教師が告げ口にやってきて、和尚に欠席したことが露見した憤懣《ふんまん》を、池の生物に投げるしかなかったのだと里子はみたのである。慈念は孤峯庵では孤独なのだ。誰《だれ》に当ろうとしても、面《つら》当《あ》てする場所はない。わめき散らすこともできない。そんな声を出せば慈海にどやされる。慈念は壁に向って消えるしかない。楓の下、築山の下で、泣くしか方法がない。里子は慈念を哀れだと思った。すると、また、慈念が不《ふ》憫《びん》でならなくなり、捨吉といった頃《ころ》の慈念の子供時代に想像がいく。
ところが、里子には若《わか》狭《さ》の寺大工の子だとわかっているだけで、くわしいことはよくわからない。慈念に感じる恐怖感をとりのぞくためには、慈念の全部を知ること以外に方法はなかったのだが。――里子は、暇さえあれば慈海和尚に慈念の田舎のことをきいてみる。が、慈海も素姓はあまり知らないらしかった。頭の大きな背のひくい子。こんな子を生んだ母親は、どういう気持で、寺へ手放したのか。
母親の顔が見たかった。いや、母親に育てられたころの慈念の生活が知りたかった。やはり孤峯庵にいる時のように、押しだまって、ひねくれた表情をして、上眼づかいに物をみただろうか。里子の興味は今や、慈念の過去に集中していた。
ところが、里子に、願ってもない朗報があった。一通の書信が、孤峯庵にきた。それは盆がすぎて秋風のふきはじめた頃である。差出人は福井県大《おお》飯《い》郡本郷《ほんごう》村底倉部落にある西安寺の住職木田黙堂《もくどう》であった。宛《あて》名《な》はもちろん、慈海大和尚侍史としてあった。里子は封を切ることが出来なかったが、書信をよんだ慈海がいった。
「さと、西安寺和尚が寺へくる」
「なんか用事で来やはるのどすか」
「本山に出張する用があってな」
「お泊りはどこどす」
「泊りは本山やろ、法類も塔頭《たっちゅう》もあることや、何も、うちが心配せんでええわい」
と、慈海は里子の質問の趣旨をそのようにとっていた。
「和尚《おつ》さん」里子はわきから問うた。
「慈念をつれてきやはった和尚《おつ》さんでっしゃろ」
「そや、あの子は西安寺和尚がつれてきよった。もう四年になる。見たかろなァ」
と慈海はいった。自分の子ではないにしても、在の村を出た大工の倅《せがれ》である。父親の大工は西安寺住職の口ききで、本山改築の際に下働きにきたことがあった。それが縁で、慈念はもらわれてきている。
「くれば寄るじゃろう。寄れば、酒の好きな和尚じゃからの、いっぱい、お前も入れて薬酒を進ぜよう」
里子はその日のくるのを首をながくして待った。
木田黙堂が、尻《しり》からげをして、絽《ろ》の黄衣の裾《すそ》を膝頭まであげ、毛ずねをだし、大股《おおまた》で、孤峯庵の耳門《くぐり》のくさり戸をあけてやってきたのは、それから三日目であった。里子は初対面であったが、思ったより黙堂が若いのにびっくりした。まだ四十四で、十四年前に建仁寺の僧堂を出て、すぐ若狭の西安寺に赴任していったそうだ。鼻が高くて額のひろい聡明《そうめい》そうな顔立ちだった。役場の書記もかねているとかで、陽焼《ひや》けしたその顔は、造作が整っている。それだけに、いっそう動作や身《み》装《なり》の田舎っぽさが目立つようだった。
黙堂和尚は、玄関に入ってくるなり、応対に出た侍者の慈念をみて、たかぶった表情を露骨にだした。
「捨《すて》、捨、大きゅうなったなァ」
慈念は床の板に手をつき、相かわらず無表情な顔で、黙堂の顔をみていたが、
「村の和尚《おつ》さんや」
ひと言驚いたようにいった。
捨吉とよばれて、どんな感情がわいたか、顔色に出さなかった。黙堂は慈念の捨吉を、苦労をして、大人になったと見た。落着きも出てきていると見た。
「捨よ。おっ母《か》も、お父《と》うも元気だや、安心しや」
と黙堂はいって、上りはなから奥の隠寮を気にしながら、頭陀《ずだ》 袋《ぶくろ》に手をつっ込むと、すぐ何やら紙に包んだ四角いものと、封筒のようなものを取り出した。
「これは、おっ母ァからや、これは勘治の手紙や」
といってから、
「ほしてな」
和尚は小さい声で鉢頭の横にとび出している小さな椎茸《しいたけ》のように黒ずんだ慈念の耳もとに口をつけた。
「これは、わしの思いつきや、銭《ぜん》コや、一円やる」
ちゃりんと頭陀袋の中で音がした。黙堂は五十銭銀貨を二枚、拇指《おやゆび》と人さし指でこすり合わせながら、無表情にひざまずいている慈念の手ににぎらせたのである。
「さ、わしがきたと隠寮へいうてきや」
里子も慈海も珍客で笑顔になった。慈海は酒がのめる相手がきたのだから子供のように頬《ほお》をほころばし、庫裡と隠寮の間の廊下にまでむかえにきた。
木田黙堂は、部屋に入ると三拝した。三ど畳に手をついて頭を畳にすりつけて礼拝するのである。禅寺の格式もさることながら、慈海は燈全僧堂で奇峨《きが》窟《くつ》独石和尚に師事して印可を得ている。田舎寺の若い住職には、師家《しか》級とも見えたのは当然といわねばならない。
さっそく、慈念のつくった浜ちしゃのゴマヨゴシや、豆《とう》腐《ふ》汁《じる》が出て、酒が始まった。里子もそばに坐《すわ》って給仕をする。
いくらか酔いが廻りだしたころ、里子は瞼の赤くなったのを気にしながら、
「慈念はんが大きゅうならはりましたやろ」
といった。
「大きゅうなりました。おかげさまで、奥さま、行儀もおぼえましたな。あんまり立派になっておりますで見まちがえました」
黙堂はお礼の意味か頭を何ども下げた。慈海がいった。
「去年の秋に得《とく》度《ど》式《しき》がすんだ」
「左様ですかや」
「葬式もするし、棚経《たなぎょう》にもゆける。法事もできる。えろうお経のおぼえもようての」
そういってから慈海はあらたまった口調になった。
「しかし、中学がのう、卒業できるかできんかのさかい目じゃ」
「どうしてですか」
黙堂は心配顔になってきいた。
「教練がイヤじゃいうてのう。教練のある日は学校へゆきともない、困った性分じゃな」
何のことやらわからぬといった顔をしているので、里子は慈海の言葉をひきとって説明した。
と、木田黙堂の顔がわずかばかり暗くなって行った。
「そら、また、心配かけますなァ」
黙堂はそういったが、何かほかのことを考える顔だった。里子にもそれがわかった。
〈あの子は村にいたとき何かあった。……それが、あの子を、あんなに無口にしている。陰気な子にしている……〉
「和尚《おつ》さん、西安寺の和尚さん、よかったら、今晩慈念はんの小さいときのことをきかしてくれはらしまへんやろか。あたしら、それ聞いとかんと、あかしまへん。あの子も大きゅうなってくると、困るときがありますさかい」
木田黙堂は盃《さかずき》をグググと音をたててひと口に呑《の》みほしてから、ちょっと声をおとしていった。
「妙な子でしてなァ。あの子はあんた、阿弥《あみ》陀《だ》堂《どう》に捨ててありまして凵v
慈海は知っていたのか、微笑している。しかし里子の顔は蒼《あお》ざめていった。
「そらほんまどすか、和尚《おつ》さん、知ってはりましたんか」
「わしか」
慈海はめんどうくさそうに徳利をもちあげていった。
「捨ててあったから捨吉じゃろ、それがどうした。さと」
「阿弥陀堂というのは、底倉の部落《むら》の西のはしの乞《こ》食谷《じきだに》にあるお堂でしてね。ここが冬場になりますと、物乞《ご》いの宿になりますのや。堂には大きな木像の阿弥陀さんがまつってありますが、ちっとはお供えもあるんですのや、お供え目当てに腹へらした乞食どもがあつまります……」
黙堂は興がのってくると、庫裡《くり》の方を気にしながらも、声が高くなった。
「その堂にお菊ちゅう、さあ二十二、三でっしゃろかな。毎年秋になると餅《もち》もらいにくる乞食女がおりましてな、この女が、その年にはらみましてなァ。雪の多い年でしたが、堂の中で産をするちゅうんで、あんた、村の者は蒲《ふ》団《とん》を運ぶやら、湯を沸かしてやるやらで大騒動だったですが、生れたのが男の子で、……」
里子は蒼《あお》ざめた顔でじっと黙堂の話に耳をかたむけている。
「つまり誰《だれ》がお父っつぁんやらわからしまへんのやな。ま、村の若い衆か、それともヤモメ男だろというとりますが、名のり出る男はありやせん。困りましてな。お菊は乞食ですさかい、また春がくると他所《よそ》へ物貰《もら》いに出んならん。誰かこの子をあずかる者がおらんか、というとりますと、角さんがひょっこり仕事場からもどってきましてな。よっしゃ、わしが養うたる、ふたつ返事で、おかんさんにいいつけましたんや」
慈海は微笑して 盃 《さかずき》をかさねている。興味をもってきいている眼《め》もとではあるけれども、ときどき酒の燗《かん》の方を気にしている。里子は先がききたい。
「それから、どないしやはりまして凵v
「どうしたいうたかて、あんた、角さんのとこには四人も子ォがあります。そこへ赤味噌《みそ》をつれてきた。赤味噌がふたりになりますと、おかんさんはいくらごろごろ子ォ育てるのが上手やいうても、乞食の子はいややいいます」
「それで、どないしやはりました凵v
「角さんは男気のある人ですさかいな。とうと、おかんさんを説得して、大きゅうしましたや。困ったことに、冬場、お菊が阿弥陀堂のボロの中で、ごろんごろん赤ん坊の頭を押えつけて寝たとみえましてな。たぶん、寒かったんで、乳のあるうちははなすわけにゆきませんよってに。抱いてねているうちに、あの子の頭はあんなカタチになりましたんやな」
「さいづち頭というんでしょう」
「さいづち頭? 村ではあんた、子供らは軍艦あたまちゅうて、いじめました。学校もよう出けたええ子ォですがな。いつやらほどから自分の名の捨吉という名が気にいらんちゅうて、お父うにとりかえてくれいうてきかなんだといいますがな」
里子は全部がわかる気がして、意外な事実に顔が蒼ざめた。と同時に、里子にこの話はある満足をもたらせたのも皮肉といえた。
「捨て子じゃからそれでええ、それがどうした、のう西安寺」
酔いのまわった慈海は里子の蒼ざめた顔をみてそういった。里子は胸がつまった。
「ほな、若《わか》狭《さ》の和尚《おつ》さん」
里子は声をおとして、
「あの子は、実のお母はんやとおもてますのんどすか」
「思てます。おかんさんはわが子らとちっともかわらんように育てました。頭が大きゅうて、ガラの小さいのが難だけですて……かしこいことは村一番でしたさかいにな」
「へーえ」
と、里子は思わず声をだした。数奇な運命などという言葉をきいたことがあるが、慈念こそ、それだ。里子はいつか茶室の縁にすわって父親がむぎわら膏薬《こうやく》を売っていたころの話をした、そのときの慈念のだまっていた顔つきを思いだした。里子のような苦労話はざらにある。里子には父親も母親もあった。だが、慈念にはそれがなかった。
「それから、お菊ちゅう乞食はんは、もう来やはらしまへんのどすか」
西安寺の住職は口のはたを手でふきながらいった。
「会っとりません。おかんさんは同じ養うのならもうわが子や、村へ餅もらいになぞくるな、と叱《しか》ったそうです。それ以来、ふっつりこなくなりましてな。春になっても、夏になっても、お菊は物乞いにこなくなりました。乞食じゃいうても、捨吉はやっぱり子じゃからのう、ふびんではある話ですがの」
里子は大粒の涙をおとした。
そのとき、庫裡の方で小磬《しょうけい》のチンチンというひびきがきこえた。慈念が韋駄《いだ》天《てん》の夜の経をあげる時刻であった。
慈海はその夜、珍しく躯《からだ》をほしがらずにすぐ寝ついた。だが里子は眠れなかった。慈念の生い立ちについての事どもが、脳《のう》裡《り》からはなれないのだった。慈念について考えていたことが、音をたてて変るような気がした。慈念の大きな頭、ひっこんだ眼、白眼をむいたあの眼つき。誰にも好かれないようなあの風《ふう》貌《ぼう》が、いま、里子に、哀れをともない、殊更《ことさら》いとおしかった。里子は慈海の床から、しずかに起きあがると、隠寮を出た。庫裡の三畳で、慈念がどうしているかを見たかったのだった。もう眠ったかもしれない。もし起きていたら、話しかけてみたかった。里子は足音をしのばせて廊下を通って三畳の入口に立った。と、部屋の中に灯《あか》りがともっていた。里子は中を覗《のぞ》いた。慈念は畳の上に坐《すわ》っていた。小机に向って写経していた。
「慈念はん、あんたまだ起きてはったの」
里子はわきによった。びくっとして慈念は里子の方をみたが、やがて筆をおいて、上眼づかいに里子をみた。
「なんでそんな眼ェする凵v
里子は慈念の傍《そば》に坐りこんだ。
「慈念はん」
胸もとにつきあげてくるような愛《いと》しさがあった。それをこらえきれないままに里子は不意に慈念を羽交《はが》いじめに抱きしめていた。
「慈念はん、あんた、かわいそうや、うち、みんなはなしきいたえ」
里子はやさしくあえぐようにいった。慈念は、ふくよかな白い里子の乳房の上へ頭をすらせて、じっとしていた。その眼はうるんだようにみえた。里子は膝《ひざ》の中へ慈念をはさんだ。汗くさい慈念の顔が乳房を撫《な》でている。激情が里子をおそった。彼女は乳房のあいだへ慈念の顔を押しつけると、
「なんでもあげる。うちのものなんでもあげる」
といった。すると、慈念は急に躯ごと力を入れて、里子を押し倒した。格《こう》子戸《しど》の外に風が出て、庭木の葉ずれがはげしく鳴った。
慈海の風邪《かぜ》はこじれた。ようやく床をあげたのは、西安寺の黙堂和尚が帰ってから十日目である。庭の紅葉も、山の楓も、美しく色づいたころ、南嶽《なんがく》の一周忌の二十日がきた。
南嶽の夫人の岸本秀子は弟子の南窓と二人で孤《こ》峯庵《ほうあん》に現われた。静かな本堂まいりであった。慈海は、里子を表には出さず、南嶽の位《い》牌《はい》を位牌堂からぬき出して戒壇の金襴《きんらん》の打《うち》敷《しき》の上に置きかえていた。香炉に香を焚《た》いて読経《どきょう》したが、経を読みながらときどき咳《せ》きこんだ。病み上りなので、南窓にも秀子にも和《お》尚《しょう》の顔は、一年前よりこけてみえ、髭《ひげ》はそっていたけれど、病人相はかくせなかった。慈海が内陣の緋《ひ》の大座蒲団に坐ると、維《い》那《のう》(経の先唱僧)の小座蒲団に慈念が坐った。魚の彫刻のある大きな木魚を、慈念は鉢頭をふりながらたたいていたが、慈海の回《え》向《こう》が唱じ終るころから、かげっていた白砂利の庭に陽《ひ》が照って、本堂の中は明るくなった。南窓は、秀子と襖《ふすま》の絵をみて歩いた。
「いつみても、雁《がん》が生きとる」
南窓は師匠の思い出にひたりながら下《げ》間《かん》から上間《じょうかん》の四枚襖をゆっくりみて歩いたが、ふと足を止めると慈海にきいた。
「和尚《おつ》さん、南嶽師匠はどれぐらいここにおりましたかな」
「そうやな」
慈海は小磬をもちかえ、首をかしげながら、無造作に、
「十年もいたかな」といった。
「十年――左様ですか」
「十年ここをかりてはりましたか」
秀子が口をはさんで、
「孤峯庵はええ、何ともいえん。ええ、いうてばかりいやはりましたどすわ」
秀子は南嶽と五つちがいだったから、六十を出たばかりの年である。南嶽が生きていた頃《ころ》よりふっくら頬《ほお》の肉づきがよくなっているのはどうしたことか。慈海は面長で小鼻の大きな秀子の横顔をみながら、
「あなたは、ちっともかわりなさらん」
といった。秀子は喪服の袂《たもと》からハンケチを取りだしてせわしく額にあてた。この女も祇《ぎ》園《おん》にいたのだった。だらしのない南嶽は、どの女も料理屋だの、芸者屋だのと、手あたり次第にさがし歩いて家に入れてすぐ別れていた。どの女も二流どころからえらんでいる。秀子は八《や》坂下《さかした》の東新地の「豊川」の芸《げい》妓《ぎ》だった。この女が、南嶽の息をひきとるまでを看《み》取《と》ったわけである。慈海も昔の秀子を知っていたから、ずいぶん、この女とも長いつきあいだと眺《なが》めざるを得ない。
「和尚《おつ》さんも、ちっともかわらはらへん。元気で結構どすなァ」
と秀子はいった。本堂を出た南窓と秀子はやがて衣笠山《きぬがさやま》の下にある孤峯庵の墓地にまいった。慈念が手《て》桶《おけ》と火をつけた線香をもち、煙をうしろへ流しながら先にたって案内した。南窓は軍艦頭の背のひくい慈念をみていて、師匠の臨終の前日を思いだした。「さと」といった南嶽の苦しげな顔を思いだした。
衣笠山は、小松の下の地面に墓地の端あたりから裏白の葉がしげっていた。しめった落葉のある土を踏むと樫鳥《かしどり》がとび立った。南窓と秀子は慈念のすきとおるような墓経《はかぎょう》の声をきいた。土葬でそこに埋められている南嶽の墓石は丈の高い自然石である。秀嶽院南燈一見居士《こじ》と刻まれた字には青苔《あおごけ》が生えかけていた。秀子はなんまんだぶ、なんまんだぶと念仏をとなえながらその石の頭に手桶の水をかけた。
読経がすんだあとで、岸本秀子は、塔《とう》婆《ば》のたてかけてある墓石をぬって歩きながら慈念にきいた。
「慈念はん、和尚《おつ》さんには、奥さんがいやはりますの凵v
慈念はだまってさいづち頭を振っただけであった。そのひっこんだ奥眼が秀子の胸を衝《つ》いた。この子供にたしなめられたような気がした。秀子は慈念のあとからだまりこくって孤峯庵に帰った。
「おかしな小僧はんや!」
このことを丸太町の家に帰ってから南窓にいった。返事をしなかった慈念に対する不愉快な感情が、家にかえるまでつづいたのである。
「けったいな小僧はんがいやはる」
慈海への非難も出ていたが、庫裡《くり》の奥にかくれていた里子を頭においた言葉だと、南窓は黙ってきいていた。
上京区の今出川千本から東へ少し入った地点にある久《ひさ》間《ま》平吉は、孤峯庵の檀《だん》家《か》だったが、慈海の等級別表によると、二級に属している。その久間家から、使いがきて、亡父の三周忌だから読経をたのむといってきたのは十一月の七日のことである。慈海は、使いの者を帰すと、慈念をよんで、
「お前、久間の家へ行って経あげておいで。和尚《おつ》さんは源光寺にいかにゃならん」
といった。慈念はだまってうなずいた。
「大悲心陀羅尼《だらに》と施餓鬼《せがき》を読んでな。それから観音経をあげて回向をしなさい。あとは消《しょう》災咒《さいじゅ》でよろし」
といってから慈海は本堂に慈念をつれていった。維那机の抽《ひき》出《だ》しから過去帳を繰って久間家の二年前に死んだ平太郎の戒名をしらべた。過去帳は死んだ日付別になっている。死人の登記簿である。居士だとか信士だとか信女だとかの戒名をかいた金粉のふきつけてある部厚い綴《と》じ帳であった。指につばをつけてぺらぺらめくっていたが、
「あった。あった。これや、ようおぼえとくんや」
と慈海はいって、芳香智山居士――と書いたところをみせて、
「ええか、よんでみい」
「ほうこうちさんこじ」
慈念は棒よみに読んだ。そうしてまだ口の中でその戒名を口ずさんでいた。
慈念が出かけたのは二時すぎである。孤峯庵から、等持院の裏林に出て、東亜キネマの撮影所のわきから、白梅町に出た。北野天神をぬけて、上七軒を通ればすぐ千本今出川であった。慈念は背がひくいわりに、足は早かった。劣等感を、速足によって補っているようにみえた。衣笠山から千本まで、三十分ぐらいで歩くので大人よりも早い。墨染の衣を着て、小《こ》股《また》歩きに、頭を前につき出して歩く慈念の姿は、町の人の眼をひいた。
「おもろい坊さんが歩いてはる」
そんなことをささやきあう者もいた。町の人のそんな眼に慈念は馴《な》れていた。盆の棚経《たなぎょう》には朝から十何軒もの檀家を廻《まわ》ったが、人の眼を気にしていたら一軒もまわれない。紫野の学校へゆくのは、詰襟服《つめえりふく》にゲートルまきである。しかし小さい中学生の姿は途中の人に馴染《なじ》んでいた。慈念はわき目もふらずに歩く。人から蔑《べつ》視《し》されているのを知っているから尚《なお》のこと早く歩く。
久間家は、塗装用品卸業で今出川通りの市電道路に面して在った。久間平吉は、慈念が店から上ってきたとき、おやと思った。慈海が来なかったからである。和尚《おしょう》が檀家を等級に分けているのは知っている。慈念がきたのは一階級落ちたのか。平吉は不服そうな顔で、慈念が仏間に通るとき、よびとめた。
「和尚《おつ》さんは」
「うちで寝てはります」
慈念はそうこたえただけで、奥に入った。まもなく、読経の声がきこえた。仏間へゆく途中に、平吉の兄が寝ていた。結核である。日当りのわるい中の間で蒼い顔した病人は慈念の経文をききながら目を閉じていた。平吉はうしろにきて、お布施と菓子を包んで盆にのせ、坐って待っていた。慈念は、観音経の段になると、ふところから写本を出して拝みながらよむので、ずいぶん時間がかかった。ていねいなおつとめだとも思うが、和尚とちがって、慈念の読経はどことなくありがたくないような気がする。病人がいる上に、店の番もしなければならない。平吉は気がせいていた。ようやく、経がすんで慈念は磬をたたいてうしろへ向き直った。中の間の病人が少しうごいた。その方をじっと慈念はみていた。平吉の兄は喀血《かっけつ》を二どして、もう医者が見放しているという噂《うわさ》は慈海からもきいていた。その平三郎はいま大きないびきをかいている。があーッと咽喉《のど》に風がとおるような音をたてている。しかし、それがすぐとだえたりする。
「こうして、意識不明で三日目どす」
平吉は膝《ひざ》に手をおいてあきらめたようにいった。細君はどこかへ使いに出たものか、いなかった。慈念は、うすい灰色の蒲《ふ》団《とん》をかぶって、やせた四十男が塗料の罐《かん》の奥に、失意の顔を天井にむけているのをみつめながら、急に思いついたようにいった。
「和尚《おつ》さんは、修行に出たいいうてはります」
「和尚《おつ》さんが?」
平吉はおかしなことをいうなと耳をうたがった。平吉は信心の厚い方だし、死んだ親から慈海老師は燈全寺派でも師家級の僧だときいていた。孤峯庵は本山塔頭《たっちゅう》の上位にある別格地の寺だ。金閣寺や銀閣寺のように拝観客こそないけれど、衣笠山麓《さんろく》では、龍安寺、等持院とならんで、歴史もふるいし、開山は夢窓国師である。寺格も高いと自慢にしていたことだった。その住職の慈海和尚が、まだこれから修行をしたいというのはどういう意味か。
「へーえ、勉強なこってすな」
平吉は慈念のいった意味をそのようにとって、慈念にきいてみた。
「お小僧はんはどないしますのや」
「はよ中学出て、僧堂へゆきたい思います」
「左様か。僧堂もえろおますな。寒いのに托《たく》鉢接心《はつせっしん》もせにゃならん。見ていて気の毒なほどや……坊さんの修行もつらいですなァ」
平吉は禅門の修行というのは、あの雲水の修行さえすれば、もうそれで、悟りがひらけて住職になれると思っていた。慈海がこれから修行しようとすると、その修行とはどんな修行なのか、理解にくるしんだのである。
「もどったら、和尚《おつ》さんによろしゅいうとくれやす」
店まで送ってきて、慈念が敷《しき》居《い》をまたいで市電通りへ出るのを、思い切ったように呼び止めて、平吉は腰をかがめて、慈念の耳にいった。
「もうじき、兄が逝《い》きます。兄が逝ったら、また葬式だしてもらわんなりません。和尚《おつ》さんによろしゅうたのんどったいうて下さい」
慈念は無表情な眼を通りのアスファルトに投げていた。折から焼芋屋の車がうしろから通った。
焼芋屋のヤキモーウと長くひっぱる声に慈念は耳かたむけている。やがて、その車のうしろから慈念は歩きだした。と、今出川通りが千本通りと交《こう》叉《さ》する地点のわずか手前に、菊川金物店という刃物屋があった。そこの店に三十年輩のお上《かみ》が坐っていた。焼芋屋の車のうらから、にょっきり頭の大きい小僧が出てきたのでびっくりした様子である。慈念は店の前で立ち止った。庖丁《ほうちょう》と鎌《かま》と、鋏《はさみ》が台の上にならべてある。西陽をうけてその切先が光っている。
「へえ、おいでやす」
お上はお寺さんの客だと思った。慈念が何かを買うらしいと、客になれた眼で知った。
「これ」と慈念は小さくいって、肥《ひ》後守《ごのかみ》を指さしていた。鉛筆けずりにでもつかうのかとお上は思った。
「へーえ、二十三銭どす」
慈念はちょっと眼を光らせた。神妙な眼つきだった。頭陀袋《ずだぶくろ》の中へ手をつっ込んだ。まもなく、五十銭銀貨を一枚とりだした。西安寺の住職がくれた金にちがいなかった。
里子は夕方ちかく、本堂の裏廊下へ出て、裏山の景色をみていた。ついさっき、慈海は源光寺に碁を打ちに出かけて行った。ちょうど慈念が今出川へ出た直後、慈海はすぐ隠寮にきて、里子を裸にした。永らく病気でもあったから、慈海が欲しがったのはわかる気もしたし、里子も少し間をおくと、躯《からだ》がほてった。慈海はいつもより汗をかいて早くすませてしまうと、里子に着物をきせた。自分も、他所《よそ》ゆきの白衣《びゃくえ》にきかえるらしい。いつもなら里子が箪《たん》笥《す》から衣と被布を出すのに、慈海は、小まめに自分で出したのである。
「めずらし、雨がふるわ」
里子は冗談をいった。手鏡でみだれ髪を直していたが、慈海がどうして、その日にかぎって、自分で箪笥をあけ、身仕度をしたのか気にかかった。その時は、それはすぐ何でもないのだと思った。慈海は愛《あい》撫《ぶ》も激しかった。里子は死にそうだ、と訴えるくせになっている。慈海はそんなとき手をやすめて力をぬく。一人で身仕度をしたのは、つかれている里子へのいたわりだったかもしれない、そんな風に思った。
源光寺にゆけば慈海は必ず夜おそくなる習慣だった。酒が出るからだった。
里子は裏廊下から冬にちかい衣笠山をみていた。山の眺めは好きでならなかった。同じ廊下の同じ地点で、里子は岸本南嶽に耳をくすぐられながら、この山の美しさについて話をきいたことを思いだしている。
年月がいくらたっても、丘のようなまるいこんもりした山は、男松が育たないという。そういえば、赤い幹の小松ばかりが頂上にまでつづいている。麓《ふもと》は常緑樹と、葉の落ちたこまかい疎林の傾斜である。その傾斜にいまさ《・》霧がまいおりてくる。
里子は、疎林の中の一本の椎《しい》の木をみつめた。いま、そこに鳶《とび》がとまっている。あの鳶は昔からいるのだろうか。南嶽とすごした十年前にも、その鳶はそうしてそこにとまっていて寺の庭を見下ろしていたような気がした。里子がみているまに鳶はとび立った。上空をゆっくり旋回した。だが、すぐ、また、もとの椎の頂にもどった。頂にとまるとじっと動かない。 玄関の方で、誰《だれ》か歩いてくる音がする。慈念の擦るような足音であった。里子は廊下に立って慈念の方はみずにじっと山をみていた。慈念は作務《さむ》のシャツの上につぎの当った黒いズボンをはいていた。シャツは和尚が小僧の時分に着たもので、メリヤスのつぎはぎだらけだ。さしこにぬった糸が、柔道着のように線をえがいている。
「慈念はん、早かったなァ」
里子の方から声をかけた。
「いま、うちは、あのとんびん見てたんや」
「とんびん」
慈念もそういって山の方をみたが、珍しくこんなことをいった。
「奥さん、とんびん、なにしてるか知ってはりますか」
「とんびんがなにしてるって、あそこにとまって何もしてへんがな」
里子はいつになくよく喋《しゃべ》る慈念をみて、
「とんびんが何してるって、何してるのや」
くすんとわらった。
「とんびんはな、あそこに貯《た》めてんのや」
妙なことをいうと思った。
「貯めてるて何をいな」
「椎の木のな、てっぺんに大きな穴があんのや。暗い壺《つぼ》があるのや。このあいだ、学校ゆきしなに、のぼって見た凾竅v
「のぼった」
里子は壺のような穴があるときいてぎょっとなった。耳を塞《ふさ》ぎたいような気がした。だが、つづけて喋ってくる無心な慈念の話をきかないわけにゆかない。
「のぼってみたら、天辺《てっぺん》に壺みたいな穴があってな。下はまっ暗やった。じいーっと見てたら、底の方に何やらうごいとる。蛇やら魚やら鼠《ねずみ》やらが仰山うごいとる。蛇は赤いのもいたし、白いのもいた。みんな鳶が地面で半《はん》死《じに》にしてからくわえて運んだんや」
鳶の餌《え》の貯蔵所だというのであった。朽ちかけた椎の頂に、停《とま》って動かない鳶は、餌を貯えてじっと眺めていたのだ。壺のような穴の底に、死にかけた鼠やら魚やらをいっぱいためている。半死の蛇がその中でうごめいている。
「やめてんか、こわ、こわ、やめてんか」
里子は眼をつぶって大声をあげた。その声が紅葉した樹々《きぎ》の枝をぬって山にこだました。気がついたときは慈念はいなかった。築山の裏へ頭だけがうごいてかくれた。
里子はその夜夕食をすませて、隠寮の部屋にとじこもっていたが、慈念からきいた鳶の巣のはなしは脳裡を去らない。壺の中でみたという蛇のうごめく光景がうかび、食事もまずかった。ふッとたべたものを茶碗《ちゃわん》にはき出したが、吐き出した物をみると、また、いっそう気味のわるさがつのった。
〈いやなこといわはる慈念はんや!〉
部屋に下って、新聞をよんだり、雑誌をよんだりしたが、いつまでも鳶の姿ははなれなかった。
慈念が鳶のはなしをしたのは、あの夜のことが心のどこかに作用して、里子をいじめたくなってあんなことをいったのではないかと思った。すると里子は、あの夜の気の狂ったような自分の行為がふかく後悔された。あれはいけないことだった。もう二どとあんなことはすまい。里子は心に誓ってみるのだ。
だが十二時をすぎても、里子は眠れなかった。こんなとき、和尚《おつ》さんがいてくれれば、と里子は孤独を感じた。夜半から風が出てきた。裏戸が鳴りはじめた。衣笠山はひくいために、孤峯庵のうしろの藪《やぶ》は風をまともにうけてななめにしなうのである。
一時。二時。里子は三時の音をきいたが、慈海は帰らなかった。
北見慈海はこの日孤峯庵から去っていた。寺で最後にみたものは里子であった。里子は房事のあと、箪笥の抽出しをあけて慈海が身仕度をする後ろ姿をみただけだ。
十一月八日は、孤《こ》峯庵《ほうあん》には内外からの出来事が生じた。それは慈海が帰ってこないので、里子が極度の頭痛をおこし、目角をつりあげ、慈念にあたり散らしたことである。慈海はこれまで、いくらおそくなっても帰ってきた。檀《だん》家《か》廻《まわ》りにいって、酒をよばれても、二時までには帰った。外泊する場合は、最初からいい置いて出る。だから、慈海が帰ってこないのは、何かあった《・・・・・》という気がした。しかし、異変が起きたら、源光寺の住職から報《しら》せがあるはずであった。大酒呑《の》みの慈海のことだから、どこかで脳溢血《のういっけつ》にでもなって倒れたとしても、病院か通行人かがしらせてくれるはずである。正午になってもどこからも消息がなかった。
「慈念はん、和尚《おつ》さんはあんたにどういうて出やはったん」
里子は荒い言葉になった。
「知りまへん。本堂へよんで、私に僧堂のはなしをしてくれはりましたんや」
「いつ?」
「はあ、久間はんとこへお経あげにゆく前です」
「僧堂のはなしして、それからどんなはなししやはった」
「雲水になったら、旦《たん》過《が》詰《づめ》(修行の一課程で一室内に閉じこめて坐禅と断食を課すること)がある。辛抱《しんぼう》して奥へとおしてもらうまで、そこに坐《すわ》っとれ、いやはりました」
妙なことを慈海はいったものである。里子は寝物語に、僧堂の雲水生活をきかせてもらったことはおぼえている。
「それだけかいな」
「久間はんの戒名おしえてもらいました」
「それから」
「大悲心陀羅尼《だらに》と施餓鬼《せがき》をよんで、あと観音経の普《ふ》門品《もんぼん》を写本でええからよめいうて……二時に出ました凾ナ、あとのことは知りまへん」
とび出た額の奥の眼《め》をギロリと慈念は里子にむけている。里子はまた、この眼に射すくめられた。昨日、慈念が出たあとで、慈海は自分を裸にして戯《たわむ》れた。そのことも、慈念が見ていたような気がするのだ。
〈そんな阿呆《あほ》なことないわ。この子は今出川へお経よみにいったんや。あの時刻は、わてと和尚《おつ》さんだけやった。誰《だれ》も知らへん〉
里子のこのような思いを慈念はいま見透すように睨《にら》んでいる。
「ほんな、すまんが、あんた、ちょっと源光はんにいってくれへんか。碁打ってから和尚《おつ》さんどないいうてはったかきいてきてえな」
「はあ」
慈念はわずかに顔色をかえただけで部屋を出ていった。外出の用意にかかる様子だった。
耳門《くぐり》のくさりがキリキリと鳴りひびいて、玄関に入ってくる足音がした。
久間平吉がたっていた。慈念が床板に膝《ひざ》をそろえていると、平吉はいった。
「和尚《おつ》さんいやはりまっか」
「留守です」
慈念はこたえた。
「どこへゆかはったんどすか? ま、昨日《きのう》はおおきに!」
と平吉は慈念に低頭して、
「やっぱり、兄は逝《い》きましたわ。今朝方、ぽっくり逝きましてな。ええ往生どした。そいで、あしたのひるから、葬式してほすのや。たのみます。和尚《おつ》さんにな、よういうといて下さい」
平吉は小僧だけにいいおくのもちょっと心配げであったようすだが、今出川の取り込んだ家が気になったらしく、そそくさと帰りかけた。が、すぐ戻《もど》り足になって、
「和尚《おつ》さんに、そやな、二等ぐらいのとこで、たのみますいうて下さい」
そういってから、平吉は頭を下げて出ていった。
慈念は耳門のくさりが重石《おもし》をことんと音たてて落ちるまで見ていた。やがて隠寮《いんりょう》にきた。
「久間はんのおっつぁんが死なはったそうどす。今朝やったそうどす。あした葬式たのんますいうてきやはりました」
つり上った里子の眼《め》尻《じり》がぴりぴりと動いた。
「それで、慈念はん、あんた、どういうて返事しなはった凵v
「二等ぐらいで坊さんたのんでおくんなはれいわはりましたさかい、和尚《おつ》さんが戻らはったらいいますというときました」
慈海の行方《ゆくえ》が知れない。久間平吉にそんなこともいったのではないかと思ったのだが、落ちついている慈念をみてほっとした。
「そんならな。とにかく葬式もあるで源光さんに行って、わけをいうてんか」
里子はまだのんきにかまえていた。慈海はどこかで寝ているぐらいだと思っていたのである。
「そんならいってきます」
慈念が神妙な顔つきで孤峯庵を出て、小《こ》股《また》歩きに等持院の茶畑の方に消えるのを里子は見送った。
禅寺には法類という寺仲間がある。つまり親類寺とでもいうべきものである。燈全寺の塔頭《たっちゅう》には、本山宗務所のある烏丸上立売《からすまかみだちうり》東の山内に、恵春、春光、玉鳳《ぎょくほう》、源昌、林泉、光明、普広、峨《が》山《ざん》など十二に及ぶ塔頭寺院がある。それぞれ、住職がいて、本山の寺務を分担したり、葬祭、遠《おん》忌《き》、懺法《せんぼう》などの行事に参列するのであるが、このほかに、市内に聚閣《じゅかく》、鹿園《ろくおん》寺《じ》、叢閣《そうかく》、慈源寺をはじめとする山内以外の末寺もあったわけである。孤峯庵は末寺の部類に属した。世襲制度の禁じられていた当時は、住持の進退に関する規定は、まず法類が集議し、のち本山執事長、管長、老師の間で論議され、その結果が発表されるわけで、孤峯庵の法類には、源光寺、瑞光院《ずいこういん》、妙法寺、明智院などの末寺仲間があった。
このうち、源光寺は、山内にはなく、下立売御前《おんまえ》通りを東に入った川ぞいの住宅街のなかに、庫裡《くり》と本堂の別棟が卵色の築《つい》地《じ》塀《べい》に囲まれてひっそり建っていた。
住職は慈海と同年輩の宇田雪州である。雪州は僧堂を燈全寺で送ったこともあって、慈海とは雲衲《うんのう》仲間であった。酒も好きなところからよく往来した。慈海はヒマがあると衣笠《きぬがさ》山《やま》から下立売御前まで歩いて碁を打ちにゆくのであった。
十一月八日の午《ひる》すぎごろ、孤峯庵の小僧の慈念が、源光寺の門を入ってきて、山茶花《さざんか》の植わっている踏石づたいの庭をつっ切り、庫裡の玄関をあけたときには、雪州は縁の日向《ひなた》で剃髪《ていはつ》していた。小僧の徳全が応対に出た。和尚のいる縁にひざまずいて、
「孤峯庵から慈念はんがきやはりました。和《お》尚《つ》さん、来てはらへんかいうてはります」
「慈海和尚がうちへか?」
雪州は剃刀《かみそり》をあてていた後頭部から石鹸《せっけん》の泡《あわ》で濡れた手をはなして、
「妙やなァ」
といった。ここのところ、慈海和尚はきていない。こちらが誘っても、碁を打ちにこなかった。
「慈念がきたのか」
「へえ」
「こっちへ通せ」
雪州は脚《あし》のついた小《こ》桶《おけ》をまたぎ、半分だけうしろ頭の毛をのこしたまま、庫裡の部屋に入った。慈念は早足で、台所口に廻って、縁から上ってきた。敷《しき》居《い》のところに膝をついている。
「和尚《おつ》さん、いつ出なはった凾竅v
「昨日《きんの》どす」
「何時ごろや」
「へえ、奥さんが二時半ごろやったいうてはります」
「うちへ来とらんぞ」
雪州はちょっと不審な顔つきになった。慈念の顔がいやに緊張していて、しかも蒼《あお》ざめていたからである。眼つきのわるいのは、この少年の額が人一倍とび出ていて、奥眼のかげんであることは充分知っている。しかしどこやらその眼の光りがすこし違っている。
「里子はんは知らんのか」
「へえ、源光さんへ行かはったらしいから、迎えにゆけいわはりました」
困ったことである。慈海は来ていない。どこへいったのか見当もつかない。
「おかしなこっちゃな」
雪州はまだ腑《ふ》に落ちない顔だった。と、慈念がいった。
「今出川の久間はんとこの人が死なはりました。葬式してくれいうて来やはりました。和《お》尚《つ》さんと約束だったそうどす。用意もせんなりません」
「葬式?」
「へえ」
「久間はん? 檀家か?」
「今出川千本東へ入ったとこの塗料売ってはる店どす」
「ああ、そうか、あそこにそんな檀家があったな。慈海和尚と法事にいったことあるわ」
雪州は久間の店の構えも、平吉の顔もうろおぼえに知っていた。しかし困ったことだった。肝腎《かんじん》の住職が戻ってこない留守中に、葬式をしなければならない。本山にきこえたら、執事長の越山窟《えつざんくつ》から大叱責《だいしっせき》を受けることはわかりきっている。
「慈念」
「へえ」
雪州はじっと下を向いている慈念の後頭部をみていった。
「誰にもいうな。里子はんにもあんまり世間へふれるなといいなさい。ええな。葬式は法類でしたる。ええか。早よ、いんで本堂の飾りつけしなさい」
慈念は床板に額がひっつくほど低頭した。
雪州は徳全をよぶと、法類の諸寺へ使いにゆかせた。徳全は中学を出ていたし、僧堂にゆく寸前にある侍者であった。先程から慈念のいっていることもきいて了解している。彼は慈念といっしょに門を出ると左右に分れた。
「困ったことやなァ、和尚《おつ》さん、どこで酔いつぶれはった凾竄。暢《のん》気《き》な話やなァ」
慈念にそういうと、徳全は北野社の方へ大股で歩きだした。
慈念が孤峯庵に帰ったのは四時近くだった。里子は一人で帰ってきた慈念をみて、
「なんや一人かいな」
といった。
「はい、源光さんに行ってはらしまへなんだ」
「なんやて」
白いこめかみがまたぴりりと動いた。
「そんな阿呆な、和尚《おつ》さん、自分で箪《たん》笥《す》から白衣だして着て、碁打ってくるいうていかはった凾竄ナ」
慈念はだまって里子を見あげている。
「それで、源光さん、どないいうてはる凵v
「ここのところ和尚《おつ》さんは来てはらへんいうてはりました」
里子は仰天した。慈海はたびたび源光寺へいって酒をよばれてきたといって帰っていた。あれは嘘《うそ》なのか。
「そんなら、和尚《おつ》さん、どこへゆかはった凾竄、慈念はん、あんた、どう思う」
だまっている慈念の顔に切羽つまった声を里子はあびせた。
「わかりまへん、これから、久間はんの葬式の用意せにゃなりません。源光さんは法類仲間で、本山へ知れんように葬式すましたるいうてはりました」
里子はいっそう蒼ざめた。源光寺の雪州和《お》尚《しょう》の思いやりはわかる気がした。けれども、葬式は、どうせ、二等でやらねばならないから、法類仲間の役僧に来てもらわねばならないことはわかっている。そうすれば慈海の不在はかくしようがない。
慈念は思案にくれている里子の前をうつむいて通って本堂にいった。葬式の用意をするのである。小まめに働く慈念がいてくれればこそ、酒呑みの慈海が助かったともいえるのだ。里子は、落ちつきはらって本堂の方へ歩いてゆく慈念をありがたいとふと思った。なるほど、源光寺の和尚のいうとおり、檀家の守りも忘れて遊んでおれば、本山から大目玉を喰《く》うことは必定であった。里子はしかし、気だけあせっても、表に出て差配するわけにゆかない。本堂の什器《じゅうき》一切に手をふれたことはないし、また葬式の仕度などというものはどうすればいいか見当もつかないのだった。
〈あんじょ、たのみまっせ〉
慈念に手をあわすしかないのであった。
隠寮へもどると、イライラしたが、ふと、慈海は源光寺へゆかなかったのなら、どこへ行ったのかと、そのことに関心がふかまった。
里子が、寺へきたのは、去年の秋だから、まる一年たつ。そのあいだ、最初のころは、慈海は寺に居るきりで、毎晩里子を抱いた。いや、夜ひるとない房事がつづいたことを里子は憶《おぼ》えている。しかし、本山へゆく、法類へゆく、檀家へゆく。いろいろの出先をいって出かけてはいた。法事にゆけば、お布施、菓子、そんなものを袂《たもと》か頭陀袋《ずだぶくろ》に入れてかならず土産に帰ってきたから、行先をうたがうわけにゆかない。
とすると、病気がなおってから、一、二ど外へ出たのは、源光寺ではなくて、里子にも秘密の行先があったのだろうか。ムラムラと嫉《しっ》妬《と》が胸をさかなでた。
〈べつにまた女《おな》ごはんつくってはった凾ニちがうやろか!〉
ありそうなことにも思われる。源光寺へゆく途中にでもひょっこり昔の女に慈海は会ったのかも知れない。焼けぼっくいに火がついた。女の家をたずねていく。そう思うと、あの日、自分で白衣を着て出たのもうなずけるのだ。
しかし、この疑問は瞬時で消えた。そんなはずはないと思う。里子はそれを知っていた。慈海は南嶽から妻帯をすすめられても断わってきた男である。自分が好きだった。里子を寺に入れただけで、もう慈海は満足だった。それは里子の躯《からだ》が知っている。
五時になると、久間家から二人の使いがきた。慈念が玄関で相手をした。
「うちはせまいよってに、和尚《おつ》さんにたのんでおきましたんやが、今晩のお通夜は本堂でさしてくれはらしまへんやろか。とにかく、奥の間にペイントの缶《かん》入りが仰山入りましたんで、いっぱいどすのやな」
「和尚《おつ》さんの約束してはったもんならよろしいでしょ。どうぞ」
慈念がそういった。
「おおきに。そんなら、たのんます」
平吉の使いの者はすぐひきかえしていった。慈念は、本堂の内陣の戒壇に白布をかけ、金《きん》襴《らん》の三角打敷をかけた上に、内陣の奥から白磁の香炉を出してきて置いた。膳《ぜん》も、燭台《しょくだい》、維那机《いのうづくえ》も、白木一式のものでやらねばならない。葬祭屋は入るけれども、職人は主として久間家で仏を棺にいれたり、棺を白布でつつんだり、金銀の造花をそれに供えて運んだりする仕事ぐらいで、いったん仏が寺に入れば、葬祭屋はひき下るのがしきたりになっている。だから慈念はいそがしいのであった。法類に笑われてもいけないし、檀家の久間家に粗末な感じをあたえてもいけない。このことは、たびたび、慈海が葬式をするたびに慈念に教えたことなのだ。慈念は慈海和尚に教えられたとおりの什器をそろえた。下間の襖《ふすま》をひらいて、畳の上に白布を敷いた。白布はついでに敷居の上も覆《おお》うようにした。上間はそのままにしておく。久間の親類縁者は下間に坐ってもらい、焼香にくる人たちは本堂前廊下に整列してもらえばいい。これも慈海がいつもしているとおりである。物置から慈念は茣蓙《ござ》を取り出してきて、広い縁に敷いた。丸めた茣蓙を廊下の端に置き、くるくるとまき戻していると、里子が上間にきて、
「慈念はん、源光はんから、徳全はんが手伝いにきてくれはりましたえ」
といった。
雪州和尚が慈念一人でてんてこ舞いをしてはいないかと、案じた結果であった。
「へえ、おおきに」
慈念は茣蓙を向うのはしまで、ひっぱってゆき、小股歩きに、その茣蓙のしわを足でのばしながらまたこっちへ歩いてくる。里子のうしろに徳全がいた。
「和尚《おつ》さんから何もまだいうてきまへんか」
里子はその徳全の眼にちょっと気になる光りをみた。
〈あては知るかいな!〉
「何もいうてきやはらしまへん」
「そうどすか。どこへ行かはった凾竄な」
徳全もたびたび酒の相手をさせられているから知っているのである。
「徳全はん、和尚《おつ》さん、ちかごろ、源光はんへゆかはったのは、いつごろどすか」
「そうどすな。だいぶ永いこと来やはらしまへんどしたなァ」
やっぱりそうなのかと、里子は慈海の行先を考えざるを得ない。
〈あてにだまって、どこに女ごをつくってはった凾竄!〉
女が相手でないかぎり、他所《よそ》に泊るような男でないことは里子の躯はよく知っている。
「徳全はん、そんなら、よろしゅ、たのんますわ」
里子は本堂のことを慈念と徳全にたのんで、隠寮にもどった。部屋に入って、箪笥をあけたり、袋戸棚をあけたり、慈海にきた手紙をしらべてみたり、目角をつりあげて、そこらじゅうの慈海の秘密のありそうなものを調べた。何も心あたりのものはでてこなかった。
〈和尚《おつ》さん、和尚さん、あんた、どこへゆかはった凵Bあてひとり残して、どこへゆかはった凵r
里子は畳の上にどさりと丸い尻を落した。瞼《まぶた》をおさえて、いつまでも所在のないまま紅《べに》蒲《ぶ》団《とん》の上へうつぶせになっていた。
久間平三郎の棺は七時半に孤峯庵についた。霊柩車《れいきゅうしゃ》から下ろされると、平吉、塗装職人で従弟《いとこ》でもある猪之《いの》吉《きち》、作造、伝三郎の四人が棺を大門から、本堂の庭先に入る小門をあけてかつぎ入れ、慈念と徳全が衣をきて待っている縁にいったん下ろすと、白《しろ》足袋《たび》のままの裸足《はだし》で、庭の白砂利を踏み、正面の上り段から内陣の間に入れた。慈念が赤い打敷の三角《さんかく》巾《きん》をたらしている台の上へ、塗装職人でもあった大男の平三郎の棺は横におかれた。なんまいだぶ、なんまいだぶ、三ど口ずさんでから、平吉は、ぺこりと慈念に頭を下げ、
「ほんなら、よろしゅ、たのんます」
といった。慈念は平吉を見あげて、落ちついた口調できいた。
「通夜は何人みえますか」
「わたしと、ここにいる親類のもんの四人です。けども、あしたは、田舎から汽車でつきますよってん、大勢になりますけど、通夜はほんのうちうちで済ましまっさ」
慈念は低頭した。
通夜の読経は、かけつけた源光寺の雪州が書院の間で紫衣《しい》に着かえて、徳全を侍者にしたてて、すませた。慈念が維那をつとめた。下間の間に久間家の四人は読経《どきょう》のあいだは沈黙して坐っていたが、雪州和尚が曲ィ《きょくろく》(僧の坐る椅子)から下りると、何やらぼそぼそ話していて、すぐ順番に焼香にきた。香がたかれると、上間の襖に煙が霧のようにたなびき、南嶽の描いた雁《がん》がまた羽ばたきはじめるのである。雪州はしばらく、その襖絵《ふすまえ》をみていたが、徳全に目くばせすると、本堂を下った。慈念もついてきた。
「どや、通夜は慈念、徳全の二人でできるな」
「へえ」
慈念は低く頭を下げた。
「書院に、詰所がつくってあります。泊りたい人には、蒲団を出しときました」
「そらええ、在家の人は、通夜いうても、夜どおし起きとらせん。交代やなァ」
「はい」
「徳全もそれでは、孤峯庵に寝るか」
徳全は頭を下げた。
「そんなら、わしはいったん帰る」
いい置いて雪州和尚は、隠寮の方に曲る廊下をとっとと奥の方へ入った。
里子は部屋の炬《こ》燵《たつ》蒲団に頭を付けてうとうとしていたが、うしろの廊下で足音がするので、背中をのばしてふりむいた。
「やっぱり戻ってこんかの」
雪州の大きな赭《あか》ら顔が障子のすきまからみえると、里子はびっくりしていった。
「しらべましたら、墨染の普段衣と、黒《くろ》袈裟《げさ》がおまへんのや。そんなも凾烽チて、どこへゆかはりましたんやろ、あの人」
雪州は首をひねった。
「おかしなものをもって出たんやなァ」
「ここにあった文庫もありません」
と袋戸棚の上を指さしている。
「文庫が?」
雪州はちょっと考えていた。が、すぐにいった。
「そら、まるで雲水に出たみたいな話や。なに、あんたが知らんうちに誰かに貸した凾カゃろ、心配せんでええ、和尚は明日《あした》の朝になるとケロリとして戻ってくる。久間はんの家の葬式は知らんのじゃから、暢気にどっかで寝とるんじゃろ」
そういうと、雪州は廊下を行きかけたが、またあと戻りして、里子のはれぼったい顔をのぞいて眼尻を下げ、
「あんた、いじめすぎた凾ニちがうかいな」といった。
「いやな、和尚《おつ》さん」
里子は顔を赧《あか》らめた。慈海が、源光寺へ行って何をしゃべっているのか見当がついたからである。雪州は笑い声をのこして廊下を曲って消えた。
通夜は、慈念の差配ですすめられた。下間で久間家の四人が待機し、十一時に読経を徳全がすませると、書院の八畳に蒲団が敷かれた。交代に久間家の者を休ませることにした。徳全も庫裡との境にある四畳半に下った。慈念は平吉にいった。
「和尚《おつ》さんからよくいわれてます。通夜は香を絶えさせてはなりまへん。私が気ィつけてます。あしたのこともありますから、どうぞ、お休み下さい」
「おおきにな」
猪之吉がそばからいった。作造も、伝三郎もひる間働いているので、眠りたいのが顔に出ている。職人だからわかることでもある。慈念はそんな四人をゆっくり見廻して、
「交代でひとりずつ起きてて下さいますか」
ときいた。
「へい、交代で起きとります」
「それではそうして下さい」
慈念は内陣のまん中に坐り、観音経の写本をよみはじめた。通夜の読経は声をはりあげないこと。小さく、ゆっくり読むように慈海から教わっている。明け方まで読まねばならない。慈念は維那机から磬《けい》子《す》を中座の横にもってきた。下間には平吉が正座していたが、やがて、平吉は襖にもたれると、居眠りはじめた。十二時がすぎ、慈念が三どめの観音経を読み終ったときは、平吉はぐっすり眠っていた。
「もし、平吉はん」
平吉はとつぜん慈念におこされた。
「風邪《かぜ》ひきます。あっちで、交代の人が起きはりました。さ、書院へもどって休んで下さい」
二時ごろであったかと思う。うしろの庭で鯉《こい》がはねた。平吉は慈念のうしろから、寝呆《ねぼ》けた足どりで書院につれられていったが、障子を透かして、うす明りの中で三つの蒲団がどれもふくらんでいるような気がした。誰か起きてくれたのか。そう思っただけで、平吉は慈念に指示された蒲団に入ると、疲れがおしよせて寝入った。
〈長いこと看病さして、とうとう兄も死んでしもた。ああ、長いこと看病さしよった……〉
平吉は今出川の暗い奥の間で、兄のよこで寝ているような錯覚をおぼえた。兄の溲《し》瓶《びん》がまだわきに置いてあるような気がした。
〈兄は往生して孤峯庵でいま安楽に寝とる……〉
天井の高い孤峯庵の書院はせまい塗装用品卸業の家よりも、平吉にはいま大きな安息感をあたえたのである。
慈念が書院を出て、香を焚《た》きに本堂の廊下へ出る。擦るような足音が、平吉にうっすらときこえる。隠寮では、里子がまだうとうとしている。慈海はもどってこない。
〈和尚《おつ》さん、和尚さん、どこへ行かはったん。あて一人のこして、どこへ行かはったん!〉
里子は蒲団の中で、うわ言のようにくりかえしていたが、やがて、彼女にも波のような眠りがおそった。
孤峯庵の夜は更《ふ》けた。やがて、もう明け方が近づきつつあった。
葬式は源光寺の雪州和尚の引導で行われた。内陣に瑞光《ずいこう》、妙法、明智各法類の和尚たちが役僧に立って、太鼓と梵磬《ぼんけい》の紅《あか》い房をたらしてならんだ。維《い》那《のう》はしきたりからいって慈念であった。各法類の徳全、大仙《だいせん》、慈照、易州、奇山の小僧たちが、和尚たちの対面に黒衣をきて読経に唱和した。久間平三郎の戒名は、「香俊智道居士」であった。雪州は、いつもなら慈海が坐らねばならない曲ィ《きょくろく》に坐り、割れるような地声で平三郎に引導を渡した。一時にはじまった読経は三時に終了したが、上間、下間に集まった久間家の縁者は二十八人いた。通夜をうけもった平吉、猪之吉、作造、伝三郎は、親類たちから、ねぎらわれるたびに、寝足りた顔をほころばしていた。彼らはかいがいしく働いたが、朝早くに、山麓《さんろく》の久間家の墓地に穴掘りにゆく人選がはじまったとき、元気な猪之吉がいった。
「ゆんべ、ゆっくり寝さしてもろたで、わいが従兄《にい》やんの穴掘らしてもらうわ」
「そんなら、そうしてくれるか」
平吉が承諾したので、猪之吉と伝三郎が穴掘りに出かけていった。和尚連は読経が終ると書院にひと先《ま》ず下った。棺は昨日にかわって、平三郎の田舎である福知山の山奥からきた叔父の助三、喜七、それに熊太郎、幸太という平吉の次の弟たちが担《かつ》ぐことになった。慈念は、書院の和尚たちに茶を出していたが、本堂へきて出棺の用意ができたのを見届けると、また、和尚連を導いた。赤、紫、黄、橙《だいだい》、法類の和尚連のまとうた衣は、白砂利の庭に列をつくり、遺族たちの前であざやかな色どりをみせた。白布に包まれた棺が唐門《からもん》を出るとき、曇った空一杯の雲がわずかばかり割れて陽《ひ》がさしてきた。
ちん、ぽん、じゃらん
ちん、ぽん、じゃらん
先導の雪州和尚の読経に唱和して小磬《ちん》、太《ぽ》鼓《ん》、梵磬《じゃらん》が鳴った。衣笠山に向う役僧のあとから棺はつづいた。そのあとを二十二人の親族がてんでに数《じゅ》珠《ず》をもみながらついていった。
埋葬は四時にすんだ。平三郎は小松の茂った麓《ふもと》の黒竹の藪《やぶ》の 傍 《かたわら》に埋められた。棺は伝三郎と平吉が寺から借りた鍬《くわ》でずり落す黒土にかくれた。地下の棺の量だけあまった土がまるくその上に盛りあがった。慈念の用意した白木の小さな膳《ぜん》が、湯葉の汁《しる》と箸《はし》をたてた盛り飯の茶碗《ちゃわん》をのせて、その土の上におかれた。
山の横面をふくきのこくさい風が膳の上の汁を波だたせていた。
久間家の一族が孤《こ》峯庵《ほうあん》を去ったのは六時ごろである。孤峯庵は葬式のあとの花輪や、造花や、竹細工の焼香台など、ごたごたしたものが、本堂のわきに散らばっていた。ところが、寺内はそんなものの整理どころではなかった。
せめて、葬式の最中ぐらいには、ひょっこり帰ってくると期待されていた慈海が、まだ戻《もど》ってこなかったからである。法類が寄り集まったことでもあるし、善後策が協議された。
書院の奥の間に、明智院の老僧照庵《しょうあん》、瑞光院の新命和尚竹峯《ちくほう》、妙法寺の海翁《かいおう》和尚、それに源光寺の雪州である。はじめに竹峯和尚が源光寺の方をみて口をきった。
「おかしな話やな。源光さん、慈海さんは、あんた凾ニこへ碁を打ちにいくいうて出たんやろ。それが行っとらんいうの凾ヘおかしいやないか。なにか、そうやったら、もう一軒どっかに匿女《かくしおんな》でもあったのとちがうかね」
「うちへはきとりません。ここのところずうーっときとりませんのや。じつは、女のことで私も考えてみたのですがね。おるものなら慈海さんのことやから、私にいうはずですわいな。奥の里子さんにきいても、そんなことはないやろというとられるし、やっぱりこりゃ事故かなんぞとちがいますかいな」
と雪州がいった。
「事故やったら、誰《だれ》ぞ、寺へいうてくるはずやないか」
「それが不思議や、何もいうてこんとこをみると、やっぱり、和尚、どこぞに潜伏しとると思うてええのやないかな」
と海翁和尚がいった。
「しかしですな」
源光寺はちょっと声をおとして、
「里子はんにきくと、和尚は雲水当時の文庫をもって出とるちゅう話で……」
「文庫を。おかしなこっちゃな。持《じ》鉢《はつ》も袈裟《けさ》も入れてかね」
「どうもそうらしいんですよ」
明智院の老僧が、眼《め》をしばたたいた。
「今ごろになって雲水でもなかろう。ちょっと、何というたかな、ここの小僧を呼んでみなされ」
源光寺は、周囲をちょっと見まわしたが、慈念の足音がそこいらにしないので、よっこらしょ、と声をたてて立ち上ると、廊下に出た。すでに先ほどまで、混雑していた孤峯庵の中は、まるで潮がひいたように静かである。床の上も、埃《ほこり》っぽいし、ザラザラした板の間を、雪州は、白《しろ》足袋《たび》が汚れるのを気にしながら、ぽいぽいととぶような歩き方で庫裡《くり》にきて、
「慈念」
声をかけてみたが、そこいらにいる気配はなかった。
〈おかしいな。本堂かな?〉
もっとも、一人きりの孤峯庵の小僧であるから、責任の重い立場でもある。まだ、本堂の跡片付けでもしているのではないかと、雪州は廻《まわ》り廊下をひと廻りして下間の方にきた。と、雪州はちょっとびくっとした。裏庭の池のはたで、煙がみえたからである。みると、慈念が襷《たすき》をかけ、青の無地の袷《あわせ》の尻《しり》をはしょって、さかんに何やら焚《た》いている。
「慈念」
雪州は大声でよんだ。慈念は無心に焚《たき》火《び》の上に生竹やらしきびの木やらをかぶせている。炎がぱっと上ったかと思うと、とたんにそれが下火になって、白煙がもうもうとさかまきだした。葬式のあとの屑物《くずもの》を焼いていることは一見して知れた。
〈なかなかの働き者じゃな!〉
雪州はそう思ったが、会議の中へ慈念を入れて聞いてみないことには結論が出そうもないので、もう一と声、大きく叫んだ。
「慈念」
その声で慈念はもっていた竹棒をぱたんと落した。驚いたようであった。雪州の方をきょとんと見ている。
「ちょっと、こっちへおいで」
「はい」
鉢頭《はちあたま》を前のめりにさせて、足早に裏廊下の下へきた。雪州を見あげている。とび出た額に汗が出ている。
「掃除はええから。まあ、ちょっと、書院へきておくれ」
やさしく雪州はいった。
「はい」
おとなしく慈念は廊下にあがった。うしろをふりかえって火を気にしている。まだそこでは白煙がのぼっている。しきびの燃える生ぐさい臭気が庭をおおった。雪州の鼻にもつきささるように匂《にお》った。
書院に慈念をつれてくると、四人の和尚連はこの小僧の躯《からだ》が畸《き》型《けい》であることにあらためて気付き、まじまじとみつめた。明智院の老僧が、
「慈海和尚はお前さんに何かいわなかったか。七日の日でなくても、前でもよいが」
慈念は上眼づかいに白眼をむいたような眼つきになった。
「はあ、和尚《おつ》さんは、七日の日、僧堂のはなしをしました」
「僧堂の?」
「はあ、旦《たん》過《が》詰《づめ》の話です」
「そら、わしらでもいうことがある。それからほかになにかいわなかったか」
「庭詰(玄関前に数日放っておく修行)のはなしをしてくれはりました」
「庭詰はわかった。どこへゆくともいわなんだかな」
「和尚《おつ》さんは寺を出て旅したいというてはったことがあります」
「旅を。いつのことや」
「いつやって、修行のはなしをしやはるときは、あとで、ぽつんとそんなことをいわはりました」
「自分が出たいとな」
「へえ」
白眼をむいた慈念の奥眼に、四人の住職たちの眼は集中した。
「ふーむ」
明智院の老僧がまず溜息《ためいき》をついた。
「これは、困ったことじゃな。慈海和尚は、東福寺の管長のように遁走《とんそう》しやしゃったんか」
源光寺が眼を大きくひらいた。
「ほな、やっぱり」
「何かな」
驚いた眼を海翁が雪州和尚に投げると、雪州は小声になって、
「そうかも知れん。あの女ごはきついでのう。和尚は逃げたんやで、きっと」
まさか、といった顔を一同はしたけれども、あり得ないことでもない。
「それじゃ、源光さん、里子さんをここへよんでみたらどうや」
隠寮へ源光寺が使いに立って、里子を書院につれてきた。蒼《あお》白い顔をうつむけて書院に坐った里子は、放心したような眼もとであった。
「七日のひるすぎまで、和尚《おつ》さんはいつものとおりどした。久間はんの店が先代の命日でお経をあげてくれ、いう使いがみえたので、慈念はんにゆくようにいやはりました。いつも和尚さんがいかはるのに、おかしいなと思ってますと、隠寮にもどって、ちょっとしてから、源光はんにいって碁を打ってくる、こないいやはります凾ナ、そうどすかいうてますと、自分で箪《たん》笥《す》のひき出しあけて、かってに白衣だして着てゆかはりましたんどす」
「文庫は?」
「へえ、気ィつけてみてしまへんさかいに、あとで袋戸棚みてみたら、いつもある文庫がみえまへんよってに……」
「ふーむ」
明智院の老僧は里子のむっちりした膝《ひざ》のあたりをじろりとみながら言葉をついだ。
「あんたには、雲水の話をしなかったかね」
「雲水の? そら何どす」
「僧堂へゆくちゅう話や」
「和尚《おつ》さんがですか」
「そうや、旅をしたいという話や」
「そんなこと初耳どす」
里子は何のことやらわからぬといった眼もとで、蒼ざめた厚い唇《くちびる》をあけて老僧をみている。
「慈念」
明智院の老僧はいった。
「えろう火が燃えとる。危ないな。いっておいで」
それまで、だまって部屋の隅《すみ》に坐《すわ》っていた慈念が立ち上ると、擦るような歩き方で廊下へ出ていった。なるほど、障子があかく色づくほど庭で火が燃えている。
「奥さん」
老僧はいった。
「和尚はひょっとしたら、旅に出たかもしれんのう!」
「何どす?」
里子が膝をにじりよせた。
「待ってみて、もし音《おと》沙汰《さた》がなければの話やがの。旅に出たのじゃ、きっと。わしらでも時に、そんな気持のすることがあるが……何やかや寺の財政やら、ごたごたしたきりもりに頭を悩ませておると、嫌《いや》になってしまうことがある。のう、そうかも知れんのう」
老僧があとの文句を和尚連にいうと、みなはそれぞれの表情でうなずいている。
これが、結論のようなことになった。しかし、孤峯庵の住職北見慈海が、突然、寺を出たとしたら、法類としては、黙っているわけにもゆかない。いちおう、雲水になって出たという判断が成立つにしても、かりにそうではなくて、どこかで行き倒れにでもなっているとしたら、警察へも届けておかねばならないのではないか。しかし、慈海はまだ五十八歳である。普通人よりも元気だし、行き倒れになって、行路病者のようなぶざまな最《さい》期《ご》をみせるようなことはまずないとみてよかった。結局、警察へは、もう少し、時を待って届けた方がいいのではないか。
四人の住職たちは、それぞれの侍者を先に寺へ帰していたので、久間家からのひき出物は持たずに、手ぶらで七時すぎに孤峯庵を出た。
慈念の焚いた火は消えていた。
ふたたび孤峯庵は主人のいない夜を迎えた。
慈海が遠くへ《・・・》いったにちがいないという確信を最初にもったのは里子であった。里子は、慈海が七日二時半ごろ、寺を出る前に自分を裸にした挙動を思いだしてみた。裸にするのはべつにあの日にかぎったことではなく何も珍しいことではないのであったが、あの時の行為を思い起してみて、どこかいつもとちがった感じがしないでもないのだった。なぜだったろう。病気あがりでそうだったのかとあの時は思ったものだが、今になって考えてみると、それはすこし違うようだ。慈海は、一方的に里子を押し倒した。いつもなら、乳房や脇や、足や、手や、里子の訴える部分を慈海は心ゆくまで舐《な》め廻した。慈海は里子が死にたいと漏らすまでは行為にうつらなかった。ところが、あの日は、どこか一方的に前戯を端折《はしょ》っている。源光寺へゆくというのは嘘《うそ》だとしたら、何を考えてあんな一方的ないじめ方をしたのか。慈海はすでに、あのとき、寺を出る決心でいたのではないだろうか。そうでなければ、源光寺へ碁を打ちにゆくなどと嘘をいうはずはないではないか。
〈ああ、うちはやっぱりだまされてた凾竅r
そう思った瞬間、里子の頭にひらめいたものは、なぜ、慈海が自分を裏切らねばならなかったのか、という一事であった。
〈慈念だ! 慈念があのことをいったのだ!〉
〈あの夜、自分は何ということをしたのか。慈念が三畳で写経しているのをみたとき、最初そんなことをするつもりはなかった。あのとき、若《わか》狭《さ》からきた西安寺の和尚《おつ》さんからきいたことで、いいしれない慈念へのいとしさをおぼえた。慈念があわれでならなかった。いとしさとあわれみから夢中になって抱いてしまった。慈海に言わないでくれ、とあとで口留めしたのに、慈念は、和尚さんにいうたのではないか〉
慈海が自分を愛していたと思いたいのなら、里子は裏切られた理由はそれ一つだと考えざるを得ない。そのように思うと、慈念のとび出た額や、奥眼や、無表情なすべてが、いま里子の前に大きな壁のように押しかぶさってくる。里子はいてもたってもいられなくなった。 里子は、隠寮を出た。庫裡《くり》へ走った。たしかめねばならない。あんな子供に手玉にとられてたまるものか。
「慈念はん」
慈念は三畳の間の隅でひっそりしていた。寝ているようであった。
「ちょっと起きてェ」
里子は叫んだ。月の光りが高い格《こう》子《し》窓から入りこんで里子の乱れた裾《すそ》を縞《しま》目《め》にてらした。慈念のいる方は暗くてみえない。
「あんた、うちのしたこと、和尚《おつ》さんにいうたやろ」
慈念は起き上ったようすだった。鉢頭がうっすらと見える。黒い蒲《ふ》団《とん》を手でぽんぽんとたたいているのがわかった。
「何かいいおし、だまってないで、いいおし」
里子は躯《からだ》をふるわせていった。
〈それをいってくれなければ、和尚《おつ》さんの行《ゆく》方《え》はわからない……〉
「いいおし」
慈念はだまっていた。寝呆《ねぼ》けているのか。慈念の顔をみようと里子は前に躯をつきだした。と、慈念が隅の方でぽつんといった。
「いいまへん。あんなこと、いえしまへん」
里子はしゃがんだ。嘘ではないのか。部屋の隅をすかしてみた。洟《はな》をすするような音がしている。里子はじいっと聞耳をたてて慈念の方に眼をすえた。
慈念は泣いていた。洟をすする音はせわしくなった。
「いえまへん、あんなこと、誰《だれ》にもいえしまへん……」
里子は慈念の方に走りよった。汗くさいつるつるの慈念の頭と肩をいっしょに里子は抱いた。
「いわへなんだか。いわへなんだか」
里子はそんなことをつぶやきながらいい現わしがたい興奮におそわれた。はげしく咽喉《のど》がかわいた。慈念がいわなかったことに安心したと同時に、いままた、心の奥の方で、いっそのこと、和尚にそのことをいってほしかったような、残酷な快感を味わってみたい気もした。いや、それらはもうどうでもいいような気もした。里子はもう一ど、慈念を力強く抱いてやりたいと思った。
「慈念はん、あんたはええ子や、いわへなんだか、いわへなんだか」
里子は慈念のくりくりとしまった躯をあらん限りの力で抱きしめた。
「慈念はん、うちら、もうこの寺出んならん。和尚《おつ》さんが帰らはらへなんだら、うちらもうお払い箱や。うちらもう用はすんだ、何も用あらへん」
慈念は泣くのを止《や》めて、里子の胸もとで息をつめてきいている。
「せやないか。和尚《おつ》さんは雲水にならはった凾竅Bうちら放《ほ》ったらかしといて遠いとこへ行かはったんや、な、そうやろ、慈念はん、あんた知ってるか。和尚さんが僧堂のはなししやはったこと。禅宗の坊さんは、欲が出たらあかんちゅうて、欲が出たらしまいやいわはった。そいで、うちは和尚さんのいわはるとおり欲が出ると捨ててきたわ。うちら、もう何にも欲あらへんのに……和尚さんは出やはった。寺捨ててどこかへ行かはった。うちら、何にも欲あらへんのに……」
里子は慈念の鉢頭の上へ、大粒の涙を幾すじも流した。
慈海が孤峯庵に戻《もど》らなくなってから十七日目に、法類代表の明智院住職小寺照庵から、正式な届書をうけた万年山燈全寺派宗務所は、これを宗務会議へかけ、法類代表が詮《せん》議《ぎ》経過を述べているとおり、北見慈海の失踪《しっそう》について、果して、慈海が、雲水を志して、一大発意をなして出たものかどうかについて疑問をもった。もしそうならば全国どこかの僧堂に入衆《にっしゅ》した旨《むね》の報告があって然《しか》るべきである。何も江戸時代の出家生活とちがって、いまは徒歩行脚《あんぎゃ》で、虎渓や伊深の僧堂の門をたたくものとは限っていない。汽車にのって、駅弁を喰《く》いながら旅をする時節である。かりに遠くとみて岐阜《ぎふ》県下の僧堂についたとしたら、何かそこからハガキ一枚でもよこすのが当然ではないか。法類一同が連署して提出したこの届書に、宗務総長である春光院住職寺崎義応は不審なものを感じたのだった。
〈酒呑《の》みでだらしなかった和尚のことだ。一日と十五日の祝聖《しゅくしん》にさえ、本山に出頭しなかった慈海のことだ。どこかでゴロンと横になって、そのまま死んでいるのではないか……〉
宗務総長の疑問も尤《もっと》もなことといえたのである。本山にはまた評議員の塔頭僧《たっちゅうそう》がおり、ここで孤峯庵問題は再び俎上《そじょう》にのぼったが、結論はでなかった。困りぬいた評議員は、管長の裁決に一切を委《まか》したらどうか、ということになった。失踪事件が檀《だん》家《か》から知れわたれば、嘗《かつ》て東福寺の管長が失踪したときのように、遁世住職として新聞をにぎわし、世間の物笑いになる。
そうなれば孤峯庵一寺の問題ではない。一山の恥だ。
その時の燈全寺派管長奇峨《きが》窟《くつ》杉本独石老師は、この宗務会議の結果を春光院住職からうけとると、しずかに微笑した。奇峨窟は高齢九十歳の老骨である。歯の抜けた口もとをくちゃくちゃと動かしながら、心配げな寺崎義応の顔をみていった。
「慈海が寺を出たか。それもええではないか。あれはまだ雲衲《うんのう》じゃ。放っとけ、放っとけ」
義応は九拝して隠寮を出た。この旨を評議員に告げた。
新聞が、孤峯庵住職北見慈海の失踪を書きたてなかった理由は、この奇峨窟の判断を尊重したためであろうか。
十一月七日、久間家の葬式の前々夜のことである。
慈念は、午後九時ごろ庫裡《くり》の玄関から廊下をつたって本堂裏へきた。内陣のうしろの倉庫の扉《とびら》をあけ、手さぐりで棚《たな》の上の肥《ひ》後守《ごのかみ》と竹小刀をとりだした。山から吹き下ろしてくる風は慈念のあけた倉庫の扉を二、三どがたがたとゆるがせていた。慈念はいそいで桟《さん》をはめた。床下をすかしてみた。普通の家の床よりいくらか高い床下は風をくくんで砂ぼこりが舞っている。慈念は鉢頭《はちあたま》を床板の裏につけて、じっと眼《め》をすえていた。床下の向うに表庭の白砂利が線をひいたようにみえる。慈念はしゃがんで三、四分床下をにらんでいたが、やがてゆっくり、廊下にあがった。ことりとも音がしない。風の音が強かった。
慈念は本堂から庫裡に帰った。玄関横の三畳にもどった。外は荒れている。濃い鼠《ねずみ》色の空が、格子窓の向うにかすかにみえる。慈念は畳の上に坐《すわ》った。手に竹小刀と肥後守をもっている。慈念はやがて、静かに立ち上ると玄関に出て、表庭の暗がりに消えた。
一時すぎ。大門のあたりでキリキリと鎖のきしむ音がした。耳門《くぐり》があいたのだ。
慈海だった。ひどく酔っていた。鉄鎖の重石を慈海は被布の裾《すそ》でこするようにして入ってくると、礫《こ》石《いし》の石畳から、蕗《ふき》の生えている百日紅《さるすべり》の下へふらふらとよろけた。と、そのときだった。何やら黒犬のような影が足もとへとびかかってきた。
慈海はあばら骨の下に激しい痛みを感じた。痛みは、腹の中につきささった竹小刀のためであった。竹小刀が胃袋の左脇でぐいっと上部へ移行して心臓を大きくえぐったのだ。つづいて、慈海の腹はもう一本の肥後守でとどめをさされるように力強く突かれた。血がふき出した。慈海はよろめき、前のめりに二、三歩進むと、百日紅の木に掴《つか》まろうとしたが、その手はつるつるした樹《き》肌《はだ》をすべって力なく空を掴《つか》んだ。う、う、うっと慈海はうめき声をだしたが、やがて、その声はうすれ、地べたへどうと倒れた。
蕗の葉の上でけいれんを止めた慈海の躯《からだ》を黒い影が抱き起していた。影は本堂との間にある中門を押した。慈念である。扉はかんぬきがかかっていない。すうーっと開いた。慈念は慈海をひきずって、床下にもぐりこんだ。
床下には七輪があった。そこに餅焼網《もちやきあみ》がかかっていた。鯉の骨がいっぱい散乱していた。ひもじい時に、慈念が竹小刀で射止めてたべたものであった。背のひくい慈念は、床下をさっさと歩いた。ひきずってきた慈海の躯を内陣の倉庫の暗がりにおくと、そこにあった筵《むしろ》をかぶせた。
慈念は慈海の胸に耳をあててじっとしていた。やがて鉢頭をうなずかせて立ち上ると表庭へもどった。百日紅の下の蕗の葉を手くらがりの中でむしり取りはじめた。この作業は一時間余かかった。慈念の手は蕗のアクで黒くよごれた。慈念はその葉を床下に何どもはこんだ。
風はますますひどくなっていた。慈念は裏庭から本堂裏に上った。廊下を擦って三畳に帰った。小雨が降ったのは深夜である。
翌八日は未明に起き、庭へ出た。蕗の葉はのこっていた。雨で洗われた蕗と砂利には血がなかった。しかし、慈念はきれいに掃き清めた。
久間家の平吉と猪之吉たちが平三郎の棺を下ろしたのは午後七時半ごろであった。慈念は本堂の内陣の台に棺をのせ、源光寺の雪州が読経《どきょう》にくるのを待っていた。雪州は徳全と本堂にきて、慈念の維《い》那《のう》で通夜経をすませると、すぐに帰っていった。
夜、十一時、徳全が本堂にきて、下《げ》間《かん》にいる猪之吉、伝三郎、平吉、作造の前で経をよんだ。経が終ると、慈念は、
「交代でひとりずつ起きてて下さいますか」
ときいた。
「へい、交代で起きとります」
「それではそうして下さい」
作造、伝三郎、猪之吉が書院へ退いた。そこには四人分の床がとってあった。
慈念は中座にすわった。維那机から観音経の写本をとりだした。ゆっくり読みはじめた。写本の最後がくると、また最初にもどった。また読む。最後がくると、また繰りかえした。午前二時、下間で平吉は睡《ねむ》りこけていた。
「もし平吉はん。あっちへいって休みまひょ」
平吉は慈念の抹香《まっこう》くさい衣の袖《そで》に頬《ほお》をなでられて、うす眼をあけた。
「交代どす。さ、あしたがまたえろおすさかい、ちいと休みまひょ」
平吉は押しよせてくる激しい疲労と睡魔を感じた。
「ほんなら、ほんなら休ませてもらおか」
と平吉は口の中でぶつぶついい、慈念に手をひかれて書院にきた。そこに蒲《ふ》団《とん》がしかれてある。うすあかりの中で、一番手前に平吉は入りこんだ。
慈念は平吉の寝たのを見届けると、本堂にきた。
慈念は百目蝋燭《ろうそく》の炎を消した。そうして、ゆっくり平三郎の棺をなでた。香を鷲掴《わしづか》みにしてたいた。経をよんだ。
みょうしゃかいしつだんえ、そくとくげえだつ、にゃくさんぜんだいせん、こくどまんちゅう、おんぞくういつ、しょうしょしょうにん、さいじじゅうほうきょうかけんろ、ごうちゅういちにん、さあぜしょうごん、しょうぜんなんし……
唱じながら慈念は柱掛けの下をくぐって、位《い》牌堂《はいどう》の隅《すみ》に手をのばした。釘《くぎ》ぬきと金槌《かなづち》とが兼用になっている丁字の金槌があった。
慈念は唱じながら、平三郎の棺の白布をはがすと、棺の上蓋《うわぶた》をこじあけはじめた。トントンという音が静寂《しじま》を破った。
せえおしゅう、じょう、にょうとうにゃくしょうみょうしゃ、おうしおんぞくとうとくげえだつ……
蓋のすきまに金槌がテコになって入り込み、それを押し込むと慈念の力はギイギイと蓋を押しひらいた。ギイギイギイとまだ音は激しくつづき、やがて、ぽこんと短い響きがしたと思うと、蓋は生き物のように自然に四方の釘をはがして浮きあがった。平三郎の髭面《ひげづら》が箱の底の方で片眼だけあけていた。硬直した頬は死《し》斑《はん》が出て庭石のようによごれている。慈念は平三郎の顔と棺の蓋とのあいだの幅をゆっくり目測した。平三郎の冥《めい》途《ど》の持ち物ははっぴと着物と生前使っていた塗装の道具だった。慈念は着物といっしょにそれらを、隅にまとめた。
やがて、慈念は棺の上に白布をかぶせた。そうして維那机のわきにあった底のまるい大磬《けい》子《す》を抱くと、渾身《こんしん》の力をこめて畳に下ろした。慈念はやがて、その磬子をくるくると廻《まわ》しながら、早足で下間から裏口に出て、廊下に磬子を置き、床下におりた。慈海の死体は筵の下で強《こわ》ばっていた。ひきずってくると、慈念は慈海の躯《からだ》を階段をずらせて廊下にひきずりあげ、まるい磬子の上にのせた。強ばった慈海の躯は、お尻《しり》を空洞《くうどう》の磬子にのせた恰《かっ》好《こう》になった。わずかにぐにゃッと動いて、磬子の中におさまった。慈念はふたたび磬子をくるくるとまわしながら下間から内陣の方へ運んだ。慈海の死体は椀《わん》にのせられた一匹の鯉に似ていた。慈念はやがて死体を廻し運びながら、内陣の棺のわきまできた。白布をとった。慈念は慈海の躯を力いっぱいもちあげた。棺のはしに硬直した頭がひっかけられた。力を出して、躯を棺のへりにずらせると、慈海はすっぽりと中へ入った。平三郎の向きと逆にしてつめこまれた慈海の顔は、平三郎の垢《あか》のついた毛ずねに押しつけられ、足は心もちひらいていた。平三郎の胸と顔が中にはさまれて、慈海の足は、両わきのすき間にさし込まれた。慈念は平三郎の職人時代のはっぴをひきぬいた。そうしてそれを慈海の背中にかぶせるのである。蓋をしめた。釘を打ちつけた。白布を元どおりに包んだ。
慈念は蝋燭に火をつけた。中座にきて、また観音経を唱じだした。
ねんぴかんのんりき、とうじんだんだんえ、わくしゅう、きんかあさ、しゅうそくひちゅうかい、ねんぴかんのんりき……
と、慈念は、唱じながら横眼で襖《ふすま》をみていた。が、急に唱経をやめた。慈念の眼が百目蝋燭の炎のゆれる中でキラッと光ったのはこのときであった。
雁《がん》がみえたのだ。雁は、羽ばたき動いている風にみえた。炎のゆれるたびに雁は啼《な》いた。
慈念は経をよみながら、立ち上り、床下にもどった。棺から出した平三郎の荷物といっしょに筵の始末をした。ゆっくりまた本堂へもどった。中座に坐ると、ふたたび経をよみはじめたが、そのときはもう衣笠《きぬがさ》山の小松林の梢《こずえ》が白々とあけはじめていた。
九日の午後、葬式は二十六人の久間家の親族を前にして行われた。法類の和尚たちが二列にならび、雪州が引導をわたした。棺が出るとき、担《にな》い手になったのは、平三郎の田舎の福知山からきた叔父、弟たちであった。前日担いだ猪之吉と伝三郎は穴掘りに出ていたし、平吉と作造はほかの仕事をしていた。
「どえらい重たい仏やな」
丹波《たんば》で炭焼きをしているという熊太郎がかすれた声でそうつぶやいたが、しかし、これは四人の誰《だれ》かが力をぬいておれば重みが自分にかかることでもあった。しかしこの声は四人の役僧と五人の小僧連の唱和する経文の流れで消された。唐門《からもん》があいていた。白砂利の上を棺は通り、雪州が先導にたった。赤、紫、黄、 橙 《だいだい》の袈裟《けさ》と衣がつづいてゆく。赤い大傘を雪州の頭上にかざしている維那の慈念は、棺のうしろから、へっぴり腰で担《かつ》いでゆく熊太郎や、幸太の後ろ姿をみた。やがて棺は衣笠山麓《さんろく》の墓地に入った。
すでに穴はあいていた。棺は八人がかりで下ろされて、数分のうちに黒土をかぶった。
慈念は寺に帰ったがすぐ火を焚《た》いた。葬式のあとの散らかった生竹や造花や筵や蕗の葉やら、それに平三郎の荷物も、また用意してあった慈海の雲水時代の文庫をも焼いたのだった。 焼いた灰はのこしてはならなかった。慈念は火があかあかと燃え、それらのすべてが燃えつきるまで見つめていた。慈念はこのとき、孤峯庵にきてからのきびしい生活に打ちひしがれた月日を思いうかべていた。慈念は若《わか》狭《さ》の村にいても、京都にきても、孤独であった。孤独な心のもってゆき場所のない慈念は、どんな夢をみてきただろうか。中学へいってもそれはなかった。あるものは、きびしい教練への嫌《けん》悪《お》であった。いま、慈念の頭に、騎兵銃をかついで京都の町々を皆のうしろからチョコチョコと歩いた屈辱がよみがえるばかりである。それでは寺の生活にどんな夢があっただろう。つらい日課のあいまに、慈念が頭にえがいた夢は一つきりだった。それは苦しいながらも、なじんできた寺の生活を利用して、時間さえうまくやれば葬式の棺《かん》桶《おけ》に死体を詰めて殺人ができるという思いつきであった。しかし、これはあくまで夢をえがいたにすぎなかった。慈海への殺意と直接結ばれてはいなかった。ところが里子に犯された夜、慈念はいい知れぬ里子への憎《ぞう》悪《お》と愛着の混濁した衝撃に打ちのめされたのである。甘美な陶酔のあとに慈念を襲ったのは慈海へのはげしい憎悪のほかには何もなかった。手のしびれるほど、麻縄《あさなわ》でひっぱり起した和尚を憎んだのだ。和尚のしていたことは鳶《とび》の巣の穴の中に、うごめいていた蛇のようではないか。覗《のぞ》きみた和尚と里子の連夜の狂態。
その慈海をこの世からついに葬《ほうむ》ってしまったのだ。
久間家の葬式がすんで十日たった日の朝、慈念は本堂にきて、内陣に入ったが、南嶽《なんがく》の雁をみたとき、慈念の眼は異様な光りをたたえていた。松の葉《は》蔭《かげ》の子供雁と、餌《え》をふくませている母親雁の絵の前であった。慈念は力いっぱい母親雁の襖絵に指を突込んで破り取った。そこだけに穴があき、和紙の下《した》貼《ば》りが出て桟《さん》木《ぎ》が露出した。
孤峯庵から、慈念が姿を消したのは、その翌日のことであった。住持北見慈海が失踪《しっそう》して、じつに十三日目のことである。
「和尚《おつ》さんのゆかはったとこを旅しますワ」
二、三日前から慈念はそんなことを里子にいっていたが、まさかと思っていた里子は翌朝、起きてみて、慈念の姿が庫裡《くり》にないので驚いた。
「慈念はん、慈念はん」
里子は大声でよび廻った。どこからも慈念は出てこない。玄関横の三畳の板の間の畳に、柳行李《やなぎごうり》が一つおいてあり、慈念が使いふるした蒲団がたたんであった。
里子は本堂にきた。一人ぼっちになったと思った。内陣の南嶽の絵をみつめた。この絵を、南嶽に耳をくすぐられながらみた十年の歳月が走っては消えた。
「孤峯庵は雁の寺や、洛西《らくせい》に名所が一つふえるやろ」
南嶽がたびたびいったその言葉が、里子の耳たぶの奥でいまも生きていた。と、里子は、四枚目の襖の下方をみたとき、一羽の雁が、そこだけむしり取られているのをみた。
「誰が、こんなことしたのやろ!」
すぐ、慈念の仕《し》業《わざ》にちがいないと思った。そこに描かれてあった雁の絵は、白いむく毛に胸ふくらませた母親雁であった。綿毛の羽毛につつまれて啼《な》く子雁に餌をふくませている美しい絵であった。
里子は蒼《あお》ざめた。慈念が、よく内陣へ入るたびに、この襖絵の一点をみつめていた姿を思いだしたからである。里子は母親雁をむしり取った慈念に哀れをおぼえた。ところが、ふとそのあとで、慈念が母親雁を破いたことと、慈海の失踪したこととが関連しているのではないかという奇妙な疑惑を抱いたとき、彼女の背筋に恐ろしい戦慄《せんりつ》が走った。
里子は、慈海が帰らなかった七日の風が吹き荒れた孤独の深夜を思った。あの夜、里子はいいようのない恐怖で眠れなかったのである。そうして、慈念が、今出川の久間家に読経に行って、死にかけていた平三郎を見たはずなのに、帰ってから何もいわなかったことを思いだしたのだった。平三郎の死は八日に報《し》らされている。あの時なぜ慈念は久間家の兄が寝ていたことをいわなかったのだろうか。里子は、ひょっとしたら、慈念が恐ろしいことをしたのではないか、と思った。だが、その恐ろしいこととは何だろう。里子の心に芽生えた疑惑はとうてい口にだせないものであった。里子は慄《ふる》えた。そうして首を振ってこのおそろしい疑惑を打ち消した。
桐原里子は一カ月たって実家に帰った。孤峯庵には、里子が去ってから二カ月目に、新しい住職の晋山《しんざん》があった。前住北見慈海と侍者慈念の行先は誰も知らない。孤峯庵に住んだ里子を含めて三人にまつわる風評はやがて絶えたのである。
洛西孤峯庵の本堂には、いまでも岸本南嶽の描いた雁の絵の襖がのこっている。金粉のちらばった大襖は、歳月を経た今日ではくすんだ小豆《あずき》色に変っているけれども、老松の枝々にうずくまった雁のむれは美しく生きている。
むしり取られた母親雁のあともそのままである。
越前竹人形
越前(福井県)武《たけ》生《ふ》市から南条山地に向って、日野川の支流をのぼりつめた山奥に、竹《たけ》神《かみ》という小さな部落があった。渓谷《けいこく》に落ちこんだ谷間の両側に点々とならんだ、わずかに戸数十七戸の辺《へん》鄙《ぴ》な寒村だったが、日本海へ断崖《だんがい》になってきりたっている南条山脈の山ふところに、まるで忘れられたようにあったこの部落が、近在の人びとの口の端《は》にのぼったのは、竹の名所だったからである。
部落の家々は、それぞれ藁《わら》ぶき屋根の母《おも》屋《や》と杉皮ぶきの石置き屋根の小舎《こや》をもって細長く渓《たに》ぞいに延びていたが、家々は竹藪《たけやぶ》にかこまれていた。マダケ、ハチク、モウソウダケ、メダケ、ハコネダケ、イヨダケなどの繁茂した幾区《く》劃《かく》もの藪が、約百メートルほどの距離をおいて、家々をとりまいていて、どの家も藪の中にひっそりと隠れてみえた。
竹細工の村であった。竹ならばどんな種類でもあった。せまい土地にクロチクなどのめずらしい小藪までもっていたのは、細工物に必要だったためである。
藪が多いせいでもあるが、一帯は山蔭《やまかげ》でもあったので、家々はうす暗く、陰気だった。入《いり》母屋《もや》造りの屋根が三角型にぴんととがっているのは、雪が多いせいである。一年中部落の屋根はかわいたことがない。部落道の隅《すみ》にはきのこが生え、かびくさくて、いつもしめっぽかった。
十七戸の家々が、もともと、竹細工をしたわけではなかった。部落の人たちは竹神川とよんでいる渓流にそうた平地に、竹樋《たけとい》で水をひき、水田をつくっていた。斜面につくられた田はどの田も小さく、畳一枚くらいしかないものもあった。水ひきの便のわるいところは畑である。人びとは九十九《つづら》折《おり》の遠い山道をのぼって甘藷《かんしょ》、陸《おか》稲《ぼ》、甘藍《かんらん》などをつくり、麦もつくった。肥え運びは激しい労働であった。冬は雪山に入って炭を焼くのが習慣である。
ところが、いつからか、部落の人たちは竹栽培に精を出すようになり、武生や福井から買いにくる竹材商に、干竿《ほしざお》、釣竿《つりざお》などになる竹を伐《き》り売りするようになった。これが零細な人びとの現金収入になっていった。
大正の初めごろに、この竹神部落で区長をつとめたこともある氏家喜左衛門という者がいた。喜左衛門は幼少時から手先が器用で、裏の竹藪から竹を伐ってくると、ひまにまかせて竹籠《たけかご》、笊《ざる》、傘骨《かさぼね》、団扇《うちわ》骨、茶筅《ちゃせん》などをつくった。鯖《さば》江《え》、武生あたりの雑貨屋が聞き伝えて買いにくるようになった。竹材をそのまま売るのでは、せまい土地の藪はやがて絶えてしまう。細工物にして売った方が金にもなったし、藪を守るためにもよかったのである。この喜左衛門のはじめた副業は、やがて、部落全体に波及し、人びとは喜左衛門の小舎《こや》にきて細工の手ほどきをうけ、一時は十七戸の三分の二が竹細工に精を出したということである。急傾斜に出来た部落であったから、雪《な》崩《だれ》をふせぐために祖先が栽培したと思われる竹藪が、思わぬ副業となって、竹神の名を近在に知らしめた。
春の雪どけ時がくると、冬の間につくった目籠、笊、釜敷《かましき》、花筒などを背負うた部落の細工師が、高い南条山脈を越えて、町へ売りにいく姿が見られた。
竹神部落ではじめて竹細工をなした氏家喜左衛門は、早くに妻を失い、一人息子の喜助とふたり暮しであった。三歳の時に死に別れた母の面影は、息子の喜助にはなかった。父親は喜助を、まるでクロチクを育てるようにかわいがって育てた。
喜左衛門は四尺二、三寸しかない小男で、まるで、子供のような躯《からだ》をしていた。顔も小さく童顔だった。小《こ》柄《がら》なわりに頭が大きく、うしろ頭のとび出たその頭は、いつもイガ栗頭だったせいもあって、小《こ》坊《ぼう》主《ず》のようなかんじがしたし、ひっこんだ小さい眼《め》が鋭く光っているのも、細工師らしい風貌《ふうぼう》といえたかもしれない。その子の喜助もまた父親に似て、そっくりの容貌をしていた。
喜助は背がひくいことで、村人から馬鹿《ばか》にされた。父親は竹細工師の始祖でもあるから、大ぴらに嘲 笑《ちょうしょう》する者はなかったが、喜助の少年時はすでに隣村の広瀬に分校が出来ていたので、学校へゆかねばならなかった喜助は、小柄な躯を笑われながら通学した。喜助はそのために、外へ出るのがいやになった。父について、竹細工をならうようになった。父のような立派な細工物をするようになれば、人を見かえすことが出来るのだと喜助は歯を喰《く》いしばっていた。
もともと、喜左衛門も、竹細工をはじめたのは、躯が小さくて、腕力がなかったためである。炭俵をかついで冬山をのぼる副業に適さなかった。村人たちは、雪の山をこえ、三里も奥の斜面に炭竈《すみがま》を築いたが、とても、喜左衛門には出来なかった。彼は、小舎の中に筵《むしろ》を敷き、綿のはみ出た座蒲《ざぶ》団《とん》に坐《すわ》っていっしんに竹細工にはげんだものだ。
器用な喜左衛門の手は、精《せい》緻《ち》な鳥籠もつくったし、茶筅、花筒、筆立、弁当箱など、調法な台所用品までに及んだ。喜左衛門は、徴兵検査で丙種になった翌年京都に旅をして、竹細工師の家や問屋をたずねて工芸細工を研究した。帰ってくると、器用にそれらを真似《まね》て、数十種に及ぶ細工品の雛型《ひながた》をつくった。部落に藪が多くなったのは、やがて、人びとが喜左衛門に習って細工物に精を出すようになり、その必要上から、材料を豊富にするために、わざわざ土地を開き、それぞれの細工に応じた竹種の藪を育成した結果である。
氏家喜左衛門は、竹藪の中で生きたような男であった。彼の手は子供のように小さく、細い指をしていたけれど、竹にふれると、まるで憑《つ》かれたように、器用に動いた。喜左衛門は大正十一年の秋末に、六十八歳で死んだが、死ぬ間《ま》際《ぎわ》まで、しめっぽい杉皮屋根の下の作業場で、竹細工の轆《ろく》轤《ろ》をまわしていた。轆轤とは、自《じ》在錐《ざいぎり》のことであって、竹細工をする者ならば、誰《だれ》もが手製でもっていなければならない道具の一つである。樫《かし》材でつくられた心棒に、皮革をまきつけ、横木にこれを通して、鼠歯錐《ねずみばぎり》とよばれる刃先錐を心棒の先にとりつけておく。横木を上下させると、自然と心棒が回転し、固い竹材に穴あけをするのに便利なように出来ている。この轆轤をにぎって、小鳥籠をつくりながら、喜左衛門は老衰のために倒れた。
仕事場で物音がしなくなったので、喜助は不審に思って小舎に走り入った。すでにその時は喜左衛門の顔は色がなかった。とろんとした眼をしていた。何やら、口の中でいおうとする言葉がいえないらしく、苦しそうであった。通りかかった隣家の与兵衛という者が駈《か》けこんで、喜助と一しょに、喜左衛門の躯を母屋の奥へはこんだ。床をとって寝かしたが、喜左衛門はぐったりしていて、伏したまま面をあげなかった。老衰の上に、日ごろから、坐りづめの作業である。下半身が弱っていたのだ。鴉《からす》のようにやせ細った小柄な躯は、綿のはみ出た蒲団の上で小さくみえ、喜助は、それが、父親の最《さい》期《ご》であることを予知した。村人を呼びにいった。十六戸の家から、男女が走りこんできたが、その時はすでに、喜左衛門の臨終だった。しかし、喜左衛門は息をひきとる間際に、苦しそうな声で、喜助、喜助と二ど名をよんで、
「縁先をあけてくれ」
とかすかにいった。喜助がいわれたとおり、大戸のしめてある座敷の縁先に走ってカンヌキをはずして戸をあけると、秋末のうす陽《び》のさしたせまい庭がみえ、枯つつじの築山《つきやま》があった。その向こうに、これも黄葉のまじりかけたマダケの梢《しん》が頭をそろえて風にそよいでいる。
「喜助」
とまた喜左衛門は息子をよんだ。
「ええか、マダケは十一月に伐れ、ええか」
と喜左衛門は力のない声でいった。それだけいうと、やがて、こくりと咽喉《のど》を一つ大きく音だててこと切れた。遺言というものはなかった。ただ、マダケは秋末の十一月に伐れといっただけであった。
村人たちはこの最期をじっとみていた。竹神部落の副業である細工物の、いわば恩人でもある喜左衛門の最期に、誰ひとり涙を流さないものはなかったが、最後にのこした喜左衛門の言葉が理解できたのは息子の喜助だけである。
普通、竹材商は竹を仕入れる場合、藪主のところへくると、春すぎにきてくれといわれた。春伐りの竹を買わされるわけであった。竹は春すぎに伐ると根元は夏をむかえてすぐに枯れはじめる。そのために藪の肥料になってはたの生竹の助けになる。肥料を少しでも惜しんだ藪主が、同じ伐るなら春夏に伐ろうとしたのはそのためであるが、喜左衛門だけはちがっていた。秋末に伐る習慣だった。秋冬に伐ると、地めんは冷たい。伐った根はそのまま生きていた。藪としては死根にそれだけ肥料をとられるわけで、損失といえた。しかし、喜左衛門は、あくまで細工師であった。細工用の竹は冬伐り物にかぎると教えたのである。
伐った竹材は、つし《・・》とよばれる三角屋根の屋根裏にならべておく。すると、囲炉裏《いろり》の煙でくすぶり、自然と煤竹《すすだけ》になって乾燥される。堅牢《けんろう》度《ど》は倍加する。鳥籠や、花筒、菓子器など、堅牢な竹を必要とする細工ものは煤竹にかぎった。喜左衛門は藪よりも、細工物に重点を置いていたのであった。
喜助は、死ぬ間際まで、十一月に竹伐りをすませろ、と指示した父親の根性にうたれた。それだけいって眼を閉じた安らかな死に顔をみていると、かなしみよりも、この父親に連れられて、京や大阪の竹藪を見て歩いた旅の日がうかんで慟哭《どうこく》した。
「お父つぁんはな、竹の鬼やった。喜助、わいも、お父《ど》に負けんように、精出さんならんぞ。ええか」
わきにいた与兵衛が皺《しわ》くちゃの顔に涙をうかべて、鼻汁《はなじる》をすすりながらいった。
「あしたからは、お父はおらんぞ。お父は死んでしもた。作業場はわいのも凾竅B生きとる時はさわらせなんだ道具も、みんなわいのも凾竅B轆轤も、万力《まんりき》も、刳小刀《くりこがたな》も、三角刀も、みんなわいのも凾竅Bお父の道具は越後の三条まで行って買うてきたええ道具や。わいはその道具をもろうて、あしたから精を出せ、ええか」
風のつよい日で、喜助の家のまわりの藪の梢は葉ずれの音をたててはげしくゆれていた。その音は、七十年間、竹細工に生きた喜左衛門の死を憐《あわ》れんで泣いているようにきこえた。 氏家喜助が二十一歳の十一月末のことである。
喜左衛門の葬式は、竹神に寺はなかったので、部落が永代菩《ぼ》提《だい》寺《じ》にしているひと渓《たに》向うの広瀬村の瑞泉《ずいせん》寺《じ》で行われた。部落の者は全員そろって参列したが、区長の与兵衛の意見で、喜左衛門の墓は、菩提寺に置かずに、喜助の家のうしろにある竹藪の丘の、わずかばかり陽のあたる平坦地の一郭を敷地にして設置されることになった。それは、竹神部落の功労者として、喜左衛門の亡骸《なきがら》を村にそのまま置いておきたいと念じた部落の人たちの総意でもあった。「竹細工師 氏家喜左衛門之墓」という石塔が建てられたのは、粉雪の降りしきる十二月のことであった。
この石碑が出来てまもないある日の、小雪のふる午《ひる》すぎ、喜助が、父の生前坐っていた仕事場の「座」に火《ひ》鉢《ばち》を置き、小柄な躯をすくめて、無心に鳥籠つくりの轆轤をまわしていると、小舎の入口からケットをかぶった三十に近い年ごろと思われる和服にもんぺ姿の女が覗《のぞ》いた。
「ごめんくださりませ」
とその女はひくい声でいい、かがみ腰になって覗いている。
「氏家喜左衛門さんのおうちでござりますか」
とおちついた声で喜助をみて訊《き》いた。喜助はびっくりした。手を休めて女の方をみた。村の女でないことはひと目でわかった。紅《あか》い襦袢《じゅばん》の襟《えり》をのぞかせた女には都会の匂《にお》いがあった。
「左《さ》様《よう》です」
と喜助は固くなっていった。ところが喜助は瞬間、どこかでこの女をみたことがあるような気がした。しかし、喜助には思いだせなかった。女はうす暗い喜助の仕事場を奥の方まで覗くようにして敷《しき》居《い》際《ぎわ》にくると、細い眼をしばたたかせ、にっこりした。整った顔だちだった。細い糸のような眼をしている。丸顔のぽっちゃりした愛くるしい顔だ。それは、喜助にはやさしくみえた。喜助は赧《あか》くなった顔にはにかみをうかべてだまっていた。
「あんさんは息子さんでござりますか」
女はきいた。
「そうです」
と喜助はこたえた。女はなつかしげな眼もとになり、
「お父さんにお世話になったも凾ナござります。お父さんがお亡くなりやしたとききまして、お墓まいりによせてもらいました凾ヌす。お墓はどこでござりますやろ」
ときいた。
喜助は、この女が父に世話になったときいて、はっとした。どこかでみたと思ったのは、それでは父と一しょに武生か鯖江へいったときに、会っている女ではなかろうか。しかし、どうしても、喜助にはいま思いだせないのだった。
「どなたはんどすか」
と喜助は勇気をだしてきいてみた。
「あてどすか」
と女はちょっと口ごもったが、
「名ァをいうほどのも凾竄イざりまへん。どうぞ、お墓をお教えやしとくれやす」
といった。
喜助は、いずれは、武生か鯖江か、福井あたりの、荒物屋か玩具《おもちゃ》屋《や》のお上《かみ》であろうと思った。細工物を卸《おろ》す得意先には、よくこのようなお上さんがいることも知っている。父は、春がくると、商取引もあって、それらの問屋へ旅していったのだった。二日も三日も帰らないことがあった。喜助もそれらの町々へつれられていったこともあるが、いずれも少年時だったので、会った人のことは忘れてしまっていた。この女も、きっと父の商売筋の知り合いにちがいないと思った。
それにしても、名前をいわないのが変だと思えたが、喜助は、遠い雪道を歩いて、わざわざ墓参に来てくれたのだと思うと、茶なりと出さねばなるまいと思って、この女を母屋に案内した。
女は遠慮がちに、そのようなもてなしは結構だといいながらも、喜助の案内する母屋へ、雪の石ころ道を横切ってついてきた。喜助は、背のたかい、その女のふっくらとした胸に、ふとたえて感じたことのない母の匂いをまさぐる眼つきになっていた。居間へあがると、喜助はふるえる手つきで、釜《かま》の湯をついで番茶を入れた。そうして女の前へ馴《な》れぬ手つきでさしだした。
「なんで、お名前をいうてもらえへんのどすか」
と喜助はきいた。女はやさしくみえる。亡父と単なる知己ではないように思えたので、喜助は勇気をだしてきいたのだった。
「あてどすか」
と女はいって、しばらく顔をうつむけてためらっていたが、
「芦《あ》原《わら》の玉枝どすねや」
といった。女はそういったことでようやく勇気が出たように、
「あんさんは喜助さんておいいやすのどっしゃろ、お父さんからようおはなしはきいてましたわ。うちは、あんさんに昔会うてますのどっせ。あんさんがまだ小さい時どしたわ」
と眼をほそめていった。
「お父さんはほんまにええお人どしたなァ。芦原へおいでやすたんびによってくれはりました」
喜助は、この女が芦原で何をしている女であるか判断が出来なかった。そういえば、父と一しょに芦原へ行ったことはあった。芦原は越前に一つきりの温泉町である。この竹神から武生を経《へ》て、福井市に出て、そこから三国行きの馬車にのりかえると、その温泉町につく。旅館の数も多い。加賀の山代《やましろ》や片山《かたやま》津《づ》とならんで北陸の温泉場としては由緒のふかい町である。喜助も父と何かの商用で出かけた時に、一泊した。しかし、大きな旅館の一室に泊って、広い庭をみた記憶と、板ばりの湯《ゆ》槽《ぶね》で父の背中を流した記憶があるだけである。女の記憶はなかった。だが、喜助は、女の顔をどこかでみた確信があったから、それでは、その時にこの女をみたのであろうかと、思いなおさずにはおられなかった。
「思いだしとくれやしたか」
と玉枝はいった。
「いいえ、思いだせしまへん。小《ち》っちゃい時に、お父つぁんは、芦原へも京や大阪へもつれてってくれはりましたけど、わたしには女《おなご》はんの記憶は何《な》んもあらしまへん。あるも凾ヘ竹藪ばっかりどすねや。宇治の孟宗藪《もうそうやぶ》、小《お》栗《ぐる》栖《す》の真竹藪、藪ばっかり思いだされますのんや……」
と喜助はいった。
「へーえ」
と、玉枝は白い歯をだしてこの時またにっこり笑った。
「あんさん、藪ばっかりおぼえてて、うちのことはおぼえてとおくれやさしまへなんだんか。いややわ……」
そういうと、喜助に媚《こ》びをふくんだ眼を投げて、細いしなやかな手で湯呑《ゆの》みをささげもって、今にもこぼしそうに茶をすすった。喜助は女の仕《し》種《ぐさ》をみているといっそう顔がほてった。暗い家の中で、二人きりでいることに気づまりをおぼえた。孤独なこの家へ、花のような女の来訪があったことなどは絶えてなかったことだ。
「そんなら、うちをお墓ィ案内しとくれやすか」
と女はやがて立ち上っていった。
「へえ」
喜助は立って、先に家を出た。裏の藪に案内した。
「仰山《ぎょうさん》の竹どすなァ」
と女は瀬戸口の藪に見とれていたが、やがて藁沓《わらぐつ》をひきずって藪に入った。それは女《め》竹《だけ》の藪であった。孟宗藪とちがって葉も細いし、幹も細かった。櫛《くし》の歯のように生えそろった竹は美しい節をならべ、糸でくくったように白い線をえがいてみえた。
「きれいな竹どすなァ。地めんもぱんぱんやし、葉ァ一つ落ちてェしまへんな」
藪へ入ると雪はやんだように思われた。葉につもっていた雪が、ときどき、ばさりと音をたてて女のケットに落ちた。藁沓をはいた足元を、歩きにくそうに女は時々見ながら立ち止った。
墓は女竹の藪とハチクの藪の間にあった。石段をあがって、石塔の前にくると、女は帯のあいだから数《じゅ》珠《ず》を取りだして掌《て》をあわせた。そうして、何事かを念じるようにしばらく眼をつぶっていたが、喜助がわきからみていると、心もちふくれた頬《ほお》をふるわせて、眼《め》尻《じり》から光ったものをひと筋落した。喜助はじっとその横顔をみていた。
宝竹院青山一峯居士《こじ》
菩提寺の和尚《おしょう》のつけた父親の戒名《かいみょう》である。「竹細工師 氏家喜左衛門之墓」と彫《きざ》んだ石塔の横に刻まれてあった。女はしばらく、その戒名を口ずさんで、やがて、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、と三ど唱えて眼をつぶった。
女は喜助の案内に鄭重《ていちょう》な礼をのべて帰っていった。
喜助は作業場の小舎の軒下まできて女と別れたが、その頃《ころ》になって雪がひどくなった。村へくる一本道は渓谷ぞいにまがりくねっていたが、途中の大杉は針のような雪の梢《こずえ》をみせて空にきりたっていた。黒と白とのまだらになった大杉の下を、黒いケットをかぶった女が小さくなるまで、喜助は見送った。
〈玉枝、芦原の玉枝……〉と、喜助は口の中で何どもつぶやいた。女と会った記憶はなかった。しかし、女の残した笑みがいつまでも喜助の心に温かくのこった。女の細い眼に、喜助は母のようななつかしさをかんじていた。
喜助はやがて、仕事場にもどった。火の消えかけた火鉢をかきまわした。まだそこに女の面影があった。喜助は熱っぽい眼をギラつかせて、轆轤をまわしはじめた。
轆轤はギイコギイコと細い音をたて、いつまでも、喜助の孤独な作業場の天井《てんじょう》にひびいた。外は風が激しくなった。吹雪になるらしかった。山風のごうごうという音をきいていると、喜助はふと、雪道を帰っていった玉枝という女のことが案じられた。
喜助は背がひくかったので、劣等感をもっていた。おそらく、母親も小さかったにちがいない。背のひくい父親の子であるから、背がひくくても不思議ではないのであるが、世間には父親が背がひくくても、母親さえ普通であれば、母親の血をうけて一人前の背丈になっている者もあるのに、喜助はなぜか父に似ている。父の生きている時は、まだそんなにひけ目を感じなかったのに、父が死んでしまうと、いっそうそれは劣等感となって喜助を苦しめた。じっさい、喜助は仕事場に坐《すわ》っていても、子供のようであった。爪《つま》さきだって手を延ばしても、かもいに手は届かなかった。
藪《やぶ》から伐《き》った女竹の束を小舎《こや》までかついではこぶのに、喜助は村道を何ども歩かねばならなかったが、背がひくいために、竹の先が地めんを這《は》うのが恥かしかった。腕は父親ゆずりの器用さで、細工物では誰《だれ》にもひけをとらなかったが、部落の若い女の子の前を通るときは、喜助は赧《あか》くなって小走りになった。笑われているような気がした。これは前述したように小学校時代からの屈辱であるが、子供心に、背のひくい父親のことを、村の人たちが、何かにつけて嘲《あざけ》るようにささやいていた記憶もあって、喜助は父の死によって、そうした村人の嘲笑《ちょうしょう》が自分に代替りしてきたような気がした。劣等感はふかくなり、いっそう暗い気持ちになった。
喜助はまだ女を知らなかった。武《たけ》生《ふ》や、鯖《さば》江《え》や福井へゆくと、問屋の主人が喜助を愛想よく迎えて、夕食を御馳《ごち》走《そう》してくれることがあった。そんな時、座敷へ給仕に出てくる女たちの顔を、喜助はまともにみたことはなかった。酒は一滴も呑《の》まなかった。下を向いたまま女の顔は見ず、座を白けさすような気づまりを皆にあたえるので、自分からすぐにひきあげてきた。そうして、ひとりで、山の夜道を歩いて帰ってくる。女が嫌《きら》いというのではなかった。女とはなしをするのは楽しかったが、なぜか戸惑いをかんじて、かたくなになった。
これは喜助だけではなくて、父親もそうであったにちがいないと、喜助は二十一歳の今日まで思っていたが、その日、突然、訪ねてきた芦《あ》原《わら》の玉枝と名のる女が、むかし、父に世話になったといったのを思いだすと、喜助はあらためてその意味に気づき、びっくりした。
〈お父つぁんに女《おなご》がいたんか――〉
喜助は正直半信半疑だった。しかし、玉枝という女は一見してわるい女には思えなかった。雪の降る遠い道を、わざわざ墓まいりにきてくれたのである。よほどのことがなければ、こんなところまで墓参に来てくれるはずはなかった。
喜助は玉枝という女の出現によって、父親を見なおす気になった。ひょっとしたら、玉枝は芦原で水商売をしているのではないか。きっと父は、卸問屋へ行くといって泊った日は、あの女の家にいたにちがいないと思った。
喜助はそう思うと芦原へ行ってみたかった。玉枝を訪ねていって、もう少し、父のことや、昔のことをはなしてみたかった。
仕事をしていても、玉枝のことばかりが気になった。喜助は遠い記憶をよびもどしていた。
芦原の旅館街は、回廊に手すりのついた二階を両側にならべていて、芝居の書き割りでもみるみたいに、花やかであった。父と一しょに泊った宿は、町のまん中へんにあって、旅館の中でもかなり大きい方であった。大勢の女中が広い玄関に手をついていて、紅《あか》い襷《たすき》をかけていたような記憶がある。みんな髷《まげ》を結っていた。みんな白粉《おしろい》をぬり、口紅もくっきりとひいていて、廊下を通ると、女のむせるような匂《にお》いが鼻をついた。
父とはひと晩、その宿で寝て、また竹神へ帰ってきたのであるが、あの旅館に、玉枝という女がいた記憶はなかった。女中の中で、とくに親切にしてくれた女がいたような思い出もない。とすると、父はやはり、竹細工師の会合があった時など、芦原に行き、べつの家へ行ったにちがいないのである。そこで、玉枝と知りあったにちがいない。いったい玉枝の家はどこにあるのだろうか。
喜助は、玉枝の顔や、身のこなしや、物言いに、無性《むしょう》に魅《ひ》かれていたから、父の喜左衛門が玉枝を好きになったと思うと、それが当然のことのような気もしたのと同時に、かすかな嫉《しっ》妬《と》さえおぼえた。
母の顔は喜助の記憶にない。三つの時に母は藪《やぶ》の中で、肥え桶《おけ》をかついでいて倒れ、そのまま死んだときいていた。心臓麻痺《まひ》ということであった。平常から躯《からだ》のよわいたちで、喜助を生んでからはとくに産後のひだちがわるく、乳も出なくて、喜助はおもゆ《・・・》で育ったと父から聞いていたが、父に先立った薄幸なこの母親の、哀れな藪の中での死を聞かされるたびに、喜助は、自分には、温かい母親の情にふれる機会は生涯なかったのだとかなしみが走った。
そのためか、喜助は女に対する慕情を人一ばいもっていたにもかかわらず、村の女の子に対してさえも、前に出ると固くなり、物もいえなくなった。これはどういうわけだったろう。喜助は、それが親ゆずりのものであると思っていたのに、父が自分に内緒で、あのような美しい玉枝という女とひそかに交際していたかと思うと、喜助の胸は、いまぷすりと音をたててなにかがふき出るような衝撃をうけた。
〈そうや、芦原へいってみよう。わいも、嫁をもらわんならん。玉枝みたいな嫁がきてくれたら、わいもどないに嬉《うれ》しいやろ。わいは一ばい精出して、細工物をつくってみせる。日本一の細工師になってみせる……〉
喜助は轆《ろく》轤《ろ》をまわしながら、熱っぽい胸にそんな思いをかけめぐらせていた。
氏家喜助が、芦原温泉へ出かけたのは二十二歳の四月である。玉枝が墓まいりにきたのは前年の十二月であるから、まる四月たっていた。なぜ、喜助が四カ月も村を出なかったかというと、雪がふかかったためである。竹神の部落は、冒頭にのべたように、日野川の奥の高所にあったから、芦原や武生よりも、雪はふかかった。雪かきをする人はなかった。道は雪にうまり、道も谷も見わかちがたいほど、山は荒れた。だから、郵便配達も来なかったし、電燈もない部落は、まったく孤立していた。
この孤立した部落にあって、人びとは、春に売り出す竹細工をいっしんにつくっていたのだが、喜助も小舎の壁の棚《たな》に、幾種類もの細工品をならべて、雪どけと共に売りに出るのをたのしみにしていた。父の代から、雪がとければ上物を買いにくる京や大阪の工芸品屋もあった。喜助は村人たちのつくる笊《ざる》や目《め》籠《かご》のほかに、そうした特殊な茶筅《ちゃせん》だとか、上物の扇子骨だとかいったものも片手間につくっていた。村人の誰《だれ》よりも精を出していたといえよう。
喜助は、四月二日の朝、まだ雪の残っている杉林をくぐって、七曲りの山道を登っていった。武生と福井の雑貨問屋へ運ぶ菓子器を三十ばかり負い籠《ご》に背負っていた。問屋に卸してしまえば、躯はかるくなるはずである。それに、いくばくかの金ももらえるはずだった。
ひと冬じゅう、暗い小舎に埋まっていた喜助の顔は、明るい山の道では煤《すす》けて、くすんでみえたが、眼は春の陽《ひ》をうけて、晴れ晴れと輝いていた。喜助は、村人たちの誰よりも早く、暗いうちに村を出ていた。背のひくい喜助は、足がおそかったせいもあるが、何よりも竹籠を背負って山をこえる女たちに会うのがいやだったのだ。
喜助は、午前中に武生につき、そこで取引きをすませて福井へまわった。午後三時に片がついた。喜助は胸ふくらませて、芦原の町へ入った。
喜助は温泉街を歩いていった。人通りは多かった。雪がとけたので近在からどっと押しよせてきた湯治客である。どてらをきた男女が下駄《げた》の音をたてて、射的場や、土産物屋にくりこんでゆくのがみられた。
喜助はそんな土産物屋のならんでいる一郭に、ペンキぬりの安っぽい食堂があるのをみとめて入っていった。腹もへっていた。そこで、もし、気だてのよさそうな娘がいたら、玉枝のことをきこうと思ったからであった。喜助は店の中をみまわした。十八、九の女が三人、かすりの着物を着て、黄色いメリンスの帯をしめてならんでいた。喜助は、玉子丼《たまごどんぶり》を注文した。女たちは、喜助が背がひくくて、テーブルに坐っても、テーブルの高さが喜助の咽喉《のど》につかえそうなのをみて、ちょっと異様な眼をしてささやきあっていたが、やがて、その中で、田舎っぽい丸顔の背のひくい娘が喜助へ茶をだしにきた。
「たずねたい人があるのやけんど、教えてくれはらへんか」
と喜助は勇気をだしてきいた。
女の子はきょとんとして喜助の顔をみている。
「玉枝はんちゅう人でな。ただ芦原の町の人やいうだけで、家は知らんのどすけどな」
「玉枝はん?」
と女の子は同僚の方をみて、歯をだしてにッと笑った。が、すぐ、
「苗字《みようじ》はわからしまへんのどすか」
ときいた。
「苗字はわかりまへんのや。ただ玉枝やいうてはっただけどすねや。顔のまるい肌《はだ》の白い人どした」
「へーえ」
と女の子は眼をまるくした。
「三丁町《さんちょまち》やないやろか」
そういうと、また同僚の方をみて、急に野卑な微笑を口角にうかべ、
「三丁町どすやろ」
「三丁町て、そらどこですねや」
ときくと、女の子はいった。
「遊廓《ゆうかく》ですねや。呑《の》み屋もありまっせ。大ぜい女のひとがいやはるさかい……おおかたそこどっしゃろ。芸者はんやったら、玉枝はんちゅう人はいやはらしまへんけどな」
氏家喜助は遊廓ときいて、背すじが冷えた。女の子は歌うようにいうのだった。
「きっと、三丁町どすわ。行ってたずねて見とおみやす。玉枝はんいう人がいやはったかもしれしまへんえ」
芦《あ》原《わら》の遊廓は、だるま屋の並んだ町で、正式な遊廓とはいえなかった。そんなに大きなものではなかった。もともとここは温泉町であるから、芸者はいる。芸者の中でも、三流、四流となると、館《やかた》を出て待合に行って客をとる習慣になっていたが、三丁町の遊廓は、そうした芸《げい》妓《ぎ》とちがって純然たる娼妓《しょうぎ》のいる町であった。町の両側に、平家と二階家が半々に建って、せまい通りをはさんでいる。この町は、それでも色街らしく、赤や青の色ガラスのはめられた玄関をもっていて、白首の女たちが、椅子《いす》をもちだして通る客を呼びとめていた。
喜助がこの町に入った時は、すでに、暮色が落ちかかっていた。町がようやく活気を呈しはじめる時刻であった。喜助は、かかり口の一軒に走りこんだ。そうして、出てきた二十二、三の妓《こ》に訊《き》いた。
「この町に玉枝はんちゅう人がいやはらしまへんやろか」
娼妓は喜助の躯《からだ》をじろじろみていた。子供のように思ったのだが、よくみると大人びた顔をしているのでびっくりしたように眼を瞠《みひら》いて、
「玉枝はんちゅうたら、『花見家』のお玉はんやろか」
と何げなくつぶやいたのだった。
「『花見家』のお玉はんて、いくつぐらいのお人どすか」
「そうどすな。もう三十すぎてはるけど若うみえまっせ。色の白い人でっしゃろ」
「そうどす、そうどす」
と喜助はいった。ここへ来てよかったと思った。喜助はその女が玉枝という名であるかどうかを訊いた。
「玉枝はんちゅう人にちがいおへんわ……気ィのええ人どす」
と娼妓はいってから、また、じろっと喜助をみて、
「せやけど、あんたはん、玉枝はんは、何どっせ、ここんとこ、病気で寝てはりまっせ」
といった。
「病気で……」
「へえ、風邪《かぜ》がこじれてなァ。ここんとこずうーっと寝てはるちゅう噂《うわさ》どすわ。店へちっとも出てはらしまへん」
喜助の顔はくもった。
「寝てはるて、『花見家』で寝てはるの凾ヌすかいな」
「そうどす」
喜助の顔つきが真剣にみえるので、娼妓も真顔になって話しつづけた。
「病院へかかってはるちゅうことやったけど、家にいやはるちゅうはなしどすわ。丈夫なお方どした凾竄ッど、いっぺん大雪にぬれて帰らはって風邪をひいたのを、すっかりこじらしてしまわはった凾ヌす」
喜助は早く会ってみたくなった。「花見家」の場所を性急にきいた。その通りを五十メートルほど行った左側にある二階家だということである。親切な娼妓に礼をのべて、喜助は教えられた方角へ急いだ。
やがて、喜助は古ぼけた二階家の「花見家」の前に立っていた。若い妓《こ》が二人、表に出て水をまいていたが、じろじろと喜助をみた。そのひとりに、喜助は近づいてたずねた。
「玉枝はんていやはりますか」
「…………」
妓《おんな》は顔を見あわせている。喜助の顔と躯を軽蔑《けいべつ》するような眼であった。
「いやはりますけど」
といった。
「寝てはることは知ってますのや。すんまへんけど、竹神の喜助がきたちゅうとおくれやすな。竹神の喜助やいうてもろたらすぐわかりますわ」
喜助は興奮していた。妓たちは、喜助が口をとがらせている顔をじっとみていたが、やがて、下駄の音をさせて奥へ入った。しばらく、喜助は表にまたされた。
さきほどの妓が出てきて、
「お入りやす」
といった。応対が少しちがっていた。喜助はタタキの、だだ広いがらんとした土間に入った。ここも赤や青の色ガラスの扉《とびら》だった。外燈の灯をうけて、タタキが色模様にそまりはじめていた。喜助はタタキからうす暗い廊下の方をみた。と、この時、喜助は息をのんだ。そこに玉枝が佇《たたず》んでいたからである。あの小雪の降る日にみた玉枝の顔は、すっかり面影がないほどやせていた。元気がなく、透きとおったような肌は蒼《あお》かった。
玉枝は寝巻の襟《えり》をかきあわせて、喜助をじっとみていたが、急に、その顔に血をのぼらせて、
「ようきとくれやしたな。お一人どすか」
ときいた。
「一人どす」
と喜助はいった。
「ほんなら、上っとくれやす。うちは店を休んでますのえ。さ、汚ないとこどすけど、入っとおくれやす」
喜助は玉枝のいうままに、上り口にゴムの長靴をぬいで上っていった。
喜助は、遊廓へきたのは初めてであった。うす暗い廊下をゆくと、長襦袢《ながじゅばん》一枚の姿の妓とすれちがった。喜助は、玉枝が立縞《たてじま》の紅《あか》い寝巻の裾をひきずるようにして案内してくれる廊下をついていった。一ばん奥の部屋に入った。
そこは、六畳の部屋だった。うす暗い部屋である。軒が落ちこんだように窓の上にかぶさっていた。しかし、竹神の母屋の座敷のことを思うと、その部屋は喜助にはまだ明るいと思われた。床の前に蒲《ふ》団《とん》が敷かれている。きちんと掃除がゆきとどいている。窓べりの床のよこに人形箱がおいてあり、朱塗りの姫鏡台と小机がならんでいて、壁ぎわに桐《きり》ダンスが一つ置かれている。ここが玉枝の部屋らしかった。喜助が入り口につっ立っていると、
「その節は、えらいお世話さんになりました」
と玉枝はいって、
「うちは、お正月から、えろうここを悪うしましてな。寝たきりどすねやわ。お医者はんにかかって、おくすりばっかり呑んでますの凾ヲ」
と右胸に手をあてて、力のない声でいった。にっこり微笑している。さきほど、ここを教えてくれた妓も大雪にぬれてひいた風邪をこじらせたといった。喜助は、正月から寝たきりと玉枝からあらためてきかされて顔が上げられなかった。玉枝がきたのは十二月の中ごろである。昼のうちの小雪が夕方になって荒れだした日である。吹雪の中を歩いたために、玉枝が胸を痛めたのにちがいないと喜助は思った。
「ほんなら、うちィ墓まいりにきてくれはってからやおへんか。あの日ィは大雪になりましたな。大雪剪を歩かはったさかいに、風邪ひいた凾ニちがいますか」
「…………」
玉枝は力のない眼を喜助になげて微笑していたが、
「あの日ィは無事に武生までつきましたんやけど、汽車にのってから、急に、寒気がしましてな、お正月ちこうになって、せきが出るようになりましてん」
「ほしたら、やっぱり、うちィきてくれはったんがいかなんだんや」
喜助はそういうと、父の墓まいりにきてくれたことに責任のようなものが感じられて、眼に申しわけなさそうな光をうかべて玉枝の蒼い顔を見るのだった。玉枝はその視線をはずすと、長《なが》火《ひ》鉢《ばち》の火をかきまわして、火ダネを掘りおこし、ふるえる手で炭をついでいたが、やがて鉄瓶《てつびん》の湯で茶を淹《い》れて、蒼白い手で喜助にさしだした。
「喜助さん、あんたはん、あれ知っといやすか」
突然、玉枝は床の間のよこに置いてある人形箱を指さした。
喜助は高さ二尺ほどのガラス箱に入れられた人形をみた。妙な人形だなと思った。それは入ってきた時に、何げなく眼についていたのだが、よくみると竹材らしかった。
「竹人形どすねやわ。お父さんがおつくりやしたも凾ヌっせ。お父さんが、うちにおくれやした人形《にんぎょ》さんどっせ」
と、玉枝は熱のこもったいい方でいった。
「あれ、呉《く》れはった凾ヘ、うちがまだここへきた年どした。もう十年になりますかいなァ。喜助さん、あんたはんはまだ小さいころやった。まだ筒っぽをきて、お父さんのうしろから、飴玉《あめだま》買うてもろて、ちょこちょこ歩いてはりました。お父さんはうちを可愛がってくれはった凾ヌっせ。あの人形さんをわざわざつくっとおくれやした凾ヌすがな」
喜助のガラス箱をみている眼が急に釘《くぎ》づけになった。妖《あや》しい光をうかべて動かなくなった。
それは、まだ、喜助が一どもみたことのない人形であった。喜助はガラス箱の蓋《ふた》をあけた。一尺くらいもありそうなその人形を手にとってみた。見事な細工といえた。江戸時代の遊女であろうか。喜助にはわからなかったけれども、うしろへ髷《まげ》のつきだしたような髪型に、蒔《まき》絵《え》の木《き》櫛《ぐし》、衣服は帷子《かたびら》を模したものである。鹿《かの》子《こ》や柄《がら》地《じ》が竹の皮の斑様によってつくられている。履《は》いた三本歯のこっぽりも竹であった。前で結んだ大きな帯も、すべて竹の皮でつくられてあった。うしろをみると、女竹の割れた背中がみえ、精巧なしっくい《・・・・》止めが要所にみられた。このような手のこんだ竹の人形をみたのははじめてであった。
「お父さんがな、やっぱり、冬の日ィどした凾竅Bうちにくれるちゅうて、わざわざここまでもってきてくれはりました凾ヲ」
と玉枝はいった。十年前の父の細工品は、いま、そのまま玉枝の丹精な保存によって残っていたのであった。喜助は、竹の皮を利用して、このような着物をつくった父の創意に舌をまいた。喜助は、人形のどの部分にも父の精魂がこめられているような気がして、胸がつまった。
〈お父つぁんは、玉枝はんに惚《ほ》れてた凾竅Bこの部屋へ雪道を苦労して運んできた凾竅B玉枝はんが好きやったさかい、こんな人形をつくってはこんだんやな……〉
喜助は父がまだ生きていたころの作業場の姿を思いうかべた。しかし喜助の記憶には、このような人形をつくっている父の姿はなかった。
〈するとお父つぁんは、わいが寝てから、ひっそり起き出て、この人形をつくったにちがいない〉
喜助は手にもった竹人形の上に、にじみ出た涙のしずくを落しそうになってこらえた。
「喜助さん」
と玉枝は、この時喜助のうしろ姿にいった。
「その人形さんは、おいらんどすのえ。うちが島原にいた時の太夫《たゆう》さんのはなしをお父さんにしたら、お父さんが、太夫さんの人形をつくったる、お前も島原の太夫さんみたいにえらい娼妓《おやま》はんになれェいうて、つくってくれはった凾ヌっせ」
喜助は竹人形をガラス箱におさめながら、玉枝の顔をみた。きた時よりは心もち紅《あか》みのさしたような横顔をみせて、玉枝はせきこみながらいった。
「喜助さん、あんた、京ィ行かはったことおすのんか」
「へえ」
と喜助はまた、鼻汁を落しそうになるのをとめて、
「京はときどきお父つぁんにつれていってもろたことがあります。せやけど、島原やぞへはいったことはおへん。このあいだもいいましたけんど、頭剪に残っとるも凾ヘ、宇治の孟宗藪《もうそうやぶ》と小《お》栗《ぐる》栖《す》の真竹の藪どすわな。茶畑の丘の下に海みたいに広い藪がありました」
「そうどしたなァ。宇治は竹藪の多いとこどしたなァ」
と玉枝も目をほそめた。
喜助は玉枝が宇治の竹藪を知っていることに、いっそうなつかしさをかんじた。そうして玉枝の淋《さび》しそうな物言いや、めっきりやせてしまった腰のあたりや、透けてみえるような白い肌をみていると、正月前に見た健康そうな躯が、患《わずら》ったということで、こんなに変るものかと驚いた。どことなく玉枝は老《ふ》けてみえた。眼《め》尻《じり》のあたりに三、四本の小《こ》皺《じわ》がよっている。形のいい唇《くちびる》ながら、小鼻の下から唇の両端へ線をひいて八の字を描く笑い皺も淋しい。影のうすい気がする。
京の島原で娼妓をしていたこの女は、永年、遊里の巷《ちまた》で苦労をしてきたにちがいあるまい。喜助はまだ女の肌を知らないが、人の話で、島原遊廓のことはきいていた。島原でなくても、越前にもそれはある。武生の表川に沿うた弁天町、鯖《さば》江《え》には連隊専門といわれる遊廓があるそうだ。どの家もみな色ガラスの窓に囲まれて、低い軒の陽のささない小間切れ部屋があって、玉枝のような妓《こ》が住んでいるのかと思うと、意外な気がした。
喜助は入ってきた時から、女の匂《にお》いと石炭酸の匂いに胸わるさをおぼえた。玉枝の部屋にも鼻を衝《つ》く石炭酸の匂いがただようている。便所から匂ってくるらしいと喜助は思ったが、それが何のために備えつけてあるのか知らなかった。
喜助はいつまでも玉枝が長火鉢に両手をかざして、襟《えり》をはだけ、あばらのみえる胸をよわい炭火の上へおおいかぶせるようにしているのをみると、長くそこに坐《すわ》っていることに気づまりをおぼえた。
「玉枝はん、また来ます。あんたはんに一ぺん会いたかった凾ヌす。お墓まいりにきてくれはったお礼がいいたかった凾ヌす。葬式の日ィはぎょうさん広瀬の瑞泉《ずいぜん》寺《じ》へ集まってくれはりましたけど、墓がでけてしまうと誰《だれ》もきてくれはらしまへん。村の人まで、藪に墓をうつしてしまうと、詣まいりにくる人はおへん。遠いところから、お父つぁんの墓へきてくれはった凾ヘ、玉枝はんだけどした。お父つぁんもさぞかし、土の中でよろこんではりますやろ」
と喜助はいって立ち上った。
「喜助さん」
とこの時、玉枝は急に眼を光らせてきいた。
「お墓の下に、お父さんが埋《う》まってはりますの凾ゥ」
喜助は、びっくりした。妙なことを玉枝がきくと思ったので、すぐこたえた。
「瑞泉寺のさんまい《・・・・》(埋葬地)から、あそこへ棺に入れたままうつしました凾竄ネ。女竹とハチクの丘に、お父つぁんは眠《ね》てはります。陽あたりのええとこどす」
そういってから喜助は出口へ歩き出した。
「玉枝はん、早うようなって、また、竹神のお父つぁんの墓へまいりにきとくれやす。わいも、福井へ商売にきた時はぜひよせてもらいます」
喜助はよせてもらいますといってからすぐあとで急に口をつぐんだ。「花見家」へたやすくこれるものでもない。ここは女郎屋だ、とわれとわが心にいいきかせた。
喜助は外へ出る時、またべつの妓《おんな》とすれちがった。タタキのところでふりかえると、派手な着物をきた三人の若い妓のあいだを遠慮げに歩いてきた玉枝がペコリと頭を下げていた。
喜助はもっとながい時間を、玉枝の部屋ですごせたらと残念に思った。
竹神部落に帰った喜助は、玉枝とあった喜びを何ども噛《か》みしめていた。玉枝の寝ていたうす暗い部屋や、調度品や、「花見家」の中はもちろんのことであるが、入りしなと帰りしなにすれちがった妓たちの顔や、身のこなしも、喜助はすべてどんな些《さ》細《さい》なことでも頭に焼きつけていた。その中でもっとも忘れ難かったのは、玉枝の部屋にあった竹人形であった。
喜助は竹細工による人形をみたのははじめてであった。しかも、父の喜左衛門が作ったものだときいていっそうびっくりした。
父は竹の皮の斑様をおいらんの着物の縞《しま》にみたてたり、竹の子のシンに生える柔らかい皮を繊毛状にして毛髪に結いあげていた。手も足も、顔も、すべてとくさ《・・・》でみがいた竹の肌《はだ》の艶《つや》を生かして象《かたど》られていた。おいらんの履《は》く三本歯のこっぽりなども、ていねいにうるしが塗られてあった。芸がこまかいというよりも、父が精魂かたむけてつくったものに相違ないと思われた。
じっさい、父の喜左衛門は凝《こ》り性《しょう》であった。越前の松平家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である大安寺から、住職の杉田承仙がわざわざ茶筅《ちゃせん》をつくってくれと書簡をよこした時も、喜左衛門は有頂天になってすぐにはつくらなかった。ありあわせの煤竹《すすだけ》をつかうのを快しとしなかったのである。住職から再度の督促がきて、ようやく半年目にそれを完成した。死ぬ一年前のことだった。喜助もそばでみていてはらはらしたものだ。だが、父はいったん材料を得て仕事場に入ると、何もかも忘れて小刀を握った。
おそらく、父は、あの人形も、そのように心をこめてつくったものに相違ないのだが、それほどの心をこめた理由は、玉枝が好きであったからにちがいないと喜助はあらためて思った。
玉枝の顔にも、それは出ていた。竹人形の話をする時は、玉枝の蒼白《あおじろ》い頬《ほお》に紅がさしたのを喜助は見のがしていない。
〈いったい、玉枝はんはいくつやろか!〉
玉枝は三十一、二になっていたろうか。父は六十八で死んだのだから、十年前に玉枝にあの人形をくれている以上、十年来のつきあいということになる。すると父はずいぶん若い妓《こ》をひいきにしたものである。鴉《からす》のようにやせ細っていた晩年の姿を思いだすにつれて、喜助はあの躯《からだ》のどこにそのような精力がかくされていたのかと、不思議に思った。
喜助は玉枝のことばかり考えながら竹細工に精を出しはじめた。細工物がたまると、問屋から取りにくるのを待たずに、朝早く籠《かご》に入れて背負って山を越えた。そうして、隣家の与兵衛や、近所の農家で工面した餅《もち》だとか豆の類を手土産にして、芦《あ》原《わら》温泉の三丁町《さんちょまち》へいった。しかし、「花見家」へ入るには、喜助は勇気がいった。
玉枝の病気は、二どめに喜助が訪ねたとき、見ちがえるようによくなっていた。それは、喜助がきたために、快方にむかったのだとでもいいたいほど、肉づきもよくなっていた。玉枝自身もいった。
「喜助さんがきとくれやしてから、ようなりましたえ、お蒲《ふ》団《とん》もあげて、ほれ、このごろはこないにこえました」
玉枝は白い二の腕をまくってみせた。静脈が出ていたが、ぴちぴちしている。墓まいりにきた時の元気を少しとりもどしたかにみえた。喜助は土産の品を部屋におくと早々に帰ってきた。
自分は玉枝の上り客ではない、という自《うぬ》惚《ぼ》れのようなものと、逆に自分は妓《ぎ》楼《ろう》の客にはなれないという劣等感のようなものをもちながら、「花見家」を出てくるのであった。そんな時、玉枝の同僚の妓たちは、喜助の小人のような躯をじろじろみたし、どの目にも軽度ながら侮《ぶ》蔑《べつ》のこもった光があった。だが、喜助は、他人のそうした眼に馴《な》れていた。
玉枝さえ、そのような眼でみなければ嬉《うれ》しかった。事実、玉枝の眼には、喜助に対する嫌《けん》悪《お》の情は微《み》塵《じん》もなかった。まるで、弟のように迎え入れてくれるのであった。
三どめに喜助が「花見家」へきた時だった。予期したことが起きていた。というのは、玉枝が躯がなおってくれば、客をとらねばならないという喜助の予感が的中していた。病気の時は抱え主も客をとらなくていいといっていたのだが、「花見家」へ躯を売って抱えられている以上、健康になると働かねばならない。
土間に入った時、すでに顔見知りになっている妓が、
「玉枝はんはお客さんどっせ」
とつっけんどんにいった。喜助は瞬間、玉枝が客をとることが出来るほど健康になったという喜びを感じたが、まだすっかり治ってもいないのに、無理をして客をとったりして、いっそう病気をこじらすのではないかという不安に耐えねばならなかった。そうして、やがてその不安は、どこのだれであるかわからない通りすがりの男に、躯をあたえている玉枝への激しい嫌悪となって喜助をくるしめた。
喜助は、その妓にペコリとお辞儀をして「花見家」を出た。三丁町の通りを一時間ばかりぶらぶら歩いた。そうしてまた、「花見家」の表へ帰ってきた。その時玉枝が客を送りだしてくるのに遭《あ》った。客は三十五、六の労働者風の男である。よごれたハンチングをかぶり、浅黒く陽《ひ》にやけた顔を歪《ゆが》めて、小走りに喜助の前を去っていった。
喜助はその男の方へ手をふっている玉枝を見た。玉枝はそこに喜助が立っていることに気づかなかった。
「玉枝はん」
喜助は、玉枝が土間へ入ろうとするのに走りよってよびかけた。玉枝はふりむいて驚いたようだった。
「いつおいでやした凾ヲ」
「さっきどす。お客さんやいうさかい、ぶらぶらしてました凾竅Bもう躯よろしのか」
と喜助はもってきた餅の包みを素早く手渡した。玉枝はそれを有難そうにうけとっていった。
「こないようこえて、すっくりなおってしもた。喜助さんのおかげどすえ」
と、心もち薄鼠《うすねずみ》いろに色ずんだ眼のくまをうごかして、
「おはいりやすか」
と問うた。媚《こ》びをふくんだ目であった。
「よろしおす。今日は帰りますわな」
と喜助はいってから、
「わいも、人形をつくってますんや。お父つぁんに負けん人形をつくってますんや。でけたら、玉枝はん、あんたにみてもらいます」
といった。玉枝は喜助の眼がこのとき異様に光っているのをみた。
「お父さんに負けん人形《にんぎょ》さんをつくってはんのやてか……そら、喜助さんの方が勝ちや」
と玉枝はいって、歯をだしてわらった。
「お父さんは、喜助さんにはかなわんいうてはりましたえ」
と眼を糸のようにしていった。喜助は父が「花見家」にきて、自分の技倆《ぎりょう》を賞《ほ》めていたのかと思うと、瞬間、面《おも》映《はゆ》い気持ちになった。
「ほんなら今日は帰《い》にます。人形がでけたらまたきます」
と喜助はいって、胸に出来たしこりのようなものをもてあましながら踵《きびす》をかえした。
玉枝はうなずき、影のあるうるんだ眼をみせて、
「ええ人形さんつくっとくれやすや」
といった。
竹神へ帰っても、喜助は暗い顔でいた。玉枝が客をとっている姿を想像すると耐えられなかったからである。
喜助は玉枝の蒼白い顔を思いうかべた。生気のない肌を見知らぬ男の前にさらけ出している玉枝が哀れに思えた。
喜助は仕事場に入ると大きな音をたてて戸をしめた。そうして、父のすわっていたへこんだ座蒲団に坐《すわ》ると、いっしんに小刀をつかいはじめた。玉枝の躯を削るような気がした。おいらんの人形ではなかった。墓まいりにきたケットをかぶったもんぺ姿の玉枝を、喜助は人形にしようとしていた。
躯《からだ》の胴の部分は太いマダケを二つに割り、心もちひろげた足は女竹を丸のまま使った。縞《しま》模様のある竹の皮をモンペにした。裾《すそ》と腰のあたりを絞るためには、喜助は皮を水にひたし、柔軟にしておいてから巧妙にヒダをつけて絞った。着物ももちろん竹の皮であった。皮にはそれぞれの斑様があって、着物の柄《がら》に合いそうなものをえらんだ。それを喜助は丹念に人形の躯に着せた。襟《えり》も、羽織の紐《ひも》もすべて竹の皮である。組み合わせが出来ると、喜助は塗立てをした。塗立てとは、うるしを塗ることをいうのだが、かつて、父の喜左衛門が若《わか》狭塗《さぬ》りの箸箱《はしばこ》や、楊《よう》子《じ》入れなどをつくる時に塗ったやり方で、蝋《ろ》色《いろ》塗《ぬ》りといわれる方法を用いた。いったんうるしを塗り立てたあと、炭と角《つの》粉《こ》をつかって磨くのである。これはうるし塗りの最上級の艶《つや》出し法であった。
だが、喜助は、毎日この人形造りばかりしていたのではなかった。福井や武《たけ》生《ふ》の卸問屋から、鳥籠《とりかご》や、団扇《うちわ》の急ぎの注文もうけていたから、それらの細工物をするあいまに人形へ心を打ちこんだのである。
喜助が、この一尺丈《たけ》ぐらいの竹人形をほぼ完成しようとしていた頃《ころ》である。五月はじめの、山裾の欅《けやき》の梢《こずえ》にさみどりの新芽がふき出している一日のことである。
小舎《こや》にこもって弦掛糸鋸《つるかけいとのこ》をいっしんにつかっている喜助の耳へ、人の訪れる気配がした。
「ごめんやす」
喜助はその声が、村の女の声ではなくて、玉枝の声のような気がした。瞬間、胸が大きく音をたてた。
喜助は膝《ひざ》がしらの塵《ちり》を払って、急いで戸をあけに立った。すると戸口に玉枝が立っていた。
「こんにちは」
と玉枝はいって、にっこり歯をみせ、頭をペコリと下げた。喜助は咽喉《のど》がつまって言葉が出なかった。
「ええお天気やし、休みがもらえましたさかい、いっぺんお墓さんにまいらしてもらお思《おも》てきました凾ヌすねやわ」
と玉枝はいった。喜助は、玉枝がうす暗い仕事場を覗《のぞ》いて、窓の下に立てかけてある完成ちかいモンペ姿の竹人形に気づきはしないか、とひやりとした。というのは、玉枝に見てもらうためには、完成したものの方がよいと思っていたからだった。喜助はすぐに母屋の方へ玉枝を案内した。
「ここは汚《きた》のおす。あっちでいっぷくしとくれやす」
喜助は、玉枝がはじめて竹神へきた時とちがって、歩き方にも、物腰にも、どこか喜助に親しみをもちはじめてきているのを知った。しかし病気あがりはかくせない。顔や物言いに弱そうな影が出ているのも感じていた。
母屋の座敷に通すと、縁先の戸をあけた。仏壇に燈明をともした。玉枝は、しばらく煤《すす》けた古い仏壇に向って、眼《め》をつぶって手をあわせていたが、
「喜助さん、こっちのお位《い》牌《はい》はお母さんのどすか」
ときいた。
父の位牌のよこに、黒塗りの一だん丈ひくい位牌がたててある。それには、「芳香春園大姉」と金の字が彫ってある。
「へえ、そうどす、お母《か》はんどすねや」
と喜助がいうと、玉枝はしんみりした口調になっていった。
「このお母さんのお顔おぼえておいやすか」
「知りまへん。三つの時に死なはったんどっさかい、なんぼ眼ェつぶっても思いだせしまへん」
「そうどっしゃろな」
「竹藪《たけやぶ》へ肥えをはこんでて、ぱたんと転《こ》けはったまんま、心臓麻痺《まひ》で死なはったそうどすねや。お父つぁんといっしょに、やっぱり竹藪の守《も》りで一生を終えた人どすねや。お父つぁんは育った竹を伐《き》って細工物をつくらはったけど、お母はんは毎日、藪の草むしりしたり、竹の皮拾いしたり、枝落ししたり、藪造りに精出さはったんやそうどす。うちのまわりの竹藪が、どこの藪よりも出来のええの凾ヘ、みんなお母はんの丹精しやはったおかげやいうてはりました」
「ええお母さんどした凾竄ネァ」
玉枝は仏壇の前からはなれて縁先に出ると、うらやましそうにいって、女竹の藪の葉ずれの音をききながらしばらく黙っていた。
喜助は、玉枝の横顔をみていた。芦《あ》原《わら》へ帰って客を取る玉枝の姿が、この時、不意に頭にうかんだ。
「玉枝はん、あんたはお母はんどないしやはりました凾竅v
ときいた。
「うちどすか」
玉枝は喜助の方をふりむかずに、
「伏見の中書島《ちゅうしょじま》にな、住んではった凾竄ッど、もう死なはりました凾ヲ」
とこたえた。
「お父さんは」
「お父さんは知りまへん」
きっぱり玉枝はこたえた。知りまへんという声に投げやりなものがひびいているので、喜助は、
「知りまへんて……死なはった凾ヌすか」
とまたきいた。
「死なはった凾竄サうどす。そうどすやて、ええかげんなこというようなけど、あてはお父さんの顔を知らしまへんのえ。中書島のお母はんのとこで大きゅうなりましたさかいな……」
この女も、自分と同じように片親で育ったのかと思うと、喜助はいっそう玉枝に対する哀れみと、親近感が湧いた。喜助は勇気をだしてきいた。
「玉枝はんはいつまで、芦原の三丁町で働いてゆかはりますの凾竅v
「…………」
玉枝は瞬間、眼をひからせて喜助をにらんだが、すぐ面を伏せて、
「お嫁さんにもろてくれはる人があったらやめよ思てます。せやけど、そんな人あらしまへんやろ。うちらは苦《く》界《がい》に身ィを沈めてんのどっさかいな。なぐさみも凾ノはしやはるけど、嫁さんにしようと考えてくれはる男はんてあらしまへん。父親《てておや》のない娘てなもん……喜助さん、ゆく道は知れてますがな」
その声は、また投げやりにきこえた。
「せやけど玉枝はん、いつまでも『花見家』にいやはったら、躯を悪うしてしまわはりまっせ」
「そうどす。それはわかってます」
と玉枝はいった。
「なんで、京の島原からこっちィきやはりました凾竅v
喜助は作業場で仕事をしながら、玉枝のことを考えていて、わからないところはたずねようと思い溜《た》めていたことが数々あったから、それを順々に訊《き》いていった。
「わけがあって、きました凾竅v
「京都は芦原よりはよろしやろ」
「芦原もええとこどっせ」
と玉枝はいった。
「ほんなら、玉枝はん、お父つぁんは、あんたと最初にどこで会わはりました凾竅B十年前に……」
「…………」
玉枝はしばらくだまっていた。しばらくしてから、こうこたえた。
「芦原どしたんや。うちが島原からきた十日目くらいの日ィどしたかいな。その時は『花見家』やのうて、『松の井』ちゅうだるま屋どしたけど、そこは宿屋はんもしてはりましたんえ。うちはそこで、女中《おなごし》みたいなことしてて、いまみたいなことはしてェしまへなんだんどす」
喜助は新しいことを聞くと思った。玉枝は島原の娼妓《しょうぎ》を辞《や》めて、芦原へきて、いったん堅気になったものと思われる。ところが、それから間なしに「花見家」へうつって、昔の商売に逆もどりしたとみてよかった。もっともだるま屋であるから、妓《ぎ》楼《ろう》とそんなにかわっているわけではない。しかし、京の島原で暮した玉枝が、こんな雪ふかい北陸へ身を沈めねばならなかったのは、中書島の母親が死んだせいばかりではあるまい。事情があったのだろう。
その事情をいいにくそうにした玉枝の顔を、喜助はみるにしのびなかったので、それ以上訊《たず》ねようとはしなかった。
玉枝は喜助の出した茶を呑《の》んでから、母屋を出た。女竹の藪をくぐって、丘の上の喜左衛門の墓に詣《もう》でた。
冬とちがって、墓のまわりはぽかぽかと暖かかった。墓石の前の花筒が青竹にかわっていたのは、喜助が、伐り竹をするたびに、とりかえるからであった。その青竹の筒に真紅の八重椿《やえつばき》の花が活《い》けてある。
「きれいな花どすなァ。こんな椿、どこに咲いてますの凾ヲ」
「お父つぁんが好きどした凾竄ネ。藪のはしに、四、五本、ぱらぱらに植わってますのんやけんど、こんどここィ植えかえよ思うてます。せやけど花の咲く年と咲かん年がありますなァ。今年は大きな花がどの木ィにも咲きました」
喜助はそういって、玉枝が線香の束に火をつけて、墓の台石の上にあけた穴に立てるのをみていた。水を入れた茶碗《ちゃわん》に、椿の葉をうかせ、それに玉枝は水をつけて、何ども墓石にかけた。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
玉枝はそうしていると、喜左衛門がそこで笑みかけてくるような気持ちになるらしく、いつまでもそうしてつぶやいていた。
玉枝は帰りしなに、喜助にいった。
「こんどは、お父さんのお好きやった椿の木ィを、お墓に植えはるの凾フお手伝いにきますわな。かましまへんか」
喜助は嬉《うれ》しくなった。椿の木を植えかえるのは梅雨《つゆ》あけの頃である。
「梅雨あけに植えかえますのや。そんなら、玉枝はんはまたそのころに来とくれやすか」
「きっとよせてもらいます」
喜助はそれまでに、あの人形を完成させておいて、玉枝をびっくりさせてやろうと思った。
玉枝が帰ったのは夕方ちかかった。喜助は小舎《こや》の端をまわって、村口まで玉枝をおくったが、大杉の林のかげに玉枝の姿がかくれるまで見送っていた。玉枝は広瀬村に出ると馬車にのるのだといった。
玉枝がきた翌日のことであった。めずらしく、隣家の与兵衛が仕事場をのぞいた。喜助は竹人形に風呂《ふろ》敷《しき》をかぶせて匿《かく》してから、与兵衛を小舎へ入れた。
「なんや、えろう精が出るな」
竹屑《たけくず》で埋まった仕事場をみながら、与兵衛は、持ち前のせきこむような物言いで、
「お前凾ニこへ来たお客さんやが、あれは誰《だれ》や」
ときいた。喜助は返答にこまった。即座に嘘《うそ》をついた。
「福井のお客さんどすねや。問屋の奥さんどすねや」
「ほう」
と与兵衛はひっこんだ眼を大きく瞠《みひら》いて、
「似た人もあるも凾竄ネ、あのお方は、喜助、お前のお母《か》んにそっくりやどォ」
「…………」
喜助は与兵衛の顔をみつめた。
「お前のお母んのおしまはんは、耳たぶの大きな白い顔の人やった。額のひろいきれいな顔をしてはった。おしまはんにそっくりやった」
「…………」
喜助は絶句した。
〈玉枝はんがお母んに似ている〉
父が玉枝に魅《ひ》かれた理由がいまはっきりわかるようだった。母に先立たれた父は、玉枝をみて、母の面影をそこにみたのか。人形をつくって芦原まではこんだ理由がわかる気がした。
「与兵衛さん、そらほんまどすか」
「気性は知らんけどな、あないに似た人もいるも凾竄かとびっくりしたぞ、わしは、おしまはんが生きかえってきたんやないやろか思うたほどやった。嘘やない。色の白い耳たぶの大きな人やった」
と与兵衛はいった。
「馬車にのって、広瀬から帰っていかはったそうな」
どうしても玉枝を竹神の家へ迎えたいと思うようになったのは、何げなくそんなことをいいにきた与兵衛の言葉が契機になっている。喜助は、玉枝が芦原にいても決して幸福でないことを知っていたし、嫁にゆかないのかときいた時、自分のような女はもらってくれる人がないと玉枝はいった。このまま「花見家」で客をとって生きてゆくしかない、と淋《さび》しげな顔をしていた。玉枝がもし、この竹神の家にきてくれるなら、どんなに嬉《うれ》しいだろうと喜助は思った。仕事にも精が出るにちがいない。玉枝を世界の誰《だれ》よりも大切にしてやることが出来る、と喜助は思った。
喜助は竹細工の収入があったし、玉枝がきても充分食べさせてゆける自信はあった。父親は財産を残して死んだわけではない。丹精した竹藪《たけやぶ》と、母屋と仕事場のある百坪ばかりの屋敷を残して逝《い》ったのであった。しかし、竹藪には十幾種類もの竹が植わっていた。肥料の効いた土壌に根を張って、竹はいくら伐《き》っても、季節がくれば新芽を出した。伐った竹を細工品にすることで、喜助は最低生活は確保できた。細工品が、目《め》籠《かご》や、笊《ざる》のような端《は》物《もの》とよばれるものではなくて、金嵩《かねがさ》のはる家庭調度品や、手のこんだ鳥籠になれば、何倍かの増収になった。あとはこちらの腕と働きによるわけだ。つまり父の残した材料をつかって、精を出せば出すほど金がたまるわけであった。
喜助は、一人ぐらしであったから、食べものも、衣類も、ぜいたくする余裕はなかった。仕事着も破けたままのを着ていたし、ひどくなると、手なれぬ針をもって自分で縫いものをした。そんな喜助の不自由な生活をみていて、村の者は、喜助に嫁を早くもたせてやらねば、とはなしあっていた。しかし、喜助のところはしゅうともいないから気楽な嫁入り先だと思えても、村娘の中ですすんでゆくという者はなかった。ひとりぐらしの喜助が、どことなく親ゆずりの陰気さをもっていたことと、背がひくくて貧弱だったせいもある。世話をしたいと思う者はいたが、みな先方から話がこわれた。
当人の喜助は、二十五をすぎれば嫁はもらわねばならないと考えていた。しかし、その嫁は、どこから来てくれるか、あてはなかった。父の喜左衛門だって、美しい、耳たぶのふくよかな母を嫁にしていたというから、自分にだって来てくれる嫁はかならずあると思っていた。
ところが、玉枝をみてからは、喜助は玉枝に魅《ひ》かれた。ほかの女のことを考えるわけにゆかなくなった。玉枝を女房にできたら……喜助はそのことを夢にみることがあった。しかし、玉枝はきてくれるだろうか。
喜助の考えでは、それは五分五分の可能性と不可能性をもっていた。というのは、玉枝は父親を好いていたということである。父親と躯《からだ》の関係のあった女が息子と契《ちぎ》るということは、いくら娼妓《しょうぎ》だったとしても考えることではなかろうか。だが、それはまた、逆に可能性があるともいえた。父が好きだった玉枝は、息子の喜助だって好きにきまっている。小《こ》柄《がら》な背のひくい躯でも、好いてくれることはわかっていた。玉枝は、遠い竹神まで雪の道を押して墓まいりにくるほど父に愛着をもっていた。喜助にだって、それと同じ愛情をもち得る可能性はある。
だが、不可能な予想はまだあった。先ず玉枝がこんな田舎住いは嫌《きら》うだろうということである。喜助の家は藪に囲まれていたからうす暗い。陰気だ。しめった藁《わら》屋根には青苔《あおごけ》が生えている。芦原にくらべると雪もふかい。辺陬《へんすう》な寒村だ。活動写真も芝居も観《み》ることは出来ない。村へ住んでしまえば、まるで文化から鎖《とざ》された生活である。京の島原や、芦原の遊廓《ゆうかく》で人びとの中にまじって派手に暮した女が、一日とて辛抱できるところではないだろう。
そう思うと、喜助は、玉枝が家へきてくれるかもしれないという思いがちぢんでしまった。
しかし、喜助は断念する気にならなかった。玉枝は梅雨《つゆ》明けのころ、椿《つばき》の木を父の墓地に植えかえるのを手伝いにくるといっていた。それまでに、喜助は、玉枝に誠意をもって頼んでみようと思った。竹神へ来てくれないか、といってみようと思った。
母に似た玉枝は、どうしても、竹神の氏家の家に入るべき女のように思われてしかたがなかった。
喜助は、竹細工をしながら、昼も夜も玉枝のことばかり考えた。玉枝に会ったら、どういってそのことを切りだそうかと、そればかり考えた。
喜助が玉枝にそのことを切りだしたのは六月はじめのことである。福井で行われた工芸展を観た帰路、芦原へよった。玉枝はいた。喜助は健康な玉枝をみると話だけをしに部屋へ上ることにためらいを感じたので、客のような顔をして上った。いつになく、小《こ》柄《がら》な躯《からだ》を前のめりにさせ、頭をふって上ってくる喜助は、玉枝が、どうしたのかと思ったほど、はりつめた顔をしていた。
部屋に入るなり喜助はいった。
「玉枝はん、あんた、うちィ来てくれはらしまへんか。あんたが、うちィきて、お父つぁんの墓を守《も》りしてくれはるつもりやったら、わいはあんたに、ひとま部屋をこしらえるつもりどす。あんたの部屋をつくったげるのんや。あんたはそこで、毎日、ぶらぶらしててもろたらええのんどす。わいのたべも凾ニ、わいの着るも凾ウえみてくれたら、あそんでてもええのんどす。わいはあんたさえきてくれはったら、これまでよりも一ばい精を出して細工も凾つくって銭をためますわ。玉枝はん……あんたをみてから、わいはあんたのことが忘れられへんのどす。竹神のうちィきておくれやす」
「…………」
玉枝は喜助の真剣な物言いに打たれた。しかし、それが、あまりに突然だったので、
「あてが、喜助さんのお嫁さんになるのどすかいな」
と冗談のようにいって、歯をみせて笑った。しかし、すぐその顔をもとにもどして喜助の方をみた。
「わいの嫁さんがいややったら、嫁さんにならんでもええのんどす」
と喜助はいった。あえぐように喜助は息をついてつづけた。
「こんなとこで、お客さんを日ィに何人もとってはったら、あんたの躯はしまいに病気になってしまわはる。死なんならん。それよりか、うちの方がよろしおす。うちィきて、わいのお母はんになっとくれやす、玉枝はん」
喜助の爛々《らんらん》と光る眼は、いまにも玉枝に向ってとびこんできそうな気《き》魄《はく》を見せていた。玉枝は上気した顔を喜助の眼からそらせた。
「喜助さんがそないにいうてくれはるのはありがたいわ。せやけど、今いうて今、うちは返事がでけしまへん。うちは喜助さん、あんたは好きえ、お父さんと似て、あんたも生一本な竹細工の芸術家や。うちはそこが好きどす。せやけど、なんぼ好きやいうたかて竹神ィいって、あんたの世話になるちゅうのんも……村の人やらの眼《め》ェもありますやないか」
「村の人が何いうてもかまへん」
と喜助は膝《ひざ》をにじりよせていった。
「村の人はみんな他人や。腹の中では、わいのことを阿呆《あほ》にしとる。わいは正直のとこ、村の人の中に心のとけあうもんは誰《だれ》もあらしまへん。玉枝はん、わいは玉枝はんをみてから、好きになったんどす。お母はんみたいに好きになったんどす。お母さんに抱いてもろたことのないわいは、あんたがうちにきてくれはったら、この世にうまれた甲斐《かい》があった気ィがしますのや。あんたの顔をみてると、わいの冷えた心がぬくもってきます。玉枝はん……」
喜助の眼からぽとりと大粒の涙が落ちた。玉枝はいった。
「わかったわ。うちかて、喜助さんにそないいうてもらうと嬉《うれ》しい。うちも喜助さんとおんなし孤独や。孤独な喜助さんは他人とも思えへん。お父さんがまだ生きてはった、あんたはまだ十か十一やった頃《ころ》に、うちは何ぼ、あんたのお母はんになろと思うたことがあったやしれしまへん。せやけど、お父さんは、あんたのことを考えて、うちを竹神ィ入れてくれはらへなんだんどす」
「わいのことを考えて……」
「そうどす。お父さんもいうてはった。村の人には何も気兼ねはせえへんけど、喜助にだけは……いうてはったわ」
「わいにか……」
と喜助は父の思いすぎに腹が立った。
「阿呆な、お父つぁんや、阿呆なお父つぁんや」
と喜助はいって、こぶしを握って玉枝をみつめた。その喜助のはげしい感情をしずめるように玉枝はいうのだった。
「喜助さん、うちもよう考えますわな。梅雨のあける頃あんたは椿の木ィを植えかえるいうてはった。それまでにうちは考えをきめて竹神ィ返事にゆきますわな。うちにも、いろいろとせんならんことがおす。いくちゅうても鳥が立つようにはいかしまへん」
喜助はうなずいた。
「この月の終りごろに椿の木ィを植えかえます。そん時に、返事をもってきとくれやすか、きっと」
ダメを押すように喜助が問うと、玉枝はこっくりうなずいてみせた。玉枝の顔はぬれていた。喜助は、いま大きく胸がふくらむのを感じた。
「そんなら、帰ります。玉枝はんの来やはるのんを待ってます」
喜助は立ち上ると、きょとんとしている玉枝をそこに残して、そそくさと「花見家」を出てくるのであった。
〈早う梅雨があがらんもんか。梅雨あけがきたら、椿の木ィを植えかえるのや――〉
喜助は、越前一帯では、樹木の植え時は梅雨あけの頃としている風習を知っていた。梅雨さ中では水気が多すぎ、根はくさるのである。土のやわらかいわりに陽《ひ》の照る六月末か七月はじめが植えかえの好時期といわれていた。喜助は藪《やぶ》のはしに植わっている八重椿《やえつばき》の木を頭にうかべながら、だるま屋のならんだ町を出て、福井ゆきの馬車に乗った。
喜助は、帰宅すると、作業場へ入った。未完成の竹人形にとりかかった。玉枝がくるまでに、どうしても完成させねばならないと思った。
喜助が椿の株を、藪から、丘の上の喜左衛門の墓に植えかえたのは七月一日のことであった。喜助は心待ちに玉枝がくるのを待っていたけれど、六月が終るのに玉枝はこなかった。梅雨があけて、陽照りがつづくと、土は固くなってくる。植えかえの時期を逸してしまうと思ったので、喜助はひとりで植えかえた。八重椿は黒い固葉のかさなりの中で花の落ちたあとのヘタに、茶いろの大きな果《み》をみのらせていた。喜助は小柄な躯で、根もとの土を落さぬように、時間をかけて、墓所の丘まではこんだ。
墓碑の左右に椿が植わると、喜左衛門の墓はきわだって美しくみえた。
〈これでお父つぁんは好きな花を眺《なが》められるわ……〉
喜助は心の中でそう思いながら、この思いつきを果したことに喜びを味わっていたが、玉枝の来てくれないことが残念でならなかった。
喜助は、ひょっとしたら玉枝がまた病気になったのではないかと思った。梅雨どきや、芽どきというものは、胸を患《わずら》う者は注意をしなければならない季節だった。心配になった。
しかし、喜助は渓下《たにしも》の水田の守《も》りもしなければならなかった。草取りや、肥料の撒《さん》布《ぷ》で忙しかった。竹細工も休んだので芦原へゆく用事はなかった。
喜助は毎夜、田《たん》圃《ぼ》でつかれた躯を母屋の寝所に横たえて、汗くさい躯をふきもせずに、死んだように眠った。
〈椿を植えかえはるころに、返事にいきまっせ。それまで、待ってとおくれやす……〉
玉枝のいった言葉が、いつまでも喜助の頭にのこっていた。眠っていても、喜助は玉枝の面影を夢にみた。
〈嫁さんになってくれんでもええ。お母《か》んになってくれたらそれでええ。竹神の家で、わいの面倒をみとくれやす……〉
夢の中で喜助は絶叫していた。孤独な喜助の魂は、いまや、玉枝を求めて飢えていた。
七月五日になった。喜助は田圃仕事を休んで、その日は、作業場に入って、竹細工に熱中していた。午すぎたころだった。あけ放した戸口へ頬《ほお》かむりした隣家の与兵衛のよごれた顔がのぞいた。
「喜助よ」
と与兵衛はいった。
「いまな、大杉の下の苗代《なわしろ》にいたら、車に乗ったお客さんがくるの凾ェ見えたぞォ。あれは、お前凾ソへくる客とちがうかいや」
喜助はびっくりして、与兵衛の顔をみた。
「ほんまか」
と大声できいた。
「心あたりがある凾ゥいな。なんでも、仰山《ぎょうさん》の荷ィやったぞォ。馬車にいっぱいの荷ィやったぞォ。何しに来たや」
「嫁さんじゃ」
と喜助は叫ぶが早いか、小舎《こや》をとび出していた。玉枝にちがいないと喜助は思った。
〈玉枝はんがきた、玉枝はんがきやはった……〉
喜助は与兵衛がきょとんとしているのをふりきるようにして外へ走り出ていた。小舎の裏へまわった。そこからは大杉の山の端《はな》がみえたのだったが、冬とちがって、葉のついた樹木が邪魔になって野面は見えなかった。
喜助は、大杉の下がみえる丘の上へあがった。そこは植えかえた椿の木のある墓地だった。喜助は背のびをした。女竹と孟宗藪《もうそうやぶ》のあいだを通して白い一本道がみえた。いま、その一本道を、馬車が一台村へむけてゆっくり進んでくる。荷台の上に、紅《あか》い着物を着た女が乗っている。馬のうしろに頬かむりした男がつくねんと肩をまるめて動かない。
〈広瀬の馬車にのって玉枝はんが来やはる……〉
喜助はじっと眼をすえて馬車をみた。たしかに、玉枝にちがいない。玉枝は桐《きり》ダンスや鏡台を積んだ荷物の中に、座蒲《ざぶ》団《とん》を敷き、そこに立膝をしてタバコをすっていた。
「玉枝はんや。玉枝はんが来てくれはった……」
喜助は喜左衛門の墓石の前に額をすりつけるようにしてさけぶと、やがて一目散に丘を下りていった。
大正十二年七月五日のことであった。折原玉枝は三十二歳で、氏家喜助の妻となるためにこの竹神の氏家の家に入った。喜助が二十二の夏のことである。
折原玉枝と氏家喜助の結婚は、竹神部落で、これまでに例のないものといえた。仲人があるというわけではなし、ただ、喜助が一人暮しをしているところに、玉枝が飄然《ひょうぜん》と荷物をもって入りこんできたというにすぎない。
喜助は、玉枝が馬車を村口で止めて、馬丁に荷物をもたせ、母《おも》屋《や》の戸口に立ったとき、息がつまった。荷物をみただけで、玉枝がもうここに永住するつもりできてくれたにちがいないと思えたからである。
呆然《ぼうぜん》とつっ立っている喜助に、
「喜助さん、あて、決心して来ましたえ」
と玉枝は問いかけるようにいった。
「お言葉どおり、あてを置いとくれやすか」
喜助はひっこんだ眼をぎょろつかせて、玉枝の上気した顔を仰いだ。
「さ、上っとくれやす。長いこと待ってました凾竅v
と喜助はうわずるような声をあげた。
「六月にくるちゅわはったさかい、椿《つばき》の木ィも植えんと待ってましたんやな。せやけど、音《おと》沙汰《さた》がないしな。やっぱりええかげんなこというてわいをだまさはったんや、そない思うてひとりで椿の木ィをお父うの墓のわきへ植えかえたんどっせ」
と喜助はいった。
「そうどしたんか」
詰《なじ》るような口調ではあるが、眼《め》にはうれしさをたたえている喜助の顔を、玉枝は眼を細くして眺《なが》めやりながら、
「ほんなら、はよ、お父さんのお墓ィつれていっとくれやす。うちがきたこと、お父さんにお告げせんならんさかい。一しょにきとくれやす」
馬丁に荷物を運ばせ終ると、玉枝は何がしかの銭を半紙にくるんで手渡してやり、いそいで、裏の藪を横切って、喜左衛門の墓に詣《もう》でたのである。
御《み》影石《かげいし》の墓はひっそりと藪の間に立っていた。左右に約半間ほど間隔を置いて、黒い葉をかさねた椿が植わっていた。根元の方にはまだ新しい土がこんもりもりあがって、赤土の匂《にお》いがする。枝の混んだ椿は墓の頭に隈《くま》をとったような影を落している。いかにも、そこが竹細工師の喜左衛門の墓所らしいたたずまいをみせているのに、玉枝はほっとしたように溜息《ためいき》をついて、
「綺《き》麗《れい》なお墓や。よう掃除がしたありますな」
そういって、じっと掌《て》を合わせて瞑目《めいもく》するのだった。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、と玉枝は口の中で唱じ、眼をつぶったまま頭を下げていたが、やがて、こんなことを墓石に向ってつぶやいた。
「お父さん、あてはとうとう、芦原の『花見家』をやめてきましたえ。喜助さんのとこへきましたえ。よろしおすか。喜助さんの嫁はんになってもよろしおすか。あんたはんのお墓を守りするためにきたんどっせ……よろしおすのか。お父さん。ゆるしとおくれやすか」
玉枝の両頬《りょうほお》に光ったものが流れはじめた。ひとしきり、玉枝は墓石をみつめ、さも生きていたころの喜左衛門にはなしかけるかのように語りかけていたが、うしろに立ってじっと見守っている喜助をふりかえると、
「めいわくやおへんやろな、喜助さん。あんたがきらいにおなりやしたら、あてはいつなと出ていきまっさかいな」
といった。喜助は、よろこびのために胸が高鳴っていた。玉枝がそのような遠慮をふくめた物言いをするのをかきけすように、もどかしげな表情で、
「玉枝はん、あっちゃの木ィは八重どすね凵Aこっちゃの木ィは白椿どすね凵v
と、ふたもとの椿を指さして説明するのであった。
「白椿て、白い花が咲きますのんか」
「咲きます、大けな花が咲きます。お墓の花やよって凵A白い花がええやろ思うてなァ、わいがひとりで植えたんどすねやけんど、来春になってみんとわからしまへん。せやけど、きっといっぱい咲きますやろ。わいは、小っちゃいころ、白と紅の花をかわりばんこにつないで、首飾りをつくってあそんだ凾ようおぼえてます。それもみんなこの椿の花どした。裏藪の隅《すみ》の方にあった凾、お父が好きやったよってに、右の方のとならべて、白い花は左のこっちべたに植えた凾ヌす」
喜助のいうことを聞きながら、
「へーえ」
と玉枝はうなずき、涼しげな眼を椿にむけていた。今年の新葉も去年の古葉も、同じ黒みどりのうるしをとかしたような濃い色となって、まるで魚の鱗《うろこ》のようにかさなりあっていた。そうして、かっこうな影を墓石のまわりに落している。あたかもそこは、喜左衛門が、涼しい場所をえらんで坐っているかのような錯覚をおこさせた。そういえば、しめった喜助の母屋も作業場も、この墓のある土地ほど乾いたところはないように思われた。
しばらく、玉枝は喜左衛門の墓前にたたずんでいたが、やがて、母屋の方へもどった。
「玉枝はんには奥の納《なん》戸《ど》がよろしいやろ。そこはお母んのいやはった部屋やそうどす。あんたはそこで暮しとくれやす」
と喜助はいった。玉枝が居間の仕切りの戸をあけ、納戸とよばれるその細長い五畳ぐらいの部屋を覗《のぞ》くと、松板かなんぞの新しい床がはってあり、周囲の壁には白い壁紙が貼《は》りかえられているのだった。喜助が、そうして部屋をつくって待っていたことが知れた。
玉枝は、箪《たん》笥《す》や蒲《ふ》団《とん》や、信玄袋や大きな風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みの類《たぐ》いをそこへ運んだ。障子をあけた。つつじの二株ほど植わった庭がみえる。築山の向うにマダケの葉がそよいでいる。
「えらい、ええとこどすな。喜助さんはどこにおやすみやすねや」
「わいは、どこにでも寝ますがな。お父つぁんの寝てた寝所がありますさかい」
と喜助はいった。それから玉枝が納戸に坐《すわ》って、荷物の取り片づけをすますのを、喜助は戸口で憑《つ》かれたもののように見入っていた。
白い顔だった。鼻すじのとおった丸い顔だった。それは母の顔に似ていると与兵衛のいった顔であった。その顔をしきりと左右にうごかし、自分の部屋づくりに余念がない。喜助は涙のにじむ思いでじっと立っているだけである。
玉枝の荷物は夕方になると、納戸の両わきの壁側に美しくならんで、まとまりをみせたが、やがて玉枝は納戸を出ると、母屋のうす暗いへっついのわきで七厘《しちりん》に火をおこした。飯を炊《た》いた。藪の向うにある菜畑の葉をつんできて汁の上にうかせ、菜《さい》をつくった。喜助とふたりきりの食事をすませたが、喜助は、すぐ仕事場へ入っていった。
夜になった。竹神の部落の渓谷《けいこく》の、扇子をひろげたような空に上弦《じょうげん》の月がのぼったが、喜助はいつまでも作業場から出てこなかった。轆《ろく》轤《ろ》を廻《まわ》す音がきこえた。玉枝は九時すぎに下駄《げた》をはいて別棟になっている作業場を覗きにきた。ランプの灯の下で、無心に喜助が鳥《とり》籠《かご》つくりの轆轤をまわしている。玉枝はわきへよった。
「喜助さん、お寝やさしまへんのか」
「…………」
瞬間、喜助は燃えるような眼を玉枝に投げただけで、すぐうつむいてしまった。
「さ、仕事はそれぐらいにして、母屋へいって寝まひょ」
喜助はうつむいたままこたえた。
「玉枝はん、先にいって寝とくれやす。わいはしかけた仕事がおすさかいに、これがひとしきりすんだら、すぐあとからいって寝ます」
玉枝は、喜助の横顔をみていて、はにかんでいるのだと思った。しばらく、壁にかけてある小刀や、弦掛糸鋸《つるかけいとのこ》や竹割鉈《なた》や、挽鋸《ひきのこ》などのならんだ道具をみていたが、ひとりで母屋へ帰っていった。
納戸に入つて、もってきた菊の模様のついた紅い銘仙《めいせん》の蒲団を敷いて寝たが、寝つかれないのであった。喜助の足音はせず、轆轤のまわる音だけが、いつまでもきこえたからである。
玉枝は武《たけ》生《ふ》から馬車にのっている。竹神まできた道のりが遠かったために疲れていた。やがて深い眠りに入った。
ひとり寝のまま朝をむかえた。これが喜助と結婚したつもりの折原玉枝の初夜であった。
氏家喜助は、玉枝に対して憧《あこが》れのようなものを抱いていたのかもしれない。その憧れは、顔をみたこともない母親への慕情とすりかえられたものといえた。清潔な愛着心だった。
〈こんなとこに働いてはったら、病気が重うなるばっかりや。躯《からだ》をすりへらしてしまう。うちへ嫁に来てくれはるの凾竄チたら、わいは玉枝はんを大事にしまっせ。うちはわいがひとりきりどすねや。あんたのひとりぐらいは、どないしたかて食べさしていけますがな。よかったら、どうぞうちへ嫁にきとくれやす。わいはあんたが好きどすねや……〉
喜助は、芦原の「花見家」の奥の、うす暗い部屋で、玉枝を口説《くど》いた時にそんなことをいった。しかし、喜助は、その時も玉枝の躯《からだ》を抱いたわけではない。もっとも、あの時は、喜助には、玉枝は病気上りだという意識が潜在していたし、客をとったあとの玉枝の白い頸筋《くびすじ》にあらわれていたなんともいえない病人相を、喜助はみるにしのびなかったのだった。
ところが、玉枝が荷物をもち、竹神の家へやってきたその夜すら、喜助は玉枝の寝所へ入って来ようとはしないのであった。
玉枝は不思議に思った。嫁にきてくれとあれだけ熱っぽい口調で頼んだのに、いざ来てみると、夜は見向きもしないのだった。喜助は、自分を抱くことがいやなのだろうか。玉枝は竹神へきて五日目の夜、辛抱しきれなくなって、相かわらず夕食をすませると作業場へ入ってゆく喜助のわきへ、小走りに寄ってきいた。
「喜助はん、あんた、うちが押しかけてきたさかい、心の中では困ってはるのとちがいますか」
喜助は躯を固くして息をつめていた。まるで躯をちぢめるようにして、顔を伏せがちにする。この挙動はここへきてはじめて眼にする姿といえたが、玉枝が近づけば近づくほど、喜助は肩が張ってみえるほどに顔を伏せた。
「あんた、うちがきらいやのとちがうか」
「…………」
喜助は轆轤の紐《ひも》に通そうとしていた手をおろして、急に勇気が出たように、玉枝をみあげた。
「ちがいます。玉枝はん、わいはあんたが好きどすね凵Bなんできらいなことおすかいな。村の人から、あんたの顔がお母んそっくりやていわれた時から、わいは、あんたがよけい好きになりましたんや。わいはお母んの顔は知りまへんのや。あんたの顔をみてると、お母んに会うてるような気ィがします。そいで、わいは、何もでけしまへんのや。あんたがきてくれはったことはほんまに嬉《うれ》しおす。仕事にもはりが出てきて、人形つくりも、鳥籠つくりもはかどります。このまま、ずっと、辛《しん》抱《ぼ》して、玉枝はん、どうぞうちにいとくれやす。わいをきらいにならんといとくれやす。玉枝はん」
喜助の眼が慕いよる子のように玉枝の瞳《ひとみ》の中へとびこんでくるのを、玉枝はまるで拍子ぬけしたような顔でみつめていたが、
「そやかて、喜助はん、うちはあんたの嫁はんにきたんどっせ。お母はんやおへんえ」
といった。
「わかってます、ようわかってます。もうちっと、このまんま、わいをほったらかしといとくれやす。どうぞ、わいのことに気がねせんと、母屋を好きなように使うて、暮してておくれやす。あんたが何やかや、家のまわりを掃除したり、表に立って歩いたりしてはるの凾みただけで、わいは楽しおすねや。それでわいは生き甲斐《がい》がありますねや。玉枝はん、このままずっとうちにいとくれやすや」
哀願するようにいう喜助のくちびるはかすかにふるえていた。玉枝は喜助の躯を抱きしめたい衝動をおぼえた。しかし、それに耐えながら、こういった。
「そんならかましまへん。あてはあんたのお母はんがわりどすねやな。お母はんがわりでもあてはよろしえ。せやけど、ほんまは玉枝は淋《さび》しおすのえ。喜助さんの嫁はんにきたんやのに……。納戸の部屋でひとり寝るのんが淋しおすのんや。こんばんから一しょにだけは寝とくれやすな」
「…………」
喜助は燃えるような眼をむけて、じっとだまっていたが、やがてこっくりうなずいた。
「寝るだけやったら一しょに寝ます」
「そうか、それ、ほんまどすか」
玉枝は糸のように眼をほそめた。
「仕事がすんだら、きとくれやすか」
「きっといきます」
と喜助はいった。そして玉枝の視線をさけて、また竹細工の仕事にとりかかるのだった。玉枝は心のこりな面持ちで母屋に帰ると、ひとりで寝所へ入った。喜助が作業場の戸をたてる音をさせ、静かに納戸に入ってきたのは十一時すぎていた。まんじりともせず蒲団の中で眼をあけていた玉枝は、喜助がシャツ一枚になって小《こ》柄《がら》な躯をわきの蒲団の中へ入れるのをみた。蒲団に入るとすぐかすかないびきがきこえた。玉枝は、子供とも大人ともつかぬ、頭の大きな小男が、そこに寝ているのを、月あかりのさし込む中でいつまでもみていた。頭にうかぶのは死んだ喜左衛門だった。喜助の寝顔は喜左衛門に似ている。
「喜助はん」
寝がえりをうちながら、玉枝はよんだ。喜助は起きなかった。横になると、すぐ寝ついてしまう習慣なのだった。そういえば喜左衛門も、房事がすめばすぐいびきをかいて寝てしまうたちだった。
玉枝は淋しかった。しかし、喜助の家を出てゆく気はしない。
〈これでええのんや。永年女郎《おやま》をつとめてたあてやないか。汚れきった躯を、ちゃんとした家にむかえてくれはった凾竅Bお母はんがわりでもかまへん。喜助はんとこうして一生暮していこ……そのうちに、喜助はんやかて、お父はんの子ォや、あてのお蒲団へ入ってきやはる日ィもくるやろ。じっとその日ィを待ってたらええのんや……〉
玉枝はわれとわが心にいいきかせて、眠りに入った。
隣家の与兵衛夫婦はもちろんのことであるが、竹神の部落の十六戸の家の連中は、喜助の家へ突如として入りこんできた玉枝を奇異な眼《め》でみないわけにゆかなかった。玉枝は喜助の嫁にしては、美しすぎたせいもある。それに、喜助よりも七つ八つ年上にみえたことも気になった。喜助がどこで見つけてきたものか。まず、それが詮索《せんさく》の中心になっている。ところが、玉枝が竹神へ最初に姿をみせたのは、喜左衛門が死んで間もない冬の墓ができた頃《ころ》の一日で、玉枝を見かけたものがいた。小雪の中を道に迷うて喜助の家を玉枝がたずねた、そのときの村の男がいった。
「お父つぁんの墓詣《はかまい》りにござんしたのを、喜助がつかまえて家に入れたんや。あの男はこんまい躯《からだ》をしておって、なかなかそっちの方は手早いとみえるのう」
そんなことをいうのである。しかし、誰《だれ》の眼にも、美しい女を家においている喜助に対する羨望《せんぼう》の光がやどっていた。
「あの女はおっ母に似とる」
と年寄りはいった。喜助があの女に魅《ひ》かれてもしかたがない、という意味だった。
玉枝がこれまで、どこにいたか知るものはなかった。もっともなことといえる。喜助のように細工師として武《たけ》生《ふ》や福井の問屋へ出張する者は少なかったせいである。喜左衛門の手ほどきをうけたので、竹細工を業とするものはいたけれど、いずれも、専門に励んでいる者はいない。田《たん》圃《ぼ》仕事や炭焼きのひまをみて、洗い籠《かご》や目籠の類をつくるか、竹製の家具をつくって近村へ売り歩くのが精一杯であってみれば、町へ出かけてまで竹細工の注文をきいて精を出す者はなかったのだった。貧しい村の男たちはおそらく芦《あ》原《わら》の遊廓《ゆうかく》などへ足を踏み入れることはなかったであろう。何かのついでに芦原へ出かけ、三丁町の妓《ぎ》楼《ろう》へ上りこんだとしても、「花見家」の玉枝の客となった者はいなかった。
喜助は村人に、道で会うたびに玉枝のことをきかれた。玉枝の前身をことあらためて披《ひ》露《ろう》する必要はなかった。
「町の人の世話で、嫁にもろたんどす」
言葉少なにそれだけいって、藪《やぶ》の中へ入っていくのだった。村人たちはうなずいて見送るしかなかった。
玉枝は、そうした村人たちに、かくれて暮すような態度はしなかった。道で会えば愛想よく頭を下げた。あいさつもした。気さくなかんじを示すものだから、村人たちはいっそう眼を瞠《みは》った。村の女房連中は、たいがい陽《ひ》焼けした薄黒い顔をしている。娘の中にだって玉枝のような白い肌《はだ》をしているものはなかった。まるで蝶《ちょう》のようにとび込んできた玉枝に、誰もが羨望の念をもつのも道理である。
玉枝は一日じゅう家の中にいた。喜助と自分の洗濯物《せんたくもの》をするか、縫いものをするかぐらいで、畑へ出て精を出さなくても、喜助の働きで充分暮してゆけた。喜助の細工物が、武生にも福井にも名がきこえて、問屋や小売屋から注文がきていたから、働き者の喜助と玉枝との組みあわせに、とやかくいう者は一人もいなかった。
喜助が、一対の夫婦《みょうと》を表現する竹人形を完成したのは、玉枝が竹神へきてから三月たったころである。作業場にたてこもって、注文の鳥籠や茶器などをつくるかたわら、手ヒマをかけてつくったこの竹人形は、見事な出来《でき》栄《ば》えといえた。
喜助は、はじめは、竹神を訪ねてきた時の、ケットをきた玉枝の像をいっしんに作っていたが、ほぼ出来あがりかけた時になって、玉枝が自分のところへ嫁入ってきてくれることになったので、それではもの足らなく思えてきたのだった。玉枝を慕わしく思う気持ちと、美しいとおもう気持ちとが錯綜《さくそう》して、いろいろな姿が浮かんだ。父のつくった花魁《おいらん》の人形を頭にえがいてみたりして、いくつもの習作を経ていた。何どめかのものだっただけに完《かん》璧《ぺき》な作品といえた。
一尺あまりの夫婦の像は、翁《おきな》と媼《おうな》であった。能舞台にみられる衣裳《いしょう》のような大きな舞衣を着ていた。それらは一切新竹《にいたけ》の皮をつかっていた。胴体は真竹の筒を背の高さに伐《き》ったものである。翁と媼は筆の毛ほども細くきざまれた竹皮をきれいに梳《くしけず》った髪をつけていた。喜助はこの髪を、どこでおぼえたものか、白い元結《もとゆい》でむすび、うしろへ長くたらし、神女の髪のように白くそめて艶《つや》だしをしていた。重ね襟《えり》の首もとには、竹根でつくった首かざりが巻かれ、顔は、福井の人形屋で買い求めてきた小さな能面をはりつけていた。
この竹人形が仕事場のちがい棚《だな》にかざられてあるのをみて、福井市の「岩田屋百貨店」からきた仕入主任は驚嘆の声をあげた。この四十ちかい背広を着た男は、
「えらい手ェのこんだ人形どすな。いっぺん、うちの展覧会に出してもらえまへんやろか」
といった。
喜助は苦笑していた。手すさびにつくったものであるから、とても、展覧会になぞ出しても量産は出来っこないから無理だというのであった。
「仰山つくらんでもよろしがな。越前の竹細工も、こんな精巧なも凾ェでけるちゅうことを京や大阪のお客さんに知ってもらえるだけでもよろしがな。わしらの自慢になりまっせ」
仕入主任はそういって帰った。
喜助はその夜、夕食をとっていて、玉枝にいった。
「『岩田屋』はんが、わいの竹人形を民芸展覧会に出品したらどうやろいうてきやはった。出してもええやろか」
玉枝はすぐこたえた。
「そらよろしがな。出しとあげやす。きっとォ、あんたの人形《にんぎょ》さんはみんなに賞められますわ」
「そうやろか」
と、喜助は信じられないという顔をしていた。喜助は、かつてのように玉枝に隠すことなく人形をつくっていた。所在のないままに作業場へきて喜助が人形をつくるのを見ていた玉枝は、完成した作品については、誰《だれ》よりも早く感嘆の声をもらしていたのだった。このような人形を、竹神の村にうもれさせておくのは勿体《もったい》ないと玉枝には思われたのだ。
「お父さんやかて、あてにもってきてくれはったやおへんか。あんたの人形さんは、お父さんのつくらはったも凾謔閧焉A何倍かよろしおっせ。出品しやはったら、きっとォうけるにちがいおへんわ」
喜助は、玉枝の言葉でその気になったらしい。
二、三日してからあらためて竹神に現われた「岩田屋」の仕入主任は、是非とも、喜助の竹人形を民芸展覧会に出してくれといった。こんどは思いつきではなかった。正式の依頼書を持参していたのである。
喜助は夫婦の像を、その仕入主任に託した。
大正十二年十二月一日、福井市の「岩田屋百貨店」の二階催し場でひらかれた郷土民芸品展覧会が、氏家喜助の試作竹人形を展示したことによって、はじめて越前竹人形は一般の眼にふれた。
当日の展覧会場には、漆器や陶器や、そのほかに武生近在から出品された刃物など、数十種類の郷土芸術品が展示されていたが、ひとびとは、会場中央のガラスケースの上の、一対の翁と媼の竹人形をみて眼を瞠った。いろいろな竹材をつかい、それぞれをたくみに生かした人形の姿は精《せい》緻《ち》をきわめていた。それに、何ともいえぬ優雅さがあった。みがかれた竹は、竹自体の肌《はだ》の斑様を光らせて、あたかも、その人形が生きているかのような静かさをたたえていたからである。出品作品説明の貼紙《はりがみ》に、つぎのような筆書きの文章があった。主催者側の解説である。
竹人形  作者 氏家喜助
本竹人形は越前特産の竹材を用いて、雅致ゆたかなる竹工芸の特質を最も精巧に表現せる逸品なり。越前国は足利《あしかが》時代の茶道隆昌時より、竹細工による茶器を移出し、名匠谷口彦左衛門の名全国にとどろくも、これが伝統は永く絶えて、久しく竹工芸の生産に力をそそぐ者なかりしも、明治末年南条郡竹神村に氏家喜左衛門なる人あり、幼少より竹工芸に趣味をもち、全国に竹林その他を行脚《あんぎゃ》して、十数種の竹を自ら自宅に植え、巧みに工芸品をつくりてわずかに移出せり。本人形作者は喜左衛門氏の実子にて、今日父業を継《つ》ぎて竹細工を業とせる者にして、本邦はじめての竹人形を完成せり。
衣類――新竹の皮
胴体――真竹
髪 ――女竹皮繊維
帯 ――女竹皮
首飾――黒竹根
参考 青竹は天然にては耐久力少なく、日光の直射による褪色《たいしょく》早きが故に、ゼラチン稀薄水を塗布して、これを長期間持続せるよう工作せり。竹皮染は濃アルカリ液にて染色せるものなり。
この民芸展覧会を視察した福井県知事は、初代県令以来十代目の池田嘉七である。秘書や側近の役人をつれて会場を歴巡していた知事は、竹人形の前にくると足をとめ、しばらく無言のまま眺《なが》め入った。
「竹神村というとどこにある凾ゥな」
説明書を読みすすんで気にとめたらしい。側近の者がこたえた。
「武生から南条の山奥へ入りましたる部落にござります」
「そんなところにめずらしい竹林があるのか」
「はあ」
役人の中で、竹神の竹藪《たけやぶ》をみた者はいなかったので、県知事に詳しく説明する者はなかった。池田嘉七は、精巧な竹人形に驚かされたのである。
池田嘉七のうしろから尾《つ》いてきている一行の中に、京都市東山区四条縄《なわ》手《て》を北に入ったところで、美術工芸商を営む「鮫島平《さめじまへい》壺《こ》堂《どう》」の主人鮫島市次郎が、やはり竹人形の出来栄えに眼を瞠っていた。鮫島は、わきにいた土地の者に小声できいた。
「竹神村へは、武生からどれぐらいの道のりがありますか」
「さあ」
たずねられた男は、首をかしげた。
「バスか馬車があると思いますけど、ずいぶんの山奥やということはきいております。山は雪ですやろさかい、とても一日では無理ですやろ」
平壺堂主人は手帳に作者氏家喜助の名を控えた。どのようにして、こんな精巧な人形がつくられるのか、喜助という男の仕事場が見てみたかった。池田知事とちがって、鮫島には、ひそかな商売気もあったことはたしかである。
「東京蔵前《くらまえ》の『天徳』にもない人形や。京の問屋でも大阪の問屋でも、このような竹人形をみたことがない……」
感嘆の声をもらして、鮫島はいつまでも竹人形の前からはなれなかった。
鮫島市次郎が竹神部落の氏家喜助をたずねてきたのは、雪がとけはじめ、春の音が聞えてくる三月末のことである。まだ南条の山々の頂には白雪があったが、山裾《やますそ》の竹神のあたりは、襞々《ひだひだ》にむら消えの根雪がみえるだけで、湯気をたてた雪どけ水は、水音もたかく川へ流れこんでいた。
鮫島は武生から馬車にのった。番頭の瀬下繁松という五十年輩の男をつれていたが、この番頭は、いつも鮫島のそばについている男であった。鮫島は全国津々浦々といってもいいほど出張ばかりしていて、芸術品や出物の話をきくと眼のない男である。瀬下は猫背で、丈のひくい貧相な男であるが、主人の鮫島市次郎は、背がひょろりと高いうえに、馬のように長い顔をしていた。いつも黒のダブルの背広を着、ふちなしの眼鏡をかけているが、風采《ふうさい》はどうみても美術商とはみえず、英国風というか、洋行帰りの格調高い紳士のようにみえる。この二人が馬車を下りて村へ入ったのは、正午近かった。
村人とすれちがった時、鮫島は人形師氏家喜助の家はどこか、ときいた。村の男は、人形師ときいて首をかしげながらも、喜助の山かげのしめった藁《わら》屋《や》根《ね》を指さして鄭重《ていちょう》に教えた。喜助の家は、古びた藁ぶき屋根であるが、なるほど四面が竹に囲まれていた。メダケ、クロチク、マダケ、モウソウ……葉のそよぎをみただけで、数種の藪《やぶ》に囲まれているのがわかるのである。鮫島市次郎は、まもなく瀬下をつれて、喜助の母屋の戸口に立った。母屋からみて左側のしころ《・・・》の蔭《かげ》に、トタンと杉皮を半々にして屋根をふいた作業場のようなものがみえる。
その小舎の中から、今、ギイコ、ギイコと轆《ろく》轤《ろ》を廻《まわ》す音がしてくる。鮫島は母《おも》屋《や》の中へ声かけた。人《ひと》気《け》はなかった。二、三どたてつづけに声をかけてみたが返答がない。
それで、鮫島は音のする作業場のこわれかけた戸のすきまから、中を覗《のぞ》いてみた。うす暗い土間の奥に筵《むしろ》を敷き、まるで、小人のような一人の男が背をまるめて、しきりに轆轤をまわしている。鮫島は戸をあけた。
「ごめん下さい」
鄭重に声をかけると、小男はギロリとした眼をむいて、戸口をにらんだようにみえた。背のひくいわりには、ひどく老《ふ》けた顔をしている、寸づまりのその顔は異様にみえた。鮫島は、最初、この男があの竹人形をつくった氏家喜助であろうとは想像もつかなかったので、
「氏家喜助さんおられますか」
ときいた。
「わしです」
とその男はこたえた。鮫島はびっくりした。
「わたしは京の『平壺堂』といいます。八《や》坂《さか》の下で美術品をやっとります」
「…………」
「あなたの竹人形はすばらしい作品でございました。……一ど、仕事場をみせてもらおうと思っておりましたのですが、ついでがあって越前へ来ましたので、突然うかがわせてもらいました」
鄭重な物言いである上に、身《み》装《なり》もちゃんとしている。氏家喜助は警戒を解いた表情になった。轆轤の紐《ひも》に通していた手をゆっくりぬくと、
「遠いとこを御苦労さんどす。作業場というたとて、こんなむさくるしいところですわな。ほんなら、母屋でいっぷくしておくれやす。ここはとても坐《すわ》る場所もござりまへん」
といいながら、座を立って戸口へきた。土間にはソゲのたっていそうな切り裂かれた材料竹が積んである。鋸屑《おがくず》や、削り屑がいっぱいちらかっている。喜助の坐《すわ》っていた座蒲《ざぶ》団《とん》は谷底のようにひくまってみえる。鮫島は好奇な眼もとでこの光景をみていたが、喜助が母屋の方へ案内するので、作業場をもう少し見学したい心のこりの顔をしながら、尾《つ》いていった。
鮫島は驚いていた。いかにも、貧相な男ではないか。四尺そこそこの小男だ。おそらく、片輪者の一種ではないだろうか。うす暗い作業場でみた印象が頭をはなれない。このような男の手であの竹人形がつくられたかと感嘆を新たにした。
喜助は先に上って、かすれた声で、納戸や縁先に向っておーい、おーい、と誰《だれ》かをよんでいた。しかし、こたえはなかった。鮫島市次郎は、喜助が妻をよんでいるのに相違ないと思った。しかし、どこからも、出てくる人影はなかった。
鮫島は瀬下に眼で合図をして、持参した土産物の缶《かん》入り八ツ橋を敷居ぎわにおいた。
氏家喜助は、囲炉裡《いろり》の端へ二人を坐《すわ》らせると、煤《すす》けた湯わかしを下ろして、細い薪《まき》をひとつかみ炉の中に置き、つけ木で火をつけた。白煙がたちのぼったとみるまに、やがてぽっと音をたてて炎が拡がった。
炎の明りに照らされても、何とまたうす暗い家だろう、と鮫島は思った。囲炉裡の上には煤けた天蓋《てんがい》がぶら下っている。そこからたれ下った自《じ》在鉤《ざいかぎ》の綱も煤でまっ黒である。今し方、喜助が灰の上に置いた湯わかしは、つるをまいた把《とっ》手《て》までも黒光りがしている。鮫島は、ついぞ、北陸のこのような山奥の村の家に入ったことがなかったので、家屋構造自体が古美術のような思いもしたらしく、じろじろ見《み》廻《まわ》しはじめた。板の間に筵を敷いただけのだだっ広い居間は、土間の向うにある出入口と、瀬戸口の二つしか障子がはまっていないから、まるで傘《かさ》を半すぼめにして、その中へくぐりこんだみたいな恰好《かっこう》である。ずいぶん暗い。三角屋根の裏は荒木を組んだつし《・・》がみえているが、その上にも生竹が幾束もつみ重ねてあるらしい。たてかけた梯《はし》子《ご》にはすべり止めの荒縄《あらなわ》がまきつけてある。
「あすこにも、伐竹をたくわえておくのですか」
鮫島は喜助のだまっているのにたえかねて訊《き》いてみた。
「秋に伐った竹はひと冬つし《・・》にはこんできますねや。囲炉裡の火ィでひとりでに乾燥しますよって凵A竹質が固うなります」
と喜助はこたえた。喜助は何かほかのことを考えているような顔つきである。入った時から黙りがちである。しかしそれは、鮫島には、この男の持ち前の性質なのだと思われた。なるべく気さくな態度で質問してみる。
「人形はいつごろからおつくりになりましたか」
「はい、去年の五月ごろから試作しはじめました」
「誰《だれ》かのつくった竹人形をごらんになったんですか。それとも、自分で創作されたわけで……」
「お父つぁんが、つくってはりました」
と喜助はいった。そうして、また何か考えている。鮫島はおどろいた。喜助の父親は茶器や菓子器などの細工師だとばかり思っていたのだが、人形までもつくっていたのかと思うと、いっそうこの暗い大きな藁《わら》屋根《やね》の下に住む父子二代の竹工に尊敬の念が湧いた。と同時に、喜助が精巧な人形をつくれたのは、父の血をうけついで精励したたまものだと思うのであった。
炉端に置いた湯わかしが炎の熱をうけて煮えはじめた。喜助は馴《な》れた手つきで、蓋《ふた》をあけ、竹の柄杓《ひしゃく》で湯を汲《く》み、わきのきびしょ《・・・・》にさし入れた。茶の香がした。茶碗《ちゃわん》ではなかった。孟宗《もうそう》の筒を湯呑《の》みに伐ったものを二つ、鮫島の左どなりでだまって坐っている瀬下にもさしだした。
「粗茶でござります。どうぞ」
と喜助はいんぎんにいった。もてなされればもてなされるほどに、鮫島は背のひくい頭の大きな喜助の風貌《ふうぼう》に奇怪な感じをうけた。これまでに、鮫島は、会《あい》津《づ》や能登《のと》の漆工をたずねてあるいたことがある。九州田《た》川《がわ》の陶工にも会いにいったことがある。山奥に住んで、民芸にいそしんでいる人物は、たいがい好人物であった。その土地に生れた風習をひそやかに身につけている上に、接客にも馴れていた。
ところが、喜助だけはちがっていた。容貌がみにくいせいもあった。片輪者のような小男だ。作業衣は麻でつくったはっぴのようなものをまとっている。袴《はかま》とももんぺともつかぬつぎはぎだらけのものをはいている。
ひっこんだ眼《め》、とび出たうしろ頭、大きな耳。浅黒い肌《はだ》。子供のように小さいが太い指。躯《からだ》全体がかもし出す雰《ふん》囲気《いき》は異様である。取っつきにくい。
「じつは、わたくし、『岩田屋』の展示会場で拝見した竹人形があまり立派でしたので、あれを京の人形問屋へ卸して下さらんかとお頼みにあがったようなわけでして」
鮫島は用件をきり出した。
「わたしの舎弟《しゃてい》で鱒《ます》二《じ》郎《ろう》といいますものが、姉小路の室町の角で、人形問屋をいたしております。御存じかも知れませぬが、京人形の卸元『兼徳《かねとく》』と申しましてね、兼田徳右衛門の系統をひく古くからの問屋でございます。東京の『天徳』、博多の『山田屋』とならんで、全国に人形を卸売りいたしております老《しに》舗《せ》でございます。そこでぜひとも越前竹人形を売らせていただきたいと思う凾ナございますが……」
「…………」
喜助は風のかげんで、にわかにくすぶりはじめた囲炉裡の白煙が顔にふりかかるので、眼をしわばませていたが、じっとだまって耳をたてている。
「いずれ、『兼徳』から番頭をよこしまして、お願いに上るつもりでおりますが、その節はどうぞよろしくいい御返事をいただきたいと思います。私も、諸国を歩いておりますが、こんな精巧な竹人形を見たのははじめてでして……。いや、ほんとに感心いたしました」
喜助の顔にかすかな微笑がただよった。京の美術商に賞められたといううれしさがこみあげてきたものか、ひっこんだ眼をなごませて、かすれたひくい声をだした。
「京の問屋はんで売ってもらえるような品物になりました凾ヌすかいな。人形の出来はじぶんにもわかりまへんな。ひまにまかして手すさびにつくったも凾ヌすさかい、売りも凾ノなるちゅうと、こっちゃがびっくりしてしまいます。ほめてもろて嬉《うれ》しゅうござります。せやけど卸元はんに売ってもらうとなると、量産もせんなりまへんどっしゃろ。村には下請けの職人がおりまへんのや。わたしがひとりでつくるのどすさかいな、とても、間にあいまへん」
鮫島は微笑した。
「よい人形は数少ない。陶器でも、漆器でも、名工はそんなにたくさんの作品をつくりはしません。数のないほど値うちが出るも凾ナすよ。喜助さん」
鮫島は喜助が了承してくれたことに感激して、頭を下げた。
「少々のも凾竄チたら、どうぞ、来とくれやす。そのかわり、雛型《ひながた》ちゅうも凾ェまだあらしまへんさかい、あの翁《おきな》と媼《おうな》の人形ばっかりでございますけどな」
と喜助はいった。
「結構です」
鮫島市次郎は、これで竹神まできた甲斐《かい》があると思った。鮫島には、姉小路の「兼徳」の鱒二郎に話せば乗り気になることはわかっていた。これまでにも出張したついでに、地方のこけしや、一刀彫りなどの人形が眼につくと、口をきいては帰ってきている。その中で、今も取引きがつづいて、卸売りもかなり成功しているものがいくつもあった。
鮫島は竹製の湯呑みの茶をすすり終ると、長居するのもわるいから、もう一ど作業場の中と丹精されてある竹藪《たけやぶ》をみせてくれと喜助にたのんだ。喜助には、もとより拒む理由はなかった。鮫島と瀬下をつれて母《おも》屋《や》を出て仕事場に入った。
「ただいまは鳥籠《とりかご》つくりに精をだしております」
と喜助はいい、座蒲《ざぶ》団《とん》のわきに、高々とつみ重ねてある籠の山をみせた。鮫島はちらかった竹材をまたいで鳥籠の一つを手にしてみた。等間隔にはめこまれた竹の棒は、籤《ひご》抜《ぬ》きで正確に丸く削られている。どれをみても手をぬいた作業ではない。律義な喜助の性格がでていると思えた。壁にたてかけてある竹細工の道具類を喜助は説明してくれた。
「刳小刀《くりこがたな》、丸刀、三角刀、こっちゃは平《ひら》のみ、銑《せん》どす。下駄《げた》職さんから桶《おけ》職さんのもたはる銑とかわりあらしまへん。小三《み》つ目《め》錐《ぎり》に四つ目錐、甲丸鑢《こうまるやすり》に丸鑢、それに、溝《みぞ》かき、あれは万力《まんりき》ですわな。めずらしいのはこれでございまっしゃろか。たわめ棒どす」
鮫島は、一本の樫《かし》の棒が土間につきさされていて、その棒の上部が一寸ばかりの大きさで四角くえぐられているのをみた。何に使うものかわからない。首をかしげていると、喜助は足もとの竹をひろってそのえぐれた穴にさしこみ、握った手に力を入れて、ぐいっと下方へ押してみせた。すると、青竹は弓状にしなった。
「火ィを焚《た》いて、いっぺんくぐらせますとな、すぐに生竹でもまがりますわな」
と喜助はいって、巧者な手つきで二、三本の竹をたわめてみせる。
たわめ棒のわきに土製の火炉がみえる。金網がはってある上に溝が切ってあるのだが、これは生竹をあぶってたわめたり、くせ直しをしたりするのに使うのだろう。喜助が説明する細工道具は、すべて、父喜左衛門の代から使いふるされてきたものだけに、手《て》垢《あか》にまみれて脂光《あぶらびか》りがしているのであった。
鮫島は茶器や菓子器の九分どおりまで出来上った製品をみたあとで、作業場を出ると母屋の裏の藪へまわった。
「おおかたの竹はみんなァこの藪でまァにあいます」
と喜助は鮫島を案内して藪に入った。鮫島はこのような美しい藪に入ったことはなかった。葉一枚落ちていない地めんには、みどりのうす苔《ごけ》が生えている。まるで絨氈《じゅうたん》でも敷きつめたようであった。
マダケ、メダケ、クロチク、モウソウの類が整然と区《く》劃《かく》されて、櫛《くし》の歯のように生えそろっている。いま、その藪の遠くに眼をやっていた鮫島の眼に、不意にとび込んできた人影があった。鮫島はどきりとした。黒っぽい着物にもんぺをはいた白い顔の女だったからである。女は藪の中を掃いていたらしかった。箒《ほうき》をもって近づいてくると、紅襷《べにだすき》をはずして、鮫島に向って腰を落し鄭重《ていちょう》に頭を下げた。
「家内でござります」
と、喜助はひくい声で鮫島に紹介した。鮫島は、さきほど喜助が母屋に入ったとき、声をかけていたのはこの細君をよんでいたのか、と思いながら、ゆっくりと玉枝の顔に目をやった。瞬間息をのんだ。
美《び》貌《ぼう》だったからだ。すらりと背の高い玉枝は、肉づきのいい固太りの躯をしていた。白い肌が、青みどりの竹の林を背景にして、ぬけ出てきたようにみえる。それに切長の心もちつり上った眼は、妖《あや》しい光をたたえて鮫島をみつめていた。
〈この男に、こんな美しい妻がいたのか……〉
鮫島はわれを忘れてみとれた。あいさつの声もでなかった。櫛の歯のように生えている竹林にさし込んでいる陽《ひ》は、苔のはえた地面に、雨のようにそそぐかにみえた。玉枝は黄金色の光の糸を背にして、竹の精のように佇《たたず》んでいた。
氏家喜助が、あのような精巧な竹人形をつくった原想はここにあったのかと鮫島は思った。鮫島が、竹神の氏家喜助をたずねたことが、玉枝の人生の大きな転機になろうとは、このとき誰《だれ》も気づかなかった。呆然《ぼうぜん》として玉枝を眺《なが》めながらつっ立っている浅春の竹林には、いつまでも風が吹いていた。新葉の葉ずれが簫《しょう》のような音をたてていただけである。
京の姉小路の「兼徳」から、番頭の崎山《さきやま》忠平が竹神部落に入ったのは、この年の六月末である。すでに春は過ぎていた。南条の山は雪が消えて、乳いろの霞《かすみ》の中にとけこんでいた。山道の両側にある大きな欅《けやき》の梢《こずえ》は、深緑の葉がさわやかに陽《ひ》をあびていた。
喜助の家のまわりの竹の葉も、黄金色の新葉をみせて風にそよいでいた。崎山忠平は、母《おも》屋《や》の前に立ったとき、胸がはずんだ。それは、四条縄《なわ》手《て》の鮫島から、人形師氏家喜助の風貌《ふうぼう》をきいていた上に、さらに、この家には美貌の細君がいるときいてきたからにほかならない。忠平は精巧な竹人形の取引きにきた目的もあったのはたしかだが、人形師の細君をみるのもたのしみであった。忠平は鮫島に教えられたとおり先ず小舎《こや》をのぞいてみたが、うす暗い小舎には人影がなかったので、母屋の戸をあけて声をかけた。
「ごめんやす」
中からかすかなしわぶきが一つきこえて女の応《こた》えがあった。やがて、床をふむ音がして、うす暗い屋内から、白い顔の背高い女がのぞいた。玉枝である。
忠平は、どきりとした。こちらへ歩いてくる女をみたとたんに、思わず咽喉《のど》から驚愕《きょうがく》の声が走った。
「そ、園《その》子《こ》」
と忠平は口ごもった。硬《こわ》ばった足で戸口に直立したまま、玉枝をみつめて動かなくなった。玉枝は不審げに忠平の方をみていた。光線を背中に負うた忠平の寸づまりの小さい顔は、はっきりみえない。眼《め》をしかめている。忠平はそこに立っている女が、十五、六年前に、京の島原遊廓《ゆうかく》で馴《な》染《じ》んだ園子であることに確信をもった。
「あ、あんた、園子はんやないか」
と忠平は感嘆のあまりに声をあげた。玉枝は、瞬間眉《まゆ》をつりあげ、耳をうたがうかのように忠平の顔をすかしみた。が、すぐ、玉枝は視線をおとした。しかし瞳《ひとみ》をきらつかせると、
「崎山はん、……崎山はんや、おへんか」
と、びっくりしたような声をあげていた。
「こんなとこでめずらしい。園子はん、縁やなァ」
と忠平は皺《しわ》のよった眼《め》尻《じり》をいっそう皺よせて、うすい上唇《うわくちびる》をつき出すようにして、しげしげと玉枝の顔を見つめた。
「わいは、人形屋の『兼徳』の番頭をしてますのや。今日はな、四条の鮫島はんの口ききから、御主人の使いを仰せつかって竹人形を買いにきましてん。旦那《だん》さんはいやはりますか」
玉枝は忠平のその声になつかしさをおぼえたらしく、つばをのみこんで、呆然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて、気の毒そうな顔になると、
「うちの人は福井ィ出やはって、夜さりにならんと帰らはらしまへんねやわ。武《たけ》生《ふ》と福井のお得意さんィ集金にいかはりました凾ヌっせ」
といった。
「左様《さよ》か、留守どすか。そら困ったなァ。それで、何どすか、旦那さんは、人形つくってはりますか」
「つくってはります」
と玉枝はこたえた。
「京へ帰らはった鮫島はんから、手紙ももろてました。『兼徳』さんどすかいな、そこの御主人からも、手紙をもろてはりましたさかい、あれから、いっしんに人形さんばっかしつくってはります。そうどすなァ、十体くらいでけてまっしゃろ。そやけど、あの人の留守のうちに、あてが、崎山はんにお渡しするわけにはゆかしまへんやろ。どないおしやす。また来とくれやすか」
玉枝はすまなさそうにそういった。忠平は玉枝のそのような物言いの口もとをみていると、いっそうなつかしげな眼になった。むっちりと肉づきのいい躯《からだ》といい、二重顎《にじゅうあご》の白さといい、まだ女になったばかりであった玉枝が、園子と名のって島原に出ていたころの面影は、そのままそっくりのこっていた。いや、そのころよりも、現在の方が美しくみえた。年《とし》増《ま》の色気がただよっているからだ。
「園子はん」
忠平はなつかしさのあまりに、
「あがらしてもろてもええやろか。せんどあわなんだあんたに、こんなとこで会うの凾焉A何ぞの縁やろかい。あんた、喜助はんいうたかいな、旦那さんに、前のことをいうて凾フかいな。いや、それに、どないして、こんな山奥の村へ嫁にきてんのや。それがききたいわ。あがらしてもろてええか」
遠慮げに腰をかがめて上眼づかいにみる忠平に、玉枝は、瞬時ためらいをみせた。だが、やがて決心したように、
「とにかく、上っとくれやすな。うちの人は留守やけど、用件だけは聞いとかんとおこられまっさかいに……」
といった。忠平はそんな玉枝の物腰に、すっかり人形師喜助の女房になっている園子のかわった姿をみたように思い、上りがまちから居間の炉《ろ》端《ばた》の方へあるきながら、
「園子はん、あんた、いくつにならはった」
ときいた。
「あてどすか、あては三十三どす」
「へえ」
「崎山はんはいくつにおなりやした」
「わいか、わいは四十や。ちょうどや。やっとこさ『兼徳』の番頭に落ちついたんや。年《ねん》があけたら、店の一つも出してもらうようにせんならんと思て精を出してきたんやけどな、商売の方はこれでも御主人にかわいがられて、つうかあと何でも読めるようになって凾フやけども、道楽の方がやまらんさかいな、相かわらずの丁《でっ》稚《ち》に毛ェの生えたような待遇や……商売ちゅうと、こんな遠いとこへでも、草《ぞう》履《り》ひきずってこんならん」
感慨ぶかげに忠平はそういうと、炉端に坐って、あらためて玉枝の顔をしげしげとみつめている。
「あんたは若い、ちっともかわらへんなァ」
忠平は何どめかの感嘆の声をだした。じっさい、忠平はたまげているのである。島原遊廓で園子と名のり、妓《ぎ》楼《ろう》「山陽」にでていたころは今のようにむっちりと肥えてはいなかった。丸顔で、均整がとれている園子には、客がひっきりなしにあった。中書島《ちゅうしょじま》の家をとび出して、娼妓《しょうぎ》になりそめて三カ月目に忠平は馴染みになっている。
「あんた中書島のお母《か》はんはどないしやはった」
「お母はんは、もう死んでますがな」
と玉枝は、湯わかしを炉のわきによせて、薪《まき》に火をつけながらいった。
「お父はんは」
「お父さんは島原にいた時に、とうに逃げてしもて、うちに居やはらしまへんどしたやろ」
「そんであんた島原をやめて……それから、ずうーっとこっちゃかいな」
「ちがいます」
と玉枝はいった。玉枝の顔には、昔馴染みに会えた喜びと、たえてなかった話相手ができた嬉《うれ》しさがかすかに出ている。戸口であった時よりも、いきいきと眼は輝いてきているようであった。
「あてはな、あれから宮川町へいきましたんどっせ、それからまた島原ィもどりましたんや。島原ィもどった時には、あんさんはもう来とくれやさしまへんどしたな。『山陽』とちごて『立花』にいました凾ヌすがな。そこで二年働きましたんえ。ほしたらな、『立花』で娼妓《おやま》はんらァの大喧《おおげん》嘩《か》があって、居にくいことが起きたも凾ヌっさかい……もう京がいやになってしもて、いっそのことどこぞ遠いとこへ行こと思てさがしてましたらな、友だちの喜代子はんが、芦《あ》原《わら》にきてはって、宮川町へいったかて、橋下へいったかておんなしこっちゃ、芦原はええとこやさかい来やへんか、いうてくれはるさかい、こっちへ来ましたんどすがな」
「芦原て、そら越前の北の方の温泉やないか」
「そうどす、福井から三国の方へ入ったとこにおすねやわ」
「そこで、あんたなにしてはったんや」
玉枝はこの時、にっと白い歯をだして微笑した。
「相かわらずの娼妓どす。まじめな仕事しよと思たかて、そんな口あらしまへんさかいになァ。せやけど、はじめはな、『松の井』ちゅうだるま屋で酌婦《しゃくふ》してました凾ヲ。けども、面白ないようになったさかい、また『花見家』ちゅう館《やかた》へうつった凾ヌすねやわ」
「へーえ」
忠平は昔のままの小《こ》柄《がら》な躯をのばすようにして、寸づまりの顔をひき、驚嘆したように吐息をついた。眼をほそめている。人の好《い》い性格だけれども、うす毛の眉のあたりや、皺のよった眼尻、それに、男のくせに女のようなキメこまかいねっとりした肌《はだ》をしているのも、どことなく好色な感じがして、昔とかわりはない。玉枝は崎山の顔をみていると、十数年も前の島原が思いだされて胸があつくなった。
「それで、あんたは、どんな縁で、ここへ嫁にきやはった凾竄「な。芦原の『花見家』はんで、人形師の喜助はんと会うた凾ゥいな」
「そうどす」
と、玉枝は思いなし顔を伏せていった。
ふと、福井へ出張している喜助の顔がうかぶ。その留守中に、昔馴染みの男と、偶然とは言い条、こうして水いらずで話しあっている。かすかな罪悪感のようなものが感じられてならない。しかし、そのいっぽうでは、玉枝は、喜助が自分の真実の夫であるかどうかについての疑問も捨てていない。喜助は、床を並べて寝ても、ついぞ玉枝の躯を求めたことはないのだった。玉枝の方から求めても、喜助は例のごとく、躯をちぢめて、全身を硬《こわ》ばらせて拒否するのだ。しかし、夜はそのようであっても、玉枝のことを「おーい」とか「玉枝はん」とかよんで、母のように慕うていることもよくわかるのであった。
仕事にも精を出している。京の人形問屋から、ぜひとも売らせてくれと声のかかる精巧な作品が出来たのも、玉枝に対する強い慕情が、仕事に拍車をかけてもたらした成果といえたかもしれない。事実、喜助は仕事に励みが出るといい、玉枝もそのつもりになっているのであった。裏藪《うらやぶ》に葉一枚落ちていないし、喜左衛門の墓に供花《くげ》のきれたこともない。
〈これでええ。これで、あての生涯を終えてもええのや〉
と玉枝はわれとわが心にいいきかせて今日になっている。もちろん、喜助への愛情はかわらないつもりであった。喜左衛門にもった愛も、喜助の上に玉枝はそそいでいるつもりであった。ところが、いま、昔馴染みの男、崎山が眼の前に現われて、眼尻に皺をよせながら話しかけてくる姿をみていると、ふっと、玉枝は昔にかえった。
「喜左衛門さんいうてな。ここの先代の竹細工しやはるお人がいやはりました凾ヲ。そのお方があてをかわいがってくれはりましてな。あては、ながいこと馴染み客で、お父さんの相手してきました凾竄ェな」
玉枝は正直なことを崎山に語ってきかせた。
「その喜左衛門さんが死なはった凾ヘ一昨年《おととし》の十一月どした。あては、そのころから、『花見家』で病気になりましてな。長いこと患《わずろ》うてぶらぶらしてたんどっせ。そこへ息子さんの喜助さんがひょっこりきてくれはりましたんやわ」
「へーえ」
と忠平は眼をまるくして玉枝をみた。
「もっとも、それがはじめてやおへんのえ。ここの藪の裏に喜左衛門さんのお墓がでけました時にな、あて、お詣まいりにきましたんや。その時に喜助さんにお目にかかったんがはじめてどした凾竅B喜助さんちゅう人は淋《さび》し人どすわ。いや、淋し人ちゅうより、孤独な人どすな。はじめは、気色《きしょく》のわるいようなお人やなと思いましたけど、こうしてつれ添うてみますとな、ええとこのある人どす。子供みたいなきれいな気ィをもってはるお人どすえ」
玉枝は忠平の眼が輝くのをみながらいいつづけた。
「かわいそうな人どす。何ともいえん味のある人どすねや。崎山はん。こないだ京から見えはった美術商のお方はんは、どないいうといやしたか知りまへんけど、あてには喜助さんは、根っからの人形師としか思えしまへん。鳥籠《とりかご》やら、茶器やら、扇子やら、器用につくらはりますけど、人形さんをつくってはる時の表情がいちばんよろしおすわ。ほんまに、せむし男みたいな小ちゃい人どすけど、背中のあたりから後《ご》光《こう》がさすみたいな時がおすえ。いっぺん、会《お》うてみとくれやす。京の問屋はんから、番《ばん》頭《と》さんがみえるちゅうて、うちの人は楽しみにしてはりましたんえ。あいにく、福井へ出張してしもて、留守やのが惜しおすな。ほんまに崎山はん」
崎山忠平は、心もち、上気したような、白い頬《ほお》に赧《あか》みをのぼせていう玉枝の顔に、相かわらず素直な女をみた。昔の園子そのままの気性をみた。それだけに、話しているとなつかしさに混って、「山陽」の小《お》暗《ぐら》い階下の部屋で契《ちぎ》ったいく夜もの光景が思いだされてくるのである。崎山は胸が騒いだ。
「そら、ええ旦那はんを持って、……あんたにのろけられると、嘘《うそ》やと思えへんな。あんたみたいな、美し女《ひと》に見そめられてる喜助はんも幸せなお人やなァ」
といったが、忠平の眼は、異様な輝きをおびてきていた。煤《すす》けた傘《かさ》を伏せたような家の中である。うす暗い光線の中で薪《まき》がぱちぱちと燃えている。炎がゆらめくたびに、玉枝の白い顔は妖《あや》しく動く。妖艶《ようえん》な眼が忠平の心をとろりとさせるほど狂おしくつきささってくる。忠平は竹製の湯呑《ゆの》みでさしだされた茶を何杯も呑んだが、咽喉は涸《か》れてくるいっぽうである。やがて、むらむらとふき上る欲情をおぼえて、
「園子はん」
忠平はやにわに炉端のケバの出た筵《むしろ》を這《は》うようにして、わきへよった。
「あんたは、わいと寝た夜さりのことをもう忘れてしもてるか」
忠平の声はうわずっていた。しかし、素早く手を玉枝の火《ひ》箸《ばし》をもった手にかさね、くびれた玉枝の胴のあたりを横から抱くようにしてひきよせていた。
「こんなとこで、あんたに会おとは夢思わへなんだ。園子はん」
おくれ毛の乱れた耳もとにとがった口を押しつけるようにして、忠平はささやきかけたのだ。玉枝はむうっと口をつむり、顔をひいたが、声はたてなかった。躯をよじらせ、火箸をもったまま忠平から逃げようとあせった。忠平は押しかぶさるように荒い息を吐きながら唇をかさねてきた。
「園子はん、……園子」
と忠平は玉枝の昔の名をよんだ。玉枝は男に抱きしめられたことによって、芦原から竹神へきて一年の間耐えていた躯に火がつくのをおぼえた。
「あきまへん。あきまへん……」
と玉枝は忠平にともわが心にともつかぬ声をあげていたが、喜助の歪《ゆが》んだような冷たい顔が急に遠くへひき、あろうことか、喜助に毎夜の拒否を喰《く》ったことへの報復的な思いがこのとき頭を走ったのだった。
「園子。園子」
といいながら忠平が押す手の力に、玉枝の躯はやにわに押し倒されていた。火箸が空をとび、紅《あか》い蹴出《けだ》しをみせた裾《すそ》が炎の中でゆらめいた。忠平の力は強かった。羽交《はが》いじめにされて筵の上をひきずられた。やがて、ぐったりと力をぬいて待つ姿勢になった玉枝の上へ、忠平はけもののように重なっていた。
パチパチと火が燃えた。煤けたつし《・・》の伐竹の束を白煙が巻きはじめた。玉枝は心の中で喜助の名をよびながら、いつまでも躯をのたうちまわらせていた。
〈喜助はん、喜助はん。あんたが、あてをかまわへんさかいやがな。あてがわるいのやないえ。あてがわるいのやないえ。喜助はん、あんたがわるいのや……〉
心に叫びながら、玉枝は頬にいくすじもの涙をつたわらせ、せわしく息ついた。
「誰《だれ》も見てるもんいやへんのや。神さんだけしか知らはらへん。喜助さんにだまってたらええ。わいやかて、誰にもいわへん。園子はん、安心おし……」
忠平はうわずったようにそんなことをいい、抱えた手に力を入れた。玉枝は顔を伏せて、すすり泣いた。その声は静かに筵に吸い込まれて床を這った。
十一
喜助が福井の得意先から帰ってきたのは、夕刻になってからである。陽《ひ》が落ちて、南条山脈の尾根があかね色に染まりはじめた頃《ころ》であった。不意に訪ねてきた昔馴染《なじ》みの崎山忠平が、武《たけ》生《ふ》の宿で泊るといい置き、竹神の家を出ていって二時間ばかりたっていた。玉枝は蒼《あお》い顔をして戸口まで出て喜助をむかえた。喜助は紐《ひも》で結わえた紙包みを玉枝にわたして、「羽《は》二《ぶた》重《え》餅《もち》を買うてきた」
といった。機《き》嫌《げん》のよさそうな顔で喜助は炉端にあがると、その日一日、武生や福井の得意先で批評をうけた細工物のはなしをして食《しょく》膳《ぜん》についた。けれども、玉枝は、いつ、忠平がきたことを告げようかと迷っていた。
時間がさほどたっていなかったから、さすがに良心の責めとも、後悔ともつかぬ気持ちがにがりのようにのこっている。口を切ったのは、食事がすんでからであった。竹の湯呑《ゆの》みの熱い茶を、喜助が心もち背をまるめて、すするように呑んでいる横顔をみながら、
「あんた、今日な、京の人形問屋はんから番頭さんがみえましたんえ」
と玉枝はいった。
「きやはったか」
と喜助は眼を光らせて、何故それをもっと早くいわなかったかといいたげに問いかえした。
「わいが留守やって……どうした。どこィ行かはった」
「あんたのつくらはった竹人形をどないしてもほしさかい、今晩は武生の宿にとまるいうてな。あしたまたくるさかいに、でけてるぶんだけは売ってくれはるようにたのんでおいてくれいうて帰《い》なはりましたんどっせ」
「へーえ、どんなひとやった」
「番頭さんどした」
と玉枝はこたえた。
「背ェのひくい、顔のまるい番頭さんどした。四十前後の人どした」
「ひとりできやはったんか」
「へえ、ひとりどした」
玉枝は瞬間、喜助の横顔を盗み見たが、もちろん、喜助は何も知る由がない。留守にしていたのを残念に思っているらしく、
「そうか、武生の宿に泊ってか。何ちゅう宿屋かわからへんか」
ときいた。
「駅前のな、近いとこに泊って、また出直してくるちゅうて帰なはりましたんやけどな」
「せやったら『日野館』とちがうか、あそこは刃物買いの泊るとこや……」
と喜助はいって、急に眼を光らし、
「わいな、あした、その番頭はんのとこへ人形もっていってくるわ」
と勢いづいたようにいうのだった。
「せっかく、はじめての品買いにみえた凾竅A留守してた凾ヘ、こっちゃがわるかったわ。大事なお得意さんやな。留守したお詫《わ》びや。わいが人形もっていく。何ちゅう人やったか知らんか」
玉枝はどきりとして、瞬間、胸さわぎをおぼえながらも、
「崎山はんちゅう人どした」
と心もち顔を伏せてこたえた。
「崎山はんか。ほんなら駅前の『日野館』へいってきいてみるわ。でけたぶんだけもっていく。大事なお客さんや。山道をまた馬車にのって来てもらうのも気ずつない気ィがする」
喜助はその日は商売の方もうまくいったのだろう、上機嫌だった。もとより、玉枝は喜助が人形を背負って武生へ出るのに反対はなかった。崎山に喜助が会ったとて、崎山は何もいうまい。崎山さえよけいなことをいわなければ、今日のひるの出来事はわかるはずがない。
〈誰もみてえへん。神さんしかしらはらへんのや。しゃべらなんだらわからへん。わいもぜったいにしゃべらへん。安心せい……〉
うわずったように崎山が耳もとでいった言葉がまだのこっている。玉枝はその忠平の顔を思いだすと、嫌《けん》悪《お》のいりまじった恐怖におそわれた。
「そやかて、入れちがいにならはったら、あんた、また無駄《むだ》足《あし》せんならんのどっせ」
と玉枝はいった。すると、
「無駄足にならんように、朝ま早う起きてゆかんならん」
と、喜助はいい、やにわに炉端を立って、上りがまちから草《ぞう》履《り》をつっかけ、表へ出ていくのだった。作業場へゆくらしかった。やがてカンテラをつけたらしく、表へ灯《あか》りがこぼれてきた。持参する人形の艶《つや》出しでもするのか、とくさ《・・・》で竹の肌《はだ》をみがくキコキコと絹でこするような音がきこえた。
程たって、玉枝が食器を洗いおえたころ、戸口へもどってきた喜助のよぶ声がした。玉枝は手をふきふき土間へ出てみると、
「ちょっと、手っとうてくれェへんか」
と喜助はいった。浮き浮きした物言いである。
「はじめての品出しやさかいな、人形の出来が気にかかるのんや、あんたすまんけど、わいが仕上げする尻《しり》から、とくさ《・・・》で磨《みが》いてくれへんか」
玉枝はうなずいた。みがきと称する仕事は女にでもできた。玉枝はこれまでにも、喜助に教えられて、菓子器や、茶器の蓋《ふた》みがきを手伝ったことがある。仕上げの際の艶出しだってできた。夜のうちに、十体の人形をそろえるのだから、当然、喜助ひとりでは時間がかかると思われたので、母屋の仕事を放ったらかして玉枝は急いで小舎《こや》へ入った。
喜助は座蒲《ざぶ》団《とん》に坐《すわ》り、両足で人形台をはさむと、肩をはって器用に両手で小刀をつかい、細部の仕上げに余念がなかった。玉枝はそのわきに坐った。喜助がならべてゆく人形の、胴体と台をとくさ《・・・》でみがいた。
カンテラのあかりは、ふたりの坐っている仕事場の部分だけに円い光の輪をなげていて、隙《すき》間《ま》風がふくたびにゆれた。いつにない喜助の上機嫌な横顔をみていると、玉枝は腹の底の方にあった後悔が次第に安《あん》堵《ど》にかわってきて、
「とうとう、あんたのつくらはった人形さんも京へ出ますなァ」
と感慨をこめていった。玉枝は嬉《うれ》しかった。島原にいた当時、四条や京極あたりの大きな人形屋をのぞいたことがある。
きらびやかなその店先に、ガラスの箱に入って、喜助のつくった竹人形が飾られるのかと思うと、夢のような気がする。喜助とて、嬉しいにちがいないのであった。十体の人形は、鳥籠《とりかご》や、茶器など、これまでの注文品をこなしながらも、寸暇を惜しんで精を出してつくったものばかりだ。
「こんどな、わいの人形がぎょうさん売れるようになったら、いっぺん、京へいってみよか。わいと一しょにな」
と、喜助がぽつんとつぶやくようにいった。
「いやァ嬉し。あんたはん、ほんまにつれていっておくれやすか」
と玉枝は問いかえした。
「嘘《うそ》はいわへん。わいはな、あんたがうちへ来てくれてから、何もしたげてェへん。洗濯やら飯炊きやら、藪《やぶ》そうじをしてもろてて、なんにもあんたにええ目ェさしてェへん。恩がえしや。京へいっぺんつれてってあげる」
玉枝は喜助の心もちがわかると、咽喉《のど》へつきあげてくるような嬉しさをおぼえた。
と、この時だった。玉枝は、喜助の何げなく見かえしてくる眼が異様に燃えているのをみた。それは、むかし、といっても、「花見家」へ喜助がたずねてくれた一年前の、あの憧《あこが》れともはにかみともつかぬ淋《さび》しげな眼もとではあったが、瞳《ひとみ》の中心にともった火を、玉枝は見のがさなかった。玉枝は、急に喜助が愛《いと》しくなった、躯《からだ》が熱っぽくなって血がさわいだ。
〈この人、今晩はちょっとかわってはる。あてが抱いたら、ひょっとしたら、あてのいうままにならはるかもしれへん……〉
玉枝はつばをのんでそんな思いと闘った。
喜助が仕上げの仕事を終えて、十体の人形の荷造りを終ったのは十一時すぎていた。玉枝も手伝い、それらを紙にくるんで負い籠に入れると、明朝はいつでも担《かつ》いで出られるように母《おも》屋《や》の戸口に運んでおき、寝所に入ったのは十二時近いころであった。
二つならべた床に枕をならべ、ふたりはやがて横になった。玉枝は寝つかれなかった。忠平に挑《いど》まれた時、心にもなく頭の中をかすめた喜助への報復的な快感が思いだされたからだ。
玉枝は急に咽喉がかわいた。喜助はとみると、出張と夜業のつかれが出て、かすかな寝息をたてて睡《ねむ》りに入るはずなのに、まだ寝息はきこえないのだった。玉枝は障子を通してさしこむ月あかりの中で、じっと喜助のイガ栗頭《ぐりあたま》をみつめていた。
カンテラの下で、喜助が異様な火のともった眼をした瞬間を思いだして、
「喜助はん」
玉枝は勇気をだして、喜助の蒲団へ躯をずらせていった。
「喜助はん、起きてるの凾ゥ」
返事はなかった。玉枝は喜助のわきへほてった躯をさし入れて、両腕で喜助の躯を抱きよせようとした。喜助の躯はさっと床からぬけ出た。
「喜助はん、なんで逃げるのんえ」
玉枝は動《どう》悸《き》のはげしい胸もとをかきあわせもせず、半身を起したまま畳にへばりつくように坐っている黒い喜助の影へたずねた。
「喜助はん、こっちへきてくれへんのか」
「わいは、玉枝はんの躯にさわるの凾ェ恐ろしの凾竅v
と喜助は大きく息をついていった。
「なんで、あてがこわいのえ、いうてえな。あてはあんたの嫁はんやのに」
「玉枝はん、あんたはわいのお母はんや、わいはそない思うて、今日まで暮してきたんやがな。あんたの躯にさわると、わいはお母はんに抱いてもらうような気ィがするのどす。わいは、あんたを抱きたいと思うと躯がしなえてくるのんどす。堪忍《かに》しとくれやす。玉枝はん」
喜助は蝙蝠《こうもり》のように首をすくめて、玉枝をみつめていいつづけた。
「あっちィいって寝とくれやす。わいはあんたをお母はんやと思うて……これから一しょに暮したいのんどす。玉枝はん。わいの願いをきいとくれやす。あっちィいって寝とくれやす」
玉枝は打ちのめされたように喜助の床をはなれた。
とめどもなく頬《ほお》をつたって流れる涙がわかった。玉枝は自分の蒲団へもぐりこむと、ほてった胸前で手を組み、いつまでも興奮の冷めないままに眼をあけていた。
やがて、喜助が床へ入ってゆく気配がわかった。
玉枝はその夜はまんじりともせずにすごした。忠平の切迫した顔と、哀願するように拒否する喜助の顔とがいつまでも重なってはなれないのであった。
翌朝、喜助は五時に起きた。玉枝の寝不足のはれぼったい顔を前にして朝食をすますと、負い籠に入れてあった十体の人形を点検し、楽しそうに眼を輝かせて小舎《こや》を出ていった。
「行ってくるえ」
と喜助は玉枝に声をのこして出た。その顔には、躯をちぢめて拒否した夜の眼の光はなく、ただ人形を売りにゆく歓喜だけがあるように思われた。村下から橋をわたり、南条の峠を越えると広瀬の村である。朝焼けの峠の森へ、左右にゆれる負い籠の下にうまるようにみえる喜助の小さい躯が、左右にうごいて消えてゆくのを、玉枝はいつまでも見送っていた。
〈もう、二どと、あんなことをしたらあかん……子供みたいな喜助はんの心に、申しわけがない……〉
玉枝は朝焼けの光の中で、手を合わせたいような気持ちになり、深い後悔に打ちのめされていたのである。
〈もう二どと、あんなことしたらあかん……〉
十二
氏家喜助の竹人形が、姉小路の「兼徳」の店に飾られると、新奇なものに目のない京の人形屋は、一日のうちに買いとった。これは、鮫島《さめじま》市次郎のいったことがあたったといえる。「兼徳」の主人の鱒《ます》二《じ》郎《ろう》は、番頭の崎山忠平をよんでこういった。
「えらい評判やなァ。十体ぐらいでは、何にもならんで。もっと仰山、越前の人形師はつくらんのかいな」
実情を知らない主人にしてみれば、たった十体くらいを仕入れてきた忠平に、まだるこしさを感じずにはおれなかったのであろう。
「へえ」
と、忠平は主人の顔を上《うわ》眼《め》づかいにみて、
「氏家喜助はんは村でたった一人の人形師どすねや。竹細工をする家はほかにもありましたけども、人形だけは喜助はんしかつくれしまへんのどす」
とこたえた。
「ほう」
と主人は感心したように吐息をついたが、
「もうちっと、下請けにでもだして量産でけるようにしてもらわんとあかんな。これやったら、お客さん泣かしやがな。喜助はんにそういうて、一日に十体ぐらいはつくってもらえんか、注文が殺到しとォるいうてきてくれんか」
主人の言葉は的中した。竹人形をみた小売屋は、「兼徳」へ翌日から電話で注文してきた。その都度、「兼徳」は断わりをいわねばならない。
新作の出足の早いのは、他の人形の場合にもいえることだったが、竹人形だけは、精《せい》緻《ち》につくられている上に珍しいので、いくら仕入れてもストックになる心配はないと思えた。永年の商売のカンである。主人は、番頭に出張費を手渡して、喜助の人形が量産されるよう段取りしてくるように命じた。忠平はふたたび越前に向って京を立った。
忠平が二どめに竹神の家へきたのは、七月半ばであった。作業場の中で、喜助が一人きりで五体目の人形をつくっていた。忠平は母《おも》屋《や》を覗《のぞ》いて玉枝をさがしたが姿はなかったので、小舎《こや》に入った。
「喜助さん」
忠平は主人にいわれたとおりのことをいってみた。
「京では、えらい評判どすわいな。竹人形はあたりましたぜ。ひとつ、あんたもお弟子をとって、せめて、今日までの倍ぐらい人形をつくってもらえまへんやろか。主人も、応援するさかいそういうてこいいうて、わたしをよこさはった凾ヌす……どうどっしゃろ。村に、あんたの腕を習うて、精を出す人はおへんやろか」
喜助は嬉《うれ》しそうに忠平の顔をみていた。問屋が、そのようにあと押ししてくれるのであったら、部落の細工師をあたってみてすすめてもよい、という返事をした。忠平はほくほく顔であった。出来あがっている四体の人形を荷にすると、現金でその分を支払ったあとで、
「今日は、奥さんはどないしやはりまして凵v
と眼《め》尻《じり》に皺《しわ》をよせて訊《き》いた。
「さあ、藪《やぶ》へでもいったんとちがいまっしゃろか」
と喜助はこたえた。
「藪はちょうど、竹の子が出とります。新しい皮がおちるころですねや。新皮は人形のはかまによろしおす」
と喜助はいった。忠平は小舎の戸口から、母屋の裏の方を見わたした。玉枝の姿はなかった。藪で竹の皮をひろっている玉枝の姿を思いうかべた。
忠平は心のこりな表情をして竹神部落を去った。好色なこの男にしてみれば、玉枝の躯《からだ》は、あの場合一瞬の火あそびにすぎなかった。竹神へきたからには、会ってみたいとは思ったが、ぜひとも会わねばならぬ女でもなかったのである。みにくい小男に似あわず、名人肌《はだ》の喜助に忠平は一目《いちもく》置いてもいた。その妻玉枝を犯したことへのかすかな後悔もおぼえていたのだ。喜助が下請けの準備をととのえてくれて、人形を量産してくれることへの希望をもって村を去った。
「兼徳」の応援に力を得て、喜助が人形づくりに本腰を入れはじめたのは、二どめの忠平の訪問後まもなくである。
喜助は部落の細工師で、器用な者を三人だけよんで方法を教えた。竹人形をつくった方が、値がはる上に、収入になることを力説した。細工師たちの眼は輝いた。すでに、喜助の小舎をのぞいて喜助の人形は知っていたから、それが京の問屋に出て評判になったときけば、驚きでもあったし、喜助にあやかって、収入を得たいとする者が出たのは当然といえる。目《め》籠《かご》や農具の竹製品をつくっているくらいでは副業は知れたものだ。近在の農家へ売っていたのでは、支払いは習慣によって節季払いとなる。楽しみもすくない。
喜助の小舎へ人形づくりをならいにくる者は最初、多吉、松之丞、英三郎の三人きりだったが、やがて、噂《うわさ》をきいて、小兵衛、大四郎の二人が参加した。五人の細工師たちは喜助から朝晩手ほどきをうけた。喜助は、親切に教えた。道具のないものには道具を貸した。もともと器用な連中であるから、喜助の仕事をわきで見ながら、すぐにおぼえてしまう。
竹神の竹人形が相当量の生産を見て、広瀬の村の馬車をたのんで荷出しをするようになったのは、この年、大正十三年の夏からである。京で好評を博した竹人形は大阪にもきこえた。ついで、名古屋にもきこえた。大阪にも名古屋にも、人形問屋はある。人形問屋ばかりでなく、当時、市中の繁華街にできていた高級装飾店などからも、特製の人形をつくってくれとわざわざ竹神へ注文にくる客がいた。
「越前竹人形」の名は、関西一円に知れわたった。そのころ、竹神の部落では、十四人の細工師が人形づくりに転向していた。
十四人の弟子たちは、弁当持ちで喜助の小舎へくるようになった。いちいち家へ帰って昼食をたべているようでは、注文に応《こた》えることができなかったためである。玉枝は忙しくなった。
職人に茶を出すのは玉枝の仕事である。これまでになかった帳簿の作製をするのも玉枝の仕事になった。もっとも、帳簿といっても、当時は和紙を綴《と》じた大福帳のようなもので、得意先の名と品別の納入数を列記しておいて、月末に集計し、未払分を請求すればそれですむことであったが、玉枝としては、来た当座にくらべて、はりあいのある仕事であった。
喜助の家の収入はみるみる多くなった。竹人形は手間が代金のほとんどであった。もともと家のまわりに生えている竹が材料であってみれば、衣裳《いしょう》などに本絹をつかわねばならない博多人形や御所人形にくらべると、材料は安い。
しかし、手のこんだ仕事だから、値がはる。翁《おきな》人形一対が、当時二円の値段がついて京の店に出たのだから、越前竹人形は、高級人形の部類に入ったといえよう。
職人たちは、喜助の小舎にくることが楽しみでもあった。収入になるということもあったが、これまで、村道で会う以外は話が出来なかった玉枝に会うこともできる。
皆は「玉枝はん」とよび、よくなついた。玉枝もまた愛想よく村人たちにふるまった。時折、駄菓子《だがし》や餅《もち》などを茶うけに作業場へはこんでくる。
ところが、この玉枝の顔いろが、急に色艶《いろつや》を失い、どことなく病人相にみえるようになったのは、八月末のある一日からである。喜助が誰《だれ》よりも先に気づいた。
「あんた、どこぞわるいのんとちがうかいな」
職人たちが帰ってから二人きりの夕食の膳《ぜん》に向きあった時、喜助は心配げにきいた。
「大勢の職人がきて、何かにと気ィつかうさかいに疲れが出たんとちがうかいな。顔が草色になっとる。気ィつけんとあかん」
すると、玉枝は首をふった。
「どっこもわるいことあらへんのどっせ。顔いろのわるいの凾ヘ持ち前どすがな。このとおりごはんかて仰山たべますがな」
と、喜助の心配を一笑に付すようにいった。しかし、その物言いも、どことなく喜助には力なくきこえた。喜助は芦《あ》原《わら》の「花見家」の、あの奥の部屋で胸を患《わずら》って寝ていた当時の玉枝の姿を思いだすのである。
「あんたは、村の人らァみたいに岩乗《がんじょう》な躯やない。いっぺんわずろうた躯やし、気ィつけんとあかんな。いっぺん、お医者はんへいってみてもろたらええ」
玉枝自身は、そのころになって、どことなく下半身のけだるいような、仕事をはりつめてしている時などにも、突如として襲ってくる倦怠感《けんたいかん》のようなものになやまされていた。
朝起きる時なども、じっとりと寝汗をかいていた。躯が重い。熱があるというのでもないのだが、躯全体が鉛のように重いのである。このようなことは忙しい喜助にははなしていないのであった。
「心配せんとおいとくれやすな。『花見家』にいた時のこと思たら、まるで、ここは天国どすわ。躯はたっしゃになりましたえ」
といった。
「躯はらくでもな、日当りがわるいさかいな、気ィつけんとあかんわな。来年の春になったら、わいはあんたのために陽《ひ》当りのええ部屋を一つ建てましせんならんおもて凾フや。母屋のしころ《・・・》を下ろしたらな、あんたの寝る六畳の一部屋ぐらいはらくにとれるさかいな。精出して、銭《ぜに》をもうけて、つくったげる。もう少し辛抱してな」
喜助は実《じつ》のこもった眼で玉枝の艶のない顔をみつめていった。
玉枝は瞼《まぶた》に涙をにじませてうつむいた。
十月に入ると玉枝の躯は急にやせた。むっちりしていた胸も、心もち平べったくなったようである。丸くもり上っていたお尻《しり》のあたりも、なんとなく肉が落ちた気がした。それに、喜助が気をつけてみていると、玉枝は食もすすまないようにみうけられる。
「いっぺん、医者へいってみたらどうやね凵B広瀬の馬車にのりさえしたら、二時間で武《たけ》生《ふ》へいけるやないか。武生の町医者に診《み》てもろうて、薬を呑《の》んでみいな」
喜助は怒ったようにいって玉枝の医者ゆきをすすめた。
玉枝は喜助の親切な物言いに消え入りたい表情をしてだまっていた。妊娠しているのではないか、という予感がしたのは八月半ばである。玉枝は秘密にしていたのだが、じつは七月から月のものがなかった。
もっとも、娼妓《しょうぎ》をしていた躯である。月のものの不順にはなれている。若いころに半年も 滞 《とどこお》ったことがあったりした体質だ。だから、無くても心配はしない。ましてや、崎山忠平と一どきりの過失を犯しただけである。妊娠していようなどとどうして考えられよう。娼妓時代は、もちろん、避妊具は使用した。けれども、客によっては嫌《きら》う者もいたので、それを使わないですませたこともある。そんな場合にだって、妊娠したことは一どだってない。
しかし、玉枝は躯の変化をじっとみつめていると、そのような最悪の結果が生じているのではないかという気もするのだった。むっちりと椀《わん》状にふくれ上っていた乳房は、下方にしこりのようなものが出来ていて、上部の方は張りがなくなり、形も変ってきている。心もち乳首の色も色がかってきたようにも思える。
それと、ときどき嘔《おう》吐《と》をもよおすことがある。胸焼けがひどい。これは、子を生んだ友だちの娼妓のはなしや、雑誌でよんだ妊娠時の徴候《ちょうこう》に似ているようにも思えたのである。
玉枝はその確信がふかまりだすと蒼《あお》ざめた。その後二どばかり、何喰《く》わぬ顔で仕入れにやってきた「兼徳」の忠平の顔をみただけで、嫌《けん》悪《お》が走った。もし、妊娠が事実となれば、忠平は憎んでも憎みきれない。忠平を憎む心は、わが身にはねかえってくることでもある。あの時、もう少し力をふりしぼって抵抗すればよかったのだ。だが、すんでしまったことは後悔してもはじまらない。
雪が来ぬうちに、医者へいってこいと、しつこくすすめる喜助の言葉もあって、玉枝が武生の町へ立ったのは十月二十日のことであった。空の蒼く澄みわたった日で、玉枝は竹神へきてからはじめて、ひとりきりで部落を出た。
玉枝の心は暗かった。もし、医者が妊娠を告げたらどうすればいいだろう。大きな不安におそわれたのだ。
玉枝は広瀬から馬車にのった。馬丁は、玉枝が芦《あ》原《わら》から竹神へくる時に荷物をはこんでくれた六十年輩の長七という男である。玉枝をみて、鼻汁《はなじる》をすすりながら、この馬丁は愛想をいった。玉枝は生返事をしながら、医者へゆくまでの重い腹をかかえていた。
「あんさんが竹神へおいでやしたの凾ヘ、夏どしたなァ。柿《かき》の花が咲いとりましたな」
と長七は、馬の尻に鞭《むち》をあてながらいった。玉枝はだまって微《ほほ》笑《え》んでみせている。
馬車は金輪のついた堅木の車であるから、石ころ道にさしかかると、ゴトゴトと音をたてて大きくゆれる。その動揺が茣蓙《ござ》をしいてもらって横ずわりに坐《すわ》っている玉枝の腹にこたえる。と、急に、玉枝は吐気をもよおし、荷台のわきに手をつかえて、こみあげてくる生つばにたえたのである。そのような玉枝を、馬丁の長七は、時々ふりかえりながら眺《なが》めていたが、武生の町なみがみえるころになって、吐気をがまんしているためにすっかり血の気のひいた玉枝の蒼い顔をみていった。
「どないしなさった。お上《かみ》さん、あんた、躯がわるいのとちがうかのう」
馬の足をゆるめて、
「えろう顔があおい」
「なんでもおへんのどす。ちいとおなかのぐあいがわるいさかいに、お医者はんィ行くのんどすがな。心配せんといとおくれやす」
玉枝はなるべく陽気にいった。馬丁の眼に、腹の中の不安を見すかされてはなるまいと玉枝は努めるのであった。
武生の町には医者はたくさんいた。玉枝は、駅前から歩いて、まもない露地を入ったところにある「吉田内科医院」と看板のかかったペンキぬりの四角い建物の玄関の戸を開けた。
もとより、顔見知りの医者ではなかった。心の中では、産婦人科の方へいってみたいと思っていたのだが、のっけから産婦人科にいったのでは、帰って喜助に答弁のしようもない。
内科医院とした看板のすみに、婦人科と小さくかかれているのがみえたので心づよく思い、恰好《かっこう》の医者がみつかったと喜んで入ったのであった。
医者は四十年輩の、浅黒い顔にロイド眼鏡をかけたやせた男である。診察客が帰ったところとみえて、折よく手があいていた。
ひっそりした診察室に入ると、玉枝は正直に容態をはなした。すると医者は訊《き》いた。
「結婚なさったのはいつですか」
「去年の七月どした」
医者は、上瞼をめくってみたり、舌をみてみたり、襦袢《じゅばん》までぬがせて聴診器をあてていたが、やがて、堅いベッドに玉枝を寝かせると、下腹へ手をさし入れて左右両腹をかるく押してみて、じっと眼をつぶって考えていた。
聴診器をしまうと、何げないふうに訊たずねた。
「奥さん、おいくつですか」
「三十三どすねん」
眼鏡をはずして、机にもどると、カルテに書き込んだ文章をゆっくりよみかえしていたが、
「月経はいつ停《とま》りましたかね」
「七月どす」
「十三カ月目にとまったわけですね」
そして、にっこり微笑して、この医者は下り眼尻を皺よせながらいった。
「奥さん、妊娠ですね。まちがいありませんよ。四月目になっておいでです。立派な立派な発育のええ赤ちゃんです」
十三
大正十三年当時は、現今のように堕《だ》胎《たい》ということが大ぴらに出来なかった。胎児を堕《おろ》す場合は症状を役所に届けねばならない。産《さん》婆《ば》に依頼して胎児を闇《やみ》に葬るようなことがあれば、産婆自体も営業停止を喰《く》う、きびしい取締法規が出来ていて、妊婦もまた刑罰をうけた。人命をそれほど尊重したせいであろうか。
薬品店の店さきに避妊具が大ぴらにならべてあったり、産婦人科の医者が、母体の安全を守るという名目で掻《そう》爬《は》で繁昌《はんじょう》している今日とくらべると、雲泥《うんでい》の差があるといえたが、当時の女性は子種を腹に宿せば産まねばならぬものと法律できめられていたのである。
もちろん、姦通罪《かんつうざい》もあった。姦通の罪が重かったのも、そうした堕胎が不可能な仕組みと関連していたのかもしれない。
玉枝が蒼《あお》ざめたのは、子を産まねばならないということより、喜助にそのことをどのようにして説明しようかという恐怖であった。京の人形問屋の番頭と出来たのだということを正直にはなせば、喜助は許してくれるであろうか。否である。
玉枝は喜助の性格をよく知っていた。喜助が許してくれないことは眼《め》にみえていた。喜助は、子供が母親をしたうように慕っている。それはむしろ世間の夫の妻に対する独占欲よりもつよいといえた。
喜助は動顛《どうてん》するにちがいなかった。いや、そのことをいったら、喜助は狂人のようになって怒るかもしれない。
玉枝はその形相を想像するとたえられなかった。吉田医師が、にっこり微笑して送ってくれる玄関を出て、広瀬の馬丁が待っている駅裏の馬つなぎ場までくるのに足は重かった。とりあえず、家にかえったら何かほかの病気にかこつけてごまかしてしまうことは出来ても、月日がたてば目立ってくるお腹《なか》はどうするすべもないと思う。
玉枝は白蝋《はくろう》のような顔色をして馬車にのった。
「お上さん、どうでしたかの、お医者さんは何といわれましたかいな」
馬丁が心配げにたずねた。
「胃ィがわるいのやいわはりました。永いことほったらかしといたも凾竄ウかい、胃ィの壁がよわってしもてるのやそうどすえ。あしたから、お粥《かゆ》さんたべて用心しなさいいわれてきました」
玉枝はそんな嘘《うそ》をいって、茣蓙《ござ》の上に横ずわりに坐《すわ》った。武《たけ》生《ふ》の町をはなれると乳色にかすんだ南条の山々の、波型の嶺《みね》がみえた。
白い一本道の両側には稲を刈ったあとの切り株が、タワシをならべたように、整然と水田の中にういてみえる。
玉枝はこの道を去年の夏、荷物をつんで竹神へいそいだ日のことを思いうかべていた。山脈《やまなみ》が近づくにつれて、その思い出は遠くへ消えてゆくように思われてならない。
〈喜助はんにわからんように……喜助はんをかなしましたりせんように……お腹が目立つころになったら、竹神の村を出んならん。あの家を出んならん……〉
玉枝はそんなことをわが心にいいきかせながら、メダケやクロチクの丹精した藪《やぶ》に囲まれている三角屋根の家を思いうかべるのだった。
一どだけの過失が、わが躯《からだ》を大きく蝕《むしば》んでいることに戦慄《せんりつ》をおぼえると同時に、深い後悔と淋《さび》しさに打ちのめされた。しずみ勝ちに面を伏せて、金輪のきしる音をきいていると、
「もうすぐ雪が来ますな。お上さん。雪ふり虫が飛んどりますわな」
と馬丁がいった。なるほど、いわれて気づいたことだった。白い綿の粉をちらせたように、純白のうぶ毛を光らせた雪ふり虫とよばれる小さな虫が、風の中をななめに何百匹となく流れてゆくのがみえる。その一、二匹が、いま車の上のぬれた玉枝の頬《ほお》にもあたった。
医者から帰ってきた玉枝を、喜助は、職人たちの帰ってしまった作業場から、轆《ろく》轤《ろ》屑《くず》のついた膝《ひざ》がしらをはたきながら、戸口まで走り出て迎えた。
「お医者はん、どないいわはった。心配ないか」
と訊《き》いた。
玉枝は心なし、平静を失いそうにふるえをおぼえたが、馬車の上で車夫にこたえた言葉を、そのまま口に出していた。
「胃ィがわるいいわはりました。レントゲンをかけんとわからんけどな、胃腸の故障やろいわはりましたんどす。たべたもんを、吐くのは、胃ィがうけつけんさかいやて。あしたからな、お粥さんにして、胃ィをあんまり働かさんようにしなさいいわれてきましたんや」
と何げないふうにいった。すると、喜助は、
「ほうか」
といい、寸づまりの顔をほころばせて、
「胃ィやったら、安心やな。たべもんに気ィつけたらそれでええんやさかいな」
と安心したようにいうのだった。
玉枝は、人の好い喜助に内心、責めをおぼえると同時に、第一難関はこれで通過したと思った。これで嘔《おう》吐《と》しても、理由はつく。
だが、日がたつほどに胎児は腹の中で大きくなってくる。うす着の夏が去って、袷《あわせ》の季節になったといい条、六カ月目になるころは、つき出てくる下腹をそうそうはごまかせまい。芦原にいたころ、妊《みごも》った娼妓《しょうぎ》がいた。大きな腹をつき出して、暗い部屋で沈んでいたその妓《こ》のことを思いだした。そんな下腹になるまでには何とかしなければならない。喜助に見えぬところで流産してしまうならともかく、医者にたのんで処置してもらうには、武生の町などでは不可能だと思われた。医者に頼んで拒絶されれば、その評判はすぐたつだろう。せまい町である。とくに喜助は、武生や鯖《さば》江《え》や、福井の町へ、月に一どは必ず出張する。いつ噂《うわさ》がきこえぬともかぎらない。また、たとえ処置できても、露見すれば犯罪人になるのであった。
玉枝は、思いなやんだ。
結局、玉枝の頭にやどった考えは、どこか遠くへいって処理してしまおうということであった。もしそれに失敗したら、喜助の家から去らねばならないと思う。喜助の知らない子をうんで、そのまま、竹神にいるわけにはゆかないのであった。
玉枝は、京都の「兼徳」にいる忠平の顔を思いうかべた。十月に入ってから、忠平にかわって、彼の下で働く手代が仕入れにくるようになった。足の遠のいた忠平の、額のせまい、狡《ずる》そうな顔を思いだすと、憎しみが走った。玉枝は吐気をおぼえた。しかし胎児の処理をするとなれば、父親である忠平にも相談して、京都で医者にかかるのも一つの方法だと思われる。
〈いっそのこと、京へいこか〉
玉枝はふっとそう思った。
京都の中書島には父母はいないが、ひき手婆をしている叔母が向島にいるし、島原時代の友だちもいることだった。いろいろと相談にのってくれる者がいないでもない。武生とちがって、京都は大都会でもある。医者も数多い。忠平にたのみこめば、大旦《おおだん》那《な》にきこえる手前もあって、どこか産婦人科の医者を世話してくれるかもしれない。忠平に責任もあることだ。こちらの苦衷《くちゅう》をはなせば助けてくれぬでもない。
玉枝はなるべく早く、喜助に知られないうちにそれを実行したく思った。
〈京へいく口実はないもんやろか〉
十二月に入ると、めっきり北国は寒くなった。竹神の部落は南条山脈の北ふところに在ったから、山嵐で渓《たに》間《ま》の藁《わら》ぶき屋根も家を囲んでいる竹藪《たけやぶ》も、一日じゅう、せわしく騒いでばかりいる。晴れた日の朝早くには、北の空に雪のつもった白山がみえた。
しかし、喜助は人形づくりに余念がなかった。京都の「兼徳」は大得意といえたし、大阪の福島にある問屋「栄屋」、名古屋の「甚六人形」、岐阜の「立川屋」からも、注文が殺到していた。正月をひかえているせいもある。
村の職人は十月に入って十六人になっていて、せまい作業場は、筵《むしろ》を隅々《すみずみ》にまで敷きつめても一杯になった。人形づくりは手間がかかる。喜助は職人たちの下職《したしょく》したものをいちいち点検した。出来のわるいものは商品としなかったから、いきおい出荷がおくれる。数少ない出荷であるがために、かえって注文が殺到したともいえるのであるが、それだけに喜助は一日じゅうてんてこ舞いしていた。
玉枝は、職人たちに茶を出すほかは、弁当時間に味噌《みそ》汁《しる》を温めて出す。藪の手入れも玉枝の仕事である。手の空いた時は母屋で帳簿もつけなければならない。それが一日の主な仕事だった。作業場へゆくことも少なくなった。
顔いろは日ましに悪くなった。頬《ほお》べたや、瞼《まぶた》にむくみがきた。心なし、玉枝は作業場へ入っても職人たちに顔を伏せることが多くなった。
「喜助さん」
古株の大四郎が、玉枝のうしろ姿が母屋へ消えるのを戸口から見送ったあとでこういった。
「奥さんは、お目出たじゃないかいな。えろう、顔いろがわるい」
喜助は、艶《つや》出《だ》しのとくさ《・・・》を落した。大四郎の顔をにらんだ。玉枝が妊娠するはずはない。玉枝は芦原から竹神へきて以来、自分と一どだって肉体交渉はない。しかし、大四郎の言葉で、喜助ははっとしたのだ。
「大四郎さん、そんなふうに見えますかいな」
喜助はむっつりした眼《め》もとをむけてきいた。
「嫁にきなはってから、もう一年の余になるやろ。赤子《やや》がでけてもおかしゅうはないわな。村のもんは、いつやろか、いつやろかと待っとる。あの顔いろの具合ではのう、赤子《やや》がでけたとしか思えんがな、喜助さん」
喜助は首をかしげて、しずかな微笑をおくった。
「胃ィがな、わるいいうて、武生のお医者はんにいわれて帰ってきてますのや。ここのとこお粥《かゆ》さんばっかりたべてますよってんな、あないにむくみがきてますんや。赤子《やや》がでけたんやおへん」
職人たちは、疑いぶかい眼を喜助に集中させていた。喜助は寸づまりの両頬にはにかみをうかべて、
「お目出たやったら、うれしおすのやけどな」
といって仕事にかかった。
村人たちは、玉枝の前身を知らない。玉枝が芦原で娼婦をしていたときけば、びっくりするかもしれなかった。娼婦は躯《からだ》を酷使されていたから、人なみな妊娠などしないと喜助は人づてにきいてもいた。いずれにしても、交渉のないものが妊娠するはずはない。
喜助には大四郎のいったことはうなずけなかったのだ。しかし喜助も気にはなったので、夕刻になって職人たちが家へ帰ったあと、母屋にもどって食膳《しょくぜん》についたとき、こんなふうに玉枝に問いかけている。
「あんたがなあ、あんまり顔いろがすぐれんさかいな、大四郎がいいよるんやな。玉枝はんは赤子《やや》が出けたんとちがうかいな……。わいは赤うなった」
「…………」
玉枝は喜助のうつ向いた顔をみつめてだまっていたが、詰《つま》るようなひびきをこめていった。「赤子《やや》がでけたんやったらよろしおすけどなァ、喜助はん。あんたのお子やったら、どんだけ嬉《うれ》しおすやろ」
真実そのような思いをこめて玉枝は冗談のようにいった。ところが、そういったあとで良心の責めに思わず顔を伏せた。白けた沈黙がふたりきりの母屋の静寂をながれたので、喜助は気まずそうな横顔を見せてしおれた。玉枝はそんな喜助の横顔をみていると、真実をうちあけて、耐えている苦痛から逃げたい衝動をおぼえた。
しばらく間をおいて、玉枝はいった。
「喜助はん、京のな、『兼徳』さんの入金が仰山のこってますのえ。こないだ『兼徳』さんが来やはった時、帳簿の残高みせましたらな、これからは、よその問屋なみに集金にきてほしい、こないいうてはったんどすけど、……何やったら、あてがいったらいきまへんやろか。すぐにお正月がきますしな、職人さんに早う、冬支度のお手当もあげんならん。あての身ィは、いまのうちやったら、京へいっても何ともあらしまへん。きつう寒《さぶ》うならんうちにいっぺん集金に行かしとくれやす」
「…………」
喜助は急に顔をあげた。玉枝の顔をじっとみている。あまりみつめられるので玉枝は逆に顔を伏せて、
「『兼徳』さんへ集金にいったついでに、わがままなお願いどすけど、あてをいっぺん中書島へやらしてもらえしまへんやろか。お父さんもお母はんも死んでいやはらしまへんのやけど、向島に住んではる叔母はんが、弁天さんの前の『かつらぎ楼』さんにつとめてはりますのんや。いっぺん会うてきて、あてがこないにしあわせになってるちゅうことを知らせとおすね。いきまへんか」
喜助はじっと考えこんでいた。やがて、にんまり顔をくずしていった。
「そうか、『兼徳』はんのかけ金がそないに残っとるんかいな。集金にこいいわはったんやったらいかんならんな。向島のおばはんに会うてくるのんもええけんど、あんたがひとりでいくより、わいもついていくとええがのう。あんたを京へつれてったげるの凾ヘ、前からの約束やった……せやけど、仕事がこないに忙しゅうてはな、とてもわいは手ェが離せんわな。名古屋の『甚六』さんにも、大阪の福島へも早う送らんならんさかい」
「せやさかい、集金はあてにさしとくれやすな。せめてあてにでけることちゅうたら、それぐらいのことどすがな。あてを、京へつれていってくれはるのんは、また春になってからのことにしとくれやす」
玉枝は考えあぐねた末の言葉を必死の思いで喜助にいうと、はらはらしながら、喜助の顔をみて答えを待った。すると、喜助はうなずいて、
「そうか、ほんなら、そないにしてもらおか。せやけど、あんたの躯が心配やなァ」
と不安げにいった。
「大丈夫どす。二日や三日の旅ぐらい、何ともおへん。大事な集金どす。早うすましてもどってきまっさ」
玉枝はうまく行ったと心の中で大きく安《あん》堵《ど》したが、ふっと、京の手術が不可能になれば、喜助の顔はこれで見納めになるかもしれないと思って、心が翳《かげ》った。集金した金だけは竹神へ送り、自分はどこかへ消えてしまわねばならない。しかし、なんとしても、手術を成功させて喜助の家へ帰りたかった。喜助に協力して、人形師喜助の名を世間に知らせたかった。
玉枝が喜助を納得させて竹神の村を出たのは、十二月十五日のことである。粉雪まじりの木枯のふく寒い日だった。玉枝は、立縞袷《たてじまあわせ》に紺のもんぺをはき、飾りふちのあるケットに顔をつつみ、竹神の家を喜助におくられて出たが、途中、広瀬村の郵便局でこっそり貯金をおろした。
それは芦原で働いていた時の玉枝の貯金であった。京の医者に支払う金である。喜助の精魂こめた人形の売上げから、不始末の胎児の処理費用など、たとえ一時借りるにせよ、とてもつかう気にならなかったのである。玉枝は郵便局を出ると、待っていた広瀬の馬車にのった。
十四
京の人形問屋「兼徳」は、前述したように中京区の姉小路通り室町を上った地点にあった。ここらあたりは、染物屋や、呉服問屋のある一郭である。ァ《うだち》の上った大きな建物が多かった。呉服屋はどの店も広い間口をもっていて、何々商店と筆太にかかれた看板を掲げ、総ガラスのみがきのかかった戸を閉めていたが、ガラス越しに畳敷きの店が通りから覗《のぞ》かれた。新柄《しんがら》の友禅が美しく飾られてあったり、幾百本ともしれぬ帯の入った棚《たな》がみえたりしていたが、前かけ姿の番頭や丁《でっ》稚《ち》がせわしなく出入りしている。表には数台の自転車がとまっていた。したがって、通りはいくらかせばまってみえ、活気があふれているのだった。人形問屋の「兼徳」も、そうした呉服屋の店にはさまって店を張っていた。
「兼徳」の店は大きかった。関西では名の通った老舗《しにせ》だけに、古ぼけてはいたが、ここもァの上った大屋根をもっていて、通りに面した二階は低くみえるけれど、奥へゆくほどに、屋根は広くのびていた。土蔵造りの倉庫もみえ、かなりな内庭をもつ構えである。店の表は呉服屋とかわりはないが、金箔《きんぱく》文字で、「兼徳」と書かれた総ガラスの戸をあけて入ると、畳敷き三十畳の広い上げ間があり、壁面には美しい人形箱や、無数の人形がならんでいた。
玉枝は、十二月十五日の夕刻に、この店の敷居を跨《また》いだ。応対に出た丸坊主の丁稚に、越前の竹神からきたと告げると、すぐ奥へ入った。うす暗い帳場から、やがて忠平の額のせまい皺《しわ》のよった顔がにゅっと覗いた時、玉枝はなにか安《あん》堵《ど》をおぼえた。長旅の汽車で疲れてもいた。孤独な思いがしていたのだ。憎いはずの忠平が、不思議と心だのみに思われて、
「お久しぶりどす」
と片頬《かたほう》にえくぼをうかべて頭を下げた。と、忠平は眼《め》尻《じり》をしわばませて、
「こら、珍しい。遠いとこをよう来てくれはりましたな」
玉枝を奥の間へ通した。中の間が帳場になっている。その奥の格《こう》子《し》戸を境目にした八畳ぐらいの客間である。そこは店のタタキから中の格子戸をあけて入ってゆく。忠平は小《こ》股《また》歩きに、腰を低くして、玉枝を案内すると、上り口で下駄《げた》をそろえた。部屋にあがると、丁稚に茶をもってこさせる。玉枝は丁稚のさがるのをみてからいった。
「今年の仕切りをさしていただきに参じましたんどす。集金さしていただきましたら、あとでちょっと、忠平さんに……お頼みがありますのやけど、きいとくれやすやろか」
忠平の顔は瞬間、ぴくりと狡《ずる》そうな動きを示した。特徴のある耳下から出るようなかすれ声で、
「仕切りは帳場の方で用意して待ってますのんや。いつ、来やはっても、お支払いでけるように段どりしてありますはずどす。けど何どすねや、あらたまってわいに頼みちゅうて……」
忠平はギロリと眼を光らせた。頬がそげ落ちたように憔悴《しょうすい》している玉枝の顔をしげしげとみつめて、
「園子はん」
と島原時代の名をいった。
「あんた、えろう、やせはりましたな。どこぞ、かげんがわるいのとちがいますか」
中年男の狡猾《こうかつ》な物言いにきこえる。言葉の裏には竹神の母屋の炉端で燃えたけもののようなもう一つの顔がある。そのときのことをまさか忘れてはいまい。玉枝は、忠平の顔をきっとにらみすえるようにみて、
「ここでは、どうしてもいえしまへんのどす。あんたはん、今晩はおひまをおもらいやすのんは、何時ごろになりまっしゃろ」
ときいた。
「わいは七時には帳簿あわせがすみますねん。何やったら、丁稚《こどもし》にまかしといて六時には出られまっせ」
忠平は、ごくりと生つばをのむ音をさせて、
「園子はん、今晩の宿はどこにしやはりますのんや」
と低《こ》声《ごえ》できいた。
「宿もまだきめてェしまへんのどす」
玉枝は正直なことをいった。じっさい、京都駅へついてから、市電で、すぐに「兼徳」へきたのであった。日の暮れぬうちにまず集金をすまさねばならない。用事をすませてから、第二の、躯《からだ》の始末である。いや、この仕事の方が玉枝には重要な用事といえる。
「それやったら、どうどす、わての知ってる宿がおすのや。中京《なかぎょう》の押小路にな……ここは、離れの間ァもあって静かどっせ。諸国から来やはる人形《にんぎょ》師《つ》さんもよう泊らはる宿どすねや」
と忠平はいった。玉枝はふと考えた。忠平の世話でその押小路の宿に泊るのはいいけれど、諸国から、人形師が集まるときいては、いつ、その宿へ喜助が泊るかわかったものではない。もし、万一、医者に手術してもらうことが出来たとしても、宿で一日か二日は寝ていなければならない。そんなことも考えに入れると、誰《だれ》も知らない宿のほうが便利である。
「忠平さん」
玉枝はいった。
「そんな立派なお宿より、どこぞに、小ちゃい商人宿がおへんやろか。どこでも結構どっさかい、人形師さんの仰山きやはる宿は、うちはイヤどすわ。何やら気ずつのおすもん。あんたはんの知ってはる小ちゃい宿おへんか」
忠平はひっこんだ眼を丸くした。やにわに眼《め》尻《じり》に皺《しわ》をよせて、好色な笑みをうかべながら、首をかしげたが、
「そんなとこやったら、何ぼでもありまっせ。園子はん、わてが世話します……」
と、ますます低声になっていった。
「わての世話するとこでよろしおすか」
「へえ、どこでも結構どす」
と玉枝はいった。その忠平の世話してくれる宿へいって、なんとしても忠平に躯のことをうちあけねばならない。この男はどんな顔をするだろう。玉枝は、早く宿へ行って忠平を待っていようと思った。
玉枝が「兼徳」の帳場から、その年に喜助がおさめた竹人形の代金六十二円をもらって店を出たのは、五時すぎていた。
忠平は電話で堀川中立売《なかだちうり》にある「たね安」という旅館をたのんでくれて、玉枝に地図を書いてその在りかを教えた。玉枝は堀川中立売のあたりへいったことはなかった。しかし島原に暮したことがあるから、だいたい見当はついた。室町通りから落ちこんだ黒い川水の流れている堀川まで歩いて、そこから電車にのった。この電車は小さかった。木製の玩《おも》具《ちゃ》のような、チンチン電車といわれた旧式なものである。石垣《いしがき》をつんだ堀川の土堤《どて》ぞいをガタビシゆられながら、夕焼けに染まった二条城の櫓《やぐら》をうしろにみて、やがて中立売に着いた。堀川はここでも染料で汚れた水をたたえていて、上《かみ》の方へ消えていたが、電車はここから直角に曲っている。川べりの停留所で降りると、玉枝は地図をたよりに東の方へ歩いた。と、そこに、黒板塀《くろいたべい》に囲まれた、「たね安旅館」がみえた。
玉枝はひっそりした旅館らしいのでほっとした。正直いって、誰の眼にもつかない、しずかな宿がほしかった。忠平は、どういう縁で、こんな町なかのひっそりした旅館を知っていたのか不思議な気がしたが、そんなことを詮索《せんさく》するよりも、まず、ひっそりした宿の構えをみて安堵が先に立ったのだった。
打水のしてある石畳を歩いて、玄関にくると、戸があいている。三十五、六の、紅襟《あかえり》をのぞかせた肥《ふと》った女が膝《ひざ》をついて迎えた。
「『兼徳』はんからのお方さんどっしゃろ。お電話でうけてまっさかい」
といって、奥の方へすぐ通した。表口は小さな構えにみえたけれど、中へ入るとずいぶん奥行きのある家であった。母屋と離れ風になっている奥との間に庭があって、水のない池や御《み》影石《かげいし》の燈籠があり、せまい古びた廊下が通っている。床がぎしぎし鳴った。
「『兼徳』さんのお客さんが時どきおこしやすのんどすか」
玉枝は女中にきいた。
「へえ」
と、女中はとび出たような一重まぶたの白眼をむいて、
「番頭はんがようつこてくれはりますのんどす」
といった。
玉枝はすすめられるままに風呂《ふろ》に入った。浴衣《ゆかた》の上に丹前を着て、部屋にすわると、どっと疲れが押しよせてくる。集金をすませるまでは気もはりつめていた。これで一つ仕事がすんだと思うと、やれやれという気もするし、その上に、これからの難事の相談を思うと、いっそう気づかれもする。
女中は、忠平から電話でそういわれていたものか、なかなか食事をもってこなかった。七時になると、廊下を歩いてくるせわしい足音がした。障子があいた。唐桟《とうざん》の着物に鼠《ねずみ》色の縞《しま》の角帯をしめた忠平が、頭からにゅっと顔をつき出すようにして小《こ》柄《がら》な躯を入れてくると、にこにこして、
「えろ待たしましたな。いざ、出てくるちゅうことになりますとな、何やかや用事がでけてしまいましてな。いまになってしもた。堪《か》忍《に》しとくれやす」
へつらうような笑いを口角にうかべて、忠平は、うしろから茶をもってきた女中に、語気をかえて、
「はよ、晩飯もってこんかいな」
叱《しか》りつけるようにいうのだった。この宿とはよほど馴染《なじ》みらしい。女中は忠平の荒っぽい言葉をうけてもにんまり笑っている。
「お酒はどないおしやすのんどす」
ときいた。
「せやな、ほんなら、一本もらおか。気ィはこころや」
忠平は黒檀《こくたん》の卓をへだててあぐらをかいた。女中が退《さが》ると、肘《ひじ》をせりだして、
「園子はん、ここはひっそりしたええ宿どっしゃろ、御飯よばれたら、わては帰《い》にまっさかいに、ゆっくり寝《やす》んどくれやす」
といった。
「へえ、おおきに」
玉枝は、忠平の馴《な》れ馴れしい態度に、心でははげしい嫌《けん》悪《お》をおぼえているのであるが、といって、これから切り出す堕《だ》胎《たい》の相談のことを思うと、露骨に顔いろをかえるわけにもゆかない。やがて、女中が徳利をもってきて、鉢物《はちもの》をならべて下ると、玉枝はいった。
「忠平さんにお願いがあります」
ぎょろりとした眼をむけて、忠平はもっていた徳利を静止させた。
「何どす、お願いて。まあ、いっぱいおつけやす」
玉枝に無理矢理 盃 《さかずき》をもたせるので、玉枝は酒をうけるだけはうけて、卓の上においた。そうして勇気をだしてきりだした。
「忠平さん。あて、妊娠してますのえ。さっき、お店で、顔いろがすぐれんおいやした時、返事がでけしまへなんだんはそのためどすのや。もう六《む》月《つき》になります」
「ほう」
と忠平は盃をすすって、びっくりしたように声をだした。
「そらお目出たいこっとすな」
といった。
「それがな、忠平さん。ちっとも目出たいことおへんのどす。あてのお腹の赤子《やや》は、あんたはんのお子どすねん」
「…………」
忠平は毛のはえた指先をふるわせた。盃をもったまま玉枝の顔をにらんでいた。が、すぐ口角を歪《ゆが》めて、奇妙な笑いをうかべると、
「なに、冗談《てんご》いうてはりますねん」
と、鼻さきへ手をもってゆき、二、三ど横に振ってみせて、
「わいの子ォやて……そんな阿呆《あほ》な。玉枝はん……わいは、あんたと、いっぺんしか寝てェしまへんで……」
「…………」
玉枝は顎《あご》をひいた。忠平をみつめた。かっと血がのぼってくる。
「わいはいっぺんしか寝てしまへんがな。あんたは喜助はんの奥さんやおへんか。喜助はんの子ォをお腹に宿さはったんどっしゃろな。何をいうてはりますのや。ほんなこというて誰がほんまにしますかいな」
「忠平さん」
と玉枝は、急に眼頭にのぼってくる熱いものをおさえながらいった。
「あては、喜助はんと、いっぺんも寝たことおへんのどっせ。あてが、あの竹神へ嫁にきてから、男はんと寝ましたんは、忠平さん、あんたはんだけどすねや。こんなこというたかて、あんたはんは信用してくれはらしまへんやろ、けど……それ、ほんまどすねや、忠平さん。あんたとだけしか、あては寝てしまへんのどす」
忠平の顔は変ってきた。玉枝のいうことに真実味があるというよりも、切《せっ》羽《ぱ》つまったものが感じられたからである。忠平はしゃくれた顎をひいて、じっと玉枝のうるみをおびた眼をみつめていたが、やがて、考え、考え、こんなことをいった。
「玉枝はん、喜助はんと寝てェへんやて……そんなこというたかて、誰も信用しやしまへんで。せやけど、そら、どういうわけどすねや。あんた、わての子ォやちゅう証拠がありますの凾ゥ」
「証拠て……女のあてが一ばんよう知ってます。あんたはんとあんなことになってしもた凾ヘ、六月のおわりどした。うちへはじめて人形さん買いにきてくれはった時どした。月のもんが止って、おかしなァ思てたんどすけど、むかし、あんな商売した躯どっしゃろ。まさかと思て、安心してましたんやがな。そしたら、胸が焼けてくるやら、ごはんがあじのうなるやら、なんやこう、下半身がだるうなってくるやらしましたさかい、いっぺん、お医者はんにみてもらわんとあかんと思て、武《たけ》生《ふ》までいきましたんどっせ。ほしたら、どうどす。お医者はんは、妊娠やていわはります。もう四カ月になったある。赤子《やや》は元気で、お腹でねてるていわはります。あて、びっくりしましたえ。喜助はんのとこへ、嫁にきたちゅうも凾フ、いっぺんも寝たことあらしまへんのに、そんなこと、喜助はんにいえェしまへんがな。今日まで、苦しい思いして、どないしょ、どないしょと夜さりも寝んと考えてきましたんえ。忠平さん。あてのいうこと信用しとくれやす。あては何も、あんたはんに責任とってくれェいいにきたんやおへん。あてが芦《あ》原《わら》で働いてた時、貯金してたお金がおす。そのお金は喜助はんも知らはらしまへん。何ぞのときに使わんならんと思て、内緒で郵便局にあずけといたお金どすねやわ。そのお金をおろしてもってきましたさかい、忠平さん、あてをどこぞお医者はんへつれて行って、お腹の子ォ堕《おろ》しとおくれやさしまへんか。京はお医者はんも仰山おすやろ。あんたはんのお世話で、お医者はんを紹介してほしおすのや。それだけお頼みしとうて来たんどすのえ。どうぞ、あてのたのみをきいとくりゃす」
玉枝の瞼《まぶた》から、筋をひいて涙がこぼれ落ちた。忠平は息を呑《の》んで耳をひらいている。言葉が出なかった。呆然《ぼうぜん》とみつめているしかない。
いったい、この女は何をいいにきたのか。驚きとも、軽蔑《けいべつ》ともつかぬ気持ちをもてあまして、じっと見入っている忠平の頭に、突然、腹立たしさがこみあげてきた。
こんな馬鹿《ばか》げたことがどこにあろう。亭主をもっている女が、一どの浮気をした相手のところへ、堕胎してくれ、お前の子をはらんだと泣きついてきている……。かりに、玉枝のいうことが本当であったにしても、こんなことをまともに信じる男がどこにいるだろう。信じた男が笑い者にされる。
また、忠平の心の底には、べつの恐怖もあった。堕胎の犯罪意識である。つい、先月のことであるが、上京区に住む某家の女中が五《いつ》月《つき》の嬰《えい》児《じ》を堕《おろ》して、その子が不義の子であったがために、竹藪《たけやぶ》へ埋めた。露見して裁判沙《ざ》汰《た》になった。不義密通も罪なれば、堕胎はさらに罪が重い。これが新聞にのった。忠平ならずとも、京の市民は、この記事をよんで蒼《あお》ざめた。堕胎に関する知識をふかめていた矢先である。
〈玉枝のいうことをきいてたら、えらいことになるぞ!〉
瞬間、忠平は思った。
〈同情心から、医者をかりに世話したかて、胎児の父親の認知がなかったら医者は手術してはくれへんやろ。というて、なんでおれが父親やというて出なならんのや。たったいっぺんのあやまちや。あんなことで、亭主の身代りになるのは真平《まっぴら》や……〉
しかし、いま、眼の前で、泣きじゃくりながら懇願している玉枝の顔をみると、忠平はまた、心の一方で、おれはとんでもない女と密通したと後悔がわく。ひょっとしたら、本当に玉枝は人形師喜助と一しょに寝たことがないのかもしれない。寸づまりの顔に、ひっこんだ陰気な眼をしている越前の人形師と最初にあった時、五尺たらずの小さい躯なのをみて、忠平は驚いたのだった。片輪ではないかと思ったほどだ。縄《なわ》手《て》の美術商鮫島市《さめじまいち》次《じ》郎《ろう》も、そのことを「兼徳」の主人である弟に興味ぶかくはなしていたことをおぼえている。
〈背のひくい男でね。まるで子供のような男やった。せやけどなかなかええ人形つくりよる。また、この人形師の細君が、とても綺《き》麗《れい》でね。竹藪の中でみた時は、まるで竹の精が出てきたような白い顔をしとった……〉
市次郎が主人にいった言葉はあたっていたといえよう。忠平は竹神を訪ねた時、その女がまさか島原にいた園子だとは夢思いはしなかった。しかし、たしかに園子にちがいなかったのだ。忠平は十年余の歳月が音を立てて消え去る気がした。園子は生々として、一だんと美しくなったみずみずしい美《び》貌《ぼう》で、眼前に立っていたからだ。しかも、偶然に商売上のことでたずねた人形師の喜助の妻になっていようとは……。喜助の留守なのを幸い、欲情をおぼえた忠平は、たかぶるままに園子に迫ったのだった。園子は昔のように餅肌《もちはだ》の躯をふるわせてしがみついてきた。この女が、いったい、どうしてあの片輪者のような人形師に嫁してきているのか、不思議に思った。そして、どうして躯をゆるしたかも今になってみれば謎《なぞ》に思われた。
〈やっぱり、玉枝は、喜助と肉体交渉がなかった凾ゥもしれん。そやさかい、俺《おれ》に躯を許したんや。とすると、おれとのいっぺんだけの契《ちぎ》りが、子ォを宿すことになったんか……〉
それが事実なら、損な籤《くじ》をひいたと忠平は思わずにはいられなかった。相手は嫁にくるまでは女郎をしていた女である。そんな女を妊《はら》ました。……信じられないことである。
「困ったなァ」
忠平は溜息《ためいき》をついて玉枝の顔を見た。玉枝はぬれた頬《ほお》をぬぐいもせずにいった。
「どうぞ、あてのいうことを信じとくれやす。忠平さん。あては、これまでに何べん死んでしまおと思たかしれしまへんえ。武生や鯖《さば》江《え》あたりのお医者はんにたのもと思ても、知った人はあらしまへんし、それる、越前はせまいとこどっさかいな、すぐ村の人にわかってしまいますがな。京へ来たら、お医者はんも多いやろ、あんたはんにたのんだら、どこぞ、ええとこ世話してもらえるにちがいないと思てきたんどすがな」
「そんなこというたかて……わいは産《さん》婆《ば》も医者も知らんがな」
と、忠平は口もとをつき出して、言葉を投げ出すようにいった。
「わいは、まだ、この年で、独身《やもめ》やでェ。嬶《かか》もろた経験もないしな。女《おなご》はんをはらました経験もないさかいな。……世話せェいわれたかて、かいもくわからへん。まっ暗闇《くらやみ》やがな」
逃げるようなひびきがこもっているのに、玉枝はとりすがるような声をだした。
「忠平さん。あんたはあてのいうこと信じとくれやしまへんのやろ。あてはほんまに、あんたはんと寝ただけどっせ。あの日ィ、あんたはんのお顔をみた時、あてはほんまになつかしおした。せやけど、あんたはんが急に、あんなことしやはるとは思いもしいしまへなんだ。あてが、もっとしっかりしてて、あんたはんを蹴《け》りとばすほどの力がおしたら、こんなことになってェしまへんのどすわ。正直、あては、あの時、どうぞしてましたんどすな。うちの人とはいっぺんも寝たことおへん。長いこと娼妓《しょうぎ》をしてた躯どっさかい、ふっと淋《さび》しなったんどすなァ。あんたの思うままになったらいかんちゅう気ィはありましたんやけど、あての躯は心とは逆に燃えてきましたんや。忠平さん、あては悪い女《おなご》どした。そのバチがあたったんどすわ……」
玉枝はかきくどくように、卓に肘《ひじ》をつき、心もち乱れた髪をふって、哀願するようにいった。
うるみをおびた眼は充血してきている。両瞼《まぶた》がぽうっと桃色に染まってきている。その頬《ほお》はすっかりそげ落ち、昔の面影は少しもない。いま玉枝は、ときどき、ぬれた頬をけいれんさせた。忠平は玉枝の髪の匂《にお》いに、半年前の竹神の家のうす暗い炉端で、ぺしぺしと燃えていた薪《まき》の音をきくように思った。と、好色な独身男の心に、ささやきかけてくる情念があった。
〈この女は阿呆《あほ》や。亭主をもちながら亭主と寝もせんと、たった一どの姦通《かんつう》を犯して、そのために妊《みごも》ったやていうてきてよる。おまけにその子を堕してくれと懇願しにきてよる。この女は阿呆や……〉
そう思うと、玉枝という人妻が急に白痴女にしらけてみえた。阿呆な女ならば、いま一ど思うままに弄《もてあそ》んでみたい衝動をおぼえる。
「園子はん」
忠平は渇《かわ》いたような声をだして眼を細めた。
「ようわかったわ。わいが考えたげるわ。こっちゃへおいなはい」
卓を横へいざらせると、忠平はやにわに、玉枝の白い腕をひっぱり、はだけた唐桟の袷《あわせ》の襟《えり》もとへ青筋のみえる玉枝の首を抱きよせた。すると、玉枝は息をつめ、うるんだ眼をむけて忠平を仰いだ。
「京には医者はたんとある。あした、早うに、わいが廻《まわ》ってみたげるわ。どういう結果になるかわからんけどな、精一杯つくしてみる。安心おし。銭の顔さえみせたら、上手に堕してくれはるお医者はんもいやはるやもしれへん。安心おし、銭でどうにでもなる世の中や」
忠平は玉枝のぬれた顔に髭面《ひげづら》を押しつけてささやいた。
「わいはな。あんたが好きやねやでェ。竹神で会うた日ィから、お前のことを忘れたことがなかったんやでェ……」
急にやさしい言葉になった忠平が、顔を近づけてくるのを、腑《ふ》ぬけたように仰向いてみていた玉枝は、とろんとした眼に急に光をやどした。
〈忠平さんが力になってくれはる。お腹の子ォが堕せる……〉
そう思うと喜びがわいたのであろう。心なしほっとする気持ちになった。すると、忠平は玉枝の躯を抱きよせ、片手で竹の皮をめくるように立縞《たてじま》の丹前の裾《すそ》をまくりあげていた。
「あしたな、わいは、足を棒にして、京都じゅうの産婆を廻ってやるわ。ええか、園子はん、安心おし」
忠平は荒い吐息をついた。ふるえおののく身重女の両股が割れると、むれた胎児の匂いが鼻をつくようであった。しかし、忠平は、猛《たけ》る情欲に身をまかせて、心もちふくれあがった玉枝の腹の上に息はずませてまたがっていた。
「わいはな、お前が好きやったんや。こんなとこが好きやったんや。園子、わいはお前が好きやったんや」
観念したように涙をにじませ、眼を閉じた女の顔に、「兼徳」の番頭は髭面をいつまでもこすりつけた。
十五
玉枝は、たしかに、この夜は白痴女であったかもしれない。狡猾《こうかつ》な四十男の言葉の裏をよめずに、疲れ切った身重の躯《からだ》を弄ばれても放心していた。女中の足音で、つき放すように玉枝の躯を離した忠平が、その女中のもってきた食事に手もつけず、翌日の医者捜しを約束して、そそくさと帰ったあと、藁《わら》しべにでもすがりたい気持ちでうしろ姿を見送っていたのだった。
襖《ふすま》をあけた次の間には床がのべてあった。玉枝はふらふらと寝間へ入り、躯を安めた。しかし、頭の中は明日の手術のことでいっぱいだった。頭だけが冴《さ》えてねむれなかった。
玉枝の瞼《まぶた》に、竹藪《たけやぶ》の多い竹神部落の全景がうかんだ。いまごろは喜助は、作業場で、刳《くり》小刀《こがたな》をつかっているかもしれない。職人はもう家へ帰ったころだ。職人たちに、給料も、正月の餅《もち》代も払ってやらねばならない。その金をつくるために、京へ集金にきているのである。喜助は一日も早く、代金をもって帰ってくる自分を待ちわびているにちがいなかった。猫背を折りまげるようにして、人形をと《・》くさ《・・》でみがいている喜助の無心な横顔がうかぶと、玉枝は、腹の子を堕《おろ》して早く竹神へ帰らねばならない、と思った。
〈あの人は忠平さんとちごて、あてを母親みたいに慕うてくれてはるのや。あての躯を求めてきたりはせん、あての心を求めてはるのや。あてがいんようになったら、喜助はんは気が狂うかもしれへん。あては、何としても、お腹の子ォの始末をせんならん。早う竹神へ帰らんならん……〉
玉枝は蒲《ふ》団《とん》の中で、ぬれた頬《ほお》がかわくまで目覚めていたが、市電の音もとだえ、堀川の水音が高まりかけてくる夜ふけに、ようやく眠りに入った。
翌朝、玉枝は早々に起きた。肥《ふと》った昨夜の女中が朝食をはこんでくれるのを、味けなくひとりで食べて、忠平の返事がくるのを待っていたが、正午ちかくなっても音《おと》沙汰《さた》がなかった。不安がつのった。
電話がかかってきたのは、十二時を少し廻《まわ》ってからである。女中が、お電話どっせ、というので、床の間の受話器をとって耳に押しつけると、かすれた忠平の声がきこえた。
「園子はんか。わてや。よんべはえらいすまなんだな」
と、遠くで頭を下げるような下《した》手《で》の言葉をだして、
「あのな」
と言葉をとぎらせてからしばらく口をつぐんでいるので、
「ええお医者はんみつかりましたか、忠平さん」
玉枝はもどかしそうにきいた。すると、忠平の声は耳を衝《つ》くように打った。
「あのな。朝からな、三軒の医者を廻ってみた凾竅Bほしたらな、みんなきいてくれよらへんね。よんべ、あんたにはなしすんのを忘れたけんどな、上京区のな、ガス会社の重役さんの家の女中《おなごつ》さんがな、重役の子ォをはらみよって堕した記事が新聞に出た直後や。……竹藪にうめよったんやけどな。手伝うた産《さん》婆《ば》がな、警察にあがって、どえらい目ェにおうてな……裁判沙汰になったとこや。京じゅうの医者は、いま、神経がそこへいってしもてて、だァれも、はれもんにさわるような目ェしてきいてくれよらへん」
「…………」
玉枝はごくりとつばを呑《の》んだ。
「そんで……忠平さん、あんた、そんで投げてしまはりました凾ゥ。ゆんべのかたい約束はどないしやはりましたんや」
「そんでな、何としても……と思うてな。いままで、心あたりの産婆を二軒も廻ってみたんやがな」
「そんで」
「そやけど、園子はん。あかなんだわ。どだい、こら無理なはなしやわ。産婆がいうには、お父さんのわからんような子ォは始末でけしまへん。あんたはんが……その子ォの親やという証明がおしたら、何とかしたげるけど、はなしをきくと、そのお母さんは、ちゃんとした旦《だん》那《な》さんがおいやすのに……その旦那さんのお子やないいうてはる……そんな無茶なこというて堕してくれいわはったかて……今どき、警察沙汰になるのんが目ェにみえてるようなもんどす。こわいことどす。滅《めっ》相《そ》もないことどす……いうて、だァれもきいてくれよらへん」
忠平の言葉には次第にぞんざいなひびきが出てきていた。
「せやさかい、園子はん、あんた、どだい、無理なことをたのみに京へきたことになるなァ。わいは今朝から考えたんやけど、どうやろか。堕胎するのんやったら、どうしても喜助はんの証明がいるな。今日のとこは越前へ帰《い》んでな、喜助さんにわけをはなしてや、何とか証明をもろて、もういっぺん京へ来たらどうやね凵B旦那はんの証明さえあったら、また抜け道も考えて処理する方法もあるいうて産婆はんはいいよったさかいな。そないした方がええと思うが、どうやろ」
玉枝は眼先がまっ暗になった気がした。
喜助に相談ができるものなら、こんなところへきてまで恥をかくようなことをたのみはしない。
「忠平さん」
受話器を耳に押しつけて玉枝はいった。
「あては、越前へこのまま帰《い》ぬわけにはいかしまへんのどす。もし、お腹の子ォが始末でけんようどしたら、もう越前へ帰にとうはおへん。『兼徳』さんから集金したお金は、どうぞたのみまっさかい、あんたはんの手ェから、越前へことづけとくれやす。喜助はんは職人さんに給料はろたり、餅代あげたりせんならんいうて、このお金を待ってはりますのや。あてはひとりで何とか始末します。越前へは帰なしまへん。せめて、お金のことぐらい頼まれておくれやすやろな」
「…………」
忠平はだまった。玉枝は、忠平の顔がみえるようである。息もつかずにいった。
「忠平さん、そんなことぐらいは頼まれておくれやすやろな」
「せやけどなァ」
と忠平は口をいくらか受話器からはなしていった。
「わいが銭をおくるちゅうのんも、けったいなはなしや。『兼徳』は、あんたにもう銭をはろてしもたんやさかいな。あんたの手ェにうつってしもた銭や。それを、わいがまたもろて、為替《かわせ》でおくるのもけったいなはなしや。人にたのむちゅうたかて、こんなはなしはまさかいえへんやろ。わけもいえへんのに、越前くんだりまで、使いにたってくれはる人は今どきあらへん。それに、仰山の銭やし。素姓の知れん人にわたしたら、それこそ、持ち逃げでもされてしもたらえらいこっちゃがな。園子はん。やっぱり、あんたがもって帰《い》んだ方がええ。この銭は、喜助はんが、一生けんめい人形つくって稼《かせ》がはった大事な銭やないか。それを人にたのんで、もっていってもらうてなこと、そらあかん……やっぱり、あんたが手ずからもって帰なんとあかんわな。そんなわけ知らずなことをいうても、わしはきくことがでけへんでェ」
忠平のいうこともわかるようであった。しかし、玉枝はいま、そのようにつき放されてしまうと、どうしていいかわからなくなるのだ。
「そうどすか」
といって、受話器をもったまま思案にくれていると、忠平は、この電話をどこでかけているものか、電車の通る音がする。どこか、市電の通る町の公衆電話からでもかけているのか。玉枝は、どことなく忠平の空々しい態度が、かなしくわかってくるようであった。打ちのめされたように玉枝はしおれた。そうして知らぬまに受話器をかけていた。
〈この上は、向島の叔母はんのとこィいって泣きついてみるしかしょうがないやろ。やっぱり、忠平さんも他人やった。身内の叔母はんやったら、ひょっとしたら、親身になってきいてくれはるかも知れへん。宿をひきあげて、早う向島の叔母はんのとこィいってみよう〉
玉枝は心の底にのこしていた最後の一案にすがりつく思いで、身支度をはじめた。肥った襟首《えりくび》の薄黒い女中に宿賃を払った。「たね安」の黒板塀《くろいたべい》の門を出たのは、一時すぎである。
玉枝は、富士絹の風呂《ふろ》敷《しき》に包んだ身廻り品を小わきにもち、市電にのった。空いた午後の市電の座席に腰かけていると、「たね安」の部屋で忠平の挑んだ姿が思いだされ、次の部屋に敷いてあった紅柄のよごれた蒲団がうかんだ。忠平は最初から計画していたのではないか。今になって下心がよめ、以前にもまして憎しみがわいた。
〈あては阿呆《あほ》やった。だまされたんや……〉
玉枝は窓の外から二条城をみた。濠《ほり》の上に角だってみえる石垣《いしがき》の城は、鼠《ねずみ》いろに煤《すす》けた空へくっきりといま白壁の櫓《やぐら》をうきたたせている。その城の南に、黒い瓦《かわら》屋根がかさなってみえる。昔住んだことのある島原遊廓《ゆうかく》は、その方角にあるのだった。玉枝は窓に顔をつきだして、いつまでも眺《なが》めた。と、急に下腹部に鈍痛をおぼえ、思わず、手を腹にあてていた。
〈お腹の赤子《やや》が怒ってはる……〉
玉枝はまだ顔かたちもしらない胎児の動きに蒼《あお》ざめねばならなかった。鈍痛は電車の動くたびに激しく起きた。
〈あんたのお父さんは、狡《ずる》い人やった。あてをだまして弄んでおいて、電話一本で約束をほごにしてしまわはった……〉
玉枝は、うごく胎児にささやいていると、忠平が、果して朝から医者を聞き歩いてくれたかどうかも怪しいと思われてきた。だが、電話を通じて、忠平が、堕胎の不可能なことをいってきかせたことは呑みこめる気もした。
上京区で起きた女中さんの堕胎騒ぎが新聞をにぎわせた直後なのだ。時期がいけなかった。だが、足を棒にして、広い京都の町医者を虱《しらみ》つぶしに頼みあるけば、どこかに聞き入れてくれる医者はないとはいえない。忠平はどこかで投げてしまっている。
〈向島の叔母はんにたのんでみよ。叔母はんは中書島で、ひき手をしてはる。娼妓《しょうき》の町で働いてはるのやさかい、そんな手づるを知ってはるかもしれへん……〉
玉枝はそう思うと、眼はつりあがってはいるけれど、笑うとにんまり細まった眼になる顎《あご》の細い顔だちの叔母を思いだした。別れてから十年以上になる。それきり会っていない。だがたった一人の身内だ。
下腹部の鈍痛は京都駅に降りるころになると、五分間ほどの間隔をおいて、しめつけるように痛みをました。
〈赤子《やや》が怒ってはるのや。赤子が怒ってはるのや……〉
玉枝は誰《だれ》にともぶっつけようのない怒りと後悔にうちひしがれながら市電を下りた。
十六
伏見の中書島は、京都の南にある由緒《ゆいしょ》のふかい遊廓《ゆうかく》である。第十六師団の深草練兵場のある伏見町は、南へゆくほどに、淀《よど》平野に向う平地となってひらけていたけれども、遊廓のある中書島は、町名が示すとおり、川べりにあった。
そこは島のように孤立していた。川は宇治川とよばれて、観月橋をくぐって南下する。かなりな急流ではあったけれど、島近くへくると流れもゆるやかになって、いくつもの入江とも岐流ともつかぬ流れを合わせて淀川へ流れこんでいた。いわば、その分岐点に近い洲《す》に所在したのが中書島遊廓である。
もともと、この遊里は、付近にある酒問屋の職人や杜《とう》氏《じ》で栄えた町である。昔から、三《み》栖《す》の入江へつく舟が、遊客である近在の若者たちをのせてきたことも特徴である。町は、三栖の入江にそうているが、入江はもともと酒の原料の米をつんだ舟が宇治川から入る人工河川だった。川岸に窓口をみせた妓《ぎ》楼《ろう》の家なみは、細長い一本道の両わきに、手すりのみえる二階家をみせて、甍《いらか》をつらねて並んでいたが、大きなものは三十人もの妓を抱えるところがあった。大小約二百軒の楼《うち》が、川水に傘《かさ》をひろげたように軒端をうつしてならんでいる。どの妓楼も、川へつき出した小さな桟橋《さんばし》をもっていて、舟にのってくる遊客を誘いこむように出来ていたのも珍しい。
東柳町から三栖向島とよばれる川ぞいの一《いっ》郭《かく》には、著名な川魚料理の「網方《あみふさ》」「南鶴《みなみづる》」など、二重屋根をもった料理屋が建っている。踊りもでき三《しゃ》味《み》をひくやとな《・・・》芸者も数多くいて、にぎやかな遊里といえた。
玉枝の叔母である佐木田もんというひき手婆は、本通りの弁天わきにある「かつらぎ楼」につとめていた。もとより、通行人をよびとめて、客ひきするひき手婆がもんの仕事であってみれば、午《ひる》すぎた時刻はまだつとめに出ていない。もんは、昔から川をへだてた向島の畑の中にある自分の家に起居していて、五時すぎに店へ出るのを習慣としていた。玉枝は、もん叔母に会うためには、時刻からいって向島へいった方がいいと思った。ましてや、堕《だ》胎《たい》の相談をするのであるから、ふたりだけの方がいいのであった。「かつらぎ楼」の店先で、そんなはなしは出来たものではない。
玉枝は下腹の鈍痛が次第にひどくなりはじめたので、京都駅に下りた時、待合室のベンチにすわってしばらく痛みをこらえていた。前日の朝、越前を出て、夕方に京都へつき、それに昨夜は忠平に荒々しく乱暴された。躯《からだ》もくたくたになっている上に、衝撃をうけたので、胎児も動きはじめたのだろう。これまでに味わったことのない痛覚は玉枝に不安をあたえた。錐《きり》でもみこまれたみたいに下腹が痛む。それが五分ほどの間隔をおいてしめつけてくる。玉枝はベンチの上で、頭を下げ、腹をまげてじっと耐えていた。しかし、もん叔母が向島の家を出るまでには、どうしてもたどりつかねばならない。駅の時計が二時を打つころになって、元気を出して、駅前広場を歩いて中書島ゆきの市電にのった。
向島の村についたころは風が出ていた。三時半すぎであった。ひと昔前の記憶はうすれていたので、叔母の家を探すのには骨が折れた。
宇治川にそうた向島村は、土堤《どて》下にちらばった農家が多い。中には家の周囲を竹藪《たけやぶ》や杉林で囲んだ大きな農家もあったけれど、そのほとんどが、トタンぶきの小さな家である。佐木田の家もそんな農家であった。折原家から嫁に行ったもんは、その家の次男坊である佐木田勇二郎という、当時人力車夫をしていた男のところへ嫁《とつ》いでいたので、本家から一町ばかりはなれた桑畑の中の小さな分家に住んでいた。その勇二郎叔父も五年前に死んでいる。六十近くなるはずのもん叔母は、働かずには暮してゆけないので、中書島へ通っているのであった。
玉枝は島原を去るころに会ったきりの叔母の顔を思いうかべた。利欲に敏感な性質の叔母が、どことなく冷たい眼《め》つきをするのが気になったけれど、いまはそんなことはいってはおれなかった。身内のことだから、こちらの苦しみを察して力になってくれると思うしかないのである。最悪の場合、にべもなく断わられはしないかという不安もあるが、いざとなれば、竹神へ帰ることの出来ない自分は、頼みこんで叔母の家で子を産み、中書島へ出てふたたび娼妓《しょうぎ》でもして暮さねばならない気もしている。喜助のところへ帰れなければ、それしか方法がないではないか。
玉枝は歩きながら、いろいろと将来のことを考えては暗い気分に鎖《とざ》されていた。しかし、竹神へ帰りたいという思いは胸を一ぱいに占めていた。桑畑を通って、もんの家の屋根がみえる地点にきたとき、玉枝はそれでも、ほっとした。遠くに醍《だい》醐《ご》の山がかすんでみえる。山の裾《すそ》に向って、平野は枯野のように茶色がかった地面を平べったくみせてせり上っている。いま、玉枝の歩いてゆく桑畑は、黄葉の少しばかりをのこした針のような桑の林である。その桑畑をとおして、玉枝は宇治川土堤の向うを眺《なが》めわたした。酒倉のとびとびにみえる伏見の町屋根は、向う土堤の下に墨をとかしたように沈んでいる。
玉枝は叔母の家の前にきた。家は戸がしまっていた。軒のひしゃげた、ひくいトタンぶきの平家である。しばらく、家のまわりに干した大根や、千切りを入れた籠《かご》を眺めやってから、玉枝は入口の戸をたたいた。
「おばはん、おばはん」
玉枝は何どもよんだが声がなかった。戸をあけようとした。中から鍵《かぎ》がかかっているのか、あかない。
「おばはん。あてどす、玉枝どす」
よんでみたが、声はなかった。留守だとわかったのは、戸口にはさまれた郵便物が、そのまま放置されてあるのに気づいてからである。はりつめていた気持ちが風船でもしぼむみたいに力がぬけ、玉枝は一だん高い戸口の地べたに、くたくたとしゃがみこんだ。
「おばはん、おばはん」
とよんだ。下腹が急にまた痛みはじめた。玉枝はじっと下腹の痛さに耐えながら、ここで待つことにしようかと思った。しかし、もう夕刻である。遊廓はこれから活気を呈しはじめる時間である。叔母は明け方にならないと帰らないだろう。
〈そうや、中書島へ行ってみよ。叔母はんに会お。叔母はんはきっと「かつらぎ楼」にいやはるにちがいない……〉
「かつらぎ楼」で叔母をよび出し、弁天様の境内へでも誘って相談をしてみようと、玉枝は思いあらためて、針の林の桑畑の中をもどりはじめた。
十七
向島から宇治川土堤へ出た。中書島へゆくには舟に乗るのが便がいい。土堤へ出れば、渡し場がある。伏見の大橋までゆくのは、とても耐えられなかった。玉枝は舟にのろうと決心した。小さいころ、この渡し舟には何どか母とのった記憶があった。しかし、土堤に出るまでには、腹痛が激しいので時間がかかった。渡し場の見える枯草土堤へあがった時は、暮れかかっていた。橋のみえる渡し場には客の影はなかった。川へつき出た桟橋に和船が一そうつながれている。鉢巻《はちまき》をした年輩らしい船頭が一人しゃがみこんでいるのがみえた。じっと川面をみつめている。玉枝はなんとなく勇気が出てきて、くの字にまがった土堤の小道を下りていった。
小さな休み場だった。昔どおりの小舎《こや》だ。わずかな砂洲《さす》の端に建てられたそれは、床几《しょうぎ》が一つ置いてあるきりで、雨に叩かれて木目が出ていた。そこにも客はいなかった。大橋が出来てから、利用するものも少なくなったのだろう。水すれすれにつき出た桟橋《さんばし》は、いまにも流されそうに思われるほど低くて朽ちている。舟もずいぶん粗末なものだった。玉枝は心細い思いをしながら、
「おっちゃん」
とうしろ向きにしゃがんでいる船頭に声かけた。
「舟はいつ出ますのえ。中書島ィつれていっとくれやすな」
年輩の男は腰を上げた。みると、六十近いイガ栗あたまの老《ふ》けこんだ男であった。陽《ひ》に焼けて黒い顔こそしているが、眼のほそい丸顔が好々《こうこう》爺《や》にみえる。玉枝はほっと救われたような気がして、じっと船頭の柔和な顔を仰いでいた。
「おまはん、ひとりか」
と年老いた船頭は、じろっと、玉枝をみた。
「へえ、あて、ひとりどす」
船頭はこっくりうなずいた。足早に船の方へゆくと、桟橋の杭《くい》にくくりつけてある舫綱《もやいづな》を解きはじめている。
「おおきに」
玉枝は躯《からだ》の重味でゆれる桟橋をこわごわわたった。白《しろ》足袋《たび》がすっかりよごれている。竹神で下ろして履《は》いた駒《こま》下駄《げた》の鼻《はな》緒《お》も、埃《ほこり》だらけである。気はずかしさがふと頭をかすめたが、だまって舳《へさき》を近づけてくれる船頭に、手をあわせたいような気持ちになって、裾《すそ》をからげるようにしてぽいと舟にとびうつった。舟板の上に茣蓙《ござ》が敷かれていて、綿のはみ出たうすい座蒲《ざぶ》団《とん》が三枚ばかし重ねてある。
「それ、敷かんかい」
と船頭はいった。
「へえ」
船頭は玉枝の下腹のあたりを一べつしてから、器用に竿《さお》をつかって舟をはなした。
宇治の水は深い。早瀬のように流れが早い。馴《な》れた船頭でなければ、渡りきれないということを子供心にきいていたが、いま、玉枝の眼にうつる流れは、海のように青々と深味をましてせまってくるように思われる。舟べりに水しぶきがたって、舟は竿をつくたびに左右にかしぐ。無口な性格らしい老船頭は、竿を力いっぱい川岸につき出しては舟をすすめてゆくが、ふり向きもしない。川の中ほどへくるまで、船頭は、じっとだまっていたが、急にふりむいて声かけてきた。
「中書島へ帰《い》ぬのんかいな」
「へえ」
船頭はまた玉枝の腹のあたりをみた。哀れみとも、蔑《さげす》みともつかぬ眼である。皺《しわ》ばんだその眼にやがて親しみぶかい光をやどらせたと思うと、にんまり小さな口もとをほころばせた。
「向島ィ行ったんか」
「へえ」
玉枝は人の好さそうな老人の、つぎのあたったメリヤスシャツの肩の張ったうしろ姿をみながら、ゆれる舟べりに両手をつかえ、じっと腹痛にたえた。と、急に、さしこむような下腹の痛みがおそった。片手で腹をおさえた。舟は大きくゆれる。
「おまはん、どうぞしたんか、腹いたか」
老船頭は、言葉は荒いが、やさしいひびきをこめて竿をやすめた。
「へえ」
急に船頭の眼が炯《ひか》った。玉枝の顔が蒼白《そうはく》になり、額に脂汗《あぶらあせ》がにじみ出ているのをみとめたからである。
「どないした凾竅B痛いのんかいな。痛いのんかいな」
と船頭の声がする。玉枝は遠くにそれをきいた。この時、川波にゆれた舟が大きくかたむき、はずみに、下腹の胎児がぐるりと一回転して下降する気がした。思わず、玉枝はうっと声をあげていた。痛みは強まった。腹に両手をつかえ、じっと耐えようとするが、ゆれる船と、躯の不自然な坐《すわ》り位置とで、さし込む痛みはとても制止できない。う、う、うと玉枝は脂汗をだして喘《あえ》いだ。と、この瞬間、ぬめったような生温いものが条《すじ》をひいて股《もも》をつたった。玉枝は横《おう》臥《が》した。エビのように躯をまげて痛さに耐えようと努めた。下腹の大きなかたまりが、股《こ》間《かん》にむけて、つき出るように動きはじめた。玉枝は舟板に手をつかえ、紫いろの深まってゆく川面がせり上ってくるのをみつめたまま気を失った。
ゆれる舟の上だった。玉枝は、轆《ろく》轤《ろ》のまわる音をきいた。喜助が背をまるめ、作業場のすみで轆轤を廻《まわ》す音だった。ギイコギイコときこえた。それは、竿を捨てて、今しも櫓《ろ》にきりかえた船頭が櫓を押す音だったかもしれない。玉枝は、暮れなずむ空の向うに、あかね色の竹神の村をみた。花のような雲のひときれがういている。下腹の痛みはやがてかすかに失《う》せていって、なま温い血だけがこんこんと音をたてて、下半身をはいめぐってゆくのだ。玉枝は心地よい眠りにさそわれた。
〈喜助はん、喜助はん……〉
玉枝は夢心地で叫んでいた。
竹神の村の竹藪が 橙 《だいだい》いろの夕焼けにそまった。それがいま、醍《だい》醐《ご》の山影をうつした宇治の流れの上で、扇をひろげたようにひろがる空とかさなった。
「おまはん、気ィついたか」
と声がした。みると、人の好い顔をした老船頭が、皺《しわ》くちゃの顔をちかづけて微笑している。
舟はいつのまにか流れの中ほどから離れていて、波だたない静かな岸べにとまっているのであった。玉枝は裾《すそ》に寒い風をうけて、はじめてわれに返った。
「気ィついたか。よかった、よかった」
と船頭の声はやさしくきこえた。
「赤子《やや》がおりたんや。赤子はな、もうおまはんの躯にはいやへんでェ。ほれ、みんかいな、きれいな流れや。おまはんの坐ってたとこはここや」
船頭は淦《あか》とりを手にして、何ども舟板に水をかけてはかいだしはじめた。舟底に血痕《けっこん》がぬめるようにへばりついている。藁束《わらたば》をしばりつけた竹でこすりながらかいだしているのだ。その手にも生ぐさい血がとび散っている。
「赤子《やや》はな、川へ流してしもたんや。誰《だれ》がわるいというんやないわいな。赤子はこの世に縁がなかったんや。おまはん、これから中書島へ帰《い》ぬのんやろ」
「…………」
「赤子《やや》に縁がなかったんや。おまはん、またこれから働くのやろ」
船頭の声は哀れな玉枝の躯にしみとおるようにひびき、温かいその声が真綿のように耳をつつんだ。玉枝は眼頭をうるませて船頭をじっとみつめた。
かいだす水は流れを染め、水を橙いろに染めてゆく。
〈赤子《やや》は川へ流れたんやでェ……〉
玉枝はいま、宇治川の水を染めた血の色が、醍醐の山のいただきを染める夕陽のかけらとばかりにみえるのに眼を瞠《みは》った。
「おっちゃん、あては、越前へ帰《い》にますのえ。あては、越前で働いてた娼妓《おやま》どすね凵B中書島にひき手をしてはる叔母さんをたよっておなかの子ォを始末しよ思て帰る途中どしたんやわ。それが……それが……おっちゃんの舟にのったひょうしに、こんなことになってしもて……おっちゃんにえらいめいわくかけましたな。堪忍《かに》しとくれやすや」
「…………」
船頭は淦《あか》とりを置いて玉枝のぬれた顔をみた。微笑したまま汗をふいた。そうして、いっそうなごんだ眼を投げてこういった。
「ほんなら、尚《なお》のこっちゃ。……赤子《やや》をあんたにひと目みせよかと思たけど、見つけられたらえらいこっちゃさかいな、わいの裁量ですぐに川へ流してしもたんや。誰もしらへん。誰もみてえへん。宇治の水はずいぶんと早い、おまはんの赤子《やや》を遠い海へ流してくれよった」
眼をしばたたいて微笑をくずさない。
玉枝は、舟板に手をついて頭をたれた。
「御恩は生涯忘れしまへん。おっちゃん、この舟をもどしとくれやす。中書島へいってからこんな血ィだらけの着物みせたら、大さわぎになります。すんまへん。向島の叔母はんの家へ帰りまっさかいに、もういっぺん舟をもどしとくれやす」
哀願するようにいう玉枝の眼に、からみつくような視線を投げていた老船頭は、やがてこっくりうなずくと、竹桿《さお》をとりあげた。
宇治川は西の岸べの南伏見で三栖《みす》の入江になる。入江は、流れの早い本川にくらべると鏡のように凪《な》いでいる。いま、その入江の水面は遠い海のようにみえ、あかね色の夕焼け空に映えて、ガラスの粉をまいたように光って小波《さざなみ》をたてていた。船頭は器用に竿をつかった。舳をついと向島岸へ廻した。
「おっちゃん、恩にきますえ」
玉枝は冷たい風に冷えてくるぬれた裾をつまみながら、老船頭の漕《こ》ぐ櫓《ろ》の音をきいた。舟はあかね色の水しぶきのとぶ宇治川をぬける。
「さあ、小舎《こや》へ帰《い》んで、火ィを焚《た》いてやろ。おまはんのからだは冷えきったあるがな」
船頭は櫓を早めた。
十八
越前武《たけ》生《ふ》在の竹神部落へ、玉枝が帰ってきたのは十二月十七日の夕刻のことである。家を出て三日目になっていた。喜助の作業場は、すでに仕事を終っていて、職人たちは誰《だれ》もいなかった。喜助は母《おも》屋《や》に入って、玉枝のいない炉端に坐《すわ》って湯わかしの薪《まき》をくべながら、竹の節《ふし》ぬきをしていた。
節ぬきというのは、孟宗竹《もうそうちく》の節をぬく作業である。先のとがった固い鉄棒で、竹肌《たけはだ》を傷つけないように中の節をトントンと鉄棒をさし入れて打ちぬいたあとで、しのべ竹の先にまきつけた鮫《さめ》の皮で、節を平らに削る作業であった。喜助は、ときどき燃えしぶる薪をつつきながら、わきに積みかさねた竹材の節をぬき、京へ行った玉枝が今晩あたりは帰りそうなものだと心待ちしていた。
「兼徳」の集金はすぐに済むはずだし、その足で、姉小路室町から向島へゆき、叔母を訪ねたとしても、ひと晩泊りぐらいで帰って来なければならない。玉枝が、家のことを忘れずにいてくれるのなら、きっと今《こ》宵《よい》あたりは帰ってくるだろうと思っていた矢先だった。なすび色に暮れかけた表の戸口があいて、
「ただいまァ」
と声がした時、喜助は鮫皮の棒を炉端に投げ捨て、嬉《うれ》しさのあまり立ち上っていた。
「帰った凾ゥァ」
喜助は土間へかけ下り、草《ぞう》履《り》をひっかけて、戸口まできて迎えた。
瞬間、玉枝の変った顔をみて喜助は呆然《ぼうぜん》となった。
白かった。いや、白いというよりは、透明な肌《はだ》だった。京へいったということで、こんなにもかわるものだろうか。固《かた》唾《ず》をのんで見守るほどに、玉枝の顔は変貌《へんぼう》をとげていた。
十五日に家を出るまでは、どことなくむくんだような、それでいて、頬《ほお》べたのあたりの肉がそげ落ちて生気がなかったのに、いま見る肌は白雪のように艶《つや》をみせて光っている。髪の毛が耳よこに一、二本たれ下り、肩がすんなりと落ちているのも、旅の疲れかと思えたけれど、どことなく、背高くさえみえるのだった。そうして、うるみをおびたままじっと喜助に投げている眼《め》は、凄艶《せいえん》だった。
「どないしたんや。躯《からだ》を無理したんとちがうか。大丈夫か」
と喜助は問うた。すると、玉枝は片えくぼの出る微笑を口角にうかべて、
「何ともあらしまへん。汽車がなごおしたさかい、お尻《しり》のへんが痛いだけのことどす。えろう長い長い汽車どした。喜助はん、『兼徳』さんから、仰山のお金もろてきましたえ」
といい、炉端へ上ると、燃えしぶる薪を火《ひ》箸《ばし》でととのえはじめ、炎がぽっともえ上ると、自分の座にしている木《き》尻《じり》に坐った。富士絹の風呂《ふろ》敷《しき》包みの結び目をゆっくり解くと、売掛帳と、現金の入った紙包みをとり出し、
「六十二円ありまっせ。喜助はん。あんたが働かはったお金どす。これで、職人さんにも給金があげられます。餅《もち》代もあげられます」
といった。
喜助は、金の入った紙包みをふるえる手でうけとり、しばらくじっと眺《なが》めていたが、何を思ったか、あ、あんと口の中でつぶやくと、とび出た鉢頭《はちあたま》にすりあわせるようにして二ど押しいただいた。そして、うす暗い座敷へ走り入ってゆくと、仏壇に向い、チンと鈴《りん》をならして合掌している。喜左衛門の霊に供えたのである。
玉枝はそんな喜助のうしろ姿をみてほっとした。宇治の川原で血のついた裾《すそ》を洗い、それが乾くまで、船頭の焚《た》いてくれる火にあたったあと、叔母の家の納屋で一夜をすごし、朝方になって、叔母と会い、一時間ばかり話をしたあと帰ってきた旅を思いかえした。玉枝の頭には、久しぶりに会ったもん叔母の白髪頭はなかった。舟底に落した胎児と汚物を、川へいっしんに流してくれた船頭の顔だけがあった。血と異臭を放つおりものを、いつまでも淦《あか》とりできれいに洗ってくれていたあの老船頭の顔が、頭の壁に焼きついているのだ。
玉枝は船頭の名を知らなかった。おそらく、若いころから宇治の渡しとして住みついてきた人に相違あるまい。洗った裾がなかなかかわかなかったので、渡し場の小舎《こや》で火を焚き、温めてくれた宵《よい》のいっときのあいだ、いろいろと話をしているうちに、船頭の情が、玉枝を温かく包んだのであった。ゆきずりの老船頭といえたかもしれないが、玉枝を生きかえらせてくれた命の恩人だといえる。玉枝はいま、喜助の家へ帰った安《あん》堵《ど》感をおぼえると同時に、眼前で燃えている炉の火と宇治の渡し場の焚《たき》火《び》の炎がかさなって、眼頭がうるんだ。
〈喜助はんには決していうたらあかん。何もなかったことにせんならん……〉
玉枝は心に念じた。そして、喜助が奥座敷からもどってくると、京へついた日からの「兼徳」集金の模様やら、もん叔母の近況をはなしたあとで、食事の用意にとりかかったのだった。
三日あけただけのことなのに、玉枝はこの家を十年も二十年も空けていたような気がした。玉枝は、喜助の家の人間になっている自分を知った。
「きれいな問屋はんどしたえ」
と玉枝はいった。
「店の間に畳敷きの広間がおしてなァ。まわりの壁に段々になった小《こ》棚《だな》がいっぱいついてますねやわ。セルロイドの人形《にんぎょ》さんやら、石《せっ》膏《こう》の人形さんやら、御所人形やら、京人形《いちま》はんやらいっぱい飾っとおした。そん中で、喜助はんのつくらはった竹人形だけが、一だん高い棚の上にならべたありましたえ。あては、その竹人形みてたら、涙が出てきましたえ。越前竹人形と紙にかいたありますのやがな。あて、嬉《うれ》しおしたえ。全国の人形師さんから集めはった人形さんの中で、一だん高いとこに、朱塗りの枠《わく》のついたガラス箱に入れて、竹人形が飾ったあるの凾見てたら……あて、涙が出るほど嬉しおした。みんなァ親切にしてくれはりましたえ」
喜助は眼を輝かせて玉枝のいうことをきいていたが、
「崎山はんやら、御主人は達者やったか」
ときいた。玉枝はちょっと顔を伏せたがすぐこたえた。
「へえ、みんなお達者どした。仰山の丁稚《こどもつ》さんもいやはって、あてを奥の間ァへ通して歓《ごっ》待《つお》してくれはりましたえ」
喜助は寸づまりの顔を大きくほころばせ、何ども首をふった。
「躯は何ともあらへなんだか」
「何ともおへなんだ。何やしらんけど、京へいったら、胃ィのぐあいがようなりました。安心しとくれやす。躯は何ともおへんえ」
玉枝は泣きだしたいような気持ちになった。箸を置き、しばらく顔をうつ向けたままむせび泣きに耐えていると、喜助はさしのぞくようにしていうのである。
「どないしたんや。玉枝はん。あんた、何ぞあったんとちがうかいな」
玉枝はきっと眉《め》尻《じり》をつりあげて喜助をみた。無心な喜助の眼がしょぼしょぼと心配げにまたたくのに、
「なんにもあらしまへん。あては嬉しおすのんや。あんたのつくらはった人形さんが、誰にも負けんように飾ったあった凾ンて嬉しおしたんや。それに、喜助はん。あては、ここへ戻《もど》ってきたのが嬉しおすのんや。あんたはんが、ひとり淋《さび》しゅう待っててくれはったんをみて嬉しおしたんや。泣いてもよろしおすか。泣いてもよろしおしたら泣きますえ。喜助はん。あてはひとり旅が淋しおしたんや。淋しおしたんや」
うわずったようにそんなことをいうと、玉枝はやにわに食膳《しょくぜん》のわきへうつ伏せになった。大きく肩をふって泣きはじめた。
「笑《わろ》とくれやす。喜助はん。あては嬉して、嬉して……、泣けてきます」
玉枝はいつまでも肩をふるわせた。喜助は玉枝の白い襟首《えりくび》にもつれる黒髪をみていた。次第に喜助の眼は炯《ひか》った。泣き顔をあげて、微笑みかけてくる玉枝の顔は、みちがえるように、透明な肌《はだ》を輝かせていたからである。
玉枝が帰ると、喜助の家の作業場は、ひとしお活気がみなぎるかにみえた。職人たちに茶を淹《い》れてだす玉枝の容姿は、いちだんと美しくなった。健康をとりもどしたことが、明るい気分にさせたのだろう。
喜助にかしずく玉枝の姿は、村の若者たちに相かわらず憧《あこが》れを抱かせるに充分だった。当人の玉枝も、村道で会う人々に明るく笑みかけた。
南条の山々は、一夜のうちにすっかり真綿のような雪におおわれ、村の家々は終日吹雪にとじこめられた。竹藪《たけやぶ》に雪がつもり、頭を下げた竹どもが地べたに伏して破竹の音をさせる。だが、喜助の作業場は、職人の数がふえる一方であった。炭焼きをやめて、冬場のうちだけ人形づくりに励みたいという老人組もあった。せまい小舎ははちきれるほど大勢の人で埋まった。雪道を冒して買い占めにくる問屋もあった。玉枝は母屋にいて、それらの客と商いをとりきめたり、売りかけの台帳を照合したりしていたが、風邪《かぜ》をひいたのがもとで、発熱して臥《ね》ついたのは二月に入ってからのことである。
艶《つや》のあった白い肌は、一日のうちに生気がぬけた。眼がとろんとして光を失った。しかし、玉枝は咳《せ》きこみながらも、小舎へたえず顔をだした。喜助はもちろん、職人たちも、養生のために寝ていることをすすめるのだが、玉枝はなかなか母《おも》屋《や》へひっこんではくれない。
「寝とらんとあかんがな。玉枝はん」
と、喜助は皆の前で叱《しか》るようにいった。
「お茶は若いもんが淹《い》れてくれるやろ。あんたは、炬《こ》燵《たつ》に入って寝てなはれ。風邪やいうて安心しとると、こじらせてしまう。寝てなはれ」
喜助がそういうと、玉枝は首をちぢめて母屋へ下る。けれどもすぐにまた用事を思いだして小舎へ出てくる。
そんな数日がすぎたあとで、玉枝は本格的な喀血《かっけつ》をした。二月十八日のことである。その日は雪鳴りのする日で、南条の山嵐が轟々《ごうごう》と音をたてて吹き荒れる朝だった。いつものように起き出た玉枝は、炉端の木尻で湯をわかしかけていたが、太い栗材《くりざい》の薪をもちあげようとして片手を薪箱にのばしたとき、急に大きく咳きこみ、瞬間、胸もとがえぐれるようなはげしい痛みをおぼえた。咽喉《のど》に烈《はげ》しく何かの塊がふきあげてきた。ふーっと眼前が紫いろにぼやけはじめ、自《じ》在鉤《ざいかぎ》につるした湯わかしがくらくらとゆれた。うつ伏せになった。と、口から真紅の血がふき出た。無意識に両手で口をおさえたが、指間からこぼれ出る血はとめどもなかった。
「喜助はん、喜助はん」
玉枝は、しぼり出すような声で夫の名をよんだ。
喜助は、流し場で顔を洗ってから、ちょうど作業場の七厘《しちりん》に火を入れに行っていた。玉枝のよぶ声をきいて立ってくると、びっくりして膝《ひざ》がしらをふるわせた。
「どないしたんや。玉枝、どないしたんや」
喜助は朱《あけ》に染まった玉枝の顔をみて色をなくした。小《こ》柄《がら》な躯《からだ》で精一杯の力をふりしぼって、玉枝を抱きあげ、寝所にはこんだ。隣家の与兵衛をよんで、医者へ走ってもらった。
広瀬の村に分院をもっていて、土曜日と日曜日にだけつめる力石という開業医がいたが、与兵衛はこの医者をつれて雪道二里を走りとおしてきた。
力石医師は、うす暗い喜助の家の寝所に入ると、型どおりの診察をすませたあとで、落ちついた態度でゼラチンと食塩を多量に注射した。先ず血止めの処置をしたのである。
「肺どすな」
と、やせたこの医者は、雪でぬれた五分刈の頭髪に手を当てながらいった。
「だいぶわるうなってましたんやな。多量の喀血です。これやったら、片肺がみんないかれてます。安静にせんといけません。肺病は安静以外に手はないんです。結核菌ちゅう奴《やつ》は、動くと数がふえます。せやさかい、動かんようにじっとしとれば固まります。つまり石灰化するわけどすな。ぜったいに動かさんように……よう看病したげて下さい」
医者は重々しくそういうと、喜助が膝をついて頭をたれているのにこういった。
「雪があけたらな、喜助さん、陽当りのええ部屋へうつしてあげなさい。ここは寒い。えろうしめっとる」
筵《むしろ》を敷いたきりの板の間であった。医者は、玉枝のうすい紅柄の敷《しき》蒲《ぶ》団《とん》をみてから顔を歪《ゆが》めて立ち上ると、
「安静にたのみますよ」
とダメを押すようにいって帰っていった。
大正十四年には、今日のようにパスやマイシン類のような結核の卓効薬はなかった。死の病といわれたのも、貧しい山間部落では治療の方法がなかったからである。因《ちな》みにこの物語に出てくる福井県は、日本でも随一の肺病県といわれているほどだった。もっとも対策のおくれていたところといわねばならない。力石医師の置いていった熱さましの内服薬が、翌日からの玉枝の唯一の治療薬となった。動かさないようにしていると、幸い口からふき出てくる血は止ったが、玉枝は一日にして痩《や》せた。
耳うらあたりの骨がみえはじめると、玉枝の相は変った。うしろ首が落ちてくる。顔の色も平生でさえ白蝋《はくろう》のように透けていたのだから、血の気がひいてしまうと、かげったところは草いろにみえた。玉枝はじっと天井《てんじょう》をみつめているだけで、両眼に涙をためて何もいわない。もっとも、しゃべると喜助が叱《しか》りつけたせいもあるけれど、辛うじて、ひくい声ではなしをするようになったのは、二月の終りになってからであった。
「喜助はん」
玉枝は力をとりもどしたようにかすかな声でいった。
「あては、あんたにまた厄介《やっかい》をかけるようになりましたな。堪忍《かに》しとくれやすや」
喜助は、病気になっても他人行儀なことをいう玉枝が哀れに思われ、弱気になった玉枝をどうにかして力づけようとしたが、玉枝はすっかり明るさを捨てた人間にかわった。作業場からぬけてきては看病する喜助に、玉枝はこんなことをいう。
「喜助はん。あては、もうじき死にますやろな。死んでもよろしおすわ。あては長いこと、色街で人さんにうしろ指さされるような娼妓《おやま》をつとめてきましたけども、ここへきてからは天国みたいなええ目にあわしてもらいましたえ。あての一生のうちで、いちばん幸福な日ィは、竹神ィきてからの二年間どしたわ……あれからもう二年になりますな。お父さんのお墓のよこの、椿《つばき》が咲く日ィまで、あては生きていとおす。せやけど、もちますやろか。もう、どことのう死ぬ気がしますのえ。喜助はん。すんまへんけど、あてをそれまで、ここに置いとくれやすや」
玉枝は力のない声で哀願するようにいうと、カマキリのように痩せた腕をしずかに枕《まくら》もとにのばして、
「喜助はん。そこのタンスのな、二だん目の小ひきだしに、あての貯金通帳がおすのや。それ、あてが、娼妓しててためたお金どすのえ。そのお金で、あてのお墓をお父さんの傍《ねき》に立てとくれやす。あては、お父さんの嫁さんになりますのえ。喜助はんの嫁さんにしてもらおと思てここへきましたけど、喜助はんは、あてのことお母はんやいうて、ちっとも嫁さんにしてくれはらしまへなんだ。せやけど、喜助はん。正直のとこ、あてはな、あんたが、あての子ォやもしれん、と思うことがおしたえ。死なはったお父さんとのあいだにでけた子ォやもしれんと思うような日ィもおしたえ。喜助はん。あてをどうぞ、お父さんのお墓の傍《ねき》に埋めとくれやす。たんせいした女竹の藪《やぶ》をみて眠《ね》とおす」
喜助は、玉枝のくぼんだ眼の底から、とめどもなくあふれてくる透明な涙をみた。妖精《ようせい》のように思われた美しい瞳《ひとみ》の輝きはなくなっていた。玉枝は枯木のような病人の顔でしかない表情をして、かわいた紫いろの唇《くちびる》をうごかしているだけであった。しかし、喜助は膝をすりよせ、玉枝の耳にこういった。
「玉枝はん、わいをなんぼ恨んでもろても結構どす。わいは、はじめから、玉枝はんをお母はんやと思うてました。芦《あ》原《わら》の三丁町の、『花見家』の奥の部屋で会うた日ィから、あんたの顔がお父《ど》のつくった竹人形にみえましたんや。わいがつくった竹人形は、みんな、玉枝はん、あんたどすがな。わいの人形が世間に知れた凾焉Aみんなあんたのおかげどすがな。死んだらあかん。元気をだしとおくれやす。あんたが死んだら、わいは人形つくる気ィがしやしまへん。働く気ィがいっぺんでぬけてしまいます。弱気にならんと、はよようなって、明るい顔をみせとくれやす。気ィを強うもって、安静にしてさえいたら、お医者はんは必ずなおるちゅうてはりますのんや。わいは、あんたの病気がなおるのやったら、なんでもします。なんでもします。わいのお母はんどすもんの。あんたはわいのお母はんや。何にも、遠慮はいらせん」
喜助は骨ばった玉枝の手をとった。すると玉枝は、
「喜助はん」
と、眼をつぶって、
「あんたの手ェにさわった凾ヘ、これがはじめてどすなァ」
といった。耳のあたりに涙が光った条《すじ》を曳《ひ》いて流れた。
喜助は、武《たけ》生《ふ》へ使いを送り、高貴薬をとりよせたり、波の荒い越前岬にあがる数少ない生魚を買いにいったりした。玉枝の栄養摂取につとめるかたわら、夜もねむらずに看病にあたった。喜助の精魂こめた看病で、三月末に、玉枝は、いくらか生気をとりもどしたかにみえた。しかし四月二日の夜、大喀血をすると、昏睡《こんすい》状態に陥った。
玉枝が息をひきとったのは、それから五日目の四月七日の深夜である。喜助が枕もとにすわってじっと寝顔をみつめていると、昏々と眠りに入っていた玉枝が、急に瞼《まぶた》を半びらきにあけて、
「あ、あれ、あ、あれ」
と、うめくように、言葉にならないことを口走った。
「何や」
と、喜助は看病につかれた寝不足の眼をしばたたいて顔をよせた。すると玉枝は、口の中でかすかな声をたてている。人の名をよんでいるようだった。
「誰や。誰のことや」
と喜助は問うた。玉枝が物をいったことが嬉《うれ》しかったのと、力をふりしぼって何かをいおうとする声を聞きとどけてやりたいいっしんになった。
玉枝はとろんとした眼を喜助の方にむけた。
「京……宇治……」
といった。喜助は耳をよせ、玉枝の咽喉《のど》の奥で消え入りそうになる声をひき出そうとした。しかし、それきり玉枝は物をいわなかった。
急激に死期のきた玉枝の顔の変化を察知した喜助は、はじめて大きなかなしみに襲われた。
「死んだらあかん、死んだらあかん」
玉枝の瞼に己れの眼をひっつけて光をさがした。玉枝は、かすかな微笑を頬《ほお》にうかべ、喜助の手に指先をかすかにふれさせたまま、こときれた。
「お母《か》ん」
喜助は寝所の暗い天井に錐《きり》のようにつきささる言葉をなげて、玉枝の頬に顔を伏せた。
十九
氏家喜助の妻玉枝の墓は、福井県南条郡竹神村の氏家家の墓所にある。「竹細工師 氏家喜左衛門之墓」と彫られた高い石塔のわきの「氏家玉枝之墓」と記された低い御《み》影石《かげいし》の塔がそれである。その右わきに「人形師 氏家喜助之墓」とした石塔もそれとならんで建っている。この三基の墓石は、一だん高い丘の上の藪かげにひっそりとある。
そんなに陽当りはわるくはないのだけれども、細工師の消えた氏家の藪は雑草のしげるにまかせているため、整然と区《く》劃《かく》されて、まるで絨氈《じゅうたん》でも敷いたみたいに美しく掃かれていたメダケ、クロチク、モウソウ、イヨダケ、ハチクなどの藪には、昔日の面影はない。
藪は自然と混成されて、背の高い竹や太い竹が入りまじった竹林に代り、墓地に向って、大きな影をなげているのである。
しかし、墓所の段の上に植わった二本の椿の花だけは、春ともなると大輪の紅白の花を咲かせて、ひそかに匂ってくる。
人形師氏家喜助は、妻玉枝の死後、竹人形の製作をふっつりと断ち切ったといわれた。白痴男となって余生を送ったともつたえられているが、喜助は玉枝の死後三年目に死亡している。縊死《いし》であった。
自殺の動機は詳《つまび》らかではないけれど、孤独と狂乱の果てであったと竹神部落の人びとはつたえるだけで、真相は今日になってもわからない。
人形づくりに栄えた部落の一時期を記念するように、三基の石塔は、部落の人びとに守られてはきたが、関西一円に知れわたった精巧な竹人形が、氏家喜助の死から影をひそめたことは歴史の示すとおりである。
今日「越前竹人形」と名づくる真竹製の量産品が市場に出廻っているけれど、これらの製品は、この物語に出てくる竹神部落と何ら関係はない。
今日の竹人形が、いわゆる喜助人形の後継であるかどうか、作者は詳らかなことは知らない。
しかし、南条山地を分け入った竹神部落にゆくと、椿の花の咲く墓所の周囲をとり囲む雑然とした竹藪が、風にそよいでいる。
解説
磯田光一
わが胸の底のここには
言ひ難き秘密《ひめごと》住めり
と歌ったのは島崎藤村である。
考えてみるに、作家にかぎらず、人間とはみな「言い難き秘密」をもった存在ではないであろうか。人間の社会が“秩序”を保ってゆくかぎり、人は「言い難き秘密」をいだきつつ、なおも社会の掟《おきて》に順応してゆくことをしいられている。しかし平静を装う人の心の奥底に、はたして残忍な殺意が秘められていないと誰《だれ》に保証することができるであろうか。それはおそらく、現代では文学のみが解き明かしうる、ある暗い秘密の領域なのである。
水上勉氏にとって、この「秘密」とはどういうものであったのだろうか。それは水上氏が人生の苦労を重ねてきたというような点にあるのではない。むしろそれは、実生活の奥底に秘められた氏の心の暗い部分、たとえば『雁《がん》の寺』の慈念を、「頭が大きく、躯《からだ》が小さく、片輪のようにいびつ」な少年として描かずにはいられないような心をさすのである。経済的な不遇だったら、金銭や名声によって脱することができる。しかし、「言い難き秘密」をもつ作家にとって、いったい文学以外の何に秘めたる思いを託すことができるであろうか。『雁の寺』が秀《すぐ》れた作品であるのは、水上氏の「言い難き秘密」が、さりげなく、しかも的確にイメージ化され、作品全体が濃密なリアリティーをもった“詩”にまで高められているからである。
鳥獣の画を描いて、京都画壇に名をはせた岸本南嶽《なんがく》が、丸太町東洞院の角にあった黒板《くろいた》塀《べい》にかこまれた平べったい屋敷の奥の部屋で死んだのは昭和八年の秋である。
老齢に加うるに持病のぜんそくがひどかったせいもあって、蟷螂《かまきり》のように瘠《や》せた南嶽の晩年は意志だけが生きのこっているように思えた。
この書き出しの文章のうちに、すでにこの作品の基調がはっきりとあらわれている。鳥獣の画を描き続けた南嶽にとって、人間は鳥獣のような姿をとって見えていはしなかったであろうか。人生は一枚の苛酷《か こく》な地獄絵である。そこには鳥や獣のような弱肉強食の法則が支配している。しかし鳥や獣のうちにも、やはり一種の“優しい心”が宿っている。水上氏の眼《め》にも、人生はそういうものとして見えていたにちがいない。慈念が椎《しい》の木の上に発見する鳶《とび》の餌《えさ》の貯蔵所の無気味なイメージは、おそらく「頭が大きく、躯が小さく、片輪のようにいびつ」な慈念が、同じく「片輪のようにいびつ」な心をもち、その心の底にどんな暗い殺意を秘めていたかを示している。
それにしても、慈海を殺すに至る慈念の心は、なぜそれほどにまで暗いのであろうか。彼が父親の判《わか》らぬ乞食《こ じき》女の子として生れたためであろうか。あるいは、畸型《き けい》に近い身体をもち、「軍艦あたま」と呼ばれて村の子供たちからいじめられたためなのであろうか。さらにまた、学校での教練が余りにも辛《つら》かったためなのであろうか。そのいずれでもあるかもしれない。しかしこの小説には、さらに深い秘密が隠されている。慈念は殺人のあと、本堂の蝋燭《ろうそく》の炎のゆれるたびに、南嶽の描いた雁が啼《な》くのを感じている。さらにまた彼は、「松の葉蔭《は かげ》の子供雁と、餌をふくませている母親雁の襖絵《ふすまえ》」に異様な眼を輝かせ、母親雁の部分を指で破り取るのである。この場面は、慈念の心に秘められた希求が何であったかを示している。これを“母の愛への希求”といったのでは、いまだ十分ではない。襖絵の子供雁が「松の葉蔭」にいて、母親雁が「餌をふくませている」という構図が重要なのである。
人は好んで殺人の動機について語りたがる。しかし、たとえば金銭を目当ての明確な犯罪が、いったい人間性のどんな秘密を開示するであろうか。「寺の生活を利用して、時間さえうまくやれば葬式の棺桶《かんおけ》に死体を詰めて殺人ができる」という慈念の思いつきさえ、必ずしもこの小説の殺人とは直結していない。また慈念が慈海と里子との情事を目撃したにしても、それは必ずしも恋愛や嫉妬《しつと》の感情を慈念の心に植えつけたわけではない。社会的にというよりは人間として、生れながらに何物かを拒まれていると感じている慈念は、ただ何物かを奪い返したかったのである。その“何物か”とは、もちろん「餌をふくませている母親雁」の心である。
慈念の心理分析を作者が試みていない点は、逆にこの作品のモチーフが作者にとってどれほど深く切実なものであったかを示している。慈念の存在は、里子にとっては薄気味悪い影のようなものであり、また、水上氏にとっても概念的な説明をこえた生きた存在であったにちがいない。ひとり慈念だけではない。慈海も里子も、みな他人と分かつことのできない孤独を所有している。背景が寺になっている点も、この作品にとっては不可欠の条件であったと思われる。見方によっては、主人公は“寺”そのものであるとさえいえるほどである。永遠の相の下《もと》に見るとき、人間の営みは愛憎ともに相対的なものにすぎない。慈海は殺され、里子は寺を去り、慈念もまたゆくえをくらましてしまう。そして最後に残るのは、南嶽の描いた雁の襖絵、あの「むしり取られた母親雁のあと」を残した雁の絵なのである。
「松の葉蔭の子供雁と、餌をふくませている母親雁」によって象徴される世界への憧憬《どうけい》は、『越前竹人形』のうちにも生きている。喜助は「父に先立った薄幸な母親」の「情にふれる機会は生涯なかった」男である。また喜助は「背がひくかったので、劣等感をもって」いる男でもあった。父の情人であった玉枝に接するに及んで、喜助は彼女にたいして親愛感をいだかずにはいられない。この「女の顔をどこかでみた確信があった」と喜助が思うとき、それは失われた「母親」のイメージを、遠い記憶の底に喚起しているのである。
喜助と玉枝との結婚が、世の結婚と異なるのは当然である。玉枝の遊女時代の客であった忠平とのただ一度の過失が、彼女の妊娠の唯一の根拠であるからには、この夫婦の間には性的交渉さえ行われていなかったというほかはない。これを異常な、そして愚かしい事態と呼ぶことは易《やさ》しい。しかしそこには、戦後の価値観とは異なる倫理的感覚がなおも生きている。父の愛した女、そして自分に母を感じさせてくれる女は、けっして穢《けが》されてはならない存在だからである。
しかし、そういう男女関係の問題をはなれて、この小説に一本の筋を通しているのは、やはり喜助の心を領有している竹藪《たけやぶ》の記憶と、竹人形を作る職人としての彼の自覚である。喜助は玉枝を支《ささ》えとして生き、玉枝は喜助のために献身を厭《いと》わない。
玉枝が帰ると、喜助の家の作業場は、ひとしお活気がみなぎるかに見えた。職人たちに茶を淹《い》れてだす玉枝の容姿は、いちだんと美しくなった。健康をとりもどしたことが、明るい気分にさせたのだろう。
喜助にかしずく玉枝の姿は、村の若者たちに相かわらず憧《あこが》れをいだかせるに充分だった。当人の玉枝も、村道で会う人々に明るく笑みかけた。
ここに描かれているのは、いわゆる近代的な世界ではない。「家」という堅固な秩序のうちにあって、おのれの役割をこそ生きることが、そのまま誇りと美との支えたりえた人々の世界である。彼らは愛についても、幸福についても語りはしない。にもかかわらず、彼らは生きることが何であるかを、ほとんど無意識のうちに体得した叡《えい》智《ち》によって知っている。彼らが「言い難き秘密」をもっていないのではない。ただ、生きるとは「言い難き秘密」に耐えることだ、ということだけを知っているのである。
越前(福井県)は、水上勉氏の郷里若《わか》狭《さ》に接している。氏が郷里を離れてから、どれくらいの歳月が流れているのか私は知らない。しかし、戦後二十余年の歳月は、おそらく氏の郷里の姿をも大きく変貌《へんぼう》させていったにちがいない。喜助や玉枝のような心をもった人々は、おそらく近代化の蔭に、次第に姿を消していったにちがいない。
細工師の消えた氏家《うじいえ》の藪は雑草のしげるにまかせているため、整然と区劃《く かく》されて、まるで絨氈《じゆうたん》でも敷いたみたいに美しく掃《は》かれていたメダケ、クロチク、モウソウ、イヨダケ、ハチクなどの藪には、昔日の面影はない。
むろん「昔日の面影」を失ったのは、越前の竹藪だけではない。竹人形がどれほど現在の観光資源になろうと、水上氏の心に宿っている「竹人形」の夢が、ふたたび現実にもどってこようはずはないのである。現在の竹人形は、作者のいうとおり「この物語に出てくる竹神部落と何ら関係はない」のである。「竹人形」の背後の水上氏が見つめていたもの、それは氏の“失われた故郷”であり、同時に“失われた日本”でもあったはずである。おそらくこの小説には、「過去の喪失」という名の「言い難き秘密」が隠されている。そして水上氏は、その悲しみを代償としてのみ、この美しい物語を書くことができたのである。
昭和三十八年九月に、故谷崎潤一郎《じゆんいちろう》氏は「『越前竹人形』を読む」という文章を「毎日新聞」に書いている。谷崎氏が日本の風土を愛し、“失われた日本”を愛《いと》おしんだ作家であったことを思えば、谷崎氏がこの作品の最初の本質的な理解者であったとしても、少しも不思議なことではないのである。
(昭和四十四年三月、文芸評論家)