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貧乏サヴァラン
森 茉莉
早川暢子 編
目 次
貧乏サヴァラン
貧乏サヴァラン
「夏の間」――ある残酷物語
ほんものの贅沢
伊太利貴族の部屋の気分
牟礼《むれ》魔利《マリア》の一日
絶望と怒りの夏
ジュンかヴァンのオトコノコ
楽しむ人
食い道楽
好きなもの
お菓子の話
ビスケット
シュウ・ア・ラ・クレェム
卵の料理と私
食い道楽
私の道楽
最後の晩餐
私と年の暮れ――料理作らずふだんのシチューで
京都・お正月
茉莉流 風流
三つの嗜好品
エロティシズムと魔と薔薇
果てのない道で思ったこと――長く続く気紛れ書き
二人の悪妻
ウオッカ
味の記憶
ロココの夢――「十八世紀フランス美術展」の下見
「巴里」とたべものの話
こしかたの酒
葡萄酒
「R」の季節のはじめ
婚家の食卓
子供の時の果物
鴎外の好きなたべもの
江戸っ子料理と独逸料理
私のメニュウ
私のメニュウ
春の野菜
後記――小説とお菓子
私に常識はあるのか
犀星と鰻
〈書簡〉宮城まり子宛
三島由紀夫宛
白石かずこ宛
ドッキリ語録
……………料理のレシピ
……………私の好きなもの
……………食いしん棒
編者あとがき
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貧乏サヴァラン
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貧乏サヴァラン
マリアは貧乏な、ブリア・サヴァランである。
マリアは今日も怒っていた。マリアの怒りの原因はマリアが、自分の味覚や視覚、触覚、気分、それらのすべてにおいて鋭くて、食いしん坊の方面は、ブリア・サヴァランに匹敵すると、信じていて、それらのすべてを満足させなくては寸刻もいられないのに、それを満足させることに、筆舌につくせない努力を要するということに発している。マリアはその努力だらけの生活を、否応《いやおう》なしにさせられているのである。今日の怒りは淡島の家から下北沢の食料品買い出しの帰り、建具屋のところまで来て、氷を忘れたことに気がついたからだ。どういうわけかそこの前までくると買い忘れを思い出すことになっているが、その店は、大工だか、建具屋だか、名称不明の店であって、常に塩煎餅屋の硝子ケースか、鮨屋の肱つき台を製造していて、出来上ると、白っぽい下塗りをしたそれらの物体がでかでかと板の間から表へ出っ張っている店である。どうしてその店の前で、買物篭の中の品不足に気がつくのかと考えてみると、そこの先隣の鮨屋と鮨屋の向いの焼鳥屋(この店は親友の萩原葉子がつねに「寄ろうか」、或いは「買ってこうか」と言い、「やめとこう」と呟《つぶや》くところの店で、六時ごろから世田谷区北沢周辺に住む父《とう》ちゃん、兄《あん》ちゃん、サラリーマンの諸兄で満員となる。冬になると薄赤い提灯《ちようちん》が誘惑的な店である)との間に、どこへ行くのかわからない細い道があり(どこへ行くのかは今もってわからないが、そこをまがると「かたばみ荘」という、枕が二つずつある寝台《ベツド》の部屋が幾つかあるメゾン・ドゥ・ゲテがある、ということは、この間おかしな偶然の機会から知ったのであるが)、焼鳥屋と対角の団子屋と石地蔵の祠《ほこら》のある角とで出来た、よじれたような四つ角が、下北沢商店街の終りであって、そこでマリアの帰り道の風景が一区切りになっているためらしい。
さて買い忘れた氷というのは、ダイヤ氷と称する、大きな角砂糖位に切った、ポリエチレンの袋入りで一袋二十円のもので、電気冷蔵庫の氷よりも形もいいし、味も昔からの氷の味なのである。その塩煎餅屋のケース造りの家まで来て、氷を忘れたことに気がつくと、引返す足がいやがる。重くなる。マリアの足は本来部屋に座っていることさえいやがり、一日長くねそべらせていたい欲求を持っている、歩くのも不器用、走るのも遅い、全く無能の足なのである。マリアはその足がいやがるので、屡々《しばしば》胡椒《こしよう》無しの冷しトマトを喰ったり、胡椒とパセリ無しの粉ふき馬鈴薯《じやがいも》も、余儀なくたべる。マリアはいやがる足をだまし、だまし、ブリア・サヴァランと同じ味覚を持つ舌のために奔走するのである。マリアはダイヤ氷なしでは夜が越せない。夜中の冷紅茶用の氷だからだ。半分よりは幾分下までたて襞《ひだ》が入った、酒屋の立ち飲み用のコップをマリアの好きなように直したような洋杯《コツプ》に、大型ジャーの中に岩屋の氷室《ひむろ》さながらの涼風《りようふう》をさざめかせているダイヤ氷を充分に入れた上から、熱い紅茶を注《そそ》ぐ即製冷紅茶のための氷である。それが一時間おき、三時間おきに必要である。夜中の冷紅茶というと、マリアは毎晩徹夜で原稿を書いているようにみえるが、大抵の夜は睡《ねむ》っては目醒《めざ》めて冷紅茶をのみ、満四つの子供が書いたような字を三つ位書いて又睡り、又目を醒まして冷紅茶、という、電灯も、冷紅茶も、何のためかわからない夜であって、それでは昼間は原稿をどうやら書くのかというと、昼間も大同小異である。ただ昼間だと、シャルル・アズナヴウルの、律儀《りちぎ》で粋《いき》で、寂しげな歌、et pourtant, pourtant, que je nユaime que toi が突然鳴り出して、睡り獣《じゆう》の目が醒めて、犀星が何かを書こうと勢いづいて、青い眼ん玉の、鋭い歯を生やした魚の如き顔となった時のような頭の冴えになることがある。夜中はラジオを低くしているので、レイ・チャールズの歌もシルヴィ・ヴァルタン、ジョニ・アリディの歌もすべてことごとく子守唄となり果てる。それでも書かなくては大変、と思っているから、冬は温紅茶、夏は冷紅茶が、何がなんでも必要なのである。四つの子供の字でも、書ける時は年に何十日しかない幸福な日々であって、書けないことに絶望して、絶望に疲れて多くの時睡っているのがマリアの文筆生活である。紅茶と睡眠との、絶えまのないくり返しのために紅茶がアッという間に無くなり、買い出しの品目には紅茶が、三日おきに入っている。
紅茶はリプトン・ティー・バッグというので、それを二袋急須に入れ、薬罐の口から湯が繩のようになって迸《ほとばし》り、辺りに跳び散る位の熱湯を注ぐ。薬罐をかけておいてポカンとしていたり、睡っていたりするので、薬罐の湯は半分以上蒸発するか、全部無くなって、薬罐は全体に白っぽくなって、蓋に塗った塗料の匂いがしている時も稀ではない。首尾よくすごい熱湯を注いだとしても、バッグの引きあげ刻《どき》が気むずかしい。渋みが出るほど濃くてはいけないが、一寸でも薄すぎてはいけない。そういう苦心の末|淹《い》れた紅茶を、例の洋杯に氷を入れた上から注ぐと、英国製の紅茶はハヴァナの薫香か、ナポレオン・ブランディーの香気か、というような香いを発する。大きな眼を二つ開《あ》けていて、ぼろ部屋の光景がはっきり見えていても、英国貴族の、地紋のある白い卓子《テーブル》掛けをかけた卓子の上が明瞭《はつきり》と浮び上るから、マリアはとたんにぷらちなの掌をした萩原朔太郎以上に高貴となる。すると瞬間にせよ眼が醒めて、心身ともに楽しくなるから従ってマリアの心は本来の天井抜けの無為無想に還元して、ピーター・オトゥールの王様のように、なってくる。ピーター・オトゥールの王様が悪魔のような食いしん坊を発揮して、馬鹿のようなだらけた顔で匙の上の料理に向って口を開いたところのような顔になってくる。マリアにはピーター・オトゥールの持っているような大人《おとな》もないし、すごい悪魔もないから、鏡を見ればおしまいだが、そういう顔になった気がしてくるのである。底の方に薄気味悪さと、神が許して遣《や》らせてくれている、幼児的な意地悪と、絶対の我侭とを潜めている、ピーター・オトゥールという役者の顔が、アラビアの被衣《かずき》を被って方々に出始めた時には、その顔が自分の心の中で、ジャン・クロオド・ブリアリの影を幾らかでも薄れさせることになろうとはゆめにも、思わなかった。つきあいにくい顔だと思ったきりだったその顔は、無感情と無関心の美を持つ、この世にもう一つあるとは思われない顔だったのだ。ベレをおでこにぴっちり嵌《は》め、タブリエにバンド、膝小僧を風に吹きさらしたゴスの姿が彼の後ろにみえてくる、そうして、神様のように慈悲深い金持ちの男に雇われているお気に入りの園丁か、牧師か、ノオトゥル・ダムの門番のような顔でいながら、巴里のいなせが靴の爪先まで滲《し》み徹《とお》っている、シャルル・アズナヴウル。目下マリアはこの二人の役者に毎日|幻《まぼろし》の花束を送っている。(マリアの幻は、現実以上の現実なのだ)団子坂上の邸町《やしきまち》にある薔薇園《ばらえん》の薔薇である。この明治、大正に東京にあったハイカラな植木屋、薔薇園。明治、大正の文展に並んでいた洋画の中だけにあった、薄さびた、煙色《けむりいろ》が漂っていた本郷、動坂の薔薇園が、英国のヨークや、ランカスターの純血種の薔薇を育てて、王宮に入れていた、昔《いにしえ》の英国の薔薇造りの庭よりも、より以上に素晴らしい薔薇の庭だったことを、どうやって説明したら現代の人にわからせることが出来るだろうか。話がピーター・オトゥールから薔薇園に来てしまってだんだん横道に外れて行く不安があるが、もともとマリアの書くことははじめから終りまですべて横道なのである。さて薔薇園であるが、薔薇園に限らず、明治、大正の東京の風景はすべて、薄い煙の色を被っていて、桜の中から出ている五重塔も、山本森之助の「老樹青苔」のような樹のある秋の動物園裏のあたりも、原田直次郎の描いた田端辺の雪景色も、蓮池のある朝の田圃《たんぼ》道も、すべての風景は薄藍色のもやを被っていた。夕日の紅《あか》さが遠景の屋根の上を焦がしている時刻には、もはや紅を含んで薄紫に烟《けぶ》っていた。明治になってから工場というものが出来はじめて、大正になると「女工哀史」なぞという言葉も出て来たが、それらの工場の煙突から出る煙のために、もの寂びた、だが無数の甍《いらか》の下の幸福が燻《くゆ》り出したような色が、東京やその周辺の風景には漂い纏《まつ》わっていた。その燻ったような薄藍色が、冬の巴里や、シャーロック・ホームズのいた霧の中の倫敦《ロンドン》のような、シックな街を現出していたわけで、マリアの頭には薄紫にくすんだ上野の山が、哀しみのように甘い桜餅の味や、桜や楢《なら》の炭火の匂いと一しょに残っていて、それは夕日で焦げた森のような、紅い、幸福のかがやきだったのだ。マリアはそういう観点から、明治、大正の、本郷動坂の薔薇園の風景が、倫敦の、ゲインズボロの描いた王女や貴婦人のリボンの襞のようなヨークの薔薇や、エディンバラの薔薇を造っていた英国の薔薇屋より素晴らしいというのである。マリアは現在の、排気|瓦斯《ガス》や、ストロンチウム、セシウム(これらは原爆時代のものであって、今のはそんな生やさしいものではないのである)。芥子《けし》の花の白い粉。マラカイド・グリーン、ビスマルク・ブラウン、オーラミン、ローダミン(これらは有害着色剤の名である)なぞが浮遊していて、人間、猫、犬、鳥類、虫の死が日々にふえている東京を恐怖しているのでいよいよ、ブリア・サヴァランの舌を満足させるために必要な氷を得るためには淡島と下北沢との間を東奔西走、惨憺《さんたん》たる努力の日々を送っているわけである。
とにかく、マリアは氷があって、気に入ったものを気に入ったようにして口に入れないと、この世のゆかいの中でも最もゆかいなものが無くなって、忽ちムーディな気分の中に陥るのである。ムーディというのは、ムードのある(ムードという言葉がマリアはきらいで、みると顫《ふる》えがくるので使わないようにしていたが、とうとう使わなくてはならない日が来てしまった)いい気分のことでもあるらしいが、マリアは英語がわからないのでよくはわからないが、アメリカの兵隊なぞは、まるで反対の意味に使うらしい。どうにもこうにもならない、不条理の限りを言いたくなるような、どうやっても直らない、ムーッとたてこめたような不機嫌のことらしいのである。どこから湧いて来たかわからない気分だが、そばにいた人間に不機嫌をおしつけないではいられないような、困った気分である。マリアの場合、現在、家にいる人間といえば自分しかいないから、あたるのは自分自身だから、人畜無害だが、それだけマリアのムーディな気分は、ひどくなる。いくら紅茶と絶望して睡るのとのくり返しの生活だといっても、或る日は書きはじめることが出来て、それが小説のようになってくることも年に一、二度はあるから、朝は素晴らしいものを、充分満足しながらたべて、好きなラジオを忘れないようにかけ、四種類の新聞をバラバラにしていつも読み頁に折って重ねてよまないと、世の中が楽しくないし、うまく行かないような気がする。まず今なら、ジャーの蓋を開けて、北極を空想するような角砂糖氷の堆積《たいせき》の中から(角砂糖氷だから犀星の詩の氷のようにみしみし張りつめてはいない)――われはジャーに満ちた氷を愛す――マヨネエズの壜《びん》を出し、鎌倉ハムを出し、牛酪《バタ》を出し、固茹《かたう》で卵を出し、薔薇色がかった朱色の玲瓏珠《れいろうたま》の如きトマト (les tomates vermeilles) を二つ出し(赤いこしまきの如き赤のはきらいである)、頭の半分は捨てた、胡瓜《きゆうり》の太ったしっぽを出して、ボールに入れて部屋に入り、玉葱を薄切り(偉い主婦が速間《はやま》の音をたてて薄打ちにしたように、透徹《すきとお》るように切るためにはかなりの時間と根気を要する。〈根気〉というものが全くない手が、一心同体の貧乏サヴァランを満足させるためには涙の出るような根気を出すのである。美談にはならない努力であるが、それだから素晴らしい努力なのである)にして切ったトマトの上に散らし、胡瓜の薄切りと両方に塩、胡椒をふりかけ、ハムの罐を開け、それらを白い皿にのせ、(白磁のような気取りのない、ただの瀬戸物である。白磁も瀬戸物なのかも知れないが、よっぽど複雑な焼きかたをしたものなのだろう。陶器と、磁器とのちがいがよくわからないが、白磁そのものは多分綺麗だろうが、ひねった人々が礼讃するのが気に入らないのである。白磁はまだまだいいが、青磁にいたっては、へんなお爺《じい》ちゃんや、おばさんの部屋にある急須や茶のみ茶碗とか、薄気味の悪い宿屋や料理屋の手洗いにある下駄を連想するので一層きらいである)固くなったマヨネエズに辛子をまぜて卵と、一つだけ塩がかけてないトマトにつけて口に入れたあと、特製サンドウィッチパン(この麺麭《パン》はビニールの袋に黄金色《きんいろ》に輝いた線が入っていて、薄いのが六枚入って二十五円。なかなか上等だが、この頃急に質が低下して二十円になった。マリアが発見したお菓子や、パンの類は或る日忽ち姿を消したり、質が落ちたりするので、哀しみである。それは世田谷の、マリアのいる辺りの裏には立派な邸宅が林立していて、マリアのような貧乏サヴァランは一人も無いし、あらゆる不味《まず》い菓子パンをお三時にたべ、おかずパンか、積んであるパンの中から安いわりに厚くて量の多いパンを買って、支那紅のような色の馬か鯨のハムとキャベツのあら[#「あら」に傍点]とネギをいためて、のっけておひる[#「おひる」に傍点]を済ます人々は、量の少ないわりに高いパンは買わないからである)に牛酪《バタ》を塗って、さておもむろに漫画から身の上相談、小説、記事の順に重ねた新聞をよみながら、トマトと胡瓜とハムを代り代りに口に入れないと、一日がうまく始まらないのである。新聞と朝食とを並行させる傍《かたわ》ら、トランジスター・ラジオを聴くが、ラジオを黙らせたり、喋《しやべ》らせたりする右手は大変な忙しさである。あらゆる好きな番組の途中に、体中の皮膚がそうけ立つような歌や、頭がカッとなるようなのや、又はぞっと顫えのくるようなコマーシャルがのべつまくなしにせまるからである。そうけ立つ歌というのは、若い女が、猫がどうかした時のような声で、恋愛の歌を歌うのと、一時代前の、任侠の徒というような男の浪花節的な歌を、声高々と歌うのとの二つが主である。なかんずく困るのは猫の恋愛の声で、猫なら猫で、あれは人に聴かせているわけではないし、まして金を取っているわけではない。猫にも多少は甘ったれているという意識はあるかもしれないが多分殆ど無意識で、本能でああいう声を出すようになっているのである。私はビートルズというのを好きだった。写真をみるとどれも気に入り、とくに「ヤア、ヤア、ヤア」のスチールをみると、シャーロック・ホームズの初版本の挿絵にある、ホームズとワトスンのような、(それはホームズとワトスンが歩いていると、馬車の中から黒|髭《ひげ》の男がこっちを窺《うかが》っているところなぞである)ひどく古風な格好で四人のマッシュルーム頭が駆け出していたりするのがひどく味があって、どんな頭のいい人間が考えたのかと感嘆した。歌もいかしたし、ことにミッシェルや、イエスタデイは気に入っていて、貧乏サヴァランであり、一面|躁病《そうびよう》の気味のあるマリアは、ヴァルタンや、アズナヴウルの歌の間々にはよく歌ったが、彼らがいよいよやって来て、グラフや画報でラプスタインの大写しの顔を見、又四人の若者の、私生活の匂いのする写真を見ると、とたんにマリアはぞっとした。ことにジョン・レノンが裸の足に短い洋袴《ズボン》で部屋へ入るところと、同じく彼が窓の中で、腰を中腰に曲げるようにしてファンに手を振っている写真が、すごかった。彼らが日本へ来て動物園の猛獣のように閉じこめられたことを、大抵の人が同情していたが、彼らはとうに、ラプスタインというあの無気味な、ラスプーチンのような(名まで似ている)毒蛇によって囹圄《れいご》の人間になっていたのである。もう一人、洋服を造っている女の怪物もいるらしいのだ。彼らは絶対にラスプーチンに反抗出来ない、彼ら同士喧嘩出来ない、他の髪形は出来ない、何億の貯金と、何にも知らない新婚の細君と、たべ放題以外には一つの自由もない囚人である。マリアは、たべ荒らされたプリンス(?)ホテルの豪華な料理の皿、或いは綺麗な、何ものってない皿や、冷えた紅茶の入った紅茶茶碗、上等な紙巻がにじり消されているホテルの灰皿、等が写っている、妙に青白いカラー写真を見た。四人のマッシュルーム頭の若者たちは毒蛇の吐く息にあてられて、ただ言う通りに歌い、話し、ふるまい、一人一人の個人の心臓は冷たい毒蛇の息の鎖でがんじがらめになっている。それがわかってから彼らの歌をきくと、彼らの歌の中にはきれいな、エロティシズムや陶酔とはちがう、無気味で不快なささやきがあるのに気づいた。巴里だけがあの四人の若者を拒否したのは当然である。巴里は本もののエロティシズムと陶酔を持っているから、彼らの麻薬は不必要なのである。非人間的な甘さを持った彼らの歌は異様であって、魅力というより、妙な薬の反応のようなものである。彼らのファンの少女たちは、ただ絶叫したり暴れたりするのではなくて、一種の麻薬患者の陶酔状態である。それにしてもブライアン・ラプスタインというロシア人らしい男は、役者になる積りだったらしいが、彼に役者の素質がなかったことは映画界の損失だったかも知れない。スタンダールやバルザックがいい男だったらこんな顔だろうというような、すごい面構えである。そういうようなわけで、マリアがたべたり、読んだりしながら聴くラジオは、止り通しに止っている。
さてマリアがいやがる足で、下北沢の裏通りの、氷室のあるぼろ家に辿《たど》りつくと、クリームと称する黄色いものを挾んだパンの、そのクリームだけをなめつくして、まだ残り惜しそうになめている痩せた男の子が、氷を出してくるのだ。大体マリアが塩煎餅屋のケース造りの店から、いやがる足で引返さなくてはならないのは、近所の馬込屋が早々《はやばや》とダイヤ氷を売ることを止《や》めたからで、マリアはそのことで、毎年のことなのに今日は朝から怒っていた。ブリア・サヴァランの怒りは大きいのだ。裏通りのぼろ店がダイヤ氷を止めたらもう、終りである。マリアはこれらの吝臭《けちくさ》い店の親爺《おやじ》や婆あに反抗して、(電気冷蔵庫を買ってやれ)と、何度も思ったが、あの白くて大きく、つるつるした、よその家や、店で一寸見るのも不愉快な化け物を自分の部屋に運び入れることは、どうしたって出来ないのだ。総電気時代、宇宙時代になってから出て来たものはすべてなめくじか、のっぺらぼうのような化物ばかりである。グッド・デザインの花瓶や茶碗、椅子。提灯型の電気スタンドが白くポッカリ浮んでいる、へんにガランとした部屋は、マリアには化け物の部屋としか思われないのである。あの提灯は、お岩の提灯よりマリアを恐怖させる。ビートルズの非人間的なエロティシズムに対して、こっちは非人間的な化け物提灯である。マリアはそんなもろもろのいやなもののない部屋で紅茶を喫《の》み、或る日は上等の煎茶を喫むのである。煎茶は、夏は水、冬は夏の水位に冷《さ》ました湯で淹《い》れて、夏は氷を一、二片入れる。冬は幾らか濃く淹れて湯を少量差すのである。煎茶は水で淹れるのに限る。氷茶と言って、氷で淹れるやり方もあるがまだやってみない。紅茶の相手は乳児用カルケットで、煎茶用は下北沢の青柳の剥《む》き栗の形の淡黄色の半生《はんなま》か、芥子《けし》粒をまぶした薄紅色の牛皮《ぎゆうひ》で白あん[#「あん」に傍点]をくるんだ梅の花型の半生。近所で買うのは紅白の鳥の子餅か、薄紅色の洲浜《すあま》である。紅茶の時には特製サンドウィッチパンに薄く牛酪《バタ》を塗ることもある。戦前は団子坂上の伊勢屋という店にマリー・ビスケットというのと、イタリアン・ウェファースという(これはぎざぎざのある長方形のもの)のとがあって、英国製に劣らない上等品だった。戦後は米国製のぐじゃぐじゃか、日本製の粘土の混ざったようなのばかりである。黒岩涙香の翻案小説〈英国|種《だね》〉の中に、冤罪《えんざい》で牢に入れられた貴族の娘の父親が彼女が普段たべているビスケットを差入れたというところがあって、どんなビスケットだろうと感動したことがあるが、現在の日本ではカルケットよりない。乳児用と銘打っているだけあって、さすがに粘土の気はないし、ミルクの味もするのである。歯ざわりもいい。
貧乏サヴァランのマリアは平目の刺身が好きだが、このごろは鯛はあっても平目は少ない。昔、冬の雪の朝なぞに、魚屋から経木の書き出し板を受けとり、第一番に〈平目〉又は〈ひらめ〉と書き出してある時のうれしさをしみじみと想い出して、マリアは感動している。そのころ女中が平目の刺身を運んでくると、(私は台所に出て行って、魚屋のへんな皿から白い西洋皿に刺身を移して、上品に並べ直していた。魚屋の皿というものは、或るものは紙の一端がめくれたてい[#「てい」に傍点]になっており、模様はというと蛇篭《じやかご》と葦《あし》の葉とか、宝珠の珠から煙が出たようなのとか、流水に鮎が泳いでいる模様、なぞである。夏は得体のしれない氷の上にのっていて、いよいよいやみである。氷の上の刺身が半分冷たくて、半分|温《あつた》かいのもいやだし、水っぽくなっていて、しかも包丁のしかたが悪いために、皮と身の間の薄紅いところなんかが外れて、ぶら下っているのも悲観である。そうかといって現代の高級料亭で行われているらしい大仰な、一旦包丁してから又魚の抜け殼の中に嵌《は》め込んだ盛り方のは、完全に冷えていても大嫌いである。つま[#「つま」に傍点]も、昔は近所の魚屋でも、生きのいい防風と、新鮮な大根のかつらむき、もずくなんかだったが、今の代沢の魚屋のとくると、なまぐさいパセリと、干乾《ひから》びた大根で造ったかつらむきに人参が混っていて、恐るべきものである)白い皿の上に平目はどこか透明に、表面に薄い薔薇色と、薄い緑の鈍い艶《つや》を浮べてい、家でつけた清潔な大根おろしが、尖らせずに盛られていた。萩原葉子というのはおかしな人物で、(実際はこっちがおかしいのだ)マリアがしんみりしない人間なのを物足りながっていて、彼女は女流作家の中の姉さん的な、懐《なつ》かしい感じの女《ひと》に憧れたりしているが、マリアは昔の平目の色艶《いろつや》(犀星流の表現である)や、雪の朝の雪のついた魚屋の経木にしんみりしているのである。全く気の毒の至りである。だが人間はしんみりする価値がないのだ。現在でも、冬の日に平目の刺身にありついて、白い皿に大根おろしの山と一緒に盛る時もないではないが、注文通りの皿が卓子の上に出現しても、醤油がつきすぎてもいけないし、つかなすぎても不機嫌である。おろしのつけ具合も難かしい。しかもその平目の刺身の皿が卓の上に出現するまでが大変なのだ。昔は魚屋の経木をみて「平目のおさしみ」と、一言いえば、刺身の皿の方でひとりで歩いて来たようなものであるが、現在《いま》ではみぞれや氷雨の降る中を、ゴム長なしのサンダルばきでぴしゃぴしゃ魚屋へ行き、もし無い場合は下北沢のマーケットまで遠征である。マリアの歩き方で歩くとサンダルは匙のようになるから、一足毎に泥と水とをしゃくい上げる。半町(何メートル何センチであるか、わからない)も行かない内に、惨憺たる心境になるのだ。それにゴム長というものを三百六十五日、買うのを忘れる。忘れるのも事実だが、大体仲々足が入らないのが気に入らない。昔の支那の女のように小さすぎるマリアの足が、ギュウギュウやっても入らないというのはどういう構造の靴なのだろうか。日本というところは、バストの小さいマリアが、大鵬が女の人のスリップを着るところのように、銭湯の板の間で少間《しばらく》の間ラオコオンの親のような格好で踊を踊らなくては着られないスリップを売り、(それが九十何センチとかいう普通より大きめのものだというのである)小柄な支那の娼婦の足のようなマリアの足が閊《つか》えて入らない長靴を売っている国である。
さて平目の刺身が白い皿にのって出現して、いよいよ、黒塗りの長い丸形の箸(マリアは一膳十円の、黒塗りのとり箸が一番上等の感じがあって好きである。七十円もする女箸は、螺鈿《らでん》の出来そこないかなんかで、田舎《いなか》大尽《だいじん》の奥様用の箸のようで、その家が東北だとすれば小豆《あずき》南瓜《かぼちや》か枝豆数の子でも突っつく感じで、手にとる気もしないのである。象牙のは、新しいと舌が痛そうだし、古くなると尖端《さき》が茶色になるのがいやである)で摘み上げて口に運ぶのは天国である。マリアは「ご苦労様」と自分に挨拶し、やおら箸で刺身を挾み、醤油とおろしを気に入る位つけて、それで黒と赤との黄金で縁どりした小さな菊の模様の茶碗に盛った白い飯を丸く包んで口に入れる。その瞬間が、マリアの艱難《かんなん》辛苦の大団円である。時にはおろしをつけずに、平目が真赤になるほど醤油にひたしつけて、三つ切り位にちぎって飯の上にのっけることがある。この方法はマリアの幼児の時にそうやって喰わせられた、郷愁的なたべかたであって、それが口に入る時は、過去の或る午《ひる》の時間が、現在の時間の中に再生する刻《とき》である。おお、小春|陽《び》うららかな、失われたお刺身の刻《とき》よ。
貧乏サヴァランの部屋の中の状態は、大体右のようなもので、美味な料理や菓子を喰って上機嫌になっているか、それらの美味《うま》いものが寝台の周辺に出現するに至るまでの過程で、不機嫌の極限に達しているか、睡っているかの、そのどれかであるが、ともかく口に入れるものは最上の美味なのである。
「夏の間」――或る残酷物語
去年の夏は惨憺たる夏だった。私は、強いとはいえないというよりむしろ弱い頭に、一年半も前からとり憑かれているもの(それは深刻な恐怖と絶望である)があって、そのとり憑いたものはとり憑いたままで、そこへ二年前(多分二年前)に、熊本日日に連載された随筆かと思うと小説の切れっぱしのような、三枚ずつにこま切れになった私の三分の一生記が筑摩書房から出ることになった。(今度どこかに出た筑摩書房の広告に、四半分の一の自伝、と書いてあったのは怒《いか》りである。二十六歳までを書いたのであるから、四半分の一と言うと、現在百四歳になる筈だからだ)とり憑いているものというのは去年の二月に中篇を出した超長篇小説(私としてはである)の後篇が、書き出しの二枚で止まってしまってどうしてもこうしても出て来ないという絶望である。(私はフィクションの小説の時にはいつも、≪今度は書けない≫という恐怖にとり憑かれ、それが長く続いて絶望するのである)筑摩の本の方は、推敲も楽だし、頁が足りないための書き足しもするする出来たので別に惨憺ではなかったのだが、その書き足しが十三篇、大変にうまく出来て、新聞の切抜きを貼りつけた紙の束と一緒に、筑摩書房と書いた厚い大きな紙袋におさまった日、私はもう二つ三つ書き足しを造《こし》らえようと言い、担当の吉岡実氏も賛成したので、私はその貴重な紙袋をもって部屋に帰った。ところがその紙袋を屑屋に持って行かれたのである。私は紙袋を、屑屋に持って行かせる新聞の山の上に一寸のせて部屋に入り、すぐに書き足しを書きはじめたが、とり憑いている絶望のためと暑さのために弱りに弱った私の頭は酷い状態になっていて、私は何かしていると直ぐ睡るようになっていて、何かたべながらでも睡るようになっていた。(今までは、何かたべながら睡ったことはなかった。それは誰でもそうだろうが、私は大変な食いしん坊で、たべている間はこの世が極楽なので、たべていれば睡くはなく、たべながら睡るなんて考えられないことだった。それがこの頃はドロップを口に入れて、いとも楽しくしゃぶっていたと思うと、いつのまにか睡っている。やがてドロップが上顎にくっついて溶け、その溶けた液体が気管に流れこんでもの凄く痛いので目が醒めるというていたらく[#「ていたらく」に傍点]である。立ったまま睡ったり、往来を歩きながら睡らないのがめっけもの[#「めっけもの」に傍点]という有様である)それでその時もいつのまにか睡りこんでいた間に、屑屋が原稿の袋を持ち去ったのである。屑屋が来れば、大抵の人は出て行って立会うが、出てこない小説に苦悶したり、その癌の痛みのような苦悶を暈《ぼ》かそうとして、麻薬代りに、(明治と西洋)とか、「マーケットの色彩」とか、(男の悪口)とか、又は、大変なお自慢の、美しい父親との恋愛や、同じく美しい息子との恋愛の話、又は、どこかから水が洩る壜のような頭を持った、おかしな自分の身の上話、果ては(大衆団交と大学教授)だの、「豆腐販売事務所」、「明治以来の不愉快」なんていう変なロンまで書きちらし、それらを書く合間々々には、麻薬の切れ目になり、小説のことを思い出し、頭を人参の棒で締めつけられ、(ゲバつきの鋼鉄の棒、又は同じくゲバつきの鉛の棒というべきだろうが、私の頭のようなへなちょこ頭ではひね人参の棒が適当である)そのために疲労してぐうぐう睡り、醒めては枕すではなかった、紅茶を飲み、又もやビスケットやドロップを口の中で溶かしながら睡り、(ビスケットの場合は、幼い子供が紅いブツブツのある薔薇色の舌や、濃い薔薇色の口腔の内部にぐじゃぐじゃになったビスケットの練りものをくっつけたままで睡っているのと同じような状態になっているのである。幼児の場合は可愛らしいが、いいお年の、平たく言えば婆さんの場合、惨憺たる間の抜け加減なのだが、この世で一番愛すべき、老いたる少女である、と、自惚れているので、ドオミエの老婆が、ジャルダン・デ・ブラント附近の駄菓子屋のキャラメルをたべながら睡っているような自分の様子を、紅いブツブツのある薔薇色の舌の幼児のようだと思っている)と、いうような、へっぽこ小説家の苦悩と、苦悩の果てのうす呆けとの交錯状態のために、このごろではいちいち出て行かなくなり、いつも来る糖尿病の屑屋が大声をあげて「ここにあるのを持ってっていいですか」と怒鳴り、私の返事も待たずに、目方を計りもしないで繩をかけ、「ここに二十円おきましたよ」というかけ声とともに立ち去るのに委せ、糖尿病はふみ倒したいだけふみ倒している、という状態になっていたのだ。呑気というのか、馬鹿というのか、どんなことが起っても頭の芯までは届かない具合で、泰然としている私も(それは胆が据っているのではなくて、神経が緊張する時の筋の彎縮度が生れつき弱くて弛んでいるためのようである)、原稿の袋が新聞の山と一しょに消え去ったのを見た時には頭の芯が冷たくなった。吉岡氏がどんなに呆れ返るだろう、という考えが頭を占領し、直ぐに報らせれば屑屋の家に在るかも知れない、ということにも気がつかなくて、ただただ青息吐息で三日間を暮したので、新聞の切抜きを貼った紙束と、二度とふたたび、それと同じには書けない、よく出来た書き足しとは、どこかの溶解炉の中でゆめの如くに溶け去ったのだ。
かくの如き朦朧状態なので、この夏の間に私は火傷《やけど》を二度もした。一度は右の掌の甲、二度目は左の足首の一寸上である。(絶望睡眠)の痴呆状態の内に、夕飯や午飯を抜かしたのに気がつくと、一日に十五種類の栄養物(蛋白質、青、紅の野菜、沃土《ヨード》類、柑橘類、大量のパセリ、ぎんなん、本ものの久助葛、乾葡萄、ココア、牛乳《ミルク》、牛酪《バタ》、穀類、味噌、乾物類、卵黄、等々の中から十五種を摂《と》るのである)を摂ることを自分自身に絶対命令を下している私は夜中でもひょろひょろ起き上がり、米を炊き、野菜を茹で、それを茹で滾《こぼ》そうと廊下の流しによろめきつつ馳せよると、流しの下の厚板に蹴つまづいてぐらぐらの茹で湯をもろ[#「もろ」に傍点]に右掌に引っかけ、又は左の脚に引っかけるのだ。というわけで私は二度の火傷をしたのである。パセリや玉葱を刻むためのギンギラ庖丁で指の頭を切るのなぞは毎度のことであるから、私は満身傷痍となって、方々に繃帯を巻きつけ、居睡り、且つたべ、且つへんな文章を書いているのである。これは全く、悲にして壮なる物語である。
ほんものの贅沢
現代は「贋もの贅沢」の時代らしい。電気冷蔵庫にルウム・クウラアに電気洗濯機。剃刀も御飯のお釜も、紅茶の薬罐もすべて電気仕掛けで、テレヴィは各室にある。何十万円の着物、外車、犬はポメラニアンかコッカ・スパニエル、猫はペルシャかシャム。そういう奥さんが、家の中のどこかで、なにか、吝《けち》なことをやっている。台所の隅とか、戸棚の隅とかで。家の中へ入っても見ないで、どうしてそれが判るかというと、そういう奥さんの戸外《そと》を歩く顔つき、レストランに入って来て辺りを無視するようす、注文の仕方、料理のたべ方。そうしてまた、隣りの席の人に判るように自分の身分や贅沢生活について喋ること、それらのいろいろの中に彼女たちの貧寒な貧乏性が現われているからである。ルウム・クウラアも、戸外より二度くらい低くて、湿気をなくし、脚気や神経痛にも影響がない、というのならいいが、人間が牛肉やハム並みに冷蔵庫に入っているなんて狂気の沙汰である。
ほんとうの贅沢な人間は贅沢ということを意識していないし、贅沢のできない人にそれを見せたいとも思わないのである。贋もの贅沢の奥さんが、着物を誇り、夫の何々社長を誇り、擦れ違う女を見くだしているのも貧乏臭いが、もっと困るのは彼女たちの心の奥底に「贅沢」というものを悪いことだと、思っている精神が内在していることである。フェドラ(邦訳は死んでもいい)だ、メルクリだと、利いた風に言っている彼女たちの腹の底に、古臭い道徳、ほとんど腐り崩れて悪臭がしている、日本の道徳が、末期の癌の塊のようにうじゃじゃけていることである。贅沢を悪いことだと思っている人間の中にほんとうの贅沢はあり得ない。そういう、いじけた、たじろぎが心の中にあっては純血種のコリイも、犬のコンクウルに金のかかったスウツでお出かけになることも、すべてご破算である。それで一切の贅沢は消え去って、あとに転がっているのは貧乏臭い一人の女の心、色の褪めた心臓である。審査人、本物、贋もの混合の金持たち、犬たち、が群り、右往左往しているコンクウル会場の原っぱに、その心臓はころがり、風の吹く中で、哀しげな音をたてるのである。贅沢に育った子供がデパートで、アイスクリームのお代りをねだり、二皿目まで皿をなめそうに平らげる。その隣で金のない家の子供がわざとひと匙残して、ちょっとおつに澄ます。こんな光景もよくある。門から玄関までが足疲れるほど遠い家の居間に、夜坐っていると、門番が門を閉める音が雨の音を距てて微かにきこえる。家の後の森の木を伐った薪を放りこんだ暖炉《ストオヴ》が燃えている。そういう家の主人が犬を伴れて散歩に出る。その男は自分が大きな邸の主人だとも、贅沢だとも、そんなことはまったく頭にない。これが贅沢である。
贅沢な奥さんは、自分のもっている一番いい着物で銀座や芝居、旅行なぞには行かない。他の女の着物を見て卑しい眼つきなんかはしない。銀座を歩くというのは、いわば散歩である。近所の散歩の延長である。それにお招ばれの時のようななり[#「なり」に傍点]で行く。それは「貧乏贅沢」である。また困ったことに商人やボーイ、番頭たちの中に、金があっても構わない、本ものの贅沢族か、むやみに着飾る贋もの族かを見分ける目利きがいなくなっているらしいので、贋もの族はいよいよキンキラに飾りたてるのかもしれない。
だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。指環かなにかを落したり盗られたりしても醜い慌てかたや口惜しがり方はしないのが本ものである。我慢してしないのではなくて、心持がゆったりしているから呑気な感じなのである。(また直ぐ買えるから、ではない)高い指環をはめている時、その指環を後生大事《ごしようだいじ》に心の中の手で握り締めているようでは、贅沢な感じを人に与えることはできない。
簡単に言うと贅沢というのは、人を訪問する時に、いい店の極上の菓子をあまり多くなく詰めさせて持って行く(その反対はデコデコの大箱入りの二流菓子)。夏の半襟は麻のあまり高くないのをたくさん買って、掛け流しにする(一度で捨てること)。上等の清酒を入れて出盛りの野菜を煮る。といったたぐいである。隣の真似をしてセドリックで旅行するよりも、家にいて沢庵でお湯づけをたべる方が贅沢である。材料をおもちゃにして変な形を造ったり、染めたりした料理屋の料理より、沢庵の湯づけの方が贅沢なのは千利休に訊くまでもない。昔の伊予紋や八百善にはそんな料理はなかった。中身の心持が贅沢で、月給の中で楽々と買った木綿の洋服(着替え用に二三枚買う)を着ているお嬢さんは貧乏臭くはなくて立派に贅沢である。
要するに、不格好な螢光灯の突っ立った庭に貧乏な心持で腰かけている少女より、安い新鮮な花をたくさん活けて楽しんでいる少女の方が、ほんとうの贅沢だということである。
伊太利貴族の部屋の気分
私の貧乏は変な貧乏で、鰯を三尾焼く貧乏ではなくて、金のある日、バタ、上等の味噌、調味料を買っておいて、葱三十円で二日|保《も》たすかと思うと四千五百円のカーディガンを買ってくる。手は空いているが頭の中は夢ばかりみているから、カーディガンは春から次の秋までハンガーに首吊りの姿勢のままで、着ようとすると虫食いになっている。そこで深夜密かに川へ捨てに行く。金はないがすることは贅沢で電気は点けっぱなし、洗濯のお湯は半分になるまで沸かしっぱなし、なんでも捨ててしまう。大嫌いな貧乏臭さを根こそぎ追放して、空壜やカレンダーについていた絵でイタリアの貴族の部屋の気分を漂わせ、何がうれしいのか嬉々として日を送っている牟礼《むれ》魔利《マリア》という変物《へんぶつ》を描いた「贅沢貧乏」という本を書いたが、この写真はその贅沢貧乏の部屋である。
現代のレジャーやヴァカンス的贅沢族。電気器具とテレビが各室にあって、外車と毛皮と、何十万円の着物にポメラニアンか、コッカ・スパニエル。それら贅沢族の、その贅沢の下に透き通ってみえる貧乏臭さは一秒間も我慢ができない。精神の貧乏の匂い、芬々《ふんぷん》たるものである。卑しい顔、すべて持っているのにさもしい様子、金を誇ってはいるが、「贅沢」という言葉には「罪悪」のニュアンスを感じている。表面は贅沢でいて、裏側にはがつがつしたところがある。その裏が透き通って見えるのである。夏は高くない麻の襟をかけ流し(一度で捨てる)にする、それが贅沢である。貧乏な私がタオルや、一本の匙に贅沢をする、空壜の薄青にボッチチェリの海を見て恍惚とする。これは「贅沢貧乏」である。戦後贅沢貧乏をやってみて、今の私は「贅沢」より「贅沢貧乏」の方が好きになった。金を使ってやる贅沢には創造の歓びがない。
写真のボッチチェリの絵の下にある壜はヴェルモットとドムの空壜。薔薇が挿してある壜は、或る日ふと不思議な美の結合を遂げた花と壜である。額はプルウストの顔。写真と洋杯《コツプ》との間にあるのは黄金《きん》色の卵。その後は停電の時の登山用のカンテラ(紅色)。手前は首のぐらつくスタンド。(裸電灯が夜昼こうこうと照り輝いている電灯で、イタリアの銅版画のような天使と少女が踊っているデザイン。みていると羅馬のピアッツァ・バルベリーニの横町を走る馬車の轍の音が聴えるのである)宮城まり子さんが犀星先生に贈り、それをまた戴《いただ》いた高杯《タンブラー》(紫のヒイスの枯れたのが挿してある)、犀星が癌の病床で毎日眺めていた高杯である。その時はアメリカ大使館の窓の灯や自動車のテールなぞが煌めいていたが、今では私の部屋の電灯の光の屑を鏤《ちりば》めて耀《かがや》いている。十九世紀の王宮のゴブラン織そっくりの壁掛けが端《はし》だけしか映っていないのは残念である。
牟礼《むれ》魔利《マリア》の一日
牟礼《むれ》魔利《マリア》は、ジュリエット(黒猫)にやった残りの上牛肉、といっても殆ど脂身と筋ばかりで、紅いところは筋に沿って細長く、ぼろ布《きれ》のように付着しているだけだが、
[#2字下げ] ――ジュリエットが肺炎の恢復期なので、近江牛肉や松阪牛肉、とまでいかなくても、ロオスにしてやりたいのだが、下代田町の牛豚肉店ではロオスは切身になっていなくて、ビフテキ用として塊りになって別のところにころがっている。そこでその中から霜降りの最もよさそうなのを指差して「それを薄く切って下さい」と注文したら、「へい」といってその塊りを持って奥へ入り、奥の方で切って来た肉はいつもの九十円の上肉と変りがない。癪《しやく》に障るのでロオスの薄切りは諦めた。魔利は料理自慢だが、ビフテキと天麩羅が苦手なので、薄く切って呉れない肉屋ではロオス肉には無縁を喞《かこ》つしかない。――
それでとった肉汁《スウプ》の中にSANTAのロオル・キャベツを入れ、バタ、ミイト・ソオスを入れ、もの凄く酸っぱいトマト・ピュウレの味を緩和するための無糖ミルクを入れながら、≪北さんか……≫と呟いた。
なんで又、北さんの名を口走ったのかと言うと、北杜夫氏を優秀な先輩の一人だと思っているが別に特別の親近感を抱いているわけではない。戦争前からラジオがなくて、最近になってトランジスタアを買ったので、青ヶ島の婆さん以上に昂奮していて、凄いラジオ狂になっているためである。今日は「父を語る」に北氏が登場するのである。実はもう一つ白状すると、魔利には、まだ見たことのない人物を空想で観察する癖があって、遠藤周作氏なぞと共に、北氏を空想で書いたことがあり、それでなんとなく半分知っているような感じになっていて、そこで今日は「父を語る」が北氏だなと思うと、一寸愉快になって、≪北さんか……≫なぞと呟くわけである。斎藤茂吉氏を、岩波の鴎外全集の完結記念会が目黒の驪山荘で催された時に傍《そば》で見たのを想い出すと同時に、食いしん坊の魔利は、その時の、その日の朝どこかの山で獲れた、狸と牛蒡の赤味噌汁や、海水の味位の塩味がした、殆ど生《なま》のような青柳の前菜なぞの、美味だったものがまざまざと蘇って、北氏の話の中の鰻の話ともつれ合うのである。「父を語る」はよく聴くが、その他にも朝赤鉛筆で丸をつけておく番組は多くて、締切りの迫った原稿を書きつつ、何か口に入れつつ、ラジオを聴くという、ながら族の現代っ子そこのけの魔利である。
例によって八面六臂の大活躍をやっていると、雑誌社から電話がかかって来て、魔利の長閑な状態は、破れた。魔利が「贅沢貧乏」という小説で委しく書いた、幻の部屋を写真に撮って或美術雑誌に出すので明日撮りに行く、というのである。魔利は部屋に帰ってくると部屋の真中に突っ立ち、隣に聴えるような声で、≪困ったなあ……≫と呻いた。
「贅沢貧乏」を書いた頃は、たしかに小説に書いた通りに飾りつけてあったのである。だがその後だんだん忙しくなったので、用箪笥の上のボッチチェリの「春」の女神の部分画も、白銀色のレジョン・ドヌウルを胸につけた、素晴しいプルウストの写真も、薄白い緑色のアニゼットの空壜も、すべての綺麗なものが、これから切り抜くことになっている新聞紙の山の向うに影を没してしまっていて、菫の洋皿や、今にも消え去りそうな、羊の横顔が底に沈んでいる洋杯《コツプ》も、強烈な裸電灯の光が散乱した、洋杯の上の光の屑も、深い紅の砂糖入れの上で燃え上っていた白い光も、載せてあった台が、本や雑誌の置き場になったために、部屋の一隅の茶箱の上に追いやられ、すべての輝いていたものは埃を被って光を失っていた。暇な日もあったのに片附けなかったことを歎き、絶望したが、現実問題だから、なんとかしなくてはならない。とうとう幻の家具、洋杯一切の物どもをタクシイに積んで、苅萱梗子《かるかやきようこ》の家の洋間にソファア・ベッドのあるのを幸い、映画のようにセットを組んで撮影するということになった。梗子の家の洋間は、壁も古く、薄黄色く、瑕《きず》もついているので魔利は喜び、忽ち、夢の部屋らしいものを造り上げて、撮影は無事、完了した。
ところが撮影は無事だったがそのあとが無事でなかった。雑誌社のRさんが魔利と一緒に帰って、奇妙な家具や壜の類をタクシイで魔利の部屋に運び戻して呉れると言ったのを、梗子と喋りたいので断り、例によって夜中になったが、さて気がついてみると、タクシイを止めて、運転手に荷物を載せることを承知させ、厭な思いをせずに雑物を運び戻す自信が魔利にも、梗子にも、ない。この頃の運転手というものは、乗せる前から怒っていて、自分一人、ハンド・バッグ位を持って乗せて貰うのが精一杯である。
魔利は泥棒の風呂敷包みのような大荷物を、梗子の家の客間において帰ったが、例によって頭脳が幻の中に住んでいるから、大荷物の中に自分の日常生活に必須な品物があることには頭が行かなかった。楽しいお喋りをやりたいだけやって、ご機嫌で帰ってみるとまず電灯が点かない。伊太利のピアッツァ・バルベリイニの横町の馬車の蹄の音の聴えてくる、わが愛するスタンドが梗子の客間だ。ペンや鉛筆、消しゴム等の入った筐がない。夜飲む定《き》まりになっているアリナミンも、パントも、グルミタンも、ない。おまけに銀行の判もその筐の中である。その翌日魔利は無一文の日であった。何も日常の部屋を撮るからといって銀行の判まで撮影することはないのである。魔利がその夜部屋に帰るや否や陥ったのは、全日常生活の停止である。
読めず、書けず、飲めず、喰えず、の境界に陥った魔利は、いくら大きく開いても何も見えない闇の中で、無駄に眼を見開き、何ものかに向って怒《いか》った。人の親切を無にしたことも、自分自身の幻の詰まった頭も、棚に上げて、すべてが「無」である自分の境界を、怒った。完全な「空虚」の時間である。ミケランジェロ・アントニオーニの「空虚」のように、間が抜けた空虚である。魔利はミケランジェロ・アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」を見て、前に書いた小説の中で、自分の心の中の硝子のような空虚を、アントニオーニの空虚に喩えたことを後悔している。アントニオーニ自身の頭の中の「空虚」は充実しているのかも知れないが、映画に現れた「空虚」は痴呆的である。好きな顔だと思って期待していた女優の顔が、現実的に笑ったり、はしゃいだりしている時は期待通りの顔だったが、さてこれから「空虚」です、というので、空漠の表情をすると、馬鹿のような顔になる。映画がお終いになるまで、魔利は間の抜けた時間をもてあました。
≪アントニオーニみたいな間の抜けた「空虚」だわ≫
魔利は、想った。
≪アメリカの海岸の太陽も、巴里も、シャアロック・ホームズの小説も、ないから、サガンの「空虚」みたいに気取ることだって出来やしない≫魔利は又、想った。
寝台の上に乗ったのがようようで、眼があってもものが見えず、手があっても何も出来ない。手も足も、体全体が無用の長物である。大かたこんなことには全く気がつかないで、平気の平左で睡っているにちがいない梗子をも、魔利は怒った。
≪夜中が一番楽しいのに≫
魔利はこのごろ締切り原稿がふえたので、年中頭脳が疲れていて、昼でも夜でも、忽ち睡ってしまうのも忘れて、口惜しげに呟いた。魔利は闇の中に溶けていた黒猫・ジュリエットを一刻《いつとき》引きのばしたり、尻尾を引張ったりしてから、怒りくたびれて睡ったが、朝になっても、何かが見えるだけである。朝の果物も、罐詰洋食も、ない。別に読みたいものもない。出来上りかけている原稿を尖った鉛筆で、新しい原稿紙に書いてみる楽しみが、出来ない。
魔利は怒りながら支度をして、渋谷の銀行へ行った。雀の涙位の金しか預けてないが、馴染みになっているので、判は後から郵送することにして、金だけおろして貰うことも二三度やったことがあるから心配ない。
銀行の帰りに苅萱梗子の家へ行くと、梗子はやっぱり気がつかずにいたので愕いている。タクシイに大荷物を持って乗りこむのが二人とも気が進まないので、昼飯をたべて夕方まで喋り、ようよう重い腰をもち上げた。
梗子が例によって、借金を申込んでいるのかと思う程遠慮しながら、一台のタクシイを呼び止めた。(もっと威張らなくっちゃ駄目だ)。魔利はいらいらしている。こっちへ振向いた運転手は運悪く、大きくもない体なのに怒りで容積が多くなっている、怒りで全身燻っているやつだ。
この二人の女は善良だし、身分だってそう大して侮蔑を受けるような身分でもないが運転手の眼でみると、変ちくりんな連れである。片方は間のびのした面《つら》の婆さん、片方は女学生だか婆さんだか判らない、いやに眼玉のギョロリとした奴なのだ。
≪荷物があるんですけど、今持って来ますから。直ぐです≫と梗子が言うのに被せて、怒りの男は言った。
≪大きいんですか≫
≪そんな旅行に行く荷物のようなの頼みませんよ≫
昨夜から怒りっぽくなっている魔利が、言った。梗子は威張る魔利を愕いて見たが、その侭二人は黙り、あたふたと細長い道をとってかえした。魔利は枯れた薄紫のヒイスを入れた硝子の高杯《タンブラア》と、筆箱を持って軽々と門を出、梗子は方々出っ張った大荷物を片手にぶら下げて、よろめき出たが、梗子の方が先に駈け出した。不思議なことに、相当重量もあるし、戦争中駅に、紙に書いて下げてあった、規定の容積の約四倍はある大荷物を、かなりこのごろ肥って来た梗子が、馬鹿に軽々と下げて、走り、みるみる姿も小さくなったのである。
魔利は愕きながら後から走った。前には心臓の発作もちで、その度にパントポンを注射していたが、医者から神経性の心悸昂進だといわれてから忽ち快《よ》くなっているので、梗子に負けずにどんどん走るが、年は争えないから、その恰好たるや、見られたものではない。梗子の方は心臓病みの女学生位には見えるのは、さすがに、魔利の息子の年齢だけある。
さて、めでたく荷物と魔利とは倉運荘に到着したが、あとできいてみると、梗子は、タクシイの運転手に重い荷物と思わせぬために、重い荷物を軽々とぶら下げて走ってみせたので、あった。
絶望と怒りの夏
牟礼マリアの夏は一日がなかなか経っていかない。マリアは長い夏の間、一日一日を渾身の力をこめて向うへ押しやるのである。やっと一日を押しやると、次のがそこに続いている。永遠である。育ったころ髪を結うのも(それもおさげでリボンをかけるだけ。しかしマリアには何万本もある髪の毛を櫛で揃えるという作業が難物で結婚間際になって練習した)靴を履くのもすべて他人の手をかりて自分の手は使わなかった。鉛筆は十何本と削って筆箱に入れてあり、小学校に上ってからも「おいも」「卵」「ごはん」と、命令を下《くだ》して食べさせて貰っていた。結婚しても女中というものが永遠について廻っているから、早い話が水道の蛇口に薬罐を突き出して水を入れたこともないのである。その他人の手の借りをこのごろになって一時に返すのだから悲惨である。先ず朝眼を開くと、絶望と一緒にねている自分を発見する。こんな奴と一緒にいるのは厭だと思っても夏の間は縁が切れないのである。毎年夏は絶望だが今年は近所の店でポリエチレン袋入りのダイヤアイスなるものを売り出すのが遅れたので四十日位氷なしの絶望になった。
毎日の厭なことの始まりは薬罐をさげて井戸端へ出る。冷たい水を出すために三十二回|空振《からぶ》りをやる。四回宛八回である。それから水を入れて少時おいてからそれを滾して水道の水の方を入れる。そうするとかすかに水が冷たいという訳だ。(優秀な井戸水が今年から白っぽく石鹸《シヤボン》のような泡が立ち、飲むと変な酸味がある)その水で下北沢第一等のお茶屋の抹茶を溶かして朝のお茶になる。次に水が生ぬるくならぬ内に熊笹のエキスを溶いて、それでもってアリナミン、プレナミン、パント、カルシウムの錠剤を呑みこむ。小説の不安で情ない顔になって窗際にある犀星の四角や緑のガラス壜を眺めたり、何か書いたり、生温いトマト、胡瓜で、バタと麺麭の朝食をしたり、(これが絶望と怒りである)近頃乗り移った変な小娘の眼で、意地悪お内儀連を睨みに井戸端へ行ったり、昨夜怠けた洗濯をしたり(洗濯は石鹸をすりつけるのも、布をもむのも馬鹿丁寧で手がこんでいるから重労働である。絞る時には一番の大物がベンベルグのスリップなのに腕と一緒にお腹や足にまで力をこめるのだし、小さな手巾なら楽かというと、小指や中指が後へ捩《ね》じ折れて、凄い痛さである)、葉子兵衛(友人、萩原葉子)に嘘を吐《つ》いたことを想い出したり(マリアにはどっちでもいいことに嘘を吐《つ》く癖があって、自分でもどういうわけだか判らないのである。他人は酷く困る時にしか吐《つ》かないらしく、実は嘘だと言うとギョッとしている)、そんなことをやっている内に汗が出て、絶望的な気持の悪さになってくる。マリアにとって汗が出ているということは言語に絶した苦痛なので、窗を明けておいても紅海の周辺の船の三等船室位熱い部屋は午前中だけでお払い箱にして、下北沢の冷房喫茶へ出勤するが、汗の件があるので出勤前に代沢湯へかけつける。夜帰りに又寄るための風呂銭合計、金四十六円也を薄い黄金色も大分褪めて来た洗い桶の底にチャリンと落しこみ、濃い黄色(ハヴァナの葉巻のリボンの色)のタオル、濃い薔薇色のベビイ石鹸と黒褐色透明の蜂蜜石鹸を入れ、その上に苦心惨憺の結果真白になってぶら下っている下着をのせ、それを左手に、残る右手には(マリアにとって手が右と左との二本しかないということは不便極まりないことである)、原稿用紙、書きかけ原稿、夕食用の馬鈴薯、人参、玉葱、青豆、トマトを茹でて塩胡椒バタを入れてかきまわしたものを入れた錫の容器、熊笹のエキス、錠剤の一回分、新しい割箸、半紙に包んだ匙、ボオルペン二本、紅い六角形鉛筆一本(自分で削った)、郵便切手、ゴム糊、便箋、封筒、葉子兵衛に遣る特上等の消しゴム、ちり紙、手巾、を入れた篭を下げて歩き出すのが午後二時五分前の炎天の下である。ともかくこのようにして二回入浴し、酷く暑い時、オオ・ドゥ・コロオニュ入りの水で拭いていれば、汗というものが、昔の吸入器の透明な褐色のコップに入っていた、微かに塩味がし、酒精の匂いがする蒸溜水の程度になっていて、それがマリアにとって豪華旅行以上の贅沢である。(外出となるとこの行事が又手がこんでくる)入浴も洗濯ものの絞れないマリアにとっては重労働で、「あああ」と嘆声を発して上って来て扇風機に当り、洋服を着ると又炎天を下北沢をさして歩くのだが、マリア独特の方法によって汗をかかぬように辿りつく。方法というのは禅坊主の心境でゆっくり落ちついて歩を進め、涼しい風のくる場所(一つは床屋と酒屋の庇合《ひあわい》、もう一つは橋の上)で少時風に吹かれ、途中で冷房の洋品店に入り、何か物色するふり[#「ふり」に傍点]をする等である。お目あてのBに入る前に隣のニュウ・ゴオルデンなる下北沢第一の豪華レストラン(いつ潰れるか天井が落ちるか、保証致しません、といった豪華建築である)に入場、コカコオラを注文、パン腹のため空腹が特に酷い日にはチキンカツレツなる豪華料理をライスなしで取る。不思議なことにこのレストランは、他のものは一品洋食屋並みだがチキンカツレツの原料のチキンだけが上等である。(カツレツの皮は剥がしてくう)そこで体を冷やしてからBに入場、何か書く。ここの冷房は圧しが軽いので、風の吹く日には時々外出する。さて六時になると、銀座のスコットの本店で、道楽半分に母屋の二階で、前に階下でレストランをやっていた頃来て知っている人だけにたべさせている下北沢スコットの、元《もと》の階下にこの頃入った、いかす料理店の(全くややこしい話である)鶏の紅葉やき等を折に入れて貰い、又Bに舞い戻ってバタトオストを取って夕食である。葉子兵衛に会って、この世で一番莫迦げた話や、悪党遊びをやる日もあったりして、やがて再び代沢湯である。そこで又馬鹿丁寧で手のこんだ入浴という重労働をやり(労働、又、労働である)、又もや洗い桶と篭を両手に下げ(帰りは野菜等で倍の重さである)ご帰還。さて又洗濯である。あとは疲労困憊してすぐ睡るのかと思うと、夜は楽しくて睡れないから(何が楽しいのか一向に不明である)映画雑誌のブリアリ(ブリのテリヤキではない。こういうエレガンス・マスキュリイヌを観察する歓びをしらないで、アラン・ドロンなんて言っている人間は賎民である)を見たり、切抜いたりして眼を開きっ放しの夜が多い。この絶望的多忙の間々にはごみ屋と屑屋の下請け仕事、駅の手洗いの如き手洗いの掃除(二ヶ月に一回)がある。そのさなかで或日は茄子を煮、生姜を下ろし、八丁味噌汁を作り、裏を焦がした卵やきをやく。ジュリエット(黒猫)は熊笹のエキスで凄いハッスル状態となって、めしをくわず、不眠不休で鼠探しに飛び廻っているので手が省けるのは助かるが、そのせいで痩せて来たのは一寸心配である。
ジュンかヴァンのオトコノコ
現代のオトコノコ((今の言葉で書かないと通じないといけないのでオトコノコと書くのである。もとは青年、書生、若もの、だった。=室生犀星のことばでは青書生、芸者は書生さんといい、若者や、粋な女が、ちょいちょい着に着る、縞お召、絣お召、琉球《りゆうきゆう》、大島、八端《はつたん》、なぞの羽織を書生羽織と言った。よそゆきの時には、芸者は黒紋付、奥さんおよび令嬢は無地のちりめんか、壁お召、または蔭紋かぬい紋の黒紋付、色変り紋付、地紋のある無地、等々だった。令嬢のちょいちょい着の羽織は友禅ちりめん、奥さんの中でも粋な女《ひと》は、表紋の黒紋付や書生羽織を着ないでもなかった。鴎外の文章の中の若い男は嫩者《わかもの》だった=オトコノコなんていうばかばかしく、甘ったらしい言葉は無かったのである。若い男がオトコノコになり、若い女がオンナノコになったあたりから、若い男も若い女も劣性化したのである))が少数の例外を除いていかさないのは(粋《いき》)の歴史が断たれたからである。(粋)の歴史が断《き》れた、とは一体なんのことだ? と思う人のために説明すると、こういうことである。戦前には江戸時代からえんえんと続いていた(粋)の伝統が、どの家にもあった。粋《いき》がほんとうにわかる人間は巴里の趣味がわかる仕掛けになっている。パリの趣味にも、パリの料理の味にも、江戸のそれとの共通点があるのだ。((むろん田舎の人の家にはなかったし、維新の錦布《きんぎ》れ=薩摩っぽう=が大部分を占めていた帝国議会の大臣、代議士、役人、軍人、等の家にもなかったが))粋の伝統の残っている家の息子たちは、お祖母さんやお母さん、姉さんなぞから、(粋)のスパルタ教育をうけた。「なんだねえ、よくも洗わずにポマードをつけて」あるいは「なあに、その爪先だけ色の違った靴下」あるいは「いやあだ何ちゃんのマフラ、それにその赤い靴、アメリカの成金《なりきん》みたい」と女たちは言い、お祖父さん、お父さん、兄さんたちは、女のようにつべこべ口には出さないが、主に軽蔑の態度、表情でやっつけた。まるで一高の新入り(新入生)を先輩たちが夜中に襲い、裸蝋燭をつきつけて人物試しをやったり、彼らがなかなか一人前の向ヶ岡健児にならないと蒲団蒸しにしたりすることによって彼らを一人前に仕上げたように、である。先輩のスパルタ教育によって新入生はやがて一人前の一高生になり、溝《どぶ》泥色の白線帽を被り、古ぼけたマントを首からぶら下げて風にひるがえし、朴歯の下駄で地球を蹴り、デカンショを放歌し、越勝《えちかつ》の牛肉の皿と同じようにショウペンハウエルを数晩で平らげ、「俺はファウストの第一部を三《み》晩で平らげた」なぞと言い放つようになったのである。
彼ら一高生はわからない人間から見れば貧乏くさい書生だったが、実は最高にいかしていたのである。蓬髪弊帽、たくし上がった洋袴《ズボン》から紅い、独活《うど》のような脚を出し、泥や埃で汚れてはいるが清潔な足に朴歯の下駄をはいた彼らの眼はイエーツ、ハイネへの憧れ、ショウペンハウエル、パスカル、への憧憬に、山の湖のように澄んでいた。彼らはわざと汚れたタオル手拭いを腰にぶら下げ、ミルクホールにドカドカと入って、珈琲を飲み、洋食屋の皿めしにソースをぶっかけてくい、紅くてきれいな血が波うつ胸の中に、自分のビアトリーチェを奥深く秘めていた。彼らがそのころの若い女の憧れの的だったことの証拠は、紅葉の『金色夜叉』の鴫沢宮の恋人は一高生だったことで明瞭である。((ただし紅葉の描いた一高生はあまりいかさなかった。ハイネやショウペンハウエルの香《にお》いがないのだ))私はエリア・カザンとジェームス・ディーンが創造した、『エデンの東』のキャルと、明治、大正、昭和(戦前の)の一高生との二つに、地上最高の若者の美と魅力とを見出した。ディーンのキャルも泥で薄汚れていた。ジェームス・ディーンの胸の中にあったピア・アンジェリは永遠のビアトリーチェである。ディーンはリズ・テイラーも好きだったらしく、樹の下にねころんで彼女と仲よく話していたし、彼がサリナスへ向って走る、白いポルシェの上で惨死した時、リズは狂乱したらしいが、聖母《マリア》的で、イギリスのチョコレエトの筐の上に描かれた油絵の美少女のような美人は、バルドーやモンロー、アニイ・ジラルドーまたは最高に粋な美人のアヌーク・エメなぞがいくら癇癪を起しても、この種の女は永遠に、大多数の若者の憧憬の的らしい。若者たちの聖母《マリア》尊拝と、甘さ好きのためのようだ。((むろん地に墜ちた、魔女的分子を持つマリアであるから、彼女たちは街の女の中にだっている。私はパリのキャフェで、マリアがぶよぶよに肥ったような鶏《プウル》=安く買える街の女のことである=を見たことがある))現代のオトコノコが、胸の中に秘めるひまもなく、車夫《しやふ》が淫売《じごく》を買う手っ取り早さでひっかけた、フリー・セックスだか、ドライ・セックスだかの相手のオンナノコは、一歩街へ出ればうようよいる現代の若い女であって見るのも厭である。しかも今は文学ばやりなので、そんなナオン[#「ナオン」に傍点]までが「川端先生の(何々)は」なぞと、ラーメンを喰った口でぬかすのである。私は盛り場を歩いていると、目を瞑《つぶ》りたくなってくることがあるが、目を瞑ると歩けないし、汚らわしいオトコノコにぶつかるのである。鰯の大群のようなオトコノコの群が((ほんとうの鰯の群は、銀色の鱗が光って、若くて生き生きとしていて、素敵だろう))私を取り巻いてのろくさく移動し、その一人一人が、痴呆のような顔をし、汚らわしいナオンにいやらしい眼をしているのを見る時、私はこの世の終りが今来ればいい、ノアの洪水が今来ればいい、水爆が落ちたっていい、と思う。自分も一緒でもいいから、その大群を消したいのだ。
なんだか横道へ来てしまったが、((私は悪口を言いだすと、最限なく饒舌に押し流されるので))私の言いたかったのは、戦前の若ものは家で(粋)のスパルタ教育をうけていたから、胸の悪くなるような格好をしなかった、ということである。一高生を例にとれば、彼らは制服、制帽を汚《よご》すことによって美化し((制服、制帽というものは、そのままキチンと着ていれば絶望的なものである))、彼らの伝統を造っていて、あのスタイルはどこの国の高校生にもなかったのだ。(粋)の歴史が断たれて以来、日本の若者はコンニャクのようになり、着ているものはジュンでなければヴァン、ヴァンでなければジュンである。折角いかす若者がいても、それが女が着たら可愛いだろうと思われるようなスウェータアや洋袴《ズボン》で、髪も女性的に長くしている。戦前の帝大生は汚れて、ひしゃげた角帽の下から延びた髪が出ていたが、その長い髪は、床屋に行かないために延びたのだが、偶然チェーホフかゴーリキーの髪のようになっていて、一高生の時の憧れと憂鬱とが一層深みを増した二つの眼が光っていた。彼らの眼にも、胸の辺りにも、抑圧された美への観念と憧憬が深く沈んでいた。
外側だけではなく中味も、現代のオトコノコは空洞である。現代のオトコノコの眼には、詩もなければ哲学もない。ハイネや、ショウペンハウエルどころのさわぎではない。浪漫的でもなければ、知的でもない。ホットでもなければ、クールでもない。ラジオなんかに呼び出されて、何か訊かれると、どれもこれも「えへへへ――」と力無く笑って、「わかんない……」と答える。理想の女性は? と訊くと判で押したように「明朗な女性」である。
現代のオトコノコで、理想の女性は? と訊かれて明朗な女性と答えないのがいたらお目にかかりたいようなものである。明朗な女性なら街へ出ればどれもこれも陰影《かげ》一つないメーローで、選《よ》り取り看取りである。夢は? と訊けば、「さあ……やっぱ[#「やっぱ」に傍点]、小さな家持って、会社へ行って……」である。彼ら現代青年の意見を総括すると、(戦争は反対)、(結婚相手は明朗な女性、和服の似合う人、味噌汁を造ってくれる人)((こんなオトコノコが夫になると、このごろやたらに出来たおにぎり屋、おかず屋、味噌汁屋に首を突っこんで、喪失したおふくろの味だ、妻の味だと、有難がるのだ。どんな立派なバーで、真白な割烹着のママだかホステスだかが拵《こしら》えたものでも、おかずというものは、気心《きごころ》の知れた自分の家の女が、(台所も清潔なのがわかっている必要がある)拵えるからいいのであって、薄暗い店で出てくる、ことに煮たものなんかはきたなくなくてもきたない感じだし、一流のバーで、その場で拵えて出すのも清潔ではあっても、なんとなくヘンではないだろうか? 習慣でなんとなくバーの止り木から腰が持ち上がらない亭主族が、決まり切った突き出し(たぶん海老やチーズやオリーヴなんかだろう)に飽きて、家へ帰ればあるものを、そこで喰おうというだけの話で、そういうバーに行く男はそんなものを家庭の味だとは思っていないのである。どんなに素晴らしいママやホステスが造っても、家庭のおかずの感じは出ない。ほんものの家庭でも自家製のおかずのない家がふえたらしいから、結局、おかずやおいしい味噌汁はいまにどこにもなくなるだろう。西洋式と日本式のおかずが自分で素敵に造れる私なんかは天下の幸福者である。私が若い男だったら、所謂、何も判らなくて、電気器具さえあれば文化と思っているような奥さんではなくて、大正生れの生え抜きのママの生んだ娘だった人をさがすだろう。そういうママなら、芝生に芝刈り機にカーで、朝はパンと珈琲とベーコン・エッグでもいいのだ。そういう上等の奥さんだったら、うそ寒いおにぎり屋なんかでは出てこない、少なくとも相当な天麩羅屋か鰻屋の赤だしぐらいの味の八丁味噌のおみおつけと漬物に、大森の海苔か、池の端の酒悦の福神漬、花がつおをかけたおろし、納豆、等々を代る代るにつけた朝ごはんを、パンが飽きたころには出すのである))夢は(小さな家と、トヨタのトヨペット)(エンタープライズの寄港は反対)等々。すべて紋切り型で、百円均一の皿に盛った酸っぱい蜜柑のように、どの男もどの男も画一均等である。
大体、(粋)のスパルタ教育がなくなったということは、親たちに自信がなくなって、息子のやることも、服装《なり》も放任になったことなので、自信のない親は、口を出さないことが、理解のある親だとでも思っているより仕方がないのである。それが民主主義だと、自分を胡麻化している親が無数に出来たのは敗戦のためであって、上から押しつけられて、忠君愛国や質実剛健、倹約、等々をただうわの空で唱えていた日本人の大部分は、つまり大部分の親は、永遠にある筈だったそれらの思想の椅子によりかかって威張り、子供を教育していたから、その椅子がなくなるとグラグラになってなすすべを知らない状態になった。戦前から民主的だった、少数のわかった親(これらの親は西洋流の、自分自身の考えから出たほんものの愛国心を持っているのだ)と、これも少数の、昔式のガンコ思想を魂の底から持っていた親と、これらの親以外の親たちが、ただまごついている内に二十二年が経って、その間にヘンなオトコノコは黴のように発生した。自分自身の考えのない親の下ではやっぱり、自分の考えのない子供が出来上るのである。私はそれらの、何を訊いても、一般に流布している、誰でもが言っている理想や夢を、うわごとのように喋り、街でマイクを向けられても、ラジオのスタジオで訊かれても、「エヘヘヘ」と、空虚な、ゴム風船の空気が抜ける時のような声で笑うオトコノコが、震えがくるほど厭である。生理的に耐えられない。その後《うしろ》にある、自分の考えのない日本人の群はもっと、嫌いである。親が文学でも、科学でも、なんでもいい、上等な本を読んで、楽しそうにしていれば、そこの子供は、一時はテレヴィっ子になったとしても、やがて本が好きになるし、立派な大工や左官の子は、父親が仕事に出かける様子にも、いつもきちんと揃って、光っている道具にも、なんとなく敬意を抱くものである。立派な噺家《はなしか》の子供や弟子も同様である。自分に誇りのある親の子供はコンニャクにはならないのである。一般には偉いということになっている学者や、大学教授も、一部の人は、やっている仕事が、先輩や西欧の学者のしたことをなぞっていて、小心翼々、廻りを見てはキョロキョロしている人間で、一方教育ママは大学に入る子供がふえるに従っていよいよ強硬な、皮の固いママゴンになった。昔は友だちと山に登り、山のきれいな空気を吸ってねころび、弁当をくったあと、雪を固めて頬張り、真白な歯で笑っていた若者は、いまではアルバイトの家庭教師になって、ママゴンに協力している。こういう父親や母親の間で育ったオトコノコはいかさないことおびただしい。
昔の青年はよかった。無精髭を生やして、濃い眉を顰めるようにして哄笑したり、埃や泥で汚《よご》れたような(友だちと話していて、白い花のついた雑草をむしったり、石を拾って池に投げたりするからだ)、だが清潔な手で、小刀《ナイフ》の刃を出したり引っこめたりしながら相手の少女を視たりする、薄汚れた制服の一高の生徒は素晴らしくて、そのままドイツ映画のスクリーンに出すことが出来るようなのが沢山いた。女に対して内気だったが、野暮ではなかった。泥のついたキャベツを車に放り上げたり、氷庫《こおりぐら》に潜んで野獣の眼を光らせたキャルのような、どこか粗暴で、野獣のようなところもあった。今のオトコノコは内気なことを恥としていて、恋人の映像を胸の中に深く秘めていたり、野獣の眼を光らせることをバカゲたことのように思っていて、垢のついた中年男のように女を扱おうとする。こういう男の子は大正時代の慶応ボーイのころからすでに発生していた。中年男のすることは中年男に委せておけばいいのである。今の中年の男の方が、十代、二十代のオトコノコよりずっと青年だ。少年の気分だって残している。ヘンリ・ミラーは少年のような手紙を恋人の父親に書いている。
現在《いま》、一体どこにシラノがいるのだ? フリー・セックスや、ホンコン・フラワーは私は嫌いである。世間の享楽者は、ほんとうの享楽を知らない。フラマン語の諺に、≪愉しき者は時刻《とき》を知らず≫というのがあるが、私の諺は≪享楽者は享楽を知らず≫である。とにかく戦前の一高生と、ジェームス・ディーンのキャルとは永遠の若者の象徴である。(フランスの doux な〔柔かなようすの〕男や青年は別種類だが)
[#2字下げ]≪内容皆無の現代のオトコノコよ、呪われてあれ!!! 呪われてあれ!!! 呪われてあれ!!!≫
[#地付き]――サン・ジュリアン――
楽しむ人
私が若い女の人たちに言いたいことは楽しむ人になってもらいたいことだ。私が知っている人々の中の一人に前衛の踊り手がいる。彼女は私に初めて会《あ》った時、こんな話をした。(あたしはもと読売ランドで水中舞踊に出ていました。私は水が皮膚に触《ふ》れるのがとてもうれしいのです。春先や秋の気持のいい日の空気にふれるのも)私は彼女と一時間も話し、すべてに同感した。当時彼女は日本で男では土方巽《ひじかたたつみ》、女では〇〇と言われていた、その〇〇に教わっていた。ところが、〇〇が二硫化炭素の中毒で急死して木から落ちた猿のようになってしまった。私は彼女の話の中に、明らかな天才を感じたので三島由紀夫氏に長い手紙を書いて一度会ってあげて下さいと、頼んだ。返事が来て、それには(あなたのお文章によると素晴しい若い才能だと思います。しかし今一寸忙しいので土方君にお紹介します)と書いてあった。そうして土方氏に彼女を紹介する言葉を書いた名刺が入っていた。彼女がそれを持って土方氏のところに行くと氏は(あなたは何かを持っている。その持っているものを引き出す産婆役にわたしがなりますから、それがなにかわかるまで時々話をしにいらっしゃい)と言った。
日本人は元来、あまり楽しそうでない人種だが、いま、どうも見ていると老人や中年はいうまでもなく、若い人たちまでがほんとうに楽しそうでない。(あなたは楽しんでいるの?)ときけば彼らは言下に言うだろう。(楽しんでるよ。ボオイフレンドもいる。ブテイックでナウな洋服も買うし、ゴオゴオ喫茶で踊るし)と、中にはクルチザンヌのようなことを(売春婦)して大きな金をとって恋人と楽しんでいる、というようなのもいるかもしれない。おばさんなら(ああ楽しいよ。旅行して名所を見たり、スピーカーで―流行歌の中のいやなの―をやってくれるバスに乗ってさ、温泉につかってうまいもんくってさ)と。おっさんなら(楽しんでるよ。キャバレーにも行くし酒のむし、赤線なくたって女も買えるしよ)と。そういう答えをする若い人たちの部屋見れば、子供の部屋かと錯覚するように、玩具じみたものが飾ってあり、赤や黄色のベッドカバア、クッション……流行歌手の部屋のようだろう。おっさんやおばさんの部屋はでこでことへんに立派な岩の置物、夜店で売っているのによく似た掛軸、新年には福寿草と薮柑子の鉢植えがおいてある。
そういうものはほんとうの楽しさでない。皮膚にふれる水(又は風呂の湯)をよろこび、下着やタオルを楽しみ、朝おきて窗をあけると、なにがうれしいのかわからないがうれしい。歌いたくなる。髪を梳《す》いていると楽しい。卵をゆでると、銀色の渦巻く湯の中で白や、薄い赤褐色の卵がその中で浮き沈みしているのが楽しい。そんな若い女の人がいたら私は祝福する。
街や喫茶店に若い恋人らしい二人がいる。その二人の目を見てみると、女も男も自分たちのことはそっちのけで、女ときたらすれちがう女の靴が自分のより高いと(美しいからならまだ救われる!!)じろりと横目を使う。男の方も、自分の女よりいい女が通るときょろきょろする。巴里《パリ》の恋人たちは自分たちの世界にとっぷり浸《つか》りこんでいるから、傍《かたわ》らにどんな奴がいようと気がつかない。二人だけ天国に入っているような気になっている。
私は息子と二十四年目に再会した時、巴里の恋人のようにまわりが見えなくなって、ばら色のようなもやに取りかこまれていて、手がどこにあるか足がどこにあるかわからなかった。恋人ではないのに。言いあらわすのがなかなか大変だがわかっただろうか。
ひと昔前の若い男の青春は、恋愛とか|SEX《エスイーエツクス》なんかで懊悩《おうのう》し暗澹《あんたん》として暗かったらしいが、苦しさも暗さも後になって振り返ってみれば切ない歓びだ。美味《うま》いものには辛さもある、苦みもある。生きている歓びや空気の香《にお》い、歓びの味、それがわからなくてなんの享楽だ。なにが生きていることだ。人生は人に感心されることをやって道徳づらをして(本ものならいいが偽の仮面)それで生きているのだろうか? 即席ラーメンやどこの店も同じなハンバアグをくい、つまらなくてあくびの出る女と歩いているのは楽しさではない。いい舌を持って自分で造《こし》らえればいいのだ。では枚数がもう一行で尽きるからこれでさよならしよう。生を、空気を楽しむことである。
[#改ページ]
食い道楽
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好きなもの
漱石という偉い人はジャムをなめたらしいが、私は練乳《コンデンス・ミルク》をよくなめる。近頃は一層凝って来て、エヴァ・ミルクにグラニュウ糖を入れてなめる。天国である。柔らかな甘みが精神にまで拡がる。幼いころのミルクの香《にお》いが蘇《よみがえ》るのだろうか? アガサ・クリスティという推理小説家が、何か陰でうまいことをやって、仕済ましたりとにんまりする人の表情について、「猫がミルクをなめたような顔」という表現をしているが、私がミルクを匙《さじ》で舌にのっける時の顔はまさ[#「まさ」に傍点]にそれだろう。
日本酒は、飲んでいる人のいる部屋の香いもきらいである。昔の新橋や柳橋の芸者、又は素晴らしい役者、噺家《はなしか》、即ち、二通りの「しゃ」や「しか」のいる部屋なら、(昔、芸者と役者を「しゃ」噺家を「しか」と、洒落《しやれ》て言ったのである)そういう部屋に坐ってもいいが。そういう人間が起《た》ったり、坐ったり、お酌をしたりするのを見るだけで、粋《いき》な美しさがあるにちがいないからだ。
洋酒は白葡萄酒(ライン河の流域でとれるライン・ワインか、渋谷で見つけたグラァヴ・セックという、龍土軒で料理に入れるという、淡泊な葡萄酒。シャトオ・ラフィットゥ、シャトオ・イキュエムの味は、もう忘れてしまって跡かたもない)。クレエム・ドゥ・カカオ。ヴェルモット。ウィスキーは特に香いがすきである。いいウィスキーは樽の香いがするそうだが、そんな香いをふと、感じたことが一度ある。三百四十円のトリスだったから、幻覚にちがいない。
薄茶。紅茶(リプトン)。上煎茶(玉露には淡泊さがない)。瑞西《スイス》、或いは英国製の板チョコレート。戦前のウェファース。抹茶にグラニュウ糖を混入して、なめる即席の上和菓子。番茶、塩煎餅、かりんとうの類はあまり好きではない。どういうわけか、庶民的なものは嫌いである。すごい金持でいて、二言目《ふたことめ》には「庶民、庶民」と言う人間も嫌いである。真物《ほんもの》の町の人間は「庶民」なんていう尊称を与えられたら、くしゃみをするだろう。
煙草はフィリップ・モリスか、戦前のゴールデンバット。フィリップ・モリスはブリアリ(フランスの映画役者)に似た小説中の人物が吸いそうな気がしてから、好きになった。チーズはオランダ・チーズと、プチ・スイス・チーズ(腐った牛乳の蓋に付いた、チーズ状のものを固めたようなもので、小さな三角形をしており、一つ一つ銀紙にくるまれている。砂糖を一寸《ちよつと》混ぜてたべるのである)。これは上等の菓子以上に美味しいが、不幸にして日本にはない。平目の牛酪《バタ》焼。同じく刺身。野菜の牛酪《バタ》煮。淡泊《あつさ》り煮た野菜。砂糖を入れた人参の甘《うま》煮。トマトの肉汁《スープ》。ロシア・サラダ。八杯豆腐、蜆《しじみ》なぞの三州味噌汁。
私は食いしん坊のせいか、スウェターの色なぞも、胡椒色、ココア色、丹波栗の色、フランボワアズのアイスクリーム色なぞがすきで、又似合うのである。すべて味も色も甘く柔らかいのがすきで、「渋い甘み」というのが、好みである。
お菓子の話
想い出のお菓子。それは静かな明治の色の中に沈んでいる紅白、透徹《すきとお》った薄緑、黄色、半透明の曇ったような桜色、なぞの有平糖《あるへいとう》の花菓子。
大きな真紅《あか》い牡丹、淡紅の桜の花、尖端《さき》が紅い桜の蕾、緑や茜《あかね》色を帯びた橄欖《オリーブ》色の葉。薄茶色の木の枝には肉桂の味がした。紅白で花のように結ばれた、元結いの形のも、あった。
それらの花束は細く長い、青白い母の掌の上に、半紙にのせられて咲き香《にお》っていた。一回分のおやつとして母はその中の桜の二三輪とか、牡丹の花片の幾つか、というように折って私に、与えた。硝子戸越しの午後の陽の光に、桜の淡紅、葉の緑、牡丹の真紅《あか》、なぞが、きらきらと透徹り、ヴェネツィア硝子か、ボヘミア硝子の、破片《かけら》のように光った。
失われた時を求めて、過去を自分の掌でさわり、たしかめ、ふたたび現在の中に再現しようとした、素晴らしいフランスの作家の、マルセル・プルーストが愛した、彼が幼時に母親や叔母の家で味わったプティット・マドゥレエヌ。有平糖は私のプティット・マドゥレエヌである。
天長節の日、父親が宮中から持って帰る白木綿の風呂敷包みは、私の有頂天な夢をかきたてた。風呂敷包みを解くと、緋色の練切りの御葉牡丹、羊羹《ようかん》の上に、卵白と山の芋《いも》で出来た鶴が透徹ってみえる薄茶入りの寒天を流したもの、氷砂糖のかけらを鏤《ちりば》めた真紅い皮に漉《こ》し餡《あん》を挾んだ菓子、なぞがひっそりと入っていた。明治の文学者は多くの報酬を得たとはいえない。それらの煌《きら》めく菓子たちは大てい戴きものであって、私たちが常用したのは本郷、青木堂のマカロン、干葡萄入りビスケット、銀紙で包んだチョコレート、ドロップ、カステラなぞであった。どこかの遠い知人から送られてくる、白い薄荷糖《はつかとう》は甘く、品のいい蜜の味。種のない白い干葡萄。これらは年に一度の楽しみで、あった。
現在の私の常用菓子は時々変るが、目下のところは下北沢の青柳の、淡黄の栗の形の中に、上等の栗の刻んだものが入っている半生《はんなま》である。新鮮な栗を使うせいか、秋から冬にかけての二三カ月の他は姿を消すのが欠点である。又、白餡を薄紅色の牛皮《ぎゆうひ》で包んで、白い芥子《けし》の実をまぶした、梅の花形の、これも半生、これらの青柳の半生は、三日おき位に十個ずつ買うが、それ以外の平日は、明治生れの私にも品の悪さや粗雑な味を感じさせない小型の桃山で、これは代沢《だいざわ》に一軒、下北沢に二軒売っている店があり、一軒で買うのを忘れた時でも次々と又他の店で買えるという、便利な仕組みである。他に雪あられと称する、これも大量生産の安菓子だが、味が軽く、上品で気に入っているが、私の好きな、安くて贅沢《ぜいたく》な味の菓子とか、気分のいい石鹸とかはどういうわけかきまって製造元で製造停止になるのである。製菓工場が、森茉莉さんという一人のお婆さんの為に製造しているわけではないので、文句のつけようもない次第である。
ビスケット
少ししか知らない仏蘭西語で書くと、ビスケットは Biscuit である。
ビスケットは英国から来たものらしいから、仏蘭西人がその侭《まま》の綴りにしてビスキュイと発音しているのではないかと思う。ビスケットの場合に限り、私は英語で言いたいので、これは私としては英語で書いた積りである。私は元来は英語は虫が好かない。理由は、女学校で習った、ほんの少しの仏蘭西語が頭に入ってしまって、他の外国語は知らない、それで、英語というものは、やたらに発音しない字がぞろぞろくっついているのが、癇《かん》に触るのである。また読み方が、仏蘭西語を習った人間にとっては思いもかけない読み方になっているのも、癪《しやく》に触る。Pie はパイらしいが、私にはどう見てもピーであって、パイがピーとは何ごとか、と、私は喫茶店のメニューを睨《にら》んで、いつも不機嫌である。その英語嫌いの私が、ビスケットだけはビスキュイともプチ・フウルとも言いたくない。ビスケットは英国のものだと思うし、ビスケットは英国産の、あの固さと、噛む時の脆《もろ》さと、仄《ほの》かな牛乳《ミルク》の香《にお》いと牛酪《バタ》の香い、そうして上等の粉の味を持ったものに限るからである。
私は小説を読んだり、映画を見たりする時、面白くて引きこまれていた場合でも、食物の出てきた場面は鮮明に頭に残っていて、それが何年経っても消えない、という、大変な食いしん坊である。亜米利加映画で大ホテルの朝の食卓が映り、銀のポットから透徹《すきとお》ったような濃い褐色に輝いた珈琲《コーヒー》が、捩《よじ》れたようになって迸《ほとばし》った時、私は心の中でアッと言った。それ程|美味《おい》しそうで綺麗だったのである。ジャン・ギャバンの映画の鶏の丸焼。ヒッチコック映画の、田園の食卓の上のグロッグと、山盛りのマフィン。シャーロック・ホームズの夕食の冷製の鴨。同じく彼が飲んだブランディー入りの珈琲。そんな風だから、まして黒岩涙香の英国ものらしい翻案小説で、無実の罪で牢に入った貴族の娘に父親が、普段食べているビスケットを差入れるところでは感動した。どんなビスケットだったろうかと、私は眼を宙に据え、しきりに空想の翅《はね》を延ばした。
私は仏蘭西好きだが、麺麭《パン》と紅茶とビスケットだけは英国に限る。(但し料理と、ビスケット以外の菓子は倫敦《ロンドン》に行った時、その不味《まず》さに驚いた)いつだったか、京都へ行った人が、京都で売っている英国麺麭を二斤ほどお土産に呉れたが、四日の間毎朝、英国流に紅茶とハムエッグスとを添えて、堪能した。紅茶は、いつも私の小説を読んで呉れるお嬢さん(その人は伊太利の古い画――素描の――にある、翅のある少女のような顔で、伊太利製の地味なレインコートをようす[#「ようす」に傍点]よく着こなし、肩から地味なバッグをかけている時なぞ、なかなかいい。アンソニー・パーキンスのファンで、私とパーキンスについて話すと、話は終る時がないのである)が呉れる、純英国製の紅茶を飲んでいるが、酒のみの人が酒に酔うように、私はその紅茶の香いに酔っては、眼を恍惚《うつとり》とさせ、(自分では恍惚とした顔の積りだが人が見れば何を茫然としているのかと思うだろうが)そのいい気分になったところで小説をお書き[#「お書き」に傍点]になっている。
ビスケットには固さと、軽さと、適度の薄さが、絶対に必要であって、また、噛むとカッチリ固いくせに脆く、細かな、雲母状の粉が散って、胸や膝に滾《こぼ》れるようでなくてはならない。そうして、味は、上等の粉の味の中に、牛乳《ミルク》と牛酪《バタ》の香いが仄かに漂わなくてはいけない。また彫刻のように彫られている羅馬《ローマ》字や、ポツポツの穴が、規則正しく整然と並んでいて、いささかの乱れもなく、ポツポツの穴は深く、綺麗に、カッキリ開いていなくてはならないのである。この条件の中のどれ一つ欠けていても、言語道断であって、ビスケットと言われる資格はない。ヨークの薔薇のような英国貴族の娘の、白い歯に齧《かじ》られる資格はないのである。森マリさんなんていう、変な小説書きの婆さんなら亜米利加製や、日本製ので結構だ、とそこらのビスケットが言うかも知れないが、そうは行かない。私は貧乏でもブリア・サヴァランであるし、精神は貴族なのである。この頃流行の庶民は大嫌いである。今は絶滅に瀕《ひん》している本当の「町の人」は、ショミンなんて言われると、くしゃみをして「しょみんて、なんですい?」というだろう。昔、私の住んでいた団子坂上に「伊勢屋」という菓子屋があって、そこの硝子|瓶《びん》の中に、マリー・ビスケットという大型で円いのと、イタリアン・ウェファースという長四角で、縁が古代のレースのように尖ったぎざぎざになっているのと、二種類があったが、その二つは英国ビスケットの伝統がどこかで伝わったものらしく、なかなか気品があった。固さも、彫りも上々であった。私は戦争疎開で、団子坂上の「伊勢屋」と離れてからは、好きなビスケットに出会ったことがない。
私は、幼時は本郷の青木堂の西洋菓子で育ったが、青木堂が無くなってからは、女中が一分間で買って来るので、伊勢屋のビスケット専門だった。どういう訳でイタリアン・ウェファースというのかわからないが、ウェファースというがビスケットで、そっちの方は特に秀逸だった。私はそのビスケットを大皿に盛り、薄水色の罐《かん》入りのリプトン紅茶を淹《い》れ、角砂糖を一つ半おとして、三時の食卓に向ったものである。父親の石像が立っている花畑の庭の冬枯れが、硝子戸越しに広々としていた。贅沢貧乏の名人で、代沢湯の湯ぶねに浸っていて、西班牙《スペイン》のアルハンブラのバッサンを空想する(無論眼は瞑《つぶ》るのである。ちりちりの髪を洗っている、真赤に肥った中婆さんや、地獄の針の山に追い上げられている女亡者のような痩せさらばえたお内儀《かみ》さんが見えてはおしまいである)という私だが、本ものの庭が見えるのはいいものである。
戦後のビスケットは、高価な上ものも出たが、牛酪《バタ》が多過ぎたり、甘すぎたり、色は濃過ぎ、妙に気取って形もさまざまで、それにビスケットというよりデセエルに近い。亜米利加製のチョイスなぞは論外。私は誰がなんといってもビスケットは、リットゥル・ロード・フォントゥルロイの祖父が召使いをどなりつけて退《さが》らせてから、まだ怒《いか》りながら齧ったビスケットのような、古来の英国ビスケットでなくては、ビスケットとは呼ばないのである。
シュウ・ア・ラ・クレェム
もとは仏蘭西《フランス》のものだという、シュウ・ア・ラ・クレェムは、私の唇《くち》に入ったことがない。巴里《パリ》で、菓子専門の店に何度も入ったが、シュウ・ア・ラ・クレェムはその日に限って切れていたのか、見たことも、たべたこともない。私の想い出の中に、永遠の王冠のように耀《かが》やいているのは明治時代に※[#「几の中に百」、unicode51EE]月堂で売り出した(シュウクリイム)であって、(シュウクリイム)という言葉の中に私が感じる無限の美味《おい》しさと、ふくよかさ、舌ざわり、幼い掌の上にあった重み。いただきがこんがりと、狐色に焦げた皮の上にふりかかっている粉砂糖は舌の上で、春の淡雪《あわゆき》よりも早く溶けて、その甘みは捉《とら》えることも出来ないうちに消え、卵黄と、牛乳《ミルク》と、ヴァニラの香《にお》いが唇一杯にひろがる滑らかなクリイムは、その日の朝焼かれたものなのに皮になじんで、皮の内側はクリイムの牛乳を吸いこんでしっとりしている。何かで機嫌《きげん》を悪くしていた子供の神経が、クリイムが唇の中に一杯にひろがったとたんになだめられ、鎮められる。唇のまわりをクリイムだらけにした子供は、その唇を、鳥の雛《ひな》のように開《あ》けて、「もっと」と言う。母親が黙っていると、もう一度繰り返す。母親の青白く繊《ほそ》い掌の取り箸《ばし》がもう一つのシュウクリイムを軽く挾《はさ》み上げる。(あ、もう一つくれる!!!)。甘いクリイムの中で舌が踊るような歓喜《よろこび》が又|一寸《ちよつと》の間続く。なんと楽しい、だがなんと短いよろこびだろう。表は滑らかで、裏はざらざらした真白なボオル箱は、子供の限りない夢をひそめて、茶箪笥《ちやだんす》の中に蔵《しま》われた。その白い箱には扇面に三日月が一つ描かれたデザインの商標が、焼きつけて押されていた。
この超食いしん坊の子供は私である。母親は常に私に、(もっとの坊っちゃん)というお伽噺《とぎばなし》をして聴かせて(これは彼女の創作らしかった。古今東西を通じて、そんなお伽噺はないからだ)たしなめたが、父親の方が、「お茉莉《まり》よし、よし、もっと食え」と言って、魅力的な微笑《わら》いを浮べて私を見るので、私の食いしん坊はいささかも衰えずに、却《かえ》ってますます昂揚《こうよう》された。
父親は独逸《ドイツ》の雑誌から、いろいろな写真や絵を切り抜いてノオトブックに貼《は》り、私に与えていたが、その中の一つに、ここに掲げた写真のような女の子の可哀らしい表情が、フィルムのように五枚続きで映っているのがあった。「あら、クリイムだわ」「下さるかしら?」「下さらないの?」「ああ、下さる」「下さった」という写真の下の説明につれて子供の顔が少しずつ変化し、最後の写真は両手を打ち合わせるようにして、満面に笑いを浮べていた。
シュウクリイムに関するもう一つの想い出。それは銀座の数寄屋橋の河岸に有楽座が、砂糖で造《こし》らえた建物のように、河の面に白い影を映して建っていた頃、私はよく母に伴《つ》れられて、日曜日毎に上演されるお伽芝居を見に行ったが、幕合いになると母は私の掌をひいて、※[#「几の中に百」、unicode51EE]月堂が出張している小さな食堂(ビュッフェだけがあって椅子も卓子《テエブル》もない小部屋である)に入って行った。そこで私は母親の掌にもあまるほど大きな、シュウクリイムを貰った。シュウ・ア・ラ・クレェムというのは、(クリイムの入ったキャベツ)というわけなのだろうが、凸凹のある形はキャベツではなくて花キャベツに似ている。フランス語ではキャベツも、花キャベツも同じに、シュウというのだろう。この幼い私をかぎりなく歓ばせたクリイム入りの焼菓子は、大正時代に入ると変り型が造られはじめた。エクレアである。それと同時に中のクリイムもココア入りのもの、生クリイムの白いのも出来るようになった。
今日も私は神田で、シュウクリイムを二つ平らげて来たが、そこの店のシュウクリイムは昔のに近いので、プルウストが幼いころ、叔母《タント》の家で食べたプチットゥ・マドレエヌを舌の上に再現しながら書いた小説《ロマン》(失われた刻《とき》)の一節のように、現実の舌の上に、≪失われた刻≫をのせて、味わっていたのである。
卵の料理と私
私と卵とのつき合いの歴史を言うと、幼い頃、お粥の上に柔かめの煎り卵をかけたのが大好きだったことに始まる。料理屋に行くと、茶碗蒸し、厚焼卵を必ず注文する。巴里の「マダァム何某」といった料理屋だと、ウフ・ジュレ(コンソメの中に卵を入れたジェリイ)、オムレット・オ・フィーヌ・ゼルブ(香《にお》い草入りのオムレット)を取る。家でも、昼でも夜でもハムエッグス。腎臓病になったのは当り前である。
これは、父の思い出だが、父は、陸軍省の月給も、昔の原稿料も雀の涙だったので、伊予紋、八百膳なぞという料理屋に母と三人で行くのは一年に一、二度だった。伊予紋や八百膳で出す厚焼卵は、ほのかに味醂の香《にお》いがして、ふっくらしていたのにちがいない。子供の舌にも、なんともいえない美味を伝えた。
私の父は津和野の貧乏な医者の子供だったので幼い頃は余り卵なぞは食べなかっただろう。父は半熟卵を象牙の箸の上の方の角い所でコツコツと軽く突いて、実に上手に蓋を開けてくれた。又父は宴会で隣の私の茶碗蒸しの中の私の嫌いな三つ葉をきれいに取り出してくれた。そうして誰かが話をして下さいと言うと、「今、子供の嫌いな三つ葉を取りのけて遣《や》っているので」と微笑しながら断りを言った。それは決して、話をするのが厭で、そう言ったのではなかった。或時は、今子供の牛肉を切っているので、と言った。
大体卵の料理を拵《こし》らえるのが、楽しい。銀色の鍋の中で渦巻く湯の中を浮き沈み、廻ったりする卵を見ていると、私は楽しくなって来て、歌いたくなってくる。又、片手にフライパンを持ち、バタァが溶けるのを待って卵の溶いたのを流し込み、箸で上手《うま》くかきまぜて、オムレットを造って行くのも、楽しい。朝の食卓で、半熟卵がなんともいえない味で咽喉《のど》に流れこんだ後《あと》、皿の上に空になった卵の殼が朝日に透けて、卵の部屋のようなのも明るい、楽しい、気分である。
巴里《パリ》(巴里《パリー》と言わないで下さい。Paris であって Parie じゃないのです)のオムレット・オ・フィーヌ・ゼルブは素晴しい。日本の芹とか三つ葉のような、ああいう日本の味ではない巴里の香い草の入っているオムレットである。又同じく巴里のウフ・ジュレもおいしい。コンソメの柔かいジェリイの中に半熟卵が入って、パセリのごく細《こまか》いのが入って透《すきとお》っている。私は夫がどこのレストランに行く? というと、そのジェリイを出す店の名を言った。
大体、卵というものの形がいい。≪平和≫という感じがする。仏蘭西の誰だか(詩人)が言った言葉が浮んでくる。≪戦争のない、夏の夜の美しさよ≫。私にとって、卵というものは私に平和な思いを持ってくる、どこからかの使いである。私は卵の形や色が好きな為に、家に買いおきがあっても、店にある卵たちを見ると買いたくなってくる。ザラザラした白。明るい褐色のチャボ卵。今はないが、極く薄い紅色がかった殼に、小さな白い星のような模様の出たのは、家に卵があっても買った。挽肉入り、ハム入りのオムレットも美味《おい》しい。煎り卵の小丼が食卓にあると、春の菜の花のようで、料理屋のお椀の中の白|鱚《ぎす》に添えた菜の花の細い枝も、美しい。
私が考え出した卵料理に、実《み》のない茶碗蒸しを拵えてそれを大匙で軽くすくってお清汁《すまし》に浮かべ、三つ葉、ほうれん草なぞを添えるお椀がある。巴里の下宿、ホテル・ジャンヌ・ダルクの奥さん、マダァム・デュフォールは私がお腹《なか》が悪いと言って、肉も魚も、サラドもたべられないでいると、パイ皿でフワフワの卵焼きを拵らえて、ふきんで撮《つま》んで食卓に持って来て「ビヤン、ショー、マダァム(熱いですよ)」と言いながら、出してくれた。中庭、といっても空地だが、そこに夫人の飼っている鶏がいつもココ、ココ、と鳴いて、歩いていた。
私の父は生卵を熱い御飯にかけてたべるのが大好きで、毎年十月の初めに十日程、正倉院の御物《ぎよぶつ》(よく宝物《ほうもつ》と書いてあるが、宝物にはちがいないが、あれは御物というらしい)の虫干しのために、奈良へ行って人々が御物を干すのを傍にいて監督していたようだった。その時、どなたかのお家に泊めていただいていたのだが、生卵御飯がどうしてもたべたくて、町へ出て卵を買い、袂に入れて来て、御飯にかけた。その泊めて下さった家の人は、家《うち》で出すお菜《かず》が気に入らないのだろうか、と思われたのではないだろうか。生卵御飯は、私も大好きで継承している。
子供がお腹をこわして、「おもゆ、半じゅく」とねだると、「腹の悪い時に重湯ならよかろう、半熟とパンならよかろう、というのがいけない。一日|乾《ほ》せば(お腹を)下痢は直る」と言っていて、母に、私にそう言え、と言った。父は私を怒るのがいやで、怒る時には母に言わせて、自分は知らん顔でいつものように、にこにこしていた。
父は子供の時からこの、生卵御飯が好きだったそうだが、津和野の家では、鶏を飼っていたのだろう。津和野の森静雄(父の父)の家で、卵を毎日のように、御飯にかけるなぞという贅沢が出来た筈はないから。
食い道楽
食通とか、食い道楽とかいうと、料理に委しくて、たとえば魚ならどこの海の、どこの湾で捕れた魚の、それも何月初旬或は中旬から、何月のいつ頃までのが美味しいとか、肉なら鶏又は牛の、どこの肉がおいしいとかいうような、ふつうの人には到底判らないことを知っている人を言うのであるが、そういうことがよく判っていれば、いつ何時《なんどき》でもおいしいものがたべられて幸福である。けれども、そういうようにいろいろ委しくなくてもたべることが好きで、自分でも仕事の合間には自分のすきな料理を造ったり、造って人にご馳走したりすることが、しんから楽しければ、食通とはいえなくても、やっぱりこれも一種の食い道楽の人といえるだろう。
私はこの、あとの方の食い道楽である。食いしんぼうと言った方が当っているかも知れないが。私がそれを言うと誰も、信じられないという顔をするが、毎日料理を造って楽しんでいる。
掃除や洗濯は有がたくないが、料理をこしらえるのは楽しい。とにかく、フライパンを熱して黄色のバタァを溶かす、すると私はもう楽しくなっている。バタァが溶けるや間髪を入れず卵を割って落とす。二三度掻きまわし、ふんわりとまとめ、表面を一寸焦がして皿にうつす。全く楽しい作業である。それからそれをたべるのが又楽しいのであるから、料理というものは大したものである。きらいな人には不可解なことらしい。私の友だちの一人に料理に全く興味を示さない人物がいる。アパルトマンで一人で小説にいそしんでいるので、野菜や海草類、貝類なぞが不足しはしないかと憂えるが、平気の平左である。トマトと胡瓜を冷やして切り、塩と胡椒をふり、パン(それもこのごろは切って包んである)にバタァをぬって、なにもサンドウィッチを製造しなくてもたがいちがいに口に運んだらどうだと、私が勧めると、トマトを切るのも面倒くさいと答える。或日割合いにおいしいS社の洋食罐詰を贈り、罐切りで罐を切って(罐を切るのは私より上手なのである)、罐のままガスこんろにかけるようにと、すすめたが、二三日たって、おいしかったかときいてみると、面倒だからMさんに上げたわ、という返事でがっかりした。
こういう人物も世の中にはいるが、私は一寸したレストランへ行っても、自分が造ったものほどおいしくないという、料理自慢である。自惚れでない証拠を一寸書いておこう。死んだ父森鴎外や母をはじめとして、きょうだいも、息子も、私の造ったものをひどく喜んでたべるのである。母なんぞは大したこともないが、わりに金のある家で育って口が贅沢な人であったが、歌舞伎座へ行くのでも郊外へ行くのでも、私に弁当造りを命じた。私はすることがのろいので、母と芝居へ行くことになると、早くから台所に入る。海老を醤油と清酒を少し入れてさっと煮たもの、うどの甘煮(うどを茹でて塩と砂糖少量と酒、これも少量で煮るのである)、やきどうふの煮奴、菠れん草のおひたしに白胡麻をふりかけたもの、なぞを造って、黒塗り艶消しの、半月型の弁当型につめる。
一つ滑稽なことを書くと、私はすごく食いしんぼうなので、たべる時、十六七の男の子並みにがつがつする。それで、よく何かが気管に入る。久保田万太郎氏の死なれたようすをきいてからは、そうなっては大変だと思うので、大分しとやかにたべるようになった。
私の道楽
お菜《かず》を拵らえるのが道楽のようなものである。鍋にバタァを少量溶かし、ステェキ用の肉の薄切りをならべ、胡椒、塩をふりながら玉葱を代り代りに重ね、蓋をして蒸し煮にする。葱の味が牛肉にしみて美味。繊く切ったベェコンをジュウジュウやり、茹でたキャベツとバタァ少量でいためる。豆腐を醤油、白鶴少々でざっと煮る。細いうどんをざっと熱くしボオルに注いだお清汁より幾らかこいお汁を熱くしたのに入れ、用意したにんにく一丁半と大匙に軽く一杯の生人参のみじん切りを入れる。お鍋が黒くなるのを構わず、皮つきの馬鈴薯を大切りにして蓋をして焼き(水少量)、茹でた人参と一緒に醤油、白鶴、で煮る。うでた芽キャベツを味なしのフレンチソオスで和え、卓上で塩胡椒する。白石かずこ、矢川澄子、^子ちゃんなぞが長く記憶している美味なものである。精神をこめないと駄目である。料理番組のしち面倒臭い料理はすべてばかげている。
最後の晩餐
持病の腎臓の状態も良好で、体全体の具合も、最近、医者に診て貰った結果がすこぶる好かった。動悸が大変に柔かくて、皮膚の状態を見ても(診察を断ったので診察したのではなく、脈だけ取ろうと言って手首を丁寧に抑えただけだったから顔と手との皮膚を診ただけだが)話をする様子から見る頭の働きをみても、すべてに老化現象が少しもない、というのである。若しこの診断をきいているのでなかったら、この題を課した編集部は恐ろしく残酷というほどではないにしても私に対して、ずいぶん気の毒なことをしたのではないだろうか? 私の年齢では、最後の食事、それは朝食になるか、昼御飯になるか、それとも夕食になるかはわからないが、ともかく十年以上先きのことではないからである。健康なままの状況で最後の食事をするという、なにかの状況に追いこまれた場合のことを指しているのかもしれないが、最後の晩餐、という題をきいた途端に私がいやな気がしたことは否めない。死というものは、罪人の死刑とか、キリストの磔刑《はりつけ》のようなものだから、私のような年齢の人間にとって、≪最後の晩餐≫という言葉は今言ったような診断を知っていなかったとしたら一寸した衝撃の筈だからである。
老人というものは食べるより他に愉しみがない、とよく言われているが、私の場合は愉しみはそれだけではない。だが幼い時から、現在まで、食べることだけを考えているかのような人間で、今でも、朝目が覚めると、今日は何のおかずにしようかと真剣に考える私である。ただ年齢を考えて米の飯を抑えていて、たとえば二合の米を固めのお粥に炊いて、それを四等分して四度に食べるので、一回が五勺のわけになる。その代りおかずは多くしている。何をこしらえるか? と真剣に考えるといっても、大したものをこしらえるわけではないが、味噌汁にしても、八丁味噌を出しで溶き、いったん煮たててから上澄みを取って別の鍋に移し、白鶴を充分に振り入れ、さいの目に切った豆腐なり、若布《わかめ》なりを入れて煮立ったら火を止め、水で溶いた辛子を少量入れる、というようにやるので、他人《ひと》にこしらえて貰うわけにはいかない。そういう私だが、最後の食事とわかっていたら素晴しいものなんかは思い浮かばないだろう。気持が一《いつ》たん死の方に向いたら、この世界の中の愉しいもの、美味しいたべもの、なぞの、すべての歓びには背を向けた後《うしろ》にあるわけで、すでに無くなってしまったものになっている。欲しいと思うものといえば冷たい水位だろう。水道の水が既に、到底|脣《くち》に入れられないものになっている今では、氷片を入れた番茶位を欲しがるだろう。
――あめゆじゆ、とてちてけんじや――
宮沢賢治の妹は、死の前に高熱で苦しんでいる時、庭の松に積もった雪が溶けて落ちる水を賢治にねだった。賢治は、よく覚えていないが、藍色の模様のある御飯茶碗に雪の水をうけて飲ませてやった。そうして、私の好きな質《たち》の詩ではないが、哀しい、きれいな詩を書いた。最後のたべものというと、私は賢治が妹に飲ませたような、松に積もった雪水が飲みたいような気がする。
私と年の暮れ――料理作らずふだんのシチューで
昔から私は、新年よりも暮れが好きだった。少女のころは、新年の晴着が用意されていて、それを着るのを楽しみにしながら、毎日指折りかぞえている。その楽しみは待つ喜びである。月半ばになると、街《まち》がいきいきとしてきて、通る人、ものを売る人、皆、暮れの顔になっている。堅く、冷たい十二月の空気の中に、店々の前に立てた笹竹《ささだけ》の葉が寒気にちじれたようにそりかえって、サラサラと鳴る。いつもは静かな家の中も、どことなくざわめいて、お供えを飾ったり、正月用の料理を詰める蒔絵《まきえ》の重箱、錫《すず》製の屠蘇瓶《とそびん》、三つ重ねの盃《さかずき》などがとり出され、つやぶきんがかけられる。替えたばかりのいぐさのにおいのする畳の上に半紙の裁ちくずや、ゆずり葉、しのぶの葉の使い残りが散らばっているのを掃き出そうとして、母があける障子も張替えたばかりで白く、湿り気があって、のりのにおいがするようである。
不思議に昔は暮れというと晴れた日が続いて、からっ風が吹き、来客は多いが、部屋部屋が片づきすぎて変に静かでしんとした正月には雪が降った。日記帳に二日、初雪などと書かれたのを思い出す。
私は家事なども趣味でながめていて、自分で体を動かして何かするのは、若い時から億劫《おつくう》な方である。さいわい、家庭を持っていた大正九年ごろから昭和の初めにかけては、女中が何人もいる境遇だったので、どうにかやってこられたようなものだったが、それでも料理は大好きで、家事のきらいな奥さんも料理というと、おもりのはいったような腰を軽々とあげて台所に出た。たべる方も熱心だったが、趣味の観点からお供え飾りなどにもわりあいに凝って、型通りに三方の中にかちぐり、米なども敷き、くし柿、昆布、ゆずり葉などをきれいに飾り、海老をうまくのっけるのに苦心したりした。
大正の終りのころのある年だったが、買物に出ると何かしら買い忘れてくる私はお飾りの海老を忘れ、大《おお》晦日《みそか》近くなって、どこも売切れた海老をさがして、目白の通りを遠くまで小走りに歩き、失望して帰って来た日のことは今でも覚えている。そのころは、もう百貨店に行けば、黒豆も、きんとん、伊達巻《だてまき》すべて折詰で売っていたが、黒豆とおせちは家で煮た。黒豆は仕上げに水飴《みずあめ》を薄めて入れて照りを出した。
昭和の初めに私は離婚して、実家に帰ったが、そのうちに翻訳なんかをやり始め「婦人之友」に載せてもらったりしはじめ、やがて浅草に近い神吉町のアパルトマンに一人で住むようになった。そのころは小説も書けないと思いこんでいて書かなかったし、締切りの日や枚数を忘れてあわてふためくこともなく、のどかだったので、料理もよくやり、正月の錦《にしき》たまごも、卵をゆでて白身と黄身とにわけて裏ごしにし、砂糖少しと塩ひとつまみで味をつけ、大きな弁当箱に白身と黄身とを互いちがいに四段に平らにならして、ご飯蒸しで蒸し、ぽんと皿《さら》に出して、買ってきたきんとんなどと盛り合わせ、楽しんだこともあった。そのころは屠蘇散を飲んだり、松をいけたりするのが古い感じできらいになり、洋画家の故長原孝太郎先生のご家庭をまねて、薄紅色のカーネーション、薄紫のあらせいとうなどを壜《びん》にさし(そのころから私はガラスきちがいになっていて、きれいなガラス壜、ヴェルモットの空壜が部屋の飾りになっていた)赤ぶどう酒をコップに注ぎ、鶏や野菜のサンドイッチをたべて楽しんだ。
だが、このごろは、流行作家でもないのに遅筆のために年中あわてふためいていて、正月の料理も作らず、ふだん作る美味なシチューなどは作るが、暮れも正月もなく、かさこそと鳴るのは笹竹の風鳴りではなく、原稿用紙を丸める音に代ってしまった。
京都・お正月
ここに掲げたのは京都の「中里」というお茶屋の門口である。惹きこまれるようになって、私はこの時代のついたお茶屋のたたずまいを見た。色彩《いろ》もよくて、ほんとうにこの「中里」という家の前に佇んでも、この写真が立体になって逼《せま》ってくるだけで、感じはほとんど違わないだろうと思われるくらいである。しん[#「しん」に傍点]と底冷えのする、京都の冬の中にしずまりかえったように建っているこの家は、伝統が重みになって上からおさえているようにさえみえる、(実際に、東京の町なんかは日本橋、浅草、なぞの比較的古い町でも、もっとからりとしていて、低い、昔のままの木の家が続く町でも、抑えつけられたような感じはない)京都の家並みを感じさせる。このかわら屋根の下、格子戸の中には京都の人々、ことに女の生活が、何年となくしっとりといとなまれていた、という、生活の滲《にじ》みのようなものが感じられる。むろん、この格子戸は、素人《しろうと》のしかるべき家の門にあたる。東京でさえ、この種の家は格子戸が門の用をしている。ふと、考えるのだが、エリート意識がどの階級にも普《あまね》くゆきわたった現在《いま》の世界では、フランスにもおいでになったことのある奥様、東京でいえば新橋の芸者、高級料理屋、新劇の女優、高級会社の社員、等々が、かれらが下目にみる階級の人々を下品な流し目でみる、なんともいえないあさましい様子が、いやになるほど目につくが、そんな現在《いま》でも、はっとするような品のある奥さんや社員、女優、(彼女たちの場合品行は関係ないのである)料理屋の女中、職人、は希少価値人間として、存在している。かれらはほんとうの意味で誇りを持っているので、たとえば英吉利《イギリス》の女王や王女は親しみ深い微笑《わら》いで人民といわれる階級の人々にわらいかけ、素敵な奥様は友だちのようなことば、微笑《わら》いで八百屋にも、だれかれにも話しかけ、素敵な芸者は、ふいの客にも、女中、箱やにも親しみのあるようすを示し、ほんとうに一流のお茶屋のお内儀《かみ》や女中も同様である。八百屋へいい着物で来て、奴隷になにか命ずるような感じで芋や人参を指さす奥さん、客より上質のふだん着で、指環をはめた手で佃煮を売るおかみさん、わざとらしい親愛の顔で幼稚園の子供に笑いかける妃殿下、それらをすべて私は嫌厭している。
ところでこの「中里」の、多分百年くらい前から朝夕、水を替えてはよく揉み洗いした雑巾で、少女(おちょぼというのだろうか?)や女中が拭きこんだ、何年目かには灰汁《あく》洗いしているらしい格子戸、連子窓、板囲いの一部、をみていると、誇りのある芸者(京都は芸妓《げいこ》か?)、女中、お内儀さんが、出入りする店だろうという感じがある。履き下《お》ろしにせよ、歯をよく洗い、板をきゅっきゅっと拭いた下駄にせよ、この家の格子戸を出入りする、下駄(京都でははきもの[#「はきもの」に傍点]か?)を履いた足は、洗ったまま火《ひ》熨斗《のし》もかけない、皺苦茶の足袋からはみ出した、紅い足ではないし、大きすぎて爪先の余った、埃っぽい足袋をはめた足でもないだろう。爪《つま》さきまで奇麗に手入れをした足に誂えた足袋、または真白に洗った足袋をはいた足が、軽《かろ》やかな下駄の音をたてて入るのだろう。私はまたこの時代のついた木肌をみていると、冬は底冷えがし、夏は蒸暑いためもあるのか、しん[#「しん」に傍点]がつよい京都の女が浮んでくる。大阪の女は東京の女とちがった意味でいせい[#「いせい」に傍点]がよく、底が明るいらしいが、京都の女はしん[#「しん」に傍点]がつよいためか、どこか、底意地が悪いようだ。だが人のあたり[#「あたり」に傍点]は柔らかくて、やさしい。それかといって、ぶっきらぼうな言葉つきの東京の女よりも、俯むいて、「かんにんどっせ」といっている京都の女の方に、冷たいしん[#「しん」に傍点]の底につつみこんでいる女の魅力がある。東京の女は、何億人に一人しかいない(だからほとんどの女は一生出会わない)、かけがえのない恋人にしか、「かんにんどっせ」という感じにはならないが、京都の女の場合は門並みやさしいらしい。京都という町は底冷えと、蒸暑さと、しん[#「しん」に傍点]のつよさと、そのしん[#「しん」に傍点]の底につつみこんだ女らしさの町のようである。男の方も大体同じで、京都の男のしん[#「しん」に傍点]のある、しっかりした性格はまちがうと、芝居の「車引き」に出てくる、あの青黛《せいたい》で隈取りをした時平公は、いわゆる公卿悪《くげあく》にもなるらしいのである。大体、暑さ、寒さ、なぞの季節のうつり変りが、ひしひしと感じられる昔の方が生活に情緒があるし、女にも情緒が出てくるもので、私なぞは白い羽二重の襟に紫の銘仙の着物という、野暮な山の手のお嬢さんだったが、十七八になって、襟を抜いて着るようになった時、冷たい練白粉をたっぷり含ませた板刷毛で、母親に襟白粉を塗って貰って、戸外《そと》へ出ると、正月の寒気《かんき》が、千も万もの冷たい、柔《やさ》しい針のように襟頚につきささるようで、思わず頚をすくめて、両袖を前で合わせたが、そんな時、昔の下町の娘や、ことに京都の女なぞは素晴らしかっただろうと思う。現在のどたばた歩くお嬢さんでも、アップや新日本髪で頚をすくめて歩いていると可愛らしい。現在でも京都の町家の女や芸妓《げいこ》は素晴らしいだろうと思う。王虫色に光る京紅を、火鉢だけの冷たい部屋で、窗《まど》から入る明りで、細い薬指で塗っている舞妓《まいこ》の姿はどんなに、可愛らしいだろう。だが今日は京都の女の下駄の話や、女や男の話ばかり書くつもりではなかった。正月の門松やお飾りについてだった。この「中里」の戸口の門松のやさしさのある美しさは、素晴らしい。権勢欲をあらわしたような東京の大々《だいだい》しい門松よりもいい。正月の風習の、門松とか、お飾りのようなものは面倒は面倒だが、昔のしきたり通りの儀式ばったものの方が情緒がある。私がいつか、京都に行って来た人からきいた話だが、ある家の門松が、太い、清々《すがすが》しい青竹を型通り、はすにすっぱり切った、その切り口に芽松と紅梅と(温室のだろうか?)が挿してあって、青竹が奉書で包んであり、紅白の水引きがかけてあったというが、正月だから松、竹ときまってはいるが、想像してみても大変に雅致があると思った。しん[#「しん」に傍点]と冷えこむ京都の町並みに門松が立っていて、小雪でも降る風情は一度見たいと思うくらいだ。こんなことを書いていると、私はなんでも正月のきまりをやっていて、アパルトマンだといっても扉口にしめかざりもつけ、お供えもかざり、おせちも造《こし》らえていると思うだろうが、文章を書く方が少々忙しくなったところへ書くのが遅いので、とうとう何もしなくなり、大好きなお屠蘇だけをたくさん買って、二月頃まで飲んでいる。近くの薬屋さんの奥さんが、売れ残りを全部ただでくれるし、今年は小さな絹の袋に入れてない、大袋入りを日本橋から取り寄せてくれて、大型の袋も縫ってくれた。一つは六十を過ぎてからは年をこの上取りたくないので、お飾りをしなくなったらしい。はかない抵抗というものである。年賀状も止めた。小説で、この私たちの住んでいる現実の世界ではない、どこかの世界を書くようになってから、だんだん自分の生活も現実世界からはみ出しそうになって来たようだ。浅草のアパルトマンにいたころは、黒豆を煮て、水飴を薄めて入れて照りを出したり、弁当箱で二色玉子を造《こし》らえたりしたが。京都のお供えは知らないが、お雑煮も、肩をいからせたような四角い切り餅に、椎茸、菠薐草《ほうれんそう》を添えたばかりのそっけない東京のお雑煮より、名を揚げるように、というので菜と揚げを入れたり、取り入れる、で、鶏を入れたり(欲ばりなお雑煮である)、という風に、いろいろな具が入る京都のお雑煮の方がたのしい。「中里」のような料理屋の奥座敷に、華やかなお供えが飾ってあるところへ、髷は京風に結い、帯はだらりに結んだ舞妓《まいこ》たちや、広く出した白襟の内側だけを緋の(縮緬《ちりめん》か? 塩瀬《しおぜ》か?)裏を返して着ているのだけが華やかで、着物は裾模様も地味な、黒紋付の留袖《とめそで》の芸妓《げいこ》がずらりと並んだら奇麗だろう。お座敷でのあそびも、東京では藤八拳《とうはちけん》なぞで勇ましいが、京都では投扇興《とうせんきよう》もするらしい。松の絵なぞを描いた細長い箱の上に、内裏雛の女雛が持っている桧扇のような形の、紅い布《き》れを張った小さな鈴の下がったものをのせて、白、黄、紅、挽茶《ひきちや》色、うす紫、の、無地の扇を、少し離れたところから代り代りに投げて、その小さな扇のようなものを落し合う遊びで、私が子供のころには、ちょっと洒落た家ではやった。たしか、京都のお土産だった。遊里の正月のお飾りといえば直ぐ目に浮ぶのは、夕霧伊左衛門の奥座敷の場面である。薗八(浄瑠璃の中の種類で、清元、富本、なぞのような、流派の名)では「夕ぎり」という題だが、歌舞伎の外題《げだい》はなんといったか度忘れしてしまった。それこそ、この「中里」のようなお茶屋の奥座敷(お茶屋といっても、遊女を置いている遊廓であるからもう少し華やかで、灯も明るくなまめいている)の床の間に大きな鏡餅が飾られ、大きな、柳の木のような繭玉《まゆだま》がはでに飾られ、華やかな蒲団のかかったそこに大きな炬燵があって、そこに、伊左衛門が肱枕で仮寝をしているところへ、夕霧太夫が来る。そうしてゆり起して「夕ぎり」の歌の文句で言うと、(朝夕恋しい主《ぬし》の顔、うれしいにつけ、かなしいにつれて、忘れたことはない。それにお前の悪性《あくしやう》な、わしが案じをうつり気な、ほかにもしやと、言ひがかり)という挽みの白《せりふ》になるのである。すると狸寝入りの伊左衛門は怒り出す。ゆり起し、ゆり起せばとって突きのけ、という地の文句があって(あのここな夕ぎりどのとやら、夕めしどのとやら、節期師走にそなたのやうに暇ではござらぬ。七百貫目の借銭負うて夜ひる稼ぐ伊左衛門、こんな時寝にや寝られぬ。邪魔なされな、家どの)という白がある。伊左衛門は財産をつかい果して、みすぼらしい姿で来たのだが、その妓楼の主人の喜左衛門夫婦の情けで、その日は上げて貰ったのだ。場面は主人公が落|魄《はく》している男だし、一種の世話場と、も、愁嘆場ともいえるのだが、色町の松の内の舞台面で目が覚めるように、奇麗だし、薗八では、(ける、蹴る、蹴る、蹴るわいやいこれ喜左、餅でも米でも早やう遣って去《い》なしや)という伊左衛門が喜左衛門に拗ねて、夕霧をあっちへやってしまえと言っている。いくらかコミックなところもあり、舞台も、踊るような振《ふ》りもあって、この芝居はよく初春狂言に選ばれるくらいである。
この薗八についてはおかしな想い出がある。私が夫だった人と婚約中の一年間の間に、母親が、西山吟平という名人に薗八を習うことになったので、自分も一緒に習った。その西山吟平という人はどっちかというと小柄の方で色の黒い、いつも渋い顔をしている人だったが、咽喉の方も渋くて、皺枯《しやが》れて低い、やっと文句が聴きとれるような声で、ぶつぶつ呟くように歌うのだが、夕ぎりのくどき[#「くどき」に傍点]のところなぞ、ひどく味があった。その洒落たふし回しを渋くやるのが、そのころ四十一くらいだった母親より私の方が、いくらか巧いと、父親が言うので、私は得意で、今でも時々一人だけの時、名人の吟平の敷き写しで、歌っている。
母親の親友の田中たけ夫人(田中正平という、科学者でいて、三味線の譜を作ったり、またパイプオルガンのような楽器も発明した人で、伯林《ベルリン》にいた時、カイゼル皇帝が、「日本ではこんな立派な学者に勲章をやらないのか」と日本政府へ言って来たので、日本ではあわてて勲章を出した、という逸話を持っている人の奥さんである)は、母親のように下手ではないのだが、声のたち[#「たち」に傍点]が長唄の、それも大薩摩《おおざつま》向きなので、(ああ、歌ふわ、歌ふわ、あの歌でおもひだす)という最初のところなぞは朗々として、十五代の羽左衛門の助六の白《せりふ》のようで、薗八の感じは出なかった。よくラジオなんかで素人が物真似をやるが、ちょっと出てみたいと思うことがある。西山吟平の声を知っている人は九十歳以上の、ごくわずかの人しかしないから、似ていないと言われるはずはないが、誰も知らない人の物真似では、やらせてくれないだろう。
一目見て、惹き入れられた、この「中里」の写真をもとにどうにか、私の空想の京都、その初春のお飾り、について書いてみた。
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茉莉流 風流
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三つの嗜好品
女も、子供の時期から離れて、(私はあまり離れているとはいえないが)大人の領域に入ってくると、生命を保持するための食物以外の、嗜好品というものが、菓子や飴では物足りなくなってくる。そこで煙草を喫《の》む女《ひと》や、酒を飲む女《ひと》もあるわけである。
私の場合を言うと、まずチョコレエト。チョコレエトが大人の嗜好品か、と思う人もあるかも知れないが、外国の若い女優や、歌手の楽屋が薔薇《ばら》とチョコレエトでいっぱいであることが、小説なぞに出て来たり、日本でもチョコレエトを噛《かじ》るのは子供か、まだ子供のお仲間のような若い女ときまっているが、私はだいたいチョコレエトは珈琲、煙草と優《ゆう》に並ぶ、コカイン的な嗜好品、つまり大人の食べものだと、思っている。もちろん私の言うのは、子供の口にしか合わないような甘いのや、クリイム、ウィスキイの匂いをつけた砂糖水なぞの入ったものではなくて、純粋の板チョコの、苦みの強いものである。
次に洋酒である。と言うとえらそうだが、味と気分だけがすき、という感じの、飲み手である。好きなのはヴェルモット、アニゼット、グラァヴ・セック(上等な料理店で料理に入れる白|葡萄《ぶどう》酒で、ごくいいものではないが、私の情けない経済力の範囲内で飲める種類の中では美味《おい》しい、かなりの葡萄酒である)ラインワイン(ドイツの辛口葡萄酒)、クレェム・ド・モカ、クレェム・ド・カカオ、等。だいたい西洋で女の飲む酒だが、ウィスキイもトリスしか知らないが好きである。もちろん、葡萄酒はフランス産の最高級品のシャトオ・ラフィット、シャトオ・イキュエム、またボルドオ産の極上の紅なぞの方がいいし、他のものもフランス産のがすきだが、シャトオ・ラフィットやシャトオ・イキュエムなぞはことに、日本では入手困難だろうし、あったところで財布と相談すると断わられるにきまっているので、皆日本製のを飲んでいるわけである。それらの酒をリキュウルグラスにせいぜい一杯を、少量ずつ飲むのである。
次が煙草、という順で、煙草はこのごろはアメリカ産のフィリップ・モオリスである。
この内、洋酒と煙草は気分だけを飲んでいるので、おかしいほど少量で、いくらでもたべられるのはチョコレエトだけである。洋酒はリキュウルグラスに一杯で、日本酒なら一升|瓶《びん》をあけた人のように紅くなるばかりか、肺か心臓に火が入ったようになるので、どこにも行かないときまった日か、夜になって飲むよりほかない。
これは本当に無念である。もしすきな洋酒がチョコレエトなみにいくらでも飲めるのだったら、私という人間は、ヴェルモットを飲んでは硝子の色に陶酔し、英国産のスコッチを飲んではホームズを読み、ボルドオの紅を飲んでは小説を書き、また小説は今よりもうまく書けて、いつも酔い果て、朦朧《もうろう》として編集者にあい、どんな好きな映画がかかっても、腰が持ち上がらないかも知れない。
煙草と私とのつきあいは、洋酒との関係よりももっと縁が薄い。珈琲店で、友だちに勧められて、あまり飲みたくもなくておつきあいに喫《の》む本数をいれれば日に二、三本喫むこともあるから、月にすれば三十本ぐらいは喫むことになるが、心から自分が喫みたいと思って、喜んで喫むのは月に三回ぐらいで六本である。それは自分の文章が自分としてはよくできたと思う時、愉快になってくると、煙草が喫みたくなるので、そんな時は稀《たま》にしかないからだ。その稀《たま》の機会が自分の部屋の中だと絶望である。部屋は煙草がない。マッチだけである。珈琲店にいる時だとボオイに買って来てもらい、一本抜き出し、マッチを擦《す》る。マッチは擦ってからちょっとおいて燐の匂いが消えてからつけ、一服と一服との間に間《ま》をおいて、ゆっくりとお得意の(むろん自惚《うぬぼ》れの)気分を味わうわけである。よくせかせかと喫む人があって、今火を点《つ》けたかと思うともう次のマッチを擦っているのを見るが、あれで愉快というのは不思議である。ほんとうは真紅《まつか》な炭火で火を点けるのがすきである。ライタアは酒精《アルコール》の匂いがする。薪《まき》で炊いたご飯に、炭火でつけた煙草。何しろちょっとしたブリア・サヴァランだからうるさい。ところでいき[#「いき」に傍点]でなくてまぬけで滑稽な方も白状すると、煙草を喫み始めたのはもうずいぶん前なのに、私はいまだに煙草がうまく喫めない。どういうわけか自分の煙草の烟《けむり》が眼に入ってひどく痛く、涙が出ることもある。火を点ける手つきものろくておかしい。また喫み方がおかしいだけではなくて、たいして美味《おい》しくないのである。自惚れの瞬間だけ、そのうっとりする気分に、煙草の伴奏をつけようというだけである。人が煙草のケースを差し出して、(あのケースというのがまたきらいである。煙草は袋や箱のままがいき[#「いき」に傍点]である。もし私が若い美人だったら、頭をピカピカにして、金ピカのケースをパチンとあけられたらもうおしまいであるから、失恋する人は続出するにちがいない。目白押しに並んだ煙草に強《きつ》いたがが嵌《はま》っているのも不愉快だが、ゴム紐が渡してあって、それがたるんでいるのなぞときたら最低である。恋人と会っていて子供の靴下を思い出すのは困る。ブリア・サヴァランの方は本もののつもりだが、カザノヴァの方は――女にはこういう人がいないので困るが――空想の中だけで、実際の人間は滑稽的人物であるから、美人だったらなぞと考えたところで始まらない)「煙草はお喫みになりますか?」ときかれるときには返事に困る。「喫まないが喫む」、あるいは「喫むが喫まない」という答えが当たっている。私は煙草をいき[#「いき」に傍点]に喫みたいが、滑稽的人物が煙草を喫むときだけいき[#「いき」に傍点]になったってしかたがない。
煙草といき[#「いき」に傍点]で想い出すのは、私の父の葉巻を喫むときのすばらしさである。父と葉巻を想い出すと、まず真白な、深く切りこみすぎない爪の、象牙色の手が出てくる。その手が、ドイツ製の鋏でハヴァナの葉巻の尖端《さき》を截る。マッチを擦る。(馬の顔や時計のついた台所の燐寸である)薄赤い炎がゆっくりと、葉巻の尖端を包むようにとり巻く。真白な縮みのシャツとズボン下の普段着から出た、淡黄の美しい手、足の先。いくらか陽に灼けた、翳のある顔。アクセサリイは手に持った焦茶色の葉巻である。私が部屋に入って行くと、鋭い眼がこの上なく柔らかな微笑に崩れ、二、三度軽くうなずく。そばへ来いという報せである。私が背中に飛びつくと、父は灰の厚く積もった葉巻の手をそっと動かさずに、左の手で私を膝の上に乗せ、それから葉巻を灰皿の上においた。私の背中を軽くたたいたり、膝の上で私を揺る用意である。
それは父のよく話したドイツの小説の中の男に、似ていた。その話というのは汽車で向かい側の椅子にいた男から、自分の伴《つ》れの女に何かしたのではないかと言われて、黙って右手の、灰の厚く積もった葉巻を示して微笑したという男の話である。向かい側の男は、自分がわずかの間席を立っていた間に、その男と自分の女との間に、微妙な雰囲気ができているのを見て、詰問したのである。これらは私の父と煙草とにまつわる、きれいな想い出である。
フランスの酒。熱帯地方のカカオの実を空想させるチョコレエト。マリフェナ(軽い麻薬)を微量入れたのではないかと、私には思われる、アメリカ煙草のフィリップ・モオリス。この三つが私の、生命を保持するための食物以外で、何より好きな、また何より重大な、嗜好品である。
エロティシズムと魔と薔薇
胡桃、とか、檸檬《レモン》、は形も素晴らしく奇麗で、たべても美味しくて、字も、漢字で書いても奇麗、仮名で書いても奇麗であるが、それとおなじで、薔薇、菫、なぞは見ても奇麗、香《にお》いも素晴らしいし、色も奇麗で、漢字で書いても素敵である。それに薔薇も、菫も、たべても美味しいのである。巴里のエッフェル塔の傍の菓子や果物を売っている店の隅っこの方に、薔薇と菫の花びらを砂糖で絡めた、小さな干菓子があったので薔薇と菫が美味しいことを私は知っているのである。濃い紅色の桃の花はこの間たべてみた。生のままたべたのでとくべつに美味しくはなかったが、いい香いだった。杏仁《きようにん》という、子供の時よく飲ませられた水薬《みずぐすり》の香いと味がした。昔の記憶の香いである。萩原朔美の許婚の人がお節句のお菓子を持って来てくれた時彼女が濃い桃の花が一輪ついた三センチ位の枝を添えて来た。薔薇や菫の砂糖菓子を想い出していたところだった私はそれをたべてみた。贈り物に添えた花を忽ちパクパクたべてしまったことが彼女にわかったら、鬼婆か雪白姫(白雪姫のことである。父親も母親も、私に話す時、ゆきしろひめと言って話した。なんとかのしらゆきゃのおえ、ではないが、しらゆきという言葉はなんとなく嫌いである。父親もそう思ったのかもしれないとも思うが、そのころ〔日露戦争直後〕はしらゆき姫なんていう日本語のお伽噺の本は売り出していなかったのだから、父親がしらゆきに抵抗してゆきしろと言ったわけではないことだけはわかっている。独逸の原語ではなんというのだろう?)に出てくる継母みたいだと思うかもしれない。受けとった時には「まあ奇麗」などとおやさしいことを言っていて、贈り主が帰るや否や唇《くち》に放りこみ、噛み砕いて、ああ水薬《みずぐすり》の香《にお》いだ、杏仁の味だ、と陶酔《うつとり》しているのだから、恐ろしい話であるが、これが私流の風流なのである。軽井沢の武満徹のところで夫人が出した、支那風のフルウツ・ポンチに浮かんでいた、白くて小さな、三角の、牛乳の茶碗蒸しのようなものの味も、杏仁の香いで、子供の時に水薬を飲んだ洋杯《コツプ》と、夕暮れの薄い煙のような暗さが、庭の方からも、部屋の隅々からも、天井の辺りからも匍いよっている六畳の部屋とを想い出させた。ああ、薔薇の味よ! 菫の味よ! 杏仁の香いよ! 現在《いま》でも私はそのころの夕暮れを覚えていて、シャボンと微温湯で洗ってはあっても、どこか、春の空のように曇っている洋杯の掌ざわりや、杏仁の味と香い、冷たい酒精《アルコオル》で拭いたあとに、銀の針が刺さった注射の痛み、単舎利別《タンシヤリベツ》を入れた麦湯で飲む、葛粉のような味の粉薬《こなぐすり》、夕暮れの中に暈《ぼ》やけている伊太利の大公夫人のような、強《きつ》くてくっきりした母の青白い掌、卵の黄身《きみ》を混ぜたお粥と銀の匙、それらの記憶の鋭さを含む甘い漂いに、エロティシズムを感じている。エロティシズムの中には魔がある。私が前に書いた小説の寝室場面などよりそこにはエロティシズムがあって、私はそれを、今書いている小説の中に書いているが、次にいつか書く小説の幼女の中にはもっと書かなくてはならないと、思っている。
薔薇の香いは菫ほどではないが、柔《やさ》しくて素直な、嫩い少女のようで、それでいて底の方に懶《ものう》いような、惑《まど》わしのように勁い力で香《か》ぐ人の感覚に迫るものがくぐもっていて、甘くてどこか恐ろしい香いである。知らないでいて相手を捕虜《とりこ》にする少女のような香いである。薔薇も魔である。
薔薇や菫の砂糖菓子。濃い紅の桃の花の微かな苦さ。柔かくて甘い薔薇の花の香いの中に薔薇の花のある卓《テエブル》の上に洋杯が薄ぐもっていて、白いのや、てんとう虫のような濃い紅や、黄色い雛菊のような薄黄色の錠剤が透っている硝子罎、白い粉薬で曇っている銀の匙がちらばっている。そんな卓をみながらヴェルモットを喫《の》んだり、(夏のはじめなら麦酒)煙草をふかしたりする時私はエロティシズムを感じる。それは私が子供の時に、無意識の中で感じていたエロティシズムであるらしい。嫩い娘なのに中年の女か娼婦のような女や、ほんものの中年の女、妙に粋がった男などが絡んでいる情事しかないような感じさえする現代はぞっとするようだ。昔の、上等なチョコレエトの箱の蓋にあった油画の少女のようなのだが、目の下の高頬が一寸脹れ気味になっていることが美人過ぎることを防いでいる、そんな顔の息子の恋人が或日、花からとったばかりで、まだ鉱物性のものを添加しない、生《き》のままの純粋な薔薇香水を、小さな罎にいれて持って来た。栓を抜けば忽ち飛び去る大切な香いを香《か》ぐために、私はたった一度栓を抜いた。香がなくても、その小さな罎が部屋にあるだけで楽しい。彼女は次に来る日までその罎を私の部屋において行ってくれた。
薔薇は甘くて柔《やさ》しいが、魔である。恋の惨劇のあとの血溜りの中に落ちていても、薔薇ならぴったりである。
果てのない道で思ったこと――長くつづく気紛れ書き
私は現在《いま》、七つ下がりの雨といおうか、終りのないようにつづく女の愚痴といおうか、いつになってもまだ先へつづく文章に引っかかってしまっている。倖《さいわい》二十年来、私の原稿のかかりになってくれている編集者がいつまでつづいてもかまわないと、言ってくれるので、いつ果てるともない饒舌《じようぜつ》をこのところ「新潮」に毎月書いている。
化学の世界に、炭素と水素とを混ぜると何になる、というのがあるが、私という変物《へんぶつ》は、〈自惚れ〉と〈怒り〉とを混合すれば出来上がる。
〈自惚れ〉の方は父親が幼い私を、傍へ行きさえすれば葉巻をそばの書物の上におき、仕事の手を休めて膝にのせ、背中を軽くたたきながら、お茉莉は上等、お茉莉は上等と言い、私の顔も上等、性質もいい、髪もきれいだと、そういう讃辞を飽きることなく繰りかえし、繰りかえし、耳もとで歌うようにして囁《ささや》き続けたことが原因である。私はそこで、(自分の顔はきれいである。髪もきれいだ)と、胸の奥底深く、信じこんだ。
また私の描く画、綴《つづ》り方、歌う歌、すべてを上等、上等と言って褒めた。私が小学校に入って最初に描いた画は、色鉛筆で円と三角と四角を線書きで描いたものだったが父親はその線をひょろついて、いびつな四角と円と三角を、よく出来たと繰りかえし、褒めたのである。その信念は現在も尾をひいていて、そのためだろう、私の書く文章にはどこかに、自分の文章はまずいはずはないと、思いこんでいる感じがあるらしい。それは、或る人々にとっては感じがよくない。
私が十年かかって書いた小説が時評で取り上げられた時なども、私は失望を禁じ得なかった。大抵の場合、何年もかかって書いたものが取り上げられる時には、手厚いねぎらいの言葉(と一緒に、親切な批評が貰《もら》えることになっているのを知っている私は、今度はいくらかいい評)が貰えるだろうと、期待したが、そのあて[#「あて」に傍点]は外れたのである。
小説がいい悪い、というよりもまず、その小説の主人公である少女の父親の家、またはその少女が結婚した先の家の食事が、贅沢《ぜいたく》であって、ああいう贅沢は有り得ない、という批評があった。
少女の機嫌を取ろうとした夫が、少女の実家の馬丁を招いた時の食事はともかく、少女の父親をはじめて招いた時の昼食の食卓はかなり贅沢だが、双方の家での平常の食事は、私の父親の家のと同じに書いたのであるから、その献立ては大正時代の中流の家庭の、普遍的なものである。魚のひと皿にしじみの味噌汁、茄子《なす》の煮たもの、である。少女が実家に帰った時の夕食に、野菜|肉汁《スープ》と挽肉《ひきにく》の料理を出し、冷やしておいたトマトの輪切りを大皿に盛って、真中に出したのが一寸《ちよつと》、おごった位である。
私の父親は津和野の貧乏町医の息子に生まれたが、精神が貴族で、たてから見ても横から見ても、貧乏のにおいがしなかった。だが贅沢は好きではなく、出盛りの野菜、果物、なぞを豊富に使い、あまり下魚《げざかな》は使わなかった程度である。それで私は結婚して始めてポンカンという、蜜柑《みかん》の種類のあることを知った。
苦節十年が尊まれ、螢の袋をぶら下げて書を読む、飯の菜は小鰯《こいわし》の干物三尾、というようなものの出てくる小説は評判がいい。真面目に扱われる。貧乏、即ち生活、という思想である。父親の言葉を丸呑みにしてそのまま、ぬうと育った私が賢い子供でないことは認めるが、貧乏が書かれていなくては、(生活がない)、という思想はおかしい。金のある生活も〈生活〉である。貴族小説もあっていいのではないか?
二人の悪妻
世間と言っても広いけれども、文学者や大学教授、学者、というような人々の階級、又はジャアナリズムの間で、私と母とは「悪妻」の名を貰っている。母は「鴎外の悪妻」であり、私は「山田珠樹の悪妻」である。
もっとも随分古い話である。「鴎外の悪妻」といっても、その鴎外が、今では彼の文学が一つの古典のようなものになりかかっていて、余程文学を好きな人でないと、今の若い人々は読むこともないものとなっているので、あああの人かというように、忽ち通用するというわけのものではない。
ましてその細君が「悪妻」だったということを知っている人は今の若い人には殆どないだろうと思う。私の「悪妻」、つまり「山田珠樹の悪妻」の方も、一部の人は知っているとしても、これもすぐに通用する訳ではないと思う。母は明治時代から大正の中端《なかば》にかけて結婚生活を送った人で、言って見れば「明治の悪妻」であり、私は大正の初期から昭和の初めにかけて山田珠樹と暮したので、「大正時代の悪妻」である。「悪妻」というものはどんなものか、それは大変定義づけることがむつかしいし、又明治、大正の悪妻が昭和では悪妻でないということも、あり得る。
ところで私の母と私の父との間柄は、どんなであったろうか。明治の匂いの濃い頃に、母は父と結婚した。町には紅葉山人の小説の挿絵のような男や女が通り、夕刊売りの鈴の音、号外売りの声がし、人力車夫の掛声と一緒に、地下足袋の音が、ひたひたと鳴っていた。木造の低い家並の中に洋灯《ランプ》を点《とも》している町の人々は、生真面目で、勤勉であった。ごつごつした木綿の着物の男達は、多く黄色い顔で、狐のように突き出ている口元に煙管を咥《くわ》え、地道な思想を持ち、忠義であり、忠実で、あった。女も又同じで、ラフカディオ・ヘルン、ピエエル・ロチ、タウト、なぞの外国人が心から愛した脊は低く、鼻も低く、異様な匂いのする鬢付油というもので固めた髪に結って首を突出してはいたが、可哀らしく、素朴な女達で、あった。明治という時代は、そういう人々のいる真面目な世界であったが、一面、何時からか若い人々が(この頃では中年や老年の人々さえもが)封建、因習、なぞと口々に言っていやしめる、頑固な、鉱鉄のような思想や慣習《しきたり》があって、男の人々はそれによって、大きな自由を許されていた。女の人はそれによって縛られ、抑圧されていて、低い脊たけはいよいよ低くなり、栄養も悪く、どことなく萎縮していた。そういう世界の中で、私の父は新しい思想を持っていて、母は或点自由であったし、私達子供は殊に、西洋の子供のようにして、育った。私達は「お父様、お早うございます」なぞと言った事は一度もない。或るものは脊中に飛びつき、或るものは膝に乗って、仲々|退《の》かなかった。だが文久二年に生れ、頭の中にいくらかの侍の思想、仏教、儒教、なぞの影響を持っていた父は、自分の母(母には姑)に仕えることでは全く昔風で、あった。先代の羽左衛門に似た美しい顔と姿とを持ち、粋な着つけをしていて、凄いようであった外観とは違って、我侭で不条理で、又贅沢に育ち、西洋の奥さんのように父を恋し、父を独占することを希って一歩も退《ひ》かなかった母は、事々に、父の母が主になっている侍風な、倹約な、おかずなぞも残すように、残すようにとしていて、障子は切り張りをし、暇があれば祖母が自分で庭の草むしりをしている、というような家風の中では、水と油で、あった。父も母を愛し、気の毒に思いながら、侍風の心持は根の深いもので、仕方がなかった。母は又正直すぎる程正直で、自分の心持を粉飾するとか、つくろうとかいう事が全くない。祖母や親類の女の人が婉曲にあてこすりを言うのを、真正直に腹を立てて、中年以後からは正面から言い返した。だんだんにそれが人々の口から伝わり、母は素晴しい、欠けるところのない、立派な「悪妻」と、なったのである。若し時代が現代であったら、別居もしたろうし、父にも侍の思想はないのだから、母の「悪妻」の名は、いくらか弱まったと、思う。
幼い私の見ていた父と母との日常を、少し書いてみよう。父は母の事をいつも、「絶世の美人」と、言っていた。父は時々そう言って母をからかった。母は絶世の美人と言われる事がひどく嫌いで、父がそれを言う度に、母は本気で怒った顔をした。母はユウモアのない人で、冗談というものを、徹底的に嫌っていた。母が体の具合が悪い時なぞに、父に診て貰うと、父は白い、美しい手で母の手首を軽く抑え、判で押したように、こう言った。「命に別条はない。はしらや赤貝は困るが、何をくってもいい」。母が蒼い顔をして、「ひどく動悸がするんですが、本当に大丈夫でしょうか」と言うのも、又極っていた。母が笑いながら父に、「あたしは離縁してもう一度、実業家でもなんでもいいから、私でなくてはならないと言って呉れる人の所へ行きたいものですわ」と言う。すると父は、「そいつはやめにした方がいい。お前のような我侭な女を我慢して置いておく男なぞいる筈がないから、又俺の所へ逆戻りということになる。何度も、そんなことを遣るのは厄介だから、まあこの侭俺のところにいるのだなあ」と、言うのだった。母の父に対する口癖に、こんな言葉があった。「あなたは何でもおひやらかしているんですから」というのである。「何をおひやらかすものか」。父は「ファウスト」の中で自分が若いファウストにも言わせている、あの独特の言葉遣いで言うので、あった。
又母という人は自然児というのか、柄から言うと自然児なぞというとおかしいが、つくろうという事を全く知らない人で、あった。或日のこと、父と母と私、それに兄も加わって昼飯をたべていた。その時の魚料理が、腐っているという程でもなかったが、微かにおかしかった。母は自分でかいで見たが、どうも不安だった。母は兄にその魚の皿を渡して、言った。「於菟ちゃん、一寸たべてみて下さいよ。茉莉は小さいから少しでも悪いといけないから」と。その日兄が立って行ってから父が、「俺と於菟だけだからよかったが、あんな事を言って誰かいる時だったら大変だ」。そんな母で、あった。幾らかでも世間というものを考えて、上手に遣る(上手に遣るというと語弊があるが、上手に遣って、意味なく人の心持を傷つけないようにすることなしには、どんな善人も破滅である)母親なら、自分の子供の中で好き嫌いがある場合、その中に義理の子供があれば尚のこと、出来るだけその好悪を表に出さないようにするのだが、母にはそんなことが出来なかった。兄や祖母にやきもちを焼く、その頃の日本の女のようでない母を、祖母は次第に嫌うようになったが、(祖母の心の中に、父の兄への幾らか距てのある愛情を、全く奪うにちがいない母の未来の実子に対して、恐れと敵意があり、それが母へのそこばくの敵意となっていた事も、否めない事で、あった)、祖母は父に対して母を悪くは言わなかった。祖母は父に言った。「おしげさんには努めてみたが、どうも嫌われたらしい」と。つまり「上手に遣る」ことである。母は直截であって、嫌いな人は嫌いだと、はっきり言った。そこへもって来て父は穏やかにして置こうと思うので、煮え切らない態度を取るようになる。又父には対人的に気が弱くて、人の厭な顔を見ていることが出来ないという性分が、あった。父の努力にも係らず、祖母と母とは後になって、ようよう冷い平和を保ち得たのに過ぎなかった。父は祖母の性質も、母の性質もよく知っていたが、祖母と母とはお互いにその点、暗い頭脳でお互いを見合っていたので、あった。
私の「悪妻」は、私の離婚の後に、始まった。私が山田の所にいる間、私は山田の友人達の誰からも愛せられていた。彼等が微笑む顔と、「茉莉子さん」と言って私に呼びかけた声とは、私の記憶の中で消えない。私は当時、その全部を集めても父の微笑には敵わないが、父の微笑から、なかなかいい微笑に乗りかえたものだと、ひそかに想っていた。何故彼等が私を好きだったかと言うと理由は簡単である。他の奥さんと違って私は、彼等がいくら長く居ても、長く居過ぎるなぞと思わなかった。私はただ傍に座って茫《ぼんや》りと彼等の話を聴いていた。彼等の話は面白いので、睡くなれば渋い眼を見張って、座っていた。片付けたくもない人間だから、いつまでも片付かない不快を、笑いの中に隠そうとするようなこともない。大体時間の観念がなかったからでも、あった。特に親しくて、庭の木戸から毎日入って来るような人達には、朝晩顔を見て暮す家《うち》の人を見るようにして、私は彼等の顔を見ていたので、あった。私は家庭の事は全般的に駄目だったが、その例外に「料理」が、あった。実家《うち》にいる時から鮭の白ソースなぞは得意で、あった。結婚後私は、大きな家の広々とした台所で、お芳さん(舅の妾《しよう》)を主に六、七人の女中が立ちならんで、余りがたがたせずに、静かなうちに二十人前位のいろいろな料理が出来上ってゆく状況を見て、そういう台所に立ちまじって料理に手を出すことを可怕《こわ》いように思ったので、台所を敬遠していた。すると山田の姉婿に当る人が使者になって父の所に来て、言った。「茉莉さんは台所に出ないようで、それでは何時になっても馴れないし、そんなことでは甚だ困る」と。立派な将校が、女のようなことを言って来るのを父は不愉快に思ったらしかったが、父はこう言った。「いや、茉莉は料理は上手で、家なぞでは仲々うまいものをくわせるのです。併し台町の、お芳さんの遣る台所では一寸手が出ないのでしょう」と。併しとにかく遣れないまでも遣ってみようと或日の事、得意の鮭の白ソースを造ることに定め、遠慮しながら女中を使って、やったところ、うまく出来て、皆々の前に薄紅色《うすべにいろ》の鮭にクリーム色のなめらかなソースの充分《たつぷり》かかった鮭料理の皿が、次々と出た。舅も美味《うま》がるし、お芳さんは私に料理法をきいて、それをキャベツと鰯の料理に応用した。その内に私はお芳さんのするのを見覚えた。鯛の皮をその中で揉み洗いするようにした酢で三杯酢を造り、それで鯛と小《こ》蕪菁《かぶ》を和えた酢の物を造らえたり、父の母から母が受け継いだ独逸風の野菜サラダ、巴里の下宿で習ったフランス風の貝料理、ボルドオ風のシャンピニオン料理、又は自分が発明した料理なぞを造らえて楽しんだ。山田が余りたべものに興味がなくて、あっと言う間《ま》に食べ終るのを歎じながらも、自分だけはよくたべた。料理だけが出来るのを見て良妻だと言って呉れる人はないが、山田の友人達は私の家庭の下手なことを黙許していてくれた。山田という人の人生は友人が第一で、親類なぞは第二であった。山田という人間は全く友人だけの中に生きていた人で肉親の、人々にも深い愛情は持っていなかった。友人達の他は、まあ私であるが、私に対しての心持は、見合結婚であるし、私でなくてはならない、というような、恋愛的なものではなかった。つまり、「山田」即ち、「山田と友人」で、あった。それで私の山田の細君としての位置は、どうやら及第で、あったのだ。料理と、友人達に向って勤めもせず、悪くもしない、無心である事とによって、私の山田の細君としての位置は保たれていたのだが、その他に、「山田家」の嫁としての位置があるわけで、その方は全く絶望的で、あった。大体私の父が、戦争前で十万円(これは聞きちがえかも知れない)という財産家だった山田の家へ、母と相談して私を遣る事にしたのは、私が馬鹿々々しく子供で、御飯も炊けず、帯を結ぶ事も婚約が定まってから急ごしらえに覚えた位であったので、到底中産階級の家でさえ切り廻して行くことは難しいという事が理由で、あった。そのことは父の虚栄から出た事では、なかった。父という人は或一つの事に手をつけたら水準以上に遣らなくては満足出来ない人で、あった。軍医になったら総監、役人なら図書頭《ずしよのかみ》、そうしてそれらの仕事の中での栄達には、細緻な学問、外国語の勉強が裏づけになって、いた。詰り自分の頭脳の働きに対する歓びと、信頼と、哀惜、それが父の人生の中軸で、あった。父はそんな理由で私を山田家に遣ったが、私を溺愛していたので、或日母にこんな事を言った。「山田へ行けばお茉莉が西洋料理をうんとくうだろう」と。この言葉をきいて父をいやしい父とする事は、父を識る人である限りは、あるまい。横道に外れたが話は私の「悪妻」の続きである。私はそんな理由で、十万円の山田家へ行ったが、その年の大晦日が愉快であった。その日の夕方舅は私を呼び止めて「茉莉や、一寸使いに行って呉れないか」と、言った。用事というのは山田の末弟の豊彦と二人で、厠の柄杓《ひしやく》を買いに三田通りまで行く事で、あった。かなり遠い店で、電車に乗ってもかなり時間がかかった。舅はやさしそうな用事を言いつけて、その用事だけでかなりの暇がかかるようにして呉れたのである。母はその日の午後来て舅に会い、恐る恐る訊いた。「茉莉はなにかお手伝いが出来ましたでしょうか」。すると舅は笑って、「なあに、向うで羽根を突いていますよ」と答えたので、母はすごすごと、帰ったので、あった。私はお芳さんや、女中達、山田の妹なぞの動きまわる様子を見ていて、遊んでいる方が無難だと思ったので、あった。又横道に入るが、舅の暘朔のことである。(最近彼の素行の上で、酷い噂が書かれていた)彼の若い時の事は知らないが、私が山田の家に行ったのは、彼が六十五六の時で、噂のような人だとすると、私が山田の家に入ってから十年の間何事もなかった筈はないと、思う。女の人というものは少女の頃から本能というものを底に持っていて、唯それが眠っているだけである。男の人によってそれを覚醒《めざ》めさせられるので、直接な事ではなくても、眼の表情なぞからなんとなく男の人の感覚を解する。私がどれ程少女のような女であったとしても、舅の生活の中にあるものは、見たと、思う。又そういうような男の人は、息子の細君に対して塵ほどの興味もなく淡泊であるというわけはない。彼は唯昔の人間であって、妾《しよう》を置く事を当然の事に考える人であったのに過ぎない。彼は商館の小僧から一代で身代を築いた人であったが、そういう人にしては漢字も出来たし、字も立派であった。私の父とはすべてにくい違った考えの持主であったのは当然だが、それは彼の罪ではなく、秀れている方向が異っていたのに過ぎない。又話を戻して、私はそんな風で家庭的には全く駄目であったが、山田の友人達に寛大に扱われていて、ともかく一人の暢気な奥さんとして、存在し、山田との間にも、かなり長い間恋人らしいものが保たれていた。私は最近、「記憶の書物」という、随筆に科白《せりふ》を入れて小説らしくしたものを書いて発表したが、その小説は山田と私との十年の結婚生活の中から、暗いものだけを表面に出して纏めたもので、勿論私達の生活がその小説のようであったら、呼吸《いき》が詰ってしまう。私達の生活には暢気な場面もあったわけだ。雑司ヶ谷の家にいた頃の事である。或日山田が旅行から帰って来た。山田が旅行から帰るというような時、私は妙な性分で、帰って来るのが嬉しければ嬉しいだけ玄関に迎えたくなくて部屋や、時間によっては床の中にいて、門が閉《し》まり、玄関が開《あ》き、靴の音がする。そうして今度は廊下を踏む靴下を履いた足の音がする。それをじっと待っているのが、楽しかった。それで玄関に出なかったので山田が機嫌を悪くして(無論説明は私からきいたのだが、心持が違うからすぐには腑に落ちないので、あった)、出来上っていたコロッケと肉汁《スウプ》の食卓についた事はついたが、又何か二言三言《ふたことみこと》言い合ったと思うと、山田がコロッケの皿を撲り飛ばしたので、借家の唐紙にソースとコロッケが打つかり、女中が愕いて飛んで来た。そんな事も、あった。又或日は私が駄々をこねて叱られ、大声で泣きたくなったが借家のことで、直ぐ裏には家主の知合いの夫婦が住んでいるし、女中部屋も近いので、私は戸棚の中に首を突込み、薄団に顔を圧しつけるようにして、わあわあと泣いた。「泣くのを止せば許す」と山田が言うので私は止めようとしたがやめられず、妙な声を出しながら床に入った。そんな馬鹿げた事もあった。仲のよかった場合の事なぞは書くのも馬鹿々々しいので、陽気な喧嘩を少し書いてみた。私はつい先々月、二度目に書いた「小説のようなもの」の中で、幾らか明るい部分を書こうとしてみたが、やっぱり私の小説は暗い影に包まれてしまった。私と山田との生活は、どうも暗いところに面白さがあるようだ。それに私も暗い場面を書くことに興味をもつ人間らしい。小説というものは本当の事を書いても、興味を持って書く場所によって、ずいぶん違った感じになって来るものである。そんな訳で私はどうやら山田の奥さんとして落第することもなく存在していたが、「運命的」というより言いようのない山田と私との間の疎隔から、元来「寂しい人」であった山田は極度の寂寞に陥った。そこで私達の結婚生活の最終期に於ての山田の私について言う話、又離婚後の彼の話はずいぶん誹謗の色を帯びたものになり、その「山田の話」によって、山田の友人達の私への感情は悪くなり、硬化した。その結果「山田の茉莉子さん」という一人の暢気な奥さんは、一人の「恐ろしい悪妻」に、変貌した。そうして山田の後輩の人々は山田の同期の友人達の話によって、見た事のない私と山田の生活を陰惨なものに空想し、山田の友人達によって流された「悪妻」の噂に、唯訳もなく声を合せることになったのであった。
そんないろいろなものが複雑に絡み合い、縺れ合って、「鴎外の悪妻」と「山田珠樹の悪妻」とは、きらびやかに、誕生した。不幸という海の腐蝕し、欠け潰れた貝の中から誕生した、ヴィナスではない、二人は醜い精《プシシエ》で、あったのだ。
私の離婚後、この二人の「大悪妻」は、話し合っていた。「ほんとうに仕方がない事だろうねえ。いろいろな事を言っている人があるらしいが、|※[#「木/爵から爪を除いたもの」]《ジヤツク》の父親だ、という事で私達は珠樹の事は一つも言わずにいるが、向うは※[#「木/爵から爪を除いたもの」]の母親だ、という事はないらしいんだねえ」母親の方の大鬼がこう言って、溜息をついた。小鬼の私は母の意見を立派だと思ったし、私としても※[#「木/爵から爪を除いたもの」]の父親について、悪い人間のような印象を与える話はしたくなかった。悪い人間ではなかったのだし、又「悪い人間」なんというものはある訳はない。ただ弱い人間があるだけで、どんなに強そうにしていても、所謂悪い人間というものは弱いものである。山田の友人達は、私を憎むことを正義と信じているので、この方は(悪人でないのは勿論だけれども)ひどく強く、鋼《はがね》のような硬い思想で凝固《かたま》っているのである。離婚後、世間に流された噂がいろいろな事から耳に入って来るので、私は絶望に陥り、理性を失っている時も、あった。そんな時には、「手記」というものを書こうかと、考えた事も、あった。その頃私の文章を載せて呉れる雑誌はなかったが、「手記」なら載るかも知れない。そう思って当もなく、文章を書いてみている事も、あった。そんな私を、母は黙って見ていた。
だが「手記」というものは、私の今の場合のように、文学として発表した後で書くのならいいが、単に「手記」だけを書いたのでは、「書く事ではどうにでも書ける」というように思う人もあるだろう。それが文学の場合だと、拙くても、未熟でも、文学というものは嘘のつけないものである。たとえ巧妙にこしらえて書いても、中に嘘があると、読んだ人の心の中に妙なものが残る。何かの、疑わしいものが、感ぜられて来る。それは恐ろしいものだ。「手記」の場合でも、いくらかのそれはあるが、それが文学の場合程ひどくはない。所が、そう言うことを明確《はつきり》と考えて、書くことを止めて置いて、三十年経った後の現在になって書いたのだと、私も仲々偉いのだが、本当の所はこんな事である。私はその噂を流している人々が世間に立派に立っている、錚々たる人である事を知っていたので、書かない前から、すくんでいた。又書いたところで、その噂を信じて、そっちの方へ向いている人の首を、自分の方にねじ向ける事は、到底出来ない。それが解っていた。遣り切れなくなってくると、原稿紙を出して来て書いて見はするが、どう書いていいのか、全く手のつけようがなく、それについて書くことが酷く難しい事だ、という事を、その度に改めて悟らざるを得ないので、あった。そういう訳だから、書かなかったのではなくて、書けなかったのである。最近になって「記憶の書物」を書いたのも同じことで、「文学なら嘘はつけない。だから文学で書こう」と思って書いたのではない。書き出したのは全く偶然で、あった。或日、毎日そこへ行って茫然《ぼんやり》している喫茶店で、音楽の響に酔ったようになっていた時、長い年月の間書いて見たいように思っていた、私と山田とのことを、なんとなく書き始めた。すると音楽のせいか、書き出しがうまく行った。私は奇貨居くべしとして、その書き出しに続けて、少しずつ書いて行ったのである。全くの偶然である。
ともかく、なんとなく茫然として、うろうろしている、というのが、人生に於ける私の真実《ほんとう》の姿であるようだ。小説が出来たのも偶然であり、最初の本が出たのも偶然で、あった。これから後《あと》も何かのいろいろな偶然によって、幾らかましな小説が書けて、次々に一冊ずつ本が出来上って行くということを、恐る恐る祈っているだけである。
ウオッカ
息子《むすこ》のジャックから電話がかかって、待ち合わせて何か食べて映画に行こうということになった。二、三度行ったことのある料理店の場所を言って、「渋谷食堂だよ」と、念を押した。息子の声は私のに似ていて、はっきりと聞こえないような声である。その上に彼の声は、私のそれよりふわふわとしていて、いっそう捉えにくい。私は受話器の奥の方からして来た息子の声が、「じゃあ」という言葉で切れて、どこかへ消えて行くと、受話器を耳から離した。
その日は雨が歇《や》んだばかりで道が悪く、私は水溜りのある渋谷の駅前の道を、足を濡らすのが嫌いな猫のような足つきで一足一足歩いて、息子の言った店の前に行った。店の名を見ると渋谷食堂ではなくて、なんというのか忘れたが、ひどく大げさな店の名である。私がぼんやりと立っていると、音もなく息子が、もうすぐ傍《そば》に寄ってきている。息子は他の人々と同じように、現実の町に住み、現実の大学に通い、現実にはっきり麺麭《パン》や肉、米なぞを食べているが、何処となく存在が薄くて、待ち合せのような時、何処からともなく湧《わ》くように現われるのである。
私という人間がまた、存在が薄弱であった。二人はお伽噺《とぎばなし》、というのがおかしければ、夢幻的な話の中の精《プシシエ》のように――それも気どりすぎるのなら、何処か一本抜けた人間のように――漠然《ばくぜん》としていた。息子は、傍《そば》へきてすぐに二人で歩き出すような時、舞踊の名人が、フワリと女の踊り手のうしろへきて流れるようにデュエットに移る時のような、そんな風に滑《すべ》るように私を誘うようにして、歩き出すのだ。二人はふわり、ふわりと、なんとなく嬉しい心持になって、歩き出した。
「ロシアへ行こうか」
息子が言い、二人は細い、ごみごみした商店の間の道を少し歩いて電車通りへ出て、線路を横切り、大映映画のほうへ登る中途の横町へはいって行った。空気は湿りけを帯びて白々と透き徹って、何処までも明るい。不思議な、二人だけが歩いている、何処かの見知らぬ町のような場所に、そんな日の渋谷は変貌《へんぼう》していた。この世界の中で、この瞬間に、幸福があった。三十八歳の、子供のある一人の男と、五十三歳の、分別というもののかたまりである筈の一人の女とは、生母と、実子という、この世での繋がりをもっていたが、この母親は世の中の多くの母親のように、生んだことを明確に自覚していないようであった。息子のジャックも、この母から生まれたということが、あまり確かでない。
二人はどうかして別れ別れになって、別の人生の中に棲むようになっても、やっぱり漠然としていそうに思えた。二人は互いに、この世界の中で、二人はどういうわけかよく解らないが、母と子という関係の中に置かれたのだと、思っているようである。
この母子は、息子のジャックが小学校にはいった時、二人で学校に行き、教師達や、他の大勢の母子と一緒に、学校の庭で写真を撮《と》ったことがあったが、その時の写真を見ると、どの母子も並んでいるのに、二人だけは、とんでもない見当の違った場所に、おのおのぽかんとして写っているのである。
息子の父が、二人の性格の全く同じなのを、見極めていた。私が家出をしたあと、彼は(ジャックは、いずれはマリイの所へ行く奴《やつ》だ)と言っていて、ジャックと次男の亨との間に愛情の差別をつけたのであった。ジャックと私との二人は、善人であった。そうして、冷たいもの、硬質なものに、ぐにゃぐにゃな体や頭で抵抗して、自由を求めようとするのである。二人の性格は、世間の常識、または正義のようなものを抱いている一般の人々とは、異質のものであった。サモワアルと書いた店にはいると、二人は窓際の止り木に並んで掛け、おのおの料理を注文した。この店には料理に使うふかした馬鈴薯が、いつもきまって山盛りにして鼻の先に置いてある。
「あいつ食いたいね」
「うん」
二人は卓に肘《ひじ》を突き、与太者と年上の情婦のような様子で、下らない事を喋っている。ジャックの前に置かれた小さな台付|洋盃《コツプ》に透明な酒が一杯に注《つ》がれた。それを見ている私の顔つきで、一口飲んでみたいのだということを解ったジャックは、黙って洋盃を私の方へ押し遣った。私は一滴位を舌の上にのせたが、とたんに強い、匂《にお》いだか味だかが突き刺さってきたので、顔を顰《しか》めて洋盃を置いた。ジャックは微笑《わら》った。私は巴里《パリ》の給仕《ギヤルソン》がこんな時に、洋盃の縁に丸く盛り上がるように、それでいて少しも滾《こぼ》れぬように注ぐのだと、幾度も息子に言ったことのある話を、耄碌《もうろく》老人のように繰り返しながら、ジャックといる或る時間の或る明るい昼を、どうやって楽しもうかというように、本来|朧《ぼんや》り顔を、いっそう痴呆《ちほう》のように弛めて笑うので、あった。
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味の記憶
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ロココの夢――「十八世紀フランス美術展」の下見
先月の三十日の午後五時頃私は、上野の美術館の向って左横から入ったところにある倉庫の中で、仏蘭西《フランス》の十八世紀の絵や、椅子、書きもの卓《づくえ》などの調度、置物、または人形、(その中にはその頃の宮廷の風俗をした等身大の人形もあった)什器などの群れに出会った。昔、巴里《パリ》のルーヴル美術館で、うっかりして閉館時刻になったしまった時のような、薄明るい光線の中である。その日は、これから開かれるロココ展に並べられるはずのそれらの、十八世紀の夢を一つ一つが背負っているものたちが、倉庫の中に荷を解かれたままの状態で無秩序に置かれていた。ステンレスを張った、銀色の鋼《かね》の格子が幾枚となく重なって立っていて、その間々に、これまた何枚も何枚もの絵がサンドウィッチのハムのように挾まれていた。美術館の人がその、下に滑車がついてはいるが、かなり重そうな鋼《かね》の格子を何度となく動かして、引っ張り出したり、また元へ戻したりしながら中に並んで挾まれている素晴らしいハム、つまり十八世紀の絵を見せてくれたのである。
(実はその日私は、私のすべてのものを的確には知っていないために、ロココ展ときいた時、ロココ時代は仏蘭西《フランス》の一時代を指すのだということを思いちがえて、英国の美術の展覧会だと、定めてしまっていた。そこで、マーガレット王女が大好きなので、月半ばに開館されたら、マーガレット王女が行かれる日に断じて見に行こうと、そのことのよろこびで心が浮き浮きしていた。行きの車の中で同行のSに、マーガレット王女はこられるのでしょうか? と聞いたところSはなんのことだかわからなかっただろうが、ただ「いいえ、来《こ》られません」と答えた。そういう心理状態にあったので、風景の空と木を見た時、美術館員に「ターナーに似ていますね」と知ったかぶりを言ったのである。館員は「ターナーはこの絵より百年ばかり後です」と、まじめに答えたが、見ているうちにだんだん仏蘭西の展覧会らしいとわかってきた。なんともおかしな話である)。
私はその時、朝昼兼帯の生野菜のサラダと麺麭《パン》二切と、牛酪《バター》とチーズとをたべただけで、五時頃そこに到達したので空腹だったのだが、絵を見せるためにかなりの労働をしてくれたその美術館の人も同じ状態であったらしく、一二度お腹が鳴っていたが、私の方は運よく帰りの車に乗って走り出すまで、空腹状態を秘密にしておくことができた。まったく運命的な時間のずれで、十八世紀の貴婦人といえども空腹の音を隠しおおせることは不可能にちがいない。もし運が悪くて二人の空腹時のタイミングが合っていたとしたら、「山の音」の中で、信吾の電気剃刀と、菊子の電気掃除機の音とが鳴り合っていた、というところのような、川端康成のユーモアが現出して、同行した友人のKも、笑いを我慢できなかったかも知れない。先刻私は、鋼の格子の麺麭《パン》の間々に挾まれて、美術館の人が空腹に耐えながらひき出したり、元へ戻したりする度に、私たちの前に姿を現わしたり、見えなくなったりした十八世紀の絵たちを素晴らしいと書いた。だがそれはあくまでも静かな上野の森の中の、美術館の倉庫の薄明るい光線の中に、その日展開された仏蘭西《フランス》の十八世紀の夢の中の、その夢を構成していた一分子として、素晴らしかったのであって、もしその絵だけが別の場所に置かれていたとしたら、私は大して素晴らしいとは感じないだろう。ボッチチェリの「ヴィーナスの誕生」の中から、ヴィーナス、またはヴィーナスの乗っている貝殼、または空や海の上に散っている薔薇を、それだけを抜き出して別の場所において見たとしたら、なんの雰囲気もなくなってしまうようなもので、その絵自体としては私が好きになるような絵ではない。だがターナーの風景のように、樹々の梢が空に滲んでいる(それはまるでお茶漬の中に溶けた上等の海苔のような工合なのだ)絵、または美人画的な、貴婦人の肖像などをみると、昔、本郷の青木堂で売っていた英国チョコレートの箱の絵が、幼い日々の中の午《ひる》の光や、灯火の明るさと一緒に、浮び上がってくるのだ。それらの絵は、私の遠い過去との関連の中では最も好きな絵なのだ。美術館員の詳しい説明は忘れたが、十八世紀の絵というのは、技巧派で職人芸の極致というような絵だけで、その他にはなかったらしいが、その技巧は驚くべきものである。ルイ十五世のまだ若い肖像画の、裾長のマントの裏についている白い貂《てん》の毛皮の、固く緻密で、また柔らかな手触りと、クリーム色とが(よくクリーム色の薔薇などという、あのクリーム色ではない。牛乳がチーズになりかけた時の色で、巴里《パリ》にあるプチ・スイスというチーズの色である。白い絹が何度も洗われて時代がつくと幾らか黄みをおびる、あの色である)そっくりその侭そこに、実在していて、私は直接《じか》に触ったのと同じ触感を感じた。私は今書いている小説の中に、古くなって、汚《よご》れた兎のようになっている白い貂のマッフが出てくるが、私は実物の白い貂を見たことも、触ったこともないので、その王様のマントの裏が超技巧で、実物そのものに描かれているのを見ることができたのはなんともいえなくうれしかった。またその、薄い藍色の(この薄い藍色は、薔薇色がかった朱が薄れたような色といっしょに、巴里で見た古典の芝居の衣裳でよくみた色である)天鵞絨《びろうど》地の上に浮き出している黄金色の模様(私が王様模様、と言っている模様で、基督《キリスト》教の中のサン・ポオル派の定紋がそれである)もだが、特にマントの縁《へり》の、同じく黄金色の模様は、どう見ても六ミリぐらい画面から盛り上がっているとしか見えない。説明をきくとまったく平面なのだというのである。私は驚いて目を近づけて、とみこうみした。もう少しで、ルーヴルか、どこかの宮殿からか借りてきた、貴重な絵に手を触れそうになって、危うく思い止まったのである。(また、衣《きもの》、襟飾り、袖口などについているレースが、まったく本ものにみえるのに目を近づけてみると、ただ荒っぽくさらさらと描かれているのにも驚いた)何をするかしれたものではない私であることを知っている同行のKが、はらはらしているのが手にとるようにわかるのだ。鋼格子と格子との間に入る時、Kは小声で注意をした。床に所狭く置き並べてある天井画の模型や、小さな彫像、などの間を歩くような時には、いつも足がふらついている私は(年齢のせいではない。二十代からすぐ転び、またたちまち疲れる足なのだ)、自分ではどれほど注意しても、いつ、綿蒲団にくるまれ、大切に運ばれてきた置物に倒れこむか、ちょうど泉水《バツサン》ぐらいの大きさの天井の模型に腰から落ちこむかわからないので、何度か薄氷を踏む思いをした。また、十八世紀に、土耳古《トルコ》の風俗が仏蘭西《フランス》に入ってきた時に描かれた、黒人の侍女を侍らせた貴婦人の絵の背景に硝子窓があったが、その硝子窓の棧が、私が週刊誌で見つけた日本の家の硝子窓の棧に似ていることも発見した。これも私の変な小説に何かの貢献をしてくれるだろう。花や果物と一緒に、狩の獲ものの雉や兎が描かれている五十号ぐらいの静物の中の、腹を見せて吊されている兎などは、丸く見開いた、光のない目も、腹の、綿をちぎってつけたような白い柔らかな毛も、ほんものの兎がそこにあるよりもリアルである。それは残酷なものを感じて気持が悪くなるくらいなのだ。古い西洋画の静物にはよく、動物や鳥の死骸や葡萄酒が、花や果物と一緒に描かれていて、それを見ていると、欧羅巴《ヨーロツパ》の豪華豊醇な宴会の食卓が髣髴《ほうふつ》としてくるようで、見ている自分自身がそういう食卓の料理(たとえば松露を盛り合せた鶏の蒸し焼、腹に栗《マロン》を詰めた七面鳥、フォアグラ、古いシャトオ・イクェム、シャトオ・ラフィット)を口に入れたような気分になる。欧羅巴人が鳥や獣の肉を食いちらし、獣の血のような葡萄酒の杯を傾ける、一種執拗な、重い感じは、欧羅巴の絵や彫刻、文学、音楽、すべての中に感じられるものであって、日本人の中でも、菜食人種だった祖先の後裔にふさわしく、豆腐や湯葉、木の実、川魚ばかりたべている人々にとってはほとんど、驚嘆すべき有様にちがいない。西洋好きで西洋料理気ちがいの私でも、菜食人種を祖先に持っているためか、西洋人の、獣の肉や血や内臓の匂いが、血の色が透った唇から発散しているような感じには恐れをなすのだ。レンブラントの絵で、彼自身がサスキア夫人を膝の上に抱き、空いた右手で葡萄酒の杯を高く差しあげて笑っているのがあったが、二人の人物も、その衣裳も、典雅であるにもかかわらず、獣や鳥、その内臓、血(巴里《パリ》のトゥウル・ダルジャンには鴨の血で煮たシチュウのようなものがある)、牛の脂、豚の脂、真紅《あか》い、血のような葡萄酒と、女とを一緒くたにして享楽しているような(川端康成が「禽獣」の中で、小鳥や犬を、女と同じもののように並べて視ているように、である)一種の感じ、生活全体が鳥や獣の肉、酒、女、果物、などで豊醇になっているような感覚がある。基督《キリスト》教の坊主たちが、肉の料理が豊富に並んだ食卓についていて、腹を突き出して笑い合っている絵を見ても、伊太利《イタリア》で、私たちをカタコンブに案内した坊主の、血の色が鮮やかに透ってみえる顔や、その二重になった顎、黒い僧衣の下に、こわい毛を全身に生やし、真紅《あか》い口を開いている一匹の獣を隠しているようにみえる目の表情、などを見ても、欧羅巴《ヨーロツパ》の人間たちが、獣の肉や血、内臓と縁の切れない、というより、獣そのもののようなものを持っていることが直接《じか》に伝わってくるのだ。絵を収めた鋼の格子の列を離れて、ゴブラン織を張った華奢《きやしや》な肱掛椅子や、色々な種類の木を象《あらわ》した書きもの卓《づくえ》、それと対の小卓、黄金の華麗な飾りのある時計、宮廷風の風俗をした恋人たちを写した陶器の置物、菫色がかすかに交った、濃い薔薇色の肉皿、果物皿、紅茶茶碗などの、中には密かに持って帰りたいようなものを見て歩いていて、先刻書いた、宮廷の風俗をした等身大の人形の前に来た時、私はふとロンドンの蝋人形博物館が頭のどこかに蘇ってくるのを覚えた。劇的なものなんかは少しもない、ただの風俗人形なのだが、照明もあまり明るくなく、窓の外も暗くなったためだろうか。大体人形というものはどこか、気味の悪いものだ。ことに、その中の侍女風の若い女の人形を後《うしろ》から見た時には、浴槽の中で血|塗《まみ》れになっているマラアの傍に立っていたシャアロット・コルディの人形が記憶の中から浮び上がってきた。蝋人形博物館には、革命の中にあった残虐な場面ばかりでなく、宗教裁判で、闘牛場のような、周囲が見物席で囲まれている広場に獅子が五六頭放してあって、そこへ罪人が放りこまれる刑場もあり、また、夫殺しの女が真夜中に死体をトランクに詰め終って蓋をしようとしていて向うの扉が細く開いて、目が飛び出しそうに驚愕した娘の顔がのぞいていて、母親がそっちへ向いて指を唇にあてている、というような市井の事件の場面もある。こういうように、歴史の中のあらゆる血に塗れた出来事を蝋人形で現場そのままに再現して、それを永遠に残して人々に見せるという神経も、欧羅巴《ヨーロツパ》の人間のものである。
風俗人形をみてロンドンの蝋人形博物館を想い出したり、狩の獲物の兎を見て、レンブラントの絵や、欧羅巴人の生きている雰囲気のことなどに考えが横に外《そ》れたり、または水溜りの道を歩く中気に冒《かか》った猫のような足つきで歩いて、皿や、紅茶茶碗などの什器をひどく欲しく思ったりする状態で、大体を見てしまうと(むろん絵は到底全部は見ることはできないし、調度の或ものはまだ組み立て中であった)、私たちは濃い夕暮れの色に包まれた上野の森を抜けて、精養軒に入った。外に向いた方の壁は全体に硝子張りになっている食堂に落ちつくと、幼い日々の記憶の中に深く残っている上野の山、そしてその樹たち、美術館、精養軒、音楽学校などの一連のもので、心がなつかしさで満ちていた私は、精養軒の硝子窓越しに、モナリザの背景のように鈍く薄い錆緑色の不忍池や、上野の森の一部に見入った。そうして巴里《パリ》で飲んだのよりも上等のものらしいライン・ワインを、冷やした洋杯《コツプ》で飲んだとき、今見てきたロココ時代の絵や椅子、人形、なぞの群れの印象、そこから連想したいろいろなものがなんとなく一つの纏まった印象になったのを感じながら、同行のKとSの二人に向って、巴里の話を始めていた。巴里のルーヴル美術館が一年中開いていて、いつでも、誰でも行かれるようになっているために、一つの部屋の中にせいぜい一人か二人しか人間がいなくて、遠くや近くで静かな靴の音がコツ、コツ、と鳴っていたこと、それが絵を見る気分をどんなに柔らかく楽しくしたか、ということなどを話した。そうして話しながら心の中で、今日のロココ時代のいろいろなものの中にも、どこかに基督《キリスト》教国である西洋の、宗教的なものが、たしかにあったことを想い出し、遠い昔、伊太利《イタリア》やスペインの美術館の中の一室で、空のように高い天井に描かれた神々の下で、ミュリロ、などの聖僧の絵、またはヴェラスケスの驕り高ぶった、そうして背徳と残虐に満ちた貴族たちの肖像に囲まれて立っていたとき、不意にその部屋の空間に、欧羅巴《ヨーロツパ》の偉《おお》きな悪魔と、その悪魔と同じように偉《おお》きな神がいるのを感じたことを、想い出していた。そうして今日見た兎や雉の死骸や葡萄酒のある静物から、欧羅巴の人間の、私たちの国の人間より重くて強い個性と、私たちの国の人間の中の獣よりも強烈で生々しい獣を隠し持ち、或者は構わずにその獣を面《おもて》に出していること、彼らの宴会が獣の肉と内臓、血、によって満たされていることと、どこかに宗教の匂いが感じられたこととがやっぱり、そのときの不思議な感動に繋がり、結びついているのを明瞭《はつきり》、認めたのであった。
「巴里」とたべものの話
飾りもなにもないガランとしたホテル・ジャンヌ・ダルクの食堂は、モオパッサンの小説の挿絵にある巴里《パリ》の下町の下宿そのままだった。たとえば「La Patronne」(女あるじ)なんかのようなのである。一方は道に面してい、その反対側は狭い中庭ともいえない空地で、石炭殼がジャリジャリしてい、放し飼いの鶏がココココと、歩き廻っている。そんな食堂でそれもモオパッサンの挿絵そっくりの老若男女の下宿人がガヤガヤ喋りながら食事している。そんな時私がマダァムに、「今日は固いもの駄目なの」と言うとマダァムが中庭に行って産みたての卵を取って来て目玉焼《ウフ・ア・ラ・コツク》にし、前掛の端《はじ》でパイ皿をつまんで入って来て、「ビャン・ショオ・マダァム」(熱いですよ)と言って私の前に置いた。噛めない位固いビーフステェキ、どこの海でとれたのか身許不明の巨大なお化け平目と馬鈴薯、玉葱《たまねぎ》のサラダ、ムウル(烏貝に似て、味は浅利《あさり》のような貝)のフレンチ・ドレッシング、犢《こうし》のコトゥレット(カツレツ)花野菜のクリーム煮込み等々をたべたが、料理よりも、フレェズ・デ・ボヮ(小粒の苺)はレモンと砂糖で食うのが美味《うまい》か、牛乳と砂糖がいいかなんてことで侃々諤々《かんかんがくがく》の議論を闘わせている下宿人達の方が、巴里の町の人間の味で美味《おい》しかったのである。ホテルと上につけているのが滑稽《こつけい》なボロ下宿には希臘人《グレツク》、支那人《シノワ》、ブルタァニュの男、巴里の奴ら、及び巴里人の気ちがいの博士等々がいたが、談論風発で、ガヤガヤ言うのは巴里の奴らだった。下宿のすぐ近くに、ラビラントというキャフェがあり、エミィル・ファゲ(十九―二十世紀ごろの文人)に可愛がられて、ファゲが、印税を譲ってやる為に、同棲していた女と臨終の床で結婚式を挙げた時に立ち会ったという、エドモンという給仕《ギヤルソン》がいたキャフェである。そこに毎日行って、私は杏子や林檎《りんご》のタルト(パイ)や、クレエム(牛乳がチイズになる前のどろどろ)、珈琲《コーヒー》、薔薇《ばら》色のハムを挾んだプチ・パン(コッペ)のサンドウィッチ(胡瓜《きうり》の酢漬つき)、月、火、水と入っているものの違うグラッス(アイスクリーム)等々をたべながら、夫やこの友人の喋るフランス文学、パリの芝居、オペラ、オペラ・コミック(ミュウジカル)の話、美人女優の話等をきいていたのもフランスの香気、巴里の香《にお》いの溢れる楽しい時間だった。ちっとも客のつかない商売女《プウル》、そこらの中年の男、老人、などがいたが、誰も誰もエドモンが好きで「エドモーン!!!」と呼ぶ声と、「おっ」と応《こた》えるエドモンの声が、煙草《たばこ》の烟と酒の香《にお》いの漂う中でいつもしていた。体の悪いデブのエドモンの女房は時々来て、三重顎を一寸動かして夫を呼び、威張ってレモナアドを注文した。その内来なくなったので夫がきくと、「神様の傍へ行ったよ」と胸の上で十字を切り、空を見るように上目になった。彼は夫や友人の肩を叩いて、「よく勉強しろよ、ファゲのように偉くなれよ」と言った。赤茶けた亀の口髭を尖《とが》らせ、背中を丸くし、「おっ」と応《こた》えては店中を走り廻っていたエドモンの姿は今もはっきり浮んでくる。これらの、巴里の羅典街《カルチエラタン》での光景に出てくるたべものは皆普通の町の人々のたべもので、美味《おいし》い巴里のたべものではない。私たちがよく行ったのは |Prunier《プリユニエ》(梅の木亭)という魚料理屋があった。階下に巨大な水槽があって、大きな、日本の伊勢|海老《えび》のようなのが恐ろしい髭《ひげ》をゆっくりと動かしているかと思うと、化けもののような大平目が、クレオパトラを侍女が煽いでいる大団扇のようにパタリ、とひるがえってい、又名もわからない魚どもが群れ泳ぎ、砂地を匍《は》っていた。昔の東京の凝ったたべもの屋のように薄汚なくて二階に上ると、立派な額もなく、シャンデリアもなく、どこもかしこも灰色でガランとしていて、伴れの五、六人と卓子《テーブル》につくと、白い上《う》わっ張《ぱ》りは真白とはいかないが、マナーは完全な給仕《ギヤルソン》が注文をききにくる。凸凹がまるでない子供のような顔の日本人が来ようと、私のような百貨店のぶら下りのロープに靴だけ白黒の上等をはいた、十四五にみえる(日本人の十七八の女の顔は向うの女の十四五の少女に見えるのだ)子供のような奥さんを見ようと、何があっても笑わない。親切で丁寧な様子で、地中海の生|牡蛎《がき》と、ヴァン・ローズと葡萄酒で造った酢を運んでくる。それに二|打《ダアス》お変りをして満足した後は浅利《あさり》入りのピラッフと|羅馬風サラダ《サラド・ロメエヌ》(苣《ちさ》だけの、フレンチソース)に濃いキャフェ、キャマンベエルかゴルゴンゾラ(チーズ)と果物で終るコースは舌がしびれ頬っぺたが落ちる美味《おい》しさだった。その他|生《なま》の雲丹《うに》や、清汁《コンソメ》のゼリイの中に半熟が入ったウフ・ジュレ(凍らせた卵)などもあった。
こしかたの酒
私と酒というものの間に縁が生じたのは女学生の頃、父のところへ見える賀古さんという人に、母に命ぜられて日本酒と焼海苔の小皿を運んだ時である。運んだだけなら縁はないのであるが、よろず食いしんぼうの私はどんな味のものかと好奇心を起こし、廊下でそっと掌の平に一二滴落してなめたのである。すばらしく美味しいものであった。次に縁の出来たのは結婚の披露宴の夜だった。ヴェルモット用の小さな台つき洋杯《コツプ》にボオイが注いで行ったのが、すぐに日本酒と判った。私は隣にいた花婿にも誰にもわからぬように素早く二三度口へ運んだ。築地の精養軒でその日、つまり大正七年十一月二十七日にどんな銘柄の日本酒を出したかは知り得ないが、実においしかった。それとは知らぬ私の父はシャーベットに洋酒の入ったのが出た時、席を立って私の後へ来て「おまり、それには酒が入っているから食うな」と注意したのは、おかしかった。
その後、夕食の度に酒を長々と飲む舅が「まりや、まあ一つのめや」と言って杯をくれる。私がおいしそうに飲むと舅は「まりはのめる」と言って機嫌がいいので、内心私の方もご機嫌だった。舅の飲む酒は広島の賀茂鶴というのだったが、ひどく口あたりが柔かで、猪口《ちよく》に一杯のむとうっとりした。次は一寸した大事件である。結婚後間もない頃私は或日風邪をひいた。舅の妾《しよう》であったお芳さんという人が「これをお上がりになるとよろしうございますよ」と言って玉子酒というものを器用に造ってくれた。(お芳さんは新橋村で育ったいい芸者で、そのころ五十六位だったが、水油だけの小型の丸髷で、頬から頚へかけての横をむいた線のひどくいきな女《ひと》で、冬、まわたをひいた米琉《よねりゆう》の普段羽織の下へこれもまわたの袖無しを着こんでいてもすっきりとした姿だった)大体日本酒の味をもう覚えているところへ卵というものが大好き、又甘いものずきであったから、まずかろう筈がない。忽ち飲んでしまったが、頭が朦朧となって来た。その内になんとなく喋りたくなって夜寝室へ引上げるや夫に向って子供の時から結婚するまでのことを長々と喋ったのである。日頃無口の私が喋り出したので夫は愕いたらしい。結婚前に秘密のある娘でなくて幸いであった。
次は話は伯林に飛ぶのである。夫と伯林にいた或日、友人夫妻にレストランの夕食に招かれた。いやしんぼうの私は、美味しい料理をうんとたべようと思って昼食をぬいて出かけた。そこへ食前酒が出たが、それがトマトジュウスにブランデイかなにかと、生《なま》がき[#「がき」に傍点]とが入ったものだった。トマトが好き、かき[#「かき」に傍点]が好きの私である。おいしくて忽ち平げたが、その内に気分が悪くなって来た。途中で席を立っても、そこでもどすよりはいいと思って、ふらふらと立上って、部屋を出たつもりだったが、事実は出口の敷居のところで意識を失って倒れたのだった。気がついてみると、友人夫妻と夫、ボオイ長、ボオイ、なぞの真面目な顔が覗きこんでいた。私はよく人に、「私はブランデイで酔って倒れたことがあるのよ」といって脅かし、しかる後に、この話をしてきかせるが、私の顔を見ると、私の噂や、私の書く小説で想像する私とは異《ちが》った、あどけないお婆さんであるから、人々は後の話をしない前から、信じられないというようににやにやし出すので、残念である。
次の経験も同じく伯林で、レストランで食事をしていた時、ウォッカを始めて飲んだことである。酒精か水を入れたような透明な洋杯《コツプ》を見て私は好奇心にかられた。誰かが「ウォッカは一口飲む度に何か一寸一口食えば大丈夫だ」と言うのが聴えた。一口飲んでみたところ、味がなくてただ火のようなものが舌を灼き、咽喉を灼いて通過した、という怖るべき感覚だった。
その後は巴里で食事の度に葡萄酒《ヴアン》を飲んだし、クリスマスにはシャトオ・ラフィットや、シャトオ・イキュエムの味も覚え、鴨の血とブランデイだか葡萄酒だかで煮こんだ鴨料理というおそろしい料理もたべてドイツのライン河の沿岸に出来る葡萄でとれるライン・ワインが辛口でおいしいなぞと生意気を言うようになった。
日本へかえってくると舅から盃をもらうのが楽しみで、お芳さんがつくる、鯛の皮を酢の中で揉み出した、一寸にごった酢を二杯酢にしたのへ鯛の身を酢に浸しておいたのをそぎ身にして入れ、庭の南天の葉を飾りに挿した酢のものや、広島のかきの二杯酢に生姜の細かい角切りをちらしたもの又は鯛の刺身のはしのところを刻んで焼海苔のもんだものをまぶしたもの、なぞを肴に猪口に二杯位飲んでご機嫌だった。私がよろこんで飲むと舅は自分の前にだけある特別のお肴も一口二口分けてくれる。それは皮つきの鶏を蒸して裂いたものだった。そのころは猪口に二杯が限度だったが二十五歳の時、どうしたのか猪口に十五杯飲めた。その上なんともなかったので得意だったが癖になるといけないと思って飲めるということを確めただけにしておいた。
それがこの頃は又もとへ戻って、すぐに真紅になり、心臓が苦しくなるので、どこへ行ってもただ残念なばかりである。ウィスキイ、ヴェルモット、アニゼット、オレンヂキュラソオ、クレエム・ド・カカオ、日本酒等すべて味だけは好きであるのにリキュウルグラスに一杯で、二十杯飲んだのと同じ状態になるのは口惜しい限りである。
どういうわけか葡萄酒はあまり好きではなくなった。葡萄酒はやっぱり、フランスの葡萄で造った、フランスの葡萄酒を、フランスで飲むのでなくては駄目のようである。
葡萄酒
戦争末期のころ、福島県、喜多方に疎開していたころ、というと、モリ・マリさんという、自分自身の手では何一つうまく出来ない人間が、カンナンシンクをつぶさに経験した時期だったが、そのころその町のメイン・ストリイト(わが代沢ハウスの前の通りの幅ほどもない通り)の古本屋で、そこの奥さんから喜多方の山葡萄で造った葡萄酒をふるまわれた。
巴里のレストランで、酒のメニュウを手に現れるソメリエ(酒の係りの男)に注文する、シャトオ・イキェム、シャトオ・ラフィット、または、何年のか忘れたが、特別に葡萄の豊作だった年の葡萄酒なら知らないこと、なまじっかな葡萄酒より、その地方で造った素朴な葡萄酒の方が、フランスの田舎の家で出される、その土地の葡萄酒のようでいい。ある人から贈られた山葡萄の葡萄酒も大変に素晴しかった。
巴里に長くいたわけでもなく、上等なのを飲んでいたわけでもないので、ボルドオで千九百何十何年に、葡萄が豊作だったかも忘れてしまった。また日本で、とくに有名なレストランでもないのに、シャトオ・イキェム、シャトオ・ラフィットなどを注文したら、恥をかかせることになる。それで私は一つだけ覚えている「サン・テミリョン」を注文するばかり、莫迦の一つ覚えのように、いつもそればかりである。
メドックはごく一般の種類らしいが、婚家にいたある夏、上総の一の宮にあった、そこの別荘の、小さな酒屋の棚に、メドックが一本あったというので歓喜して買って来てその晩の夕食に皆で汲みかわしたことがあった。別荘地なので、どこかから少し、仕入れたのが残っていたものらしい。
正直な話、巴里にいた一年の間に、あらゆる葡萄酒を飲んでいたわけでもなく、熱心に味を見ていたわけでもないので、私は葡萄酒については無智である。何しろ、十代の時だったので、酒の味なぞわかる筈もなかった。
シャトオ・ラフィットと、シャトオ・イキェムでは面白い思い出がある。降誕祭《クリスマス》にシャトオ・ラフィットと、シャトオ・イキェムを買った時のことである。下宿の主人、デュフォールに、買って来るように頼んだ。代金は私の夫だった人と、彼の先輩の辰野隆が出すことになったのだが、ムッシュ・デュフォールは先ず辰野隆のところへ行き、片方が十フラン高いが、お前はどっちを受け持つか? と訊いた。そうして又夫のところに来て、同じ質問をした。辰野隆も、私の夫も、自分が高い方を出すと言った。ムッシュ・デュフォールは知らん顔で、その差額をポケットに入れたのである。
巴里の町の人間は機会さえあれば、狡く立ち廻って、差額(江戸時代の言葉でいえば《かすり》)を取ることを忘れない。また、私達が二、三人で近所のレストランの夕食に誘うと、満面に笑をたたえて喜ぶが、その喜びは、私達の友情に対してというより、(これで食事代が一回分浮いた)ということの方に比重がかかっているのである。そうして、食事の間中、映画に誘った時には、映画館にいる間中、また、その行き帰りの道々で、撫でさするようなお世辞と、愛想笑いをふりかける。自分たちの方で出す金は、極端に締めるが、貰う方は、形式だけの辞退すらしない。
支那人にもそういうところがあるらしい。私はそう困った家で育ったわけでもないので、品の悪いことはしないが、大体、貰うものは何でも大喜びで貰い(一応、辞退はするが)、辞退するそばから、顔が笑ってしまうのにいつも困っている。そうして人に遣る時にはいつも心の中に、ひそかな抵抗がある。それをお見通しの母はいつも(茉莉ちゃんは支那人のようだ)と、言っていた。ある日妹に、部屋の片附けを手伝わせたが、手伝ったらこの中で何かやる、という約束をしておきながら、どれも惜しくなったので、とうとう、何もやらなかったことがあった。私には砂糖と蜂蜜を混ぜたように甘かった父も、それを妹からきいてさすがに困り、母を呼んで、私に注意するように、言ったそうだ。
葡萄酒の話がどこかへ行ってしまったが、話を巴里の葡萄酒に戻す。私は巴里に小一年いたので、巴里人の習慣が身につき、食事の合間に紅葡萄酒を半々位に水で割って飲むのが好きになったのであるので現在《いま》でも、西洋料理店に行くと、卓子にある紅葡萄酒を水で割って、それを相手に西洋料理をたべながら、巴里時代の感じの美味しさで食事を楽しむことが出来るのに、とひそかに嘆くのである。だが、下らないことに人目を気にする日本の紳士淑女の目前では一寸困るのである。
「R」の季節のはじめ
九月になると、次の年の四月までは続く、Rのつく月々に入る。Rのつく月、それは牡蛎《かき》の季節で、牡蛎がお腹にあたらない、又美味しい季節である。
九月に入ると巴里の下町の辻に立つ市場の、魚の小屋に、篭の中に入った牡蛎が現れる。料理店のムニュウにも、ウィツトゥルの字が出てくる。巴里の牡蛎は地中海の牡蛎で、日本のとこぶし[#「とこぶし」に傍点]をもっと平たく、薄くし、華奢《きやしや》に、繊細にしたとでもいうよりないが、見なくては感じのわからない、綺麗なものである。表面は美しい苔緑で、味は細かく、軽くて、一寸歯ごたえがあって、日本の牡蛎のようなどろどろしたところは全くない。地中海の牡蛎は、ボッチチェリのヴィナスが生れた海と続いた海でとれるだけあって、美しい女のような貝である。
偶然そういう料理を出す店に行かなかったのかもしれないが、巴里にはいわゆるカキフライというのはなかった。私がもっぱら牡蛎をたべたのはプリュニエ(梅の木)という有名な魚や貝類ばかりの料理店であった。
私がたべたのは定《き》まって生牡蛎で、ユンヌ・ドゥーゼエヌ・ウィツトォルといって、一|打《ダース》ずつ一人前になっていた。今言ったようにヴォリュウムがなくて軽いので、三人で三打位、すぐ平らげてしまった。
大皿に並べて運ばれる、その綺麗な牡蛎をお皿にとり、ヴァン・ロオズという薄紅い色のぶどう酒と、酢とをかけてたべると、いくらでもあとをひいた。牡蛎がすむとピラッフという、あさりによく似た、貝の入ったカレェの味の焼飯と、サラドゥ・ロメエヌといって、固く巻いたレタスの大きいのをたてに半分に割り、上を向けてお皿につけ、上に玉ねぎとトマトを薄く切ったのを、ほんの色どりにのせ、上からフレンチ・ソオスをたっぷりかけた、淡泊《あつさり》したという以上に淡泊したサラドゥを誂え、最後にキャマンベエルか、ゴルゴンゾラ(こっちの方は伊太利のチイズ)と珈琲と果物をたべて、終りであるが、大して高価な料理ではないが、巴里を感じさせる、ぜいたくなコオスで、あった。トマトケチャップを混ぜたらしい、トマトのジュウスの中にブランディを入れ、その中に生牡蛎を入れた。牡蛎のコクテエルも、素晴しかった。そのコクテエルをおいしいのでひと息に平らげて酔っぱらい、お手洗いに行く途中で卒倒した、こっけいな思い出がある。
いくら仏蘭西気ちがいの私でも、日本の牡蛎(広島産の)の粒の小さい身のしまったのを二杯酢の酢牡蛎にして、うど[#「うど」に傍点]の細かい角切りを散らしたのを、涼しくなった十月の初めの夜なぞにたべると、こっちは日本のいき[#「いき」に傍点]な味で、とても素晴しいし、又薄く粉をまぶしてバタで焼き、塩とレモンを添えたのもおいしい。だがなんといっても九月になると私は、地中海の海の色と、海の泡から生れた美女、ヴィナスの足に触ったこともあるかもしれないような、地中海の牡蛎を思い出さないではいられない。
婚家の食卓
十七人を下らぬ[#「十七人を下らぬ」はゴシック体]
そのころ(大正八年頃)私は結婚していて、大家族の中で暮らしていた。舅《しゆうと》の暘朔、その妾《しよう》の高野芳(通称お芳っちゃん)、次男俊輔、三男の豊彦、三女富子、それに家住みの長男珠樹(夫)とその嫁の茉莉という変物が家族であるが、三日にあげず片づいている長女の長尾幾子、次女の斎藤愛子が来る。上の姉は四人の子供を伴れて来るし、それぞれ夫も来る。そこへ中村の兄さんと呼んでいる舅が子供の頃から世話をしたという中年の男がこれも三人の瘤《こぶ》を伴れて来るので、中村の兄さんだけはたま[#「たま」に傍点]だが、晩の食卓の人数は大抵十七人を下らない。
今時分の季節になると夕食前に皆風呂に入るのだが、そこのうちの長幼の序列は一種変わっていて舅を一番に次々と男の子が入り、次に女の方が上から順に入るのは普通の日本風なのだが、舅が先ず威張って入ると、お芳っちゃんがさっと浴衣を脱いでお流しいたしましょうといって入るから、一寸順序がそこだけ狂っているのだ。嫁の私は一番あとに三女の富子とコミで入るので、お化粧の長いこと三島女郎衆のようだった私は、すごく早い富子が茶の間(食堂)に行ってしまったあとも、流れる汗と闘いながらお白粉を塗っている。すると隣りの茶の間から舅の大きな声がするのだ。
(茉莉や、もうお化粧はそれ位でええや)
暘朔は関羽のような大きな男で李鴻章と同じ髭を垂らしていたが、実業家として傑物で、何一つ用事が出来ない無駄めしくいの嫁を少しも怒らないという、奇特な人物で、自分の前だけにある早川亭の鶏の蒸したのを一切れ、私にとってくれたり、(茉莉や、のめや)と言って盃をくれる。息子たち、娘たちは暘朔を恐れていて皆一寸、小首をすくめるような感じの格好でたべている。情けないのは刺身でも、野菜の煮ものでも、おひたしでもすべて一しょ盛りで二たところ位に分けて置いてあるが、食いしん棒の私としては、刺身を二た切れとっては周囲をうかがうというありさまではなんとなく、いつも物足りないのだ。牛鍋とくると、俊輔というのがまだ生煮えの内に遠くから、かけ声をするような勢いで箸をのばして上を向いては口へ放り込むので内心気が気でないのだ。
ちびりちびり[#「ちびりちびり」はゴシック体]
私のうちでは刺身なども、小さな子供にも一人一皿につけてあったし、野菜でもなんでも一人分になっていたから落ちついてたべることが出来たのだ。舅は一時間近く日本酒をちびりちびりやっていて、飯になればあっという間に終わった。
長尾、斎藤の、二人の婿が来ていると、いき[#「いき」に傍点]な、小型の髷に結ったお芳っちゃんが徳利を持った片袖を一寸左手で抑えるようにして、(長尾の旦那様、お一つ)、(斎藤の旦那様、お一つ)といいながらお酌をして廻るが、その様子が素敵に、いき[#「いき」に傍点]だった。そういう時ふと、明治の花柳界の匂いがする。お芳っちゃんは新橋のよし三升の小桃といっていた、生粋の新橋村育ちである。夜更けに、仏間と畳廊下を距てた小間《こま》で、豊彦や富子なぞとお茶を飲んでいる時なぞに、どうかすると(おくやまに、雉《きじ》と狐とおねこといぬとが、あつまりて)なぞと面白い唄を小声で唄う。
鮎の身を離す[#「鮎の身を離す」はゴシック体]
夏、舅の国の広島から、肥って大きな鮎が来ると、お芳っちゃんはそれを上手に焼き、中庭の蓼《たで》をつんで来たのをすって蓼酢をつけて出す。私は男たちのを見て真似ている内に鮎の身をうまく骨から離す技術をおぼえたり、その家独特の牛鍋のやり方もおぼえた。
鍋の酒に火をつけ、青紫の炎になって酒精を発《た》たせ、そこへ半分だけ色が変わる位いためた肉を入れるのだ。皆の腹に牛肉や豆腐、めしが入り、食卓の上が閑散になる頃になると舅の眼尻が髭と同じに下へ下がる。豊彦や富子は小声で「八時十五分、八時十五分」といい、小遣いの追加をねだる。それをお芳っちゃんが眼ぶたが薄紅くふくらんだ下眼づかいで笑いを含んで眺めた。
子供の時の果物
昔、子供の時、明舟町の祖母(母親の実家の祖母である)が「水菓子」というのをきいて、甘くて、水のように冷たいお菓子かと思って、どんなものが出てくるかと期待していると、蜜柑と林檎が出て来たので失望したことがあった。私の母親は、バナナのことをどういうわけか芭蕉の実と言い、八百屋で、「一寸芭蕉の実を頂載」と言うと、八百屋の鼻垂れ小僧は何のことだか判らないのである。彼女が尊敬していた私の父親がそう言っていたのでもないのに、どうしてそんな変った名称でバナナを呼んでいたのか、皆目《かいもく》わからないのである。小僧がやっとバナナと判って包もうとすると、「その芭蕉の実はおいしいだろうね」と言うのである。(昔の奥さんは店の男に、「そちらのを下さいませ、恐れ入ります」などと、馬鹿丁寧な言葉は使わなかった)小僧が得意顔で「へい、おいしいですよ」と言うと、「まあ、あんたのところでは小僧さんにバナナをたべさせるの?」と言うのである。帽子屋に入って、どれも頭にはまらないのは自分の頭が大きすぎる故《せい》なのに、番頭や小僧が笑うと、本気で腹を立てた私の父親といい、私のうちの人間はどの人もなんとなく変った、へんな人物として店員の目に映った。そのために一緒に歩くのが恥かしくて厭なこともあった。母親は蜜柑がものすごく好きで、十一月の初めの、真青《まつさお》のから、三月末の甘いばかりで香気もないのまで、毎日大きなお盆に山と盛《つ》んで、たべていた。買いにやる時には「温州《うんしゆう》蜜柑でなくてはいけないよ」と言った。蜜柑は温州蜜柑、葡萄は甲州葡萄が好きだった。母の父親も甲州葡萄が好きで、大病で入院していた時、甲州葡萄をたべたいといい、母親はそのころ、私の手をひいて町を歩いている時、八百屋か果物屋を見つけ次第入って行って、甲州葡萄を探していた。黒にみえる程深い緑色《グリーン》の、深張りのこうもり傘を差した、青白い顔の母親が、果物屋の天幕《テント》をくぐって入って行っては出て来た、その時の、思いつめたような顔が、私の印象に残っている。バナナは、獅子文六の「バナナ」に書いてあるような、手続きや経路を経て入ってくるのではないらしくて、どこの八百屋にも山盛りに重なっているが、美しい黄色で、首の青い位のを買って来ても、芯のところが黒かったりして、香気もない。私の父親は明治の初年に独逸《ドイツ》に八年もいて、帰ってくると、カイゼル二世そっくりに髭《ひげ》を鏝《こて》で上へねじ上げ、独逸の草花の種を庭に蒔いて、伯林の町の家の庭のような花畑を作り、絶えず葉巻をふかして、着物も部屋も、葉巻の香《にお》いで一杯にし、三時には、濃い、牛乳入りココアを飲み、独逸の麦酒に一番近い黒麦酒を飲み、子供たちのたべものについては、その頃の独逸の軍医の衛生学でやっていたりそれも大変に厳重で、私たちは生の果物は一切れも口に入れることは出来なかった。なんでも水煮をして砂糖をかけるのである。煮ては不味いバナナや柿はたべられなかった。冒頭にあるバナナを買う母の話は父が死んだ後の、晩年の母のことである。杏子《あんず》や熟した青梅が父は好きで、私は天津桃が大好きだった。天津桃は煮ると葡萄酒のように紅い汁になり、甘酸っぱくて水蜜桃よりも美味しかった。杏子は庭に杏子の木のある友達から貰って今もたべているが、天津桃は八百屋から姿を消した。青梅も毎年たべるが、昔の想い出のために、梅酒よりずっと美味しい。
私の父親は大変に変ったことをしていた。杏子を煮て、砂糖のかかったのを御飯の上にかけてたべるのである。又は葬式饅頭を羊かん位の厚さに切ってこれも御飯にのせ、煎茶をかけてたべた。その話をすると誰でもおどろくが、父親とたべた想い出もあるが、支那のお菓子のようだったり、淡泊《あつさり》した、渋いお汁粉のようだったり、どっちも美味しい。だが、或日母の実家で、生の水蜜桃が出た時、よの中にこんな美味しいものがあったのかと、おどろき、その味は今も覚えている。
鴎外の好きなたべもの
鴎外は津和野の貧乏医者の子供だったので、いかにもそういう家の人間の好きそうなものが好きだった。枝豆を茹でて、醤油と砂糖少しで煮たもの、栗をやはり同じように煮たもの、蕎麦がき(蕎麦粉を水で溶いて、箸でかきまぜながら煮つめ=柔かい程度に=て、蕎麦のおつゆのようなものをかけてたべる)。お箸で音を立ててかくので、そばがきというらしい。私はそれをよくたべたので今でもお蕎麦の味がとくに好きで、近所に、その蕎麦がきを出し、又蕎麦湯を、朱塗りの木製の入れものに出す店があって、好きな店である。
又茄子と白瓜の、あまり漬かりすぎない漬物。父はその方が本当の日本語なのだろうが、茄子をなすび[#「なすび」に傍点]と言う。子供が大きくなった頃からは母のことを、お母ちゃんと言っていたので、食事の時よく、「お母ちゃん、なすびの漬物おくれ」なぞと言った。
彼のたべもので変っていたのは、他所《よそ》から葬式饅頭を貰うと、琥珀色で、爪の白い清潔《きれい》な手でそれを四つに割り、その一つを御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべるのである。私を始め妹も弟も喜んで真似た。子供にはおいしいものであるが、母だけは見ても不味い、という顔をしていた。又もう一つ変っているのは、お刺身が出ると火鉢にかけて、自分で醤油と酒少し入れてサッと煮てたべるのである。
うちのパッパはお刺身を煮てたべるのよ、というと大抵の人はおどろく。これは私に遺伝して、私はお刺身が大好きだが、残ったのを(好きで五人前も取るので、冷蔵庫に入れておくと翌日は一寸不安になるので)醤油とお酒で薄味に煮る。私は皮や骨のついた切り身なんかは皮と骨がいやなので、煮たお魚がたべたい時にもお刺身を取る。父は皮や骨のあるのも器用にたべるから、何故お刺身を取ってわざわざ煮るのか、不可解である。父は、若い時伯林やミュンヘンに長くいて、十八世紀後期の、独逸の衛生学に凝り固まっていたのだろう。母は父がお刺身を煮たのが好きなのだと思って、父にもお刺身をつけたらしい。
独逸の衛生学にこり固まっているから、子供に生水を飲ませるな、と言い、果物も煮て、砂糖をかけて食わせた。どういうわけか林檎は煮なくてよかった。父と暮していた間は、二月の梅から始まって、杏、水蜜、真紅な桃、梨と、私たちはいつも食事の後のデザートとしてそれらの煮たのをたべた。伯林のホテルで梨とプラムを煮たコンポートが出たが、大変|美味《おい》しいので今でも煮る。
父の好きな西洋料理は皆、十八の頃、伯林の下宿で出たものだから、ステーキなんかはなく、人参、玉葱をみじんに切って、馬鈴薯のマッシュで包《くる》んで、メリケン粉、卵、パン粉をつけて揚げたコロッケ、キャベツ巻き、牛肉とキャベツを、牛肉が繊維になり、キャベツが鼈甲色になるほど煮たもの、馬鈴薯、人参、の細《こま》かく切って茹でたのと罐詰の青豆、生の玉葱の刻んだの、白身の魚を茹でて、身だけむしったものを混ぜて、酢と、サラダオイルで和えた、カイゼル二世が戦地で、自分で作って兵士たちにくわせた、というサラダ、等である。津和野の田舎料理と、伯林の下宿料理との二種である。
父は子供の頃から貧乏で、伯林でも貧乏だったが不思議に、貧乏の感じがなかった。その点は私も彼に似て、鴎外全集や父の本の印税を遺族に分けるという期間がすぎて、本屋丸儲けになってから、自分の本が出るまでの一年、又本が売れるようになるまで、大分貧乏暮しをしたが、娘の頃贅沢に育ったからか、贅沢な人にみえるらしい。
父はなんでも上等が好きで、上等な酒、上等な料理、上等な人間、が口癖だった。金はそう入らない人だったが何でもかでも上等が好きだった。
料理ではないが、私を大変に、上等、上等と言ってくれたので、私はおかげで本来の人間よりは上等に育ったような気がする。さて今夜は、伯林下宿のコロッケとトマトサラダでも作ろうか。
江戸っ子料理と独逸料理
私にとっては東京の味がふるさとの味なのである。地方生れでないからふるさとがないと、よく言うが、私は生れ育った東京が、私のふるさとだと思っている。ふるさとのない人間があるだろうか。ふるさとというのはそこで生れ育った土地であり、又町であると思う。ふるさと、それは幼い日の思い出で一杯の場所である。
私は東京は文京区の千駄木町で生れた。私の母方の祖母が生粋の江戸っ子なので、母の方の系統では私は三代の江戸っ子ということになる。
それで正月のお雑煮、料理もほんとうの東京式で、ひどくあっさりしていた。上等の鰹節だけの清汁に菠薐草と角い餅二切れ、柚子の吸口だけのお雑煮。数の子は、前から醤油に漬けたりせず、塩ぬきだけして切り、それに鰹節と、生醤油をかけるだけでさっぱりして美味しい。なますは繊切りの大根に人参を少し混ぜ、ほうろくで香ばしく炒った田作りの頭《かしら》をとって細く裂いたものを混ぜ、あっさりした三杯酢にした。おせちも醤油に清酒、砂糖はほんの少しであっさり煮る。かまぼこ、黒豆、きんとんなどは日本橋の三越で買っていた。お屠蘇も、味醂を使わず、屠蘇散を上等の清酒に二、三日浸したものである。
私は結婚して、舅の国の広島風の色々入ったお雑煮を知ったし、疎開先の福島県喜多方では、色々入っている上に、下ろし際に入れたイクラが半煮えになっているのも覚えた。どっちも美味しかったが、江戸っ子らしく気短かで、何をするのでも手早い母がさっさと造った、あっさりした東京雑煮が忘れられない。
私は母の好きだった鰈の塩焼、貝柱の酢のもの、菠薐草の浸しもの、白魚の刺身(大きな白魚をさっと湯を通したもの)、海老の鬼殼焼、海老と|※[#「魚+箴」、unicode9C75]《さより》とぎんぼうの天ぷら、烏賊の松笠焼、焼松茸(柚子醤油)などを食べる度に、母を思い出すが、皆江戸っ子らしい料理である。
私には又、料理に関する限りでは、独逸《ドイツ》料理もふるさとの料理のようなものである。父が八年も独逸に居たので、父が教えて母が独逸風の料理をよく造った。父が若い頃、伯林《ベルリン》やミュンヘンの下宿でたべたものだから、あまり上等のものではないが、私をはじめ妹、弟たちも独逸の下宿式が大好きだった。
牛肉のシチュウ。キャベツ巻き(塩、胡椒だけの味)。挽肉に人参、玉葱のみじん切りを入れていためたものを、馬鈴薯を茹でて漉したもので揚げたコロッケ。キャベツと牛肉の煮こみ。魚入りの馬鈴薯、玉葱、隠元、人参等のサラダ。または梨とプラムを煮たコンポート等である。
独逸の下宿では、いい肉は使わなかったので、母が造った方がうまいと父は言っていた。魚入りサラダも、母のは平目のいいところを酢を入れた水で茹でたから、ほんとうに洒落た味で、パンと麦酒《ビール》といっしょだと一層美味である。
江戸っ子料理と独逸の家庭料理が、私の郷愁を誘う、ふるさとの料理なのである。
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私のメニュウ
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私のメニュウ
[ある日]
〇ビスケット
[#1字下げ]ビスケット二枚の間にバタ、チーズ、固めのジャムなどを挾んだもの。
〇ザクスカ
[#1字下げ]食パンを油でいため焼き、挽肉、玉ねぎ、卵をいため、塩とケチャップで味をつけ最後にメリケン粉を混ぜて固くして前のパンに盛り、パセリを飾る。
〇コロッケ
[#1字下げ]買ったコロッケに良質のバタを塗って網で一寸焼く。
〇霞汁
[#1字下げ]卵に極少量の塩を入れ、油をしいたフライパンにうすく流し、焦げぬように焼く。この薄焼卵を千切りにしてお清汁に入れる(生姜汁を少したらす)。
[ある日]
〇わかめ味噌汁
〇たら子のわさび和え
[#1字下げ]たら子の中身を出し、わさび少々を混ぜ合わせ醤油を添える。
〇枝豆ハム入りご飯
[#1字下げ]枝豆を塩少量入れて青く茹で、ハムを細く切り、炊き上ったご飯に混ぜる。
〇あさりスープ
[#1字下げ]煮立った湯にあさりを殼ごと入れ、同時に牛乳(五人分で六、七勺)、塩、コショウを入れ、貝が開いたら火から下し、パセリを散らす。
〇生トマトとそら豆の塩ゆで
[ある日]
〇しじみの味噌汁
[#1字下げ]下し際に水溶きの辛子を入れる。
〇馬鈴薯の粉ふき、ハム、パセリ和え
[#1字下げ]粉ふきにした馬鈴薯に塩と少しのバタを入れて火の上で転がし、ハムをまぜパセリをまぶす。
〇カレーご飯
[#1字下げ]にんじん、玉ねぎ、とり肉のみじん切りに、カレー粉茶匙半杯(一人分)と塩とを加えてバタでよくいため、ご飯を入れてよくまぶす。
〇トマトスープ
[#1字下げ]にんじん、玉ねぎ、じゃがいもをバタでいため、トマトとご飯をすこし入れ、水から弱火にかけてよく煮て裏ごしする。
〇胡瓜と玉ねぎのサラダドレッシング
[ある日]
〇馬鈴薯味噌汁
〇生胡瓜の焼雲丹添え
[#1字下げ]罎詰の雲丹を小皿に塗り網に伏せて焼き、焼けた所は剥がして中まで焼き、胡瓜に添える。
〇牛肉卵衣焼きのおろし添え
[#1字下げ]牛肉(一人分二十匁)に塩、コショウをして暫らくおき、卵をからめてバタで焼く。大根おろしにコショウか粉山ショウを混ぜ醤油をかける。
〇野菜サラダ
[#1字下げ]馬鈴薯、トマト、玉ねぎ、胡瓜をフレンチソース和えにする。
[ある日]
〇ハム二切れとチーズ一切れの皿
〇桃のジャム
[#1字下げ]水蜜桃を茹で、くずれたら潰して砂糖を全量の半分入れ、食紅で薄いばら色に染め煮つめる。
〇パセリバタ
[#1字下げ]バタにパセリの粉切りを混ぜ、小さくお団子にし、氷を入れた水に浮かせる。
〇鯵のひと塩焼き
[#1字下げ]鯵のひと塩をあぶり、清酒と醤油(清酒の方をやや多く)をかける。
〇冷ややっこ
〇野菜バタ清汁
[#1字下げ]キャベツ、人参、玉ねぎ、青豆を茹で柔かくなったら塩コショウを入れ、下し際に良質バタを大匙一杯(五人分)と醤油を入れパセリを散らす。
[ある日]
〇茄子味噌汁
[#1字下げ]水からしを溶き入れる。
〇目玉焼
〇トマトジュース
[#1字下げ]トマトを清潔なふきんで絞り、塩少し、コショウ少しで味を調えコップに入れて氷を浮かせる。
〇豚冷肉、トマトと玉ねぎ添え
[#1字下げ]豚肉を丸のまま(五人分で百三十匁)を箸の通るまで茹でて冷やし人数に切る。トマトの輪切り、玉ねぎの薄切りを附け合わせ、焼塩、ねり辛子、ソース、マヨネーズ等を添える。
〇豆腐清汁
[ある日]
〇サーデン、胡瓜のサンドウィッチ
[#1字下げ]パンに辛子とバタをつけ、サーデンにパセリを散らして挾む。胡瓜は斜に薄く切り塩で手早く揉んで同じく挾む。
〇まくわうり
[#1字下げ]まくわうりの皮を剥ぎ、五分角位に切り、砂糖をかけて混ぜ合わせ深い大皿に盛る。
〇鰹の角煮
[#1字下げ]鰹の切身を五分角に切り、生姜の薄切り少しと一緒に醤油、清酒、砂糖でからからになるまで煮しめる。
〇焼なす、生姜醤油添え
〇馬鈴薯スープ
[#1字下げ]馬鈴薯を茹で、くずれたら潰してバタ、塩、コショウを入れ、ハムの細切り、玉ねぎのみじん切りをまぜて煮込む。
春の野菜
私は筍、蕗、蕗のトウ、山椒、根芋、芹、田芹、クレッソン、なぞの春さきの野菜がなんともいえなく好きで、秋の焼松茸とか、松茸飯、栗、なぞも大すきだが、松茸飯は筍飯より劣ると思うし、栗よりも新|馬鈴薯《じやがいも》の、微かに塩を入れた白煮(甘く煮たもの)の方がすきである。春の新じゃがいもには筍や蕗にあるような渋みのようなものが一寸ある。
ほろ苦い、渋みのある味や香《にお》いはずいぶん強いけれども、濃くはなくて淡泊なので、松茸ならうまく、さっと仕上げれば御飯と一しょにバターでいためても、おいしいが、筍では味も香《にお》いも薄くなってしまうのである。莢エンドウも大すきでまだ若い時から毎日のように、醤油と清酒とかつおぶしで淡味に煮ておかずにする。中の豆が煮てる内に飛び出して皺になるようになった莢エンドウはことに好きである。むきエンドウの御飯(淡い塩味だけ)も、おかずが要らない位好きだ。じか鰹で一寸辛く煮た筍も素敵だが、筍飯の冷たくなったのは何よりおいしい。三田台町のお芳さんは春になると鯛と筍の押し寿司を造らえた。彼女は、鯛の酢のものを造る時のように、鯛の皮を酢の中でもみ、その酢で二杯酢をつくる。その白く濁った酢に浸けて表面が一寸白くなった鯛を用意しておき、その淡泊《あつさり》した酢と魚で寿司飯を造らえて大阪風に型で押し出すのだが、その時上に銀杏切りの淡泊に煮た筍を一枚と、皮つきの小鯛を斜《はす》かいにのせ、木の芽をそえる。東京ではあまりみないから、広島風なのか、お芳さんの発明だろう。私は春の日本料理の中では母親が造らえた筍飯の冷たくなったものと、お芳さんの筍ずしがすきである。弟の奥さんの造る、油揚げなんかを入れない、筍と椎茸、卵の薄焼、青豆位のあっさりした筍のちらし、母方の叔父の奥さんの造る鯛の酢じめと三つ葉、人参、筍なぞを入れた白い、酢味のおからもおいしい。(これは従妹が継承している)
筍飯に、油揚げが入ったり、栗飯に小豆が混入したり、鰻丼に卵を流したりというのは、すべてきらいで、へんにごちゃごちゃした着物の柄と同じで嫌厭している。日本料理屋でいろいろな形に造らえたり、染めたり、生の魚が動いているとか、そういう凝りすぎたのもきらいである。私が子供の時、稀に行った伊予紋や八百善のお料理はそんなところがなくて、普通だった。柳川や、鰹を酒と醤油で煮、下ろし際に小声で歌った。「奥山に、雉ときつねとおねこと犬とが、あつまりて、なんというて鳴いた……」の小唄(?)の声音《こわね》、義姉の一人が(うちがこのごろ遊んで困る)といった時(あそぶの)と軽くきき返した、お芳さんの皮肉な、言葉の軽い味は、春の野菜の苦みであった。日中は埃まんまんとして野暮衆《やぼしゆ》たっぷ、おそるべきであるから、春はうちにいて美味しい料理をたべるのが一番である。
私は異常なほどの卵好きで、高血圧が早く来ることを予防するために、蛋白質の多い白身をやめてから三カ月になるが、一つの痛恨事である。一週に一度位の割で白身も使う卵料理を造る。ふだんは黄身だけを肉汁《スウプ》に落したり、茹でてサラダに入れたりしている。
私の卵好きはたべることだけではない。まず形が好きで、店先に新鮮な卵の群を見つけると、家に買い置きがあっても又買いたくなる。あの一方の端が少し尖った、不安定な円い形が好きだ。楽しい形である。私は人間の赤子も、あんな殼に入って生れて、両親で温めると或日|破《わ》れて生れ出るのだったら、清潔で楽しいだろうなぞと奇妙な空想を浮べる。新鮮な卵の、ザラザラした真白な殼の色は、英吉利|麺麭《パン》の表面の細かな、艶のある気泡や、透明な褐色の珈琲、白砂糖の結晶の輝き、なぞと同じように、楽しい朝の食卓への誘《いざな》いを潜めているが、西班牙《スペイン》の街の家のような、フラジィルな(ごく弱い、薄い)代赭《たいしや》、大理石にあるような、おぼろげな白い星(斑点)のある、薔薇色をおびた代赭、なぞのチャボ卵の殼の色も、私を惹きつける。たべるのには代赭色のが美味しく、薔薇色をおびて、白い星のあるのはことに美味しいが、楽しむために、真白のも買ってくる。朝の食卓で、今咽喉に流れ入った濃い、黄色の卵の、重みのある美味しさを追憶する時、皿の上の卵の殼が、障子を閉めたほの明るい部屋のように透っているのを見るのは、朝の食卓の幸福である。卵の味には明るさがあり、幸福が含まれている。フライパンにバタを溶かし、片手にとった卵を割り入れ、固まりかけたところを箸で掻きまぜながら三つ折りにして形を造り、二三度返して皿にとる。その楽しい黄色に焼け上ってくる時が楽しい。銀色の鍋に湯が沸《たぎ》って渦巻いている中に、真白な卵が浮きつ沈みつしているのも、なんともいえない楽しさだ。新鮮な生卵をかけた熱い御飯、柔かく焼いたオムレツに塩胡椒を添えたもの、半熟卵は最上の美味である。茶碗蒸しに炊《た》きたての白米、卵粥、黄味を混ぜた鶏挽肉の淡味煮、笹身の極上を入れた親子丼、卵入り煎《い》り豆腐、固茹で卵を醤油と清酒でさっと煮たもの、固茹で卵入りの独逸サラダ、フウカデン、菜の花のような煎り卵、戦前の江戸っ子(上野、御徒町)の卵焼、同じく戦前の味醂と醤油の香《にお》いのする厚焼卵の寿司。又卵のブランディー、長崎のカステイラ(文明堂の出来ぬ前のもの)、卵入りクリイムの美味しかった戦前の風月堂のシュウクリイム、ヴァニラの香《にお》いの中にはっきり、卵黄の味がした戦前の上野風月堂のアイスクリイム(私は野蕃な戦争が烈しくなって来た頃、〈昭和十九年〉上野の風月堂に毎日のように並んで、四つ盛りのアイスクリイムをたべ、その上に持参の魔法壜に詰めて貰って、下車坂の勝栄荘に引上げた)。ともかく私にとって卵は、幸福と楽しさの源泉の中の一つなのである。
後 記――小説とお菓子
私はこの「甘い蜜の部屋」という小説を足かけ十年かかって書いた。それは長い、苦しい月日だった。ことに後篇の半ばごろになってからは、(この小説をうまく終らせることは、出来ないかもしれない。「とうとう書けませんでした」と言って、編集者にあやまらなくてはならないかもしれない)という、恐ろしい不安がおそっていた――私は玄人の小説家ではないようで、書いていく内に終るころにはなんとなく辻褄が合ってくる、というような小説家だからである。いつも不思議に、辻褄は合ってくるし、伏線も、いつのまにか張られているのである――。始めての小説ならともかく、既《も》う五つも六つも小説を書いていて、それは恥辱である。「もし、そうなったらどうしよう」という大きな恐怖を抱きながら、私は十年目にさしかかった、苦しい日々の中を歩いた。ひと口の水も貰えないで、重い荷物を背負《しよ》わされている驢馬かポニイのような感じである。私という驢馬を歩かせていたのは、私の小説の終るのを待って呉れていた室生犀星、三島由紀夫、の二つの霊、友だち、読者の人たちの、声のない声である。
苦しみというものは、いつかは終る。どんな苦しい病気も死ぬことによって終る。私の小説も去年の十二月三十一日に、不思議な出来事のように、終った。
ところで九年の間わき目もふらず、楽しみはすべてやめてひたすら書いて、ようよう書き終ったという有様は、よくあるドコンジョーの人の感じであるが、今も書いたように私は、重い荷物を背負わされてのろのろ歩いている驢馬そっくりの人間である。のらくらな人はコンジョーの人より苦しい。満ち溢れた活気があって、男の人なら向う鉢巻で、夏なら裸になり、全身で岩にぶっつかる勢いでやるというのは、ぐうたらぐうたら、怠けたいのをむりに働かせられるのよりは楽だと思う。しゃっきりしていると思う。ドコンジョーの人になってみたことがないのでわからないが。
そういう私にも、ドコンジョーとヤッタルデで取り組むことがたった一つだけある。それは自分のたべるものを造《こし》らえることで、目下三日おきに造っている常用のお菓子にはドコンジョーで立ち向かっている。板チョコを好みのこまかさに砕いて、次に角砂糖を下《お》ろし金《がね》で三分の二程すりおろし、その粉を砕いたチョコレエトにまぶす。残りの三分の一の角砂糖を、板チョコと同じ位の細かさに砕いて、それも混ぜるのである。切り出しで割るのに、むずかしい大きさの好みがあるので、それを造っている間は全ドコンジョーがその作業に集中している。食事の支度も同じだから、ずいぶん時間もかかる。
私の仕事場である、寝台《ベツド》の上を見た人は例外なく、内側が白で外側が薄クリイム色の中型ボオルに盛られたチョコレエトを不思議そうに見る。見たことのないお菓子だからだ。角砂糖の粉にまんべんなく紛《まぶ》されているので、「ゼリー?」と訊いたのは瑛子さんという近くの杉木さんのお嬢さんである。
ボオルごと持って行って見せると、金井美恵子は少し食べて見たいと言い、私が多過ぎぬように、さりとて少な過ぎてケチに見えぬようにと、神経を使い、茶匙にすくって差し出すと脣《くち》に入れ、目を天井に遣《や》って、その不思議なお菓子を味わっていた。熱心なその目は、(森茉莉の美味とするものは一体、どんな味のものだろう?)と、呟いていた。一緒に来た編集者の伊藤貴和子も金井美恵子の姉さんも試食を申出た。私が惜しがっているのを見破った伊藤貴和子は、自分の掌《て》にうけたチョコレエトを、金井美恵子の姉さんに分けた。
というようなわけでお菓子製造の方は、小説よりもドコンジョーで造るが大して辛いとは感じないのである。
杉木瑛子にも乞われて、分けた。もうこれ以上分けるのは困るが、私の小説を読み、私のお菓子をたべた人は、私の苦しい仕事と、楽しい仕事との両方を味わったことになるのである。
昭和五十年六月
[#地付き]著 者
(「甘い蜜の部屋」後記)
私に常識はあるのか
(前略)
残った刺身の二きれ[#「残った刺身の二きれ」はゴシック体]
或日私は白石かずこの誕生日に招かれて、大勢で晩餐の卓子を囲んだ。卓子のまん中に紅白のお刺身が大皿に盛られていた。その大皿を取り巻いて肉料理、私の大好きな皮ごと茹でたジャガイモ、紅い色の素晴しいソオスをかけるサラダ菜が隙間なく並んでいた。お刺身の好きな私は御飯をお刺身とたべるために控えめにしておいて、まず他の料理をたべていた。夢中でたべていた私がふと顔を上げると、お刺身がたった二《ふた》切れになっている。
しかし私は思った。もうこの二切れは私の分である。誰もきっと手を出さないだろうと。この場合他の人々がその刺身を私のために取っておいて、箸をのばさないだろうと思うのはこれは常識である。そこまではよかった。ところが、私が安心してジャガイモをたべていると、誰かの箸がお刺身の大皿に延びて、ああなんということだろう、一《ひと》切れを挾んで口へ入れた。みるとそれはゆう子の幼い、小さな手だった。私は忽ち、家来が箸を延ばして自分の膳部の上から肴を浚《さら》って行ったのを怒る殿様のように怒った。この上、残りの一切れを浚われては大変と、すぐにその一切れを御飯の上にのせたが、怒りは悲しみに変った。
二三日後に、かずこから電話がかかった時、私はゆう子がたった二切れになったお刺身を一切れたべてしまった、と怒った。これが常識のある人間の言葉だろうか。共同の大皿に残ったお刺身を自分のものだときめるのもおかしいが、その幼い、小さな手は白石かずこの一人娘のゆう子なのだ。もっとも相手が天才詩人の白石かずこだから不満をぶつけたので、ふつうの常識人の奥さんだったら、さすがの私もそんなことは出来なかったにちがいない。
白石かずこ天才はその私のこっけいな怒りを嘲笑《わら》うどころか、「茉莉さんは透明だ」とほめてくれた。
もう一つの例を挙げると、去年の暮に私のところにプリンス・ホテルから、クリスマス・ディナアのための出前料理の広告が来た。七面鳥の丸焼に前菜つきで、いずれも大皿盛りの豪華なもので、たしか二万円のと一万五千円のとの二種類である。私は昔から、レストランで上品に薄切りになった七面鳥をたべるよりも、自分の家で思う存分七面鳥をたべてみたいと思っていたので、貯金もいくらか溜った今年こそ、その希みを遂げようと思い立ったが、いくら大食いでも七面鳥を一羽ではもてあますし、誰かと楽しもうと思い、白石かずこの家を借りてそこへ運ばせ、富岡多恵子を招んで三人でたべようと思った。
二万円の七面鳥に大慌て[#「二万円の七面鳥に大慌て」はゴシック体]
二万円の方をおごろうと決めたが、カラア写真の大皿の下に、八人前〜十人前、と書いてある。そのころ白石かずこのところには、シゲという青年が寄宿していた。ゆう子もいるし、富岡多恵子は現在《いま》では結婚している菅氏もくるから、七人であるが丁度いいわけなのだが、思い残すところなくぱくつきたい私は、もし足りなくてはと考え、前菜つきの七面鳥の二万円の方を二つ分、つまり四皿を誂《あつら》えた。
そこが常識のないところで、その大皿を四皿運びこまれた富岡多恵子は慌てた。そんな大きな皿はないので四角いボオルに盛ったままのを卓子にのせ、とり皿をあるだけ並べた。白石かずこの家はアパルトマンの部屋で狭いので、富岡多恵子の新築の家に運んだのである。
行ってみると多恵子は嬉しい、というより、私の非常識に呆れ、慌て、困り顔で待っていた。大きな七面鳥と、前菜の大きなボオルが卓子に並び、もう一つの方の七面鳥と前菜はもう一つ卓子にのって待機している。多恵子の途方にくれた顔も皆で卓子を囲んでたべはじめるや、忽ち晴れわたって、七人の人々は「ああ、美味《おい》しい、ああ、美味しい」を連発しながらたべはじめた。
ソオスも素晴しく、鳥の肉が、その日の朝焼いたらしく、水気がたっぷりあって美味しく、前菜も洒落ている。私は銀座のモナミで、ひらひらに薄い、しかもいくらかかさかさしたのをたべてから二十五年目なので、「私は二十五年目よ」といって頬張ると、二十五歳のシゲは、「それじゃあ僕と同じだ」と言い、多恵子とかずこは「はじめてよ」と言い、だれもだれも、あまりの美味しさに感動していた。感動のあまりの感動で胃袋が三分の一位は塞がった感じで、だれもいつもほどの喰い魔を発揮出来ないので、二羽目の七面鳥は殆ど残ってしまった。残りは切り分けて各自、帰るものは持って帰って、翌朝又ぱくついたのである。この時のやりかたにしても、八人前〜十人前と印刷してあれば二つ注文することはないし、持ち込まれた多恵子の困惑も考える筈で、それにしてもあんなに巨大な鳥がこようとは思わなかったが、ともあれ、これ又常識のある人間のすることではないと思う。
ひょっとしたら、片口安史が常識がある、という答えを出したのは、どうかした拍子で解答をまちがったのではないだろうか? と私は今だに彼の答案に疑問を持っているのである。
犀星と鰻
室生犀星のところへ行くと、少しいたと思うと、すぐ夕飯の時刻になる。夕飯の時間をねらって行くわけではないが、すべて動作がのろくて、裁縫とあまり変りがないので、どこかへ行こうとして家を出るのはどうしても午後三時になるからだ。一時まで、というような時には夜明け前から肉汁《スウプ》やサラダを造り、長い髪を解いて結うという作業を早く済ませようとしてヤッキになるのである。
夕飯の時間がきても私は図々しく座っている。最初の内はすごく気を遣《つか》って殆ど行かない位といってよかったが、いつからか月に一度は行くようになり、夕飯をたべるのも定《き》まったことのようになった。犀星が「夕飯をたべていらっしゃい」と言うと「はい」と答えるのである。さて夕飯であるが、その度といっていいほど出るのが鰻だった。五反田の、犀星のひいき[#「ひいき」に傍点]の鰻屋の蒲焼が自転車で運ばれてくると、すっかり冷たくなっている。犀星は冷えた鰻がとくにお好みである。鰻の油は冷えて、はぜたようになった肉の襞の間や、皮と肉との間に凝固している。鰻の他にもいろいろあるが、鰻を喜んでたべないと、わざわざとりよせた好意に対して失礼である。私は鰻を嫌いではないが、尻尾の細いところが好きで、むろん焼きたての方がおいしいのだ。私はまず冷えた鰻をおいしそうな顔で平らげ、次に牛肉と野菜のスウプ煮や、煮魚、卵焼、なぞで口直しをした。ところが或時、「紅い空の朝から」という、ずいひつのような小説の中で、鰻が出て困ると書いてしまった。それを読んだ犀星は、鰻をとる時には朝子氏(犀星令嬢で作家)に命じて別の煮魚なぞを私のためにつけさせた。いくら言いわけをしてもだめで、困った。事実、その文章にも(犀星が美味なものとして出すものは、私にとっても美味なものである。私は美味なものとしてたべている)と書いてあったのである。そのことがあって間もなく、私は自分の小説の中に出てくる犀星に甍《いらか》平四郎という名をつけた。犀星が「杏っ子」の中の自分につけた平四郎という名がいかにも犀星らしいので、どうしてもそれが使いたかった。それで苗字だけ苦心して変えたのである。私はその名が自慢で或日、朝子氏に予告すると、朝子氏はそれをすぐに犀星に言った(お父さまの名甍平四郎ですって)。すると犀星は「ふん」と軽く肯いた。詰らなそうな顔だとは思ったが犀星はその時、甍平四郎を、田舎平四郎、と聴きちがえて怒っていたのだった。私が帰ると犀星は急に不機嫌になって、(森茉莉が鰻がきらいだというならくわすな)と怒ったので、朝子氏はなんのことかわからなかったと、後になって私に話した。やがて次の号の新潮を読んだ犀星は朝子氏に〈なんだ甍か〉と言ったそうだ。不思議なことに犀星の死後、私は大変な鰻好きになった。冷たい鰻をたべてみたいと、思うこともある。
〈書簡〉
宮城まり子宛(一九六七年? 一〇月四日付)
この間は鮭の白ソース菠薐草入りとトマト玉葱サラダと、焼肉をごちそうさまでした。もしかしたら出る、熊日の、私の三分の二生記の中の「鮭の白ソース」と「続・鮭の白ソース」を早く読んでいただきたいわ。熊日の三枚こま切れのずいひつは面白いことのところは続に、続々まであるのです。私の処女出パン(きらいな言葉です)の時装ていをして下さった、今では詩人で何とか賞の吉岡実さんが、私の熊日のずいひつを今あずかっていて、吉岡さんの、まだみたことのない奥さんは不幸なことに私の時々抜けているらしいこま切れを一、二、の順に百枚も帳面に張りつけていらっしゃいます。早く読んでいただきたいと思っていましたが、まず順にはりつけてからのことらしいもようです。途中から三分の二生記になって来たので順にはるとはじめの方はごちゃごちゃなのです。三分の二生記の中の十年のケッコン記はシンコクでシンコクなのですが、もともとぜいたく貧乏の私だったので、こっけいだった面もあったので、その方面を出したので、きくも涙、かたるも涙のものがたりが大笑いのお話になっている点、とても自分ではすきなのです。今日は出て行くのがめんどくさいのでパンにお砂とうをつけたのでお煎茶をのみ、お菓子の代りにしました。少し前の貧乏の時を思い出しました。日本の食パンは水気があるので、昔よくあった白い甘いパンに紫のちそをふりかけたようなお菓子ににて来ます。薄ばら色のスアマや、みどり色のアンコのところに白い菓子種みたいなもので丸いのがついてぶどうのようになったのや、ひなあられの豆をぬいたのなぞ、又はおめで糖の甘ナットぬき、等へんなものが今でもすきで、長男が二十四年目に訪ねて来た日、へやに上がってみると、ひとりさびしく四十八の母親が座ってると思ったら、ひなあられの豆だけがバカにたくさんお皿にのこって、忘我状態でたべていて、ミルクキャラメルの空箱が一杯あるのには一驚したようでした。長男が長い足で二《ふた》足でその小机まで来て、机をまたいで私の座ぶとんにあぐらをかいて、のこりのあられの中の豆をたべて笑った時はゆめのようでした。長男と出あってからもヒゲキでしたが、やっぱり私の人生はこっけいを全然はなれては存在しないらしいのです。長男と私はその時から糸の切れた風船のようになってフワフワただよいはじめましたが、タノシクテタノシイ出来ごとをはっぱとすると、そのはっぱのうらに白い虫の卵が一面についていたので、その卵が毛むしになったので大へんでした。
何か書きたいことがあったと思っていたのに今日はパンのお菓子のことが書きたくなったのでそれをかきましたが、今思い出しました。新聞にネムの木の丘の学園のことが出ていて、びっくりしました。すぐジョゼフィイヌ・バアケルの巴里郊外の家を思い出しました。私は今、ある悪い女の人を、堀たえ子さんのしってるベンゴ士を味方にしておどかせば千万円とれるのですが、もしとれたら、胡桃の木のベッドをすえ、フランスの恋人のいない女優のなれのはてのようにして、パクパクたべるばかりでしょう。私は千万円の他には全くないみたいではあるけれど、ジョゼフィイヌやまり子さんのような大きな愛がないようです。私も長男と再会の時から六年間のように楽しくて、毎週三回も悪魔のお酒をのんでいて、千万円の他にもお金があれば、印度の子供や、赤い羽の募金の十分の三しかもらえない人たちに山のようなおくりものをするだろう、とも思ってみましたが、どうもやっぱり私はだめのようです。第一、自分のお金を自分のにするために事を起そうと思い立っても、私のは思い立ったのか、思い座ったのか、思いねそべったのか分らないので、その内にその内にとぼんやり考えている内に或日死ぬだろうという、おかしくておかしい性分です。なんだかつまらなくなりましたのでこれで筆をおきます。
[#地付き]モリマリより
十月四日
宮城まり子様
追白、今、小鯵がお酒としょう油で煮えつつあります。千葉の海で捕れたてのあじのようにみどりやばら色やこい藍に光っているのがあったのでよろこび買って来ました。あとはトマトの生とごはんです。このごろ、つまみなと油げの信州みそ汁がおいしくて大発見でした。又、キャベツと生じいたけとピーマンを一寸こげるようにいため湯をさし、バタをもう一寸入れて、そこへ袋入りスパゲッチーを入れたら、支那そばや(下北沢)より美味でした。たえずおいしいものを考えてるのでいろいろと発見です。こんど松茸の頭だけを入れてバタやきめし(玉葱とパセリ)を造らんと八百やの店をにらんでいますがまだ高くて小さいのばかりです。
〔同封のメモ用紙に〕
ゴムのりが切れていたので今日に出すのがのびてしまいました。それに新聞の催足のでんわがかかって来てしまって、ごめんなさい。
三島由紀夫宛(一九六八年一月四日付)
大変ごぶさたを申上げました。群像の小説に評がございませんでしたことを怒っておりましたことがいつのまにかお耳に入って、お羞《はずか》しく存じましたが、小島さんのお手紙で貴君様のお批評をうかがい幸福になり、ファンのお嬢さんのくれた真紅いのやクリイム色の薔薇を眺め、チイズにパセリをまぶしたというよりもパセリにチイズをまぶした、というようにしたもの(それは青いかびが生え、虫がわいている伊太利のゴルゴンゾラのように、ぜいたく貧乏的の感覚でいただきますと、思われるのです)を黒パンにはさみ、又は生のコーンビイフに生の長ねぎをまぜましたのはドイツのオペラの地下室でいただいた生の挽肉のサンドイッチにそっくりですので、それもはさみ、又苺ジャムをぬりますと、昔のロシアの、叔母さん大叔母さん、居候、だれにも気に入られない従妹、女中を犯したあと、だらしなく軍服をつけて部屋にかえって来て懶そうに長靴の足を卓の上に投げ出す若い軍人、白痴の少年、食いしん棒気違いの祖父、情事気違いの男、なぞのいる家庭のパンのように感じることが出来ますのでジャムもぬって気げんよくいただきました。有がとうございました。それからモイラの後篇の空想が大分浮び上りました。十六で天上《あまがみ》という神様的な、ファウストに扮した、平井幹二郎(?)のスチイルのような人と結婚しますが、シャルル・アズナヴウルのイメエジの園丁がいて天上にひどく変ないみでなく愛され、忠実で、花を咲かせる名人で花園の花を毎朝食卓に切って挿すのが長年の習慣になっております。最初のひと目からモイラも彼も互いに憎み合い、彼はモイラを邪神のように思い、モイラはそれを知ってにくみます。一年が経ち、或夜のパアテイでピータアを知っている、キャシオのような、色の白い、小悪人で、事を起すことがすきな若い男がモイラに住所を知っていることを言い、モイラはドゥミトゥリイが好きなたべものを届けに来た時、ピータアのところに恋の使いにやりますのでモイラがピータアのへやに現れた時、ピータアは大変きびしい顔をしており、「モイラはドゥミトゥリイとも一度は僕とのようにならなくてはいけない」といい、両手で首をしめるような手つきでモイラの頚をゆっくり撫でおろします。逢いびきがピータアがたえられないほど間をおいてあり、終には天上がモイラを殺すことが出来ず苦しみからのがれるために自殺し、モイラは、関係はありませんが前より深い気持になったドゥミトゥリイと林作のいる家にかえることになります。園丁が度々くるドゥミトゥリイの目色からモイラの密事を知るところや馬丁と彼がひそかに反目し睨み合うところもあり、キャシオのような青年からひみつは天上に知らされます。どこから書き出すかさえきまればと思いながらいつものようにこんどこそかけないという恐怖で、自殺してしまいたいほどでございます。神様おたすけ下さい。蘇った室生先生とあなた様とがお二人で大丈夫だと仰言って下さったらなぞとばかのようなことを考えます。
ファンのお嬢さんの前に下さった真紅い薔薇が薔薇色の夕日をあびた枯葉のように枯れた葉の蔭に血のような色になって、ピータア・オトゥウルの恐ろしい魅惑の眼のそばに首を垂れてい、モイラを好きになる天上家の下男のイメエジのジュリアノ・ジェンマが、私をモイラと間違えて凝と見ており、それらのものが私にこわがらないでお書き、と言っております。
一月四日
[#地付き]森茉莉
三島由紀夫様
白石かずこ宛(一九八一年三月二四日付)
「私は頭がどうかしていて嬉しい、楽しみなことを忘れます。きのう三月二日の朝、ア、今日白石さんのところへ行く二十八日だ!!! と思って新聞をみると三月二日だったのです。白川さんに電話をかけることも忘れました。こういう頭で失敗するのは=いつもですが今度のような失敗は始めてです。お誕生日はその日しかありませんから」残念です。「 」の中はもうずいぶん前に書きました。大変に出しにくい手紙ですがこの侭出さずにおくことは[#「は」に傍点]出来ませんので又続きを書くわけです。この頃週刊誌に書いてい[#「い」に傍点]て、てにおは[#「てにおは」に傍点]を新仮名遣いで書けというのでいやな仮名づかいになり、正しいのと新かなと交ざってしまいます。三月二日の朝、新聞をみて二月二十八日は既う過ぎ去ったことに気が付いてからずっと憂鬱が頭の中を占めているのですが、頭の中の感情の網に時々、ところどころ穴があくので、かずこさんに出す手紙のことも忘れている日もある。離婚当時息子を置いて出て来たお母さんであるのに大変うれしい日があり、離婚しようか? 子供を置いて出るのは止めて、会話のなくなった夫とこれから永くいて、だんだん頭が憂鬱のために悪くなって、痴呆のようになってもそのままにしていようか? とハムレットの悩みで悩みつづけた約三年、ことに最後の一年の間でも時々うれしいような日があり、夫の友人の奥さんなぞが来て、茉莉さんご幸福そうねえと言うのでした。かずこさんにまだ手紙を出してない、という憂鬱の日々の中でもぽかんと忘れてうれしい気持でくらす時間もあったのです。そのうれしい気分というのが、まだ十代の嫩い娘が朝起きて、何がうれしいのかわからない、幸福が何処かからくる、というような、うきうきした気分なので、一寸頭が精神病ではないのですがどこかがかすかに変調していて故斎藤茂吉博士に看てもらえば軽い症状だが少し脳が変調になるところがある。精神病と診断することは出来ないが、と言ったのではないかと時々思うことがあります。かういう頭であるために息子を二人おいてかえって来ていた時も、或日は幸福で、その頃は父の印税が入る期間がまだ切れていずお金がバラバラ入りそのお金で三越へ行って着物を買いこみ箪笥に一杯にしてそれを代る代る着て遊び行き、莫迦な道楽息子のような感じで芝居、映画を見歩き、三越の食堂で特大のトンカツをとり、チョコレートアイスクリームをとり、かえりに三越の前の横丁にあった三共薬局で店の半分がソーダファウンテンになっているところに入り、チョコレート曹達を飲み、という莫迦気た生活でした。おかしかったのは夫の家から荷物がかえって来た日、涙顔になる筈の私が何かゆかいなことがあって大きい声で笑った時丁度庭にいた植木屋が目を大きく開いてこっちを見、母が「今日は笑わないでおくれ」といったことです。もっともアンナ・カレーニナのカレーニンのような血の冷たい夫のところから出て来たので、荷物が返って来たことが悲劇ではなかったのですが、事情を知らない植木屋は愕いたのです。父の印税が三十年で切れて、そのころマッカーサーが「欧米では五十年である、日本も同じにしろ」と政府に発言したことを志賀直哉がどこかからきき込み弟に道で会ってそう言ったので私の母が「そうなれば私が死んだ後もマリ達が乞食にならずにすむ」とよろこんだのですが、そのころあらゆる事が議会に持ちこまれて混ざつしていたので、マッカーサー案は流れてしまい、まだ何か書いてもいなかった私は一心になってあてのない文章を書きました。その内ボツボツ注文があるようになりましたがそのなり始めの二年は一日三百円と定めていて或日五円超過するとその翌日はどこから五円引こうかと悩みお豆ふは五円引くと買えないなぞと困った時期が大分つづきました。もう着物を買うどころではなく着物を売りに行って、百円位した着物が五円で売れてもよろこんでいました。そのころ阿佐ヶ谷に大きな古着、古道具屋があり、私と同じ腎臓病の黄色白い顔の主人(老人)が私の持って行く着物は上等だし私が借があることを正直に言うので大変大切にしてくれた。そこにはウインドーがあって売った古着はかざってあったのですが、いつ行って見ても私のはかざってなくて、田舎の婚礼式に着る紋付のようなのがかざってありました。その内に事情がわかって来ました。そこの近所の奥さんたちが私の売った着物を爺さんがみせるととびついて買うので私のは店に並べなかったのです。その主人はいい人で大分高く買ってくれました。そのじんぞうの主人は私が四十位の時六十位でしたからもう遂うにこの世にいないでしょうが、私はその店にどんどん着物を運んで生活費にしました。又鴎外全集が揃ってうちにある。それを一冊ずつ売ってコーヒー代にしましたので妹や弟の家には三種類位方々の本屋で出した全集が並んでいるのに私のは一冊もなくなり、終戦後、期限が切れて本屋だけが儲けるようになったが、終戦直後の一年は大出版社にも紙がなくて全集は出なくなり、私の貧乏は大変な有様になり、母が買ったのも私が買ったのも皆売って、今では昔買ったいい着物は二枚しかありません。馬鹿息子でその上に道楽息子のような生活をしていたので罰が当った感じです。
何故感情の網に穴があくのか考えてもわかりませんが、かずこさんへの手紙のつづきを書かなくてはと、なんともいえない気持でずっといたのですが時々は手紙のつづきを書いて出せばかずこさんはわかってくれるだろうと思って呑気になり、松本清張の「地の骨」を読みふけったり、カンヅメのカレーを鍋にあけ、カンヅメのカレーには肉が三つ位しか入っていないので引肉とジャガイモ、玉葱を入れ、それをかけたごはんを夢のような幸福でたべたりしている毎日でした。平目の煮たのや豆ふのみそ汁を造って食事をしなくてはなりませんし、この頃好きになった、卵をフライパンに薄く流してかきまぜ、それを三度位くりかえした薄い卵を造りたいが卵が切れているので下の管理人の奥さんに卵を買いに行って貰わなくてはなりません。この頃大変老人になり、寒い間は狸が穴にこもっているような感じでベッドに横になった切りで書いたり読んだりしている生活で、ベッドから下りてとなりへ行くのもドッコイショとかけ声をし、ベッドの下の、ベッドと本の山との間に座りこんでしまうとなかなか起き上って立つまでが大変で或日いつも手つだいに来てくれる久米さんが、ブザーを鳴らしても出てこないので管理人をつれて鍵をあけて入って来、私がベッドと本の山の間に腰をぬかしたように落ちこんでいてなかなか立てないのを見て両手を引張ってウントコショと起こした位です。そのくせ老人扱いされるのがひどくいやで(犀星も晩年それでいつも怒っていた)無限賞の日こしかけている私を見て、かえる時立てるのかしら? と思っていて(隣りの人)立つ時手を貸した時内心ひどく怒りました。パーティーで立って歩いて話していると「お元気ですねえ」と皆言いますが、劇場にこしかけていると、大変にいたわるので腹が立って立って、つい隣りの女《ひと》(名をしらない)にかえる時とうとう、いたわられるのがいやですと言ってしまい、(まあすみませんでした)と大変気の毒がってあやまったので困りました。或日台所兼客間(台所兼客間なのでよごれた鍋をそのままにしておけず、片づけて、いつも新しい花を挿しています)で食事を造っているところへ矢川さんが来て(立ち働いてるの?)と言った時にはご機嫌でした。
では又伺って二十八日のお詫びをしましょう
三月二十四日
[#地付き]森茉莉
白石かずこ様
追白、私にも、私を嫌っている人も多少あるのであいつもとうとうなかなか立てないようになったかと嘲笑うのがいやなので私がベッドと本の山との谷間にはまりこんで、久米さんに手を引っぱって起こして貰ったことは誰にも言わないで下さい。
では又、お目にかかりたいと思います。
[#改ページ]
ドッキリ語録
[#改ページ]
[#地付き]……………料理のレシピ
† 今日、鯉《こい》を網で掬《すく》って捕るところが写った時ふと、母が昔造った鯉こくを、思い出した。魚屋に筒切りにして貰《もら》えば、簡単に出来るのだが、家の近くの魚屋に、鯉なぞあったことがない。昔、三州味噌というのがあった。コチコチに固くて、俎《まないた》の上で薄く細かく刻んで出しに入れて煮立て、上澄《うわず》みだけを、実を入れたお碗に注《つ》ぐのである。実は蜆《しじみ》が一番よく、小《こ》蕪菁《かぶ》の、茎を少しつけて薄切りにしたもの、八杯豆腐もすてきだった。八杯豆腐といえばこの頃は豆腐屋に八杯に切って下さいと言ったって通じない。賽《さい》の目で我慢するよりない。さいの目だってうっかりすると通じない。細かく四角にと言うとやっとわかる。四角く切ったのと、八杯に切ったの(少し細長く切る)とでは微妙に、味がちがうのである。八杯に切れと言いて、豆腐屋に通じた時代よ!!! 昔を今になすよしもがな、(荷風)
† 私の家ではずいぶん前から家で母が、西洋料理を造った。父が十八の時|伯林《ベルリン》で下宿していた宿でいつも出した料理で、ロオル・キャベジにじゃがいもと挽肉入りのコロッケ、牛肉の角切りをキャベツと一緒に、繊維になるまで煮《に》込んだものなぞで、ろくな料理ではなかったが、その頃は家で西洋料理を造るという家はごく稀《まれ》で、だから深い片手鍋(ソオスパン)フライパンなぞがあるというのは大変珍らしいことであった。カイゼル二世が兵士に、ご自分で造ってふるまったという、馬鈴薯、人参、青豆、茹《う》でた白身の魚、それに生《なま》の玉葱のみじん切りを混ぜた野菜サラダも、父がレクラム版の小さな、手帳位の本で読んで訳し、それを祖母が造り、母に伝えたものである。
† 私の母がよく造《こし》らえたお惣菜に、大豆を柔かく茹で、そこに昆布を入れ、日本橋辺に売っていた鮎《あゆ》の干物を加えて、ゆっくり煮《に》たのがあったが、ひどく美味《おい》しい。又、春先きに、菜の花の葉の、蕾《つぼみ》もついているのを茹でたお浸しも、美味しかった。又これはお茶漬だが、父がよく遣《や》っていたが、お餅《もち》をこんがり焼いたのを、細《こま》かく千切り、お醤油をよく浸ませ、それをご飯の上に載せて、熱い番茶をかける、餅茶漬は秀逸であった。
† 初代の森永製菓の社長が、カステイラを二枚合わせ、間に苺《いちご》ジャムを塗り、上にチョコレエトや白砂糖の煮《に》溶かしたものを塗り、その上に、ザボンなぞの、一寸苦味のある果物の砂糖煮を薄く削《そ》いだのをのせた、ごく昔から、英吉利《イギリス》なぞにあったような洋菓子を造った時、その菓子の見本を持って、母の実家の祖父の所に、こんなものを造《こし》らえて見ました、と言って、持って来たそうであるが、母の話を聴くと、木綿の縞《しま》ものの、ごつい着物と、同じような羽織を着ていて、それが立派だったそうである。
† 上野の池《いけ》の端《はた》に、(揚げ出し)と、虫くいのある、趣きのある板に白く書かれている、豆腐料理屋がある。大きく切って揚げた豆腐を二つ付けた皿に、大根下ろしを添え、蜆《しじみ》の、三洲味噌の味噌汁(三洲味噌というのは、今の八丁味噌よりずっと美味な、かちかちの固まった味噌で、薄く刻んで鍋《なべ》の湯に入れ、沸騰したら、少しおいて、上澄みだけを、実《み》を入れてあるお椀《わん》に注《つ》ぐのである)がつく。昔、吉原に遊んだ遊客が帰りに寄って、そこで朝飯を摂《と》ったのだそうである。門から敷石づたいに入る。座敷も古風で、障子の棧なぞも時代がついていて、趣きがあった。又豆腐も、味噌汁も、素敵な味だった。
† 寒くなったので私が昔感心した婚家の牛鍋の煮方を、披露したい。先ず牛肉に添えてある油身をいため、油がすっかり焦茶色にカラカラになったら、それを捨て、鍋に残った油で白《しら》たきをよくよくいため、次に牛肉を、まだ処々赤いところがあるようにざっといためる。そこへ出し汁、醤油、酒を注ぎ、ねぎ、豆腐を入れる。これで素晴しい牛鍋が出来る。秋なら松茸を入れると美味《おい》しい。身が少しになった時、御飯を入れてぐつぐつ煮るのも美味しい。舅《しゆうと》がそろそろ「へど粥《がゆ》」にしようや、と言うのが、一寸困ったが。
† 婚家の牛鍋のやり方は披露したが他に、牡蛎《かき》酢と、鯛茶と柚子《ゆず》大根がある。牡蛎の酢のものは大抵その上に生姜《しようが》のすったのを少しのせるが、その生姜をすらないで細かい賽《さい》の目に切って、かけると、大変にいき[#「いき」に傍点]な味になる。鯛をお刺身のように切って、半|擂《ず》りの胡麻(全部こなごなに擂らずに、なかには半分に割れた位のもある程度に、ざっと擂る)を醤油に沢山入れたところに漬けて、三、四時間おく。その鯛を、胡麻醤油ごと御飯にかけ、熱いお湯をかける。柚子大根は砂糖は殆ど入れない酢の物用の酢を造り、そこに薄切りの大根と、柚子の皮を薄く削《そ》いだものを入れ、これも三四時間置く。これは御飯のおかずではないが、合間合間にたべるのである。前回に、婚家の牛鍋を書いたが、私はあまりうれしくなかった。前にも書いたように、義弟の俊輔というのが遠くから箸を持った手を延ばして来て、牛肉がまだ赤い内から食うし、お嫁さんとしては、あたりに気をかねて箸を出すので大変で、結局、牛肉の細かいのとしらたきや豆腐の切れはしを、御飯にのせてたべるしかないのであった。舅《しゆうと》はいつも書くように、私が財産のことにあまり関心がないのを大変気に入っていて、それで私がお豆腐をお皿に取ると、「茉莉は箸使いが上手《うま》い」と、褒めた。
† 吉行淳之介が、蕎麦《そば》がきが好きで、蕎麦がきで酒を飲む、と、「贋食物誌」に書いてあったが、私の父は酒は好きでなく(ミュンヘン麦酒《ビール》に似ていると彼が言って、時々飲んでいた黒麦酒だけは別)、蕎麦がきを肴《さかな》に酒を飲むことはなかったが、蕎麦がきは大好きであった。又吉行氏は、簡単な、淡《あつさ》りした食いものが好きなようだが、彼のために、宮城まり子に教えたい料理がある。豆腐をさっと茹《ゆ》でて冷まして、冷蔵庫で冷やし、あさつきの細かく刻んだものと針生姜をふりかけ、鰹節の薄く掻《か》いたのを少し、ふりかけるのである。これはもと住んでいた代沢ハウスの近くに、昼間は喫茶店だが六時近くになると酒を出すのでボツボツ酒飲みの男の客が入ってくる店があって、昼の間だけ居る昼ママと、六時以後に出てくる夜ママとがいた。その店が出したので、覚えたのである。私はよく干物の焼いたのや、その豆腐料理で、食事をした。昼ママは普通の顔だったが夜ママは顔や姿全体に、繊細な美があって、本物ではないかも知れないが、緑色の翡翠《ひすい》のような宝石《いし》の付いた耳飾りが、彼女が動くと微《かす》かに揺れるのが、大変によかった。又吉行淳之介は酒の肴に、味噌《みそ》を焼いたのを食うと、書いていたが父は、母が病気の日には八丁味噌を小皿に塗り、火鉢で焙《あぶ》り、表面に焦げめがつくと一寸掻き混ぜて又火にかざす。何度かそうやって造《こし》らえた焼味噌(砂糖を少し入れる)を、私たちの弁当に入れてくれたが、大変|美味《おい》しかった。それを、砂糖なしで遣《や》れば、吉行氏に向くだろう。
† 吉行理恵が、瓦斯《ガス》を少しも使わぬ程、料理が駄目であると、書いているのを読んだ。たしか前回に書いた豆腐の料理なら、瓦斯は豆腐をざっと茹《う》でるだけで、後《あと》は要らない。若《も》し、茹でずに生の豆腐でやれば、瓦斯は全然使わないで済むが、私もそうすることもあるが、お腹《なか》に悪いのが心配なら、一寸、その種の粉薬を、要心に飲んでおけばよい(吉行氏式)。
† 又もや花森親分だが或日彼が安く出来る洋食を書けと言い、私は貧乏時代の直後だったので忽《たちま》ち一つの名料理を書いた。それはさつま揚げを熱湯をかけて、胡麻《ごま》油の香《にお》いを取り、乾いた布巾《ふきん》で抑えて水気を取ってから塩|胡椒《こしよう》してバタでいためるのだ。一寸《ちよつと》コロッケ的になる。それを書いて出したら花森親分が「こっちにも森マリ、こっちにも森マリじゃおかしい。(毎号見開き頁《ページ》に文章を書いていたから)目次に森マリの名が二つも載ってはおかしい」と言ったのである。それで姪《めい》の佐代の名を料理の方へ附けたので、千円の、料理の稿料を、佐代のお小遣いにやったことがあった。
† テレビの料理番組を見ていていつも感じるのは、塩小|匙《さじ》半杯、酒小匙半杯、なぞと、塩や砂糖、酒、なぞの分量を言うことである。料理に入れるものというものはそんなに規則的に計って入れるものではない。長いこと遣っていて自然に会得するものだ。そうすると目分量で遣れるようになる。第一味というものはそれぞれの季節にもよるし、その日の気候にもよるし、食べる人のその日その日の気分もある。それだから一流の料理店の味には季節感も、ちゃんとあると思う。だから巧《うま》い料理人でなければ、その食べる人の気分をよく知っている奥さんとか、恋人、女中がいいのである。料理の時間でたった一度、そのへんな、匙で計る分量を言わなかった女《ひと》がある。それは浦辺粂子である。彼女はいい料理人にちがいない。
† 母の実家の祖父も、家《うち》の父も、一人は九州の侍、一人は津和野の医者で、祖母や母が漬物に醤油《しようゆ》と鰹節をかけるのを見て、「漬物には塩で味がついておる。それに醤油をかけるさえ贅沢なのに、その上に鰹節までかけるとは」と言って、顔をしかめた。だが二人ともその内にその美味《おい》しさがわかって、祖母や母の流儀を大変好きになったそうだ。
[#地付き]……………私の好きなもの
† 私は蕗《ふき》、荀《たけのこ》、なぞの、そこはかとなくほろ苦いところのある春の野菜が好きである。昔夫だった人が、遊ぶようになった時、舅《しゆうと》の妾《しよう》のお芳さんに、この頃遊ぶようになって、と言うとお芳さんが軽く、「あそぶの」と言ったが、その言い方の中には、春|先《さき》の野菜にあるような、ほろ苦い味が、あった。花柳界の裏表を知り尽している女《ひと》の、その口調には、他意があったわけではないのに、そこはかとなくただようものが、あったので私は傷つき、お芳さんに言ったことを後悔したのであった。
† 私の好きな果物に、ソルダムがある。果皮は曇ったような薄緑で中味《なかみ》は真紅《まつか》である。今日テレビにそのソルダムが映り、同じ種類の果物に、サンタ・ロオズ、太陽、があるのを知った。この二種は果皮も紅い。一寸食べて見たい。見かけは、果皮が曇りのある薄緑で中が真紅《まつか》なソルダムが綺麗である。
† 私は日本酒は飲めないが、お屠蘇《とそ》と甘酒と白酒は大好きである。最近、白酒を冷やしたのを飲みすぎて、ひどく酔い、苦しくなって、心臓はドキドキするし、寝台《ベツド》に倒れて、ずいぶん長い間、苦しんだ。その苦しさは大変で、酒飲みの人の苦しみというものが、よく、身に浸みて、わかった。ほんとうにあんな苦しかったことはない。心臓がどうかなったらどうしようという不安に襲われた。毎週来て下さる先生に電話をするのも、苦しくて出来ないし、又、白酒を飲み過ぎました、というのもひどく困るので、あった。
† トマト位、好きな野菜はない。トマトを牛酪《バタア》を入れて煮て、御飯にかけるだけで、お菜《かず》は要らない。肉も何も要らない。玉葱を入れると、ケチャップソースの味になってしまう。巴里《パリ》の人はケチャップは用いない。今日テレビでトマトの番組があった。スペインでは、(トマトが赤くなれば医者は青くなる)と言うと、知った。スタッフド・トマト・アテネ風、という希臘《ギリシヤ》の料理が映った。スペインに、(生トマトが魚を引き立てる)という俚諺《ことわざ》があるらしい。産地は忘れたが小さな、丹波《たんば》鬼灯《ほおずき》位のトマトがあり、スタッフの女《ひと》がたべて見て美味《おい》しいと言っていた。巴里のレストランで附け合せについているのを見て、小さいのに赤いのを不思議に思ったことがあった。牛肉や馬鈴薯、さや豌豆《えんどう》なぞをトマトで煮込んだトマト・シチュウも大好きなものである。
† 最近、ソレィユ・ルヴァン(登る太陽の意)というレストランに、白石かずこ、矢川澄子、白石ゆう子、なぞ六、七人で行ったが、そこの清汁《コンソメ》の美味《おい》しいことは抜群で、清汁の好きな私はどこへ行ってもコンソメを注文するが、ソレィユ・ルヴァンの清汁のような素晴しく美味しいコンソメは始めてであった。ただ給仕の無愛想も、おどろくべきものだった。巴里のギャルソン(給仕)なぞは私たちが行くとにっこり満面に微笑を浮べるが、その笑い顔を見ると、(お前は支那《シナ》から来たのか? 印度支那から来たのか? 巴里に来ておいしい料理をたべて幸福だね、おいしいだろう?)と、その笑顔が語りかけている。私もにっこり笑って、その笑い顔に応《こた》えるのだ。ソレィユ・ルヴァンの給仕は日本の人にああいう無愛想なのでは若《も》し、印度の人とか、アフリカの人でも来たらどんな態度をするだろうと思うと、すごいだろうと、考えただけでもいやな気分になる。私は、ソレィユ・ルヴァンの主人に言いたい。(あなたの処《ところ》のボオイは、二、三ヶ月でもいいから、巴里のレストランへ、見習いに遣《や》ったらどうですか? あの仏頂|面《づら》のボオイも少しはましになるかも知れません)と。
† 鴎外はお葬式|饅頭《まんじゆう》を白い、美しい掌で四つに割り、飯の上にのせ、いい煎茶をかけて食べた。大人は誰も美味《うま》そうだとは思わないが、私達三人の子供はよろこんで真似《まね》た。子供の口には美味《おい》しかった。
† 前に書いた父の、葬式饅頭のお茶漬は、変な味覚だと思うだろうが、もう一つ父が好きだったロシア・サラダ(カイゼル二世が自分で造《こし》らえて兵士にたべさせたという野戦料理)は素晴しい。白身の魚を酢と水との半々で茹《う》でたのをむしり、青豆、ジャガイモ、人参のさいの目切りを茹でたもの、生《なま》の玉|葱《ねぎ》のみじん切りを交ぜてフレンチソースで和《あ》えたもので、たべたことのない人は生臭いだろうと思うらしいがご馳走すると例外なく美味《おい》しいと言う。麦酒とパンに合う。父は日本酒を、親友の賀古鶴所が来た時だけつきあったが、肴《さかな》は焼|海苔《のり》。(むろん焼いて売っているのじゃない)
† 時折三遊亭円楽から、お弟子さんの使いで、又は郵送で、名産地のお茶が届けられる。私は心臓が弱いのだがそういうお茶を贈られるとそのお茶を、丁度いい、熱くないお湯で淹《い》れて、上生《じようなま》をたべるのが、何よりの楽しみである。その度に、お茶のお好きそうな方に一つ、お分けするのも、一つの楽しみである。
† 白川宗道さんが胡桃《くるみ》割りを買って来てくれた。大分長いこと、胡桃をたべなかったので、前に持っていた胡桃割りは失《な》くなったのである。フランス語では胡桃割りをキャス・ノワゼットという。胡桃割りではなくて、胡桃壊しである。紅葡萄酒を少し宛《ずつ》飲みながら毎日|美味《おい》しくたべている。
† 「贅沢貧乏」という小説を書いたことがある位、贅沢が好きな私である。私は上に赤のつく貧乏をしながら、その貧乏の中で贅沢をした。今私が、これこそ贅沢だと思うのは上々の越後米を薪《まき》で炊いたのと極上の焼き海苔《のり》(むろん焼いて売っているのじゃない。それも表を中にして二枚重ねて、炭火で上手に焙《あぶ》ったもの)。それと |Soleil levant《ソレイユ・ルヴアン》 の清汁《コンソメ》を、職人が、中に入れる塩の分量を、他の国の職人に洩《も》らしたら死刑になるという巴里の麺麭《パン》を千切りながら飲むことだ。
† 喫茶店でチョコレエトを喫《の》みたいと思っても、ココアはあるが、チョコレエトは大抵どこの店にもない。ココアというのはカカオの実を粉にしたものを熱湯で溶くので、チョコレエトというのは、チョコレエト用の大きな板チョコを削って湯で溶いて、湧《わ》かすのである。父はチョコレエトが好きで母に造らせ、夏はそれを冷やして、白くて厚い大きなカップに、おいしそうに、飲んでいた。本郷(文京区)の青木堂に、チョコレエト用の厚くて大きい板チョコを売っていた。昔通った下北沢の「風月堂」には、ちゃんとメニュウに、チョコレエトと、載っていた。美味《おい》しさが断然ちがうのである。
† 鶴屋八幡の和菓子の広告をよく、アサヒグラフの裏表紙なぞで目にするが、見る度に欲しくなってくる。昨年の二月十九日号のはお雛《ひな》菓子(干菓子)で、菜の花と、紅白の桃の花と、有平糖《あるへいとう》で造《こし》らえた蕨《わらび》であった。大変に美しい。入れてある栃《とち》の木で造らえた木皿は徳永順男という、木工芸家が造らえたもので、その人が木皿(三月の節句にちなんで、蛤《はまぐり》の形になっている)を彫っているところが上の方に写っていた。まだ若い人で俯向《うつむ》いて写っているが一寸《ちよつと》、海老蔵に似た感じで、海老蔵の弟のようである。栃の木の木目《もくめ》を生かすために、意匠をシンプルにしましたと、その人の言葉が載っていた。綺麗な木目の出ている木皿に少しずつ盛られた菜の花と桃の花、蕨の干菓子が美しい。
† 編集のKさんの夫人から今年も素晴しいお正月料理をいただいた、そのお礼状も未《ま》だである。夫人の栗きんとんは、栗に、秋の栗の実《み》の味が明瞭《はつきり》あり、衣のおさつには薩摩芋の味がこれ又明瞭、感じられる。デパートのものには決してない、又他の人の造《こし》らえたものにも決してないことである。
† 或日三好達治は葉子と私とを伴《つ》れて行きつけらしい小料理屋にいくと河豚《ふぐ》の刺身が出た。私が恐怖していると、(森さん、俺が今食うから、俺が食ってから十五分したらたべなさい)と、言った。錦手のお皿の模様が透き徹っている、河豚刺しはほんとうに、綺麗だったし、又|美味《おい》しかった。
† 時々、私の処《ところ》へ手伝いに来てくれる、姪の五百《いお》がこの間、私を大変に喜ばせるものを、持って来た。一度は雑草である。(おばちゃんのところは周囲《まわり》がみんなコンクリで地面が出ているところがないでしょう? だからこれ摘《つ》んで来たわ)と言って、五百が洋杯《コツプ》に差したものは昔、親しんだ雑草であった。赤のまんま、蚊帳吊《かやつ》り草、本当の名は知らないが、それを指でしごく[#「しごく」に傍点]と細《こま》かい米粒のようになる草、なぞだった。私は高価なチョコレエト、洋菓子を貰《もら》った時よりも、うれしかった。又或日五百は美しい、紅葉した落葉を、持って来た。柿《かき》、桜、なぞの葉である。私は戦時中、福島県の喜多方《きたかた》という町に疎開していて、そこに二年いたが、川べりを秋歩くのが何より楽しかった。喜多方は初夏は桜桃、秋は身知らず柿が成って、雪の深い頃、炬燵《こたつ》の中で食べる、身知らず柿は素晴しかった。雪国といっても、その冷たさは大へんなものであった。朝台所で、白菜の漬物を俎《まないた》の上で切っている時なぞ、庖丁、茶碗なぞが、そこらに置くとすぐ凍りついてしまう。その代り大へんに美味しかったのは、切った白菜の漬物を鉢に入れて、部屋に持って来て、炬燵の上で食べようとすると、重なった葉と葉との間に、薄い、薄い氷がはさまっていて、噛《か》むと、白菜と一緒に、薄い、薄い氷をヂャリ、ヂャリ、と噛むことになる。炬燵の中で食べる、氷のような身知らず柿も美味しいが、薄い氷と一緒に噛む白菜の漬物も、素晴しかった。生れた時から一日も離れたことのない東京を離れて、遠い北の国に住んでいる寂しさ、哀《かな》しさは私にとって、殆《ほとん》ど耐え得ないものだったが、それにもまして、食いしん棒の私は、食事の時の副食物が単調なのも困った。その頃は東京は、米の御飯は殆どなく、喜多方へ来てから白い御飯、いわゆる銀めしが十分たべられる上に、里芋、牛蒡《ごぼう》、人参、なぞの野菜も、たっぷりたべられるのも、うれしかった。又、東北地方特産の栗《くり》南瓜《かぼちや》というのが、美味しかった。上下が尖《とが》った丸い形で、薄赤や、薄緑で、見ても奇麗だった。正月には、貯蔵しておいた南瓜と小豆とを一緒に煮《に》た、小豆《あずき》南瓜《かぼちや》という煮物をよくたべた。雪が積ると河の上も橋の上も平らに同じになり、河の上を歩いたって落ちはしないが、東京育ちの私には恐怖だった。
† 昔、南フランスで、グジョン(ヤマメに似た小魚)をバタァで煮た料理を、台にのせて、煮ながら運んで来たが、一寸《ちよつと》、明治天皇が好まれたと洩れ承わったヤマメに、形や何かが似ていて、又ひどく美味《おい》しかった。又|巴里《パリ》でムゥル(烏貝によく似た貝)をさっ[#「さっ」に傍点]と煮て、貝が開《あ》いたのに、サラダ油と酢とのソースをかけた(刻んだパセリも)のが出たが、大変に美味しかった。
[#地付き]……………食いしん棒
† 巴里《パリ》でコックの試験には、オムレット・ナチュウル(何も入れないオムレツ)を造らせるそうである。私はオムレツはお得意である。だけど私にオムレット・ナチュウルを作らせてみて採用したら、こと[#「こと」に傍点]である。巧《うま》いのはオムレットだけで、マロン・オ・ダンドン(七面鳥の栗詰め)も出来ない。生|牡蛎《がき》の前菜を造るといったって牡蛎を貝から剥《はが》すことも出来ない。「|銀の塔《トウル・ダルジヤン》」風の、牛の血で煮込んだシチューも、出来ない。何も出来ないのである。
† 巴里では、沢山の小銭《こぜに》を持っていないと困る。レストランで席に着くと、料理と葡萄《ぶどう》酒の他に、Unebouteille d'evian(エヴィアン一本)を注文する。これは巴里の水道の水が悪い為で、壜《びん》詰めにして売っている、六甲の水のような水である。それから忘れずにチップを遣《や》らなくてはならない。チップが少ないとギャルソンはその小銭を、お手玉のように上へ放《ほう》っては受け取りながら向うへ行くので、吝《けち》をした客は皆に判ってしまうようになっている。又手洗いに行けば婆《ばあ》さんが腰かけていて、これにもチップを遣らなくてはならない。
† 伯林《ベルリン》のレストランで、ウォッカを飲んだ。夫だった人やその友達が笑って、ウォッカを飲む時には、一口飲んだらその度に何か脣《くち》に入れないと酔うと、言った。私は好奇心にかられ、ウォッカを飲んだが、飲む前にも何か脣《くち》に入れておいた方がいいと思い、小さな一口サンドウイッチを脣《くち》に入れてから、ウォッカを一口飲んだ。美味《おい》しいにも不味《まず》いにも、まるで味はなかった。ウォッカは唯、火のように、私の咽喉《のど》を灼《や》いて通ったのである。私は、ウォッカという酒は、咽喉を灼いて通る感じが味なのだ。露西亜《ロシア》の人間はウォッカで咽喉を灼く感覚をよろこぶのだ、そうして体を温くして寒さを凌《しの》ぐのだ、と、思った。全く、味はないのだ。ただ火のように咽喉を灼く感覚をよろこぶのだ、と思った。もう一度飲みたいとは思わない。
† これも伯林のレストランでのことである。食前酒に、生《なま》の牡蛎《かき》の入った、トマト・ジュウスが出た。夫だった人が強いよ、と言ったが、美味しかったので一気に半分位飲んだところ、気持が悪くなり、吐きそうになったので、手洗いに行って吐こうと思って立ち上がって、出口の方へ歩いた、までは覚えているが、気が付くと、ボオイの部屋の、幅の狭い寝台《ベツド》に仰向けに横たわっていて、夫だった人やその友人達の心配そうな顔が、見下《みおろ》していた。何《なん》の酒が入っていたのか、ひどく美味しかった。あれと同じカクテェルは何処《どこ》へ行ったらあるのだろう。酒を少しずつ、量を多くして、幾らか飲めるようになってから、もう一度、飲みたいと思う。
† これは他誌(新潮)に書いたが、レモンと全く同じ形で、味も同じの果実にライムというのがある。唯、色が薄緑なのだ。それをジンで割ると、なんともいえなくおいしい。一口、二口位しか飲めないが、もう一度、飲んで見たい。
† 私は飲めないので酒場には行かないが、私が一つだけ好きで、酒場へ行って注文出来るのは、ジンライムである。洋杯《コツプ》に三分の一より飲めないが、好きである。私は或日、レモンと形も、味も全く同じで、ただ色だけが綺麗な薄緑のライムという果物を知ったのはずいぶん昔のことである。それを絞ってジンで割ったのが、ジンライムである。ジンのレモネードのようなものである。盃に五つ位、日本酒を飲んでも人がおどろく程|真赤《まつか》になり、心臓が苦しくなり、足は千鳥足になる位、弱く、酒というものが体質に合わないし、心臓が悪いこともあるので、好きなジンライムも、一寸《ちよつと》味を見るようなものである。息子が或日一緒に来た、フランス語の女の生徒が、大分飲んでも青味を帯びた白い顔がそのままで、少しも変らないのを見て、どの位|羨《うらや》ましかったか知れない。又その時、白|葡萄《ぶどう》酒を少し過ごしたが、千鳥足になり、息子とその女《ひと》とに両方から支えて貰《もら》って、手洗いに行ったのである。
† 結婚して二週間した頃私は風邪をひいて発熱した。お芳さんが「これを召上るとよござんすよ」と言って卵酒を造《こし》らえてくれた。甘くて、前にも書いたようにお酒の味が好きだったので、がぶがぶ忽《たちま》ち飲み干したところ大変に酔った。私はおしゃべり上戸らしく、その時夫に向い、子供の頃からその時までのあったことを全部、喋《しやべ》った。結婚前に男の友達も全くなく、結婚までの一代記を喋っても、困ることはなかったからよかったが、私はかり[#「かり」に傍点]に若かったとして夫とか恋人とかといる時、お酒は絶対に飲めない。私には、男の人との間に何事もないが、気持の中には、何一つないとも言えないからだ。三十位の時、十年位の間同じ人を、心の中でだけだが、好きだったこともあるし今も、心の中でなら無いとは言えない。
† 父は酒を嫌いではなかったが少ししか飲めず、賀古鶴所が来た時だけ飲んだ。母はほんの一口位より飲めなくて、金団《きんとん》をたべた後で、ほんの一口、日本酒を飲むのが好きだった。私は賀古さんが、あまり美味《おい》しそうに飲むのでどんなものだろうと思い或日、徳利を運ぶ途中で暗い廊下に膝をつき、そっと掌の上に滴らして、嘗《な》めて見たら、美味しかったので、結婚披露宴の時、ボオイが注いだのを見て、間違えたふりをして一口飲んだ。三十位の頃の或日飲んで見たら、盃に十五杯飲めた。それがたった一度の、酒を多く飲んだ、最高記録である。不思議に白酒を飲みすぎた時のように苦しくならなかった。その後は飲まない。それだから一合と一寸飲んで、あまり過ごしますと酔いますからと、そこで止《や》め、飲める人のふり[#「ふり」に傍点]をすることは出来る。
† 私が屠蘇散《とそさん》、白酒、甘酒なぞを、酒飲みの男の人のように好きであることは前に書いたが、私は毎年屠蘇散を、その年内ずっと飲める位、買いこむ。
† プチパンにハムを挾んだサンドイッチのことは前に書いたが、巴里《パリ》ではサンドイッチと言えばそれを持ってくる。日本のようなのは英吉利《イギリス》サンドイッチと言わないと持って来《こ》ないし又、それは大通りの大きな店にしか無い。大抵鮭のスモークか、ハムが挾んであって、日本のより大型である。おいしくないこともない。
† 昨日《きのう》三宅菊子が来て茶巾寿司と粽《ちまき》寿司を貰《もら》い、お腹《なか》具合は、と訊《き》くと空き加減だというので、食いしん棒の私は(じゃあ一つ? 二つ? 三つ?)と何度もケチケチ訊き直し、結局茶巾寿司半分と、粽寿司二本を分けた。又他の雑誌から贈られたいもの、贈りたいものという題を貰ったが欲張りのために贈られたいものだけを書いてしまい、又書き直した。この欲張りは、子供の時から延々続いていて、もはやどんな偉い精神医(?)も匙《さじ》を投げるだろう。三宅菊子のお祖母《ばあ》さんは三宅やす子といい、太平洋の岸に立って、大きな声で(お早う)と、アメリカに挨拶《あいさつ》した、変った人物だったが、三宅菊子は出藍《しゆつらん》の誉れで、大変頭が切れ、顔もお祖母さんに似てはいるが小顔で、引締まっている。引詰《ひつつめ》の髪で、おでこ丸出しにしているがよく似合っている。好きな顔の女の人の一人である。菊子のお母さんの三宅艶子も大変可愛らしい顔の女《ひと》である。
† あまり題字の欄に書く題が多いので、題字の欄には入っていないが「上田瑠璃子と茉莉」という題である。或日、上田敏夫人が母に、(家《うち》の瑠璃子は他所《よそ》から戴《いただ》きましたお菓子を皆でいただきます時上田が、瑠璃子の好きなのをお取りなさいと申しますと、自分の好きなお菓子は取りませんの。わざと余り好きでないのを取りますの。そうして上田に美味《おい》しいのを取らせようといたします)と、言った。母は大変に感心して、私が真先《まつさき》に自分の好きなのを取るのを思って羞《はずか》しく思い、父にそれを話した。父は微笑《わら》って、(なに、お茉莉の方がいいのだ)と、言った。父が私を溺愛していたからでもあるが、私も、自分で言ってはおかしいが、私のように真先に自分の好きなのを取る方が自然でいいと、思う。子供はその方がいい。
† 二月十四日(月曜日)の料理番組で(しんとり菜のクリーム煮)というのが出ている。見たことも聴いたこともない菜である。又もや私の怒りの虫がモクモク持ち上がって来た。全く莫迦気ている。そんな菜っぱ知るか。
† 横尾忠則が、冷し素麺《そうめん》が好きだ、というのは解るが、それに桜ん坊、蜜柑《みかん》、西瓜《すいか》を添えると、デザート代りにいいと言っているのが、北杜夫の、インスタント・ラーメン同様、私には不可解である。
† 三月八日(月曜日)小川宏が自宅を、夫人に送られて出てから、スタジオに着くまでを映していたが、小川屋は頭がいいし、贔屓《ひいき》なので面白かった。欲をいうと朝食の場面があるとよかった。平常より御菜《おかず》が多かったり、よかったりするのでは面白くないが。
† 長谷川平蔵は朝食に、時には昼食も、白粥と、梅干一個を摂《と》る、と書いてある。私はお腹具合が悪いと、平蔵と同じ食事にする。
† 毎週のように、山海の珍味を食う侶虎は、平常の家の食事は、あまり蛋白質なぞのない、淡《あつ》さりした食事を摂っているのだろう。
[#改ページ]
編者あとがき[#「編者あとがき」はゴシック体]
ビスケットをかじりながら、「茉莉さんか……」と呟いてみた。何故、そう呟いたのかといえば、森茉莉の本を読んだり彼女について書いたりしているうちに、何となく半分知っているような感じになっていて、「茉莉さんか……」などと呟いてみたのである。「茉莉さん」と呟くとき、薄い煙色のヴェールの向こうに明治―大正の東京の風景が浮かび上がり、同時に薔薇色がかったトマトや牛酪《バタ》、地中海の香《にお》いをたてて舌に溶けるプリュニエの牡蛎などの美味がまざまざと舌に蘇って、森茉莉の文章ともつれあうのである。なーんて、『牟礼魔利の一日』を真似して書いてみたのだが、実際、森茉莉の真似をして筑摩書房と印刷された紙袋をそばに置き、ビスケットをかじりながら、ながら族そこのけの状態でこのあとがきを書いているのである。
ちょっとここで私自身のことを白状しておきたい。実は私という人間は、ある部分が、森茉莉にそっくりなのである。それは部屋の様子や、食いしん坊であること、料理自慢であること、健康オタクであるという点などについてである。だから、人が想像を絶するという部屋の様子も実は理解できるし、食べている間はこの世が極楽、という心境も理解できる。掃除も裁縫も苦手な彼女が、「一寸したレストランへ行っても、自分が造ったものほどおいしくないという料理自慢である」という、この意外な事実も理解できるし、食事を抜かして必要な栄養素の摂取ができていないことに気づくと、夜中でもひょろひょろ起き上がり、食事を摂ったりする、あの心境も理解できる。もうひとつ白状すると、蟲に食われ放題に食われたセーターを川に捨てに行ったあの行動も、自分が同じことをしたことがあるという理由で、理解できる。こんなことを書くと、森茉莉ファンに怒られそうだが、森茉莉という作家にのめりこんだ、その入り口は、実は同類を見つけたときの喜びだったのである。
だが、森茉莉の場合、何をしても、何を考えても、いじけたたじろぎなどどこにも見当たらない。似た部分を持っているとはいえ、私の場合、いじけたり、たじろいだりのていたらくであり、お見事! ご立派! と彼女に脱帽するしかないというのが、森茉莉に憧れ続ける理由かもしれない。
そんな森茉莉の天晴れぶりを教えてくれるもののひとつに、食にまつわるエピソードがある。彼女は並のお嬢さんぶりではなかったが、その食いしん坊ぶりもまた並ではなかった。何しろ、十六歳の森茉莉を大金持ちの山田家に嫁がせるときの父・鴎外のセリフが、「山田へ行けばお茉莉が西洋料理をうんとくうだろう」というものだったのだから。
あの分厚い森茉莉全集(全八巻)を開くと、何と、冒頭のエッセイから、食べ物屋の名前が登場し、続くエッセイにも、その次のエッセイにも、彼女にとっての食の風景がおいしいパイのように幾層にも重なりながら綴られている。しかも、小説やエッセイだけではなく、映画評、日記、そして第八巻の最後に収録されている手紙にいたるまで、食べ物のことが細かくたっぷりと書かれ、人を観察するときもどんな食べ物を食べているのだろうと興味を寄せている。空の名前や色の名前を紹介する本があるが、ウフ・ジュレ、オムレット・オ・フィーヌ・ゼルブ、ロシア・サラダ、独逸《ドイツ》サラダ、野菜の牛酪《バタ》煮、ボルドオ風茸料理、鮭の白ソースなど、彼女の作品に登場する食べ物の名前だけでも一冊の本が出来そうなくらいである。
森茉莉は、北杜夫と斎藤輝子の共著について、「本の中の二人の言葉が、大へんに上等な、美味しいお菓子のように思われて、三分の一読んでは本を閉じた。そうして、甘い、上等なお菓子のように、大切にとっておいた。そうして又、本を開いて、つづきを読んだのである」と書いている。おしげもなくふるまわれている蜜の言葉が気品ある贅沢な味わいを作り上げているのだろう、森茉莉の作品もまた、ちょっとずつ大切に味わい、舌にのせてうっとりする、上等なお菓子のようである。さらに、そこから浮かび上がる東京の山の手の暮らしのディテールは、美しい絵巻物(それも甘い蜜の香りにコーティングされ、見るものを酔わせる仕組みになった)のようである。私たちが『源氏物語』や『栄華物語』を読みながら、平安絵巻に心ときめかせるように、後の時代の人たちは、森茉莉の文章の香気と、そこに繰り広げられる明治―大正という時代の絵巻物に酔いしれるのではないだろうか、そんな気さえする。
美しい絵巻物のような味わいを舌にのせてうっとりする一方で、無垢な子どものような森茉莉の天晴れな食いしん坊ぶりには、クックッとおかしさが込み上げて来て、笑いをかみ殺すのに苦労する。たとえば彼女は刺身が大好物で、実家では一人前を自分のものとして確保していたにもかかわらず、妹の分も二切れ自分のお皿に移動させるほどの食いしん坊だった。夕食に招かれると、美味しい料理をうんと食べようと思ってわざわざ昼食を抜いて出かける程の食いしん坊でもあった。平目の刺身に牛肉、筍や蕗、フキノトウ、山椒、クレソンなどの春先の野菜、Rのつく季節の牡蛎、卵、チョコレート、チーズ、トマトのスープなど、森茉莉にはたくさんの好物があったが、食いしん坊の彼女は、それらを食べて上機嫌になっていたのである。
『貧乏サヴァラン』の中に平目の刺身を食べるくだりがある。
「マリアは「ご苦労様」と自分に挨拶し、やおら箸で刺身を挾み、醤油とおろしを気に入る位つけて、それで黒と赤の黄金で縁どりした小さな菊の模様の茶碗に盛った白い飯を丸く包んで口に入れる。その瞬間が、マリアの艱難《かんなん》辛苦の大団円である」。
このうやうやしい「ご苦労様」の挨拶がおかしくて、またしてもクックッと笑いが込み上げて来るのだが、好物を口に運ぶ瞬間は、彼女にとってはまさしく天国なのである。
この本の扉の裏に、森茉莉が描いたイラストが掲載されているが、このイラストもまた、森茉莉にとっての天国を描いたものであろう。鴎外全集のそばにはウメボシアメやコンペイトウ、ニッケアメ、お気に入りのヴェルモットの空罎がころがり、健康オタクの彼女らしく人参茶があり、一流のカレーライスが「ご苦労様」の言葉をまっているかのように並べられている。その前で両手を広げている森茉莉はうれし涙さえ流している(多分)。だってそこには、森茉莉以外の誰も醸し出せない「豪華」や「贅沢」が確かに存在しているのだから。
食べ物というのは実に個人的なものである。まずいと断言できるもの、文句なしにおいしいものがあるということは否定しないが、ある人にとってはおいしいものも、ある人にとってはそうではないということはあり得るし、自分のコンディションや食べる時の状況によって左右されることもあり得る。だが、最後はやはり自分の舌がどう思ったかであり、高級だとか、有名であるとかはあまり重要ではない。これはまずいな、と思ったら、まずいのだし、人が何と言おうと、自分の舌がおいしいと感じたのなら、それはおいしいのである。『贅沢貧乏』にも通じるこのシンプルな哲学は、こうした食の場面でも遺憾なく発揮されている。
森茉莉の作品の中から「食」の短編を取り出すのは、楽しかったけれど、ちょっぴり苦しい作業でもあった。どの作品にも食のシーンが描かれていて、しかも、どれも捨て難かったからだ。『最初の稿料』では、初めてもらった原稿料を喫茶店の飲み食いに使い果たした、というフレーズがあるだけで、『日録』では、好きな卵料理の随筆だったので鼻高々と書いた、というエピソードがあるだけでその作品に執着してしまう。また、バタァも卵もなく、牛肉も刺身も買いそこない、だし用の昆布や鰹も切らした或日の夕食のくだり。紐育《ニユーヨーク》製の即席珈琲を淹れ、麺麭を焼き、白桃の罐詰を開けたこの夕食が、「アメリカの独身の男の、メイドが俄かに休暇を取った日の、カリフォルニアの桃のジャムと珈琲と麺麭である」というフレーズにも惚れ込んでしまい、これもはずせないなあ、と思ってしまう。だが、前後の文章をカットしてワンフレーズだけ取り出すことはしない、単行本になっているものは原則として収録しない、という編集方針があったので、それらは思い切ってはずした。ところが、あれも食べたい、これも食べたい私としてはいろいろと心残りが生じることになり、一部、再収録した短編もある。また、『ドッキリチャンネル』の中にも、さまざまな森茉莉らしい味わいのフレーズがあったので、それらは「ドッキリ語録」として収録した。こちらはひと皿のデザートのように楽しんで味わっていただければ、と思う。
ここに収録した全編をフルコースで味わっていただいても、お気に入りの短編をチョイスしてアラカルトで味わっていただいても嬉しい。食べ足りないと思われる向きは、時間をたっぷりかけて、全集なども是非味わっていただきたい。
料理自慢、健康オタク、好物、幼い日々の食の風景など、森茉莉に関しては書きたいことが山ほどあるが、それでは長く続く気紛れ書きになりそうなので、これでさよならしよう。とにかく、食べることを、生を楽しむことである。とまた、締めくくりも森茉莉の真似をしてしまった。
[#地付き]早川暢子
森茉莉(もり・まり)
一九〇三年、東京に生まれる。森鴎外の長女。五〇歳を過ぎて作家としてスタート。一九五七年に、父を憧憬する娘の感情を繊細な文体で描いた随筆集『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。著書に『恋人たちの森』(田村俊子賞)『甘い蜜の部屋』(泉鏡花賞)など。『森茉莉全集』全八巻がある。
早川暢子(はやかわ・のぶこ)
関西エリアの雑誌『サプライズ』編集のかたわら、「好物」である森茉莉と寅さんの個人通信を出している。著書に『夢をかなえるための場所』など。
本作品は一九九八年一月、『森茉莉全集』を底本に編集され、ちくま文庫として刊行された。