目次
杯
普請中《ふしんちゅう》
カズイスチカ
妄想《もうぞう》
百物語
興《おき》津弥五《つやご》右衛門《えもん》の遺書
護持院原《ごじいんがはら》の敵討
山《さん》椒《しょう》大夫
二人の友
最後の一句
高《たか》瀬《せ》舟《ぶね》
高瀬舟縁《えん》起《ぎ》
『山椒太夫・高瀬舟』について(高橋義孝)
年譜
杯
温泉宿から皷《つづみ》が滝《たき》へ登って行く途中に、清《せい》冽《れつ》な泉が湧《わ》き出ている。
水は井《い》桁《げた》の上に凸面《とつめん》をなして、盛り上げたようになって、余ったのは四方へ流れ落ちるのである。
青い美しい苔《こけ》が井桁の外を掩《おお》うている。
夏の朝である。
泉を繞《めぐ》る木々の梢《こずえ》には、今まで立ち籠《こ》めていた靄《もや》が、まだちぎれちぎれになって残っている。
万斛《ばんこく》の玉を転《ころ》ばすような音をさせて流れている谷川に沿うて登る小道を、温泉宿の方から数人の人が登って来るらしい。
賑《にぎ》やかに話しながら近づいて来る。
小鳥が群がって囀《さえず》るような声である。
皆子供に違ない。女の子に違ない。
「早くいらっしゃいよ。いつでもあなたは遅れるのね。早くよ」
「待っていらっしゃいよ。石がごろごろしていて歩きにくいのですもの」
後《おく》れ先立つ娘の子の、同じような洗髪を結んだ、真赤な、幅の広いリボンが、ひらひらと蝶《ちょう》が群れて飛ぶように見えて来る。
これもお揃《そろい》の、藍色《あいいろ》の勝った湯帷子《ゆかた》の袖《そで》が翻《ひるがえ》る。足に穿《は》いているのも、お揃の、赤い端《はな》緒《お》の草履である。
「わたし一番よ」
「あら。ずるいわ」
先を争うて泉の傍《そば》に寄る。七人である。
年は皆十一二位に見える。きょうだいにしては、余り粒が揃っている。皆美しく、稍々《やや》なまめかしい。お友達であろう。
この七顆《か》の珊《さん》瑚《ご》の珠《たま》を貫くのは何の緒か。誰《たれ》が連れて温泉宿には来ているのだろう。
漂う白雲の間を漏れて、木々の梢を今一度漏れて、朝日の光が荒い縞《しま》のように泉の畔《ほとり》に差す。
真赤なリボンの幾つかが燃える。
娘の一人が口に銜《ふく》んでいる丹《たん》波《ば》酸漿《ほおずき》を膨《ふく》らませて出して、泉の真中に投げた。
凸面をなして、盛り上げたようになっている水の上に投げた。
酸漿は二三度くるくると廻って、井桁の外へ流れ落ちた。
「あら。直ぐにおっこってしまうのね。わたしどうなるかと思って、楽みにして遣《や》って見たのだわ」
「そりゃあおっこちるわ」
「おっこちるということが前から分っていて」
「分っていてよ」
「嘘《うそ》ばっかし」
打つ真似をする。藍染の湯帷子の袖が翻る。
「早く飲みましょう」
「そうそう。飲みに来たのだったわ」
「忘れていたの」
「ええ」
「まあ、いやだ」
手ん手に懐《ふところ》を捜《さぐ》って杯を取り出した。
青白い光が七本の手から流れる。
皆銀の杯である。大きな銀の杯である。
日が丁度一ぱいに差して来て、七つの杯はいよいよ耀《かがや》く。七条の銀の蛇《へび》が泉を繞って奔《はし》る。
銀の杯はお揃で、どれにも二字の銘がある。
それは自然の二字である。
妙な字体で書いてある。何か拠《よりどころ》があって書いたものか。それとも独創の文字か。
かわるがわる泉を汲《く》んで飲む。
濃い紅の唇《くちびる》を尖《とが》らせ、桃色の頬《ほお》を膨らませて飲むのである。
木立のところどころで、じいじいという声がする。蝉《せみ》が声を試みるのである。
白い雲が散ってしまって、日盛りになったら、山をゆする声になるのであろう。
この時只《ただ》一人坂道を登って来て、七人の娘の背後に立っている娘がある。
第八の娘である。
背は七人の娘より高い。十四五になっているのであろう。
黄金色の髪を黒いリボンで結んでいる。
琥《こ》珀《はく》のような顔から、サントオレアの花のような青い目が覗《のぞ》いている。永遠の驚を以《もっ》て自然を覗いている。
唇だけがほのかに赤い。
黒の縁《へり》を取った鼠色の洋服を着ている。
東洋で生れた西洋人の子か。それとも相《あい》の子《こ》か。
第八の娘は裳《も》のかくしから杯を出した。
小さい杯である。
どこの陶器か。火の坑《あな》から流れ出た熔巌《ようがん》の冷《さ》めたような色をしている。
七人の娘は飲んでしまった。杯を漬《つ》けた迹《あと》のコンサントリックな圏《わ》が泉の面に消えた。
凸面をなして、盛り上げたようになっている泉の面に消えた。
第八の娘は、藍染の湯帷子の袖と袖との間をわけて、井桁の傍に進み寄った。
七人の娘は、この時始てこの平和の破壊者のあるのを知った。
そしてその琥珀いろの手に持っている、黒ずんだ、小さい杯を見た。
思い掛けない事である。
七つの濃い紅の唇は開いたままで詞《ことば》がない。
蝉はじいじいと鳴いている。
良《やや》久しい間、只蝉の声がするばかりであった。
一人の娘がようようの事でこう云った。
「お前さんも飲むの」
声は訝《いぶかり》に少しの嗔《いかり》を帯びていた。
第八の娘は黙って頷《うなず》いた。
今一人の娘がこう云った。
「お前さんの杯は妙な杯ね。一寸《ちょっと》拝見」
声は訝に少しの侮《あなどり》を帯びていた。
第八の娘は黙って、その熔巌の色をした杯を出した。
小さい杯は琥珀いろの手の、腱《けん》ばかりから出来ているような指を離れて、薄紅のむっくりした、一つの手から他の手に渡った。
「まあ、変にくすんだ色だこと」
「これでも瀬戸物でしょうか」
「石じゃあないの」
「火事場の灰の中から拾って来たような物なのね」
「墓の中から掘り出したようだわ」
「墓の中は好かったね」
七つの喉《のど》から銀の鈴を振るような笑声が出た。
第八の娘は両臂《りょうひじ》を自然の重みで垂れて、サントオレアの花のような目は只じいっと空《くう》を見ている。
一人の娘が又こう云った。
「馬鹿に小さいのね」
今一人が云った。
「そうね。こんな物じゃあ飲まれはしないわ」
今一人が云った。
「あたいのを借《か》そうかしら」
愍《あわれみ》の声である。
そして自然の銘のある、耀く銀の、大きな杯を、第八の娘の前に出した。
第八の娘の、今まで結んでいた唇が、この時始て開かれた。
"MON. 《モン》VERRE. 《ヴエエル》N'EST. 《ネエ》PAS. 《パア》GRAND. 《グラン》MAIS. 《メエ》JE. 《ジュ》BOIS. 《ボア》DANS. 《ダン》MON. 《モン》VERRE"《ヴエエル》
沈んだ、しかも鋭い声であった。
「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴《いただ》きます」と云ったのである。
七人の娘は可哀らしい、黒い瞳《ひとみ》で顔を見合った。
言語が通ぜないのである。
第八の娘の両臂は自然の重みで垂れている。
言語は通ぜないでも好《い》い。
第八の娘の態度は第八の娘の意志を表白して、誤解すべき余地を留めない。
一人の娘は銀の杯を引っ込めた。
自然の銘のある、耀く銀の、大きな杯を引っ込めた。
今一人の娘は黒い杯を返した。
火の坑から湧き出た熔巌の冷めたような色をした、黒ずんだ、小さい杯を返した。
第八の娘は徐《しず》かに数滴の泉を汲んで、ほのかに赤い唇を潤した。
普《ふ》請《しん》中《ちゅう》
渡辺参事官は歌舞伎座の前で電車を降りた。
雨あがりの道の、ところどころに残っている水《みず》溜《た》まりを避けて、木挽町《こびきちょう》の河岸《かし》を、逓信《ていしん》省《しょう》の方へ行きながら、たしかこの辺の曲がり角に看板のあるのを見た筈《はず》だがと思いながら行く。
人通りは余り無い。役所帰りらしい洋服の男五六人のがやがや話しながら行くのに逢《あ》った。それから半衿《はんえり》の掛かった著物を著た、お茶屋の姉えさんらしいのが、何か近所へ用《よう》達《た》しにでも出たのか、小走りに摩《す》れ違った。まだ幌《ほろ》を掛けたままの人力車が一台跡《あと》から駈け抜けて行った。
果して精養軒ホテルと横に書いた、割に小さい看板が見附かった。
河岸通りに向いた方は板囲いになっていて、横町に向いた寂しい側面に、左右から横に登るように出来ている階段がある。階段は尖《さき》を切った三角形になっていて、その尖を切った処に戸口が二つある。渡辺はどれから這《は》入《い》るのかと迷いながら、階段を登って見ると、左の方の戸口に入口と書いてある。
靴が大《だい》分《ぶ》泥になっているので、丁寧に掃除をして、硝子《ガラス》戸《ど》を開けて這入った。中は広い廊下のような板敷で、ここには外にあるのと同じような、棕《しゅ》櫚《ろ》の靴拭《くつぬぐ》いの傍に雑巾《ぞうきん》が広げて置いてある。渡辺は、己《おれ》のようなきたない靴を穿《は》いて来る人が外にもあると見えると思いながら、又靴を掃除した。
あたりはひっそりとして人気がない。唯《ただ》少し隔たった処から騒がしい物音がするばかりである。大工が這入っているらしい物音である。外に板囲いのしてあるのを思い合せて、普請最中だなと思う。
誰も出迎える者がないので、真直《まっすぐ》に歩いて、衝《つ》き当って、右へ行こうか左へ行こうかと考えていると、やっとの事で、給仕らしい男のうろついているのに、出合った。
「きのう電話で頼んで置いたのだがね」
「は。お二人さんですか。どうぞお二階へ」
右の方へ登る梯子《はしご》を教えてくれた。すぐに二人前の注文をした客と分かったのは普請中殆《ほとん》ど休業同様にしているからであろう。この辺まで入り込んで見れば、ますます釘《くぎ》を打つ音や手斧《ちょうな》を掛ける音が聞えて来るのである。
梯子を登る跡から給仕が附いて来た。どの室かと迷って、背後《うしろ》を振り返りながら、渡辺はこう云った。
「大分賑《にぎ》やかな音がするね」
「いえ。五時には職人が帰ってしまいますから、お食事中騒々しいようなことはございません。暫《しばら》くこちらで」
先へ駈け抜けて、東向きの室の戸を開けた。這入って見ると、二人の客を通すには、ちと大き過ぎるサロンである。三所に小さい卓が置いてあって、どれをも四つ五つ宛の椅《い》子《す》が取り巻いている。東の右の窓の下にソファもある。その傍《そば》には、高さ三尺ばかりの葡《ぶ》萄《どう》に、暖室で大きい実をならせた盆栽が据えてある。
渡辺があちこち見廻していると、戸口に立ち留まっていた給仕が、「お食事はこちらで」と云って、左側の戸を開けた。これは丁度好い室である。もうちゃんと食卓が拵えて、アザレエやロドダンドロンを美しく組み合せた盛花《もりばな》の籠《かご》を真中にして、クウヴェエルが二つ向き合せて置いてある。今二人位は這入られよう、六人になったら少し窮屈だろうと思われる、丁度好い室である。
渡辺は稍《やや》満足してサロンへ帰った。給仕が食事の室から直ぐに勝手の方へ行ったので、渡辺は始てひとりになったのである。
金槌《かなづち》や手斧の音がぱったり止んだ。時計を出して見れば、成程《なるほど》五時になっている。約束の時刻までには、まだ三十分あるなと思いながら、小さい卓の上に封を切って出してある箱の葉巻を一本取って、尖を切って火を附けた。
不思議な事には、渡辺は人を待っているという心持が少しもしない。その待っている人が誰であろうと、殆ど構わない位である。あの花籠の向うにどんな顔が現れて来ようとも、殆ど構わない位である。渡辺はなぜこんな冷《れい》澹《たん》な心持になっていられるかと、自ら疑うのである。
渡辺は葉巻の烟《けむり》を緩《ゆる》く吹きながら、ソファの角の処の窓を開けて、外を眺めた。窓の直ぐ下には材木が沢山立て列《なら》べてある。ここが表口になるらしい。動くとも見えない水を湛《たた》えたカナルを隔てて、向側の人家が見える。多分待合《まちあい》か何かであろう。往来は殆ど絶えていて、その家の門に子を負うた女が一人ぼんやり佇《たたず》んでいる。右のはずれの方には幅広く視野を遮《さえぎ》って、海軍参考館の赤《あか》煉《れん》瓦《が》がいかめしく立ちはたかっている。
渡辺はソファに腰を掛けて、サロンの中を見廻した。壁の所々には、偶然ここで落ち合ったというような掛物が幾つも掛けてある。梅に鴬《うぐいす》やら、浦島が子やら、鷹《たか》やら、どれもどれも小さい丈《たけ》の短い幅《ふく》なので、天井の高い壁に掛けられたのが、尻《しり》を端折《はしょ》ったように見える。食卓の拵えてある室の入口を挾《はさ》んで、聯《れん》のような物の掛けてあるのを見れば、某大教正の書いた神代文字《じんだいもじ》というものである。日本は芸術の国ではない。
渡辺は暫く何を思うともなく、何を見聞くともなく、唯烟草《たばこ》を呑んで、体の快感を覚えていた。
廊下に足音と話声とがする。戸が開く。渡辺の待っていた人が来たのである。麦藁《むぎわら》の大きいアンヌマリイ帽に、珠数《じゅず》飾りをしたのを被《かぶ》っている。鼠色の長い著物式の上衣の胸から、刺繍《ししゅう》をした白いバチストが見えている。ジュポンも同じ鼠色である。手にはヴォランの附いた、おもちゃのような蝙蝠傘《こうもりがさ》を持っている。渡辺は無意識に微笑を粧《よそお》ってソファから起き上がって、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ち留まっている給仕を一《ちょ》寸《っと》見返って、その目を渡辺に移した。ブリュネットの女の、褐色の、大きい目である。この目は昔度度《たびたび》見たことのある目である。しかしその縁《ふち》にある、指の幅程な紫掛かった濃い暈《かさ》は、昔無かったのである。
「長く待たせて」
独逸《ドイツ》語である。ぞんざいな詞《ことば》と不《ふ》吊《つり》合《あい》に、傘を左の手に持ち替えて、おおように手袋に包んだ右の手の指尖《ゆびさき》を差し伸べた。渡辺は、女が給仕の前で芝居をするなと思いながら、丁寧にその指尖を撮《つ》まんだ。そして給仕にこう云った。
「食事の好い時はそう云ってくれ」
給仕は引っ込んだ。
女は傘を無造作にソファの上に投げて、さも疲れたようにソファへ腰を落して、卓に両《りょう》肘《ひじ》を衝いて、黙まって渡辺の顔を見ている。渡辺は卓の傍《そば》へ椅子を引き寄せて据わった。暫くして女が云った。
「大そう寂しい内ね」
「普請中なのだ。さっきまで恐ろしい音をさせていたのだ」
「そう。なんだか気が落ち著かないような処ね。どうせいつだって気の落ち著くような身の上ではないのだけど」
「一体いつどうして来たのだ」
「おとつい来て、きのうあなたにお目に掛かったのだわ」
「どうして来たのだ」
「去年の暮からウラジオストックにいたの」
「それじゃあ、あのホテルの中にある舞台で遣《や》っていたのか」
「そうなの」
「まさか一人じゃああるまい。組合か」
「組合じゃないが、一人でもないの。あなたも御承知の人が一しょなの」少しためらって。「コジンスキイが一しょなの」
「あのポラックかい。それじゃあお前はコジンスカアなのだな」
「嫌《いや》だわ。わたしが歌って、コジンスキイが伴奏をするだけだわ」
「それだけではあるまい」
「そりゃあ、二人きりで旅をするのですもの。まるっきり無しというわけには行きませんわ」
「知れた事さ。そこで東京へも連れて来ているのかい」
「ええ。一しょに愛宕山《あたごやま》に泊まっているの」
「好《よ》く放して出すなあ」
「伴奏させるのは歌だけなの」 Begleiten 《ベグライテン》という詞を使ったのである。伴奏ともなれば同行ともなる。「銀座であなたにお目に掛かったと云ったら、是非お目に掛かりたいと云うの」
「真平《まっぴら》だ」
「大丈夫よ。まだお金は沢山あるのだから」
「沢山あったって、使えば無くなるだろう。これからどうするのだ」
「アメリカへ行くの。日本は駄目だって、ウラジオで聞いて来たのだから、当《あて》にはしなくってよ」
「それが好《い》い。ロシアの次はアメリカが好かろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」
「あら。そんな事を仰《おっし》ゃると、日本の紳士がこう云ったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がと云いましょうか。あなた官吏でしょう」
「うむ。官吏だ」
「お行儀が好くって」
「恐ろしく好い。本当のフィリステルになり済ましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」
「難有《ありがた》いわ」さっきから幾つかの控鈕《ボタン》をはずしていた手袋を脱いで、卓越しに右の平手を出すのである。渡辺は真面目《まじめ》にその手をしっかり握った。手は冷たい。そしてその冷たい手が離れずにいて、暈《くま》の出来た為めに一倍大きくなったような目が、じっと渡辺の顔に注がれた。
「キスをして上げても好くって」
渡辺はわざとらしく顔を蹙《しか》めた。「ここは日本だ」
叩《たた》かずに戸を開けて、給仕が出て来た。
「お食事が宜《よろ》しゅうございます」
「ここは日本だ」と繰り返しながら渡辺は起《た》って、女を食卓のある室へ案内した。丁度電燈がぱっと附いた。
女はあたりを見廻して、食卓の向側に据わりながら、「シャンブル・セパレエ」と笑談《じょうだん》のような調子で云って、渡辺がどんな顔をするかと思うらしく、背伸びをして覗《のぞ》いて見た。盛花の籠が邪魔になるのである。
「偶然似ているのだ」渡辺は平気で答えた。
シェリイを注《つ》ぐ。メロンが出る。二人の客に三人の給仕が附き切りである。渡辺は「給仕の賑やかなのを御覧」と附け加えた。
「余り気が利《き》かないようね。愛宕山もやっぱりそうだわ」肘を張るようにして、メロンの肉を剥《は》がして食べながら云う。
「愛宕山では邪魔だろう」
「まるで見当違いだわ。それはそうと、メロンはおいしいことね」
「今にアメリカへ行くと、毎朝極《き》まって食べさせられるのだ」
二人は何の意味もない話をして食事をしている。とうとうサラドの附いたものが出て、杯にはシャンパニエが注がれた。
女が突然「あなた少しも妬《ねた》んでは下さらないのね」と云った。チェントラアルテァアテルがはねて、ブリュウル石階の上の料理屋の卓に、丁度こんな風に向き合って据わっていて、おこったり、中直りをしたりした昔の事を、意味のない話をしていながらも、女は想い浮べずにはいられなかったのである。女は笑談のように言おうと心に思ったのが、図らずも真面目に声に出たので、悔やしいような心持がした。
渡辺は据わったままに、シャンパニエの杯を盛花より高く上げて、はっきりした声で云った。
"Kosinski 《コジンスキイ》soll 《ゾル》leben! " 《レエベン》
凝り固まったような微笑を顔に見せて、黙ってシャンパニエの杯を上げた女の手は、人には知れぬ程顫《ふる》っていた。
* * *
まだ八時半頃であった。燈火の海のような銀座通を横切って、ヴェエルに深く面《おもて》を包んだ女を載せた、一輛の寂しい車が芝の方へ駈けて行った。
カズイスチカ
父が開業をしていたので、花房《はなぶさ》医学士は卒業する少し前から、休課に父の許《もと》へ来ている間は、代診の真似事《まねごと》をしていた。
花房の父の診察所は大千住《おおせんじゅ》にあったが、小金井きみ子という女が「千住の家」というものを書いて、委《くわ》しくこの家の事を叙述しているから、loco 《ロコ》citato 《チタト》としてここには贅《ぜい》せない。 Monet 《モネエ》なんぞは同じ池に同じ水草の生《は》えている処を何遍も書いていて、時候が違い、天気が違い、一日のうちでも朝夕の日当りの違うのを、人に味《あじわ》わせるから、一枚見るよりは較べて見る方が面白い。それは巧妙な芸術家の事である。同じモデルの写生を下手《へた》に繰り返されては、たまったものではない。ここらで省筆《せいひつ》をするのは、読者に感謝して貰《もら》っても好《い》い。
尤《もっと》もきみ子はあの家の歴史を書いていなかった。あれを建てた緒《お》方《がた》某《ぼう》は千住の旧家で、徳川将軍が鷹狩《たかがり》の時、千住で小休みをする度《たび》毎《ごと》に、緒方の家が御用を承わることに極《き》まっていた。花房の父があの家をがらくたと一しょに買い取った時、天井裏から長さ三尺ばかりの細長い箱が出た。蓋《ふた》に御鋪物《おんしきもの》と書いてある。御鋪物とは将軍の鋪物である。今は花房の家で、その箱に掛物が入れてある。
火事にも逢《あ》わずに、だいぶ久しく立っている家と見えて、頗《すこ》ぶる古びが附いていた。柱なんぞは黒檀《こくたん》のように光っていた。硝子《ガラス》の器を載せた春慶塗《しゅんけいぬり》の卓や、白いシイツを掩《おお》うた診察用の寝《ね》台《だい》が、この柱と異様なコントラストをなしていた。
この卓や寝台の置いてある診察室は、南向きの、一番広い間で、花房の父が大きい雛棚《ひなだな》のような台を据えて、盆栽を並べて置くのは、この室の前の庭であった。病人を見て疲れると、この髯《ひげ》の長い翁《おきな》は、目を棚の上の盆栽に移して、私《ひそ》かに自ら娯《たのし》むのであった。
待合《まちあい》にしてある次の間には幾ら病人が溜《た》まっていても、翁は小さい煙管《きせる》で雲井を吹かしながら、ゆっくり盆栽を眺《なが》めていた。
午前に一度、午後に一度は、極まって三十分ばかり休む。その時は待合の病人の中を通り抜けて、北向きの小部屋に這《は》入《い》って、煎茶《せんちゃ》を飲む。中年の頃、石州流の茶をしていたのが、晩年に国を去って東京に出た頃から碾茶《ひきちゃ》を止《や》めて、煎茶を飲むことにした。盆栽と煎茶とが翁の道楽であった。
この北向きの室は、家じゅうで一番狭い間で、三畳敷である。何の手入もしないに、年々宿根《しゅくこん》が残っていて、秋海棠《しゅうかいどう》が敷居と平らに育った。その直ぐ向うは木槿《もくげ》の生垣《いけがき》で、垣の内側には疎《まば》らに高い棕《しゅ》櫚《ろ》が立っていた。
花房が大学にいる頃も、官立病院に勤めるようになってからも、休日に帰って来ると、先《ま》ずこの三畳で煎茶を飲ませられる。当時八犬伝に読み耽《ふけ》っていた花房は、これをお父うさんの「三茶の礼」と名づけていた。
翁が特に愛していた、蝦蟇出《がまで》という朱泥《しゅでい》の急須《きゅうす》がある。径《わたり》二寸もあろうかと思われる、小さい急須の代赭色《たいしゃいろ》の膚《はだえ》に Pemphigus 《ペンフィグス》という水泡《すいほう》のような、大小種々の疣《いぼ》が出来ている。多分焼く時に出来損ねたのであろう。この蝦蟇出の急須に絹糸の切屑《きりくず》のように細かくよじれた、暗緑色の宇治茶を入れて、それに冷ました湯を注《つ》いで、暫《しばら》く待っていて、茶碗《ちゃわん》に滴《た》らす。茶碗の底には五立方サンチメエトル位の濃い帯緑黄色の汁が落ちている。花房はそれを舐《な》めさせられるのである。
甘みは微《かす》かで、苦みの勝ったこの茶をも、花房は翁の微笑と共に味わって、それを埋合せにしていた。
或日こう云う対坐の時、花房が云った。
「お父うさん。わたくしも大分理窟だけは覚えました。少しお手伝をしましょうか」
「そうじゃろう。理窟はわしよりはえらいに違いない。むずかしい病人があったら、見て貰おう」
この話をしてから、花房は病人をちょいちょい見るようになったのであった。そして翁の満足を贏《か》ち得ることも折々あった。
翁の医学は Hufeland 《フウフェランド》の内科を主としたもので、その頃もう古くなって用立たないことが多かった。そこで翁は新しい翻訳書を幾らか見るようにしていた。素《も》とフウフェランドは蘭訳《らんやく》の書を先輩の日本訳の書に引き較べて見たのであるが、新しい蘭書を得ることが容《た》易《やす》くなかったのと、多くの障碍《しょうがい》を凌《しの》いで横文《おうぶん》の書を読もうとする程の気力がなかったのとの為《た》めに、昔読み馴れた書でない洋書を読むことを、翁は面倒がって、とうとう翻訳書ばかり見るようになったのである。ところが、その翻訳書の数《かず》が多くないのに、善い訳は少ないので、翁の新しい医学の上の智識には頗《すこぶ》る不十分な処がある。
防腐外科なんぞは、翁は分っている積りでも、実際本当には分からなかった。丁寧に消毒した手を有合《ありあわせ》の手拭《てぬぐい》で拭《ふ》くような事が、いつまでも止まなかった。
これに反して、若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種の Coup 《クウ》 d'マil 《ドヨイユ》であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬる。それが花房にはどう見ても分からなかった。
只これだけなら、少花房が経験の上で老花房に及ばないと云うに過ぎないが、実はそうでは無い。翁の及ぶべからざる処が別に有ったのである。
翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以《もっ》て病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽をも翫《もてあそ》んでいる時もその通りである。茶を啜《すす》っている時もその通りである。
花房学士は何かしたい事若《もし》くはする筈《はず》の事があって、それをせずに姑《しばら》く病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病だとつまらなく思う。Int屍essant 《エントレッサン》の病症でなくては厭《あ》き足らなく思う。又偶々《たまたま》所謂《いわゆる》興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論《もちろん》発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。或時は何物かが幻影の如くに浮んでも、捕捉することの出来ないうちに消えてしまう。女の形をしている時もある。種々の栄華の夢になっている時もある。それかと思うと、その頃碧巌《へきがん》を見たり無《む》門《もん》関《かん》を見たりしていたので、禅定《ぜんじょう》めいた contemplatif 《コンタンプラチイフ》な観念になっている時もある。とにかく取留めのないものであった。それが病人を見る時ばかりではない。何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。
そして花房はその分からない或物が何物だということを、強《し》いて分からせようともしなかった。唯《ただ》或時はその或物を幸福というものだと考えて見たり、或時はそれを希望ということに結び付けて見たりする。その癖又それを得れば成功で、失えば失敗だというような処までは追求しなかったのである。
しかしこの或物が父に無いということだけは、花房も疾《とっ》くに気が付いて、初めは父がつまらない、内容の無い生活をしているように思って、それは老人だからだ、老人のつまらないのは当然だと思った。そのうち、熊沢蕃《くまざわばん》山《ざん》の書いたものを読んでいると、志を得て天下国家を事とするのも道を行うのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳《くしけず》ったりするのも道を行うのであるという意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生《へいぜい》を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好《い》い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場《しゅくば》の医者たるに安んじている父の r市ignation 《レジニアシヨン》の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気《おぼろげ》ながら見えて来た。そしてその時から遽《にわか》に父を尊敬する念を生じた。
実際花房の気の付いた通りに、翁の及び難いところはここに存《そん》じていたのである。
花房は大学を卒業して官吏になって、半年ばかりも病院で勤めていただろう。それから後は学校教師になって、Laboratorium 《ラボラトリウム》に出入《しゅつにゅう》するばかりで、病人というものを扱った事が無い。それだから花房の記憶には、いつまでも千住の家で、父の代診をした時の事が残っている。それが医学をした花房の医者らしい生活をした短い期間であった。
その花房の記憶に僅《わず》かに残っている事を二つ三つ書く。一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬《ぜいたくぐすり》を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均《ひと》しくこれ casus 《カズス》である。Cusus 《カズス》として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosa 《クリオザ》が残っている。作者が漫然と医者の術語を用いて、これに Casuistica 《カズイスチカ》と題するのは、花房の冤枉《えんおう》とする所かも知れない。
落架風《らっかふう》。花房が父に手伝をしようと云ってから、間のない時の事であった。丁度新年で、門口に羽根を衝《つ》いていた、花房の妹の藤子が、きゃっと云って奥の間へ飛び込んで来た。花月新誌の新年号を見ていた花房が、なんだと問うと、恐ろしい顔の病人が来たと云う。どんな顔かと問えば、只食い附きそうな顔をしていたから、二目と見ずに逃げて這入ったと云う。そこへ佐藤という、色の白い、髪を長くしている、越《えち》後《ご》生れの書生が来て花房に云った。
「老先生が一寸《ちょっと》お出《いで》下さるようにと仰《おっし》ゃいますが」
「そうか」
と云って、花房は直ぐに書生と一しょに広間に出た。
春慶塗の、楕《だ》円《えん》形《けい》をしている卓の向うに、翁はにこにこした顔をして、椅《い》子《す》に倚《よ》り掛かっていたが、花房に「あの病人を御覧」と云って、顔で方角を示した。
寝《ね》台《だい》の据えてあるあたりの畳の上に、四十《しじゅう》余りのお上《かみ》さんと、二十《はたち》ばかりの青年とが据わっている。藤子が食い付きそうだと云ったのは、この青年の顔であった。
色の蒼白《あおじろ》い、面長《おもなが》な男である。下顎《したあご》を後《こう》下《か》方《ほう》へ引っ張っているように、口を開《あ》いているので、その長い顔が殆《ほとん》ど二倍の長さに引き延ばされている。絶えず涎《よだれ》が垂れるので、畳んだ手拭で腮《あご》を拭いている。顔位の狭い面積の処で、一部を強く引っ張れば、全体の形が変って来る。醜くくはない顔の大きい目が、外《がい》眦《さい》を引き下げられて、異様に開《ひら》いて、物に驚いたように正面を凝視している。藤子が食い付きそうだと云ったのも無理は無い。
附き添って来たお上さんは、目の縁《ふち》を赤くして、涙声で一度翁に訴えた通りを又花房に訴えた。
お上さんの内には昨夜《ゆうべ》骨牌会《かるたかい》があった。息子さんは誰《たれ》やらと札の引張合いをして勝ったのが愉快だというので、大声に笑った拍子に、顎が両方一度に脱《はず》れた。それから大騒ぎになって、近所の医者に見て貰ったが、嵌《は》めてはくれなかった。このままで直らなかったらどうしようというので、息子よりはお上さんが心配して、とうとう寐《ね》られなかったというのである。
「どうだね」
と、翁は微笑《ほほえ》みながら、若い学士の顔を見て云った。
「そうですね。診断は僕もお上さんに同意します。両側下顎脱臼《りょうそくかがくだっきゅう》です。昨夜《ゆうべ》脱臼したのなら、直ぐに整復が出来る見込です」
「遣《や》って御覧」
花房は佐藤にガアゼを持って来させて、両手の拇指《おやゆび》を厚く巻いて、それを口に挿《さ》し入れて、下顎を左右二箇所で押えたと思うと、後部を下へぐっと押し下げた。手を緩《ゆる》めると、顎は見事に嵌まってしまった。
二十の涎繰《よだれく》りは、今まで腮を押えていた手拭で涙を拭いた。お上さんも袂《たもと》から手拭を出して嬉《うれ》し涙を拭いた。
花房はしたり顔に父の顔を見た。父は相変らず微笑んでいる。
「解剖を知っておるだけの事はあるのう。始てのようではなかった」
親子が喜び勇んで帰った迹《あと》で、翁は語《ことば》を続《つ》いでこう云った。
「下顎の脱臼は昔は落架風と云って、或る大家は整復の秘密を人に見られんように、大《おお》風《ぶ》炉《ろ》敷《しき》を病人の頭から被《かぶ》せて置いて、術を施したものだよ。骨の形さえ知っていれば秘密は無い。皿の前の下へ向いて飛び出している処を、背後《うしろ》へ越させるだけの事だ。学問は難有《ありがた》いものじゃのう」
一枚板。これは夏のことであった。瓶有村《かめありむら》の百姓が来て、倅《せがれ》が一枚板になったから、来て見て貰いたいと云った。佐藤が色々容態を問うて見ても、只繰り返して一枚板になったというばかりで、その外にはなんにも言わない。言うすべを知らないのであろう。翁は聞いて、丁度暑中休みで帰っていた花房に、なんだか分からないが、余り珍らしい話だから、往って見る気は無いかと云った。
花房は別に面白い事があろうとも思わないが、訴えの詞《ことば》に多少の好奇心を動かされないでもない。とにかく自分が行くことにした。
蒸暑い日の日盛りに、車で風を切って行くのは、却《かえっ》て内にいるよりは好い心持であった。田と田との間に、堤のように高く築き上げてある、長い長い畷道《なわてみち》を、汗を拭きながら挽《ひ》いて行く定吉に「暑かろうなあ」と云えば「なあに、寝ていたって、暑いのは同じ事でさあ」と云う。一本一本の榛《はん》の木から起る蝉《せみ》の声に、空気の全体が微《かす》かに顫《ふる》えているようである。
三時頃に病家に著いた。杉の生垣《いけがき》の切れた処に、柴《し》折《おり》戸《ど》のような一枚の扉《とびら》を取り付けた門を這入ると、土を堅く踏み固めた、広い庭がある。穀物を扱う処である。乾き切った黄いろい土の上に日が一ぱいに照っている。狭く囲まれた処に這入ったので、蝉の声が耳を塞《ふさ》ぎたい程やかましく聞える。その外には何の物音もない。村じゅうが午休《ひるやす》みをしている時刻なのである。
庭の向うに、横に長方形に立ててある藁葺《わらぶき》の家が、建具を悉《ことごと》くはずして、開け放ってある。東京近在の百姓家の常で、向って右に台所や土間が取ってあって左の可なり広い処を畳敷にしてあるのが、只一目に見渡される。
縁側なしに造った家の敷居、鴨《かも》居《い》から柱、天井、壁、畳まで、bitume 《ビチュウム》の勝った画のように、濃淡種々の茶褐色に染まっている。正面の背景になっている、濃い褐色に光っている戸棚の板戸の前に、煎餅布団《せんべいぶとん》を敷いて、病人が寝かしてある。家族の男女が三四人、涅《ね》槃《はん》図《ず》を見たように、それを取り巻いている。まだ余りよごれていない、病人の白地の浴衣《ゆかた》が真白に、西洋の古い戦争の油画で、よく真中にかいてある白馬のように、目を刺《し》戟《げき》するばかりで、周囲の人物も皆褐色である。
「お医者様が来ておくんなされた」
と誰やらが云ったばかりで、起《た》って出迎えようともしない。男も女も熱心に病人を目守《まも》っているらしい。
花房の背後《うしろ》に附いて来た定吉は、左の手で汗を拭きながら、提《さ》げて来た薬籠《やくろう》の風炉敷包を敷居の際《きわ》に置いて、台所の先きの井戸へ駈けて行った。直ぐにきいきいと轆《ろく》轤《ろ》の軋《きし》る音、ざっざっと水を翻《こぼ》す音がする。
花房は暫《しばら》く敷居の前に立って、内の様子を見ていた。病人は十二三の男の子である。熱帯地方の子供かと思うように、ひどく日に焼けた膚の色が、白地の浴衣で引っ立って見える。筋肉の緊《し》まった、細く固く出来た体だということが一目で知れる。
暫く見ていた花房は、駒《こま》下《げ》駄《た》を脱ぎ棄てて、一足敷居の上に上がった。その刹《せつ》那《な》の事である。病人は釣り上げた鯉《こい》のように、煎餅布団の上で跳ね上がった。
花房は右の片足を敷居に踏み掛けたままで、はっと思って、左を床の上へ運ぶことを躊躇《ちゅうちょ》した。
横に三畳の畳を隔てて、花房が敷居に踏み掛けた足の撞突《とうとつ》が、波動を病人の体に及ぼして、微細な刺戟が猛烈な全身の痙攣《けいれん》を誘《いざな》い起したのである。
家族が皆じっとして据わっていて、起って客を迎えなかったのは、百姓の礼儀を知らない為めばかりではなかった。
診断は左の足を床の上に運ぶ時に附いてしまった。破傷風である。
花房はそっと傍《そば》に歩み寄った。そして手を触れずに、やや久しく望診していた。一枚の浴衣を、胸をあらわして著ているので、殆《ほとん》ど裸体も同じ事である。全身の筋肉が緊縮して、体は板のようになっていて、それが周囲のあらゆる微細な動揺に反応《はんおう》して、痙攣を起す。これは学術上の現症記事ではないから、一々の徴候は書かない。しかし卒業して間もない花房が、まだ頭にそっくり持っていた、内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺《わす》れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。鼻の頭に真珠を並べたように滲《し》み出している汗までが、約束通りに、遺れられずにいた。
一枚板とは実に簡にして尽した報告である。智識の私《わたくし》に累せられない、純樸《じゅんぼく》な百姓の自然の口からでなくては、こんな詞《ことば》の出ようが無い。あの報告は生活の印象主義者の報告であった。
花房は八犬伝の犬塚信乃《いぬづかしの》の容体に、少しも破傷風らしい処が無かったのを思い出して、心の中《うち》に可笑《おか》しく思った。
傍《そば》にいた両親の交《かわ》る交《がわ》る話すのを聞けば、この大切な一人息子は、夏になってから毎日裏の池で泳いでいたということである。体中に掻《か》きむしったような痍《きず》の絶えない男の子であるから、病原菌の侵入口はどこだか分からなかった。
花房は興味ある casus 《カズス》だと思って、父に頼んでこの病人の治療を一人で受け持った。そしてその経過を見に、度々瓶有村の農家へ、炎天を侵《おか》して出掛けた。途中でひどい夕立に逢《あ》って困った事もある。
病人は恐ろしい大量の Chloral 《クロラアル》を飲んで平気でいて、とうとう全快してしまった。
生理的腫瘍《しゅよう》。秋の末で、南向きの広間の前の庭に、木葉が掃いても掃いても溜《た》まる頃であった。丁度土曜日なので、花房は泊り掛けに父の家へ来て、診察室の西南《にしみなみ》に新しく建て増した亜鉛葺《トタンぶき》の調剤室と、その向うに古い棗《なつめ》の木の下に建ててある同じ亜鉛葺の車小屋との間の一坪ばかりの土地に、その年沢山実のなった錦茘支《れいし》の蔓《つる》の枯れているのをむしっていた。
その時調剤室の硝子窓《ガラスまど》を開けて、佐藤が首を出した。
「一寸《ちょっと》若先生に御覧を願いたい患者がございますが」
「むずかしい病気なのかね。もうお父《と》っさんが帰ってお出《いで》になるだろうから、待《また》せて置けば好《い》いじゃないか」
「しかしもうだいぶ長く待せてあります。今日の最終の患者ですから」
「そうか。もう跡《あと》は皆《みん》な帰ったのか。道理でひどく静かになったと思った。それじゃあ余り待たせても気の毒だから、僕が見ても好い。一体どんな病人だね」
「もう土地の医師の処を二三軒廻って来た婦人の患者です。最初誰かに脹満《ちょうまん》だと云われたので、水を取って貰うには、外科のお医者が好かろうと思って、誰かの処へ行くと、どうも堅いから癌《がん》かも知れないと云って、針を刺してくれなかったと云うのです」
「それじゃあ腹水か、腹腔《ふくこう》の腫瘍かという問題なのだね。君は見たのかい」
「ええ。波動はありません。既往症を聞いて見ても、肝臓に何か来そうな、取り留めた事実もないのです。酒はどうかと云うと、厭《いや》ではないと云います。はてなと思って好く聞いて見ると、飲んでも二三杯だと云うのですから、まさか肝臓に変化を来《きた》す程のこともないだろうと思います。栄養は中等です。悪性腫瘍らしい処は少しもありません」
「ふん。とにかく見よう。今手を洗って行くから、待ってくれ給え。一体医者が手をこんなにしてはたまらないね、君」
花房は前へ出した両手の指のよごれたのを、屈《かが》めて広げて、人に掴《つか》み付きそうな風をして、佐藤に見せて笑っている。
佐藤が窓を締めて引っ込んでから、花房はゆっくり手を洗って診察室に這入った。
例の寝台の脚《あし》の処に、二十二三の櫛巻《くしまき》の女が、半襟《はんえり》の掛かった銘撰《めいせん》の半纏《はんてん》を着て、絹のはでな前掛を胸高《むなだか》に締めて、右の手を畳に衝《つ》いて、体を斜にして据わっていた。
琥《こ》珀《はく》色《いろ》を帯びた円い顔の、目の縁《ふち》が薄赤い。その目でちょいと花房を見て、直ぐに下を向いてしまった。Cliente 《クリアント》としてこれに対している花房も、ひどく媚《こび》のある目だと思った。
「寝台に寝させましょうか」
と、附いて来た佐藤が、知れ切った事を世話焼顔に云った。
「そう」
若先生に見て戴《いただ》くのだからと断って、佐藤が女に再び寝台に寝ることを命じた。女は壁の方に向いて、前掛と帯と何本かの紐《ひも》とを、随分気長に解いている。
「先生が御覧になるかも知れないと思って、さっきそのままで待っているように云っといたのですが」
と、佐藤は言分けらしくつぶやいた。掛布団もない寝台の上でそのまま待てとは女の心を知らない命令であったかも知れない。
女は寝た。
「膝《ひざ》を立てて、楽に息をしてお出《いで》」
と云って、花房は暫く擦《す》り合せていた両手の平を、女の腹に当てた。そしてちょいと押えて見たかと思うと「聴診器を」と云った。
花房は佐藤の卓の上から取って渡す聴診器を受け取って、臍《へそ》の近処に当てて左の手で女の脈を取りながら、聴診していたが「もう宜《よろ》しい」と云って寝台を離れた。
女は直ぐに着物の前を掻き合せて、起き上がろうとした。
「ちょっとそうして待っていて下さい」
と、花房が止めた。
花房に黙って顔を見られて、佐藤は機《き》嫌《げん》を伺うように、小声で云った。
「なんでございましょう」
「腫瘍は腫瘍だが、生理的腫瘍だ」
「生理的腫瘍」
と、無意味に繰り返して、佐藤は呆《あき》れたような顔をしている。
花房は聴診器を佐藤の手に渡した。
「ちょっと聴いて見給え。胎児の心音が好く聞える。手の脈と一致している母体の心音よりは度数が早いからね」
佐藤は黙って聴診してしまって、忸《じく》怩《じ》たるものがあった。
「よく話して聞《きか》せて遣《や》ってくれ給え。まあ、套管針《とうかんしん》なんぞを立てられなくて為《し》合《あわ》せだった」
こう云って置いて、花房は診察室を出た。
子が無くて夫に別れてから、裁縫をして一人で暮している女なので、外の医者は妊娠《にんしん》に気が附かなかったのである。
この女の家の門口に懸《か》かっている「御《おん》仕立物」とお家流《いえりゅう》で書いた看板の下を潜《くぐ》って、若い小学教員が一人度々出入をしていたということが、後《のち》になって評判せられた。
妄《もう》想《ぞう》
目前には広々と海が横《よこた》わっている。
その海から打ち上げられた砂が、小山のように盛り上がって、自然の堤防を形づくっている。アイルランドとスコットランドとから起って、ヨオロッパ一般に行われるようになったd從 《ドュウン》という語《ことば》は、こういう処を斥《さ》して言うのである。
その砂山の上に、ひょろひょろした赤松が簇《むら》がって生《は》えている。余り年を経た松ではない。
海を眺めている白髪の主人は、この松の幾本かを切って、松林の中へ嵌《は》め込んだように立てた小家の一間に据わっている。
主人が元《も》と世に立ち交っている頃に、別荘の真似事《まねごと》のような心持で立てたこの小家は、只《ただ》二間と台所とから成り立っている。今据わっているのは、東の方一面に海を見晴らした、六畳の居間である。
据わっていて見れば、砂山の岨《そわ》が松の根に縦横に縫われた、殆《ほとん》ど鉛直な、所々中窪《なかくぼ》に崩《くず》れた断面になっているので、只果《はて》もない波だけが見えているが、この山と海との間には、一筋の河水《かわみず》と一帯の中《なか》洲《す》とがある。
河は迂《う》回《かい》して海に灌《そそ》いでいるので、岨の下では甘い水と鹹《から》い水とが出合っているのである。
砂山の背後《うしろ》の低い処には、漁業と農業とを兼ねた民家が疎《まばら》に立っているが、砂山の上には主人の家が只一軒あるばかりである。
いつやらの暴風に漁船が一艘《そう》跳ね上げられて、松林の松の梢《こずえ》に引っ懸《かか》っていたという話のあるこの砂山には、土地のものは恐れて住まない。
河は上総《かずさ》の夷《い》《しみ》川《がわ》である。海は太平洋である。
秋が近くなって、薄靄《うすもや》の掛かっている松林の中の、清い砂を踏んで、主人はそこらを一廻《めぐ》りして来て、八十八《やそはち》という老僕の拵《こしら》えた朝《あさ》餉《げ》をしまって、今自分の居間に据わったところである。
あたりはひっそりしていて、人の物を言う声も、犬の鳴く声も聞えない。只朝凪《あさなぎ》の浦の静かな、鈍い、重くろしい波の音が、天地の脈搏《みゃくはく》のように聞えているばかりである。
丁度径《わたり》一尺位に見える橙黄色《とうおうしょく》の日輪が、真向うの水と空と接した処から出た。水平線を基線にして見ているので、日はずんずん升《のぼ》って行くように感ぜられる。
それを見て、主人は時間ということを考える。生ということを考える。死ということを考える。
「死は哲学の為《た》めに真の、気息を嘘《ふ》き込む神である。導きの神(Musagetes)である」とSchopenhauer 《ショオペンハウエル》は云った。主人はこの語《ことば》を思い出して、それはそう云っても好かろうと思う。しかし死というものは、生というものを考えずには考えられない。死を考えるというのは生が無くなると考えるのである。
これまで種々の人の書いたものを見れば、大抵老が迫って来るに連れて、死を考えるということが段々切実になると云っている。主人は過去の経歴を考えて見るに、どうもそういう人々とは少し違うように思う。
* * *
自分がまだ二十代で、全く処女のような官能を以《もっ》て、外界《がいかい》のあらゆる出来事に反応《はんおう》して、内には嘗《かつ》て挫《ざ》折《せつ》したことのない力を蓄《たくわ》えていた時の事であった。自分は伯林《ベルリン》にいた。列強の均衡を破って、独逸《ドイツ》という野蛮な響《ひびき》の詞《ことば》にどっしりした重みを持たせたウィルヘルム第一世がまだ位におられた。今のウィルヘルム第二世のように、dセmonisch 《デモオニシュ》な威力を下《しも》に加えて、抑えて行かれるのではなくて、自然の重みの下《もと》に社会民政党は喘《あえ》ぎ悶《もだ》えていたのである。劇場では Ernst 《エルンスト》 von 《フォン》 Wildenbruch 《ヴィルデンブルツホ》が、あの Hohenzollern 《ホオヘンツォルレルン》家《け》の祖先を主人公にした脚本を興行させて、学生仲間の青年の心を支配していた。
昼は講堂や Laboratorium 《ラボラトリウム》で、生き生きした青年の間に立ち交って働く。何事にも不器用で、癡重《ちちょう》というような処のある欧羅巴《ヨオロッパ》人を凌《しの》いで、軽捷《けいしょう》に立ち働いて得意がるような心も起る。夜は芝居を見る。舞踏場にゆく。それから珈琲《コオフィイ》店に時刻を移して、帰り道には街燈だけが寂しい光を放って、馬車を乗り廻す掃除人足が掃除をし始める頃にぶらぶら帰る。素直に帰らないこともある。
さて自分の住む宿に帰り着く。宿と云っても、幾竈《いくかまど》もあるおお家《いえ》の入口の戸を、邪魔になる大鍵《おおかぎ》で開けて、三階か四階へ、蝋《ろう》マッチを擦《す》り擦り登って行って、ようよう chambre 《シャンブル》garnie 《ガルニイ》の前に来るのである。
高机一つに椅《い》子《す》二つ三つ。寝《ね》台《だい》に箪《たん》笥《す》に化粧棚。その外にはなんにもない。火を点《とも》して着物を脱いで、その火を消すと直ぐ、寝台の上に横になる。
心の寂しさを感ずるのはこういう時である。それでも神経の平穏な時は故郷の家の様子が俤《おもかげ》に立って来るに過ぎない。その幻を見ながら寐《ね》入《い》る。Nostalgia 《ノスタルギア》は人生の苦痛の余り深いものではない。
それがどうかすると寐附かれない。又起きて火を点して、為《し》事《ごと》をして見る。為事に興が乗って来れば、余念もなく夜を徹してしまうこともある。明方近く、外に物音がし出してから一寸《ちょっと》寐ても、若い時の疲労は直ぐ恢復《かいふく》することが出来る。
時としてはその為事が手に附かない。神経が異様に興奮して、心が澄み切っているのに、書物を開《あ》けて、他人の思想の跡を辿《たど》って行くのがもどかしくなる。自分の思想が自由行動を取って来る。自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしていて、exact 《エクサクト》な学問ということを性命《せいめい》にしているのに、なんとなく心の飢を感じて来る。生というものを考える。自分のしている事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思う。
生れてから今日まで、自分は何をしているか。始終何物かに策《むち》うたれ駆られているように学問ということに齷齪《あくせく》している。これは自分に或る働きが出来るように、自分を為《し》上《あ》げるのだと思っている。その目的は幾分か達せられるかも知れない。しかし自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後《うしろ》に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。策うたれ駆られてばかりいる為めに、その何物かが醒覚《せいかく》する暇がないように感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一《ちょ》寸《っと》舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後《うしろ》の何物かの面目を覗《のぞ》いて見たいと思い思いしながら、舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役が即ち生だとは考えられない。背後《うしろ》にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。しかしその或る物は目を醒《さ》まそう醒まそうと思いながら、又してはうとうとして眠ってしまう。この頃折々切実に感ずる故郷の恋しさなんぞも、浮草が波に揺られて遠い処へ行って浮いているのに、どうかするとその揺れるのが根に響くような感じであるが、これは舞台でしている役の感じではない。しかしそんな感じは、一寸頭を挙げるかと思うと、直ぐに引っ込んでしまう。
それとは違って、夜寐られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終るのかと思うことがある。それからその生涯というのも長いか短いか知れないと思う。丁度その頃留学生仲間が一人窒扶斯《チフス》になって入院して死んだ。講義のない時間に、Charit 《シャリテエ》へ見舞に行くと、伝染病室の硝子《ガラス》越しに、寐ているところを見せて貰《もら》うのであった。熱が四十度を超過するので、毎日冷水浴をさせるということであった。そこで自分は医学生だったので、どうも日本人には冷水浴は危険だと思って、外のものにも相談して見たが、病院に入れて置きながら、そこの治療方鍼《ほうしん》に容喙《ようかい》するのは不都合であろうし、よしや言ったところで採用せられはすまいというので、傍観していることになった。そのうち或る日見舞に行くと昨夜《ゆうべ》死んだということであった。その男の死顔を見たとき、自分はひどく感動して、自分もいつどんな病に感じて、こんな風に死ぬるかも知れないと、ふと思った。それからは折々このまま伯林《ベルリン》で死んだらどうだろうと思うことがある。
そういう時は、先ず故郷で待っている二親《ふたおや》がどんなに歎くだろうと思う。それから身近い種々の人の事を思う。中《うち》にも自分にひどく懐《なつ》いていた、頭の毛のちぢれた弟の、故郷を立つとき、まだやっと歩いていたのが、毎日毎日兄いさんはいつ帰るかと問うということを、手紙で言ってよこされている。その弟が、若《も》し兄いさんはもう帰らないと云われたら、どんなにか歎くだろうと思う。
それから留学生になっていて、学業が成らずに死んでは済まないと思う。しかし抽象的にこう云う事を考えているうちは、冷《ひやや》かな義務の感じのみであるが、一人一人具体的に自分の値《ち》遇《ぐう》の跡を尋ねて見ると、やはり身近い親戚《しんせき》のように、自分に Neigung 《ナイグング》からの苦痛、情の上の感じをさせるようにもなる。
こういうように広狭種々の social 《ソチアル》な繋累《けいるい》的思想が、次第もなく簇《むら》がり起って来るが、それがとうとう individuell 《インジヴィズエル》な自我の上に帰着してしまう。死というものはあらゆる方角から引っ張っている糸の湊合《そうごう》している、この自我というものが無くなってしまうのだと思う。
自分は小さい時から小説が好きなので、外国語を学んでからも、暇があれば外国の小説を読んでいる。どれを読んで見てもこの自我が無くなるということは最も大いなる最も深い苦痛だと云ってある。ところが自分には単に我《われ》が無くなるということだけならば、苦痛とは思われない。只刃物で死んだら、その刹《せつ》那《な》に肉体の痛みを覚えるだろうと思い、病や薬で死んだら、それぞれの病症薬性に相応して、窒息するとか痙攣《けいれん》するとかいう苦《くるし》みを覚えるだろうと思うのである。自我が無くなる為めの苦痛は無い。
西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云っている。自分は西洋人の謂《い》う野蛮人というものかも知れないと思う。そう思うと同時に、小さい時二親が、侍《さむらい》の家に生れたのだから、切腹ということが出来なくてはならないと度々《たびたび》諭《さと》したことを思い出す。その時も肉体の痛みがあるだろうと思って、その痛みを忍ばなくてはなるまいと思ったことを思い出す。そしていよいよ所謂《いわゆる》野蛮人かも知れないと思う。しかしその西洋人の見解が尤《もっと》もだと承服することは出来ない。
そんなら自我が無くなるということに就いて、平気でいるかというに、そうではない。その自我というものが有る間に、それをどんな物だとはっきり考えても見ずに、知らずに、それを無くしてしまうのが口《くち》惜《お》しい。残念である。漢学者の謂う酔生夢死というような生涯を送ってしまうのが残念である。それを口惜しい、残念だと思うと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言われない寂しさを覚える。
それが煩悶《はんもん》になる。それが苦痛になる。
自分は伯林の gar腔n 《ガルソン》logis 《ロジイ》の寐られない夜なかに、幾度《いくたび》もこの苦痛を嘗《な》めた。そういう時は自分の生れてから今までした事が、上《うわ》辺《べ》の徒《いたず》ら事《ごと》のように思われる。舞台の上の役を勤めているに過ぎなかったということが、切実に感ぜられる。そういう時にこれまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や基督《クリスト》教思想の断片が、次第もなく心に浮んで来ては、直ぐに消えてしまう。なんの慰《い》藉《しゃ》をも与えずに消えてしまう。そういう時にこれまで学んだ自然科学のあらゆる事実やあらゆる推理を繰り返して見て、どこかに慰藉になるような物はないかと捜す。しかしこれも徒労であった。
或るこういう夜の事であった。哲学の本を読んで見ようと思い立って、夜の明けるのを待ち兼ねて、Hartmann 《ハルトマン》の無意識哲学を買いに行った。これが哲学というものを覗《のぞ》いて見た初で、なぜハルトマンにしたかというと、その頃十九世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎《もたら》したと云った位、最新の大系統として賛否の声が喧《かまびす》しかったからである。
自分に哲学の難有《ありがた》みを感ぜさせたのは錯迷の三期であった。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証する為めに、錯迷の三期を立てている。第一期では人間が現世で福《さいわい》を得ようと思う。少壮、健康、友《ゆう》誼《ぎ》、恋愛、名誉というように数えて、一々その錯迷を破っている。恋なんぞも主《おも》に苦である。福は性欲の根を断つに在る。人間はこの福を犠牲にして、纔《わず》かに世界の進化を翼成している。第二期では福を死後に求める。それには個人としての不滅を前提にしなくてはならない。ところが個人の意識は死と共に滅する。神経の幹はここに絶たれてしまう。第三期では福を世界過程の未来に求める。これは世界の発展進化を前提とする。ところが世界はどんなに進化しても、老病困厄は絶えない。神経が鋭敏になるから、それを一層切実に感ずる。苦は進化と共に長ずる。初中後の三期を閲《けみ》し尽しても、幸福は永遠に得られないのである。
ハルトマンの形而上学《けいじじょうがく》では、この世界は出来るだけ善く造られている。しかし有るが好いか無いが好いかと云えば、無いが好い。それを有らせる根元を無意識と名付ける。それだからと云って、生を否定したって、世界は依然としているから駄目だ。現にある人類が首尾好く滅びても、又或る機会には次の人類が出来て、同じ事を繰り返すだろう。それよりか人間は生を肯定して、己《おのれ》を世界の過程に委《ゆだ》ねて、甘んじて苦を受けて、世界の救抜を待つが好いと云うのである。
自分はこの結論を見て頭を掉《ふ》ったが、錯迷打破には強く引き附けられた。Disillusion 《ジスイリュウジョン》にはひどく同情した。そしてハルトマン自身が錯迷の三期を書いたのは、Max 《マックス》Stirner 《スチルネル》を読んで考えた上の事であると自白しているのを見て、スチルネルを読んだ。それから無意識哲学全体の淵源《えんげん》だというので、溯《さかのぼ》ってSchopenhauer 《ショオペンハウエル》を読んだ。
スチルネルを読んで見ると、ハルトマンが紳士の態度で言っている事を、無頼漢の態度で言っているように感ずる。そしてあらゆる錯迷を破った跡《あと》に自我を残している。世界に恃《たの》むに足るものは自我の外には無い。それを先きから先きへと考えると、無政府主義に帰着しなくては已《や》まない。
自分はぞっとした。
ショオペンハウエルを読んで見れば、ハルトマン・ミヌス・進化論であった。世界は有るよりは無い方が好《い》いばかりではない。出来るだけ悪く造られている。世界の出来たのは失錯《しっさく》である。無の安さが誤まって攪乱《かくらん》せられたに過ぎない。世界は認識によって無の安さに帰るより外はない。一人一人の人は一箇一箇の失錯で、有るよりは無いが好《よ》いのである。個人の不滅を欲するのは失錯を無窮にしようとするのである。個人は滅びて人間という種類が残る。この滅びないで残るものを、滅びる写象の反対に、広義に、意志と名付ける。意志が有るから、無は絶対の無でなくて、相待の無である。意志が Kant 《カント》の物その物である。個人が無に帰るには、自殺をすれば好いかというに、自殺をしたって種類が残る。物その物が残る。そこで死ぬるまで生きていなくてはならないというのである。ハルトマンの無意識というものは、この意志が一変して出来たのであった。
自分はいよいよ頭を掉《ふ》った。
* * *
とかくする内に留学三年の期間が過ぎた。自分はまだ均勢《きんせい》を得ない物体の動揺を心の中《うち》に感じていながら、何の師匠を求めるにも便りの好い、文化の国を去らなくてはならないことになった。生きた師匠ばかりではない。相談相手になる書物も、遠く足を運ばずに大学の図書館に行けば大抵間に合う。又買って見るにも注文してから何箇月目に来るなどという面倒は無い。そういう便利な国を去らなくてはならないことになった。
故郷は恋しい。美しい、懐かしい夢の国として故郷は恋しい。しかし自分の研究しなくてはならないことになっている学術を真に研究するには、その学術の新しい田地を開墾して行くには、まだ種々《いろいろ》の要約の闕《か》けている国に帰るのは残惜しい。敢《あえ》て「まだ」と云う。日本に長くいて日本を底から知り抜いたと云われている独逸人某は、この要約は今闕けているばかりでなくて、永遠に東洋の天地には生じて来ないと宣告した。東洋には自然科学を育てて行く雰《ふん》囲《い》気《き》は無いのだと宣告した。果してそうなら、帝国大学も、伝染病研究所も、永遠に欧羅巴《ヨオロッパ》の学術の結論だけを取り続《つ》ぐ場所たるに過ぎない筈《はず》である。こう云う判断は、ロシアとの戦争の後《のち》に、欧羅巴の当り狂言になっていた Taifun 《タイフン》なんぞにも現れている。しかし自分は日本人を、そう絶望しなくてはならない程、無能な種族だとも思わないから、敢て「まだ」と云う。自分は日本で結んだ学術の果実を欧羅巴へ輸出する時もいつかは来るだろうと、その時から思っていたのである。
自分はこの自然科学を育てる雰囲気のある、便利な国を跡に見て、夢の故郷へ旅立った。それは勿論《もちろん》立たなくてはならなかったのではあるが、立たなくてはならないという義務の為めに立ったのでは無い。自分の願望の秤《はかり》も、一方の皿に便利な国を載せて、一方の皿に夢の故郷を載せたとき、便利の皿を弔《つ》った緒をそっと引く、白い、優《やさ》しい手があったにも拘《かかわ》らず、慥《たし》かに夢の方へ傾いたのである。
シベリア鉄道はまだ全通していなかったので、印度洋を経て帰るのであった。一日行程の道を往復しても、往《ゆ》きは長く、復《かえ》りは短く思われるものであるが、四五十日の旅行をしても、そういう感じがある。未知の世界へ希望を懐《いだ》いて旅立った昔に比べて寂しく又早く思われた航海中、籐《と》の寝椅子に身を横えながら、自分は行《こう》李《り》にどんなお土産《みやげ》を持って帰るかということを考えた。
自然科学の分科の上では、自分は結論だけを持って帰るのではない。将来発展すべき萌《ほう》芽《が》をも持っている積りである。しかし帰って行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くも「まだ」無い。その萌芽も徒らに枯れてしまいはすまいかと気《き》遣《づか》われる。そして自分は fatalistisch 《ファタリスチッシュ》な、鈍い、陰気な感じに襲われた。
そしてこの陰気な闇《やみ》を照破する光明のある哲学は、我《わが》行李の中には無かった。その中に有るのは、ショオペンハウエル、ハルトマン系の厭世《えんせい》哲学である。現象世界を有るよりは無い方が好いとしている哲学である。進化を認めないではない。しかしそれは無に醒覚《せいかく》せんが為めの進化である。
自分は錫蘭《セイロン》で、赤い格《こう》子《し》縞《じま》の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買わせられた。籠《かご》を提《さ》げて舟に帰ると、フランス舟の乗組員が妙な手附きをして、「Il 《イル》ne 《ヌ》vivra 《ヴィヴラ》pas! 《パア》」と云った。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまった。それもはかない土産であった。
* * *
自分は失望を以て故郷の人に迎えられた。それは無理も無い。自分のような洋行帰りはこれまで例の無い事であったからである。これまでの洋行帰りは、希望に耀《かがや》く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れることになっていた。自分は丁度その反対の事をしたのである。
東京では都会改造の議論が盛んになっていて、アメリカのAとかBとかの何号町かにある、独逸人の謂《い》う Wolkenkratzer 《ヴォルケンクラッツェル》のような家を建てたいと、ハイカラア連が云っていた。その時自分は「都会というものは、狭い地面に多く人が住むだけ人死《ひとじに》が多い、殊《こと》に子供が多く死ぬる、今まで横に並んでいた家を、竪《たて》に積み畳《かさ》ねるよりは、上水や下水でも改良するが好かろう」と云った。又建築に制裁を加えようとする委員が出来ていて、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成そうと云っていた。その時自分は「そんな兵隊の並んだような町は美しくは無い、強《し》いて西洋風にしたいなら、寧《むし》ろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒ずつ別にさせて、ヴェネチアの町のように参《しん》差《し》錯落たる美観を造るようにでも心掛けたら好かろう」と云った。
食物改良の議論もあった。米を食うことを廃《や》めて、沢山牛肉を食わせたいと云うのであった。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔のままが好かろう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉を食べるようにするのは勝手だ」と云った。
仮《か》名《な》遣《づかい》改良の議論もあって、コイスチョーワガナワというような事を書かせようとしていると、「いやいや、Orthographie 《オルトグラフィイ》はどこの国にもある、やはりコヒステフワガナハの方が宜《よろ》しかろう」と云った。
そんな風に、人の改良しようとしている、あらゆる方面に向って、自分は本《もと》の杢《もく》阿《あ》弥《み》説を唱えた。そして保守党の仲間に逐《お》い込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行し出したが、元祖は自分であったかも知れない。
そこで学んで来た自然科学はどうしたか。帰った当座一年か二年は Laboratorium 《ラボラトリウム》に這《は》入《い》っていて、ごつごつと馬鹿正直に働いて、本の杢阿弥説に根拠を与えていた。正直に試験して見れば、何千年という間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしていよう筈はない。初から知れ切った事である。
さてそれから一歩進んで、新しい地盤の上に新しい Forschung 《フォルシュング》を企てようという段になると、地位と境遇とが自分を為《し》事《ごと》場《ば》から撥《は》ね出した。自然科学よ、さらばである。
勿論自然科学の方面では、自分なんぞより有力な友達が大勢あって、跡に残って奮闘していてくれるから、自分の撥ね出されたのは、国家の為めにも、人類の為めにもなんの損失にもならない。
只《ただ》奮闘している友達には気の毒である。依然として雰囲気の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のように喘《あえ》ぎ苦んでいる。雰囲気の無い証拠には、まだ Forschung 《フォルシュング》という日本語も出来ていない。そんな概念を明確に言い現す必要をば、社会が感じていないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の推挽《すいばん》」とか云うような造語を、自分が自然科学界に置土産にして来たが、まだForschung 《フォルシュング》という意味の簡短《かんたん》で明確な日本語は無い。研究なんというぼんやりした語《ことば》は、実際役に立たない。載籍調べも研究ではないか。
* * *
こう云う閲歴をして来ても、未来の幻影を逐うて、現在の事実を蔑《ないがしろ》にする自分の心は、まだ元のままである。人の生涯はもう下り坂になって行くのに、逐うているのはなんの影やら。
「いかにして人は己《おのれ》を知ることを得べきか。省察《せいさつ》を以てしては決して能《あた》わざらん。されど行為を以てしては或《あるい》は能《よ》くせむ。汝《なんじ》の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり」これはGoethe 《ギョオテ》の詞《ことば》である。
日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑《ないがしろ》にする反対である。自分はどうしてそう云う境地に身を置くことが出来ないだろう。
日の要求に応じて能事畢《おわ》るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るということが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいない筈の所に自分がいるようである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷っているのである。夢を見ているのである。夢を見ていて、青い鳥を夢の中《うち》に尋ねているのである。なぜだと問うたところで、それに答えることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。
自分はこのままで人生の下り坂を下って行く。そしてその下り果てた所が死だということを知っている。
しかしその死はこわくはない。人の説に、老年になるに従って増長するという「死の恐怖」が、自分には無い。
若い時には、この死という目的地に達するまでに、自分の眼前に横わっている謎《なぞ》を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなった。次第に薄らいだ。解けずに横わっている謎が見えないのではない。見えている謎を解くべきものだと思わないのでもない。それを解こうとしてあせらなくなったのである。
その頃自分は Philipp 《フィリップ》Mainlaender 《マインレンデル》が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。
この男は Hartmann 《ハルトマン》の迷《まよい》の三期を承認している。ところであらゆる錯迷を打ち破って置いて、生を肯定しろと云うのは無理だと云うのである。これは皆迷《みなまよい》だが、死んだって駄目だから、迷を追っ掛けて行けとは云われない筈だと云うのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面《おもて》を背《そむ》ける。次《つ》いで死の廻りに大きい圏を画いて、震慄《しんりつ》しながら歩いている。その圏が漸《ようや》く小《ちいさ》くなって、とうとう疲れた腕を死の項《うなじ》に投げ掛けて、死と目と目を見合わす。そして死の目の中に平和を見《み》出《いだ》すのだと、マインレンデルは云っている。
そう云って置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬《しょうけい》」も無い。
死を恐れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下って行く。
* * *
謎は解けないと知って、解こうとしてあせらないようにはなったが、自分はそれを打ち棄てて顧みずにはいられない。宴会嫌《ぎら》いで世に謂う道楽というものがなく、碁も打たず、象棋《しょうぎ》も差さず、球《たま》も撞《つ》かない自分は、自然科学の為事場を出て、手に試験管を持たなくなってから、稀《まれ》に画や彫刻を見たり、音楽を聴《き》いたりする外には、境遇の与える日の要求を果した間々《あいだあいだ》に、本を読むことを余儀なくせられた。
ハルトマンは人間のあらゆる福《さいわい》を錯迷として打破して行く間に、こんな意味の事を言っていた。大抵人の福と思っている物に、酒の二日酔《ふつかえい》をさせるように跡腹《あとばら》の病めないものは無い。それの無いのは、只芸術と学問との二つだけだと云うのである。自分は丁度この二つの外にはする事がなくなった。それは利害上に打算して、跡腹の病めない事をするのではない。跡腹の病める、あらゆる福を生得《しょうとく》好かないのである。
本は随分読んだ。そしてその読む本の種類は、為事場を出てから、必然の結果でがらりと変った。
西洋にいた時から、Archive 《アルヒイヴェ》とかJahresberichte 《ヤアレスベリヒテ》とか云うような、専門の学術雑誌を初巻から揃《そろ》えて十五六種も取っていたところが、為事場に出ないことになって見れば、実験の細かい記録なんぞを調べる必要がなくなった。元来こう云う雑誌は学校や図書館で買うもので、個人の買うものではなかったのを、政府がどれだけ雑誌に金を出してくれるやら分からないと思うのと、自分がどこで為事をするようになるやら分からないと思うのとで、数千巻買って持っていたが、自分はその中で専門学科の沿革と進歩とを見るに最も便利な年報二三種を残して置いて、跡は悉《ことごと》く官の学校に寄附してしまった。
そしてその代りに哲学や文学の書物を買うことにした。それを時間の得られる限り読んだのである。
只その読み方が、初めハルトマンを読んだ時のように、饑《う》えて食を貪《むさぼ》るような読み方ではなくなった。昔世にもてはやされていた人、今世にもてはやされている人は、どんな事を言っているかと、譬《たと》えば道を行く人の顔を辻《つじ》に立って冷澹《れいたん》に見るように見たのである。
冷澹には見ていたが、自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。
帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行こうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかったのである。
自分は度々この脱帽によって誤解せられた。自然科学を修めて帰った当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たる Voit 《フォイト》の標準で駁撃《はくげき》した時も、或る先輩が「そんならフォイトを信仰しているか」と云うと、自分はそれに答えて、「必ずしもそうでは無い、姑《しばら》くフォイトの塁に拠《よ》って敵に当るのだ」と云って、ひどく先輩に冷《ひや》かされた。自分は一時の権威者としてフォイトに脱帽したに過ぎないのである。それと丁度同じ事で、一頃《ひところ》芸術の批評に口を出して、ハルトマンの美学を根拠にして論じていると、或る後進の英雄が云った。「ハルトマンの美学はハルトマンの無意識哲学から出ている。あの美学を根拠にして論ずるには、先ず無意識哲学を信仰していなくてはならない」と云った。なる程ハルトマンは自家の美学を自家の世界観に結び附けてはいたが、姑くその連鎖を断ってしまったとして見ても、彼の美学は当時最も完備したものであって、しかも創見に富んでいた。自分は美学の上で、やはり一時の権威者としてハルトマンに脱帽したに過ぎないのである。ずっと後になってから、ハルトマンの世界観を離れて、彼の美学の存立していられる、立派な証拠が提供せられた。ハルトマン以後に出た美学者の本をどれでも開けて見るが好い。きっと美の Modification 《モジフィカチオン》と云うものを説いている。あれはハルトマンが剏《はじ》めたのでハルトマンの前には無かった。それを誰も彼《かれ》も説いていて、ハルトマンのハの字も言わずにいる。黙殺しているのである。
それはとにかく、辻に立つ人は多くの師に逢って、一人の主にも逢わなかった。そしてどんなに巧みに組み立てた形而上学でも、一篇の抒情詩《じょじょうし》に等しいものだと云うことを知った。
* * *
形而上学と云う、和蘭《オランダ》寺院楽の諧律《かいりつ》のような組立てに倦《う》んだ自分の耳に、或時ちぎれちぎれの Aphorismen 《アフォリスメン》の旋律が聞えて来た。
生の意志を挫《くじ》いて無に入らせようとする、ショオペンハウエルの Quietive 《クヴィエチイフ》に服従し兼ねていた自分の意識は、或時懶眠《らんみん》の中《うち》から鞭《むち》うち起された。
それは Nietzsche 《ニイチェ》の超人哲学であった。
しかしこれも自分を養ってくれる食餌《しょくじ》ではなくて、自分を酔《え》わせる酒であった。
過去の消極的な、利他的な道徳を家畜の群の道徳としたのは痛快である。同時に社会主義者の四海同胞観を、あらゆる特権を排斥する、愚《おろか》な、とんまな群の道徳としたのも、無政府主義者の跋《ばっ》扈《こ》を、欧羅巴《ヨオロッパ》の街に犬が吠《ほ》えていると罵《ののし》ったのも面白い。しかし理性の約束を棄てて、権威に向う意志を文化の根本に置いて、門閥の為め、自我の為めに、毒薬と匕《ひ》首《しゅ》とを用いることを憚《はばか》らない Cesare 《チェザレ》Borgia 《ボルジア》を、君主の道徳の典型としたのなんぞを、真面目《まじめ》に受け取るわけには行かない。その上ハルトマンの細かい倫理説を見た目には、所謂《いわゆる》評価の革新さえ幾分の新しみを殺《そ》がれてしまったのである。
そこで死はどうであるか。「永遠なる再来」は慰《い》藉《しゃ》にはならない。Zarathustra 《ツァラツストラ》の末《まつ》期《ご》に筆を下しかねた作者の情を、自分は憐《あわれ》んだ。
それから後にも Paulsen 《パウルゼン》の流行などと云うことも閲《けみ》して来たが、自分は一切の折衷《せっちゅう》主義に同情を有せないので、そんな思潮には触れずにしまった。
* * *
昔別荘の真似事に立てた、膝《ひざ》を容《い》れるばかりの小家には、仏者の百一物《ひゃくいちもつ》のようになんの道具も只一つしか無い。
それに主人の翁《おきな》は壁という壁を皆棚《たな》にして、棚という棚を皆書物にしている。
そして世間と一切の交通を絶っているらしい主人の許《もと》に、西洋から書物の小包が来る。彼が生きている間は、小さいながら財産の全部を保管している Notar 《ノタアル》の手で、利《り》足《そく》の大部分が西洋の某書《しょ》肆《し》へ送られるのである。
主人は老いても黒人種のような視力を持っていて、世間の人が懐かしくなった故人を訪《と》うように、古い本を読む。世間の人が市《いち》に出て、新しい人を見るように新しい本を読む。
倦《う》めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の波《は》瀾《らん》を見る。
僕八十八《やそはち》の薦《すす》める野菜の膳《ぜん》に向って、飢を凌《しの》ぐ。
書物の外で、主人の翁の翫《もてあそ》んでいるのは、小さい Loupe 《ルウペ》である。砂の山から摘んで来た小さい草の花などを見る。その外 Zeiss 《ツァイス》の顕微鏡がある。海の雫《しずく》の中にいる小さい動物などを見る。 Merz 《メルツ》の望遠鏡がある。晴れた夜の空の星を見る。これは翁が自然科学の記憶を呼び返す、折々のすさびである。
主人の翁はこの小家に来てからも幻影を追うような昔の心持を無くしてしまうことは出来ない。そして既往を回顧してこんな事を思う。日の要求に安んぜない権利を持っているものは、恐らくは只天才ばかりであろう。自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云う境地に立ったら、自分も現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかった。それでこう云う心持が附き纏《まと》っているのだろうと思うのである。
少壮時代に心の田地に卸《おろ》された種子は、容易に根を絶つことの出来ないものである。冷眼に哲学や文学の上の動揺を見ている主人の翁は、同時に重い石を一つ一つ積み畳《かさ》ねて行くような科学者の労作にも、余所《よそ》ながら目を附けているのである。
Revue 《ルヴュウ》des 《デ》Deux 《ドュウ》Mondes 《モオンド》の主筆をしていた旧教徒 Bruneti屍e 《ブリュンチェエル》が、科学の破産を説いてから、幾多の歳月を閲しても、科学はなかなか破産しない。凡《すべ》ての人為のものの無常の中で、最も大きい未来を有しているものの一つは、やはり科学であろう。
主人の翁はそこで又こんな事を思う。人間の大厄難になっている病は、科学の力で予防もし治療もすることが出来る様になって来た。種痘で疱瘡《ほうそう》を防ぐ。人工で培養した細菌やそれを種《う》えた動物の血清で、窒扶斯《チフス》を防ぎ実扶《ジフ》的里《テリ》を直すことが出来る。Pest 《ペスト》のような猛烈な病も、病原菌が発見せられたばかりで、予防の見当は附いている。癩病《らいびょう》も病原菌だけは知れている。結核も、Tuberculin 《ツベルクリン》が予期せられた功を奏せないでも、防ぐ手掛りが無いこともない。癌《がん》のような悪性腫瘍《しゅよう》も、もう動物に移し植えることが出来て見れば、早晩予防の手掛りを見出すかも知れない。近くは梅毒が Salvarsan 《サルヴァルサン》で直るようになった。Elias 《エリアス》Metschnikoff 《メチュニコッフ》の楽天哲学が、未来に属している希望のように、人間の命をずっと延べることも、或は出来ないには限らないと思う。
かくしてもはや幾何《いくばく》もなくなっている生涯の残余を、見果てぬ夢の心持で、死を怖れず、死にあこがれずに、主人の翁は送っている。
その翁の過去の記憶が、稀《まれ》に長い鎖のように、刹那の間に何十年かの跡を見渡させることがある。そう云う時は翁の烱々《けいけい》たる目が大きくチ《みは》られて、遠い遠い海と空とに注がれている。
これはそんな時ふと書き棄てた反古《ほご》である。
百物語
何か事情があって、川開きが暑中を過ぎた後に延びた年の当日であったかと思う。余程年も立っているので、記憶が稍《やや》おぼろげになってはいるが又却《かえっ》てそれが為《た》めに、或る廉々《かどかど》がアクサンチュエエせられて、翳《かす》んだ、濁った、しかも強い色に彩《いろど》られて、古びた想像のしまってある、僕の脳髄の物置の隅《すみ》に転《ころ》がっている。
勿論《もちろん》生れて始ての事であったが、これから後も先《ま》ずそんな事は無さそうだから、生涯に只《ただ》一度の出来事に出くわしたのだと云って好かろう。それは僕が百物語の催しに行った事である。
小説に説明をしてはならないのだそうだが、自惚《うぬぼれ》は誰にもあるもので、この話でも万一ヨオロッパのどの国かの語《ことば》に翻訳せられて、世界の文学の仲間入をするような事があった時、余所《よそ》の読者に分からないだろうかと、作者は途方もない考を出して、行きなり説明を以《もっ》てこの小説を書きはじめる。百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭《ろうそく》を百本立てて置いて、一人が一つずつ化物《ばけもの》の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである。事によったら例のファキイルと云う奴《やつ》がアルラア・アルラアを唱えて、頭を掉《ふ》っているうちに、覿面《てきめん》に神を見るように、神経に刺《し》戟《げき》を加えて行って、一時幻視幻聴を起すに至るのではあるまいか。
僕をこの催しに誘い出したのは、写真を道楽にしている蔀《しとみ》君と云う人であった。いつも身《み》綺《ぎ》麗《れい》にしていて、衣類や持物に、その時々の流行を趁《お》っている。或時僕が脚本の試みをしているのを見てこんな事を言った。「どうもあなたのお書きになるものは少し勝手が違っています。ちょいちょい芝居を御覧になったら好《い》いでしょう」これは親切に言ってくれたのであるが、こっちが却ってその勝手を破壊しようと思っているのだとは、全く気が附いていなかったらしい。僕の試みは試みで終ってしまって、何等の成功をも見なかったが、後継者は段々勝手の違った物を出し出しして、芝居の面目が今ではだいぶ改まりそうになって来ている。つまり捩《ねじ》れた、時代を超絶したような考は持ってもいず、解せようともしなかったのが、蔀君の特色であったらしい。さ程深くもなかった交《まじわり》が絶えてから、もう久しくなっているが、僕はあの人の飽くまで穏健な、目前に提供せられる受用を、程好く享受していると云う風の生活を、今でも羨《うらや》ましく思っている。蔀君は下町の若《わか》旦《だん》那《な》の中で、最も聡明《そうめい》な一人であったと云って好《よ》かろう。
この蔀君が僕の内へ来たのは、川開きの前日の午《ひる》過《す》ぎであった。あすの川開きに、両国を跡《あと》に見て、川上へ上って、寺島で百物語の催しをしようと云うのだが、行って見ぬかと云う。主人は誰だ。案内もないに、行っても好いのかと、僕は問うた。「なに。例の飾磨《しかま》屋《や》さんが催すのです。だいぶ大勢の積りだし、不参の人もありそうだから、飛入をしても構わないのですが、それでは徳義上行かれぬなんぞと、あなたの事だから云うかも知れない。しかし二三日前に逢《あ》った時、あなたにはわたくしから話をして見て、来られるようなら、お連《つれ》申すかも知れないと、勝《しょう》兵《べ》衛《え》さんにことわってあります。わたくしが一しょに行くと好いが、外《ほか》へ廻って行かなくてはならないから、一足先きへ御免を蒙《こうむ》ります」との事であった。
時刻と集合の場所とを聞いて置いた僕は、丁度外に用事もないので、まあ、どんな事をするか行って見ようと云う位の好奇心を出して、約束の三時半頃に、柳橋の船宿へ行って見た。天気はまだ少し蒸暑いが、余り強くない南風が吹いていて、凌《しの》ぎ好かった。船宿は今は取り払われた河岸《かし》で、丁度亀清《かめせい》の向側《むこうがわ》になっていた。多分増田屋であったかと思う。
こう云う日に目《め》貫《ぬき》の位置にある船宿一軒を借切りにしたものと見えて、しかもその家は近所の雑沓《ざっとう》よりも雑沓している。階上階下とも、どの部屋にも客が一ぱい詰め掛けている。僕は人の案内するままに二階へ升《のぼ》って、一《ひと》間《ま》を見渡したが、どれもどれも知らぬ顔の男ばかりの中に、鬚《ひげ》の白い依《よ》田《だ》学海さんが、紺絣《こんがすり》の銘撰《めいせん》の着流しに、薄羽織を引っ掛けて据わっていた。依田さんの前には、大層身綺麗にしている、少し太った青年が恭しげに据わって、話をしている。僕は依田さんに挨拶をして、少し隔たった所に割り込んだ。簾越《すだれご》しに川風が吹き込んで、人の込み合っている割に暑くはなかった。
僕は暫《しばら》く依田さんと青年との対話を聞いているうちに、その青年が壮士俳優だと云うことを知った。俳優は依田さんの意を迎えて、「なんでもこれからの俳優は書見をいたさなくてはなりません」などと云っている。そしてそう云っている態度と、読書と云うものとが、この上もない不調和に思われるので、僕はおせっかいながら、傍《そば》で聞いていて微笑せざることを得なかった。同時に僕には書見と云う詞《ことば》が、極めて滑稽《こっけい》な記憶を呼び醒《さま》した。それは昔どこやらで旧俳優のした世話物を見た中に、色若衆のような役をしている役者が、「どれ、書見をいたそうか」と云って、見台を引き寄せた事であった。なんでもそこへなまめいた娘が薄茶か何か持って出ることになっていた。その若衆のしらじらしい、どうしても本の読めそうにない態度が、書見と云う和製の漢語にひどく好く適合していたが、この滑稽を舞台の外で、今繰り返して見せられたように、僕は思ったのである。
そのうち僕はこう云う事に気が附いた。しらじらしいのは依田さんに対する壮士俳優の話ばかりではない。この二階に集まった大勢の人は、一体に詞少なで、それがたまたま何か言うと、皆しらじらしい。同一の人が同一の場所へ請待《しょうだい》した客でありながら、乗合馬車や渡船の中で落ち合った人と同じで、一人一人の間になんの共通点もない。ここかしこで互に何か言うのは、時候の挨拶位に過ぎない。ぜんまいの戻った時計を振ると、セコンドがちょっと動き出して、すぐに又止まるように、こんな会話は長くは持たない。忽《たちま》ち元の沈黙に返ってしまうのである。
僕は依田さんに何か言おうかと思ったが、どうもやはりしらじらしい事しきゃ思い附かないので、言い出さずにしまった。そしてそこ等の人の顔を眺《なが》めていた。どの客もてんでに勝手な事を考えているらしい。百物語と云うものに呼ばれては来たものの、その百物語は過ぎ去った世の遺物である。遺物だと云っても、物はもう亡くなって、只空《むなし》き名が残っているに過ぎない。客観《かっかん》的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘《ふ》き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセンの所謂《いわゆる》幽霊になってしまっている。それだから人を引き附ける力がない。客がてんでに勝手な事を考えるのを妨げる力がない。
人も我もぼんやりしている処へ、世話人らしい男が来て、舟へ案内した。この船宿の桟《さん》橋《ばし》ばかりに屋根船が五六艘《そう》着いている。それへ階上階下から人が出て乗り込む。中には友《ゆう》禅《ぜん》の赤い袖がちら附いて、「一しょに乗りたいわよ、こっちへお出《いで》よ」と友を誘うお酌の甲走《かんばし》った声がする。しかし客は大抵男ばかりで、女は余り交っていないらしい。皆乗り込んでしまうまで、僕は主人の飾磨屋がどこにいるか知らずにしまった。又蔀君にも逢わなかった。
船宿の二階は、戸は開け放してあっても、一ぱいに押し込んだ客の人いきれがしていたが、舟を漕《こ》ぎ出すと、すぐ極《ごく》好い心持に涼しくなった。まだ花火を見る舟は出ないので、川面《かわづら》は存外込み合っていない。僕の乗った舟を漕いでいる四十恰好《がっこう》の船頭は、手《て》垢《あか》によごれた根《ね》附《つけ》の牙《げ》彫《ぼり》のような顔に、極めて真面目《まじめ》な表情を見せて、器械的に手足を動かして氈sろ》を操《あやつ》っている。飾磨屋の事だから、定めて祝儀もはずむのだろうに、嬉《うれ》しそうには見えない。「勝手な馬鹿をするが好い。己《おれ》は舟さえ漕いでいれば済むのだ」とでも云いたそうである。
僕は薄縁《うすべり》の上に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、麦藁《むぎわら》帽子を脱いで、ハンケチを出して額の汗を拭《ふ》きながら、舟の中の人の顔を見渡した。船宿を出て舟に乗るまでに、外の座敷の客が交ったと見えて、さっき見なかった顔がだいぶある。依田さんは別の舟に乗ったと見えて、とうとう知った顔が一人もなくなった。そしてその知らない、幾つかの顔が、やはり二階で見た時のように、ぼんやりして、てんでに勝手な事を考えているらしい。
舟には酒肴《しゅこう》が出してあったが、一々どの舟へも、主人側のものを配ると云うような、細かい計画はしてなかったのか、世話を焼いて杯《さかずき》を侑《すす》めるものもない。こう云う時の習《ならい》として、最初は一同遠慮をして酒肴に手を出さずに、只睨《にら》み合っていた。そのうち結城紬《ゆうきつむぎ》の単《ひとえ》物《もの》に、縞《しま》絽《ろ》の羽織を着た、五十恰好の赤ら顔の男が、「どうです、皆さん、切角出してあるものですから」と云って、杯を手に取ると、方方から手が出て、杯を取る。割箸《わりばし》を取る。盛んに飲食が始まった。しかし話はやはり時候の挨拶位のものである。「どうです。こう天気続きでは、米が出来ますでしょうなあ」「さようさ。又米が安過ぎて不景気と云うような事になるでしょう」「そいつあ噤sかな》いませんぜ。鶴亀《つるかめ》鶴亀」こんな対話である。
僕のいる所からは、すぐ前を漕いで行く舟の艫《とも》の方が見える。そこにはお酌が二人乗っている。傍《そば》に頭を五分刈にして、織地のままの繭紬《けんちゅう》の陰紋附《かげもんつき》に袴《はかま》を穿《は》いて、羽織を着ないでいる、能役者のような男がいて、何やら言ってお酌を揶揄《からか》うらしく、きゃっきゃと云わせている。
舟は西河岸の方に倚《よ》って上《のぼ》って行くので、廐橋《うまやばし》手前までは、お蔵《くら》の水門の外を通る度《たび》に、さして来る潮に淀《よど》む水の面《おもて》に、藁《わら》やら、鉋屑《かんなくず》やら、傘《かさ》の骨やら、お丸のこわれたのやらが浮いていて、その間に何事にも頓着《とんちゃく》せぬと云う風をして、鴎《かもめ》が波に揺られていた。諏訪町《すわちょう》河岸《がし》のあたりから、舟が少し中流に出た。吾《あ》妻《づま》橋《ばし》の上には、人がだいぶ立ち止まって川を見卸していたが、その中に書生がいて、丁度僕の乗っている舟の通る時、大声に「馬《ば》鹿《か》」とどなった。
舟の着いたのは、木《もく》母《ぼ》寺《じ》辺であったかと思う。生憎《あいにく》風がぱったり歇《や》んでいて、岸に生えている葦《あし》の葉が少しも動かない。向河岸の方を見ると、水蒸気に飽いた、灰色の空気が、橋場の人家の輪廓《りんかく》をぼかしていた。土手下から水際《みずぎわ》まで、狭い一本道の附いている処へ、かわるがわる舟を寄せて、先ず履物《はきもの》を陸《おか》へ揚げた。どの舟もどの舟も、載せられるだけ大勢の人を載せて来たので、お酌の小さい雪《せっ》蹈《た》なぞは見附かっても、客の多数の穿いて来た、世間並の駒《こま》下《げ》駄《た》は、鑑定が容易に附かない。真面目な人が跣足《はだし》で下りて、あれかこれかと捜しているうちに、無頓着な人は好い加減なのを穿いて行く。中には横着《おうちゃく》で新しそうなのを選《よ》って穿く人もある。僕はしかたがないからなるべく跡まで待っていて、残った下駄を穿いたところが、歯の斜《ななめ》に踏み耗《へ》らされた、随分歩きにくい下駄であった。後に聞けば、飾磨屋が履物の間違った話を聞いて、客一同に新しい駒下駄を贈ったが、僕なんぞには不《ぶ》躾《しつけ》だと云う遠慮から、この贈物をしなかったそうである。
定めて最初に着いた舟に世話人がいて案内をしたのだろう。一艘の舟が附くと、その一艘の人が、下駄を捜したりなんかして、まだ行ってしまわないうちに、もう次の舟の人が上陸する。そして狭い道を土手へ上がって、土手の内の田圃《たんぼ》を、寺島村の誰やらの別荘をさして行く。その客の群は切れたり続いたりはするが、切れた時でも前の人の後影を後の人が見失うようなことはない。僕も歯の歪《ゆが》んだ下駄を引き摩《ず》りながら、田の畔《くろ》や生垣《いけがき》の間の道を歩いて、とうとう目的地に到着した。
ここまで来る道で、幾らも見たような、小さい屋敷である。高い生垣を繞《めぐ》らして、冠《かぶ》木《き》門《もん》が立ててある。それを這《は》入《い》ると、向うに煤《すす》けたような古家の玄関が見えているが、そこまで行く間が、左右を外囲《そとがこい》よりずっと低いかなめ垣で為《し》切《き》った道になっていて、長方形の花崗石《みかげいし》が飛び飛びに敷いてある。僕に背中を見せて歩いていた、偶然の先導者はもう無事に玄関近くまで行っている頃、門と、玄関との中程で、左側のかなめ垣がとぎれている間から、お酌が二人手を引き合って、「こわかったわねえ」と、首を縮めて凵sささや》き合いながら出て来た。僕は「何があるのだい」と云ったが、二人は同時に僕の顔を不遠慮に見て、なんだ、知りもしない奴の癖にとでも云いたそうな、極く愛相のない表情をして、玄関の方へ行ってしまった。僕はふいと馬鹿げた事を考えた。昔の名君は一顰《いっぴん》一笑を惜んだそうだが、こいつ等はもう只で笑わないだけの修行をしているなと思ったのである。そんな事を考えながら、格別今女の子のこわがった物の正体を確めたいと云う熱心もなく、垣のとぎれた所から、ちょっと横に這入って見た。
そこには少し引っ込んだ所に、不断は植《うえ》木《き》鉢《ばち》や箒《ほうき》でも入れてありそうな、小さい物置があった。もう物蔭は少し薄暗くなっていて、物置の奥がはっきり見えないのを、覗《のぞ》き込むようにして見ると、髪を長く垂れた、等身大の幽霊の首に白い着物を着せたのが、萱《かや》か何かを束ねて立てた上に覗かせてあった。その頃まで寄《よ》席《せ》に出る怪談師が、明りを消してから、客の間を持ち廻って見せることになっていた、出来合の幽霊である。百物語のアヴァン・グウはこんな物かと、稍《やや》馬鹿にせられたような気がして、僕は引き返した。
玄関に上がる時に見ると、上がってすぐ突き当る三畳には、男が二人立って何か忙がしそうに凾ォ合っていた。「どうしやがったのだなあ」「それだからおいらが蝋燭は舟で来る人なんぞに持せて来ては行けないと云ったのだ。差当り燭台《しょくだい》に立ててあるのしきゃないのだから」と云うような事を言っている。楽屋の方の世話も焼いている人達であろう。二人は僕の立っているのには構わずに、奥に這入ってしまう。入り替って、一人の男が覗いて見て、黙って又引っ込んでしまう。
僕はどうしようかと思って、暫く立ち竦《すく》んでいたが、右の方の唐紙《からかみ》が明いている、その先きに人声がするので、その方へ行って見た。そこは十四畳ばかりの座敷で、南側は古風に刈り込んだ松の木があったり、雪見燈籠《どうろう》があったり、泉水があったりする庭を見晴している。この座敷にもう二十人以上の客が詰め掛けている。やはり船宿や舟の中と同じ様に、余り話ははずんでいない。どの顔を見ても、物を期待しているとか、好奇心を持っているとか云うような、緊張した表情をしているものはない。
丁度僕が這入った時、入口に近い所にいる、髯《ひげ》の長い、紗《しゃ》の道行触《みちゆきぶり》を着た中爺《ちゅうじ》いさんが、「ひどい蚊《か》ですなあ」と云うと、隣の若い男が、「なに藪《やぶ》蚊《か》ですから、明りを附ける頃にはいなくなってしまいます」と云うその声が耳馴れているので、顔を見れば、蔀《しとみ》君であった。蔀君も同時に僕の顔を見附けた。
「やあ。お出《いで》なさいましたか。まだ飾磨屋さんを御存じないのでしたね。一寸《ちょっと》御紹介をしましょう」
こう云って蔀君は先きに立って、「御免なさい、御免なさい」を繰り返しながら、平手で人を分けるようにして、入口と反対の側の、格《こう》子《し》窓《まど》のある方へ行く。僕は黙って跡に附いて行った。
蔀君のさして行く格子窓の下の所には、外の客と様子の変った男がいる。しかも随分込み合っている座敷なのに、その人の周囲は空席になっているので、僕は入口に立っていた時、もうそれが目に附いたのであった。年は三十位ででもあろうか。色の蒼《あお》い、長い顔で、髪は刈ってからだいぶ日が立っているらしい。地味な縞《しま》の、鈍い、薄青い色の勝った何やらの単物に袴を着けて、少し前屈《まえかが》みになって据わっている。徹夜をした人の目のように、軽い充血の痕《あと》の見えている目は、余り周囲の物を見ようともせずに、大抵直前《すぐまえ》の方向を凝視している。この男の傍《そば》には、少し背後《うしろ》へ下がって、一人の女が附き添っている。これも支度が極《ごく》地味な好みで、その頃流行《はや》った紋織お召の単物も、帯も、帯止も、ひたすら目立たないようにと心掛けているらしく、薄い鼠が根調をなしていて、二十《はたち》になるかならぬ女の装飾としては、殆《ほとん》ど異様に思われる程である。中肉中背で、可哀らしい円顔をしている。銀《いち》杏返《ょうがえ》しに結って、体中で外にない赤い色をしている六《ろく》分《ぶ》珠《だま》の金釵《きんかん》を挿《さ》した、たっぷりある髪の、鬢《びん》のおくれ毛が、俯《うつ》向《む》いている片《かた》頬《ほ》に掛かっている。好い女ではあるが、どこと云って鋭い、際立った線もなく、凄《すご》いような処もない。僕は一寸見た時から、この男の傍にこの女のいるのを、只何となく病人に看護婦が附いているように感じたのである。
蔀君が僕をこの男の前に連れて行って、僕の名を言うと、この男は僕を一寸見て、黙って丁寧に辞儀をしただけであった。蔀君はそこらにいた誰やらと話をし出したので、僕はひとり縁側の方へ出て、いつの間にか薄い雲の掛かった、暮方の空を見ながら、今見た飾磨屋と云う人の事を考えた。
今《いま》紀《き》文《ぶん》だと評判せられて、あらゆる豪遊をすることが、新聞の三面に出るようになってからもうだいぶ久しくなる。きょうの百物語の催しなんぞでからが、いかにも思い切って奇抜な、時代の風尚にも、社会の状態にも頓《とん》着《じゃく》しない、大胆な所《しょ》作《さ》だと云わなくてはなるまい。
原来《もとより》百物語に人を呼んで、どんな事をするだろうかと云う、僕の好奇心には、そう云う事をする男は、どんな男だろうかと云う好奇心も多少手伝っていたのである。僕は慥《たし》かに空想で飾磨屋と云う男を画き出していたには違いないが、そんならどんな風をしている男だと想像していたかと云うと、僕もそれをはっきりとは言うことが出来ない。しかし不遠慮に言えば、百物語の催主が気違染《じ》みた人物であったなら、どっちかと云えば、必ず躁狂《そうきょう》に近い間違方だろうとだけは思っていた。今実際に見たような沈鬱《ちんうつ》な人物であろうとは、決して思っていなかった。この時よりずっと後になって、僕はゴリキイのフォマ・ゴルジエフを読んだが、若《も》しきょうあのフォマのように、飾磨屋が客を攫《つか》まえて、隅田川へ投げ込んだって、僕は今見たその風采《ふうさい》ほど意外には思わなかったかも知れない。
飾磨屋は一体どう云う男だろう。錯雑した家族的関係やなんかが、新聞に出たこともあり、友達の噂話《うわさばなし》で耳に入ったこともあったが、僕はそんな事に興味を感じないので、格別心に留めずにしまった。しかしこの人が何かの原因から煩悶《はんもん》した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい。大抵の人は煩悶して焼けになって、豪遊をするとなると、きっと強烈な官能的受用を求めて、それに依って意識をぼかしていようとするものである。そう云う人は躁狂に近い態度にならなくてはならない。飾磨屋はどうもそれとは違うようだ。一体あの沈鬱なような態度は何に根ざしているだろう。あの目の血走っているのも、事によったら酒と色とに夜を更《ふ》かした為めではなくて、深い物思に夜を穏《おだやか》に眠ることの出来なかった為めではあるまいか。強《し》いて推察して見れば、この百物語の催しなんぞも、主人は馬鹿げた事だと云うことを飽くまで知り抜いていて、そこへ寄って来る客の、或《あるい》は酒食を貪《むさぼ》る念に駆られて来たり、或はまた迷信の霧に理性を鎖《とざ》されていて、こわい物見たさの穉《おさな》い好奇心に動かされて来たりするのを、あの血糸の通っている、マリショオな、デモニックなようにも見れば見られる目で、冷《ひやや》かに見ているのではあるまいか。こんな想像が一時浮んで消えた跡でも、僕は考えれば考えるほど、飾磨屋と云う男が面白い研究の対象になるように感じた。
僕はこう云う風に、飾磨屋と云う男の事を考えると同時に、どうもこの男に附いている女の事を考えずにはいられなかった。
飾磨屋の馴《な》染《じみ》は太郎だと云うことは、もう全国に知れ渡っている。しかしそれよりも深く人心に銘記せられているのは、太郎が東京で最も美しい芸者だと云う事であった。尾崎紅葉君が頬杖《ほおづえ》を衝《つ》いた写真を写した時、あれは太郎の真似をしたのだと、みんなが云ったほど、太郎の写真は世間に広まっていたのである。その紅葉君で思い出したが、僕はこの芸者をきょう始て見たのではない。
この時より二年程前かと思う。湖月に宴会があって行って見ると、紅葉君はじめ、硯友《けんゆう》社《しゃ》の人達が、客の中で最多数を占めていた。床の間に梅と水仙の生けてある頃の寒い夜が、もうだいぶ更けていて、紅葉君は火《ひ》鉢《ばち》の傍《わき》へ、肱枕《ひじまくら》をして寐《ね》てしまった。尤《もっと》も紅葉君は折々狸寐入《たぬきねいり》をする人であったから、本当に寐ていたかどうだか知らない。僕はふいと床の間の方を見ると、一座は大抵縞物を着ているのに、黒《くろ》羽《は》二《ぶた》重《え》の紋付と云う異様な出立《いでたち》をした長田《おさだ》秋濤《しゅうとう》君が床柱に倚り掛かって、下太りの血色の好い顔をして、自分の前に据わっている若い芸者と話をしていた。その芸者は少し体を屈めて据わって、沈んだ調子の静かな声で、只の娘らしい話振をしていたが、島田に結った髪の毛や、頬のふっくりした顔が、いかにも可哀らしいので、僕が傍の人に名を聞いて見たら、「君まだ太郎を知らないのですか」と、その人がさも驚いたような返事をした。
太郎が芸者らしくないと云う感じは、その時から僕にはあったのだが、きょう見ればだいぶ変っている。それでもやはり芸者らしくはない。先きの無邪気な、娘らしい処はもうなくなって、その時つつましい中《うち》にも始終見せていた笑《え》顔《がお》が、今はめったに見られそうにもなくなっている。一体あんなに飽くまで身綺麗にして、巧者に着物を着こなしているのに、なぜ芸者らしく見えないのだろう。そんならあの姿が意気な奥様らしいと云おうか。それも適当ではない。どうも僕にはやはりさっき這入った時の第一の印象が附き纏《まと》っていてならない。それはふと見て病人と看護婦のようだと思った、あの刹《せつ》那《な》の印象である。
僕がぼんやりして縁側に立っている間《ま》に、背後《うしろ》の座敷には燭台が運ばれた。まだ電燈のない時代で、瓦斯《ガス》も寺島村には引いてなかったが、わざわざランプを廃《や》めて蝋燭にしたのは、今《こ》宵《よい》の特別な趣向であったのだろう。
燭台が並んだと思うと、跡から大きな盥《たらい》が運ばれた。中には鮓《すし》が盛ってある。道行触《みちゆきぶり》のおじさんが、「いや、これは御趣向」と云うと、傍にいた若い男が「湯《ゆ》灌《かん》の盥と云う心持ですね」と注釈を加えた。すぐに跡から小形の手《て》桶《おけ》に柄杓《ひしゃく》を投げ入れたのを持って出た。手桶からは湯気が立っている。先《さ》っきの若い男が「や、閼《あ》伽《か》桶《おけ》」と叫んだ。所謂《いわゆる》閼伽桶の中には、番茶が麻の嚢《ふくろ》に入れて漬《つ》けてあったのである。
この時玄関で見掛けた、世話人らしい男の一人が、座敷の真ん中に据わって「一寸皆様に申し上げます」と冒頭を置いて、口上めいた挨拶をした。段々準備が手おくれになって済まないが、並《なみ》の飯の方を好む人は、もう折詰の支度もしてあるから、別間の方へ来て貰いたいと云う事であった。一同鮓を食って茶を飲んだ。僕には蔀君が半紙に取り分けて、持って来てくれたので、僕は敷居の上にしゃがんで食った。「お茶も今上げます。盥も手桶も皆新しいのです」と蔀君は言いわけをするように云って置いて、茶を取りに立った。しかしそんな言いわけらしい事を聞かなくても、僕は飲食物の入物の形を気にする程、細かく尖《とが》った神経を持ってはいないのであった。
僕が主人夫婦、いや、夫婦にはまだなっていなかった、いやいや、やはり夫婦と云いたい、主人夫婦から目を離していたのは、座敷に背を向けて、暮れて行く庭の方を見ながら、物を考えていた間だけであった。座敷を見ている間は、僕はどうしても二人から目を離すことが出来なかった。客が皆飲食をしても、二人は動かずにじっとしている。袴の襞《ひだ》を崩《くず》さずに、前屈みになって据わったまま、主人は誰《たれ》に話をするでもなく、正面を向いて目を据えている。太郎は傍《そば》に引き添って、退屈らしい顔もせず、何があっても笑いもせずに、おりおり主人の顔を横から覗いて、機嫌を窺《うかが》うようにしている。
僕は障子のはずしてある柱に背を倚せ掛けて、敷居の上にしゃがんで、海苔巻《のりまき》の鮓を頬張りながら、外を見ている振をして、実は絶えず飾磨屋の様子を見ている。一体僕は稟《ひん》賦《ぶ》と習慣との種々な関係から、どこに出ても傍観者になり勝である。西洋にいた時、一頃《ひところ》大そう心易く附き合った爺いさんの学者があった。その人は不治の病を持っているので、生涯無妻で暮した人である。その位だから舞踏なんぞをしたことはない。或る時舞踏の話が出て、傍《そば》の一人が僕に舞踏の社交上必要なわけを説明して、是非稽古をしろと云うと、今一人が舞踏を未開時代の遺俗だとしての観察から、可笑《おか》しいアネクドオト交りに舞踏の弊害を列《なら》べ立てて攻撃をした。その時爺いさんは黙って聞いてしまって、さてこう云った。「わたくしは御存じの体ですから、舞踏なんぞをしたことはありません。自分の出来ない舞踏を、人のしているのを見ます度に、なんだかそれをしている人が人間ではないような、神のような心持がして、只目をチ《みは》って視ているばかりでございますよ」と云った。爺いさんのこう云う時、顔には微笑の淡い影が浮んでいたが、それが決して冷刻な嘲《あざけり》の微笑ではなかった。僕は生れながらの傍観者と云うことに就いて、深く、深く考えて見た。僕には不治の病はない。僕は生れながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の涌《わ》き立った時も、僕はその渦巻《うずまき》に身を投じて、心《しん》から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚《うお》が水に住むように、傍観者が傍観者の境《さかい》に安んじているのだから、僕はその時尤もその所を得ているのである。そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がして来た。
僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万《きょまん》の富を譲り受けた時、どう云う志望を懐《いだ》いていたか、どう云う活動を試みたか、それは僕に語る人がなかった。しかし彼が芸人附合《つきあい》を盛んにし出して、今紀文と云われるようになってから、もう余程の年月《としつき》が立っている。察するに飾磨屋は僕のような、生れながらの傍観者ではなかっただろう。それが今は慥かに傍観者になっている。しかしどうしてなったのだろうか。よもや西洋で僕の師友にしていた学者のような、オルガニックな欠陥が出来たのではあるまい。そうして見れば飾磨屋は、どうかした場合に、どうかした無形の創《そう》痍《い》を受けてそれが癒《い》えずにいる為めに、傍観者になったのではあるまいか。
若しそうだとすると、その飾磨屋がどうして今宵のような催しをするのだろう。世間にはもう飾磨屋の破産を云々《うんぬん》するものもある。豪遊の名を一時に擅《ほしいまま》にしてから、もうだいぶ久しくなるのだから、内証は或はそうなっているかも知れない。それでいて、こんな催しをするのは、彼が忽ち富豪の主人になって、人を凌《しの》ぎ世に傲《おご》った前生活の惰力ではあるまいか。その惰力に任せて、彼は依然こんな事をして、丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去った栄華のなごりを、現在の傍観者の態度で見ているのではあるまいか。
僕の考は又一転して太郎の上に及んだ。あれは一体どんな女だろう。破産の噂《うわさ》が、殆ど別な世界に栖息《せいそく》していると云って好い僕なんぞの耳に這入る位であるから、怜《れい》悧《り》らしいあの女がそれに気が附かずにいる筈《はず》はない。なぜ死《し》期《ご》の近い病人の体を蝨《しらみ》が離れるように、あの女は離れないだろう。それに今の飾磨屋の性質はどうだ。傍観者ではないか。傍観者は女の好んで択《えら》ぶ相手ではない。なぜと云うに、生活だの生活の喜《よろこび》だのと云うものは、傍観者の傍では求められないからである。そんなら一体どうしたと云うのだろう。僕の頭には、又病人と看護婦と云う印象が浮んで来た。女の生涯に取って、報酬を予期しない看護婦になると云うこと、しかもその看護を自己の生活の唯一の内容としていると云うこと程、大いなる犠牲は又とあるまい。それも夫婦の義務の鎖に繋《つな》がれていてする、イブセンの謂《い》う幽霊に祟《たた》られていてすると云うなら、別問題であろう。この場合にそれはない。又恋愛の欲望の鞭《むち》でむちうたれていてすると云うなら、それも別問題であろう。この場合に果してそれがあろうか、少くも疑を挾《はさ》む余地がある。そうして見ると、財産でもなく、生活の喜でもなく、義務でもなく、恋愛でもないとして考えて、僕はあの女の捧げる犠牲のいよいよ大きくなるのに驚かずにはいられなかったのである。
僕はこんな事を考えて、鮓を食ってしまった跡に、生姜《しょうが》のへがしたのが残っている半紙を手に持ったまま、ぼんやりしてやはり二人の方を見ていた。その時一人の世話人らしい男が、飾磨屋の傍へ来て何か凾ュと、これまで殆ど人形のように動かずにいた飾磨屋が、つと起《た》って奥に這入った。太郎もその跡に引き添って這入った。
暫くすると蔀君が僕のいる所へ来て、縁側にしゃがんで云った。「今あっちの座敷で弁当を上がっていなすった依田先生が、もう怪談はお預けにして置いて帰ると云われたので、飾磨屋さんは見送りに立ったのです。もう暑くはありませんから、これから障子を立てさせて、狭くても皆さんにここへ集まって貰って、怪談を始めさせるのだそうです」と云った。僕はさっき飾磨屋を始て見たとき、あの沈鬱なような表情に気を附け、それからこの男の瞬《またた》きもせずに、じっとして据わっているのを、稍久しく見て、始終なんだか人を馬鹿にしているのではないかというような感じを心の底に持っていた。この感じが鋭くなって、一刹《せつ》那《な》あの目をデモニックだとさえ思ったのである。そうであるのに、この感じが、今依田さんを送りに立ったと云うだけの事を、蔀君の話に聞いて、なんとなく少し和げられた。僕は蔀君には、只自分もそろそろ帰ろうかと思っていると云うことを告げた。僕は最初に、百物語だと云って、どんな事をするだろうかと思った好奇心も、催主の飾磨屋がどんな人物だろうかと思った好奇心も、今は大抵満足させられてしまって、この上雇われた話家の口から、古い怪談を聞こうと云う希望は少しも無くなっていたからである。蔀君は留めようともしなかった。
改まって主人に暇乞《いとまごい》をしなくてはならないような席でもなし、集まった客の中には、外に知人もなかったのを幸《さいわい》に、僕は黙って起って、舟から出るとき取り換えられた、歯の斜に耗《へ》らされた古下駄を穿いて、ぶらりとこの怪物《ばけもの》屋敷を出た。少し目の慣れるまで、歩き艱《なや》んだ夕闇《ゆうやみ》の田圃道には、道端《みちばた》の草の蔭で《こおろぎ》が微《かす》かに鳴き出していた。
* * *
二三日立ってから蔀君に逢ったので、「あれからどうしました」と僕が聞いたら、蔀君がこう云った。「あなたのお帰りになったのは、丁度好い引上時でしたよ。暫く談《はなし》を聞いているうちに、飾磨屋さんがいなくなったので聞いて見ると、太郎を連れて二階へ上がって、蚊《か》屋《や》を吊《つ》らせて寐たと云うじゃありませんか。失礼な事をしても構わないと云うような人ではないのですが、無頓着《むとんじゃく》なので、そんな事をもするのですね」と云った。
傍観者と云うものは、やはり多少人を馬鹿にしているに極《き》まっていはしないかと僕は思った。
興《おき》津弥五《つやご》右衛門《えもん》の遺書
某《それがし》儀明日年来の宿望相達候《しゅくもうあひたつしそろ》て、妙解院殿《みょうげいんでん》(松向寺殿)御墓前に於《お》いて首尾好く切腹いたし候事《そろこと》と相成候《あひなりそろ》。然《しか》れば子孫の為《た》め事の顛《てん》末《まつ》書き残し置き度たく、京都なる弟又次郎宅に於いて筆を取り候。
某《それがし》祖父は興《おき》津《つ》右兵《うひょう》衛《え》景通《かげみち》と申候《まをしそろ》。永正《えいしょう》十一(十七)年駿河国興津《するがのくにおきつ》に生れ、今川《いまがは》治部《じぶ》大《たい》輔《ふ》殿に仕へ、同国清《きよ》見《み》が関《せき》に住居《じゅうきょ》いたし候。永《えい》禄《ろく》三年五月二十日今川殿陣亡被遊候時《あそばされそろとき》、景通も御《お》供《とも》いたし候。年齢四十一歳に候。法名《ほうみょう》は千山宗及居士《せんざんそうきゅうこじ》と申候。
父才八《さいはち》は永禄元年出生候《しゅっしょうそろ》て、三歳にして怙《ちち》を失ひ、母の手に養育いたされ候て人と成り候。壮年に及びて弥五《やご》右衛《え》門《もん》景一《かげかず》と名告《なの》り、母の族なる播磨国《はりまのくに》の人佐野官十郎方に寄居いたし居候《をりそろ》。さて其《その》縁故を以《もっ》て赤松左兵衛督《さひょうえのかみ》殿に仕へ、天正《てんしょう》九年千石を給《たま》はり候。十三年四月赤松殿阿《あ》波国《はのくに》を併《あは》せ領せられ候に及びて、景一は三百石を加増せられ、阿波郡代《ぐんだい》となり、同国渭《いの》津《つ》に住居いたし、慶長《けいちょう》の初まで勤続いたし候。慶長五年七月赤松殿石田三成《かずしげ》に荷担いたされ、丹波国《たんばのくに》なる小野木《をのぎ》縫《ぬひ》殿《の》介《すけ》と倶《とも》に丹《たん》後国《ごのくに》田辺城《たなべのしろ》を攻められ候。当時田辺城には松《しょう》向寺殿《こうじどの 》三斎忠興公御立籠被遊《さんさいただおきこうおんたてこもりあそばされ》居候処、神君上《うへ》杉景勝《すぎかげかつ》を討たせ給ふにより、三斎公も随従被《あそ》遊《ばされ》、跡《あと》には泰勝院殿幽斎藤孝《たいしょういんどのゆうさいふぢたか》公御《おん》留守《るす》被遊候。景一は京都赤松殿邸《やしき》にありし時、烏丸光広卿《からすまるみつひろきょう》と相識《そうしき》に相成居候。これは光広卿が幽斎公和歌の御《おん》弟子《でし》にて、嫡子光賢《みつかた》卿に松向寺殿の御息女万姫君《まんひめぎみ》を妻《めあは》せ居られ候故《ゆゑ》に候。さて景一光広卿を介《かい》して御当家御父子《ごふし》とも御心安く相成居候。田《た》辺《なべ》攻《ぜめ》の時、関東に御出《おんいで》被遊候三斎公は、景一が外戚《がいせき》の従弟《じゅうてい》たる森三右衛門を使《つかひ》に田辺へ差立てられ候。森は田辺に着《ちゃく》いたし、景一に面会して御旨《おんむね》を伝へ、景一は又赤松家の物頭《ものがしら》井《ゐ》門亀《かどかめ》右衛《え》門《もん》と謀《はか》り、田辺城の妙庵丸《みょうあんまる》櫓《やぐら》へ矢《や》文《ぶみ》を射掛け候。翌朝景一は森を斥候の中に交ぜて陣所を出だし遣《や》り候。森は首尾好く城内に入《い》り、幽斎公の御親書を得て、翌晩関東へ出立いたし候。此《この》歳赤松家滅亡せられ候により、景一は森の案内にて豊前国《ぶぜんのくに》へ参り、慶長六年御当家に召抱《めしかか》へられ候。元《げん》和《な》五年御当代光尚《みつひさ》公御誕生被遊《あそばされ》、御幼名六丸君《ろくまるぎみ》と申候。景一は六丸君御《お》附《つき》と相成候。元和七年三斎公御致仕《ごちし》被遊候時、景一も剃髪《ていはつ》いたし、宗《そう》也《や》と名告り候《そろ》。寛永《かんえい》九年十二月九日御先代妙解院殿忠利公《ただとしこう》肥後《ひご》へ御入国被遊候時、景一も御供《おんとも》いたし候。十八年三月十七日に妙解院殿卒去被遊、次いで九月二日景一も病死いたし候。享年八十四歳に候。
兄九郎兵衛一友《かずとも》は景一が嫡子にして、父に附きて豊《ぶ》前《ぜん》へ参り、慶長十七年三斎公に召し出《いだ》され、御次勤《おんつぎづとめ》仰附けられ、後《のち》病気に依《よ》り外《と》様勤《ざまづとめ》と相成候。妙解院殿の御代《おんだい》に至り、寛永十四年冬島原攻《しまばらぜめ》の御供いたし、翌十五年二月二十七日兼《かね》田弥《たや》一《いち》右衛《え》門《もん》と倶《とも》に、御当家攻口《せめくち》の一番乗と名告り、海に臨める城壁の上にて陣亡いたし候。法名を義《ぎ》心英立《しんえいりゅう》居士《こじ》と申候。
某《それがし》は文禄《ぶんろく》四(三)年景一が二男に生れ、幼名才助と申候。七歳の時父に附きて豊前国小《こ》倉《くら》へ参り、慶長十七年十九歳にて三斎公に召し出され候。元和七年三斎公致仕被遊候時、父も剃髪いたし候《さふら》へば、某二十八歳にて弥五右衛門景吉《かげよし》と名告り、三斎公の御供いたし候て、豊前国興(仲)津に参り候。
寛永元年五月安南船《あんなんせん》長崎に到着候時、三斎公は御薙髪被遊《ごていはつあそばされ》候《そろ》てより三年目なりしが、御《おん》茶《ちゃ》事《じ》に御用被成《おんもちゐなされ》候《そろ》珍らしき品買ひ求め候様被《おほせ》仰含《ふくめられ》、相役《あひやく》横田清兵衛と両人にて、長崎へ出《で》向《むき》候。幸なる事には異なる伽《きゃ》羅《ら》の大木渡来いたし居候。然処《しかるところ》其伽羅に本《もと》木《き》と末《うら》木《き》との二つありて、遥々《はるばる》仙台より被差下候《さしくだされそろ》伊達《だて》権中納言《ごんちゅうなごん》殿の役人是非共本木の方を取らんとし、某も同じ本木に望を掛け互にせり合ひ、次第に値段を附《つけ》上《あ》げ候。
其時横田申候は、仮令《たとひ》主命なりとも、香木《こうぼく》は無用の翫物《がんぶつ》に有之《これあり》、過分の大金を擲候事《なげうちそろこと》は不可然《しかるべからず》、所詮《しょせん》本木を伊達家に譲り、末木を買求めたき由《よし》申候。某申候は、某は左様には存じ不申《まをさず》、主君の申附けられ候は、珍らしき品を買ひ求め参れとの事なるに、此度渡来候《そろ》品の中にて、第一の珍物《ちんぶつ》は彼《かの》伽羅に有之、其木に本末あれば、本木の方が尤物《ゆうぶつ》中の尤物たること勿論《もちろん》なり、それを手に入れてこそ主命を果すに当るべけれ、伊達家の伊達を増長為致《いたさせ》、本木を譲り候ては、細川家の流《ながれ》を涜《けが》す事と相成可申《まをすべく》と申候。横田嘲笑《あざわら》ひて、それは力瘤《ちからこぶ》の入れ処が相違せり、一国一城を取るか遣《や》るかと申す場合ならば、飽《あ》く迄《まで》伊達家に楯《たて》を衝《つ》くが宜《よろ》しからん、高が四畳半の炉にくべらるる木の切れならずや、それに大金を棄てんこと存じも不寄《よらず》、主君御自身にてせり合はれ候はば、臣下として諫《いさ》め止《とど》め可申儀《まをすべきぎ》なり、仮令《たとひ》主君が強《し》ひて本木を手に入れたく思召《おぼしめ》されんとも、それを遂げさせ申す事、阿諛《あゆ》便侫《べんねい》の所《しょ》為《い》なるべしと申候。当時三十一歳の某《それがし》、此詞《このことば》を聞きて立腹致候へ共《ども》、尚《なほ》忍んで申候は、それは奈何《いか》にも賢人らしき申条《まをしじょう》なり、乍去《さりながら》某は只《ただ》主命と申物《まをすもの》が大切なるにて、主君あの城を落せと被仰候《おほせられさふら》はば、鉄壁なりとも乗り取り可申《まをすべく》、あの首を取れと被仰候はば、鬼神なりとも討ち果たし可申と同じく、珍らしき品を求め参れと被仰候へば、此上なき名物を求めん所存なり、主命たる以上は、人倫の道に悖《もと》り候事は格別、其事柄に立入り候批判がましき儀は無用なりと申候。横田愈嘲笑《いよいよあざわら》ひて、お手前とても其の通り道に悖りたる事はせぬと申さるるにあらずや、これが武具抔《など》ならば、大金に代《か》ふとも惜しからじ、香木に不相応なる価《あたひ》を出《いだ》さんとせらるるは若輩の心得違なりと申候。某申候は、武具と香木との相違は某若輩ながら心得居る、泰勝院殿《でん》の御代《おんだい》に、蒲《がま》生《ふ》殿被申候は、細川家には結構なる御道具許多《あまた》有之由《これあるよし》なれば拝見に罷出《まかりい》づべしとの事なり、扨《さて》約束せられし当日に相成り、蒲生殿被参候《まゐられそろ》に、泰勝院殿は甲冑《かっちゅう》刀剣弓鎗《ゆみやり》の類を陳《つら》ねて御見せ被成《なされ》、蒲生殿意外に被思《おぼされ》ながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見致度《たく》参上したる次第なりと被申《まをされ》、泰勝院殿御笑被成、先きには道具と被仰候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならば、それも少々持合せ候とて、始《はじめ》て御《おん》取《と》り出《いだ》し被成し由、御当家に於《お》かせられては、代々武道の御心掛深くおはしまし、旁《かたがた》歌道茶事迄も堪能《たんのう》に為渡《わたらせ》らるるが、天下に比類なき所ならずや、茶儀は無用の虚礼なりと申さば、国家の大礼、先祖の祭《さい》祀《し》も総《すべ》て虚礼なるべし、我《われ》等《ら》此度《このたび》仰を受けたるは茶事に御用に立つべき珍らしき品を求むる外《ほか》他事なし、これが主命なれば、身命に懸《か》けても果さでは相成らず、貴殿が香木に大金を出《いだ》す事不相応なりと被思《おぼされ》候《そろ》は、其道の御心得なき故《ゆゑ》、一徹に左様思はるるならんと申候。横田聞きも果てず、いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武《ぶ》辺者《へんもの》なり、諸芸に堪能なるお手前の表芸が見たしと申すや否や、つと立ち上がり、脇差《わきざし》を抜きて投げ附け候。某は身をかはして避《よ》け、刀は違《ちがひ》棚《だな》の下なる刀掛に掛けありし故、飛びしざりて刀を取り抜き合せ、只一打《ひとうち》に横田を討ち果たし候。
斯《か》くて某は即時に伽羅の本木を買ひ取り、仲《なか》津《つ》へ持ち帰り候。伊達家の役人は無是非《ぜひなく》末木を買ひ取り、仙台へ持ち帰り候。某は香木を三斎公に為参《まゐらせ》、扨《さて》御願申候は、主命大切と心得候為めとは申ながら、御役《おんやく》に立つべき侍《さむらひ》一人討ち果たし候段、恐れ入り候へば、切腹被仰附度《おほせつけられたく》と申候。三斎公被聞召《きこしめされ》、某に被仰候は其方《そのほう》が申条一々尤《もっとも》至極せり、仮令《たとひ》香木は貴《たふと》からずとも、此方《このほう》が求め参れと申し附けたる珍品に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以て物を視候はば、世の中に尊《たふと》き物は無くなるべし、矧《まして》や其方が持ち帰り候伽羅は早速焚《た》き試み候に、希《き》代《たい》の名木なれば「聞く度に珍らしければ郭公《ほととぎす》いつも初《はつ》音《ね》の心《ここ》地《ち》こそすれ」と申す古歌に本《もと》づき、銘を初音と附けたり、斯《か》程《ほど》の品を求め帰り候事天晴《あっぱれ》なり、但被討候《ただしうたれそろ》横田清兵衛が子孫遺恨を含居《ふくみゐ》ては不相成《あひならず》と被仰候。斯くて直ちに清兵衛が嫡子を被召《めされ》、御前に於《おい》て盃《さかづき》を被申付《まをしつけられ》、某は彼《かの》者《もの》と互に意趣を存ず間《ま》敷旨誓言《じきむねせいごん》いたし候。然るに横田家の者共兎《と》角《かく》異志を存する由相聞《あひきこ》え、遂《つひ》に筑前国《ちくぜんのくに》へ罷越候《まかりこしそろ》。某へは三斎公御名忠興《ただおき》の興《おき》の字を賜はり、沖津を興津と相改め候様《そろよう》御沙汰《ごさた》有之候。
此《これ》より二年目、寛永三年九月六《むい》日《か》主上《しゅじょう》二条の御城《おんしろ》へ行幸被遊妙解院殿へ彼《かの》名香を御所望有之即《すなはち》之を被献《けんぜらる》、主上叡感有《えいかんあり》て「たぐひありと誰《たれ》かはいはむ末浴sすゑにほ》ふ秋より後のしら菊の花」と申す古歌の心にて、白菊と為名附給由《なづけさせたまふよし》承り候。某が買ひ求め候香木、畏《かしこ》くも至尊の御賞美を被《かうむ》り、御当家の誉《ほまれ》と相成候事、不存寄儀《ぞんじよらざるぎ》と存じ、落涙候事に候。
其後某は御先代妙解院殿よりも出格の御《おん》引立を蒙《かうむ》り、寛永九年御国替《おんくにがへ》の砌《みぎり》には、三斎公の御居城八代《やつしろ》に相詰候事と相成、剰《あまつさ》へ殿御上京の御供にさへ被召具候《めしぐせられそろ》。然処《しかるところ》寛永十四年島原征伐の事有之候。某をば妙解院殿御弟君中《なか》務少輔殿立孝公《つかさしようゆうどのたつたかこう》の御旗下《おんはたもと》に加へられ御幟《おんのぼり》を御《おん》預被成候《あづけなされそろ》。十五年二月廿二(二十七)日御当家御攻口にて、御幟を一番に入れ候時、銃丸左の股《もも》に中《あた》り、やうやう引き取り候。其時某四十五歳に候。手《て》創《きず》平《へい》癒《ゆ》候て後、某は十六年に江戸詰被仰附候。
寛永十八年妙解院殿不存寄《ぞんじよらざる》御病気にて、御父上に先立《さきだち》、御卒去被遊、当代肥後守殿《ひごのかみどの》光尚《みつひさ》公の御代《みよ》と相成候。同年九月二日には父弥五右衛門景一死去いたし候。次いで正保《しょうほう》二年三斎公も御卒去被遊候。是《これ》より先き寛永十三年には、同じ香木の本末《もとすゑ》を分けて珍重被成候仙台中納言殿さへ、少林城《わかばやしじょう》に於て御《ご》薨去《こうきょ》被成《なされ》候《そろ》。彼《かの》末木の香は「世の中の憂きを身に積む柴舟《しばぶね》やたかぬ先よりこがれ行《ゆく》らん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵被成候由に候。
某熟《それがしつらつら》先考御当家に奉仕候《つかへたてまつりそろ》てより以来の事を思ふに、父兄悉《ことごと》く出格の御引立を蒙りしは言ふも更なり、某一身に取りては、長崎に於いて相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺殿一命を御救助被下、此再造《このさいぞう》の大恩ある主君御卒去被遊候に、某争《いか》でか存命いたさるべきと決心いたし候。
先年妙解院殿御卒去の砌には、十九人の者共殉死いたし、又一昨年松向寺殿御卒去の砌にも、蓑《みの》田《た》平七正元《へいしちまさもと》、小野《をの》伝《でん》兵衛《べえ》友次《ともつぐ》、久野与《くのよ》右衛《え》門宗直《もんむねなほ》、宝泉院勝延行者《ほうせんいんしょうえんぎょうじゃ》の四人直ちに殉死いたし候。蓑田は曾祖父和泉《いづみ》と申す者相《さが》良遠江守《らとほたふみのかみ》殿の家老にて、主と倶《とも》に陣亡し、祖父若《わか》狭《さ》、父牛之助流《る》浪《ろう》せしに、平七は三斎公に五百石にて召し出されしものに候。平七は二十三歳にて切腹し、小姓《こしょう》磯部長五郎介錯《かいしゃく》いたし候。小野は丹後国にて祖父今安《いまやす》太郎左衛《たろざえ》門《もん》の代《だい》に召し出されしものなるが、父田中甚《じん》左衛《ざえ》門《もん》御旨《おんむね》に忤《さか》ひ、江戸御邸《おんやしき》より逐電《ちくてん》したる時、御《ご》近習《きんじゅ》を勤め居たる伝兵衛に、父を尋ね出《いだ》して参れ、若《も》し尋ね出さずして帰候はば、父の代りに処刑いたすべしと仰せられ、伝兵衛諸国を遍歴せしに廻《めぐ》り合はざる趣にて罷《まか》り帰り候。三斎公其時死罪を顧みずして帰参候は殊勝なりと被仰候て、助命被遊候。伝兵衛は此恩義を思候て、切腹いたし候。介錯は磯《いそ》田《だ》十郎に候。久野は丹後の国に於いて幽斎公に召し出され、田辺御籠城《ごろうじょう》の時功ありて、新知百五十石賜はり候者に候。矢野又三郎介錯いたし候。宝泉院は陣貝吹《じんがひふき》の山伏《やまぶし》にて、筒《つつ》井《ゐ》順慶《じゅんけい》の弟石井備後守吉村《びんごのかみよしむら》が子に候。介錯は入《じつ》魂《こん》の山伏の由に候。
某は此等の事を見《み》聞候《ききそろ》につけ、いかにも羨《うらや》ましく技《ぎ》癢《よう》に不堪候《たへずさふら》へども、江戸詰御留守居の御用残り居り、他人には始末難相成《あひなりがたく》、空《むな》しく月日の立つに任せ候。然処《しかるところ》松向寺殿御遺《ごい》骸《がい》は八代なる泰勝院にて荼磨sだび》せられしに、御遺言に依り、去年正月十一日泰勝院専誉御《ご》遺骨《ゆいこつ》を京都へ護送いたし候。御供には長岡《ながをか》河内景《かはちかげ》則《のり》、加来《かく》作《さく》左衛《ざえ》門家次《もんいへつぐ》、山田三右衛門、佐方《さかた》源《げん》左衛《ざえ》門秀信《もんひでのぶ》、吉田兼庵《けんあん》相立ち候。二十四日には一同京都に着し、紫野大徳寺中高桐院《むらさきのだいとくじちゆうこうとういん》に御納骨いたし候。御生前に於いて同寺清巌和《せいがんお》尚《しょう》に御約束有之候趣に候。
さて今年《こんねん》御用相片附候へば、御当代に宿望《しゅくもう》言上いたし候《そろ》に、已《や》み難き某が志を御聞届被遊候。十月二十九日朝御暇乞《おんいとまごひ》に参り、御振舞《おんふるまひ》に預り、御《おん》手《て》づから御茶を被下、引《ひき》出《で》物《もの》として九曜の紋赤裏の小袖二襲《ふたかさね》を賜はり候。退出候後、林外《はやしげ》記《き》殿《どの》、藤崎作左衛門殿を御使として被遣後々《つかはされのちのち》の事心配致間敷旨《いたすまじきむね》被仰《おほせられ》、御歌《おんうた》を被下、又京都へ参らば、万事古橋小左衛門と相談して執《と》り行へと懇《ねんごろ》に被仰候。其外《そのほか》堀田加賀《かがの》守《かみ》殿、稲《いな》葉能《ばの》登守《とのかみ》殿も御歌を被下候。十一月二日江戸出立の時は、御当代の御使として田中左兵衛殿品川迄被見送《みおくられ》候《そろ》。
当地に着候《ちゃくそろ》てよりは、当家の主人たる弟又次郎の世話に相成候。就《つ》いては某相果候後、短刀を記念《かたみ》に遣《つかは》し候。
餞別《せんべつ》として詩《しい》歌《か》を被贈候《おくられそろ》人々は烏丸大納言資慶卿《すけよしきょう》、裏松宰相資清《うらまつさいしようすけきよ》卿、大徳寺清巌和尚、南禅寺、妙心寺、天龍寺、相国寺、建仁《けんにん》寺《じ》、東福寺並《ならびに》南都興福寺の長老達に候。
明日切腹候場所は、古橋殿取計《とりはからひ》にて、船岡《ふなおか》山《やま》の下に仮屋を建て、大徳寺門前より仮屋迄十八町の間、藁筵《わらむしろ》三千八百枚余を敷き詰め、仮屋の内には畳一枚を敷き、上に白布を覆有《おほひこれ》之《あり》候由《そろよし》に候《そろ》。いかにも晴がましく候て、心苦しく候へ共、是亦《これまた》主命なれば無是非《ぜひなく》候《そろ》。立会《たちあひ》は御当代の御名代谷《ごみょうだいたに》内蔵之《くらの》允《すけ》殿、御家老長岡与八郎殿、同半左衛門殿にて、大徳寺清巌実堂和尚も被臨場候《りんじょうせられそろ》。倅《せがれ》才右衛門も可参候《まゐるべくそろ》。介錯は兼《かね》て乃美《のみ》市《いち》郎兵衛《ろべえ》勝嘉《かつよし》殿に頼置候《たのみおきそろ》。
某法名《ほうみょう》は孤《こ》峰《ほう》不《ふ》白《はく》と自選いたし候。身不肖ながら見苦しき最期も致間敷存居候。
此遺書は倅才右衛門宛《あて》にいたし置候へば、子々孫々相伝《あひつたへ》、某が志を継ぎ、御当家に奉対《たいしたてまつり》、忠誠を可擢候《ぬきんづべくそろ》。
正保四年丁亥十二月朔日
興津弥五右衛門景吉華《か》押《おう》
興津才右衛門殿
正徳(保)四年十二月二日、興津弥五右衛門景吉は高桐院の墓に詣《もう》でて、船岡山の麓《ふもと》に建てられた仮屋に入《い》った。畳の上に進んで、手に短刀を取った。背後《うしろ》に立って居る乃美市郎兵衛の方を振り向いて、「頼む」と声を掛けた。白《しろ》無垢《むく》の上から腹を三文字に切った。乃美は項《うなじ》を一刀切ったが、少し切り足りなかった。弥五右衛門は「喉笛《のどぶえ》を刺されい」と云った。しかし乃美が再び手を下さぬ間に、弥五右衛門は絶息した。
仮屋の周囲には京都の老若男女《ろうにゃくなんにょ》が堵《と》の如くに集って見物した。落首の中に「比類なき名をば雲井に揚げおきつやごゑを掛けて追腹《おひばら》を切る」と云うのがあった。
興津家の系図は大略左の通りである。
弥五右衛門景吉の嫡子才右衛門一貞《かずさだ》は知行《ちぎょう》二百石を給わって、鉄砲三十挺頭《ちょうがしら》まで勤めたが、宝永元年に病死した。右兵《うひょう》衛《え》景通《かげみち》から四代目である。五世弥五右衛門は鉄砲十挺頭まで勤めて、元文《げんぶん》四年に病死した。六世弥忠太《やちゅうた》は番方《ばんかた》を勤め、宝暦《ほうれき》六年に致仕した。七世九郎次は番方を勤め、安永《あんえい》五年に致仕した。八世九郎兵衛は養子で、番方を勤め、文化元年に病死した。九世栄《えい》喜《き》は養子で、番方を勤め、文政(天保)九年に病死した。十世弥忠太は栄喜の嫡子で、後才右衛門と改名し、番方を勤め、万延《まんえん》元年に病死した。十一世弥五右衛門は才右衛門の二男で、後宗《そう》也《や》と改名し、犬《いぬ》追物《おうもの》が上手《じょうず》であった。明治三年に番士にせられていた。
弥五右衛門景吉の父景一《かげかず》には男子が六人あって、長男が九郎兵衛一友《かずとも》で、二男が景吉であった。三男半三郎は後作太《さくだい》夫《ふ》景行《かげゆき》と名告《なの》っていたが、慶安五年に病死した。その子弥五《やご》太《だい》夫《ふ》が寛文十一年に病死して家が絶えた。景一の四男忠太は後四郎右衛門景時《かげとき》と名告った。元《げん》和《な》元年大阪夏の陣に、三斎公に従って武功を立てたが、行賞の時思う旨があると云って辞退したので追放せられた。それから寺本氏に改めて、伊《い》勢国亀山《せのくにかめやま》に往《い》って、本多下総守《ほんだしもうさのかみ》俊次《としつぐ》に仕えた。次いで坂下《さかのした》、関、亀山三箇所の奉行《ぶぎょう》にせられた。寛政(永)十四年の冬、島原の乱に西国の諸侯が江戸から急いで帰る時、細川越中守綱利《えつちゆうのかみつなとし》(忠利)と黒田右衛門佐《うえもんのすけ》光之《みつゆき》(忠之)とが同日に江戸を立った。東海道に掛かると、人馬が不足した。光之(忠之)は一日だけ先へ乗り越した。この時寺本四郎兵衛(四郎右衛門)が京都にいる弟又次郎の金を七百両借りて、坂下、関、亀山三箇所の人馬を買い締めて、山の中に隠して置いた。さて綱利(忠利)の到着するのを待ち受けて、その人馬を出したので、綱利(忠利)は土山《つちやま》水口《みなぐち》の駅で光之(忠之)を乗り越した。綱利(忠利)は喜んで、後に江戸にいた四郎右衛門の二男四郎兵衛を召し抱《かか》えた。四郎兵衛の嫡子作右衛門は五人扶持《ふち》二十石を給わって、中小姓《ちゅうこしょう》組に加わって、元禄四年に病死した。作右衛門の子登《のぼる》は越中守宣紀《のぶのり》に任用せられ、役料共七百石を給わって、越中守宗孝《むねたか》の代に用人を勤めていたが、元文三年に致仕した。登の子四郎兵衛(四郎右衛門)は物奉行《ものぶぎょう》を勤めているうちに、寛延三年に旨に忤《さか》って知行宅地を没収せられた。その子宇《う》平《へい》太《た》は始め越中守重賢《しげかた》の給仕を勤め、後に中務大輔治年《なかつかさたいふはるとし》の近習になって、擬作高百五十石を給わった。次いで物頭列《ものがしられつ》にせられて紀姫《つなひめ》附になった。文化二年に致仕した。宇平太の嫡子順次は軍学、射術に長じていたが、文化五年に病死した。順次の養子熊《くま》喜《き》は実は山野勘左衛門の三男で、合力米《ごうりきまい》二十石を給わり、中小姓を勤め、天保八年に病死した。熊喜の嫡子衛一郎は後四郎右衛門と改名し、玉名郡代を勤め、物頭列にせられた。明治三年に鞠獄大属《きくごくだいぞく》になって、名を登と改めた。景一の五男八助は三歳の時足を傷《きずつ》けて行歩《ぎょうほ》不自由になった。宗春《むねはる》と改名して寛文十二年に病死した。景一の六男又次郎は京都に住んでいて、播磨国《はりまのくに》の佐野官十郎の孫市郎左衛門を養子にした。
護持院原《ごじいんがはら》の敵討
播磨国飾東郡姫路《はりまのくにしきとうごおりひめじ》の城主酒井雅楽頭忠実《うたのかみただみつ》の上邸《かみやしき》は、江戸城の大手向左角にあった。そこの金《かね》部《べ》屋《や》には、いつも侍《さむらい》が二人ずつ泊ることになっていた。然《しか》るに天保《てんぽう》四年癸巳《みずのとみ》の歳《とし》十二月二十六日の卯《う》の刻過《すぎ》の事である。当年五十五歳になる、大金奉行《おおかねぶぎょう》山本三右衛門《さんえもん》と云う老人が、唯《ただ》一人すわっている。ゆうべ一しょに泊る筈《はず》の小《こ》金《がね》奉行が病気引《びき》をしたので、寂しい夜《よ》寒《さむ》を一人で凌《しの》いだのである。傍《そば》には骨の太い、がっしりした行燈《あんどう》がある。燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色《だいだいいろ》の火が、黎明《しののめ》の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠《つづら》にしまってある。
障子の外に人のけはいがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました」
「お前は誰《たれ》だい」
「お表の小使でございます」
三右衛門は内から障子をあけた。手紙を持って来たのは、名は知らぬが、見《み》識《し》った顔の小使で、二十《はたち》になるかならぬの若者である。
受け取った封書を持って、行燈の前にすわった三右衛門は、先《ま》ず燈心の花を落して掻《か》き立てた。そして懐《ふところ》から鼻紙袋を出して、その中の眼鏡《めがね》を取って懸《か》けた。さて上書を改めたが、伜《せがれ》宇平の手でもなければ、女房《にょうぼう》の手でもない。ちょいと首を傾けたが、宛名には相違がないので、とにかく封を切った。手紙を引き出して披《ひら》き掛けて、三右衛門は驚いた。中は白紙である。
はっと思ったとたんに、頭を強く打たれた。又驚く間もなく、白紙の上に血がたらたらと落ちた。背後《うしろ》から一刀浴せられたのである。
夜具葛籠の前に置いてあった脇差《わきざし》を、手探りに取ろうとする所へ、もう二の太刀《たち》を打ち卸して来る。無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらに掴《つか》み着いた。
相手は存外卑怯《ひきょう》な奴《やつ》であった。むなぐらを振り放し科《しな》に、持っていた白《しら》刃《は》を三右衛門に投げ付けて、廊下へ逃げ出した。
三右衛門は思慮の遑《いとま》もなく跡を追った。中の口まで出たが、もう相手の行方《ゆくえ》が知れない。痛手を負った老人の足は、壮年の癖者《くせもの》に及ばなかったのである。
三右衛門は灼《や》けるような痛《いたみ》を頭と手とに覚えて、眩暈《めまい》が萌《きざ》して来た。それでも自分で自分を励まして、金《かね》部《べ》屋《や》へ引き返して、何より先に金箱の錠前を改めた。なんの異状もない。「先ず好かった」と思った時、眩暈が強く起ったので、左の手で夜具葛籠を引き寄せて、それに靠《よ》り掛かった。そして深い緩《ゆる》い息を衝《つ》いていた。
物音を聞き附けて、最初に駆け附けたのは、泊番の徒《かち》目《め》附《つけ》であった。次いで目附が来る。大目附が来る。本締《もとじめ》が来る。医師を呼びに遣《や》る。三右衛門の妻子のいる蠣殻町《かきがらちょう》の中邸《なかやしき》へ使が走って行く。
三右衛門は精神が慥《たしか》で、役人等に問われて、はっきりした返事をした。自分には意趣遺恨を受ける覚《おぼえ》は無い。白紙の手紙を持って来て切って掛かった男は、顔を知って名を知らぬ表小使である。多分金銀に望《のぞみ》を繋《か》けたものであろう。家督相続の事を宜《よろ》しく頼む。敵《かたき》を討ってくれるように、伜に言って貰《もら》いたいと云うのである。その間三右衛門は「残念だ、残念だ」と度々《たびたび》繰り返して云った。
現《げん》場《ば》に落ちていた刀は、二三日前作事の方に勤めていた五瀬某が、詰所《つめしょ》に掛けて置いたのを盗まれた品であった。門番を調べて見れば、卯刻《うのこく》過に表小使亀蔵《かめぞう》と云うものが、急用のお使だと云って通用門を出たと云うことである。亀蔵は神田久右衛門町《かんだきゅうえもんちょう》代地の仲間口入《ちゆうげんくちいれ》宿《やど》富士屋治三郎が入れた男で、二十歳になる。下請宿《したうけやど》は若《わか》狭《さ》屋《や》亀吉である。表小使亀蔵が部屋を改めて見れば、山本の外四人の金部屋役人に、それぞれ宛てた封書があって、中は皆白紙である。
察するに亀蔵は、早晩泊番の中の誰《たれ》かを殺して金を盗もうと、兼《かね》て謀《はか》っていたのであろう。奥《おう》羽《う》その外の凶歉《きょうけん》のために、江戸は物価の騰貴した年なので、心得違《こころえちがえ》のものが出来たのであろうと云うことになった。天保四年は小《こ》売《うり》米《まい》百文に五合五勺になった、天明《てんめい》以後の飢《き》饉《きん》年《どし》である。
医師が来て、三右衛門に手当をした。
親族が駆け附けた。蠣殻町の中邸から来たのは、三右衛門の女房と、伜宇平とである。宇平は十九歳になっている。宇平の姉りよは細川長門守《ながとのかみ》興建《おきたけ》の奥に勤めていたので、豊島《としま》町《ちょう》の細川邸から来た。当年二十二歳である。三右衛門の女房は後添《のちぞい》で、りよと宇平とのためには継母である。この外にまだ三右衛門の妹で、小《こ》倉《くら》新《しん》田《でん》の城主小笠原備後守貞謙《おがさわらびんごのかみさだよし》の家《け》来《らい》原田某の妻になって、麻《あざ》布《ぶ》日《ひ》が窪《くぼ》の小笠原邸にいるのがあるが、それは間に合わないで、酒井邸には来なかった。
三右衛門は医師が余り物を言わぬが好いと云うのに構わず、女房子供にも、役人に言ったと同じ事を繰り返して言って聞せた。
蠣殻町の住いは手狭で、介抱が行き届くまいと言うので、浜町添邸《そえやしき》の神《かん》戸《べ》某方で、三右衛門を引き取るように沙《さ》汰《た》せられた。これは山本家の遠い親戚《しんせき》である。妻子はそこへ附き添って往った。そのうちに原田の女房も来た。
神戸方で三右衛門は二十七日の寅《とら》の刻に絶命した。
その日の酉《とり》の下《げ》刻《こく》に、上邸《かみやしき》から見分《けんぶん》に来た。徒目附、小《こ》人《びと》目附等に、手《て》附《つけ》が附いて来たのである。見分の役人は三右衛門の女房、伜宇平、娘りよの口書《くちがき》を取った。
役人の復命に依《よ》って、酒井家から沙汰があった。三右衛門が重《おも》手《で》を負いながら、癖者を中の口まで追って出たのは、「平生《へいぜい》の心得方《こころえかた》宜《よろしき》に附《つき》、格式相当の葬儀可取行《とりおこなふべし》」と云うのである。三右衛門の創《きず》を受けた現場にあった、癖者の刀は、役人の手で元の持主五瀬某に見せられた。
二十八日に三右衛門の遺《い》骸《がい》は、山本家の菩《ぼ》提《だい》所《しょ》浅草堂前の遍立寺《へんりゅうじ》に葬られた。葬《とむらい》を出す前に、神戸方で三右衛門が遭難当時に持っていた物の始末をした時、大小も当然伜宇平が持って帰る筈であったが、娘りよは切に請うて脇差を譲り受けた。そして宇平がそれを承諾すると、泣き腫《は》らしていた、りよの目が、刹《せつ》那《な》の間喜《よろこび》にかがやいた。
侍が親を殺害《せつがい》せられた場合には、敵討《かたきうち》をしなくてはならない。ましてや三右衛門が遺族に取っては、その敵討が故人の遺言になっている。そこで親族打ち寄って、度々評議を凝《こ》らした末、翌天保五年甲午《きのえうま》の歳の正月中旬に、表向敵討の願をした。
評議の席で一番熱心に復讐《ふくしゅう》がしたいと言い続けて、成功を急いで気を苛《いら》ったのは宇平であった。色の蒼《あお》い、瘠《や》せた、骨細の若者ではあるが、病身ではない。姉のりよは始終黙って人の話を聞いていたが、願書に自分の名を書き入れて貰うことだけは、きっと居直って要求した。りよは十人並の容貌《ようぼう》で、筋肉の引き締まった小女《こおんな》である。未亡人は頭痛持でこんな席へは稀《まれ》にしか出て来ぬが、出て来ると、若《も》し返討《かえりうち》などに逢《あ》いはすまいかと云う心配ばかりして、果《はて》はどうしてこんな災難に遇ったことかと繰り返してくどくのであった。日が窪から来る原田夫婦や、未亡人の実弟桜井須《す》磨右衛門《まえもん》は、いつもそれを慰めようとして骨を折った。
然るにここに親戚一同がひどく頼みに思っている男が一人ある。この男は本国姫路にいるので、こう云う席には列することが出来なかったが、訃《ふ》音《いん》に接するや否や、弔慰《くやみ》の状をよこして、敵討にはきっと助太刀をすると誓ったのである。姫路ではこの男は家老本多意《い》気揚《きり》に仕えている。名は山本九郎右衛門と云って当年四十五歳になる。亡くなった三右衛門がためには、九つ違の実弟である。
九郎右衛門は兄の訃音を得た時、すぐに主人意気揚に願書を出した。甥《おい》、女姪《めい》が敵討をするから、自分は留守を伜健蔵に委《まか》せて置いて、助太刀に出たいと云うのである。主人本多意気揚は徳川家康が酒井家に附けた意気揚の子孫で、武士道に心入《こころいれ》の深い人なので、すぐに九郎右衛門の願を聞き届けた。江戸ではまだ敵討の願を出したばかりで、上《かみ》からそんな沙汰もないうちに、九郎右衛門は意気揚から拵附《こしらえつき》の刀一腰《ひとこし》と、手当金二十両とを貰って、姫路を立った。それが正月二十三日の事である。
二月五日に九郎右衛門は江戸蠣殻町の中邸にある山本宇平が宅に着いた。宇平を始《はじめ》、細川家から暇《いとま》を取って帰っていた姉のりよが喜《よろこび》は譬《たと》えようがない。沈着で口数をきかぬ、筋骨逞《たくま》しい叔父《おじ》を見たばかりで、姉も弟も安《あん》堵《ど》の思をしたのである。
「まだこっちではお許は出んかい」と、九郎右衛門は宇平に問うた。
「はい。まだなんの御沙汰もございません。お役人方に伺いましたが、多分忌中だから御沙汰がないのだろうと申すことで」
九郎右衛門は眉《み》間《けん》に皺《しわ》を寄せた。暫《しばら》くして、「大きい車は廻りが遅いのう」と云った。
それから九郎右衛門は、旅の支度が出来たかと問うた。いずれお許が出てからと、宇平が云った。叔父の眉間には又皺が寄った。しかし今度は長い間なんとも言わなかった。外の話を色々した後で、叔父は思い出したように云った。「あの支度はのう、先へして置いても好いぞよ」
六日には九郎右衛門が兄の墓参をした。七日には浜町の神戸方へ、兄が末《まつ》期《ご》に世話になった礼に往った。西北の風の強い日で、丁度九郎右衛門が神戸の家にいるうちに、神田から火事が始まった。歴史に残っている午年《うまどし》の大火である。未《ひつじ》の刻に佐《さ》久《く》間《ま》町《ちょう》二丁目の琴三味線師の家から出火して、日本橋方面へ焼けひろがり、翌朝卯の刻まで焼けた。「八つ時分三味線屋からことを出し火の手がちりてとんだ大火事」と云う落首があった。浜町も蠣殻町も風下《かざした》で、火の手は三つに分かれて焼けて来るのを見て、神戸の内は人手も多いからと云って、九郎右衛門は蠣殻町へ飛んで帰った。
山本の内では九郎右衛門が指図をして、荷物は残らず出させたが、申《さる》の下刻には中邸一面が火になって、山本も焼けた。
りよは火事が始まるとすぐ、旧主人の細川家の邸をさして駆けて行ったが、もう豊島町は火になっていた。「あぶないあぶない」「姉さん火の中へ逃げちゃあいけねえ」などと云うものがある。とうとう避難者や弥《や》次《じ》馬《うま》共の間に挾《はさ》まれて、身動《みうごき》もならぬようになる。頭の上へは火の子がばらばら落ちて来る。りよは涙ぐんで亀井町の手前から引き返してしまった。内へはもう叔父が浜町から帰って、荷物を片附けていた。
浜町も矢の倉に近い方は大部分焼けたが、幸《さいわい》に酒井家の添邸は焼け残った。神戸家へ重《かさね》々《がさね》世話になるのは気の毒だと云うので、宇平一家はやはり遠い親戚に当る、添邸の山本平作方へ、八日の辰《たつ》の刻過に避難した。
三右衛門が遺族は山本平作方の部屋を借りて、夢の中で夢を見るような心持になって、ぼんやりしている。未亡人は頭痛が起って寝たきりである。宇平は腕組をして何やら考え込む。只《ただ》りよ一人平作の家族に気《き》兼《がね》をしながら、甲斐々々《かいがい》しく立ち働いていたが、午頃《ひるごろ》になって細川の奥方の立退所《たちのきじょ》が知れたので、すぐに見舞に往った。
晩にりよが帰ると九郎右衛門が云った。「おい。もう当分我々は家なんぞはいらんが、若殿が旅に出て風を引かぬように、支度だけはして遣《や》らんではならんぞ」叔父は宇平を若殿々々と呼んで揶揄《からか》っているのである。
「はい」と云ったりよは、その晩から宇平の衣類に手を着けた。
九日にはりよが旅支度にいる物を買いに出た。九郎右衛門が書附にして渡したのである。きょうは風が南に変って、珍らしく暖いと思っていると、酉《とり》の上刻に又檜物町《ひものちょう》から出火した。おとつい焼け残った町《まち》家《や》が、又この火事で焼けた。
十日には又寒い西北の風が強く吹いていると、正午に大名小路《だいみょうこうじ》の松平伯耆守宗発《まつだいらほうきのかみむねあきら》の上邸から出火して、京橋方面から芝口へ掛けて焼けた。
続いて十一日にも十二日にも火事がある。物価の高いのに、災難が引き続いてあるので、江戸中人心恟々《きょうきょう》としている。山本方で商人に注文した、少しばかりの品物にも、思い掛けぬ手違《てちがえ》が出来て、りよが幾ら気を揉《も》んでも、支度がなかなかはかどらない。
或る日九郎右衛門は烟草《たばこ》を飲みながら、りよの裁縫するのを見ていたが、不審らしい顔をして、烟管《きせる》を下に置いた。「なんだい。そんなちっぽけな物を拵《こしら》えたって、しようがないじゃないか。若殿はのっぽでお出《いで》になるからなあ」
りよは顔を赤くした。「あの、これはわたくしので」縫っているのは女の脚絆甲掛《きゃはんこうがけ》である。
「なんだと」叔父は目を大きくチ《みは》った。「お前も武者修行に出るのかい」
「はい」と云ったが、りよは縫物の手を停《と》めない。
「ふん」と云って、叔父は良久《ややひさ》しく女姪《めい》の顔を見ていた。そしてこう云った。「そいつは駄目だ。お前のような可哀らしい女の子を連れて、どこまで往くか分からん旅が出来るものか。敵《かたき》にはどこで出逢うか、何年立って出逢うか、まるで当《あて》がないのだ。己《おれ》と宇平とは只それを捜しに行くのだ。見附かってからお前に知らせれば好《い》いじゃないか」
「仰《おっし》ゃる通《とおり》、どこでお逢になるか知れませんのに、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお待になることが出来ましょうか」罪のないような、狡猾《こうかつ》らしいような、くりくりした目で、微笑を帯びて、叔父の顔をじっと見た。
叔父は少からず狼狽《ろうばい》した。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきっととは云い兼ねる。出来る事なら、どうにでもしてお前をその場へ呼んで遣るのだ。万一間に合わぬ事があったら、それはお前が女に生れた不肖《ふしょう》だと、諦《あきら》めてくれるより外ない」
「それ御覧遊ばせ。わたくしはどうしてもその万一の事のないようにいたしとうございます。女は連れて行かれぬと仰ゃるなら、わたくしは尼になって参ります」
「まあ、そう云うな。尼も女じゃからのう」
りよは涙を縫物の上に落して、黙っている。叔父は一面詞《ことば》を尽して慰めたが、一面女は連れて行かぬと、きっぱり言い渡した。りよは涙を拭《ふ》いて、縫いさした脚絆をそっと側《そば》にあった風炉敷包《ふろしきづつみ》の中にしまった。
酒井忠実は月番老中大久保加賀守忠真《かがのかみただざね》と三奉行とに届済《とどけずみ》の上で、二月二十六日附を以《もっ》て、宇平、りよ、九郎右衛門の三人に宛てた、大目附連署の証文を渡して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰《たちかへるべし》、若《もし》又敵人死候《しにさふら》はば、慥《たしか》なる証拠を以可申立《もってまをしたつべし》」と云う沙汰である。三人には手当が出る。留守へは扶《ふ》持《ち》が下がる。りよはお許は出ても、敵を捜しには旅立たぬことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所《いどころ》さえ極《き》めて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るのである。
りよは小笠原邸の原田夫婦が一先《ひとまず》引き取ることになった。病身な未亡人は願済《ねがいずみ》の上で、里方桜井須磨右衛門の家で保養することになった。
さていよいよ九郎右衛門、宇平の二人が門《かど》出《で》をしようとしたが、二人共敵の顔を識らない。人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿《うけやど》の若狭屋へ往って、色々問い質《ただ》したが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確《しか》としたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。
その時山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国《おうみのくに》浅井郡の産《うまれ》で、少《わか》い時に江戸に出て、諸家に仲間《ちゅうげん》奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに酒井家の表小使をして、三右衛門には世話になったこともあるので、若しお役に立つようなら、幸《さいわい》今は酒井家から暇《いとま》を取っているから、敵の見《み》識《しり》人《にん》として附いて行っても好《よ》いと云うのである。名は文吉と云って、四十二歳になる。体は丈夫で、渡者《わたりもの》の仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。
九郎右衛門が会って話をして見て、すぐに宇平の家来に召し抱《かか》えることにした。
九郎右衛門、宇平、文吉の三人は二十九日に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ好くならぬ未亡人の外、りよを始、親戚一同が集まって来て、先ず墓参をして、それから離別の盃《さかずき》を酌《く》み交《かわ》した。住持はその席へ蕎麦《そば》を出して、「これは手討のらん切《ぎり》でございます」と、茶番めいた口上を言った。親戚は笑い興じて、只一人打ち萎《しお》れているりよを促し立てて帰った。
寺に一《ひと》夜《よ》寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初上野国《こうずけのくに》高崎をさして往くのである。
九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束《おぼつか》ない事が、一方から見れば、是非共為《し》遂《と》げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。
高崎では踪跡《そうせき》が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町《えのきまち》の政淳寺《せいじゅんじ》に山本家の先祖の墓がある。九郎右衛門等はそれに参って成功を祈った。そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国《むさしのくに》の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山《みつみねさん》に登っては、三峯権現《ごんげん》に祈願を籠《こ》めた。八王子を経て、甲斐国《かいのくに》に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身《み》延《のぶ》山《さん》へ参詣《さんけい》した。信《しな》濃国《ののくに》では、上諏訪《かみすわ》から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国《えちごのくに》では、高田を三日、今町を二日、柏崎《かしわざき》、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国《えっちゅうのくに》に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙《こうむ》ることが甚《はなはだ》しくて、一行は麦に芋大根を切り交ぜた飯を食って、農家の土間に筵《むしろ》を敷いて寝た。飛騨国《ひだのくに》では高山に二日、美濃国《みののくに》では金山《かなやま》に一日いて、木《き》曾《そ》路《じ》を太田に出た。尾張国《おわりのくに》では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て、佐屋を経て伊勢《いせの》国《くに》に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。
一行が二日以上泊るのは、稀に一日の草臥《くたびれ》休《やすみ》をすることもあるが、大抵何か手掛りがありそうに思われるので、特別捜索をするのである。松坂では殿町に目代《もくだい》岩橋某と云うものがいて、九郎右衛門等の言うことを親切に聞き取って、綿密な調べをしてくれた。その調べ上げた事実を言って聞せられた時は、一行は暗中に燈火《ともしび》を認めたような気がしたのである。
松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人《おおしょうにん》がある。そこへは紀伊国《きいのくに》熊《くま》野《の》浦《うら》長島外町の漁師定右衛《さだえ》門《もん》と云うものが毎日魚《うお》を送ってよこす。その縁で佐兵衛は定右衛門一家《け》と心安くなっている。然るに定右衛門の長男亀蔵は若い時江戸へ出て、音信《いんしん》不通になったので、二男定助一人をたよりにしている。その亀蔵が今年正月二十一日に、襤褸《ぼろ》を身に纏《まと》って深野屋へ尋ねて来た。佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様《おやじさま》に知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。
後に深野屋へ聞えた所に依ると、亀蔵は正月二十四日に、熊野仁郷村《にんごうむら》にいるははかたの小父林助の家に来て、置いてくれと頼んだが、林助は貧乏していて、人を置くことが出来ぬと云って、勧めて父定右衛門が許《もと》へ遣《や》った。知人にたよろうとし、それが噤sかな》わぬ段になって、始めて親戚をおとずれ、親戚にことわられて、亀蔵はようよう親許へ帰る気になったらしい。定右衛門の家には二十八日に帰った。
二月中旬に亀蔵は江戸で悪い事をして帰ったのだろうと云う噂《うわさ》が、松坂から定右衛門の方へ聞えた。定右衛門が何をしたかと問うた時、亀蔵は目上の人に創を負わせたと云った。そこで定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高《こう》野《や》山《さん》に登らせることにした。二人が剃《てい》髪《はつ》した亀蔵を三浦坂まで送って別れたのが二月十九日の事である。亀蔵はその時茶の弁慶《べんけい》縞《じま》の木綿綿入を着て、木綿帯を締め、藍《あい》の股《もも》引《ひき》を穿《は》いて、脚絆を当てていた。懐中には一両持っていた。
亀蔵は二十二日に高野領清水村の又兵衛と云うものの家に泊って、翌二十三日も雨が降ったので滞留した。そして二十四日に高野山に登った。山で逢ったものもある。二十六日の夕方には、下山して橋本にいたのを人が見た。それからは行方不明になっている。多分四国へでも渡ったかと云うことである。
松坂の目代にこの顛末《てんまつ》を聞いた時、この坊主になった定右衛門の伜亀蔵が敵だと云うことに疑を挾《はさ》むものは、主従三人の中《うち》に一人もなかった。宇平はすぐに四国へ尋ねに往こうと云った。しかし九郎右衛門がそれを止めて、四国へ渡ったかも知れぬと云うのは、根拠のない推量である、四国へもいずれ往くとして、先ず手近な土地から捜すが好いと云った。
一行は松坂を立って、武運を祈るために参宮した。それから関を経て、東海道を摂津国《せっつのくに》大阪に出て、ここに二十三日を費した。その間に松坂から便《たより》があって、紀州の定右衛門が伜の行末を心配して、気《き》病《やみ》で亡くなったと云う事を聞いた。それから西宮《にしのみや》、兵庫《ひょうご》を経て、播磨国《はりまのくに》に入《い》り、明石《あかし》から本国姫路に出て、魚《うお》町《まち》の旅宿に三日いた。九郎右衛門は伜の家があっても、本意を遂げるまでは立ち寄らぬのである。それから備前国《びぜんのくに》に入り、岡山を経て、下山《しもやま》から六月十六日の夜舟に乗って、いよいよ四国へ渡った。松坂以来九郎右衛門の捜索方鍼《ほうしん》に対して、稍《やや》不満らしい気色を見せながら、つまりは意志の堅固な、機嫌に浮沈《うきしずみ》のない叔父に威圧せられて、附いて歩いていた宇平が、この時急に活気を生じて、船中で夜の更《ふ》けるまで話し続けた。
十六日の朝舟は讃岐国《さぬきのくに》丸亀《まるがめ》に着いた。文吉に松尾を尋ねさせて置いて、二人は象《ぞう》頭《ず》山《さん》へ祈願に登った。すると参籠人《さんろうにん》が丸亀で一癖ありげな、他《た》所《しょ》者《もの》の若い僧を見たと云う話をした。宇平はもう敵を見附けたような気になって、亥《い》の刻に山を下った。丸亀に帰って、文吉を松尾から呼んで僧を見させたが、それは別人であった。
伊予国《いよのくに》の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小《こ》春《はる》、今治《いまばり》に二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑《あつさ》を侵《おか》して旅行をした宇平は留飲疝痛《りゅういんせんつう》に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中《なか》大《おお》洲《す》を二日捜して、八《や》幡《はた》浜《はま》に出ると、病後を押して歩いた宇平が、力抜けがして煩《わずら》った。そこで五日間滞留して、ようよう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅は空《むな》しく過ぎたのである。
舟は豊後国佐賀関《ぶんごのくにさがのせき》に着いた。鶴崎《つるさき》を経て、肥後国《ひごのくに》に入り、阿《あ》蘇《そ》山《さん》の阿蘇神宮、熊本の清《せい》正公《しょうこう》へ祈願に参って、熊本と高橋とを三日ずつ捜して、舟で肥前国《ひぜんのくに》島原に渡った。そこに二日いて、長崎へ出た。長崎で三日目に、敵らしい僧を島原で見たと云う話を聞いて、引き返して又島原を五日尋ねた。それから熊本を更に三日、宇土を二日、八代《やつしろ》を一日、南工《なんく》宿《じゅく》を二日尋ねて、再び舟で肥前国温泉嶽《おんせんだけ》の下の港へ渡った。すると長崎から来た人の話に、敵らしい僧の長崎にいることを聞いた。長崎上《かみ》筑《ちく》後《ご》町《まち》の一向宗《いっこうしゅう》の寺に、勧善寺と云うのがある。そこへ二十歳前後の若い僧が来て、棒を指南していると云うのである。一行は又長崎行の舟に乗った。
長崎に着いたのは十一月八日の朝である。舟《ふな》引《ひき》地《じ》町《まち》の紙屋と云う家に泊って、町年寄《まちどしより》福田某に尋人《たずねにん》の事を頼んだ。ここで聞けば、勧善寺の客僧はいよいよ敵らしく思われる。それは紀州産《うまれ》のもので、何か人目を憚《はばか》るわけがあると云って、門外不出で暮していると云うのである。親切な町年寄は、若し取り逃がしてはならぬと云って、盗賊方二人《にん》を同行させることにした。町で剣術師範をしている小川某と云うものも、町年寄の話を聞いて、是非その場に立ち会って、場合に依っては助太刀がしたいと申し込んだ。
九郎右衛門、宇平の二人は、大村家の侍で棒の修行を懇望《こんもう》するものだと云って、勧善寺に弟子入の事を言い入れた。客僧は承引して、あすの巳《み》の刻に面会しようと云った。二人は喜び勇んで、文吉を連れて寺へ往く。小川と盗賊方の二人とは跡に続く。さて文吉に合図を教えて客僧に面会して見ると、似も寄らぬ人であった。ようようその場を取り繕って寺を出たが、皆忌々《いまいま》しがる中に、宇平は殊《こと》に落胆した。
一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛を起して、杖《つえ》を衝《つ》いて歩くようになった。筑後国《ちくごのくに》では久《く》留《る》米《め》を五日尋ねた。筑前国では先《ま》ず太宰府天満宮に参詣《さんけい》して祈願を籠め、博《はか》多《た》、福岡に二日いて、豊前国小《こ》倉《くら》から舟に乗って九州を離れた。
長門国《ながとのくに》下関に舟で渡ったのが十二月六日であった。雪は降って来る。九郎右衛門の足痛は次第に重るばかりである。とうとう宇平と文吉とで勧めて、九郎右衛門を一旦《いったん》姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国室《むろ》津《のつ》に着いた。そしてその日のうちに姫路の城下平《ひら》の町《まち》の稲田屋に這《は》入《い》った。本意を遂げるまでは、飽くまでも旅中の心得でいて、倅の宅には帰らぬのである。
宇平は九郎右衛門を送って置いて、十二月十日に文吉を連れて下関を立った。それから周防国《すおうのくに》宮市に二日いて、室積《むろづみ》を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸《あき》国《のくに》宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国《びんごのくに》に入り、尾の道、鞆《とも》に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞旁《かたがた》姫路に立ち寄った。
宇平、文吉が姫路の稲田屋で九郎右衛門と再会したのは、天保六年乙未《きのとひつじ》の歳正月二十日であった。丁度その時広岸《こうがん》(広峯)山《ざん》の神主《かんぬし》谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。非人は石見産《いわみうまれ》だと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。
九郎右衛門の足はまだなかなか直らぬので、宇平は二月二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座《あわざ》おくひ町の摂津国屋《つのくにや》である。然るに九郎右衛門は二人を立たせてから間もなく、足が好くなって、十四日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追い掛けて往った。
三人は摂津国屋に泊って、所々を尋ね廻るうちに、路銀が尽きそうになった。そこで宿屋の主人の世話で、九郎右衛門は按《あん》摩《ま》になり、文吉は淡島《あわしま》の神主になった。按摩になったのは、柔術の心得があるから、按摩の出来ぬ筈はないと云うのであった。淡島の神主と云うのは、神社で神に仕えるものではない。胸に小さい宮を懸けて、それに紅《もみ》で縫った括猿《くくりざる》などを吊《つ》り下げ、手に鈴を振って歩く乞《こ》食《じき》である。
その時九郎右衛門、宇平の二人は文吉に暇《いとま》を遣ろうとして、こう云った。これまでも我々は只お前と寝食を共にすると云うだけで、給料と云うものも遣らず、名のみ家来にしていたのに、お前は好く辛抱して勤めてくれた。しかしもう日本全国をあらかた遍歴して見たが、敵はなかなか見附からない。この按排《あんばい》では我々が本意を遂げるのは、いつの事か分らない。事によったらこのまま恨《うらみ》を呑《の》んで道路にのたれ死をするかも知れない。お前はこれまで詞《ことば》で述べられぬ程の親切を尽してくれたのだから、どうもこの上一しょにいてくれとは云い兼ねる。勿論《もちろん》敵の面体《めんてい》を見識らぬ我々は、お前に別れては困るに違ないが、もはや是非に及ばない。只運を天に任せて、名告《なの》り合う日を待つより外はない。お前は忠実この上もない人であるから、これから主取《しゅうどり》をしたら、どんな立身も出来よう。どうぞここで別れてくれと云うのであった。
九郎右衛門は兼て宇平に相談して置いて、文吉を呼んでこの申渡《もうしわたし》をした。宇平は側《そば》で腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。
黙って衝《つ》っ伏《ぷ》して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡《もた》げた。チ《みは》った目は異様に赫《かがや》いている。そして一声「檀《だん》那《な》、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡《おおよそ》こんなことを言った。この度《たび》の奉公は当前《あたりまえ》の奉公ではない。敵討の供に立つからは、命はないものである。お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討《かえりうち》にでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重の仇《あだ》を討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の形に添うように離れぬと云うのであった。
さすがの九郎右衛門も詞の返しようがなかった。宇平は蘇《よみがえ》った思《おもい》をした。
それからは三人が摂津国屋を出て、木《き》賃《ちん》宿《やど》に起臥《おきふし》することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、只已《や》むに勝《まさ》る位の考で、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊《はいかい》していた。
そのうち大阪に咳逆《がいぎゃく》が流行して、木賃宿も咳《せき》をする人だらけになった。三月の初に宇平と文吉とが感染して、熱を出して寝た。九郎右衛門は自分の貰った銭で、三人が一口ずつでも粥《かゆ》を啜《すす》るようにしていた。四月の初に二人が本復すると、こん度は九郎右衛門が寝た。体は巌畳《がんじょう》でも、年を取っているので、容体《ようだい》が二人より悪い。人の好い医者を頼んで見て貰うと、傷寒《しょうかん》だと云った。それは熱が高いので、譫語《うわこと》に「こら待て」だの「逃がすものか」だのと叫んだからである。
木賃宿の主人が迷惑がるのを、文吉が宥《なだ》め賺《すか》して、病人を介抱しているうちに、病附《やみつき》の急劇であったわりに、九郎右衛門の強い体は少い日《ひ》数《かず》で病気に打ち勝った。
九郎右衛門の恢復《かいふく》したのを、文吉は喜んだが、ここに今一つの心配が出来た。それは不断から機嫌の変り易《やす》い宇平が、病後に際《きわ》立《だ》って精神の変調を呈して来たことである。
宇平は常はおとなしい性《たち》である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号《あだな》を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡《なび》くように、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼《つねあお》い顔に紅《くれない》が潮《ちょう》して来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱《ちんうつ》になって頭を低《た》れ手を拱《こまぬ》いて黙っている。
宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕《ちょうせき》平穏な時がなくなって、始終興奮している。苛々《いらいら》したような起《たち》居《い》振《ふる》舞《まい》をする。それにいつものような発揚の状態になって、饒舌《おしゃべり》をすることは絶えて無い。寧《むしろ》沈黙勝だと云っても好い。只興奮しているために、瑣《さ》細《さい》な事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人を挑《いど》んで詞尻《ことばじり》を取って、怒《いかり》の動機を作る。さて怒が生じたところで、それをあらわに発動させずに、口小言を言って拗《す》ねている。
こう云う状態が二三日続いた時、文吉は九郎右衛門に言った。「若《わか》檀《だん》那《な》の御様子はどうも変じゃございませんか」文吉は宇平の事を、いつか若檀那と云うことになっていた。
九郎右衛門は気にも掛けぬらしく笑って云った。「若殿か。あの御機嫌の悪いのは、旨《うま》い物でも食わせると直るのだ」
九郎右衛門のこう云ったのも無理はない。三人は日ごとに顔を見合っていて気が附かぬが、困窮と病痾《びょうあ》と羇《き》旅《りょ》との三つの苦《く》艱《げん》を嘗《な》め尽して、どれもどれも江戸を立った日の俤《おもかげ》はなくなっているのである。
文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿《あいやど》のものがそれぞれ稼《かせぎ》に出た跡で、宇平は九郎右衛門の前に膝《ひざ》を進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。
「どうしたのだい」と叔父が云った。
「実は少し考えた事があるのです」
「なんでも好いから、そう云え」
「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」
「それはお前にも分かるまいが、己《おれ》にも分からんのう」
「そうでしょう。蜘蛛《くも》は網《い》を張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹の極《き》まった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖《ぎょうこう》を当にしていつまでも待つのが厭《いや》になりました」
「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」
「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。
「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」
宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前《あたりまえ》かも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、打《ぶ》っ附《つ》からないかも知れません。それを先へ先へと考えて見ますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてなりません」宇平は又膝を進めた。「おじさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしていられるのです」
宇平のこの詞を、叔父は非常な注意の集中を以《もっ》て聞いていた。「そうか。そう思うのか。よく聴《き》けよ。それは武運が拙《つたな》くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰が起《た》てば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏《しんぶつ》の加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」
宇平の口角には微《かす》かな、嘲《あざけ》るような微笑が閃《ひらめ》いた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」
九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神仏《かみほとけ》だ」
宇平の態度は不思議に恬然《てんぜん》としていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏《かみほとけ》は分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事を罷《や》めて、わたしの勝手にしようかと思っています」
九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升《のぼ》って、拳《こぶし》が固く握られた。
「ふん。そんなら敵討は罷《やめ》にするのか」
宇平は軽く微笑《ほほえ》んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見《み》識《しり》人《にん》もいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」
九郎右衛門が怒は発するや否や忽《たちま》ち解けて、宇平のこの詞《ことば》を聞いている間に、いつもの優《やさ》しいおじさんになっていた。只何事をも強《し》いて笑談《じょうだん》に取りなす癖のおじが、珍らしく生真《きま》面目《じめ》になっていただけである。
宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし宇平がこれきりいなくなろうとは、叔父は思わなかった。
夕方に文吉が帰ったので、九郎右衛門は近所へ往って宇平を尋ねて来いと云った。宇平は折々町の若い者の象棋《しょうぎ》をさしている所などへ往った。最初は敵の手掛りを聞き出そうとして、雑談に耳を傾けていたのだが、後には只何となしにそこで話していたのである。文吉はそう云う家を尋ねた。しかしどこにもいなかった。その晩には遅くなるまで九郎右衛門が起きていて、宇平の帰るのを待ったが、とうとう帰らなかった。
文吉は宇平を尋ねて歩いた序《ついで》に、ふと玉造《たまつくり》豊空稲荷《ほうくういなり》の霊験《れいげん》の話を聞いた。どこの誰《たれ》の親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身を潔《きよ》めて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。
稲荷《いなり》の社《やしろ》の前に来て見れば、大勢の人が出《で》入《いり》している。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤い洞《ほら》の中で蠢《うごめ》いているのである。外廻りには茶店が出来ている。汁粉屋がある。甘酒屋がある。赤い洞の両側には見せ物小屋やらおもちゃ店《みせ》やらが出来ている。洞を潜《くぐ》って社に這入ると、神主がお初穂と云って金を受け取って、番号札をわたす。伺を立てる人をその番号順に呼び入れるのである。
文吉は持っていただけの銭を皆お初穂に上げた。しかし順番がなかなか来ぬので、とうとう日の暮れるまで待った。何も食わずに、腹が耗《へ》ったとも思わずにいたのである。暮《くれ》六《む》つが鳴ると、神主が出て「残りの番号の方は明朝お出《いで》なさい」と云った。
次の日には未明に文吉が社へ往った。番号順は文吉より前なのに、まだ来ておらぬ人があったので、文吉は思ったより早く呼び出された。文吉が沙《すな》に額を埋《うず》めて拝みながら待っていると、これも思ったより早く、神主が出て御託宣を取り次いだ。「初の尋人《たずねにん》は春頃から東国の繁華な土地にいる。後の尋人の事は御託宣が無い」と云った。
文吉は玉造から急いで帰って、御託宣を九郎右衛門に話した。
九郎右衛門はそれを聞いて云った。「そうか。東国の繁華な土地と云えば江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所《よそ》へ出たと云うことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親類も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか。後の尋人が知れぬと云うのも、お初穂がもう一度貰いたいのかも知れん」
文吉はひどく勿体《もったい》ながって、九郎右衛門の詞を遮《さえぎ》るようにして、どうぞそう云わずに御託宣を信ずる気になって貰いたいと頼んだ。
九郎右衛門は云った。「いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」
こう云っている所へ、木賃宿の亭主が来た。今家主《いえぬし》の所へ呼ばれて江戸から来た手紙を
貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って、一封の書状を出した。九郎右衛門が手に受け取って、「山本宇平殿、同《おなじく》九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室《こうしつ》の里からの手紙は、なんの用事かと気が急《せ》いて、九郎右衛門が披《ひら》く手紙の上に、乗り出すようにせずにはいられなかった。
敵討の一行が立った跡で、故人三右衛門の未亡人は、里方桜井須磨右衛門の家で持病の直るのを待った。暫くすると難儀に遭《あ》ってから時が立ったのと、四辺《あたり》が静になったのとのために、頭痛が余程軽くなった。実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余り忙《せわ》しくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際《まないたばしぎわ》の高家衆《こうけしゅう》大沢右京大夫基昭《うきようたいふもとあき》が奥に使われることになった。
宇平の姉りよは叔母婿原田方に引き取られてから、墓参の時などには、樒《しきみ》を売る媼《うば》の世間話にも耳を傾けて、敵のありかを聞き出そうとしていたが、いつか忌《いみ》も明けた。そこで所々《しょしょ》に一二箇月ずつ奉公していたら、自然手掛りを得るたつきにもなろうと思い立って、最初は本所の或る家に住み込んだ。これは遠い親戚に当るので、奉公人やら客分やら分からぬ待遇を受けて、万事の手伝をしたのである。次に赤坂の堀と云う家の奥に、大小母《おおおば》が勤めていたので、そこへ手伝に往った。次に麻《あざ》布《ぶ》の或る家に奉公した。次に本郷弓町の寄《より》合衆《あいしゅう》本多帯刀《たてわき》の家来に、遠い親戚があるので、そこへ手伝に往った。こんな風に奉公先を取り替えて、天保六年の春からは御茶の水の寄合衆酒井亀《かめ》之《の》進《しん》の奥に勤めていた。この酒井の妻は浅草の酒井石見守忠方《ただみち》の娘である。
未亡人もりよも敵のありかを聞き出そうと思っていて、中にもりよは昼夜それに心を砕いていたが、どうしても手掛りがない。九郎右衛門や宇平からは便《たより》が絶々《たえだえ》になるのに、江戸でも何一つしでかした事がない。女子《おなご》達の心細さは言おう様がなかった。
月日が立って、天保六年の五月の初になった。或る日未亡人の里方の桜井須磨右衛門が浅草の観音に参詣して、茶店に腰を掛けていると、今まで歇《や》んでいた雨が又一しきり降って来た。その時茶店の軒へ駆け込んで雨を避ける二人連《づれ》の遊人体《あそびにんてい》の男がある。それが小降になるのを待ちながら、軒に立ってこんな話をした。
一人が云った。「お前に話そうと思って忘れていたが、ゆうべの事だった。丁度今のように神田で雨に降り出されて、酒《さか》問《どい》屋《や》の戸の締っている外でしゃがんでいると、そこへ駆け込んだ奴《やつ》がある。見れば、あの酒井様にいた亀じゃあねえか。己はびっくりしたよ。好くずうずうしく帰って来やがったと思いながら、おい、亀と声を掛けたのだ。すると、えと云って振り向いたが、人違《ひとちがえ》をしなさんな、おいらあ虎《とら》と云うもんだと云っといて、まだ雨がどしどし降っているのに、駆け出して行ってしまやがった」
今一人が云った。「じゃあ又帰っていやがるのだ。太《ふて》え奴だなあ」
須磨右衛門は二人に声を掛けて、その亀と云う男は何者だと問うた。二人は侍に糺《ただ》されるのをひどく当惑がる様子であったが、おとどしの暮に大手の酒井様のお邸で悪い事をして逃げた仲間《ちゅうげん》の亀蔵の事だと云った。そして最後に「なに、ちょいと見たのですから、全く人違で、本当に虎と云うものだったかも知れません」と詞を濁した。只見掛けたと云うだけのこの二人を取り押さえても、別に役に立ちそうではなく、又荒立てて亀蔵に江戸を逃げられてはならぬと思って、須磨右衛門は穏便に二人を立ち去らせた。
大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江戸にいることを知らせて遣《や》った手紙である。
文吉はすぐに玉造へお礼参《まいり》に往った。九郎右衛門は文吉の帰るのを待って、手分をして大阪の出口々々を廻って見た。宇平の行方を街道の駕《か》籠《ご》の立《たて》場《ば》、港の船《ふな》問《どい》屋《や》に就《つ》いて尋ねたのである。しかしそれは皆徒労であった。
九郎右衛門は是非なく甥《おい》の事を思い棄てて、江戸へ立つ支度をした。路銀は使い果しても、用心金《ようじんきん》と衣類腰の物とには手は着けない。九郎右衛門は花色木綿の単物《ひとえもの》に茶小倉の帯を締め、紺麻絣《こんあさがすり》の野羽織を着て、両刀を手《た》挾《ばさ》んだ。持物は鳶色《とびいろ》ごろふくの懐中物、鼠木綿《ねずみもめん》の鼻紙袋、十手早縄《はやなわ》である。文吉も取って置いた花色の単物に御《お》納《なん》戸《ど》小倉の帯を締めて、十手早縄を懐中した。
木賃宿の主人には礼金を遣り、摂津国屋へは挨拶《あいさつ》に立ち寄って、九郎右衛門主従は六月二十八日の夜船で、伏見から津へ渡った。三十日に大暴風《おおあらし》で阪の下に半日留められた外は、道中なんの障《さわり》もなく、二人は七月十一日の夜品川に着いた。
十二日寅《とら》の刻に、二人は品川の宿を出て、浅草の遍立寺《へんりゅうじ》に往って、草鞋《わらじ》のままで三右衛門の墓に参った。それから住持に面会して、一《ひと》夜《よ》旅の疲を休めた。
翌十三日は盂《う》蘭《ら》盆《ぼん》会《え》で、親戚のものが墓参に来る日である。九郎右衛門は住持に、自分達の来たのを知らせてくれるなと口止をして、自分と文吉とは庫《く》裡《り》に隠れていた。住持はなぜかと問うたが、九郎右衛門は只「謀《はかりごと》は密なるをとうとぶと申しますからな」と云ったきり、外の話にまぎらした。墓参に来たのは原田、桜井の女房達で、厳《きび》しい武家奉公をしている未亡人やりよは来なかった。
戌《いぬ》の下刻になった時、九郎右衛門は文吉に言った。「さあ、これから捜しに出るのだ。見附けるまでは足を摺《すり》粉《こ》木《ぎ》にして歩くぞ」
遍立寺を旅支度のままで出た二人は、先ず浅草の観音をさして往った。雷門近くなった時、九郎右衛門が文吉に言った。「どうも坊主にはなっておらぬらしいが、どんな風体《ふうてい》でいても見逃がすなよ。だがどうせ立派な形《なり》はしていないのだ」
境内《けいだい》を廻って、観音を拝んで、見《み》識《しり》人《にん》を桜井に逢わせて貰った礼を言った。それから蔵《くら》前《まえ》を両国へ出た。きょうは蒸暑いのに、花火があるので、涼旁《すずみかたがた》見物に出た人が押し合っている。提灯《ちょうちん》に火を附ける頃、二人は茶店で暫く休んで、汗が少し乾くと、又歩き出した。
川も見えず、船も見えない。玉や鍵《かぎ》やと叫ぶ時、群集が項《うなじ》を反《そ》らして、群集の上の花火を見る。
酉《とり》の下刻と思われる頃であった。文吉が背《うし》後《ろ》から九郎右衛門の袖を引いた。九郎右衛門は文吉の視線を辿《たど》って、左手一歩前を行く背の高い男を見附けた。古びた中形《ちゅうがた》木綿の単物《ひとえもの》に、古びた花色縞《しま》博《はか》多《た》の帯を締めている。
二人は黙って跡を附けた。月の明るい夜である。横山町を曲る。塩町《しおちょう》から大伝馬町《おおでんまちょう》に出る。本町を横切って、石町河岸《こくちょうがし》から龍閑橋《りゅうかんばし》、鎌倉河岸《かまくらがし》に掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被《ほおかぶり》をして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれを扶《たす》ける振《ふり》をして附いて行く。
神田橋外元《もと》護《ご》持《じ》院《いん》二番原に来た時は丁度子《ね》の刻頃であった。往来はもう全く絶えている。九郎右衛門が文吉に目ぐわせした。二つの体を一つの意志で働かすように二人は背後《うしろ》から目ざす男に飛び着いて、黙って両腕をしっかり攫《つか》んだ。
「何をしやあがる」と叫んだ男は、振り放そうと身をもがいた。
無言の二人は釘抜《くぎぬき》で釘を挾んだように腕を攫んだまま、もがく男を道傍《みちばた》の立木の蔭へ、引き摩《ず》って往った。
九郎右衛門は強烈な火を節光板で遮ったような声で云った。「己はおとどしの暮お主《ぬし》に討たれた山本三右衛門の弟九郎右衛門だ。国《くに》所《ところ》と名前を言って、覚悟をせい」
「そりゃあ人違だ。おいらあ泉州産《せんしゅううまれ》で、虎蔵と云うものだ。そんな事をした覚《おぼえ》はねえ」
文吉が顔を覗《のぞ》き込んだ。「おい。亀。目の下の黒痣《ほくろ》まで知っている己がいる。そんなしらを切るな」
男は文吉の顔を見て、草葉が霜に萎《しお》れるように、がくりと首を低《た》れた。「ああ。文公か」
九郎右衛門はこれだけ聞いて、手早く懐中から早縄を出して、男を縛った。そして文吉に言った。「もうここは好いから、お茶の水の酒井亀之進様のお邸へ往ってくれ。口上はこうだ。手前は御当家のお奥に勤めているりよの宿許《やどもと》から参りました。母親が霍乱《かくらん》で夜《よ》明《あけ》まで持つまいと申すことでござります。どうぞ格別の思召《おぼしめし》でお暇を下さって、一目お逢わせ下さるようにと、そう云うのだ。急げ」
「は」と云って、文吉は錦町《にしきちょう》の方角へ駆け出した。
酒井亀之進の邸では、今《こ》宵《よい》奥のひけが遅くて、りよはようよう部屋に帰って、寝巻に着換えようとしている所であった。そこへ老女の使が呼びに来た。
りよは着換えぬうちで好かったと思いながら、すぐに起って上《うわ》草《ぞう》履《り》を穿《は》いて、廊下伝《づたい》に老女の部屋へ往った。
老女は云った。「お前の宿から使が来ているがね、母親が急病だと云うことだ。盆ではあり、御多用の所だが、親の病気は格別だから、帰ってお出《いで》。親御に逢ったら、夜でもすぐにお邸へ戻るのだよ。あすになってから、又改めてお暇を願って遣るから」
「難有《ありがと》うございます」と、りよはお請《うけ》をして、老女の部屋をすべり出た。
りよはこのまま往っても好いと考えながら、使とは誰が来たのかと、奥の口へ覗きに出た。御用を勤める時の支度で、木綿中形の単物に黒繻《くろじゅ》子《す》の帯を締めていたのである。奥の口でりよは旅支度の文吉と顔を見合せた。そして親の病気が口実だと云うことを悟った。
りよと一しょに奥を下がった傍輩《ほうばい》が二三人、物珍らしげに廊下に集まって、りよが宿の使に逢うのを見ようとしている。
「ちょいと忘物をいたしましたから」と、りよは独言《ひとりごと》のように云って、足を早めて部屋へ引き返した。
部屋の戸を内から締めたりよは、葛籠《つづら》の蓋《ふた》を開けた。先ず取り出したのは着換の帷子《かたびら》一枚である。次に臂《ひじ》をずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差である。りよは二品を手早く袱《ふく》紗《さ》に包んで持って出た。
文吉は敵を掴まえた顛末《てんまつ》を、途中でりよに話しながら、護持院原《ごじいんがはら》へ来た。
りよは九郎右衛門に挨拶して、着換をする余裕はないので、短刀だけを包の中から出した。
九郎右衛門は敵に言った。「そこへ来たのが三右衛門の娘りよだ。三右衛門を殺した事と、自分の国所名前をそこで言え」
敵は顔を挙げてりよを見た。そして云った。「わたしもこれまでだ。本当の事を言います。なる程山本さんに創《きず》を附けたのはわたしだが、殺しはしません。勝負事に負けて金に困ったものですから、どうかして金が取りたいと思って、あんなへまな事をしました。わたしは泉州生田郡《いくたごおり》上野原村の吉《きち》兵《べ》衛《え》と云うものの伜で、名は虎蔵と云います。酒井様へ小使に住み込む時、勝負事で識合《しりあい》になっていた紀州の亀蔵と云う奴の名を、口から出任せに言ったのです。この外に言うことはありません。どうぞ御存分になすって下さい」
「好く言った」と九郎右衛門は答えた。そしてりよと文吉とに目ぐわせして虎蔵の縄を解いた。三人が三方からじりじりと詰め寄った。
縄をほどかれて、しょんぼり立っていた虎蔵が、ひょいと物をねらう獣のように体を前《まえ》屈《かがみ》にしたかと思うと、突然りよに飛び掛かって、押し倒して逃げようとした。
その時りよは一歩下がって、柄《つか》を握っていた短刀で、抜打に虎蔵を切った。右の肩尖《かたさき》から乳へ掛けて切り下げたのである。虎蔵はよろけた。りよは二太刀三太刀切った。虎蔵は倒れた。
「見事じゃ。とどめは己が刺す」九郎右衛門は乗り掛かって吭《のど》を刺した。
九郎右衛門は刀の血を虎蔵の袖で拭いた。そしてりよにも脇差を拭かせた。二人共目は涙ぐんでいた。
「宇平がこの場に居合せませんのが」と、りよは只一言云った。
九郎右衛門等三人は河岸《かし》にある本多伊予守《いよのかみ》頭取《とうどり》の辻番所《つじばんしょ》に届け出た。辻番組合月番西丸《にしまる》御《お》小《こ》納《なん》戸《ど》鵜殿吉之丞《うどのきちのじょう》の家来玉木勝三郎組合の辻番人が聞き取った。本多から大目附に届けた。辻番所組合遠藤但馬守胤統《たじまのかみたねのり》から酒井忠学《ただのり》の留守居へ知らせた。酒井家は今年四月に代《だい》替《がわり》がしているのである。
酒井家から役人が来て、三人の口書《くちがき》を取って忠学に復命した。
翌十四日の朝は護持院原一ぱいの見物人である。敵を討った三人の周囲へは、山本家の親戚が追々《おいおい》馳《は》せ附けた。三人に鵜殿家から鮨《すし》と生《なま》菓《が》子《し》とを贈った。
酉《とり》の下刻に西丸目附徒士頭《かちがしら》十五番組水野采《うね》女《め》の指図で、西丸徒士目附永井亀次郎、久保田英次郎、西丸小人目附平岡唯八郎《ただはちろう》、井上又八、使之者《つかいのもの》志《し》母《も》谷《や》金左衛門、伊《い》丹《たみ》長次郎、黒《くろ》鍬《くわ》之《の》者《もの》四人が出張した。それに本多家、遠藤家、平岡家、鵜殿家の出役《しゅつやく》があって、先ず三人の人体《にんてい》、衣類、持物、手《て》創《きず》の有《ゆう》無《む》を取り調べた。創は誰も負っていない。次に永井、久保田両徒《かち》目附に当てた口書を取った。次に死骸の見分《けんぶん》をした。酒井家に奉公した時の亀蔵の名を以て調書に載せられた創はこうである。「背中左之方《ひだりのほう》一寸程突創《つききず》一箇所、創口腫上《はれあが》り深さ相知不申《あひしれまをさず》、領《えり》に切創《きりきず》一箇所、長さ三寸程、深さ二寸程、同所下《しも》之《の》方《ほう》に切創一箇所、長さ一寸五分程、深さ六分程、左耳之脇《わき》に切創一箇所、長さ一寸、深さ六分程、右之肩より乳へ掛け一尺程切創一箇所、深さ四寸程、同所脇肩に切創一箇所、長さ二寸、深さ一寸程、咽《のど》突創一箇所、長さ三寸程、都合七箇所」衣類は木綿単物、博多帯、持物は浅《あさ》葱《ぎ》手拭一筋である。死《し》骸《がい》は玉木勝三郎に預けられた。次に呼び出されていた、亀蔵の口入人神田久右衛門町代地富士屋治三郎、同五人組、亀蔵の下請宿若狭屋亀吉が口書を取られた。次に九郎右衛門等の届を聞き取った辻番人が口書を取られた。
見分の役人は戌《いぬ》の上刻に引き上げた。見分が済んで、鵜殿吉之丞から西丸目附松本助之丞へ、酒井家留守居庄野慈父右衛門《しょうのじふえもん》から酒井家目附へ、酒井家から用番大久保加賀守忠真《かがのかみただざね》へ届けた。
十五日卯《う》の下刻に、水野采女の指図で、庄野へ九郎右衛門等三人を引き渡された。前晩《ぜんばん》酉の刻から、九郎右衛門とりよとを載せるために、酒井家でさし立てた二挺《ちょう》の乗物は、辻番所に来て控えていたのである。九郎右衛門、文吉は本多某に、りよは神戸に預《あずけ》られた。
この日酉の下刻に町奉行筒《つつ》井《い》伊賀守政憲《いがのかみまさのり》が九郎右衛門等三人を呼び出した。酒井家からは目附、下目附、足軽小頭に足軽を添えて、乗物に乗った二人と徒歩《かち》の文吉とを警固した。三人が筒井政憲の直《じき》の取調を受けて下がったのは戌の下刻であった。
十六日には筒井から再度の呼出が来た。酉の下刻に与《よ》力《りき》仁《に》杉《すぎ》八右衛門の取調を受けて、口書を出した。
この日にりよは酒井亀之進から、三右衛門の未亡人は大沢家から願に依って暇《いとま》を遣《つかわ》された。りよが元の主人細川家からは、敵討の祝儀を言ってよこした。
十九日には筒井から三度目の呼出が来た。九郎右衛門等三人は口書下書を読み聞せられて、酉の下刻に引き取った。
二十三日には筒井から四度目の呼出が来た。口書清書に実印、爪印をさせられた。
二十八日には筒井から五度目の呼出が来た。用番老中水野越前守忠邦《ただくに》の沙汰で、九郎右衛門、りよは「奇《き》特《どく》之《の》儀《ぎ》に付構《つきかまひ》なし」文吉は「仔《し》細《さい》無之《これなく》構なし」と申し渡された。それから筒井の褒《ほう》詞《し》を受けて酉の下刻に引き取った。
続いて酒井家の大目附から、町奉行の糺明《きゅうめい》が済んだから、「平常通心得《へいじょうのとほりこころう》べし」と、九郎右衛門、りよ、文吉の三人に達せられた。九郎右衛門、りよは天保五年二月に貰った御《ご》判《はん》物《もの》を大目附に納めた。
閏《うるう》七月朔日《ついたち》にりよに酒井家の御用召があった。辰《たつ》の下刻に親戚山本平作、桜井須磨右衛門が麻上下《あさがみしも》で附き添って、御用部屋に出た。家老河合小太郎に大目附が陪席して申渡《もうしわたし》をした。「女性《にょしょう》なれば別して御賞美あり、三右衛門の家名相続被仰附《おほせつけらる》、宛行《あておこなひ》十四人扶《ふ》持《ち》被下置《くだしおかる》、追て相応の者婿養子可被仰附《むこようしおほせつけらるべし》、又近日中《なか》奥《おく》御《お》目見可被仰附《めみえおほせつけらるべし》」と云うのである。
十一日にりよは中《なか》奥《おく》目《め》見《みえ》に出て、「御紋附黒縮緬《くろちりめん》、紅《もみ》裏《うら》真《ま》綿《わた》添《そひ》、白《しろ》羽《は》二《ぶた》重《へ》一重《ひとかさね》」と菓子一折とを賜《たまわ》った。同じ日に浜町の後室から「縞《しま》縮緬一反」、故酒井忠質室専寿院《ただたかしつせんじゅいん》から「高砂《たかさご》染縮緬帛《ふくさ》二、扇二本、包之内《つつみのうち》」を賜った。
九郎右衛門が事に就いては、酒井忠学から家老本多意気揚《いきり》へ、「九郎右衛門は何の思召《おぼしめし》も無之《これなく》、以前之通可召出《いぜんのとほりめしいだすべし》、且行届候段満足褒《かつゆきとどきそろだんまんぞくほう》美可致《びいたすべし》、別段之思召を以て御紋附麻上下被下《あさがみしもくだし》置《おかる》」と云う沙汰があった。本多は九郎右衛門に百石遣って、用人の上席にした。りよへも本多から「反物代千疋《たんものだいせんびき》」を贈り、本多の母から「縞縮緬一反、交肴一折《まぜさかなひとをり》」を贈った。
文吉は酒井家の目附役所に呼び出されて、元表小使、山本九郎右衛門家来と云う資格で、「格段骨折奇特に附、小役人格に被召抱《めしかかへらる》、御《お》宛行金四両《あておこなひきんよりょう》二人扶《ふ》持《ち》被下置《くだしおかる》」と達せられた。
それから苗字《みょうじ》を深中《ふかなか》と名告《なの》って、酒井家の下邸巣《す》鴨《がも》の山番を勤めた。
この敵討のあった時、屋《や》代《しろ》太郎弘賢《ひろかた》は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。「又もあらじ魂祭《たままつ》るてふ折に逢ひて父兄の仇《あた》討《う》ちしたぐひは」幸《さいわい》に太田七左衛門が死んでから十二年程立っているので、もうパロヂイを作って屋代を揶揄《からか》うものもなかった。
山《さん》椒《しょう》大夫
越《えち》後《ご》の春日《かすが》を経て今《いま》津《づ》へ出る道を、珍らしい旅人の一群《ひとむれ》が歩いている。母は三十歳を踰《こ》えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十位の女中が一人附いて、草臥《くたび》れた同胞《はらから》二人を、「もうじきにお宿にお著《つき》なさいます」と云って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引き摩《ず》るようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、折々思い出したように弾力のある歩附《あるきつき》をして見せる。近い道を物詣《ものまいり》にでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群であるが、笠《かさ》やら杖《つえ》やら甲斐々々《かいがい》しい出《いで》立《たち》をしているのが、誰《たれ》の目にも珍らしく、又気の毒に感ぜられるのである。
道は百姓家の断《た》えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和《あきびより》に好く乾いて、しかも粘土が雑《まじ》っているために、好く固まっていて、海の傍《そば》のように踝《くるぶし》を埋《うず》めて人を悩ますことはない。
藁葺《わらぶき》の家が何軒も立ち並んだ一構《ひとかまえ》が柞《ははそ》の林に囲まれて、それに夕日がかっと差している処に通り掛かった。
「まああの美しい紅葉《もみじ》を御覧」と、先に立っていた母が指さして子供に言った。
子供は母の指さす方を見たが、なんとも云わぬので、女中が云った。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
姉娘が突然弟を顧みて云った。「早くお父う様のいらっしゃる処へ往《ゆ》きたいわね」
「姉《ね》えさん。まだなかなか往《い》かれはしないよ」弟は賢《さか》しげに答えた。
母が諭《さと》すように云った。「そうですとも。今まで越して来たような山を沢山越して、河や海をお船で度々《たびたび》渡らなくては往かれないのだよ。毎日精出して大人《おとな》しく歩かなくては」
「でも早く往きたいのですもの」と、姉娘は云った。
一群は暫《しばら》く黙って歩いた。
向うから空桶《からおけ》を担《かつ》いで来る女がある。塩浜から帰る潮汲女《しおくみおんな》である。
それに女中が声を掛けた。「申《も》し申し。この辺に旅の人の宿をする家はありませんか」
潮汲女は足を駐《と》めて、主従四人の群《むれ》を見渡した。そしてこう云った。「まあ、お気の毒な。生憎《あいにく》な所で日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」
女中が云った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人《じん》気《き》が悪いのでしょう」
二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲女の傍《そば》へ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。
潮汲女は云った。「いいえ。信者が多くて人気の好《い》い土地ですが、国守《くにのかみ》の掟《おきて》だから為《し》方《かた》がありません。もうあそこに」と言いさして、女は今来た道を指さした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までお出でなさると、高札《たかふだ》が立っています。それに精《くわ》しく書いてあるそうですが、近頃悪い人買がこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはお咎《とがめ》があります。あたり七軒巻添になるそうです」
「それは困りますね。子供衆もお出《いで》なさるし、もうそう遠くまでは行かれません。どうにか為《し》様《よう》はありますまいか」
「そうですね。わたしの通う塩浜のあるあたりまで、あなた方がお出《いで》なさると、夜になってしまいましょう。どうもそこらで好い所を見附けて、野宿をなさるより外、為方がありますまい。わたしの思案では、あそこの橋の下にお休なさるが好いでしょう。岸の石垣《いしがき》にぴったり寄せて、河原に大きい材木が沢山立ててあります。荒川の上《かみ》から流して来た材木です。昼間はその下で子供が遊んでいますが、奥の方には日も差さず、暗くなっている所があります。そこなら風も通しますまい。わたしはこうして毎日通う塩浜の持主の所にいます。ついそこの柞《ははそ》の森の中です。夜になったら、藁《わら》や薦《こも》を持って往ってあげましょう」
子供等の母は一人離れて立って、この話を聞いていたが、この時潮汲女の傍に進み寄って云った。「好い方に出《で》逢《あ》いましたのは、わたし共の為《し》合《あわ》せでございます。そこへ往って休みましょう。どうぞ藁や薦をお借申しとうございます。せめて子供達にでも敷かせたり被《き》せたりいたしとうございます」
潮汲女は受け合って、柞の林の方へ帰って行く。主従四人は橋のある方へ急いだ。
――――
荒川に掛け渡した応化橋《おうげのはし》の袂《たもと》に一群は来た。潮汲女の云った通に、新しい高札が立っている。書いてある国守の掟も、女の詞《ことば》に違《たが》わない。
人買が立ち廻るなら、その人買の詮《せん》議《ぎ》をしたら好さそうなものである。旅人に足を留めさせまいとして、行き暮れたものを路頭に迷わせるような掟を、国守はなぜ定めたものか。不束《ふつつか》な世話の焼きようである。しかし昔の人の目には掟はどこまでも掟である。子供等の母は只《ただ》そう云う掟のある土地に来合せた運命を歎くだけで、掟の善悪《よしあし》は思わない。
橋の袂に、河原へ洗濯《せんたく》に降りるものの通う道がある。そこから一群は河原に降りた。なる程大層な材木が石垣に立て掛けてある。一群は石垣に沿うて材木の下へ潜《くぐ》って這《は》入《い》った。男の子は面白がって、先に立って勇んで這入った。
奥深く潜《もぐ》って這入ると、洞穴《ほらあな》のようになった所がある。下には大きい材木が横になっているので、床《とこ》を張ったようである。
男の子が先に立って、横になっている材木の上に乗って、一番隅《すみ》へ這入って、「姉えさん、早くお出《いで》なさい」と呼ぶ。
姉娘はおそるおそる弟の傍へ往った。
「まあ、お待遊ばせ」と女中が云って、背に負っていた包を卸した。そして着換の衣類を出して、子供を脇《わき》へ寄らせて、隅の処に敷いた。そこへ親子をすわらせた。
母親がすわると、二人の子供が左右から縋《すが》り附いた。岩代《いわしろ》の信夫郡《しのぶごおり》の住《すみ》家《か》を出て、親子はここまで来るうちに、家の中ではあっても、この材木の蔭より外らしい所に寝たことがある。不自由にも次第に慣れて、もうさ程苦にはしない。
女中の包から出したのは衣類ばかりではない。用心に持っている食物もある。女中はそれを親子の前に出して置いて云った。「ここでは焚《たき》火《び》をいたすことは出来ません。若《も》し悪い人に見附けられてはならぬからでございます。あの塩浜の持主とやらの家まで往って、お湯を貰《もら》ってまいりましょう。そして藁や薦の事も頼んでまいりましょう」
女中はまめまめしく出て行った。子供は楽しげに膚煤sおこしごめ》やら、乾した果《くだもの》やらを食べはじめた。
暫くすると、この材木の蔭へ人の這入って来る足音がした。「姥竹《うばたけ》かい」と母親が声を掛けた。しかし心の内には、柞の森まで往って来たにしては、余り早いと疑った。姥竹と云うのは女中の名である。
這入って来たのは四十歳ばかりの男である。骨組の逞《たくま》しい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられる程、脂肪の少い人で、牙《げ》彫《ぼり》の人形のような顔に笑《えみ》を湛《たた》えて、手に数《ず》珠《ず》を持っている。我家を歩くような、慣れた歩附をして、親子の潜んでいる処へ進み寄った。そして親子の座席にしている材木の端に腰を掛けた。
親子は只驚いて見ている。仇《あた》をしそうな様子も見えぬので、恐ろしいとも思わぬのである。
男はこんな事を言う。「わしは山岡大夫と云う船乗じゃ。この頃この土地を人買が立ち廻ると云うので、国守《こくしゅ》が旅人に宿を貸すことを差し止めた。人買を掴《つか》まえることは、国守の手に合わぬと見える。気の毒なは旅人じゃ。そこでわしは旅人を救うて遣《や》ろうと思い立った。さいわいわしが家は街道を離れているので、こっそり人を留めても、誰《たれ》に遠慮もいらぬ。わしは人の野宿をしそうな森の中や橋の下を尋ね廻って、これまで大勢の人を連れて帰った。見れば子供衆が菓子を食べていなさるが、そんな物は腹の足しにはならいで、歯に障《さわ》る。わしが所ではさしたる饗応《もてなし》はせぬが、芋粥《いもがゆ》でも進ぜましょう。どうぞ遠慮せずに来て下されい」男は強《し》いて誘うでもなく、独語《ひとりごと》のように言ったのである。
子供の母はつくづく聞いていたが、世間の掟に背《そむ》いてまでも人を救おうと云う難有《ありがた》い志に感ぜずにはいられなかった。そこでこう云った。「承われば殊勝なお心掛と存じます。貸すなと云う掟のある宿を借りて、ひょっと宿主《やどぬし》に難儀を掛けようかと、それが気掛かりでございますが、わたくしはともかくも、子供等に温《ぬく》いお粥《かゆ》でも食べさせて、屋根の下に休ませることが出来ましたら、その御恩は後の世までも忘れますまい」
山岡大夫は頷《うなず》いた。「さてさて好う物のわかる御婦人じゃ。そんならすぐに案内をして進ぜましょう」こう云って立ちそうにした。
母親は気の毒そうに云った。「どうぞ少しお待下さいませ。わたくし共三人がお世話になるさえ心苦しゅうございますのに、こんな事を申すのはいかがと存じますが、実は今一人連《つれ》がございます」
山岡大夫は耳を欹《そばだ》てた。「連がおありなさる。それは男か女子《おなご》か」
「子供達の世話をさせに連れて出た女中でございます。湯を貰うと申して、街道を三四町跡へ引き返してまいりました。もう程なく帰ってまいりましょう」
「お女中かな。そんなら待って進ぜましょう」山岡大夫の落ち著《つ》いた、底の知れぬような顔に、なぜか喜《よろこび》の影が見えた。
――――
ここは直江の浦である。日はまだ米山の背《うし》後《ろ》に隠れていて、紺青《こんじょう》のような海の上には薄い靄《もや》が掛かっている。
一群の客を舟に載せて纜《ともづな》を解いている船頭がある。船頭は山岡大夫で、客はゆうべ大夫の家に泊った主従四人の旅人である。
応化橋《おうげのはし》の下で山岡大夫に出逢った母親と子供二人とは、女中姥竹《うばたけ》が欠け損じた瓶《へい》子《し》に湯を貰って帰るのを待ち受けて、大夫に連れられて宿を借りに往った。姥竹は不安らしい顔をしながら附いて行った。大夫は街道を南へ這入った松林の中の草の家に四人を留めて、芋粥を進めた。そしてどこからどこへ往く旅かと問うた。草臥《くたび》れた子供等を先へ寝させて、母は宿の主人《あるじ》に身の上のおおよそを、微《かす》かな燈火《ともしび》の下《もと》で話した。
自分は岩代《いわしろ》のものである。夫が筑《つく》紫《し》へ往って帰らぬので、二人の子供を連れて尋ねに往く。姥竹は姉娘の生れた時から守《もり》をしてくれた女中で、身寄のないものゆえ、遠い、覚束《おぼつか》ない旅の伴《とも》をすることになったと話したのである。
さてここまでは来たが、筑紫の果《はて》へ往くことを思えば、まだ家を出たばかりと云っても好い。これから陸《おか》を行ったものであろうか。又は船《ふな》路《じ》を行ったものであろうか。主人《あるじ》は船乗であって見れば、定めて遠国の事を知っているだろう。どうぞ教えて貰いたいと、子供等の母が頼んだ。
大夫は知れ切った事を問われたように、少しもためらわずに船路を行くことを勧めた。陸を行けば、じき隣の越中の国に入る界《さかい》にさえ、親《おや》不知《しらず》子《こ》不知《しらず》の難所《なんじょ》がある。削り立てたような巌石の裾《すそ》には荒浪《あらなみ》が打ち寄せる。旅人は横穴に這入って、波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。その時は親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧みることが出来ない。それは海辺の難所である。又山を越えると、踏まえた石が一つ揺《ゆる》げば、千《ち》尋《ひろ》の谷底に落ちるような、あぶない岨道《そわみち》もある。西国《さいこく》へ往くまでには、どれ程の難所があるか知れない。それとは違って、船路は安全なものである。慥《たしか》な船頭にさえ頼めば、いながらにして百里でも千里でも行かれる。自分は西国まで往くことは出来ぬが、諸国の船頭を知っているから、船に載せて出て、西国へ往く舟に乗り換えさせることが出来る。あすの朝は早速船に載せて出ようと、大夫は事もなげに云った。
夜が明け掛かると、大夫は主従四人をせき立てて家を出た。その時子供等の母は小さい嚢《ふくろ》から金を出して、宿賃を払おうとした。大夫は留めて、宿賃は貰わぬ、しかし金の入れてある大切な嚢は預って置こうと云った。なんでも大切な品は、宿に著けば宿の主人《あるじ》に、舟に乗れば舟の主《ぬし》に預けるものだと云うのである。
子供等の母は最初に宿を借《か》ることを許してから、主人の大夫の言う事を聴《き》かなくてはならぬような勢《いきおい》になった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、難有くは思っても、何事によらず言うがままになる程、大夫を信じてはいない。こう云う勢になったのは、大夫の詞に人を押し附ける強みがあって、母親はそれに抗《あらが》うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしい処があるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。
母親は余儀ない事をするような心持で舟に乗った。子供等は凪《な》いだ海の、青い氈《かも》を敷いたような面《おもて》を見て、物珍しさに胸を跳《おど》らせて乗った。只姥竹が顔には、きのう橋の下を立ち去った時から、今舟に乗る時まで、不安の色が消え失せなかった。
山岡大夫は纜《ともづな》を解いた。━《さお》で岸を一押押すと、舟は揺《ゆら》めきつつ浮び出た。
――――
山岡大夫は暫く岸に沿うて南へ、越中境《えっちゅうざかい》の方角へ漕《こ》いで行く。靄は見る見る消えて、波が日に赫《かがや》く。
人家のない岩蔭に、波が砂を洗って、海松《みる》や荒《あら》布《め》を打ち上げている処があった。そこに舟が二艘《そう》止まっている。船頭が大夫を見て呼び掛けた。
「どうじゃ。あるか」
大夫は右の手を挙げて、大拇《おやゆび》を折って見せた。そして自分もそこへ舟を舫《もや》った。大拇だけ折ったのは、四人あると云う相図である。
前からいた船頭の一人は宮崎《みやざき》の三郎と云って、越中宮崎のものである。左の手の拳《こぶし》を開いて見せた。右の手が貨《しろもの》の相図になるように、左の手は銭の相図になる。これは五貫文に附けたのである。
「気張るぞ」と今一人の船頭が云って、左の臂《ひじ》をつと伸べて、一度拳を開いて見せ、次いで示指《ひとさしゆび》を竪《た》てて見せた。この男は佐《さ》渡《ど》の二郎で六貫文に附けたのである。
「横着者奴《おうちゃくものめ》」と宮崎が叫んで立ち掛かれば、「出し抜こうとしたのはおぬしじゃ」と佐渡が身構をする。二艘の舟がかしいで、舷《ふなばた》が水を笞《むちう》った。
大夫は二人の船頭の顔を冷《ひやや》かに見較べた。「慌《あわ》てるな。どっちも空《から》手《て》では還《かえ》さぬ。お客様が御窮屈でないように、お二人ずつ分けて進ぜる。賃銭は跡で附けた値段の割じゃ」こう云って置いて、大夫は客を顧みた。「さあ、お二人ずつあの舟へお乗なされ。どれも西国への便船じゃ。舟足と云うものは、重過ぎては走りが悪い」
二人の子供は宮崎が舟へ、母親と姥竹とは佐渡が舟へ、大夫が手を執《と》って乗り移らせた。移らせて引く大夫が手に、宮崎も佐渡も幾緡《いくさし》かの銭を握らせたのである。
「あの、主人《あるじ》にお預けなされた嚢《ふくろ》は」と、姥竹が主《しゅう》の袖を引く時、山岡大夫は空舟をつと押し出した。
「わしはこれでお暇《いとま》をする。慥《たし》かな手から慥かな手へ渡すまでがわしの役じゃ。御《ご》機《き》嫌《げん》好《よ》うお越しなされ」
氈sろ》の音が忙《せわ》しく響いて、山岡大夫の舟は見る見る遠ざかって行く。
母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に著くのでございましょうね」
佐渡と宮崎とは顔を見合せて、声を立てて笑った。そして佐渡が云った。「乗る舟は弘《く》誓《ぜい》の舟、著くは同じ彼岸《かのきし》と、蓮《れん》華《げ》峰《ぶ》寺《じ》の和尚《おしょう》が云うたげな」
二人の船頭はそれきり黙って舟を出した。佐渡の二郎は北へ漕ぐ。宮崎の三郎は南へ漕ぐ。「あれあれ」と呼びかわす親子主従は、只遠ざかり行くばかりである。
母親は物狂おしげに舷に手を掛けて伸び上がった。「もう為方がない。これが別《わかれ》だよ。安寿《あんじゅ》は守本尊《まもりほんぞん》の地蔵様を大切におし。厨《ず》子《し》王《おう》はお父様の下さった護刀《まもりがたな》を大切におし。どうぞ二人が離れぬように」安寿は姉娘、厨子王は弟の名である。
子供は只「お母あ様、お母あ様」と呼ぶばかりである。
舟と舟とは次第に遠ざかる。後《うしろ》には餌《え》を待つ雛《ひな》のように、二人の子供が開《あ》いた口が見えていて、もう声は聞えない。
姥竹は佐渡の二郎に「申《も》し船頭さん、申し申し」と声を掛けていたが、佐渡は構わぬので、とうとう赤松の幹のような脚に縋《すが》った。「船頭さん。これはどうした事でございます。あのお嬢様、若様に別れて、生きてどこへ往かれましょう。奥様も同じ事でございます。これから何をたよりにお暮らしなさいましょう。どうぞあの舟の往く方へ漕いで行って下さいまし。後生《ごしょう》でございます」
「うるさい」と佐渡は後様《うしろざま》に蹴《け》った。姥竹は舟刀sふなとこ》に倒れた。髪は乱れて舷に掛かった。
姥竹は身を起した。「ええ。これまでじゃ。奥様、御免下さいまし」こう云って真《ま》っ逆様《さかさま》に海に飛び込んだ。
「こら」と云って船頭は臂を差し伸ばしたが、間に合わなかった。
母親は袿《うちき》を脱いで佐渡が前へ出した。「これは粗末な物でございますが、お世話になったお礼に差し上げます。わたくしはもうこれでお暇を申します」こう云って舷に手を掛けた。
「たわけが」と、佐渡は髪を掴んで引き倒した。「うぬまで死なせてなるものか。大事な貨《しろもの》じゃ」
佐渡の二郎は牽秩sつなで》を引き出して、母親をくるくる巻にして転《ころ》がした。そして北へ北へと漕いで行った。
――――
「お母あ様お母あ様」と呼び続けている姉と弟とを載せて、宮崎の三郎が舟は岸に沿うて南へ走って行く。
「もう呼ぶな」と宮崎が叱った。「水の底の鱗介《いろくず》には聞えても、あの女子《おなご》には聞えぬ。女子共は佐渡へ渡って粟《あわ》の鳥でも逐《お》わせられることじゃろう」
姉の安寿と弟の厨子王とは抱き合って泣いている。故郷を離れるも、遠い旅をするも母と一しょにすることだと思っていたのに、今料《はか》らずも引き分けられて、二人はどうして好いかわからない。只悲しさばかりが胸に溢《あふ》れて、この別が自分達の身の上をどれだけ変らせるか、その程さえ弁《わきま》えられぬのである。
午《ひる》になって宮崎は餅《もち》を出して食った。そして安寿と厨子王とにも一つずつくれた。二人は餅を手に持って食べようともせず、目を見合せて泣いた。夜は宮崎が被《かぶ》せた苫《とま》の下で、泣きながら寐《ね》入《い》った。
こうして二人は幾日か舟に明かし暮らした。宮崎は越中、能《の》登《と》、越前《えちぜん》、若《わか》狭《さ》の津々浦々を売り歩いたのである。
しかし二人が穉《おさな》いのに、体もか弱く見えるので、なかなか買おうと云うものがない。たまに買手があっても、値段の相談が調《ととの》わない。宮崎は次第に機嫌を損じて、「いつまでも泣くか」と二人を打つようになった。
宮崎が舟は廻り廻って、丹後の由《ゆ》良《ら》の港に来た。ここには石浦《いしうら》と云う処に大きい邸《やしき》を構えて、田畑に米麦《こめむぎ》を植えさせ、山では猟《かり》をさせ、海では漁《すなどり》をさせ、蚕《こ》飼《がい》をさせ、機織《はたおり》をさせ、金物、陶物《すえもの》、木の器、何から何まで、それぞれの職人を使って造らせる山椒《さんしょう》大夫と云う分《ぶ》限《げん》者《しゃ》がいて、人なら幾らでも買う。宮崎はこれまでも、余所《よそ》に買手のない貨《しろもの》があると、山椒大夫が所へ持って来ることになっていた。
港に出張っていた大夫の奴頭《やっこがしら》は、安寿、厨子王をすぐに七貫文に買った。
「やれやれ、餓《が》鬼《き》共《ども》を片附けて身が軽うなった」と云って、宮崎の三郎は受け取った銭を懐《ふところ》に入れた。そして波止場の酒店《さけみせ》に這入った。
――――
一抱《ひとかかえ》に余る柱を立て並べて造った大厦《おおいえ》の奥深い広間に一間四方の炉を切らせて、炭火がおこしてある。その向《むこう》に茵《しとね》を三枚畳《かさ》ねて敷いて、山椒大夫は几《おしまずき》に靠《もた》れている。左右には二郎、三郎の二人の息子が狛犬《こまいぬ》のように列《なら》んでいる。もと大夫には三人の男子があったが、太郎は十六歳の時、逃亡を企てて捕えられた奴《やっこ》に、父が手ずから烙印《やきいん》をするのをじっと見ていて、一言《ごん》も物を言わずに、ふいと家を出て行方《ゆくえ》が知れなくなった。今から十九年前の事である。
奴頭が安寿、厨子王を連れて前へ出た。そして二人の子供に辞儀をせいと云った。
二人の子供は奴頭の詞《ことば》が耳に入《い》らぬらしく、只目をチ《みは》って大夫を見ている。今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広くasあご》が張って、髪も鬚《ひげ》も銀色に光っている。子供等は恐ろしいよりは不思議がって、じっとその顔を見ているのである。
大夫は云った。「買うて来た子供はそれか。いつも買う奴《やっこ》と違うて、何に使うて好いかわからぬ、珍らしい子供じゃと云うから、わざわざ連れて来させて見れば、色の蒼《あお》ざめた、か細い童共《わらわども》じゃ。何に使うて好いかは、わしにもわからぬ」
傍から三郎が口を出した。末の弟ではあるが、もう三十になっている。「いやお父《と》っさん。さっきから見ていれば、辞儀をせいと云われても辞儀もせぬ。外の奴のように名告《なのり》もせぬ。弱々しゅう見えてもしぶとい者共じゃ。奉公初《はじめ》は男が柴苅《しばかり》、女が汐汲《しおくみ》と極《き》まっている。その通にさせなされい」
「仰《おっし》ゃるとおり、名はわたくしにも申しませぬ」と、奴頭が云った。
大夫は嘲笑《あざわら》った。「愚者《おろかもの》と見える。名はわしが附けて遣る。姉はいたつきを垣衣《しのぶぐさ》、弟は我名を萱草《わすれぐさ》じゃ。垣衣は浜へ往って、日に三荷《が》の潮を汲め。萱草は山へ往って日に三荷の柴を刈れ。弱々しい体に免じて、荷は軽うして取らせる」
三郎が云った。「過分のいたわり様じゃ。こりゃ、奴頭。早く連れて下がって道具を渡して遣れ」
奴頭は二人の子供を新参小屋に連れて往って、安寿には桶《おけ》と杓《ひさご》、厨子王には籠《かご》と鎌《かま》を渡した。どちらにも午《ひる》餉《げ》を入れる錘q《かれいけ》が添えてある。新参小屋は外《ほか》の奴《ぬ》婢《ひ》の居所とは別になっているのである。
奴頭が出て行く頃には、もうあたりが暗くなった。この屋《いえ》には燈火《あかり》もない。
――――
翌日の朝はひどく寒かった。ゆうべは小屋に備えてある衾《ふすま》が余りきたないので、厨子王が薦《こも》を探して来て、舟で苫《とま》をかずいたように、二人でかずいて寝たのである。
きのう奴頭に教えられたように、厨子王は錘q《かれいけ》を持って厨《くりや》へ餉《かれい》を受け取りに往った。屋根の上、地にちらばった藁《わら》の上には霜が降っている。厨は大きい土間で、もう大勢の奴婢が来て待っている。男と女とは受け取る場所が違うのに、厨子王は姉のと自分のと貰おうとするので、一度は叱られたが、あすからは銘々が貰いに来ると誓って、ようよう錘qの外に、面桶《めんつう》に入れた早sかたかゆ》と、木の椀《まり》に入れた湯との二人前《ふたりまえ》をも受け取った。曹ヘ塩を入れて炊《かし》いである。
姉と弟とは朝《あさ》餉《げ》を食べながら、もうこうした身の上になっては、運命の下《もと》に項《うなじ》を屈《かが》めるより外はないと、けなげにも相談した。そして姉は浜辺へ、弟は山《やま》路《じ》をさして行くのである。大夫が邸の三の木戸、二の木戸、一の木戸を一しょに出て、二人は霜を履《ふ》んで、見返り勝《がち》に左右へ別れた。
厨子王が登る山は由《ゆ》良《ら》が嶽《たけ》の裾で、石浦からは少し南へ行って登るのである。柴を苅る所は、麓《ふもと》から遠くはない。所々紫色の岩の露《あらわ》れている所を通って、稍《やや》広い平地に出る。そこに雑木が茂っているのである。
厨子王は雑木林の中に立ってあたりを見廻した。しかし柴はどうして苅るものかと、暫くは手を著け兼ねて、朝日に霜の融《と》け掛かる、茵《しとね》のような落葉の上に、ぼんやりすわって時を過した。ようよう気を取り直して、一枝二枝苅るうちに、厨子王は指を傷《いた》めた。そこで又落葉の上にすわって、山でさえこんなに寒い、浜辺に往った姉様は、さぞ潮風が寒かろうと、ひとり涙をこぼしていた。
日が余程昇ってから、柴を背負って麓へ降りる、外の樵《きこり》通り掛かって、「お前も大夫の所の奴か、柴は日に何荷《か》苅るのか」と問うた。
「日に三荷苅る筈《はず》の柴を、まだ少しも苅りませぬ」と厨子王は正直に云った。
「日に三荷の柴ならば、午までに二荷苅るが好い。柴はこうして苅るものじゃ」樵は我荷を卸して置いて、すぐに一荷苅ってくれた。
厨子王は気を取り直して、ようよう午までに一荷苅り、午から又一荷苅った。
浜辺に往く姉の安寿は、川の岸を北へ行った。さて潮を汲む場所に降り立ったが、これも汐の汲みようを知らない。心で心を励まして、ようよう杓《ひさご》を卸すや否や、波が杓を取って行った。
隣で汲んでいる女子《おなご》が、手早く杓を拾って戻した。そしてこう云った。「汐はそれでは汲まれません。どれ汲みようを教えて上げよう。右手《めて》の杓でこう汲んで、左手《ゆんで》の桶でこう受ける」とうとう一荷汲んでくれた。
「難有《ありがと》うございます。汲みようが、あなたのお蔭で、わかったようでございます。自分で少し汲んで見ましょう」安寿は汐を汲み覚えた。
隣で汲んでいる女子《おなご》に、無邪気な安寿が気に入った。二人は午《ひる》餉《げ》を食べながら、身の上を打ち明けて、姉妹《きょうだい》の誓をした。これは伊《い》勢《せ》の小《こ》萩《はぎ》と云って、二《ふた》見《み》が浦《うら》から買われて来た女子である。
最初の日はこんな工合に、姉が言い附けられた三荷の潮も、弟が言い附けられた三荷の柴も、一荷ずつの勧進《かんじん》を受けて、日の暮までに首尾好く調った。
――――
姉は潮を汲み、弟は柴を苅って、一《ひと》日《ひ》一《ひと》日《ひ》と暮らして行った。姉は浜で弟を思い、弟は山で姉を思い、日の暮を待って小屋に帰れば、二人は手を取り合って、筑紫にいる父が恋しい、佐渡にいる母が恋しいと、言っては泣き、泣いては言う。
とかくするうちに十日立った。そして新参小屋を明けなくてはならぬ時が来た。小屋を明ければ、奴《やっこ》は奴、婢《はしため》は婢の組に入《い》るのである。
二人は死んでも別れぬと云った。奴頭が大夫に訴えた。
大夫は云った。「たわけた話じゃ。奴は奴の組へ引き摩《ず》って往け。婢は婢の組へ引き摩って往け」
奴頭が承って起《た》とうとした時、二郎が傍《かたわら》から呼び止めた。そして父に言った。「仰ゃる通に童共《わらべども》を引き分けさせても宜《よろし》ゅうございますが、童共は死んでも別れぬと申すそうでございます。愚なものゆえ、死ぬるかも知れません。苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗《へら》すのは損でございます。わたくしが好いように計らって遣りましょう」
「それもそうか。損になる事はわしも嫌《きらい》じゃ。どうにでも勝手にして置け」大夫はこう云って脇へ向いた。
二郎は三の木戸に小屋を掛けさせて、姉と弟とを一しょに置いた。
或日の暮に二人の子供は、いつものように父《ふ》母《ぼ》の事を言っていた。それを二郎が通り掛かって聞いた。二郎は邸を見廻って、強い奴が弱い奴を虐《しえた》げたり、諍《いさかい》をしたり、盗《ぬすみ》をしたりするのを取り締まっているのである。
二郎は小屋に這入って二人に言った。「父母は恋しゅうても佐渡は遠い。筑紫はそれより又遠い。子供の往かれる所ではない。父母に逢いたいなら、大きゅうなる日を待つが好い」こう云って出て行った。
程経て又或日の暮に、二人の子供は父母の事を言っていた。それを今度は三郎が通り掛かって聞いた。三郎は寝鳥を取ることが好《すき》で邸の内の木立々々を、手に弓矢を持って見廻るのである。
二人は父母の事を言う度《たび》に、どうしようか、こうしようかと、逢いたさの余《あまり》に、あらゆる手立を話し合って、夢のような相談をもする。きょうは姉がこう云った。「大きくなってからでなくては、遠い旅が出来ないと云うのは、それは当り前の事よ。わたし達はその出来ない事がしたいのだわ。だがわたし好く思って見ると、どうしても二人一しょにここを逃げ出しては駄目なの。わたしには構わないで、お前一人で逃げなくては。そして先へ筑紫の方へ往って、お父う様にお目に掛かって、どうしたら好いか伺うのだね。それから佐渡へお母様のお迎に往くが好いわ」三郎が立聞をしたのは、生憎《あいにく》この安寿の詞《ことば》であった。
三郎は弓矢を持って、つと小屋の内に這入った。「こら。お主達《ぬしたち》は逃げる談合をしておるな。逃亡の企《くわだて》をしたものには烙印《やきいん》をする。それがこの邸の掟じゃ。赤うなった鉄は熱いぞよ」
二人の子供は真《ま》っ蒼《さお》になった。安寿は三郎が前に進み出て云った。「あれは潤sうそ》でございます。弟が一人で逃げたって、まあ、どこまで往かれましょう。余り親に逢いたいので、あんな事を申しました。こないだも弟と一しょに、鳥になって飛んで往こうと申したこともございます。出放題でございます」
厨子王は云った。「姉えさんの云う通りです。いつでも二人で今のような、出来ない事ばかし言って、父母《ちちはは》の恋しいのを紛らしているのです」
三郎は二人の顔を見較べて、暫くの間黙っていた。「ふん。盾ネら盾ナも好い。お主達が一しょにおって、なんの話をすると云うことを、己《おれ》が慥《たしか》に聞いて置いたぞ」こう云って三郎は出て行った。
その晩は二人が気味悪く思いながら寐た。それからどれだけ寐たかわからない。二人はふと物音を聞き附けて目を醒《さ》ました。今の小屋に来てからは、燈火《ともしび》を置くことが許されている。その微《かす》かな明りで見れば、枕元《まくらもと》に三郎が立っている。三郎は、つと寄って、両手で二人の手を掴《つか》まえる。そして引き立てて戸口を出る。蒼ざめた月を仰ぎながら、二人は目見えの時に通った、広い馬《め》道《どう》を引かれて行く。階《はし》を三段登る。廊《ほそどの》を通る。廻《めぐ》り廻って前《さき》の日に見た広間に這入る。そこには大勢の人が黙って並んでいる。三郎は二人を炭火の真っ赤におこった炉の前まで引き摩って出る。二人は小屋で引き立てられた時から、只「御免なさい御免なさい」と云っていたが、三郎は黙って引き摩って行くので、しまいには二人も黙ってしまった。炉の向側《むかいがわ》には茵《しとね》三枚を畳ねて敷いて、山椒大夫がすわっている。大夫の赤顔が、座の右左に焚《た》いてある炬火《たてあかし》を照り反《かえ》して、燃えるようである。三郎は炭火の中から、赤く焼けている火《ひ》氏sばし》を抜き出す。それを手に持って、暫く見ている。初め透き通るように赤くなっていた鉄が、次第に黒ずんで来る。そこで三郎は安寿を引き寄せて、火《ひ》氏sばし》を顔に当てようとする。厨子王はその肘《ひじ》に絡《から》み附く。三郎はそれを蹴《け》倒《たお》して右の膝《ひざ》に敷く。とうとう火獅安寿の額に十文字に当てる。安寿の悲鳴が一座の沈黙を破って響き渡る。三郎は安寿を衝《つ》き放して、膝の下の厨子王を引き起し、その額にも火獅十文字に当てる。新《あらた》に響く厨子王の泣声が、稍《やや》微かになった姉の声に交る。三郎は火獅棄てて、初め二人をこの広間へ連れて来た時のように、又二人の手を掴まえる。そして一座を見渡した後、広い母屋《おもや》を廻《めぐ》って、二人を三段の階《はし》の所まで引き出し、凍った土の上に衝き落す。二人の子供は創《きず》の痛《いたみ》と心の恐《おそれ》とに気を失いそうになるのを、ようよう堪え忍んで、どこをどう歩いたともなく、三の木戸の小《こ》家《や》に帰る。臥所《ふしど》の上に倒れた二人は、暫く死《し》骸《がい》のように動かずにいたが、忽《たちま》ち厨子王が「姉えさん、早くお地蔵様を」と叫んだ。安寿はすぐに起き直って、肌の守袋《まもりぶくろ》を取り出した。わななく手に紐《ひも》を解いて、袋から出した仏像を枕元に据えた。二人は右左にぬかずいた。その時歯をくいしばってもこらえられぬ額の痛が、掻《か》き消すように失せた。掌《てのひら》で額を撫《な》でて見れば、創は痕《あと》もなくなった。はっと思って、二人は目を醒ました。
二人の子供は起き直って夢の話をした。同じ夢を同じ時に見たのである。安寿は守本尊を取り出して、夢で据えたと同じように、枕元に据えた。二人はそれを伏し拝んで、微かな燈火の明りにすかして、地蔵尊の額を見た。白毫《びゃくごう》の右左に、鏨《たがね》で彫ったような十文字の疵《きず》があざやかに見えた。
――――
二人の子供が話を三郎に立聞《たちぎき》せられて、その晩恐ろしい夢を見た時から、安寿の様子がひどく変って来た。顔には引き締まったような表情があって、眉《まゆ》の根には皺《しわ》が寄り、目は遥《はるか》に遠い処を見詰めている。そして物を言わない。日の暮に浜から帰ると、これまでは弟の山から帰るのを待ち受けて、長い話をしたのに、今はこんな時にも詞少《ことばすくな》にしている。厨子王が心配して、「姉えさんどうしたのです」と云うと、「どうもしないの、大丈夫よ」と云って、わざとらしく笑う。
安寿の前と変ったのは只これだけで、言う事が間違ってもおらず、為《す》る事も平生《へいぜい》の通である。しかし厨子王は互に慰めもし、慰められもした一人の姉が、変った様子をするのを見て、際限なくつらく思う心を、誰に打ち明けて話すことも出来ない。二人の子供の境界《きょうがい》は、前より一層寂しくなったのである。
雪が降ったり歇《や》んだりして、年が暮れ掛かった。奴《やっこ》も婢《はしため》も外に出る為《し》事《ごと》を止《や》めて、家の中で働くことになった。安寿は糸を紡《つむ》ぐ。厨子王は藁を擣《う》つ。藁を擣つのは修行はいらぬが、糸を紡ぐのはむずかしい。それを夜になると伊勢の小萩が来て、手伝ったり教えたりする。安寿は弟に対する様子が変ったばかりでなく、小萩に対しても詞少になって、動《やや》もすると不愛想をする。しかし小萩は機嫌を損せずに、いたわるようにして附き合っている。
山椒大夫が邸の木戸にも松が立てられた。しかしここの年の始めは何の晴れがましい事もなく、又族《うから》の女子《おなご》達は奥深く住んでいて、出《で》入《いり》することが稀《まれ》なので、賑《にぎ》わしい事もない。只上《かみ》も下《しも》も酒を飲んで、奴の小屋には諍《いさかい》が起るだけである。常は諍をすると、厳《きび》しく罰せられるのに、こう云う時は奴頭が大目に見る。血を流しても知らぬ顔をしていることがある。どうかすると、殺されたものがあっても構わぬのである。
寂しい三の木戸の小屋へは、折々小萩が遊びに来た。婢の小屋の賑わしさを持って来たかと思うように、小萩が話している間は、陰気な小屋も春めいて、この頃様子の変っている安寿の顔にさえ、めったに見えぬ微笑《ほほえみ》の影が浮ぶ。
三日立つと、又家の中の為事が始まった。安寿は糸を紡ぐ。厨子王は藁を擣つ。もう夜になって小萩が来ても、手伝うに及ばぬ程、安寿は紡錘《つむ》を廻すことに慣れた。様子は変っていても、こんな静かな、同じ事を繰り返すような為事をするには差支《さしつかえ》なく、又為事が却《かえ》って一向《ひとむき》になった心を散らし、落著《おちつき》を与えるらしく見えた。姉と前のように話をすることの出来ぬ厨子王は、紡いでいる姉に、小萩がいて物を言ってくれるのが、何よりも心強く思われた。
――――
水が温《ぬる》み、草が萌《も》える頃になった。あすからは外《そと》の為事が始まると云う日に、二郎が邸を見廻る序《ついで》に、三の木戸の小屋に来た。「どうじゃな。あす為事に出られるかな。大勢の人の中《うち》には病気でおるものもある。奴頭《やっこがしら》の話を聞いたばかりではわからぬから、きょうは小屋小屋を皆見て廻ったのじゃ」
藁を擣っていた厨子王が返事をしようとして、まだ詞を出さぬ間に、この頃の様子にも似ず、安寿が糸を紡ぐ手を止《や》めて、つと二郎の前に進み出た。「それに就《つ》いてお願がございます。わたくしは弟と同じ所で為事がいたしとうございます。どうか一しょに山へ遣って下さるように、お取計らいなすって下さいまし」蒼ざめた顔に紅《くれない》が差して、目が赫《かがや》いている。
厨子王は姉の様子が二度目に変ったらしく見えるのに驚き、又自分になんの相談もせずにいて、突然柴苅に往きたいと云うのをも訝《いぶか》しがって、只目をチ《みは》って姉をまもっている。
二郎は物を言わずに、安寿の様子をじっと見ている。安寿は「外にない、只一つのお願でございます、どうぞ山へお遣《やり》なすって」と繰り返して言っている。
暫くして二郎は口を開いた。「この邸では奴《ぬ》婢《ひ》のなにがしになんの為事をさせると云うことは、重い事にしてあって、父がみずから極《き》める。しかし垣衣《しのぶぐさ》、お前の願はよくよく思い込んでの事と見える。わしが受け合って取りなして、きっと山へ往かれるようにして遣る。安心しているが好《い》い。まあ、二人の穉《おさな》いものが無事に冬を過して好かった」こう云って小屋を出た。
厨子王は杵《きね》を措《お》いて姉の側《そば》に寄った。「姉えさん。どうしたのです。それはあなたが一しょに山へ来て下さるのは、わたしも嬉《うれ》しいが、なぜ出し抜《ぬけ》に頼んだのです。なぜわたしに相談しません」
姉の顔は喜《よろこび》に赫いている。「ほんにそうお思いのは尤《もっと》もだが、わたしだってあの人の顔を見るまで、頼もうとは思っていなかったの。ふいと思い附いたのだもの」
「そうですか。変ですなあ」厨子王は珍らしい物を見るように姉の顔を眺《なが》めている。
奴頭が籠と鎌とを持って這入って来た。「垣衣さん。お前に汐汲をよさせて、柴を苅りに遣るのだそうで、わしは道具を持って来た。代りに桶と杓《ひさご》を貰って往こう」
「これはどうもお手《て》数《かず》でございました」安寿は身軽に立って、桶と杓とを出して返した。
奴頭はそれを受け取ったが、まだ帰りそうにはしない。顔には一種の苦笑《にがわらい》のような表情が現れている。この男は山椒大夫一家《け》のものの言附《いいつけ》を、神の託宣を聴くように聴く。そこで随分情ない、苛《か》酷《こく》な事をもためらわずにする。しかし生得《しょうとく》、人の悶《もだ》え苦んだり、泣き叫んだりするのを見たがりはしない。物事が穏かに運んで、そんな事を見ずに済めば、その方が勝手である。今の苦笑のような表情は人に難儀を掛けずには済まぬとあきらめて、何か言ったり、したりする時に、この男の顔に現れるのである。
奴頭は安寿に向いて云った。「さて今一つ用事があるて。実はお前さんを柴苅に遣る事は、二郎様が大夫様に申し上げて拵《こしら》えなさったのじゃ。するとその座に三郎様がおられて、そんなら垣衣を大童《おおわらわ》にして山へ遣れと仰《おっしゃ》った。大夫様は、好い思附《おもいつき》じゃとお笑なされた。そこでわしはお前さんの髪を貰うて往かねばならぬ」
傍で聞いている厨子王は、この詞《ことば》を胸を刺されるような思をして聞いた。そして目に涙を浮べて姉を見た。
意外にも安寿の顔からは喜の色が消えなかった。「ほんにそうじゃ。柴苅に往くからは、わたしも男じゃ。どうぞこの鎌で切って下さいまし」安寿は奴頭の前に項《うなじ》を伸ばした。
光沢《つや》のある、長い安寿の髪が、鋭い鎌の一掻《ひとかき》にさっくり切れた。
――――
あくる朝、二人の子供は背に籠を負い腰に鎌を挿《さ》して、手を引き合って木戸を出た。山椒大夫の所に来てから、二人一しょに歩くのはこれが始《はじめ》である。
厨子王は姉の心を忖《はか》り兼ねて、寂しいような、悲しいような思に胸が一ぱいになっている。きのうも奴頭の帰った跡で、いろいろに詞を設けて尋ねたが、姉はひとりで何事をか考えているらしく、それをあからさまには打ち明けずにしまった。
山の麓に来た時、厨子王はこらえ兼ねて云った。「姉えさん。わたしはこうして久し振で一しょに歩くのだから、嬉しがらなくてはならないのですが、どうも悲しくてなりません。わたしはこうして手を引いていながら、あなたの方へ向いて、その禿《かぶろ》になったお頭《つむり》を見ることが出来ません。姉えさん。あなたはわたしに隠して、何か考えていますね。なぜそれをわたしに言って聞かせてくれないのです」
安寿はけさも毫光《ごうこう》のさすような喜を額に湛《たた》えて、大きい目を赫かしている。しかし弟の詞には答えない。只引き合っている手に力を入れただけである。
山に登ろうとする所に沼がある。汀《みぎわ》には去年見た時のように、枯葦《かれあし》が縦横に乱れているが、道端《みちばた》の草には黄ばんだ葉の間に、もう青い芽の出たのがある。沼の畔《ほとり》から右に折れて登ると、そこに岩の隙《すき》間《ま》から清水の湧《わ》く所がある。そこを通り過ぎて、岩壁《いわかべ》を右に見つつ、うねった道を登って行くのである。
丁度岩の面《おもて》に朝日が一面に差している。安寿は畳《かさ》なり合った岩の、風化した間に根を卸して、小さい菫《すみれ》の咲いているのを見附けた。そしてそれを指さして厨子王に見せて云った。「御覧。もう春になるのね」
厨子王は黙って頷《うなず》いた。姉は胸に秘密を蓄《たくわ》え、弟は憂《うれえ》ばかりを抱《いだ》いているので、とかく受応《うけこたえ》が出来ずに、話は水が砂に沁《し》み込むようにとぎれてしまう。
去年柴を苅った木立の辺《ほとり》に来たので、厨子王は足を駐《とど》めた。「ねえさん。ここらで苅るのです」
「まあ、もっと高い所へ登って見ましょうね」安寿は先に立ってずんずん登って行く。厨子王は訝《いぶか》りながら附いて行く。暫くして雑木林よりは余程高い、外《と》山《やま》の頂《いただき》とも云うべき所に来た。
安寿はそこに立って、南の方をじっと見ている。目は、石浦を経て由《ゆ》良《ら》の港に注ぐ大雲《おおくも》川《がわ》の上流を辿《たど》って、一里ばかり隔った川向《かわむかい》に、こんもりと茂った木立の中から、塔の尖《さき》の見える中山に止まった。そして「厨子王や」と弟を呼び掛けた。「わたしが久しい前から考《かんがえ》事《ごと》をしていて、お前ともいつもの様に話をしないのを、変だと思っていたでしょうね。もうきょうは柴なんぞは苅らなくても好《い》いから、わたしの言う事を好くお聞《きき》。小萩は伊勢から売られて来たので、故郷からこの土地までの道を、わたしに話して聞かせたがね、あの中山を越して往けば、都がもう近いのだよ。筑紫へ往くのはむずかしいし、引き返して佐渡へ渡るのも、たやすい事ではないけれど、都へはきっと往かれます。お母あ様と御一しょに岩代を出てから、わたし共は恐ろしい人にばかり出逢ったが、人の運が開けるものなら、善い人に出逢わぬにも限りません。お前はこれから思い切って、この土地を逃げ延びて、どうぞ都へ登っておくれ。神仏《かみほとけ》のお導《みちびき》で、善い人にさえ出逢ったら、筑紫へお下りになったお父う様のお身の上も知れよう。佐渡へお母あ様のお迎に往くことも出来よう。籠や鎌は棄てて置いて、錘q《かれいけ》だけ持って往くのだよ」
厨子王は黙って聞いていたが、涙が頬《ほお》を伝って流れて来た。「そして、姉えさん、あなたはどうしようと云うのです」
「わたしの事は構わないで、お前一人でする事を、わたしと一しょにする積《つもり》でしておくれ。お父う様にもお目に掛かり、お母あ様をも島からお連《つれ》申した上で、わたしをたすけに来ておくれ」
「でもわたしがいなくなったら、あなたをひどい目に逢わせましょう」厨子王が心には烙《やき》印《いん》をせられた、恐ろしい夢が浮ぶ。
「それは意《い》地《じ》めるかも知れないがね、わたしは我慢して見せます。金で買った婢《はしため》を、あの人達は殺しはしません。多分お前がいなくなったら、わたしを二人前働かせようとするでしょう。お前の教えてくれた木立の所で、わたしは柴を沢山苅ります。六荷までは苅れないでも、四荷でも五荷でも苅りましょう。さあ、あそこまで降りて行って、籠や鎌をあそこに置いて、お前を麓へ送って上げよう」こう云って安寿は先に立って降りて行く。
厨子王はなんとも思い定《さだ》め兼ねて、ぼんやりして附いて降りる。姉は今年十五になり、弟は十三になっているが、女は早くおとなびて、その上物に憑《つ》かれたように、聡《さと》く賢《さか》しくなっているので、厨子王は姉の詞《ことば》に背《そむ》くことが出来ぬのである。
木立の所まで降りて、二人は籠と鎌とを落葉の上に置いた。姉は守本尊を取り出して、それを弟の手に渡した。「これは大事なお守だが、こん度逢うまでお前に預けます。この地蔵様をわたしだと思って、護刀《まもりがたな》と一しょにして、大事に持っていておくれ」
「でも姉えさんにお守がなくては」
「いいえ。わたしよりはあぶない目に逢うお前にお守を預けます。晩にお前が帰らないと、きっと討《うっ》手《て》が掛かります。お前が幾ら急いでも、あたり前に逃げて行っては、追い附かれるに極まっています。さっき見た川の上手を和《わ》江《え》と云う所まで往って、首尾好く人に見附けられずに、向河岸《むこうがし》へ越してしまえば、中山までもう近い。そこへ往ったら、あの塔の見えていたお寺に這入って隠しておもらい。暫くあそこに隠れていて、討手が帰って来た跡で、寺を逃げてお出《いで》」
「でもお寺の坊さんが隠して置いてくれるでしょうか」
「さあ、それが運験《うんだめ》しだよ。開ける運なら坊さんがお前を隠してくれましょう」
「そうですね。姉えさんのきょう仰《おっし》ゃる事は、まるで神様か仏様が仰ゃるようです。わたしは考を極めました。なんでも姉えさんの仰ゃる通にします」
「おう、好く聴いておくれだ。坊さんは善い人で、きっとお前を隠してくれます」
「そうです。わたしにもそうらしく思われて来ました。逃げて都へも往かれます。お父う様やお母あ様にも逢われます。姉えさんのお迎にも来られます」厨子王の目が姉と同じ様に赫《かがや》いて来た。
「さあ、麓まで一しょに行くから、早くお出《いで》」
二人は急いで山を降りた。足の運《はこび》も前とは違って、姉の熱した心持が、暗《あん》示《し》のように弟に移って行ったかと思われる。
泉の湧く所へ来た。姉は錘q《かれいけ》に添えてある木の椀《まり》を出して、清水を汲んだ。「これがお前の門《かど》出《で》を祝うお酒だよ」こう云って一口飲んで弟に差した。
弟は椀を飲み干した。「そんなら姉えさん、御機嫌好う。きっと人に見附からずに、中山まで参ります」
厨子王は十歩ばかり残っていた坂道を、一走りに駆け降りて、沼に沿うて街道に出た。そして大雲川の岸を上手へ向かって急ぐのである。
安寿は泉の畔《ほとり》に立って、並木の松に隠れては又現れる後影を小さくなるまで見送った。そして日は漸《ようや》く午に近づくのに、山に登ろうともしない。幸にきょうはこの方角の山で木を樵《こ》る人がないと見えて、坂道に立って時を過す安寿を見《み》咎《とが》めるものもなかった。
後に同胞《はらから》を捜しに出た、山椒大夫一家《け》の討手が、この坂の下の沼の端《はた》で、小さい藁履《わらぐつ》を一足拾った。それは安寿の履《くつ》であった。
――――
中山の国分寺の三門に、松明《たいまつ》の火《ほ》影《かげ》が乱れて、大勢の人が籠《こ》み入って来る。先に立ったのは、白柄《しらつか》の薙刀《なぎなた》を手《た》挾《ばさ》んだ、山椒大夫の息子三郎である。
三郎は堂の前に立って大声に云った。「これへ参ったのは、石浦の山椒大夫が族《うから》のものじゃ。大夫が使う奴《やっこ》の一人が、この山に逃げ込んだのを、慥《たしか》に認めたものがある。隠れ場は寺内より外にはない。すぐにここへ出して貰おう」附いて来た大勢が、「さあ、出して貰おう、出して貰おう」と叫んだ。
本堂の前から門の外まで、広い石畳が続いている。その石の上には、今手に手に松明を持った、三郎が手のものが押し合っている。又石畳の両側には、境内《けいだい》に住んでいる限《かぎり》の僧俗が、殆《ほとん》ど一人も残らず簇《むらが》っている。これは討手の群が門外で騒いだ時、内陣からも、庫《く》裡《り》からも、何事が起ったかと、怪んで出て来たのである。
初め討手が門外から門を開《あ》けいと叫んだ時、開けて入れたら、乱暴をせられはすまいかと心配して、開けまいとした僧侶《そうりょ》が多かった。それを住持曇猛律師《どんみょうりっし》が開けさせた。しかし今三郎が大声で、逃げた奴を出せと云うのに、本堂は戸を閉じたまま、暫くの間ひっそりとしている。
三郎は足踏をして、同じ事を二三度繰り返した。手のものの中《うち》から「和尚《おしょう》さん、どうしたのだ」と呼ぶものがある。それに短い笑声《わらいごえ》が交る。
ようようの事で本堂の戸が静かに開《あ》いた。曇猛律師が自分で開けたのである。律師は偏《へん》衫《さん》一つ身に纏《まと》って、なんの威儀をも繕わず、常燈明の薄明《うすあかり》を背にして本堂の階《はし》の上に立った。丈《たけ》の高い巌畳《がんじょう》な体と、眉のまだ黒い廉《かど》張《ば》った顔とが、揺《ゆら》めく火に照らし出された。律師はまだ五十歳を越したばかりである。
律師は徐《しず》かに口を開いた。騒がしい討手のものも、律師の姿を見ただけで黙ったので、声は隅々《すみずみ》まで聞えた。「逃げた下《げ》人《にん》を捜しに来られたのじゃな。当山では住持のわしに言わずに人は留めぬ。わしが知らぬから、そのものは当山にいぬ。それはそれとして、夜陰に剣戟《けんげき》を執って、多《た》人《にん》数《ず》押し寄せて参られ、三門を開けと云われた。さては国に大乱でも起ったか、公《おおやけ》の叛逆人《ほんぎゃくにん》でも出来たかと思うて、三門を開けさせた。それになんじゃ。御《おん》身《み》が家の下人の詮《せん》議《ぎ》か。当山は勅願の寺院で、三門には勅額を懸け、七重の塔には宸《しん》翰《かん》金《こん》字《じ》の経文が蔵《おさ》めてある。ここで狼藉《ろうぜき》を働かれると、国守《くにのかみ》は検校《けんぎょう》の責《せめ》を問われるのじゃ。又総本山東大寺に訴えたら、都からどのような御《ご》沙《さ》汰《た》があろうも知れぬ。そこを好う思うて見て、早う引き取られたが好かろう。悪い事は言わぬ。お身達のためじゃ」こう云って律師は徐かに戸を締めた。
三郎は本堂の戸を睨《にら》んで歯《は》咬《がみ》をした。しかし戸を打ち破って踏み込むだけの勇気もなかった。手のもの共は只風に木葉のざわつくように囁《ささや》きかわしている。
この時大声で叫ぶものがあった。「その逃げたと云うのは十二三の小わっぱじゃろう。それならわしが知っておる」
三郎は驚いて声の主《ぬし》を見た。父の山椒大夫に見まがうような親《おや》爺《じ》で、この寺の鐘楼守《しゅろうもり》である。親爺は詞《ことば》を続《つ》いで云った。「そのわっぱはな、わしが午頃鐘楼から見ておると、築《つい》泥《じ》の外を通って南へ急いだ。かよわい代《かわり》には身が軽い。もう大《だい》分《ぶ》の道を行ったじゃろ」
「それじゃ。半日に童《わらべ》の行く道は知れたものじゃ。続け」と云って三郎は取って返した。
松明の行列が寺の門を出て、築泥の外を南へ行くのを、鐘楼守は鐘楼から見て、大声で笑った。近い木立の中で、ようよう落ち著いて寝ようとした鴉《からす》が二三羽又驚いて飛び立った。
――――
あくる日に国分寺からは諸方へ人が出た。石浦に往ったものは、安寿の入水《じゅすい》の事を聞いて来た。南の方へ往ったものは、三郎の率いた討手が田《た》辺《なべ》まで往って引き返した事を聞いて来た。
中二日置いて、曇猛律師が田辺の方へ向いて寺を出た。盥《たらい》ほどある鉄の受糧器を持って、腕の太さの錫杖《しゃくじょう》を衝いている。跡からは頭を剃《そ》りこくって三《さん》衣《え》を着た厨子王が附いて行く。
二人は真昼に街道を歩いて、夜は所々の寺に泊った。山城《やましろ》の朱雀野《しゅじゃくの》に来て、律師は権現《ごんげん》堂《どう》に休んで、厨子王に別れた。「守本尊を大切にして往け、父《ふ》母《ぼ》の消息はきっと知れる」と言い聞かせて、律師は踵《くびす》を旋《めぐら》した。亡くなった姉と同じ事を言う坊様だと、厨子王は思った。
都に上った厨子王は、僧形《そうぎょう》になっているので、東山の清水寺《きよみずでら》に泊った。
籠堂《こもりどう》に寝て、あくる朝目が醒めると、直衣《のうし》に烏帽子《えぼし》を着て指貫《さしぬき》を穿《は》いた老人が、枕元に立っていて云った。「お前は誰《たれ》の子じゃ。何か大切な物を持っているなら、どうぞ己《おれ》に見せてくれい。己は娘の病気の平《へい》癒《ゆ》を祈るために、ゆうべここに参籠《さんろう》した。すると夢にお告《つげ》があった。左の格《こう》子《し》に寝ている童《わらわ》が好い守本尊を持っている。それを借りて拝ませいと云う事じゃ。けさ左の格子に来て見れば、お前がいる。どうぞ己に身の上を明かして、守本尊を貸してくれい。己は関白師実《もろざね》じゃ」
厨子王は云った。「わたくしは陸奥椽正氏《むつのじょうまさうじ》と云うものの子でございます。父は十二年前に筑紫の安楽寺へ往ったきり、帰らぬそうでございます。母はその年に生れたわたくしと、三つになる姉とを連れて、岩代の信夫郡《しのぶごおり》に住むことになりました。そのうちわたくしがだいぶ大きくなったので、姉とわたくしとを連れて、父を尋ねに旅立ちました。越後まで出ますと、恐ろしい人買に取られて、母は佐渡へ、姉とわたくしとは丹後の由良へ売られました。姉は由良で亡くなりました。わたくしの持っている守本尊はこの地蔵様でございます」こう云って守本尊を出して見せた。
師実は仏像を手に取って、先《ま》ず額に当てるようにして礼をした。それから面背《めんぱい》を打ち返し打ち返し、丁寧に見て云った。「これは兼ねて聞き及んだ、尊い放光王《ほうこうおう》地《じ》蔵《ぞう》菩《ぼ》薩《さつ》の金像《こんぞう》じゃ。百済国《くだらのくに》から渡ったのを、高見王が持仏にしてお出《いで》なされた。これを持ち伝えておるからは、お前の家柄に紛れはない。仙洞《せんとう》がまだ御位《みくらい》におらせられた永保《えいほう》の初に、国守《こくしゅ》の違《い》格《きゃく》に連座して、筑紫へ左遷せられた平正氏《たいらのまさうじ》が嫡子に相違あるまい。若《も》し還俗《げんぞく》の望《のぞみ》があるなら、追っては受領《ずりょう》の御沙汰もあろう。先ず当分は己の家の客にする。己と一しょに館《やかた》へ来い」
――――
関白師実の娘と云ったのは、仙洞に傅《かしず》いている養女で、実は妻の姪《めい》である。この后《きさき》は久しい間病気でいられたのに、厨子王の守本尊を借りて拝むと、すぐに拭《ぬぐ》うように本復《ほんぷく》せられた。
師実は厨子王に還俗させて、自分で冠《かんむり》を加えた。同時に正氏が謫所《たくしょ》へ、赦免状を持たせて、安否を問いに使を遣った。しかしこの使が往った時、正氏はもう死んでいた。元服して正道と名告《なの》っている厨子王は、身の窶《やつ》れる程歎いた。
その年の秋の除《じ》目《もく》に正道は丹後の国守にせられた。これは遥授《ようじゅ》の官で、任国には自分で往かずに、椽《じょう》を置いて治めさせるのである。しかし国守は最初の政《まつりごと》として、丹後一国で人の売買《うりかい》を禁じた。そこで山椒大夫も悉《ことごと》く奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、この時から農作も工匠《たくみ》の業《わざ》も前に増して盛になって、一族はいよいよ富み栄えた。国守の恩人曇猛律師は僧《そう》都《ず》にせられ、国守の姉をいたわった小萩は故郷へ還された。安寿が亡き迹《あと》は懇《ねんごろ》に弔《とむら》われ、又入水した沼の畔には尼寺が立つことになった。
正道は任国のためにこれだけの事をして置いて、特に仮寧《けにょう》を申し請うて、微行して佐渡へ渡った。
佐渡の国《こ》府《ふ》は雑太《さわた》と云う所にある。正道はそこへ往って、役人の手で国中を調べて貰ったが、母の行方《ゆくえ》は容易に知れなかった。
或日正道は思案に暮れながら、一人旅館を出て市中を歩いた。そのうちいつか人家の立ち並んだ所を離れて、畑中の道に掛かった。空は好く晴れて日があかあかと照っている。正道は心の中に、「どうしてお母あ様の行方が知れないのだろう、若し役人なんぞに任せて調べさせて、自分が捜し歩かぬのを神仏《かみほとけ》が憎んで逢わせて下さらないのではあるまいか」などと思いながら歩いている。ふと見れば、だいぶ大きい百姓家がある。家の南側の疎《まばら》な生垣《いけがき》の内が、土を敲《たた》き固めた広場になっていて、その上に一面に蓆《むしろ》が敷いてある。蓆には刈り取った粟《あわ》の穂が干してある。その真ん中に、襤褸《ぼろ》を着た女がすわって、手に長い竿《さお》を持って、雀《すずめ》の来て啄《ついば》むのを逐《お》っている。女は何やら歌のような調子でつぶやく。
正道はなぜか知らず、この女に心が牽《ひ》かれて、立ち止《と》まって覗《のぞ》いた。女の乱れた髪は塵《ちり》に塗《まみ》れている。顔を見れば盲《めしい》である。正道はひどく哀れに思った。そのうち女のつぶやいている詞《ことば》が、次第に耳に慣れて聞き分けられて来た。それと同時に正道は瘧病《おこりやみ》のように身内が震《ふる》って、目には涙が湧いて来た。女はこう云う詞を繰り返してつぶやいていたのである。
安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生《しょう》あるものなれば、
疾《と》う疾う逃げよ、逐わずとも。
正道はうっとりとなって、この詞に聞き惚《ほ》れた。そのうち臓《ぞう》腑《ふ》が香sに》え返るようになって、獣《けもの》めいた叫《さけび》が口から出ようとするのを、歯を食いしばってこらえた。忽《たちま》ち正道は縛られた縄が解けたように垣の内へ駆け込んだ。そして足には粟の穂を踏み散らしつつ、女の前に俯《うつ》伏《ふ》した。右の手には守本尊を捧げ持って、俯伏した時に、それを額に押し当てていた。
女は雀でない、大きいものが粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱え罷《や》めて、見えぬ目でじっと前を見た。その時干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た。女は目が開《あ》いた。
「厨子王」と云う叫が女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。
二人の友
私《わたくし》は豊《ぶ》前《ぜん》の小《こ》倉《くら》に足掛三年いた。その初《はじめ》の年の十月であった。六月の霖《りん》雨《う》の最中《さいちゅう》に来て借りた鍛《か》冶《じ》町《まち》の家で、私は寂しく夏を越したが、まだその夏のなごりがどこやらに残っていて、暖い日が続いた。毎日通う役所から四時過ぎに帰って、十畳ばかりの間《ま》にすわっていると、家主《いえぬし》の飼う蜜蜂《みつばち》が折々軒のあたりを飛んで行く。二台の人力車がらくに行き違うだけの道を隔てて、向いの家で糸を縒《よ》る月ヤ《いとぐるま》の音が、ぶうんぶうんと聞える。糸を縒っているのは、片目の老処女で、私の所で女中が宿に下がった日には、それが手伝に来てくれるのであった。
或る日役所から帰って、机の上に読みさして置いてあった Wundt の心理学を開いて、半ペエジばかり読んだが、気乗がせぬので止《や》めた。そしていつもの月ヤの音を聞いてぼんやりしていた。
そこへ女中が知らぬ人の名刺を持って来た。どんな人かと問えば、洋服を著《き》た若い人だと云う。とにかく通せと云うと、すぐにその人が這《は》入《い》って来た。
二十を僅《わずか》に越した位の男で、快活な、人に遠慮をせぬ性《たち》らしく見えた。この人が私にそう云う印象を与えたのは、多く外国人に交《まじわ》って、識《し》らず知らずの間に、遠慮深い東洋風を棄てたのだと云うことが、後に私にわかった。
初対面の挨拶が済んで私は来意を尋ねた。この人の事を私はF君と書く。F君の言う所は頗《すこぶ》る尋常に異なるものであった。君は私とは同じ石《いわ》見《み》人《じん》であるが、私は津《つ》和《わ》野《の》に生れたから亀《かめ》井《い》家領内の人、君は所謂《いわゆる》天領の人である。早くからドイツ語を専修しようと思い立って、東京へ出た。所々の学校に籍を置き、種々《いろいろ》の教師に贄《にえ》を執って見たが、今の立場から言えば、どの学校も、どの教師も、自分に満足を与えることが出来ない。ドイツ人にも汎《ひろ》く交際を求めて見たが、丁度日本人に日本の国語を系統的に知った人が少いと同じ事で、ドイツ人もドイツ語に精通してはいない。それから日本人の書いたドイツ文や、日本人のドイツ語から訳した国文を渉猟《しょうりょう》して見たが、どれもどれも誤謬《ごびゅう》だらけである。その中《うち》でF君は私が最も自由にドイツ文を書き、最も正確にドイツ文を訳すると云うことを発見した。しかし東京にいた時の私の生活はいかにも繁劇らしいので、接近しようとせずにいた。その私が小倉へ来た。そこで君はわざわざ東京から私の跡を追って来た。これから小倉にいて、私にドイツ語を学びたいと云うのである。
これを聞いて私はF君の自信の大きいのに驚き、又私の買い被《かぶ》られていることの甚《はなはだ》しいのに驚いて、暫《しばら》く君の顔を見て黙っていた。後に思えば気の毒であるが、この時は私の心中に、若《も》し狂人ではあるまいかと云う疑さえ萌《きざ》していた。
それから私は取敢《とりあえ》ずこんな返事をした。君は私を買い被っている。私はそんなにえらくはない。しかし私の事は姑《しばら》く措《お》くとして、君は果して東京で師事すべき人を求めることの出来ぬ程、ドイツ語に通じているか。失敬ながら私はそれを疑う。こう云いつつ、私は机の上にあった Wundt を取って、F君の前に出して云った。これは少し専門に偏《かたよ》った本で、単にドイツ語を試験するには適していぬが、若《も》しそれでも好《い》いなら、そこで一ペエジ程読んで、その意味を私に話して聞かせて貰《もら》いたい。若し他《た》の本が好いなら、小説もあり雑誌もあるから、その方にしようと云った。
F君は私の手から本を受取って、題号を見た。そして「心理学ですね」と云った。
「そうだ。君それが読めるか」
「読めないことはありますまい。この本の事は聞いていただけで、まだ見たことはなかったのです。しかし私が Paedagogik を研究した時、どうしても心理学から這入らなくては駄目だと思って、少し心理学の本を覗《のぞ》いて見たことがあります。どこを読みましょう」こう云って本を飜《ひるがえ》しているうちに、巻末に近い
Die Seele と云う一章が出た。「そこを少し読んで聞かせ給え」と、私は云った。
F君は少し間の悪そうに、低い声で五六行読んだ。声は低いが発音は好い。すらすらと読むのを私は聞いていて、意味をはっきり聴き取ることが出来た。
「もう好いから、君その意味を言って聞かせ給え」と、私は云った。
F君は殆《ほとん》ど術語のみから組み立ててある原文の意味を、苦もなく説き明かした。
私は再び驚いた。F君は狂人どころでは無い。君の自信の大きいのは当然の事である。私は云った。
「それだけ読めれば、君と僕との間に、何の軒《けん》輊《ち》すべき所も無いね」
「なに。そんな事はありません。追々質問します」と、F君は云った。
これでF君が漫《みだ》りに大言荘《そう》語《ご》したのでないと云う事だけはわかった。しかしそれ以外の事は、私のためには総《すべ》て疑問である。私はこの疑問を徐々に解決しようと思った。只《ただ》その中《うち》に急に知らなくてはならぬ事が一つある。それはF君の生活状態である。身の上である。
私はこう云った。「それは君のドイツ語を研究する相談相手になれと云うことなら、僕はならないことはない。ところで君はどうして小倉で暮して行く積りだ」こう云ったが、F君は黙っている。私はすぐに畳み掛けて露骨に云った。「君金があるのか」
F君は黙ってはいられなくなった。「金は東京から来る汽車賃に皆使ってしまったのです。国から取れば、多少取れないこともありませんが、目前の用には立ちません。当分あなたの所に置いて下さるわけには行《ゆ》きますまいか」
この詞《ことば》は私の評価に少からず影響した。F君のドイツ語の造詣《ぞうけい》は、初め狂人かとまで思った疑を打ち消して、大いに君を重くしたのに、この詞は又頗《すこぶ》る君を軽くした。固《もと》より人間は貧乏だからと云って、その材能《さいのう》の評価を減ずることはない。しかしF君が現に一銭の貯《たくわえ》もなくて、私をたよって来たとすると、前に私を讃《ほ》めたのが、買被りでなくて、世辞ではあるまいか、阿《あ》諛《ゆ》ではあるまいかと疑われる。修行しようと云う望に、寄食しようと云う望が附帯しているとすると、F君の私を目ざして来た動機がだいぶ不純になってしまう。人間の行為に全く純粋な動機は殆ど無いとしても、F君の行為を催起した動機は、その不純の程度が稍甚《ややはなはだ》しくはあるまいかと疑われる。
これまで私に従学したいと云って名告《なの》り出た人に、F君のような造詣のあったことは曾《かつ》て無い。この側から見れば、F君は奇《き》蹟《せき》である。しかしこれまで私の家に寄食したいと云って来た人に、一文の貯もなかったことは幾らでも有る。この側から見ればF君は平凡な徼幸者《ぎょうこうしゃ》である。そう云う徼幸者を遇する道は、私のためには熟路である。私はこの熟路を行くに、奇蹟たる他の一面を顧慮して、多少の手加減をすれば好いのである。
私は決して徼幸者に現金をわたさない。これが徼幸者に対する一つの原則である。そこで私はF君にこんな事を言った。君はドイツ語が好く出来る。私の君を知っているのは只それだけである。それだけでは、君と同居しようとまでは、私には思われない。そこで私は君を、私の心安い宿屋に紹介する。宿屋では私に対する信用で、君を泊らせて食わせて置く。その間に私は君のために位置を求める。それも、君だけの材能があって見れば、多少の心当《こころあたり》がないでもない。若し旨《うま》く行ったら、君は自ら贏《か》ち得た報酬で宿屋の勘定をするが好い。それが旨く行かず、又故郷からも金が来なかったら、宿屋の勘定だけを私が引き受ける。私にはそれ以上の約束は出来ない。それで好いかと、私は云った。
F君は私の詞《ことば》を聞いて、少し勝手が違うように、予期に反したように感じたらしかったが、とにかく同意した。多分君は私が許諾するか、拒絶するかと思っていただろう。それに私の答は許諾でもなければ、拒絶でもなかったから、君のためには意外であったかと思われる。とにかく君は、格別難有《ありがた》がる様子もなく、私に同意した。
私は使を遣《や》って下役の人を呼んで、それに用事を言い含めた。そしてF君を連れて、立《たつ》見《み》と云う宿屋へ往かせた。立見と云うのは小倉停車場に近い宿屋で、私がこの土地に著《つ》いた時泊った家である。主人は四十を越した寡《か》婦《ふ》で、狆《ちん》を可哀がっている。怜《れい》悧《り》で、何の話でも好くわかる。私はF君をこの女の手に托したのである。
――――
私がF君に多少の心当《こころあて》があると云ったのは、丁度その頃小倉に青年の団体があって、ドイツ語の教師を捜していたからである。そこで早速その団体の世話人に話して、君を聘《へい》することにさせた。立見の勘定は私が払わなくても好いことになった。
F君は殆《ほとんど》毎日のように私の所へ遊びに来た。話はドイツ語の事を離れぬが、別に私に難問をするでもない。新《あらた》に得た地位に安んじて、熱心に初学者にドイツ語を教える方法を研究して、それを私に相談する。そう云う話を聞くうちに、私は次第に君と私とのドイツ語の知識に大分相違のあることを知った。それは互に得失があるのである。君は語格文法に精《くわ》しい。文章を分析して細かい事を言う。私はそんな時に始て聞く術語に出くわして驚くことがある。しかし君の書いたドイツ文には漢学者の謂《い》う和習がある。ドイツ人ならばそうは云わぬと、私が指《し》求sてき》する。君が服せぬと、私は旅中にも持っている Reclam 版の Goethe などを出して証拠立てる。こんな応対がなかなか面白いので、私も君の来るのを待つようになった。
天気の好い土曜、日曜などには、私はF君を連れて散歩をした。狭い小倉の町は、端から端まで歩いても歩き足らぬので、海岸を大《だい》里《り》まで往《い》ったり、汽車に乗って香《か》椎《しい》の方へ往ったりした。格別読む暇もないのに、君はいつも隠しにドイツの本を入れて歩く。Goeschen 版の認識論や民類学などである。なぜかと問うと、暇があったら読もうと思うのが楽しみだと、君は答える。ひどく知識欲の強い人である。
二三週間立ってから、或る日私はF君がどんな生活をしているかと思って、役所からの帰掛《かえりがけ》に立見をおとずれた。丁度お上《かみ》さんが門口から一匹の小犬を逐《お》い出しているところであった。「どうも内の狆《ちん》が牝《めす》だもんですから、いろんな犬が来て困ります」と云って置いて、「畜生畜生」と顧み勝に出て行く犬を叱っている。狆は帳場から、よそよそしい様子をして見ている。
「F君はどうしていますか」と、私は問うた。
「あなたがお世話をなさるだけあって、変った方でございますね」と、お上さんは笑《え》顔《がお》をして云った。
「わたくしが世話をするだけあって変っているのですって。それは困るなあ。一体どう変っています」こう云いつつ、私は帳場の前に腰を掛けた。
「いいえ。大そう好い方でございますが、もうこんなに朝晩寒くなりましたのに、まだ単《ひとえ》物《もの》一枚でいらっしゃいます。寒い時は、上からケットを被《かぶ》って本を読んでいらっしゃるのでございます」お上さんは私に座《ざ》布《ぶ》団《とん》を出して、こう云った。
「はてな。工面が悪いのかしら」独言《ひとりごと》のように私は云った。
「そうじゃございません。お泊になってから少し立ちますと、今なら金があるからと仰《おっし》ゃって、今月末までの勘定を済ませておしまいになった位でございます」もう十一月に入っているから、F君は先月青年団から貰った金で前払をしたのである。
とにかく逢《あ》って見ようと思って、私は二階へ上がった。立見の家では、奥の離《はなれ》座敷に上等の客を留めることにしている。次は母屋《おもや》の中庭に向いた二階である。表通に向いた二階の小部屋は、細かい格《こう》子《し》の窓があって、そこには客を泊らせない。F君は一番安い所で好いと云って、そこに落ち著いた。
「F君、いるかね」と云って声を掛けると、君は内から障子を開けた。なる程フランネルのシャツの上に湯帷子《ゆかた》を著ている。細かい格子に日を遮《さえぎ》られた、薄暗い窓の下《もと》に、手習机の古いのが据えてあって、そこが君の席になっている。私は炭団《たどん》の活《い》けてある小火鉢を挾《はさ》んで、君と対坐した。
この時すぐに目を射たのは、机の向側《むかいがわ》に夷《えびす》麦酒《ビイル》の空箱が竪《たて》に据えて本箱にしてあることであった。しかもその箱の半《なかば》以上を、茶褐色の背革の大きい本三冊が占めていて、跡は小さい本と雑記帳とで填《うま》っている。三冊の大きい本は極《ごく》新しい。薄暗い箱から、背革に印《いん》してある金字が光を放っている。私は首を屈《かが》めて金字を読もうとした。
「Meyer の小ですよ」と、F君が云った。
「そうか。ひどく立派な本になったね。それに僕の持っているのは二冊物だが」
「それは古いのです。これは南江堂に来たのを見て置いたから、郵便為換《かわせ》を遣《や》って取り寄せました」
「しかしこんなに膨脹しては、名は小でも、邪魔になるね。なぜわざわざ取り寄せたのだ」
「なに。教師をしていると、人名や地名の説明を求められますから、この位な本がないと、心細いのです」
F君と私とは会話辞書の話をした。Meyer とBrockhaus との得失を論ずる。こう云うドイツの本がLarousse やBritannica と違う所以《ゆえん》を論ずる。俗書が段々科学的の書に接近して来る風潮を論ずる。とうとう私はランプの附くまでいて帰った。
私は借家に帰ると、古袷《ふるあわせ》を一枚女中に持たせて、F君の所へ遣った。五十日分の宿料《しゅくりょう》を払って、会話辞書を買っては、君の貰った月給は皆無くなって、煙草《たばこ》もやたらには呑まれぬわけだと思ったからである。
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私はF君に徼幸者の一面があると思っていたので、最初から君と交るに、多少の距離を保留して置くようにした。しかし相識《そうしき》になってから時が立つに従って、この距離が段々縮まって来た。
それには衣食に事を闕《か》いても書物を買うと云う君の学問好を認めた為めもあるが、決してそればかりではない。ドイツ語に於《お》ける君の造詣の深いことは、初対面の日にもう知れていた。そうして見れば、君が学問好だと云うことは、問わずして明かなわけである。
F君と私との距離を縮めた、主《おも》な原因は私が君の「童貞」を発見した処に存ずる。君が殆ど異性に関する知識を有せぬことを発見した処に存ずる。これは或は私の見錯《みあやま》りであったかも知れない。しかし私は今でも君に欺かれたとは信ぜない。
私はF君に秘密が無かったとは思わない。又君が潤sうそ》を衝《つ》かなかったとは思わない。しかし君は故《ことさ》らに構えて盾衝く人ではなかったらしい。盾フために詞《ことば》を設ける程の面倒をせぬ人であったらしい。私と対坐して構えて盾衝いて見るが好い。私はすぐに強烈な反感を起す。これは私の本能である。私はこの本能があるので、余り多く人に欺かれない。多数の人を陥れた詐偽師を、私が一見して看破したことは度々《たびたび》ある。
これに反して義務心の闕《か》けた人、amoral な人、世間で当にならぬと云う人でも、私と対坐して赤裸々に意志を発表すれば、私は愉快を感ずる。私は年久しくそう云う人と相忤《あいさから》わずに往来《おうらい》したことがある。
さて私は前にも云った通りに、最初から徼幸者を以《もっ》てF君を待った。しかし君の対話は少しも私に反感を起させたことが無い。君の言語は衝動的である。君の胸臆《きょうおく》は明白に私の前に展開せられて時としては無遠慮を極めることがある。Verblueffend に真実を説くことがある。私はいつもそれを甘んじ受けて、却《かえ》って面白く感じた。
殆ど毎日逢って、時としては終日一しょにいることさえあるので、F君と私との話はドイツ語の事や哲学の事には限らぬようになった。或る日私は君にこう云う事を言った。私はこの土地で役をしていて多くの人に知られている。その人達がもうF君をも知って来た。そして二人を兄弟だと云うそうである。本通の雑貨店徳見に往ったら、「弟御さんも店へお出《いで》になりました」と、主人が云った。誰《だれ》の事かと思って問えば、君の事である。同国ではあるが、親類ではないと、私は答えた。主人は不審に思うらしい様子で、「へえ、あんなに好く肖《に》てお出になって」と云った。私は君に似ているだろうか、君はどう思うと云って、F君を見た。
F君がその時、それは他人の空似と云うことが随分有るものと見えると云って、こう云う話をした。君が尾の道に泊った晩の事である。中庭を囲んだ二階の一方にある座敷に、君は入れられた。すると二階の向側《むこうがわ》に泊った客が、芸者を大勢呼んで大騒をしていた。君は無聊《ぶりょう》に堪《た》えぬので、廊下に出て向うを見る。向うでも芸者が一人出て、欄干《らんかん》に手を掛けてこっちを見る。その芸者が連《つれ》の芸者を呼び出す。二人で何かささやいてこっちを見る。こっちで見るのは好いが、向うから見られるのは厭《いや》だと思って、君は部屋に這入った。向側の騒ぎは夜遅くなるまで続いた。君は床に這入って、三味線の声をやかましく思いつつ寐《ね》入《い》った。暫く寐ているうちに、部屋に人が来たように思って目を醒《さ》ました。見れば芸者が来て枕元《まくらもと》にすわっている。君は驚いて起き上がった。そして「どうしたのだ」と問うと、「少し伺いたい事がございます」と云う。君は立って夜具を畳んだ。それから芸者に用事を尋ねた。芸者の口上はこうであった。自分は向側の座敷に、大勢来て泊っている芸者の中《うち》の一人である。この土地の生れで、兄が一人あった。それが家出をして行方《ゆくえ》が知れずにいる。然《しか》るに先刻向側からあなたを見て、すぐにその兄だと思った。分れてからだいぶ年が立ったが、毎日逢いたい逢いたいと思うので、こっちでは忘れずにいる。あなたを見た時、すぐに馳《か》けて来ようかと思ったが、人目があるのでこらえていた。若し人違《ひとちがえ》であったら、許して貰いたい。恋しい兄だと思う人を見たのに、逢って物を言わずに別れては、後《のち》々《のち》まで残惜しい。一体あなたはどちらのお方かと云うのであった。君はこう答えた。「それは気の毒な事だ。僕は石州のもので、尾の道へは始て来た。ここへ来たのが知れるといけないから、早く帰るが好い」と云ったと云うのである。
F君のこの話を、私は面白く思って聞いた。私の悟性から見れば、初め君が他人の空似は有るものだと云ったのは反語でなくてはならない。芸者が臥《ふし》所《ど》へ来た時、君は浜《はま》路《じ》に襲われた犬《いぬ》塚《づか》信《し》乃《の》のように、夜具を片附けて、開き直って用向を尋ねた。さて芸者の詞を飽くまで真面目《まじめ》に聞いて、旨く敬して遠ざけたのである。君が語り畢《おわ》る時、私は君の面《おもて》を凝視して、そこにIronie の表情を求めた。しかしそれは徒事《いたずらごと》であった。
F君は芸者の詞を真実だと思って、そのまま私に話したのであった。私は驚いた。そして云った。「日本の女は横着なようで、おとなしい。それが西洋人であったら、きっと肉迫して来たのだ。すると君だって、Wilhelm が Philene の胸を押し退《の》ける勇気がなかったように、女の俘《とりこ》になるのだった」
私がこう云うと、今度はF君が驚く番になった。後に聞けば、或る西洋人に戒められて、小説と云うものを読まぬ君も、Wilhelm Meister や Geisterseher 位は知っていたので、私の詞を聞いて、白内障の手術を受けたように悟ったのだそうである。
この事があってから私は、F君の異性に対する言動に、細かに注意した。そして君がこの方面に於《おい》て全く無経験であることを知った。君は衣食の闕乏《けつぼう》を憂えない。君は性慾を制している。君は尋常の徼幸者とは違う。君はとにかくえらいと、私は思った。そこで初め君との間に保留して置いた距離が次第に短縮するのを、私は妨げようとはしなかった。私の鑑識は或は錯《あやま》っていたかも知れない。しかし私は今でも君に欺かれたとは信ぜない。
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十二月になった。私が小倉に来てから六月目、F君が私の跡を追って来てから三月目である。私はフランス語の稽古を始めて、毎日夕食後に馬借町《ばしゃくまち》の宣教師の所へ通うことになった。
これが頗る私と君との交際の上に影響した。なぜかと云うに、君が尋ねて来ても、私はフランス語の事を話すからである。君は、「フランス語も面白いでしょうが、僕は二つの語を浅く知るより、一つの語を深く知りたいのです」と云う。「また一説だね」と、私は云う。この背面には、そうばかりは行かぬと云う意味がある。君はそれを察する。そして多少気まずく思う。その上余り頻《しき》りに往来した挙句に、必然起る厭倦《えんけん》の情も交って来る。そこで毎日来た君が一日を隔てて来るようになる。二日を隔てて来るようになる。譬《たと》えて言えば、二人は最初遠く離れた並行線のように生活していたのに、一時その距離が逼《せま》り近づいて来て、今又近く離れた並行線のように生活することになったのである。
F君はドイツ語の教師をして暮す。私は役人をして、旁《かたわら》フランス語を稽古して暮す。そして時々逢って遠慮のない話をする。二人の間には世間並の友人関係が成り立ったのである。
――――
翌年になった。四月の初にF君が来て、父の病気のために帰省しなくてはならぬから、旅費を貸して貰いたいと云った。幾らいるかと云えば、二十五円あれば好いと云う。私はすぐに出してわたした。もう徼幸者扱にはしなかったのである。この金の事はその後《のち》私も口に出さず、君も口に出さずにしまった。私は返して貰うことを予期しなかったのである。君は又そんな事に拘泥せぬ性分であったのである。これは横著なのでも、しらばっくれたのでもないと、私は思っていた。年久しく交際した君が、物質的に私を煩《わずら》わしたのは只これだけである。
程なくF君は帰って来て、鳥町《とりまち》に下宿した。そしてこれまでのようにドイツ語の教師をしていた。夏の日に私は一度君を尋ねて、ラムネを馳《ち》走《そう》せられたことがある。
年の暮に鍛冶町の家主《いえぬし》が急に家賃を上げたので、私は京町へ引き越した。月ヤ《いとぐるま》の音のする家から、大鼓の音のする家に移ったのである。京町は小倉の遊女町の裏通になっていて、絶えず三味線と大鼓とが聞えていた。この家へもF君は度々話しに来た。
又年が改まった。私が小倉に来てからの三年目である。八月の半頃に、F君は山口高等学校に聘《へい》せられて赴任した。
その又次の年の三月に、私は役が変って東京へ帰った。丁度四年目に小倉の土地を離れたのである。
――――
私は無妻で小倉へ往って、妻を連れて東京へ帰った。しかし私に附いて来た人は妻ばかりではなくて、今一人すぐに跡から来た人がある。それはまだ年の若い僧侶《そうりょ》で、私の内では安《あん》国《こく》寺《じ》さんと呼んでいた。
安国寺さんは、私が小倉で京町の家に引き越した頃から、毎日私の所へ来ることになった。私が役所から帰って見ると、きっと安国寺さんが来て待っていて、夕食の時までいる。この間に私は安国寺さんにドイツ文の哲学入門の訳読をして上げる。安国寺さんは又私に唯識論《ゆいしきろん》の講義をしてくれるのである。安国寺さんを送り出してから、私は夕食をして馬借町の宣教師の所へフランス語を習いに往った。
そんな風であったから、私が小倉を立つ時、停車場に送ってくれた同僚やら知人やらは非常に多かったが、その中で一番別《わかれ》惜んだものは安国寺さんであった。「君がいなくなっては、安国寺さんにお気の毒だね」と、知人は揶揄《からかい》半分に私に言った。
果して安国寺さんは私との交際を絶つに忍びないので、自分の住職をしていた寺を人に譲って、飄然《ひょうぜん》と小倉を去った。そして東京で私の住まう団子坂上の家の向いに来て下宿した。素《も》と私の家の向いは崖《がけ》で、根津《ねづ》へ続く低地に接しているので、その崖の上には世に謂《い》う猫の額程の平地しか無かった。そこに、根津が遊廓《ゆうかく》であった時代に、八《や》幡楼《はたろう》の隠居のいる小さい寮があった。後にそれを買い潰《つぶ》して、崖の下に長い柱を立てて、私の家と軒が相対するような二階家の広いのを建てたものがある。眺望の好かった私の家は、その二階家が出来たために、陰気な住いになった。安国寺さんの来たのは、この二階造の下宿屋である。
しかし東京に帰った私の生活は、小倉にいた時とは違って忙しい。切角来た安国寺さんは前のように私と知識の交換をすることが出来ない。それを残念に思っていると、丁度そこへF君が来て下宿した。東京で暮そうと思って、山口の地位を棄てて来たと云うことであった。
そこで安国寺さんは哲学入門の訳読を、私にして貰う代りに、F君にして貰おうとした。然るに私とF君とは外国語の扱方が違う。私は口語でも文語でも、全体として扱う。F君はそれを一々語格上から分析せずには置かない。私は Koeber さんの哲学入門を開いて、初のペエジから字を逐《お》って訳して聞せた。しかも勉《つと》めて仏経の語を用いて訳するようにした。唯識を自在に講釈するだけの力のある安国寺さんだから、それを丁度尋常の人が Fibel や読本を解するように解した。F君はこの流義を踏襲することを肯《がえん》ぜずに、安国寺さんに語格から教え込もうとした。安国寺さんは全く違った方面の労力をしなくてはならぬので、ひどく苦んだ。
暫く立って、F君は第一高等学校に聘せられたが、やはり同じ下宿にいて、そこから程近い学校へ通うので、君と安国寺さんとの関係は故《もと》のままであった。
――――
私が東京に帰ってから、桜が咲き桜が散って、気候は暖いと云う間もなく暑くなった。二階に登って向いの下宿屋を見れば、そこでも二階の戸を開け放っている。間数が多いのでF君や安国寺さんのいる部屋は見えない。見えるのは若い女学生のいる部屋である。
欄干に赤い襟裏《えりうら》の附いた著《き》物《もの》や葡萄《えび》茶《ちゃ》の袴《はかま》が曝《さら》してあることがある。赤い袖の肌襦袢《はだじゅばん》がしどけなく投げ掛けてあることもある。この衣類の主《ぬし》が夕方には、はでな湯帷子《ゆかた》を著て、縁端《えんばな》で涼んでいる。外から帰って著物を脱ぎ更《か》えるのを不意に見て、こっちで顔を背《そむ》けることもある。私はいつとなくこの女の顔を見覚えたが、名を聞く折もなく、どこの学校に通うと云うことを知る縁もなかった。女は美しくもなく、醜くもなく、何一つ際《きわ》立《だ》って人の目を惹《ひ》くことのない人であった。
向いの家の下宿人は度々入り替ると見えて、見知った人がいなくなり、新しい人《じん》が見えるのに気の附くことがあった。しかしF君と安国寺さんとは外へ遷《うつ》らずにいた。私の家の二階から見える女学生も遷らずにいた。
――――
一年余立って、私が東京へ帰ってからの二度目の夏になった。或る日安国寺さんが来て、暑中に帰省して来ると云った。安国寺さんは小倉の寺を人に譲ったが、九州鉄道の豊州《ほうしゅう》線の或る小さい駅に俗縁の家がある。それを見舞いに往くと云うことであった。
安国寺さんの立った跡で、私の内のものが近所の噂《うわさ》を聞いて来た。それは坊さんはF君の使に四国へ往ったので、九州へはその序《ついで》に帰るのだと云うことであった。使に往った先は、向いに下宿している女学生の親元である。F君は女学生と秘密に好《い》い中になっていたが、とうとう人に隠されぬ状況になったので、正式に結婚しようとした。それを四国の親元で承引しない。そこで親達を説き勧めに、F君が安国寺さんを遣《や》ったと云うのである。
私はそれを聞いて、「安国寺を縁談の使者に立てたとすると、F君はお大名だな」と云った。無遠慮な Egoist たるF君と、学徳があって世情に疎《うと》く、赤《せき》子《し》の心を持っている安国寺さんとの間でなくては、そう云うことは成り立たぬと思ったのである。
安国寺さんの誠は田舎《いなか》の強情な親達を感動させて、女学生はF君の妻《さい》になることが出来た。二人は小石川に家を持った。
――――
又一年立った。私はロシアとの戦争が起ったので、戦地へ出発した。F君は新橋の停車場まで送って来て、私にドイツ文で書いたロシア語の文法書を贈った。この本と南江堂で買ったロシア、ドイツの対訳辞書とがあったので、私は満洲にいる間、少からぬ便利を感じた。
私が満洲で受け取った手紙のうちに、安国寺さんの手紙があった。その中《うち》に重い病気のためにドイツ語の研究を思い止《と》まって、房州辺の海岸へ転地療養に往くと云うことが書いてあった。私はすぐに返事を遣って慰めた。これは私の手紙としては最《もっとも》長い手紙で、世間で不治《ふち》の病《やまい》と云うものが必ず不治だと思ってはならぬ、安心《あんじん》を得ようと志すものは、病のために屈してはならぬと云うことを、譬喩《ひゆ》談《だん》のように書いたものであった。私は安国寺さんが語学のために甚だしく苦んで、その病を惹き起したのではないかと疑った。どんな複雑な論理をも容易《たやす》く辿《たど》って行く人が、却って器械的に諳《そら》んじなくてはならぬ語格の規則に悩まされたのは、想像しても気の毒だと、私はつくづく思った。
満洲で年を越して私が凱旋《がいせん》した時には、安国寺さんはもう九州に帰っていた。小倉に近い山の中の寺で、住職をすることになったのである。
F君は相変らず小石川に住んで、第一高等学校に勤めていた。君と私との忙しい生活は、互に訪問することを許さぬので、私は時々巣《す》鴨《がも》三田線の電車の中で、君と語《ご》を交えるに過ぎなかった。
それから四五年の後に私は突然F君の訃《ふ》音《いん》に接した。咽頭《いんとう》の癌腫《がんしゅ》のために急に亡くなったと云うことである。
最後の一句
元文《げんぶん》三年十一月二十三日の事である。大阪で、船乗業桂屋《かつらや》太郎兵衛《たろべえ》と云うものを、木津《きづ》川口《がわぐち》で三日間曝《さら》した上、斬罪《ざんざい》に処すると、高《こう》札《さつ》に書いて立てられた。市中到る処太郎兵衛の噂《うわさ》ばかりしている中に、それを最も痛切に感ぜなくてはならぬ太郎兵衛の家族は、南組堀江橋際《ぎわ》の家で、もう丸二年程、殆《ほとん》ど全く世間との交通を絶って暮しているのである。
この予期すべき出来事を、桂屋へ知らせに来たのは、程遠からぬ平野町に住んでいる太郎兵衛が女房《にょうぼう》の母であった。この白髪頭《しらがあたま》の媼《おうな》の事を桂屋では平野町のおばあ様と云っている。おばあ様とは、桂屋にいる五人の子供がいつも好《い》い物をお土産《みやげ》に持って来てくれる祖母に名づけた名で、それを主人も呼び、女房も呼ぶようになったのである。
おばあ様を慕って、おばあ様にあまえ、おばあ様にねだる孫が、桂屋に五人いる。その四人は、おばあ様が十七になった娘を桂屋へよめによこしてから、今年十六年目になるまでの間に生れたのである。長女いちが十六歳、二女まつが十四歳になる。その次に、太郎兵衛が娘をよめに出す覚悟で、平野町の女房の里方から、赤子のうちに貰《もら》い受けた、長太郎と云う十二歳の男子がある。その次に又生れた太郎兵衛の娘は、とくと云って八歳になる。最後に太郎兵衛の始《はじめ》て設けた男子の初五郎がいて、これが六歳になる。
平野町の里方は有福なので、おばあ様のお土産はいつも孫達に満足を与えていた。それが一昨年太郎兵衛の入牢《にゅうろう》してからは、とかく孫達に失望を起させるようになった。おばあ様が暮し向の用に立つ物を主《おも》に持って来るので、おもちゃやお菓子は少くなったからである。
しかしこれから生《お》い立って行く子供の元気は盛んなもので、只《ただ》おばあ様のお土産が乏しくなったばかりでなく、おっ母様の不《ふ》機《き》嫌《げん》になったのにも、程なく馴れて、格別萎《しお》れた様子もなく、相変らず小さい争闘と小さい和《わ》睦《ぼく》との刻々に交代する、賑《にぎ》やかな生活を続けている。そして「遠い遠い所へ往《い》って帰らぬ」と言い聞された父の代りに、このおばあ様の来るのを歓迎している。
これに反して、厄難に逢《あ》ってからこのかた、いつも同じような悔恨と悲痛との外に、何物をも心に受け入れることの出来なくなった太郎兵衛の女房は、手厚くみついでくれ親切に慰めてくれる母に対しても、ろくろく感謝の意をも表することがない。母がいつ来ても、同じような繰言《くりごと》を聞せて帰すのである。
厄難に逢った初《はじめ》には、女房は只茫然《ぼうぜん》と目をチ《みは》っていて、食事も子供のために、器械的に世話をするだけで、自分は殆ど何も食わずに、頻《しきり》に咽《のど》が乾くと云っては、湯を少しずつ呑んでいた。夜は疲れてぐっすり寝たかと思うと、度々目を醒《さ》まして溜息《ためいき》を衝《つ》く。それから起きて、夜なかに裁縫などをすることがある。そんな時は、傍《そば》に母の寝ていぬのに気が附いて、最初に四歳になる初五郎が目を醒ます。次いで六歳になるとくが目を醒ます。女房は子供に呼ばれて床にはいって、子供が安心して寝附くと、又大きく目をあいて溜息を衝いているのであった。それから二三日立って、ようよう泊り掛に来ている母に繰言を言って泣くことが出来るようになった。それから丸二年程の間、女房は器械的に立ち働いては、同じように繰言を言い、同じように泣いているのである。
高札の立った日には、午《ひる》過《す》ぎに母が来て、女房に太郎兵衛の運命の極《き》まったことを話した。しかし女房は、母の恐れた程驚きもせず、聞いてしまって、又いつもと同じ繰言を言って泣いた。母は余り手ごたえのないのを物足らなく思う位であった。この時長女のいちは、襖《ふすま》の蔭《かげ》に立って、おばあ様の話を聞いていた。
――――
桂屋にかぶさって来た厄難と云うのはこうである。主人太郎兵衛は船乗とは云っても、自分が船に乗るのではない。北国通《ほっこくがよ》いの船を持っていて、それに新七と云う男を乗せて、運送の業を営んでいる。大阪ではこの太郎兵衛のような男を居《い》船頭《せんどう》と云っていた。居船頭の太郎兵衛が沖船頭《おきせんどう》の新七を使っているのである。
元文元年の秋、新七の船は、出《で》羽《わの》国《くに》秋田から米を積んで出帆した。その船が不幸にも航海中に風波の難に逢って、半難船の姿になって、積荷の半分以上を流失した。新七は残った米を売って金にして、大阪へ持って帰った。
さて新七が太郎兵衛に言うには、難船をしたことは港々で知っている。残った積荷を売ったこの金は、もう米主《こめぬし》に返すには及ぶまい。これは跡《あと》の船をしたてる費用に当てようじゃないかと云った。
太郎兵衛はそれまで正直に営業していたのだが、営業上に大きい損失を見た直後に、現金を目の前に並べられたので、ふと良心の鏡が曇って、その金を受け取ってしまった。
すると、秋田の米主の方では、難船の知らせを得た後に、残り荷のあったことやら、それを買った人のあったことやらを、人伝《ひとづて》に聞いて、わざわざ人を調べに出した。そして新七の手から太郎兵衛に渡った金高《かねだか》までを探り出してしまった。
米主は大阪へ出て訴えた。新七は逃走した。そこで太郎兵衛が入牢してとうとう死罪に行われることになったのである。
――――
平野町のおばあ様が来て、恐ろしい話をするのを姉娘のいちが立聞《たちぎき》をした晩の事である。桂屋の女房はいつも繰言を言って泣いた跡で出る疲《つかれ》が出て、ぐっすり寐入《ねい》った。女房の両《りょう》脇《わき》には、初五郎と、とくとが寝ている。初五郎の隣には長太郎が寝ている。とくの隣にまつ、それに並んでいちが寝ている。
暫《しばら》く立って、いちが何やら布《ふ》団《とん》の中で独言《ひとりごと》を言った。「ああ、そうしよう。きっと出来るわ」と、云ったようである。
まつがそれを聞き附けた。そして「姉《ね》えさん、まだ寐ないの」と云った。
「大きい声をおしでない。わたし好《い》い事を考えたから」いちは先《ま》ずこう云って妹を制して置いて、それから小声でこう云う事をささやいた。お父《と》っさんはあさって殺されるのである。自分はそれを殺させぬようにすることが出来ると思う。どうするかと云うと、願書《ねがいしょ》と云うものを書いてお奉行様《ぶぎょうさま》に出すのである。しかし只殺さないで置いて下さいと云ったって、それでは聴かれない。お父っさんを助けて、その代りにわたくし共《ども》子供を殺して下さいと云って頼むのである。それをお奉行様が聴いて下すって、お父っさんが助かれば、それで好い。子供は本当に皆殺されるやら、わたしが殺されて、小さいものは助かるやら、それはわからない。只お願をする時、長太郎だけは一しょに殺して下さらないように書いて置く。あれはお父っさんの本当の子でないから、死ななくても好い。それにお父っさんがこの家の跡を取らせようと云っていらっしゃったのだから、殺されない方が好いのである。いちは妹にそれだけの事を話した。
「でもこわいわねえ」と、まつが云った。
「そんなら、お父っさんが助けてもらいたくないの」
「それは助けてもらいたいわ」
「それ御覧。まつさんは只わたしに附いて来て同じようにさえしていれば好いのだよ。わたしが今夜願書《がんしょ》を書いて置いて、あしたの朝早く持って行きましょうね」
いちは起きて、手習の清書をする半紙に、平仮名で願書を書いた。父の命を助けて、その代りに自分と妹のまつ、とく、弟の初五郎をおしおきにして戴《いただ》きたい、実子でない長太郎だけはお許下さるようにと云うだけの事ではあるが、どう書き綴《つづ》って好いかわからぬので、幾度も書き損《そこな》って、清書のためにもらってあった白紙《しらかみ》が残少《のこりずくな》になった。しかしとうとう一番鶏《いちばんどり》の啼《な》く頃に願書が出来た。
願書を書いているうちに、まつが寐入ったので、いちは小声で呼び起して、床の傍《わき》に畳んであった不《ふ》断《だん》着《ぎ》に著更《きか》えさせた。そして自分も支度をした。
女房と初五郎とは知らずに寐ていたが、長太郎が目を醒まして、「ねえさん、もう夜が明けたの」と云った。
いちは長太郎の床の傍《そば》へ往《い》ってささやいた。「まだ早いから、お前は寝ておいで。ねえさん達は、お父っさんの大事な御用で、そっと往って来る所があるのだからね」
「そんならおいらも往く」と云って、長太郎はむっくり起き上がった。
いちは云った。「じゃあ、お起《おき》、著物を著せて上げよう。長さんは小さくても男だから、一しょに往ってくれれば、その方が好いのよ」と云った。
女房は夢のようにあたりの騒がしいのを聞いて、少し不安になって寝がえりをしたが、目は醒めなかった。
三人の子供がそっと家を抜け出したのは、二番鶏の啼く頃であった。戸の外は霜の暁であった。提灯《ちょうちん》を持って、拍子木を敲《たた》いて来る夜廻《よまわり》の爺《じ》いさんに、お奉行様の所へはどう往ったら往《ゆ》かれようと、いちがたずねた。爺いさんは親切な、物分りの好い人で、子供の話を真面面《まじめ》に聞いて、月番の西奉行所のある所を、丁寧に教えてくれた。当時の町奉行は、東が稲垣淡路守種信《いながきあわじのかみたねのぶ》で、西が佐佐又四郎成意《なりむね》である。そして十一月には西の佐佐が月番に当っていたのである。
爺いさんが教えているうちに、それを聞いていた長太郎が、「そんなら、おいらの知った町だ」と云った。そこで姉妹《きょうだい》は長太郎を先に立てて歩き出した。
ようよう西奉行所に辿《たど》り附いて見れば、門がまだ締まっていた。門番所の窓の下に往って、いちが「もしもし」と度々《たびたび》繰り返して呼んだ。
暫くして窓の戸があいて、そこへ四十恰好《がっこう》の男の顔が覗《のぞ》いた。「やかましい。なんだ」
「お奉行様にお願があってまいりました」と、いちが丁寧に腰を屈《かが》めて云った。
「ええ」と云ったが、男は容易に詞《ことば》の意味を解し兼ねる様子であった。
いちは又同じ事を言った。
男はようようわかったらしく、「お奉行様には子供が物を申し上げることは出来ない、親が出て来るが好い」と云った。
「いいえ、父はあしたおしおきになりますので、それに就《つ》いてお願がございます」
「なんだ。あしたおしおきになる。それじゃあ、お前は桂屋太郎兵衛の子か」
「はい」といちが答えた。
「ふん」と云って、男は少し考えた。そして云った。「怪《け》しからん。子供までが上《かみ》を恐れんと見える。お奉行様はお前達にお逢《あい》はない。帰れ帰れ」こう云って、窓を締めてしまった。
まつが姉に言った。「ねえさん、あんなに叱るから帰りましょう」
いちは云った。「黙ってお出《い》で。叱られたって帰るのじゃありません。ねえさんのする通りにしてお出」こう云って、いちは門の前にしゃがんだ。まつと長太郎とは附いてしゃがんだ。
三人の子供は門のあくのをだいぶ久しく待った。ようよう貫木《かんのき》をはずす音がして、門があいた。あけたのは、先に窓から顔を出した男である。
いちが先に立って門内に進み入ると、まつと長太郎とが背後《うしろ》に続いた。
いちの態度が余り平気なので、門番の男は急に支《ささ》え留《とど》めようともせずにいた。そして暫く三人の子供の玄関の方へ進むのを、目をチって見送っていたが、ようよう我に帰って、「これこれ」と声を掛けた。
「はい」と云って、いちはおとなしく立ち留まって振り返った。
「どこへ往《ゆ》くのだ。さっき帰れと云ったじゃないか」
「そう仰《おっし》ゃいましたが、わたくし共はお願を聞いて戴くまでは、どうしても帰らない積りでございます」
「ふん。しぶとい奴《やつ》だな。とにかくそんな所へ往ってはいかん。こっちへ来い」
子供達は引き返して、門番の詰所へ来た。それと同時に玄関脇《わき》から、「なんだ、なんだ」と云って、二三人の詰衆《つめしゅう》が出て来て、子供達を取り巻いた。いちは殆どこうなるのを待ち構えていたように、そこに蹲《うずくま》って、懐中から書附を出して、真先《まっさき》にいる与《よ》力《りき》の前に差し附けた。まつと長太郎とも一しょに蹲って礼をした。
書附を前へ出された与力は、それを受け取ったものか、どうしたものかと迷うらしく、黙っていちの顔を見《み》卸《おろ》していた。
「お願でございます」と、いちが云った。
「こいつ等は木津川口で曝《さら》し物になっている桂屋太郎兵衛の子供でございます。親の命乞《いのちごい》するのだと云っています」と、門番が傍《かたわら》から説明した。
与力は同役の人達を顧みて、「ではとにかく書附を預かって置いて、伺って見ることにしましょうかな」と云った。それには誰《たれ》も異議がなかった。
与力は願書をいちの手から受け取って、玄関にはいった。
――――
西町奉行の佐佐は、両奉行の中《うち》の新参で、大阪に来てから、まだ一年立っていない。役向の事は総《すべ》て同役の稲垣に相談して、城代に伺って処置するのであった。それであるから、桂屋太郎兵衛の公事《くじ》に就いて、前役の申継《もうしつぎ》を受けてから、それを重要事件として気に掛けていて、ようよう処刑の手続が済んだのを重荷を卸したように思っていた。
そこへ今朝になって、宿直の与力が出て、命乞の願に出たものがあると云ったので、佐佐は先ず切角運ばせた事に邪魔がはいったように感じた。
「参ったのはどんなものか」佐佐の声は不機嫌であった。
「太郎兵衛の娘両人と倅《せがれ》とがまいりまして、年上の娘が願書を差上げたいと申しますので、これに預っております。御覧になりましょうか」
「それは目《め》安箱《やすばこ》をもお設《もうけ》になっておる御趣意から、次第によっては受け取っても宜《よろ》しいが、一応はそれぞれ手続のあることを申聞《もうしきか》せんではなるまい。とにかく預かっておるなら、内見しよう」
与力は願書を佐佐の前に出した。それを披《ひら》いて見て佐佐は不審らしい顔をした。「いちと云うのがその年上の娘であろうが、何歳になる」
「取り調べはいたしませんが、十四五歳位に見受けまする」
「そうか」佐佐は暫く書附を見ていた。不束《ふつつか》な仮名文字で書いてはあるが、条理が善く整っていて、大人《おとな》でもこれだけの短文に、これだけの事柄を書くのは、容易であるまいと思われる程である。大人が書かせたのではあるまいかと云う念が、ふと萌《きざ》した。続いて、上を偽る横着物《おうちゃくもの》の所為ではないかと思議した。それから一応の処置を考えた。太郎兵衛は明日の夕方まで曝すことになっている。刑を執行するまでには、まだ時がある。それまでに願書を受理しようとも、すまいとも、同役に相談し、上役に伺うことも出来る。又縦《よ》しやその間に情偽《じょうぎ》があるとしても、相当の手続をさせるうちには、それを探ることも出来よう。とにかく子供を帰そうと、佐佐は考えた。
そこで与力にはこう云った。この願書は内見したが、これは奉行に出されぬから、持って帰って町年寄《まちどしより》に出せと云えと云った。
与力は、門番が帰そうとしたが、どうしても帰らなかったと云うことを、佐佐に言った。佐佐は、そんなら菓子でも遣《や》って、賺《すか》して帰せ、それでも聴かぬなら引き立てて帰せと命じた。
与力の座を起《た》った跡へ、城代太田備中守資《おおたびっちゅうのかみすけ》晴《はる》が訪ねて来た。正式の見廻りではなく、私の用事があって来たのである。太田の用事が済むと、佐佐は只今かようかようの事があったと告げて、自分の考を述べ、指《さし》図《ず》を請うた。
太田は別に思案もないので、佐佐に同意して、午過ぎに東町奉行稲垣をも出席させて、町年寄五人に桂屋太郎兵衛が子供を召し連れて出させることにした。情偽があろうかと云う、佐佐の懸《け》念《ねん》も尤《もっと》もだと云うので、白《しら》洲《す》へは責道《せめどう》具《ぐ》を並べさせることにした。これは子供を嚇《おど》して実を吐かせようと云う手段である。
丁度この相談が済んだ所へ、前の与力が出て、入口に控えて気《け》色《しき》を伺った。
「どうじゃ、子供は帰ったか」と、佐佐が声を掛けた。
「御《ぎょ》意《い》でござりまする。お菓子を遣《つかわ》しまして帰そうと致しましたが、いちと申す娘がどうしても聴きませぬ。とうとう願書を懐《ふところ》へ押し込みまして、引き立てて帰しました。妹娘はしくしく泣きましたが、いちは泣かずに帰りました」
「余程情《じょう》の剛《こわ》い娘と見えますな」と、太田が佐佐を顧みて云った。
――――
十一月二十四日の未《ひつじ》の下《げ》刻《こく》である。西町奉行所の白洲ははればれしい光景を呈している。書院には両奉行が列座する。奥まった所には別席を設けて、表向《おもてむき》の出座ではないが、城代が取調《とりしらべ》の摸《も》様《よう》を余所《よそ》ながら見に来ている。縁側には取調を命ぜられた与力が、書役《かきやく》を随《したが》えて著座《ちゃくざ》する。
同心《どうしん》等が三道《みつどう》具《ぐ》を衝き立てて、厳《いか》めしく警固している庭に、拷問に用いる、あらゆる道具が並べられた。そこへ桂屋太郎兵衛の女房と五人の子供とを連れて、町年寄五人が来た。
尋問は女房から始められた。しかし名を問われ、年を問われた時に、かつがつ返事をしたばかりで、その外の事を問われても、「一向に存じませぬ」、「恐れ入りました」と云うより外、何一つ申し立てない。
次に長女いちが調べられた。当年十六歳にしては、少し穉《おさな》く見える、痩肉《やせじし》の小娘である。しかしこれは些《ちと》の臆《おく》する気色もなしに、一部始終の陳述をした。祖母の話を物蔭から聞いた事、夜になって床に入ってから、出願を思い立った事、妹まつに打明けて勧誘した事、自分で願書を書いた事、長太郎が目を醒《さま》したので同行を許し、奉行所の町名を聞いてから、案内をさせた事、奉行所に来て門番と応対し、次いで詰衆の与力に願書の取次を頼んだ事、与力等に強要せられて帰った事、凡《およ》そ前日来経歴した事を問われるままに、はっきり答えた。
「それではまつの外には誰にも相談はいたさぬのじゃな」と、取調役が問うた。
「誰にも申しません。長太郎にも精《くわ》しい事は申しません。お父っさんを助けて戴く様に、お願しに往くと申しただけでございます。お役所から帰りまして、年寄衆のお目に掛かりました時、わたくし共四人の命を差し上げて、父をお助け下さるように願うのだと申しましたら、長太郎が、それでは自分も命が差し上げたいと申して、とうとうわたくしに自分だけのお願書《ねがいしょ》を書かせて、持ってまいりました」
いちがこう申し立てると、長太郎が懐から書附を出した。
取調役の指図で、同心が一人長太郎の手から書附を受け取って、縁側に出した。
取調役はそれを披いて、いちの願書と引き比べた。いちの願書は町年寄の手から、取調の始まる前に、出させてあったのである。
長太郎の願書には、自分も姉や姉弟《きょうだい》と一しょに、父の身代りになって死にたいと、前の願書と同じ手跡で書いてあった。
取調役は「まつ」と呼びかけた。しかしまつは呼ばれたのに気が附かなかった。いちが「お呼《よび》になったのだよ」と云った時、まつは始めておそるおそる項《うな》垂《だ》れていた頭《こうべ》を挙げて、縁側の上の役人を見た。
「お前は姉と一しょに死にたいのだな」と、取調役が問うた。
まつは「はい」と云って頷《うなず》いた。
次に取調役は「長太郎」と呼び掛けた。
長太郎はすぐに「はい」と云った。
「お前は書附に書いてある通りに、兄弟《きょうだい》一しょに死にたいのじゃな」
「みんな死にますのに、わたしが一人生きていたくはありません」と、長太郎ははっきり答えた。
「とく」と取調役が呼んだ。とくは姉や兄が順序に呼ばれたので、こん度は自分が呼ばれたのだと気が附いた。そして只目をチ《みは》って役人の顔を仰ぎ見た。
「お前も死んでも好いのか」
とくは黙って顔を見ているうちに、唇《くちびる》に血色が亡《な》くなって、目に涙が一ぱい溜《た》まって来た。
「初五郎」と取調役が呼んだ。
ようよう六歳になる末《ばっ》子《し》の初五郎は、これも黙って役人の顔を見たが、「お前はどうじゃ、死ぬるのか」と問われて、活溌《かっぱつ》にかぶりを振った。書院の人々は覚えず、それを見て微笑《ほほえ》んだ。
この時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい」
「お前の申立《もうしたて》には潤sうそ》はあるまいな。若《も》し少しでも申した事に間違があって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ」佐佐は責道具のある方角を指さした。
いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたわずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言い放った。その目は冷《ひやや》かで、その詞《ことば》は徐《しず》かであった。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞届けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることは出来ぬが、それでも好いか」
「よろしゅうございます」と、同じような、冷かな調子で答えたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上《かみ》の事には間違はございますまいから」と言い足した。
佐佐の顔には、不意打に逢《あ》ったような、驚《きょう》愕《がく》の色が見えたが、それはすぐに消えて、険《けわ》しくなった目が、いちの面《おもて》に注がれた。憎《ぞう》悪《お》を帯びた驚異の目とでも云おうか。しかし佐佐は何も言わなかった。
次いで佐佐は何やら取調役にささやいたが、間もなく取調役が町年寄に、「御用が済んだから、引き取れ」と言い渡した。
白洲を下がる子供等を見送って、佐佐は太田と稲垣とに向いて、「生先《おいさき》の恐ろしいものでござりますな」と云った。心の中《うち》には、哀《あわれ》な孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、只氷のように冷かに、刃《やいば》のように鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響しているのである。元文頃の徳川家の役人は、固《もと》より「マルチリウム」という洋語も知らず、又当時の辞書には献身と云う訳語もなかったので、人間の精神に、老《ろう》若男女《にゃくなんにょ》の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現れたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中《うち》に潜む反抗の鋒《ほこさき》は、いちと語《ことば》を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。
――――
城代も両奉行もいちを「変な小娘だ」と感じて、その感じには物でも憑《つ》いているのではないかと云う迷信さえ加わったので、孝女に対する同情は薄かったが、当時の行政司法の、元始的な機関が自然に活動して、いちの願意は期せずして貫徹した。桂屋太郎兵衛の刑の執行は、「江戸へ伺中日延《うかがひちゅうひのべ》」と云うことになった。これは取調のあった翌日、十一月二十五日に町年寄に達せられた。次いで元文四年三月二日に、「京都に於いて大嘗会《だいじょうえ》御執行相成候《さふらう》てより日限も不相立《あひたたざる》儀《ぎ》に付、太郎兵衛事、死罪御赦免被仰出《ごしゃめんおほせいだされ》、大阪北、南組、天《てん》満《ま》の三口御構《おかまひ》の上追放」と云うことになった。桂屋の家族は、再び西奉行所に呼び出されて、父に別を告げることが出来た。大嘗会と云うのは、貞享《じょうきょう》四年に東山天皇の盛儀があってから、桂屋太郎兵衛の事を書いた高札の立った元文三年十一月二十三日の直前、同じ月の十九日に、五十一年目に、桜町天皇が挙行し給うまで、中絶していたのである。
高《たか》瀬《せ》舟《ぶね》
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢《ろう》屋《や》敷《しき》へ呼び出されて、そこで暇乞《いとまごい》をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであった。それを護送するのは、京都町《まち》奉行《ぶぎょう》の配下にいる同心《どうしん》で、この同心は罪人の親類の中《うち》で、主《おも》立《だ》った一人《いちにん》を、大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上《かみ》へ通った事ではないが、所謂《いわゆる》大目に見るのであった黙許であった。
当時遠島を申し渡された罪人は、勿論《もちろん》重い科《とが》を犯したものと認められた人ではあるが、決して盗《ぬすみ》をするために、人を殺し火を放ったと云うような、獰悪《どうあく》な人物が多数を占めていたわけではない。高瀬舟に乗る罪人の過半は、所謂心得違《こころえちがい》のために、想わぬ科を犯した人であった。有り触れた例を挙げて見れば、当時相《あい》対《たい》死《し》と云った情死を謀《はか》って、相手の女を殺して、自分だけ活き残った男と云うような類《たぐい》である。
そう云う罪人を載せて、入相《いりあい》の鐘の鳴る頃に漕《こ》ぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加《か》茂《も》川《がわ》を横ぎって下るのであった。この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜どおし身の上を語り合う。いつもいつも悔やんでも還《かえ》らぬ繰言《くりごと》である。護送の役をする同心は、傍《そば》でそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族《しんせきけんぞく》の悲惨な境遇を細かに知ることが出来た。所詮《しょせん》町奉行所の白《しら》洲《す》で、表向《おもてむき》の口供《こうきょう》を聞いたり、役所の机の上で、口書《くちがき》を読んだりする役人の夢にも窺《うかが》うことの出来ぬ境遇である。
同心を勤める人にも、種々《いろいろ》の性質があるから、この時只《ただ》うるさいと思って、耳を掩《おお》いたく思う冷淡な同心があるかと思えば、又しみじみと人の哀《あわれ》を身に引き受けて、役柄ゆえ気《け》色《しき》には見せぬながら、無言の中《うち》に私《ひそ》かに胸を痛める同心もあった。場合によって非常に悲惨な境遇に陥った罪人とその親類とを、特に心弱い、涙脆《もろ》い同心が宰領して行くことになると、その同心は不覚の涙を禁じ得ぬのであった。
そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で、不快な職務として嫌《きら》われていた。
――――
いつの頃であったか。多分江戸で白河楽翁《しらかわらくおう》侯が政柄《せいへい》を執《と》っていた寛政の頃ででもあっただろう。智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕《ゆうべ》に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。
それは名を喜《き》助《すけ》と云って、三十歳ばかりになる、住所不定《ふじょう》の男である。固《もと》より牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にも只一人で乗った。
護送を命ぜられて、一しょに舟に乗り込んだ同心羽《はね》田《だ》庄《しょう》兵《べ》衛《え》は、只喜助が弟殺しの罪人だと云うことだけを聞いていた。さて牢屋敷から桟橋《さんばし》まで連れて来る間、この痩肉《やせじし》の、色の蒼白《あおじろ》い喜助の様子を見るに、いかにも神妙《しんびょう》に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬って、何事につけても逆《さから》わぬようにしている。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるような、温順を装って権勢に媚《こ》びる態度ではない。
庄兵衛は不思議に思った。そして舟に乗ってからも、単に役目の表で見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしていた。
その日は暮方から風が歇《や》んで、空一面を蔽《おお》った薄い雲が、月の輪廓《りんかく》をかすませ、ようよう近寄って来る夏の温さが、両岸の土からも、川床《かわどこ》の土からも、靄《もや》になって立ち昇るかと思われる夜であった。下京《しもきょう》の町を離れて、加茂川を横ぎった頃からは、あたりがひっそりとして、只舳《へさき》に割《さ》かれる水のささやきを聞くのみである。
夜舟で寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙っている。その額は晴やかで、目には微《かす》かなかがやきがある。
庄兵衛はまともには見ていぬが、始終喜助の顔から目を離さずにいる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返している。それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、若《も》し役人に対する気《き》兼《がね》がなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。
庄兵衛は心の内に思った。これまでこの高瀬舟の宰領をしたことは幾度《いくたび》だか知れない。しかし載せて行く罪人は、いつも殆《ほとん》ど同じように、目も当てられぬ気の毒な様子をしていた。それにこの男はどうしたのだろう。遊《ゆ》山《さん》船《ぶね》にでも乗ったような顔をしている。罪は弟を殺したのだそうだが、よしやその弟が悪い奴《やつ》で、それをどんな行掛りになって殺したにせよ、人の情として好《い》い心持はせぬ筈《はず》である。この色の蒼い痩男《やせおとこ》が、その人の情と云うものが全く欠けている程の、世にも稀《まれ》な悪人であろうか。どうもそうは思われない。ひょっと気でも狂っているのではあるまいか。いやいや。それにしては何一つ辻褄《つじつま》の合わぬ言語《ことば》や挙動がない。この男はどうしたのだろう。庄兵衛がためには喜助の態度が考えれば考える程わからなくなるのである。
――――
暫《しばら》くして、庄兵衛はこらえ切れなくなって呼び掛けた。「喜助。お前何を思っているのか」
「はい」と云ってあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見《み》咎《とが》められたのではないかと気《き》遣《づか》うらしく、居ずまいを直して庄兵衛の気《け》色《しき》を伺った。
庄兵衛は自分が突然問を発した動機を明《あか》して、役目を離れた応対を求める分疏《いいわけ》をしなくてはならぬように感じた。そこでこう云った。「いや。別にわけがあって聞いたのではない。実はな、己《おれ》は先刻《さっき》からお前の島へ往《ゆ》く心持が聞いて見たかったのだ。己はこれまでこの舟で大勢の人を島へ送った。それは随分いろいろな身の上の人だったが、どれもどれも島へ往くのを悲しがって、見送りに来て、一しょに舟に乗る親類のものと、夜どおし泣くに極《き》まっていた。それにお前の様子を見れば、どうも島へ往くのを苦にしてはいないようだ。一体お前はどう思っているのだい」
喜助はにっこり笑った。「御親切に仰《おっし》ゃって下すって、難有《ありがと》うございます。なる程島へ往くということは、外の人には悲しい事でございましょう。その心持はわたくしにも思い遣って見ることが出来ます。しかしそれは世間で楽をしていた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして参ったような苦みは、どこへ参ってもなかろうと存じます。お上《かみ》のお慈悲で、命を助けて島へ遣って下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の栖《す》む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云って自分のいて好《い》い所と云うものがございませんでした。こん度お上で島にいろと仰ゃって下さいます。そのいろと仰ゃる所に、落ち著《つ》いていることが出来ますのが、先《ま》ず何よりも難有《ありがた》い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい体ではございますが、ついぞ病気をいたしたことはございませんから、島へ往ってから、どんなつらい為《し》事《ごと》をしたって、体を痛めるようなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるに付きまして、二百文の鳥目《ちょうもく》を戴《いただ》きました。それをここに持っております」こう云い掛けて、喜助は胸に手を当てた。遠島を仰せ附けられるものには、鳥目二百銅を遣《つかわ》すと云うのは、当時の掟《おきて》であった。
喜助は語《ことば》を続《つ》いだ。「お恥かしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日《こんにち》まで二百文と云うお足《あし》を、こうして懐《ふところ》に入れて持っていたことはございませぬ。どこかで為事に取り附きたいと思って、為事を尋ねて歩きまして、それが見附かり次第、骨を惜まずに働きました。そして貰《もら》った銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買って食べられる時は、わたくしの工《く》面《めん》の好《い》い時で、大抵は借りたものを返して、又跡《あと》を借りたのでございます。それがお牢に這《は》入《い》ってからは、為事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に対して済まない事をいたしているようでなりませぬ。それにお牢を出る時に、この二百文を戴きましたのでございます。こうして相変らずお上の物を食べていて見ますれば、この二百文はわたくしが使わずに持っていることが出来ます。お足を自分の物にして持っていると云うことは、わたくしに取っては、これが始《はじめ》でございます。島へ往って見ますまでは、どんな為事が出来るかわかりませんが、わたくしはこの二百文を島でする為事の本《もと》手《で》にしようと楽んでおります」こう云って、喜助は口を噤《つぐ》んだ。
庄兵衛は「うん、そうかい」とは云ったが、聞く事毎《ことごと》に余り意表に出たので、これも暫く何も云うことが出来ずに、考え込んで黙っていた。
庄兵衛はかれこれ初老に手の届く年になっていて、もう女房に子供を四人生ませている。それに老母が生きているので、家は七人暮しである。平生《へいぜい》人には吝嗇《りんしょく》と云われる程の、倹約な生活をしていて、衣類は自分が役目のために著《き》るものの外、寝巻しか拵《こしら》えぬ位にしている。しかし不幸な事には、妻を好《い》い身代の商人の家から迎えた。そこで女房は夫の貰う扶《ふ》持《ち》米《まい》で暮しを立てて行こうとする善意はあるが、裕《ゆたか》な家に可哀がられて育った癖があるので、夫が満足する程手元を引き締めて暮して行くことが出来ない。動《やや》もすれば月末になって勘定が足りなくなる。すると女房が内証で里から金を持って来て帳尻《ちょうじり》を合わせる。それは夫が借財と云うものを毛虫のように嫌うからである。そう云う事は所詮夫に知れずにはいない。庄兵衛は五節句だと云っては、里方から物を貰い、子供の七五三の祝だと云っては、里方から子供に衣類を貰うのでさえ、心苦しく思っているのだから、暮しの穴を填《う》めて貰ったのに気が附いては、好い顔はしない。格別平和を破るような事のない羽田の家に、折々波風の起るのは、これが原因である。
庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて見た。喜助は為事をして給料を取っても、右から左へ人手に渡して亡《な》くしてしまうと云った。いかにも哀な、気の毒な境界《きょうがい》である。しかし一転して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果してどれ程の差があるか。自分も上から貰う扶持米を、右から左へ人手に渡して暮しているに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂《い》わば十《そ》露《ろ》盤《ばん》の桁《けた》が違っているだけで、喜助の難有がる二百文に相当する貯蓄だに、こっちはないのである。
さて桁を違えて考えて見れば、鳥目二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない。その心持はこっちから察して遣ることが出来る。しかしいかに桁を違えて考えて見ても、不思議なのは喜助の慾のないこと、足ることを知っていることである。
喜助は世間で為事を見附けるのに苦んだ。それを見附けさえすれば、骨を惜まずに働いて、ようよう口を糊《のり》することの出来るだけで満足した。そこで牢に入《い》ってからは、今まで得難かった食が、殆ど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ満足を覚えたのである。
庄兵衛はいかに桁を違えて考えて見ても、ここに彼と我との間に、大いなる懸隔のあることを知った。自分の扶持米で立てて行く暮しは、折々足らぬことがあるにしても、大抵出納《すいとう》が合っている。手一ぱいの生活である。然《しか》るにそこに満足を覚えたことは殆ど無い。常は幸《さいわい》とも不幸とも感ぜずに過している。しかし心の奥には、こうして暮していて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようと云う疑《ぎ》懼《く》が潜んでいて、折々妻が里方から金を取り出して来て穴填《あなうめ》をしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾《しきい》の上に頭を擡《もた》げて来るのである。
一体この懸隔はどうして生じて来るだろう。只上《うわ》辺《べ》だけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こっちにはあるからだと云ってしまえばそれまでである。しかしそれは潤sうそ》である。よしや自分が一人者であったとしても、どうも喜助のような心持にはなられそうにない。この根柢《こんてい》はもっと深い処にあるようだと、庄兵衛は思った。
庄兵衛は只漠然《ばくぜん》と、人の一生というような事を思って見た。人は身に病《やまい》があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食って行かれたらと思う。万一の時に備える蓄《たくわえ》がないと、少しでも蓄があったらと思う。蓄があっても、又その蓄がもっと多かったらと思う。かくの如くに先から先へと考て見れば、人はどこまで往って踏み止《と》まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気が附いた。
庄兵衛は今さらのように驚異の目をチ《みは》って喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光《ごうこう》がさすように思った。
――――
庄兵衛は喜助の顔をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と云ったが、これは十分の意識を以《もっ》て称呼を改めたわけではない。その声が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衛はこの称呼の不穏当なのに気が附いたが、今さら既に出た詞《ことば》を取り返すことも出来なかった。
「はい」と答えた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思うらしく、おそるおそる庄兵衛の気色を覗《うかが》った。
庄兵衛は少し間の悪いのをこらえて云った。「色々の事を聞くようだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云う事だ。己に序《ついで》にそのわけを話して聞せてくれぬか」
喜助はひどく恐れ入った様子で、「かしこまりました」と云って、小声で話し出した。「どうも飛んだ心得違で、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げようがございませぬ。跡で思って見ますと、どうしてあんな事が出来たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親《ふたおや》が時《じ》疫《えき》で亡くなりまして、弟と二人跡に残りました。初《はじめ》は丁度軒下に生れた狗《いぬ》の子にふびんを掛けるように町内の人達がお恵《めぐみ》下さいますので、近所中の走使《はしりづかい》などをいたして、飢え凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を捜しますにも、なるたけ二人が離れないようにいたして、一しょにいて、助け合って働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しょに、西陣《にしじん》の織《おり》場《ば》に這入りまして、空引《そらびき》と云うことをいたすことになりました。そのうち弟が病気で働けなくなったのでございます。その頃わたくし共は北山の掘立《ほったて》小屋同様の所に寝《ね》起《おき》をいたして、紙《かみ》屋《や》川《がわ》の橋を渡って織場へ通っておりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買って帰ると、弟は待ち受けていて、わたくしを一人で稼《かせ》がせては済まない済まないと申しておりました。或る日いつものように何心なく帰って見ますと、弟は布《ふ》団《とん》の上に突っ伏していまして、周囲《まわり》は血だらけなのでございます。わたくしはびっくりいたして、手に持っていた竹の皮包や何かを、そこへおっぽり出して、傍《そば》へ往って『どうしたどうした』と申しました。すると弟は真蒼《まっさお》な顔の、両方の頬《ほお》から腮《あご》へ掛けて血に染ったのを挙げて、わたくしを見ましたが、物を言うことが出来ませぬ。息をいたす度に、創口《きずぐち》でひゅうひゅうと云う音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも様子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と云って、傍へ寄ろうといたすと、弟は右の手を床《とこ》に衝《つ》いて、少し体を起しました。左の手はしっかり腮の下の所を押えていますが、その指の間から黒血の固まりがはみ出しています。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるようにして口を利《き》きました。ようよう物が言えるようになったのでございます。『済まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなおりそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたいと思ったのだ。笛を切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力一ぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃は飜《こぼ》れはしなかったようだ。これを旨《うま》く抜いてくれたら己《おれ》は死ねるだろうと思っている。物を言うのがせつなくって可《い》けない。どうぞ手を借《か》して抜いてくれ』と云うのでございます。弟が左の手を弛《ゆる》めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云おうにも、声が出ませんので、黙って弟の喉《のど》の創を覗《のぞ》いて見ますと、なんでも右の手に剃刀《かみそり》を持って、横に笛を切ったが、それでは死に切れなかったので、そのまま剃刀を、刳《えぐ》るように深く突っ込んだものと見えます。柄《え》がやっと二寸ばかり創口から出ています。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云う思案も附かずに、弟の顔を見ました。弟はじっとわたくしを見詰めています。わたくしはやっとの事で、『待っていてくれ、お医者を呼んで来るから』と申しました。弟は怨《うら》めしそうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしっかり押えて、『医者がなんになる、ああ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と云うのでございます。わたくしは途方に暮れたような心持になって、只弟の顔ばかり見ております。こんな時は、不思議なもので、目が物を言います。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云って、さも怨めしそうにわたくしを見ています。わたくしの頭の中では、なんだかこう車の輪のような物がぐるぐる廻っているようでございましたが、弟の目は恐ろしい催促を罷《や》めません。それにその目の怨めしそうなのが段々険しくなって来て、とうとう敵《かたき》の顔をでも睨《にら》むような、憎々しい目になってしまいます。それを見ていて、わたくしはとうとう、これは弟の言った通にして遣らなくてはならないと思いました。わたくしは『しかたがない、抜いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと変って、晴やかに、さも嬉《うれ》しそうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思って膝《ひざ》を撞《つ》くようにして体を前へ乗り出しました。弟は衝いていた右の手を放して、今まで喉を押えていた手の肘《ひじ》を床《とこ》に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしっかり握って、ずっと引きました。この時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆《ば》あさんが這入って来ました。留守の間《ま》、弟に薬を飲ませたり何かしてくれるように、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もうだいぶ内のなかが暗くなっていましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあっと云ったきり、表口をあけ放しにして置いて駆け出してしまいました。わたくしは剃刀を抜く時、手早く抜こう、真直に抜こうと云うだけの用心はいたしましたが、どうも抜いた時の手応《てごたえ》は、今まで切れていなかった所を切ったように思われました。刃が外の方へ向いていましたから、外の方が切れたのでございましょう。わたくしは剃刀を握ったまま、婆あさんの這入って来て又駆け出して行ったのを、ぼんやりして見ておりました。婆あさんが行ってしまってから、気が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れておりました。創口からは大そうな血が出ておりました。それから年寄衆がお出《いで》になって、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいたまま死んでいる弟の顔を見詰めていたのでございます」
少し俯《うつ》向《む》き加減になって庄兵衛の顔を下から見上げて話していた喜助は、こう云ってしまって視線を膝の上に落した。
喜助の話は好く条理が立っている。殆ど条理が立ち過ぎていると云っても好《い》い位である。これは半年程の間、当時の事を幾度《いくたび》も思い浮べて見たのと、役場で問われ、町奉行所で調べられるその度毎に、注意に注意を加えて浚《さら》って見させられたのとのためである。
庄兵衛はその場の様子を目《ま》のあたり見るような思いをして聞いていたが、これが果して弟殺しと云うものだろうか、人殺しと云うものだろうかと云う疑《うたがい》が、話を半分聞いた時から起って来て、聞いてしまっても、その疑を解くことが出来なかった。弟は剃刀を抜いてくれたら死なれるだろうから、抜いてくれと云った。それを抜いて遣って死なせたのだ、殺したのだとは云われる。しかしそのままにして置いても、どうせ死ななくてはならぬ弟であったらしい。それが早く死にたいと云ったのは、苦しさに耐えなかったからである。喜助はその苦を見ているに忍びなかった。苦から救って遣ろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。
庄兵衛の心の中《うち》には、いろいろに考えて見た末に、自分より上のものの判断に任す外ないと云う念、オオトリテエに従う外ないと云う念が生じた。庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらに腑《ふ》に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかった。
次第に更《ふ》けて行く朧夜《おぼろよ》に、沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面《おもて》をすべって行った。
高瀬舟縁《えん》起《ぎ》
京都の高瀬川は、五条から南は天正十五年に、二条から五条までは慶長十七年に、角倉《すみのくら》了以《りょうい》が掘ったものだそうである。そこを通う舟は曳舟《ひきふね》である。原来《がんらい》たかせは舟の名で、その舟の通う川を高瀬川と云うのだから、同名の川は諸国にある。しかし舟は曳舟には限らぬので、和名鈔《わみょうしょう》には釈名の「艇小而深者曰┤《ていしょうにしてふかきものをきょうといふ》」とある┤《きょう》の字をたかせに当ててある。竹柏園《ちくはくえん》文庫《ぶんこ》の和漢船用集を借覧するに、「おもて高く、とも、よこともにて、低く平《たひら》なるものなり」と云ってある。そして図には、梶sさお》で行《や》る舟がかいてある。
徳川時代には京都の罪人が遠島を言い渡されると、高瀬舟で大阪へ廻されたそうである。それを護送して行く京都町奉行附の同心が悲しい話ばかり聞せられる。或るときこの舟に載せられた兄弟殺しの科《とが》を犯した男が、少しも悲しがっていなかった。その仔《し》細《さい》を尋ねると、これまで食を得ることに困っていたのに、遠島を言い渡された時、銅銭二百文を貰ったが、銭を使わずに持っているのは始だと答えた。又人殺しの科はどうして犯したかと問えば、兄弟は西陣に傭《やと》われて、空引《そらびき》と云うことをしていたが、給料が少くて暮しが立ち兼ねた、その内同胞が自殺を謀《はか》ったが、死に切れなかった、そこで同胞が所詮《しょせん》助からぬから殺してくれと頼むので、殺して遣ったと云った。
この話は翁草《おきなぐさ》に出ている。池《いけ》辺《べ》義《よし》象《かた》さんの校訂した活字本で一ペエジ余に書いてある。私はこれを読んで、その中に二つの大きい問題が含まれていると思った。一つは財産と云うものの観念である。銭を持ったことのない人の銭を持った喜《よろこび》は、銭の多少には関せない。人の欲には限《かぎり》がないから、銭を持って見ると、いくらあればよいという限界は見《み》出《いだ》されないのである。二百文を財産として喜んだのが面白い。今一つは死に掛かっていて死なれずに苦んでいる人を、死なせて遣ると云う事である。人を死なせて遣れば、即《すなわ》ち殺すと云うことになる。どんな場合にも人を殺してはならない。翁草にも、教《おしえ》のない民だから、悪意がないのに人殺しになったと云うような、批評の詞《ことば》があったように記憶する。しかしこれはそう容易に杓子定木《しゃくしじょうぎ》で決してしまわれる問題ではない。ここに病人があって死に瀕《ひん》して苦んでいる。それを救う手段は全くない。傍《そば》からその苦むのを見ている人はどう思うであろうか。縦令《たとい》教のある人でも、どうせ死ななくてはならぬものなら、あの苦みを長くさせて置かずに、早く死なせて遣りたいと云う情は必ず起る。ここに麻酔薬を与えて好いか悪いかと云う疑が生ずるのである。その薬は致死量でないにしても、薬を与えれば、多少死期を早くするかも知れない。それゆえ遣らずに置いて苦ませていなくてはならない。従来の道徳は苦ませて置けと命じている。しかし医学社会には、これを非とする論がある。即ち死に瀕して苦むものがあったら、楽に死なせて、その苦を救って遣るが好いと云うのである。これをユウタナジイという。楽に死なせると云う意味である。高瀬舟の罪人は、丁度それと同じ場合にいたように思われる。私にはそれがひどく面白い。
こう思って私は「高瀬舟」と云う話を書いた。中央公論で公にしたのがそれである。
森鴎外 人と作品
――不党と社交
山崎正和
鴎外は朋党の僻、親分気質の微《み》塵《じん》も無い人である。自らも言い、世間も之《これ》を悉って居る。我々も壮時鴎外に接したが全くその通りだと思った。人から悪く利用せられる事も嫌だが、人を利用する事もしない。煢《けい》然《ぜん》孤独である。而《しか》も、「しがらみ草紙」の昔からいつもサロンの話相手を身の廻りに有している。「明星」、「昴《スバル》」、「屋上庭園」、「三田文学」、「自由劇場」のわかい連中は随分無作法であり、鴎外から観たら乳臭児に過ぎなかったろうが、いつもにこにこと接見して相手になった。
木下杢《もく》太《た》郎《ろう》の『森鴎外』の一節であるが、一見なにげないこの文章が、鴎外の人となりの深い構造に迫っているようにみえる。たしかに、鴎外は思想的にも文壇的にも党派を作らず、その意味で厳しく「孤独」でありながら、「いつもサロンの話相手を身の廻りに有して」いた。この微妙な精神の矛盾は、ひそかに彼の創作活動の底にまで根をおろしていて、この作家とその作品を、日本の近代文学史のなかでいささか異例の存在にしてきた。あえていえば、それは、彼を従来の日本の精神風土のなかで孤立させ、いわゆる文学青年のあいだで不人気を喞《かこ》たせた原因であった、とさえいえるかもしれない。
だが、このことの含蓄を理解するには、ここで杢太郎のいう「サロン」の意味、それが日本の近代社会のなかで負わされた、独特の不幸な意味を知っておかねばならない。じつは、杢太郎その人が、近代の本格的な芸術サロンとしては日本最初の、そして、たぶん最後の企てとなった「パンの会」の主宰者であって、この言葉には特別の感慨をひそませていた、と考えられるからである。
明治の一群の知識人にとって、日本には西洋風の社交文化が育っていないというのは、切実な共通の思いであった。江戸幕府の厳格主義的な文化政策は、社交を裏街道の遊廓《ゆうかく》の世界におしこめ、「富国強兵」を急ぐ明治の社会もまた、個人の優雅な交歓といった観念には無縁であった。人間関係といえば、公の世界では、軍や官や企業の組織化が急速に進められ、また、利害と主張をめぐる党派の力が強まるばかりであった。私の世界では、古い血縁の絆《きずな》も頑固に残っていたうえ、新しく生まれた核家族はそれ以上に閉鎖的、拘束的であって、いずれにせよ、自由な社交を窒息させる環境を作り出していた。
明治三十六年、美術評論家・岩村透《とおる》(芋洗)は『巴里《パリ》之美術学生』という一書を著し、パリの芸術サロンの雰《ふん》囲《い》気《き》をなつかしみながら、日本社会の非社交的な性格を嘆いて、次のように書いている。
西洋人の云う交際と云う様なものが日本に行われて居るであろうか。他人の相手になる事の嫌いな、多勢の前に出る事の厭《きら》いな、人に口を開く事を憚《はばか》り、人の話を聴く事を好かん、自分の感情を人に打開けて語る事をせぬ、他人の前に威張りたがり、己の実力をなるべく大《おお》袈《げ》裟《さ》に見せたがる、と云う、斯《か》様《よう》な人間が、交際などと云うものが出来るか知らむ。(中略)威張りたいから、人の云う事は聞きたくない、何事も自分一人と云う考では、すべて共同と云う精神から湧《わい》て来る快楽は味えない。西洋風の倶楽部《クラブ》とか或は仏蘭西《フランス》のカッフェの様なものは真似たくも出来ない、矢張り一体の根性が待合の四畳半に合う様に出来ている。
この同じ憂慮は、同時代の作家・永井荷《か》風《ふう》にもわけもたれていて、その小説『新帰朝者日記』の主人公は、「日本人の乱雑無礼な宴会のさま」を罵《ののし》って、西洋風の社交の情景に手ばなしの憧憬《どうけい》を捧《ささ》げている。彼が招かれたサロンの会話は、「何《いず》れも純化された技巧的の中音で」交わされ、「いかにも自由に、楽しく、心置きなく見えながら、其《そ》れで居て些《いささ》かの喧《かしま》しい乱雑をも来さない」。そういう会合を訪ねるたびに、彼はそこに、「個人的私生涯から離れた技巧的生活の舞台」があることを感じ、自分自身も、「人に不快を起させない役柄を勤める俳優」であろうとするのだが、こうした洗練された対話の場所が日本には存在しない、といって嘆くのである。
同じころ、木下杢太郎、北原白秋といった若い詩人たちを中心に、画家や作家のサロン「パンの会」が開かれたのは、この意味で劃《かっ》期《き》的な事件であった。当時、数少なかった西洋料理店で催された集りには、永井荷風、上田敏のような年長の文学者も顔を出して、第一に、この会は世代を超えた開放的な会合であった。画家もいれば小説家もいるという意味で、これはまたジャンルを超えた会話の場であったし、ときには外国人の参加もあったらしい。なにより、「パンの会」には固定的な指導者という存在がなく、師弟の上下関係もなければ、主義主張を絆とする党派的な結束もないのが、特色であった。
たぶん、ここには参加者がいぎたなく甘えあう雰囲気もなく、若者が肩を寄せあって、青臭い気勢をあげるような空気もなかったであろう。人生に傷ついた者がたがいの傷をなめあったり、傲慢《ごうまん》な兄貴分が弟分をいびるというような、古い「若衆宿《わかしゅやど》」の気風も見られなかったにちがいない。「私生活を離れた技巧的生活」という、荷風の理想がどこまで実現されたかは別として、少なくともこの会には、私的な感情の「無礼乱雑」なたれ流しがなかったことは、容易に想像できる。
しかし、おそらくこうした真に社交的な性格のゆえに、「パンの会」は日本の知的社会のなかで長続きすることがなく、その後、これに似たサロンが大きな力を持つこともなかった。明治から昭和にいたるまで、文壇を支配したのは、主義主張を持つ党派であり、師匠と弟子の集団であり、同世代の若者が結ぶ独特の友情の関係であった。思想的な組織集団はしばらく措《お》くとしても、志賀直《なお》哉《や》や武者《むしゃ》小路実篤《のこうじさねあつ》の「白樺《しらかば》」同人にせよ、夏目漱石《そうせき》の私宅に集る「門下十傑」にせよ、同じように閉鎖的な気分に包まれた集団であった。
それらは、たんに外に向かって排他的であるだけでなく、内の仲間にたいして強い心理的な拘束力を持ち、粘っこい、湿潤な共通感情を分けあうことを要求した。その仲間は、たがいに誠実であることを求めあったが、その場合の誠実さとは、それぞれの私的な感情の真実を吐露しあうことであった。志賀直哉の「鳥尾の病気」に見られるように、若い友人たちは、たがいの憂鬱や神経衰弱すら剥《む》きだしにして、いっさいの「技巧的生活」を排して結びあおうと努めていた。
ひょっとすると、日本の近代精神史を解明するひとつの鍵《かぎ》は、明治末年から昭和の前半までつづいた、あの「友情」という特殊な観念の君臨だったかもしれない。それは、漱石の『こころ』の「先生」と友人「K」を支配し、無数の旧制高等学校の生徒たちの感情を呪縛《じゅばく》し、反俗と無頼を誇る文士たちの精神を支えてきた。多くの場合、友情は家族愛や男女の絆よりも強く、しかし、そうした濃密な感情に似て、公的世界の人間関係に対立する、純粋に私的な紐帯《ちゅうたい》を作りあげた。青年たちは、この紐帯のなかで最初の趣味を試され、人生についての見方を学び、いわば、人生観と世界観の原点を教えられるのであった。
この友情の集団には、師匠でなければ、たいてい兄貴分の教祖的な青年がいて、集団内部だけの秘教的な雰囲気のなかで、独特の尊敬と畏《い》怖《ふ》を集めていた。彼は、友人たちの趣味と教養に裁断的な批評をくだし、その誠実さと忠誠心を試しては、心の最後の殻をも剥《は》ぎとることを要求した。ときには酒席の無礼講の狂態のなかで、ときには読書会や、同人誌の作品合評の席で、この感情生活をめぐる私的制裁は、あたかも青春の通過儀礼のように行なわれるのであった。
こうした友情の異様な君臨は、一方では、前近代的な「若衆宿」の気風のなごりでもあったろうが、他方では、伝統的な人間関係の崩壊の産物であったことも、疑いない。古い家族や地縁の繋《つな》がりから解放され、自我の自由を獲得したはずの青年たちは、じつはその自我が観念の玩《がん》具《ぐ》にすぎず、実体的な感触に欠けることを漠然と感じていた。自己の内面をのぞいても、そこにうごめく世俗的な欲望を除けば、趣味や行動の基準となる確実なものがないことは、正直な眼には明らかであった。自己を自己として証明するものは、いつの世も他人との関係のほかにはないのであるが、そうした絆の一切を、彼らは古い習俗とともに捨て去っていたからである。
最大の皮肉は、こうして自我の身《み》許《もと》証明に不安を覚えた彼らが、その新たな拠《よ》り所《どころ》として、一見、近代的にみえて、じつはきわめて古い社会集団に頼ったことであった。師弟や友情の集団は、それを個人が選びとるという点で近代的にみえるが、いったん選んでしまえば、その先は一元的で全身的な帰属を要求するという点で、古めかしい。社交の場合のように、個人が複数の人間関係に距離をおいて関《かか》わり、そのどれにも属しながら属さないという自由な立場は、この集団では許されない。いいかえれば、それは青年たちに、自由に選びとったという自己満足は許すものの、実質的には、彼らが捨てた家族や地縁の絆と同質の集団だったのである。
この事実は、日本の近代文学の内容にも濃い影を落としていて、自然主義、浪漫《ろうまん》主義、マルクス主義の区別を問わず、作家の感覚に特有の陰鬱な基調を染めつけてきた。ひと言でいえば、それは道学的なまじめさと、他人にたいする無礼な率直さの混合物であり、閉鎖集団のなかだけで通用する、独善的な誠実さというべきものにほかならない。長らく、日本の近代批評家が文学に「真実」を求め、作家の姿勢に「切実さ」を要求したとき、その口吻は疑いなく、あの「若衆宿」の教祖的兄貴分のそれに似ていたのである。
このように見ると、鴎外がわれわれにとって何であったかはともかくとして、少なくとも何でなかったか、ということはすでに明白であろう。『妄想《もうぞう》』、『ヰタ・セクスアリス』といった、彼の自伝的な作品を読んでも、およそ鴎外が「若衆宿」的な人間関係とは無縁であり、むしろ、それに微《かす》かな嫌悪を覚えていたことが感じとれる。賀《か》古《こ》鶴《つる》所《ど》という生涯の友人は持っていたが、その友情は、彼の文学的な感受性の形成には関係がなかった。『青年』、『灰燼《かいじん》』という、いわゆる青春小説の主人公を見ても、そこにはあの鬱陶しい友情の影はなく、逆に、それにたいする違和感の表明を読みとることができる。
若いころ、鴎外もたしかに一、二度、同人雑誌の編集にあたっているが、注目すべきことは、彼がそこに妹・喜美子を始めとする、家族の参加を許していたことであろう。家族の関係は、本質的に「若衆宿」の気質とあいいれないものであって、のちの小金井喜美子の回想によっても、事実、同人の雰囲気はサロンの社交のそれに似ていたらしい。
そして、鴎外の社交の能力は、彼のドイツ留学中に磨かれ、いわば国際的な水準に達していたことは、『独逸《ドイツ》日記』や、『文づかひ』のような初期の小説からもうかがうことができる。彼の描く、貴族や芸術家のサロンの情景は生気をおびているし、現実の鴎外が、宴席でドイツ人学者に反駁《はんばく》して、巧みな即興演説を行なったことは広く知られている。ロンドンで悶々《もんもん》たる孤独の日を送った漱石はもとより、初期の西洋留学生の誰に較《くら》べても、滞独中の鴎外が現地の多様な人物と交わり、それを楽しむ機会と能力に恵まれていたことは、議論の余地があるまい。
そうした鴎外は、先に触れた「パンの会」にも関心を寄せていたが、それ以外にも、後輩の文学者にたいしては、つねに非党派的な接触を保つように心がけていた。一例をあげれば、彼が明治四十年から自宅で開いた観潮楼歌会があるが、ここには意図的に、根《ね》岸《ぎし》短歌会と新詩社と竹柏《ちくはく》会という、対立する三派の歌人が招かれていた。彼は、この席で斎藤茂吉や吉井勇、北原白秋や石川啄木《たくぼく》、上田敏や杢太郎といった、気質も思想も異にする後輩たちとつきあい、さらにそれとは別に、西《さい》園《おん》寺《じ》公《きん》望《もち》の主宰する歌会、「雨声会」の席にもつらなっていたのである。
ときに鴎外の作品には、人間の交際についてのいささかシニカルな表明があって、生来の人間嫌いをしのばせるふしがあるのは、疑いない事実である。『灰燼』の節蔵は、しばしば自分にも不可解な不機嫌に襲われ、それを他人のまえで抑制しているうちに、いつしか「柔和忍辱の仮面を被って」生きることになったという。『百物語』の主人公・飾《しか》磨《ま》屋《や》は、千金をはたいて趣向をこらした余興の宴に人を招きながら、集った客をまえに虚無的で冷笑的な眼を宙に向けていた。一般に、いささかの人間嫌いは、むしろ文学的な精神の不可欠の要素というべきものであるが、鴎外を含めて、日本の近代作家にそれがとりわけてめだつことは、否定できない。
明治末年からの十年、とくに文学作品に顕著になり始めたあの独特の不機嫌、きわめて日本的な社会不適合の感情が何であったかについては、かつて別の場所で分析した。(『不機嫌の時代』新潮社)鴎外にとっても漱石にとっても、荷風や志賀直哉にとっても、内面の名状しがたい鬱屈の気分は、時代の共通の病いとして重くのしかかっていた。荷風のいう「私生涯」のなかでは、すべての鋭敏な青年が不機嫌だったのであって、それを根本的に解消するのは、文学という方法によっては不可能なことであった。
しかし、それにしても、この鬱屈を剥きだしにして他人と交わるか、あるいは、これを抑えて「技巧的生活」のなかで交際するか、というのは決定的な違いであって、それが作家の資質の全体と結びついていたことは、無視できない。いいかえれば、作家はじつは文学以前の段階で自己の感情と対決し、ひそかにそれを制御し、整形する作業を始めているのであって、この作業が文学創造に強い影響を及ぼすことは、否定できないのである。鴎外は明らかに、そのさい後者の道を選んだのであり、その意志的で克己的な姿勢が、いやがうえにも彼に自分の人間嫌いを鋭く自覚させたことは、想像に難くあるまい。
鴎外と漱石という二人の近代作家は、どうやら、この点で対蹠《たいせき》的な姿勢を選んだように思われるが、その事実を象徴的に暗示する挿《そう》話《わ》として、二人の書いた二葉亭四迷への追憶の記が思いだされる。二人はどちらも、四迷と深いつきあいの経歴はなく、それぞれ短い邂逅《かいこう》の機会を回顧しているのであるが、そのつかのまの会話のなかにも、二人の交際の姿勢の違いは鮮やかなのである。
漱石の『長谷川君と余』によれば、彼は四迷との人間的な接触が浅かったと感じ、「長谷川君は余を了解せず、余は長谷川君を了解しない」ままに、幽明境いを分けたことを嘆いている。そのくせ、この二人はほとんど初対面の会話で、たがいの感情状態の病状を話題にし、低気圧が来ると「頭は始終懊悩《おうのう》を離れない」こと、ために面会も謝絶せざるをえない苦痛を告白しあっている。明らかに、二人は不機嫌嫌を共有することで睦《むつ》みあい、精神の裸体を見せあいながら、しかも漱石は、この程度の交流は真の人間的な「了解」になおほど遠い、とはがゆがっていた。
これにたいして、鴎外は『長谷川辰之助』という一文のなかで、一時間に満たない四迷との面談を振返って、その淡々たる清談の思い出に快く満足している。二人は私生活について語らず、文学についても語らず、ロシアの社会と風俗などをめぐって片言を交わすばかりであるが、それだけの会話を鴎外は隔ても遠慮もない交遊だと感じ、「丸で初《はじめ》て逢った人のようではない」と述懐する。
鴎外によれば、彼には逢いたいと思う人を自分から訪ねる習慣がなく、逆に、訪ねてくる客を謝絶したり淘《とう》汰《た》する習慣もない。その結果、彼には「逢いたくて逢わずにしまう人」が多いのであるが、そういう人物の一人である四迷に逢えたことに、鴎外はそれだけで天与の満足を覚えている。そして、もはや二度と逢えなくなった友人を思いやって、彼はその最後の瞬間を空想するのであるが、この想像のなかでこそ、鴎外はかつてなく四迷のそば近く寄りそっているようにみえる。
穏やかなインド洋の星空のもとで、病身の四迷は船のデッキの籐《とう》椅《い》子《す》に横たわって、ほどよく冷えた和らかな空気を呼吸している。彼の眼にはふと、本郷弥生《ほんごうやよい》町の自宅の居間のランプが絵のように浮かぶが、しかし、そこへ無事に帰りつかれようかといった、よけいな心配はふしぎに起ってこない。「長谷川辰之助君はじいっと目を瞑《つぶ》っておられた。そして再び目を開かれなかった」。
思わず「小説を書いてしまった」、と照れて見せる鴎外であるが、この短文には彼の社交の心の原型がかいま見られ、それがどのような諦念《ていねん》に裏打ちされていたかが、まざまざとうかがわれるのである。
(昭和六十年三月、文芸評論家)
『山椒太夫・高瀬舟』について
高橋義孝
本巻に収録した鴎外の短編を発表年次順に並べると次のようになる。
『杯』明治四三年一月(鴎外四八歳)
『普請中』同年六月(同右)
『カズイスチカ』四四年二月(四九歳)
『妄想』同年三月(同右)
『百物語』同年一〇月(同右)
『興津弥五右衛門の遺書』大正元年一〇月(五〇歳)
『護持院原の敵討』二年一〇月(五一歳)
『山椒大夫』三年一月(五二歳)
『二人の友』四年六月(五三歳)
『最後の一句』同年一〇月(同右)
『高瀬舟』五年一月(五四歳)
『高瀬舟縁起』五年一月(五四歳)
鴎外の作品を理解するのには、その成立年次の順序を知ることが極めて大切である。
鴎外は明治三十七年二月、日露の役《えき》に出征し、三十九年一月、東京に凱旋《がいせん》するが、その後四十二年の一月に至るまで文学作品を殆《ほと》んど書いていない。わずかに三十九年十一月に発表された『朝寐』、四十年一月に発表された『有楽門』があるくらいなもので、ほかには四十一年六月の、当時は公表されなかったが、のち全集に入れられた『仮《か》名《な》遣《づかい》意見』があるだけである。彼が文壇に続々と小説を発表し始めたのは四十二年一月からであった。彼はかつて、軍籍にありながらあまりにも活《かつ》溌《ぱつ》な文筆活動を行なったことも原因して、三十二年六月から三十五年三月まで小倉に左遷された。陸軍部内の嫉《しっ》妬《と》からである。しかし東京帰任後、四十年十一月には待望の陸軍省医務局長の地位に就《つ》いた。これでいわばもう誰憚《はばか》る必要もなくなったのである。
ところが漱石は、明治三十八年一月の『吾輩は猫である』以来、『坊っちゃん』(三十九年)『草枕』(同上)『虞美人草』(四十年)『三四郎』(四十一年)と矢つぎ早に世評の高い作品を発表して、文壇の一角にすでにゆるぎない地歩を占めていた。鴎外の『ヰタ・セクスアリス』(四十二年七月)中には、「そのうち夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技《ぎ》癢《よう》を感じた」とある。鴎外は技癢を感じただけでは済まさずに、その四十二年には小説や戯曲を合せて十三編書き、翌四十三年には十七編もものしている。この鴎外短編集に収録された冒頭の『杯』は四十三年年頭に発表されたものである。
『杯』は人のあまり顧みようとしない小編であるが、私は少なくとも作中の "MON.VERRE.N'EST.PAS.GRAND.MAIS.JE.BOIS.DANS.MON.VERRE "(「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」)の二行の故にことさらこの小編を重要視する。別巻鴎外短編集『阿部一族・舞姫』中には『余興』(大正四年)を採ったが、その『余興』には、「己の感情は己の感情である。己の思想も己の思想である。天下に一人のそれを理解してくれる人がなくたって、己はそれに安んじなくてはならない。それに安んじ恬然《てんぜん》としていなくてはならない」という、『杯』の中の言葉に符節を合せたような文句がある。そしてこの文句は、実は『余興』という小説の核心なのである。まるで『杯』の書かれた明治四十三年から、『余興』の書かれた大正四年までの足掛け六年の間は時計の針がとまってでもいたかのようではあるまいか。これは、「それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」が鴎外の心の深いところに潜む問題を指向していることを証拠立てている。
この『杯』を出発点とする線は、一筋の赤い糸となってその後永く鴎外の数々の作品の中を貫き流れ行く。ここに上梓《じょうし》する短編集二巻(『山椒太夫・高瀬舟』と『阿部一族・舞姫』)についてのみ言えば、『杯』から『カズイスチカ』へ、さらに『妄想』、『かのように』、『阿部一族』、『余興』、『最後の一句』へとこの線はつらなっている。
それは、一切の束縛、制約、伝統、因襲、秩序、隷属、諦念《ていねん》、自己否定を受けつけまいとする自己肯定、自己主張、広義における、また素朴な意味における個人主義、少々場違いであるが精神分析の術語を借用するならばナーシシズム的諸欲求である。
『カズイスチカ』の主人公、花房医学士の苦しみと発見はこうである、「始終何か更にしたい事、する筈《はず》の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。(中略)何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。(中略)父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好《い》い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父の r市ignation 《レジニアシヨン》の態度が、有道者の面目に近いということが、朧気《おぼろげ》ながら見えて来た。そしてその時から遽《にわか》に父を尊敬する念を生じた。」そして主人公にはその「或物」が何物であるかが解《わか》らない。しかしこういう生活者の姿勢を支えているのが、強い自我であり、自己であることはたしかである。(余談であるが、鴎外はその作品中にしきりとフランス語を使う。ある文章中に、実際には使われていない、つまり存在しないフランス語風の言葉を片仮名で書いて、のち人にそういうフランス語はないことを指摘されたが、彼は強弁して遂にこれを撤回しようとしなかった)
鴎外は『妄想』においても根本的には同じ問題のまわりを経《へ》巡《めぐ》っている。「生れてから今日まで、自分は何をしているか。始終何物かに策《むち》うたれ駆られているように学問ということに齷齪《あくせく》くしている。これは自分に或る働きが出来るように、自分を為上《しあ》げるのだと思っている。その目的は幾分か達せられるかも知れない。しかし自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後《うしろ》に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。策うたれ駆られてばかりいる為めに、その何物かが醒覚《せいかく》する暇がないように感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生というのが、皆その役である。赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一寸《ちょっと》舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後の何物かの面目を覗《のぞ》いて見たいと思い思いしながら、舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて、役から役を勤め続けている。この役が即ち生だとは考えられない。背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思われる。」鴎外のいわゆる「真の生」は本当の自分と言い換えてもいい。彼は絶えず「わたくしはわたくしの杯で戴きます」と叫ぼうとしていたのであるが、これは成功したと言えば成功したが、不成功に終ったと言えば不成功に終ったと言えないこともない。
つまり彼は「一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい」と言いながら、一生涯舞台を降りなかったし、また降りたがらなかった。彼は大正五年四月十三日、職を解かれて予備役に編入された。ところがその翌年の末、帝室博物館総長兼図書頭に任ぜられ、高等官一等に叙せられた。彼はその時、「老ぬれど馬に鞭うち千里をも走らんとおもふ年立ちにけり」と歌い、七言絶句を作って「好んで君主のために蠧《と》魚《ぎょ》を除かん」と結んでいる。滑稽《こっけい》にも明治四十四年の『妄想』中に「舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けて」行くのはいやだと言った鴎外は、それから六年ののち「老ぬれど馬に鞭うち千里をも」と歌っているのである。彼は終生舞台から降りなかったし、降りたがらなかった。しかし彼も遂に舞台から降りた。そして降りた所は死の奈落であった。
しかしこの『妄想』あたりから鴎外の書くものに一種の情感がにじみ出てくる。哀愁と言ってもいい、悲哀感と言ってもいい、それはたしかにある淋《さび》しさである。『妄想』の冒頭に「主人が元《も》と世に立ち交っている頃に」という不思議な言葉がある。
この言葉は、第一に小説の虚構的設定と解し得られるが、第二にこういう言葉をふと書いたことの背後には時空を撥《はつ》無《む》した一観想家の物憂い眼《まな》差《ざ》しがちらついているような気もする。尤《もっと》も『妄想』の主人公の翁は「烱々《けいけい》たる目」を「大きくチ《みは》」っているのであるが。第三にしかし、この虚構的設定には消極的な、小説技術上の、枠《わく》物語的な意味があるばかりではなく、このような形で一歩退いたと見せて置いて、実は鴎外は一般人より高い所に自分を置いて、一般人に向って説教し、自分の持っているものを誇示し、「何か自分に言うことがあるのなら、自分がここに書いてみたぐらいのことは予《あらかじ》め充分に心得て掛かってこい」といった気味も薄々感ぜられる。彼は「元と世に立ち交って」いたどころか、これからも盛んに世に立ち交って行った。鴎外にはそういう一種の厭《いや》味《み》がある。漱石にはそういうものが全然ない。むやみに(彼が堪能《かんのう》だったドイツ語ならまだしも)片仮名書きのフランス語を挿《さ》し挾《はさ》むのも、そういう厭味の一種であるが、当時の世間はこれを厭味とは感じなかったのであろうか。
『最後の一句』の要《かなめ》の一点は、主人公いち《・・》という娘の最後の一句、「お上の事には間違はございますまいから」にある。「元文頃の徳川家の役人は、固《もと》より『マルチリウム』という洋語も知らず(ドイツ語で「マルチリウム」は殉教の意味である・筆者)、又当時の辞書には献身と云う訳語もなかったので、人間の精神に、老若男女《ろうにゃくなんにょ》の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現れたような作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身の中に潜む反抗《・・》の鋒《ほこさき》は、いちと語《ことば》を交えた佐佐のみではなく、書院にいた役人一同の胸をも刺した。」(傍点筆者)この反抗は当時の大阪西町奉行所の書院に居並ぶ役人たちへの反抗のみを意味するのではなく、またひとりいち《・・》の反抗のみを意味してはいない。鴎外森林太郎の上に君臨するあらゆる圧力的なもの、権威的なもの、陸軍その他の支配官僚機構に対する鴎外自身の密《ひそ》かな反抗であったと解釈されないこともない。鴎外はひょっとすると日露役後の論功行賞に対して、陸軍の自己に対する処遇に対して深い不満を懐《いだ》いていたのではあるまいか。私はこの疑いを払拭《ふっしょく》することが出来ない。
ところでこの反抗に、それとは正反対のいわば運命の甘受・肯定という人生態度がいつも加わって、鴎外の作品世界は微妙な綾《あや》を作り出すのである。これがもう一本の赤い糸、すなわち自己没却、自己否定、秩序への完全な服従、権威に対する全幅の肯定、ある意味での「運命への愛」の線である。そしてまたこれが『興津弥五右衛門の遺書』『護持院原の敵討』『山椒大夫』に共通する理念的主題である。この主題を最も簡潔に表現しているのは『山椒大夫』の厨子《ずし》王《おう》の言葉、「そうですね。姉えさんのきょう仰《おっし》ゃる事は、まるで神様か仏様が仰ゃるようです。わたしは考を極《き》めました。なんでも姉えさんの仰ゃる通にします」であろう。我を立てない、異を唱えない、運命にあるいは既成の道徳に秩序に全身全霊を投げかけて、些《いささ》かもそれを怪しもうとはしない態度である。
鴎外の歴史小説の第一作『興津弥五右衛門の遺書』の主人公は殉死ということを自明当然のこととして、殆んど欣然《きんぜん》として死に赴くし、『護持院原の敵討』の主要人物のひとり、山本九郎右衛門もまたそれである。「よく聴《き》けよ。それは武運が拙《つたな》くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰が起《た》てば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏の加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」という九郎右衛門もそれである。そして厨子王も九郎右衛門も「神仏の加護によって」遂にその望みを遂げるのである。
恐らく鴎外はこの系列の作品を気分よく書いたであろう。それにまたいわゆる歴史小説では、鴎外が幾度か苦汁(断稿・未完成・尻《しり》切《き》れとんぼ)を飲まされたいわゆる現代ものに見られるような高飛車な啓蒙《けいもう》的・教育者的姿勢が見られない。彼は気質的に明治時代生残りの「武士」であったから。その彼はしかし同時に、自然科学を学び、「Revue des Deux Mondes の主筆をしていた旧教徒 Bruneti俊e が、科学の破産を説いてから、幾多の歳月を閲《けみ》しても、科学はなかなか破産しない。凡《すべ》ての人為のものの無常の中で、最も大きい未来を有しているものの一つは、やはり科学であろう」(『妄想』)と書く人間でもあった。
私は上に『妄想』に触れた折、鴎外の一種の悲哀感を指摘したが、これは『百物語』『二人の友』においてはさらに顕著である。『百物語』の主題になっている「傍観者」は鴎外の有名な r市ignation(諦念)とともに鴎外の心性の深部を窺《うかが》わしめる有力な手がかりかと思う。唐木順三さんは「ときにレジグナティオン(鴎外はこの言葉を大抵フランス語〔レジニャシヨン〕で書いている。ドイツ語なら発音はレジグナツィオーンとなる・筆者注)などといったが、これも、小倉という僻《へき》地《ち》へ左遷されたときの記念物ぐらいと思えばよいであろう」と書いているし、またそう解釈する充分ないわれもあるが、しかしこの言葉を「傍観者」と一緒にして眺めてみると、いやさらにそこに「丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去った栄華のなごりを、現在の傍観者の態度で見ているのではあるまいか」とか「傍観者と云うものは、やはり多少人を馬鹿にしているに極まっていはしないかと僕は思った」とかいうような言葉を併《あわ》せ考えてみると、鴎外を眺める一つの、恐らくは最も意味深い視点が浮び上がってくるのではないか。すなわち鴎外は、軍医総監、医務局長、医学博士、文学博士、帝室博物館総長兼図書頭、高等官一等、正三位勲一等森林太郎を、いつも一方では『百物語』の飾磨屋のような「傍観者」の眼で見ていたのではなかろうか。少壮時は知らず、日露の戦役から凱旋してからのちの鴎外の内部には、次第にこの「傍観者」が、有能な高級官僚・学者・保守的支配階級最高の知的代弁者とともに成長して行ったのではあるまいかと推察する。
『高瀬舟』『高瀬舟縁起』は別巻に収めた『寒山拾得《かんざんじっとく》』『寒山拾得縁起』と併せてこれを考えるのを便とするので、ここにはこの小編について論ずることは差し控えよう。
(昭和四十三年四月、ドイツ文学者)
(一) サントオレア サントーレアCentaurea(仏)矢車草。
(二) コンサントリック Concentrique(仏)同心円の。
(三) MON……VERRE フランス語。当時の文壇の主勢力だった自然主義の杯ではなく、小さくても自分の杯で、真の自然、真の文学を酌むという意を寓《ぐう》する。
(四) アザレエ azal仔(仏)つつじ。
(五) ロドダンドロン rhododendron(仏)石南花《しゃくなげ》。
(六) クウヴェエル couvert(仏)ナプキン、スプーン、フォークなどのひとそろえ。
(七) カナル canal(仏)掘割。
(八) 神代文字 漢字渡来以前に、神代から伝えられたとされるわが国固有の文字。江戸時代の国学者平田篤胤《あつたね》らによって存在が主張されたが、現在では後代の偽作とされる。
(九) バチスト batiste(仏)薄地の高級麻布。
(一〇) ジュポン jupon(仏)ペチコート。婦人服の下着の一種で、スカート様のもの。
(一一) ヴォラン volant(仏)縁飾り、または裾飾り。
(一二) ポラック polack(独)ポーランド人を嘲《あざけ》っていう言葉。
(一三) Begleiten (仏)同伴するの意で、ju beim Gesang auf dem Klavier begleiten(誰それの歌にピアノで伴奏する)のように、伴奏の意にも用いる。女が一種の洒落《しゃれ》をいったのである。
(一四) フィリステル philister(独)俗物。固《こ》陋《ろう》な人物。
(一五) シャンブル・セパレエ chambre s姿ar仔(仏)特別室。離れ。むかし、渡辺と泊ったことのあるホテルの部屋を思い出させるというのであろう。
(一六) チェントラアルテァアテル Central Theater 中央劇場。ドイツのドレスデン市にある。
(一七) ブリュウル石階 Bruehlsche Terrasse ドレスデン市中を流れるエルベ河の南岸、約四百メートルにわたって築かれた石のテラス。形勝の地として知られる。
(一八) Kosinski solll eben!(独)コジンスキイの健康を祝っての意。乾杯のあいさつ。コジンスキイのために杯をあげることは、彼と女との結びつきを祝福することでもある。
(一九) カズイスチカ casuistica(羅)患者についての臨床記録。
(二〇) 小金井きみ子 (1870―1956)小説家。歌人。鴎外の妹で、訳詩集『於母影』の共訳者のひとり。東大医学部教授の小金井良精と結婚していた。『千住の家』は一種の私小説で『スバル』に明治四十四年に発表され、のちに『森鴎外の系族』に収められた。
(二一) loco citato (羅)急ぎの場合。
(二二) Pemphigus (独)天疱瘡《てんぼうそう》。
(二三) Coup d'マil (仏)一瞥《べつ》、一見して判断する。
(二四) Int屍essant (仏)興味のある。
(二五) contemplatif (仏)黙想的、瞑想《めいそう》的。
(二六) r市ignation (仏)諦念《ていねん》。
(二七) Laboratorium (独)仕事場、実験室。
(二八) Casus (羅)実例、ここでは臨床例。
(二九) Curiosa (羅)好奇心、知識欲。
(三〇) Bitume (仏)チャン(瀝青《れきせい》)。濃褐色。
(三一) 犬塚信乃 『南総里見八犬伝』の八犬士のひとり。芳流閣の血戦で傷つき、破傷風になる。
(三二) Chloral (独)催眠剤。今日では殺虫剤。DDTの製造原料として重要である。
(三三) Cliente (仏)患者。
(三四) 套管針 腹水をとるための針。
(三五) お家流 和様書体のひとつ。伏見天皇の皇子尊円法親王の筆法を伝えたもの。江戸時代の公文書はこの書体に限られていた。
(三六) d柤 固い砂丘、現在の形はdune(英、仏)D殤e(独)。
(三七) Musagetes (独)ギリシャ神話のアポロ神の別名。文学、美術の守護神。
(三八) dセmonisch (独)魔に憑《つ》かれたような、悪魔的な。
(三九) Ernst von Wildenbruch (1845―1909)ドイツの劇作家。貴族の出で、宮廷に取材した作品を多く書いた。
(四〇) Hohenzollern ドイツ王族(ウィルヘルム一世、二世)の名。もとプロシアの選挙侯で、のち王室。
(四一) chambre garnie (仏)家具つきの貸し間。
(四二) Nostalgia (英)郷愁。
(四三) exact (英)精密な、正確な。
(四四) Charit (独)公衆病院。
(四五) Neigung (独)ここでは愛着。恋情などの意。
(四六) social (英)社会的な。
(四七) individuell (独)個性の。個人的。
(四八) gar腔n logis (仏)独身者むきの下宿。
(四九) Hartmann エドワルト・フォン・ハルトマン(Eduard von Hartmann, 1842―1909)ドイツの哲学者。自然科学の成果をとりいれて、〈無意識〉を宇宙の根本実在とする形而上《けいじじょう》学をとなえた。『無意識哲学』(Philosophie des Unbewussten, 1868)はその主著である。
(五〇) 世界過程 Weltprosesses(独)の訳語。世界が歴史的に発展する過程をいう。
(五一) Disillusion (独)幻滅。
(五二) MaxStirner マックス・シュティルネル(1806―56)ドイツの哲学者。徹底した個人主義を唱え、すべての権威や強制を拒否した。『唯一者とその所有』が主著。
(五三) 写象 Vorstellung(独)の訳語。表象。ショーペンハウエルでは、根本的実在(本質)としての〈意志〉がわれわれの主観に対してあらわれたもの、現象の世界をいう。
(五四) 物その物 Dingansich(独)の訳語。ドイツの哲学者カント(Immanuel Kant, 1724―1804)の用語で、現象(Erscheinung)に対する現象の原因(本質)として存在するが、われわれの直観ないし認識の対象には決してならない。
(五五) 独逸人某 ベルツ(Erwin B獲z, 1849―1927)を指す。ドイツの医者。明治九年に来日し、東大医学部で病理学、内科を講じた。明治三十四年、東大を辞職するに際し、ほぼ鴎外の要約どおりの講演を行なった。
(五六) fatalistisch (独)宿命論的な。
(五七) Il ne vivra pas! (仏)どうせ育ちませんぜ、の意。
(五八) Wolkenkratzer (独)摩天楼。アメリカ式の高層建築。
(五九) Orthographie (独)正字法、あるいは正書法。
(六〇) Forschung (独)研究、探求。
(六一) 灰色の鳥 現在の象徴、メーテルリンクの戯曲『青い鳥』では、幸福を象徴する青い鳥を求めて、過去と未来の世界を遍歴した二人の子ども、チルチルとミチルは現在の自分の家の中に、灰色の着物を着た沢山の幸福があるのを発見する。
(六二) Philipp Mainlaender (1841―1876)本名Philipp Batzドイツの哲学者。ショーペンハウエルの影響をうけて、世界を死滅しつつある神の表現とする厭世《えんせい》主義の哲学を説いた。『救抜の哲学』(Die philosophie der Erl嘖ung, 1876)がその主著。
(六三) Archive (独)学術雑誌。
(六四) Jahresberichte (独)年報。
(六五) 多くの師には……一人の主には逢わなかった キリスト教で、〈師〉は教えを説く人、伝道者を意味し、〈主〉は信仰の対象としてエホバ神またはイエスを意味する。多くの人から教えられるところがあったけれども、真に敬慕し、そのあとを追おうと思うような人はひとりもいなかったの意。
(六六) Modification (独)様態。さまざまな美の特殊相を崇高・滑稽・悲壮など、いくつかの類型に区分した美的範疇《はんちゅう》(Aesthetische Kategorien)。
(六七) Aphorismen (独)Aphorismusの複数形。箴言《しんげん》。警句。
(六八) Quietive (独)鎮静剤。ショーペンハウエルの主著『意志と表象としての世界』の用語。
(六九) Cesare Borgia (1475―1507)イタリア・ルネッサンス時代の専制政治家。法皇アレクサンデル六世の子。残忍な性格で、目的のためには手段を選ばず、弟・義弟を暗殺し、反乱兵にシリガニアの惨劇と呼ばれる虐殺を行なった。
(七〇) 永遠なる再来 永劫《えいごう》回帰(die ewige Wiederkehr od. Wiederkunftおなじものが永遠にくりかえしてくるの意)。この生が永遠に回帰するというニイチェの根本思想のひとつ。
(七一) Zarathustra ここではニイチェの哲学的叙事詩「ツァラトウストラかく語りき」(Also sprach Zarathustra 1883―91)の主人公。ツァラトウストラの行動と説教を記録するという形をとって、ニイチェ自身の思想を展開している。
(七二) 百一物 仏教用語で、僧侶が日常用いるすべての道具類の総称。それぞれひと品ずつしかないのでこう呼び、むさぼる心のないことを示す。
(七三) Notar (独)公証人。
(七四) Loupe (独)虫めがね。
(七五) Revue des Deux Mondes 「両世界評論」。一八二九年に創刊されたフランスの半月刊雑誌。はじめは文学雑誌、のち哲学、科学、政治などについての問題をも扱うようになった。
(七六) Tuberculin (独)ドイツのロベルト・コッホが作った注射液。初期結核の治療または診断に用いる。
(七七) Salvarsan 梅毒やマラリアの特効薬。一九一〇年にパウル・エーリッヒと秦《はた》佐八郎とが共同で発見した。
(七八) アクサンチュエエ accentuer(仏)アクセントをつける。くっきりと目立たせる。
(七九) ファキイル fakil(仏)回教の托《たく》鉢《はつ》僧。
(八〇) アルラア・アルラア Allah, Allah(アラビア語)回教の神。または、それに呼びかける言葉。
(八一) 壮士俳優 壮士劇の俳優。壮士劇は自由民権運動の壮士たちのはじめた芝居で、明治二十一年に角《す》藤定《どうさだ》憲《のり》が創始し、川上音二郎らが出て発展した。のちの新派劇の前身。
(八二) アヴァン・グウ avant-go柎(仏)前兆。
(八三) 今紀文 現代の紀文。紀文は江戸中期の町人紀国屋文左衛門(1677―1734)のこと。一代で富豪になり、人並はずれた豪遊が語り草になった。
(八四) フォマ・ゴルジエフ (Foma Gordyev)ロシアの小説家ゴリキイ(Maksim Gorikii, 1868―1936)の長編小説。主人公のフォマ・ゴルジエフは典型的なブルジョアとして描かれている。
(八五) マリショオ malicieux(仏)意地悪な。
(八六) デモニック demonic(英)悪魔的。
(八七) アネクドオト Anekdote(独)逸話。
(八八) スタチスト Statist(独)端役。
(八九) オルガニック organic(英)器官の。
(九〇) 妙解院殿 細川忠興(1563―1645)の三男忠利(1586―1641)の法号。妙解院殿台雲宗伍大居士。ただし弥五右衛門は忠興(法号松向寺三斎宗立大居士)に殉死したのだから、ここは〈松向寺殿〉とするのが正しい。以下、著者の誤記と思われるところには( )を補なった。
(九一) 本木と末木 根に近い部分が本木で、末木は先の部分。
(九二) 細川越中守綱利 忠利の誤り。綱利は忠利の孫である。
(九三) 擬作高 功績に対する褒賞として支給される俸禄。
(九四) 鞠獄大属 刑事事件を扱う上級裁判官。
(九五) 燈心に花が咲いて 灯心が燃えて尖に白く灰がたまった状態。
(九六) 手討のらん切 鶏卵入りの手打ちそば。〈手打ち〉を〈手討ち〉に、〈卵切り〉を〈乱切り〉にかけた洒落。
(九七) 留飲疝痛 消化不良をおこし、酸味のある液を吐き、痛みをともなう胃の病気。
(九八) 寄合衆 禄高三千石以上、一万石未満の旗本で平常時は無職である。
(九九) ごろふく 呉羅服連(grof-grein)の略。舶来の毛織物。もとはラクダの毛を使ったが、のちには羊毛、麻綿などで代用した。
(一〇〇) 黒鍬之者 本来は土木、運送など雑役に従う者の称だが、のちには目附の手先になって働くものをさすようになった。
(一〇一) 弘誓の舟 弘誓は生死の苦海を越え、悟りの彼岸にたどりつかせて衆生を救おうという仏の誓いをいい、それを舟にたとえた語。
(一〇二) 馬道 厚い板を敷いて通行できるようにした道。板をはずせば、馬を入れることができるので、この名がある。
(一〇三) 白毫 仏の眉間に生えていて、光を発するという毛。仏像では額に珠玉をちりばめて表現する。
(一〇四) 偏衫 左肩から右脇《わき》にかける法衣。
(一〇五) 検校の責 検校は寺社の監督官。ここでは、国司が朝廷から監督上の責任を問われることをいう。
(一〇六) 放光王地蔵菩薩 六地蔵のひとつで、人間道を救済する。左手に錫杖《しゃくじょう》を持ち、右手で真願の印を結ぶ。
(一〇七) 仙洞 太上天皇の御所、または太上天皇をいう。ここでは白河上皇のこと。
(一〇八) 違格 古代の罪名。臨時勅令に違反すること。
(一〇九) 仮寧 中古に、官吏にたまわった休暇。
(一一〇) 贄を執って見た 師事してみた。〈贄を執る〉は入門に際し、進物をおくること。
(一一一) Paedagogik (独)教育学。
(一一二) Die Seele (独)霊魂。
(一一三) 徼幸者 分に過ぎた望みをもつ人間。
(一一四) Reclam版 レクラム版。ドイツのレクラム出版社発刊の世界文庫のこと。世界各国の名著を文庫本に収める。
(一一五) Goeschen版 ゲッシェン版。ドイツのゲッシェン書店発行のゲッシェン叢書《そうしょ》のこと。レクラム文庫と同形の文庫版で、あらゆる領域の科学書を収録する。
(一一六) Mayerの小 ドイツの出版業者ジョセフ・マイヤーの出版した『マイヤー百科辞典』(Meyers Konversations-Lexikon, 1840―1852)の縮刷版。
(一一七) Brockhaus ドイツの出版業者フリードリッヒ・ブロックハウスの刊行した『ブロックハウス百科辞典』(Brockhaus Konversations-Lexikon, 1796―1808)のこと。
(一一八) Larousse フランスの辞典学者ピエール・ラルースが編集した『大辞典』(Grand Dictionaire universel du 19c si縦le, 1768―1771)をさす。
(一一九) amoral (仏)無道徳な。
(一二〇) Verblueffend (独)あきれさせて。当惑させて。
(一二一) Ironie (独)皮肉、反語。
(一二二) Geisterseher 見霊者。ドイツの詩人、劇作家シラー(Friedrich von Schiller, 1759―1805)の唯一の長編小説。一七八六年に書きはじめられたが、未完成に終った。
(一二三) Koeber ケーベル(Raphael von Koeber、1848―1923)ロシア生れの哲学者。明治二十六年に来日し、東大で大正三年まで哲学を講義した。多くの門下生を育て、わが国の思想界に大きな影響を与えた。
(一二四) Fibel (独)入門書。
(一二五) 安国寺を縁談の使者に立てた 高松城の水攻めの時、安国寺恵《え》瓊《けい》が豊臣秀吉と毛利輝元との間の使者として奔走し、和解を成功させた。この史実を踏まえ、玉水師を恵瓊に見立てた洒落である。
(一二六) 北国通い 東北・北陸地方から日本海を経て下関から瀬戸内海を通って大阪にいたる航路。
(一二七) マルチリウム Martyrium(独)殉教、献身。
(一二八) 大嘗会 天皇が即位後、初めてその年の新穀を神にささげ、みずからも食して、天照大神、天神、地《ち》祗《ぎ》をまつる大礼。
(一二九) 御構 追放刑に処したものに、一定の場所の居住を禁じること。ここでは、北・南・天満のいわゆる大阪三郷に住むことを禁じたのである。
(一三〇) 意識の閾 識閾 Bewusstseinsschwelle(独)意識作用と無意識との境界。無意識から意識に、あるいは意識から無意識に移る境界を決定する心理的基準。〈意識の閾の上に頭を擡《もた》げて来る〉は、無意識に感じ、あるいは潜在意識としてあったものがはっきり意識される、知覚されるの意。
(一三一) 空引 空引機《ばた》(高機ともいう)を用いて錦、綾《あや》など花紋のある布地を織ること。
(一三二) オオトリテエ autorit (仏)権威。
(一三三) 和名鈔 和名類聚抄《るいじゅうしょう》。わが国最初の分類体漢和字書。承平年間に源順《みなもとのしたごう》が醍醐天皇の皇女勤《きん》子《し》内親王の命によって撰進したもので、十巻本と二十巻本とがある。
(一三四) 竹柏園文庫 竹柏園は佐佐木信綱(1872―1963)の号。東京帝大講師として万葉、和歌史などを講じた国文学者。また、歌人としても知られ、『高瀬舟縁起』の載った歌誌『心の花』を主宰した。
(一三五) ユウタナジイ euthanasie(仏)安楽死。
三好行雄
年譜
文久二年(一八六二年) 一月十九日(太陽暦二月十七日)石見国《いわみのくに》津和野(現・島根県鹿足郡津和野町町田)に父静泰(後に静男)、母ミ子《ね》(峰子)の長男として生れた。本名林太郎。姓は源、諱《いみな》は高湛《たかやす》。鴎外漁史、観潮楼主人等と号した。弟妹に篤次郎(三木竹二)、キミ(喜美子)、潤三郎がいる。森家は津和野藩主亀井家につかえた典医であった。
慶応三年(一八六七年)五歳 十一月、村田久兵衛に論語の素読を受ける。四年・明治元年(六歳)三月、米原綱善について孟子を学ぶ。二年(七歳)藩校養老館で四書を復読。三年(八歳)五経を学ぶ。父にオランダ文典を教えられる。四年(九歳)藩医室良悦にオランダ文典を学ぶ。
明治五年(一八七二年)十歳 六月、父について上京、向島小梅村の亀井家の下屋敷に住む。ついで向島曳舟通に移る。十月、ドイツ語を学ぶため本郷の進文学社に入り、神田小川町の西周《あまね》邸に寄寓する。六年(十一歳)六月、津和野の家を引き払い祖母、母、弟妹上京。
明治七年(一八七四年)十二歳 一月、第一大学区医学校予科(後・東京医学校、現・東京大学医学部)に入学。学齢が不足していたため万延元年(一八六〇年)生れとして願書を提出。以後、公にはこれを生年として用いた。九年(十四歳)十二月、東京医学校が本郷本富士町に移転し、寄宿舎に入る。
明治十年(一八七七年)十五歳 四月、東京医学校が東京開成学校と合併して東京大学医学部となり、本科生となる。同窓に賀古鶴《つる》所《ど》、緒方収二郎等がいた。
明治十二年(一八七九年)十七歳 父は南足立郡郡医をしていたが、千住北組一丁目に一家を移し、橘井《きっせい》堂医院を開業。十三年(十八歳)本郷龍岡町の下宿屋上条に移る。
明治十四年(一八八一年)十九歳 三月、下宿屋で火災に遭う。春頃、肋膜炎を病む。七月、東京大学医学部卒業。九月、『河津金線君に質《ただ》す』を「読売新聞」に発表。はじめて活字化された文であった。十二月、東京陸軍病院課僚を命ぜられ、陸軍軍医副に任ぜられる。
明治十五年(一八八二年)二十歳 二月、第一軍管区徴兵副医官になる。従七位に叙せられる。五月、陸軍軍医本部課僚になる。プロシア陸軍衛生制度の調査にあたる。この頃、私立東亜医学校で衛生学を講義した。
明治十七年(一八八四年)二十二歳 六月、陸軍衛生制度と軍陣衛生学研究のため、ドイツ留学を命ぜられ、八月、横浜を出航。十月、フランスを経てドイツに着き、ライプチッヒ大学でホフマン教授の指導を受ける。
明治十八年(一八八五年)二十三歳 「ビイルの利尿作用に就いて」の研究を続ける。一月、ハウフ原作童話を漢訳した『盗侠行』を「東洋学芸雑誌」に発表。二月、独文で『日本兵食論』『日本家屋論』の著述に従う。五月、陸軍一等軍医に昇進。十月、ドレスデンに移り、軍医監ロートにつく。衛生将校会で「日本陸軍衛生部の編制」を講演、翌年二月にかけて軍陣衛生学の講習会に出席。
明治十九年(一八八六年)二十四歳 一月、地学協会で「日本家屋論」を講演。三月、ミュンヘンに移り、ペッテンコーフェルを師とする。大学衛生部に入る。
明治二十年(一八八七年)二十五歳 四月、ベルリンに移る。北里柴三郎とともにコッホを訪ねる。五月、コッホの衛生試験所に入る。九月、石黒軍医監に従ってカルルスルーエで開催された赤十字社の会議に出席し、日本代表に代り演説した。十月、ベルリンに帰り、衛生試験所にかよう。
明治二十一年(一八八八年)二十六歳 三月より七月まで、プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊医務に就く。九月、帰国。陸軍軍医学舎教官になる。ドイツ留学中の恋人エリスが後を追って来日したが、鴎外が直接会わずに、妹婿小金井良精と弟篤次郎が会って説得し十月帰国させる。十一月、陸軍大学校教官になる。十二月、『非日本食論将失其根拠』(橘井堂刊)を私費で刊行。
明治二十二年(一八八九年)二十七歳 一月、下谷根岸金杉一二二に住む。「東京医事新誌」を主宰。『医学の説より出でたる小説論』を「読売新聞」に発表し、文学活動を始める。三月、「衛生新誌」を創刊。西周の媒妁で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚。五月、下谷上野花園町一一に転居。七月、兵食試験委員になる。東京美術学校専修科美術解剖学講師になる。八月、訳詩編『於母《おも》影《かげ》』を新声社訳として「国民之友」に発表。十月、軍医学校陸軍二等軍医正教官心得になる。「しがらみ草紙」(柵草紙)を創刊。この年、医学に関する著述が非常に多い。
明治二十三年(一八九〇年)二十八歳 一月、「医事新論」を創刊。『舞姫』を「国民之友」に発表。八月、『うたかたの記』を「しがらみ草紙」に発表。九月、長男於菟《おと》誕生。まもなく、妻登志子と離婚。十月、本郷駒込千駄木町五七に転居、千朶山房と呼んだ。十一月、『うたかたの記』について石橋忍月と論争する。
明治二十四年(一八九一年)二十九歳 一月、『文づかひ』を〈新著百種〉の第十二号として吉岡書店より刊行。二月、東京美術学校美術解剖学嘱託教官となる。八月、医学博士の学位を受ける。九月、『山房論文』を「しがらみ草紙」に載せ、「早稲田文学」による坪内逍遙《しょうよう》と没理想論争を展開する。
明治二十五年(一八九二年)三十歳 一月、千駄木町二一に転居。千住から祖母、父母がきて同居する。七月、小説・翻訳集『美奈和集』(水沫《みなわ》集)を春陽堂より刊行。八月、観潮楼を建設する。九月、慶応義塾大学講師となり審美学を講じる。十一月、アンデルセン『即興詩人』を「しがらみ草紙」(後に「めざまし草」に継続し、三十四年二月完結)に連載。
明治二十六年(一八九三年)三十一歳 十一月、陸軍一等軍医正になり、軍医学校長になる。
明治二十七年(一八九四年)三十二歳 八月、日清戦争開戦。第二軍兵站軍医部長として、中国盛京省花園口に上陸。
明治二十八年(一八九五年)三十三歳 四月、陸軍軍医監になる。五月、日清講和成立。宇品に帰国。台湾に赴任。八月、台湾総督府陸軍局軍医部長になる。九月、東京に帰り、十月、軍医学校長になる。
明治二十九年(一八九六年)三十四歳 一月、陸軍大学校教官になる。「めざまし草」(目不酔草)を創刊。三月、合評「三人冗語」を幸田露伴、斎藤緑雨とともに「めざまし草」誌上で七月まで行う。四月、父死去。
『つき草』(都幾久斜)評論集(十二月、春陽堂刊)
明治三十年(一八九七年)三十五歳 一月、中浜東一郎、青山胤通等と公衆医事会を設立し「公衆医事」を創刊。三月、陸軍一等軍医正になる。
『かげ草』翻訳・評論集、喜美子と合著(五月、春陽堂刊)
明治三十一年(一八九八年)三十六歳 十月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長になる。
明治三十二年(一八九九年)三十七歳 六月、陸軍軍医監となり、第十二師団軍医部長に補せられ小倉に赴任。十二月、師団将校のためにクラウゼヴィッツの「戦争論」を講演する。
『審美綱領』上・下、大村西崖共編(六月、春陽堂刊)
明治三十三年(一九〇〇年)三十八歳 十一月、小倉の安国寺住職玉水俊奄知る。十二月、俊奄謔阯B識論の講義を受け、彼に哲学入門を講義する。
明治三十五年(一九〇二年)四十歳 一月、判事荒木博臣の長女志げと観潮楼で再婚。三月、第一師団軍医部長になり上京。六月、上田敏等と「芸文」を創刊、八月廃刊。十月、新たに「万年艸」を創刊。十二月、処女戯曲『玉篋両浦嶼《たまくしげふたりうらしま》』を「歌舞伎」号外に発表。
『即興詩人』上・下、翻訳(アンデルセン原作、九月、春陽堂刊)
明治三十六年(一九〇三年)四十一歳 一月、長女茉莉《まり》誕生。
『長宗我部信親』叙事詩(九月、国光社刊)
明治三十七年(一九〇四年)四十二歳 二月、日露戦争開戦。三月、第二軍軍医部長になり、四月、宇品を出航し、中国に渡る。陣中で『うた日記』を作る。
明治三十八年(一九〇五年)四十三歳 奉天会戦に勝利し、奉天残留のロシア赤十字社員の護送に全権をもって尽力した。九月、日露講和条約締結。
明治三十九年(一九〇六年)四十四歳 一月、東京に帰還。六月、歌会「常磐《ときわ》会」を山県有《あり》朋《とも》を中心におこし、賀古鶴所とともに幹事になる。七月、祖母清子死去。八月、第一師団軍医部長に戻り、軍医学校長事務取扱を兼ねる。
『ゲルハルト・ハウプトマン』評伝(十一月、春陽堂刊)
明治四十年(一九〇七年)四十五歳 三月、与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱等と「観潮楼歌会」を開く。六月、西園《さいおん》寺《じ》公望《きんもち》主催の歌会「雨声会」に出席。八月、次男不律誕生。十一月、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる。
『うた日記』詩歌句集(九月、春陽堂刊)
明治四十一年(一九〇八年)四十六歳 一月、弟篤次郎死去。二月、次男不律死去。五月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になり、文部省案に反対。十一月、小説家に対する政府の処置について建議する。
『仮名遣意見』(六月、自費出版)
明治四十二年(一九〇九年)四十七歳 一月、木下杢《もく》太《た》郎《ろう》、吉井勇等によって「スバル」(昴)が創刊され、以後終刊まで最も熱心な寄稿者となる。三月、最初の口語体小説『半日』を「スバル」に発表。五月、次女杏《あん》奴《ぬ》誕生。七月、文学博士の学位を受ける。『ヰタ・セクスアリス』を「スバル」に発表したが、これにより同誌発禁になる。
八月、『鶏』(スバル) 十二月、『予が立場(Resignation の説)』(新潮)
明治四十三年(一九一〇年)四十八歳 二月、慶応義塾大学刷新に協力し、文学科顧問になる。三月、『青年』を「スバル」(四十四年八月完結)に連載。
一月、『杯』(中央公論) 六月、『普請中』(三田文学)
『涓滴』小説集(十月、新潮社刊)
明治四十四年(一九一一年)四十九歳 二月、三男類誕生。五月、文芸委員会委員になる。七月、文芸委員会より『ファウスト』の翻訳を委嘱される。九月より、『雁《がん》』を「スバル」(大正二年五月完結)に連載。
二月、『カズイスチカ』(三田文学) 三月、『妄想』(三田文学、四月完結) 十月、『百物語』(中央公論)『灰燼』(三田文学、大正元年十二月中絶)
『烟塵』小説集(二月、春陽堂刊)
明治四十五年・大正元年(一九一一年)五十歳 一月、『ファウスト』訳了。七月、明治天皇崩御。九月、大葬の日、乃木大将夫妻殉死。十月、初めての歴史小説『興津弥五右衛門の遺書』を「中央公論」に発表。
一月、『かのように』(中央公論)
大正二年(一九一三年)五十一歳 一月、『阿部一族』を「中央公論」に発表。
四月、『佐橋甚五郎』(中央公論) 十月、『護持院原の敵討』(ホトトギス)
『ファウスト』翻訳戯曲(第一部一月、第二部三月、冨山房刊)
『青年』(二月、籾山書店刊)
『意地』小説集(六月、籾山書店刊)
『走馬燈』『分身』二冊揃、小説集(七月、籾山書店刊)
大正三年(一九一四年)五十二歳
一月、『大塩平八郎』(中央公論) 二月、『堺事件』(新小説) 四月、『安井夫人』(太陽)
『かのように』小説集(四月、籾山書店刊)
『天保物語』小説集(五月、鳳鳴社刊)
『堺事件』小説集(十月、鈴木三重吉方刊)
大正四年(一九一五年)五十三歳 一月、『山椒大夫』を「中央公論」に、『歴史其儘と歴史離れ』を、「心の花」に発表。十一月、大嶋次官に辞意を表明する。この年、江抽斎の探究を始める。
六月、『二人の友』(アルス) 七月、『魚玄機』(中央公論) 八月、『余興』(アルス) 九月、『じいさんばあさん』(新小説) 十月、『最後の一句』(中央公論)
『雁』(五月、籾山書店刊)
『塵泥』小説集(十二月、千章館刊)
大正五年(一九一六年)五十四歳 一月、『高瀬舟』を「中央公論」に、『寒山拾得』を「新小説」に発表。『江抽斎』を、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」(五月完結)に連載。漢詩『題千葉周作劔道秘訣』を「大正詩文」に発表して以来、八年までしばしば漢詩を載せる。三月、母峰子死去。四月、依願予備役になり軍務の一線から退いた。
六月、『伊沢蘭軒』(東京日日新聞、大阪毎日新聞、六年九月完結)
大正六年(一九一七年)五十五歳 十二月、帝室博物館総長兼図書頭《ずしょのかみ》になり、高等官一等に叙せられる。
九月、エッセイ『なかじきり』(斯論)
大正七年(一九一八年)五十六歳 十一月、正倉院御物風通しを見に奈良へ行く。この年より正倉院拝観の特例を開く。
『高瀬舟』小説集(二月、春陽堂刊)
大正八年(一九一九年)五十七歳 九月、帝国美術院が創設され初代院長に就任。
『蛙』小説・戯曲・抒情詩・翻訳集(五月、玄文社出版部刊)
大正九年(一九二〇年)五十八歳 一月から二月まで腎臓を病む。三月、警察官のため社会問題について講演。
大正十年(一九二一年)五十九歳 六月、臨時国語調査会長になる。秋頃から時々下肢に浮腫が出て腎臓病の徴候があらわれはじめた。
大正十一年(一九二二年)六十歳 四月、英国皇太子正倉院参観のため奈良に行き、五月帰京。旅行中しばしば病臥する。六月十五日から役所を休む。二十九日、萎縮腎と診断される。肺結核の徴候も見られた。七月六日、賀古鶴所に遺言を代筆してもらう。九日午前七時死去。法号、貞献院殿文穆思斎大居士。墓表は鴎外の遺言にしたがって、「森林太郎墓」とのみ中村不折の書によって彫られている。向島弘福寺に埋葬。後大正十三年、東京府三鷹村禅林寺に改葬。
(この年譜は、諸種のものを参考にし、編集部で作成した。)