諸国物語(下)
森外 訳
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目次
パアテル・セルギウス レフ・トルストイ
樺太《カラフト》脱獄記 コロレンコ
《わに》 ドストエフスキー
センツァマニ ゴーリキー
板ばさみ チリコフ
笑 アルツィバーシェフ
死 アルツィバーシェフ
フロルスと賊と クズミン
馬丁 アレクセイ・トルストイ
著者紹介
『諸国物語』初出時の配列と表記
諸国物語(下)
パアテル・セルギウス レフ・トルストイ
一
千八百四十何年と云う頃であった。ペエテルブルクに世間の人を皆びっくりさせるような出来事があった。美男子の侯爵で、甲騎兵聯隊からお上の護衛に出ている大隊の隊長である。この士官は今に侍従武官に任命せられるだろうと皆が評判していたのである。侍従武官にすると云う事はニコラウス第一世の時代には陸軍の将校として最も名誉ある抜《ばつ》擢《てき》であった。この士官は美貌の女官と結婚する事になっていた。女官は皇后陛下に特別に愛せられている女であった。しかるにこの士官が予定してあった結婚の日取の一箇月前に突然辞職した。そして約束した貴婦人との一切の関係を断って、少しばかりの所領の地面を女きょうだいの手に委《ゆだ》ねておいて、自分はペエテルブルクを去って出家しにある僧院へ這《は》入《い》ったのである。
この出来事はその内部の動機を知らぬ人のためには、非常な、なんとも説明のしようのない事件であった。しかし当人たる侯爵ステパン・カツサツキイがためには是非そうしなくてはならぬ事柄で、どうもそれより外にはしようがないように思われたのである。
ステパンの父は近衛の大佐まで勤めて引いたものであった。それが亡くなったのはステパンが十二歳の時である。父は遺言して、おれの死んだあとでは、伜《せがれ》を屋敷で育ててはならぬ。是非幼年学校に入れてくれと云って置いた。そこでステパンの母は息子を屋敷から出すのを惜しくは思いながら、夫の遺言を反《ほ》古《ご》にすることが出来ぬので、やむことを得ず遺言通りにした。
さてステパンが幼年学校に這入ると同時に、未亡人は娘ワルワラを連れてペエテルブルクに引越して来た。それは息子のいる学校の近所に住っていて、休日には息子に来て貰おうと思ったからである。
ステパンは幼年学校時代に優等生であった。それに非常な名誉心を持っていた。どの学科もよく出来たが、中にも数学は好きで上手であった。また前線勤務や乗馬の点数も優等であった。目立つほど背が高いのに、存外軽《けい》捷《しよう》で、風采がよかった。品行の上からも、模範的生徒にせられなくてはならぬものであった。しかるに一つの欠点がある。それは激怒を発する癖のある事である。ステパンは酒を飲まない。女に関係しない。それに《うそ》を衝くと云う事がない。ただこの青年の立派な性格に瑕《きず》を付けるのは例の激怒だけである。それが発した時は自分で抑制することがまるで出来なくなって、猛獣のような振舞をする。ある時こう云う事があった。ステパンは鉱物の標本を集めて持っていた。それを一人の同窓生が見て揶揄《からか》った。するとステパンが怒って、今少しでその同窓生を窓から外へ投げ出すところであった。また今一つこう云う事があった。ステパンの言った事を、ある士官がだと云って、平気でしらを切った事がある。その時ステパンはその士官に飛び付いて乱暴をした。人の噂では士官の面部を打《ちよう》擲《ちやく》したと云うことである。とにかく普通なら、この時ステパンは貶《べん》黜《ちつ》せられて兵卒になるところであった。それを校長が尽力して公にしないで、かえってその士官を学校から出してしまった。
ステパンは十八歳で士官になった。そして貴族ばかりから成り立っている近衛聯隊の隊附にせられた。ニコラウス帝はステパンが幼年学校にいた時から知っていて、聯隊に這入ってからも特別に眼を掛けて使っていた。それで世間ではいずれ侍従武官にせられるものだと予想していたのである。
ステパンも侍従武官になることを熱心に希望していた。それは一身の名誉を謀るばかりではない。幼年学校時代からニコラウス帝を尊信していたからである。帝はたびたび幼年学校へ行幸せられた。背の高い胸の広い体格で、八字髯と、短く苅込んだ頬髯との上に鷲の嘴《くちばし》のように曲った隆い鼻のある帝は、そう云う時巌《がん》丈《じよう》な歩き付きをして臨場して、遠くまで響く声で生徒等に挨拶せられた。そう云う事のあるたびに、ステパンはなんとも云えぬ感奮の情を発した。後に人と成ってから、自分の愛する女を見て発する情と同じような感奮であった。否、ステパンが帝に対して懐《いだ》いていた熱情は、後に女に対して感じた情よりは遥かに強かった。どうにかして際限もない尊信の思想が帝に見せて上げたい。何か機会があったら、帝のために何物をでも犠牲にしたい、一命をも捧げたいと思っていたのである。帝はこの青年の心持を知って、わざとその情を煽るような言動をせられた。いつも帝は幼年学校で生徒に交って遊戯をして、生徒の真ん中に立っていて、子供らしい、無邪気な事を言ったり、また友達のように親切な事を言ったり、また改まって晴れがましい事を言ったりせられた。ステパンが例の士官を打擲した事件の後に、帝は幼年学校に臨校せられたが、ステパンを見てもなんとも言わずにいられた。さてステパンが偶然帝の側《そば》に来た時、帝は舞台で俳優のするような手附をして、ステパンを自分の側から押し除《の》けて、額に皺《しわ》を寄せて、右の手の指を立てて、威《おど》すような真似をせられた。それから還《かん》御《ぎよ》になる時、ステパンに言われた。「覚えているのだぞ。おれは何もかも知っている。しかしある事件はおれは決して口に出さない。しかしここにしまってあるぞ。」帝はこう云って胸を指さされた。
パアテル・セルギウス ステパンが組の生徒が卒業して、一同帝の前へ出た時、帝はステパンの例の事件を忘れたように言い出さずにいた。そしていつものように、一同に訓示をした。何事があってもこれからは直接におれに言え、おれとロシアの本国とのために忠実に働け、おれはいつでもお前達の親友であるぞと言ったのである。一同感激した。中にもステパンは自分の失錯の事を思って、涙を流して、この難有《ありがた》い帝に一身を捧げて勤めようと心に誓った。
ステパンが聯隊附になった時、母は娘を連れてまずモスクワに移って次いで田舎に引っ込んだ。その時ステパンは財産の半ばを割いて女きょうだいにやった。自分が手元に残して置いた財産は、贅沢な近衛聯隊に勤める入費を支払って一銭も残らぬだけの金額に過ぎなかった。
ステパンと云う男は余《よ》所《そ》目《め》には普通の立派な青年近衛士官で、専念に立身を望んでいるものとしか見えない。しかしその腹の中に立ち入って見ると、非常に複雑な、緊張した思慮をめぐらしている。その思っている事は子供の時から種々に変化したようである。それは真に変化したのではない。煎じ詰めて見ればただ一つの方針になる。即ち何事によらず完全にし遂げて、衆人の賞讃と驚歎とを博せようとするのである。たとえば学科は人に褒められ、模範とせられるまで勉強する。さてその目的を達してしまうと、何か外の方角へ手を出すのである。そんな風で、幼年学校にいた間、あらゆる学科の最優等生となっていた。そのころフランス語の会話がただ一つ不得手であった。そこで非常にフランス語を研究して、とうとうロシア語と同じようにフランス語を話すことが出来るまでに為《し》上《あ》げた。遊戯の中で将棋なども、習い始めてからは、生徒仲間で一番になるまで息《や》めなかった。
この男が士官になってからは、本務上陛下に仕え本国のために勤務するのは無論である。しかしその外にいつも何か一《ひと》為《し》事《ごと》始めている。しかもその副業に全幅の精神を傾注して成功するまでは息《や》めない。どんな詰まらぬ事にもせよ、この流義で為遂げる。そこでその事が成就してしまうと、すぐにそれを擲《なげう》って、何か新しい方角に向って進む。とにかくある事件を企てる、それを成功して人を凌駕しようとする精神がこの男を支配している。最初に聯隊に這入った時、ステパンは一つこの勤務と云うものをあくまで研究しようと思った。そこでステパンは間もなく聯隊中の模範将校になった。しかし惜しい事には例の激怒がどうかすると発する。そこで勤務上にも考科に疵《きず》を付けるような不都合の出来る事があった。
ステパンは後に上流社会で交際するようになってから自分の普通教育の足りない事に気が付いた。そこでその穴埋めをしようと思って、すぐに種々の書物を買い込んだ。そして間もなく目的を達した。次いで交際社会で立派な地位を占めようと思った。そこで舞踏の稽古をして上手になった。上流社会で舞踏会や夜会を催す事があると、ステパンはきっと請《しよう》待《だい》せられる事になった。ところがそれまでになったステパンの心中には満足の出来ない事があった。それはどこへ往っても第一の地位を占めようと思っているのに、実際は中々それどころではなかったからである。
そのころの上流社会と云うものは、たいてい左の四種類の人物から成り立っていた。多分今でもこれから後でも同じ事だろう。その種類は第一が財産のある貴顕である。第二は貴顕の間に生れて育っただけで、財産のない人々である。第三は貴顕の間に割り込もうとしている財産家である。第四は貴顕でもなく、財産家でもないのに、強いて貴顕や財産家と同じ世渡りをしようとしている人達である。
第一第二の階級には、ステパンは這入る事は出来ない。ステパンは第三第四の仲間から歓迎せられるだけである。さてその仲間に這入ってから、ステパンはまず貴夫人のどれかに関係を付けようと企てた。しかしそれは間もなく出来て、しかも余り容易に出来たので我ながら驚いた。
さてしばらくして気が付いて見ると、自分の交際している社会は決して最上流ではない。それより上に別天地がある。その別天地では随分喜んで自分を請待してはくれるが、どうしても他人扱いにしている。もちろん自分に対してその人々の言ったり、したりする事は丁寧で親密らしくは見える。しかしやはり仲間としては取扱ってくれない。そこでステパンはその仲間に入ろうと企てた。それには二つの途がある。一つは侍従武官になる事である。これは早晩出来そうに思われる。今一つは最上流の令嬢と結婚する事である。ステパンはこれをもし遂げようと企てた。
ステパンの選んだのは絵のように美しい令嬢である。それが女官を勤めている。この令嬢は単に最上流の社会に属していると云うばかりではない。最上流の中の極めて高貴な最も勢力のある人達からうるさいほど大事にせられている。その令嬢はコロトコフ伯爵の娘である。ステパンがこの人に結婚を申込もうとしたのは、決して最上流の社会に交ろうとする手段ばかりではない。その娘がいかにも人好きのする質《たち》であったので、ステパンはそれに接近してから間もなく恋い慕うようになっていた。令嬢は初めはステパンに対して非常に冷淡であった。それがある時どうした事か突然態度を一変して、ステパンに優しくするようになった。ことに母の伯爵夫人がステパンを屋敷へ引き寄せようとして骨を折るようになったのは、不思議なほどであった。
さてステパンは正式に結婚を申込んだ。申込はすぐに聴き入れられた。ステパンはこれほどの幸運が余り容易に得られたので、我ながら不思議に思った。それにどうも母と娘との挙動に怪しいところがあるらしく感ぜられた。しかしもうその娘に溺れるまでに恋をしていたので、目もくらみ耳も鈍くなっていて、ペエテルブルク中で知らぬもののない、この娘の秘密をステパンは知らずにいた。
それは伯爵コロトコフの令嬢には、ステパンが結婚の約束をする一年前に、帝のお手が付いたと云う一件である。
式を挙げる日が極《き》まってからの事である。ステパンはその日の二週間前に伯爵家の別荘に呼ばれて滞留することになった。別荘はツァルスコエ・セロである。時は五月の暑い日である。ステパンと娘とは花園の中を散歩して、そこにある菩提樹並木の蔭のベンチに腰を掛けた。その日には、白の薄絹の衣裳を着ていた令嬢マリイがいつもよりも一層美しく見えた。おぼこ娘の初恋と云うものを人格にして見せたらこんなだろうと思われるほどである。ステパンがこの天使のような純潔な処女心を、うかとした挙動や言語で傷《きずつけ》るような事があってはならぬと心配して、特別な優しさと用心深さとをもって話をしかけていると、マリイは伏目になったり、また背の高い美男のステパンを仰いで見たりしている。
千八百四十何年と云うころには、紳士社会に一種の道徳的観念があった。それは紳士が自分は貞操を守らずにいてもいいものとして、中心に不品行を呪わずにいて、そのくせ天上にあるような純潔を保っている、理想的の女を妻にしようとしていたのである。そしてそう云う紳士は自分のいる社会の処女を、ことごとくその天上にあるような純潔を保っているものだと極めていて、そのつもりで取扱っていたのである。そんな紳士は今は亡い。ところがステパンはその紳士の一人であった。
男子と云うものの平気でしている穢《けが》れた行跡の事を思えば、こう云う観念には数多《あまた》の誤謬と顛《てん》倒《とう》とを含んでいる。この観念は今日の男子が頭から処女を牝として取扱うのとは非常に相違している。しかし作者の考えではこの観念は娘や人妻のためには利益であった。そう云う天使扱いをせられると、娘も多少神々しくなろうとして努力するわけである。
ステパンはそう云う道徳的観念を持っていた紳士の一人であるから、結婚の約束をしたマリイをもその目で見ている。きょうはステパンがいつもよりも深く溺れたような心持になっていて、そのくせ少しも官能的発動を萌《きざ》していない。ただいかにも感動したような態度で、仰ぎ視るべくして迫り近づくべからざるもののように、娘の姿を眺めている。背の高いステパンは、娘の前に衝っ立って、両手で軍刀の柄《つか》を押えているのである。
ステパンは恥かしげに微笑みながら云った。「わたしは今になって始めて人間と云うものの受けられる幸福の全範囲が分ったのですね。」夫婦の約束をしてからしばらくの間は、もうぞんざいな詞《ことば》を使う権利がありながら、まだそれを敢てしないものである。ステパンは今その時期になっていて、マリイを尊いもののように見上げているので、その天使のような処女《おとめ》にお前なんぞと云う事は出来にくいのである。ステパンはようようの事で語を次いだ。「どうもお前のお蔭でわたしは自己と云うものが分ったのだね。さて分って見れば、わたしは最初一人で考えていたより、よほど善良なのだね。」
「あら。わたくしの方ではそれがとうから分っていましたの。だからわたくしあなたが好きになったのでございますわ。」
すぐ側でルスチニア鳥が一声啼いた。そして若葉が風にそよいでいる。
ステパンはマリイの手を取ってそれに接吻した。その時目には涙が湧いて来た。
これはあなたが好きになったと云った礼だと云う事を、マリイは悟った。
ステパンは黙って二三歩の間を往ったり来たりしたが、さてマリイの側に腰を掛けた。「あなたには、いや、お前には分っているだろうね。もうこうなってしまえばどうでもいいのだ。実はわたしがお前に接近したのはどうも利己主義ではなかったとは云われない。なぜと云うにわたしは上流社会に聯絡を付けようと思って、交際を求めたのだからね。しかししばらく立つとわたしの心持は一変した。そんな目的なんぞはお前と云うものを手に入れる事に比べるとなんでもなくなった。それはお前の人柄が分って来たので、そう云う心持になったのだ。ねえ、そう云うわけだからと云って、わたしの事を悪く思ってはくれないだろうね。」
マリイはそれにはなんの返事もせずに、そっとステパンの手を握った。
詞で言ったら、「いいえ、悪くなんぞは思いません」と云ったのと同じ事だと云う事が、ステパンに分った。
「そう。今お前が云ったっけね。」ステパンはこう云いかけたが、ちと言い過ぎはせぬかと思ったので、ちょっとためらった。「お前はわたしが好きになったと云ったっけね。それはそうだろうかとわたしも思っている。だがね、おこってはいけないよ。そう云うお前の感情の外に、まだお前とわたしとの間に何者かがあって、それが二人の中の邪魔にもなるし、またお前に不安を覚えさせているらしく、わたしには見えるがね。あれは一体なんだろうね。」
この詞を聞いた時、打ち明ければ今だ。今言わずにしまえば、言う時がないと云う事が女の意識を掠めて過ぎた。女は思案した。「どうせ自分が黙っていたって、この事が夫の耳に入らずには済まない。もうこうなって見れば、打ち明けたところで、この人に棄てられる気づかいはない。しかしこれまでになったのは、ほんに嬉しい。もしこの人に棄てられる事があるようでは、わたしに取っては大変だから」と思案した。そして優しい目附でステパンが姿を見た。背の高い立派な巌丈な体である。女は今ではこの男を帝よりも愛している。もしそれが帝でなかったら、十人ぐらいこの男の代りに人にくれてやってもいいと思っている。そこでこう言い出した。「あなたにお話いたして置かなくてはならないのでございますがね。わたくしあなたに隠し立てをいたしては済みませんから。わたくし何もかも言ってしまいますわ。どんな事を言うのだとお思いなさいましょうね。実はわたくし一度恋をしたことがございますの。」こう云って女はまた自分の手をステパンの手の上に載せて歎願するように顔を見た。
ステパンは黙っていた。
「あなた相手は誰だとお思いなさいますの。あの陛下でございます。」
「それは陛下を愛すると云うことは、あなたにしろわたし共にしろ、皆しているのです。女学校においでの時の話でしょう。」
「いいえ、それより後の事でございます。無論ただ空にお慕い申していたので、しばらく立つと、なんでもなくなってしまいましたのですが、お話いたして置かなくてはならないのは。」
「そこで。」
「いいえ。それがただプラトオニックマンにお慕い申したと云うばかりではございませんでしたから。」
言い放って、女は両手で顔を隠した。
「なんですと。あなた身をお任せになったのですか。」
女は黙っていた。
ステパンは跳り上った。顔の色は真っ蒼になって表情筋の痙《けい》攣《れん》を起している。この時ステパンが思い出したのはネウスキイで帝に拝謁した時、帝がこの女と自分との約束が出来たのを聞かれて、ひどく喜ばしげに祝詞を述べられたことである。
「ああ。ステパンさん。わたくしはとんだ事を申し上げましたね。」
「どうぞもうわたくしに障らないで下さい。障らないで下さい。ああ、実になんともかとも言われない苦痛です。」こう云って、ステパンはくるりと背中を向けて帰りかけた。
そこへ母親が来かかった。「侯爵。どうなされたのです。」こう云いかけたが、ステパンの顔色を見て詞を続けることが出来なかった。
ステパンの両方の頬には忽然血が漲《みなぎ》って来たのである。「あなたは御承知でしたね。御承知でわたくしを世間の目を隠す道具にお使いになりましたね。ああ。もしあなたが貴夫人でなかったら。」最後の詞を叫ぶように言ったのである。それと同時にステパンは節《ふし》榑《くれ》立《だ》った拳を握り固めて夫人の顔の前で振った。そしてくるりと背中を向けて駆け出した。
ステパンは許嫁の女の情夫が、もし帝でなくて、外の誰かであったら、きっと殺さずには置かなかっただろう。ところがそれが帝である。自分の神のように敬っていた帝である。
ステパンは翌日すぐに休暇願と辞表とを一しょに出した。そして病気だと云って一切の面会を謝絶した。それから間もなくペエテルブルクを立って荘園に引っ込んだ。
夏の間中かかって、ステパンは身上の事を整理した。夏が過ぎ去ってしまうと、再びペエテルブルクに帰らずに、僧になって僧院に這入った。
マリイの母はこの様子を聞いて、余り極端な処置を取らせまいと思って手紙をやった。しかしステパンはただ自分は神の使命のままにするので、その使命の重大なために、何事も顧る事が出来ないのだと云う返事をした。ステパンがこの時の心持を領解していたのは、同じように自信のある、名誉心の強い同胞のワルワラ一人であった。
ワルワラはステパンの心を洞察していた。ステパンは僧院に這入ると同時に、世間の人が難有《ありがた》く思っている一切の事、自分も奉行をしている間やはり難有く思っていた一切の事を抛《なげう》ったのである。ステパンはこれまで自分の羨んでいる人々を眼下に見下すような、高い地位に身を置いたのである。しかしステパンが僧になった動機はこればかりではない。これより外に、ワルワラの理解し得ない動機がある。これはこの男が真に宗教上の感情を有していたのである。この感情が自信や名誉心と交錯して一しょになって、この男の動作を左右しているのである。崇拝していたマリイに騙《だま》されて、非常な侮辱を蒙《こうむ》ったと思うと同時に、ステパンは一時絶望の境遇に陥った。そして子供の時から心の底に忘れずに持っていた信仰に立ち戻って神にたよることになったのである。
二
ステパンが僧院に入ったのは、ロシアでポクロフという聖母の恩赦の日である。この日にステパンは平生自分を凌《しの》いでいた人々の上に超絶した僧侶生活に入ったのである。
僧院の長老は上品な老人で、貴族と学者と文士とを兼ねていた。長老はルメニアから起った寺院の組合に属していて、この組合は宗門の師匠に対して絶対の服従をしているのである。
この長老の師匠は名高いアンブロジウスである。アンブロジウスの師匠はマカリウスである。マカリウスの師匠はレオニダスである。レオニダスの師匠はパイジウス・エリチュコウスキイである。
ステパンはこの長老の徒弟になった。しかしここでもステパンは人に傲《おご》る癖を出さずにはいられなかった。僧院内では誰よりもえらいと思ったのである。それからどんな場所で働く時にもそうであったが、ステパンはここでも自分の内生活を出来るだけ完全にしようと企てて、さてその目的に向いて進む努力に面白みを感じているようになった。
前にも話した通りに、ステパンは聯隊にいた時、模範的士官であった。そしてそれに満足しないで、何か任務を命ぜられると、それを十二分に遂行せずには置かなかった。詰り軍隊における実務の能力に、ステパンは新しいレコオドを作ったのである。さて今僧院に入ったところで、ステパンはここでも同じように成功しようと思った。そこでいつも勉強する。慎み深くする。謙遜する。柔和に振舞う。行為の上ではもちろん、思想の上でも色欲を制する。それから何事によらず服従する。
中にもこの服従と云うものが、ステパンのためには、僧院内の生活をよほど容易《たやす》くしてくれる媒《なかだち》になった。宮城のある都に近い僧院で、参詣する人の数も多いのだから、ステパンがさせられる用向にも、随分迷惑千万な事が少くない。そういう時にステパンは何事にも服従しなくてはならぬと云う立場からその用向を弁ずることにしている。宝物の番人をさせられても、唱歌の群に加えられても、客僧を泊らせる宿舎の帳面附をさせられても、ステパンはおれは何事に付けても文句を言うべき身の上ではない、服従しなくてはならないのだと、自分で自分を戒めて働いている。それから何事に付けても懐疑の心が起りそうになると、これも師匠と定めた長老に対する服従と云うところから防ぎ止めてしまう。もしこの服従と云うことがなかったら、ステパンは日《にち》々《にち》の勤行の単調で退屈なのに難儀したり、参詣人の雑《ざつ》沓《とう》をうるさがったり、同宿の不行儀なのを苦に病んだりした事だろう。
しかるにステパンは服従を旨としているので、そう云う一切の困難を平気で、嬉しげに身に受けている。そればかりではない。その迷惑をするのがかえって慰藉《なぐさめ》になり、たよりになるのである。ステパンはこんな独《ひとり》語《ごと》を言っている。「毎日何遍となく同じ祈祷の文句を聞かなくてはならぬのはどうしたわけだか、おれには分らない。しかしとにかくそうしなくてはならないのだ。だからおれにはそれが難有《ありがた》い」と云っている。ある時師匠がステパンに言って聞かせた。「人間は体を養うために飲食をすると同じ事で、心を養うために心の飲食をしなくてはならぬ。それが寺院での祈祷だ」と云うのである。ステパンはそれを聞いて信用した。そこで朝早く眠たいのに床から起されて勤行に出て往っても、それがステパンのために慰安になり、またそれによって歓喜を生ずることになるのである。その外自分が誰にでも謙遜していると云う意識も、師匠たる長老に命ぜられて自分のするだけの事が一々規律に《かな》って無《む》瑕《か》瑾《きん》だという自信も、ステパンに歓喜を生ぜさせるのである。
ステパンはこんな風に自分の意志を抑制する事、自分の謙徳を増長する事などに次第に力を籠めていたが、それだけでは満足する事が出来なかった。ステパンはその外一切のクリスト教の徳義を実行しようとした。そして最初にはそれが格別困難ではないように思われた。
ステパンは財産を挙げて僧院に贈与した。そしてそれを惜しいとも思わなかった。懶《らん》惰《だ》と云うものは生来知らない。自分より眼下になっている人に対して謙遜するのは、造作もないばかりではなく、かえって嬉しかった。一歩進んで金銭上の利欲と、肉欲とを尅《こく》伏《ふく》することも、余り骨は折れなかった。中にも肉欲は長老がひどく恐ろしいものだと云って戒めてくれたのに、自分が平気でそれを絶っていられるのが嬉しかった。ただ許嫁のマリイの事を思い出すと煩悶する。ただマリイと云う人の事を思うのがつらいばかりではない。もしあの話を聞かずに結婚したら、その後どうなっただろうと考えて見ると、その想像が意外にも自分の遁《とん》世《せい》を大早計であったかの如く思わせるのである。ステパンは不随意に陛下のあるおもいものの成行きを考え出す。その女は後に人の女房になって家庭を作ってから、妻としても母としても立派なものであった。その夫は顕要の地位におって人に尊敬せられ、そして前の過ちを悔いるために珍らしい善人になった女房を持っていたのである。
時としてはステパンの心が冷静になって、そんな妄想があとを絶ってしまう。そんな時に前に言ったような妄想を思い出して見ると、自分がそれに負けずに、誘惑に打ち勝ったのが嬉しくなる。
それかと思うと、ステパンがためにはまた悪い日が来ることがある。その時ステパンは今の身の上で生涯の目的にしている信仰を忘れはしないが、どうも今日僧院でしている事が興味のないものになってしまう。そんな時には自分の信仰の内容を現前せしめようとしてもそれが出来ない。その代りに、悲しい記憶が呼び出されて来る。そして自分の遁世したのを後悔するようになって来る。
そんな時にはステパンは服従と労作と祈祷との三つを唯一の活路とするより外はない。そんな時の祈祷には額を土に付けるようにして、また常よりも長い間文句を唱えている。そのくせただ口で唱えるだけで、霊はよそに逸れている。そんな時が一日か二日かあって、そのうち自然に過ぎ去ってしまう。その一日か二日がステパンがためには恐ろしくてならない。なぜと云うに自分の意志の下にも立たず、神の威力の下にも立っていず、何物とも知れぬ不思議な威力が自分を支配しているらしく思われるからである。さてそう云う日にはどうしようかと、自分で考えて見たり、また長老に意見を問うて見たりしたが、詰り長老の指図に従ってもっぱら自分で自分を制して、別に何事をも行わず、時の過ぎ去るのを待っているより外ない。そんな時にはステパンは自分の意志に従って生活せずに、長老の意志に従って生活するように思っている。そしてそこに慰安を得ているのである。
まずこんな工合で、ステパンは最初に身を投じた僧院に七年間いた。その間で、第三年の末に院僧の列に加えられて、セルギウスと云う法号を貰った。この時の儀式がセルギウスのためには、内生活の上の重大な出来事として感ぜられた。それまでにもセルギウスは聖餐を戴くたびに慰安を得て心が清くなるように思ったが、今院僧になって自分で神に仕える事になって見ると、贄《にえ》卓《づくえ》に贄を捧げる時、深い感動と興奮とを覚えて来るのである。しかるにそう云う感じが時の立つにつれて次第に鈍くなった。今度は例の悪い日が来て、精神の抑圧に逢って、ふとこの贄を捧げる時の感動と興奮とが、いつか消え失せてしまうだろうと思った。果してしばらくするうちに、尊い儀式をする時の感じが次第に弱くなった末に、とうとうただの習慣で贄を捧げてしまうようになった。
僧院に入ってから七年目になった時である。セルギウスは万事に付けて退屈を覚えて来た。学ぶだけの事は皆学んでしまった。達せられるだけの境界にはすべて達してしまった。もう何もして見る事がなくなったのである。
その代りにステパンは世間を脱離したと云う感じが次第に強くなった。ちょうどそのころ母の死んだ訃《ふ》音《いん》と、マリイが人と結婚した通知とに接したが、ステパンはそれにも動かされなかった。ただ内生活に関してのみ注意し、また利害を感じているのである。
院僧になってから四年たった時、当宗の管長から、たびたび優遇せられたことがある。そのうち長老からこんな噂を聞かせられた。それはもし上役に昇進させられるような事があっても辞退してはならぬと云う事であった。この時僧侶の間で最も忌むべき顕栄を干《もと》める念が始めてステパンの心の中に萌した。間もなくステパンはやはり都に近いある僧院に栄転して一段高い役を勤めることを命ぜられた。ステパンは一応辞退しようとしたが、長老が強いて承諾させた。ステパンはとうとう服従して、長老に暇乞をして新しい僧院に移った。
都に近い新しい僧院に引き越したのは、ステパンのためには重大な出来事であった。それは種々の誘惑が身に迫って来て、ステパンは極力それに抗抵しなくてはならなかったからである。
前の僧院にいた時は、女色の誘惑を受けると云うことはめったになかった。しかるに今度の僧院に入るや否や、この誘惑が恐ろしい勢力をもって肉迫して来て、しかも具体的に目前に現われたのである。
そのころ品行上評判のよくない、有名な貴夫人があった。それがセルギウスに近づこうと試みた。セルギウスに詞を掛け、遂に自分の屋敷へ請《しよう》待《だい》した。セルギウスはそれをきっぱりと断った。しかしその時自分の心の底にその女に近づきたい欲望が無遠慮に起ったので、我ながら浅ましくまた恐ろしく思った。セルギウスは余りの恐ろしさにその顛末を前の僧院の長老に打ち明けて、どうぞ力になって自分を堕落させないようにして貰いたいと頼んだ。セルギウスはそれだけではまだ不安心のように思ったので、自分に付けられている見習の僧を呼んで、それに恥を忍んで自分の情欲の事を打ち明けて、どうぞこれからはおれが勤行に往くのと、それから懺《ざん》悔《げ》に往くのとの外、決してどこへも往かぬように、側で見張っていてくれと言い含めた。
新しい僧院に入ってから、セルギウスは今一つの難儀に出逢った。それは今度の僧院の長老が自分のためにひどく虫の好かぬ男だと云うことである。この長老はすこぶる世間的な思想をもっている、敏捷な男である。そして常に僧侶仲間の顕要な地位を得ようと心掛けている。セルギウスはどうかして自分の心を入れ替えて今の長老を嫌わぬようになりたいと努力した。その結果セルギウスは表面的には平気で交際することが出来るようになった。しかしどうしても心の底では憎まずにはいられない。そしてある時この憎悪の情がとうとう爆発してしまった。
それはこの僧院に来てからもう二年たった時の事であった。聖母の恩赦の祭日に本堂で夜のミサが執行せられた。参詣人は夥《おびただ》しかった。そこで長老が儀式をした。セルギウスは自分の持場に席を占めて祈祷をしていた。いつもこう云う場合にはセルギウスは一種の内生活の争闘を閲《けみ》している。殊に本堂で勤行をするとなると、その争闘を強く起している。争闘と云うのは別ではない。参詣人の中の上流社会、なかんずく貴夫人を見て、セルギウスは激怒を発する。なぜかと云うにそう云う上流の人達が僧院に入り込んで来る時には、兵卒が護衛して来て、それが賤民を押し退ける。それから貴夫人達はどれかの僧侶に指さしをして囁《ささや》き交す。たいてい指さされるのは自分と、今一人の美男の評判のある僧とである。そんな事を見るのが嫌なので、セルギウスは周囲の出来事に対して、すべて目を閉じて見ずにいようとする。セルギウスはたとえば馬車の馬に目隠しをするように、贄卓の蝋燭の光と、聖者の画像と、それから祈祷をしている人々との外は何物をも見まいとする。それから耳にも讃美歌の声と祈祷の文句との外には何物をも聞くまいとする。また意識の上でも、いつも自分が聞き馴れた祈祷の詞を聞いたり、また繰り返して唱えたりする時、きっと起って来る一種の感じ、即ち任務を尽していると自覚した時に起る忘我の感じの外、何物をも感じまいとしている。
きょうもセルギウスはいつものように持場に立っていた。額を土に付けるように身を屈《かが》めた。手で十字を切った。そして例の怒りが起りそうになると、それを尅《こく》伏《ふく》しようとして努力した。あるいは冷静に自ら戒めて見たり、あるいは故意に自分の思想や感情をぼかしていようとしたりするのである。
そこへ同宿のニコデムスと云う院僧が歩み寄った。ニコデムスは僧院の会計主任である。これもとかくセルギウスに怒りを起させる傾きがあるので、セルギウスは不断恐しい誘惑の一つとして感じていたのである。なぜかと云うにセルギウスが目にはどうも、ニコデムスは長老に媚《こ》び諂《へつら》っているように見えてならない。さてそのニコデムスが側へ来て、叮《てい》嚀《ねい》に礼をして云った。長老様の仰せですが、ちょっと贄卓のある為《し》切《きり》まで御足労を願いたいと云ったのである。
セルギウスは法衣の領《えり》を正し、僧帽を被って、そろそろ群集の間を分けて歩き出した。
Lise《リイズ》, regarde《ルガルト》 ?《ア》 droite《ドロアト》, c'est《セエ》 lui《リユイ》 ! (リイズさん。右の方を御覧よ。あの人よ。)こう云う女の声が耳に入った。
O?《ウウ》, o?《ウウ》 ? Il《イル》 n'est《ネエ》 pas《パア》 tellement《テルマン》 beau《ボオ》 ! (どこ、どこ。あの人はそんなにいい男じゃないわ。)今一人の女のこう云うのが聞えた。
セルギウスは自分の事を言うのだと知っている。それで今の対話を聞くや否や、いつも誘惑に出逢うたびに繰り返す詞を口に唱えた。「而《しか》して我等を誘惑に導き給うな」と云う詞である。セルギウスはそれを唱えながら項《うなじ》を垂れ、伏目になって進んだ。贄卓の前の一段高い所を廻って、讃美歌の発唱の群を除けて進んだ。発唱の群はちょうど聖者の画像のある壁の所に出ていたのである。セルギウスはようよう贄《にえ》卓《つくえ》の為《し》切《きり》の北口から進み入った。この口から這入る時は、敬礼をするのが式である。セルギウスは式によって聖像の前で頭を低く下げた。さて顔を上げて、体は動かさずに、長老の横顔を伺った。その時長老は今一人の光り輝く男と並んで立っていた。
長老は式の法《ほう》衣《え》を着て壁の側に立っている。ミサの上衣のはずれから肥え太った手と短い指とを出して、それを便々たる腹の上に重ねていた。セルギウスが横から見た時、長老は微笑みながら右の手で法衣の流蘇《ふさ》をいじって、相手の男と話をし出した。その男は隊外将官の軍服を被《き》ている。セルギウスは軍人であったから服装を見ることは馴れている。そこで肩章や記章の文字をすぐに見分ける事が出来た。この将官は自分の付いていた聯隊で聯隊長をしていた男である。今は定めてよほど高い地位に陞《のぼ》っていることだろう。
セルギウスは一目見てこう云う事を悟った。それはこの高級武官が自分の昔の上官であったと云う事を、長老が知っていて、それで長老の肥え太った赤ら顔と禿《はげ》頭《あたま》とが喜びに赫《かがや》いていると云う事である。
セルギウスはそれだけでも侮辱せられたように感じた。そこで長老が何を言うかと思うと、ただその将官が見たいと云うので呼んだのだと云った。「昔聯隊で同僚であったあなたに逢いたいと云われたので」と、長老は将官の詞を取り次いだ。この時セルギウスは一層強烈に侮辱を感ぜずにはいられなかった。
将官は右の手をセルギウスが前に伸した。
「久し振りでお目に掛かりますね。あなたが法衣をお着けになったところを見るのは、意外の幸です。昔の同僚をお忘れにはなりますまいね。」
白髪《しらが》で囲まれた長老の笑顔は将官の詞を面白がっているように見える。それから将官の叮嚀に化粧をした顔には、得意の色が浮んで、その口からは酒の匂い、その頬髯からは葉巻煙草の匂いがする。すべてこれ等の事を、セルギウスは鞭で打たれるように感じた。
セルギウスは長老に向って再び敬礼した。そして云った。「長老様のわたくしをお呼びになった御用は。」こう云った時のセルギウスの顔と目との表情には「なぜか」と云う問が現われていた。
長老は答えた。「なに。ただ閣下があなたを見たいと云われたからですよ。」
セルギウスの顔は真っ蒼になって、物を言う時脣《くちびる》が震えた。「わたくしは世間の誘惑を避けようと思ってそれで社会から身を引いたのでございます。それにただ今主の礼拝堂で、祈祷の最中に、なぜ誘惑がわたくしに近づくようにお取計らいになりましたか。」
長老の顔は火のようになって、額に皺が寄った。「もうよろしいから、持場へお帰りなさい。」
その晩にはセルギウスは徹夜して祈祷をした。そして心密かに決するところがあって、翌朝長老と同宿一同とに謝罪した。自分の驕《きよう》慢《まん》を詫びたのである。それと同時にセルギウスはこの僧院を去ることにして、前にいた僧院の長老に手紙をやって、自分が帰って往くから引き取って貰いたいと頼んだ。手紙にはこんな事が書いてあった。自分は志が堅固でなくて、とてもお師匠様なしには、誘惑と戦って行くわけにいかない。それに罪の深い驕慢の心が起ったのを悔いると云ってあった。
折り返しての便に長老の返書が来た。いかにもこのたびの事件はおもにお前の驕慢から生じているに相違ない。お前のおこった動機を察するにこうである。お前は地位を進めてやろうと云った時辞退した。あれなども神を思っての謙遜からでなくて、自尊の心からである。「見てくれ。おれはどんな人間だと思う。おれはなんにも欲しがりはしない」と云う心持である。そんな心持でいるから新しい僧院の長老の所作を見た時、平気でいることが出来なかったのである。「おれは神の栄誉のために一切の物を擲《なげう》った。それにここではおれを珍らしい獣のように見せ物にする」と思ったのだ。お前が真に神の栄誉のために、一切の世間の名《みよう》聞《もん》を棄てているなら、そのくらいの事に逢ったって、平気でいられるはずである。お前の心にはまだ世間の驕慢が消え失せずにいる。わたしはお前の事を委《くわ》しく考えて見た。そしてお前のために祈祷をした。そこでわたしの得た神のお告はこうだ。これまでのように暮していて、身を屈するがいいと云うのである。それと同時におれは外の報告を得た。それは山に隠れていた僧のイルラリオンが聖なる生涯を閲《けみ》し尽して草庵の中で亡くなったと云うのである。イルラリオンは草庵に十八年住んでいた。あの山の首座がおれに訃《ふ》音《いん》を知らせると同時に、あのあとを引き受けて草庵に住んでくれるような僧はあるまいかと問い合せてよこした。ちょうどそのところへお前の手紙が来たのだ。そこでおれはタムビノ僧院のバイシウス首座に手紙の返事を遣った。お前の名を紹介して置いた。お前は今からバイシウス長老の所へ往って、イルラリオンのあとの草庵に住まうように願うがいい。これはイルラリオンのような清浄な人の代りになるお前だと云うのではない。あんな寂しい所にいたら、お前がその驕慢を棄てることが出来ようかと思うのである。わたしはどうぞ神がお前を祝福して下さるようにと祈っている。
セルギウスは前の僧院の長老の詞に従った。そして今の僧院の長老に右の手紙を見せて、転宿の許可を得た。それからこれまで自分の住んでいた宿房とその中にある器財とを皆僧院に引き渡して置いて、タムビノの山をさして出立した。
山の首座はもと商人で遁世した人である。この人がセルギウスを引見して、なんの変った扱いをもせずに、ただあたり前の事のように寂しい草庵を引き渡してくれた。草庵と云うのは山の半腹を横に掘り込んだ洞窟である。亡くなった先住イルラリオンもそこに葬ってある。すなわち洞窟の一番奥の龕《がん》が墓になっていて、その隣の龕が後住の寝間になっているのである。そこには藁を束ねた床がある。その外卓が一つ、聖像と書物数巻とを置いてある棚が一つある。扉は内から錠を卸《おろ》すことが出来るようにしてある。その扉の外面にも棚が吊ってあって、これは毎日一度ずつ僧院から食事を持って来て載せて置いてくれる棚である。
セルギウスはとうとう山籠りの人になってしまった。
三
セルギウスが山籠りをしてから六年目のことであった。ロシアではクリスト復活祭の前にモステニツアと云って一週間バタや玉子を食べて肉を断っていることがある。そのモステニツアに、タムビノに近いある都会で、富有な男女の人々が集って会食をした。この連中が食後に橇《そり》に乗って近郊へ遊びに行こうと云うことになった。その人々は弁護士が二人、富有な地主が一人、士官が一人、それに貴夫人が四人であった。夫人の一人は士官の妻で、今一人は地主の妻である。三人目の女は地主の同胞で未婚の娘である。さて四人目の女が一度離婚したことのある人で、器量がよくて財産がある。そしていつも常軌を逸した事をして市中の人を驚かしているのである。
その日は上天気で、橇《そり》に乗って往く道はいい。市中を離れて十ウェルストばかりの所に来て、一同休んだ。その時ここから引き返そうか、もっと先まで往こうかと云う評議があった。
「一体この道はどこまで行かれる道ですか」とマスコフキナが問うた。例の離婚した事のある美人である。
「これからもう十二ウェルスト行けばタムビノです」と弁護士の一人が答えた。これは平生マスコフキナの機嫌を取っている男である。
「そう。それから先は。」
「それから先はL市に往くのです。タムビノの僧院の側を通って往くのです。」
「そんならその僧院はあのセルギウスと云う坊さんのいる所ですね。」
「そうです」
「あれはステパン・カツサツキイと云った士官の出家したのでしたね。評判の美男ですわ。」
「その男です。」
「皆さん、御一しょにカツサツキイさんの所までこの橇で往きましょうね。そのタムビノと云う所で休んで何か食べることにいたしましょうね。」
「そんなことをすると日が暮れるまでに内《うち》へ帰ることは出来ませんよ。」
「構うもんですか。日が暮れればカツサツキイさんの所で泊りますわ。」
「それは泊るとなれば草庵なんぞに寝なくてもいいのです。あそこの僧院には宿泊所があります。しかもなかなか立派な宿泊所です。わたしはあのマキンと云う男の弁護をした時、一度あそこで泊りましたよ。」
「いいえ。わたくしはステパン・カツサツキイさんの所で泊ります。」
「それはあなたが幾ら男を迷わすことがお上手でもむずかしそうです。」
「あなたそうお思いなすって。何を賭けます。」
「よろしい。賭をしましょう。あなたがあの坊さんの所でお泊りになったら、なんでもお望みの物を献じましょう。」
「A《ア》 discr?tion《ジスクレシヨン》」(内証ですよ。)
「あなたの方でも秘密をお守りでしょうね。よろしい。そんならタムビノまで往くとしましょう。」
この対話の後に一同は持って来た生菓子やその外甘い物を食べて酒を飲んだ。それから骨を折らせる馭《ぎよ》者《しや》にもウォドカを飲ませた。貴夫人達は皆白い毛皮を着た。馭者仲間では、誰が先頭に立つかと云うので喧嘩が始まった。とうとう一人の若い馭者が大胆に橇を横に向けて、長い鞭を鳴らしながら掛声をするかと思うと、自分より前に止っていた橇を乗り越して走り出した。鐸《すず》が鳴る。橇の底木の下で雪が軋《きし》る。
橇はほとんど音も立てずに滑って行く。副馬は平等な駆足を蹈《ふ》んで橇の脇を進んで行く。高く縛り上げた馬の尾が金物で飾った繋《けい》駕《か》具《ぐ》の上の方に見えている。平坦な道が自分で橇の下を背後へ滑って逃げるように見える。馭者は力強く麻綱を動かしている。
貴夫人マスコフキナと向き合って腰を掛けているのは弁護士の一人と士官とである。二人はいつものような誇張した自慢話をしている。マスコフキナは毛皮に深く身を埋めて動かずに坐っている。そして心の中ではこんな事を思っている。「この人達の様子を見ていれば、いつも同じ事だ。同じように厭な挙動で厭な話をしている。顔は赤くなって、てらてら光って、口からは酒と煙草の臭いがする。口から出る詞もいつも同じようで、その思想はただ一つの穢《けが》らわしい中心点の周囲をうろついている。こう云う人は皆自己に対する満足を感じている。世の中はこうしたものだと思っている。自分が死ぬるまでこうしているのを別に不思議だとは思わない。わたしはこんな人達を傍で見ているのにもう飽《あき》々《あき》した。わたしは退屈でならない。わたしはどうしてもこんな平凡極まる境界を脱して、新しい境界に蹈み込んで見ずにはいられない。たしかサラトフでの出来事であったかと思う。遊山に出た一組が凍え死んだ事がある。もしこの人達がそんな場合に出逢ったら、どんな事をするだろう。どんな態度を取るだろう。言うまでもなく狗《いぬ》にも劣った卑劣な挙動をするだろう。どいつもどいつも自分の事ばかり考えて身を免れようとするだろう。とは云うものの、わたしだって同じような卑劣な事をするだろう。それはそうだが、わたしはこの人達より優れたところが一つある。とにかくわたしは器量がいい。それだけはこの人達が認めていて、わたしに一歩譲っているのだ。そこで例の坊さんだが、あの人はどうだろう。このわたしの器量のいいところが、あの坊さんには分らないだろうか。いやいや。それは分るに違いない。男と云うものに一人としてそれの分らない男はない。どの男をも通じて、それだけの認識力は持っている。去年の秋のころだっけ。あの士官生徒は本当に可笑《おか》しかった。あんな馬鹿な小僧ってありゃしない。」
こんな事を考えていたマスコフキナ夫人は向うにいる男の一人に声を掛けた。「イワン・ニコライエウィッチュさん。」
「なんですか。」
「あの人は幾つでしょう。」
「あの人とは誰ですか。」
「ステパン・カツサツキイです。」
「そうですね。四十を越していましょうよ。」
「そう。誰にでも面会しますか。」
「ええ。だがいつでも逢うと云うわけでもないでしょう。」
「あなた御苦労様ながら、わたしの足にもっとケットを掛けて頂戴な。そうするのじゃありませんよ。ほんとにあなたはとんまですこと。もっと巻き付けるのですよ。もっとですよ。それでようございます。あら。なにもわたしの足なんぞをいじらなくたってようございます。」
連中はこんな風で山籠りの人のいる森まで来た。
その時マスコフキナ夫人は一人だけ橇を下りて、外の人達にはそのままもっと先まで乗って往けと言った。一同夫人を抑留しようとしたが、夫人は不機嫌になって、どうぞ自分にだけは構わないで貰いたいと言い放った。
セルギウスが山籠りをしてからもう六年経っている。セルギウスは当年四十九歳になっている。山籠りの暮しはなかなかつらい。断食をしたり、祈祷をしたりするのがつらいのではない。そんなことはセルギウスのためには造作はない。つらいのは、思いも掛けぬ精神上の煩悶があるからである。それに二様の原因がある。その一つは懐疑で、その一つは色欲である。
セルギウスはこの二つのものを、二人の敵だと思っている。その実はただ一つで、懐疑の尅《こく》伏《ふく》せられた瞬間には色欲も起らない。しかしセルギウスはとにかく悪魔二人を相手にして戦うつもりで、別々に対抗するようにしている。
そのくせ二人の敵はいつも聯合して襲って来るのである。
セルギウスはこんな事を思っている。「ああ。主よ。なぜあなたはわたくしに信仰を授けて下さいませんか。色欲なんぞは、聖者アントニウス、その外の人々も奮闘して尅伏しようとしたのです。しかし信仰だけは聖者達が皆持っていました。それにわたくしはある数分間、ないしある数時間、甚だしきに至ってはある数日間、全く信仰と云うものを無くしています。世界がどんなに美しく出来ていたって、それが罪の深いものであって、それを脱離しなくてはならないものである限りは、なんの役に立ちますか。主よ。あなたはなんのためにそんな誘惑を拵《こしら》えました。ああ。誘惑と云うものも考えて見れば分らなくなります。わたくしが今世界の快楽を棄てて、彼岸に何物かを貯えようとしますのに、その彼岸にもし何物も無かった時は、これも恐しい誘惑ではございませんか。」こんな風に考えているうちに、セルギウスは自分で自分が気味が悪く、厭になって来た。「ええ。おれは人非人だ。これで聖者になろうなぞと思っているのは何事だ。」セルギウスはこう云って自分を嘲った。そして祈祷をし始めた。
ところがセルギウスは祈祷の最初の文句を口に唱えるや否や、心に自分の姿が浮んだ。それは前に僧院にいた時の姿である。法衣を着て、僧帽を被った威厳のある立派な姿である。セルギウスは頭を掉《ふ》った。
「いやいや。これは間違っている。これは迷いだ。人を欺くことなら出来もしようが、自ら欺くことは出来ぬ。また主を欺くことも出来ぬ。なんのおれに威厳なぞがあるものか。おれは卑しい人間だ。」こう思ってセルギウスは法衣の裾をまくって、下《した》穿《ばき》に包まれている痩せた脚を眺めた。それから裾を下して、讃美歌集を読んだり、手で十字を切ったり、額を土に付けて礼をしたりし出した。セルギウスは「この床我が墓なるべきか」と読んだ。それと同時に悪魔が自分に囁くように思われた。「独《ひとり》寝《ね》の床はやはり墓だ、虚偽だ」と云う囁きである。それと同時にセルギウスが目の前には女の肩が浮んだ。昔一しょになっていた事のある寡婦の肩である。セルギウスは身震いをしてこの想像を斥《しりぞ》けようとした。そして読み続けた。今度は僧院の清《せい》規《き》を読んだ。それが済んで福音書を手に取って開いた。するとちょうどたびたび繰り返したので、諳誦する事の出来るようになっている文句が目の前に出た。「ああ、主よ。我は信ず。我が不品行を救わせ給え」と云う文句である。
セルギウスは頭を擡《もた》げてあらゆる誘惑を払い除けようとした。たとえばぐらついている物を固定して、均勢を失わせないようにする如くに、セルギウスはゆらぐ柱を力にして自己の信仰を喚び起して、それと衝突したり、それを押し倒したりせぬように、そっと身を引いた。いつもの馬の目隠しのようなものが、また自分の眼界を狭めてくれた。それでセルギウスは強いて自ら安んずる事が出来た。
セルギウスが口には子供の時に唱えていた祈祷の詞が上って来た。「ああ。愛する主よ。我御身に願う」と云う詞である。この時セルギウスの胸が開けて、歓喜の情が起って来た。そこで十字を切って幅の狭いベンチの上に横になった。これは安息の時の台にするベンチで、枕には夏の法衣を脱いでまろめて当てるのである。
セルギウスはうとうとした。夢《ゆめ》現《うつつ》の境で、橇の鐸《すず》の音が聞えたように思ったが、それが実際に聞えたのだか、そんな夢を見たのだか分らなかった。そのうちたちまち草庵の扉を叩く音がしたので、はっきり目が覚めた。それでも自分で自分の耳を疑って、身を起して傾聴した。その時また扉を叩いた。じき側の扉である。それと同時に女の声がした。
「ああ。聖者達の伝記でたびたび読んだ事があるが、悪魔が女の姿になって出て来ると云うのは本当か知らん。たしかに今のは女の声だ。しかもなんと云う優しい遠慮深い可哀《かわい》らしい声だろう。ええ。」セルギウスは唾《つば》をした。「いや。あれはただおれにそう思われるのだ。」こう云って、セルギウスは居間の隅へ歩いて往った。そこには祈祷をする台が据えてある。セルギウスはいつもし馴れている儀式通りに膝を衝いた。体をこの格好にしただけでも、もう慰藉《なぐさめ》になり歓喜を生ずるのである。セルギウスは俯伏せになった。髪の毛が顔にかかった。もう大分髪の毛のまばらになった額際を、湿って冷たい床に押し当てた。そして同宿であった老僧のビイメンの教えてくれた、悪魔除けの頌《じゆ》を読み始めた。それから筋張った脛で、痩せて軽くなった体を支えて起き上って、あとを読み続けようとした。しかしまだあとを読まぬうちに、覚えず何か物音がしはせぬかと耳を聳《そばだ》てた。
四隣《げき》として物音がない。草庵の隅に据えてある小さい桶の中へ、いつものように点滴が落ちている。外は霧が籠めて真っ闇になっていて雪も見えない。墓穴の中のような静けさである。
その時たちまち何物かがさらさらと窓に触れて、はっきりした女の声が聞えた。目で見ないでも、美人だと云うことが分るような声である。
「どうぞクリスト様に懸けてお願い申します。戸をお開けなすって。」
セルギウスは全身の血がことごとく心《しん》の臓《ぞう》に流れ戻って、そこに淀んだような気がした。息が詰った。ようようの事で、「しかして主は復活し給うべし、敵を折伏し給うべし」と唱えた。地獄から現れた悪霊を払い除けようと思ったのである。
「わたくしは悪魔なんぞではございません。ただあたりまえの罪の深い女でございます。あたりまえの意味で申しても、また形容して申しても、道に踏み迷った女でございます。」初め言い出した時から、なんだかその詞を出す脣は笑っているらしかったが、とうとうここまで言って噴き出した。それからこう云った。
「わたくしは寒くて凍えそうになっていますのですよ。どうぞあなたの所にお入れなすって下さいまし。」
セルギウスは顔を窓硝子《ガラス》に当てた。しかし室内の灯火の光が強く反射していて、外は少しも見えなかった。そこで両手で目を囲って覗《のぞ》いて見た。外は霧と闇と森とである。少し右の方を見ると、なるほど女が立っている。女は毛の長い、白い毛皮を着て、頭には鳥打帽子のような帽子を被っている。その下から見えている顔は非常に可哀らしい、人のよさそうな、物に驚いているような顔である。それがずっと窓の近くへ寄って首を屈めて乗り出して来た。二人は目を見合せた。そして互に認識した。これは昔見た事のある人だと云うのではない。二人はこれまで一度も逢った事がないのである。しかし目を見交したところで、互に相手の心が知れたのである。ことにセルギウスの方で女の心が知れた。ただ一目見たばかりで、悪魔ではないかと云う疑いは晴れた。ただの、人のいい、可哀らしい、臆病な女だと云うことが知れた。
「あなたはどなたですか。なんの御用ですか。」セルギウスが問うた。
女はわがままらしい口吻で答えた。「とにかく戸を開けて下さいましな。わたくしは凍えているのでございますよ。道に迷ったのだと云うことは、さっき云ったじゃありませんか。」
「でもわたしは僧侶です。ここに世を遁れて住んでいるのです。」
「だっていいじゃありませんか。開けて下さいましよ。それともわたくしがあなたの庵の窓の外で、あなたが御祈祷をしていらっしゃる最中に、凍え死んでもよろしいのですか。」
「しかしここへ這入ってどうしようと。」
「わたくしあなたに食い付きはいたしません。どうぞお開けなすって。凍え死ぬかも知れませんよ。」段々物を言っているうちに、女は実際気味が悪くなったと見えて、しまいはほとんど泣声になっている。
セルギウスは窓から引っ込んだ。そして荊の冠を戴いているクリストの肖像を見上げた。「主よ。お助け下さい。主よ。お助け下さい。」こう云って指で十字を切って額を土に付けた。それから前房に出る戸を開けた。そこで手探りに鉤《かぎ》のある所を捜して鉤をいじっていた。
その時外に足音が聞えた。女が窓から戸口の方へ来たのである。突然女が「あれ」と叫んだ。
セルギウスは女が檐《のき》下《した》の雨《あま》落《おち》に足を踏み込んだと云う事を知った。手に握っている戸の鉤を撥ね上げようとする手先が震えた。
「なぜそんなにお手間が取れますの。入れて下すったってもいいじゃありませんか。わたくしはぐっしょり濡れて、凍えそうになっています。あなたが御自分の霊の助かる事ばかり考えていらっしゃるうちに、わたくしはここで凍え死ぬかも知れませんよ。」
セルギウスは扉を自分の方へうんと引いて、鉤を撥ね上げた。それから戸を少し開けると、覚えずその戸で女の体を衝いた。「あ。御免なさいよ。」これは昔貴夫人を叮嚀に取扱った時の呼吸が計らず出たのであった。
女はこの詞を聞いて微笑んだ。「これは思ったよりは話せる人らしい」と心の中に思ったのである。「ようございますよ。ようございますよ。」こう云いながら、女はセルギウスの側を摩《す》り抜けるようにして中に這入った。「あなたには誠に済みません。こんな事を思い切っていたすはずではないのですが、実は意外な目に逢いましたので。」
「どうぞ」とセルギウスは女を通らせながら云った。しばらく嗅いだ事のない上等の香水の匂いが鼻をくすぐった。
女は前房を通り抜けて、庵室に這入った。
セルギウスは外の扉を締めて鉤を卸さずに、女のあとから帰って来た。「イエス・クリストよ、神の子よ、不便なる罪人に赦《ゆる》し給え。主よ不便なる罪人に赦し給え。」こんな唱《となえ》事《ごと》を続けようにしている。心の中でしているばかりでなく、脣まで動いている。それから「どうぞ」と女に言った。
女は室の真ん中に立っている。着物から水が点滴のように垂れる。それでも女の目は庵主の姿を見て、目の中に笑いを見せている。「御免なさいよ。あなたのこうして行い澄ましておいでなさる所へお邪魔に来まして済みませんね。でも御覧のような目に逢いましたのですから、為《し》方《かた》がございません。実は町から橇に乗って遊山に出ましたの。そのうちわたくし皆と賭をして、ウォロビエフスカから町まで歩いて帰ることになりましたの。ところが道に迷ってしまいましてね。わたくしもしあなたの御庵室の前に出て来なかったら、それこそどうなりましたか。」女はこんなを衝いている。饒舌《しやべ》りながらセルギウスの顔を見ているうちに、間が悪くなって黙ってしまった。女はセルギウスと云う僧を心にえがいていたが、実物は大分違っている。予期したほどの美男ではない。しかしやはり立派な男には相違ない。頒《はん》白《ぱく》の髪の毛と頬髯とが綺麗に波を打っている。鼻は正しい恰好をして、美しい曲線をえがいている。目は、真っ直に前を見ている時、おこった炭火のように赫いている。とにかく全体が強烈な印象を与えるのである。
セルギウスは女がを衝くのを看破している。「は、そうですか」と女を一目見て、それから視線を床の上に落して云った。「わたくしはこれからあちらへ這入ります。どうぞここでお楽になさりませ。」こう云ってセルギウスは壁に懸けてあるランプを卸して、一本の蝋燭に火を移した。そして女の前で叮嚀に礼をして、奥の小部屋に引っ込んだ。小部屋は板囲いの中になっている。
女はセルギウスが何やらあちこち動かし始めたのを聞いている。「わたしとの間の交通遮断をするのだな」と思って、女は微笑んだ。さて白の毛皮を脱いで、髪の毛の引っ掛かっている帽子を脱いだ。それから帽子の下に巻いていた刺繍《ぬいとり》のある巾《きれ》を除けた。女は窓の外へ来た時、実はそんなに濡《ぬ》れてはいなかった。さも濡れたらしい様子をして、草庵に入れて貰おうとしたのである。それから戸口へ廻る時、実際行潦《ぬかるみ》へ左の足を腓腸《ふくらはぎ》まで蹈み込んだ。靴に一ぱい水が這入った。女は今氈《かも》一枚で覆ってあるベンチのような寝《ね》台《だい》に腰を掛けて、靴を脱ぎ始めた。そしてこの庵室を見廻して、なかなかいい所だと思った。間口が三尺、奥行が四尺くらいしかない、小さい一間で、まるで人形の部屋のように清潔にしてある。自分の腰を掛けている寝台の外には、壁に取り付けた書棚と祈祷の時跪《ひざまず》く台とがあるばかりである。戸の側の壁に釘が二三本打ってあって、それに毛皮と僧の着る上衣とが懸けてある。祈祷の台の側には荊の冠を戴いたクリストの画像を懸けて、その前に小さい灯火を点じてある。室内には油と汗と土との臭いが充ちている。女には室内の一切の物が気に入った。この臭いまでが気に入った。女の一番気にしているのは足の濡れたのである。中にも行潦に蹈み込んだ左の足は殊にひどく濡れているので、女は早く靴を脱ごうとしてあせっている。女は靴をいじりながら絶えず微笑んでいる。自分の企てた事をここまで運ばせたのを喜んでいるばかりではない。あの丈夫そうな、異様な、好いたらしい男をちょいと困らせたのが愉快なのである。「わたしがいろんな事を言ったのに、ろくに返事もしてくれなかったが、まあ、それはどうでもいい」と心の中に女は思った。そしてすぐに声を出して云った。「セルギウスさん。セルギウスさん。あなたのお名はそうおっしゃるのでしたね。」
「何か御用ですか」と小声で答えた。
「御免なさいよ。こんなにわざと寂しくして暮しておいでなさる所へ、お邪魔に出て済みません。ですけれど実際どうにもしようがなかったのです。もう少しあんなにしていると、わたくしきっと病気になってしまいました。どういたしてよろしいか分らなかったのですもの。わたくしぐっしょり濡れていますの。それに足が両方とも氷のように冷たくて。」
「どうぞ御免下さい。どうもわたくしはどうにもしてお上げ申す事が出来ません。」また小声でこう答えた。
「いいえ。決してあなたにお手数は掛けません。ただ明るくなるまで、ここにいさせて戴きます。」
もうセルギウスは返事をしない。女の耳には何かつぶやく声が聞えた。多分祈祷しているのだろう。
女は微笑みながらこう云った。「あなたここへ出ていらっしゃるような事はございますまいね。わたくしここで着物を脱いで体を拭かなくてはなりませんが。」
セルギウスは答えなかった。やはり今までのように小さい声で祈祷の詞を唱えている。
女は濡れた靴を強いて脱ぎかけて、「ああした男なのだな」と考えた。靴は引っ張っても引っ張っても脱がれぬので、女はおかしくなって来た。そしてほとんど声を出さずに笑った。それから自分が笑ったら、庵主がそれを聞くだろうと思った。またそれが聞えた時自分の希望する通りの功能があるだろうと思った。そこで今度は声を立てて笑った。快活な、自然な、人の好さそうな笑である。実際この笑い声は女の希望した通りの作用をセルギウスの上に起したのである。女は思った。「あんな風な男なら、随分好いてやる事が出来そうだ。まあ、なんと云う目だろう。それに幾ら祈祷の文句を唱えたって、なんと云う打ち明けたような、上品な、そして情熱のある顔だろう。わたし達のような女には皆分る。あの人はあの窓硝子に顔を押し付けてわたしを見た時、あの時もうわたしの事が分って、わたしがどんな女だと云う事を見抜いたのだ。あの人の目はその時赫《かがや》いた。あの人はその時わたしの姿を深く心に刻んだ。あの人はもうわたしに恋をしたのだ、惚れたのだ。そうだ。たしかに惚れたのだ。」ここまで思って見た時、靴がやっと脱げた。それから女は靴《くつ》足《た》袋《び》を脱ぎに掛かった。上の端がゴム紐で留めてある、長い靴足袋を脱ぐには、裳《も》をまくらなくてはならない。流石《さすが》に間を悪く思って、女は小声で云った。「あの、今こちらへいらっしゃっては困りますよ。」
板《いた》為《じ》切《きり》の向う側からは返事が聞えない。やはり単調な祈祷の声がしている。それと慌しげに立ち振舞う物音がするだけである。
女は思った。「きっと今額を土に付けて礼をしているのだろう。だけれどもそれがなんになるものか。ちょうどわたしがこっちであの人の事を思っているように、あの人はあっちでわたしの事を思っているのだもの。わたしがあの人の姿を思っているように、あの人はわたしのこの脚の事を思っているのだもの。」とうとう女は濡れた靴足袋を脱いでしまった。それから素足で寝台の上を歩いて見て、しまいにはその上へ胡座《あぐら》を掻いた。それからしばらく両手で膝頭を抱いて、前の方を見詰めて、物を案じていた。「ほんにここは、砂漠の中も同じ事だ。ここで何をしたって、誰にも分りゃあしない。」
女は身を起した。そして靴足袋を手に持って、炉の側へ往って煙突の上に置いた。それから素足で床を軽く蹈んで、寝台へ戻って来て、またその上で胡座を掻いた。
板為切の向う側ではまるで物音がしなくなった。女は頸《くび》に掛けていた、小さい時計を見た。もう二時になっている。「三時頃には連れの人達がこの庵の前に来るはずだ」と女は思った。もうそれまでには一時間しかないのである。「ええ。詰らない。ここにこうして一人で坐っていて溜まるものか。馬鹿。わたしともあるものがそんな目に逢うはずがない。すぐに一つ声を掛けて見よう。」女はこう思って呼んだ。「セルギウスさん。セルギウスさん。セルゲイ・ドミトリエウィツチュさん。カツサツキイ侯爵。」
戸の奥はひっそりしている。
「お聞きなさいよ。あなたそれではあんまり残酷でございましょう。わたくしはあなたをお呼び申さないで済むことなら、お呼び申しはいたしません。わたくしは病気です。どうしたのだか分りません。」女の声は激している。「ああ。ああ」女はうめいた。そして頭を音のするように寝台の上に投げた。不思議な事には、実際この時脱力したような、体中が痛むような、熱がして寒けがするような心持になったのである。「お聞きなさいよ。あなたがどうにかして下さらなくてはならないのです。わたくしどうしたのだか分りません。ああ。ああ。」こう云って女は上衣の前のボタンをはずして胸を出して、肘までまくった腕を背後《うしろ》へひろげた。「ああ。ああ。」
この間始終セルギウスは板為切の奥に立って祈祷していた。とうとう晩に唱えるだけの祈祷の文句を皆唱えてしまって、しまいには両眼の視線を自分の鼻の先に向けて、動かずに立っていて、「イエス・クリストよ、神の子よ、我に御恵みを垂れ給え」と繰り返していた。セルギウスの耳には何もかも聞えている。女が着物を脱いだ時、絹のさらさらと鳴る音も聞えた。セルギウスは気が遠くなるのを感じた。次の一刹那には堕落してしまうかも知れぬような気がした。そこでしばらくも祈祷を絶やさなかった。この時のセルギウスの感情は、昔話の主人公が、背後《うしろ》を振り返って見ずに、前へ前へと歩いて往かなくてはならぬ時の感情と同じ事だろう。セルギウスには身の周囲に危険があり害毒があるのが分っている。そしてその方を一目も見ずにいるのが、唯一の活路だと云うことが分っている。それに突然、どうしてもあっちの方を見なくてはいられないと云う不可抗力のような欲望が起った。それと同時に女の声がした。「お聞きなさいよ。あなたそれでは人道にはずれておいでなさいますよ。わたくしは死んでしまうかも知れません。」
「いいわ。おれはあいつの所へ往ってやろう。しかし昔の名僧は片手を火入れの中へ差込んで、片手で女の体を押えたと云うことだ。おれもそうしよう。だがここには火入れはない。」セルギウスは四辺《あたり》を見廻した。そしてランプが目に付いた。セルギウスは指をランプの火の上に翳《かざ》して額に皺を寄せて、いつまでも痛みを忍んでいようと思った。最初はなんの感じもしなかった。それから指がたしかに痛むとか、またどれだけ痛むとか云うことが、まだはっきり知れぬうちに、セルギウスは痙攣のような運動をもって手を引いた。そして手の先を振り廻した。「いや、これはおれには出来ない」と、セルギウスは諦めた。
「神様に掛けてお願いします。ほんにどうぞ来て下さいまし。わたくしは死にます。ああ。」
「おれはとうとう堕落してしまわんではならぬのか。いやいや。断じてそうはなりたくない。今すぐに往きます。」こう云ってセルギウスは扉を開いた。そして女の方を見ずに寝台の側を通って前房へ出た。そこにはいつも薪を割る木の台がある。セルギウスは手探りでその台の所へ往った。それから壁に寄せ掛けてある斧《おの》を手に取った。セルギウスは「ただ今」と声高く答えて、左の手の示《ひとさし》指《ゆび》を薪割台の上に置いて、右の手に斧の柄を握って、斧を高く振り上げて、示指の中の節を狙って打ち下した。指はいつもの薪よりは容易《たやす》く切れて、いつもの薪と同じように翻筋斗《とんぼがえり》をして台の縁に中《あた》って土間に落ちた。指の痛みをまだ感ぜないうちに、指の地に落ちた音が聞えた。しかしまだ気の落ち着かぬうちに灼《や》くような痛みがし出して、たらたら流れる血の温みを覚えた。セルギウスは血の滴る指の切口を法衣の裾に巻いて、手をしっかり腰に押し付けた。そして庵室の中に這入って、女の前に立った。「どこかお悪いのですか。」声は静かであった。
女はセルギウスの蒼ざめた顔を仰ぎ視た。僧の左の頬は痙攣を起している。女は何故ともなく、急に恥しくなって、飛び上って、毛皮を引き寄せて、堅く体に巻き付けた。「わたくし大変に気分が悪くなりましたものですから。きっと風を引いたのでございましょう。あの。セルギウスさん。わたくしは。」
セルギウスはひそやかな歓喜に赫く目を挙げて女を見た。そして云った。「姉妹よ。あなたはなぜ御自分の不滅の霊魂を穢そうとなすったのですか。世の中には誘惑のない所はありません。しかし自分の身から誘惑の出て行くものほど傷ましいものはありますまい。どうぞあなたも祈祷をなすって下さい。主が我々にお恵みをお垂れ下さるように。」
女はこの詞を聞きながら、セルギウスの顔を見ていた。そのうちなんだかぽたぽたと水のような物が床の上に落ちる音がした。女は下の方を見た。そしてセルギウスの左の手から法衣をつたって血の滴《したた》っているのを見付けた。「あなたお手をどうなすったのです。」口でこう云った時、女はさっき前房で物音のした事を思い出した。そこで忙《いそが》わしくランプを手に持って、前房へ見に出た。床の上には血まぶれになった指が落ちていた。女はさっきのセルギウスの顔よりも蒼い顔をして、引き返して来て、セルギウスに物を言おうとした。
セルギウスは黙って板為切の中へ這入って、内から戸を締めた。
女は云った。「どうぞ御免なすって下さいまし。まあ、わたくしはどういたしてこの罪を贖《あがな》ったらよろしいでしょう。」
「どうぞこの場をお立ち退き下さい。」
「でもせめてそのお創《きず》に繃帯でもいたしてお上げ申しとうございますが。」
「いや。どうぞお帰り下さい。」
女は慌しげに、無言で衣物を着た。そして毛皮を羽織って寝台に腰を掛けた。
その時森の方角から橇の鐸《すず》の音がした。
「セルギウスさん。どうぞ御勘弁なすって下さいまし。」
「よろしいからお帰り下さい。主があなたの罪をお赦し下さるでしょう。」
「セルギウスさん。わたくしはこれから身持を改めます。どうぞわたくしをお見棄て下さらないで。」
「よろしいからお帰り下さい。」
「どうぞ御勘弁なすって、わたくしを祝福して下さいまし。」
板為切の奥から声がした。「父の名、御子の名、精霊の名をもって祝福します。お帰りなさい。」
女は欷歔《すすりなき》をして立ち上って庵室を出た。
外にはいつもこの女に附き纏っている弁護士が来て待っていた。「とうとうわたしが賭に負けましたね。どうも為《し》方《かた》がありません。どっちの方にお掛けですか。」
「どちらでも。」女は橇に乗った。
女は帰《かえり》途《みち》に一言も物を言わなかった。
一年たってからマスコフキナ夫人は尼になった。やはり山籠りをしているアルセニイと云う僧の監督を受けて、折々この人に手紙で教えを授けて貰って、厳重な僧尼の生活を営んだ。
四
セルギウスはその上七年間ほど山籠りをしていた。最初は人が何か持って来てくれると、それを貰った。茶だの、砂糖だの、白パンだの、牛乳だの、また薪や衣類などである。しかし次第に時が立つに連れて、セルギウスは自分で厳重な規則を立ててそれを守って行くようになった。何品によらず万やむを得ない物の外は、人が持って来ても拒絶した。とうとう一週間に一度貰う黒パンの外には何品をも受けぬようになった。よしや人が物を持って来ても、ことごとく草庵に尋ねて来る貧乏人に分配してやってしまう。
セルギウスはいつも庵室内で暮らしている。祈祷をしたり客と話をしたりしているのである。その客の数が次第に殖えて来た。寺院に詣るのは一年に三度だけである。その外で庵室から出るのは、木を樵《こ》る時と水を汲む時とに限っている。こんな生活を五年間続けていた後に、前段に話したマスコフキナ夫人との出来事があったのである。この出来事はほどなく世間に広く聞えた。夫人が夜庵室に来た事、それから女の身持が変った事、尼になった事が聞えたのである。
この時からセルギウスの評判が次第に高くなった。尋ねて来る人の数が次第に殖えた。僧侶で草庵の側に来て住むものが出来て来た。側に宿泊所をさえ建てることになった。世間の習慣で何事をも誇張するために、セルギウスのした事は大した事のようになって、その高徳の評判は人の耳目を驚かすようになった。客が遠方から来る。病人を連れて来る。世評によれば、その病人が皆セルギウスの祈祷で直ると云うことになった。
病人の直った最初の事蹟はセルギウスが山籠りをしてから八年目にあったのである。一人の女が十四歳になる息子を連れて来て、セルギウスに、どうぞ息子の頭に手を載せて貰いたいと頼んだ。セルギウスは自分が病人を直そうのなんのと思ってはいなかった。もしそこに気が付いたら、セルギウスはそんな考えを罪の深い事と思い、また神を涜《けが》すことと思っただろう。しかし息子を連れて来た母は歎願することをやめない。セルギウスの前に伏して、外の人を直してやりながら、なぜ自分の息子だけを直してくれぬかと責め、クリストの名に掛けて頼むと云った。人の病気を直すと云う事は、それは神でなくては出来ないと、セルギウスは云った。いや、ただ子供の頭に手を載せて祈祷をして貰えばいいのだと女は繰り返した。セルギウスはそれを謝絶して、庵室に這入った。翌朝水を汲みに庵室から出て見ると、きのうの女がいる。十四歳の色の蒼い息子を連れて同じ願いを繰り返すのである。そのころは秋で、夜は寒い。それに親子はまだいたのである。その時セルギウスは不正な裁判者の譬《たと》えを思い出した。最初はこの女の願いを拒むのが正当だと確信していたのに、この時になって、その拒絶したのが果して正当であったかと云う疑惑を生じた。そこで間違いのない処置をするつもりで、跪いて祈祷した。その祈祷の間に心中で解決が熟して来た。その解決はこうである。これは女の願いを聴き入れてやるがいい。もし息子の病気が直ったら、それは母の信仰の力で直るのである。この場合には、自分はただ神に選まれた、無意味な道具に過ぎぬのである。
セルギウスは庵室の外に出て女に逢った。それから息子の頭に手を載せて祈祷し始めた。
祈祷が済んでから母は息子を連れて帰って行った。帰ってから一月たつと、息子の病気は直ってしまった。
山籠りの信者が不思議の力で病気を直したと云う評判がその近所で高くなった。それから少くも一週間に一度くらい病人が尋ねて来たり、または人に連れられて来たりする。既に一人に祈祷をしてやったので、いまさらあとから来る人を拒む事は出来ない。そこで病人の頭に手を載せて直るものが多人数である。セルギウスの評判は次第に高くなるばかりである。
セルギウスは僧院にいたことが七年で、山籠りをしてからが十三年になった。その容貌も次第に隠遁者らしくなった。鬚《ひげ》は長く伸びて白くなった。しかし頭の髪は稀《うす》くなっただけで、まだ黒くて波を打っている。
五
数週間このかたセルギウスは思案にくれている。今のような地位に自分がなったのは、果して正しい行いであろうかと思案するのである。もちろんこれは故意にしたのではない。後には管長や院主が手を出して今のような地位にしてくれたのである。最初は十四歳の童の病気の直った時である。その時からこの方の事を回顧して見れば、自分は一月は一月より、一週は一週より、一日は一日より内生活を破壊せられて内生活の代りにただの外生活が出来て来たのである。たとえば自分の内心を強いて外へ向けて引っ繰り返されたようなものである。
自分で気が付いて見れば、自分は今僧院の囮《おとり》にせられている。僧院ではなるたけ客の多いように、喜《き》捨《しや》をしてくれる人の多いようにと努めている。僧院の事務所では、セルギウスを種にして、なるたけ多く利益を得ようと努めている。たとえばセルギウスには最早一切身体の労働をさせない。日常の暮しにいるだけの物はことごとく給与してくれる。セルギウスはただ客を祝福してやるだけでいい事になっている。このごろはセルギウスの便宜を計って客に面会する日が極っている。男の客のためには待合室が出来た。セルギウスが立っていて、客を祝福する座席は欄《てすり》で囲んである。これはとかく女の客が縋《すが》り付くので座席から引き卸される虞《おそれ》があるからである。人は自分にこう云っている。客は皆自分に用があって来るのだ。来る客の望みをかなえるのは、クリストの意志を充す所以《ゆえん》であるから、拒んではならない。せっかく来た客に隠れて逢わないでは残酷である。こんな風に云われて見れば、一々道理はある。しかしその云うがままになっていて見ると、一切の内生活が外面に転じてしまうことを免れない。自己の内面にあった生命の水源が涸《か》れてしまう。自分のしている事が次第に人間のためにするばかりで、神のためにするのではなくなる。客に教えを説いて聞かせたり、客を祝福してやったり、病人のために祈祷したり、客に問われてどんな生活をするがいいと言って聞かせたり、不思議に病気が直ったとか、また受けた教えの功能があったとか云う礼を聞いたりする時、セルギウスはそれを嬉しがらずにはいられない。また自分が人間の生命の上に影響することの出来るのを、価値のある事のように思わずにはいられない。セルギウスには自分が人間世界の光明のように思われる。しかしこの心情を明白に思い浮べて見ると、かつて我内面に燃えていた真理の神々しい光明が、次第に暗くなって消えて行くのだと云う事が、はっきりして来る。「おれのしている事がどれだけ神のためで、またどれだけ人間のためだろうか。」この問題が絶えずセルギウスを責める。セルギウスにはこれに答える勇気がない。そして心の底では、こんな風に神のためにする行いの代りに人間のためにする行いを授けたのは、悪魔の所《しよ》為《い》だろうと思われる。その証拠には昔は山籠りの住家へ人の尋ねて来るのがうるさかったのに、今では人が来ないと寂しくてならない。今は人の来るのがうるさくないでもなく、またそのために自分が疲れもするが、やはり心中では人が来て自分を讃め称えてくれるのが嬉しくなっているのである。
ある時セルギウスはこの土地を立ち退いて、どこかへ身を隠してしまおうかと思った。そんな時に何から何まで工夫して百姓の着る襦《じゆ》袢《ばん》、上衣、ずぼん、帽子などまで用意した事がある。人には自分で着るのではなくて、自分を尋ねて来る貧乏人にやるのだと云った。さてその出来上った品々をしまって置いて考えた。あれを着て、長くなった髪を切って、立ち退けばいいのである。この土地を離れるには、まず汽車に乗るとしよう。三百ウェルストばかりも遠ざかったらよかろう。それから汽車を降りて村落の間を歩こうと考えた。そこである時廃兵の乞食が来たのにいろいろな事を問うた。村落を歩くにはどうして歩くか。どうして合《ごう》力《りき》をして貰うか。どうして宿を借るかと云うのである。廃兵はどんな人が多分の合力をしてくれるものだとか、宿を借るにはどうして借るものだとか、話して聞かせた。セルギウスはそれを聞いて、自分もその通りにしようと思った。ある夜とうとう例の衣服を出して身に着けて、これから出掛けようとまで思った。しかしその時になって、去留いずれがよかろうかと、今一応思案した。しばらくの間はどちらにも極める事が出来なかった。そのうち次第に意志が一方に傾いて来て、とうとう出掛けるのを廃《よ》して、悪魔のするがままになって留まる事にした。ただその時拵えた百姓の衣類が、こんな事を考えたり、感じたりした事があると云う記念品になって残っているだけである。
毎日客の数が殖えて、セルギウスは祈祷をしたり、心の修養を謀《はか》ったりする時間が少くなった。稀に心の明るくなった刹那が来ると、セルギウスは自分を地から湧く泉に比べて見る。自分は最初から水の湧く力の弱い泉ではあったが、とにかく生きた水が噴き出していた。静かに底から湧いて来て、外へ溢れていた。その泉のように、自分はもと真の生活をしていたのだ。そこへあの女が来た。今では尼になってアグニアと呼ばれている女である。あれが来ていた一晩の間、自分はあれが事を思い続けていたが、それと同じように今でもあれが事は心に刻まれて残っている。あの女は自分が真の生活をしている時、自分を誘惑しに来たのだ。そしてその清い泉の一口を飲んだ。それから後はもう自分の泉には水がたんとは溜まらない。そこへ咽《のど》のかわく人が大勢来てせぎ合って、互に押し退けようとしている。その人達の足で、昔の泉は踏み躪《にじ》られてあとには汚い泥が残っている。セルギウスは稀に心の明るくなった刹那には、こんな風に考えている。しかしそれは稀の事で、不断は疲れている。そして自分の疲れた有様を見て独りで感動している。
春の事であった。ロシアでクリスト復活祭の第四週の水曜日にする寺院の祭がある。その祭の前日であった。セルギウスは草庵の小さい龕《がん》の前で晩のミサを読んだ。草庵には這入られるだけの人が這入っていた。二十人ぐらいもいただろう。皆位の高い人や金持である。一体セルギウスは誰をでも草庵に入れる事にしているが、いつもセルギウスに付けられている僧と、日《にち》々《にち》僧院から草庵へ派遣する事になっている当番の僧とで、人を選り分ける。草庵の外には群集が押し合っている。巡礼者が八十人ばかりもいて、それには女も多く交っている。それ等が皆戸口の前にかたまっていて、セルギウスの出るのを待って、祝福をして貰おうと思っている。
ミサは済んだ。セルギウスは歌を歌いながら草庵を出て、先住の墓に参ろうとした。しかし門口を出ると、よろけて倒れそうになった。するとすぐ背後《うしろ》に立っていた商人と寺番の役をしている僧とが支えた。
「どうなさいました。セルギウス様。ああ。わたし驚いてしまった。まるで布のような白い色におなりなすったのだもの。」こう云ったのは女の声である。
セルギウスはすぐに気を取り直した。そしてまだ顔の色の真っ蒼なのに、商人と寺番とを脇へ押し退けて、前の歌の続きを歌った。この時三人の人がセルギウスにきょうのお勤をお廃《や》めになったらよろしかろうと云って諫《いさ》めた。一人はセラビオンと云う寺番で、今一人は寺男である。今一人はソフィア・イワノフナと云う貴夫人で、この女はセルギウスの草庵の側へ来て住んでいて、始終セルギウスのあとを付いて歩くのである。
「どうぞお構い下さるな。なんでもありませんから。」セルギウスはほとんど目に見えぬほど脣の周囲を引き吊らせて微笑みながら、こう云った。そしてそのまま勤行を続けた。「聖者と云うものはこうするものだ」と、セルギウスは腹の中で思った。それと同時に「聖者ですね、神のお使わしめですね」と云う声が、セルギウスの耳に聞えた。それはソフィア・イワノフナと、さっき倒れそうになった時支えてくれた商人とである。セルギウスは体を大切にして貰いたいと云う人の諫《いさめ》も聴かずに、勤行を続けた。
セルギウスが帰って来ると、群集がまた付いて帰った。龕《がん》に通ずる狭い道を押し合いへし合いして帰った。セルギウスは龕の前でミサを読んでしまった。多少儀式を省略したが、とうとう終りまで読んでしまった。
勤行が済むと、セルギウスはそこにいた人々に祝福を授けて、それから洞窟の外に出た。そして戸口に近い楡《にれ》の木の下に据えてあるベンチに腰を掛けて、休息して、新しい空気を吸おうとした。そうしなくてはもう体が続かないと思ったのである。
しかしセルギウスが戸口に出るや否や、人民は飛び付くように近寄って来て祝福を求める。救いを求める。種々の相談を持ちかける。その中には霊場から霊場へ、草庵から草庵へとさまよい歩いて、どの霊場でも、どの山籠りの僧の前でも、同じように身も解けるばかり、感動する性《たち》の巡礼女が幾らもある。この世間に類の多い、甚だ非宗教的な、冷淡な、ありふれた巡礼者の型は、セルギウスもよく知っている。それからまたこんな巡礼者がある。それは軍役を免ぜられた兵卒の老人等である。酒が好きで、真面目な世渡りが出来なくなっているので、僧院から僧院へと押し歩いて、命を繋いでいるのである。またただの農家の男女もある。それは種々の身勝手な願いをしに来たり、極くありふれた事柄を相談に来る。例えば自分の娘を何の誰に嫁入させようとか、どこへ店を出そうとか、どこで田地を買おうとか云う事を持って来て、可否を問うのである。また乳を飲ませながら眠って子供を窒息させたが、その子供の霊が助かるだろうかと尋ねたり、私生児でも救いが得られようかと尋ねたりする。
すべてこんな事にはセルギウスは聞き飽きている。面白くもなんともない。こんな人達から新しい事を聴くことは決して出来ない。またこんな人達に宗教心を起させようとしても徒労である。これは皆セルギウスにはよく分っている。それでもセルギウスはこの大勢の人を見るのが厭ではない。この人達は皆自分を尊信して、自分の祝福を受けたり、自分の意見を聞いたりしようと思って来るのだと思えば憎くもない。そこでセルギウスはこの人達をうるさがりながら歓迎しているのである。
番僧セラビオンは群集を追い散らそうとした。そして群集に向って、セルギウス様は疲労していられると断った。しかしセルギウスは「子等をして我《わが》許《もと》に来さしめよ」と云う福音書の詞を思って、自分の挙動に自分でひどく感動しながら、群集を呼び寄せるように言い付けた。
セルギウスは身を起して欄《てすり》の所に出た。その外には群集が押し合って来ている。セルギウスは一同に祝福を授けて、それから一人一人物を問うのに答え始めた。その自分の声が弱いのに、自分で感動しながら答え始めた。しかしなんと思っても来ているだけの人に皆満足を与えることは出来ない。セルギウスはまた目の前が暗くなって、よろけ出した。ようよう手で欄を掴まえて倒れずにいた。血が頭に寄って来て、一度顔が蒼くなって、すぐ火のように赤くなるのを感じた。「どうぞ皆さんあしたまで待って下さい。わたしにはきょうはもう御返事が出来ません。」こう云って置いて、また一同に祝福を授けて、木の下のベンチの方へ帰ろうとした。例の商人がすぐに来て手を引いてベンチへ連れて往って、腰を卸させた。群集の中からはこんな声がする。「セルギウス様。どうぞわたし共を見放さないで下さい。わたし共はあなたに見放されては、もう生きていられません。」
商人はセルギウスを楡の木の下のベンチに連れて往って置いて、自分は巡査のように群集を追い散らすことに努力している。自分の声をセルギウスに聞かすまいとして、小声で云っているが、そのくせ語気は鋭く、脅《おびやか》すようである。「さあ、退いた退いた。ここを退くのだ。祝福をして戴いたじゃないか。その上どうして貰おうと云うのだ。退くのだ。それが厭なら少し寄附でもするがいい。おい、そこにいるおばさん。お前も退くのだ。どこへ押して来ようと云うのだ。さっきも聞いた通り、もうきょうはおしまいなのだ。またあした来たら、お前も伺う事が出来るかも知れない。運次第だ。もうきょうは駄目だよ。」
「いいえ。わたくしはただセルギウス様を、一目拝めばよろしいのです。」こう云ったのは婆あさんである。
「お顔ならすぐに見せてやる。何を押すのだ。」
商人が随分群集につらく当るのが、セルギウスに聞えた。セルギウスは庵室の小使を呼んで、あの人に余りひどく人を叱らないように言えと命じた。こう云ったって、商人はやはり追い退けるとは、セルギウスにも分っている。自分ももう一人でいたい、休みたいと思っている。それでも小使をやって商人に注意を与えた。これは群集に感動を起させようとしたのである。
商人は答えた。「いいよ、いいよ。何もわたしは皆を追い退けるのではない。ただ少し抑えるだけだ。打ちやって置くと、あの人達は人一人責め殺すくらい平気なのだ。皆自分の事ばかり考えていて、人を気の毒だなんぞとは思わない。いけないよ。退くのだと云っているじゃないか。あす来るのだよ。」とうとう群集がことごとく散ってしまうまで、商人は止めなかった。
商人がこんなに骨を折るには種々の理由がある。一つは自分が平生秩序を好んでいるからである。今一つは大勢の人を追いまくるのが面白いのである。しかし今一つ何よりも大事な理由がある。それは自分が一人残ってセルギウスに頼もうと思うことがあるのである。
商人は妻を亡くした独りものである。妻の死んだあとに病気な娘が一人残っている。その娘は病気があるために、人に《よめ》に遣ることが出来ぬのである。商人はこの娘を連れて千四百ウェルストの道をわざわざ来た。これは娘の病気をセルギウスに直して貰おうと思うからである。
商人の娘はもう病気になってから二年たっている。その間父は娘を諸方に連れて廻って、病気を直して貰おうとした。最初には地方の大学の外来診察を受けさせた。しかしなんの功もなかった。それからサマラ領の百姓で、療治の上手なものがあると聞いて、連れて往った。それは少し利目があったらしかった。それからモスクワの医者の所へ連れて往って、金をたくさん取られた。これはなんにもならなかった。ちょうどその時セルギウスがなんの病気でも直すと云う事を聞いて、とうとう娘をここへ連れて来たのである。
商人は群集をことごとく追い払った後に、自分がセルギウスの前に出て、突然跪いて、大声でこう云った。
「セルギウス様。どうぞわたくしの娘の病気をお直しなさって下さい。わたくしはこうしてあなたの前に跪いてお願いします。」こう云ってちょうど皿を二枚重ねるように手を重ねた。
商人の詞や挙動はいかにも自然らしくて、何か習慣や規則でもあって、それによってしているようである。娘の病気を直して貰うには、これより外にはしようがないと云う風である。その態度がいかにも知れ切った事を平気でしているようなので、セルギウスもそれをあたりまえの事、外にしようのない事と感ぜずにはいられなかった。しかしセルギウスは商人にまず身を起させて、その事柄を委《くわ》しく話せと命じた。
商人は話し出した。娘は当年二十二歳の未婚女である。二年前に突然母が亡くなって、その時娘も病気になった。病気になった時は急に大声で叫んだ。そしてそれ切り健康に戻る事が出来ずにいる。商人はその娘を連れて千四百ウェルストの道をここまで来た。娘は宿泊所に置いてある。セルギウス様がお許しなされば、すぐ連れて来る。しかし昼間は来られない。娘は明るい所を嫌って、いつも日が入ってから部屋の外に出るのだと云うのである。
「ひどく弱っていられますか」とセルギウスが問うた。
「いえ。大して弱ってはいません。体は弱るどころではなくて、ひどく太っています。しかしお医者の云われる通りに娘は神経衰弱になっています。もしお許しなさるなら、すぐに連れて参りましょう。どうぞお手を娘の頭にお載せ下さって、御祈祷をなさって、病気の娘をお救い下さい。そして親のわたくしが元気を恢復し、一族がまた栄えて行くようになさって下さい。」商人はこう云って再びセルギウスの前に跪いて皿のように重ねた両手の上に頭を低《た》れて、動かずにいる。
セルギスウは商人に再び身を起させた。そして自分のしている業の困難な事、困難でも自分がこらえてそれをしなくてはならぬ事を考えた。そして溜息を衝いて、しばらく黙っていた後に、こう云った。「よろしい。晩にその娘を連れておいでなさい。祈祷をして上げましょう。しかし今はわたしは疲れていますから、いずれ呼びに上げます。」こう云って草臥《くたび》れ切った目を閉じた。
商人は足を爪立ててその場を立ち退いた。足を爪立てたので、靴の音はなお高く聞えた。
ようようの事でセルギスウは一人になった。セルギスウはいつの日だって祈祷をすると客に逢うとだけである。しかしきょうは格別にむずかしい日であった。早朝に位階の高い人が来て、長い話をした。その次にはセルギスウを信じている、宗教心の深い母親が、大学教授をしていて、信仰のまるでない、若い息子を連れて来て、出来る事なら帰《き》依《え》させて貰おうとした。この対話はひどく骨が折れた。若い教授は坊主と弁論がしたくない。多分セルギウスを少し足りないように思っているらしい。そこでなんでもセルギウスの言うことを御もっともだとばかり云っている。そのくせこの信仰の無い若い男が安心立命をしていると云うことが、セルギウスに分った。セルギウスは、不愉快には思いながら、今その教授との対話を思い出している。
セルギウスに仕えている僧が来て云った。「何か少し召し上りませんか。」
「はあ。何か持って来て下さい。」
僧は庵室の方へ往った。そこは龕《がん》のある洞窟から十歩ばかり隔たっている。
セルギウスが一人暮しをして、身の周囲《まわり》の事をすべて一人で取りまかない、パンと供物とで命を繋いでいた時代は遠く過ぎ去っている。今ではセルギウスだって勝手に体を悪くしてもいいと云う権利はないと云って、僧院のものがさっぱりした、しかも滋養になる精進物を運んで来る。セルギウスはそれを少しずつしか食べない。しかし前に比べて見ると、よほど多く食べる。それに前には物をいやいや食べて、始終何か食べるのを罪を犯すように感じていたのに、今では旨がって食べる。きょうも少しばかりの粥《かゆ》を食べ、茶を一ぱい飲んで、それから白パンを半分食べた。僧は後片付をして下った。セルギウスは一人楡の木の下のベンチに居残った。
五月の美しい夕である。白樺、白《はく》楊《よう》、楡、山《さん》《ざ》子《し》、《かし》などの木が、やっと芽を吹いたばかりである。楡の木の背後《うしろ》には黒樺の花が満開している。ルスチニア鳥が直《じ》き側で一羽啼いている。外の二三羽はずっと下の河岸の灌木の中で、優しく人を誘うような、笛の音に似た声を出している。遠い岸を野らから帰る百姓が、歌を謡って通る。日は森のあなたに沈んで、ちらばった光を野の緑の上に投げている。野の一方は明るい緑に見えていて、他の一方、楡の木の周囲《まわり》は暗い蔭になっている。周囲《まわり》を鞘《しよう》翅《し》虫《ちゆう》が群り飛んで、木の幹に打《ぶ》っ付かっては地に落ちる。セルギウスは夕食が済んだので、静かな祈祷をし始めた。
「イエス・クリストよ。神の子よ。我等に御恵みを垂れ給え。」まずこう唱えて、それから頌《じゆ》を一つ誦《じゆ》した。頌がまだ畢《おわ》らぬうちに、どこからか雀が一羽飛んで来て地の上に下りた。それが啼きながらセルギウスの方へ躍って近づいて来たが、何物にか驚いたらしく、また飛んで逃げた。セルギウスはこの時あらゆる現世の物を遠《とお》離《ざ》ける祈祷をした。それから急いで商人の所へ使をやって、娘を連れて来いと云わせた。娘の事が気に掛かっているのである。セルギウスがためには、知らぬ娘の顔を見るのが、慰みになるような気がした。それに父親もその娘も自分を聖者のように思っていて、自分の祈祷に利《きき》目《め》があると信じているのが嬉しかった。セルギウスは聖者らしく振舞う事を、不断斥《しりぞ》けてはいるが、心の底では自分でも聖者だと思っているのである。
折々はどうして自分が、あの昔のステパン・カツサツキイがこんな聖者、こんな奇蹟をする人になったかと、不審に思う事もある。しかし自分がそうした人になっていると云う事には疑いを挟《さしはさ》まない。自分の目で見た奇蹟をば、自分も信ぜずにはいられない。最初に十四歳になる男の子の病気を直した事から、最近にある老母の目を開けてやった事まで、皆自分の祈祷の力のように思われる。いかにも不思議な事ではあるが、事実がそうなっているのである。
そこで商人の娘に逢いたく思うのは、ここでまた奇蹟の力を験《ため》して、今一度名誉を博する機会を得ようと思うのである。「千ウェルストもある所から、人がおれを尋ねて来る。新聞はおれの事を書く。帝もおれの名を知っていられる。宗教心の薄らいだヨオロッパがおれの事を評判している。」セルギウスはこう思った。
こう思っているうちに、セルギウスは自分の自負心が急に恥かしくなった。そこでまた祈祷をし始めた。
「主よ。天にいます父よ。人間に慰藉《なぐさめ》を給わる父よ。精霊よ。願わくばわたくしのこの胸にお宿り下さい。そしてあらゆる罪悪をお癒《いや》し下さって、わたくしの霊をお救け下さい。わたくしの心にみちみちている、いたずらな名《みやう》聞《もん》心《しん》をお除き下さい。」セルギスウはこう繰り返した。そしてこれまでもたびたびこんな祈祷をして、それがいつも無駄であった事を考えた。自分の祈祷は他人には利目がある。それに自分で自分の事を祈祷して見ると、僅かばかりの名聞心をも除いて貰う事が出来ない。セルギスウは自分が初めて山籠りをしたころ、自分に清《せい》浄《じよう》、謙遜、慈愛を授けて貰いたいと神に祈った事を思い出した。それから指を切った時の事を思い出した。自分の考えでは、その時はまだ自分が清浄でいて、神も自分の訴えを聴いて下さったのである。セルギスウは尖を切った指の、皺のある切株に接吻した。あのころは自分を罪の深いものだと思っていて、かえって真の謙遜が身に備わっていた。それから人間に対する真の愛も、あの時にはまだあった。酒に酔った老人の兵卒が金をねだりに来た時も、深く感動して、優しく会釈をしてやった。あの女をさえやはり優しくあしらったのである。それに今はどうだ。一体今日おれに近づいて来る人間のうち、誰かをおれは愛しているだろうか。あのソフィア・イワノフナ夫人はどうだろう。あの年の寄ったセラビオンはどうだろう。きょう集って来た大勢の人はどうだろう。その中でもあの学問のある若い教授はどうだろう。おれは目下のものに物を教えるような口吻であれと話をした。その間いつもおれはこんなに賢い、こんなにお前よりは進んだ考えをしているぞと、相手に示そうとしていた。おれは今あの人々の愛を身に受けようとして、その身に受ける愛を味っている。そのくせおれはあの人々に対して露ばかりも愛を感じてはいない。どうもおれには今は愛と云うものが無くなっている。したがって謙遜もない。純潔もない。さっきも商人が娘の年を二十二になると云った時、それを聞いていい心持がした。そしてその娘が美しいかどうか知りたいと思った。それから病気の様子を問うた時も、対話の間に、その娘は女性の刺戟があるかないか聞き出そうと思っていた。「まあ、おれはこんなにまで堕落したのか。天にいます父よ。どうぞわたくしの力になって下さい。わたくしを正しい道に帰らせて下さい。」こう云ってセルギウスは合掌して、また祈祷をし始めた。
その時ルスチニア鳥がまた森の中から歌の声を響かせた。鞘翅虫が一疋飛んで来て、セルギウスの頭に打っ付かって、項《うなじ》へ這い込んだ。セルギウスはその虫を掴んで地に投げ付けた。「ええ。一体神と云うものがあるだろうか。おれが何遍門を叩いても、神の殿堂は外から鎖《とざ》されている。その戸に鑰《じよう》が掛かっている。どうかしたらその鑰がおれに見えはすまいか。その鑰があのルスチニア鳥、あの鞘翅虫、即ち自然と云うものであろうか。事によったらあの若い教授の言った事が真理だろうか。」
セルギウスは声に力を入れて祈祷をし始めた。そして今萌《きざ》した神を涜す思想が消えて、心がまた落ち着いて来るまで祈祷を続けた。さて鐸《すず》を鳴して僧を呼んで、それに商人と娘とを来させるように言付けた。
商人は娘の手を引いて来て、娘を庵室に入れて、自分はすぐに立ち去った。
娘は明色な髪をした、非常に色の蒼い、太った子で、骨組は小柄で背が低い。顔は物に驚いたような、子供らしい顔である。女に特有な体の部分部分が盛んに発育している。娘の来た時、セルギウスは戸の前のベンチに腰を掛けて待ち受けていた。娘はその前を通り過ぎて、セルギウスに並んで立ち留まった。セルギウスは娘を祝福した。その時セルギウスは自分で自分に驚いた。おれはなんと云う目をしてこの娘を見ているのだ。この娘の体を見ているのだと思ったのである。
娘は庵室に這入った。その時セルギスウは蝮《まむし》に螫《さ》されたような気がした。娘の顔を見た時、白痴で色慾の強い女だと感じたのである。セルギウスは立ち上って庵室に這入った。娘はベンチに掛けて待っていた。そしてセルギウスの来たのを見て起った。「わたしお父う様の所へ往きたいわ。」
「こわがることはない。お前どこが悪いのだね。」
「どこもかしこも悪いの。」こう云ったと思うと、女の顔に突然晴れやかな微笑が現われた。
「お前今によくしてやるからね、御祈祷をおし。」
「なんの御祈祷をしますの。あたしいろんな御祈祷をしましたけれど、皆駄目でしたわ。あなたわたしのつむりにお手を載せて、御祈祷をして下さいな。わたしあなたの事を夢に見てよ。」こう云ってやはり笑っている。
「夢に見たとはどんな夢を見たのかい。」
「あなたがわたしの胸に手を載せて下すった夢なの。こんな風に。」こう云ってセルギウスの手を取って、自分の胸に押し付けた。
「ここの所に。」
セルギウスは娘のするままに右の手を胸に当てていた。「お前名はなんと云うの。」こう云った時、セルギウスは全身が震えた。そしてもうおれは負けた、情慾を抑える力が、もうおれには無いと思った。
「マリアと云うの。なぜ聞くの。」こう云って娘はセルギウスの手を握って接吻した。それから両腕でセルギウスの体に抱き付いて、しっかり抱き締めた。
「マリア。お前どうするのだい。お前は悪魔だなあ。」
「あら。何を言っているの。こんな事はなんでもありゃしないわ。」こう云っていよいよきつく抱き締めて一しょに床の上に腰を掛けた。
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夜が明けてセルギウスは戸の外へ出た。「一体昨夕《ゆうべ》の事は事実だろうか。今にあの父親が来るだろう。そしたら娘が何もかも話すだろう。あいつは悪魔だ。まあ、おれは何をしたのだろう。あそこには斧がある。おれのいつかの時指を切ったのが、あの斧だ。」セルギウスは斧を手に持って、庵室に帰った。
世話をしている僧が出迎えた。「薪をこわしましょうか。こわすのなら、その斧を戴きましょう。」
セルギウスは斧を渡した。そして庵室に入った。娘はまだ横になったままでいる。眠っている。セルギウスはひどく気味悪く思って娘を見た。それから兼ねてしまって置いた百姓の衣類を取り出してそれを着た。それから剪刀《かみそり》を取って髪を短く切った。
セルギウスは庵室を抜け出して、森の中の道を河に沿うて下って行った。この河岸をばもう四年このかた歩いた事がないのである。
街道は河の岸にある。それをセルギウスは日が中天に昇るまで歩いた。それから燕《からす》麦《むぎ》の畑に蹈《ふ》み込んでそこに寝て休んだ。
セルギウスは夕方になってある村の畔《ほとり》に来た。しかしその村には足を入れずに河の方へ歩いて往って、懸《が》崖《け》の下で夜を明かした。
目の覚めたのは、翌朝日の出前半時間ばかりの時であった。どこもかしこも陰気に灰色に見えている。西から冷たい朝風が吹いて来る。「ああ。おれはこの辺で始末を付けなくてはならぬ。神と云うものはない。だが始末はどう付けたものだろう。河に身を投げようか。おれは泳ぎを知っているから、溺れないだろう。首を縊《くく》ろうか。あ。ここに革紐がある。あの木の枝がちょうどいい。」この手段は容易《たやす》く行うことが出来そうである。手に取られそうに容易いのである。それがためにセルギウスはかえって身震いをして身を背後《うしろ》へ引いた。そしていつもこんな絶望の時にしたように、祈祷をしようと思った。しかし誰に祈祷をしたらよかろう。神と云うものは無い。セルギウスは横になって頬杖を衝いていた。その時突然非常に眠たくなった。もう頭を上げてはいられない。そこで肱《ひじ》を曲げてそれを枕にしてすぐに寝入った。
この眠りはただ一刹那で覚めた。そしてセルギウスの心頭には、半ばは夢のように、昔の記念が浮んで来た。
セルギウスはまだ子供半分の時に、田舎で、母のもとにいた。母衣《ほろ》を掛けて半分隠した馬車が家の前に来て留まった。馬車の中からはニコライ・セルギエウィッチュおじさんが出た。恐ろしい黒い鎌《かま》鬚《ひげ》の生えた人である。そのおじさんが痩せた、小さい娘を連れている。名はパシェンカと云って、大きい優しい目の、はにかんだ顔をしている。パシェンカは我々男の子の仲間に連れて来られたので、我々はその子と一しょに遊ばなくてはならなかった。その遊びがひどく退屈だ。娘が余り馬鹿だからである。とうとうしまいには男の子が皆娘を馬鹿にして、娘に泳げるか泳いで見せろと云った。娘はこんなに泳げると云って、土の上に腹這いになって泳ぐ真似をした。男の子等は皆可笑《おか》しがって笑った。娘は馬鹿にせられたのに気が付いて頬の上に大きい真っ赤な斑《ぶち》が出来た。その様子がいかにも際限なく、哀れっぽいので、男の子等がかえって自分達のした事を恥かしく思った。そして娘の人のよげな、へり下った、悲しげな微笑が長く男の子等の記憶に刻み付けられた。
よほど年がたってから、セルギウスはその娘に再会した事がある。ちょうど自分の僧院に入るすぐ前であった。娘は田地持の女房になっていた。その夫が娘の財産を濫費して、女房を打《ちよう》擲《ちやく》する。もう子が二人出来た。息子一人に娘一人である。息子は生れて間もなく死んだ。この女のいかにも不幸であった事をセルギウスは思い出した。
それから僧院に入った後に、セルギウスはこの女の後家になって来たのを見た。女は昔のままで、やはり馬鹿で、気の利かない粧《よそおい》をしていた。詰らぬ、気の毒なような女である。娘とその婿《むこ》とを連れて来た。そのころ一家はすっかり微《び》禄《ろく》していた。
その後セルギウスは、その女の一家がある地方の町でひどく貧乏になって暮しているのを聞いた。
「一体おれはあの女の事を、今なぜ思い出すのだろう」とセルギウスは自ら問うた。しかしどうしてもその女の事より外の事を思って見ることが出来ない。「あの女は今どこにいるだろう。どうしているだろう。やはり今でも土の上に腹這って泳ぐ真似をした時のように馬鹿でいるだろうか。ああ、なぜおれはあいつの事をこんなに思うだろう。どうしようと云うのだろう。おれは自分の身の始末を付けなくてはならないのだっけ。」こう思うとまた気味が悪くなる。そこでその気味悪さを忘れようとしては、またパシェンカの事を思う。
こんな風で長い間セルギウスは横になっていた。その間始終自分のすぐ死ななくてはならぬ事を思ったり、またパシェンカの事を思ったりしている。そしてどうしてもパシェンカが自分の救いの端緒になりそうに思われるのである。とうとうセルギウスはまた眠った。その時夢に天使が現れて云った。「パシェンカの所へ往け。そして何をしていいか問え。お前の罪がどんなもので、お前の救いはどこにあるか問え。」
セルギウスは覚めた。そして夢に見た事を神の啓示だと思った。そして気分が晴やかになって、夢の中の教えの通りにしようと決心することが出来た。セルギウスはパシェンカの住んでいる町を知っている。ここから三百ウェルストばかりの所である。そこでその町へ向いて歩き出した。
六
もちろんパシェンカはもうとっくに昔の小娘ではなくなっている。今の名はブラスコウィア・ミハイロフナと云っている。大分年を取った、乾からびた、皺くちゃ婆あさんである。堕落した飲んだくれの小役人マフリキエフのためには姑《しゆうとめ》である。
パシェンカは壻《むこ》が最後に役人をしていた地方の町に住んで、そこで手一つで一家族の暮しを立てている。家族は娘と、神経質になった、病身の壻と、孫五人とである。パシェンカの収入は近所の商人の娘達に、一時間五十コペエケンで音楽を教えるより外ない。勉強して一日に少くも四時間、どうかすると五時間も授業するので、一箇月六十ルウブル近い収入になる。それをたよりに、右から左へと取ったものを払い出して、その日その日を過しながら、いつかは壻がまた新しい役目を言い付かるだろうと心待ちに待っている。パシェンカはどうぞ壻を相当な地位に世話をして貰いたいと、親類や知る人のある限り依頼状を書いて出した。セルギウスにも出した。しかしその依頼状はセルギウスが草庵を立ち退いたあとへ届いた。
土曜日の事である。パシェンカは乾葡萄を入れた生菓子を拵えようと思って、粉を捏《こ》ねていた。これは昔父のいた時代に置いていた料理人が上手に拵えたので、それを見習っているのである。また奴隷制度のあった時で、この料理人は奴隷であった。パシェンカはこの菓子を拵えて、日曜日に孫達に食べさせようと思っている。
ちょうど娘マッシャは一番小さい孫を抱いている。この抱いている子の外の四人の中で、上の方の二人は学校に往っている。その二人は男の子が一人に娘が一人である。壻は昨夜寝なかったので、昼寝をしている。
パシェンカも昨夕《ゆうべ》は大分遅くなって床に這入った。それは壻のだらしない事について娘が苦情を云うのを宥《なだ》めなくてはならなかったからである。パシェンカの目で見れば、壻は体が弱くなって次第に衰えて行くばかりで、これから身を持ち直すことが出来そうにはない。幾ら娘がかれこれ苦情を言ったって駄目である。そこでパシェンカは極力娘の苦情を抑えて、夫婦の間の平和と安穏とを謀っている。パシェンカは生《しよう》得《とく》人の不和を平気で見ていることが出来ない。人が喧嘩をしたって、それで悪い事がよくなるはずがないと信じているのである。しかしそんな事を別段筋を立てて考えはしない。人の腹を立ったり、喧嘩をしたりするのを見ているのが厭なので、それを止めさせようとしているばかりである。その厭さ加減は臭い匂いや荒々しい物音や、また自分の体に中《あた》る鞭ほど厭なのである。
パシェンカが今台所で、粉に酵母《もと》を交ぜて捏《こ》ねることを女中のルケリアに教えていると、そこへ六つになる孫娘のコリヤが穴の開いた所へ填《う》め足しをした毛糸の靴足袋を、曲った脛に穿いて、胸に前垂を掛けて、何事にかひどく驚いた様子で駆け付けて来た。「お祖母《ば》あさん。恐ろしいお爺いさんが来て、お祖母あさんにお目に掛かりたいって。」
ルケリアが外を覗いて見た。「ほんに巡礼らしいお爺いさんが参っています。」
パシェンカは痩せた臂《ひじ》に付いた粉を落して、手尖の濡れたのを前掛で拭いた。そして部屋に往《い》って五コペエケンを一つ持って来てやろうと思った。しかしふと銭入に十コペエケンより小さいのがなかった事を思い出して、それよりはパンを一切やる事にしようと思案して、押入の方へ往った。ところがまだパンを出さぬうちに、少しばかりの銭を惜しんだのが恥かしくなって、パンを切ってやる事は女中に言い付けて置いて、その上に十コペエケンをも取りに往った。「これが本当に罰が当ったと云うものだ。ちょいと吝《けち》な考えを出しただけで、やる物は倍になった。」パシェンカは心中でこう思った。
パシェンカは「余り少しだが」と断りを云って、パンと銭とを巡礼にやった。それは巡礼の姿を見ると、いかにも立派な、品のいい人柄であったので、初め思った倍の物をやりながら、それを息《い》張《ば》ってやるどころではなく、実際まだこれでは余り少ないと、恥かしく思ったのである。
セルギウスは三百ウェルストの道を乞食をして来た。痩せた体に襤《ぼ》褸《ろ》を纏って埃だらけになっている。髪は短く切ってある。足には百姓の靴を穿いて、頭には百姓の帽子を着ている。それが叮嚀に礼をした。それでも今まで国内の四方から幾人となく来た人を心服させただけの、威厳のある風采は依然としているのである。
しかしパシェンカはこの巡礼が昔のステパンだと云うことを認める事が出来なかった。大分年を隔てているのだから無理はない。「もしお腹がすいておいでなさるなら、何か少し上げましょうか。」
セルギウスは黙ってパンと銭とを受け取って、パシェンカの詞には答えずにいる。しかしそのまま立ち去ろうとはしないで、パシェンカの顔をじっと見ている。
パシェンカは不思議に思った。
「パシェンカさん。わたしはあなたの所へ尋ねて来たのです。少しお願いがあって。」セルギウスはこう云った。美しい目の黒い瞳は動かずに、物を歎願するようにパシェンカの顔に注がれている。そのうちその目の中に涙が湧いて来る。そして白くなった八字髭の下で脣がせつなげに震えて来る。
パシェンカは痩せた胸を手で押えた。そして口を開いて、目を大きく《みは》って、呆れて乞食の顔を見詰めた。「まあ。あんまり《うそ》のようですが、あなたでしたか。ステパンさんでしょうか。いえ。セルギウス様でしょうか。」
「そうですよ。ですがあなたの言っていられるその名高いセルギウスではありません。わたしは大いなる罪人ステパン・カツサツキイです。神様に棄てられた、大いなる罪人です。どうぞわたくしを助けて下さい。」
「まあ。どうしてそんな事がわたくしなんぞに出来ましょう。なぜあなたはそんなにおへり下りなさいますの。まあ、とにかくこちらへいらっしゃいまし。」
セルギウスはパシェンカの差し伸べた手には障らずに、あとに付いて上って来た。
パシェンカはセルギウスを上らせはしたが、どこへ連れ込もうかと思い惑った。家は小さい。最初この家に来たころは、ほんの物置のような所ではあるが、角の一間だけ自分の居間にして置いた。しかしそれも後に娘にやってしまった。今そこではマッシャが赤ん坊を抱いて寝入らせようとしているのである。「まあ、こちらへでもお掛け下さいまし。」こう云ってパシェンカは台所のベンチを指さした。
セルギウスはベンチに腰を掛けた。そして背中に負った袋を、まず片々の肩からはずして、それからまた外の肩からはずした。もうこの袋のはずし方には馴れているのである。
「まあ。まあ。尊いあなた様がどうしてそんなにおへり下りなさいますのでしょう。あんなに名高くなっておいでなさる方が、出し抜けにそんな。」
セルギウスは返事をしない。そして優しく微笑みながら、はずした袋を脇に置いた。
パシェンカは娘を呼んだ。「マッシャや。この方がどなただか、お前知っているかい。」こう云って置いて娘にセルギウスの身の上を囁いた。
それから母と娘とは角の部屋から寝台と揺《ゆり》籠《かご》とを運び出して跡を片付けた。そしてセルギウスをそこへ案内した。「どうぞここで御休息なさいまし。わたくしは今から出て参らなくてはなりませんから。」パシェンカがこう云った。
「どこへおいでなさるのです。」
「わたくしは音楽を教えに往きます。まことにお恥かしい事ですが。」
「なに。音楽を教えにおいでですか。結構な事ですね。わたしはたった一つあなたにお頼み申したい事があるのですが、いつお話が出来ましょうか。」
「さようでございますね。晩にでも伺いましょう。何か御用に立つ事が出来まするようなら、この上もない為《し》合《あわせ》でございます。」
「そんならそう願いましょう。それから早速お断りをして置きますが、わたしが誰だと云うことを誰にも話して下さいますな。わたしはあなたにしか身の上が打ち明けたくないのです。まだわたしがどこへ立ち退いたか誰も知らずにいます。これはそうして置かなくてはならないのです。」
「あら。わたくしついさっき娘に話してしまいました。」
「なに。それは構いません。娘さんに人に話さないように言って置いて下さい。」
セルギウスは靴を脱いで横になった。前の晩眠らずに、きょう四十ウェルストの道を踏んでいるので、すぐに寝入った。
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パシェンカが帰って来た時、セルギウスはもう目を覚まして待っていた。昼食は茶の間へ食べに出るように勧められても出ずにいたので、女中のルケリアがスウプと粥《かゆ》とを部屋に運んで食べさせたのである。
セルギウスはパシェンカの帰ったのを見て云った。「お約束より早くお帰りでしたね。今お話が出来ましょうか。」
「まあ。何と云う難有《ありがた》い事でございましょう。あなたのようなお客様がおいでなすって下さるなんて。わたくしはいつもの稽古を一時間だけ断りました。あとから填《うめ》合《あわせ》をいたせばよろしいのです。わたくしは疾《と》うからあなたの所へ参詣しようと思っていました。それからお手紙も上げました。それにあなたの方でおいで下さるとは、まあ、なんと云う難有い事で。」
「どうぞそんな事を言って下さるな。それからわたしが今あなたに話す事は懺悔ですよ。死ぬる人が神様の前でするような懺悔ですよ。どうぞそのつもりで聞いて下さい。わたしは聖者ではありません。罪人です。厭な、穢らわしい、迷った、高慢な罪人です。人間の中で一番悪いものよりもっと悪い人間です。」
パシェンカは目を大きく《みひら》いて、セルギウスの詞を聞いている。セルギウスが真実の話をすると云う事が、婆あさんには分っているのである。婆あさんはセルギウスの手を取って、優しく微笑んで云った。「でもそれはあんまり大《おお》業《ぎよう》にお考えなさるのじゃありますまいか。」
「いや。そうでない。わたしはね、色好みで、人殺しで、神を涜した男だ。《うそ》衝《つ》きだ。」
「まあ。どうしたと云うのでしょう。」
「それでもわたしは生きていなくてはならない。今までわたしは何事をも知り抜いているように思って、人にどうして世の中を渡るがいいと教えてやったりなんかした。そのくせわたしはなんにも分っていないのだ。そこで今あなたに教えて貰おうと思うのです。」
「まあ。何をおっしゃるの。それではわたくしに御《ご》笑《じよう》談《だん》をおっしゃるようにしか思われませんね。昔わたくしの小さい時も、よくわたくしを馬鹿にしてお遊びなすった事がありましたが。」
「なんのわたしがあなたに笑談を云うものですか。わたしは決してそんな事はしない。どうぞあなたは今どうして日を暮しておいでだか、それをわたくしに教えて下さい。」
「あの。わたくしでございますか。それはそれはお恥かしい世渡りをいたしておりますの。これは皆神様のお罰だと存じます。自分でいたした事の報いだからいたし方がございません。ほんにほんにお恥かしい。」
「あなたは夫をお持ちでしたね。その時のお暮しは。」
「それは恐ろしい世渡りでございました。最初には卑しい心から、その人の顔形や様子が好きになりまして夫婦になりました。お父う様は反対せられました。それでもわたくしは道理のある親の詞に背《そむ》いて夫婦になりました。それから夫婦になったところで、夫の手助けになろうとはせずに、嫉妬を起して夫を責めてばかりいました。どうもその嫉妬が止められませんで。」
「あなたの御亭主は酒を上ったそうですね。」
「さようでございます。それを止めさせるようにいたす事が、わたくしには出来ませんでした。わたくしはただ小言ばかり言っていました。夫が酒を飲むのは病気だと云うところに気が付かなかったのでございます。夫は飲まなくてはいられなかったのでございます。それをわたくしが無理に止めさせようといたしました。それで恐ろしい喧嘩ばかりいたしました。」こう云ってパシェンカはまだ美しい目に苦痛の色を現してセルギウスを見た。
セルギウスはパシェンカが夫に打たれていたと云う話を思い出した。そして頸が痩せ細って耳の背後《うしろ》に太い静脈が出て、茶褐色の髪が白髪になりかかって稀《うす》くなっているパシェンカを見て、この女がどうして今までの日を送って来たかと云う事が、自然に分って来たような気がした。
「それからわたくしは財産のない後家になって、二人の子供を抱えていました。」
「あなたは田地を持っていなすったではありませんか。」
「田地はワッシャが生きているうちに売り払って、そのお金は使ってしまいました。どうも暮しに掛かりますものですから。若い女は皆そうでございますが、わたくしは何も分りませんでした。わたくしは誰よりも愚かで、物分りが悪かったかと存じます。わたくしは有るだけの物を皆使ってしまいました。それからわたくしは子供に物を教えなくてはならないので、ようよう自分にも少し物が分って参りました。それからもう四学年になっていたミチャが病気になりまして、神様の許へ引き取られてしまいました。それからアッシャが今の壻のワニャが好きになりました。ワニャは善い人でございますが、不《ふ》為《し》合《あわせ》な事には病気でございます。」
突然娘が来て母の詞を遮った。「おっ母さん。ちょいとミッシャを抱っこして下さい。わたし体を二つに分けて使う事は出来ませんから。」
パシェンカはぎくりとした。そして立ち上って忙しげに、踵の耗《へ》った靴を引き摩って戸の外へ出た。間もなく帰って来た時、パシェンカは二つになる男の子を抱いていた。子は反り返って両手でお祖母あさんの領《えり》に巻いている巾《きれ》を引っ張っていた。パシェンカは語を継いだ。「どこまでお話いたしましたっけ。ワニャはこの土地でいいお役をしていました。上役の方もまことに善いお方でございました。それにワニャは辛抱が出来ないで、とうとう辞職いたしました。」
「体はどこが悪いのです。」
「神経衰弱と云うのだそうでございます。まことに厭な病気だと見えます。お医者にどういたしたらよろしいかと聞きますと、どこかへ保養に往けと申されます。でもそんなお金はございません。わたくしの考えではこのままにいたしていても、いつか直るだろうかと存じます。別に苦痛と云ってはないのでございますが。」
この時「ルケリア」と男の声で呼んだ。肝癪を起しているような、そのくせ元気のない声で、壻が呼んだのである。「いつ呼んだっていやしない。おれの用のある時はいつでも使に出してある。おっ母さん。」
「すぐ往くよ」とパシェンカは返事をした。そしてセルギウスに言った。「まだ午《ひる》を食べていないのでございます。あれはわたくし共とは一しょに食べられませんので。」パシェンカはこう云いながら立って、何やら用をした。それから労働の痕のある、痩せた手を前掛で拭きながら、セルギウスの前へ帰って来た。「まあ、こんな風にして暮しているのでございます。わたくしはいつも苦情ばかり申して、万事不足にばかり思っています。そのくせ孫は皆丈夫でよく育ちますし、どうにかして暮しては行かれますから、本当は神様にお礼を申さないではならないのでございます。それはそうと、ほんに詰らない事ばかり長々と申しまして。」
「一体なんで暮しを立てているのですか。」
「それはわたくしが少しずつ儲けますのでございます。小さい時稽古をいたしました自分には厭であった音楽が役に立っていますのでございます。」パシェンカは坐っている傍《そば》にある箪《たん》笥《す》の上に、細った手を載せて、ほとんど無意識にピアノをさらうような指の運動を試みている。
「一時間でどのくらい貰いますか。」
「それはいろいろでございます。一ルウブルの事もあり、五十コペエケンの事もあり、また三十コペエケンしか貰われない事もあります。でもどちらでも優しくいたしてくれますので。」
「そしてその教えて貰う子供は出来ますか。」こう云ったセルギウスの目にはほとんど認められぬほどの軽い微笑が見えた。
パシェンカは妙な事を問われたと不思議に思うらしく訝《いぶかり》の目をしてセルギウスを見た。「それは出来ますとも。一人なんぞは立派な子でございます。親は肉屋さんですが、それは正直な、可哀らしい娘でございます。ほんにわたしがもっと気が利いていましたら、夫には立派な知合がありましたのですから、壻にももっといい役の出来るように世話をしてやる事が出来ましたのでございましょうが、なんにも分りませんので、とうとう一家がこんなに落ちぶれてしまいました。」
「なるほど、なるほど。」こう云ってセルギウスは頭を項《うな》垂《だ》れた。「それはそうとお宗旨の方はどうですか。」
「どうぞその方の事はおっしゃらないで下さいまし。わたくしは本当に不精で、やり放しでございます。聖餐の時には子供を連れて参りますが、間々では一月もお寺に参らずにいる事がございますの。子供だけはやりますが。」
「なぜ御自分では往かれないのですか。」
「正直なところを申しますれば、娘や孫の手前が恥かしくてまいられません。お寺に参るには余り着物が悪くなっています。新しいのは出来ません。それに不精でございますので。」
「そんなら内では御祈祷をなさるのですか。」
「それはいたしますが、実は申訳のないいたしようでございます。なんの気乗りもしないでいたしています。御祈祷はどんなにしていたすものだと云う事は存じていながら、どうしてもその心持になられません。いかにも自分が詰らない人間だと承知しておりますので。」パシェンカは顔を赤くした。
「そうさね。どうもそうなり易いものですよ。」セルギウスはさもあろうと思ったらしかった。
また壻の声がしたので、パシェンカは「すぐ往くから、お待ちよ」と返事をして、髪を撫で付けて出て行った。今度はしばらく時間が立って、火《ほ》屋《や》のないブリッキの小ランプを手に持って帰って来た。
その時セルギウスはさっきのままの姿勢で、頭を項垂れて膝に肱を衝いていた。しかし側に置いてあった袋をいつの間にか背負っている。セルギウスは疲れたような、まだ美しい目を挙げて、パシェンカを見て、深い深い溜息を衝いた。
パシェンカが云った。「わたくし孫達にはあなたがどなただとも申さずに置きました。ただ昔お心易くした御身分のあるお方で、今巡礼に出ていらっしゃるのだと申しました。あちらのお茶の間にお茶が出してありますから、どうぞいらっしゃって。」
「いえ。もうそれには及びません。」
「そんならこちらへ持って参りましょうか。」
「いえ。それにも及びません。パシェンカさん。あなたのわたくしをもてなして下さったお礼は、神様がなさるでしょう。わたくしはもうお暇をします。もしわたくしの事を気の毒だと思って下さるなら、どうぞ誰にもわたくしに逢った事を話さずにいて下さい。神様に掛けて頼むから、誰にも言わないで下さい。本当にわたくしはあなたを難有く思っています。実は土に頭を付けてお礼が言いたいのですが、そうしたらあなたがお困りでしょうから止めます。わたくしの御迷惑を掛けた事は、クリスト様に免じてお恕《ゆる》し下さい。」
「そんならどうぞわたくしに祝福をお授けなすって。」
「それは神様があなたにお授け下さるでしょう。どうぞわたくしの悪かった事を免して下さい。」こう云ってセルギウスは立ち去ろうとした。
しかしパシェンカは引き留めて、食パンや、菓子パンや、バタをセルギウスにやった。
セルギウスは素直にそれを受けて、戸口を出た。外は闇である。家二軒ほどの先へ歩いて往った時は、もう姿がパシェンカの目に見えなかった。
近く住まっている僧侶の家の犬が吠えた。パシェンカはそれを聞いて、セルギウスがまだ町を出離れない事を知った。
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セルギウスは考えた。「おれの夢はこうしたわけだった。おれはあのパシェンカのように暮せばよかったに、そうしなかったのだ。おれは陽に神のために生活すると見せて、陰に人間のために生活した。パシェンカはつい人間のために生活するつもりでいて、実は神のために生活していた。おれは人間に種々の利益を授けてやったようだが、あんな事をするよりは、難有く思わせようなどとは思わずに、水でも一杯人に飲ませた方が増しだった。ちょいとした善行の方がおれの奇蹟よりはいいのだ。そのくせおれのした事にも、神に仕えると云う正直な心が、少しは交っていたのだが。」セルギウスはこう考えて、自己を反省して見て、さて云った。
「なるほど。その心もないではなかった。ただ世間の名聞を求める心に濁されて、打ち消されていたのだ。おれのように現世の名誉を求めている人間のためには、神も何もない。おれはこれから新たに神を尋ねなくてはならない。」
こう思い立ったセルギウスは、山を出てからパシェンカを尋ねたまでと同じように、村から村へとさまよった。一人で歩く時もある。外の巡礼共と一しょに歩く時もある。そしてクリストの御名を唱えて、食を求め、宿を借る。その間には意地の悪い百姓の女房に叱られる事もある。酒に酔った百姓に嘲られる事もある。しかしたいていは飲食にありつき、銭をも貰う。セルギウスの風采が立派なので、尊敬してくれるものがあるかと思えば、またどうかするとあんな立派な奴が落ちぶれて、いい気味だと思うらしいものもある。しかし詰りはセルギウスの方で飽くまで優しくするので、どんな人にも打ち勝って行く。
どうかして人の家に聖書のあるのを見付けると、その中から一節ずつ読んで聞かせる。そのたびごとに人は皆感動して、驚きの目を《みは》る。それはセルギウスが読むのを聞けば、今までよく知っていたはずの事も、全く新しい事のように聞えるからである。
どこかで人の相談を受けて智慧を貸してやったり、また人の力になる事をしてやったり、喧嘩の仲裁をしてやったりする事があっても、セルギウスは人の礼を言うのを待たずに、その場を立ち退く。そうしているうちに、次第にセルギウスの心に神の啓示が現れて来た。
ある時セルギウスは婆あさん二人、廃兵一人と連れになって、街道を歩いていた。
すると紳士と貴夫人とが、馬の挽《ひ》いた橇に乗って来た。その側には今一人の紳士と今一人の貴夫人とが騎馬で付いていた。橇の中の貴夫人は年を取っていて、その夫と娘とが馬に乗って附いているのらしい。橇の中にいる男は旅中の外国人である。多分フランス人だろう。
この一行がセルギウス等を見て馬を駐めた。フランス人らしい男に Les《レエ》 p?lerins《ペルレン》(巡礼)を見せようと云うのである。巡礼と云うものは、乞食をして歩くもので、百姓の迷信を利用して生活して行くのだと思っている人達である。一行は巡礼に分らせないつもりでフランス語で会話をしている。
フランス人らしいのが云った。「Demandez《ドマンデエ》 leur《リヨオル》, s'ils《シル》 sont《ソン》 bien《ビエン》 s?rs《シユウル》 de《ド》 ce《シヨ》 que《キヨ》 leur《リヨオル》 p?lerinage《ペレリナアジユ》 est《エエ》 agr?able《アグレアアブル》 ?《ア》 Dieu《ジヨオ》.」(あの人達に聞いて御覧なさい。巡礼をすると云う事が実際神様の気に入ることだと心から思っているのでしょうか。)この詞はロシア語で巡礼に取り次がれた。
婆あさん達が答えた。「それはどうお思いなさろうと、神様次第でございますよ。わたくし共は足でだけは御奉公をいたしていますが、胸で御奉公をいたしていると申してよろしいやら、そこまでは分りません。」
次に廃兵が同じ事を問われた。
廃兵は答えた。自分は真の独身者で、どこに足を留めていると云う事も出来ないので、こうしてさまよっているのだと云ったのである。次にセルギウスが問われた。「神の奴僕の一人でございます。」
「Qu'est《ケエ》 ce《シヨ》 qu'il《キル》 dit《ジイ》 ? Il《イル》 ne《ヌ》 r?pont《レポン》 pas《パア》.」(あの男はなんと云いますか。返事にはなっていないようですが。)
「Ii《イル》 dit《ジイ》, qu'il《キル》 est《エエ》 un《アン》 serviteur《セルイトヨオル》 de《ド》 Dieu《ジヨオ》.」(あれは自分が神の奴僕だと云っています。)
「Ii《イル》 doit《ドア》 ?tre《テエトル》 un《アン》 fils《フイス》 de《ド》 pr?tre《プレエトル》. Il《イル》 a《ア》 de《ド》 la《ラ》 race《ラアス》. Avez《アエエ》-vous《ヴウ》 de《ド》 la《ラ》 petite《プチト》, monnaie《モンネエ》 ?」(あの男は司祭の伜かなんかでしょう。品がいいですね。あなた小さいのがございますか。)
フランス人はポッケットを探って、小銭を出して、巡礼一人に二十コペエケンずつやった。「Mais《メエ》 dite《ジツト》 leur《リヨオル》 que《キヨ》 ce《シヨ》 n'est《ネエ》 pas《パア》 pour《プウル》 les《レエ》 cierges《シエルジユ》, que《キヨ》 je《ジユ》 leur《リヨオル》 donne《ドンヌ》, mais《メエ》 pour《プウル》 qu'ils《キル》 se《ス》 r?galent《レガアル》 de《ド》 th?《テエ》.」(だがあの人達に言って聞かせて下さいよ。わたしがあの人達にやるのは、蝋燭代ではありません。あの人達が一しょにお茶を飲むようにと思うのです。)
「お茶だ、お茶だ。Pour《プウル》 vous《ヴウ》, mon《モン》 vieux《ウイヨオ》.」(お前にだよ。爺いさん。)こう言い足して、フランス人は笑って、手袋を嵌《は》めた右の手で、セルギウスの肩を叩いた。
「あなたには神様が報いをなさりましょう。」セルギウスは帽子を手に持って禿げた頭を地まで下げて礼をした。
セルギウスのためには、この出会が特別に嬉しかった。どのくらい人の思わくを構わずにいる事が出来るか験して見たのだと思ったからである。セルギウスは人のくれた二十コペエケンを受け取って仲間の盲人にやった。人の思わくを顧みぬようになればなるほど、神の存在を感ずる事が出来て来るのである。
セルギウスは八箇月の間村から村へさまよった。九箇月目にある県の町に出て、合宿所に泊まっていると、巡査が来て、旅行券の無い男だと云うので、外の巡礼仲間と一しょに拘引した。「お前は誰だ。旅行券はないか」と問えば、「わたくしは神の奴僕でございます。旅行券はありません。」と答える。
セルギウスは無籍者として処分らせれて、シベリアへやられた。
シベリアに着いて、セルギウスはある富有な百姓の地所に住む事になった。主人の菜園を作って、かたわら主人の子供に読書を教えたり、その家の病人を介抱したりしていた。
樺太《カラフト》脱獄記 コロレンコ
一
おれはこのシベリア地方で一般に用いられている、毛織の天幕の中に住んでいる。一しょにいた男が旅に出たので、一人でいる。
北の国は日が短い。冷たい霧が立って来て、すぐに何もかも包んでしまう。おれは為《し》事《ごと》をする気になられない。ランプを点《つ》けるのが厭なので、おれは薄暗がりに、床の上で横になっている。あたりが暗くて静かな時には、とかく重くろしい感じが起るものである。おれはしょうことなしに、その感じに身を委ねている。さっきまで当っていた夕日の、弱い光が、天幕内の部屋の、氷った窓から消えてしまった。隅々から這い出して来たような闇が、斜めに立っている壁を包む。そしてその壁が四方からおれの頭の上へ倒れかかって来るような気がする。しばらくの間は、天幕の真ん中に据えてある、大きな煖炉の輪郭が見えていた。この煖炉が、おれの住んでいるヤクツク地方の人家の、極《き》まった道具で、どの家でも同じような、不細工な恰好をしている。そのうち広がって来る闇が、とうとう煖炉を、包んでしまった。おれの周囲はただ一色の闇である。ただ三個所だけ、微かに、ちらちら光っている所がある。それは氷った窓である。
何分かたったらしい。何時間かたったらしい。おれはぼんやりして、悲しい物懐しい旅の心持が、冷やかに、残酷に襲って来るのに身を任せていた。おれの興奮した心は際限もない、広漠たる山や、森や、野原を想像し出す。それがおれを、懐しい、大切なあらゆるものから隔てているのである。その懐しい、大切なものは皆疾《と》っくに我が物ではなくなっているが、それでもまだおれを引き付ける力を持っている。
その物はもうほとんど見えないほどの遠い所にある。ほとんど消えてしまった希望の光に、微かに照らされている。そこへ、おれの心の一番奥に潜んでいる、抑えても、抑えても亡ぼす事の出来ない苦痛が、そろそろ這い出して来て、大胆に頭をもたげてこの闇の静かな中で、恐ろしい、凄い詞《ことば》を囁《ささや》く。「お前はどうせいつまでもこの墓の中に生きながら埋められているのだ。」
ふと天幕の平たい屋根の上で、うなる声のするのが、煙突の穴を伝って、おれの耳に聞えた。物思に沈んでいたおれは耳を欹《そばだ》てた。あれはおれの友達だ。ケルベロスという犬だ。それが寒さに震いながら番をしていて、おれが今どうしているか、なぜ明りを点けずにいるかと思って問うて見てくれたのだ。
おれは奮発して起き上がった。どうもこの暗黒と沈黙とを相手にして戦っていては、とうとう負けてしまいそうなので、防禦の手段を取らなくてはならないと思ったからである。その防禦の手段というのは、神がシベリアの天幕住いをしているものに授けてくれたものである。火である。
ヤクツク人は冬中煖炉を焚き止《や》めずにいる。それから西洋でするように、煙突の中蓋を締めるという事はない。しかしおれは中蓋を拵《こしら》えている。その蓋は外から締めるようになっているのでそのつどおれは天幕の屋根の上に登らなくてはならない。
天幕の外側には雪を固めた階段が、屋根際まで付けてある。おれの天幕は村はずれにあって、屋根の上からはその村の全体が見渡される。村は山々に取り囲まれた谷間に出来ている。不断はこの屋根から村の天幕の窓の明りが見える。移住して来たロシア人の子孫や、流されて来た韃《だつ》靼《たん》人《じん》の住いである。きょうは霧が冷たく、重く地の上に下りていて、少しの眺望も利かないので、不断見える明りが一つも見えない。ただ屋根の真上に星が一つ光っている。それもどうしてこの濃い霧を穿《うが》ってここまで照らしているかと、不思議に思われるくらいである。
どの方角もしんとしている。河を挟んでいる山も、村の貧しげな天幕も、小さい会堂も、雪を被っている広い畑も、暗く茂っている森の縁も、皆果てのない霧に包まれてしまっている。おれは屋根の上に立っている。広い広い大洋の中の離島にいるような気がする。ただ側に粘土で下手に築き上げた煙突が立っていて、足の下に犬が這い寄っているだけである。物音がまるで絶えて、どこもかしこも寒くて気味が悪い。夜が沈黙して、世界に羽を広げているのである。
ケルベロスがうなった。多分ひどい寒が来そうなので、嘆いているのであろう。犬は体をおれの足に摩《す》り寄せて、鼻端を突き出して、耳を立てて、闇の中に気を配っている。
突然犬が耳を動かして吠えた。おれも耳を欹《そばだ》てた。しばらくは何も聞えなかった。そのうち静寂を破って、ある音が聞えた。また聞えた。あれは馬の蹄の音である。まだ遠い畑の上を歩いているらしい。
あの音の工合で察するに、馬に乗って歩いている人間はまだ二ウェルストくらい隔たっているはずだ。おれはこう思って雪の階段を踏んで降りた。顔を剥き出しにして一分間この寒い空気に当っていると、頬か鼻かが凍えてしまう危険がある。犬も、蹄の音の聞える方角へ向いて吠え続けながら、おれに付いて降りて来た。
間もなく焚き付けた薪が煖炉の中で燃え始めた。その薪を兼ねて煖炉の中に積み上げてある薪の山に近寄せると、部屋中の模様が、今までとはまるで変って来る。ぱちぱちいう音が、天幕の沈黙を破る。幾百条の火の舌が薪の山の間々を潜って閃《ひらめ》き昇って行く。その勢いで例のぱちぱちいう音がするのである。とにかくある生々したものが飛び込んで来て、部屋の隅々まで荒れ廻るような気がする。折々ぱちぱちが止むと、煙突の口から寒空へ立ち昇る火の子のぷつぷついうのが聞える。
間もなく薪の山のぱちぱちが一層劇《はげ》しく盛り返して来て、とうとう拳銃をつるべ掛けて打つような音になる。
もうおれもさっきほど寂しい心持はしない。おれの周囲の物が、何もかも生き返って、動き出す。踊り出す。さっきまで外の寒さを微かに見せていた窓《まど》硝子《ガラス》が、火を反射してあらゆる色に光っている。あたりが一面に闇に包まれている中で、おれの天幕が光り赫《かがや》いて、小さい火山のように数千の火の子を噴き出すと、それがちらちら空気の中を踊り廻って、とうとう白い煙の中で消えるのである。おれはそれを想像していい心持がしている。
ケルベロスは煖炉の正面に蹲《うずくま》って白い色の化物のように、じっと火を見詰めている。折々振り返っておれの方を見る、その目には感謝と忠実とが映じている。
どこかで重々しい足音がした。しかし犬はじっとしている。それは飼ってある馬だという事を知っているからである。今までどこか屋根の下で、首を頂《うな》垂《だ》れて寒さにいじけているのが、煖炉が温まったので、火に近い方へ寄って来て、煙突から出る白い煙の帯と、面白く飛び廻る火の子とを眺めているのであろう。
そのうち犬が不満らしい様子をして吠えて、すぐに戸口へ歩いて行った。おれは戸を開けて出してやった。犬はいつもの番をする場所で吠えている。おれは中庭を覗いて見た。さっき遠くに蹄の音を響かせていた人間が、おれの天幕の火の光に誘われて来たのである。ちょうど今門を開けて、鞍に荷物の付けてある馬を引き入れているところである。
知《しり》人《びと》でない事は分かっている。ヤクツク人はこんなに遅くなって村に来るはずがない。よしやそれが来たところで、同じ種族のものの所へ寄るに違いない。火の光を当てにして、おれのような外国人の天幕へ来はしない。
「どうしても移住民だな」とおれは判断した。そんなものの来るのはいつもなら難有《ありがた》くはない。しかしきょうだけは生きた人間を見たいような気がする。
今に面白く燃えている火は消えてしまう。薪の山を潜っている焔が次第にのろくなって、とうとう一山の赤い炭が残って、その上を青い火の舌がちょろちょろするようになる。その青い舌が段々見えなくなる。そうすると天幕の中は元の沈黙と暗黒とに占領せられてしまうだろう。その時おれの胸の中には、またさっきのような係恋《あこがれ》が萌《きざ》して来るだろう。その時分には赤い炭が灰を被って微かに見えていて、それもとうとう見えなくなってしまうだろう。おれは一人になるだろう。一人で長い静かな、物懐しい夜を過ごさなくてはならないだろう。
こんな時に人間を恋しがるのはいいが、その人が人殺しでもした事のある奴《やつ》かも知れない。しかしおれはそんな事は思わない。一体シベリアに住んでいると人殺しでも人間だという感じがして来る。もちろん段々心易くして見たって、錠前を切ったり、馬を盗んだり、闇夜に人の頭を割ったりする人間が、いわゆる不幸なる人間として理想化して見られるようになるわけでもないが、とにかく人間には色々な、込み入った衝動や意欲があるものだという事が理解せられて来る。人間はどんな時にどんな事をするものだという事が理解せられて来る。人殺しだって、いつでも人を殺すのではない。我々と同じように生きていて、同じような感じを持っている。それだから寒い夜に自分を暖かい天幕の中へ泊まらせてくれる人に対して、感謝するという念をも持っている。しかしおれの目に、今来た人間が立派な鞍を置いた馬を連れていて、その鞍に色々な荷物が括《くく》り付けてあるのが見えたところで、その人間がその馬の正当な持主であるやら、またその荷物の中にあるものが、その人間の正当な所有品であるやら、そんな事は容易に判断しにくいのである。
馬の革で張った、重くろしい戸が外から開けられた。中庭から白い霧が舞い込んで来る。その時旅人は煖炉の前へ進んだ。背の高い、肩幅の広い、立派な男である。衣服はヤクツク人と同じであるが、人種の違う事は一目に分かる。足には雪のように白い馬皮製の長靴を穿《は》いている。ヤクツク人の着る寛《ゆる》い外套が肩で襞《ひだ》を拵《こしら》えて、耳まで隠している。頭と頸《くび》とは大きなショオルで巻いてある。そのショオルの下の端は腰の周囲に結んである。ショオルもその外の衣類も、山の高い、庇《ひさし》のない帽も氷で真っ白になっている。
二
客は煖炉の側に寄って、凍えた指で不細工にショオルの結び目を解いて、それから帽の革紐を解いた。ショオルと帽とを除けたところで顔を見ると、三十歳ばかりの男の若い、元気のいい顔が寒さで赤くなっている。卑しいようで、しっかりした容貌である。こんな顔の人をこれまで押《おう》丁《てい》なんぞで見た事がある。すべて人に対して威厳を保ち、人を恐れさせているが、そのくせ自分は不断用心していなくてはならないという風の男にこんな容貌があり勝ちに思われる。表情に富んだ、黒い目が、ちょいちょいと、物の底まで見抜くような見方をする。顔の下の半分が少し前に出ている。これは感情の猛烈な人相である。しかしこの男はその感情を抑えて縦《ほしいまま》にしないように修養しているらしい。身分が流浪人だという事はすぐ分かる。どこで分かるという事は言われないが、一目で分かる。この男の心が不安で、心の中で争闘が絶えないという事だけは、下脣がぶるぶるするのと、所《しよ》々《しよ》の筋肉が神経性に働くのとで判断する事が出来る。
顔の表情は大体からいえば、そっけないのであるが、どこかそれを調和しているものがある。それは一種の憂愁を帯びているところに存する。多分疲れたのと、夜の寒さと戦ったのと、今一つは深い霧を冒して寂しい夜道をさまよって、人懐しい係恋《あこがれ》の情を起しているのとによって、この憂愁の趣は現われているのだろう。それがおれの今夜の心持と調和して、おれに同情を起させるのだろう。
そのうち客は上着を脱がずに煖炉の上に肘を突いて、隠しから煙管《きせる》を出した。そしてそれに煙草を詰めながらおれの顔を念入りに眺めて云った。「御免なさいよ。」
おれも客を注意して見て答えた。「いや、遠慮しなくてもいいのです。」
「こんなに出し抜けに飛び込んで来て済みません。ただ少し火に当らせて戴いて、煙草を一服喫《の》んでしまえば、すぐに出て行きます。ここから二ウェルストほどの所に、いつもわたくしを泊めてくれるものがいますから。」
話の調子で察するに、この男は人に迷惑を掛けまいと、控え目にする心掛けを持っているらしい。そして物を言いながら、ちょいちょい丁寧におれの顔を見るのは、おれの返事を待って、その上で自分の態度を極めようと思っているからだろう。
その冷かな、物の奥を見通すような目附きを、詞《ことば》に訳して言えば、「魚心あれば水心だ」とでもいうべきだろう。とにかくヤクツク人なんぞの人に迷惑を掛けて平気なのと、この男の態度とはまるで違っているという事に、おれは気が付いた。無論おれにだってこの男が宿を借らないつもりなら、馬を厩に引き込むはずがないという事だけは分からないのではない。
「一体お前さんは誰ですか。名前は。」
「わたくしですか。名はバギライと言います。これはこの土地で人がわたくしを呼ぶ時の名で、本当の名はワシリです。バヤガタイ領のものです。聞いていやしませんか。」
「ウラルで生れた流浪人だろう。」
客の顔には満足らしい微笑がひらめいた。「そうです。では何か聞いていますね。」
「○○に聞いたのだ。あの男の近所に住まっていた事があるそうだね。」
「○○ならわたくしを知っていますよ。」
「よろしい。今夜は泊って行くがいい。まあ、支度を楽にしようじゃないか。おれも今は一人でいるのだ。お前さんが体を楽にする間に、おれは茶でも拵《こしら》えよう。」
流浪人は嬉しげに泊る事にした。
「どうも済みません。あなたが泊めてやるとおっしゃれば、泊りますよ。それでは鞍に付けてある袋を卸して、ちょいちょいした物を出さなくてはなりません。馬は中庭まで入れてはありますが、そうして置く方がたしかです。ここいらの人間には油断がなりませんからね。中でも韃《だつ》靼《たん》人《じん》と来ては。」
客は戸の外へ出て、すぐに大袋を二つ持って這入って来て、革紐を解いて、食料を取り出した。氷って固まったバタ、氷った牛乳、玉子二三十なんぞである。中で幾らか取り分けたのを部屋の棚に載せて、あとを冷い所に置くために、前房へ持ち出した。それからカフタンという上着と毛皮とを脱いで、赤い肌着に、土地の者の穿《は》くずぼんを穿いたままで、おれと向き合って煖炉の側に腰を掛けた。
客は微笑みながら云った。「妙なものですね。正直を言えば、お内の門を通りながら、そう思いましたよ。この内でおれを泊めてくれるか知らと思いましたよ。流浪人の中には泊めてやる事なんぞの出来ない奴がいるという事は、わたくしだってよく知っています。自慢ではありませんが、わたくしはそんな人間とは違います。あなたも話を聞いておいでのようですから、御承知でしょうが。」
「うん。少し聞いているよ。」
「そうでしょう。自慢ではないが、わたくしは横着な事はしていません。自分の内の小屋の中に牡牛を一疋、牝牛を一疋、馬を一疋だけは飼っていて、自分の畑を作っています。」
目は正面を見詰めたままで、変な調子でこんな事を言っている。話のあとの方の詞を言っている様子は、「実際そうしているのだ」と、自分で考えて見ながら言うらしく見えた。
客は語り続けた。「働いていますよ。神が人間にお言附けになった通りに働いているのです。どうも盗みをしたり、人殺しをしたりするよりは、その方がいいようです。早い証拠が、こうして夜《よる》夜《よ》中《なか》あなたの内の前を通って、火の光を見て這入って来れば、優しくして泊めて下さる。難有いわけじゃありませんかねえ。」
この詞はどちらかと云えば、独《ひとり》語《ごと》らしく聞えたのである。自分の今の生活に満足して、独語を言っているように見えたのである。しかしおれは「それはそうだね」と返事をした。
実際おれはワシリという男の事を、知《しり》人《びと》から少し聞き込んでいる。ワシリはこのへんに移住している流浪人仲間の一人である。ヤクツク領の内で、大ぶ大きい部落の小家に二年ほど前から住っている。家は湖水の側で、森の中に立っている。移住民の中に、盗賊もあり、人殺しをするものもあり、懶《らん》惰《だ》人《じん》がすこぶる多いが、稀に農業に精出すものもないではない。ワシリはその一人である。農業を精出せば、この土地では相応に楽に暮されるようになるのである。
一体ヤクツク人は人の善い性《たち》で、所々の部落で余《よ》所《そ》から来たものに可なりの補助をしてやる風俗になっている。実はこんな土地へ、運命の手に弄《もてあそ》ばれて来たものは、補助でも受けなくては、飢え凍えて死ぬるか、盗賊になるかより外に為《し》方《かた》がないのである。ヤクツク人はまた土地を通り抜けるものにも補助をしてやる事がある。それは足を留められては厄介だと思うからである。そういう補助を受けて、土地を立って行ったもので、また帰って来るものはめったに無い。そんなのでなく、真面目に働こうと思うものには、土人が補助をして、間もなく相応に自活の出来るようにさせる事になっている。
最初ワシリは部落の自治団体から小屋を一つ、牡牛を一疋貰って、その年に燕麦の種を六ポンド貰った。為《し》合《あわ》せとその年は燕麦の収穫がよかった。その外ワシリは、土地のものと契約して、草を苅らせて貰った。煙草の商いもした。こんな風にして二年たつうちに相応な世帯が出来たのである。
土地のものはこの男を相応に尊敬して、面と向ってはワシリ・イワノウィッチュさんというが、蔭で噂をする時は、ただワシリというだけである。牧師が冠婚葬祭の用で歩く時などは、ワシリの小屋へ立ち寄る。それからワシリが牧師を尋ねて行くと、食卓で馳走をする。この土地では我々のように教育のあるものが、よそから移住したのを、読書人として特別に取り扱うのだが、その読書人にもワシリは心易くしている。
そんな風で見れば、ワシリは面白く、満足して暮していられないはずがない。十分な事を言えば、これから結婚でもすべきだろう。一体法律は流浪人の結婚を許さない事になっているが、こんな辺《へん》鄙《ぴ》では、金を出して、慇《いん》懃《ぎん》に頼めばそれも出来ない事ではない。
こういう身の上のワシリではあるが、今向き合って坐って見ていると、そのしっかりした顔付に、多少異様なところがある。最初ちょいと見た時ほどには、もうおれには気に入らなくなったが、それでもまだ厭な顔だとは思わない。黒目勝ちの目が折々物案じをするらしく、また物分かりのよさそうに見える事がある。すべての表情が意志の固いところを示している。挙動は陰険らしくない。声の調子からは自信のある人の満足が聞き出される。
ただ折々顔の下の方がぴくぴく引き吊って、目の色がどんよりして来る事がある。不断の話の、穏かな調子を破って、何者かが暴露しそうになって来る。猛烈な意志の力で、ある苦い、悲しい係恋《あこがれ》じみたものの現われようとするのを抑えているらしく見える。
このある物はなんだろう。おれは最初それを知らなかった。ワシリが来て泊ったころにはまだ解決が付いていなかつた。しかし今はよく分かっている。流浪が習慣になった人間は、衣食に苦しまずに平和に生活して、家もあり、牝牛もあり、牡牛もあり、厩に馬もあり、人に尊敬せられているので、それでおれは満足だと強いて己《おのれ》を欺こうとしている。ところが他国へ来てこんな灰色の生活を営むのが、人に満足を与えはしない。心の奥から山林の恋しさが頭をもたげる。その係恋が今の単調な日常生活を棄てて、怪しく人を誘い、人を迷わせる遠い所へ行かせようとする。この心持が意識に上るのを、強いて自ら押えている。これがこういう流浪人の心の底に持っているある物である。しかしそれをおれの知ったのはよほど後の事である。ワシリがおれの天幕に泊ったころは、どうも上《うわ》辺《べ》の落ち着いている、この流浪人の心の底には何か知らぬものがあって、悩み悶《もだ》えて、外へ現われようとしているというだけの事しか分からなかった。
おれが茶を入れている間、ワシリは煖炉の側に坐って、物を案じる様子で、火を見ている。茶が出来たので、おれはワシリを呼んだ。
ワシリは身を起しながら、「これは済みません、とんだお世話になります」と云った。それから少し興奮したようにこんな事を言った。「こんな事をわたくしが云っても、あなたが本当だと思って下さるか、どうだか、分からないのですが、わたくしはお内の外から火の光を覗いて見た時、ちょっと動悸がしました。この内に住んでおいでなさるのは、ロシア人だという事を、わたくしは知っていたのです。わたくしのように森の中や野原を、いつも乗り廻っていれば、霧に出逢ったり、闇の中を歩いたり、寒さに難儀したりするのは不断の事です。そんな時随分煙突から煙の出ている天幕の近所を通る事もあります。そんな時は馬が勝手にその方へ向いて歩き出します。しかしわたくしはとかく気が進みません。こんな内へ這入ってなんになるものか。事によったら焼酎の一杯ぐらい飲ませて貰われよう。だがそんな事は難有《ありがた》くはないと、わたくしは思うのですね。それがあなたの内の火を見た時、もし泊めて貰われるなら、泊めて貰いたいものだと、わたくし、ふいと思いましたよ。どうも御厄介になって済みません。わたくしの部落の方へおいでになったら、どうぞ忘れないで、お寄りなすって下さい。いい加減な事を言うのではありませんから。」
三
ワシリは茶を飲んでしまって、また煖炉の火の前に腰を掛けた。無論まだ寝るわけにはいかない。主人を乗せて来て汗になった馬が落ち着いた上で、飼《かい》を付けてやって、それから寝なくてはならない。食料は枯草でいいのである。ヤクツク地方の馬は余り丈夫ではない。しかし飼うには面倒が少ない。ヤクツク人はバタやその外の食料を馬に付けて、ずっと遠いウチュウル河の方に住んでいるツングスク人に売りに行く。森の中や鉱山で稼いでいる所へ売りに行くのである。何百ウェルストという遠道を歩かせる。途中では枯草を食わせる事も出来ないのである。
そんな時には、日が暮れると、茂った森の中に寝る。木を集めて焚火をする。馬は森に放して置く。そうすると雪の下に埋もれている草を捜して、ひとりで食うのである。それから夜が明けると、また遠道を歩かせる事になっている。
飼うにそのくらい骨の折れない馬だけれど、一つ注意しなくてはならない事がある。それは道を歩かせたあとですぐ飼を付けてはならないという事である。それから十分に物を食わせた時は、すぐに歩かせる事が出来ない。一日の間食わせずに置いて、それから使うのである。
そういうわけで、ワシリは三時間馬の体の冷え切るのを待たなくてはならない。おれも付き合いに起きている。そこで二人向き合って坐っているが、めったに詞《ことば》は交わさない。
ワシリは煖炉の火が消えそうになるので、薪を一本ずつくべている。ヤクツクで冬を通した人は、煖炉に薪をくべ足すのが習慣になっているのである。
長い間黙っていて、突然ワシリが「遠いなあ」と云った。自分で何か考えた事に、自分で返事をしたらしい。
「何が」とおれが問うた。
「わたくし共の故郷です。ロシアです。ここまで来ると、何もかも変っています。馬でさえそうですね。国では馬に乗って内へ帰れば、何より先に飼を付けなくてはならない。ところが、この土地でそんな事をしようものなら、馬はすぐに死んでしまう。人間だって違いますね。森の中に住んでいる。馬肉を食う。おまけに生で食う。腐っていても食う。いやはや。恥というものを知らない。人が宿を借りて、煙草入を出せば、すぐ下さいと云って手を出すという風ですからね。」
「それは土地の慣わしだから為《し》方《かた》がない。その貰う人もよそで泊れば、人に煙草をやるのだからな。お前さんにだって補助をして、今のように暮して行かれるようにしてくれたじゃないか。」
「それはそうですね。」
「どうだね。気楽に暮しているかね。」こう云っておれはワシリの顔を見た。
ワシリは微笑んで、「さよう」と云ったが、あとは黙って薪を炉にくべている。煖炉の火が明るく顔を照すのを見ると、目がどんよりしている。
しばらくしてワシリが云った。「まあ、わたくしの事を話し出しては際限がありません。これまでいい目に逢った事もないが、今だっていい目を見てはいませんよ。十八ぐらいの時までは、少しはよかったのです。つまり両親の言う事を聞いていた間が、為《し》合《あわ》せだったのです。それをしなくなった時、為合せというものが無くなったのです。それからというものは、わたくしは、自分を死んだもののように思っています。」
こう云った時、ワシリの顔は曇って、下脣がぴくぴく引き吊った。ちょうど子供のするような工合である。いわばワシリは「両親の言う事を聞いた」子供に戻ったので、ただその子供がいたずらに経歴して来た過去の生活のために、涙を流して泣いているのである。
おれに顔を見られたのに気が付いて、ワシリは気を取り直した様子で頭を振った。
「こんな事を言ったってしようがありませんですね。それよりは、わたくしが樺《から》太《ふと》の牢を脱けた時のお話でもしましょうか。」
おれは喜んで聞く事にした。この流浪人の物語は夜の明けるまで尽きなかった。
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千八百七十○年の夏の夜の事である。汽船ニシュニ・ノフゴロド号が黒い煙を後へ引きながら日本海を航行している。左の地平線には陸地の山が、狭い青い帯のように見えている。右の方にはラ・ペルウズ海峡の波がどこまでも続いている。汽船は樺太を差して進んでいるのだが、島の岩の多い岸はまだ見えない。
甲板はひっそりしている。ただ舳《へさき》の所に、月の光を一ぱいに浴びて、水先案内と当番の士官とが立っているだけである。船腹の窓からは弱い明りが洩れて、凪《な》いだ海の波に映じている。
この船は囚人を樺太へ送る船である。そうでなくても、軍艦は紀律が厳しい。それがこんな任務を帯びて航海するとなると、一層厳しくしてある。昼間だけは甲板の上で、兵卒が取り巻いている中を囚人が交《かわ》る交る散歩させられる。その外は甲板に出る事は出来ない。
囚人のいる室は、天井の低い、広い室である。昼間は並べて開けてある小さい窓から日が差し込む。薄暗いこの室の背景に透して見ると、窓は衣服に光る扣鈕《ボタン》が二列に付いているように見える。遠いのは段々小さくなって、その先は船壁の曲る所で見えなくなっている。室の中央に廊下がある。廊下と、囚人のいる棚との間には鉄の柱を立てて、鉄の格子が嵌めてある。そこに小銃を突いて、番兵が立っている。夜になると薄暗いランプが、ちらちらと廊下を照らしている。
すべて囚人のする事は、番兵の目の前で格子の中でするのである。
熱帯の太陽が燬《や》くような光線を水面に射下していてもいい。風が吠えて檣《ほばしら》がきしめいて、波が船を揺《ゆす》っていてもいい。この室に閉じ込められている幾百人は、平気で天気の荒れるのを聞いている。自分の頭の上や、この壁の外で、何事があろうと、この波に浮んでいる牢屋が、どっちの方へ向いて行こうと、そんな事には構わない。
載せてある囚人の数は、それを護衛している兵卒の数より多い。その代り囚人は一足歩くにも、ちょっと動くにも、厳重な取締りを受けている。こうして暴動などの起らないように用心してあるのである。
どんな非常な場合にも船を暴動者の手に取られてしまう事のないように、思いがけないほどの用心がしてある。どんな危険にも屈せずに、格子の中の猛獣共が荒れ出して、格子から打ち込む弾丸も効力がなく、格子も破れてしまったとしても、艦長の手にはまだ一大威力が保留してある。それは艦長がただ簡短な号令を機関室へ下せばいいのである、「ヴァルヴを開けい。」
この号令が下ると、すぐに機関室から囚人のいる室へ熱蒸気が導かれる。ちょうど物の透間にいる昆虫を殺すような工合である。囚人の暴動はこの手段で絶対的に防がれる事になっている。
こんな厳重な圧制の下にいても、囚人等はやはり普通の人間らしい生活を営んでいる。
今宵ちょうど汽船が闇の空へ花火を散らして、波を破って進んで行き、廊下では番兵が小銃を杖に突いて転《うたた》寝《ね》をしており、例の薄暗いランプの火が絶え絶えに廊下から差し込んでいる時、その格子の奥では沈黙の内に一悲劇があった。それは囚人仲間で密告者を処分したのである。
翌朝点呼になって見ると、囚人の中に寝《ね》台《だい》から起きないものが三人あった。上官がいかに声を荒らげて呼んでも起きて来ない。とうとう格子を開けて這入って、頭から被っている外套を剥いで見ると、この三人はもう永遠に人の呼声に答える事が出来なくなっていたのである。
囚人の仲間には勢力のある枢要人物がいて重大事件を決行する。その外の人間は、個人としては全く資格を失ってしまって、ただある「群《むれ》」としてのみ生活しているのである。この群のためには昨夜のような出来事は不意の事である。予期しない事である。そんな事件が起った時は、一同顔を蹙《しか》めて黙っている。ただ波の音と、機関の音とが聞えるばかりである。
しかし決行せられたあとでは、この事件の善後策として、どんな事をせられるだろうかという想像を、囚人共は話し合うのである。
どうも上官等は三人の死んだのを偶然だとも認めず、急病のためだとも認めないらしい。暴力を加えた痕跡がたしかに知れていたのである。そこで糾《きゆう》問《もん》が始まった。しかし囚人の返答は言い合せたようである。
それが外の時であったら、上官は脅迫とか、減刑の約束とかを餌にして、下手人を告発させる事が出来たかも知れない。しかしこの場合には誰も口を開くものがない。それは仲間を庇《かば》う考えばかりではない。官憲というものも、色々な威嚇をもって言わせようとするのだから、こわいには違いない。しかし「仲間」はそれより一層こわいのである。現に昨晩番兵を咫《し》尺《せき》の間に置いて、仲間はその威力を示したのである。無論寝ていなかったものが多数ある。例の三人が毛布《けつと》の下でうめいた声が、普通の寝息と違う事に気の付いたものも多数あるに違いない。しかし誰一人昨夜の刑の執行者を告げるものはない。上官は為《し》方《かた》がないので、規則上の責任者に罪を帰した。それは組長とその助手とであった。二人共その日の内に調べられた。
四
組長の助手はワシリであった。その時は別の名を名《な》告《の》っていた。
二日ほどたった。その間に囚人一同は例の事件を十分講究して見た。ざっとした考えで言って見れば、事件はなんの痕跡をも留めていない。犯罪者の見付けられようはない。随《したが》って囚人仲間の規則上の代表者が軽い懲罰を受けて済むはずである。囚人等は、なんと問われても、皆言い合せたような返事をした。「寝ていました」と云ったのである。
しかるに細密に考えて見ると、ワシリの身の上にどうも嫌疑が掛かりそうである。たいてい仲間が重大な事件を実行する時は、組長や助手が迷惑をしないように十分注意して実行する。今度だってワシリが犯罪人でないという事は、一応明瞭に証拠立てる事が出来るようにしてある。しかし老功と云われる囚人で、これまで火水の間を潜って来た奴がこの事件ではワシリの安全を請け合う事を躊躇して、頭を振っている。
大ぶ年を取って、白髪頭になっている流浪人が群を放れて、ワシリの前へ来て云った。「おい。樺太へ着いたらな、お前脱ける支度をしなくては行けないぜ。どうもまずくなっているぞ。」
「どうして。」
「どうしても何もあるものか。お前一体なん犯かい。」
「再犯だ。」
「それ見ろ。それからいつか死んだフエジカは誰の名を言って置いて死んだと思う。お前の名だぞ。あいつのお蔭でお前は二三週間手錠を卸されていたじゃないか。」
「それはそうだ。」
「それ見ろ。あの時お前、あいつになんと云った。兵隊が側で聞いていたぞ。お前はなんと想っているか知らないが、どうしてもあれは脅迫と聞えたからなあ。」
ワシリも外の者も、こう云われて見れば、どうも多少根拠のある話だと思わずにはいられない。
「そこでよく考えて見てな、銃殺をせられる覚悟をしていなくてはいけないぜ。」
大勢の間に不平らしく何かつぶやく声がした。
一人の男が不機嫌な声をして云った。「よせ。ブラン。」
「なに。余計な世話だ。」
「お前老耄《おいぼ》れたのだ。銃殺だなんて。そのくらいの事で。お前どうかしているのだ。」
老人は、何をいうのだというような風で、唾をした。そしてこう云った。「おれはどうもしていはしない。お前達がなんにも分からないのだ。馬鹿共。お前達はロシアでどうなるという事を知っているだけだ。おれはこの土地でどうなるという事を知っている。ここの流義を知っている。そこで助手、お前に言って置くぞ。黒竜省の総督の前へお前の事件の書附が出ると、お前は銃殺せられるのだ。どうかしたら、一等軽くなって、ボックになるかも知れない。そいつは一層有難くない。どうせ寝かされてから、起き上がる事はないのだからな。考えて見ろ。こっちとらは軍艦にいるのだ。ここでは陸にいるより倍厳しくせられるに極まっている。こんな事は言うようなものの、おれは実はどうでもいいのだ。お前方が皆揃って銃殺せられたって、おれは何も驚きはしない。」老人がボックと云ったのは、監獄にあるベンチの事である。その上へ倒して鞭で打つ。しかしたいていは打ち殺してしまうから、名目は減刑でも、実際は一思いに銃殺せられるより苦しいのである。
陰気な生活と運命の圧迫とに疲れて、沢《つや》の無くなった老人の目は、どんよりして、何がどうなっても構わないという風に空を見ている。老人は物を言ってしまうと、隅の方に引っ込んで坐った。
囚人の大勢集まっている所では、直覚的に法律に精通しているものがある。そういう男がある事件について、しっかり考えた上で、刑の予言をすると、たいてい中《あた》るに極まっている。この場合では、誰でも老人ブランの言った事を、腹の中でなるほどと思わないものはなかった。
そこで一同ワシリの脱獄を幇《ほう》助《じよ》してやる事に決議した。ワシリは「仲間」のために危険を冒したのであるから、仲間がその脱獄を幇助せずにいるわけには行かない。
第一の準備として、囚人一同は毎日受け取る食料のパンを、少しずつ除けて置いて、それを集めてワシリの携帯糧食にする事にした。
それから一しょに脱獄する人を選抜するという事になった。老人ブランはこれまで二度樺太から脱獄した経験がある。それだから第一に選抜せられた。
老人は別段に思案する様子もなく承諾して、こう云った。「おれはどうせ前から森の中で、のたれ死をする事に極まっているのだろう。それがよかろうよ。ただ一つ言って置くがな、おれも昔のようには手足が利かないて。」老人は語り続けた。「精出して仲間を拵《こしら》えろ。二人や三人では駄目だぞ。あそこを脱けるのは容易な事ではない。どんなに倹約しても、十人の手は揃っていなくては駄目だ。おれも足腰の立つ間は、一しょに働いてやる。実はおれだってどこで死んでも、あの土地で死ぬよりはいいからな。」
こう云ってしまって、老人はひどく真面目に考え込んだ。その皺の寄った頬を伝って、涙が流れている。
ワシリは「爺いさん、気が弱くなったな」と思って、仲間を勧誘しに掛かった。
軍艦はある岬を曲ったと思うと、港に近づいた。
船腹の窓には囚人が群をなして外を覗いている。その興奮した、物珍らしげな目に、高い山のようになっている島の岸が、次第に暮れかかる靄《もや》の中に、段々はっきりと見えて来る。
夜に入ってから軍艦は港に這入った。この辺の海岸は、黒い、陰気な大岩から成立っている。船が留まると、すぐに番兵が整列して、囚人の陸揚げに着手した。
真っ暗になった港の所々に微かな火が点《とぼ》してある。波は砂に打ち寄せている。空には重くろしい雲が一ぱい掛かっている。誰も誰も沈鬱な、圧迫せられるような思いをしている。
老人ブランが小声で云った。「これがヅエエという港だ、当分はここの監獄に置かれるのだ。」
土地の官憲が立ち合った上で、点呼が始まった。一組の点呼が済むと、上陸させられる。数箇月の間船に押し込まれていた囚人が、久し振りに陸地を踏むのである。今まで彼等を載せて、波に揺らせていた船は白い煙りを吐いている。その煙りが夕闇の中で際立って見えている。
目の前に明りが見える。人の声がする。
「囚徒か。」
「はあ。」
「こっちだ。七号舎に這入るのだ。」
囚人の群はその明りに近づいて行く。列を正して行くのではない。ぞろぞろと不規則な群をなして、押して行くのである。随分ごたごたするのに、いつものように、脇から銃床でこづかれないのを、囚人等は不思議なように感じた。
囚人の一人が呆れた様子で囁いた。「どうだい。番兵も何も附いていないじゃないか。」
これを聞いたブランが小言らしくつぶやいた。「黙っていろ。なんでここに番兵なぞがいるものか。番兵が無くったって、誰も逃げはしない。島は広いが、荒地ばかりだ。どこへ行っても飢え死にをするより外ない。島より外は海だ。それ、音も聞えるだろう。」
こう云った時、ちょうど風が出て、一行の前に見えている明りがちらついて、それと同時に岸の方から海の音が聞えて来た。ちょうど猛獣が目を醒してうなるように。
ブランがワシリに言った。「あの音が聞えるかい。国の諺《ことわざ》に、八方水で取り巻かれた、これが不運だというのである。この土地はどうしても海を渡らなくては逃げられない。それから船に乗る所まで逃げるにも道《みち》程《のり》がかなりある。牧場や、森や、警戒線を通らなくては行かれない。おれは動悸がする。あの海の音が不幸を予言しているようでならない。どうもおれにこの樺太が逃げられればいいが。おれも年が寄ったでな。もうこれまで二度脱けた。一度はブラゴエシュチェンスクで掴まった。二度目はロシアまで帰って掴まった。そしてまたここへ戻って来た。どうもこのままここで死ぬる事になりそうでならない。」
「そう云ったものでもないよ」と、ワシリが励ました。
「お前はまだ若い。もうおれのように年を取って、体が利かなくなっては駄目だ。あの海の凄い音を聞いてくれ。」
五
第七号舎からこれまでそこに住んでいた囚人を出して、その跡へ今度来たのを入れて、最初の間出口に番兵を付けて置いた。もし番兵を付けなかったら、これまで厳しく見張をせられていた癖が付いているから、それが無くなったため、小屋から出した小羊の群のように、すぐに島中にちらばってしまうからである。
もう久しい間島に置いてある囚人なら、見張なんぞをするには及ばない。そういう囚人は土地の様子を精《くわ》しく考えているから逃げようとはしない。この島で逃げ出すのは、随分思い切った為《し》事《ごと》で、逃げたものはきっと死ぬると云ってもいいくらいである。たまに逃亡を企てるものもあるが、それはよほど決心した人間で、その決心も熟考した上の事である。そんなのを番兵で取り締まろうとしても駄目である。どうしたって、逃げようと思えば逃げるし、また無理に留めて置いても苦役には服せない。
島に来てから三日目に、ワシリはブランに言った。「お前に相談するのだが、どうだろう。おれ達の仲間では、お前が一番年上だ。お前が先に立って指図してくれなくてはならない。糧食の用意もしなくてはなるまいな。」
ブランは元気のない様子をして答えた。「おれも格別相談相手にはなるまいよ。随分むずかしい為《し》事《ごと》だ。もうおれの年では柄にない。だからお前自分でやらなくては駄目だ。これから三日ほどたつと、幾組にも分けて為事に出されるだろう。この監獄の外に出るだけなら、その時勝手に出されるのだ。だが品物は持ち出す事が出来ない。どうするがいいという事は、お前考えて見なさい。」
「そう云わないで、お前考えて見てくれ。お前の方が馴れているのだから。」
こう云われたが、ブランは不熱心で、不機嫌で、ただぶらぶら歩いている。誰とも話をしない。どうかすると空を見て独《ひとり》言《ごと》を言っている。これで三度目に樺太を脱けるはずのこの年寄の流浪人は、見る見る弱って行くらしい。
かれこれする内に、ワシリはブランの外に十人の同志を糾《きゆう》合《ごう》した。いずれ劣らぬ丈夫な男である。そこでブランを捉まえて、元気を付けるようにして、これまでのように冷淡でいずに、逃亡の計画を立てて貰いたいと云って迫った。折々はブランも話に乗って来た。しかし色々話した末には、どうも脱ける事はむずかしいとか、今度の企ての不成功になるらしい前兆があるとか云うような事を云っている。
「どうもおれはこの島から外へは出られそうでないよ」と云うのが老人の口癖で、この詞で絶望の心持を表白しているのである。
折々元気がいいと、老人も昔脱獄をし遂げた時の事を思い出して、夕方になって、自分は床の上に寝ていながら、ワシリに島の地理を話し、逃げ出す時、どの道を逃げなくてはなるまいというような事を言った。
ヅエエの港は樺太島の西岸にあるから、アジア大陸に向っているのである。ここの海峡は三百ウェルストの幅である。小船ではとても渡られない。だから逃げようと思うものは、たいてい外の場所から逃げる。
ただ逃げるだけの事は余りむずかしくはないらしい。ブランはこういうのである、「死ぬる覚悟でさえあるなら、どこへでも行かれるよ。島は広くて、野と山があるばかりだ。土人だって、どこでも勝手な所に住まうという事は出来ない。右の方へ行くと、岩ばっかりある中へ迷い込んで、森から出て来る飢えた獣に食われるか、そうでなければ、諦めて戻って来るようになる。南の方へ行くと、島の果だから、海に出る。その方からは大船でなくては渡られない。それだから逃げる道はただ一方しかない。北の方だな。どこまでも海岸に沿うて北へ行くのだ。海さえ見て行けば間違いはない。かれこれ三百ウェルストも行くと港がある。そこは大陸までの海の幅が狭いから、ボオトで渡る事が出来るのだ。」
こんな話をしたあとで、ブランはいつもの結論を下す事になっている。「ところが、おれが言って置くがな、そこからだって逃げるのは容易な事ではない。兵隊が警戒線を布いているからな。最初に越さなくてはならない線はワルキというのだ。しまいから二番目がパンギというのだ。一番しまいのがポギバというのだ。大方逃げる奴の亡びてしまう所だから、そんな名が付いているのだろう。(ロシア語のポギバは滅亡の義。)一体警戒線は上手に布いてあるよ。道が出し抜けに曲る所で、その曲った角に番兵がいる。なんの事はない、ぼんやりして歩いている内に、綺麗に網に掛かってしまうのだ。桑《くわ》原《ばら》桑原だ。」
「だってお前二度もやった覚えがあるのだから、今度はそこの場所が分かりそうなものだな。」
老人の目は赫《かがや》くのである。「それはやったとも。だからおれのいう事を聞いていて、旨くやらなくてはいけない。今に水車場の普請におれ達を連れ出そうとするだろう。その時同志の者が皆望んで出掛けるのだな。食物も持って出ろというから、お前方の堅パンを持ち出すのだ。水車場にはペトルッシャアがいる。若い仲間の一人だ。そこから旅に立つのだな。三日の間は、いなくなったって、誰も気は付かない。この土地では三日の中《うち》に点呼に出さえすれば、咎めない事になっている。病気だと云えば、医者が為《し》事《ごと》を休ませてくれる。だが、病院は随分ひどい。それよりか働き過ぎて病気になって、体が利かなくなった時は、森の中に寝ているに限る。そうすれば空気がいいからひとりでに直る。その時点呼に出て行くのだ。そこで四日目になって点呼に出ないと逃亡と看《み》做《な》されるのだ。逃亡と看做されてから、遅くなって帰って来ると、すぐにボックへ載せてはたくのだ。」
「おれ達はボックに乗る気《き》遣《づかい》はない。逃げた以上は帰っては来ないのだから」と、ワシリが云った。
ブランはまた不機嫌になって、目の色をどろんとさせて云った。「帰って来なければ、森の中の獣が引き裂くか、兵隊が鉄砲で打ち殺すのだ。兵隊はおれ達をなんとも思ってはいない。捉まえて面倒を見て、百ウェルストも送って来るような事はしない。見付けたところで打ち殺してしまえば、手数が掛からなくていいのだ。」
「縁起の悪い事をいうな。不吉な事を知らせる烏の啼声を聞くようだ。いよいよあした出掛けるぞ。おれ達の入用な物は何々だと、お前がボブロフにそう言ってくれ。同じ船で来た仲間が取り纏めてくれるから。」
老人は何やら口小言を言いながら、俯《うつ》向《む》いて立って行った。そのあとでワシリは同志にあすの用意を言って聞かせた。組長の助手の役は、よほど前に辞退したので、代りが選挙せられて、それがあとを務めているのである。
同志は手荷物の用意をした。着物や靴の痛んでいるものは、跡へ残る人に取替えて貰った。そうして置いて、水車場の普請に行けと云われた時、同志者は揃って名告り出た。
その日の中に逃亡組は、水車場を離れてしまって、森の中に這入った。さて同志の頭数を調べて見ると、ブランがいない。
同志は随分粒が揃っている。ワシリと一しょに出て来たウォロヂカはやはり流浪人だが、ワシリと仲のいい友達である。マカロフという大男がいる。これは大胆で、機敏で、これまで鉱山から二度逃げ出した事がある。それからチェルケス人が二人いる。思い切った事をする連中だが、仲間に対しては義理が堅い。それから韃靼人が一人いる。狡《こう》猾《かつ》で、随分裏切りもしかねない男だが、その狡猾なところを利用すれば、有用な人物にもなりそうである。その外のものも、皆流浪人で、これまでシベリア中を股に掛けて歩いた連中である。
一日森の中で暮して、その晩も泊った。翌日まだブランを待っている。それでもブランは来ない。
第七号舎へ韃靼人を覗きにやった。韃靼人はこっそり忍んで行って、ボブロフを呼び出した。これはワシリの親友で、囚人仲間一同から尊敬せられている有力者である。
翌朝ボブロフが森の中へ尋ねて来た。「どうだい。何かおれがしてやらなくてはならない用があるのかい。」
「外でもないが、どうぞあのブランに来るように言ってくれ。あれが一しょに来なくては、出掛けられないのだ。もしまだ糧食が足りないというなら、少し分けてやってくれ。おれ達はあの爺いさんの来るのを待っているのだからな。」
この話を聞いてから、ボブロフは第七号舎に帰って見た。しかしブランはまだなんの用意もしていない。ただあちこち歩き廻って、空を見て独言を言っているのである。
ボブロフが声を掛けた。「おい。ブラン。何をぐずぐずしているのだい。」
「なんだ。」
「なんだもないものだ。なぜ用意をしないのだ。」
「おれかい。おれは墓に這入る用意をしている。」
ボブロフは少しじれて来た。「それはなんという言草だ。お前の同志のものが、もう四日も森の中にいて、お前の来るのを待っているじゃないか。お前が行かないので、あいつらが戻って来ようものなら、ボックの上で叩き殺されてしまうだろう。お前は流浪人になって、年を取っていながら、義理を知らないのか。」
ブランは涙を翻《こぼ》している。「そうさな。もうおれはおしまいだ。どうせおれは島から外へ出る事は出来ない。おれは年が寄った。もう生きている事は出来ない。」
「年が寄ろうが寄るまいが、それはお前の事だ。一しょに逃げ出して、途中で死んだって、誰もお前を悪くいうものはない。ところがあの十一人の人間が、お前のお蔭で、ボックの上で死んだ日には、どうもお前をそのままでは置かれないぜ。為《し》方《かた》がないから、おれは仲間に言って聞かせる。そうしたらどうなるかという事は、お前だって知っているだろう。」
ブランは真面目で答えた。「なるほど、それは知っている。そうなったって、誰を恨みようもない。おれもそんなはめになって死にたくはない。どうも行かなくてはなるまいかな。だが、おれはまだちっとも支度をしていない。」
「それはおれが拵えてやる。すぐやる。何々がいるのだ。」
「いい上着が十二いる。」
「みんなはもう持っているぜ。」
ブランは詞に力を入れて繰り返した。「おれのいう事を聞いてくれ。みんなが上着を一枚ずつ持っている事は、おれも知っている。だが、二枚ずつなくてはいけないのだ。土人のボオトを手に入れるには、てんでに上着を脱いでやらなくてはならない。それからいいナイフが十二本、鉞《まさかり》が二つ、鍋が三つだ。」
ボブロフは仲間を集めて、ブランの云った事を取り次いだ。
仲間が不用の上着を持っているものは、皆そこへ出した。この陰気な牢屋の中を出て、自由な天地に帰ろうとして、大胆な為事に掛かる同志のものに対して、仲間で誰一人本能的に同情していないものはないから、上着の掛替えは惜しまないのである。鍋やナイフもただで貰い集めたり、また少しの銭を出して、移住人から買い取った。
六
新しい囚人が島に来てから十三日たった。
翌朝ボブロフがブランを森の中へ連れて行って、入用の品も運んでやった。
逃亡組は一同祈祷をして、ボブロフに暇乞いをして出発した。
ここまで話して、ワシリは興に乗って来て、自然に声も高くなった。
おれは問うた。「どうだったい。いよいよ出発となった時は、いい心持だったろうね。」
「それはいい心持ですとも。低い木の間から、高い木ばかりの揃っている森に這入り込んで、木の枝のざわざわいうのを聞いた時は、生れ変ったような心持がしましたよ。同志の者は、みんな勇み起ちました。その中でブランだけは俯向いて、何か分からない事を口の中で言いながら歩いているのです。どうも出立の時から、いい心持はしなかったらしいのですね。どうせ遠い道を逃げ果《おお》せる事の出来ないのが、胸に分かっていたのでしょう。少したつと皆が案内者として、頼みに思っている爺いさんが、どうも頼みにならないような気がして来ました。もちろん流浪人になって年を取った男ではあるし、もう二度もこの島から脱けた事があるのですから、道なぞは心得ています。しかしわたくしや、友達のウォロヂカが見たところでは、爺いさんが頼み少なく見え出したのですね。
ある時ウォロヂカがわたくしに言いました。「今に見ろ。ブランのお蔭で、おれ達はひどい目に逢うぜ。どうもあいつは変だからな。」
ウォロヂカがまたいうのです。「どうも気が変になっているようだ。色々な独言を言って、首を振ったり、合点合点をしたりしている。指図もなにもしてくれない。もうさっきから小休みをしてもいいころになっているのに、あいつはずんずん歩いている。どうも変だぜ。」
わたくしもそんな気がしました。そこでブランの側へ行って、「どうだね、あんまり急ぎ過ぎるじゃないか、少し休んだらどうだろう」と云いました。
そうすると、ブランはちょっと立ち止まって、わたくし共の顔をしばらく見ていて、また歩き出すのです。そしてこういうじゃありませんか。「待て待て。そんなに急いで休む事はない。どうせワルキかポギバに行けば、お前達はみんな弾を食うのだ。そうすれば、いつまでも休まれる。」
わたくし共は、呆れてしまいました。それでも喧嘩をしようとは思いませんでした。それに最初の日には休まずに少し余計に歩いた方がいいのだという事も考えたのです。
また少し歩くと、ウォロヂカがわたくしをこづいて、「どうも間違っているね」と云いました。
「なぜ。」
「ワルキまでは二十ウェルストだという事を聞いていた。もうたしかに十八ウェルストは歩いている。うっかりしていると警戒線に打《ぶ》っ付かるぞ。」
そこでわたくし共は爺いさんに声を掛けました。「おい、ブラン。」
「なんだい。」
「もう追っ付けワルキに来るだろう。」
「まだまだ。」
こう云って爺いさんは、ずんずん歩くのです。実はこの時今少しで、大変な目に逢うところでした。為《し》合《あわ》せな事には、わたくし共がふいと崖の所にボオトが一艘繋《つな》いであるのに気が付きました。そこで皆言い合せたように足を駐めたのです。
マカロフが行きなりブランを掴まえて引き戻しました。
どうも船があるからには、近所に人間がいなくてはならないと思ったものですから、みんなで言い合せて、こっそり横道へ這入って、森の中へ隠れました。これまで歩いて来た所は、河の縁で、河の両方の岸は茂った森になっているのです。
一体樺太という所は、春の間いつも霧が立っている所です。その日にも一面の霧が掛かっていました。
ちょうどわたくし共が森の中の山道を登って行って、絶頂に近い所まで行った時、風が出て谷の霧を海の方へ吹き払ったのです。その時警戒線の全体が、手の平へ乗せて見るように、目の前に見えたじゃありませんか。
兵隊共は営庭でぶらぶら歩いている。犬が何疋もそこらを嗅ぎ廻っている。番兵は寝ているというわけです。
わたくし共は、ほっと息を衝きました。も少しでうっかりと狼の口の中へ駈け込むところだったのですね。
「おい。ブラン。どうしたのだい。あれは警戒線じゃないか。」
「そうさ。あれがワルキだ。」
「お前おこってはいけないよ。お前は同志の内で一番年上だから、今まで皆がお前の指図を受けるつもりでいたのだが、どうもこれからはおれ達が自分で手《て》筈《はず》をしなくてはなるまい。お前に任せていた日には、どこへ連れて行かれるか分からないからな。」
「どうぞみんな堪忍してくれ。おれは年を取った。おれは四十年この方流浪している。もう駄目だ。おれは時々物忘れをしてならない。物によってはよく覚えている事もあるが、外の事はまるで忘れてしまっている。どうぞ堪忍してくれ。ここは落ち着いていられる所ではない。早く逃げなくては駄目だ。あの警戒線の奴が誰か森の中へ這入って来るか、犬が一疋嗅ぎ出して近寄って来たら、この世はお暇乞だ。」
そこでわたくし共は歩き出して、途中でブランに気を付けるように相談しました。わたくしはみんなに選ばれて案内者になりました。休む時の指図や、その外号令をしなくてはならないのです。もっとも道はブランが知っているはずだというので、先に立って歩かせる事にしました。流浪人をしたものは皆足が丈夫で、体が一体に弱くなっても、足だけは利くものです。だからブランなんぞも、死ぬるまで歩く事だけは達者でした。
たいていわたくし共は山道を選《よ》って歩きました。足元の悪い代りに、危険が少ないのですね。山の中では木がざわざわ云って、小河がちょろちょろ石の上を飛び越えて流れているばかりで、人に逢わないから難有《ありがた》いのです。移住民も土人もたいてい谷の方で、河や海の近い所に住んで、肴《さかな》を取って食っています。殊に海は肴がたくさん取れるのです。わたくし共も肴を手掴みにして取った事があるくらいです。
そんな風にして、どこまでも海岸を遠く放れないように気を付けて、ずんずん逃げたのです。余り危険がないと思って、じりじり海の方へ寄って、とうとう岸を歩き出す。それから少し危険だと思うと、また山の上に這い登るというわけです。警戒線は、用心して遠廻りに除けて通りました。配り方はそれぞれ違っていて、二十ウェルストを隔てて布いてあったり、五十ウェルストを隔てて布いてあったりするから、いつ出食わすか分からないのですね。為《し》合《あわ》せな事には、どれも旨く除けて通って、とうとう最後の警戒線まで来たのです。」
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ワシリはここまで話して間を置いた。それからしばらくしてから、立ち上がった。
おれは「なぜあとを話さないのか」と云った。
「馬の世話をしてやらなくてはなりません。もうちょうどいい時分でしょう。行ってほどいてやろうかと思います。」
ワシリが中庭へ出るので、おれも付いて出た。
寒さが少しゆるんで、霧が低くなった。
ワシリは空を仰いで見た。「大ぶ星が高いようです。もう夜中を過ぎたのでしょう。」
もう霧が遠い所を遮っていないので、今は近い部落の天幕がはっきり見える。部落は皆寝静まっている。どの内の煙突からも白い煙が立っている。稀には火の子が出て、寒空で消えるのもある。ヤクツク人は夜通し煖炉を焚いているが、それでも温りは長くは持たない。だから夜中に寒くなると、誰か早く目の醒めたものが薪をくべ足すのである。
ワシリはしばらく黙って立って、部落の方を見ていたが、溜息をついた。「久し振りで部落というものを見ますね。もう大ぶ久しい間見ずにいたのです。ヤクツク人はたいてい固まって住わないで、一人一人別な所に住いますからね。わたくしもこっちの方へ越して来ましょうか。ここいらなら住み付かれるかも知れませんね。」
「ふん、今お前さんのいる所には住み付かれないのかね。田地を持っているじゃないか。それにさっきも今の境遇に安んじているように云っていたじゃないか。」
ワシリはすぐには答えなかった。「どうもいけませんね。この辺の様子を見なければよかった。」
ワシリは馬の側へ寄って顔を見て、撫でてやった。賢い馬は顔を見返して嘶《いなな》いた。ワシリは、さすりながらこう云った。「よしよし。待っていろ。今に外してやる。あしたまた働いてくれなくてはならないぞ。あしたは韃靼の馬と駈《かけ》競《くら》をするのだ。」
それからおれの方に向いて云った。「いい馬ですよ。わたくしが乗り馴らしました。どんな競馬馬と駈競をさせてもいいのです。旋風《つむじ》のように走りますよ。」
ワシリは縄を解いて枯草のある方へ馬をやった。おれはワシリと一しょに天幕の内へ這入った。
七
ワシリの顔は天幕に帰ってからもやはり不機嫌らしく見えた。そして話をしかけてあるのを忘れたか、それともあとを話したくなくなったかと思われる様子をしている。そこで話の結末が聞きたいと云って催促して見た。
ワシリは機嫌を直さずに答えた。「なんの話すほどの事があるものですか。どんな事を云っていいか、分からなくなってしまいました。とにかく随分ひどい目に逢ったのですよ。ああ。しかし話し出したものですから話してしまわなくてはなりますまいなあ。」
「それから十二日の間歩きましたが、まだ島の果までは行き付かなかったのです。一体なら八日で、向岸へ越されるはずなのですが、用心をしなくてはならないのと、案内者のいいのがないのとで、無駄をしたのです。海岸を歩けば平地であるのに、岩山に登ったり、谷《たに》合《あい》の沼を渡ったりして時間を費したのです。最初出立する時、十二日分の食物を用意したのですから、それもそろそろ無くなりかかって来ました。そこで一度分の分量を減らしました。堅パンの残っているのを、なるたけ食べてしまわないようにして、てんでに食物を捜して、それで飢を凌《しの》いだのです。森の中には木の実がたくさんあるものですから、なるたけそれを取って食べるようにしました。
そんな風にしてリマンという湾のある所へ出ました。この湾の水は常に鹹《しおから》いのですが、時々黒竜江の水が押して来ると、淡水になって、飲む事が出来るのです。ここからボオトに乗って出れば、黒竜江へ這入られるのです。
どうしてボオトを手に入れようかと相談したところが、老人はもう疲れ果てて、目がどんよりしていて、なんの智慧も出ないのです。それでもとうとうこう云いました。
「どうせボオトは土人の持っているのを手に入れるのだ。」
これだけの事は云いましたが、その土人をどこへ捜しに行ったらいいか、また土人の手から船を得るには、どういう手段を取ったらいいかという事は、老人が教えてくれません。
そこでウォロヂカとマカロフとわたくしとで、同志の者にこう云いました。
「おい。皆の者はここで待っていてくれ。おれ達はこの岸に沿うて歩いて見る。為《し》合《あわ》せがよかったら、土人を見付けて、どうにかしてボオトを手に入れようと思う。二三艘もあれば結構だがそう行かなければ、一艘でも手に入れるようにしよう。みんな用心しているのだぜ。この辺にも警戒線が布いてあるかも知れないから。」
こう云ってみんなを残して置いて、わたくし共三人は岸を歩き出しました。少し歩いて岩のある所へ来ると、そこに網を繕っている男がいるのです。このオルクン奴《め》をわたくし共に逢わせて下さったのは、実に神のお恵みだと思います。」
「なんだい。そのオルクンというのは。その男の名かい。」
「どうですかねえ。そういう名だったかも知れません。しかしわたくしの察したところでは、どうもオルクンというのは酋長という事らしかったのです。とにかく何がなんだか分からなかったのですけれども。わたくし共は、そいつを驚かして、逃がしてはならないと思って、用心してそろそろ側へ寄りました。それから間が近くなった時、突然側へ駈け付けて、その男を取り巻きました。その時そいつが指で自分の顔をさしてオルクン、オルクンというのです。
わたくし共はなんの事だか分かりませんが、こっちもどうかして用事を向うへ知らせてやろうと思って工夫をしました。とうとうウォロヂカが杖で砂の上へ、舶《ふね》の形をかいて見せました。こんな物がいるというつもりですね。
そうすると、その男がちょっと考えていたが、すぐに呑み込んで合点合点をしました。それから手の指を出して二本見せたり、五本見せたり、また十本皆見せたりしたのです。なんのつもりだろうと、三人で相談しましたが、とうとうマカロフが暁《さと》りました。
「おい。これはおれ達の仲間が何人いるかと問うのだぜ。人数次第で、ボオトが幾ついるという事になるのだろう。」
なるほどというので、わたくし共は、そいつに十二という数を知らせました。それはすぐに呑み込んでくれました。
それからそいつが、こっちの仲間の所へ連れて行けと、手真似でいうのです。最初はどうしようかと思って考えましたが、外にしようがないので、連れて行く事にしました。どうも歩いて海は越されませんから、そいつに手伝って、船を拵えて貰う外、為《し》方《かた》がなかったものですからね。
同志の者も、わたくし共がその男を連れて来たのを見て、最初は不平らしい顔をしました。
「なんだってそんなものを引っ張って来たのだい。それではおれ達の隠家が知れてしまうじゃないか。」
「黙っていろ。連れて来なくってはならないから連れて来たのだ。」
こんな事を言い合っているのに、例の男は平気で同志の者の中に交って、みんなの着ている上着を手で障っているのです。
そこでみんなで二重に持っている上着を脱いでやると、男はそれを受け取って、肩に掛けて、山道を下りて行くのです。わたくし共はあとから付いて行きました。
少し行くと下の方に土人の天幕が並んでいるのが見えました。小さな村なのです。
同志の者はちょっと足を留めて心配し出しました。「どうしよう。あいつが村へ帰って行くと村の者を呼び集めるかも知れないぜ。」
わたくし共はこう云いました。「構うものか。あの天幕は四つある。中に何人ずついるとしても知れたものだ。こっちは同勢十二人、一人一人長さが四分の三アルシンぐらいある、立派なナイフを持っているじゃないか。それにあいつらの体と、おれ達のような大男の体とは、比べものにならない。第一ロシア人は牛肉を食うのに、あいつらは肴《さかな》ばかり食っていやがる。どうする事が出来るものか。」
こうは云ったものの、わたくし共は余りいい気持はしませんでした。
とにかく島の果まで、漕ぎ付けて来た。しかしあの向うの地平線に、青い帯のように見えている、黒竜江の岸に渡って、ほっと息を衝《つ》く事が出来るだろうか。鳥のように羽でも生えてくれればいいと思ったのですね。
しばらく待っていると、大勢の土人が、オルクンを先に立てて、やって来ます。見ると、それが皆槍を持っているのです。同志の者が、こう云いました。
「見ろ。あそこをやって来やがる。命のあるうちは降参すまいぜ。あいつらとやり合って、死ぬるものがあったら、それも運だから、諦らめるがいい。お互に助け合って、出来るだけ防いで見よう。さあ、みんななるたけ散らばらないように、固まっていなくてはいけないぜ。」
こんな風に待ち構えていましたが、これは全くこっちの誤解でした。オルクン奴《め》は、わたくし共の様子を見て、疑われたのだなと暁ったものですから、仲間の槍を皆取り上げて、一束にして一人の男に渡しました。
そこでお互に腹が分かったものですから、わたくし共は、村の者と一しょに、ボオトのしまってある所へ見に行きました。そこで土人は船を二艘出して見せました。大きい方には八人乗られるし、小さい方には四人乗られるのです。
こんな工合に、ようよう船だけは出来ました。ところが困った事には、乗り出す事が出来なくなったのです。ちょうどその時風が出て、向岸から吹くのですね。波が中々高くて、とてもボオトくらいでは乗り出されません。
そこで二日間風を待ち合せました。そのうちに食料がいよいよ無くなったものですから、木の実と、オルクンのくれる肴とを食って、命を繋いでいました。オルクンは正直な、いい奴でしたよ。今でもあいつの事は折々思い出します。
待っていた二日目の日が暮れたのに、わたくし共はやはり島にいるのです。どんなにじれったかったか、口では言われません。その夜も過ぎてしまう。三日目になって見ても、まだ同じ風です。
その時海を見ますと、風が霧を皆吹き払ってしまったものですから、向岸がよく見えるのです。それを見るといよいよたまらなくなって来るのですね。
ブランの爺いさんは岩の上に蹲《しやが》んで、向岸ばかり見詰めて、何時間たっても動きません。みんなが木の実を取りに行っても、爺いさんだけは立ちもしません。みんなが気の毒がって、やっと拾って来た木の実を、少しずつ分けてやりました。大方爺いさんは流浪人の係恋《あこがれ》とでもいうような心持になっていたのでしょう。それとも死ぬる時が近づいたのを、自然に知っていたのかも知れません。
そうしているうちに、同志の者が皆我慢し切れなくなって、とうとう夜になったら、どうなっても構わないから、漕ぎ出そうという事に極めました。どうせ昼のうちは漕ぎ出されません。そんな事をしようものなら、警戒線から見付けますから。夜ならばその心配だけはありません。そこで命を神に任せて、夜出掛けようというのです。
風はやっぱりひどくて、鞭で打つように、波が打っ附かって来ます。見渡す限り海の上には、波頭の白い泡が立っています。
わたくしはみんなにこう云いました。「さあ、皆来て寝るのだよ。ちょうど夜中には月が出る。その時船を出すのだ。船では寝るどころの騒ぎではないから、それまで出来るだけ休んで置くのだ。」
一同わたくしの差図通りに横になりました。わたくし共の隠家は高い岸の岩の側で、下から見上げても、立木が邪魔になって見えないようになっていました。ただブランだけは横にならずに、やっぱり西の方を見詰めています。
みんなが横になったのは、まだ夕日が入らないころでした。日が暮れるまでには、大ぶ時間があります。わたくしは十字を切って横になって、波が岸を揺ったり、森の木が風にざわ付いたりする音を聞きながら、寝入ってしまいました。
どんな恐ろしい事が目前に迫って来るか、皆知らずにいたのですね。
ふいとブランが小声で呼ぶのに気が付いて、わたくしは眠たいのを我慢して、起き上がって、身の周囲《まわり》を見廻すと、ブランがわたくしの上にかぶさるようになって立っていて、目をきょろきょろさせて、森の方へ指ざしをして、こう云うのです。「起きないか。来やがった。連れ戻しに来やがった。」
わたくしがその指ざしをしている方を見ますと、木の間に兵隊がいるじゃありませんか。
その内の一人で、一番前にいるのが、銃でこっちを狙っています。今一人はこっちの方へ駈けて来ようとしています。そのあとから山を下りて来かかっているのが三人あります。皆銃を持っています。
わたくしはすぐに気分がはっきりしました。そして大声で同志の者を呼びました。同志の者は皆同時に起き上がりました。そしてさっき狙っていた兵卒が射撃をしてしまうや否や、みんなで向うへ飛び込んで行きました。」
ワシリは逆《のぼ》せたような顔をして黙って、俯向いた。余り熱心に話して、薪をくべる事を忘れたものだから、煖炉の火が燃えなくなって、天幕の内は薄暗くなっている。
ワシリは訟《うつた》えるような調子で云った。「一体なんだってこんな話をし出したのでしょう。」
「どうでもいいじゃないか。しまいまで話してくれ。それからどうしたのだ。」
「それからですか。兵卒は六人でした。こっちは十二人でしょう。なんでもわたくし共の寝ている所へ踏み込んで掴まえようとしたのですね。しかしこっちは兵卒共に考える時間を与えなかったのです。わたくし共は大きなナイフを持っています。向うはただ一度打った切りで、それも慌てて狙いが逸れました。皆山から駈け下りて来るはずみで、踏み留まる事が出来ません。それを下で待ち受けていたのですね。
そこでわたくし共が飛び込んで行くと、向うはしかと防ぐ事も出来なかったのです。こっちはまるで気の違った狼のような勢いで飛び付くのに、向うはやっと銃剣の尖で防いでいるのです。
兵卒の一人が銃剣でわたくしを突こうとします。それがわたくしの足をかすりました。わたくしは躓《つまず》いて転びました。その上へ兵卒が乗りかかって来ました。その兵卒の上へマカロフが飛び付きました。その時わたくしの顔へ、上の方から温いものがだらだらと流れ掛かりました。わたくしとマカロフとは起き上がったが、その兵卒はとうとう起き上がりませんでした。
わたくしは飛び起きて、周囲《まわり》を見廻しました。ちょうどその時同志の二人が、岩の上へ駈け上がって行きます。その向うに立っているのは警戒線の隊長で、サルタノフという士官です。樺太の名高い男で、土人さえ恐れていたのです。なんでも囚人がこの男の手で殺された事はたびたびであったそうです。ところが今度はそうは行きません。向うが危なくなっています。
二人の同志は例のチェルケス人でした。大胆で素早くって、まるで猫のように体の利く奴です。まず一人が正面から向って行って、サルタノフと岩の上で打っ付かりました。直き側でサルタノフが拳銃を打ったのを、チェルケス人は蹲《しやが》んで、弾に頭の上を通り越させました。その途端にサルタノフもチェルケス人も倒れました。今一人のチェルケス人は、同志が打たれたと思って、恐ろしくおこって飛びかかりました。まだどうなったのだか、わたくしにも分からずにいる内に、弾に頭の上を通り越させたチェルケス人は、胴から切り放したサルタノフの首を握って立ち上がって、顔を引き吊らせて笑いました。
わたくし共はそれを見て、その場に釘付けにせられたようになっていますと、チェルケス人は国《くに》詞《ことば》で大声にどなって、サルタノフの首を高く振り上げて、一廻し廻したかと思うと、海へ投げ込んでしまいました。わたくし共は呆《あつ》気《け》に取られていると、しばらくしてから、どぶんと音がしました。サルタノフの首が海に落ちたのですね。
その時一番あとから来た兵卒が、岩の上で立ち留まって、持っていた小銃をそこに棄てて、手で顔を押えたと思うと、そのまま逃げ出しました。わたくし共は追いかけては行きませんでした。その男が警戒線でたった一人生き残ったわけです。
後に聞けば警戒線は、二十人で張っていたのです。その十三人が買出しに向岸へ渡っていて、風が強いのでまだ帰らなかったのだそうです。そこで残っていた七人の内、六人はわたくし共が殺してしまってたった一人逃げたのです。
為《し》事《ごと》はこれで片付きました。しかしわたくし共はまだぼんやりして、互に顔を見合せていましたが、とうとう臆病らしい、勢いのない声をして、ためらいながら「どうしたのだろう、夢ではなかったか知らん、本当だったかなあ」と言い合ったくらいです。
その時突然、さっきまで皆の寝ていた場所で、ブランがうなっているのを聞き付けました。ブランは兵卒の打った、たった一つの弾に中って、致命傷を受けたのですね。
同志の者が駈け付けて見ると、ブランは落《らく》葉《よう》松《しよう》の下で、胸に手を当てて、目に一ぱい涙を溜めています。そしてわたくしを側へ呼んでこう云うのです。
「どうぞみんなでおれの墓を掘ってくれ。どうせお前方はまだ船を出す事は出来ない。向うへ渡った兵隊と海の上で出逢ってはならないから、夜になるのを待つのだ。だから墓を掘ってくれ。」
「なにをいうのだい。生きた人間を埋める奴があるものか。お前を向岸へ連れて行って、逃げられる所まで、手の上へ載せてでも行ってやる。」
「いやいや。運というものは極まっているものだ。おれはこの島から外へは出られないのだ。それでいい。疾《と》うからおれの胸にはそれが分かっていた。おれはロシアへ帰りたくて、始終樺太からシベリアを眺めてばかりいるのだ。それがせめてシベリアででも死ぬる事か、この島で死ななくてはならないのは残念だが、為《し》方《かた》がない。」
ブランの話を聞いていて、わたくしは妙に感じました。それはまるで別な人間のようになっているからですね。言う事に筋道が立って、気分がはっきりしているのです。目も澄んでいます。ただ声だけが力が無くなっているのです。
ブランは同志の者を皆側へ寄せて、遺《ゆい》言《ごん》をしたり、注意を与えたりしてくれました。
「みんな聞いてくれ。おれの今言う事を忘れるなよ。お前方はおれに別れてシベリアへ行くのだ。おれはここに残るのだ。そこでお前方の行く先は、余り結構ではないぞよ。おまけにサルタノフまで殺したのだから、どこまでまずいか知れないのだ。サルタノフが殺されたという事は、すぐに遠方まで知れる。イルクツクあたりはもちろん、ロシアまでも知れるだろう。
ニコラエウスクではお前方の逃げて来るのを待っているだろう。どうぞみんな用心してくれ。腹が減っても寒くっても、町や村へ寄るなよ。土人はこわがるには及ばない。お前方をどうもしようとは思っていない。これからおれが大事な事を言うから、気を付けて聞いてくれ。
ニコラエウスクの町の入口に屋敷がある。そこにおれ達の恩人が住っている。タルハノフという商人の支配人だ。その男は元この樺太へ来て、土人を相手に商売をしていたものだ。ある時商品を持って、この辺の山道に迷った。平生土人とは仲が悪くて喧嘩をしていたものだから、山の中でまご付いておるのを見付けると、殺してしまいそうにした。そこへちょうど脱獄仲間が通りかかったのだ。その中におれもいた。初めて樺太を逃げ出した時の事だよ。
森の中でロシア語で助けてくれというもののあるのを、おれ達が聞いて駈け付けて、その男を土人の手から救い出したのだ。
それからというものは、その男は樺太から逃げ出す囚人の助けになろうと心掛けている。不断云うには、おれは死ぬまで樺太の囚人に恩返しをしなくてはならないと云っている。そのころから今までに、大ぶ人を助けたよ。お前方もその男の内へ行くがいい。きっと世話をしてくれるに違いない。
もうこれでいい。もうみんなぐずぐずしていては行けない。ワシリや。どうぞみんなに言い付けて、おれの墓をここへ掘らせてくれ。ここはちょうどいい所だ。向岸から吹いて来る風が、おれの墓に当る。向岸から打ち寄せる波が、おれの墓の下まで来る。どうぞすぐに為事に掛からせてくれ。」
ブランの言った事は、こればかりではなかったのですが、大概こんなものでした。一同ブランの詞に随って、墓を掘りにかかりました。
老人は落葉松の木の下に坐っている。わたくし共は例の小刀で土を掘り上げる。さて穴が出来ましたので、一同祈祷をしました。
老人はじっとして坐っていて、合点合点をします。その両方の頬からは涙が流れ落ちるのです。
日が這入ってしまったころ、ブランは死にました。暗くなってから、わたくし共はブランを穴の中へ入れて、上から土を掛けました。
ちょうど船を漕ぎ出すと、月が登って来ました。わたくし共は互に顔を見合せて帽を脱いで礼をしました。背後の岸を見返ると、樺太の岩山がごつごつしていて、その上にブランの落葉松の枝が靡《なび》いていたのですね。」
八
「シベリアの岸に着いて聞けば、サルタノフが残酷に殺されたという話が、もう土人にも知れているという事でした。風が吹き伝えでもしたように、この風説は広まったのです。同志の者は漁《すなどり》をしている二三の土人に出逢って、その口からこの話を聞いた時、土人等は首を振って、変な顔附をしました。その顔附は内々喜んでいるという風に見えました。わたくし共は腹の内で思いました。たくさん笑うがいい。おれ達はどうなるか分からない。事によるとサルタノフの首の代りに、この首を取られるかも知れないと思いました。
土人はわたくし共に肴をくれて、こんな道もある、こんな道もあると逃道を教えてくれました。それを聞いてわたくし共は歩き出しました。なんだかおこっている炭火の上を踏んで行くようでした。物音がすると、一同びっくりする。人家があると、避けて通る。ロシア人に逢わないようにする。自分の歩いて来た足跡を消して置く。実に大変な気苦労をしたものです。
昼間はたいてい森の中で寝て、夜になってから歩き出します。そんな風にして歩いて、とうとう、タルハノフの家のある所に、ある朝夜の明け切らない内に着きました。
タルハノフの住いは森の中にあって、周囲には丈夫な垣が結ってあります。門は締めてありました。ブランの話したのは、これに相違ないと思いましたから、門の側へ寄って扉を叩きました。
門の中では明りを点けて、それから「誰だ」と云いました。
「わたくし共は流浪人で、ブランという男からこちらのスタヘイ・ミトリッチュさんに言伝があって来ました。」
ちょうどその時支配人は留守で手助けをする男が留守番をしていました。支配人は出て行く時留守番にこういう事を云い付けたそうです。「樺太から逃げて来たものがあったら、一人に五ルウベルの金と靴を一足、毛皮を一枚、その外着物と食料とを望むだけやってくれ。逃げて来たものは何人であっても、これだけの事は一人残らずしてやってくれ。金や品物を渡す時には、雇ってある百姓共を呼び集めて、その目の前で渡して貰いたい。そうすればおれが帰った時、百姓共が証人になって、おれに安心させてくれる事が出来るのだ」と云ったそうです。
この土地へもサルタノフが殺された話は、もう聞えていました。それですから留守番はわたくし共の顔を見て、気味を悪がったようでした。「サルタノフをやっ付けたのはお前さん達だね。用心しないと危ないよ。」
「そんな事をしたのが、わたくし共だろうと、そうでなかろうと、それはどうでもいいでしょう。とにかくあなたは、わたくし共に補助でもしてくれるのですか、どうですか。ブランがスタヘイ・ミトリッチュさんによろしくと云いましたよ。」
「ブランはどこにいるのだね。また樺太にやられているのですか。」
「ええ。樺太に葬られているのです。」
「おやおや。あの男は正直な、善い男でしたよ。今でもスタヘイ・ミトリッチュさんが折々噂をしています。きっと亡くなった事を聞かれたら、ミサの供養でもしてやられる事でしょう。一体あの男の本当の名はなんと云ったか、お前さん達は知っていますかね。」
「いや。それは知りません。わたくし共はただブランとばかり呼んでいました。事によると、自分も本当の名を忘れていたかも知れません。流浪人にむずかしい名はいらないのですからね。」
「それはそうだね。お前さん達の世渡りは随分心細いわけだ。牧師さんが神様にお祈りをして上げようと思ったって、本当の名を知らないから、なんと云っていいか分からない。ブランだって、故郷もあっただろうし、親類もあっただろう。兄弟や姉妹があったか。それとも可哀らしい子供もあったかも知れない。」
「それはあったかも知れません。流浪人というものは、洗礼の時に貰った名を棄ててしまう事はあるが、それだって、外の人間と同じように母親が生んだには違いないのですから。」
「ほんにお前さん達は気の毒な世渡りをしているのですね。」
「さようさ。わたくし共のしているより、みじめな世渡りはありますまい。乞食をして、人に物を貰って食べている。着物だって同じ事だ。それから死んだところで、墓一つ立てて貰う事は出来ない。森の中で死ねば、体は獣に食われてしまう。あとには日に曝されて、骨が残るばかりです。無論みじめな世渡りと云わなくてはなりますまいよ。」
わたくし共の話を聞いて、留守番はよほど気の毒に思ったものと見えます。シベリア人は気の毒にさえ思い始めれば、物惜しみはしなくなります。わたくし共も、自分で自分の事を話しながら、感動して来ました。この留守番などは、今こっちに同情していてくれても、すぐに欠伸《あくび》をして寝に這入ってしまうだろう。食べたいほど物を食べて、暖かい床に這入って寝るだろう。こっちはこれから踏み出して、人に隠れて悪病に罹かった獣か、夜明方の幽霊のように、暗い森の中を迷い歩かなくてはならないのだと思ったのです。
留守番はこう云いました。「そこでわたしはもう寝なくてはならん。ここの支配人の言い置かれただけのものは、相違なくお前さん達に上げる。それからわたしの手から、一人前二十銭ずつ添えて上げる。どうぞそれで帰って下さい。今ごろ百姓共を皆起す事は止めにしよう。ここに三人だけは起きていて、それが正直な人達だから、あとで証人にするには十分だろう。お前さん達に、長く足を留めていられると、こっちも一しょに迷惑をする事になるかも知れない。悪い事は云わないから、ニコラエウスクへは寄らないがいい。あそこには厳しい裁判所長がいる。通り抜ける旅人を一々調べる。鵲《かささぎ》一羽でも、兎一疋《ぴき》でも、おれの前は素通りはさせない。樺太から来た奴なんぞを見のがしてなるものかと、不断言っているそうだ。あの辺を旨く通り抜ける事が出来たら、運がよかったのだと思いなさい。市中なんぞへ鼻を突っ込んではなりませんよ。」
留守番は主人の云い付けた通りの金や品物を出して、それに自分の手から二十銭ずつ出して添えてくれました。それから肴をくれました。そして十字を切って、自分の部屋へ引っ込んで戸を締めてしまいました。その内一度点けた明りを消した様子で、構《かまえ》内《うち》はまたひっそりと寝鎮まりました。まだ夜の明け切るには間があったのです。わたくし共は、そこを出掛けましたが、一同なんとなく物悲しいような心持がしていました。
一体流浪人の心の内には、折々深い悲哀が起るものです。闇の夜や、茂った森が周囲を包む。雨が濡れ通る。それを風が吹いたり、日が当ったりして、また乾かす。広い世界にどこと云って、自分の安心して休む所はない。故郷の事は始終恋しく思っているが、さて色々な難儀をしたり危険を冒したりして、そこへ帰って見れば、犬でさえすぐに流浪人だという事を見て取るのです。それにお役所は厳しい。やっと故郷へ帰ったと思うと、また牢屋に入れられてしまうのですね。
それでもどうかするとその牢屋の中が、今いる所に比べれば、かえって天国のようだと思う事があります。タルハノフの家を出て、夜道を歩いた時なんぞが、ちょうどそういう場合でした。
わたくし共は皆黙って歩いていました。その時、ウォロヂカがふいとこう云いました。「どうだい。今時分仲間はどうしているだろう。」
「仲間とは誰の事だい。」
「あの樺太の第七号舎に残して置いた仲間さ。あいつらは今時分安心して寝ているだろう。それにこっちとらは、こんなに迷い歩くのだ。逃げなければよかったになあ。」
あんまり下らない事を言うと思って、わたくしはウォロヂカを叱ってやりました。「そんな婆あさんか何かのいうような事を言って恥かしくはないかい。お前そんなに意気地がなくて、外の人をまで臆病仲間に引き入れそうにするなら、おれ達と一しょに出て来なければよかったのだ。」
こうは云ったものの、わたくしも気は引き立ちませんでした。一同疲れ切っています。半分眠りながら歩いているのです。流浪人になると、眠りながら歩く事を覚えます。不思議な事には、こんな時にちょいとでも眠ると、すぐに牢屋にいる夢を見るものです。月が差し込んで、壁を薄白く照らしていると、格子窓の奥の寝《ね》台《だい》の上に、囚人が寝ているのが見える。その内自分もその囚人の一人のように思って、寝台の上で伸びをする。それで夢が醒めるのです。
そんな夢ならまだいいが、夢の中で親父や母親に出て来られては溜まりません。そんな時はわたくしの身の上には、まだ何事もなく、牢に這入った事もなく、樺太に行った事もなく、警戒線の兵隊と戦った事もないのです。わたくしは親の家にいて、母が髪を撫で付けてくれています。卓の上にはランプが点いている。親父は鼻の上に目金を引っ掛けて、難有そうな本を読んでいます。わたくしの親父は、人に本を読んで聞かせる男でした。母が小歌を歌い出します。
こんな夢を見て目の醒めた時は溜まりません。なんだか胸に小刀が刺してあるような気がします。そんなしんみりした、気楽な部屋の中から、突然真っ暗な森の中へ出たように思うのですからね。
真っ先をマカロフが歩いています。そのあとへ一同続いて、ちょうど村の子供のあとに付いて、鶩《あひる》が行列をして行くように、一人一人あと先に並んで行くのですね。折々風が吹いて来て、森の木の葉が囁くような音を立てて、すぐにまたひっそりします。遠い所に、木の葉の間から海が見えます。その上には空が広がっています。その空のずっと先の地平線の所が、ぼんやり赤くなっている。今少しすると日が出るという印ですね。海の見えるような所では、波の音が聞え止む事はありません。どこかの余《よ》所《そ》の国の歌を歌うような時もあり、また腹を立ててどなっているような時もあります。海の歌を歌う声は、よく夢にも聞えます。流浪人は海を見ると、胸に係恋《あこがれ》を覚えます。たいてい海には縁の遠い世渡りをしていますからね。
わたくし共は段々ニコラエウスクに近づいて来ました。次第に人家や部落が多くなります。随って次第に危険になって来るのです。わたくし共は用心してそろそろ町の方へ忍び寄ります。夜になると歩いて、昼間は、人間どころではない、獣もいないような森の茂みに隠れているのです。
一体わたくし共はずっと大きい輪をかいて、ニコラエウスクの側へ寄らないようにするつもりでした。ところが体が疲れていて、遠道が歩きたくないのと、食料が段々乏しくなったのとで、どうもそうしてはいられなくなったのです。
ある日の夕方河の岸に出ました。そこに人が集っています。何ものだろうと思って、よく見ると監視中の囚人です。(ロシアでは懲役になって、刑期が過ぎ去ると、それぞれの村に返して監視して置く。しかし労働は監視を受けて規則通りにしている。)それが肴をとっています。わたくし共はその様子を見定めてから側へ寄って行きました。「おい、どうだね。」
「うん、どこから来たのだい。」
こんな風に詞を交して、いろんな事を話す内に、その仲間の一番年上の奴が、わたくしを側へ呼んでこう云うのです。「お前、樺太を脱けて来たのだろう。あのサルタノフをやっ付けた連中だろう。」
正直を云えば、この時わたくしは本当の事をすぐに云いにくいように思ったのです。もちろん相手も同じ罪人ではあるが、物によっては打ち明けにくい事もあります。殊に監視中の人間は、本当の囚人仲間とは違います。この年上の男にしろ、その外の男にしろ、役人の機嫌が取りたいと思えば、すぐに行ってわたくし共の事を密告する事が出来ます。自分達はとにかくある自由を得ているのですからね。同じ牢屋の中に這入っていれば、密告をした奴は分かるから、そんな事は出来ない。こんな手放しにしてある人間は、そういうわけには行きません。
わたくしが少し詞を控えているのを見て、相手はすぐにわたくしの腹の中を見透かしてしまいました。
「おれをこわがるのじゃないぞ。おれは仲間の告口をするような人間ではない。それに何もおれの関係した事じゃあるまいし。町ではもうあの一件を知らないものはない。それにお前方を見れば、ちょうど同勢十一人だ。余り智慧がなくっても、その連中だろうという事は分かってしまう。その辺にうろ付いていると、ひどく危ないぜ。あの事件は大騒ぎになっている。ここの裁判所長は恐ろしく厳しいのだ。まあ、どうしてここを切り抜けるか、それはお前方の事だが、旨く行ったら大したものだ。幸いおれ達は少し食料も余計に持っているから、町へ帰ったら、パンや肴を少しくらい、お前方に分けてやろう。鍋なんぞもいりはしないか。」
「そうだね。もしお前の方で不用な鍋でもあれば難有《ありがた》いが。」
「いい。やるとしよう。まだ何か思付いたものがあったら、一しょに纏《まと》めて、晩に持ち出してやる。仲間は助けてやらなくてはならないからな。」
わたくし共はこの話をしてから、重荷を卸したような気がしました。そこで帽を脱いで、その男に礼を言うと、同志の者も皆帽を脱ぎました。段々乏しくなって来た食料をくれるというのも難有いが、それよりはこの男の親切な詞が嬉しかったのです。どの人間もどの人間も、わたくし共に対しては禍いの種で、悪くすると命まで取りかねないから、わたくし共は避けるようにしている。それにこの男が始めてわたくし共に同情してくれたのです。
わたくし共は今の出来事が余り嬉しかったものですから、もう少しでとんだ危険を冒すところでした。
監視中の連中が行ってしまったあとで、わたくし共は安心して、今までほど用心をしなくなりました。ウォロヂカなんぞは跳ねたり踊ったりしています。その辺に、河の近い所で、ディックマン谷という所があります。ジックマンという独逸人《どいつじん》が、そこで蒸気機関を製造した所です。そこへわたくし共は這入り込んで、火を焚いて、その上へ鍋を二つ掛けました。一つの方では茶が《に》えている。今一つの方では肴を入れた汁がえている。その内に日が暮れて、周囲《まわり》が暗くなって、小雨が降り出しました。熱い茶を飲んで、気分がよくなったものだから、雨なんぞには構わずにいました。
そんな風にして野宿をしていて、アブラハムの懐にいるような気で暢《のん》気《き》になっていたのです。こっちから目の前に町の明りが見えるのだから、町からもこっちで焚く火が見えなくてはならないのを、大胆にも気に掛けずいたのです。人間は不思議なもので、人一人に出逢ってもならないと思って、森や野原をさまよい歩くかと思うと、こんな事をやるのです。大きな町のすぐ前で火を焚いて、なんの危険もないつもりで、暢気に話をしています。
わたくし共の僥《ぎよう》倖《こう》で、ちょうどその時ニコラエウスクの町にある年寄りの役人がいました。その人はある土地の監獄長をした事のある人です。その監獄は大きくて、種々な囚人が入れてありました。そこにいた囚人は皆この老人の恩を受けています。シベリアで、ステパン・サイェリイッチュ・サマロフといえば、それを知らない流浪人はない。三年ほど前にそのサマロフが亡くなったという事を聞くと、わたくしでさえわざわざ牧師さんの所へ行って、ミサを読んで貰いました。サマロフさんは実にいい人でした。ただ口が悪い。恐ろしい悪態を吐きます。大声を出して足踏みをします。しかし残酷な事なぞは誰にもしません。何をするのも公平で、誰にも侮辱を加えるというような事がなく、囚人を圧制しないから、みんなが難有がって、敬っていました。賄賂というものを取った事がない。自分の利益のために公共の物を利用した事がない。ただ公共団体が報酬として送る物を受けるだけです。随分家族が多いから、それだけの物を受けなくてはならなかったのです。
わたくし共がディックマン谷で野宿をした時、この人はもう役を引いて、市中の自宅に住まっていました。それでも昔からの癖で、囚人や監視中の人間を世話をしていました。
ちょうどその晩サマロフさんは、自分の家の石段の上に出て、煙草を喫《の》んでいますと、わたくし共のディックマン谷で焚いている火が見えたのです。それを見てお爺いさんが「あそこで火を焚いているのは何者だろう」と思ったのですね。
その時石段の下を監視中の男が二人通ったので、爺いさんは、それを呼び留めました。「お前方はこのごろどこで漁をしているのだい。ディックマン谷ではあるまいね。」
「いいえ。あそこではやっていません。あの谷より上手です。それにきょうは帰ってしまうはずでした。」
「おれもそう思っているのだ。それにあそこに見えている焚火はどうだい。」
「へえ。」
「何者が焚いているのだろう。お前方はどう思う。」
「知りませんね。旅人かなんかでしょう。」
「そうさ。旅人ならいいが。一体お前方は親切気がない。おれにばかり心配をさせて、平気でいる。お前達も知っているはずだが、あの樺太から牢を脱けて出たものの事を、おとつい裁判所長が云っていたじゃないか。誰やらが近い所で見かけたという事だった。あの火を焚いているのは、大方そいつだろう。あんまり気のいい話だ。」
「そうかも知れません。」
「もしそうだったら、あのやっている事を見てくれ。おれはよく知らないが、裁判所長はもう町へ帰っているか知らん。まだ帰っていないにしても、もうそろそろ帰るころだ。あの火を見付けようものなら、すぐに兵隊を差し向けるのだ。可哀そうだなあ。サルタノフを殺したのだから、掴まえられると、首がない。おい。早くボオトを一つ出して貰おう。」
わたくし共は火を取り囲んで、汁のえるのを待っていました。もう大ぶ久しく、暖かいものを口に入れた事がないのです。その晩は闇で海の方から雲が出て、小雨が降っています。森の中はざわざわ云って、わたくし共の話声を打ち消しています。こういう闇の夜が、わたくし共流浪人のためには嬉しいのです。空は暗いほど胸が明るくなるのです。
突然韃《だつ》靼《たん》人《じん》が何やら聞き付けました。一体韃靼人という奴は、耳の聡い人間です。そこでわたくしも気を付けて聞いて見ました。どうも耳に漕いで来る《ろ》の音が聞こえるようです。そこでわたくしが河の方へ出て見ると、果してボオトが一艘こっそり近寄って来ます。舵を取っているのは帽子に前章の附いている男です。
わたくしはみんなに声を掛けました。「おい。駄目だぜ。裁判所長がやって来た。」
一同踊り上がって、鍋を引っくり返して、森の中へ逃げ込みます。
わたくしはこの時、ちらばらになるなと一同を戒めて、まず様子を見ている事にしました。やって来る人間の頭数が少なければ、こっちが固まって掛かれば、まだ勝てるかも知れないと思ったのです。
そこでわたくし共は木の背後《うしろ》に隠れて待ち受けていました。
ボオトは岸に着きました。陸に上がって来るのは五人です。その内の一人が笑ってこう云います。「馬鹿な奴だ。皆逃げ出したのか。おれが今一言言ったら、すぐにみんな出て来るだろう。一体お前方は大胆なはずだが、逃げる事も兎より上手だなあ。」
わたくしの隣には、一本の木の幹を楯に取って、ダルジンがいて、それがこう云いました。「おい。ワシリ。なんだかあの裁判所長の声は聞き覚えがあるようだな。」
「しっ。待て待て。人数が少いぜ。」
こう云っている内に、船から来た連中の一人が前へ出てこう言うのです。「おい。こわがるには及ばない。お前方だって、この土地の監獄で、知っている役人が一人ぐらいあるだろう。」
わたくし共は黙っていました。
その男がまたこう云いました。「なぜ返事をしないのだ。この土地の役人で、お前方が名を知っているのがあるなら云って見ろ。そうしたら、おれ達の事が分かるかも知れないから。」
わたくしが云いました。「知っていても知らなくても、そんな事はどうでも好いが、おれ達のためばかりではない。お前方もここで出っ食わしたのは不運だ。おれ達は息のある間は降参はしないぞ。」
わたくしはこう云って置いて、同志の者に用意をしろという相図をしました。相手は五人で、こっちは十一人だ。どうぞ銃を打たないでくれれば好いが、銃の音がし出しては、町で聞き附けずにはいないだろう。ともかくももう駄目かも知れない。しかし素直には押えられたくないものだと思っていました。
その時さっきの男が、老人らしい声でこう云いました。「おい。子供達。お前方の内に一人くらいサマロフを知っている奴があるだろう。」
隣にいたダルジンが肱でわたくしをつつきました。「本当らしいぞ。監獄長のサマロフさんだ。」こう云って置いて、大きな声を出して、「旦那、もしダルジンを覚えておいでなさいますか」と云いました。
「ダルジンを知らんでなるものか。おれの監獄で組長をしていたじゃないか。フェドトといったっけな。」
「さようでございます。さあさあ、みんな出て来い。難有《ありがた》い旦那がおいでになった。」
この声を聞いて同志の者は皆出て来ました。
その時ダルジンがサマロフさんに言いました。「旦那。あなたがわたくし共を掴まえにおいででなさろうとは、思いも寄りませんでした。」
「馬鹿な奴だなあ。おれはお前方があんまり気の毒だから、わざわざ出て来たのだ。町のすぐ前で、火を焚くなんて、お前方は気でも違いはしないか。」
「雨で濡れたものですから。」
「なんだ。雨で濡れたと、それでお前方は流浪人だというのかい。大方雨に濡れたら、砂糖のように解けてしまうだろう。しかし運のいい奴等だ。裁判所長の見付けない内に、おれが煙草を喫みに内の石段の上に出て来たから、助かったのだ。もし裁判所長があの火を見付けようものなら、それはお前方を着物のよく乾くような所へ入れてやるところだった。やれやれ。お前方はサルタノフの首を斬ったという事だが、余り智慧は無いと見えるな。早く火を奇麗に消して、河の側を離れて、谷の深い所へもぐってしまえ。あの奥の方なら、十個処へ火を焚いても、どこからも見えはしない。」
こんな風に口汚く言われながら、わたくし共は爺いさんを取り巻いて立っていて、皆揃って笑っていました。
爺いさんは小言を言い止めて、こう云いました。「おれはそこのボオトの中に、パンや茶を入れて来た。どうぞこれから先も、サマロフの事を悪く思わないでくれ。もしお前方が旨くこの土地を逃げおおせて、誰か一人トボルスクへ行ったものがあったら、あそこの寺に、おれの守本尊があるから、蝋燭を一本上げてくれ、おれは女房の持って来た地面と家とがこの土地にあるから、多分ここで死ぬるだろう。それに大ぶもう年を取っている。それでも故郷の事は折々思い出すよ。さあさあ、これでいい。もうお別れにしよう。ところでまだ一つお前方に言って置く事がある。そろそろお前方は別れ別れになるがいいぜ。一体何人いるのだい。」
「十一人います。」
「やれやれ、馬鹿な奴等だな。イルクツクではお前方の評判ばかりしている。それに皆固まって歩いているのかい。」
爺いさんはボオトに乗って帰って行きました。
わたくし共は谷の奥に引っ込んで、茶や汁を煮直して食べて、食料を頭割に分けて、爺いさんの教えた通りに、別れる事にしました。
わたくしはダルジンと一しょに行く。マカロフとチェルケス人、それから韃靼人と外二人と、それから残った三人と、こういう組に別れたのです。
それから大ぶ久しくなりますが、外の連中にはその後逢いません。誰が生きているか、誰が死んでしまったか、知りません。後になってから韃靼人もこの土地へ来た事があるという事を聞きましたが、本当だかどうだか知りません。
わたくし共はその夜の内にこっそりニコラエウスクの側を通り抜けてしまいました。ただある家の犬が一度吠えたばかりでした。
翌朝日の出たころには、もう森の中を十ウェルストも歩いて、街道の近くに出ていました。
その時突然鈴の音がしたので、わたくし共二人は木立の蔭に隠れて見ていると、三頭立の馬車が通ります。それに乗って、外套を体に巻いて眠っていたのが、ニコラエウスクの裁判所長でした。
それを見てわたくしとダルジンとは、「やれやれ、難有い事だった、あいつがゆうべ帰っていたら掴まえに来ずには置かなかっただろう」と云って、十字を切りました。
九
煖炉の火は消えた。しかしこの時は天幕の中は殆ど煖炉の中のように暖かになっていた。窓の氷が解け始めている。それを見ると、外の寒気の薄らいだのが分かる。なぜというに寒の強い時は、天幕の中はどんなに温めても、窓の氷の解ける事はないのである。そこで我々は煖炉に薪をくべる事を止めた。それからおれは例の煙突の中蓋を締めに出た。
霧は実際全く晴れてしまっている。空気が透明になって、少し寒さが薄らいだらしい。北の方を見ると黒く見える森に包まれている岡の頂の背後に、白い、鈍く光る雲が出て、それが早く空に拡がって行く。その様子は、巨人が深い溜息を衝いて、その大きな胸から出た息が、音もなく空に立ち昇って、拡がって消えるのかと思われる。極光が弱く光っている。
おれは悲しいような感じの出て来るのに身を任せて、屋根の上に立っている。おれの目は物案じをしながら遠方を見廻している。夜が偉大な、冷かな美しさをもって大地を一面に覆っている。空には星が瞬きをしている。平な雪の表面が際限もなく拡がっている。そして地平線には、暗い森が聳《そばだ》ち、遠い山の頂が突出している。この寒さと闇と沈黙との全幅の画図がおれの胸へ悲哀と係恋《あこがれ》とを吹き込むのである。
天幕へ帰って見ると、ワシリはもう寝ていた。その寛《ゆるや》かな、静かな、平等な呼吸の音が、一間の沈黙を破っているだけである。
おれも床の上に横になった。しかし今まで聞いた物語の印象が消えないので、久しく寝付く事が出来なかった。
何遍かおれは寝入りそうになったが、眠っているワシリが寝返りをしたり、何か分からぬ囈語《ねごと》を言うのに妨げられた。この男の低い、鈍い、小言を言うようなバスの音がたびたびおれを驚かして、おれに今まで聞いたオディッセエめいた話の節々を思い出させるのである。たとえばおれは頭の上で森の木の葉が戦《そよ》いでいるかと思ったり、または岩《いわ》端《はな》から見下して、谷間に布いてある警戒線を見るかと思ったりする。その警戒線の兵営の上がおれの目の下で、大きな鷲がゆっくりと輪をかいて舞っていたり何かする。
想像はおれを乗せて、狭い天幕の絶望的な闇から逃れ出て、遠く遠く走って行く。障《しよう》礙《がい》のない所を吹く風が、おれの頭の周囲《まわり》に戦いでいる。耳には大洋の怒って叫ぶ旋律が聞える。日が沈んで身の周囲《まわり》は闇になって、乗っている船が海の大波に寛かに揺られる。
これはおれの血が、流浪人の物語を聞いたために、湧き立つのである。おれはこんな事を思った。もしあれだけの事を、牢屋の中に閉じ込められている囚人に聞かせたらどうだろうというのである。おれは自分に問うて見る。一体あの話がおれにどんな感動を与えたかというに、おれは脱獄の困難や、逃亡者の受けた辛苦と危険とや、流浪人の感ずるという、癒やす事の出来ない、陰気な係恋に刺戟せられたのではない。おれはただ自由というものの詩趣を感じたのである。これはなぜだろう。また今も海や森や、野原が慕わしい、自由が慕わしいと、切に感じているのはなぜだろう。おれでさえ海や、森や、野原に呼ばれ、際限のない遠さに誘われるのであるから、その癒やす事の出来ない、窮極のない係恋の盃に脣《くちびる》を当てた人のある流浪人が、どんな感じをするかというのは、想像し易い事ではないか。
ワシリは眠っている。しかしおれは色々な事を思うので、眠る事が出来ない。この時おれは、ワシリという人間が、いわゆる親の言う事を聞かなくなった後に、どんな事をして牢屋に入れられ、苦役をしたのだろうかというような問題を、まるで忘れていた。おれの目に映じたワシリはただ青年の血気、余りある力量に駆られて自由を求めようとして走った人間である。しかしどこへ向いて走ったのだろう。
ああ。どこへ向いて走ったのだろう。
この時ワシリは囈語《ねごと》に何か囁いた。それがおれには溜息のように聞えた。そしてあれは誰の事を思っているのだろうかと想像した。おれは解く事の出来ない謎を解こうとして、深い物思いに沈んだのである。おれの頭の上には、暗黒な夢の影が漂っている。
日は入った。大地は偉大に、不可測に、悲しみを帯びて、物思いに沈んでいる。その上に一団の雲が重げに、黙って懸かっている。ただ遠い地平線のあたりには空の狭い一帯が、黄昏《たそがれ》の消えかかる薄明りに光っている。それから向うの遠い山のずっと先から火が一つ瞬きをしている。あれはなんだろう。とうに棄てて出た故郷の親の家の明りであろうか。おれ達を、闇の中で待ち受けている墓の鬼火であろうか。
おれは遅くなってから寝入った。
十
おれの目の醒めたのは、おおよそ十一時ごろであったらしい。氷った窓《まど》硝子《ガラス》から、やっと這入った、斜めな日の光が、天幕の中のゆかの上に閃いている。もうワシリは天幕の中にいなかった。
おれは用があって村へ行かなくてはならぬ日であった。そこで橇に馬を附けて乗って、門を出て村の街道を進んで行った。
空は晴れて、気候が割合に暖かである。すべて世の中の事は、比較で言うのである。暖かいと云っても、零下二十度ぐらいであっただろう。余所の国なら、極寒の時稀に見る寒気だが、この土地ではこれが最初の春の音《おと》信《ずれ》である。この土地の極寒には、民家の煙突から立ち昇る煙が、皆蝋燭を立てたように真っ直ぐになっているのであるが、きょうは少し西へ靡《なび》いている。大洋から暖気を持って来る東風《こち》が吹いているのだろう。
この部落に住んでいる人民の半数は、流罪になって来た韃靼人である。きょうはそれが祭をする日なので、往来が中々賑わっている。そこここで、人家の門がきしめきながら開かれる。そして中から橇や馬が出て来る。その上には酒に酔った男が体をぐら付かせて乗っている。モハメット教徒は余りコオランの経文にある戒律なぞには頓着しない。馬に乗っているものも、道を歩いているものも妙な稲妻形に歩くのである。どうかすると馬が物に驚いて横飛びをして、橇を引っ繰り返す。そしてその馬は往来を走って逃げようとする。ほうり出されて、雪の中を引き摩《ず》られている乗手は、力一ぱいに手綱を控えて、体の周囲《まわり》の雪を雲のように立てている。馬を駐める事が出来なかったり、橇から投げ出されたりする事は、ことに酒に酔った場合には、誰にもあり勝ちの事である。しかしそういうむずかしい場合にも、手から手綱を放しては、韃靼人の恥辱になるそうである。
おや。あそこの真っすぐな町の脇に、変った賑いがあるぞ。馬に乗っているものが脇へ避ける。歩いているものがやはり避ける。赤い着物を着て化粧をした韃靼人の女が、往来に出ている子供を中庭へ追い込む。天幕の中から物見高い奴等が顔を出す。そして誰も彼も、一つ方角を見詰めている。
長い町の向うの端に、今ちょうど一群の騎者が現われた。それが韃靼人やヤクツク人の間で大層流行っている競馬だという事は、おれにはすぐに知れた。騎者はおよそ六人くらいである。旋《つむじ》風《かぜ》のように駆けて来る。その群が近づいたのを見ると、どれよりも擢《ぬき》んでて、真っ先を駆けているのは、きのうワシリが乗って来た鼠色の馬である。一歩ごとにその馬と外の馬との距離が遠くなる。一分間の後には、もう一群はおれの目の前を通り過ぎてしまった。
見物していた韃靼人の目は皆輝いている。逆上と妬《ねたみ》とのためである。
騎者は皆馬を走らせながら、手足を動かして、体をずっと背後《うしろ》へ反らせて、大声でどなっている。ただ一人ワシリだけはロシア風に乗っている。体を前に屈めて、馬の頸を抱くようにして、折々短い、鋭い、口笛を吹くような声を出す。それが馬には鞭で打たれるように利くのである。鼠色の馬は脚がほとんど地を踏まないように早く駆けて行く。
見物人の同情は、やはり例の如く勝《かち》手《て》の上に集まっている。
「豪《えら》い奴だ」と大勢が叫ぶ。競馬好きに極まっている、長年馬盗《どろ》坊《ぼう》をして来た、この男達は馬の蹄で地を踏む拍子を真似て、平手で腰をはたいている。
ワシリは全身に泡を被った馬に乗って、帰って来る途中で、おれの側へ来た。負けた騎者はまだずっとあとになって付いて来る。
ワシリの顔は青くなって目は逆《のぼ》せたように光っている。もう飲んでいるなと、おれは思った。果してワシリは通り過ぎながら、体を背後《うしろ》へ反らせて、帽を脱いで礼をして、おれに言った。「飲みましたよ。」
「それは勝手さ」とおれは云った。
「なに、構いません。おこっては厭ですよ。酒は飲みますが、決して酔いはしません。あなたに頼んで置きますがね、お内に預けてある袋を誰にも渡さずに置いて下さい。わたくしが自分で行って、渡して下さいと云っても、渡してはいけませんよ。分かりましたか。」
おれは冷淡に答えた。「分かった。だがね、酒に酔っておれの天幕へ来るのは御免だよ。」
「行きはしません」と云いながら、ワシリは馬に一鞭当てた。馬は鼻を鳴らして前を挙げて駆け出したが、まだ三間も行かない内に、ワシリはまた馬を控えて、おれの方へ向いた。「いい馬ですよ。大した金になります。わたくしは賭をしています。この駆けるところを見て下さい。これで韃靼人に売れば、値段はわたくしのいう通りになります。韃靼人という奴は、馬のいいのを、命よりも大切にしますからね。」
「なぜ売るのだね。売ってしまって、これから先どうする。」
「売らなくてはならないから売ります。」ワシリはまた一鞭当てた。しかしまた手綱を控えた。
「実はわたくしは、この村で知人に逢ったのです。もう何もかも棄ててしまいます。御覧なさい。あの青に乗っている韃靼人がそうです。『おいおい。アハメットや。ちょっと来い』。」
我々の背後《うしろ》から付いて来た、青毛のすらりとした小馬に乗った男が、おれの橇の側へ駆け寄って、帽を脱いで礼をして、微笑んだ。おれも物珍らしく思って、その韃靼人の顔を見た。
アハメットの狡猾らしい顔は相好を崩して笑っている。小さい目が面白げに、横着らしく、また親しげに相手の顔を見詰めている。その見方は詞で言ったら、「分かるでしょう、無論わたくしは横着者です、しかし横着者でなくては駄目ですね」とでも云ったらよかろうと思われる。
この幅の広い骨々しい顔、この目の周囲《まわり》の面白げな皺、この横へ出張った、薄い耳を見ては、相手も笑わずにいられない。
アハメットは相手が自分を理解してくれたと信じたらしく、満足げに頷いた。そしてワシリを指さして云った。「友達です。一しょに流浪して歩いたものですよ。」
「今どこにいるのだね。この土地では見掛けないようだが。」
「わたくしはこの土地へ旅行券を取りに来ました。鉱山のある土地へ行って、焼酎を売るのです。」
鉱山で焼酎を売る事は、ロシアでは厳禁してある。掴まえられれば、懲役になる。こっそり持ち込む道も危ない。道に迷って飢え死んだり、カサアキ兵の弾丸を食ったり、競争者のナイフで刺されたりする。その代り旨く持ち込めば、同じ目方の金貨とでも替えられる。鉱山で焼酎を売るのは、金を掘るより儲けが大きいのである。
おれはワシリの顔を見た。ワシリは俯向いて手綱をいじったが、すぐにまた頭を挙げて、火のように赫《かがや》く目をして、戦いを挑むようにおれの顔を見た。堅く結んでいる口の下脣がぴくぴくしている。
「わたくしはこいつと一しょに森へ行きます。そんな顔をしてわたくしを見なくてもいいじゃありませんか。どうせわたくしは流浪人だから、流浪人で果てますよ。」
最後の詞は、もう馬を飛ばせて、雪を雲のように蹴立てながら言ったのである。
一年ほど立ってから、おれはまた村でアハメットに逢った。また旅行券を取りに戻ったのである。
ワシリはまたと戻らなかった。
(わに) ドストエフスキー
一
おれの友達で、同僚で、遠い親類にさえなっている、学者のイワン・マトウェエウィッチュと云う男がいる。その男の細君エレナ・イワノフナが一月十三日午後〇時三十分に突然こう云う事を言い出した。それはこの間から新道で見料を取って見せている大きい鰐を見に行きたいと云うのである。夫は外国旅行をするはずで、もう汽車の切符を買って隠しに入れている。旅行は保養のためと云うよりは、むしろ見聞を広めようと思って企てたのである。そう云うわけで、言わばもう休暇を貰っていると看《み》做《な》してもいいのだから、その日になんの用事もない。そこで細君の願いを拒むどころでなく、かえって自分までが、この珍らしい物を見たいと云う気になった。
「いい思い付きだ。その鰐を一つ行って見よう。全体外国に出る前に、自分の国と、そこにいるだけのあらゆる動物とを精《くわ》しく見て置くのも悪くはない。」夫は満足らしくこう云った。
さて細君に臂《ひじ》を貸して、一しょに新道へ出掛ける事にした。おれはいつもの通りあとから付いて出掛けた。おれは元から家の友達だったから。
この記念すべき日の午前ほど、イワンがいい機嫌でいた事はない。これも人間が目前に迫って来ている出来事を前知する事の出来ない一例である。新道へ這《は》入《い》って見て、イワンはその建物の構造をひどく褒《ほ》めた。それから、まだこの土地へ来たばかりの、珍らしい動物を見せる場所へ行った時、おれの分の見料をも出して、鰐の持主の手に握らせた。そんな事を頼まれずにした事はこれまで一度もなかったのである。夫婦とおれとは格別広くもない一間に案内せられた。そこには例の鰐の外に、秦吉了《いんこ》や鸚《おう》鵡《む》が置いてある。それから壁に食っ付けてある別な籠に猿が幾疋か入れてある。戸を這入って、すぐ左の所に、浴槽に多少似ている、大きいブリッキの盤がある。この盤は上に太い金網が張ってあって、そこにやっと一寸ばかりの深さに水が入れてある。この浅い水の中に、非常に大きい鰐がいる。まるで材木を横えたように動かずにいる。多分この国の湿った、不愉快な気候に出合って、平生の性質をすべて失ってしまったのだろう。そのせいか、どうもそれを見ても、格別面白くはない。
「これが鰐ですね。わたしはこんな物ではないかと思いましたわ。」細君はほとんど鰐に気の毒がるような調子で、詞を長く引いてこう云った。実は鰐と云うものが、どんな物だか、少しも考えてはいなかったのだろう。
こんな事を言っている間、この動物の持主たるドイツ人は高慢な、得意な態度で、我々一行を見て居た。
イワンがおれに言った。「持主が息《い》張《ば》っているのは無理もないね、とにかくロシアで鰐を持っている人は、目下この人の外ないのだから。」こんな余計な事を言ったのも、いい機嫌でいたからだろう。なぜと云うに、イワンは不断人を嫉《そね》む男で、めったにこんな事を言うはずはないからである。
「もし。あなたの鰐は生きてはいないのでしょう。」細君がドイツ人に向って、愛敬のある微笑を顔に見せて、こう云ったのは、ドイツ人が余り高慢な態度をしているので、その不愛想な性質に、打ち勝って見ようと思ったのである。女と云うものはとかくこんなやり方をするものである。
「奥さん。そんな事はありません。」ドイツ人はふつつかなロシア語で答えた。そしてすぐに金網を持ち上げて、棒で鰐の頭を衝いた。
そこで横着な動物奴《め》は、やっと自分が生きているのを知らせようと決心したと見えて、極《ごく》少しばかり尻尾を動かした。それから前足を動かした。それから大《おお》食《ぐら》いの嘴を少し持ち上げて、一種の声を出した。ゆっくり鼾《いびき》をかくような声である。
「こら。おこるのじゃないぞ。カルルや。」ドイツ人はそれ見たかと云う風で、鰐に愛想を言ったのである。
細君は前より一層人に媚びるような調子で云った。「まあ、厭な獣だこと。動き出したので、わたしはほんとにびっくりしましたわ。きっとわたし夢に見てよ。」
「大丈夫です。食い付きはしません。」ドイツ人は細君に世辞を言う気味で、こう云った。そして我々一行は少しも笑わないに、自分で自分の詞を面白がって笑った。
細君は特別におれの方に向いて云った。「セミヨン・セミヨンニッチュさん。あっちへ行って、猿を見ましょうね。わたし猿が大好き。中には本当に可哀いのがありますわ。鰐は厭ですこと。」
「そんなにこわがる事はないよ。ファラオ王の国に生れた、この眠たげな先生はどうもしやしないらしいから。」イワンは細君の前で、自分の大胆なところを見せ付けるのが愉快だと見えて、猿の方へ歩いて行く細君とおれとの背後《うしろ》から、こう云ったのである。そして自分はブリッキの盤の側に残っていた。そればかりではない。イワンは手袋で鰐の鼻をくすぐった。後に話したのを聞けば、これはもう一遍鰐に鼾をかかせようとしたのである。動物小屋の持主は、客の中のただ一人の夫人として、エレナを尊敬する心持で、鰐より遥かに面白い猿の籠の方へ附いて来た。
まずここまでは万事無事に済んだ。誰一人災難が起って来ようとは思わずにいた。細君は大小種々の猿を見て夢中になって喜んでいる。そしてあの猿は誰に似ている。この猿は彼に似ていると、我々の交際している人達の名を言って、折々愉快でたまらないと見えて、忍《しのび》笑《わらい》をしている。実際猿とその人とがひどく似ている事もあるので、おれも可笑《おか》しくなった。ところが、小屋の持主は、細君がまるで相手にしないので、自分も一しょになって笑っていいか、それとも真面目でいるがいいか分からなかった。そしてとうとう不機嫌になった。
ちょうどドイツ人が不機嫌になったのに気の付いたと同時に、突然恐ろしい、ほとんど不自然だとも云うべき叫び声が小屋の空気を震動させた。何事だか分からずに、おれは固くなって立ち留った。そのうち細君も一しょに叫び出したので、おれは振り返って見た。なんと云う事だろう。気の毒なイワンがの恐ろしい口で体の真ん中を横《よこ》銜《くわ》えにせられているのである。水平に空中に横わって、イワンは一しょう懸命手足を動かしていたが、それはただ一刹那の事で、たちまち姿は見えなくなった。
こう云ってしまえばそれまでだが、この記念すべき出来事を、おれは詳細に話そうと思う。おれはその時死物のようになって、ただ目と耳とを働かせていたので、一部始終を残らず見ていた。想うに、おれはあの時ほどの興味をもってある出来事を見ていた事は、生涯またとなかっただろう。その間多少の思慮は働いていたので、おれはこんな事を思った。「あんな目に逢うのがイワンでなくて、おれだったらどうだろう。随分困ったわけだ。」それはそうと、おれの見たのはこうである。
はまず横に銜えていたイワンを口の中で、一《ひと》捏《こね》捏ねて、足の方を吭《のど》へ向けて、物を呑むような運動を一度した。イワンの足が腓腸《ふくらはぎ》まで見えなくなった。それからちょうど翻《はん》芻《すう》族《ぞく》の獣のように、気《おくび》をした。そこでイワンの体がまた少し吐き出された。イワンはの口から飛び出そうと思って、一しょう懸命盤の縁に両手で搦《から》み付いた。は二度目に物を呑む運動をした。イワンは腰まで隠れた。また気をする。また呑む。それをたびたび繰り返す。見る見るイワンの体はの腹中に這入って行くのである。とうとう最後の一呑みで友人の学者先生が呑み込まれてしまった。その時の体が一個所膨んだ。そしてイワンの体が次第に腹の中へ這入り込んで行くのが見えた。おれは叫ぼうと思った。その刹那に運命が今一度不遠慮に我々を愚弄した。は吭をふくらませて、また気をした。想うに、餌が少々大き過ぎたと見える。気と一しょに恐ろしい口を開くと突然気が人の形になったとでも云う風に、イワンの首がちょいと出てまた隠れた。極端に恐怖している、イワンの顔が一秒時間我々に見えた。その刹那にの下顎の外へ食《は》み出したイワンの鼻から、目金がブリッキの盤の底の、一寸ばかりの深さの水の中へ、ぽちゃりと落ちた。なんだか絶望したイワンがわざわざこの世の一切の物を今一度見て暇乞をしたように思われた。しかしぐずぐずしている隙《ひま》はない。はもう元気を快復したと見えて、また呑む運動をした。そしてイワンの頭は永久に見えなくなった。
生きた人間の頭が、その時突然現われてまた隠れたのはいかにも恐ろしかった、がそれがまた同時に非常に可笑しかった。事が意表に出たためか、それともその出没の迅速であったためか、それとも目金が鼻から落ちたためか、とにかく非常に可笑しかった。おれは大声で笑った。無論おれもすぐに気が付いた。どうも一家の友人の資格として、この際笑うのは穏当でないに相違ない。そこで早速細君の方に向って、なるべく同情のある調子で云った。「イワン君はとにかくこれでお暇乞ですね。」
この出来事の間、細君がどれだけ興奮していたと云う事を話したいが、恨むらくはそれを詳細に言い現わすほどの伎倆をおれが持っていない。とにかく細君は、最初一声叫んで、それからは全身が麻痺したようになって、ちっとも動かずにいて、この出来事を、傍観していた。余《よ》所《そ》目《め》には冷淡に見ているかと思われる様子であったが、ただ目だけ大きく見開いて、目玉も少し飛び出していたようであった。とうとう御亭主の頭が二度目に現われて、次いで永久に隠れてしまった時、細君は我に返って、胸が裂けるような声で叫んだ。おれはしかたがないから、細君の両手を取って、力一ぱい握っていた。小屋の持主もこの時我れに返って、両手で頭を押えて叫んだ。「ああ、内のが。ああ、内の可哀いカルルが。おっ母さん、おっ母さん、おっ母さん。」
その時奥の戸が開いて、いわゆるおっ母さんが現われた。頬っぺたの赤い年増で、頭に頭巾を着ている。その外の着物は随分不体裁である。この女は小屋の持主の女房だが、を子のようにして、カルルと云っていたので、持主がおっ母さんと呼んだと見える。年増は亭主の周章しているのを見て、顔色を変えて駆け寄った。
そこで大騒ぎが始まった。細君エレナは嘆願するような様子で、小屋の持主の傍に駆け寄ったり、年増の傍に駆け寄ったりして、「切り開けて、切り開けて」と繰り返した。誰が切り開けるのだか、何を切り開けるのだか分からないが、夢中になって我を忘れて叫んでいる。
しかし小屋の持主夫婦は細君にもおれにも目を掛けずに、ブリッキの盤に引っ付いて、鎖で繋がれた犬のように吠えている。
持主は叫んだ。「助かるまい。もうすぐにはじけるだろう。人一疋、まるで呑んだのだから。」
女房も一しょになって叫んだ。「どうしよう、どうしよう。内の可哀いカルルちゃんが死ぬだろう。」
ドイツ人はまた叫んだ。「あなた方は我々夫婦を廃《すた》れものにしておしまいなさる。これで夫婦は食えなくなります。」
「どうしよう、どうしよう」と女房は繰り返す。
「切り開けて、切り開けて。あのの腹を切り開けて。」細君は嘆願するような、命令するような調子で、ドイツ人の上着の裾に絡み付いて、こう云うのである。
ドイツ人は叫んだ。「あなたの御亭主が内のをおこらせたのだ。なぜおこらせたのです。もしそれで内のカルルがはじけたら、あなたに弁償して貰わなくてはなりません。裁判に訴えます。わたしの子ですから、一人子ですから。」
このドイツから帰化した男の利己主義といわゆるおっ母さんの冷刻とを見て、随分腹が立ったと云う事を、おれは白状せずにはいられない。それにエレナがいつまでも同じ要求を繰り返しているのも、おれには気になっている。ちょうどこの新道の隣で誰やらが素食論の演説をしている。そいつがこの室へ這入って来るかも知れないと云う心配が、一層おれを不安にする。エレナが嘆願するような、煩悶するような調子で、今のような要求を、いつまでも繰り返しているところへ、あんな人間が這入って来ようものなら、どんな間違いが起るかも知れない。おれのこう思ったのが決して杞《き》憂《ゆう》でないと云う事が間もなく証明せられた。突然この室と帳場とを隔てている幕を横へ引き開けて、その戸口に、髯男が一人、手に役人の被る帽子を持って現われた。この男は室内に這入っては来ない。足は敷居より外を踏んでいて、上半身を前へ屈めて顔を出している。多分入場料が払いたくないので、室内に踏み込んで、見せ物の持主に金を取られないように用心しているのだろう。この髯男の顔を出した時、おれは実にぎょっとした。
髯男は体の平均を失わない用心をしていて、こう云った。「奥さん。あなたの今言っておいでになる事は、どうもあなたの精神上の発展が不足だと云う証拠になりそうですね。つまりあなたの脳髄には燐の量が不足しているのです。進歩主義と人道との代表者が発行している諷刺的の雑誌がありますが、その雑誌であなたのただ今言っておいでになる事を批評しても、あなたは苦情を言うわけには行きますまい。そこで。」
髯男はこの口上をしまいまで饒舌《しやべ》る事が出来なかった。見せ物の持主は自分の動物を置いている室に、入場料を払わずに、顔を出して、何やら饒舌る人のあるのに気が付いて、ひどく腹を立てて飛んで来て、進歩主義と人道との代表者を、聞き苦しいドイツ語で罵りながら、戸の外へ押し出した。何やら戸の外で言い合っているのだけが聞える。間もなくドイツ人は室内に帰って来た。そして髯男を相手に喧嘩をして起した怒りを、気の毒にもエレナに浴せ掛けた。自分の亭主を助けるためにドイツ人の可哀がっているカルルに手術をさせようと云うのが、不都合だと云うのである。
持主は叫んだ。「なんですと。可哀いわたしのカルルの腹を切り開けて貰いたいと云うのですか。それよりあなたの御亭主の腹でも切り開けて、お貰いなさるがいいでしょう。一体わたしのをなんと思っているのです。わたしの父もを見せ物にした。祖父もを見せ物にした。息子もを見せ物にするでしょう。わたしは生きている間を見せ物にする事を廃《や》めようとは思いません。わたし共はを見せ物にするのが代々の商売です。わたしの名はヨオロッパ中に知らない者はない。あなたなんぞを、ヨオロッパで誰が知っていますか。そう云うわけですからあなたはわたしに罰金を出さなくてはなりません。分かりましたか。」
憎らしい目附きをした上さんが尻馬に乗って云った。「そうだよそうだよ。可哀いカルルがはじければ、この奥さんを裁判所へ連れて行かずに済まされるものかね。」
おれはエレナを宥《なだ》めて内へ帰らせようと思って、割合に落ち着いた調子で云った。「とにかくの腹を切り開けたところで駄目でしょう。察するにイワン君はもうとっくに天国に行っているのでしょうから。」
この時思いがけなくイワンの声がしたので、一同はぞっとした。「君、それは間違っているよ。第一この場でどうすればいいかと云うに、何より先に区内の警察署に知らせなくては行けない。どうせ警察権を楯にしなくては、そのドイツ人に道理を呑込ませる事は出来ないからね。」
イワンはこの詞をしっかりした、自信のある声で言った。この場合でそれが出来たところを見ると、イワンは実に物に慌てない男だと云う事を証明している。しかし我々のためにはいかにも意外なので、声が耳には聞えても、自分で自分の耳を疑った。しかし我々はとにかくブリッキの盤の側へ駆け寄って不審に思うと同時に敬意を表して、の腹中に囚われている気の毒なイワンの詞を敬聴した。
この土地では婚礼の前の晩に色々ないたずらをする風習があるが、そう云う晩におれは妙な事をするのを見た。河を隔てて向う河岸にいる百姓と話をする百姓の真似をする物真似である。そのしかたは隣の室に隠れて、口の前に布団をあてて、精一ぱい大声を出して饒舌るのである。の腹の中でイワンの饒舌るのが、ちょうどその物真似の声のように聞える。
エレナは体を顫《ふる》わせて云った。「イワンさん。そんならあなたはまだ生きておいでなさるのね。」
例の遠方で叫ぶような声をして、イワンは答えた。「生きているとも。しかも極《ごく》壮健でいるのだ。為《し》合《あわ》せな事には、呑まれる時体に少しも創《きず》が付かなかった。唯一つ気に掛かる事がある。外でもないがおれがこんな所に這入り込んでいるのを、上役が聞いたら、なんと云うかと云うのが問題だ。外国旅行の許可を得ていながら、の腹の中に這入ってぐつぐつしていると聞いては、どうも気の利いた人間のようには思われまいて。」
「あの。人に気が利いていると思われようなんぞと云う事はこうなればどうでもいいでしょう。それよりか、どうにかして早く外へ引き出してお貰いなさらなくってはなりませんわ。」
ドイツ人はほとんど怒りに堪えないような語気で云った。「引き出すのですと。そんな事はわたしが不承知です。こうなった日には、わたしの見せ物は前の倍ぐらい流行るに違いない。これまでは一人前二十五コペエケン貰っているのですが、これからは五十コペエケンに値上げをします。この様子ではカルルもはじけそうにはないのですからね。」
「まあ、よかったのね」とエレナが云った。
イワンは落ち着いて云った。「持主の云う通りだ。どうしても経済的問題が先に立つのだて。」
おれは熱心に、なるたけ大きい声をして云った。「君。待ってい給え。とにかく僕がこれから急いで君の上役の所へ駆け付けて見よう。どうせ我々がここでかれこれ云っても埒《らち》は明かないから。」
イワンが云った。「僕もそう思う。ところでこの不景気な時で見れば、どうしても金銭上の弁償をせずに、の腹を切り開ける事は出来まいよ。そこでこう云う問題が起る。持主がの代価として幾ら請求するかと云うのだ。この問題に次いで、すぐに第二の問題が起る。その金を誰が払うかと云うのだ。君も御承知の通り、僕は富豪ではないからね。」
おれは遠慮勝ちに云って見た。「どうだろう。俸給の内から少しずつ払うわけには行くまいかね。」
の持主は急におれの詞を遮った。「このを売る事は絶対的に出来ません。もし売るにしても三千ルウベルからは一文も引かれません。四千ルウベルと云ったっていいでしょう。今に見物が押し掛けて来るのです。五千ルウベルと云ってもいいでしょう。」
持主は恐ろしく得意である。目玉が欲で光っている。おれは腹の立つのを我慢してイワンに言った。「そんなら僕は行って来るよ。」
エレナが取り逆《のぼ》せたような調子で云った。「まあ、お待ちなさいよ。わたしも一しょに行きますから。わたしはアンドレイ・オシピッチュさんにじきに逢って泣いて頼んで見ます。そうしたら、あの方だって気強い事は云っていられないでしょう。」
「おい。そんな事をしては困るよ。」イワンは急にこう云った。イワンはよほど前から妻が上役に様子を売っているのを気に掛けている。エレナ奴《め》、泣く時の顔がよく見えるのを承知していて、その泣顔をあの男に見せてやろうと思っているのに違いない。けしからん事だと、イワンは考えたのである。それからおれに言った。「それから君もだがね。セミヨン君。君も上役の所へ行く事は廃《よ》し給え。どんな事になるか知れないからね。それよりか君の個人の資格で、あのチモフェイ・セミニッチュの所へきょうの内に行ってくれ給え。あれは古風で少し痴鈍なところのある男だが、その代り真面目で、何よりいい事には、腹蔵なく物を言う質《たち》だ。僕がよろしく言ったと云って、事情を打ち明けて話してくれ給え。それから僕はあの男に骨牌《かるた》に負けて、七ルウベル借りているから、立替えて返してくれ給え。そうしたらこの事件を引き受ける気になるかも知れない。とにかくどうしていいかと云う筋道だけは立ててくれそうなものだ。それからね、御迷惑だろうが、妻を内まで送ってくれ給え。」こう云って置いて、また妻に言った。「お前はね何も心配するには及ばないよ。おれは余りどなるので草臥《くたびれ》たから、これから一寝入りしなくちゃならない。まだおれも体の周囲《まわり》をよく検査しては見ないが、とにかく温かで柔かだから為合せだ。」
「あなた検査して見るなんて、そんなに明るいのですか。」エレナは嬉しそうな顔をして、物珍らしげに云った。
気の毒な囚人は答えた。「大違いだよ。おれの周囲《まわり》は真っ暗だ。だが手捜りで検査して見るつもりだ。そんならまた逢うから、内へ帰るがいい。心配するには及ばないよ。何もおれに気兼をしてすきな事をせずにいなくてもいい。あすまた来ておくれ。」イワンはまたおれに言った。「君はね御苦労だが、晩にもう一遍来てくれ給え。君は忘れっぽいから、すぐにハンケチに結び玉を一つ拵えてくれ給え。」
おれはこの場を立ち去る事の出来るのが、心の内で嬉しかった。第一余り長く立っていたので足が草臥て来る。それに対話も次第に退屈に感ぜられて来たのである。そこで早速エレナに会釈をして肘を貸して、見せ物部屋を出た。エレナは興奮しているので、いつもより美しく見えた。
背後からドイツ人が声を掛けた。「晩においでなさる時も、見料は二十五コペエケンお持ちなさいよ。」
「まあ、なんと云う欲張り根性の強い事でしょう。」エレナはこう云って溜息を衝きながら、新道の見せ窓にある鏡に顔を写して見ている。多分自分の顔がいつもより美しく見えるのを知っているのだろう。往来の人も別品だと思うと見えて、頻《しき》りに振り返って見る。
おれは美人に肘を貸しているので、得意になって歩きながら云った。「例の経済上の問題ですね。」
「経済上の問題ですって。あの時宅が申した事は、まるでわたしには分かりませんでしたの。その問題とか云うのなんぞはなんの事だか知りませんが、どうせ詰まらない理窟なのでしょう。」エレナは媚びるような調子で、わざと語気を緩めて云うのである。
「そうですか。それは僕がすぐに説明して上げましょう。」こう云って、おれは目下の経済では、外債を募るのが一番好結果を得る方法だと云う説明を饒舌った。それは「ペエテルブルク新聞」でけさ読んだのである。
細君はしばらく聞いていたが、急に詞を遮った。「そんなものですかね。妙な理窟です事。だがもうお廃しなさいよ、そんな人困らせの議論なんか。一体あなたきょうは下らない事ばかりおっしゃるのね。あの、わたしの顔は余り赤くはないでしょうか。」
「なに。赤くはありません。美しいです。」好機会を得て、お世辞を一つ言うつもりで、おれは云った。
「まあ、お世辞のいい事。」細君は得意げに云った。それから少し間を置いて、媚びるような態度で、小さい頭を傾けて言った。「ですけれど宅は可哀そうですね。」それから突然何事をか思い出した様子で云った。
「おや。大変だ。あなたどうお思いなさるの。宅はお午が食べられないでしょう。それに何かいる物があっても、どうもする事が出来ないでしょうねえ。」
おれも細君と一しょになって途方に暮れた。「なるほど。それは予期していない問題ですね。僕もそこまではまだ考えていなかったのです。それに付けても人生のあらゆる問題に対して、どうも婦人の方が男子より着実な思想を持っているようですね。」
「まあ、どうしてあんな所へ這入ったものでしょうね。今では誰と話をする事も出来ないで、ぼんやりして坐っている事でしょう。それに真っ暗だと云うじゃありませんか。ほんとにこんな事があると知ったら、宅に写真を撮らせて置くのでしたっけ。わたしは今は一枚も持っていませんの。ほんとにこうなってみれば、わたしは後家さんのようなものですね。そうじゃありませんか。」人を迷わせるような微笑をして云うのである。細君は自分が未亡人のような身の上になったと云う事に気が付いて、それをひどく興味があるように思っているらしい。しばらくして細君は云った。「ですけれど、気の毒な事は気の毒ですわね。」
細君は続いて色々な事を話した。無理もない。若い美しい奥さんの事だから、別れた亭主を恋しがるのは当り前である。かれこれ話しているうちに、我々はイワンの家に来た。細君が午食を馳走するので、おれは細君を慰めながら馳走になった。それから六時ごろまでいて、コオフィイを一杯飲ませて貰って、チモフェイの所へ出掛けた。ちょうどこの時刻にはどこの内でも主人は坐っているか横になっているかに極《き》まっていると思ったからである。
これまでは非常な出来事を書くために、多少誇張した筆法で書いたが、これから先は少し調子を変えて、平穏な文章で自然に近く書く事にしようと思う。読者もそのつもりで読んで貰いたい。
二
チモフェイは妙に忙しそうな様子をして、おれに応接した。なんだか少し慌てているかとさえ思われた。まず小さい書斎におれを連れ込んで、戸を締めてしまった。「どうも子供がうるさくていけませんからね」と、心配げに、落ち着かない様子をして云った。それから手真似で机の傍へおれを坐らせた。自分は楽な椅子に尻を据えて、随分古びた綿入の寝衣《ねまき》の裾を膝の上に重ねた。一体この男はおれの上役でもなく、イワンの上役でもない。平生は気の置けない同僚で、しかも友達として附き合っているのである。それにきょうはいやに改まって、ほとんど厳格なような顔附きをしている。
おれが一部始終を話してしまった時、主人は云った。「最初に考えてお貰い申さねばならないのですが、全体わたしは上役でもなんでもないのですね。あなたともイワン君とも同等の人間です。して見ればそう云う事件が生じたに付いて、何もわたしが立ち入ってかれこれ申さなくてもいいようなものですね。」
おれは異様に感じた。何より不思議なのは、主人が最初から一切の事を知っているらしいのである。それでもおれは念のため今一度繰り返して、始終の事を話した。二度目には前より委しく話した。おれの調子は熱心であった。おれはイワンの親友として周旋してやらなくてはならないと思ったからである。しかし今度も主人は少しも感動する様子がない。否、むしろ猜疑の態度で、おれの詞を聞いている。
最後に主人は云った。「実は早晩《いつか》こんな事が出来はしないかと、疾《と》うから思っていましたよ。」
「それはなぜでしょう。中々容易に想像の出来ない、非常な事かと思うのですが。」
「それはあなたの云われる通りかも知れません。しかしあのイワンと云う男は役をしている間中見ていますと、どうもこんな末路に陥りはしないかと懸念せられたのですよ。とかく物事に熱中する癖があって、どうかすると人を凌駕するようなところもあったのです。二言目には進歩と云う事を言う。それから種々な主義を唱えるのですな。あんな風な思想を持っているとどうなるかと云う事が、これで分かるようなものです。」
「どうもそうおっしゃっても、このたびの事件は実際非常な出来事ですから、それを進歩主義者の末路がよくないと云う証拠にするわけには行かないように思うのですが。」
「ところがそうでないですよ。まあ、わたしの言う事をお聞きなさい。一体こう云う事は余り高等な教育を受けた結果です。それに違いありません。とかく余り高等な教育を受けると余計な所へ顔を出したくなる。出さないでもいい所へ出すですね。まあ、そんな事はあなたの方がよくお分かりになっているかも知れません。」こう云いかけて、主人は突然不平らしい調子になった。「わたしなんぞはもう年が寄ったし、それに余り教育も受けていないものですから、何事も分かりませんよ。わたしは軍人の子でしてね、下から成り上がったものです。ちょうど今年で在職五十年の祝をする事になっているのです。」
「いやいや。そんな事はありません。イワンも是非あなたの御意見が伺いたいと云っていました。詰まりあなたの御指導によってどうにでも致そうと云うのです。なんとか云って戴こうと思って、そのあなたのお詞を待っているのです。目に涙を浮べて待っているのです。」
「目に涙を浮べて。ふん。それは多分いわゆるの目の涙でしょう。なにもそれを真に受けるには及びません。一体なんだって外国旅行なんぞを企てたのです。あなただって、それを考えて御覧になるがいい。一体その旅費はどこから出るのです。あの男は財産はないのですからね。」
「いや。旅費だけは貯金していたのです。それにたった三ヶ月間の旅行ですからね。シュワイツへ行くのです。ウィルヘルム・テルの故郷へ行くのです。」おれは友達を気の毒がる心持で云った。
「ウィルヘルム・テルの故郷に行くのですね。ふん。」
「それからナポリへ出て春を迎えようと云うのでした。博物館を尋ねたり、あっちの風俗を調べたり、変った動物を見たりしようと云うのですね。」
「ふん。動物ですか。どうもわたしの察しるところでは、あれは高慢の結果で企てたのですね。動物なんて、どんな動物を見るのでしょう。ロシアにだって、動物は幾らもいまさあ。それに見せ物もある。動物園もある。駱駝もいる。熊なんぞはペエテルブルクのじき傍にもいる。余計な事を思って、とうとう自分が動物の腹の中へ這入ったのです。お負けにの腹なんかに。」
「どうぞそうおっしゃらないで、少しは気の毒だとお思いなすって下さい。あの男は不《ふ》為《し》合《あわ》せになった今日、平生の御交際を思って、ちょうど親類中の目上の人に依頼するように、あなたに相談相手になって戴きたいというのです。それにあなたはあの男を非難してばかりおいでになる。せめては女房のエレナにでも御同情なすって下さいませんか。」
チモフェイはやや耳を欹《そばだ》てた気味で、愉快げに《かぎ》煙草《たばこ》を鼻に啜り込んだ。「はあ。あの男の妻ですか。洒落た女ですね。ちょっとあんな女はいませんね。こうどことなくふっくりしていて、小さい頭をちょっと横に傾げているところがいいです。いい女です。おとついもアンドレイ・オシピッチュがあの女の噂をしましたよ。」
「へえ。あの細君の噂をせられたのですか。」
「そうです、そうです。しかも大層褒めていましたよ。胸の格好がいい。目附がいい。それから髪《かみ》容《かたち》がいい。まるで旨い菓子のようだ。だが女ではないと云って、笑ったです。まだあの人も若いですからな。」チモフェイはラッパを吹くような音をさせて、嚔《くしやみ》をした。そしてこう云った。「そこでですな。あの御亭主には困りますよ。突然そんな途方もない所へ這入り込んでしまったとなると。」
「しかしどうも不運で非常な事に逢ったのですから。」
「それはそうです。しかし。」
「ところでどうしたものでしょう。」
「さあ、一体これをわたしがどうすればいいと云うのですか。」
「とにかくどうしたらよろしかろうか、その辺のお考えをおっしゃって下さい。御経験のおありになるあなたの事ですから。どう云う手続にいたしたらよろしいでしょう。上役に申し出たものでしょうか、それとも。」
「上役にですか。それは断然いけますまい。」チモフェイの語気は急であった。「わたしの意見では、まずなるたけ事を大きくしないで、万事内々で済ますですね。そう云う事はどんな嫌疑を受けまいものでもないです。なんにしろ新事実ですからね。これまで例のない事ですからね。その未曾有だと云う事、先例がないと云う事がいかがわしいです。そこでよほど用心をしなくてはいけません。まずしばらくそのままにして置くですな。その場にじっとしておらせて、しばらく時期を待つですな。」
「でもいつまで待ったらよろしいと云うお見込でしょうか。もしその内に窒息でもいたしたら。」
「そんな事はないじゃありませんか。先刻のお話では、至極機嫌よくしていると云うではありませんか。」
おれは前の話を今一度初めから繰り返した。
チモフェイはそれを聞いて、手に煙草入を持って、それをくるくる廻しながら思案をした。
「ふん。なるほど。わたしの考えでは外国なんぞをうろ付き廻るより、しばらく現位置にじっとしていた方がいいですな。ちょうど暇が出来たと云うものだから当人もゆっくり反省して見たがよかろう。無論窒息なぞをしてはいけないから、多少の摂生上の注意をするがいいでしょう。たとえばみだりに咳なんぞをしないがいいです。その外色々注意のしようもありましょう。さてそのドイツ人ですが、わたしの考えではその男の申立には、十分の理由がありますね。とにかく抛はその男の所有物です。イワンはその中へ、持主の許可を得ずして入り込んだと云うものです。これが反対の場合だとそうでもありませんがね。そのドイツ人がイワンの持っているの中へ潜り込んだのだとすれば、場合が違って来ます。もちろんイワンはなんぞは持っていなかったのですがね。とにかくは人の所有物ですから、それを妄《みだり》に切り開ける事は出来ません。と申すのはその持主に代価を弁償せずに、切り開ける事は出来ないのです。」
「しかし人命を助けるのですから。」
「さよう。しかしそれは警察権に関係します。その問題は警察へ持って行かなくては駄目です。」
「ところでイワンの行方が分からないと云う事になったらどうでしょう。何かあの人に用事でも出来たと云う場合は。」
「あの人にとはイワンにですか。ふん。なに、休暇中の事ですから、どこにいようと、何をしていようと構わぬがいいです。ヨオロッパを遊歴していようが、いまいが、構う事はありません。それは時が立ってから、あの男が帰って来ないとなると、それは別問題です。その時捜索もし取調べもすればいいです。」
「それは三月も先の事です。余りあの男に気の毒ではありませんか。」
「されば。どうも自業自得ですからな。一体誰があの男に、の中へもぐり込めと云ったのです。どうにかしてやると云えば、政府がの中へ這入った男に介抱人でも付けなくてはならんと云うのですか。そんな費用は予算に見込んでありませんからな。それはそうと要点はこうです。は個人の所有物ですから、いわゆる経済問題が起るです。何より先に経済問題を考えなくてはなりません。一昨日もルカ・アンドレエウィッチュの宴会の席で、イグナチイ・プロコフィッチュがその点を委しく論じましたっけ。時にイグナチイは御承知ですね。資産家で事業家です。御承知かも知れませんが話上手ですよ。こんな風に云っていました。産業を起すのが急務だ。それがロシアでは欠けている。それを起さなくてはならない、新しく生まなくてはならない。それには資本がいる。それにはいわゆる中流社会がまず成立たなくてはならない。ところで内地にはまだその資本がないから、外国に資本を仰ぐより外ない。現に外人の会社が出来ていて、盛んに内国の土地を買入れようとしている際だから、彼に十分の利益のあるような条件で、土地を買わせてやるがいい。現在の自治体で、共同工事をしたり、共同財産を持っていたりするのは、そのいわゆる財産が無財産と同一だからつまり毒だ。つまりロシア人の破産だ。まあ、こんな風に、熱心に云っていましたよ。なんにしろ資産家ですから、そんな議論も出来るのですね。官吏なんぞとは違いますからな。それからこう云うです。現在の自治体では、工業を起す事も農業を盛んにする事も出来ない。外人の立てている会社に、出来る事なら全国の土地を買わせるがいい。その上で広い地区を細かに、細かに分割する。分、割と、一字一字力を入れて云って、手の平で切る真似をしたです。さて細かに分割した上で、望みの百姓どもにそれを売る。売らなくてもいい。貸してもいい。とにかく全国の土地が外人の立てた会社の所有になっている以上は、借地料は幾らにでも極められる。そうなれば百姓が暮して行くには、今の三倍も働かなくてはならない。怠ければ、いつでも貸した土地を取り上げる。そうなれば百姓だって気を付けて、 従順になる。 勉強する。 まあ、 今と同じ報酬で、今の三倍は働く事になる。今の自治体に対する百姓の考えはどうだ。どうしていたって、飢渇に迫る虞《おそれ》はないと見抜いているから、怠ける。酒を飲む。さてそう云う風にして諸国から金が這入って来れば、 資本が出来る。 中流社会が出来る。 この間もイギリスのタイムス新聞が、 ロシアの財政を論じていた。ロシアの財政がよくならないのは、中流社会が成立っていないからだ。大資本がないからだ。労働に耐える細民がないからだと云っていた。まあ、こんな風にイグナチイは論じたです。旨いですな。あの男は生れ付きの雄弁家ですよ。ただいまも意見書をその筋へ出すと云って書いているそうです。後にはそれを新聞で発表すると云っていました。同じ物を書いても、そういうのはイワンの書く詩なんぞとは違うですな。」
「へえ。しかしイワンはどうしてやりましょう。」おれはチモフェイに十分饒舌《しやべ》らせたあとで、本問題に帰って貰おうと思って、こう云った。一体チモフェイは何か機会があると、自分が時務に通暁している、時代後《おく》れの人間にはなっていないと云う事を証明するために饒舌るのである。それでおれは饒舌らせて聞いていた。
チモフェイは云った。「イワンですか。その事をわたしは言っているのです。そのの持主の資本が、イワンが腹の中へもぐり込んだために二倍になった。ところでその機会に乗じて、我々はその外国人を補助してやるべきである。しかるにかえってそのの腹を切り開けようとするですな。どうです。そんな事をすべきでしょうか。わたしの考えでは、イワンに愛国心がある以上は、自分を犠牲にして、外国人の持っているの価を二倍三倍にしたのを喜んで、それを自慢していいではありませんか。外人に資本を投じさせるには、それが第一の条件です。一人の外人が成功すれば、それに次いで第二第三の外人が来る。を三疋も四疋も持って来る。そこでその周囲《まわり》に資本が集まるですな。そこで中流社会が成立つですな。それを補助して、奨励して行かなくては駄目です。」
「しかしいかにも気の毒ですが。どうもあなたのおっしゃるところでは、あのイワンを犠牲にすると云うようになりますが。」
「いや。わたしは何もイワンに要求するところはないのです。先刻も云った通り、わたしはあの男の上役ではない。ですから、何もあの男にこうしろと云う事は出来ない。わたしはただロシアと云う本国の一臣民として云うのです。ある大新聞の言草とは違います。ただ本国の普通の臣民として云うのです。それに問題は、誰があの男に頼んで、の腹へ這い込ませたかと云うにあるですな。真面目な人間、ことに役人として相当の地位を得た人間が、妻子まで持っていながら、突然そんな事をすると云う事があるものですか。まあ、あなただって考えてお見なさるがいい。」
「しかし何も好んでしたわけではありません。つい過ってしたのです。」
「そうですかな。それもどうだか知れたものではありませんね。それにドイツ人にの代価を払うとしたところで、その金はどこから出るです。その辺のお見込が附いていますか。」
「どうでございましょう。あの男の俸給で差引いては。」
「そんな事で足りますか。」
おれは窮した。「どうも覚《おぼ》束《つか》ないです。実はドイツ人も最初がはじけはすまいかと、大層心配しました。しかし無事に済んだと見るや否や、ひどく高慢になりました。入場料を倍にする事が出来そうだと云うので。」
「倍どころではありますまい。三倍にも四倍にも出来るでしょう。多分見物が入場券を争うようになるでしょう。そう云う機会を利用する事を知らないほど、の持主は愚昧ではありますまい。わたしは繰り返して云うが、とにかくイワンは差当りじっとしているですな。何も慌てるには及びません。まあ、あの男がの中にいると云う事は、自然に世間に知れるとしても、我々は表向き知らない顔をしてやるですな。それには外国旅行の許可を得ているから、好都合ですよ。もし誰かが来て、あの男がの中にいると云ったって、我々はそれを信用さえしなければいいです。そうしているのは、造作はありません。要するに時期を待つですな。何も急ぐにも慌てるにも及びません。」
「しかしひょっと。」
「なに。心配しないがいいです。あの男は物に堪える質《たち》ですから。」
「ところがいよいよ我慢した挙《あげ》句《く》は。」
「さあ。わたしだってこの場合が困難な場合だと云う事は認めています。思案したくらいで、解決は付きません。とにかく難渋なのは、これまで似寄りの事もないのです。先例がない。もしただの一つでもそう云う例があると、どうにも工夫が付きましょうがな。どうもいかんとも為《し》様《よう》がないです。考えれば考えるほどむずかしくなりますからね。」
この時おれはふと思い付いた事があるので、チモフェイの詞を遮った。「どうでしょう。こうするわけには行きますまいか。とにかくあの男はの腹の中にいて、そのの寿命は中々長いと見なくてはなりませんから、あの男の名前で願書を差出して、の腹の中にいる年月を勤務年月に加算してお貰い申す事は出来ますまいか。」
「ふん。さよう。休暇と見《み》做《な》して、給料は払わずにですな。」
「いいえ。給料も払って貰いたいのですが。」
「はてね。なんの理由で。」
「それはこうです。まあ、今いる所へ派遣せられたと見做しまして。」
「なんですと。どこへ派遣せられたと云うのです。」
「無論の腹の中へ派遣せられたと看做すのです。いわば実地に付いて研究するために派遣せられたと看做したいのです。無論それは例のない事でしょうが、これも進歩的の事件で、それに人智開発の一端でしょうから。」
チモフェイはしばらく思案した。「どうも官吏をの腹の中へ、特別な任務を帯びさせて派遣すると云うのは、わたしの意見では無意義です。そんな予算はありませんからな。それにその任務がどうも。」
「さようですね。学術上に実地検査をさせるとしてはいかがでしょう。当世自然科学が盛んに行われていますから。本人が現在の位置に生活していて報告いたしたらよろしいではありますまいか。たとえば消化の経過を実地に観察して報告するとか云うようなわけには行きますまいか。事実の材料を集める目的で。」
「なるほど。して見るとそれは一種の分析的統計と云うようなものですな。一体そんな事はわたしにはよく分からない。わたしは哲学者ではない。しかしあなたは事実の材料と云う事を云われたが、それでなくても我々は目下事実の多きに堪えないで、その処置に困るほどです。それに統計と云うものも随分危険なもので。」
「どうして統計が。」
「危険ですとも。それにイワンに報告をさせるにしても、その報告は横に寝ていてするのでしょう。一体横に寝ていて勤めると云う事がありますか。それなんぞもすこぶる危険な新事実です。それにどうも先例のないのに困りますよ。何かただの一つでも似寄った事があったのを、あなたでも御承知なら、それはそんな所へ派遣すると云う事も出来るかも知れませんが。」
「しかしどうも生きたは今日までロシアにいなかったのですから。」
チモフェイはしばらく思案した。「ふん。なるほど。その点は反駁の理由として有力だとしてもいい。それによってこの事件をなんとか処分する基礎が成り立つとしてもいい。ところで一方から見ると、次第に生きたが入り込んで来る。その腹の中は温かで、居心がいいので、役人がだんだんもぐり込むとなったらどうです。とんだ悪例を開くと云うものではありますまいか。誰も彼もその例に倣って、の腹の中に隠居して骨折らずに、月給を取るとなったら、国家が立ち行きますまい。」
「しかしとにかく気の毒なわけですから、お詞添えだけは願いたいのですが。それからイワンが申しましたが、骨牌《かるた》の時あなたに七ルウベル借用した事がありますそうで。それを御返済いたすように、わたしに申しましたが。」
「さよう、さよう。それは先ごろニキフォル・ニキフォオリッチュの所で、あの男が負けたのです。上機嫌で、洒落《しやれ》を言ったり、笑ったりしていたのですが、飛んだ事になったものですな。」主人は感動した様子である。
「そんならどうぞお詞添えを。」
「いや。承知しました。まあ、そっとその筋の意図を捜って見ましょう。ところで一体持主はの代を幾ら欲しいと云っているか、それを内々聞いてお貰い申すわけには行きませんかな。」チモフェイはよほど機嫌がよくなっている。
おれは嬉しくなって云った。「それは是非問い合せて見ます。いずれ分かり次第、申し上げに出ましょう。」
「そこであの細君は今一人で留守宅にいるでしょうね。さぞ退屈して。」
「お暇に見舞っておやりになる事は出来ますまいか。」
「出来ますとも。実はきのうもちょっと見舞おうかと思ったくらいです。それにこう云う好機会が出来ましたからな。ああ。なんだってあの男はなんぞを見に行ったのですかな。それはそうとわたしも一度は見たいものだが。」
「ええ。気の毒ですからイワンをも一度お見舞い下さいまし。」
「いいです。無論わたしが行ったとしても、それを意味のあるように取っては困ります。ただ個人として行くのですからな。そこでわたしはこれで御免蒙ります。今日もちょっとニキフォオルの所へ参るはずですから。あなたはおいでなさらんですか。」
「いいえ。わたくしはもう一遍の所へ参らなくてはなりません。」
「なるほど。の所へ。まあ、なんと云う軽はずみな事をしたものでしょうな。」
おれはチモフェイに暇乞をして出た。頭の中には種々の考えが輻《ふく》湊《そう》している。しかしこのときおれは思った。「とにかくチモフェイは正直な善人である。あの男が今年在職五十年の祝をするのは結構だ。そう云う風に勤める男は当世珍らしいから。」
おれは急いで新道へ出掛けた。経験のあるチモフェイとの対話を、イワンに伝えようと思って出掛けたのである。それには無論どうなっているかと云う物見高い心持も交っていて、おれの足を早めたのである。の腹の中にどんなにして居着いたか、の腹の中で人間がどうして暮して行かれるか知りたいと思う心持も交ったのである。おれは歩いていて、時々は夢を見ているのではないかと云う考えをも起した。そう云う考えはあのと云う動物が化物じみた動物だから、一層起り易いのである。
三
しかしそれが夢ではなくて、争うべからざる事実である。そうでなかったら、おれだってこんな事をしないだろう。とにかくその後を話すとしよう。
新道に行き着いたのは、もう大ぶ遅かった。かれこれ九時ごろであっただろう。持主がもう見せ物をしまっていたので、おれはやっと裏口から小屋に這入った。持主は古い、汚れた上着を着ているが、世の中にも満足し、自分にも満足しているらしい様子で、小屋の部屋部屋を歩き廻っていた。なんの心配も無いと云う事、夕方にも見物が大勢這入ったと云う事が一目この男の態度を見れば、察せられる。例のおっ母さんと云う女は、よほど後になってから現われて来た。その様子がおれを監視するために出たように見えた。夫婦はたびたび鉢合せをするようにして囁き合っている。もう見せ物はしまっていたのに、おれには定めの二十五コペエケンを払わせた。一体物事を余り極端に厳重にすると云うものは厭なものだ。
「どうぞこれからもおいでなさるたびに間違いのないように御勘定をしてお貰い申しましょう。普通のお客からは一人前一ルウベルの割で払って貰うのですが、あなただけは二十五コペエケン出して下さればいいのです。あなたはあの先生の御親友ですからな。わたしだって友《ゆう》誼《ぎ》と云うものを尊重することぐらい知っていますよ。」
「まだ生きていますか、あの男は」と、おれは大声で云って置いて、持主のドイツ人に構わずに、急いでの側へ行って見た。おれが大声でそんな事を言ったのは、その声がイワンに聞えたら、イワンが自分の事を思ってくれると信じて、喜ぶだろうと、内々考えて言ったのである。
こう思ったのは徒《いたずら》事《ごと》ではなかった。
「生きているよ、しかも達者で」と、どこか家の奥の方から言うようにも思われ、また布団を頭から被って言うようにも思われる声がした。そのくせおれはもうの側まで駆け付けていたのである。その声がまたこう云った。「だがそんな事はあとでもいい。どんな様子だね。」
おれはイワンの問を聞かないような風をして、忙しげに親切らしく、かえっておれの方から種々な事を聞いて見た。気分はどんなだか、の腹の中はどんなだか、胃の中には外にまだどんな物が這入っているかと云うような事である。こんな事を問うのは、友人に対する礼儀として当然の事だと信じたからである。
しかしイワンは腹立たしげに、強情に、おれの詞を遮るようにして云った。「一体どんな様子だね。」その声は声を嗄《から》して叫ぶようで、号令に疲れた隊長が、腹を立てて何か云うように聞えた。おれはちょっと不愉快に思った。元来おれに対してこんな命令のような声をして物を言うのは、平生からこの男の癖である。
おれは腹の立つのを我慢して、チモフェイの言った事を委しく話して聞かせた。しかしイワンがおれの声の調子でおれが侮辱せられたように感じていると云う事だけは察するように努めて饒舌《しやべ》ったのである。
イワンはいつもおれと話す時の癖で、手短に云った。「ふん。親爺の言った事はそれだけか。用事は用事できちんと話す人間が好きだ。センチメンタルないく地なしは、見ても癪に障る。しかし今の身の上を、職務上ここへ派遣せられているものとして取り扱って貰いたいと君の云ったのは、全然無意義でないと云う事だけは認めてもいい。報告をしていい事なら、学問上にも風俗上にも、幾らも新事実を挙げる事が出来るよ。しかし今になって見ると、事件が意外な方向に発展して来たから、もう俸給の多寡なんぞを論じてはいられない。まあ注意して聞いてくれ給え。君、腰を掛けているかい。」
「いや。僕は立っているのです。」
「そんならどこかそこらへ腰を掛け給え。なんにもないなら、為《し》方《かた》がないから、地の上にでも坐り給え。そしてこっちの云う事を注意して聞き給え。」
おれは癪に障ったから、側にあった椅子を掴んで、椅子の脚ががたりと大きい音をするように置いて、腰を掛けた。
イワンはやはり命令するような調子で云った。「聞いているかね。そこできょうの見物は非常に雑《ざつ》鬧《とう》したよ。夕方になったころには、押し掛けて来る人数を、皆入場させる事が出来ないくらいだった。巡査が来て人を制して、やっと秩序を恢復したくらいだ。持主のドイツ人が見せ物をしまったのは、かれこれ八時ごろでもあっただろう。いつもよりはよほど早かったのだそうだ。そうしたのは、第一に見料の上り高を早く勘定して見たかったのだ。それから第二にはあすの準備を十分にしようと思ったのだ。この様子ではあすはまるで市が立ったようになるだろう。まず予測するのにこの様子では市中の教育のある人間は皆来る事になるに違いない。上流の貴婦人連も来るだろう。外国の大使や公使はもちろん、大使館公使館の書記官達も来るだろう。判事検事弁護士なんぞも来るだろう。そればかりではない。いずれこのロシアと云う物見高い大国のあらゆる県から、地方人民が争って、この不思議を見に出掛けて来るだろう。そうなって見ると、顔を見せてやる事は出来ないが、とにかく非常に有名な人物になるに極《き》まっている。この機会を利用して、世間のなまけ者共を教育してやりたいと思う。こんな珍しい経験をしたのだから、人間が運命の前には自ら抑えて謙徳を守るべきものだと云う模範になって見せてやろうと思う。つまり形容して言えば、教壇の上に立って、世間の人を諭してやる事が出来るのだ。早い話が、単にこの住家になっていると云う動物の事について、自然学上の事実を話すばかりでも、世間のためにどのくらい有益だか分からない。そう云うわけだから、こんな所へ這入って来た運命を歎くに及ばないことは無論で、かえってこの偶然のお蔭で、非常な出世をすると云ってもいいのだ。」
おれはこの長談義を聞いてしまって、無愛想な調子で云った。「しかし君、退屈になって困りさえしなければいいがね。」一番おれの癪に障ったのは、イワンがいつも云う「僕」と云う事をまるで省いて、代名詞なしに自分の事を饒舌っているのである。これは非常に傲慢な物の言いようである。イワンはそんな調子で饒舌るのだが、おれの方で考えて見れば、イワンの態度は、実にもっての外だと云わなくてはならない。一体馬鹿奴が途方もない己《うぬ》惚《ぼれ》を出したものだ。泣いてもいいくらいな境遇にいながら、大言をすると云う事があるものか。
退屈さえしなければいいがと、おれが云うのを聞いて、無愛想にイワンは云った。「退屈なんぞをするものか。なぜと云うにこの胸には偉大な思想が一ぱいになっている。やっと今度隙《ひま》になったので、人間生活の要素をどう改良したらいいかと云う事を考えて見る事が出来る。いずれ今後世界に向って真理と光明とがこのから発表せられる事になるだろう。遠からず経済上の新しい理論を建設する事が出来るに違いない。天下に対して誇ってもいい理論が出来るだろう。これまでは簿《ぼ》書《しよ》の堆《たい》裏《り》に没頭していたり、平凡な世間の娯楽に時間を費したりしていたので、それが出来なかったのだ。古い議論はことごとく反駁してやる。反証を挙げてやる。詰まり新しいシャアル・フウリエエが世に出ると云うものだ。時に君、チモフェイに七ルウベル返してくれたかね。」
「たしかに返したから、そう思ってくれ給え。僕のポケットから返したから。」自分の銭で、イワンの借財を返したと云う事を、はっきり聞かせるように、おれは答えた。
イワンは高慢な声で云った。「それは今に君に返すよ。いずれ遠からず俸給が一等だけ上がるだろう。こう云う場合に進級させないようでは、誰を進級させる事も出来まいからなあ。これからこっちはどのくらい世間に利益を与えてやるか分からない。それはそうと、妻はどうしたね。」
「エレナさんが機嫌よく暮しているかどうか、聞きたいと云うのかね。」
「妻だよ。妻はどうしたと云うのだ。」その声はまるで婆あさんが小言を言うようである。
おれはどうも為《し》方《かた》がないから、心中では歯《は》咬《が》みをしながら、おとなしく話した。エレナを留守宅まで連れて行って、そこで別れたと云ったのである。
しかし皆まで聞かずに、イワンは苛々した調子でおれの詞を遮った。「あいつの事も考えているて。こっちがここで名高くなれば、あいつも内で名高くなってくれなくてはならん。午前に妻はここへ来てこっちの話を聞く。それから晩にサロンへ客を呼び迎える。あらゆる科学者、詩人、哲学者、動物学者が集まって来る。内国のも外国のも来る。あらゆる政治家も来る。そして午前に聞いた事を、妻が話すのだ。来週からは毎晩サロンを開いて客を迎えるがいい。いずれ入費は掛かるだろうが、俸給が倍になれば、そのくらいな事は出来よう。そう云う席では茶を飲ませさえすればいいから、茶の代と執事を雇う代とさえあればいい。別に費用問題に面倒はいらん。そうなればここでも留守宅でも、人はこっちの事しか言わない。どうもこれまで何かの機会があったら、人がこっちの噂をするようにしようと思ったが、その望みが叶わなかった。詰まり下級官吏の位置と資格とに縛せられていたのだ。どうも不思議だよ。奴《め》が気まぐれに呑んでくれたので、多年の宿望が一時に達せられたと云うものだ。何かこの口で饒舌れば、人がそれをすぐに筆記する。その内容を批評する。人口に膾《かい》炙《しや》する。印刷する。世間に啓示してやるのだ。どれだけの才能を放棄して置いて、危くの腸《はらわた》に葬ってしまうところであったと云う事を、世間の奴等が理解するだろう。これほどの人物なら、大臣にでもすればよかったとか、国王にでも封ずればよかったとか云うだろう。君だって考えて見給え。例のガルニエエ・パジエエだなんぞと云う人間に、こっちがどれだけ劣っていると云うのだ。まあ、妻とこっちとで相呼応してやるのだ。こっちは智慧で光る。妻は美貌と愛敬とで光ると云うわけだ。なるほど、あんな優れた貴婦人だから、あの人の奥さんになったのだろうと云うものもある。いや、あの人の奥さんだから、あんな優れた貴婦人に見えるのだと、その詞を修正するものもある。とにかく君、妻にそう云ってくれ給え。アンドレイ・クラエウスキイの編纂した百科事典があるから、あれをあす早速買うがいい。何事が話に出て来ても、差支えなく返事をしなくてはならんからね。それから是非毎日サント・ペエテルブルク通信の社説を読んで、それをウォロス新聞の社説と比べて見なくては行けない。その辺もよく言って聞かせて置いてくれ給え。多分ここの持主が承諾して時々は妻のサロンへ、このを持出すようになるかと思う。そうなれば立派な座敷の真ん中に、このブリッキの盤を据えさせて、こっちはの腹の中から気の利いた事を饒舌るのだ。無論朝の内から腹《ふく》稿《こう》をして置く事も出来るからね。政治家が相手になれば、政策上の意見を聞かせてやる。詩人が相手になれば韻文で饒舌ってやる。貴婦人が相手になれば対話の巧妙なところと興味のあるところを見せ付けてやる。の腹の中にいれば、嫌疑を蒙る虞《おそれ》はないから、十分伎倆を発揮する事が出来ると云うものだ。普通の人間に対しては、模範になってやる。神の摂理の下に意志を屈すると云う謙徳を見せてやる。妻は立派な文芸家に為《し》立《た》ててやる。そしてその作を公衆に説明して聞かせてやる。こっちが妻にしている以上はよほどの長所がなくてはならん。世間でアンドレイ・アレクサンドロウィッチュをロシアのド・ミュッセエだと云うのがもっともなら、妻はロシアのユウジェニイ・ツウルだと云われなくてはならん。」
イワンは随分無意味な事を饒舌る男ではあったが、この長談義を聞いた時は、どうもひどい病気にでもなっていはすまいかと、正直を言えば、おれは思った。少くも熱が高くて譫《うわ》語《ごと》を言っているように思われた。実は不断のイワンだって、こんな調子なところがあるのだが、ただ、なんと云ったらよかろう、顕微鏡で二十倍くらいに廓《かく》大《だい》して見るようであった。
おれはなるべく優しい声で云った。「君、そんな風にしていて長生きが出来ると思っているかね。一体君、たしかに健康でいるのかい。何を食べているね。寝られるかね。息は出来るかね。いろんな事を聞くようだが、実に非常な場合だから、友人の立場として聞いて見たいのだがね。」
イワンは腹立たしげに答えた。「それは君、全く余計な好奇心と云うものだよ。それ以上になんの意味もない質問だ。しかしそれにかかわらず言って聞かせよう。君はこのの腹の中でどうしているかと問うのだね。第一に意外なのは、このと云うものは体の中がまるで空虚なのだ。それ、あのモルスカヤだの、ゴロホワヤだの、それから僕の覚え違えでないなら、あのウォスネッセンスキイ区にもあるが、よく大きな店の窓に飾ってあるゴム細工があるね。あの大きい空虚な袋のような工合だよ。そうでなかったら、君、考えて見たって分かるだろうが、こうしていられたものではないからね。」
おれは不思議に思わずにはいられなかった。
「そうかねえ、と云うものはそんなにからっぽなものかね。」
イワンは厳格な調子で、詞に力を入れて云った。「全然空虚だよ。しかも察するにそれが自然の法則で、と云うものはそうしたものなのだろう。そこでと云うものは、あの鋭い牙の植えてある、大きな顎と、長い尾とから成立っている。それがの全体だと云ってもいいのだ。そこでその二つの部分の中間には、大なる空隙がある。それが硬ゴムに類した物質で包まれているのだ。事によったら実際硬ゴムから成り立っているかも知れんよ。」
おれはほとんど自分を侮辱せられたように感じて、イワンの詞を遮った。「しかし君、肋《あばら》はあるだろう。胃だの腸だの肝臓だの心臓だのもあるだろう。」
「そんな物はここにはない。絶無だ。察するに昔からそんな物がここにあった事はないだろう。そんな物があるように言ったのは、軽率な旅人が漫《みだり》に空想を弄《もてあそ》んで、夢中に有を生じたのだろう。ちょうどゴムで拵《こしら》えた枕をふくらますように、僕は今このをふくらます事が出来るのだ。このの腹の中は実に想像の出来ないほど伸縮自在だからね。君に好意があって、僕の無《ぶ》聊《りよう》を慰めてくれようと思うなら、すぐにここへ這入って貰うだけの場所は楽にあるのだよ。実は万止《や》むを得ない場合には、内のエレナにここへ来て貰おうかとも考えて見たよ。とにかくの内部がこんな風に空虚になっていると云う事は、学問上の記載に一致しているようだ。まあ、仮に君でも頼まれて、新たにと云うものを製造しなくてはならないと云う場合を考えて見給え。その時第一に起る問題はの生活の目的はなんであるかと云う問題だろう。そこでその答は明白だ。人間を呑むのが目的である。そうして見るとが自己の性命に危険を及ぼさずに、人間を呑む事が出来るように拵えなくてはならない。それにはの内部をどうしたらいいかと云う事になる。その答は前の答より一層容易だね。即ち内部を空虚にすればいいのだ。ところが君も御承知の通り自然は空虚と云うものの存在を許さない。それは理学が証明している。そこでを空虚に製造して置けば、自然がそれを空虚のままで置く事を許さないから、の功用が生じて来る。空虚なものを、空虚のままで置く事は、自然の単純な法則が許さないから、そこへ何物かが這入って来なくてはならない。そこではなんでも手当り次第に呑まなくてはいられない事になる。どうだね、分かるかね。そう云うわけでは人間を呑むのだ。詰まり空虚の功用の法則だと云ってもいい。この法則は無論あらゆる生物に適用すると云うわけには行かない。たとえば人間なんぞはそんな風に出来てはいない。人間の頭は、空虚なれば空虚なだけ、物をその中へ入れようと云う要求を感じない。しかしそんなのは破格と見《み》做《な》さなくてはならないのだね。こんな道理は、僕には今火を観るよりも明かになっている。今僕が君に話して聞かせる事は、皆僕の智慧で発明したのだ。僕が自然の臓腑の中に這入っていて、自然の秘密の淵源に遡っていて、自然の脈搏を聞きながら自分で考え出したのだ。語源学上に考えて見ても、僕の意見に一致しているところがある。この動物の名だがね、これは大食と云う意味に相違ない。クロコディルと云う語は多分イタリア語のクロコディルロから来ているだろう。このイタリア語はファラオ王がエジプトを領していた時代のイタリア語だろうと思う。語源を調べて見たら、多分フランス語のクロケエと云う語と同じ来歴を持っているだろう。今君に話しただけの事は、この盤をエレナの夜会の座敷へ運ばせた時、最初の講演として、公衆に向って話すつもりだ。」
おれは「これは熱病だ、よほど熱度が高いに相違ない」と思って心配でならないので、覚えずこう云った。「君、何か少し気の鎮まるような薬を飲もうとは思わないかね。」
イワンはひどくおれを馬鹿にしたような調子で、答えた。「馬鹿な。それに仮に下剤なんぞを用いるとしたところで、どうもこの場合でそれが利いてくれては少し困るよ。まあ、君の事だから、その位な智慧を出すだろうと、僕も予期していたのだ。」
「それはそうと薬にしろ食物にしろ、君はどうして有り付く事が出来るね。きょうなんぞも午食はしたかね。」
「午食なんぞはしない。しかし僕はちっとも腹はへっていない。多分今後もなんにも食わなくても済みそうだ。なにもそれに不思議はないよ。僕の体がの内部を全然充実させているのだから、それと同時に僕自身も腹がへると云う事はないのだ。だってもこれから先餌をやるには及ぶまい。つまりの方では僕を呑んでいて満足しているし、僕の方ではまたの体からあらゆる滋養を取っているわけだね。君は話に聞いているかどうか知らないが、器量自慢の女はある方法をもって自分の容貌を養うものだ。それはどうするのだと云うに、晩に寝る時体中に生肉を食っ付けて置く。それから翌朝になると香水を入れた湯に這入って綺麗に洗い落す。そうするとさっぱりして、力が付いて、しなやかになって、誰が見ても惚々するのだ。それと同じ事で、僕はの滋養になってやるから、の方から滋養物をおれに戻してくれる。つまり互に養い合っているのだ。無論僕のような体格の人間を消化すると云う事は出来ないから、も多少胃が重いようには感じているだろう。胃は無いのだがね。それはまあどうでもいい。そこを考えて僕はここで余り運動をしないようにしている。なに、運動しようと思えば、勝手だがね。僕はただ人道の考えから運動せずにいてやるのだ。しかしとにかく勝手に動かずにいるのだから、僕の現在の状態を不如意だと云えば、まずこの点ぐらいが思わしくないのだ。だからチモフェイが僕の事を窮境に陥っていると云ったのも、形容の詞だと見れば承認せられない事もないね。こう云ったからと云って僕が困っていると思うと違うよ。僕はこれでもいながらにして人類の運命を左右する事が出来るものだと云う事を証明して見せるつもりだ。全体当節の新聞や雑誌に出ている、あらゆる大議論や新思想と云うものは、あれは皆窮境に陥っている人間が吐き出しているのだ。だからそう云う議論を褒めるには、動かない議論だと云うじゃないか。まあ、それはなんと云ってもいいとして、僕はこれから全然新しい系統を立てるつもりだ。それがどのくらい造作もないと云う事が、君には想像が付くまいね。新しい系統を立てるには、誰でも世間の交通を断って、どこかへ引っ込めばよい。の腹の中に這入ってもいい。そこで目を瞑って考えると、すぐに人類の楽園を造り出す事が出来る。さっき君がここから出て行ったあとで、僕はすぐに発明に取り掛かったが、午後の中に系統を三つ立てた。今ちょうど四つ目を考えていたところだ。無論現存している一切の物は抛《ほう》棄《き》しなくてはならない。なんでも構う事はないから破壊するのだね。そんな事はの腹の中からやると造作はないよ。万事の腹の中から見れば、外で見るよりよく見えるよ。それはそうと僕の今の境遇にも、贅沢を云えば多少遺憾な点はあるさ。なに、けちな事なのだがね。まずここは少し湿っていて、それからねとねとしている。それに少しゴムの匂いがする。ちょうど去年まで僕の穿いていた脚絆のような匂いだ。苦情を云ったところでそんなもので、それ以上には困る事はないよ。」
おれは友人の詞を遮るようにして云った。「君ちょっと待ってくれ給え。君の今云っている事は、僕には実に不思議で、自分で自分の耳を疑うくらいだよ。そこで少くもこれだけの事を僕に聞かせてくれ給え。君はもうなんにも食わずにいるつもりかね。」
「いやはや。そんな事を気にしていると思うと、君なんぞは気楽な人間と云うものだね。実に浅薄極まるじゃないか。僕が偉大な思想を語っているのに君はどうだい。君には分からないから云って聞かせるが、偉大な思想は僕を《えん》飫《よく》させる。そして僕の体の周囲の闇を昼の如くに照しているのだよ。そう云うわけだから、実はどうでもいいのだが、御承知のの持主は、存外好人物で、あの人のいいおっ母さんと云う女と相談して、これから毎朝の吭《のど》へ曲った金属の管を挿してその中からコオフィイや茶やスウプや柔かにしたパンを入れてくれると云う事になった。もうその金属の管も註文した様子だ。なんでもこの近所に住っている同国人が拵えてくれるそうだ。ドイツ人だね。しかし実は無用の贅沢物さ。一体と云うものは千年生きると云う事だが、それが本当なら、僕も千年生きるつもりだ。ああ。そうだっけ。もう少しで忘れるところだった。君に頼んで置くがね、あしたでいいから誰かの博物書を調べて見てくれ給え。は何年生きるかと云う問題についてだね。事によると僕は何か洪水以前の古い獣と間違えて考えているかも知れないからね。ただ僕にも多少懸念がない事もないよ。御承知の通り僕は服を着ている。ロシア製の羅《ら》紗《しや》で裁縫した服だね。それから足には長靴を穿《は》いている。どうもそのせいでが僕を消化する事が出来ないらしい。それに僕は生きていて、意志の力をもって消化に反抗しているのだ。なぜと云うにあらゆる食物が消化せられた後になんになると云う事を、君だって考えて見給え。僕がそう云う末路を取りたくないのも、無理はあるまい。そうなっては僕の恥辱だからね。そこで僕の懸念と云うのは、どうもこの服の地質が千年持たないだろうと云うのだ。それがロシア製の下等羅紗と来ているから、なおさら早く朽ちてしまうかも知れない。そこでこの外部の防禦物がなくなってしまうと、いかに意志をもって反抗して見ても、とうとうかなわなくなって、消化せられてしまいはすまいかと思うのだ。まあ、昼の内はあくまで意志を緊張して、消化せられずにいるとしても、夜になって眠っている内に僕の体が馬鈴藷《じやがいも》や挽肉と同一な運命に陥るまいものでもない。万一そう云う事があるまいものでもないと云うただそれだけの考が、実に不愉快だよ。これに附けても、政府は是非税率を改正しなくてはならない。そうして英国製の羅紗の輸入を奨励するのだね。英国製の羅紗なら、ロシア製の物より堅牢だから、また誰かが服を着ての中へ這入ってきた時、その服が自然の悪影響に抵抗して長く持つだろうと云うものだ。いずれ僕は税率改正の意見をしかるべき政治家に話すつもりだ。無論同時に二三の新聞の記者にも話してやる。彼等に敷《ふ》衍《えん》させてやるのだね。新聞記者の僕の議論を賛成する事は独り税率問題ばかりではあるまいと思う。いずれこれからは毎朝新聞記者が群をなして来て、このブリッキの盤の周囲《まわり》を取り巻いて、最近の海外電報に対する僕の意見を聞くだろう。まあ、僕の一言一句を、彼等が争って書き留めると云う風になるに相違ないね。要するに僕の前途は光明で満たされているよ。」
おれは腹の中で、「譫《うわ》語《ごと》だ譫語だ」と思い続けている。しばらくしておれは友人に聞いて見た。「ところで君、自由についてはどう考えているね。とにかく君は今真っ暗い所に囚われているじゃないか。人間と云うものは自由を得て始めて満足すべきものだとは思わないかね。」
イワンは意外にもこう云った。「君は馬鹿だよ。自由だの独立だのと云う事は、それは野蛮人の愛するものだ。智者は秩序を愛するね。もし秩序がないとなると。」
「君、それは」と、おれはイワンの詞を遮ろうとした。
イワンはおれの喙《くちばし》を挟《さしはさ》んだのを不快に思ったと見えて、叫ぶように云った。「まあ、黙って聞き給え。僕の精神が今のように高尚に活動した事はこれまでにないのだ。ただこの狭い住《すみ》家《か》にいて、僕が多少気にしているのは、諸新聞の文学欄の批評と、それから諷刺的の雑誌の記事と、この二つだね。ここへ見に来る人間の中にも軽はずみの奴が交っている。馬鹿がいる。焼餅焼がいる。一言これを掩えば虚無主義者がいる。そう云う奴が滑稽の方へ僕を引き付けるかも知れない。しかし僕にはこれに対する手段があるよ。とにかく僕は輿《よ》論《ろん》が早く聞きたい。新聞がなんと云うか早く見たい。君、あす来る時は諸新聞を揃えて持って来てくれ給え。」
「それは揃えて持って来るよ。」
「しかし実はまだ早いな。あしたの新聞に僕の事が論じてあろうと期待するのは少し無理だ。たいていこのロシアでは新事件の論評は、四日目ぐらい立ってからでなくては出ないのだからね。それから君は今後は毎晩裏口から僕の所へ来る事にしてくれ給え。君に僕の書記を勤めて貰うつもりだからね。君が持って来た新聞を読んで聞かせてくれる。そうすると僕がそれに対する意見を述べて君に筆記させる。それから必要な処分があれば、それを君に命ずるのだ。何より大切なのは最近の外国電報だから、それを忘れないように持って来給えよ。 最近のヨオロッパの電信だね。 それは是非毎日いるよ。 まあ、 きょうはこれだけにして置こう、君ももう眠たくなっただろうから。もうそれでいいから君は帰り給え。そしてさっき僕の言った批評の事をよく考えて見てくれ給え。実は僕はさほど批評をこわがってはいない。批評家だって皆窮境にいるのだからね。とにかくこっちに智慧があって、それで品行をよくしていればあいつ等が持ち上げてくれるに極まっている。まあ、ソクラテエスでなければ、ディオゲネスと来るのだ。あるいは両方を兼ねたような風にするがいいかも知れない。まあ、将来人類のために働くには、僕はそう云う立場にいて働くつもりだ。」
女が年を取っていく地がなくなると秘密と云うものを守る事が出来ないと云うが、イワンの軽率に、相手がなんと思っても構わずに、自分の議論を急いで話そうとする様子は、ちょうどその女のように思われた。なんでもよほど高い熱が出ていそうである。の内部の構造に就いて、イワンの言った事なぞは、殊に怪しい。だって胃も心の臓も肺も無いと云う事は受け取りにくい。あんな事を言うのは、人に誇るために出たらめを言うのではあるまいか。事によったら、おれをへこますために言う気味もあるかも知れない。しかしイワンは病気に相違ない。病人は大事に取り扱ってやらなくてはならない。こうは思うものの正直を言えばおれは昔からイワンと云う男を気に食わなく思っていた。おれは子供の時から、この男に見くびられて、余計な世話ばかり焼かれていた。いっその事絶交してしまおうかと思った事は何度だか知れない。それでもとうとう今まで附き合っているが、それにはいつも返報をしてやる時期が来るかも知れないと、心の奥でほとんど無意識に思っているらしくも見える。実にイワンとおれとの交際は不思議だと云わなくてはならない。なんだか二人の間の交誼の十分の九は忿懣から成立っているとでも云いたいくらいである。それにかかわらずおれはこの晩にはイワンに優しく別れを告げた。
の持主のドイツ人はおれの側へ歩み寄って、「あなたのお友達は豪《えら》い人ですね」と云いながら、おれを見せ物場の外へ送って出た。ドイツ人はおれとイワンとの対話を始終注意して聞いていたのである。
おれはドイツ人のまだ何か言いそうにしているのを遮って聞いて見た。「それはそうと忘れないうちにあなたに聞いて置きたいのですが、もしあのを買い取るものがあったら、幾らぐらいで手放して下さるでしょうか。」
おれのこの問を発したのを、の中にいるイワンも聞いて、おれよりも熱心にドイツ人の答を待っているらしかった。察するにイワンの心では、ドイツ人に余り低い価を要求して貰いたくはなかっただろう。とにかくおれが問を発したあとで、の腹の中から、豚のうなるような、一種特別な謦咳《しわぶき》が聞えた。
ドイツ人はおれの問に答えたくない様子であった。そんな事を問うて貰いたくはないと、腹を立てたらしかった。顔が《ゆ》でた鰕《えび》のように赤くなって、彼奴《きやつ》は叫んだ。「わたしが売ろうと思わない以上は、誰だってわたしの所有物を買い取る事は出来ませんよ。そこでこのを売ると云う気はわたしには無いのです。よしやあなたが百万タアレル出すと云っても、わたしは売りません。きょうなんぞは見料が百三十タアレル取れたのです。あしたは一万タアレル取れるかも知れない。追々毎日十万タアレルも取れるようになるかも知れない。いつまでも売るわけには行きませんよ。」
の腹の中でイワンが愉快げに笑い始めた。
おれは腹の立つのを我慢して、なるべく冷静な態度を装ってこの気の変になったドイツ人に道理を説いて聞かせた。その要点はこうである。お前の思案はよくあるまい。今一度考え直して見るがよかろう。殊に今の計算はどうも事実に背いているようだ。もし一日に十万タアレルの見料が這入るとすると、四日目にはこのペエテルブルクの人民が皆来てしまわなくてはならない。皆来てしまえば、それから先には収入が無くなるはずだ。その上生あるものは神の思《おぼし》召《めし》次第で、いつ死ぬるかも知れない。だってどうかしてはじけまいものでもない。中に這入っているイワン君だって病気になる事もあろう。死なないにも限らない。まずざっとこんな事を言った。
ドイツ人は十分考えたらしく、とうとうこう云った。「いやわたしは薬店から薬を買ってに飲ませて、死なないようにしますよ。」
「薬が利けばいいが、それは受け合われないでしょう。それはどうでもいいとして、あなたは警察や裁判所からかれこれ言われる事があるかも知れない。そこを考えて見ましたか。早い話があの腹の中にいるイワン君には、御承知の通り法律上立派な細君がありますよ。あの細君が法廷に訴えて夫の返却を請求したらどうです。あなたは収入の事ばかり考えて、金持になる料簡でいるようですが、イワン君の細君に償金を出すとか、恩給を支払うとか云う事を考えて見ましたか。」
ドイツ人はきっぱり答えた。「いや、そんな事は考えていません。」
いわゆるおっ母さんが側から、意地悪げな調子で相槌を打った。
「そんな事を考えてたまるもんですか。」
「そうでしょう。そうして見るとあなた方の考えは周到だと云われますまい。未来がどうなるか分からないのに、うかうかとしているよりは、今の内に一度に金を手に入れた方がよくはないでしょうか。金高は小さくても、確実に手に入れる事が出来たら、その方がいいでしょう。無論こんな事をわたしが言うのは、ただ個人の物好きで言うに過ぎないのですから、誤解してはいけませんよ。」
ドイツ人はいわゆるおっ母さんを引っ張って、見せ物場の一番奥の隅の所に連れて行った。一番大きい、一番醜い猿の籠に入れてある所である。そこで二人は囁き合っていた。
イワンは意味ありげな調子でおれに言った。「まあ、どうなるか見てい給え。」
おれはうんとドイツ人をなぐってやりたかった。それからいわゆるおっ母さんを、亭主よりも一層ひどくなぐってやりたかった。最後にいわゆるおっ母さんよりも一層ひどくなぐってやりたかったのは、高慢なイワンである。
まだドイツ人の返事を聞かないうちに、おれはそのくらいに思っていたが、貪慾なドイツ人の返事はまた想像より甚しかった。ドイツ人は上さんと十分相談したものと見えて、見せ物場の隅から出て来てこう云う請求をした。の代価としては五万ルウベルを最近の内国債証券で払って貰いたい。それからゴロホワヤの石造の家屋を一軒貰いたい。ただしその家屋には薬局が一つ付いていなくてはならない。それから今一つは自分をロシアの陸軍大佐にして貰いたいと云うのである。
イワンが凱歌を奏するように叫んだ。「それ見給え。僕の思った通りだ。陸軍大佐に任じて貰おうと云うのは行われない事だが、その外の要求は至当な事だよ。中々わけの分かった男で、自分の所有品の値踏みをする事は心得ているね。とにかく何事によらず経済問題が先に立つのだて。」
おれは腹を立ててドイツ人に言った。「一体あなたは陸軍大佐になってどうしようと云うのですか。それにそんな上級の軍人になろうと云うには、これまでどんな履歴があるのですか。どんな軍功を立てたのですか。どこの戦争に参与して、ロシアの本国のためにどんな手柄をしていますか。まさか気が変になっているのではないでしょうね。」
ドイツ人はさも侮辱せられたと云うような態度で答えた。
「わたしを狂人だと云うのですか。わたしは狂人どころではない。普通よりも気がしっかりしているのだ。そう云うあなたこそどうかしていると見えます。まあ、考えて御覧なさいよ。腹の中に生きた官吏を入れているを持っていて、人に見せる事の出来る人間なら、大佐くらいにしたっていいです。このロシアに一人でも生きた官吏を腹に入れているを持っていて、人に見せる事の出来るものがありますか。わたしくらい智慧があれば、大佐になるには十分です。」
おれは体が震うほど腹が立ったので、「イワン君、さようなら」と言い放って、見せ物場を駆け出した。おれはほとんど我慢がし切れなくなっていた。ドイツ人もドイツ人だが、イワンもイワンである。二人とも途方もない夢を見ているではないか。それを考えると、どうも我慢がし切れないのである。
見せ物場の外へ出て、冷たい夕暮の空気に触れたので、おれの腹の立つのが少し直った。おれは唾を一つして、荒々しい声で辻馬車を呼んで、それに飛び乗って内へ帰った。そしてすぐに着物を脱いで床に這入った。
横になってからつくづく考えて見ると、イワンがおれを書記に使うと言った時、おれはそれに反対しなかった。そうして見ると、もう書記になる事を承諾したも同じ事である。これから先毎晩あの見せ物小屋へ出掛けて行って、あいつの饒舌る事を書くのだろうか。その苦しみをする報いに何があるかと云うと、ただ友人のために尽すと云う満足を感ずるだけの事である。おれは腹が立って、自分で自分をなぐりたくなった。実際おれはランプを吹き消して、掛布団を掛けたあとで拳骨で自分の頭や体中をこつこつ打った。十分打ってしまうと、少し気が鎮まったので、おれは寝入った。疲れ切っているのでぐっすり寝たのである。それから何疋とも知れない猿共が体の周囲《まわり》に飛び廻っている夢を見た。もっとも明方になってからは別なゆめになった。それはエレナの夢であった。
四
猿の夢を見たのは前日に見せ物小屋で、と一しょに飼ってある猿を見たからである。それとは違って、イワンの妻君エレナを夢に見たには、別にわけがある。
おれはこの場で正直に言ってしまう。おれはあの女を愛している。こう云っても、おれの詞《ことば》を誤解して貰っては困る。おれがあの女を愛すると云うのは、親父が娘を愛すると同じである。どうしてあの女を愛していると云う事がおれに分かったかと云うに、おれはたびたびあの女の小さい頭を引き寄せて、接吻をしてやりたく思ったのに気が附いたのである。接吻をするにはあのふっくりした桃色の頬っぺたでもいいと思った。しかしおれはそんな事を実行した事はない。白状のついでに今一歩進んで言えば、おれはあの脣に接吻する事も厭ではなかった。実にあの脣は可哀らしい。どうかしてにっこり笑うと、赤い脣の間から、すぐった真珠のような歯が二列に並んで見える。見えるのではない。上手に見せるのである。あの女は随分よく笑う女だ。イワンはあいつを甘やかして「可哀いノンセンス」と云うが実に適当な評だと云わなくてはならない。あの女は菓子である。ボンボンである。それ以上のものではない。そんな女であるのに、イワンが突然それをロシアのユウジェニイ・ツウルにして見ようとするのはわけが分からない。それはどうでもいいとして、おれの夢は、猿だけは別として、愉快な印象を残した。そこで前日の出来事を一々繰り返して考えて見て、それからきょうは役所の出がけに、エレナを訪問しようと決心した。家の友達たる資格を持っているおれだから訪問するのが義務だと云ってもいいのである。
エレナはいわゆる「小さいサロン」にいた。これは夫婦の寝間の前にある小部屋の名である。小さいサロンと云うからには、別に大きいサロンがあるかと思えばそうではない。今一つのサロンもやはり小部屋である。エレナはふわりとした寝巻を着て小さい長椅子に腰を掛けて、前にやはり小さい卓を構えて、やはり小さい茶碗でコオフィイを飲んでいた。コオフィイの中へは小さいビスケットの切をくずし入れて飲むのである。エレナは相変らず様子がいいが、けさは少し物案じをしているらしく見える。
おれの這入って来たのを見て、気の散っている様子で微笑んで云った。「おや。あなたですか。あなた親切気のない方ね。まあ、そこへお掛けなさい。そしてコオフィイでもお上がんなさい。あなたきのうはどこへいらっしゃったの。晩にはどこにおいでなさいましたの。仮装舞踏へはいらっしゃらなかったのね。」
「それではあなたはきのう仮装舞踏においででしたか。一体僕は舞踏会には行かない流義です。それにゆうべは俘《とりこ》になっている人の所にいなくてはならなかったのです。」こう云っておれは溜息を衝きながら、面白くない表情をして茶碗を受け取った。
「どこですと。誰の所にいらっしゃったのですと。俘になっているとは誰の事ですの。ああ、そうそう。あの人の事ですか。何をしていましたの。退屈だと云っていましたか。それはそうとわたしあなたに伺いたい事があってよ。どうでしょう。わたし今の身の上で離婚の訴訟を起す事は出来ないでしょうか。」
「離婚ですと。」こう云ったおれの手からは茶碗があぶなく落ちるところであった。そして腹の中では「あの髭黒奴《め》がそんな考えを出させるのだな」と思って胸を悪くした。
髭黒と云う男がある。八字髭が黒いから、おれがそう云う名を付けている。この男は建築局の役人で、近ごろしきりにエレナの所へ尋ねて来る。それがエレナにすこぶる気に入っているらしい。察するに髭黒奴は昨晩どこかでエレナに逢っただろう。舞踏会ででも出逢ったか、それともこの部屋に来て話をしたのかも知れない。とにかくゆうべあたり入智慧をしたのだなと思うと、おれは腹が立ってならなかった。
エレナは急にじれったいような様子をして言い出した。「だってあなた考えて御覧なさいな。どう云うものでしょう。あの人はの腹の中にいて、事によったら生涯帰って来ないかも知れないでしょう。それなのにわたしがここにこのままじっとしていて待ちぼけにならなくてはならないのでしょうか。一体夫と云うものは内にいるはずのものではないでしょうか。鰐の腹の中なんぞに澄ましていていいでしょうか。」
この詞はおれにはなんだか人が言って聞かせたのを受売りをしているように聞えた。そこでおれは少し激して云った。「そんな事をおっしゃっても、に呑まれたのは予期すべからざる偶然の出来事ではありませんか。」
おれが反対しそうになったのを見て、細君も腹立たしげにおれの詞を遮るように饒舌り出した。「あら、そうじゃなくってよ。どうぞ黙っていて下さい。わたしそんな事は聞きたくないのですからね。ほんとにあなたのような方もないものです。いつでもわたしに反対ばかりなさるのね。あなたのように相談相手にならない方ってありませんわ。わたしにいい智慧を貸して下すった事はないじゃありませんか。まるで縁のない人でも、こう云う場合には離婚の理由が十分成り立つものだと言って聞かせましたわ。宅が月給を取らないだけでも十分の理由になるそうじゃありませんか。」
おれはほとんど荘重な語気で云った。「エレナさん。一体今のお詞はたしかにあなたの口から出たのでしょうか。どこかの悪党があなたに入智慧をしたのではないでしょうか。それに俸給が出なくなるくらいな事実が、離婚の理由なんぞになるものですか。まあ、考えて御覧なさい。イワン君はあなたの事を思って病気にもなりかねない様子ですよ。気の毒ではありませんか。ゆうべも、あなたの方では舞踏会なんぞへ行って楽しんでいたのに、イワン君はそう云っていました。万《ばん》已《や》むを得ざる場合には、正妻たるあなたの事だから、一しょにの腹の中に住って貰うようにしようかと云っていました。それはの腹が存外手広で、二人どころではない、三人でもいられそうだからと云うのです。」こう云って、おれはついでだから、昨晩の対話の概略を話して聞かせた。
細君は不思議がって聞いてしまって云った。「おやおや、まあ。あなた真面目でわたしにもあのの腹の中へ這い込めとおっしゃるの。あの中に宅と一しょにいろとおっしゃるの。まあ、御親切様ね。どうしてそんな事が出来ると、お思いなさるの。帽子を被って、わたしの着ているような馬の毛の這入った裳を付けて、あの中へ這入られましょうか。思っても馬鹿げていますわ。それに這入って行く様子はどんなでしょう。見られたものではありますまい。誰か見ていようものならどんなでしょう。厭なこと。それにあの中で何が食べられますの。それにもしあの中で。ああ、馬鹿馬鹿しい。あなたも本とに途方もない事を考えている方ね。それにあのの中で何か慰みになる事があるでしょうか。芝居も見られませんわ。それにゴムの匂いがするのですって。溜らないじゃありませんか。それからあの中で宅と喧嘩をし出かしたらどうでしょう。喧嘩をしても、引っ付いていなくてはなりませんのね。おう、厭だ。」
おれは細君の詞を急に遮った。誰でも人と争って、自分の方が道理だと思うと、人の詞を聞いてはいられないものである。
「分かりました、分かりました。しかしあなたはただ一つ大切な事を忘れていらっしゃるのです。それをなんだと云うと、イワン君がどう云う場合にあなたをあそこへ引き取るかと云う事です。イワン君が万已むを得ざる場合と云ったのは、もうあなたに逢わずには生きていられないと云う時期の来た場合ですよ。それは恋愛のためにそうなるのです。熱烈な、誠実な恋愛ですよ。あなたは恋愛と云う事を忘れておいでなさるのです。」
細君は小さい、可哀らしい手を振って、さも厭だと云う様子をして、おれの詞を遮った。たった今ブラシで掃除して鑢《やすり》を掛けた爪には、薄赤い血が透き通って見えている。「わたし厭だわ。厭だわ、厭だわ、厭だわ。もうそんな事をおっしゃっては厭。ほんとに厭な方ね。今にあなたはわたしを泣かせてしまってよ。あなたそんなにの腹の中がお好きなら、御自分で這い込んでいらっしゃるがいいわ。あなた宅のお友達でしょう。恋愛のために這い込むのが義務なら、友《ゆう》誼《ぎ》のために這い込むのも義務でしょうから、あなたが這い込んで、生涯宅と一しょにいて、たんと喧嘩をなさるとも、いつもの退屈な学問のお話をなさるともなさるがいいわ。」
おれは細君の余り思慮のないのを窘《たしな》めるように、なるたけ威厳を保つように云った。「あなたは笑《じよう》談《だん》のようにそんな事を言っていらっしゃるようですが、その事もイワン君は言っていました。イワン君は僕にも来ないかと云いました。無論あなたの方は義務で行かなくてはならないのですが、僕が行けば、好意で行くのです。イワン君はそう云ったんですよ。の体は非常に伸縮自在だから、二人には限らない、三人でもいられると云ったのです。それはあなたと僕とを引き取る事も出来ると云う意味でしょう。」
妻君は呆れた様子で、妙な目をしておれの顔を見た。「三人一しょに這入っているのですって。まあ、どんな工合でしょう。あの、宅とわたしとあなたと三人ですね。おほほほ。まあ、宅も宅だが、あなたもとぼけていらっしゃる事ね。おほほほ。そうなれば、わたしのべつにあなたをつねっていてよ。ようございますか。おほほほ。」よほど可笑《おか》しいと見えて、細君は体を前へ乗り出して笑っていたが、とうとう目から涙が出た。
その細君の笑って涙を翻《こぼ》す様子がいかにも可哀らしかったので、おれは我慢が出来なくなって、細君の小さい手を握って、手の甲に接吻した。
細君は別に厭がる様子もなく、接吻させていたが、しまいに和睦の印とでも云うわけか、おれの耳を指で撮《つま》んで引っ張った。
おれは細君の機嫌の直ったのを見てきのうイワンの話した将来の計画を委しく話し出した。立派な夜会を開いて、すぐった客を招くと云う計画は細君の耳にもすこぶる快く聞き取られた。
細君は熱心に云った。「そうなりますと、着物がいろいろいりますわね。あなたそう云って下さいな。さうするには是非なるたけお金をたんとよこさなくては駄目だと、そう云って下さいな。それはいいが。」妻君は物案じをする様子で語調を緩めた。「それはいいが、あのブリッキの入《いれ》物《もの》を座敷に持ち込むには、どうしたものでしょうね。少し変ですわ。わたしの夫をあんな箱なんぞへ入れて座敷へ持ち込まれるのは厭ですわ。お客に対して間が悪いではありませんか。どう思って見ても、それは駄目ですわ。」
「それはそうと、僕は忘れていた事があります。きのうチモフェイさんはあなたの所へ来やしませんか。」
「ええええ。参りましたの。わたしを慰めてくれるのだと云って、参りましたの。そして長い間トランプをして帰りましたわ。あの方が負けるとボンボン入をくれますの。わたしが負けると手にキスをさせて上げますの。可笑しいじゃありませんか。も少しで一しょに舞踏会へ来るところでしたの。可笑《おか》しいじゃありませんかねえ。」
「それはあなたに迷わされたのです。誰だってあなたに迷わされないものはありません。あなたは魔《ま》女《おんな》ですね。」
「またお世辞をおっしゃるのね。わたししかえしをしてよ。お帰りになる前につねって上げますわ。痛い事よ。それからなんでしたっけ。そうそう。あの宅がきのういろいろわたしの事を申しましたのですって。」
「なに、そんなにいろいろな事は言われませんでした。わたしの見たところでは、イワン君はおもに人類一般の運命と云うような事を考えているのです。」
「そう。そんな事を幾らでも考えるのがようございます。もう伺わなくってもたくさん。いずれひどく退屈していますのね。いつかわたしもちょっと行って見てやりましょう。事によったら、あすでも参って見ましょう。きょうは駄目ですわ。わたし頭痛がするのですから。それにたくさん見物人が寄っている事でしょうね。大勢で、あれがあの人の女房だと云って、わたしに指ざしをするかも知れませんのね。わたし厭だわ。そんならまたいらっしゃいな。晩には宅の所へいらっしゃいますの。」
「無論です。新聞を持って行くはずですから。」
「ほんとに御親切です事ね。新聞を持っていらっしゃったら、少しの間側にいて、読んで聞かせて下さいましな。それからきょうはもうわたしの所へはおいでなさらなくってもよくってよ。わたし少し頭痛がしますし、事によったら誰かの所へ遊びに行くかも知れませんの。まだ分かりませんけれど。そんなら、さようなら。あなた浮気をなさるのじゃありませんよ。」
「ははあ、今夜は髭黒が来るのだな」と腹の中でおれは思った。
役所ではおれは誰にも気取られないようにしていた。世間に心配と云うものがあるか知らと云うような顔をしていたのである。そのうちふと気が付いて見ると、きょうに限ってある進歩派の新聞が忙しげに手から手へ渡されている。そして同僚が皆厭に真面目な顔をしてそれを読んでいる。最初におれの手に渡ったのはリストック新聞である。この小新聞はどの政党の機関と云うでもなく、広く人道を本《もと》として議論をすると云う風である。そう云うわけで同僚はいつも馬鹿にしているが、そのくせ読まずには置かない。おれはリストック新聞に次の記事のあるのを見出した。
「吾《ご》人《じん》は昨日帝都中に一種の不可思議なる風聞あるを耳にせしが、幾ばくもなくして、その風聞の事実なる事を確認したり。都下知名の紳士にして料理通をもって聞ゆる某氏は有名なる某倶《く》楽《ら》部《ぶ》の割《かつ》烹《ぽう》にも満足せざるらしく、昨日午後突然外国より輸入して、同所において公衆に示す事となり居るを見るや否や、の持主の承諾をも経ず、即座にそのを食い始めたり。初めは生きながらの体の柔かき所を選びて、ナイフにて切り取り、漸《ぜん》次《じ》に食いて、ついにの全体を食い尽したり。想うに某氏はなお飽かずして見せ物師をも食わんとしたるならん。何となればを嗜《たしな》むものは人肉をも嗜まざる理由なければなり。元来の旨《し》味《み》あるは、すでに数年前より外国の料理通の賞賛するところなれば、吾人といえどもを食う事を排斥すべきにあらず。否、吾人はこの旨味ある新食品のいよいよ盛んに我国に輸入せられん事を希望して息《や》まざるものなり。古来英国の貴族及び旅人は埃及《エジプト》においてを捕えて食する事我国人の熊を捕えて食うと異る事なし。聞くところによれば、英人は猟の組合を組織してを捕え、その背肉をビイフステエキの如く調理し、芥《からし》、ソオスを加え、馬鈴薯《じやがいも》と共に食うと云う。また仏人はかの有名なるフェルディナン・レセップス氏の埃及《エジプト》に入りしより以来を嗜み、英人の背肉を食うに反して、の短くかつ太き脚の肉を食うと云う。一説によれば仏人の脚肉を食うは、故《ことさ》らに英人の風習に従うを屑《いさぎよし》とせざる意気を粧うに過ぎず。故に仏人の熱灰上にの脚を炙《あぶ》るを見て、英人は冷笑すと。想うに将来我国人は背肉をも脚肉をも食するならん。吾人は《がく》肉《にく》輸入の有望なる事業たるを認め歓迎に吝《やぶさか》ならざるものなり。実に我国において未だ肉食用の行われざるは大欠点と云うべし。既に食の端緒は開かれたるをもって、数百疋のの輸入せらるる時期もまた恐らくは一年を出でざるべし。かつ将来我国においてもを繁殖せしむる事必ずしも不可能にあらざるべし。縦令《たとえ》ネワ河水にして、この南国動物のために寒冷なるに過ぎたりとせんも、帝都の区内池沼に乏しからず。市街にもまた適当なる河川及び沼《しよう》沢《たく》なきにあらず。たとえばパウロウスクはバルゴロウォ等に飼養し、もしくはモスクワのプレツスネンスキイ湖に飼養するも可ならん。かくの如くする時は啻《ただ》に料理通の旨味にして滋養に富める食品を得るのみならず、湖畔を逍遥する貴夫人もまたの游泳するを見て楽しむ事を得べく、少年児童は早く熱帯動物に関する知識を得る便あるべし。食用に供したるの皮革は種々の製作の原料となる。たとえば行李、巻煙草入、折鞄その他種々の容器となす事を得べし。吾人は現今商家のために尊重せらるる旧紙幣の千ルウベルを革の札入より取り出すのを見る時期の遠からざるを想わずんばあらず。吾人は時期を見て更にこの問題に関して論ずる事あるべし。」
おれはどんな事が書いてあっても驚かないつもりで読んだのだが、この文章には少からず驚いた。おれの右左にいる役人には、意見を交換するに適当な人物がいないので、おれは向う側に坐っているプロホル・サウィッチュの方を見た。ところがプロホルの顔はよほど前からおれの様子を覗《うかが》っていたと見えて、手にはウォロス新聞を持っていて、おれのが済んだら取換えて見ようとしている。おれに顔を見られると、プロホルは黙ってリストック新聞を受け取って、代りにウォロス新聞を渡したが、渡す時指の尖である記事を押えて、そこを読めと云う意味を知らせたのである。プロホルは一体妙な男で、平生詞数を言わず、年を取っても独《ひとり》者《もの》で暮し、誰とも交際しない。こんな役所で一しょに勤めていれば、どうしても詞を交さずにはいられないのに、この男は黙っていて、何事に付けても特別な意見を持っていて、それを誰にも明さない。自分の内へ同僚を来させた事もない。ただ寂しく暮していると云う評判を聞くだけである。ウォロス新聞には次の記事が出ていた。
「吾人は進歩主義を奉じ、人道的に云《うん》為《い》し、西欧諸国の人士の下に立たざらんと欲するものにして、これ世人の夙《つと》に認むるところならん。本紙の希望と努力とはかくの如くなるにかかわらず、吾人は不幸にして我が同胞の未だ成熟の域に達せざるを発見せり。昨日新道において認められたる事実は、実にこれを証するに余りあるものとす。吾人は遺憾ながらかくの如き事実の早晩現出すべきを予言したる事あり。曩《のう》日《じつ》一外人ありて帝都に生きたるを携え来たり、新道において公衆に示す事とせり。かくの如き有益にして人智開発上裨《ひ》補《ほ》するところある営業の代表者の来りて、帝都に開店したるを見て、吾人は直ちに賛成の意を表したり。しかるに両三日前午後五時ごろ一人の肥《ひ》胖《はん》漢《かん》あり。酒気を帯びて新道の店に来り、入場料を払いて場内に入りしが、突然かのを飼養しあるブリッキ盤に近づき、傍人に一語を交えずしての口内に闖入せり。はそのままかの人物を口内に置く時は窒息すべきをもって、自営上止むを得ずかの人物を嚥《えん》下《げ》せり。しかるにかの氏名未詳の人物はの胃中に入りてここに住居を卜《ぼく》し、の持主の嘆願を容れず、数多の不幸なる家族の悲鳴を省《かえりみ》ず、の胃中に滞留せり。警察の力を借りて退去を命ぜんと威嚇するものありしが、該《がい》人《じん》物《ぶつ》は依然聴許せず。の胃中よりは笑声洩れ聞え、またの腹を切開せんと脅迫するに至る。憫《あわれ》むべきはかくの如き長大なる物を呑みたるためしきりに落涙しおれり。我国の古諺に曰く。速《まね》かざる客《かく》は韃靼人よりも忌まると。はたとえ落涙すとも、胃中の奇住者をいかんともする事能わざるなり。奇住者は永久に退去するを肯《がえん》ぜざるものの如し。吾人はこの人物の何故にかくの如き蛮行を敢てしたるかを説明する事能わずといえども、この事実の我が同胞の未だ成熟せざるを証明し、外侮を招くべきを見て遺憾なき能わず。我国人に放縦の悪性質あるは、吾人の平素痛嘆するところなるが、この新事実は明かにこの性質を表示するものとす。試みに問わん。かの速かざる客はこの行為をもって何の目的を達せんとしたるか。温暖にして安楽なる住所を得んと欲せしか。果してしかりとせば、かの人物は何故に市中について適当なる借家を捜索せざりしか。本市には廉価にして美麗にかつ便利なる借家少からず。ネワ河水を鉄管にて引きたる上水あり。瓦斯《がす》灯《とう》の装置あり。その完全なる物に至っては門衛をも家主の支弁にて雇い入れあるにあらずや。吾人は最後に読者の注意を乞わんと欲する一事あり。すなわち動物虐待の問題これなり。かの肥胖漢を消化するはのためには非常に困難なるべき事論なし。は長大なる物を腹中に貯え、寸《すん》毫《ごう》も身を動かすこと能わずして盤中に横《よこたわ》り、今まさに悶死せんとすと云う。西欧諸国においては動物虐待者は一々法律上処罰せらるるものなり。独り我が同胞は既に瓦斯灯を設け、人道車道を区別し、新式の家屋を建設すといえども、今に至るまで依然として蒙《もう》昧《まい》粗《そ》笨《ほん》の域を脱せざるなり。グリボエドッフの曰く。吾人の家屋は新たなりといえども、吾人の成心は古しと。吾人はこの語のなお事実に合せざるを遺憾とす。なんとなれば吾人の家屋はその梯《はしご》を新たにしたるのみにて実は古きなり。本紙は既にしばしば注意を与えたるにかかわらず、ペエテルブルク町の商家ルキアノッフ氏の住宅には、庖《ほう》厨《ちゆう》より居室に通ずる階段の既に久しく腐朽せるものあり。右の階段は今終《つい》に陥落したり。しかして同家に使役せらるる兵卒の妻アフィミア・スカピダロワはかの階段を上下するごとに非常なる危険を冒せり。殊に水もしくは薪を運搬する時をしかりとす。昨夕八時三十分アフィミアは汁を盛れる瓶《へい》を持ちてかの階段を通過する際、終に倒れて下肢骨折をなせり。吾人は不幸にして未だルキアノッフ氏の該階段を修繕せしむるに意ありや否やを詳《つまびらか》にせず。由来我国人の悟性は遅鈍なり。吾人はただこの遅鈍の犠牲たる憫れむべき女子の既に病院に送られたる事を報道し得るのみ。ちなみにいうウィルブルク町の木造人道の塵芥を掃除する奉公人は何故に往来人の靴を汚染する事を省みざるや。外国の例の如く塵芥は一所に堆積する如く掃き寄するに何の困難もなきにあらずや。」
おれは呆《あきれ》てプロホルの顔を見て云った。「これは何の事でしょう。」
「なにが。」
「どうもに呑まれたイワンに同情せずに、かえって呑んだに同情しているじゃありませんか。」
「それが不思議ですか。動物にまで同情するのです。理性のない動物にまで同情するのです。これでは西欧諸国にも負けていませんね。あっちもそんな風ですから。へへへへ。」変り者の老人はこう云った切り、取り扱っている書類の方に目を向けて、あとは無言でいた。
おれは二枚の新聞をポッケットに捻《ね》じ込んで序《ついで》にペエテルブルク新報やウォロスの外の日のをも集めて持って、この日にはいつもより早く役所を出た。まだ約束の時刻までには、大ぶ時間があるが、おれは急いで新道に往って、せめて遠方からなりとも、とイワンとの様子を見たり、見物人の話している事を聞いて、人心の観察をしたりしようと思ったのである。いずれ見物人の数は多かろうと思ったので、おれは用心のため外套の領《えり》を立てた。なぜだか知らないが、人に顔を見られるのが恥かしいような気がしたのである。いったい我々は人中に出る事に慣れていないのだ。こんな事は言うものの、友人が非常な運命に陥っているのを思えば、おれの平凡な感想なぞをかれこれ言うのは済まない事だ。
センツァマニ ゴーリキー
島は深い沈黙の中に眠っている。海も死んでいるかと思われるように眠っている。秘密な有力者が強い臂《ひじ》を揮《ふる》って、この怪しげな形をした黒い岩を、天から海へ投げ落して、その岩の中に潜んでいた性《せい》命《めい》を、その時殺してしまったのである。
遠くからこの島を見れば妙な形をしている。遠くからと云うのは、天の川の黄金色をした帯が黒い海水に接した所から見るのである。そこから見れば、この島は額の広い獣のようである。獣は曲った毛むくじゃらな背をしている。それが恐ろしい《あぎと》を海にぺたりと漬けて、音も立てずに油のように凝《こ》った水を啜《す》っているかと思われる。
十二月になってからは、今宵のような、死に切った静けさの闇夜が、カプリの島にたびたびある。いかにも不思議な静けさなので、誰でも物を言うに中音で言うか囁《ささや》くかせずにはいられない。もし大きい声をしたら、この天鵝絨《びろうど》のような青い夜の空の下で、石の如き沈黙を守って、そっと傍観している何物かの邪魔をすることになろうかと憚るのである。
だから今島の浪打際の、石のごろごろした中にすわっている二人も中音で話をしている。一人は税務署附の兵卒である。黄いろい縁をとった黒のジャケツを着て、背に小銃を負っている。この男は岩の窪みに溜まる塩を、百姓や漁師の取らぬように見張るのである。今一人は漁師である。色が黒くて、耳から鼻へ掛けて銀色の頬髯が生えている。鼻は大きくて、鸚《おう》鵡《む》の嘴のように曲っている。
岩は銀《ぎん》象《ぞう》嵌《がん》をしたようである。しかしその白い金質は潮に触れて酸化している。
役人はまだ年が若い。年齢相応な、口から出《で》任《まか》せの事を言っている。老人は不精不精に返事をしている。折々は不機嫌な詞《ことば》も交る。
「十二月になって色をする奴があるかい。もう子供の生れる時じゃないか。」
「そう云ったって、年の若いうちは、どうも待たれないからね。」
「それは待たなくてはならないのだ。」
「お前さんなんぞは待ったかね。」
「わしは兵隊ではなかった。わしは働いた。世間を渡っているうちに出逢うだけの事に出逢って来た。」
「分からないね。」
「今に分かるよ。」
岸から余り遠くない所に、天狼星が青く水に映っている。その影の暈《しみ》のように見える所を、長い間じっと見ていると、じき側に球の形をした栓の木の浮標が見える。人の頭のような形をして、少しも動かずに浮いている。
「爺《じ》いさん、なぜ寝ないかね。」
漁師は持ち古した、時代が附いて赤くなった肩掛の巾《きれ》を撥《は》ね上げて、咳をしながら云った。
「網が卸してあるのだよ。あの浮標を見ないか。」
「そうかね。」
「さきおとついは網を一つ破られてしまったっけ。」
「海豚《いるか》にかね。」
「今は冬だぜ。海豚がかかるものか。鮫《さめ》だったかも知れない。それとも浮標か。分かりゃあしない。」
獣の脚で踏まれた山の石が一つ壊《く》えて落ちて、乾いた草の上を転がって、とうとう海まで来てぴちゃっと音をさせて水に沈んだ。このちょいとした物音を、沈黙している夜が叮嚀に受け取って、前後の沈黙との境界をはっきりさせて、永遠に記念すべき出来事ででもあるように感ぜさせた。
兵卒は小声で小唄を歌った。
爺いさん。夜がなぜ寝られない。
わけを聞かせて下さいな。ウンベルトオさん。
ウィノ・ビアンカの葡萄酒を
若い時ちと飲み過ぎた。
「そんなのはおれには嵌まらない」と、漁師はうるさがるようにつぶやいた。
爺いさん。夜がなぜ寝られない。
わけを聞かせて下さいな。ベルチノオさん。
恋と名の附くいい事を
し足りなかった、若い時。
「ねえ、パスカル爺いさん。いい唄でしょう。」
「お前にだって、六十になって見りゃあ、今に分かる。だから聞かなくてもいいのだ。」
二人共長い間、夜と倶《とも》に沈黙していた。それから漁師が煙管を隠しから出して、吸殻の残っていたのを石に当ててはたき出した。そして何か物音を聴くようにしていながら、乾燥した調子で云った。「お前方のような若い者は勝手に人を笑っているがいい。だがな、色事をするにしても、昔の人のしたような事が、お前方に出来るか、どうだか、それはちょいと分からないな。」
「驚いた。分かり切っていらあ。色事をするのはいつだって同じ事じゃないか。」
「そう思うかい。ところが物が本当に分かっていなくちゃあ駄目だ。あっちのな、あの山の向うに、Senzamani と云う一族が住まっている。今の主人の祖父《じ》いさんのカルロのやった事を聞いて見るといい。お前もどうせ女房を持つのだから、あれを聞いて置いたら、ためになるだろう。」
「お前さんが知っているのに、何も知らない人に聞きに往かなくてもいいじゃないか。」
目には見えぬに、どこかを夜の鳥が一羽飛んで通った。誰かが乾いた額を手拭でふいたような、一種異様な音がしたのである。
地の上の暗黒が次第に濃く、温かに、しめっぽくなって来た。天は次第に高くなった。そして天の川の銀色の霧の中にある星は次第に明るくなった。
「昔はもっと女を大切にしたものだ」と、漁師が云った。
「そうかね。そんな事はわたしは知らなかった。」
「それに戦争がたびたびあったものだ。」
「そこで後家が大勢出来たと云うのかね。」
「いや。そこで兵隊がやって来る。海賊がやって来る。ナポリには五年目ぐらいに新しい政府が立つ。女がいると、錠前を卸した所に隠して置いたものだ。」
「ふん。今だってそうして置く方がいいかも知れないね。」
「まあ、鶏かなんかを盗むように、女を盗んだものだ。」
「女は鶏よりか狐に似ているのだが。」
漁師は黙ってしまった。そして煙草に火を附けた。附木の火がぱっと燃え立って、黒い曲った鼻を照らした。間もなく甘みのある烟《けむり》の白い一団が、動揺の無い空気の中に漂った。
「それからどうしたのだね」と、ねむげな声で兵卒が聞いた。
海は金粉を蒔いたようになっている。このほとんど注意を惹かぬほどの天の反影があるので、暗黒と沈黙とに支配せられている寂寥の境に、ちとばかりの活動が生じて、その境に透明な、きらめきのある光彩が賦与せられている。たとえば海の底から、燐光を放つ、幾千の睛《め》が窺っているようである。
不機嫌になって黙ってしまった漁師に、「おい、わたしは聞いているのだよ」と、兵卒が催促した。
漁師は中音で、ゆっくりと話をし出した。人の落ち着いて傾聴しなくてはならぬような話振りである。
「百年ほど前の事だった。今あの黒い樅《もみ》の木が立っている山の上に、イエケルラニと云うグレシア人の一族が住んでいた。親爺は疲《せむし》で、密輸入をしている。それに魔法使と云う噂がある。悴《せがれ》はアリスチドと云う猟師だった。まだ島に山羊がいたからな。そのころカプリで物持と云えばカリアリス家だった。今の主人の祖父《じ》いさんの代で、その人からさっき云った、あのセンツァマニと云う名が剏《はじ》まったのだ。手ん坊と云うのだな。山の葡萄畠が半分はカリアリス家の持物になっていた。酒を造る窖《あなぐら》が八つあった。大桶が千以上も据えてあっただろう。そのころはフランスでもこっちの白葡萄酒の評判がよかった。あの国は葡萄酒の外なんにも分からない国だそうだがな。一体フランス人は博奕《ばくち》打《うち》と酒飲みばかりだ。とうとう博奕に負けて悪魔に王様の首を取られた。」
兵卒はくすくす笑い出した。それに調子を合わせるように、どこか近い所で水がぴちゃぴちゃ云った。二人共頸《くび》を延ばして海の方を見て、耳を欹《そばだ》てた。引汐が岸辺に小さい波を打っている。
「あとを話さないかね。」
「そうだっけ。そのカリアリスだがな。息子が三人兄弟だった。話の種になった手ん坊の元祖はその中の子で、カルロネと云った。大男で雷のような声をするので、そう云う名が附いたのだそうだ。それが貧乏な鍛冶職の娘のユリアと云うのに惚れた。娘は利口者だった。ところが強い男には智慧は無いものだ。色々の邪魔があって、婚礼が出来ないので、双方もどかしがっていた。そこで最初に話したグレシア人の猟師のアリスチドだがな、そいつがまたユリアに執心だったのだ。ぼんやりして手を引っ込めている奴ではない。久しい間口説いて見たが、駄目だ。そこでとうとう娘に恥を掻かせようと思った。娘が疵《きず》物《もの》になりゃあ、カルロネが貰うまい。そうしたら、娘を手に入れることが出来ようと思ったのだ。そのころは人間が堅かったからな。」
「なに。今だって。」
「今かい。じだらくはいい内のお慰みだ。こっちとらは貧乏人だ。」漁師は不機嫌らしくこう云って置いて、また昔の事を思い出したように話し続けた。
「ある日の事、娘は葡萄畠で木の枝を拾っていた。ちょうどそこへグレシア人の息子が、葡萄畠の上の岨《そわ》道《みち》を踏みはずした真似をして、娘の足元に倒れるように、落ちて来た。お宗旨を信仰している娘だから、怪我をしていはしないかと思って、側に寄った。痛くてたまらないと云う風で、うめくようにアリスチドが云った。ユリアさん。どうぞ人を呼ばないで下さい。わたしがあなたの側にこうしているのを、あのカルロネさんでも見ようものなら、焼餅焼だから、わたしを打ち殺してしまうだろう。少しの間わたしを休ませて置いて下さい。わたしはすぐに往くのだからと云った。そしてユリアの膝を枕にしたと思うと、気を失った真似をした。ユリアはびっくりして人を呼んだ。人が大勢来たところで、アリスチドは出し抜けに、体の丈夫なもののように跳ね起きて、そしてさも間の悪そうな顔をして言いわけをした。わたしはユリアさんを疾《と》うから好いている。決して悪い料簡で今のような事をしたのでは無い。娘さんの恥にならないように、わたしが立派に女房に持つと云った。さもユリアと懇《ねんごろ》にして、草臥《くたび》れて、膝を枕にして寝たのだと云う風である。娘はおこったが、近所の馬鹿共は狡猾なグレシア人に騙《だま》されてしまった。ユリアが声を立てて人を呼んだのだと云うことさえ忘れて、旨く騙されてしまった。誰もどのぐらいグレシア人が狡猾だか知らなかったのだな。アリスチドの言うのは《うそ》だと云って、娘は一しょう懸命に言いわけをした。するとアリスチドの云うには、あれはカルロネに打たれるのがこわいので、本当の事を隠して言わないのだと云った。近所のものはとうとうアリスチドの詞を真に受けた。娘はくやしがって気の違ったようにあばれた。そしてそこにあった石を拾って、皆に打って掛かったので、皆が娘の腕を縛って町の方へ帰りかかった。娘の叫び声を聞いてカルロネがそこへ駆け附けて来た。人が今の出来事を言って聞かせた。カルロネは大勢の人の真ん中で地びたに膝を衝いた。それから跳ね起きしなに、左の手で娘の顔を打った。右の手はアリスチドの吭《のどぶえ》を掴んでいる。周囲《まわり》の人がなかなかその手を吭から放すことが出来なかった。」
「カルロネと云う奴は馬鹿な野郎だなあ」と、兵卒がつぶやいた。
「ふん。正直な人間の料簡は胸の底にあるのだ。もう言ったか知らないが、この出来事のあったのは冬の事で、クリスト様の御誕生祭のある前だった。土地のものはお祭の日に品物の取《とり》遣《やり》をすることになっていた。葡萄酒や果物や肴や小鳥なんぞをやるのだ。それはどうしても物持が貧乏人にたくさんくれることになっていた。ユリアの打たれたのは、ひどく打たれたのだか、どうだったか、おれは覚えていない。とにかく鍛冶職の夫婦は礼拝堂にも往かない人達で、お祭の日にも内にいると、品物がただ一つ届いた。籠に樅の小枝で何やら詰めてある。それを見ると、カルロネの左の手だ。ユリアを打った左の手だ。夫婦もユリアもびっくりしてカルロネの所へ駆け附けると、カルロネは自分の内の戸口に膝を衝いていた。腕を布で巻いているのに、血が染み通っている。大男が子供のように泣いている。なんと云う事をしなすったのだと、親子で聞いた。カルロネはこう云った。いや、わたしはしなくてはならない事をしたのです。わたしの約束をした娘に恥を掻かせた男を生かして置くわけにはいきません。わたしはアリスチドを殺しました。それからわたしの左の手ですが、あれは大事なユリアさんを打ったのですから、わたしに対しても済まない事をしたのです。だから切ってしまいました。どうぞ、ユリアさん、堪忍して下さい。御両親もどうぞと云った。もちろん親子共文句は無い。だが法律と云うものはこっちでもやくざな奴に都合のいいように出来ているのだ。カルロネはアリスチドを殺したので、二年懲役に往っていた。それを出すのに、兄や弟が随分金を使ったそうだ。それからカルロネはユリアと婚礼をした。二人共長生きをして、センツァマニの一族は今でも栄えている。」
漁師は黙って、烟管《きせる》を強く吸った。
兵卒は小声で云った。「その話はわたしは好かないね。そのカルロネと云う男は野蛮で、ひどく馬鹿だ。」
「ふん。今から百年たって見たら、お前方のする事も馬鹿に見えるだろうて。それはお前方のような人達がこの世界に生きていたと云うことを、人が覚えていてくれた上の話だが。」漁師はこう云って、深く物を考えるらしく、白い烟の輪を闇の中に吹いた。
またさっきの所にぴちゃぴちゃ云う水の音がした。さっきより大きい、急な音である。漁師は肩掛の巾《きれ》を脱ぎ棄てた。そしてすばやく立ち上がって、そのまま見えなくなった。岸の際だけ魚の鱗を蒔き散らしたように、ちらちら明るく光っている、黒い海の水が、今まで話をしていた老人を呑んでしまったかと思われるように。
これは作者が故郷を離れて、カプリの島にさすらってから、始めて書いた短篇である。題号はイタリア語で無手の義、即ち手ん坊である。漁師の物語の後半には誤脱があるらしいが、善本を得ないので、そのまま訳して置いた。
板ばさみ チリコフ
プラトン・アレクセエウィッチュ・セレダは床の中でじっとしている。死んでいるかと思われるほどである。鼻は尖って、干からびた顔の皮は紙のようになって、深く陥《おちい》った、周囲《まわり》の輪郭のはっきりしている眼《がん》窩《か》は、上下の瞼が合わないので、狭い隙間を露わしている。その隙間から、これが死だと云うように、濁った、どろんとした、硝子《ガラス》めいた眼《め》球《だま》が見える。
室内はほとんど真暗である。薄板を繋いだ簾《すだれ》が卸してあるので、そこから漏れて来る日の光が、琥《こ》珀《はく》のような黄を帯びて、一種病的な色をしている。人を悲しませて、同時に人を興奮させる色である。暗い片隅には、聖像の前に灯明が上げてある。このちらちらする赤い火があるために、部屋が寺院にある龕《がん》か、遺骨を納める石窟かと思われる。
黒い服を着た、 痩せた貴婦人が、 苦痛を刻み附けられた顔をして、 抜き足をして、 出たり這入ったりする。これが病人の妻グラフィラ・イワノフナである。女は耳を澄まして、病人の寝息を聞く。それから仰向いて、灯明の小さい星のように照っている奥の聖像を見る。それから痩せて、骨ばかりになっている両手で、胸をしっかり押えて、脣《くちびる》を微かに動かす。
折々は大学の制服を着た青年が一人、不安らしい顔をして来て、二三分間閾《しきい》の上に立って、中の様子を窺っていて、頭を項《うな》垂《だ》れて行ってしまう。
こん度来たのは、脚の苧《お》殻《がら》のように細い、六歳の娘である。お父うさんを見ようと云うので、抜き足をして、そっと病人の足の処まで来て、横目で見た。常は慈愛、温厚、歓喜の色を湛えていた父の目が、例の《まぶた》の隙間から、異様に光っているのを見て、娘は本能的に恐怖心を発した。そしてニノチュカの小さい胸は波立った。ニノチュカはあとから追い掛けられるように、暗い室から座鋪《ざしき》へ出た。そこには冬の朝の寒い日が明るく照っていて、黄いろいカナリア鳥が面白げに、声高く啼いていて、もうこわくもなんともなくなった。
「お父うさんはまだお目が醒めないかい」と、母が問うた。
「いいえ。」
「もう一遍行って見ておいで。」
「こわいわ。お父うさんがこわい顔をしているのだもの。」おもちゃにしていた毬の手を停めてこう云ったとき、娘の顔は急に真面目になって、おっ母さんそつくりに見えた。
「馬鹿な事をお言いなさい。」
「だって、お父さんの目だけがあたいを見ていて、お父うさんは動かずにいるの。」
子供のこう云うのを聞いて涙ぐんだので、母は顔を背けた。娘はもう父の事を忘れてしまってゴム毬をついている。
午後一時ごろに、門口のベルがあらあらしい音を立てた。誰も彼も足を爪立てて歩いて、小声で物を言っている家の事だから、この音は不似合に、乱暴らしく、無情に響いた。グラフィラ夫人はびっくりして、手で耳を塞ぎそうにした。耳を塞いだら、ベルの方で乱暴をしたのを恥じて黙ってしまうだろうとでも思うらしく、そんなそぶりをした。それから溜息を衝いて、玄関の戸を開けに立った。来たのが医者だと云うことは知っているのである。しかし学生が一足さきに出て、戸を開けた。
「先生です。」学生は隕《いん》星《せい》のように室内を、滑って歩きながら、こう云った。
学生は学士シメオン・グリゴリエウィッチュを信頼している。学生の思うには、いまこの家で抜き足をせずに歩いて、声高に物を言って、どうかすると笑ったり、笑《じよう》談《だん》を言ったりすると云う権利を有しているものは、この学士ばかりである。
学士は玄関でそうぞうしい音をさせている。ゴム沓《ぐつ》がぎいぎい鳴る。咳払いの音がする。それからいつもの落ち着いた、平気な、少々不遠慮な声で、こう云うのが聞えた。
「どうですな。新聞に祟《たた》られた御病人は。」
「眠っていますが。」
「結構結構。それが一番いい。」
「おや。いらっしゃいまし。」戸を開けた学士を見て、夫人がこう云った。哀訴するような声音である。
「いや。奥さん。ひどい寒さですね。雪が沓《くつ》の下できゅっきゅと云っています。こう云う天気が僕は好きです。列《れつ》氏《し》の十八度とは恐れ入りましたね。御病人は。」
「あのやはり休んでいます。先ほどお茶とパンを一つ戴きました。右の手はまだちっとも動きません。足の方も動きませんの。それに目も片々はよく見えないと申しますが。」
「ようがす、ようがす。何もそんなに心配なさらなくてもよろしい。沓がきゅっきゅと云うには驚きましたよ。列氏十八度ですからね。」
学士はカナリア鳥をちょいと見て、ニノチュカの少し濃い明色の髪を撫でて、こう云って揶揄《からか》った。
「どうだい。蜻蜒《とんぼ》。旨く飛べるかい。」
「あたい蜻蜒なんかじゃなくってよ。」
「そんなら蚤《のみ》だ。」
「あたいが蚤なら、あなたは南京虫よ。」不服らしい表情で、頭を俯向けて、こう云った。
「ははは。」学士は声高に笑った。
娘はゴム毬を持った手を背中に廻して、壁に附いて立っていて、口の悪いおじさんを睨んでいる。学士は中肉中背の男である。年ごろは中年である。顔は人がよさそうで、目は笑っている。性質は静かで、恬《てん》澹《たん》で、そして立居振舞を、ひどく気を附けて、温和にしている。この人はいつも機嫌がいい。「今ちょっと御馳走になって来たところです」とか、「今ちょっと昼寝をして元気を附けたところです」とか云う、その様子が生々していて、世を面白く暮す人と受け取られる。病人や、病家の人達に、この人の態度は好影響を及ぼす。新しい希望を生ぜしむる。もちろんその希望は空頼めなこともあるが、こんな人達のためには、それが必要なのである。
「あの、宅が目の醒めまするまで、あちらへおいでを願って、何か少し差上げたいのでございますが」と、夫人が云った。
「いや。ちょうど今少し御馳走になって来たところです。酒を一杯。パアテを二つやって来ました。一つは肉を詰めたので、一つはシュウを詰めたのでしたよ。」
「そんならお茶なりとも」と、夫人は泣き出しそうな声で勧めた。
「お茶ですか。なるほど、じゃあ頂戴しましょうかな。こんな寒い日には悪くないですな。」
一同食堂に這《は》入《い》った。ここには卓の上に、てらてら光る、気持のいい、腹のふくらんだサモワルがたぎっている。そしてバタ附きのパンの匂いがする。明るい居心のいい一間である。どうも主人が病気で、腰が立たないと云うことなんぞは、この食堂は知らずにいるらしい。サモワルはいつものように、綺麗に手入れがしてあって、卓に被ってある布《きれ》も雪のように白い。パンは柔かそうに褐色に焼けていて、薫りがいい。その薫りを嗅いでいるボロニュ産の小《こ》狗《いぬ》は、舌を出して口の周囲《まわり》を舐めながら、数日前に主人にじゃれたように、学士にじゃれる。何もかも不断の通りで、何事もあったらしくはない。やはりいつものように、今持って来たばかりのポシェホンスキイ・ヘロルド新聞も、卓の上に置いてある。この地方新聞は活版の墨汁《インキ》の匂い、湿った紙の匂い、それから何か分からない、ある物の匂いがする。一体夫人の言い附けで、もうこの新聞を目に見える処へ持って来てはならないことになっているのを、女中が忘れて、ついこの卓の上に置いたのである。
「あら。また新聞を机の上に置いたね。持って来ておくれでないと云ったじゃないか」と、夫人は囁くように云って、顔をサモワルの蔭に隠した。目が涙ぐんで来たからである。
学生はちょっと肩をゆすって、新聞を持って、どこかへ隠しに行った。そして帰って来て見ると、母はまだ泣いている。
「あれがお父うさんを殺すのだよ」と、サモワルの蔭から囁きの声が漏れた。そして卓が少しぐら附いて、上に載せてある器が触れ合って鳴った。
「奥さん。困りますな。お泣きになるにはまだちっと早過ぎます。お歎きになる理由がありません。」学士は匙で茶を掻き交ぜながら、こう云った。「まだよくなるかも知れません。足が立って、目が明かないには限りません。落胆なさってはいけない。あなたも、御主人も、落ち着いておいでになるのが肝心です。あんまり御心配なさり過ぎる。あの大佐の先生はどうです。両脚ともなくなっていますじゃありませんか。泣きなんぞはしない。立派に暮している。上機嫌でさあ。恩給を頂戴して、天帝の徳を称えているのです。」学士はこう語り続けた。
「宅なんぞでは、まだ三年勤めなくては、恩給は戴けません。」サモワルの蔭から、夫人は悲しげな声でこう云って、涙を拭いた。「それに子供も二人あります。」こう云って鼻をかんだ。
「二人あって結構じゃありませんか。兄いさんは学士になって、お役人になります。無論出版物検閲官だけは御免を蒙《こうむ》るですな。蜻蜒《とんぼ》も大きくなって、およめに行きます。きっとすばらしい、えらい婿さんがありますよ。」
「それはどうか取り留めて戴きまして、恩給の戴けるようになるまで、もう三年お勤めをいたして、そこでお役を罷《や》めるのなら、よろしゅうございますが。いいえ。どうもそんな都合のいい事にはなりますまいと存じます。あんなに弱り切っていますからね。まあ、なんと云う厭な新聞でしょう。わたくし共一家が立ち行かなくなるのは、あの新聞のお蔭でございます。宅は検閲官というものになりました、あの日から不《ふ》為《し》合《あわ》せになったのでございます。毎日毎日喧嘩があります。大声を立てる。訴訟沙汰や、面倒な事が出来る。それで宅は気が苛《いら》々《いら》いたしてまいりまして、物をおいしく戴くことが出来なくなりますし、夜もおちおち休むことが出来なくなりましたのでございます。だんだんにこう気が鬱してまいりまして、自分が悪人で人が自分を掴まえて為《し》置《お》きにでもいたそうとして、網を張っているような心持になりまして、この二三年というものは、気抜けがしたように、ぶらぶらしていましたのでございます。そしてとうとうあんな風になりまして。」初めは少し気が晴れた様子で、深い息をして言い出したのが、しまいにはまた悲しげになって、とうとうハンカチイフを出して目を押えた。「とうとうあんな風になりまして」と、二度目に繰り返す声は、聞き取りにくいほど微かであった。
「なりゆきを考えて見ますと悲しゅうございます」と、夫人は病気の顛末を話した。
プラトンは、多くも少くもない、中等の俸給を貰っている役人の常として、これまで始終控え目勝ちに、平穏な生活をしていた。困窮もしないが、贅沢にも陥いらない。心に明るい印象を受けず、深い感じも起さずに、灰色の歓喜、灰色の苦労から成り立った灰色の生活をしていた。この人の幸福は無智な、狭隘な人物の幸福であった。この人は善良なるハアトを持っていた。しかしその鼓動は余り高まることが無い。それに家族以外の事には感動しないハアトなのである。この人の精神上の地平線は、自分が参事官の下級から上級まで歴《へ》昇《のぼ》った地方庁と、骨牌《かるた》遊びをする、緑色の切れの掛けてある卓を中心にした倶《く》楽《ら》部《ぶ》との外に出でない。一切の事物が平穏に経過して行く。たとえば軌道の上を走るような生活である。極《き》まった年限を勤めるごとに、きちんと進級する。一度は珍らしくスタニスラウスの三等勲章を貰ったこともある。家族が殖えると同時に、俸給が増す。
高等学校に入れてある倅《せがれ》は、いい成績も得ないが、それだと云って、進歩の悪い方でもない。足で蹴られる小桶のように、下の級から上の級へ押しやられている。娘ニノチュカはだんだん大きくなる。カナリア鳥は囀《さえず》る。イイスタア祭になると、賞与を貰う。
春夏秋冬が交《かわ》るがわる過ぎて、幾年にかなった。相応な年配になると、病気が出る。痔が起る。頭が禿げる。顔の皺がだんだん繁くなる。とうとうプラトンは五十八歳になった。
プラトンは年齢の割には丈夫である。外の人はまだ下級参事官でいるうちに、標本のように干からびたり、考古学の参考品のような形になったりする。プラトンばかりは、奥さんの詞で言えば、「まだ御用に立つ男」である。当人ももう生涯が残り少なくなって、ほどなく窮屈な箱に入れて、最終の届先へやられようと云う立場に到着するはずでありながら、そんな事は思わずに、未来に望みを属《ぞく》していた。
市へ新しい地方長官が来た。公民の進歩派が多年発行したがっている新聞紙を、これまでの長官は抑えて出させずにいたのに、新長官は一般のために有益だと云って、出させることにした。多年の希望は実現せられた。市は始めて輿論の機関を得た。題号はポシェホンスキイ・ヘロルドと云うのである。
地方には副長官というものがある。しかし現にこの職にいる人は断えず旅行している。冬はクリムにいる。夏はカウカズスにいる。旅行していない時はきっと病気である。そこで新聞紙の検閲官の役を、最古参の参事官即ちプラトンが担任することになった。
さて発行認許がいよいよ下がったと云うことになると、市中のものが讙《かん》呼《こ》して喜んだ。道に逢うものが祝賀を言い交している。これからは市の生活が一変するだろうと思ったのである。大通りの家に金めっきの看板が掛かって、それに「ヘロルド編輯局」と書いてある。初号を出す時には、例の如く会堂でお祭をした。新聞に関係のある人達が大勢集って祈祷をして、長官の万歳を唱えた。編輯長以下新聞社員一同これに和した。プラトンも臨席していたが、誰も構ってくれないので、すこぶる不平であった。長官が演説をした。華やかな、山のある演説であったので、一同拍手して、心から敬服した。プラトンも拍手した。しかしジアコヌスの背後《うしろ》で、余り際立たないように、いわば二本指を打ち合せるような拍手をしたのである。それは拍手なんぞをして、長官が喜ぶか、おこるか、分からなかったからである。一体長官がこの演説のような趣意の事を言ったのを、プラトンはこれまで聞いたことがない。長官はこう云った。新聞紙は一の権威である。従来他の地方で発行している新聞紙が、社会に利益を与えたことは非常である。まずこんな風に称讃するのを、プラトンは聞いていて、なるほど「記者」諸君というものは、そんなにえらいものか、なかんずく編輯長ミハイル・イワノウィッチュ君はそんな大人物かと、転《うた》た景慕の念に勝《た》えなかった。さてこのヘロルド新聞も従来他の地方に行われている、有益なる新聞と比《ひ》肩《けん》するに至らんことを希望すると云うとき、ふいとプラトンが気が附くと、長官は自分の顔を見ていたのである。プラトンは慌てて、何か自分の服装に間違った処でもないかと、自分の体を偸《ぬす》み視たが、なんにも間違ってはいない。そのうち長官の考えが分かった。長官は突然きっとプラトンと顔を見合せて、こう云った。
「最後に一言附け加えて置きたい事がある。とかく我国では、検閲官は新聞紙の敵だと云う想像が伝播せられている。諸君。かくの如きは時代精神と背《はい》馳《ち》しています。既に過去の観念に属しています。すべての進歩的思想の人が、新聞紙の良友であるが如く、検閲官もまた新聞紙の良友であるはずであります。わたくしは特にプラトン・アレクセエウィッチュに望んで置きます。君は必ずや事を解する検閲官となられて、世間から圧制家をもって目せられるようなことの無いことを望んで置きます。」
「決してさような事はいたしません。閣下の御趣意通りにいたします。」慌てて、汗を流しているプラトンは、震う声でこう云うと同時に突然両眼に涙を浮べた。これは長官の仰せの通りに、新聞紙の良友になろうと、熱心に思って、何か分からないながら、称讃に価するような、ある衝動に、突然襲われて、その劇烈な感情の発作の結果として、目に涙が湧いたのであった。
長官は演説の結末にこう云った。「諸君。どうぞ相互に良友となって、助け合って、手を携えて、真理の光明に向って進まれたいものです。どうぞ極端に奔《はし》られないようにいたしたいものです。いかなる企業も、極端に奔れば有害になるのでありますが、なかんずく印刷せられたる言論ほど、極端に奔って危険を生ずるものはありますまい。」こう云って置いて、一同に会釈をして、門へ出て、馬車に乗って行ってしまった。あとに残った新聞紙の良友一同は、長官の進歩思想、人道思想に感激して已《や》まなかった。
それから午餐会があった。我国では儀式とか祭とか葬いとか云えば、午餐会がなくてはならないからである。会は賑かで、そうぞうしく、愉快であった。いろいろの演説があった。なるたけ人道的に立論したいと、互に競うらしかった。料理の品数が多くて、果てしがないように思われた。
新たに生れた新聞の代表者達が、プラトンを特別に待遇した。プラトンは間もなく、さっき式場で万歳を唱えた時、自分が除けものの様に扱われたことを忘れた。プラトンが席の一方には編輯長ミハイルが据《す》わっている。他の一方には発行を請け負った書《しよ》肆《し》の主人がいる。書肆はかたわら立派な果物缶詰類の店を出している、進歩思想の商人である。この二人がプラトンに種々の葡萄酒や焼酎を勧めて、プラトンは応接に遑《いとま》あらずと云う工合である。酒には一々新聞の欄になぞらえた仇名が附けてある。并《なみ》の焼酎を「社説」と云う。コニャックを「電報」と云う。葡萄酒を「外国通信」と云うなどの類である。
「どうです、プラトン・アレクセエウィッチュさん、最近の通信をもう一杯」と編輯長が侑《すす》める。
「もういけません。目が廻りそうです。」
「そんならこの『雑報』の方にしましょう。どうです。これなら、強過ぎはしないでしょう。」
大勢の人の声が入り乱れて聞えるので、プラトンは気がぼうっとなった。目の前には「記者」誰彼の顔が見えたり見えなくなったりする。プラトンはすべての新聞社員を、通信員、校正掛まで皆記者だと思っている。どれもどれも引き合せられはしたが、何の誰やら、どんな為《し》事《ごと》をする人やら、こんがらかって分からなくなっているのである。
プラトンは一人の男に問うた。「あなたのお受持ちはなんでしたっけね。外国通信でしたね。」
隣の編輯長が代りに答える。「違いますよ。隅にいる先生は社説を受け持っているのです。」
「外国通信の方はどなたでしたっけね。」
「それ、あそこの椅子に居眠りをしているでしょう。あの男です」と、編輯長が云った。
「本当のロシア人ですか」と、プラトンは書肆の耳に口を寄せて聞いた。
「そうですとも。正真正銘のロシア人です。」書肆は笑いながら答えて、同時に一杯の「近事片々」を侑《すす》めた。近事片々とはリキョオルの事である。
新聞社員はすべてプラトンに親しくした。どの人も大ぶ飲んでいる。外国通信記者がプラトンの傍へ来て腰を掛けて、プラトンの膝を叩いて、こう云った。
「一体外国には盛んな事がありますね。」
「あなたは外国においでの事がありましたか。」
「そんな事はどうでもいいです。行って見るに及ぶもんですか。要するに外国での出来事は模範です。活きた歴史です。」叫ぶようにこう云って、人さし指で空中を掻き廻して、気味悪く光る目で、遠い処を見詰めている。歴史その物の蘊《うん》奥《おう》を見てでもいるように。
「そうですとも。そうですとも。」プラトンはしきりに合点合点をしてこう云った。そして非常に愉快に感じた。なんだか自分が長官にでもなったようである。新聞社がひどく自分を尊崇してくれるようである。自分が手を出して補助してやる、この新聞事業というものが、ひどく重大なもののように思われるのである。
演説がしきりにある。その声が次第に大きくなる。文章としての組立が次第にだらしなくなる。しまいにはとうとう意味のない饒舌になる。ナイフやフォオクの皿に当る音が次第に高くなる。瓶の栓を抜く音がする。烟草《たばこ》の烟が客の頭の上に棚引く。
外国通信記者がプラトン・アレクセエウィツチュのために頌徳演説をした。一同プラトンの処へ、杯を打ち合せに来た。そして万歳を唱えた。ただ社説記者ポトリャソウスキイだけは、顔を蹙《しか》めて隅の方に据わったまま、起って杯を打ち合せに来ようともしない。その上ちょっと編輯長を睨んで、少し脣を動かした。それから一同の騒ぎが鎮まるのを待って、起ち上がって、波を打った髪を額から背後《うしろ》へ掻き上げて「理想」の詩というものを歌い出した。
「自由の生みし理想なり。
よしや鎖に繋ぐとも、
理想は死なじ、とこしえに。」
社説記者は歌い罷《や》んで、「理想は死なない。決して死なないぞ。諸君」と云って、一人万歳を叫んだ。
これには誰も異議はない。そこで万歳に和して、また杯を打ち合せた。プラトンの処へも打ち合せに来た。その時社説記者は、プラトンの傍へずっと寄って来て、顔を蹙《しか》めてこう云った。
「おい。ホレエショ君。(シェエクスピイアのハムレット中の人物。)君は厭に黙り込んでいるね。君は我輩共と飲んでだけはくれる。だがね、それでは僕は満足しない。一つ演説を願おう。君の信仰箇条を打ち明け給え。君の Profession de foi をね。」
「何を言えと云うのです。」
「君のプログラムさ。我輩共の新聞に対して、君はどんな態度を取ろうと思っているのだ。僕は頂天立地的の好漢だ。厭に黙っている奴は嫌いだ。おい。どうだね。」
「やり給え。やり給え、プラトン・アレクセエウィッチュ君。」
「東西、東西。」
プラトンは酒を一ぱい注がれた杯を持って起った。手が震うので、注いである「外国通信」が翻《こぼ》れた。頭が変になっている。生れてから演説というものをしたことがないので、なんと云っていいか分からない。
社説記者はプラトンが、まだみんなが黙らないので、口を開かないのだと思って、雷のような大声で「東西」と叫んだ。
「東西。」
「諸君」とだけは、プラトンがまず云って、杯を持った手を少し前へ出した。「わたくしは」と続けたが、さあ、あとをなんと云っていいか分からなくなった。とうとうこう云った。「わたくしは当新聞の編輯長ミハイル・イワノウィッチュ君に対して、将来永く親交を継続いたそうと存じております。随《したがつ》て当新聞に対して、好意を有するつもりであります。しかして。えへん。しかして。諸君。わたくしは編輯長と当新聞とのために祝して、この杯を傾けます。」
社説記者は大声で叫んだ。「なんだ。まるで内容が無いじゃないか。おい。そんなら僕の方から問うてやる。言論は不朽だと詩人が云っているなあ。君はそれを信ずるか、どうだ。それを我輩共に対して明言してくれ給え。言を左右に托せないで、はっきりと云ってくれ給え。」
「不朽です、不朽です」と、プラトンは同意して、すぐに腰を落した。なんだか体が下へ引っ張られるようで、足が鉛のようでならなかったのである。
しかし腰を落したかと思うとたんに、大勢が来て掴まえた。そして胴上げをした。その時のプラトンの心持は、忽然羽が生えて、空中を飛んでいるようであった。熱した体に、涼しい風が当って、いい工合に寝入られるようであった。
「諸君。先生は御安眠です。」プラトンの体を下に置く時、こう叫んだのは、やはり社説記者ポトリャソウスキイであった。
「そんなら校正室のソファの上に寝かしてやり給え」と云ったのは、書肆であった。
プラトンはソファへ担がれて行きながら、「不朽です、不朽です」と、目を瞑《ねむ》って囁いていたが、ソファの上に置かれる時、手で遮るような挙動をした。
最初は旨く行った。プラトンは一年三百ルウブルの増俸を貰って、新聞というものは結構なものだと思っていた。
「これで毎月二十五ルウブルはある。ペチャアがペテルブルクで修行するだけの入費はこれから出る。」こう思って喜んでいる。編輯長も書肆の主人もいい人である。時々プラトンの内を訪問する。プラトンも先方へ訪問に行く。編輯長の母がグラフィラ夫人と近附きになって、仲がいい。どちらもおとなしい、上品な貴婦人で、いつも黒い服を着て、同じような髪の束ねかたをしている。編輯長の内には、死んだ兄の娘で、リュボチュカというのを育てている。それがプラトンの娘のニノチュカと年配が同じぐらいなので、これも検閲と新聞とを、結び附ける鎖の一つとなった。
編輯長はなかなか気の利いた男なので、プラトンは次第に尊敬するようになった。殊に次の事実があってからは、一層尊敬するのである。それはなんだと云うと、ある時、編輯長はいつもの通り原稿を纏めて持って来て、こう云った。
「どうでしょう。こいつはあんまりひどいようだから、除《の》けましょうか。」
「どんな記事ですか。」こう云って、プラトンは少し不安な顔をして、ペンを赤インキの壺に挿し込んだ。
「なんと云うこともないですが、わたくしだってごたごたの起るような事は厭ですからなあ。妙な檄文のようなものですよ。」
「ははあ。そんなら除けたがいいでしょう。よくそう云って下すった。どうもわたくしは無経験なもんですから。どうかこれからも気を附けて下さい。」こう云って、赤インキで消して、欄外へ「不認可」と大きく書いて、それへ二重圏点を附けた。
それからは編輯長が自身に原稿を持って来ると、こんな工合に処置することになっている。
「急ぎの原稿ですね。なんにもいかがわしいものはありますまいね。」
「ありません。」
「大丈夫ですね。」こう念を押して、弛《ゆる》んで下へ落ち掛かった目金の上から、編輯長の顔を見る。
「ないですよ。」しっかりした声で答える。
プラトンは大きい字で「認可」と書いて渡してしまう。それからこう云う。
「どうもわたくしも一々読んで見ることは出来ませんからな。一体本職の方も相応に急がしいのです。とても時間がないのです。それにあなただから、正直を言いますが、わたくしはもう大ぶ年が寄ったものですから、何か少し考えると、すぐに頭痛がしましてね。これで昔は多少教育も受けたのですが、もう何もかもすっかり忘れてしまいました。どうもこのごろは健忘とでも云う様な事があって、上役に挨拶をする時、間違った事を言ってなりません。こないだも皇族にお目通りをして、閣下と云ってしまったですなあ。皇族ですよ。あはは、なんだか、折々こう精神錯乱と云うような風になるのですよ。それに目もだんだん悪くなります。新聞なんぞは、こう云う風に、遠い処へ持って行かないと、読めないですなあ。そうすると手が草臥《くたび》れるです。一つ見台のようなものを拵《こしら》えさせて、その上に置いて読んで見ようかとも思うのです。あの、それ、音楽家が譜を載せるようなものですなあ。」
「楽譜架ですか。」
「それです、それです。」
こんな風な交際が二箇月ばかりも続いた。さて第一の衝突は外交問題で生じた。それはこんな工合であった。
「もしもし。プラトン・アレクセエウィッチュさんですか。お呼びになりましたか。」
「そうです、そうです。」電話口でこう云いながら、心配げな顔をしている。
「何か御命令がございますか。」
「なに。わたくしはあなたに命令をいたすことは出来ないですが、少し願いたい事があるのです。どうもわたくしはよく忘れてなりませんが、あなたの方で外交の事を書いているのは。」
「クリユキンです。」
「ロシアの臣民ですな。」
「何事ですか。」
「いいえ、なに。格別な事ではありません。無論お呼び立て申したのは、少しわけがあるのですが、どうもどう申してよろしいか。とにかく、御交際は御交際、公務は公務といたさなくてはなりませんが。」
「そこでどうしたとおっしゃるのですか。要点だけはちょっとお示し下さらなくては、わたくしの方でも判断が附きません。」
「実はそのクリユキンさんですか、その方がいつも革命革命と云う事をお書きになるですな。なんだかこう、その革命と云うものを掴まえて、引っ張って来たいと云う風に見えるですな。」
「ははあ。いや。それは、お考え違いですよ。」顔に驚きの表情をして微笑んでいる。
「いや。そうでないです。わたくしの申すことは間違ってはいないようですがなあ。一体これはあなたに申すはずではないのですが、実はわたくしが読んで見て、発見いたしたのではありません。あるその筋の。」
「ふん。なる、なる。それはクリユキンの文章に革命と云う詞《ことば》があるかも知れませんが、あったって差支えなさそうなものですがなあ。フランス革命と云うような、歴史上の事実は、誰だって言いも書きもしますからなあ。どの新聞でも、雑誌でも御覧になるがいい。革命と云う字のまるで書いてないのは、一号だってありますまい。何も差支えなさそうなものですが。」
「さあ。差支えないと云えば、ないようなものですが、どうでしょう、よさせるわけには行きませんかなあ。お互のためですが。実は今見ている原稿にも、革命何事ぞ、顧みずして可なりと云うような文句があるです。クリユキンという先生は、なぜ不用心な物の言いようをするのでしょう。」手に持っている原稿を振り廻してこう云っている。
二人はしばらく言い争っていたが、なかなか妥協が出来なかった。しまいにプラトンがこう云った。
「なるほど、革命というものが事実有って見れば、その事をまるで言わないわけには行かないかも知れませんね。しかし老人が折り入って願うのですから、どうにか御都合は出来ますまいかなあ。つまりなんとか別な詞で言うわけには行きますまいかなあ。」
こう云い出したので、この対話の終りには、将来革命という詞の代りに、カタストロフェという詞を使わせようと相談した。この詞も万已《や》むを得ざる場合に限って使わせようと云うのである。
さてこの対話のあとで、双方に多少の不満足が残った。交際が次第に冷かになった。終《しまい》には毎日衝突をする。誤解が重なる。とうとう本物のカタストロフェが来たのである。
「どうも困りますなあ。なぜ外国通信の欄のフランスの部だけ全文をお削りになったのですか。」
「いや。もういい加減にして貰いたいですからなあ。」説明を拒むような、不愉快な口吻である。
「どうも全文削除となって見ると、理由が伺いたいのですが。」
「全文悪いです。」
「どう悪いですか。」
「実は昨日フランスの記事で。いや。つまり、よくないです。」
「それはいけません。」
「いや。わたくしはこうやります。一体フランスなんぞはどうなったっていいじゃありませんか。フランスのお蔭で、ろくな事はありゃあしない。」不愉快げに横に向いて云った。
「どうも分かりませんな。」
「わたくしだって分かりません。」強情らしく云った。
それから後は、フランスの事はことごとく削除してしまう。なぜかと云っても、説明はしない。ある日編輯長が云った。
「どうも已むを得ませんから、その筋へ上申して見ようかと思います。御職権外の事をなさるようですから。」詞に廉《かど》を立てて云ったのである。
「しかしあなただってわたくしがまるで理由なしに、こんな事をし出したのだとは思わないでしょうが。」
「それは御弁解が出来るなら、その筋でなさったらいいでしょう。」
「わたくしが何もフランスにしろ、外の国にしろ、余《よ》所《そ》の国に対して、どうと云う考えのないことは、あなただってお分かりでしょうがなあ。」
大ぶ話の調子が変っているので、夫人は戸の外で立聞きをしている。そしてこう思っている。「なんだって、このごろは二人で喧嘩ばかりしているのだろう。変な事になったものだ。」とうとう夫人は戸を開けて這入った。
「あなた、なぜそんなに宅をお困らせなさいますの。こんな年寄りを。」
「いいよいいよ、グラッシャア。お前なんぞが出なくてもいいよ。ほんにほんにおれは気でも違わなければいいが。」
「ねえ、あなた。ミハイル・イワノウィッチュさん。宅は新聞の事で、随分色々な目に逢っていますのですから、どうぞあなたまでが、そんなにおっしゃらないで。」
「いいえ、奥さん、どうもそれは違いますなあ。わたくしが御主人をおいじめ申すのではありません。御主人がわたくし共をおいじめになりますので。」
「あら。そんな事をおっしゃったって、わたくし本当だとは思いません。蠅一匹殺さない宅の事でございますもの。」
プラトンの出る地方庁の事務室にも、自宅にも電話が掛かっている。役所に出ていても、内にいても、ちりんちりんと鈴が鳴っては、電話口に呼び出されるのである。
「もしもし。あんな記事をなぜ出させるのですか。」
「あなたはどなたです。」
「鉄道課長です。」
「なんとおっしゃるのですか。」
「なぜ新聞にあんな記事をお出させになるかと申すので。」
プラトンは受話器を耳に当てたままで黙っている。その顔附きはまるで途方にくれたようである。
「いずれその筋に申出ます。さようなら。」電話は切れた。
プラトンは奮然として受話器を鉤《かぎ》に掛けて、席に復《かえ》った。それから五分もたたないうちに、またちりんちりんと鳴る。
「どなたです。」
「知事だがね。」
プラトンはびっくりして顔が凝《こ》り固まったようになった。それから電話口に向いてお辞儀をして、一声聞えるごとに、「御意で」「御意で」と云っている。「いえ。存じませんでした。御意で。どうぞ。閣下、御免下さりますように。」顔の表情が次第に途方に暮れたようになって、鼻の頭に大きな汗の玉が出ている。
電話は切れた。「やれやれ。増俸も何もあったものではない。こんな目に逢わずに済むことなら、こっちから三百ルウブル出してもいい。」
ある日編輯長がプラトンの事務室に、慌ただしく這入って来て、非常に不平な様子で、議論をし掛けた。
「あんまりひどいじゃありませんか。どう云うお考えだか、わたくしにはまるで分かりませんなあ。なぜあの排水工事の記事をお削りになったのです。」
この記事が削除せられたには、決して理由がないことはなかった。それはこうである。先ごろ新聞に市の経理の記事が出た。プラトンが検閲して通過させたのである。ところが、その中に市の経理の失体を指摘していて、それが誤謬の事実にもとづいた立論であった。そこで市長が、自分を侮辱したものと認めて、長官に訴えた。長官はプラトンを呼んで譴《けん》責《せき》した。「どうも個人攻撃をやらせてはいかんなあ。あんな当てこすりをするということがあるものか。君は読んで見て分からんのか。それでは見ても見ないでも」云々と云う小言であった。それからと云うものは、プラトンは一しょう懸命に「個人攻撃」を通過させまいと努めている。しかしどこまでが言論の自由で、どこからが個人攻撃になると云う境界を極めるのが、むずかしくてならないのである。そこでプラトンは編輯長にこう云った。
「どうも市長の事のある記事は通過させられないのです。侮辱だと云われますからなあ。こっちがひどい目に逢うです。いつかもあなたに話したはずですが。」
「でもこの記事には少しも市長を侮辱している処はないじゃありませんか。排水工事の事が言ってあるだけで。」
「一体排水工事とはどんな物ですかねえ。」こう云って、記事を朗読し出した。市内が一般に不潔である。汚物が堆積して、土地に浸潤する。死亡比例が高い。ざっとこんな事が書いてあって、その結論として、久しく委員の手に附托せられたままになっている排水工事案を解決して貰いたいと云っている。朗読を聞いていた編輯長が云った。
「皆事実じゃありませんか。」
「いいえ、事実でないです。」プラトンは臆病な心から、こんな記事を見ると、お上に対して喧嘩を買うのだ、虚偽の事を書いて、その喧嘩の種にするのだとしか思われなくなっているのである。プラトンがためには、市は外の市より清潔で、伝染病の巣窟ではないのである。
「いや。どうもいたし方がありません。その筋へお話をしましょう。あまりひどいですから。」
「そんなら御勝手に。」
編輯長は冷淡に会釈をして、原稿を引っ攫《つか》んで行ってしまった。一時間半ほどたつと、また非常に不平らしい顔をして、急いで這入って来た。
「今市長の処へ行って、全文を読んで貰ったのです。侮辱なんぞにはなっていないと云うのです。これここに、差支えなしと書いて貰って来たですが。」
「市長が差支えなくても、わたくしが差支えがあるです。」プラトンは強情にこう答えた。編輯長はまた原稿を引っ掴んで行った。それから二十分ほどたつと、電話がちりんちりんと鳴った。
「どなたですか。」
「知事だがなあ。なぜ排水工事の記事を削除するのか。」
プラトンの顔は真っ赤になった。そして目をきょろきょろさせて、救いを求めるように、あたりを見廻した。それから間もなく真っ蒼になった。そして先ごろ宴会で胴上げをせられたあとでしたような手附きをした。
「どうも、その、市の事があまり悪く書き過ぎてありますので。」微かな、不《ふ》慥《たし》かな声である。
「なに。ちっとも聞えない。な―ぜ―は―い―す―い―こ―う―じ―の―き―じ―を―つ―う―か―さ―せ―な―い―か―と云うのだがなあ。」
「余り悪く、実際より悪く書いてありますから。」
「なに。もっと大きな声で言わんか。」
プラトンは前の詞を今一度繰り返した。そして長官の返事を待っている。受話器を持っている手は震える。鼻の頭には大きな汗の玉が出ている。顔の表情には非常な恐怖が見えている。長官はなんと云ったか知らないが、定めてひどく恐れ入らせられたことであろう。受話器を鉤に掛けた時には、常のように椅子へ復《かえ》ることが出来ないで、重い荷を負《しよ》わせられて、力の抜けた人のように、椅子の上に倒れた。そして目を瞑《ねむ》って、長い間じっとしていた。ただ受話器を持った左の手がぶるぶる慄えている。そして右の目の筋肉が痙《けい》攣《れん》を起している。
プラトンは水を一ぱい飲んだ。しかし全身の疲労と不安とは恢復しない。脈が結《けつ》代《たい》する。外貌は定めてよほどあぶなく見えたであろう。その室に這入って来た下級参事官は、もうこの人も長くはない。この位置が明くなと思ったそうである。どうも気分が悪くて事務が執れないと云って、辻馬車に乗って帰った。午《ひる》食《めし》は食べたくないと云って食わなかった。晩方印刷所から校正刷を持った小僧が来た時には、プラトンは少しも見ずに、どの紙にも認可と書いて渡した。そして夫人にこう云った。
「グラッシャアや。どうもおれはもう駄目らしいよ。」
電話の鈴《りん》が鳴るたびに、プラトンは全身を震わせて、一種の恐怖が熱いもののように心《しん》の臓《ぞう》に迫って来るのを感じた。そして床に起き直って耳を欹《そばだ》てて聞いている。毒々しい声が「なぜ通過させないのだ」「どうして通過させないのだ」と云うように思われる。それから人事不省になっていると、誰やら受話器を持って来て、無理に耳へ押し当てる。そうすると、こん度は意地の悪い外国通信記者の声がする。これは二三日前に会談をしたのである。それがこんな事を囁く。「どうですか。念のため今一度承知して置きたいのですがな。どうしてもフランスの記事を一切通過させないとおっしゃるのですか。」とうとうしまいには、平生仲善しの衛生課長が幻のように見えて、顔をくしゃくしゃにして叫んでいる。
「どうも個人攻撃はいかん。我輩の監督している汚物排除はよく行われているのに、毎号新聞で悪く言ってある。なぜあんな記事を通過させるのですか。どうもその筋へ言わんでは済まされんです。怪しからん。」
そのうち体の中で不思議な感じがした。何物かがちぎれて、ちくちく引き吊って、ぶるぶる震えている。それから傍の卓の上にあるコップの水を取って飲もうとすると、右の手が言うことを聞かなくなっていた。まるで手ではなくて外の物のようであった。
プラトンはびっくりして、「グラッシャア」と一声呼んだ。その声が小さくて、咳枯《しやが》れていて、別人の声のようであった。夫人は隔たった室にいたので、この声が聞えなかった。小さいニノチュカがゴム毬を抱いて走って来て、すずしい声で云った。
「お父うさん。何御用。お母あさんを呼びましょうか。」
夫人が室に這入った時には、プラトンは泣いていた。そして左の手と足とが利かなくなって、右の目が見えなくなったのを、容易に打ち明けて言わなかった。
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夫人の話の済んだ時は二時が鳴っていた。
「さあ。もうそろそろ行かなくちゃあ。」学士がこう云った。
「もう目を醒ましているかも知れません。ちょっと見てまいりましょう。」夫人は泣き出しそうな声でこう云って、病室へ行く。
「どれ。行って見ましょう。」学士は夫人のあとに附いて行く。
病室に這入って見ると、プラトンはじっとして、両眼を大きく《みひら》いて、意味もなく、しかも苦しげに、聖像の方を見詰めていた。
笑 アルツィバーシェフ
窓の前には広い畑が見えている。赤みがかった褐色と、緑と、黒との筋が並んで走っていて、ずっと遠い所になると、それが入り乱れて、しおらしい、におやかな模様のようになっている。この景色には多くの光と、空気と、際限のない遠さとがある。それでこれを見ていると誰でも自分の狭い、小さい、重くろしい体が窮屈に思われて来るのである。
医学士は窓に立って、畑を眺めていて、「あれを見るがいい」と思った。早く、軽く、あちらへ飛んで行く鳥を見たのである。そして「飛んで行くな」と思った。鳥を見る方が畑を見るより好きなのである。学士は青々とした遠い果で、鳥がだんだん小さくなって消えてしまうのを、顔を蹙《しか》めて見ていて、自ら慰めるように、こう思った。「どうせ遁《のが》れっこはないよ。ここで死ななければよそで死ぬるのだ。死ななくてはならない。」
心よげに緑いろに萌えている畑を見れば、心持がとうとうあくまで哀れになって来る。「これはいつまでもこんなでいるのだ。古い古い昔からの事だ。冢《つか》穴《あな》の入口でも、自然は永遠に美しく輝いているという詞《ことば》があったっけ。平凡な話だ。馬鹿な。こっちとらはもうそんな事を言うような、幼稚な人間ではない。そんな事はどうでもいい。おれが物を考えても、考えなくても、どうでもいい」と考えて、学士は痙攣状に顔をくしゃくしゃさせて、頭を右左にゆさぶって、窓に顔を背けて、ぼんやりして部屋の白壁を見詰めていた。
頭の中には、ちょうど濁水から泡が水面に浮き出て、はじけて、八方へ散らばってしまうように、考えが出て来る。近ごろになってこういうことがたびたびある。ことに「今日でおれは六十五になる、もう死ぬるのに間もあるまい」と思った、あの誕生日のころから、こんなことのあるのがたびたびになって来た。どうせいつかは死ぬる刹那が来るとは、昔から動悸をさせながら、思っていたのだが、十四日前に病気をしてから、こう思うのが一層切になった。「虚脱になる一刹那がきっと来る。その刹那から手前の方が生活だ。おれが存在している。それから向うが無だ。真に絶待的の無だろうか。そんなはずはない。そんな物は決してない。何か誤算がある。もし果して絶待的の無があるとすれば、実に恐るべき事だ。」こうは思うものの、内心では決して誤算のない事を承知している。例の恐るべき、魂の消えるようなある物がちょうど今始まりかかっているのだということを承知している。そして頭や、胸や、胃が痛んだり、手や足がいつもより力がなかったりするたびに、学士は今死ぬるのだなと思うことを禁じ得ない。死ぬるということは非常に簡単なことだ。疑う余地のないことだ。そしてそれゆえに恐るべき事である。
学士は平生書物を気を附けては読まない流儀なのに、ある時ある書物の中で、ふいとこういう事を見出した。自然の事物は多様多趣ではあるが、早いか晩《おそ》いか、一度はその事物と同一の Constellation が生じて来なくてはならない。そして同一の物体が現出しなくてはならない。それのみではない。その周囲の万般の状況も同一にならなくてはならないと云うのである。それを読んで、ちょっとの間は気が楽になったようであったが、間もなく恐ろしい苦痛を感じて来た。ほとんど気も狂うばかりであった。
「へん。湊《そう》合《ごう》がなんだ。天《あめ》が下に新しい事は決してない。ふん。おれの前にあるような永遠がおれの背後にもあるということは、おれもたしかに知っている。言ってみれば、おれというものはある事物の、昔あった湊合の繰り返しに過ぎない。そのくせその昔の湊合は、おれは知らない。言ってみればおれということはなんにもならない。ただ湊合のいかんにあるのだ。しかしどうしてそうなるのだろう。おれの性命がどれだけ重要であるか、どれだけせつないか、どれだけ美しいかということを、おれは感じているではないか。おれが視たり、聴いたり、嗅いだりするものは、皆おれが視るから、聴くから、嗅ぐから、おれのために存在しているのである。おれが目、耳、鼻を持っているから、おれのために存在しているのである。そうして見れば、おれは無窮である。絶大である。おれの自我の中には万物が位を占めている。その上におれは苦をも受けているのだ。そこでその湊合がなんだ。馬鹿な。湊合なんという奴がおれになんになるものか。ただ昔あった事物の繰り返しに過ぎないということは、考えて見てもたまらないわけだ。」
学士は未来世に出て来るはずの想像的人物、自分と全く同じであるはずの想像的人物を思い浮べて見て、それをひどく憎んだ。
「そいつはきっと出て来るに違いない。人間の思想でさえ繰り返されるではないか。人間そのものも繰り返されるに違いない。それにおれの思想、おれの苦痛はどうでもいいのだ。なぜというにおれ以外の物体の幾百万かがそれを同じように考えたり、感じたりするからである。難有《ありがた》いしあわせだ。勝手にしやがれ。」
学士の心理的状態は一日一日と悪くなった。夜になると、それが幻視錯覚になって、とうとうしまいには魘《えん》夢《む》になって身を苦しめる。死や、葬いや、墓の下の夢ばかり見る。たまにはいつもと違って、生きながら埋められた夢を見る。昼の間はただ一つの写象に支配せられている。それは「おれは壊れる」という写象である。病院の梯子段を昇れば息が切れる。立ち上がったり、しゃがんだりするたびに咳が出る。それを自分の壊れる兆《ちよう》だと思うのである。そんなことをいつでも思っているので、夜寝られなくなる。それを死の前兆だと思う。
ちょうど昨晩も少しも寝られなかった。そこで頭のなかは、重くろしい、煙のような、酒の酔のような状態になっている。一晩寝られもしないのに、温い、ねばねばした床の中に横わっていて、近所の癲狂患者の泣いたり、笑ったりする声の聞えるのを聞いているうちに、頭の中に浮んで来た考えは実に気味が悪かった。そこであちこち寝返りをして、自分から自分を逃げ出させようとした。自分が壊れるのなんのということを、ちっとも知ってはいないと思って見ようとしたが、それが出来なかった。かの思想が消えれば、この思想が出て来る。それが寝室の白壁の上にはっきり見えて来る。しまいにはどうしても、ちょうど自分の忘れようと思うことを考えなくてはならないようになって来る。ほとんど上手のかく絵のように、空想の中に、分壊作用がはっきりと画《えが》かれる。体を腐らせて汁の出るようにする作用が画かれる。自分の体の膿《うみ》を吸って太った蛆《うじ》の白いのがうようよ動いているのが見える。学士は平生から爬《は》う虫が嫌いである。あの蛆がおれの口に、目に、鼻に這い入むだろうと思って見る。学士はこの時部屋じゅう響き渡るような声で、「ええ、その時はおれには感じはないのだ」と叫ぶ。学士は大きい声を持っている。
看病人が戸を開けて、覗いて見て、また戸を締めて行った。
「浮世はこうしたものだ。先生、いろんな患者をいじくり廻したあげくに、御自分が参ってしまったのだな」と、看病人は思ったが、そう思って見ると、自分も心持が悪いので、わざとさも愉快気な顔をして、看病人長の所へ告げ口をしに出掛けるのである。「先生、御自分が参ってしまったようですよ」などと云うつもりである。
看病人の締めた戸がひどい音をさせた。学士は鼻目金越しに戸の方を見て、「なんだ、何事が出来たのだ」と、腹立たしげに問うた。戸は返事をしない。そこですこぶる激した様子で、戸の所へ歩いて行って、戸を開けて、廊下に出て、梯子を降りて、ある病室に這入った。そこは昨晩新しく入院した患者のいる所である。一体もっと早く見てやらなくてはならないのだが、今まで打ちやって置いたのである。今行くのも義務心から行くのではない。自分の部屋に独りでいるのがいたたまらなくなったからである。
患者は黄いろい病衣に、同じ色の患者用の鳥打帽を被って、床の上に寝ていて、やはり当り前の人間のように鼻をかんでいた。入院患者は自分の持って来た衣類を着ていてもいいことになっているが、この患者は患者用の物に着換えたのである。学士は不確かな足附きで、そっと這入った。患者はその顔を面白げに、愛嬌よく眺めて、「今日は、あなたが医長さんですね」と云った。
「今日は。おれが医長だよ」と学士が云った。
「初めてお目にかかります。さあ、どうぞお掛け下さいまし。」
学士は椅子に腰をかけて、何か考える様子で、病室の飾りのない鼠壁を眺めて、それから患者の病衣を見て云った。「よく寝られたかい。どうだね。」
「寝られましたとも。寝られないはずがございません。人間という奴は寝なくてはならないのでしょう。わたくしなんぞはいつでもよく寝ますよ。」
学士は何か考えて見た。「ふん。でもいどころが変ると寝られないこともある。それに昨晩は随分方々でどなっていたからな。」
「そうでしたか。わたくしにはちっとも聞えませんでした。為《し》合《あわ》せに耳が遠いものですから。耳の遠いなんぞも時々は為《し》合《あわ》せになることもありますよ」と云って、声高く笑った。
学士は機械的に答えた。「そうさ。時々はそんなこともあるだろう。」
患者は右の手の甲で鼻柱をこすった。そして問うた。「先生、煙草を上がりますか。」
「飲まない。」
「それでは致し方がございません。実はもし紙巻を持っていらっしゃるなら、一本頂戴しようと思ったのです。」
「病室内では喫煙は禁じてあるのだ。言い聞かせてあるはずだが。」
「そうでしたか。どうも忘れてなりません。まだ病院に慣れないものですから」と、患者は再び笑った。
しばらくは二人共黙っていた。
窓は随分細かい格子にしてある。それでも部屋へは一ぱいに日が差し込んでいるので、外の病室のように陰気ではなくて、晴々として、気持がいい。
「この病室はいい病室だ」と、学士は親切げに云った。
「ええ。いい部屋ですね。こんな所へ入れて貰おうとは思いませんでしたよ。わたくしはこれまで癲《てん》狂《きよう》院《いん》というものへ這入ったことがないものですから、もっとひどい所だろうと思っていました。ひどいと云っては悪いかも知れません。とにかくまるで別な想像をしていたのですね。これなら愉快でさあ。どのくらい置かれるのだか知りませんが、ちょっとやそっとの間なら結構です。わたくしだって長くいたくはありませんからね。」こう云って、患者は仰向いて、学士の目を覗くように見た。しかし色の濃い青色の鼻目金を懸けているので、目の表情が見えなかった。患者は急いで言い足した。
「こんなことをお尋ねするのは、先生方はお嫌いでしょう。先生、申したいことがありますがいいでしょうか。」急に元気の出たような様子で問うたのである。
「なんだい。面白いことなら聞こう」と、学士は機械的に云った。
「わたくしは退院させて貰ったら、わたくしを掴まえてこんな所へ入れた、御親切千万な友達を尋ねて行って、片っ端から骨を打ち折ってやろうと思いますよ」と、患者は愉快げに、しかも怒りを帯びて云って、雀斑《そばかす》だらけの醜い顔を変に引き吊らせた。
「なぜ」と学士は大儀そうに云った。
「馬鹿ものだからです。べらぼうな。なんだって余計な人の事に手を出しゃあがるのでしょう。どうせわたくしはどこにいたって平気なのですが、どっちかと云えば、やっぱり外にいる方がいいのですよ。」
「そう思うかね」と学士は不精不精に云った。
「つまりわたくしは何も悪い事を致したのではありませんからね」と、患者は少し遠慮げに云った。
「そうかい」と学士は云って、何かあとを言いそうにした。
「悪い事なんぞをするはずがないのですからね」と、患者は相手の詞を遮るように云い足した。
「考えて御覧なさい。なぜわたくしが人に悪い事なんぞをしますでしょう。手も当てるはずがないのです。食人人種ではあるまいし。ヨハン・レエマン先生ではあるまいし。当り前の人間でさあ。先生にだって分かるでしょう。わたくしぐらいに教育を受けていると、殺人とか、盗賊とかいうようなことは思ったばかりで胸が悪くなりまさあ。」
「しかしお前は病気だからな。」
患者は体をあちこちもじもじさせて、劇しく首を掉《ふ》った。「やれやれ。わたくしが病気ですって。わたくしはあなたに対して、わたくしが健康だということを証明しようとは致しますまい。なんと云ったところで、御信用はなさるまいから。しかしどこが病気だとおっしゃるのです。いやはや。」
「どうもお前は健康だとは云われないて」と、学士は用心して、しかもきっぱりと云った。
「なぜ健康でないのです」と、患者は詞短かに云った。「どこも痛くも苦しくもありませんし、気分は人並よりいいのですし、ことにこのごろになってからそうなのですからね。ははは。先生。ちょうどわたくしが一件を発明すると、みんなでわたくしを掴まえて病院に押し込んだのですよ。途方もない事でさあ。」
「それは面白い」と、学士は云って、眉を額の高い所へ吊るし上げた。その尖った顔がどこやら注意して何事をか知ろうとしている犬の顔のようであった。
「可笑しいじゃありませんか。」患者は忽然笑って、立ち上がって、窓の所へ行って、しばらくの間日の照っている外を見ていた。学士はその背中を眺めていた。きたない黄いろをしている病衣が日に照らされて、黄金色の縁を取ったように見えた。
「今すぐにお話し申しますよ」と患者は云って、踵《くびす》を旋《めぐ》らして、室内をあちこち歩き出した。顔は極《ごく》真面目で、ほとんど悲しげである。そうなったので顔の様子がよほど見よくなった。
「お前の顔には笑うのは似合わないな」と、学士はなぜだか云った。
「ええええ」と、元気よく患者は云った。「それはわたくしも承知していますよ。これまでにもわたくしにそう云って注意してくれた人がございました。わたくしだって笑っていたくはないのです。」こう云いながら患者はまた笑った。その笑い声はひからびて、木のようであった。「そのくせわたくしは笑いますよ。たびたび笑いますよ。待てよ。こんな事をお話しするはずではなかったっけ。実はわたくしは思量する事の出来る人間と生れてから、始終死ということについて考えているのでございます。」
「ははあ」と、学士は声を出して云って、鼻目金を外した。その時学士の大きい目がいかにも美しく見えたので、患者は覚えずそれを眺めて黙っていた。
しばらくして、「先生、あなたには目金は似合いませんぜ」と云った。
「そんな事はどうでもいい。お前は死の事を考えたのだな。たくさん考えたかい。それは面白い」と、学士は云った。
「ええ。もちろんわたくしの考えた事を一から十まであなたにお話しすることは出来ません。またわたくしの感じた事となると、それが一層困難です。とにかく余り愉快ではございませんでした。時々は夜になってから、子供のようにこわがって泣いたものです。自分が死んだら、どんなだろう、腐ったら、とうとう消滅してしまったら、どんなだろうと、想像に画き出して見たのですね。なぜそうならなくてはならないということを理解するのは、非常に困難です。しかしそうならなくてはならないのでございますね。」
学士は長い髯を手の平で丸めて黙っている。
「しかしそんな事はまだなんでもございません。それは実際胸の悪い、悲しい、いやな事には相違ございませんが、まだなんでもないのです。一番いやなのは、外のものが皆生きているのに、わたくしが死ぬるということですね。わたくしが死んで、わたくしのやった事も無くなってしまうのです。格別な事をやってもいませんがとにかくそれが無くなります。たとえばわたくしがひどく苦労をしたのですね。そしてわたくしが正直にすると、非常な悪事を働くとの別は、ひどく重大な事件だと妄想したとしましょう。そんな事が皆利足の附くようになっているのです。わたくしの苦痛、悟性、正直、卑《ひ》陋《ろう》、愚昧なんというものが、次ぎのジェネレエションの役に立とうというものです。外の役に立たないまでも、戒めにくらいなろうというものです。とにかくわたくしが生活して、死を恐れて、煩悶していたのですね。それが何もわたくしのためではない。わたくしは子孫のためとでも云いましょうか。しかしその子孫だって、やはり自分のために生活するのではないのですから、誰のためと云っていいか分かりません。ところで、わたくしはある時ある書物を見たのです。それにこういう事が書いてありました。それは実際詰まらない事なのかも知れません。しかしわたくしははっと思って驚いて、その文句を記憶して置いたのでございますね。」
「面白い」と、学士はつぶやいた。
「その文句はこうです。自然は一定の法則に遵《したが》いて行わる。何物をも妄《みだ》りに侵し滅さず。しかれども早晩これに対して債を求む。自然は何物をも知らず。善悪を知らず。決してある絶待的なるもの、永遠なるもの、変《へん》易《えき》せざるものを認めず。人間は自然の子なり。しかれども自然は単に人間の母たる者にあらず。何物をも曲庇することなし。およそその造るところの物は、他物を滅ぼしてこれを造る。ある物を造らんがためには、必ず他の物を破壊す。自然は万物を同一視すと云うのですね。」
「それはそうだ」と、学士は悲しげに云ったが、すぐに考え直した様子で、また鼻目金を懸けて、厳格な調子で言い足した。「だからどうだと云うのだ。」
患者は笑った。すこぶる不服らしい様子で、長い間笑っていた。そして笑い已《や》んで答えた。「だからどうだとも云うのではありません。御覧の通り、それは愚《ぐ》な思想です。いや。思想なんというものは含蓄せられていないほど愚です。単に事実で、思想ではありません。思想のない事実は無意味です。そこで思想をわたくしが自分で演《えん》繹《えき》して見ました。わたくしの概念的に論定したところでは、こう云ってよろしいか知れませんが、自然の定義は別に下さなくてはなりません。自然は決して絶待的永遠なるものを非認してはおりません。それどころではない。自然においてはすべての物が永遠です。単調になるまで永遠です。どこまでも永遠です。しかし永遠なのは事実ではなくて、理想です。存在の本体です。一本一本の木ではなくて、その景物です。一人一人の人ではなくて、人類です。恋をしている人ではなくて、恋そのものです。天才の人や悪人ではなくて、天才や罪悪です。お分かりになりますか。」
「うん。分かる」と、学士はようよう答えた。
「お互にここにこうしていて、死の事なんぞを考えて煩悶します。目の前の自然なんぞはどうでもいいのです。我々が死ぬるには、なんの後悔もなく、平気で死ぬるのです。そして跡にはなんにも残りません。簡単極まっています。しかし我々の苦痛は永遠です。そう云って悪ければ、少くもその苦痛の理想は永遠です。いつの昔だか知らないが、サロモ第一世というものが生きていて、それが死を思ってひどく煩悶しました。またいつの未来だか知らないが、サロモ第二世というものが生れて来て、同じ事を思って、ひどく煩悶するでしょう。わたくしが初めて非常な愉快を感じて、ある少女に接吻しますね。そしてわたくしの顔に早くも永遠なる髑《どく》髏《ろ》の微笑が舎《やど》る時、幾百万かののろい男が同じような愉快を感じて接吻をするでしょう。どうです。わたくしの話は重《ちよう》複《ふく》して参りましたかな。」
「ふん。」
「そこでこの下等な犬考えからどんな結論が出て来ますか。それはただ一つです。なんでも理想でなくて、事実であるものは、自然のためには屁の如しです。お分かりになりますか。自然はこちとらに用はないのです。我々の理想を取ります。我々がどうなろうが、お構いなしです。わたくしは苦痛を閲《けみ》し尽して、こう感じます。いやはや。自然の奴め。まるで構ってはくりやがらない。それなのに何もおれがやきもきせずともの事だ。笑わしゃあがる。口笛でも吹く外はない。」
患者は病院じゅうに響き渡るような口笛を吹いた。学士はたしなめるように、しかも器械的に云った。「それ見るがいい。お前の当り前でないことは。」
「当り前でないですって。気違いだというのですか。それはまだ疑問ですね。へえ。まだ大いに疑問ですね。無論わたくしは少し激昂しました。大声を放ったり何かしました。しかしそれに何も不思議はないじゃありませんか。不思議はそこではなくて、別にあります。不思議なのは、人間という奴が、始終死ぬ事を考えていて、それを気の遠くなるまでこわがっていて、死の恐怖の上に文化の全体を建設して置いて、そのくせひどく行儀よくしていて、真面目に物を言って、体裁よく哀れがって、時々はハンケチを出して涙を拭いて、それから黙って、日常瑣末な事をやっ附けて、秩序安寧を妨害せずにいるという事実です。それが不思議です。わたくしの考えでは、こんな難有《ありがた》い境遇にいて、行儀よくしている奴が、気違いでなければ、大馬鹿です。」
この時学士は自分がいい年をして、真面目な身分になっていて、折々突然激怒して、頭を壁にぶっ附けたり、枕に噛み附いたり、髪の毛をむしり取ろうとしたりすることのあるのを思い出した。
「それがなんになるものか」と、学士は顔を蹙《しか》めて云った。
患者はしばらく黙っていて、こう云い出した。「無論です。しかし誰だって苦しければどなります。どなると、胸が透くのです。」
「そうかい。」
「そうです。」
「ふん。そんならどなるがいい。」
「自分で自分を恥じることはありません。評判の意志の自由という奴を利用して、大いに助けてくれをどなるのですね。そうやっ附ければ、少くも羊と同じように大人しく屠所に引かれて行くよりは増しじゃあありませんか。少くも誰でもそんな時の用心に持っている、おめでたい虚偽なんぞを出すよりは増しじゃあありませんか。一体不思議ですね。人間という奴は本来奴隸です。しかるに自然は実際永遠です。事実に構わずに、理想を目中に置いています。それを人間という奴が、あらゆる事実中の最も短命な奴のくせに、自分も事実よりは理想を尊ぶのだと信じようとしているのですね。ここに一人の男があって、生涯誰にも優しい詞を掛けずに暮すですな。そいつが人類全体を大いに愛しているかも知れません。一体はその方が高尚でしょう。真の意義においての道徳にかなっているでしょう。それに人間が皆絶大威力の自然という主人の前に媚び諂《へつら》って、軽薄笑いをして、おとなしく羊のように屠所へ引いて行かれるのですね。ところが、その心のずっと奥の所に、誰でも哀れな、ちっぽけな、雀の鼻くらいな、それよりもっとちっぽけな希望を持っているのですね。どいつもこいつも Lasciate ogni speranza という奴を知っているのですからね。例の奉公人じみた希望がしゃがんでいるのですね。いかさま御《ご》最《もつとも》千万でございます。でも事によりましたら、御都合でというようなわけですね。憐愍という詞は、知れ切っているから口外しないのですが。」
「そこでどうだというのだ」と、学士は悲しげに云って、寒くなったとでもいう様子で、手をこすった。
「そこでわたくしは自然という奴を、死よりももっとひどく憎むようになったのですね。夜昼なしにこう考えていたのです。いつか敵の討てないことはあるまい。討てるとも。糞。先生。聞いて下さい。そのくせわたくしは地球以外の自然に対してはまだすこぶる冷淡でいるのです。そんなものは構いません。たとえば、星がなんです。なんでもありゃしません。星は星で存在している。わたくしはわたくしで存在している。距離が遠過ぎるですな。それとは違って、地球の上の自然という奴は、理想が食いたさに、こちとらを胡桃《くるみ》のように噛み砕きゃあがるのです。理想込めにこちとらを食ってしまやあがるのです。そこでわたくしはいつも思うのです。なぜそんなことが出来るだろう。何奴にしろ、勝手な風来ものが来てわたくしを責めさいなむ。そんな権利をどこから持って来るのです。わたくしばかりではない。幾百万の人間を責めさいなむ。最後になるまで責めさいなむ。なぜわたくしは最初の接吻の甘さを嘗《な》めて打ち倒されてしまうのです。たった一度ちょっぴりと接吻したばかりなのに、ひどいじゃあありませんか。そのくせ最初の接吻の甘さというものは永遠です。永遠に新しく美しいのです。その外のものもその通りです。ひどいじゃあありませんか。むちゃくちゃだ。下等極まる。乱暴の絶頂だ。」
学士は驚いて患者の顔を見ている。そしてまるで無意味に、「湊合は繰り返すかも知れない」とつぶやいた。
「わたくしなんざあ湊合なんというものは屁とも思いません。口笛を吹いてやります」と、患者は憤然としてどなった。この叫び声が余り大きかったので、二人共しばらく黙っていた。
患者は何か物思いに沈んでいるというような調子で、小声で言い出した。「先生、どうでしょう。今誰かがあなたに向って、この我々の地球が死んでしまうということを証明してお聞かせ申したらどうでしょう。あいつに食っ附いているうぞうもぞうと一しょに、遠い未来の事ではない、たった三百年さきで死んでしまうのですね。死に切ってしまうのですね。外道。もちろん我々はそれまでいて見るわけには行かない。しかしとにかくそれが気の毒でしょうか。」
学士はまだ患者がなんと思って饒舌《しやべ》っているか分からないでいるうちに患者は語り続けた。
「それは奴隸根性が骨身に沁みていて、馬鹿な家来が自分の利害と、自分を打《ぶ》ってくれる主人の利害とを別にして考えて見ることが出来ず、また自分というものを感ずることが出来ないような地球上の住人は、気の毒にも思うでしょう。そう思うのがもっともでもあるでしょう。しかし、先生、わたくしは嬉しいですな。」この詞を言う時の患者の態度は、喜びの余りによろけそうになっているという風である。「むちゃくちゃに嬉しいですな。へん。くたばりゃあがれ。そうなれば手前ももう永遠におれの苦痛を馬鹿にしていることは出来まい。忌々しい理想を慰みものにしていることは出来まい。厳重な意味で言えば、そんなことはなんでもありません。しかし敵を討つのは愉快ですな。冷かしはおしまいです。お分かりですか。わたくしの物でない永遠という奴は。」
「無論だ。分かる」と、少したってから学士は云った。そして一息に歌をうたい出した。
「冢《つか》穴《あな》の入口にて
若き命を遊ばしめよ。
さて冷淡なる自然に
自ら永遠なる美を感ぜしめよ。」
患者は忽《こつ》然《ぜん》立ち留まって、黙って、ぼんやりした目附をして、聞いていて、さて大声で笑い出した。「ひひひひひひ。」鶉《うずら》の啼声のようである。「そんなものがあるものですか。あるものですか。永遠なる美なんというのは無意味です。お聞きなさい。先生。わたくしは土木が商売です。しかし道楽に永い間天文をやりました。生涯掛かって準備をした為《し》事《ごと》をせずに、外の為事をするのが、当世流行です。そこで体が曲って、頭が馬鹿になるほど勉強しているうちに、偶然ふいと誤算を発見したですな。わたくしは太陽の斑点を研究しました。今までの奴がやらないほど綿密に研究しました。そのうちにふいと。」
この時日が向いの家の背後《うしろ》に隠れて、室内が急に暗くなった。そこにある品物がなんでも重くろしく、床板にへばり附いているように見えた。患者の容貌が今までより巌《がん》畳《じよう》に、粗暴に見えた。
「それ、御承知の理論があるでしょう。太陽の斑点が殖えて行って、四億年の後に太陽が消えてしまうというのでしょう。あの計算に誤算のあるのを発見したのですね。四億年だなんて。先生、あなたは四億年という年数を想像することが出来ますか。」
「出来ない」といって、学士は立ち上がった。
「わたくしにも出来ませんや」といって、患者は笑った。「誰だってそんなものは想像することが出来やあしません。四億年というのは永遠です。それよりは単に永遠といった方がいいのです。その方が概括的で、はっきりするのです。四億年だという以上は、万物は永遠です。冷淡なる自然と、永遠なる美ですな。四億年なんて滑稽極まっています。ところで、わたくしがそれが四億年でないということを発見したですな。」
「なぜ四億年でないというのだ」と、学士はほとんど叫ぶように云った。
「学者先生達が太陽の冷却して行く時間を計算したのですな。その式は単純なものです。ところで、金属にしろ、その他の物体にしろ、冷却に入る最初の刹那までしか、灼熱の状態を維持してはいないですね。それは互に温め合うからですね。そこであのてらてら光っている、太陽のしゃあつく面に暗い斑点が一つ出来るというと、その時に均衡が破れる。斑点は一般に温度を維持しないで、かえって寒冷を放散する。あの可哀い寒冷ですね。寒冷を放散して広がる。広がれば広がるほど、寒冷を放散する。それが逆比例をなして行く。そこで八方から暗い斑点に囲まれていると云おうか、実は一個の偉大なる斑点に囲まれている太陽の面が四分の一残っているとお思いなさい。そうなればもう一年、事によったら二年で消えてしまいますね。そこでわたくしは試験を始めたのです。化学上太陽と同じ質の合金を拵《こしら》えました。先生。そこで何を見出したとお思いですか。」
「そこで」と、学士は問うた。
「地球が冷えるですな。冷えた日には美どころの騒ぎじゃあありますまい。それはすぐではありません。無論すぐではありません。しかし五六千年たつというと。」
「どうなる」と、学士は叫んだ。
「たかが五六千年たつと、冷え切ります。」
学士は黙っている。
「それが分かったもんですから、わたくしはそれをみんなに話して、笑ったのですよ。」
「笑ったのだと」と、学士は問うた。
「ええ。愉快がったのです。」
「愉快がったのだと。」
「非常に喜んだのです。一体。」
「ひひひ」と、学士が忽然笑い出した。
患者はなんとも判断しかねて、黙っている。しかし学士はもう患者なんぞは目中に置いていない。笑って笑って、息が絶え絶えになっている。そこで腰を懸けて、唾を吐いて、鼻を鳴らした。鼻目金が落ちた。黒い服の裾が熱病病みの騒ぎ出した時のように閃いている。顔はゴム人形の悪魔が死にかかったように、皺だらけになっている。
「五千年でかい。ひひひ。こいつはいい。こいつは結構だ。ひひひ。」
患者は学士を見ていたが、とうとう自分も笑い出した。初めは小声で、だんだん大声になって笑っている。
そんな風で二人は向き合って、嬉しいような、意地の悪いような笑い声を立てている。そこへ人が来て、二人に躁狂者に着せる着物を着せた。
死 アルツィバーシェフ
医学士ウラジミル・イワノウィッチュ・ソロドフニコフは毎晩六時に、病用さえなければ、本町へ散歩に行くことにしていた。たいてい本町で誰か知る人に逢って、一しょに往ったり来たりして、それから倶《く》楽《ら》部《ぶ》へ行って、新聞を読んだり、玉を突いたりするのである。
しかるにある日天気が悪かった。早朝から濃い灰色の雲が空を蔽っていて、空気が湿っぽく、風が吹いている。本町に出て見たが、巡査がじっとして立っている外に、人が一人もいない。
ソロドフニコフは本町の詰まで行って、踵《くびす》を旋《めぐ》らして、これからすぐに倶楽部へ行こうと思った。その時誰やら向うから来た。それを見ると、知った人で、歩兵見習士官ゴロロボフという人であった。この人の癖で、いつものわざとらしい早足で、肩に綿の入れてある服の肩を怒らせて、やはり胸に綿の入れてある服の胸を張って、元気よく漆《うるし》沓《ぐつ》の足を踏み締めて、ぬかるみ道を歩いている。
見習士官がちょうど自分の前へ来たとき、ソロドフニコフが云った。「いや。相変らずお元気ですな。」
ゴロロボフは丁寧に会《え》釈《しやく》をして、右の手の指を小さい帽の庇《ひさし》に当てた。
ソロドフニコフはただ何か言おうというだけの心持で云った。「どこへ行くのですか。」
見習士官はやはり丁寧に、「内へ帰ります」と答えた。
ソロドフニコフは「そうですか」と云った。
見習士官は前に立ち留まって待っている。ソロドフニコフは何と云っていいか分からなくなった。一体この見習士官をば余りよく知っているのではない。これまで「どうですか」とか、「さようなら」とかしか云い交わしたことはない。それだから、ソロドフニコフのためには、先方の賢《けん》不《ふ》肖《しよう》なんぞは分かるはずがないのに、ただなんとなく馬鹿で、時代後れな奴だろうと思っている。それだから、これが外の時で、誰か知った人が本町を通っていたら、この見習士官にかれこれ云っているのではないのである。
ソロドフニコフは「そうですか、ゆっくり御休息なさい」と親切らしい、しかも目下に言うような調子で云った。言って見れば、ずっと低いものではあるが、自分の立派な地位から、相当の軽い扱いをせずに、親切にしてやるというような風である。そして握手した。
ソロドフニコフは倶楽部に行って、玉を三度突いて、麦酒《ビイル》を三本勝って取って、半分以上飲んだ。それから閲覧室に這《は》入《い》って、保守党の新聞と自由党の新聞とを、同じように気を附けて見た。知合いの女客に物を言って、居合せた三人の官吏と一寸話をした。その官吏をソロドフニコフは馬鹿な、可笑しい、時代後れな男達だと思っているのである。なぜそう思うかというに、ただ官吏だからと云うに過ぎない。それから物売場へ行って物を食って、コニャックを四杯飲んだ。すべてこんな事は皆退屈に思われた。それで十時に倶楽部を出て帰り掛けた。
曲り角から三軒目の家を見ると、入口がパン屋の店になっている奥の方の窓から、灯《ともし》火《び》の光が差して、その光が筋のようになっている処だけ、雨垂がぴかぴか光っている。その時学士はふいとさきに出逢った見習士官がこの家に住まっているということを思い出した。
ソロドフニコフは窓の前に立ち留まって、中を見込むと、果して見習士官が見えた。ちょうど窓に向き合った処にゴロロボフは顔を下に向けて、じっとして据わっている。退屈まぎれに、ちょっと嚇《おど》してやろうと思って、杖の尖で窓をこつこつ敲《たた》いた。
見習士官はすぐに頭を挙げた。明るいランプの光が顔へまともに差した。ソロドフニコフはこの時始めてこの男の顔を精しく見た。この男はまだひどく若い。ほとんど童子だと云ってもいいくらいである。鼻の下にも頬にも鬚が少しもない。面皰《にきび》だらけの太った顔に、小さい水色の目が附いている。睫も眉も黄色である。頭の髪は短く刈ってある。色の蒼い顔がちっともえらそうにない。
ゴロロボフは窓の外に立っている医学士を見て、すぐに誰だということが分かったという様子で、立ち上がった。嚇かしたので、学士は満足して、ちょっと腮《あご》で会釈をして笑って帰ろうと思った。ところが、ゴロロボフの方でさきへ会釈をして、愛想よく笑って、そのまま部屋の奥の方へ行ってしまった。戸口の方へ行ったのらしい。
「はてな。おれを呼び入れようとするのかな」と思いながら、ソロドフニコフは立ち留まった。そのまま行ってしまうがいいか、それとも待っているがいいかと、判断に困った。
パン屋の店の処の入口の戸が開《あ》いた。そして真黒い長方形の戸の枠からゴロロボフの声がした。
「先生。あなたですか。」
ソロドフニコフはまだどうしようとも決心が附かずにいた。そこでためらいながら戸口に歩み寄った。闇の中に立っているゴロロボフは学士と握手をして、そして自分は腋《わき》へ寄って、学士を通そうとした。
「いやはや、とんだ事になった。とうとうなんの用事もないのに、人の内へ案内せられることになった」と、学士は腹の中で思って、そこらに置いてある空き箱やなんぞにぶっ附かりながら、這入って行く。
廊下は焼き立てのパンと、捏《こ》ねたパン粉との匂いがしていて、空気は暖かで、むっとしている。
見習士官はさきに立って行って、灯火の明るくしてある部屋の戸を開けた。ソロドフニコフは随分妙な目に逢うものだと思って、微笑みながら閾《しきい》を跨《また》いだ。
見習士官は不恰好な古い道具を少しばかり据え附けた小さい部屋に住まっている。
ソロドフニコフは外套を脱いで、新聞紙を張った壁に順序よく打ってある釘の一つに掛けて、ゲエトルをはずして、帽子を脱いで、杖を部屋の隅に立てて置いた。
「どうぞお掛けなさい」と云いながら、ゴロロボフは学士に椅子を勧めた。ソロドフニコフはそれに腰を掛けて周囲《まわり》を見廻した。部屋に附けてあるのはひどく悪いランプである。それで室内が割合に暗くて息が籠ったようになっている。学士の目に這入ったのは、卓が一つ、丁寧に片附けてある寝《ね》台《だい》が一つ、壁の前に不規則に置いてある椅子が六つの外に、入口と向き合っている隅に、大小種々の聖者の画像の、銅の枠に嵌《は》めたのが、古びて薄黒くなっていて、その前に緑色の火《ほ》屋《や》の小さいランプに明りが附けて供えてあって、それからやはりその前に色々に染めたイイスタア祭の卵が供えてあるのであった。
「大したお難有《ありがた》連《れん》だと見える」と、ソロドフニコフは腹の中で嘲った。どうもこんな坊主臭い事をして、常灯明を上げたり、涙脆そうにイイスタアの卵を飾ったりするというのは、全体見習士官というものの官職や業務と、まるで不吊合いだと感ぜられたのである。
卓の上には清潔な巾《きれ》が掛けて、その上にサモワルという茶道具が火に掛けずに置いてある。その外、砂糖を挟む小さい鉗《かん》子《し》が一つ、茶を飲む時に使う匙が二三本、果物の砂糖漬を入れた硝子《ガラス》壺《つぼ》が一つ置いてある。寝台の上には明るい色の巾が掛けてある。枕は白い巾に縫い入れのあるのである。何もかもひどく清潔で、きちんとしてある。そのためにかえって室内が寒そうに、不景気に見えている。
「お茶を上げましょうか」と、見習士官が云った。
ソロドフニコフは茶が飲みたくもなんともないから、も少しで断るところであった。しかし茶でも出させなくては、為《し》草《ぐさ》も言草もあるまいと思い返して、「どうぞ」と云った。
ゴロロボフは茶碗と茶托とを丁寧に洗って拭いて、茶を注いだ。
「甚だ薄い茶で、お気の毒ですが」と云って、学士に茶を出して、砂糖漬の果物の壺を押しやった。
「なに、構うもんですか」と、ソロドフニコフは口で返事をしながら、腹の中では、「そんな事なら、なんだっておれをここへ連れ込んだのだ」と思った。
見習士官は両足を椅子の脚の背後《うしろ》にからんで腰を掛けていて、器械的に匙で茶を掻き廻している。ソロドフニコフも同じく茶を掻き廻している。
二人共黙っている。
この時になって、ソロドフニコフは自分が主人に誤解せられたのだと云うことに気が附いた。見習士官は杖で窓を叩かれて、これは用事があって来たのだなと思ったに違いない。そこで変な工合になったらしい。こう思って、ソロドフニコフは不愉快を感じて来た。今二人は随分馬鹿気た事をしているのである。おまけにそれがソロドフニコフ自身の罪なのである。体が達者で、身勝手な暮しをしている人の常として、こんな事を長く我慢していることが出来なくなった。
「ひどい天気ですな」と会話の口を切ったが、学士は我ながら詰まらない事を言っていると思って、覚えず顔を赤くした。
「さようです。天気は実に悪いですな」と、見習士官は早速返事をしてしまって、あとは黙っている。ソロドフニコフは腹の中で、「へんな奴だ、廻り遠い物の言いようをしやがる」と思った。
しかしこの有様を工合が悪いように思う感じは、学士の方では間もなく消え失せた。それは職業が医師なので、種々な変った人、中にも初対面の人と応接する習慣があるからである。それに官吏というものは皆馬鹿だと思っている。軍人も皆馬鹿だと思っている。そこでそんな人物の前では気の詰まるという心持がないからである。
「今君は何をそう念入りに考えていたのだね」と、医学士は云って、腹の中では、こん度もきっと丁寧な、恭《うやうや》しい返辞をするだろうと予期していた。言って見れば、「いいえ、別になんにも考えてはいませんでした」なんぞと云うだろうと思ったのである。
ところが、見習士官はじっと首をうな垂《だ》れたままにしていて、「死の事ですよ」と云った。
ソロドフニコフはも少しで吹き出すところであった。この男の白っぽい顔や黄いろい髪と、死だのなんのと云う、深刻な、偉大な思想とは、いかにも不吊合いに感ぜられたからである。
意外だと云う風に笑って、学士は問い返した。「妙ですねえ。どうしてそんな陰気な事を考えているのです。」
「誰だって死の事は考えて見なくてはならないわけです。」
「そして重い罪障を消滅するために、難行苦行をしなくてはならないわけですかね」と、ソロドフニコフは揶揄《からか》った。
「いいえ、単に死の事だけを考えなくてはならないのです」と、ゴロロボフは落ち着いて、慇《いん》懃《ぎん》な調子で繰り返した。
「たとえばわたしなんぞに、どうしてそんな事を考えなくてはならない義務があるのですか」と、ソロドフニコフは右の膝を左の膝の上に畳《かさ》ねて、卓の上に肘を撞《つ》きながら、嘲弄する調子で云った。そして見習士官の馬鹿気た返事をするのを期待していた。見習士官だから、馬鹿気た返事をしなくてはならないと思うのである。
「それは誰だって死ななくてはならないからです」と、ゴロロボフは前と同じ調子で云った。
「それはそうさ。しかしそれだけでは理由にならないね」と、学士は云って、腹の中で、多分この男は本当のロシア人ではあるまい、ロシア人がこんなはっきりした、語格の調った話をするはずがないからと思った。
そしてこの色の蒼い、慇懃な見習士官と対坐しているのが、急に不愉快になって、立って帰ろうかと思った。
ゴロロボフはこの時「わたくしの考えではただ今申した理由だけで十分だと思うのです」と云った。
「いや。別に理由が十分だの不十分だのと云って、君と争うつもりもないのです」と、ソロドフニコフは嘲るように譲歩した。そして不愉快の感じは一層強くなって来た。それは今まで馬鹿で了簡の狭い男だと思っていたこの見習士官が、死だのなんのと云う真面目な、意味の深い、恐ろしい問題を論じ出したからである。
「もちろん争う必要はありません。しかし覚悟をして置く必要はあります」と、ゴロロボフが云った。
「何を」と云って、ソロドフニコフは両方の眉を額へ高く吊るし上げて、微笑んだ。それは見習士官の最後の詞は、自分の予期していた馬鹿気た詞だと思ったからである。
「死ぬる覚悟をするために、死という事を考えるのです」と、ゴロロボフは云った。
「馬鹿な。なぜそれを考えなくてはならないのです。わたしが毎日食って、飲んで、寝ているから、それからわたしがいつかは年が寄って、皺くちゃになって、頭が兀《は》げるから、食う事、飲む事、寝る事、頭の兀げる事、その外そんな馬鹿らしい事を、一々のべつに考えていなくてはならないと云うのですか」と、もういい加減に相手になっているという調子で云って、学士はその坐を立ちそうにした。
「いいえ。そうではありません」と、見習士官は悲し気に、ゆっくり首を掉《ふ》った。「そうではありません。先生の御自分でおっしゃった通り、それは皆馬鹿気た事です。馬鹿気た事は考えなくてもいいのです。しかし死は馬鹿気た事ではありません。」
「いやはや。馬鹿気ていない、もっとも千万な事で、我々の少しも考えないでいる事はいくらでもある。それに死がなんです。死ぬる時が来れば死ぬるさ。わたしなんぞは死ぬる事はすこぶる平気です。」
「いいえ。そんな事は不可能です。死の如き恐るべき事に対して、誰だって平気でいられるはずがありません」と、ゴロロボフは首を掉った。
「わたしは平気だ」と、ソロドフニコフは肩を聳《そび》やかして云った。
「そんなら先生は自己の境界を正確に領解しておいでにならないと云うものです。」
ソロドフニコフの頭へ血が上った。そして腹の中で、「なんと云う物の言振りをしやがるのだ、藁《わら》のような毛を生やしている餓鬼奴が」と思った。
「そんなら君は自己の境界を領解していますか。」
「います。」
「ふん。こりゃあ承り物だ。」
「人間は誰でも死刑の宣告を受けたものと同じ境界にいるのです。」
これは昔から知れ切っている事で人がたびたび言い古した事だと、ソロドフニコフははっきり思った。そしてたちまち安心した。昔から人の言い古した事を、さも新しそうに云っているこの見習士官よりは、自分は比べ物にならないほど高い処にいると感じたのである。
「古い洒落《しやれ》だ」と、ソロドフニコフは云った。そしてポケットから葉巻入れを出して、葉巻に一本火を附けて帰ろうとした。
その時ゴロロボフが云った。「わたくしが昔から人の言わない、新しいことを言わなくてはならないという道理はございません。わたくしはただ正しい思想を言い表せばよろしいと思います。」
「ふん。なるほど」と、ソロドフニコフは云って、今の場合に、正しい思想ということが云われるだろうかと、覚えず考えて見た。それから「それは無論の事さ」と云ったが、まだ疑いが解けずにいた。さて「しかし死に親しむまでにはたっぷり時間があるから、その間に慣れればいいのです」と結んだ。こう云って見たが、どうも自分の言うべきはずの事を言ったような心持がしないので、自分に対してではなく、かえって見習士官に対して腹を立てた。
「わたくしの考えでは、それは死刑の宣告を受けた人に取っては、慰藉とする価値が乏しいようです。宣告を受けた人は刑せられる時の事しか思っていないでしょう。」こう云って置いて、さも相手の意見を聞いて見たいというような顔をして学士を見ながら、語り続けた。その表情が顔の恰好に妙に不似合に見えた。
「それとも先生はそうでないとお思いですか。」
医学士はこの表情で自分を見られたのが、自尊心に満足を与えられたような心持がした。そこでちょっと考えて見て、口から煙を吹いて、項《うなじ》を反らして云った。「いや。わたしもそれはそうだろうと思う。無論でしょう。しかし死刑というものは第一に暴力ですね。ある荒々しい、不自然なものですね。それに第二にどちらかと云えば人間に親しんでいるのは」と云いかけた。
「いいえ。死だってもやはり不自然な現象で、ある暴力的なものです」と、見習士官はすぐに答えた。ちょうどそう云う問題を考えていたところであったかと思われるような口《こう》気《き》である。
「ふん。それはただ空虚な言語に過ぎないようですな」と、毒々しくなく揶揄うように、ソロドフニコフが云った。
「いいえ。わたくしは死にたくないのに死ぬるのです。わたくしは生きたい。生き得る能力がある。それに死ぬるのです。暴力的で不自然ではありませんか。実際がそうでないなら、わたくしの申す事が空虚な言語でしょう。ところが、実際がそうなのですから、わたくしの申す事は空虚な言語ではありません。事実です。」ゴロロボフはこの詞を真面目でゆっくり言った。
「しかし死は天則ですからね」と、ソロドフニコフは肩を聳《そび》やかして叫んだ。そして室内の空気が稠《ちゆう》厚《こう》になって来て、頭痛のし出すのを感じた。
「いいえ。死刑だってある法則に循《したが》って行われるものです。その法則が自然から出ていたって、自然以外のある威力から出ていたって、同じ事です。そして自然以外の威力は可抗力なのに、自然は不可抗力ですから、なおさら堪え難いのです。」
「それはそうです。しかし我々は死ぬる月日は知らないのですからね」と、学士は不精不精に譲歩した。
「それはそうです」とゴロロボフは承認して置いて、それからこう云った。「しかし死刑の宣告を受けた人は、処刑の日を前知している代りには、いよいよ刑に逢うまで、もし赦免にはなりはすまいか、偶然助かりはすまいか、奇蹟がありはすまいかなんぞと思っているのです。死の方になると、誰も永遠に生きられようとは思わないのです。」
「しかし誰でもなるたけ長く生きようと思っていますね。」
「そんな事は出来ません。人の一生涯は短いものです。それに生きようと思う慾は大きいのです。」
「誰でもそうだと云うのですか」と、嘲笑を帯びて、ソロドフニコフは問うた。そして可笑《おか》しくもない事を笑ったのが、自分ながらへんだと思った。
「無論です。あるものは意識してそう思うでしょう。あるものは無意識にそう思うでしょう。人の生涯とは人そのものです。自己です。人は何物をも自己以上に愛するということはないのです。」
「だからどうだと云うのですか。」
「どうも分かりません。先生は何をお尋ねなさるのでしょう」とゴロロボフが云った。
ソロドフニコフはこの予期しない問を出されて、思量の端緒を失ってしまった。そしてしばらくの間は、茫然として、顔を赤くして見習士官の顔を見ていて、失った思量の端緒を求めていた。しかるにそれが獲られない。それに反して、今ゴロロボフが多分おれを馬鹿だと思っているだろう。おれを冷笑しているだろうと思われてならない。そう思うと溜まらない心持になる。そしていったんは真蒼になって、そのあとでは真赤になった。太った白い頸に血が一ぱい寄って来た。間もなくこの憤懣の情が粗暴な、意地の悪い表情言語になって迸《ほとばし》り出た。わざと相手を侮辱してやろうと思ったのである。学士は自分の顔を、ずっと面皰《にきび》だらけのきたない相手の顔の側へ持って行って、ほとんど歯がみをするような口吻で、「一体君はなんのためにこんな馬鹿な事を言っているのです」と叫んだ。それがもっと激烈な事を言いたいのをこらえているという風であった。
ゴロロボフはすぐに立ち上がって、ちょっと会釈をした。そしてソロドフニコフがまだなんとも考える暇のないうちに、すぐにまた腰を掛けて、すこぶる小さい声で、しかもはっきりとこう云った。「なんのためでもありません。わたくしはそう感じ、そう信じているからです。そして自殺しようと思っているからです。」
ソロドフニコフは両方の目を大きく《みひら》いて、脣を動かしながら、見習士官の顔を凝視した。見習士官はやはり前のようにじっとして据わっていて、匙で茶碗の中を掻き廻している。ソロドフニコフはそれを凝視していればいるほど、ある事件がはっきりして来るように思われた。その考えは頭の中をぐるぐる廻っている。一しょう懸命に気を鎮めようとするうちに、たちまち頭の中が明るくなるのを感じた。しかしまだその事件が十分に信じ難いように思われた。そして問うた。
「ゴロロボフ君。君はまさか気が違っているのではあるまいね。」
ゴロロボフは涙ぐんで来て、高く聳やかした、狭い肩をゆすった。「わたくしも最初はそう思いました。」
「そして今はどう思うのですか。」
「今ですか。今は自分が気が違っていない、自分が自殺しようと思うのに、なんの不合理なところもないと思っています。」
「それではなんの理由もなく自殺をするのですか。」
「理由があるからです」と、ゴロロボフは詞を遮るように云った。
「その理由は」と、ソロドフニコフは何を言うだろうかと思うらしく問うた。
「さっきあれほど精《くわ》しくお話申したではありませんか」と、ゴロロボフは問われるのがさも不思議なという風で答えた。そしてしばらく黙っていて、それから慇懃に、しかもなんだか勉強して説明するという調子で云った。「わたくしの申したのは、つまり人生は死刑の宣告を受けていると同じものだと見《み》做《な》すと云うのです。そこでその処刑の日を待っていたくもなく、また待っている気力もありませんから、むしろ自分で。」
「それは無意味ですね。そんなら暴力を遁れようとして暴力を用いると云うもので。」
「いいえ。暴力を遁れようとするのではありません。それは遁れられはしません。死刑の宣告を受けている命を早く絶ってしまおうと云うのです。むしろ早く絶とうと。」
ソロドフニコフはこれを聞いたとき、なんだか心持の悪い、冷たい物を背中に浴びたようで、両方の膝が顫《ふる》えて来た。口では、「しかしそうしたって同じ事ではありませんか」と云った。
「いいえ。わたくしの霊が自然に打ち勝つのです。それが一つで、それから。」
「でもその君の霊というものも、君の体と同じように、やはり自然が造ったもので。」
たちまちゴロロボフが微笑《ほほえ》んだ。ソロドフニコフは始めてこの男の微笑むのを見た。そしてそれを見てぎょっとした。大きい口がへんにゆがんで、ほとんど耳まで裂けているようになっている。小さい目をしっかり瞑《ねむ》っている。そのぼやけた顔附がまるで酒に酔っておめでたくなったというような風に見えるのである。ゴロロボフは微笑んで答えた。「それはよく知っています。どちらも自然の造ったものには違いありませんが、わたくしのためには軽重があります。わたくしの霊というとわたくし自己です。体は仮の宿に過ぎません。」
「でも誰かがその君の体を打ったら、君だって痛くはないですか。」
「ええ。痛いです。」
「そうして見れば。」
ゴロロボフは相手の詞を遮った。「もしわたくしの体がわたくし自己であったら、わたくしは生きていることになるでしょう。なぜというに、体というものは永遠です。死んだ跡にも残っています。そうして見れば死は処刑の宣告にはならないのです。」
ソロドフニコフは余儀なくせられたように微笑んだ。「これまで聞いたことのない、最も奇抜な矛盾ですね。」
「いいえ。奇抜でもなければ、矛盾でもないです。体が永遠だと云う事は事実です。わたくしが死んだら、わたくしの体は分壊して原子になってしまうのでしょう。その原子は別な形体になって、原子そのものは変化しません。また一つも消滅はしません。わたくしの体の存在している間有っただけの原子は死んだあとでも依然として宇宙間に存在しています。事によったら、一歩を進めて、その原子がまた同じ組立てを繰り返して、同じ体を拵《こしら》えるということも考えられましょう。そんな事はどうでもいいのです。霊は死にます。」
ソロドフニコフは力を入れて自分の両手を握り合せた。もうこの見習士官を狂人だとは思わない。そしてその言っている事が意味があるかないか、それを判断することが出来なくなった。気が沈んで来た。見習士官の詞と、薄暗いランプの光と、自分の思量と、いやにがらんとした部屋とから、陰気なような、咄《とつ》々《とつ》人に迫るような、前兆らしい心持が心の底に萌して来た。しかし強いて答えた。「そうにも限らないでしょう。死んだ後に、未来に性命がないということを、君は知っているのですか。」
ゴロロボフは首を掉《ふ》った。「それは知りません。しかしそれはどうでもよろしいのです。」
「なぜどうでもいいのですか。」
「死んでから性命がない以上は、わたくしの霊は消滅するでしょう。またよしやそれがあるとしても、わたくしの霊はやはり消滅するでしょう。」二度目には「わたくし」という詞に力を入れて云った。「わたくし自己は消滅します。霊というものが天国へ行くにしても、地獄へ堕ちるにしても、別な物の体に舎《やど》るにしても、わたくしは亡くなります。この罪悪、習慣、可笑しい性質、美しい性質、懐疑、悟性、愚蒙、経験、無知の主人たる歩兵見習士官ゴロロボフの自我は亡くなります。何が残っているにしても、とにかくゴロロボフは消滅します。」
ソロドフニコフは聞いていて胸が悪くなった。両脚が顫える。頭が痛む。なんだか抑圧せられるような、腹の立つような、重くろしい、恐ろしい気がする。
「どうとも勝手にしやがるがいい。気違いだ。ここにいると、しまいにはこっちも気がへんになりそうだ」と学士は腹の中で思った。そして一言「さようなら」と云って、人に衝き飛ばされたように、立ち上がった。
ゴロロボフもやはり立ち上がった。そしてちょうどさっきのように、慇懃に「さようなら」と云った。
「馬鹿をし給うなよ。物《もの》数《ず》奇《き》にさっき云ったような事を実行しては困りますぜ」と、ソロドフニコフは面白げな調子で云ったが、実際の心持は面白くもなんともなかった。
「いいえ。先刻も申した通り、あれはわたくしの確信なのですから。」
「馬鹿な。さようなら」と、ソロドフニコフは憤然として言い放って、梯子の下の段をほとんど走るように降りた。
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ソロドフニコフは背後《うしろ》で戸を締める音を聞きながら、早足に往来へ出た。雨も風もひどくなっている。しかし外に出たので気分がいい。帽を阿弥陀に被り直した。頭が重くて、額が汗ばんでいる。
忽《こつ》然《ぜん》ソロドフニコフにはある事実が分かった。あれは理論ではなかった。ある恐るべき、暗黒な、人の霊を圧する事件である。あれは今はまだ生きていて、数分の後には事によるともう亡くなっている一個の人間の霊である。こう思ったのが、非常に強烈な印象を与えるので、ソロドフニコフはそこに根が生えたように立ち留まった。
雨は留めどもなく、ゆっくりと、ざあざあと降っている。ソロドフニコフは踵《くびす》を旋《めぐら》して、忽然大股にあとへ駈け戻った。ぬかるみに踏み込んで、ずぼんのよごれるのも構わなかった。息を切らせて、汗をびっしょり掻いて、帽を阿弥陀に被ったままで、ソロドフニコフはゴロロボフの住いの前に戻って来て、灯火の光のさしている窓の下に立ち留まった。ちょっと見ると、ゴロロボフの顔が見えるようであったが、それはサモワルの横つらが灯火の照り返しで光っているのであった。ランプは同じ所に燃えている。それから、さっき茶を飲んだあとの茶碗が一つと、ぴかぴか光る匙が一本と見えている。見習士官は見えない。ソロドフニコフはどうしようかと思って窓の下に立っていた。なんだか部屋の中がいやにひっそりしていて、事によったらあの部屋の床《とこ》の上に見習士官は死んで横わっているのではあるまいかと思われた。
「馬鹿な。まるで気違いじみた話だ」と、肩を聳やかして、極まりの悪いような微笑をして云った。そしてもし誰かが見ていはすまいか、事によったらゴロロボフ本人が窓から見ていはすまいかと思った。
ソロドフニコフは意を決して踵を旋して、腹立たしげに外套の襟を立てて、帽を目《ま》深《ぶか》に被り直して、自分の内へ帰った。
「まるで気違いだ。人間というものは、どこまで間違うものか分からない」と、ほとんど耳に聞えるように独《ひとり》言《ごと》を言った。
「しかしなぜおれにはあんな考えが一度も出て来ないのだろう。無論考えたことはあるに違いないが、無意識に考えたのだ。一体恐ろしいわけだ。こうして平気で一日一日と生きて暮らしてはいる様なものの、どうせ誰でも死ななくてはならないのだ。それなのになんのためにいろんな事をやっているのだろう。苦労をするとか、喜怒哀楽を閲《けみ》するとかいうことはさて置き、なんのために理想なんぞを持っているのだろう。明日はおれを知っているものがみな死んでしまう。おれが大事にして書いているものを鼠が食ってしまう。それでなければ、人が焼いてしまう。それでおしまいだ。そのあとでは誰もおれの事を知っているものはない。この世界におれより前に何百万の人間が住んでいたのだろう。それが今どこにいる。おれは足で埃を蹈《ふ》んでいる。この埃はちょうどおれのように自信をもっていて、性《せい》命《めい》を大事がっていた人間の体の分壊した名残りだ。土の上で、あそこに火を焚いている。あれが消えれば灰になってしまう。しかしまた火を付けようと思えば付けられる。しかしその火はもう元の火ではない。ちょうどあんなわけで、もうおれのあとにはおれというものはないのだ。こう思うと脚や背中がむずむずして来る。このソロドフニコフというものは亡くなるのだ。ドクトル・ウラジミル・イワノウィッチュ・ソロドフニコフというものは亡くなるのだ。」
この詞を二三遍繰り返して、ソロドフニコフは恐怖と絶望とを感じた。心臓は不規則に急《きゆう》促《そく》に打っている。何物かが胸の中を塞ぐように感ぜられる。額には汗が出て来る。
「おれというものは亡くなってしまう。無論そうだ。何もかも元のままだ。草木も、人間も、あらゆる感情も元のままだ。愛だとかなんだとかいう美しい感情も元のままだ。それにおれだけは亡くなってしまう。何があっても、見ることが出来ない。あとに何もかも有るか無いかということも知ることが出来ない。なんにも知ることが出来ないばかりではない。おれそのものが無いのだ。綺《き》麗《れい》さっぱり無いのだ。いや。綺麗さっぱりどころではない。実に恐るべき、残酷な、無意味なわけだ。なんのためにおれは生きていて、苦労をして、あれは善いの、あれは悪いのといって、他人よりは自分の方が賢いように思っていたのだ。おれというものはもう無いではないか。」
ソロドフニコフは涙ぐんだような心持がした。そしてそれを恥かしく思った。それから涙が出たら、今まで自分を抑圧していた、溜まらない感じがなくなるだろうと思って、喜んだ。しかし目には涙が出ないで、ただ闇を凝視しているのである。ソロドフニコフは重くろしい溜息を衝いて、苦しさと気味悪さとに体が顫えていた。
「おれを蛆《うじ》が食う。長い間食う。それをこらえてじっとしていなくてはならない。おれを食って、その白い、ぬるぬるした奴がうようよと這い廻るだろう。いっそ火葬にして貰った方がいいかしら。いや。それも気味が悪い。ああ。なんのためにおれは生きていたのだろう。」
体じゅうがぶるぶる顫えるのを感じた。窓の外で風の音がしている。室内は何一つ動くものもなく、ひっそりしている。
「おれももう間もなく死ぬるだろう。事によったら明日死ぬるかも知れない。今すぐに死ぬるかも知れない。わけもなく死ぬるだろう。頭が少しばかり痛んで、それがだんだんひどくなって死ぬるだろう。死ぬるということがわけもないものだという事は、おれは知っている。どうなって死ぬるということは、おれは知っている。しかしどうしてそれを防ぎようもない。死ぬるのだな。事によったら明日かも死れない。今かも知れない。さっきあの窓の外に立っているとき風を引いている。これから死ぬるのかも知れない。どうも体は健康なようには思われるが、体のどこかではもう分壊作用が始まっているらしい。」
ソロドフニコフは自分で脈を取って見た。しかし間もなくそれを止めた。そして絶望したように、暗くてなんにも見えない天井を凝視していた。自分の頭の上にも、体の四方にも、冷たい、濃い鼠色の暗黒がある。その暗黒のために自分の思想が一層恐ろしく、絶望的に感ぜられる。
「とにかく死ぬるのを防ぐ事は出来ない。一瞬間でも待って貰うことは出来ない。早いか晩いか死ななくてはならない。不老不死のおれではない。そのくせおれをはじめ、誰でも医学を大した学問のように思っている。今日の命を繋ぎ、明日の命を繋いだところで、どうせ皆死ぬるのだ。丈夫な奴も死ぬる。病人も死ぬる。実に恐ろしい事だ。おれは死を恐れはしない。しかしなんだって死というものに限ってやって来なくてはならないのだろう。なんの意味があるのだろう。誰が死というものを要求するのだろう。いや。実際はおれにも気になる。おれにも気になる。」
ソロドフニコフは忽《こつ》然《ぜん》思量の糸を切った。そして復活ということと、死後の性命ということとを考えて見た。その時ある軟い、軽い、優しいものが責めさいなまれている脳髄の上へかぶさって来るような心持がして、気が落ち付いて快くなった。
しかし間もなくまた憎《ぞう》悪《お》、憤《ふん》怒《ど》、絶望がむらむらと涌《わ》き上がって来る。
「ええ。馬鹿な事だ。誰がそんな事を信ずるものか。おれも信じはしない。信ぜられない。そんな事になんの意味がある。誰が体のない、形のない、感情のない、個性のない霊というものなんぞが、《こう》気《き》の中を飛び廻っているのを、なんの用に立てるものか。それはどっちにしても恐怖はやはり存在する。なぜというに、死という事実の外は、我々は知ることが出来ないのだから。あの見習士官の云った通りだ。永遠に恐怖を抱いているよりは、むしろ自分で。」
「むしろ自分で」とソロドフニコフは繰り返して、夢の中で物を見るように、自分の前に燃えている明るい、赤い蝋燭の火と、その向うの蒼ざめた、びっくりしたような顔とを見た。
それは家来のパシュカの顔であった。手に蝋燭を持って、前に立っているのである。
「旦那様。どなたかおいでですが」と、パシュカが云った。
ソロドフニコフは茫然として家来の顔を凝視していて、腹の中で、なんだってこいつは夜なかに起きて来たのだろう、あんな蒼い顔をしてと思った。ふいと見ると、パシュカの背後《うしろ》に今一つ人の顔がある。見覚えのある、いやに長い顔である。
「なんの御用ですか」と、ソロドフニコフは物分かりの悪いような様子で問うた。
「先生。御免下さい」と、背後《うしろ》の顔が云って、一足前へ出た。よく見れば、サアベルを吊った、八字髭の下へ向いている、背の高い警部であった。「甚だ御苦労でございますが、ちょっとした事件が出《しゆつ》来《たい》しましたのです。それにレオニッド・グレゴレウィッチュが市中にいないものですから。」
レオニッド・グレゴレウィッチュというのは、市医であったということを、ソロドフニコフはようようの事で思い出した。
「志願兵が一名小銃で自殺しましたのです」と、警部は自殺者が無遠慮に夜なかなんぞに自殺したのに、自分が代って謝罪するような口吻で云った。
「見習士官でしょう」と、ソロドフニコフは器械的に訂正した。
「そうでした。見習士官でした。もう御承知ですか。ゴロロボフという男です。すぐに検案して戴かなくては」と、警部は云った。
ソロドフニコフは何かで額をうんと打たれたような心持がした。
「ゴロロボフですな。本当に自殺してしまいましたか」と、ひどく激した調子で叫んだ。
警部プリスタフの八字髭がひどく顫えた。「どうしてもう御存じなのですか。」
「無論知っているのです。わたしに前もって話したのですから」と、医学士は半分咬《か》み殺すように云って、足の尖で長靴を探った。
「どうして。いつですか」と、突然変った調子で警部が問うた。
「わたしに話したのです。話したのです。あとでゆっくりお話しします」と、半分口の中でソロドフニコフが云った。
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見習士官の家までは五分間で行かれるのに、門の前には辻馬車が待たせてあった。ソロドフニコフはいつどうしてその馬車に腰を掛けたやら、いつ見習士官の家の前に著《つ》いて馬車を下りたやら覚えない。ただもう雨が止んで、晴れた青空から星がきらめいていたことだけを覚えている。
パン屋の入口の戸がこん度は広く開け放してある。人道に巡査が一人と、それからよく見えない、気を揉んでいるらしい人が二三人と立っている。さっきのように焼き立てのパンと捏《こ》ねたパン粉との匂いのする廊下へ、奉公人だの巡査だのが多勢押し込んでいる。ソロドフニコフにはその人数がひどく多いように思われた。やはりさっきのようにランプの附いている、見習士官の部屋の戸も広く開《あ》いている。室内は空虚で、ひっそりしている。見れば、ゴロロボフはひどく不自然な姿勢で部屋の真中に、ランプの火に照らされて、猫が香箱を造っているようになって転がっている。室内は少しも取り乱してはない。何もかも二時間前に見たと同じである。
「御覧なさい。小銃で自殺しています。散弾です。まるで銃身の半分もあるほど散弾を詰め込んで、銃口を口に含んで発射したのです。いやはや」と、警部プリスタフは云った。
プリスタフはいろいろな差《さし》図《ず》をした。体を持ち上げて寝《ね》台《だい》の上に寝かした。赤い、太った顔の巡査が左の手で自分のサアベルの鞘《さや》を握っていて、右の手でゴロロボフの頭をまっすぐに直して置いて、その手で十字を切った。下《した》顎《あご》が熱病病みのようにがたがた顫えている。
ソロドフニコフのためには、一切の事が夢のようである。そのくせこういう場合にすべき事を皆している。文案を作る。署名する。はっきり物を言う。プリスタフの問に答える。しかしそれが皆器械的で、何もかもどうでもいい、余計な事だというような、ぼんやりした心理状態でやっている。またしては見習士官の寝かしてある寝台へ気が引かれてならぬのである。
ソロドフニコフはこの時はっきり見習士官ゴロロボフが死んでいるということを意識している。もう見習士官でもなければ、ゴロロボフでもなければ、人間でもなければ動物でもない。死骸である。いじっても、投げ附けても、焼いても平気なものである。しかしソロドフニコフは同時にこれが見習士官であったことを意識している。その見習士官がどうしてこうなったということは、不可解で、無意味で、馬鹿気ている。しかし恐ろしいようだ。哀れだ。
こういう悲痛の情は、気の附かないうちに、忽然浮かんで来た。
ソロドフニコフはごくりと唾を呑み込んで、深い溜息をして、その外にはしようのないらしい様子で、絶望的な泣声を立てた。
「水を」と、プリスタフは巡査に云った。その声がなぜだか脅かすような調子であった。
その巡査はどたばたして廊下へ飛び出して、その拍子にサアベルの尻を入口の柱にぶっ附けた。その隙《ひま》にプリスタフはしきりにソロドフニコフを宥めている。「先生。どうしたのです。なぜそんなに。それは気の毒は気の毒です。しかしどうもしようがありませんからな。」
年寄った大男の巡査が素焼の茶碗に水を入れて持って来た。顔は途方に暮れているようである。
プリスタフはそれを受け取って、「さあ、お上がんなさい。お上がんなさい」と侑《すす》めた。
ソロドフニコフはパンと麹《こうじ》との匂いのする生温い水を飲んだ。その時歯が茶碗に障ってがちがちと鳴った。
「やれやれ。御気分が直りましたでしょう。さあ、門までお送り申しましょう。死んだものは死んだものに致して置きましょう」とプリスタフは愉快らしく云った。
ソロドフニコフは器械的に立ち上がって、巡査の取ってくれる帽を受け取って、廊下へ歩み出した。廊下はさっきの焼き立てのパンと麹との匂いの外に、多勢の人間が置いて行った生々した香がしている。それから階段の所へ出た。
その時見えた戸外の物が、ソロドフニコフには意外なような心持がした。
夜が明けている。空は透明に澄んでいる。雨は止んだが、空気が湿っている。何もかも洗い立てのように光っている。緑色がいつもより明るく見える。ちょうどソロドフニコフの歩いて行く真正面に、まだ目には見えないが、朝日が出かかっている。そこの所の空はまばゆいほど明るく照って、燃えて、輝いている。空気は自由な、偉大な、清浄な、柔軟な波動をして、震動しながらソロドフニコフの胸に流れ込むのである。
「ああ」と、ソロドフニコフは長く引いて叫んだ。
「いい朝ですな」と、プリスタフは云って、帽を脱いで、愉快気に兀《はげ》頭《あたま》を涼しい風に吹かせた。そして愉快気に云った。「長い雨のあとで天気になったというものは心持のいいものですね。とにかく世界は美しいですね。それをあの先生はもう味うことが出来ないのだ。」
雀が一羽ちよちよと鳴きながら飛んで行った。ソロドフニコフはそのあとを眺めて、「なんというそうぞうしい小僧だろう」と、愉快に感じた。
プリスタフは人のよさそうな、無頓著らしい顔へ、無理に意味ありげな皺を寄せて、「それでは御機嫌よろしゅう、まだも少しここの内に用事がございますから」と云った。
そして医学士と握手して、附いて来られてはならないとでも思うような様子で、早足に今出た門に這入った。
学士は帽を脱いで、微笑《ほほえ》みながら歩き出した。開《あ》いている窓を見上げるとランプの光が薄黄いろく見えているので、ちょっと胸を刺されるような心持がした。そのとたんに誰やらがランプを卸して吹き消した。多分プリスタフであろう。薄明るく見えていた焔が見えなくなって、窓から差し込む空の光で天井とサモワルとが見えた。
ソロドフニコフは歩きながら身の周囲《まわり》を見廻した。何もかも動いている。輝いている。活躍している。その一々の運動に気を附けて見て、ソロドフニコフはこの活躍している世界と自分とを結び附けている、ある偉大なる不可説なる物を感じた。そして俯して、始めて見るものででもあるように、歩いている自分の両足を見た。それがいかにも可哀らしく、美しく造られてあるように感じた。そしても少しで独《ひとり》笑《わらい》をするところであった。
「一体こんな奴の事は不断はなんとも思ってやらないが、旨く歩いてくれるわい」と思った。
「何もかも今まで思っていたように単純なものではないな。驚嘆すべき美しさを持っている。不可思議である。こうやって臂《ひじ》を伸ばそうと思えば、すぐ臂が伸びるのだ。」
こう云って臂を前へ伸ばして見て微笑んだ。
「何がなんでもいい。恐怖、憂慮、悪意、なんでもいい。それがおれの中で発動すればいい。そうすればおれというものの存在が認められる。おれは存在する。歩く。考える。見る。感ずる。何をということは敢て問わない。少くもおれは死んではいない。どうせ一度は死ななくてはならないのだけれど。」
ソロドフニコフはこの考えを結末まで考えて見ることを憚らなかった。
忽然何物かが前面に燃え上がった。まばゆいほど明るく照った。輝いた。それでソロドフニコフはまたたきをした。
朝日が昇ったのである。
フロルスと賊と クズミン
表の人物
Aemilius Florus 主人
Mummus 老いたる奴隷
Lukas 無言の童
Gorgo 田舎娘
Calpurnia 主人の友の妻
老いたる乳母
差配人
医師
獄吏
跣足《はだし》の老人
従者等
裏の人物
Malchus 賊
Titus 商人
赤毛の女
兵卒等
一
エミリウス・フロルスは同じ赤《あか》光《びかり》のする向側の石垣まで行くと、きっと踵《くび》を旋《すめぐ》らして、蒼くなっている顔を劇《はげ》しくこちらへ振り向ける。そしていつもの軽らかな足取りと違った地響きのする歩き振りをして返って来る。年の寄った奴隷と物を言わぬ童とが土の上にすわっていて主人の足音のするたびに身を竦《すく》める。そして主人の劇しく身を翻《ひるがえ》して引き返す時、その着ている青い着物の裾で払われて驚いて目を挙げる。
往ったり返ったりしたのに草臥《くたび》れたらしく、主人は老人に暇を取らせた。家政の報告などは聞きたくないと云うことを知らせるには、ただ目を瞑《ねむ》って頭を掉《ふ》ったのである。主人が座に就くと童は這い寄って、膝に接吻して主人と一目、目を見合せようとした。フロルスは口笛を吹いて大きい毛のもじゃもじゃした狗《いぬ》を呼んだ。主人と童と狗とがまた園に出た。そして二人と狗とが前後に続いて往ったり来たりし始めた。先頭には主人が立って、黙って大股に歩く。すぐそのあとを無言の童がちょこちょこした足取りで行く。殿《しんがり》は狗で、大きい頭をゆさぶりながら附いて行く。主人は二度目の散歩で気が落ち着いたと見えて、部屋に帰って、書きかけた手紙を書いた。
「僕が今君に告げようとする事件は、君には児戯に類するように感ぜられるだろう。しかしこの瑣事が僕の心の安寧と均衡とを奪うのである。いやしくも威厳を保って行こうとする人間の棄て難い安寧と均衡とが奪われるのである。このごろ僕は一人の卑しい男に邂《かい》逅《こう》した。その人はそれまでに一度も見たことのない人である。しかるにどうも相識の人らしい容貌をしている。もし僕が婆《ば》羅《ら》門《もん》教《きよう》の輪廻説を信じているなら、僕はその人に前世で逢ったと思うだろう。一層不思議なのは、この遭遇の記念が僕の頭の中で勢いを逞うして来て、一夜水に漬けて置いた豆のようにふやけて、僕の安寧を奪うと云う一事である。そこで僕は自分でその人を捜しに出掛けようと思っている。それは自分の弱点を暴露するのが恥かしくて、他人に捜索を頼もうと云う決心が附かぬからである。あるいはこの一切の事件は僕が健康を損じているところから生じたのかも知れない。僕はこのごろしきりに眩暈《めまい》がする。夜眠ることが出来ない。精神が阻喪して、故なく恐怖に襲われる。要するに健康がよろしいとは云われぬからである。僕の邂逅した男は非常に光る灰色の目をしている。膚は日に焼けていて髪は黒い。体格や身の丈は僕と同じである。どうぞカルプルニアさんによろしく云ってくれ給え。そして子供達に接吻してやってくれ給え。あの水瓶はもう疾《と》っくに君の本宅の方へ届けて置いた。そんならこれで擱《かく》筆《ひつ》する。」
二
医師はしばらく黙っていて、そして問うた。
「一体あなたの、その体の工合はどんな場合に似ているのですか。」
「わたしは牢屋に入れられた人の体の工合は知りません。しかしどうもわたしの体の工合はそう云う人に一番似ているらしいのです。こないだ中からは自由行動が妨げられているようで、なお自由意志までも制せられているようです。歩きたいのに歩かれない。息がしたいのに窒息しそうになる。詰まり一種の隠微な不安、不定な苦悶があるのです。」
フロルスは疲れたらしい様子で口を噤《つぐ》んだ。しばらくして顔の色を蒼くして語を継いだ。
「事によるとわたしの写《しや》象《ぞう》には、この病の起る前に見た夢が影響しているかも知れません。」
「はあ。夢を見ましたか。」
「ええ、手に取るような、はっきりした夢を見たのです。そして不思議にもその夢がいまだに続いているようなのです。もしわたしがそうしようと思ったら、わたしは疑いも無くその夢を今でも見続けていて、たとえば話をしているあなたなんぞを、かえって幻だと思うでしょう。」
「その夢をお話になるには、ひどく興奮なさる虞《おそれ》があるでしょうか。」
「なに、なに」と、主人は忙しげに反復して云って、額に出た玉の汗を拭った。そして努力して、忘れた事を想い出す人のように、きれぎれに話し始めた。話の間に声が叫ぶように高くなるかと思えば、また囁《ささや》いて聞かせるように細くなった。
「あなたにだけは今話しますが、誰にも言わないようにして下さい。どうぞ誓言をして下さい。事によったらかえってそれが本当だかも知れません。わたしは知らないのですが、わたしは人を殺したのです。誤解してはいけませんよ。それはあそこでしたのです。夢の中《うち》です。わたしは逃げ出しました。久しい間方々を迷い歩いていて木の実を食っていました。想って見れば、山に生えている桜の実でしたよ。それからパンや牛乳を盗みました。牛乳は牧にいる牛の乳房からすぐに盗んで飲んだのです。いや。ひどい炎天で、むっとするような蒸気が沼から立っていました。ちょうど港の関門を通ろうとする時小刀を盗んだと云う嫌疑で掴まりました。背の高い、赤毛の商人がわたしを掴まえたのです。人がその男の事をチッスさんと呼んでいましたよ。わたしは力が脱けたようで、途方にくれていました。赤毛の女が一人いて、大声で笑う。茶色の毛をした狗が一疋わたしの足元で悲しげに啼いている。そこの往来の石だたみの上には石竹の花が棄ててある。武装した兵卒が大勢その前を通り過ぎる。わたしはそこで皆に打たれていました。ひどい炎天でしたよ。それから真っ暗な、息の詰まるような冷たい処にいました。ああ。田畑や、清い泉や、山風の涼しさはどこへ往ったでしょう。」
これまで話して、フロルスは口を閉じた。そして力の脱けたように項《うな》垂《だ》れた。
医師は「お休みなさい」と云って部屋を出て、差配人に主人の容態を話した。無言の童は目を《みは》って口を開いて、熱心にそれを聞いていた。
夕方にフロルスは年の寄った乳母を呼んだ。乳母はフロルスの前にしゃがんで、お伽話や、小さい時の話をしていたが、それが種切れになってからは、自分の翳《かす》んだ目で見、遠くなった耳で聞いた事をなんの連絡もなしに話し出した。外套を体にぴったり巻き附けて、乳母は歯の無い口からしゅっしゅっと云うような声を出して、こんな事を言った。
「坊っちゃん。二三日前の事でございますがね。港の関門の所で人殺しを見ましたよ。ですけれど、こわい顔はしていませんでした。ほんに光った目をしていました。髪は黒うございました。まるで小僧っ子のような男でございました。わたしの亭主の兄弟で、商売をしていますチッスさんが掴まえたのでございます。」
フロルスは一声叫んで、婆あさんの臂を攫んだ。
「こら。廃《よ》せ。すぐに帰ってくれ。チッスだと。お前チッスと云ったな。魔《ま》女《おんな》奴《め》が。」
叫び声に驚かされて無言の童が駈け附けた。
三
数日間煩悶が続いた。病人はたびたび「もう我慢が出来ない、おれの力に余る」と、繰り返して云った。陰密に心髄に食い込んでいる苦痛のために、今までも蒼かった顔は土色になった。目の縁には黒い暈《くま》が出来た。声は干からびた喉から出るように聞える。一夜も穏かに眠らない。その絶間の無い恐怖は、徒《いたずら》に無言の童を悩ますのである。
病人はある朝日の出る前に起きた。そしてどこかへ往く気と見えて、帽と外套とを出させた。老人の奴隷が用心して何も問わずにいると、主人は奴隷の目を見て、無言の問に答えた。
「お前附いて来るのだ。」
主人はいつもの楽な、軽らかな足取りで歩く。窪んだ頬の上に薔薇《ばら》色《いろ》の紅が潮《さ》している。多くの町や広場を通り過ぎて、主従は大ぶ家を遠ざかった。しかし老人には主人がどこへ往くのだか分からない。そのうち主人が目的地に達したように足を止《とど》めたので、老人が決心して問うた。
「檀《だん》那《な》様《さま》。ここへお這《は》入《い》りなさいますか。」
「そうだ。」
主人の声は苦労の無さそうな声である。二人は監獄の門に入った。
財産があり、身分のあるフロルスであるから、獄吏は別に面倒な事も言わずに、客の要求を容れた。もちろん心附けは辞退せずに受けた。フロルスは頃《この》日《ごろ》逃亡した奴隷が監獄の中に入れられていはせぬか、捜して見たいと要求したのである。
フロルスは隅々まで気を配って、しかも足早に監獄を見て廻って、最後の地下室をも剰《あま》さなかった。その目附は馴染のある場所を見て廻るような目附であった。最後にフロルスは詞《ことば》せわしく問うた。
「囚徒は皆うちにいるのですね。今見たのより外にはいないのですね。」
「はい。あの外にはいません。きのう一名逃亡しました。」
「逃亡者がありますか。名前は。」
「マルヒュスと云う奴です。」
「マルヒュスですか。目の光る、日に焼けた、髪の黒い男じゃありませんか。」名を聞いて耳を欹《そばだ》てたフロルスは、怜《うれ》しげな声でこう云った。
「はい。おっしゃる通りの男です。」獄吏は頷《うなず》いて答えた。
監獄の門を出た時、フロルスはこれまでになく晴々した気色をしていた。子供のように饒舌《しやべ》り続けて縁にはまだ暈《くま》のある目が赫《かがや》いた。
「どうだい。ムンムス爺《じじ》い。あれを見い。こんな長閑《のどか》な空を見たことがあるかい。木の葉や草花がこんなに可哀らしく見えたことがあるかい。これからお前と二人でぶらぶら歩いて別荘に往こう。おれは桜ん坊を食って、牛乳を牛の乳房から飲もう。そして気楽に日を暮そう。お前田舎の娘を一人世話をしてくれ。枯草や山羊の香のする娘だな。少しは葱《ねぎ》臭くてもいい。あの《おし》のルカスは別荘へは呼ばないで置こう。どうだい。ムンムス爺い。きょうのようにおれの元気のよかった事があるかい。あの雲を見い。まるで春のようだ。春のようだ。」
四
別荘の居心のいい家を、フロルスは朝嬉しげに出て、街道や小径を遠方まで散歩する。老人の世話をしてくれたゴルゴオは物静かな、詞少なな、従順な、澹《たん》泊《ぱく》な、小牛の様な娘である。日に焼けた肌をなんの面倒もなく、さっぱりと任せる。留守居をする時は、古い小唄を歌っている。
無言のルカスは呼ばれぬに主人のあとを慕って来て、主人の往く所へどこへでも附いて行く。疲れたような、穉《おさな》い顔の悲しげな目に喜びを湛えている。突然昔の気軽に帰った主人に、しばらくも目を放さぬようにして、黙って静かに附いて行くのである。
主人はいつも山の阻《そば》道《みち》をうろつく。草花の色々に咲いた野に休んで、仰向になって絶間なく青空を見詰めて、田舎の罪のない唄を歌う。そしての童には笛を吹かせる。白い、目《ま》映《ばゆ》いほど白い雲が、野の上、川の上に静かに漂って、何物をか待っている。
主人は髭の伸びた、まだ乳汁《ちち》の附いている赤い口をしてゴルゴオに接吻する。都の手振りは忘れ、葱の香には構わなくなっている。そんな時は無言のルカスが片隅で泣いている。
一日一日と過ぎて行く。たとえば飾りの糸に貫《ぬ》いた花の一輪が、次の一輪と接して続いているようなものである。
ある暮方の事である。フロルスは暢気に遊び戯れていた最中、突然沈鬱な気色になった。俄《にわか》に敵に襲われたような態度である。急に咳枯《しやが》れた声でこう云った。
「どうしたのだろう。どうしてこんなに暗くなったのだ。牢屋じゃないか。」
フロルスは低い寝《ね》台《だい》の上に身を横えた。壁の方に向いて、黙って溜息を衝いた。
そこへゴルゴオがそっと這入って来て抱き附いたが、フロルスは顧みずに、押し退けるようにして云った。
「お前誰だ。知らない女だ。今はいけない。気を附けろ。錠前の音がすると、番人が目を醒ますぜ。」
ゴルゴオは黙って退いた。
無言のルカスが狗のように這い寄って、寝台の縁から垂れている主人の手に接吻した。
五
主人の寝部屋の外で転《うたた》寝《ね》をしている家来共のためには、鬱陶しい夜であった。無言のルカスだけが黙っておとなしく主人の傍にいた。夜どおし部屋の中を往ったり返ったりしている主人の足音が聞えた。暁近くなって、家来共がまどろんだ。
たちまち空気を切り裂くような、叫び声が響いた。人の声らしく無い。この世のものでないものが、反響のするように「死」と叫んだかと思われた。
家来共は躊躇しつつ戸を敲《たた》いた。無言の童が内から戸を開けて入れた。童の顔は、いつもの子とは見えぬほど、恐怖のために変っている。そして童は、ついに物を言ったことの無い口で、あらあらしく「死だ、死だ」と繰り返して云う。の物を言うのを不思議がる暇も無く、家来共は寝台に駆け寄った。
フロルスは寝台の上に、項《うなじ》を反らせて、真っ黒になった顔をして動かずにいる。ルカスは今離れたばかりと見える寝台に、また駆け寄って、無言で俯《うつ》伏《ぶし》になった。
恐怖の使は医師と差配人との許に走らせられた。
の童は絶間なく「死だ、死だ」と云う詞を反復している。ただこの詞だけを言うために物を言い出したかと思われるくらいである。
フロルスは項を反らせて、真っ黒になった顔をして動かずにいる。手が一本だらりと寝台の縁から垂れている。
医師が来てフロルスの体を検査した。フロルスはたしかに死んでいた。医師は驚きながら差配人に死骸の頸の痕を指さして見せた。くるりと帯のように、黒ずんで腫れ上がって、皮の下には血が出ている。なんとも説明のしようの無い痕である。
フロルスの死目に逢ったただ一人のルカスは、恐怖のお蔭で物が言われるようになって、吃《ども》りながらこう云った。
「死だ、死だ。また縛られなすったのだ。そして歩いて歩いて、とうとうがっかりなすって、床の上にお倒れなさる。わたしにはなんにもおっしゃらない。わたしは飛び附いた。すると咽《のど》をぜいぜい云わせながら、目を開《あ》いて御覧なすった。ああ。神々様。朝日が窓から赤く差した。フロルス様は黒くおなりなすって、それきり動かなくおなりなすった。」
死骸の始末などのために、人々はルカスの事を忘れていた。
翌朝やっと明るくなるころ、襤《ぼ》褸《ろ》を着た跣足《はだし》の老人が来て、フロルスに逢いたいと云った。主人の怪しい死様について、何か分かるかと思って、差配人が出て老人に逢った。
老人は骨《こつ》《こう》で、しかも淳《じゆん》樸《ぼく》なものらしい。周囲《まわり》に狗がたかって吠えている。
「内の檀那の亡くなったのを、お前知らずに来たのかい。」
「いいえ。知りません。だがそれはどうでもいいのです。わたしはただ言い附けられた用を済ませさえすりゃあいいのです。」
「誰が言い附けたのだ。」
「マルヒュスさんです。」
「それは誰だい。」
「今はこの世の人ではありません。」
「亡くなったのかい。」
「きのうの朝おしおきになりました。」
「内の檀那を知っていた人かい。」
「いいえ。知らないのですが、よろしく言って、そして死んだことを知らせてくれと云いました。それからこちらではが物を言うだろうと云いました。」
「うん。おれはもう物を言っている。」これはルカスが駆け寄って、老人の手に接吻しながら言ったのである。
「お前檀那の死顔が見たいのかい」と、差配人が問うた。
「なに。それには及びません。ひどくお変りになりましたか。」
「うん。ひどくお変りになった。」
「マルヒュスさんも羂《わな》でひどく顔が変りました。頸にひどい痕が附いて。」
「まだ何か言うことがあるかい。」
「いいえ。もう往きます。」
「わたしは一しょに往くよ。」これはルカスが優しい声で云ったのである。
もう日が薄紅に中庭を彩っていた。雇われて来た女《おんな》原《ばら》が、痩せた胸をあらわにして、慟《どう》哭《こく》の声を天に響かせた。
この訳稿の首《はじめ》に人物の目録を添えたのは、脚本には有っても、小説には例の無い事である。訳者はただこの短篇を会《え》得《とく》し易くしようと思って、特に読者のために、篇中に出してある人物を表裏二様に分けて列記して置いただけの事である。
馬丁 アレクセイ・トルストイ
白い卓《つくえ》掛《かけ》の上には、小さい毛の生えた足を伸ばして、一匹の蜘蛛が下がっている。ランプの笠の周囲《まわり》を軽げに飛び廻っているのは、緑色の羽をした小さい虫である。蚊のおばさんが一匹、火傷《やけど》をした長い脚を机の上に引き摩《ず》って行く。出窓に纏《まと》い附いている蔦《つた》が戦《そよ》ぐ。眠たくなった鳥が一羽、庭の木立の中をかさかさ云わせている。
アレクサンドラ・アポルロノフナ・チェムオラトワは美しい指でビスケットを割っている。白髪の上に被った、黒い、蝙蝠《こうもり》のような帽子がゆらぐ。
「庭の方はオロドヤが番をいたしていますの。ピストルを一つ買ってやりましたの。」こう云って、アレクサンドラは優しく客の顔を見た。客は隣の荘園の持主でソバキンと云う若者である。
ソバキンは微笑んだ。その時血色のいい、軟かそうな頬が横に広がった。「わたしはお受合いしてもいいのです。実際オツシカと云う馬盗《どろ》坊《ぼう》がいるのではありませんね。誰やらが牧師さんの所の馬車を盗む。そうすると、もう界隈で、そら、オツシカが来たと云う噂が広がるのです。そのオツシカと云うのは盗坊の総称で、それに不思議な力やえらいところがあるように言い触らすのは、土地のものが想像で拵《こしら》えたのですね。」
おばさんはかぶりを振った。「いいえ。あれはみんな本当ですよ。こないだだってそうです。前の晩に馬を盗んだかと思うと、翌朝は遠方で人が見掛けたと云うじゃありませんか。」
「本当に見たのですか。」
「そうですとも。見たのです。なんでも人の話では、珍らしい小男で、太っていて、頭が禿げていますってね。それから黒い頬髯が帯まで届いているそうです。」
ソバキンはほとんど目立たぬほどに微笑んで、肩をちょっとゆすった。
おばさんは詞を続けた。「この土地へ入り込んだのは、今度で二度目です。田畑を持ったものはひどく恐れて、馬を鉄の鎖で繋いで、たまを籠めた銃を厩《うまや》番《ばん》にわたして置いたそうです。それでもとうとう盗んだのです。」
「人が知れているのに、なぜ掴まらないのでしょう。」
「いいえ。それは見附かったって、百姓が訴えなんかしません。火を附けられるのですもの。あなたの所のホミアコフカなんぞもあなたの所へ参る三年前に火を附けられたのです。」
「はてね。あなたのお話を伺っていると、だんだんこわくなって来ますね。」
「それはあなたなんぞはこわく思っておいでなさらなくてはならないわけがございます。あなたの所の牡《お》馬《うま》のようなのが内の厩にいたら、わたくしなんぞは夜も寝られないだろうと思います。始終気を附けていなくてはなりませんから。」
「ええ。あのカリオストロは逸《いち》物《もつ》ですよ。クリスマスになったら競馬所の方へやろうかと思っています。」
「ですけれど、あなた、本当にうっかりしておいでなすっては悪うございます。それにあのアルヒイプのような。」
「ええ。アルヒイプですか。あれは陰気な人附きの悪い男ですが、確かな事は確かです。百姓ですから、髪をもじゃもじゃさせて、狼のような目附きをしていますが、あれで、忠実な事は。」
「それですからあなたは。」おばさんは言いかけて溜息を衝いた。
高等学校の服を着た青年が庭から出窓へ上がって来て、手すりの上に拳銃を置いて、さも草臥《くたび》れたような様子で云った。「おばあ様、お茶。」
おばさんは興奮した調子で云った。「そんな所にお置きでないよ。ピストルの置場は気を附けなくてはいけません。」
「だって、おばあ様、丸《たま》も何も籠めてはないのですから。」
「同じ事ですよ」と云って、おばさんは身幅の広い裳をざわ附かせながら起って、拳銃をナプキンにくるんだ。
ソバキンが青年に言った。「オロドヤさん。盗坊はどうしたね。」
「どうもしません。たくさんいます。」チイスを頬張りながら答えた。
「ふん。もう人を一人ぐらい殺したことがあるかい。」
「あそこの土手の上の柳の木の背後《うしろ》には盗坊の頭がいるのですが、あぶなくって土手までは行かれません。」
「晩方は池の方はしめっぽうございますね」と、アレクサンドラが云った。
青年は狡猾げに目ばたきをして云った。「おばあ様。僕は弾薬を持っていますよ。」
「どこから持って来たの。すぐにここへお出しなさい。オロドヤ。逃げるのじゃありません。ソバキンさん。すみませんが、あの子を掴まえて、弾薬を取り上げて下さいまし。」
ソバキンは微笑みながら庭へ出た。間もなく二人は追っかけっこをするようにして、出窓の前を横切った。ソバキンの両腕を振って駆ける様子を見れば、もういつもの大人らしい落着きは無くなっている。青年は掴まえられまいとして、声を立てて逃げる。
「まだ二人共子供だ」とアレクサンドラは思った。ちょうどその時食堂の時計が十一時を打ち出したので、アレクサンドラはそれを数えている。
アレクサンドラは声を掛けた。「オロドヤ。もう寝るのだよ。十一時だから。」
忽然馬に乗って来て、ウェランダの前で馬を止めて垣を叩くものがある。「ソバキンの檀《だん》那《な》はこちらにおいでですか。」知らぬ男の声である。
「誰だい。」アレクサンドラは目下に言うような厳《いかめ》しい声で云った。
「ソバキンの檀那の所のミハイロでございます。」
ソバキンは青年の肩を抱くようにして、出窓の上に現れた。
「おれを尋ねるのは誰だ。ミハイロかい。何事があったのだ。」
垣を隔てて姿の見えぬ家来が云った。「飛んだ事がございました。カリオストロを盗んだ奴がございます。」
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夜の野道を馬に駆足をさせて帰ったソバキンは、馬を汗だらけにして、自分も頭から塵を被って、荘園の中庭に駆け込んだ。見れば厩の戸が開いていて、その前には百姓共が集まって提灯を振り廻している。
「お前達は途方もない事をしでかしたなあ。」ソバキンは叫ぶように云った。
「災難でございます。これでは誰だって防ぎようはございません。」
ソバキンは厩の中に駆け込んだ。馬立ての手すりが折れている。外壁の下の端に穴が開いている。盗坊はそこから這入ったものと見える。
「アルヒイプはどうした。」ソバキンが問うた。
「酔っ払って寝ていて、呼んでも起きません。」
アルヒイプは秣《まぐさ》の積んである上に仰向になって、庇なしの黒い毛編の帽子を被ったまま、項《うなじ》を反らせて、蒼い顔をして寝ていた。
外《ほか》の家来共が云った。「どうもしたのじゃありません。生きています。恐ろしく酔っているのです。」
「横着者奴が、水を掛けてやれ。」
飼《かい》桶《おけ》に水を汲んで来て、それを高く持ち上げて、アルヒイプの頭に水を掛けた。
「いいから皆掛けてやれ。」
アルヒイプの頭も襦《じゆ》袢《ばん》もずぼんもぐっしょり濡れた。アルヒイプはようよう起き上がった。そして血走った目をしてあたりを見廻した。
「どうしたんだ。」アルヒイプは不審げに云った。
「おい。アルヒイプ。カリオストロはどこにいる。」
アルヒイプはのっそり立ち上がった、折れた手すりと、ちぎれた麻《あさ》索《なわ》と、壁の穴とを丁寧に見て、平気で云った。「盗んだのです。わたしが気を附けなかったもんですから。」
家来共は口々にわめいた。「わたくし共は寝たのです。するとミハイロが、ちょっと往って馬を見て来ようと云って、出掛けました。間もなく走って来て、取られた、取られたと云ったのです。」
「ふん。そこで貴様は追っかけただろうな。」ソバキンは家来共の前に詰め寄るようにして云った。
家来共は皆変な顔をした。そんな徒労を誰がするものがあろうと云うような顔附である。しかし詞だけは丁寧に云った。「ですが、檀那、駄目ですからね。あいつですから。」
「なに。あいつとはなんだ。」
「オツシカです。」
「馬鹿。オツシカなんと云う人間はいないのだ。」
「いますとも。カリオストロもあいつが取ったのです。知れています。」
ソバキンは叫んだ。「馬鹿。すぐに馬で追っ掛けろ。掴まえて来い。」
家来共はまごまごしていて、誰一人馬を引き出そうとするものがない。
「どうしたのだ。」
「ええ。わたくし共では駄目です。」
「詰まらん奴等だなあ。」
「もう山の向うあたりへ越しているのですから、なんにもなりゃあしません。」
ソバキンはウェランダの上に駆け上がった。「せめて貴様だけ来い。ドミトリイ。すぐに馬に鞍を置いて、村まで往ってくれ。警察に届けるから。早くしろ。」
翌朝警官に取り調べられて、馬丁アルヒイプは申し立てた。昨晩は酒に酔っていた。物音は聞かなかった。誰やらが自分の胸の上に乗って、手足を縛った。それが一人だったか二人だったか覚えていない。蛮人めいた、苦虫を咬《か》み潰したようなアルヒイプの口からは、これ以上の事は引き出されなかった。アルヒイプは暗い部屋へ帰された。
警官は出されたオドカを一杯飲んで、ソバキンに握手した。「どうもあのアルヒイプと云う男が怪しいですな。今に分かりますよ。」こう云って馬車に乗って帰った。
馬車の鈴の音は、丘陵の向うになってから聞えなくなった。ソバキンは出窓へ出て、口笛を吹きながら庭に降りて、菩提樹の並木の間をぶらぶら歩いている。そして心の内に思うのである。「これから面倒な取調べが始まるのだ。だが馬は帰らない。畜生奴《め》。あんないい馬を盗みやあがって。」
ソバキンは胸がむしゃくしゃするので、すぐにどこかへ馬車で出掛けようかと思った。それとも何か為《し》事《ごと》をしようか。どうもじっとしてはいられない。「人はなんとでも云うがいい。おれはあの馬を取り戻して見せる。」こうつぶやきながら、ソバキンは耳を欹《そばだ》てた。じき傍に、ちょうどアカシアの木立の中で鳴り出したように、馬車の鈴の音がする。木立の背後《うしろ》を横切って、家の前に来て止まった馬車がある。その中からアレクサンドラのおばさんが出た。
ソバキンは出迎えて云った。「よくお尋ね下さいました。実に意外千万な事がございましてね。あのカリオストロを盗んだ奴があります。消えたように無くなってしまいました。」
「それ御覧なさい。わたくしがそう申したが、あなたは《うそ》だとおっしゃったのです。わたくしの申した通りでしょう。来ましたでしょう。」おばさんは得意である。「いずれアルヒイプが手伝っていますよ。弟の内で取られた時もそうでした。」
二人は並木を歩きながら話すのである。おばさんが語り続けた。「いまちょうどウラルスクに馬市が立っています。なるたけ早く往って御覧なさい。カリオストロはきっと市に出ていますから。」
「ウラルスクへ往くのですか。」
「そうです。馬でいらっしゃいまし。その方が早くて、都合もよろしゅうございます。弟もワジムを盗まれた時、すぐに馬で市へまいりました。」
「そしてどうなすったのです。」
「取り戻してまいりましたの。ワジムを牽《ひ》いて来た百姓が縛られて、弟はワジムを受け取って帰りました。」
「そうですか。そんならお詞に随《したが》って出掛けましょう。」
「そうなさいまし。そんなら御気嫌よう。」おばさんはソバキンの額に、ソバキンはおばさんの手に接吻した。
おばさんはすぐに帰らずに、しばらく一しょに並木を歩いていて、いろいろ注意をしてくれた。おばさんは絹の吊鐘形の衣裳を着て、ソバキンは素絹の短いジャケツを着て、並んで歩いているのである。おばさんは四百キロメエトル以上の道を四日に往復するには、馬をどう扱わなくてはならぬとか、どこで泊るがいいとか云って教えた。おばさんは最後に云った。「カザアキ兵には気をお附けなさいよ。食えないのですから。」
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夜の広《ひろ》野《の》は暖かである。忙がしい馬蹄の反響する、少し灰色を帯びた道を、大空の星が照している。井戸の流しの音がする。野中の人家が近くなったと見える。
森もなく川もない処、永遠にさまよう、無定住の民の踏んで行く道の傍《かたわら》、人を葬った円《えん》壟《ろう》のようなものが点々碁《き》布《ふ》している一望無際の平沙の上に、菌《きのこ》の生えるように出来る人家である。これに近づけば湿気と煤《ばい》烟《えん》とが面《おもて》を撲《う》つ。ソバキンは馬の鞍壺に立ち上がってあたりを見廻した。そして灯の光が目に入るや否や、野原を横に馬を乗り入れた。その蹄《ひづめ》の音を聞き附けて、数匹の狗《いぬ》が吠えはじめた。最初は低い声でそれからだんだん声を高くして吠えた。夜番の拍子木を打つ声が聞えた。ソバキンが目の前に、闇の中から藁《わら》葺《ぶき》の穀物小屋や厩が湧いて出た。それと同時に乗っている馬の口を目掛けて、あまり怒って声を嗄らしたように吠える番犬が、八方から飛び附いた。そこへ番人が出て来て、口笛を吹いて犬を退かせた。しかしその番人は大きいカフタンを体が埋《うず》まるように着て、黙って立っている。
ソバキンは闇の中で番人の顔を見ようと努力しつつ云った。「おじさん。今晩は。この家は誰のだね。」
「イワン・イワノウィッチュ・サオリキンと云うカザアキの家です。」
「ここから村まではまだよほどあるかね。」
番人はしばらく黙っていて、それから小声で独《ひとり》語《ごと》のように云った。「遠くなくって。野原ばかりだから。」どんな村がこの辺にあるか知らぬらしい詞である。
「どうだね。この内で泊ることは出来まいか。御亭主に聞いて見てくれんか。まだみんな起きているだろうから。」
「もう寝ました。とっくに寝ました。」鈍い調子の声である。
「困ったなあ。どうしよう。」
「まあ。聞いてみましょう。ここで待っていて下さい。」こう言い棄てて番人は家の中へ這入った。しばらくしてから三つある窓に明かりがさした。番人が出て来て、ソバキンの馬の《たづな》を取って、「お這入りなさいと申します。」
絨緞を掛けた行李の置いてある廊下を通って、客間に這入って見ると、そこはサルウィアと苦よもぎとの匂いがする。土地で蚤《のみ》避《よ》けに使っている草である。それから鞣《なめし》革《かわ》の匂いがする。壁には鞍や、釣竿や鞭が掛けてある。右手の前の角に大きい、煤けた聖者の像がある。
一体こんな真夜中に人の家に飛び込むのは不愉快だと、ソバキンが腹の中で思った。
そこへ隣の間から背の高い、骨々しい老人が髯を撫でながら出て来た。これがサオリキンである。濃い藍色のカザアキ服の腰の所に革帯を締めて、金《かな》巾《きん》の襦袢の胸の控鈕《ボタン》を掛けずにいる。
ソバキンは自分の名を言った。
「よくおいでなさいました。内ではお客ならいつでも留めます。」低いバスの調子である。灯火に透かして、主人の黄いろい、締まった顔、直《すぐ》な、幅の狭い鼻、黒い目を見れば、ラスコルニック宗派の聖者の像に似ている。主人は語を続《つ》いだ。「どうぞおかけなさい。どちらへおいでですか。ウラルスクですか。」例のバスの調子でこう云いながら、頷くように頭を掉《ふ》って、平手で顔を下から上へ撫で上げている。主人はまたこう云った。「きょうはウラルスクの市へ馬をたくさん牽いて行きましたよ。それでも元から見れば少いのですが。」
素足の娘がサモワルを持って来た。晩食に焼酎が添えてある。
ソバキンは極まりの悪いような気がした。それに主人に対してどんな態度を取っていいか分からなかった。それでも焼酎を飲んだ。多分疲れているからだろう。焼酎がすぐにひどく利いた。ソバキンはいい機嫌になって、馬を盗まれた事、それを捜しにウラルスクへ往く事を始めから終りまで精しく話した。
サオリキンは俯目になって、不機嫌な様子をして聞いていたが、ソバキンが話してしまうと、卓の上を指尖で敲《たた》きながら云った。「まあ、わたくしの思いますには、おいでになるのは駄目ですね。」
「なぜですか。」
「あなたを殺しますよ。」
「どう云うのですか。わたしを殺すとは。」
「とにかく内へお帰りになった方がいいと思います。牡馬を一頭お買いになるくらいの金は御都合の出来ないこともございますまい。畜生一疋のために命《いのち》懸《がけ》の所へおいでになるのは詰まらないじゃありませんか。」
「それはあなたにわたしの心持が分からないのだ。わたしは何も馬一頭のためにかれこれ云うのではありません。わたしは自分の意志を貫徹したいのです。」
「いえ。わたくしにもあなたのお心持はよく分かっています。あなたは立派な旦那ですが、まだお若いのです。それで世間の事がよくお分かりになりません。早い話が、今晩わたくしの所へおいでになる。わたくしがどんな男だか、まるで御存じ無い。そしてただ今承ったようなお話をなさる。そこでもしそのあなたのお馬が内に繋いであったらどうなさいます。ええ、旦那。わたくしはただ譬《たとえ》でお話をするのです。法律なんと云うものは、こんな野原にいる人間のために出来ているものではありません。この辺の井戸は深うございます。わたくしがその中へ人を一人ほうり込んで、上から土を掛けてしまえば、それで世界に生きていた人が一人消えて無くなるだけの事です。こんな事を申したって、何もびっくりなさらなくてもようございます。わたくしはただ譬でお話をするのですからね。しかし実際そんなような事もございましたよ。いい加減な事を申すのではございません。こんな野原ではカザアキが王様です。なんでも出来る権利がありまさあ。外の事に対してばかりではありません。人の命だって、どうにも出来ますからね。」
むっとするような部屋で、サオリキンの話を聞いていて、ソバキンは眩暈《めまい》のするような心持になった。そして主人の翁《おきな》の顔が、部屋の隅から厳《いかめ》しそうな表情をして自分を睨んでいる聖者の顔に似て来る。薄い脣の上に赤い八字髭の生えているところから、くっきり窪んだ頬や人を詛《のろ》うような目附きまでが似て来る。どうも主人の両眼が自分を陥いれようとして一《いち》図《ず》にねらっているようでならない。それに向うの煤けて黒ずんだ衣の上に見えている目は一層恐ろしいようだ。 「この人達の神は野原の神だな」 とソバキンは心の中《うち》に思った。
サオリキンは語り続けた。「ええ、檀《だん》那《な》。あなたはお聞きになる事が変なようにお思いなさるでしょうね。あなたなんぞの住んでおいでになる都会では別でさあ。体は大事にしておいでになる。そして霊は涜《けが》して平気でいなさる。それとは違ってこの土地では誰の霊も空を飛ぶ鳥のように自由なのです。ここでは霊と云うものは純潔なものです。涜しようがありません。野原は清《しよう》浄《じよう》ですからね。神様は今でもこの野原を歩いておいでになります。ここで十字架にお掛けられなすったのです。ですからここでわたくし共のために審判をして下さるのです。それはわたくし共は罪はたくさん犯しています。しかしそれを神様はかなりたくさん免《ゆる》して下さるだろうと思います。」
「なんだかここはむっとしていますね」と云って、ソバキンは立ち上がった。気味が悪くなったので、この老人の傍を避けようと思ったのである。
サオリキンは素足の娘を呼んだ。「マリア。檀那に冷たい水を取って上げい。そして廊下の寝《ね》台《だい》へお連れ申せ。」
廊下に出て見ると、敷物の掛けてある行李が鞦韆《ぶらんこ》のようにゆら附いているらしく感ぜられる。そしてその最中に「神様は今でもこの野原を歩いておいでになります、ここで十字架に」と云う声が脅迫するように響いて来る。行李の上に横になりながら、「あいつ等の神は恐ろしい神だ、草の神だ」と、ソバキンは思った。
翌朝ソバキンは主人の機嫌を損じまいとして、もと来た道へ引き返したが、カザアキの家の藁屋根と羊の角を附けた竿とが、青みかかった遠方に見えなくなる時馬の首を向け換えた。そしてゆうべ泊った家の辺《あたり》を遠廻りをして避《よ》けて、南へ馬を歩ませた。日は照る。薫りのいい風は吹く。調子附いて来た馬の背に快く揺られて、ソバキンは道を急いだ。
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馬市の立つ草原には仮の厩が出来て、それにまだ野性を脱せない、意地の悪いシベリア馬の幾群かが繋いである。
馬は大きい頭を互に背の上に載せ合って、尾を振り廻して、白らけた日を仰いで瞬きをしている。その周囲《まわり》には黄いろい草《くさ》原《はら》が広がっている。どこにも丘陵や立木は見えない。ただずっと背後《うしろ》の方に市場の物の音がする。そしてパン焼屋の鉄の烟突から烟が立っている。
栗毛が一匹もう退屈で我慢がし切れなくなって、埒《らち》を跳り越えて出た。風に向いて嘶《いなな》きつつ、鬣《たてがみ》を吹き靡《なび》かされて、駆足で野原へ走った。
バシュキル族の馬方がそれを見て何かがやがや言い合っていたが、たちまち馬に飛び乗って追いかけた。麻の上衣を着て耳の長い帽子を被っている、先に立った一人は索《なわ》を揮《ふ》っている。その外の馬方共は馬を縦横に馳せ違わせている。
栗毛はどっちへ向いて見ても、耳の長いバシュキルが八方から取り巻いている。右へ走り左へ走りするうちに、とうとう首に索を投げ掛けられてしまう。馬方はすぐに尾を縛って、鞭を食わせて、群の方へ連れて行く。栗毛は喘いで倒れる。そこで首の索《つな》を弛めて厩へ連れ込むのである。
「どうだね、もう懲りて逃げ出しはすまいね」と、ソバキンはパシュキル族の一人に尋ねた。
馬方は皺だらけの顔を一層皺だらけにして、白い歯を剥き出した。「ええ、ええ、もう行儀をよくしていまさあ。どうです。こいつをお買いなさいませんか。檀那。」
「いや。その馬はいらない。おれは驪《あお》が欲しいのだ。二分の一雑種で、このくらいの高さで。」
新しいシャツを着た百姓が二三人、傍へ寄って来て、厩《うまや》の埒《らち》に肱を載せて話を聞いている。そのどんよりした目には懶《らん》惰《だ》と人のよさとから出た平和が見えている。
突然裂けた半毛皮を着た、半盲の小男の百姓が、人を分けるようにして進み出て、狗の目のような目で瞬きをして云った。「檀那。わたしの馬を買って下さいな。まあちょっと見て下さいな。」こう云って駆け出しそうにしてまた引き返して来た。「葦毛です。」
「いや。おれは驪が欲しいのだ。」
突然また頬のふくらんだ、太った、若い男が割り込んで来て云った。「檀那、驪がお望みですって。まあ退《の》けよ。手前なんぞは商売をすることを知らねえ。檀那、お待ちなさい。わたしがあなたに驪の牡を売って上げます。もう売って上げたと云ってもいいようなものだ。」こう云って羊の牡のような腰附きをして立ちはたかった。
周囲の百姓共が笑い出した。
若い男は高々と気《おくび》を一つして、胼胝《たこ》だらけの両手を拡げて、精一ぱいの声で歌を歌い出した。
「なるほど、こいつは一言無い、どうにも手におえない」と云って、百姓共が笑った。
ソバキンは微笑んだ。
若い男は酒に酔っている。胸で人を押し分けるようにして進み出て、ソバキンの鼻の下を黄いろい爪が往ったり来たりするように手を振って、吃《ども》りながら云った。「べらぼうめえ。わたしが是非買って貰わなくちゃあ。なに、もう買って貰ったようなものだ。すばらしい牡でさ。沓《くつ》足《た》袋《び》を穿いているような驪でさ。」
「お前はひどく酔っているな。何をうろつき廻るのだ」と、ソバキンが云った。
若い男は黙った。そしてその白けた目が血走って光って来た。
ソバキンは一歩却《しりぞ》いた。
「おれがうろつき廻るのだと。」若い男はこう云って、ソバキンに立ち向った。
半盲の百姓がせわ焼き顔に中に立って、「いいからよせと云うことよ、檀那がお尋ねなさるのだから、御返事をして引き下がればいいのだ」と云って、若い男の筒袖を引いた。
「おれに障るない」と、若い男は吠えるように云った。そしてその筋張った体が緊縮して、拳がソバキンの頭の上に打ち卸されそうであった。
その時巌《がん》畳《じよう》な毛だらけな腕が一本、背後《うしろ》から若い男の胴中を抱いて、引き摩るようにして若い男を百姓共の群から引き退けた。
「退け、そのくらいふざけりゃあたくさんだ」と、その腕の主が云った。可笑《おか》しいほどの小男の禿頭の百姓である。黒い鬚《ひげ》が日光を受けてきらついて、目は小鼠の目のように動いている。
「放せ。手前退くがいい。」若い男はこうどなって、手をばたばたさせて振り放そうとした。
しかし禿頭は放さずに車のある所まで引き摩って退いた。
ソバキンは急に周囲のものに問うた。「あれは誰だね。あの禿頭は。」
百姓共は互に顔を見合せて、中には跡すざりをするのもあった。麻の襦袢の襟を寛《ひろ》げて着て、その間から真っ黒な首を出している老人が目をぱちくらさせて云った。「あれですか。オツシカです。」
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オツシカは造《ぞう》做《さ》もなく掴まえられた。巡査数人に取り巻かれて、湯呑所に這入って行くのを、ソバキンはあとから覗いて見た。巡査の手荒い拳の下で、オツシカは身をもがいて、蜘蛛《くも》が足を縮めたように小さくなった。それに巡査が肩から縄を掛けて、暗い部屋へ押し籠めた。
そのあとから群集が騒ぎながら附いて這入った。オツシカの罪状は随分重なっていたらしいが、誰も怖れ憚《はばか》って手を出しかねていたと見える。それがこうなって見ると、あとからわいわい云って附いて来て、口々に罵る。中にはオツシカと顔を見合せて、「どうだい、盗坊、とうとう食《くら》い込んだな」と云って、オツシカの顔を打つものもある。
巡査は群集を逐《お》い退けるに大骨折をした。赤い頬鬚のある、物馴れた警部は、地から生えたようにその中に突っ立っていて、「さあ、行け行け」と云った。
馬市はこの事件のために日の暮れるまで喧騒を極めていた。オツシカはもう暗い小屋の鉄の格子の背後《うしろ》にすわっている。そして審問を受けてもなかなか罪に服せない。「オツシカと云うのはわたしです。だが馬なんか盗んだことはありません。わたしをこんなにいじめるのは余計な事です。」
そこでソバキンは自分で馬のありかをオツシカに問うて見ようと思った。もし威《おど》しが利くなら威して見よう。また恩を売ることが出来るなら、助けてやる手段があると云って見ようと思ったのである。こう思って夜遅くなってからオツシカの一人でいる部屋に這入った。ソバキンは真っ暗い部屋の中央に立ち留まったが、ただ囚人の息づかいが聞えるだけで姿は見えなかった。そしてよほど優しい声をするつもりでこう云った。
「オツシカや。お前が馬を盗むと云うことは誰だって知っている。お前は随分罪を造っているのだから正直に白状してしまってはどうだね。おれはために悪いようにはしないつもりだが。」
オツシカは黙っていた。
「まあ、お前考えて見てくれ。おれは何も馬が惜しいと云うのでは無い。あの馬はおれが育てたので、自分の子のように可哀がっているのだから、それで問うのだ。」
「それはそうでしょう」と、オツシカが始めて云った。
「それ見ろ。お前にだって分かっているじゃないか。それになぜおれにこの上苦労をさせようと云うのかい。」
「いいえ、あなたに苦労をさせようとは思いません。あなたはいい檀那だから。」
「だって苦労させているじゃないか。おれは四百キロメエトル以上の道を馬で尋ねて来た。随分面倒を見ている。それにお前が依《え》怙《こ》地《じ》なばっかりで、あの馬を亡くしてしまうのだ。ねえ、オツシカ、どうだね、オツシカや。」こう云っているうちに、ソバキンは自分で自分の詞に感動して、覚えずオツシカのいる方へ歩み寄った。
「檀那、傍へ寄ってはいけません。」うなるような声である。
ソバキンは突然膝頭を痛くて飛び上がるほど衝かれた。入口の戸が引き開けられた。牛が角で人を衝く時のように、頭を前屈みにして小屋を走り抜けしなに、オツシカは番をしていた一人の巡査を脇へ撥ね飛ばした。巡査は投げられた袋のように地に倒れた。オツシカは外へ出た。
慌ただしい叫び声が大勢の人の口から出た。「それ、掴まえろ。掴まえろ。」巡査が闇を衝いて縦横に馳せ違った。
馬市はほどなく鼎《かなえ》の沸くような騒ぎになった。地に触れるように低い所を鉄の提灯が走る。女の叫ぶ声がする。狗が吠える。あてもなく駆け廻る百姓の群から声がした。
「馬をほどいて取って行ったぞ。」
「誰が。」
「誰の馬を。」
「誰のだか、取った奴に聞けえ。」
「乗って逃げたのよ。」
「早く馬を出さないか、馬を。」
群集の頭の上に騎馬の人《にん》数《ず》が現れた。群集に舁《か》かれているように現れた。そして群集の中に道を開いて、町の方へ、川の方へ、野原の方へと散った。
ソバキンも急いで自分の馬に鞍を置いて乗って出た。最初は早足を踏ませていたが、間もなく駆足を出させた。そして車の並んでいる傍を抜けて、人声と足音との入り乱れている中を離れた。
ソバキンの馬は一つの行潦《にわたずみ》を飛び越した。そして鼻を鳴らして駆けた。しかし一二度物を飛び越したかと思うと、突然駐まった。そこは崖で、ほど近い所にやはり騎馬で来たものが二三人いて、こんな事を言っている。
「ここは河だ。返ろうか。」
「なに。越そうじゃないか。」
「ところが崖だから、間違うと頸の骨を折ってしまう。」
その時右の方の遠くから蹄の音と呼び声とが聞えた。ソバキンはその方角に向いて行って、その呼んでいる人達に近づいて問うた。
「どうだね、掴まったかね。」
問われた百姓共は吹き出した。「なに、檀那、犢《こうし》を一匹追っかけ廻したもんですから、そいつはもう片息になっています。馬鹿にこわがったものと見えて、耳に汗をかいていまさあ。」
「おやおや、お前方は飛んだ猟師だなあ。」
「ええ。とうとう逃げちまいましたよ。馬鹿に早い奴です。」
この詞には敬意が含まれている。
ソバキンの乗っている馬は腰を重げにゆすっている。ソバキンは百姓共に別れて、並足を踏ませて、川に沿うて引き返した。水草の香の籠った、生《なま》温《ぬる》い風が吹いて来る。
たちまち遠方から獣のような尻声を長く引いた叫び声が聞えた。ソバキンは耳を欹《そばだ》てて、覚えず、「あれはなんだろう」とつぶやいた。しかしその声は二度とは聞えなかった。ソバキンはなぜか胸を引き絞められるような心持がした。
この出来事のために疲れ切ったソバキンが、もう宿に帰って寝ていると、誰やら窓を敲《たた》いて、「もしもし、オツシカを連れて参りましたよ」と云った。ソバキンは跳ね起きた。そして寝《ね》惚《ぼけ》心《ごころ》に今聞いた詞の意味を考えた。窓の外の人は囁くように繰り返した。「オツシカを連れて参りましたのです。」察するに、そう云うのは巡査である。
「そうか。わたしはすぐに往くから、ちょっと待っていて下さい。いや。それには及ばない。帰っていて下さい。」こう云って巡査を帰らせて、ソバキンは部屋を出た。外へ出た時は、オツシカが無事で連れて来られたのでないと云うことを、ソバキンが悟った。
小屋に這入ると、酸っぱいような、腐蝕するような臭気がする。煖炉の側の地の上に、木の皮で編んだ筵《むしろ》を掛けた体が横わっている。
巡査はその体を覗いて見るようにして云った。「百姓共がひどい目に逢わせましたよ。御覧なさい。あんな息づかいをしています。罪な事で。」
ソバキンは筵の脇の方から少しまくって見た。裸になった、創《きず》だらけな膝頭を腹へ引き附けるようにして、オツシカは寝ていた。半ば開いた瞼の間からどろんとした白眼が見えている。
「どうしたのだろう」とソバキンは云ったが、心にはたいてい察しが附いて、竊《ひそか》に戦慄していた。
そのうちオツシカの尻が見えた。白い肌が泥と血とによごれている。そしてそこから打ち込んだ杙《くい》の尖が見えている。
「これはなんだ」と、ソバキンは叫ぶように云った。
項《うなじ》を反らせて寝ていたオツシカは一層反りかえった。そして忙がしげに乾いた脣《くちびる》を舐めた。一本の腕は折れて、人の物のようになって傍にある。今一本の腕は拘《こう》攣《れん》したように杙の端を攫んでいる。
ソバキンは壁に手を衝いて自ら支えた。そしてようよう廊下へ出た。胸が悪くて咽《のど》が塞がったようである。酸っぱい、腐蝕するような臭気がどこまでも鼻に附いている。ソバキンは弾丸の臓腑を穿った《やま》鶏《どり》の事を思い出した。
警部がブラシのような八字髭を捻りながら云った。「これが土地で行われている民間の刑罰ですよ。トルコ風です。困ったものですね。オツシカはとうとう白状しました。そしてあなたに話して置いてくれと云うのです。あなたの所の馬丁は手引きなんぞをしたのでは無いから、悪くお思いなさらないようにと云うのです。それにあなたの馬の隠してある所も言ってしまいました。」
「もうわたしは馬なんぞはどうなってもいいのです。こんな始末になるような事をなんだってわたしは始めたのでしょう。」こう云ったソバキンの元気は挫《くじ》けていた。
「いや。ソバキンさん。こうなったのはあなたのせいではないのです。百姓共が疾《と》うから機会を待っていてやりました。こう云うと変ですが、実は警察の方でも憚っていたのですからな。それはそうと、あなたのお馬は野原に住んでいるサオリキンと云うカザアキの所にあるそうです。」
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サオリキンは大ぶ人を待たせる。休まずに遠路を馬で来たのと、きのう非常な出来事に遭遇したのとで、疲れ切っているソバキンは、むっとするような部屋の中を往ったり来たりしている。そして口の内でつぶやいている。
「なに。構うことは無い。ありのままの話をして聞かせてやるまでの事だ。そうしたら親爺奴が馬を返してくれるだろう。」
卓の上では蠅の死骸で真っ黒になったランプが臭い匂いをして燃えている。
「ああ、たまらない。咽が乾いて病気になりそうだ。なんだって親爺奴出て来ないのだろう。ひょっとかしたら気まぐれに乱暴な真似をしやしないか知らん。無論こないだの井戸の話は法螺だが。それにしても少しはこっちも政略的に出なくちゃあなるまいて。ああ、たまらない。なんと云う臭いランプだろう。」
「檀那、今日は。」突然サオリキンのバスの大声が聞えた。見ればサオリキンは、部屋の入口に立って、鞭で長靴の筒をはたいている。「馬を取りに来なすったのだね。」
ソバキンは不意を食《くら》って慌てたように答えた。「なに、取りに来たのじゃないのです。決して取りに来たのじゃないのです。あなたももう聞いたでしょうが、実に可笑《おか》しな事になったのですから。」
「ふん。可笑しいかも知れません。だが、どっちがどっちを笑うことになるか分かりませんよ。」サオリキンはこう云って、それ切り黙って、ソバキンをじっと見詰めながら、傍へ歩み寄って、黒い手で肩を押えた。そして突然叫んだ。「馬鹿犬。」見れば右の手には高く鞭を振り上げていた。
「怪しからん」と云ったソバキンの声は、調子がはずれていた。それと同時に五《ご》味《み》っぽいような、酸っぱいような、胸の悪い匂いが籠み上げて来て、目の前に緑色の輪が見えた。ソバキンは床の上に倒れた。
正気に復《かえ》った時は、ソバキンは例の廊下の寝台の上に寝かされていた。そして最初に目に附いたのは、自分の顔の上に伏さっているサオリキンの横顔である。眉を蹙《しか》めた、痩せて鋭い相貌である。ソバキンは呻吟してサオリキンの顔を避けようとした。
サオリキンはソバキンの上にかぶさるようになって囁いた。「どうですね。気分は直りましたかね。飛んだ事をしましたよ。わたしに魔がさしたのだ。お前さんがわたしを警察に引き渡しに来なすったのだと、一《いち》図《ず》に思ったもんですからね。御覧なさる通り、わたしはこれで罪の無い人間です。赤ん坊も同じ事でさあ。ええ、檀那。御免なさいよ。後生ですから。わたしはあんまり気が勝っていますもんですから。それはあなたを殺そうと思えば造《ぞう》做《さ》はありません。誰にも分かりっこはありません。そのくせわたしは御覧の通りの人間でさあ。」こう口説いてサオリキンは頭を掉《ふ》っている。そして翳《かす》めたような優しい目附きをしている。
ソバキンは手を伸ばして、子供のような極小さい声をして云った。「わたしはお前の事を悪く思ってはいないよ。」
サオリキンはソバキンの髪を撫でて云った。「クリストが今わたし共を見て喜んでおいでなさるのです。そしてこんな事を思っておいでなさるでしょう。この人間共にどこから愛が来て這入り込んだのだろう。たった今まで荒々しい獣《けだもの》のようにいがみ合っていたのに、あの様子はどうだ。まあ、こんな風にお考えなさるでしょうね。人間はクリストの教えによって生きるに限ります。そのくせわたし共にはそれが出来ませんのですね。なかなか出来ませんのですね。」こんな繰《くり》言《ごと》を長い間言っているうちに、サオリキンの目は次第に翳めたように、優しくなるのである。「あしたはお内へお帰りなさることが出来ます。お馬もさっそくお届け申します。決してあなたにお金なんぞを戴こうとは思いません。乗っておいでなすったお馬も草臥《くたび》れていますでしょう。なんならわたしの馬に乗ってお帰りなさい。わたしはめったに馬のいることはありませんから。」
「まあ、なんと云う人のいい親父だろう」と、ソバキンは思っている。
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老夫人アレクサンドラは厚い雑誌を切り開《あ》けている。今日もう煖炉を焚き附けた座敷に珈琲《コオフイイ》の香がする。背の強く後ろへ傾いている椅子が、秋の安息をさせようとして人を待っている。高等学校の生徒さんは窓の下にすわっている。霖《りん》雨《う》の降り灑《そそ》ぐ、薄暗い庭は無《ぶ》聊《りよう》に見える。青年は長い脚をぶらぶらさせて、退屈がっている。
「こないだの事をもっと話して下さいな」と、青年はソバキンをせびった。
「もう皆話したじゃないか。この上何を聞こうと云うのだい。」
「コオリャさんや。もうそんな事を言うのじゃありません。」おばあ様は厳格な調子で云って、目金越しにソバキンの方を見た。ソバキンは白《しら》紙《かみ》の上に小麦種をひろげて検査している。
ソバキンは「崩れそうな粒ばかりだな」とつぶやいて、青年を顧みて云った。「一体何を話せと云うのだい。」
「なんにもありませんの。そんならせめてあの別当の事でも話してお聞かせなさいな。あの時皆で縛ったと云う別当ですね。なんだかこうひどく秘密でも持っていそうな奴じゃありませんか。」
「アルヒイプかい。あいつが秘密を持っているのだって。」こう云って、ソバキンは笑った。
「ほんにそうでございましたっけ。あの男はどうなりましたの。もう放免になったのでございましょうか。」こう云ったのは老夫人である。
「そうですね。放免になったでしょう。わたくしはちょっと弁護してやったのですが、どうも取調べが済むまでは放免することが出来ないと云うことでした。しかしその取調べと云うのも、もうこのごろ済んだはずです。」
「とにかくわたくしはあなたの所のアルヒイプは嫌いでございますね。あれは意地悪でございます。それに真っ黒な目玉をしていますでしょう。こちらなんぞへ参っても、いつでも厩のまわりをうろうろしています。こう何か覗《ねら》っているような風でございますのね。そしてそのたびにあとで何事かあるのでございますもの。」
「ベルラの足が腫れたっけ」と、青年が詞を挟んだ。
「ベルラの足も腫れましたとも。なんにしろわたくしはああしたたちの男は嫌いでございます。まあ、いつまでも牢屋の中に置く方がよろしゅうございますね。それにこないだの事にも関係していないには限りません。」こう云って老夫人は目金をはずした。「まだあなたが、あの荘園にいらっしゃらない前の事でしたが、あの男はこちらの番人を打《ぶ》ったことがございますの。それが畑を馬車で横切らせなかったからと云うのですよ。まあ思っても御覧遊ばせ。わざわざ馬車で畑の上を通ると云うことがありますでしょうか。」
ソバキンは一句一句長く引っ張って、こんな事を言った。「妙ですよ。一体あのアルヒイプと云う奴は打《ぶち》合《あい》なんぞは決してしないのですがなあ。不断は受持だけの事をしてじっとしていますよ。しかしたった一度ちょいと変な事があったのですよ。まだ覚えておいでなさるでしょう。去年の事ですが、ある晩遅くなってこちらから帰ったのですね。それ、あのイワン爺いさんが、七面鳥の真似をした時の事です。わたくしも今ではなぜだか忘れてしまっていますが、あの時はいつもの道を帰らずに、真っ直に牧場を抜けて馬車で帰ったのです。するとあの榜示杙の立っている先に深い沼がありますね。わたくしはアルヒイプにこう云ったのです。暗いから、気を附けろ、すぐ左の所が崖だぞと云ったのです。ところがあいつはずんずん馬を追っているのですね。おいそろそろやれよと、わたくしは云いました。もうそこが崖だと云うことを、わたくしは知っていたのですね。でもやっぱり馬車を留めようとはしないのです。」
「まあ、恐ろしい事でございますねえ。それから。」老夫人はせき込んで問うた。
「馬が自分で真際になった時曲がったのです。何をするのだい、一体と、わたくしはどなったのです。ところがあいつは振り返って、陰気な声でそう云うのです。神様がお助けなさいました、大変な事になるところでしたがねえ、旦那と云うのです。しかしわたくしは偶然だったとしか思いません。何もあいつがわたくしやわたくしの馬をどうしようと思うはずがありませんからね。それにあいつの体だってどうなったか知れないわけですから。」
「いいえ。ああした家族も無ければ田畑も無い百姓は、どんな事をでもするのでございますよ。まあ、悪魔が盆の窪に宿っているのでございますね。それはあなたの所でお使いになっておいでなさるのでございますから、よろしいようなものでございますが、あんなにしていて、不愛想で黙り込んでいますでしょう。そしていつか一度あなたのお住まいになっておいでなさるお内の屋根が燃え出すと云うような事にならなければいいと思いますの。」
「おばあ様。御覧なさいよ。晴れて来ました。」こう青年ウォジアが呼んだ。
老夫人はまだ返事をせぬうちに、一陣の風が出窓の扉を吹き開けた。そして土と落葉との香のする、湿った秋の風が、ぱらぱらとそこらに露を蒔《ま》き散らして、書物の紙を翻した。それと同時に雲間からは日の光が漏れた。
出窓の扉は鎖《とざ》された。食堂では食器を扱う音がからからとし始めた。
老夫人はしずかに起って食堂の方へ行きながら云った。「本当にあのアルヒイプのような性《たち》の男には困りますね。思って見れば気持が悪くなります。どうしてあんな風になるかと申すと、皆百姓のあつかい方が悪いからでございます。とうとう百姓の未開時代に戻ってしまうのでございますね。」
ソバキンは一箇月ほど前に、どうした事か偶然内へ来たのを読んだペテルブルクの急進党新聞の記事を思い出した。あれを読んだ時は、いかにも真理らしく感じた。しかし今はそんな事を思って見たくも無い。目前の感じがあくまでのどかだからである。
夕方になって風が息《や》んだ。沈みかかった太陽が低く垂れている紫丁香色の雲に朱を灌《そそ》いでいたが、とうとうしばらく別れを惜しむように、色の褪めた翼で、湿った黄いろい土を覆って、地平線に隠れてしまった。
あとにはまだ丘陵の上の低い雑木林が輪廓をはっきり見せていて、道の所々にある水《みず》潦《たまり》の湿って光る面が濃い紫色に染まっている。
馬車で老夫人の荘園を辞したソバキンがその道を帰って行くと、車輪はねばり附く泥の中を軋《きし》って、はね上げる泥が顔に迸《ほとばし》り、《たづな》とそれを把《と》っている手とをよごす。
ソバキンは鞣革の上衣の控鈕《ボタン》をはずして、身をゆすって車の上にすわり直した。そしてこう思った。「ああ。これがこの土地の広《ひろ》野《の》だ。人の行かぬ道と世に忘れられた土饅頭とがある。どこからどこまで続いているか、果が知れない。所々にある部落も世を離れて、鼠色になっている。そこに住んでいる人間は野の草のようだ。ちょうど草と同じように沈黙している。なんのために生きているやら、誰も知らない。一代一代と同じ事をして過して行く。野生の燕《からす》麦《むぎ》が育っては枯れるようなものだ。丘を登り、丘を降り、畑を横ぎり、牧を穿って、哀しげな歌を歌っている。一体悲哀と云うものは秋の風の姉妹だなあ。」
たちまち馬車がすべり出して、車輪が深い水潦に嵌まって、馬は体の平均を失って膝を衝いた。「鉄でも打って無かったら、越される丘では無いな」と、ソバキンは腹の中で思って、そして馬に鞭の紐を当てた。
この時背後《うしろ》に追いかけて来るような、忙がしい足音がした。
ソバキンが振り返って見ると、よくは見えぬが、道の窪《くぼ》い処を一人の百姓が駆けて来る。左の臂を振って駆けて来る。
「変だな」とソバキンは思った。そしてもうたいてい知れていなくてはならぬこの場の意味をまだ解せずに、馬に強く鞭を加えた。
男は次第に近づいて来た。草の上はすべらぬので走りいいのである。
「どうしたのだろう。まるで駆《かけ》競《くら》をしているようだ。」ソバキンはこう思いながら、いよいよ馬に鞭を加えた。
馬は軛《くびき》の中に身をもがいた。そして膝を衝いて、また起き上がって、ようよう車を平地に引き出した。
この時駆け寄った百姓が一声鋭く「はあ」と叫んだ。
「アルヒイプか。きさまか。」
「はあ」と二度目に叫んだ馬丁は踏み止まって、臂にはずみを附けて、研ぎ澄ました斧《おの》を車に投げ附けた。そして全身を前に屈めて、物を覘《ねら》うような姿勢をしている。斧は馭者台の前面の板に強く当って地に落ちた。
「きさま何をする。」ソバキンはどなりながら馬を駐めた。
馬丁はがっかりしたらしい風で歩み寄った。
「きさま気が違ったのか。」
「こうなりゃあ、わたしをどうともなさいまし。」馬丁は地平線に赤い一帯をなして残っている夕陽の名残を睨んで、こう云った。
「一体何をするのだい。おれの知った事じゃないじゃないか。」
「旦那はわたしの息子を殺したものだから。」
「息子とは。」
「オツシカです。」
地平線の一帯の紅は次第に暗くなって、夕陽はとうとう赫《かがや》く瞼を閉じた。
ソバキンは馬に並足を踏ませて行く。アルヒイプは少し離れて附いて来る。
「おい。アルヒイプ。おれは今の事を誰にも話しはしない。だがな、もう二度とあんな事をしないでくれ。手前よく聞くのだぞ。オツシカは百姓達が殺したのだ。おれが知っていたら、殺させるのじゃなかったのだ。」
馬丁は変な顔をして、野育の馬の嘶《いなな》くような声をし出した。この男の白い歯を、ソバキンが始めて見た。
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それから一年余たった。
新しい夏が大地を《あぶ》りつつ、黄金の衣を着て過ぎた。もう収穫《とりいれ》の時である。穀物小屋にはそろそろ新藁の香がし始める。毎日毎日日の暮れるまで穀物を扱《こ》く音がしている。
朝になると百姓が来て、ソバキンに訴える。夏からは始終アルヒイプの事でうるさい目を見ているのである。百姓の家畜を盗むことがある。百姓が主人の畑で刈った秣《まぐさ》を車の底に積んで、馬に牽かせて来ると、途中でそれを引き摩り出すことがある。百姓の兵《へ》児《こ》帯《おび》や帽子を取ることがある。アルヒイプはこんな事をして、「言い附けに来るなら、勝手に来るがいいや、罰金を出させてやるから」と云うのである。
そのくせ穀物が皆主人の帳場に納まって、勘定がきちんと済むまでは、アルヒイプは百姓を見張っていて、一束でもごまかさせない。主人のために働くにはあくまで苛《か》察《さつ》にしているのである。そんな意地悪をなぜするのだろうと、百姓共が思った。
百姓共がアルヒイプをなぐろうと思ったことは幾度だか知れない。しかしいつもアルヒイプは旨く逃げる。そうでない時には、自分のした事を主人のせいにしてしまう。
「おれの料簡でするのじゃない」と云うのである。
さて秋になって見ると、主人の持畑が不断の十倍の豊作で、百姓達の持畑が三分の一の不作であった。こう云う年には、誰でも腹の中では旦那の邸に火を附けようかと思う。それは昔からの慣例である。
ある朝の事であった。ソバキンは作物の始末をしながら欠《あくび》をして、馬丁に問うた。「どうだい。百姓共はどうしているかい。」
アルヒイプは肩を聳《そびや》かした。「なあに。どうせ馬鹿者でさあ。」
「ふん。けさもお前の事を言い附けに来たものがあるぜ。どうもこんな風では困るなあ。お前のお蔭で小作人仲間の受けが悪くなってしまう。」
「いいえ。百姓と云うものは外に扱いようはないのですよ。甘い詞なんぞをかけようものなら、すぐに人の首に乗ってしまいますからね。」
「だがね、内の穀物小屋に火を附けると云っていると云うじゃないか。」
「どうですか。」
「チェンブラトワさんの所では実際やられたじゃないか。」
「ええ。あれはいたずらでさ。奥さんが町へお出かけなすったので、いたずらをしたのでさ。」
「まあ、どうでもいい。もうお前は用はないからな、あすの朝早く馬を出してくれろよ。」
「どこかへおいでなさるんですかい。」
「うん。町へ往く。」
アルヒイプは行った。ソバキンは床に這入った。そして寝る前に草花と野菜との絵入目録を引っ繰り返して見ていた。そのうちに花の形が次第に女の顔のように見えて来た。しかも小さい円い鼻の同じ女の顔に似て来た。それからキャベツが頭を掉《ふ》って眼鏡を掛けて、チェンブラトワ夫人になった。ソバキンはもううとうとして来て、心の内で自分の気楽な生活、自分の年が若くて、体が丈夫で、女の事なんかを思っている、気楽な生活を考えて見た。
しばらくして力の這入った囁きの声に、ソバキンは呼び覚された。「旦那さん。お起きなさい。」
ソバキンは跳ね起きて、素足で床の上に立った。何事とも弁《わきま》えずに、目を《みは》って見れば、アルヒイプが手に明りを持って、少し逆上した様子をして前に来ている。
「なんの用だい。」
「百姓奴等がやって来ます。」
「百姓が何をしに、どこへ来るのだ。」
「こっちへ来ます、旦那さんの所へ。わたしゃあ駆けられるだけ駆けて来たのです。」
ソバキンはじっと聞いていて、やっと意味が分かった。そして途方にくれて、巌《がん》畳《じよう》な、不機嫌なアルヒイプの顔を見た。「そうか。そこでどうしたものだろうな。」
「門は締めて置きました。旦那鉄砲をお出しなさい。少しあいつ等を威してやらなくては。」
「だが窓はどうだ。外枠も何もありゃあしないぜ。」
ソバキンは壁に掛けてあった小銃を卸して、震う指尖で弾薬を籠めた。「散弾にして置こう。おい。貴様はとうとう人を殺すような事をし出《で》来《か》したなあ。」
疑《ぎ》懼《く》に悩まされる期待の刹那が来た。
「何をしているだろう」とソバキンが囁いた。
たちまちからから音がして窓《まど》硝子《ガラス》がこわれた。石は枕許の小《こ》卓《づくえ》の上に堕ちて、スチバの葉を挿してある花瓶をひっくり返した。窓硝子が砕けたので、下から呼ぶ声が聞える。
「窓をこわしてしまえ。あいつに出て貰わなくちゃ。」
「旦那。話がありますから、おいでなすって下さい。」
「アルヒイプを出して貰おう。」
アルヒイプは敏捷に壁の所へ飛びしざった。そして目の上に被さる厚い髪を後へ振りさばいて、指図をするように云った。「旦那。明りをお消しなさい。」
ソバキンは明りを消した。そして形勢が堪え難いほど切迫して来たのを感じた。百姓等は怒号している。
「出て来い。」
この呼声と一しょに窓硝子が二三枚砕けた。アルヒイプは溜息を衝くようなうめきを洩らした。ソバキンは汗臭いアルヒイプの背中に身を押し附けるようにして、囁いた。
「これからどうなるのだい。ああ。」
「出て来なけりゃあ、引っ張り出しに往くぞ。」百姓等はこうどなった。中の二人は窓の穴から顔を出した。
「さあ、這入られるなら這入れ。野郎共。」アルヒイプはこう云って狙撃した。
忽然外がひっそりした。窓の外には劇しいうめき声が聞える。百姓等は少しあとへ引いて、小声で言い争っているらしい。
「これで逃げ出しゃあがるな。」こう云いながら、アルヒイプは填充をしている。
「もっと引き摩《ず》って来い。引き摩って来い。あそこに秣が積んである。」再び活溌になった声がする。
「火を附けよう。」
「野郎を燻《いぶ》し出してやれ。」
「掴まえよう。掴まえよう。」
声はだんだん大きくなって来た。足踏みの音や叫ぶ声も強くなって聞える。
アルヒイプが囁いた。「あれは内の男達をなぐっているのです。こうなれば庭へ逃げるより外ありません。家に火を附けていますから。」
「だって出窓の戸は釘附にしてある。」ソバキンはこう云った。
アルヒイプはしばらく黙っていたが、また射撃した。外から壁に明りが差した。倒れている椅子が見える。襦袢一つで、ずぼんも穿《は》いていないソバキンの姿が見える。アルヒイプはまた射撃した。何も狙わずに発射したのである。室内は目鼻を刺すような烟で一ぱいになった。ソバキンも射撃した。肩や頬に物が中《あた》る。
窓の外が突然明るくなった。枯草がぱちぱちとはればれしい音をしはじめた。焔がぱっと燃え立った。百姓共は嬉しげな叫び声をして脇へ走り退いた。
ソバキンの頬によくねらって投げた石が飛んで来て中《あた》った。ソバキンは泣き出した。
その時アルヒイプはソバキンを撞《つ》き倒して、胸の上に馬乗りに乗って笑った。
「アルヒイプ。おれをどうするのだ。」ソバキンはこう云って、アルヒイプをはね退けようとした。アルヒイプの襦袢を引き裂いたり、体を掻きむしったりした。しかしアルヒイプは酔ったようになっている。そしてひどく意地悪になっている。
アルヒイプは膝頭で主人の頸を押し附けていて、骨の鞘に畳み込んである小刀を引き出した。それから小刀の背を歯で銜《くわ》えて開けた。
アルヒイプはソバキンの物狂おしげに見えている白眼をじっと睨んで、大声で叫びながら、右《め》手《て》に力を入れて刺した。
荘園はすべて焔になっている。その火《ほ》影《かげ》に照されて、百姓共は黙って立っている。そして自分達が敵ともしまた神ともしている火が、乾き切った風を食って、烟と共に檐《のき》端《ば》から天に冲《ひひ》るのを眺めている。火影に薄赤く染まった鳩が周囲を乱れ飛んでいる。
たちまち誰やら叫んだ。「見ろ。アルヒイプが厩へ往った。」
アルヒイプは急いで驪《あお》の《たづな》を掴んで引き出した。そして百姓共がどなりながら駈け附ける隙《ひま》に、抱き附くように馬の背に飛び附いて、手に鬣《たてがみ》を絡んで馬を駆った。火形《ほかげ》に真っ赤に染まったこの騎者は、広《ひろ》野《の》に向って奔《はし》り去って、行方が知れなくなった。
著者紹介
レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(一八二八―一九一〇)
ロシアの作家。「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「クロイツェル・ソナタ」「復活」など。
ヴラジーミル・ガラクチオノヴィチ・コロレンコ(一八五三―一九二一)
ロシアの作家。「変った女」「マカールの夢」「盲音楽師」「森はざわめく」「わが同時代の歴史」など。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(一八二一―八一)
ロシアの作家。「貧しき人々」「罪と罰」「死の家の記録」「白痴」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」など。
マクシム・ゴーリキー(一八六八―一九三六)
ロシア・ソ連の作家。小説「母」「クリム・サムギンの生涯」、戯曲「どん底」など。
エヴゲニー・ニコラエヴィチ・チリコフ(一八六四―一九三二)
ロシア生れの作家。小説「廃兵」、戯曲「イワン・ミロヌイチ」など。
ミハイル・ペトロヴィチ・アルツィバーシェフ(一八七八―一九二七)
ロシアの作家。小説「ランデの死」「サーニン」、戯曲「嫉妬」「野蛮人の死」など。
ミハイル・アレクセーヴィチ・クズミン(一八七五―一九三六)
ロシアの詩人。詩集「アレキサンドリアの歌」、小説「翼」など。
アレクセイ・ニコラエヴィチ・トルストイ(一八八三―一九四五)
ロシア・ソ連の作家。詩集「空色の河のかなたに」、小説「奇人たち」「びっこの公爵」「ピョートル大帝の一日」「苦悩の中を行く」など。
『諸国物語』初出時の配列と表記
尼 (グスタアフ・ヰイド)
薔薇 (グスタアフ・ヰイド)
(以上二篇 スカンジナヰア)
クサンチス (アルベエル・サマン)
橋の下 (フレデリツク・ブテエ)
田舎 (マルセル・プレヲオ)
復讐 (アンリ・ド・レニエエ)
不可説 (アンリ・ド・レニエエ)
猿 (ジユウル・クラルテエ)
一疋の犬が二疋になる話 (マルセル・ベルジエエ)
聖ニコラウスの夜 (カミイユ・ルモンニエエ)
(以上八篇 佛蘭西)
防火栓 (ゲオルヒ・ヒルシユフエルド)
己の葬 (ハンス・ハインツ・エヱルス)
刺絡 (カルル・ハンス・ストロオブル)
(以上三篇 独逸)
アンドレアス・タアマイエルが遺書 (アルツウル・シユニツツレル)
正體 (カルル・フオルミヨルレル)
祭日 (ライネル・マリア・リルケ)
老人 (ライネル・マリア・リルケ)
駆落 (ライネル・マリア・リルケ)
破落戸の昇天 (フランツ・モルナル)
辻馬車 (フランツ・モルナル)
最終の午後 (フランツ・モルナル)
襟 (オシツプ・ヂユモツフ)
(以上九篇 墺太利)
パアテル・セルギウス (レオ・トルストイ)
樺太脱獄記 (コロレンコ)
(ドストエウスキイ)
センツアマニ (マクシム・ゴルキイ)
板ばさみ (オイゲン・チリコフ)
笑 (アルチバシエツフ)
死 (アルチバシエツフ)
フロルスと賊と (クスミン)
馬丁 (アレクセイ・トルストイ)
(以上九篇 露西亜)
うづしほ (エドガア・アルラン・ポオ)
病院横町の殺人犯 (エドガア・アルラン・ポオ)
十三時 (エドガア・アルラン・ポオ)
(以上三篇 亜米利加)
森鴎外(もり・おうがい)
一八六二(文久二)年一月一九日、石見国(島根県)津和野に、藩医静男と峰子の長男として生まれる。本名、林太郎。藩校養老館で漢籍・蘭学を学んだのち、一八七二(明治五)年上京。一八八一年東京医学学校(東大医学部)予科卒業。陸軍軍医となり、一八八四年ドイツへ留学。一八八八年帰国し、以後軍医学校校長、軍医総監等を歴任。この間、自ら創刊した『しがらみ草紙』等を舞台に「即興詩人」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「歴史其儘と歴史離れ」「審美論」等、翻訳、創作、評論、研究に目覚しい業績を残した。一九二二(大正一一)年七月九日萎縮腎のため没する。 本作品は一九九一年一二月、ちくま文庫に収録された。
なお、電子化にあたり解説は割愛した。
諸国物語(下)
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2002年10月25日 初版発行
訳者 森鴎外(もり・おうがい)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
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