諸国物語(上)
森外 訳
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目次
尼 ヴィーズ
薔薇 ヴィーズ
クサンチス サマン
橋の下 ブウテ
田舎 プレヴォー
復讐 レニエ
不可説 レニエ
猿 クラルティ
一疋の犬が二疋になる話 ベルジェエ
聖ニコラウスの夜 ルモニエ
防火栓 ヒルシュフェルト
おれの葬い エーヴァース
刺絡 シュトローブル
アンドレアス・タアマイエルが遺書 シュニッツラー
正体 フォルメラー
祭日 リルケ
老人 リルケ
駆落 リルケ
破落戸の昇天 モルナール
辻馬車 モルナール
最終の午後 モルナール
襟 ディモフ
うずしお ポー
病院横町の殺人犯 ポー
十三時 ポー
著者紹介
『諸国物語』初出時の配列と表記
諸国物語(上)
尼 ヴィーズ
ブレドガアデで午食《ごしよく》をして来た帰道である。牧師をしている兄とおれとである。兄はユウトランドで富饒《ふじよう》なウェイレあたりに就職したいので、その運動に市中へ出て来た。ところが大臣が機嫌よく話を聞いてくれたので、兄はひどく喜んでいる。牧師でなくては喜ばれぬほど喜んでいる。兄は絶えず手をこすって、同じ事を繰り返して言う。牧師ではなくては繰り返されぬほど繰り返して言う。「ねえ、ヨハンネス。これからあの竪町《たてまち》の内へ往って、ラゴプス鳥を食べよう。ラゴプス鳥を。ワクチニウムの実を添えてラゴプス鳥を食べよう。」
こんな事を言って歩いていると、尼《あま》が二人向うから来た。一人の年上の方は、外国へ輸出するために肥えさせたように肉が附いて、太くなっている。今一人は年が若くて、色が白くて、背がすらりと高くて、天国から来た天使のような顔をしている。
我々と摩《す》れ違う時、二人の尼は目を隠そうとした。すらりとしている方にはそれが出来た。太った方は下を視《み》るには視たが、垂れた上瞼《うわまぶた》の下から、半分おこったような、半分気味を悪く思うような目をして、横ざまにおれの顔を見た。
「あ。いつかの二人だった。」おれはこう云って兄の臂《ひじ》を掴《つか》んだ。
「誰だったと云うのかい。」
「まあ、聞いて下さい。あなたの、その尊《とうと》い口にも唾《つ》の涌《わ》くような話なのです。あの鍛冶屋町《かじやまち》を知っているでしょう。」
「うん。まだお上《かみ》のお役をしていた時、あそこで日の入を見ていたことがたびたびあるよ。ひどく寂《さび》しい所だ。」
「それに乳母が大勢集まる所です。」
「おれの往《ゆ》くころはそうでもなかったよ。おれの往くころは。」
「まあ、聞いて下さい。わたしが鍛冶屋町を発見したのは、去年の春でした。実際あなたの云う通《とお》り、寂しい所で、鳥の声が聞える。鵠《くぐい》がいる。尼さん達が通るのです。長い黒い列を作って通るのです。石炭の丸《たま》を緒《お》に貫《ぬ》いたような工合《ぐあい》ですね。年上のと若いのと並んで行くのもある。年上のが二人で、若いのを一人連れて行くのもある。若いの二人を、年上のが一人で連れて行くのもある。とにかく若いの二人きりで行くと云うことはありません。若いうちはいろいろな誘惑がありますからね。」
「そうだとも。肉は弱いもので。」
「肉がですか。何も肉が、外のあらゆる物に比べて、特別に悪いと云う訳でもありますまい。」
「おれはそんな問題についてお前と議論したくはないよ。」
「そうでしょうとも。ごもっともです。そこでとにかく鍛冶屋町を尼さん達が大勢通るのです。朝も昼も晩も通るのです。それが皆フランスを話します。どれもどれもまずさ加減の競争をしているようなフランスですね。ちょうどそのころわたしはヘッケル先生と手紙の取遣《とりやり》をしていました。ヘッケル先生は御存じでしょう。」
「あのダアウィニストのヘッケルじゃないのかい。」
「むろんそうです。ダアウィニストですとも。わたしはこんな事を問いにやっていました。もし人間と猩々《しようじよう》と交合させたら、その間に子が出来て、それが生存するだろうかと。まあ、兄いさん、黙って聞いていて下さい。それが生存するだろうかと云う事と、それからそれが生存したら、人間と猩々とが同一の祖先を有すると云う一番明瞭な証拠ではあるまいかと云う事と、この二つを問いにやったのです。わたしはひどくこの問題に熱中していたものですから、往来を誰が通ろうと、たいていそんな事は構わずにいました。わたしは鍛冶屋町の道傍に腰を掛けて、そんな問題について沈思していました。ある日の事、ちょうどエナのヘッケル先生の所から手紙が来て、こんな事が云ってありました。そう云う試験を実行するには、随分困難な事情もあろうと思うが、それは問題外として、よしやその試験が出来て生存するに堪える子が生れたとしても、先生自己の意見では、それで問題の核心に肉薄し得たものとは認められないと云うのですね。その点はわたし先生と大いに所見を殊《こと》にしていたのです。わたしは。」
兄はおれを抑制するように、手をおれの臂《ひじ》の上に置いた。「ねえ、お前。お前の今言っている事には、大いに詩人的空想が手伝っているのだろうね。おれはそうありたいと思うのだが。」
「いいえ。大違《おおちが》いです。なんなら内《うち》で先生の手紙を見せて上げましょう。」
「でも、人間と猩々とが。」
「いいえ。そう大した懸隔はないのです。それよりかもっと。」
「それは褻涜《せつとく》と云うものだ。」
「そうでしょうか。わたしなんぞは敢《あえ》て自らその任に当ってもいいつもりです。」
「もう馬鹿な事をよせよ。」
「でも、あなたはお分かりにならないか知れませんが、一体科学が。」
「もうよせ。おれはその問題をそう敷衍《ふえん》してみたくはないのだ。」
「そんならよします。とにかくわたしはそう云う事を考えて、あの芝生の広場から最初に曲った角の小家《こいえ》の辺《あたり》で、日なたぼっこりをしていました。もう尼さん達が幾組もわたしの前を通り過ぎました。しかしわたしはただ何やらはっきりしない、黒い物が、砂の上を音もせずにすべって行ったとしか感ぜなかったのです。すると突然ある声が耳に入って、わたしは沈思の中から醒覚しました。その詞《ことば》は、『それからシリアのアンチオッフス王の所を出て、地中海の岸に沿うて、今一度』と云ったのです。何もその詞には変った事はなかったのですが、その声がわたしの胸にこたえたのです。まあ、なんと云う声でしょう。いかにも打ち明けたような、子供らしい、無邪気な、まあ、五月ごろの山毛欅《ぶな》の木の緑の中で、鳥が歌うような声なのですね。わたしが目を挙げて見ると、尼さんが二人前を通っているのです。一人は若くて、一人は年を取っています。年を取った方はわたしの知った顔です。色が蒼《あお》くて、太って、眉毛が一本もなくって、小さい、鋭い、茶いろな目をしているのです。若い方は、それまでついぞ見たことのなかった顔です。なんとも云えない、可哀《かわい》らしい顔なのですね。ところがわたしがそう気が附いた時には、もう二人はわたしの掛けたベンチの傍《かたわら》を通り過ぎて、わたしに背を向けて歩いています。実は、兄いさん、わたし今少しで口笛を吹くところでした。そうしたらわたしの方を振り返って見るはずでしたからね。しかしわたしは吹きませんでした。一体わたしはなんでも思った事を、すぐに実行すると云う事はないのです。いつでも決断をだんだんに積み貯えて行くと云う風なのです。その代《かわ》りには時期が来ると、それが一頓《いつとん》に爆発します。」
「その若い女はどんな様子だったのだい。」兄も問題に興味を感じて来たらしい。
「さあ。その時すぐにはわたしも、どんな様子だと、すぐには思い浮べることが出来ませんでした。わたしにはただ目の前にその女の脣《くちびる》がちらついていました。そこでわたしはとにかく立ち上がって、跡《あと》に附いて行きました。もうヘッケル先生の事も猩々《しようじよう》の事も忘れていたのですね。やっぱり人間は人間同士の方が一番近い間柄なのです。道の行止《ゆきど》まりまで往くと、尼さん達はこっちへ引き返して来ます。わたしは体がぶるぶる震え出したので、そこのベンチに掛けて、二人を遣《や》り過しました。わたしは年を取った尼さんの方はちっとも見ないで、ただ若い方をじっと見詰《みつ》めていました。暗示を与えると云う風に見たのです。するとその若い尼さんが上瞼を挙げてわたしを見ました。わたしを見たのですね。兄いさん。クッケルッケルック。クッケルッケルック。」
「それはなんだい。」兄は心配らしく問うた。
「それですか。歓喜の声です。偉大な感情を表現するには、原始的声音をもってする外《ほか》ありません。余計な事を言うようですが、これもダアイニスムの明証の一つです。兄いさん。想像してみて下さい。尼さんの被《かぶ》る白い帽子の間から、なんとも云えない、可哀らしい顔が出ているのです。長い、黒い睫毛《まつげ》が、柔《やわらか》い、琥珀色《こはくいろ》をした頬の上に垂れています。それはいったん挙げた上瞼を、すぐにまた垂れたからです。それにその脣と云ったら。」
「お前なんとか詞《ことば》を掛けたのかい。」
「いいえ、わたしはただその脣を見詰めていました。」
「どんなだったのだい。」
「ええ。野茨《のばら》の実です。二粒《ふたつぶ》の野茨の実です。真っ赤に、ふっくりと熟して、キスをせずにはいられないようなのです。その旨《うま》そうな事と云ったら。」
「でもまさかキスをしはしなかっただろう。」こう云った兄は目を大きく《みひら》いて、額《ひたい》には汗を出していた。
「いいえ。その時はどうもしはしませんでした。しかしどうしてもあれにキスをせずには置くまいと、わたしは心に誓いました。ああした口はキスをするための口で、祈祷《きとう》をするための口ではないのですから。」
「そんな時は、己《おのれ》に克《か》たなくては。」兄は唐突なようにこう云って、手に持っていた杖を敷石の上に衝《つ》き立てた。
「無論です。実際わたしもその日の午後には長椅子の上に横になっていて、克己《こつき》の修行をしました。ところがどうもああした欲望の起った時は、実際それを満足させるより外《ほか》には策はありません。しかもなるたけ早く満足させるですね。どうせそれまでは気の落ち着くことはないのですから。」
「ところがお前欲望にもいろいろあるからな。もし自殺したいと云う欲望でも起ったとすると。」
「それですか。それもわたしはたびたび経験したのですが。」
「したのだがどうだ。」
「したのですが、失敗しました。わたしは鴉片《あへん》を二度飲みました。しかも二度目には初《はじ》めの量の三倍を飲みましたが、それでも足りなかったと見えます。」
「そんな事を。」
「まあ、聞いて下さい。二度目の時は可笑《おか》しゅうございましたよ。たしか十四時間眠って、あとで十二時間吐き続けました。往来で女の物を売る声がしても、小僧が口笛を吹いても、家の中で誰かが戸をひどく締めても、わたしはすぐにそれに感じて吐いたのです。そのうちわたしの上の部屋に住んでいる学生が、あのピッコロと云う小さい横笛を吹き始めました。するとわたしは止所《とめど》なしに吐きました。なんでも三十分ばかり倒れていて、笛の調子につれて吐いたのです。ぴいひょろひょろと吐いたのです。大ぶ話が横道に這入《はい》りましたが。」
「いや。もうおれはその上の事を聞きたくないのだ。」
「でも聞いて下さらなくては、わたしがよかったか悪かったか分らないじゃありませんか。そこでわたしはキスをしようと思ったのです。心を落ち着かせるにはキスをせずには置かれないと思ったのです。そこで例の長椅子の上で工夫したのですね。ある日の事、その二人の尼さん達がお城の所の曲り角をやって来る時、わたしは道の砂の上に時計を落して置きました。すると年を取ったのが見付けて拾いました。わたしはそこへ駆け付けて、長々とフランス語で礼を言いました。その間傍にいる若いのは、ちっともわたしの方を見ません。一度も見ません。多分アンチオッフス王の事をでも考えて立っていたのでしょう。そこでわたしもどうもその若いのに詞《ことば》を掛けるわけにはゆかなかったのです。わたしはただ柔い頬っぺたを見たり、睫《まつげ》を見たり、特別に念入りに口を見たりしていました。そのうちわたしは気の違ったような心持になりました。そこで暇乞《いとまごい》をしようと思うと、どうした拍子か、わたしのステッキが股《また》の間に挿まったので、わたしは二人の尼さんの前でマズルカを踊るような足取をしました。年を取ったのは口を幅広くして微笑する。若いのの口の角《すみ》にも、ちょいと可笑しがるような皺《しわ》が出来たのです。わたしはいい徴候だと思いました。とにかく地中海の波に全く沈没しているわけでもないことが分かったからですね。そのうち二人が礼をして往ってしまいました。」
兄は笑った。
「まあ、そんなに急いで笑わないで下さい。まだ話はおしまいではありませんからね。わたしはその日に帰る時、心に誓ったのです。三十日間パンと水とで生きていてもいいから、どうしてもあの脣にキスをしなくてはならないと誓ったのです。」
「しかし。」
「まあ、黙って聞いて下さい。話はこれからです。なんでも三四日立ってからの午《ひる》ごろでした。わたしはいつものベンチに掛けて、お城の方角を見詰めていました。わたしはその日に二人がきっと来ると云うことを知っていました。来たらきっとキスをすると云う事も知っていました。雨が少し降って来たので、わたしは外套《がいとう》の襟《えり》を立てて、帽子を目深《まぶか》に被っていました。なんでもアメリカの森の中でジャグアルが物を覗《ねら》っているのはこんな按排《あんばい》だろうと、わたしは思いました。その時刻には散歩に出る人なんぞはほとんど無いのです。わたしは震えながら腰を掛けていました。帰られる身の上なら帰りたいくらいでした。」
「帰ればよかったのだ。」
「でも帰ればまた初から遣り直すことになったのです。」
「しかし。」
「まあ、聞いて下さい。突然わたしはぎくりとしました。曲り角に黒い姿が二つ見えたのです。一人が蝙蝠《こうもり》傘《がさ》を斜《なな》めに連《つれ》の人の前に差し掛けています。傘を持っていたのは、年を取った尼さんでした。二人は真っ直にわたしの方へ向いて来ます。わたしは木の背後《うしろ》にでも躱《かく》れていて、そこから飛び付こうか、木の枝にでも昇っていて、そこから飛び降りようかと思いながら、そのままじっとしてすわっていました。すると例の人の顔がだんだん近くなって来ます。柔い、むく毛の生えた頬や、包ましげな目が見えます。それから口が見えます。しまいにはただ脣ばかりが見えます。その脣はちょうどアルバトロス鳥を引き寄せる灯明台のようなものです。そのうちとうとうわたしのまん前に来ました。わたしはゆっくり立ち上がりました。そして。」
「こら」と云って、兄はおれの臂を掴んだ。しかしおれはそれに構わずに、昔の記念のために熱しつつ語り続けた。
「そしてわたしは大股に年を取った尼さんの前を通り過ぎて、若い尼さんの頭を両手の間に挟みました。わたしは今もその黒い面紗《めんさ》を押さえたわたしの指と、びっくりした、大きい、青い目とを見るようです。わたしは自分の口を尼さんの口の所へ、俯向《うつむ》くようにして持って往って、キスをしました。キスをしました。気の狂ったようにキスをしました。尼さんはとうとうわたしに抱かれてしまいました。わたしはそれをベンチへ抱《かか》えて往って、傍に掛けさせて、いつまでもキスをしました。兄いさん。とうとう尼さんが返報に向うからもわたしにキスをしたのです。尼さんの熱い薔薇《ばら》の脣がわたしのを捜すのですね。あんなキスはわたしあとにも先にも受けたことがありません。わたしは邪魔がないと、そのまま夜まで掛けていたのです。ところが生憎《あいにく》。」
「誰か来たのかい。」
「いいえ。そうじゃないのですが、何遍となく同じ詞を、わたしの耳の傍で繰り返すものがあったのです。わたしは頭を挙げてその方を見ました。見れば年を取った方の尼さんが、ちょうどソドムでのロトの妻のように、振り上げた手に蝙蝠傘を持って、凝《こ》り固まったように立っていて、しゃがれた声で繰り返すのです。Mon dieu, mon dieu, que faites ― vous donc, monsieur ? que faites, faites, fai ― aites ― vous donc ? わたしはまた自分の抱いている女を見ました。蒼い顔と瞑《つぶ》った目とを見ました。しかし妙な事にはキスをしない前ほど美しくはありませんでした。それから、ええ、それでおしまいでした。わたしは逃げ出しました。」
兄もおれも大ぶ竪町《たてまち》を通り越していた。そこで黙って引き返して並んで歩いた。兄が今口を開いたら、その口からおれを詛《のろ》う詞が出るだろうと、おれは思っていた。
兄は突然顔を挙げて夢を見るような目附で海の上を見ながら、おれに問うた。
「本当に向うからキスをしたのかい。」
おれはこの詞に力を得て微笑《ほほえ》んだ。そして兄と一しょに竪町の家に往って、ラゴプス鳥を注文した。
薔薇 ヴィーズ
技手《ぎしゆ》は手袋を嵌《は》めた両手を、自動車の柁機《だき》に掛けて、真っ直ぐに馭者台に坐って、発車の用意をして待っている。
白壁の別荘の中では、がたがたと戸を開《あ》けたり締めたりする音がしている。それに交って、よく響く、面白げな、若い女の声でこう云う。
「ボヂルや、ボヂルや。わたしのボアがないよ。ボアはどうしたの。」
「ここにございます。お嬢様、ここに。」
「手袋は。」
「あなた隠しにお入れ遊ばしました。」
別荘の窓は皆開けてある。九月の晴れた日が、芝生と、お嬢様のお好《す》きな赤い薔薇《ばら》の花壇とに差している。
入口の、幅の広い石段の一番下の段に家来《けらい》が立っている。褐色のリフレエが、しなやかな青年の体にぴったり工合《ぐあい》よく附いている。手にはダネボルクの徽章《きしよう》の附いたシルクハットを持っている。もう十五分ぐらい、こうして立って待っているのである。
主人が急ぎ足に門へ出て来た。鼠色の朝の服を着て、白髪頭にパナマ帽を被《かぶ》っている。
「エストリイドや。早くしないかい。御馳走のブレックファストに後れてしまうよ。」こう云ってじれったそうに手を揉《も》んでいる。
「もうすぐですよ、お父うさん。ボヂルや、手袋をおくれよ。あの色の明るい方だよ。」
「あら、お嬢様、あなたお手に持っていらっしゃるではございませんか。」
「おや。そうだっけね。」お嬢さんは玄関の天井が反響するように笑った。「さあ、もうこれでいいわ。」
家来は電気の掛かったように、姿勢を正して、自動車の戸を開けた。
お嬢さんは晴れ晴れとした、身軽な様子をして、主人と並んで、階段の上に立った。髪は乱れて黄金色に額《ひたい》と頬とを掩《おお》っている。褐色の目と白い歯とが笑っている。
「まあ、なんといういいお天気でしょう。」
「お天気はいいが、早くおし、早くおし。」
「あら、薔薇《ばら》が綺麗ですこと。御覧なさいよ。」
「遅くなるよ。」
「なに。みんな待っていて下すってよ。いつもそんなに早くは行かないから。そんなら、お父う様、さようなら。」お嬢さんは両手で主人の首に抱き附いて、頬に接吻した。
「さあ、行っておいでよ。お午《ひる》には帰って来るだろうね。」
「帰りますとも。」今一度接吻した。そして石段を駈け降りて、自動車に乗った。しかし乗ったかと思うと、突然叫んだ。
「おう。籠々《かごかご》。フランチスカおばさんに上げる果物の籠があったよ。ボヂルやあ。」
主人は石段の上で足踏《あしぶ》みをしている。
「いやはや。女というものは始末の悪いものだな。」
それでもお嬢さんは、主人の顔を見上げて笑って、指で接吻の真似をして見せる。
ボヂル婆あさんが、年寄った足で駈けられるだけ駈けて、果物の籠を持って来た。
「さあ、ここに置きます。」息を切らしながらこう言って、籠をお嬢さんの脇《わき》に据えた。
「もう出掛けられるだろうな」と、主人が云った。
しかしお嬢さんはこの時また叫び出した。花壇の薔薇が目に留まったのである。
「わたしあの薔薇を持って行ってよ。ウィクトルや。走って行って、あれをたくさん切っておいで。」
「遅くなるよ。」
「だっておばさんに薔薇を上げなくては。花も持たないで行っては、おばさんがなんとおっしゃるか知れないわ。ウィクトルや。もう一本お切りよ。もう一本。たくさん切るのだよ。」
家来は両手に握り切れないほど薔薇を持って来た。しなやかな枝が、花の重みで垂れている。
主人は石段の上で足踏みをしている。婆あさんは、旦那が本当におこらねばいいがと心配して身を顫《ふる》わしている。
お嬢さんは突然大声で笑った。
「お父う様。早く内《うち》へ這入《はい》って戸をお締めなさいよう。わたしの今思い附いた事は、お父う様が見ていらっしゃっては出来ない事なのですから。」
「なんだ。おれは這入らないぞ。おれの門の石段にくらいはおれだっていてもいいはずだ。」主人はすこぶる威厳を保って言ったつもりである。
家来は薔薇をお嬢さんの脇へ、果物の籠と一しょに置いた。その時お嬢さんは家来の耳に口を寄せて、なんだか囁《ささや》いた。
家来は心配げに主人の顔を見た。
「早くよう。ウィクトルやあ。両方の耳に、追懸《おいかけ》のように附けるのだよ。」
家来の口の周囲《まわり》には微笑の影が浮んだ。遠慮がし切れなかったのである。「でも、お嬢様、馬は附けてございません。」
お嬢さんは大声で笑った。
「ほんとにねえ。馬はいなかったっけねえ。わたしすっかり忘れていてよ。そんならいいから、あの明りを附けるものを取ってしまって、あそこへ薔薇の枝をお挿しよ。」
家来は躊躇《ちゆうちよ》した。
「早くおしよ。早く、早く。」
家来はまた花壇へ帰って行って、薔薇を切っている。
主人は急いで石段を降りて来た。
「何をするのだい。まだ薔薇を持って来させるのか。」
「いいから、お父う様、あなたはそこにいらっしゃいよ。」
「それでもお前はまるで薔薇に埋まってしまうじゃないか。」
「わたしは埋まりたいのだわ。」
家来は自動車の明りを付けるものを脱《はず》して、その跡へ、花の一ぱい咲いている薔薇の枝を三本挿した。
お嬢さんは傍にあった薔薇の枝を一掴み取って、婆《ば》あさんに渡して、こう云った。
「これをねえ、わたしの体の周囲《まわり》へ振り蒔《ま》いておくれ。それから幌《ほろ》の上にもね。」
「それではお嬢様、あんまり。」
「それならお父う様、蒔いて下さい。」
「なんだ。そんな馬鹿げた事を、おれまで一しょになってしてたまるものか。」
「そんならわたし自分でするわ。」
お嬢さんは花をむしって、自分の周囲と幌の上とに蒔き散《ち》らした。薔薇の中にもぐって坐っているようである。
「それからねえ、ウィクトルやあ。お前はこの薔薇を控鈕《ボタン》の穴にお挿し。ヤコップやあ。お前もお挿し。」
技手も、家来も微笑《ほほえ》みながら胸を飾った。
お嬢さんは帽子の帯に一枝挿して、胸にも花を一つ挿した。
「さあ、これでいいから出掛けるよ。」
「そんな風をして町へ出ては困るじゃないか」と、主人が云った。
「だって立派じゃありませんか。」
「なんだ。まるで仮装舞踏に行くようだ。町のものが呆《あき》れるだろう。」
「それは町の人は気違いだと思うでしょう。いいわ。ヤコップやあ。さあ、車をお出しよ。ボヂルやあ。お午《ひる》の時テエブルの上を薔薇で飾っておくのだよ。いいから薔薇をたくさんお切りよ。」お嬢さんは笑いながらこう云った。「そんならお父う様、行って参ります。さようなら。ヤコップや。お出しよ。」
技手は柁機《だき》を廻した。自動車はゆっくり花壇の周囲に輪をかいて、それから速度を早めて、跳《おど》るようにを中庭を走って出て、街道に続く道の、菩提樹《ぼだいじゆ》の並木の間に這入って行く。
石段の上には主人とボヂル婆あさんとが残って、見送っている。
「まあ、なんという可哀《かわい》いお嬢様でございましょう。あの薔薇の中に埋《うず》まっていらっしゃったお美しさってございませんね。」ボヂルはこう云った。
「馬鹿な奴だ」と、主人は云った。
「どれ、お午のテエブルに載せる薔薇を切って参りましょう。」
「どうも甘やかして育てたもんだから困る。」
「さようでございますね。旦那様は随分お可哀がり遊ばします。」
「いいや。お前が甘やかすのだ。」
「さあ。それはそうでございますが、旦那様、あなたが廃《よ》せとおっしゃれば、致しません。(間)。薔薇を切って参りましょうか。」
「うん。」主人はくるりと背中を向けて内《うち》へ這入った。
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午食《ひるしよく》の一時間前に、ボヂル婆あさんは、お嬢さんのお好きな、刺繍《ししゆう》のある着物を着て、薔薇を切りに花壇へ出た。
中庭の花壇では足りないので、花園の花壇のをも切った。主人がいくら厭《いや》な顔をしても為方《しかた》がないのである。
ボヂルというのは、この別荘に附物の婆あさんである。御本宅で、お嬢さんがまだ生れない内から勤めていた。十年前に奥様が亡くなってからは、この婆あさんが内じゅうの事を、誰が言い附けたともなく、引き受けてしているのである。
食堂には、食卓の準備がしてある。そこへ婆あさんは籠一ぱい薔薇を持って来て、飾り始めた。食卓に載せる、小さい花瓶が六つあるのに、二輪ずつ花を挿して、二つずつ並べて、卓《たく》の中通りに置いた。実に美しい。それから盤に花を盛ったのを卓の四隅に置く。それから枝を卓の上いっぱいにばら蒔《ま》く。主人とお嬢さんとの膝《ひざ》に掛ける巾《きれ》が、鵠《こう》の鳥の形に畳んである、その嘴《くちばし》のところに、薄赤の莟《つぼみ》を一つずつ挟んだ。それからお嬢さんのナイフやフォオクの置いてあるところへは、中に寄せて小さい花を、外廻りに大きい花をばら蒔く。実に立派である。それでもまだ気が済まないのか、どの鉢の上にも、控鈕《ボタン》に挿すような花を一つずつ載せた。
主人は食堂へ出て来た。燕尾服《えんびふく》に白襟《しろえり》を附けて、綬《じゆ》を佩《お》びている。
主人は卓の前に立ち留まって、卓と婆あさんとを見較べている。
婆さんは主人の顔をじっと見ている。
「どうもこんな風では」と、主人がつぶやいた。
「それでも旦那様もお召《めし》をお改め遊ばしたではございませんか」と、婆あさんが云う。
しばらく二人は睨《にら》み合って黙っていた。
「あの、シャンパンのコップを出しました」と、婆あさんが口を切った。
「うん、出してあるな。」
「最初に鶉《うずら》を上げる事になっています。お嬢様のお好きな。」
「ふん。そんなに甘やかしてどうするのだ。」
「でもあなたが廃せとおっしゃれば致しません。」
主人は時計を出して見た。もう時刻までに二三分しかない。お嬢さんが今にも帰って来るはずである。
「お前降りて行ってシャンパンを出して来ないか。」
婆あさんは主人の顔を意味ありげに見た。どういう考えで言い附けるかと疑う様子である。
「旦那様はいつも御自分でお出し遊ばすではございませんか。」
主人は輪に通した鍵《かぎ》を婆あさんに渡した。
「これで出して来い。一番上の棚の右の方だ。」婆あさんは鍵を受取った。敢《あえ》て反抗はしない。しかし主人の魂胆《こんたん》を見抜いたのである。なんでも主人は婆あさんを出し抜いて、一人で階段の上に迎えに出て、燕尾服を着たところを、娘に見せるつもりらしい。
「それからな、シャンパンは氷で冷《ひや》さなくてはな。」
「それはそうでございますとも。」
婆あさんは不平なので、戸を荒々しく締めて出て行った。
主人は微笑みながら婆あさんを見送って、揉手《もみで》をしている。今度こそはあの婆あさんを旨《うま》く出し抜いてやったと思うのである。
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ボヂル婆あさんは穴倉の梯子《はしご》の中ほどに、左の手にシャンパンの瓶を持って、右の手で欄干《らんかん》を掴まえて立っている。
この時恐ろしい叫声《さけびごえ》が二声聞えた。気の違ったような、荒々しい叫声である。別荘の部屋部屋に響き渡って、それを聞くものは胆《きも》を冷して、体が凝り固まってしまいそうであった。ちょうどそのあとで、ほとんど同時にどしんと物の打《ぶ》っつかる音がして、がらがらめりめりというと思うと、家中の壁が地震のように震動した。何か大きな動物が、家に打っつかって死んだかと思うようである。
そのあとはひっそりした。暫くしてから人の叫んだり、泣いたり、走り廻ったりする音が聞えて来た。そして婆あさんが梯子を登って、玄関まで来た時には、お嬢さんの死骸が床の上に横わっていた。その傍には主人が跪《ひざまず》いている。燕尾服に白襟を附けて、綬《じゆ》を佩《お》びて。
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お嬢さんと家来のウィクトルと二人で、自動車に乗って帰ったのである。技手は一時間も立ってから、歩いて帰って来た。
技手の云うには、どうも自動車の機関が狂っていたとしか思われない。なぜというにウィクトルは自分と同じくらい自動車を使う事を知っているから、止められなくなるはずがないと云うのである。
しかしなぜ二人が、技手を出し抜いて先へ帰ったかという事は、技手も説明することが出来なかった。
仲働《なかばたら》きのカレンが見ていた時、二人は前の馭者《ぎよしや》台に並んで乗っていて、その車が恐ろしい速度で中庭の芝生を通って、薔薇の花壇を蹂躙《じゆうりん》して走って来たそうだ。そのとたんにお嬢さんが、荒々しい叫声を出したのであった。最後の一瞬間に、ウィクトルは今まで握っていた手を舵機《だき》から離した。そしてお嬢さんをしっかり抱いた。そのとたんに自動車は別荘の石壁に衝突して、二人は死んだのである。
この出来事は無論世間の大評判になった。そして誰《たれ》にも可哀がられていたお嬢さんは、誰にも惜しまれた。
気の毒な父親もすこぶる世間の人の同情を惹《ひ》いた。
葬《とぶらい》の前に、お嬢様のお好きな花はなんであったかと、諸方から問合せがあった。
葬の日には柩《ひつぎ》の上を薔薇の花輪が三層に覆った。真《ま》っ赤《か》い薔薇の花の輪飾《わかざり》が。
お嬢さんはこれほどに可哀がられていたのである。平生《へいぜい》この家と交際している二三軒では、ちょうど葬の日に芝居の入場券が買ってあったのに、遠慮して行かなかったくらいである。
クサンチス サマン
飾棚だの飾箱だのというものがある。貴重な材木や硝子《ガラス》を使って細工がしてある。その小さい中へ色々な物が逃げ込んで、そこを隠れ家にしている。その中から枯れ萎《しな》びた物の香が立ち昇る。過ぎ去った時代の、人を動かす埃《ほこり》がその上に浮かんでいる。昔の人のした奢侈《しやし》の、上品な、うら哀しい心がそこから啓示せられるのである。
おれはそういう棚や箱を見るたびに、こんな事を思う。なんでも幅広な、奥深い帷《とばり》に囲まれて、平凡な実世界の接触を免かれて、そういうところでは一種特別な生活が行われているのではあるまいかと思う。真成なる有というものがあるとすれば、それに必要な条件が、こういうところで、現実的に、完全に備わっているのではあるまいか。もし物に感じ易い霊のある人がいて、有用無用の問題をとうとう断絶してしまって、無条件に自然の豊富におのれを委ねてしまったら、こういう棚や箱が、限なく尊いエリシオンの原野になるのではあるまいか。
おれはこういうものを楽んで見るのが縁になって、色々自分のためになる交際を結ぶことが出来た。中にもおれはある古い、銀の煙草入れと近附きになった。その煙草入れには、アレクサンドロス大帝が印度王《いんどおう》ポロスを征服した戦争の図が、極めて細密に彫り附けてあったのである。この煙草入れが、先ごろ日の暮れ方の薄明りに、心持の幽玄になった時、親切にもある話をして聞かせてくれた。その話は人に物の哀れを感ぜさせ、興味を催させ、道義の念を感発せしむる節のすこぶる多い話であった。おれはその話をここに書かずにはいられない。これはその話を聞いて、実際そうであったかと信ずる事の出来るほど、夢見心になることの好きな人に読ませるために書くのである。
ルイ第十五世時代に出来た飾箱の中に、何一つ欠点の挙げようのない、美しい、小さいタナグラ人形があった。明色の髪の毛には、菫《すみれ》の輪飾が戴かせてある。耳朶《みみたぶ》にはアウリカルクムの輪が嵌《は》めてある。きらめく宝石の鎖が胸の上に垂れている。体が頭の頂《いただき》から足の尖《さき》まで羅《うす》ものに包まれていて、それが千変万化の襞《ひだ》を形づくっている。その羅ものの底から、体のうら若い、敏捷《びんしよう》な態度が、隠顕出没《いんけんしゆつぼつ》して、秘密げに解け流れる裸形になって見えるようである。
この人形の台に彫ってある希臘《グレシア》文字《もじ》を見れば、この女の名はクサンチスというものである。生れた土地はクリッサといって、近くに豊饒《ほうによう》な平野が多く、その外を波の打ち寄せる海に取り巻かれている都会であった。
クサンチスは実にこの飾箱の中の第一の宝である。
折々クサンチスは台から下へ降りて来て、大勢が感嘆して環《めぐ》り視《み》ている真中に立って、昔アルテミスの祠《ほこら》の、円柱の並んだ廊下で踊った事のある踊を浚《さら》ってみる。金の輪を嵌《は》めた、小さい足を巧みに踏んで、真似の出来ない姿をして、踊の段取りを見せる。その間に、自分では知らずに、変幻極まりなく、かつ最も深遠な事物を表現する。そして踊ってしまって、真っ直ぐに、誇りの姿をして立って、両臂《りようひじ》をはればれしく頭の上に挙げて、指を組み合わせていて、優しい乳房の上に、羅《うす》ものが静かに緊張していると、名状すべからざる、崇高な美が輝いて、それを見る人は神聖なる震慄《しんりつ》に襲われるのである。
ある日クサンチスがいつもより一層人を酔わせるような踊り方をしたあとで、そこへ近所の貴人《きにん》が見舞いに来た。この人は昔マイセンで出来た陶器人形の公爵である。身なりが上品で、交際ぶりの丁寧な事は比類がない。顔色にどこか疲れたような跡はあるが、まだ美男子たる事を失わない。ただ戦争に行ったので、首と左の足とは焼接ぎで直してある。
クサンチスには公爵がひどく気に入った。かすめた声に現われている疲れが、何事にも打ち勝って行く青年の光沢よりも、かえって女の心を迷わせるのである。
公爵は長い間女と話をしていた。その口から語り出す事は、何もかも女のためにひどく面白く聞えた。不思議な事には、クサンチスはその話を聞いていながら、自分の記憶していた故郷の事を思い出した。それは夕日が紅を帯びた黄金色に海岸を照している時、優しい、明るい目をした、賢い人達が、互に親しい話を交えている様子を思い出したのである。
別れを告げて帰る時、貴人は女の手をそっと握って、それにそっと接吻した。クサンチスはこれより前に、久しい間、ある老人の猶太《ユダヤ》人《じん》に世話をせられて、世をあじきなく感じていたのである。猶太人はこの女を亜鉛《とたん》に金めっきをした厭《いや》な人形の中に交ぜて置いたのである。それが今こんな上品な交際ぶりをする人と知合いになったのだから、喜ぶのももっともである。
二人の交際は次第に親密になった。公爵は、その時代の人の習わしとして、人に気に入るように立ち振舞う事が上手だから、クサンチスを喜ばせる事が出来たのである。
折々公爵は、クサンチスが朝早く起きた頃に、薔薇の花で飾った陶器の馬車で、迎えに来た。女は急いで化粧をして、ちょうどその日の空の色と、自分の気分とに適した着物を着て出掛けた。ある時はふわふわした紐飾《ひもかざり》の付いた、明るい色の、幅広な裳《も》を着ける。春の朝のように軽々《かろがろ》として華やかである。ある時は薄い柳の葉の色や、またはレセダの花の色をした、アトラスの絹で拵《こしら》えた、長いワットオ式の衣裳を着る。背中には大きい、長い襞が取ってある。またある時はレカミェエ式の、金の棕櫚《しゆろ》の葉の刺繍をした服を着る。臂の附け根のすぐ下の処に、薔薇色か、サフラン色か、または黄金色掛かった褐色の帯が締めてある。
そして終日扇の絵の美しい山水の間を、馬車で乗り廻る。薄緑の芝生や、しなやかに昇る噴水で飾られた園がある。処々に高尚な大理石の像が立ててある。木立の間には、愛の神を祀った祠《ほこら》がある。そういう時は草の上や、または数奇《すき》を凝《こら》した休憩所で弁当を食べて帰る。帰り道に馬車をゆるゆる輓《ひ》かせて通ると、道の両側から、鳩の群に取り巻かれた、牧場帰りの男や女が礼をするのである。
実に面白い散歩であった。
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しばらくたってから、公爵がクサンチスを一人の大理石で刻んだ青年の頭に紹介した。この青年は、公爵が近頃知合いになった人で、大層音楽が上手だという事であった。
一目見たばかりで、青年はクサンチスを気に入った女だと思った。その青年の感じがまたクサンチスにも分かった。二人はよそよそしい話を交えながら、音楽家の方からは不思議な、少し気違い染みた目附きをして女を見ていた。女はわざと伏目になったが、燃えるような目で見詰めていられるうちに、押さえ付けるような熱のある、名状すべからざる感じが、女の胸の底から湧き上がって来た。
公爵に勧められて、音楽家は演奏し始めた。それを聞いているクサンチスの心持は、不思議な、目に見えない手が自分の髪を掴んで、種々の印象がからくりのように旋《めぐ》って現われる世界を、引き摩《ず》り廻すかと思うようであった。
折々公爵は、音楽のある一節を、ほどよく褒《ほ》めて、クサンチスの方へ顔を俯向けて、その一節について自分の思っている事を説明した。しかし黙って、魅せられたようになって音楽を聴いている女の耳には、公爵の云う事は一言も聞えなかった。そのくせ音楽家の目は、女にある新しい理解を教えている。女はこの目を見て、始めて沈鬱の酔《えい》というものを覚えたのである。
音楽家の家を出るや否やクサンチスは公爵に暇乞をした。我慢の出来ないほどの偏頭痛がすると云ってひどく不作法に暇乞をしたのである。そして自分の台の上に帰って行った。
今まで知らない感覚がクサンチスを悩ましている。
独り離れていて、女は胸の奥深い処から、音楽家の肖像を取り出して、目の前の闇をバックグラウンドにして、空中に画いている。蒼白い、広い額の下に、深く窪《くぼ》んだ目があって、その目から時々焔が迸《ほとばし》り出る。口は大きく、熱情と沈鬱とをあらわしている。開いた領飾《えりかざり》の間から、半分露われている頸は、劇しい感情のために波立ち、欷歔《すすりなき》のために張っている。まずこんな美しい顔である。
クサンチスは翌日公爵に逢った時、大層いい青年に引き合せて貰って難有《ありがた》いと云って、感謝した。それから後は、この女は自分の生涯が今までよりひどく面白くなったように思っているのである。
昼の間は公爵を相手にして、所々《しよしよ》を訪問したり、散歩をしたりしている。そして夕方になると、急いで大理石の頭の処へ行く。マドリガルやエピグラムのきらめきに、昼の間を遊び暮して、草臥《くたび》れたあとで、それとは様子の変った、かの青年との交際を楽しむ事にしている。青年と一しょにいる心持は、加減の好い湯に這入って温まるようである。
青年の家に駈け付けて行くと、駈けたために、まだ興奮して、戦慄している体を、青年は優しく抱き寄せて、額に手を掛けて仰向かせて、目と目をじっと見合せる。それから黙って長い接吻をする。その接吻を受ける時、女は日によって自分の霊が火のように燃え立つと思ったり、また雪のように解けると思ったりする。
ある時はクサンチスがこんな事を言う。「なんだかこうしてお前さんのお言いの事を聴いていると、わたしは昔から、お前さんとばかり暮していたような心持がしますわ。どうもこの生活と違った、別な生活はわたしに想像が出来なくなってしまいましたの。」二人は二度目に逢ってからは、お前さんだのお前だのと言い合っているのである。
「お前は永遠なるもの、完全なるものの閾《しきい》を跨《また》いでいるのだよ。」
「ええ、全くそうなの。」こんな問答をする。
実は女はそういう詞《ことば》が分かるのではない。しかし「完全なるもの」なんという事は深秘であるから、青年に分かっているだけは、女にも分かっていると云ってもよかろう。女は折々「永遠なるもの」「完全なるもの」というような事を繰返す。そしてその詞を声に出して言うと同時に、かつてそれを聴いた時に感じた不思議な感じ、今言いあらわそうとする不思議な感じが胸に満ちるのである。どうかすると外の人の前で、この詞を言い出す事がある。たとえば公爵に向いてそんな事を言う。公爵は軽い嘲りの表情をもって、脣《くちびる》に皺《しわ》を寄せる。そして心の底に不快の萌《きざ》すのを、強いて自分でも認めないようにしている。
ある晩には青年の頭が女に身の上話をして聞かせる。奮闘や失望の多い生涯である。幾度か挫折して飽《あく》までも屈せず、力を量らずに、美に向って進む生涯である。その話の内に、余り悲しい出来事が出て来ると、青年は欷歔《すすりなき》をしてあとを話す事が出来なくなる。そんな時には、青年は小さい踊子をぴったり引き寄せて、自分の頭を女の開いた胸に当てて、子供らしい声で、不思議な詞《ことば》を囁《ささや》く。「お前は可憐な、光明ある姉妹の霊だね。神々しい容器だね。無窮の歓楽だね。小さいスフィンクスだね。」こんな詞である。
こんな詞を聴いても、女には少しも分からない。しかしそれを囁く声の優しい響を、女は楽しんで聞いている。とにかくこの詞は、公爵なんぞの詞より、意味が深いに違いないと思っているのである。
時間は黄金《こがね》の沓《くつ》を穿《は》いて逃げる。
窓掛の間へ月が滑り出て、銀色の指で、そこらじゅうの物に障《さわ》る。音楽が清く優しく、一間《ひとま》の内に漂うている。その一つ一つの音は、空の遠い星の輝きのようである。柱の上に据えてある時計が、羊の啼くような声で、ゆっくり十二打って、もう夜なかだという事が分かって、女はやっと思い切って帰るのである。
別れの接吻の、甘く哀しい味を覚えながら、女は広い、ふわりとした外套をはおって、急ぎ足に帰って行く。いつもこんなに遅くなるまでいるはずではなかったがと後悔する。なぜというに、遅くなって急いで帰る時は、自分の台の処まで行くのに、狭い横町を通り抜けなくてはならない。そこには厭な、醜い人形がいる。それは支那人である。鈴のたくさん附いた帽子を被って、ふくらんだ腹を突き出して、胡坐《あぐら》を掻《か》いている。そいつがクサンチスの前を通るのを見ると、首をぶらぶら振って、長い真っ赤な舌を出して、微《かすか》なごろごろいうような笑声を洩すのである。この支那人はバゴオドといって、その首は胴と離れて、ぶらぶら動くように出来ている。女はその笑声を聞くたびに、我慢のし切れないほど厭になる。それかと思うと、ある時はその支那人の変な顔をするのを見て、吹き出したくなるのを我慢して通る事もある。
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夏が半ば過ぎたころであった。飾棚の中へ新しく這入《はい》って来た人がある。それは小さいブロンズ製のファウヌスである。今まで棚にいた連中がそれを見て、大分騒いで、口の悪い批評をした。
こわれ易い陶器の人形達は、「とんだ荒々しい様子をした人だ」といって、自然に用心深く、傍に寄らないようにしている。
それかと思うと、小さい、薔薇色の菓子器があって、甘ったるい声をして、「あら、わたしはあの方の体の丈夫そうなのが好きだわ。」といって、あべこべにそっと傍へ寄る。
またクロディオンのニンフェは臆面なくこの人の力士らしい体格を褒《ほ》めている。
それを聞いた柄附目金《えつきめがね》は、ニンフェの詞を遮るように、さげすんで云った。「おや。あれがいいのなんのと、よくもそんな下等な趣味を表白する事が出来たのものだね。まあ、あの不細工な節々を御覧よ。あの手を。あの足を。」柄附目金の柄には、金剛石を嵌《は》めて紋の形にした飾が附いていて、その柄は非常に長いのである。
「そんな事を言い合っておいでだが、あなたなんぞは御存じないのでしょう。」こう云って、さも意味ありげな顔をして、レエスの附いたハンケチを顔に当てて、身を前に屈《かが》めて、狡猾《こうかつ》らしく笑うのは、素焼の城持ちの貴婦人である。
大勢の女達が、この内証話を聞きたがって集って来た。そんな話をする事には、物慣れている城持ちの貴婦人が、何か序開《じよびら》きに、一言二言云っておいて、傍に立っていた一人の耳に口を寄せて囁くと、その聞いた女が隣に伝える。そういう風に段々に耳打ちをして、貴婦人の話を取り次いだ。聞えるのは、興奮の余りに劇しく使われる扇の戦《そよ》ぎばかりである。
要するにファウヌスの受けた批評は余り好結果ではなかった。ファウヌスは下品な、愉快げな様子をして、平手での胸をぴたりと打った。その音が余りにいいので、小さい女人形達は夢見心地になった。しかし詞《ことば》少なにしていても、ひどく物の分かっているつもりの男仲間には、この新参者に対して敵意を含んでいるものが多かった。
どうも上品なこの社会では、ファウヌスの、声高に、無遠慮に笑ったり、立ち振舞ったりするのがなんとなく厭に思われたのである。
しかしこの社会では、一同腹の中で卑しんで、互にその卑しむ心を知り合っているだけで満足して、黙っている。よしや口に出して非難する事があっても、露骨には言わないで巧みな辞令を用いるので、ブロンズ製の人形の野蛮な流儀では、所詮《しよせん》争う事が出来ないのである。
ある時ファウヌスは始めてクサンチスを見た。その時の様子は、まるで百姓の倅《せがれ》が馴染の娘に再会したようであった。短く伸びた髯をひねって、さも疑いのない勝利を向うに見ているような、凝《こ》り固った微笑を浮べて、相手の様子を眺めていたのである。
そんな風に眺められて、クサンチスは腹を立てるかと思うと、意外にもそのファウヌスを見返す目附きが、嫌っているらしくは見えなかった。ちょうどその時公爵が傍にいたので、こう云った。
「あの土百姓《どびやくしよう》があなたを、失敬な目附きをして見ているのに、あなたはなぜ人をよくして見返しておやりになるのですか。」
「あら。土百姓だなんて。」女は少し不平らしくこう云って、急に公爵の方を一目見た。その様子が二人を比べて見て、公爵の方が弱々しいと思うらしく見えた。しかし持前の気の変る事の早い女で、すぐにまたファウヌスの事を忘れてしまった。
そして「あんな人なんか」と云って形附《かたつき》の裳《も》を撮《つま》み上げて、ひらりと薔薇の花で飾った陶器の馬車に乗り移った。
それから数日間にクサンチスの平生《へいぜい》何事にも大概満足している性質が、著明に変化した。妙に機嫌買いになったのである。しかし公爵はこの様子を見ても、別に意味のある事とは認めない。それは多年の経験で、女の心というものを知り抜いて、ひどく寛大に見る癖が付いているからである。この寛大の奥には密《ひそか》に女を軽蔑している心持があるという事を、誰でも大した骨折り無しに発見する事が出来るのである。
ある晩クサンチスは、ひどく苛々《いらいら》した様子をして、青年音楽家の処へ来た。青年が、なぜ不機嫌なのかと問うてみると、女の返事はそっけない。女は、自分の秘密は自分だけで持っているから、大きにお世話だと云ったのである。余り失敬だと思って、青年もとうとう無愛想な詞《ことば》を出した。喧嘩が避くべからざる結果であった。ちょうど夏の晴れた日が続いたあとで、空気の中に電気が満ちているように、近ごろ二人の感情の天も雷雨を催していたのである。いよいよそれが爆発した。例のごとく猛烈な罵詈《ばり》やら、鈍い不平やら、欷歔《すすりなき》やら、悲鳴やらがあって、涙もたっぷり流された。
「ほんとにあなた紳士らしくない方ね。わたしをそんなに見損うなんて、あんまり残酷だわ。」
こう云った時、クサンチスの声は涙に咽《むせ》んでいて、目はうるみ、胸は波を打ち、体中どこからどこまで抑制せられた感情が行き渡っているのであった。青年はあやまって、子供を慰めるように慰めて、ふと饒舌《しやべ》った無礼の詞を忘れてくれと頼んだ。そして二人は抱き合って和睦した。
さて青年がいつものように熱情を見せそうになって来ると、女が出し抜けに、どうも余り興奮したためか、ひどく疲れているから、赦《ゆる》してもらいたいと云って、青年の切に願うのを聞かずに、いつもの時刻よりずっと早く飛び出して帰った。
それから自分の台の上に帰ったのは翌朝であった。
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このころからクサンチスは、ひどく機嫌がよくなった。
故郷の詩人の賞讃する、晴れた日の快活な光を、クサンチスは体中の理《きめ》から吸い込んだ。このころほど顔色が輝き、髪の毛が金色に光り、体の輪廓が純粋になっていた事は、これまで無かったのである。
「大した女だ」と、公爵が唱《とな》える。
「無類だ」と、音楽家が和する。
「神々《こうごう》しい。」
「理想的だ。」
こんな風に二人は鼬《いたち》ごっこをして褒めちぎる。それをファウヌスは傍の柱に寄り掛かって、非常に落ち着いた態度で、右から左へと見比べて、少し伸びた髭を撚《ひね》っている。
日が暮れて、女は自分の台の上に帰って、寝支度に髪をほどきながら、一日中にした事を、心の中で繰り返してみると、どうしても多少の己惚《うぬぼれ》の萌《きざ》すのを禁ずる事が出来ない。この女にはいい癖があって、寝る前にはきっと踊りの守護神たる、慈悲深いアルテミスに祈祷をする。それが済んで、神様の恩を感じて、軽い溜息をする。それから肱を曲げて、その上に可哀らしい頭を載せて穏かに眠るのである。
ああ。クサンチス姉えさん。お前さんは神様の恩を知っているつもりでいるが、実はまだその恩というものが、どれだけの難有《ありがた》みのあるものだか知らないのだよ。なるほどお前さんは、勝利の車を、あの、女の世話をする人の中で、一番貴族的な公爵に輓《ひ》かせている。それからあの多情多恨の芸術家たる青年に輓かせている。それからあの強い力の代表者たるファウヌスに輓かせている。そしてこの一々趣を異にしている交際が、譬《たと》えば上手な指物師の拵《こしら》えた道具のように、しっくりと為口《しくち》が合って、それがお前さんの生活に纏《まと》まっているのだ。しかしこんなに為合《しあわ》せな要約が旨《うま》く出合っているという以上はもうそろそろ均衡が破れそうになっていはしないか。図《はか》らず口から滑り出た一言、ちょいとした、間違った挙動なぞのような、刹那の不用意から生ずる一瑣事《さじ》が、この不思議に纏まっているすべてを打ち崩してしまいはすまいか。お前さんはそこに気が付いて、用心していなくてはならないのであった。
クサンチス姉えさん。お前さんは場知らずで、気の利かない事をしたのでしょうか。決してそうではありません。お前さんはエゲエの社でお祭りのある時に、踊を踊っていて、だんだん年ごろになった、小さな希臘《グレシア》生れの踊子に過ぎないのだが、自分の出合った、新しい境遇に処するには、どうすればいいかという事だけは、苦もなく悟っていた。昔風の、貴族的な交際に必要な、巧者《こうしや》な優しみも出来た。ロマンチックの感情の劇《はげ》しい嵐に、戦慄しながら、身を委《ゆだ》ねる事も出来た。あらゆる恋の役々《やくやく》を、お前さんは巧者に勤めた。
そんなら何が悪かったのだろう。本当の事を言いましょうか。お前さんを滅ぼしたのは、かの堕落の精神だ。この精神が女を煽動して、その胸の中に不可測の出来心を起させる。この精神が、思いも寄らない時に、女の貞操を騙《だま》して、真っ暗な迷いの道に連れ出す。
たいていそういう過失は、言うに足らざる趣味の錯誤である。そこでその過失の反理性的なところに、どうかするといったん堕落した女の、自業自得の禍《わざわい》から遁《のが》れ出る手掛かりもあるものだ。なぜというに、女は過失に陥るのも早いが、それを忘れるのが一層容易なものである。
ああ。不幸にもお前さんはそんな風に禍を遁れることが出来なかった。お前さんの不注意は自滅の原因になったばかりでなく、お蔭で罪のない、お前さんの友達までが、迷惑を蒙《こうむ》ったのである。
その恐るべき出来事は左の通りである。
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ある晩ファウヌスがクサンチスを待っていたが、いつもの時刻に来なかった。しばらくは我慢していたが、とうとう十一時半が鳴ったに、クサンチスはまだ来ない。これが外《ほか》の男なら、女の来ない理由を考えて、自分の恥にもならず、また自分の恋慕の情をも鎮めるような説明を付けただろう。そして一時の不愉快を凌《しの》ぐ事が出来ただろう。ところがファウヌスには二つの判断を結び付ける事が出来ない。事実の外の物をば一切認める事が出来ない。一つの事実を手放すには、他の事実を掴まなくてはならないのである。
もう我慢が出来ないという瞬間に、ファウヌスは突然立ち上がって、クサンチスを捜しに出掛けた。飾棚の隅の処に、薔薇の木の小箱がある。その小箱に付いて曲って、二十歩ばかりも行くと、クサンチスが見付かった。
まあ、なんというざまだろう。クサンチスはかの厭な支那人の膝の上に乗っている。女は体をゆすって精一ぱいの笑声を出している。厭な野郎は不細工な指で、女の着ている空色の外套をいじくっている。美しい襞を形づくっている外套のために気の毒なくらいである。それは長くは続かなかった。吠えるような大喝一《かざ》に、棚の硝子《ガラス》が震動して、からから鳴った。ファウヌスが銅《あかがね》の腕を振り翳《かざ》した。一声の叫びをする遑《いとま》もなく、タナグラ製の小さい踊子は微塵になってしまった。
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これが踊子クサンチスの末路であった。葡萄《ぶどう》の実り豊かに、海原《うなばら》の波の打ち寄せる、クリッサの市《いち》に生れた、明色の髪に菫の花の花飾をした踊子クサンチスは、こんな死にをしたのである。
こんな風に一刹那の軽はずみが、厳重な運命の罰を受けたのである。
こんな風にあれほど優しい、あれほど人附合いのいい、あれほど情の発動の劇しい、あれほど幸福のある性命《せいめい》が、一撃の下に滅されたのである。
翌日飾棚の内にいるアモレットの小人形が皆喪《も》のしるしに黒い紗《しや》を纏《まと》った。扇は皆半ば畳まれてクレポンで包まれた。オスタアドの寺祭りは中止せられた。
指環や腕環や耳飾に嵌《は》めてある宝石は皆光を曇らせた。
珍奇な香水を盛ってある、細工の手の籠《こ》んだ小瓶は、皆自然に栓が抜けて、希臘《グレシア》美人の霊魂を弔《とぶら》うために、世にも稀な薫《かおり》を立てた。アルレスのバジリカ式の寺院を象《かたど》った、聖トロフィヌスの納骨箱でさえ黄金の響を、微かな哭声《こくせい》にして発したのである。
電光のごとく速かに悲報が伝えられた。公爵はそれを聞いて云った。
「ああ。可哀《かわい》い、不行儀な奴め。おれはお前のお蔭で、生甲斐があるように思っていた。おれのためには時間が重苦しい歩き付きをしてならないのだが、あの女と付き合っている間は《ひかげ》の移るのを忘れていた。さあ。これからはどうして暮したものだろう。おれの感情の焔を、氷のような冬の息に捧げなくてはならぬのか。ああ。クサンチスや。クサンチスや。おれはお前に縛られた奴隷であったが、その縛《ばく》が解けて、自由を得てみれば、おれは自由のために泣きたくなった。」
公爵は夜どおし鬱々と物を案じていた。涙を飜《こぼ》すまいと思って我慢しているのに、その涙が頬の上を伝わって流れた。いったん癒えていた昔の創《きず》が一つ一つ口を開くのが分かった。左の足が痛んで来た。夜の明方に、白粉《おしろい》で粧《よそお》った、綺麗な首が接ぎ目からころりと落ちた。
青年音楽家はクサンチスの死んだ事を聞くや否や、気を失って、気が付いて、また気を失って、とうとう台の上からころがり落ちた。落ちる拍子《ひようし》に、孔雀石のインキ壺の角に打っ付かって、頭が割れて、そのままインキ壺の傍に倒れていた。それを、側にいた素焼の和蘭《オランダ》人が二人で抱き起したのが、ちょうど公爵の首の落ちたのと同時であった。和蘭人は二人とも人の好い、腹のふくらんでいる男である。そしてこう云っている。
「可哀そうに。まだ若い男だが、この創は直らない。」
ファウヌスは踊子の砕けたのを見て、しばらくは茫然として動かずにいた。ようようの事で自分のした事が分かると、どしりと膝を衝《つ》いて、荒々しい絶望の挙動をし始めた。そのうちに飾棚の中では、ファウヌスに対する公噴が絶頂に達した。一同この悪《にく》むべき犯罪者のために、刑罰を求めて已《や》まなかった。
その刑罰はほどなく実現した。二三日たつと、飾箱の前へ大きな翁が出て来た。どこやら公爵に似た顔付である。さて自分の所有の美術品を見ると、非常な狼藉《ろうぜき》がしてあるので、勃然《ぼつぜん》として怒った。誰が狼藉者であるかという事は、すぐに分かった。ファウヌスは誰が見ても怪むような、絶望の様子をしていたのである。翁はファウヌスを飾箱から撮《つま》み出して、その日のうちに棄売に売ってしまった。それからというものは、ファウヌスは次第に落ちぶれて行くばかりである。恥かがやかしい競売《せりうり》に遭う。日の目も当らない、五味《ごみ》だらけの隅に置かれて蜘蛛《くも》のいに掛かる。とうとうなんだか見定めの附かない物になって、陶器の欠けや、古鉄《ふるかね》や、廃《すた》れた家の先祖の肖像と一しょに、大道店に恥を晒《さら》して終ったのである。
これだけの不幸の重なった物語で見れば、賢明なる道徳の教師先生は、この中から疑いもなく豊富な材料を見出す事であろう。あらゆる国の人達は、昔からすべての出来事を種にして、道徳を建設したではないか。そうしてみればこの場合に道徳論をするのは造作もないが、ただどういう道徳をこの中から引き出したがいいか、分からない。ただその選択に困る。作者はそんな事をする事は御免を蒙《こうむ》りたい。なぜというに、作者の経験によれば、こんな時に吐き出す金言は、その証明の力が大きいだけ、それだけ不幸に遭遇したものに対して、無駄な残酷を敢てするに当るからである。
橋の下 ブウテ
一本腕は橋の下に来て、まず体に一面に食っ附いた雪を振り落した。川の岸が、涜《けが》されたことのない処女の純潔に譬《たと》えてもいいように、真っ白くなっているので、橋の穹窿《きゆうりゆう》の下は一層暗く見えた。しかしほどなく目が闇に馴れた。数日前から夜ごとに来て寝る穴が、幸にまだ誰《たれ》にも手を附けられずにいると云うことが、ただ一目見て分かった。古い車台を天井にして、大きい導管二つを左右の壁にした穴である。
雪を振り落してから、一本腕はぼろぼろになった上着と、だぶだぶして体に合わない胴着との控鈕《ボタン》をはずした。その下には襦袢《じゆばん》の代りに、よごれたトリコオのジャケツを着込んでいる。控鈕をはずしてから、一本腕は今一本の腕を露した。この男は自分の目的を遂げるために必要な時だけ、一本腕になっているのである。さて露した腕を、それまでぶらりと垂れていた片袖に通して、一方の導管に腰を掛けた。そして隠しからパンを一切と、腸詰を一塊と、古い薬瓶に入れた葡萄酒とを取出して、晩食をしはじめた。
この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾《いびき》のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。
「おや。なんだ。爺《じ》いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。
一言の返事もせずに、地びたから身を起したのは、痩せ衰えた爺いさんである。白い鬚《ひげ》がよごれている。頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。
一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬《か》んでいる。
爺いさんは穹窿の下を、二三歩出口まで歩いて行って、じっと外を見ている。雪は絶間なく渦を巻いて地の上と水の上とに落ちる。その落ちるのが余り密《こまか》なので、遠い所の街灯の火が蔽《おお》われて見えない。
爺いさんが背後《うしろ》を振り返った時には、一本腕はもう晩食をしまっていた。一本腕はナイフと瓶とを隠しにしまった。そしてやっと人づきあいのいい人間になった。「なんと云う天気だい。たまらないなあ。」
爺いさんは黙って少し離れた所に腰を掛けた。
一本腕が語り続けた。「糞《くそ》。冬になりゃあ、こんな天気になるのは知れているのだ。出掛けさえしなけりゃあいいのだ。おれの靴は水が染みて海綿のようになってけつかる。」こう言い掛けて相手を見た。
爺いさんは膝の上に手を組んで、その上に頭を低く垂れている。
一本腕はさらに語り続けた。「いやはや。まるで貧乏神そっくりと云う風をしているなあ。きょうは貰いがなかったのかい。おれだっておめえと同じ事だ。まずい商売だよ。競争者が多過ぎるのだ。お得意の方で、もう追っ附かなくなっている。おれなんぞはいろんな事をやってみた。恥かしくて人に手を出すことの出来ない奴の真似をして、上等の料理屋や旨《うま》い物店の硝子《ガラス》窓の外に立っていたこともある。駄目だ。中にいる奴は、そんな事には構わねえ。外に物欲しげな人間が見ているのを、振り返ってもみずに、面白げに飲んだり食ったりしゃあがる。おれは癲癇《てんかん》病みもやってみた。口にシャボンを一切入れて、脣《くちびる》から泡を吹くのだ。ところが真に受ける奴は一人も無い。馬鹿にして笑ってけつかる。それにいつでも生憎《あいにく》手近に巡査がいて、おれの頸《くび》を攫《つか》んで引っ立てて行きゃあがった。それから盲もやってみた。する事の無い職人の真似もしてみた。皆駄目だ。も一つ足なしになって尻でいざると云うのがあるが、爺いさん、あれはおめえやらないがいいぜ。第一道具がいる。それに馬鹿に骨が折れて、脚が引っ吊って来る。まあ、やっぱり手を出して一文貰うか、パンでも貰うかするんだなあ。おれはこのごろ時たま一本腕をやる。きょうなんぞもやったのだ。随分骨が折れて、それほどの役には立たねえ。きまって出ている場所と、きまってくれるお得意とがなけりゃあ、この商売は駄目だ。どうせ貧乏人は皆くたばるのだ。皆そう云っていらあ。ひどい奴等だよ、金持と云う奴等は。」
「なぜぬすっとをしない。」爺いさんが荒々しい声で云った。
この詞《ことば》は一本腕の癪《しやく》に障った。「なに。ぬすっとだ。口で言うのは造做《ぞうさ》はないや。だが何を盗むのだ。誰の物を盗むのだ。盗むにはいろいろ道具もいるし、それに折も見計わなくちゃならない。修行しなくちゃ出来ない商売だ。そればかりじゃないや。第一おれには不気味で出来ねえ。実は小さい時おれに盗みを教え込もうとした奴があったのだ。だが、どうも不気味だよ。そうは云うものの、おめえ何か旨い為事《しごと》があるのなら、おれだって一口乗らねえにも限らねえ。やさしい為事だなあ。ちょいとしゃがめば、ちょいと手に攫《つか》めると云う為事で、あぶなげのないのでなくちゃ厭だ。そう云う旨い為事があるのかい。福の神の髻《たぶさ》を攫んで放さないと云う為事だ。どうかすると、おめえそんなのを一週間に一度ずつこっそりやるのかも知れねえが。」一本腕はこう云って、顔をくしゃくしゃにして笑った。
爺いさんは真面目に相手の顔を見返して、腰を屈めて近寄った。そして囁《ささや》いた。「おれは盗んだのだ。何百万と云う貨物《しろもの》を盗んだ。おれはミリオネエルだ。そのくせかつえ死ななくてはならないのだ。」
一本腕は目を大きく《みは》った。そして大声を出して笑った。「ミリオネエルだ。あの、おめえがか。して見ると、珍らしいミリオネエルの変物だなあ。まあ、いいから来て寝ろ。おれの場所を半分分けてやる。ぴったり食っ附いて寝ると、お互に暖かでいい。ミリオネエルはよく出来たな。」
爺いさんは一本腕の臂《ひじ》を攫んだ。「まあ、黙って聞け。おれがおぬしに見せてやる。おれの宝物を見せるのだ。世界に類の無い宝物だ。」
一本腕は爺いさんの手を振り放して一歩退いた。「途方もねえ。気違じゃねえかしら。」
爺いさんはそれには構わずに、靴をぬぎはじめた。右の足には黄革の半靴を穿《は》いている。左の足には磨り切れた、控鈕《ボタン》留の漆塗の長靴を穿いている。その左の方を脱いで、冷たいのも感ぜぬらしく、素足を石畳の上に載せた。それから靴の中底を引き出した。それから靴の踵《かかと》に填《う》めてある、きたない綿を引き出した。綿には何やらくるんである。それを左の手に持って、爺いさんは靴を穿いた。そして身を起した。
「見ろよ」と云いながら、爺いさんは棒立ちに立って、右の手を外套の隠しに入れて、左の手を高くさし伸べた。
一本腕はあっけに取られて見ている。
爺いさんは左の手を開いた。指の間に小さい物を挟んでいる。不思議にも、その小さい物が、この闇夜に漏れて来る一切の光明を、ことごとく吸収して、またことごとく反射するようである。
爺いさんは云った。「なんだか知っているかい。これは青金剛石《ダイアモンド》と云う物だ。世界に二つと無い物で、もう盗まれてから大ぶの年が立つ。それを盗んだのはおれだ。世界中捜しても知れない。おれが持っている。おれが盗んだのだ。なんでもふいと盗んだのだ。その時の事はもう精《くわ》しくは知っていない。忘れてしまった。とにかくその青金剛石はおれが持っている。世界に二つとない正真正銘の青金剛石だ。世界中捜しても見附からないはずだ。乞食の靴の中に這入っている。誰にだって分からなかろう。誰にだってなあ。ははは。何百万と云う貨物《しろもの》が靴の中にあるのだ。」
一本腕は無意識に手をさし伸べて、爺いさんの左の手に飛び附こうとした。
「手を引っ込めろ。」爺いさんはこう云って、一歩退いた。そして左の手を背後《うしろ》へ引いて、右の手を隠しから出した。きらきらと光る小刀を持っていたのである。裸刃《はだかみ》で。「手を引っ込めぬと、命が無いぞ。そこで今云ったとおり、おれが盗んでいるのだ。おぬし手なんぞを出して、どうしようと云うのだ。馬鹿奴《め》。取って売るつもりか。売るにしても誰に売る。この宝は持っていて、かつえて死ぬより外《ほか》無いのだ。」
「馬鹿げているじゃないか。小さく切らせればいい。そんな為事を知ったものがあるのだ。おれならそう云う奴をどうにかして捜し出す。もしおめえの云うような値打の物なら、二人で生涯どんな楽な暮らしでも出来るのだ。どれ、もう一遍おれに見せねえ。」
爺いさんは目を光らせた。「なに、おれの宝石を切るのだと。そんな事が出来るものか。それは誰にも出来ぬ。第一おれが不承知だ。こんな美しい物を。これはおれの物だ。誰にも指もささせぬ。おれが大事にしている。側に寄るな。寄るとあぶないぞ。」手には小刀が光っている。
爺いさんはまた二三歩退いた。そして手早く宝石を靴の中に入れて、靴を穿いた。それから一言も言わずに、その場を立ち去った。
一本腕は追い掛けて組み止めようとした。しかしふと気を換えて罷《や》めた。そして爺いさんの後姿を見送っているうちに、気が落ち着いた。一本腕は肩を聳《そびや》かした。「馬鹿爺い奴《め》。どこへでも往きゃあがれ。いずれ四文もしないガラス玉か何かだろう。あんな手品に乗って気を揉んだのは、馬鹿だった。」こう云って一本腕はいつもの穴にもぐり込んだ。
爺いさんは鼠色の影のようにその場を立ち去った。そして間もなく雪に全身を包まれて、外の寝所を捜しに往く。深い雪を踏む、静かなさぐり足が、足音は立てない。破れた靴の綻《ほころ》びからは、雪が染み込む。
田舎 プレヴォー
脚本作者ピエエル・オオビュルナンの給仕クレマンが、主人の書斎の戸を大切そうに開いた。ちょうど堂守が寺院の扉を開くような工合である。そして郵便物を載せた銀盤を卓の一番端の処へ、注意してそっと置いた。この銀盤は偶然だが、実際ある寺院で使っていたロオマ時代の器具であった。卓の上には物を書いた紙が一ぱいに散らばっていて、ほとんど空地が無い。それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさせなかったのである。
ピエエル・オオビュルナンは構わずに、ゆっくり物を書いている。友人等はこの男を「先生」と称している。それには冷かす心持もあるが、たしかに尊敬する意味もある。この男の物を書く態度はいかにも規則正しく、短い間を置いてはまた書く。その間には人指し指を器械的に脣《くちびる》の辺まで挙げてまた卸《おろ》す。しかし目は始終紙を見詰めている。
この男がどんな人物だと云うことは、一目見れば知れる。態度はいかにも威厳があって、自信力に富んでいるらしい。顔は賢そうで、煎《せん》じ詰めたようで、やや疲労の気色を帯びている。そう云う態度や顔に適《かな》っているのはこの男の周囲で、隅から隅まで一定の様式によって、主人の趣味に合うように整頓してある。器具は特別に芸術家の手を煩わして図案をさせたものである。書架は豊富である。Bibelots と云う名の附いている小さい装飾品に、硝子鐘《しようししよう》が被《かぶ》せてある。物を書く卓の上には、貴重な文房具が置いてある。主人ピエエルが現代に始めて出来た精神的貴族社会の一員であると云うことは、この周囲を見て察せられる。あるいは精神的富豪社会と云った方が当たっているかも知れない。それはどんな社会だと云うと、国家枢要の地位を占めた官吏の懐抱している思想と同じような思想を懐抱して、著作に従事している文士の形づくっている一階級である。こう云う文士はぜひとも上流社会と同じような物質的生活をしようとしている。そしてその目的を遂げるために、財界の老錬家のような辣腕《らつわん》を揮《ふる》って、巧みに自家の資産と芸能との遣繰《やりくり》をしている。昔は文士を boh?m だなんと云ったものだが、今の流行にはもうそんな物は無い。文士や画家や彫塑家の寄合所になっていた、小さい酒店が幾つもあったが、それがたいてい閉店してしまって、そこに出入していた人達は、今では交際社会の奢《おご》った座敷に出入している。新進文士でも二三の作が少し評判がいいと、すぐに住いや暮しを工面する。ちょいと大使館書記官くらいな体裁にはなってしまう。「当代の文士は商賈の間に没頭せり」と書いた Porto-Riche は、実にわれを欺かずである。
ピエエル・オオビュルナンは三十六歳になっている。鬚を綺麗に剃っている。指の爪と斬髪頭とに特別の手入をしている。衣服は第一流の裁縫師に拵《こしら》えさせる。冷水浴をして sport に熱中する。昔は Monsieur de Voltaire, Monsieur de Buffon だなんと云って、ロオマンチック派の文士が冷かしたものだが、ピエエルなんぞはたしかにあのたちの貴族的文士の再来である。
オオビュルナン先生は最後に書いた原稿紙三枚を読み返して見て、あちこちに訂正を加え、ある詞《ことば》やある句を筆太に塗沫《とまつ》した。先生の書いているのは、新脚本では無い。自家の全集の序である。これは少々難物だ。
余計な謙遜はしたくない。骨を折って自家の占め得た現代文壇における地位だけは、婉曲《えんきよく》にほのめかして置きたい。ただしほのめかすだけである。傲慢に見えてはならない。
ピエエル・オオビュルナンは満足らしい気色で筆を擱《お》いた。ぎごちなくなった指を伸ばして、出そうになった欠《あくび》を噛み潰した。そしてやおらその手を銀盤の方へ差し伸べた。盤上には数通の書簡がおとなしく待っていたのである。
ピエエルは郵便を選《え》り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙《せ》わしく選り出して別にした。しかしすぐに開けて読もうともしない。
オオビュルナン先生はしずかに身を起して、その手紙を持って街に臨んだ窓の所に往って、今一応丁寧に封筒の上書を検査した。窓の下には幅の広い長椅子がある。先生は手紙をその上に置いて自身は馬乗りに椅子に掛けた。そして気の無さそうに往来を見卸《みおろ》した。
ちょうど午後三時である。Rue de la Faisanderie の大道は広々と目の下に見えていて、人通りは少い。ロンドンの上流社会の住んでいる市区によくこんな立派な、幅の広い町があるが、ここの通りはそれに似ている。
ピエエル・オオビュルナンは良久《ややひさ》しく物を案じている。もうよほど前からこの男は自己の思索にある節制を加えることを工夫している。神学者にでも言わせようものなら、「生産的静思」なんぞと云うだろう。そう云う態度に自身を置くことが出来るように、この男は修養しているのである。オオビュルナン先生はこんな風に考えている。もっともそれは先生だけの考えかも知れない。文人は年を取るにしたがって落想が鈍くなる。これは閲歴の爛熟したものの免れないところである。そこで時々想像力を強大にする策を講ぜなくてはならない。それには苟《いやし》くも想像力にうぶな、原始的な性能を賦《ふ》し、新しい活動の強みを与えるような偶然の機会があったら、それを善用しなくてはならないと云うのである。
しかるにこのイソダンの消印のある手紙は、幸にもその暗示的作用を有する機会の一つであった。先生はこの手紙が自己の空想の上に、自己の霊の上に、自然に強大に感作するのを見て、独り自ら娯《たの》しんでいる。
この手紙を書いた女はピエエル・オオビュルナンの記憶にはっきり残っている。この文字はマドレエヌ・スウルヂェエの手である。自分がイソダンで識っていた時は未亡人でいた美人である。それが自分のパリイに出たあとで再縁して、今ではマドレエヌ・ジネストと名告《なの》っている。スウルヂェエにしろ、ジネストにしろ、いずれも誰にも知られない平民的な苗字《みようじ》で目下自分の交際している貴夫人何々の名に比べてみれば、すこぶる殺風景である。しかしこの平民的な苗字が自分の中心を聳動《しようどう》して、過ぎ去った初恋の甘い記念を喚び起すことは争われない。
その時のピエエルは高等学校を卒業したばかりで、高慢なくせにはにかんだ、世慣れない青年であった。丈は不吊合《ふつりあい》に伸びていて、イギリス人の a long lad なんぞと云うたちである。金は無い。親を亡くした当座で、左の腕に喪章を附けている。その時のマドレエヌはどうであったか。栗色の髪の毛がマドンナのような可哀《かわい》らしい顔を囲んでいる若後家である。その時の場所はどんな所であったか。イソダンの小さい客間である。俗な、見苦しい、古風な座敷で、椅子や長椅子には緋の天鵝絨《びろうど》が張ってある。その天鵝絨は物を中に詰めてふくらませてあって、その上には目を傷めるような強い色の糸で十文字が縫ってある。アラバステル石の時計がある。壁に塗り込んだ煖炉の上に燭台が載せてある。
ピエエル・オオビュルナンはこんな光景を再び目の前に浮ばせてみた。この男はそう云う昔馴染の影像を思い浮べて、それをわざとあくまで霊の目に眺めさせる。そうして置けば、それが他日物を書くときになって役に立たぬ気遣いは無い。それからピエエルは体を楽にして据わり直して、手紙を披《ひら》いて読んだ。
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イソダン。五月二十三日。
なぜわたくしは今日あなたに出し抜けに手紙を上げようと決心いたしたのでしょう。人の心の事がなんでもお分かりになるあなたに伺《うかが》ってみたら、それが分かるかも知れません。わたくしこれまで手紙が上げたく思いましたのは、幾度だか知れません。それでいて、いざとなると、いつも大胆に筆を取ることが出来なくなってしまいました。今日は余り大胆な事をいたすことになりましたので、わたくしは自分で自分に呆れています。さて、当り前なら手紙の初めには、相手の方を呼び掛けるのですが、わたくしにはあなたの事を、どう申上げてよろしいか分かりません。「オオビュルナン様」では余りよそよそしゅうございます。「尊い先生様」では気取ったようで厭でございます。「愛する友よ」とか、「愛するピエエルよ」とか申すのでしょうか。どうもそんなのがちょうどよろしいかと存ぜられます。ですけど、頭からそう申す事は、余り不躾《ぶしつけ》なようで出来かねます。だんだん書いてまいりますうちに、そんな事も申されるようになりますかも知れません。
あなたがわたくしの事を度々思い出して下さるだろう、そしてそれを思い出すのを楽しみにして下さるだろうなんぞとは、わたくしは一度も思った事はございません。あなたはあんまり御用がおありになって、あんまり人に崇拝せられていらっしゃるのですもの。あなたが次第に名高くおなりになるのを、わたくしは蔭ながら胸に動悸をさせて、正直に心から嬉しく存じて傍看《ぼうかん》いたしていました。それにひっきりなしに評判の作をお出しになるものですから、わたくしが断えずあなたの事を思わせられるのも、余儀ないわけでございます。こうは申しますが、実はあんな夢のような御成功が無くたって、大切なる友よ、わたくしはあなたの事を思わずにはいられませんのでした。御覧なさい。あなたをお呼掛け申しまする、お心安立ての詞《ことば》を、とうとう紙の上に書いてしまいました。あれを書いてしまいましたので、わたくしは重荷を卸したような心持がいたします。それにあなたがわたくしの所へいらっしゃった時の事を、まるでお忘れになるはずは無いように、わたくしには思われてなりません。高等学校を御卒業なさいましても、誰とも交際なさらずに、寂しく暮らしていらっしゃる時の事で、毎週木曜日と日曜日とには、きっとおいでなさいましたのね。あの時はまだお父う様がお亡くなりなすって、お母あ様がお里へお帰りになった当座でございましたのね。それだもんですから、イソダンであなたの御交際なさることの出来ましたのは、御両親を存じていたわたくしだけでございましたわ。
大切なる友よ。あの時がわたくしにとっては、どんなに幸福な時でございましたでしょう。本当にお互に物馴れない、窮屈らしい御交際をいたしました事ね。あの時邪魔の無い所で、久しく御一しょにいますうちに、あなたの人にすぐれていらっしゃること、珍らしい才子でいらっしゃること、何かなさるのに思い切って大胆に手をお下しになることなんぞが、わたくしにはよく分かりましたので、わたくしはあなたをえらい方だと存じましたの。それなのにあなたは大きななりをして、はにかんでばかりいらっしゃったのですもの。それは六つも年上の若後家の前だからでございましたのね。六つ違いますわねえ。おまけに男のかたが十七で、高等学校をお出になったばかりで、後家はもう二十三になっているのですから、その六つが大した懸隔になったのも無理はございませんね。そんな風にしていましたから、人の世話ばかり焼くイソダンの人達も、わたくしの所へあなたのいらっしゃるのをなんとも申さないで、あれは二親の交際した内だから尋ねて往くのだと申していましたのです。
しかしわたくしがそんな気でいましたから、あなただってそう思っていらっしゃったでしょう。二人は内々恋で逢う心持をしていましたのね。本当にあの時は楽しい時でございました事。わたくし今だから打明けて申しますが、あの時が私の一生で一番楽しい時でございましたの。あの時の事をまだ覚えていらっしゃって。あなたのいらっしゃる時とお帰りになる時とにあなたが子供でいらっしゃった時からの習慣で、わたくしはキスをしてお上げ申しましたのね。それはもと姉が弟にするキスであったのに、いつか温い感じが出て来ましたのね。次第に脣と脣との出合ったのが離れにくくなりますのを、わたくしはわざと自分でも気に留めないようにしていましたの。そして手の震えるのをお互に隠し合うようにしていましたっけね。
そのうちお互に何も口に出さずにいて、とうとうあなたは土地を離れておしまいなさいました。それはあなたははにかんでいらっしゃる、わたくしはあなたを預托品《よたくひん》のように思っていましたからでございます。一体わたくしは前から堅気な女で、今でも堅気でいるのでございますの。
お別れにお互に涙を飜《こぼ》したことは、まだ覚えていらっしゃって。お互に口に出さないつらさを感じましたわね。
それだのにあなた、パリイにいらっしゃってから、すぐにわたくしの事をお忘れなさいましたのね。お手紙はたった四度しか参りませんでした。それから勲章をお貰いになったお祝を申上げた時、お葉書を一度下さいましたっけ。それにわたくしはどうでございましょう。
わたくしはあなたの記念を心の隅の方に、内証で大切にしまって置いて、昔のようになんの幸福もなしに暮らしていました。それからわたくしは二度目に結婚いたしました。これまで申上げると、わたくしはこの手紙を上げる理由を御話申さなくてはなりませんから、その前に今の夫の事を申しましょう。格別面白いお話ではございませんから、なるたけ簡略に致します。ジネストは情なしの利己主義者でございます。けちな圧制家でございます。わたくしは万事につけて、一足一足と譲歩して参りました。わたくしには自己の意志と云うものがございません。わたくしは持前の快活な性質を包み隠しています。夫がその性質を挑発的だと申すからでございます。わたくしはただ平和が得たいばかりに、自己の個人性を全滅させました。それが大失錯で、夫の要求は次第に大きくなるばかりでございます。今日のところでは、わたくしは主人に屈従している賄方のようなものでございます。そう云う身の上は余り幸福ではございませんわね。それでもわたくしは主人が渡世上手で、家業に勉強して、わたくし一人を守っていてくれるのをせめてもの慰めにいたしていました。
しかしそれはわたくしがひどく騙されていたのでございます。ある偶然の出来事から、わたくしはそれを発見いたしました。夫はある日机の抽斗《ひきだし》に鍵を掛けることを忘れたのでございます。リイユやブリュクセルやパリイに、夫は昔馴染を持っていて、わたくしと一しょになってからも、始終その関係を断たずにいたのでございます。
わたくしはすぐに頼附けの弁護士の所へまいって、離婚願を出して貰おうかと存じました。しかしわたくしだけが知っている事を、イソダンの人達に皆知らせるのが厭になって、わたくしは羞恥の心から思い留まりました。夫は取引の旅行中にその女どもに逢っていますので、イソダンでは誰も知らずにいるのでございます。
そこでわたくしはどういたしたらよろしいのでございましょう。それについて誰に相談いたしましょう。決してこの土地の人には打明けたくございません。
そんならパリイには誰がいるかと云うと、あなたより外に知った方はありません。
あなたはわたくしの相談相手になって下さらないわけには参りますまい。わたくし自身に分からない事までも、あなたにはお分かりになりましょう。あなたはお職業柄で女の心を御承知でいらっしゃるはずでございますからね。それにあなたは世間の事をよく御承知で、法律にもお精しいことを承知いたしています。わたくしは万事打明けてお願申すつもりでございます。わたくしの幸福と申すのは可笑《おか》しゅうございますが、わたくしの平和は、あなたのためにも、どうでもよろしい物ではございますまい。
どうぞあなたの貴重な時間の十五分間をわたくしに御割愛《かつあい》なさって下さいまし。ちょうど夫は取引用で旅行いたしまして、五六日たたなくては帰りません。明晩までに、差出人なしに「承知」と云う電信をお発し下さいましたら、わたくしはすぐにパリイへ立つことにいたしましょう。済みませんが、も一つお願いがございます。御親切ついでに、どうぞあなたの方からお尋なすって下さいまし。あなたのお住いへ伺うことは憚《はばか》りますのですから。わたくしはただいまから頼んでおいて Rue Romaine 十八番地に落ち着きますことにいたしましょう。
わたくしはこんなに手短に乾燥無味に書きます。これは少し気分が悪いからでございます。電信をお発し下すったなら、明後日午後二時から六時までの間にお待受けいたすことが出来ましょう。もうこれで何もかも申上げましたから、手紙はおしまいにいたしましょう。わたくしはきっと電信が参る事と信じています。どうぞこの会合をお避けなさらないで、わたくしに失望をおさせなさらないように、くれぐれもお願申します。わたくしはあなたにお目に掛かって、それをたよりにこれからさきの生活を続けようと存じています。それからどうぞ今はいけないから後にしろなんぞとおっしゃらないで下さいまし。御承諾下さるつもりで、前もってお礼を申上げます。もうこれでも大ぶ貴重なお時間をお潰させ申しましたでしょうね。
マドレエヌ
わたくしにお逢いになりましても、そう大して更《ふ》けたようには御覧なさいませんでしょうと存じますの。年の割に顔も姿も変らないと、皆がそう申しますの。これで体は大切にいたして、更けない用心をいたしていますの。でも夫の心は繋ぎ留めることが出来ませんでしたの。
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翌日の午後二時半にピエエル・オオビュルナンは自用自動車の上に腰を卸《おろ》して、技手に声を掛けた。「ド・セエヴル町とロメエヌ町との角までやってくれ」
返事はきのうすぐに出してある。それは第一に、平生紳士らしい行動をしようと思っていて、近ごろの人が貴夫人に対して、わざとらしいように無作法をするのに、心から憤っていたからである。第二にはジネストの奥さんの手紙が表面には法律上と処世上との顧問を自分に託するようであって、その背後に別に何物かが潜んでいるように感じたからである。無論尋常の密会を求める色文では無い。しかしマドレエヌは現在の煩悶を遁《のが》れて、過去の記念の甘みが味いたいと云う欲望をほのめかしている。男子の貞操を守っていない夫に対して、復讐がしてやりたいと云う心持が、はっきり筆に書いてはないが、文句の端々に曝露している。それに受身になって運命に左右せられていないで、何か閲歴がしてみたいと云う女の気質の反抗が見えている。要するにどの女でも若い盛りが過ぎて一度平静になった後に、もうほどなく老が襲って来そうだと思って、今のうちにもう一度若い感じを味ってみたいと企てる、ちょいとした浮気の発動が、この女の上にもめぐって来ているのだと認めたのである。あの手紙にはこの方面の事は文章の上に少しも書いて無い。しかしそれがかえってこう云う状態の存在を証明しているように思われた。
すべて女の手紙を読むには、行の間を読まなくてはならない。眼光紙背に徹せなくてはならない。ピエエル・オオビュルナンは得意の作の中にこう書いた事がある。「女の手紙の意味は読んで知れるものでは無い。推測しなくてはならない。たいていわざと言わずにあるところに、本意は潜んでいるものである。」
マドレエヌの手紙の中で、一番注意してみなくてはならぬ処は二白《にはく》である。法律顧問を托する女が媚《こび》を呈するような態度で、顔がどうなったの、姿がどうなったのと云うはずが無い。
自動車がセエヌ河に沿うて走る間オオビュルナンはこんな事を考えた。「三十三年に六年を足せば三十九年になる。マドレエヌは年増としてはまだ若い方だ。察するに今度のような突飛な事をしたのは、今に四十になると思ったからではあるまいか。夫が不実をしたのなんのと云う気の毒な一条は全然虚構であるかも知れない。そうでないにしても、夫がそんな事をしているのは、疾《と》うから知っていて、別になんとも思わなかったかも知れない。そのうち突然自分が今に四十になると云うことに気が附いて、あんな常軌を逸した決心をしたのではあるまいか。」これはちと穿鑿《せんさく》に過ぎた推論である。しかしこんなのが女にありそうな心理状態だと思うと、特別の面白みがある。
ピエエル・オオビュルナンはわざとらしく口の内でつぶやいた。「ああ。そんな事はどうでもいいのだ。十六年前の事を思ってみると、あのマドレエヌと云う女は馬鹿に美しい女だった。それが大して変っていないとすると。」これまで言って、あとはなんとも云わなかった。心の内でもそのあとは考えなかったのである。オオビュルナンは女に逢うに、どうしようと云う計画を立てたことが無い。今の世の人情で判断すれば、この男はまだ若いと云っていい。しかしもうあまたの閲歴、しかも猛烈な閲歴を持っているから、小説らしい架空な妄想には耽らない。この男はきちんと日課に割り附けてある一日の午後を、どんな美しい女のためにでも、無条件に犠牲に供せようとは思わない。この心持は自分にもはっきり分かっている。そんなら何が今でもこの男に興味を感ぜさせるかと云うと、それは女が自分のためにのぼせてくれるのを、受身になって楽しむところに存する。エピクロス派の耽美家が初老を越すと、相手の女の情欲を芸術的に研究しようと云う心理的好奇心より外には、もうなんの要求をも持っていない。これまでのこの男の情事は皆この方面のものに過ぎなかった。それがもう十年このかたの事である。
ピエエル・オオビュルナンはそんな風にこれまで相手にした女とまるで違ったマドレエヌに逢って、今度こそどんな心持がするか経験してみようと思っている。それが心の内で秘密な歓喜として感ぜられる。マドレエヌは本当の田舎の女である。そして読書に飽きたオオビュルナンの目には Balzac が小説に出る女主人公のように映ずるのである。
そこへまた他の一種の感情が作用する。それはやや高尚な感情で、自分の若かった昔の記念である。あの頃の事を思ってみれば、感情生活の本源まで溯って行く道がどんなにか平坦であっただろう。その恋しい昔の活きた証人ほど慕わしいものが世にあろうか。まだ人生と恋愛とが未来であった十七歳の青年の心持に、ただの二三十分間でもいいから戻ってみたい。あのマドレエヌに逢ってみたらイソダンで感じたように楽しい疑懼《ぎく》に伴う熱烈な欲望が今一度味われはすまいか。本当にあのマドレエヌが昔のままで少しも変らずにいてくれればいい。しかし自分はどうだろうか。なに、それは別に心配しなくてもいい。もちろん髪の毛は大ぶ薄くなって、顔のそこここに皺《しわ》が出来たが、その填合《うめあわ》せにはあの時のようにはにかみはしない。それから立居振舞も気が利いていて、風采も都人士めいている。「それに第一流の大家と来ている」と、オオビュルナンは口の内で詞に出して己《おのれ》を嘲《あざけ》った。
自動車が止まった。オオビュルナンは技手に待っていろと云って置いて、しずかに車を下りてロメエヌ町へ曲がった。小さい、寂しい横町である。少数の職業組合が旧教の牧師の下に立って単調な生活をしていた昔をそのままに見せるこう云う町は、パリイにはこの辺を除けては残っていない。指定せられた十八番地の前に立って見れば、宛然《えんぜん》たる田舎家である。この家なら、そっくりこのままイソダンに立っていたって、なんの不思議もあるまい。町に面した住いは低く出来ていて、入口の左右に小さい店がある。入口から這入《はい》る所は狭いベトンの道になっていて、それが綺麗に掃除してある。奥の正面に引っ込んだ住いがある。別荘造りのような構えで、真ん中に広い階段があって、右の隅に寄せて勝手口の梯《はしご》が設けてある。家番《やばん》に問えば、目指す家は奥の住いだと云った。
オオビュルナンは階段を登ってベルを鳴らした。戸の内で囁《ささや》く声と足音とがして、しばらくしてから戸が開いた。出て来たのは三十歳ばかりの下女で、人を馬鹿にしたような顔をして客を見ている。
「ジネストの奥さんはおいでかね。」
下女は黙って客間の口を指さした。オオビュルナンはそこへ這入った。室内装飾は有りふれた現代式である。白地に文様のある紙で壁を張り、やはり白地に文様のある布で家具が包んである。木道具や窓の龕《がん》が茶色にくすんで見えるのに、幼穉《ようち》な現代式が施してあるので、異様な感じがする。一方に白塗のピアノが据《す》え附けてあって、その傍に Liberty の薄絹を張った硝子《ガラス》戸《ど》がある。隣の室に通じているのであろう。随分無趣味な装飾ではあるが、住心地の悪くなさそうな一間である。オオビュルナンは窓の下にある気の利いた細工の長椅子に腰を掛けた。
オオビュルナンは少し動悸がするように感じて、我ながら、不思議だと思った。相手の女が同じ人であるだけに、過ぎ去った日のあらゆる感情が復活して来たのだろうか。今の疑懼《ぎく》の心持は昔マドレエヌの家の小さい客間で、女主人の出て来るのを待ち受けた時と同じではないか。人間の記憶は全く意志の掣肘《せいちゆう》を受けずに古い閲歴を堅固に保存して置くものである。そう云う閲歴は官能的閲歴である。オオビュルナンはマドレエヌの昔使っていた香水の匂い、それから手箱の蓋を取って何やら出したこと、それからその時の室内の午後の空気を思い出した。この記念があんまりはっきりしているので、三十三歳の世慣れ切った小説家の胸が、たしかに高等学校時代の青年の胸のように躍った。ただ昔と今と違っているのは、今はそのあらゆる感動が一々意識に上って、他日筆にする材料として保存せられるだけである。
突然オオビュルナンは物に驚いて身を振り向けた。そっと硝子戸を開けたような音がしたのである。しかしそれは錯覚であったとみえて、誰も室内へ這入って来てはいない。オオビュルナンは起ち上がって、戸の傍へ歩み寄った。薄絹が少し動いたようではあるが、何も見えない。多分風であっただろう。
オオビュルナンは口の内でつぶやいた。「これでは余り優待せられると云うものではないな。もうかれこれ二十分から待たせられている。どうしたと云うのだろう。事によったら馬鹿な下女奴《げじよめ》が、奥へ通さずにしまったのではないかしら。とにかくまあ、待っているとしよう。や、来たな。」最後の一句は廊下に足音が聞えたから言ったのである。その足音はたしかに硝子戸に近づいて来る。オオビュルナンは覚えず居ずまいを直して、蹙《しか》めた顔を元に戻した。ちょうど世話物の三幕目でいざと云う場になる前に、色男の役をする俳優が身繕《みづくろ》いをすると云う体裁である。
はてな。誰も客間には這入って来ない。廊下から外へ出る口の戸をしずかに開けて、またしずかに締めたらしい。中庭を通り抜ける人影がある。それが女の姿で、中庭から町へ出て行く。オオビュルナンはほっと息を衝《つ》いた。「そうだ。マドレエヌの所へ友達の女が来ていてそれがやっと今帰って行ったのだな。」こう思ってまた五六分間待った。そのうちそろそろ我慢がし切れなくなった。余り人を馬鹿にしているじゃないか。オオビュルナンはどこかにベルがありそうなものだと、壁を見廻した。
この時下女が客間に来た。頬っぺたが前に見た時より赤くなっていて、表情が前に見た時より馬鹿らしく見えている。そして黙って戸の際《きわ》に立っている。
客の詞《ことば》には押え切れない肝癪《かんしやく》の響がある。「どうしたのだね。妙じゃないか。ジネストの奥さんに、わたしが来て待っているとそう云ったかね。ええ。」
下女は妙な笑顔をした。「あの、奥さんがお客様にお断り申してくれとそうおっしゃいました。」
「ええ。どうも分からないな。お断り申せとはどう云うのだね。奥さんはおいでになるが、お逢いにならないと云うのかい。」
「いいえ。奥さんは拠《よんどころ》ない御用がおありなさいますので、お出掛けになりました。いずれお手紙をお上げ申しますとおっしゃいました。」こう云ってしまって、下女は笑声を洩した。
オオビュルナンははっと思って、さっき中庭を通って町へ出た女の事を思い出した。「あれがマドレエヌだったのか。」この独語《ひとりごと》が自分の耳に這入って、オオビュルナンはようよう我に帰った。そして怒気を帯びて下女の前に一歩進んだ。下女は驚いて覚えず壁際まで跡しざりをした。「奥さんにそう云ってくれ。お手紙には及びません。どうぞお構い下さらないようにとそう云ってくれ。」こう言い放ってオオビュルナンは客間を出た。脚本なら「退場」と括弧の中に書くところである。最も普通の俳優はこんな時「それではあんまり不自然で引っ込みにくいから、相手になんとか言わせてくれ」と、作者に頼むのが例になっている。
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愛する友よ、あなたがもう返事をするには及ばないから、構ってくれるなと御申置なさいました事は、たしかに承知いたしています。御察し申しまするに、あなたはわたくしのいたした事を無責任極まる所為《しよい》だと思召して、ひどくご立腹になっていらっしゃいますのでしょう。自分で顧みて見ましても、わたくしのいたした事は余り気の利いた所為だとは申されません。全く子供らしい振舞だったと申してもよろしいかも知れません。しかしそれは一昨日あなたに御挨拶をいたさずに逃げ出そうと決心いたしたのが子供らしいと申すのではございません。それはわたくしが最初あなたに手紙を差上げて御面会がいたしたい、おいでを願いたいと申したのが子供らしいと申すのでございます。
こう申上げるのをお信じ下さいますでしょうか。どうも覚束のうございますね。わたくしはあなたの女の手紙は云々《しかじか》とお書きになったあの御文章を承知いたしています。最初の手紙を差上げる時も、あの「格言」が気になってなりませんでしたが、今度は前よりも一層心苦しゅうございます。
女の手紙は書いてある文句よりは、行と行との間に書かずにある文句を読まなくてはならないと云うのは、本当の事でございましょう。それから一番大切な事が書かずにあると申すのも本当でございましょう。しかしそれはわざと書かないのではございません。自分でもする事の本当の動機を知らずにいることもございますし、またその動機がたいてい分かりそうになって来ていても、それを自分で認めるだけの勇気が無いこともございます。そう云うわけですから、わたくし達の手紙はやはりわたくし達の霊をありのままに現していると申してもよろしゅうございましょう。手紙には自分がこうだと思っている通りが出ています。する事や書く事の上を掩《おお》っている薄絹は、はたから透かして見にくいと申そうよりは、自分で透かして見にくいと申すべきでございましょう。
わたくしの最初に差上げた手紙を例にして申しましょう。わたくしはあなたに誓って正直なところを申します。わたくしの意志は、あなたにまたお目に掛かって、御相談がいたしたい、ただのお話もいたしたい、なんでもあなたがそうしろとおっしゃる通りにいたしてみたい、昔の御交際を喚び戻したいと云うだけでございました。そういたしたら、今の苦しい心持を和げることが出来よう、わたくしはそこに安心を得ることが出来ようと存じたのでございます。こう云う意志であの手紙は書いたのでございます。そして一昨日までは自分でもたしかにそうだと信じていました。ただあとから考えてみますと、あの手紙の末に書き添えました事だけが、いかにも不謹慎なようでございます。しかしあれは手紙が出来てしまってから、ふいと器械的に書いたのでございます。あのわたくしの顔がどうの姿がどうのと書きました、あの文句でございますね。
あなたは心理学者でいらっしゃるから、そう思召しますでしょうが、あれなんぞが本当に女らしいいたしかたではございませんか。女と云うものは本当に衝動的なものでございますね。わたくし達は衝動に騙《だま》されて、咄嗟《とつさ》の間にいろんな事をいたします。そしてその時はその動機を認めずにいるのでございます。それを男の方が狡猾《こうかつ》だとおっしゃるのでございます。
そこであの手紙を差上げます。電報の御返事が参ります。女中を連れてパリイへ出て、ロメエヌ町の家に落ち着いて、あなたを御待ち受け申します。その時も多少興奮いたしているようではございましたが、自分のする事が心配になるとか、気づかわしいとか云うことはございませんでした。興奮いたしているとは存じましても、それがあなたに恋をしているからだなんぞとは思いませんでした。とうとうわたくしは恋と云う字を書いてしまいました。これを書いてしまえば、わたくしは重荷を卸したと申しましてもよろしゅうございます。もうこれでわたくしがあなたを騙したのだとはおっしゃいますまい。わたくしは安んじて恋と云う字を書きます。私の申しわけ、わたくしの取留めの無い挙動の申しわけはこの一字に在るのでございます。
ピエエルさん。わたくしはただいま白状いたします。わたくしはもう十六年前にあなたに恋をいたしていました。あなたが高等学校をお出になったばっかりの世慣れない青年でいらっしゃった時、わたくしはもうあなたに恋をいたしていました。しかしわたくしはあなたに誓います。それがわたくしに分かったのは一昨日のことでございます。あのロメエヌ町の白い客間にいらっしゃるのを隙見《すきみ》をいたした時、それが分かったのでございます。
わたくしは隙見をいたしました。長い、長い間わたくしはあの硝子《ガラス》戸《ど》の傍に立ってあなたを見ていました。あなたの方からは見えませんのですが、わたくしは暗い方にいましたからあなたをはっきり見ることが出来ました。決してわたくしが陰険な事をいたしたとか、あなたを羂《わな》に掛けたとかお思いになってはいけません。わたくしは戸を開けるつもりで戸の傍に歩み寄って、ただちょっとあなたの御様子を開ける前に見たいと存じただけでございます。あなたは心理学者でいらっしゃいますから、これがまたひどく女らしい振舞だとお思いなさいましょうね。
あの一刹那《せつな》にわたくしの運命は定まったのでございます。わたくしは開けようと思った戸を開けずに、帷《とばり》の蔭に隠れていました。わたくしはただいま書く事をどう書いたら、あなたがお分かりになるだろうかと存じて、それに苦心をいたします。
ピエエルさん。何よりさきにあなたに申さなくてはならないのは、あなたのお作の中《うち》に出て来る女とわたくしとは違うと申す事でございます。何もわたくしが一人ひどく変った女だと申すのではございません。わたくしはただ当り前の田舎の女でございます。わたくしの母がそうであったような、わたくしの二人の姉妹が今でもそうであるような、ただ当り前の田舎の女でございます。その田舎の女とはどんな物かと申しますと、恋の実体を夫婦と云う事から引き放して考えることの出来ない女だと申すのでございます。これは多数の女のために極めて不幸な事でございます。そしてわたくしはその不幸を身に受けなくてはならぬ一人でございます。
誰やらの書いた本に、「幸福なる夫婦は極めて稀なり」と云う文句がございました。作者の名をつい忘れましたが、きっと田舎にいたことのある人だろうと存じます。
それですから行状を善くしている田舎の女は、たいてい夫婦の生活をいたしている外に、別な夢の生活を持っています。無条件にその夢に身を任せている女もあり、良心と戦いながらその夢を見ている女もありますが、どちらもこの夢の恋は platonique なのでございます。この platonisme が夢の美しいところで、それが無かったら、そう云う女は重婚をいたしているような心持がいたすでしょう。
これだけの説明をいたすのが、わたくしには一通りの骨折ではございませんでした。しかし聡明な、敏捷《びんしよう》な思索家でいらっしゃるあなたには、わたくしの思っている事は、造做《ぞうさ》もなくお分りになりましょう。
あなたがまだ高等学校をお出になったばかりの青年で、わたくしの所へおいでになったころ、わたくしはその日の午後を楽しみにいたしていました。しかしもしあの時のあなたが、いつかお書きになった「若い盗人」と云う小説の中《うち》の青年のような早熟の人でおいでになったら、わたくしはきっとあなたのおいでをお断り申しただろうと存じます。
あなたとわたくしとの中は、夢より外に一歩も踏み出さない中だと云うことが、あのころわたくしには分かっていました。あなたを夫に持つことは不可能だということが分かっていました。事によったら、あなたを夫に持ちたくは無かったかも知れません。それですからわたくしは二度目の夫を持ちましても、あなたの記念を涜《けが》したのではございません。二度目の夫を持ってからも、わたくしはやはり前の夢の続きを見ていました。
この夢があるので、わたくしは多少良心に責められたこともあります。しかしわたくしはあなたに誓います。わたくしはあなたが田舎の夫が妻に要求するような要求をなさることがあろうとは、一度も思ったことはありません。それは田舎の夫が妻に要求する主な勤めで、事によったら世間のあらゆる夫が妻に要求する主な勤めかも知れません。それですからわたくしはあなたがパリイでどんな女とどんな事をなさろうとも、嫉妬を感じたことはございません。それはどんな貴婦人でも、どんな賤しい女でも、わたくしの夢までを奪ってしまうことは出来ないからでございます。それにわたくしには可笑しい自負心がございますの。それはわたくしが十六年前にあなたにいたしたような、はにかみながらのキスに籠もっているほどの物を、どの女もあなたに捧げることは出来まいと存じているのでございます。
わたくしはこんな夢を見て暮らしているうちに、ある日わたくしの夫婦生活の平和が瓦解《がかい》してしまいました。夫が不実になったと云うことは、田舎の女のためには夫婦の破滅でございます。夫婦と恋とを引放して考えることの出来ない女のためには、そう思われるのでございます。
楫《かじ》をなくした舟のように、わたくしは途方にくれました。どちらへ向いて見ても活路を見出すことが出来ません。わたくしはとうとう夢に向って走りました。ちょうど生埋めにせられた人が光明を求め空気を求めると同じ事でございます。
わたくしは突然今の夫を棄てて、パリイへ出て、昔あなたのおいでになる日の午後を待っていたように、パリイであなたが折々おいで下さるのを楽しみにして暮らそうと思い立ちました。どうぞわたくしを気が違ったとお思いなさらないで下さいまし。田舎の女をわたくしの境界に置きましたら、随分わたくしと同じ思立《おもいたち》をいたす女があろうかと存じます。これはただ思立つだけの事でございます。それを実行いたすとなると、どんな物になるだろうと云うことは、ロメエヌ町の家であなたを隙見をいたすまで、わたくしには分からなかったのでございます。
隙見をいたした時の最初の感じは失望でございました。Sport で鍛錬した、強壮なお体で、どんな女でも来てみろと云うお心持で、長椅子に掛けていらっしゃったあなたに失望いたしたので、昔の世慣れない姿勢の悪い青年でいらっしゃらないのに当惑いたしたのでございます。それで客間に這入り兼ねていました。
その時あなたは起ち上がって戸の傍までおいでなさいました。わたくしはあなたを遺憾なくはっきり拝することが出来ました。わたくしは胸が裂けるように動悸がいたしました。そしてあなたが好きになりました。やはり十六年前の青年よりは今のあなたの方が好きだと存じました。
あなたのような種類の人、あなたのように智慧がおありになり、しっかりしておいでになって、そして様子のいいお方、そう云う人にイソダンでめったに出逢うことのないのは当り前でございます。わたくしはすぐにそう思いました。こう云う人の前に出たら、わたくしは意志も何もない物になってしまいましょう。その人が気まぐれにどうでもすることの出来るおもちゃになってしまいましょう。
そう云う運命に陥いるだろうと思ったので、わたくしは烈しい恐怖に襲われました。わたくしの心の臓は痙攣《けいれん》したように縮みました。ちょうどもうあなたの丈夫な、白いお手に握られてしまったようでございました。あの時の苦しさを思えば、今の夫に不実をせられたと思った時の苦しさはなんでもございません。わたくしの美しい夢はこのとき消えてしまいました。
わたくしはどうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。それと同時にわたくしは思いました。わたくしがあなたを思うほど、あなたがわたくしを思って下さるまでは、わたくしの心は永久に落ち着くことは出来まいと云うのでございます。わたくしを愛して下さることがあなたに出来るだろうかと云うのでございます。
最初にあなたに上げた手紙に書き添えました事は嘘ではございません。わたくしは十六年前と今と格別変ってはいません。道を歩けば男の附いて来ることは昔の通りでございます。イソダンでそうだと申すのではございません。パリイで歩いても同じ事でございます。しかしあなたのためには、田舎女のわたくしがなんでございましょう。ほんのちょいとの間の気まぐれで、おもちゃにして下さるかも知れませんが、深い恋をして下さろうとは思われません。それがあの時わたくしの胸に電光のように徹しました。自分の弱点を恥じる心が、嫌われるだろうと思う疑懼《ぎく》に交って、とうとうわたくしをあの場から逃げさせてしまいました。わたくしは自分の恐ろしい運命を避けよう、どうしてもあなたにお目に掛かるまいと決心いたしました。わたくしは帽子を取って被って、女中にお断りを申上げるように言い附けて置いて、あの家に火事でも起ったように跡をも見ずに逃げました。
わたくしはきのうからイソダンに帰っています。主人は今晩帰るはずになっています。わたくしはもう夫に怨を申すことは出来ません。それは自分がほとんど同じような不実をいたしたからでございます。
わたくしはこれまでのような、単調な生活を続けてまいりましょう。田舎の女にはそれが当り前なのでございます。ちらと拝しました「先生」のお姿はもう次第にぼやけてまいります。そして昔親しかった青年の姿が復活してまいります。これからはまたあの十七歳の青年の人を夢に見て、それを楽しみにいたしていましょう。
ピエエルさん。さようなら。もうまたとお目に掛かることはございません。どうぞ悪く思召さないでわたくしの事を御記憶なすって下さいまし。わたくしはあなたに無窮の愛を捧げます。
どうぞもうお手紙も下さいますな。世に忘れられた片蔭に、小さい田舎女は、ただあなたお一人をたよりにして生活していましょう。
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ピエエル・オオビュルナンとマドレエヌ・ジネストとは再会せずにしまった。この詭遇《きぐう》の影に傷けられた、大家先生の自負心の創痕はいつか癒えて、稀にではあるが先生が尊重の情をもって少時の女友達の上を回想することもある。
鎖鑰《さやく》を下した先生の卓の抽出しの中で、二通の手紙が次第に黄ばんで行く。それを包んだ紙には「田舎」と題してある。
復讐 レニエ
一
バルタザル・アルドラミンは生きていた間、おれが大ぶ精《くわ》しく知っていたから、おれが今あの男に成り代って身上話をして、諸君に聞かせることが出来る。もうあれが口は開く時は無い。笑うためにも歌うためにも、ジェンツァノの葡萄酒を飲むためにも、ピエンツァの無花果《いちじく》を食うためにも、その外の事をするためにも、永遠に開く時は無い。なぜと云うに、あれはサン・ステファノの寺の石畳みの下に眠っているからである。両手を胸の創口《きずぐち》の上に組み合せて眠っている。この創が一七七九年三月三日にあれが若い命を忽然《こつぜん》絶ってしまったのである。
バルタザルは三十になりかけていた。ちょうどバルタザルの父とおれの父とが小さい時から近附きになっていたように、バルタザルとおれとも早くから親しい友達になっていた。おれ達二人はほとんど同時に父を喪《うしな》った。その亡くなった父もほぼ同年ぐらいであった。あれが館とおれの館とは隣同士になっていて、二つの館が同じ運河の水に影をうつして、変った壁の色を交ぜ合っていた。バルタザルが館の正面は白塗で、それに大さの違う淡紅色の大理石で刻んだロゼットが二つ嵌《は》めてあった。それが化石した花のように見えた。おれの家族の住んでいる館、すなわちウィマニ家の館は、壁が赤みかかった色に塗ってあった。館から運河に降りる石階の上の二段は、久しく人に踏まれて《ち》びてすべっこくなっていた。上から三段目は水に漬ったり水の上に出たりするので、湿ってぬるぬるしていた。
たいていバルタザルは毎日この石階に出た。朝か昼か、そうでないと松明《たいまつ》の光に照されて晩に出た。あれがおれの館の石階に片足を踏み掛ける時、反対の足に力が入ると、乗って来たゴンドラの舟がごぼごぼと揺れた。おれはあれが石階の上から呼ぶ声を聞いた。あれは随分善く話して善く笑う男であった。あれもおれも少しも拘束せられずに青春を弄《もてあそ》んでいたのである。たいてい遊びの場所へおれを引き出すのはあれが首唱の力であった。あれは強い熱心と変った工夫とをもって遊びを試みる男であった。受用はあれが性命の核心になっていたので、あれはそれを多く味わうために夜をもって日に継いだ。その遊びの中で主位を占めていたものは恋愛であった。
バルタザルは女に好かれた。そしておれを好いてくれた。それだから宴会の席でも散歩の街でもあれとおれとは離れずにいた。そこで二人が一層離れずにいられるように、あれとおれとは友達同士になっている女を情人にした。たまに情人と分かれている時は、二人は中洲《なかす》へ往って魚や貝の料理を食った。およそ市にありとあらゆる肉欲に満足を与える遊びには、おれ達二人の与《あずか》らぬことは無い。そしてそんな遊びの多いことは言を須《ま》たない。尼寺の応接所に二人が据《す》わって、干菓子をかじったり、ソルベットを啜《すす》ったりしながら、尼達の饒舌《しやべ》るのを聞いて、偸目《ぬすみめ》をして尼達の胸の薄衣の開きかかっている所をのぞいていたことは幾たびであろう。二人が賭博の卓に倚《よ》って、人の金を取ったり、人に金を取られたりしていたことも幾晩であろう。カルネワレの祭のころ、二人で町中を暴れ廻り跳ね廻ったのも幾たびであろう。仮装舞踏に一しょに往って、一しょにそこから帰る時は、二人の外套の袖と袖とが狭い巷《こうじ》で触れ合ったものである。彼誰《たそがれ》時《どき》の空には星の色が褪《さ》めかかる。運河の岸まで歩いて来ると、潮気のある風が海から吹いて来て、二人の着物の裾を飜《ひるがえ》す。二人は色々に塗った仮面の下の熱した頬の上に、暁の冷たい息を感じたのである。
こんな風におれ達の青春は過ぎた。ウェネチアの少女等は恋愛でこれに味を附けて過させてくれた。波の上をすべるゴンドラの舟が、ひまなおれ達の体をゆすってくれた。歌の声や笑声が、柔かい烈しさでおれ達のひまな時間を慰めてくれた。その時の反響がまだおれの耳の底に残っている。こんな楽しかった日の記念の数々は、運河のうねりの数々よりも多く、その記念のかがやきは、運河の水の光より強い。今から思ってみても、あの生活を永遠に継続することが出来たなら、おれは別に何物をも求めようとはしなかっただろう。あの生活をどう変更しようと云う欲望は、おれには無かっただろう。ただ目の前にいる美しい女の微笑が折々変って、その脣《くちびる》がおれに新なる刺戟《しげき》を与えてくれさえしたら、おれはそれに満足していただろう。
しかしバルタザルはそうは思わなかった。おれの胸はあれが館の窓々が鎖《とざ》されて、ただ白壁の上に淡紅色の大理石の花ばかりが開くように見えていた時、どんなにか血を流しただろう。バルタザルは遠い旅に立った。世間を見ようと思ったのである。あれは三年の間遠い所にいた。そして去る時飄然《ひようぜん》として去ったように、ある日、また飄然として帰って来た。朝が来れば、あれの声が石階の上からまたおれを呼ぶ。晩にはあれとおれとがまた博奕《ばくえき》の卓を囲む。おれたちはまた昔の通りの生活を始めた。そのうちある日不思議な出来事があって、あれを永遠にまた起つことの出来ないようにしてしまった。それからと云うものは、あれはサン・ステファノの寺の石畳みの下に眠っている。両手を胸の創口の上に組み合せて眠っている。
それだからおれの口から今諸君にあれが身上話をしなくてはならぬことになった。そこでおれ、ロレンツォ・ウィラミは諸君にことわって置くが、おれの話すのは、おれの確かに知っている事では無い。ただあれが不思議な死を説明するために、おれの推察したあれが生涯である。ただある夜、幹の赤い樅《もみ》の木の林で、おれの友人のウェネチア人、バルタザル・アルドラミンがおれに囁いたように思われた伝記である。
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ロレンツォや、聞いてくれ。ある日の事であった。おれ(バルタザル)は情人バルビさんと一しょにスキアウォニ河の岸に立っていた。バルビさんは日の当たる所にいるのが好きだった。それは髪が金色をしていて、それが日に照されると、美しく光るからだ。その光るのがおれの気に入ると思っていたからだ。なんでも自分の美しいところをおれに見せて、おれに気に入るようにと努めていたのだ。そこでなるたけ久しく日の当たる所にいようと思って、自分のまわりを飛び廻っている鳩に穀物を蒔いてやるのが面白いと云った。バルビさんの手から散る粒は、金色の雨が降るように見えた。しかしおれにはバルビさんは容色が余り気に入っていなかったので、それを眺めている代りに、その手から餌を貰っている小鳥を見ていた。十二羽くらいもいただろう。羽は滑かで、足には鱗が畳《かさ》なっていて、吭《のど》は紫がかって赤く、嘴《くちばし》は珊瑚色をしている。皆むくむく太っているのに、争って粒を啄《ついば》んでいる。この卑しい餌を食うのが得意らしい。そのうち鳩は仲間を呼び寄せた。仲間が密集してそこへおろして来た。このとたんにおれは目を転じて赫《かがや》くラクナの水を見た。一羽の大きい純白な鴎《かもめ》が咳嗄《しわが》れた声をして鳴きながら飛んで通った。鋭い翼で風を截《き》って、力強くまた素早く飛ぶ。おれはこのとき鳩と鴎との懸隔に心附いて、おれの身の上を顧みた。なんだかあの水鳥がおれに尊い訓誨《くんかい》を垂れてくれたようであった。きょうはここに、あすは遠方に、いつも活動している水鳥の気象は、毎日暖い敷石の上で僥倖《ぎようこう》の餌を争っている鳩とは違うと思った。ロオレンツォや、聞いてくれ。おれはこの鳥の寓言《ぐうげん》を理解したのだ。
ロレンツォや。おれは即日世間へ出て、その千態万状の間におれの楽《らく》を求めようと発意した。まずおれの第一の最愛の友たるお前を回抱して別れを告げた。次にバルビさんに暇乞をした。それから銀行へ往った。そして喜んでおれの命を聴く役人どもの手に金をわたした。どこへ往ってもたっぷり金を賭けて、博奕《ばくえき》をして、土地の流行《はやり》の衣服を来て、その外《ほか》勝手な為払《しはらい》をするに事足るほどの金をわたした。
それから出立した。ゴンドラの舟に身を托して陸に上《のぼ》った。ウェネチアの運河の網は、少し乗り廻っていると、川筋がちょっと曲がると思うや否や、元の所に帰っている。なんだか自分が往来で自分に出逢うような気がする。それに今陸に上って見ると、これから真直にどこまででも行かれる。元の所に帰るような虞《おそれ》は無い。これまでとは大ぶ工合が違う。ずんずん歩いて行くうちには、きっと何か新しい事に出逢うに違い無い。乗っている馬車からしておれには面白い。巌畳《がんじよう》に出来ていて、場席も広い。おれはまずゆったりと身をくつろげた。車の輪が一廻転するごとに、並木の木が一本背後へ逃げるごとに、おれは今までに知らぬ歓喜を覚えた。一匹の小犬がおれの馬車に附いて走りながら、おれの顔を見てひどくおこって吠える。おれはそれを見て、涙の出るほど笑った。そんな風で、どんな瑣細な事でも、おれに面白く無いものは無かった。
おれは親類の老人アンドレア・バルヂピエロの別荘に泊るつもりであった。別荘はメストレから五時間行程の所にある。おれはアンドレアに暇乞をしに寄って、一晩泊ろうと思ったのだ。別荘の建築は物好《ものずき》を尽したもので、庭園も立派だ。庭園は主人の老議官が自分で手をいれて、絶えず大勢の植木屋を使っている。主人はたいていこの別荘にばかりいる。土地の空気はいい。主人が人間の齢《よわい》の尋常の境を迥《はる》かに越していて、老後に罹《かか》り易い病のどれにも罹らずに、壮んな気力を養っているのは、よい空気の賜である。主人は生涯に赫々《かくかく》たる功名を遂げた人である。広く世間を見た人である。主人は一面剛毅な人で、一面また温和な人であったから、随分種々の女をも愛した。国々の女を一々験《ため》している。別荘の部屋や庭にいて、余り世間へ顔を出さぬが、主人はまだすこぶる立派な風采をしている。
そう云う交際を好まぬ人ではあるが、主人は好意をもっておれを迎えてくれた。ただその顔の表情にどこやら不安の影があるのに、おれは気が附いた。物を言う間にも、白髪かつらの長い毛の端を口に銜《くわ》えて咬《か》んでいる。おれがこのたびの旅立の事、その旅の目的の事なぞを話して聞かす間も、主人はじっとして聞いていられぬらしい。
おれが話してしまうと、主人は旅立をすると云うことにも、何を旅の目的にすると云うことにも同意してくれて、何かの用に立つだろうと云って手紙を二三通くれる約束をした。それからその手紙を書くと云って席を起った。長い廊下の果に、主人の花紋を印した上衣の後影が隠れた。上衣の裾は軽く廊下の大理石の上を曳いて、跡には麝香《じやこう》と竜涎香《りゆうえんこう》との匂いを残した。
おれはこの香気と、さっきおれの来たのを見て不快を掩《おお》い得なかったらしい態度とを思い合せて、多分主人が色気のある催しをしている最中に、おれは飛び込んで来たので、邪魔になるのだろうと推察した。昔久しい間自分の主な為事《しごと》にしていた色気のある事を、主人がまだ断っていないと云うことは、主人の年が積もっているにもかかわらず、世間で認めている。甚しきに至ってはこの目的のためには、主人はある冒険をも敢てするので、女房妹を持っている人は主人を怖れているとさえ云うものがある。そう云う噂をする人に聞けば、主人は目的を達するために、暴力をも権謀《けんぼう》をも、その他のあらゆる直接間接の手段をも避けない。女を盗み出したとか、待ち伏せして奪ったとか云う噂もあった。しかしそれがいつも密かに計画して、巧みに実施せられるので、世間にはただぼんやりした流言が伝わっているだけで、証拠や事実の挙げられたことは無い。おれはそう云う催しのある所へ来たのでは無いかと思ったので、手紙を受け取ったら、なるべく早くこの別荘を立ち去ろうと決心した。手紙はロオマとパリイとに宛てて書いて貰うはずだった。実はおれはどちらへ先に往こうかと迷って、どうもフランスの方へ心が引かれるように感じていたのだ。
このどちらをさきにしようかと云う問題の得失を、とつおいつして考えてみながら、おれはこの間にあった大鏡に姿をうつして、自分の風采のいいのを楽しんでいた。絹の上衣、刺繍のしてあるチョキ、帯革に金剛石を鐫《ちりば》めた靴、このすべては随分立派で、栄耀《えよう》に慣れた目をも満足させそうに見える。おれの目の火のような特別な光も人を誘うには十分だ。これだけの服装と容貌とを持っていれば、幸福の女神に対して、ごく大胆な要求をしてもよさそうだ。噂に聞けば、フランスの美人はある風姿や態度の細かい所に気が附いて、その欲望にかなうようにしていれば、決して情を通ずるに吝《やぶさか》でないそうだ。それにおれはウェネチア製の首飾の鎖や、レエスや、小さい肖像を嵌《は》めた印籠を、たくさん為入《しい》れて持って来た。女に贈る品物にも事は闕《か》かない。
おれは庭に降りて歩きながら、自分がきっと経験するにきまっている千差万別の奇遇の事を想像した。無論その相手は女である。おれは目の前に恋愛の美しい幻影が新たに現ずるのを見た。恋愛なぞと云うものは、どこの国でも同じ事で、風俗習慣に従って変態を生ずることは少いと云うことを、おれはまだ悟っていなかったのだ。なんでも自分に千万無量の奇蹟や、意外の出来事が発見せられるように思って、その間に何の疑をも挟《さしはさ》まなかった。おれは忽然強烈な欲望を感じた。そしてもう自分がその物語めいた境界に身を置いているように思った。もしこの刹那におれを呼び醒まして、お前はまだウェネチアを距《さ》ること数哩《マイル》の議官アンドレア・バルヂピエロの別荘にいるのではないかと云うものがあったら、おれは何よりも奇怪な詞《ことば》としてそれを聞いただろう。そんな風に自分の平生の活計と慣熟した境遇とを脱離したような感じが、おれの胸一ぱいになっていたので、自分が極めて奇怪な極めて愉快な目的に向って往くのだと云うことが、おれには争うべからざる事実のように思われた。こんな我ながら不思議な期待の情のお蔭で、現在の心で観察すれば、尋常一般の物が皆異様の形相を呈するように見えた。今歩いている、細かい粒の揃った砂の敷いてある庭の小径も、一曲り曲った向うには、意外な眺望が展開しはせぬかと疑われた。円形に苅り込んである「あさまつげ」の木を見れば、そのこんもりした緑の中にも秘密が蔵してありはせぬかと疑われた。
こう云う心持でおれはある岩窟《いわむろ》の前に来た。入口は野生の葡萄が鎖《とざ》している。もう日はやや西に傾いているが、外は暑いから、常ならおれはただ涼しい蔭を尋ねてその中に這入《はい》っただろう。然るにこのとき入口を這入るおれの心の臓は跳った。この田舎めいた岩窟の中の迂回した道を歩いて行ったら、際限の無い不思議のある処、また事によったらおれの生涯の禍福が岐れる処に出はせぬかと思ったからだ。
岩窟の中は涼しくて愉快であった。湿った石壁に凝《こ》って滴《した》たる水が流れて二つの水盤に入る。寂しい妄想に耽りながらこの中の道を歩く人に伴侶を与えるためか、穹窿《きゆうりゆう》には銅で鋳た種々《いろいろ》の鳥獣が据え附けてある。最初這入った一室の奥には第二のやや暗い室がある。そのまた奥には第三の全く暗い室がある。ここではただ水の滴たり落ちる声が聞える。それがこの寂寞《せきばく》の境の単調な時間の推移を示す天然の漏刻かとあやまたれる。床にはひどい凸凹がある。おれは闇の中を辿って行くうちに足を挫きそうになった。そのさきは低い隧道《すいどう》になったので、おれは腰を屈めて進んだ。折々岩角が肩に触れる。しばらく歩くうちに屈めた腰が疲れを覚えて来た。おれは推測した。多分この道はわざと難渋にしてあるのだろう。ここを通り過ぎて、また日の目を見、軽らかな空気を呼吸する時の喜びを大きくするために、わざと難渋にしてあるのだろうと云うのである。この推測はわれを欺《あざむ》かなかった。潜り抜けて出た処は、絶勝の地点で庭園の全体もちろん、別荘の正面とその石柱の美しい排列とをも見わたすようになっている。晴れ切った空を、別荘の屋根の線がかっきりと横断している。おれはこれを眺めながら、あさまつげの苦味のある香と、柑子《こうじ》の木の砂糖のように甘い匂いとを吸っていた。
おれはこの二様の香気を嗅いでいるうちに、ふと妙な事に気が附いた。それは別荘の窓はことごとく開け放ってあるのに、ただ一箇所の窓だけ鎖《とざ》してあると云う事である。熟《よ》く視れば、この二つの窓は重げな扉で厳重に閉じてある。全体の正面は開けた窓の硝子に日光がさして光っている。この二つの密閉した窓だけが暗い。なぜだろうか。おれが怪訝《かいが》の念を禁じ得ずして立っていると、おれの肩の上に誰やらの手が置かれた。それは主人バルヂピエロの手であった。主人は今一つの手にはおれのために書いた紹介状を持っていて、それをおれにわたした。
二
おれは礼を言って、すぐに出立しようとした。まだノレッタまで往って泊られるだけの日足は十分あったのだ。ところが意外にも主人はおれを留めて一晩泊らせようと云った。おれはとうとう主人の意に任せることにして、それから二人で庭を歩いた。主人はおれにまだ見なかった所々を案内して見せた。主人の花紋のある長い上衣の褄《つま》が、砂の上を曳いている。そして手には長い杖を衝《つ》いていて、折々その握りの処を歯で噬《か》む癖がある。
バルヂピエロはまだ杖に縋《すが》って歩くような体では無い。綺麗に剃った頬に刈株のような白い髯の尖《さき》が出かかってはいるが、体は丈夫でしっかりしている。おれ達は緑の木立に囲まれた立像の前に足を駐《と》めた。主人はその裸体を褒《ほ》めたが、その詞《ことば》はこの人が形の美を解していると云うことを証する詞であった。そのほか主人は杖の握りに附いている森のニンフをも褒めたが、その褒めかたにおれは殊に感服した。そのニンフの彫物は、主人の太い、荒々しい手で握っている杖の頭に附いていて、指の間からはそれを鋳た黄金がきら附いているのである。
そのうち食事の時刻になった。奢《おごり》を極めた食事で、随分時間が長くかかった。おれ達の食卓についたのは、周囲の壁に鏡を為込《しこ》んだ円形の大広間であった。給仕は黒ん坊で、黙って音もさせずに出たり這入ったりする。その影が鏡にうつって、不思議に大勢に見えるので、おれはなんだか物に魅せられたような心持がした。黒ん坊は《ちぢ》れた毛の上に黄絹の帽を被っている。帽の上には鷺の羽がゆらゆらと動いている。耳には黄金の環が嵌《は》めてある。黒い手で注いでくれるのは、おれの大好きなジェンツァノの葡萄酒だ。おれはそれを飲めば飲むほど機嫌がよくなったが、主人の顔は見る見る陰気になった。おれに盛んに飲食させながら、主人は杯にも皿にも手を着けずにいる。しかしこの場合におれの食機の振ったのは、やはり模範としていい事かと思う。無論旅をして腹を空かしているので、不断より盛んに飲食したには違いない。しかしそればかりでは無い。一体世間を広く渡った人の言っている事が嘘《うそ》でないなら、おれは今にもどんな事に出逢うかも知れず、またその出逢うかも知れぬ事が千差万別なのだから、おれはしっかり腹を拵《こしら》えて掛かるべき身の上ではあるまいか。とにかくおれはいつに無い上機嫌になって来た。おれは酒に逆《のぼ》せて、顔が健やかな濃い紅に染まった。それを主人は妬《ねた》ましげに見ているらしい。心身共に丈夫な主人の事だから、誰をも妬むには及ばぬはずなのに。
主人は岩畳《がんじよう》なには相違ない。しかし明るい灯の下でつくづく見ていると、どうも顔に疲労の痕が現れているように思われた。庭を余り久しく散歩したためか、それとも外に原因があるのか。この人は見掛けが丈夫らしくても、どこか悪い処があるのだろうか。バルヂピエロの年齢はもう性命を維持して行くだけの力しか無くなるころになっている。あれでももし将来において自分にふさわしい限の事をしていたら、まだ長く体を保って行かれるだろう。しかるにこのバルヂピエロはもう若いもので無いと諦念《あきらめ》を附けることの出来ない人として、世間の人に知られている。この人は今も機会があったら若いものの真似をしようとしている。自分では控目にしているのかも知れぬが、それでもその冒険が度を過ぎているらしい。
いろいろ話をしているうちに、おれがこうではあるまいかと思いやったような事を、主人が公然打ち明けて訴え出した。おれを為合《しあわ》せだと云って褒めて、それを自分の老衰に較べた。その口吻《こうふん》が特別に不満らしかった。おれは気を着けて聞いてはいない。おれの考えでは、それはどうせ人間の一度は出逢う運命で、人間は早晩そうなると云うことを知って、そうならぬうちに早く出来るだけの快楽を極めるがいいのだ。そこでおれは話をしながらも盛んにジェンツァノの葡萄酒を飲み続けて、肴には果物を食った。その果物は黒ん坊が銀の針金で編んだ籠に盛って持って来たのだ。おれは果物の旨いのを機会として、主人に馳走の礼を言った。主人がこれに答えた辞令はすこぶる巧みなものだった。あまり思い設けぬ来訪に逢ったので、心に思うほどの馳走をすることが出来ない。ただ庭を見せて食事を一しょにするくらいの事で堪忍して貰わんではならない。その食事も面白い相客を呼び集める余裕は無いから、自分のような不機嫌な老人を相手にして我慢して貰わんではならない。せめて音楽でもあるといいのだが、それも無いと云うのだった。おれはこう云う返事をした。相客や音楽は決して欲しくは無い。先輩たる主人と差向いで静かに食事をするのが愉快だ。ただ主人の清閑を妨げるのでは無いかと云う事だけが気に懸かる。もちろんこう云う機会に聞く有益な話が、どれだけ自分のためになると云うことは知っていると云った。主人は項垂《うなだ》れて聞いていたが、おれの詞が尽きると頭を挙げた。そしてこう云った。お前の礼儀を厚うした返事を聞いて満足に思う。お前も今そう云っている瞬間には、その通りに感じているかも知れない。しかしも少しするとお前の考えが変るだろう。それはお前が一人で敷布団と被布団《きぶとん》との間に潜り込む時だ。若いものにはそう云う事は向くまい。殊に女に可哀がられる若いものにはと、主人は云った。
女と云う詞《ことば》を聞くと同時に、なぜだか自分にも分からぬが、さっき見て気になった、鎖《とざ》してある窓の事が思い出された。おれは主人の顔を見た。今この座敷にいるものは主人とおれとの二人切りで、給仕の黒ん坊はいなくなっている。おれには天井から吊り下げてある大燭台がぶらぶらと揺れているような気がする。そしてその影が壁の鏡にうつって幾千の燭火《ともしび》になって見える。おれはもうジェンツァノの葡萄酒を随分飲んでいる。そして今主人の何か言うのに耳を傾けながら、ピエンツァの無花果《いちじく》の一つを取って皮をむいている。おれはその汁の多い、赤い肉がひどく好きなのだ。
主人の詞《ことば》がおれの耳には妙に聞える。なんだかおれの前にいる主人の口から出るのではなくて、遠い所から聞えて来るようだ。周囲の壁に嵌《は》めてある許多《あまた》の鏡から反射している大勢の主人が物を言っているようにも思われる。それにその詞の中でおれに提供している事柄には、おれは随分驚かされた。もっとも当時のおれの意識はこの驚きをもはっきり領略《りようりやく》してはいなかったが、とにかくおれは驚いていたには違い無い。なぜと云うにおれは突然こう云うことを聴き取ったのだ。おれはただ即坐に立ち上がって、さっき気にした、あの窓の鎖してある部屋に往けばいい。そこには寝台の上に眠っている女があると云うのだ。それについておれは誓言をさせられた。それはその女が何者だとか、どこから来たのだとか云うことを、決して探ろうとしてはならぬと云うのだ。それからおれはこう云うことをまずもって教えられた。その女は必ず多少抗抵を試みるだろう。しかし主人はおれをそれに打ち勝つだけの男と見込んで頼むと云うのだ。いかにもおれにはそのくらいの気力はある。
おれは急劇な猛烈な欲望の発作を感じた。おれは立ち上がった。それと同時に周囲の鏡にうつっている大勢のバルヂピエロが一斉に立ち上がった。そしてその中の一人がおれの手を取って、鏡の広間を出た。
広間を出て見れば、寂しい別荘はどこも皆真っ暗だった。主人はおれを延《ひ》いて、梯《はしご》を一つ登った。その着ている長い上衣の裾が、大理石の階段の上を曳いて、微かな、鈍い音をさせる。おれの靴の踵がその階段を踏んで反響を起す。幾度も廊下の角を曲がった末に、主人とおれとは一つの扉の前に立ち留まった。鍵のからから鳴るのが聞えた。続いて鍵で錠を開けた。油の引いてある枢《くるる》が滑かに廻って、扉がしずかに開いた。主人はおれの肩を衝いて、おれを室内へ推しやった。
おれはひとり闇の中に立っていた。深い沈黙が身辺を繞《めぐ》っている。おれは耳を澄まして聞いた。微かな、規則正しい息づかいが聞えるようだ。室内はただなんとなく暖く、そして匂いのある闇であった。
この夜は奇怪な、名状すべからざる夜であった。
おれはこの室内で、不思議なことに遭遇して、そのうちにどれだけ時間が立ったか知らない。
ようようおれは起って戸口に往った。そして肩で扉を押し開けようとした。しかし扉は開かない。誰か外から力を極めて開けるのを妨げているようだった。その隙《ひま》に衣服のさわつく音がして、続いて廊下を歩み去る軽い足音がした。
おれはまた扉を押した。戸は開いた。おれは二三歩出て、またあとへ引き返そうとした。暁の薄明りと共に再び室内へ帰ろうと思ったのだ。しかしおれは前の誓言を思い出して、急ぎ足にそこを立ち退いた。
廊下が尽きて梯《はしご》になる。梯の下の前房には人影が無い。おれは柱列のある所に出た。朝の空気には柑子《こうじ》の香が籠っている。
おれの馬車には馬が附けて中庭に待たせてある。おれは車に乗った。そして車が動き出すと共に、おれはぐっすり寐入《ねい》った。
バルヂピエロの別荘での不思議な遭遇は、おれを夢のような状態に陥いらせた。旅の慰みが次第にこの夢を醒した時、おれはその顛末を考えて見て、どうした事か分からぬように思った。またそれをどうして分からせようと云う手段も、おれには見出されない。一体あの沈黙した未知の女は誰だったか。それに対してバルヂピエロの取った手段にはどう云う意味があったのか。主人があの女を憎んでおれを復讐の器械に使ったのだろうか。それとも主人はわざとただ周囲の状況を秘密らしくして、おれにする饗応に味を加えたまでの事か。
おれはミラノへ来た。滞留が長引いた。おれは上流の人達と一しょに遊び暮らした。おれを優待してくれた女は大勢ある。その中でおれを一箇月以上楽しませてくれたのが一人ある。その女はおれに自分の内で逢ったり、芝居で逢ったり、またおれと一しょに公園を散歩したりした。夜燭火の下で逢う時は、その女は顔をも体をもおれに隠さなかった。そのうちにバルヂピエロの別荘にいた未知の女の俤《おもかげ》は、おれの記憶の中で次第に朧気《おぼろげ》になって、おれがフランスへ旅立つころには、とうとう痕なく消えてしまった。
パリイと云う美しい都会の遊興は、その多寡をもって論じても、その精粗をもって論じても、全く人の意表に出ている。おれはあらゆる遊興に身を委ねて、月日の過ぎるのを忘れていた。舞踏があり、合奏会があり、演劇があるが、そればかりでは無い。バルヂピエロの紹介状が用に立って、おれは種々の立派な人達に交際することが出来た。おれは昏迷の中《うち》に日を送って、ウェネチアの事やそこの友達の事を忘れてしまった。しかしそれはおればかりの咎《とが》では無い。ロレンツォや、君も外の友達もおれを忘れていたようだ。そんな風でほとんど一年ばかりたった。
おれはペロンワルと云う女を情人にしていた。体の小さい、動作の活溌な、舞踏の上手な女であった。おれはこの女とロンドンへ往った。これは女のためには職業上の旅行で、おれはその道中の慰みに連れて行かれたのだ。ところがロンドンでロオド・ブロックボオルと云う大檀那《だいだんな》が段々不遠慮にこの女に近づいて来て、女はまたロオドとおれとの共有物になりたそうな素振をして来た。そこでおれはペロンワルと切れた。
パリイに帰って見ると、イタリアからおれに宛てた大きい封書が届いていた。中にはバルヂピエロの長い手紙があった。種々《いろいろ》な事が書いてある。ジェンツアノの葡萄酒やピエンツアの無花果《いちじく》の事がある。それから例の不思議な事件のその後の成行がある。あの事件はそっちのためには不愉快では無かっただろうが、そっちをある葛藤の中に引き入れたのは気の毒だと云ってある。とにかく客にあんな事をさせる主人は無いはずだから、主人を変に思っただろうと云ってある。今その手紙の一部を読んで聞かせよう。
「ああ、我が愛する甥《おい》よ。御身もいつかは老の哀れを知ることだろう。御身が顔を見なかったあの娘を、その住んでいた土地から、非常な用心をして秘密に奪って来させた時、おれは自分の老衰をよくも顧慮していなかった。御身が来るまでにあれはもう二週間ばかりおれの所にいた。それにおれはまだ一度もあれを遇すべき道をもってあれを遇することが出来なかった。御身にも気が附いたらしかったおれの不機嫌はそれゆえであった。それに御身の若い盛んな容貌はいよいよおれの心を激させた。ああ。おれは御身の青春をどれだけか妬《ねたまし》く思っただろう。この思いを機縁として、おれのあの晩の処置は生れて来たのだ。おれはあの鏡の間で御身と対坐した時、あの美しい囚人のいる密室を、御身がために開こうと決心した。おれはあの女に、あいつの運命が全く我手に委ねられてあると云うことを、この処置で見せ附けてやるつもりであった。それと今一つのおれの予期した事がある。それはあの女が御身に身を委せたと知ったら、おれの恋が褪《さ》めるだろうと云うことであった。おれの既往の経験によれば、おれは自分の好いている女が別の男に身を委せたと知ると、おれの恋はたいてい褪《さ》めた。畢竟《ひつきよう》情人の不実を知ると云うことは、恋を滅す最好の毒である。そして御身は苦もなくおれがためにこの毒を作ってくれるだろうと、おれは予期したのだ。
おれが御身の肩を押して、御身をあの暗室に入らせたのはこう云うわけであった。しかるになんと云う物数奇《ものずき》か知らぬが、おれはふとあの暗室の戸口に忍び寄って、扉に耳を附けて偸聴《たちぎき》をする気になった。御身等二人の格闘、あの女の降伏、呻吟がおれの耳に入った。戦は反復せられる。暗中の鈍い音響が聞える。ああ、この時おれは意外の事を感じた。形容すべからざる嫉妬の念が、老衰したおれの筋肉の間を狂奔して、その拘攣《こうれん》していた生活力を鞭うち起たしめた。おれは闥《たつ》を排して闖入《ちんにゆう》しようとしたことが二十度にも及んだだろう。さて最後に御身が戸を開けて出た時、おれはかえって廊下伝いに逃げ去った。なぜかと云うにあの時御身の顔を見たら、おれには御身を殺さずにおくことが出来なかったからだ。おれは自分の徳としなくてはならぬ御身を殺すに忍びなかったのだ。実に嫉妬の効果には驚くべきものがある。おれの嫉妬はおれの気力を恢復せしめた。おれはあの時に再生したその気力を使役している。
あの女はようやく自分の境遇に安んずる態度を示して来た。そこでおれは女を密室から出した。鏡の間の壁に嵌《は》めた無数の鏡は、女の艶姿嬌態《えんしきようたい》を千万倍にして映じいだした。庭園には女の軽々とした歩みの反響がし始めた。おれが晩年に贏《か》ち得た、これほどの楽しい月日は、すべてこれ御身の賜ものだ。おれは折々女と一しょにあの岩窟に入ることがある。その時は女の若やかな涼しい声が、あの岩の隙間から石盤の中に流れ落ちる水の音にも優って聞える。おれは幸福の身となった。女はおれに略奪せられたことをも、過度の用心のためにおれに拘禁せられていたことをも、もはや遺恨とはしないらしかった。今の新生活が女には気に入るらしかった。女はこの間におれの心を左右する無制限の威力を得た。おれはとうとう御身の名を白状した。女は今御身が誰だと云うことを知っている。そしておれを憎むと同じように御身をも憎んでいる。
女は毎晩おれにジェンツァノの葡萄酒一杯を薦《すす》める。黒ずんだ、ふくよかな瓶を繊《ほそ》い指で擡《もた》げて酌をする姿はいかにも美しい。酒は青みがかった軽い古風な杯に流れ入る。脣に触れて冷やかさを覚えさせるこの杯を、おれは楽しんで口に銜《ふく》む。しかしおれはこの酒には丁寧に毒が調合してあることを知っている。女は毎日手ずから暗赤色の薬汁を、酒の色の変ぜぬほど注ぎ込んで置く。おれは次第に身に薬の功験を感じて来る。おれの血は次第に脈絡の中に凝滞して来る。なぜおれは甘んじてその杯を乾すかと云うに、おれの命にはもう強いて保存するほどの価値がないからだ。均しく尽きる命数を、よしや些《ちと》ばかり早めたと云って、何事かあろう。可哀い娘が復讎の旨味を嘗《な》めるのを妨げなくてもよいではないか。おれは毎晩その恐ろしい杯を、微笑を含んで飲み干している。
しかし、我が愛する甥よ。御身はまだ若い。おれは御身に警告せずして罷《や》むに忍びない。おれの次は御身だ。危険が御身に及ぶと云うことは、この珍らしい娘の目の中でおれが読んだ。おれがこの危険を御身に予告するのは、おれがかつて御身に禍を遺した罪を贖うゆえんである。
この予測はあるいは御身が思うほど厭うべき事では無いかも知れない。今からは目に視《み》えぬ脅迫が御身の頭上に垂れ懸かっている。しかし今から後御身が一切の受用に臨んで、一層身を入れて一層熱烈にこれを享《う》けるのは、この脅迫の賜ものであろう。青年はとかく何事をも明日に譲って恬然《てんぜん》としていたがる。御身のこれまでの快楽には必要な刺《とげ》が無かった。おれはその刺を御身に貽《おく》るのだ。御身はおれに感謝してもよかろう。さらばよ。我指はもう拘攣して来た。老いたるバルヂピエロは恐らくは今晩最終の一杯を傾けたのだろう。」
三
評議官の手紙の中で言っていることは吾《われ》を欺《あざむ》かなかった。この手紙を読んだ日からおれの心の内には新しい感じが生じた。この精神状態はこれまで夢にも見たことの無い状態である。手紙によればおれの性命を覗《うかが》うものがある。少くも心の内では、おれの玉の緒を絶とうと企てているものがある。これまではおれの死ぬる時刻を極《き》めるのは自然そのものであったが、もうこれからは自然が単独にそれを極めることは出来ない。ある一人の人がおれの性命の時計の鍼《はり》を前へ進めることを自分の特別な任務にしているのである。その人のためにはおれの死が偶然の出来事では無くて、一の願わしい、ことさらに贏《か》ち得た恩恵である。この人の手に偶然の出来事がいつおれの性命を委ねてしまうか知れない。そればかりでは無い。この目に見えぬ脅迫を避けようとか、この作用を防遏《ぼうあつ》しようとか云う手段は、毫《ごう》もおれの手中には無い。おれのただ生きていると云うだけの事実が、おれを迫害の目的物にするのである。
まあ、なんと云う事態の変りようであろう。おれはこれまでいわばすべての人の同意を得て生きていた。おれの周囲にはおれを援助して生を聊《いささか》せしめてくれようと云う合意が成立していた。おれを取り巻いているすべての人がこの問題のために力を借してくれていた。生活と云うものの驚歎に値する資料をおれに供給しようとして、知るも知らぬも、直接また間接に、幾たりの人かが働いていた。おれの食うパンを焼こうとして小麦粉を捏《こ》ねていたパン屋も、おれの着る衣類を縫っていた為立物師《したてものし》も、おれにそのパンを食わせよう。その衣類を着せようと云うより外には、何等の欲望をも目的をも有していなかった。おれのために穀物が収穫せられ、おれのために葡萄が醸造場の桶に投ぜられた。その外《ほか》人一人を生きていさせるために働いている工匠の数を誰が数え挙げることが出来よう。人間と云うものは幾多の労作の形づくっている圏線の中心点に立っている。しかしそれは皆人生の必要品ばかりを言ったのである。もしさらに進んで贅沢物に移って見たら、どうだろう。理髪師と踊の師匠は、ちょうど外の工匠がおれのために必要品を供給してくれるように、おれに粧飾や消遣《しようけん》を寄与しているではないか。いわばおれは一切の人間の共同して造り上げていた製作物であったのだ。また不幸にしておれがある災難に出合ったとすると、すぐに医者や薬剤師が現れて来て、創や病気の経過を整えてくれ、悪い転帰を取らせぬように防ぎ止めてくれた。全体人体の構造を窮め知って、自然の次第に破壊して行く力を遮り留めるようにするのは、決して容易な業では無いのだ。
約《つづ》めて言えば、人間が孤立していて、ただ自己のためにばかり警戒し憂慮していたら、必然陥いるはずになっている危険と疲労とを、ある程度まで周囲のあらゆる人間が抑留してくれて、おれはその恩沢を蒙《こうむ》って生きていたのだ。世間はおれの需要を予測して、潤沢におれに属《しよくえん》させてくれた。世間はおれの活動して行くに都合のよいだけの意欲をおれに起させてくれた。しかるに今や忽然としてある未知の女が現れて来て、この一切の好意に反抗しようとする。そいつは啻《ただ》に周囲の援助を妨礙《ぼうがい》しようとするばかりでは無い。かえって反対の方向に働こうとする。そいつは公々然としておれの敵だと名告《なの》る。そいつは個々の善意の団体を離れて、独立して働く。そいつの意志の要求するところのものは何か。答えて曰く。おれの死である。なぜおれの死を欲するか。答えて曰く。おれに侮辱せられた報酬である。しかしその侮辱はおれが故意に加えたのでは無い。第三者の盲目なる器械となって、期せずして加えたに過ぎない。それにある未知の女はおれの死を欲する。思うにそいつは必ず目的を達することだろう。事によったら明日おれを殺すかも知れない。おれがその女の名も知らず顔も知らぬのだから、女は目的を達する上に一層の便宜を得ているのである。
以上の事柄を総括してみるに、おれに不安を感ぜしむるには十分の功力がある。最初この自覚がおれに憂慮を感ぜしめたことを、おれは告白しないわけには行かない。しかしそれは暫時にして経過してしまった。そしてほどなくおれは一種の満足を感じた。バルヂピエロ翁は真に吾を欺かない。おれの頭の上に漂っているこの脅迫は、おれを煩わすほどに切迫しているものでは無いらしい。ただおれの未来を不確実にするので、おれはそれを望んで、一層力を放って現在の受用を完全にすることを努めなくてはならぬのである。
そのころから女の顔と云うものが、おれのためには特別の意味のあるものになった。それはかの未知の女を捜索するからである。おれの現にいる所にその女が来ていそうには無い。しかしこの事件の全体には随分偶然が勢力を逞しゅうしているのだから、それがいよいよ活動し続けて、深くおれの運命に立ち入り、ついには覿面《てきめん》にその女とおれとを相対せしめることになるまいものでも無いのである。
こう云うおれの感じは、ほどなくおれの許に届いたバルヂピエロの訃音《ふいん》によって一層強められた。老人は死に臨んでおれにその別荘とそこに蓄えてある一切の物品とを遺贈した。しかしおれはあの美しい荘園を受け取りに往くことを急がなかった。なぜと云うに、ちょうどその時おれはある地位の高い夫人に対して恋をしていて、それに身を委ねて飽くことを知らなかったからである。夫人の恋愛はおれにすべての事を忘れさせた。バルヂピエロが遺贈の事も、久しく故郷を離れていると云う事も、警戒を与えられている脅迫の事も忘れさせた。現在の恋愛に胸を《えぐ》るような鋭さがあり、身を殺すような劇烈な作用があってみれば、何も未知の女のおれの上に加えようとする匕首《ひしゆ》や毒薬を顧みるには及ばない。
この不幸な恋をのがれようとして、おれは一時旅などをしたこともある。そのうち一年ばかりたった。ある時おれは忽然本国が見たくなった。中にも見たかったのはウェネチアである。ちょうどその時おれはアムステルダムにいた。あそこは幾多の運河が市を貫いて流ている所だけ恋しいウェネチアに似ているが、土地の美しさも天の色も遥かに劣っている。おれは博奕《ばくえき》の卓に向って坐して、勝ったり負けたりしているうちに、ふいと卓に覆ってある緑の羅紗《らしや》の上に散らばった貨幣の中に、金のチェッキノが一つ交っているのを見附けた。おれはそれを拾い上げて手まさぐった。貨幣はウェネチア共和政府の鋳造したもので、羽の生えた獅子の図がある。その時おれの目の前に料《はか》らずもウェネチアが浮かんだ。幾条かの運河が縦横に流れ、美しい天が晴れ渡っている。そこには宮殿があり、鐘楼《しようろう》がある。そこにはアルドラミン家の館の淡紅色の大理石の花形がある。そして、ロレンツォよ、君の住んでいる館の赤みがかった壁と水に漬《つか》った三段の石級《せつきゆう》とがある。おれは忽然としてまたリワ・スキアウォニに立っている。遊歴を思い立ったその日のように、立っているおれの傍にはバルビさんが立っている。ラグナの澄み切った空気を穿《うが》って、大きい白い鴎が飛んでいる。バルビさんは鳩に穀物を投げてやっている。鳩は皆餌に飽いて、むくむくと太っている。おれはその鳩の一羽を手の平に載せているような気がした。その鳩は白くて温かで、吭《のど》の下にちょうど匕首《ひしゆ》で刺されたような、血痕のような、赤い斑を持っている。
二三週の後にはおれはもうイタリアへ帰る途中にいた。この旅行にはなんの故障もなかった。おれはバルヂピエロの譲ってくれた別荘に泊った。ちょうどその日は天気が好くて、庭には花の香が満ちていた。おれは黒ん坊に案内させて、別荘の間ごとの戸を開けさせて見た。しかしおれを不思議な目に合せて、続いて老人が手紙で注意してくれたような運命に陥いれた、例の部屋は見附からなかった。どの部屋へも窓から日が一ぱいにさし込んでいる。どの部屋も秩序と平和との姿を見せている。おれは記憶のある鏡の広間に食事を出させて食べた。その時おれは考えた。この一切の事件はことごとくおれの妄想の産み出した架空の話ではあるまいか。あの日に飲んだジェンツアノの葡萄酒に酔って見た夢ではあるまいかと考えた。バルヂピエロのおじさんのよこした手紙だってあの日の笑談の続きだと思われぬこともない。無論おじさんは死んだには違いない。しかしあの年になれば死ぬのは当然《あたりまえ》である。何も誰かがわざわざ手段を弄してそれを早めたと見なくてはならぬことは無い。おれはこんな風に考えて疑問の解決を他日に譲ることにした。
ウェネチアに帰ってからおれの最初に尋ねたのは、ロレンツォよ、君だった。ちょうど昔のように、おれは波にゆらいでいるゴンドラの舟を離れて、水に洗われて耗《へ》った、君が館の三段の石級《せつきゆう》を踏んだ。ちょうど昔のように、おれが石級の上から君の名を呼ぶと、君はすぐに返事をした。おれは白状するが、あの時おれは予期しなかった嫉妬を感じた。それは君が昔のように独りでいないで、青年紳士と一しょにいたからである。おれが這入って行くと、その紳士が立ち上がった。紳士は可哀らしくて、上品な体附きをしていた。おれの這入ったのを見て、紳士は手に持っていた楽器を、気の無いような表情をして、無造做《むぞうさ》に卓の上に投げて、心から相許した友達同志が互に顔色を覗《うかが》い合うような様子で、君の顔を見た。おれは初めの間この人のいるのをやや不快に感じた。それはこの人が君の親友になっていて、おれが独りで占めているように思った地位を奪ったらしく見えるからであった。しかしおれはこの最初の感情に打勝った。おれはこう思ったのである。おれは長い間留守を明けていた。長い間君に背いて交情を曠《むな》しゅうしていた。そうして見れば、おれの不実にも放浪生活をしていた間、この人が君を慰めてくれたのは、感謝しなくてはならぬ事だと思ったのである。そこでおれは青年紳士に好意を表した。紳士は十分に品格と礼節とを備えた態度をもっておれに接した。そして君は紳士とおれとの二人の手を一つにして握ってくれた。
そんなわけで、君がかの青年紳士レオネルロの友人になったように、おれもまたあの人の友人になった。おれは君がどうしてあの人と相識になったかと云う来歴を聞いた。レオネルロはパレルモに生れたのだ。それを両親が当世風の生活に慣れさせるためにウェネチアに来させたのだと、レオネルロが自ら語った。もうこの土地に来てから一年ばかりたっていて、レオネルロはどうやらこの土地を第二の故郷にして、パレルモの事を忘れてしまったらしかった。レオネルロは全くシチリア風の特徴を具えた美少年である。目は生々として表情に富んでいる。鼻には上品な趣がある。口も人に気に入る恰好をしていて、髭は少しも生えていない。それに歩く様子がひどくいい。それから手のひどく小さいのをおれは珍らしく思った。だんだん心安くなって見ると、温和と謙遜との両面から見て、あの人の性格がいかにも懐かしかった。あの人は女好きでは無い。わざとらしく女に接近することを避けていた。宗教の信者だろうと思われた。しかし君とおれとが遊ぶ時は、あの人も一しょになっては遊ばぬまでも、傍看者として附き合ってだけはくれた。
おれ達はまた青春の最も美しい快楽を味い始めた。君とおれとのはもう行楽の時代が過ぎ去ろうとしているのに、あの人のはまだ水の出端である。それにあの人が控目にしているのだから、君とおれとはそれを手本にして節制を加えなくてはならなかったが、二人にはそれが出来ぬのであった。おれ達は昔のようにまた島の倶楽部《くらぶ》の卓を囲むことになり、それよりはしばしば博奕《ばくえき》の卓を囲むことになった。紙で拵《こしら》えた仮面はおれ達の顔を掩った。おれ達は興を縦《ほしい》ままにした。一体ウェネチアと云う土地ではそうせずにはいられぬ事になっている。君もおれもウェネチアの子だから為様《しよう》が無い。二人の痴戯《ちき》を窮めるのを見て、レオネルロは微笑んだ。
そのうちに千七百七十九年のカルネワレの祭日が来た。祭日は例年よりも華美で賑かであった。遊びは厭きるほどある中に、おれ達は一日をおれの別荘で暮らすことにした。まずそれだけの約束をしておいて、おれは先へ別荘に来て、準備をした。翌日は君とレオネルロと二三の親友とが来るはずである。そのまた次の日には大勢の客が案内してある。寒気が珍らしく軽いので、大勢の客の来る日には、暮れてから庭で遊びをすることにしてある。おれはそれがよほど立派になることを期待していた。
君は約束の日に期を愆《あやま》らずに来てくれた。一しょに来たのは、かねて極めてあった五人の友達である。君達は皆仮装をして、それを一輛の美しい馬車が満載して来た。そこでおれは君達を別荘の所々《しよしよ》に連れて廻って、あすの遊びの準備を見せた。あすの晩には、庭の岩窟に蝋燭を焚いて舞踏会をして、それから鏡の広間で宴会をしようと云うので、おれは君達と種々の評議をして、今宵は明かりの工合を試験しておくと云うことになった。おれはレオネルロと臂《ひじ》を組み合せて鏡の広間に立っていた。レオネルロは笑いながら仮面を扇のようにして顔のほてりをさましていた。おれは中央に吊る燭台の明かりをためすために、窓を締めて窓掛を卸すことを、家隷《けらい》どもに命じた。真っ暗でなくては、明かりの工合が分からぬからである。窓を締め窓掛を卸して、蝋燭がまだ附かぬので、広間が一刹那真の闇になった。おれ達はその中に立っていて、おれは家隷《けらい》どもに明かりの催促をした。「早くしないか。いつまでも暗くしていては困るじゃないか」と云ったのである。その時突然おれはある冷やかな尖った物が胸を貫いて、おれの性命の中心に達し、おれの口一ぱいに血が漲《みなぎ》るのを感じた。
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蝋燭が附いてから、おれ達がバルタザル・アルドラミンを抱き起して見たら、その胸には一つの匕首《ひしゆ》が深く刺し貫いてあった。その尖は心の臓を穿《うが》ったと見えて、アルドラミンは即死していたのである。
四
我々七人の客はあっけに取られて、身動きも出来ずに、屍骸の周囲に立っていた。七人と云うのはルドウィコ・バルバリゴ、ニコレ・ウォレダン、アントニオ・ピルミアニ、ジュリオ・ボッタロル、オクタウィオ・エルヌッチ、それからレオネルロとおれとである。どれもどれもアルドラミンの親友で、愛したり愛せられたりしているのだから、一人として危険を冒してもこの別荘の主人の性命を救ってやりたいと思わぬものは無い。我々は互に嫉妬などをし合ったことが無い。喧嘩と云うほどの衝突をもしたことが無い。我々の間にはただ敬愛の情があっただけである。
そうして見れば、アルドラミンは自殺したに違い無い。この男の性命を絶った鋭い匕首《ひしゆ》は、自分で胸に刺し貫いたものに極まっている。しかしなぜこんな事をして死んだのだろうか。年はまだ若い。財産はある。幸福に暮らしている。こうした身の上でいて、我々一同にどんな憂悶を隠していたのだろうか。我々はどう考えてみても解決が附かぬので、皆眉を顰《ひそ》めていた。我々はさっそく支度をして、亡き友の死顔を石膏型に取ったが、その型の石膏と同じように、皆の顔には血の色が無かった。
どうしてもアルドラミンは自殺したとより外思いようが無い。我々はただいつまでも死骸を目守《まも》っている。そのうち我々一同の中に同時に恐るべき、非常な疑惑が生じて来た。それは一応自殺らしくは見えるものの、ひょっとしたら我々の中の一人が窓を閉じ窓掛を卸した闇を利用して、アルドラミンを刺したのかも知れぬと云う疑惑である。人間の心は秘密を蔵しているものである。世間には隠蔽せられている事がたくさんある。しかしそれにしてもその刺客《せつかく》は誰だろう。誰がこれほどの陰険な事を敢てしただろう。あれだろうか。これだろうか。
誰の胸の中《うち》にも不安の念がひそやかに萌《きざ》して来た。そして互に相猜疑して、平気で目を見合せることが出来なくなった。我々は物を探るような目《ま》なざしをして鏡の影を見た。鏡の一面ごとに我々の顔とアルドラミンの死骸とが変ってうつっている。そしてその死骸が我々の中の誰をも皆仇敵として指さしているかと思われる。
アルドラミンの死骸はサン・ステファノの寺に葬られた。両手を赤い創の上に組み合わせて葬ったのである。葬式が済んでからも我々は同じ疑惑を除くことが出来ない。バルバリゴだろうか、ウォレダンだろうか、ピルミアニだろうか、それともボッタロルだろうか。我々は出逢うたびごとに猜疑の念を起さずにはいられない。握手するにも気が置かれてならぬ。
絶えずこう云う不安の念に悩まされて、次第に双方機嫌の悪くなったバルバリゴとボッタロルとは、とうとう争論をして決闘することになった。争論の生じた真の原因は公に言われぬので、二人は詰らぬ尾籠《びろう》な事を表向の理由にした。ボッタロルは負傷した。バルバリゴはそのために大陸へ逃亡しなくてはならなくなった。
おれは深い悲しみに沈んだ。それはアルドラミンの死を忘れることが出来ぬからである。レオネルロはおれを慰めようとした。種々の楽器を弄することが上手なので、その音色でおれの鬱を散じてくれようとした。おれとレオネルロとは相変らず毎日逢っている。この男を疑う念は一度もおれには萌《きざ》さなかった。この男は物柔《ものやわらか》なのと物事を打ち明けるのとで、おれを陰気な思想に耽らせぬようにして、おれの絶えず胸に思っている事を口に出させずにいた。
ある日おれはウォレダンに逢った。ウォレダンはレオネルロはどうしているかと問うた。ちょうどレオネルロがおれの館に住むことになってから、しばらくたった時の事である。ウォレダンはおれの返事を聞いた後に、毒々しい笑をして、「暗い所では用心してい給えよ」と云った。おれは胸を裂かれるような気がした。レオネルロとの交誼《こうぎ》を傷ける詞《ことば》だからである。
レオネルロはおれの憂鬱が日々加わるのを見て、おれに旅行を勧めた。理由として言ったのは、ロオマに用事があると云うことと、それからパレルモから手紙が届いて、急に帰って貰いたいと云って来たと云うこととの二つである。おれはレオネルロがただこの土地を離れようとしていて、口実を設けるのだと悟ったが、それを色にあらわさずに、その表面の理由を信ずるように粧った。おれは実にウェネチアの生活が厭になっていた。館に近いサン・ステファノ寺の鐘の声はおれの心を戦慄させる。それは悲惨なアルドラミンの事を憶い起させるからである。おれはレオネルロの勧誘に応じて、少しばかりの旅の支度をして、あの波に洗われて窪んでいる館の石級を降りた。その時おれはたびたびアルドラミン家の白い石壁を振り返って見た。赤い大理石の二つの花形が雨に洗われたのが、二つの創《きず》の新しい瘢痕のように見えた。
レオネルロとおれとは一つ馬車に乗った。二人はピエンツアに泊るはずであったのに、市よりよほど手前で日が暮れた。そこはひどく暗いピニイの林の中であった。今少しで林を出離れようとした時、恐ろしい叫声が聞えた。一群の剽盗《おいはぎ》が馬車を取り巻いた。中にも大胆な奴等が馬の鼻の先で松明《たいまつ》を振ると、外の奴等は拳銃の口をおれ達に向けた。おれ達の連れていた家隷《けらい》は皆逃げてしまった。
おれ達は囲《かこ》みを突いて出ようとしたが、二人の剣は功を奏せなかった。おれは造做《ぞうさ》もなく打ち倒されて、猿轡《さるぐつわ》を嵌められ布で目隠しをせられた。おれはまだレオネルロが賊を相手にして切り合っているのを見ながら、目隠しをせられたのである。賊の二人がおれの頭と足とを持って、大ぶ遠くへおれを運んで行って、それからおれを下に置いた。おれが起ち上がると、賊はおれの肩を撲って追い立てた。足の踏む所は一面に針葉樹の葉で掩われていて、すべって歩きにくかった。しばらく歩かせた後、賊はおれの衣服を剥いで、おれをピニイの木の幹に縛り附けた。おれの背は木の皮でこすられて、肌には樹脂《やに》が黏《ねば》り附いた。
おれの周囲に足音がした。多分レオネルロをおれと同じ目に逢わせるのだろう。どうもそれにレオネルロが抗抵《こうてい》するらしい。おれのように賊のするままにさせていないらしい。物音で判断すると、そう思われるのである。おれはレオネルロが抗抵して、ひどい怪我をしないといいがと思った。こんな時には敵対しないで、人のするようにさせているがいい。避けられぬ事を避けようとしたって、なんの役にも立たぬからと、おれはレオネルロに忠告したかったが、猿轡《さるぐつわ》を嵌められているので、詞を出すことが出来なかった。
しばらくして周囲がひっそりした。おれは賊等が目的を達してしまったのだなと思った。その時突然大勢が何やらどなりながら大声で笑うのが聞えた。しかしそれはただ一刹那の事で、そのあとはまたひっそりした。おれは賊等が為事《しごと》をしおおせて満足して逃げたなと思った。風が静かに木々の頂をゆすっている。夜の鳥が早い、鈍い羽搏《はばたき》をして飛んで行く。そして折々ピニイの木の実が湿った地に墜ちる音がする。
おれとレオネルロとの二人は寂しい林の真ん中にいるのだ。一人一人ピニイの木の幹に縛り附けられているのだ。この境遇は随分悲惨であるが、おれはそれを考えるよりは、どうにかして今の苦痛を軽減しようと工夫した。幸な事には目隠しの布が少し弛《ゆる》んだので、おれは次第にそれをいざらせて、とうとうずば抜けさせた。そしておれはあたりを見廻した。
地に挿した一本の松明が今少しで燃えてしまうところである。そのゆらめく《ほのお》がピニイの木の赤い幹を照す。それに裸体の人が縛り附けられている。レオネルロであろう。たちまち一陣の風が吹いて来て、松明がぱっと明るくなった。レオネルロに違いない。闇夜を背景にして白皙《はくせき》な体が浮いて見える。しかしこれは夜目の迷であろうか。まやかしの幻影であろうか。その体は女の体である。しかし女の体でいて、やはりレオネルロである。顔はそむけていて見えない。見えるのはただ髪を短く刈った頭と項《うなじ》とだけである。しかし体は女で、それがレオネルロに違いない。木の幹を攫《つか》むようにしている、小さい、優しい手は、見覚えのあるレオネルロの手である。
女だ。思い掛けぬ発見は残酷にもおれの心を掻き乱した。そして恐ろしい疑念を萌《きざ》さしめた。女であったか。しかしなぜ男装していたのだろう。なぜそんな秘密をしていたのだろう。女であった。レオネルロが女であった。ああ、匕首《ひしゆ》の一えぐり。紅の創口。アルドラミン。
松明は次第に燃え尽した。猿轡はおれの口を噤《つぐ》ませていても、おれの頭には思想が相駆逐している。この思想は初め生じた時糾紛して曖昧であったが、それが次第に透徹になって来た。事実の真相が露呈して来た。そしておれはアルドラミンの口から、今おれの話した通りの事を聞くような気がした。
夜が明けて樵夫《きこり》が一人通り掛かった。それがおれの縄を解いてくれた。その時はおれは苦痛と疲労とのために失神していたのである。おれは気が附いてみると、地に僵《たお》れていた。おれの目はすぐにレオネルロに似た裸体の女の縛り附けられていたピニイの木を尋ねた。しかしもうそこには姿が見えなかった。察するにその人は夜の明けぬ間に縄を抜けて逃げたのだろう。おれは木の下に歩み寄った。一箇処縄で摩《す》られて、木の皮が溝のように窪んでいた。そして木の根にはちぎれた縄が落ちていた。樵夫はそれを拾って嚢《ふくろ》に入れた。薪を束ねる料にしようと思ったのだろう。おれは黙って樵夫に附いて小屋まで往って、樵夫に荒い布の衣服を貰った。
おれは無事にウェネチアに帰った。紫色の空気を波立たせて、サン・ステファノ寺の鐘が響いていた。そしてアルドラミンの家の館の古い壁に嵌めてある、血のような色の大理石の花形が、運河の水にうつっていた。
不可説 レニエ
愛する友よ。この手紙が君の手に届いた時には、僕はもうこの世にいないだろう。この手紙の這入った封筒が封ぜられて、僕の忠実な家隸《けらい》フランソアが「すぐに出せ」と云う命令と共に、それを受け取るや否や、今物を書いているこの机の引出しから、僕は拳銃を取り出して、それを手に持って長椅子の上に横になるだろう。後に僕の死んでいるのが、そこで見出されるだろう。長椅子に掛けてある近東製の氈《かも》を、流れ出る僕の血が汚さないようにするつもりだ。もしあの絹のように光る深紅色が余り傷んでいなかったら、君あれを記念に取っておいてくれ給え。あの冷やかな、鈍い色と、品のいい波斯《ペルシヤ》の模様とを君は好いていたのだから。
よし君が友人中の最も遠慮深い人であったとしても、なぜ僕がこんな風にしてこの世を去るかと云うことを、君はきっと問うだろう。それを僕は無理だとは思わない。僕はまだ若い。金はある。体は丈夫だ。世間には精神上かまたは肉体上に苦痛があって、そのために死を求める人が随分あるようだが、そんな苦痛は僕には無い。苦痛どころではない。沈鬱をも僕は感じていない。どうかするとなまけたあげくに世の中が面白くなくなると云うこともあるが、それも僕には無い。またそう云う精神上の難関があったとしても、それを凌《しの》いで通る手段が、僕には幾らもあったはずだ。そう云う手段を、僕はいつも巧者に、有利に用いて来たものだ。世の中が面白くなくなった時、気を紛らすには、本を読んだり、旅をしたり、友達と遊んだりすることも出来るではないか。それはたしかにそうに違いない。それでも僕は死ぬるのだ。もし僕がロマンチックとかコケットリイとか云うような傾きを持っていて、忠実な、頼もしい友人が、僕が死んだあとで、余計な思慮を費すようにしようと思ったなら、今僕のしようと思うことをするに臨んで、僕は勝手に秘密らしい、熱情のあるらしい、戯曲的な原因があるだろうと云う推測をさせるのが、何より易い事である。しかし墓の下に這入《はい》ったあとに、僕は少しもそんな葛藤を残して置きたくない。それよりはこの決心を僕の胸の中で熟せしめた事情を、簡単に君に説明して聞かす方がよかろうと、僕は思う。その決心はこの間から出来ていて、これから暫時の後に実行するはずになっているのである。
ねえ、君、世間には恋愛、心痛、厭世、怯懦《きうだ》、自惚《うぬぼれ》、公憤から自殺する人があるのだね。しかし僕はこんな動機の中のどれにも動かされて死ぬるのではない。僕は誰に対しても不正な事をしたことはない。また世間の耳目を聳動《しようどう》してみようなんぞとは思わない。恐怖や絶望のために、こんな決心をしたのではない。人生は僕のためには十分耐え忍んで行くことの出来るものである。僕は我生存の上に煩累《はんるい》をなす何物をも見出さない。僕には失恋の恨は無い。啻《ただ》に恨が無いばかりではない。目下すこぶる心を怡《たのし》ましむるに足る情人を我所有としている。しかるに僕はこの手紙を書いてしまうと、あの黯澹《あんたん》たる深紅色の我目を喜ばしむる、美しい波斯《ペルシヤ》の氈《かも》の上で自殺しようと思う。
一体妙な事ではないかねえ。僕が酒にも酔っていず、気も狂っていないところを見ると、一層妙じゃないか。もちろん僕はこの自殺によって、何の自ら利するところもないが、それでも僕はこの遂行を十分合理で自然だと認めていると云うことを明言することが出来る。僕はこの外に行くべき途を有せない。僕のためにはこの死があたかも呼吸のごとき、避くべからざる行為である。尋常で必然な行為である。つまり僕の今日までの生活はこの点に到達しようとする、秘密な序幕である。僕はこうしなくてはならないように前から極められているのだ。
我々は偶然の出来事を漫《みだ》りに行為の原因だとすることがある。もしそんな風な物の考え方を僕がするなら、僕はある女のために死ぬるのだと云うことが出来るだろう。なぜと云うに、僕の心の内で行われている事、即ち僕の「前定」とでも名づくべきある物を、僕に示してくれる徴候は、その女の傍にいる時一層明かに見えるからである。しかしこの女がどれだけ僕の死に影響しているかと云うと、それは真に道の上の一塊の石、風景の中の一株の樹より大なる影響を与えてはいない。だからこの刹那に僕がこの女の影像を思い浮べるのは、それを不愉快な意味においてこの行為に参加させようとするのではない。僕は最後に今一度この女の嬌態《きようたい》と美貌とを思い浮べるのが愉快なのである。
僕がさっき心を怡《たのし》ましむるに足る情人と云ったのはこの女だ。名はジュリエットと云って、フランス産である。同胞の女がアメリカ人の妻になっている。僕は去年ボスポルスに旅行した時出逢ったのだ。僕はテラピアに住まっていた。その時この女もやはりテラピアに住まっていたので、僕をもこの女をも知っていた人があって、二人を引き合せてくれたのだ。僕はそのアメリカ人の一家を仮にブラウンと名づけよう。そこでブラウン夫婦とジュリエットと僕とは中が善くなった。皆同じホテルに住まっていて、毎日逢うことになっていた。
僕が始めてある事に気が附いたのは、九月の初めであった。スタンビュウルへ往くには余り暑過ぎた。そこで一しょに馬車を傭って、キュウル・アネエと云う所へ往くことにした。キュウル・アネエとは薔薇の谷と云うことである。テラピアとビュイユウク・デレとに近い、画のような部落である。石の階段を登った上に、葉の茂った木に蔽《おお》われて、小さいトルコの珈琲店《コオフイイてん》がある。そこで上等の珈琲を飲み、香の高い紙卷烟草《たばこ》を燻《くゆ》らせながら、噴水の音を聞いて涼むことが出来る。
ブラウン夫婦とジュリエットと僕とは、小さい卓を囲んで据《す》わって、トルコの菓子や阿月渾子《あるごんす》を噬《か》みながら、ぼんやりして水のささやきと木の葉のそよぎとを聞いていた。その時僕は説明の出来ないある感じのするのに気が附いた。この説明の出来ないと云う詞《ことば》はその感じを的確に言い表したものである。何とは知らず、ある強大な物で、ほとんど感触せられない、隠微な物が、僕の心中で活動し始めた。この物は直覚的な模糊たる感覚でありながら、それにこの一刹那から後の我は、それより前の我とは別物だと云う、明確な認識が交っている。僕は挙措を失するような気分になったので、それを掩い隠すために、珈琲茶碗を取り上げて口まで持って行った。しかしその持って行き方が余り不束《ふつつか》であったので、ジュリエットは「どうなすったの」と云って笑い始めた。
この笑声を相図《あいず》に、僕の不愉快な気分は、魔法の利いたように消え失せた。どうして僕はあんな馬鹿な事を思ったのだろう。僕の感じたのが恋愛に外ならぬと云うことを、なぜ僕は即時に発明しなかっただろう。僕の妙な精神状態を自然に説明しているものは即ちこの女ではないか。今噴水のささやきと木の葉のそよぎとに和する笑声を出しているこの女、薔薇の谷の珈琲店に、あの晴やかな顔と云う一輪の花を添えている、この美しい、若い女に、僕は惚れているのだ。
この断案は僕を安心させた。惚れていると云う事は、何も僕に苦痛を与えるはずが無い。なぜと云うに、僕の願いにジュリエットが応ぜないかも知れないと云う疑懼《ぎく》は、どの点から見ても無いからである。この女には夫がある。しかしその夫と中が悪くなっていると云うことは、ブラウンの話に聞いて居る。一体ブラウン夫婦がこうしてこの女を旅に連れ出したのは、その中の悪い夫と引き離して置くためである。夫の方でもこの女をなんとも思ってはいないのである。そうして見れば、この場合で僕のしなくてはならない事と云っては、ただ恋を打ち明けるだけでよいのである。そしてそれを打ち明ける機会は幾らもありそうである。
果して僕は間もなくその機会を得た。ちょうどその翌日ブラウンはテラピアの波止場で端艇《ボオト》から上がる時、足を挫《くじ》いた。怪我はひどくはないが、しばらく休息していなくてはならない。そこで細君が夫の看病をしている間、僕はかの女の散歩の道連れになることを申し込んだ。女は一応軽く辞退した上で僕の請を容れた。そこで僕は翌日女をスクタリへ連れて往って、そこに終日いると云うことになった。そこにいる乞食坊主を見たり、大きい墓地に往って見たりしようと云うのである。
スクタリの墓地は実に立派な所である。君もきっとあの墓地の事の書いてある紀行を読んだだろう。そして糸杉の蔭に無数の墓がぴっしり並んでいるのを想像することが出来るだろう。あそこで僕はジュリエットに話をした。
僕等は車を下りて、脇道に這入って、あのステエルと云う柱形の墓の倒れているのに腰を掛けた。僕は両手でジュリエットの手を握った。ジュリエットはその手を引かなかった。木の間から透して見れば、ボスポルスの水が青く光っている。黒い嘴細鴉《はしぼそからす》がばたばたと飛んで澄み切った空高く升《のぼ》る。多分僕はまずい事は言わなかっただろう。なぜと云うに、ジュリエットはこんな意味の返事をしたからである。「あなたのそのお詞を侮辱だとは感じません。こんな悲しい身の上になっているのですから、大事な方のために尽して上げることが出来れば、それが慰めにもなりましょう。あなたがただお友達になって下されば、わたくしどんなにか為合《しあわ》せでしょう。もう恋なんと云うことは、生涯駄目かと思っています。」こう云う事を言っている間、女は僕に多少の親しみをすることを許した。その様子が余り冷澹《れいたん》ではなさそうなので、あんな事を言っても、また思い返すこともあるだろうと、僕は思った。
未来に楽しい事があるだろうと云う見込は、幸福の印象をなすはずだから、僕はジュリエットとしたこの散歩の土産に、そう云う印象を持って帰らなくてはならないのだ。実際ジュリエットがいつか僕の情人になってくれるだろうと云う想像は、僕には嬉しかった。僕はたびたびスクタリで話をした時の事を思い浮べてみた。高い糸杉の木、倒れている柱形の墓石、僕に手を握らせて微笑んでいる若い女の顔。こんな物がまた目に浮ぶ。しかしどうもその場合に、僕は局外者になっているようでならない。つまり秘密らしく次第にその啓示の期の近づいて来る、僕の生涯の隠れた目的は、この目に浮ぶ物の外にあるのだ。
こう云う妙な精神状態を、僕がしているうちに、ブラウン夫婦がテラピアに滞留しているはずの、最後の数週が次第に過ぎ去ってしまう。僕はジュリエットと差向いになることがめったに無い。ブラウンの怪我は早く直ったので、ブラウンか細君かのうちが、始終ジュリエットと僕との間に介《はさ》まっている。そして出立の期が迫って来る。さていよいよフランクフルトへ帰る前になって、ブラウン夫婦はこの旅行の記念品を買いに、スタンビュウルの大勧工場《かんこうば》へ往くと云って、僕をさそった。ある日の午後、僕等は勧工場の中に這入って、装飾品の売場から薫物《たきもの》の売場へ、反物の卓から置物の卓へとあちこちうろついた。ちょうど僕等があの信用の出来ないほど古い家具の陳列してある、ベゼスチンと云う室に来た時、ジュリエットとブラウン夫婦とが何か買物をしかけていたので、僕は種々の人の込み合っている中に一人居残った。僕は連れを捜しに出掛けようとしたが、その時ふと気が附いて見れば、一人の男が自分の売場に立って、多勢の人の頭を見越して、僕に手招きをしていた。
その男は武器を売る、髯の長い大男である。拳銃や、トルコ刀や、ヤタガンと云う曲った刀や、匕首《ひしゆ》なんぞの種々な形をしたのが、その男の前に積み上げてある。僕が近寄ると、その男は身を屈めた。僕はその様子を見ていた。突然男は身を起して、長い、曲った刀を、高く差し上げて、華やかな、勇ましい身構えをして、鞘《さや》を払った。明るく、強く、切るように、鋼鉄は鞣皮《なめしがわ》の鞘から滑り出してその陰険な、人に媚びるような光沢を現した。男は次第に刃《やいば》を抜き出しながら、茶色の髯の奥で光る白い歯を見せて、ゆるやかに微笑んで、僕の顔を見た。日のかっと照っている中に、その男のそうして立っている姿は、さながら運命の立像であった。
もしジュリエットが来て、ブラウン夫婦がダウウトの翁《おきな》の氈店《かもみせ》に往ったのを知らせなかったら、僕はいつまでもその男を見詰めていただろう。氈店で僕は夫婦に逢った。数分の後に僕が横になるはずの深紅色の氈は、そこで買ったのだ。あの氈の上に寝てしなやかなジュリエットの裸体を抱いた時、僕はたびたびこの死の事を思った。あの上でこの世を去ろうと云う、不可説にして必然な心が養成せられた。この決心に先立ち、この決心に伴った事情を、これで君に言って聞かせた。それで僕はジュリエットの姿、薔薇の谷の小さいトルコの珈琲店、糸杉の木、スクタリの柱形の墓石、ベゼスチンの刀剣商を思い浮べるのだ。そして僕はその中に最終の幸福を見出す。なぜと云うに、死に臨んで優しい顔、美しい国、華やかな身構えを思い浮べるより楽しいことは無い。
猿 クラルティ
猿と云うものは元からたまらないほどおれに気に入っている。第一人間に比べて見ると附合ってみて面白いところがある。それから顔の表情も人間よりははっきりしていて、手で優しく搦《から》み付くところなぞは、人間が握手をするよりも正直に心持を見せているのだ。それから猿の一番いい性質は、生利《なまぎ》きにも猿を滑稽なものに言い做《な》している人間よりも、遥かに残酷でないことである。猿は昔から人間の真似をしているが、まだ人間の乱暴と不行跡とを真似たことはない。ただ一つ猿の人間に優っていないところは、たしかに人間と同じように焼餅を焼くことである。ビュッフォンの飼っていたシンパンジイ種の猿は、主人の好いたある女が来るたびに厭がって、主人の杖を持ち出して威《おど》したそうだ。
猩々《しようじよう》やシンパンジイの猟をしたドュ・シャイユウは人を避けて穴居しているこの猿共の性質の面白いことを報告している。この男は平気で、なんの不思議な業でもないつもりで、一疋のシンパンジイが木の枝に隠れて寝ているのを殺したことを話した。猿は気の毒にも木《こ》の葉の蔭で隠れおおせたつもりでいたのだ。人間と云う永遠なる獄卒は眠らずに隙を覗《うかが》っているのである。ドュ・シャイユウは寝た猿に狙い寄ったのだ。その時の事がこんな風に書いてある。「余は一疋の猿の巣に籠りて友を呼ぶを見たり。その傍《かたわら》には第二の巣を営みありき。呼ばれて答うる第二の猿の声は直ちに聞えたり。余は同時に二疋の猿を殺すことを得べきを思いて喜びいたり。しかるに同行者の身を動かしたるがために、用心深き猿は余等の潜伏しあるに気付きたり。巣に籠りたる猿は木より下り来らんとす。余はこれを取り逃さんことを恐れて狙撃したり。その猿は即死して地に墜ちたり。これを見るに雄猿なりき。」こう書いてある。ドュ・シャイユウは雄猿を獲《え》たのに満足しないで、雌猿をも殺した。また一匹の子猿がその雌猿の乳房を含んでいたのを引き放した。子猿は啼いた。そのヒョオヒョオヒョオと云う声が聞く人の胸に響いた。子猿は母猿の死骸に捜《さぐ》り寄って、その手や口の冷えているのに触れてヒョウヒョウヒョウと啼き続けた。このところの記事は実に読むに忍びない。試みに人間の子が母親の乳を含んでいる時、シンパンジイが来てその母親を殺したと思え。我等は必ずや「ひどい獣だ」と罵るであろう。人間はどうかすると実にひどい獣になる。これに反してシンパンジイは老年になって意地が悪くなる事もあるが、たいてい気が優しくて、子供を愛している。
おれはいつか昔一しょに住《すま》っていて、黒パンを分けて食った子猿の話をした事がある。ジュディック夫人はリュウ・ド・ラ・フィデリテエに住んでいたころ、この猿を知っていた。外へ出たついでにリュウ・ド・パラディイ・ポアソンニエエルに立ち寄って、このリットル・ジャックと云う子猿に砂糖を一切れずつくれて行った。ジャックもあの女芸術家をひどく好いていた。一体動物は人間に対してひどく好き嫌いがある。人間のちょっとした科《しぐさ》を見て、すぐに敵にすることがある。この子猿を人がハアヴルから連れて来た時、おれはちょうどソファの上に寝ていた。それを覚えていて、ジャックはおれを見るとすぐに寝てみせる。そして笑う。どの猿でも笑わないのはない。小声で笑うので人が心付かずにいても、笑う事はきっと笑う。とにかく笑うと云う事が人間の専有ではない。
エドゥアアル・ロックロアはきっとまだ覚えているだろう。なぜと云うに、あの男は物を忘れると云うことがないからである。あの男がリュウ・ド・ウォシントンに住っている時、猿を飼っていた。ある日曜日におれ達はその家で、窓を開けて昼の食事をしていた。その時窓のムウルディングの上に蹲《うずくま》っていた猿は、何か旨い物を貰われそうなものだと思って待っているらしかった。それが突然食卓から目を放して中庭を見下した。そして非常に早くロックロアの読み書きをする机の上に飛び上がって、インクの瀋《にじ》んだのを吸い取る沙《すな》が、皿に盛ってあるのを取って、また非常に早く窓に帰って、その皿の中の沙を、ちょうど中庭を通っていた誰やらに蒔き掛けた。そして窓のムウルディングの上に蹲って、おれ達の方を見て満足らしい表情をした。一種の笑と看做《みな》される表情である。さも嬉しげで、それに人を馬鹿にしたようなところがあった。中庭からは腹を立って罵る声がした。
その時ロックロアが云った。「おれにはあの意味が分かっている。この間おれの使っている家来が、この猿を散歩に連れて出た時、この家に住っているある奴が、見っともない畜生だなあと云った。それを猿が悟って、忘れずにいて、今好機会を得て復讐をしたのだ。あの皿の中の沙《すな》でその詞《ことば》の返事をしたようなものだ。」
猿と言うものはこんなものだから、あの「アリスチイド・フロアッサアル」と云う諷刺的の名作を出して、そのくせもうほとんど世に忘れられているレオン・ゴズランが猿の国への旅を書こうと思い立ったのも無理はない。「ポリドオル・マラスケンの冒険談」と題した文章がジュウルナル・プウル・ツウに出て、その挿画をギュスタアフ・ドレエが書いた時には、おれ達は面白がってそれを見たものだ。あの文章は諷刺をもって書いた哲学的研究で、ゴズランはその中で、既往においてはスウィフトを回顧し、未来においては動物を主人公にする作者としてジュウル・エルヌ・エルス、それから主にラヂャアド・キプリングの先容をなしている。一体獣はいつもおれ達を驚かし感動させるものだ。おれ達は獣が物を考えるのを見て驚き、また獣が子供の目のような目でじっとこちらを見ると、間の悪いような心持になる。
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ある日M提督《ていとく》がおれに猿の話をして聞かせた。その話は深刻な小説の材料にでもなりそうである。提督がまだ艦長でいた時、恐ろしく敏捷《びんしよう》な、小さいシンパンジイを連れていた。それは放して飼ってあって、檣《ほばしら》に昇ったり、船の底に這入ったりしていた。水兵が演習をすると、猿が真似をする。水兵はそれを見て面白がって、皆で可哀《かわい》がっていた。ちょうど陸軍に聯隊《れんたい》で飼っている犬がいるように、この猿は軍艦の猿になっていた。
しかるにある日金剛石を嵌《は》めた指輪がエツウィにいれたままで紛失した。それの置いてあった室の戸が開いていた時、戸口にいたのを人に見られた一人の水兵が嫌疑者にせられた。そこでその水兵の挙動に注意する事になった。水兵は周囲の人に目を付けられるのを悟って、艦長の前に出て無造作にこう云った。
「艦長殿、わたくしがダイアモンドを盗んだと思われているのでありますか。」
艦長は答えた。「そうさな。とにかく猿が取ったとは誰も思っていないようだ。」
この詞《ことば》を聞いた時、水兵の頭にある考えが浮かんだ。水兵は探索の手掛かりを得たように思った。エドガア・アラン・ポオの小説にリュウ・マルグの二人殺しと云うのがあって、その主人公は猩々《しようじよう》である。そうして見れば軍艦の猿だって窃盗《せつとう》をしないには限らない。ちょうど探偵が嫌疑者を監視するように、水兵は軍艦の猿を監視し始めた。
二三日たって、水兵は石炭庫に天鵞絨《びろうど》の小さいエツウィのあるのを見出した。それが石炭の中に埋めてあったのである。誰がこんな事をしたのだろう。どうも猿らしい。
水兵はたちまち工夫して、猿の腕首を掴んで、エツウィのあった所へ連れて行こうとした。ところが石炭庫が近くなればなるほど、猿が震え出した。ちょうど犬が自分の糞をした所へ連れて行かれるのを嫌うように、軍艦の猿は石炭庫へ行く事を嫌った。とうとう庫《くら》に来て、水兵がエツウィを見出したところを猿に指さして見せると、猿の黒い目に恐怖の色が現われた。そして猿は祈祷をするように両手を合せた。
それから水兵は虚《から》のエツウィを出して猿に見せて、指に指輪を嵌《は》めたり抜いたりする真似をして見せた。猿はそれを見ていたが、しばらくして意外な事をし始めた。猿は指の爪で不細工に石炭の中を掻き捜し始めた。間もなく石炭の中から、金剛石が出て来た。贓品《ぞうひん》の金剛石である。
そこで水兵は艦長の前へ出た。「艦長殿。盗坊《どろぼう》が分かりました。これが宝石で、これがそれを盗んだ奴であります。」
猿はこの詞が分かったらしい様子をしていた。分からぬまでも、この場で何事が訴えられ、また聞き取られていると云うことを悟っていたに違いない。猿は途方に暮れた様子で頭を低《た》れて視線を船の甲板の上に落していて、艦長の顔を一目も仰ぎ見る事が出来なかった。
「そうか。この役に立たず奴《め》をどう処分してやったものだろうかなあ」と、艦長が云った。
評議の結果、猿を取調べて、いよいよ有罪ときまったら、窃盗《せつとう》をした水兵と同じ刑罰に処するがよかろうと云う事になった。航海は退屈なものだから、何か慰みになるような事があると、誰でもその機会を捕えようとするのである。取調べは一種の軍法会議を組織して行うことになった。猿の弁護をする役人も出来た。そこで中世風の裁判をして、刑罰に処するか放免するかになるのである。
水兵仲間の一人は、この様子を見ていて、忽然《こつぜん》一種の疑念を生じて、猿を連れて来た水兵に言った。「猿は可哀そうだな。やっぱりお主が処罰になった方が面白かったのに。」
「難有《ありがた》い為合《しあわ》せだ」と、水兵は答えた。
猿はとうとう有罪ときまった。法廷の手続きは一々規則通りに遂行せられた。猿は数人の判事と弁護士とを代る代る見て何事か分からずにいた。この分からずにいたと云うのは平気でいたのではない。軍艦中で可哀がられていた猿のためにはこの見馴れない法廷がひどく窮屈であった。猿はどんなに宥《なだ》めても落ち着いていることが出来なかった。大勢の人が自分を見ているのが猿には辛くてならなかった。さていよいよ有罪ときまったので、刑の執行をする事になった。どんな刑罰に処せられるかと云うことは最初から分かっていた。
「とうとう銃殺か、ジョッコオ奴《め》。可哀そうに。」誰やらがこう云った。
窃盗をしたからには、銃殺せられるのは当前《あたりまえ》である。しかし刑の執行は真似だけにして置こうと議決せられた。金剛石の持主は赦免の請求をしたが、この請求は銃口を猿に向けた上で採用するがよかろうと云うことになった。
この銃殺の真似を水兵共は楽しみにして待った。毎日同じようにしなくてはならぬ操練に飽きているので、こんなことも楽しみになるのである。いよいよその日の朝になって、猿はブリッジへ連れて行かれた。そして銃を持った水兵等の自分の方へ向いて来るのを見ていた。士官一同、乗組水兵の全部が集っている。
ふびんな猿は途方に暮れた目をして一人一人の顔を見た。こんなに大勢の人に見られていることは今が始めである。一人の水兵が進み出て白布で猿に目隠しをしてやった。その時猿の痩せた手足は、ぶるぶる震えた。猿は何か恐ろしい事が実行せられるのだと思った。そしてそれが自分の身の上だと云うことが分かった。猿は銃を構えた水兵等の前に直立していたが、その態度はいかにも元気が無くて気の毒に見えた。一同の目は猿に注がれている。ある人はやや感動して見ている。ある人はまた軽く微笑みながら見ている。とにかくこの場の模様は一種の陰鬱な見ものであった。
「撃て」と云う号令が掛かると、ふびんな猿の全身は電気を掛けられたように震えた。この場の危険が分かったのだろう。布で目を隠されていても、銃口を自分に向けられていることは知っていた。そこでその銃に弾薬が込めてあるかも知れぬと云うことも、本能的に分かったかも知れない。この獣も忽然「死」と云う暗黒な秘密を感じたかも知れない。
猿は両手を縛られていた縄を引きちぎった。頭の背後《うしろ》で結んである目隠しの布をかなぐり棄てた。そして銃を構えた水兵等や、それから士官等や、物見高い乗客や、判事などの群を見渡した。その目の中には恐怖と憤怒と努力との三つが電光のごとくに閃《ひらめ》いた。それから大胆に身を跳らして一人の士官の肩の上に飛び上がって、次に一人の水兵の肩に移って、非常な速度をもって舷《ふなばた》に飛び付いて、高く叫びながら海に飛び込んだ。
「やあ、海へ這入った。猿が海へ這入った。」こう云って大勢が舷へ駆け寄った。水兵の中には猿を助けに続いて海へ飛び込もうとした者もある。「ボオトを卸《おろ》せ」と云う者もあった。
この騒ぎは無駄であった。ふびんな猿は一瞬間水面を泳いで、波と戦っていたが、とうとう沈んで見えなくなった。
M提督はこの話をしてしまって云った。「言うまでもなく、それから先の航海はなんとなく物悲しかったのですよ。こんな事を言ったら、あなたは笑うでしょうが、猿が溺れてからは、艦内で笑声はしなくなりました。ちょうど親類か友達の死んだ時のように、何物を見るに付けても、ふびんなジョッコオの事が思い出されてならなかったのです。」
一疋の犬が二疋になる話 ベルジェエ
一
サンジャケエ町の午前十一時である。ボニション先生は我家の戸口まで帰って来た。しかしまだ門を開けて這入《はい》ろうとはしない。それは連れているリップが途中で大きな骨を見附けて、人道の敷石の上を引き摩《ず》っているからである。リップは真黒な、年の若い、体の敏捷《びんしよう》な犬である。
「リップ、リップ」と先生は呼んだ。
往来の人が二三人振り返って見た。リップは尻尾を振っている。
「リップ」と、先生は今度は頼むような、優しい声で繰り返した。
リップは気の毒に思ったらしい様子で、頭を上げて小走りに走って来た。骨は仰山らしく口に銜《くわ》えている。
先生は肩を聳《そびや》かした。そして戸口に這入った。どうかしてリップを門の内の近所に置いて行こうと思った。しかしリップは頭を下げて身顫《みぶる》いをして、突然主人の股の間を潜って、格子のところを走り抜けて、得意らしく中庭を小走りに通り抜けている。「まあ、家主の上《かみ》さんに見付かりもすまい」と、先生は考えて、目金を掛けて見た。幸に上さんはいつもの部屋にいない。先生は暗い梯子《はしご》を登って行く。一歩先立って、犬の首に下げた鈴が鳴って行く。
聞き覚えた声がすると思って、先生は足の速度を緩めて、上の方を見て、とうとう立ち留まった。家主の上さんが箒《ほうき》を振り上げて、遠方から犬を威している。リップは三つ目の梯子段の広いところに、腹這いになって、前足の間に骨を挟んで、折々吠えながら、熱心に噛《かじ》っている。
先生は一段降りた。四つ目の戸が開いた。そして「リップ」と叱る声がする。リップは骨を捨てて、身を縮めて、影のようになって、半分開いた戸の隙を潜って、どこかへ隠れ込んでしまった。
二
先生は何食わぬげに微笑を湛えた、優しい顔をして、苦々しい顔の上さんに挨拶をした。我家の戸口のベルを鳴らした。御新造《ごしんぞ》が自分で開けた。
「今帰ったよ」と、先生は息を切らしながら云った。
御新造はなんにも言わずに、くるりと背中を向けた。先生ぎょっとした。部屋に這入って新聞を読み始めた。生憎《あいにく》今日は新聞になんにも出ていない。先生は聞き耳を立てている。幸に台所でリップが吠えてはいない。この塩梅《あんばい》ならいいと思った。事によったら、妻君一件も無事に済むかも知れないのである。
食事の時刻になる。食卓に就く。リップは壁に沿うて、そっと這入って来た。リップは良心に責められているという様子で、控え目に、行儀よくしている。前足を卓の縁に掛けるような事はしない。先生の垂れている手に鼻を追っ付けるばかりである。
「わたし決心しましたわ」と、御新造は云った。
先生はびっくりしてほとんど口に入れたものを間違ったところへ呑み込むところであった。
「どう決心したんだい。」
御新造は優しく微笑んだ。「どうぞね、この犬がまたと再びわたしの目に掛からないようにして下さい。もう家主のお上さんの小言にも聞き厭《あ》きました。こんな事にならないうちにと思って、わたしがたびたびそう言ったのですがね。」
先生は一家の平和を愛せないわけではない。しかしこうなって来ると、弁明せざることを得ないのである。
「まあ落ち付いて相談をしなくちゃあね。」これは先生の口癖である。しかしこういって円く納まった事は少い。「この犬をおれがどうすればいいというのだい。」
「売っておしまいなさい。」
「なに売るのだと。」
「そうですね。売ろうと云っても、買手がないでしょうよ。買手がなければ、殺させるより外、しかたがないでしょう。」
「それだけは御免だ。」
「そんならあなた、どこかへ連れて行って巻いておしまいなさいな。そんな風にして風来犬にしてしまう人は世間に幾らもあるのです。そんな人があればこそ、あなたのような方があって、それを連れてお帰りなさるのですわ。去年あいつを連れていらっしゃったのもそうでしたわ。」
三
二時が打つ。先生は帽を被って、小声でリップを呼んだ。そっと出て行こうとするのである。
部屋の戸口に御新造が現れた。「もうどうしても連れて帰らないで下さいよ。」
先生は顔を優しくして一歩近づいた。「まあ、落ち着いて相談をしなくちゃあ。」
相談は一人でしなくてはならないことになった。なぜというに、御新造はついと戸口を這入って、先生の鼻の前《さき》で戸を締めた。
先生はがっかりして出掛けた。
リップは機嫌好く、飛ぶように、ほとんど翻筋斗《とんぼがえり》をするようにして梯子《はしご》を降りる。
先生は欄干に手を掛けながら降りて行く。
中庭に家主の上さんがいて、通りすがりに、何やら口の中で言う。それが「畜生、きたない事ってない」などというように聞える。
先生は、はっと思って顔を赤くした。
リップはきたないどぶに顔を衝っ込んで、目をぎょろぎょろさせながら、水をぐいぐい呑む。
先生は辛抱強く立ち留まって待っていて、それから呼んでみる。なかなか来ないので、とうとう口笛を吹く。リップは突然飛んで来てじゃれて、先生のジャケツを上から下までどぶ泥だらけにする。
先生もこれはひどいと思ったが、しかたがないので、立ち留まってジャケツを拭いた。ほんに四ヶ月間にこの動物がおれにどれだけの迷惑を掛けたか知れない。妻はお蔭で神経質になり切ってしまった。何事をも素直に聞いてくれないような性質になってしまった。家主の上さんも昔はおれに敬意を表していたのに、今では手紙が来ても、すぐには持って来てくれない。こいつは猟犬にもならないと見える。七月十四日に射撃の音がした時、おれの寝台《ねだい》の下へ潜り込んだっけ。番犬に育てようと思ったって、吠えればすぐに妻が打つから、それも駄目だ。きたない事をする癖がある。そうぞうしい。食い意地が張っている。
先生はこんな事を思いながら、夢のようにブウルワア・サンミシェルを下だって行く。それでも先に立って歩いたり、立ちとまったり、あと戻りをしたり、突然往来の人の股を潜ったりするリップを、先生は優しい目で見やっている。先生もどうにか決心しなくてはならないと思った。さて正直にこの問題を講究してみて、ひどく可哀そうになるので、自分が余りサンチマンタルなのを不愉快に思った。「どうもおれは元からサンチマンタルで困る。だから妻がおれを馬鹿だと思ってならない。事によると、外の人もそう思っているかも知れない。おれも大分年を取ったから、どうにかしてこの性癖に打ち勝って、おれの意志の強いところを見せてやりたいものだ。」
先生は犬を連れてトユイルリイに近づいた。額に皺《しわ》を寄せて、唇を噛んで、溜息を衝《つ》いて、決心をしようとおもっている。そう思いながらリップを呼ぶと、リップは飛んで来た。先生は身を屈めて、犬の首輪を外して、これが別れだと思って、犬の耳に接吻すると、犬がお礼に先生の鼻を嘗《な》めた。
先生は決心して、足踏みをして、公園に這入った。さて手近な、ろは台に腰を掛けて、新聞を出して拡げた。
リップは先生の前に腰を据えて、目を光らして先生の顔を見ている。そしてこう思うのである。綱もはずされる。首輪もはずされる。どうしたのだろう。これが自由というものか知らん。おれはもう主人持ちではない。この天国の自主自由の犬になったらしい。先生は新聞ばかり見ていて小言一つ言わない。「こら」などとは呼び掛けない。やれやれ。難有《ありがた》いことだ。リップはこう思って、嬉しくてたまらないので、草原へ飛び込んでごろごろ体をころがしたり、尻尾を軸にしてくるくる廻りをしたりする。それから雀を見付けて追っ掛ける。花壇を踏み荒らす。通りかかった年寄りの貴夫人に吠え付いて、貴夫人の綱を付けて連れていた小犬を転ばしてしまう。大いに安寧秩序を妨害しているのである。果して勲章を付けた番人が二人駈け寄って来て、何かせわしげに話し合って、手真似をしている。
先生は顔を真蒼《まつさお》にして、そっと立ち退いて、公園を出て、方角構わずに電車に飛び乗った。
電車はサンラザル停車場で留まった。ここで降りて内へ帰らなくてはならないのである。
賑やかな町を、先生はゆっくり歩いて行く。気分は沈んで、メランコリックになっている。なんだか物足りない。いや、犬足りない。賑やかな中にいるのに、なんという寂しい事だろう。ふいと我知らず口笛を吹いて、何か捜して、はっと気が付く。無智な彼を連れて、保護してやるという、嬉しい人情を味うことがもう出来ない。余所《よそ》の人は綱を付けた犬を連れて、目の前を通る。先生の胸の底には良心の呵責が萌《きざ》す。
こんな風にぼんやり考えながら歩いていて、ふいと気が付くと、またトュイルリイの公園の前に出ていた。偶然来たのだろうか。そうではない。あの停車場から内へ帰るには、ここを通り過ぎるのはあたりまえである。とは云うものの、犯罪をしたものは、秘密の威力に支配せられて、犯罪の場所に立ち帰るということである。先生は沈鬱した気分をして、公園の格子に沿うて歩いている。何か希望が頭を擡《もた》げて来るらしい。
先生は突然足をとめて、向うを凝視した。劇《はげ》しく胸が跳った。あの人立ちはなんだろう。大勢の子供がたかって、肘で衝っ付き合って、何を見ているのだろう。あの太った、赤ら顔の、厳しい番人が、縄を付けて牽《ひ》いて行くのはなんだろう。先生は目がくらんで、傍の木に倚《よ》りかかった。
牽かれて行くのはリップである。泥だらけになって、元気無く、心配気な顔をしている。歩くまいとするので、縄が首に食い込んで、創だらけになった前足で地を摩《す》って行く。しかし法の守護者はこの場合での強者である。番人は格子のところへ引き寄せて、綱を一本の柱に繋いだ。
子供等は声を上げて喜んでいる。
「立ち留まって、交通の邪魔をしてはいかん」と、番人は厳重に申し渡した。
リップが縛り付けられる前に、今一疋の犬が隣に縛り付けられていた。小さい、白い尨犬《むくいぬ》である。長い毛をして、無邪気な顔をして、沙《すな》の上に腹這って、体に日光を浴びて、夢を見るような様子をしている。
リップが行って尨犬を嗅ぐと、尨犬は目を少し開いて見て、立ち上がった。そして伸びをした。それから遠慮らしくリップを嗅いでみて、しまいにはこわごわ眺めている。
尨犬と違って、リップはなかなか運命に安住しない。腰を据えて顔を上げて吠える。無辜《むこ》の訴えを天に向って鳴らしているのである。
先生はもう我慢が出来ない。二足ほど進んで口笛を吹いた。
番人は少し離れていたが、犬の鼻を鳴らす声を聞いて振り向いた。リップは立ち上がって、喘《あえ》いで、舌を長く出して、目を飛び出させて、足踏みをして、うなって綱を引くので、息が留まりそうになっている。
先生は出来る事なら逃げたいとは思いながら、足はリップの方へ寄って行く。
番人はそれと悟って、額に皺を寄せて、先生の方へ歩み寄った。
「あなたの犬ですか。」
「ええ、リップという飼犬です。」
「首輪はどうなさったのです。」
先生は顔を赤くして、ポッケットから首輪を出した。
番人の方ではポッケットから手帳を出した。
「どうもそういう事をなさっては、職務上お見逃し申すことが出来ません。御姓名は、御住所は。」
先生随分厭な目に逢ったが、そんな事は構わない。とにかくリップが大喜びで、縄をほどかれて、跳ね廻って、吠えて、近所の雀を驚かしているのが嬉しい。
「これで製革所へやるのが一疋になりました」と、番人は言い足した。
「製革所へやるのでしたか」と云いながら、先生の胸には善行をした快さが漲《みなぎ》った。
先生は一礼して、その場を立ち去ろうとした。リップはもう遠くに走って行って、振り返って待っている。しかし先生はあと戻りをしなくてはならなかった。それは左の手の甲に温い息の触れるのを感じたからである。
長いちぢれた毛の、白い、小さい尨犬が、さも赤心を人の腹中に置くというような表情をして、遠慮深く、優しく、頼むように、大きい、緑色な、無邪気な目をして、先生の顔を見て、背伸びをして、赤い舌で先生の手を嘗《な》めるのである。
先生は感動した。
番人が厳《いかめ》しい歩き付きをして立ち去ろうとするのを、先生は追い掛けた。
「一寸お待ち下さい。この小さい白犬もわたくしのです。」こう云って先生は少し顔を赤くした。
聖ニコラウスの夜 ルモニエ
テルモンド市の傍を流れるエスコオ河に、幾つも繋《つな》いである舟の中に、ヘンドリック・シッペの持舟で、グルデンフィッシュと云うのがある。舳《へさき》に金色に光っている魚の標識《しるし》が附いているからの名である。シッペの持舟にこれほどの舟が無いばかりでは無い、テルモンド市のあらゆる舟の中でも、これほど立派で丈夫な舟は無い。この大きい、茶色の腹に、穀物や材木や藁《わら》や食料を一ぱい積んで、漆塗りの黒い煙突から渦巻いた煙を帽の上の鳥毛のように立たせて走るのを見ると、誰でも目を悦《よろこ》ばせずにはいられない。
今宵《こよい》は外の舟と同じように、グルデンフィッシュも休んでいる。太い綱で繋がれている。午後七時には、もう舟の中が暗くなったが、横腹に開いている円い窓からは、魚の目のように光る灯がさす。これはブリッジの下の小部屋で、これから聖ニコラウスを祭ろうとしているからである。壁に取り附けてある真鍮の燭台には、二本の魚蝋が燃えている。鉄の炉は河水が堰を衝《つ》いて出る時のような音を立てている。
ネルラ婆《ば》あさんが戸を開けて這入って来た。そのあとから亭主のトビアス・イエッフェルスが這入った。これが持主シッペから舟を預けられている爺《じ》いさんである。
部屋の中から若々しい女の声がした。「おっ母さん。わたしあの黒い川面《かわつら》に舟の窓の明りが一つ一つ殖《ふ》えるのを見ていますの。」
「そうかい。だがね、お前、窓に明りが附くのを、そんなにして長い間見ているのではないだろう。ドルフが帰るのを待っているのだろう。」
「おっ母さんよく中《あた》りますことね。」こう云って若い女は窓の下から炉の傍へ歩み寄って、腰を卸《おろ》しながら、持っていた小さい鍼《はり》を帽子に挿した。
「それは、お前、おっ母さんでなくって、誰が御亭主の事を思っている若いお上さんの胸が分かるものかね。」
こう云いながら、婆あさんは炉の蓋を開けて、鍋を掛けた。炉はそれが嬉しいと見えて、ゆうべ市長さんの代替《かわり》の祝に打った大砲のような音をさせている。それから婆あさんは指を唾《つばき》で濡《ぬ》らして、蝋燭の心を切った。
部屋は小さい。穹窿《きゆうりゆう》の形になった天井と、桶《おけ》の胴のように木を並べて拵《こしら》えた壁とを見れば、部屋は半分に割った桶のようだと云ってもよい。壁はどこも児《テエル》に包まれて、殊に炉に近い処は黒檀のように光っている。卓が一つ、椅子が二つある。寝台の代りになる長持のような行李がある。板を二枚中為切《なかしきり》にした白木の箱がある。箱に入れてあるのは男女の衣類で、どれも魚の臭がする。片隅には天井から網が吊《つ》ってある。その傍には児を塗った雨外套、為事着、長靴、水を透さない鞣革《なめしかわ》の帽子、羊皮の大手袋などが吊ってある。マドンナの画額の上の輪飾になっているのは玉葱である。懸時計の下に掛けてあるのは、腮《あご》を貫き通した二十匹ばかりの鯡《にしん》で、腹が銅《あかがね》色に光っている。
この一切の景物は皆黄いろい蝋燭の火で照し出されている。大きい影を天井に印している蝋燭の火である。しかしこんな物よりは若いよめのリイケの方がよほど目を悦ばせる。広い肩、円い項《うなじ》、丈夫な手、ふっくりして日に焼けた頬、天鵝絨《びろうど》のように柔い目、きっと結んだ、薄くない脣《くちびる》、それに背後で六遍巻いてある、濃い、黒い髪。どこを見ても目を悦ばせるには十分である。しかしこの女の表情は亭主のドルフが傍にいる時と、いない時とで違う。いない時は、やさしく、はにかんでいるかと思うと、なぜと云うこともなくたびたび陰気な物案じに陥いる。ドルフが出てさえ来れば、情のある口の両脇に二本の《ひだ》が出来て、上脣を上へ吊り上げる。そして水を離れて日に照された櫂《かい》のように光る白歯が見える。哀しい追憶を隠す、重い帷《たれぬの》が開くように、眉の間の皺が展《の》びる。水から引き上げた網の所々《しよしよ》に白魚が光っているように、肌の隅々から、喜びが赫《かがや》き出す。そんな時には、リイケはドルフの目をじっと見て、手を拍《う》って笑うのである。
今のところではこの女の両方の頬が、炉の隙間を漏る火の光で、干鮭《ほしさけ》の切身のように染まっている。そして手為事《てしごと》を見詰めている、黒い目が灰の間から赫《かがや》く炭火のように光っている。しかし光っているのはそればかりでは無い。耳輪の金と約束の指輪の銀とも光るのである。
姑《しゆうとめ》は折々気を附ける。「お前らくにしておいでかい。足が冷えはしないかい。」穿《は》いているのは、藁を内側に附けた木沓《きぐつ》である。
「おっ母さん。難有《ありがと》うよ。わたくしこれでお妃様のような心持でいますの。」
「なんだって。あのお妃様のようだって。まあ、お待ちよ。今にわたしが林檎を入れたお菓子を焼いて食べさせて上げるからね。その時どんなにおいしいか、どんなにいい心持がするか、その時そう云ってお聞かせ。おや。ドルフが桟橋を渡って来るようだよ。粉と、玉子と、牛乳とを買って来てくれるはずなのだよ。」
がっしりした体の男が、この部屋の赤みがかった薄暗がりの中へ這入って来た。物を打ち明けたような、笑《え》ましげな顔をしている。頭はほとんど天井に届きそうである。「おっ母さん、唯今。」
男は帽子を部屋の隅に投げやって、所々の隠しの中から、細心に注意して種々の物を取り出して、それを卓の上に並べている。
やっと並べてしまうと、母が云った。「ドルフや。牛乳を忘れやしないかと思ったが、やっぱり忘れたね。」
ドルフは首を肩の間へ引っ込ませて、口を開いて、上下の歯の間から舌の尖《さき》を見せて、さも当惑したらしい様子をした。また桟橋を渡って買いに往かなくてはならぬかと云う当惑である。しかしこれと同時に、ドルフはそっとリイケに目食わせをした。これは笑談《じようだん》だと云う知らせの目食わせである。
母はそれには気が附かずに、右の拳で左の掌を打って云った。「ドルフや。牛乳なしではどうにもしようがないね。わたしが町まで往かなくてはなるまいね。ほんに、お前のような大男を子に持っていて、これでは。」
「まあ、お待ちなさいよ。今わたしがリイケの椅子の下から、魔法で牛乳を出したらどうでしょう。おっ母さん、キスをして下さいますか。さあ、どうです。早くきめて下さい。一つ二つ。」
母はよめに言った。「どれ、立って御覧。でないと、お前の御亭主にキスをしてやっていいか、どうだか、分からないから。」
ドルフはリイケの椅子の下にしゃがんだ。そして長い間何やら捜す真似をしていた。それからやっと手柄顔に牛乳の缶を取り出して、左の拳で腰の脇を押さえながら云った。「さあ。誰がキスをして貰うのです。ええ、おっ母さん。」
母は云った。「ドルフや、やっぱりわたしよりリイケにキスをするがいいよ。蠅《はえ》は蜜を好くものだからね。」
ドルフは摩足《すりあし》をして、左の手で胸を押さえて、リイケに礼をした。これは上流の人の貴婦人にする礼の真似である。そして云った。「もし。あなたのようなお美しい方にキスをいたしてもよろしゅうございましょうか。」こう云ったかと思うと、ドルフは女房の返事を待たずに、両腋に手を挿し込んで、抱いて椅子から起たせた。そして項《うなじ》にキスをした。
リイケはそれでは不承知と見えて、振り向いて脣と脣とを合せた。
ドルフは云った。「ああ、旨かった。ミルクで煮たお米のようだった。」
この時これまで黙っていた爺いさんのトビアスが婆あさんに言った。「おい。おれ達も若い者の真似をしようじゃないか。おれはこいつ等が中のよいのを見るのが嬉しくてならん。」
「ええええ、わたし達もちょうどあの通りでしたわねえ。」
トビアスは婆あさんの頬にキスをした。婆あさんが返報に爺いさんにキスを二度してやった。まるで真木《まき》を割るような音がしたのである。
ドルフが云った。「リイケや。こっちとらもいつまでも中よくしようぜ。」
「わたしあなたと中が悪くなるほどなら、死んでしまうわ。」
「そうか。おれはお前より二つ年上だ。お前が十になった時、おれは十二だったが、今思ってみれば、おれはもうあの時からお前が好きだった。それは今とは心持は違うが。」
「あら。それはよして下さいな。わたしとあなたとの識合《しりあい》になったのは、五月からの事にして下さらなくては厭。それより前の事は、どうぞ言わないで下さいね。どうぞ五月より前の事は言わないとそう云って頂戴ね。でないと、わたし恥かしくって、あなたと中よくすることが出来ませんから。」こう云って、リイケは夫の胸に縋《すが》った。そのとたんにリイケが少し身を反らせたので、産月《うみづき》になった女だと云うことが知れた。
「さあさあ、これからお菓子を拵《こしら》えるのだ。」婆あさんは先に立って、ドルフの買って来た物を蒸鍋に入れて、杓子《しやくし》で掻き交ぜはじめた。袖を高くたくし上げて、茶色の腕を出して、甲斐《かい》甲斐しく交ぜるのである。交ぜてしまうと、蒸鍋を竈《かまど》の傍に据えて、上に切れを掛けて置く。爺いさんは焼鍋を出して、玉葱でこすって、ちょっと火に掛けて温める。ドルフとリイケとは林檎を剥いて、心《しん》を除《の》けて輪切にしている。
この時婆あさんが今一つの蒸鍋を出して、水に、粉に、チミアンに、ロオレルとその中へ入れていたが、最後に何やらこっそり出して、人に隠すように入れて、急いで蓋をして、火に掛けた。
ドルフは何を入れたのか見えなかったので、第二の蒸鍋の蓋が躍って、茶色の蒸気が立ち出すや否や、鼻を鍋の方へ向けて、胡桃《くるみ》が這入るほど鼻の孔を大きくして嗅いでいた。しかしどうも分からなかった。そのうち母親が蓋を取って見そうにするので、ドルフは足を翹《つまだ》てて背後《うしろ》へ窺い寄った。屈んだり、伸び上がったり、わざと可笑《おか》しい風をして近寄ったのである。リイケは横目でそれを見ながら、平手で口を押さえて、笑声を漏さぬようにしている。ドルフはようよう母親の背後《うしろ》に来て、「わあっ」と声を出しながら、鍋を覗いた。しかしネルラは息子の来るのを知っていたので、すぐに蓋をして、振り返って腰を屈めて礼をした。
ドルフは笑って云った。「おっ母さん、駄目駄目。わたしはちゃあんと見ました。シッペの檀那《だんな》のとこの古猫を掴まえて、魚蝋の蝋で煮ているのでしょう。」
「そうだとも。今にあっちの焼鍋の方では、鼠を焼いて食べさせます。もうわたしに構わないで食卓を拵えておくれ。」
ドルフはこそこそ部屋に附いている板囲いの中へ逃げ込んだ。そして糊の附いた上シャツを上衣の上へはおって、シャツの裾を振り廻しながら出て来た。母親はふいと振り向いて見て、腰に両手を支えて笑っていたが、目からは涙が出て来た。リイケは一しょに笑いながら手を拍った。親爺《おやじ》は独り笑わずにいたが、つと立って棚から皿を卸《おろ》して、白いシャツで拭き出した。ネルラ婆あさんはとうとう椅子の上に腰を卸して、苦しくなるまで笑った。
食卓は出来た。水に映った月のように皿が光る。錫《すず》のフォオクが本銀のように赫《かがや》く。
婆あさんが最後に蓋を切って味を見て、それから杓子をれいの杖のように竪《た》てて、「さあ、皆おかけ、御馳走が始まるよ」といった。
ドルフとリイケとは行李を引き寄せて腰を掛ける。爺いさんは自分が一つの椅子に掛けて、今一つのを傍へ引き寄せて、それにネルラを掛けさせる。
婆あさんが卓の上へ、秘密の第二の蒸鍋を運ぶ。白い蒸気がむらむらと立って、日の当たる雪の消えるような音がする。
「シッペさんとこの猫です。わたしにはすぐ分かった。」ドルフは母親が蓋をあける時こう云った。
皆が皿を出す。婆あさんが盛る。ドルフは自分の皿を手元へ引いて、丁寧に嗅いでみて、突然拳で卓を打った。「や。リイケ、どうだい。すてきだ。臓物だぜ。」秘密は牛の心臓、肝臓、肺臓なんぞを交煮《まぜに》にしたフランデレン料理であった。
爺いさんが云った。「王様は臓物を葡萄酒のソオスで召し上がるそうだが、ネルラが水で煮るとそれよりも旨い。」
食べてしまうと、婆あさんが立って、焼鍋を竈に掛けて、真木《まき》をくべて火を掻き起して、第一の蒸鍋の上の切れを取った。菓子種はふっくりと溲起《しゆうき》している。すくって杓子を持ち上げると、長く縷《る》を引く。それを焼鍋の上に落して、しゅうと云わせて焼くのである。
「早く皿をお出し」と云うと、ドルフが出す。金色《きんしよく》をして、軟く脆《もろ》い、出来立ての菓子が皿に乗る。「まずお父うさんに」と云って出すと、トビアスが「いやリイケ食べろ」と云う。とうとうリイケが二つに割って、ドルフと一切ずつ食べた。次にトビアスの皿へは大きいのが乗る。トビアスは云った。「桟橋から水に映ったお天道様を見るように光るぜ。」
菓子種は小川のように焼鍋の上に流れる。バタが歌う。火がつぶやく。そして誰の皿の上にも釣り上げられた魚のように、焼立ての菓子が落ちて来る。婆あさんは出来損ったのを二つ取って置いて、それを皿に載せて、爺いさんの傍に腰を卸して食べた。
ドルフが起って、今日菓子屋が店に出しているような人形の形をした菓子を焼こうとする。最初に出来たのを、リイケの皿に取ってやると、まだ熟《よ》く焼けていなかったので、はじけて形がめちゃめちゃになる。それから何遍も焼いてみるうちに、とうとう手足のある人形らしい物になったので、林檎を顔にして、やっと満足した。
トビアスはドルフに言い附けて、部屋の隅の木屑の底から、オランダ土産の葡萄酒を出させて自分と倅《せがれ》との杯に注ぐ。二人は利酒《ききざけ》の上手らしく首を掉《ふ》って味ってみる。
「リイケや。もう二年立ってこの祭が来ると、あそこの烟突《えんとつ》の附根の下に小さい木沓《きぐつ》があるのだ。」こう云ったのはトビアスである。
「そうなると愉快だろうなあ」と、ドルフが云った。
リイケの目の中には涙が光っている。その目でドルフの顔を見てささやいた。「ほんとにあなたはいい人ねえ。」
ドルフはリイケの傍へ摩《す》り寄って、臂《ひじ》をリイケの腋に廻した。「なに、おれはいい人でも悪い人でも無い。ただお前を心から可哀く思っているだけさ。」
リイケも臂をドルフの腋に絡んだ。「わたし、本当にこれまで出逢った事を考えてみると、どうして生きていられるのだろうと、そう思うの。」
「過ぎ去った事は過ぎ去ったのだ」と、ドルフは慰めた。
「でも折々はわたし早く天に往って、聖母様にあなたのわたしにして下すった事を申し上げた方がいいかと思うの。」
「おい。お前が陰気になると、おれも陰気になってしまう。今夜のような晩には、御免だぜ。」
「あら。わたしちょいとでもあなたのお心持を悪くしたくはないわ。そんな事をするほどなら、わたしの心の臓の血を上げた方がいいわ。」
「そんならその綺麗な歯を見せて笑ってくれ。」
「わたしなんでもあなたの云うようにしてよ。わたしの喜びだの悲しみだのと云うものは、皆あなたの物なのだから。」
「それでいい。おれもお前のためにいろんなものになってやる。お前のお父っさん、お前の亭主、それからお前の子供だ。そうだろう。少しはお前の子供のようなところもあるぜ。今に子供が二人になるのだ。」
リイケは両手でドルフの頭を挟んで、両方の頬にキスをした。ちょうど甘《うま》い物を味いながらゆっくり啜《すす》るようなキスであった。「ねえ、あなた。生れたら、やっぱり可哀がって下さるでしょうか。」
ドルフは誓いの手を高く上げた。「天道様が証人だ。おれの血を分けた子のように可哀がってやる。」
炉の火が音を立てて燃える。短くなった蝋燭がぷつぷつ云いながら焔をゆらめかす。今度はネルラ婆あさんが心を切ることを忘れていたので、燃えさしが玉のように丸くなって、どろどろした、黄いろい燭涙が長く垂れた。トビアスの赤くなった頭が暗い板壁をフォンにしてかっきりと画かれている。その傍にはネルラが動かずに、明りを背にしてすわっている。たまに頭を動かすと、明るい反射が額を照すのである。
「おや、リイケどうした」と、突然ドルフが叫んだ。リイケが蒼くなって目を瞑《つぶ》ったのである。
「あの、きょうなのかも知れません。午《ひる》過ぎから少し気分が悪かったのですが、なんだか急にひどく悪くなって来ました。あの、子供ですが、もしわたしが助からないような事があっても、どうぞ可哀がってやって。」
「おっ母さん。どうも胸が裂けるようで」と、云った切り、ドルフは涙を出して溜息をしている。
トビアスは倅の肩を敲《たた》いた。「しっかりしろ。誰でもこう云う時も通らんではならぬのだ。」
ネルラは涙ぐんでリイケに言った。「リイケや。おめでたい事なのだから、我慢おしよ。貧乏に暮しているものは、お金持より、子供の出来るのが嬉しいのだよ。それに復活祭やニコラウス様の日に生れるのは、別段に難有いのだからね。」
トビアスが云った。「おい。ドルフ、お前の方がおれよりは足が達者だ。プッゼル婆あさんの所へ走って往ってくれ。留守の間はおれ達がリイケの介抱をしてやるから。」
ドルフはリイケの体を抱いて暇を告げた。桟橋が急いで行く足の下にゆらめいた。
「もう往っちまやあがった」と、トビアスが云った。
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夜が大鳥の翼のように市を掩《おお》っている。この二三日雪が降っていたので、地面の蒼ざめた顔が死人の顔のように、ドルフに見えた。ちょうど干潟を遠く出過ぎていた男が、潮の満ちて来るのを見て急いで岸の方へ走るように、ドルフは岸に沿うて足の力の及ぶ限り走っている。それでも心臓の鼓動の早さには、足の運びがなかなか及ばない。遠い所の瓦斯《ガス》の街灯の並んでいるのを霧に透して見れば、蝋燭を持った葬いの行列のようである。どうしてそう思われるのだか、ドルフ自身にも分からない。しかしなんだかあの光の群の背後《うしろ》に「死」が覗《ねら》っているようで、ドルフはぞっとした。ふと気が附くと、忍びやかに、足音を立てぬように、自分の傍を通り過ぎる、ぎごちない、沈黙の人影がある。「あれは人の末期《まつご》に暇乞《いとまごい》をしに、呼ばれて往くのじゃあるまいか」と、ドルフは思った。しかし間もなく気が附いて思った。この土地ではニコラウスの夜に、子供が小さい驢馬《ろば》を拵《こしら》えて、それに秣《まぐさ》だと云って枯草や胡蘿蔔《にんじん》を添えて、炉の下に置くことになっている。金のある家では、その枯草や胡蘿蔔の代りに、人形や、口で吹くハルモニカや、おもちゃの胡弓や、舟底の台に載せた馬なんぞを、菓子で拵えたのを買うのである。
「あの影はそれを買いに往く父親《てておや》や母親だろう」と思ったので、ドルフは重荷を卸したような気がして、太い息を衝いた。
それでも霧の中の瓦斯《ガス》灯《とう》が葬いの行列の蝋燭のように見えることは、前の通りである。その上その火が動き出す。波止場の方で、集まったり、散ったり、往き違ったり、入り乱れたりする。まるで大きい蛾が飛んでいるようである。「どうもおれは気が変になったのじゃないか知らん。あの蛾《ちようちよ》は、あれはおれの頭にいるのだろう」と、ドルフは思った。
たちまち人声が耳に入った。岸近く飛びかうのは松明《たいまつ》である。その赤い焔を風が赤旗のようにゆるがせている。ちらつく火影にすかして、ドルフが岸を見ると、大勢の人が慌だしげな様子をして岸に立って何かの合図をしている。中には真っ黒に流れている河水を、俯《ふ》して見ているものもある。街灯は動きはしなかったが、人の馳せ違うのと、松明《たいまつ》が入り乱れて見えるのとで、街灯も動くように見えたのだと、ドルフは悟った。
たちまち叫んだものがある。「ドルフ・イエッフェルスを呼んで来い。あいつでなくてはこの為事《しごと》は所詮出来ない。」
「ちょうどいい。ドルフが来た。」じき傍で一人の若者がこう云った。
ドルフはこの時やっと集まっている人達を見定めることが出来た。皆友達である。船頭仲間である。劇《はげし》く手真似をして叫びかわす群がたちまちドルフの周囲《まわり》へ寄って来た。中に干魚《ひもの》のような皺の寄った爺いさんがいて、ドルフの肩に手を置いた。「ドルフ。一人沈みそうになっているのだ。頼む。早く着物を脱いでくれ。」
ドルフは俯して暗い水を見た。岸辺の松明を見た。仰いで頭の上にかぶさりかかっている黒い夜を見た。それから周囲《まわり》に集まって居る友達を見た。「済まないが、きょうはこらえてくれ。女房のリイケが産をしかけている。生憎おれの命がおれの物でなくなっている。」
「そう云うな。おぬしの外には頼む人が無い。」こう云いさして爺いさんは水の滴《したた》る自分の着物を指さした。「おれも子供が三人ある。それでももう二度潜ってみた。どうもおれの手にはおえねえ。」
ドルフは周囲の友達をずらっと見廻した。「いく地がないなあ。一人も助けにはいるものはないのかい。」
爺いさんがまたドルフに薄《せま》った。「ドルフ。お主がはいらんと云えば、死ぬるまでだ、おれがもう一遍はいる。」
川へ松明を向けている人達が叫んだ。「や。またあそこに浮いた。手足が見えた。早くしなくちゃ。」
ドルフはいきなり上着をかなぐり棄てた。「よし。おれがはいる。その代り誰か一人急いでプッゼル婆あさんの所へ往って、グルデンフィッシュの桟橋まであれを案内してくれ。」それから空中に十字を切って、歯の間で唱えた。「人間のために十字架に死なれた主よ。どうぞ憐れみをお垂れ下さい。」
ドルフは裸で岸に向って駆け出した。群集はあぶなさに息をつめている。ドルフは瞳を定めて河を見卸した。松明が血を滴らせている陰険な急流である。その時ドルフは「死」と目を見合せたような気がした。渦巻き泡立っている水は、譬《たと》えば大きな鮫《さめ》が尾で鞭打っているようである。
「それまた浮いた」と人々が叫んだ。
「リイケ。勘弁してくれ。」どん底がさっと裂けた。流れは牢獄の扉のように、ドルフの背の上に鎖《とざ》された。
群集の中から三人の男が影のように舟にすべり込んで纜《ともづな》を解いた。しずかに艫《ろ》を操って、松明の火を波に障るように低く持って漕いでいる。
能《よ》く人を殺すエスコオ川は、永遠なる「時」の瀬のごとくに、滔々《とうとう》として流れている。
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ドルフは水面に二度浮かんで、二度ともまた潜った。夜の不慥《ふたしか》な影の中に、ドルフの腕が動き、その顔が蒼ざめているのが見えた。
ドルフは氷のような水層を蹴って、河のどん底まで沈んで行ったのである。たちまち水に住む霊怪の陰険な係蹄《わな》に掛かったかと思うように、ドルフは両脚の自由を礙《さまた》げられた。溺死しかかっている男が両脚に抱き附いたのである。これを振り放さなくては、自分もその男も助からないことが、ドルフに分かった。両脚は締金で締められたようになっている。二人の間には激しい格闘が始まった。そして二つの体は次第に河床の泥に埋まって行く。死を争う怨敵のように、二人は打ち合い咬《か》み合い、引っ掻き合って、膚《はだえ》を破り血を流す。とうとうドルフが上になった。絡み附いていた男の手が弛んだ。そして活動の力を失った体が、ドルフの傍を水のまにまに漂うことになった。ドルフもがっかりした。そして危険な弛緩状態に襲われた。頭が覚えず前屈みになって、水がごぼごぼと口に流れ込むのである。
この時ドルフの目に水を穿《うが》って来る松明の光が映った。ドルフは最後の努力をして、自分がやっと貪婪《どんらん》な鮫の《あぎと》から奪い返した獲ものを、あとの方に引き摩《ず》って浮いた。ドルフはようようの事で呼吸をすることが出来た。
岸の上の群は騒ぎ立った。「ドルフしっかりしろ」と口々に叫んだ。
数人の船頭は河原の木ぎれを拾い集めて、火を焚き附けた。焔は螺旋状によじれて、暗い空へ立ち升《のぼ》る。
「こっちへ泳ぎ附け、ドルフ、こっちだ。我慢しろ。今一息だ。」大勢の声が涌《わ》くがごとくに起った。
ドルフはようよう岸に泳ぎ附こうとしている。最後の努力をして波を凌《しの》いで、死骸のようになった男の体を前へ押しやるようにして、泳いでいる。焚火の赤い光が、燃える油を灌《そそ》ぐように、ドルフの顔と腕とを照して、傍を漂って来る男の顔にも当っている。
ドルフはふと傍を漂っている男の顔を見た。そして拳を揮《ふる》って一打打って、水の中に撞《つ》き放した。口からは劇怒の叫びが発せられた。その男はリイケを辱《はずかし》めて娠《はら》ませた男であった。ドルフは気の毒なリイケを拾い上げて、人に対し、神に対して、正当な女房にしてやったのである。
ドルフはその男を撞き放した。しかし撞き放されて、頭に波の被さって来るのを感じたその男は、再び鉄よりも堅くドルフにしがみ附いた。そして二人は恐ろしい黒い水の中に沈んで行こうとする。
ドルフの心のうちから、こう云う叫声が聞える。「死ね。ジャック・カルナワッシュ奴《め》。お主とリイケの生む子とは、同じ地を倶《とも》に踏むことの出来ない二人だ。」
しかしドルフの心のうちからは、今一つこう云う叫声が聞える。「助かれ。ジャック・カルナワッシュ奴《め》。おれにもお主の母親の頭を斧《おの》で割ることは出来ない。」
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グルデンフィッシュの舟の中では、一時間ほど待っていた婆あさんネルラが叫んだ。「おや。あれはドルフがプッゼン婆あさんを連れて帰ったのでしょうね。」
果して桟橋が二人の踏む足にゆらいだ。次いでブリッジを踏む二人の木沓の音がした。「トビアスのおじさん。ちょいと明りを見せて下さい。プッゼルおばさんが来ました。」
二本点《とも》してあった蝋燭の一本を、トビアス爺いさんは取って、風に吹き消されぬように、手の平で垣をして、戸をあけた。「こっちへ這入って下さい。どうぞこちらへ」
プッゼル婆あさんが梯《はしご》を降りる。あとからは若い男が一人附いて来る。
爺いさんが声を掛けた。「ああ。プッゼルさんですか。あなたが来て下すって、リイケは大為合《じあわ》せです。どうぞお這入り下さい。や、御前さん御苦労だったね。おや。ルカスじゃないか。」
「ええ。トビアスおじさん、今晩は。ドルフさんは途中で友達に留められなすったので、わたしが代りにプッゼルおばさんを連れて来て上げました。」
「それは御苦労だった。まあ這入って一杯呑んでから、ドルフのいる処へ帰りなさるがいい。」
ネルラ婆あさんが背後《うしろ》から出て来た。「プッゼルおばさん、今晩は。お変りはありませんか。さあ、ここに椅子があります。どうぞお掛けなすって、火におあたり下さいまし。」
背の低い、太ったプッゼル婆あさんは云った。「皆さん、今晩は。ではもうじきにグルデンフィッシュで洗礼の御馳走がありますのですね。ねえ、リイケさん、これがはじめてのですね。ネルラさんはコオフィイを一杯煮てさえ下さればいいのですよ。それからわたしに上沓《うわぐつ》をお貸しなすって。」
若い男がリイケに言った。「わたしは頼まれてプッゼルおばさんを連れて来て上げたのです。ドルフさんを途中で友達が留めて、連れて往ったものですから。なんでもあなたの苦しがっておいでのを、ドルフさんが見るのはよくないから、一杯呑ませて元気を附けて上げると云うことでした。」
「ああ。そうですか。皆さん御親切ですわねえ。わたくしもあの人が傍にいて下さらない方がかえって元気が出ますの。」リイケはこう返事をした。
トビアスは焼酎を一杯注いでルカスの前に出した。「さあ、これを呑んでおくれ。呑んでしまうと、風を孕《はら》んだ帆よりも早く、御前の脚がお前を皆の所へ持って往くからな。」
ルカスは杯を二口に乾した。最初の一口を呑む時には、「皆さんの御健康を祝します」と云った。二口目には黙っていたが、心の中でこう思った。「これはドルフの健康を祝して呑もう。だがそれは命を取られないでいた上の事だて。」呑んでしまって、ルカスは「難有《ありがと》う、さようなら」と云い棄てて帰った。
ルカスが帰ったあとで、炉の上で湯が歌を歌い出した。そして部屋一ぱいにコオフィイのいい匂いがして来た。ネルラ婆あさんがコオフィイの臼を膝頭の間に挟んで、黒いコオフィイ豆を磨りつぶしているからである。
プッゼル婆あさんは黒い大外套の襟《えり》に附いている、真鍮のホオクを脱《はず》した。そして嚢《ふくろ》の中から目金入れと編みさしの沓足袋《くつたび》とを取り出した。さて鼻柱の上に目金を載せて、編み掛けた所に編鍼を挿して、ゆたかに炉の傍に陣取った。婆あさんは編物をしながら、折々目金の縁の外から、リイケを見ている。リイケは不安らしく部屋の内を往ったり来たりして、折々我慢し兼ねてうめき声を出している。
婆あさんはそんな時往ってリイケの頬っぺたを指で敲《たた》いてやって、こんな事を言う。「しっかりしておいでよ。自分の生んだ子が産声を立てるのを聞くと云うものは、どのくらい嬉しいものだか、お前さんまだ知らないのだ。天国へ往くと、ワニイユの這入《はい》った、甘い、牛乳と卵とのあぶくを食べながら、ワイオリンの好い音を聞くのだそうだが、まあ、それと同じ心持がするのだからね。」
トビアスはいつも寝台にする、長持のような大箱を壁の傍に押しやって、自分の敷く海草を詰めた布団を二枚その上に敷いた。海草の香が部屋の内に漲《みなぎ》った。ネルラがその上に粗末な麻布の、雪のように白いのをひろげて、襞《ひだ》の少しもないように、丁寧に手の平で撫でた。オランダの鳥の毛布団のように軟く、敷心地をよくしようと思うのである。
夜なか近くなった時、プッゼル婆あさんが編物を片附けて、目金を脱《はず》して、卓の上に置いて、腕組をして、しばらく炉の火を見詰めていた。それから襁褓《むつき》の支度をした。それから六遍続けて欠伸《あくび》をして、片々の目を瞑《つぶ》って、片々の目をあけていた。
そのうちリイケが両手の指を組み合せて、叫び出した。「プッゼルおばさん。どうかして下さい。」
「それはね、おばさんもどうもして上げることは出来ません。我慢していなさらなくては。」プッゼル婆あさんはこう云った。
トビアスが傍で云った。「もう夜なかだ。料理屋にいる人達も内へ帰る時だ。」
リイケは繰り返して云った。「ああ。ドルフさん。なぜまだ帰って下さらないのだろう。」
ネルラがリイケを慰めるつもりで云った。「繋《かか》っている舟でも、河岸の家でも、もうだんだん明りを消しています。ドルフも今に帰って来ましょうよ。」
しかしドルフは容易に帰らない。
夜なかを二時過ぎた時、リイケはひどく苦しくなったので横になった。プッゼル婆あさんは椅子を寝台になっている大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思って、珠数《じゆず》を取り出した。それからまた二時間過《た》った。
「ああ。ドルフさん。わたし死にそうなのに、どこにおいでなさるのでしょう。ああ。」
トビアスは折々舟の梯《はしご》を登って、ドルフが帰って来はせぬかと見張っている。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフィッシュの窓の隙から黒い水の面に落ちている明りの外には、町じゅうに火の光が見えなくなっている。遠い礼拝堂で十五分ごとに打つ鐘が、銀の鈴のように夜の空気をゆすって、籠を飛んで出た小鳥の群のように、トビアスの耳のまわりに羽搏《はう》つ。次第にまた家々に明りが附く。水の面に小さい星のようにうつる灯火もある。そのうち冷たい、濁った、薄緑な「暁」が町の狭い巷《こうじ》を這い寄って来る。
その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。ちょうど飼場で羊の子が啼くように。
「リイケ。リイケ。」遠くからこう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリッジへ、ブリッジから小部屋へと駆け込むのは誰だろう。別人ではない。ドルフである。うつらうつらしていたリイケが目をあいて見ると、ドルフは床の前に跪《ひざまず》いていた。
トビアスは帽子を虚空に投げ上げた。ネルラは赤ん坊の口をくすぐっている。プッゼル婆あさんは膝の上に載せていた赤ん坊をよく襁褓《むつき》にくるんで、そっとドルフの手にわたした。ドルフはこわごわ赤ん坊に二三度接吻した。
ドルフは「リイケ」と呼び掛けた。リイケは両手でドルフの頭を持って微笑んだ。そして入《ねい》って、明るくなるまで醒めなかった。ドルフも跪いたまま、頭をリイケの枕が傍に押し附けて朝までいた。二人の心臓の鼓動が諧和《かいわ》するように、二人の気息も調子を合せていたのである。
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葬式の鐘が力一ぱいの響をさせている。その音がちょうど難船者の頭の上を鴎《かもめ》が啼いて通るように、空気を裂いて聞えわたる。
長い行列が寺の門の中に隠れた。寡婦の目の涙のように、黒布で包んだ贄卓《にえづくえ》の蝋燭が赫《かがや》く。
寺の石段にしゃがんでいる女乞食にドルフが問うた。「町で誰が死んだのかね。」
「お立派なお内の息子さんです。お金持の息子さんです。ジャック・カルナワッシュとおっしゃいます。どうぞお冥加に一銭戴かせて下さいまし。」
ドルフは帽を脱いで寺に這入った。そして円柱を楯にして、銀の釘を打った柩の黒いキャタファルクの下に隠れるのを見送った。
「主よ。御身の意志のままなれ。わたくしがあの男に免《ゆる》したように、御身もあの男に免し給え。」
会葬者が手向《たむけ》の行列を作った。ドルフは一人の歌童の手から、燃えている蝋燭を受け取って、人々の背後《うしろ》に附いて歩き出した。盤の四隅から焔の立ち升《のぼ》っている、高い大灯明の周囲を廻るのである。それが済むと、外の会葬男女の群を離れて、ドルフ一人は暗い片隅に跪《ひざまず》いて祈祷した。
「主よ。どうぞわたくしにもお免し下さい。わたくしはあの男を水の中から救い出しながら、妻リイケを辱めた奴だと気が附くや否や、それが厭になって、復讐をしようと思いました。わたくしはあの男を撞《つ》き放しました。わたくしはあの男に母親のあることを知っていました。母親の手に息子を返してやることが、わたくしの自由であったのに、それを撞き放しました。まだ水から引き上げない中に、撞き放しました。主よ。どうぞおゆるし下さい。もし罰を受けなくてはならない事なら、どうぞわたくし一人にそれを受けさせて下さい。」
祈祷してしまってドルフは寺を出た。そして心のうちに思った。「もうこれで世の中に、あのリイケの生んだ子をおれの子でないと云うことの出来るものは、一人もなくなった。」
河岸の方から「おい、ドルフ」と呼ぶ声がした。見ればジャックを救いに河に這入ったのを見ていた仲間達である。皆気の荒い男ではあるが、ドルフが水に潜った時は、胸が女の胸のように跳った。そしてドルフが無事で陸《おか》に上がった時、身のめぐりを囲んで、「どうもおれ達皆を一つにしても、お主《ぬし》一人ほどの値打はないなあ」と叫んだのである。仲間達は今ドルフに進み近づいて握手して云った。「おい、ドルフ。まあ、おれ達はこのまま死んでしまったところで、度胸のある男を一人は見て死ぬと云うものだなあ。」
ドルフは笑った。「いや。おれはまたこないだの晩に生れたリイケの赤ん坊の健康を祝して、お主達と一杯飲まずには、どうしても死ぬることが出来ないのだ。」
頃日《このごろ》亡くなったベルジック文壇の耆宿《きしゆく》カミイユ・ルモニエの小説を訳したのは、これが始めではあるまいか。あるいはこの前にあるかも知れぬが、おれは見ない。バルザック、フロオベル、ゾラと数えて来ると、ルモニエの名は自然に脣に上る。それが冷遇せられて、ちょうどフランスのモオパッサンなどと同じように、ベルジックでマアテルリンクだけが喧伝せられているのは遺憾である。この訳文にはすこぶる大胆な試みがしてある。傍看者から云ったら、乱暴な事かも知れない。それは訳文が一字脱けた、一行脱けたと細かに穿鑿《せんさく》する世の中に、ここではあるいは十行、あるいは二三十行ずつ、二三箇所削ってあることである。訳者はかえってこれがために、物語の効果が高まったように感じているが、原文を知っている他人がそれに同意するか否かは疑問である。一九一三年十月二十八日記す。
防火栓 ヒルシュフェルト
たびたび噂のあった事が、いよいよ実行せられると聞いた時、市中の人民は次第に興奮して来た。これまで毎年ロオデンシャイド市に来る曲馬師の組は、普通の天幕の中で興行したのだが、それはもう罷《や》められる。旅興行が定《じよう》興行になる。お寺のすぐ脇のマリアの辻には、鉄骨の大曲馬場が立つ。五千人入りである。やれやれ安心だ。そうなれば、誰でも往《ゆ》かれる。そのうち番附が出た。どの番組が早く見たいと云おうか、どうも気が迷ってならない。水芸をする白熊十七匹も、アラビア沙漠の十匹の牝馬も火踊をするコブラ嬢も、音楽のわかる道化師トロッテルも、どれもどれも見たい。
一月一日の場所開きには、二興行ある。一つは午後三時に始まるので、今一つは午後七時に始まるのである。札はどちらも疾《と》っくに売り切れた。これまでたびたび難儀に逢って来た市立劇場の座主は、妬ましげにこの人気を見ている。いやはや。おれなんぞはワグネルを聞かせてやったり、イブセンを見せてやったりする。一歩進んでバアナアド・ショオをも見せてやる。ところが人の見たがるのは白熊や手長猿だ。ロオデンシャイド市の物のわかる連中に来て貰おうと思って、何遍も骨を折ってみた。ところが誰も来てはくれない。それがどうだ。今のあの曲馬になら、人波を打って押し寄せる。しかもなんと云う景気だ。
午後興行の大入と云ったら無い。大きな建物がほとんどきいきい鳴っている。織屋や鉱山稼ぎの人達が女房子供を連れて来てすわり込んでいる。休日にもまだ炭の粉や器械油の附いている、胼胝《たこ》の出来た手が鳴る。これが本当のおなぐさみだ。一週間の、残酷な日傭《ひよう》稼ぎの苦も忘れられる。鉱山の坑《あな》の闇が不思議の赫《かがや》きになって、歎息の声が哄笑の声になる。まるで種類の変った人間がまるで性質の変った冒険をするのが面白い。一体あの白熊のうちのどれかが怒り出すといいのだが、生憎《あいにく》怒らない。山の坑の中では、いつ爆発があるやら分からないのだ。ここで猛獣を鞭で打ったり、横木に吊り下がったりする人達のうちで、誰があの爆発の危険なんぞを想像することが出来るものか。あしたからまた不断の、いやな、あぶない目を見る人達も、今はそれを綺麗に忘れていて、思い切って払った金だけの値打のある面白さに浮かれている。
曲馬組の頭《かしら》マッテオ・カスペリイニイはきょうひどく貧民に同情して、たいてい晩の興行に出して、金を倍払うお客様に見せるほどの物は、吝《おし》まずに午後の興行にも出す。それだけの事は別に苦にせずに出来る。晩も大当りな事は受け合われるからである。
曲馬組の人達は暇のない働きをしているので、晩の興行の客がどのくらい場外に詰め寄せて来たか、平生ひっそりしている、マリアの辻にどんな前景気が見えて来たか、知らずにいる。ロオデンシャイド市の警察は人数も余り多くない。それに余り智慧もない。そこで大変な惨状を呈しそうな模様の見えているのに、それを予防しようともしなかった。
カスペリイニイの曲馬場は正面の入口がすこぶる広い。しかしその広い入口一つしか無い。入口が即ち出口である。さて午後興行に這入った客が太平無事を楽しんでいるうちに、晩の興行に這入ろうとする客が、なるたけ入口に近く地歩を占めようとして、次第次第に簇《むら》がって来た。おのおの番号の打ってある札を持ってはいるが、遅く往ったら這入られまいかと云う心配をしている。それは偽札が出たと云う噂を聞いたので、番号が重なっているかも知れぬと思うのである。そのうち群集が危険な大きさになった。曲馬を見ようとする段になると、大商店の主人も貧乏極まる織屋職工と同じように、神聖なる権利のために奮闘する。実は今になってみると、息張《いば》って車に乗って晩の見物に来た富豪が、心の内で現に場内の暖い席にいる貧乏人を羨んでいる。
元日は馬鹿に寒かった。毛皮外套を被《き》ても、ゴム沓《ぐつ》を穿《は》いても余り長く外に立ってはいられない。せぎ合っている人の体のぬくもりは、互に暖めはしないで、かえって気分を悪くする。そこで老人連はもういやになって来たが、一しょに来た若い人達は早く見たがって胸を跳らせている。とにかく皆気がいらって来ている。
やっとの事で電灯がぱっと附いた。昼の興行が済んだのである。
入口に構えていた警部が呼んだ。「さあさあ皆さん。少しあとへお引きなさい。両側へお寄りなさい。道をあけて、中にいる連中を出してやらなくては。」皆さんと敬っておいて、出してやると貶《けな》したところに、詞《ことば》に力を入れて呼んだのは、流石《さすが》気が利いているが、その皆さんは一向引こうとしない。ロオデンシャイドの上流社会は城壁のように屹立《きつりつ》している。やっとの事で今まで持ちこたえている場所を、誰だって人に譲ろうとはしない。
そのうち場内のものが蠢《うごめ》き出した。大人は熱して浮かれて、子供は笑っている。数千人が、早く帰って晩食を食おうと思って、場外へ押して出る。それがたちまち堅固な抗抵に遭遇した。こうなると力一ぱい押して出ようとするは必然である。
「皆さん。お引きなさい。道をおあけなさい。」警部がいくら呼んでも駄目である。もう警部自身が群集の中で揉まれている。巡査が数人それを救い出そうとして寄って来たが、それもすぐに群集の中で揉まれることになった。
もう外へ出ることも出来なければ、内へ這入ることも出来ない。双方とも背後《うしろ》から押されている。中にちょいちょい理性に合《かな》った詞を出すものがあっても、周囲の罵り噪《さわ》ぐ声に消されてしまう。この場の危険は次第にはっきり意識に上って来た。
「おい。そっちの奴等が避けて入れればいいのだ。」
「なに。奴等だと。黙りゃあがれ。お上品振りやあがって。うぬ等は這入らなくてもいいのだ。」
こんな風に第一線で詞戦《ことばだたかい》をする。双方が時々突貫を試みようとする。女はきいきい云う。男は罵る。子供は泣く。そのうち弱いものが二三人押し倒される。気を喪う。それを踏み付ける。罵詈《あざ》ける。歎願する。あらあらしく、むちゃくちゃに押し合う。いつまでやっても同じ事である。息の抜けようがない。
「これはこれは。お客様方。」こう云って出て来たのは、赤い燕尾服を被《き》て、手に鞭を持った頭《かしら》のカスペリイニイである。仲裁は功を奏せない。血が流れる。失敗だ。初日の大当りを、お客様が破壊《こわ》してしまうのである。なんたる惨状だろう。「皆さん皆さん。わたしの言うことを聞いて下さい。わたしはどうにでも致します。お出になる方がお出になって、お這入りになる方がお這入りになればいいのです。御熱心なところは幾重にもお礼を申します。つい落ち着いて考えてみて下さればいいのです。皆さん教育のありなさる方々でしょう。第一あなたが。」一番前にいる一人と、とうとう取っ組み合うことになった。
高等騎術を見せることになっている女房ユリアが出て来た。「マッテオさん。鞭でぶっておやりよ。相手になられるならなってみるがいい。乳っ臭い人達だわ。」
「押すのをよさないと、白熊を放すぞ。」
口笛を吹く。鬨《とき》を上げる。やじ馬が勢を得て来た。どうもしようがない。もう曲馬組の人達が群集の中で揉まれている。
「親方。防火栓をお抜かせなさい。」突然こう叫んだのは、音楽のわかる道化方トロッテルである。場内では人を涙の出るほど笑わせるのだが、今出て来たのを見れば、あわれな、かたわの小男である。拳骨を振って囲みを衝いて、頭の傍へ来た。「ねえ、親方。防火栓をお抜かせなさい。あれがいい。冷やしていい。きっと利きます。」
途方にくれていたカスペリイニイがこの天才の助言をなるほどと思った。警察も理性も功を奏せないとなれば、もう暴力より外あるまい。世間を馬鹿にし切った道化方でなくては、こんな智慧は出ない。カスペリイニイは同意の手真似をして頷《うなず》いた。
トロッテルはまた拳骨を振って囲みを衝いて、火消番の立っている所へ往った。救いのある所へ往った。
そこでどうなったか。気の毒千万なのはロオデンシャイド市民と元日のおなぐさみとである。天罰の下るように、曲馬場の中から喞筒《ポンプ》の水が迸《ほとばし》り出た。滔々乎《とうとうこ》として漲《みなぎ》って息《や》まない。あらゆる物をよごし、やわらげ、どこまでも届く。
防火栓は奇功を奏した。晩のお客は問題の最簡単なる解決を得た。お客は踵《くびす》を旋《めぐら》して逃げた。これで命に別状はない。昼のお客はそのあとからぞろぞろ出て、曲馬場をあけた。
ただしいやと云うほど洗礼を受けぬものは一人も無い。皆寒がって歯をがちがち云わせている。しかし命には別状は無い。
頭カスペリイニイは天才の道化方に抱き付いて、給料を増す約束をした。これは次いで起る裁判事件を前知したら、控えたのかも知れない。新年早々数十件の損害要償の訴訟が起って、水でいたんだ晴着の代を出させられたからである。その判決の理由にはこう云ってあった。災難の原因は看客の理性の不足でもない。警察の不備でもない。曲馬場の入口を一つしか設けなかったのが原因《もと》である。
頭はいやな顔もせずに償金を払った。それはロオデンシャイドの曲馬場は今後もきっと大入りだと云うことを知っていたからである。それが何よりの事だからである。
おれの葬い エーヴァース
おれは死ぬる三日前に「赤印自転車会社」へ葉書を出した。こう云えば、この話がベルリンであった出来事でないという事が分かるはずだ。おれは葉書を赤印自転車会社へ出したと云うからである。この会社の名はいいじゃないか。ベルリンならメッセンジャア・ボイス・インスチツウトなんどと、厭な、半分外国臭い名を付けているに違いない。おれのやった葉書の文句はこうだ。
「この葉書到着の日より三日目の正午十二時に、箱一箇を墓地まで運送せらるるよう、依頼いたし候《そろ》。赤印会社の乗手の惣出《そうで》を要し候。入費支払その他委細の事は、書面に認《したた》め、その箱の上に載せ置き候。」これに番地と姓名とを書き添えて出した。
約束の時刻にきちんと乗手どもが来た。頭取が引率して来た。ベルリンならこの頭取をメッセンジャア・ボイス・インスチツウツ・フォオルステエヘルなんぞと云うだろう。
そいつ等の運搬するはずの箱は、大きな、長い鶏卵の明箱である。その蓋の上に、おれは骨を折って「硝子《ガラス》道具」、「こわれ物」、「注意」、「取扱の際上下を誤るべからず」と書いておいた。
鶏卵の明箱の中には、無論おれの死骸が這入っている。しかしおれは蓋を釘着けにさせずにおいた。なぜというに、おれは是非「立派な死骸」として葬って貰わなくてはならないので、箱の中で、万事相違なくやってくれるかどうだか、気を付けて見なくてはならないからである。
頭取がまず、箱の蓋の上に、おれの載せておいた金を手に取って、勘定してみた。「乗手四十五人が二時間働くとして、勘定は合っているな」と云って、金を隠しに入れて、それからおれの書附を読んでみた。
読んでしまって、「いや、これはいけない、これはおれ達の会社で引き受ける為事《しごと》じゃない」と云った。
おれはそれを聞いてなるたけ胴声を出して、箱の中から、「赤印自転車会社は何事によらず御引受申候」と、どなった。
誰がこんな事を云ったのだか、頭取は合点が行かぬと見えて、指で鼻をいじっていた。それから、「ままよ、やっ付けろ」と云った。頭取奴《め》、良心に責められたと見える。なぜというに、どの広告にも、「赤印自転車会社は何事によらず御引受申候」と書いてあるのである。
乗手の一人が蓋を釘着けにしようとした。そうすると、頭取がその男を引き留めて、書附に指さしをして、「待て、ここに書いてある、蓋は開きたるままに為しおくべしというのだ」と云った。おれは感心な男だと思った。いったん為事を引き受けたからには、おれの註文通りにして、一歩も仮借しない考えと見える。頭取はもう一遍おれの書付を読み返した。
「そこでおれ達は簡短な祈祷をしなくてはならない。お前達の中で誰か簡短な祈祷を知っているかい。」頭取がこう云った。
ところが、乗手の中には一人も祈祷なんぞを知っているものはなかった。
「そんなら長い祈祷なら知っているかい」と、頭取が云った。しかし短いのを知らないくらいだから、長いのを知っているはずがない。
おれは胴声を出して、「赤印自転車会社は何事によらず御引受申候」と、どなった。
頭取は目をきょろきょろさせて四辺《あたり》を見廻した。それから「無論だ、赤印の連中は祈祷一つ出来ないと云われては世間体がよくない」と、慌てて云った。それから乗手の中の一番小さい小僧に向いて「フリッツや、お前一つくらい祈祷を知っているだろうな」と云った。
「祈祷は知っていますとも。ですけれど、旨《うま》くはやれませんや。」こう云ったのは、やっと十二になる小僧である。
頭取が云った。「旨くやらなくてもいい。旨くてもまずくても構わないが、とにかく祈祷をしなくては済まないのだ。さあ、そこでやってくれ。みんな大きな声をして、付いて言うのだ。」
小僧の言うのを、一同大声で助けた。「愛する主イエスよ。我等の客となり給え。而《しか》して御身の我等に与え給えるものを祝福し給え。」
「アアメン」と頭取が云った。そして言い添えた。「結構な祈祷だった。これからも入用の時があるかも知れないから、みんな覚えておいたがいい。」
これを始めとして、書附通りに、頭取が万事指図してくれた。鶏卵《たまご》箱《ばこ》は運搬用の四輪自転車に載せられた。乗手一同自転車に飛び乗って、全速力を出して、町を走って行くのである。
この赤印会社の、活溌な行列を見て、往来の人は喜んでいるらしい。お定まりの、黒塗の馬車に柩を載せられて、陰気な本職の連中に送られて、のろのろ歩くよりは、こんな風に、気楽に墓地へ飛んで行く方が、どのくらいいいか知れないと、おれは箱の中で思っていた。
二十分間で、一同墓地に着いた。おのおの自転車から飛び降りて、車を鉄の格子《こうし》に寄せ掛けて置く。それから丈夫な男が四人で、大事そうに鶏卵箱を持ち上げる。
頭取は書附を見ながら、「二つ目の横通り、八つ目の枝道、本通りより左の方、枝道の右側で墓所の番号は四万八千六百七十八号だ」と云った。
乗手が行列を作って、真面目な顔をして、鶏卵の明箱を番号の墓所へ舁《かつ》いで行った。
冢穴《あな》はもう掘ってある。掘り上げた土に、大きな円匙《えんぴ》が二三本突っ挿してある。
乗手が数人で、用心して穴の傍へ這って行って、そっと箱を穴の中へ入れた。
それから一同が大きい圏《わ》になって冢穴を取り巻いた。
「みんな煙草を喫《の》むのだ。シガレットだ。」頭取がこう云った。たいてい紙巻煙草を持っていた。中に持っていないというものがあると、頭取が自分のを一本ずつやった。
「わたくしは煙草が喫めません、胸が悪くなって」と、小僧が云った。
「赤印自転車会社は何事によらず御引受申候」と、おれがどなった。
頭取は馬鹿にせられたのが不平だというような顔をして、一同を見廻して云った。「誰だい、そんな事を言うのは。余計な事を言って貰うまい。無論なんでも引き受けるにきまっている。フリッツや。さあ、喫め。赤印の連中は、祈祷も出来なくてはならないが、煙草も喫めなくてはならない。」
小僧が紙巻に火を点けた。一同煙草を銜《くわ》えた。
「それでいい」と云いながら、頭取はまた書附を見て、「これから葬儀を執行するのだ、ここに歌わなくてはならない歌の文句が書いてある、それ、あの闇の森の歌うたいという流行歌があるな、あの調子で歌うのだ」と云って、文句を読み上げた。「自転車会社の赤印、なんでも頼めば引き受ける。勤めを大事に日を送る。勤めのためなら死にもする。」
一同声を揃えて、谺響《こだま》のするように歌った。おれも箱の中で一しょに歌ってやった。
頭取が「これから祭文《さいもん》を朗読するのだ」と云って、読み上げた。「諸君よ。わたくしはこの職業を始めましてから久しくなりますが、人の死体を墓地へ運んで参ったのは、これが始めでございます。この死んでいる人の人柄や気質は一向承知いたしていませんが、遺言として、葬式一切を当会社に委托いたしまして、そのお蔭で、我々一同、一時間につき二マルク四十五ペンニヒを頂戴いたしましたからは、我々一同は永遠に御当人の事を記念いたさなくてはなりません。この意味におきまして、我々のお得意様として、御当人の万歳を祝しましょう。万歳。万歳。万歳。」
乗手一同大声でどなった。「万歳。万歳。万歳。」
「それでいい」と頭取が云った。おれは箱の中で拍手した。
それから頭取が云った。「ここで亡くなった方の平生好きで歌っておられた歌を、みんなで歌って、それで葬式が済むのだ。歌はここに書いてある。おれが歌うから、皆付いて歌え。」こう云ってまず文句を読み上げた。「よ――ろ――こ――べ――や。ち――お――ん――の――む――す――め。こ――え――た――か――く――よ――べ。い――え――る――さ――れ――む。」
この時じき側で別れの歌を歌うのが聞えて来た。三つ目の横通り、八つ目の枝道、本通りより左の方に、同時に葬式があるのである。その墓所の番号は四万八千六百七十九で、枝道の左側だから、ちょうどおれの墓所の筋向いである。
葬られる男は高等顧問官フォン・エエレンラフトというお役人である。会葬者がすこぶる多い。顧問官やら、判事やら、判事補やら、士官やら、皆立派なお役人達である。そのくせ旧式の葬《とぶら》いで、赤印の連中はいない。
頭取は敬意を表して、筋向いの歌の済むのを待って、それから歌い出した。「よ――ろ――こ――べ――や。」ここまで歌うと、あとは歌われなくなった。それは、筋向いで馬鹿に太った牧師が葬いの演説を銅鑼声《どらごえ》でやり出したからである。
頭取は敬意を表して待っている。五分立つ。十分立つ。牧師は中々止めない。おれは厭な気持になった。「こんな演説は確かに死骸の腐敗を早めるに違いない」と、おれは腹の中で思った。
頭取もおれと同意見らしい様子で、時計を出して見た。
しかし牧師の演説は中々済まない。
とうとう頭取も待っていられなくなった。約束の賃銀も、二時間分しか払ってないのである。そこで頭取は構わずに始める事にして、今度は四十五人が一どきにどなり出した。「よ――ろ――こ――べ――や。ち――お――ん――の――む――す――め。」
牧師は負けぬ気になって、一層声を大きくした。しかしいかに大声の牧師でも、四十五人の声にはかなわない。とうとう青年が勝利を占め、現代思想を貫徹して、陳腐なブウルジョアジイは退却しなくてはならなくなったという事を、おれは認めて満足した。牧師は沈黙してしまったのである。
ところで、牧師なんぞという連中は、実際負けても、決して負けたと云わないものだ。この牧師も何やらシルクハットを被っている二三人の男に囁くと、その男がまた何やら巡査に囁いた。そこで巡査が脱いでいた兜を頭に載せて、おれの墓所へ出かけて来て、頭取を談じ付けた。
しかし頭取は中々屈せずに、「わたくしどもは賃銭を貰って、しなくてはならない為事《しごと》をいたしているのです」と冷淡に答えた。
「葬式をするには認可がいるが、受けているのか」と、一人の巡査が云った。
「赤印自転車会社はなんでもいたします」と、頭取が昂然として答えた。
「ヒイヤ、ヒイヤ」と、おれが箱の中から喝采した。
「ヒイヤ、ヒイヤなんぞと云ったのは誰だ」と咎《とが》めておいて、巡査は会社の連中にこの場を立ち退かせようとした。
しかし頭取は聴かない。定めの賃銭を貰って請け合った為事《しごと》がまだ済まない。自分は義務を完全に果さずにしまっては、名誉に関係すると云うのである。
巡査が大声を出すと、頭取も負けずに大声を出す。そこへ次第に筋向いの葬式に来た人達が寄って来た。顧問官や、判事や、判事補や、士官なんぞである。その背後《うしろ》からは牧師が出て来た。
牧師は会社の連中が、赤い上着に、赤い帽子を被って、紙巻煙草を銜《くわ》えているのを見て、「一体そこで何をしているのだ」と尋ねた。
この問に恐ろしい返事をしたのは、小僧のフリッツであった。小僧はまだ煙草が喫めないのに、我慢して喫んだので、さっきから胸が悪くなっていた。腹を抑えて屈んだり、反り返ったり、また屈んだりしていたが、ちょうど牧師が問を発した時、その余所《よそ》行きの黒服の上へ戻してしまった。
牧師は驚き呆れて、詞《ことば》が出ない。会葬仲間がてんでにハンケチを出して、黒服の掃除をしている。そのうちに牧師はやっと気が付いて、真面目な調子で云った。「実にもっての外の事です。風俗習慣を破壊するものと、わたくしは認めます。」
「いかにもわたくしもそう思います」と云ったのが二十七箇の勲章を胸に掛けた男である。
「我々の職務上に、風俗を破壊するものと認めます」と、巡査が云った。
おれは我慢し切れなくなって、赤印連中に応援しようと思って、箱の蓋を中から突き上げて、起き上がって、声を荒らげて云った。
「わたくしは諸君がわたくしの葬儀の場所へ闖入《ちんにゆう》して来られたのを、風俗を破壊するものと認めます。」
牧師は驚き呆れて、冢穴《つかあな》を覗き込んだが、吃《ども》りながら云った。「これが風俗習慣に《かな》った葬いですか。」
おれは答えた。「いや。これは赤印会社に委托して執行させる現代的の葬式です。」
おれは箱の上に腰を掛けて、鼻目金を鼻に載せて、一同を見廻した。おれは墓の中で寒くなったら困るだろうと思って、毛皮の外套を着ていた。それが土用の最中なのだから、一同よほど敬服したらしく見えた。お気の毒だが、筋向いの高等顧問官さんは毛皮の外套は着ていまい。
おれは調子に乗って云った。「諸君。この場を立ち退いて貰いましょう。この墓はわたしが銭を出して買ったものですから、わたしの所有です。わたしは合法に死亡して来て、自分の気に入るようにして埋葬して貰うのです。あなた方の世話にはならない。この穴とこの箱とは、わたしの家屋も同じ事だから、ここではわたしが主人です。家屋の安寧を妨害しないようにしてお貰い申しましょう。」
「実に怪《け》しからん事だ。先例のない怪しからん事だ。」こう云ったのは勲章を付けた男である。
そこへ検事が出て来て、しゅっしゅと云うような声でおれを叱り付けた。「いつまでもそんな馬鹿げた事をさせておくわけには行かない。本職はお前を拘引させる。おい。巡査。職務を執行しろ。」
巡査は冢穴に降りて来て、大きな手をおれの肩に掛けた。
おれは巡査を睨《にら》んで云った。「君達は死というものの神聖なることを知らないのか。」
「死んだのなんのと云っているが、実際死んではいないじゃないか。詐偽《さぎ》だ。」こう云ったのは大胆不敵の予備士官であった。
「あなたはそう思いますか。詐偽でない証拠はこれです。よく御覧なさい。」こう云って、おれは笑いながら死亡証書を出して巡査に渡した。
検事は中々承知しない。「そんな事はどうでもいい。とにかく不都合な事をしているのを見過すわけには行かぬ。裁判所で調べさせる。巡査はその男をその箱へ入れて、持って来い。どうぞ諸君もわたしと御同行なさって下さい。」
巡査はおれを掴《つか》まえた。おれは振り放そうとした。しかしおれよりは巡査の方が強いので、とうとうおれを箱に入れて、墓地から外へ担ぎ出して、馬車に載せた。馬車に乗って来た会葬者も皆馬車に乗った。赤印会社の連中は自転車に乗った。
おれの這入っている箱は、馬車には載せられたが、その載せてある所は御者台で、箱の蓋の上には、太った巡査が腰を掛けている。
行列は大急ぎで町へ乗り込んで、一同裁判所の前に留まった。
「第四十一号室だ」と、検事がどなった。巡査がおれの箱を担いで這入る。一同あとについて来る。
上席には判事が坐って、左右に陪審官が居流れている。検事が長い演説をした。まず突然法廷へ来て、裁判の日程を中止させたのは遺憾だが、緊急な事件が生じたのだから、止むを得ないとことわって、それから事実の経過を話した。最後にこう云った。「この男は死んでいると称して、合式の死亡証書も持っているのです。」
判事さんがおれを箱の中から出させた。
それから「この中に医師はあるまいか」と尋ねると、いきなり三人飛び出した。当前《あたりまえ》の医者が一人、軍医が一人、地方精神病院長が一人である。
医者どもは手短に、「無論これは死体です」とやっ付けた。
おれは凱歌を奏した。「わたしは検事さんに対して起訴します。死体毀損罪です。」
「しかしさしあたり被告として出廷しているのだぞ」と、判事が叱り付けた。
「そうですね。しかし余り永くはいませんよ。これからだんだん崩れて行きますから。」
「待て、お前法廷の尊厳を侵すと、懲罰に処するぞ」と、判事がおれの詞を遮った。
「それはどうも。」
「黙れ。」
「いや。黙りますまい。わたくしはプロイセン臣民の一人として、言論、著作もしくは技術をもって自己の思想を発表するの自由を有しています。」
判事は笑った。「ここはプロイセンではないじゃないか。その上お前はもうプロイセン人ではない。死体だ。」
「なんですって。わたしがもうプロイセン人ではないのですって。」
「プロイセン人ではない。」
「死んだからそうでないと云うわけなら、死んだプロイセン人だと云いましょう。」
「それはなんにもならぬ。死んだプロイセン人には何等の権利もない。そのくらいな事はお前にも常識で分かりそうなものだ。」
おれは少し考えてみた。ところがどうも判事の詞が正当らしく思われた。そこで癪《しやく》に障ったから黙っていた。
「そこでお前は粗大なる暴行、風俗破壊、公務員侮辱、官憲に対する反抗の廉々《かどかど》をもって起訴せられているのだ。何か弁解のために申立てる箇条があるか。」
おれは陰気な声をして云った。「わたしは死体です。」
「それは弁解にはならぬ。死体、ことにプロイセン人の死体が、どんな罪でも、勝手に犯す事が出来るとなっては、大変ではないか。これに反してことに死体は極めて静謐《せいひつ》に、極めて従順でなくてはならぬ。いわば生きておる人民のために、公徳の模範にならなくてはならぬ。ところでお前もプロイセン人であったと云うから、静謐というものが第一の公徳だという事は知っているはずだ。そこでいわゆる死体になると、それが一層必要になるのだ。死んでしまった個人がそれを犯すというのは、実に空前絶後だ。おれは永らくこの職を辱《かたじけの》うしているが、こういう例は見た事がない。お前前科はあるか。」
「あります。十七度罰せられました。侮辱だの決闘だの、それから猥褻《わいせつ》なる図書の発行だの、それから只今あなたがたがお数えになったような罪を犯したのです。」
「そんなら再犯だな。どうも改悛の実が上がらないと見えるな。」
「わたしはいつだって冤罪《えんざい》を蒙ったのです」と、おれは吃《ども》りながら云った。
「いつでも冤罪だと。さぞそうだろう。そこで今申し聞かせた罪を自認するか。それとも証人を呼び出して取調べようか。」
「そんな事はどうでもいいのです。もうわたしには構わないで下さい。わたしは死体です。あなたは馬鹿です。あなたの引き摩《ず》り出して来る証人というのも、大方馬鹿でしょう。」おれは我慢がしきれないという様子で、こう云ったのである。
判事はひどく腹を立てて、空気を吸いに水面に口を出した魚のような様子をしていたが、まだ一言も言う事が出来なかった。
そのうち検事が起立した。「本職は提議します。被告人の精神状態を観察させるために、向う六週間地方精神病院へ入院させたいと思います。」
その時さっきの精神病院長が進み出て云った。「地方精神病院はこの場合において、被告を向う六週間入院させる事は、絶対的に拒絶いたしたいのです。どうもそんなに長く持つかどうだか分かりませんから。」
しばらくの間は法廷がひっそりしていた。
突然陪審官の一人が問うた。「ところで、この被告はどうしたものでしょうなあ。」
「科料《かりよう》に処するです」と、判事が云った。
おれは詞を挿んだ。「それは駄目ですよ。わたしは生きていた時も金が無かったが、死んでからも金は持っていません。少しばかりあった現金は、現代的葬式をして貰おうと思って、皆赤印自転車会社へ為払《しはら》ってしまいました。」
おれがこう云うと、会社の頭取がおれの方へ向いて敬礼した。
「そういう場合には、即ち科料を納付する事の出来ぬ場合には、拘留に処するです」と、検事が云った。
「しかしさっきも地方精神病院長が死骸の入院を拒絶したようなわけだから、地方監獄も死骸の入監を拒絶するでしょうて」と云って、判事は途方に暮れたような顔をしている。
しめたなとおれは思った。
そのとたんに、例の重々しい調子の牧師が進み出た。「甚だ差出がましい次第ですが、わたくしが提議をいたそうと存じます。愚案では、この被告は、死骸の事でありますから、世間普通の方法によって埋葬いたすのが、至当でございましょう。第一、そういたすと、世間の真面目な人に、法廷がどのくらい温和な手段を取るかという事を会得させることになりますでありましょう。第二に、この被告の、気の毒な、迷った心には、その処置がかえってある意味においては、刑罰のような効果を奏する事でありましょう。ついでながら申添えますが、普通の方法をもって埋葬した死骸なら、必ず静謐にいたしていますから、将来において官憲に御厄介を掛けるような虞《おそれ》はございません。」
「なるほど。ごもっとも千万だ。」判事がこう云って頷《うなず》くと、検事も頷く。二人の陪審官も頷く。法廷にいるものが皆頷くのである。
おれは叫んだり、手足をもがいたりして、絶望の余り、赤印会社の頭取に救いを求めた。
頭取は肩を聳《そびや》かして云った。「お生憎様《あいにくさま》です。あなたは、わたくしどもに二時間の賃銭をお払いになっていますが、その二時間はもう疾《と》うにたっています。無論赤印自転車会社は何事によらず引き受けます。これは会社の原則です。しかし賃銭をお払いにならなくては、引き受けません。」
誰一人おれに同情してくれるものがない。
おれは出来るだけ腕力で反抗した。しかし造作もなく縛られた。
役人どもはおれを黒い柩に入れて、外へ担ぎ出した。
牧師は無報酬で演説をした。しかしおれは両方の耳に指を突っ込んでいたから、牧師が何を饒舌《しやべ》ったか分からなかった。
とうとう暴力が勝利を占めた。
おれは墓の中にいて、判事や検事がその前を通るたびに、三遍ずつくるくる廻りをするが、それがなんの役にも立たない。
刺絡 シュトローブル
寺男が用心に、墓地の外囲いの塀の上に、植えておいた硝子《ガラス》が、釘を打った靴底に踏み躙《にじ》られて、がりがり鳴った。三人の癖者《くせもの》が梯子《はしご》の桟《さん》を踏んで、陰影の中から登って来て、月の光の下に跳っている。その月の光は植えてある硝子《ガラス》瓶《びん》の欠《かけ》らに緑色の《ほのお》を放たせているのである。癖者の一人が背後に振り向いて、手を伸ばして一人の男を塀の上に扶《たす》け登らせた。その男は白粉《おしろい》をまぶった仮髪を被っている。仮髪の下の口から苦しげな息を衝いて、がりがり鳴る塀の頂を踏んでいるのは博学篤行の医学士オイゼビウス・ホオフマイエル先生である。先生は膝切のずぼんを着て、その下に絹の沓韈《くつたび》と蝶番止《ちようつがいどめ》の靴とを穿《は》いているのに、またその上に筒の広い乗馬靴を嵌《は》めている。先生の痩せこけた脛はその広い筒の中で途方に暮れている。とかくして色の黒い癖者の一人に手を引かれて、先生はよろけながら塀の上を歩き出す。癖者の足は街道を歩くように塀の上を歩くのである。癖者の血は眩暈《めまい》と云うものを全く知らぬのである。
他の二人の癖者は塀の上から、ブラックベリイの茂っているなかに飛びおりた。ブラックベリイの蔓が体の周囲《まわり》に乱れ靡《なび》いて、幾百の刺《とげ》が闖入者のずぼんを引っ掛けて止めようとした。前の一人の癖者は、先生の臆病なのに困って、溜息を衝きながら、ゆるゆると安全な梯子を下りて来る。今は梯子が「死人の着く岸」の内側に掛けられてあるのである。
ここは十字架の低い林の間から、寺男の住む小家の屋根が、物言う夜の闇へ顔を出している。小さい寺の塔の尖《さき》は、銀色をした一団の雲に向いて尖っているので、その雲を衝き刺そうとしているかと怪しまれる。寺男の家の戸の前には、加持水《かじすい》を盛った、小さい錫の盤の上で、赤い灯明が物を案じている。これは幽霊や怪物《ばけもの》を避ける二重の鎖《とざし》になっているわけである。塀からおり立った人達の影を、この灯明が土饅頭の上に落すと、そこでブラックベリイの茂りがその輪廓を掻き乱している。
癖者どもはここでもまた、猛獣の足取のような、慥《たし》かな歩き附で、暗黒に打ち勝って行くのに、その間に介《はさ》まれた先生は躓《つまず》きがちである。古い墓石の列を成している間を進《とお》り過ぎて、この人達は死の新領土に這入った。そしてだんだん進んで行って、きのうきょう盛り上げた土饅頭の並んでいる所に出て、その並んでいる幾つかを、あれかこれかと尋ねている。皆遺された人の涙の痕を見せている、土のまだ軟い土饅頭である。
「ここのはずだ」と先生は云って、ある障碍物を乗馬靴の爪尖で衝いた。しかし三人の癖者はかんがいいので、生《せい》の木の古株が重い枝を垂れている下の闇の中へ、一層深く進み入らせた。鋼鉄と石とが相触れて火花を出す。その光が太って小さい硝子《ガラス》提灯の火影になる。鋤と鍬とのけたたましく、からから鳴る音と音とが、夜闇とその為事《しごと》とを怖れて挙《こぞ》り寄るので、隙間もなく頻《しきり》に聞えることになる。先生はその音を詛《のろ》っている。三人の癖者の労作が喘いで、一つの土饅頭をさばき開けた。
「堅気な娘だったよ、このウェロニカ・フウベルは」と、癖者の一人が云って、軟い土に鋤を深く衝き立てた。
「そうよ。身持のいい、素直な娘だった。」
「壻《むこ》が戦争に出ようと云う。お袋は泣いたが、壻は世の中がつくづく厭になっていたので、とうとう聴かずに出ることになったのだ。」
先生の手に持っている嗅煙草入の銀蓋がからから鳴る。癖者どもの詞《ことば》をこのからから云う音で敲《たた》き消してしまおうとするのかと思われる。先生はじれったがっている。発掘して底まで行くのに余り手間が取れると思うからである。周囲の木々は不機嫌らしくつぶやいている。そしてその梢から黒い鳥のような影が閃いて出て、羽で灯火を消そうとするらしい。どこやらから覚束《おぼつか》ない月の光がさして来る。ねばい雲の段《きだ》を穿《うが》って来た向《むこう》不見《みず》の光である。光は明るくもなく、暗くもなく、ちょうど仮面のごとくに瞠目する疑懼《ぎく》の姿を、闇の中一ぱいに画《え》がくだけのものである。空虚な天の中央、寺の塔の尖の上に、可哀らしい舟が漂っている。この舟が西の隅に隠れている月から白かねを受け取っている。先生はこの雲の舟を見ていたが、それから思量の近道をしてスパニアの海賊船へ一飛びに飛んだ。非常な嵩《かさ》の銀を積んで、どこやらの海に沈没した海賊船である。それから先生はまた現在の夜中の為事《しごと》に還って来た。癖者共は互に話をし合っていて為事は一向運ばない。
「おい。どうしたんだい。なんと云う隙潰《ひまつぶ》しだ。大切な時間をそんなにして過すと云うことがあるものか。Mon dieu ! おい。ミヘル。おぬしはおれ達が皆一しょに掴まえられてしまうがいいと思うのかい。そんなにぼんやり立っていて、手に唾《つば》ばかりしているない。おれはこの為事に鼠《むぐらもち》を三匹傭って来た方がよかったかも知れない。その方がよっぽどはかが行ったかも知れない。手前達の為事は実に。」
「Ennuyant ですね」と、先生の詞の尻をフランス語で足したものがある。この男は先生のじき側に立っている。寝間で着る寛《ゆる》い上衣を纏った男である。その詞を聞くと同時に、冷たい蛇が先生の脊柱の上を這って登って、頸をくるりと巻いた。乗馬靴の太い筒が動き出して、痩せこけた脛に触れてがたがた云った。三人の癖者は鋤や鍬からきたない手を放した。寛い上衣の男はやさしげに微笑んだ。歪んだ脣《くちびる》の間から、鋸《のこぎり》の歯のように尖った歯の上下の列が露《あらわ》れた。「どうぞ御遠慮なくお為事をなすってください。Mon cher ! あなたも新墓に手をお着けになるのを見て、わたしは喜ばしいです。そこでどう云ったらいいか知れないですが、まあ、わたしは焼餅を焼かずに、あなたの御成功を祈るとでも申しましょうかな。」
「どうも御親切な思召で」と先生は云ったが、寛い上衣の男の背中から目を放すことが出来なかった。それはこの男の背中から尖った、縁にぎざぎざのある影が地に墜ちているのが、肩に生えている羽の影のように思われてならぬからである。
「亡くなったウェロニカは特別の価値のある体ですよ。ですが、あなたに譲って上げます、喜んで譲って上げます。学問のためですからね、学問の。学問には保護を与えなくてはならんです。官衙《かんが》などには目前の事しか見えないのですから、真面目に解剖学を研究しようとするには、故障ばかりが出来るですよ。」
「それは御親切に。して見ると、やはりその方の御専門で。」
「まあ、そう云ったようなものです。そう云ったような。全くそうでもないのですが、そう云ったような。」寛い上衣の下で時計の螺旋のほどけるような音がした。男は変な笑いようをした。鋸の歯のような上下の歯列が露れた。男は躓《つまず》くような語調で話し続けた。「まあ、そう云ったような。一体官衙は腐敗を保護するですな。人間の死骸を土の中へ埋めさせて、学問に手を着けさせないです。腐敗が大切にせられる。腐敗が官衙から保護せられる。ですが、わたしはあなたのお為事の邪魔はしません。亡くなったウェロニカの体はあなたに譲って上げますよ。」
「御親切に。実に難有《ありがと》うございます。しかしちょっと伺いたいのですが。」
寛い上衣の男は右手を先生の顔の前に出した。大胆な詞を出そうとした先生の口の前に獸の爪のような、五本の黒い指が曲がって出された。「いや。かれこれお尋ねになることは出来ないです。お尋ねにならない方がいいです。真面目に学問を研究する人は何事によらず問いたがるものです。それはわたしも承知しています。しかし墓地ではそんな癖を出してはいけません。御覧なさい。わたしも何も問いはしますまいが。」
月が雲の段《きだ》を破った。地平線に近い所で、雲を衝き破ったのである。夜の色が蒼ざめて来た。寺の塔の上に漂っている銀の舟が、今は恐ろしく空虚な、緑色の天に浮かんでいる。どっちへ向いていいか、どこへ往っていいか、分からなくなって、停止しているようである。寛い上衣の男の禿げた頭は、今生の木の木立の間に光っている。頭蓋を組み立てた骨と骨との縫際《ほうさい》の、犬牙交錯した線がはっきり見えている。黄ばんだ白髪の半月なりに生え残ったのが、項《うなじ》と上衣の襟との間に乱れている。寛い上衣の男と先生とは顔を見合せた。先生は相手の男の口に鋸の歯のような上下の歯列が赫《かがや》いているのを見て、自分の歯がかちかち打ち合った。そして鋸の歯のような上下の歯列と、視力が無くなっていそうな左右の眼《がんそう》との間に、蝙蝠《こうもり》のように胡坐《あぐら》を掻いた鼻があるのを、先生は不思議に思いながら見ていた。
寛い上衣の男が手真似をした。それが癖者どもに為事《しごと》の催促をするように見えた。三人の癖者は鋤を把《と》った。その時上衣の下でまた《さ》びた時計の螺旋のほどけるような音がした。「いや。駄目ですね。あなたの遣口《やりくち》は実際退屈だ。Ennuyant だ。わたしの遣口をあなたに見せて上げよう。ですが、わたしに骨を折らせなさるのだから報酬は貰いますよ。」
先生は少し気が遠くなっていたが、この時やっと正気になって、空虚な土の溝を吹き払うように喘ぐ息をし出した。そして自分で自分を満足に思った。それは不思議が不思議でなくなったように思ったからである。こいつはけちな無頼漢だ。沈黙を守る報酬を求める。偶然出会った事を金にしようと思うのである。報酬をしかと取り極めておきたいものだ。先生がこう思った時、寛い上衣の男は先を越すように云った。「いや、いや。神聖なるロオマ帝国ではロオマ法が行われているですね。正直なあなたの事ですから、わたしに無駄骨を折らせはなさらないでしょう。あなたと不文契約を訂結するとしましょう。決してあなたに御損は掛けませんよ。そこで一骨折りますかな。」
上衣の中から手が二本、黒い指が十本出た。それが墓穴へ差し伸べられるのが、たとえば生機《せいき》の無い物に生機を与えようとする、磁石の棒のように見えた。不思議な引力が作用するように、手の下の土が動き出した。土の一塊一塊が穴の底から浮き上がって来る。釜の沸くように、穴の縁へ土が飜《こぼ》れ出て、泡沫を生ずる。その泡沫がふくらんで大きくなって、縁を越して広がる。土の全体が生きて来る。三人の癖者を穴から外へ撥《は》ね出す。瓦斯《ガス》が容器の中から溢《こぼ》れるように、土は盛り上がって丘の形になって、爆音を放って迸裂《ほうれつ》する。墓穴の底が出た。圧し潰された輪飾や生花の乱れた上に、亡くなったウェロニカの柩がある。
この時三人の癖者は鋤鍬を投げて、叫びながら灌木雑草の中を逃げ去った。労力の報酬をも恐怖の顎《あぎと》に遺して置いたのである。先生は逃亡者の後影を見送って、怪訝《かいが》の中からやや醒覚した。しかし舌が突然黏《ねば》く重くなって、言語を捏《こ》ね返すことが出来ない。ようようの事で困《くるし》みながら云った。「そこでわたしの方からの報酬は。」
「Mon cher ! 問いっこなしですよ。いずれその辺の事はあなたのお書斎にまいってから御相談しましょう。もうこの場に構わずにお帰りなさい。あなたがお帰着になるまでには、わたしもウェロニカの死骸もちゃんとお書斎にまいっています。さあ、おいでなさい。」こう云って、寛い上衣の男は慇懃《いんぎん》な会釈をして、手真似で先生を生の木の蔭から出させた。
先生が墓と墓との間を歩き出すと、寛い上衣の男も肩を並べて歩き出す。背から落ちる、縁に裂目のある影は翼を斂《おさ》めたような形になっている。道が明るくなった所で見れば、上衣の紐の流蘇《ふさ》が地を曳いているのが、血を滴《したた》らして歩くようである。
たちまち先生が独《ひとり》になって、今までの恐怖より一層甚だしい恐怖に襲われた。寛い上衣の男はいなくなった。ふと側を顧みると、月光の下に古い墓石が立っている。丈高く、幅狭く、墓石は喝《どうかつ》の詞の如くに聳《そび》えていて、残酷に明るい月光の下に、死んでから年月の立った故人の名を叫んでいる。その名は Chevalier de Saint Simon である。
先生は重い乗馬靴を穿いていながら駆け出した。木の枝に鞭うたれ、硝子の欠《かけ》らに掻き裂かれて、魘夢《えんむ》の中に走るように、道に横わる障礙物を凌いで家路を急いだ。
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先生は我家の前に帰り着いて、始めて我に反った。高い搏風《はぶ》のある家に挟まれている、長い、狭い巷《こうじ》が、その襞《ひだ》のある暗黒の裡に脅喝を包蔵している。西に傾きかかった月の光が、搏風の影の間を漏れて来て、寝惚《ねぼ》けた家々の顔に深く食い込んでいる。簷端《のきば》には石で刻んだ異形の飾が蔓を周囲に延ばしていて、その蔓の間に一群の石の鳥が羽を振っている。その側に、ちょうど先生の書斎の窓の上に当って、風信旗が立っていて、壺に嵌まった柄がぐるぐる廻っている。この家は代々学者が住んでいたもので、《はじ》めて建てた人の奇怪を好む洒落の趣味が、巷に面した壁に一種秘密を包むような体裁を見せているのである。
先生は鳥のように首を傾けて窓を見上げた。風信旗はひっそりしている。生機の無い色硝子の窓の上に、月の光が淀んでいる。熊狩の図を雕《ほ》り附けた金物の打ってある扉に、先生はためらいながら鍵を当てがった。鍵は鎖《とざ》して出たままの錠前に嵌まった。先生はよほど心丈夫になって、厭な恐怖を往来に残しておいたつもりで、書斎を差して進み入った。
書斎に入って見ると、解剖台の上に、亡くなった処女ウェロニカの裸体が横わっている。そして自分のいつもすわる腕附の椅子には、骨々しい、黒い指を椅子の腕に絡んで、縫際のあらわに見える、禿げた顱頂《ろちよう》を背後に反らせて、寛い上衣の男が控えている。塗板は小さくなって室の一隅に這い込んでいる。月の光は室に暇乞をして出て行きそうにしている。
「いや。よくお帰りでしたな。」寛い上衣の男は腕附の椅子に掛けたままで、自分が主人ででもあるらしく声を掛けた。
「よくおいでなさいました。」先生はこう答えるより外無かった。
「さあ、ここでなら、なんなりともお尋ねなさい。」
「そんなら最初に伺いますが、どうしてここへ這入って来られました。」
「それですか。この家はわたしの方があなたより精しく知っています。それはあなたより古くから知っているからです。随ってあなたの御存知の無い通路も、わたしには分かっていますよ。そんな事はどうでもいいでしょう。何か別にお尋ねになる事があるはずではありませんか。」
月の光は最後に窓の上の端を照して、室から逃げ出した。しかし室内には薄明かりがある。どうもそれが解剖台の上に横わっている、ウェロニカの裸体から、燐光のように迸《ほとばし》り出ているらしい。怪しい男の着ている、寛い上衣のトルコ形の花模様が、この光に照されて、五色に赫き出す。男はその模様の花の一輪を指で摘《つま》んで、鼻の前に持って行って嗅いでみて、また元の上衣の上に戻して置いた。
寛い上衣の男は先生の返事を待っているが、その返事がなかなか出て来ない。室内はひっそりしていて、窓の外の風信旗の柄が壺の中で廻る音や、石の鳥の囀《さえず》る声が聞えるほどである。室の隅の暗い所で、湿った板がめりめり云っている。先生の返事は恐怖の山の蔭に身を潜めているのである。
怪しい男は五色の花模様の上衣を振って身を起した。そして台の上の女の裸体に歩み近づいた。上衣の紐の流蘇《ふさ》は床の上を曳いて、血痕を留めた。男は平手で肌を押さえて、指を開いて皮膚を緊張させた。「どうです、御覧なさい。いい体だ。Experimentis, demonstrationibus et studiis の恰適《こうてき》の材料ですね。あなたの専門にしていられる腎臓と肝臓との研究は、余程進歩することになるでしょう。まあ、わたしの受け合った為事《しごと》だけは迅速に確実にやってあげたと云うものでしょう。」
「そこでわたしの方からはどんな報酬をいたしたら。」
先生の尻声の切れぬうちに、寛い上衣の男は早速答えた。「それは極めて簡単な、容易な事ですよ。わたしの骨折に比べてみれば、お話にならないくらいのものです。外でもありません。あなたはあす例によってあの尼寺へ往かれるはずになっていますね。あれをおやめ下さい。するとわたしが代理になって往って、尼達に刺絡《しらく》をしてやりますから。」
「どうもそれはむずかしい事です。一体あなたは医師でおいでになりますか。ランセットをお使いになることが出来るのですか。尼達が健康を損ぜないで、戒律を持して行くにちょうどいいほど、血を抜いてやらなくてはならないのですが。」
「いや。決してあなたの名誉を毀損するような事はしませんよ。わたしは素人や山師のような事はしない。学術家としてやるのです。その辺は御心配には及びませんよ。」
「でもあなたは医師でおいでになりますか。」
「まあ、少くも似寄りのものですよ。殊に刺絡だとか、瀉血《しやけつ》だとか云う事に掛けては、身不肖ながらわたしくらい巧者なものはないですよ。」
先生の思慮は諾否二つの決心の間をよろめいている。ウェロニカの裸体を、その放っている光に照して見れば、解剖台の上で尊重すべき、あらゆる性質を兼ね備えている。年来疑いを存じていた緊急問題が早く解決したいので、器械箱の刀が手に取りたさに、指尖《ゆびさき》がむずむずしている。
「ですがな、ですがな。どうも不可能だと云う事が余り見え透いていますからな。まあ、わたくしはあなたを十分信用するとしましょう。あなたが確実な素養を持っておいでになるとしましょう。あなたがこの尼達のためになる小手術を造做《ぞうさ》無く、手際よくやってのけられるものとしましょう。しかし他の一方から見ますと、尼寺の人達が見ず識らずのあなたに手術を托せようとは、どうしても思われませんからね。わたしは人選せられて、官衙の許可を得て、毎月一回の刺絡をすることになっているのです。わたしはあの尼寺に立ち入ることの出来る唯一の男性の人間です。第一あなたはあの処女ばかりの籠もっている城廓の門にお這入りになることが出来ません。縦《よし》やお這入りになったところで、目的をお遂げになることが出来ません。」
「いや。その故障は皆あなたが拵《こしら》えているのです。それは人間の思量の遅鈍から生じているに過ぎないです。」ウェロニカの裸体が燐光を放っている解剖台の上で、寛い上衣の男の黒い指は、論戦の敵手《あいて》を諭すような形に竪《た》てられた。論戦には経験のある先生が、その手附を見て、人間の思慮の合法的で欠陥のないことをあくまで説明しようとした時、寛い上衣の男は先生に口を開かせずに、先生の抗弁を萌芽のままでむしり取った。
「あなたの思量では、それが不可能に思われるのですね。それはあなたが目撃したことがないからです。そこであなたに見せて上げるとしましょう。まあ、御面倒ながらわたしをよく見て下さい。」
面倒も何もないが、途方も無い、気味の悪い事を見せられはしないかと云う疑懼《ぎく》があるので、先生は不精不精に寛い上衣の男の姿を見た。
先生は現に書斎の中に、この恐るべき寂莫の中に、ただ一人でいる。否。その寂莫が一層恐るべきものになったのは、我と相対する第二の我が存在するためである。創造的威力の奇怪なる作用によって、医学士オイゼビウス・ホオフマイエルは忽然二人になって、それが相対して立っている。その二人のどこが違っているかと云うと、あっちは微笑しているのに、こっちは戦慄している。それからあっちは散歩杖の銀の撮《つま》みを腮《あご》の下に当てがっているのに、こっちはぐたりとなった乗馬靴を脇の下に掻い込んでいるだけである。
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第二のオイゼビウス先生が云った。「どうです。この姿で往ったら、尼さん達が這入らせないとは云わないでしょう。かねて依頼してある、官許になっている先生をも這入らせない事にしたと云えばそれまでですがな。まさかそんな事を言うはずもなく、そうしたらまた用も足りないわけですからな。」
第一のオイゼビウス先生は何やらつぶやいたが、全く途方に暮れた心持をそのつぶやきの背後に隠すことがむずかしかった。何から何まで似ているのが恐ろしいほどである。物の言振りの廻りくどいのも似ている。襦袢《じゆばん》の袖口が嗅《かぎ》烟草《たばこ》によごれているのも似ている。膝切のずぼんに金具止の靴を穿《は》いて脛の痩せたのも似ている。左の眉の上の疣《いぼ》もある。その下の腮《あご》の黒痣《くろあざ》もある。それを見ると、沈着自慢の先生の精神もぐらつきそうになって来る。先生が気を取り直して、豊富な用語によって、この場合にふさわしい弁証的談論を試みて、お茶を濁そうとするに先立って、残酷なほど似た鏡の影はまた口を開いた。
「まあ、このくらい似ていれば、あすあなたの代理になって、尼寺へ往くことをお許しになっても宜しいでしょう。高慢らしいが、あなたの御職務を辱《はずかし》めるような事はないです。尼さん達に手術をいたす plenam potestatem を御委任下さるでしょうな。全権をですな。御猶予になるようなら、御注意しますが、現行法によって契約は御履行なさらなくてはなりますまい。わたしの方からは労力をお受けになったのですからな。」
第一のオイゼビウス先生は遁道《にげみち》を見出すほどの余裕がないので、第二のオイゼビウス先生にとうとう全権を委托してしまった。
「そんなら結托のしるしに握手を願いましょう」と、第二の先生が云った。
第一の先生は顫《ふる》う手尖《てさき》をさし伸べた。
しかし第二の先生がまだその手を握らぬうちに、全く思いも掛けぬ事が出来た。亡くなった処女ウェロニカ・フウベルが突然解剖台の上で起き上がった。そして両脚を台の縁からすべり落ちさせて、左の手で隠すべき処を隠しながら、右のぎごちない臂《ひじ》を伸ばして、第一の先生を遮り留めようとした。
この音も無い運動が、第二の先生の激怒の村雨《むらさめ》を催し起した。「利いた風な尼っちょ奴《め》、おとなしく寝ているのだ。お前の知った事ではないに、手出しをすると云う事があるか。怪しからん、出過ぎた振舞じゃ。今にお前の番も来るのじゃ。下司奴《げすめ》。De mortuis nil nisi bene なんぞと、それで云われた義理かい。寝ていろ。」爆発のような激怒の尻声は不平の鳴《めい》になって、最後の「寝ていろ」はまた叫ぶように響いた。そしてその叫声と共に、第二の先生は杖の頭をもって、死骸の乳房の間を撞《つ》いた。
ウェロニカの死骸は解剖台の上にぱったりと倒れて、それきりまた動かずにいた。
第二の先生の出した手を、第一の先生が握った。この時は相手の手が烙鉄《らくてつ》でも握らずにはいられなかったのである。
黒洞々《こくどうどう》たる夜を隕星《いんせい》が穿つように、哄笑の声が室内に迸《ほとばし》った。そしてすぐそのあとは沈黙に戻った。窓の外の風信旗の旗竿のがたがたがまた聞えるほどである。
この時その笑声に粉砕せられて飛び散ったか、またはその沈黙の暗い漏斗に呑み込まれたかと思うように、第二のオイゼビウス先生の姿は消え失せた。
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尼寺の門の扉にアダムとエワとの浮雕《うきぼり》がある。その間の所に門番の婆あさんの覗く穴がある。それがけさはもう三度開いた。
円い龕《がん》のような壁の窪みに、背の曲った靴屋がすわっていて、この横町に労作を見せびらかしている。パン屋の門の、敷石から築き上げた踏段には、朝のパンを焼いてしまって、午後のパンをまだ焼きはじめぬ暇を偸《ぬす》んで、主人がぬっと現れて、拇指《おやゆび》と示指《ひとさしゆび》とで鼻をいじりながら、暝想に耽っている。肉屋の狗《いぬ》は人の往来に頓着せずに、横町の敷石の上に前足を長く伸ばして寝ていて、ちっとも動かない。
尼達のいる所に往く道は、素樸な信仰と幼穉《ようち》な意匠とで、門の扉に彫ったアダムとエワとの間を穿って通じている。アダムとエワとは、男女の相違はあっても、体の恰好に格別変ったところもなく、化石した楽園の木蔭に立っている。その木の枝が門の上で入り違って、一しょになって、木葉と木実と、その交錯の中に編み籠まれた禽獸とが、簡単な、平凡な書物の象形文字のごとくに見えている。それを読めば、この家を建てさせた主人も、建築家も、彫塑家も共に享楽の無邪気を有していたこと、それを神意に《かな》うものと信じて安心していたことが分かる。
尼ウルズラが、自分の背後《うしろ》の廊下一ぱいになって附いて来た尼バルバラに言った。「まだ先生は来られませんね。時間を厳重に守る癖が附いていますと、こんな勘弁の出来ない、ずるい、事をせられますのが、どうも。」
「そうですとも、そうですとも。」こう云って、バルバラは狭い廊下で背後《うしろ》へ向き返ろうとしたが、体が両方の壁に支えて動かぬので半途で罷《や》めた。原来《がんらい》バルバラは安心の力で身の宮殿を尋常の三倍の大きさに推し広めているので、偉大なるものに伴う小なる不便を、喘ぎつつ忍ばなくてはならない。バルバラは自己の心と、うるさく動揺して息《や》まぬ周囲の外界との間に、厚い壁を築いて、たとえば不思議な布団にくるまれた、喘息病みの狆《ちん》のごとくになっているのである。
ウルズラはこうしていては職務が済まぬと思ったので、力を入れて背後の障礙《しようげ》を押した。バルバラは廊下を押し戻されて小さい園に出た。
ここには少しいじけて育った木立がある。この塀の内にいながら、実を結び、種を生ずるのが相済まぬと思って、恥じ入っているらしく見える木立である。この木立の間で尼達は生涯を送っているのである。
尼達の中で、ドロテアは空想家である。この人のためには、けちな赤すぐりの木の叢《むら》がって生えているのが、アルミダの園である。片羽になった梨の木二三本の下の、疎《まばら》な蔭が、セイロン島の鬱蒼たる林である。アガテは意地悪である。この小さい境内で出来る一切の事、外界からこの境内へ紛《まぎ》れ込む、けちな、偶然の出来事がこの人の鍼のように尖った罵詈《ばり》の的になる。このアガテの罵詈を、アナスタジアと云う謙遜な尼がいて、わざと一々身に引き受けて恐れ入っている。この二人の中を調停してくれる、テクラと云う、まめな尼もいる。誰かの役に立つように働こうと云う焼石を懐にしたような熱情を持っているのである。その外、アンゲラと云う鬱憂家がいる。いつも涙腺を腫らして尼達の中をうろついているのが、譬えば避くべからざる禍を期待する思量のごとくである。この人は難行苦行がしたさに、素足で尖った小石を踏んで歩く。
尼寺は昔の貴族の邸であるが、その室と云う室は固《もと》より、塀の内の園まで、全然生活の目的の闕《か》けている心持がみちみちていて、その心持がおお勢《ぜい》の尼達の血を煮詰まらせる。そしてその血が医者のランセットを呼ぶのである。
それでもまだ、この尼寺のどこかの隅、この尼達の心のどこかの襞に、色の蒼ざめた、顔をそむけた怪物が潜んでいる。この怪物に「希望」と云う名を附けるのは、ほとんど無理であろう。しかしとにかく塀のあなたから何物かが来るだろう、上の方の赫《かがや》く夏雲のあたりから降りるか、下の方の囁く土地から湧くかは知らぬが、何物かが来るだろうと云う期待である。このいじけ切った期待は、己《おのれ》が曾て希望と称していたと云うことをだに、今は思い出そうとして努力する甲斐がないのである。
尼寺の首座をバジリカと云う。目的が全く闕けていると云う精神が、この尼の一身に凝り固まっている。そこでウルズラが先生の不参を激して訟えた時も、バジリカは冷然たる無頓着を盾にして、異様な慣用の口吻をもって、それを鎮撫した。「お前さんはその事件を、余り忙《せわ》しく上がったり下りたりする秤《はかり》の皿に載せるのだね。いずれ先生は来ますよ。来るのが義務なのだからね。これまでもあの先生は、理由がなくて、義務を果すことを忽《ゆるがせ》にはしなかったのだから。」
世話焼きのテクラが、この時赤すぐりの木の二本を分けて出て、「でも使だけはやって御覧になってはいかがでしょう」と云った。
沈鬱なアンゲラは託宣めいた警句を吐いた。オイゼビウス先生は死んだのだと、解すれば解せられる句であった。
とにかく尼達は皆興奮していて、それをただ僅かに掩い隠そうとしていた。そこで言い合せたように、首座バジリカの身のまわりに集まって来て、彼此《かれこれ》と評議をし出した。めったに出て来ぬドロテアさえ、セイロンの森の中から這い出して来た。尼達の生活の一箇月の絶頂が、きょうの療治であるのだから、来るはずの人の来ぬだけの小事件であるが、一同おなじ心になって、身を震わせて待っている。謙遜なアナスタジアが溜息を衝くのも、粘液質のバルバラが喘いでいるのも意地悪のアガテが黙り込んだのも、心にかわりはないのである。
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鐘が吠えた。門に立っているアダムの石の手に撞木《しゆもく》を持たせてある鐘である。この鐘の音は尼寺の場面の変る知らせになっている。この鐘の音は尼達に冷静を装ってオイゼビウス先生を迎える余裕を与える機縁になっている。
ウルズラがテクラに囁いた。「まあ、安心ですね。」
テクラは相手の詞《ことば》を続ぎ足した。「やっぱり先生は来たわね。」
ウルズラは頷いた。
次いで願望の無い安静が、来るものを待ち受けた。
先生は微笑みながら首座の前に進み寄って、恭《うやうや》しく礼をして、遅刻の詫言《わびこと》をした。「つい火急な用事が出来ましたので、遅刻いたしましたよ、(テクラは用事と云う詞を繰り返して、溜息を衝いた。)首座様にも外の方々にも、事新しくおことわり申すまでもないのですが、実際難渋な、さし置きにくい用件でしたよ。Negotia でしたよ。そうでなければ、不快な為事《しごと》ばかりいたしているわたくしがためには、こちらのお勤めは沙漠中の緑草清泉なのですから、遅刻などはいたさないのですが。」
「いいえ。忍耐はわたくしどもの持前でございます。強いて急ぎます事でもございませんから、お待ち申しておりました。」首座はこう云って、帯にかけてある数珠を、尖った指でいじった。
先生は云った。「実はこう申すもいかがですが、わたくしの確実に研究いたしたところでは、少しお待たせ申したのは、かえってよろしいのですよ。その間に血が、なんと申したらよろしかろうか、まあ、少し熱度を加えるですな。俗に申せば、お聞き苦しいかも知れませんが、沸きますのです。煮えるのです。すると泡が皆上に浮いて来ますから、それを取ってしまえば、不浄な物が一《いつ》頓《とん》に傾け去られるわけで。」
尼達には先生の譬喩《ひゆ》が善く分かった。それは誰も毎週交代で、台所の為事《しごと》をするのだからである。
先生は印籠《いんろう》形の烟草入を出して、尼達の尊信の視線を一身に受けて味いながら、ゆるゆる嗅《かぎ》烟草《たばこ》を鼻に詰めた。
「御都合次第で」と首座が云って席を起った。そして先生を案内した。
先生はいつものように半歩を隔ててあとに附いて行く。
そのあとから尼達が行く。見苦しい、黒い尼達の衣裳が、園の草木の間にざわつく。その音がじれったがって口小言を言うように聞える。
尼寺でレフェクトリウムと云う食堂の入口に来た。先生は立ち止まった。丁寧に会釈《えしやく》をして、尼達を先に入らせた。先生は顔に微笑を湛えて、尼達を一人一人数えて見て、闕席《けつせき》者の有無を調べた。それから最後に食堂に這入った。
食堂は赤裸々の、殺風景な一室で、それを白壁が無愛想に囲んでいる。きょうはそこに刺絡の準備が幅を利かせている。軟かな毛を詰めた、古風の手術椅子が、両手をひろげて待っている。血の灑《そそ》ぎ入れられるのを待って居る、円い盤がある。早く生彩のある赤い色に染めて貰いたがっている、色の蒼ざめた巾《きれ》がある。大桶に湛えてある水は、期待の戦慄のために、表面に圏《わ》をかいている。この諸道具と尼達とに取り巻かれて、先生は小卓の上に、研ぎ澄ました外科器械を出して置いた。
「器械をいじって、いやな音をさせるじゃないか」と、空想家のドロテアが囁いた。
「あれがお医者の音楽さ」と意地悪のアガテが答えた。
先生がアガテの顔をきっと見て頷いた。
アガテの意地悪の熱がこの一目で冷されて沍《さ》えてしまった。
先生はアガテの詞を繰り返して云った。「医者の音楽だとお云いでしたね。そうです。医者にだって音楽が無いに極まってはいません。わたしは外の医者よりは物を深く研究しています。そこで医学と音楽との関係が分かったです。音楽は運動です。生活の過程も運動です。同類は相感ずるですね。」
尼達が聞いていると、先生の詞は不思議の歌謡のように食堂の隅々まで響き渡って、そこから諧音になって漂って帰って来る。尼達は愉快に感じた。そしてその諧音の間を、人を刺戟する、刃物の相触れる音が、尖鋭に透って来る。尼達はうっとりとなった。
たちまち首座の尼が叫んだ。「あれ、お肖像が。誰がお肖像を壁の方へ向け替えたのだえ。」
この食堂の壁には、名匠ブルクマイエルのえがいた、十字架に上《のぼ》されたクリストの肖像が懸けてある。これは世間の騒がしさを避けて尼寺に入った尼達の婿君で、いつも尼達のこの食堂で食事をするのを、監視していたのである。その肖像が今広間に顔をそむけて、壁の方へ向いている。
驚き呆れた尼達の中に、先生は鋼鉄の如き冷笑を頬に浮べて立っている。
首座が肖像の前に歩み寄って、額を前へ向け替えた。そしてさも骨の折れた事をしたあとで疲れたらしく、自分の席に帰った。
さて席に着こうとして、ふと先生の方を見ると、その容貌が異様に変化していたので、首座は驚駭《きようがい》の重りに圧《お》されてよろめいた。
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先生の腮《あご》は突出して来た。そして薄い、引き吊った脣の間に、尖鋭な歯の二列が、鋸のごとくに剥き出されている。嗅烟草を拈《ひね》って、持って行きそうにしている鼻は、蝙蝠《かわほり》の鼻に似ている。骨立した顴《ほおぼね》の上の洞窟の内を、尼寺の首座がおそるおそる覗いて見ても、活きて物を視そうな、眼球は見えない。首座の窺い得たところは、譬えば到る処に悲鳴の声を聞く、畏《おそ》るべき長夜のごとき、闇黒の睛《めのたま》である。
尼達は平素から首座の言動に附随し模倣する習いになっている。今首座バジリカが瞠目《どうもく》しているのを見て、尼達も皆上半身を前へ乗り出させて瞠目《どうもく》した。この時どの尼の咽喉にも、ねとねとした膚《はだえ》の蝦蟇《ひき》が一匹ずつ舎《やど》って、それが次第に身をふくらませる。恐怖の蝦蟇である。咽喉は狭くなって、吸う息も吐く息も、艱《なや》みながら僅かに通ずる。それに尼達の背後《うしろ》には、肉欲と渇望とのあらゆる妖怪が詰め寄せていて、それが法衣《ほうえ》の袂を引き、面紗《めんさ》の端を搴《かか》げ、尼達の霊を鞭うつに罪悪の笞《しもと》をもってする。
いつもの先生は吝臭《けちくさ》い学究の態度を持っていたのに、今の先生は看る看るその爛熟した特徴を失って、尼達の中央に立ちながら、影の長ずるごとくに長ずる。そして天井の高いこの食堂にさし込むだけの光明を、だんだん押しやり逐《お》い除けてしまう。日影の壁や床の上に印する明るい線画が、その井然《せいぜん》として整った、天然の巧を奪われて、悶え苦しみつつ捩《ね》じ曲げられて、不安らしく挙《こぞ》り寄って、苛責に艱《なや》む醜怪な物象のように、紅白の床板の上を匍匐《ほふく》して、とうとう窓から外へ逃げ出して、闇黒の葛錬《くずねり》に吸い取られる。窓の外でも、園内の空気が濁って来て、黏気《ねばりけ》のある液体のように艸木の間を流れ、艸木は黏稠《ねんちよう》な液に閉じられたものらしく、枝と云う枝、葉と云う葉が、世にあるまじき、不自然な凝り固まった姿になる。
「一体血には血を制馭《せいぎよ》する力があるものですよ」と、先生は云うや否や、尼テクラの頸を引き寄せて、笑談《じようだん》のように、鉄のごとき指の爪を肌にちょいと立てた。するとその爪の触れた所々から、細い糸のように血が迸《ほとばし》り出た。
たちまち叫んだものがある。絶望したような、高い、烈しい声である。「あれ、御影像が、御影像が。」
救世主の肖像がまたくるりと顔を壁の方に向けている。
この時尼達は自分等がもう主に見放されて、他の残酷な威力の下に屈したのだと云うことを悟った。バジリカをまっ先に、数人の尼達は戸口に向いて走った。しかし首座が手を戸のつまみにかけようとすると、戸のつまみが蛇のような鎌首を擡《もた》げて、毒牙で腕に噬《か》み附いた。室内にありとあらゆる装飾が、皆蛇のように身をうねらせて、小さい口を開いて、烟を吐き、音を立てる。窓へ駆け附けて、園へ逃げ出そうとした尼達は、黏稠に凝り固まった空気に遮り留められて、黐《もち》に着いた蠅のようになった。
今や尼寺の食堂は牢獄になっている。そして忌わしい威力が性命を滅尽しようとしている。尼達の物狂おしく逃げ迷うのを、先生は脣を上へたくし上げて見やっている。薄い脣が咬み合せた鋸の歯の上を滑って開かれたのである。掴まえておもちゃにせられているテクラの頸は、もがけばもがくほど伸びる。どこともなく意地悪く嘲り笑うような音楽が聞えて、卓の上の大小の刀が、二本ずつの組になって、音楽の拍子に乗って、音を立てながら、かたのごとく巧者なメニュエットの踊を踊る。
先生は云った。「皆さん。どうぞちょいとの間わたくしの云うことをお聞き下さい。そのわたくしの申す事はごく短いですから、本当の為事《しごと》が格別遅くなるわけではありません。」
医師の威圧に引き着けられて、尼達はまた椅子の圏《わ》に立ち帰った。そして半死の群をなして先生を取り巻いた。
しかし先生が請待《しようだい》するらしい手真似をしたのに服従したものは、ひとり尼達ばかりではない。尼達が立ち帰ると同時に、別に一種の影像の運動が起った。食堂の塗壁、塗天井はその色が濃暗になった。かつて一たび葬られて、今また覚めた色彩が、生機を恢復して震慄《しんりつ》している。凡庸な塗色の平等な緊縛の下に蟄伏《ちつぷく》していた形象が蠢動《しゆんどう》しはじめた。白い塗色が裂ける。そしてその断片の消え失せると共に、底からいきいきした絵姿が浮ぶ。これは過ぎ去った時代がこの広間を飾った歓楽と受用との図像である。そのあらゆる面白げな裸体、壁上の群より響くあらゆる放埒な戯謔《けぎやく》が、半死の尼達の団欒の上に投射せられる。雲の上に身を横えている女等が、笑みつつ物めずらしげに頭を擡げる。意地悪な童子等が、浮む瀬のない尼達に指ざしをし、爪弾《つまはじ》きをする。惑溺している青年等が、抱いていた歌《かがい》の女の腰を放して、黄金の杯を挙げて尼達に見せて嘲る。この画中の、遊戯している人々の笑声が、医師の器械の音に交って響く。すべて年久しく白堊《はくあ》の下に埋もれていた別世界が、再び醒覚して、芬香《ふんこう》と光明との雨を降らすように、気勢と喧噪との発作を現すのである。そして壁と天井とから、「サン・シモンさん、御機嫌よう」と云う叫びが聞える。
「ご遠慮には及ばない。さあ、皆降りておいでなさい。」先生はこう答えた。
「降りましょう。降りましょう。」この不思議な家の門に、アダムとエワとの姿で、意味ありげに表出してある、無邪気な官能的快楽が、ここに醸されて濃厚な欲望となり、罪障めく多様多姿を成してかの標榜に見えている天国の淳樸《じゆんぼく》を、偽善として打ち消している。肉慾の限りが千様万態に現じて、ここに壁や天井から降りて来て、浮む瀬のない尼達を囲繞《いによう》する、粗暴な見物人の圏《わ》になるのである。この降りて来た画中の人物の群は、舞台で役々の配置をしたように、組み合い入り交って、何か秘密な合図を待って、更に新しい配置に遷《うつ》ろうとしているらしい。その華《はな》さき栄えている肉の間には、ほどかれた粧飾の花の鎖、縒《より》を戻された点綴《てんてつ》の蔓の網が、天井の面から鬆《ゆる》んで離れて、ぶらぶら垂れかかっている。
この生を喜ぶ狂態の群に取り巻かれて、死骸のごとくになった尼達は凝坐したままでいる。恐怖の光がまだその目を去らぬのである。
尼達の団欒の中央には、偽物の先生が立っている。今袖口に附いた嗅煙草の塵を振り落して、やはり医者らしい手附で、テクラの伸びた頭を押さえてはいるが、時々は鋸に似た上下の歯を咬み鳴らしたり、鉄に似た指の爪を揮《ふ》り動かしたりして、人の胆を冷させる。
たちまち先生は検事が罪人を告発するような口吻で語り出した。「尊敬すべきバジリカ首座、並に同じく敬愛すべき姉妹各位。わたしの本名は、もう故《ことさ》らにあなた方に名告《なの》ってお聞かせ申すには及びますまい。なぜかと云うに、その辺に降りて来られた諸君が、挨拶をせられた時、わたしの名を呼ばれたからです。わたしの名の彫り附けてある墓石は、あなた方も御覧になったでしょうから、お思出しなさることが出来ましょう。そこでその男が現《うつつ》にこうした上機嫌で、達者な様子をいたしているのは、あなた方のためには、多少不思議に見えるでしょう。ところが実際わたしは至って達者です。あの世間で医者と云う、わたしの友人どもが、死と名附けている奴に、わたしは出逢ったには相違ないが、別にそのために迷惑もいたしませんでした。わたしの方から多少の交換問題を提供すると、死と云う奴は、自分の食卓の上から、わたしに一番旨い物を分けてくれます。そこで腐敗と云う事を境界に立てて、その接触区域より手前の方へも、死はわたしにある優勝権を分与しています。しかしその権利をわたしがあなた方の上まで及ぼすのはなぜだと、あなた方は疑われるでしょう。わたしはこのわたしの《あご》に掛けてお話申すですが、腐敗の接触区域より手前にも死骸はあります。その死骸として、わたしはわたしの権力をあなた方の上に施すのです。」
取り巻いている女どもがエヴョオ、エヴョオと云う歓声を発した。
尼達は一層体を小さくして椅子に埋まった。その体からは最後の希望の糸が絶ち切られたらしい。
サン・シモン――サン・シモンと云う呼声が起った。憎悪が凱歌を奏しつつ、火花を飛ばす笞《しもと》の革のように、憤怒の詞を絶望した尼達の身に浴せ掛ける。残酷の無礼講の醜怪が、画かれた肉体の武器になって、その人物を生ける屍に嗾《けしか》けずには已《や》まない。裸《らてい》と、それから涎《よだれ》を垂らすような肉の欲望とが、陣容を整えて、ひしひしと責め寄せて来る。
しかしこの戦場の将帥たる先生は一揮してそれを斥けた。「ここはおれの祭の場《にわ》だ。誰でもおとなしく傍看して暖まりを取っているうちはいいが、その界《さかい》を一歩でも踏み越えてみろ。おれがすぐに壁や天井へ逐い上げてしまうぞ。」
さて恐怖に死のうとしている尼達をずらりと見渡して、先生はお辞儀をした。先生にはその恐怖が愉快に感ぜられて、機嫌がよくなると見える。先生は本当のオイゼビウス先生の口調を真似て云った。「あなた方に申し上げますがな。首座バジリカ様の御許可を得まして、恐れながらこれからお望みの刺絡に取り掛かりましょうかな。こん度は少したっぷりいたしますよ。」
先生はじたばたするテクラをやっと放した。引き伸ばされて、穴を開けられて、笛のようになった頸の尖《さき》には、両眼を閉じた頭が、ぶらぶらと附いている。
先生は脱殻のようにぴしゃんとなったテクラの体を踏み越えて、首座の前に進んだ。メニュエットの舞踊のような歩調で、三歩進んで、一歩退いて、また少し進むかと思うと、丁寧に礼をして、鉄の爪をバジリカの肩に掛けた。そして鋸の歯を植えた大口を、かっと開いてバジリカの頸筋に《くら》い附いた。
天井や壁から降りた騒がしい見物人は、金や鼓を鳴らして、吠えるような声を立てて、慾望の溢れる体と体とで、上を下へと揉み返している。画いた体の創から、出ぬ血を吸おうとして、煩渇《はんかつ》に堪えないのである。
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アダムとエワとを彫った門の前の狭い巷《こうじ》には、異様な物音に驚かされて、人立がしている。尼寺の内から人声物音がして、金鼓の響がその間々にはっきり聞えたからである。
靴屋と狗《いぬ》とは頭を擡《もた》げて、互に顔を見合って、強いて故《もと》の恬然《てんぜん》たる態度に復ろうとしている。しかし物音の中に、いかにも人を脅すような、人を不安に陥いれるような調子があるので、とうとう狗は尾を股の間に挟んで、こそこそその場を逃げた。靴屋は起ってパン屋の主人と一しょに、小さい露天会議の中心になった。
風聞は大いなる翼を振って市中に飛んだ。笑うものがある。懼《おそ》れるものがある。珍しがるものがある。心配するものがある。そして箒の塵を掃きやるように、擾乱の群をアダムとエワとの彫ってある門の前に駆り集めた。
口の悪い男が云った。「尼さん達に魔がさしたのですね。」
信心者が云った。「でも一しょう懸命に魔にあらがっていなさるのは、あの音で知れますね。」
群集は沸き立つ鼎《かなえ》のように、両側の家の上に煮え越しそうになった。
その時群集の中を、手を振って叫びつつ来る男がある。群集はその男に肉薄した。その男はオイゼビウス先生である。
靴屋は不思議に思った。さっき尼寺に這入って往った先生が、まだ出ては来ないと思っているのに、その先生が背後の方から来たからである。先生の仮髪は歪み傾いている。
先生は杖を振って、両手を尼寺の門へさし伸ばす。
しかし誰にも先生の心持は解せられない。楽園の石の木の下では、アダムとエワとが微笑んでいる。何事をもすべて知っていて、頓着しない、残酷な微笑である。生をも死をも、仮面戯中の人物と視る、深秘に通暁した人の微笑である。
群集の興奮は泡立って門に迫った。しかし不思議にも誰一人門を破って進もうとするものがない。
この時門の扉がさっと開いた。群集は押し戻されて、中央に一条の道が出来た。古家が口を開いて秘密を語ろうとするのである。
門内から寝巻を着た男が出た。この男は左右の群集に腮で会釈をして、ゆるゆる歩く。髑髏《どくろ》になった頭の上には、骨と骨との縫際《ほうさい》が犬牙交錯《けんがこうさく》の状をなしている。鞣皮《なめしがわ》のような脣が開いて、磨き上げた鋸のような歯が見える。口角からは二条の縷《る》をなして鮮血が迸り出る。街《ちまた》の塵の上を、花模様のある寝巻の流蘇《ふさ》が曳き摩《ず》って、凸凹のある石畳の上に、湿った赤い痕を留める。
その上を真昼の日がかっと照っている。それを見ている群集に、誰一人声を立てるものがない。ただ寝巻の奥の時計が、はっきりこちこちと鳴るばかりである。これは群集の静謐《せいひつ》を罵る声で、また時間の経過を象《かたど》る音である。
寝巻の人の後影が見えなくなった時、群集は一斉に叫んだ。胆力はここに蘇って、群集は尼寺の門内へ押し掛けて、寺の中の八方に散った。その一群はオイゼビウス先生を中に包んで、食堂に闖入《ちんにゆう》した。
ここには尼達が前の団欒のままでいる。もう空虚になった中心点に引き附けられて、まだ少しも動かずにいる。見れば椅子の上の肉体は皆萎びてしまって、脱殻になっている。衣裳と皮膚との束になっている。一点の血も滴らせずに、恐るべき刺絡が行われて、中実は亡くなったのである。
周囲の壁は異様に変じている。これまでは白く平に塗ってあったのに、今見れば、強い画筆で、日のかっと照った野原の上に写し出された人物絵になっている。放縦な快楽、バクハナリアのよろめき、官能の狂奔が、運動と色彩とに富んだ図に写し出されているのである。肥満した女の裸体二つの間に、眼球を抉出《えぐりだ》したあとの眼《がんそう》の如き龕《がん》がある。その奥から救世主イエスが尼達の脱殻を眺めている。イエスの顔、頸、胸には外科の針や刀がいくつともなく立っている。的にして投げ附けたものかと思われる。この像を熟知しているオイゼビウスは、イエスの顔がただ縦横に切られたばかりでなく、別様な恐ろしい表情になったのを認めた。それは錯《さくがく》の余りに叫ぼうとして、結んでいた口を大きく開いたので、容貌が全く変じたのである。
アンドレアス・タアマイエルが遺書 シュニッツラー
小生はいかにしても今日以後生きながらえ居ること難く候。何故と申すに小生生きながらえ居る限りは、世間の人嘲り笑い申すべく、誰一人事実の真相を認めくるる者は有之《これある》まじく候。仮令《たとい》世間にては何と申し候とも、妻が貞操を守り居たりしことは小生の確信するところに有之、小生は死をもって之を証明する考えに候。今日まで種々の書籍について、この困難なる、また疑団多き事件につき取調べ候処、著述家の中には斯様《かよう》なる事実の有り得べきことを疑う者少からず候えども、知名の学者にしてかくのごとき事実の有り得べきことを認め居る者も少からざるよう相見え候。マルブランシュの記録するところによれば、某氏《なにがし》の妻、聖ピウスの祭の日にピウスの肖像を長き間凝視し居りしに、その女の生みし男子の容貌全くかの肖像に似たりし由に候。生れたる赤子はかの聖者のごとく老衰したる面貌を呈し、生れし時、両手を胸の上にて組み合せ、開きたる目は空を見居り、肩の上に黶子《ほくろ》ありて、聖者の戴《いただ》ける垂れたる帽子の形になり居りし由に候。もしこの記者マルブランシュの著名なる哲学者たり、デカルトの後継者たるをもなお信じ難しとなす者あらば、小生は更にマルチン・ルウテルの伝えしところを紹介致すべく候。ルウテルの食卓演説の中に左のごとき物語有之《これあり》候《そうろう》。ルウテルがウィッテンベルヒに在りし時、頭の形、髑髏に似たる男を見しことありて、その履歴を問いしに、その男の母は妊娠中死骸を見て甚しく驚きしことありし由に候。その他ヘリオドオルがリブリイ、エチオピコオルムに記載したる物語のごときは、最も信を置くべきもののごとく存ぜられ候。エチオピアの王ヒダスペスは后ペルシナを娶《めと》りて十年の間子無かりしに、十年目に姫君誕生ありし由に候。しかるにその姫君は白人種に異らざりしゆえに、父王に見せなばその怒りに触るべしと思い、密《ひそか》に人に托して捨てさせし由に候。さりながらその子を捨つる時、この不思議なる出来事の原因を記《しる》したる帯を添えて捨てさせし由に候。帯に記したるところは、后が王の寵愛を受けし場所は王宮の花園にして、そこには希臘《グレシア》の男女の神体を彫《きざ》める美しき大理石の立像数多《あまた》有りし由に候。后は王の寵愛を受くる時、常にその石像を見守りし由に候。今一つの事例は、千六百三十七年仏国《ふつこく》にて証明せられし出来事にして、これ等はこの類の事件を信ずる者の必ずしも無教育者もしくは迷信家のみにあらざることを証するに余りあるよう存ぜられ候。その事実は四年間良人に別れ居りし妻、一男子を生みしが、その女は始終良人と同衾する夢を見居りし由に候。当時の医師産婆等は皆かかる事実の有り得べきことを表白し、ハアウルの裁判所にても、生れたる男子に嫡出子のあらゆる権利を与えし由に候。ハンベルヒの著述『自然における不思議なる事実』の七十四頁にも似寄りの記事有之候。ある婦人の生みし子、獅子の頭《かしら》を有し居りしが、その婦人は妊娠して七箇月目に母と良人とに伴われて獅子使いの見世物を見物せし由に候。またリムビョックの著述『母の物を見ることによって生れし子の母の見し物に似る現象について』と云う書の十九頁にも、似寄りの事件有之候。この書は千八百四十六年バアゼルの出版に候。ある婦人の生みたる子の片頬《かたほ》に大いなる赤き痣《あざ》ありしに、その母の物語るところによれば、その女の住みし家の向いの家、産の二三週前に焼けし由に候。ただいま手紙を認め候時、小生はリムビョックの著書を目前に開き居り、筆を執る前にも種々読み試み候。この一書の中にはなお数多《あまた》の学術上に証明せられたる似寄りの事件記載しあり候。これらを見る時は、小生の妻が貞操を守りし者なること十分に証明せらるるものと存ぜられ候。嗚呼《ああ》我が愛する妻よ、御身は小生が先立ちて死することを許さる可く候。何故と云うに、小生の死するは世間の人の御身を嘲り笑うを見るに忍びざるがために候。小生の遺書一度世に公《おおやけ》にせらるるに至らば、世の人の御身を笑うことは止み申すべく候。この遺書を発見する人は、小生が之を認め候時、傍の室にて妻の安眠し居たりしことを承知せられたく候。良心に責めらるる如き人はかくの如く安眠することはあらじと存じ候。妻の生みし我子は、生れてより十四日目になり居り、やはり妻の臥所《ふしど》の側なる揺籃の内に、これも眠り居り候。この手紙を書き終り候わば、小生は妻子の眠り居る室に行き、二人の目を醒さぬように静かに二人に接吻してこの家を立ち出づべく考え居り候。かかる些末なる事を精しく認め置き候は、この手紙を読む人の小生を狂人と思うが如きことありては遺憾なる故、小生が虚心平気に将来のためを思い静かに死につく者なることを証明せんがために候。この手紙を書き終り候わば、夜の暗きに乗じて人跡絶えたる町をドルンバハに向ってずっと先まで歩み行く考えに候。この道は新婚のころ妻と二人にてしばしば散歩に行きし道に候。この道の行手には森あれば、その森に行く考えに候。この手続は熟慮したる上にて定めたるものに候。小生の精神の確かなることはこれらにて察せられたく候。小生の名はアンドレアス・タアマイエルと申候。当年三十四歳に相成候。墺太利《オオストリア》帝国の貯蓄銀行の役員を勤め居り、ヘルナルゼル町六十四番地に住し居り候。小生の結婚せしは四年前に候。妻は娶《めと》りしより前七年間の近附《ちかづき》にて、小生を愛し、小生の娶るを待つとて結婚を申込みし者を二人まで卻《しりぞ》けしこと有之候。その一人は千八百グルデンの俸給を受くる立派なる役人にて、今一人はトリエスト生れにて妻の里の部屋を借り居る医科の学生なりしが、青年の美男子に候。この二人の申込を拒絶せしによりて思うに、妻は富めるにもあらず、美しくもあらざる小生の約束を重んじて、永き年月を待ち居りしこと疑いなかるべく候。世の人は七年間小生のために辛抱せし妻が、一朝にして小生を欺きしもののよう風聞致し候えども、小生はかかることは信じ難く候。世の人は智慧足らず、人の不幸を見聞することを喜ぶ者なる故、小生の心中を察してくれざるものと思われ候。しかしこの書状を見たる上は、世の人も従来の判断の誤りなりしことを知り、妻の貞婦なることを知りて、小生の自殺を憐み、自殺せずともあるべかりしものをと申すならんと存じ候。さりながら小生より思えばこの自殺は必要に候。何故《なにゆえ》と申すに、小生の生存し居る限りは、彼等の嘲笑は止む時有之《これあ》るまじく候。世の人の皆嘲笑を事とするが中に、ただ一人は高尚なる思想より小生の心中を察しくれし者有之候。そは老医師ワルテル・ブラウネル氏に有之候。医師は小生に生れし子を見せし時、決して驚き給うな、また夫人の興奮する如きことをなし給うな、かようなることは世間にその類少からず、明日リムビョックの著書を君に贈りて君の疑いを晴すべしと申候。ただ今目前に開き居るはこのドクトル、ブラウネル氏の貸しくれし書籍に候。この書籍をドクトルに返却することを遺族に申残し候。その他には申残すべき事も無之候。遺言状は余程以前に認めあり、今日に至りてその内容を変更する必要無之候。何故と云うに、遺族たる妻は貞操を守りし女にして、子は我が嫡出の子なる故に候。その子の皮膚の色のいかにも異様なるは十分説明すべき理由あることに候。それを異様に解釈するは、世の人の無教育なると悪意あるとの致すところに外ならず、もし世の人にして智慧あり悪意なき者ならば、事実の真相は一般に承認せらるべく、小生も自殺するを要せざることと相成る可く候。不幸にして世の人皆愚にして根性悪しき故、誰も小生の言葉に耳を借すことなく、申合せたる如く嘲笑致し居候。妻の伯父グスタアフ・レンゲルホオヘル氏は小生の平素敬愛し居る人に候えども、初めて我子を見せし時、異様なる面持にて小生に目配せ致し候。我が生みの母も初めて孫の顔を見し時、小生に気の毒の感あるらしき様子にて握手致し候。小生の事務所に勤め居る同僚は、昨日小生が出勤せし時、互に顔を見合せて私語《ささや》き居候。小生の借家の差配人は平素目を掛け居る者にて、昨年のクリスマスにも機械の破損せし懐中時計を子供の玩弄物《おもちや》に致すようにと贈りやりしことあるものなるに、昨日門口にて出逢いし時、可笑しさを耐え居る如き顔付きを致し候。召使い居候下女は何か可笑しさに耐えぬ如くほとんど酒に酔いたる人かと見ゆる様子を致居候。町の曲り角なる荒物屋の主人は、小生が通り過ぐるごとに後を見送りしこと三四度にして、小生の通り過ぐる時、店に在りし知らぬ老婦人に向いて、あの男なりと、小生を指さし示し候。かくの如き有様故《ありさまゆえ》、この無根の風説の世間に伝わることの速さは想像の外に候。小生の平素全く知らざる人にして、何所《いずこ》より聞き知りしか、この風説を聞き知り居る者有之候。一昨日電車にて宅に帰り候時、車内にて老婆三人話し居るを聞くに、その話は小生の身の上に候。小生の名を称え居るを明白に聞取候。斯様《かよう》なる次第故、これに対して小生のなすべき決心はいかなるを至当とすべきか。小生とても有りとあらゆる人に向いて、ハンベルヒの『自然における不思議』を読め、リムビョックの『生れたる子の母の見し物に似る現象について』の書を読めと勧告することは出来申すまじく、またその人々の前に跪《ひざまず》きて、我妻の貞操を保ち居ることを承認しくれられたしと一々頼む訳にも参りかね候。事実はかのリムビョックの著書に有るとほとんど同一にて、妻は去る八月妹を連れて動物園に参りしこと有之候。そのころ動物園には黒人仲間滞留し居候。小生はその数日前実父の病気見舞のために田舎に帰り候。不幸にして実父は数週の後死亡致し候。その留守に妻は一人にて暮し居り、小生が帰宅せし折は妻は床に就き居候。妻は小生を待つこと余りに久しくなりて健康を害せしものなること小生の確信するところに候。小生の不在は僅かに三日間なりしに、健康を害するまで待ちくれしにても、妻の小生を愛しくれ候ことは察せられ候。小生は直ちに妻の臥所《ふしど》の縁《へり》に腰を掛け、この三日間をいかに暮し居りしかと尋ね候。小生のこの問を反復するをまたずして、妻は何事も包み隠すことなく精しく話しくれ候。事実の真相を明かにするために、その話を洩さず次に記し置き候。月曜日には妻は午前宅に居り、午後フリッチイを連れて買物のため町へ出で候。フリッチイは妻の妹にて真《まこと》の名はフリイデリイケに候。フリッチイは目下ブレエメンの港なる大商店に奉公し居る男と結婚の約束をなし居り、遠からずかの地に赴くはずに候。火曜日には雨のために妻は終日在宅せし由に候。この日には小生の参り居りし田舎も雨にて困りしことを記憶致し候。次は水曜日に候。この日妻はフリッチイを連れて夕方動物園に参り候。動物園にはそのころ黒人参り居り候。この黒人をば後九月になりて小生も一見致し候。友人ルウドルフ・リットネル夫婦、小生を誘いて日曜日の晩に参り候。妻は水曜日の事を思い、その時同行を拒み候。妻の話によれば、かの水曜日の晩ただ一人にて黒人の中に取残されし時ほど恐ろしかりし事は生涯無かりし由申候。何故一人にて取残されしかと云うに、そはフリッチイが忽然隠れ去りし故に候。この手紙は最後の手紙なればフリッチイの事を悪様《あしざま》に記さむは不本意に候えども、この事実は記さざるを得ず候。フリッチイに対してここにてしかと申残したき事有之候。もし今のままにて行を改めざる時は、ブレエメンに在る許嫁の良人は定めて不幸に感ずるならんと存じ候。かの日フリッチイは某君《なにがしくん》と小生の妻を捨ておきて、いずれへか立去りし由に候。某君は小生の熟知し居る人にて妻子もある者なるに、不都合と存じ候えども、ここに姓名を記す事だけは遠慮致す可く候。水曜日の晩は夏の末に有勝《ありがち》なる霧深き晩なりし由に候。かようなる晩には小生も動物園にて出会いしことありしが、芝生の上に灰色の靄《もや》立ち罩《こ》め、灯火の光これに映り居りしを見しこと有之候。思うに妻が一人にて取残されしはかかる夕《ゆうべ》なりしならむと存じ候。妻はかかる夕かの黒き髯簇《むらが》り生ぜる、赤き眼の驚くべく輝ける大男どもの群に取残されしものに候。妻はフリッチイの帰りを待つこと二時間なりしに、ついに帰り来らずして、動物園の門を閉ずべき時刻となり、已《や》むを得ず帰り来りし由に候。この事実は小生が帰宅して直ちに妻の臥所の縁に腰を掛け居りし時、妻の物語りしところに候。その時妻は小生の頸に抱き付き震い居り、両眼潤《うる》み居り候。その時は妻も今日の如き事あるべしとは夢にも知らず、小生もまた当時何事も知らざりしものにて候。もし小生が妻の妊娠し居ることを知り居たりしならば、たとえ実父の許に帰り候とも、妻が霧深き夕妹を連れて動物園に行く如きことをば許さざりしならむと存じ候。何故と云うに、妊娠中は些細なる事をも冒険と覚悟すべきことに候。またたとえ動物園に行き候ともフリッチイが逃げ去ることなくば何事もなかりしなる可く、フリッチイが逃げ去り、妻がその身の上を心配せしは実にこの不幸の原因に候。事実はかくの如くに候。かく詳細にこの事を書き遺し候は、ただ事実の真相を明かにせむとするに外ならず候。もし小生にしてこの手紙を認めずは、世の人は小生を誤解し、かの男は妻に欺かれて怒り、自殺せしなどと申さむも計り難く候。否々、世の人よ、小生の妻は貞操を守り居り、小生の子はあくまでも小生の子に相違なく候。しかしてこの妻子をば小生最後の息を引取るまで愛し居候。ただ小生をして一命を捨てしむるに至りしは、世の人の愚にして、根性悪しきがために候。小生の生存し居る限りは、いかに学術的にこの事実を証明せむとするも、世人は嘲罵の声を断たざる可《べ》く、たとえ面前にては小生の言葉に首肯すとも、背後においてはやはり嘲笑し、ついにはタアマイエル発狂せりとまで申すに至ることと存じ候。ただいま自殺する上は、世の人のかくの如き讒誣《ざんふ》は最早行われざる可く、妻のためにも十分名誉を恢復するに足るならむと存じ候。世の人もまさかに小生の一死に対して、この上妻を嘲笑する如き事は有之まじく、かのハンベルヒ、ヘリオドオル、マルブランシュ、ウェルゼンブルヒ、プロイス、リムビョック諸家の報告の如き事実をも承認せざることを得ざる可く候。母ももはや気の毒なる面持にて、小生に握手する如きこと有之まじく、必ずや妻に向いて罪を謝するならむと存じ候。この手紙にはこの上書く可き事も無之候。掛時計は一時を報じ候。さらば、我家族よ、小生は今一度傍《かたわら》なる室に行きて妻子に接吻し、さてこの家を立ち出づ可く候。
正体 フォルメラー
「是非君に見せたいのですよ」と云った時、その男の広く開いて附いている、きらきらする、鹿の毛色のような目には、歌を歌う女に懸想《けそう》していたと云う、昔のテイ族の若いアラビア人のような、すぐそのまま地に倒れてしまいそうな表情が見えた。その男とおれとは小さいカッフェエにいたのである。そのカッフェエの茶色に煤《すす》けた、ペンキ塗の壁に、男は小さい、血いろのない頭を倚《よ》せ掛けて、体を力なくぐたりとさせ、口の周囲をぴくぴくと引き吊らせていた。疎《まばら》に生えた暗褐色の髯が、男の顔をある種類の古いクリストの肖像に、少し気になるほど似せている。「君に見せることが出来るといいのですが」と、男は繰り返しながら、もう十五分も前から、卓の下の膝の上に休めている手の、長い、汗ばんだ指で、刻《きざみ》烟草《たばこ》を紙に巻き始めた。
天気は寒い。カッフェエの戸が開くたびに、氷のように冷たい風が、我々の据《す》わっている隅まで吹いて来る。そして戸口からトラヤヌス帝の記念柱とフォルム・ロマヌムの広場とが見える。その男とおれとの二人の外には客は無い。この辺で稼いでいる不幸な女子供が、折々一人ずつ、着物を厚く着込んで、這入って来て、身震いをしながら、売場卓《づくえ》の傍に歩み寄って、ポンシュを一杯誂《あつら》える。そう云う女の一人で、これまで見掛けない、十六ばかりの、すらりとして、しなやかなのが、ちょうど我々と向き合った、反対の隅の卓の傍に腰を掛けて、そのままじっとしている。しばらく立ってから、その女が片目で、その目が怜悧《れいり》らしい、人を嘲るような気色をした明褐色の目だと云うことに気が附いて、おれは意外に思うと同時に、非常に不快に感じた。その女の今一つの目には乳いろの薄皮が掛かっている。
「是非君に見せたいのですよ」と、男はまた繰り返したが、こん度は口と腮《あご》との辺《あたり》に、決心したような表情が見えている。
おれも壁に背中をぴったり倚せかけている。そしてその男とおれとの体がどこかで触れているような感じがして、それがおれに不安を与えている。しかしおれはいつになく疲れ切っているので、それに構わず、体の位置を変えないで、そのまま倚りかかっていた。
我々二人が故郷のないものの寄り合うこのカッフェエで、長椅子に並んで腰を掛けるのは、こん度で四遍目か五遍目である。この家の地の悪くなった赤《あか》天鵝絨《びろうど》の長椅子、影のうつらなくなった鏡の縁の、金薄《きんぱく》の剥げた石膏の盛上げ、低い穹窿形《きゆうりゆうがた》の黄《きば》みを帯びた塗天井は、皆このごろ次第に珍らしくなる、千七百八十年前後のカッフェエの様式である。小さい、白い大理石の円卓は、鋳鉄《ちゆうてつ》の重い一本脚を漆喰の床に塗り込んだものである。曲木のけちな椅子が少しばかり置いてある。売場卓がある。壁には硝子《ガラス》や錫薄の強く目を射るような広告の牌《ふだ》が掛けてある。こう云う風の物はかえって現世紀の特色を示していて、人に不快を感ぜさせる。
誰やらが鋸屑《おがくず》を床の上に蒔き散らして掃き始めた。もう二時だと見える。我々二人は動かずにいる。
「僕と一しょに来ますか」と、男は突然強く促すように、そのくせ、ためらいながら云った。今重大な事を決行するのだと云う、改まった、厳粛な様子を、目附や声の調子に見せようとして、骨を折るのがありありと知れている。そして美しい、どこを見るともなく、迷い歩いている目を、強いておれの顔に凝注して、腋へそらさずにいようとする。
おれはちょっとためらった後に、承諾したようにも、拒絶したようにも、どっちにも取られる身振をした。
男は別に何も言わずに、少し卓の上に俯向《うつむ》くようにして、大理石の上に飜《こぼ》れている水に指尖を浸して、なんだか分からない線を引いている。
刷毛と雑巾とを持った奴が、今は我々の卓の下や脚の背後《うしろ》を掃除している。
「人間も寝ることが出来ないとなっては」と、半分独語《ひとりごと》のように言い掛けて、男はたちまち顔を挙げて、優しく微笑んだ。「君だってやっぱり寝られないお仲間でしょう。」
男がおれを同志のように待遇するのが、おれのいつも夜遅くまで、こんな所にぐずぐずしているためだろうと云うことには、おれはもう疾《と》っくに感附いていた。給仕がそっと楕円形の盆の上に、新しい水を入れたコップを一つ持って来て置いて行く時、おれも折々視線がどこともなく迷うような目附をする。製作の熱のまだ余波を留めている指尖がぶるぶると顫《ふる》えることが、おれにも折々ある。何か分からない、幽霊染みた詞が、計らず脣から外へ漏れて出ることが、おれにも折々ある。それを男は観察していたのだ。さて近ごろの数日間になってからは、毎晩体を密接させて据わっていると、我々二人の間に恐るべき形体的交流が往来し始める。おれはそれを禦《ふせ》ぎ留めようとするが、それが出来ない。おれの神経の尖が隣の男の体の内に根を這わせて、そこで熱しているのが、おれにははっきり知れる。隣の男の隠忍している情欲がおれの同じ情欲を煽動しているのが、おれにははっきり知れる。今ふいと見れば、男は名状すべからざる暢美《ちようび》の感じをもって、ふっくりした曲線を大理石の上に引いている。
「是非君に見せたいのですよ」と、男は今一度繰り返して起ち上がった。男の着ている、地の少し磨《す》れた、茶色の上衣の下で、心臓の鼓動しているのが、さながらおれに聞えるようである。一も二もなくおれを連れて行こうとするように、男は手荒くおれの臂《ひじ》を握ったが、またひょいとカッフェエの室の中央に立ち留まって、じっと目を据えて、戸に嵌めた、硝子越しに、外の闇を睨んだ。
我々二人は給仕を呼んで勘定をした。例の一方の目に軽はずみを見せて、一方の目は死んでいる、美しい、若い女は、促し挑むように、また少し嘲るように我々を見ている。
我々はカッフェエを出た。男は息をはずませておれを引っ張って、パラッツォオ・ヴェネチアの穹窿《きゆうりゆう》の下を潜って、真っ直に狭い小路を行く。ある広い町を横切る一刹那《せつな》に、おれは左側にアラコエリの階段と松の木と、それから高い石屋の輪廓、それからカピトオルの広い、白い石段をちらと見た。そのうち男はおれを連れて左に曲がって、狭い、曲りくねった横町に這入った。どうしてもその横町の方角は、マルケルルス館の辺《あたり》へ抜けられる筋らしかった。そのうちまた突然右に曲って、古い猶太《ユダヤ》廓《ぐるわ》のはずれの家の間を抜けた。もうその辺からは、おれは方角を考えることをよしてしまった。
男の身の上についておれの知っているのは、名をロッコと云うと云う事と、カタンツァロで生れたものだと云う事との二つに過ぎない。平生枯澹《こたん》で、しかも熱情のある、気持よく渋い調子で物を言う。ナポリやシチリアの土音と違うカラブリアの土音の特徴である。あっちの産れのものの常で、体は骨細ですらりとしている。話をしている間に、図らずちょいと洩らして、すぐに詞を濁すので、慥《しか》とも分からないが、なんでも最初海軍に籍を置いて、それからロオマに兵営の置いてある、砲兵か工兵かの隊に転じていた男らしい。例のカッフェエに夜据わっている所へ、女を連れた兵卒が這入って来て、この男に軍人式の敬礼をして、ちょっと驚いたような顔をしたことが二三度ある。衣服はいつもなんとも云えない構わない物を着ている。しかし困窮して着る弊衣と違う。学者や芸術家の構わなさ加減がどことなく見えている。名刺には平民的な名の書きようがしてあるが、その上に尖の九つある冠が刷らせてある。
ふと気が附いて見ると、我々はコルソオ・ヴィットリオ・エマヌエレを横切って、今ピアッツァ・ナウォナを歩いている。大噴水の迸《ほとばし》る音が夜の静けさを破っている。石の腰掛の下に寝ていた男が一人、我々の足音を聞いて、突然起き上がって、横町の闇の中に消えてしまった。我々はちょうど新しい司法省の向う側の所で、高い堤の下に出た。二人とも言い合せたように石段を登って、欄干に倚りかかって河を見卸《みおろ》した。
ロッコはまた躊躇し始めたものと見える。黙って欄干の石の縁から外へ上半身をずっと突き出している。おれを連れて行くのに反抗する物が心の底にあるので、たびたび道の方角を換えたのだと云うことを、おれは歩きながらはっきり感じていた。今ロッコは興奮した心持で、決心が附かずに、欄干に倚りかかって、一目に夜川の筋を見渡している。その河はポンテ・マルゲリタの方から、幅の広い、大ような曲線を劃して下って来て、真東から真西に向う進路を取って目前を横切って、天使橋の下を潜ってからは、また前にも劣らない、大ような曲線を劃して、南下し去るのである。斜に欹《そばだ》った、高い岸の石垣は、浄い大理石のように微白《ほのしろ》くきらめいている。その動揺のない、厳格な、幾何学的の線は、ちょうどエジプトの薄肉浮彫か、またはヘルレスホフトの帆船の胴の曲線のように、看る人に快味を覚えさせる。ロッコが、この河の二度曲折した、Sの字に似た曲線を、啜《すす》り込んで味うように翫《もてあそ》んでいるのが、おれの感覚によく分かった。
しかしこれはロッコがおれを連れて行くと云った場所ではない。突然ロッコは云った。「極美は人を殺すと云うことを、君は考えてみたことはありませんか。」言ってしまって我と我詞《わがことば》に驚いて、話を脇へそらそうとするらしく、急いで次の詞に移った。「君は白雲石を知っていますか。僕はある時モンタトンの奥の峠で湖を見たことがあるのです。なんでもあの辺はラゴライと云う所でした。小さい山の中の湖です。それをしらちゃらけた暁の薄明りで、初めて朝らしくなり掛かった、うぶな、おぼこな光で見たのですね。まだ星がちらほらと水の面に映っていました。当前《あたりまい》の、余り大きくもない、死水《しすい》を湛えた湖ですね。しかしその岸の曲線と云ったら無かったのです。その曲線と云ったら。」ロッコは長い痩せた臂を伸ばして、抱擁するような、圏《わ》をかく運動をして、それから欄干の冷たい石の上へ、体を前よりも乗り出すようにして、語り続けた。「白雲石と云いましたっけね。僕の思っていたのは、白雲石ではないのです。あのフィンステル・アアルヨッホの傍に、軟い、角の《つぶ》れた巌石の鞍部があります。氷山の広い平面の向う側です。ちょうど小屋掛のしてある所の真向いです。あの山の鞍部の線と云ったら無いですね。漂うように右から降りて来て、溜息を衝くように左へ登って行くのですね。あれなんぞが線と云う名を附けていい線の一つです。最も強烈な線の一つです。夜皆が寝てから、僕は小屋を這い出て、凍えるほど寒いのに、小屋の前にしゃがんでいて、午前零時三十分に、案内者が絶頂へ案内しに出て来るまで、じっとして見ていました。純潔な柔軟な輪廓をして、しなやかに撓《たわ》んだ鞍部が無感覚な星空にえがかれています。女の体の腹から腰へ曲るうねりのように柔かに、オルグのモル大諧音のように温かに、数のように冷澹で抽象的なのですね。氷のような、忍びやかな風が僕の十八歳の魂の綻びや裂目を吹き通して、氷山の平面の反射光が僕の体を水晶で出来ている物のように照し抜いています。どうしてもその場所を一歩も去ることが出来ないように、僕は感じましたよ。無論最初に僕を魅したのは、いつも風景でした。山水が僕の官能の底の底まで染み込んで心の中に満ち渡っていたのです。ポリカストロの湾で、僕はある時夏の昼中に山を見ました。妥《おだやか》に、優しく、ふっくり膨らんだ、長く引き延ばしたような、低い山なのです。その山が滑かな、磨いたような巌で出来ていて、おとなしい抛物線をえがいて平地から起って、また平地に降りているのです。その清浄無垢な少しのたゆみもなく引かれた線の辻に、ただ一つの低い、方形のサラチエニの塔が立ててあるのです。日は空一ぱいに照っています。暑い日盛りなのに、空気はきらきらしてはいません。ちょうど硝子《ガラス》を熔かしたように、ねばって、じっとしているのです。海は息を屏《つ》めたように静かで、水銀のように光っているのです。滑かな、黄いろい石で出来ている、この低い山の神々しい曲線が、鋼鉄の吊鐘を伏せたような天の下に流れています。女の体の部《かんぶ》のふくらみのように柔かに、極美のように不妊性で残酷なのですね。僕はそれを見詰めていると、受ける感動が余り強いので、実が入ってはじける莢豆《さやまめ》の莢のように、十八歳の僕の純潔な体が、ひとりでに伸びをして反り帰るのです。僕は倒れそうになったので、たった一本あった、傍の木の幹に倚り掛かりました。ごろごろした石の中に生えていた無花果《いちじく》の木でしたよ。」
ここまで聞いているうちに、おれは覚えず体を動かしたものと見える。ロッコは何物にか反応するように起ち上がった。おれは何か猥褻な意志で体に障られでもしたかと云うような、燃えるような感じがした。そしてこう思った。「一体なんだってこいつは夜更けておれを引き摩《ず》り廻して、気味の悪い内証話なんぞをするのだろう。今おれがこいつをこの場に置いて、くるりと背を向けて逃げてしまったっていいのだ。」こうは思ったものの、ロッコの態度にひどく哀れっぽいところがあるので、流石《さすが》にそうもなりかねた。
ロッコはポリカストロの湾から山を見た話の続きをしている。「どうも後に思ってみると、その時僕はちょいとの間気を失っていたらしいのです。君はバツのマライ人が祈祷をする時の姿勢を知っていますか。知らないでしょう。僕は初め知らなかったのです。その姿勢は尊敬の極度を表現する、ことに暗示的な姿勢です。自己を獣にしたような気になって尊敬するのですね。なんでもあれは昔のフェッチシュ祭典の最後の遺風です。バツ人はまず烈しく、とんと膝を地に衝くのです。そして両手を出来るだけ伸ばして、前へ出して、手の平をぴったり地に着けて、それで体を支えるのです。そうしておいて、ゆるゆると項《うなじ》を反らして仰向くのですね。僕はパダンの港の小さい、暗い寺院で、始めてそれを見ました。国から命令の来るのを待って、あの港に投錨していたのです。あの姿勢を始めて見た時には、僕は閲歴と記念との深い井の底に落ち込んだような気がしたのです。僕がポリカストロの港で山を見て気を失っていて、後に醒覚して見た時に、僕の体はちょうどそのバツ人の祈祷の姿勢をしていたのですね。」ここまで話した時、ロッコは欄干の石の上に、背を直《すぐ》にして据わっていて、手の平で顔を撫でて、うろうろする目附で近所の家や、雲と星との一面に散らばっている、遠い空を見廻した。「無論最初に僕を魅したのは風景でした。風景が僕を全然占領してしまったのです。僕の若い魂をも、僕の純潔な体をも占領したのです。それから後に女になりました。ちょうど山や水の線を発見したように僕は女の線を発見しました。こん度は女の体が僕を占領しました。全然占領したのです。救抜の途の無いように。」ロッコはまた体を前へ乗り出すようにして河に臨んで、体を熱の出る時の寒戦のように震わせていた。それが突然話を息《や》めて、起ち上がって、さっきカッフェエでしたように、またおれの臂を攫《つか》んで、「僕と一しょに来て下さい」と云って、粗《そそう》な、しらけた街の敷石を踏み鳴らして、天使橋の方角へ、岸伝いにおれを拉《ひ》いて行く。ロッコは歩きながら云った。「それからですね、その女や山水の後に、久しく待っていた第三者、熱心に求めた第三者が来たのです。前の女にも山水にも共通している者でその二つのものから生れたものです。それは極美です。絶対の曲線です。」
おれは少し眩暈《めまい》がした。夜は寒い。乾いた、澄み切った東風《こち》が清い音を立てて吹いている。空には雲が飛んで、星がじっとしている。おれの体はいつもより力抜けがしている。そして空想の熱がその体の疲労を一層劇しくしている。
ロッコは今自分をどうしていいか分からない様子で、とめどもなく饒舌《しやべ》っている。たとえば遠い沖に出て、無窮の長さの鎖の附いている、最後の小さい錨を、大きな糸巻のような、がらがら云う蒸気器械からほぐして、ずんずんどこまでも沈めて行くが、どうしても底には届かないと云う工合である。ロッコは忙がしそうに大股に歩いて、おれを引っ張ってルンゴテウェレを南へ降りて行く。河に沿うている宮殿や別荘は黙って慄えている。橋がいくつも秘密の上に掛かっている。水はざわざわ鳴っている。ロッコはとめどもない、そのくせ断続した詞で、人を嚇《おど》し附けるような調子になったり、沈んだへりくだるような調子になったりして、妙な、宗教めいた話をする。女と山水とから生れて、純粋な、数学的な曲線になった極美の宗教である。
なんでも、おれに頃刻《けいこく》の反省をもさせたくないとでも思うらしく、ロッコはとめどもなく饒舌《しやべ》っている。雷のような声を出すかと思えば、天使のような舌を動かす。叫ぶか、どなるかと思えば、たちまちまた囁く。ある時はロッコの言っている事が、なんの連絡もない、乱れた詞の鎖のようにも感ぜられる。そのうちまた突然調子が落ち着いて来て、ロッコは微かな、しかも熱烈な詞で、「あいつが、あいつが」と、情人の噂をするように、極美の事を話している。
ポンテ・シストオの所に来た時、ロッコはトラステウェレの方を見やって、ちょっと躊躇《ちゆうちよ》するようであった。しかしやはり同じ岸を歩き続けて、その強い彎曲に沿うてチベルの島まで来た。サン・ピエトロの向うのモントリオに寂しい灯火が一つ照っている。おれはちょいとの間アクワ・パオラの噴水の、爽やかな、涼しいそよぎが聞えるかと思ったが、それはやはり河水がロオマ橋の柱に激する音であった。
ロッコはまた躊躇した。そして首を振って、おれに意味ありげな相図をした。我々二人は橋を二つ渡って、チベルの島を通り過ぎた。ロッコは今決然たる様子をして、リパ・グランデの方角を指して歩いている。
そしてロッコはこう云った。「あいつを初めて見た所は、パリイの辺鄙《へんぴ》な場末でした。僕は政府で買い上げる誘導気球をクレマンに注文するように言い附けられて、モルリス少佐と、それから参謀本部のコスタとの二人と一しょに、そこへ往っていたのです。けちな塑像家の暗い製作室で出合ったのです。五味《ごみ》だらけな、蜘蛛《くも》のいだらけな所で、外には河に臨んだ、小さい庭があって、向うに橋が一つと、それからクリッシイやニョイイやルワロア・ペルレの烟突《えんとつ》が何本となく見えていましたっけ。そこにあいつがいたのです。誰も目を留めて見たものはありません。僕一人が見附けたのです。一目でどこと云って点の打ちどころがないと云うことを見極めたのです。全体に茶色がかった、いい色をしていましたよ。完全無闕《むけつ》だと云うことが、僕にはすぐ分かりましたよ。」
我々二人は、サン・ミケレ・ア・リパの前を通った。朝市に出掛ける最初の牛車のがたぴし云う、重くろしい輪の音が、寺院の正面の壁に反響している。寺の前の石段の上には、なんでも一ダズンばかりの人間が、種々に曲りくねって、どれもどれも不思議な恰好をして寝ている。ロッコは次第に歩度を緩めて来た。目的地が近くなったためか。それとも疲れて来たためか。なんでも我々二人はもう二時間近く、街の堅い敷石を踏んで歩いている。足の裏がひりひりする。両脚から背中へ掛けて、湯を浴せられるような、疲労の感じが往来している。それでいておれの脳髄ははっきり醒覚して、そして燃えている。
我々は川岸を歩いている。種々な形の舟が脚下にごたごた寄って来ている。チタウェッキアの大きい、黒い石炭船、エルバの鉄船、リウォルノの大理石や、硼砂《ほうしや》や、珊瑚細工を載せた船、トルレやハドリアの岸から来る大きい漁船、フィウメから来る薪や穀物を載せた小舟などである。火影もさしていないが、また物音もしない、この入り乱れた船々の上を、重くろしい眠りが抑えている。ただやや大きい小蒸汽と曳舟二艘とが中流に繋がっていて、それには火が点してあって、そして少しばかり石炭の烟が立っている。川を越して向う側を見渡せば、モンテ・テスタッチョの今めいた街に規則正しく並んで明りが附いている。アウェンチンの新僧院のどれやらに二つ三つ灯火のさす窓が見える。それからずっと下って、大屠殺場の屋根と非常に大きいガゾメエトルの暗黒な鐘形の輪廓とが見える。遥か下流の鉄道橋の上を、明りの附いていない、長い貨物車の列が、ゆるゆると通って行くのが、橋の鉄欄干を透して見える。
ポルタ・ポルテエゼに出て見ると、まるで、野営を見るようである。瓜や、野菜や、牛や、豚を積んだ、カンパニアの百姓の、丈の高い二輪車が、長い幾列かをなして、つかえている。炭火が地の上に焚いてある。オクトロイの役人等が着古した上衣を着て、あちこち歩き廻って、不機嫌な様子をしながら、手に持った長い鉄の鉤《かぎ》で、折々車に積んである枯草の胴中をほじくって見ている。事務所にはアチエチレン灯が一つかっと照っている。硝子《ガラス》の引戸のある窓の向うで、一人の男が何やら書いている。
我々二人は車の列と列との間を、骨を折って抜けて通った。ロッコはまた足を早めた。もう市外に出たのである。
ロッコは語り続けた。「その時からと云うものは、僕はただあいつを崇拝して、あいつに服事しているのです。同時に他の神に仕えると云うことは、あいつが許さないのを、僕は疾《と》うからたしかに知っているのです。だから僕は一切何もかも打ち棄ててしまいました。辞職しました。ただあいつを模造することに一身を委ねています。何百遍ともなく模造しました。どうにかして一層深く、一層拒外的に、あいつに服事しようと思って、その手段方法を講じているばかりです。僕の昔の同僚に逢うような事があったら、聞いてみて下さい。それ、あの少佐は君も知っているでしょう。あれにでも僕の事を聞いてみて下さい。すぐに分かります。すぐに分かります。あの連中は皆僕を発狂したと思っています。たしかにそう思っています。まあ、そうでも思わずにはいられないのですね。誰にだってまだあいつを見せたことはないのですから。」ロッコは「すぐに分かります」を繰り返す時、狡猾げな微笑を洩らした。
「気違いだ」と、ふと思うと同時に、おれは一種の不快な感に打たれて、身慄をした。もう余程前から、おれの脳髄の奥の方に、この概念がいて、時期を窺っていたのである。しかしこれはおれの平生馬鹿にしている概念の一つである。気違いとはなんだ。おれはこれまで大勢の人に附き合って見て、公然ねじくれた、頽敗した性《たち》の人間よりは、見掛は気楽らしい、はっきりしたような人間の方に、かえって気違いを多く見出しているではないか。その上気違いと云う概念を、ある特殊な、ある弁別的な物として取扱って見るに、どうもおれの自己の中に、その分子がすこぶる多過ぎるではないか。
我々はもう田畑の間を歩いている。街道の右側にはちらほら人家がある。もうそろそろ人が起きて何やら朝の支度をし掛けている。時々はパルテエルの円天井に明りがさして、戸の開いているのもある。がたぴししながら来る荷車に、次第に多く我々は摩《す》れ違う。
このとき始めてこの辺で立ち留まって、あとへ引き返そうかと云う考えが、おれの頭に閃いた。ロッコは次第に足を早めて、いつも半歩ずつおれに先だっている。ついここで立ち留まって、あとへ引き返そうかしら。
この辺の全体の景色は、夜の街道も、人家も、河も、名状すべからざるほど、怪しげで、不気味である。今になって気が附いて見ると、おれは数年前に、あるオステリアから帰り掛けて、道に迷って、自動車でこの街道を通ったことがある。その時土地の名を人に尋ねて、それを聞くと同時に、つい昨今残酷極まる人殺しのあった土地だと云うことに気が附いたのを、おれはまだはっきり覚えている。当時の新聞が毎日幾欄もその記事で填《う》めてあったのである。
おれの躊躇する様子がロッコに分かったらしい。ロッコは振り返って、ちょっと足を駐《と》めた。「僕の歩きようが余り早過ぎはしませんか。」こう云って笑った。おれはこれまでまだ一度もこの男の笑った声を聞いたことがない。今聞いてみれば、どうも余り心持のいい笑声だとは云われない。おれのこう感じたのを、先方でも悟ったと見えて、すぐに微かな、抑えたような調子で、こう言い出した。「もうすぐですよ。あの少佐なんぞに見せたら、どうだろうと、僕は思うのです。あのコスタだってそうです。あの連中も何かこんなような物があるのだと見当を附けてだけはいるのです。こないだもコスタがそれとなく僕に見せて貰いたいと云うような事をほのめかしたのです。あの連中だって、こう云う物を模索して、見附けたがっているのです。唯一無二な神々しいあいつの、下手な、手づつな影像を拵えて見ているようなものです。いつかもコスタが見てくれと云う風で工廠へ僕を連れて行って、あっちこっち引き廻して、しまいに、秘密室に連れ込んで、新式の軍用飛行船に取り附けるのだと云って、怪しげな出来損いの貨物《しろもの》を見せた時には、僕は笑わずにはいられなかったのです。政府のお役人様の脳髄の中がどんな様子をしていると云うことが、その時分かったもんですから、僕は笑わずにはいられなかったのです。新しい製作法がどうのこうのと、口が酸《すつぱ》くなるかと思うまで講釈をしましたっけ。製作方法でどうにかなるものだと思っているらしいのです。そして僕に原料木材の見本を見せる。膠着《こうちやく》の見本を見せると云うわけです。それは僕だって最初は木材ばかりを使っていましたよ。」
こんな話を聞いている、おれの脳髄の状態を単に「眩暈《めまい》」だと云っては当らない。「思量のよろめき」とでも云いたいが、それでもまだ言い足りない。ロッコの話の対象を中心にして、二時間ほど前から、幾千となく、思想や写象が寄り集って来る。譬えば液体の中に沈めてある電極の周囲に、水素と酸素との気泡がぷつぷつと浮いて集って来るようなものである。そしてその思想や写象はその水中の気泡のように、間断なく分離して、水面に登って来て、はじけてしまう。今の最後の詞を聞いた時、おれの最後に纏めていた推測のやや長い連鎖が、おおよそ百遍目くらいに、引きちぎられて、虚空に飛ばされてしまった。
「あいつ」とは誰だろう。女かしら。これがおれの最初の覚束ない写象の連鎖であった。しかしそれはカッフェエの戸口を出て、初めて冷たい夜風に吹かれたころに、もう閾《しきい》の下に沈んでしまった。女では無い。塑像だろうか。この推測も天使橋のあたりから疑わしくなった。そんなら機関だろうか。しかしそれがもと木造だったとは、どう云うわけだろう。しろうと臭いおれの機関と云うものについての想像はぐらつき出して、とうとう紛糾して崩壊して形も無くなってしまった。
「ここです」と云って、ロッコはおれの臂を攫《つか》んで、おれを小さい門の内へ押し入れた。もし臂を攫まれなかったなら気が附かずに通り過ぎただろうと思うような小さい門で、その門はもう大ぶ前からそれに沿うて歩いて来た、道の左側の石垣に開いているのである。おれは自分のいる位置に見当を附けようとする、やや窮屈な習慣を持っているので、「河の方角だな」と腹の中で思って、道を振り返って見ようとした。しかしもうロッコが門の扉を鎖してしまって、おれの臂を前よりも強く握っている。そして「転ばないように」とロッコはおれに注意した。
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目にはまだ何も見ないうちに、おれは自分が園の中に這入って、傍に蔭の涼しい大木のあることを感じた。おれの靴は草に触れて音がする。そのうち次第に二列に植えた木の朧気《おぼろげ》な輪廓を、夜の空に透かして見ることが出来るようになった。それから歩いて行く右にも左にも、深黒な陰影の中に立っている明るい色の木の幹が見えて来た。俗にぼたんの木と云うプラタヌスの幹より外に、こんなに明るく見える幹はあるまいと、おれは判断した。たちまち足の前に静かな、明るい物の影の映る円い面が現れたのを、おれ達は避けてその縁に沿うて廻った。おれは一しょう懸命物に注意して、ほとんど目が頭の鉢から外へ飛び出すかと思うようにしているので、もうここまで来ただけで、道が余程遠いように感じた。おれは川からの距離を余り小さく見ていたのではあるまいかと疑った。そして対岸の火影が見えて来そうなものだと思って、空を見ているが、それが見えない。事によったら、この園は川に向いた方角を高い垣で囲んであるのではあるまいかとも、おれは思ってみた。
ロッコはおれの一歩前を歩いている。今はおれの臂を掴まえてはいない。忽ちおれはからからと云う物音を聞いた。それと同時にあぶなくロッコの体に打っ附かるところであった。ロッコは大きい扉の前に足を駐めて、錠前に鍵を挿して廻しているのであった。仰いで見れば、長い低い建物の壁と、その屋根の突出した庇とが頭の上にある。
錠を開けるのが、やや手間取った。おれは目を赫《かがや》かし、胸を躍らして、闇の中を見廻した。この家は川にぴったり接して建ててあるらしい。鉄道橋の方角と思う辺に、軌道を転換している機関車が蒸気を漏らして、哀れげに音を立てているのが、はっきり聞える。背後の方では、トラステウェレの騎兵営で吹奏する起床喇叭《らつぱ》の音が遠く聞える。なんだかこんな物音のするのが、おれに多少の慰安を与えるように感ぜられるのである。
大きい戸口に取り附けてある扉の右の翼が、とうとう開いた。ロッコがおれに会釈をするらしく身を動かした。おれは大胆に真っ暗い家の中に這入った。ロッコはあとから附いて来た。背後で扉を鎖す時聞けば、扉には巌畳《がんじよう》な撥条《はつじよう》のある錠が取り附けて、それによく油がさしてあるのが知れる。ロッコは壁を模索している。手の平が壁面の石灰を摩る音がする。電灯の鍵を尋ねているのであろう。そして口の内で断間《たえま》なく何事をかつぶやいている。その間がよほど久しかった。
闇の裡を見廻しておれが見附けたのは、戸口と向き合っている壁に、蒼みがかった筋が四五本見えるのであった。熟《よ》く見ると、それは窓の戸のぴったり塞がらずにいる隙間である。ずっと左の方にある一つの戸は下の端が床の上まで届いている。隙間も外の窓のより幅が広くて、蒼い筋がはっきりしている。あそこにも戸口があるのだなと、おれは思った。ちょうどこの瞬間に屠牛場から向川岸へ越す舟の船頭の声が聞えた。しばらくするとすぐ傍でぴちゃぴちゃと艫《ろ》で水を撃つ音がはっきり聞えた。戸口は川に出る戸口だと見える。
微かな、きゅっと云うような音がした。今まで見えていた蒼い筋が消えた。明りが附いたのだ。円天井のずっと高い所で、古びたエディソン灯の炭線が不機嫌らしく、黄いろに燃えている。今おれ達二人の立っている室は、三方の壁に囲まれている限りは、何の飾もない、平凡な工場の体裁をしている。床には鉋屑《かんなくず》が散らばっている。左側の壁の際には背のない搨《こしかけ》が二つ置いてある。その上の壁には鑿《のみ》、鋸《のこぎり》、螺釘《ねじ》抜《ぬき》、曲尺《かねじやく》などが懸けてある。削りたての木や膠《にかわ》や磨粉のいがする。おれの背後には今這入って来た、上を櫛形迫持《せりもち》にした、大きい入口がある。おれの前の壁には、推測した通りに、窓が二つと戸口が一つとある。しかるにこの室の第四の方向はどっしりした暗緑色の絹の帷《たれぎぬ》で鎖されている。絹は古い、長い、狭い、帯のような切れをはぎ合せたものである。ところどころ色が褪めて、地質が傷んでいる。しかし染色と云い、織文《しよくもん》と云い、王侯の座所にでもありそうな、美麗な品である。真ん中と両方の縁とには、時代のある、どっしりした金糸の刺繍がある。おれはこの古色のある驕奢の装飾品と尋常一様の工場との不調和を見て、にわかに可笑しくなった。一切の物を名状すべからざるほど滑稽に感じて来た。
ロッコは興奮した様子で室内をあちこち走り廻っている。そして手に何か取り上げては、またそれを置くのである。おれの心には何故となしに、この男を侮るような気が萌して来た。それと同時に疑懼《ぎく》の念が去って、おれは沈着になった。よしよし。何物に出逢うのか知らないが、とにかく冷静に、批評的な態度で、それに対することにしよう。一体この男はなんだってこんな馬鹿な狂言をするのだろう。貧乏臭いこの室に、骨董店で掘り出して来たような、あんな古代切れなんぞを垂れるには及ばないじゃないか。こう見たところが、まるで歳の市で見る見せ物小屋と云う体裁だ。「さあいらっしゃい。いらはい。早く御覧にならないと、もうじきに午前四時になります。また御覧になることの出来ない、世界無類の珍品でござい」とでも云いそうだ。いやはや。
おれははっと気が附いて軽い驚怖を感じた。それはロッコがあちこち走り廻ることを罷《や》めて、一つの榻《こしかけ》に身を倚せ掛けて、じっとおれを見ているのに、気が附いたのである。左右にずっと離れて附いているロッコが目の、鹿の毛色のような瞳には、この時また例の即座に倒れて死にはすまいかと気遣われるような表情が現われていた。おれ達二人の頭の上に照っている、黄いろい、濁った電灯が、周囲の物をも、おれ達自身をも地上に形を印せない、幻のような形に見せている。
ロッコはさっきから走り廻って捜していた何物かを見出したと見える。手に握っているのを見るに、その物は黒光りのする硬護謨《かたごむ》で作った、円い短い柄である。ロッコはその物をしばらく翫《もてあそ》んでいたが、ゆっくり足を運んで、大きい接続板の傍に歩み寄った。電流を断続させる接続板である。それのあったのに、おれはやっとこの時気が附いた。ロッコが手に持っていた、黒光りのする柄は、この接続板の上の転流《てんりゆう》槓杆《こうかん》に嵌《は》まるように出来ているのである。ロッコはしずかに柄を槓杆に嵌めたが、転流機を動かしはしなかった。それからおれの立っている方へ足を運んで、おおよそ室の中央の辺《あたり》に立ちとまった。
一時可笑しいと思ったおれの感じは吹き消すように消えた。おれにはロッコと目を見合わすほどの勇気もなかった。息を吸い込むたびごとに、胸がちくりと痛む。おれの一切の運動、一切の思慮は、螺旋楽器の螺旋が今にほぐれてしまおうと云う前のように、異様に緩慢になった。実質を失ったような、時間の外に置かれたような感じが、刻々に加わって来た。時計の秒が徐々に停止するかと思われる。時間その物が黄いろい、濁った明りの緊縛を受けるかと思われる。その光は次第におれに、暗室に閉じ籠められた人の苦しい、ぼんやりした生活を思わせ、また催眠術師の席を照す朧気《おぼろげ》な薄明りを思わせて来るのである。
「おいでを願いましょうか。」ロッコはこの詞を小声で、顔には真面目な、せつなげな表情を見せて言った。「しかしさっき言った事を忘れないで下さいよ。」こう云う時、深い秘密のあるらしい微笑の閃きが顔を掠めて過ぎた。「それ、あの事です。終極の美は人を殺すと云ったでしょう。」こう云う時、ロッコの微笑がただ一瞬間気味の悪い、凝り固まったような笑いに変じた。もっともこの笑いは忽然現れて、また忽然痕もなく消えてしまった。そんな笑いなんぞを見せた顔ではないように。
「どうです。」こう催促した時は、ロッコはもう元の優しい小声に戻っていた。
多分おれはこう云われて頷いたものと見える。それともなんとか返事をしたかも知れない。
ロッコは物体《もつたい》げに容《かたち》を改めて例の深緑色の絹の帷《とばり》に歩み近づいた。
おれの心の中ではまたさっきの不自然な可笑しさが勝って来た。「さあ、皆さんいらっしゃい。いらはい。御遠慮なくお這入り下さい」とでも云えばいいにと、また思われた。
ロッコは帷の真ん中を少し開けた。
その時気の附いたのは、帷が自然の重みで垂れているのだろうと思ったのは間違いで、帷は上から下へぴんと張ってあると云う事である。生温《なまぬる》い汗がおれの肌の上を流れ滴っているのが分かった。おれは意識して嘲るような表情を顔に見せて、吝《けち》な薄明りに照されている工場を今一度振り返って見た。そしてロッコが立って待っているのを見て、さもおめでたい人間のような風を装って、微笑《ほほえ》んで見せた。
ロッコは先に立って、よほど幅広く畳《かさな》り合っている帷の真ん中の縁の間に潜って這入った。
おれはあとに附いて這入った。しかしすぐには何がなんだか分からなかった。
帷の奥の間は、おれの予期していたよりは、よほど広い。中高になっている円天井は工場の上ばかりでなく、まだ幾倍も広く築いてあるらしい。この一室で明るく見えるのはその円天井だけである。背後から帷を穿《うが》ってさしている光線で見ると、最初周囲の壁は黒く見えた。そのうち壁が皆帷と同じ色の絹で張り詰めてあると云うことが分かった。床には単色な、滑かな、明るい席《むしろ》が敷いてある。ただ中央には縦に並べて敷いた氈《かも》が、ずっと奥の方まで続いている。およそ中途ぐらいの所に、《ひら》たい台石のような物が据えてあって、それに登るには、低い階段を二段踏んで行くようにしてある。
「さあ、いいからお這入り下さい」とロッコが小声で云った。その目は赫《かがや》いている。
我々二人は階段に向って進んだ。
この時始めておれの目に見えたのは台石めいた物の上に、三米突《メエトル》か四米突《メエトル》の高さの、すらりとした、真っ直《すぐ》に立った物があると云う事である。その物は暗色の布で全体が覆われている。やっぱり塑像かなと云う推測が、また一刹那の間おれの頭の中に閃いた。しかし塑像なら、台の上にどんな風に立っているだろうかと思って、その物の台と接触している部分を目で捜した時、おれはその物が全く台の上に立ってはいないで、台を離れて空中に懸かっていると云う事を発見した。なおよく見れば、布で覆ってある物体の上下二端が緩かな重複曲線を形づくっている。譬えば引き伸ばしたSの字のような形である。
ロッコは目を赫かして、覆いの布を取ろうとしている。
おれはその隙に物体の背後を一目見た。垂直に立って居る、細い鉄の二本柱の上に、たいてい人の胸の高さくらいの所に、水平な軸があって、それが垂直に空中に懸かっている物体の中央に来て布の下に隠れている。軸の後端には、暗色の漆で塗った金属の球形の物があって、それが第二の柱に連なっているらしい。そこから床の方へ電線が走っている。電力発動機だろうか。
これだけの観察をしているうちにおれはぎくりとした。それは布で覆われていた中央の大物体が音も立てずに位置を変換したからである。物体は今軸に由って水平に空中に懸っている。
ロッコは物体の一側を覆った布を飜《ひるがえ》した。緩く波を打った、磨いた、暗褐色の面が露れた。
この刹那におれは理解した。この露れた面は実に人を圧服するような絶対美を具えている。合準の最後の完成がこの絶対美として表現せられているのである。
物体の強く隆起した、肉厚の中片から、次第に薄く、次第に広くなって、軽く彎曲した双風翼《そうふうよく》が出ている。翼端は緩かな鈍円線を劃して、幅広に終っている。この霊のあるような物体の中央に、青色に磨いた、滑かな鋼鉄の円板が轂《こく》にして嵌め込んである。その鋼鉄の面に、室内の微かな光線が共心圏の形をして反映している。
こんな風な空中螺旋機の存在を、いつかどこやらで聞いたことがあると云うことを、おれはぼんやり回憶した。夢想しなかった物を、今《はじ》めて見るのではない、回憶はたしかに有る。しかしほとんど個人的に完成しているとでも云いたいような、一見手の舞い足の踏むところを知らなくなる、この善美を極めた表現はどうして出来たのだろうか。弧線、彎曲、薄刃から成立っている、鈍く光るこの物体、無体形の線から有体形の物象を造り出した、秘密なこの物体、獣と「数」との混血児が不思議に浄められて高尚になったようなこの物体から、異様な、深秘な、醒覚が発射せられているようである。
おれは熱を病んでいるような期待と欲望とに縛せられて、半分取った覆いの布を全く取り除けようとしているロッコに、覚えず手を借そうとした。しかしおれの上にはこの誘惑より一層強い誘惑が働いている。それはあの風翼の緩かな波線と、中片の強い、ふっくりした隆起とを、自分の平手でさすってみたいと云う誘惑である。
その時ちょうど他の一翼端まで覆いの布を取り除けてしまったロッコが、傍で「気をお附けなさい、あぶないですよ」と云うのを、おれは聞いた。
おれは覚えず出し掛けた、手をあとへ引いた。それと同時におれは右の掌《たなそこ》の拇指の根に、軽くぴり附くような感じがして、指尖の方へ温い物が流れ落ちるのに気が附いた。見れば、拇指の根を横に、長い綺麗な截創《きりきず》が走っている。どうしたのだか、おれにはまだよくは分からなかった。しかしおれは少し驚いて左の手で右のずぼんの隠しにあるはずの清潔なハンカチイフを引き出そうとしてあせった。
「措《お》き給え、僕が始末をする。」この詞《ことば》をロッコは押し出すように、急に言って、まだ詞の切れないうちに、ロッコはもうおれの右の手を攫んで、創の周囲を強く按摩している。その間ロッコはおれの手を体からずっと離して持っていて、創からぽたりぽたりと滴り落ちる血を床の上に墜《おと》している。
「お気の毒でしたね。」ロッコはほんの形式ばかりの挨拶のようにこう云った。詞の調子は、こってりした、黒ずんだ血の滴るのを見詰めている目の、熱中したような表情に比べて、異様な矛盾をなしている。この時ほど血と云うものを黏《ねば》った、黒ずんだ物のように感じたことは前後に覚えない。
その隙におれは右の胸の隠しに絹のハンカチイフのあったのを発見した。
ロッコはおれのハンカチイフを引き出したのを見ながら、なお数秒間目を据えて口角を引き締めて、滴る血を眺めていたが、やっと顔の表情を変えてハンカチイフをおれの手から受け取って、手早くおれの手を裹《つつ》んで、撓骨《とうこつ》動脈を押さえるように手首を巻いて、結び玉を拵えた。「美の危険の話はさっきもしたのでしたっけね。」ロッコはまた底の知れないような微笑をして、その注意深い目を依然仮繃帯から放さずにいる。たちまちロッコの目に再びさっきと同じような、凝り固まったとでも云いたい表情が現れた。白い絹のハンカチイフの上に、小さい、鈍い赤色をした血痕がにじみ始めたのである。「人を殺すと云う詞をさえ僕は使ったでしょう。」
おれは言うに言われない胸苦しいような感じがした。「難有《ありがと》う」と簡単に一言言って、まだロッコが両手で高く擡げているおれの右の手を引いて、ロッコの手を借らずに今一枚の白いハンカチイフを上から被せて、その端を歯で無造做《むぞうさ》に結んで、あくまで、無頓着らしい態度を粧って、その手を上衣の隠しの中に入れた。おれの胸の内の感じを、あいつ奴《め》暁《さと》ったか知らん。
我々二人はしばらく並んで立って黙然としていた。この数分時間、再び重くろしい麻痺《まひ》の力が我々の上に加わって来たようである。おれの耳の奥では、血がざわざわと鳴っている。それから二人が言い合せたように螺旋機に進み近づいた。今気が附いて見れば、風翼の縁には白刃のような金属の薄板が装着してある。
ロッコの目はおれの視線の行方を辿《たど》っていた。「不思議はないじゃありませんか。さっきもお話をしたように、僕も最初は全体を木造にしていましたが、縁の所がどうも痛み易くてならないものですから。」こう云いながら、今度はロッコが顔に女の体をでも弄《もてあそ》ぶような表情を見せて、磨いた面のふくらみを手の平で、触れずに、真似るように追躡《ついしよう》した。「段々実験するうちに、廻転数が加わって来ると、室内に散らばっている藁の切れや、鉋屑《かんなくず》や、モルタアルの砕片が渦巻の中に巻き込まれて飛んで来て、縁の所を痛めてしようがないのが分かったのです。それでこんな風にぐるりっと鋼鉄の刃を嵌めましたよ。御覧なさい。障《さわ》って見るには、剃刀《かみそり》に障るように平面に障らなくてはいけません。」
おれにはロッコの表情が次第に気に食わなくなった。平生のロッコの持っていなかったある新しい物が来り加わっている。それは残忍を抑えている一種の熱である。獲物を前に見て躍りかかろうとしている猛獣の態度である。
こう思っているうちに、おれはまたかの木材と鋼鉄とから成り立った曲線の物体に心を引き附けられてしまった。ロッコ奴《め》廻転数と云うことを言っていたな。そうしてみると、あの物体は廻転するのだな、あれが空気を掻き交ぜるように動き出したら、まあ、どんなに見えるだろう。
ロッコが軽くおれの臂に触れた。「どうです。もし現代人がまだ神と云うものを想像することが出来るとしたら、それをある特別な形に想像しなくてはなりますまい。これなんぞがそう云う形の一つではないでしょうか。あんなにじっとしていては、そうでもありませんが、動き出すと。」
おれは躊躇しながら問うた。「折々は動かして見ますか。」
「いつでも動かすのです。これが本当に神々しいところは動き出してから分かるのです。動く時になって見ると、これが運動を起しているのだか、運動がつまりこの物を現しているのだか、分からなくなります。こうしてじっとしている間はこれがまだ物体で、君にしたところが、目で見、手で障って、その限界を極めることが出来ます。じっとしていても、四大のうちの空気と云う軽い物がこの物の境界で、この物はその軽い物を物質化しているのですが、それにしてもとにかくまだ物質には相違ないですな。ところがこれが動き始めると、いったん得た物体の形をこれが亡くして、astral になってしまいます。神々しくなります。つまり廻転しているうちには何も亡くなって、ただ空間で交叉している無数の力の線から成り立っている想像的形象になってしまうですね。」
おれは打ち明けて言う。おれは概念をもってロッコの詞を追い掛けて行くことが出来なかった。それでもロッコの言おうと思う事を感覚することだけは出来るようであった。事によったら、ロッコがおれに感ぜさせようと思う通りに、実際おれは感じたのかも知れない。少くもそれに似寄った感じをしたのかも知れない。とにかくロッコが説明している物質化の奇蹟を、彼と一しょに見たいものだと云う欲望は、際限もなく増長して来た。この欲望はおれのあらゆる心的発動より強大であった。もう余程長い間ロッコの視線を避けていたおれは、久し振りに再び彼と目を見合せた。
ロッコはおれの心持が分かったと見えて頷いた。そしてまた軽くおれの臂に触れて「ちょっと待って下さい」と云ってそれから工場の方に向いて、相図をするように頭を掉《ふ》って、しずかに帷《とばり》の方へ歩いて行った。
おれはまた突然さっきの怪しげな表情の事を思い出した。それと同時に心中に覚えず不安が萌して来たので、二三歩あとから附いて行った。
ロッコはちょっと振り返った。「うん。君に言っておくのですが、僕はあいつの前へ朝夕《ちようせき》の贄《にえ》を持って行く時、たいていこの辺に立ち留まっているのです。君もこの辺より近くは寄らない方が好いでしょう。随分猛烈な空気の渦巻が起って来るのですからね。すると。」こう言い掛けて、ロッコはまた意地悪げな、底の知れない微笑をした。「まあ、大概君にも分かるでしょう。さっきも云ったように、最終の美は人を殺すと云うわけですから。」ロッコは帷の中央の入口から出てしまった。
あの工場の側壁に取り附けてあった電気の接続板の所に往って、電流を開通させるのだなと云うことが、おれにも分かった。今立っている所まで来て背後へ向き返って見ると、例の暗い色をした、鈍い光沢を持った物体の、水平に空中に懸かっているのが、室内の薄明りで、やっと見える。おれは睛《め》を定めて物体を見ていた。その時背後《うしろ》で、撥条《はつじよう》で弾いたような、軽い物音がした。転流槓杆《てんりゆうこうかん》が向き変ったのである。
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おれの前の方では微かな、平等な、虫の羽ばたきをするような、糸を繰るような音がする。褐色に磨いた木で出来て、水平に横わっていた、彎曲した、大きい物は見えなくなった。ただ轂《こく》だけがまだ見えている。その形は小さい、暗色な斑点のようで、その辺縁の所は動揺して、隠顕していて、どうも見定められない。いわば中心の色の濃い所の周囲に、霧のような共心圏がたちまち生じたちまち滅しているとでも云いたいのである。この轂より外の一切の部分は、透明な、きらきらと目を射る渦巻になってしまって、外囲にはあるいは共心的に、あるいは輻線的に閃き震う光を放っている。
そして間口の狭い、奥行の深い、この一室の中にあるだけの物が皆活動し出した。左右の壁に貼ってある絹が、いつとなく風を妊んだ帆のようにふくらんで来た。天井に張ってあった、大きい蜘蛛のいがぶるぶると震えて、あっちへ引っ附いたり、こっちへ引っ附いたりする。床に敷いてある筵《むしろ》の上では、今まで見えなかった藁や鉋屑《かんなくず》や糸切れのような、小さい、種々の物ががさがさ云いながら、少しずつの距離を躍り越えて、渦巻く空気の焼点に向って進んで行く。おれは着物や髪の毛に空気の吸引力を感じて来た。ロッコはどうしたかと思って、振り返って見れば、背後《うしろ》には絹の帷が吸い寄せられて、これも帆のようにふくらんでいる。
おれは実は今少し偉大な、非常な、驚歎すべき効果を予期していたかも知れない。しかしとにかくこの秘密らしい、生きているような物体が、研ぎ澄ました刃と同じ殺人の能力を具して、目に見えないように、空に懸かっているところは、おれの心を引き附け、おれを誘惑するには十分である。
昆虫の羽ばたきをするような、糸を繰るような音は、相変らず平斉《へいせい》に、温和に、人の心を鎮めるように聞え続けている。おれはよく見ようと思って、無意識に二三歩前へ進んだ。ちょうどその瞬間に、おれの背後《うしろ》で例の接続板の上の転流槓杆を向け換える音が二度目に聞えた。それからまた続いて三度目に聞えた。おれはその操作の結果がどうなると云うことを理解せずに、しばらくの間そのまま立っていた。
今までおれの前で聞えていた、昆虫の羽ばたきのような、糸車のうなりのような音が、次第に膨脹して、劇しい、調子の高い、歌うような声になった。そう思ってまだ一瞬間立つか立たぬかに、新に起って来た空気の運動が、瀑布が人を撲つように、形体を具えた暴力かと思うばかり、抗抵すべからざる勢をもって、おれの体を捲いて、攫《つか》んで、前へ引き出そうとする。あの目に見えないように旋転している、研ぎ澄ました刃の方へ押しやろうとする。おれは余り不意を襲われたので、初めの一瞬間はそれに抗抵しようともしなかった。しかしすぐに危険の全範囲がおれの意識に上った。おれの満身の力を手足に籠めて、その場に身を支えていようとして、体を背後へ弓のように反らせて、何か支点にして攫まえていられる物はないかと、あたりを見廻した。体の周囲にはただ筵《むしろ》と氈《もうせん》とがあるばかりである。どこもかしこも滑かで平らである。
人を昏睡させようとする響、暴風の吹くような、猛獣の吠えるような響が室内に満ちている。目に見えない悪霊が身のまわりに数限りもなく跳梁していて、あの声を立てているかとさえ思われる。どこやら見えない処にある窓の扉が劇しく戸框《とかまち》に打ち附けられた音がして、続いて砕けた硝子《ガラス》のからからと堕ちる声がした。
おれの睨んでいる螺旋機の無色無形の渦巻の先に、今青い火光の閃いているのに気が附いた。原動機関の摩軋刷子《まあつさつし》がぴったり触接していないらしい。それにロッコが最強度の電流を起したのである。おれのまわりにははっきりと、大雷の時に感ずるような臭気が感ぜられる。
おれは暴風に揉まれる柳の木のように、空気の運動に引き入れられて身を撓《たわ》められては、地に根を卸しているように踏み留まろうとして、手足を衝っ張っている。足に踏まえている、柔かい氈《かも》は、どうしても支点にはならない。一寸一寸とおれの体は渦巻の方へ持って行かれるのである。どうにかして体を背後へ引こうとあせっているうちに、ある劇しい努力と倶《とも》に、おれは平均を失って背後へ倒れた。そして跳ね起きようとして、また前へ倒れて膝を衝いた。
この時おれは意外にも前より体が支えてい易いのに気が附いた。今のように膝を衝いていれば、前よりは応え易くて、少くも暫時の間空気の運動に抗抵していることが出来るのである。おれの脳髄は急速に、正確に働いている。今の場合では、空気にはなるべく衝突面を与えないようにして、地床には出来るだけ大きい触接面を与えなくてはならない。おれは一層体を前に曲げた。おれは自分の姿勢を忽然意識した。おれはその時両膝を床に衝いて、両臂をずっと前へ伸ばして、手の平をぴったり床に着けて、頸を背後《うしろ》へ反らせていた。あのロッコ奴《め》が話したバツ族のマレイ人が祈祷をする姿勢がこれだと意識したのである。
こう思うと同時に、おれの背後で嘲りを帯びた笑声がしたように聞えた。ロッコより外のものが笑はうはずがない。
おれは一種の麻痺に襲われた。一種の精神的中毒だとでも云いたい状態である。おれの神経が始めて己《おのれ》の用をなさなくなった。
おれは偶然占め得た体の位置を、痙攣的に維持しようとしている。しかし膝と手の平とに力を籠めて、おれが体を支えている氈の全体が、そろりそろりと前へいざり始めたのに、おれは忽然気が附いた。
これに気の附いた時、おれは一瞬間目を暝《ねむ》ったかと思われる。疲れと諦めとの起した、冷水を澆《そそ》ぐような感じが、おれの全身の皮膚を升《のぼ》ったり降ったりしている。おれは無理をして今一度帷の方へ振り返って見た。もうどれだけ前へいざり出ているか、計測して見ようと思ったのである。帷は軽気球に瓦斯《ガス》を詰めるようにふくらんで、絹の摩れるような音を立てている。しかしそれと同時に、おれはある重要な事を発見した。
それはおれが川の方角だと見当を附けている、この室の左側の壁の下に、揉みくちゃにした紙屑が二つ三つ転がっていて、それが稀に床の上をかさかさ音をさせながらあちこちさまよい歩くだけで、ほとんど動くと云うほど動いていないと云う事である。そうして見ればおれの体から五足とは離れていない、あの左側の壁の下はほとんど無風の状態であると見える。機関の運転によって起っている吸引の力は漏斗形に働いていて、その功力範囲から外へ出れば逃れられるのだと見える。おれの脳髄は熱を病んだ時のように働いている。吸引せられた空気は円錐形にその吸引力の中心点に向って動くと云うことを、おれの悟性はどうかして思い出したのである。
物狂わしいような空気の運動に、おれの髪は前へ吹き靡《なび》かされて、鞭うつようにおれの目に触れている。おれの衣服は風を孕《はら》んで、縫目が裂けそうにふくらんでいる。そして膝と手の平とでおれが押さえている氈は次第に前へいざって行くのである。
おれは大胆に決心して身を脱する策を実施するに至るまで、多少の時間を費した。身を脱せようとする試みは、どうしてそれを実施するにしても、おれの体の現在の位置を変更せずには置かない。そこがすこぶる考え物である。おれの今決行すべき事は、体を急に力強く背後へ倒して、それから足を機関の方へ向けていながら、自分の体の縦軸に随って、あの左側の壁の下まで転がって行くより外は無いと、おれは考えた。これから先の出来事は実は数秒間に経過したのだろうが、おれのためにはそれが数分間掛かって、その一分が一々永遠であるように感ぜられた。
おれの体の下の氈《かも》がまた一いざり先よりやや劇しく前へいざったので、おれは絶体絶命の勇気を奮い起した。おれは出来るだけ力強く体をばったり背後《うしろ》の床の上へ投げて、全身の力を籠めて左へ左へと転がった。一度転がる。二度転がる。とうとうおれは数えることをも止めてしまった。方角なんぞも正確に維持してはいられなくなった。突然おれは頭に強い打撃を受けた。ほとんど気が遠くなるほどの打撃である。こんな時には可笑《おか》しいほどの速度をもって、物狂わしいほど急忙に、甲乙二つの事を考え合せることが出来るものである。や。方向を誤って、やっぱり刃に触れたな。おれはこう思ったが、さて何事もなくて頭の痛みが次第に薄らぎ始めたので、おれは体のまわりを手で探って見た。おれは頭を壁に打《ぶ》っ附けて倒れていたのである。
螺旋機は相変らず、吠えるような、歌うような響をさせている。ぷすぷす音のして飛ぶ青い火花も前より盛んに見えている。大きい絹の帷は、競漕艇の帆が十四メエトルの風を受けたように、今裂けるかと思われるほど張っている。おれはこの時自分を安全な位置に移したい、助かりたい、逃げたいと云う欲望が、ほとんど前後の差別も出来ないほど烈しく起って来るのを感じた。それと同時にあのロッコ奴《め》がむやみに恐ろしくなった。あいつの大きく見開いた、きらきらする目と、意地の悪げな、底の知れない微笑とがこわくなった。あいつの傍を通らなくては逃げられないと思うのが、むやみにつらかった。
おれは今ロッコが何をしているだろうと云うことを想像してみた。あいつは多分接続板の前に立って、時計の秒を指す針を睨んでいるだろうと、おれは思った。それから川の方の壁に締まった戸のあったことを思い出した。今この壁に附いて駆けて行って、あの帷《とばり》を破って、あの戸を衝き抜いて出ればいい。戸の外には引舟をするために小径が附いているに違いない。なんでも岸が水面から余り高いとは思われない。多分ロッコは最初這入って来た時の戸口に気を配っていて、あの川に向いた戸口を忘れているだろう。あの戸口をねらって行って、衝き破れば、ロッコは不意を食って、おれを遮り留める余裕がないだろう。
おれはこう思って、跳ね起きて、駆け出した。最初は壁に沿うて帷の方へ、空気の吸引力に反抗しようとして、骨を折って駆けていたが、次第に速度を大きくして駆け抜けるや否や、帷の壁に取り附けてある処を、めりめりと上から下まで引き裂いて、僅かばかりの為事場《しごとば》の明りに目を射られながら、戸口までの五足を飛ぶように踏んで、いきなり全身の重みをもって扉に打っ附かった。扉の板は震動した。ただ一押しで錠前と上の蝶番とがはずれた。扉は斜に外へ傾いた。おれが戸口を衝き抜いて出ようとする勢いは、止めようとしたって止まらない。その瞬間におれは夜が明け離れていて、戸口から下は地盤まで幾メエトルかの空であると云うことを感じたばかりである。
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おれはよほど久しい間人事不省の中に苦しみ悶えていた。それから我に帰って見ると、おれの目に見えない誰やらが、おれの背後《うしろ》から肩先を押さえていて、おれを宥《なだ》め顔に、おれの前に膝を衝いているのは医者で、今少しでおれの腓骨《はいこつ》の骨折に繃帯をしてしまうところだと云った。おれのいる周囲が緩かに揺れているので、場所は舟の中だと云うことが分かった。おれは起ち上がろうとした。しかし背後《うしろ》にいる男はおれより力が強かった。その上おれの我儘《わがまま》な挙動を見て、すこぶる不機嫌になった。
おれは自分の閲歴《えつれき》した事を始めて思い出した時、身の置きどころもないように感じた。言うに言われぬ恥をかいたと云う感じが余り強くて、おれはも少しで大声にどなるところであった。しかし背後《うしろ》にいる強情な奴に遠慮して、おれはそれをこらえた。おれが最初にはっきりと思い浮べたのは、帷から戸口まで為事場を駆け抜けた時、ロッコはいなかったと云うことである。確かにいなかった。その時の事を思い浮べてみればみるほど、為事場は空虚《からつぽ》で、ロッコの姿は見えなかったに違いない。
そのうち足が痛み出した。妙な引き附けるような、渦巻くような運動をして、その痛みは傷ついた足から上へ升《のぼ》って来る。おれはまた気を失った。その気を失う前に、おれは自分が臆病と興奮とのお蔭で、外部《がいかぶ》の複雑骨折を受けたのだと云うことを認識していた。
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日記の断簡
三月三日。巴里《パリイ》。夜。どうもおれは自分で考えてみても、あのポルタ・ポルテエゼでの奇怪な出来事が《うそ》のようでならない。もし現に左足で跛《びつこ》を引いていると云うみじめな事実がなかったら、おれはきっとあれが事実だったと云うことを疑うだろう。一体この足が綺麗に直り切るだろうか。それに右の手の平の拇指の根の所にも、細い、白い瘢痕が残っている。きのうおれの見て貰った、あの占をする黒ん坊女めが、厭な事をぬかしゃあがった。おれはあの詞《ことば》を忘れてしまいたい。女めはおれの手の瘢痕を見て、白い、鋭い歯のマレイ種の娘がどうだとか云ったっけ。それがどうしたと云うのだろう。
しかしあいつの云った事も、まんざら無意味ではないようだ。なぜと云うにおれは原来《がんらい》趣味の上から言えば博言学者だ。それが急に空中螺旋機に興味を持って見に行くはずがないじゃないか。おれはこのパリイへ気を晴らしに来たつもりでいるのに、心の奥では朝も晩もあいつを尋ねている。おれはこの二三日は何百の女を見たか知れない。しかしあいつのようなものは一人もいない。この頃の夜の不安と夢とは実にお話にならない。
水曜日。らしいよりもっとひどい。おれはあの出来事のお蔭で、だんだん世の物笑いになりそうになって来た。誰にも話さなければよかった。どうも悪魔が手伝って、予期しない事が出来て来るのはしかたがない。
おれはカッフェエ・ド・ラ・ペエでコスタに出逢った。ちょうど朝食に丸焼の卵を誂《あつら》えたのが出来て来たので、卵の殻の尖《さき》をこわして、朝刊新聞を読みながら食おうと思っているところであった。コスタはガアル・ド・リオンからすぐに来たのだそうで、まだ汽車の煤が眉の傍に黒い筋のように附いていた。コスタは政府の註文したライト式の飛行機を受け取りに来たのだ、とおれに話した。それを聞いて、おれはライト式の飛行機にも木造の空中螺旋機がありはしないかと、問わずにはいられなかった。もとコスタとおれとはメルシュチェンスキイ侯爵夫人の催す茶の晩に、考古学、芸術史、文芸なんぞの話をし合った中なのだから、どうしておれが急に世間並に流行の問題に対して興味を持って来たかと、コスタはおれを冷かした。ところがおれは冷かされては我慢しにくい性分である。とうとうおれは自分を弁護して、相手をへこましてやるために、ロッコの事件を話して聞かせた。
コスタは云った。「それでは君はロッコに冤罪《えんざい》を負わせているのです。あいつは変物《かわりもの》には相違ないが、人に危害を加えるような奴ではありません。それに天才的ですよ。君にだから言うのですが、実際天才的ですよ。あれで一件でなかろうものなら。」こう云って、コスタは誤解しようのない手附をした。ロッコのためには気の毒な手附である。
それにコスタのためにはおれの話がちと長過ぎたと見える。コスタはもどかしそうに足踏をしていた。なんでも新しい飛行機を早く験《ため》してみたくてたまらないらしい。朝食の代りにコニャックを二杯引っ掛けたばかりで、コスタは自動車に飛び乗ってイッシイへ出掛けた。
おれは少し間の悪いような心持をしてあとに残った。人に危害を加えるような奴ではないと云ったっけ。それにおれはこれと云うしかとした理由もないのに、左の外《がいか》を傷めて、どうもその創が直り切りそうには見えないのである。
きょうの午後には、おれはアスニエエルにいた女の細工人を尋ねることになっている。木造推進機の製作で名高い女である。
コスタは面白い士官だ。ただ少し皮肉なのに困る。晩の五時にはルンプルマイエルの所で一しょに茶を飲む約束をした。一体おれはぷんぷんいい匂いのする、一ぱいに詰まった菓子器のような場所は嫌いだが、今夜は往くことにする。誰かとある物の話をするのは悪くないから。
夜。例の癖でコスタはずっと遅れて来た。もう客が皆立ち掛かっていた。小さい円卓を花弁のように囲んでいた人達が、花の散るように別れようとしていた。コスタは背後の方から、神経質な、一足ずつに体を前へ撥ねやるような歩き附きをして来た。手に畳んだ新聞を持っていて、それで太股の処を叩きながら歩いて来た。新聞はトリブナであった。コスタはすぐにそれを拡げて、三面の長い記事の所をおれの鼻の下に衝き附けた。そしてくるりと背中を向けて、給仕にケエクスを註文しておいて、微かな口笛を二三音吹いた。
「ポルタ・ポルテエゼにおける恐怖すべき発見」と標題が書いてある。その下に「怪我の自殺か」と註してある。どうしておれはこの記事を見て、ひどく侮辱せられるような、自分の気を狂わせるような語調だと感じたのだろう。
「ロッコ奴《め》。可哀そうな事をしたねえ。」コスタはこう云って、目は隣の卓にいる杏《あんず》の花のような色の着物を着た女を眺めている。
細部に亘って、身の毛のよだつような事が書いてある。「頭顱《とうろ》は左右の耳に掛けて竪《たて》に割かれ、鋭く切り剥がしたる如く、顔面の全部を除きあり。発見せられし時の死体は跪《ひざまず》きいたり。左右の手を長く前方に差し伸べ、掌《たなぞこ》を平に歩床の上に衝きいたり。」
木曜日。女の姿は毎晩変って現れる。昨夜はしなやかに、細く、肌の色は暗褐色で、ゴオガンのタヒチの女のようであった。しかしそれがマレイ種の女だ、パッタ族の女だと云うことを、おれは知っている。にっこり笑っておれの方へ進み寄って来て、両手を拡げた。ずっと傍に来た時見れば、女の歯は鋭い鋼鉄のようであった。
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やや後の記事。日附なし、眠薬があると云うのはだ。おれは極量の四倍のウェロナアルを飲んでいるが、もう七十二時間眠らずにいる。強い香水と寺の薫物《たきもの》とワニスとの匂いがするが、どこからその匂いが来るのだろう。
ロッコはなんと云ったっけ。「神と云うものがまだあって、それを愛するなら」どうだとか云ったようだ。もうおれは忘れてしまった。
コスタとタヴェルネ・ロヤアレで朝食をした。
なぜこのホテルにはトリブナ新聞を取っていないのだろう。
午後。こん度はおれの方でトリブナ新聞を持って来て、コスタの鼻の先へ衝き附けてやった。新聞の文句はこうだ。「海軍士官故人アンドレア・ロッコの死は余りに不祥なりしため、男爵ロッコ家は遺産を相続することを拒絶したり。遺産は価格僅少にして、ポルタ・ポルテエゼ附近の小荘園と同所家屋内の電気器械その他の機関とに過ぎず。これ等の動産不動産一切は不日競売に附せらるるはずなり。原来故人はすでに読者の知らるる如く、平生器械学に従事し云々」と云うのである。
コスタはこれを読んでも、別段感動したらしくは見えない。「気の毒な奴さね。競売入費が出るか出ないかくらいの物だろう。」こう云って、コスタはちょうど男二人の間に挟まって梯子の方へ歩いて行く、葵《あおい》の花のような色の着物を着た女を見送っていた。
帰路におれは乗車券を買って、どうも寐《ね》られはしないのに、寝台を誂《あつら》えて置いた。
月曜日朝。パリイ、ロオマ間急行列車中。今通った小さい停車場はパロだった。やはりおれは寐たのだ。まだ先が四十八キロメエトルある。このごろの朝は寒い。おれはあいつに逢うのだ。あいつはおれの物になるだろう。おれの身の行末はどうなる事やら。
祭日 リルケ
ミサを読んでしまって、マリア・シュネエの司祭は贄卓《したく》の階段を四段降りて、くるりと向き直って、レクトリウムの背後に蹲《うずくま》った。それから祭服の複雑な襞《ひだ》の間を捜して、大きいハンカチイフを取り出して恭《うやうや》しく鼻をかんだ。オルガン音階のC音を出したのである。そして唱え始めた。「主において眠り給える帝室評議員アントン・フォン・ウィック殿のために祈祷せしめ給え。主よ。御身の敬虔なる奴僕アントニウスに慈愛を垂れ給え。」
ベンチの第一列に腰を掛けていたのが、この時立ち上がって、さも感動したらしく鼻をかんでいる男がある。八年前に亡くなった「敬虔なる奴僕」の弟で、スタニスラウス・フォン・ウィックと云うのである。
祈祷が済むと、現に族長になっているスタニスラウスが、先頭になって席を起った。そのあとには、薄暗いベンチから身を起して、喪服を着た数人の婦人が続いた。
街へ出て、スタニスラウスは妹のリヒテル少佐夫人に臂を貸して、並んで歩き出した。その他の人々は二人ずつの組を作って、そのあとに続いた。
誰も物を言うものはない。一同の目映《まば》ゆがるような目は、泣いたあとのように見えている。腹のすいたのと退屈したのとで、欠《あくび》が出る。
一族はこれからイレエネ・ホルンと云う未亡人の邸へ食事に行くのである。イレエネは亡くなったアントンの娘で、ホルンと云う夫を持って、その夫に先立たれているのである。スタニスラウスと並んで歩く少佐夫人は、体の太ったのと反対に、いつも忙しそうに足を早めたがる。それで兄の窮屈げな、葬いに立った時のような歩附きとはとかく調子が合いかねる。スタニスラウスは妹の足の早いのを、慾望的な、現世的な努力を表現しているように感じて、妹を警醒するような口吻で、「兄は可哀そうな男だったな」と云った。
少佐夫人はただ頷《うなず》いた。
スタニスラウスは二三度肩を聳《そびや》かして、そして心配らしい、物を聞き定めるような顔をした。
一同はイレエネ・ホルンの家の戸口に着いた。その時スタニスラウスは家族が皆見ている前で、さっきの肩の運動を繰り返している。
イレエネがその様子を見て、じれったそうに、「おじさん、どうなすったの」と云った。
スタニスラウスはまず心配げな顔に、堪忍の表情を蓄えられるだけ蓄えて、やはりさっきの肩の運動を繰り返して、溜息を衝いて云った。「なんだか体がぎごちなくなったようだ。礼拝堂で風を引いたのかしらん。」
イレエネはただ頷いた。
イレエネの妹のフリイデリイケが、さも物をこらえていると云う口吻で囁いた。「わたくしもそんな気がいたしますの。」
こんな事を言い合って、門口を這入って行く。その時フランス女の家庭教師がイレエネの息子の、七歳になって、色の蒼いのを連れて、そこへ近寄って来た。自分も色の蒼いフリイデリイケは、少年の額を撫で上げてやりながら、腹の内で「この子がこんなに蒼い顔をしているのは、きっと風を引いたのだろう」と思った。
暗い梯子段を上がる時、フリイデリイケはイレエネに囁いた。「あの、オスワルドは咳をしていますのね。」
家族一同が食卓に就いた時、人々はようよう礼拝堂から持って帰った病気の事を忘れた。
スタニスラウスは妹の少佐夫人とフリイデリイケとの間に据わっている。さっき体操をするように肩を動かした填合《うめあわ》せと見えて、今は神の塑像のように凝坐《ぎようざ》している。その向いには老処女のアウグステが据わっている。アウグステはこの家で何事にも手を出して働いて、倦《う》むことを知らない、おばさんである。この人がどう云う親族的関係の人だかは、誰も知らない。
スタニスラウスの目は向いのアウグステおばさんの頭の上を通り越して、食堂の一番暗い隅に注がれている。そこには小さい卓が置いてあって、その傍に、丈の高い腕附きの椅子に、金巾《かなきん》の覆いを掛けたのが二つ、手持無沙汰な風をして据えられている。
この一刹那には、スタニスラウスがひどく忙しそうな態度をしている。ちょうど役所で新聞を読んでいるところへ、誰かが這入った時と同じ態度である。剛《こわ》くなった指がナイフを握っているのが、役所でペン軸を持っているのと同じように見える。今思っている事が役所で取り扱っている書類であったら、これからその書類の下の端へ、よじれた草の茎を組み合せたような字で「スタニスラウス・フォン・ウィック」と署名しようとしているとたんのように、ナイフは握られているのである。
周囲の人は、皆この重要な刹那を黙会《もくえ》して、ほとんど息もしないでいる。しかし卓の下の端にいる小さいオスワルドは、遅れ馳せにスウプを啜《すす》っている。それからアウグステおばさんは、こう云う会食のあるたびに、三日前からと三日後までとをあわせて、七日分の腹を拵えておこうとしているので、どうしたら、なるたけたくさん饒舌《しやべ》って、同時になるたけたくさん食べられるだろうかと云う研究に汲々としている。おばさんは山盛に盛り上げた皿の前に、衝立を立てるように、談話と云うものを立てて置いて、胃腸の消化と空想の消化とに競走をさせている。そこで、この込み入った為事《しごと》は随分骨が折れるので、おばさんは逆上して来て、折々息を入れるのである。
ちょうどそう云う、おばさんの休憩の時であった。スタニスラウスは目を高い腕附きの椅子からそらして、ちょっとアウグステおばさんの陰気な額の上に休ませて、更に一転して、大いに意味ありげに女主人イレエネの顔に注いだ。イレエネは自分がフォン・ウィック家の娘だと云う資格以上の自信を有している女である。イレエネはおじさんのこの一瞥を恭《うやうや》しく受け取って、周囲の一同がひっそりと黙っている中で、さも手が懈《だる》いと云う風に、持っていた果《くだもの》を剥く小刀を、Wの上に冠のある印の附いた杯の縁まで上げて一度ちいんと叩いた。
この小なる原因は大なる結果を現した。食卓にいるだけの人の手に持っていた武器は、大層嬉しそうなのと、それほどでもないのとの別はあっても、皆多少の忙《せ》わしさを見せて働いていたのだが、それが一斉に運動を止めた。そしてこの人々の膝の上にあったセルウィエットは、それぞれの手に掴まれて、軍使の掲げる旗のように、休戦と平和とを表して閃いた。
家兎のような目をしているフランス女は、子供の手から匙をもぎ取った。
「Que veux-tu ?」猫のおこったような声で、子供が云った。
女教師は非常な恐怖を顔に見せて囁いた。「Fais attention !」
この騒動のために、スタニスラウスの口から出た最初の数語は、まるで人には聞えなかった。スタニスラウスは一層居丈高になって、吭《のど》に支《つか》えて眠っている詞を揺り醒ますように、カラの前の方を手まさぐった。そして光沢のない目で、再び二つの腕附きの椅子を見やって、「あそこで」と一声云って、人々の目が自分の目のあとに附いて、同じ椅子に注がれるのを待って、さてあとの詞を言った。「あそこで八年前に、憫《あわれ》むべきわたしの兄は瞑目した。神の慈愛は彼の上にあれ。兄の最後の数語は我等一族の休戚《きゆうせき》のために思いを労したものであった。絶息する一日前に、彼はわたしにいった。どうぞ互に仲善くして助け合ってくれと云った。その兄の要求した通りに、我々は親密に和合して、今日彼の第八週年忌の祭を施行するのである。我々が平穏に、健全で、なお久しく彼のために記念祭を行うように、神は我々に恩恵を垂れ給え。我々の同胞。」ここまで云って、句切りをして、スタニスラウスは女主人とフリイデリイケとの顔を見て、「我々の慈父」と云った。それから今ちょうど内証で、そっとパンの欠《かけ》を湿った指で撮《つま》んで口へ持って行っているオスワルドに目を移して、「我々の懐かしい祖父」と云った。「我々の懐かしい祖父の尊霊がこの席の上に、祝福を降しつつ飛翔しておいでになると云うことは、わたしの疑わないところである。」
スタニスラウスは努力と感動とのために疲労して、腰を椅子の上に卸した。そのくせ腰を卸すとたんに、燕尾服の長い裾を丁寧に左右に開くことは忘れなかったのである。
スタニスラウスは兄の葬式の日にたいてい右の演説と同じ文句の演説をした。それからは毎年年忌の回数を取り換えるだけである。しかし一年に一度しか使わない詞だから、割合に古びずにいる。その上スタニスラウスは一語ごとにまず塵払《ちりはらい》で払って、一応捏《こ》ね直して口から出すようにしているのである。
一同起立して杯を打ち合せた。その杯を持った手を出すにも、一人一人身分相応に控目《ひかえめ》にして出すのである。
それが済んだ時、色の蒼いフリイデリイケが劇しい咳をしながら云った。「あの、お父う様はどちらの方の椅子に掛けていてお亡くなりなさいましたの。」そして目を半分開いて、椅子の二つ並んでいる隅を見た。
女主人イレエネは、そんな事を今問うのは不都合だと思うらしく、肩を聳かした。
スタニスラウスはまだ感動から蘇っていない。
少佐夫人は生憎《あいにく》口に一ぱい物を頬張って噬《か》んでいる。
そこでアウグステおばさんが返事をしなくてはならない順序になった。おばさんは余り躊躇せずに記憶の一部を喚び醒そうとするように、平手で白髪の束髪の上を撫でて、大胆にはっきりと言って退《の》けた。「あちらの椅子でございました。」おばさんはいつもこんな風に、一族に関した出来事を大切に、精《くわ》しく記憶していて、それで自分の親族的関係の朧気なのを填《う》め合せようとしているのである。
ところが、それについて是非の論が紛起した。一同起立して、二つの椅子を取り巻いて見ている。
最後にスタニスラウスが起って来て、人を押し分けて椅子の背後《うしろ》に近寄って、椅背《きはい》の後面を平手で撫でて見た。さて熱心に解決を待っている一同に向って口を開いた。「兄が据わっていて亡くなった分の椅子には、螺釘《ねじくぎ》が一本抜けていた。こちらの方に、その釘が無い。こちらの方がその椅子だ。」
一同しばらくその場に立ち留まっていた。その椅子が何か一言いうかとでも思っているらしい様子である。しかし椅子は冷淡に黙っているので、人々はその席に帰った。
フリイデリイケは咳をしながら、「お祖母《ば》あ様のお亡くなりになったのは、あの黄いろい長椅子の上でございましたね」と云った。これを始めとして、一族のものは互にあの椅子、この椅子と指ざしをして、どれでは誰、どれでは誰と、一族の男女が腰を掛けて死んだと云うことを数え合った。いま先祖の尊霊になっていられるどなたかが、腰を掛けて死なれたことのある椅子の数が多くて、誰も腰を掛けていて亡くなったことのない椅子が偶《たま》にあると、ひどくその椅子だけが幅の利かないわけである。そこでその恥辱を最も深く感じたのは、アントン・フォン・ウィックの臨終に逢ったという椅子の隣にある、金巾《かなきん》の覆いのしてある今一つの椅子である。
食卓の休憩時間が少し長引き過ぎた。そこで女主人は指尖でベルを押した。
一同はまだ誰がどの椅子の上で死んだとか、誰は死ぬる前になんと云ったとか数え立てている。フリイデリイケはぼんやりした笑顔をしていつもこんな場合に繰り返す話をしている。それはお祖母《ば》あ様が亡くなられる時、フランス語でなんとか云われたと云う話である。そこへベルの音を聞いて、ヨハン爺いさんが出て来た。爺いさんはもう何代前からか、この家の附属物になっているのである。さっきから捧げ持っていた鹿のフィレエ肉を、割合に調子よく手に載せて、滑かな床板の上を旨く歩いて来るのである。
ヨハン爺いさんはもうよほど前に隠居して、何代目と何代目とのウィック様から恩給を戴いているとか云うわけである。それがたまにきょうのような、重大な儀式があると給仕に出て来る。そういう時爺いさんは紋に Constantia et fidelitas というラテン語の鋳出してある、銀の控鈕《ボタン》の附いている、古い、地の悪くなったリフレエ服を着て、痛風で曲がった指に、寛《ゆる》い白麻の手袋を嵌めて出て来る。その様子が骸骨に着物を着せたように見える。
ちょうど枯葉が風に吹かれて飛んで来たように、爺いさんは卓の端まで来て、女主人の席の背後に引っ付いた。半盲になっている目が、薄暗い食堂の中の物を見分けるまでには、よほど暇が掛かる。その暇を掛けてからでも、奥様がここにいられるはずだと思って、皿を衝き出すのは、目で見てすると云うよりは、たいていこの辺だろうと、想像してすると云った方がよいくらいである。
女主人は肉の小さい切れを、大骨折りをして皿に取った。それから附け合せの蒸米を取ったが、その様子は先代の主人にも、先先代の主人にも、フィレエ肉を差し上げたことのある、この老人の顫えている手から、祝福を受けるのかと思われるようであった。それから女主人は丁寧に爺いさんの麻の手袋に会釈した。
爺いさんは鳥瞰図《ちようかんず》的に一座を見渡して、さて少佐夫人リヒテルの紫色の帽子に目を移した。夫人はどの肉にしようかと皿の中を見廻している。爺いさんは、この紫色の帽子の下に隠れている首は誰の首だろうかと思案し出した。しばらくたってから、この奥様はたしかに故人ペエテル様の奥様で、カロリイネ様だと極めた。カロリイネ様には、ちょうど三十年前に鹿の肉を差し上げたはずである。今お給仕をする奥様はどうしても百歳にはなっておいでなさるはずである。こう思って爺いさんは謹んでお給仕をしている。この老僕のためには、千年も一日のようである。そこで次に皿を差し出す檀那《だんな》は誰様だろうと思案したが、これはカロリイネ様の御亭主でペエテル様だと極めた。もう大層なお年であろうに、よくお達者でおいでになると思って、スタニスラウスに給仕した。そんな風にどの人をも先々代時分の人だと見做《みな》して給仕をしてとうとう小さいオスワルドの所へ来た。そしてこの子供をスタニスラウス様だと極めた。そして色の蒼いオスワルドの、尖った肘に障らないように皿を持って行く時、さも小さいスタニスラウス様をいたわると云う態度をしていた。一同の目は心配げに老人の挙動を見ている。これがウィック家代々の遺物たる、珍らしい人物だからである。
ヨハン爺いさんはとうとうすべての亡者に給仕をしてしまって、フランス女の前に来た。ところがこの茶色の目をした女は誰だろうという心当りが、どうしても附かなかった。しかし自分の記憶が折々怪しくなる事は認めているので、この女の事ぐらい思い出されなくても差支えないと思って、ちょいと出した皿を、まだ女の十分取らないうちに引っ込めた。女教師はびっくりして振り向いたが、その驚きを人に気取られないようにと思って、子供に物を言った。「Bubi, tu as trop.」こう云いながら、子供の皿の上の一切れの肉をこっそり自分の皿の上に運んだ。
オスワルドはこわごわ惜しげにその肉を見送った。この間アウグステおばさんは色々な、下らない世間話をしている。しかし誰も真面目に相手にならずに、稀にいい加減の相槌を打っている。
女主人は、アウグステおばさんがこんな日に世間話をするのを、不都合だと思って、少佐夫人にそっとその心持を話した。少佐夫人はただ頷いて、熱心に鹿の肉を退治ている。
フリイデリイケはアウグステおばさんが何を言おうと構わないで、女教師と話をしている。女教師は、自分が尼寺に這入ろうと思った事があると云う話を、もう十一度繰り返している。フリイデリイケは何遍でも面白そうに耳を傾けていて、この次の十二度目には、この色の蒼いパリイの女が、どうしてそんな決心をしたかと云う、その小説の片端をなりとも聞き出したいと思うのである。そのうちスタニスラウスおじさんの声を張り上げて何か言うのが聞えたので、この対話は中止せられた。
スタニスラウスはヨハン爺いさんに好意を表せなくてはならないように思って、そのリフレエ服の裾を引き留めて囁いたのである。「おい。いつまでたってもお前とおれとは年が寄らないなあ。」
爺いさんは返事をすることが出来なかった。一つにはペエテル様のお詞が掛かった難有《ありがた》さに感動して、物が言われない。また一つには耳がひどく遠いので、何を言われたか少しも分からないのである。
スタニスラウスは少しせき込んで同じ事を繰り返したが、今度も老僕には聞き取れなかった。
スタニスラウスは何事によらず、早く片を付けたい性分だから、こんな形式的な事件が手間取るのを不愉快に思って、もう声に優しみを加えることをも忘れて、荒々しく叫んだ。「おい。ヨハン。達者か。」
一同耳を欹《そばだ》てた。フリイデリイケも、女教師も、アウグステおばさんも黙った。小さいオスワルドは熱心に何事か聞こうと思って、フォオクに突き刺した肉を口に入れるのを忘れていた。
今度はヨハンにも聞き取れた。そこで尊敬を忘れずに心易立《こころやすだ》てをも敢てする老僕の態度で、スタニスラウスの白髪頭の上へ首を屈めて云った。「難有うございます。ペエテル様。」老僕は先先代に対して、外の一族の人達と区別するために、こんな風に名を言っていたのである。一言一言念を入れて、思い出し思い出しして言うようであった。それを聞いていたフリイデリイケは、久しく巻かなかった時計が時を打つのを聞くように感じた。中にも「ペエテル」と云う前には老僕が大ぶ長い間を置いたので、この名をはっきり言った時には、気を付けて聞いていた一同の耳に、それが異様に響いた。
スタニスラウスはぎくりとした様子で、顔色が真っ蒼になった。そして老僕をいたわる心持で微笑んでいた微笑《えみ》が消えてしまった。この刹那に、スタニスラウスは一同の目が自分の一身に集注しているのを感じて、それと同時に自分がいかにも老衰して、たよりなくなっているように思った。それは人々の目が兼て自分のぼんやりと感じていた「恐怖」をはっきりと現していたからである。
スタニスラウスは一座を見廻した。そして誰かの唇が「ペエテル」と囁いていはしないかと懸念した。しかし誰一人唇を動かしているものはなかった。
スタニスラウスはおそるおそる振り返って見て、精々気を弱らせぬようにと自ら努力して、口の内で、「こいつ気が変になっているな」と云った。しかし背後《うしろ》にはもう誰もいなかった。
スタニスラウスは平手で二三度狭い額を撫でた。
「どうかなすったの」と、隣の少佐夫人が云った。夫人は一座の中で割合に慌てずにいたのである。
「いや。なに。」スタニスラウスは微かな声で答えた。それから強いて決心したらしく、膝の上のセルウィエットを掴《つま》んで、皿の側に置いて、両手で卓の縁を押えて身を起した。それから怪しげな足取をして、暗い隅の方へ歩いて行って、例の小さい卓の側に、腕附きの椅子の二つある、その一つに、がっかりした様子で腰を卸した。その椅子はまだ誰も腰を掛けて死んだことのない椅子であった。
これは履歴のない椅子に履歴を附けてやろうと云う公平な心からである。
一同眸《ひとみ》を凝らしてスタニスラウスを見た。
「おじさん」と一声を発することを敢てしたのは、女主人イレエネ・ホルンであった。
スタニスラウスはしずかに手を振った。人に邪魔をせられずに落ち着いていたいと思ったからである。きょうかあすかは知らぬが、自分はもうこの椅子から立ち上がらずにしまうのが分かっている。しかし最後の詞は、なんと云う詞にしようか、それはまだ極めていない。
老人 リルケ
ペエテル・ニコラスは七十五になって、いろんな事を忘れてしまった。昔の悲しかった事や嬉しかった事、それから週、月、年と云うようなものはもう知らない。ただ日と云うものだけはぼんやり知っている。目は弱っている。また日にまし弱って行く。それで日の入りがぼやけた朱色に見え、日の出が褪めた桃色に見えるが、とにかくその交代して繰り返されて行くことが分かる。そしてこの交代は大体から言えばうるさい。だからそれを気に掛けるのは、馬鹿げた、無用な努力だと感ずる。春だの夏だのの価はもう分からない。いつだって寒がっている。そうでないことは、ただ稀にちょいとの間あるだけである。その暖い心持は煖炉のお蔭でも、太陽のお蔭でも、そんな事はどうでもよい。ただ太陽の方が煖炉よりよほど廉価だとだけは心得ている。だから毎日日のさす所へとこころざして、市の公園へ跛《びつこ》を引きながら往って、菩提樹の下のベンチに腰を掛ける。席も極まっていて、貧院から来るペピイとクリストフとの二人の老人の間である。
この毎日左右に来る二人の老人は、ペエテルよりも年上である。ペエテルは腰を掛けてしまうと、一声うなって、それから腮《あご》で辞儀をする。右の人も左の人も、辞儀が伝染したように、器械的に頷く。それからペエテルは杖を砂の上に立てて、曲った握りの上に両手を置く。
しばらく立ってからペエテルは更にその両手の上に、鬚を綺麗に剃った腮を載せて、左にいるペピイの方を見る。目に出来るだけ努力をさせて見ると、ペピイの赤い頭が、だぶだぶした項《うなじ》の上に、力なく載っていて、次第に色が褪めて行くように見える。幅広に生えている、白くなった八字髭《はちのじひげ》は根の処がもうきたない黄色になっている。このペピイは前屈みに腰を掛けて、両肘を両膝の上に衝いていて、指を組み合せた両手の間から、時々砂の上へ痰を吐く。もう両脚の間に小さい沼が出来ている。ペピイは生涯大酒を飲み通したので、その飲んだだけの酒の利足を痰唾にして、毎日大地に払い戻すのかと思われる。
ペエテルはペピイの体に異状の無いのを見届けた上、手の甲に載せた腮をずらせて、半分右へ向く。ちょうどクリストフは手鼻をかんだ処で、そのとばしりが地の透くようになった上衣に掛かっているのを、丁寧にゴチック形の指で弾いている。クリストフは想像の出来ぬほど衰弱している。ペエテルもまだたまには物を不思議がることがあるので、一体この痩せ細ったクリストフがどうして生涯のうちに体のどこかを折ってしまわずに、無事で通ったかと不思議がるのである。ペエテルの観察したところでは、このクリストフと云う男はひょろ長い枯木のようなもので、それが頸と足首との二箇所で丈夫な杙《くい》に縛り附けてあるのである。しかしクリストフは自分の体にかなり満足している。そしてこの瞬間にげっぷを一つした。これは中心で満足している印とも胃の悪い印とも見ることが出来る。それと同時にクリストフは歯の無い口で絶えず何か噛んでいる。上下の脣はこの運動に磨り耗《へ》らされて薄くなっているかと思われる。また推察を逞しくして見れば、この男は胃に力が無くなって、「時間」も消化することが出来にくいので、その一分一分を精一ぱい熟《よ》く咬《か》み砕いているかとも思われる。
ペエテルは腮をずらせ戻して正面を向いて、汁の垂る目を芝生の緑に注いだ。そこには夏服を着た子供が、強い光線の反射のように、止所《とめど》なしに緑の叢《むれ》の前を飛び上がったりまた落ちたりしている。それがうるさくてならない。ペエテルは眠りはしない。痩せたクリストフが刈株のような腮鬚《あごひげ》で領《えり》をこすりながら、ゆっくり何やらを咬んでいる音と、ペピイががっがと痰を吐きながら、折々余り近くに寄って来た子供や犬を叱る声とを聞いている。道の遠い所で砂利を掻いている熊手の音も、側を歩く人の足音も、近い所で時計が十二時を打つ音も聞える。ペエテルはもう数えはしない。数え切れぬほどたくさん打てば十二時で午《ひる》だと云うことを知っている。最後の時計の音と同時に、可哀らしい声が耳元で囁く。「おじいさん、お午。」
ペエテルは杖に力を入れて起ち上がって、片手を十になる小娘の明るい色をした髪の上にそっと置く。小娘はこの時きまって、自分の髪の中から枯葉の引っ掛かったような手を摘み出して、それにキスをする。おじいさんは左へ一遍と右へ一遍と辞儀をする。左でも右でも器械的に辞儀の真似をする。そしてペピイとクリストフとはいつもおじいさんと小さい娘との後影が木立の向うに隠れるのを見送る。
どうかするとペエテルの腰を掛けていた跡に、娘の手から翻《こぼ》れ落ちた草花が二三本落ちていることがある。そんな時は痩せたクリストフがゴチック形の指をおそるおそる差し伸べて拾って、帰り途にそれを大切な珍らしい物のように手に持っている。赤い頭のペピイはそれを馬鹿らしく思うらしく痰を吐いて見せる。クリストフは腹の中で恥かしがる。
しかし貧院に戻り着くと、ペピイが先に部屋に這入って、偶然の様にコップに水を入れて窓の縁に置く。そして一番暗い隅に腰を掛けて、クリストフが拾って来た花をそれに挿すのを見ている。
駆落 リルケ
寺院は全く空虚である。
贄卓《にえづくえ》の上の色硝子《ガラス》の窓から差し入る夕日が、昔の画家が童貞女の御告の画にかくように、幅広く素直に中堂に落ちて、階段に敷いてある、色の褪めた絨緞を彩っている。それからバロック式の木の柱の立っている、レクトリウムを通って、その奥の方に行くと、段々暗くなって、そこには煤《すす》けた聖者の像の前に点《とも》してある、小さい常燈明が、さも意味ありげに瞬きをしている。それから一番奥の粗末な石の柱の向うは真の闇になっている。
そこに二人が坐っている。その頭の上には古い受難図が掛けてある。色の青い娘は、着ている薄い茶色のジャケツを、分厚に出来た、黒い《かし》の木のベンチの、一番暗い隅に押し付けるようにして坐っている。娘の被っている帽子の薔薇の花が、腰を掛けているベンチの背中の木彫の天使の腮《あご》をくすぐると見えて、天使は微笑んでいる。
フリッツという高等学校生徒は、地の悪くなった手袋に嵌め込んである、ひどく小さい、娘の両手を、ちょうど小鳥をでも握っているように、柔かに、しかもしっかり握っている。
フリッツはいい心持に、現《うつつ》の夢を見ている。大方今におれ達のいるのを知らずに、寺院の戸を締めるだろう。そうしたらおれ達は二人切りになるだろう。夜になったら化物が出て来そうだなどと思っているのである。
二人はぴったり身を寄せ合った。そして娘のアンナが、心細げに囁いた。「もう遅いでしょうか。」
こういうと同時に、二人はいずれも悲しい事を思い出した。娘の思い出したのは、自分が明けても暮れても縫物をしている窓の下の座である。そこからは厭な、黒い石垣が見えていて、日の当る事がない。少年の思い出したのは自分の為事《しごと》をする机である。その上にはラテン文の筆記帖が一ぱい載せてある。ちょうど広げてある一冊の中には PLATON《プラトオン》、SYMPOSION《ジンポジオン》 と書いてある。二人の目は意味もなく前の方を見ている。その視線はちょうどベンチの木理《もくめ》の上を這っている一疋の蠅の跡を追っているのである。
二人は目を見合せた。
アンナは溜息を衝いた。
フリッツはそっと保護するように、臂を娘の背に廻して抱いて云った。「逃げられるといいのだがね。」
アンナは少年の顔を見た。そして少年の目の中に赫《かがや》いているあこがれに気が付いた。
娘が伏目になって顔を赤くしていると、少年が囁いた。
「一体内の奴は皆気に食わないのですよ。どこまでも気に食わないのですよ。僕があなたの所から帰るたびに、皆がどんな顔をして僕を見ると思います。どいつもこいつも僕を疑って、僕の困るのを嬉しがっているのです。僕だってもう子供ではありません。きょうでもあしたでも、少し収入があるようになりさえすれば、あなたと一しょにどこか遠い所へ逃げて行きましょうね。意地ですから。」
「あなた本当にわたくしを愛していらっしゃって。」こう云って娘は返事を待っている。
「なんともかとも言いようのないほど愛しています。」こう云って少年は、何か言いそうにしている娘の脣にキスをした。
「そのあなたがわたくしを連れて逃げて下さるとおっしゃるのは、いつごろでしょうか」と、娘はたゆたいながら尋ねた。
少年は黙っている。そして無意識に仰向いて太い石の柱の角を辿って、その上の方に掛っている古い受難図を見た。その図には「父よ、彼等に免《ゆる》し給え」云々と書いてある。
それから少年は心配気に娘に尋ねた。「あなたのお内ではもう何か気取《けど》っているのですか。」
娘が黙っているので、少年は「どうです」と重ねて尋ねた。
娘は黙ってしずかに頷いた。
「そうですか。大方そんな事だろうと思った。お饒舌《しやべ》りども奴《め》が。僕はどうにかして。」こう憤然として言い掛けて、少年は両手で頭を押えた。
娘は少年の肩に身を寄せ掛けて、あっさりとした調子で云った。「あなたそんなに心配なさらなくてもよくってよ。」
こんな風にもたれ合って、二人はしばらくじっとしていた。
突然少年が頭を挙げて云った。「僕と一しょに逃げて下さい。」
娘は涙の一ぱい溜まっている、美しい目で、無理に笑おうとした。そして頭を振ったが、その様子がいかにも心細げに見えた。
少年はまた前のように、悪い手袋を嵌めた、小さい手を取った。そして竪に長い中堂を見込んだ。日はもう入ってしまって、色硝子の窓が鈍い、厭な色の染みになって見えて、あたりはしんとしている。
その内天井の高い所で、ぴいぴい云う声のするのに気が付いて、二人共仰向《あおむ》いて見た。一羽の燕が迷い込んでいて、疲れた翼を振って、出口を捜しているのであった。
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少年は帰途《かえりみち》になると、まだせずに置いたラテンの宿題の事を思い出した。そして随分疲れてもいるし、厭でもあるが、それを片付けてしまおうと決心した。そのくせわざとしたと云ってもいいような不注意から、余計な迂路をしたり、よく知っている町で、ちょいと道に迷ったりして、自分の小部屋に帰った時は、もう夜に入っていた。
机の上のラテンの筆記帳の上には、小さい手紙が一本ある。それを取り上げて、覚束《おぼつか》ない、ちらつく蝋燭の火で読んで見ると、こんな事が書いてある。
「何もかも知られてしまいましたの。だからこの手紙は、わたくし泣きながら書きます。お父う様はわたくしを打ちました。わたくしどうしようかと思いますわ。もうとても外へ一人でなんか出しません。あなたのおっしゃった通りだと思います。御一しょに逃げましょうね。アメリカへでもいいし、その外どこでも、あなたのお好きな所へ参りますわ。わたくしあすの朝六時に停車場に参っています。六時に出る汽車がございます。いつもお父う様がそれに乗って猟に行きますから知っています。どこへ行くのがよろしいか、それはわたくしには分りません。誰か参るようですから、もう書かれません。わたくしきっと待っていてよ。六時ですよ。どうしてもあなたとは死ぬまで別れません。アンナより。わたくし誰か参るかと思ったら、参りませんでしたの。あなたどこへいらっしゃるおつもりなの。お金はあって。わたくし貯金は八円しかなくってよ。この手紙は、内の女中に持たせてあなたのお内の女中に渡させます。わたくしもうちっともこわくなんかなくってよ。あなたのお内のマリイおばさんが饒舌ったらしいのよ。やっぱり日曜にあの人に見られたのね。」
少年は手紙を読んでしまってから、大股に室内を歩き出した。なんだか今までの苦痛が無くなったような心持がする。動悸が烈しい。とにかく一人前の男になったという感じがある。アンナがおれに保護を頼むのだ。おれは女を保護する地位に立つのだ。保護してやれば、あの女はおれの物になるのだと思うと、ひどく嬉しい。血が頭に昇って来る。そこで椅子に腰を掛けた。その時、どこへ行ったらよかろうと云う問題が始めて浮んだ。
この問題の解決は中々付かない。そこでそれをぼかすために、跳り上がって支度をし始めた。
少しばかりのシャツや衣類を纏めて、それから溜めて置いた紙幣を黒革の紙入れに捻《ね》じ込んだ。それから忙しげに、なんの必要もない抽斗《ひきだし》なぞを開け放して、品物を取り出しては、また元の位置に戻したり何かした。机の上にあった筆記帳は部屋の隅へ投げた。「おれはもう出て行くからこんな所に用は無い」と、壁に向っていばっていると云う風である。
夜中過ぎに寝台の縁に腰を掛けた。眠ろうとは思わない。余り屈んだり立ったりしたので、背中が痛いから、服を着たままで、少し横になっていようと思ったのである。
横になってから、またどこへ行こうかと考えた。そして声を出して云った。「なに。真の恋愛をしている以上はどうでもなる。」
時計がこちこちと鳴っている。窓の下の往来を馬車が通って、窓硝子に響く。時計は十二時まで打って草臥《くたび》れていると見えて、不性《ぶしよう》らしく一時を打った。それ以上は打つ事が出来ないのである。
少年はその音を遠くに聞くような心持で、またさっきの「真の恋愛をしている以上は」と云う詞を口の内で繰り返した。
そのうち夜が明けかかった。
フリッツは床の上で寒けがして、「おれはもうアンナは厭になった」と思っている。なんだか頭がひどく重い。「とにかくアンナは厭だ。あれが真面目だろうか。二つ三つ背中を打たれたからと云って、逃げ出すなんて。それにどこへ行くというのだろう。」それからアンナが自分に行く先を話した事でもあるように、その土地を思い出そうとして見た。「どうも分からない。それにおれはどうだ。何もかも棄ててしまわなくてはならなくなる。両親も棄てる。何もかも棄てる。そして未来はどうなるのだ。馬鹿げ切っている。アンナ奴《め》。ひどい女だ。そんな事を言うなら、打ってやってもいい。本当にそんな事を言うなら。」
五月の朝の日が晴やかに、明るく部屋に差し込んで来た。その時フリッツは「どうもアンナだって真面目に考えて、あんな手紙を書いたのではあるまい」と思った。それと同時に、少し気が落ち着いて来て、このままも少し寝ていたいと思った。しかしまた一転して考えてみると、やはり停車場《ステエシヨン》へ行った方がいいように思われる。行って、あいつの来ないのを見てやろうと思うのである。時間が来ても娘が来なかったら、どんなにか嬉しかろうと思ってみるのである。
まだ薄ら寒い朝の町を、疲れて膝のがくがくするような足を引き摩《ず》って、停車場《ステエシヨン》へ出掛けた。
停車場の広場は空虚である。なんだか気味の悪いような、まだ希望の繋がれているような心持をしながら、フリッツはあたりを見廻した。
茶色のジャケツはどこにも見えない。
フリッツはほっと息をした。それから廊下や待合室を駆け廻って捜した。旅客が寝ぼけた顔をして、何事にも無頓着な様子で歩き廻っている。赤帽が柱の周囲に、不性らしく立っている。埃だらけのベンチの上に、包みや籠を置いて、それに倚り掛って、不機嫌らしい顔をしている下等社会の男女もある。
茶色のジャケツはどこにも見えない。
駅夫がどこかの待合室を覗いて、なんとか地名を呼んだ。そしてがらんがらんと、けたたましく鐸《ベル》を振った。それから同じ地名を、近い所で呼んだ。それからまたプラットフォオムへ出て、もう一度同じ地名を呼んだ。厭な鐸《ベル》の音が反復して聞える。
フリッツは踵《くびす》を旋《めぐ》らして、ポッケットに両手を入れたまま、ぶらぶら広場へ戻って来た。心中非常に満足して、凱歌を奏するように、「茶色のジャケツはどこにも見えない」と思って見た。「来ないには極まっている。おれには前から分かっていた。」
なんだかひどく気楽な心持になって、ある柱の背後へ歩み寄った。一体午前六時の汽車というのはどこへ行くのか見ようと思ったのである。そして器械的に種々な駅の名を読んで、自分がたった今転ぼうとした梯子段を、可笑しがって見ている人のような顔をしていた。
その時床の石畳みの上を急ぎ足で来る靴の音がした。
フリッツがふいとその方角を見ると、茶色のジャケツを着た、小さい姿が、プラットフォオムの戸の向うへ隠れるのが見えた。帽子の上にゆらめいている薔薇の花も見えたのである。
フリッツはじっとそれを見送っていた。その時少年の心に、この人生をおもちゃにしようとしている、色の蒼い弱々しい小娘に対する恐怖が、圧迫するように生じて来た。そして娘があとへ引き返して来て、自分を見附けて、知らぬ世界へ引き摩って行くのだろうとでも思ったらしく、フリッツは慌てて停車場を駆け出して、あとをも見ずに町の方へ帰って行った。
破落戸《ごろつき》の昇天 モルナール
これは小さい子供を持った寡婦がその子供を寐入《ねい》らせたり、また老いて疲れた親を持った孝行者がその親を寝入らせたりするにちょうどよい話である。途中でやめずにゆっくり話さなくてはいけない。初めは本当の事のように活溌な調子で話すがよい。末の方になったら段々小声にならなくてはいけない。
一
町なかの公園に道化方の出て勤める小屋があって、そこに妙な男がいた。名をツァウォツキイと云った。ツァウォツキイはえらい喧嘩坊で、誰をでも相手に喧嘩をする。人を打つ。どうかすると小刀で衝《つ》く。窃盗《せつとう》をする。詐偽《さぎ》をする。強盗もする。そのくせなかなかよい奴であった。女房にはひどく可哀がられていた。女房はもとけちな女中奉公をしていたもので十七になるまでは貧乏な人達を主人にして勤めたのだ。
ある日曜日に暇を貰って出て歩くついでに、女房は始めてツァウォツキイと知合いになった。その時ツァウォツキイは二色のずぼんを穿《は》いていた。一本の脚は黄いろで、一本の脚は赤かった。髪の毛の間にははでな色に染めた鳥の羽を挿《さ》していた。その羽に紐が附けてあって、紐の端がポッケットに入れてある。その紐を引くと、頭の上で蝋燭を立てたように羽が立つ。それを見ては誰だって笑わずにはいられない。この男にこの場所で小さい女中は心安くなって、半日一しょに暮らした。さて午後十一時になっても主人の家には帰らないで、とうとう町なかの公園で夜を明かしてしまった。女中は翌日になって考えてみたが、どうもお上さんに顔を合せることが出来なくなった。そこでこの面白い若者の傍を離れないことにした。若者の方でも女が人がよくて、優しくて、美しいので、お役人の所に連れて行って夫婦にして貰った。
ツァウォツキイはそれからも身持を変えない。ある時はどこかの見せ物小屋の前に立って客を呼んでいることもあるが、またある時は何箇月立っても職業なしでいて、骨牌《かるた》で人を騙《だま》す。どうかすると二三日くらい拘留せられていることもある。そんな時は女房が夜も昼も泣いている。拘留場で横着を出すと、真っ暗い穴に入れられる。そんな時はツァウォツキイも「ああ、おれはなんと云う不しあわせものだろう」とこぼしている。
ある時ツァウォツキイの家で、また銭が一文もなくなった。ツァウォツキイはそれを恥ずかしく思った。そしてあの小さい綺麗な女房がまたパンの皮を晩食にするかと思うと、気の毒でならなかった。ところがその心持を女房に知らせたくないので、女房をどなり附けた。
「あたりめえよ。銭がありゃあ皆手めえが無駄遣いをしてしまうのだ。ずべら女めが。」
小さい女房はツァウォツキイの顔をじっと見ていたが、目のうちに涙が涌《わ》いて来た。
ツァウォツキイは拳を振り上げた。「泣きゃあがるとぶち殺すぞ。」
こう云っておいて、ツァウォツキイはひょいと飛び出して、外から戸をばったり締めた。そして家の背後の空地の隅に蹲《うずくま》って、夜どおし泣いた。
色の蒼ざめた、小さい女房は独りで泣くことをも憚《はばか》った。それは亭主に泣いてはならぬと云われたからである。女と云うものは涙をこらえることの出来るものである。
翌日は朝から晩まで、亭主が女房の事を思い、女房が亭主の事を思っている。そのくせ互に一言も物は言わない。
ある日の事である。ちょうど土曜日で雨が降っていた。ツァウォツキイは今一人の破落戸《ごろつき》とヘルミイネンウェヒの裏の溝端《どぶばた》で骨牌《かるた》をしていた。そのうち暗くなって骨牌が見分けられないようになった。それに雨に濡れて骨牌の色刷の絵までがにじんでぼやけて来た。無論相手の破落戸はそれには困らない。どうせ骨牌を裏から見て知っているからである。しかしきょうはもう廃《よ》す気になっていた。
「いや。もうこのくらいで御免を蒙りましょう。」わざと丁寧にこう云って、相手は溝端からちょっと高い街道にあがった。
「そんな法はねえ。そりゃあ卑怯だ。おれはまるで馬鹿にされたようなものだ。銭は手めえが皆取ってしまったじゃないか。もっとやれ。」ツァウォツキイの声は叫ぶようであった。
相手は聴かなかった。雨は降るし、遅くもなっているし、もうどうしても廃すのだ。その代り近いうちに填合《うめあわ》せをしようと云うのである。相手はこんな言いわけをして置いて、弦を離れた矢のように駆け出した。素足で街道のぬかるみを駆けるので、ぴちゃぴちゃ音がした。
その時ツァウォツキイは台所で使う刃物を出した。そしてフランチェンスウェヒを横切って、ウルガルン王国の官有鉄道の発起点になっている堤の所へ出掛けた。
ここはいつもリンツマンの檀那の通る所である。リンツマンの檀那と云うのは鞣皮《なめしがわ》製造所の会計主任で、毎週土曜日には職人にやる給料を持ってここを通るのである。
この檀那に一本お見舞申して、金を捲き上げようと云う料簡で、ツァウォツキイは鉄道の堤の脇にしゃがんでいた。しかしややしばらくしてツァウォツキイは気が附いた。それは自分が後れたと云うことである。リンツマンの檀那はもう疾《と》っくに金を製造所へ持って往って、職人に払ってしまっている。おまけに虚《から》の財布を持って町へ帰っているのである。実に骨牌と云うものはとんだ悪い物である。あれをしていると、大切な事を忘れてしまう。
ツァウォツキイはようよう鉄道の堤に攀じ上った。両方の目から涙がよごれた顔の上に流れた。顔の色は蒼ざめた。それから急にその顔に微笑の影が浮かんで、口から「ユリア、ユリア」と二声の叫が洩れた。ユリアとは女房の名である。ツァウォツキイは小刀の柄を両手で握って我と我胸に衝き挿した。ツァウォツキイはすぐに死んで、ユリアの名をまだ脣の上に留めながら、ポッケットに手品に使う白い球を三つと、きたない骨牌を一組入れたまま、死骸は鉄道の堤の上から転げ落ちた。
ツァウォツキイの死骸は墓地の石垣の傍に埋められた。その時グランの僧正が引導を渡したと云うのは訛伝《かでん》である。それに反して、女房ユリアが夜明かしをして自分で縫った黒の喪服を着て、墓の前に立ったと云うのは事実である。公園中に一しょに住んでいただけの人は皆集まっていて、ユリアを慰めた。その詞はざっとこんな物であった。「神の徳は大きい。お前さんをいじめた人の手からお前さんを救って下された。お前さんをいじめた人にも神は永遠なる安息をお与えなさるだろう。だがお前さんはまだ若い。こうなった方がかえってよかったかも知れない。あの男は神の恵みの下に眠るがよい。お前さんはとにかくまだ若いから」と云うような事であった。ユリアは頷いた。悲しげな女の目には近所の人達の詞に同意する表情が見えた。そしてこう云った。「難有うございます。皆さんが御親切になすって下すって難有うございます。」ユリアはまだその上にこう云った。「警部さん。あなたはこうなった方が、かえってよいかも知れないとおっしゃいましたが、そうかも知れませんわね。あの人は亡くなったのだから、もういたし方がございません。」ユリアが警部にこう云ったのは無理も無い。あんなやくざもののツァウォツキイを、死んだあとになってまで可哀く思うのは、実に怪しからん事である。さて葬いのあった翌日からは、ユリアは子供の着物を縫いはじめた。もう一月で子供が生れることになっていたからである。
ツァウォツキイは無縁墓に埋められたのである。ところがそこには葬いの日の晩までしかいなかった。警察の事に明るい人は誰も知っているだろうが、毎晩市の仮拘留場の前に緑色に塗った馬車が来て、巡査等が一日勉強して拾い集めた人間どもを載せて、拘留場へ連れて行く。ちょうどこれと同じように墓地へも毎晩緑色に塗った車が来て、自殺したやくざものどもを載せて行く。すぐに地獄へ連れ込むのではない。それはまず浄火と云うもので浄めなくてはならないからである。浄めると云うのは悉《くわ》しく調べるのである。この取調べの末に、いつでも一人や二人は極楽へさえやって貰うのである。
この緑色の車に、外の人達と一しょにツァウォツキイも載せられた。小刀を胸に衝き挿したままで載せられた。馬車はがたぴしと夜道を行く。遠く遠く夜道を行く。そのうちに彼誰時《かわたれどき》が近くなった。その時馬がたちまち駆歩になって、車罔《しやもう》は石に触れて火花を散らした。ツァウォツキイは車の小さい穴から覗いて見た。馬車は爪先下りの広い道を、谷底に向って走っている。谷底は薔薇色の靄に鎖されている。その早いこと飛ぶようである。しばらくして車輪が空を飛んで、町や村が遥か下の方に見えなくなった。ツァウォツキイはそれを苦しくも思わない。胸に小刀を貫いている人には、もう物事を苦しく思うことは無いものである。
馬車が駐まった。載せられて来たものは一人ずつ降りた。押丁《おうてい》がそれを広い糺問所に連れ込む。一同待合室で待たせられる。そこでは煙草を呑むことが禁じてある。折々眼鏡を掛けた老人の押丁が出て名を呼ぶ。とうとうツァウォツキイの番になって、ツァウォツキイが役人の前に出た。
役人は罫を引いた大きい紙を前に拡げて、その欄の中になんだか書き入れていたが、そのまま顔を挙げずに、「名前は」と云った。
「アンドレアス・ツァウォツキイです。」
「何歳になる。」
「三十二になります。」
「生れは。」
ツァウォツキイは黙っていた。
役人はそれでも顔を挙げずに、「生れは」と繰り返してすぐに自分で、「不明だな」と云い足して、やっと顔を挙げた。
ツァウォツキイは頷いた。
「何か娑婆で忘れて来た事があるなら、一日だけ暇を貰って帰って来る権利があるのだ。正当に死ねるはずの時が来て死んだものには、そんな権利は無い、もう用事が無いはずだからな。自殺したものとなるととかく何かしら忘れて来るものだ。そのために娑婆のものが迷惑するかも知れない。どうだな。」役人はこわい目をしてツァウォツキイを見た。自殺者を見るには、いつもこんな目附をするのである。
「そうですね。忘れたと云えば、子供の生れるのを待って、見て来ようと思ったのですが、それを忘れて来ました。随分見たかったのですから、惜しい事をしたと思いましたよ。ところがそこに気の附いた時にはもうあとの祭でした。悲しいことは悲しいのですが、わたしだって男一匹だ。ここに来たからには、せっかくの御注意ですが、やっぱりこのまま置いてお貰い申しましょう。」ツァウォツキイはこう云って、身を反らして、傲慢な面附《つらつき》をして役人の方を見た。胸に挿してある小刀と同じように目が光った。
役人は「監房に入れい、情の無い奴だ」と叫んだ。
押丁共がツァウォツキイの肩先を掴まえて引き摩って行った。
ツァウォツキイは胸に小刀を挿していながら、押丁どもを馬鹿にして、「犬め、獄卒め、カザアキめ」と罵った。
押丁共は返事の代りに足でツァウォツキイを蹴った。その時胸から小刀が抜けてはならないので、一人の押丁が柄を押さえていた。
二
ツァウォツキイは十六年間浄火の中にいた。浄火と云うものは燃えているものだと云うのは、大の虚報である。浄火は本当の火ではない。極明るい、薔薇色の光線である。人間を長い間その中に据わらせておいて、悪い性質を脱け出させるのである。
ツァウォツキイはだんだん光線に慣れて来て、自分の体の中が次第に浄くなるように感じた。心の臓も浄くなったので、いろんな事を思い出して、そして生れたと云うばかりで、男の子だか女の子だか知らない子を、どうかして見たいものだと思った。
浄火の中を巡って歩いて、何か押丁に対する不平があるなら言えという役人がある。ある時その役人に、ツァウォツキイが言った。「ちょっと伺いますが、娑婆で忘れて来た事をしに行くのに、一日だけお暇が貰えると云うことでしたね。あの権利がただ今でもありますでしょうか。」
「あるですとも。申立てをしなさるがよい。」役人は極《ごく》優しい声でこう云った。長く浄火の中にいたものには、詞遣《ことばつかい》を丁寧にすることになっているのである。
ツァウォツキイは翌日申立をした。
役人が紙切をくれた。それに「二十四時間賜暇」と書いてあった。
それから押丁がツァウォツキイを穴倉へ連れて往って、胸の小刀を抜いてくれた。
ツァウォツキイは早速出発して、遠い遠い道を歩いた。とうとうノイペスト製糸工場の前に出た。ツァウォツキイは工場で「こちらで働いていました後家のツァウォツキイと申すものは、ただ今どこに住まっていますでしょうか」と問うた。
住まいは分かった。ツァウォツキイはまた歩き出した。
ユリアは労働者の立てて貰う小家の一つに住んでいる。その日は日曜日の午前で天気が好かった。ユリアはやはり昔の色の蒼い、娘らしい顔附をしている。ただ少し年を取っただけである。ツァウォツキイが来た時、ユリアは平屋の窓の傍で縫物をしていた。窓の枠の上には赤い草花が二鉢置いてある。背後《うしろ》には小さい帷《とばり》が垂れてある。
ツァウォツキイはすぐに女房を見附けた。それから戸口の戸を叩いた。
戸が開いて、閾《しきい》の上に小さい娘が出た。年は十六ぐらいである。
ツァウォツキイにはそれが自分の娘だということがすぐ分かった。
「なんの御用ですか」と、娘は厳重な詞附きで問うた。
ツァウォツキイは左の手でよごれた着物の胸を押さえた。小刀の痕を見附けられたくなかったのである。そしてもうこの娘を見たから、このまま帰ってもよいのだと心の中に思った。しかし問われて見れば返事をしないわけには行かない。そこで手を右のポッケットに入れて手品に使う白い球を三つ撮《つま》み出した。「わたしはねえ、いろんな面白い手品が出来るのですが。」ツァウォツキイはこう云って娘の笑う顔を見ようと思ったのである。
しかし娘は笑わなかった。母と同じように堅気で真面目にしている子だからである。「手品なんざ見なくたってよございます。さっさとお帰りなさい。」こう云って娘は戸を締めようとして、戸の握りを握った。娘の手は白くて、それにしなやかな指が附いている。
この時ツァウォツキイが昔持っていて、浄火の中に十六年いたうちに、ほとんど消滅した、あらゆる悪い性質が忽然今一度かっと燃え立った。人を怨み世を怨む抑鬱不平の念が潮のように涌いて来た。
今娘が戸の握りを握って、永遠に別れて帰ろうとするツァウォツキイの鼻のさきで、戸を締め切ろうとした瞬間に、ツァウォツキイは右の拳を振り上げて、娘の白い、小さい手を打った。
娘はツァウォツキイの顔をじっと見た。そして再び戸の握りを握ってばったり戸を締めた。錠を卸すきしめきが聞えた。
ツァウォツキイはぼんやり戸の外に立っている。刹那に発した怒りは刹那に消え去って、ツァウォツキイはもう我子を打ったことをひどく恥ずかしく思っている。
ツァウォツキイは間の悪げにあたりを見廻した。そして小刀で刺した心の臓の痛み出すのを感じた。
それからツァウォツキイは急いで帰った。どっちへ向いて歩いているか、自分には分からない。しかし一度死んだものは、死に向かって帰って行くより外無いのである。
初め旅立をした大きい家に帰り着いた頃は、日が暮れてから大ぶ時間が立っていた。
ここにはもう万事知れている。門番が詰所から挨拶をすると、ツァウォツキイは間が悪いので、頭を下げて通った。それから黙って二階の役人の前へ届けに出た。役人はもう待っていた。押丁が預托品の合札を取り上げて、代りに小刀を渡して、あらあらしく云った。「どうもお前はこの上もない下等な人間だな。たった一人の子を打ちに、ここからわざわざ帰って行く奴があるか。」
ツァウォツキイは黙っていた。それでも押丁がまた小刀を胸に挿してやった時は、溜息を衝いた。
押丁はツァウォツキイの肩を掴んで、鉄の車に載せて、地獄へ下らせた。
ツァウォツキイは薔薇色の火の中から、赤い燃える火の中へ往った。そこで永遠に烹《に》られて、痛がって、吠えているのだろう。
ツァウォツキイの話はこれでしまいだ。
話が代って娑婆の事になる。娘は部屋に帰って母に話した。「おっ母さん。あのぼろぼろになった着物を着た男がまいりましたの。厭な顔をしてわたしを見ましたから、戸を締めようと思いましたの。目が変に光っていて、その目で泣くかと思うと、口では笑っているのですもの。わたしが戸を締めようとすると、わたしの手を打ちましたの。ひどく打ったようでしたが、ただ音がしたばかりでしたの。」
ユリアは何か亡くした物でも捜すように、床の上を見た。そして声を震わせて云った。「そう。それからどうしたの。」
「行ってしまいましたの。でもわたしびっくりしたので、いまだに動悸がしますわ。ひどく打ったのに、痛くもなんともないのですもの。ちょうどそっと手をさすってくれたようでしたわ。真っ赤な、ごつごつした手でしたのに、脣が障ったようでしたわ。そうでなけりゃ心の臓が障ったようでしたわ。」
「わかってよ」と、母は小声で云って、そのまま縫物をしていた。
その後二人はこの時の事を話さずにしまった。二人は長い間生きていた。死ぬるまで生きていた。
お話はこれでおしまいだよ。坊やはいい子だ。ねんねおし。
辻馬車 モルナール
この対話に出づる人物は
貴夫人
男
の二人なり。作者が女とも女子とも云わずして、貴夫人と云うは、その人の性を指すと同時に、齢《よわい》をも指せるなり。この貴夫人と云う詞《ことば》は、女の生涯のうちある五年間を指すに定れり。男をば単に男と記す。その人いわゆる男盛りと云う年になりたれば。
貴夫人。なんだかもう百年くらいお目に懸からないようでございますね。
男。ええ。そんなに御疎遠になったのを残念に思うことは、わたくしの方が一番ひどいのです。
貴夫人。でも只今お目に懸かることの出来ましたのは嬉しゅうございますわ。過ぎ去った昔のお話が出来ますからね。まあ、事によるとあなたの方では、もうすっかり忘れてしまっていらっしゃるような昔のお話でございますの。
男。妙ですね。あなたがそんな風な事をわたくしにおっしゃるのが、もうこれで二度目ですぜ。なんだか六十ぐらいになった爺いさん婆あさんのようじゃありませんか。一体百年も逢わないようだと初めに云っておいて、また古い話をするなんとおっしゃるのが妙ですね。
貴夫人。なぜ。
男。なぜって妙ですよ。女の方が何かをひどく古い事のように言うのは、それを悪い事だったと思って後悔した時に限るようですからね。つまり別に分疏《いいわけ》がなくって、「時間」に罪を背負わせるのですね。
貴夫人。まあ、感心。
男。何が感心です。
貴夫人。だって旨く当りましたのですもの。全くおっしゃる通りなの。ですけれどそれがまた妙だと思いますわ。それはわたくしあなたに悪い事だったと思っている事をお話いたすつもりに違いございませんの。そこで妙だと存じますのは、男の方が何かをお当てになると云うことは、御自分のお身の上に関係した事に限るようだからでございますの。
男。はてな。それではそのお話がわたくしの身の上に関係した事なのですか。
貴夫人。大いに関係していますの。
(間。男は思案に暮れいる。)
男。どうもちっとも思い当る事がありませんね。
貴夫人。それは思い出させてお上げ申しますわ。ですけれど内証のお話でございますよ。
男。それは内証のお話と内証でないお話ぐらいはわたくしにだって。
貴夫人。いいえ。そのお話申す事柄が内証だと申すのでございませんわ。事柄だけならいくらお話なすっても宜しゅうございますの。ただそれがいつの事だと云うことが内証でございますの。きっとでございますよ。
(男黙りて誓の握手をなす。)
貴夫人。そのお話は十年前の事でございますの。場所はこのブダペストで、時は十月。
男。どうも分かりませんな。
貴夫人。まあお聞きなさいましよ。十年前にあなたとある所の晩餐会で御一しょになりましたの。その時はあなたがまだ栗色の髪の毛をしていらっしゃいました。わたくしもあの時から見ると、髪の色が段々明るくなっています。晩餐を食べましたのは、市外の公園の料理店でございました。ちょうど宅はベルリンに二週間ほど滞留しなくてはならない用事がありましたので、わたくしはひとりでその宴会へ参りました。夜なかが過ぎて一時になりましたころ、わたくしは雑談をいたしているのが厭になって来ましたので、わたくしどもを呼んで下すった奥さんに暇乞をいたしましたの。その時あなたはその奥さんの側に立っていらっしゃって、わたくしの顔をじっと見ていらっしゃいましたの。
男。その時の事ですか。もう分かりました。
貴夫人。まあ、聞いていらっしゃいまし。その席であなたは最初からわたくしをひどい目に逢わせていらっしゃいましたの。そう。ちょうど三週間ばかり前からあなたわたくしを附け廻していらっしゃったのです。それでいてわたくしに何もおっしゃるのではございません。ただ黙って妙な顔をしてわたくしを困らせていらっしゃいましたの。顔ばかりではございませんの。妙な為打《しうち》をなさるのですもの。お据わりになったかと思えば、すぐお立ちになる。またお据わりになる。戸の外へおいでになったかと思えば、すぐ這入《はい》っていらっしゃる。つまり、気の利かない青年が初恋をしていると云う素振をなさいましたのですね。
男。なるほど。なるほど。
貴夫人。そのうちわたくしが奥さんに、「ねえ、テレエゼさん、わたし今夜はもう帰ってよ」と云うと、あなたがその奥さんの側を離れて、いなくなっておしまいなさいましたの。それからわたくしが料理屋の門口から往来へ出て、辻馬車を雇おうと思いますと、あなたが出し抜けにわたくしの側へ現れておいでなすったのですね。
男。ええ。そうでした。
貴夫人。そして内へ送って往ってやろうとおっしゃったのですね。
男。ええ。そうです。
貴夫人。それを伺った時、わたくし最初は随分気違染みた事をなさると思って笑いましたの。それに人の思わくをお考えなさらないにも程があるとも思いましたの。そのくせわたくしとうとうおことわりは申さなかったのですね。そのおことわり申さないには、理由が二つございました。一つはあなたがいかにも無邪気に、初心《うぶ》らしくおっしゃったので、「おや、この方はどんな途方もない事をおっしゃるのだか、御自身ではお分かりにならないのだな」と存じましたの。それから今一つはまあ、なんと申しましょうか。わたくしあなたに八分通り迷っていましたもんですから。
(長き間。)
男。えええ。なーんーでーすーと。
貴夫人。ええ。全くでございましたの。
男。(目を大きく《みひら》く。)あのあなたがわたくしに。
貴夫人。ですけれど本当に迷っていたと申すのではございませんよ。八分通りでございましたの。まあ、これから先は男の方の出ようでどうにでもなると云うところまで来ていましたのですね。女と云うものはある時期の来るまで、男の方のなさる事をじっとして見ていて、その時期が来ると、突然そう思いますの。「もうこうなれば、これから先はこの人のするままになるより外無い」と思いますの。
男。そしてあの時そう思いなすったのですか。
貴夫人。ええ。
男。そしてなぜそれをわたくしに言って下さらなかったのです。
貴夫人。ですけれどそれを申さないのが女の心理上の持前なのでございますわ。
男。ああ。わたくしはなんと云う馬鹿でしょう。
貴夫人。(溜息を衝く。)まあ、それはそうといたして置いて、あとをお話申しましょうね。さっき申しましたでしょう。最初はあなたが送ってやろうとおっしゃったのを、乱暴だと思ったのに、とうとうおことわり申さなかったと申しましたでしょう。実際最初はどういたしてよろしいか分からなかったのでございますね。そのうちわたくしふらふらと馬鹿な心持になって来まして、つい「願います」と申してしまいましたの。その時あなたがなんとおっしゃったとお思いなさいますの。「そんなら馬車をそう言って来ましょう」とおっしゃいました。あれはまずうございましたのね。あれがあなたの失錯の第一歩でございましたわ。
男。なぜですか。
貴夫人。お分かりになりませんの。あなたが馬車を雇いに駆け出しておいでになったあとに、わたくしは二分間ひとりでいました。あなたはわたくしに考える余裕をお与えなさいましたのですわ。その間にわたくしが後悔しておことわりをせずに、我慢していましたのは、よっぽどあなたに迷っていた証拠でございますわ。一体冷却する時間をお与えなさるなんと云うことは、女に取って、一番堪忍出来にくいのでございますけれど。そのうち馬車が参りましたのね。
男。ええ。わたくしは一頭曳の馬車を雇って来たのでした。
貴夫人。そうでした。それでもよくあの馬車が一頭曳だったのを覚えていらっしゃいましたことね。そこが肝心なのでございますわ。二頭曳でなくって、一頭曳だったのが。
男。でも一頭曳しか無かったのです。
貴夫人。いいえ。あんな時はどうしても二頭曳のを見附けていらっしゃらなくてはならないのです。あなたそれからどうなすったか覚えていらっしゃって。
男。それから御一しょに乗りました。
貴夫人。そうでした。そしてわたくしの内まで二十五分間その馬車のうちに御一しょにいましたのでございます。あなた一頭曳と二頭曳とはどれだけ違うか御承知。
男。いや。分かりませんなあ。
貴夫人。第一。一頭曳の馬車は窓硝子《ガラス》ががちゃがちゃ鳴って、並んで据わっている人の話が聞えませんでしょう。それから一頭曳の馬車に十月に乗りますと、寒くて気持が悪いでしょう。二頭曳ですと、車輪だって窓硝子だって音なんぞはしません。車輪にはゴムが附いていて、窓枠には羅紗《らしや》が張ってあります。ですから二頭曳の馬車の中はいい心持にしんみりしていて、細かい調子が分かります。平凡な詞に、発音で特別な意味を持たせることも出来ます。あの時あなたわたくしに「どうです」とそうおっしゃいましたね。御挨拶も大した御挨拶ですが、場所が場所でしたわね。わたくしは「結構」と御返事いたしました。窓硝子はがちゃがちゃ云う。車輪はがらがら云う。車全体はわたくしどもを目の廻るようにゆすっていました。ですから一しょう懸命に「けっこう、けーっーこーう」とどならなくてはなりませんでした。まるで雄鶏が時をつくるようでございましたわね。あれが軟い、静かな二頭曳の馬車の中でしたら、わたくしは俯目《ふしめ》になって、小さい声で、「結構でございますわ」とかなんとか申されたのでございます。そしてわたくしはその声に「おとなしい催促」やら「物静かなはにかみ」やらを匂わせることが出来ましたのでございましょう。そしてそれをお聞きになったあなたもその声の中から、わたくしがあなたと御一しょでいい心持がいたしていると云うことやら、わたくしがあなたを少しこわがっていると云うことやら、またそのこわいのがかえっていい心持でいると云うことやら、まあ、いろいろな事を御聞取りになることが出来ましたでございましょう。そのただ結構と云うだけの詞でも、それをわたくしが自分の詞の調子で申すことが出来ましたら、わたくしがもうあなたの自由になってもいいと思っていると云うことを、随分はっきりあなたにお知らせ申すことになりましたでしょう。ところがわたくしどならなくてはならなかったのですから、「これで結構ですよ、打っちゃって置いて頂戴」とでも云うように聞えたじゃございませんか。それからわたくしあのあとで五分間ほど黙っていましたの。ところがその黙っていると云うことも、がらがら云う一頭曳の中で本当には出来ませんでしたのね。あれが静かな、軟い、むくむくした二頭曳の中だったら、あなただってわたくしが黙っているのにお気が附いて、なぜ黙っているかとお尋ねになったでしょう。するとわたくしまあ、ちょいと泣き出したかも知れませんのね。
男。ははあ。なるほど。なるほど。
貴夫人。ところが一頭曳では黙っていると云うことがなんでも無い事になってしまいます。なぜと云ってご覧なさいまし。物を言ったって聞えないほどやかましい馬車の中では、黙っているより外為方《しかた》が無いと云うことになりますからね。むずかしく申しますと、「無声に聴く」と云うことが一頭曳の馬車では出来なくなりますのですね。そこで肝心のだんまりも見事にお流《なが》れになりましたの。それと一しょに何もかもお流れになりましたのね。まあ、本当に迷ってしまっている女にだって、何もかも大きな声ではっきりそう言えとおっしゃることは、男の方にも出来ますまい。ところで何を打ち明けるにも、微かな溜息とか、詞のちょいとした不思議な調子とか云うものしか持ち合せない女が、まだ八分通りしか迷っていなかったのでございますからね。
男。そうですか。ああ。そうでしたか。わたくしは馬鹿ですなあ。
貴夫人。そこであれからは、御一しょに馬車から出てお暇乞をしてからは、ちっともお目に掛かりませんでしまいましたのね。それはあなたがわたくしを避けて逢わないようになさいましたのも、御無理ではございません。わたくしの手からなんの手掛かりをもお受けにならなかったのですからね。そんなわけで、まあ、きょうお目に掛かったのは本当に久し振りでございましたわね。わたくしの申す事はお分かりになりましたでしょう。あの時二頭曳の馬車を雇っていらっしゃったらと申すのでございますよ。
男。ああ。ああ。
貴夫人。本当になんでも無い事のお蔭で、どんな結構な事でも出来たり出来なかったりするのが世の習いとかでございますのね。あなた、もうなんにもおっしゃりっこなしよ。後悔なすったってあなたのおためにもわたくしのためにもなりませんわ。まあ、あの時の埋合せにこれからわたくしを内へお送り下さいまし。しっかり宅の主人の手におわたしなさいますようにね。
男。そんなら馬車を見附けて来ましょう。
貴夫人。ええ。それがようございます。雨が降っていますから。
男。そこで今日は、あなたを尊敬いたして、一頭曳にいたしますよ。
貴夫人。あら。それは余計な御会釈でございますわ。やっぱり二頭曳を雇って来て戴きましょう。そういたすとわたくし今になってはどんな静かな、軟い二頭曳でも役に立たなくなっていると云うことを、あなたにお見せ申しますから、あなたもそのおつもりでお附合いなさいますようにね。ほんにほんに男の方と云うものは物分かりが悪くっていらっしゃいますことね。わたくし厭になってしまいますわ。さあ御面倒でも雇いにいらっしゃって下さいまし。くどいようで失礼ではございますが、女を内へ送ってやる時には、いつでも一番余計に馬の附いている馬車を連れて来るものだと云うことをお忘れにならないようにね。さあ、いらっしゃいましよ。
(男首を俛《た》れて辻馬車のたまりをさして行く。昔のおろかなりし事の苦澀《くじゆう》なる記念のために、その面上には怜《あわれ》むべき苦笑の影浮べり。灰いろの空よりは秋めける雨しとしとと降れり。)
最終の午後 モルナール
市の中心を距《さ》ること遠き公園の人気少き道を男女逍遥《しようよう》す。
女。そこでこれ切りおしまいにいたしましょうね。まあ、お互に成行に任せた方が一番よろしゅうございますからね。つまりそうした時が来ましたのですわ。さあ、お別れにこの手にキスをなさいまし。これからはまたただのお友達でございますよ。
男。さよう。どうも思召通りにするより外ありません。
女。ともかくもお互の間に愉快な、わだかまりの無い記念だけは残っていると云うものでございますね。二人は惚れ合っていました。キスをしました。厭《あ》きました。そこでおさらばと云うわけでございますからね。
男。いかにもおっしゃる通りです。(女の手に接吻す。)
女。そこでわたくしはこの道を右に参りましょう。あなたは少しの間ここに立って待っていらっしゃって、それから左の方へおいでなさいまし。せっかくお別れをいたす日になって、宅にでも見附けられると、詰まりませんからね。
男。いかさま。そんならこれで。
(二人ともなお立ち止まりいる。)
女。なぜいらっしゃらないの。
男。実はお別れをする前に少し伺っておきたい事があるものですから。
女。そう。さあ、なんでもおっしゃいましよ。
男。あの始めてタトラでお目にかかった時ですね。あの時はお内の御主人がどんな方だか知らなかったのでございますね。あなたは婦人のお友達二三人とあっちへ避寒に来ていらっしゃったのです。
女。ええ。
男。それからですね。どんな風に事柄が運んで行ったと云うことはあなたもまだ覚えていらっしゃるでしょう。ブダペストへ参ってからも、わたくしはあなたと御交際を続けて行きました時も、まだ御主人がどんな方だか知らなかったのですね。
女。ええ。
男。そのころある日の事ですが、あなたはわたくしに写真を一枚お見せになりましたね。それがすばらしい好男子だったのです。あなたのおっしゃるには、「これが、わたくしの夫ですから、よく見ておおきなさい」と云うことでした。わたくしは仰せの通りよく拝見しました。その写真の男は Dorian Gray と云う青年はあんなだったかと思うほど美しくて、Edward 七世はあんなだったかと思うほど様子がよかったのです。髪は波を打っています。眉は秀でています。優しい目に男らしい権威がある。口はグレシアの神の像にでもありそうな恰好をしているのですね。わたくしはあの時なんとも言わずにいましたが、あの日には夕食が咽《のど》に通らなかったのです。
女。大方そうだろうと存じましたの。
男。実は夜寝ることも出来なかったのです。あのころはわたくしむやみにあなたを思っていたでしょう。そこで馬鹿らしいお話ですが、何度となく床から起きて、鏡の前へ自分の顔を見にいったのですね。わたくしも自分がかなり風采の好い男だとは思っていました。しかしまあ世間普通の好男子ですね。世間でおめかしをした Adonis なんどと云う性《たち》で、娘子の好く青年士官や、服屋の見本にかいてある男にある顔なのです。そこでわたくしは非常に反抗心を起したのです。どうにかして本当の好男子になろうとしたのですね。
女。それはわたくしに分かっていましたの。
男。夜寝られないと、わたくしは夜どおしこんな事を思っていました。あんな亭主を持っているあなたがわたくしをなんになさるのだろうと云うのです。それからもしや御亭主が馬鹿ではあるまいかと思ってみました。いったんはそう思って自分を慰めてみましたが、また思ってみると、自分だって世間並の男一匹の智慧しか持っていないのに気が附かずにはいられなかったのですね。それに反してあの写真の男の額からは、才気が毫光《ごうこう》のさすように溢れて出ているでしょう。どうしてもわたくしのどこをあなたが好いて下さるか分からなかったのです。そこでわたくしは必死になってあの写真と競争してみる気になったのです。
女。それも分かっていましたの。
男。そこで服を一番いい服屋で拵《こしら》えさせる。髪をちぢらせる。どうにかして美しくなろうと意気込んで、それと同時にあなたに対しては気違染みた嫉妬をしていたのです。まだ覚えておいでなさるか知りませんが、いつでしたかあなたが御亭主と一しょに舞踏会に往くとおっしゃった時、わたくしは夢中になっておこったことがありますね。わたくしはあの写真の男に燕尾服がどんなに似合うだろうと想像すると、居ても立っても居られなかったのです。
女。ええ。まだ覚えていますの。
男。それからわたくしはあなたをちょっとの間も手離すまいとしたのですね。あなたが誰と知合になられたとか、誰と芝居へおいでになったとか云うことを、わたくしは一しょう懸命になって探索したのです。あのころ御亭主は用事があってロンドンへ往っておいでになると云うことでしたから。
女。ええ。あの時のあなたの御様子は、まあ、そんな風でございましたのね。
男。それからどうなったかお考えなすって御覧なさい。ある日あなたがおいでになって、御亭主が帰られたとおっしゃったでしょう。そこでどうにかして一度御亭主に逢わせて下さいと云って、わたくしは歎願しましたね。しかしどうしてもあなたは聴きませんでしたね。するとある日の事、たしか午後にわたくしの所にいらっしゃった時でした。あなたは手紙をお落しなすったのです。わたくしはお帰りになったあとで気が附きました。その手紙に書いてあった文句はこうでした。「明日のオペラ座の切符手に入り候に付、主人同道お誘いに参り可申《もうすべく》候、何卒《なにとぞ》御待受被下《くだされ》度《たく》候。母上様」と云うのでした。お母あ様の所へ出す手紙を、あなたはわたくしの部屋に落してお置きになったですねえ。
女。おや。そうでしたか。あの手紙はあなたの所で落しましたのですかねえ。
男。ええ。そうでした。ところでわたくしのためにはそれが好都合だったのです。翌日わたくしが急いでオペラ座へ往って見ますと、お母あ様と御夫婦とでちゃんと桟敷にいらっしゃったのですね。
女。そこで。
男。それをあなた平気でわたくしにお聞きになるのですか。
女。ではどんなにして伺えばよろしいのでしょう。
男。だって驚くじゃありませんか。あの時わたくしには始めて分かったのです。まあ、あなたが衝《うそつき》だとは申しますまい。体好く申せばわたくしをお担ぎなすったのですね。あなたの御亭主と云うのは年が五十、そうですね、五十五六くらいで、頭がすっかり禿げていて、失礼ですが、無類の不男だったろうじゃありませんか。おまけに背中は曲がって、毛だらけで、目も鼻もあるかないか分からないようで、歯が脱けていて。
女。おやおや。
男。あなただってあれが御亭主でないとはおっしゃられないでしょう。
女。ええ。宅の主人ですとも。
男。わたくしはあなたの御亭主を知っていた友達に聞いてみて、確めたのです。
女。ええええ。宅の主人に相違ございません。
男。まあ、それはそれでよろしゅうございます。そこでなんだってあんな狂言をなすったのです。あのお見せになった写真の好男子は誰ですか。
女。あの写真はロンドンで二シルリングかそこらで買ったのでございます。わたくしも誰の写真だか存じません。いずれイギリスのなんとか申す貴族だろうと存じますの。
男。そこでなぜそれを。
女。それはあなたお分かりになっていらっしゃるじゃございませんか。あれを御覧にいれた方がわたくしには都合がよろしかったのですもの。御承知の通り、わたくしの狂言はすっかり当りましたでしょう。あなたあの写真と競争をお始めなすってから、男前が五割方上がりましたよ。あの写真があなたをせびるようにして、あなたから出来るだけの美しさや、御様子のよさや、才智を絞り出してくれたのでございますね。あの頃わたくし全くあなたに惚れていましたの。ですからあなたの長所が平生の倍以上になったのがどんなにか嬉しゅうございましたでしょう。
男。なるほど。旨くたくらんだものですね。しかしやっぱり女の智慧です。
女。なぜでございますの。
男。でも手紙を一本落しなすったばかりで、せっかくの趣向がこわれてしまったじゃありませんか。手紙を拾った翌日あなたの御亭主の正体が分かる。あなたの《うそ》が分かる。そこでわたくしは無駄骨を折らなくてもいい事になる。あんな御亭主に比べて見れば、わたくしは鬚ぐらい剃らずにいたって、十割も男が好いわけですからね。そこでわたくしは段々身だしなみをしなくなる。焼餅も焼かなくなる。恋が褪め掛かる。とうとう恋も何も無くなったと云うわけですね。あの時手紙なんぞをお落しなさらなかったら、わたくしはきょうだってまだあなたに惚れているだろうと思うのです。(勝ち誇りたる気色《けしき》にて女を見る。)
女。(小声にて。)そんならあなたはわたくしのような性《たち》の女が手紙を落すつもりでなくて落すものだとお思いなさるの。
男。なんですと。
女。夫を持っていて色をしようと云う女に、手紙の始末ぐらいが出来ないものでございましょうか。あなたのお考えなさるように、わたくしがやたらむしょうに手紙を落しなんかしようものなら、わたくしもう疾《と》っくに頸の骨を折ってしまうはずではございますまいか。
男。なんですと。そんならあなたはわざとあの手紙を落したとおっしゃるのですか。
女。それは知れた事じゃございませんか。
男。(呆れて。)そんならなんのためにお落しなすったのです。
女。それもあなたには知れているはずじゃございませんか。あなたに宅の主人をお目に掛けて、あなたの恋をさましてお上げ申したのですわ。
男。それがなんになるのですか。
女。それはわたくし悲劇が嫌だからでございますの。ちょうどいい時節が来たので、手紙を落します。するとあなたが段々わたくしに構わないようにおなりなさる。そこで平和の中《うち》にお別れが出来ると云うものじゃございませんか。
男。しかしなぜわたくしの恋をさまさなくてはならないのですか。
女。それでございますか。それはわたくしがもうあの写真を外の人に見せたからでございますの。ね、お分かりになりましたでしょう。男の方と云うものは、写真一枚と手紙一本とで勝手に扱うことが出来ますの。男心と云うものはそうしたものでございますからね。Maupassant が notre と申した、その男心でございますね。(男の呆れて立ち竦《すく》みいるをあとに残し置き、女は平気にて歩み去る。)
襟《えり》 ディモフ
襟二つであった。高い立襟で、頸の太さの番号は三十九号であった。七ルウブル出して買った一ダズンの残りであった。それがたったこの二つだけ残っていて、そのお蔭でおれは明日死ななくてはならない。
あの襟の事を悪くは言いたくない。上等のオランダ麻で拵《こしら》えた、いい襟であった。オランダと云うだけは確かには分からないが、番頭は確かにそう云った。ベルリンへ来てからは、廉《やす》いので一度に二ダズン買った。あの日の事はまだよく覚えている。朝応用美術品陳列館へ行った。それから水族館へ行って両棲動物を見た。ラインゴルドで午食をして、ヨスチイで珈琲《コオフイイ》を飲んで、なんにするという思案もなく、赤い薔薇《ばら》のブケエを買って、その外にも鹿の角を二組、コブレンツの名所絵のある画葉書を百枚買った。そのあとでエルトハイムに寄って新しい襟を買ったのであった。
晩には方々歩いたっけ。珈琲店はウィクトリアとバウエルとへ行った。それから黒猫《シヤアノアル》やリンデンや抜裏《パツサアジユ》なんぞの寄席にちょいちょい這入《はい》って覗いて見た。その外どこかへ行っが、あとは忘れた。あの時は新しく買った分の襟を一つしていた。リッシュに這入ったとき、大きな帽子を被《かぶ》った別品さんが、おれの事を「あなたロシアの侯爵でしょう」と云って、「あなたにお目に掛かった記念にしますから、二十マルクを一つ下さいな」と云ったっけ。
ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテクサメエトルを見たら五の所に針が行っていた。それをどう云うものだか、ショッフヨオルの先生が十二の所へそっと廻した。なんだか面倒になりそうだから、おれは十五に相当する金をやった。部屋に這入って見ると、机の上に鹿の角や花束が載っていて、その傍に脱《はず》して置いて出た古襟があった。窓を開けて、襟を外へ投げた。それから着物を脱いで横になった。しかし今一つ例の七ルウブルの一ダズンの中の古襟のあったことを思い出したから、すぐに起きて、それを捜し出して、これも窓から外へ投げた。大きな帽子を被った両棲動物奴《め》がうるさく附き纏って、おれの膝に腰を掛けて、「テクサメエトルを下さいな」なんと云う。そのうち寐入《ねい》った。翌朝と云いたいが、実際もう朝ではなかった。おれは起きて出掛けた。今日は議会を見に行くはずである。もうすぐにパリイへ立つ予定なのだから、なるたけ急いでベルリンの見物をしてしまわなくてはならないのである。ホテルを出ようとすると、金モオルの附いた帽子を被っている門番が、帽を脱いで、おれにうやうやしく小さい包みを渡した。
「なんだい」とおれは問うた。
「昨日侯爵のお落しになった襟でございます。」こいつまでおれの事を侯爵だと云っている。
おれはいい加減に口をもぐつかせて謝した。
「町の掃除人が持って参ったのでございます。その男の妻が拾ったそうでございます。四十ペンニヒ頂戴いたしたいと申しておりました。」
「そんなら出しておいてくれい。あとで一しょに勘定して貰うから。」
襟は丁寧に包んで、紐でしっかり縛ってある。おれはそれを提げて、来合せた電車に乗って、二分間ほどすると下りた。
「旦那。お忘れ物が。」車掌があとからこう云った。
おれは聞えない振りをして、ずんずん歩いた。そうすると大騒ぎになった。電車に乗っていた連中が総立ちになる。二人はおれを追い掛けに飛んで下りる。一人は車掌に談判する。今二人は運転手に談判する。車の屋根に乗っている連中は、蝙蝠《こうもり》傘《がさ》や帽やハンケチを振っておれを呼ぶ。反対の方角から来た電車も留まって、その中でも大騒ぎが始まる。ひどく肥満した土地の先生らしいのが、逆上して真赤になって、おれに追い附いた。手には例の包みを提げている。おれは丁寧に礼を言った。肥満した先生は名刺をくれておれと握手した。おれも名刺を献上した。見物一同大満足の体で、おれの顔を見てにこにこしている。両方の電車が動き出す。これで交通の障碍《しようがい》がやっと除かれたのである。おれはこの出来事のために余程興奮して来たので、議会に行くことはよしにした。ぶらぶら散歩して、三十分もたってから、ちょうど歩いていたスプレエ川の岸から、例の包を川へ投げた。あたりを見廻しても人っ子一人いない。
晩までは安心して所々《しよしよ》をぶらついていた。のん気で午食も旨く食った。襟を棄ててから、もう四時間たっている。まさか襟がさきへ帰ってはいまいとは思いながら、少しびくびくものでホテルへ帰った。さも忙しいという風をしてホテルの門を通り掛かった。門番が引き留めた。そしてうやうやしく一つの包みを渡すのである。同じ紙で包んで、同じ紐で縛ってある。おれははっと思うと、がっかりしてその椅子に倒れ掛かった。ボオイが水を一ぱい持って来てくれた。
門番がこう云った。「いや、大した手数でございましたそうです。しかしまあ、万事無事に済みまして結構でございました。すぐに見付かればよろしいのでございますが、もうお落しになってから約八分たっていたそうで、すっかり水を含みまして、沈みかかっていたそうでございます。水上警察がそれを見付けて、すぐに非常号音を鳴らします。すぐに電話で潜水夫を呼び寄せます。無論同時に秘密警察署へも報告をいたしまして、私立探偵事務所二箇所へ知らせましたそうで。」
「なるほど。シエロック・ホルムス先生に知らせたのだね。」
門番はおれの顔を見た。その見かたは慇懃《いんぎん》ではあるが、変に思っているという見かたであった。そしてボオイに合図をすると、ボオイがもう一杯水を持って来てくれた。
門番は話のあとをする。「潜水夫は一時間と三十分掛かって、包みを見付けたそうでございます。その間に秘密警察署の手で、今朝から誰があの川筋を通ったということを探りました。ベルリン中のホテルへ電話で問い合されました。ロシア人で宿泊しているものはないかと申すことで。」
「なぜロシア人というのだろう」と、おれは切れぎれに云った。
「襟に商標が押してございまして、それがロシアの商店ので。」
おれは椅子から立ち上がった。
「もういいもういい。そこで幾ら立て替えておいてくれたのかい。」
「六百マルクでございます。秘密警察署の方は官吏でございますから、報酬は取りませんが、私立探偵事務所の方がございますので。どうぞ悪しからず。それから潜水夫がお心付けを戴きたいと申しました。」
おれはすっかり気色を悪くして、もう今晩は駄目だと思った。もうなんにもすまいと思って、ただ町をぶらついていた。手には例の癪《しやく》に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾って、にこにこした顔をしておれに渡してくれる。おれは方々見廻した。どこかに穴か、溝か、畠か、明家《あきや》がありはしないかと思ったのである。そんな物は生憎ない。どこを見ても綺麗に掃除がしてある。片付けてある。家がきちんと並べて立ててある。およそ十二キロメエトルほど歩いて、自動車を雇ってホテルへ帰った。襟の包みは丁寧に自動車の腰掛の下へしまっておいて下りた。おれだって、あしたはきっと戻って来るとは知っている。ホテルへ乗って帰る車の中に物を置けば、それが翌日は帰って来るということが分からないのではない。とにかく今夜一晩だけでもあの包みなしに安眠したいと思ったのである。明朝になったなら、またどうにかしようというのであった。しかしそれは画餅《がへい》になった。おれはとうとう包みと一しょに寝た。十二キロメエトル歩いたあとだからおれは随分くたびれていて、すぐ寝入った。そうすると間もなく戸を叩くものがある。戸口から手が覗く。袖の金線でボオイだということが分かる。その手は包みを提げているのである。おれは大熱になった。おれの頭から鹿の角が生える。誰やらあとから追い掛ける。大きな帽子を被った潜水夫がおれの膝に腰を掛ける。
もうパリイへ行こうと思うことなんぞはおれの頭に無い。差し当りこの包みをどうにか処分しなくてはならない。どうか大地震でもあってくれればいいと思う。何もベルリンだって、地震が揺ってならないはずはない。それからこういう事も思った。動物園へ行って、河馬の咽へあの包みを入れてやろうかと云うのである。しかし奴が吐き出すかも知れないと思って、途中で動物園に行くことを廃《や》めにして料理店へ這入ってしまった。幸におれは一工夫して、これならばと一縷《いちる》の希望を繋いだ。夜、ホテルでそっと襟を出して、例の商標を剥がした。戸を締め切って窓掛を卸《おろ》して、まるで贋金を作るという風でこの為事《しごと》をしたのである。
翌朝国会議事堂へ行った。そこの様子は少しおれを失望させた。卓と腰掛とが半圏状に据え付けてある。あまり国のと違っていない、議長席がある。鐸《ベル》がある。水を入れた瓶がある。そこらも国のと違っていない。おれは右党の席を一しょう懸命注意して見た。
そしてこう決心した。「どうもこいつの方が信用が置けそうだ。この卓や腰掛が似ているように、ここに来て据わる先生達が似ているなら、おれは襟に再会することは断じて無かろう。」
こう思って、あたりを見廻わして、時分を見計らって、手早く例の包みを極右党の卓の中にしまった。
そこでおれは安心した。しかし念には念を入れるがいいと思って、ホテルを換えた。勘定は大分嵩張《かさば》っていた。なぜと云うに、宿料、朝食代、給仕の賃銀なんぞの外に、いろいろな筆数が附いている。町の掃除人の妻にやった心附け、潜水夫にやった酒手、私立探偵事務所の費用なんぞである。
引き越したホテルはベルリン市のまるであべこべの方角にある。宿帳へは偽名をして附けた。なんでもホテルではおれを探偵だと思ったらしい。出入をするたびに、ホテルの外に立っている巡査が敬礼をする。
翌日は休日である。議会は休みのはずである。その翌日から予算が日程に上ぼっていて、大分盛んな議論があるらしい。その晩は無事に済んだ。その次の日の午前も無事に済んだ。ところが午後になると、議会から使が来て、大きなブックを出して、それに受取を書き込ませた。
門番があっけに取られたような風をして、両手の指を組み合せて、こう云った。「どうでも大臣か何かにおなりになるのではございますまいか。わたくしは議事堂に心安いものを持っています。食堂の給仕をいたしております。もしこれから何か御用がおありなさるなら、その男をお使い下さるようにお願い申します。確かな男でございます。」
おれの考えは少々違っていた。果せるかな、使は包みを一つ取り出して、それをおれに渡すのである。
門番はこう云った。「勲章でございましょう。銀の勲章でございましょう。これから二つ目の横町を右へお曲がりになる所の角へお持ちになりますと。」
「なんだい、それは。その角に持って行ってどうするのだい。」
「質店でございます。勲章なら、すぐに十マルクは御用立てます。官立典物所なんぞへお持ちになったって、あそこではせいぜい六マルクしかよこしません。なかなかずるうございますから。」
ところがおれの受け取ったのは、勲章でもなければ、大臣の辞令でもない。例の襟である。極右党の先生が御丁寧にも札を附けてくれた。こんな事が書いてある。「露国の名誉ある貴族たる閣下に、御遺失なされ候物品を返上致す機会を得候《えそうろう》は、拙者の最も光栄とする所に有之《これあり》候《そうろう》。猶将来共《なおしようらいとも》。」あとは読んでも見なかった。
おれはホテルを出て、沈鬱して歩いていた。頼みに思った極右党はやはり頼み甲斐のない男であった。さてこれからどうしよう。なんだっておれはロシアを出て来たのだろう。今さら後悔しても駄目である。幸にも国にはまだ憲法が無い。その代りには、どこへ行って見ても、穴くらい幾らでもある。溝も幾らもある。よしや襟飾を棄てる所は無いにしても、襟くらい棄てる所は幾らもある。
日が暮れた。熱が出て、悪寒《おかん》がする。幻覚が起る。向うから来る女が口を開く。おれは好色家の感じのような感じで、あの口の中へおれの包みを入れてみたいと思った。巡査が立っている。あの兜を脱がせて、その中へおれの包みを入れたらよかろうと思う。紐をからんでいる手の指が燃えるような心持がする。包みの重りが幾キログランムかありそうな心持がする。ああ。恋しきロシアよ。あそこには潜水夫はいない。町にも掃除人はいない。秘密警察署はあっても、外の用をしている。極右党も外国の侯爵に紙包みを返してやろうなんぞとは思わない。いわんやおれは侯爵でもなんでもないのである。ああ。ロシアよ。
おれは余りに愛国の情が激発して頭がぐらついたので、そこの塀に寄り掛かって自ら支えた。
「これは、あなた、どうなさいましたのですか。御気分でもお悪いのですか。やあ、ロシアの侯爵閣下ではございませんか。」
おれは身を旋《めぐ》らしてその男を見た。おれの前に立っているのは、肥満した、赤い顔の独逸《ドイツ》人である。こないだ電車から飛び下りておれのわざと忘れて置いた包みを持って来てくれて、自分の名刺をくれた男である。
おれはそいつのふくらんだ腹を見て、ポッケットに入れていたナイフを出してそのナイフに付いていた十二本の刃を十二本ともそいつの腹へずぶりと刺した。腹の持主はぐっとも言わない。日本人のやる腹切りのようなわけだ。そしてぐいと引き廻して、腹の中へ包みを入れた。包みの中には例の襟が這入っているのである。三十九号の立襟である。一ダズン七ルウブルの中の二つである。それから腹の創口をピンで留めて、ハンケチで手を拭いて、その場を立ち退いた。誰もおれを見たものはない。おれは口笛を吹いて歩き出した。
その晩はよく寝た。子供のように愉快な夢を見て寝た。翌朝目を覚まして、鼻歌を歌いながら、起きて、鼻歌を歌いながら、顔を洗って、朝食を食った。なんだか年を逆さに取ったような心持がしている。おれは「巴里《パリイ》へ行く汽車は何時に出るか」と問うてみた。
停車場へ出掛けた。首尾よく不喫烟室に乗り込むまではよかったが、おれはそこで捕縛せられた。
おれは五時間の予審を受けた。何もかも白状した。しかし裁判官達には、おれがなぜそんな事をしたか分からない。
「襟だって価のある物品ではありませんか」と、裁判官も検事も云うのである。
「あいつはわたくしを滅亡させたのです。わたくしの生涯を破壊したのです。あいつが最初電車から飛び下りて、わたくしを追いかけて、あの包みを渡しさえしなかったら。」
「しかし誰でもあの男の場合に出合ったら、あの男と同じ行為に出でたでしょう。どうも外に為様《しよう》はないじゃありませんか。一体被告の申立ては法廷を嘲弄しているものと認めます」と、裁判官達は云った。
おれは死刑を宣告せられた。それから法廷を侮辱した科《とが》によって、同時に罰金二十マルクに処せられた。
「被告の所有品たる襟は没収する限りでないから、一応被告に下げ渡します」と、裁判長が云った。「あの差押えた品を渡せ」と云うや否や、押丁《おうてい》はおれに例の紙包を持って来て渡した。
その時おれは気を失った。それから醒覚したのは、監獄の部屋の中であった。夜である。おれの傍には卓があって、その上に襟の包みが載っている。
明日はおれは処刑を受ける。おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。
襟は遺言をもって検事に贈る。どうとも勝手にするがいい。
故郷を離れて死ぬるのはせつない。涙が翻《こぼ》れて、もうあとは書けない。さらばよ。我がロシア。
附言。本文中二箇所の字句を改刪《かいさん》してある。これは諷刺の意を誤解せられては差支えるので、故意に原文に従わなかったのである。誤訳ではない。
うずしお ポー
二人でちょうど一番高い岩山の巓《いただき》まで登った。老人は数分間は余り草臥《くたび》れて物を云うことが出来なかった。
とうとうこう云い出した。
「まだ余り古い事ではございません。わたくしは不断倅《せがれ》共の中の一番若い奴を連れて、この道を通って、平気でこの岩《いわ》端《はな》まで出たものです。だからあなたの御案内をしてまいったって、こんなに草臥れるはずではないのです。それがおおよそ三年前に妙な目に逢ったのでございますよ。多分どんな人間でもわたくしより前にあんな目に逢ったものはございますまい。よしやそんな人があったとしても、それが生き残っていはしませんから、人に話して聞かすことはございますまい。そのときわたくしは六時間の間、今死ぬか今死ぬかと思って気を痛めましたので、体も元気も台なしになってしまいました。あなたはわたくしを大変年を取っている男だとお思いなさいますでございましょうね。ところが、実際そうではございませんよ。わたくしの髪の毛は黒い光沢《つや》のある毛であったのが、たった一日に白髪になってしまったのでございます。その時手足も弱くなり神経も駄目になってしまいました。今では少し骨を折れば、手足が顫《ふる》えたり、ふいと物の影なんぞを見て肝を潰したりするほど、わたくしの神経は駄目になっているのでございます。この小さい岩端から下の方を見下ろしますと、わたくしは眩暈《めまい》がしそうになるのでございます。はたから御覧になっては、それほど神経を悪くしているようには見えますまいが。」
その小さい岩端といった所に、その男は別に心配らしい様子もなく、ずっと端の所へ寄って横になって休んでいる。体の重い方の半分が重点を岩端を外れて外に落している。つるつる滑りそうな岩の縁《へり》に両肘を突いているので、その男の体は落ちないでいるのである。
その小さい岩端というのは、嶮《けわ》しい、鉛直に立っている岩である。その岩は黒く光る柘榴《ざくろ》石《せき》である。それが底の方に幾つともなく簇《むら》がっている岩の群を抜いて、おおよそ一万五千呎《フイイト》ないし一万六千呎《フイイト》くらい真直に立っているのである。僕なんぞは誰がなんと云っても、その縁から一二尺くらいな所まで体を覗けることは出来ないのである。連れの男の危ない所にいるのが気になって、自分までが危なく思われるので、僕は土の上に腹這いになって、そこに生えている灌木を掴んでいた。下を見下すどころではない。上を向いて空を見るのも厭である。どうも暴風《あらし》が吹いて来てこの山の根の方を崩してしまいはすまいかと思われてならない。僕はそういう想像を抑制することを力《つと》めているのに、またしてもその想像が起ってならない。自分で自分の理性に訴えて、自分で自分の勇気を鼓舞して、そこに坐って遠方を見ることが出来るようになるまでにはよほど時間がかかった。
僕を連れて来た男がこう云った。
「なんでも危ないというような心持を無くしておしまいなさらなくてはいけません。わたくしのただいま申したように、不思議な目に逢った場所を、あなたがなるたけよく一目にお見渡しなさることが出来るようにと思いまして、わたくしはここへあなたを御案内して参ったのでございます。あなたの現場を一目に見渡していらっしゃる前で、わたくしはあなたに委《くわ》しいお話を致そうと思って、ここへ御案内いたしたのでございます。」
この男は廻り遠い物の言いようをする男である。しばらくしてこんな風に話し続けた。
「あなたとわたくしとはただいま諾威《ノルエイ》の国《くに》境《ざかい》にいるのでございます。北緯六十八度でございます。県の名はノルドランドと申します。郡はロフォツデンと申しまして陰気な土地でございます。あなたとわたくしとの登っている巓はヘルセッゲンという山の巓でございます。雲《くも》隠《がくれ》山《やま》という仇《あだ》名《な》が付いています。ちょっと伸び上がって御覧なさいまし。もし眩暈がなさいますようなら、そこの草にしっかりつかまって伸び上がって御覧なさいまし。それでよろしゅうございます。このじき下の所には、帯のような靄がかかっていますが、その靄の向うを御覧になると海が広く見えているのでございます。」
僕はおそるおそる頭を上げて見た。広々とした大洋が向うの下の方に見える。その水はインクのように黒い色をしている。僕はすぐにヌビアの地学者の書いたものにあるマレ・テネブラルムを思い出した。「闇の海」を思い出した。人間が想像をどんなに逞《たくまし》くしてもこれより恐ろしい、これより慰藉のないパノラマを想像することは、出来ない。右を見ても左を見ても、目の力の届く限り恐ろしい陰気な、上から下へ被さるような岩の列が立っている。ちょうど人間世界の境の石ででもあるように、境の塁壁ででもあるように、その岩の列が立っている。その岩組の陰気な性質が、激しく打ち寄せる波で、一層気味悪く見える。その波は昔から永遠に吠えて、どなって、白い、怪物めいた波頭を立たせているのである。
ちょうど僕とその男との坐っている岩端に向き合って、五哩《マイル》か六哩くらいの沖に、小さい黒ずんだ島がある。打ち寄せる波頭の泡が八方からそれを取巻いている。その波頭の白いので、黒ずんだ島が一際明かに見えている。それから二哩ばかり陸《おか》の方へ寄って、その島より小さい島がある。石の多い、恐ろしい不毛の地と見える。黒い岩の群が絶え絶えにその周囲に立っている。
遠い分の島から岸までの間の大洋の様子は、まるで尋常の海ではない。ちょうど眺めている最ちゅうに海の方から陸の方へ向けて随分強い風が吹いていた。この風が強いので、島よりずっと先の沖を通っている小舟が、帆を巻いて走っておるのに、その船体が始終まるで水面から下へ隠れているのが見えたのである。それなのに島から手前には尋常の海と違って、ふくらんだ波の起伏が見えないのである。そこにもここにも、どっちとも向きを定めずに、水が短く、急に、怒ったように迸《ほとばし》り上がっているばかりである。中にはまるで風に悖《さから》って動いている所もある。泡は余り立たない。ただ岩のある近所だけに白い波頭が見えている。
その男がこう云った。
「あの遠い分の島をこの国のものはウルグと申します。近い分の島をモスコエと申します。それから一哩《マイル》ほど先に北に寄っているアンバアレン群島があります。こちらの側にあるのがイスレエゼン、ホトホルム、ケイルドヘルム、スアルエン、ブックホルムでございます。それからモスコエとウルグとの間の所にあたってオッテルホルム、フリイメン、サンドフレエゼン、ストックホルムがございます。まあこんな風な名が一々付いているのでございます。一体なんだってあんな岩に一々名を付けたのだろうと考えてみましても、どうもなぜだか分かりません。そら何か聞えますでございましょう。それに水の様子が変って来ましたのにお気が付きませんですか。」
僕がその男とこのヘルセッゲンの巓へ、ロフォツデンの内側を登って来てから、おおよそ十分くらいも経っているだろうか。登って来る時には、海なんぞは少しも見えなくて、この巓に出ると、忽然限りもなく広い海が目の前に横たわっていたのである。連れの男が最後の詞を言った時、僕にも気が付いた。なんだか鈍い、次第に強くなって来る物音が聞えるのである。たとえてみればアメリカのプレリイの広《ひろ》野《の》で、ビュッファロ牛の群がうめいたり、うなったりするような物音である。
その物音と同時に僕はこんな事に気が付いた。航海者が「跳る波」というような波が今まで見えていたのに、忽然そこの水が激烈な潮流に変化して、非常な速度をもって西に向いて流れているのである。見ているうちに、その速度が気味の悪いように加わって、劇しくなる。一刹那一刹那に、その偉大な激動が加わって来る。五分間も経ったかと思うと、岸からウルグ島までの海が抑えられない憤《ふん》怒《ど》の勢いをもって、鞭打ち起された。中にもモスコエ島と岸との間の激動が最も甚しい。ここでは恐ろしい広い間の水の床が、生《なま》創《きず》を拵《こしら》えたり、瘢痕を結んだりして、数千条の互に怒って切り合う溝のようになるかと思うと、忽然痙攣状に砕けてしまう。ごうごう鳴る。沸き立つ。ざわつく。渦巻く。無数の大きい渦巻きになって、普通は瀑布の外には見られないような水勢をもって、東へ流れて行くのである。
また数分間すると、景色が全く一変した。水面は概して穏かになった。そして渦巻が一つ一つ消えてしまった。それに反して今までちっとも泡立っていなかった所が、大きい帯のように泡立って来た。この帯のようなものが次第に八方に広がって、食っ付き合って、いったん消えてしまった渦巻のような回旋状の運動をし始めた。今までの渦巻より大きい渦巻を作ろうとしているらしい。
忽然と云っても、そんな詞ではこの急激な有様を形容しにくいほど、極端に急激に、水面がはっきりと際立っている、大きい渦巻になった。その直径がおおよそ一哩以上もあるだろう。渦巻の縁《ふち》の所は幅の広い帯のような、白く光る波頭になっている。そのくせその波頭の白い泡の一滴も、恐ろしい漏斗《じようご》の中へ落ち込みはしない。漏斗の中は、目の届く限り、平らな、光る、墨のように黒い水の塀になっている。それが水平面と四十五度の角度を形づくっている。その塀のような水が、目の舞うほどの速度で、気の狂ったようにぐるぐる旋《めぐ》っている。そして暴風《あらし》の音の劇しい中へ、この渦巻が自分の恐ろしい声を交ぜて、叫び吠えるのである。あのナイアガラの大瀑布が、死に迫る煩悶の声を天に届くように立てているのよりも、一層恐ろしい声をするのである。
山全体も底から震えている。岩も一つ一つ震えている。僕はぴったり地面に腹這って、顔が土に着くようにしていて、神経の興奮が劇しい余りに、両手に草を握っていた。
ようようのことで僕は連れの男に云った。
「これが話に聞いたマルストロオムの大渦巻でなければ、外にマルストロオムというものはあるまい。これがそうなのだろうね。」
連れの男が答えた。
「よその国の人のそういうのがこれでございますよ。わたくしども諾威《ノルエイ》人《じん》は、あのモスコエ島の名を取ってモスコエストロオムと申します。」
僕はこの渦巻の事を書いたものを見たことがあるが、実際目で見るのと、物に書いてあるのとは全く違う。ヨナス・ラムスの書いたものが、どれよりも綿密らしいが、その記事なんぞを読んだって、この実際の状況に似寄った想像は、とても浮かばない。その偉大な一面から見ても、またその恐るべき一面から見ても、そうである。またこの未曾有なもの、唯一なものが、覿《てき》面《めん》にそれを見ている人の心を、どんなに動かし狂わすかということも、とても想像せられまい。一体ヨナス・ラムスはどの地点からどんな時刻にこの渦巻を観察したのか知らない。とにかく決して暴風《あらし》の最ちゅうにこのヘルセッゲンの山の巓から見たのではあるまい。しかしあの記事の中《うち》に二三記憶して置いてもいい事がある。とても実況に比べて見ては、お話にならないほど薄弱な文句ではあるが。
その文句はこうである。
「ロフォツデンとモスコエとの中間は、水の深さ三十五ノットよリ四十ノットに至る。然るにウルグ島の方面に向いては、その深さ次第に減じて、いかなる船舶もこの間を航すること難し。もし強いてこの間を航するときは、その船舶は、いかなる平穏なる天候の日にても、巌石に触れて砕くる危険あるべし。満潮のときはロフォツデンとモスコエとの間の潮流非常なる速度を有す。また落潮の時はその響強烈にして、最も恐るべき、最も大なる瀑布の声といえども、これに及ばざるならん。その響は数里の外に聞ゆ。渦巻は広く、水底は深くして、もし船舶その内に入るときは、必然の勢いをもって渦巻の中心に陥り、巌石に触れて砕け滅ぶるならん。しかして水勢衰うる後に至りて、その船舶の砕片は始めて海面に投げ出ださるるならん。かくの如き海面の凪《な》ぎは、潮の漲《ちよう》落《らく》の間に、天候平穏なる日においてこれを見る。その時間おおよそ十五分間ばかりなるべし。この時間を経過して後、初めの如き水の激動再び起る。もし潮流最も劇しく、暴風《あらし》の力これを助長するときは、諾威《ノルエイ》国の哩数にて、渦巻の縁《ふち》を距《さ》ること、一哩の点に船舶を進むるだに、甚だ危険なるべし。船舶の大小にかかわらず、戒心してこの潮流を避けざりしがために、不幸にしてその盤渦ちゅうに巻き込まれて水底に引き入れられし証例少なからず。また鯨魚のこの潮流に近づきて巻き込まれしことあり。そのとき鯨魚の潮流に反抗して逃れ去らんと欲し、叫び吠ゆる声は文字の得て形容するところにあらざりき。あるときはロフォツデンよりモスコエへ泳ぎ渡らんとしたる熊、この盤渦ちゅうに巻き入れられしことあり。その熊の叫ぶ声は岸まで明かに聞えたりという。松《しよう》栢《はく》、その他の針葉樹、その内に巻き込まるるときは、摧《くだ》け折れ、断片となりて浮び出づ。その断片は刷《は》毛《け》の如くにそそけ立ちたるを見る。案ずるにこれこの所の海底鋸《きよ》歯《し》の如き巌石より成れるが故に、その巌石の上をあちこち押しやられし木片は、かくの如くそそけ立つならん。潮流は海潮の漲落に従いて変ず。しかしてその一漲一落必ず六時間を費やす。千六百四十五年のセクサゲジマ日曜日の朝は潮流の猛烈なりしこと常に倍し、海岸の人家の壁より、石材脱け落ちたりという。」
この本に水の深さの事が言ってあるが、著者はどうして渦巻のじき近所で、水の深さなんぞを測ったものと考えて、あんな事を書いたのだか分からない。三十五ノットから四十ノットまでの間というのも、ロフォツデンの岸に近い所か、または、モスコエの岸に近い処か、どちらかの海峡の一部分の深さに過ぎないのだろう。マルストロオムの中心の深さは、こんな尺度よりはよほど深くなくてはならない。こういうのに別に証拠はいらないはずである。ヘルセッゲンの山の巓《いただき》から渦巻の漏斗の底を、横に見下ろしただけでそれだけの事は知れるのである。
僕はヘルセッゲンの山の巓から、この吠えているフレゲトン、あの古い言い伝えにある火の流れのようなこの潮流を見下ろしたとき、覚えず愚直なヨナス・ラムス先生が、さも信用し難い事を書くらしい筆附きで、鯨や熊の話を書いた心持の、無邪気さ加減を想像して、笑うまいと思っても、笑わずにはいられないような心持がしたのである。僕の見たところでは、たとい最も大きい戦闘艦でも、この恐ろしい引力の範囲内に這入った以上は、ちょうど一片の鳥の羽が暴風《あらし》に吹きまくられるように、少しの抗抵をもすることなしに底へ引き入れられてしまって、人も鼠も命を落さなくてはならないということが、知れ切っているのである。
この現象を説明しようと試みた人は色々ある。僕はかつてその二三を読んで見て、なるほどそうもあろうかと思ったことがある。しかし実際を見たときは、そんな説明が、どうも役に立たないように思った。ある人はこんな風に説明している。このマルストロオムの渦巻も、またフェルロエ群島の間にある、これより小さい三つの渦巻も、次のような原因で出来るのだというのである。
「かくの如き旋渦を生ずるゆえんは他《た》ならず。稜《かど》立《だ》ちたる巌壁の間に押し込まれたる水は、潮の漲落に際して屈折せられ、瀑布の如き勢いをなして急下す。その波濤の相触るるによりて、この渦巻は生ずるなり。潮は上ぼることいよいよ高ければ、その下だるやいよいよ深し。これ渦巻の漏斗状をなすゆえんなり。かくの如き旋渦を成す水の、驚くべき吸引力を有するは、器に水を盛りて、小さき旋渦を生ぜしめて試験するときは、明白なり。」
右の文章はエンサイクロペジア・ブリタンニカに出ている。またキルヘルその他の学者は、マルストロオムの中心に穴があって、その穴は全地球を貫いていて、反対の側の穴は、どこか遠い世界の部分にあいているだろうというのである。ある学者はその穴がボスニア湾だとはっきり云っている。
これは少し子供らしい想像であるが、実況を見たとき僕にはかえってこの想像がもっともらしく思われた。僕は連れの男にこの考えを話してみたところが、意外にもその男はこう云った。なるほど諾威《ノルエイ》では一般にそういう説が行なわれているが、自分はそんなことは信じないと云ったのである。それから最初の渦巻の出来る原因ということについては、その男はまるで分からないと云った。これには僕も同意する。紙の上で読んでみたときはもっともらしく思われたが、この水底の雷《らい》霆《てい》を聞きながら考えてみると、そんな理窟は馬鹿らしくなってしまうのである。
連れの男が云った。
「渦巻の実況はこれで十分御覧になったのでございましょう。どうぞこの岩に付いて廻って来て下さいまし。少し風のあたらない所がございます。そこなら、水の音もよほど弱くなって聞えて来ます。そこでわたくしが自分の経歴談をお聞かせ申したいのでございます。それをお聴きになったなら、このモスコエストロオムのことを、わたくしが多少心得ているはずだというわけが、あなたにもお分かりになるでございましょう。」
僕はその男の連れて行く所へ付いて行って、蹲《しやが》んだ。その男がこんな風に話し出した。
「わたくしと二人のきょうだいとで、前《まえ》方《かた》おおよそ七十噸《トン》ばかりの二本檣《ほばしら》の船を持っていました。その船に乗って、わたくしどもはモスコエを越して、向うのウルグ附近の島と島との間で、漁猟を致していました。一体波の激しく岩に打ち付ける所では漁の多いことがあるもので、ただそんな所へ漕ぎ出す勇気さえあれば、人の収め得ない利益をも収め得ることが出来るものでございます。とにかくロフォツデン沿岸の漁民はたくさんありますが、ただいま申した島々の間で、きまって漁をするものは、わたくしども三人きょうだいの外にはございませんでした。普通の漁場は、わたくしどもの行く所よりずっと南に寄った沖合なのでございます。そこまで行けば、いつでも危険を冒さずに、漁をすることが出来るので、誰でもまずその方へ出掛けるのでございます。しかしわたくしどもの行く岩の間で取れる魚は、種類が沖合よりよほど多くて、魚の数もやはり多いのでございます。どうか致すと、沖に行く臆病な人が一週間もかかって取るだけの魚を、わたくしどもは一日に取って帰りました。つまりわたくしどもは山気のある為事《しごと》をしていたのでございますね。胆力を資本にして、性《せい》命《めい》を賭してやっていたというわけでございますね。」
「たいていわたくしどもは、ここから五哩ほど上の入《いり》海《うみ》のような所に船を留めていまして、天気のいいときに、潮の鎮まっている十五分間を利用して、モスコエストロオムの海峡を、ずっと上の方で渡ってしまって、オッテルホルムかサンドフレエゼンの近所の、波のひどくない所に行って、錨を卸すのでございました。そこで海のまた静かになるのを待ってすぐに錨を上げて、こちらへ帰って参るのでございました。」
「しかしこの往復を致しまするには、行くときも帰るときも、たしかに風がいいと見込んで致したのでございます。わたくしどもの見込みはたいてい外れたことはなかったのでございます。六年ほどの間に一度ばかりは向うで錨を下ろしたままで一夜を明して漁をしたことがございました。それはこの辺で珍らしい凪ぎに出逢ったからでございます。それかと思うと、一度はおおよそ一週間ばかり、厭でも向うに泊っていなくてはならなかったこともございます。そのときは、も少しで餓死するところでございました。それは向うへ着くや否や暴風《あらし》になりまして、なんと思っても海峡を渡ってこちらへ帰ることが出来なかったのでございます。その帰ったときも、随分危のうございました。渦巻の影響がひどいので、錨を卸しておくわけに行かなくなりまして、も少しでどんなに骨を折っても沖の方へ押し流されてしまいそうでございました。しあわせな事には、ちょうどモスコエストロオムの潮流と反対した潮流に這入りました。そういう潮流は暴風のときに、所々《しよしよ》に出来ますが、今日あるかと思えば明日なくなるという、頼みにならない潮流なのでございます。それに乗って、わたくしどもは幸にフリイメンのうちの、風のあたらない海岸へ、船を寄せることが出来たのでございます。」
「こんな風にお話を申しましても、わたくしどもの出逢った難儀の二十分の一をもお話しするわけには参りません。わたくしどもの漁《りよう》場《ぼ》の群島の間では、天気のいい時でも、安心してはいられなかったのでございます。しかしあるときは、風の止んでいる時間の計算を、一分ばかり誤ったために、動悸が吭《のど》の下までしたようなことがありましても、とにかくわたくしどもはモスコエストロオムの渦巻にだけは巻かれずに済んでいたのでございます。どうか致すと、船を出す前に思ったより風が足りなくて、船が潮流に反抗することが出来にくくなって、船脚が次第に遅くなって来るようなときもございました。わたくしどもの一番の兄は十八になる倅《せがれ》を持っております。わたくしも丈夫な息子を二人持っております。そこでそんな風に船脚が遅くなったときは、あれを連れて来ていたら、一しょに漕がせて、船脚を早めることも出来たのだろうにと思い思い致しました。そればかりではございません。向うに着いて漁を致すにも、子供が一しょに行っていれば、どんなに都合がいいか知れないのでございます。しかしわたくしどもは、自分達こそその漁場へ出掛けましたが、一度も子供等を連れて参ったことはございません。なぜと申しまするのに、とにかくその漁場に行くのは、一遍でも危険でないというときはなかったからでございます。」
「わたくしのただいまお話を致そうと存じますることがあってから、もう二三日でちょうど三年目になるのでございます。千八百何十何年七月十日の事でございました。この所の漁民にあの日を覚えていないものはございますまい。開《かい》闢《びやく》以来ためしのない暴風《あらし》のあった日でございますからね。そのくせその日は午前一ぱい、それから午後にかけても、始終穏かな西南の風が吹いていたのでございます。空は晴れて、日は照っていました。どんなに年功のある漁師でも、あの暴風ばかりは、始まって来るまで知ることが出来なかったのでございます。」
「わたくしども三人きょうだいは午後二時ころ、いつもの漁場の群島の間に着きまして、船一ぱい魚を取りました。きょうだい達もわたくしも、どうもこんなに魚の取れることは今まで一度もなかったと、不思議に思っていました。それからわたくしの時計でちょうど七時に、錨を上げて帰ろうと致しました。わたくしどもの計算では、海峡の一番悪い所を八時に通るはずでございました。八時が一番海の静かなときだと予測していたのでございます。」
「ちょうどいい風を受けて船を出してから、しばらくの間は都合よく漕いで参ることが出来ました。危険な事があろうなんぞとは、夢にも思わなかったのでございます。そんな事のありそうな徴候は一つもなかったのでございます。」
「突然、妙な風が、ヘルセッゲンの上を越して、吹き卸して参りました。そんな風が吹くということは、それまで永年の間一度もなかったのでございます。そこで、なぜということなしに、わたくしは少し不安に思い出しましたのでございます。わたくしどもは風に向って、漕いでいましたが、どうもこの様子では渦巻の影響を受けている処を漕ぎ抜けるわけには行かなかろうというような心持がいたしました。わたくしはあとへ引き返す相談をしようと思って、ふいと背後《うしろ》を振り返って見ますと、背後《うしろ》の方の空が、一面に赤《しやく》銅《どう》のような色の雲で包まれているのに気が付きました。その雲が非常な速度で蔓《はび》こって来るのでございます。」
「それと同時に、さっき変だと思った、向うから吹く風が、ぱったり無くなってしまいました。まるでちりっぱ一つ動かないような凪ぎになってしまいました。わたくしどもはなんという思案も付かずに、船を漕いでおりました。この時間は短いので、思案を定めるだけの余裕はなかったのでございます。一分とは立たないうちに、ひどい暴風《あらし》になりました。二分とは立たないうちに、空は一面に雲に覆われてしまいました。その雲と波頭のしぶきとで、船の中は真暗になって、きょうだい三人が顔を見交すことも出来ないようになったのでございます。」
「暴風なんぞというものを、詞で形容しようということは、しょせん出来ますまい。なんでも諾威《ノルエイ》に今生きているだけの漁師のうちの、一番の年寄を連れて来て聞いてみても、あの時のような暴風に逢ったものはないだろうと存じます。わたくしどもは暴風の起って来るとき、さっそく帆綱を解いてしまいました。しかし初めの一吹の風で、二本の檣《ほばしら》は鋸で引き切ったように折れてしまいました。大きい分の檣には、一番末の弟が、用心のために、綱で自分の体を縛り付けていたのでございますが、その弟は檣と一しょに飛んで行ってしまいました。」
「わたくしどもの乗っていた船は、おおよそ海に乗り出す船という船の中で、一番軽い船であったのだろうと思います。しかしその船にはデックが一面に張ってありまして、ただ一箇所舳の所に落し戸のようにした所があったばかりでございます。その戸を、海峡を越すとき、例の『跳る波』に出食わすと、締めるように致していたのでございます。このデックがあったので、わたくしどもの船はすぐに沈むということだけを免かれたのでございます。なぜと申しまするのに、しばらくの間は、船体がまるで水を潜っていましたから、デックが張り詰めてなかったら、沈まずにはいられなかったわけなのでございます。その時わたくしの兄が助かったのは、どうして助かったのだか、わたくしには分かりません。わたくし自身は、前柱の帆を解き放すと一しょに、ぴったり腹這って、足を舳の狭い走板にしっかりふんばって、手では前柱の根に打ってある鐶《かん》を一しょう懸命に握っていました。こうやったのはただ本能の働きでやったのでございますが、考えてみる余裕があったとしても、そうするより外にしようはなかったのでございます。もちろん余り驚いたので、考えてみた上にどうするというような余裕はなかったのでございます。」
「さっきも申しました通り、数秒時間、わたくしどもはまるで波を被っておりました。わたくしは息を屏《つ》めて鐶に噛《かじ》り付いていました。そこで、も少しで窒息しそうになりましたので、わたくしは手を放さずに膝を衝いて起き上がってみました。それでやっと頭だけが水の外に出ました。ちょうどそのとき船がごっくりと海面に押し出されるように浮きました。たとえてみれば、水に漬けられた狗《いぬ》が頭を水から出すような工合でございました。わたくしは気の遠くなったのを出来るだけ取り直して、どうしたがいいという思案を極《き》めようと思いました。そのときわたくしの臂を握ったものがあります。それは兄きでございました。わたくしは、もうとっくの昔兄きは船から跳ね出されたものだと思っていましたから、この刹那にひどく嬉しく思いました。しかしその嬉しいと思ったのは、ほんの一刹那だけで、忽然わたくしの喜びは非常な恐怖に変じてしまいました。それは兄きがわたくしの耳に口を寄せて、ただ一言『モスコエストロオム』と申したからでございます。」
「どんな人間だって、わたくしのそのとき感じたような心持を、詞で言い現わすことは出来ますまい。ちょうどひどい熱の発作のように、わたくしは頭のてっぺんから足の爪先まで、顫《ふる》え上がりました。兄きがその一《いち》言《ごん》で、何をわたくしに申したのだということが、わたくしにはすぐに分かったからでございます。兄きの云った一言は、風がわたくしどもの船を押し流して、船が渦巻の方へ向いているのだということでございます。」
「先刻もわたくしは申しましたが、モスコエの海峡を越すときには、わたくしどもはいつでも渦巻よりずっと上《かみ》の方を通るように致しておりました。たといどんな海の穏かなときでも、渦巻に近寄らないようにという用心だけは、少しも怠ったことはございません。それに今は恐ろしい暴風に吹かれて、舟が渦巻の方へ押し流されているのでございます。その刹那にわたくしは思いました。とにかく時間が一番渦巻の静かな時にあたっているのだから、多少希望がないでもないと思いました。しかしそう思ってしまうと、その考えの馬鹿気ていることを悟らずにはいられませんでした。もう希望なんぞという夢を見てはいられないはずなのでございます。たとい乗っているこの船が、大砲の九十門も備えている軍艦であったにしろ、これが砕けずに済むはずはないのでございます。」
「そのうちに暴風の最初の勢いが少し挫けて来たように思われました。それとも船がまっすぐに前に押し流されるので、風の勢いを前ほど感じないようになったのかも知れません。とにかく今まで風の勢いで平らに押し付けられて、泡立っていた海は、山のように高くふくらんで来ました。空の模様も変にかわって来ました。見えている限りの空の周囲《まわり》が、どの方角もぐるりと墨のように真黒になっていまして、ちょうどわたくしどもの頭の上の所に、まんまるに穴があいています。その穴の所は、これまでついぞ見たことのない、明るい、光沢《つや》のある藍色になっていまして、そのまた真中の所に、満月が明るく照っているのでございます。その月の光で、わたくしどもの身の周囲《まわり》は何もかもはっきりと見えています。しかしその月の見せてくれる光景が、まあ、どんなものだったと思《おぼし》召《め》します。」
「わたくしは一二度兄きにものを申そうと存じました。しかしどういうわけか、物音が非常に強くなっていまして、一しょう懸命兄きの耳に口を寄せてどなってみても、一《ひと》言《こと》も向うへは聞えないのでございます。忽然兄きは頭を掉《ふ》って、死人のような顔色になりました。そして右の手の示《ひとさし》指《ゆび》を竪《た》ててわたくしに見せるのです。それが『気を付けろ』というのだろうとわたくしには思われたのでございます。」
「初めにはどう思って兄きがそうしたか分からなかったのでございます。そのうちなんとも云われない、恐ろしい考えが浮んで参りました。わたくしは隠しから時計を出して見ました。止まっています。月明りに透かしてその針の止まっている所を見て、わたくしは涙をばらばらと飜《こぼ》して、その時計を海に投げ込んでしまいました。時計は七時に止まっていました。わたくしどもは海の静かな時を無駄に過してしまって、渦巻は今真盛りになっている時なのでございます。」
「一体船というものは、細工がよく出来ていて、道具が揃っていて、積荷が重過ぎるようなことがなくて順風で走るときは、それに乗っていると波が船の下を後へ潜り抜けて行くように、思われるものでございます。海に馴れない人が見ると、よくそれを不思議がるものでございます。船頭はそういう風に船の行くとき、それを波に『乗る』と申します。これまではわたくしどもはその波に乗って参りました。ところが、たちまち背後《うしろ》から恐ろしい大きな波が来ました。船を持ち上げました。次第に高く高く持ち上げて、天までも持って行かれるかと思うようでございました。波というものが、こんなに高く立つことがあるということは、わたくしどもも、そのときまで知らなかったのでございます。さて登り詰めたかと思うと、急に船が滑るような沈んで行くような運動をし始めました。ちょうど夢で高い山から落ちる時のように、わたくしは眩暈《めまい》が致して胸が悪くなって来ました。しかし波の絶頂から下り掛かった時に、わたくしはその辺の様子を一目に見渡すことが出来ました。一目に見たばかりではございますが、見るだけのことは十分見ました。一秒時間にわたくしは自分達のこの時の境遇をすっかり見て取ったのでございます。モスコエストロオムの渦巻はおおよそ四分の一哩ほど前に見えていました。その渦巻がいつも見るのとはまるで違っていて、言ってみれば、そのときの渦巻と今日の渦巻との比例は、今日の渦巻と水車の輪に水を引くために掘った水溜りとの比例くらいなものでございます。もし船の居所を知らずに、これからどうなるかということを思わずに、あれを見ましたなら、その目に見えているものが何物だか、分からなかったかも知れません。ところが、それが分かっていたものでございますから、余り気味の悪さに、わたくしは目を瞑《つぶ》りました。目を瞑ったというよりは、《まぶた》がひとりでに痙攣を起して閉じたといった方がいいのでございます。」
「それから二分間もたったかと思いますと、波が軽くなって船の周囲《まわり》がしぶきで包まれてしまいました。そのとき船が急に取《とり》柁《かじ》の方へ半分ほど廻って、電《いなずま》のように早く、今までと変った方角へ走り出しました。そのとき今までのどうどうと鳴っていた水の音を打ち消すほど強く、しゅっしゅっというような音が致しました。たとえてみれば、蒸気の螺旋《ねじ》口《ぐち》を千ばかりも一度に開けて、蒸気を出すような音なのでございます。わたくしどもは渦巻を取巻いている波頭の帯の所に乗り掛かったのでございます。そのときの考えでは次の一刹那には、今恐ろしい速度で走っていますので、よく見定めることの出来ない、あの漏斗の底に吸い込まれてしまうのだろうと思ったのでございます。そのときの船の走り加減というものは妙でございました。まるで気泡の浮いているのかなにかのように、船の底と水とが触れていないかと思うように、飛ぶように走っているのでございます。船の面柁の方の背後《うしろ》に、今まで船の浮んでいた、別な海の世界が、高くなって欹《そば》立《だ》っているのでございます。その別な海の世界は、取柁の所と水平線との中間に立っている、恐ろしい、きざきざのある壁のように見えるのでございます。」
「こんな事を申すと、可笑しいようでございますが、わたくしどもはもう渦巻の《あぎと》に這入り掛かっていますので、今まで渦巻の方へ向いて、船の走っていたときよりは、腹が据わって、落付いて来たのでございます。もう助からないと諦めてしまいましたので、今までどうなろうかどうなろうかと思った恐怖の念がなくなったのでございますね。どうも絶望の極度に達しますと、神経というものにも、もうこれより強く刺戟せられることは出来ないという程度があるものと見えまして、かえって落着きも出て参るのでございますね。」
「こう申すと、法《ほ》螺《ら》を吹くようでございますが、全く本当の事でございます。わたくしはこんなことを考えました。こうして死ぬるのは実に強《ごう》気《ぎ》な死にようだと存じました。神のお定め下すった、こんな運命に出逢っていて、自分一人の身の上の小利害なんぞを考えるのは、余り馬鹿らしいことだと存じました。わたくしはなんでもそう思ったとき恥かしくなって、顔を赧《あか》くしたかと存じます。」
「しばらく致してわたくしは、一体この渦巻がどんなものだか知りたいと思う好奇心を起したのでございます。わたくしは自分の命を犠牲にして、この渦巻の深さを捜って見たいと思う希望を、はっきり感じたのでございます。そこで、自分は今恐ろしい秘密を見る事が出来るのだが、それを帰って行って、岸の上に住んでいる友達に話して聞かせることの出来ないのが、いかにも遺憾だと思いました。今死ぬのだろうという人間の考えとしては、こんな考えは無論不似合で可笑しいには違いございません。あとで思ってみれば、渦巻の入口で、何遍も船がくるくる廻ったので、少し気が変になっていたかも知れません。」
「それにわたくしが気を落ち着けた原因が、今一つあるのでございます。これまでうるさかった風というものが、今になってはちっとも船に当らないのでございます。風はここまでは参りません。なぜというにあなたも先刻御覧になったように、渦巻の縁《ふち》の波頭の帯は、あたりまえの海面よりはよほど低いのでございます。あたりまえの海は高い、真黒な山の背のように、背後《うしろ》に立っているのでございます。あなた方のように、海でひどい暴風《あらし》なんぞに逢ったことのないお方は、風があたって波のしぶきを被せられるので、どのくらい気が狂うものだということを、御存じないだろうと存じます。波のしぶきに包まれて物を見ることも、物を聞くことも出来なくなりますと、半分窒息しかかるような心持になりまして、何を考えようにも、何をしようにも、気力が無くなってしまうものでございます。そういううるさい心持が、このときあらかた無くなってしまったのでございますね。たとえてみますると、今まで牢屋に入れておいて、どういう処分になるか知れなかった罪人に、いよいよ死刑を宣告してしまうと、役人も多少その人を楽な目に逢わせてやるようにしますが、まあ、あんなものでございますね。」
「わたくしどもは波頭の帯の所を何遍廻ったか知りません。なんでも一時間くらいは走っていました。滑るようにというよりは、飛ぶようにといいたいくらいな走り方でございました。そして段々渦巻の中の方へ寄って来まして、次第に恐ろしい内側の縁の所に近寄るのでございます。」
「この間わたくしは檣の根に打ってある鐶《かん》を掴んで放さずにいました。兄きはデックの艫《とも》の方にいまして、舵の台に縛り付けた、小さい水樽の虚《から》になっていたのに、噛り付いていたのでございます。その水樽は、船が最初に暴風《あらし》に打《ぶ》っ附かったとき、船の中の物がみな浚《さら》って行かれたのに、たった一つ残っていたのでございますね。」
「そこで渦巻の内側の縁に近寄って来ましたとき、兄きはその樽から手を放してしまって、いきなり来てわたくしの掴んでいる鐶を掴むのです。それが二人で掴んでいられるほど大きい鐶ではないのでございます。兄きは死にもの狂いになって、その鐶を自分で取ろうとして、それに掴まっているわたくしの手を放させるようにするのでございます。兄きがこんなことをしましたときほど、わたくしは悲しい心持をしたことはございません。無論兄きは恐ろしさに気が狂ってしたことだとは知っていましたが、それでもわたくしはひどく悲しく思いました。」
「しかしわたくしはその鐶を兄きと争うような気は少しも持っていなかったのでございます。わたくしはそのとき、もうどこにつかまっていても同じことだと思っていたのでございます。そこで鐶《かん》を兄きに掴ませてしまって、わたくしはデックの艫の方へ這って行って樽につかまりました。そんな風に兄きと入り代るのは存外やさしゅうございました。もちろん船は、渦巻が大きく湧き立っているために、大きく揺れてはいましたが、とにかく船は竜骨の方向に、すこぶる滑らかにすべって行くのでございますから。」
「わたくしが、やっと樽につかまったと思いますと、船は突然真逆様に渦巻の底の方へ引き入れられて行くように思われました。わたくしは短い祈祷の詞を唱えまして、いよいよこれがおしまいだなと思いました。」
「船が沈んで行くとき、わたくしはひどく気分が悪くなりましたので、無意識に今までより強く樽にしがみ付いて、目を瞑《ねむ》っていました。数秒間の間は、今死ぬるか今死ぬるかと待っていて、目を開《あ》かずにいました。ところが、どうしても体が水に漬かって窒息するような様子が見えて来ませんのでございます。幾秒も幾秒もたちます。わたくしは依然として生きているのでございます。落ちて行くという感じが無くなって船の運動が、さっき波頭の帯の所を走っていたときと同じようになったらしく感じました。ただ違っているのは、今度は今までよりも縦の方向が勝って走るのでございます。わたくしは胆《たん》を据えて目を開《あ》いて周囲《まわり》の様子を見ました。」
「その時の恐ろしかった事、気味の悪かった事、それから感嘆した事は、わたくしは生涯忘れることが出来ません。船は不思議な力で抑留せられたように、沈んで行こうとする半途で、恐ろしく大きい、限りなく深い漏斗の内面の中間に引っ掛かっているのでございます。もしこの漏斗の壁が目の廻るほどの速度で、動いていなかったら、この漏斗の壁は、磨き立った黒檀の板で張ってあるかとも思われそうなくらい平らなものでございます。その平らな壁面が気味の悪い、目《ま》映《ばゆ》い光を反射しております。それはさっきお話し申した空のまんまるい雲の穴から、満月の光が、黄金を篩《ふる》うようにさして来て、真黒な壁を、上から下へ、一番下の底の所まで照しているからでございます。」
「初めはわたくしは気が変になっていて、委しく周囲《まわり》の様子を観察することが出来なかったのでございます。初めはただ気味の悪い偉大な全体の印象が意識に登っただけであったのでございます。その内に少し気が落ち着いて来ましたので、わたくしは見るともなしに渦巻の底の方を覗いて見ました。ちょうど船が漏斗の壁に引っ掛かっている工合が、底の方を覗いて見るに、なんの障礙もないような向きになっていたのでございます。船は竜骨の向きに平らに走っています。と申しますのは、船のデックと水面とは平行しているのでございます。しかし水面は下へ向いて四十五度以上の斜めな角度を作っています。そこで船はほとんど鉛直な位置に保たれて走っているのでございます。そのくせそんな工合に走っている船の中で、わたくしが手と足とで釣合を取っていますのは、平面の上にいるのと大した相違はないのでございます。多分廻転している速度が非常に大きいからでございましょう。」
「月は漏斗の底の様子を自分の光でよく照らして見ようとでも思うらしく、さし込んでいますが、どうもわたくしにはその底の所がはっきり見えませんのでございます。なぜかと申しますると、漏斗の底の所には霧が立っていて、それが何もかも包んでいるのでございます。その霧の上に実に美しい虹が見えております。回《ふいふい》教《きよう》徒《と》の信ずるところに寄りますると、この世からあの世へ行く唯一の道は、狭い、揺らめく橋だということでございますが、ちょうどその橋のように美しい虹が霧の上に横わっているのでございます。この霧このしぶきは疑もなく、恐ろしい水の壁面が漏斗の底で衝突するので出来るのでございましょう。しかしその霧の中から、天に向かって立ち昇る恐ろしい叫声は、どうして出来るのか、わたくしにも分かりませんのでございました。」
「最初に波頭の帯の所から、一息に沈んで行ったときは斜めな壁の大分の幅を下りたのでございますが、それからはその最初の割には船が底の方へ下だって行かないのでございます。船は竪に下だって行くよりは寧ろ横に輪をかいています。それも平等な運動ではなくて、目まぐろしい衝突をしながら横に走るのでございます。あるときは百尺ばかりも進みます。またあるときは渦巻の全体を一週します。そんな風に、ゆるゆるとではございますが、次第次第に底の方へ近寄って行くことだけは、はっきり知れているのでございます。」
「わたくしはこの流れている黒檀の壁の広い沙漠の上で、周囲を見廻しましたとき、この渦巻に吸い寄せられて動いているものが、わたくしどもの船ばかりでないのに気が付きました。船より上《かみ》の方にも下《しも》の方にも壊れた船の板《いた》片《きれ》やら、山から切り出した材木やら、生木の幹やら、その外色々な小さい物、家財、壊れた箱、桶、板なんぞが走っています。そのときのわたくしが最初に恐ろしがっていたのと違って、不思議な好奇心に駆られていたということは、さっきもお話し申した通りでございます。どうもその好奇心が漏斗の底へ吸い込まれる刹那が近づけば近づくほど、増長して来るようでございました。そこで船と一しょに走っている色々な品物を細かに注意して観察し始めました。そしてその品物が底のしぶきの中に落ち込むに、早いのもあり、また遅いのもあるというところに気を着けて、その後れ先立つ有様を面白く思って見ていました。これも多分気が狂っていたからでございましょう。ふいと気が付いて見れば、わたくしは心の中でこんな事を思っていたのでございますね。『きっとあの樅《もみ》の木が、この次ぎに、あの恐ろしい底に巻き込まれて見えなくなってしまうのだな』なんぞと思っていたのでございますね。それが間違がって、樅の木より先に、和蘭《オランダ》の商船の壊れたのが沈んでしまったり何かするのでございます。」
「そんな風な工合に、色々予測をして見て、それが狂うので、わたくしはとうとうある事実を発見しました。つまり予測の誤りを修正して行って、その事実に到達したのでございますね。その事実が分かると、わたくしの手足がぶるぶると顫えて、心の臓がもう一遍劇しく波立ったのでございます。」
「この感動は今までより恐ろしい事を発見したからではございません。そうではなくって、意外にもまた一縷《いちる》の希望が萌して来たからでございます。その希望は、わたくしの古くから持っていた記憶と、今目の前に見ている事とを思い合せた結果で、出で来たのでございます。その記憶というのは、ロフォツデンの岸には、いったんモスコエストロオムの渦巻に巻き込まれて、また浮いて来た色々な品物が流れ寄ることがあったのでございます。たいていその品物が珍らしく揉み潰され、磨り荒されているのでございます。ちょうど刷毛のようにけばだっているのが多かったのでございます。普通はそうであるのに、品物によっては、まるでいたんでいないのもあったのを思い出しました。そこでわたくしはこう考えました。これは揉み潰されるような分が、本当に渦巻の底へ巻き込まれたので、満足でいるものは、遅く渦巻に巻き込まれたか、または外に理由があって、まだ途ちゅうを走っていて、底まで行かないうちに、満潮にしろ干潮にしろ、海の様子が変って来て、渦巻が止んでしまって、巻き込まれずに済んだのではあるまいかと思ったのでございます。どちらにしても、早く本当の渦巻の底へ巻き込まれずに、そのまま浮いて来る品物もあるらしいということに気が付いたのでございます。」
「その外、わたくしは三つの重大な観察を致しました。第一は、なんでも物体が大きければ大きいだけ早く沈むということなのでございます。第二は二個の物体が同一の容積を持っておりますと、球の形をしているものが、他の形をしているものよりも早く沈むということなんでございます。第三は同一の容積を持っている二個の物体のうちで、その一個が円筒状をなしていますと、それが外の形をしているものよりも沈みようが遅いということなのでございます。わたくしは命が助かった後に、わたくしの郡の学校の先生で、老人のお方がありましたのに、この事を話してみました。わたくしがただ今『球』だの『円筒』だのと申しますのは、そのとき先生に聞いた詞なのでございます。その先生が、わたくしの観察の結果を聞いて、なるほどそれは水に浮かんでいる物体の渦巻に巻き込まれる難易の法則に適っているということを説明してくれましたが、またなかんずく円筒が外の形よりも巻き込まれにくいものだということを説明してくれましたが、その理由はもう忘れてしまいました。」
「そこでわたくしがそういう観察をしまして、その観察の正しいことを自覚して、それを利用しようと致しますまでには、今一つの経験の助けを得たのでございます。それは漏斗の中を廻って行くとき、船が桶や檣や帆《ほ》掛《かけ》棹《ざお》の傍を通り抜けたことがございました。そんな品物が、あとから見れば、初めわたくしの船がその傍を通った時と、余り変らない位置を保っているということに気が付いたのでございます。」
「そこで現在の場合に処するにはどうしたがいいかということを考えるのは、すこぶる容易でございました。わたくしは今まで噛り付いていた水樽の縄を解いて、樽を船から放して、わたくしの体をその縄で水樽に縛り付けて、自分が樽と一しょに海へ飛び込んでしまおうと決心したのでございます。そこでその心持を兄きに知らせてやろうと思いまして、近所に浮いている桶なんぞに指ざしをして精一ぱい兄きの注意を惹き起そうと致しました。もうたいてい分かったはずだと思いますのに、兄きはどうしたのだか首を振って、わたくしに同意しない様子で、やはり一しょう懸命に檣の根の鐶に噛り付いています。力ずくで兄きにその鐶を放させようということはしょせん不可能でございます。その上もはや少しも猶予すべき場合ではないと思いました。そこでわたくしは無論霊の上の苦戦を致した上で、兄きは兄きの運命に任せることと致しまして体を縄で樽に縛り付けまして、急いで海に飛び込みました。」
「その結果は全く予期した通りでございました。御覧のとおりわたくしはこんな風にあなたに自分で自分のことをお話し申すのでございます。あなたはわたくしがそのとき危難を免かれたということをお疑いはなさらないのでございましょう。そしてその免かれた方法も、もうこれで委しく説明致したのでございますから、わたくしはこのお話を早く切り上げようと存じます。」
「わたくしが船から飛び込んでから、一時間ばかりもたった時でございましょう。さっきまでわたくしの乗っていた船は、遥か下の方で、忽然三度か四度か荒々しい廻転を致しまして、真逆様に混沌たるしぶきの中へ沈んで行ってしまいました。さてわたくしの体を縛り付けている樽は、まだ海に飛び込んだときの壁面の高さと、漏斗の底との、ちょうど真中ほどにおりますとき、忽然渦巻の様子に大変動を来たしたのでございます。恐ろしい大漏斗の壁面が一分時間ごとにその険しさを減じて来ます。渦巻の水の速度が次第次第に緩くなって参ります。底の方に見えていたしぶきや虹が消えてしまいます。渦巻の底がゆるゆる高まって参ります。空は晴れて参ります。風は凪いで参ります。満月は輝きながら西に沈んで参ります。わたくしはロフォツデンの岸の見える所で、モスコエストロオムの渦巻の消え去ったあとの処より大分上手の方で、大洋の水面に浮き上がってまいりました。もうこの海峡の潮の鎮まるときになったのでございます。しかし海面は、暴風《あらし》の名残で、まだ小家くらいの浪が立っているのでございます。わたくしは海峡の中の溝のような潮流に巻き込まれて、数分間の後に、岸辺に打ち寄せられました。漁師仲間がいつも船を寄せる所なのでございます。」
「わたくしは一つの船に助け上げられました。そのときはがっかり致して、もうなくなった危険の記念に対して、限りのない恐怖を抱いていました。わたくしを船に救い上げた人達は、昔からの知り合で、毎日顔を見合っている中であったのに、その人達はわたくしの誰だということを認めることが出来ませんでした。ちょうどあの世から帰って来た旅人に出逢ったような風でございました。そのはずでございます。一日前まで墨のように黒かったわたくしの髪がただいま御覧なさるように真白になっていたのでございます。顔の表情もそのときまるで変ったのだそうでございます。わたくしはその人達にこの経験談を致して聞かせました。しかし誰も信じてくれるものはございませんでした。その経験談をただいまあなたにも致したのでございます。多分あなたはロフォツデンの疑い深い漁師とは違って、幾分かわたくしの詞を信じて下さるだろうと存じます。」
病院横町の殺人犯 ポー
千八百○十○年の春から夏にかけてパリイに滞留していた時、おれはオオギュスト・ドュパンと云う人と知合になった。まだ年の若いこの男は良家の子である。その家柄は貴族と云ってもいいほどである。しかるにたびたび不運な目に逢って、ひどく貧乏になった。そのために意志が全く挫《くじ》けてしまって、自分で努力して生計の恢復を謀《はか》ろうともしなくなった。幸に債権者どもが好意で父の遺産の一部を残して置いてくれたので、この男はその利足でけちな暮しをしている。贅沢と云っては書物を買って読むくらいのものである。このくらいの贅沢をするのはパリイではむずかしくはない。
おれが始めてこの男に逢ったのは、モンマルトル町の小さい本屋の店であった。偶然おれとこの男とが同じ珍書を捜していたのである。その時心易くなって、その後たびたび逢った。一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話をおれに聞かせた。それをおれはひどく面白く思った。それにおれはこの男の博覧に驚いた。またこの男の空想がいかにも豊富で、一種天稟の威力を持っているので、おれの霊はそれに引き入れられるようであった。ちょうどそのころおれはある目的のためにパリイに滞留していたので、こう云う男と交際するのは、その目的を遂げるにひどく都合がいいと思った。その心持をおれは打ち明けた。そこでとうとうおれがパリイに滞留している間、この男が一しょに住ってくれることになった。二人の中ではおれの方が比較的融通が利くので、家賃はおれが払うことにして妙な家を借りた。それはフォオブウル・サン・ジェルマンの片隅の寂しい所にある雨風にさらされて見苦しくなって、次第に荒れて行くばかりの家である。なんでもこの家については、ある迷信が伝えられているのだそうだったが、我々は別にそれを穿《せん》鑿《さく》もしなかった。二人はこの家を借りて、ちょうどそのころの陰気な二人の心持に適するように内部の装飾を施した。
もしそのころ二人がこの家の中でしていた生活が世間に知れたら、二人は狂人と看《み》做《な》されたかも知れない。もちろん危険な狂人と思われはしなかっただろう。二人は誰をもこの家に寄せ付けずにいた。おれなんぞは種々の知合があったのに、この住家を秘して告げなかった。ドュパンの方ではもう数年来パリイで人に交際せずにいたのである。そんな風で二人は外から、邪魔を受けずに暮した。
おれの友達には変な癖があった。どうも癖とでも云うより外はない。それは夜が好きなのである。おれは次第に友達に馴染んで来て、種々の癖を受け継いで、とうとう夜が好きになった。しかるに夜と云う黒い神様はいつもいてはくれぬので、これがいなくなると工夫して昼を夜にした。我々は夜が明けても窓の鎧戸を開けずに、香料を交ぜて製した蝋燭を二三本焚いている。その蝋燭が怪談染みた微かな光を放つのである。この明りの下で我々はわざと夢見心地になって、読んだり書いたり話したりする。そのうち本当の夜になったことが時計で知れる。それから二人は手を引き合って往来へ出て、歩きながら昼間の話の続きをする。また夜《よ》更《ふけ》まで所々《しよしよ》をうろついて珍らしい光明面と闇黒面とを味うのである。パリイのような大都会にはこの両面があって、吾々のような局外の観察者には無限の興味を感ぜさせるのである。
こう云う場合にドュパンは不思議な分析的技能を発揮しておれを驚かすことがある。友達はこの技能を発揮して、自分で愉快を感じている。人が誰も見聞してくれなくてもいいのである。友達はこの心持をおれに打ち明けている。ある時友達はおれに笑いながら云った。「世間の人はたいてい胸に窓を開けていて、僕にその中を覗《のぞ》かせてくれるのだね」と云った。そしてその証拠として、ちょうどその時おれの考えていた事をすっかり中《あ》てておれを驚かした。
この技能を働かせている時の友達の様子は冷澹で、うわのそらになっているようで、その目はなんの表情もなく空《くう》を見ている。その声は不断テノル調であるのにこの時はジスカント調になっている。ちょいと聞くと浮かれているのかと思われるが、その言語がいかにも明晰で、その思想がいかにも沈着で、決して浮かれているのでないことが分かる。おれは友達のそう云う様子を見るたびに、古代の哲学にある一人二霊説を思い出さずにはいられない。どうも創造的性質のドュパンと分析的性質のドュパンとがあるようなのが、おれには面白く思われた。
こう云ったからと云って、おれが何か秘密を訐《あば》こうとするだろうだの、小説を書くだろうだのと思うのは間違いである。このフランス人についておれの話すのは簡単な事実に過ぎない。その事実は過度に働いている、事によったら病的な悟性の作用かも知れない。当時のこの人の観察の為方《しかた》は次の例をもって人に理解させるのが最も適当であろう。
ある晩のことであった。我々二人はパレエ・ロアイアルの附近の長い、汚い町を、ぶらぶら歩いていた。二人とも何か考え込んでいたので、十五分間ほど一《いち》言《ごん》も物を言わずにいた。突然ドュパンが云った。
「実際あいつは馬鹿に小さい男で、どうしても寄席に出た方が柄に合っているね。」
「無論そうさ。」
おれは覚えずこの返事をした。余り深く考え込んでいたので、おれは最初この問答をなんの不思議もないように思った。しかしこの問答はおれの黙って考えていることの続きになっている。
おれはそれに気が付いたので、びっくりせずにはいられなかった。おれは真面目に云った。
「おい。ドュパン。あんまり不思議じゃないか。正直に言うが、今の話は実際君の口から出て僕の耳に這入《はい》ったのだか、どうだかと疑わずにはいられないね。僕の腹の中で考えていたことをどうして君は知ったのだ。君には全く僕が誰の事を思っていたと云うのが分かったのかい。」おれはこう云ってドュパンが真にその人が誰だと云うことを中《あ》てたのだか、たしかめてみようと思った。
「無論シャンチリイの事さ。なぜ君話を途中で止《や》めたのだい。さっき君はあいつが余り小柄だから、悲壮劇の役を勤めるのは無理だと思っていたじゃないか。」
実際おれはそう思っていた。シャンチリイと云うのは元サン・ドニイ町の靴屋で、それが俳優になっているのである。そいつがこの間クレビリヨンの作クセルクセスの主人公を勤めた。そして非常な悪評を受けたのである。
おれは云った。「どうぞ君僕に言って聞かせてくれ給え。一体どんな方法で僕の心が読めるのだい。もしそう云う法があるものなら、それを聞かせてくれ給え。」詞ではこう云ったが、おれの不審はとても詞で言い現されないほどであった。
友達は云った。「君、あの果物屋を見て、それから靴屋のシャンチリイがクセルクセスだとか、その外古代劇に出て来る英雄の役に不適当だと云うことを考えたのだろう。」
「果物屋だって。どんな果物屋だい。僕にはまるで心当りがないが。」
「それ。さっきの町の曲角で君に打《ぶ》っ付かった男さ。そうさね。十五分ばかり前だったかな。」
こう云われておれは思い出した。なるほどおれがC町から今立っている抜道に曲り掛かった時、林檎を盛った大籠を頭に載せた男がおれに打《ぶ》っ付かって、おれは倒れそうになったのだ。しかしそれとシャンチリイとの間にどんな連絡があるか、おれにはまだ分からない。
しかしドュパンは決して《うそ》衝《つ》きではなかった。おれに説明して聞かせたところはこうである。「そんなら君に言って聞かせよう。君に得心の行くように思想の連鎖を逆に手繰って見よう。まず君の考え込んでいる時、僕が突然声を掛けた、あの時を起点として、あれから逆に戻るのだね。そしてあの果物屋の打っ付かった時まで帰り着けばいいわけだね。この連鎖の主な廉《かど》々《かど》は一、シャンチリイ二、オリヨン三、ドクトル・ニコルス四、エピクロス五、立体幾何学六、敷石七、果物屋とこう云う順序だよ。」
思想が転変してある帰着点に到達する順序を逆に考えてみると云う事は、随分誰でもやってみる事である。そう云う事は随分面白い。始めてやってみた人は、その連鎖の始めと終りとを並べて見て、その二つが非常に懸隔しているのに驚くだろう。おれは友達の話を聞いて非常に驚いた。それが事実であったからである。
友達はこう云った。「もし僕の記憶が誤っていなかったら、君と僕とはC町から曲る前に馬の話をしていたね。それ切り物を言わなくなったのだ。それから角を曲ってこの抜道に出るとたんに、林檎を盛った大籠を頭に載せた果物屋が駈けて来て、君に打っ付かった。その時君は往来に敷く敷石の積んであるのに足を蹈《ふ》み掛けた。その石がぐら付くと、君はすべって少し足を挫いた。その時君は腹を立てて、何か口の内でつぶやいて、積んである石を一目見て、それから黙って歩き出した。僕は別段君に注意していたわけでもないが、どうもこのごろ物を観察するのが癖になっているもんだから為方《しかた》がない。そこで見ていると、君は下を向いて歩いている。そして腹立たしげに敷石の穴や隙間を見ている。そこで君が敷石の事を考えていると云うことが分かったのだね。するとラマルチン町の所に来た。あそこには試験的に肋《あばら》状《なり》に切って噛み合せるようにした石が敷いてあった。それを見た時、君の顔色が晴やかになって、君は口の内で何やら言った。君の唇を見ると、その詞が『ステレオメトリイ』と云う詞らしかった。立体幾何学だね。あの敷石を見てそんな名を付けるのは、随分大袈裟だったには相違ないよ。君はその詞を口にしたあとで、すぐに『アトオム』と云う事を考えた。元子だね。極微だね。それから哲学者エピクロスの教義を思い出した。ところがこの間君と哲学談をした時、お互にこう云うことを言ったね。あの君子風のグレシア人は空想で説を立てたのだが、近世コスモゴニイの研究が出来てから、天体の発展が分かって来て、エピクロスの説いた事が事実的に証明せられたと云ったね。そこで君がエピクロスの教義を思い出したからには、君はそれと同時に、多分オリヨン星の霧を仰向いて見るだろうと、僕は考えた。君は果して仰向いて天を見た。そこで僕の推測の当ったのが分かった。ところできのうあのミュゼエと云う雑誌に俳優シャンチリイを嘲った諷刺的批評が出たね。あの批評の中にシャンチリイが靴屋を止《や》めて舞台に出た時、名を変えたことを冷かしてラテンの詩句が引いてあった。Perdidit antiquum litera prima sonum と云うのだね。この詩句については、僕が前に君に話した事がある。僕の云ったのは、この詩句はオリヨン星の事を指したもので、オリヨンの古い名はユリヨンだったと云ったね。この説明はその時の事情から推すと、君が忘れずにいるものと考えられるのだね。そこで君はどうしてもオリヨン星を見ると同時に、俳優シャンチリイの事を思い出さずにはいられないと、僕は考えたね。この推察が当ったと云うことは、そのとたんに君の唇に現れた微笑で証明することが出来たのだ。君はあの時靴屋上がりのシャンチリイが劇評家にひどく退治られたのを思い出したのだね。それまで君は背中を円くして歩いていたところが、ちょうどその時君は背中を真っすぐにして元気よく歩き出した。そこで僕は察したね。君はシャンチリイが小男だと云う事を考えたのだと察したね。ちょうどその時僕は君に声を掛けたのだ。そしてあいつは小柄だ、寄席にでも出るより外為方《しかた》がないと云ったのさ。」
ドュパンの観察法がどんなものだと云う事は大体この一例で分かるだろう。
この事があってからしばらくたった後《のち》である。我々二人は一しょにガゼット・デ・トリビュノオ新聞を読んでいた。そしてふいと左《さ》の記事に目が留まった。
「驚歎すべき殺人事件。昨夜三時ごろサン・ロッキュウス区の住民はやや久しく連続して聞えたる恐しき叫声に夢を破られたり。その叫声は病院横町の一家屋の第四層にて発したるものの如くなりき。その家はレスパネエ夫人とその娘との二人の住所なり。最初尋常の手段にて表口より入らんとせしに、戸締りのため入ること能わずして、多少の時間を経過し、隣家のもの八九人と憲兵二人とは、ついに鉄の棒をもって戸を破りて屋内に入ることを得たり。その隙《ひま》に叫声は息《や》みたり。最初の梯《はし》子《ご》を駆け上がる時、人々は二人もしくは数人の荒々しき声にて何事をか言い争うを聞けり。その声は家の上層にて発したるものの如くなりき。第二の梯子に達せし時は、その声もまた止み、屋内には何等の物音も聞えざりき。人々は手分けをなし、各室を捜索せり。第四層屋の背後《うしろ》なる大部屋は内より戸を鎖《とざ》しあるをもって、さらにその戸を破壊したり。これに入りたる人々はその惨状を見て恐怖しかつ錯《さく》愕《がく》したり。
室内の状況は狼藉を極めたり。家具はすべて破壊し、所々《しよしよ》に投げ散らしあり。一の寝台の敷布団を引き出し、室の中央に放棄したるを見る。一の椅子の上に血まぶれの剃刀あり。カミン炉の上に血の着きたる白髪二三束あり。髪はすこぶる長く、暴力にて引き抜きたるものと見えたり。床の上にナポレオン銀貨四箇、黄玉を嵌《は》めたる耳環一箇、銀の大匙三箇、アルジェリイ合金の小匙三箇の外、金貨四千フランを二袋に入れたるものあり。卓の抽斗《ひきだし》抜き出しありて、手を着けたるものと見ゆれども、なお許《きよ》多《た》の物件の残りおるを見る。鉄製小金庫一箇、敷布団の下にあり。(寝台の下にはあらず。)金庫は開きありて、鍵は鑰《じよう》の孔に差したるままなり。金庫内には古き手紙若干と余り重要とも見えざる書類とあるのみ。
女主人レスパネエ夫人の行方は最初不明なりき。すでにして人々はカミン炉の上に多量の煤あるを見て、試みに炉中を検《けん》せしに、人の想像にも及ばざるほどの残酷なる事実を発見せり。女主人の娘の屍体倒《さか》さまに炉の煙突に押し込みありしことこれなり。頭を下にして、非常なる暴力をもって狭き煙突内に押し込みたるなり。体にはなお温みありき。皮膚を検するに許多の擦傷あり。多くは強いて煙突に押し込みし時生じたるものなるべく、その一部分は引き出す時生じたらんも知るべからず。顔には引き掻きたる如き深き傷あり。前頸部には指《ゆび》尖《さき》にて圧したる如き深き痕あり。また暗紫色なる斑あり。これ等は絞殺したるにはあらずやと想像せしむ。
人々は屋内所々を精密に捜索せしに、前記の他には別に発見するところなきをもって屋後なる中庭に出たり。中庭は石を敷き詰めあり。この中庭に女主人の屍体ありき。前頸部より非常に深く切り込みたる創あり。僅かに項《うなじ》の皮少《しよう》許《きよ》にて首と胴と連りいたる故、屍体を擡《もた》ぐる時、首は胴より離れたり。首もその他の体部も甚しく損傷しあり。なかんずく胴と手足とは、ほとんど人の遺骸とは認められざるほど変形せり。
右の恐るべき殺人犯は何者の所為なるか、余等の探知したる限りにては、その筋において未だ何等の手掛かりをも得ざるものの如し。」
翌日の新聞には、この残酷なる犯罪に関したる記事の続稿を載せたり。その文に曰《いわ》く。
「病院横町の悲劇。古来未曾有の惨事たる本件に関し、審問を受けたる者数人あり。何人の告条も本件に光明を投射するに足らずと雖《いえども》、左に一々これを列記せんとす。
ポオリイヌ・ドュブウルは洗濯を業とする婦人なるが、次の申立をなせり。本人はレスパネエ夫人及びその娘と相知ること三年に及べり。これレスパネエ家の洗濯物を引受けいたるがためなり。老婦人と娘とは平生仲よく暮し、互に鄭重に取扱いいたり。洗濯代は滞《とどこおり》なく潤沢に払いくれたり。生活費はいかなる財源より出でたるか知らず。風聞によれば、夫人は巫女《みこ》を業とし、人のために禍福を占い、その謝金を貯えたりと云う。本人は洗濯物を受け取りに往き、また返しに往きし時、来客ありしを見たることなし。母子が全く奉公人を使いおらざりしことは確実なり。家屋には第四層の外、何処《いずこ》にも家財を備えあらざりしものの如し。
ピエエル・モロオは煙草商なり。その申立次の如し。本人はほとんど四年前より少量の刻《きざみ》煙草《たばこ》及び嗅煙草をレスパネエ夫人に売却しおれり。本人は近隣にて生れしものにていまだかつて住所を離れたることなし。レスパネエ家の母子はかの屍体を発見したる家に移住してより六年余になれり。かの家屋には初め宝石商の住めるありて、その人は上層の諸室を種々の賃借人に貸しいたり。元来家屋はレスパネエ夫人の所有なりしに、宝石商これを借り受けおり、濫《みだり》に上層を他人に又貸ししたる故、夫人はその所為に慊《けん》焉《えん》たるものあり。終《つい》に自ら屋内に移り来て、それより上層を何人にも貸すことなかりき。老夫人は子供らしくなりいたり。本人は前後六年の間にレスパネエ家の娘に五六回会見せり。母子とも社交を避けいたり。世評によれば財産家なりしものの如し。本人は隣家の人の口より老夫人が巫女なりしことを聞きしが信ぜざりき。老夫人の家に出入する人はほとんど絶無にて、母子の外出するを見掛けし外には、門番の男の顔を一二回見たると、医師の出入するを八九回見たるとを記憶するのみ。
その外近隣の人数人の申立あれども皆大同小異なりき。人の全く出入せざる家なれば、母子に親族の現存せるものありや否やを知るものなし。家の前側の窓はかつて開きありたることなし。中庭に向いたる窓はいつも閉じありて、ただ第四層の奥の広間の窓のみ開きありき。家は堅牢なる建築にていまだ古びおらず。
イジドオル・ミュゼエと云う憲兵卒の申立は次の如し。本人は午前三時ごろレスパネエ家に呼ばれたり。戸口に到着せし時には、二三十人の人屋内に押し入らんとしてひしめきいたり。本人はやむことを得ず銃剣を用いて扉を開きたり。鉄棒を用いしにあらず。扉は観音開きにて、おとしの如きもの上下ともになかりしゆえ銃剣にて開くことは容易なりき。叫声は扉を開くまで聞えたりしが、開き終りし時突然止みたり。叫声は一人なりや数人なりや明かならざりしが、必死になりて発せしものの如くなりき。高声を長く引きたり。忙《いそが》わしげに短く発したる声にはあらざりき。本人は戸口にありし数人と共に梯子を登りたり。第一の梯子を登り終りし時、二《に》人《にん》の声を聞き分くることを得たり。二人は声高に物を争うものの如くなりき。一人の声はあららかにそっけなく聞えたり。今一人の声は一種異様なる鋭き声なりき。前の人の詞は一二語を弁別することを得たるが、その人はフランス人なりしものの如し。無論女子にはあらざりき。外《げ》道《どう》と叫び、馬鹿と叫びしを弁別したるなり。後の人は外国人なりしが如し。男女の別明かならず。何国の語とも決し難けれども、恐らくはスパニア語なりしならんか。本人の申し立てたる室内の状況は余等が昨日の紙上に記したるところと異ることなし。
アンリイ・ドュワルは隣家の飾職にして、主に銀細工をなせり。その申立次の如し。本人は屋内に最初に入りたる中《うち》の一人なり。初めの状況は憲兵卒ミュゼエの申立に同じ。屋内に入りたる数《す》人《にん》は、内より扉を鎖したり。これ深《しん》更《こう》なるにかかわらず多数の人、戸口に集りいて籠《こ》み入らんとしたればなり。本人はかの異様に鋭き声を発せし人をイタリア人ならんと思えり。本人の推測するところにては、その人のフランス人にあらざりしことは確実なるが如し。たしかに男子の声なりとも云い難けれども、婦人の声とは思われずと云えり。発音によりてイタリア語ならんと推測したれども、本人はイタリア語を解せざるゆえ、何事を言いしか分からざりきと云えり。本人は平生二人の女子と親しく交り、詞を交しし事あるゆえ、かの鋭き声の母子の声にあらざる事は疑を容れずと云えり。
オオデンハイメルは飲食店の主人にして、その申立次の如し。本人は法廷より召喚せられしものにあらず。陳述のため自ら進んで法廷に出向きたるものなり。本人はフランス語を善くせざるゆえ通訳によりて申し立てたり。本人はアムステルダムに生れしものなり。本人はかの屋内にて叫声の起りたる時町を通り掛かりしものなり。叫声の聞えしは数分間と覚ゆ。恐らくは十分間ぐらいなりしならん。高声を長く引きたるものにて、気味悪く、神経を震《しん》盪《とう》するが如き響なりき。本人は屋内に入りたる数人の中なり。屋内の事に関する申立は前《ぜん》数人とほぼ同じけれども、ただ一箇条相違せり。本人の推測するところによれば、かの鋭き声は男の声にて、たしかにフランス人なりきと覚ゆと云えり。ただし何事を言いしか明かならず。忙わしげなる高声にて調子不揃いなりき。激怒もしくは恐怖によりて調子を高めたるものの如く聞き做《な》されたり。前には鋭き声と云いしが、鋭しと云う形容は当らざるやも知れずと云えり。今一人のそっけなき声は度々外道と呼び、畜生と呼び、こらと呼びしを記憶すと云えり。
ジュウル・ミニオオは銀行業者にして、ドロレエヌ町なるミニオオ父子商会の名前主なり。老ミニオオの方なり。その申立次の如し。レスパネエ夫人は若干の財産ありて、これを商会に預托せしは八年前なりき。時《じ》々《じ》別に小口預けをなしし事あるのみにて、最初に預けし元《もと》金《きん》をば曾つて引き出したることなし。しかるに変事ありし三日前に、夫人自身にて商会に来り、四千フランを引き出だしたり。この金額は金貨にて払い渡すこととし、使をもって居宅に送り届けたりと云う。
アアドルフ・ルボンはミニオオ父子商会の雇人にて、その申立次の如し。本人は前記の日正午ごろ四千フランの金貨を二袋に入れ、それを持ちて、レスパネエ夫人に随い、その居宅に往きたり。戸口の戸を開きし時、娘出でて一袋を受け取りしゆえ、今一袋は老夫人の手に渡したり。渡し終りて暇乞し、直ちに家を出でたり。街上にては何人にも邂《かい》逅《こう》せざりき。病院横町は狭き町にて人通少し云々。
ウィリアム・バアドと称する裁縫職の申立次の如し。本人は最初に戸口より入りし数人の中なり。イギリス生れにて二年以来パリイに住《じゆう》せり。屋内に入りたる後、本人は他の二三人と共に、先に立ちて梯子を登りたり。その時物争いするが如き二人の声を聞きたり。そっけなき声の主はフランス人なりと思えり。詞は種々聞き取りしが、多くは忘れたり。ただ畜生と云い、外道と云いしことだけは、たびたび明かに聞きしゆえ忘れず。ある瞬間には数人争闘せるものの如くなりき。床を掻くが如く摩《す》るが如き響を聞きたり。かの異様なる声はそっけなき男の声より高く聞えたり。本人の考えにては、異様の声の主は断じてイギリス人にあらざりきと覚ゆ。あるいはドイツ人なりしかと思わる。もっとも本人はドイツ語を解せず。男女いずれか不明なれども、あるいは女子なりしやも知れずと云えり。
上記の証人中再び呼び出されたるもの四人の申立によれば、レスパネエ家の娘の屍体を発見せし室の戸は、人々のその前に至りし時、内より鎖しありきと云う。室内は闃《げき》然《ぜん》として、人の呻吟する声その他の物音を聞かざりき。扉をこじ開けたる時は何人もあらざりき。窓は前側のものも後側のものも鎖して内より鑰《じよう》を卸しありたり。二室の界《さかい》の戸は鎖しありたれども、鑰は卸しあらざりき。前房より廊下に出づる口の戸は鎖して鑰を卸し、鍵を内側に挿しありき。第四層の廊下の衝《つき》当《あたり》に小部屋あり。屋《いえ》の前面に向えり。この室の戸は大きく開きありたり。この室には古びたる寝《ね》台《だい》、行《こう》李《り》等を多く蔵しあり。その品々は一々運び出して、綿密に取調べられたり。その他屋内は隅々まで検査を経ざる所なし。かの煙突も念のため十分に掃除せしめられたり。この家屋は四層立にしてその上に屋根裏の数室あり。屋根裏の室より屋根に出づる口には上下に開閉する扉あり。この扉は釘《くぎ》着《つけ》になしありて、数年来開きしことなきものの如くなりき。最初に物争いの声を聞きし瞬間より、レスパネエ家の娘の屍体を発見せし室の戸をこじ開けし時に至るまでの時間の長短は数人の申立一致せず。あるいは三分間ぐらいなりきと云い、あるいはまた少くも五分間なりきと云えり。かの室の扉を開くことはさほど容易にはあらざりしものの如し。
アルフォンゾ・ガルシオは葬儀屋営業者にして、病院横町に住せり。このスパニア人の申立次の如し。本人は最初に屋内に入りし数人の中なり。しかるに梯子をば登らざりき。これ平生神経質なるがゆえに、惨状を見て興奮せんことを恐れしがゆえなり。物争いをなす人の声は聞えたり。そっけなき声は男子にてフランス人なりきと思わる。その語《ことば》をば聞き取ること能わざりき。鋭き声の主はイギリス人なりしこと確実なりと云えり。本人はイギリス語を解せざれども、発音によりて判断したりと云う。
アルベルトオ・モンタニは菓子商なり。その申立次の如し。本人は最初に梯子を登りし一人なり。疑わしき二人の声を聞けり。そっけなき声はフランス人なりきと思わる。数語をばたしかに聞き取りたり。鋭き声の方は一語をも解せざりき。この声の主は不揃いなる調子にて早口に饒舌《しやべ》りたり。あるいはロシア人なりしかと云えり。その他前記数人の申立に符合せり。本人はイタリア人にて、ロシア人と対話せしことなしと云う。
再び呼び出されたる証人数人の申立によれば、第四層屋の諸室のカミン炉は皆甚だ狭くして、人の逃れ出づべき容積を有せずと云えり。しかれども屋内の煙突は皆尋常煙突掃除人の使用するが如き円筒形の煤《すす》刷《は》毛《け》をもって上下とも十分に掃除せられたり。屋内には裏梯子なきをもって、人々の表梯子より登る間に、何人も階上より逃れ去りしはずなし。煙突内にねじ込みありし娘の屍体は、いかにも無理にねじ込みしものと見え、これを引き出すには四五人の男力を合せて纔《わずか》に出《いだ》すことを得たり。
ポオル・ドュマアは屍体検案のため召喚せられし医師なり。その申立次の如し。本人の呼び出されしは払暁なりき。二人の屍体は娘の屍体を発見せし室の藁布団の上に置かれたりき。娘は擦過創及び挫傷のために甚しく変形しいたり。この損傷は煙突に押し込み、また引き出したるために生ぜしならん。喉頭は全く圧砕しありたり。腮《あご》の直下に数箇の爪痕及び暗紫色の斑点ありき。これ指にて強く圧したるがために生ぜしものならん。顔は腫脹せるため甚しき醜形を呈せり。両眼球は眼《がん》《か》より突出しいたり。舌は半ば噬《か》み切りありたり。上腹部に大いなる挫傷あり。恐らくは膝頭にて圧したるものならん。本人の断定によれば、レスパネエ家の娘は未詳の数人の絞殺するところとなりしならんと云う。母の屍体もまた甚しく損傷せられたり。右上肢及び右下肢のあらゆる骨は多少挫折せられたり。左脛骨及び左胸の諸肋骨は粉砕せられたり。その他全身に挫傷及び皮下出血多く、一見恐るべき状態を示せり。かくの如き損傷を来したるを見れば、膂《りよ》力《りよく》ある男子ありて、手に棍棒、鉄棒、椅子等の如き大いなる、重き、鈍き器を取り、それにて打撃したるものと推測せらる。いかなる武器をもってすとも、女子の力にてはかくの如き加害をなすこと能わざるべし。母の首は検案の際全く躯幹より切り放しかつ挫滅しありたり。頸を切るには極めて鋭き器をもってしたるならん。あるいは剃刀なりしかと云えり。
アレクサンドル・エチアンヌは外科医にして、ドュマアと共に屍体の検案を命ぜられし助手なり。この医師はすべてドュマアの証言を是認し、またその断定に同意を表せり。
以上の外証人として出廷せし人数は少からざれども、特殊なる事実は発見せられざりき。仮に本事件を殺人犯なりとせんも、古来パリイ市中においてかくの如く事体暗黒にして、細部分までも不可思議なる殺人犯を出したることなし。今に至るまで警察は何等の手掛かりをも有せずと云う。これかくの如き刑事問題にありてはほとんど前例なき事実なりとす。また警察以外の方面より見るに、これまたこの恐怖すべき出来事に対して説明の片《かた》影《かげ》をだに捉え得たるものなし。」
新聞の夕刊には、聖ロッキュウス町ではまだ人心が洶《きよう》々《きよう》としていると云う事、犯罪の場所を再応綿密に調べたり、続いて証人を呼び出して審問したりしたが、いずれも得るところがなかったと云う事などが出ている。その次にまた銀行の小使アアドルフ・ルボンが逮捕せられたと云う事が書き添えてあった。前に新聞に出た申立の外に、別段嫌疑の廉《かど》はないのに未決檻に入れられたのである。
この事件の経過にドュパンはひどく興味を持っているらしく見えた。少くもこの男の挙動を見て、おれはそう云う推定を下すことが出来たのである。こう云う場合の常として、ドュパンはこの事件の事を毫《ごう》も口にしない。やっとルボンが縛られたと云う記事を読んだ時になって、ドュパンは纔に口を開いて、おれにどう思うと云った。
おれの意見は当時パリイの市民が一般に懐抱していた意見と同じである。この事件は到底解釈すべからざる秘密たる事を免れない。下手人の行方を捜し出す手段は所《しよ》詮《せん》あるまいと云うのである。
ドュパンはおれの返事を聞いた上で云った。「どうせ証人の申立なんぞは浅薄なもので、それによって捜索の手段を見出すことは出来ないよ。パリイの警察は敏活だと世間で褒められているが、あれは狡猾だと云うに過ぎないね。何か捜そうとする時には、その刹那刹那の思付きで手段を極《きめ》る。その外には手段がないのだ。たいていどうすると云う方針の数が極まっていて、何事をもそれに当て嵌める。だからどうかするとちっとも実際に適合しない方針を取ることになる。笑話にある人が寝衣《ねまき》を着て音楽を聞いた事があったので、その後音楽のよく聞えない時には、その寝衣を出させて着てみると云うことがある。パリイの警察もどうかするとこれと同じような滑稽をやるのだね。なるほど既往に溯ってみると、パリイの警察が好結果を得たこともたくさんあるよ。だがそれはただ念を入れて忍耐して捜し出したか、または八方に手を出して捜し出したかの二つに過ぎない。この二つが駄目になると、警察はどんなに骨を折っても成功することが出来ないのだ。あのウィドックなんぞは物を考え当てること即ち射物がひどく上手で、忍耐してそれを追《つい》躡《しよう》して往くのだ。ところがあいつの思量はなんの素養もないのだから、考え外れがたくさんある。そしてその間違った方角に例の忍耐をもって固著しているのだからたまらない。それにあいつは対象物を目の傍に持って来て視る流義だから、ある一二点をいかにも鋭く見るが、全体を達観することが出来ない。とかく物を余り深く見ようとするとそうなるのだ。ところがいつでも井戸の中さえ覗けば真理が得られると云うものではないからね。僕なんぞは反対に考えている。あらゆる重大な発見はたいてい浅い所にあるのだね。人はその真理を谷間に求めたがるが、それよりかむしろ山の頂に求めた方がいいのだ。この関係は天体を観察する方法を見ても分かる。人がどんな間違いをするか、その間違いが何から起るかと云うことが、天体の例で説明すると分かるのだ。星なんぞを見るのに、それを注視しないで、ざっと横目で見るのがいい。そうすると星が目の網膜の外囲部に映る。そこは中心部よりも微弱な光線を知覚するに適している。そこで星の形もその光も一番はっきり分かる。それを注視すれば注視するほど星の光は濁って来る。無論注視した時の方が、目に受ける光線は量は多いが、それを感ずることが鈍いから無駄になる。それに反して横目でちょいと見ると、少い量の光線に対する感受性が鋭敏なのでかえってよく見える。それと同じ道理で深くえぐった捜索法は人の思量を鈍らせて混雑させる。金星ぐらいな星だってじかにじっと見詰めていると、とうとう天の何処《どこ》にもいなくなってしまうよ。そこであの殺人事件だがね。あれについて考案を立てるには、まず我々ばかりの手で特別な捜索をしなくてはならないね。そいつが随分面白かろうと思うよ。」
ドュパンがこう云った時、あのいまわしい犯罪の形跡を尋ねるのが面白かろうと云うのを、おれは随分異様に感じた。しかし黙っていた。友達は語《ご》を継いだ。
「それにあのルボンと云う男には、僕は一度世話になった事がある。だからあいつを救ってやるのは、僕のためには報恩になるのだ。とにかく君と一しょに犯罪の場所を実検しようじゃないか。幸い僕はG警視を知っているからあそこへ往って見るだけの許可を得るのは造作はないよ。」
友達はこう云ってすぐにそれだけの手続を実行した。そこで我々二人はさっそく病院横町へ出向いた。この横町はリシュリョオ町と聖ロッキュウス町とを連接した狭い道で、パリイの横町の中で、一番貧乏臭い横町の一つである。我々の住んでいる所から聖ロッキュウス町までの距離は大ぶあるので、我々が病院横町に到着したのは午後遅くなってからである。犯罪のあった家は容易に見付かった。それは大勢の人がその向う側の人道に集まっていて、なんの意味もなく、物珍らしげに鎖された窓を見詰めていたからである。家はパリイの普通の建築で、中央に歩道があって、その横手に引戸の付いた窓がある。そこが門番のいる所である。我々はすぐに目当の家に這入らずに、まずその前を通り抜けて横町に曲って、家の背後《うしろ》に出た。その間ドュパンは目当の家はもちろん、その近隣の家々をも綿密に見ていた。おれはそれを無駄な事のように思った。
それから我々は再び家の裏口に戻って、ベルを鳴らして警察の認可証を見せた。番をしていた役人が、我々を家の中へ入れた。我々は梯子を登って、例のレスパネエ家の娘の屍骸があったと云う室に這入った。そこに今は母親の死骸も一しょに置いてあるのである。おれの目に這入ったのはガゼット・デ・トリビュノオ新聞に書いてあったようなことだけである。ドュパンは何もかも綿密に検査した。二人の女の体をも見た。それから残りの部屋部屋を歩いて見て、とうとう中庭に出た。その間憲兵が一人我々に離れずにどこまでも付いて来た。ドュパンの検査は日の暮れるまでかかった。役人に暇乞をして帰道に掛かってから、ドュパンはある新聞の発送所に立ち寄った。
ドュパンと云う男が妙な癖のある男だと云うことは、おれはもう話したはずだ。だからおれは何事も友達の勝手にさせておく。その晩にはなぜだか知らぬがドュパンは病院横町の殺人事件の話をわざと避けてしないようにしていた。それから翌日の午ごろになってドュパンは突然おれに言った。「君はあのいまわしい場所で、何か特別な事に気が付きはしなかったかね。」
その「特別な」と云う詞の調子がおれには妙に聞えて、なぜだか知らぬが、おれはぞっとした。おれは云った。「いや。どうも特別な事は僕には発見せられなかったね。僕の気の付いたのは、たいてい新聞に書いてあったくらいの事だね。」
友達は云った。「どうも僕の考えたところでは、ガゼットなんぞはあの事件の非常に気味の悪い方面に、まるで気が付いていないのだね。だが新聞紙の下らない意見なんぞは度外視するとしよう。僕の考えでは人が解釈すべからざる秘密だと思っている廉が、かえってその秘密を訐《あば》き易くするわけになるのだね。あの事件の行われた周囲の状況は、捜索すべき区域を極狭く、はっきりと限ってくれるから、僕は都合がいいと思う。なぜ警察がまごまごしているかと思うと、あの場合に人を殺すだけの動機はよしや推測することが出来るとしても、なぜあれほど惨酷な殺し態《ざま》をしなくてはならなかったかと云う動機がどうしても見付からないからだ。娘の殺されていた部屋に誰もいなかったと云う事実、それから梯子を登って行った人と擦れ違わずに、人間があの家から逃げ出すはずがないと云う推測、この二つのものと、多くの人の聞いたと云う争論の声とを結び付けることはどうしても出来ない。そこで警察は途方にくれている。それからあの部屋が極端に荒されてあったと云う事や、娘の死骸が頭を下にして煙突にねじ込んであったと云う事や、母親の死骸に恐しい創が付けてあったと云う事や、その外僕が今さら繰り返すまでもない若干の事実が、評判の警察官の鋭敏を横道に引き込んで、警察官は全然観察力を失わされてしまった。その横道に引き入れられたと云うのは外でもない。これは極粗《そ》笨《ほん》な、ありふれた誤謬だね。即ち単に尋常でない事と深い秘密とを混同するのだね。ところが目の開《あ》いたものから見ると、その尋常でないと云う事柄がかえって真理の街《ちまた》を教える栞《しおり》になるのだね。こう云う場合に捜索をするには、「どう云う事が行われたか」と云うよりはむしろ「行われた事の中で、どれだけが前例のない事か」と云うところに着眼しなくてはいけない。いずれ僕はこの謎を容易に解いて見せる。いや、もう解いていると云ってもいい。ところがその容易なところと、警察なんぞの目で解釈すべからざるものと認めるところと一致しているのだね。」
この詞を聞いた時、おれは呆れて詞もなく友達の顔を見詰めていた。
こう言いかけて友達は入口の戸を顧みた。それから語を継いだ。「実は僕は今客を待っている。その客と云うのは多分下手人ではあるまいが、少くもあの血腥《ちなまぐさ》い事件にある関係を有している人物なのだ。僕の推察では、その男は犯罪の最も重大な部分に対する責任は持っていないだろう。たいてい僕の推理は適中するつもりだ。僕の謎を解く手段は、今来る客を基礎にしているのだから、これが適中しなくてはならないのだ。もうそろそろ来そうなものだと思うが。それはどうかすると来ないかも知れない。しかしまず僕は来る方だと思う。そこで来たらそいつを逃さないようにしなくてはならない。見給え。ここに拳銃が二つある。君も僕も打つ事は知っている。これが用に立つかも知れないのだよ。」
おれはその拳銃を手に取ったが、なんのためにそうしたのだか分からなかった。また友達の言っている事も、十分腑に落ちなかった。ドュパンは構わずに饒舌《しやべ》り続けている。それが独《ひとり》語《ごと》のような調子である。こんな時の友達の様子が、余《よ》所《そ》に気を取られたような、不思議な様子だと云う事は、おれは前に話したはずだ。友達はおれを相手に物を言っているのに、その格別大声でもない声が、なんだかよほど遠い所にいる人を相手にして物を言っているような一種の調子になっている。その目はなんの表情もなく向うの壁を見詰めているのである。
「あの梯子を登って行く人達が聞いたと云う、喧嘩をしていたものの声が女親子の声でないと云う事は、証人の申立で証明せられていると云ってもよかろう。そうして見るとお婆あさんが娘を殺しておいて自殺しただろうと云う推察は、頭から問題にならない。こんな事を言うのは余計な事だが、順序を正して話すために、僕は言っておくのだ。お婆あさんには娘の死骸を煙突の中へ押し込む腕力もあるまいし、またお婆あさんの体の創を見ても、自分で付けられる創でないことは分かる。そうして見ると第三者の下手人がなくてはならない。この下手人は単独でないことが、例の物争いをした声で分かる。まあ、新聞の中であの声のことを言っている申立を読み返して見給え。一々皆読んで見なくてもいい。目立ったところを繰り返して見ればいい。そこで君には何か特別な事が目に留まりはしないかね。」
おれは簡単に答えた。それはそっけない声をしたのがフランス人で男だと云うには、ほとんど異論がないのに、今一つの鋭い声を出したものについては証人ごとに変った判断をしていると云う点だと答えたのである。
「君の云うのは証言そのものであって、その目立つのが何物だと云うことにはなっていない。そうして見ると君にはその特別なところが分からないらしいが、たしかに特別なところがあるのだよ。君の云う通りどの証人もいわゆるそっけない声については異論がなかった。ところがいわゆる鋭い声となると区《まち》々《まち》なことを云っている。イタリア人だとか、イギリス人だとか、スパニア人だとか、フランス人だとか云うが、要するにその申立をした人が自国の人でなくて、外国の人だと思ったのだ。たとえばフランス人の云うにはあれは、多分スパニア人であっただろう、もし自分にスパニア語が分かったら、何を言ったか、一言や二言は分かったに違いないと云う。またフランス語を知らないので、通訳をもって申し立てたオランダ人は、その鋭い声をフランス人だろうと云う。ドイツ語の分からないイギリス人はドイツ語だろうと云う。イギリス語の分からないスパニア人は、発音から推測してイギリス人だろうと云う。ロシア人の談話を聞いたことのないイタリア人はロシア語だろうと云う。イタリア語の分からない、今一人のフランス人はイタリア語だろうと云う。これも発音から推測したのだ。そうして見るといわゆる鋭い声はよほど異常な、不思議な声だったに相違ない。つまりヨオロッパ中のどの国の人も自国ではそんな声を聞いた事がないのだ。そこで君はその声の主をアジア人かアフリカ人かであったかも知れないと云うだろう。まずそう云う人種はパリイには余り多く見掛けない。それはともかくも僕は君に証人どもの申立の中で、三人の言った事に注意して貰いたい。一人はその声が叫ぶようであって鋭いと云うのも当らないかも知れないと云っていた。あとの二人は忙しく不整調に饒舌ったと云っている。どの証人も言語や言語らしい音調を聞き分けたものがない。これだけの説明をしたところで、君はその中からどれだけの判断を下すか知らないが、僕は証人どもの説明した声の性質から、この問題の研究に一定の方針を立てるだけの根拠を見出したと断言することを憚らない。僕は僕の推理が唯一の正しいものだと思う。そしてその推理からある嫌疑が出て来るのだ。僕はその嫌疑に本づいて、あの部屋を見るにも特別な点に注意したのだ。」
「まあ、お互に今あの部屋に這入ったと想像して見給え。そこで何を捜したらいいだろう。どうしても下手人の逃げた道と、どうして逃げたと云う手段とが先に立たなくてはならないね。そこで君だって僕だって奇怪不思議な事、超自然の事があるとは信ぜない。これは無論の話だね。そこでレスパネエ夫人と娘とは決して怪物に殺されたのではないとすると、その下手人は血もあり肉もあるもので、それが逃げるには、自然の道によって逃げなくてはならない。ところでどうして逃げただろう。まず片端からあらゆる逃道を数えてみよう。大勢の人が梯子を登って行く時、下手人の仲間は、あの娘の死骸のあった室かその隣室かにいたに相違ない。して見るとこの二つの室から外へ通ずる道を考えてみればいいわけだ。警察では床板や壁や天井まで目を着けて板なんぞを剥いで探って見たらしい。だから秘密な出口なぞの人の目に付かずにしまったもののないことは分かる。ところが僕は役人どもの目に信頼することが出来ないから、自分の目で見直した。二つの室から廊下へ通ずる二つの戸口があるが、その戸は締めてあったのだ。戸の鑰《じよう》には内から鍵が挿し込んであった。そこでカミン炉はどうだ。炉の中を見ると、火床の上八尺ないし十尺ぐらいの所までは通常の広さになっている。しかしそれから上は細くなっていて、猫でも少し大きいのは通られない。これだけ考えて見ると、残っている逃道は窓の外にはない。そこで前面の室の窓から逃げようと云ったって、それは往来に集っていた大勢の人に見られるから出来ない。下手人はどうしても中庭に向いた室の窓から逃げたとしなくてはならない。この断案は精密な研究から得来ったものであって見れば、あの窓からは逃げられそうもないと云うような浅薄な反対を受けても、それでこの断案を飜《ひるがえ》すわけには行かない。そこでこの不可能らしく見えている事が可能だと云うことを証明しなくてはならぬ段取になるのだ。」
「あの室には窓が二つある。その一つの窓の側には家具なんぞは置いてない。窓は全形が見えている。今一つの窓の下部は重くろしい寝台の頭の方で見えなくなっている。全形の見える分の窓は密閉してあった。僕の往くまでにもその戸を下から押し上げて開けようとしたものがあったのだが、どうしても開かなかったのだ。その窓の枠の左側にはかなり大きい錐孔が揉んであって、それに一本の釘がほとんど頭まで打ち込んである。今一つの窓を検査して見ると、やはり同じような釘が同じように打ち込んである。この窓の戸も下から押し上げようとしたって上がらない。それだけのことは警察の役人もやって見て、そこで下手人が窓から逃げたはずがないと決定した。だから役人どもはその釘を抜いて窓を開けて見る必要を認めなかったのだ。」
「ところが僕は今少し立ち入った研究をした。なぜと云うにかの不可能らしい事を可能にするには、この窓の研究をもってするより外に道がないからだ。」
「僕はこの場合に結論から逆に考えてみた。下手人はこの二つの窓の内、どれかから逃げたに相違ない。逃げたとすれば、その窓を内から締めることは出来なかったはずだ。警察の役人どももこれだけのことは考えたが、そこで行き止まった。なるほど窓は締めてあった。しかしどうかしていったん開いた後に、ひとりでに締ったかも知れない。この断案は動かすべからざるものだ。僕は全形の見えている窓に往って釘を抜いて見た。釘は少し力を入れて引っ張ると抜けたが、窓の戸を押し上げることは、どうしても出来なかった。そこでこれはどこかに撥条《はじき》が隠れているだろうと思った。釘だけの事を考えると、いかにも不思議らしく見えても、撥条があるとすると、解決の道が付くのだ。しばらく綿密に捜しているうちに、果して隠れた撥条が見付かった。そこでその撥条を押して見た。僕はまずそれだけで満足して、窓の戸を押し上げては見なかった。僕は釘を挿し込んで置いて、注意して窓の工合を見た。仮に人がこの窓から逃げて外からその戸を締めたとすると、撥条は締まるだろうが、釘は挿さらない。それは簡単な道理で、この道理が僕の研究の区域を一層狭めてくれたことになる。即ち下手人は今一つの窓から逃げたに相違ないのだ。」
「そこで二つの窓を較べて見るのに、全く同じ形をしている。撥条も同じであろう。すると釘にはどこかに違ったところがなくてはならない。僕は寝台の藁布団の上に上がって、寝台の頭の方の蔭になった所を綿密に捜した。手を寝台の向うに廻して探るうちに、果して撥条が手に障った。僕はそれを押して見た。撥条の構造は全く前の窓と同じであった。そこで僕は釘を見た。その大きさは前の窓の釘と同じで、やはりほとんど釘の頭まで打ち込んである。君はここまで話すと、僕が失望しただろうと思うかも知れないが、それは僕の推理の工夫を領解しないのだ。猟師の詞で言うと僕は決して血蹤《はかり》を見損なったのではない。また血蹤を尋ねて行く途中で僕は少しもまご付いたのではない。僕の推理をして来た思想の連鎖は一節ごとに正確なのだ。僕は秘密を究《くつ》竟《きよう》のところまで追尋して来ている。どうしても釘に曰くがなくてはならない。見たところでは釘の形は前の窓の釘と同じだ。しかしどうしてもどこかが違っていなくてはならない。なぜと云うに外観が同じだと云うくらいなことで、僕の正確な思想の連鎖は断たれないからだ。」
「そこで僕は釘に手を掛けた。すると釘は折れていて、頭に二分五厘ばかりの柄が付いて、ぽろりと抜けて、おれの指の間に残った。柄のそれ以下の部分は錐の揉孔の中に嵌っている。この釘の折れたのはよほど久しい前でなくてはならぬ。なぜと云うに折目が《さ》びているからだ。多分釘は槌で打ち込む時折れたのだろう。折れながら打ち込まれて、頭の痕を窓枠の下の方に印するまで這入ったのだろう。おれはまたその釘の頭を元の通りに錐の孔に嵌めて見た。しっくり嵌って、折れた釘とは見えない。それからおれは撥条を押して窓の戸を二三寸押し上げて見た。窓の戸はすうっと上がる。釘の頭だけが付いて上がる。手を放すと窓の戸は下りてしまう。釘の頭は依然としている。」
「そうして見ると謎がここまでは解けたと云うものだ。下手人は寝台の置いてある側の窓から逃げたのだ。逃げたあとで窓はひとりでに締まったのだろう。また窓の外の開戸は逃げた奴がはずみで締まるように撥ね返しておいたかも知れぬ。とにかく内の戸は撥条が利いてあとがうまく締まっていたのだ。その締まっていたのを警察は釘のためだと思って、それから先を研究しなかったのだね。」
「そこで下手人は窓から出たには相違ないが、出てからどうして下りたかが疑問だ。おれは家の外廻りを廻って見た時、そこに気を付けて見た。ちょうどあの窓から五尺五寸ばかりの距離に避雷針から地面へ引いた針金を支える棒が立っている。しかし外から這入るとすると、この棒を登って往って、窓に手を掛けることは出来ない。いわんや窓から這入ることは出来るはずがない。ところがあの家の第四層の窓の外枠はこの土地でフェルラアドと云う構造になっているのに、おれは気が付いた。この種類の窓枠は、近ごろほとんど造るものがない。リヨンやボルドオの古家でよく見る窓枠なのだ。この構造の窓では、外側の戸は普通の観音開きの戸と違って、むしろ室の入口の戸に似ている。ただその下の半分に横に桟が打ってあるか、または透かしになった格子が取り付けてある。どっちにしても手で掴むには都合がよく出来ている。そこであの家のあの窓の外枠だが、あれは幅が少くも三尺五寸ぐらいある。我々が家を裏から見た時、外の戸は半分開《あ》いていた。即ち壁の面と直角を形づくっていたのだ。多分警察の奴等も家の裏側を検査したには相違ない。しかしあのフェルラアドの幅の広いのに気が付かなかったか、それとも気が付いてもそれを利用するものがあろうと云うところまで考えなかったか、二つのうちどっちかだ。要するにこんな所から逃げられるはずがないと、太《たい》早《そう》計《けい》に極《き》めてしまったので、この辺はいい加減に見過ごしたのだ。ところがおれはあの窓を外から見た時、外の戸をぴったり壁まで開くと、針金を支えた棒から二尺の距離に外の窓枠があって、手が届くと云うことに気が付いた。そうして見るとここに非常に軽捷なしかも大胆な奴がいて、あの棒からあの窓枠に飛び付こうとすれば、飛び付かれるということが、おれには分かった。そう云う奴が棒を攀《よ》じ登って行って、壁へ付いていた外の窓枠の桟にしっかり掴かまって、今まで手を絡んでいた棒を放して、足で壁を踏まえて、体を窓枠にぶら下がらせて撥ね返すと窓の外の戸が締まる。その時窓が開いていれば、そいつは窓から室内へ飛び込むことが出来るのだ。」
「そこで君に注意して貰いたいのは、そんな冒険な事をうまくしとげるには、そいつが非常な軽捷な奴でなくてはならぬと云う点だ。僕の説明するのはそう云う軽業が不可能でないと云うのが一つで、それからこれをしとげるのは、非常に軽捷な奴でなくてはならぬと云うのが二つだ。こう二段に分けて僕の説明を聞き取って貰わなくてはならないのだね。」
「この説明を聞いたところで、君には多分不得心な廉《かど》があるだろう。それは窓から這入って行く奴が非常に軽捷でなくてはならぬと云う半面には、そんな軽捷な働きを要求する為事《しごと》をしとげるのは困難だろうと疑わなくてはならぬと云うことがあるからだ。刑事の役人共もたいていそう云う考え方をするが、それは理性の歩んで行くべき正当な道筋でないのだ。僕なんぞはただ真理を目掛けて、一直線に進んで行く。この場合に僕が君に対してしている説明は、その非常な軽捷な体と、例の不思議な、鋭い、または叫ぶような声とを連係させて考えて貰おうとするにあるのだ。あの証人どもが区《まち》々《まち》な聞き取りようをした、詞に組み立てられていなかった声と連係させるのだね。」
これまで聞いた時、僕はドュパンの説明が、不確かながら、どうやらぼんやり分かりかかったような気がした。今少しで分かりそうになって、まだ分からないと云う点に到着した。よく忘れた事を思い出そうとする時、誰にもそんな経験があるものだが、今少しで思い出されそうで、やはり思い出されないのだ。友達は語を継いだ。
「僕はあの窓の話をしているうちに、窓を逃道として考えることを止めて、入口として考えることにした。しかし僕は這入るにも出るにも、あの窓を使ったものだと考えているから、それで差支えないのだ。そこであの室内の状況を思い出して見てくれ給え。箪《たん》笥《す》の抽斗《ひきだし》は引き出して、中が掻き廻してあって、何か取ったものらしいが、まだ、あとに品物は沢山残っていたと云うことだったね。僕が考えると、これは随分不思議な、また馬鹿げた判断だ。あとに残っていたと云う衣類その外の品物が、抽斗にあった品物の全部だったかも知れないじゃないか。レスパネエ夫人と娘とは、世間と交際をした事もない。外へもめったに出ない。そうして見ると衣類なんぞはたくさんいらないはずだ。それに残っている衣類は、その親子の女の身分としては極上等の衣類だとしなくてはならない。もし賊が衣類を取ったとすると、いい物を残しておくはずがない。また皆取らずにおくはずがない。その外金貨四千フランもそっくりあったと云うじゃないか。まさか金貨や上等の衣類を残しておいて、不断着を背負って逃げはすまいじゃないか。しかも残っていた金貨は夫人がミニオオ銀行から引き出して来た金の全額で、それが袋に入れたまま床の上にあったのだ。警察のやつらは銀行の関係者の証言を土台にして、金を目当の殺人犯だと狙いを付けているらしいが、僕の説明をここまで聞いた以上は、君はそんな見当違いのところに殺人犯の動機があろうなんぞと思わないことにして貰いたい。世間には前の出来事と後の出来事となんの関係もない事が幾らもある。金を受け取って、それからその受け取った人が三日目に殺されたと云うより、もっと関係がありそうで関係のない事がたくさんある。とかく練習の足りない人の思想は偶然と云う石に躓《つまず》き易い。それは恐然の法則、プロバビリチイの法則と云うものを知らないからだ。あらゆる学科にあの法則で得た発明がたくさんあるのだ。三日前に金を受け取って殺されたとしても、その金が紛失していたなら、金と殺人犯との間に偶然以上の関係があるものとも見られよう。そう云う場合には殺人犯の動機を金に求めてもよかろう。しかし今の場合で金を動機だとするには、その下手人を非常なぐずだとしなくてはならない。馬鹿だとしなくてはならない。そうしなくては動機と金とを一しょに擲《なげう》ったわけになるのだからね。」
「そこで我々はまずこれまで研究して得た重要な箇条をしっかり捕捉している事とするのだね。即ち不思議な声と、それから非常な敏捷な体との二つだ。それからその外にはこれと云う動機が全然欠けていると云う事実をも忘れてはならない。そこで我々はあの殺された女達の創のことを考えて見よう。」
「一人の女は素手で絞め殺して、死骸を逆《さかさ》に煖炉の中にねじ込んであった。どうもこれは普通の殺し方ではないね。ことに死骸の隠し方が不思議だ。そんな風に死骸を煖炉の中にねじ込むと云うことは、どうも人間の所為としては受け取れない。いかに人の性を失った極悪人のした事としても受け取れない。その上女の体を狭い所へねじ込んで、それを引き出すのに数人の力を合せて、やっと引き出されるようにしたには、不思議な力がなくてはならないのだね。」
「その外非常な力のある奴の為《し》業《わざ》だという証拠がまだある。煖炉の縁の上にあった髮の毛だね。白髪の毛が幾束も根こじに引き抜いてあったのだ。たとえ二十本か三十本でも人の髮の毛を一しょに頭から引き抜こうと云うには、どれだけの力がいるか、考えて見給え。君も僕といっしょにあの髪を見たのだからね。あの髪の根には頭の皮がちぎれて食っ付いていたっけね。何千本と云う髮の毛を一掴みにして、皮の付いて来るように抜いた力は大したものではないか。それからお婆あさんの吭《のど》の切りようだね。吭を切っただけならいいが、頭が胴から切り放してあった。しかもそれが剃刀でやったらしいのだね。それだけだって人間らしくない粗暴な為業だ。その外夫人の体の挫傷も下手人の力の非常に強い証拠になる。ドュマアと云う医者と、エチアンヌと云う助手とが、鈍い器で付けた創だと云ったが、いかにもその通りで、その鈍い器は、僕の考えでは、あの中庭に敷いてある敷石だ。警察の奴等がそこに気の付かなかったのは、例の窓枠に気の付かなかったのと同じわけだ。内から釘が挿してあると云うだけを見て、それから先は考えずにおくと云う流義だね。」
「これまで話した事と、その外室内がひどく荒してあったと云う事とを考え合せて見れば、次の事実が分かるのだ。非常に軽捷だと云う事、一人《にん》の力とは思われないほどの力があると云う事、人間らしくない粗暴な事をすると云う事、意味のない荒しようをすると云う事、これを合せて見ると、残酷の中に人間離れのした異様な挙動があるのだ。そこへ誰の耳にも外国人らしく聞えて、詞としては聞き取られない声を考え合せてみるのだね。そこで君はどう判断する。どう云う考えが君には浮んで来る。」
ドュパンにこの問を出された時、おれは骨に徹《こた》えるような気味悪さを感じた。そして云った。
「気違いだろうか。どこか近い所にある精神病院を脱け出した躁狂患者だろうか。」
「そうさ。君の判断も一部分から見れば無理ではない。しかし躁狂の猛烈な発作の時だって、そんな不思議な声は出さない。狂人だってどこかの国の人間だから、どんなに切れ切れにどなっても、声が詞にはなっている。そこで僕は君に見せるものがあるのだ。これを見給え。気違いだって人間だから、こんな毛が生えていはしない。」こう云って友達は手の平に載せた毛を見せた。「これはレスパネエ夫人が握り固めていた拳の中にあった毛だよ。君はこれをなんの毛だと思う。」
おれはいよいよ気味が悪くなって云った。「なるほど、それは不思議な毛だね。人間の毛ではないね。」
「そうさ。僕だって人間の毛だと云ってはいないじゃないか。しかし僕の考えを話すより前に、君にこの図が見て貰いたい。これは僕があの時鉛筆で写しておいたのだ。証人どもが紫色になっている痕だと云ったり、ドュマアやエチアンヌが皮下出血の斑点だと云ったりした、あのレスパネエの娘の頸の指《ゆび》痕《あと》だよ。」こう云って友達は卓の上にその紙を拡げた。「この痕で見ると、一掴みにしっかり掴んだもので、指が少しもすべらなかったことが分かる。一度掴んだ手は、娘さんが死んでしまうまで放さなかったのだ。ところで君の右の手を拡げてこの指の痕に当てがって見給え。」
おれは出来るだけ指の股を拡げて、図の上に当てがってみたが、合わない。
「ところでまだ君のその手が今の場合に合わないだけでは、正確な判断が出来ぬかも知れない。なぜと云うにその紙は平な卓の上に拡げてある。人間の頸は円筒形になっている。ここに円い木の切《きれ》がある。たいてい大きさも人間の頸ぐらいだ。これにその紙を巻いて手を当てて見給え。」
おれは友達の云う通りにして、また手を当てて見たが、やはり合わない。この時おれは云った。
「どうもこれは人間の手ではないね。」
「よし。そんならここにあるこの文章を読んで見給え。」こう云って友達の出したのは、キュウィエエの著書で、東《とう》印度《いんど》諸島に産する、暗褐色の毛をした猩々《しようじよう》の解剖学的記述である。初めの方には体の大きい事、非常に軽捷で力の強い事、ひどく粗暴な事、好んで人真似をする事などが書いてあって、それから体の解剖になって、手の指の説明がある。おれはそれを読んでしまって云った。
「なるほど、この手の指の説明は、君の取った図に符合するね。どうも猩々より外にはこの図にあるような指痕を付けることは出来まい。それに君の取って来たこの毛の褐色な色合もキュウィエエの書いている通りだ。そうして見ると人殺をしたのは猩々であったのだろう。しかしまだ僕には十分飲み籠めないことがあるね。証人の聞いた声は二人以上で、中にフランス人がいたと云うのだからね。」
「なるほど、それは君の云う通りだ。君も覚えているか知らないが、証人の中で大勢が聞き取ったフランス語の中に『畜生』と云う語があった。あれを証人の一人が相手を叱るような調子だったと云っている。たしかモンタニイと云う菓子商の申立だったね。僕はあれに本《もと》づいて解決を試みようと思うのだ。僕はこう思う。あの殺人犯の現場を見ていたフランス人がある。しかしその男はあの血腥い事件の一々の部分に対する責任を持ってはいないかも知れない。多分責任を持ってはいないだろうと云ってもよかろう。そこでこんな想像が出来る。その男は猩々を飼っていたところが、それが逃げた。そこで追っ掛けてあの家まで来たが、あんな残酷なことをしてしまうまで、そいつを掴まえることが出来なかった。その間獣は自由行動を取っていたと云うのだね。これはただの想像で、僕にだってきっとそうだとは思われないから、人に同じ想像を強いることは出来ない。しかし僕はとにかくゆうべあの家を見た帰途《かえりみち》にル・モンド新聞社に寄って広告を出させておいた。あの新聞は海員の機関で、読者には水夫が多いのだよ。そこでそう云うフランス人がいるとして、そいつが直接に血腥い事に関係していたら、名《な》告《の》って出はすまいが、そうでないと名告って出るだろうと思うのだ。」
こう云ってドュパンはおれにきょうのル・モンド新聞の広告欄を見せた。こう云う広告がしてある。
「猩々一頭、右は大いなる黄褐色のものにして、ボルネオ島に産したるものの如し。本月○○日(この所に殺人事件のありし翌日の日附あり)朝ボア・ド・ブウロニュにおいて捕獲す。この動物はマルタ航海会社の汽船の乗組水夫が飼養しいたるものなることを聞けり。同人は左の家宅に来り、動物の状態を説明し、捕獲ならびに飼養の入費を支弁するときは、動物を受け取ることを得べし。フォオブウル・サン・ジェルマン町○番地第三層屋。」
おれはドュパンに問うた。「マルタ航海会社と云うのはどうして分かったのだね。」
「それは僕も実際知らないのだ。少くもたしかには知らないのだ。しかしこの紐の切《きれ》を見てくれ給え。これは布の様子と油染みたところとから見ると、水夫が辮《べん》髪《ぱつ》を縛る紐らしい。それにこの結び玉を見給え。これは水夫でなくては出来ない結び方だ。それにこの結び方をするのは、まずマルタ航海会社の水夫らしい。僕はあの避雷針の針金を支えた棒の下でこれを拾って、そしてどうしても殺された女達の物でないと思ったのだ。この紐が水夫になっているフランス人の物で、その水夫がマルタ航海会社に使われているかどうだか、それはたしかには分からないが、とにかく僕はそう判断して広告をしてみたのだ。間違ったって、この広告は誰にも迷惑をかける虞《おそれ》はないからね。仮に猩々を逃がした男がいるとして、その男がマルタ航海会社の水夫でなかったら、その男は僕が何か聞き違えたものだと思うだけの事だ。もしまた僕の推測が当ったとすると、大いに、こっちの利益になる。なぜと云うにそれだけの事が分かっていると思うと、その男がここまで出向いて来るのに来易いのだ。無論その男は自分で人を殺さないまでも、殺人事件に関係しているのだから、広告の場所へ猩々を受け取りに来るには躊躇せずにはいられない。まあ、こんな風に考えるだろう。おれは罪を犯していない。おれは貧乏だ。あの猩々は随分金になる代物で、おれの身分から見れば一《ひと》廉《かど》の財産だ。それを余計な心配をしてなくさないでもいい。どうにかして取り戻したいものだ。広告で見ると猩々を生捕ったのがボア・ド・ブウロニュだと云う事だ。そうして見ると人を殺した場所からは大分距離がある。それに智慧のない動物があれほどのことをしようとは誰だって容易には考え付くまい。警察もまるで見当が付いていないらしい。よしや動物の為《し》業《わざ》だと分かったところで、おれが現場を知っていると云うことを証明するのがむずかしかろう。広告で見ると動物を生捕った人はおれを知っていて、おれが猩々の持主だと認めている。おれの身の上についてどれだけの事を知っているのだか知らぬが、おれの物だと分かっている猩々を、あれほどの高価の物なのに、わざと受け取りに行かなかったら、かえって嫌疑がおれに掛かるかも知れない。とにかくあの猩々やおれの事について、世間が穿鑿をし出すと面倒だ。それよりか素直に猩々を受け取って来てしっかり閉じ籠めておいて、あの血腥い事件の上に草が生えるまで待つに限る。まあ、こんな風に考えるだろうと思うよ。」
ドュパンがここまで話した時、梯子を登って来る足音がした。
「君、その拳銃を持ってくれ給え。しかし僕が合図をするまで出して見せてはいけないよ。」ドュパンがこう云った。
家の第一層の門口は開《あ》いていたので、来た人はベルを鳴らさずに這入って、第三層まで梯子を登って来た。それから我々のいる室の外の廊下に来て、しばらく立ち留まっていた。その内また梯子を下りる足音がした。ドュパンは忙しげに戸口へ出ようとした。その時足音はまた梯子を登って来るように聞えた。今度は猶予せずに戸の外まで来て戸を叩いた。
「お這入りなさい」と暢《のん》気《き》らしい大声でドュパンがどなった。
這入って来た男は水夫らしい。丈が高く、力がありそうで、全身の筋肉がよく発育している。どんな悪魔にも恐れそうにない大胆な顔附をしているが、意地が悪そうには見えない。顔はひどく日に焼けていて、鼻から下は八字髭と頬髯とで全く掩われている。手に大きい槲《かし》の木の杖を衝いている外には、別に武器は持っていない。不細工な辞儀をして、純粋なパリイ人の調子で「今晩は」と云った。
「まあ、掛け給え。君は猩々の一件で来たのだね。実に立派な代物だ。随分直《ね》も高いのだろうね。大した物を持っているじゃないか。わたしは羨しくてならないね。あれで幾つぐらいになっているのだろう。」ドュパンはこんな調子で話し掛けた。
水夫は太い息をした。やれやれ余計な心配をしたが、この調子なら安心だと思ったらしい。そしてゆっくりした詞で云った。「そうですね。わたしもよくは知りませんが、精々四歳か五歳ぐらいでしょう。ここに置いてありますか。」
「いや、どうもこの家にはあれを入れて置くような場所がないからね。じき側のドュブウル町の貸厩に預けてあるから、あすの朝取りに往って下さい。君が持主だと云う証明は十分出来るでしょうね。」
「それは出来ます。」
「どうもああ云う代物を君に返すのは、惜しいような気がするね。」ドュパンはこう云った。
水夫は答えた。「それはお骨折をして下すっただけのお礼はしなくてはなりません。大した事は出来ませんが。」
ドュパンは云った。「なるほど。そこで、まあ、わたしに考えさせて貰わなくては。幾ら貰ったものかね。わたしの方からいずれ幾らと切り出さなくてはなるまいが、それより先に君に聞きたいことがある。君、あの病院横町の人殺し事件をここですっかり話して聞かせてくれ給え。」
ドュパンはこの詞の後の半分を小声でゆっくり言って、しずかに立って戸口に往って鑰を卸して、鍵を隠しに入れた。それから内隠しに手を入れて拳銃を出して、落ち着き払ってそれを卓の上に置いた。
水夫の顔はたちまち真っ赤になった。水に溺れそうになった人の顔のような表情である。そうして跳り上がって槲の木の杖を持って身構をした。しかしそれはほんの一瞬間で、水夫はたちまちまた死人のような蒼い顔になって、身を震わせながら椅子に腰を卸した。おれは側で見ていて、心から気の毒になった。
その時ドュパンは優しい声で言った。「君、何もそんなに心配しなくてもいいよ。我々は君をどうもしようと思っているのではない。フランスの一男子として君に誓ってもいい。僕だってあの病院横町の犯罪が君の責任だとは思っていない。しかし君があの事件に関係していると云うことだけは分かっているのだ。僕の広告を見ても分かるだろうが、僕がどれだけの事を知っていて、またこれから先探ろうと思えばどれだけの事を探る手段を持っていると云う想像は君にも付くだろう。まあ、砕いて話せばこうだね。君は何も悪い事をしたのではない。またさせたのでもない。君はあの場合に物を取ろうと思えば取られたのだが、それを取らなかった。だから何も君が隠し立てをする必要がない。しかし君の知っているだけの事は言わないではならないのだ。あの事件のために無実の罪を蒙《こうむ》って牢屋に這入っている人があるのだからね。」
ドュパンがこれだけの事を言っているうちに、水夫はよほど気色を恢復したが、この室に這入って来た時の勇気はもう無かった。水夫はしばらくして云った。
「いや。わたしの知っているだけの事は話しましょう。しかしあなたがそれを半分でも本当だと思って下されば結構なのです。わたし自分でさえ《うそ》のように思われるのですからね。そのくせあの事件はわたしの知った事ではないのです。まあ、首に掛かるかも知れないが、実際のところを話しましょう。」
水夫の話は大略こうである。水夫は近ごろ東《とう》印度《いんど》群島へ往った。その時ボルネオに上陸して仲間と一しょに山に這入った。そして今一人の男に手伝って貰って、猩々を生捕った。その男は死んだ。そこで猩々は自分一人の所有になった。猩々は中々馴れないので帰途《かえりみち》には随分困った。しかしとうとうパリイへ連れて戻った。水夫は船にいた時足を怪我をして、それを直すために医者の所へ通わなくてはならぬので、猩々を部屋に閉じ籠めて置いて、足の創が直ってから売ろうと思っていた。さてあの殺人事件のあった夜の事である。否、払暁の事である。水夫は仲間の会があって、それに出席して払暁に帰って来た。すると猩々が閉じ籠めてあった室から脱け出して、寝部屋に来ていた。そして鏡の前に坐って、顔に石鹸のあぶくを一ぱい付けて、手に剃刀を持って、髭を剃る真似をしていた。多分水夫が顔を剃った時、鑰《じよう》前《まえ》の孔から覗いて見ていて、その真似をするのだろう。気の荒い、力のある動物の手に剃刀を取られているので、水夫はどうしようかとしばらく思案した。これまで猩々が暴れ出すと、鞭で威すことにしていたので、今度も鞭を出した。猩々は鞭を見るや否や、すぐに戸口から走り出て梯子を駆け下りた。それから第一層屋の窓が開いていたのを見て、往来へ飛び出した。水夫は一しょう懸命に追っ掛けた。猩々は剃刀を持ったまま、少し逃げては立ち留まって、振り返って見て、水夫を揶揄《からか》うようにして、追い付きそうになると、また逃げた。こんな風でよほど長い間追って行った。午前三時の事だから、人の往《ゆき》来《き》はない。そのうち病院横町の裏へ来ると、一軒の家の高い窓から明りのさしているのが、猩々の目に付いた。それがレスパネエ夫人の住んでいた第四層屋の窓であった。猩々は窓の下へ駆け寄った。そして避雷針の針金を支えた棒を見付けて、それに登った。そして壁にぴったり付くように開《あ》いていた窓の外の戸の桟に掴かまって、室内の寝《ね》台《だい》の上に飛び込んだ。それが一分間とはかからなかった。猩々は室に這入る時、外の戸を背後《うしろ》へ撥ねたので、外の戸はまた開いた。水夫は安心したような、また気に掛かるような心持がした。なぜ安心したかと云うに、猩々は同じ棒を伝って下りて来るより外はないから自分で羂《わな》に掛かったようなもので、もう掴まえられそうだと思ったからである。なぜ気に掛かるように思ったかと云うに、あの窓の中で何か悪い事をしでかすかも知れぬと思ったからである。その気に掛かるところから、水夫は決心して猩々の跡から附いて登って、窓を覗いて見ようとした。水夫の事だから、棒に攀じ登るのは造作もなかった。しかし窓の高さまで登って見ると、それから先へは往かれなかった。窓は左手にあって、大ぶ離れている。体を曲げて覗いて見なくては、室内が見えない。やっと覗いて見た時、水夫はびっくりして、今少しで手を放して落ちるところであった。この時救いを求める恐しい声が、病院横町の人の眠りを破ったのである。レスパネエ夫人と娘とは寝衣《ねまき》一つになって、例の鉄の金庫を室の真ん中に引き出して、その中の書類か何かを整理していたらしい。金庫は開けてあって、中の物が床の上に出してあった。多分二人の女は窓の方を背にして坐っていたのだろう。なぜと云うに、猩々の飛び込んだ時から、叫声のした時まで大ぶ暇があるからである。二人はその間気が付かずにいたものと見える。窓の外の戸を撥ね返した音は聞えたはずだが、親子は風にあおられたのだとでも思っていたのだろう。水夫が窓から覗いた時には、猩々はレスパネエ夫人の白髪を左の手で掴んで、右の手で剃刀を顔の前に持って行って上げたり下げたりしていた。床屋が人の顔を剃る真似でもしているように見えた。夫人の髪を掴んだのは、多分夫人が髪をとかしていたので、猩々がそれに手を出したのだろう。娘は床に倒れていた。気を失っていたらしい。猩々は最初いたずらをするつもりであったのに、夫人が叫びながら振り放そうとするので、獣もそれに抗抵するうちに気が荒くなったらしい。猩々は力一ぱい剃刀で吭を切った。頭がほとんど胴から離れそうになるほど切った。猩々は血を見たので、いよいよ気が荒くなった。そして目を光らせ、歯を剥き出して、倒れていた娘に飛び掛かって、右の手の平で吭を締めて、息の絶えるまで放さなかった。そのとたんに猩々のきょろ付く目が窓を見ると、そこには恐怖の余りに蒼くなった主人の水夫の顔が見えた。その時猩々の激怒は変じて恐怖となった。主人は自分を威す鞭の持主だからであろう。そこで猩々は自分のした血腥い為事《しごと》の痕跡を隠そうと思って、室内を走り廻って、道具をこわしたり、寝台の藁布団を引き出したりした。それから娘の死骸を煖炉の中へ無理にねじ込んで、夫人の死骸を窓から外へ投げ出した。ちょうど猩々が夫人の死骸を窓へ持ち出した時、水夫はひどく驚いて夢中で棒をすべり下りて逃げ出した。そして急いで宿に帰って、猩々の行方には構わずにいたと云うのである。
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この水夫の話に附け加える事は格別ない。レスパネエ夫人の家に駆け着けた人々が、梯子を登りながら聞いた声は、猩々の叫声と、窓からどなった水夫の声とであった。猩々は人々が外から部屋の戸を破る時窓へ逃げて来て、外へ飛び出して跡の戸を撥ね返したものと見える。
猩々は後に水夫の手に戻って、水夫はそれをジャルダン・デ・プラントへ高い値段に売った。
それより前に、ドュパンが水夫の話を書き取って、それに説明書を添えて、警視庁へ出したので、ルボンは放免せられた。警視総監はドュパンに屈伏しながら、心中不平に堪えないので、人間は職分外の事に手を出すのはよくないなどとつぶやいていた。しかしドュパンはそれに構わずに、こんな事を言っていた。「なんとでも勝手に云うがいい。あれは自分が捜索を為《し》遂《と》げなかったので、自分で自分に分疏《いいわけ》をしているのだ。しかしとにかくおれはあの男の縄張内《うち》の為事で、あの男に勝ってやった。どうもあの男にあの謎が解けなかったのは無理もない。あれは狡猾なだけで、深く物を考える性《たち》ではないからだ。ああ云う男の智識には頭があって胴がない。せいぜい頭と肩とだけしかない。大口魚《たら》の様なものだ。しかしとにかくあれでも人に敏捷だと評判せられるだけがえらいよ。あんな評判を取る人間は、ルソオのいわゆる De nier ce qui est, et d'expliquer ce qui n'est pas(Nou-velle H?loise)と云う秘訣を心得ているのだ。自分がどんな人間だと云うことを隠して、自分のそうでない人間に見せているのだね。」
この小説の首《はじめ》にはサア・トオマス・ブラウンの語を「モットオ」にして書いてある。それから分析的精神作用と云うものについて、議論らしい事が大ぶ書いてある。それを訳者は除《の》けてしまった。原文で六ペエジ以上もある論文のような文章を、新小説の読者に読ませたら、途中で驚いてあとを読まずに止《や》めるだろうと思ったからである。そんな勝手な削除なんぞをしては、原作者に済まぬと云う人があるかも知れない。しかし人が読みさして読まずにしまうのも、原作者のために愉快ではあるまい。一体「病院横町の殺人犯」は世界に名高いポオの世界に名高い小説だが、今の読者には向かぬかも知れない。近ごろこっちではこんな小説を高等探偵小説と名付けることになっている。高等探偵小説だの高等講談だのと名を附けて、こっちの批評家は流行以外の作を侮辱する権利を有しているのだそうだ。して見ると、読者に読んで貰うのも、やはり原作者を侮辱するに当るかも知れない。もしそうなら、訳者は謹んで原作者に謝罪することとしよう。
十三時 ポー
オランダのスピイスブルク市が世界第一の立派な都会だと云うことは、誰でも知っている。しかしもう遺憾ながら、世界第一の立派な都会だったと云わなくてはならなくなった。
あの市は本街道を離れて、いわば非常な所にあるのだから、読者諸君のうちであそこへ往ったことのある人は少かろう。あそこを知らない人に、あの特色のある所を想像させるために、少し精《くわ》しく土地の事を話すことは無益ではあるまい。おれはこないだあの土地にあった重大な災難の話をして、あそこの市民に対する同情を広く喚起したいと思っているのだから、その話の前置としておれの説明は一層役に立つはずである。さておれの目的としているその災難の事だが、その話をすると云う責任をおれが負う以上は、必ず力の限りをつくしてそれを果たすだろうと云うこと、正しい古文書を比較して、自己の良心を満足させるように細密に事実を考えて、いやしくも歴史家たる身分に負《そむ》かないように、公平無私にその話をするだろうと云うことには、恐らくは誰一人疑いを挟《さしはさ》むものはあるまい。
おれは金石文字や古文書を精しく調べて、まずあのスピイスブルク市が始めて興った時、やはり現今の地点を占めていたもので、それから後少しも移動したものでないと云うことを確言することが出来る。しかしその創立がいつの事であったかと云うことは、おれも遺憾ながらある不定の断案をもって答えるより外無い。とにかく非常に遠隔した時代の事だから、我々が溯《さかのぼ》って計算し得る時代の最大距離において、あの市は創立せられたのだとだけはおれが明言してもよかろう。
そこでスピイスブルクと云う地名の起原だが、これもやはり遺憾ながら十分に説明することが出来ない。臆説は種々に立てられている。中にはいかにも巧妙で、緻密で、博識の言《こと》らしいのがある。中にはまたそれの反対だと思われるのもある。しかしその中でどれ一つ十分の根拠を有していると認めていいものは無い。やむことなくんば、一説を挙げよう。それはドイツの学者リンド氏の説で、イギリスの学者ビイフ氏の説もほぼそれと一致している。それはこうである。スピイスは槍である。ブルクは城である。あの市で城らしい建物と云っては、議事堂が一棟しか無いが、その議事堂の塔にある時雷が落ちた。その落ち工合がちょうど上から槍で衝いたようであったことを思うと、この語源説がいよいよもっともらしく聞えて来る。しかしこんな重大な問題にうかと断案を下して、あとで恥を掻きたくもないから、おれはなんとも言わずに置こう。読者がもしこの問題を深く研究しようと思うなら、有名なオランダの大学教授ホオルコップ氏のオラチウンクレエ・デ・レエブス・プレテリチスと云う本を見るがよかろう。それから今一つ参考していい本は、ファン・デル・ドムヘエト氏のデ・デレワチオニブスの二十七ペエジから五千零十ペエジまでである。この本は大判の紙にゴチックで印刷してあって、骨子になっている語には朱と墨とで標《しるし》がしてある。丁《ちよう》附《づけ》は無い。この本にはファン・デル・ドムヘエト氏の高《こう》足《そく》弟《てい》子《し》として聞えた支那の民間学者シュツンプジン氏の自筆の書入れがあるから、それも参考するがいい。また註脚に大学助教授ドヨオジヒ氏の言っていることは一顧に値する。
創立の時代も地名の起原も、こんなに不確実ではあるが、とにかくスピイスブルクは昔出来た日から今目撃する状況と少しも変っていなかったと云うことは明白である。市の故老に聞いてみると、何一つ変ったと思うことは無いそうだ。実際もしや変ったところがありはせぬかと云う問題でからが、それを口に出したら、あの土地の人は侮辱せられたように感ずるだろう。
市は正円形をなした谷の中央に位《くらい》している。谷の周囲は一哩《マイル》の四分の一くらいである。四方には景色のいい丘陵がある。市に住んでいる人に、誰一人敢て丘陵の巓《いただき》に登ったものが無い。そう云う堅固な土着的観念が何に本づいているかと云うと、実にもっとも千万な理由がある。丘陵よりさきに何物かが有るだろうと云うことは、到底信ぜられないからだと云うのである。
谷はすべて平坦で、全面に平たい瓦が敷き詰めてある。この平地の外囲に円形をなして六十軒の家が立ててある。それだから家は皆丘陵を負うて、平地の中央に臨んでいる。その中央の地点までの距離は、どの家の戸口から測っても六十呎《フイイト》ある。どの家の前にも円形に道を附けた、小さい菜園がある。そこに円い日時計が据え附けてある。そして円いキャベツが二十四本植えてある。家と家とはあくまで似ていて、何一つ相違している点が無い。建築の様式は少し異様だが、しかし絵のような面白みがある。堅く焼いた、小さい、赤い煉瓦の縁《へり》の黒いので建ててあるから、壁がちょうど大きな象《しよう》棋《ぎ》盤《ばん》のように見える。家の正面には摶《は》風《ぶ》がある。屋根と表口の上とに、簷《のき》と庇《ひさし》とが出ているが、その広さがちょうど家全体の広さほどある。小さい、奥深い窓が細い格子で為《し》切《き》ってあって、中には締め切ってあるのも見える。屋根に葺《ふ》いてある瓦には長い、反《は》ね反《かえ》った耳が出ている。家に使ってある材木は皆暗い色をしていて、それに一様な彫刻がしてある。それは古来スピイスブルクの彫刻師が、時計とキャベツとの二つしか彫刻しないからである。しかしその二つは上手に彫る。どこでも材木の面が明いていれば、すぐにそこへ彫り附ける。
家は外面が似ているように、内部も似ている。道具は皆同じ雛形によって拵《こしら》えたものである。床は四角な煉瓦を敷き詰めてある。卓《つくえ》や椅子は黒ずんだ木で拵えて、捩《よじ》れた脚の下の方が細くしてある。壁に塗り籠めた大きい、丈の高い炉には時計とキャベツとが彫ってある。炉の上の棚には、真ん中に本当の時計が一つ据えてあって、それが断えず感心ないい音をさせている。棚の両端には植木鉢が一つずつ置いてあって、それにはキャベツが生えている。それからその時計と植木鉢との間には、きっと支那人の人形が一つずつ立っている。ふくらんだ腹の真ん中に穴があって、それを覗いて見ると、中には懐中時計の表面が見えている。炉の火床は幅が広くて深い。それに恐ろしい五徳のような物が据えてある。そしてその上に壁に切り込んだ龕《がん》のような所から大きな鍋が吊り下げてあって、中には一ぱい麦酒《ビイル》樽《だる》漬《づけ》にしたキャベツと豚の肉とが入れてある。
鍋にはお神さんが気を附けている。お神さんは頬の赤い、目の青いおばさんで、あのカンジスと云う白砂糖の包紙のような円錐形の大帽子を被っている。帽子からは紫と黄色とに染めた紐が下がっている。着物は橙《だいだい》のように黄いろい色の毛織で、背後《うしろ》がふくらんで丈が詰まっている。全体この着物はひどく短い。脚の中ほどまでしか届かない。脚は円っこい。踝《くるぶし》も同断である。その脚には綺麗な草色の沓《くつ》足《た》袋《び》を穿いている。沓は桃色の鞣《なめし》革《がわ》で、それが黄いろい紐で締めてある。その締めた結び玉がキャベツの形になっている。お神さんは左の手に小さい、重みのある懐中時計を持って、右の手には大きい杓子を持っている。その杓子で鍋の中のキャベツと豚の肉とを掻き廻すのである。お神さんの傍には斑《まだら》の猫の太ったのがいる。その尻っぽには子供がいたずらに金めっきの懐中時計を括《くく》り付けたので、猫はそれを引き摩《ず》っている。
子供が今例にして話している家には三人いる。それが三人とも前の菜園で豚の番をしている。三人とも丈は二呎《フイイト》で頭に三角帽子を被っている。赤いチョッキが太股の辺まで垂れている。ずぼんは膝切りで、ブックスキンと云う毛織で拵えてある。沓足袋は赤い毛糸で編んである。重そうな沓には大きい銀の金物が付いている。上着は長くて、それに大きい貝殻ぼたんが付けてある。皆煙管《きせる》を口に銜《くわ》えて、右の手には胴を円くふくらませた懐中時計を持っている。口から煙《けぶり》を吹いては時計を見、時計を見ては煙を吹く。それをいつまでも繰り返しているのである。豚は皆ひどく太っていて、不精である。キャベツの葉の枯れて落ちたのを拾って食っている。やはり猫と同じように尻っぽには懐中時計が括り付けてあるので、折々後足でそれを蹴ることがある。
家の戸口の右の方には、倚り掛かりの高い腕附の椅子がある。鞣革で張った椅子で、脚は卓と同じように捩れて下の方が細くなっている。その椅子に腰を掛けているのが主人である。頬っぺたの非常にふくらんだ爺いさんで、目は真ん円で、大きい腮《あご》が二重《ふたえ》になっている。着物は子供のと全く同じ事だから、改めて説明しなくてもよかろう。ただ爺いさんの子供と違うところは、口に銜《くわ》えている煙管が少し大きいから、口から煙を余計に吹き出すことが出来るだけである。爺いさんもやはり懐中時計を持っているが、それを隠しに入れているだけが違っている。これは別に大切な用事があるので、時計ばかり見てはいられないのである。その用事がなんだと云うことはすぐに説明するから、待っていて貰いたい。爺いさんはじっとして据わって、左の膝の上に右の膝を載せている。そして真面目な顔をして、少くも片々の目で虚空のある一点を睨んでいる。その一点は議事堂の塔の上である。
議事堂には市の評議員達がいる。皆円く太った、賢い小男達で、車輪のような目をして、大きい二重の腮を持っている。上着は並の市民の着ているのより長い。沓の金物も市民のより太い。おれがこの市に来て住むことになってから、評議員達は二度特別会議を開いて、左《さ》の重大な決議をした。
第一条。何事によらず古来定まりたる事を変更すべからず。
第二条。本市以外には一切取るに足る事なしと認む。
第三条。市民は先祖伝来の時計及キャベツを忘却すべからず。
議事堂の会議室の上が塔になっている。塔の中には市の創立以来大時計が据え付けてある。これが市の誇りで、同時に市の奇蹟である。家の戸口に据わっている爺いさんの睨んでいるのはこの時計である。
塔は七角に出来ている。大時計もやはり七角になっている。どの面にも針があって、どこからでも時が見られるようにしてある。太い、黒い針が広い白い板の面の上にある。市の評議員達は塔の番人を一人雇って、大時計の番をさせている。番人はその外にはなんの用事もない。だから市には色々の名誉職があるが、大時計の番人ほど結構な役人はいない。用事は時計の番をするだけで、しかもその時計はまるで手が掛からない。市の記録に残っているほどの時代をどこまで溯ってみても、大時計が時間を誤ったことはない。それがもしや時間を誤ることがあろうかなんぞと云うことは、ただそれを思ったばかりでも怪しからん次第だと、たったこないだまで市民一同が信じていた。
大時計と同じ事で、市中にあるだけの置時計や懐中時計も決して時間を誤ることはない。世界中どこを尋ねても、このスピイスブルクほど誰でも時間をよく知っている所はない。大時計が、「正午だ」と云うと、市民一同口を開けて、谺響《こだま》のように「正午だ」と答える。要するに市民は麦酒樽漬のキャベツが好きなことは無論であるが、彼等の大時計に対する自慢はまた格別である。
一体名誉職を持っている人は、誰だって尊敬せられるにきまっている。だから一番結構な名誉職を持っている大時計の番人が尊敬せられることは論を待たない。番人は市の大役人である。菜園に飼ってある豚でさえ、この人を見るには目を側《そばだ》てて見る。番人の上着の裾は誰のよりもよほど長い。煙管も、沓の金物も、目玉も誰のよりも大きい。腹は誰のよりもふくらんでいる。そこで腮はどうかと云うと、外の人のは二重だが、この人のは立派に三《み》重《え》になっている。
ここまでおれはスピイスブルク市の幸福な状態を話した。こんな結構な、泰平無事な都会に非常な災難が出来ようとは、実に誰も予期していなかったのである。
よほど前から市民中の有識者達が、諺のようにこう云う事を言っていた。「岡の外からはろくな物は来まい」と云うのである。不思議にもこの詞が讖《しん》をなした。
ちょうど一昨日《おとつい》の事であった。正午前五分間と云う時、東の丘陵の巓《いただき》に妙な物が見えた。いつにない出来事なので、どの家の腕附の椅子に掛けている爺いさんも、胸に動悸をさせながら、片々の目でその妙な物を見ていた。片々の目はやはり塔の大時計を見ているのである。
正午前三分間だと云う時、丘陵の上に見えていた妙な物が、小男で、多分他《た》所《しよ》者《もの》だろうと云うことが分かった。その男は急いで丘陵を降りて来る。姿が次第によく見える。古来スピイスブルク市で見たことのない、馬鹿げた風体の男である。顔の色は煙草のように黄いろい。鉤のような形の大きい鼻をしている。目玉は黄いろい大《おお》豌《えん》豆《どう》のようである。広い口の中で綺麗な歯が光っている。それを人に見せたがるものと見えて、いつも口を耳まで開けて笑っている。その外は八字髭と頬髯とが見えるだけである。帽子を被らない頭の髪は丁寧にちぢらせてある。体にぴったり着いた黒服には、長い燕《つばくろ》の尾のような裾が付いている。一方の隠しから大きな、白いハンケチが出掛かっている。ずぼんは黒のカシミアである。沓足袋も黒い。足に穿いているのは長靴と舞踏沓との間《あい》の子《こ》のような物で、それに黒い絹糸の大きな流蘇《ふさ》が下がっている。片々にはシャポオ・クラックを腋《わき》挟《ばさ》んで、片々には自分の丈の五倍もあるヴァイオリンを抱いている。そして右の手に金の嗅煙草入を持って、妙な身振りをして丘陵を駆け降りながら、得意げな様子で嗅煙草を鼻に詰め込んでいる。いやはや。スピイスブルク市の良民のためには、実に途方もない見物である。
よく見れば、この男は笑ってはいるが、どうもその面附きが根性の悪い乱暴者らしく見える。それに市の方へ向いて駆けて来る足に穿いている変な沓が、誰の目にも第一に怪しく見えるのである。それにあの黒服の隠しから出かかっている白いハンケチの背後《うしろ》には何が隠してあるか、見たいものだと思った人も大ぶある。とにかくこの男が怪しい曲《くせ》者《もの》だと云うことは、ファンダンゴやピルエットの踊の足取をして、丘陵を降りて来るのに、一向間拍子と云うものを構わないのを見たばかりでも察せられる。
そのうち正午前三十秒ほどになった。市民等が目を大きく開《あ》いて見ようとする隙《ひま》もなく、外《げ》道《どう》奴《め》は市民等の間を通り抜けて、脚ではシャッセエをしたり、バランセエをしたり、ピルエットをしたり、パア・ド・ゼフィイルをしたりして、羽が生えて飛ぶように、議事堂の塔の上に駆け登った。大時計の傍には番人が驚き呆れながらやはり息《い》張《ば》って、ゆっくりと煙草を喫《の》んでいた。外道奴は番人の鼻を撮《つま》んで、右左にゆすぶって、前へ引っ張って、それから腋挟んでいた大きなシャポオ・クラックを番人の頭に被せた。そしてそれをずっと下へ引くと、番人の目も口もすっぽり隠れてしまった。それから大きなヴァイオリンを振り上げて番人を打《ぶ》つわ、打つわ。胴の空虚なヴァイオリンで、太った番人をぽかぽか打つので、ちょうど議事堂の塔の上で鼓手が一箇聯隊ぐらい太鼓を叩き立てているかと思うようである。
こんな怪しからん事をせられて、スピイスブルクの市民等が復讐をせずに見ているはずはないが、とにかく正午までにもう半秒時間しかないと云う重大な事件があるから、その外の事は考えられない。今に大時計が打たなくてはならない。それが打つ以上は、スピイスブルクの市民のためには、てんでに懐中時計を出して時間を合せるより大切な事はない。驚いた事には、その職でもないのに、外道奴、ちょうどこの時大時計をいじくり始めた。しかしもう大時計が打ち出すので、市民はその方に気を取られて外道奴が何をするやら、見ていることが出来なかった。
「一つ」と大時計が云った。
「一つ」とスピイスブルク市民たる小さい、太った爺いさん達が、谺響《こだま》のように答えた。「一つ」と爺いさんの懐中時計が云った。「一つ」とお神さんの時計が云った。「一つ」と子供達の時計や猫の尻っぽ、豚の尻っぽの時計が云った。
「二つ」と大時計が云った。「二つ」と皆が繰り返した。
「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十お」と大時計が云った。
「三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十お」と皆が答えた。
「十一」と大時計が云った。
「十一」と皆が合槌を打った。
「十二」と大時計が云った。
「十二」と皆が答えて、大満足の体で声の尻を下げた。
「十二時だ」と爺いさん達が云って、てんでに懐中時計を隠しに入れた。
然るに大時計はまだこれでは罷《や》めない。「十三」と大時計は云った。
「やあ」と爺いさん達はうめくように云って、鯉が水面に浮いて風を呑むような口附きをして、顔の色が蒼くなって、口から煙管が落ちて、右の膝が左の膝の上から滑った。
「やあ、十三だ、十三時だ」と皆が歎いた。
これから後に起ったスピイスブルク市の恐ろしい出来事を筆で書こうと思っても、それは不可能である。とにかく市を挙げて大騒乱の渦中に陥ったと云うより外はない。
子供は異口同音に云った。「おいらの時計はどうしたと云うのだろう。おいらは一時間も前からお午《ひる》が食べたくてならない。」
お神さん達は云った。「まあ、わたしの鍋はどうしたと云うのだろう。もう一時間も前から豚もキャベツも煮えくり返っている。」
爺いさん達は云った。「おれの煙管はどうしたと云うのだろう。もう一時間も前に吸殻になっていなくちゃならんのだ。」こう云って爺いさん達は腹立たしげに煙管を詰め更《か》えて、腕附の椅子に倚り掛かって、忙がしげに煙を吹き出した。スピイスブルク市はたちまち煙草の煙に包まれて何も見えなくなってしまった。
その時市の菜園に作ってあるキャベツの頭が、皆腹を立てたように真っ赤になった。それからやはり外道奴の所作と見えて、家々の道具に為《し》込《こ》んである時計や置時計が魔法で踊らせるように踊り出した。炉の上の棚にある時計も腹が立ってたまらないと云う様子で、十三時を繰り返し繰り返し打ちながら、下《さげ》振《ふ》りをめちゃめちゃに振り廻した。それから猫や豚が、尻っぽに括り付けてある時計の十三時を打つのが不都合だと心得たものか皆駆け出して、きいきい、にゃあにゃあ啼きながら、そこら中を引っ掻いて、何もかも蹴飛ばして、人の顔に飛び付いたり、着物の裾にこんがらかったりした。なんともかとも云われない大騒乱である。
それに塔の上にいるいたずら者奴《め》はかえってわざとこの騒乱を大きくしようとしているらしい。折々煙草の煙の隙間から仰向いて見ると、いたずら者は番人を仰向けに寝させて、その上に乗って、大時計の上に吊ってある吊鐘の綱を口に銜《くわ》えて、頭を右左に振りながら鐘を鳴らしている。あの時の事を思い出すと、おれは今でも耳が鳴る。いたずら者奴《め》、鐘が鳴るばかりでは足りないと見えて、膝の上に大きなヴァイオリンを置いて、間拍子に構わず、「ねえ、テレザさん、降りておいで」と云う歌の譜を弾いている。 おれはこんな怪しからん事を黙って見ているに忍びないので、早速スピイスブルク市を逃げ出した。そこで天下の麦酒樽漬のキャベツの好きな人達に檄《げき》を飛ばして援《すくい》を求める。寄語す。天下の義士よ。決然起って、隊を成してスピイスブルクに闖《ちん》入《にゆう》して、市の秩序を恢復し、狂暴者を議事堂の塔の上より蹴落そうではありませんか。
著者紹介
グスタヴ・ヴィーズ(一八五八―一九一四)
デンマークの作家。小説に「午後十一時」「影絵」「家系」、戯曲に「ねんねえ旅籠」「踊るハツカネズミ」など。
アルベール・サマン(一八五八―一九〇〇)
フランスの詩人。詩集「王女の庭にて」「壺の桐に」「黄金の車」、詩劇「ポリフェーム」など。
フレデリック・ブウテ(一八七四―?)
フランスの作家。「嫉妬」など。
マルセル・プレヴォー(一八六二―一九四一)
フランスの作家。「さそり」「半処女」「フランソワーズへの手紙」ほか。
アンリ・ド・レニエ(一八六四―一九三六)
フランスの詩人、小説家。詩に「古風でロマネスクな詩」「夢のなかでのように」「時の鐘」ほか、小説に「二重の娼婦」「深夜の結婚」「生きている過去」など。
ジュール・クラルティ(一八四〇―一九一三)
フランスのジャーナリスト、小説家、劇作家。小説「奇妙な女」、戯曲「大臣閣下」、エッセイ「パリの生活」など。
マルセル・ベルジェエ(?) 不明。
カミーユ・ルモニエ(一八四四―一九一三)
ベルギーの作家。「雄」「肉のかすがい」など。
ゲオルク・ヒルシュフェルト(一八七三―一九三五)
ドイツの小説家、劇作家。戯曲「第二の生活」「母親」など。
ハンス・ハインツ・エーヴァース(一八七一―一九四三)
ドイツの作家。「恐怖」「アルラウネ」「吸血鬼」「見霊者」「蜘蛛」「私の埋葬」など。
カール・ハンス・シュトローブル(一八七七―一九四六)
ドイツの作家。
アルトゥール・シュニッツラー(一八六二―一九三一)
オーストリアの作家。戯曲「アナトール」「恋愛三昧」、小説「輪舞」「グストゥル小尉」「令嬢エルゼ」「死」「暗黒への逃走」など。
カール・フォルメラー(一八七八―一九四八)
オーストリアの作家。
ライナー・マリーア・リルケ(一八七五―一九二六)
オーストリアの詩人。詩集「第一詩集」「時祷詩集」「形象詩集」「ドゥイーノの悲歌」、小説「マルテの手記」など。
モルナール・フェレンツ(一八七八―一九五三)
ハンガリーの劇作家、小説家。戯曲「悪魔」「リリオム」「近衛兵」、小説「パール街の少年たち」など。
オシップ・ディモフ(一八七八―一九五九)
ロシアの作家。
エドガー・アラン・ポー(一八〇九―四九)
アメリカの詩人、小説家。詩「大鴉」、小説「黄金虫」「ライジーア」「アッシャー家の崩壊」「赤死病の仮面」「マリー・ロジェの怪事件」など。
『諸国物語』初出時の配列と表記
尼 (グスタアフ・ヰイド)
薔薇 (グスタアフ・ヰイド)
(以上二篇 スカンジナヰア)
クサンチス (アルベエル・サマン)
橋の下 (フレデリツク・ブテエ)
田舎 (マルセル・プレヲオ)
復讐 (アンリ・ド・レニエエ)
不可説 (アンリ・ド・レニエエ)
猿 (ジユウル・クラルテエ)
一疋の犬が二疋になる話 (マルセル・ベルジエエ)
聖ニコラウスの夜 (カミイユ・ルモンニエエ)
(以上八篇 佛蘭西)
防火栓 (ゲオルヒ・ヒルシユフエルド)
己の葬 (ハンス・ハインツ・エヱルス)
刺絡 (カルル・ハンス・ストロオブル)
(以上三篇 独逸)
アンドレアス・タアマイエルが遺書 (アルツウル・シユニツツレル)
正體 (カルル・フオルミヨルレル)
祭日 (ライネル・マリア・リルケ)
老人 (ライネル・マリア・リルケ)
駆落 (ライネル・マリア・リルケ)
破落戸の昇天 (フランツ・モルナル)
辻馬車 (フランツ・モルナル)
最終の午後 (フランツ・モルナル)
襟 (オシツプ・ヂユモツフ)
(以上九篇 墺太利)
パアテル・セルギウス (レオ・トルストイ)
樺太脱獄記 (コロレンコ)
(ドストエウスキイ)
センツアマニ (マクシム・ゴルキイ)
板ばさみ (オイゲン・チリコフ)
笑 (アルチバシエツフ)
死 (アルチバシエツフ)
フロルスと賊と (クスミン)
馬丁 (アレクセイ・トルストイ)
(以上九篇 露西亜)
うづしほ (エドガア・アルラン・ポオ)
病院横町の殺人犯 (エドガア・アルラン・ポオ)
十三時 (エドガア・アルラン・ポオ)
(以上三篇 亜米利加)
森鴎外(もり・おうがい)
一八六二(文久二)年一月一九日、石見国(島根県)津和野に、藩医静男と峰子の長男として生まれる。本名、林太郎。藩校養老館で漢籍・蘭学を学んだのち、一八七二(明治五)年上京。一八八一年東京医学学校(東大医学部)予科卒業。陸軍軍医となり、一八八四年ドイツへ留学。一八八八年帰国し、以後軍医学校校長、軍医総監等を歴任。この間、自ら創刊した『しがらみ草紙』等を舞台に「即興詩人」「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」「歴史其儘と歴史離れ」「審美論」等、翻訳、創作、評論、研究に目覚しい業績を残した。一九二二(大正一一)年七月九日萎縮腎のため没する。 本作品は一九九一年一二月、ちくま文庫に収録された。
なお、電子化にあたり解説は割愛した。
諸国物語(上)
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2002年10月25日 初版発行
訳者 森鴎外(もり・おうがい)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
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