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甘い蜜の部屋
森 茉莉
目 次
第一部 甘い蜜の部屋
第二部 甘い蜜の歓び
第三部 再び甘い蜜の部屋へ
後 記
[#改ページ]
第一部 甘い蜜の部屋
藻羅《モイラ》という女には不思議な、心の中の部屋がある。
その部屋は半透明で、曇り硝子《ガラス》のような鈍い、厚みのあるもので出来ていて、モイラの場合、外《そと》から入って来る感情はみな、その硝子を透して、モイラの中へ入って来る。うれしいのも、哀しいのも、感情はみなその硝子の壁を通って入って来るのだが、その硝子は、どこかに曇りのある、あの本物の硝子そっくりのものであるから、その厚みの中を透して入って来る感情はひどく要領を得ないものになってくるのだ。
入って来る感情は、硝子の中を通り抜けると同時にどことなく薄くなり、暈《ぼんや》りとしたものになっている。その通り抜ける時の変化は、考えると、眼に見えている辺りのものがうすぼやけて、遠くへ行き、頭の中が霞《かす》んでくるような、妙な作用である。というのは、考えている内に、眼に見えるものもだんだんとその心の中の硝子を透《す》き徹《とお》ってくるかのような、妙な気がしてくるからで、そのためか、モイラは眼に見えるもの、例えば人間、花、風景、それらの、他人がはっきりと認識している「現実の世界」というものを、どこか、薄暈《うすぼんや》りとしたものとして眺めている。
眼に見えている花が、硝子の壜が、卓《つくえ》が、紅茶茶碗、銀の匙、又空も、塀の上に出ている他人《ひと》の家の樹々も、小石、赤犬、又は卓子《テエブル》を距てて微笑《わら》う親しい人、すべてのこの世の現実が、ほんとうにそこにあるのか、ないのか、そこの境界が明瞭《はつきり》しない。この世界がこんなに、明瞭《はつきり》しないのだから、死んだあとの世界の方が却ってほんとうに、はっきりとあるのではないだろうか、と、そんなことを想ってどこかにある、もう一つの世界を空想してみる瞬間さえある。
その世界は、現実にあるような、曇った硝子ではない、完全に透明な、極度に薄い透明の向うにあって、紅《あか》い色でも、緑の色でも、みな上に綺麗な透明を、被《かぶ》っている。ちょうど自動車や自転車に附いている反射鏡《バツク・ミラア》に映る草原や紅い煉瓦《れんが》の街のように、世にも綺麗で、夢かと思うように恍惚《うつとり》とするものなのだ。
ところで、モイラの方で抱く感情、それはこっちから外へ出て行く感情の方なのだが、それも硝子の壁を出る辺りでどこかうすぼやけ、要領を得ない曇り色の中で、どこへともなく暈《ぼや》けていってしまうようすだ。それだから、感情を抱《いだ》かれた相手の方も、冷淡というのではないが、どこか朦朧としたものとして、それを受けとる。それは受けとっても、なんとなく乗って行きにくい、感情である。それだからモイラが或日、感動してくれても、その感動を貰った人間も、それを受けとめることは難しい。まして、一緒になって感動するということは難しいことである。
小さな子供の時からモイラと遊んでいる、野原野枝実《のばらノエミ》だけが、その変なものを、モイラの感情としてうけとっているもようである。だが野原ノエミといえども、うけとるにはうけとるのだが、それがやっぱりへんな具合である。或日、いかにも真実を持っている友だちらしいことを言ってくれているかと思うと、それがよくみると、どこかへらへらとしたものであって、その場で思いついたもののような、疑わしい匂いを持ったものだということに気づくのだ。そこでモイラを見ると、へんに空虚《うつろ》な顔をしているのだから、やっぱり妙な、空漠としたものをうけとらないわけにはいかない。
「いいのよ。モイラは感情がないんだから。わかっているわ」
野原ノエミという偉大なるモイラの知己は、言うのである。
するとモイラは忽ち反撥を覚える。そうして、
(あたしだって感情あるわ)
と、そう言って、反抗する。だがそうやって一応はあらがって見たところで、それを説明する瞬間から、モイラの心の中には、はかない空洞が感ぜられ、心細さの漣《さざなみ》のようなものが波立ってくるのがどうせ、知れているのだ。
モイラは諦め、黙り、怒りのようなものを抑えて、ノエミから理解という、薄温かなものを、うけとるよりない。
この、世間では「友情」とか、「理解」とか呼ばれている重みのある、薄ら温かなものは、全くもって貴重なものである。モイラは瞬間それを知るのだが、その感情さえも又、忽ちの内にうすぼやけ、どこへともなく暈《ぼや》け去る。その暈《ぼや》け去って行く煙のようなものの脚を眺めながら、モイラはなんとなくがっかりして、ノエミを偸《ぬす》みみる。そういう時のモイラの眼はどこか悪事を犯した人間の偸み見のようで、あった。これは人生の貴重な一瞬にはちがいないのだが、なんといううす暈《ぼや》けた、曇り硝子の向うにあるもののような光景なのだろうか。
(あたしはほんとうに生きているのだろうか?)(あたしはひょっとしたら、冷酷無比な悪人なのではないのだろうか? 世の中の悪人というのは、こういう胸の構造と仕掛けとを持っている人間のことなのではないだろうか?)
モイラは時折、空漠とした眼になって、呟くのだ。
その奇妙な、うす暈《ぼや》けた瞬間が去ると、モイラとノエミとは忽ち嬉々として、共通の友だちの百合楓《ゆりかえで》に、海泡石《かるいし》を呉《く》れたことについての手紙を出していないとか、母露生犀川《もろうさいせん》の昔の友だちの家に行ってみようかとか、二三の会話を交し、その後では疣山痣子《いぼやまあざこ》の肝臓の腫物《ぶつぶつ》が悪化したら、祝盃をあげようとか、蛭谷《ひるたに》海鼠《なまこ》と、濁川蚯引《だみがわきゆういん》、その細君の蛇魔子《だまこ》が、モイラに仕掛けた罠《わな》と窃盗行為、モイラに甘い、陶酔の管《くだ》を通しておいて、その細い管《くだ》からモイラの財産を吸い上げて行った彼らの行為に向って、呪いの護摩《ごま》を焚《た》こうかとか、そういう二人の平常《ふだん》の会話に、とりかかるのだ。そういう時の二人のようすは、二人の持っている似通った、大きな沼のようにも見える眼のせいか、どこか薄気味が悪く、ロオルシャハが実験に使う、インクの滲《し》みの中によく出てくる、燃える火を中に向い合って踊る魔女の姿にも似ていて、互に見合って笑う四つの眼は、奇妙なものを出してらんらんと、光った。
モイラが可哀らしい、皮膚の滑らかな、円《まる》みのある背中をした、幼い娘だったころから、モイラのこの、硝子の部屋はあったのだが、本人が第一に気づかなかったし、もとより他の誰にもわかるはずは、なかった。
* *
モイラは大正初年の十二月の、ごく寒い日に生れた。生れたのは午後五時三十五分で、電燈の点る少し前である。モイラは蝋燭《ろうそく》の光の中で、生れた。
満六歳の誕生日が近づいた頃、モイラは一人の、異様に可哀らしい娘に成長した。黒褐色の大きな眼は、見開く時瞼を重く見ひらくような、感じがある。その大きな眼を凝《じつ》と開《あ》いて、モイラはよく人を視ているが、モイラの眼は、見られている大人にとってなんとなく気になるものを出していて、それはモイラを太い、油断のならない小娘のようにも、見せるのだ。
モイラの眼が、大人の眼を脅す、妙な力のようなものを持っているように見えるのは、長くて厚い睫毛《まつげ》のせいや、沼のような光を持っているせいでは勿論ない。モイラの胸の中にある、例の硝子が原因である。モイラの見るものや、感じ取るものがすべて、どんなものでも、曇り硝子の向うにあるもののようになって、モイラの心に映《うつ》っていて、そのもやもやとした要領を得ない感覚が、モイラの胸の中に低迷している。モイラの眼はその低迷を、そのまま映し出している窗《まど》のようなものだからだ。中に何があるかわからない、為体の知れない、くぐもった光が、モイラの眼に、あるからだ。
まだものを考える力もない筈の、小さな娘のモイラの眼が、
[#この行1字下げ]――モイラに大した思考力がないことは、大人になった現在《いま》も、同じことである。感覚だけで辺りを見、感覚だけで生きていて、それで自分は素晴しく生きているのだと、信じている。感覚だけで、自分は生きているのだと信じているのは、モイラだけに限ったことではなくて、虫や蛇や猫、女、なぞがそういうものである。彼らは例外はあってもみな美しい。思考力を持っているように見える女はそれを観念として、上皮《うわかわ》からくっつけているか、又は感覚的に思考を捉《とら》えているのに過ぎない。――
なにかの迫るようなものを出してくるのは、モイラが持って生れた、一種奇妙な感情地帯のせいである。だが考えてみると、底に何か持っている、腹の知れない人間の内部というものが大体、そんなものなのだから、モイラを、何ものかを蔵している、底の知れない奴であると、そう言ったところで大した間違いではないかも知れない。その方がモイラの気には入るだろう。
だがなんといっても、モイラはこの十二月の二日で満六歳になったばかりの、幼い娘である。何かを凝《じつ》と視るのを止《や》めて、人形や絵本に見入ったり、ぼんやりどこかを見ている時のモイラの眼は、やはり罪のない、天使にそっくりの眼であった。
浅い襞《ひだ》のある脣《くち》は、薄紅《あか》くて、まだ父親の林作の頬や額、それから掌《て》の甲、なぞにしか接吻をしたことがない。それらの接吻は林作が自分にして呉れるのを真似て、するのである。産毛《うぶげ》のある頬と顎とに囲まれた薄紅《あか》い脣は柔かい。林作はモイラの口へ、チョコレエトなぞを一つ一つ入れてやったり、食事の時には、自分の皿から細かく切った肉、果実《くだもの》、なぞを入れてやったりする習慣を、モイラが六歳になった今も、止めようとはしない。そんなことをする時林作は、モイラの脣を軽く突いて、
「マシュマロォのようだ」
と、言うのである。そうしてモイラが大きな眼を自分から離さず、自分の掌《て》の、皮を除《の》けた果実《くだもの》に、舌を巻きつけて乳を吸う赤子のような口つきをしてしゃぶりつくのに、眼を当てた。いつも何かしらんに気を奪《と》られているようなモイラの顔の中で、薄紅《うすあか》い柔かな脣は、これも何かに憧憬したようにうっとりと、弛《ゆる》んでいる。
だが、モイラが何かの遊びとか、いたずらをすることを思いついて、いざそれにとりかかろうとする時、又は家政婦の柴田や、家庭教師の御包《みくるみ》に、何かを隠そうとしているような時、モイラは脣を固く結ぶ癖があるが、そんな時には脣の両端《りようはし》が頬に深い窪みをつくって、吊り上がる。
父親の林作はモイラの、結ぶと両端が吊り上がる脣の形を賞讃していて、モイラの頬を指で突いては、こう言うのだ。
「女の脣《くち》の端が平らなのはいけない。両端に窪みが出来て吊り上がる、こういうモイラのようなのがいいのだ」
モイラの、可哀らしい顔や、円みのある背中、腕、脚、気孔が全く無いのではないかと思われるような、夏などは呼吸《いき》が出来ないように思われてモイラ自身苦しく感ずることがある、そういう緻密な皮膚、なぞの体の特徴と一緒に、妙な子供であるところも、すべての点をひきくるめて、林作はモイラの礼讃者である。
「モイラは上等な子供だ。どこにもこんな子供はいない」
林作はモイラを膝に乗せ、軽く背中を叩いて揺するようにしながら、繰り返して、言った。それは何かの呪文のように、モイラの耳に入って来る。
京都にいる林作の弟の達二《たつじ》が、東京に滞在中、林作の家に宿《とま》っていた時のことだ。モイラは、モイラを生んだ直《す》ぐ後《あと》、子癇で死んだモイラの母親の繁世《しげよ》が林作|等《ら》の母親の倫音《ともね》の気に入らぬ後妻だったために、モイラに愛情の薄い達二が、モイラの欲しがる京都の干菓子を故意に充分与えなかったのに稚い反抗をして、達二の留守にその部屋に忍びこみ、棚にあった缶から、掌《て》に一杯の菓子を盗み出したことがある。
そんな時にも林作は、それを告げに来た達二が部屋を出て行くと、モイラを膝に乗せ、家政婦の柴田から菓子を取り上げられて、まだ砂糖の附着《つ》いているモイラの小さな掌《て》に軽く接吻をして、言った。
「モイラは上等。モイラは上等。泥棒もモイラがやれば上等だ」
そんな時、林作の胸にはウェストミンスタアの香《にお》いがした。ウェストミンスタアの香いの滲《し》みこんでいる、羅紗《ウウル》の背広の胸の中で、夏は寒暖計の中心にある目盛《めも》りに似た縞柄《しまがら》の浴衣《ゆかた》を着た林作の、ざらざらとした縮みの布地の胸に頬を寄せていて、モイラはこれらの言葉を、聴いた。安楽で、どこかで父親を征服したような気持のする、甘い歓喜《よろこび》をモイラは、それらの言葉から感じとっていた。
低い、錆《さ》びのある声で囁かれる林作の、呪文のような言葉は、恍惚《うつとり》とするような甘さで、モイラの精神の奥に吸いこまれて行って、いつの間にかモイラの心の中に理由のない自信のようなものを、植えつけた。自分は善《い》い子なのだ。自分は特別に可哀らしい子なのだ。と、モイラは信ずるようになった。知らず知らずに根を張った、ひどく誘惑的なものの中で育てられた、自信である。自分は善《い》い子で、自分を不愉快にするものはすべて悪だ、とする、|enfant《アンフアン》 |gatee《ガテ》の自信である。
モイラは又、そういうような環境のせいか、義務が嫌いである。義務がどういうものか、まだわかっていない内から、義務が嫌いである。モイラの心は、義務のようなものはすべて、うけつけない。胃がうけつけない食物と同じである。
薄くなって入って来るのだろうと、暈《ぼんや》りとだろうと、感情の方はともかく素直に入ってくるが、義務はモイラの硝子の壁が、押し戻した。これはモイラが小学校へ上がってからのことだが、間に合うように学校に行くことだとか、教師の指定した時間通りに、遠足の集合場所へ到着することだとか、そういう、どこか強制されてやる、義務的なことはすべて、モイラの硝子の手前で遮断されて、突き戻される。モイラはそういうものを無意識に嘔吐していて、その後《あと》は忘れている。
モイラは又、時間で何かをやること、紙の上に真直《まつす》ぐな線をひくこと、紙を真直ぐに折ること、又は截《き》ること、学校の教師がやらせること、家庭教師が傍についていてやらせるものは殆ど、嫌いである。画を描く時にやらせられる、輪郭から外へはみ出さぬようにして、一定の形の中に墨を塗ること。そういう、義務とか、規則、正確、直線、何かの枠の中に嵌《は》め入れて、一分《いちぶ》もはみ出さぬように注意を集中しなくてはならぬことのすべてに、嫌悪がある。
そういうことが出来ないモイラを、莫迦《ばか》な子供だと判断して、蔭で何か言う親類の女たちもあったが、モイラはそれが出来ないというよりも、定規《じようぎ》で計ったようにものをやることに嫌悪と反感があって、それをやる時には頭がよそへ行っているから、頭脳の正確な命令のない手はうまく動かなかった。
モイラという子供は真直ぐに立っていることも、嫌いなように、見えた。歩く時も、真直ぐには歩かない。誇張して言うと、蛇のように、うねった線を歩いている。正しく座ることも、嫌いである。勤勉《まめ》に体を動かすことも、絶対にしない。外を歩くモイラを見ていると、父親の林作か、家政婦の手に掴《つか》まって、そっちへ凭《もた》れかかるようになって、歩いている。歩く意志のない子供のように、見える。家の中では絶えずぐったりとなって寝ころび、そうでない時には何かしら傍《そば》にあるものか、人間かに、凭れかかっている。もっともこの、正座をしたくない、ということに関する限り、モイラは家庭内では誰からも、許されていた。何故なら林作はモイラの脚を、西洋の女のように真直ぐな脚に育てようというので、モイラに正座をさせぬように、家の者にも言い附けていたからだ。林作はモイラを、座る時には脚を横へ揃《そろ》えて出すように、躾《しつ》けている。林作の傍《そば》にいる限り、ねころぶことも、黙認されていた。
又、暈《ぼんや》りと見開いた眼の中に、家族たちの心持や、言葉のニュアンスを、無意識のようにして掬《すく》い入れているモイラは、家庭教師や、家政婦を、林作が重くみていないことも見ているので、この二人の女を甘くみているところがあって、モイラは御包《みくるみ》には態度で、柴田には言葉に出して、反抗した。
モイラがしなくてはならない義務や日課、などの厭《いや》なものはみな、家庭教師の御包と、御包の真似をしてモイラに厳しく向ってくる家政婦の柴田との二人から発している。それでモイラは、この二人の女に敵意を抱くのだ。
父親の林作は繁世の死後、モイラの面倒を見る女として柴田を雇い入れたが、モイラが小学校に入る年齢に近づくのにつれて、自分にはモイラの厭がることを教えたり、日課を与えることが、むずかしいのを知って、家庭教師の人選を、友だち仲間に広く頼んでおいたが、なかなか思うような女はなかった。この御包千加《みくるみちか》という四十五になる、小学校の女教師上がりの女と、柴田富枝という、一度嫁に行った女とは二人とも、道徳|面《づら》を造る癖のあるために出来た口元の辺りの醜い皺まで共通の、勿体ぶった、鬱陶《うつとう》しい女であるが、一通りの役目を果たす資格は持っているので、御包が五十円、柴田は台所の方もやって貰うのでその分を含めて三十円という高給で、抱えている。
モイラは父親の林作に、
「この女《ひと》はこれからモイラの世話をしてくれる、御包《みくるみ》さんという女《ひと》だ。モイラがもっと大きくなったらいろいろなことを教えてくれるのだから、ママのように思って何でもやって貰え」
と言って、御包を引き合わされたのだが、林作のその時言った、〈ママ〉という口調に含まれていたような、なんとなく甘い、温かなものが、御包からは感ぜられない。モイラは、モイラを生んだ直ぐ後《あと》で、烈しい痙攣の発作が起きてその儘《まま》死んだ母親の繁世を覚えているわけはないが、林作から写真を見せられたり話を聴いたりしていて、優しい〈ママ〉というものを意識していたのだ。
死んだ繁世が、モイラを懐姙《みごも》ってから生む日まで、モイラに抱いていた、どこか本能の匂いが強くするような、恐るべき
[#この行1字下げ]――恐るべきものだと、林作は当時思ったのだ。林作はその繁世の、生れてくる赤子への愛情に対して、幾らかの嫉妬を抱いたが、そういう女というもの全体の盲目《めくら》で、動物的なものを不快に思う感情があって、自分よりは低い、醜いライバルに嫉妬をしている時に感ずるような技癢《ぎよう》をも、当時味わっていた――
愛情が、林作の胸の隅に残っていて、林作はどうかするとモイラを見ている時、この〈ママ〉という言葉を口に出すのだ。その林作がモイラを見て脣《くち》にのせる、〈ママ〉という音《おん》の中には、繁世と林作との間にあった愛情の残り火の温《ぬく》みというよりもむしろ、繁世がモイラの上に残していった恐るべき想いへの嫌悪と憐れみとが、含まれていた。モイラはその〈ママ〉という短い言葉の音《おん》の中に甘い、ミルクの入ったチョコレエトの香《にお》いを、嗅《か》いだ。
繁世の死後|他所《よそ》に女を置いていて、家には女を入れず、モイラに溺愛を傾けている林作の胸の中には、既に死んだ、細君だった繁世の、自分に尽してくれた、優しい追憶と、現実に傍《そば》にいるモイラへの、自分自身にも判らぬ烈しい溺愛との、その二つよりない。
御包《みくるみ》に対して林作は、初等の学校教育の手解《てほど》きを、略《ほぼ》あやまりなくモイラに行なってくれることと、その日、その日の予習と復習とをしてくれること、その面にしか期待をしていない。林作が御包をモイラにひき合わせた時の言葉は、御包という、抑圧された性を中に蔵《しま》っていて、でっぷりと構えている、女僧正のような化け物を、うまく使って行こうとする林作の言葉の綾である。それは六歳のモイラにも、どこかで判るのだ。
(なんでもみてやるよ)
と、そう言っているように見える大きな眼で、モイラは御包を、横から見ていた。
モイラの眼に映る御包は、林作の前にいる時と、そうでない時とでは、眼つきも、言葉の調子も、変えている女である。林作の前にいる時の御包は優しい眼をしていて、言葉|遣《づか》いも、やさしい。
五十円の高給を考えると、御包は林作に気に入られなくてはならないのだ。優しげに眼を細めて、モイラを見、威厳たっぷりに構えている中にも、もの柔かな物腰を見せる。朝なぞはいかにも規則正しい生活をしている人間の持つ、晴れ晴れとしたものを見せようとしているが、それは彼女が若い頃持っていたもので、今はもう失ったものだ。今では彼女の中には、抑圧せられている苦痛から生じている陰鬱が住みこんでいて、自分の部屋では手足を投げ出し放題に寝そべっている。彼女は柴田とは違って、午前と午後とに分けて二回、モイラにわずかばかりの日課を与えるだけの役目で、彼女の得意な行儀を仕込む方は、林作が上にいたのでは糠《ぬか》に釘である。林作は読書も、彼女自身の為の勉学も許しているが、彼女は読書の習慣も、勉学の習慣も既に失くしてしまっている。それで、慾求が達せられない陰鬱の他に、退屈の獣《けもの》も住みついていて、その退屈の獣は絶えず口から涎《よだれ》を流していた。
モイラは自分を見る御包の眼が、時折厭な光を出すのを、見た。
御包はモイラの持っているものに嫉妬を抱いている。それがモイラにはわかるのだ。「幸福」という呼び名を、モイラはまだ知らない。だが自分の持っている「光」のようなもの、「温かなようなもの」、赤い、熱い、輝いているものを、御包が不快な眼で見ているのが、モイラにはわかるのだ。その赤い、光の輪のようなものの中には、林作のモイラへの溺愛が入っている。横浜に会社を持っている大きな貿易商の林作に金があって、林作に言いさえすればすべて手に入るモイラの境遇が、入っている。もう一つ、モイラの、蜂蜜色をした緻密な、いつも水で拭《ふ》いたあとのように湿り気のある皮膚や、憎たらしいほど可哀らしい、小さな肩や背中、手足の肉附きも、入っている。モイラは彼女が今まで見たことのない蜂蜜色の、異様に可哀らしい娘である。モイラが知らずにやっている無心な媚態が、林作を思う存分に、捕虜《とりこ》にしているのを御包は、無関心を装った眼の端に、ことごとく細かに、捉えていた。
それらの、御包が多分、生涯味わわずに了《しま》うに相違ない、輝いたもの、甘い蜜のようなものへの、彼女の不快が、彼女のモイラを見る眼の中に現れる。それは紅い洋燈《ランプ》の光の中にある温かな世界を、蚯蚓《みみず》や蛞蝓《なめくじ》、蛆虫《うじむし》なぞの匍《は》い廻る湿った、暗い地帯から偸み見る、嫉妬の眼で、あった。
御包の、家庭教師の地位を羨んでいて、すべてのことを御包に準じてやっている柴田もその点は、同じである。柴田が横に眼を遣《つか》うと、太い紡錘形をした眼頭《めがしら》に、魚の鰓《えら》のような色をしたものが出ていて、そんな眼をする時の柴田の眼の中には、モイラを不快にする、ひどく厭なものが、あった。夏、林作の食膳に載《の》る小さな鰺の刺身の背にも、モイラはその色を見るのだ。
彼女の、いつもきっちりと襟元を詰めて着ている着物の胸や、白いゴワゴワ鳴る割烹着を着けた胸を見る時、その厚い、ぼってりとした堆積の中に、モイラは熱い熱気のようなものを、感ずる。彼女がモイラを羽交《はが》い締めにするようにして、モイラが厭がる洋服を頭から被《かぶ》せようとして揉《も》み合うような時、彼女は故意《わざ》とのように一瞬モイラをその厚い胸の堆積に圧《お》しつけることがある。妙な、甘い、不快な匂いのする、火のように熱いものに肱《ひじ》を突き立てて、モイラは必死に、逃れた。
この柴田の厚い、何か熱いものの詰まっているような胸の中にも、御包と全く同じの、だが御包のそれより色の濃い、モイラへの嫉妬があるのを、モイラはどこかで、感じ取っていた。
貿易商社の仕事と、交際《つきあい》とで、林作の一週間は殆ど埋まっている。週に一度は、アンネット・カウフマンと午後を過すという、林作にとって退屈とある慾求の達成とが半々のような、時間がある。林作が家にいる時間は、毎日の朝食の時間と、昼過ぎに帰るのが週に一二度、それと日曜日である。後《あと》は誰かと会食する。宴会がある。それで林作はモイラを見れば直《す》ぐに膝にのせる。そうして話をする、独逸《ドイツ》の童話《メルヘン》を話して遣《や》る。モイラの話を聴いてやる。時には会食を断って帰って湯に入れて遣《や》ったり、一緒に飯を食いに行く。親しい友だちの家に伴《つ》れて行くこともある。
林作はモイラを眺め、そうして愛することより、しない。近頃になって一緒に遊ぶような気持で、仏蘭西《フランス》語の単語と短い会話を教えることだけを、始めた。だが小学校教育の準備は、御包にさせてある。林作は根本はそれでいいと、思っている。自宅にいる限りモイラは自分の生活を見ているだろう。それでいいと、考えている。
それだから林作にとってモイラは小さな恋人のようなものである。会う時間の誰よりも多い恋人のようなものだ。そうして、十何年か先には他所《よそ》へ遣《や》ってしまわなくてはならない恋人である。事実林作はモイラを、恋人と全く変らぬ、大切なものだと、思っていた。そういう父親の心の、もう一つ下で林作は、モイラが、自分との愛情の繋がりを生涯持ち続けていて、その深い、優しいものからモイラがいつになっても抜け出ることが出来ぬことに、甘い、蜜のような予感を抱いている。
林作はモイラが赤子の顔を脱して、可哀らしい眼で自分を見るようになり、消毒した匙の尖端《さき》を少しさし入れるようにすると、薔薇色の脣で吸いつき、濃い薔薇色をした舌を絡めるようにして、漉《こ》した野菜|肉汁《スウプ》を飲むようになった時から、少しずつ、何かに惹かれるようにして到着したこの考えを、貴重なもののようにして、持ちつづけて来た。三つになったモイラが、膝の上で自分の胸に顔を埋め、立たせてやると小さな円い腕で自分の頸をとり巻いて、林作が自分にするのを真似て接吻をするようになった頃には、林作は完全に、酷《ひど》く年齢《とし》の違うモイラの恋人に、なっていた。
モイラの「パァパ」と言う時の、可哀らしい声の中には甘えと自信とが濃く澱《よど》んでいて、その低くて滑らかな声の中には(自分のもの)と、いうような一種のアクセントが強く響いていた。
(俺はモイラだけだ。俺はモイラなしでは生きる意味がない。モイラの無い世界を考えると生きる意味がどこにも見つからぬ)
林作はこの、誰の前でも公言出来る言葉を、密《ひそ》かな恋の告白のように胸の中に、大切に、蔵っていた。
アンネット・カウフマンの場合、林作は、まだ何年かの間は必要な女の問題を、清潔で、面倒のない、遣《や》り方で処理しようと考えていた時、アンネットが商社に入って来たのである。丈夫そうな体を持っている。日本人に近いブリュネットで、皮膚の色もあまり白人的に白くはなく、精白されない米のような色をしている、大柄な娘である。会社の事務員の娘で、父親のヨハンネスの素性も確かだという、検《しら》べてくれた取引先のレエゼマンの保証もある。それで、どこかモイラに似たところがないでもない皮膚の色や、髪を持った、眼の大きなアンネットを、週ぎめの女にしたのである。アンネットは慾の無い、善良な女だが愚《おろ》かなところがあって、自分の魅力を実質以上に信じているが、自信過剰も可憐さを壊してはいない、性質のよさがある。横浜の小さな映画会社のエキストラをしていたこともあるが、女優になっても事務員になっても、他人《ひと》をおしのけて遣《や》って行くところのない女なので、林作の与えた境遇には極く適しており、アンネットにとって林作を得たことは、それ以上は希《のぞ》みようのない幸運であった。アンネット自身は、それを幾らか当然のように思いこんでいて、女優志願に見切りをつけて、事務員に就職したのも、父親の強制によるものらしかった。アンネットと林作の関係はそういう訳で、アンネットが信じているような甘いものではない。
そういう林作はモイラに義務を強いることがない。義務はいつも御包と柴田との二人の女から、彼女たちの重いような、暑苦しい雰囲気と一しょに、モイラの上にのしかかって来た。そのことが一層モイラを義務ぎらいに、させた。
(どうしてもしなくてはならない、なんて、厭だ。モイラはそんなこと、きらいだ)
この言葉は常にモイラが心の中で言っている言葉である。
(そうだとも。そんなものは放っておけ。そんなものは家政婦の柴田や家庭教師の御包のような奴に任せておけ)
モイラの中で林作の声が、言うのだ。
「モイラ、何処《どこ》にいる。飯をくいに行くぞ。柴田君に他所《よそ》行きを着せて貰え。新しい帽子も出して貰え」
御包の午後の日課の後《あと》、玄関脇の応接間の長椅子に腹匍《はらば》いになって、幻想に浸っているモイラの耳に、不意に現実の林作の声がして、玄関のホオルからモイラを探して来たらしい林作が、紙巻煙草を片手に大股《おおまた》に近づいて来ると、御包と柴田との、絶え間ない正しい意見と言葉の騒音は林作の大きな影と、ウェストミンスタアの香《にお》いの中に吸いこまれるようにして、消え去った。
「柴田。……洋服。新しい帽子も」
モイラは玄関の正面についている階段を裏へ廻って、大きな声を出すのだが、モイラの声は聴きとり難《にく》い声である。胸の中の曇り硝子が声帯の辺りにも何かの曇ったものを置いているのかも、知れない。モイラがじれてもう一度声を張り上げると、階段の奥にある柴田の部屋の扉が開《あ》いて、柴田が出てくる。
「パパ様とですか?」
柴田は、モイラの歓ぶことをする時の、いつもの不機嫌を現して、執拗《しつこ》いような声を出すのだ。そうして、モイラの手をひいて階段を上がりながらモイラをふり返る。
「新しいお帽子ってパパ様が仰言《おつしや》ったんですね」
モイラはどの問いにも黙って、答えない。
掴《つか》まえられている柴田の掌《て》の中で、柴田の掌をじっと、抓《つね》っている。
「おお、痛い、又。モイラ様はよくパパ様が仰言《おつしや》らなくても、いいお洋服なんて、仰言《おつしや》るじゃありませんか。パパ様だって私から申上げれば、そんなことをいいとは仰言いませんよ」
「いいよ。言っても」
モイラは言い、もう一度強く抓って、放した。
新しい帽子を被《かぶ》り、黒い護謨紐《ゴムひも》の嵌《は》まった顎を仰向けて、柴田に何か言いながら、白い木綿の、レエスの多い夏服の下から、黒の長靴下の脚を跳ねるようにして、柴田に縺《もつ》れるようにして降りて来ると、
「まだか」
大きな声で言いながら、もう車に乗っていた林作が靴のまま上がって来て、モイラを見、
「うむ、上等。上等。綺麗な処女《ヴイルジイヌ》だ」
そう言って、下りて来るモイラを両腕に抱き取り、車までつれて行くのだ。
モイラの感情は底から動いて来ていない。感情の尻尾は、いつもモイラの胸の中に残っていた。残って、低迷していた。その薄い感情を、もう一人のモイラが、冷やかにみている。自分では知らずに、見ているのではあったが、もう一人のモイラが、それを茫然と、きょとんとした、しかも莫迦にした顔つきでみていることは、たしかなのだ。
モイラの感動はすぐに消えて、持続性がない。人に愛せられたことも、感動をもって抱き締められたことも、人から何かの贈物を貰ったことも、この歓びはすべて鈍い、曇りのあるものになって、モイラの中に入ってくる。そういう感動だから、すぐに体の外へ抜けて行ってしまう。モイラは、どんな感動も、すぐに抜け出し、忘れ去ってしまうために、一人の軽薄極りない人間になっている他はなく、恩知らずな子供になっているより、ない。
そういう具合だから、モイラを特別にやさしく扱った人間が、それについてモイラから感謝された、という、充実感を味わうことは、まずない。それどころか、ひどく当ての外《はず》れたような感じを受け取る。彼らは肩すかしをくって前へのめる。扉《と》があると思った所に布が下がっていたような具合で、モイラはその布の向うで笑っているような、癪《しやく》に障る感じなのだ。ところが、モイラを苛《いじ》めてやろうとした人間にとっては、その同じ作用が逆手になって、彼らには充分な満足感がない。何十年かかって、団体でやっつけるような場合になると、さすがのモイラもバラバラになるが、又いつのまにか背鰭《せびれ》を生《は》やし、頭と胴、胴と尾とが繋がり、鱗を生やして、モイラの魚は泳いでいる。その背鰭を生やしたり、胴と尾を繋いだりするのが、モイラの硝子、つまり、モイラの無感情地帯から出る接着剤のようなものらしい。その硝子体の接着剤のようなものは、平常《ふだん》用のない時には溶け出して、皮膚の上を蔽《おお》っているらしく、モイラの皮膚にはたしかに垢《あか》でもなく、脂《あぶら》でもない透明なものが塗りこめられていた。固体ではないが液体でもない、ひどく滑らかなその透明体は、オブラアトよりも薄くモイラの皮膚を蔽い、水で拭《ぬぐ》うと直ぐに溶けて、植物性の清潔《きれい》な、澄んだ香いをたてた。そうしてその透明な香いはモイラの大きくなるのにつれて少しずつ変化して、或時期には懶《ものう》い、睡眠薬のようであり、或時期には東北地方の春の山にある、しんかき(林作が使っている細い筆の名である)のように細くて臙脂《えんじ》色をした細い芽のある枝を折る時のような、清冽な、花よりも澄んだ、鋭い香いに、変った。
世間にはモイラとは反対に、義務的なことや規則、守るべき時間、そんなものが、好きでならないのではないかと疑われるような人間がいた。モイラの眼から見ると、それらの人々の頭は特殊な構造になっていて、時間や規則のようなものが、スラスラと頭に入ってくるもようである。
親類の女や、近所の女たちが、だらしのない居ずまいをして、何かを喰いながら喋っている話は、大半は熱苦しいような、愛情の話である。その愛情の話は義務の問題に繋がっている。親の義務、子の義務に、繋がっている。
「親だからねえ」、又は「親子の間で」。そんな間投詞が熱い風のような口調で、必ずといっていい程、出てくる。彼女たちの話は動物的な愛情と、義務との熱気を孕《はら》んでいる。それらの話がモイラには薄々わかるのだ。その話の熱気は、柴田や、御包が、モイラに圧しつけてくる勉強の話に似ていて、それがモイラには重苦しく、不快である。
家政婦の柴田に、生温《なまぬる》い牛乳とか、胸の悪くなる味を持った水薬を、無理やりに飲ませられる時、モイラの胃壁はそれを突き戻してくるが、義務的なことと、暑苦しい愛情の話の不快もそれと同じである。
家政婦の柴田が、生温《なまぬる》い牛乳と、水薬とを持って枕元に現れると、モイラは強く口を結び、大きな眼を白くして、上目遣いに柴田の眼を睨んだ。
モイラは黙っていたが心の中で、言った。
(パパが帰ったらいいつけるよ。あたしがどの位パパに気に入ってるか知ってるだろう?)
家政婦の柴田はそのモイラの言葉がすべてわかったかのように、脣を意地悪げに曲げる。そうして言うのだ。
「モイラさま。これを召上らなければお病気はよくなりませんよ。パパさまがどう仰言っても、お医者様のいう通りになさらなくては駄目でございますよ」
「パパの方がえらいよ。稲本先生より。稲本先生はパパのお祖父《じい》さんに可哀がられてたんだよ」
「そうですか。じゃあお勝手になさいまし。その代りいつまでもお熱が下《お》りなくてもいいんですね」
モイラは乱暴に寝返りを打って、柴田にその小さな、円みのある背中を向けるのだ。
柴田に背中を向けると、モイラは彼女に隠してある小さな手鏡《コンパクト》を枕の下に一層深く押しこんだ。すでに小さな〈女〉を感じさせる。汗で湿った、小さな腕で、わからぬように注意して押しこむのだ。手鏡《コンパクト》は林作にひそかにねだって買って貰ったものである。
(柴田に見つかれば奪《と》られるわ)
モイラは心の中で、呟くのだ。
(なんてにくたらしい子だろう)
柴田は心に呟いて、牛乳の洋杯《コツプ》に紙の蓋をし、水薬を壜に戻して洋杯《コツプ》を伏せると、義務は終った、というように、立ち去るのだ。
家政婦の柴田がモイラの嫌いなものを運んで来る時、内心に歓びを隠しているのを、モイラは知っていた。彼女はモイラに牛乳と水薬とを持ってくる時、単にそれらの飲みものを運んでくるのではなかった。モイラの嫌いなものをそれと一緒に、運んで来た。それは道徳である。彼女の顔の表情から、彼女の言葉のニュアンスから、彼女の一切にはいやな道徳の匂いがした。
道徳の匂いを体につけ、それを相手に押しつけようとする人間は、それを相手が厭がるほど、気分がいい。そういう隠れたものを、モイラはなんとなく会得していた。
モイラの心を蔽っている硝子が、特に手ひどく跳ねかえすものに、道徳の匂いが、あった。道徳も、守らなくてはならないことにおいて、義務に似ていた。これも嘔気《はきけ》のある時、家政婦によって無理やりに飲まされる、生温《なまぬる》い肉汁《スウプ》や、丸薬に、似ていた。
道徳の匂いをさせているものを、モイラはすべて嫌悪した。〈道徳〉と書いた旗をおし立てて迫ってくるものをみると、反射的に嫌悪が走るのだ。浄《きよ》らかな、〈聖なる人々〉が、道徳の匂いに目鼻を弛め、またたびを嗅《か》がせられた猫族のような恍惚を示すのとは反対に、モイラの胸は嫌厭で硬くなるのである。どうしてそうなるのかわからなかった。動物的な本能で、モイラは道徳の匂いをさせ、道徳的な面を被《かぶ》ってくるものに、反抗した。贋ものの匂いのする道徳を、自慢げにひけらかす、家政婦の柴田の言葉や、家庭教師の御包の説教を、モイラは嫌悪した。道徳の匂いのする人間、そういう人間の皮膚や爪、着ているもの、すべてに向って、モイラの心の中にあるものが反撥した。モイラの中にある反撥心の棘《とげ》は全部、逆立った。
道徳は厭な匂いがした。モイラに向って迫ってくる道徳的雰囲気は、モイラの嫌いないやな匂いのする食物《たべもの》に似ていた。
モイラは肉桂《ニツケ》が嫌いである。カルルス煎餅《せんべい》の中にある、苦い芳香を持った穀粒《こくつぶ》、山椒や柚子《ゆず》、又は山葵《わさび》なぞの匂いのする餅菓子、パン・デピィスの中のエピィスの芳香、それらのものを、モイラは嫌いだった。モイラに道徳を押しつける人間にはそれらのような匂いが、あった。
道徳は厭な芳香を、持っていた。
道徳の匂いをさせている女は、テカテカした光沢のある、白く透《す》き徹《とお》った皮膚、又は濃く紅い皮膚を持っているのが多かった。それは不愛想な、親しみのない皮膚である。彼女らの声は多くは鼻へぬけ、細く、高音で、牝馬の嘶《いなな》きに似ている。彼女たちは又、細く長い、骨っぽい腕を持っていた。彼女らの腕の内側は、気味悪く滑《す》べ滑《す》べしていて、煖炉《だんろ》や炭火などに長くかざしていると厭な、紅い斑《まだら》模様を表した。紅くない部分は酒精《アルコール》に浸けた解剖体のような薄黄色い生白さを現すのだ。その生白い色は、巴里《パリ》のミュゼ・グレヴァンにある犯罪場面を再現した、蝋人形の体色にも、似ていた。
モイラはそれらの女の面憎い、愛嬌のない顔つきを嫌い、牝馬のいななくような声を嫌い、彼女らの紅い、テラテラした頬の皮膚を憎んだ。又そのぽきぽきした、細い腕を、憎んだ。それらの、道徳の匂いをさせながら迫ってくるような女は内側に、嫉妬と、そこから生ずる小さな悪意、という、最も相手を不快にする悪徳を、隠し持っていた。それらの女の眼は、やさしい微笑《わら》いの中で、冷たい光を出して、モイラを視た。その眼は小さなモイラを、憎みさげすんでいるように見えたが、その冷たい眼の底には醜い嫉妬が、あった。不快な無恥が覗いていて、それは悪い蛇のように、とぐろを巻いていた。それらの中の一人である家庭教師の御包は、その卑しい根柢を、見透かすような眼で彼女を見詰め、そのまま彼女から離れようとしない、モイラの眼を、見返した。そこでモイラを憎悪した女の眼は、醜い正体を現すのだ。モイラとの間に、そういう秘密な眼差しの取引きを交した後《あと》では、彼女は彼女たちの会話の間々に、隠語や符牒《ふちよう》を使って、モイラの父親の蔭口を言ったり、彼の秘密らしいものに触れたことを口にする。そんな時彼女たちは傍にいるモイラを、意識した。そうしてチラと、モイラを見|遣《や》り、軽蔑した微笑《わら》いをした。
モイラの家に出入りしている、鴨田《かもた》という、五十がらみの男がある。林作の為に銀行や税務署などの雑用をする男である。これも道徳の匂いをさせる男である。鴨田はゆっくりと、威厳を保って歩いた。御包たちが品がいいと称する半白の癖のある髪を七三に分けた、小太りの顔には、寛容を示すにこやかな微笑いが絶える時なく浮んでいる。モイラはその男の、張りつけてあって剥《は》がれぬのではないかと、思うような微笑に眼をあて、誰もいないところでも、睡っている時でも、あの微笑いは取れぬのだろうかと疑い、凝《じつ》と男の顔から眼を離さずにいると、男は脣を曲げるようにして微笑いを止《と》め、苦い、いやな顔をして、モイラを見たのだ。モイラは恐れて眼を離し、そこから逃げて行ったのだ。にこやかに微笑い、厚ぼったいその掌《て》で、そっと撫でるような風にして話す鴨田の、蚯蚓《みみず》の色に似た脣からは、モイラが父親の傍《そば》へ行く時に嗅《か》ぐのとはちがった、不快な煙草の匂いがした。モイラは鴨田の、優しげに微笑う口元の形と、頬の、しんわりした皺とに、下卑《げび》た、不快なものを感ずる。
或夏の暑い日、鴨田が、パンティだけでいるモイラの、滲《にじ》んだような小さな乳暈《にゆううん》に囲まれた、雌猫のような乳首に眼をあて、次に、モイラが護謨《ゴム》が強《きつ》いので、小さな両手の指を入れて、下へ摺《ず》らすようにしていた、真新しい下着の辺りに、その眼を移した時、モイラは異様な不快を、覚えた。父親の林作が、モイラを、そのウェストミンスタアの香いのする膝に抱いて、背中を愛撫したり、オオ・ドゥ・コロオニュを入れた水で、汗を拭き取ってくれたり、又は下着の護謨《ゴム》で紅くなった痕《あと》に、ワゼリンを塗ってくれたりする時には覚えなかった、ひどく不快な感覚である。
六歳と八ヶ月のモイラは、自分が女の性を持っているのだということに、既に漠然とした意識を、持っていた。そういうモイラは自分を溺愛する父親を意識していて、父親をはじめ、自分を見る多くの性の異なった人間に、自分が気に入るのだという確信を、曖昧模糊《あいまいもこ》とした中で、捉えていた。無意識な、モイラ自身にも理由のわからぬ、自信である。
モイラは自分がどうやって生れたかは知っていないし、肉親という言葉も、まだ知らない。だが自分が、写真で見る母親と、林作との間に生れた、彼らと一つ体のような人間なのだということを、どこかで、知っている。その一つ体の林作や、母親の繁世の噂を、尊敬のない表現で喋っている御包や柴田を見つけると、モイラは傍《そば》に立って凝《じつ》と視ていた。モイラが大きな眼を動かさないで、凝と視ていてやると、彼女たちは話を中断して、一寸《ちよつと》気になるような眼でモイラをチラと、見返る。そんな時、勝ったのは自分だという想いが、どこかでモイラを捉えている。モイラには、自分は決して負けないのだ、という自信が、どういうわけか、あった。
そういう時の眼と同じ自信が、モイラが、自分より幾らか上の年齢の男の子を見る時にふと、放射している。ただ意味なく、モイラが暈《ぼんや》りしている瞬間、モイラの捕獲網が、そこにいる男の子に向って、投げられていた。男の子が特別な注意を払って自分を見たり、黙って、隠《かく》しから蝋石《ろうせき》を出して、モイラに呉《く》れたりする、そういう特別な注意と親切な行為が、自分がその子を見たからだと、モイラはいつからか、知るようになった。大きな大人の視線を捉え、眼と眼との闘いをやって負かしてしまうのも、捕獲網のような視線を投げかけて、男の子の関心を掴まえるのも、同じモイラの眼である。モイラが自分の眼を、捕獲網だと、知るようになってからは、(それは十二三の時からだが)モイラは男の子を視る時、大きな自信を持っていて視るように、なった。自分が男の子の方を見れば、殆どの男の子が、何かを感じとった眼差しになることを、何度か経験すると、モイラの、男の子を見る眼はいよいよ無関心になり、懶《ものう》げになった。そういう時、モイラは思っている。(この子に気に入らなくってもいいわ。そんなことはどうでもいいんだわ)と。そう思っているモイラの感情が、モイラの内側から、滲《にじ》み出るように現れている。それが一層、相手の関心をモイラに集中させた。
その、モイラの眼が持っている、力のようなものも又、モイラの硝子の部屋に原因を持っていた。つまり、他人の感情が薄くなり、鈍くなって、モイラの中に入ってくることと、モイラの中から出る感情が、硝子の壁を出る辺りで、どんよりとした雲に包まれてしまうこととが、そのモイラの眼を造り出している。
どんな時でもモイラは、(どうだっていいわ)という、なげやりな、懶い気分に支配されていた。そんなところから、男の子を見ている時の、(この子にすかれなくったっていいわ)という気分が、出ている。(すかれなくったっていいわ)という気分は又(好かれたってなんでもないわ)という、気分にも通じている。
そのために、モイラが男の子を見る眼の中にある無関心は深くて、その(どうでもいい)という気分には、内側から滲み出るようなものがある。濡《ぬ》れていて、附着しやすくなったもののように、相手の心にまといついて行くようなものがある。モイラ自身がまといつこうとする意志を持っていないために、その粘着力は強力である。
すべてに深い関心を持たない、というよりも、持つことが不可能なモイラの、相手の注意を引きつける力は、無限のように見える。その力のようなものは、モイラにたち向おうとする相手の闘志を甚しく弱める。大きくなったモイラに、愛情の意思表示をあえてする男は、強烈なものを持った男に限られた。
すべてに深い関心を持たないモイラは、よくものを忘れた。モイラがものを忘れるのも、根本はモイラの、(どうでもいい)という気分から出ていた。ひどく大切にしているものでも、(なくなったっていい)という気分が、どこかにあって、それでモイラは、何かを忘れる。大切なものを置き放しにして、忘れていた。
モイラはよく嘘を吐《つ》いたが、嘘を吐く原因も、その、すべてに関心の薄いところから来るらしく、思われた。何となく、嘘を吐くのである。全く理由のないところで、モイラは嘘を吐いた。例えば、モイラは親類の家に行って、従姉妹《いとこ》や、その友だちなどに会う。そんな時モイラは、前の日にしたことについて彼女らに話をする。前の日に林作に伴れられて料理屋に行った話をしている途中で、モイラは(赤い洋服を着て行った)と、言おうとするのだが、いつのまにか(白い洋服を着て行った)と言う言葉が、口から出ている。どうしてそう言わなくてはならないのか、モイラには全く、わからないのだ。白い洋服を欲しいのだが白い洋服がない。それで白い洋服を持っているように見せよう、というのなら、わかる。それなら大ていの子供が吐《つ》く嘘である。モイラの場合はそうではなくて、紅でも、白でも、完全に、どっちでもいいのである。これもモイラの、(どうでもいい)という精神の現れであるかも、知れないし、又義務への反抗であるのかも、知れない。人間というものは、嘘を吐いてはいけないということが、どこかで、何によってか知れぬが定《き》められている。絶えず、真実《ほんとう》のことを言わなくてはならない。という、教師や御包が、神の命令を取り次ぐようにして押しつける、義務のような固いもの、掟というものに不快と反感を感じていることが、そういう妙な嘘言になって現れるのかも、知れない。
家庭教師の御包と、御包の真似をして、モイラを教育する気になっている柴田とは、そのモイラの嘘を見つけると、凱歌をあげて、眼を光らせた。そういう時、彼女たちの体全体の細胞は活気を帯びたようになって、生き甲斐をみつけた人のようになる。彼女たちはモイラを掴まえて、説教をはじめる。そういう時の彼女たちのようすは、神の代弁者のような威厳を見せるが、その威厳の裏側で彼女たちは、鼠《ねずみ》を弄《もてあそ》ぶ猫の快感を駆使している。それがモイラにはわかっていて、モイラは彼女たちには嘘を吐《つ》くまいとする。だが、自分の意志が働かないところで何かが働いて、いつのまにか、モイラは嘘を吐いていた。彼女たちは、林作にそれを、勿体らしく報告することも忘れなかった。
林作はそんな時、黙って聴いていて、解った、というように二三度、頷いた。そうして、「まあその内に直るでしょう。知らずに吐《つ》くようだからね」と、答えた。その林作の返事は、彼女たちには物足りなかったが、自分たちを立てていることは明らかなので、どうしようもない歯がゆさを、我慢するよりなかった。林作は、彼女たちの報告を聴いている時にモイラが入って来るようなことがあっても、モイラに向ける、微笑《わら》いを止《や》めようとはしなかった。林作が、モイラの、理由のない嘘を吐く癖を、ひどく可哀らしいものとして、受けとっているということを、林作が何も言わなくても、モイラは捉えていた。それは温い温度のように、伝わってくる。そういう場合の林作の愛情はモイラに、甘い、気持のいい、モイラにはまだわかっていないが、セクシュアルな響きのような、恍惚《うつとり》としたものを、伝へる。そのモイラの充実した想いは同時に、反対な作用で家庭教師たちに跳ね返って行って、彼女たちのモイラへの、まるで対等な女に向けて抱くような嫉妬は、深められて、行った。生れる前から家庭と、退屈と、不味《まず》い料理に浸してあった女のような柴田と、母親の腹の中から正義と贋道徳で固まっていたような御包とは、渋面を造って、各自の部屋に、引き上げた。林作が高給を与えて、一応の礼をもって迎え入れたのにも拘らず、どうやら自分たちを尊敬していない様子なのも、彼女たちの気分を害するのだ。
そういうようなことがある度に、モイラの自信のようなものは、少しずつ強く育って行く植物のように、モイラの中で大きくなって行って、その妙に力のあるものはいよいよモイラの中で、膨らんだ。
それにしてもモイラの、いろいろな性質とか、癖とか、それらの、モイラの持っている特徴というものがすべて、モイラの胸の中にある硝子の部屋に源を発していることは、どうやらたしかなことのように、思われた。
* *
モイラはやがて七つになり、小学校に入学した。お茶の水の高等師範学校の附属小学校である。
鍔《つば》のうねった毛皮の帽子を後《うしろ》へひいて被《かぶ》り、膝小僧までの短い冬服に、それに被さる程度の、これも短い毛皮の、ケエプ風な洒落たマントの下から、木綿の長靴下の形のいい脚を見せて、モイラは立っていた。胸と背中に、たてに簡単な襞《ひだ》をよせただけの白フランネルの冬服の他は靴下まで全部栗茶で統一され、帽子には同じ色のタフタのリボンが豊かに襞を寄せて取り巻いている。
どこか思い上がったような、気品のあるその姿は、中世の騎士《ナイト》か、小姓《パアジユ》のように見える。
校庭の藤棚の下である。
枯れた藤の豆殻《まめがら》が混った砂利《じやり》をけたたましく鳴らして、駆け廻っている七八人の同級生の群を視ているモイラの方へ、時折そっちへ向く顔が、お河童《かつぱ》を振り乱しながら一瞬止まっては「牟礼《むれ》さん」と言ったり、「入らないの?」などと言うが、どの顔も幾らかモイラを興《きよう》がっているような、冷笑しているようなところがある。一寸偸み見るようにする顔もある。いつも黙って、凝《じつ》と人を見詰めていて、教室で、教師に指されても、のろのろと立ち上がり一寸黙っていてから答えるのが、彼等の興味と冷やかし笑いの原因である。
モイラはそれを知っているので仲間の誘いには意《こころ》が全く動かないもようで、暈《ぼんや》り眼を開《あ》いているが、その潤《うる》んだような眼は、先のなだらかな短い鼻へのかかり、接吻を待っているような、少し開《あ》いた脣にも、どこかに取り澄ましたような表情がある。これは親類の家なぞで、従姉妹たちにする表情で、自分をぼんやり扱いをする人間に向う時に、どこからか湧《わ》いてくる、自分の父親の林作の自分への礼讃と溺愛、その他いろいろな優越感から出る顔である。
(あんたたちなんか)
モイラは腹の中で、言っていた。
モイラは自分の父親の林作が、他の子供の父兄の中で際《きわ》だって一人立派に見えることや、広い西洋建ての家、外国から来た洋服や靴、すべてが特別な自分の持ちものや、生活と、友だちの家や、持ちものとの間に非常なちがいのあることを、それでなくても意識していた。
最初の頃、男の子たちの中の悪童連が、モイラの一人だけ変った服装を面白がり、大声で囃《はや》しながらモイラの後《あと》を蹤《つ》いて歩いたが、林作が教師に会って話したのと、蹤いて歩く仲間の首領分の子供が、モイラの綺麗な髪や顔、すべてのようすにだんだん一種の畏敬のようなものを抱くようになったのとで、その騒ぎは、止《や》んだ。男の子たちはモイラの持って行く弁当に、驚異の眼を集めていた。籐《とう》で編んだ角《かく》い籠の中から出てくる、丸形|艶《つや》消しのニュウムの二重になった弁当箱や、バタで炒《い》った卵、白い、蒸した魚とソオス、林檎の砂糖煮、なぞの珍しい食べもの、特に薬壜に入った、少量のレモンの絞り汁と砂糖とを入れた湯ざましには憧《あこが》れを持った彼らは、昼の時間になると、モイラが食事を終るのを待っていて、各々弁当箱の蓋を持ってモイラの席の前後《まえうしろ》に、ひしめいた。モイラは一寸厭そうにするが、不器用に壜を持って、少量ずつ、注《つ》いで遣る。彼らはモイラのレモン湯を〈いい香いの水〉と呼んでいて、中にはそれを飲み込んだあと、眼をつぶって仰向《あおむ》き、胸を撫で下ろして、何かのいい香いをかぐような、陶然とした顔を造る子供もいた。
モイラは平常《いつも》のように、誘いかける少女を無視して、くるりと向きを変え、門の方へ歩き出すと、岡安、細川、青柳の三人がばらばらと来て取り巻き、
「牟礼《むれ》さん、明日の日曜どこかへ行くんでしょう?」
なぞと、口々に問いかけたが、モイラは、
「わからない」
と一言《ひとこと》呟くと、マントの前に、縦に開《あ》いた穴から、白い冬服の腕を長く出し、五月蠅《うるさ》そうに子供たちを押しのけるようにして、門の方へのろのろと、駆け出した。
砂場を通りかかったモイラは、砂場の隅に、自分のなくした大きな護謨鞠《ゴムまり》が頭を出しているのを見つけた。鞠を拾ったモイラはふと、人影を見たように、思った。見ると砂場のある広い運動場の遥か向うに二人の人影があった。三年の受持の野中満千《のなかまち》と、理科の教師の堀田である。二人は向い合って立ち、何か言って笑っている。野中満千は上半身を前へ屈《かが》めるようにして頸を反《そ》らし、顎を突き出し、書物を後手《うしろで》に腰に廻して持って、甘えるように笑っている。一寸|嗄《しわが》れて太い、だが男をそそるような声が聴えるようだ。
辺りは薄闇の中に既《も》う、暈《ぼんや》りとしていた。
モイラは何故か二人が此方《こつち》を見ない内に、行かなくてはいけない、という気持に追い立てられて、砂場を出たが、靴の音がして、先刻《さつき》の連中が門の方へ行くのを見ると、急いで鞠を抱え直してそっちへ駈け出した。
「あら、どうしたの?」
細川と青柳が同時に言ったが、モイラはいつものように黙って彼女らを見ただけだ。
声をかけた二人は首を寄せ、何か言ったらしい。二人はもう一度モイラを見ると、モイラの足ののろいのを嘲るように、素ばしこく駈け出し、モイラはその後《あと》からのろのろと、走った。
モイラは学校というものに反抗していた。男も女もいる教師たちは、御包や柴田よりは真実《ほんとう》の道徳を持っているように見えた。だが高等師範学校という名の学校であるだけに、全国から選《よ》りすぐった優秀な教師が集まっていて、中学を教えていても立派に勤まるような、五十七八か、六十|絡《がら》みの男の教師もいた。だが彼等といえどもモイラを早速《さつそく》理解することは、むずかしかった。
モイラは学校でも、〈モイラ〉を発揮していて、絶えず他人《ひと》のすることを凝と、見ている。教師が指名しても、すぐには答えない。教師の顔を少間《しばらく》凝と視ていてから、気がないような、返事をした。それが教師には、絶えず何か、他のことを考えているように見え、不熱心な子供という印象を、与えた。モイラは絶えず、気が散っているようすで、心がそこにない、といった具合である。
窗から見える空とか、藤棚の一部を見ていて、名を指すと慌《あわ》てたようすもなく向き直るので、教師によっては横着な、可哀げのない子供のように、思った。数学と体操を除いては、学科は全部いい成績で、とくに国語は得意で、書き取りなぞは答案も、他の生徒の半分の時間で済ませるが、時間が余ると本を屏風《びようぶ》にして、好きな人形の画を、描き始める。人形を描き始めると、夢中になって、自分が教室にいることも、授業時間だということも忘れ去っていて、後《うしろ》に教師の跫音《あしおと》がすると慌てて隠そうとして、発見されるのである。教師には従順だし、悪い悪戯もしないが、教室内の行儀は出来の悪い子供や悪たれ小僧と同じ水準にいるようなものだ。教師にもそれが性格的なもので、モイラ一人に掛り切った上で、よほど熱心に教育したとしても、矯正はむずかしかろうということが、だんだんに、判って来た。
教師は林作に来て貰って、それを話すのだが、そんな時教師は林作の顔に、子供の善行をきいた父親の顔に浮ぶような、愉《たの》しげな微笑が浮ぶのを、度々見た。しかも林作を呼ぶことが度重なって、林作が学校へ来るということが珍しくない、常住のことになって来た時、教師はモイラの様子を見て、この父親にはモイラを矯正することが不可能なのを、悟った。林作が教師との対談を終って、モイラのいる教室の前の廊下を通りかかったり、運動場を通ったりすると、モイラは忽ち父親に気を奪《と》られ、運動場を通る場合には、辺りかまわず傍へ駆けて行くように、なっていた。
林作が又、家にいる時のように、モイラを抱き上げこそしないが、溢《あふ》れる微笑を隠そうともせずにモイラを迎え、モイラの傍に蹲《しやが》みこんだ。そうして黒い二重廻しの翼を開いて、その中でモイラを軽く抱き寄せる。それが放課後だと、モイラの肩に手をかけて教師の方に向けて礼をさせ、手をひいて立ち去るのだ。林作のその様子には、母親のような細かさが見え、湯にも入れて遣《や》ったり、絶えず何かして遣っている密接な関係が、窺われた。
牟礼林作は浅黒い、西欧中世の、古武士のような顔立ちをしている。武士のような感じだがこなれた様子をしている。太い三角形に見える眼は表情に溢れていて、頬から口元の辺りに、影のような微笑が掠《かす》める時が特に美しい、男である。西欧の武士に日本の男の渋味を被せたような男で、京都で買ったものか、暗い緑に何やら細かい地紋の角帯が浅黒い顔に調和している。
林作は貿易商には珍しく独法を出ていて、学者らしい風貌を持っているが、かなりの遊び手で、京都の弟の家にほんの三四日滞在する間にも祇園なぞで遊んで来る。着るものにも独特の凝り方をする男だ。
若い時父親の大作と伯林《ベルリン》に居たことがあって、洋服は濃い灰色に、外套《オオヴアア》も同じようなのを着、軍医の襟章のような暗い緑の角《かく》いドット風の模様のあるネクタイに、甲虫《かぶとむし》を加工したネクタイピンなぞをしている。服装のことなぞに関心のない学校の教師もどこか普通《なみ》とは異《ちが》った、渋い重みのようなものを、くだけた様子をしてはいるが、内側には骨のある人物、という印象と一しょに受けとったが、相当の遊び手である林作の一面が、ふとした時に感じとれる時には、底のわからぬものに打《ぶ》つかる感じを否み得なかった。
教師は黒い二重廻しを着た林作の、後姿と、寄りかかるようにして行くモイラの、毛皮の帽子にマントの、小姓《パアジユ》のような姿を見送っていて、あまり見たことのない緻密な父と娘との美しい影像に、思わず知らず一種の感動を覚えた。そうして、モイラの悪癖の矯正は不可能であるのを、改めて知ったのだ。林作は家庭教師を置いていると言っているが、母親のない家で、父親が娘に溺愛を傾けている、そういう家での家庭教師の効果は、強力なものだとは思われなかった。第一林作は家庭教師を学校へ寄越すことを、しないのである。
自動車《くるま》で通わせるのは、この学校の性格からもよくないと考えた林作は、モイラの入学と同時に、近くの俥宿から喜三郎という車夫を通いで、常雇いにした。喜三郎は放課時間には来ていて、正門わきに俥を置き、独逸製の毛布を、韃靼《ダツタン》人のように襟から被って前を掻き合せ、パッチに地下足袋の足を寒そうに揃えて、蹴込《けこ》みに腰をかけて待っていた。
林作が一緒なのを見ると喜三郎は慌てて起ち上り、林作が座席に上がると、モイラを後から抱き上げる。外套の蔭の真白な下着のスカアトとパンティの中から、栗色の長靴下の脚をくっつけて泳がせるのが見え、モイラが林作の膝に後向きに乗ると、喜三郎は毛布でモイラの胸の辺まで包むようにして、掛けてやり、やおら梶棒を上げて走り出すのだ。
林作は又、図画や理科なぞの時間に桜の花が要るから、花の小枝を持って来るようになぞと言う教師の命令があると、花屋で一抱えもある枝の束を買って学校に届ける。自分が俥で持って行くこともある。教材として使った後《あと》の余った分は音楽室、教員室なぞに、飾られた。モイラの組の中に背の高い、骨格も大きい黒岩というのがいて、それが、林作が桜の枝を蹴込みに乗せて現れると、
「牟礼さんのお父さんだぞ」
と大声で言いながら、砂利を軋《きし》ませて挽《ひ》き込まれる林作の俥の後から、追い縋《すが》らんばかりに、走った。智能が一人だけ特に低い子供だが、腕力があるので恐れられている質屋の倅である。名は庄吉と言った。庄吉は拳骨《げんこつ》を振り上げて見せては、モイラの手から薄青い消し護謨《ゴム》、小さな缶入りの紙石鹸なぞを、奪《と》り上げた。そうして、
「先生に言うとこれだぞ」
と又、拳骨をふり上げて見せる。
或日の午後、手ののろいモイラが一人教室に残って、机の中のものをランドセルに入れているところへ、黒岩が入って来た。そうして例のように、丸善の独逸製の鉛筆と、輪になっていて、刷毛《はけ》のついた消し護謨とを奪い、拳骨を突きつけた。モイラは、黒岩を恐怖したが、時折偸み見るようにして見ていると、黒岩にはモイラをしん[#「しん」に傍点]から恐怖させるものがない。学科が何も出来ない黒岩は両手を隠しに突込んで辺りを睥睨《へいげい》しているが、授業時間の間は大きな上体を竦《すく》めるように伏せていて、自分の前の席の子供が手を上げようとすると、小声で脅して、中途で手を下ろさせたりしているが、威張《いば》っている時でもどこかに、小さくなっているところがないでもない。だが打《ぶ》たれるという恐怖がすべてを圧倒するので、モイラは、口惜しさを潜めた眼で黒岩を凝と、見上げた。黒岩は何故か眼の底に一寸|怯《ひる》んだ色を見せ、「お父さんにも言うな」と言って、拳骨を下ろした。モイラは紅いフランネルの短い洋服の下から長く出た黒靴下の脚を幾らか開いた形で立ち、脣を固く結び、眼に涙を溜めて、チラとモイラを見てから教室を出て行く黒岩の後姿を、凝と、見送った。
それはモイラが入学してから一月半程|経《た》った五月の末のことで、藤棚の藤が盛りを過ぎ、温かな風に絶えずかすかに揺れている午後である。モイラはまだ固く脣を結んだまま眼を伏せると、又残った道具をランドセルに移しはじめた。
モイラは黒岩に怯んだ色があったのを、見逃してはいなかったが、その理由はわかっていない。負けるのを口惜しいと思うモイラの心が、モイラから発する途端に鋭さを失って、鈍い色を塗られ、それが重く見開いた眼の中で却って黒岩を怯ませたのだということを、モイラは知らない。
口惜しさと恐怖を喜三郎にも告げないで、柴田や御包には勿論、女中のやよにも言わないでいて、じっととっておいて、林作が帰ったら二人だけの時に言おうという、一心籠めた心持を、小さな胸に一杯に潜めながら、モイラは紅いフランネルの短い合服《あいふく》の下から出た黒い靴下の細い足で、五月の温かな風の中を、のろのろと正門まで、走りつづけた。
* *
モイラの組の子供の中にも一人だけ、モイラをみて嗤《わら》うようすのないのがいた。入学式の日に、他の父兄や子供たちに混って、林作にくっついて立っていたモイラは、自分の直ぐ横にいる女の子と、何度か眼が合った。祖母らしい老女に附添われている。その子供も、モイラも眼を合わせては直ぐ外《そ》らせてしまった。
その子供の、闇の中を見詰めているような暗い、大きな眼は、その後も度々、モイラを見詰めているのを、モイラは知っていた。
或日藤棚の、横に捻《ね》じれて匍ったような、藤の幹の傍に立っていたモイラは、すぐ傍へ来て、自分を見ているその子供に気づいた。辺りに他の子供はいなかった。
教師がその子供を野原《のばら》さんと呼んでいるのを、モイラは知っていた。モイラに負けぬ程眼が大きい、狆《ちん》のように顔の短い子供である。その時はモイラが人形を描いていたことで教師に注意された直後の休み時間だった。それで含羞《はにか》む気持が強く動いていて、モイラはその子供が早く向うへ行けばいいと希《ねが》う気持があったが、子供はじっと立っていて、モイラを見ている。子供の眼の中には、他の子供のような、いかにも利口そうな痛いきらめきがなくて、そのきらめきの代りに重い、くぐもったような光がある。その眼はモイラが手鏡《コンパクト》を覗く時の自分自身の眼にどこか同じところがある。モイラの警戒心が弛んだ。
(この子はあたしと同じ子だ)
そう思った時、向うの子供もそのモイラの心の動きを、素早く、捉えていた。瞬間その子供とモイラとは同時ににっと、微笑《わら》っていた。
「あなたは何処《どこ》の子?」
野原野枝実《のばらノエミ》はモイラのこの高圧的なものの言い方に一寸怯んだように見えたが、眼を離さずに、言った。
「あなたの家のすぐ傍《そば》」
「ふうん」
モイラは藤の幹に寄りかかり、幹に肩で甘えるようにしながら、体をくねらせて、野枝実《ノエミ》を見た。ノエミは好奇に充ちた眼で、藤の幹に体をよせて、くねっているモイラを、みた。モイラは話したいことがあるようだがうまく口へ出ない。その気持は向うにもあるらしいのが、わかるのだ。黙って見合っている内に始業の鐘が鳴って、二人はそのまま又知らぬ同士のようになって駈け出したが、モイラはその日初めて、友だちというものと顔を見合ったのだ。
それから二三日|後《あと》に運動場に出たモイラは、遠い教室の板壁に凭れて、陽が眩しいのか眼をつぶったように細めてこっちを見ているノエミを見つけ、こっちへ来いというように、顎を動かして見せた。その日二人は名を教え合ったが、その子が羞ずかしげに、「ノエミ」と、言った時、モイラは三字の、どこか同じ響きのある、他の子供とは異《ちが》った名に親しみと仲間意識を抱いて、途端に家にいる二人の厭な女のことを話した。ノエミは、入学式にモイラが見て覚えている祖母について、話した。辿々《たどたど》しい表現をしているが、モイラとノエミとは、二人の眼の上の瘤《こぶ》である女たちが、共通したものを持っていることを互に、感じとった。道徳的なことを絶えず口にする、その癖意地悪なものを底に持っていて、その尖った棘で自分を突《つ》ついてくる女たちに対して抱いている反感が、忽ち二人の間にあった固いようなものを、取り去った。二人は互に母を持たないことも話し合ったが、ノエミの方は、祖母の律《りつ》とモイラの家の前を通った時、律が、その家が大きく立派であっても商人の家であること、あんな家の子供は贅沢しか知らないのだということを、軽蔑したように言ったことがあり、その時モイラにも母がないことを律にきいていた。唯、モイラが林作について、話さないではいられぬというように、得意な調子で話し出した時、ノエミは深い羨望の眼で、というより以上に、微かな不快を潜めた眼で、モイラを見た。モイラはそれに気づいたが、硝子を間に置いてものを見ている子供であるのに加えて、モイラはまだ哀れみというものを知らない。哀れみをもって生きものを見たことがない。林作もそういうものを教えねばならないと考えていたが、モイラの稚い頭に適したエグザンプルが無かった。金のある無しということに例をとるのを林作は好まなかった。その上、今のままのモイラでよし、とする甘い考えが常に林作の頭を支配していることが、林作を怠惰にしていた。モイラはノエミの眼を見ながらも、なおも得意げに、おしつけるような調子で、話をつづけた。
野原野枝実は母親のよね子が恋人の所に去って、現在祖母に育てられているが、父親の朔也《さくや》は友だちの母露生《もろう》と、或は一人で、酒場や、カフェーに飲み歩く他は、二階の書斎に閉じ籠っている。
ノエミは自分も、父親も、祖母には気に入らぬ人間なのを知っていた。とくに自分は余計な、いなくていい人間として扱われているのを知っている。着るものも、入学の時に誂えた、無地の服と、普段着の他には、七つの時の祝いに祖母が仕立てた、年には地味な友禅しか持っていない。学用品も、ごく必要なものに限って与えられるが、それ以外のものは贅沢だといって、許されない。上等の乳色をした画用紙や、陽に透かすと羅馬《ロオマ》字や楕円形の縁《ふち》どりの中に西洋の女の姿の描かれた画などが透き徹って見える、すべすべした紙、ロオズ色のと、薄緑のとある消し護謨、朱塗りで幅が広く、大きな筆入れ、なぞを牛革のランドセルに詰めて来る、モイラのような贅沢は夢にも望めない。ランドセルを見せて、「これ牛の革よ」と言うモイラに、「嘘、牛の革なんて、ちがうわ」と、反撥心をこめて言ったが、モイラは「莫迦ね。牛の革をなめしたのよ」と、遣りこめた。
ノエミは智能の点でモイラに劣っていることはないのだが大人の言った話を一度で覚えて、それを自分の智識のようにして喋るというような、捷《はし》こさを持たない。ノエミは朱塗りに銀で月が描かれ、墨絵で梅の枝が、これも銀の花をつけて描かれているモイラの筆入れに、驚異の眼をむき、モイラがランドセルの縁《へり》に引懸《ひつか》かった筆入れを無理に引き出そうとすると、「壊れるわ」と言い、その度に浅黒い手で、その筆入れを撫でるのだ。「よごれるよ。銀のところが黒くなるじゃないか」。モイラは、言うのだ。ノエミは祖母の律が「お前はおいて行かれた子なのだから、我儘は言えないんだよ」という言葉を、何かをねだる度に繰り返すのをきいて、その念を押すような不快な口調と、それを言う時の律の不愛想な、冷たい表情とに、わけのわからぬ憎しみを抱いていた。父親の朔也には、どこか遠いところにいて、そこから自分を見ているようなところが感じられるが、見ていない時が多いのだ。ノエミの父親は、二階の部屋でしていることと、酒を飲むこととの二つに、頭を奪《と》られているように、見えた。モイラと林作とは異《ちが》うのだ。ノエミは父親、学用品、着るもの、すべてについて、モイラに劣等感を抱いていて、モイラに対してはなんでも負けているようになり、そのことはモイラの優越感をいよいよ強めているのだ。
ノエミはモイラの家に遊びに来るようになったが、林作の書斎にある、手を繋いで踊っている乙女たちが支えている、外国製の置時計や、柄《え》が動物の角《つの》で出来た大ナイフ、瑞西《スイス》のユングフラウにいる牝牛が首につけていた鈴を五つ六つまとめた、扉口《とぐち》につける鐘、――その鐘はモイラが椅子に乗って動かすといい音がして鳴り響くのだ――モイラと林作を数人の外国人と、コックが取り巻いている写真、郵船の模型、美しい少女や、騎士《ナイト》、魔法使い、小人《こびと》なぞの絵のある滑らかに光る絵本。それから、スチームの通った温い自動車《くるま》に、黒毛と赤毛の二匹の馬。それらのものをすべてモイラの説明で見尽し、感歎し尽してしまうまでは、愕《おどろ》きと憧れとの連続で、あった。
ノエミはモイラを好いているが、モイラに対して、負けたくないという抵抗する心持があり、モイラもノエミを好いているが、勝っている人間のような、優越感が、ある。その二人の間にある不快《いや》なものを取り除こうとしているのが、林作である。林作は或日、モイラが燐寸《マツチ》を擦《す》り、首を低めて差し出す彼のウェストミンスタアに火を点けると、炎をふき消すのを待って膝に抱き上げ、今度はモイラの、咲きかけた薔薇の蕾のような脣《くち》に紙巻を喞《くわ》えさせる。するとモイラは吸いこむと酷《ひど》く苦しいのだと教えられているので一寸喞えてから紙巻をとって、父親の脣に喞えさせて遣る、という、いつもの二人の楽しい時間が来た時、モイラとの間にこんな会話を交した。
「モイラは野原野枝実のパパを見たか?」
「うん、見た。跫音《あしおと》がしないで通るよ。廊下がギュッと鳴って又こっちへくる」
「あの人は詩というものを造る人で、偉い人だ」
* *
ノエミがモイラを呼びにくるのは、律のいない時が多かったが、どうかして律がいる時、モイラは律の眼を嫌った。
「本当にこわいね」
「うん」
ノエミはモイラの眼に凝《じつ》と眼を据えて、言うのだ。律の穏かな微笑《わら》いの中に、微笑っていない顔があって、モイラを視ている。いやな女教師のような、意地の悪い眼が微笑いの中で、モイラを視た。それに律の眼には、モイラが林作に伴れて行かれてそこで会う人や、モイラの家に訪ねてくる人たちの全部が持っている、モイラへの親しみと尊敬が無い。
「牟礼さんはお近くですから、ちょいちょいいらっしゃって下さいね」
律がそう言って、砂糖のついたビスケットと牛乳なぞを載《の》せた盆をそこへ置いて又モイラを一寸見てから出て行くと、モイラは、
「家《うち》へ行こうよ」
と、言うのだ。目を大きくして二人を視ていたノエミは黙って頷き、奥へ何か言いに行くと、怯えたような顔で帰ってくる。そうして二人は手を繋いで、外へ出た。
* *
長い暑中休暇が来て、モイラは、学校という四角い、どこもざらざらした木の建物の中に含まれている縛られた時間や、一切の強制的なものから、解放された。だが御包《みくるみ》や、それに見習う柴田の、いつものしかかってくるような不快からは逃れることは出来なかった。
或朝、モイラは二階の寝室の寝台《ベツド》で一人で眼を醒ました。日曜は林作だが、他の日は毎日柴田が起しに来る。モイラは柴田が扉《ドア》から顔を出すと、不機嫌に、なるのだ。
前庭と家の側面の花壇の塀際、家の後の馬小屋と塀の間にも、家を取り巻いている樫の木立ちから、湧き起るように蝉の声が鳴っている。
モイラは腹匍いになって、耳を澄ました。
枕の上に肱を張って、組むようにした掌《て》の上に顎をのせて耳を澄ますと、耳がじいんとするような蝉の声の中から明瞭《はつきり》と、廐舎の板壁を蹴る馬の蹄の音がする。モイラの寝室は林作の書斎と廊下を隔てていて家の一番奥に、ある。家の後には馬が二頭並んで繋がれている廐舎があり、馬具や飼料《かいば》の藁なぞを刻む板、なぞの置いてある物置を間に挟んで、馬丁《べつとう》の部屋が、あった。
(御包の日課が済んだら早く馬を見に行こう)
続いてモイラは馬丁の常吉《つねきち》の顔を、想い浮べた。白人の血が入っているのだが、浅黒く、どこかに鈍い色が沈んでいる曇ったような皮膚の色だ。情感のある、深い眼の色をしているが、いつも胸を張って、真直ぐに立ってモイラを見て微笑《わら》う。モイラを見て微笑うと、善意と愛情が、細くなった眼と、深く窪んだ頬の襞とに、滲《にじ》み出た。モイラは常吉の眼が、好きだった。
林作の与えたお仕きせの、濃い紫紺の法被《はつぴ》の、広い袖口から突き出た、灰色の木綿の襯衣《シヤツ》の掌《て》を、脚の両脇に下げ、林作の命令を聴いている時の常吉は、剛気な気質と従順なところが現れていて、穏《おとな》しい、だが強い犬のように見える。立っている常吉は、岩のようだった。押しても動かないように見えた。モイラは或日、林作の自動車《くるま》が出て行った後《あと》、立って見送っている常吉の脚に両手を突き、掌と全身に力を籠めて、押したことがある。常吉の体は汗と清潔な木綿の香《にお》いがし、思った通り岩のように動かなかったが、常吉はモイラの押すのにつれて幾らかたじたじとして見せ、「これは強いなあ」と言い、少しよろけて見せた。そうして常吉は大きな掌で、のめりそうになっているモイラを支えた。モイラにも常吉が故意《わざ》とよろけたのは判ったが、常吉の様子には少しも、子供を軽蔑する大人の態度が見えないので、モイラの気持は少しも傷つかない。モイラは一寸羞ずかしそうに常吉を見てから、常吉の、筋が深く入っていて、親指の根元の丘がひどく固い掌に掴まり、一緒に廐舎の方へ歩いて行ったのだ。
「常吉には露西亜《ロシア》の血が入っている」と、林作が客の男に話しているのを傍にいて聴いていたモイラは、何か恐しいものが入っている異様な人間を感じたが、林作の常吉に対《むか》う様子は、その恐怖を充分に拭い去るのだ。林作が常吉に何か言っている時の様子は、御包や柴田に対う時とは違っている。林作は常吉に胸の中を開いて話している。それがモイラにもわかるのだ。常吉が、家庭教師の御包や柴田を、嫌っているらしく思われることも、モイラには気に入っていた。モイラは或日常吉に、「御包、モイラ嫌い、柴田も」と、林作に窃《ひそ》かに告げる時のようにして、言ったことがある。すると常吉はモイラの顔を見て白い歯を見せて笑い、「あんな奴ら、駄目ですよ」と、言ったのだ。その時からモイラは常吉を一層、好くように、なったのだ。
扉が開《あ》いて、柴田が入って来た。
何故か、苛々するのを抑えつけているような柴田は、畳ざわりも荒々しく寝台《ベツド》に近づき、抱えて来た水色の服を、モイラが踏み脱いだ掛布の上に投げて、モイラを見下ろした。
「パパ様はもう、お出ましのお支度ですよ。今日はお帰りの遅い日ですからね。おとなしくなさって、あんまり柴田を困らせないで下さいましね」
何を憤《おこ》っているのか、きんきんした声で言いながら、柴田がタオル地の白い寝衣《ねまき》を脱がせると、蜜を塗ったような肌目《きめ》の上に汗が滲んでいるモイラの裸が現れる。柴田はオオ・ドゥ・コロオニュを入れた水に浸したタオルで、その、緻密な皮膚に蔽われた頸から円みのある固い腕へ、それから胸と、全身を、何度も絞り代えて拭くのである。オオ・ドゥ・コロオニュを含んだ水に、豊饒《たつぷり》と浸された、冷たいタオルが、その、肌目《きめ》の中へ視る者の眼を吸いこんでゆくような皮膚の上を擦ると、清新な、透き徹った、鼻孔を刺すような香料の香いが瞬間、温められ、それに混って、モイラの皮膚から発つどこか鈍く重い香気が懶く、微かに、立ち昇って、柴田の感覚に訴える。それは春の肇《はじま》りの、稚い草花の芽の香いのようであり、花のようにも、思われる。だが柴田には綺麗な感覚は無い。彼女は唯、遣《や》り切れない重い誘惑の、その輪郭さえも掴み得ぬ大きな、茫漠とした塊りを体に、受けとめ、ふと頭が空洞《から》になるように、感ずるのだ。ようよう拭き終って、寝衣《ねまき》を寝台《ベツド》の足元の枠に掛け、襟を四角く開けた薄水色の洋服を小脇に、脇の下に手をかけて、モイラを起《た》たせた。
もっと手荒くやりたいのを、無理に自分を圧《お》し鎮《しず》めているような、異常さがモイラにも、判った。
「柴田のばか」
「どうせばかでございますよ……旦那様だってどうせそう思っていらっしゃるんでしょう」
柴田は褪《あ》せた橙色に乾いた、縦皺の太い脣を幾らか顫《ふる》わせるようにして言ったが、ふと、はっとしたように口をつぐみ、
「さ、早くお召替えいたしましょう」
と、虫を抑えた、撫でるような声で言った。
今しがた柴田は台所口に、母屋から借りた薬缶《やかん》を返しに来た常吉を見て、その朝は妙に生々しく白く見えた常吉の顔色を見ている内に、冷やかしてやりたい気持がむくむくと起って来た。常吉の酷《ひど》く真面目な顔の表情も、柴田たちの嘲笑の的なのだ。御包や柴田をよく知っている林作は、そんな場面の起り得るのを見越していて、常吉を雇い入れた最初に、常吉に自炊を言い附け、廐舎に並んだ馬丁部屋に簡単な流しと瓦斯《ガス》台をつけ、瓦斯を引いて、洗濯も自分でするように、計らって遣《や》ったのである。その日は常吉が、薬缶が漏るのに朝になって気づいて、母屋に借りに来たのである。
柴田は言った。
「常さんはいつまで独りでいるの? 今幾つ?」
常吉は深い眼の色を沈めて、黙っている。
(モイラ様みたいな奴)
柴田はなおもかさにかかり、
「どこかにきれいなお嫁さんになる人でもいるんでしょう」
と言った時、常吉の眼が白眼も黒眼も一緒に大きくなって、柴田を射るように、光ったが、次の瞬間鼻から口元へかけて、実に冷たい、嘲りの影が広がった。
「いるとすれば柴田さんのような女《ひと》じゃないね」
低い声が、言った。
その時柴田ははっきり、常吉と自分の位置が入れ替ったのを、電流のように感じとった。思いもかけない敗北である。柴田は自分の魅力のない顔かたちをよく、知っていた。身分の低い混血児《あいのこ》は特に冷たい眼で見られる時だったが、常吉の顔立ちはよく、感情の清潔《きれい》な、美しい眼を持っているのだ。
自分の地位の下にいる、眼下の男にあしらわれた、という意識に、露西亜《ロシア》の混血児《あいのこ》に侮辱されたという意識が加わって、柴田の怒りは大きくなった。
爆発するものと知らずに、爆発物に手を触れてしまった悔いが、頭の後《うしろ》を襲った。柴田は薬缶を持ったまま台所を、上半身をのけ反《ぞ》るようにして、
「ちょっと、どうお?……」
と言いかけたが、つい今まで台所にいた御包の姿も、台所女中のやよの姿も、無かった。
振り向くと常吉はもう背中を見せて、歩き出していた。
柴田はその時から、遣り場のない憤懣に厚い胸を爛れさせて、いたのである。考えて見ればやよにも、御包には尚更、言えた話ではない。一体自分はあの時何を言おうとしたのだろう? みすみす混血児《あいのこ》の男に恥を掻かされたのだ。
柴田は今モイラを見ると、凝と黙って自分を見ているところが常吉の眼と同じであるのが、一層苛々した胸を揺《ゆさ》ぶるのだ。
柴田の鼻の先にモイラのお河童《かつぱ》の髪が、あった。
林作はモイラの髪を夏の間は一日置き、冬は五日目には必ず洗うことを柴田に命令していた。麩《ふ》のりとメリケン粉を煮て漉《こ》したもので洗い、更に溶いた卵で洗うのである。柴田は見たこともない、死んだ繁世が、その実家の母親から継承した昔式の洗い方だと、いうのである。シャンプウの類を使うことは厳禁している。林作のそういう命令は厳命の感じを持っており、モイラの身の廻りのすべてに亘っていて、入浴をする時の石鹸は橄欖《オリイヴ》入りの外国製のものに限られ、その石鹸を切らさぬようにしなくてはならず、それらの使い走りは稀には常吉も行くが、柴田の役である。その石鹸と、橄欖《オリイヴ》油に、エリザベス・アーデンの、香いのないクリイム、オオ・ドゥ・コロオニュ、それ以外の化粧品の類は一切使わせない。夏の間は朝と、午後との二回の入浴が定められていて、その間にも暑がったり、汗をかけばオオ・ドゥ・コロオニュを半量入れた水で体を拭かせる。暇な時には自分でも拭いて遣り、早く帰った日には入浴もさせた。この朝は林作が特に早く会社に出るので朝の入浴を柴田に命じて略したのである。
「上等な石鹸で始終体を洗っている、清潔な皮膚――林作は肌という言葉を嫌厭していた――の香いが一番いい。香水の香いなどはない方がいい」
というのは、林作の常に言う言葉である。
林作は又、
「モイラの皮膚は特別な皮膚だ。大切にしなくてはいけない。悪い香いをつけてはならない」
と言っていた。林作のそういう厳しい、執念のような遣り方は、林作を(ご立派な旦那様)として敬い、それでなくても主人の命令には従うものと心得ているやよは別にして、柴田にとっては、時には遣り切れない負担を感じさせ、役目を放棄したくさせるものだった。だが林作が彼女に与える高給がその度に彼女を盲従せざるを得ない心持にさせた。
その日の午後はモイラの髪洗いの日に当っていた。モイラの黒褐色のお河童が厚く、ふさふさと、柴田の眼の下に艶をおびている。
(まだ洗わなくったっていい艶だわ。旦那と来たら、一寸変だね)
柴田は心の中に、呟いた。
モイラは柴田の不機嫌に興味を持ったが、忽ちそれは忘れて、林作との朝食、御包との日課が済んでからの、常吉と一緒に馬を撫でたり、人参を遣《や》ったりする歓びへの期待で胸がわくわくしている。
取り替えたばかりの新しいパンティだけのモイラは、なんとなく嬉しくなって体をくねらせ、両腕で髪をかきまわすようにしてから、腕を頸の後で組み、そんなことをして柴田を焦《じ》らしていながら、
「早く着せてよ」
と、催促した。
* *
モイラは、自分の分の半熟卵を、匙の先でコツコツと叩いて上手に蓋を開けてくれている林作を向い側から凝《じつ》と、視ている。
暈《ぼんや》りとした光のくぐもった眼である。それなのにどこか貪婪《どんらん》なものが、潜んでいる。可哀らしい頬や素直な、あまり高くない、なだらかな鼻筋。黒褐色の髪が眉毛の上まで額を蔽っている、長めの厚いお河童に囲まれた稚い顔の中で、髪と同じ色の瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけたモイラの眼は、酷《ひど》く可哀らしいが、底に肉食獣を想わせるものが隠れている。自分に注がれる愛情への貪婪である。愛情を喰いたがっている、肉食獣である。モイラは自分に注がれている愛情の果実を、飽くまでむさぼり尽そうとする。まして林作の愛情は、黄金《きん》の果実の汁のように美味《うま》く、いい香《にお》いがするのだ。殆ど無意識の中でモイラは、母親の乳房に舌を巻きつけ、乳首を強く吸い、噛み傷をさえつけながら無限に出てくる温かな、甘いものを、吸いつくそうとして小さな脣《くち》と咽喉《のど》とを鳴らしている赤子のようにして、林作の愛情を雫《しずく》まで吸いつくそうと、している。その強い意力は、モイラの硝子によって鈍まることで、より強力なものになり、それが林作のすることを見ている可哀らしい眼の中に凝と潜んでいて、林作の心を限りなく、惹くのである。
モイラは自分ではわからずに、林作の側からだけ、愛情を要求している。モイラの要求は、モイラ自身にもよくはわからぬ、曖昧模糊としたもので、そのために一層強力で、あった。モイラは林作が好きでならない。だがそれは、自分を愛する林作を、好いているのだ。だがモイラ自身はそれを、知らずにいる。
外へ出るので背広をきちんと着けている林作の胸は、何故か平常《ふだん》の林作の胸より一層モイラを惹きつける。モイラを平気でおいて、何処かへ行こうとする胸だからだ。林作の胸の中に、モイラを愛する心が隙間なく詰まっているのを、モイラは感ずる。愛情の宝庫は無限であった。額をおしつけても、頬を擦りよせても、どうやって甘えても、甘え足りるということのない、無限の宝庫が、そこに、あった。
きれいに蓋を開けた半熟卵を、匙で皿に抄《すく》い出し、それに食塩をふってモイラの方へ押して遣り、林作は匙でそれを抄おうとしている、小さな〈愛の盗人〉を、視た。愛情に耐えない眼差しである。
(こういう愛の盗人には、相手の愛の涸渇は無いのだな)
林作はモイラの無意識な愛の強要を、感ずる。
「今度は燻製豚《ハム》だ」
そう言って林作は腕を延ばしてモイラの前にある燻製豚《ハム》の皿を引きよせ、ナイフで小さな片《きれ》に、切って遣るのである。林作はモイラと一緒に宴会に招かれて行って、スピーチを所望されると、「今子供に肉を截《き》って遣《や》っているので」と言って、断った。それは嫌いなスピーチを断る口実に言うのではなくて、モイラの世話をはじめると、他のことは二の次になる。たとえばアンネット・カウフマンとの会合《ランデ・ヴウ》に出かける時間が迫っている場合にも、何かモイラのためにして遣ることが出来ると、三十分でも、一時間でも時間を延ばしていて、アンネットには他の口実を見つけるのである。モイラの皿にはもうなくなった料理や菓子を、自分の皿から分ける時には、箸や匙で口へ運んで遣る習慣を自分からつけていた。
或日、繁世のいた頃に長くいて、繁世の死の直ぐ後《あと》で、嫁に行くので暇を取った茂世《もよ》という女が、モイラより一つ年下の子供を伴《つ》れて機嫌伺いに来た時、林作とモイラは丁度食事中だった。
モイラが大きな口を開けて、林作の箸から刺身を頬ばるのを見て、愕《おどろ》くと同時に茂世《もよ》の頭には甚しい軽侮が生じたらしい。名前が同じような字を書くという親しみもあって、特に繁世が目をかけていたので、繁世の死後も年に一度は顔を出すこの女は、モイラが走るのがのろいことも知っていた。
「うちの子供はもう何でも一人でいたしますし、それによく走りますです」
茂世《もよ》がモイラが赤ん坊臭い口つきで、刺身の切れを噛み、飲み下すようすを視ながらこう言った時、モイラは、硝子を一枚距てていてものを見るような、独特の眼で、茂世と子供の方を見ると、言った。
「それじゃあ、読本《とくほん》の馬のようね」
林作は思わず笑い、五つの年になっていて、ものを口へ入れて貰うのを見て、莫迦な子供としか、見得ぬ茂世の、不意打ちを喰《くら》ったような、縮れ毛の束髪《そくはつ》を上にのせた赭《あか》ら顔と、暈《ぼんや》りした顔をしていながら間髪を入れず遣り返したモイラの、もう知らん顔で俯《うつむ》き、匙で自分の肉汁《スウプ》茶碗から飯を口へ入れている様子とを、見比べたのである。茂世は、自分の兄の子供が読本を持っては毎日読み上げている読本の文句を、既にモイラが知っていることに、驚いたのである。
林作はモイラに何かを口へ入れてやる時、モイラが薔薇色の脣を開けて、赤子が何かにしゃぶりつくようにするのが、可哀くてならない。それでこの悪い習慣を止めなかった。林作はふと、われにもあらず、想うことがある。
(モイラはさぞ可哀らしい接吻をするだろう)
モイラはあまり食慾が無いようすで、半熟卵の黄身だけと、燻製豚《ハム》の片《きれ》を少し摂《と》っただけで、好きな馬鈴薯《じやがいも》入りの野菜サラダをいつまでもフォオクの先で突《つ》ついている。尖端《さき》の支《わか》れた静脈が一本うす青く出ている、透き徹ったような淡黄色の掌《て》で、氷を入れた水の洋杯《コツプ》を重そうに持ち上げては、水を飲んだ。
「パァパ。氷だけ。もっと」
そう言って林作の顔に凝と、決していけないとは言わせない、というような眼をあて、まだ水の入った洋杯《コツプ》をまるで無意識のように林作の方へ差し出した途端に洋杯《コツプ》が傾いて、水が滾《こぼ》れた。
林作はモイラの掌ごと洋杯《コツプ》を抑え片方の手で隠しから手巾《ハンカチ》を掴み出してそれを拭うと、洋杯《コツプ》を奪《と》って置き直した。
「モイラは熱があるんだな」
林作が卓子《テエブル》を廻って来てモイラの頭を抑えて額に手を当てた時、取り次ぎなしに入って来る習慣の鴨田《かもた》が、入って来た。
半分白くなり、分け目や生え際がまばらに薄くなりかけた頭髪の下の額には、太い皺がある。冬でも服を着けた首や胸の辺りに暑苦しそうな、籠《こも》ったようなものがあって、細君があるのに精力の刷《は》け口がない男のようなところのある男だ。
「お早うございます。大分蒸しますな。成城のご用は今日《こんにち》は?……」
「ああ、お早う、柴田君にまとめて預けてある。今日は僕は急ぐのでね」
「どうも、遅くなりまして……モイラ様はどうかなさいましたか?」
モイラは、四五日前に林作の居ない所で自分のことを「モイラちゃん」と呼んだ鴨田を、白くした眼で視た。
(もうパァパに言いつけたよ)
モイラはその呼び方にいやなものを、受けとった。下品な、という形容を知らないモイラだったが、丁度その下品なという言葉で現すものを、感じとったのだ。鴨田の眼が、自分の裸の胸に止まって、それからパンティの方に移った時の感覚と、それは全く、同じものである。
「いや、一寸額が熱いようだ」
林作はサイドボオドの抽出しから検温器を出して、モイラを抱き上げ、膝に載せると、モイラの肩を抑え、背中のホックを外して片方の袖を脱がせて検温器を挟ませ、その上から抑えながら、
「電車が混んだろう。役所の用が済んだら遠いが両国の鳥源へ寄って呉れ給え。十二日に十五人ほど夕飯《ゆうめし》を食いに行くから」
「かしこまりました」
「昼飯《ひるめし》は家《うち》でやって行き給え」
「はい、どうも」
モイラが割り込んだ。
「お料理屋?」
「うむ。モイラも今度伴れて行くぞ」
柴田が珈琲《コオヒイ》の盆の下に袱紗《ふくさ》包みを持ち添えて、現れた。
鴨田は元来珈琲というものを飲みつけないので好きではなく、薬を飲むような気がする方なのだが、珈琲を飲むことを洒落たことと心得ていて、どこへ行っても珈琲を飲むことにしている。だが、林作の家の珈琲は、死んだ繁世が、林作の為に、上野精養軒のコックに伝授をうけた遣り方を林作が覚えていて、繁世の死後は自分で遣り、その遣り方を、台所の者が見よう見真似で造ったもので、一応本式なものであって、酷《ひど》く濃いので、鴨田は内心閉口しているのである。
朝の昴奮が治まったらしい柴田は、地味な浴衣に繁世の遺品を林作が与えた薄茶の八端《はつたん》の帯を、きっちりと締めた姿で、鴨田に珈琲を勧めた後《あと》、袱紗包みを仔細らしく、渡した。
林作は検温器を振って、
「六度六分あるから夕方はまだ少し上るかも知れない。柴田君、湯は今日は止《や》めて、酒精《アルコオル》でよく拭いて遣《や》って呉れ給え」
「はい、かしこまりました」
その時門の方で、自動車《くるま》が引き出される砂利の音が聴え、黒毛の方らしい高い嘶《いなな》きが、それに混って、聴えた。
「じゃあ今日は外へ出ないで、家の中で遊んでおいで」
林作がそう言うとモイラは体を捻《ひね》って林作の首に手をかけ、俯いて斜めに顔を寄せる林作の頬に、自分の頬をよせたが、脣は固く閉じていて、いつもの花の香いを嗅ぐような、可哀らしい接吻は、しなかった。林作はモイラを下ろして遣《や》りながら、微かに熱い額に接吻を与え、卓子《テエブル》の上においた紙入れを内隠しに入れて、玄関へ出た。林作はモイラが接吻をしなかった理由が、鴨田がいるからだと知っていたが、酷《ひど》く物足りない想いで、自動車《くるま》に乗り込んだ。
御包、柴田、やよが玄関の右側に一列に並んでスリッパの爪先を揃え、鴨田が左側に立って頭を下げているのをモイラは、いつもの光景として眼に入れたが、ふと玄関先の砂利の処に、常吉より一歩|退《さ》がって立っている男を見て、眼を凝《こ》らした。
伸び放題にしているような黒く濃い髪が逆立っている。陽に灼《や》けて、若いのに皺の寄ったような顔は横を向いていても顎の張った四角い顔なのがわかるのだ。常吉の友達らしいが、常吉のように、強くて、それなのにやさしい、懐しい人格はないのが判るのだ。モイラは兇暴という言葉をまだ知らない。だがその形容が現すようなものを、この男に、感じとった。林作の自動車《くるま》が門を出るのを見送っていた鴨田が、眼を柴田の方へ戻し、その男を顎でしゃくった。
「あれかい? 馬丁《べつとう》小屋の」
「居候よ。旦那様は変なのばかりお置きになるんだから」
「置くって?」
「いいえそりゃ、何処か他所《よそ》へ行くらしいんですけどね」
御包は素知らぬ顔でモイラをさし招いた。
「お二階へ参りましょう」
モイラは早く馬を撫でたり、人参を遣《や》ったりしに行きたい。それに先刻《さつき》の不思議な男が気になっている。行って見てみたいのだ。常吉の部屋へ行っていけないのなら、鴨田と柴田の話を聴いていた方が面白いのだ。常吉の友だちのあの男は、やっぱり常吉と同じに何かの血が入っているのだろうか? 常吉をみなは混血児《あいのこ》と言っている。あの男も混血児《あいのこ》なのだろうか?
御包が日課を授ける部屋になっている、林作の書斎の隣の日本間に入って、大きな紫檀《したん》の卓子《テエブル》を挟んで御包と向い合ったモイラの眼は、窗《まど》に向っている。
俄《にわ》かに曇って来た半透明な瑠璃《るり》色の空を大きく切り抜いている榛木《はんのき》の、二つに分れた幹が雨気を含んで、水に濡れた青い蛇のような肌をしている。榛木は今モイラにはない自由を、呼吸している。大きな葉は瑠璃色の空の中に透き徹っている。榛木の太い幹の肌は生命を持っていて、大気を吸い、そうして又吐き出している。モイラは知らずに、榛木の謳《うた》っている生命の自由に、共感している。
モイラはまだオオ・ドゥ・コロオニュの香《にお》いの残っている脚を揃えて横へ投げ出し、故意《わざ》とのように行儀悪く卓《つくえ》に片肱で凭れかかっている。
御包は読本と帳面とを開いて、蓋を開けて重ねた筆入れと一緒にモイラの前に押しやり、自分の読本を開けてその上に手を置いて、モイラを見た。「モイラ様」御包の言葉より速く、気配を充分に知っていたらしいモイラが、上目遣いに御包を視ると、卓《つくえ》の方に向き直った。
自分がモイラに向って言う、ヒステリックな言葉も、底意のある注意もすべて林作の耳に筒抜けである。御包は専ら雰囲気でモイラを抑えつけるが、その雰囲気の方も極度に制限の必要がある。林作の気持がモイラの告げ口と関係なく、馬丁の常吉の方により厚いのを、御包は察知している。林作の、モイラに注ぐ溺愛に偏見を持っていない、そうして窃かにモイラの味方につき、常吉に共感を持っているやよの本心も、御包は知っていた。
(厭な仕事だわ。あたり構わずヒスを発散させている柴田さんなんか気楽なもんだ。こんな綺麗な肌をした子供に湯をつかわせて遣《や》ったり、着物を脱がせたり、着せたり、それは焼餅もやけるだろうけど一方ちょっといいに違いないからね。私《わたし》はあの旦那に五十円で飼い殺し。年でも若くて綺麗でもあればアンネットとかいう女の位置だって取り上げてやれないものでもないけれど。アンネットってのはもう二十九だそうじゃないか。旦那が囲《かこ》った時はそれは二十二だったかも知れないが)
「鉛筆をお出しになって」
一昨日からモイラは巡査の巡の字を繰り返して書かせられている。国語は覚えが速いが、|※[#「しんにゅう」、unicode8fb6]《しんにゆう》の上にはみ出さぬようにくを三つ収めるという作業は、モイラの頭脳のうまく働かない部分の仕事であった。
今日のモイラは平常《いつも》より特に気の散り方がひどくて、遣らせてみると、この字を教え始めた、中一日おいて前の成績である。モイラの頭の中はあの雲つくような大男の印象で一杯に、詰まっていた。その、横を向いていてももじゃもじゃとして、額からはみ出していた濃い眉毛の、四角な顔の男の立像はモイラを圧倒していた。モイラはあの大男が見たくてならない。モイラがこの大きな男に対して抱いた印象を、大人の言葉で表現すると、モイラはその男に自然な人間を見出したのである。常吉よりももっと自由な中に、生きているように見える。つまり人間と馬との距離の間で、人間よりも馬の方に近づいているような、一人の自然児を、モイラは感じ取ったのだ。
その男は倉太《そうた》と言って、常吉が神戸の造船所にいた頃、常吉の下で材木運びをしていた男である。母親は行方《ゆくえ》が知れず、父親は監獄にいるのだということを常吉は、聴いていた。そういう境遇を背負《しよ》っていて粗暴な倉太は、誰からも嫌われていた。常吉の庇護を離れてからは口を利《き》く者もなくなり、全くの孤独に陥った。倉太は常吉が、もう少し辛抱していて、自分が呼ぶまで待てと言って遣《や》ったのにも拘らず、今では愛想を尽かしている馬方時代の親方に、手切れのような形で貰った旅費で突然、牟礼《むれ》家の馬丁部屋に、現れたのだ。常吉は倉太と一緒に住んで遣りたいほどの心持を持っていたが、自分の牟礼家における位置が、林作の力で揺ぎのないものになってはいるものの、雇人たちとの間がうまく行っているとは言えない。苦労のない時間といえば、週に一度日曜日に、林作の遠乗りのお供をする、午後の何時間かと、林作が折にふれて言葉をかけて呉れたり、時には馬小屋に姿を見せて、少間《しばらく》話して行ったり、使いに行った時なぞに故意《わざ》と書斎まで持って来させて、話し込んで呉れたりするのと、モイラと遊ぶ僅かの時間だけである。常吉が林作から呼ばれて、牟礼家に来たのはたった二年前のことだ。常吉の父親のイワノフはロマノフという露西亜将校附きの馬丁であった。日露戦争当時、林作の父親の大作は軍医で満洲にいて、戦争の終った時捕虜になったロマノフを、知った。大作はロマノフと意気投じ合うものがあり、ロマノフに頼まれてラアジンという黒毛の、気性の烈しい馬と、ジャンという穏《おとな》しい犬とを日本に連れ帰った。ジャンは少年時代の林作の無二の親友であった。家が戦火で死に絶え、ロマノフも捕虜のまま死んで、一人になったイワノフは、大作を慕って日本に来た。そうしてラアジンの死んだ後《あと》、大作は新しく馬を飼うことはしなかったので、大作の友だちの世話で神戸に住みついて結婚した。そういう林作の先代と、常吉の父親との繋りで、常吉は牟礼家では一種特別な位置を持っている身の上だとはいっても、弁《わきま》えのある常吉は、直ぐに他家《よそ》へおさめるにしても、自分の附属物のような人間を、たとえ一日でも二日でも、連れ込むようなことはしてはならないと、思っていた。常吉は自分の父親のイワノフが一人の馬丁に過ぎなかったが、立派な男だったということを林作からも言われ、自分もそのことに誇りを持ってもいた。大作と林作との恩義を重く、胸においている常吉は、ロマノフが大作に託したのはラアジンとジャンであって、父親ではない。後《あと》の悲惨な境遇を知れば、馬丁も託したかも知れないが、それは仮定である。そういう遠慮も固く、持っていた。それでじゃじゃ馬のように聞きわけのない倉太の出現に、酷《ひど》く気を遣《つか》っているのだ。
モイラは巡の字の練習に飽き飽きしていた。
(常《つね》の部屋に行ってみたい。こんな勉強より柴田とだってお湯に入る方がずっといい。やよとだと、尚いいんだ。遊ばせてくれる。石鹸《シヤボン》玉も慥《こしら》えてくれる。柴田も御包も、病気になればいい。そうして死んでしまえばいい)
モイラは鉛筆を持ち直すと、鉛筆が折れるほど力を入れて、帳面の欄外に縦の線を何本も引き、鳶色の瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけ、白い眼で御包を視た。(ばか)とでも言っているような、その眼の中にはだがさすがに幾らかの怖れもある。御包の凝視に会ってモイラは二つ三つ、瞬《まばた》きをした。その怖れの色は御包に一応の満足を与えると同時に、或種の嗜虐的な快感を齎《もたら》すのが、いつものことだ。
「そういうことをなさってよろしいんですか? パパ様だっていつまでもいいとは仰言《おつしや》っていませんよ。これはほんとうのことですよ」
(嘘つき)
モイラは脣を固く結んで、無言の抵抗をみせる。
どういう積りか、この頃洋服になった御包は、ブリキのように尖った白い開襟《かいきん》襯衣《シヤツ》の襟に威厳をみせ、黒い山のような、黒地|羅紗《ウウル》のスカアトの膝を揃えて、モイラを見下ろした。でっぷりとした浅黒い、道徳のいやな芳香を充分に放つ女の顔は、仔細らしく結んだ脣の周囲に醜い皺を刻んでいるが、眼の底には蔽いようのない倒錯した色情の片鱗のようなものが、見えている。
「お判りになったんですね。今日は国語はそれで勘弁《かんべん》して上げましょう」
幾らか溜飲を下げた顔で、御包は言い、次に二|桁《けた》の引き算を三つ程やらせた上で、モイラをも、自分をも、日課の倦怠から、解放した。
* *
「常《つね》」
モイラは平常《ふだん》より小さな声で、呼びながら、常吉の部屋の扉を敲《たた》いた。
「モイラ様ですか。今常が開けますから手を離しておいでなさい」
常吉の言うのが聴えて、一寸間を置いて扉が中から開いた。
部屋にはウェストミンスタアの煙が充満している。入って右側の、裏の通りに面した窓は板と板との間に太い隙間のある縦板《たていた》が嵌《は》まっているが、中はむっとする程暑い。常吉は林作が、鴨田にも与えない紙巻を自分に与えるのを知っていて、気を遣《つか》って吸っているが、倉太がたてつづけにふかすので、紙巻を取り上げ、扉を締めたのだ。
突き当りの壁に寄りかかって蹲《うずくま》り、無骨《ぶこつ》な掌《て》で膝を抱えているのは朝の男だ。眼を当てた途端にモイラは、立ち竦んだ。大きな四角い顔の中の道具が、ひしゃげているわけではないのにひしゃげてみえる鼻へ向って眉も眼もそこへ引張られて、平家蟹の甲羅の凸凹に似た顔は、眉が鍾馗《しようき》のように濃い。その濃い、顰《しか》めた眉の下で、モイラがみたことのない、野獣のような眼がモイラを射たからだ。
「おい、座れ。モイラ様だ。話しただろう?」
男は片膝はもとのまま、鬱陶《うつとう》しく座り直し、立てた膝の上に肱を突いた手の指を悪魔の爪のように折り曲げて脣の辺りにあて、指を噛むような表情で、依然として、モイラから眼を離さない。
「モイラ様。こちらへお出でなさい」
そう言うと常吉はモイラを、椅子にかけた自分の膝の脇に抱えよせて立たせ、耳に顔を寄せて、囁いた。
「これはわたしの友だちでね。今困ったことがあって、あんな顔をしているのです。馬のところへ行きますか? 常と」
常吉はモイラのここへ来た目的を判っていたが、愕いたのを知って、そう言ったのだ。
モイラは凝と倉太から眼を離さず、常吉の洋袴《ズボン》に指に力を籠めて掴まり、微に頷いたようだ。
常吉は扉口で倉太を一寸振り向き、モイラを庇《かば》うようにして、部屋を出た。
外へ出るとモイラは黙って常吉を軽く押しのけるようにした。
常吉はそれを掴まえるようにして顔を寄せ、
「又遊びましょう。もう昼御飯ですからね。又|五月蠅《うるさ》く呼びに来るからお帰りなさい」
モイラはまだ怖れの充分に残った眼で常吉の顔を仰ぎ、深く頷くと、走り出した。
常吉はのろい足どりで走り去るモイラを少間《しばらく》の間見送り、部屋に入った。
昼飯後、モイラは二階の窗から倉太が門を出て行くのを見た。モイラは柴田に打《ぶ》つからぬように足音をぬすんで、玄関から外へ出た。玄関を出ると、門の脇に常吉が立っていて、近寄って来た。モイラを待っていたらしい。
「常。飼料《かいば》もう遣《や》ったの?」
「モイラ様がお遣りになるのに人参が残してありますよ」
二人は手を繋いで裏へ廻って行った。モイラは平常《いつも》のように、常吉に抱き上げて貰い、赤毛の、毛並みが湿っているように艶をおびて見えるが、撫でると乾いていて、硬い毛並みの、生温い鼻面《はなづら》を、撫でて遣り、赤毛の顔を抱いて、頬を一寸擦りつけ、常吉の手に持ち添えられて西洋人参を、与えた。
モイラは赤毛の方だけをかまうことになっている。黒毛の方は林作の乗り馬だが、気性が烈しく、怒り易いので、黒毛の方は触《さわ》ってはいけないと、モイラは林作からも、常吉からも、いい聞かされていた。
「あの人、もう直ぐ帰ってくるね」
常吉はモイラを下ろし、馬丁部屋の入り口に、腰を下ろした。
「あいつはわたしのように他所《よそ》のお邸へ馬の面倒を見にお勤めするようになりたいと思って、やって来たのですが、わたしのように、お部屋を戴いて。判りますね。あいつはいい奴なんです。だがあんなでね。お辞儀をすることもしない奴だから気に入られなくて又遠い国へ帰って行くことになると思うのです」
「じゃあもう直ぐ又いなくなるね」
「そうです。どっちにしても此処にいるのはあと二日か三日ですからね。帰って行ったら又いつでもお出でなさい。赤毛も、常も、モイラ様を好きで、お待ちしていますからね」
「やよも、だよ」
「そうですね」
常吉が、微笑《わら》った。林作の微笑いとは質《たち》がちがうが神経の細かな、やさしい微笑いである。
モイラも一寸微笑いを浮べたが、ふと怯えたように眼を大きくして、常吉を見ると、
「もういく」
と言い、
「一緒に来て」
と、常吉の掌を掴まえた。
常吉は頑丈な体を屈めるようにしてモイラの掌をひき、外へ出ると、モイラを凝と見て、秘密を打ち明かすようにして、言った。
「あいつがモイラ様を恐しい顔をして見たことを、パパ様に言わないで下さい」
「いわないよ」
そう言うとモイラは眼を大きく見開いて常吉を見、骨張った常吉の掌を稚い手で一寸、締めるようにした。
涙が溜ってそうなった、とでもいうように、下瞼《したまぶた》が一寸膨らんだモイラの大きな眼は、無意識の媚のようなものを湛えて常吉の胸の中に、いつもの深い愛憐の情を、喚び起した。
(大きくなられたら、どんなに素晴しい美人におなりになることだろう)
常吉は、モイラが大きな眼で自分を見詰めることがある度に、その後《あと》で想うのだ。
* *
柴田はその日の昼飯後の検温で、林作が気にかけていたモイラの熱が、朝と全く同じなのを知ったが、酒精《アルコオル》で拭く面倒を嫌って、朝より一分上がったことにしておいて、自分の部屋に籠り、昼寝をむさぼっていた。だが柴田のこの横着は偶然、モイラの危機を一層恐しいものにすることを防ぐのに役立った。この日の朝の体温はやはり、モイラの大病の危険信号で、あったのだ。御包も楽寝をきめこんでいたその午後、モイラは台所にいた。花壇にいたモイラは、倉太が出て来たのを見て逃げこんだのだ。やよに迎えられて台所に上がると、倉太の恐しさが頭から除《の》いて、一寸の間聴えなかった、雨のような蝉の声が又|喧《やかま》しく鳴りはじめた。やよは固く肥えた大きな肩を怒らせて、上り口につくばい、汗を浮べた後首を俯向けてモイラの靴を直すと、紙袋に入った甘食《あましよく》を一個、食卓の抽出しから素早く出して、モイラに呉れて、微笑った。
剃りつけたように三角型になった、薄い眉と、小さな眼鼻、大きな厚い脣、全体に角張って長い顔は殊に顎が角くて長く、色も黒い。詰らない顔だが一応眼鼻立ちは整っている柴田と御包とが、
「おやよさんもどこかの混血児《あいのこ》じゃないの?」
と言っていたのを、モイラは聴いていた。やよがその顔を羞ずかしそうにして微笑うと、モイラは彼女の、粉やソオスで汚れた、白く大きなエプロンに顔を押しつける。頬や、露き出しの腕に触れるやよの腕は冷たく、滑《す》べ滑《す》べしていて、健康な田舎女の香いはどこか冷たい生の牛肉の香いに、似ていた。そうしてやよの香いの中にはいつもソオスの匂いや、食用酢の匂いが、混っているのだ。だがこの日モイラは、やよの腕や掌を、平常《いつも》より酷《ひど》く冷たいように感じた。少間《しばらく》の間モイラはやよを相手に、赤毛と常吉とがモイラを好いていることや、常吉から聴いた倉太の話などをして聴かせていたが、その内にやよはふと不安なものを、感じはじめた。平常《いつも》のモイラなら、直ぐに自分のエプロンから離れて、手に持ったものを食べ始めるのだ。そうして食べながら話をするのだが、今日は膝に凭れかかったままで話している。それにモイラの話し方は上《うわ》の空で、何かに浮かされたようなところがある。体も幾らか熱いようだ。モイラは、ふと、黙った。胸の中で匂いのない、味もない、空気の塊りを呑みこんだような、厭な気分がしたのだ。少間《しばらく》してモイラが短い、狐の鳴くような咳をした時、やよはてっきりモイラがどこか悪いのだと、信じた。
(モイラ様が大変だ)
寝ている柴田を起しに行けば不快《いや》な顔をされる不快も忘れ、もう喋らなくなって、ぐったりと寄りかかってしまったモイラを抱き上げ、甘食をもとの場所に急いで蔵うと、やよは柴田の部屋を、ノックした。
* *
その日の夜の二時に、モイラの熱は三十九度七分に昇った。病名は百日咳である。最初の、狐の鳴くような短い咳も、連続して起る咳も、その特徴であった。咳を続けてするようになり、咳と咳との間が縮まって行った。
林作はアンネットに会う日で、自宅に近いアンネットの家に行ったが、その日は着くと直ぐ横浜にドライヴをして、二人で海浜ホテルに夕食に行っていて、柴田の連絡を知ったのは十時、柴田に電話で様子を聞いて、運転手の照山に危険のない程度の速度を出させて家についたのは十時を大分過ぎていた。自動車《くるま》の中で林作は、横浜から連絡をしなかったことを烈しく、悔いた。柴田はアンネットの家に電話をかけた直ぐ後、稲本軍医を呼び、看護婦も二人頼んで一人が附いており、一人は病室になったモイラの寝室の隣に休ませてあった。柴田は最初の発見を、自分が台所へ行って、やよに凭れているモイラの様子を見て検温した、というようにして報告した。昼食後、六度七分あったことにして入浴を中止したことに、柴田は大きな危難を免れたような安堵を、覚えた。
林作は、御包と二人だけで玄関へ出迎え、林作の上履《うわば》きを揃えたやよが、平常《ふだん》林作に向って直接に話す習慣がなかったのにも拘らず、正直な愕きと、不安を面《おもて》に表して、モイラの最初の様子を話したのを聴いた時、柴田の嘘を知り、同時に林作が、台所働きの女がモイラを抱いたり、膝に凭れさせたりすることを、口には出さぬが嫌っているのではないか、という臆測をして柴田が故意に言った言葉であることも、知った。それは柴田というものをよく知って使っている林作にとって、愕くことではなかったが、その時林作は、平常《ふだん》から、幾らかは解っていたやよの、モイラへの熱い愛情を知って、自分と常吉と同じくモイラを愛する人間の一人としてのやよというものを、認めたのである。
やよは、林作に玄関で話したことが、御包の口から後で柴田に知れ、柴田から小酷《こつぴど》く遣られた。やよは一人台所で、その黒い、長い顔を涙で汚《よご》して泣き噎《むせ》んだのだ。
寝台《ベツド》の上に横向きに、半分|俯伏《うつぶ》せになって、上になった腕を不自然な形に折り曲げているモイラを見た林作は、胸を衝《つ》かれた。黒い、滲んだ影を造っている睫毛を閉じ、脣《くち》を少し開けている顔にも、曲げた腕にも汗が滲んでいる。看護婦が額を拭こうとするとモイラはその手を押しのけ、暑そうに、タオルの掛布を踏み脱いだ。二三日前に、蚊に喰われて掻き壊した痕を巻いて遣《や》った繃帯が、曲げている脚に喰いこんだようになっているのが、哀れである。
林作が看護婦からタオルをとって額を拭こうとした時、モイラが眼を開《あ》いた。
「お咳は唯今一寸治まっております」
看護婦の言葉に反抗するようにモイラが、
「暑い」
と言って掛布を脚で寝台《ベツド》の裾の方へ押し遣ろうとした。咳の発作が起きて、モイラはトマトの混った、薄赤い汁を吐いた。
林作がタオルで受けて始末をし、別のタオルで額を拭いて遣ると、その手をおし退《の》けるようにし、
「厭」
と、モイラは哀しげに、差し逼《せま》った声で言った。
露《あら》わになった淡黄色の、少しおでこの額の下で、充血し、恍惚《うつとり》した眼が睨《ね》め上げるように、した。
林作が吊らせた白麻の蚊帳の、莫とした靄のような暗さや、窓も扉も締め切った部屋の鬱陶しさ。火のような自分の体の熱さと、たて続けに出る咳の苦しさ、それらのすべてを哀しく、心細く想い、それに必死に抵抗しようとしている、そうしてそれを林作に訴えている、眼である。
「よし、よし、もう直ぐに快《よ》くなる。モイラは上等だ」
水屋に氷嚢の氷を代えに立った野沢看護婦が、ふと聴きとがめるようにチラと、振り返った。
モイラが湿ったガアゼや亜麻仁《あまに》油紙で厚くなった胸の辺りを捩《よ》じるようにするのを見て、林作が野沢看護婦に、言った。
「胸の湿布を代えて遣《や》ってくれ給え」
野沢看護婦は素直に「はい」と応えて、水屋の傍に置いた瓦斯ストオヴの湯を洗面器に注いで、用意を始めたが、「はい」と応える言葉のアクセントの中に(判っています。今取り代えようとしたところです)という反抗が隠されていて、万事|玄人《くろうと》意識を表面に出してくる浅薄なところがある。牟礼家の雇人たちがモイラを、「モイラ様」と呼ぶのを聴いては、変った名と、特殊な呼び方を聴きとがめ、又林作がモイラを甘やかす時の特殊な言葉遣いにも聴き耳をたてる。四時間目の交代時間が来て、千賀谷《ちかや》看護婦が代ると、モイラが明らかに、歓んで迎えるのが判った。
翌朝林作は、柴田に電話をかけさせ、看護婦会に、野沢看護婦の交代を、申込ませた。代って来たのは愛嬌のない、だが誠実らしい女で、千賀谷看護婦同様注意深く、親切なところが見える。林作はひとまず安堵した。
その夜の八時に、モイラの熱は四十度になり、咳の発作は頻繁になった。その儘、三十九度六、七分と四十度の間を昇り降りするのが十日余りも、続いた。
或日の夜モイラは、熱のために幻視を起したらしく、突然天井を見上げて怯え、
「蜘蛛……蜘蛛……」
と、叫んだ。
そうしてまるで無数の蜘蛛が天井から落ちてでも来るように、掛布の上を払うような手つきをする。
それはひどく奇妙な、恐しい幻視である。天井から、薄い灰色の、無数の蜘蛛が、その細い脚を繋いで囲むようにして、大きな球形を造り、フワリ、フワリと、落ちてくるのだ。球は大きなのも、小さなのもある。大きなのは気味の悪い、折り曲げた蜘蛛の脚が一本、一本|明瞭《はつきり》と見える。それらの蜘蛛は掛布に触れると石鹸《シヤボン》玉のように消えるのだが、あとからあとから天井から湧くように、際限なく、落ちて来た。
「蜘蛛……蜘蛛……」
モイラは叫んだ。
「よし、よし、大丈夫だ、大丈夫だ、パァパが此処にいる」
林作が掛布の上を払う真似をして遣る。
それは五分ほど続いた。
「どうだろう、君」
別室で林作が尋ねた時、稲本軍医は、心臓が確《しつか》りしているから心配はないでしょう。と、答えた。そうして、
「経過を見ないと判りませんが……」
と附け加えた。
咳の発作は注射を搏《う》っても五分と止んでいないので、食べたものの殆どは出てしまう。十日余りの間に、モイラはみるみる痩せた。湿布を代えるので裸にすると、肉附きがよくて、天使を描いた絵のようだったモイラが、これがモイラかと思うように痩せて、湿布を除《ど》けると胸は芥子《からし》の刺戟で紅黒くなっている。食物を補う注射と、二種類の注射を搏つので、上膊は両腕とも固くなって、絆創膏の痕で隙間がないようになった。顔だけは反対に腫れて大きくなり、眼は両側から引張ったように細くなった。
咳の発作が起きると、赤子の時のようにモイラは両脚を縮め、腕を固く胸に抱いて、咳をうけ止めようとしている。咳と咳との間で、呼吸《いき》を内へひきこむが、ひき切らぬ内に次の咳が出る。呼吸《いき》をひきこむ度に、細くなった咽喉の中で、壊れた笛のような音がする。
モイラの苦しむのを見ていて、何もして遣れない。
林作は寝台《ベツド》の脇の椅子に、じっと腕を組んでいた。
二三日前に、稲本軍医に立会った九鬼博士の診断も、稲本軍医のそれと異なるところは、なかった。
発病の日から半月の日が経った。大分前から、意識が幾分朦朧としているのと、声が嗄れているのとで、何か言っても林作と、千賀谷看護婦の他には何を言うのか判らないようになっていたのが、とうとう声が全く出なくなって、咳の発作の間に何か訴えようとするらしいのだが声が出ずに、ただ頬の辺りの筋肉を、指で引張られたように、かすかに歪めるのである。
それを、どうして遣ることも出来ない。
或夜、腕を組んで動かずにいる林作の膝の上に、涙が一滴落ちるのを、氷嚢を代えて退《すさ》ろうとした千賀谷看護婦が、見た。驚いた千賀谷看護婦の眼に、続いて涙は一滴、二滴、滴《したた》った。感動した千賀谷がそれを、食事の為に階下《した》に下りた時に披露したが、彼女と同じように感動したのはやよと、やよを通じて、それを聴いた常吉とである。
御包と柴田とは、表面では感動を装っていたが、腹の中では不機嫌の眉をひそめた。モイラのように、現在は父親の溺愛を独り占めにしていて、未来は未来で、男の愛情というものを、あり余る食物のように貪《むさぼ》り喰い、男の愛情というもので、自分の心と体との周囲を固めることが可能なように思われる、そんな女の子の生活に平常《ふだん》密着して、日夜それを見ていて、そういう女の子というものと自分の境遇とを比べて見ると、世の中というものが不条理なものに、思われる。その考えはモイラの不幸を眼の前にしても、変らなかった。モイラのような女の子と比べて、生命《いのち》だけは自分たちの方が永いということでもなくては、世の中が不合理だと、彼女たちは心の奥底で、信じている。
林作が、独逸《ドイツ》人の女のところへ、連絡はしているのかもわからぬが、金曜日が来ても顔を見せる程度のこともしている様子がないのを、彼女らは知っていて、そこに林作のモイラへの溺愛の深さを見てとると、彼女たちは見知らぬ独逸女の肩を持ち、けしかけて遣りたいような、異常な心理になって、いた。
それに加えて柴田と御包とは、モイラの発病後は、各々自分の持場の用事がなくなり、台所女中のやよの方がむしろ、千賀谷看護婦の気に入っており、林作の信頼をも得て来ていて、何かと働き、功名をあらわしている。そうして牟礼家の中で重要な位置を持ったかの如き観を呈していて、一種点を稼いでいる形になっていることにも大きな不満を、潜めて、いた。
林作は普段着に着替えるのと、朝会社に出るために背広を着るのと、会社にいる時間と、重要な手紙を書く以外はモイラの傍に附ききりで、吐く時にはタオルを顎の下に具合よく挟んで遣る。吸い飲みの番茶を飲ませる。そうして咳の発作が起ると、胸が裂けるようなのを、耐《こら》えた。睡っている間でも、林作が傍にいないと、モイラが直ぐに知って探すので、部屋の隅に枕と掛けるものを置いて、時折二三時間横になるようにしていた。
着替えなどをしに、林作が階段を下りて行くと、廊下の角《かど》や、階段の下にやよが立っていて、林作を見ると何か悪いことでもしていたようにして、こそこそと台所へ退《さが》ろうとする。
「疲れるから休んでおいで」
林作はそう声をかける。
やよは無言で、感謝に満ちたようすで、頭を下げて林作の通り過ぎるのを、見送った。
常吉はやよが氷を買いに出たり、果汁にする果実《くだもの》を買いに出たりするとよく、部屋から飛び出して来て、モイラの様子を尋ねた。毎朝と午後、林作の送り迎えの時に、様子をきいてはいたが、午後から後《あと》の様子が不安なのだ。やよに湯を沸かす用でもあると常吉はやよに代って買物に、走った。常吉は、モイラが何か恐しいものを見て、払いのけるような様子をした、という話をやよがした時、酷《ひど》く心を痛めた。「蜘蛛」と叫んだ、ということを後からきいても、常吉の不安は去らなかった。もう何日も見ない、そうして酷《ひど》く痩せたというモイラを、倉太の幻影が苦しめたのではないか、と常吉は、思うのだ。
倉太はもう、居なかった。就職は無理なので、林作が帰りの旅費の他に、親方の出したという額より余分に金を与えて、神戸に返したのだ。
或日常吉は、庭のちょうちく草を三輪持って、遠慮勝ちに病室の扉を開けた。やよから、モイラの気分がいくらか好《よ》さそうだと、きいた日である。常吉は花を持って、寝台《ベツド》にいざり寄った。
「モイラ様。お好きな花を持って来ました」
モイラは細くなった眼をおし開けるようにして、常吉を見、花を見た。
常吉は水屋で、持って来ていた花壜に花を挿し、枕元の、モイラから見える卓子《テエブル》の上に置き、もう一度モイラを見、名残り惜しそうにして、退《さが》って行った。
繁世《しげよ》の死後は自然に遠くなっていた繁世の父親の郷田重臣《ごうだしげおみ》の心痛も、ひどかった。彼は家《いえ》の近くの琴平神社に願をかけて、好きな茶と煙草を断ち、三日置き、五日置きにはモイラを見に来ていた。モイラを林作に負けぬほど愛している重臣は、来ると林作の脇に座り、長い間様子を見ていて、暗い顔で、帰って行った。重臣は林作を好いてはいたが、林作がモイラを自分で教育しないで、御包や柴田のような女をつけておくことには不満で、モイラを見にくる時でも、御包と柴田には軽く会釈をするだけである。やよと常吉には言葉をかけて、ねぎらった。盆暮に牟礼家を訪ねる時にも、彼らに内々で渡すようにと、言って、小遣いを林作に託していたのである。
発病した日から二十日の日が経ったが、モイラの熱は下がらなかった。そうして二十二日目の午後、九鬼博士は、後二十四時間、という宣告をしたのである。(九鬼が死ぬと言った病人は必ず死ぬ)というので有名な九鬼|胤道《たねみち》の診断である。
だが林作は万に一つの望みを捨てることが出来なかった。モイラがまだ何か食おうという気のあることと、精神が、幻視を起した時以外は確《しつか》りしている、こととが、林作を支えていた。
或日モイラは、林作の手から蜜柑の袋を受けとったが、両手で袋にある筋を、極く細かいのまで丹念にとり除いた。その手もとが驚くほど確かだったのが、林作をひどく心強くさせたのだ。
又、或日こんなことがあった。尿に蛋白が出て、腎臓病を併発したことが判り、十五六日目から酸味と、妙な甘みのある、ひどく飲み難《にく》い水薬が与えられていたが、モイラがその水薬を飲むと戻すし、あまり飲み難そうにするので、千賀谷看護婦がそれを止《や》めておこうかと、眼顔で林作に計ったことがあった。その時モイラが、
「飲まないと直らない」
と、明瞭《はつき》り言った。
林作は、千賀谷看護婦と眼を見合った。そうして、こんな様子なら、ひょっとしたら、という、無言の会話が、林作と千賀谷看護婦との間に交されたのだ。
それはどちらも、〈九鬼の宣告〉を受けた直前の出来事で、一日か二日前のことである。
林作は殆ど睡らず、彼は小さなストオヴの上にかけた薬缶の湯気と、昼夜締め切った部屋の中の、澱んだような空気の中で、朝も、夜もない、境い目というもののない日夜の中に、いた。後《あと》二十四時間ということが絶えず林作の頭にある。時間を忘れていようとしている林作の耳に、秒を刻む時計の音が、モイラの生命《いのち》を刻む音のように響いていた。
林作は、アンネットの書棚にあった、『タンタジイルの死』という独逸の戯曲を読んだことを、悔いていた。それは「死」の恐怖を描いた二幕物で、母親が子供を抱き締めていて、嫩《わか》い叔母や姉、老僕などが子供を取囲んで護っているのにも拘らず、一寸の隙に子供は死の手に奪われる。二幕目は死を現した扉《とびら》の舞台装置で、母親が指の爪が剥がれて血を流すまで、その扉を連打するのである。それを読んだ時林作は直ぐにモイラを想い浮べて、厭な気がした。その後アンネットが築地小劇場でその芝居を演《や》っているといって誘ったが、行かなかった。そうしてアンネットの無神経に内心ひどく腹を立てていたのだ。林作は重臣と自分と、常吉、やよ、などの固い護りの手の中から、モイラが抜け出して行く恐怖を、感じていた。
だが一夜が明け、翌る日の午後になって、予言の二十四時間を五分過ぎ、十分過ぎて、とうとう五時間経った時、林作は、モイラの上に奇蹟が起きるのを期待した。
モイラの様子には、林作が期待するような変化はなかった。だが、又一晩経って、予言の時間を二昼夜過ぎた頃から、林作の気のせいか、容態は同じだが、咳の発作と発作との間が、時間を見ていたのではないが、いくらか遠くなったように、思われた。
食気《しよくけ》はひどい日にでもあって、咳の発作がない時にはモイラは何かたべると、言い出したが、牛乳と重湯《おもゆ》を厭がって、柔い粥を林作は医者に隠して、与えていた。
二十四時間を二昼夜過ぎた日の夜、柴田が火鉢にかけてあった粥が煮立ったので、蓋を切った時、モイラは林作を見て、何か言った。
「にゅうと、ねい」
と言うように聴えたが、林作と千賀谷とには、判った。牛《ぎゆう》と葱《ねぎ》と、言ったのだ。
千賀谷看護婦が、そんなことはとてもして遣れまい、という困惑した顔を見せて、林作を見た。牛肉と葱とはモイラの最も好む副食物である。林作には、モイラの好きなものを口に入れて遣れる、これが最後になるかも知れないという、気があった。起《た》とうとした時の、千賀谷の厳しく咎《とが》める眼を無視して、林作は階下《した》に下りて、電話室に入った。
林作は燕楽軒を呼び出し、難しい病人が欲しがるのだからといって、ロオスを挽き肉にして焼き、柔かく煮込んだものに葱を煮て添えた一皿を、注文した。
料理が来ると、林作の命令で千賀谷が粥を茶碗によそい、挽肉のステエキに葱を添えてたべさせたが、モイラは愕くべき食慾を示して、牛肉、葱、と代る代るに注文して、粥を二碗、平らげた。林作はその様子をみて、自信を持ったが、その林作の思った通りに、それだけのものが治まり、まるでその食ったものが利いたかのように、モイラの病気はその夜を境に、好転した。
モイラの体の中で、どこがどういう微妙な転換をしたのか、奇蹟が起きたように、皆が思った。
モイラは懶《だる》そうにみえたが、気分はいいらしく、林作にともなく、千賀谷にともなく、しきりに何か言い始めた。よくきいてみると、「お祖父《じい》さんは今日は来なかった」とか、「常吉がくれた花はどうしたのか、もう一度常吉に、持って、ここへ来させてくれ」というようなことを、言うのだ。
モイラが牛肉と葱を食った日の翌日、林作からの電話でモイラの様子を知った重臣が、幾らか眉を開いた顔で、遣《や》って来た。そうしてモイラを見ると、林作をかえりみて、
「腫れが大分いいようだな」
と、言った。まだ難しく顰めている顔の上に安堵の色が濃く、出ていた。少間《しばらく》座っていた後で重臣はモイラの髪を撫で、
「この次に来る時には何か、美味《うま》いものを持って来て上げよう」
そう言って、帰って行った。
咳の発作はまだあったが、そうして疲労はまだ深かったが、モイラの体が恢復に向って来たことが傍にいるものにも判り、病室は明るくなり、活気をおびて来た。九鬼博士も、モイラの危険を脱したことを認め、その日の夜は林作は稲本軍医と書斎で、貯蔵してあった葡萄酒を抜いて、乾盃した。気がついて常吉も呼び、洋杯《コツプ》とチイズを運んで来たやよにも、無理に洋杯《コツプ》を持たせ、自分で注いで遣《や》った。
発病から丁度一ヶ月たった或朝、何十日振りで林作は病室の窗を、開けさせた。窗から明るい朝の陽が差しこみ、モイラは疲労の中に横たわっているように見えたが、腫れがひいて、元の可哀らしさに戻った、大きな眼を開《あ》いて林作を見た。
大きな白い夜具の中に、落ち込んだ、というように、手足を投げ出しているモイラは、何処か遠い処へ行っていて、又戻って来た子供のような、夢を見ていたというような、様子である。懶《だる》そうに眼を動かして辺りを見、又、林作を見るのを、林作は自分の眼の中に掬《すく》い入れるようにして、見守った。
モイラの、わずかに紅みをとり戻した脣は林作に、
(苦しかった)
と、言いたいように思っているのだが、その朝は懶くて、言うのが酷《ひど》く億劫なのだ。それが林作にはよく判っていて、林作は、自分自身も疲れた気分の中で、ただ短く、
「モイラ。よかったなあ」
と、言った。
一月余りの重く暗い日々は、ようやく去り、林作とモイラとの明るい日々が、還《かえ》って来た。
* *
百日咳から恢復したモイラは、凝と何かを見る特徴のある、大きな眼が潤んだ光を増し、その年の十二月に八歳の誕生日を迎えた頃には、一度に二つ年を取ったように、どこか急激に成長したようなものを、見る人に感じさせた。
林作は、モイラが小さな腕を、自分の首に捲いて、凝と頬をつけているようなことが、あるようになった頃から、モイラの繊《ほそ》い、綺麗な指を見て、モイラにピアノを習わせたいと、考えていた。それでモイラが五つになった時から友だちに話して、頼んであったが、適当な教師は仲々なかったので、七つでも六つでも、早いほどいいと知っていて、時期を逃がしていた。
モイラが八歳になった時、いい教師が見つかった。本国のフランスでも格の高い教師だが、日本ではそれ以上は望めない、立派な教師である。林作の会社の西園寺という男が聞いて来た話である。西園寺に、最近五十を超えて、ピアノを習い始めたという友だちがあって、その友だちに会った時、自分には立派過ぎるが、そういう家にはいいだろうといって、経歴から住所まで委しく聞いてくれたと言うのである。上野の音楽学校の教授を止めて、雅楽の研究を始めているフランス人である。コルトオの先輩に当る、筋のいいピアノの弾き手である。アレキサンドゥル・デュボワ、と言って、五十二歳になる。現在二三人教えているが、もう一軒位ならむしろ向うも望んでいるらしい。牟礼の家の様子も大体聞いて、引受けてもいいと、言っている、というのである。
林作はひどく歓んで、花園町の教授の家に行って話をし、モイラは新学期から週に一度、水曜日に、花園町に通うことになった。
* *
アレキサンドゥル・デュボワはいつものように、廻転椅子を調節して、モイラを軽く抱き上げてかけさせると、
「アロン、コンマンセェ(さあ、お始め)」
と、言った。
黒褐色の厚いお河童に囲まれた、下瞼の膨らんだ大きな眼が、どんな人かを知ろうとするように凝と自分に向けられるのを見た時、アレキサンドゥルは、暈《ぼんや》りとしてみえるが、サンシィブルなモイラの眼に、酷《ひど》く気に入った子供を、見出したが、それと同時に、特に大柄な方ではないが、いい体をしていて肉附きがよく、円みのある肩と脚とを持った、白フランネルの簡単な、膝までの服に、黒のタイツの小さな娘に、烈しく惹きつけられるものを、感じた。それは不意な愕きのようなものである。この娘は何も知らない、穢《けが》れがない。それでいて何か、がある。と、アレキサンドゥルは思った。
それは最初林作に伴《つ》れられて来た時のことだ。モイラは林作とアレキサンドゥルが話している間、肱掛け椅子の一方の肱突きに両手で掴まって、上半身を後向きに捻《ひね》ったり、アレキサンドゥルの方をチラと見てから、ピアノに近寄り、蓋に細い指を立て、力を入れて圧してみたり、伸び上がるようにして、ピアノの上に掛けてあるレエスに見入ったりする。
アレキサンドゥルの鋭い眼は話していながら視るともなく、モイラの動きを追っていた。
モイラは林作の椅子の背の横木に掴まって、椅子の後《うしろ》に廻り、アレキサンドゥルに隠れるようにして、林作の背中に椅子越しに頬を当てるような様子で、椅子に横顔をつけ、長い睫毛の反《そ》り返った眼を開《あ》いて凝としていてから、又顔を出して、チラと、新しい教師を視て、自分の椅子に返る。椅子に返ろうとして、林作の横をすれすれに通った時、林作がモイラの腰の辺りに軽く撫でるように、触れる。そんな時の林作の、無意識のような仕科《しぐさ》に、いかにも(大切な、宝のような娘)と、いったような愛情が、出ているのを、アレキサンドゥルは、見た。その林作の掌《て》には、父親の掌でいながらどこか、恋人の掌に紛らわしいところがある。
そんな動作を見るともなく見ている間に、アレキサンドゥルはこの、八歳になったばかりの娘に、強く惹かれ、次の週からこの娘に日課を与えるということに不思議な歓びの、胸さわぎを、覚えた。
アレキサンドゥル・デュボワは、抜け上がった広い額に、短く刈った、細かく波うった髪はまだ黒く、眉骨が高い、眼の鋭い男である。骨っぽく華奢な鼻、意志的な薄い脣、繊細な掌。全体にストイックな感じがある。フランス人にしては固い男で、どこか無理に強い意志で、自分を一つの、清教徒的な人生に嵌めこんで生きて来、現在もそうやって生きていて、それをそのまま未来にも持って行こうとしている、そんなようなところが見える。よく視ると、一点の非のうちどころのない、正常な感覚を持った男とは受けとれないところがある。同性愛の傾向を持っていたことのある男、という感じもある。ストイックな感じは、癇症な程、きっちりとした服の着け方にも見えていて、極端に自分を抑制している男の持つ、見る者に迫って来るようなあるものを、持っている。どこかに牧師のような匂いさえ、持っている、痩せて背の高い、がっしりした男だ。背広の上からはまだ逞しい、筋骨質な体にみえる、真直ぐに伸ばした体。衰えてはいるが二十年前の精悍な美丈夫の面影が、残っている。
鍵盤《けんばん》に置いたモイラの、薄青い静脈が、透き徹って見える、淡黄色の掌《て》を、横に椅子を軋ませて擦り寄ったアレキサンドゥルが、肩越しに体を抱えるようにして、丁寧に、形を直す。
「その儘、その儘で。ドォ、レ、ミ。次はこの指をそちらへ遣《や》って、ファ、ソル、ラ、シ、ドォ……ビヤン。もう一度。掌《て》の形をその儘で、ドォ……」
片側だけを開けた、大きな窗から、四月の温かな大気が感ぜられている。
モイラは閉じ籠められた厭な気分を、既に感じ始めた。アレキサンドゥルの厳しい、気迫が迫って来るような練習《ルツソン》は、モイラが生れてはじめてのものである。それが鬱陶しくて、五月蠅い。
窗の窗掛《カアテン》の模様、肱つきのある窗、窗際の小|卓子《テエブル》に、手編みの刺繍のある布を敷いた、外国のらしい花壜と、見馴れない形に挿した花、模様のある壁紙を貼った四方の壁、ピアノと反対側の壁際に置かれた、どっしりとした、長椅子。アレキサンドゥルの、灰色の背広の羅紗《ウウル》の香い、その中に混っている外国人の男の強い香い。それらのものに、林作と訪れたことのある、外国商社の中の個室や、独逸人の家庭にあった、一種の重苦しい雰囲気のようなものがあって、それがどことなく、気になっている。
窗のところへ行って見たい。窗からはどこが見下ろせるのだろうか? 玄関のところだろうか? ピアノの練習《ルツソン》は空想していたような楽しいものでは、なかった。それどころか学校の日課より厳しく、退屈で、アレキサンドゥルを押しのけて、逃げたいほどだ。
窗が開《あ》いているのに風がなくて、部屋の中は暑かった。モイラは薄紅《あか》くなった頬を一寸仰向けて、厚いお河童を振り、椅子の上で体を微かに、捩じった。
「もう一度」
「そう。掌《て》の甲を平らにして、その儘。……ドォ、レ、ミ。指をかえて。ファ、ソル、ラ、シ、ドォ」
自分の怠けたがっているのが判ったのか、アレキサンドゥルの声が前より一層厳しくなったように、モイラには思われた。
アレキサンドゥルは、モイラの心が窗の方へ行っているのを看《み》てとっていて、言った。
「マドゥモァゼル。繰り返さないと、上手になりません。イルフォ、レペテ」
ようようのことで一日の日課が終って、ピアノの前から解放されると、モイラは走って、窗際に行った。そうして直ぐに振り返って、アレキサンドゥルの顔を計るようにチラと、視るのだ。その時、壁を背に、起《た》っていたアレキサンドゥルは、眼が鋭く光り、脣は一寸白い歯を覗かせているが、笑っているのではない。どこか、恐しい顔だ。
「マドゥモァゼル、モイィラは先刻《さつき》から、窗に行きたかったのですね。いけません」
モイラは見抜かれた顔で窗に向き、背中の辺りに照れたような気配を見せ、体を捻《ひね》って窗掛《カアテン》に絡みつくような様子をするのだ。意識しないでいてやる、だがどこかで、モイラの知らないところで、意識しているようにも思われる、モイラの媚態である。
練習が終ると、マドゥレエヌ夫人が茶の盆を運んで来るのが、定《き》まりである。模様のある、クリイム色の、面白い形をした盆の上に、日本陶器の茶碗が三つ、砂糖壺、牛乳《ミルク》入れ、銀の匙と、砂糖挟み。それに乾いた洋菓子。
「ラ、シェエズ、プゥル、マドゥモァゼル、モンシェリ」
夫人が椅子を揃え、お茶が始まる。
そんな時、モイラが父親の林作に、フランス語を教えられていることが、話題になった。モイラが尋ねられたことに、おぼつかないフランス語で答えると、アレキサンドゥルも、マドゥレエヌも感歎詞を発して、可哀らしいフランス語だ、なぞと言って、顔を見合って微笑《わら》う。マドゥレエヌ夫人は巴里の自分たちの家の話をする。アレキサンドゥルの妹の、ジャンヌの話、自分の老母の話、姪の話、などをする。或日は、老母の傍にいる猫のノネットの話をした。ノネットのことを話す時、マドゥレエヌの眼には涙が浮んでいるのを、モイラは見た。
「ママンも、ノネットも、もう長く生きません」
とマドゥレエヌは、言った。褐色の髪に灰色が混り始めているマドゥレエヌ夫人は、既に皺が深く、巴里女の化粧をしていて、黒い普段着のロオブに、灰色がかった薄紫《モオヴ》の、編み直しらしいカアデガンを上に着ている。一重《ひとえ》の真珠の首飾りが、既に筋立った夫人の頸を、どんな時にも離れることがない、というように、とり巻いている。夫人はその首飾りは、婚約をした時の夫《マリ》の贈物《キヤド》だと、話した。だが、アレキサンドゥルと夫人とが何かで声を合せて笑うような時、モイラは、アレキサンドゥルの二つの眼だけが笑っていないのを見ることがある。その眼は何か、恐しいものを隠している、眼である。マドゥレエヌ夫人の眼はそれを知っている。そんな時、夫人の眼は、絶望に馴れた母親のような、優しさを湛えて、暗く瞬いているのだ。アレキサンドゥルの笑っていない二つの眼はモイラにあてられているが、それはモイラの、モイラにもわからぬ内側にあるものに、あてられていた。
(不思議な娘だ。感覚的で、それにごく自然だ。この国には珍しいことだ)
アレキサンドゥルはモイラが、自分の愛情を感じとっていて、それには無関心に、幾らかうるさく思っているのを、知っていて、そんな、まだ乳のにおいのする子供のようなのが、思いもかけない力で、自分を惹くのを、感ずる。自分を嫌っていないらしいのも、酷《ひど》く可哀く思われる、だが、嫌ってはいないらしいが、自分の厳しい練習を嫌っていて、一刻も早く、ピアノの前から離れたがっているのを看てとると、可哀らしさと同時に、次第に憎しみのようなものをも、感ずるように、なって行った。
アレキサンドゥルはモイラに練習をさせていながら、想うのだ。この娘は、一刻も早く日課を終って、あの父親の傍に帰りたいと、思っている。そうして帰って行ったら、どんなにするのだ。アレキサンドゥルは、綿毛に包《くる》まれた青い果実のような、モイラの頬に眼をあてて、想いつづける。この娘は帰って行ってあの父親に、どんなにして抱きついて行くのだ。どんな可哀らしい接吻をするのだ。あの気嵩《アルダン》な、暗い色の皮膚と、サンシィブルな容貌とを持った父親に対して、この母親のない娘は、乳の香いを慕うようにして、なついている。この娘はあの父親の、ウェストミンスタアの香いに纏《まつ》わりついているのだな。ウェストミンスタアの香いの中で、平常《へいぜい》この娘は、母親の乳房にまといつき、脣《くち》をあてて吸いつくような様子で、あの父親に、甘えているのだ。
アレキサンドゥルは一度眼の前に見た、林作親子の緊密な、濃密といってもいい様子をもとに妄想を起している。する内に、暗い色の、美しい着物を着、ごわごわと鳴る、儀礼的《セレモニツク》な袴を着けた林作の、浅黒くひき締まった体躯《からだ》と、三銃士《トロワ・ムスクテエル》のダルタニアンに似た、美しい微笑《わら》いを持った風貌が眼の前に浮び上がってくる。そうしてアレキサンドゥルは、林作とモイラとの二人を包む、ウェストミンスタアの薫香が、今そこに、漂うかのように想い、それを現《うつつ》に香《か》ぐようにも、想うのだ。
* *
アレキサンドゥルにとって、一つの苦患のような、誘惑に満ちた、ピアノの日課は毎週確実に巡って来て、やがて一年が経ち、モイラは九歳になった。
アレキサンドゥルは、厳しい音階の練習の繰り返しと、モイラの掌《て》を掴まえて、丁寧に形を直す遣《や》り方とを、執拗に、止《や》めない。専門にピアノを遣る弟子に対《むか》ってする練習《ルツソン》に、殆ど変らない、遣り方である。
彼はモイラを、後《うしろ》から抱え込むようにして、肩越しに手を持ち添え、丁寧に、形を直す。そうして言う。
「掌をその儘。掌の甲を動かさずに。ドォ」
搏《う》ち下ろすような言い方である。
アレキサンドゥルの発する「ドォ」の音《おん》、「レ」の音《おん》には、身のひき締まるような厳しい、鞭の響きが、籠っている。それは彼の、二十五年の間、ピアノの教授に打ち込んで来た精神の中で出来上がったものである。
だがアレキサンドゥルの、モイラに練習を与える時の鞭の中には、それとは別なものが、入っていた。モイラはアレキサンドゥルを嫌ってはいないが、好《す》いてはいない。モイラはいつになってもアレキサンドゥルに親しもうとしなかった。それは、アレキサンドゥルが、モイラへの執着を内に埋蔵し、それを無理に抑えていて、それが執拗な、蔽いかぶさるようなものになって、モイラに感じられるためなのだが、自分に親しもうとしないモイラを、次第に憎く思うアレキサンドゥルの、彼自身にも異様に思うほどの心持は、どうかすると火のようになる。アレキサンドゥルは、彼の手に長年打ち振られた鞭を、更に烈しく、唸りをもって打ち下ろしたい、うずくような技癢《ぎよう》を感ずることも、度々である。
九歳になったモイラは、脣から頬の辺りが薄い膜をかぶせたほど膨らんで来て、果実が熟したような、甘みのようなものが、微かな影のようにではあるが、漂いはじめている。極く暑い日にはその頬が、雨に濡れた花片《はなびら》のように汗ばんで来る。そうしてそれは、触れたら掌がそのまま、吸いついてしまうのではないかと思われる、アレキサンドゥルがまだ触れたことのない、日本の女の皮膚なのだ。しかもモイラのそれは、新しい花のように、新鮮である。
嫉みと、憎しみとが、可哀くてならない心持の中に入り混った、アレキサンドゥルの執拗な、熱情のようなものは、抑えようとしても抑えることが出来ないで、外へ滲《にじ》み出る。その滲み出たものは烈しい練習《ルツソン》と、鞭のような声音《こわね》になって現れた。そうして、少しでも長く、モイラを、自分の傍へ置きたいと思うアレキサンドゥルの慾望は、執拗な練習《ルツソン》の繰り返しとなって、モイラを苦しめ、五月蠅《うるさ》がらせた。
ともすれば、家にいる時のように、ぐにゃりとして来るモイラの体が、その鞭のような響きを持った声で、仕様《しよう》ことなしのように、緊張する。だが少間《しばらく》すると又、モイラは退屈そうに、身じろぎをした。
そういう時モイラは、頸の辺りにアレキサンドゥルの厳しい、幾らか恐しい眼を、感ずる。そこにはモイラにはわかり得ないが、何かの恐しいものがあって、その恐しさの戦《そよ》ぎのようなものが、モイラの頸筋《くびすじ》や、頬の辺りを熱い風のように、襲うのだ。
モイラの掌《て》の甲がかしぐと、アレキサンドゥルはピアノの上の小筐《こばこ》から、滑らかな白い紙を貼った厚紙に、藍色で横文字を刷った札を出して、掌の甲の上に載せた。
「これは何ですか? わかりますか?」
アレキサンドゥルは、モイラの顔を覗き込むようにして、言った。
「私の妻の小学校の時の、大切な筐にありました。Bon point' いいお点です。よく勉強した日には、これを上げましょう」
そう遣《や》って機嫌をとりながら、アレキサンドゥルは、再び、鞭打つような練習を、続けさせた。
或日アレキサンドゥルは少し遅れて、部屋に入って来た。廻転椅子に掛けているモイラの、濃紺に白い筋の入ったセエラアを着た、黒木綿のタイツの脚を、横から見たアレキサンドゥルは、前の日までの、膝小僧の上までしかない、白フランネルの裾の短い服を着ていたモイラが、俄《にわ》かに成長して、嫩《わか》い一人の少女になったように、感じた。髪には林作が指図をして、柴田に結ばせた、白タフタのリボンが蝶のように、止まっている。
モイラを軽く抱えこんで、掌の形を直している時、リボンがアレキサンドゥルの頬に触れ、そうして微かに、オオ・ドゥ・コロオニュの香いがした。その日はモイラの起きたのが遅くて、朝の支度がおくれたためである。
その日アレキサンドゥルは、平常《へいぜい》より厳しい鞭をもってモイラに臨み、練習を四五回多く、繰り返させたのだ。
練習が終って、モイラが起ち上がった時、
「今日は大変によく出来ました。メ、コンプリマン、マドゥモァゼル……」
そう言うと、アレキサンドゥルはモイラの肩を軽く掴まえるようにして、額を蔽う髪に、接吻を与えた。モイラの肩は、まだ稚い固さの中に、たしかな皮膚の滑らかさと、円みとを、薄い布越しに、アレキサンドゥルの掌に、感じさせた。
モイラは五月蠅げに首を竦《すく》め、逃げるように、離れた。
* *
牟礼家の花壇の、馬丁部屋の向い側にある梅の木が、六月の雨と陽とに温められ、青い実は忽ちぎっしりと実って、葉の蔭に二つ、三つと固まったのなぞは、円く実が入って、護謨《ゴム》風船が二つ擦れ合う時の、軋るような音がしそうに見え、雨曇りの空の中に、雫をつけたように、綿毛に煙って、輝いていた。
その梅の木が窗から見える浴室は、天井が高く、檜を張った板壁の底に、沈んだように据えられた、これも檜の浴槽が湯を湛えている。モイラが少しずつ体を沈めると、浴槽を溢れる湯が、油のように大小の形の、滑らかな光を浮べて揺れ、モイラの、淡黄色をした円い肩や、胸に、戯れる。柴田が、滾《こぼ》し入れた香《にお》いの希薄なバス・ザルツが湯気に混って柔かな香いをたてる中で、モイラは湯を叩いて、白い飛沫《しぶき》の上がるのを歓んでいる。
「凝《じつ》としていらっしゃいまし」
黒っぽい単衣物の裾を端折《はしよ》って、肉の弛《たる》んだ太い脚を出し、袂を背中で結えた柴田は、頑丈な腕でモイラを抑えつけた。
赤い鉄錆《てつさび》色をした護謨の海綿に、石鹸を豊饒《たつぷ》り含ませたのを持って柴田は、故意《わざ》と湯を跳ねかして出て来たモイラを掴まえ、頸から先に摩擦《こす》りはじめる。
肉附きのいい、だが不活溌だった子供の形が、どこか撓《たお》やかに、鞭のようなものを潜《くぐ》めて来たモイラの裸は、雫をつけ、柴田の眼の前を、重いような艶を湛えて、くねり、抑える手をのろい動作で潜りぬけようとする。
柴田が邸に来た頃には、青い幼児斑のあったモイラの腰は、その痕跡《あと》を微かに残して固く、円みをおび、稚い媚めかしさが、香いのように、柴田の感覚に来る。
(梅みたいだよ、ほんとうに。憎たらしいくらい)
「足の裏を洗っちゃあ駄目」
「凝としていらっしゃいまし」
モイラは柴田の首に腕を絡め、声を上げて体を捩じった。
湯から上がると次の間に、濃い紅の木綿に、更紗模様の、モイラの最も好きな普段着が出ている。
柴田が背中のホックを嵌め終ると、モイラは鏡に向って自分を写して眺め、満足した様子で、柴田をふり返った。
「ノエミ来た?」
「まだでしょうと存じます、モイラ様」
モイラが食堂に入って行くと、ノエミが、明け放ったヴェランダから上がって来るところだった。
「ノエミ。新しいのよ、これ。独逸人から布《きれ》買ったの」
野枝実《ノエミ》の着ている、去年と同じのチェックの木綿の服は今朝律が裾を出して火熨斗《ひのし》をあてたばかりで、まだやまの跡《あと》が残っている。モイラは、野枝実の服を去年のだと思った瞬間、反射的にそう言ったのに過ぎないが、野枝実は、モイラに裾のやまの跡を気づかれまいとして慌てて言った。
「梅の実、昨日《きのう》持って来なかったね。ある?」
「あるよ。行こう」
二人は縺れるようにして、食堂の横から上がる暗い裏階段を、登って行った。
梅の実が熟すると、梅酒をやよに造らせて夏中飲むのを楽しみにしている御包と柴田が、執念深い眼を光らせている隙を狙《ねら》って、常吉が竿で二つ三つ落してそっと呉れるのが、毎年のことである。モイラがそれを隠しておき、その中の一顆《ひとつ》を学校に持って行って野枝実に与えるのも毎年のことだ。
「こないだ柴田に、喧《やかま》し婆さんて言ってやった。パァパがそう言ってるから」
「ふん。いい気味ね」
「ノエミのとこの可怕《こわ》い人は何してる?」
「梅酒をつけて、梅が高い、高いって怒ってるの。モイラの家《うち》は梅があってもみんなあの人たちのものね」
「うん。でもパァパはあんなもの飲まないの。パァパはフランスのリキュウル」
野枝実は〈リキュウル〉という言葉に何か解らぬ素晴しいものを感じとり、モイラの濃く真紅《あか》い更紗の夏服と、鳶色の厚いお河童とを、じろりと、見やった。
二人はモイラの寝室の、平常《ふだん》は使わない空《から》のけんどん[#「けんどん」に傍点]の奥から梅の実を出し、顔を見合うと寝台《ベツド》に登り、スカアトで磨《こす》って軽く、歯をあてた。顔が曲る程酸いのだが、なんとなく清新な果実の香いがあって、少間《しばらく》すると爽やかな香いが感じられる。二人は梅の実の味よりも、秘密の歓びに酔っている。モイラは林作から、野枝実は朔也から、梅を齧《かじ》ることを固く禁じられている。その禁制を犯すことが楽しいのだ。
やがて二人は窗の下に椅子を運び、梅の実のような腰を並べて窗に肱をつき、下の花壇を見下ろした。
御包が門の方から来る処へ、裏の梅の木のある方から常吉が来たので、二人は眼を見合い、息を殺した。
(又梅を取ったのだろうか?)
常吉は二人の思った通り梅を二つ程落したのを隠しに入れ、玄関を掃いているのを見ておいたやよに手渡そうとして、遣《や》って来たのだ。
御包も常吉も頭より見えないが、御包がじろりと見た様子で、何か言った。常吉が全く相手にしない人間に対するような態度で、一言答えると、擦れちがって玄関の方へ大股に行くのを見定めたモイラと野枝実とは椅子から下りて寝台《ベツド》に転がり、薄暗い中で顔を見合って笑った。御包を問題にしなかった常吉のようすが、二人の魔女を満足させたのだ。
「ノエミの眼、可怕い眼」
「モイラの眼だって」
「あたしの眼は綺麗なのよ」
モイラは眼を白くして野枝実を睨むと、急に起ち上がって、寝台《ベツド》を下りた。
「あたし薬の時間。又来るから待ってる?」
「…………」
野枝実は黙って寝台《ベツド》を下りて、部屋を出ようとした。
「じゃあいいよ。もう来なくっても」
モイラは廊下を林作の書斎の方へ走った。扉の前でふり向くと、野枝実が膨れた横顔で、壁の向うに姿を消すのが見えた。
ノックをすると、中から林作の声が、言った。
「モイラか。お入り」
入ると、皮の長椅子に掛けた林作が、ふり返った。林作の後《うしろ》の厚い窗硝子が、夕焼けを映して洋燈《ランプ》のように赤らんでいる。
林作の膝の処にある、低い卓子《テエブル》は、暗い部屋の中で鈍く光り、そこには清潔な洋杯《コツプ》に湯|冷《ざ》ましを半分程入れたものと、白い罫紙に細かな横文字がぎっしり書き込まれたラベルを貼った、口の広い薬壜が、用意してある。
林作が家にいる日には、四時が来るとモイラは林作の書斎に上がって行く。忘れていると、林作の鳴らす呼鈴《よびりん》の音が、響いて来るのだ。それはこの錠剤を飲む時間である。茶褐色の厭な味のする薬を飲むための時間である。肉附きがよくて、丈夫に見えるが、モイラはしんが弱い。腺病質だと、医者に言われている。茶褐色の丸薬は、厚みのある平たい円形で、表面がざらざらしていて、形容の出来ぬ、厭な味を持っていた。牛の血を精製して固めたもので、林作が独逸人の友だちから、特別に手に入れてくる造血剤である。モイラは、錠剤を飲み込むことが下手で、どうかすると噛んでしまうのだ。それでこの時間はモイラにとって一日に一度、林作から課せられている、厭な時間なのだ。林作はこの薬を飲ませることだけは他の者には任せておけぬと、思っている。モイラが厭がって、強く拒むかも知れない。雇人ではそれに負けてしまうだろう。それともう一つ、何度でも、何時《いつ》でも会うことの出来る、娘のモイラだが、日曜日を入れてたった三日だが、自分が家に居る日に、一日の内に一定の時間を定《き》めて、必ずモイラを、自分の傍へ来させることに、林作は深い歓びを、覚えていた。
「早く飲んでしまった方がいいぞ。さあ、今日はマカロンがある」
見ると窗際の書物卓《かきものづくえ》の上に紙包みが載《の》っている。モイラはその時一種の表情をした。脣を、両端が頬に窪みをつける程、固く結んだのだ。モイラが秘密をもっている時の表情である。
薬を飲んで、林作から紙包みを受け取ると、モイラはそれを直ぐには食べずに、卓子《テエブル》の端に置いた。
「どうした。気分が悪いのか?」
「…………」
「ふむ。何か階下《した》で喰ったな」
「…………」
「犯人はやよだろう」
モイラの大きく開《あ》いた眼は正直に、林作が図星を指したことを語っている。
林作はモイラの顎に指を当てて顔を自分の方に向けさせた。
「モイラ。パァパは叱るのじゃあない。だがこの辺の店で売っている菓子は、喰ってはいけない。いいか……」
モイラはその掌を外し、長椅子に転がり、林作の膝を抱えるようにして、片頬を膝に擦りつけたりしている。
「やよはいい奴だ。パァパも好きだ。だがやよは田舎の女で体が丈夫だから、何を喰ったって腹も壊さないが、モイラの体はちがうのだ……もうこれからはしてはいけない……いいね」
「しない」
モイラは林作の膝を枕にして、背中を向けて横になり、林作はモイラの髪を静かに、撫でている。
少間《しばらく》時間《とき》が経った。
夕闇の暗さが又少し、濃くなった。
モイラはこの頃、ふとした時、アレキサンドゥルを想い浮べることがあるように、なっている。肩越しに、後から抱えこむようにして、掌の形を直している時、後《うしろ》に被さっている胸の辺りでする、羅紗《ウウル》の香い、それから髪やリボンに、故意《わざ》とのように触れてくるような横顔、乾いた、冷たい指、なんとなく廻りをとり巻いてくるような、一種の気配。
林作の膝には、アレキサンドゥルの羅紗《ウウル》の香いに似て、それとは異《ちが》う、煙草の香いと混り合った、無限に懐かしい香いがある。(パァパの香い)。それはウェストミンスタアの薫香である。
林作の膝に頬を擦りつけたりしているモイラの頭に、突然にアレキサンドゥルの、肩越しの香いが、浮んだ。
「パァパ」
「うむ?」
モイラが仰向いて林作を見た。
「アレキサンドゥル先生が、おでこに接吻《アンブラツセ》したの」
「ふむ。……」
林作は、言った。
「外国人はね。パァパでなくて先生でも、頬っぺたにだって接吻《アンブラツセ》するのだ。どこか遠いところへ行くのでお別れの時なぞはパァパがモイラにするように抱いて接吻することだってある。先生はモイラを可哀らしい子供だと、思っていらっしゃるのだ。だがモイラは日本の子供だろう? だから額になさったのだ」
モイラはよく聴いているようでもない。再び寝転び、横へ向いて、膝に頬を擦りつけたりしている。
林作はアレキサンドゥルに会って見て、信用出来る人物だと、見ていた。三十分話をして、この男を信頼しないとしたら、信頼する男はないと、そんなことさえ心の内に、思った。だが林作はアレキサンドゥルの、禁慾的な、一種の、見る人に蔽い被さってくるような雰囲気が、どんな生活を経て来たためかということも、大よそは推察した。煙草もやらないらしい生活の様子も、大体は、判った。又帰りがけに、外出先から帰って来て、止むを得ぬ外出で失礼をしたと、丁寧に詫びを言ったマドゥレエヌを見た林作は、マドゥレエヌが典型的に優雅なフランス女ではあるが、行儀の好過ぎる、母性的なものより他に持ち合わさぬらしい女なのを見て、アレキサンドゥルと細君との恋愛の性質も、二人だけの生活がどんなものか、ということも、察しがついていた。そういうアレキサンドゥルが、モイラを見て、強く惹かれたことも、最初にモイラを伴《つ》れて行った時に、林作は看ていた。
(こんなことはこの後も度々起きるだろう。だがモイラを、無理に箱に入れるようにして、日本の子供流に育てた方がよかった、なぞとは俺は思わない。これから先へ行って、間違いのようなものが起きたところで、それはそれでいいのだ)
考えながら林作の掌は、無意識のように、モイラの肩を静かに、撫でている。
(だがモイラが、情人《こいびと》を持つようになったら、どうだろう。その時期はそれ程先ではないかも知れない。その時には俺は、このモイラを、裏切りをした憎い奴だと、思いかねないのだ。だが、そんなモイラは……さぞ可哀らしいことだろう)
肩を撫でる林作の掌が、背中に滑り、「影」のような、深い微笑いが林作の頬を、掠めた。
* *
花園町のアレキサンドゥルの家は、その日霧雨に、包まれていた。
梅の実の季節があれから二度巡って来て、モイラは十一歳と七ヶ月に、なっている。
常吉を自動車《くるま》の中に待たせて、モイラは階段を上って行った。明治の中期に建ったらしい、ペンキ塗りの西洋館の内部は、壁も階段も、時代がついていて、木の階段はささくれ立っている。手摺りに掴まるとニスが掌《て》につきそうに、湿っている。
角く開いた襟と袖口、帯に白い縁取りをした、薄いブルウの膝までのセエラアに、黒い木綿のタイツを穿《は》き、前髪の後の髪を揉みあげの上で、白い幅広のリボンで結んでいる。
固い靴の音がして、後《うしろ》からアレキサンドゥルが、ゆっくり上がって来て、足を留めたモイラに、追いついた。
「今日は早いですね」
アレキサンドゥルは少し嗄《かす》れた声で言い、モイラを見下ろした。前髪の下から、モイラの頬が覗いている。温かな雨が降って、一晩の内に膨らみ、端だけが薄紅《あか》く染まった、七月の、あの薄青く、まだ固い桃の実のように、モイラの頬が、先週に見た時とは違って、処女《おとめ》の頬を想わせるようなものをどこかに、潜めているのを、アレキサンドゥルは、見た。
「パパはお元気ですか?」
アレキサンドゥルの声は、どこか平常《いつも》と、違っている。
モイラは顔を上げて、アレキサンドゥルを見上げ、黙って、頷いた。踊り場の窗《まど》から明りが落ちているためだろう。下瞼の膨らみの下に出来た浅い影が、その日のモイラの、処女《おとめ》のような頬に一瞬、媚《なまめ》いた色をつけていて、アレキサンドゥルの胸を、不安にした。その頬の辺りの、艶めいて見えるのとは不似合いに、子供らしく頷いた様子も、アレキサンドゥルを強く、惹いた。
(余程、甘えさせているのだな。小さな子供のような稚いようすが、まだ除《と》れずにいる。父親にはどんな風にして、甘えるのだ……)
モイラは、アレキサンドゥルのピアノの練習には飽きている。だが林作が横浜で、二千円のピアノを購《か》って呉れていて、なにかの曲の一部を覚えると、それを林作に弾いて聴かせるのが、今では楽しみになっている。自分の指が、アレキサンドゥルの言うようによく動くことを、誇らしくも、思っている。それでモイラは林作の、「ピアノには休まずに行って、上手になるように、よく練習をして貰え」という言葉に厭々、従っていた。
部屋に入ると、薄い薔薇色の西洋|紫陽花《あじさい》がもくもくと、湿り気のある花片《はなびら》の肌目《きめ》を見せて、大きな花壜一杯に、挿されている。霧雨に濡れた外の大気が、そのまま花と一緒に部屋の中に入って来たように、見える。
モイラは愕いたように、立ち止まった。モイラは薔薇色の紫陽花のあることを、知らなかったのだ。
「お好きですか?」
アレキサンドゥルは青年のように、嬉しげに、言った。
「庭のを截《き》って来ました。玄関からは見えません。雨で色が薄くなりましたが、それで却って一層綺麗です」
その日はマドゥレエヌが出ていて、夕方遅くまで帰らぬ筈である。アレキサンドゥルはモイラに見せようとして、雨の中に出て、紫陽花を截って来たのだ。
モイラの来る時間が近づいた時、アレキサンドゥルはなんとなく落ちつきを失くして、短い散歩に出た。そうして今帰って来た時、彼は階段の上に黒いタイツを穿いた、モイラの形のいい脚を、見たのだ。
嫩《わか》い仔馬のような、黒いタイツの脚が、さも厭そうに怠け怠け、登って行くのを下から見た時、アレキサンドゥルは不意に頭が火になって、(今日こそは逃して遣りはしない)と、そんな、全く条理のない想いが頭に登るのを、覚えたのだ。
その日アレキサンドゥルは、急な帰国が定《き》まっていたのである。
モイラは直ぐに花の傍に寄って行って、顔を花に圧しつけるようにした。花の肌目《きめ》と全く同じな頬だ。
そうして立っているアレキサンドゥルを振り向いて見て、
「香いは少しだけしかしないわ」
と、独《ひと》り言《ごと》のように、言った。
(|まるで花だ《セ・チユヌ・フルウル》!!)
「でも花ですから、よい香いがしますでしょう」
ピアノの椅子に掛けたモイラは、アレキサンドゥルが、ピアノの上から下ろして掲げる Sonata の譜本を眺め、既に退屈しはじめて、いた。そうしてなんとなく、身じろぎをした。
(常と照山は何の話をしているのだろう)
「マドゥモァゼル、モイィラ。練習《ルツソン》の時には他のことを考えてはいけません」
アレキサンドゥルは、練習を始めぬ前から、もう椅子から下りたがっているのが判る、モイラの、落ちつきのない腰つきに、横から鋭い眼をあてた。
今まで、三年もの長い間、少しも自分に親しまなかったモイラである。やって来て、この椅子に掛けるなり、逃げることより考えなかったモイラ、この褐色《ちやいろ》の、翼の厚い、肉附きのいい小鳥のようなモイラを、今日は唯では帰して遣らない。
アレキサンドゥルは脣《くち》を少し開き、白い歯を見せた顔になって、モイラに鋭い眼をあて、むしろ無感情な声で、言った。異様な嗜慾を見せた顔である。
「アロン、レ、ギャム(さあ、音階)」
アレキサンドゥルは、この頃になっていつもそうなように、モイラが椅子に掛けるやいなや、自分を襲う、一種の昴奮、痺れるもののある、厳しい練習の繰り返しで、モイラを窃かに責めつけて遣りたい嗜慾への緊張を、今も覚えている。
アレキサンドゥルは無気味な、低い脈の音のような昴ぶりを潜めて、獲物を見るようにして、モイラを見た。
アレキサンドゥルは、自分がモイラに対して、こんなになった原因が、自分の過去の生活にあるのを、知っていた。彼は長い間、ストイックな生き方の枠の中に、自分を閉じ籠めて来た。父親のアントワンによって、特別に厳しく育てられて来たアレキサンドゥルは、それを当然のことに思い、そうしなくてはならぬものと、信じて来た。女の問題は一度も、起したことがない。柔《やさ》しい、処女《おとめ》の頃から既に、嫩い母親のようなところのあったマドゥレエヌと、内気な恋愛をして婚約した。そうして質素な式を挙げ、何の過失もなく、今まで来た。マドゥレエヌは不思議な娘で、まだ子を産まぬ前から、赤子を胸に抱きかかえている妻のようなところがあって、アレキサンドゥルは、聖母《マリア》に恋するような歓びをもって、マドゥレエヌを好いたのである。壮年の頃、二三の少女に嗜慾を覚えたが、清教徒的な気持から来る内気から、プラトニックの域を出ないでいた。何度か、胸を焦がす相手に出会ったが、アレキサンドゥルの情熱はいつも発散せられずに、内部に閉じ罩《こ》められた。アレキサンドゥルのそういう、長い生活の中で、慾望は内部に閉じ罩められて、発散するということが、なかった。生徒を震え上らせて来た、厳しい練習《ルツソン》と、穏かな、夫婦というよりもむしろ、ごく仲のいいきょうだいのような、マドゥレエヌとの生活。この二つが、アレキサンドゥルの人生の全部である。
その長い間、内部に鬱積していて、吐《は》け口のなかった、本能的な慾望、遣り場のない燻《くすぶ》った肉慾は、彼が愛した少女たちを怯えさせ、逃げ出させて、内部の鬱積はいよいよ緻密になり、固くなって、行った。彼の鬱積の緊密さと、彼の不器用な表現とは、どんな時にも彼の内部のものを巧く吐き出させることが出来ないで、慾望は永遠に封じこめられた儘である。
幼い時からの清教徒的な生活は彼の性癖になっていて、彼の、夏などには暑苦しく見える程強く襟元を正した背広の着方にも、それは現れ、見る人に牧師のような印象を、与えるのだ。アレキサンドゥルの一生は、一人の清教徒の一生である。そこへモイラを伴れた林作が、現れたのである。
アレキサンドゥルは又林作を見て、実業家ではあっても、徒者《ただもの》ではない、立派な男なのを感じとると同時に、モイラの可哀らしさと、肉の魅力に、搏たれた。そうして、林作に、恋人のようになついていて、母親がないことは前もって聴いていたが、母親のない子供の父親との親密、という限度を越えて見える、彼等二人の濃密な繋がりをも、看て取り、見ている内になんとも言いようのない妙な、穏かでない心持を覚えはじめた。一種の嫉妬の悶えを、覚えたのだ。
林作は林作で、アレキサンドゥルの出現によって、モイラというものを所有している歓びが、深部に深められるのを覚え、奇異な想いをした。林作はその日、勝利者の、柔かな、新しい、香草《においぐさ》の寝床に転がる、甘い歓びを抱いたのだ。自分とモイラとの、清らかな、甘い蜜を、秘《ひそ》めた、「甘い蜜の部屋」の鍵を握っていることの、勝利感で、ある。
林作はアレキサンドゥルとの初対面で、彼の秀れた人物を認めると同時に、そのまだ、どこかに残っている美青年の面影をも認めたが、それは林作の胸の内部の窃かな所有者の快感を、倍加した。林作は平常《ふだん》、アレキサンドゥルと離れて暮している。厚い空気の層を距てて、離れた町に、住んでいる。その空気の層が含んでいる家々、樹々、空地、店、はためく広告の幟、旗、ざわざわいう群集、石塊《いしくれ》、犬、を距てた場所で、アレキサンドゥルが、モイラを見て、心臓の動悸を抑えているのを、林作は感じとっている。自分とモイラとの間にある、甘い、閉ざされた部屋の秘密を、窺い知っていて、そこへ行くことの許されぬ悶えを抑えているのを、感じとっている。そうして或歓びを、覚える。
林作は稀に、アレキサンドゥルを訪ねて、十五分程話をして帰る。アレキサンドゥルが牟礼家を訪うこともある。二人の男は相手の人間を認め合っていて、惚れ惚れするようなものを互に感じ合っている。どうかした拍子に、アレキサンドゥルの眼に或暗い火が宿る。その暗い火は、林作の眼が、というより勘が、捉えるより速く、消える。そうして後《あと》には爽やかな、鋭い光が残った。その暗い火のようなものはアレキサンドゥルの霊が抑えている、彼の嵐である。林作には、アレキサンドゥルの眼の中に垣間見た暗い火が、彼がモイラを想い浮べた瞬間に宿ったものだということが、解っている。モイラは、二人の間に置かれた無垢の兎である。翅《はね》のある娘。女性の天使である。霊感のようなものを持った、天使である。愚かな子供でないかぎり、予感《プレサンチマン》は、持っている。純粋の無垢でいて、それで可哀らしいのは、二つ三つまでである。
そんな瞬間、林作の想いは、モイラを湯に入れて遣る場合に繋がった。裸の天使といる、時間である。青い、円い、固い果実を、掌《て》にのせて眺める時間である。青い果実は、一度、一度と湯に入れて、洗って遣る度に、眼には見えぬほどずつ、熟して行く。林作は、自分の娘に抱いている、自分のそういう想念を、誇るべきものだとも思わないが、恥ずべきものだとも考えていない。
林作は世の中の父親の多くが、自分と同じ想念を持っているのだろうと、考えている。ただ多くの父親はその想念を、頭の中で、言葉にして組みたてることをしないだけのことである。それに明瞭《はつきり》、気附いた父親は、〈詩〉を、〈穢れ〉と、思い違えている。父親の、綺麗な娘に対して抱く、愛着。それは自然なものだと、林作は考えている。そういう想念を持つ時間のあるのは自然で、ただその男の、そういう感覚が、ストイックなもので抑えられていて、そうしてその男の生活全体が、立派なもので律せられていればいいのだと、考えている。言葉にも、文章にも、道徳しか吐き出さない、〈道徳を吐く蜘蛛〉のような男の内部にむしろ、獣《けもの》がいる。あやしげな道徳の煙を顔に纏わせ、空虚な威厳を誇示している男を、林作は烈しく、嫌っていた。そうして、小さなモイラが、自分の抱いているそういう種類の嫌悪感を、自分と全く同じように持って生れているらしく思われることが、彼のモイラを可哀くてならない想いの中の一要素ともなっているのだ。
アレキサンドゥルと林作とは、互の人間らしい内面には触れぬようにして、話をするのである。
アレキサンドゥルの、いつにない厳しい鞭を、彼の言葉の中に感じとると、モイラはちらと、アレキサンドゥルを見上げ、いくらか甘え気味に顔を伏せ、体を捻《ひね》るようにした。そうすれば許される、ということを、どこかで知っている仕科《しぐさ》である。何かがふと、眼ざめたような仕科である。モイラは、林作にはそんなことをしたことがない。林作はモイラを怖れさせたことがないからだ。モイラは今、この瞬間に、どこかから、この〈甘え〉を、空中でなにかを掴まえるようにして、体得したのかも、知れない。
アレキサンドゥルはモイラの甘えに構わず、厳しい声で、言った。
「さあ、弾《ひ》いて御覧」
音階がようよう済むと、Sonata の練習である。
モイラが飽きて、ふと、練習を止《や》めてしまったり、椅子の上で身じろぎをしたりするのにつれて、アレキサンドゥルは、抑えようとしても次第に高まってくる、いつものサジスティックな偏執に、取り憑かれてくる。サジスティックな、肉感的な慾望は、だんだんに昴進してくるが、思うように発散出来ないので中に籠ってくるものが、うずくように、体の内部に膨れ上がってくる。
一種の不思議な肉の魔力をつけて、少しずつ大きくなって来たモイラが、十歳を越えた辺りからアレキサンドゥルはこういう、裸の女の誘惑に抵《あらが》おうとする聖者のような状態に追い込まれる、恍惚と苦痛の日々を、週に一度|宛《ずつ》、重ねて来た。どこかに火のある時間である。毎週、水曜日になると、アレキサンドゥルは前の日から憧れのような心持を抱いて、モイラの来る時間を、待った。モイラが来ると、胸の動悸がいくらか、高くなる。そうしてモイラを傍に置いている時でも、モイラのいない時間でも、モイラが自分に親しもうとしないことを気にかけ、又はそれを憎んで、罪人でも罰するようにして、モイラに酷《ひど》い罰を与えてやりたくなる。モイラが自分になついて来ないということが、大きな問題になって、アレキサンドゥルの頭を占領して、いた。
(こんな小さな少女の……。まだ稚い子供のようなものだ。こんな子供の心持を、こんなに真剣になって考える男が、あるだろうか? しかも恋する青年のような状態で。父親より年上の男が。……たしか父親の林作氏は四十七になる筈だ……あの一緒に来る男は、どういう男だろう。モイラが家に馬がいると、マドゥレエヌに話していたが、馬丁か? そんなように見える男だ。スラヴ系の混血児らしいが、温かなものを持った、立派な男だ。がっしりした体をしていて、顔もいい。あの男の地位に代りたいなどと、真面目になって考える俺だ。あの男は一年や二年の契約の雇人ではないらしいからだ。俺はもうモイラから、離れて行かなくてはならない。……)
アレキサンドゥルは巴里にいるマドゥレエヌの母親が近頃急に体が弱って、マドゥレエヌの帰国を希《のぞ》んでいるという手紙を、同じアパルトマンにいるマドゥレエヌの姪のシュザンヌから、受け取っていた。マドゥレエヌはその手紙の来た日から、少しずつ身の廻りのものを片附け始めていたが、先週の終りに再びシュザンヌから航空便の手紙が来て、あれから、質《たち》の悪い感冒に罹ったので、ひどく心配している。自分は会社を休んで、彼女についているが、大変に寂しそうだ。ドクトゥールは恢復するだろうと言っているが、不安だ。と、そんなことが細々《こまごま》と書いてあったのだ。
アレキサンドゥルは、想った。若《も》しモイラが、せめて十六か七になっていて、モイラの方でも、幾らかでも自分を慕ってくれているのだったら、俺はマドゥレエヌを一人で帰したかも、知れない。いや、たしかに帰したに違いない。アレキサンドゥルは、蒼ざめて、身の廻りのものを片附けたり、トランクに何か詰めたりしているマドゥレエヌを、眼の前に見ていながら、そう想ったのだ。
勿論、やりかけた、雅楽の研究には魅力があり、それを中絶したくない、という心持もアレキサンドゥルには、あった。だがアレキサンドゥルはそのことと同時に、というよりも或時間の間は、その心持を蔽うほどの悶えを、モイラを見られなくなることに、感じていた。
アレキサンドゥルは心のどこかで、マドゥレエヌを憎み、マドゥレエヌの居ない生活を、夢みていた。それは大分前からのことだ。マドゥレエヌが居ない、モイラと二人だけの時間を、夢みていた。自分とモイラとの間は、何もマドゥレエヌがいても、いないでも、それでどうという関係ではない。だが、マドゥレエヌが傍《そば》にいなければ、気持が自由なのだ。重くるしいものを何処かで感じていないで、いられる。それだけではない。マドゥレエヌが居なければ、モイラと二人切りで、お茶を飲んで話をすることも出来る。ごく稀には外へ伴《つ》れ出して、モイラと食事をしてから、家まで送って遣ることだって出来るだろう。自分はそれが出来る位置にいる。
モイラをレストランに伴れて行って、前に掛けさせ、好きな料理を聞いて、それを誂えてやる。モイラが好きな料理を、肉刺《フルシエツトウ》に刺して、薔薇色の脣に運んだり、窗の外を見たりする。そんな光景が、アレキサンドゥルの胸をどきどきさせながら、浮んでは、消えた。アレキサンドゥルは、その自分の妄想が、歓ばしければ歓ばしいだけ、マドゥレエヌに対して、自分を恥じた。そうして、神に祈った。マドゥレエヌの母親にも、恥じた。老いた、ルノオ夫人が、自分にも帰って来て貰いたいと希《ねが》っていることを、アレキサンドゥルはよく知って、いたのだ。アレキサンドゥルは、深いつぐないの心を籠めてその夜、既に老いの来ている腕に柔しく、マドゥレエヌを、抱いたのだ。
アレキサンドゥルは、人間が悪魔になるということが、いかに容易《たやす》いものかを、知った。悪魔は神の傍《そば》にいる。
(いや、神の中にいるのだ)
と、アレキサンドゥルは、想った。
アレキサンドゥルは、自分の魂が悪魔の跳梁の場となったのは、若い頃から自分を束縛し過ぎていたからだ。それがいけなかったのだと考えて、悔いに搏たれながら、又一方では、死んだ父親のアントワンの教育に、疑問を抱いた。この懐疑は、まだ巴里にいた壮年の頃からのものだ。
母親のカトリイヌが死んだ後《あと》、独身で、アントワンはアレキサンドゥルを厳しく、教育した。厳しい旧教にある、贖罪のための鞭うちのような、厳しく、烈しいもので、アレキサンドゥルに対《むか》っていたアントワンは、清浄な掌で麺麭《パン》をちぎり、崇高な顔で、自分を見下ろした。
アレキサンドゥルは十九で父親を失ったが、三十歳を越す頃まではまだ、ストイックな父親を尊敬していて、彼の跡を、彼と同じ道を、自分も歩こうとしていた。だがやがて、自分の閉じ籠められた、殆ど異常な生き方に不快の念をおぼえるようになり、自分自身の性格も半ばは父親の教育にあるように思うようになって、次第に冷厳な父親の顔を無気味な絵のように思うように、なって来て、いたのだ。
恐らくモイラに練習《ルツソン》を与えるのは、今日が最後になるだろう。次の週もやってやれないことはないが、マドゥレエヌに何もかもさせて、見ているわけには行かないのだ。
その日、アレキサンドゥルの練習《ルツソン》は平常《ふだん》より特に厳しく、執拗で、あった。
アレキサンドゥルは、自分の抱いている別離の苦痛も、自分の心《しん》の臓《ぞう》を悪魔の跳梁に任せて、するが儘にさせている自分の、切ない魂の悶えも、何も知らずに、相変らず、練習《ルツソン》を横着に怠け、少しでも早く自分の傍から逃げようとしているモイラを見て、不意な怒りを覚えた。モイラが、もう帰らせてくれそうなものだと、思っている様子をしているのにも拘らず、アレキサンドゥルは練習《ルツソン》の鞭の手を、弛めなかった。
モイラが先刻《さつき》見せた、甘えを帯びたようすが、今日のアレキサンドゥルに、更に火を点けている。
温い雨の中で、自分では知らずに、ふと固い殻のような萼を破って尖端《さき》を見せる花の蕾のような、それでいて不思議にふてぶてしい、惹きつけられないではいられない、媚態である。そうして階段で見た、仔馬のような嫩い脚。……アレキサンドゥルが五十五年の人生の中で、初めて心《しん》の臓《ぞう》を掴まれた、それは稚い媚びであった。アレキサンドゥルの心《しん》の臓《ぞう》を掴んで、身動きも出来なくさせた、媚びである。
モイラは知らずにやったことである。いつになく厳しく言われたので、胡麻化《ごまか》そうとして、遣《や》ったのだ。モイラはたしかに、自分が他のことを考えていたのを、知っている。それでそれを胡麻化そうとしたのだ。モイラが一寸|可怕《こわ》く思い、どうかして、アレキサンドゥルの厳しさを弛めようと思った時、思わず知らずに出た媚態である。可哀らしいようすをして、うまく胡麻化してしまおうとした、狡猾《ずる》い心持が、あった。その狡猾が、アレキサンドゥルには酷く可哀らしいものに、見えた。モイラが甘えるように体を捻《ひね》った時、アレキサンドゥルは、何かの柔かな、小鳥の尨毛《むくげ》のようなもので、胸を逆に撫で上げられたように、思った。しかもその柔かなものの中には女の狡猾が、あった。マドゥレエヌという善良な女より知らないアレキサンドゥルの、あまり感じたことのない、一人の女の狡猾が、柔かな甘えの中に、薔薇の芽にある棘のように、引懸《ひつかか》っていて、それがアレキサンドゥルの胸を小さな、痛みで、突いたのだ。そんなようすをしたモイラが、アレキサンドゥルは可哀らしくてならないのだが、そのようすは同時に、その上にも厳しく叱りつけて遣らないではいられなくなる、残酷なほどの厳しさで練習《ルツソン》を繰り返させてやらないではいられなくなるような衝動をも、アレキサンドゥルに、与えたのである。
(|俺の手は震えているようだ《イル・ム・サンブル・ク・マ・マン・トランブル》……)
アレキサンドゥルは平常《いつも》のように、モイラの掌を両手で軽く掴まえて、形を直して遣《や》ったが、我にもなく自分の指が震えるのを、覚えたのだ。
天《そら》を籠め、四囲を蔽って降りつづける霧雨に包まれて、その柔かな雨気の中に沈み込んだような家の中は先刻《さつき》から蒸暑く、モイラの小さな掌は、いつも感ずる重い滑《なめ》らかさを持った皮膚が、一層|湿《うる》おいを持っていて、アレキサンドゥルの胸を掻き乱している。
アレキサンドゥルは掌の形を直すと、その形をその儘で崩さずに、次を弾くことを、搏つような声で、命令した。
「アロン、ドゥウ」
モイラは倦み果てた様子で、全く上《うわ》の空《そら》で弾き始めたが、忽ち楽譜を読み違えた。
モイラは自分の傍にいることを厭がっている。甘えて見せるのもただ一刻も早く、この椅子から下りたい為だけだ。
アレキサンドゥルの頭に血が昇った。
「マドゥモァゼル、モイィラ。……ただ早く帰ることを考えていますね。メッシャントゥ(悪い子)! そこのところを私の言うように巧《うま》く弾くまでは今日は決して、帰しませんよ」
モイラは両方の掌をその儘、そむけた顔の頬から耳が紅潮するのを、アレキサンドゥルは、見た。と同時に小さな咽喉《のど》が何かを飲みこむように、鳴った。愕きと恐れで頭が一杯になったのだろう。モイラは幼い子供のように手放しの儘声をあげて泣き始めた。
アレキサンドゥルの顔は、モイラがいつも恐れる、鋭い眼が光り、脣は微笑うような形に白い歯を見せた顔に、なっていた。アレキサンドゥルは、モイラを凝と視ていたが、頭全体が熱くなったくるめくような怒りが、潮が引くようにすっと、退《の》いて、恍惚《うつとり》とした、羽毛の上に乗ったような或ものが手足の末端まで流れるのを、覚えた。その恍惚の中で、この上にも追い打ちをかけて泣かせて遣りたい慾望が、体を痺れるようにさせながら、突き上げるようにして、起きている。
アレキサンドゥルは危い際で、自制した。
一方で、アレキサンドゥルの中の常識は、狼狽していた。彼がここまで自制を逸したのは、マドゥレエヌが出ていて留守だったためである。だがそれでいてアレキサンドゥルは、マドゥレエヌのいなかったために自制が破れたことを、神の救助のような想いで、噛みしめたのだ。
何かで冷やされたように、理性のある心に還るとアレキサンドゥルは、モイラの肩を両掌で軽く抑え、まだそむけているモイラの顔を、覗きこんだ。
「先生が悪かったのです、マドゥモァゼル、モイィラ。……今日はもういつもよりも遅くなっていましたのに、夢中になって、わかりませんでした。マドゥモァゼル、泣かないで下さい。私が悪かったのです。まだ稚いマドゥモァゼルに、あまり厳し過ぎました。……マドゥモァゼル。もう機嫌を直して下さい。私を許して下さい……」
アレキサンドゥルの両掌が感情を籠めて、柔《やさ》しくモイラの肩を抑え直すようにした。そうして、つと立って行ったが、縁《へり》に刺繍のある、マドゥレエヌの手巾《ハンカチ》を持って、戻って来ると、モイラの肩を抱いて、自分の方に向かせ、まだ吃逆《しやく》り上げているモイラの涙を拭いて遣ろうとした。
モイラは最初、アレキサンドゥルの叱責に、愕きと恐怖で頭が混乱していて、懸命なアレキサンドゥルの言葉も耳に入らぬようすで嗚咽し続けていたが、次第に、アレキサンドゥルが自分に詫びているのが判り始めると、少しずつ嗚咽が治まって来ていたが、アレキサンドゥルが父親のように、自分の涙を拭いて呉れようとするのを見、柔しいマドゥレエヌの手巾《ハンカチ》を認めると、哀しみが又咽喉を塞《ふさ》いで、新しい涙が溢れ出た。手巾《ハンカチ》を当てて呉れるアレキサンドゥルの掌《て》の中で吃逆《しやく》り上げ、それからアレキサンドゥルの掌を押し退《の》け、小さな掌で手巾《ハンカチ》を顔に押しあてて、咽喉をひきつけるようにして、嗚咽するのだ。
アレキサンドゥルは悔いに胸を痛め、だが痺れるような想いに耐え得ぬ様子で、モイラを見まもった。
(モイラは自分を許している)
自分の掌が、冷酷な、尖った指で、小鳥の咽喉を扼《やく》してしまったような想いがする。彼は震える掌先《てさき》でモイラの汗と涙とで耳の辺りに張りついた髪を、きれいに撫で上げて遣《や》っていたが、少しずつモイラの哀しみが溶け去って、咽喉の嗚咽が鎮まってくるのを見ると、モイラの様子が哀れであればあるだけ、自分の胸を切ない恋の悶えの締め木にかけ、そうしておいてなんの感動もなしに、自分の掌から飛び立とうとしているこの小鳥を、もう少し傍において、泣かせ、窄《いじ》めつけて遣りたい、という、胸の奥で再び火を点けられたあるものが、燃え上がってくるのを、覚えた。
アレキサンドゥルは再び、自制した。
「私を許して呉れますか? マドゥモァゼル?」
アレキサンドゥルはピアノの蓋を閉じ、そこに肱を突いて、モイラの顔を覗き込んだ。
モイラは眼を大きく開《あ》いていた。まだ涙のある大きな眼は、奥底になにかを潜めている。モイラは胸の奥に小さな、罪の意識を抱いていたのだ。モイラは自分が、アレキサンドゥルを好いていないのにも拘らず、アレキサンドゥルが自分を好いて、五月蠅《うるさ》くするのを、幾らかおかしく、思っていた。それをアレキサンドゥルが判っていて、それで、あんなに厳しくして、罰をしたのではないだろうか? という懐疑を抱いている。それが恐怖になっていて、まだどこかに幾らかの可怕さが残っている。その胸の奥に隠れている、罪の意識のようなものが、モイラの眼の底に、小さな炎のように動いているのだ。
アレキサンドゥルは、自分には解らぬ、その微妙な表情に、深く、惹きつけられた。
「許して呉れますか?……」
モイラの大きな眼が動いて、アレキサンドゥルを見た。モイラは何か解らぬ、魅するような眼でアレキサンドゥルを見ていて、小さく、顎《あご》を頷かせた。
アレキサンドゥルは恋する男のように、胸がときめくのを、覚えるのだ。アレキサンドゥルの老いた、削ったような頬から|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》にかけて、薄紅い血が昇っている。
「パパにお手紙を上げようと思いましたが、忙しくてまだ書けませんでした。私は今度フランスに帰ることになりました。奥さんのお母さんが年寄って弱くなりました。そうして私たちを見たいと言っているのです。それで来週だけもう一度教えられるかも知れませんが、多分時間の都合がつかないと思います。そうすると今日で練習《ルツソン》はお了いです。もう私は将来マドゥモァゼルに教える機会はないでしょう。誰か他に代りの先生を紹介して上げたいと思いましたが、適当な人がありませんでした。私がマドゥモァゼルを見ることは多分もう、ありませんでしょう。マドゥモァゼルはもっと大きく、立派なお嬢さんになって、フランスへ来ますか? もし来るようなことがあったら、私の家に来て、マドゥレエヌや、私の姪のジャンヌにも会って下さい。パパに住所をお教えしておきますからね。わかりますか?」
モイラはアレキサンドゥルの話に、幾らか、感動したように、見えた。だがモイラにとってアレキサンドゥルは、ひどくうるさい、時には可怕い存在でしかない。ただ遠いフランスへ離れて行くのだということと、アレキサンドゥルのメランコリックな話の調子に、誘い込まれるようになって、ふと寂しさを覚えたのに過ぎない。
「もし行ったら。……」
とモイラは小さな声で、言った。
モイラをいつものように、扉口まで送って出たアレキサンドゥルは、これもいつもの例のように、小さな貴婦人のように差し出すモイラの掌を、今日は両手で包み、小鳥を死なせまいとして温める人のようにして、二度、三度、うち振った。
「マドゥモァゼル。病気をしないようにして下さい。マドゥモァゼルがいつまでも倖《しあわせ》のように、お祈りしています。……それから、お別れの接吻《アンブラツセ》をすることを許して呉れますか?」
と言い、モイラが引こうとした掌をその儘にして、微かに肯くのを見ると、アレキサンドゥルは軽くモイラの肩を抑え、長い体を折り曲げるようにして、顔を寄せ、そっと触れるような接吻を、モイラの頬に、与えた。そうして、生温い、体温の低い頬から逃れるように離れると、肩の掌を放した。ストイックな生活のスタイルを堅く保持して来たアレキサンドゥルが、恐らく生涯に一度の、過失の相手であったモイラに対して、礼儀の線を踏み外したのは、額に与えるのが普通の接吻を頬に与えたことだけで、あった。そうしてこの接吻はアレキサンドゥルにとって最後の恋の接吻で、あったに違いない。
そうしてそれは、アレキサンドゥルがこの世で最初に、恋の恍惚というものを蔵《い》れた部屋に来て、その部屋の扉口まで来ながら、その儘で過ぎて行った虚しさの瞬間で、あった。それに少女は稚いが、自分をどこかへつれて行かせる、自分を抑えられなくするものを、持っていた。アレキサンドゥルは骨を刺す切なさを覚えると同時にふと、モイラの眼が、既に数分前の憂愁《メランコリイ》を、拭《ふ》いて取ったように無くしているのを、見た。そうして、ただ接吻が早く終るのを待っている気配が、肩の表情にも出ているのを知った。
(何という気分の変化だろう)
だがアレキサンドゥルは今日、愕き怯えて泣いたモイラを、しんから気の毒に思う理性を失わぬことだけは、出来た。
今日の、半ば狂ったようなアレキサンドゥルの根柢に、彼の理性は、いつも無くならずにいて、それがアレキサンドゥルの嵐を、その日幾度も、抑えたのだ。理性の鋼《はがね》の一線を踏み外して、稚い少女に恋の接吻を、与えたい。そうして胸に詰まり、悶えている愛のしるしを、モイラの上に残したい。それが出来ぬのならせめて、稚いモイラを尚も追い詰めて叱責しようという、そうして絶え入るほどに泣かして遣りたいという、アレキサンドゥルの体の内側に燃えさかりつづけた、常軌を逸した、それは火のような嵐で、あった。
モイラは階段の踊り場で一寸ふり返って、階段の上まで来て起《た》っているアレキサンドゥルを見た。モイラの大きな眼は、底に先刻の罪の意識と怖れの戦《そよ》ぎを潜め、それでいてどこかに、アレキサンドゥルを自分の捕虜《とりこ》にした、というような、そんな感情も、意識の中にないでもない。そんな眼だ。
アレキサンドゥルはふと、よろめくようになった足を踏みしめて、モイラを、視た。そうして、いつまでも記憶の中に蔵《しま》っておこうとでもいうように、凝固した眼を、その可哀らしい眼から離さずにいた。
(もう俺は、この可哀らしい眼を見ることは、ないだろう!!)
アレキサンドゥルはモイラの、幾度か聴いたことのある可哀らしい靴の音が、とうとう消えてしまうまで、そこに立っていたが、思い返したように、縺《もつ》れた足どりで部屋に戻り、今しがたまでいた椅子に腰を下ろすと、ピアノの蓋に倦《ものう》げに肱をつき、その手の上に打ち伏すようにして、顔を伏せた。
辺りは先刻より薄暗く、霧雨に重くなった窗掛《カアテン》だけが、かすかに明るい。
アレキサンドゥルは心の中に、呟いた。
(あんな可哀らしい、罪のない、子供を相手に。……一体俺はどうしたというのだ。まるでパァテル・セルギウスか、サン・タントワンヌだ。……俺にはわかっている。それは俺が女というものを殆ど知らずに来たからだ。俺が年を取っているのに生《うぶ》だからだ。まるで青年のようなものだ。あの娘のちょうどいい相手なのだ。俺は女も、男も、知りはしない。巴里のような街にいて、他人《ひと》より多い男の血を持っていて。マドゥレエヌは、あれは聖母《マリア》で、そうして母親だ。俺が若かった頃傍にいくらでもいた、浮気らしい娘と、どうかなっていたら、或は俺に眼で誘いをかけた、どこかの尻軽な奥さんと、どうかなっていたら、こんなことにはならなかったろう。それはたしかにならなかったに違いない)
アレキサンドゥルは吻《ほつ》と、呼吸《いき》をついた。
(だがあのモイィラという小さな娘の魔力は一体、何処から来るのだろう。俺は綺麗な子供なら、どの娘《こ》にでもあんなになるというのではない。俺がサジスティックな人間だということは、自分でも知っている。俺の練習《ルツソン》がサジスティックだと、生徒の間でも、教授仲間の間でも、評判されていることも、知っている。だが俺は妙な狂気《マニイ》ではない。あの下瞼《したまぶた》の膨らんだ、大きな眼は何も知らない。穢れがない。無邪気に大きく開《あ》いて、ものを見ている。それでいて何処かで、何かを感じとっているようだ。酷《ひど》くねんねでいて、何でもわかるようなところがある。それに、愚かなのではないのに、動作なども遅いところがある。そんなところが妙に可哀いのだが、あの娘の中に何があるのだ。あの魔のような力は何から来ているのか。あの魔力はどんなところに原因があるのか? まるであの牟礼林作という男が、奇妙な魔ものを伴れて、俺の前に現れたようなものだ。運命のように。俺はこの年齢《とし》になって、夢を見たのだな。楽しい、切ない、そうして短い夢を……)
そうしてアレキサンドゥルは、一層低く、胸の奥底に、呟いた。
(……俺はモイィラを愛していた。……あの穢れのない、何も知らない、薄紅色の山査子《さんざし》のような脣を。……乾草の香いのする鳶色の髪を。円みのある、まだ固い肩を。……それらの、香気を放って実りつつある果実のようなものの成長を、俺は傍にいて、見護っていたかったのだ。それは確かに、そうだった。だが俺は……俺に親しまないモイィラを、憎みはじめていた。大分前から俺は、俺に親しもうとしないモイィラを、いつかは叱りつけて、泣かせて遣りたいような気に、なっていた。自分はそれの出来る地位にいる。そう思っていたようだ。それをとうとう俺は、やってしまった。……俺は悪魔のようにあの稚い、小さな心《しん》の臓《ぞう》に爪をたて、恐怖させて、あんなに長いこと吃逆《しやく》り泣きをするほど、厳しい言い方をしてしまった。……恋というものは神と悪魔が同居しているものなのか? それとも俺は病的《マラデイフ》なのか? あの、サジストという奴なのか?)
アレキサンドゥルは、一度|倦《ものう》げに起《た》ち上がって電燈のスイッチを捻《ひね》つただけで、再び前の通りにして、ピアノに寄りかかった儘、マドゥレエヌの疲れた靴の音が、扉口に聴えるまで、鋭い眼を空《くう》に据えて、いた。熱のあるような、底に光るもののある、眼で、あった。
* *
六月が終ろうとする暑い日である。
モイラは林作の傍にくっついて立って、神戸行きの急行に既に乗り込み、小さな鞄や、帽子なぞをそれぞれの場所に置いたりしているアレキサンドゥルを、見まもっていた。大鞄《マル》や、バガアジュは既《も》う赤帽の手で網棚やシイトの下におさめられていた。俄かに老いの目立ったマドゥレエヌは、隈《くま》の出来た眼が、愕いた、かわいそうな獣《けもの》のように開《あ》いていて、その眼は昔美しかったことが見えているだけに一層、醜い衰えを感じさせる。
極く薄い薔薇色に、白で縁《ふち》どりをした木綿の夏服に、細い黒|天鵞絨《びろうど》のリボンをひと巻きして長く垂らした麦藁帽子を被《かぶ》ったモイラは、アレキサンドゥルにとって不幸なことに、今まで見たどのモイラよりも可哀らしく、見えた。
先々週の練習《ルツソン》の日で経験した、アレキサンドゥルの側からは明瞭《はつきり》、恋の出来事《アクシダン》と言い得る一種の雰囲気《ムウド》は、十一歳のモイラに、どこかで、あるものを加えたようだ。林作に寄りかかって、体を時々、捻《ひね》るようにしているモイラの様子には、なにか前とは異《ちが》ったものが、あって、アレキサンドゥルの心に不思議な戦慄を、伝えている。モイラの麦藁帽についた護謨紐《ゴムひも》が強《きつ》すぎるのが、出る前になってわかったので、直す暇がなかった。モイラは人差指を顎《あご》の護謨紐に絡めて、絶えず下へ延ばしながら、体を林作に、時々圧しつけるようにすることで、痛いという不機嫌を暗に林作に、訴えている。
今しがた、ホームに立っていて、向うから来る林作父娘を迎え、林作と別れの挨拶を交していたアレキサンドゥルは、護謨紐の痕が薄紅く、いくらか炎症しているモイラの顎の下に、ふと眼を止《と》めた。モイラが何かに気をとられたように、傍《わき》を向いた時である。
アレキサンドゥルの熱い眼を感じたように、モイラが顔をもとへ戻した。
「マドゥモァゼル、モイィラ、今度又別の先生に附きましたら、よく勉強なさい」
アレキサンドゥルは微笑いの中にいつもの、どこかに恐しいものを隠した眼で、モイラを見て言ったが、声は幾らか震えをおびていて、柔《やさ》しい。アレキサンドゥルは、(紐の痕が痛いですか?)と、言いたかったのだ。そうして、自分の手で手当てをして、遣りたかったのだ。
「長い間こういう、不熱心な子供の練習で……」
林作が、言った。
「いいえ、マドゥモァゼルの年齢《とし》では普通です。私は少し、厳しくし過ぎました。もっと柔しくて、それで技術のいい先生が見つかるように、祈っております」
林作は、世話になった挨拶もせずに、くねくねしているモイラに、注意を与えるでもない。モイラの肩を両手で軽く抑えつけるようにし、困った奴だ、といった、だが愛情に溢れた顔で、モイラの様子を見ている。
アレキサンドゥルは、浅黒い林作の頬にある、微笑にまで行かない、影を見た。嫉《ねた》ましい、美しい微笑いの影だ。彼は又林作の、黒地に細かい絣の上布《じようふ》に、同じような色の、「能」の舞台で見た水干《すいかん》のように透き徹った、蝉の翅のような、縫い紋の羽織を着、冬の袴とは又違った、さやさやと鳴る、濃い灰色の袴を着けた姿にも嫉ましい眼を遣《や》った。
神戸に着くのが翌日になる。それから船が四十日近い。そうしてマルセイユから又一晩かかるのだ。ルノオ夫人の感冒の質《たち》が悪いというので、万一のことがないとも限らぬと、思っているマドゥレエヌは、母親の生きている内に会うことが出来るだろうか、という不安がしきりにしていて、それでこの二三日はすっかり、神経病のようになっている。その言い訳を夫に頼んでおいて、林作たちの来るよりさきに、車に入って、腰を下ろしていた。
マドゥレエヌは先々週の、モイラの稽古日の夕刻、外出先から疲れ果てて帰って来て、部屋の扉を開けた時の光景を今再び、想い浮べている。その時以来、彼女の頭から寸時も去ることのない光景である。電燈が一つだけ、天井に点っていた。電燈が一つなのはいつものことであるのに、何故か、侘しい感じが、したのだ。電燈が一つだけ点った、薄暗い部屋の中に、ピアノの蓋に肱をついた手で額を支えて、もうかなり前からそうしていたように、アレキサンドゥルは凝としていた。愕いて顔を上げた時の、アレキサンドゥルの熱い、情熱に充ちた二つの眼を見た時、マドゥレエヌの足は敷居際で止まり、その儘動かなかった。それは今までの生涯に、自分に向ってはただの一度も、注《そそ》がれたことのない、熱い眼であった。夫のアレキサンドゥルからも、他の誰からも、自分が受けたことのない、熱い、恋の眼である。何かを隠そうとするように立って来た夫が、自分の肩に手をかけて、「疲れたかい、マドゥレエヌ」と言った時、マドゥレエヌはそのアレキサンドゥルの声音《こわね》の、魂がどこかへ行っているような、ひびきの中で、言いようのない寂しさ、胸のどこかを風が吹いて行くような、或虚しさを、受けとった。
その時マドゥレエヌは、夫の肩越しに見えるピアノを、見た。そうしてそのピアノや椅子のある辺りに、ふと濃密な空気を、感じとった。濃密な何かの場面が、そこで今しがた、演ぜられた、というような、その後《あと》に立て籠める雰囲気《ムード》のようなものを、感じとったのだ。マドゥレエヌは夫を信じていた。だがなにかが、あったのだ。マドゥレエヌは、まだ覚えたことのない、醜い嫉妬の胸苦しさが、もやもやと胸に詰って来て、自分の前に立ち塞がり、不器用に言葉に詰っているアレキサンドゥルに、掻きむしって遣りたいほどの憎しみを、おぼえたのだ。
「どうなさったの? モン・シェリ」
と静かに問うまでに、何刻か、マドゥレエヌは胸の中の胸苦しいものと、闘った。そうしてその後《あと》で、やっとの思いで吐き出した、マドゥレエヌのこの言葉は、表面だけの、心の籠らぬ、言葉であった。それは彼女がアレキサンドゥルに向って初めて発した、うわべだけの、不実な言葉で、あったのだ。
アレキサンドゥルに向って、思うことを自由に打《ぶ》つけることをしない、というより、出来得ない、控えめで、温順な、マドゥレエヌの憎しみは、外へ発散することがない。憎しみは彼女の胸の内側に入りこんで、静かに蚕食して行く、小さな虫のように、彼女の心をいためるのだ。アレキサンドゥルは、モイラから離れて行くことの寂しさと、無体な嫉妬とで、胸に切ない塊《かたまり》を持ったような想いと、マドゥレエヌから受けた最初の冷たい仕向けと、それに加えて、マドゥレエヌを襲った、胸のいたみを、まるで自分のもののように感じとることの苦痛、それらの苦しみを打って一丸としたものを、胸に受けとめた。
人間の神経は、夜と昼とではまるで異《ちが》ったものになることがある。苦しい二人の一夜が明けた時、二人の胸の中には穏かな恢復と和合の萌《きざ》しが、みえたようにも、思われた。何といっても、モイラの側には関心がまるで、無いのだ。モイラは十一歳と、今月で八ヶ月になる子供である。アレキサンドゥルが重苦しい胸の想いをおし被せて、執拗に追い廻すので、逃げたがったり、怖れて泣いたりするのであって、アレキサンドゥルの一方だけの愛情を、稚い少女なりに興味にしていて、アレキサンドゥルを父親同様に、捕虜《とりこ》にした、というように感じたりしているのも、子供心の域を出ていない。それに加えて、もう二人はこの娘から離れて、遠い祖国へ旅立とうとしている。それらの明瞭な事実はたしかに、夫婦の心と心との割《さ》け目に、柔かな作用をする、一つの接着剤のようなものでは、あったのだ。それが心と心との間を、繋ぎとめた薄い、出来たばかりの一枚の膜のような、まだ頼りないものでは、あったとしても。
「フォパ、デランジェ、モン・シェリ。ソワ、カルム(何もしないでいいよ。静かにしておいで)」
小さな袋を持ち上げて、夫に渡そうとしたマドゥレエヌに、アレキサンドゥルが小声で、言った。今ではマドゥレエヌは、夫も切ないのだと、思うようにもなっている。夫は、礼儀に外れたふるまい一つした筈はないのだ、とそういう信用も、マドゥレエヌはアレキサンドゥルに対して、持っていた。マドゥレエヌは夫を許そうと、努めていた。
(もっと悪い夫の話を、私《わたし》は幾度友だちから聴いたことだろう。セリメエヌやシュゼットゥの話は、ほんとうに恐しかった)
マドゥレエヌはそんな、昔の女友だちの話などを想い起してもいた。マドゥレエヌは、そういう打明け話を想い浮べることで、心の重くるしさを紛らわそうとするのだが、そんな時却って、
(……だが、その女たちの苦痛より私《わたし》の苦しみが弱いと、そんなことがどうして、言えよう。同じ家の中で、夫が醸し出す恋の雰囲気《ムウド》は、それがそれだけのものであろうが向うが子供であろうが、妻にとって耐えられないということでは同じではないだろうか? あの日、庭の紫陽花を、夫の手で挿してあったのを見た時、私《わたし》はどんなに切なかったろう。どんなに彼を憎んだろう。あの花壜は私《わたし》たちの蜜月旅行の時に購《か》ったものだった。私《わたし》には一度だってして呉れたことのないことを……、あの娘の為にはしたのだ)
と、そんな反撥が強く起ってくる。そうして、幾らか鎮まりかけたものが、又忽ちに後戻りをする結果になった。
マドゥレエヌは先刻の、窗の下の夫と林作とのやりとりを、すべて耳に止《と》めていた。
アレキサンドゥルが林作に、〈厳し過ぎた〉と言った言葉は、前後のニュアンスで、言葉以外の或重みを帯びて、マドゥレエヌの耳に入っていた。それを受けた林作の言葉の中にも、何かを推察している、というような、微妙なものがあって、マドゥレエヌはそこに一つの秘密の匂いを、かぎ取った。その〈厳し過ぎた〉という言葉に纏綿した、妙なニュアンスはマドゥレエヌに、アレキサンドゥルとモイラとの間にあった場面が何であったかを指し示すと同時に、もう一つマドゥレエヌが持っていた、小さな疑問をも一気に説明してくれたのである。マドゥレエヌは身の廻りのものを片附けていた時、手巾《ハンカチ》の抽出しから、大切にしていた一枚が無くなっていることに、気づいて、不審に思っていたのだ。それはルノオ夫人が自ら刺繍をして、彼女に与えたものである。マドゥレエヌの疑問は、すべて氷解した。マドゥレエヌは、アレキサンドゥルがモイラを、執拗な練習で責めつけて、故意に泣かせたのだ、ということ、そうしてその時、モイラの涙を拭いて遣ろうとして持ち出した自分の手巾《ハンカチ》を、アレキサンドゥルがどこかへ隠して持っているのだ、ということを、知ったのだ。モイラに何か言った、アレキサンドゥルの声の震えも、マドゥレエヌは気づいていた。そうしてマドゥレエヌは、夫とモイラとの間にあった、最後の練習日の、夫の側だけの一方的なものであったとはいえ、愛の情緒に濡れた場面を、今目の前に見るように想い、そうして忽ち、切なさが、もう既に多くの時、動揺することがなくなっている、静かな胸の奥底に、滲みるような痛みを圧しつけてくるのを、覚えた。だがマドゥレエヌは、窗の下に立っている林作に対して、取り乱した様子は見せられない。
その時窗硝子をきっちり下ろして止《と》め、席について半身を窗に寄せかけるようにして、顔を覗かせたアレキサンドゥルにならって、マドゥレエヌも、窗に寄って、顔を見せた。
「マドゥモァゼル、モイィラ、車に入ってみますか?」
林作は微笑って、モイラを自分の前に出して、窗に近づけ、夫婦の方へ向かせて、肩を軽く抑え、
「いやもうあまり時間がないでしょう」
と、言った。
林作は、先々週に、花園町から帰ったモイラの訴えで、大凡《おおよそ》のことを知り、戒律を破った僧ででもあるかのように悔いているに違いない、アレキサンドゥルの姿も、推察していた。それで林作は、マドゥレエヌの気持をも深く、気遣《きづか》っていた。
モイラは動いた拍子に顎の護謨がはね返ったのを、又掌で下へ延ばすことで、前へ出されて、アレキサンドゥルからも、マドゥレエヌからも、よく見えるような形になり、妙に羞ずかしくなったのを胡麻化し、片方の手は肱を曲げ、後の林作に掴まろうとしている。
「奥さん、どうぞお元気で。船までの辛抱です。船は幾らか楽でしょう。お母様は快《よ》くなってお待ちになっていると思います」
「大変、ありがとうございます。ムシュ、牟礼。ママンは神様が、お護り下さっていることと、思います。マドゥモァゼル、モイィラ、お別れですね。又いつか、お会い出来るでしょう……」
マドゥレエヌは落ち窪んだ眼に微笑いを宿して、寂しげに、モイラを見た。
アレキサンドゥルは、最後の別れの刻《とき》が来た今も、早く時間が経てばいいと、思っているらしいモイラに、瞬間|凝《じつ》と、白い眼を止《と》めたが、その眼を林作に移した。
「何年か後、マドゥモァゼルと巴里に来られる時はどうぞ、私の家にお寄り下さい。シテニエ、何と申しますか、栗の樹、のある私の田園《いなか》の家も、お見せしたいです」
「有難う。その時にはお訪ねしましょう」
アレキサンドゥルは、林作に凭《もた》れかかり、何か他のことを考えているモイラに、再びちらと、眼を遣《や》った。
(帰りにどこかに伴れて行って貰うのだろう。それともあの馬丁と、何か話したり、馬と遊ぶことを考えているのか? 今聴くと馬を始めたそうだが、林作氏に抱えられて馬に乗るモイラを、一度見たいものだ……)
アレキサンドゥルはふと時計に眼を遣ると、マドゥレエヌに何か目配せをした。マドゥレエヌは頷いて、座席に置いた袋の上から小さな紙包みを取って、モイラに差し出した。巴里の香水店かなにかの包み紙に包んで、リボンで結んである。小型の書物位の大きさのものだ。
「マドゥモァゼル、モイィラ。私《わたくし》たちの記念です。マドゥモァゼルのお気に入るとうれしいのですが」
「これはどうも」
モイラがゆっくりと手を延ばす。嬉しそうに見えるが、彼女の動作はいつも、遅かった。モイラは、リボンが弛く結んであるので、自分に解けると思ったようすで解きかけたが、直ぐに父親に、早く、という身ぶりをして、手渡した。
林作の手が薄紫色のリボンを解き、包み紙を開くと、中は平たいボオル箱である。モイラが取って、もどかしげに開ける。中には銀の鎖の先に薔薇色の貝殻を色々な形に磨いたのが七つほどついている、ペンダントである。
モイラは鎖を持って摘み上げ、美しいペンダントに見入った。
「綺麗《きれい》」
歓びでうわずった、一寸|掠《かす》れたような声で、モイラは言い、気づいたようにマドゥレエヌとアレキサンドゥルを見上げ、口籠り、ようよう、「メルシ」と、言った。
アレキサンドゥルは先刻から、モイラの表情から眼を離さずにいたが、
「私《わたくし》の母親が、持っておりましたものです。ノオトル・ダムの傍の小さな店で見つけたと、母は言っておりました」
と林作に言い、異様に光る眼を再びモイラに、当てた。
「お気に入りましたようですね」
マドゥレエヌが、言った。
「パパに懸けていただいて御覧なさい」
微笑いに顔を崩して見ていた林作が、麦藁帽子を除《と》らせて手に持たせ、モイラの細い首に鎖を廻して、俯く項《うなじ》に、止《と》めて遣る。
モイラは指で鎖を持ち上げ、貝殻の飾りを掌の中に軽く握り、又掌を開いて、一心に、見入っている。
「こんな綺麗なものを戴いて、メルシだけか?」
「……グラン、メルシ、ムシュ、エ、ダァム」
「パ、ドゥ、コヮ、マドゥモァゼル。心持ばかりのものです」
アレキサンドゥルは言ったが、眼はモイラから離れず、満足し切つて、飛び上がりたいほどはしゃいでいるモイラの様子に、眼を吸いよせられるのを、最早、隠すことが出来ぬらしい。その夫の様子を、横からマドゥレエヌの寂しげな眼が、じっと、窺った。
アレキサンドゥルが心の中に怖れていた汽笛が高く、鳴り響いて、車体が一つ大きく、揺れた。
アレキサンドゥルは起ち上がり、背を折るようにして窓口に立つと、マドゥレエヌも起ち上がって、夫の後《うしろ》から顔を覗かせる。
「やあ、どうも、ご機嫌よう」
「お達者で」
「オルヴァ、ムシュ、エ、マドゥモァゼル……」
モイラは初めて経験する、感動的な別離の場面にふと、胸が逼るように、思った。大きく開《あ》いた眼をアレキサンドゥルに凝《こ》らしていたが、車輪の轟きと一緒に大きな車体が動き出し、やがて鋼鉄の蛇がうねるように、向うへ曲って、アレキサンドゥルの顔が見えなくなろうとした時である。モイラはアレキサンドゥルの二つの眼が細く、鋭く、光るのを、見た。そうして、白い歯が覗いた、脣から頬の辺りにどこか泣くような表情を刻んでいるのを、眼に止《と》めた。
そのアレキサンドゥルの、異様な表情は、蔭になった車窓の、細長く角い枠の中に浮び上がり、強い印象で、モイラの眼に、灼きついた。そうしてその映像はモイラの心に何ものかを残し、その後の成長の上に、つけ加えるものがあったが、その何ものかはモイラの中で、大抵の場合薄れていたのに比べて、同時にそれに眼を止《と》めた林作の胸には永く、深い、傷痕に似たものを、残した。
林作はその後、モイラの可哀らしいようすに眼を止《と》める時、ふと瞬間の、その時のアレキサンドゥルの顔を、モイラの後《うしろ》に見るように思うことが、あった。そうしてその異様な、「能」の面《おもて》の中にある、悲哀を刻んだ或種のものを想わせる顔が、可哀らしいモイラの後《うしろ》に、暈《ぼんや》り浮び上がるのを見る時、林作はモイラの可哀らしさの中に、かすかな罪の香《にお》いを香《か》ぎあてた。
(可哀らしい、罪の香いだ)
そうして、モイラを見る林作の眼はそのような時、その愛情の影を深め、林作は、何かの立ち迷うものの間に見定めるようにして、モイラのようすに、眼を据えた。遊び尽した、といっていい林作の、多くの刻《とき》、微笑いを含んでいる眼が、そんな時、濃い惑溺の影を宿して、水を湛えたように潤《うるお》うのだ。
林作は貝のペンダントが、モイラのその日の服に調和したので、その儘にかけさせ、モイラの掌をひくと、
「さあ、今日はパァパの会社にモイラを浚《さら》って行くぞ。晩には海浜ホテルで飯を食おう」
と言い、言葉の調子とは少し異《ちが》う、幾らか暗い想いの残った顔で、モイラの顔を覗くようにした。モイラは重なる歓びに、黒い、新しい靴で一寸跳ねるようにし、林作の手を強く引いて少し離れ、又体を擦りよせるようにするのだ。
(悪い奴だ)
モイラの掌をひいて、大股に歩く林作の、やや俯けた頬の辺りに、愛情の微笑いの、深い影のようなものが、掠《かす》めた。
* *
花園町のアレキサンドゥルの家が空屋になり、山下から上って音楽学校の前を過ぎ、左に曲る、灰色の薄明るい道の、右に折れた小路に、その塗料の剥げ落ちた門を閉じてから、二度目の夏が、巡って来た。
花園町の家が気に入らぬでもなかった林作は、その年の春、下谷の料理屋に行く途で自動車《くるま》を止《と》め、家の前まで歩いて行ったが、案の定まだ空屋で、閉じた窓の鎧扉も、板壁の外装も、前よりうす蒼く、曇った空の下に、家は或表情をおびて、立っていた。記憶にある階上の二つの窗は、死んだ貝のように閉じていて、その二つの窗を眼にした、家全体の表情はたしかに、アレキサンドゥルの最後に見た表情を髣髴《ほうふつ》している。(これは矢張《やつぱり》いけない)そう思って自動車《くるま》に帰った林作は、反射的にモイラの肢体を、想い浮べた。
十三歳になったモイラは、背の伸びる時期にあるらしく、背丈が高くなったわりに腕や襟首などは繊《ほそ》くなったようにみえる。裸にすると、貝殻骨の浅い影から下へ、腰に流れる線には、少女から女になる、最初の過程にある微妙な変化が、どこかにあって、腰から脚の辺りには既《も》う女の萌芽がある。女は下半身から先に発育するものなのだろうか? それとも、下半身の方が、いくらか均衡を破って発育のいい種類の女に、なるのだろうか? 相当に多く、女を見たことのある林作は、二三の女の体を、記憶の中に探したこともある。
モイラ独特の、気孔の無いような、息苦しいように見える皮膚の肌目《きめ》は、いよいよ緻密になり、男の子のような姿態をする時のモイラは、空に向って、悶えるような形で体を延ばしている若木のようにも、みえた。頬の線が幾らかひき締まって、頬が繊くなり、二つの眼は青みを帯びて、凝と人を視る特徴が、半ば無意識に、半ばは意識して、人を惹き入れるように、なっている。
林作はアレキサンドゥルが、モイラの、このような微妙な変化を、父親か兄のようにして、傍にいて見護っていたかったのだ、ということを、察知していた。そうして肉親の男の愛撫と、接吻とを、したい時に与えたいのだ、ということをも、推量していた。だがそこには自分とは異《ちが》うなにものかが、あったことも、確かである。そのあるものが、自分の想像を越えて、熱い、烈しいものであったことを、林作は、アレキサンドゥルの最後の顔によって、知ったのだ。
まだ、赤子の匂いが残っているような、そうして、腰に幼児斑のある、ラファエロの天使のようなモイラであった頃から、モイラに溺愛を傾けて来た林作は、この頃の、微妙な孵化をしかけているモイラの肢体に、心の内に眼を瞠《みは》り、深い感動を、覚えていた。そうして、生きていて動く塑像を眺め、それを愛撫するような、穢れのない、だが熱い、恍惚を覚えている。そこには薄い、微かな、稀薄にした酒精《アルコオル》のような快楽的なものが、潜んでいる。
(もう三年もしたら、哀しみが、俺の胸を切なくするような、綺麗な、メタモルフォオズが、モイラの体の上に起きるだろう!!)
林作は、想った。
三十六歳でモイラの父親になって、丁度十三年になる、愛着と溺愛の歴史の中で、アレキサンドゥル・デュボワの登場していた部分だけには、モイラと自分との愛情生活の中に、何かの複雑した、錯綜のようなものが加わっていたことを、林作は感じていた。
(最初の出会いから、そいつはあった)
と、林作は心に呟いた。アレキサンドゥルが示した、モイラへの執拗な、陰湿な、といってもいい、烈しい情熱を、外側からではあっても見ていたことが、自分のモイラへの愛着に、或種の促進をさせ、溺れる度合いを、どこかで、強いられるようなもので、深められていたと、言えるかも知れない。林作自身、それに気づいている。
(一種の媚薬のようなものかも、知れない)
細かい蚊絣《かがすり》の結城の袷《あわせ》に、灰色がかった焦茶に、共色《ともいろ》の縫い紋の羽織。素鼠《すねずみ》の仙台|平《ひら》の袴の膝を割った間に、黒檀の細身の洋杖《ステツキ》を寄せかけ、腕を組んでシートの背に寄りかかった林作の、陽に灼けたように浅黒い片頬に、苦笑のたて皺が刻まれたが、それは直ぐにあまり他人《ひと》には見せられぬ、甘い、蜜を含んだ微笑いの影に、変った。
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第二部 甘い蜜の歓び
藻羅《モイラ》はいやいやのように手に持っていた大匙《スウプさじ》を、落すように、置いた。
そうして、卓子《テエブル》の向うで自分を見ている林作の眼を意識して、薄黄色の薄地木綿《ロオン》の半袖の肩から腕、胸の辺りをくねらせている。襟と袖、ウェストの上下《うえした》にも、横に襞があって、襞と襞との間をドゥロンウォオクで繋いだ、薄地木綿《ロオン》の夏服は、同じ色の下着を透かせている。その中からわずかに透いている、モイラの淡黄色《たんおういろ》の体は、シャワアを浴びたばかりなのに、もう汗ばんでいる。
モイラは今朝、不機嫌《ムウデイイ》な気分の中に、落ちこんでいる。今朝の今《いま》先刻《さつき》からだ。先刻《さつき》柴田と、シャワアを浴びる為に湯殿に入る、少し前からだ。
父親の林作の、充分に愛情の甘い蜜を潜めた顔が、その浅黒い額越しに自分を見ているのを知っていて、モイラは又も、体をくねらせた。自分にもどうしたらいいのか、わからぬように見える。
暗い眼が、むっとしたように、不機嫌に曇って、モイラは我慢が出来ない、というようにもう一度、今度は大袈裟に胸の辺りをくねらせると、
「くふん」
と、子供のような、酷《ひど》く自烈《じれ》た声を、出した。
やよは今朝、モイラのシャワアにかかる世話をしていた家政婦の柴田が、それが済んで台所に入って来るなり、何も言わずに舌打ちをした顔つきで、モイラの今までにない、ただならない不機嫌を覚《さと》り、林作の指示はなかったが、昨夜から自分で考えて、とっておいた、牛肉と人参だけでとる、モイラの好きな肉汁《スウプ》を、とくに注意して造り、加減よく冷やして、実《み》なしの肉汁《スウプ》にして出したのだ。だが、肉汁《スウプ》はもう温《ぬる》くなって、澄んだ表面にはパセリが、これも念入りに刻んで粉のようにしたのが、新鮮さを失って、浮んでいる。
「モイラ。どうした」
モイラの顔が少し此方《こつち》へ向いた。鳶色の前髪の下で、眉が吊り上がって、下目にした眼は瞼《まぶた》に力の入った、憂愁で一杯の、今にも泣き出しそうに、なっている。どう遣《や》っても、どうにもならない程|拗《す》ねた眼だ。しかもその眼は、拗ねるのが当然の権利だ、としている眼だ。自分はこの父親に、どれ程我儘をしてもいいのだ。と、無意識の中で、そう信じ切っている、何者かが、そう信じさせている。そんな眼だ。
その極端に言えば、王者の自信のようなものが、一人の稚い少女の中に腰を据えている。それがなんとも言いようのない純一な、無心な可哀らしさを滲《にじ》ませている。黄みのある薔薇色の脣《くち》が不機嫌で腫《は》れたようになり、熱っぽくなっていて、幾分醜く膨《ふくら》んでいる。幼い頃の泣き出す前の顔と、あまり変りがない。
その眼が林作を見た。
「お魚。……お魚をたべる」
そう言って又、モイラは眉を吊り上げた儘、いよいよ憂愁を含んだ眼になって、黙った。モイラは魚を嫌いで、平常《ふだん》平目の刺身の他は、あまり食わないのだ。
メランコリィは初めてだ。と林作は想った。
先刻《さつき》、ハムと、コンソメのジェリを刻んだものと、クレッソンを盛り合せた皿を運んだ柴田は、湯殿で自分に当りちらした時のモイラの様子が、又もっと酷《ひど》くなって、しかも内へ籠《こも》って来ているのを、見た。
今朝湯殿で、気の故《せい》か、日毎に熟してくるように思われる、乳暈が膨んだ、モイラの乳房が、その癖まだ何処かに、綿毛に籠った梅の実のような固さを残しているのを、つい気になって、一寸横から覗くようにしたのを、覚《さと》ったらしいモイラは、不機嫌な顔になって石鹸の泡を乳房に盛り上げ、まだ繊くて頼りない胴中にも、水々しく肉が着いて、しかも未《ま》だ熟し切る前の桃の実のような腰にも、ゆっくり石鹸の泡を立てた。そうして、シャワアを出す段になると、湯が熱いと言って怒り、流すのが済んで、タオルを差し出せば一寸触って見て、
「湿っている。もっと乾いたの。紅いのは厭って、言っただろう?」
と、突慳貪《つつけんどん》に言って、憎たらしい仕科《しぐさ》でタオルを自分に打《ぶ》つけたのだ。タオルを打つけると同時に、何の花か、花の蕊《しべ》にあるような香気が、酷く微かにだが、懶《ものう》いような、気の遠くなるような刺戟で、柴田に、感じられた。実の実《な》っている梅の樹の下で、微かな風を感じたような、懶さである。その癖その紅いタオルはモイラが選んで、気に入っているものなのだ。小物箪笥の中に一日かそこら入ってはいたが、よく陽に乾してあったのだ。
その、王様にでもなった気の、小癪にさわる不機嫌が、今、食卓へ来て籠ったものになり、しかも凄い甘え気分を孕んでいる。それを見た柴田は、いよいよ意地がやけるのと同時に、この分では自分達の朝食は、際限なく延びるだろうと思い、
(旦那はそりゃあ、鼻の下を長くして喜んでいるんだからいいが、此方《こつち》は堪りゃしない)
と、ヒステリィを起しかかった顔で、湯殿の隣の自室に入ってしまった。家庭教師の御包《みくるみ》も様子を察知して、これも自室に入って、扉を締め切っている。
やよは、愛している、円く太った仔猫を、いつも二匹入れているような、大きな胸を心配で一杯にして、台所に一人、立っていた。
(旦那様が直ぐにお機嫌を直させておしまいになるだろうけれど……)
そういう、何となくがたぴしした気配も食堂に伝わっていて、それにもモイラは自烈《じれ》るのだ。
モイラの胸のどこかに、暗い雲のようなものが出て来ていて、どこからか来たその雲は、当分晴れそうもなく、もやもやしている。モイラの意志が、モイラの全部が、その暗いもやもやの中に入ってしまっている。モイラにはどうしたのだか、わかっていない。モイラという女の子の、感激することがないような、はっきりしない、感情のある場所《ところ》が、暈《ぼんや》りした曇り硝子で包まれているのだろう、とでも思うより仕方のないような漠然とした性格が、今朝のようなムウディイなようすを、外側の人間にも、モイラ自身にも、一層わからないものにしているようだ。唯《ただ》一つだけ、モイラにわかっているのは、その黒い雲の襲来につれて自分を襲った、じりじりするようなわがままな気分である。林作に、この自分の状態をもっと心配させてやりたい、強烈な、慾望である。林作の、自分に溺れている胸の中の全部を、もっと揺《ゆす》ぶってやりたい、抑えても抑えても、抑えられなくなっている甘えである。
林作が自分の様子を見て、困惑しているのを、モイラは知っている。心配しているのも知っているのだ。だが浅黒い、大好きな彼の顔には複雑な感じのある、蜜の籠った表情が燻《くゆ》っていて、――それは幼い時からモイラがかぎ馴れた、ウェストミンスタアの煙のように燻っていた――愛の窪みを造っている、彼の頬の底には、子供を見ているような微笑《わら》いを溜めている。それを、先刻《さつき》から気づいていて、それがモイラを自烈《じれ》させるのだ。自分の今の、なんだかわからない、拗《す》ねたくて、どうにもならない気分は、林作がもっと真面目に、もっとひどく心配してくれるのでなくては、直らないのだ。
林作は、それを読み取っている。それが彼の頬に、愛の蜜を潜めた窪みをつくっているのである。
モイラが満十五歳と六箇月になった今年も又、裏の梅の実が、青い葉や幹の蔭にぎっしり固まって実《な》る六月が来た。御包と柴田との命令で、常吉が丹精したので、梅の実たちは、モイラの胸の果実や、腰と、競うようにして、空と葉との間に、綿毛に煙《けむ》り、実《みの》っていた。
まだ月初めだが、今朝は陽気外れに蒸暑い。皮膚の肌目《きめ》がひどく細かいモイラは、毎年最初の蒸暑い日には息苦しさを感ずるので、ぐったりして、元気を失う。それも不機嫌の原因の一つには違いない。
モイラは小学校の六年の夏、裁縫の時間に、参観に来た受持ちの女教師と、裁縫の教師とが、モイラの席の脇に立止って、モイラの不器用な手許をみていてモイラの頭の上で何か言って笑ったのを、感じ取った。モイラは酷《ひど》い劣等感を感じ、それが幼い怒りに固まった。モイラはそれを林作に訴え、林作の甘いのをいいことに、その日から女子師範を止《や》めて、現在通っている、神田のミッション・スクウルの聖母学園に変ったのだが、今度の学園にも、ロザリンダという修道女で、修身を受持っているのが、女子師範の裁縫教師に代って、モイラの敵になった。彼女は家庭教師の御包と同じような、贋物の匂いのする道徳観で、モイラを圧《お》しつけるのだ。粉化粧でもしたかと思われるように、艶の無い、白い顔は肉が豊饒《たつぷり》ついていて、彼女は二重になった顎の上で、口尻を曲げて何か言う。ロザリンダは、モイラの、怠け者であることと、いつも体をぐにゃりとさせている体つきを、直接、不道徳と、結びつけていた。
それは彼女の明察であったかも知れないが、その彼女の明察は今の時期ではたしかに、走り過ぎて、いた。ロザリンダの細める癖のある、無気味に光る眼は、いつもモイラを追っていて、モイラに姿勢を正しく座ることを、命じた。ロザリンダは或日、贅沢と、怠けるということが、いかに罪深いものであるかを、授業の時間を割《さ》いて訓《おし》え、その訓《おしえ》の終りに、「私たちの方では、そういう者がいた場合、宗教裁判というものがあります」と、そう言って、それを言いながらモイラを凝視した。モイラは「宗教裁判」という、はじめて聴いた言葉に恐しいものを直感したので、酷く怯え、思わずロザリンダの眼を大きく開《あ》いた眼で見詰めた。モイラの眼には恐怖が籠った。その時ロザリンダは、一種の満足感を現したように、モイラから眼を離したが、モイラはその様子にも、御包と同じものを視た。ロザリンダ以外の教師は、林作が多額の寄附をして呉れている上に、彼の様子に少しも尊大なところがなく、優しい微笑いの中にも威厳が見えるのを見て、尊敬を抱いていた。そこで自然、モイラはどの教師からも特に甘い扱いを受けていた。そんな理由があってモイラは、ロザリンダを見ないで済む暑中休暇が今、眼の前に来ていて、それなのになかなか、来ないのに自烈《じれ》てもいる。
林作と家にいれば、何一つ叶《かな》えられないことのないモイラにとって、暑中休暇は天国なのだ。それも一つの大きな原因のようだが、二三日前に、モイラの入浴を手伝っていた柴田が、毒のある言い方でモイラに、林作に女があることを仄めかした。柴田は林作が、モイラが十四歳になった頃から、モイラを入浴させる習慣を止めたので、じりじりする卑しい嫉妬から逃れることが出来た代りに、毎日、夏の暑い日には二度、モイラの裸に湯をかけたり、背中は勿論、モイラの上半身を洗っている間に脚を洗わせられたりする羽目に陥った。又モイラというのが、気が長いのか、莫迦なのか、遊び半分で、中途で洗うのを止《や》め、足を組み変えたり、石鹸の泡を際限なく泡立ててみたり、している。普通のより高く造らせた腰かけにかけた脚を、柴田の眼の前に突き出して洗わせるのだが、のんびりしてくると、遊んでいたいために何遍も、もう一度洗えと命令する。そうかと思うと柴田の手を押しのけて、念入りに海綿で膝を、擦るのだ。ますます、多くなってくるような気のする髪の毛を洗うのが又、腕が痛くなる仕事である。産毛《うぶげ》に籠っているような稚さを、どこかに残しながら、日に、日に、熟して行く果実のようなモイラの体からは、植物性の香料のような香いが立つ。柴田は、結婚していた頃、六月の中頃に咲く、紅みの濃い、百合の花を鋏で截ったことがあったが、その時に感じとった、懶いような香気が、モイラの体を拭いている時なぞに、ふと、感ずる香気に、酷似している。植物性のもので、清潔《きれい》な香気なのだが、まつわるような粘着性は執拗で、モイラの皮膚の上に、微かではあるが燻《た》きこめたように、迷っている。無邪気なのか、故意《わざ》とか、紅い百合の香いのたつ、子供のような皮膚をした脚を、柴田の眼の前に突きつける。浴槽に入る時、又立ち上がる時、嫩《わか》い樹の枝のようなモイラの体は、動いたり、交叉したりする生きもののように、柴田の眼の前を塞ぐようになる。柴田はモイラの体を見る内に、それまでにはなかった、別な眼を持つようになっていて、庭の榛木《はんのき》の幹が雨に濡れて、水気をたっぷり持ってうねった形をしているのを見て、女の脚を聯想するようになった。そうしたモイラの発育は胸や腰ばかりではなくて、水々しいモイラの脚の枝と枝との間にも、熟して行く、もう一つの果実があることを、感ぜずにはいないのだ。モイラが、本能的に行儀はよくしているとは言っても、驚くほど自由で大胆な動きを見ている柴田は、どきどきする気持を、抑えぬ訳には行かない。
モイラは、柴田の、自分の体を見る時の嫉妬を感じてはいるが、そんなことを念頭においていない。ただ入浴がうれしいだけだ。柴田に喧《やかま》しくやり直させて生温《なまぬる》くした湯をかけさせると、湯は捻《よじ》れた紐のようになって皮膚の上を流れる。それは父親の掌《て》が、背中を軽く撫で下ろす時のような、柔かな愛撫である。モイラは、自分の皮膚の温度より幾らか温度の高い湯が好きで、それを或日林作に話したことがある。そうして柴田がどんなに馬鹿であるかをうったえたが、その時林作は、モイラがまだ見たことのない微笑いを、頬の辺りに浮べて、モイラを見、黙っていたが、
「パァパと同じだね」
と、少間《しばらく》して、言った。モイラが、湯から上がって、化粧間に入ってからも、いつまでも洋服を着ようとしないで、柴田がじりじりする程、タオルに包《くる》まった儘でいるのは、モイラがタオルの触感が好きだからだ。モイラは又、ロオンの下着を脱いだり、着たりするのを好いている。モイラは下着を脱ぎながら、必ず肩や腕を体後とくねくねさせ、恍惚《うつとり》したような顔になっているのだ。モイラは暑くもなく、冷たくもない、温かな空気の中で、裸でいるのを好いている。モイラの皮膚は、赤子のように、柔い湯やタオル、ロオンの下着、空気との触れ合いを歓んでいる。肩や腕をくねらせて、恍惚《うつとり》したようになって下着を脱ぐモイラを見て、柴田は嫉ましさを忘れて、奇異の感に打たれた。柴田は娘の頃から皮膚がガサガサしていて、ロオンの下着なぞは身に着けたことがない。繊維がところどころ寄っているような、ゴリゴリの安い晒布《さらし》の胴に、垢すりのような安いメリンスの筒っぽの袖を附けた肌襦袢なぞを着せられて育ち、二十七で死別した夫からも、愛撫と名のつくようなものを受けた記憶がない柴田には、不可解な感覚である。父親からも、体を撫でて貰ったことのない柴田は、林作に、否応なく服させられてしまう、威のようなものを常時感じていはするものの、彼のモイラへの態度を見た限りでは西洋の映画にあるような、いやらしい男だと、視ていた。モイラの肉体《からだ》が熟してくる一方、柴田の体は、あまり嫉妬をするので、その疲労で衰えるのでもないだろうが、いよいよ衰えて行く感じがある。四十二歳の肉体《からだ》が、五十近い肉の垂《たる》み方をしていて、細かな斑点のようなものが殖えて来ている。その衰えた肉体《からだ》の中に柴田は、女盛りをいくらか過ぎた女のような、生《なま》な、執拗な嫉妬を、貯蔵している。その柴田の、主としてモイラを入浴させる時に起す嫉妬が内向した揚句、俄かに突破口を求めて爆発して、林作の件《くだん》の告げ口に、なったようだ。それは自分に裸を見せつけるモイラへの厭がらせである。柴田もモイラが、明瞭《はつきり》した故意で、見せつけているのではないことは知っているが、半ば無心で遣《や》っていることが、柴田にとっては、故意でするよりも香気が強く、恐しい刺戟である。モイラの将来の、幸福な人生を予約しているような、モイラの蜜を塗ったような体が、柴田は唯々、憎らしくてならない。時にはふと、憎い中に別なものを感ずることもある。憎みながら、惹かれるようなものを、感ずることもある。だが柴田はレズビアン的な性質を持っていない。又御包のような、サジスティックなものも、あまり持ち合せない柴田は、唯羨ましく、憎らしいだけである。モイラは父親林作の愛情が、誰よりも自分に厚いということを、知っている。それがどれ程深いものかということを、本能的に捉《つか》んでいる。それで柴田の言葉から受けた刺戟はすぐに、薄くなったが、柴田のその時の表情や、厭味な告げ方もあって、傷つけられた不快はやっぱり大きく、残っていた。それも今朝の突発的なもやもやの原因の一つではあるらしい。柴田に言われたことに不快を感じたモイラが、林作の、自分に溺れている度合を確かめようとする慾望は、この二三日、とくに顕著になって来ていた。それも一つである。ところで、それが確かめられた今、モイラの中の、貪婪《どんらん》は無限の膨脹を、しはじめたのだ。もっと確かめたい。父親を、どうしようもなく、自分に溺れさせて遣りたい。その自分の確かめた幸福を、手で捉《つか》まえて、むさぼり食いたい。モイラの慾望は無限に膨んでいる。
それはモイラが幼い頃から持っている、肉食獣の、一方的の、残忍な、慾望であって、アンファン・ガテが突如として、フィイユ・ガテになったのである。
林作が言った。
「何《なん》の魚だ」
(こう言って遣《や》ったらモイラは、一層むずかるだろう)
案の定モイラは前より一層ひどく、可哀らしい体をくねって、何も言わない。モイラは、魚なんか欲しくはないのだ。ふと林作の書斎にあった外国の雑誌で見た、フォオクのようなもり[#「もり」に傍点]で引っ懸けられてぐったりとなっている、肥った白い、アメリカの魚が頭に浮んだので、魚が食いたいなぞと、言い出しただけのことである。体をくねりながら横を向いたモイラの眼が、瞬きをしたと思うと、長い睫毛に涙が盛り上がって、下瞼に溜った。又瞬きをすると涙の雫が頬を弾《はじ》けるように伝わり、窪みのある脣の端に止る。
林作が紗の羽織を重ねた袂《たもと》から、手巾《ハンカチ》を出して卓子《テエブル》を廻り、そむけようとするモイラの頬を抑えて、涙を拭いて遣《や》った。鞣《なめ》した羊革のような、幼児の頃から触れ馴れた頬の皮膚がかわいそうに、汗ばんでいる。林作は手巾《ハンカチ》をそこへ置いて、椅子に戻った。
(仕様のない奴だ。だがこれはどういうのだろう。平常《いつも》の甘えにしては酷過《ひどす》ぎる。大人になろうとする一時期の変調だろうが。……だがヒステリィはヒステリィとして、これ程|巧妙《うま》く俺に甘えた女はいない。これで技巧というものは知れたものだということがわかる。レェゼマンに聴いた、彼奴のもと知っていた医者の、精神分析医だったか、それの臨床日記にあったという、小さな娘の話というのが、今日のモイラに似ている。俺はその話を聴いた時、その幼い娘が可哀くてならなかったのを覚えている。モイラの生れぬ前のことだ。病気をして寝ている娘が見舞に来た父親に向って、立っていればかけろと言い、椅子にかければ立てと言って、自分の我儘に自烈《じれ》て泣き止まない娘の話だ。可哀らしさに耐え切れぬ想いで椅子にかけたり、立ったりした揚句、とうとうそこに立った儘、男泣きに泣く父親の様子が、眼に見えるようだった。たしか大工かなにかの父親で、病気の娘の傍《そば》にいて遣れる時間が短いので、短い時間の間に出来得る限り、父親の愛情を眼で見たいという娘の、愛の慾望の発作なのだ。なにかあるには違いないが。……体が急激に変化する時期の、不安のようなものもあるのだろう。大体半分は甘えのもやもやだ。何《なん》にしろ俺は、これ以上|擒《とりこ》になりようがない程、モイラの擒にさせられたようだ。ふむ、これが情人《おんな》だったら、相手にとって不足のない奴だが。幼い子供が、無意識でやるのにそっくりな甘えだ。それにこの頃ではもう幾らか、意識が入って来ている。十二三の頃、まだまったくの子供でいて、アレキサンドゥルを結構手玉に取ったようなところがあったが、こういう娘に成長したところを見ると、当然なことだ。あの頃モイラとアレキサンドゥルとの間の、一種の恋の出来事《アクシダン》が、俺の、モイラに優るとも劣らない愛情の貪婪を持っている俺の心の奥底に、苦みの混った、秘密な微笑《わら》いを誘い出していたことも事実だ。あの頃、アレキサンドゥルと、モイラとの間にいて、自分が演じている役割《ロオル》に、俺が浅くない興味を覚えていたのも、事実だ。此奴《こいつ》の天衣無縫の可哀らしさは、生れつきのものだが、俺の胸の底にある、秘密な、恋のようなもの……この俺の中の感情は、恋としか、言いようがないようだ。この俺の胸の奥底に持っているものが、モイラの貪婪な、愛の蜜に吸いつく慾情を助長したかたむきもたしかに、ある。……だが何処まで俺を溺れさせる奴だろう)
ふと見ると、モイラが先刻《さつき》の儘の、下眼にした大きな眼で、凝と此方を見ている。自分の魔力を信じていて、その反応を見ている、女の眼だ。
(此奴《こいつ》が)
「何の魚が食いたいのだ。うむ?」
林作が、額で見るような見方でモイラを見た顔は、底に揶揄《からか》い微笑いを隠しているが、語調は故意《わざ》と厳しかった。
モイラは怯《ひる》まない。一寸難しい表情で眉をひそめ、眼を暈《ぼんや》りと外《そ》らした。
「……海の。大きな、白い、もり[#「もり」に傍点]で刺した……」
モイラが言った。
「そいつはやよが困るだろう」
「駄目。パァパは駄目」
モイラはいよいよ反抗した気勢を示し、汗ばんだ、タヒチか何処かの女のような皮膚をした腕をくねらせ、大匙《スウプさじ》を手に取り、それで卓子《テエブル》に瑕《きず》がつく程|卓子《テエブル》掛けをしごいている。
(ふむ。多分妙な不機嫌の中に入りこんでしまっているところを、無理やりに引張り出されるのが厭なのだろう)
気がつくと、林作の前の肉汁《スウプ》も温《ぬる》くなって、パセリを浮せて澄みかえっている。
林作が、ナイフで卓子《テエブル》を軽く叩く合図をして、やよを呼び、肉汁《スウプ》に入れる氷片を少し持って来ることを命じた。先刻《さつき》一口飲んだ時、肉汁《スウプ》の味が一寸濃すぎたのだが、林作はやよにはそれを、判らせまいとしている。
「厭」
やよの大きな背中が扉口を出るや否や、モイラが言った。
「厭。パァパは会社へ行っては厭」
子供の頃のままに、下瞼が涙でも溜めたように膨んだ眼が、濡れた睫毛をつけて一杯に開かれ、怒りと甘えと哀訴が、滅茶滅茶に混り合って、林作に向けられたと思うと、薔薇色が濃くなり、熱をもって来たように見える脣が妙に歪んで涙が滾《こぼ》れ、又、滾れた。その眼は、林作の心が忽ち動いて、又自分のことで一杯になったと見て取ると、涙を頬につけたままで、凝と林作を見た。今度は明らかに故意《わざ》として見せている顔だ。蜜のような甘えをひそめた哀訴の顔だ。
(何という眼だろう……)
やよが氷を入れた硝子の小鉢に匙を添えて、持って来た。そうして林作の前におくと、懸命な顔で、モイラを見た。やよは台所に退《さが》って氷を用意した時、林作が冷やし直しを命ぜずに氷を命じたのは、肉汁《スウプ》の味が濃かったのだと、気づいた。それで顎の大きな顔を恥ずかしげに紅くしている。やよは、忠実な番犬のような、小さい吊り上がった眼で、モイラの涙に濡れた顔を見つめ、
「モイラ様。何か別に、お造りして参りましょうか」
モイラは一寸鼻白んだようで、おとなしく頸を振った。
「…………」
「モイラは大きな白い魚が食いたいのだ」
「はい?」
「いや、冗談だ。やよはあの二人の食事を、今から直ぐに出して遣れ、心配しないでお前も先に食え」
「はい」
やよの大声を殺した小さな声は、感謝に溢れている。
「では旦那様」
「モイラ。パァパが今日は家にいるから、肉汁《スウプ》を一口|遣《や》ってごらん。一寸濃いが美味い。後《あと》はパァパの部屋で寝台《ベツド》を慥《こしら》えて上げるから、少し横になれ。パァパの部屋にある夜食用の缶詰で、やよに麺麭《パン》を持って来させよう。どうだ」
モイラは林作を視て、黙っている。だが反対はしなかった。林作を困らせたことと、会社を休ませた満足とで、モイラの中の不思議なモンスタアは一応、抑えられたようだ。
男の冷静を持っている林作は、自分の前にモイラのような肉食獣の現れなかったことを倖《しあわせ》なことに思っているが、本来女好きで、生来モイラのような型の女を好んでいる。だがモイラのようなのは、モイラが最初である。
(こういう女の子を、娘にせよ身近に置くのは、これが最初の最後だろう)
と、林作は想っている。三十六歳でモイラの父親になった林作は今年五十二歳になる。まだ老いの兆候はない。だが現在林作は、十五歳と六箇月になったモイラを眼の前に見ていて想うのだ。
(この先どんな女にせよ、俺に女が出来るということはないだろう。それはモイラというものが、俺の胸の中で、女が占める筈の場所一杯に、存在しているからだ。一人娘というものは父親の最後の愛人だというが、そんな例も見ているが、だが俺の場合は、モイラが最初で最後の恋人だといっても間違いはなさそうだ)
モイラは林作が氷片を入れて呉れた肉汁《スウプ》を、厭々のように持った匙で掻き廻し、少し掬《すく》って脣《くち》に運んだ。
牛肉の肉汁《スウプ》は、口惜しいが美味《うま》いのだ。急激に腹が空いて来ている。だがモイラは、やよがもう一度冷たくして来たハムの皿には眼を向けないでいた。
結局やよに、次の者のために炊いた熱い飯を持って来させ、冷蔵庫に入れてあった、やよの母親が持って来た卵の黄身をかけて、二杯食った。
林作は、どこか淡黄を帯びた薔薇のような色の脣に、卵をかけた飯を銀の匙で一口、一口運んでいるモイラに、眼を遣《や》った。
(まだ子供だが、綺麗になったものだ。円かった顔の形が幾らか長くなって、顎が細く見えるようになって来ている。鼻は円みを残したままで整って、来た。莫迦な甘えようさえしなければ優美で、気品さえ備った顔になって来た。体も殆ど大人だ。皮膚は、若い男の眼には危険な、むしろ毒な肉感を、持って来ている。まだ成熟の過程にあるとは言っても、たしかにモイラは気品と肉感とを同時に持った、異様な美を遂げたといっていい。だが、甘える時の他は、もう成熟した女に見紛うようなモイラの顔が、どうだ。脣《くち》だけは幼い頃のままだ。脣だけが幼いままでとり残されている。西洋の彫刻なんぞを標準にすると、幾らか厚くて、肉感的ではあるのだが。整って来た顔と、まるで幼い脣とが、どこか均衡の破れた、面白い対照をしている。俺が幼い頃から、賞美して来た脣だ。賞美して来た、というより、賞味して来たと言った方が、正直な告白だろう。俺は幾度か知れないほど、あの可哀らしい脣の接吻を受けている。俺は何度か、睡っているモイラの仇気《あどけ》ない、半ば開《あ》いた脣に、見惚《みほ》れて来た。幼いモイラの頬に接吻をして遣る時、俺はあの脣を意識していなかったとは、言えない。俺がモイラのようなのを女に持たなかったことはたしかに、嘉《よみ》すべきだろう。若し情人がこんな脣を持っていて、この脣が俺を裏切って、他の男の接吻を受けたとしたらどうだ。そんな場面を俺が見てしまったとしたら、どうだ。俺はその場を平静に切りぬけることが出来るだろうか? 表面の平静ではない。内面の平静が保てるだろうか? それは出来まい。モイラは俺の娘だ。それで俺はこう遣《や》って静かに、この可哀らしい脣を見遣《みや》っている。モイラの脣が俺を裏切った形になったとしたところで、又その裏切りが俺の眼の前でなされたとしたところで、俺はそれを見ていることが出来るだろう。好きな舞台女優の恋愛場面を見るように、一寸締りのない微笑いを浮べるかも知れない。その微笑いの中に、或は微かな、苦い味が混《こん》ぜられない、とはいえない。……その苦い味は、嫉妬の味であるかも知れない。だが酷いものらしい恋の嫉妬の苦痛は、ないだろう。俺とモイラとの間に長い月日をかけて培われた、微妙な、密着が、それによってそこなわれることのないのを、俺が知っているからだ)
モイラの脣が又、卵の飯に対《むか》って小さく開き、銀の匙に吸いつくようにして飯を口に入れた。
林作は肉刺《フオオク》の手を休め、モイラの無心に開《あ》いて、匙をしゃぶるようにする薔薇色の脣に、我にもあらず凝《じつ》と、見入った。
「美味《うま》いか?」
「うん」
モイラは横顔を見せたまま、不機嫌を装って、答えた。
林作は浅黒い頬の内側に微笑いを溜め、涙が乾いて、どこかにまだ生熱《なまあつ》さを残しているようなモイラの頬に、やや好色な眼をあてた。
* *
林作はモイラにとって長い間、〈好きなパァパ〉であり、〈甘える対象〉であったが、モイラが十三歳になった頃から、林作はモイラの中にはっきり、尊敬と蜜の甘えとの対象としての風姿を、現すように、なった。
二年前の十二月二日のことである。モイラは学校から帰って、湯殿の前から登る裏階段に来ると、二三人の職人らしい男が下りて来るのに出会った。階段には藁屑や、布の切れ端が落ち散っている。モイラの後《うしろ》で、湯殿から来たらしいやよが、
「モイラ様、モイラ様のご立派な寝台《ベツド》が出来てまいりました」
と、言ったが、男たちの後から柴田の足が見えてくると、湯殿へ引込んだ。一寸やよの影に眼を向けた頭《かしら》らしい職人を先に、二人の職人がモイラに会釈をして、玄関に去る後《うしろ》から下りて来た柴田が、
「旦那様がお待ちでございます。寝台が出来てまいりました」
と、やよの出て来たことを知っている声で、言った。林作がモイラを歓ばせようとして、モイラには黙って、寝台《ベツド》を誂えていたのだ。その日はモイラの生れた日で、その日からモイラの寝室が、林作の書斎と廊下を隔てて向い側の、死んだ母親の居間兼、寝室だった部屋に移されたのだ。部屋に入ると、広い部屋の真中に、格子のように四角く仕切られたデザインの、その一劃、一劃に、曲りくねった樹や、鳥、裸の女なぞが彫ってある、欅材のセミ・ダブルの寝台が、どっしりと置かれている。
モイラは半ば脣《くち》を開け、見る見る頬から耳にかけて紅潮して、立ち止った。眼が潤んだようになって、脣の辺りが締りのない、赤子のような微笑《わら》いに弛んだ。奥の壁際に立って、何か話していた林作と常吉《つねきち》とが同時に振り返って、モイラを見ている。
「モイラ。此処へ来て立って御覧。丁度この辺の筈だ」
林作は外出着の儘の、薩摩絣の着物に塩瀬の縫紋の羽織の胸の下辺りに掌《て》を遣り、後《あと》の言葉は常吉に向いて言った。林作が昔、繁世《しげよ》の為に伯林《ベルリン》から送った、楕円形の鏡を、モイラの背の高さに合せて、掛け直すので、常吉が呼ばれていたのだ。その時の、浅黒い頬の内側に甘い微笑いを溜めて、自分を見ていた林作の立像と、その傍に控え目に立って、暗い額の下から、静かな、だがどこか苦しげな眼を自分に向けていた常吉の姿とは、不思議にモイラの記憶の中に長く、明瞭《はつきり》と、残っていた。
その頃、襟を小さく明けただけの、何の飾りもない筒形《つつがた》の、色は紅《あか》だが、ひどく大人びた服装《なり》をさせられていたモイラは、身動きをする度に、小高い乳房の影が既に感ぜられ、腰も丸く持ち上がっていて、どこかに、少女の体を熟させる春の萌しが、みえていた。それが常吉の胸を切なくさせ、その頃から彼の額には時折、暗いものが纏《まつわ》りつくように、なったのだ。モイラが微笑いを消し、かすかに体をくねらせて、そのいくらでも愛情を食いたがる貪婪な眼で、林作の表情の中にあるものを、いくら舐《な》めても舐め足りるということのない甘い蜜を、母の乳房をむさぼり吸う強い赤子のようにして吸いとり、その眼を常吉に移した時、常吉は既《も》う背中を見せて、林作のを下ろした柔かな革の手袋を嵌めた掌で、鏡を下ろしにかかっていた。常吉のモイラに対する感情を、林作は気附いていたが、彼の常吉に対う時の、自然な様子は変らなかった。
常吉は、モイラに対して抱いている切ないものを、表面には出さぬようにしていたが、満十三歳のモイラは、常吉の変化を感じとっていた。モイラは林作との間にある幼児の頃からの愛情の歴史や、ピアノの教師の、アレキサンドゥルとの不思議な経験によって、身近にいる男との間にある、恋愛的なものには馴らされている。モイラは、当然起るべきことが起ったように、想っていた。だが、自分の擒《とりこ》が一つふえたことに、肉食獣の歓びを持っていて、窃《ひそ》かに常吉を偸《ぬす》みみていた。常吉はそんなモイラの中の、可哀らしい悪魔を、読みとっていた。モイラが、幼い時のように自分と手を繋いで、廐舎に馬を見に行きながら、何か言って、自分を凝と見上げるような時、常吉は胸の中に持ち上がって来る、愛情というより、切ない、愛情とも、なんともわからない、熱い塊《かたまり》のようなものを、抑えた。常吉は、自分の胸の中に、折にふれ持ち上がって来る、苦しい、切ない塊が、恐しいものだと、知っていた。育ててはいけないものだと、知っていた。その苦しい塊は、何時《いつ》何刻《なんどき》、恐しい慾望に変るかも知れぬものである。常吉は自分の中の切ない塊を、何《ど》う遣《や》ってでも、抑えなくてはならないと、思っていた。モイラは未だ十四歳になるか、ならぬかの、少女である。そうして、モイラは常吉にとって、恩義のある主人の、令嬢である。常吉は、林作から聴かされている、自分の父親のイワノフに、誇りを持っていた。日露戦役で、林作の父親の大作が、軍医として遠征していた、同じ戦線で戦ったロマノフという将校に、特に眼をかけられていた、父親のイワノフの、誠実で、勇気のある性格を、誇りにしていた。それに加えて常吉は、自分自身にも誇りを持とうと、心に思っている男である。常吉は(立派な男として生きよう)という、少年の頃からの誓いをたて抜こうと、思っていた。身分は馬丁でも、自分もイワノフのように誠実な、勇気のある馬丁として、生きて、死のう、という決心を、常吉は改めて固め、モイラへの切ない愛情を、抑制することを、心に誓った。
いつとはなしに、常吉は変った。それまで常吉は、林作への忠誠と、畏敬とから、控えめに、つつましく振舞っていたが、だがそうやっている中にも、奔放な、生《なま》の男を、感じさせていた。襯衣《シヤツ》や、厚地のカーキ色の洋袴《ズボン》の下に生身の男を漲らせていたが、少し宛《ずつ》、その生なものが体の内側に籠り、生ぐささを洗い落して行って、よほどのことがあって、節制の誓いを破る羽目に陥らぬ限り、常吉の中の生なものは、彼の体から漲り出ることはあるまいと、思われた。林作はそれを、視ていた。そうして彼の常吉への愛情と信頼とは深まって、行った。
その林作の心持は、モイラの十四歳の誕生日の翌日から、常吉を、屋敷内ではドゥミトゥリイと、呼ぶことにしたことにも、現れていた。常吉の父親のイワノフが、常吉という日本名《にほんな》とは別に、ドゥミトゥリイという名を、戸籍には載せていないが、附けていたのである。そのドゥミトゥリイというロシア名《な》は、イワノフが、愛する息子のために、結婚をせぬ前から、主人のロマノフに、貰っていたものだったのだ。当時は日本の人間の、ロシアというものに対する感情が酷《ひど》かったので、ロシア名《な》を附けることは憚られた。イワノフはそれを大作に話しており、林作も大作から聞いていたのである。その常吉の、隠された感情のせめぎと、林作の常吉への愛情、その二つの感情の交流が、モイラの新しい寝台が運ばれた日、壁際に立っていた二人のようすの中に、図らずも滲《にじ》み出ていて、それでその二人の男の立っていてこっちを見た、その壁際の立像は、モイラの心に強く、印象されたのだ。
モイラは、浅黒い頬に蜜の微笑いをひそめて自分を視る林作と、額に暗いものを纏いつけ、肉の厚い頬に愛情の寂寞を刻みつけ、白い歯をみせて、何かを噛み砕く時のような口つきで微笑う常吉とを、二人の優しい恋人のようにして、持っていた。常吉の微笑う脣は、胡桃を歯で噛み割る人の口つきに、似ていた。
モイラは常吉を伴《つ》れて、林作と、車で厚木街道を走り、林作がそこに見つけた深い、森のような林に入って遊ぶことがよくあったが、持って行った胡桃の殻を常吉が、歯で割った時、その口つきが、常吉の平常《ふだん》微笑う時の口つきとそっくりなのを見て、帰ってから林作にそれを言い、林作も微笑って同意をしたことがある。林作はその林を、独逸《ドイツ》の森に似ていると、言っていて、よくモイラをそこへ伴《つ》れて行ったが、モイラも、枯葉の香《にお》いや、若葉や、若木の香いの混り合った、森の香いをひどく好くようになった。林作はモイラと常吉を伴れ、時にはやよをも伴って、その林に出かけた。そうして、林の中の樵夫《きこり》の通る道を、モイラと常吉を伴れて歩いたり、林作は毛布を敷いて書物を読んだりして、楽しい午後を過し、やよが一緒の時には、壜に詰めて来たシチュウや肉汁《スウプ》を、酒精《アルコオル》洋燈《ランプ》で温めたりもした。独逸の森の遊びが終ると、常吉かやよが手まめに、跡を片附け、食いものの皮や、竹の皮、なぞの残骸を焼き、疲れたモイラはその間草の上に敷いた、林作の毛布の上に睡った。常吉の感情に変化があってからは、林作は森遊びをいつとなしに止めた。森の遊びは、悩みを持つようになった常吉を伴れて行くのには不適当だし、急に常吉を伴わないようになることは、常吉を傷つけるからで、あった。そうしてこの林作と常吉との、二人の恋人の微笑いはそのどっちもが、林作の友人が持って来てくれる上等なチョコレェトの苦みを、持っていた。
モイラはそういう、林作と常吉との、自分を中心にした気持の交流を、稚い頭のどこかで捉《とら》えていて、それが林作を尊敬させる、漠然としたきっかけ[#「きっかけ」に傍点]になったのでもあったが、まだ何もわからない、幼い頃から、モイラは林作の表情や、ものの言い方、すべての林作のようすに、或るあこがれのようなものを、持っていた。特に林作が車のシイトや、長椅子に掛けている、ゆったりとした様子を、モイラは又とないものに思っていて、薬を飲む時間や、寝室に引きとる前の時間を、林作の膝に凭《もた》れて、外国の本の挿絵を眺め、彼の話を聴くのを、楽しみにしていた。そんな或日、贅沢な料理をむさぼり食ったり、装飾の附いた浴槽に浸《つか》ったりしている、四五世紀前の王の画像を見ていて、林作が、
「これは偉い王様の画像だ。御覧、偉い王様というのは偉そうにしたり、強がったりはしないものだ。大変、食いしん棒だったり、モイラのような綺麗な娘に踊を踊らせて、眺めるのが好きだったりするようなのの中に偉い王様がいるものだ」
と言ったことがある。その時林作がふとモイラを見て、微笑って言った。
「モイラは小さな王様だ。だがこの頃はあまり偉くないようだな。悪い王様だ」
光沢《つや》のある褐色の髪がこんもりと厚いお河童《かつぱ》の中から、大きな眼を光らせて聴き入っていたモイラが、凝《じつ》と林作を見上げて、満足そうな顔をしたが、林作の言葉の後《あと》の方を耳に入れると、耀々《きらきら》していた眼の中に不平な色が出て、脣が膨んで、尖った。林作はモイラの眼の中で歓びや、倦怠、稚い狡猾、不満、不機嫌、なぞが、絶え間なく変動する、その変化を、愉《たの》しげに見ていて、それを生甲斐にしているように見える。林作はモイラの眼の中に、小動物が怒ったような不満の色が出たのを見ると、モイラの小さな顎に掌をかけて、もう少しよく見て遣ろうというように、上向《うわむ》けた。林作のその仕科《しぐさ》を、意地悪と取っているモイラの眼は一層|怒《いか》って林作を見据えるようにする。林作が、モイラの薔薇色の脣に、特に魅せられるのは、そんな時刻《とき》だ。上脣の中央が小さく突き出た、柔かな花のような脣は、無意識な媚を湛えて、不平でならない、というように、膨んでいるのだ。
その日以来、モイラは、自分を偉い王様に擬していて、御包や柴田、出入りの男の鴨田、なぞに対する、思い上がった様子や、我慢をするということを知らない、底無し沼の我儘、体を動かしてすることはすべて厭だという蛇のような怠惰、直ぐに何かを口に入れたがる食いしん棒と、絶えず何かしらんに寄りかかっている行儀の悪さ、それらの欠点を、自分が偉い王様だからだと、思い込むようになっている。林作はそういうモイラを、ますます、可哀らしいものに思うようになった。そうして次第に林作は、小さな王者のように驕《おご》っている、そうして、絶え間なく愛情の生餌を食いたがる猛獣の仔を飼い馴らす、巧みな調練師になって、行った。
モイラは幼い時から、周囲《まわり》の人間が、自分に溺れたり、夢中になったりする原因が、自分の綺麗な顔や体、皮膚、可哀らしい、大きな眼にあるということを、知っていた。父親の林作の、自分に溺れている愛情や、アレキサンドゥルの、執拗で、サジスティックな、愛情というよりは狂気のようなもの、熱い湯のように、胸に入って来る、常吉の愛情。それらのものが、自分のものになったのは、自分の魅力が原因だと、いうことを、感じとっていた。又表面は、それらのものとは反対のもののように見える、憎しみのようなもの、例えば御包のサジスティックな憎悪、柴田の醜い嫉妬。厭らしいということが、どんなものか知らぬモイラにも、ひどく不愉快なものを覚えさせた、鴨田の眼つきや、粘りのある、ものの言い方。それらのものが自分を襲ったのも、やはり自分の持っている魅力にあることにも、モイラは気づいていた。現在ではその自信は、大きな、重みのあるものに、変っている。
林作の甘い蜜の愛情は、その濃密さを増して来ていて、モイラの心も、体も、溶かして、蜜のようにしてしまう程の誘惑を帯びて来ている。林作の愛情が、舐《な》めても、舐めても、無くなることのない、大きな蜜の壺であることを、モイラは知っている。知っていながら、その蜜の壺の中にある蜜を、拗ねたり、困らせたりすることで、どれ程無尽蔵か、試して遣りたい、強烈な誘惑に捉《つか》まるのだ。憎んだり、嫉妬をしたりする、厭らしい方の側も、御包や柴田などに代って、尼僧のロザリンダが登場している。既に御包や柴田を恐れぬようになったモイラも、ロザリンダの、粘りつくような眼には、参っている。ロザリンダは、修身の話をしながら、じろり、じろりと、モイラの顔や、体の動きを眼で追っている。どうかするとロザリンダの脣じりの下った脣が弛んだようになり、二つの眼が鈍く光って、モイラの怯えた顔の上に固定する。その眼はモイラの袖の無い夏服を着た肩に、移るのだ。モイラは、車で迎えに来る常吉に、暗い、大きな眼を見張って、無言で訴える。すると常吉の、罪のある男のように、切なく光る眼が、それを見迎えた。そうして、
(どうしたのですか、モイラ様)
と、彼も黙って聞くのである。モイラは車の中で、ロザリンダの恐しさについて一心に、話すのだ。御包や柴田が、幼いモイラを苛《いじ》めた頃から、同情者だった常吉は、傷ついた小鳥を見るようにして、モイラを見る。そうして必ず適切な、慰めの言葉を与えて呉れる。モイラは次に林作に、訴える。だがモイラが、林作と常吉とに訴えて、ようよう一時、恐しさを忘れても、ロザリンダは何処までも、モイラを追いかけて、来た。ロザリンダは夢の中まで追って来る。モイラはロザリンダの、大きな、浮腫《むく》んだ顔を夢に見て、怯えた。
重みのある、揺るぎのない自信を持ったモイラには、魔のようなものが更に、加わったようだ。モイラの眼はいよいよ、曇りをおびて光り、その眼は常吉に試煉の火を与え、一方では林作の心を、愛の深みへ、引き入れて、行った。
* *
林作は、モイラを飯を食いにでも伴れて行こうと思って、早く帰った日などに、モイラが学園から帰るのを待つ間、書斎の肱掛椅子に深々と体を凭せかけ、吸い差しのウェストミンスタアを指の間に挟んだ儘午睡代りの積りで軽く眼を閉じているような時刻《とき》、六月の初めの月曜日にあったモイラの異変を、ふと想い出すことが、あった。
(あれが、モイラが手に負えなくなった、最初の兆候だ)
と、林作は思った。
突然に、ひどい不機嫌に陥ったあの朝、林作が終始、モイラの機嫌を取って遣り、その上に、モイラの望む通りに会社を休んで、機嫌が直るまで傍に附いていた。モイラはその時の満足感に味をしめていて、それから後は少しばかりのことで忽ちムウディイな気分の中に陥ちこむように、なった傾向がある。だがそれはモイラが、林作に甘えようとして故意に遣るばかりでもないのを、林作は視ていた。モイラは幼い時から、何かを凝と、見ているような時、不機嫌だ、というのではないが、何処かわけのわからない、むっとしたようなものが感じられる、子供だったのだ。それが十五歳と六箇月の或朝、不機嫌に陥ってからというもの、モイラの不機嫌の中に陥ちこむ、気分の傾斜面が、滑りやすくなった、というような、そんな感じがある。
モイラの不機嫌は全く、奇妙なものである。モイラの不機嫌は、たとえば風の凪《な》いだ蒸暑い夏の日、空気が少しも動かなくなって、重く、湿ったようになる、そんな天気に、似ている。樹々の梢が微かに動いているのが、却ってむっとする暑熱を煽《あお》っている、そんな蒸暑い日に感ずる、重い、空気の堆積のようなものが、ふとモイラの中に出て来て、それが辺りに拡がる。その気分は、モイラの、気孔のないような、緻密な、蜜を塗りつけられたような皮膚の感じに、似ているようでもある。六月に咲く、紅い百合の、茎を折る時に発するような、重い、抵抗出来ない、モイラの皮膚の薫香にも、似ているようだ。そういう皮膚や、百合の薫香そのものが、不機嫌《ムウデイイ》な気分を発するのではないかと、思われる程である。モイラ自身、自分の気分を、もて扱って、いよいよ不機嫌になるのだが、その拗ねる様子は大きくなった今、いよいよ籠った、湿り気のあるものになって、それは重い、量のある、エロティシズムに通じている。そうして、その蒸し出されるものは林作を魅惑するのである。我儘一杯に不機嫌を撒きちらすモイラが、その我儘を知っていて遣《や》っているのは分明ではあるが、どうもそこにはもう一つ明瞭《はつきり》しないものがあると、林作は思うのだ。まるで我を忘れているようなところがある。比斯的里《ヒステリイ》のようなものではないだろうかと、林作は思うのだ。
最初の時には、子供から大人になる時期の変調だろうと思っていた林作は、この頃になって、このモイラの、時折陥ちこむ一種の気分のようなものが、モイラの生得のもので、それが蕾のように結ぼれていたのが六月の月曜日のあの朝、突然に花開いたのではないかと、思うようになっている。一時期のものなぞではなくて、モイラの性格の中にあるものが、明瞭《はつきり》した形をとって来たのかも知れないと、林作は思った。
何よりも、林作自身、モイラがそうなっている時の可哀らしさに魅せられて、そこに溺れ込んでいるので、林作はモイラを、そういうモイラの儘で眺め、愛情を傾けている状態になっている。林作にとって、モイラのそんな様子を眺めていることは甘美な、蜜の歓びで、あったのだ。
モイラというものが、もう一歩で成熟するというところに来たこの頃の林作は、モイラという紅い百合の中心にひそむ花の蜜が、どんなにきれいで、豊饒であるかを推察していた。林作は言いようのない微妙の中で、モイラという綺麗な花の存在を感じ取っており、現在のモイラに傾ける彼の愛情の微笑いは、一層甘やかに、いい知れぬ複雑をみせて来ている。
林作は、五十歳を越えた現在《いま》になって、花をつけた樹々の中の、辺りの空気も薫香を含んでいる小径に、足を踏み入れたのを、感じている。
(だが、これは俺にとって現実の花ではない。桃李は、幻の桃李だ。冠を正す必要はない……)
林作は心に呟くのだ。古武士のような、端正な、眼を閉じた林作の顔の上に、仄かな微笑いが、花の香《にお》いのように、漂った。
* *
既に幾らか、女の魔をひそめ始めたモイラは、どうかすると、無意識のように拳固《げんこ》にした掌《て》を脣《くち》にあてていたり、長椅子の背に凭れかかったりしながら、表情のはっきりしない魔の眼を、凝《じつ》と、林作にあてていることがある。傍《そば》に人がいるような時に、よく遣る。それも別な娘が、林作との間にいるような時だ。又、モイラは、上目|遣《づか》いに眼を白くして、林作を横から視る。たとえば林作の書斎の長椅子に、遊びに来た野枝実《ノエミ》と並んでかけていて、向い合った林作が、ノエミに話しかけているような時だ。ノエミにものを言いながら見ていると、ノエミから少し体を離して、足を組み、掌で膝小僧の上の辺りを、捉むようにしながら、横からノエミを視、又林作を視る。
そのモイラの眼は、大して意識して遣るのではないらしいが、なかなか、強《したた》かなものだ。茫洋とした眼の中に、(自分はノエミよりも魅力がある娘だ。どの娘より、自分の方が、愛せられるのだ)というような自信が潜んでいる。その自信が、立て籠めた雲の後《うしろ》にある月の光のように、潜んで、居据っている。モイラは、林作と話しているノエミを全く除外して、林作に愛情の強請をしているのである。林作の胸の底に、抑えることの出来ない、溺愛の情が、滲み出る。そうして林作は、女を二人傍において遊んでいるような錯覚に、陥るのだ。
「ノエミはパパと、どんな話をするの?」
林作が聞くと、ノエミは、モイラの眼と、何処か共通したもののある暗い眼を凝とさせ、黙っている。
その時、モイラがふざけて、後《うしろ》からノエミの顔を覗くようにするので林作が、
「パァパがノエミにお話をしている時に、そんなことをしてはいけない」
と、微笑《わら》いを潜めた、厳しい眼を向けると、モイラはそれを止《や》め、今度は黒い靴下の片脚を折り曲げ、一方の脚を投げ出して長椅子の奥に沈みこむように座り、上目遣いに二人を視ている。林作は、その日のノエミの様子を不審に思ったので、ノエミが帰ってから、モイラに訊ねた。そうして初めて林作は、ノエミの境遇を知った。モイラの断片的な、意味の取り難《にく》い話を綴り合せると、ノエミの祖母が優しみに欠けた女で、その女が母親の居なくなった家の中で、一人で大きくなっている様子である。殆ど家にいない父親には、発言権は無いのも同じで、ノエミが欲しいと訴える洋服のようなものも、父親が祖母に頼んで呉れはするが、効き目はないらしい。そんな様子を知った林作は、ノエミに気の毒なことをしたと思うと同時に、モイラがノエミに遣《や》ったことはいけない、と思った。これは言ってきかせて遣らなくてはいけない。そう思った林作は、膝に凭れているモイラの多い、艶のある髪を優しく撫でて遣りながら、言った。
「マァマがいないのは、ノエミもモイラも同じだ。だがノエミのパァパはノエミやモイラには解らぬことで疲れているのだ。それでパァパのようにいつもノエミの傍にいて、ノエミを可哀がって遣ることが出来ないのだ。わかるか? その上に可怕《こわ》いお祖母さんがいる。そんなノエミに、パァパのことを聞いている時に先刻《さつき》のようにふざけて、ノエミを揶揄うようなことをしてはいけない」
モイラが甘えるように首を振って、林作の掌を払いのけ、いつものように片頬を膝に擦りつけるのを見ていた林作は、両掌をモイラの頬にかけて上向《うわむ》かせた。林作の言葉を子守歌のように、うつつに聴いていたモイラは、頬にかけた林作の指先に、今までにない程力が入っているのに愕くと同時に、林作の自分を視る眼の中に、今までに見たことのない、厳しい色が潜んでいるのを、見た。長い睫毛が音をたてそうに、眼を二つ三つ瞬き、脣を泣こうとする直前のように歪めて、モイラは林作の眼に、見入った。見まちがえではないか、と思っているような眼だ。母犬の腹に鼻を擦りつけて乳首を探す仔犬のような、眼だ。林作が、哀れでならないのを抑えて、厳しい色を消さずにいるのを知らぬモイラは、汗ばんだ掌で林作の掌をおし退《の》け、愕きと、わけのわからない昴奮とで紅潮した顔に涙をふり滾《こぼ》して起ち上がった。一寸の間そうやって、立っていたが、号泣寸前の顔で林作を一目《ひとめ》凝と視ると、背を向け、部屋を駆け出て行った。最後に自分を視たモイラの、子供のような泣き顔の中に疑惑と、飼い主に鞭打たれた仔犬のような、哀しみを見た林作は、覚悟していた以上の寂しさに襲われた。大切なものが掌の中から抜け出て行くような気がする。モイラの後《あと》を追いたいのを、林作はようよう、堪えた。追いかけて行って、モイラを許して遣り、甘い言葉の限りを尽して抱き締めて遣りたい、殆ど恋の情熱のような愚かしい心を抑え、林作はウェストミンスタアの缶に、掌を伸ばした。
モイラは走って玄関を出、常吉のいる馬丁部屋に、駆けて行った。
「ドゥミトゥリ」
赤馬の蹄鉄を打ちつけていた常吉は、涙で濡れた顔で走って来るモイラを見ると愕いて、手を止めたが、手早く打ちかけていた蹄鉄の釘を打ちこみ、赤馬の脚の下を潜《くぐ》りぬけ、大きな掌で首を一つ二つ叩いて愛撫してやると、モイラの傍に立った。
「どうなさいました。モイラ様」
モイラの泣きながら、跡切れ跡切れに言う言葉の中に、「パァパが」と言うのを聴きとると常吉は、急いで狭い洗い場で手を洗い、部屋に上がって行って、白い手巾《ハンカチ》を持って来てモイラの涙を優しく、抑えた。モイラの唯ならない哀しみを見て、常吉は初めから原因が御包《みくるみ》や柴田のことではないと、思っていた。モイラの脣から「パァパ」という言葉が洩れるのをきいて、林作が何か、モイラのしたことについて窘《たしな》めたのだろう。それがモイラの生れて初めての、大きな愕きだったのだろう。そう見当をつけた常吉は、モイラの肩を、大切なもののように抑えて、部屋の上がり口にかけさせ、自分はそこに蹲《しやが》んで、少間《しばらく》の間泣き止むのを待った。モイラは耐えられぬ哀しみがこみ上げるらしく、小さな子供がするように啜《すす》り上げ、泣き|※[#「口+歳」、unicode5666]《じやく》りながら、労《いた》わるように見ている常吉の眼を、何ごとかを訴えるように、見入るのだ。紅くなった顔が涙に濡れ、睫毛に光る涙が、なんとも言えぬ程、可哀らしい。牟礼《むれ》家に来て、モイラの守りも度々するようになってから、長い年月の中ではじめて、自分の眼の中に見入って泣く、モイラを見た常吉は、熱いもので胸が一杯になり、忽ち全身が熱くなるのを、覚えた。全身に沸《たぎ》るようなものを懸命に抑え、常吉はモイラの落ちつくのを待った。
泣き※[#「口+歳」、unicode5666]りが幾らかおさまったモイラは、熱い、大きく開けた眼を訴えるように常吉に向けると、跡切れ跡切れに、話し始めた。モイラの長い睫毛の、涙に濡れた大きな眼が、この世に常吉より他に縋るものがない、というように、自分の眼を覗きこみ、常吉は、自分にはどんなにでも哀れみの麺麭を与えて呉れるものと確信しているらしく、欲しい慰めの甘い蜜を探すようにするのを、昴奮の中に見た常吉は、広い、肉の厚い胸の中に、渾身の愛情が集まるのを覚え、その煮えるような塊を懸命に抑えて、モイラを見た。
常吉はモイラの肩を抑え、熱い、濡れた哀れみを、自分の眼からモイラの眼へ伝えようとするようにして、言った。
「モイラ様。パパ様はモイラ様を、どんなにか愛しておられて、御存じでしょう?……それでパパ様はモイラ様に悪いところがあればそれを直して、立派なモイラ様にしようとなさるのです。モイラ様は、パパ様が厳しくなさったので一時に昴奮してしまわれたのでしょう? パパ様がもうモイラ様を可哀くお思いにならなくなったと、思ってしまわれたのでしょう? それは違うのです。おわかりですね?……パパ様はいつでも、モイラ様が可哀くてならないのです……」
常吉はこの言葉の終りの、可哀くて、ならない、という箇所《ところ》で、我にもなく声が顫《ふる》えるのを覚えて、言葉を切った。胸の中に熱い息を吐き、常吉は肩の手を放し、艶やかなモイラの髪を苦しげに、そっと撫でた。
常吉の熱い言葉は、モイラの胸に充分に、伝わったようだ。
モイラは常吉の眼を凝視し、少間《しばらく》黙っていた。そうして、思い出したように|※[#「口+歳」、unicode5666]《しやく》り上げた。
常吉はそんなモイラに、再び熱くなった胸の動悸を、抑えた。
モイラは常吉を見ていたが、不意に起ち上がり、父親の傍《そば》へ帰ろうとして、二三歩歩くと、後戻りをした。
「ドゥミトゥリ。ドゥミトゥリはいい人ね」
モイラは、幼い頃から感じとっていた、常吉の中にある熱い心に、掌で触ったような、満ち足りた心の中で、安心な、熱い雰囲気の中で、そんな中に包《くる》まれていながら、ふと不安を感じたのだ。だがモイラはその不安と一緒に、今までの常吉に感じていたものよりも熱い、濃い蜜のような愛情を、受けとった。それは重い、心の中に重く落ちた、愛情である。常吉の愛情は重くて、そうして熱かった。この常吉との場面も、長い間モイラの記憶に残っていた。モイラは後《あと》になって、
(あの時ドゥミトゥリイは私《あたし》に接吻したかったんだ)
と、想った。
常吉は起ち上がり、自分の胸までの背丈のモイラを見下ろした。そうして苦しげに、微笑った。こみ上げてくる熱いものが、肉の厚い彼の頬に、深い、愛情の窪みを造っている。白い歯が剥《む》き出された、だが声のない、いつもの、胡桃を歯で割る人のような微笑いだ。寂しい微笑いである。常吉は、薄くて体に纏いつくような襯衣《シヤツ》を嫌い、暑い盛りでも、厚地木綿のものを着ている。それは彼をよく引き立てる服装《なり》であって、それが彼の身についた、生来の美的感覚の現れであるのを、林作は、視ていた。彼は厚地木綿の襯衣《シヤツ》に、これも厚い洋袴《ズボン》を履き、外出をする時には、蔵《しま》ってある上等の革のバンドを締める。林作から譲られた焦茶のバンドは、常吉の何より大切にしているものである。厚地の襯衣《シヤツ》のために、逞しさが強調されて見え、又誠実な、温いというより熱い、といった方が当っている彼の心情は、その厚い木綿の襟の間から見える厚い胸板に、いつも深く蔵われているように、見えた。
モイラは少間《しばらく》の間、立ち去るのが厭なようすで、その儘、魔のような眼で、常吉を見詰めていたが、ふと、少し熱くなっているような、泣いたために一寸膨んでいる唇の端を、微かに吊り上げて、小さな微笑いを見せ、常吉の眼を覗くようにすると、背を向け、後《あと》も見ずに駆けて行った。
常吉は、白いロオンの夏服のモイラが見えなくなると、上がり口に腰を下ろしたが、ひどく疲れたように、思った。甘い花の香《にお》いのようなものが、無意識のような中で漂っていたのが、再び燃えはじめた炎のように、常吉を襲い、常吉は少間《しばらく》の間、膝に肱をつき、俯向いて、凝としていたが、暗い額を上げ、脣を固く結ぶと、立ち上がって赤馬に、近づいた。
この小事件は、常吉の胸の中の熱いものに火を点け、ようよう、鎮まっていた彼の胸の中を荒す結果になった。常吉にとって強い刺戟を持ち、誘惑の罠に満ちていたこの場面は、その夜も、翌る日も、又次の日も、幻のように常吉の前に現れて、当分の間常吉を苦しめた。だが常吉は、耐えた。
この、常吉にとっては火の場面ではあっても、モイラにとってはほんの小さな出来事に過ぎない一場面は、やがては常吉の胸の中にだけ、深く落ち沈んで行って、常吉の胸の中の、大切な宝石かなにかのようになって、残るだろうと、思われた。事実、そうなりつつあることが、モイラから聴いた簡単な話から、様子を察した林作の眼にも明らかで、あった。
モイラに、哀れみというものを教えようとした、林作の試みは、その後幾分の効を現したかのように見えたが、それはその当座、モイラの態度が、幾らか変ったようにみえた位で、結局は、曖昧模糊の内に終ったようである。モイラは生来、自分自身のこと以外は頭に想い浮べることのない人間である。
モイラは、林作に、厳しい眼で見られた瞬間、林作は、自分の遣ることなら、どんなことでも許して呉れるのだ、という、生れぬ前から持っていたような自信がぐらついて、驚愕したものの、その日の内に、前より以上の強い自信を抱くように、なった。モイラは、当座の間、林作の見る前でだけ、態度を変えていたのだが、林作はどうやらそれに気附いているらしいのにも拘らず、前にも増して、自分に溺れている。林作はそんな狡猾《ずる》さをも一つにひきくるめて、自分を愛しているのだと、いうことを、モイラは覚った。狡猾をもひきくるめて、モイラを愛する、というよりもむしろ、そんなモイラに、却って、より以上の溺愛を深めて来ていることを、モイラは見て取ったのだ。
* *
林作は、モイラが七歳の時に冒《かか》った百日咳で、腎臓炎を併発して以来、腎臓病が後遺症のようになって残ったので、軍医の稲本に、定期的に診せるようにしていたが、腎臓病が慢性になって、早急に治癒するという訳には行かないだろうという診断がついたのは百日咳の恢復後、一年経った頃だった。稲本は、恢復の直後から、それを知っていたらしいが、モイラを赤子の頃から診ていた親愛から稲本が、無駄と判りながら直そうとして、いろいろ遣《や》ってみていた期間が、丁度一年だった訳である。それで脚を水に浸《つ》けてはいけないというので、毎年、林作が休暇をとる八月初めの一週間を、上総の石沼《いわぬま》にある別荘で暮す間も、海に入ることは禁じられていた。モイラは、幼い頃、林作に、海に入れて貰った記憶があって、海の恐しさと、魔もののような魅力とを、覚えていた。林作の掌に支えられて、浸《ひた》った海は、生きているようにどよめいていて、それから後何日《あとなんにち》日が経っても、モイラは海が生きていたと信じていた。モイラはひどく海を恐れたが、その癖心のどこかでは、もう一度浸ってみたい魔力のようなものを、感じていたのだ。それで、海へ入れないなら行かない、と言って、永い間、石沼には行かずにいたが、今年はモイラが、やよと街に出た時、ひどく気に入った水着を、見つけた。紫を帯びた濃い紅《あか》で、葡萄酒の色に似た水着である。モイラはそれを、どうしても欲しいと言い出し、林作が見に行って、色を確かめ、買い与えたので、今度は海へ行くと言い出してきかず、とうとう、海へ行くことに、なった。日に一度、水際で遊ぶ位ならいいだろうという、稲本の許可も得た。林作は尚その上にも、稲本に一晩泊りで石沼まで、診に来て貰うことも定めて、休暇を取った翌日、モイラとやよとを伴って、出発した。
発つ朝、不満を隠してとり済ました顔を慥《こしら》えた御包と柴田とが、玄関先にスリッパの爪先を揃えて見送ったが、ひどく陰湿な、明らかに、モイラの幸福に対する嫉妬と判る表情を圧し隠しているのが、頬や、脣の周囲《まわり》の皺の具合に、見え透いていて、会釈を返した林作の顔の上を、それと判らぬほどではあったが、不快な表情が、掠めた。殊に御包の方は酷《ひど》い、と林作は思った。御包は、モイラが林作にロザリンダのことを訴えているのを、或日食堂の扉の蔭で盗み聴きしてからは、モイラに対する偏執的な憎み、と言うか、一種の変態的なものが、ひどくなって来ていた。それは復習をさせる時の、前より以上に、サジスティックなやり方に現れていて、モイラはそれを林作に訴えていたが、林作は後《あと》一年で、平穏に解約出来るのだからと、考えて、彼女の馘首《くび》を延ばしているのに、過ぎない。御包は、教師をしていたとはいっても、時代がずれているので、もう彼女は、学校でやったことを復習する位で、下浚《したざら》いの方は不確かになって来ていたのだ。モイラも、そんな林作の考えを最近林作から聴いたので、最初から尊敬の念を抱いたことがなく、むしろ莫迦にしていた御包が恐しい眼で見据えても、その瞬間は恐れるが、既に問題にしてはいない。モイラは此の頃ではロザリンダを専ら、恐れていた。
モイラは常吉も伴れて行くと言ったが、留守宅の要心のためもあったし、林作は既に常吉が、一人の立派な男に成長していて、化物たちの方でひそかに一目《いちもく》おいているのを知っていて、前のように気遣いをして遣る必要を認めなかったこともあって、置いて行くことにした。常吉は、運転手の隣に、かしこまって乗っている、やよの足元や、後部の席の後の棚、モイラの足元なぞに鞄や包みを上手《うま》く入れてしまうと、いつものように真直ぐに立って見送った。その常吉を、モイラの眼が車の後窓から一瞬見返った。常吉は低く掌を上げ、いつもの、胡桃でも噛み割るような口つきで白い歯をみせ、厚い頬に深い窪みをつけて微笑ったが、砂利の軋む音と一緒にみる間に遠ざかったその顔に、深い愛情と、どこかそれを蔽い包むほどの暗いものとを、モイラは見た。
石沼《いわぬま》は、混雑した海を嫌う林作が、ようよう発見した外房州の海岸で、そこで林作は、牟礼商会には関係はないが独逸人の建てた家を、購《か》った。上下五間《うえしたいつま》の家は広過ぎるが、林作の気に入っている。
階下《した》の、煉瓦色をした石を敷いたテラスから、褐色の葉裏をみせた橄欖《オリイヴ》色の葉のびっしり繁った樫の樹の並ぶ砂丘に登ると眼の下に、沙漠のような砂地が拡がっていて、その向うに遠く海が鳴っている。風も海も荒い海岸である。林作が石沼へ行くようになってから二年後に、類は友を呼ぶのか又、外国人の別荘らしいのが一つ建った。家の右横に、前の家の持主が砂丘を切り崩した、海へ下りるだらだら坂の道があるが、その向う側に、十間ほど離れて建ったその家は上下|三間《みま》程の小てい[#「てい」に傍点]な家で、濃い緑《グリイン》に塗ってある。時折焦茶色の毛が頭にぴったり纏《まつ》わりついたような、彫刻のような頭の少年を伴れた夫婦が、出入りするのが見えた。ロシア人だということで、その辺の者たちの受けはよくないようすだった。林作は今日出がけになってその家を想い出し、彫刻のような髪の少年を想い浮べた。モイラの生れる二三年前に七八歳だったその少年は今では二十四か五にはなっているだろう。車が門内の砂利を軋ませ、やがて搗《つ》き砕くような音を立てて速度を出しはじめた時、林作はふと、或る予感のようなものを、覚えた。林作はその少年が、背の恐しく高い、引締まった、子柄のいい少年であることを、一度坂道で擦れ違って、見ていて、それを想い出したからだ。
モイラは、自分が手に持って居ろと命じた、水着の入ったバッグと、苦心して造った、向うへ着いて直ぐ食事をするための弁当、それに魔法壜なぞを膝の上に抱えて、大きな背中とお太鼓を見せているやよを一寸の間見ていたが、林作の肩に頭をぐったりと、凭せかけた。疲れよりは、甘えである。
(久しぶりに海へ行くのと、水着とで、神経が昴奮している。早起きをして睡気があるのに頭が冴えているのだな)
林作は妄想から醒めて、想い、上半身を一寸引くようにして、モイラの耀く髪の落ちかかる肩に、眼を遣《や》った。
「睡れるか?」
香料を一切使わない、洗ったばかりの髪から、寄りかかっているモイラの体全体から、ふと、微妙な温度で温められたような、植物性の香気が立った。酒精《アルコオル》洋燈《ランプ》で熱した、花の香いに、似ている。
(子供かと思うと、ドゥミトゥリイと、なかなかませた、別れ方をしている)
林作は心に想い、何か言うかと、一寸モイラの顔を覗くようにしたが、その儘前に向き、モイラの頭を肩に凭せかけさせたままでシイトに寄りかかり、追分から農大前に差しかかった本郷通りの朝の光に、愛を底に湛えた眼を、細めた。
八時に両国を発って、午過ぎに石沼に着いた三人は、迎えに出ていた別荘番の四十八《よそはち》と、その息子の四方吉《よもきち》に荷物を持たせ、熱い砂地の道を別荘に、向った。幼い時に見た切りの四十八達に、久しぶりで会ったせいか、ひどくお澄ましになっているモイラは、汗になるというので着せて来た、子供っぽい薔薇色の木綿の夏服を着ているのにも拘らず、ねびまさって見える。それを、林作は満足気に見|遣《や》った。この頃モイラは、幼い時からの前髪を伸ばして、自然に割れて横顔などにかかるのに任せ、肩までだった後《うしろ》の髪は肩の下まで長くしているが、林作の発案で、鬢の髪を後で弛く結び、幅広の黒いリボンを留めたのが、前から見ると、黒いリボンが角く両脇に出ていて、ドオデの〈アルレジエンヌ〉のように見える。林作は若い頃、〈アルレジエンヌ〉のような女に出会いたいと望んでいた。それが今になって、父と娘という関係で出会ったようなものだと、林作は想っている。
別荘に着くと林作はモイラに、少し睡らなくてはいけないと、無理やりに二階の、モイラ用の寝室に伴れて上がった。やよは、後姿の黒いリボンまでが拗《す》ねているように見えるモイラを、一寸見送ったが、直ぐに荷を解きにかかった。二階の二人に林檎《りんご》を持って行こうと、気附いたのである。千疋屋に特別に注文した、囲いの印度林檎である。やがて古びた銀の皿に、薄緑と暗い紅の林檎、それにフォオクとナイフを添えて持って上がった。丁度四方吉が氷を持って来たので、冷蔵庫に入れて貰い、林檎には魔法壜の冷えた麦湯を添えた。
モイラは、襟を狭く刳《く》っただけの、白いロォンの下着で、寝台に横になり、大きな眼を開《あ》いていて、此方を見た。眉を吊り上げ、大きな眼を下目遣いに、少し脣を膨ませ、子供が泣きかける時のような、不平な時の顔だ。林作は肱掛椅子を起ちかけていたが、林檎を見ると又かけ直して、言った。
「やあ、御馳走になろうか。モイラはどうだ」
「パァパ。剥いて」
モイラは膨れたままの顔で、言った。
「風呂は俺が入った後《あと》、やよが入れ。暑かったろう。モイラはひと睡りしてから入れよう。……やよ、化けものが二人いないといいなあ」
やよは盆を持って立った儘、遠慮深く俯向いた顔で、言った。
「はい。これでドミトリさんも居《お》られれば、よろしゅうございますね」
「そうだなあ……」
林作はやよが毛先ほどの色気もなく、言うのを聴いて、優しい微笑いを籠め、愛情深い眼で、やよを見た。
「やよ。これ、冬ののように甘いよ」
モイラはそう言って立ち上がり、林檎の切れを囓《かじ》りながら、海へ下りる坂道に面した小窗から外を見下ろした。
モイラはその時丁度、海の方から歩いて来る一人の青年を見た。逞しいが、背丈がひどく高く、背の伸び過ぎたような青年だ。意志の強そうな、だが寂しい表情の美青年である。黒のパンティ一つで、腕や脚に砂をつけた青年は、窗の下に近づいた時、モイラのいる小窗を見た。それは偶然だったらしいが、この外国風の家が日頃気になっていて、習慣的に見上げたようでもある。青年はモイラを凝と見て、思わずのように、微笑《わら》ったが、モイラは独特な曇りのある眼で、青年を見ていた。どうしてか知らぬ。青年には林作の持っている何かがある。甘えたいようになるものを、持っている。聖母学園で、友達が噂をする若者たちのようなのとは全く異《ちが》う、一種変った青年である。モイラは初めて他人の男を、どこかで自分と繋がる、親しい人間として、視た。それは青年が、モイラを自分のものとして得る資格が、自分にあると、そういう自信を持っていて、モイラを見たからでも、ある。その青年の自信が、モイラを捉えたのだ。モイラは今まで若い男に関心がなかった。自信を持って、モイラを見た青年がなかったのだ。モイラは、自分では知らずに、青年を魅している、魔もの染《じ》みた眼で、青年を見ていて、これだけのものを殆ど一瞬に、見た。
モイラは微笑わなかったが、青年はモイラが自分を嫌ってはいないのを、これも瞬間に、知った。多くの少女は本能で、男をじらして、自分を価値づけることを、知っている。モイラはくるりと背を向けて、窗から姿を消した。そうして又寝台に、横になった。
モイラの顔から、不機嫌が無くなっているのを、寝台の裾から脱いだ服を取り上げて、出て行こうとしていたやよも、林作も、気づいた。
モイラは囓りかけの林檎を皿の上におき、妙にだらりとなって、林作を見た。いつも林作を魅する、愛情を食いたくてならない肉食獣の眼だ。どうしたのか、林作に甘えたい心が尚一層、烈しくなっている。懶《ものう》さの中に、魔がある。悪魔のようなものが、モイラの中で大きく膨れ上がって、モイラ全体が、〈甘え〉の塊りになったようだ。つい先刻《さつき》まで持て余していた不機嫌が、苦しいような、甘えに変ったのが、モイラ自身にもどうしていいのか、わからぬのだ。
林作はモイラが窗で何かを視たのを知ったが、問い質しはしなかった。林作はモイラの、貪婪な眼を、可哀くてならぬように見返し、モイラが接吻を待っているのを知ると起ち上がって寝台《ベツド》に近寄った。
「どうした」
モイラは答えもせずに顔をぐたりと横にし、上目遣いに、寝台の背の方を見ている。林作はモイラの頬に接吻を与え、
「睡れたらお睡り。パァパが上がったら一度、やよに見に来させるから」
そう言って林作は、夏袴の音を立てて、出て行った。林作は接吻をして遣《や》った時、脣の真中辺に、林作が、〈脣の子供〉と言っている、小さく飛び出したところのある上脣を反《そ》らせ、モイラが恍惚《うつとり》と脣を弛めていたのに、気附いていた。
(若くて美しい、半獣神を見たのかも知れない)
林作は心に呟いた。林作の心に再び、二十四五になっている筈の、隣の青年が、浮んでいる。そうして林作は、寝かす時には額にしている父親の接吻を、つい、頬にした理由にも、気附いていた。
モイラは、自分でも知っている、綺麗で、花のような香いのする自分の体が、今見た青年の、烈しさを潜めた表情に、関聯のあることを、何処かでする、予感《プレサンチマン》としてしか、意識していない。それが却って強い香気のように、花の蜜のように、モイラの中から発していて、それが何かを感じ取った林作を、可哀くてならないように、させたからだ。その香気が、殆ど林作の中の男を誘惑するばかりで、あったからだ。
(俺までが半獣神になっては困る)
林作は階段を下りながら心に呟き、やよが支度を調《ととの》えた湯殿へ下りて行った。
モイラは懶《ものう》さの中にいた。モイラは誰かに甘えでもするように、体を大きく、くねらせた。体の中に、どうやって甘えたら満足出来るのか、わからぬ心持が、むく、むくと、持ち上がっている。
モイラはどことなしに眼を据えると、薔薇色の脣の両|端《はし》を思い切り窪ませて、秘密らしく、微笑った。先刻《さつき》の青年の微笑いに応えた微笑のようなものだ。だがモイラの微笑いには何処からか、魔が忍び入って、いた。
モイラはもう一度体をくねらせて壁の方に向いた。モイラの心の奥底には、莫とした満足感がある。
(あれは隣のロシア人の子だ。あの人はもう私《あたし》の捕虜《とりこ》になった)
だが、その意識もやがて、懶いようなものの中で薄れ、モイラはいつか睡りに落ちた。薔薇色の脣を半ば開けた、モイラの寝顔にはたしかに、悪魔と、子供の、二つの魂が宿っていて、その二つのものは親子の獣のように、仲よく戯れているように見えた。悪魔と子供、と言うが、子供というものが、悪魔を中に持っているものなのかも、知れない。聖なる場所であろうとしながら、現実には汚穢の室内である、母親の胎内の、人知れぬ夢から、醒め切っていぬ子供は、その、そこには本能だけがある生温《なまぬる》い水の中にいた時の獣的なものを、生れ出ると同時に、何処からか来て住みつく精神の中に、影のように、残しているものなのかも、知れない。
石沼の湯殿には、この家の元の持主が捨てて行った、古い洋燈《ランプ》が、板壁に打ち附けた洋燈《ランプ》の台と一緒に、その儘にしてある。林作は浴槽に沈み、その砂でざらついた台の辺りに、眼を遣りながら、或る想いに浸っていた。元の持主の男は風呂好きだったらしく、特別に大きな浴槽が置いてあった跡があったので、林作は丁度その跡に嵌《はま》る、風呂桶を造らせて、置いている。
(モイラの中には子供と悪魔とが、混《まざ》り合っている。そこが可哀らしさの根元《もと》だ。尻尾のある悪魔と、子供とが犬の仔のようにふざけ合っていて、引き分けるのは難《むつか》しい。元来子供は皆ああいうものだろう。平凡な両親は子供も、悪魔も殺してしまう。だが完全に殺すことは出来ないので、子供の方も、悪魔の方も、醜い、愚かしい形になって、こびりつくようにして残るのだ。悪賢い大人と、融通の利かない常識とがそれに代ってひっつく。生れぬ前から持っている子供と悪魔を残しておいて、その上に出来上がってくる大人。それが余り日本人にはない。生れつき悪魔を持たない奴は無理にくっつける必要はない。ドゥミトゥリイのようなのだ。又無理にくっつけようと言ったってくっつけられるものではないだろう)
林作の沈んでいる風呂桶は、モイラの生れる三年前に、この家を購《か》い取ると同時にとりつけたので、余り使わなかったが、時代がついている。林作は、家を購ってから六年目に、伴《つ》れて来た、満三歳のモイラを、この風呂桶に抱いて入れて、洗って遣《や》った日々の光景を、現在《いま》のことのように、想い浮べた。
(その時分《じぶん》から手応えのある、悪魔の皮膚をしていた……)
砂の附着《つ》いた脚を、湯の中で落して遣ると、モイラは擽《くすぐ》ったがって悶え、林作の頸に固くかじりついた。海に入れて遣《や》った日の夜、モイラは「うみ、こわい。うみ、こわい」と繰り返して、怯えたように言い、丁度、恋人のように、体をぴったりと、林作の胸に密着させ、小さな、固く肥えた腕や脚を絡めつけたのだ。林作はその幼いモイラと、今|階上《うえ》で寝ている、悪魔の美を、体にも現して来ているモイラとを、心の内に比べてみている。
(現在《いま》、モイラに、この風呂に一緒に入れと言ったら、恐らくモイラは直ぐに入って来るだろう。一年半程一緒に入らぬから、習慣が跡絶えて、無くなっている。それでモイラは、大きくなったことに羞《はにか》みを見せるだろう、だがよく日本の女にある、品の悪い羞《はずか》しがりは、ないだろう。モイラはそんなように育ててある。だが既《も》う充分に、エデンの蛇が隠すことを教えた、悪魔の果実が、胸にも腰にも、熟しはじめている。両親が悪魔を叩き出してしまったために、裸になっても、女が何処にも感ぜられない、それかと言って男でもない。そんな娘が一般だが、モイラはそんな体をしてはいないだろう。衣《きもの》の上からでもそれは判るのだ。そこで俺はどうかすると、苦患僧《くげんそう》の心持を、幾分かは抑えねばなるまい。ドゥミトゥリイは苦患僧の悩みの中に陥っている。モイラはドゥミトゥリイに意地悪もしているが、親しみからくる甘えを持っている。だが)
この時林作は苦く、微笑った。
(モイラのような奴に甘えを持たれた側は災難だ。結局恋愛が成立したとしても、モイラの相手は苦患僧になる運命を免《まぬが》れまい。何故ならモイラが愛するのは、モイラ自身だけだからだ。この俺も、モイラの餌だ。生きた肉をむさぼり食わないでは一刻《いつとき》もおとなしくしていない、あの可哀らしい肉食獣に対《むか》っては、承知で餌になって遣る以外にはない。だがあの仇気《あどけ》ない、まだほんの子供で、一寸突つけば泣き出す、あの可哀らしい肉食獣は、何時になったら大人になるのか、甘え放題だ。教育しようとする俺の手を封じてしまって、溺れている俺の心を、底の底まで見抜いている)
淡黄色《うすぎいろ》い午後の光が、窗から斜めに差し込んでいる浴槽の中に沈んでいる、林作の顔の上には、神のような父親の微笑と、その裏に潜む一人の男の、あるか無いかの、悪魔の微笑いとが、どこかで美しい均衡を、保っていた。
* *
先刻《さつき》、窗の下を通りかかった青年は、林作の想像通り、隣の別荘の息子で、名をピータアと、言った。
ピータアは、稚さの中に魔を潜めた、モイラの顔に魅せられ、モイラとの再会を待ちわびていた。
その夜ピータアは、愛用の、濃い緑の毛布を二つ折りにして、上から包《くる》むようにした幅の狭い寝台《ベツド》に、腹匍いになっていて、心に呟いた。
(あの娘をもう一度、見たい。何か手に食いものを持っていたが。……あの窗のある部屋の中はどうなっているのだろう。……魔ものと子供の混血児《あいのこ》だな。赤ん坊のような、可哀らしい上脣を反らせて、最初は不機嫌な顔をしていたが、俺をじっと見はじめた。まだ稚い。そうして処女《むすめ》だ。それでいて、手軽には人に覗かせることさえしまいとしている、事実覗かせたことはない、俺の胸の中の熱いものを苦もなく吸い上げて後《うしろ》を向いてしまった奴だ。どうしたのだろう。こんなことは今までに無かったことだ。あの頬を捉《つか》まえて、烈しい接吻をして遣りたい。呼吸も出来ぬようにして遣りたい。あの曇ったような、無関心な眼が、あの娘自身は知らないでいて、俺に接吻を強要する。あの子供のような脣が、俺の中からサジスティックなものを掻きたてる。俺は自分の中にこんなサジスティックな情熱が隠れていようとは思っても見なかった。あの妙に曇った眼と、可哀らしい脣とが、俺の中からサジストゥの尖った爪を誘い出すのだ)
ピータアは枕に顎を載せると、下脣を強く噛み、光る眼を壁に据えて、そのまま長いこと、動かなかった。
同じ刻《とき》、モイラは、林作の微笑の眼が追う前を、卓子《テエブル》を廻り、濃紅《あか》い水着一つで、食堂から上がる階段を、登っていた。
モイラは食事前にシャワアにかかり、やよに手伝わせて水着を着てみたのだが、先刻《さつき》窗の下で、自分を凝と見ていた青年と、又海で出会うかも知れないという、新たに出て来た、不思議な歓びがあって、水着を着る歓びが、倍に膨んでいる。湯殿の上がり場の鏡に映った、濃紅《あか》い水着を着た自分の姿は、ひどく綺麗に見えたのである。それでその儘、脱ぎたくないと言い張ってやよを驚かせ、モイラは水着を着たままで夕食の卓子《テエブル》に着いた。小さな円い肩が男の子のように張っていて、濃い紅《あか》の水着の胸を持ち上げている、固い果実のような乳房は、両脇に近く離れてついていて、それが不思議になまめかしい。卓子《テエブル》を廻って行くのを見ると、稚く薄い胴中から俄かに張って、西洋の女のように上に持ち上がった、見惚れるような肉附きを示している腰、下肢の辺りは、十七歳には見える豊饒を見せている。
(おかしな奴だ)
と、林作は心に呟き、微かに好色な色を帯びた微笑いを眼底《まなぞこ》に潜めて、子供のように自然で、大胆な様子で歩いて行くモイラを見送った。
林作が、モイラの裸を見ないようになってから久しいが、日頃林作の見るに任せている、円みを持って来た頸、蜂蜜を塗ったような肩、腕、衣《きもの》の上から見て、ふと愕くことのある、発育した腰、襟の開《あ》いた下着でいる時などにふと窺われる、両方の乳房への、固く張った坂の一部、なぞから、成長したモイラを知ってはいたが、水着一つになったモイラを見て、林作は不思議な感動を、覚えた。
(あの小さなモイラが……)
と、林作は心に呟いた。
* *
ピータアの待った機会が来たのは、翌日の、陽の沈もうとする時刻だった。
やよと海へ出たモイラは、やよが夕飯の支度に急いで帰って行った後《あと》、一人残って、大きな波の被《かぶ》るところまで海に入って行って、戯れていた。林作が書類を持って二階へ上がったのを見ていたからだ。林作に言われて、やよが直ぐに引返して来るにちがいないので、波を被るのは二三回で諦めて、泡立ちながら、足に戯れる波際を、未練そうにばちゃ、ばちゃ遣りながら上がって行った時、昨日《きのう》の青年が近づいて来るのを見た。
黒のパンティ一つの青年は、広々とした灰色の砂を後《うしろ》に、西洋の絵で見る裸の兵隊のように浮き出して、見えた。紅みを帯びて陽に灼《や》けた、組んでいる逞しい腕は、もしその腕で殴られでもしたら、骨まで響くのではないかと思われるようだ。青年は急ぐでもなく真直ぐに、歩いて来る。そうして顔が見える程近づくと、優しい微笑いを浮べた。昨日《きのう》の微笑いだ。青年はモイラから幾らか離れた岩に腰を下ろして、モイラを見た。微笑いが消えて、優しい眼が暗く、光っている。その眼の中にはモイラの見たことのない恐しいものが、光っている。モイラは凝と、青年の眼を見返して立っている。
「君は幾つ?」
「……十五と八箇月」
モイラは青年の眼から眼を離さずに、言い、足もとの砂を足先でこじ廻すようにしながら無意識のように、体をくねらせた。
「名は?」
モイラは一つ瞬きをし、長い睫毛を弾《はじ》くように大きく眼を開いて、彼を見た。青年の暗い額と、ひき締った脣元《くちもと》に熱い愛情を、見たのだ。自分に溺れかけている男の中の熱いものを、モイラは読みとった。だが、可怕《こわ》い。
「モイラ」
青年の眼を瞶《みつ》めたままで言ったが、どこかで、先刻《さつき》から、自分が獲物になったような気がしていて、その怖れのようなものが無くならない。モイラは先刻《さつき》青年が近づいて来た時、獲物を見定《みさだ》めて真直ぐに、ゆっくりと舞い下りて来る鷹が、頭に浮んだのだ。いつか写真で見た、羽毛《うもう》の洋袴《ズボン》を履いた脚を垂直に下げ、爪を平らに延ばすようにして下りてくる、絶海の鳥。だが青年は自分を爪の下に抑えなかった……。その怖れは、自分の体の内側にあるような気がしてならない。その癖、肉食獣のモイラは、青年の抱いている自分への愛情をむさぼり食いたい誘惑も、感じている。ピータアはふと、燃え上がるようなものを、抑えた。
(この眼だ)
男の愛情を捉まえた驕慢を隠している二つの眼。しかも今日は、小鳥のような怖れを潜めている。
ピータアは立ち上がり、獲物を追うように二三歩、モイラに近づいて、腕を後に廻し、まだ自分から眼を離さずにいるモイラを吸い入れるようにして視たが、腕を組むと微笑って言った。
「君はどの位いるの? ここに」
「わからない……パァパが一週間お休みで来たの」
「僕のところへ遊びに来ない? 知ってるでしょう、僕の家《うち》」
ピータアの濃青《ブルウ》の深い眼はモイラの顎が微かに頷くのを、捉《とら》えた。その時モイラが砂丘の方を見た。ピータアも振り向くと遠く大きな、女中らしい女が走るように来るのが見えた。
「パァパに聞いてから」
そう言うとモイラはやよの方へ走り出した。
「僕の名を知りたくないの?」
モイラが立止って振り返った。
「僕の名はピータア・オルロフ」
モイラは脣の端《はし》を一寸窪ませ、秘密のように、微かな微笑いの影のようなものを見せ、
「やよ」
と叫ぶように言って走り出した。
一度振り返ると青年が手を高く挙《あ》げている。モイラは又凝とそれをみると、今度は後《あと》も見ずに走り、女中らしい女に肩を囲われるようにして、歩いて行った。女は遠くからピータアを注意深い眼で見ているようだったが、警戒の色は解いたように見えた。ピータアはモイラ達の後姿が小さくなったのを見ると、勢よく海に飛び込み、水煙を立てて波に乗って泳いで行った。
脣《くち》までもって行った甘い果実を、横から来て奪《と》って行かれたような気が、ピータアはしていた。モイラはピータアにとって既に蜜を豊饒《たつぷり》含んだ、甘い果実に、ちがいなかった。
モイラという名の果物は、神だか、自然だか知らないが、何者かによって今まで、ピータアが近づくまで、他の誰によっても啄《ついば》まれずに、甘い蜜を湛え、誰にも見えない密林の中で、密《ひそ》かな香《にお》いを放っていたのだ。少間《しばらく》の間抜き手を切って波の間に見え隠れしていたピータアは、百|米《メエトル》程泳ぐと仰向けになって浮き、まだ夕陽の残映が、幾らか紅い色を残した灰色の、重い空を仰いだ。
(窗で俺を見た時から、俺が自分の網にかかったのを見ぬいていたあの小さな魔女め。……その癖|暈《ぼんや》りとした、子供のようなところがある)
ピータアは波を被って濡れた顔を片手で撫で下ろし、再び今度はゆっくりと、岸へ向って泳ぎ始めた。
(あの眼が曲者なんだ。曇りのある、不思議な硝子のような眼が、あの蜜を塗ったような体を、人に与えようという意志も、与えまいという意識もなしで、凝《じつ》と見開いている。それが魔だ。どうしてああいう眼が出来たのか。どうして、あんな果物が実《な》ったのか。どうして俺はあの魔ものと出会ったのか。すべてが不思議だ。どうして。どうして、俺はサジストゥに化《な》ったのか。今日も俺はあの娘が水遊びに夢中になっているのを、遠くから見た瞬間、もうサジスティックな情念の捕虜《とりこ》になっていた。あの娘も、それを敏感に、感じとっていたようだ。鷹が舞い下りて来るのを、背中で感じとった小兎のように動かずに凝としていたあの娘の肢体が、俺に火を点けた。Je l' ai allumee(私《あたし》はあの人の心に火を点けてやった)というフランス語が、何処かにあったな。モオパッサンだ。俺の場合は elle m'a allume(あの娘は俺の情念に火を点けた)だ。それにあの脣だ。窗で見たよりも、傍で見ると厚みがある。まるで、乳を欲しがる赤ん坊の脣だ。……あの脣のためなら。あの脣を奪うためなら、あの脣を俺のものにしておくためなら、俺は何をするかわからない……いけない。どうも俺は今日、いや、あの窗を見上げた魔の日から、俺は俺でなくなっている)
ピータアは急に、抜き手を早めた。ピータアは部屋に早く帰りたくなったのだ。自分の巣に帰って考えて、この情念に身を委ねるなり、抑制するなりしたいと、思ったのだ。ピータアは東京の家でも、別荘でも、友達の家に泊っている時でも、何処にいる時でも、常に自分一人の部屋と、自分一人の寝台《ベツド》を、必要だと、していた。ピータアは、自分の部屋の寝台《ベツド》に寝転んでいないと、本当には、自分自身になれないと、誰にでも、言っている。そうして寝台《ベツド》は、兵士のそれのように狭く、固い、シングルだ。その寝台《ベツド》を、自分の部屋の、三方を書棚で囲んだ一隅に、書棚に沿って据え、濃緑の毛布を二つ折りにしてその寝台《ベツド》を包むようにして、その寝台《ベツド》の上を、「ピータアの城だ」と言っている。そうして寝台《ベツド》の頭の所に焜炉《こんろ》を置いて、濃い褐色の琺瑯《ほうろう》引きのソオスパンをかけて、シチュウや肉汁《スウプ》を、寝台《ベツド》から身を乗り出すようにして煮る。ピータアは父親のセルゲイと仲よしだし、母親のタマァラを誰よりも愛しているのだが、そう遣《や》って、一人で暮す時間が、好きなのだ。そうして煮ながら、枕の上に開いた小説を読む。ピータアは帝国大学の医科を出て、東京で洋書を置いている書店に臨時勤めをしているが、小説を書きたいと、思っている。他人《ひと》には緩《ゆる》いが、自分にはひどく厳しい。まるで戒律を布いているかのようだ。ピータアはもと、同級生の間で、「牧師のピータア」とか、「神父」とか、言われていた。自分の心の中のことは、誰にも言わない。ピータアを深く愛する人間が、ピータアを凝と視ていて、推察をするだけである。その推察が当ると、ピータアは困ったような、幾らか不機嫌な、顔をする。だがその人間が好きな奴だと、脣の端に一寸微笑いを見せ、困った中にもうれしくなくもないらしい顔をすることもないではない。
その自分の巣へ、ピータアは矢も楯も堪らず、帰りたくなったのだ。
海から上がると砂はまだ昼の間の、生熱《なまあつ》さを、残していた。大きな砂の海の、砂全体が、底に太陽の火を貯蔵していて、それが脚からピータアに、襲いかかる。
(かまうものか。俺が俺でなくなったって。人生には狂気の季節があったっていい。俺はあの脣を、奪《うば》って遣る。俺を狂わせる、あの薄紅《あか》い、森の木の実を奪って遣る。俺が初めての猟人《かりゆうど》だ。あの蜜を塗ったような肩をこの掌に捉まえて、捩《ね》じ伏せて遣る。そうして、決して動かさせはしない)
海から遠くなるにつれて砂の余炎は熱くなる。ピータアはモイラの別荘に眼を遣り、ふと、立止った。そうして顔を伏せた。額に暗い色が塗られているのが、空が翳《かげ》り、夕刻の色が辺りを籠めている中でも、見分けられた。
俯向いた儘ピータアは、ゆっくりと、濃緑の家をさして、歩いた。
* *
ピータアは、窗の中に見た娘が、海で遊んでいるのを見附けたことが、僥倖《ぎようこう》などというものではなかったのにも拘らず、それをひどく不思議な、一つの奇蹟のように、思った。ピータアは、窗の中の顔を見たことと、海で見附けて近寄って行って、一言、二言、話をしたことと、それだけのことで、既にモイラという娘の持っている何ものかに、捉《とら》えられている。モイラの持っている、或もの、それはピータアの深部まで届いている、ピータアという青年の、霊も、肉も、含めた、ピータアの芯髄《しんずい》のようなものに、既にそれは巻きついて、いた。粘り気のある纏《まつ》わり方で、まといついていた。まだ子供で、何かを聞けば、子供のような受け応えしかしない。明らかに、処女の恐怖が娘の全身に満ちていた瞬間があったばかりではない。会っていた間、初めから終りまで、その可憐な、獣の仔のような怖れは、モイラという娘を離さなかった。そうしてそれはピータアの中の男を、絶え間なく刺戟し続けて、いたのだ。だがそれでいて、その怖れている娘の中に、(自分はこの人を擒《とりこ》にしてやった)という、一人の女の、満足した、秘密な歓喜が、あった。そうしてその(擒にした)という歓喜には不思議に、馴れが、あった。その一種邪悪な歓喜は初めてのものではない。既に何匹となく、虫を捕ったことのある子供の、残酷なものさえ混えた、歓喜だ。ピータアは烈しく、捉《とら》えられた。しかも幼児のような処女の怖れを潜めて、眼を外したら襲われるのだとでも信じているような様子で、ピータアの眼から、眼を離さずに凝としていた娘の、濡れた二つの肩を、ピータアは忘れることが出来ない。濡れた肩は既に女の肩の表情を持っていて、体をくねらせた瞬間などは、思わず掌で確《しつか》りと捉まえたい、そうして脣をあてたい、誘惑を覚えさせたのだ。濃紅《あか》い水着の胸を持ち上げている二つの乳房は、両脇に近く、離れてついていて、処女の埋葬だったか、聖母《マリア》の誕生だったか、ピータアが何かの書物で見た希臘《ギリシヤ》の彫刻を想い浮べた程、円く、固い、盛り上がりがあった。幾らか卑弱な胴を伝って腰へ行くと俄かな成熟が充ちわたっていて、ピータアが何かの写真で見た、くびれのある程肥えた魚のような、腹から脚の上部と、後を向いて駆け出した時に見た、十六歳未満にしては熟した腰とは、ピータアの眼を吸い寄せて離さない力を、持っていた。
(こいつを俺のものにしないではおかない)
その時ピータアは、心に呟いたのだ。
ピータアは十年か、或はそれ以上になるかも知れない長い間、愛用して来た、というよりも、伴侶にして来たといった方がいいような、濃緑の毛布を折り畳んで敷いた寝台《ベツド》に寝そべり、モイラという娘の持っている魔について、考えた。
(あの娘には不思議なものがある。見ていると、どこかに不機嫌のようなものがある。不機嫌なのではないかと疑われるようなものだ。もやもやとした、厚みのある、それがあの娘の表情から、動作、すべての、あのモイラという娘全体を蔽っている。それは藻のようなものだ。曇りのある眼。動作はすべて遅《のろ》い。それが藻だ。あの娘のどこを見ても、硝子のような不透明が、覗いている。感情の不透明だ。それが藻だ。まだ子供で、何も知らない、世間知らずな甘え放題な娘だ。それは一目でわかるのだ。だが不思議なものを持っていて、まるでsexを経験した女のふてぶてしさのようなもので俺を唆《け》しかける。それはあの体だ。もう熟している。だが未だ樹にあって、樹の養分を吸っている果実のような肉体《からだ》。接吻を強要している肩、胸、腹から脚、そうして腰。何かを考えるらしい時、怖れる時、半ば開けている脣。あの娘は自分では意識せずに、自分の実った体をふてぶてしく投げ出している。俺が近寄って行ったことを怖れている体が、どこかで、言いようのないものを出して俺に挑んでいる。未経験な、今、熟したばかりで、男だけではない、空気の中のなにかを、怖れているような体に、倦怠の色がある。なげやりな色がある。知らずに遣《や》っている、みせびらかしがある。そいつが俺を火にする。俺の腕に、胸に、腰に、灼《や》けた火の棒を走らせる。そうして無理やりに俺の掌に、サドゥ侯爵の鞭を持たせる。それが藻だ。曇りのある大きな眼で、俺を視たのが最初だが、あの眼の中には最初から、俺を唆《け》しかけるものがあった。モイラの持つ藻のようなものが、それを遣らせているのだ。獲物をめがけて舞い下りる鷹の爪の下で、死んだように動かない筈の小動物が、ふと抵抗を現すのだ。抗《あらが》い得ない媚態だ)
ピータアは濃緑の毛布の上に腹匍いになった儘、肱を突いた右手の親指を下脣に爪の痕がつく程強く押し当て、モイラを解体していた。ピータアの顔はストイックな、嫩《わか》い神父のように見えているかと思うと、ふと獲物を啄む禿鷹のようにも、なった。ピータアはまだ生々しい記憶の中にあるモイラの眼を、取り出して瞶《みつ》め、その眼に誘発されるようにして、モイラの体の、誘惑して止《や》まない断片を、想い浮べ、その断片の一つ、一つに、鋭い官能の牙を、あてた。抑制の絆《ともづな》を解いたピータアの眼の前に浮び上がったモイラの断片は、一つ一つが生きたもののように、ピータアの想念に跳びかかる。友だちが言う〈牧師のピータア〉は今、兇猛な一羽の禿鷹に、化《な》っていた。
だが狂気の一刻《ひととき》が過ぎた時、ピータアの胸の中に、澱《おり》のようになって残ったのは、モイラの、ピータアを擒《とりこ》にした、という、可哀らしい歓喜に、馴れがあったことだ。
(あの小さな悪魔が捉まえたのは、たしかに俺が初めてではない。ここは日本で、あの娘はまだ十六にもなっていない。父親は実業家らしいが、堅気に育っている。万一何かがあったとしても、精神だけのものなのは、わかっている)
と、ピータアは思った。だがそれらの、気休めになる筈のものを幾つ並べてみても、ピータアの心に残った澱のようなものはとり除かれない。
(完全に、精神だけの恋愛なんというものが、第一あり得ないものだ。ことにあの娘の場合……。若し犯さなかったにしても、俺以外の何者かが、あの、俺の前に、舞い下りる鷹の爪の下に動かなくなる兎のように竦《すく》んでいながら、意識せぬところでふてぶてしいものを出して俺に挑んだモイラの、熟し肇《はじ》めの体を、何分か? 何時間か? 瞶《みつ》めつづけていたというのか? 可哀らしい、魔のようなモイラの眼を、その眼の中に吸い入れるようにして見詰めたというのか? 恐怖して、半ば開けているあの薄紅の脣を既《も》う、奪った奴がいるとでも、言うのか……)
ピータアは先刻《さつき》、砂の中から襲いかかった太陽の余炎が、まだ脚の先に生きているのを、俄かに意識した。
だがピータアの疑問は、モイラ自身にもわかってはいない。父親の林作も、全部を知ってはいない。林作とモイラとが共通して知っているのは馬丁の常吉の、抑えていて表面には出すことのない、モイラへの暗い熱情と、既に過去になった、一時期の、アレキサンドゥルの狂気、との二つだが、常吉の部屋で、壁際に立て膝で蹲《うずく》まっていた常吉の仲間の男の倉太が、モイラを見て、不意に異常な慾望を漲《みなぎ》らせ、兇暴な眼でモイラを射すくめた小事件がある。それに気づいた常吉が直ぐにモイラを、その眼の前から外へ伴れ出したが、倉太は間もなく常吉の部屋から姿を消したので、この小事件は二度と起きなかったが、これはモイラと常吉とだけの間の秘密になっている。常吉は倉太がモイラに対して何か、不始末をしたのだったら、自分から進んで、林作に言っただろうが、単に異常な慾情を起しただけのことであったし、倉太は常吉を頼って来たのだが、境遇が悪くて、兇暴になっている男で、林作も金を遣《や》って返すよりなかった。それで常吉は倉太への哀れみで、モイラに林作に言わないでくれるように頼んだのだ。その時七歳だったモイラは、常吉が黙っていてくれと言ったので、黙っていたのだ。モイラは倉太の烈しい慾情を判然《はつきり》と把握していたわけではなかった。ただ漠然と理解したのである。これはモイラの最初の経験といっていいものだ。又、家庭教師の御包と、家政婦の柴田との二人の、抑制された性が曲って出て来た、異常な憎悪と、サジスティックな挙動が、一方にあって、これもモイラに根強いサジスティックな、肉慾的なものを抱いている聖母学園のロザリンダが首領格になっているこれらの、道徳の皮を被ってモイラを追い廻している、すさまじい女の群は、モイラの捉えたものというのはおかしいが、モイラの中に何かを育てたものではある訳で、これもモイラの経験の中に入っている。
それらの女たちの群の、慾望の変形した、醜い行動は、それは暗闇の中の醜い亡霊たちである。その上にモイラには、父親の林作との日々の歴史が、ある。そこには狂気はないが、モイラとの繋りはどれよりも深いところにあるだろう。林作は、知らされていない倉太との小事件についても、或はそんなこともあろうという、推察は持っていたと言えるのだし、彼はモイラの周囲をとり巻いて起きることは、出来事《アクシダン》とも言えぬ微妙なことも、確かな推察で把握している。林作は、モイラの周囲に現れる男たちについては心理の、微細な切れはしまでを、どこかで、捉えている。林作はこの場合、巧みを極めた鵜匠で、あった。
若しピータアが、モイラの家に寄宿でもしていて、モイラを赤子の時から見ていたのだったら、これらの出来事《アクシダン》ともいい難いのも混った、幾つかの出来事《アクシダン》はすべて、ピータアの眼に明瞭《はつきり》と、捕えられたに違いないが、すべてがピータアの眼から隠されているので、モイラに心を奪われたピータアにとって、それらの明瞭でない群像の存在は、彼をモイラの魔力の深みにひき入れる、強い曳綱になっていた。もっともピータアが、それらの人々や事件をすべて知悉していると仮定してみると、それらはピータアにとって一層ひどい刺戟物だったかも知れない。だが、眼に見えぬものの脅《おびやか》しに、今ピータアは無慚にひしがれて、いた。
* *
ピータアが、そのモイラの捉まえたものの中の一人について眼を開かせられたのは、次の日の朝だった。ピータアが朝、まだ薄暗い内にひと泳ぎして、坂道を上って行くと、モイラが父親らしい男と来るのを見た。白へ灰色と黒の繊《ほそ》い線が、小魚の骨か、寒暖計のように見える、ピータアの眼にひどく綺麗に映った単衣物を着た、五十年配の男は、モイラに何か微笑いかけながら歩いて来た。
父親らしい男は、既にピータアについて知っているらしく、直ぐにピータアに気附いたらしいが、気にしている様子もない。熱い眼をモイラにあてた儘進んで行ったピータアとの距離が狭まった時、父親らしい男はまだ微笑いを残した顔で、ピータアを見て立止った。モイラは朝の明るさの中で見ると却って一層魔ものじみて見える眼を、大きく開いてピータアを視ると、肩の辺りを微かにくねらせるようにして、父親に寄りかかった。ピータアはそれを見て、モイラの擒《とりこ》の一人がモイラの父親なのを知った。モイラの肩は、今日は淡黄色のロォンに隠されている。林作がモイラの肩に軽く掌を遣《や》って、言った。
「やあ、昨日《きのう》はモイラが君と話をしたそうで」
ピータアは眼の中の熱いものを消す間もなく眼を上げて、林作を見た。浅黒い中に白い歯がわずかに覗いた林作の顔に、善意を認めるとピータアは、脣の端に微笑いを見せて、応えた。林作の顔にはたしかに善意というか、親しみのようなものが、あった。自分を小さい頃、見たことがある、とでもいうような、親しみである。それはあり得るだろう、とピータアは、思った。或は、特別に魅力のある男で、敵でない限り、そんなようにして微笑う男なのかも、知れないとも、思われた。だがピータアは、日本武士の顔が洒脱な味に崩れた、というような林作の表情に、一目《ひとめ》で尊敬と、親しみとを抱くと同時に、言いようのない嫉妬を、覚えた。
ピータアは林作|父娘《おやこ》と三十分程散歩をして、別れたが、別れ際に、「遊びに来給え」と、林作が言ったこともピータアを幸福にはしなかった。それはピータアはモイラを、ピータアの城に浚って来ることに、眼の眩むような慾望を覚えているからだ。慾望を覚えているというより、ピータアにはそれ以外にない。ピータアは、男友達《ボオイフレンド》として、モイラの家に現れるなぞということが、精神が弛緩するほど、莫迦げて、退屈な気がするばかりでなく、ピータアはそんなことは自分のすることではないと、信じている。モイラにも、そんな場面は似合わないと、信じている。立派な婚約者などより、そんなものより以上に、立派な恋人なのだと、ピータアは自分を評価している。だがモイラを掠奪したい慾望を、抑えられない。モイラも、掠奪される娘に生れているのだと、ピータアは信じている。掠奪して来て、どうするか? ピータアはモイラを、ピータアの城に閉じ籠め、逃げぬようにしておいて、モイラがこれまでに捉まえた奴の名を吐かせたい。何時《いつ》、何処で、どう遣《や》って擒《とりこ》にしたかを。どういう関り合いの男だったかを、吐かせたい。そうして其奴と自分とを比べて、孰方《どつち》が心を奪われたか、真実《ほんとう》の恋人か? それを吐かせたいのだ。現実には、モイラが自分の城に来れば、自分は唯黙って瞶めているだけかも知れない。と、ピータアは思っていた。だが今、ピータアの空想は湿っていて、執拗で、たしかにそこまで、走っていた。
ピータアはモイラを、永遠に、自分のものにして置きたい。そうして何故か? それが何故かはわかっているのだ。何故か、何から何までして遣りたい。読んだものの話をして遣《や》って、モイラを教育をして遣りたい。そうして光沢《つや》のいい猫族のようなあの体を、愛撫して遣りたい。ピータアは熱くなった心《しん》の臓《ぞう》で、想うのだ。モイラの欲しいと言うものなら、どんなことをしてでも、手に入れて遣ろう。だが俺を裏切ったら、一《ひと》突きだ。今度は俺が虫を捕る子供になって、モイラを標本にする蝶と同じに刺し貫いて遣ろう。と。
そういうピータアは林作に、嫉妬をしている。今日モイラの着ていた薄い檸檬《レモン》色の衣《きもの》が、ピータアの眼には、モイラの裸を自分の眼から隠そうとする林作の策略が着せたもののように思われた。林作が今日一緒にいたことも、ピータアには林作が故意にしたことのように、思われるのだ。そうして、薄い檸檬色のロォンの下に、透《す》いていたモイラの肩を、軽く抑えていた林作の掌は、ピータアをひどく苛立たせた。
その日、モイラに檸檬《レモン》色の衣《きもの》を着せてあったのは、前の日に少し長く海に浸かり過ぎたというので、その日は水着を着ることを林作が、禁じたのだ。林作が一緒だったのは、やよでは、モイラが靴下を脱いで海に入るといえば、止《や》めさせることが出来ないだろう。そう思って林作が、自分の朝の散歩の時間にモイラを伴れ出したのだ。林作はピータアを見て、ピータアの望む恋愛の種類、その形態が、どんなものかは、大体察しがついている。まして林作は古い記憶だが、たしかにコオカサスの男だろうと思われる、ピータアの父親を見ていた。
父親らしい男が、濃緑色の家を出入りするのを、此方《こつち》から見ていた時にも、その男の、軍隊|洋袴《ズボン》は眼に入っていたが、林作が或日、薄暗くなった頃、家の脇の坂道で、彼らの親子三人と擦れちがった時、彼が黒羅紗の、いかにも露西亜軍人のものらしい洋袴《ズボン》を履いているのを見たのだ。黒羅紗の上に白い、ゆるやかな襯衣《シヤツ》を着ている、父親は、書物で見るコザックの隊長と言った風貌で、ピータアも眼と眼の間が狭いが、眼頭《めがしら》の逼《せま》った大きな濃青《ブルウ》の眼をしていて、濃い口髭の下の脣は厚く、大きかった。その男は葉巻を手に、ゆっくり歩いていたが、父親に寄り添って歩いていた、父親に負けずに大きな、威厳のある母親にも、二人の間を後先《あとさき》になって歩いていた少年にも、薄暗い中だったからばかりではなく、どことなく寂しげなところがあって、亡命している軍人の家族が、しっかり団結していると、いったような感じが、あった。コザックだろうと思ったのは、小説《ロマン》好きな林作の想像であったとしても、亡命軍人だということは確かだった。モイラが生れた年だったから丁度十五年余り昔のことだが、夕暮れの薄暗い中で見た、ピータア一家は、林作の頭に、たしかにそんな印象で、残っていた。ピータアの印象にも、何処かに、「愉快なコザック」や「ペチカ」を歌い、ウオトカを飲む、コザック兵の感じが、ないでもない。コザック兵の息子らしい、烈しさが、見えるのだ。林作はピータアにせよ、他の誰にもせよ、モイラの青春について、むやみに間違いを恐れる気持はない。〈アクシダン・ダムウル(恋の遺児)〉さえ出来なければいいと、林作は考えている。自分がモイラをそんなように、育てたのだ。自由でなくては、モイラが幸福でないと、そう考えて、そんなように育てたのだ。モイラを奪《と》られるのを、歓びはしないが、そんなことがあっても仕方がないと、考えていて、それはモイラの幼い時からのことだ。林作は自分自身を、困った人間とは思っていない。その自分が育てたモイラにも、自信を持っている。モイラは放っておいても心配はない。むやみな男に自分を与えるような事はないと、林作は思っている。
林作はモイラの中に、ピータアという青年を擒《とりこ》にした、という、子供の邪悪に似た歓びを、はっきり視て取っている。又現在以上に擒にして遣りたい誘惑に唆《そその》かされて、危く、いつものムウディイな気分の中に陥《お》ちこみそうになっているモイラの、一種甘美な気分に、いち速く感応している林作には、ピータアの接近を妨害しようなどという気はない。モイラはピータアとの間に何かがあれば、林作に対して罪悪感のようなものを抱くだろう。だがそれは悪い悪戯《いたずら》をした子供が、それを父親に知られた可怕《こわ》さのようなものだ。林作とモイラとの、父と娘との愛情の後《うしろ》には何かがあるが、その何かを林作は人間の持つ自然な本能だと思っている。林作はその自然な本能に従って動いているので、世間の父親のように、とくにまともな、道徳的なものを誇示しようとしないだけである。林作は自分の恋愛をピータアに対して後暗いことだとは思わぬし、ピータアとモイラとの間に何かがあったとしても、それを間違いが起きた、とは思わない。林作には〈間違い〉はないのである。ピータアはそういう林作の考えを知らない。ピータアの父親のセルゲイと、母親のタマァラとは、三日の予定で、ピータアがモイラを窗の中に見た日の朝東京に発ったのだ。機会は直ぐに一日か、二日で、逃げ去るだろう。ピータアはどう遣《や》って抑えていいかわからない、不条理な怒りを胸に燃え上がらせた状態で濃緑の家に辿りつき、板戸を明けて、〈ピータアの城〉に、帰った。
* *
林作とモイラとがピータアと別れて家に着くと、やよが電報を手に持って、待っていた。取引先の独逸人が来て、ホテルから連絡して来た、という、会社からの電報である。まだ一月《ひとつき》は先の筈だった話が、変ったらしい。林作はやよを伴れて、二階に上がった。
モイラも直ぐに後《あと》から上がって行ったが、暗い階段を半ばまで登った時、ふと、自分に凝と視入るピータアの眼が、暗やみの中に浮んだ。つづいて濃緑のピータアの家が、ピータアの眼と重なるようにして、浮び上がった。同時に階段の中途の暗やみが、微かに濃さを増して、空気が重くなった。それはモイラの予感《プレサンチマン》である。林作が居なくなるかも知れぬと思ったモイラの頭に、ピータアの眼と、濃緑の家とが、見えたのだ。モイラは、何《ど》うしてかわからぬが、ピータアと会うのは、昨日《きのう》のように海でなくてはならないと、思っている。二人だけでなくてはならないと、思っている。二人が会うことは、二人だけのもので、それは秘密のものだ、と、モイラは何処かで、思っているのだ。
何か知れぬが恐怖が走って、モイラは急いで階段を上り詰め、俄かに重く、湿った廊下を走った。書斎に入ると、スタンドが点いていて、やよが卓子《テエブル》の上に大きな、肥え太った背を屈《かが》めて、紙切れを手に持って、熱心に見入っている。長椅子の林作が鉛筆で、紙の上に書いた字を辿っている。
「此方《こつち》は、コンヤ、タツ、でいい。この間に一角《いつかく》残して書くのだ。それから此方は、いいか。リンサク、ジョウキョウ、コチラ、ルスニナル、スグコイ。この間は皆|一角宛《いつかくずつ》明けるのだ。判るね」
「はい。では行ってまいります」
モイラは凝と立って、それを見ていた。
やよが急いで出て行くと、林作は長椅子の背に寄りかかって、モイラを見た。
「モイラは大人しく留守居が出来るか?」
モイラは、スタンドの火影に自分を見詰めている林作を見ると、その肩に飛びついて、行った。
「パァパ。段々も、廊下も、とても暗い」
林作は、確《しつか》りと捉まり、自分の項《うなじ》に頬を寄せて、窗の暗い空に眼を遣《や》っているモイラの肩の辺りを、後手《うしろで》で軽く叩いた。
「何時《なんじ》に発つの?」
「何時《いつ》、帰る?」
モイラはいつものように林作の片膝に凭れかかり、何処かに秘密のある眼で、林作を見上げた。
モイラは、林作がいなくなったらピータアに会いに行こうと、明瞭《はつきり》考えている訳ではない。モイラというものの深奥に、自分を愛している、と見た人間をさえ見れば、その愛情を食いたがる肉食獣がいて、それがピータアを見て慾望を起している。それが、電報が来たのを知って、父親がいなくなるかも知れないと、思った時、モイラの頭にふと、暈《ぼんや》りとした予感が起きたのに過ぎない。階段の暗がりで見た、ピータアの眼と、濃緑の家との幻は、そんなモイラの予感の現れである。
擒《とりこ》にしたピータアに、モイラはもう一度出会ってみたい。モイラは海へ行けば、ピータアに会えると、思っている。十間程離れた、ピータアの家の、丁度、モイラがピータアを初めて見た窗と向い合った辺りに、同じような小窗がある。モイラはその窗を見附けていて、ピータアが最初の日、自分が一人になった時に出て来たのは、そこから見ていたからに違いないと、思っていた。だが慾望の向うには恐怖が、あった。モイラはピータアが、林作や常吉とは違うことを、知っている。そうしてそれが、どう違うか、ということも、朧気にわかっていた。
林作が、モイラの頭の中の機械《からくり》の動きを、皆見ているような微笑いを浮べて、モイラを見た。林作独特の、何ということもない時でも、エロティックなものの霧《き》らう、微笑いである。林作も、モイラの寝室の小窗と向い合ったところにある、ピータアの窗を、知っているのだ。
「今夜発つが、明後日《あさつて》は帰って来る。夜は大丈夫か? 寂しかったらやよに、寝台《ベツド》の下に寝て貰え」
モイラは林作の膝に横顔を押しつけるようにしながら、頷いた、甘えの中に、何処かに、林作に秘密を持ったような気がしているらしいところがある。
モイラの肩においた林作の掌が、幼い時にしたように、軽く背中へ、撫で下ろされた。思わず知らずのように、そうしている林作の顔には、微妙なものが出ている。優しい微笑いを含んだ頬から脣の辺りに苦みがある。父親にしては幾らか濃密に思われる愛の蜜が、窪みを造っている頬と、固く結ばれた脣との間で表情の均衡《バランス》が破れている。蜜の塗られた微笑のどこやらに、苦い影さえあって、裏切りを企てている、あどけない情人を知っていて見ている、訳知りの男の顔のようにも、見える。
電報を受け取った時から林作は、車が東京の家を出る時に覚えた、淡い予感が、濃い、生《なま》なものになって、蘇るのを、感じとっていた。
モイラの背中は長い間触れずにいた間に、背筋に窪みが出来ていて、その窪みを中心に緻密な豊饒を、くり延べているようだ。アムステルダムの教会で、手を触れたことのある、聖典の表革《おもてがわ》の羊革の触感が、ふと、林作の掌に蘇ってくる。林作は、微かに触れる豊饒の中で、ロォンの薄い布地が隔てているだけではない、何かに、隔てられた、微妙なエロティシズムを、覚えた。
それはどこか空虚で、また、豊饒で、あった。
* *
モイラ父娘《おやこ》とピータアとが別れた頃から、空が暗くなり、湿り気を帯びて重くなって来ていたが、その夜は酷い蒸暑さが来て、雨になった。雨は外房州の砂地全体を湿らして、降り続けた。
ピータアは前の日の夜と同じに、モイラに関する悩みの中に、いた。熱帯地方の陽の下で、乾燥したばかりの胡椒や、カリイを載せた舌のように、燃え上がるものを覚える一刻さえあった、長い、暑い夜を、過した。
同じ夜、モイラは寝台《ベツド》の中で、いつもの湿った、不機嫌《ムウデイイ》な気分の中に、陥っていた。その夜《よる》、モイラは生れて初めて、林作と離れて睡ったのだ。現在もモイラは、気分の悪い日、重苦しい、雷の来そうな夜、なぞには、林作の寝室の長椅子寝台《ソフアア・ベツド》に寝ていたのである。モイラは当る相手がないことに苛立って、何度か、寝返りを打った。林作が傍にいれば、起して、レモネエドが飲みたい、とでも、氷が欲しい、とでも言えただろう。林作は頼まないでも、モイラの寝入るまで、起きていてくれるのだ。その林作が、忽然として、何里も離れたところに、去《い》ってしまったのだ、そのことがモイラを、どう遣《や》っていいかわからない状態にしている。林作が出て行った後も、寝台《ベツド》に入るまでは、それ程にも思わずにいた。林作から、どうしても会わなくてはいけない客と会うので、それが会社の大切な仕事なのだと、言いきかされているので、モイラは不平は言わぬ積りでいた。それが一人で寝室に入って、寝台《ベツド》に横になってみると、林作がいないということが、どうにも我慢が出来ないのだ。しかも蒸暑く、降り続く雨に、空も、海も、家も砂地も、閉じ籠められたようだ。モイラは呼鈴を押してやよを呼び、氷を入れたレモネエドを持って来させたが、やよでは当る張合いがない。林作が傍にい、甘えを潜めて飲むのでなくてはレモネエドを飲む気もしないのである。やよはひたすら、モイラを慰めようとしたが、モイラは「もう行っていい」と言って、退《さが》らせた。モイラはレモネエドの氷が溶けて行くのを、凝と見ているだけで、飲もうとはしないで、何度も寝返りを、打った。林作が居れば、何度でも着せかけて呉れる筈の白いタオルの掛布《かけぬの》を踏み脱いで、モイラは白い裾長の寝衣に包《くる》まれた体を、不機嫌にくねらせた。やよが暗くして行った電燈の下で、蜂蜜の色をした足首が、言いようのない、光沢《つや》を見せて、汗ばんでいた。
* *
翌朝は気温が急に下がり、海も砂丘も冷え冷えと、冷やされているような気配が、ピータアの部屋にも、モイラの寝室にも、満ちていた。ピータアはひどく疲れて寝入り、何度か眼を開《あ》いたが、明瞭《はつきり》眼が醒めたのは、午後になってからである。時計を見ると、二時半を過ぎている。幾らか冷静を取り戻したピータアは、寝台《ベツド》を下りた。
(泳いで来よう。少間《しばらく》、柔かな海に抱かれていよう。静かな海は母親だ。子供の頃のマァミンカだ)
と、ピータアは想った。
浴室に飛び込んでシャワアを浴び、幾らか疲れて見えるが底に火のある眼と、鏡の中で瞶《みつ》め合いながら、髪を拭くと、ピータアは白い革のバンドの附いたパンティを着けて、海に飛び出して行った。毎日、新しく生れるもののような、力のある海は新鮮な匂いをたて、脈を打つような重い響きで、鳴っていた。
抜き手を切って沖まで泳いで行ったピータアが、今度はゆっくりと、泳ぎ戻って来ると、小さく、遠く、坂道の上にモイラが立っている。一人だ。ピータアが手を上げて合図をすると、こっちへ走って来る。ピータアは忽ち、全身に海の力をつけた男のようになった。モイラはゆっくり走って来て、波打際の大分手前で立ち止った。ピータアが海から上がって一歩、一歩、モイラに近づき、手を腰において見下ろすと、又もや藻のようなあやかしの纏う眼が、ピータアを見上げている。(この人を私《あたし》は絡めとって遣《や》った)、そんな眼だ。絡めとって遣《や》ったと思っていて、それを対手が知らないと思っている、そんな眼だ。その絡めとったというのが、明瞭《はつきり》した意識をもって遣《や》った、というよりも、本能に押されてやったというような、ところがある。それが却って重苦しい、迫る力になっている。思わずピータアの掌《て》が、モイラの肩を軽く捉まえた。眼は凝《じつ》と、ピータアの眼に据えたままで、モイラは撓《たお》やかな腕を上げて、ピータアの掌を除《の》けようとする。遅《のろ》い動作だ。力を籠めているのがわかるのにも拘らず、殆ど力が無い。その力の無い抵抗と、湿ったような指とが、ピータアを惑わし、力を入れているので膨んだようになった脣が、ピータアを火にした。
(だがまだ一寸、無理だ。それに女中が来るかも知れない)
ピータアは危く接吻を思い止《とどま》って、言った。
「何《ど》うもしない。今日はこの前より長くいられるの?」
モイラが、眼と脣の端だけで、微かに微笑いの影を見せた。どこで、こんな巧者な微笑いを覚えたのだ。危険が去ると、再び小動物の本能のような、眼の誘惑が始まる。
「パパは?」
「パァパは会社から電報が来て、東京へ行っていない。……」
「それで僕の家へ遊びに来て呉れるの? そうだね?」
誰かが来るのが気になりながら、ピータアは掠奪への昴奮を抑えて、言った。
モイラはもう充分、というほど、ピータアの眼の中に自分への真実を見てとったのか、ピータアの掌の下で二つの肩が甘えを見せた。ピータアの掌が、それを感じとっている。
ピータアが黙って、モイラの肩を優しく押して後を向かせ、一方の肩に掌をかけて、二人は濃緑の木の家へ向って歩き出した。
やよはモイラが出て行ったのに気附いて愕き、大きな乳房を入れた温かな、厚い懐を、不安で一杯にしたのだが、モイラに遠慮をして海へ追っては来なかったのだ。モイラはやよがそうすることを、知っていた。だがモイラは林作がやよに、電報を読み上げて遣《や》っていたのを傍で聴いていて、常吉が来るのだということを、知っている。モイラは常吉が着いて、自分の外出に気附くことを何よりも、恐れていた。
(ドゥミトゥリは怒るだろう。そうして、許さないだろう)
と、モイラは思った。やよは常吉に言わない。でも終《しま》いには常吉に聞かれて、言ってしまうのだ。それに常吉は、やよが言わなくても、知ってしまうのだ。林作に対してはモイラは、林作が急に帰って来た、としても、大して怖れはしなかったが、常吉の胸の中の愛情が、ピータアと同じようなのだと、いうことを、モイラは既《も》うよく、知っているのだ。
濃緑の家に向って歩く途中、ピータアはモイラの掌を捉まえた。二人は掌を繋いで歩き、モイラは二度程、家の方に振り返った。
「モイラ。〈ピータアの城〉を知っている?」
「なに?」
「僕の部屋のことだ。今、見せて遣ろう」
濃緑の家の板戸を開けると、小さな四角な土間があって、そこから急な階段がついている。上がるとピータアが、大きな扉を開けて、モイラの肩を抱いて中へ入れた。
入って直ぐ右の隅の壁際に、古びた小卓《こづくえ》があって、ひどく古風な把手のついた抽出しが、卓一杯の大きさに一つだけ、附いている。この一つの抽出しの為だけに慥えたような、妙な卓だ。卓の上には何の飾りもない、時代物の洋燈《ランプ》が一つだけ載っていて、上の壁には、卓と略《ほぼ》同じ幅の額がかかっている。森の中に細い小径が一本、画面の奥へ通じているような絵だ。その上には、狭い板を打ちつけた棚があり、干乾びた土に苔のついた、小さな植木鉢と、怪魚の骨のような形の大きな、白い貝、そこにも洋燈が一つある。額を留めてある鋲も黒い鋼、吊り紐も、渋い茶の打紐で、この部屋のものはすべて、暗く、ひどく地味で、モイラのこれまで見て来た世界とは異なっている。モイラの見たことのない、これらの部屋の道具立てはモイラに、或厳しさを伝えた。モイラは立ち止り、ピータアを見上げた。
「見たことのない部屋だろう?」
モイラはピータアの部屋にある厳しさの中に、学園の修道女の部屋や、御弥堂《おみどう》の中の様子に通ずるものがあるのを見つけ、なんとなく厳しいものに搏《う》たれ、一寸体をくねらせた。モイラは又、ピータアを見、尚も珍しげに見廻した。
ピータアの部屋は海に向いた窗のある壁と、入口だけを残して、三方の壁が書棚になっていて、左奥の壁際に狭い一人用の寝台《ベツド》が、濃緑の毛布の折ったので包んだようになっている。枕元には焜炉《こんろ》があって、薬缶《やかん》が掛かっている。左の隅には碁盤縞《チエツク》の布を掛けた卓子《テエブル》と、椅子が二脚。卓子《テエブル》の上には暗い青《ブルウ》のポットと白無地の紅茶茶碗。観葉植物の小さな鉢が載っている。
部屋の中央には、欧羅巴の田舎にあるような、曲った針金で吊った洋燈《ランプ》が下がっている。書物は寝台《ベツド》の脇のスタンドで読むらしい。右奥にある大きな厚板の卓の上に、肉の厚い青い硝子壜があって、モイラの見たことのない樺色の、細かな襞で出来た花と、蒲《がま》の穂のような、焦茶色の植物とが、挿してあるが、貝殻のように乾いている。その壜の傍に、白い馬の首の玩具があるので、モイラはその卓に近寄った。
モイラはピータアの眼が、後《うしろ》を向いた自分の水着だけの体にあてられていることを知っているようだが、あまり気になる様子はなく、水着の体で自然に、動いている。
ピータアは今、モイラの体つきよりも、空気が冷たいので締め切った部屋の中に、ふと、生れたような、清潔《きれい》な、だが刺戟のある、花のような香いに心を奪われている。
(何処まで魔ものに出来ているのだ)
モイラが傍へ寄って見ると、陶器の馬の首だが、何処かで見たことがある。
後《うしろ》へ来たピータアを、モイラは振返って、凝と見上げた。凝と見る度に、対手《あいて》の魂を持って行く、眼である。対手の胸の中から愛情を、強引にひき出して行く眼だ。
ピータアの結んだ脣から頬の辺りに、どこか、弱り、というか、苦笑の刻まれた窪み、というか、手もなく惹きこまれた男の苦い、だが可哀らしさに堪え得ぬ表情が、出ている。それをモイラは見てとっているのが、ピータアに感ぜられるのだ。
(こいつが)
と、ピータアは心の中に呟いた。
「知らない? 西洋将棋《チエス》の馬だ。王様とか、兵隊とかある、あの動かして遊ぶ奴」
「パァパの本で見た」
モイラが、卓の上の壁を見上げ、怖れたように、ピータアを見た。
ピータアはモイラの肩を両掌で優しく、抑え、静かに光る眼をそこに掛かっている絵にあてた。それはベックリンの〈死の島〉である。
黒い、透明なようにみえる海の、水平線の辺りに白い、滑らかな石を刻んだ島が浮んでいる。石像のような佇立した男を乗せた白い舟が一艘、岸に向って近づこうとしているところで、島の右手の削り立ったような石の側面に、暗い、墓場の入口のような、扉がある。
「〈死の島〉だ。ベックリンという奴の。可怕《こわ》い絵だろう?」
モイラは絵の説明をして貰うのが好きなのだ。モイラは肩を捻《ひね》って振り向き、林作や常吉に見せるような信頼と甘えのある眼がピータアを仰いだ。ピータアの眼にその時、一瞬永遠が宿ったような、静かな光が点《とも》ったが、抑えているモイラの肩の手触りがピータアを、肉感の世界に引き戻した。可怕さを訴えるように、微かにくねらせる、肩の微かな動きを感ずると、ピータアの肩を抑えた掌に思わず力が入った。
「可怕いの?」
ピータアは後《うしろ》から、モイラの顔を覗くようにした。ピータアの掌が腕の上部に滑る。ピータアがその掌を脇に差しこんで、胸を抱きたい、灼くような慾望を起した時、モイラはそれを判ったように、ピータアの掌を烈しくふり解《ほど》いて、窗際に逃げた。
モイラは窗際に立って、又凝と、ピータアを視ている。
ピータアは腕を組み、苦い微笑いを含んだ眼で、睨むようにモイラを見据えた。脣は微笑いを噛み締めて固く結ばれている。
怖れをひそめていながら、擒にした男をそっと窺っている、モイラの眼が大きく見開かれていて、ピータアを唆《そその》かした。
ピータアが、入口の近くにあった籐の肱掛椅子を寝台《ベツド》と向い合せて置き、モイラの肩を抱いてそこに掛けさせ、自分は向い合って、寝台《ベツド》にかけた。肱つき椅子に寄りかかり、膝をくっつけてかけているモイラの体は、近くで見ると、肉感が強く、感ぜられる。紅い水着の体がピータアを燃え上らせようとして、モイラの意志とは別のところで、挑んでいる。ピータアの胸には、抑えようのないものが、膨んでいる。モイラに、未経験な女にしては相当に男を擒にしたことがあるようなところがある。その原因を糺《ただ》して遣りたい、慾望が、もはや抑えられなくなっている。
ピータアの胸は、モイラが今までに擒にした男について見極めたい慾求と、本能的な、サジスティックなものとが一つになって、燃え上がっている。
「モイラはパパを好き?」
モイラは不意に起ち上がって、窗際へ行って後向きになったが、気になるように直ぐに又、ピータアの方に向いた。モイラはピータアの言葉の中に詰問口調と嫉妬を、読みとったのだ。
そのモイラの、逃げたいような様子は又、ピータアを刺戟した。
「好きなんだろう? さあ。言って御覧」
モイラは微かに体をくねらせ、返事をしない。モイラはピータアの厳しい問い方に会って初めて、林作と自分との間に深いものがあることを明瞭に意識したのだ。
ピータアも、モイラも、予期しなかった、危険な空気は、二人の間に膨れ上がって、妙に呼吸《いき》が詰まるようなものが部屋の中に満ちて来る。
モイラがやよの眼を胡魔化そうとして、朝から水着でいて、その儘で来たことが、一層ピータアを容易《たやす》く燃え上がらせたのでもあったが、だがそれは衣《きもの》を着ていたとしても同じことだったろう。
ピータアは自分を抑えつけようとするが、抑えられない。
ピータアは眼の底に、炎のようなものを潜めて、モイラを見た。
一つの雰囲気が二人を捉まえて押し流した。モイラはなんとも知れず呼吸《いき》が詰まって、体を固くした。モイラは右に、左に、顔をそ向けて、ピータアの眼を逃れようとするが、ピータアの眼は隼《はやぶさ》の眼のように鋭く、どうやっても追って来る。モイラは終《つい》に仰向いた。天井に救いの神がいるとでも思ったかのように仰向き、眼を宙に迷わせている。
ピータアは頭が火のように熱くなり、生贄を見るようにして、モイラを見た。
何秒かが、経った。
「さあ。言って御覧。パパは恋人だと」
モイラは眼を白くなる程上目遣いにして、ピータアを見た。悪いことをしていて、それを隠しているような、稚い、だがそれでいてどこか恐しい魔のような眼が、本能的な恐怖を潜めて、ピータアを窺っている。
ピータアは起ち上がってモイラに近づくと、モイラの肩を捉まえた。モイラは半ば脣を開け、逃げようともせずに、じっとしている。それがピータアを煽った。
ピータアは眼の下に薄い薔薇色の脣を、見た。奥へ行って薔薇色の濃い脣が、今咲いた花のようなのを、見た。しかも全く無防備に半ば開《あ》いている。
ピータアはモイラの肩を捉まえた掌に力を入れ、呼吸遣《いきづか》いを荒くして、少間《しばらく》の間、モイラを見下ろしていたが、やにわに頸を抱きこみ、顎に掌をかけてモイラを仰向かせ、|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》く間もなく黒い、精悍な鷹のようなピータアはモイラの上に顔を伏せた。モイラの清潔な、だが紅《べに》百合のような懶い香いが、モイラの後《うしろ》に立った時から、ピータアを唆かして、いたのだ。
モイラは夢の中でピータアの烈しい接吻をうけ、夢の中で飲みこみ、ピータアの腕が頸を締めつけ、片方の腕は背中を固く巻いて、脇に廻っているのを、火のように熱く、感じとっていた。
モイラはふと、気づいたように烈しく、|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》き始めた。ピータアの腕に爪を立て、ピータアを除《の》けようとする。だがピータアの姿勢はその儘、動かない。ピータアは長い、烈しい接吻を終ると、体の平衡を失ってよろめいたモイラの体を抱え上げて寝台《ベツド》の上に横たえた。モイラはピータアが突然な烈しい行動を悔いて、優しく労《いたわ》ろうとしているのを混乱の中にも読みとると、衝撃の収まらない顔でうつつにピータアを見上げた。頭の何処かが働いていて、
(ドゥミトゥリはもう来ただろうか?)
という怖れが暈《ぼんや》りと浮んだ。モイラには長い時間が経ったような錯覚がある。
(もう来たかも知れない)
モイラの眼がピータアの顔から外《そ》れ、先刻《さつき》やったように、救いを求めるような眼になって、瞳が上瞼に張りついたようになる。そのモイラの何かに怯えた眼が、再びピータアを熱くした。それと、モイラを寝台《ベツド》においた瞬間、ピータアが思わず出血したのではないかと愕いた、モイラの下脣の小さな鬱血の痕《あと》が更にピータアを煽る。少間《しばらく》の間そっとして、看取って遣ろうとしていたピータアは再び火になった。半ば開《あ》いた、傷ついた脣の上に再びピータアの攻撃が加えられた。何刻かが経った。烈しい接吻に次第に深さが加わり、ピータアの掌はうつつの間にモイラの水着の肩の釦《ボタン》を外していた。小さく持ち上がって、その上に薔薇色の乳頭をおいていた、林作の記憶に残っているモイラの乳房は、円く、高く、ラズベリイのような乳頭をのせ、未だ熟し切る前の固さだ。刺戟のある、花の香いが、果実を剥《む》いた瞬間のように漂う二つの丘は、ピータアを狂気にするのに充分な力を備えて上《うわ》向いている。ピータアの頭が瞬間空洞になり、女の体を既に経験しているピータアだったが、衝撃のためにあまり※[#「足+宛」、unicode8e20]きもせずに投げ出されたモイラの体が、嫩《わか》い、濡れた烏のようなピータアの体の下に、圧し伏せられるのに長い時間は経《かか》らなかった。
やがて哀れみに搏たれたピータアは、ピータアを狂気にし、樹の葉蔭に果実を啄む、飢えた鳥のようにし、そうして深い、無明の闇に引きこんだ、成熟した下半身も露《あら》わに、真裸で、まだ何が起きたか明瞭《はつきり》とはわからぬ、邪気のない体を、横たえ、痛むのか眉を顰めているモイラを見ると、その足元の辺の、寝台《ベツド》の下に膝まずき、汗ばんだ、小鳥のような足を固く抱いて、その上に顔を伏せた。
(俺をこんなにしたモイラの眼はモイラの知らない、モイラの中の〈魔〉ではなかったか。モイラの知らぬ間に悪魔が塗りこんだ、魔の餌ではなかったか。だが恐るべき魔だ……緻密な皮膚と、花のような香いが、魔を強めている。ペテログラッドの教会で触った、大理石のマリアの像の手触りより他に、この皮膚のようなものに、触れたことがない)
ピータアは紅い百合の花蕊《かずい》のような香いが、汗ばんで、熱くなった体温の中に溶け、燻《くゆ》っている小さな足に頬ずりをし、脣をあてると、再び燃え上がるものを抑えた。その時モイラが弱々しく※[#「足+宛」、unicode8e20]いて、腕を上げ、眼の辺りを隠すような仕科《しぐさ》をした。ピータアはモイラの足の汗が冷たくなったのに気附いて、柱からタオルを|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎとり、体を拭いて遣ると、モイラは後向きに寝返った。モイラの仕種はどれも、稚い羞恥である。ピータアは、モイラの裸の腰を、視た。まだ枝から樹の養分を摂りつづけている、だが既に実った果実だ。ピータアは拭いて遣るタオルの下に、厚みのある、重い抵抗を、感じた。
拭き終ると、毛布を掛けて遣り、ピータアはモイラの横に寄り添って横になって、労《いたわ》るように、時折撫でさすって遣りながら、長い間、看取っていたが、その間終始、ピータアの顔には愛憐と、渇望とが、闘うさまが、見えていた。伏し眼にした瞼の辺りにも、脣の端の窪みの影にも、耐えている男の苦しみが、あった。
ピータアの顔は彼の友達の言う、牧師のピータアの顔に、なっていた。時折は、苦患僧のようにも、見えた。
少間《しばらく》してピータアは、毛布を除《の》け、モイラに水着を着せて遣《や》った。モイラは水着を着ると顎を仰向け、疲れた、というように、体をくねらせた。衝撃が、全くおさまったようだ。
危険が全く去ったのに気附いたモイラの中には、再び、無限に愛情をむさぼろうとする肉食獣が起き上がったようだ。モイラは今、自分が、自分の可哀らしい顔や、綺麗な体の外観だけではなくて、自分の光沢《つや》のある、形のいい、そうして花のような香いのする体で、ピータアを擒にしたことを、知っている。モイラは、ピータアと、自分の体との関係を、明瞭《はつきり》した形で、意識していたのではない。だが、最初の日に、窗の下へ来たピータアが、どこか恐しい顔で、自分を見上げた瞬間から、既に漠然とした形で、それを予覚していたのでは、あったのだ。モイラはピータアの部屋に来て、その予覚していたものが、俄《にわ》かに、怒濤のような、大きなものになって、自分に打《ぶ》つかって来たのを知ったのだ。
モイラの眼は、可哀らしい怪物のように光って、ピータアを窺う。
(獲物を視る女の眼だ)
ピータアは心の中に、言った。
ピータアは先刻《さつき》から、自分が、父親のセルゲイに聴いた、厳しい宗教の坊主がその宗教の掟に従って、自分で自分を鞭打ったり、仲間の修道士と互に背中を露わにして輪になって鞭で打ち合うという、そんな修道士の境遇に陥ちているような、気がしている。
「寒くない?」
ピータアが、言った。
モイラは黙って首を横に振った。
「熱いお茶を造って遣ろう」
ピータアは立ち上がって隅の食卓の方に行って、茶の用意を始めた。
モイラは寝たまま、ピータアの動作を眼で追っていたが、湯気の昇っている茶碗を持ったピータアが近づくと起きようとした。ピータアは抱くようにして、モイラを起して遣り、そのまま腕に寄りかからせて、茶碗を渡して遣《や》った。そうしてモイラが茶碗の縁《へり》にしゃぶりつくようにして一口、一口飲むのを横から、見守った。
茶碗を持って階下へ下りて行ったピータアは、薄紫の襯衣《シヤツ》を手に持って帰って来た。自分も格子縞の襯衣《シヤツ》をパンティの上に着ている。
ピータアはそれをモイラに着せて遣ると、言った。
「酷く似合う。君に遣《や》ってもいいがなあ」
モイラはひどく欲しいようすで、俯向き、しきりに襟《カラ》や釦《ボタン》に触っていたが、薄紫の襯衣《シヤツ》を家に持って行きたいと思ったと同時に、留守の家が頭に浮び、俄かに不安に襲われた。
「もう帰る」
「何故?」
ピータアが思わず襯衣《シヤツ》ごと抱きかかえると、モイラは釦を持って、俯向いている。ピータアの掌《て》が稍《やや》、邪慳に顎を持って上向《うわむ》かせ、再び烈しい接吻の下にモイラの脣を閉じこめた。モイラは、鈍い痛みに愕いて、逃れようとしたが、ピータアの強い、意志のようなものの下に抑えられていた。ピータアの顔の影になっているだけではなくて、暗い。そうして深い世界がある。その世界のどこかに、誘惑のようなものが感ぜられる。そんな中で、モイラの稚い頭はめまぐるしく働いた。
(ドゥミトゥリのことがわかると又、先刻《さつき》のように聞かれる)
モイラはピータアの脣が離れると、言った。
「……パァパが馬丁を呼んだの。その人パァパの代りに来るの。それに私《あたし》腎臓だから見張りにくるの。海に入ってはいけないから……」
少間《しばらく》してピータアが言った。
「そう。じゃあもうお帰り」
ピータアはモイラを再び抱き締め、何処か青ざめた顔でモイラの眼に見入ると、その眼を脣に移し、鬱血の痕の出来た脣を再び、短いが、烈しい接吻の下に閉じ罩《こ》めた。ピータアには既《も》う、モイラが男を擒にした、というような表情をする原因が、略《ほぼ》掴めたようだ。
(父親も、馬丁も、皆擒にしているのだな)
ピータアは心に呟いた。
ピータアは寝台《ベツド》に腰をかけて、襯衣《シヤツ》を脱ぐモイラに眼を遣《や》っていたが、
「君に上げるものがあるんだ。待ってい給え」
そう言って立ち上がると、ピータアは、洋燈《ランプ》の載った卓《つくえ》の抽出しから銀の台の指環を出して来て、モイラの掌を取り、中指に嵌めて遣《や》った。古い露西亜のデザインだろう。淡黄の、琥珀のような色のオパアルの林檎を、銀の葉が二枚で囲んでいる。モイラは、不安はどこかへ消え去った顔になり、獲物を視る眼でピータアを凝と見上げると、その眼を落し、美しい指環に魂を奪われたように、見入った。
「ママので、僕が貰ったんだが、モイラが嵌めると誰よりも似合うよ」
ピータアはなんとなく自分が、自分でない奴の行動を遣《や》っているような気がしている。ピータアの中にはつい先刻の、恐しい嵐の余波があって、それがピータアの内側に、荒れ廻っている。
モイラは脣の端に窪みを造って、うれしげな微笑いの影を見せ、その淡黄に鈍く光る林檎に、脣をあてた。
ピータアは大きな掌でモイラの頬を、軽く愛撫するように搏《はた》き、モイラが可怕く思った程鋭い、大きな眼で、モイラを見てから、苦しげに微笑った。
ピータアの理性はピータアに、稚いモイラをこの上愕かさずに、疲れぬようにして、この儘帰すことを、命じている。だがもう一人のピータアはピータアに、叫んでいる。モイラをもう一度所有したって、何処が悪い。俺の烈しさに汚れなどは微塵もない筈だ。俺はモイラの神なんだ。と。
ピータアが言った。
「立てる?」
ピータアはモイラを寝台《ベツド》から下ろして遣り、階段を自分が先に下りて、手を支えて遣り、扉口の土間に下りると、ピータアはモイラの肩を確《しつか》りと捉まえて、額に接吻をして扉を開けた。
モイラはピータアを何処までも魅する眼で、もう一度見上げると、背を向けて駆け出した。
ピータアは大跨に階段を上がると、正面奥と、左側の書棚の隙間にある小窗を開けた。モイラと林作とだけが気づいている窗で、ピータアはそこから時折、モイラの行動を見ていたのだ。
遠く、小さな庭の開き戸を開けて常吉が立っているのを、ピータアも、モイラも、認めた。
モイラはその儘駆けて行くより、なかった。モイラが帰り着くと、不安の塊のように立っていた常吉がやにわにモイラの手首を鷲掴みにした。モイラは体を固くし、渾身の力で逃げようとする。常吉の太く逞しい腕はモイラの手首を痕《あと》のつく程握り締め、誠実が恐しい気魄になって漲る顔は骨の形がその儘現れた額に凝集したように見える。モイラは常吉の額に、そのような骨の形があったことに初めて気附いたのだ。怯えて見上げるモイラの心に、常吉の心が電流のように、伝った。常吉は無言で聞いている。
(どうかされたのではないか?)
と。常吉は口が利けないのだ。怒張したような鼻の周囲も、固く結んだ脣も、それはモイラへの怒りではなくて、不安と、モイラの相手への、怒りなのだ。モイラは常吉の意気込みが恐しくて、口が利けない。熱い湯のようなものをうけ止めかねてモイラは唯眼の中を恐怖で一杯にして、常吉を見上げている。わずかに気がついたように腕の力を弛め、尚もモイラの顔に怒号のような問いを打《ぶ》つけていた常吉は、モイラがかわいそうになったのか幾らか表情を弛めたが、その時不幸な常吉は、恐怖のために半ば開いた脣にある、小さな鬱血の痕を、見てしまった。常吉はモイラの腕を離し、力無く俯向くと、黙ってモイラを離れ、裏口の方に去った。
モイラは誰も見てはいぬのに、慌てたように指環を嵌めた指を片手の指で隠すように握り締め、そうして、そうしたままで家に駆け込み、寝台《ベツド》に上った。
ピータアは、馬丁らしい男がモイラを捉まえ、モイラが必死に逃れようとしているのを、小さな遠景の中に捉《とら》え、眼を離さずにいて、直ぐ男とモイラとの間にある陰影《ニユアンス》を的確に、掴んだ。だが、馬丁の方には、隠された恋の苦悩があるらしいことも、覚った。そうして、たしかに外国人か、混血児らしく思われる、それも、自分と同国人らしく思われる男の、遠くから見たのでもわかる素朴な、しかも侮り難い魅力を持った様子と、力強さとはピータアの胸に、又新たな嫉妬の火を点した。
ピータアはモイラが、指環を嵌めた掌を片方の掌で抑えて、家に駆けて入ったのを見て、その後姿を、もう二度と再び見ることの出来ない幻影のように、最後まで見届けると、ほっと、苦しい吐息をした。
ピータアは、モイラと、馬丁らしい男の揉み合う様子に眼を凝らした、その頃から、自分が重大なことを忘れたことに、気附いていたからだ。モイラの一家が明日にも居なくなった場合、モイラの居る場所は永遠に、わからないことになる。ピータアはモイラの住所《ところ》を知らないのだ。ピータアは、絶望した。モイラの父親が帰って来て、モイラの一家が後《あと》四五日も此処にいて、その上モイラをもう一度捉まえることが出来るという保証は、何処にもない。モイラに海で出会うことは出来るとしても、それだって確実ではない。モイラの東京の住所を、誰か、此辺の者に聞こうにも、石沼《いわぬま》附近の漁師たちに、自分たち一家が好意を持たれていないのを、ピータアは知っていた。彼らはピータア一家に対してはむしろ偏見と嫌悪を、持っていた。
(俺の中に恋の余炎が荒れ廻っていて、俺はモイラをもう一度所有したいと、思っていた。もう一度モイラを圧し伏せて、そうして、もう一度、俺のものにしたいと、思っていた。ロオデンバッハの危いところで賢さを失わぬ接吻。それは俺のものの筈だ。と。俺には愚かさも、卑しさも、芥子粒《けしつぶ》程もない。そう俺は、思っていた。それを無理に抑えたからだ。だが抑えなくては、いけなかったのだ。俺は今日のような強引な、残酷なことの出来る人間ではなかった筈だ。こんな執拗な人間では、なかった筈だ。あの可憐な、稚い処女《むすめ》の中に、抵抗出来ない魔が棲んでいたのだ……)
ピータアは心の中に低く、溜息のように、呟いた。
* *
翌朝十一時に眼を醒したモイラは、枕の下から林檎の指環を出して、飽きることなく眺めた。林作が、結婚するまでに金剛石《ダイアモンド》の指環を買い与える約束をしているが、林作は、「余程いいものでなくてはいけない」と言っていて、会う人毎に頼んで、探して貰っているらしいので、モイラはまだ宝石の入った指環というものを、持っていない。モイラは指環を右手の中指に嵌めると、その掌を窓の光の方にかざし、白い、裾長の寝衣の体を楽しげに、寝返りを打った。
つい昨日《きのう》まで、予感《プレサンチマン》のようなものでくねっていたモイラの体が明らかに媚をひそめてくねっている。それは、蜜のような、甘い媚態だ。それは昨日《きのう》ピータアが、死んだように、裸の体を横たえたモイラの上に、窃《ひそ》かに、飽かず眺めたものだ。残酷を怖れて、何度か、燃え上がるものを抑えたピータアは、その苦痛の中で、モイラの不思議な変化を、みていた。
モイラはその日は終日、寝台《ベツド》にいた。食事も、やよに、小さな卓子《テエブル》で運ばせた。やよには風邪だと言ったが、事実、夜になって少し寒気がしたのだ。モイラは、やよも、常吉も、自分に対して彼らなりの深い理解と、労りとを持っていて、昨日の出来事があった前より以上に、献身して仕えているのを知っていたが、彼らの心の中に、昨日の出来事を過ちが起きた、として歎いているのが、不愉快である。過ちが起きたとすることは、モイラが稚くて、莫迦な娘だったということになるのだ。それをモイラは漠然と、感じとっている。モイラはピータアに害を受けたとは、思っていない。自分が過ちを犯した、とは思っていない。何故かわからぬが、悪いことだと、思えぬのだ。何か言えば、舌足らずな会話しかしないモイラだが、モイラは何処かで、自分というものを信じている。頼りない、無意識のような信じ方ではあるが、自分というものを何処かで、信じていた。それは或は、信じることの過剰であるかも知れなかったが、モイラはそんなように、育っていた。ピータアを野放図だとするなら、モイラは、ピータアと同じような、野放図な娘なのだと、言えるだろう。精神が半分幼児のモイラは、常吉の眼を、ひどく怖れてもいた。やよの方は、絶対服従であるから問題はないのだ。
やよは、一度ピータアを見ているので、ピータアというものに対する理解度は、常吉よりは上で、やよは、昨日の出来事が起った後《あと》でも、ピータアを不良だとは信じ切れずにいる。だが、昨日の出来事では、ピータアを見かけのようにない青年であったと思い、絶望に陥っていた。だがやよは次の夜、ようよう決心をして、常吉に、ピータアの印象が悪くなかったことを話していた。やよは常吉の苦悩を、単純に受けとっていることもあったが、彼の力を落した様子を見ていられなかったのだ。それに彼女はモイラのためにも、幾分の弁護をしたいと思ったのだ。
翌日の夕飯前の六時頃、不機嫌に疲れて睡ったモイラが、ざわざわする階下の気配に眼を開《あ》いた時、林作が入って来た。
「どうした」
林作の、何も彼も解っていて、モイラというもの全体を包みこむような、甘やかしの微笑いを見ると、ピータアの家であった、生れて初めての出来事も、帰ってからの訳のわからない不愉快も、モイラの哀しみはみな、翳りのある、甘い、その眼の中に吸い込まれて行くようである。
三四日は会社に出ないといけないようになったので、石沼の滞在を切り上げることにして、林作は車で帰って来たのだが、階下で出迎えた常吉とやよとの様子を見て、何が起きたかの大凡《おおよそ》を林作は、察している。林作はかなりの衝撃《シヨツク》を受けたが、林作にとっては起きるかも知れぬ、と思っていたことが、起きたのである。唯これ程突然な、大きな形で来ようとは予想していなかったのだ。林作はモイラの寝室に入り、大きな眼で自分を見るモイラに平常《へいぜい》の、愛情の溢れる眼で応えて、寝台に近づいた。
そこで林作は燈の下に、モイラの可哀らしい脣につけられた、紅紫色《べにむらさきいろ》をした鬱血の痕を見た。処女《むすめ》としての異常な体験をしたモイラが、大きな眼をして、自分を子供のように見入るのを、見た。
火影のせいか、モイラの眼は、魔のような曇りが一際《ひときわ》加わっている。そうしてモイラは微妙に、変っていた。何処かに、つい二日前には無かった、濃い、甘えの蜜がある。そのモイラの姿態に眼を遣《や》った林作は、傷ついた獣《けもの》を見るような、深い哀れみを感ずると同時に、何処かわからぬ、闇の世界へ、自分が、これまでにも、幾度《いくたび》か、見ていた筈の或る世界へ、惹き入れられようとする、危なさをも、覚えた。凝と、自分を視るモイラの眼には、自分に対する、幾らかの罪の意識が、奥深く潜んでいるのだ。悪戯《いたずら》に火遊びを遣《や》った子供が、思いがけない痛い傷を負った。そんな眼だ。だが勿論、許されると、信じている眼だ。
「風邪をひいたそうだな」
林作はモイラの額に、掌をあてた。
「熱はないが、今夜は此処で、湯に酒精《アルコオル》を入れて拭いて貰え。昨夜《ゆうべ》一人で、温《ぬる》いシャワアを浴びたろう。それがいけなかったのだ」
いとしげな、林作の掌が、胸の下まで剥《は》いでいた掛布を引き上げて遣り、モイラの頬を軽く撫でた時、モイラは自分の頬の皮膚に、これまでにない鋭敏な感覚を、覚えたが、その時、モイラの中の肉食獣は、新たに擒にした林作を捉まえた、確実に捉まえた歓びを、覚えたようだ。モイラの中の肉食獣は、痺れるような幸福の中に、手も、脚も、思うさま伸ばして寝そべり、体をくねらせて、林作の中から溢れ出る愛情の蜜を、咽喉を鳴らして、呑みこんだ。
モイラは、肉食獣の持つ魔を、自分の眼の底に潜めて、林作に見入っている。
林作はモイラの様子に、愛情に耐え得ぬように、見えた。
褐色の板壁に囲まれた、モイラの寝室は、林作がいつからか、見ている、或一つの世界に、なっていた。二人だけの、甘い蜜の入った壺のような世界である。モイラは林作の世界を、どこかで捉《とら》えているだけである。
* *
東京へ帰って三日程で、会社の用事が済むと林作は、休暇の追加を取って、石沼から帰って以来寝室に籠っているモイラの傍で、大方の時間を過した。そうして、前よりも一層甘えるようになったモイラに、話をして聴かせたり、辞書の挿絵の説明をして遣《や》ったりしていた。食事も寝室に、運ばせた。林作は、モイラの脣の鬱血が消えるまで、そうしているように、モイラに言って聴かせたのだ。林作はモイラに外へ出ることも、階下《した》へ下りることも、禁じたのだ。
モイラが寝室に籠っている期間中の或日、祖父の郷田重臣《ごうだしげおみ》が訪れた。林作は困惑したが、重臣をモイラに会わせぬという訳には行かなかった。
その日重臣は、丁度玄関前に来かかって、挨拶をした常吉と、玄関に走り出て洋杖《ステツキ》を受け取ったやよとの、二人の様子に、不審を抱いた。重臣はいつもの例で、
「旦那様は居られるか」
と聞いた後直ぐに、
「モイラは?」
と続いて訊ねたが、やよは美しくはないが誠実な顔を、気の毒な程困惑に歪め、
「お二階にいらっしゃいます」
と、要領を得ない返事をした。やよが引っ込んで入れ違いに、林作が迎えに出たが、林作の様子に、たしかに何か、自分に言わずにいることがある。重臣の不審は強くなった。重臣は元から林作の教育の遣り方を気に入っていない。モイラが赤子の頃は、生れると同時に母親を亡くしたモイラを哀れんで、林作と競争のようにして甘やかしていたのだが、林作が、小学校に上がる年になってもモイラを、幼児のように扱い、度を越して溺愛するのを見て、林作の遣り方に強い不満を持つように、なった。林作が、モイラの厭がることは、自分ではさせたくないという、理解出来ぬ理由で、家にいる時間があるのにも拘らず、モイラを、御包のような女に任せ切りでいることが、重臣には不満で、いよいよ、御包が家に来てからは目に見えて、重臣の足は遠のいていた。だがモイラのことについては細大洩らさず、報告を受けていたので、重臣は今年モイラが、石沼に行ったことは知っていた。林作と同様、モイラの腎臓が悪くなりはしないかということを、重臣はひどく心配をしていて、稲本がもう石沼へ来たか、ということを、電報でも遣《や》って、問い合せようと考えている処に、二三日前に林作から、会社の用事で一寸帰ったことと、これから迎えに行って、直ぐに引上げるという電話を貰ったので、久しぶりにモイラの顔を見に来たのだ。
重臣はモイラの寝ている部屋に通り、モイラの様子を見て、何があったかを直感した。重臣は林作に対して深く憤《いきどお》った様子で、モイラの髪を撫で、少間《しばらく》モイラと話していたが、持って来た、モイラの好む東洋軒の、コオルド・ビイフの入った馬鈴薯入りのサラドゥの箱を、林作には手渡さずに脇に置くと、袴を蹴るようにして、部屋を出た。そうして、送って出た林作に一言、
「あれが君の自由な教育か。モイラが悪くなったり、不倖《ふしあわせ》になったらどうする」
と、叩きつけるように言うと、その儘帰った。
そんな事件も間に挟まって、林作とモイラとの〈甘い蜜の部屋〉は、いよいよ密な、孤立した、一組の恋人の世界ででもあるようなものになって行く傾向に、あった。そうしてそこには誰も犯すことの出来ない、永遠の蜜の部屋が、あるように、見えた。
御包と柴田との二人は、林作たちの留守の間、常吉が一人|毅然《きぜん》としていて、自分たちを相手にしない態度をとっていることに対して、負けず劣らず腹を立てていた。御包は自分が既に無駄な存在になっていることも、林作が、モイラの卒業と同時に自分を解雇する積りでいることも覚っていて、常吉が何か林作にきいていて自分を嗤《わら》っていはすまいかという邪推がある。柴田は御包が居なくなった後《あと》の牟礼家に居残る勇気がない。柴田の方はまだ役に立つのだが、御包の尻馬に乗って威張りくさっていた報いで、善良なやよにも、常吉にも愛想をつかされている。二人は共同戦線を張り、虚勢を張って、何かにつけて勿体ぶった態度で対抗していた。彼女たちは常吉が、モイラに憧れを持ち始めた頃から、逸《いち》早くそれを嗅ぎつけていて、どうやって嘲笑して遣ろうかと手ぐすね引いていたが、その頃から常吉に対する林作の信用がますます加わって、どういう訳か常吉のことをドゥミトゥリイと呼ぶことになり、その称号は彼の格上げを意味しているらしいのだ。そんな外側だけ見栄を張って内側はだらけ切って怠惰な、二人の生活の中へ不意に、電報と殆ど同時に林作が一人帰って来た時には、掃除も投げ遣りな生活ぶりを見られて、特に柴田は面目を丸潰しにした。林作が帰ると直ぐ、常吉が慌しく石沼に発ち、煙たい林作は二晩も居残る様子に慌て放題に慌てて、気の故《せい》か不機嫌に見える林作の前に、陣営をたて直す間もなかった。三日いる筈だった林作は一日いただけで石沼へ車で引返して、次の日は又全部が引上げて来た。その間《かん》、林作は用事の口を利くだけで、食事も会社か、外で摂るらしく、運転手の照山も自分たちには行先も言わず、黙《だんま》りである。意地がやけてならない御包と柴田とは、お互同士もむっ[#「むっ」に傍点]とした切りでいた。そこへ帰って来た一同は二人の眼に明らかに常態とは見えなかった。林作一人だった間の不愉快を、一挙に取戻そうという逆恨みの気分から、二人の嗅覚は犬のように鋭く働いたようだ。やよの重大そうな、全くの無言も不思議だが、常吉の平常《ふだん》から暗いものの纏っている顔が、なにか苦悩を隠しているかのようにひき締っていて、眉根が固く、寄ったようで、どこか硬ばっているのだ。これがやよと常吉の、二人に見せた変った様子である。林作は平常《へいぜい》と変らないが、モイラとなると、顔がひどく綺麗になって、莫迦のような、甘える顔を、一皮下に隠しているとは思えない程大人びて来た。途中の車の中で、林作と機嫌よくしていたらしく、憎い程艶を増した脚から先に、いつもの傍若無人な様子で車を下りたが、二人をちらと見ると、顔をそむけ、逃げるように林作の先に立って二階へ上がってしまったのだ。
御包と柴田は異様に光る眼を見合った。それ以後モイラは寝室に閉じ籠っていて姿を見せず、食事もやよが運んで行くのだ。林作の食事も休暇の間は運んで、林作の方も殆どモイラの寝室に入った切りで、本などを持ち込んで行っている。柴田は一度、やよが行かせまいとするのを意地悪く、通い盆を素早く横取りして果物の皿を運んだが、林作は寝台《ベツド》に椅子を近寄せて、石沼に行く前より以上に、モイラを甘やかしているようすが、胸がむかついてくる程である。ちらと見た切りだが、モイラのようすは一層魅するようなものを増したように見える。林作が、皿を受け取ろうとして身を引いた瞬間に覗くと、何故か窗掛《カアテン》が下ろしてあって枕の辺りは暗かったが、柴田は素早く、モイラの脣の鬱血の痕を見てしまった。暈《ぼんや》り、林作の話を聴いていたモイラが、脣を慌てて固く結んだのだが、柴田の眼の方が速かった。林作はさり気なく絵の説明を続けていたが、柴田がモイラの恋の傷痕を見てしまったのを知った。御包も、柴田も、その夜はモイラの脣の幻影に魘《うな》されて睡れない夜を過した。ことに柴田はモイラの脣を眼で見ている。黒みを帯びた紅紫色の傷痕をつけた、前よりも柔かみを加えたように見える薔薇色の脣が、眼の前に、可憐な花のように、幾らか色の濃い内側を見せて開いている幻影を見た。その魅惑に満ちた幻は、追い払おうとしても執拗に、眼の前に出てくるばかりでなく、その傷をつけられた時のモイラの状態までが、恐しい妄想の絵を、柴田の眼の前に映し出したのである。常吉が暗く、固い表情をしている原因についても、二人はさてこそと、了解した。特に莫迦にしたことを言って、常吉から手痛いお面《めん》を一本喰ったことのある柴田は、心に凱歌を挙げた。
邸の裏手の、廐舎と隣合った自分の部屋に、前と同じように慎《つつま》しく住む常吉は、誠実な生き方も、若いにしては落ちついた様子も、前と変りはなかったが、額の辺りの曇りは深くなって、最早彼の、額を晴れ晴れとさせて微笑う顔は、殆ど見ることが出来なくなっていた。常吉は、モイラへの熱い塊のようなものを抑えつけて、宥《なだ》め、賺《すか》し、懸命に柔げて、彼の本来の優しい感情を、静かな燈火《ひ》のように、胸の中に点していた。その彼の、ようよう鎮めている胸の中を掻き毟《むし》って、底にある熱いものを、抑え難《にく》い、苦しいものにしたのはピータアだが、そのピータアというものが、モイラの周辺から取り除かれた状態になっているのにも拘らず、常吉の胸の中は、もう一度静かには、ならなかった。常吉はピータアが現れるまではモイラを、大切なものとして自分の胸の中に、周囲に何一つ置かずに、据えてあったのだ。そのモイラを、僅かの間《ま》に、ピータアという男の餌食《えじき》にされたという、なんともいえない恨みがある。モイラが四歳の時に十七歳で牟礼家に来て、今年二十八になる常吉の、ピータアと略《ほぼ》同じ地域に故郷と祖先とを持つ、狂気に走り易い、厚い胸の中には、モイラを妹のようにして、汚さずにおきたい、強い願望がある一方、他人《ひと》には見せぬが煮え沸るものが中にあった。彼は慎しい心の中で、その慾望を懸命に抑圧して最小限の夢を慥えて、描いていた。常吉は一生に一度は、モイラの足元に膝まずいて、せめてモイラの足を抱きたい。モイラの小さな足を抱いて、花のような香いの燻《くゆ》っている、モイラの小さな足の上に顔を伏せたい、と、常吉は想っていた。接吻などは思いもよらぬ、と、思っていた。そうしてそんな願望をさえ表には見せぬようにして、抑えていた。林作に聴いた話にあった自分の父親のイワノフが、猛り立って暴れるラアジンを、手綱を取ってひき止めたようにして、抑えていたのだ。その切ない、大切な願望を、ピータアが横から出て、滅茶滅茶にしたことが、常吉は我慢出来ない。そうしてそのことが、モイラの前から持っていた、本能のような甘えるようすを、急に蜜の濃い、見ていると耐えられなくなる、甘美なものに変えてしまったことが、常吉には耐えられない。それは多分、わずかの時間に起きた、出来事《アクシダン》がやった仕業だろう。と常吉は想った。そこにはあったに違いない、眼の眩《くる》めくような、恋の饗宴には、常吉は空想の眼を固く瞶《つむ》っている。唯、モイラの変化にはどう遣《や》っても、眼が行くのだ。変化をしたモイラが、常吉には抑えられない慾望を起させるものに、なった。ピータアの部屋にモイラが入った、という、常吉にとって最大の悪魔の日から以後、常吉のモイラへの願望は変化をしたのである。常吉がモイラの上に抱いていた空想の場面は、それまでにも幾らかは進展して来ていた。常吉の空想はモイラの前に膝まずいて、その腰を抱きかかえ、モイラの腰の外側に頬を寄せる形にまで進んでいた。そうしてモイラの、女の仏像の掌のような、小さな掌を、自分の掌の中に挟み、出来れば騎士《ナイト》の接吻を与えたい。その接吻は騎士《ナイト》の接吻の域を越えるかも知れない。だがそれ位は許されるだろう。それだけで俺はいいのだ。と、常吉は想っていた。それがあの悪魔の日以来、変った。常吉の温かな、主人一家への愛情と、鋼鉄のような誠実が、モイラを見ると消え去った。常吉にとってそれまでは、可哀らしくてならない、例えば自分の子供のようにさえ思われるものであった、モイラが、どうしても捉まえて、一度は接吻で埋めたい、魅惑を潜めた小動物に、なった。慎《つつま》しい常吉の願望は、モイラを自分の胸に抱き竦《すく》め、稚い女を犯す罪の意識に戦《おのの》きながらも、烈しい接吻で遮二無二蔽いたい願望に、変った。しかも常吉は、ピータアを侮蔑して遣ることさえ出来なかった。自分の女神を犯した痴《し》れものだとして侮蔑し、無視して遣ることさえ、出来なかった。常吉はピータアを見たのだ。モイラが石沼の家の二階に閉じ籠っていた間に、常吉はピータアが海へ出たのを確かめ、窃かに蹤《つ》けて行ったのだ。ピータアが海から上がって来た時、常吉は砂に蹲まっていた。何か考えている人のようなふりをして、尖った貝殻で、砂に字を書いていた。ピータアはその Moila[#i はウムラウト付き] と書いた砂の字を判読したかどうか、足を止めた。二人はちらと互に見合っただけだった。
ピータアは立派だった。気に入る奴だった。常吉が、ドゥミトゥリイという自分の名を打明かして、友達になってもいいと、そんなことを思った程の青年だった。若い主人として仕えたっていいと、そんなことさえ思った程の、青年だったのだ。だがピータアは、絶大の尊敬を抱いている林作とは、ちがうのだ。父親のイワノフを救けて貰った、恩義のある、自分も、十七歳の時から仕えていて、寵愛を受けている、林作とは、違うのだ。ピータアは、自分と同じ年頃の、ライヴァルで、あった。しかも美貌の青年だ。自分を視たピータアの眼にも、奥底深く隠された嫉妬が、あったのだ。常吉は、ピータアを見に来たことは、自分の苦しみを増しに来たのに過ぎなかったのを、知った。
その日から常吉の額は、暗い海から来た、光という光を除《と》り去ってしまう、魔のようなものがとり憑きでもしたように、大抵の時、暗い藻を纏いつけているように、なった。
モイラは、その常吉の額の暗い、苦しげな翳《かげ》りを、みていて、そんな常吉の顔を窃かに偸《ぬす》みみていた。この頃、彼女の「ドゥミトゥリ」と呼ぶ声の中には、特別の響きが加わるようになっていた。専横な、極度に我儘な、声である。モイラが「ドゥミトゥリ」と呼ぶ、その声の中には、この馬丁は、自分の言うことならどんなことでも聴いて呉れるのだ。若し此処《ここ》が石沼で、私《あたし》が、濃緑の家に行ってピータアを呼んで来て、と言えば、ドゥミトゥリはどんなに厭でも、苦しくても、行って来て呉れるのだ。と、強引に信じ切っている、モイラの心の響きがある。常吉はそんな時、モイラを見て、暗い額の翳りをその儘、例の、胡桃を歯で割る人のような口つきで、白い歯を見せて、微笑った。するとモイラは、その常吉の顔を凝と見て、脣の端を一寸窪ませる微笑いを見せる。モイラは常吉の、白い歯を見せて、噛みつくように微笑う顔を好いていた。モイラは、林作の微笑いに続いて、常吉の微笑いを、好いていた。モイラは、林作の微笑いと、常吉のそれとの、二つの中で育ったようなものだ。子供が大きくなるのには、愛の微笑が必要だが、モイラの場合は、それが少し過剰だったようだ。その好きでならない常吉の、胡桃を歯で割る微笑いに、この頃では、自分を深く、どれ程深いのかわからない程、愛していて、その愛の苦しみが、隠されているのだ。愛の苦しみは、モイラの生餌《いきえ》である。モイラが脣の端に窪みを慥えた、小さな微笑いを見せると、常吉の顔はひき締る。愛の苦しみを耐えるのか? 意地悪の自分を怒るのか? モイラは脣の窪みをその儘残して、微笑いの影を消し、満足の面持を潜めて、何か言いに来たのも忘れたように、一寸の間その儘立っていた。その顔の中には、林作もみているように、絶対の専横政治を布いている我儘な王のような表情がある。その癖、そんな顔をして、ヨオクに切り替えのあるだけの、帯《バンド》のない、時によっては薔薇色であったり、紅無地や、格子縞《チエツク》だったりする普段着の下に、日に、日に、眼立ってくる胸や、腰の線を見せて、立っているモイラの、全体の姿の中には未だ未熟な、稚い精神が歴然《ありあり》と露《あら》われていて、王のような表情の裏にぴったりと張りついているのは、未だ子供の顔である。常吉は、石沼で自分が手首を捉まえた時には、幼児のように怯えて、父親か兄貴に、悪いところを見られて、捉まえられた小娘のようだったことを、まるで忘れ去っているモイラの、王のように驕り、魔の眼を光らせる様子に、殆ど耐えられぬほどの可哀らしさを覚えるのだ。常吉はそんな時、精神の何処かが、痺れるようなのを、覚えた。
モイラの胸の中には、ピータアにもう一度出会って見たいという願望が、動いている。それというのは、モイラは、もう一度、ピータアに近づいて、自分のために豊饒《たつぷり》、貯蔵されている愛情の蜜を、舐《な》めて見たい願望を潜めているのだ。もっとむさぼり食って見たい、興味を伴った願望が、潜んでいる。もう一度、ピータアの部屋に行って、ピータアが持っている、父親林作の愛情によく似たところのある愛情の甘い蜜を、むさぼりたい。常吉を怖れたために、味わい残したピータアの蜜を、モイラは食い残した生肉のある場所へ戻って行きたがる獣の仔のような貪婪で、追憶している。一時の愕きと恐怖は、既《も》う薄れている。ピータアの部屋で、はじめて打《ぶ》つかった時には、極度の恐怖だったピータアの恐しい嫉妬も、今ではむしろ誘惑的な気分の中で、思い返されている。
モイラのピータアに対する願望は、危険な玩具を弄びたい幼児の願望と大して変りがない。その慾望の中には、幾らかの本能的なものが添加されているがそれは、微量である。林作が既に早くから視ているように、モイラの肉体の眼醒めは未だほんとうには、なされていない。ピータアとの情事とは言えない、一つの出来事《アクシダン》、ピータアの一方的な情事の中では、モイラの肉体の内部の殻は破られたとは、言えない。モイラの願望の中には、まだ好奇心が多くの場所を占めていて、そのモイラの願望が、強いものだとするなら、それは、モイラの、愛情への貪婪が、強力だからだ。
* *
ピータアは、モイラへの慾望の火が、完全に燃えさかった状態で、秋の気配が、既にどこかに感ぜられる海際《うみぎわ》の家に、とり残された。
父親のセルゲイと、母親のタマァラとは、ピータアの希むままに、ピータアを残して引上げて行った。ピータアは、父親のセルゲイの顔も、母親のタマァラの顔も、見ないで済むなら見たくないと、希ったのだ。セルゲイも、タマァラも、ピータアの上に起った事件を、大凡《おおよそ》は察している。石沼の海浜に散在している、百姓を兼ねた漁師たちの間にある噂話は知らなかったが、恋の出来事《アクシダン》であることは、ピータアの様子を見て明らかであった。相手の娘もわかっている。石沼のこの辺で、ピータアの相手の娘と言えば、もう一軒の別荘の娘以外にない。セルゲイとタマァラとは娘を見ていない。それで不安も、不倖《ふしあわせ》も大きかった。二人は石沼に帰った日の夜、二人だけになると、言葉もなく、頷き合ったのだ。少間《しばらく》して父親が、
「恋の狂気だ」
と言い、母親は黙って頷き返した。二人が発った前の日だ。セルゲイが、平常《へいぜい》は勝手にさせておいて、上がって来たことのなかったピータアの部屋に上がって来て、葉巻を一服|遣《や》って、下りて行ったが、ピータアに何か一言《ひとこと》、慰めの言葉をかけようとして来たのは、ピータアには判っていた。寝台《ベツド》で、片脚を高く、胸の辺りまで上げて、上靴を履いていたピータアは、ちらとセルゲイを見た切りで眼を落し、履き終ると立ち上がって、書棚から厚い書物を引抜いて又、寝台《ベツド》に腰かけ、何か挟んである所を開けた。ひどく不自然だが、それよりも、俯向いた横顔の、固く結んだ脣じりから、顎にかけて、平常《いつも》はない影が出来ていて、息子の様子全体に、眼をあてるのが辛いような、寂寥がある。(何の本だね)と、セルゲイは言おうとして、動かしかけた脣に、葉巻を喞《くわ》えた。何の書物だってよかったのだ。自分に顔を見せないためなのだ。セルゲイは、
「夕飯《ゆうめし》は一緒に食おう。下りてお出で」
そう言って、下りて行った。母親のタマァラの不安と不倖《ふしあわせ》は大きくて、彼女に何もさせず、何も言わせぬようにしているようだった。彼女は朝の挨拶の時、寝に行く前の挨拶の時などに、ただ黙って、息子を固く抱いた。それがピータアには何よりも応えた。避けられるものなら、ピータアはそれを逃げていたかったのだ。
セルゲイとタマァラとが発つ日、ピータアは駅に送りに行って、父親と母親との掌を握り、
「直ぐ、元気になって帰るよ」
とだけ、言った。セルゲイは、物珍しげに見守る、百姓たちの前で、窗から大きな上半身を乗り出すようにして、息子の肩を捉まえ、
「本をお読み。好きな本でいい。それから海で、疲れるまで泳ぐのだ。神様が必ずいい日をわたし達に返して下さる。いいか」
と言った。タマァラは涙を眼の中に光らせてそれを凝と見ていたが、今度は自分の番と、いうように息子を自分の胸に迎え、抱いて、幼い子供にするように、ピータアの頬を、男の掌のような大きな掌で、いとしげに撫で擦《さす》ったのだ。口を開けた顔のもいて、好奇と、侮蔑を現してその様を見ていた、百姓たちの中には噂を詳しく知っているのもいる様子で、ひそひそと、囁いては、頷いている者も、あった。
村の者たちは四十八《よそはち》と女房、それに息子の四方吉《よもきち》との三人を例外として皆、別荘の噂をしていた。彼らにとっては、驚天動地の出来事であったからだ。林作父娘とピータアとが歩いていた時に、浜で出会った漁師の話から、ひそかな評判は起っていたが、モイラがピータアの家を出たのを、町から浜伝いに帰って来た男が、見ていたのである。噂は無論、林作方の肩を持った話である。ピータアが、二三度、地引網の魚を分けて貰ったことのある漁師の一人に、林作の家のことを訊ねた時、林作の東京の住所は知らぬらしかったが、林作の名も、職業も、決して語ろうと、しなかった。平常《ふだん》交渉が薄かったという理由だけではなく、彼らは外国人というものに不馴れである上に、ことに露西亜人には警戒心を持っていた。彼らは、青い西洋館の人だというだけで、気持よく話をしたがらない空気を、持っていた。
停車場でセルゲイの言った言葉は、その儘ピータアの考えていた、精神の療法に一致していた。ピータアは自分を信頼して、黙って発って行った両親たちに、感謝を持っていた。ピータアは殆ど終日、部屋に閉じ籠って、何か読んだ。読んだ書物はだが不幸にして、ピエェル・ルイの『女とパンタン』だった。マテオという男の手紙の形の小説だが、マテオは自分が飜弄された女の魔力に、同じように捉まった、巴里の男に、手紙を書く。自分が飜弄され尽した、経緯を悉く打ち明かして、自分は二年間飜弄せられて、漸く女の魔から逃れたが、あの女には近づかぬ方がいいと巴里の男に警告する手紙である。手紙を受取った巴里の男が、女の部屋で女を待つ間に給仕の男が持って来た紙切れを奪って読むと、(何時《いつ》もの家で待っている。マテオ)と書いてある。という箇所《ところ》で終っている。何度でも知らぬ間に姿を消し、ようよう会ったと思うとその度に、傍まで引きつけておいては体を与えないで突き放す、コンチタというセヴィラの女の話である。『女とパンタン』は、ピータアの抑えている熱いものを、掴み出しておいて、火を点ける小説である。ピータアは西班牙《スペイン》の熱い砂と、白い家の、鉄の格子の嵌まった窗を見、その鉄格子の間から、窗の下の男に与えられるコンチタの腕を見た。マテオは女の腕に脣をあてながら、心に呟いている。≪これがコンチタの肉だ。肉の香気だ≫と。早朝と、夕方薄暗くなってからとの二度、海に飛び込んで、疲れるまで泳ぐ、という日課を自分に課しているピータアは、比較的冷静だったが、モイラといた、短い時間の、火のような記憶は時折不意打ちに、ピータアを襲った。
モイラの、まだ実ろうとしている固い熟《う》れを、自分の脣から滾《こぼ》れ、溢れた二つの胸の甘い果実……。蜜の艶をくり延べていた、モイラの皮膚。脣の下に、死んだように、おかれていた、蜜を塗りつけた肩、腕、胴中。まだ何処かに、青い固さを残していて、そのために却って襲うようなもののあった、それらのモイラの断片。そうして、緻密な皮膚に、隙間なく蔽われた腹から腰、二つの脚の、内部から持ち上がってくる、十六歳未満のようではなかった肉づきのふてぶてしいヴォリュプテ。前夜の雨の水蒸気がまだ残っていた、ピータアの部屋の中で、濃緑の毛布の敷かれた、ピータアの神聖な寝台《ベツド》、の上に、横たえられた処女の体の饗宴に酔い、狂気の接吻でそれらを蔽ったピータアは、紅い百合の、いいようのない、懶い香気の中で、花弁のような皮膚に埋もれ、魔力の花粉に塗《まみ》れた、一匹の蜂であった。しかも愕きと恐怖との為に空白になっていたモイラの、無心な肢体は、むしろ、ふてぶてしく体を投げ出した、成熟した女の媚態に通ずるものが、あった。だがピータアは、目の眩むような処女の体の饗宴の後《あと》、無心の媚態に抗《あらが》って、何度か、燃え上がるものを、抑えたのだ。それがピータアの火の記憶を、一層苦しいものにしている。
ピータアは、花の香気と蜜とに蔽われた追憶に、精神も体も、熱くなった儘、野獣のように光る眼を据え、ほっと、切ない息を吐いた。
(……処女の饗宴だ。……神の祭壇の贄卓《にえづくえ》の上の、生贄《いけにえ》だ。香油《においあぶら》の代りに甘い蜜が塗られた、処女の生贄……)
火のようになったピータアは外に出た。空は曇っていた。空も、砂も暗い、重い空間を、ピータアは走った。ピータアはモイラが、近づいて行く自分に半ば怯え、その癖、自分の擒《とりこ》を見るような眼を見開いて立ちすくんでいた地点を覚えていた。ピータアはその地点に足を止《と》め、海に向って立った。
空は灰を吹きつけたように薄暗い。空一面に横に靡《なび》いた薄白い雲が、湧き出たままの形で凝《じつ》と、動かずにいる。海はその下に重く、動いていた。暗い海はピータアの火をいよいよ掻き立てる。砂の上に蹲《うずく》まっていた、馬丁だと判っている男が、ピータアの頭に浮び上がった。その逞《たくま》しい体と、蹲まった体全体に燻《くすぶ》っていた、恋の火と哀しみ……。そうして、モイラの父親の顔が浮び上がってくる。散歩の間に自分を見る父親の顔の中に、ピータアは不思議な微笑いを視たのだ。
(この男を擒にしたのだな)
と、そう言っているような、モイラへの甘い愛情と、揶揄《からか》いの混り合った微笑いである。どこか残酷な、底に、エロティックなものの影さえあった、蜜に塗《まみ》れた微笑いである。その二つの黒い記憶が、払い除《の》けようとしても執拗に、モイラといた時間の、切ないが甘美な記憶の中に絡みついてくるのだ。その二人の男は今、どこかで、モイラと一つ家にいる。モイラはその二人の男の、どっちにも、魔の眼を凝とさせて見上げ、甘え切っているのだ。父親には、絡みつきもするだろう。ピータアの胸に朦朧とした不快《いや》な幻が見えてくる。
(あれは正常の父娘ではない。あれは令嬢と馬丁との関係ではない……)
ピータアは殆ど全く、理性を失っていた。理性はどこかで蓋をされていて、眼を覚ますことがない。ピータアは知らずに、モイラの家の、林作が醸し出している一種の空気に巻き込まれている。ピータアは林作と常吉とに対《むか》って、烈しい嫉妬を燃やしていた。
ピータアの父親のセルゲイと、母親のタマァラは、一日か二日の、それも恋人たちが二人でいたのはわずかの間に違いない、そのわずかの間に、息子をすっかり変えてしまった娘に対して、或る不信の念を抱いていた。セルゲイとタマァラとは、唯時間が、息子の熱病を冷ましてくれるのを希って、待っていた。タマァラは、息子と、生理的なもので繋がっているという観念が、いつも根柢にある母親である。タマァラの不信と怒りは、深かった。タマァラの、仏像のような、二重瞼の眼の中に、烈しい怒りが潜んでいるのを、ピータアは知っていた。ふと横を向いている時などの、母親の顔の中の、烈しい怒りが抑えつけている、歎きの啜泣《すすりな》きを、ピータアは見ていた。
ピータアが誇っていた、ピータアの理性は、モイラの蜜で曇っている。
暗い海岸《うみきし》に立って、ピータアは、何処にも救いのない自分を、感じた。
* *
脣の鬱血も消えて、薔薇色の、無垢《むく》な処女《おとめ》のような脣を取り戻したモイラの日々は、聖母学園の始業式の日の或一事件を除いては、甘えと、贅沢と、悪魔の満足とで充分に、みち足りていた。
その日は始業式があると言うので、林作の指示通り、レエスの少い、簡単な白い衣《きもの》で、常吉と車で学園に行った。
校庭の、教室の入口近くに、蔓薔薇の巻きついた石の円柱がある。モイラはその円柱を久しぶりに見たので、柱に一寸触ってみると、円蓋形になった入口へ近づいた。洞窟のように黒く口を開いている入口の、右側の廻廊の柱の間を此方へ来る、ロザリンダを見たので、モイラの足は鈍ったが、引返すことは出来ない。モイラとロザリンダとは入口で、向き合った。
ロザリンダの、不健康な淡黄色の顔が、後《うしろ》の闇の中から浮び上がって、モイラを見た。モイラがロザリンダの顔の中に、思いがけない異常なものを見たのと、ロザリンダがモイラの中に、何かを経験した娘を見たのと、孰方《どつち》が先だったか判らぬ速さで、二人は見合った。白い部分が大きく出る程、上目遣いに大きく見開いたモイラの眼は、曇りをおびて光り、モイラというものが二つの眼になったように、ロザリンダには見えた。何を言われるのか、という不安な眼である。
平常《ふだん》から浮腫《むく》んでいる、ロザリンダの顔の皮膚が、無気味に弛んで、眼の下に厚ぼったい垂みが出来ている。顎を突き上げ、モイラを見下ろしたロザリンダの顔は、鼻が上向《うわむ》き、脣じりが厭味に下がっている。眉を吊り上げ、下目遣いにした眼は、黄ばんだ、鈍い光を出して、モイラに凝と、あてられている。
「ご挨拶は? モイィラ」
「……ボンジュウル、マ、スウル」
「何処かへ行きましたか? 休暇に」
「いわぬま」
「何処です」
「…………」
「そこに別荘があるのですね」
モイラの眼はロザリンダの眼に射竦《いすく》められて、凝と動かずにいる。たしかに、休暇前より柔かみを加えたと、ロザリンダが視た脣が、心持弛んでいる。
モイラの頭に電光のように、ピータアとの事が判ったのではないか、という奇妙な想いが、走った。
ロザリンダの眼が光った。
「お友達が出来ましたか?」
二秒、三秒、モイラの眼に恐怖が走って、瞬いた。
ロザリンダの眼が或満足を現して、歪んだ儘の脣が微笑ったように結ばれた。
「ずっとそこに居たんですね。モイィラの怠け癖が一層ついたでしょう」
そう言い捨てると、ロザリンダは立ち去った。腰に下げた数珠《じゆず》の揺れる音と、固い、厳しい、靴の音が、暈《ぼんや》りと立っているモイラの耳に、恐しげに、鳴った。
モイラはその日、林作が帰るのを待ち兼ねて、二階へ蹤《つ》いて、上がった。
長椅子に腰を下ろした林作は、モイラが、額を肩におしつけて訴える話を聴くと、モイラの頭を胸に寄りかからせ、肩にふりかかる豊かな髪を撫でて遣りながら、言った。
「ああいう尼さんのような人はね、時々若い娘をみると、そんなことを言って苛めたくなるような、そんな病気に罹《かか》っているのだ。今にモイラにもわかる。今日だけだろう。又そんなことを言うようなことはすまい。大丈夫だ。厭なら二三日休んで、気分を直してから又お出で。体が悪いことにして、届けを出しておこう。そうするか?」
モイラは深く頷き、顔を上げて林作を凝とみると、花型のレエスに包まれた肩を林作の胸に寄せかけた。
林作はふと、モイラの母親の繁世《しげよ》との場合にも、カウフマンとの場合にも、モイラに寄りかかられる時のような、甘い歓びを覚えたことがないのを、想った。下目遣いにモイラを見遣る林作の眼に甘いものが宿り、殆ど恍惚《うつとり》として、林作の掌がモイラの肩を軽く、叩いた。
そんな日々の中で、モイラは、モイラの歩き方のような緩慢な度合いで成長した。日に何度か、顔を合せる常吉が、その厚地木綿の襯衣《シヤツ》の胸の中に、ひた隠しにしている、熱いものを感ずると、モイラはその隠しているものを引き摺り出して遣ろうとして、履いている靴の塵埃《ほこり》を拭いて呉れと、常吉に命令する。そうして常吉が、命令しながら、自分を見ているモイラに、烈しく起きて来る慾情を抑え、苦汁の滲んだ微笑いを見せて、モイラをいとしげに見下ろすのを見ると、モイラは脣の端を一寸窪ませる。そうして常吉の熱い愛情が、いつも変ることなく、常吉の中に燃えているのを確かめた歓びの微笑いを、浮べるのだ。そんなことを遣《や》っていて、モイラは常吉と、恋の対話をすることを、覚えていた。
モイラの眼は、言った。
(ドゥミトゥリ。ドゥミトゥリは、いくら隠したって私《あたし》を愛しているんだ)
そうして常吉の眼は、言うのだ。
(又そう遣《や》って私を苦しめる。悪いモイラ様だ)と。
モイラは寝台《ベツド》にいて、ピータアの、火のような眼を、脣の上にのせるようにして、味わっている刻《とき》がある。ピータアが、現在は東京の何処かにいる、ということは知っている。だが、ピータアを想い浮べると、モイラの頭には石沼の蒼い、重い、いつもだぶだぶと動いていて、白い泡になっては、裸の自分に飛びかかって来た海が出て来る。モイラは足の先に、貝殻が刺さりそうになる、水を豊饒《たつぷり》含んだ砂を感ずる。その足の上を泡立った波が、引いてゆく。沈みかけた夕陽が、砂地全体を薄明るくしている中に、ゆっくり近づいて来るピータアが、見えて来る。新鮮な果実のような、ピータアの愛情が、自分にものを言う顔や、大きな掌、胸から背中を、捻子《ねじ》のように締めつけた腕の力の記憶に、蘇ってくる。そうして、恐しかった、濃緑色の毛布で包んだ寝台《ベツド》、ピータアの城。黒い、光った翼の鳥が、やにわに飛びかかったような恐怖と愕きとで、何も聴えず、何も見えなくなったような時間。夢の中でのような、熱い嵐。嵐の間々に、熱い花のような、時には嘴のようなピータアの接吻が、肩に、胸の上に、感ぜられていた、暑い、息苦しい、時間。
モイラは常吉との間にある、心理の行き交い。ピータアの部屋での記憶。そうしてピータアに、恐しい嫉妬をひそめて詰問されるようにして聞かれた時から、明瞭《はつきり》、意識をしはじめた、林作との間の、愛の深み。愛の闇。林作の愛情は、そうして愛撫は、淡泊で、軽い。だがそれでいて、そこには深いものが感ぜられる。無意識の間に、モイラは林作の愛情に、覗いても底の見えない、深い淵のようなものを、視ている。それともう一つ、ロザリンダの異様な執念。
それらのものが、モイラの周囲にあって、モイラを取り巻き、それらのものたち同士、不思議に絡みあいながら、モイラというものの成長を促している。不思議な、雲霞《うんか》のような大群の、蛾か、蝶のようなものが、翅を摩し合い、交え合い、粉に塗《まみ》れながら、モイラの周囲を隙間なく埋めて飛び交い、モイラの孵化《メタモルフオオズ》を促しているようである。モイラの成長は、モイラの中の魔の成長である。モイラの中の魔は、それらの、モイラを取り巻くものたちから養分を吸いとり、少し宛《ずつ》大きくなっていた。母親の臍《ほぞ》の緒を管《くだ》にして、猛々しく養分を吸う、大きな、強い赤子のように、モイラの魔は、それらの取り巻くものの養分を強く吸っているのだ。そうして、モイラの魔は、モイラの胸や腰の発育と一緒に、モイラの中で、大きくなって行くようで、あった。
そのような、何処かの、見知らぬ場所で行われているような、不思議な、魔の成長を、モイラ自身も何処かで、わかっていた。林作は、モイラの惚れ惚れするような、美の実りが、日に、夜に、なされているのに眼を遣りながら、一方で、モイラの魔の成長に気附いていて、いよいよ、ひき入れられるものを、感じとっている。モイラと常吉との間に交される残酷な対話も、林作は見て取っている。モイラは、身近に来る男たちを自分の擒にすることに、邪悪な歓びを、覚えている。そのモイラの、神にか? 悪魔にか? 何ものかに押されてする、陶酔的な歓びは、だんだんに習慣のようになって来るようだ。モイラは何ものかに引っ張られて、知らず、知らずに、微笑い、知らず、知らずの間に、魔の眼を凝と、据えるのだ。そうしてそのモイラの魔が、モイラの持っている本来の、常吉への信頼と愛情も、やよに対するいたわりも、どこかへ埋《うず》めてしまっている時間は、多くなって来ている。まだ小さくて、可哀らしかった、モイラの魔は、ピータアの、火のような嵐を導火線にして俄かに大きくなったことも事実だが、ともかく、モイラの周囲を取り巻く人間や事態が、その意志は無くても、悪魔のように互の体を擦《す》り合せながら、モイラを少し宛《ずつ》、成長させたことは事実のようで、あった。
林作は、モイラの遣ることを、すべて大きな眼で見護っているが、別の観点から、モイラが、ピータアのような、経済的によくない環境にある青年と、深い交渉に入ることを警戒する心が、あった。モイラが、モイラの中の魔の仕業にせよ、ピータアと結婚して見よう、などという心持を起さぬ限り、林作はピータアとモイラとの間が深くなることは避けさせたい気持が、あった。モイラは、あり余る金のある家の中ででなくては、一日はおろか一時間と暮せない、娘である。林作がモイラをそのように、育てていた。ピータアとの結婚は続かぬだろう。離婚は免れないだろう。出来るなら、結婚の遣り直しはいけない、と林作は思っていた。周囲の因襲が、それを大きな過ちだと、するだろう。そうしてモイラは萎縮するだろう。林作はモイラの結婚の相手は、少くとも自分の家と同じ位の財産を持つ男でなくてはならないと、思っている。幸い、モイラはピータアの熱愛に、深い興味を抱いたのに過ぎなかった。その上に加えて、ピータアは、モイラの住所を聞かずにモイラを帰す、という、絶大の失敗をした。不倖《ふしあわせ》なピータアは、モイラとの逢いびきで、何度か燃え上がるものを抑えて、モイラを帰した、恐しい試煉のために、モイラを充分には所有せずにしまった恋の頂点から、絶望の中に落ちたのだ。その辺のようすも、林作は推察していた。モイラから、住所を教えてないことを、聞き出していたからだ。ピータアが、何日経っても東京の家に現れることもなく、手紙も来ないのを見て、林作は今、ピータアについては殆ど心にかかることは、無かった。「恋の遺産」の不安も、十一月を迎えた今、多分大丈夫だろうと、思う気持が強い。モイラには自分というものの他に、常吉というものもある。やよもある。亡くなった細君の繁世の、実家の父の重臣も、いざとなれば力を貸すのである。そうしていいことか悪いことか、金が解決をするだろう。モイラが姙娠をしたとしたところで、人に知れぬように、処置することは出来るのだ。だが林作は、モイラの処女《むすめ》らしい美が失われることを、極端に恐れていた。
* *
モイラが、十六歳に後《あと》一箇月という十一月になった或朝、モイラは寒いので朝の入浴を厭がっていたが、柴田が、林作に告げに行こうとする様子だったので、ようよう、湯殿に入った。林作は化粧のことでは絶対に、モイラの我儘を許さぬのを、モイラは知っているのだ。例によって柴田を困らせ続け、意地の悪い小言を言いながら、入浴を済ませたモイラは、白地に、消炭色《チヤコオル・グレエ》と橄欖《オリイヴ》色との中に、濃い鮭肉色《サアモン・ピンク》が交っている、荒い格子縞《チエツク》のフランネルの普段着に着替えて、食堂に行くと、既《も》う林作はモイラを待ちながら、新聞を見ていた。
「遅いね。モイラ。又やんちゃを言って居たのだろう」
「そんなことしない」
食堂は点けたばかりの瓦斯ストオヴの、笛のような音がしていて、食卓には、やよが心を籠めた、清汁《コンソメ》が、湯気を上げている。人参の味を濃く出した、鶏の肉汁《スウプ》である。紅葡萄酒を利かせた、犢肉《こうしにく》と野菜のシチュウの他に、やよが石沼で百姓が呉れたのを、大切に、台所の縁の下に貯蔵しておいた南瓜《かぼちや》のバタ焼もある。モイラは、南瓜のない時には、馬鈴薯のバタ入りマッシュか、挽肉をそれで包《くる》んだコロッケを欲しがるので、やよは近くの八百屋に、上等の馬鈴薯をいつも、特約していた。林作はブランディイか、ウィスキイを飲むが、家の食卓では麦酒《ビール》か葡萄酒位で、酒は飲まないので、時折林作にだけ魚がつく位で、大体料理の好みはモイラと同じであったので、その点やよは、楽だった。
食卓の料理を見ているモイラに、林作が、言った。
「モイラ。今日は銀座へ行くぞ。金剛石《ダイアモンド》の指環が出来たのだ。いい宝石《いし》が見つかったのは一週間前だが、今日出来上がったそうだ。モイラの指の大きさをどう遣《や》って知ったか、判るか?」
モイラの眼は異様な光を出して、凝と林作にあてられていたが、モイラはその儘で黙って首を横に振った。
林作の微笑いを含んだ眼が、吸い入れるようにして、モイラの眼の輝きを見入っている。
「モイラが睡っている間にやよに、糸で計らせたのだ」
モイラの頭の中で急激に、ピータアの指環が光を失っていた。
林作は、自分の頬の辺りに、モイラの、貪婪な眼が、乳を強く吸う獣の仔のように、がっちりとしゃぶりつくのを覚えながら、続ける。
「いくらか、ほんの微かに、緑色の入った宝石だ。露西亜産の、極《ご》くいいものが、方々を渡り歩いていたのが、銀座のミラノに入ったのだそうだ。……どうだ。うれしいか」
モイラは微笑った。モイラの両頬が深く窪み、薔薇色の脣は内側の濃い色をみせて解け、声のない微笑いが、甘い蜜を舐めた子供のようなだらしなさで、拡がった。
林作の眼が、その仇気《あどけ》ない、だが魔のように自分を魅する微笑いに凝と、飽かず、あてられている。
「飯が済んだら、白の羅紗《ウウル》の、この間持って来たやつを着るのだ。靴下は絹の黒でなくてはいけない。パァパがやよに黒い横止めの靴を出させて置こう」
モイラは、耳の辺りから両頬を、昴奮に薄紅くし、涙でも溜めているかと思うような、潤んだ眼になって、少間《しばらく》、暈《ぼんや》りしていたが、昨夜何かでぐずついて、少ししか食わずに寝たので、腹が空いているらしく、直ぐに肉汁《スウプ》に匙をつけはじめた。
「モイラ。ノエミに指環のことを言ってはいけない。いいか。見せることも絶対に、ならない。わかったか?」
モイラは、まだ茫とした、潤んだ眼を大きく開《あ》いて、林作を見たが、林作の言ったことが、どうやら判ると、魔のような眼の中に、幾らかの不平を籠め、だが大人しく、頷いた。
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第三部 再び甘い蜜の部屋へ
藻羅《モイラ》は林作がミラノに誂えた金剛石《ダイアモンド》の指環を、自分の現在持っているものの中の何よりも上の、どれよりも大切なものにしていた。
指環は、林作が現代風のデザインではいけないと言って、一八〇〇年代の型に造らせたので、白金《プラチナ》の台は丸くて太く、宝石を咥《くわ》えた爪も大きく、突き出ている。モイラはその指環を独逸製の手鏡《コンパクト》と一緒に、繁世《しげよ》のものだったハンドバッグの中に入れていた。そのハンドバッグは巾着型の、オペラ用にもなる小さなもので、表が黒、裏地が白のどっちもタフタである。銀の止め金には細かな彫刻がある。中には裏地と同じ裂《き》れで造った銀貨入れが入っている。モイラは指環をその銀貨入れの中に入れたので、指環は二重に護られたわけだが、モイラはそれでもまだ気が済まないらしく、そのハンドバッグを更に又、白い貂《てん》のマッフの中に押しこんでいた。モイラの稚《おさな》い時のものだったこの白いマッフは、襟巻と揃いだったもので、毛並は緻密で柔かい。色は、新しかった時にはプチ・スイス・チイズのような色をしていて、イアサント・リゴーの描いた、ルイ十五世の即位姿の絵の、ガウンの裏地にそっくりだったが、現在《いま》では毛並みはもろもろになり、金具との堺や裏地が破れている。
モイラが、まだ固いが、めっきり肉が附いて来た腕で、このハンドバッグをマッフの中へ一心に押しこんでいるのを脇から見ていると、下目遣いの目はとろんと溶けたようになっていて、脣は睡った赤子のように弛んでいる。肉の附いた固い腕は焦げた小麦色だが、夜の明りの下で見ると暖かな暗い、橙色をしていて、燈火《ひ》の色に似ている。皮膚は、撫でると、掌と皮膚との間に何かあるようなのは、ピータアと最初の経験をした去年の夏と同じだが、現在《いま》では触れると、掌《て》と皮膚との間にもやもやとした薄い滑らかなものの層があるようで、特殊な、透明な練りものが擦り込まれているような手触りになっている。指で押すようにして撫でると、そうしただけでセクシュアルなものに突き動かされる。
現在満十六になったモイラの夫となっている天上《あまがみ》守安《マリウス》は、その皮膚を知った時、
(天鵞絨《びろうど》の比ではない、鞣《なめ》した山羊の皮よりもしなやかだ。これは何処にもない、特殊なものだ)
と、心の中で言った。モイラの夫になった天上守安はこの不思議な皮膚の虜《とりこ》であり、その皮膚で隈《くま》なく蔽われたモイラの体全体を、他の男に奪われまいとしている、モイラの体の哀れな番人となり果てた男である。
モイラが宝物にしている白貂《しろてん》のマッフは、薄|汚《よご》れた白兎の尻のように見えた。その薄汚れた白兎の尻は平常《ふだん》、モイラの寝台《ベツド》の上のどこかしらんに転《ころ》がっていて、浅嘉町の家にいた頃には、寝台《ベツド》を直しに入って来る柴田をその度に、悩ました。薄汚れた白い塊は、モイラが起きた後《あと》の捩《よ》じれた敷布と掛布《かけぬの》との間に顔を出しているかと思うと、脱いだ下着や靴下と一緒に、キルティングをした金茶色の掛蒲団の上にこりこりした毛並みをしてしぶとく、蹲《うずくま》っていることもある。柴田はその薄汚れた白い塊を見る度に、苛々した。その中にあるものが、柴田には一生涯|触《さわ》ることさえ出来ぬ金剛石《ダイアモンド》だということもあるが、柴田にはその白い塊がモイラに見えた。妙に小面《こづら》憎い可哀らしさのあるその白兎の尻は、モイラ自身のように無言で柴田を、嘲笑《あざわら》った。モイラの起きた後《あと》の寝台《ベツド》を直すのには敷布や毛布に手を触れぬわけには行かないが、それらの布はモイラの体の香気を繊維の中まで吸い込んでいた。それも柴田を刺戟せずにはおかない。洗濯屋から返って来た時でさえ、その香気はまだ執念深く、繊維の中に残っていた。そこへもって来て、モイラそのもののような朦朧とした白い塊が自分を嘲笑うように出没しているのだ。柴田は子供の頃から入浴をさせていて、成長したモイラの体の隅々までを見ている。その円みのある白い塊の手触りと、彼女がどうかした拍子に触れたことのあるモイラの体の一部とが、毛並みの密なのと、疎《まばら》なのとの違いがあるだけで、ひどく類似《に》ているのを、柴田は感じた。
柴田は、モイラというものに出会って、彼女の入浴の手伝いをするようになるまで、自分自身の体の一部にも、手術に立会った偶然から柴田が見た、彼女の友達のそれにも、全く関心が無かった。それらは単に、生理の必要に繋がるものであるとしか、柴田には思われなかったのだ。又、人類の繁栄に必要なものでもある醜悪な、女の体の附属物に過ぎないと、柴田は見ていた。白貂《しろてん》のマッフの手触りに似ているモイラの体の一部は、柴田自身のそれとも、柴田の見た友達のそれとも全く異《ちが》っていた。柴田の体が、野卑な男のむくつけな髭のような毛並みの中に埋没していて固く、痩せているのに比べて、素直な、薄い毛並みで疎らに蔽われているモイラの体は、柔かな丘の半ばから割れ、豊かな脚と脚との間に、密度をもって膨らんでいた。皮膚は薄い紅みを帯びている。それは丁度、真中から亀裂した薄紅い、不思議な果実である。胸の二つの隆起も、自分自身のものは形も醜く、ひしゃげていて、それらは単に男の体と女の体とを区別するためにあるもののようにしか、柴田には思われなかった。自分の胸にある貧しい二つの隆起を見て、男が女の胸に魅せられて陶酔する、という、彼女が新聞小説の拾い読みなどから、僅かに空想し得る世界と結びつけることは不可能である。自分の胸を見て男がそれに魅せられ、陶酔するなぞということは柴田の頭に全く、思い浮ばぬことである。柴田は自分の体が男の慾望の対象になるだろうと思ったことは一度もない。短い結婚生活の中で、それは確実に証明されたのである。彼女の夫の手が最初の夜、彼女の胸に擦れるようにして触れた時、彼女も期待してはいなかったが、夫の手は感興なくその儘彼女の背中に廻り、何のためにそういうことをするのかわからぬ、生殖のためにそうするのだと、思うより他にない、性の行動に移っただけである。彼女は夫のそういう動作によって、世間で言うような歓びを受けたことは、短い結婚生活の中で一度も無かった。その彼女が、モイラというものに出会い、毎朝水にオオ・ドゥ・コロオニュを入れたもので体を拭いて遣り、入浴をさせる、という義務が生じて、モイラの体の生長を間近で眺めるに至って、彼女の、女の体というものへの認識は全く変った。彼女はモイラの皮膚の、湿り気のある花弁のような艶を見、皮膚の下から滲み出てくるらしい、気が遠くなるような香気を香《か》いだ。その香気は香《か》いでいると精神がふと空洞になる。精神も体もどこかに無くなったような、懶いようなものが襲ってくる。その香気を出すものはなにか透明な、いい香《にお》いのする垢とでもいうようなものである。モイラの胸は、モイラの体が発育してくるに従って、厚い花弁のような皮膚と、燻《くゆ》り出る香気との集積した、厚みのある小さな丘になった。小さな丘の辺りの皮膚は特に密度のある香気を出して湿っていて、二つの丘の下には常に、香気の強い、濃いクリイムのようなものが塗られている。乳嘴《にゆうし》には水気《みずけ》のある粒子がある。それは柴田が牟礼《むれ》の家に来て始めて見た、フランボワァズの缶詰のラベルにあった紅い果実の粒子を細かにしたようなものだ。タオルを持った柴田の手がそこへ行く時、どうかするとモイラは手で柴田の手を退《の》けようとするような動作をした。モイラの胸は、湯から上がった直後にはことに強い香気を出した。柴田は或日、整え終った寝台《ベツド》をもう一度固い、ざらついた手で大きく撫で廻すと、林作が来た時にそこに掛ける、枕元の肱掛椅子の上に放っておいた白い毛の塊を掴んで下に投げつけたが、忽ち柔かな絨緞からはね返った手応えのなさに苛立って、憎々しげに再びそれを拾い上げて枕の脇に置いた。
モイラが満十六歳になった現在、その白い貂の塊が転がったり、半分尻を出したり、している場所は、天上《あまがみ》守安《マリウス》がモイラのために誂えて待ち受けていた、筐形《はこがた》の寝台《ベツド》の上に変った。
天上は林作が、モイラの十四歳の誕生日に贈った、胡桃材の寝台《ベツド》を見ていて、モイラがそれをひどく歓んだことも知っていた。それでモイラの気持を惹こうとして、誂えたのである。寝台《ベツド》は天上の家の二階の、階下の食堂の真上になっている、モイラの居間に当てられた部屋の、扉を入った左寄りに置かれている。十五世紀頃のデザインのものを、外国の雑誌にあった絵を見本にして、出入りの家具商に造らせたその寝台は、背の板の幅が厚くて、普通判の書物位は載るようになっている。林作が誂えたものと同じな胡桃材で、ワックスも引かない素地の儘のところへ、シイザアのガウンの縁《へり》にあるのと同じの、四角い渦巻を繋いだような縁《へり》取り模様の彫刻がある。寝台《ベツド》の横腹も、裾の方も、寝台全体が部厚い板で箱舟のように、中の人間を囲むようになっている。モイラはその寝台《ベツド》を見るなり、気に入った。モイラは白木綿の厚い蒲団を深々と敷きこんだ厚い枠の中に、嵌まりこむようになって睡ることを歓び、昼の間でもその中に入りこんでいた。筐のようなものの中に嵌まりこんでいること、それはモイラの生来好きなことであった。「そういうのは胎内記憶が強く残っている人間なのだ」と、林作が面白そうに委しく説明してくれたことがある。それをモイラは覚えていた。頑丈な木の枠の中に嵌まりこんだようになって転がっている時ふと、その林作の言葉を想い出すと、その歓びは一層強くなった。モイラは狭い子宮の中の、生温かな水の中に浸っていた小さな自分を想像することも、あった。
その中世の童話の中にあるような、大きな寝台《ベツド》の木の筐はモイラを抱き込み、モイラを自由にさせていてくれる。寝台《ベツド》の木の筐は、モイラがその中で、どんなに怠け放題にしていようと、どんなことを考えようと、そうさせておいてくれる、一人の人間のようなものである。白い柔かな蒲団を敷き詰めた、がっしりと厚い木の筐は、モイラの放恣な、どこかで気が遠くなっているような時間を、受けとめていた。モイラを空想の中に、思うがままに泳がせておいてくれる厚い木の筐の中で、モイラはいつも自由な、甘い時間の中にいた。甘い、みずみずしい果実《くだもの》のような時間である。モイラは甘い時間の果実《くだもの》を、むさぼった。天上守安の贈った胡桃材の寝台《ベツド》は、モイラをその中にぬったりとのたうたせる厚い、安楽な、木の筐になった。
安楽な木の筐は、モイラがマッフから指環をとり出して、掌の中に握ったり、その掌を開いて指環を掌の上で転がしたり、指の間に挟んで、陽の差す方にかざして、眺め入ったりする場所でもあったが、又|暈《ぼんや》りとした状態の中で、いろいろな稚い、だがしぶとい想いをめぐらせる、場所でもあった。木の筐は又、その想いをしたたかなものに膨らませ、なにかの残酷な計画を孕《はら》ませたり、時には守安《マリウス》を、懊悩の中に追い遣る、よくない思いつきを、黒い魔のようにわだかまらせる場所にもなった。木の筐はモイラの中にいる怠惰の獣に餌を与えて肥らせ、モイラをいろいろな妄想の中におく、一つの場所に、なった。モイラが知らず知らずの間に醸し出すものを温めて、強い香いをたてさせる温床、厚い木の囲いの中の温かな、悪い場所に、なった。モイラの皮膚の内側から燻り出して、そこらの空気を押しひろげるようにして、辺りに立て罩《こ》める香いのように、モイラの体からか、精神からか、どこからか出てくるモイラの想念は、この木の筐の中ではいよいよ濃く、滑らかになる。指環に見入る時も、何かの想念に捉《とら》えられている間も、モイラは木の筐の中に、怠惰な蛇のようにのたくっていた。短い袖口の辺りから、胸の辺りからも、香い立ってくる、寝台の中で蒸され、温められた、懶《ものう》い香いがモイラ自身を誘惑する。それは意識の糸が弛《ゆる》んで行く香いである。モイラの香気、モイラの想念、どこから来るのかわからないものが、温かな木の床の中で発生するのだ。木の筐の中で、自分の体から燻り立つ香気と、妄念との中で、凝《じつ》と眼を開《あ》いているモイラの時間が、出現したのである。
モイラは浅嘉町の林作の家に行った時、林作の膝に昔のように寄りかかって、厚い木の寝台《ベツド》の話をした。林作はモイラが、寝台《ベツド》の形や、その中に嵌まり込んでいる安心感を、又歓びを、子供が勢いこんで話すようにして、しきりに委しく説明するのを聴き、その表情を見ていて、学校というもののなくなった、現在のモイラの怠惰な日常を眼に見るように思うと同時に、モイラと木の寝台《ベツド》との関係を適確に、推察した。寝台《ベツド》の中の歓びを話すモイラの、曇りのある眼の中に、微妙なものを読むのだ。一種の魔を。そんな時モイラの脣《くち》の端は、微笑《わら》いまでは行かぬが微かにひき吊れる。林作は、木の筐のような寝台を、自分の家でではないが、誰かの家の書物の中で見たことがあったことを想い出した。そうして寝台では天上《あまがみ》に負けたなあと、心の中に微かに微笑った。林作は木の筐の中にいるモイラの、自由な、甘い時間を想い、そんな時のモイラの、何処まで行くか知れない想念に不安を伴った面白みを、覚えた。
林作は、モイラがいないようになった自分の現在の毎日の中で、我にもあらず、常識を横へ除《の》けてものを考えることがある。何かの出来事を機に、モイラがもう一度、自分との世界に還《かえ》ってくることを希《ねが》うのだ。自分とモイラとの、限られた時間、林作の年齢から言って当然短い筈の期間の中にある、甘い蜜の世界に。閉ざされた、自分とモイラとの甘い蜜の部屋に。モイラといさえすればそこに生じるもののある、世界に。モイラといる場所が忽ち、不思議な影を帯びる、世界に。……モイラはこの頃、モイラ自身も知らぬ間に、もう一歩、魔の世界に踏みこんだ。魔の世界に踏みこんだのか、或は何処からか、魔の精気のようなものを受けとったのではないかと、思われるような何かを、感じ取らせるようになったのだ。そのモイラの、暗い光を出して来ている眼を、傍にいて見ることが出来ない境遇に、現在《いま》自分はなったのだ。という、当然極まる考えに、林作は日に何度か、打《ぶ》つかる。その度に林作は、早く嫁に遣《や》ったことを悔いるのである。モイラの結婚の時期、嫁ぎ先について慮《おもんぱか》り過ぎた、という考えに、捉えられる。モイラという娘が、ああいう家に、そうして、天上のような老成を持った青年に、時期を外さずに嫁入らせるより他に、手段のない、仕ようのない娘なのだという、動かし得ない想念の障害物に打《ぶ》つかることで、その愚かな想念は熄《や》んだ。
そんな時林作は、寝台の木の筐の中にいて、白貂のマッフの中から指環を出したり、入れたり、何かのよくない想念に身を委せたりしているモイラを想い浮べ、あたかもそのモイラが傍にいるかのように、眼を細めた。
* *
天上《あまがみ》守安《マリウス》は、満十五歳になったモイラが、乗馬の稽古に通っていた代々木の教練場に、年齢の離れた従姉の磯子の晩《おそ》い娘に当るマリイを、やはり乗馬を習わせに来ていて、そこでモイラを見たのである。マリイの方は二、三週間先に来ているらしかったが、マリイは気弱な娘である上に、馬を身近に見たことがない。それで恐怖が強くて、モイラとの間にハンディは殆どない。乗り手に絶対に危害を加えないといっていい、温《おと》なしい馬は一頭しかないので、二人の娘は一つの馬に交代で、乗った。
林作は日曜以外の日には馬丁のドゥミトゥリイ(常吉)を附けて寄越していたが、偶然林作と同じに、会社を持っている天上の方も、他の日には、後に園丁と判った小柄な男がマリイに附き添って来ていた。ドゥミトゥリイが、陽に灼けた顔をしていて、馬と暮しているためばかりではなくて、黒馬を想わせるような胸を、ごわごわした水灰色の木綿の襯衣《シヤツ》に包んでいるのとは対照的に、介田伊作《かいだいさく》という名の園丁の方は小廻りの利く痩せ形の体に、消炭色《チヤコオル・グレエ》の碁盤格子《チエツク》の襯衣《シヤツ》を着、身幅の狭い古びた黒の背広を着《つ》けていて、そのためにますます痩せて見える。伊作は、薄くなった額に一束《ひとたば》の髪を斜めに梳《と》かしつけているが、スペインか、アメリカの南部の男のように角く長い揉上《もみあ》げと、横から後《うしろ》の長めに撫でつけた髪は黒く、濃い。下へ撫でつけたような癖のある、下《さが》りめの眉と一緒に眼を伏せる顔には固い孤独がある。欧羅巴《ヨオロツパ》のホテルのパァジュか、レストランのソメリエなどによくある顔である。事実彼は、よほど心を許した相手にでなくてはものを言わぬ男である。常に、胡桃に歯をあてて噛み割る時のような微笑いを浮べている顔は白人との混血児にしては鈍い、沈んだ色をしていて、モイラによる、永遠に果たし得ぬ恋の苦悩が、額に暗い色を塗ってはいるが、ドゥミトゥリイの方は明るく、豪快な男である。一目《ひとめ》見てストイックな性格だと判る矜持《きんじ》のあるところ、清潔で、なかなか本ものの洒落気を持っている処、容易《たやす》く人に親しまぬ処、それらはこの二人に共通している。林作とドゥミトゥリイとの間、天上と伊作との間の親しみ、それが主人の方からも敬愛を持っている点もぴったり同じである。共通点を多く持っているのにしてはこの二人は、顔を合わせるや否や、互いに反撥するものを、感じ取った。反撥は伊作の方から出て、ドゥミトゥリイの心に忽ち燃え移ったものだ。伊作の、白眼の多い、怜悧な眼の中にあって放射してくる反撥が、どうやら、天上のモイラを見る熱い眼にあるということは、林作の眼にも見えていたが、それが、天上に婚約者があって、モイラがその令嬢を押し退《の》けて、その後へ嵌まり込むのではあるまいかという不安を感じた、伊作の不快から出たものだ、という事情にはドゥミトゥリイも、林作も、気附く筈はなかった。その令嬢は心にも体にも聖《きよ》らかなものを持っていて、その令嬢が家に入れば、天上と伊作と、五人の雇人とから成る、至福ともいえる生活が、その儘の形で天上の死まで続くだろうと、伊作は信じていた。その伊作の深い安堵を乱す存在がモイラだと、思い込んだ伊作の不快が、彼の態度の原因である。単にモイラを見る天上の眼にふと点《とも》る、内燃的な性格から来る暗い光が、いささか常軌を逸していることへの、気に入りの雇人としての不安な気持にしては根強い伊作の異常な様子を、林作は天上の情人に関するものだろうと、推察したが、意に介する様子を見せなかった。伊作の白い眼の光が、主としてドゥミトゥリイに向けられて、敵対意識を呼び出しているのは、二人の位置が、同じところにあって、互いの主人への忠誠が手に取るように響き合うからに、ちがいなかった。
日曜日には林作と顔の合う天上が、いつか挨拶をするようになり、林作と一言、二言、言葉を交わすようになる内に、成城に土地のあること、伴れて来ている子供が、唯一の肉親である、年の離れた従姉の磯子の晩く生れた娘であること、なぞを、問わず語りに話すようになった。それがモイラに求婚をする資格者に自分を擬していることの、それとない打ち明かしであることを、林作は当然悟っていた。
天上守安が、一目で知れる秀れた気質を持っていることと、三十に近い年齢になっているらしいにせよ、その年齢以上に老成したところのある男であることを、モイラの配偶者として林作は大きい資格に数えていた。容貌も英吉利《イギリス》人のような美貌を持っている。日曜日以外の日にも、都合をつけて来るらしく、モイラの教練を熱心に見ている。愛を潜めた、暗い眼である。口数は少ないというよりむしろ、殆ど口を利かないが、モイラには一寸した注意をする。ことに、教練士に持ち上げられて馬に乗る瞬間など、出来ることなら傍《そば》へ寄って自分が手を貸したげにしている。そんな彼の様子なぞを林作は、ドゥミトゥリイから聴き取っていた。モイラが半分は意識していてする、押しの太い甘えと惑《まど》わしが、徐々に影を落して行って、天上のモイラを見る柔《やさ》しげな顔に暗い翳《かげ》りが、急激に加わって行くのを、林作も、ドゥミトゥリイも、視ていた。天上の顔の暗い翳りはそれから後《あと》、天上の顔から決して離れぬものに、なったのだ。
天上はモイラを最初に見た日から、モイラの持つ不逞な、といってもいいような、ふてぶてしい可哀らしさを受けとっていて、それが不思議に自分の意志を弱め、自分を搦《から》めとるのを強く意識した。或日モイラが馬から下ろして貰って、その日は遅れて、丁度そこへ来た林作に駆け寄ろうとして自分の傍を擦り抜けた時、天上はそれまでに人間の体からは香いだことのなかった、植物性の、だが強い香いが掠《かす》めるのを感じた。その瞬間、モイラを自分のものにしなくてはならぬ、という決意が湧き、その決意はその日から幾日も経たぬ内に固まったのである。
(何かの植物から香いだことのある香いだが……)
と、その香いの記憶を辿ろうとしていながら、彼はモイラが林作の脇にくっつくようにして立ち、胸に頬を押しつけるのを見た。
「パァパ」
「もう可怕《こわ》くはないだろう? もっと背中を真直ぐにしていなくてはいけない」
そう言う林作の掌《て》が、寄り添うモイラの背中を軽く撫で下ろしている。不意に出現したその緻密な愛情風景が、天上の胸を息苦しくし、金縛《かなしば》りにし、何か言いかけなくてはならぬように思ったのと、突然林作に対《むか》って次の言葉を言いかけたのとが殆ど同時で、あった。
「お嬢さんのお名前はどういう……?」
林作はモイラの方に俯向けていた微笑の顔をその儘天上に向けて、言った。
「モイラという名はこの娘の感じに偶然嵌まったのです。英国の踊り子の名を取ったのですが、家内の父親などは大反対でした。悪い子のような名だというのです。このごろは大分悪くなったようだが……」
そう言って林作は、モイラの背中の窪みにあてた掌をその儘、微笑ってモイラの顔を覗きこんだ。林作の胸に凭《もた》れているモイラの顔は見えないが、そこには馴れ合った、意味ありげなものが窺えた。
「ほんとうにそんなお嬢さんですね。牟礼《むれ》さんという苗字とも映りがいいと思います」
モイラは林作の胸から頭を起こして、天上を凝《じつ》と見たが、又もとのように父親の胸に頭を凭れさせた。相手の反応を知っていてするのである。モイラの様子に天上の動揺は倍加した。動悸が少間《しばらく》の間、鎮まらずにいた。モイラは地面に立っている時でも、確《しつか》りと立っているというところがなく、なにかに寄りかかりたい体をもて扱っているように見えるのだが、父親に寄りかかっているモイラは、体が俄かに柔かくなったようになって凭れかかるのだ。
(伊作が作っていたあの百合だ。茎が折れる時に独特な香いがあった。紅《あか》みがかった、斑点のある……)
花の香いを持っている女があるということは書物で読んだことはあるが、天上はそれまでの経験の中では、そんな女は無かった。それは重みのある香いである。その誘惑的な香いはその重みで、周囲《まわり》の空気を押し拡げるように思われる。紅い百合の茎を圧搾し、何かの方法でその中の揮発性の香いを摘出したものが、容れ物に入れられて、下から温められて香いを立てた、というような香いである。その二分にも満たぬ時間に天上が見た光景は、天上が、そのあまり永くはない命を終る時まで胸の底に鮮やかに残していた光景である。天上のモイラへの想いには最初から、烈しく誘惑せられるようなものがあったが、そこに何かの凶《わる》いもの、凶《わる》い予感のようなものが、同時に入りこんでいたようだ。
(この娘には何か、圧《お》しつけてくるようなものがある。不思議な娘だ。それでいて本当に、愚かな程稚い。愚かではないが……稚い。まるで子供だ)
今しがた自分の心を奪った香気が、まだ自分の魂を深く捉えているのを覚えながら、天上は心の中に言った。
(ほんの一寸の間、俺を見ていただけで、確実に俺の心を捉えてしまった。重い瞼を凝と見開いたような眼の中に、殆ど無意識な自信が据わっている。相手を搦め捕《と》ることが雑作のないことだという、自信、というより内部から圧し出されているような、したたかなものが据わっている。それだけではない。自分の持っているもの、自分の体の持っているものの魅惑を知り尽している女のしぶとい見せつけのようなものがある。何も知らない、こんな小娘の中に……)
そういう、モイラの眼から放射するものは、ピータアとの事があった後《あと》でとくに、重みを増したようだ。モイラは、自分がなんの意識もなしに見ただけで、相手が自分の虜《とりこ》になるのだ、ということを、幼い時から漠としてではあるが意識していた。それに、そのことが、その相手を自分のものにすることが、自分にとって何の感動も齎《もたら》すものではない、ということが、一層強い力で相手を惹きこむのだということも、疾《と》うから茫漠の内に、捉えている。瞼が重《おも》ったようになって、脣は無表情に膨らんでくる、そのモイラの顔はモイラの捕獲網である。白い部分も、鳶色の瞳が滲みひろがったように昏《くら》くなる。重い眼だ。モイラの重い眼は確実に、天上を捉えた。そうして林作は天上が、モイラの網にかかるのを視ていて、モイラに適した嫁入り先の出来たことに安堵を覚えると同時に、十六歳になったモイラの魔力のいよいよ奇妙な、と言ってもいい程になったのを面白く思い、自分の女の成長を視る男のような心持を、覚えた。
天上が林作の招きに応じて浅嘉町の林作の家を訪れたのは、彼がモイラの虜になった運命の日から数えて十日目である。その十日の日々を天上は、平常《へいぜい》とは異った過し方をした。天上の生活は八時の朝食前に、どこに載せるという考えもない随筆のようなものを二三枚書く。前の晩につけずに寝た日記を書き込むこともある。横浜の商社に行くために、八時には家を出る。帰りには銀座に廻って、日比谷通りの横丁にある梅屋に寄って珈琲を喫《の》む。会社の連中を伴れて銀座裏で飲んだり、近くのホテルの地下にある酒場《バア》なぞで、銀座に出たついでに寄ることのある羽鳥《はとり》と酒を飲むこともある。中学が同級で海軍出の羽鳥の酒はあまり陽気な酒ではなく、天上の唯一の飲み相手である。そんなにして家に帰ると夏の他は食事を先にして風呂に入る。風呂場からすぐに二階の書斎に上ってウィスキイを飲む。葉巻をやる。そんな天上の日々がそれまでは、忠実な伊作と、五人の雇人たちの奉仕によって遺漏一つなく支えられていた。それが、代々木の教練場でモイラを見てからは、街で酒を飲むことも止《や》めているのは、モイラの種々《いろいろ》な様子、仕科《しぐさ》を反芻《はんすう》するように想い浮べ、モイラの言った言葉を、再び耳に聴くように耳を澄ましていたりすることが、街で飲むことなぞより深い歓びになったからだ。モイラが何か言うことはごく稀で、教練場で見るようになってからほんの数える程しかないのだが、その数少ない言葉、それも言葉というよりも言葉の切れ端のようなもので、父親や馬丁にしかよくはわからぬようなものであるが、その小さな言葉の切れ端のようなものを、何か不機嫌なようすで、腫《むく》んだような眼になって言うのがひどく可哀らしい。言葉の少ないこと、むっつりと何かを言うようす、それはモイラの一つの特長であった。声は水の中でしているような、くぐもった、聴きとり難《にく》い声である。そんな天上であったから、その十日の間は、モイラからうけた印象、香い、厳密には媚態とは言えぬが、通常女がする媚態をはるかに乗り越えた媚態、なぞからうけた衝撃の生々しい記憶でびっしりと、充填されていた。人といる間を除いて、モイラの姿や声で、天上の生活は隙間なく埋《うず》められていたようなものだ。凝《じつ》としていると、今そこにいるような、生々しいモイラの記憶が纏《まつ》わってくる。百合の茎を割《さ》いたような香気を忘れない天上は、モイラの、眼にしただけで触感のわかるように想われる皮膚を想い浮べ、そうして天上はモイラの肩を捉まえ、ねじ伏せ、胸の下に抑えつけたいという、狂気のような妄想を、抱いた。ストイックで、不思議に老成したところのある天上にとってそれは、既《も》う過ぎて行っていた青春が、再び非常な絢爛をもって巻き返して来たようなものである。
そんな時間の中で、天上の眼がふと、窓の外に向くことがある。天上の眼が柘植《つげ》の灌木の茂みの中に見える伊作の日除帽の上に止まる。すると天上は少なからぬ苦痛を覚えた。必要以上に、深く俯向けられているように見える日除帽の下にある伊作の表情が、天上には見ないでも手に取るように、解っている。天上には伊作の胸の底にあるものがわかっていて、それはつい半月程前までは、天上の胸の中のものでもあったからだ。見合いをして、婚約までしていた片山|基次郎《もとじろう》という国文学者の遺児で一人娘の園子を、天上は愛していたし、園子との結婚によって、伊作と、雇人たちに囲まれた静かな幸福が永遠に保証されることに歓びを感じていた。そのことに伊作と天上との心は同じ窪みに流れ寄る水のような、合流するものを、持っていた筈であった。だが天上は今ではその静かな晩年への道を、モイラによって壊され、滅茶滅茶にされることを希《のぞ》んでいる。その、たしかにふしだらなものを含んだ慾望の前に天上は完全に、敗北していた。馬から降ろされて父親の傍に駆け寄ろうとしたモイラの体から、揮発性の、それでいて重く、甘い、液体のような香気を感じた瞬間から天上は、どこかで、自分が失われたような戸惑いを感じている。天上は早くから、自分自身を厳しく律して来た男だったが、細君には適さぬことが最初に見た瞬間から解っていたモイラを、娶《めと》ろうという慾望を抑えて、片山園子との婚約を持続する方へ、自分を持って行くことが、どう遣《や》っても出来なかった。天上の精神力を奪ったものはモイラの、赤い斑《まだら》の百合の香気である。それは香気そのものというよりモイラという人間の中から滲《にじ》み出る、相手を搦めとる意志である。モイラが、何もしないでいて、相手の内部に絡みついて行くあるもの、ただ相手を見るだけで、粘りのあるなにかが、相手を捉まえるモイラの眼、それが、〈モイラの蜜〉である。天上はモイラの蜜に、敗北した。天上は、片山園子との婚約を破棄して、モイラを家に入れるということが、唯一人の肉親である磯子を、どれほど哀しませるかということを知っていて、それが又、磯子と同じに自分の幸福を希っている伊作の気持を、どれほど踏み躪《にじ》るか、ということも知っていて、その上でそれを押し切り、モイラを娶る決心をした。
林作の誘いで、或日牟礼家を訪れた天上は、牟礼の家を辞する挨拶をする際《きわ》になって、突然に、だが静かに結婚の申し入れをした。林作は郷田重臣《ごうだしげおみ》にも会い、ドゥミトゥリイに、やよも加わらせて懇談をした上で、天上の申し入れを受諾した。天上の家が、モイラの嫁ぎ先として、これ以上の条件が揃ったところはないというのが皆の一致した意見であったことは言うまでもない。モイラに話をすると、林作の予知したようにモイラには意見はない。天上は自分に、気ちがいのように溺れている。それが興味である。それだけである。石沼《いわぬま》の海岸でピータアに従《つ》いて行ったのと全く、同じである。天上が金持であることがそれに附随している。又、モイラ自身雇人のいる、金のある家で、結婚をする相手の男が大人で、我儘の言える男でなくては自分には駄目だ、ということは心得ていた。
* *
電話で林作の承諾を知った日、天上は従姉の磯子を訪ねて、かねて話しておいたモイラとの縁談の成立を伝え、家に帰ると伊作を居間に呼んで、同じ話をしたが、この方は報らせるというよりは因果を含めるという形になったことは確かで、話をする天上も、聴く伊作も、それぞれ苦痛を伴うのを避け得ない。この日のあることは、前から二人の間でわかっていたことである。
「お話が定《き》まりまして、おめでとうございます」
そう言って、ポトンと蓋をしたように眼を伏せた介田を、天上は一瞬見ていた。
灰色の襯衣《シヤツ》に、よく洗ってはあるが古い、捩じれた黒のネクタイの結び目を癇性に固く締め、消炭色の仕事着を着た伊作は、守安《マリウス》の前に慇懃に、控えていたが、右腿を、大きく開いた親指と人差指で強《きつ》く掴むようにし、顔を上げた。固い顔の中に二つの眼が、貝のような光を出して哀しげに守安を見上げている。懐しみが、頬の皺にも刻まれた顔である。
「牟礼のお嬢さんはまだほんの子供なのだ。……こっちへ来て、少間《しばらく》すればいい奥さんになれると思うが、どうも天衣無縫というより野放しにしてあったようだから」
「はい。それはもう」
モイラというものを既に識っているといっていい二人の会話は、的を外れた遊び道具の球のように、モイラを中心に無駄に廻っている。二人は黙った。
面白くない沈黙を除《よ》けようとするように、天上は伊作がこの頃始めた岩桔梗に話を転じた。岩桔梗は岩の際《きわ》に咲くというので、十日程前に暇を取って郷里に行き、頃合いの石を持って来ていた。花の話になると伊作の眼から憂いが除《と》れ、慧《さと》い二つの眼が輝いた。そういう時の伊作の、奥深い賢さをひそめた顔を、天上は好いていた。
「あれはもと、家で造ったことがございますので、立派に咲くと存じます。土もずいぶんよくしてありますので」
伊作はふと壊れたように脣元《くちもと》を綻ばせ、自信ありげに微笑った。
以前《まえ》に居た庭男の万吉が胸を悪くして辞めた代りを、天上が新聞広告で募集した時、十五人程来た中で介田伊作はその身仕舞いのよさと、見るから慧《さと》い様子が気に入られて雇い入れられた。雇い入れられて間もなく、伊作は天上に花を造る許可を得、直ぐに近くの店で花の種、葭《よし》の竿、麻紐、差し当って使う店売りの肥料などを買った。伊作は花を造ることには確かな腕を持っていて、それまでにも自分の家で狭い裏庭に高山植物なぞの珍しい花を咲かせていたのである。物干し台にも西洋花、観賞用として彼が好いているアスパラガスなぞを作った麦酒《ビール》の空箱が並んでいた。丸い、ざらざらした石の合間《あいま》に咲いた白い岩桔梗は、訪ねてくる人の眼をおどろかせた。その得意の岩桔梗を、この頃始めていたのである。その石も、植物の本にあった写真で、細かい穴のある石だと見て、そんな石を探して来る。天上は伊作を、素人《しろうと》園芸の天才だとしていた。
モイラが天上の家に来て、先ず出会ったのは園丁の介田伊作との打《ぶ》つかりであった。最初の訪問の時のことだ。モイラが天上の胸に寄りかかり、肩においた天上の掌を幾らかうるさそうにしながら門を入り、玄関までの間の敷石をぴっしり埋めている花壇に眼をやりながら歩み進んだ時、モイラは右側の花畑の奥に、ドゥミトゥリイの部屋のような小屋を認め、そこに日除帽を脱いで手に持ち、将校を迎える兵士のように立っている介田を見た。介田はとくに天上の指示を受けたのではないが、庭男の自分なのだからそこで迎えた方がいいと考えたのだ。他の召使いたちは皆玄関に集まっていた。顔を上げて天上を見た伊作の眼がモイラに移ったが、その眼に忽ち嫌っているものを見るような色がよぎった。天上を見た時にあった寂しさが鱗のように落ちて、鋭さだけになったのを、モイラは見た。
伊作はその日、明瞭《はつきり》、正式な婚約者として眼の前に現れたモイラを眼に入れた瞬間、それが何故だか彼にもわからない強い不快をうけとった。
(この女がこの家に入ってくる。この女がこの家に入ってくることは大切な旦那様にとって決していいことではない)
と、伊作は思った。それは不思議な確信のようなものである。彼はモイラの中に不倖の鳥を見、胸に肉体的な痛みを覚えた。大体伊作という男は、花と鳥、動物、それと貞淑な優しい女、それ以外のものは愛することの出来ぬ男である。モイラの持っている、男を惹きこむ或もの、それは伊作の最も嫌厭するものである。それだけではない。それがたとえ優しい、貞淑な女であったとしても、自分の伴侶としようとは思わぬ。彼は女というものを、自分が人間から動物に堕《お》ちる時、それを元の人間に戻してくれるものだと、考えている。衣《きもの》の上からでもはっきりと、恭《つつま》しやかなものが感ぜられる、ヴィナスの丘の辺りにさえ、女の体の代りに母性が座っているように見える、珍しい体を持っていて、誰をでも心から愛する、優しい心が、見て取れる片山園子に比べて、男の精神の一部を、ひと眼で壊しかねぬ体つきを持ち、真裸で男の魂の中へ、ずかずかと入ってくる肉体的な精神力、といったようなものを、しかも無意識に持っているモイラを、伊作は教練場で最初に見た時から烈しく、嫌った。モイラは、教練場の頃から既に、伊作が自分を嫌っていることを知っていたが、少しも動じない、漠然とした眼で伊作を見た。モイラと伊作との間の瞬間の稲妻を、天上はむろん見ていた。その時モイラの脣は不機嫌そうに、膨らんだように、なっていた。天上は、モイラが頭を肩に寄せかけるようにして自分を凝と見上げ、
(どうしてまだ止まっているの?)
というように促すのを見て、気を取り直したように歩き出したが、その後姿に眼をあてた伊作は、これまでの、朝、食堂の卓子《テエブル》の花壺と、書斎の一輪挿しとに新しい花を挿して、一日、一日の幸福を祝った静かな日々はこれで終った、と思い、頭を垂れて小屋に入った。モイラが伊作を見た眼は稚く漠然としていたが、伊作の心に絡みつく、ぬめりのある軟《やわら》かな生き物のようなものを、持っていたからだ。そのぬめりの中には漠然とした嫌厭が、あった。
天上とモイラとが玄関に入るとそこに出迎えたのは女中頭の本間いし、と上女中の石田ウメ、コックの李芳順《リイホウジユン》、運転手の木村|利夫《としお》、台所女中の山口ともえの五人だった。天上に輔《たす》けられるようにして入って来て、長い間かかって不器用に靴を脱いで上がったモイラを見て雇人達は一様に、一種の変った印象を受けとった。殆ど幼児といってもいい稚さ。それでいて妙にふてぶてしい。どういう訳でそう見えるのか、王というものを見たことも、想い浮べたこともない彼らにも王者のような大きさを感じさせる。自分達雇人を意識して見|下《くだ》しているようには見えないにも拘らずひどく、横柄である。何に対《むか》っても無関心で、周囲《まわり》にあるすべてのものを無視しているように見える。女中頭の本間いしは、
(これは容易なこっちゃないよ)
と、思わず心に呟いた。
(どこまで世話がやけるか。まるで子供か痴呆《ばか》のようだが、だがそれだけじゃない。旦那を丸ごと搦め捕《と》っているところなんざ、痴呆《ばか》には出来ない芸当だ。何が起るか知れたものじゃあない。旦那の鼻の下の延び加減も相当なものさ。前から薄々察しはついちゃいたが。マリイ様を伴れて教練場へ行った日、あの日帰って来た時からもう様子が変だった。介田の変人は何一つ喋らないから判らなかったが、あれからだんだん……)
と、彼女は続けた。石田ウメの見るところも本間いしと全く同じだったので、モイラが靴を脱いで上がって来た時、二人の眼には共感者の眼交ぜが走った。どうしてそうなのか判らぬが、満十六歳の女とは思われない圧迫感と、一種の重みをもってモイラは限りなく天上を惹きこんでいる。そのモイラを覗きこむようにする天上の様子を見ると、そこには何かが起るのではないか、という何かわからぬ、蒸された空気のようなものが生じている。その、二人の間にあるものは、本間いしと石田ウメだけではなく、其処《そこ》にいたすべての雇人たちの胸に、漠然とではあるが感じ取られた。
山口ともえは首を縮めるようにして本間いしと石田ウメとの顔をチラと窺い、コックの李は静かな眼でモイラを見ていたが、直ぐにさり気なく眼を伏せた。運転手の木村だけが、無関心でいた。実直そのもの、それだけの男である。
「これが牟礼《むれ》藻羅《モイラ》、僕の奥さんになる人だ」
と天上は言い、モイラに、
「この二人は本間いしと石田ウメ、上女中だ。そっちがコックの李芳順、向うが台所をしている山口ともえというんだ」
と紹介したがモイラは、黙って彼らを見ていて、一寸顎を合点させただけである。そうして天上の肩に寄りかかったが、本間いし達にはそれが、モイラの体が突然骨が無くなったように柔くなって、天上に凭《もた》れかかったように見えた。そうして眼で、
(もう向うへ行かないの?)
と言っているモイラの眼を吸い取るように掬い入れ、睫毛をしばたたいた天上の、哀しいまでの愛に溺れた姿に、軽侮の眼をあてた。
天上は一瞬|躊躇《ためら》ったが、モイラの肩を抱くようにして、手持無沙汰に立ち尽している雇人たちの前を、通り過ぎた。
天上の掌は、まだ裸では触れたことのないモイラの肩のまだ固い肉づきを、白いモスリンの夏服の上から窃《ひそ》かに探りあてているように見え、それはあたかも、手に入れた高価な玉《ぎよく》を掌の中に転がして、その手触りを愉しむ、古代の支那の皇帝を想わせる。そういう時の天上の青白む顔色と、その顔色とは不調和に紅みを帯びる脣の色は、ストイックな、宗教的《ルリジユウズ》にさえ見える彼の顔容を裏切っている。自分の体を見て男が抱く強い願望を、既にピータアによって知っているモイラは、天上の包み隠している慾望が、ピータアとは異《ちが》ったものだということを、何処かで感じ取っていて、そこに五月蠅《うるさ》さと嘲りとを、抱いていた。
五月の初めの蒸暑い初夜に、窗も、扉も、閉め切られた二階の居間で、木の筐の寝台の中に閉じ籠められた時、モイラは鋭い、爬虫類の舌のように撓《しな》うものによって、逃れようとしても逃れられない執拗な接吻の罠に陥ちた。熱苦しさと恐怖との中で長い時間が経ち、やがて太い、強靭な蛇のような腕に巻きこまれた中で、再び過ぎた夏の夜の疼痛が、永い恐怖の時間に止めを刺すのを覚えた。逃れようとする動きの果ての疲労の中で、モイラは顎を空《そら》に動くことの出来ぬようになった体を天上の眼の下に横たえた。天上はその夜以来|夜毎《よるごと》に執拗を現して、モイラを重い疲れの中に、横たえた。
幾らかはあった興味も失せて、索然とした、夜である。退屈と倦怠との中に自分をおく天上に対《むか》ってモイラは、次第次第に反抗を抱くようになって、行った。哀しみさえ湛《たた》えた愛の眼で、執拗に自分の動きを追い、傍に来さえすれば肩を抱き、頬を近づけ擦り寄せる天上を、モイラは雇人たちのいる前でも、五月蠅がる様子を隠そうとしなかった。
天上への反抗と平行して伊作を憎悪し、何かで困らせて遣ろうという心も、モイラの中に蓄積して行ったが、モイラの嫌厭の標的は他にももう一つ、あった。モイラが天上に伴れられて、初めて伊作の部屋に行った時、伊作の部屋の卓《つくえ》の上に見出した白い、太った鳩である。かねて天上から話をきいていた鳩だということは直ぐにわかったが、天上がその鳩をひどく愛していることを、モイラはその時に、知った。鳩がエンミイという名を附けられていることも。そうして伊作が天上からエンミイを預かっていて、手の内の玉のようにして世話をしていることをも、知ったのである。
モイラの伊作への嫌厭は、モイラがまだ天上に対してなんの意識も持たないでいた頃から、伊作の不愉快なそぶりによって触発せられたものだが、エンミイへの敵意はその日から伊作への嫌厭と一つのものになって、固まった。モイラは天上がエンミイを愛することに嫉妬したのではない。モイラは結婚以来天上によってこの家の中に閉じ籠められ、今までいたところとは異《ちが》った雰囲気の中に置かれたことに抵抗を感じている。天上が自分を、結婚することによって自由に出来る生きもののようにこの家の中に閉じ籠め、莫迦気た退屈の中に置いていることに、怒りを感じているところにもう一つ、エンミイへの反感が加わった。モイラはもともと鳥類を嫌っていた。それはモイラが或日林作の友だちの家で、飼っていた鶏を見ていて、何かわからぬ不快を覚えて、凝と視た時、モイラは鶏の黒ずんで黄色い二本の脚に蛇と全く同じな紋様を見た。表側には蛇の鱗《うろこ》の紋様がはっきりと刻まれていて、裏側には蛇の腹とそっくり同じの横条《よこすじ》が彫られている。その甲羅に似た固さも蛇と同じである。モイラはぞっとし、黄色い鶏の脚を見守った。その日からモイラは鳥というものをすべて、嫌うようになったのである。それを林作に話した時、モイラは、彼も同じ理由で、鳥類を嫌っていることを知った。しかも林作の別な友人に、河西鵞堂《かわにしがどう》という鳥類学者を識っているのがいて河西にその話をふと洩らした時、鳥類が太古は蛇であったこと、水に棲んでいたことが判ったのである。天上がエンミイを大切にしていることを言わずにいたことにモイラは、取るに足りないものを隠された不愉快を感じた。又伊作が預かって手塩にかけているようすを目撃したことが何よりも、モイラを刺戟したのである。
そこで、天上へのモイラの怒りが白鳩のエンミイに、転化した。それは天上が結婚以来始めてモイラを伴れて伊作の小屋を訪れたその日に、始まった。エンミイの凶い運命は、明るい庭の光を背に立っていたモイラの黒い影から、差し込んだ。花々やその葉の群れの一つ一つが、明瞭《はつきり》としたその影を黒く落していた、よく晴れた日であった。
* *
モイラが、皮膚の気孔の一つ一つを塞がれたようになって、蒸暑さに苦しむ、一年の一番最初の暑い日が来た。天上の家に来て最初の六月である。夜更になって急激に温度が上がって、十一時を過ぎた頃、モイラは木の筐の中で、天上の執拗な愛撫の|繰返し《リフレエン》と、蒸暑さとの中で喘《あえ》ぎ、常に天上をその上にも執拗にさせずにはおかない稚い悶えで右に左に、逃れようとしていたが、ふと、モイラは小さな叫び声を上げた。モイラは必死に天上を突き退《の》けようとした。湯のような、異様な感覚が拡がったのだ。そうして体の奥に、高熱に冒された赤子の脣の痙攣《けいれん》のようなものを覚えたのだ。それを知った天上はゆるやかな動作でモイラを下に抑えこみ、強い、懶《ものう》い香気の中で、モイラを恐ろしい感覚の中に閉じこめた。やがて、曇りのある眼を大きく開《あ》いて顔をそ向けているモイラを天上は、いつにない柔しさで看取った。昼の間の天上が還ったように見える柔しさの中で天上は、今夜モイラが目覚めた、その同じ瞬間に、夜の庭の中で、どの花が花開いたかを想った。どの花かが、モイラと同じ時刻《とき》に花開いた筈だ……。それまで天上は、女というものに一種の嫌厭を、抱いていた。女から体が離れると同時に、全くの無感情と嫌悪がくるのである。女に近寄るのはその状態に行きつくための所業であるとしか思われぬ。そんな交渉をそれまで天上は、不特定な女達との間に、持っていた。天上は片山園子との婚約によって、離れても又再び還って行きたいようになる優しい花園を夢み、そこに淡い期待をかけていた。そんな時天上は、モイラに掴まった。見れば惹きつけられ、触れれば一層、深い淵のような場所にひきこまれるモイラとの日々の中で天上は、完全な一人の痴呆となった。モイラの場合、体が離れた後でも無味な覚醒は無い。それがこの夜、モイラが覚《さ》めた。自分をモイラの体の、哀れな番人に擬していた天上はその夜から、その中に覚めたものを蔵している、危険な、いわば爆発物のようなものを抱えこむことに、なった。危険極まるものを抱え、それを他の男に奪《と》られまいとすることに営々として生きる、一つの蜜の果実の番人になったのだ。天上は冷静を失った。モイラの肩を柔しく抑えていた天上の掌に邪険な力が加わり、暈《ぼんや》りとした眼を据え、怒ったように抵抗するモイラの体を仰向けに、捩《ね》じ伏せた。
木の筐の寝台《ベツド》を注文した時天上は、古い童話の挿絵にあった樵《きこり》の家の寝台が頭にあって、それに似て、それを精巧にしたような、寝台の図を別な書物の中で見附けて、一にも二にもなくそれに定めた。だが出来上がって来たのを見た時、この寝台がモイラとの最初の夜の空想に繋がり、酷《ひど》くエロティックなものだということに気附いた。そうして、樵の家の寝台はあれは独り身の処女《むすめ》の寝台であったと、それに思いつかずにいた自分にむしろ愕いたのである。まだ稚くて、ひたすら逃れようとするモイラも、この木の筐の形を残酷なものに、思った。やよは気附かなかったがやよの留守に、本間いしが寝台の部屋に入った。浅嘉町の柴田同様、短い結婚生活でこれというエロティックな経験のない女だが、四十の女の勘で、この木の寝台《ベツド》の秘密を知ったぞと思った。いしはこの形が天上が故意にそうしたものと、考えたのだ。この話をいしはその晩、夕食の後で、石田ウメに囁いた。やよが一寸席を立った暇にやったことで手短に早口で言ったのだが、そんな時の例で山口ともえは知らぬような顔で聞き耳をたてていた。もっとも彼女が知らぬ風に装ったというだけで、未知なものへの興味で頬を火照《ほて》らせて聴いていたことは、彼女の愚かしい眼の表情で、二人の女に気附かれていた。二人がともえの方を見て卑しい笑いようをした時やよが席に戻って、何かわからぬがひどく不快な気配を感じたのである。その夜から数日後、やよから、伊作の丹精した新種の白い薔薇が蕾を開いたときいた本間いしは庭に出た。彼女は伊作の日除帽を見て近づき、花を見に来た風に装い、話しかけて、モイラの居間にある寝台《ベツド》が珍しい形だということを話した。伊作は聴いていないような顔で横を向いていたが微かではあるが不快の翳は見られた。それを確めたいしは凱歌を奏して、引き上げたのである。やよはいしが庭に出て行ったことを知って、いつにないことであるし、伊作に会いに行ったのではないかと、思った。数日前の、いしとウメとの不快な様子がまだ頭にあったからだ。それがモイラについての悪い噂話だということは明瞭《はつきり》とわかるので、これもやよの胸をひどく、痛めた出来ごとであった。やよはその夜一人になった時、林作と、ドゥミトゥリイとをひどく恋しく、二人に話をしたいように、思ったが、話をして彼らの心を痛めることは憚《はばか》られた。
(旦那様は、お気にもなさらないだろうけれど)
やよは心の中で呟いた。
* *
モイラが、不思議な愕きに襲われた夜から五日が経った朝、モイラは懶げに起き上がった。やよを呼んで、体を拭いて髪を梳《と》かし、やよに持ってこさせたレモネエドを洋杯《コツプ》半分ほど飲み、何度か洗ったので色が褪《さ》めた薔薇色の木綿の普段着に着替えた。白の幅の広い縁《ふち》取りが角い襟にも袖口、裾廻りにもある、気に入りのものだ。モイラが三歳の時に伯林《ベルリン》から取り寄せた、燻《くす》んだ緑と藍とを主調にしたチェックに猖々緋《しようじようひ》の縁取をした冬服の見本を出入りの仕立屋に見せて、同じデザインで造らせた夏服で、モイラがそればかり着たがるので色が褪めたのだが、却って新しい時よりも似合うようになっている。
天上が明け方にモイラを離れて、モイラの居間との間の壁を刳《く》り抜いた大きな開《ひら》き扉《ど》から隣室に去ってから、深い睡りに陥《お》ちたので、時計の針は十時を廻っている。天上はもう出て行って、いない。
やよが開けて行った窓から下を見下ろしたモイラは、丁度門を入ってくるドゥミトゥリイを見出した。見覚えのある茶褐色の風呂敷包みが小脇に見える。ドゥミトゥリイはふと歩を弛めて適確にモイラの窗を見た。モイラを認めたようだがその時、小屋に近い花畑の中から起ち上がって日除帽を除《と》った伊作と、如才ない態度で挨拶を交している。伊作が何か言ったらしく伊作に近寄り、その後《あと》に従《つ》いて小屋に入って行った。天上の家に度々来ているドゥミトゥリイは勿論、モイラと伊作との間の確執と言えるほどな嫌厭を知っている。ドゥミトゥリイはモイラの傍若無人をよく知ってはいるが尚且つ、介田伊作のモイラに対する態度を不愉快に思い、嫩い、烈しい怒りを胸深く、燃やしている。だが為に、林作の伊作への態度を見るまでもなく、不愉快なら不愉快なだけ伊作には如才なくしている。
やがてドゥミトゥリイは裏口から、玄関のホオルの奥にある台所に入って行き、コックの李にサラドゥの包みを渡すと、そこにいたやよに林作からのねぎらいの言葉を伝え、やよやともえから紅茶の接待を受けた。やがて呼鈴《よびりん》で呼ばれたやよの取次ぎで、何度か上がったことのあるモイラの居間に行った。
明るい外から入ると薄暗い居間の中で、モイラは寝台《ベツド》と右の壁寄りの洋服箪笥との間に据えた、黒い革の、窪み窪みに同じ革の釦《ボタン》を嵌めこんだような、大きな肱掛椅子にぐったりと寄りかかっていた。妙に底に光のあるモイラの眼にドゥミトゥリイは目聡《めざと》く、前に見た時にはなかった或変化を、見た。
「パァパは?」
暗い、だが愛情を深く蔵《しま》っているドゥミトゥリイの眼が、微笑いを含んで、モイラを見た。林作の、モイラを眼に想い浮べている日常を、林作とドゥミトゥリイとが常に、モイラの話をしている日々を、充分に、その眼は伝えている。モイラはその眼にあるものを汲みとったとも汲みとらぬともわからぬ眼で凝と、ドゥミトゥリイを見ている。モイラが言った。
「あのアンデスの女の帽子のような日除帽は守安《マリウス》が遣《や》ったの。伊作の部屋にある椅子も……」
暗いドゥミトゥリイの顔に又、微笑いが浮んだ。愛に耐え得ない、というような、だが苦しげな微笑いである。
モイラは凝と、ドゥミトゥリイの顔の中にあるものを視ている。二つの眼は薄暗い中に、くぐもった光を出している。
(モイラという名の宝石だ)
と、ドゥミトゥリイは心に呟いた。
ドゥミトゥリイは、決して達することの出来ない熱情が埋められ、隠されて、生《なま》な燻りを出している自分の眼が、殆ど異様になっていることが、モイラを見ていながら自分自身ではっきりと判るのだ。そうしてそれがどれ程、モイラに肉食獣の歓びを与えているかをわかりながら、ドゥミトゥリイはモイラの眼から眼を引き離すことが出来ない。頭が後から霧に包まれてしまうようになる。紅《べに》百合の茎の香《にお》いがドゥミトゥリイの膠着《こうちやく》状態を固定させる。そんな時モイラの、幾らか厚めな脣は満足に弛み、脚の間が少しエカルテしている。だが女の脚の間がエカルテしていることの卑しさは少しもない。それはモイラが放心した状態を示しているのである。モイラは、自分の口にした、決して褒《ほ》められない、いやしい貶《けな》しの言葉を、ドゥミトゥリイが咎めないで抑圧された愛の目で自分を視ているのを、確めた。既《も》う、殆ど見ることの無いようになった林作の、遠くから、変らずに、静かに自分を温め、愛撫している愛情、遠い過去の中に入ってしまったようになった、海辺の家のピータアの火、昼の間、自分というもの全体を投げかけるようにして愛情を傾けているが、夜に入ると別な、恐ろしい顔を現わし、モイラを苦しめようとしているかのように見える天上の痴呆の愛、十六歳のモイラという名の、愛の肉食獣はどんな時にも、自分の舌を満足させる材料を、確《しつか》りと自分の掌に掴まえていなくては満ち足りないのだ。ドゥミトゥリイはそこに、獲物を確りと抑えこんでいる鷹の爪を、見る。
「ドゥミトゥリイに見せるものがある」
そう言って起ち上がり、モイラは洋服箪笥の一つを開いた。樟脳《しようのう》の香いが一瞬眼に滲《し》みたが、ドゥミトゥリイは夥《おびただ》しいロオブ、外套の群の重なりに眼を瞠《みは》った。
モイラの掌が伸びて、ハンガアに掛かった儘掴み出すようにして見せたのは栗茶色の毛皮の外套《オオヴアアコオト》である。滑らかな猫の手触りに腰がある、といったらいいだろうか、そんななまめかしい艶が、触れなくてもわかる。次にモイラはハンガアの列の下に手を突込み、外套《オオヴアアコオト》と揃いの土耳古《トルコ》形の帽子を取り出した。この外套《オオヴアアコオト》を着たモイラが、恰好のいい脚でゆさ、ゆさ、と歩くところが、よく肥えた、艶のいい豹のように、ドゥミトゥリイの脳裡に映った。
ロシア産の赤狐の帽子には、濡れ光る、ふわふわした、体温のある生きた動物の実感があって、掌を出して触れたいのをようよう耐《こら》えなくてはならなかった。濃い栗茶色の毛皮の帽子は、広い鍔《つば》がうねっていて、繻子《サテン》のリボンが鍔の上から長く、顎《あご》で結ぶようになっている。その帽子と取り合せて着る猖々緋のロオブがある。一つ、一つを見せる度に、ドゥミトゥリイを振り仰いで、
(見たかい?)
と念を押すようにするモイラの眼が、無心に気を許した甘えで一杯になっている。つい眼の下に、薄地木綿《ロオン》の衣《きもの》が、俄かに丸みの増した肩から胸、これは前から太い腰の辺りを、却って瑞々《みずみず》しく見せているモイラの体がある。身動きをする度に重い、頭が痳痺《まひ》するような香気が発つ。暗い額の下に、不機嫌に見えるような脣を固く結んでいるドゥミトゥリイは、モイラがロオブを一寸、顎の下にあてて上目遣《うわめづか》いに見るような時、額も頬の辺りも暗いままで、白い歯を僅かに見せて微笑った。下目遣いの眼は砥《と》いだように鋭いが切なく、甘い微笑いだ。だが又直ぐに彼の顔は暗くなる。モイラは次に枕元の宝石入れを開け、がらくたのように入れてある、白金《プラチナ》の細い鎖の尖端《さき》に、両面を美しくカットした一カラット七十ほどの金剛石《ダイアモンド》がついている|頸飾り《コリエ》、四隅に角い、古い王冠の角《つの》のようなものの出ている紅玉《ルビイ》の指環、昔梅の実や、コンパクトを入れていたのを見たことのある白兎のマッフの中から取り出した、林作の与えた金剛石《ダイアモンド》の指環、を見せる。ドゥミトゥリイは拳固《げんこ》にした掌の拇指《おやゆび》だけを大きく開いて脣の端《はし》から顎をがっちりと支えるように蔽っている。慈しみと、苦しい恋との綯《な》い混ざった顔だ。
「あとはこの次見せるよ」
そう言ってモイラは再び椅子にかけ、まだ洋服箪笥の前に立っているドゥミトゥリイを、見た。その二つの眼は何か別なことを考えている。ドゥミトゥリイは顎を包みこんだ掌を離し、心持《こころもち》頭を下げた。そうして、
「ではパパ様がお帰りでしょうから、ドゥミトゥリイはお暇《いとま》いたします」
と、言った。モイラは瞳を上目蓋《うわまぶた》にひきつけた眼になって、ドゥミトゥリイを見ていたが、眼を凝と据えた儘で言った。
「介田の部屋の真中に椅子があって、日除帽が載っている時には介田はいないんだよ。ドゥミトゥリイ、白い鳩、見た?」
ドゥミトゥリイの胸に、モイラの企らみが暈《ぼんや》りと悪い絵のように映った。ドゥミトゥリイは今、介田が木の塀の両側に打ちつけた支え棒の上にこれも造ったらしい簀《す》の子式の板を載せ、その上に鳥の巣箱を出し、霧吹きで水浴をさせるところを見て来たのだ。介田は天気が二日続いて、次の日も晴れるという予報が確かだと思われると、エンミイの箱を外に出して陽にあて、水浴をさせているのである。モイラの瞳を上にひきつけた異様な眼はそのような企らみの故《せい》であったのかと、ドゥミトゥリイは想い、額の暗さを深くして扉口《とぐち》へ行ったが、扉を開く前に振り向き、歯を見せてはいないが、愛に耐えないように見える切ない微笑いを、浮べた。
* *
モイラは今日も木の筐の中にいた。モイラの頭の中には伊作の部屋が、大写しのように隅々まで映し出されている。モイラの頭に浮び上がっているのは伊作の居ない部屋である。寂寞の細い影をひいて木製の椅子が部屋の真中にあって、その上にアンデスの日除帽が置かれている。
伊作がその部屋を留守にするのは、煙草を買うか、花のための葭《よし》とか紐、又は鳩の餌なぞを買いに出ている時である。四角い部屋の片隅の卓《つくえ》の上には、天上から預かった金の出納と、日記をつけるためのノオト、花の栽培について書いてある厚い書物が二冊、白石の海で拾って来た穴のあいた石、が置いてあり、抽出しには燐寸《マツチ》、草花を葭に結びつける紐、釘、天上が与えた葉煙草を入れた巾着型の皮の煙草入れと細いパイプ、それは夜独りで寛ぐ時に喫《ふ》かすためのものだ、クリーニング店の領収書、短くなった鉛筆一本、肥後守《ひごのかみ》、果物ナイフ、等が入っている。卓《つくえ》の他には椅子があるだけで、左手の壁には守安から譲られた、ゴッホの跳橋《はねばし》の素描が、木の細い枠に入って掲《か》けてあり、その絵と向き合って右の壁には林作が贈った、ルドンの蝶の、素描に水彩で色をつけたものが薄い青竹色の、これも細い枠に入って掲かっている。夜と、年に一度か二度、弟の家に行く為に外出着で出たあととには、灰色の仕事着が壁に掛かっている。唯それだけの部屋で、ドゥミトゥリイの部屋と簡素なことではよく似ているようだが、孤独な、極端にストイックな伊作の性格が部屋の隅々までかっきりと澄み亘《わた》っていて、配偶者も同棲者も、部屋自身が拒否している。その固い孤独を、モイラは部屋を見る度に感じ取っていた。妙に静かなその部屋と、花畑との堺の、むべ、美男葛《びなんかずら》の葉の群れがもくもくと重なり膨《ふく》れ上がっている低い垣根、部屋の後《うしろ》の木の塀と、これもドゥミトゥリイの部屋と同じの天井に近い明り取りの窗、そうしてその塀の上に、伊作が打ちつけたエンミイの箱を載せる為の板を支える木、それらのものがモイラの眼に鳥の翅《はね》の匂いや、伊作の喫《す》うゴオルデン・バットの香《にお》いと一緒に浮び上がっている。
(エンミイを逃がして伊作がやったことになればいい。それはだめだ……でもエンミイがいなくなればマリウスと伊作が哀しむだろう……)
モイラは心の中で、言った。
モイラの眼は水を湛えたように潤んで、陶酔《うつとり》としたような艶を出している。性悪《しようわる》な考えの中で奇妙な、甘い歓びを覚えたからだ。モイラは今日、エンミイを襲おうとしている。その後《うしろ》にはピータアに関する或|掻癢《そうよう》が、ある。モイラがそれを明瞭《はつきり》と自覚していないだけだ。モイラは赤子の脣の痙攣《けいれん》をまだ恐怖している。だがその痙攣する感覚が、襲った瞬間以来、その感覚はピータアに繋《つな》がっている。エンミイへの企らみは言ってみればピータアへの埋《うず》もれた慾望の前哨戦、一種の自覚しない小手調べのようなものである。モイラはいくらか苦しげに体をくねるようにして、辺りを見廻した。二つの眼は一層潤みをおびて、底の方で光っている。透明な、薄い膜で包《くる》んだような眼である。汗ばんだ腕や脚を懶げに投げ出したりしていたが少間《しばらく》してゆっくりと起き上がった。窗から小屋の方を見ると、燦々《さんさん》と降り注《そそ》ぐ陽光の中でエンミイの箱は塀の上に出ている。やよを呼んで、風呂の支度にやっておいて、やよが、用意が出来たことを報らせに上がってくるのを待たずに階下に降りて行った。玄関のホオルで台所の方から来る本間いしを見た。モイラは、上目遣いの眼でその眼を凝と見た。台所の隣の湯殿で、タオル、石鹸などを揃えているやよに、
「一人で入るからもう行っていいよ」
と言って向うへ遣り、湯も浴びずに浴槽の中に体を沈めた。白タイルの四角く狭い浴槽は底が深くて、これも同じ白タイルの壁と床は家が古いので隅々、床の格子形の継ぎ目なぞは紫っぽい、煤《すす》けた色になっているが、浴槽だけはよく磨くので乳白色に艶を出している。白く塗った額縁の、天井に近い窗、浴槽の真上にシャワアが取附けてある。モイラが大きな音を立てて上がり、無器用な手つきで鉄錆《てつさび》色の護謨《ゴム》の大きな海綿を持って胸から腕、脚なぞを擦《こす》っていると、天井の曇った電燈と湯気の中でモイラの体が、乳、腹、脚なぞに影をつけて、鈍い艶を湛えている。モイラは直ぐに海綿を捨てて又浴槽に沈み込んだ。
(いしは何かをわかったような眼をしていた……だがわかるものか)
本間いしは擦れ違ったモイラを憎たらし気に見返った。
(あの眼は何ていうんだろう、本当に底が知れないよ。宝石みたようだが、獣の眼だ。何か企らんでいる眼だが、なんだろう)
と、心に呟き、食堂と応接間の横を通って階段の奥になっている居間に入った。習慣の午睡である。湯殿を出るとモイラは跫音《あしおと》を盗んで上履《うわば》きの儘|戸外《そと》へ出た。
(今日は香いがしてはいけない。だからオオ・ドゥ・コロオニュの香いを落したんだ)
モイラは花の間を廻って偶然のようにして、伊作の部屋の前を通った。部屋には例の椅子が日除帽を載せて森《しん》としている。二日続きの天気で、畳の目の一つ一つまでくっきりと明るい。
(いない)
モイラは呟き、小屋の脇にある苗用の空箱をようよう持ち上げ、紫陽花《あじさい》の葉の影に身を潜《ひそ》めるようにして鳩の箱に近づいた。
(今でなくてはだめだ)
モイラは苗箱を塀の下に置いて、その上に爪立ち、動悸を覚えながら箱の桟を音のせぬように上げた。眩《まぶ》しい程陽の当った塀の上に伊作が匍わせた西洋蔦とその影、塀の木肌の木目《もくめ》のささくれた有様が妙に明瞭《はつきり》と眼に映っていて、ふと、罪悪感が襲った。
エンミイは危険を知ったのか怯えて、凝としていたが、モイラが小屋の方を振り返ってから強く、箱を揺《ゆさ》ぶると恐怖したように一層体を固くして動かない。モイラは急いで桟をその儘、踏み台を元のところに置き、再び紫陽花の影に体を潜めるようにして今度は花畑の細道を抜けて玄関を入り、音のせぬように部屋に上がった。
(若しかしたら私《あたし》がいなくなった後《あと》で)
モイラは窗に駆け寄った。逃げてくる途中で微かな羽音を聴いたように思ったが、果してエンミイは一|米《メエトル》程箱から離れた空の上にいた。恐怖しているのか、脚の先は鉤《かぎ》のように曲り、尾翅をだらりと下げているのが判る。直ぐに、一旦胸を囲むように前にすぼめた翼を扇のように拡げ、弛く動かして舞い上がった。舞い上がる中途で両脚を開いて平らに空間に立つようにした。
(こわいのだ)
次にくるりと翻《ひるがえ》るようにして背を見せた時には幾らかの力強さを見せて飛び、それを少間《しばらく》繰り返した後《あと》は翼を水平に、楽々とした姿勢になって飛翔した。雀程になったエンミイの姿に、不意な恐怖を覚えたモイラは木の筐に入り、掛布をひき被った。遂《と》う遂う遣《や》った、という満足感と不安とが、綯い混ぜになって生温かな床の中でモイラを圧し包んだ。
伊作はその後《あと》直ぐに帰って、空になった箱を発見した。振り仰ぐと既に小さな灰色の点になったエンミイの姿があった。伊作は細めた眼を翳らせ、点になったエンミイを見詰めた。エンミイはふと横匍《よこば》いの進路を取り、路に迷ったような曖昧な飛び方をし始めたが、やがて雲の中に見えなくなった。少間《しばらく》の間伊作は、エンミイの見えなくなった空を見詰めていたが、頭を垂れて部屋に入った。
(帰ってくるだろう。夜になって空が冷えたら、俺の造った箱に、還るだろう)
伊作は心に呟き、椅子に掛け、少間《しばらく》凝としていたが手を延ばして灰皿を卓《つくえ》の端まで引き寄せると、隠しを探り、紙巻に火を点けた。この庭に迷い込んだ時の様子からも、飼われていた鳥であって、そう長い時間空にいることはないとは判っていたが、迷っている内に疲れて、万に一つの凶い運命に陥らないとも限らぬという、不安がある。伊作は塀の根本にあった、踏み躪ったような空箱の跡と、少しずれた位置に戻されている苗箱とを見た時、憤りと同時に吐き捨てるような不快を覚えた。天上がエンミイを失った寂寥の胸の上にモイラを抱き寄せる時、エンミイの哀れな運命も、又、片山園子の不倖《ふしあわせ》も、モイラへの溺愛の中に忘れ去るだろうことに対してである。彼はモイラの中に、常に〈悪〉を見ていた。彼は片山園子のような女以外の女を愛する心情を解し得ぬ男である。彼は女を家に入れることを潔《いさぎよ》しとしない。酷《ひど》い潔癖がある。女は必要な時に、金で買う。そんな心情を人には言わずにいる。それを口に出せば、潔癖すぎる一種の不具であるとされるだろうと、信じているからだ。
モイラは想った。
(エンミイは帰ってくるかも知れない……若し森があったって、エンミイは棲めはしない。どこかの家の庭で木に止まっているか、落ちて迷児になって死ぬかだ)
(だがどこかの庭に落ちればその家で、近所を探してここに来るかもしれない……)
そう思った時、モイラは起き上がり、寝台の背に寄り掛って両掌を頸《くび》の後にあてがい、胸を突き出すようにして、眼を据えた。上目遣いの眼に蒸《む》っとする、重い香いのようなものを出している。酷い目に会ったエンミイを、守安《マリウス》と伊作とが一つ心になって処置を考えるだろうと思うと不愉快なのである。天上をも、伊作をも、愛してはいないのにもかかわらず、二人の緊密な様子が、モイラは面白くないのだ。ふと、モイラは狡猾な眼になって、脣の端を微かにひき吊らせる、モイラの微笑いを微笑った。守安も、伊作も、愕いて不安になり、哀しむことは確かだ。それだけでいい。という考えに到達したからだ。モイラは寝台《ベツド》を下りて窗から伊作の小屋を見た。塀の上のエンミイの箱は無くなっている。紫陽花の葉の群も、伊作の小屋も、しん[#「しん」に傍点]と鎮《しず》まっている。不意に小屋から伊作が出て来た。その顔が此方《こつち》に向いた。鎮まりかえった、不幸の影に包まれたような小屋の周辺を見て、恐怖を覚えていたモイラは一瞬たじろいだが、凝と、その遠い、目鼻の彫りの浅く見える、酷く白く見える顔に、眼を当てた。
伊作は一度小屋の中に入ったが又出て、裏へ廻って行った。伊作の出入りする戸口が、裏にあるのである。
(探しに行ったんだ)
モイラはしん[#「しん」に傍点]と鎮まった小屋と、裏へ廻って行った伊作の、前屈《まえかが》みになった、律儀《りちぎ》に固い小さな体とに、寂寥を見た。モイラはドゥミトゥリイの額や肩、背中にも寂寥を見た。ピータアの瞳の中にもそれを見た、だが伊作の寂寥はそれとは異《ちが》う。厭な寂寥である。伊作の背中の寂寥は自分の悪戯が、思ったより酷《ひど》いものだということをモイラに解らせ、その寂寥の影はモイラの胸を囲んでいる鈍い曇り硝子を透して、モイラの内側に不快な情緒を差し入れた。モイラは呼鈴を押してやよを呼び、エンミイのことを言った。やよはモイラの昏《くら》く光る眼の中に、甘えの影を見た。やよは、愕きを圧《お》し鎮め、
「旦那様にお詫びを仰言《おつしや》いまし。わたくしもよく、申上げます……」
と、胸一杯の声で、言った。
モイラはくるりと背を向け、
「もう行っていいよ」
と、素気なく言った。帯を高く結んだ肥った浴衣の背中を、すぼめるようにして出て行くやよの姿が、モイラには見ないでも知れるのだ。
(やよは何でも重大なんだ)
モイラは寝台《ベツド》に入り、肩の下になっていたマッフを引張《ひつぱ》り出し、中から指環を出し、又蔵い、寝台《ベツド》を下りて、サイドボオドの果物鉢からオレンジを取って、薄皮の剥《は》げるまで厚く剥《む》くと歯を当てて丸齧《まるかじ》りにしゃぶりついた。妙に咽喉《のど》が乾いているのだ。モイラは天上が、心《しん》から自分を怒らぬと、知っていた。だがそこにふと、混じり込んでくるものがあるのに、先刻《さつき》から気附いていた。結婚の最初の夜に、ピータアとの間にあったことがどこかで知れていたように思うことが、今のモイラの重い気分に軽いが一匙の重みを添加している。林作はモイラが、自分との生活の中で、父親と娘との間のものであるとは言っても、男の愛情というものの形に幾らかの馴れのようなものを持っていること、そうして天上も、林作とモイラとの親しみの動作を見ており、モイラが西洋の娘のように父親に取りつく、可哀らしい様子をも見ていることを考えて、最初の夜について、モイラに智恵をつけぬ方がむしろ自然に行くだろうと考えて、何も言わずにおいた。モイラも殆ど最初の経験をした娘のようであった。それで天上の胸に萌《きざ》した疑いは殆ど微弱で、天上の半信半疑は、信の方に、充分に重みが懸かっている。だがモイラはそれを知らない。
(マリウスはエンミイのことを知らされてからここへ来るんだ。伊作が車の音ですぐ出て行くんだ)
モイラは午後には定《き》まって摂《と》る午睡も摂らずに寝台の中に入っていた。
天上が入って来た時には電燈を点《つ》けない部屋は薄暗くなっていた。薄暗い中に、モイラの二つの眼が光っている。
「電燈は点けないのか?」
近寄って来てモイラを見る天上の顔には、いよいよモイラに嵌まり込んで行く己に克《か》ち得ない、という悩みが、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》に、頬に、暗い影をつけているが、どこかに微かな昴揚がある。椅子に掛けると、モイラの頭に柔《やさ》しく掌をおいた。モイラは凝と天上の顔にあてた眼を離さず、かすかに首を横に振った。天上の頬の悩ましげな影は、深くなった。
伊作は半日でも、うまく行けば天上が部屋を訪れる日まで、エンミイの不倖を知らせまいとしていたが、天上はこの日車を下りるとふと、伊作の部屋に寄って見ようと思った。そうして彼はエンミイのいない巣箱を見た。その眼を伊作に移した時、伊作の眼の寂しい光を見たのである。
「重々、私《わたくし》の不注意で。……すぐに樹の多いお邸を主に、大分遠くまで訊ねて歩きましたが。……」
そう言って額に深い皺を寄せて、眉根を上げ、伊作は世にも寂しい眼を向けた。その眼の中には、言葉には出さぬが、モイラのしたことだという想いが籠められていた。
「利《き》き翅を切ってはなかったが、此処に来る前から箱に飼われていたようだから多分、遠くは飛べまい。帰って来るだろう……」
と、天上は言って、黙った。少間《しばらく》して天上は、「あまり心配をするな。心配をしても仕様のないことだから」と言い置いて、部屋を出た。
「穏《おとな》しくしてお出でと言ったろう?」
天上の掌はモイラの頬に滑り、顎をひき加減に上目遣いに見上げるモイラの顎を囲い込むようにして、持ち上げた。幾らか昴奮の見えるモイラの眼に、むっとした反抗が点《とも》る。
「エンミイは巣から逃げてしまったよ。多分もう帰っては来ないだろう。モイラはエンミイを嫌っていたのか? 嫌いならどうして俺に言わなかったのだい? 磯子のところに置いて貰ってもよかったのだ」
天上はモイラがエンミイを、そこまで嫌っているということには思い及ばなかった。モイラがエンミイを逃がしたのが、天上の愛情のうるささと、退屈から来た、理由のない反抗なのだから、天上に判らぬのは当然のことである。だが伊作については、伊作のもと居た家が殆ど一間《ひとま》の家なので、今だに空《あ》いていることを聴いているので、そこへ帰すことを考えぬでもなかった。伊作を同じ家に置かないでも、稀《たま》に往き来が出来ればいいのである。唯花畑の花をこの状態にしておくことの出来る人間は伊作以外にない。それが天上に躊躇を決定的にしている。
モイラは自分の肉食獣の慾望を充分に満たす天上の言葉を聴き、ふと夢をみるような、手足の筋肉の弛緩《しかん》するような状態に陥った。モイラは掛布の下で、力を失ったような脚を懶げに投げ出すようにした。だがそれは束《つか》の間で、忽ち天上というものの重苦しさが彼女を襲い、
(又うるさくなる)
と、心の中に呟いた。天上はこの、モイラへの柔《やさ》しい心から出た譲歩の言葉にも、さしてよろこぶ様子もないモイラに、心を痛めると同時に、玄関に出迎えたやよの様子も、心に懸《か》かっている。モイラは天上のそんな様子を見ていて、退屈と反抗心とをもう一つ強めた。この日、他の雇人達はまだエンミイの事件を知らずにいたが、それは翌日には知れ渡り、又も彼らの胸の中に、既に充分に下地のあるモイラへの非難が豊饒《たつぷり》、上塗りされたが、それにも天上は、心を痛めた。生れつき憂鬱性気味な天上は、それからそれへと心痛の種を手繰《たぐ》り寄せる。磯子の娘のマリイが、結婚以来一度来たきりで来ぬようになっていることも、今の天上の心痛に更に、重しをかけた。マリイは天上が可哀がっていた娘である。月に一度は来て、自分が相手になり、ピンポンなぞに興ずることもあった。マリイは伊作の案内で花を見るのも、楽しみにしていたのである。モイラを迎える時、一時のつもりで物置きに入れた台やラケットなども、今だに蔵われた儘である。モイラというのは故意に冷淡にするのではないが、興味のない相手には口も利かない。唯凝と見ている。その様子をマリイは恐れたのである。
やよはモイラが、林作にエンミイのことを話すだろうとは思ったが、自分の口からは誰にも決して、言うまいと、思っていた。それでなくても、肥った体を縮めるようにして勤めているやよはその当座、身の置きどころもないという、様子であった。
(浅嘉町の旦那様のためだ。モイラ様のためだ)
と、いつもやよは思っている。
(モイラ様はドミトリさんにも仰言ったかも知れない)
と、やよは思っていた。この間帰る際のドゥミトゥリイの様子に、思い当るものが、あった。
モイラはやよの苦しみは感じていて、「お詫びをなさいまし」と言ったやよの言葉には、従って遣ろうとした。モイラは大きく開いた眼を凝と天上にあて、
「もう、しない」
と、言った。そう言うと眼を暈《ぼんや》りと空《くう》に、ぐったり、横向きに、枕に顔を伏せた。天上は顔に紅潮を見せて、汗ばんだモイラの襟頸に見入った。天上は心のいたみとは別のところで、自分に対して思うように愛情を見せてくれないモイラというものを知りぬいていながら、今日のモイラの仕業《しわざ》が、いささかではあれ、自分への嫉妬に根を発したものだと、信じた。それは天上の、ほんの僅かの間持ち得た倖《しあわせ》の刻《とき》で、あった。モイラが、天上を絶望に追い込む萌しはこのエンミイ事件の後《うしろ》に迫っている。今、天上の立っている場所が、天上が不倖の中に陥ち込む断崖《きりぎし》の縁《ふち》に続いていることを天上は知らずにいた。斜面をなして少しずつ、急な傾斜になっている、その天上の不倖への道は、下りはじめたら再びもとの場所に戻ることの出来得ない道である。天上の陥ちて行く場所は四方が石に囲まれた、冷たい場所である。その断崖《きりぎし》の端に向っての最初の一歩を、モイラも知らぬ間に、天上は踏み出した。
天上はモイラに対する日頃の不満が、ふと満たされたのを覚え、モイラの中に、又深く嵌まり込む自分にどこかで危険を感じながら、蒸し出される魅惑の気配に我を忘れ、モイラの胸から掛布を剥ぎ下ろした。
* *
エンミイは帰って来なかった。
エンミイ事件以後、天上の惑溺は段がついて深まった。伊作の態度は、さして変っていない、根は前よりも嫌厭が固まって来ていたが、表面は何かを抑えて、さり気なくしている。「エンミイを磯子のところへ遣《や》ってもよかった」という天上の言葉と、その後の様子から、モイラは、伊作についても、少なくともエンミイへの言葉の何分の一かの、そんな気持を、天上が胸に蔵しているのではないかと、想っている。だがそれだからといって、モイラの憂鬱がなくなるわけではない。一段、段がついて深まった天上の惑溺は、天上がモイラのやったことが、エンミイへの嫉妬だと信じたことから来ているが、それが滑稽な間違いであることに気附く者は天上の家の中には居なかった。伊作もその一人である。花造りには天才ともいえる技量を持っていて、園芸以外のことにも、蛇のように慧《さと》い伊作だが、恋愛に関する限り、彼は全く無智を露呈していた。その場にいない林作とドゥミトゥリイが、それに気附いていた。林作の家は、辻堂のやよの親元で世話をしたもよという、偶然、やよに似た名を持った女中と三人の生活になっていて、林作は日に二度はドゥミトゥリイを、三時の茶の時間と、夜、入浴後にくつろぐ時間なぞに、書斎に呼んで、夜は酒なぞをやりながら長く話をする習慣が出来ている。林作はそんな時間にドゥミトゥリイから、モイラの悪企みを聴いていた。そのモイラの企らみが天上に対して自烈《じれ》る気分からくる反抗だということは、同時に二人の男の心に映っていたのである。
* *
玄関から食堂を抜けて、モイラは開き扉《ど》で続いている応接間に入って行った。
六月の末の気温の低い日である。入って行くと、扉口に背を向けていた女客は微《かす》かに体を固くしたように見えた。女客は、モイラの来る前に、天上の許婚だったことのある片山園子である。天上は林作を二度目に訪問した時に、片山園子のことを打ち明かしていたので、呼ばれて、茶を運んで行ったやよもすぐに、片山園子だと覚っていたのである。天上に言い附かって、胸騒ぎを抑えながらモイラを呼びに行ったやよは、モイラが動揺する気配もないのにおどろいたが直ぐに、
(モイラ様はそうだっけ、自信がおありになるし、私《わたし》のようにすぐにお愕きにはならないのだ)
と思い、モイラの髪を丁寧に梳かし、着替えを出そうとしたが、モイラは、
「これでいい」
と言って白い、四角く襟を開けた、肩を蔽うだけの短い袖の普段着の儘で、降りて行った。
片山園子は、黒い髪を真中から分けて、襟足のところに小さく纏《まと》め、弛やかに襞《ひだ》を取った長袖の、裾の拡がった午後の服を着ている。二十二にしかなっていないが思慮深く見え、二つ三つは老けてみえる。細いが聡明な眼に稍《やや》しっぺいになった眉、鼻も脣元も小さく尋常な、乾性の皮膚をした、年上の天上に対しても、母性的な優しさを持っている娘である。白に金をあしらった、小さな革のハンドバッグが恭《つつ》ましげに卓子《テエブル》の端に載せてある。窗の外に眼を外《そ》らしていた天上の眼がゆっくりと動いて、園子の後《うしろ》を廻り、窗を背にして二人の間に立ったモイラを視た。モイラは弛く拳固にした右の掌を、脣の上にあて、指を脣に入れようとするような掌つきをして突立ち、園子を見た。目礼の真似ごとのように心持頸を動かしただけで、ただ凝と見ている。自分は愛されているのだ、という自信が、体の内側から膨れ上がったように、一杯になっていて、こんな女なんか、と思っているように見える。だがその意識は、あるといえばある、という程度に過ぎない。あるのは普通よく見ることのある、詰まらない女を見る、漫然とした興味である。何かを食いながら、自分とは異《ちが》う、妙な仲間を横に立って見ている子供、とでもいう様子である。自分自身でもなにか判らない、何かの自信の据った顔がどこかむっくり膨らんだようになって、相手を睨むようにしている。前の冬に腎臓病が出て、幾らかむくみのある、脣も膨らんだ顔が、憎たらしいほど可哀い。天上の眼は我にもなく、そのモイラの様子に釘づけになった。園子は(無礼な)と思うことさえ忘れたように、この恐るべく可哀い女を見た。猛獣の仔のような、可哀らしさだ。その顔の中には優越感もある、蔑みもある、意地の悪さもあるが、それは女のものではない。強いて言えば悪童のそれである。稚《おさな》いが、耳の辺りまで裂けた|※[#「口+激のつくり」、unicode566d]《くち》で無心に相手を咥えて振り廻す、猛獣の仔の顔だ。二つの眼はふてぶてしい無関心を現して、
(ふうん。この人か……)
と、呟いている。園子は気を呑まれて、相手を観察する余裕はない。ただ酷《ひど》く長いように思われた一刻の間に、これだけのものを感じ取ったのである。
強い相手に突然抑えつけられた、弱い獣のような園子は力無く顔を伏せた。羞しい、居たたまれない屈辱感が園子を襲っている。
「お掛け」
天上が言ったが、モイラは立った儘で、
「あたし、モイラ」
と、言った。モイラは天上を一寸見て、椅子に掛けた。天上と園子とから出て、空気を固くしているものに関係なく、モイラは自由である。天上が、改めて、モイラの持っているものに迷い込んだ具合で、モイラに眼をあてているのを、園子は額で感じ取っている。モイラはそんな天上の眼を承知し切った顔で、ふと園子から眼を離したが扉のノックに其方《そつち》を見た。
やよがカステイラに冷い紅茶を添えて持って出て、三人の前に配った。やよは体を固くして、気を遣《つか》っている。
「あたしは先刻《さつき》たべたからもう要らない」
モイラは言って、椅子の背に凭れかかった。天上と園子とが向い合っていると、そこにはひどく静かなものが流れている。救いようのない、白けた場面の空気とは別に、曾つてあった、今も、そこに余韻のようにある、その静かさを、モイラは部屋に入るなり、感じ取ったのだ。その静かな、自分の介入し得ない一つの世界を、モイラは探りあてていて、天上と園子と、介田とが、この家に暮している様子を想像すると、微かな嫌厭を覚える。一方で、そんな家の中の空気を、哀れな、惨めなものに考えてはいるが、自分が入ることの出来ぬ静かさを感ずる不愉快の方が勝《まさ》っているのだ。
「モイラは父親に大事にされていたので、挨拶もろくに知らないのです。失礼は許して遣《や》って下さい」
天上が言って、菓子を勧めた。モイラはむっと、罩《こも》ったような眼を又、園子に向けた。
園子は苦いものを呑み込み、座に耐えないようになっている。それを天上も、強い痛みと一緒に感じ取っているが、どうして遣ることも出来ない。
園子は、天上が自分を招かなくなったのが急で、天上との間にあった親しみのある交際が、突然立ち消えになったことが理解出来なかった。遠廻しな言葉で婚約の破棄を伝えた仲人の舟越《ふなこし》夫人の様子もひどく曖昧である。結婚した噂もきいてはいたが、柔《やさ》しく、温かで、自分との家庭生活に期待を持っていた天上の愛情、天上の従姉の磯子の慈しみ深かったとりなしも、まだ記憶がまざまざとしている。雇人たちとも心が通い合っていた。ことに介田の好意に満ちた態度も、忘れられないのだ。園子はもう一度天上に会って、その眼の中に、残っていない筈のない、愛情を、残り火ではあったとしても、確かめたいと、思ったのだ。それで母親にも、仲人の夫人にも、又誰よりも気持の通じ合っていて、舟越夫人の訪問の後は固い沈黙に陥っている兄の俊夫にも言わずに決行した今日の訪問であった。人々が何かを知っているらしく思われる中で、兄の俊夫は訊けば話してくれそうに思われたが、訊いてみることが不安であった。園子が天上の眼の中にたしかめたかったものは、あった。だがそれはあった、というだけのことである。愛《いと》しみは憐れみに変っていて、しかも全く色褪せていた。そこにモイラが現れたのだ。自分への愛情が冷め切った天上に、それとない労《いたわ》りがあることもむしろ園子の哀しみをひどくするものでしかない。諦めが、水のように園子を浸した。
園子はようようのことで紅茶に脣をつけ、カステイラには手をつけず、
「それでは……」
と言って、起ち上がった。
ほっと、救われた天上が椅子を退《ひ》いた。
「では、体に気をつけて下さい……お母上にも……よろしく……と言うのはどうも、却って失礼のようだが……」
園子は、恋人のように思っていた天上と、モイラという名の女との間に見る、自分には想像もつかぬ厚みを持った、愛慾というものの、充分に含まれた雰囲気に、打ち負かされ、屈辱に塗《まみ》れた自分を鋭く、意識した。へどもどして起ち上がる自分の醜い様子が、自分自身にわかっていて、比較的温度は低い日であったのにも拘らず、頸すじから背中、脇の下に、冷たい汗がじっとりと滲んでいる。
天上はモイラに居間に行くように言って、せめて自分だけで見送って遣りたい気持を抑えて、二人で玄関に送って行った。彼はモイラの、ほんの僅かな不機嫌を、無論視ていたからだ。不機嫌の理由も、朧気にではあるが、判っている。天上は今日、園子が門を入った時に偶然、窗から庭を見ていたので、一人で出迎えたが、帰る時にも、召使い達の見送りは園子を苦しめるだろうと、園子を応接間に通すと廊下に出て、やよが茶を運んで来るのを待って、帰りにはやよだけで門まで送るように、言い附けて置いたのである。天上が部屋を出て行った様子などで、園子は天上の気遣《きづか》いを知ったが、天上の気遣いをうれしいと思いながら、その天上の気遣いさえ、敗北した自分を追い討ちにする鞭のように、感ずるのだ。
やよに附添われて、園子が花畑の間を遠ざかって行く。園子が先刻《さつき》門を入った時、小屋に近い花畑の隅にいた介田が目聡く園子を見つけて、どこかに哀しみの籠った眼で一瞬園子を見、肩をすぼめるようにして礼をしたが、今は部屋に入っているらしい。
(あの時に、もうわかっていたのだったのに、何故あの時に帰らなかったのだろう……)
園子は背中に天上とモイラの眼を意識し、気持悪く乾いてゆく体の汗を感じながら、縺れるような足を運んだ。
園子の姿が見えなくなると、凱歌を上げる顔つきをするでもなく、凝と、園子の去った門の辺りを見ているモイラの顎に、天上は拳固にした指の腹をあてて仰向かせ、改めて新しいモイラを見るようにして、モイラに見入った。今日、更に搦め捕られた自分を、充分に知り抜いた眼を瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけて、モイラは見返している。モイラは、天上の掌を押しのけ、先に立って食堂に入った。小寒いので庭に向いた硝子窗は月桂樹の葉で囲まれた薔薇の模様の浮いた白い透かしの窗掛《カアテン》が引かれ、薄い光を透している。玄関から入って左側の壁には、ナプキン、卓子《テエブル》掛け、客用のナイフ、フォオク、なぞの入った丁抹《デンマルク》風の低い整理箪笥があり、同じく丁抹《デンマルク》の花壜が置かれている。伊作の丹精した花が、丁抹の花壜に香《にお》い高く挿されていた昼食の食堂の静かさは、伊作の予感通り、消え去っている。やよが、モイラの注文した野菜|清汁《スウプ》を、扉口まで運んで来た李の手から受け取っていた。青豆を豊饒《たつぷり》附け合せた挽肉料理、パセリを散らした馬鈴薯のサラドゥを次々に運んでくる李の様子に、召使い達の間に起きている一種の空気が見える。それが片山園子の訪問と、そこにモイラが出て、園子を不必要に打ちのめしたことにあるらしいことを天上も、モイラも、感じ取った。何か秘密にしているらしいやよの様子に、台所にいて気附いた本間いしが、玄関に送りに出るやよを透き見をしていたのだ。天上がモイラを同席させたのはモイラの位置に対しても、モイラへの愛情から言っても当然のことである。園子をいためつけたのはモイラの持っている不思議なものであって、モイラ自身は自分の持っている魅力を見せつけようと意識して、客間に出て行ったわけではない。だが召使い達の間では天上も劬《いた》わりがない、という見方がある。運転手の木村をはじめ、男の召使い達はわざわざ話もしないが、女たちの口から今日の園子の打ちのめされた帰り際の模様は伊作の耳に入るだろう。やよが平常《ふだん》食卓の世話を自分に任せられているのを幸い、今日も自分だけが部屋に入るようにしていたが、そういう場合のモイラの様子は、誰からきかないでも伊作には判るのだ。その空気を一人で浴びているのはやよである。モイラの附添いで天上の家に行くことになった時、林作が与えた、繁世の衣類の中にあった、繁世が若い頃普段に締めていた、地紋のある白茶地に褪紅色《たいこうしよく》と銀の露芝《つゆしば》を織り出した帯を大きな、固太《かたぶと》りの背中に高めにきちんと締めている後姿に、モイラの眼が止まった。相当に根性の悪い本間いしにしろ、やよの、誠実が何一つするにも滲み出ている様子にはお手あげの具合だし、他の連中は言うまでもない。やよは独りで気に病んでいる傾向があった。やよにはモイラの専横、ふてぶてしさ、それらが苦労というものに無関係に育ったモイラの稚さの中にくぐもっているのだ、という風に考えていて、自分に対する時の横柄な態度や、時には突然背中を向けてしまうような様子の中にもまだ大人になっていない幼稚さを感じている。みずみずしい艶のある若い女の体の中に、太い神経の傲然とした男が棲んでいるのではないかと疑われるような、モイラの生来のふてぶてしさも、やよの心には(旦那様も、会社にいらしって、お仕事をなさっている時には太々しさをお持ちだろう。それがモイラ様の中にも生れつきおありになるのだ)と、いうように受けとられている。(千葉の別荘での、お隣の人との間違いも、今の旦那様が甘くていらっしゃるのも、それはモイラ様のお顔もお体も、女の自分でさえ惹きこまれるようなのだから、モイラ様がお悪いのではない。どんな女でも、モイラ様のように生れついていたら、何も可怕いものなしの振舞いに出るのにきまっているのだ)と、やよは思っている。(モイラ様はお偉いのだ。十三四におなりになっても庭の梅の実をドミトリさんに取らせて、押入れに隠していらしったり、ほんとうに子供のようでいらしって、学校の方も怠けてばかりいらっしゃったのに、いいお成績でお卒業なさったし、お頭《つむ》がよくていらっしゃるのだ)と、やよは心に呟いている。やよは、モイラの為にも、又それより以上に崇《あが》めている林作の為に、自分なぞはどんなに辛い思いをしても、辛いなぞと思ってはならないのだ、とその肥え太った、幼いモイラが熱いと思った程の胸の中に誓っている。
「やよはいい。俺のところには君のような女はいない。来て貰ってよかったと思っている」
と、やよへの哀憐をひそめた顔で天上が言ったことがある。その言葉をやよは、身に染《し》みて聴いていたが、林作とモイラとの方に熱い味方の心を抱き締め、温めているのはやはり、林作への抜き難《がた》い忠誠である。やよは伊作とモイラとの間のことについても、天上と同じ程心を痛めていた。
「やよもモイラのことでは、食うものから何からいろいろ気を遣うこともあるだろう。大した我儘ものだからなあ」
やよが、モイラの嫌いな漬物の鉢を運んで来て、自分の前に置くのを見ながら天上が、言った。
「いいえ、わたくしなど……ただ一生懸命にいたしておりますばかりでございます。旦那様」
「うむ。モイラも君のことはよく解っているようだ」
そう言って初茄子《はつなす》に花胡瓜と漬菜《つけな》の糠漬けを小皿に取っている天上の顔には寂しさというよりもむしろ苦しげなものがあり、やよもそれを視ている。
(モイラ様がもう少し守安様をお好きだと……)
と、やよは常に、心に呟いていた。だが、そう思いながらも、やよはモイラの、自分を愛する男の心を確りと掴まえ、自分のものにしていることに限りない満足を覚える気持を、次第に理解して来ている。
(モイラ様では仕方がないのだ)
と、彼女は思うのだ。
まだ不機嫌の残っているモイラは無言で、食っている。扉が開いて、李が持って来た盆の上に、五粒|宛《ずつ》の苺を見出した時だけは満足げに、脣の端をなめ、眼を大きくした。
「もう出たか、綺麗だ」
モイラは牛乳をかけるのを好むので、天上はそう言いながら牛乳を壺からかけて遣り、自分の分のコンデンスミルクの容れ物を掌に取った。
* *
モイラは、天上守安は自分がこの家にいるということだけで、希《ねが》っても得られぬ倖《しあわせ》を得ているのだ、と思っている。天上もそれを知らぬ訳ではない。天上はモイラを自分のものにはしたが、モイラを完全に自分のものだ、と思うことの出来る瞬間は殆ど無い。それに、気附かずにいる訳ではない。天上はモイラを自分のものにすると同時に、身近な一団の人々の、憐れみを含んだ軽侮の感情を、背負《しよ》いこんだ。モイラの父親の林作をはじめ、ドゥミトゥリイ、伊作、やよ、の三人の雇い人を例外とする双方の雇人たちの感情である。質《たち》のいい軽侮と、そうでないのとがあるだけである。軽侮は皆、持っている。林作は軽薄な軽侮を抱いてはいない。だがモイラのピアノの教師だったアレキサンドゥル、又、モイラの最初の相手になったピータアと同様、林作にとって守安は一つの獲物であることは確かである。モイラと自分との続柄《リエエゾン》にある、或ものを、言ってみれば二人がいる甘い蜜の部屋を、その不思議な愛を秘めた蜜の壺の手触りを繰り返して確かめさせ、窃《ひそ》かな歓びを齎《もたら》してくれる、一つの獲物である。天上はそれにも気附いていない訳ではない。だが天上にとって抗し得ないのは、モイラの精神と体との中にある、味わっても味わい尽すことの出来得ぬ、甘い木の実である。女の肉体《からだ》の果実ではない。精神も肉体も一つにした、モイラというもののもつ、或ものである。モイラが知らずにいて発する、精神を鈍らせずにはいない力である。〈モイラの蜜〉の力である。その甘みの上にモイラの皮膚の内部から絶え間なく燻り出る、紅《あか》い百合の茎の香気が添加される。それが天上を惑溺の淵にひきこむ。
天上の従姉の磯子は、天上の半ば知っていて陥った境遇に、深い哀れみを抱いていた。磯子は亡夫と住んでいた横浜の家に住んでいる都合だけではなく、外出をあまりしない女で、天上の結婚前も現在《いま》も、天上とは折にふれて書く長い手紙と、三月《みつき》に一度訪問する程度の附き合いであるが、彼女は天上の唯一人の肉親であると同時に、常に遠くから見護っている、天上の唯一人の知己である。親兄弟を早く亡くして、磯子一人と互いに頼り合って来た境遇から、天上の伊作との、主従というのには深過ぎる親しみも、生れていた。これも又、弟と二人切りという境遇を持つ伊作を、天上は口に出しては言わないが、磯子の死後も頼り合うことが出来る相手であると、いつからか思うようになっていた。そうして、やがては優しい細君を娶って、自分に適した、静かな日々を送りたいと、希っていた。そこに深い歓びを抱きさえしていた。その天上にとってモイラの出現は、不倖を裏に潜めた歓びに過ぎない。天上は、モイラとの愛情の日々を希いながら、一方でモイラとの生活は、自分の真実《ほんとう》の倖《しあわせ》ではないのではあるまいか、モイラによって、自分の倖は破壊せられるのではあるまいか、という危惧を、モイラの虜《とりこ》になった瞬間から、天上は胸に持っていた。モイラを歓ばせた木の筐の寝台《ベツド》が、モイラの怠惰を昴じさせ、そこから生じる、モイラの妄念を温め、発酵させて、何かの邪悪なものの方向に、モイラを伴って行くだろうという予感も、林作より一足遅くではあったが天上にも生じていた。この予感は当然、磯子も持っていた。磯子は自分を律することの出来る、又|年齢《とし》にしては老成したところのある守安であるから、何とか切り抜けるのではないだろうかと、それを頼みに、モイラには彼女の持ち前の慈愛を注いでいた。磯子はモイラを好きな娘だとは思わぬまでも、モイラの内側にあるものも、大体は理解の出来る女である。モイラも磯子には親しんでいたが、片山園子を見て、磯子と園子とが同質の女であるのを見てからは、磯子がどれ程、園子と親しんでいたかを推察し、そういう二人の場面を、空想の絵の中に描き上げていて、そこにもモイラの、伊作、天上、園子なぞの一統を包《くる》みこんでいる静謐への不機嫌があったのだ。林作も磯子を訪ねて、彼女を見ていて、その辺の雲行きと、モイラの不機嫌との関係を知悉していた。だが林作は、自分とモイラと、世間との関係、又、天上、磯子、伊作への配慮とは別のところで、モイラの持っている特質を面白い、愛すべきものに思っている。自分が育てたモイラであることを、想い、そこに愉快を覚えている。モイラがモイラであることを、モイラが、モイラ以外の何ものでもないことを、面白く思っている。そうして、深いところで惑溺の微笑いを微笑い、惑溺の味覚を噛みしめている。
片山園子の訪問以来、モイラの天上に対する理由のない反抗は昴進した。そこへ、片山園子の訪問から三日と置かぬ日曜日に、磯子が訪ねて来たことは、たしかに、天上の不運に繋がった。磯子は東京に買物に出たが、時間が余ったので急に思い立って立ち寄ったので、珍しく不意打ちの訪問であった。磯子は出迎えた守安が、そんな時、十年一日のように、自分に見せる、懐しみに満ち溢れた表情を、その日もいつに変らず浮べてはいたが、その表情が、どこか平常《へいぜい》とは違っているのに、磯子は、気附いた。磯子は多分、モイラとの間に何かあったのであろうとは思ったが、電話をせずに来たことを悔いた。天上が片山園子の訪問について書いた手紙を、磯子はまだ見ていなかったので、園子の訪ねて来たことは、知らずにいた。その日も園子の来た日のように曇った、気温の低い日で、モイラは電燈を点けた居間で、不機嫌な顔で木の筐に入っていた。
そこにやよが、磯子が来たことを報らせに来た。
階下の天上の書斎の革の長椅子《ソフア》に、天上と向い合った磯子は、涼しいので黒のクレェプ・ドゥ・シィヌの午後の服を着ている。飾りの無い洒落た服だが、形が七八年古いばかりではなく、彼女が着ていると粋《いき》には見えずに、慈善事業に寄附をしている敬虔な奥さんに見える。磯子も天上に似て老けた質《たち》で、三十の半ばであるのにしては眼の縁《へり》にも頬にも皺があるが、未《ま》だ処女であるとも見紛う鳩のような可哀らしさが、その円い眼にはあった。天上との会話を止めて、自分に振り向いた磯子の、静かな微笑いに眼をあて、モイラは凝と睨み据えるような目礼をすると、書物卓《かきものづくえ》に肱を突いている天上の廻転椅子の後に回って、甘えるように凭れかかった。
(片山園子のようにお前さんに気に入らなくたって、守安は私《あたし》の方が好きなんだよ、私《あたし》はどっちだっていいんだ)
凝と磯子を見るモイラの眼が、言うのだ。
モイラは客の前で天上に、こんな様子をすることがない。天上は傷つき、それにこだわっていた。
「モイラはこんなようなの、お好き?」
磯子は亡夫の小野亮三が倫敦《ロンドン》で購《か》ったという茶革のバッグの中から、レエスで縁取りした白リネンの手巾《ハンカチ》を一枚、取り出した。
半分は守安に、
「この間納戸の古い箪笥を片附けていましたらね。二枚出て来ましたの。古いけど綺麗になっていて、白耳義《ベルギイ》のですの。それでマリイとモイラさんに……」
「トゥウ、フェ、タ、ラ、マンという奴ですね。これは綺麗だ」
モイラは直ぐに掌を出して受けとり、振り返って見上げる天上に脣の端で一寸微笑い、磯子を見た。
「お礼は?」
「ありがとう……」
モイラは手巾《ハンカチ》を小さくして掌の中に持つと、部屋を出て行った。
「気に入ったものは直ぐに蔵いこむのです」
天上の顔の上を、小動物の習性を話す人のような、甘い微笑いが掠めた。
「気に入ってよかったこと。私《わたくし》は今日はモイラの機嫌を悪くしに来た悪い天使でしたからねえ……」
既に先刻、片山園子の訪問のことを報らされている磯子が、言った。
「モイラの方が悪い天使ですよ」
「モイラは故意《わざ》と子供っぽくしているのではないけれど、ああ見えて大層大人なところもあるのですね、自覚しているのではないけれど」
「ええ、なかなかの奴です。だが大人になったのはついこの頃です」
磯子はモイラが自分の家に来た時の、モイラの眼を想起して言ったのである。
「私《わたくし》は他《ほか》の方《かた》には誰にでもよくして上げますの。それは、誰でも倖《しあわせ》にならなくては、ほんとうにそうでなくては、と思うからです」
と言ったのに対してモイラが黙って自分の眼に凝と眼をあてて、少間《しばらく》いた時の、モイラの眼だ。モイラの眼はその時、
(どうして他人《ひと》によくするの?)
と、言っていたのだ。そうしてその眼の中には何かが、所謂悪魔主義なぞというものではないなにかが、ふてぶてしい、ものの考え方が居据っていた。そのふてぶてしい居据りはモイラの、曇りのある眼で強調されていた。又、モイラが半ば無意識的であることも、強く迫るものをそこに、附加していた。これは或は自分の、人道的といったような言葉を人々が嵌めている考え方よりも、もっと深いところを衝いた、考え方なのかも知れない。磯子は思わず胸の中で、たじろいだ。磯子にとっては恐ろしい考えではあるが、だがどこかの世界では、或種の人間の間では、肯定されている真実なのかも知れぬと、磯子に思わせぬでもないものが、そこにはあったのだ。
「牟礼《むれ》さんという人が、大変に立派で当りの柔かい、弁《わき》まえのある人です。僕は敬服していますが、どこか、欧羅巴の男のようなところがある」
「そうですね。あの方の持っていらっしゃるものが、モイラの中にあるのです。あの可哀らしい、稚い女《ひと》の中に、出て来たのです。……」
「可哀らしい、魔ものです」
そう言って、自分に向けた守安の眼の、苦しみを抑えている優しさに、磯子は黙って眼をあてた。守安が彼女をみて、少女だった頃から評していた、聖母《マリア》の傍にいる天使たちに似ている、恭《つつ》ましい、優しい眼だ。
少間《しばらく》して磯子は、ふと気を変えるように、伊作の花作りの話を始め、仲のいい従姉弟の間に再び明るい、静かな刻《とき》が流れた。まだモイラがこの家に来て、僅かの日日《ひにち》より経っていない。だが一度、この応接間で林作と落合い、林作とモイラとが一緒にいるのを見たことのある磯子は、林作とモイラとの間にあるものを、見ていた。恭ましい、善意の女で、恋愛の森ともいうものの中には、とばくち[#「とばくち」に傍点]に足を踏み入れたばかりといっていい女の中にも女の直感はある。天上は、この磯子と、伊作との、慧い眼の中に折にふれてふと、湛えられる優しい劬りに支えられて生きているような、自分を感ずることがある。そうして自分の弱って来ている心を感ずるのだ。やよの眼の中にも、ドゥミトゥリイの眼の中にも、それがある。だがそれは天上を傷つけた。二人の眼の中にあるものは伊作や磯子のものと同じだが、彼らには林作に附き従う、熱い僕《しもべ》の心があって、ふと天上に見せる劬りの色は淡く、消極的である。彼らはモイラを愛する者たちである。彼らはモイラを深く劬る者たちで、あった。
モイラは天上や伊作、磯子、などがいる処には必ずある静かさが不愉快である。何故か、善意しか持たぬ人々の傍にある静寂はしん[#「しん」に傍点]として沈んでいる。モイラはもう、その厭な静寂の沈んでいる部屋にはもう行きたくない。林作にも、ピータアにも、ドゥミトゥリイにも静かさはある。だがその静かさはモイラを小犬のように潜《もぐ》りこませる。彼らの静かさはもろもろの不純な微生物を容れていて、モイラをそこで生き生きと泳がせる。モイラをそこに棲まわせる。それは温かな水のようなものだ。モイラは夕食に呼びにくるまで行かないでいようと定《き》めて、手巾《ハンカチ》を下着、靴下なぞを入れる小箪笥に入れると、又もや寝台《ベツド》の中に潜り込んだ。柔かく厚い、敷き詰められた白い蒲団がぬくぬくとした温かさでモイラを受け入れた。そこに腹匍いになったモイラは、何を想ったのかその可哀らしい顔に薄ら笑いを浮べた。天上が磯子を天使のようだと、モイラに言ったことがあるのだ。
(あんな憎らしい天使。へんな、神様のような人たち……)
何かに擽《くすぐ》られるようなのを抑えかね、ぴくぴくする脣の端を隠そうとするように、モイラは片肱を上げて顔を隠し、蒲団の上にその顔を擦りつけ、悶えるように、体を捩《よ》じった。
* *
磯子が来てから間もない或日、やよが来て天上が階下に来るようにと言っている旨を伝えて、言った。
「モイラ様と同じお年位のお嬢様らしいお方がお見えになっております」
「どんな人?」
「外国の方でございます。お洋服を召して、一寸モイラ様に似たようなお方で御座います。お着替えになりますか? モイラ様」
片山園子のような人はもう他にいない筈である。
(私のお友だちになる人を連れて来たのだ)
と、モイラは直感的に、思った。
「これでいい」
応接間に入ると、愕くほど大きな黒い眼を瞠《みは》った、十八九歳の女が椅子から立ち上がった。その眼をモイラに凝と据えている。
「モイラ。ヱセル・カハアネさんだよ。御挨拶をなさい」
モイラとヱセルとは凝と、互いの眼を見合って立っていたが、モイラは仕方がない、というように、ヱセルの向い側の椅子に掛けた。ヱセルを見た瞬間、彼女を直ぐに自分の居間に伴れて行きたいという気持が起きたからだ。
「モイラにお友達がないから、お友達になって戴けそうな方だと思うので、お伴れしたのだよ」
天上は言い、ヱセルの方に向いて続けた。
「この通りの我儘な奥さんです」
「モイィラ・天上、わたくし女学校、日本の学校です。横浜の聖路加学院というミッション・スクウルです。でもパァパは昔から天上さんの会社です。小学校に、上がりました時から日本語習いました」
ヱセルが暗く光る眼を据えるようにして、言った。
モイラは奥深い眼で、ヱセルを見ている。
「あたしは聖母学園」
「ええ、天上さんから伺いました。その学校のお話、伺いたいわ」
「尼様は可怕《こわ》い?」
「ええ、尼様たちの考え方、厳しいです。わたくしに、でもやさしいです」
風邪をひいていて、平温より一分余り高いので乾いて、腫れ気味な脣をにっと、曲げるようにして、モイラは脣元だけで微笑った。あまり機嫌のいい微笑いではない。
彼女の応えには関係なく、完全な、宗教学校の生徒だった、このヱセルという少女の中には、何でもわかる、モイラのような人間を容れる資質がある。それを見て取ったモイラは、野原|野枝実《ノエミ》の代りが出来たと、思った。野枝実は祖母の命令で、自分の意志ではない結婚をして、交際がなくなっていた。モイラは起ち上がって、ヱセルを見下ろし、
「二階へお出でよ」
「モイラ。今やよが何かを持って来るから、もう少し此処においで」
「いいのよ、おじ様、あちらで戴きます」
ヱセルは繊《ほそ》い掌でそっと、天上を抑えるようにして、起ち上がった。
「どちら?」
モイラが先に立って、薄黄色の衣《きもの》と、白の衣《きもの》との二人の若い女は、玄関のホオルに出て、階段を上がった。
寝台《ベツド》と洋服箪笥との合間に置いてある、天上が掛けるための、黒革の肱掛椅子と同じ椅子を、やよを呼んで階下《した》から運ばせ、枕元の小卓を挟んで向い合わせに置かせると、モイラは窗を背にした方の椅子に沈みこんだ。ヱセルは体が弱くて、平常《ふだん》寝台《ベツド》に横たわっていることが多い娘だったが、モイラの寝台《ベツド》が変った形なのにおどろくと同時に、今起きたようになっているのを見て、丈夫に見えるモイラが年中その中に転がっていることを知った。モイラは又やよを呼んで、メロンを持ってくるように、言った。
「はい、モイラ様」
やよはモイラに女友達が出来たらしいことを知った。そうしてそれが、モイラの機嫌をことさらによくしているのを見て、いそいそと答えて、退《さが》っていった。モイラが、変った様子はしていないが、底から、深いところで機嫌のいいのが、やよには解るのだ。そのやよの様子は又モイラを、歓ばせている。ヱセルにもそれは感じとられた。始めて訪問した天上の家で、ヱセルは天上の哀しみに触れた。だが彼女はそれで直ぐに、モイラを悪いと思いこむような、単純な考え方をする娘ではなかった。
モイラはヱセルの、黒眼が一杯に滲んで拡がったような、恐ろしいように見える二つの眼の中に、すべてを吸いとる聡さを、最初に顔を見合った瞬間に見て取っていた。
(ノエミも眼は魔ものみたいだったけど、この人のように利巧じゃない。この人の方がいい)
と、モイラは思った。モイラは莫迦ではない。だがものごとがモイラの中で、ただ興味だけで動いている。そのことをモイラは暈《ぼんや》りとではあるが、自覚している。だが、それをそうでないように、変えようとは思ってはいない。ヱセルは最初から、モイラの魔のような魅力に愕いていた。モイラは幾らかの狡猾をひそめた、魔のような眼で、ヱセルを視た。モイラ自身、その魔力を駆使することに溺れていることを、ヱセルは既に見ている。
「ヱセルの眼も大きいね」
自然にウェエヴしている黒い髪が、前髪の真中に王冠をでも戴せて圧し潰《つぶ》されたような凹みのある、つまり、鬢を両側から巻き上げたように高くなっている髪形で、眼ばかり大きい繊い顔の頸を据え、胸も、胴《ウエスト》も繊い体に、薄いセル地の夏服を着ているヱセルは、これも繊い腰で優雅に椅子に掛けている。モイラが、林作の厚い書物の中で見たことのある、ロマノフ皇帝の一族の中にいた皇女の顔を、ヱセルを見て、想い出した程、ヱセルにはどこか現実の、どこにもいる女とは離れた感じがある。宗教的《ルリジユウズ》でもある。その特長が、天上の持っているものと似ていることに、天上も気附いているが、モイラは気附いていない、というよりも、気附こうとしないとも言えるのだ。
(この人は守安のように神様を好きらしい。でもこの人は守安とはちがう。パァパのように私《あたし》を包《くる》みこんでくれる)
モイラはヱセルを見て直ぐに、思ったのだ。天上はモイラにとって、年が十違うためばかりでなく、老成したところがあって、父性的に愛してくれる、林作同様に何でも希《のぞ》みをかなえて呉れる男で、あった。だが宗教的なところも、変に静かなところも、気に入っていない。林作は後《あと》になって、モイラからヱセルのことを聴いた時、いよいよ天上とモイラとの間の疎隔を感ぜずにはいられなかった。
ヱセルは薄い脣で、微笑った。
「ええ。小さかった頃、小学校の頃も、ニンフのようだとか、魔法使いのようだとか、友達が言いました」
「ノエミって人が友だちだった」
「矢張り大きな眼でしたか?」
「うん。……その子は厭なお祖母さんに言われて貧乏な会社員と結婚して、一度も来なくなった。前から貧乏だった。今も……きっと」
「かわいそうですね。貧乏は大変です。私の親類にもいます。人によると、心も悪くなって行きます」
「うん……」
モイラの眼が興味を失って、鳶色の瞳が、重たくなった目蓋の下で無意味に、動いた。
やよの持って来た、冷えたメロンに少間《しばらく》は夢中になっていたモイラが、不意に言った。
「花畑に出てみよう」
座って話していることにも忽ち倦きて、別のことを遣ろうとするモイラに愕きながら、ヱセルには何故か、何でも可哀らしく思われてくる、モイラというものを、感じた。
「ええ、ほんとうに綺麗ですね。あそこにいた園丁が造るのですね?」
モイラは返事をせずに、起ち上がった。
「きのう、蕾が大きくなっていた薔薇が咲いているか、見に行かない? コンフィダンスという薔薇」
「まあ、そんな薔薇を見るのは始めてです」
「私が造らせた薄紅《うすべに》色の紫陽花もある」
二人は伴れ立って階段を下り、庭に出た。それだけのことが何故か、モイラは楽しい。ヱセルも同じである。そのことを二人は感じている。
陽が既《も》う大分|翳《かげ》っているが、庭はまだ暑かった。モイラは陽の強い時に被る麦藁の帽子をやよに二つ出させ、それをヱセルにも被らせ、小径《こみち》も見えぬようになっている花の中を進んだ。まだ啼き止まぬ蝉の声が、二人の耳の中で鳴るようである。書斎に入って書物を見ていた天上は窗から、二人を認めて、気分が安らいだような、同時に又物哀しいような想いに憑かれた。
まだ葉の青い葉鶏頭の手入をしているらしい伊作の日除帽を、玄関を出た時から認めていたモイラは、彼を無視してその傍を通り過ぎた。伊作は起ち上がって日除帽を取り、小腰を屈《かが》めてモイラにともなく、ヱセルにともなく頭を下げた。ヱセルは軽く会釈をして通り過ぎたが、モイラの態度にひどく、愕いた。
(モイィラ・天上はあの園丁を嫌っているようだ。そうしてあの男もモイィラを……)
と、ヱセルは思った。介田の様子にも、それとなく、モイラを無視していることが窺われるのだ。その日モイラと別れて帰る途で、ヱセルは、モイラと園丁との確執ともいえる仲の悪い様子を、思い浮べた。そうして、その原因を思い巡らせる内に、モイラの魔力が天上を、溶《とろ》かしているようなところが多分、モイラの来ぬ前からこの家にいて、生真面目らしい園丁を不快にしているのだろうと、思った。それにしても園丁の眼にあった、見せまいとはしているが、異様な憎悪は、ヱセルの胸に、残った。それはヱセルを不安にし、自分の憶測以上のものがモイラと彼との間にあるのだろうと思わぬわけには行かなかった。
「この薔薇が、コンフィダンス。彼方《あつち》のが薄紅色の紫陽花」
「まあ!! 綺麗だこと。モイィラ・天上のような肌目《きめ》の細かい花弁《はなびら》ですね……紫陽花は私は水色のの方が好きです。あれは寂しいような、美しさを持った花ですから」
「うん、私《あたし》は花は好きじゃない。でもこの花にはへんな想い出があるの」
ヱセルは度々モイラを訪れるようになったが、彼女がモイラと話をする機会が度重なり、それが半月程も続いた或日、モイラは例のように、黒革の肱掛椅子に、だらりとなって沈み込んでいた時、不意に、言った。心にあったものが、ふと滾《こぼ》れた、というような言い方である。
「ヱセル、恋人、ある?」
「今は、いいえ」
「ある……」
「え?」
「でも会わない」
モイラの眼が光っている。脣の辺りに狡猾な微笑いとも取れるものが浮んでいる。
ヱセルは黙った。黙ってモイラを見た。
ヱセルは先刻《さつき》から、会い始めた時から知っているモイラの、どうかした時に漂う植物性の、その癖酷くセクシュアルな香気が、強くするのを感じながら、モイラを、何をもってしても、律し難い、仕様のない人物なのだという、不思議な想いに捉えられている。それと同時にモイラの言う恋人というのが、それが、既に会ったか、或は近い将来に会うようになる男なのだ、ということを、彼女は戦慄と一緒に、感じとったのである。ヱセルのこの想いを、モイラは知ったようだ。
長い間ヱセルは、黙っていた。モイラも黙って、この新しく出来た、どういう時にも、どこかで心持が通じ合っているような女をなんとなく見ている。白い下着が透いている薄黄色の衣《きもの》の下で、モイラは汗を滲ませている。
二人の間にある檸檬曹達《レモンソオダ》の中の氷が殆ど溶《と》けていて、扇風機が微かなうなりをたてている。不思議なことにモイラは、この友だちの前では何も蔽わずに、自分というものをさらけ出していることが出来る。そこでモイラの魔力がいやが上に香気をたてる。天上は会社である。モイラに馴染まぬ、というより、モイラに反感を抱いている雇人達も、ヱセルを気に入っていて、この居間からは遠い部屋にいる彼らも、気分よく静かにしているのが感ぜられる。伊作さえもが彼の部屋で、天上のいない時間のこの家で、比較的機嫌よくしている。それが二人には感ぜられている。そういう静けさなのだ。
いつもの癖で、弛く拳固にした右掌を脣にあて、しゃぶっているような感じで眼を陶酔《うつとり》とさせ、酒でも呑んでだらけ切った男のような様子で椅子に凭れこんでいるモイラに、深い眼をあて、ヱセルが言った。
「モイラはほんとうに綺麗で、そうして、ほんとうに仕様のないひとですね」
モイラは陶酔《うつとり》した儘の眼の色で、いよいよ椅子の中に沈みこんだ。
「だから、会わない。……」
その癖モイラの眼は、ヱセルが自分を解る、自分の味方の一人になるだろう、という絶対の自信を持って、ヱセルを見ている。
それを言うモイラの眼は、彼女のその言葉が、モイラの中の何処からも出てはいない、空《くう》なものだということを、ヱセルに知らせていた。
* *
八月に入ると蒸されるような暑い日が続いて、モイラはぐったりと、弱っていた。
そんな或日林作が、天上家を訪問した。天上の都合を問い合せて来たドゥミトゥリイの電話を、やよから聴いたモイラは、
「パァパが?」
と、言った。いつものモイラとは違う弾んだ声だ。
モイラは現在《いま》では、林作と自分とが入っている愛情の密室、甘い蜜の部屋をたしかに、探りあてている。モイラと林作との間にあるものは、父親と娘との間の親しみであって、そこに危険がある筈はない。だが何かの、不思議なものがあって、その何かが、父と娘との親愛の中に微かに危険の苦《にが》みを添加している。その微かな苦みの中に、在るとも、無いとも、わからぬ混沌の中に、陶酔がある。その現実には無い筈の危険が、あるかも知れぬように思われる、意識の狭間《はざま》に、陶酔がある。モイラは林作のように、そこまでは、わかっていない。だがモイラは、林作と自分との親愛が封じこめられている甘い蜜の壺をどこかで探りあてていて、その蜜の壺に触《さ》わったような気がしている。「パァパが?」と言った時、モイラの眼が、異様に潤むのを、やよは見た。やよの胸にも慕わしい、懐しい心が、奥深いところで音をたてているようである。天上は夕食の用意をするように言い、献立ては林作の好みを主にして立てるようにすること、食後の果物のことなぞも細々《こまごま》と、言い附けた。天上は林作が、モイラを早く天上にも、天上の家にも懐かせようという気持から、結婚以来一度来た切りで、訪問を控えているのを見て、深く感ずる心持がある。モイラの部屋の電話で話してはいるようだが、それも長くは話さないらしい。やよは忙し気に応接間を出入りして、扇風機をかけ、卓子《テエブル》掛けを新しく替えたりしている。伊作ですら林作には尊敬を抱いている。他の雇人達も皆、林作の威と柔かな様子を好もしく思っている。本間いしも、憎たらしいモイラの父親だとは思うものの、畏《おそ》れのようなものを抱かざるを得ない男だと、思っている。
林作は今年五十四歳になった。アレキサンドゥル・デュボワが嫉みをもって眺めた、焦茶の紗の夏羽織を着て、夏袴を着け、涼しげに現れた。
エンミイの事については、林作が既に手紙で、丁重に詫びて来ているので、天上もそれは忘れ去ったようにしている。暑さ見舞いの挨拶が済んで、今年伊作が咲かせたコンフィダンスの話から、牟礼の家でもドゥミトゥリイが作りはじめた、朝顔の話になった。
「全くの素人で……それでも花は毎朝開くのです。種の袋にあったのと花の色が違うなぞと、ドゥミトゥリイは言っています」
林作はそう言って楽しげに笑った。
林作は、モイラがいなくなったからといってアンネット・カウフマンの所に通う度数を多くした訳ではない。アンネットが彼にとって必要以上のものではなかったからで、それまでは家に母親の無い娘がいるからだと、取っていたアンネットの不満を容れて、一月《ひとつき》程前から週に三度通うことにしている。それでドゥミトゥリイが林作を慰めようとして種を蒔き、どうやら朝顔を咲かせたことには、いい知れぬ歓びを覚えたのだ。天上も共に歓び、声を和して笑った。
「この頃は朝顔の顔を見てから会社に出る。今までは娘ではあっても若い女の顔を見て出かけたのですから、急に隠居になったような具合です」
天上は英文、林作は独法を出ているが二人とも外国文学をよく読むので話はいつも其方《そつち》に行くのだが、林作は天上が詩ならエリオットゥ、ワァズワァス、キイツなぞを読んでいて、紀行文、エッセイなぞも好いていることを既に知っている。林作の歓んで読むものというと、小説なら小説の中に粋《いき》なものの入っているものであって、粋を解せない作者のものには興味がないというように好みが偏《へん》している。天上は品のいいロマンティシズムが好みで、鴎外の『舞姫』なぞを愛読している。文章の調子が高くて清貴でなくてはいけないという点では二人は一致していた。二人は互いに気を遣《つか》って話をしていたが、偶然、モイラがホオムズを読んでいるという話から、ホオムズの話になった。モイラは林作が、
「何か面白いと思うものでいいから本をお読み、その内パァパが何か考えて贈るから。又馬を遣《や》ってもいいし、天上君と話をして何か他のものを考えてもいいのだ」
と言ったのを守って、天上の書棚から手当り次第に易《やさ》しそうなものを引き抜いたのが偶然、ホオムズで、ひどく興味を持ち、木の筐の中で何か読む時には本は定《き》まってホオムズであった。林作はモイラが、小さい頃から罪悪、殺人なぞに異常な興味を持っていることを知っているので、ホオムズについては話を端折り、ピエェル・ロチの『アルジェリア紀行』の中にある、ロチがドオデに送った手紙に話をもって行った。幼いモイラはよく、林作の膝に凭れかかって絵入りの小説類や、外国の大辞典を拡げて、説明をせがんだ。林作は小さなモイラが、不気味な絵を見つける度に説明をせがむのに興味を持ち、肉をせがむ小動物に肉片を投げ与えるようにして、モイラが飽くことなく要求する、自分からの愛情の肉片と一緒にそんな小説の話、絵の説明をも、与えていたのだ。ロチの紀行は天上は読んでいなかったが、そこからリヴィングストンの探険記の話が出、探険ものに興味の一致点を見出したことが話を弾《はず》ませ、二人の話は和《なご》やかに流れて、冷えた紅茶を運ぶやよも、可憐な、肥えた胸を和《なご》ませている。気に入りの薄紅色の木綿の普段着のモイラが、入って来るなり「パァパ」と言って、肱掛椅子に掛けた林作の背後《うしろ》に廻って肩に飛びついた様子に、耐えられぬ程の嫉妬を覚えた以外には、天上は林作の訪問を心から歓ばしく思ったのである。モイラが後から飛びついた時林作が、低く俯向けた顔で微笑い、モイラの掌を後手《うしろで》に軽く叩いた様子にはそれとないたしなめがあって、その二人の姿には妬心に胸を刺された天上も清潔な画面を感ぜぬ訳には行かなかった。その林作の様子には、どこか恋人とも見紛う、一種の気配がありながら、天上に嫉妬の心を恥じさせるほどの清潔《きれい》な、父と娘との楽しげな馴れ合いが、あったのだ。だが、それだからといって天上の妬心が消え去ったのではない。天上の嫉妬を最も刺戟したのは林作が瞬間上半身を前に伏せて、深く顔を俯向けて微笑ったことである。林作の顔は殆ど影になっていて、ひどく粋にみえた美しい微笑いが辛《から》くも見てとれた。その様子が父娘の画面を秘密ありげにした。モイラの掌を、触れたか触れぬかのように叩いた掌にも、天上は憎悪を感ずるほどの愛情が、見えた。モイラは直ぐに離れた。
モイラは林作の袴の膝に凭れて、膝に頬を擦りつけながら二人の話に聴き入りたい慾望を抑えられない。それを知り過ぎている筈の林作の顔にはそれを知っているということの、微かな影さえもない。時折、結婚した娘への愛情に満ち溢れた微笑いをモイラにあてるが、その度に林作は脣を膨らませ、凝と自分を見ているモイラの眼に行き会う。林作は自分とモイラとの甘い蜜の部屋を、モイラよりも先に探りあてていて、モイラより深いところで、適確にその情緒を突き止め、現実と、ある筈のないものとの微妙な狭間《はざま》を、現実と、或感覚との間にある魔を、余裕のある微笑いの底で噛みしめている男である。だが林作は、モイラの夫となった天上の前では、膝に寄りかからせるのは控えようと思ったのだ。林作は可哀くてならぬモイラの不満な顔を見る度にほとほと、困り果てていた。林作はモイラが膝へ来て、凭れかかりかねぬのを見て抑えたことが、天上を刺戟したことにも、気附いていた。
不満に脣を膨らませて、あらぬところを見ているモイラの耳に、林作の静かな声が入った。
「千葉の家にモイラを伴《つ》れてお出でになりませんか。新しい魚と野菜に、後《うしろ》の川でとれる蜆《しじみ》位な饗応《おもてなし》しか出来ないが」
天上はモイラの、林作を迎えた様子を見てからというもの、妬心の獣を抑えかねていたが、歓んで応じる旨を答えた。この時天上の心には一つの考えが、浮んでいた。モイラというものが幼時から林作の、父親の愛と、恋心を抑圧して仕えているドゥミトゥリイの忠実な愛との、二つの男の愛情に育まれていたことは判っていたが、モイラのこれまでの生活の中にまだ何かが、ありはせぬかと、これまでも想わぬではなかった。それが今、それが若しあるとすれば林作の別荘の周辺にありはすまいかと、ふと思ったのだ。この想念が、林作の招待に応じた天上の胸の奥に湧いた。
モイラは、天上の林作の招待を受けている顔を見ていたがふと眼を伏せた。モイラの胸にも同時に一つの考えが生れたのだ。天上の掌によって、一人の女としての情緒に目覚めたモイラは、エンミイに害を加えて天上と伊作とを愕かせ哀しませようという悪戯に心を集中している状態の中で、一方どこかに心を動かすなにかを感じていた。その心の動きがピータアに繋がっているということが明瞭《はつきり》して来たのはつい数日前である。木の筐という培養器の中で、モイラはピータアに会おうという企らみをわだかまらせていた。エンミイの事件も大したことも無く終り、ヱセルが来た日を除《の》けては片山園子、磯子と、不愉快な、退屈極まる訪問が続いて、モイラのピータアとの密会の企らみは木の筐の中で温められ、膨らんで、孵化しようとしていた。ドゥミトゥリイにピータアの東京の住所を訊かせにやろう。そうしてそれが、ピータアの心をもっと烈しくし、同時にドゥミトゥリイの心臓に苦しみを与えて、もっと灼くようなものにして遣ろう。と、モイラは想ったのだ。そこへ林作の招待があった。林作に隠れてピータアの、あの海の家に行かせるのには、林作が客の接待《もてなし》をしていて、やよとドゥミトゥリイとが忙しく働いている時がいい。その考えが、暈《ぼんや》りとし勝ちなモイラの心に閃いたのである。モイラは心の中に笑った。
(パァパは何でも遣《や》ってくれる。だがはじめからパァパには頼めない)
モイラが再び眼を上げた時、林作がモイラを見た。
「モイラ。伊作君に薄紅い紫陽花を注文したのか?」
林作の微笑いは揶揄いを帯びている。天上の、モイラの稚い好みを微笑い気味な眼が、同時に向けられていた。アレキサンドゥルとの、最終の稽古日の出来事が逐一林作に報らされていたのは言うまでもない。その場面にあった薄紅い紫陽花は林作とモイラとの記憶の中で今も、その五十五歳のピアノ教師と十一歳のモイラとの、不思議な恋の場面の全体を蔽って、雫をつけて咲いているのだ。暈《かさ》を被《かむ》った天体のように暈《ぼんや》りとしたモイラの眼が林作を見、天上に移った。
小さいが黒鱚《くろぎす》があったのでそれを林作の好む淡味な塩焼きにし、李がとったコオンの肉汁《スウプ》と、やよが懸命に味をみた独活《うど》と柱の酢の物、これも李がロオストした近江の産地から取り寄せた牛肉、等の夕食が整うと、やよの案内で三人は食堂に入った。李が、食後の西瓜を運びがてら、挨拶に出た。林作は李の係りであったらしい肉のロオストについて、焼き具合がいいと褒めて、ねぎらった。
「李は日本橋の中華亭に下働きをしていたのですが、西洋のものも直ぐに勉強してかなり巧くなりました。日本料理はやよと交換教授をやっているようです」
天上が言った。やよは歓ばしげに、それを耳に入れる様子で、退《さが》って行った。李はコックの仕事着の新しいのを着ている。彼は新しい仕事着を常に用意していて、客の前に出る時も、外出する時もそれを着け、冬にはそれにオオヴァアを羽織るだけで、コックの仕事に徹底している男である。やよは彼に教えを乞い、しきりに何かと料理を手伝いながら、いろいろと覚えようとしているのである。
林作が夏の風のように爽やかに現れ、辞して行った後では天上も、自分を無為に苦しめる嫉妬心を殆ど、鎮めてはいた。
* *
八月も末近く、千葉の石沼《いわぬま》の林作の別荘は、天上達が来てから四日続いた快晴が崩れて、空が昏《くら》くなっていた。やよは今日の夕食の為の茄子、胡瓜、冬瓜《とうがん》、鰈《かれい》、小海老なぞを、近くの農家や漁師のところに分けて貰いに行くことを、四方吉《よもきち》に頼もうと思っていたが、ドゥミトゥリイが自分が行くと言って出て行った。四十八《よそはち》は松葉を集めて、焜炉《こんろ》を外に持ち出し、飯を炊く用意をしておいて一旦《いつたん》帰って行った。やよは昨日《きのう》四方吉がとって来た蜆で味噌汁を作るための出し汁を、丁寧にとりながら、先刻からピータアのことをなんとなく気にかけていた。買い出しの使いを自分ですると言って出て行ったドゥミトゥリイの様子がやよの胸に微かな不安の影を落としたのだ。ドゥミトゥリイは林作が天上家を訪問した翌々日に、モイラに呼ばれて、モイラからピータアの家に、東京の住所を訊きに行くことを頼まれていた。モイラが凝と、眼を自分の眼に据えている間、ドゥミトゥリイは、(自分はそれを必ずやるだろう)という自責の念と苦痛とを全身で、耐えていた。ドゥミトゥリイは、モイラの傍にいると何かに縛られている自分を感ずる。未だ開き切るのには幾らか間《ま》のある薔薇の花がつい傍にある。肌目《きめ》の細かな花弁《はなびら》だ。花蕊を捩れながら取り巻く、花弁の固まりの辺りから香気を吐き出している薔薇である。その香気はモイラの性格が映るのか、生《なま》ではなく、なにかの不透明に包まれている。自分には手折ることは許されていない。それが永遠に手に取れない、という痛みがむしろこの頃では苦痛の歓びのようなものになって来ている。苦痛に耐える歓びである。苦痛を受け止める病人の智恵のようなものだ。悪事に加担をするのだという苦痛が、モイラの薔薇の香気と一つになって頭を締め木で締めつける。既《も》うその秘密の使いを遣《や》ってしまったかのような、暗い隈のようなものが眼の周囲《まわり》に出ているドゥミトゥリイの顔を、モイラは眼《ま》じろぎもせずに視ていた。自分の望み通りの生《い》き餌《え》を食っている、肉食獣の眼だ。ドゥミトゥリイは眼を伏せ、脣を少し開いて吐息をついた。そうして返事の代りに頭を低く下げ、黙って部屋を出て来たのだ。一昨年《おととし》の夏に半ば開いた薔薇は、今は開き切る時期に近づいている。しかも苦痛に耐えている自分の顔が恐ろしく見えたのか、一瞬、微かに怯えを見せ、自分の眼の中を探るような目遣《めづか》いをした時、ドゥミトゥリイは胸を掻き|※[#「手へん+劣」、unicode6318]《むし》られる甘い苦痛に頬を歪めた。ドゥミトゥリイは林作にたしなめられて愕いて泣き、自分の小屋へ驀《まつしぐら》に駆けて来て、自分の眼の中を、温かな慰めを探すようにして覗きこんだ、遠い昔のモイラの、乳首を探す赤子のような眼遣いを、想起した。それはドゥミトゥリイの胸の奥に永遠に蔵われている、甘く切ない場面である。
(あの頃は蕾の薔薇だった)
と、その時ドゥミトゥリイは心に呟いたのだ。
やよから明日は皆様お発ちらしいときいたドゥミトゥリイは、今日はやらなくてはならぬと想い、落つかぬ様子を人に見せぬようにしていた。その日の朝、大原へ西瓜を買いに行った行きがけに海岸に出てみたが、ピータアは居なかった。ピータアは、モイラが夫らしい男と来ているのを小窗から見て知っていた。今日は朝早く泳いで後、居間に閉じ籠もっていたのだ。買い出しの帰り、ドゥミトゥリイはピータアの家の裏に廻ったが、林作の家の窗と向い合った小窗のある側の裏には扉口がない。荷物をそこに置き、急いで扉口に廻って、別荘の方に振り返ってから軽くノックをした。二階から下りて来る跫音がして扉を開けたピータアは、ドゥミトゥリイを見ると身を退《ひ》いてドゥミトゥリイを入れ、素早く扉を閉めた。暗い階段の下で二人の男は、一瞬眼を見合って立った。砂の上に蹲まって Moila[#i はウムラウト付き] と書いていた、一昨年の夏のドゥミトゥリイと、その傍を黙って通り過ぎたピータアとは、その遠い場面にあった一種の感動を再び、感じ取った。ピータアはドゥミトゥリイのモイラへの内に隠し、抑えつけている恋を見、ドゥミトゥリイは自分が雇人として仕えてもいいと思う程の一人の嫩者《わかもの》、いい奴を、見たのだ。泳いで来てその儘なのだろう。黒いパンティの上に灰色のブルウズを着ているピータアは潮の香いがし、砂をつけて、逞しい、嫩い馬のようだが、その二つの眼には分別と、灼くような恋とがせめぎ合い、その二つともが疲れ切って醸し出された静かなものが潜んでいて、二つ三つ年を取ったように見え、ドゥミトゥリイを惹きつけた。ピータアを前にして、恋が生《なま》で燃え上がっているのを気配にも見せずに隠し持っているドゥミトゥリイは暗い色を塗った額越しに、ピータアを見た。
「モイラ様が、貴君《あなた》様の東京のお住所《ところ》をと……」
「僕は現在《いま》父母と別に、アパルトマンにいます。農学部の裏で弥生町七十二、古在荘、古い、駐在の在、古在荘です。部屋は二階の12、明日はそっちへ帰ります」
言葉の半ばからピータアの、衰え切っていた恋の火が忽ち盛り返して熱くなって来るのを、ドゥミトゥリイは見た。
ピータアは凝と、ドゥミトゥリイを視た。
「君の名は?」
「ドゥミトゥリイ、と申します」
ドゥミトゥリイ、と言った発音の中にピータアは紛れもない祖国の声を香いだ。ドゥミトゥリイは父親のイワノフについて、密かに祖国の言葉を習い覚えていて、それは決して忘れまいとして、独りでいる時には暗誦を怠らぬようにしていたのである。それは父親のセルゲイの発音である。
(そうか、そんな気がしていた)
と、ピータアは一種の懐しみを潜めて、ドゥミトゥリイを見た。
「では、失礼いたします」
ピータアが、階段の下の土間が狭いので後手《うしろで》に開けた階下の部屋の板の間が、午前《ひるまえ》の薄陽に静まり、砂がざらついているのを目に入れながら、ドゥミトゥリイは言い、深く顔を伏せた。
ピータアは素早くドゥミトゥリイと入れ代って扉を細く開け、林作の家の方を確かめると再び体を退《ひ》いて、ドゥミトゥリイを送り出した。
ピータアは二階に駆け上がると、鋼鉄製の椅子に逆に腰かけ、椅子の背を囲むようにして腕を重ね、その上に顎をのせて、前方を見詰めた儘、少間《しばらく》の間、動かずにいた。ドゥミトゥリイを寄越したモイラの意図が、ピータアの頭には明瞭《はつきり》と映っている。
(俺と向い合わせることによって、ドゥミトゥリイの胸の火をあおり、一方、ドゥミトゥリイを自分の前に立たせることで、俺の胸の中に疑惑の一滴を滴らせようとしている。モイラはドゥミトゥリイと俺が一度、海で会っていることを知らない。だが俺が一目あの男を見れば、彼の胸の中にも自分が居ることが俺にわかると知っているのだ。遠眼だがあの、夫らしい男は、顔は立派だが妙に宗教の匂いがある、退屈そうな男だ。それでモイラは俺を想い出したのだな。ようようのことで俺は俺の行く手に、透明な世界を見るようになって来ていた。昨日《きのう》の夕方までは……、俺の胸を灼く苦しみを越えて、肉慾の火を越えて、俺はそいつを捉まえることが出来そうに思っていた。俺の透明な世界は、だが既うお終《しま》いだ。どうにか、その世界に行き着いて、そこに住みつくことも出来ないことではなさそうに思えていたのだ。今、既う俺は駄目になっている。モイラの試練を除《よ》けるのには俺は若過ぎる。精神も。肉体も。……今、俺の胸の中にはもう、あの男の掌によって熟したに違いない、モイラの体への好奇心と慾望が燃え上がっている)
ピータアは眼を一点に据えた儘、胸を探り、赤銅の十字架を鎖ごと手繰り出して掌の中に固く握り締めた。
(モイラの思い通り、あの男を見たことによってモイラの誘惑は、麻薬の十ミリ瓦《グラム》位は強められた。だが……)
ピータアの十字架を握り締めた掌が無意識に、弛んだ。
(密かに男を寄越しているが、いざとなればあの父親が手を貸すのは知れている。アリバイは堅牢だ。手抜かりのある筈はない。ことを始めるのに、父親が加担する筈がないのを知っているので、今のところは秘密にしているだけのことだ。モイラをあの父親から掠奪することが出来ないのはあの宗教の匂いのする男だけではない。胸の奥に火を点けられて、燃え上がって、狂い廻っているこの俺は何なのだ。モイラの父親の、あの微笑い。あの微笑いには、何かがある。清潔《きれい》な、父親の微笑いだが、それだけではない。あの男の奥底には何かがある。深い、不思議がある。永遠に交接のない父と娘との間柄。その中にあるもの。魔の影……清澄な蜜を容れた壺)
ピータアの掌は再び固く十字架を握り締め、無意識のように脣に持って行き、歯の間に挟んで、噛み締めるようにした。ピータアは眉根を顰め、眼を床の辺りに落した儘、凝となった。精神が眼に集中したように、両頬から脣元の辺りは弛緩して幾つか年を取ったように、見える。恐ろしい眼だ。モイラがそこにいたなら、体も表情も、なにかに縛りつけられたように動けなくなるに違いない、恐ろしい眼だ。やがて気持が鎮まってくると、ピータアの頭には暗い土間に立っていた、ドゥミトゥリイの姿だけが、残った。ドゥミトゥリイが、モイラへの火を抑えて来て、今も、これからも、抑えて行く男だということを、ピータアは一昨年の夏、海で出会った時に、悟っていた。彼が蹲《うずく》まるようにしゃがんで、砂の上に何かを書いている姿を見た瞬間から、わかっていたのである。
(モイラ……あの魔は父親のものだ。……)
ピータアは凝としていた。長い間。厳しくひき締まった脣の辺りに殆どサジスティックなものが窺える肉情の影が、内側から滲み出て、貝のように閉じた脣の辺りにくぐもったように、出ている。
その日、今少しで陽の落ちる頃、ピータアは、砂を蹴って海に出た。沖へ出て長い間、抜き手を切っている内に水を切る脚が重く、腕も疲れて来た。遠く、もう父親と母親とが帰っている筈の家と、林作の家の二階の窗に燈火《ひ》が見え、林作の家の砂丘には人影のようなものが動いている。幾らか危険を感じたピータアはゆっくりと仰向きになり、弛く手脚を動かして少時の間体を浮かしていた後《あと》、注意深く岸に向って泳ぎ、ようよう岸にまで辿りついた。砂を匍うようにして、岩の影に俯伏せになった。その岩に腰を下ろしていて、そこで始めてモイラを見た岩だ。心臓の鼓動が速くなっている。少間経って横向けに伏せていた頬に砂をつけた儘、ピータアは立ち上がって、暗い砂の上を林作の家に行く坂道へ、歩いた。砂がまだ熱い、掌で頬の砂を払いながら俯向き勝ちにピータアが、四つ目垣のある別荘の脇に差しかかった時、砂の上に卓子《テエブル》を出して夕食を摂っている林作達が、薄暗い中に鮮やかに、眼に入った。額の辺りが眩しい。それは此方《こつち》へ来るやよの掌の洋燈《ランプ》の光だった。ピータアに背を向けているモイラの夫らしい男は気附かぬようだったが此方に向いていた林作と、横向きのモイラが、ピータアに気附いた。モイラはピータアが気附かぬ先に見ていたようだ。脣を両端が窪むほど結び、魔のような眼をした顔が洗ったばかりらしい、波打った髪を厚く被《かぶ》ってピータアを見た。ちらと眼に入った、白い透いた洋服を着たモイラの露出《むきだ》しの腕が、一昨年の夏と異《ちが》っているのをピータアは眼に入れた。まだ固いなりに熟した香いがある。此方の肉情に絡みついてくるものが強くなっている。胸から腰、脚の肉附きが忽ち空想の中で、ピータアの火を煽《あお》った。
(千葉に招《よ》ぶこと以外に天上をもてなす遣《や》り方が、一寸なかった。料理屋には一度招んだが、夏は暑い……)
林作は、明らかに新しく火を点けられたピータアを見て、想った。まだ二十六歳である。恋の苦悩が顔を老けさせてはいたが、ストイックなピータアの体はまだ嫩い。
(癇の立った嫩い馬だ。何かあったのだな……)
と、林作は思った。林作のその眼も、どこかで掬《すく》い入れ、ピータアは足速に通り過ぎた。モイラはピータアの中に、今までになかったものを見た。自分の遣《や》ったことがピータアをそうしたのだ、とモイラは想った。一瞬の内に顔を背けたピータアの横顔は禿鷹のように恐ろしい眼をしていた。モイラは男というものが、自分を好きになる時、恐ろしい顔になることを、幼い時に既に知っている。ドゥミトゥリイの部屋の壁際に蹲まって、自分を見た男の恐ろしい顔が、自分を女のようにして見た男の、最初の顔なのだということをモイラは、ピアノの教師のアレキサンドゥルの顔を偸《ぬすみ》みた時に、知った。アレキサンドゥルの恐ろしい顔を偸みたモイラは腰をもじもじさせた。帰りたくてならなくなったのだ。するとアレキサンドゥルは厳しい顔になってモイラの指を直し、同じところを幾度も繰り返させて、モイラを傍から離すまいとした。
(男はみんな、そうなんだ)
ピータアを見たモイラは直ぐに眼を伏せて、平目の腹子《はらご》を煮汁をつけて、脣に入れた。
「モイラは平目なら食うのです」
林作が天上に言った。洋燈《ランプ》の赤らんだ火影に浮んでいる天上の顔には、何かを悟った色があった。
「そうのようですね。又これはひどく新鮮で結構です」
天上のモイラを見遣る目には例によって、宗教の匂いのする柔《やさ》しさが、あった。苦しみを抑えている、優しい目だ。天上がモイラを愛しはじめた時から身についている、目遣《めづか》いだ。モイラは匙を取って野菜|清汁《スウプ》を脣に入れたが、呑みこむと眼をあげて、天上を見た。
辺りが暗くなって洋燈《ランプ》が赤い暈《ぼ》けた光を出し、ジ、ジ、ジ、と油の焦げる匂いがした。
「こういう田舎の家というのは実に、いいものですね。私は伴れてくる者もなかったので……どこかに土地を探そう、探そうと思っていながら。磯子というのが無駄遣いをすべて嫌いで、まあ伴れて来ても喜ばないところがあるので」「幸い別荘も二軒あるだけです。この海岸伝いに二丁ほど行ったところに、佐古という友達の別荘があって、モイラは知らないね、モイラの生れてこぬ前だ。家《うち》で牟礼《むれ》荘なぞと、あんな古い舟板の標札代りの額を出したので向うは佐古荘なぞと言っていましたが。今はありません。佐古が亡くなって、家を渋谷の地所に持って行ってしまった。全く夜などは静すぎるほどです。波が荒いので英吉利《イギリス》の西海岸のようでもある」
食事が終った頃、やよが食器を下げ、冷たい番茶を持って出て、めいめいの前に置き、袖を片手で抑え、洋燈《ランプ》の芯の具合をみた。
「平目が美味《おい》しかった」
モイラが味方を見る眼で、やよを見上げた。
やよは一昨年、ピータアのことがあったので、ここに来ているとそのことが想い出されて不安なのだ。彼女は、午《ひる》からドゥミトゥリイの様子が変ったのに、気附いていた。ところへ今|先刻《さつき》ピータアを見たのだ。ドミトリさんは大変に苦しそうだった。それにあのお隣の人も恐ろしいようだった。やよはどこかに不安を隠して、モイラを見た。
「はい……」
「やよは熱心に遣るので上達が早い」
天上が火影にやよを見返って、言った。
林作は先刻からそれとなくモイラの様子を見ていたが、この時、情人《おんな》を見る目のようにも見える、細かな劬りの微笑いをやよに、向けた。
やよは恭《つつ》ましい羞らいを、肥えた浴衣の姿の中に包みこんで、退《さが》って行った。
天上守安は、さりげなく食事をし、話している間に、たった今降って湧いた不快な気分について、独り密かに思いを巡らさないではいられなかった。
(恐らくモイラの恋人であった若者の一人が……いや、多分今、後《うしろ》を通った男一人だけだろう。モイラは生来の悪魔を持っているが、あまり擦れてはいない。もっともあれは、擦れるということのない質《たち》のようだ。この海岸で知り合ったのだとするとあの、向うに見えている洋館の若者の外にはあるまい。コザックの残党だと言っていた……モイラは憎い程動じなかったが……モイラが平気なのはやはり俺への反抗だ。俺は若い娘には限らないが、女の気に入る男ではない。モイラは恋人のようにしていた父親と、献身的なドゥミトゥリイ……あれも仲々いい男だ。あの二人から離れて俺のところに来て、退屈しているのは明らかだ。だが林作氏は、一寸やそっとのことでは顔色を動かす人ではないが、大分困惑している様子が見える。こんなものが隠れていようとは思わなかった。だが体の関係があったとしても、過去のものとして封じこめられていた事件ではあるのだろう。思慮の深い林作氏のことだ。過去のものとなった関係だからこそ、俺の申込みを受けたのだろう。又過去のものとして葬られた関係だからこそ、詰りモイラが男を捨てた形だからこそ、男は故意《わざ》と通ったのだろうが。いや、そう軽く見てはなるまい。無考えそのものと言っていいモイラのことだ。いつ過去が現在に繋らぬとも限らぬ。しかも父親の困惑は一応の、自分とモイラとの結婚生活の無事を希うところから来るものだ。あの父親自身が、モイラの恋人だ。この父親とモイラとの間柄の方が先刻《さつき》後を通った男とモイラとの関係よりも深いところで繋っているといえるかも知れないのだ。いや、いけない。こういう頭を悪くする問題をこれ以上こね返してはいけない)
天上は何かを振り落そうとでもするように、心の中で頭を左右に、振った。林作は想った。
(モイラはずっと俺たちの傍にいた。ドゥミトゥリイを遣《や》ったのだな、あの家へ。東京の居所を訊かせたのだろう。ふむ。……)
林作は心の中に吐息をついた。
だが林作の困惑の後《うしろ》には、(悪い奴が……)という、今、林作の置かれている位置を離れた、軽い微笑いがある。愛情の揶揄い微笑いである。
* *
モイラは東京に帰りたい様子を見せることもなかった。
それは、そんな様子を見せれば守安《マリウス》に秘密が露《ば》れるだろうと、思っているというのではないようだ。モイラは、ピータアが垣根の向うを通って行った時、平目の腹子を食ったり、守安を見たりしていたのだが、守安が何かを覚《さと》ったらしいのは感じ取っている。守安はモイラとピータアとの間にあったことも、そうして今から起きようとしていることも、知らぬ。だが、自分の後を、何者かが通った時、モイラの近い過去にあったなにかを、捉《とら》えた。モイラと、後を通った人間との間にあったものを、少なくともその出来事の影のようなものを、守安は捉えた。そうして、その男が、隣の青い家の若者であろうということも、いうに言えない微妙さの中で、覚らざるを得なかった。モイラはその時、
(あんなに莫迦なのに、私《あたし》のことで火になっているからわかったのだ)
と、想った。
だがモイラは今、守安のことには何の気も、向けてはいない。この三、四日の間モイラは林作といた。林作が傍にいる、という長い間、味わわずにいた時間を持ったのだ。退屈のない時間だ。その明瞭《はつきり》と充実のある時間がもう終ろうとしている。モイラにとって、林作が傍にいる時間は莫迦げた瞬間のない、充足の時刻《とき》である。林作と一つ家にいて、一緒に飯を食い、顔を見ているという、この制限つきの日々は、一日でも長くなくてはならない満足の時間である。林作の、彼が微笑《わら》っていない時でも、彼の浅黒い頬の上を掠《かす》める、微笑いの影が、モイラの胸の奥底を柔《やさ》しい風のように擦《さす》る。その林作の頬を掠める微笑いの影に、モイラは自分への深い評価を、見る。他の誰よりも深いところにある賞美を見る。肉体《からだ》を貪ろうとする狂気のない、それを別なところに置いている、賞味を見る。情人への賞味とは別なところにある賞味、深い感覚を、見るのだ。天上の、昼も、夜も、自分の肉体《からだ》を貪ろうとし軽い咬み傷をつけ、薔薇の中心の、巻きこんだような花弁の中に、花粉をふり滾《こぼ》して触角を埋める蝶のようになる、賞味より以上のものを、見るのだ。モイラは、明瞭《はつきり》と、その間《かん》にあるものを捉えているのではない。だがモイラはどこかでそれを捉えている。
モイラは、ピータアの火には烈しい新鮮な記憶を残している。海岸《うみぎし》にたった時も、部屋の中で、椅子から起ち上がって来た時にも、ピータアには切り立っているような形があった。海岸にいた時には空を、部屋にいた時には部屋に澱む空気を、切りとって立っているようなところがあった。なんでもが要領を得ない、朦朧としたもののあるモイラ自身の内部にも、自分をモイラの神だとしているピータアの、自信のある、嫩《わか》い、自負のある姿勢はどこかで、映っていた。生れて最初の、あの出来事のあった後《あと》で、自分に薄紫《モオヴ》の襯衣《シヤツ》を着せた時、熱い紅茶を飲ませた時の、ピータアの柔《やさ》しさに、林作と同じものを感じとってもいる。だからといって、そのピータアの火に、少しでも早く再び近寄りたいという熱い気持はない。モイラは、何に向っても、活気をもって遣《や》ろうという意慾がないのである。何に、といって考えるということのないモイラである。
モイラは、夕闇の中で見たピータアに、一昨年《おととし》のピータアと違ったピータアを見ていた。そうして、その違ったピータアに微かな不安を抱いている。前とは異《ちが》ったピータアの烈しさを、垣根の向うを通り過ぎた短い間にモイラはどこかで、感じ取ったのだ。たしかにピータアの烈しさは、もう一つ奥に入っていた。ピータアの慾望そのものが鍛《きた》えられ、練りもののように練られた、緻密なものになっていたのだ。
ピータアは、モイラを捉まえた、と思った烈しい歓びの頂点で、不意に、横からモイラを持って行かれた。住所《ところ》を確かめずに、ピータアはモイラの鳥を放して遣《や》ったのだ。馬丁がもう来ている、それで帰る、とモイラが言うのをきいて放して遣《や》った時、ピータアは、まだ半ば痺れたような頭の中で、又直ぐにつれて来られるような気がしていた。問い詰める自分の眼から逃れようとして仰向いたモイラに飛びかかって贄卓《にえづくえ》の上にのせた。そうして、モイラが部屋に入った時から頭を奪《と》られていた懶《ものう》い香気の中で、熟するのには間のあるところで|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取った果実を、短い時間で貪り尽したピータアは、一気に脅やかすことを恐れて、再び燃え上がろうとしたものを抑えて、モイラに熱い茶を飲ませ、襯衣《シヤツ》を着せて遣《や》って、劬った。ピータアは、〈ピータアの矜恃《ほこり》〉に賭けて、立派に遣《や》ったつもりだった。だがモイラがもう此処に、一日か二日より居ないのだと言ったのにも係らず住所《ところ》を訊かずにしまったのだ。斑《まだら》のある鳶色の、太った鳥のようなモイラが飛び立った時、モイラが下男が来るので帰ると言ったその男を、見られれば見て遣ろう、それが、それだけがピータアの頭を占領した。そうして二階に駆け上がって、モイラの家を一望に収める小窗に取り附いたのだ。
狂気のまだ去らぬ状態で絶望に陥ったピータアは、懊悩の中で、耐えた。父親の訓えを守って、毎日疲れるまで泳いだ。ものを考える時間を、滅茶滅茶な、絶え間のない読書で阻《はば》もうとした。だがどう遣《や》っても消し去ることの出来ぬモイラの体の誘惑が、ピータアの精神と肉体とを嘖《さいな》んで熄《や》まなかった。未だ熟し切らぬ、だが誘惑して止まない強い香気に既に果実の成りを見せていた、贄卓の上の処女《おとめ》。怖れていながら、どこかに自分の肉体《からだ》の魔を、知り抜いている女のしぶとさを隠し持っていたモイラの、懶げな、弛い悶え。逃れようとする緩慢な動作。逃れようとするのを抑えつけた体の、脣の下にしぶとい挑みを突きつけた皮膚である。皮膚と脣の間に、もやもやとした薄い、なにかがあった。どこまで触れても完全に触れることの出来ぬ、というような、そういうものが、圧しつける逼《せま》りを持っている皮膚である。体全体に一つの気孔もないような、息苦しい皮膚だ。そこやここの谷間近く、水蜜桃に似た産毛を残していた、まだ稚さのある、モイラという名の恐ろしい誘惑物の記憶は、衰えぬ火のように朝に、昼に、夜に、ピータアの精神を鈍くし、ピータアの体を灼《や》いた。モイラの肉体《からだ》の持つ、恐ろしい火は抜き手を切って何丁も泳いで疲れた肉体の、その疲労の下からむく、むくと持ち上がって来た。書物の中に埋め尽そうとしている頭の芯に、それは絡みついて来た。秋の終りまでピータアは一人、石沼《いわぬま》の青い家に残っていた。
東京に帰ったピータアは、疲れるまで街を歩いた。小旅行をした。ピータアは互いに黙契を持つ友達を一人、持っていたが、モイラについては打ち明かす気はなかった。だらしのない話だからではない。ピータアは必ず或日、モイラに自分を慕わせて見せると、信じている。ピータアはまだモイラをわかり切っていない。旅行は一人だった。平常《ふだん》は出来るだけ、友達の中にいるようにした。父親の家にいる方が紛れると思うこともあったが、父親と母親に自分の懊悩を見せて、胸をいためさせてはならなかった。やがて二年が経って、モイラの記憶が幾らか薄らぎ、どうかすると火の矢になって体を突き抜けた肉慾の火がわずかではあるが衰えて、モイラに会わぬ前の自分の日々が、〈ピータアの日々〉が、還って来そうに思われる日が、稀にはあるようにも、なった。英訳で『タイィス』を読む、画を見に行く、サッカアをやる。夜の珈琲店で閉店まで友達と駄弁《だべ》る。そんな日々が少しずつ還って来ていた。アルバイトも始めた。モイラを乗り越えた後《あと》に来た、ひどく透明に思われる日々である。〈矜恃《ほこり》を持つピータア〉の日がもう直ぐそこに手を延ばせば届くところに来ていた。ピータアは想った。そうなったら、そうなってから何年かしたら、素直な娘と結婚して母親のタマァラにピータアの子を抱かせる。そうして更に何年か経てば、今もなお体を疼《うず》かせるモイラの記憶も、神の救いで薄くなるだろう。どうかしてそれに何かが触れる時に、鋭い痛みを覚える、その位のところになるだろう。モイラの記憶はやがて一つの、固い、乾いた、小さな傷痕《きずあと》になるだろう、と、ピータアは想い、それを信ずるようになっていた。そこまで自分を持って来ていたところで、ピータアはドゥミトゥリイのノックを聴いたのだ。そこで再び火を点けられて、ピータアは燃え上がったが、その時ピータアは自分の烈しさが、いつか知らぬ間《ま》に練り上げ、鍛えられていることに気づいた。ピータアはたしかに、二年前のピータアとは違っていたのである。
モイラは一瞬垣根の向うを通り過ぎるピータアを、素早く眼に汲《すく》い入れた。そうしてすぐに横顔を見せたピータアの顔が、人間の外《そと》のもの、とでもいうような恐ろしさを持っているのを見た。砥《と》いだような眼。閉じた貝のような脣の尖端《さき》に、煙のように纏《まつ》わったというか、くぐもったというか、そんな恐ろしい表情が、あったのだ。その表情にあったものがモイラに、変ったものを感じさせたのだ。そのピータアの顔を想い浮べる時、モイラはふと怯《ひる》むのだが、その怯みを押戻すようにして、想った。
(ピータアの心臓は私《あたし》のものだ。ピータアの心臓の中の、女の人を愛する心はみんな、私《あたし》のものだ。ピータアの血だらけになった心臓は私のものだ。血だらけにしたのは私だ。ドゥミトゥリイの心臓も、アレキサンドゥル先生の心臓も。いつかドゥミトゥリイの部屋にいたユダのような男の心臓だって……)
モイラは林作が自分の乞いに応えて、独逸語の訛りのある仏蘭西語で読みながら、丁寧に訳して聴かせてくれた一つの詩を、想い出していた。"Y, avait une fois un pauv gas" で始まる、南部地方の方言の、それも俗語ばかりで書かれた詩である。自分を愛していない女から、「お前のおっかさんの心臓を取っといで、あたしの犬にやるんだから」と言われた若者が、母親の心臓を切り取り、それを持って走って行く途中で転ぶ。心臓が道を転がりながら「怪我はなかったかい、お前」と言う、というところで終る詩である。それを聴いた時モイラは、自分はその若者が母親の心臓を切り取ったようにして、男の心臓を幾つだって取ることが出来る、と心に想ったのだ。林作はモイラの心に浮んだものを素早く見て、軽く微笑い、モイラは見抜かれた者の眼でその林作の顔を凝と、見返したのだ。
平常《いつも》より一層執拗になっている、だが自分の家でないことで抑えているらしい天上の愛撫の中で、モイラが暑苦しさに耐えていたその日の夜、ピータアは二階の居間で、寝台《ベツド》の上にいた。鎮《しず》めようとして鎮められない不快な想像の夢魔におそわれたピータアは、燃え上がろうとする体を、狭い鉄製の寝台の上に横たえていた。モイラの処女をその上に抑えつけ、獲物を捕えた鷹のように羽を伏せ、荒々しく啄《ついば》んだ、寝台だ。そうしてその後《あと》で傷ついたモイラを、まだ熄まない慾望の火に耐えて看《みと》った、新鮮な屠《ほふ》りの記憶のある鉄の寝台である。俯伏《うつぶ》せに、長くなったピータアは、曲げた右|肱《ひじ》に顔を埋《うず》めていた。額際から一本、一本生え上がったような、黒く太い髪が乱れ、汗を滲《にじ》ませた白い額が、曲げた肱から出ていて、荒い呼吸をしているピータアの苦悩を電燈の下に露わにしている。嫩者の悪習を自分に禁じているピータアは、まだ入院したばかりの苦患僧のように悶え、反転し、仰向けになり、又再び曲げた肱の間に顔を埋めて突伏《つつぷ》した。二年前の、モイラを逃がした当時の苦患が、還って来たのだ。モイラを得た歓びの頂点で奪い去られた苦しみが、何倍かのものになって重来したのだ。
* *
モイラは、海を見渡す砂丘に続く砂地の庭に籐椅子に掛けていた。脚を開き気味に懶げに投げ出し、先刻《さつき》からむっと黙っている。ピータアを見た日の翌日の午《ひる》である。
二日前から、一丁程離れた裏の川に舟を出して四十八《よそはち》に釣をさせようということに、なっていた。そうして捕れた魚で夕食の食卓《テエブル》を賑わそう、ということになっていたのを、今になって行かないと言い出したのだ。林作の家や疎《まばら》な松林のある砂地が中洲になっているので、石沼川というこの川には海水が混入していて、夜なぞ舟を出すと小さな鰺が水面に跳ることがある。捕れたてのを生姜《しようが》を薄く刻み入れ、酒を利《き》かせて煮附けたものを林作は好んでいる。モイラも、林作かやよが毟《むし》ったものなら、魚もよく食うのだ。もう翌《あく》る日は帰ることになってもいるし、林作はこの川遊びを天上へのもてなしとして最初から考えていたのである。この日は朝の地引網でいい海老を分けて貰えたし、昼前に川で蜆《しじみ》を捕って来ていた。冬瓜《とうがん》もあったのでやよは海老を塩の鬼殻焼きにし、蜆の味噌汁と、冬瓜を小さ目の海老と薄い葛《くず》びきにして煮、早い枝豆の塩|茹《ゆ》でなぞで夕食の献立てを考え、林作にも相談していた。最後の夕食であるし、そこへ鰺の煮たものも加えようと、林作は思ったのだ。
モイラがこういう風に、むっと黙ってしまうと、最低四十分は誰の手にも負えない。このモイラの状態は、十三歳の初夏、朝食の時に突然に起きた。これが三度目で、結婚してからは最初である。最初の時には十三歳だったので、林作は少女期の、体の変化が原因なのではないかと思っていたが、次の日になってやよがモイラに初潮のあったことを報らせに来たので、やはり原因はそれだろうと思った。そうして、やよの様子を見て、やよが母親の心でモイラに附いていて、そんな場合の気遣《きづか》いも深い心でしていたことを、改めて林作は知った。辻堂の百姓の娘であるやよは、語彙を多く知らぬので、妙な俗語しか知らぬらしく、(旦那様にどう申上げたらよいだろう)と思ったようだ。林作は必要上、モイラの母親の役もせなくてはならぬのではあったし、林作の場合、彼はモイラとの間に特別なものがあったので、その朝ノックをして入って来たやよを見た時、直ぐに、それではないかと思ったのだ。やよは恭《つつ》ましく立ち、俯向いて一寸口籠り、唯、
「旦那様……モイラ様が今朝から……」
と言って黙り、林作を見た。林作は、
「ああ、有難う。よく気をつけて遣《や》っておくれ」
と、応えた。
林作もやよに、それについて言おう言おうと思ってはいたが、やよは心得ていてくれると、信じてもいたし、やよのような娘には言い難《にく》くも、あった。林作はそれより前に、少女期の体の変化については医学書を購《か》って来て、それを見せながら、女の体の変化について、その理由についても、モイラによく話して遣《や》っていた。林作は自分より他にモイラに対《むか》って、危険なものなしに、過不足のない、清潔《きれい》な情緒の中で sex について話して遣れる人間はないと、信じていた。友達の中に、偉い医学者につて[#「つて」に傍点]を持っているのもいたが、自分が遣るのが適役だと、林作は信じたのである。モイラは林作の膝に凭《もた》れ、眼を一杯に開《あ》いて聴いていたが、話が深いところに行った時、愕《おどろ》きと恐れを現わしはしたが、それは特に顕著なものではなかった。予知していて愕かぬのでもない、鈍いのでもない、どこかで、何かを予感していると言うか、大体にモイラはおどろかぬ子供である。林作は改めてモイラの中にあるものに、眼をあてた。又モイラは赤ん坊というものに興味がない。興味がないという以上に、それについて一種の拒絶反応を示しているのを林作は見た。自分が持ってみないでも、なんとなく面倒だ、うるさい、と思って嫌うのでもない。そういう所が、よくある子供嫌いの女とは違っている。赤ん坊とモイラというものが、全く無縁のものであった。そんなモイラはピータアの部屋で、恐ろしい眼で見据えられ、林作との間にあるものを問い詰められて、嫉妬の狂暴で飛びかかられ、殆ど犯された、一昨年《おととし》の夏の出来事の後でも、或は子供が、という頭は全く無かった。不安を持ったのは林作とドゥミトゥリイと、やよであった。
だがモイラのその状態はその後《あと》にも又起きた。最初の時に林作が、不機嫌というより、中に籠ったものが蒸し出された一種の状態の可哀らしさに負けて、会社を休んでまで機嫌を取ったので、それが癖になったところもある。林作はそれをモイラの、常時の甘えがふと、どうかした時に抑えられなくなるのだと見ていて、つまり甘えの爆発というか、甘えの急な奔流、モイラの場合は奔流というより濁流だが、そんなものと見て、心配する程のものでもないようなので放って来た。だが、一方で、モイラの様子はひょっとすると、軽微ではあるが医学的に何かの名のつく症状なのではあるまいかと、思う気持がないでもなかった。その疑いは最初の時にも、林作の頭に萌してはいた。そういう時のモイラの眼が、陶酔《うつとり》となったようになるからである。それは、亡くなった繁世の話も原因していた。繁世の母親のあきに、稀にだが一二秒意識を失くすることがあったと、繁世が、林作に打ち明かしていたのだ。モイラを姙娠した時のことである。あきのその状態が来るのはごく稀であって、軽微なので、夫であった重臣《しげおみ》と、あきの実家から附いて来た彼女の乳母と、それとひどく鋭いカン[#「カン」に傍点]を持っていた一人の小間使いとが、気附いていただけで、生涯誰も、彼女が異常だということを知る人間はなかった。小間使いのりんには口止めをしたが、それは殆ど不必要だった。りんはあきと気が合っていて、二人は主従というより友だちになっていた。りんは嫁に行くので暇を取った時に重臣が、ひと重ねの外出《そとで》着の他に箪笥を購《か》い与えた時にも、ひどく困惑を現わし、身をすぼめるようにして幾度も辞退をした。郷田の家では嫁入りが理由で暇を取る召使いには外出《そと》着をひと重ね与えることが習いになっていることを、りんは知っていたからだ。あきは人と話していて、時に小一秒、長い時には一秒を越すこともあった。そんな時、ふと心がそこにないような眼差しをすることがあって、それを重臣は傍《そば》にいて見ることがあったが、相手は瞬間おや? という顔はしたが、不審を起こす間《ま》もなかった。それも年に数える程の回数であった。それを繁世が林作に話したのである。林作はそれで、誰かに訊いてみなくてはなるまいと思っていたが、心を許している友達の米内《よない》が、家族ぐるみ親しくしている本田という神経医のいるのを思い出して、米内を通じて本田に訊いて貰った。本田の言うところによると、繁世の母のはごく軽い癲癇《てんかん》らしいがモイラのは、見たのではないので明言は避けるが、単なるヒステリィだろうというのであった。だがその後も又起きた時の様子を見て林作は、或は、と思わぬでもない。そうであったとしてもあきより軽微である。遺伝だとすればかなりの劣性遺伝だろうと、林作は思った。酷《ひど》くなるようなら、天上には言っておかなくてはなるまいと、林作は思っていた。天上はモイラを溺愛しているということを別にしても、それをきいて一も二もなく、モイラを病人であるとしてどうこうというような考えを持つ人物ではないということを、林作は知っていたからだ。
モイラは黙った儘だ。二つの大きな眼は熱のある子供の眼のように陶酔《うつとり》と、据えられている。いつもの癖で右掌を弛い拳固《げんこ》にして脣にあて、しゃぶりついているように見えるのが、ひどく可哀らしい。
春の昏い空か、恐ろしげな樹の梢か、或は又、薄暗い中に蹲《うずくま》る犬か、そんなものを眼に映しているような表情が殆ど、動かない。尖らせ気味に膨らんだ脣が弛く結ばれている。執念深い怒りをひそめ、何を呉れようと、誰がなんと言おうときかない、と言っているような眼を据えたモイラを重い、もやもやとしたものが包《くる》みこんでいる。見ていると、モイラの体の内部から何ものかが、もち上がっているようだ。その不透明な、どうにもならぬものが辺りに滲みでている。モイラの体から発する香気も強くなっているのではないかと、思われるところがある。皮膚の艶も、女の薬指ほどになった蚕のように潤《うる》みを出して来ているようにも、思われる。我儘と甘えの固まりが急激に膨れ上がって来て、モイラ自身にもどうにもならなくなっている、それだけのことだろうと、そう思ってみても、どうもそれだけではないような気がしないでもない。林作はそんな時のモイラの、その状態のために強くなる、惹き込むような力に、眼を止めていた。それは太り切った蚕の、内側から発してくる鈍い光のようなものだ、その不思議な惹く力にさり気なく眼をあてていながら、微かな不安が、まだあった。
「モイラ。どうしても厭か? 四十八《よそはち》は畑の仕事を休んで来てくれるのだから、止《や》めるなら早く断りに遣《や》った方がいいが。四方吉《よもきち》は他所《よそ》の畑に手伝いに行っているのだ。モイラは舟に乗りたいと言っていたろう?」
その時、底で何かが動いた水の表面のように、モイラの眼がどこか動いたように見え、幾らか哀愁のようなものの混りこんだ表情が暈《ぼんや》りと、出て来た。膨らんでいた脣が引き締って、両頬に窪みを造ったのを林作は見た。微かだが気分は好転している。モイラの様子が大分前の時とは異《ちが》って、柔らぎ易いようなのを見て林作は、あきの異常の遺伝ではあるまいかという、日頃の不安が薄らぐのを覚えた。
林作はモイラの、幼い時から見ていてなお、その度に逼るものを出してくる可哀らしさに眼をあてていた。
(可哀い奴だが……亜米利加《アメリカ》の、誰のだったか、あの『悪い種』だな。モイラはあの娘よりは上等だが……生来魔を持っている。それは俺の……だが俺の場合は常識に従っていることが出来るが。……俺は見合いで繁世を貰ったが、愛していたとは言えない。愛していると、言って遣《や》ったのは劬わりだが欺いたのだ。モイラが生れて、少し大きくなってからというもの、俺はモイラのものになった。俺とモイラとの間に、想いもしなかった関係《リエエゾン》が生れた。モイラを生むと同時に死んだのはあれの倖《しあわせ》だった。俺の恋人に乳を遣《や》って醜くなって行くのがあれの役割だったのだ。だが俺とモイラの倖は同時に、他の男の不倖《ふしあわせ》に繋がった。ドゥミトゥリイが最初だ。ピアノの教師、ロシアの青年、そうして天上君……どれも稀な秀れた男たちだが。魔がないのだなあ……)
林作は心の中に呟いた。
天上は先刻《さつき》からモイラを見ていて、常にモイラの、気分と体との中にある解明出来ぬものに絡めとられている自分の、モイラへの心持が、今又一段、深みに嵌ったのを感じた。立っていた足元の砂地が、突然柔かくなって、一歩足を深く踏み入れた……そんな、これまでに覚えたことのない心もとない感覚の中で、天上はこれまでにも、胸のどこかに閊《つか》えていた黒いもの、林作とモイラとの間にあるものが、胸一杯に雨雲のように、ひろがってくるのを覚えた。
(林作氏とモイラとは眼には見えぬところで密着している。……この俺の胸の中にあるものは、この俺の胸の中に閊えているものは、何時になっても消えることはあるまい……)
天上は暗い気分に陥って行くのを強いて、耐《こら》えようとした。
「あんなになるのは殆ど稀なのです。家にいる間に二度、あったのです」
はじめてそういうモイラを見たらしい天上に、林作が言った。
大体モイラは、平常《ふだん》からあまりものを言わぬ娘である。モイラには明瞭《はつきり》したところがなくて、機嫌のいい時でも、不機嫌かと思うような様子をしている娘で、こんな風になっている時と、そうでない時との境界があまり明瞭《はつきり》しないところがある。
林作は、モイラを少間《しばらく》放っておいた方がいいだろうというように、海に眼を遣《や》った。充分に晴れてはいないが、海は深い青に凪《な》いでいる。
天上は眼を上げ、海に眼を遣り、低く言った。
「海は深さが色に出るような気がしますね。モイラの色です。モイラは海だ、といってもいいでしょう。こういうものを、……こういう不思議なものを、それがだんだんに育つのを、貴方は傍にいて……深いところで、見ていられた。今からでも、それは……羨ましいような気がします……」
「たしかに面白い子供です。一人娘で、僕も生甲斐にしていました。だがどうにもならぬ我儘者で、貴君にはすまないような気がしています」
林作は天上の言葉に、胸に応えるものを覚えたがさり気なく応えた。その言葉は、悪い雲行きを避けようとする賢さと劬わりの善意から出たものではある。だが同時に、この男の、こういう場合の言葉の中に、含まれないではいない苦い棘は、あった。そうしてその棘は天上の胸を、刺した。
モイラの、行きたくないという意志が、空に映ったかのように、疎《まば》らな松の群と砂丘の上に重い雲が見る間《ま》にひろがって、雨が来そうに思われた。
吸いよせられて、そこから動かぬ天上の眼と、モイラの勝利だな、という揶揄《からか》い気味な気持を含んだ林作の眼とが同時に、モイラを見た。モイラはそれに気づいているのか、気づかぬのか判然しない。天上が感情を抑えられずに洩らした苦い言葉にも、気づいていない。モイラはまだ甘く、暗い情緒の中に入り込んでいる。
モイラの眼がふと、ピータアの家の二階の方に動こうとして、すぐに元に戻った。モイラはピータアとの近い出会いを思い出したのだ。ピータアの部屋にいた午後が、今のような暗い空で、あったからだ。モイラの眼が、ちらと林作の眼を掠めてから、元に戻ったのを見た天上は、機嫌の直り際の眼の動きが先ず林作に流れたのを知って、暗い眼をモイラにあてた。林作は見ていて、モイラのこんな状態が、モイラを、無意識なエロティシズムに誘いこむものになるのを、知った。
釣りが三時にかかってはと思って、弁当のサンドウィッチを用意しようと、台所の板の間に膝をついて、胡瓜を洗っていたやよは、頸を捻ねって空を見上げた。チカチカ光っていた空が暗くなっていて、湿った風が吹き入ってくるのに、やよは俄かに心もとないような気になって、昨夕《ゆうべ》、夕食の最中に起きた不安から続いている胸騒ぎを、覚えた。
(モイラ様がなにか……あのお隣の人と……)
* *
天上がモイラとやよとを伴れて招かれていた石沼《いわぬま》の四日間は、天上をモイラの中に又一歩、踏み込ませると同時に、得体の知れぬいやなものを、田園調布の家に持ち帰らせることに、なった。
砂地の庭に卓子《テエブル》を持ち出し、洋燈《ランプ》を点《とも》した楽しい夕食の最中《さなか》に、林作とモイラとが表した微妙な様子を、天上は忘れることが出来ない。暗い夜の、洋燈《ランプ》の揺れる火影にみた、それは悪い夢のようなものである。二人のそれぞれの微妙な反応は、自分の背後《うしろ》を通ったのが嫩《わか》い男で、モイラの過去に関わりのある人物だということを、示していた。関わりも、肉体にまで絡んでいるものだということを、二人の様子は示していた。林作に現れたものは特に微妙で、何の変った様子はない。その男を見て、林作が何を思ったのか、何を考えたのか、誰にも測り得なかった。その男を明瞭《はつきり》眼に止めたのか、見なかったのかも、判らぬ。だが様子の奥に困惑があったように、天上には感じ取られた。唯林作が、そういう人物と顔を合せる機会のある土地に、自分を招待したということが、天上のような男には理解の出来ぬことである。天上は、モイラが石沼に行ったのが幼い時と、一昨年《おととし》との二度切りであることは、きいて知っている。だが男が隣の家の青年であるとすると、彼は、露西亜の男だ。彼が、露西亜の男であるということが、天上を強く刺戟している。それが嫉妬の針を一層太く、鋭く、耐え難《にく》いものにするのだ。
それに加えて天上は、モイラの異常な状態を見た。その、我儘という、もや、もや、としたものが凝り固まって、どうにも解けなくなったような状態を具《つぶさ》に見た。そうしてその状態が、ふと崩れて、恢復の萌しが出て来た時、モイラが、その微妙な動きを、まず林作に受けとらせていたのを、天上は見た。林作が、これまでにそんなモイラを何度か見て、馴れていたとはいえ、モイラの感情が一点に凝固したようなのを、ほぐす遣り方といい、モイラの、その状態の中での、林作との間にあった緊密といい、それらも天上を、強く刺戟せずにはいなかった。モイラは自分の家に来て、まだ二年にはなっていない。当然といえばいえるのだが、天上はこの林作とモイラとの緊密を、深く胸の中に受けとり、生来の鬱的な気分を、深めた。
天上は林作の手からモイラを受けとった時、林作とモイラとの、永い月日の中でモイラをその中に包蔵し、包《くる》みこんでいた、父娘の愛の圏内を越えているかのようにさえ見える、情緒の世界は強いて想わぬようにしていた。そうして、自分とモイラとの間に新しい愛情の日々を築いて見ようとした。それが、何処まで築くことが出来得るか、そうしてそれを何処まで持続させることが出来るものかは未来の、不明なものとはしていながらも、どうにかして、築いてみようとしていた。そうしてその月日の来ることを希《ねが》い、その月日の永いことを希っていた。その月日の永いことを、信じようと、していた。
だが、石沼から帰る車の中で、平常《いつも》の状態に戻ったモイラが、酔っている男のような、懶げな凭《もた》れ方で寄りかかるのを、肩を抱いて支えながら、その月日はまだ、来ているとはいえぬのだ、という想いに捉えられぬわけには行かなかった。想いたくない。想うことは苦痛だが、そう想わぬ訳には行かない。モイラと自分との間にあるものは仮の愛だ、と、思わぬわけには行かない。その仮の愛の日々ももう、あまり永いことではあるまいと、天上は想わぬ訳には行かない。そうしてその想いは、彼を暗い、厭な場所に引き入れて行くのである。止めることの出来ぬ力で、もう二度と、それを知らずにいた元の自分に戻ることは出来ぬ、という、諦めを、噛み締めねばならぬ場所へ、その想いは彼を伴れて行くのだ。天上の思考は頭のよくない男のそれのように、同じところを堂々めぐりをするのだ。自分の後《うしろ》を通って行った、モイラの恋人にちがいない嫩者《わかもの》を眼に入れながら、全くさり気ない様子をしていた林作の頭に、どんな想いが浮んだのかはわからぬが、その瞬間の林作の眼遣いを今想い浮べて見ると、何故か、その嫩者が秀れていて、美貌であることが感じられた。
(コザックの残党の息子……美貌の露西亜青年……見ないでもわかる)
天上は心に呟いた。モイラの反応は鈍い、ふてぶてしいものだったが。モイラ自身も知らぬところで、なにかに蒸されたように出てくる魅惑に、自身乗せられた恰好だった。モイラはいつものモイラであったのに過ぎない。だがそれだからこそ、モイラは恐るべき誘惑物なのだ。一度手に入れた者は何度でも、再び手に入れようとして取り返しに来ずには、いまい。
どこかに夜の蛇性をひそめている、だが温和な眼を、天上は運転台のドゥミトゥリイの背中にあてた。頭蓋骨の前頭部の形がその儘に出ている賢気《かしこげ》な額、小高い眉骨から秀でた鼻梁、苦いものを噛み締めている脣《くち》もと。窃《ひそ》かに、林作とモイラとが視当てているように、恋には疎《うと》い性格だが、鋭い賢明を持っている天上の、古い英国の領主のような貌《かお》は、幾らかの窶《やつ》れを見せてドゥミトゥリイの逞しい背中を見た。ドゥミトゥリイの背中には密かな緊張がある。まだ嫩いからだろう……塩を入れた後《あと》を、充分に煮立たせない肉汁《スウプ》の辛《から》みのように、不安が生《なま》で出ている。(この男もモイラの捕虜《とりこ》だ……)天上は又胸の中で呟いた。ドゥミトゥリイは生な辛味《からみ》のような不安に耐え、それを押し包もうとしている。ドゥミトゥリイも、天上の賢明を、知っているのだ。
(石沼の家で、自分の後《うしろ》を故意《わざ》と通って行った、モイラの恋人らしい嫩者と、モイラとの繋がりについて、疑いを抱いている俺に、この背中は、凶《わる》い想像をさせる。そうして、その俺に取って不快な、過去の繋がりを、現在《プレザン》形に移行させようという意志が青年にも、モイラにも、あるのだという厭な予感を、この背中は俺に受けとらせる。俺に取って黄泉《よみ》の闇の中にあるもののように凶《ま》が凶《ま》がしい、守らなくてはならぬ道徳から言っても凶《わる》い出来事が、近い未来に起きるのだということをさえ、この背中は予知しているようだ……)
天上は、右の掌の中に包みこむようにしているモイラの裸の肩の、まだ固いにも係らず挑むようなしぶとい肉づきが、モイラと、あの嫩者との繋がりへの幻想に生々しいものを加えるのを感ずる。モイラの育て方が異常なほど甘いので、逃亡者の息子である露西亜青年との結婚は林作にとって、思いも寄らぬことだったに違いない。林作は引き離す方に持って行ったのだろう。もっともモイラ自身は、その男がこの世で最初の男だろうと、又、それが美青年であったとしたところで、彼に執着を持ったとは考えられぬ。モイラには、執着というものが無い。モイラの心理というものは、〈女の謎〉なんという諺以前のものだ。不安定極まるものだ。一刻、一刻の気分で、どんな方向にでも行く、意志というものすら無いように見える。言ってみればモイラというものが一種の下等動物のようなものだ。多分、子供が掌に持った玩具を何となく掌から離したようなものだったのだろう。俺の眼を盗んで、あの嫩者と再び会うことを始めたとしてもそれが、悪事だという意識は無いのだ。その、自分の遣《や》ったことが俺に対する精神的な殺人だ、ということも明瞭《はつきり》とは意識はすまい。精神病者が、靄のようなものの向うに、なにかを意識するような、漠然としたものなのだろう。殺人を犯したとしても、罪の意識は無くて、あるのは血の恐怖だけなのだろう。モイラの、ものに動ずるところが無い気質を、天上は最初に教練場で見た頃から見ていたが、最初の夜のモイラにも、それがあった。経験がある体だ、というのとは違っていた。たとえるもののない、微かな湿り気のある温度の低い皮膚と、その香気に自分がつい、烈しさと残虐を現した時、恐怖して逃れようとはした。だが最初に男に抱かれた処女《むすめ》の、不様な羞恥が無かった。痛みは訴えたが、おどろきはしないのである。その時天上は、一度や二度の経験では痛むこともあるのではないかとも考えたが、得難い女を手に入れた男の常で、無意識の内にいい方に考えていたところが、あった。
(ドゥミトゥリイはたしかに、何かを怖れている)
と、天上は、想った。一昨夜から、彼の眼に常時宿っている暗いものが一際《ひときわ》暗さを増していて、それは暗い、というよりも辛い痛みを感じさせる。ドゥミトゥリイだけではない。ドゥミトゥリイの隣にいるやよの背中にも彼女の、ご主人様の前に乗っているのだ、という平素の固い様子だけではないものがある。帯に挟む布製の芯の隠しの中に、その肥えた紅い掌《て》で、一心に押し込んで来た、モイラから受けとったピータアの住所《ところ》書きが、彼女の緊張の原因である。濃い橄欖《オリイブ》色の、外国《むこう》のものらしい古風な蝙蝠傘《こうもり》と一緒に、やよは大きな風呂敷包みを抱えている。真岡《もおか》縮の単衣に、桔梗の模様を染め出した絽の帯を大きな芯を入れて高々と締めているやよは、それだけが他のものと釣り合わない、モイラの亡母の遺品《かたみ》らしい翡翠の簪《かんざし》を、落してはならぬと思うのか、束髪髷《そくはつまげ》の中に埋めるようにして挿している。その後姿にも、天上は秘密の匂いをかぎあてている。そうして自分の理不尽な怒りをやよに対して気の毒に、思うのだ。
田園調布の家に着いた天上は、門の外に立っていた伊作の笑顔に迎えられた。平常《つね》には固い、全く動かぬような顔が、天上を見迎える時だけにふと、壊れたようになる、伊作の微笑いである。伊作は固い顔を持っていて、あまりもの喜びをしない男である。喜んでいる時でも固い顔をしていて、よく彼を知った人間でないと、彼の喜んでいるということを気附かずにしまう。伊作が、唯一人の肉親である弟の、末吉というのが訪ねて来て、二人で居るのを見ると、一人の時にはそれ程目立たない石塊《いしころ》のような固さが、二人揃っていると二倍か三倍に拡大される。人々は伊作と末吉とが二人でいて、何かしていたり、話し込んでいたりするのを見ると、到底窺い知れぬ固い世界を覗き見るような思いをする。割り込んで行くことの出来ない、彼ら二人だけの頑《かたくな》な、小さな世界を人々はそこに見た。その固い伊作の顔が、弟の末吉を見る時と、天上の眼を見迎える時との、殆どその時にだけ、石が崩壊《くずれ》たかのように、世にも懐かしげな微笑いを浮べるのである。石のように動かない、固い顔。モイラが伊作を嫌う原因は、そこにもあったのかも知れない。だがモイラは茫漠とした顔の下に鋭いものを潜めている。伊作が牟礼《むれ》家に雇われていて、ドゥミトゥリイの立場に立っていたとしたら、モイラは彼の石の顔、石の鼻、石の顎の中に、深い、自分への慈愛を感じ取ったに違いない。
伊作はドゥミトゥリイが開けた扉から、先ずモイラが下りるのを輔《たす》けて遣り、後《あと》から下りて来る守安《マリウス》を仰いだ。
「お帰りなさいまし、旦那様」
だが伊作の懐しげな微笑いはすぐに消えて、鋭い眼がカッチリと天上の上に固定した。そのカッチリと開《あ》いた一重目蓋の眼には、どんなに表情の多い男にもついぞない、といっていいような哀しみと柔《やさ》しさとが湛えられた。
(旦那様、何かおありになったのでございますね。わたくしにはわかります)
と、その眼は語った。
忠実な、だが口を利くことの出来ぬ犬の、主人の哀しみを悟って、主人を仰ぐ目。そんな目である。そこで四日の間、胸に蔵《しま》っていた天上の憂いが、堰《せき》を破って出たのである。そうして天上自身、思っていたよりも深い哀しみが明瞭《はつきり》とした形をとり、それが自分のものとなって、固定したのを覚えた。自分の苦悩を、聡《さと》くも先取りした伊作の顔を見た瞬間から、天上の憂いは決定した、抜き難いものになったのだ。伊作が素早くも、天上の憂いを先取りしたということは、彼が林作の別荘に、何かの、モイラの過去が隠れているのではないか、という邪推とも言える憶測をしていたことを、意味していた。家まで来る道程の半ばから、空が再び曇っていた。哭《な》くより酷《ひど》い哀しみを底に湛えた柔《やさ》しさで、モイラの肩を抱き、天上は両側に続く、花々がひっそりと息づいている花畑の間を、ゆっくりと歩いて、家に入った。モイラが注文した薄紅い紫陽花《あじさい》は色|褪《あ》せ、薄藍色の萼は薄紫の色を帯びて、薄暗い空の下に、翅を伏せた夜の蛾のように群っている。伊作は天上が、モイラの上に傾け、擦り寄せるようにしている、哀しげな顔をチラと窺い、その眼を伏せ、ドゥミトゥリイと分け合った荷物を提げて、天上の後《あと》に従った。伊作はドゥミトゥリイとやよの様子にある不安なものにも眼をあて、天上の不倖《ふしあわせ》に繋がるに違いない、その不安に対してどのようにすることも出来ぬ自分の無力を、感ずる。伊作はドゥミトゥリイとやよとに茶の支度が出来ていることを告げて、彼等に別れ、自分の部屋に帰った。先刻《さつき》まで、主人を迎える、彼の静かな歓びを現わしていた椅子、その上に置かれた日除け帽が、今はふと湧いた、そこはかとない彼の不安を吸い取っている。
天上守安も、顔の動く方ではない。眼が何かを語っている時でも、頬から脣の辺りは固く、動かない、そんな顔である。モイラは、又固い顔をした人たちのいる家に帰って来た、と思い、幾らか不機嫌になって、やよに直ぐ来るように言い附けると、自分の居間に上がった。そうして、古びた白絹のような薄黄色い薄地木綿に、ドゥロンウォオクをほどこした夏服も脱がずに、寝台《ベツド》の中に転がりこんだ。モイラがこの家に来るや否やモイラを抱きこみ、モイラの悪の温床、罪の培養器となった筐形《はこがた》の寝台《ベツド》は、今日、本間いしによって整備されていた。寝台は敷布に蔽われた、洗ったばかりの白キャラコの蒲団を底に、ふかぶかと盛り上げて、モイラの体を、受け止める。やがてモイラが身じろぎをするにつれて強い紅百合の茎の香気が、木の筐ごとモイラを、包みこんだ。
モイラは石沼を発つ日に、ドゥミトゥリイからピータアの住所《ところ》と電話とを書いた紙切れを、受とった。直ぐにものを失くする自分を知っているモイラは、それをやよに持たせておこうと思い、階段の下でやよと擦れ違った時、拳《こぶし》の中に握っていた紙切れを黙って、やよの懐に押しこんだのだ。
(やよは見て、直ぐにわかっただろう……)
と、モイラは思った。
(ピータアのところへ行く時にはドゥミトゥリイに遣る手紙をやよに出させなくっては。そうしてドゥミトゥリイをやよに家《うち》に呼ばせて、ドゥミトゥリイから返事をきいたら、その日はパァパのところに行くことにして貰えばいい。いつものようにドゥミトゥリイが迎えに来るから、うまく行く……)
これだけのことをモイラは、かなり長くかかって、ようよう考え出すようにして、思った。目は陶酔《うつとり》として、あらぬ方を見ている。ふと、石沼の、夕闇の中で見たピータアの横に向けた顔が浮んで来ると、モイラは我にもなく目瞬《まばた》きをした。
(ピータアは私《あたし》があの時の後、ずっと、ピータアの東京の家《うち》の番地をわかろうとしないでいて、それで結婚したから、それで怒っているんだ。あたしが一昨年《おととし》の時より綺麗になっていたから、そのことでもあんな、顔をしたんだ。あたしが傍に行けば直ぐに一昨年《おととし》の時のようなピータアになるんだ……)
モイラは情人の眼の下にいる女のように、胸から腰の辺りで甘えるように、かすかに、身じろぎをした。
階下《した》の台所ではやよが、ドゥミトゥリイと向い合い、話もせずに、彼の顔をあまり見ぬようにして紅茶を喫《の》み、サンドウィッチを口に運んでいた。早く、モイラ様のお風呂のお世話をせねば、と、落ち附かない気分もある。無論、そのことは、ドゥミトゥリイも知っている。ドゥミトゥリイは浴室の場面を想像の中に描き出すことを避けている。彼は、暗い額を一層暗ませ、塩漬肉《ハム》を挟んだ麺麭を白い歯で噛み切り、冷たくなった紅茶を、味も無さそうに、飲み込んだ。
天上は寝台《ベツド》の中にいるモイラの傍に行って、石沼の夕闇の中であった、不思議な出来ごとについて問い質し、モイラに事実を吐かせて遣りたい衝動を、圧《おさ》えつけるようにして抑え、一人書斎に、入った。
モイラがドゥミトゥリイに宛てた短い、紙切れのような手紙をやよに渡したのは、石沼から帰った日から四五日経った日である。夕飯の前に、やよに手伝わせて入浴をした時に手渡した。手紙は天上が会社に出た後、寝台の中で書いた。その中に、午後の牛乳を運んで来たやよに、預っている住所《ところ》書きの紙を持って来させて同封した。やよは、急いで退《さ》がって行き、自分に当てられた部屋で、手早く取り出そうとして焦りながら帯の後芯《うしろしん》の中から住所書きを出し、跫音《あし》を忍ばせながらも、足早に上がって来た。そうしてそれをモイラに差し出し、モイラがそれを、モイラらしくない素早い手つきで封筒に入れるのを凝と見ていた。モイラは不安と昴奮とで、まだ顔を耳まで紅くしているやよを窺い見た。そうして、思った。
(この手紙がちゃんと、ドゥミトゥリイに届いたって、その手紙の返事を、ドゥミトゥリイが、私《あたし》に言いに、この部屋に来て、そんな秘密なことをあたしと喋ったことが守安にも、女中たちにもわからずに済んだって、それから後《あと》、パァパとドゥミトゥリイが輔けてくれて、あたしが誰にもわからないように、ピータアと会って、その時もなんともなく済んだって、やよがすっかり、安心する日なんて、なかなか来ないんだ)
と、想った。やよは、この住所《ところ》を書いた紙切れをモイラに無事に渡し、その手紙を、お使いの時に、八百屋の並びにあるポストに入れることが無事に済めば、一応、自分が加担している部分の役目からは釈放せられるのを知っている。だが哀れなやよは、このモイラによって、これから行われる恐ろしいことの達成からも、その、その先どうなって行くか知れぬ、事の推移からも、自分は免れることは出来ぬ。どのような小さな役目だといっても、自分はそのことに加担したのだ。と、思った。やよは、自分が加担した、というより、モイラが住所《ところ》書きの紙切れを自分の懐に押しこんだことによって、加担させられたのではあったが、自分の犯した罪から免れよう、なぞと思ってはいない。浅嘉町の家に奉公に上がって、幼いモイラを始めて抱いた時から、このお可哀らしいモイラ様のためなら、ご立派な旦那様のためなら、と、誠実だけが詰まっている、厚い胸の内に固く誓った時から、やよの忠誠はその胸の中から一刻《ひととき》も去らぬものになって、いたのだ。唯、やよは恐れた。
手紙には、ピータアに会って、次の木曜日に行くことを報らせろ、ということが、書いてあるだけである。モイラを見ていると情緒があって、情緒の塊のような女に見えるが、手紙を書くというようなことは殆どない。天上の家に来てから少間《しばらく》して、林作に宛てて書いた唯《たつた》一度の手紙も、短いもので、日常《ふだん》話す時のような稚い言葉が、切れ切れに書かれていただけである。
ドゥミトゥリイはモイラの手紙を受けとり、哀しみを伴う歓びを、覚えた。嫁入り道具の中にあった小さな用箪笥に、林作が入れて持たせて遣《や》った便箋に、深い藍色《ブルウ》インクで書かれた、落書きのような、用事だけの手紙である。丸善の、薄い水灰色へ、同じな濃い色で格子縞《チエツク》のある便箋である。林作の常用のもので、封筒と揃いである。ドゥミトゥリイが何度か、投函を言い附かって、手にしたことのある封筒に入っている。そこに書かれているのは単なるモイラの意志である。だが、そこに、モイラの心が全く無いとは言えないだろう。手紙は平常《ふだん》モイラが自分に何かを命ずる時の口調その儘で、書きなぐってある。それがドゥミトゥリイを打った。自分に向けて、モイラが常に発する横柄な命令が生き生きとそこにあって、それがドゥミトゥリイに、歓びの戸惑いのようなものを感じさせる。ドゥミトゥリイにとってはそれは、モイラの平常《ふだん》自分に発する権柄な、我儘至極な言葉が、藍色《ブルウ》のインクの文字になって定着したもので、あった。
≪ピータアのところへ行って、この次の木曜日にあたしが行くと言っておいで≫
そう書かれた藍色《ブルウ》のインクの字の群は、モイラの顔や姿態がフィルムに焼き附けられたようにして、モイラの自分に命令する時の、様子や言葉が、永遠に自分の手に残るべく、紙の上に定着されたものであった。自分が命令すれば、なんでも遣《や》って呉れる、それがどんなに苦しいことだろうと、決して厭とは言わないドゥミトゥリイだ、という、絶大の自信を持っている、モイラの言葉が、モイラ自身が発する生な声になって、紙の上に躍っている。横着な飼い主と、忠実な犬と、のような、自分とモイラとの関係は、モイラの成長とともに少しずつ変化しては来ている。その関係の変化と一緒に、モイラの残虐はひどくなった。自分の愛の苦悩を知り抜いていて故意《わざ》と遣る仕打ちは、モイラの幼いころからのものである。それは犬とモイラとの間で日常茶飯事になっていて、今も変らぬ。だが、そういうことを遣るモイラに、横着な飼い主の間柄のようなものではあるが、その中に、自分への甘えと信頼とは常に、潜んでいた。ドゥミトゥリイは、(主家の令嬢である)という、絶対に越えることはならない鉄壁の垣根を、モイラと自分との間に、置いていながらも、そんなモイラというものに、心《しん》の臓《ぞう》を絞られるような愛情を、覚えて来た。
ドゥミトゥリイは、父親の代からこの家の林作に、至純の心を捧げている。
(旦那様の大切な宝物である、モイラ様だ。自分の恋心がたとえどのようなものであろうと、表に出してはならない)
と、ドゥミトゥリイは思っている。自《みずか》らの両の掌に鋼《はがね》の枷《かせ》を嵌め、絶えず、自分を抑えていることによって一日、一日と尚更深まって来た。切ない、ドゥミトゥリイの恋心で、あった。ドゥミトゥリイは半頁の手紙を大切に、封筒に収め、大切にしている辞書の頁の間に挟んだ。その辞書は林作が、彼が部屋にいる時間に独学で和文を勉強していることを知って、或年の降誕祭《クリスマス》に購《か》い与えたものである。
ドゥミトゥリイはその夜、林作が入浴の後でブランディイを遣るのにお相伴をしていたが、丁度、モイラの近頃の様子を林作が尋ねた時、モイラの手紙のことを切り出すと、林作は洋杯《コツプ》を置き、黙ってドゥミトゥリイの話を、聴いた。ドゥミトゥリイの想像したように、林作はそのことを予知していたように、見えた。林作は、ドゥミトゥリイに問い質しはしなかったが、石沼の別荘で、ドゥミトゥリイとピータアとの間に、何かの交渉のあったことは察知していた。ドゥミトゥリイの様子を見ていて、そう思ったのである。そこから当然誘発されるだろう、モイラと、露西亜青年との出会いが、林作自身にとって重大なものではないにしても、世間一般にはそれが、いかに重大なことか、ということも、考えていた。
林作は、事が露見した場合の結末についても、考えていた。ピータアという露西亜青年はモイラに対して、完全に火になっている。だが、何度か見かけた彼の様子を見ても、断《き》れ断《ぎ》れなモイラの話に出てくる、彼の部屋の様子、モイラが、ドゥミトゥリイがもう東京から着いたかも知れぬという理由で、急に帰った時の様子などから推《お》し計っても、ストイックな青年である。そこから、馬鹿げた行動は考えられぬ。モイラの青年に対する心持は興味に過ぎない。火のようになって、密会が繁くなる、などということは考えられぬ、と、林作は考えている。ただ、真面目すぎる程真面目な、天上が、そうしてその上にモイラに溺れている天上が、事を知った場合にどうなるか。林作は、天上がモイラの体に危害を加えることは、万が一にもあるまいと、思っている。林作はそうなった場合の究極を想い、天上のいうにいえない不倖《ふしあわせ》を、予知していた。天上の身の破滅をさえ、予知していた。
林作はドゥミトゥリイに酒を注《つ》いで遣り、壜を置くと、籐の椅子に寄りかかり、ドゥミトゥリイを見た。
「仕方があるまいね。当方《こつち》からことをぶちまけて、モイラを引きとる、ということも……理由を言わずに返してくれ、と申出る、その方がいいかも知れぬが……どっちにしても実際には不可能だろう。天上君は行くところまで行く他はあるまい。モイラを、世間の慣習に従わせたことが間違いだった」
ドゥミトゥリイはブランディイの洋杯《コツプ》を両掌で膝の上に支え、俯向いていたが、林作の顔を仰いで、言った。
「はい……」
「俺の考え方にいい加減なところがあった。……どういうことになろうと、モイラにはあまり、影響はあるまい。……あれは仕様のない自然児だ。俺がああ育てたからだけではない。ただ、いい加減だった俺の考え方が、起さなくてもいいことを起すことになったかも知れない」
そこで林作は洋杯《コツプ》を取り上げ、
「ドゥミトゥリイもお遣り」
と言い、林作はブランディイを一口飲み、洋杯《コツプ》を掌に持った儘、ドゥミトゥリイを見た。
「ドゥミトゥリイ。……モイラは俺とドゥミトゥリイとの子供なのだなあ」
林作の顔には暗いものが既に去っている。林作の頬に、微かにではあるが、微笑いの影がある。
ドゥミトゥリイは顔を上げ、不安を抑えた顔で林作を仰いで、言った。
「はい。左様でございました」
ドゥミトゥリイの顔の苦悩の襞《ひだ》の中から、幾らかの明るさが見える。林作はふと、胸を痛くし、ドゥミトゥリイの顔から眼を離した。
林作の顔の上には、平常《ふだん》からドゥミトゥリイだけには隠すことをせずにいる、彼の魔をひそめた、微笑いとまでは行かない一種の表情が、浮んでいる。
ドゥミトゥリイはチラと、その斜め横に向いた林作の顔に眼を遣り、再び深く顔を伏せた。ドゥミトゥリイはモイラによって恋と、苦悩とを覚えた。その後《あと》で林作というものをよく知るようになったのだ。以来、苦悩を抱いて生きている日々の中で、胸の疼《いた》みは疼みとしてその儘にあるのだが、それはそのままで、林作によって、そこに何かの、裏打ちされたものが加わったのだ。俯向いたドゥミトゥリイの顔はよく見えぬが、額に、額に続く鼻梁の影に、モイラを愛しはじめた頃にはなかったものがある。ドゥミトゥリイは何かを知ったのだ。この世に、男と女との恋以外に、恋に酷似した、どうかすると、恋より以上のものがあることを、知った。そうして人間の心の襞の中に魔がいることのあることを、知った。その魔が、林作のような男の場合には、たとえ、神のお許しが無くても、このように、誠実というものよりない、誠実というものより知らぬ自分の胸の中でさえ、許すことが出来る、というより、どうしてか知らぬが好ましく思われるものである、ということを、知ったのである。純粋と、誠実とより無かったドゥミトゥリイの顔に、何ものかに鍛えられたものが、今ではある。
夜の黒い色を透かせて、半透明な水灰色をした窗《まど》硝子が二人の主従を囲んでいる、静かな夜の中で、扇風機が低い唸りをたてて、ゆるく廻っている。二人は少間《しばらく》黙っていた。
ドゥミトゥリイは先刻《さつき》から掌の間に包《くる》むようにして温めていた、ブランディイの洋杯《コツプ》を脣にもって行った。
「この頃は美味《うま》そうに遣《や》るようになったね」
悩ましげな額越しに眼を上げたドゥミトゥリイが、少し微笑った。
「モイラのような奴がいると、ものごとは穏やかには行かない。故国《くに》に帰ったアレキサンドゥルも……あの露西亜青年も……天上君も……」
と、後を言わずに言葉を切り、林作は愛《いと》し気に、ドゥミトゥリイを見た。林作と一緒に暮したために、ドゥミトゥリイだけが大人になったのかも知れない。林作とモイラとの間にあるものを、深く知るように、なったのかも知れない。そうしてそれがモイラの心に、モイラに、心といえるようなものがあるとしてだが、モイラの心という不確かなものに、一歩近寄ることが出来たのかも、知れない。林作も平常《ふだん》ドゥミトゥリイを見ていて、それに気附いているのかも、知れない。続いて父母を失ったドゥミトゥリイを十七の時に引き取り、一つ邸内に暮していた、という親しみもある。そうして、その秀れた気質を愛して来た身贔屓《みびいき》もあるだろうが、林作はどの男よりも、ドゥミトゥリイを愛していた。モイラも、ドゥミトゥリイを頼りにして、育った。モイラの悪い悪戯《いたずら》が、モイラの本質のようなものであることも、今ではドゥミトゥリイは知っている。モイラの持つそういう魔のようなものが、モイラの体の内部にあるものなのだということも、いつからか、ドゥミトゥリイは知っているのだ。
天井に凝としていたらしい大きな蛾が、バタ、バタ、と羽を鳴らして、電燈の廻りを飛び廻るので、ドゥミトゥリイは団扇を取ってそれを上手に、卓子《テエブル》の下に打ち落し、隠しから出した懐紙で包みこむようにして窗に近づき、窗を少し上げて投げ捨てた。
林作はその夜、ドゥミトゥリイが夜の挨拶をして出て行こうとした時、一寸掌で空《くう》を抑えるようにして止まらせて、言った。
「一番の難関は重臣さんだが」
「はい」
ドゥミトゥリイも同じ想いを持っていたのだ。
「今度の繁世の年会だが。それまでは何事もなかろうと思うがね。……モイラと天上君とやよを招《よ》ぼうと思う。もよには何もわからぬから、鴨田に手伝って貰って、その日は頼む」
と林作は言い、心得ております、旦那様、というように頭を下げて出て行くドゥミトゥリイを、愛情深く、見送った。
* *
エンミイが居なくなった日から略三月《ほぼみつき》が経った月曜日の午後、介田伊作は近くの邸町を歩いていた。その日は朝から、ひどく気が鬱してならぬので、煙草を買いに出た帰りに、エンミイを探して歩いた同じ道を、歩いていたのである。白黒のかっきりした眼を、瞬きもせずに据えて歩いていた伊作は、向うから来る男が、自分を見て近づいて来るのに気附いて歩をゆるめた。何処かの家の下男でもしているらしく見える、貧相な顔の男は、伊作を見知っているらしく、近寄ると、言った。
「あんたは鳩を探していた方でしょう? いつかの。三月《みつき》程前に……あれから十日程も経った日でした。鳩が落ちていたんです。夜の白《し》ら白《じ》ら明けで、見つけた時は薄目|開《あ》いてましたがね。とても助りそうじゃなかったんで……丁度そこへ来た近所の者と手当てしてみたんですが、みるみる冷たくなっちゃいました。私《あたし》んところのお邸の隅に埋めたんですよ、ええ」
男は伊作のただならぬ哀しみの色を見て、目の置きどころに困ったようにしていたが、
「どうも……お気の毒なこって」
と頭を何度か下げ、伊作を見返り、見返り、去って行った。伊作は(これは旦那様には言ってはならぬ)と、心に定《き》め、もう歩く気もなくなって、邸に帰った。天上に言わぬと定めたことで、伊作の胸は一層切なくなっていた。天上に告げぬことにする以上は、その男を探し出して、エンミイを掘り出して持ち帰り、花畑の隅に葬って遣ることも、諦めるよりなかった。
その日以来、伊作のモイラを見る眼には鋭いものが上積《うわづ》みされたが、ピータアに会う日が三日後に逼っていて、さすがに不安を抱いていたモイラは、それには気附かずにいた。
木曜日が来て、ドゥミトゥリイはモイラを迎えに行き、浅嘉町の家から本郷通りに出て真直ぐ右へ、農学部の横を左に折れて二丁程行って、石垣と石垣との間を左に入ったところにある、ピータアのアパルトマンに、モイラを伴れて行った。
その前の週の同じ曜日にピータアを訪ねて、モイラがその日行くということは、報らせてある。
ドゥミトゥリイはその日の朝、部屋で目醒めた瞬間も、母屋に行って林作に、これから行くことを言いに行った時も、昨夜の内にブラッシをかけて、下駄箱の上に載せておいた靴を下ろして履《は》いた時、又車を運転して、天上の家に行く途で、すべての時間、胸の奥から疼《いた》いものを取り出し、反芻していた。疼いもの、それはアパルトマンの、燻《くす》んだ水色《ブルウ》のペンキで荒塗りをした、扉を十糎程だけ開けて自分に凝と眼をあて、承知した旨を答えたピータアの眼の、貝のような光である。林作も言っていたように、ドゥミトゥリイは、天上は言うまでもないが、ピータアという青年が、モイラに危害を加える人間でないことを知っている。知ってはいるがピータアのその眼を見た瞬間、刃物かなにかのようなものを、感じ取ったのだ。やよも海岸で一度、遠いところからピータアを、一生懸命に見詰めて、ピータアの人格というか、やよはそんな言葉で考えたのではなかったが、ピータア青年の持っている確かさ、のようなものを感じ取り、そうして胸を撫で下ろしたことがあったが、ドゥミトゥリイは海岸で最初に見た時を入れてその日で三度はピータアを視ている。それでピータアの持っている立派だと信ずることの出来るものを、ドゥミトゥリイはよく知っているのだが、その時のピータアの眼はたしかに、ドゥミトゥリイを愕かせた。塹壕の中から瞬間顔を出して辺りを窺う兵の眼だと、ドゥミトゥリイはアパルトマンの狭い階段を下りながら、想ったのだ。黒い瞳は自分を、斜めの角度から見ていたのだがどうしてか、白眼だけが光っていたように、想われたのだ。
その日ドゥミトゥリイは、平常《いつも》、モイラを浅嘉町に伴れて行く時と同じに、天上に会って、礼儀正しく短い挨拶を述べたが、普段着のような夏服で、麦藁帽を手に出て来て、傍《そば》に立っていたモイラの様子に、何処といって変ったところの無いのを眼に入れて、ひそかに、ほっとした。モイラが常になんとなくぼんやりとしていてというよりも、何かを考えているのか、何も考えずにいるのか、それが外側からはわからぬというようなところがあって、そういう場合|小賢《こざか》しく神経を使わぬ女なのが、その場を救ったのだ。女はそんな場合、得てして余分な言葉をあやつるものである。天上はこの頃それが、天上の生来の顔になってしまっている顔なのだろう、どこか暗いものを纏いつけた顔をしていたが、機嫌よくドゥミトゥリイを迎え、
「いつもご苦労だね。牟礼さんによろしく、言って呉れ給え」と言って、ねぎらった。
「はい。申し伝えます」
と言って頭を低く下げたドゥミトゥリイの額の辺りの昏いのも、常時のものなので、天上もいささかの疑いも持たなかった。
ドゥミトゥリイは石垣の脇に車を止め、モイラを車から下ろすと、モイラを先に立てて、狭い、急な階段を上った。上り口から左へ二つ目の扉をモイラに教え、直ぐに背中を見せて、階段を下りて行った。ドゥミトゥリイはアパルトマンを出ると車を運転して、急遽浅嘉町の家に帰った。今までにそういうことはなかったが、天上の家の、どれかの雇人がひょっとして、浅嘉町に来るような場合、奥には通さぬが、林作が家にいて、車がない、ということのないように、車を車庫に戻したのである。伊作が何かを察知して、故意に用事を構えて、遣《や》ってくる、ということ以外に、伊作の訪問はあり得ない。だが林作とドゥミトゥリイとはその、有り得ぬことをも危惧の中に入れていた。モイラが浅嘉町にいる時に、天上が後《あと》から来ることも有り得ぬ。天上が電話をかけて来ることも、例がないことだが、あり得ぬとは言い切れぬすべてのことに、林作とドゥミトゥリイとは心を遣《つか》っていた。ピータアのアパルトマンへは三時間半後に、迎えに行くことにしてある。ピータアにも頼み、モイラにも言い聴かしてある。アパルトマンから浅嘉町まで十分あればよかった。その日は一旦浅嘉町に帰って、実績を造る必要がある。家を出る時に林作が持たせた、独逸製の腕時計を持っているので時間の間違いはない。迎えの車は、それだけの時間を見ておけばいいだろう。不安な気持で一旦、自分の部屋に入ったドゥミトゥリイは、先刻《さつき》見たモイラの眼を、想い浮べていた。自分の身分として言えぬことだと分別して、ドゥミトゥリイは怺《こら》えていた。だがドゥミトゥリイはモイラに、
(この危険な遊びは今日一度で止《や》めて下さい。ドゥミトゥリイにそれを約束して下さい)
と、言いたい心持を、車の中にいる間、抱き続けていた。アパルトマンに着いて車を下《お》り、車の扉を開けた時、ドゥミトゥリイは、寄り掛かっていたシイトから体を起こしたモイラを凝と、見た。鋭い凝視になっていたことが自分にもわかっていた。言わないでも、ドゥミトゥリイの心持を見て取っていたらしいモイラは再び後《うしろ》に寄りかかった儘、ドゥミトゥリイを見た。何時《いつ》見ても可哀くてならないモイラの顔だが、据えるようにした眼には、猛禽のような、だが鳥の眼にしては重い、鈍い光が、あった。|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》の辺りがどこか、青んでいる。ドゥミトゥリイは何も言わず、眼を伏せて、モイラを輔《たす》け下ろしたが、伏せた自分の顔を、モイラの不機嫌な眼が追ったのを、ドゥミトゥリイは知っていた。ざらざらと皮膚が寒気立ったような、ドゥミトゥリイの顔を、覗き見るようにしてモイラは見たのだ。林作の他にはやよと、馬丁の自分に気を許している。それがモイラに、自分の、どんなに一寸したことも決して許さぬ、我儘な癇癖《かんぺき》を出させるのだと、わかっていて、モイラが、幼い時から持っていた威厳のようなものの下にある、脆《もろ》さと甘えをも、知っていて、ドゥミトゥリイは、はじめて見るモイラの烈しい不機嫌に胸を衝《つ》かれた。林作にも嫩い時はこういうものがあったのだろう、それは魔の癇癖なのだろう。と、ドゥミトゥリイは、思った。だがその瞬間が過ぎると、ドゥミトゥリイの胸には深い親しみと、愛《いと》しさだけが、残っている。
(モイラは俺と、ドゥミトゥリイの子供なのだなあ)
と言った、林作の言葉はそれ以来、ドゥミトゥリイの胸に常時《いつも》ある。ドゥミトゥリイは林作の中に、自分に対する真実を見ている。林作には粋人にあり勝ちの軽薄がない。人と真実を持ち合うこともある。一度真実を分け合った人間には真実に、ものを言うのである。抑制と、所謂|健気《けなげ》な心掛けとが、どうしてもなくてはならない結婚というものが、モイラには無理だったのだと、ドゥミトゥリイは、思った。
(モイラ様には結婚というものが、無理だったのだ)
と、ドゥミトゥリイは心に呟いた。
(旦那様には智恵と、抑制とがおありになる。モイラ様にも智恵はおありになるのだが、抑える力があられない。女を自分は知らない。だが女の体というか、神経というものが、そういうものなのだろうか?)
ドゥミトゥリイは胸の隠しから林作の腕時計を出し、卓《つくえ》の上に置いた。アパルトマンを出てから、まだ十五分しか経っていない。
不安に包まれたようになっているドゥミトゥリイは、ふと、感傷的になって、遠い昔の日を想い出した。この部屋の上がり口に腰を下ろした自分の膝の間に、入って来るようにして、自分の眼の中を懸命に探すようにしたモイラの、涙の溜まった二つの眼が、ドゥミトゥリイの胸の底に、浮び上がった。乳飲み児が母親の乳首を探すような目であった。
(あれはモイラ様が旦那様に、何かたしなめられて、自分の部屋に走って来た時のことだ。自分の哀しみを受け止めてくれる人間は俺だけだと思い、あの時モイラ様は、哀しみを受け止めてくれるものを、俺の眼の中に探っていたのだ)
ドゥミトゥリイは上がり口の方へ向けた眼をその儘、その日のモイラを今其処に見るように、宙に据えた。
* *
ピータアは寝台《ベツド》の上で、胡座《あぐら》をかいた膝に肱をついた掌先《てさき》を組み合わせ、先刻《さつき》から顔を伏せている。ピータアは体の中に底から持ち上がってくるものを抑えている。モイラを待っているピータアの中にあるものは、渇した人間が与えられようとする水を待つような、堪えられぬほどな渇望である。喜悦以上のものである。だがその喜悦の中には抑えなくてはいけない、怒りに似た感覚がある。
ピータアの座っている寝台《ベツド》は石沼の、霧雨の上がった薄明るい部屋で、そこにモイラを横たえた寝台《ベツド》である。モイラの生贄《いけにえ》台となった寝台。その上で、モイラのすべてを奪った記憶がまだ消えていない寝台。ピータアが、モイラの肉体《からだ》を隙間なく蔽った皮膚の香気と、花片のような湿り気とに溺れて、半ば狂気の刻《とき》を過した寝台である。その時から二年が経って、モイラを逃がした無念と苦しみを耐え、それを乗り越えて、いくらかでもいい、平静な自分をとり戻そう、と、そう思って努力していたピータアが、その状態に、今少しで手が届くのではないかと、そんな気のした時期もあった。……それはつい二ヶ月前のことだ。その時期でさえ、その上に横になる度に背中に、上膊《にのうで》に、そうして腰に、辛いものを覚えずにはいなかった、その寝台である。ひどく苦しい時期にはその上で幾度となく体が燃えた。ピータアはその度に頸の十字架を、掌に型がつく程握り締めて耐えた。鎮まるとピータアは裸の上に上着をつけて戸外《そと》に出て、暗い街を歩いた。
モイラはピータアの贄になった後《あと》に、処女《むすめ》の証《あかし》を残さなかった。ピータアは、女の経験のなかった頃から、智識としてそういう処女《むすめ》のあることを知っていたが、その時、モイラがその稀《めず》らしい処女《むすめ》だったのを知った。モイラは最初に見た時から、平常《ふだん》烈しい運動をしている娘には見えなかった。小さな窗枠の中に、胸の下辺りまでを現わした最初のモイラは、林檎《りんご》らしい果実の一片《ひときれ》を手に、ピータアを見下したが、全身を見ないでも、動くのを見ないでも、活溌な運動には縁のない娘だということはわかった。モイラは子供が、触《さわ》ってみるほどの興味はない虫を、何か食いながら見ている、そんな眼をしていた。そんな眼の中に、その奥に、魔があった。柔かな硝子というか、妙な不透明というか、そんな朦朧をひそめている二つの眼が、モイラ自身の知らぬところでピータアを強い力で掴んだのだが、その時同時にピータアは一人の、ものぐさそうな、動くことを好まぬ娘を見たのだ。事実次に海岸で見たモイラが、ひとりで動きはじめた幼児のような鈍い動きで走るのを、ピータアは見た。
(激しい運動をやって膜が破れたのではない)
とピータアは想うのだ。だが寝台《ベツド》の上のモイラは、愕いたり、ひどく恐れたりはしなかったが、処女《むすめ》であったことは疑いがなかった。
ピータアは心に呟いた。
(不思議な特長だ……まるで懶《ものう》げにしている年増女をみるような動きの緩慢さが、まだ十四五にしか見えぬ娘の体にあった。その気倦《けだる》いようなものはいつもあの娘の体の周りをとり囲み、とじ込めている。寝台の上に持って行った時も恐れてはいた。だがどこかにふてぶてしさがあった。多分、父親とドゥミトゥリイなどの溺愛と讃美があって、自分の持っているなにかに、ふてぶてしい居直りのようなものを無意識の内に蓄積させているのだろう。それは海岸で俺の前に立った時、強く俺に伝わって来た。俺もそこに惹かれたのだ。自分の肉体の魅力の上に、梃でも動かない自信を持った、まだ子供の匂いのする処女《むすめ》……そいつが俺を火にしたのだ)
モイラは動きの鈍い、動きたがらぬ娘だったが、どうかすると不意に高いところから跳び下りたりすることがあった。林作はその癖を気遣《きづか》っていた。動きの鈍いモイラはそんな時|脆《もろ》く転んで、肱や膝頭に傷をつけることがあったからだ。林作はモイラの部屋の扉を開けた途端に、モイラがピアノの椅子から跳ぶのを見て、走り寄って抱き起したことがある。林作はその時、ピアノの椅子の捻子《ねじ》が弛んでいるのに気附いた。林作は以後、その部屋に入る度に椅子の捻子を確かめた。そうしてモイラが椅子の捻子を弛めたり締めたりして遊ぶことを固く禁じ、やよにも注意をするように、言った。それは明らかにモイラの莫迦なところなので、林作は御包や柴田には、言わずにいた。そのモイラの癖から林作は、モイラが最初の経験をする場合に処女《むすめ》の証《あかし》を残さぬことも或は、あるかも知れぬと、考えたことがある。それが頭にある林作は平常《へいぜい》、初夜の花嫁に処女の証のあるかないかを重大に考える風潮を、ことさらに苦々しく思っていた。
林作はモイラの縁談が定《き》まって、天上が婿として家に来始めた頃、モイラのこの癖を話しておいた。そうして、注意をして呉れるように、頼んだ。天上は林作の眼から見て立派な男だったし、天上はモイラというものをよく見ていると、そう思ってはいたが、それを天上に話したことは、モイラが怪我をせぬようにと思う気遣いとは別に、モイラの初夜を考えての慮りが、胸にないではなかった。石沼での、ピータアとのことも当然勘定に入っていた。
肉体の火を自分で処理することを嫌厭するピータアは、潔癖過ぎるほどな要心をして娼婦を相手にしていた。ピータアは一人だけ日本の娘を知ったことがある。その娘はただ穏《おとな》しいだけの娘だったが、最初に抱いた時、気の毒なような奇妙な様子と、可憐な、というより不様《ぶざま》な羞恥を示したのである。街で見る娘も、その娘のような醜い羞恥を示すだろうと思われる質《たち》のか、それでなければ、造りものの誇張した羞恥を示すだろうということが見え透いているようなのより、ピータアは見たことがない。自分の祖国や、他の西欧の女の中には或は、モイラのような処女《むすめ》もいるかも知れぬと、ピータアは思ったが、モイラ以外に、モイラのような処女《むすめ》を想像することは、ピータアには出来得なかった。ピータアはモイラを犯した後で、ああいうのが莫迦でない女なのだという感じを持った。たとえ処女であろうと、最初の経験だろうと、sexというものに、それまでに深い関心や空想を持ったことがなかろうと、どこかで、知らぬところで、それを感じとり、うけとっているはずのものだ。モイラは、晩稲《おくて》で、赤子のような女でありながら寝台の上で、年増女のようなふとい、にくたらしいほどな刺戟を感じさせたが、その特色は稀なものだとしても。と、ピータアは想い、それまでに知った娘に、白々とした興醒めを覚えた。sex について、貧しい智識から出た常套的な、技巧を弄《ろう》する娼婦などは、ピータアにとって、慾望の処理のための相手以外のなにものでも、なかった。
ピータアにとって、モイラとの今日の密会に当然被せられる筈の、刑法上の呼び名は何を意味するものでもなかった。モイラの夫をピータアは、暗い砂丘で、後《うしろ》から見ただけだが、まずく行って事が曝《ば》れた場合に、そういう罪名を着せようとする人間のようには、ピータアには見えなかった。だがピータアは天上側から告発せられたら、立派に法廷に立つ積りでいる。一昨年《おととし》の夏、モイラを部屋に伴《つ》れて行ったそもそもの瞬間から、ピータアは〈ピータア〉として、ピータアの名に恥じぬ行為として遣《や》ったことである。
(俺はモイラの神なのだ)
と、そう思って遣《や》ったことである。
(モイラには別段の意識もないだろう。無論罪名も知らないだろう)
と、ピータアは想った。まずく行った場合、モイラの父親が出来るだけのことをするだろうこともわかっているが、すべて何がどうなろうとピータアには関心のないことだ。ただ父親のセルゲイと、母親のタマァラとがそれを知った時の衝撃が、ピータアを鬱屈させている。とくに母親のタマァラの絶望と悲しみ、それがピータアには耐えられなかった。ピータアはそれは強いて思わぬようにしている。セルゲイも、タマァラも、ピータアの精神をわかるだろう。彼らはピータアの意志を大切にしていて、ピータアに赤子の時に洗礼を受けさせるのを控えていたほどだ。だが彼らは神を敬う旧教徒である。その後も洗礼は受けないので、ピータアは基督《キリスト》教徒ではない。だがタマァラは、幼児の頃からピータアの頸に十字架のペンダントをかけて遣《や》っていた。朝夕の食卓で父親と母親とが、敬い深いようすで十字を切るのを、ピータアは見て育った。何かあると母親が胸の上で十字を切るのを見ている。そういう生活の中でピータアは、父親と母親との信仰の深みを受け止めていた。それは重い、厚みのあるものである。ピータアは、基督教徒にはならなかったが、いつか、自分自身も何かに打《ぶ》つかると、無意識のように頸の十字架に掌が行くようになっている。深く信頼出来るもののようにして、十字架を掌の中に握り締めるのだ。大きくなってからは行かなくなったが、母親に伴《つ》れられて日曜日ごとに行った教会のオルガンの音や、一種の雰囲気も濃く、頭に残っている。ピータアは仏教を研究しようとも思わなかった。禅には惹かれたが、買って来た禅についての書物もその儘にしてある。ピータアの関心を惹くものは文学であって、日本文学を研究するのだと言っている同国人の友達から或日聴いた雨月物語には深い興味を抱いた。雨月物語への関心は、モイラを知ってから前よりも強くなっている。ピータアは基督教も仏教も、文学の中では皮膚から入ってくるもののようにして、感じとることが出来た。基督教も仏教も禅宗も、文学を感ずるためには知っていなくてはいけないと、ピータアは考えている。そんなピータアは、どの宗教にも入っていないが、基督教を真面目に考えてはいた。セルゲイとタマァラを、愛するからだ。
(モイラほど宗教と関係のない人間はない。だが、こんなになってしまった俺にとってはモイラそのものが宗教のようなものかも知れない)
と、ピータアはふと、想い、苦しげに、眉間にたて皺を寄せた。
今、ピータアの眼に、海岸で始めて傍《そば》で見た、水着一つのモイラが、全く神と反するものの姿のように鮮やかに、浮び上がった。水着だけの、裸同様のモイラを見て、そのモイラの肩に掌をおいたピータアは、モイラの肉体《からだ》の全く気孔のないように見える緻密な、湿り気のある皮膚に向って抑えることの難しい、サジスティックな慾望を抱いた。
(あれは新しく咲いた、花弁の厚い花のような湿り気だ……)
一晩降り続いた細かい雨が空気を湿らせている部屋の中で、モイラと向い合った時ピータアは、海岸にいた時にも感ぜぬではなかったモイラの肉体《からだ》の、或慾望の中へ、強い力で引きこむ、百合の茎を折る時に発《はな》つのと同じな香気が、モイラの皮膚の内部から何かの火で焚かれて蒸し出されて辺りの空気を押して拡がるのを感じた。その香気は、壁の絵を見ているモイラの二つの肩に掌をおいた時にも、ピータアを強く襲ったのだ。寝台に腰を下した自分と向い合いに置いた椅子にかけさせたモイラを凝視したピータアは、モイラが怖れているのを見た。モイラは前の日に海岸で、林作と歩いていてピータアを見た時、ピータアが、自分と父親との間にある幼い時からの特殊なもの、馴れ合いのようなものを見あてていたのをわかっていた。モイラが、海水着一つで男の部屋にいることよりも、ピータアにどうかされるかも知れぬ怖れよりも、その瞬間感じとったピータアの強い嫉妬を怖れているのを、ピータアは見た。
(俺はモイラに、パパを愛しているんだろう? と言って、モイラから眼を離さずに、あくまで問い詰めた……)
モイラはその時、俺自身にも明瞭《はつきり》感じられた俺の恐ろしい眼から逃《のが》れようとして、小鳥が飛び立つようにして窗際《まどぎわ》に逃げた。モイラは俺の眼から逃げようとして、右に左に顔をそむけたがとうとう耐えられなくなったらしく顎を仰向けて天井に眼を遣《や》った。まるでそうしたなら空から救いがくるとでも思ったように。その瞬間、俺はモイラに飛びかかっていた。
(俺が俺の中に、サジスティックなもののあることに気づいたのはあれからだ。水着一つのモイラと海岸で、向い合って立った時からだ。それまでは意識の端《はし》にも、上《のぼ》ったことのない感覚だ)
ピータアは組み合わせている掌を固く、握り締めた。
(モイラは俺の大切なセルゲイと、タマァラとを苦しめるために、悲しませに、やってくるのだ。今日)
ピータアの中に、サドゥ侯爵の血が騒ぎはじめている。ピータアはモイラが、自分の父親たちについて、何も知らされていない筈はないと、思っている。神というものについてもだ。と、ピータアは思うのだ。理性が弱まり、わけのわからぬものに占領されたピータアの頭は何故か神に向っている。父親との密着した間柄を見せつけて、自分を狂わせるモイラをなんでもいい、どんな形でもいい、罰して遣りたい。神の前に引いて行って告白をさせて、苦しむモイラを傍で、見ていて遣りたい。そんな想いがピータアを駆りたてている。ピータアは思うのだ。
(モイラの、多分少ない智識の中にも何処《どこ》かに、基督教というものは、たとえ朧気《おぼろげ》な形ではあろうと、入っていない筈はない。モイラが神というものについて、全く知らずにいる筈はないだろう。モイラは俺の両親《ふたおや》が、帝政露西亜の亡命者であることも、基督教徒だということも、あの父親から聴かされているだろう。そんな時に、基督教というものがどんなものかということも、あの父親は話して聴かせたに違いない。だが、それがどうだというんだ。モイラは宗教と関係のない奴だ。モイラほど、宗教から遠い人間はない。モイラほどすべてのものに無関心な人間はない。智識慾というものが欠けているようだ。ただ興味のあるものを眼で見て、その中から何かを会得する。智識を与えられないでも、どこかでなにかをわかる能力を持った子供だ。そうだ。モイラと宗教とは関係がない。モイラが俺にとって宗教のようなものだ、というのに過ぎない。それにあの父親がモイラに、宗教の話をする場合、どんな話し方をするか。あの父親が……あの強《したた》かな悪魔を飼っているあの父親が……柔《やさ》しい微笑いの底に鋭い、メスのような眼を隠しているあの父親が。西欧人のような美しい微笑を持っている、唯者《ただもの》ではない父親が……)
父親とモイラとが一緒にいるところを二度、ほんの短い間見たのに過ぎないがピータアは、モイラと林作の父娘《おやこ》は何もかも話し合っている、どんな小さなことでも、生活の中のすべてを知らせ合っている父娘だということを、感じとっている。ピータア自身も、セルゲイとも、タマァラとも、何も隠さずに話をしてはいる。だが互いの中にあるすべてを、ニュアンスの襞まで打明かしてはいない。彼らがピータアが嫩くはあるがもう大人になっていて、彼らもそれを認めて、ピータアを一人の大人としているからでもあるが。
(あの父親は戸外《そと》を歩いている時にも、モイラを胸に寄りかからせている。その様子には俺を切なくさせるものがあるんだ。……恐らくあの宗教の匂いのする男もあれをくらっているのに違いない。あの二人は、すべて話し合っている。それは二人が顔を見合って、微笑いながら何か言っている様子の中に見えている。家の中ではモイラは、あの父親の膝に凭れかかって、多分膝に頬を擦りつけたりしながら、あの娘独特の断《き》れ断《ぎ》れな、接続詞抜きの話し方で、止め度なく何かを話しているのだろう。何を? それはあの娘の思ったこと、見たこと、その日にあったことのすべてをだ。石沼の俺の部屋で、俺との間に起きたことをも含めて、すべてをだ。そこには饒舌な恋人同志といってもいい馴れ合いがある)
石沼の朝の海岸で、二人が歩いてくるのを見た時、既に瞬間的にピータアの頭にはこの推察が働いていたのだ。モイラと林作との間にあるこの密着はピータアを苛立《いらだ》たせ、癇《かん》を立たせるのに充分だったのだ。
事実林作は、ピータアの父親が、コザック兵の一人だったことを知っていた。林作はモイラに、ピータアの父親が亡命者だろうということを話して聴かせた時、彼とその妻とが、多分ピータアもが、奉じているにちがいない基督教についても話していた。モイラはその時、ピータアの想像通り、林作の膝に凭れかかっていた。モイラは林作の着けている仙台平の袴の襞にさわり、微かな音を楽しんでいた。その日、日本橋|倶楽部《クラブ》であった宴会から帰った林作は、モイラの好む仙台平の袴を着けた儘、モイラの相手になっていた。モイラは仙台平の袴を着けた林作を、幼い頃からとくに好いていた。着ているものに触られることに神経質な林作だったが、モイラにだけは例外で、袴を着けている時には、出かける前にも少間《しばらく》の間は袴の膝を崩し加減に、モイラを凭れかからせて、相手になるのが常であった。ピータアの両親に興味のないモイラは、コザック兵の話から基督教の話に移った途端に眼を大きく瞠《みは》って、林作を仰いだ。話をする内に、モイラの脣が放心したように弛むのを林作は見た。モイラが何かに関心を持った時の癖である。モイラは眼を林作の顔から離さなかった。モイラにとって基督教の話は始めて聴く話ではなかった。改めて言ってきかせる形で話をしたことがなかっただけである。六七歳の時、アレキサンドゥル夫妻が身につけていた一種の雰囲気、林作や、死んだ母親の父親の郷田重臣、ドゥミトゥリイ、なぞが持っている静かさのある様子とは異《ちが》った、妙な静かさを、モイラが不思議に感じて、幼い質問を投げかけた時に、林作が話してきかせたのである。林作の語った基督教というものの持つ、どこか恐ろしげな雰囲気はモイラの稚い頭に残っていた。基督教徒というものの持っている無気味な柔《やさ》しさを、モイラはアレキサンドゥル夫妻から最初に、感じとったのである。モイラは基督教というものの持っている、底気味の悪い、撫でるような柔《やさ》しさを幼い時から不快に思い、どこかで恐しく思いはしたが、敬い畏《おそ》れはしなかった。それは話してきかせる林作自身が畏れを持っていないのを見たからだ。林作の話は基督教というものが持っているもの、基督教というものの雰囲気を、充分に伝えてはいた。だが、話をしていながら、彼の膝に凭れかかって、大きな眼を開《あ》いて聴いているモイラの顔を窺うようにして、微かに平常《いつも》の微笑いを浮べている彼の、その微笑いの中にモイラは、彼の敬虔な話を裏切るものがあるのを見ていた。父親の眼の中に、又彼の頬の窪みの翳に、モイラはそれを見取っていた。モイラの恐怖は父親が充分に表現していた基督教というものの持つ雰囲気の中にあったのだが、そこには聖母学園のロザリンダがモイラに与えた印象が混入していた。ロザリンダの、基督旧教の正規の修道女でありながら邪宗門の陰影とでもいうような、どこかに淫逸をひそめたいやなものが、その時モイラの頭に浮んでいた。或日、何かの訓誡をした後で彼女が、
「わたくし達の社会には、宗教上の刑罰があります」
と言った時、ロザリンダが何故かモイラ一人に眼をあて、モイラの眼を凝視したのをモイラは覚えている。腫《むく》んだ顔の、小さな光る穴のような二つの眼が、今そこにあるように、浮んでいた。モイラはその時のロザリンダが、自分を可怕《こわ》がらせようとして故意《わざ》とその話をしたのだと、信じた。林作とドゥミトゥリイとの、柔《やさ》しい目に囲まれて育ったモイラは、家庭教師の御包《みくるみ》の、嫉妬を隠した厳しい眼と、ロザリンダの眼とによって恐怖というものを覚えていたのだ。その時モイラが、父親の話を終いまで聴いていたのは、恐怖というものに、知らずに興味を抱いたためのようだ。その話の中でとくにモイラの興味をひいたのは、男が女を見て心を動かしたというだけで罪になるという件《くだり》であった。
「それは姦淫の罪というのだ。この言葉の意味は、モイラにはまだわからないだろうね。今にわかる」
そう言うと林作は、どこかに謎のある柔《やさ》しい眼をモイラにあてた。モイラは平常《いつも》の、何かを、心の底にあるものを見抜かれた眼で、林作を見たのである。モイラは、姦淫という言葉の持つ意味を正確にはわからなかったが、何かを感じとったようだ。
林作はその日、日本橋|倶楽部《クラブ》にいて、ふとモイラの幼い姿を眼に想い浮べていた。その家には広間から別の広間に通ずる二間ほどの廊下があり、そこの真中に、亀戸天神の境内にある太鼓橋のように高く急な勾配になったところがある。遠い昔、林作はモイラにその上を渡らせて、よろこぶ顔を見ようと、予約をしておいて、モイラを倶楽部に伴れて行った。肩に届くお河童に白いリボンをつけ、白絹の下着を重ねた緋と白の染め分けに模様をおいた友禅の着物に緋無地の紋縮緬《もんちりめん》の袖無しのモイラは、モイラを可哀らしいといって傍《そば》につききりでいた女中に手をひかれ、いくらか可怕そうに渡り始めたが、頂上の辺りで磨き上げた床に足を滑らせた。女中が慌ててひいた手を引き上げるようにしたので、宙吊りのようになって、二文半の白足袋の小さな片足が宙に上がった。橋廊下の脇に立って、モイラの哀らしい姿を見上げていた林作は微笑い、林作に従《つ》いて来ていたお芳《よし》という女将《おかみ》はアレ、と言い、思わず知らず繊《ほそ》い長い枝のような両腕を前に差し延べかけたのである。座敷に戻って、黒く松の枝を染め出した焦茶の、縮緬の座蒲団の上に鳶足《とんびあし》に座り、女中のお霜《しも》がリボンを直しているので頸をすえ加減にじっと上目遣《うわめづか》いになっているモイラの顔をつくづくと眺め入っていたお芳の表情を、林作は盃を手に、つい今そこにあるもののように想い起していた。お芳は二三年前に亡くなり、現在《いま》ではお芳の眼がねにかなったお時《とき》というのが、三十七八の若い女将になっている。モイラの出産と同時に亡くなった繁世が、モイラの生れぬ前に丹精して整えておいた、五六重ねの着物はモイラによく似合い、林作はそれらを取り替えひき替え着せて、料亭や茶屋にもよく伴《つ》れて行ったが、そんなところの、半玄人《はんくろうと》の女たちや、来合わせた芸者なぞがモイラに眼を止めた。女将などの顔には、これが買い入れることの出来る子だったら、下地っ子から仕上げてみたいという表情がありありと見て取れた。それを見ることが又、林作の一つの歓びであった。
「蛇《じや》は寸にしてっていうのは、あのお子のようなのを言うんだろうねえ」
と、羽左衛門の白《せりふ》で覚えた漢語まじりに言ったのは、或茶屋の女将の蔭の言葉である。そんな空気をモイラは、幼いながらにどこかで捉えていた。幼い女の子の、自分の美、醜への周囲の反応を捉える触覚というものは恐るべきものである。ピータアが不思議に思う、モイラの持つふてぶてしさはこんなところにも胚胎していた。
林作は、モイラが天上守安を裏切って、石沼の隣家の青年との出会を繰返そうとしていることを知った今、そのモイラのしようとしていることが姦通という名で呼ばれるのだということを、モイラに教えることをせずにいる。モイラはその呼び名の意味を知ったとしても、又法律に触れるということの厳しさを教えて遣《や》ったとしても、モイラはさして動じることはあるまい。それを林作は知っていたからだ。それを知ったからといって、ピータアの部屋に行くことを止《や》めることはあるまい。モイラがピータアに夢中になって、ピータアの部屋に足繁く通うということはあり得ぬ。夢中になるのは青年の方だろう、と林作は想い、硝子の中にあるもののように、はっきりとは捉え得ぬ魔をひそめているモイラの眼を、窺い見た。
魔をもった二つの眼は、幼なかった時と少しも変らぬあどけなさで見開かれていた。
そのモイラの様子には、可哀らしいが同時にどこか、恐ろしいところがある。屠《ほふ》った獣《けもの》の屍《しかばね》を爪の間に抑えている親獅子の傍で、爪を小さな熊手のように開いてじゃれている獅子の仔に似ている。飽くことなく愛をむさぼろうとする肉食獣だからだ。林作はそんなモイラに眼を当てながら、言った。
「基督教というのはね。世の中で、この人間の世界でうまく……パァパやモイラが誰とでも仲よくやって行くために、あの御包や柴田のような女たちともうまく遣《や》ってゆくためにこしらえたものなんだ。そのために基督という人がこしらえた教えなのだね。支那の孔子や老子と同じようなものなのだよ」
林作はモイラに、基督教の話をして遣《や》っていて、その話の締め括《くく》りをしたのだが、モイラの頭には当然のことだが、わかり得なかった。可哀らしい獅子の仔は、林作を見ていて、そう言った時の林作が、今度はほんとうに、真面目に言っているのを感じとっただけである。
今、ピータアを襲っているのは一種の不条理な想いである。モイラを懲《こら》しめて遣りたい、何かの形で、モイラを罰して遣りたい。思い知らせてやりたい、というような想いである。狂暴なものを含んだもや、もや、としたものである。それはモイラが海岸に立って、ピータアを見ていた最初の瞬間から既にピータアの内部に持ち上がって来ていたものだ。ピータアから眼を離したら、何かの危険があると、信じているかのように、モイラは凝とピータアに眼をあてて立っていた。そうして立っている足先で砂を躪《にじ》るようにした。その動作は十五歳の、まだ子供の域を出ていない女の動作として珍しいものではなかった。だが、そこには一種の、知らずにいてする挑みのようなものが濃く滲《にじ》んでいた。憎くなるほどな甘えが、その時、水着一枚のモイラ全体に滲み出ていた。それは体と精神の内側から、蒸し出されるもののようだった。ピータアはその時、東洋の女に特有の、気孔の殆ど無いような皮膚が特に顕著な、モイラの胸の一部に、又、肩から、まだ熟し切らぬ腕に、もうそこら辺りは完全に女になっているような太い腰から露《むき》出しの両脚に、飛びかかって押えつけたい、そうしないでは我慢のならない、狂暴な慾望を、覚えた。水着を持ち上げている固い果実のような乳房にも、邪悪な、というようにも思われる慾望を、覚えた。モイラの胸の二つの果実は両方の脇の下に寄り気味に、離れてついている。それが、その離れてついていることが、更に挑発するものをピータアに感じさせた。モイラが、ピータアから眼を離さずに、凝と立っていて、足で砂を躪るようにしているのが、その慾望を大きくした。その慾望の中に、サジスティックなものがあるのを、その時ピータアは意識したのだ。自分の中に、サジスティックなもののあることをピータアはその瞬間に、知ったのである。ピータアは、たった一度の密会で、モイラをとり逃がした。そうして懊悩の二年間を過したが、その凶暴ともいえるものが、その懊悩の二年の間に深部に入った。ピータアは意志の力で苦しみを乗り越え、モイラを見ぬ前の、静かな日々を自分の手に、再び捉まえようとした。そこに手が届きそうにさえ思われた時期もあったが、その間にも慾望は深部に入っていたのだと、今ピータアは気附いている。しかもドゥミトゥリイの訪問をうけた日から、慾望は新しく火を点《つ》けられている。ドゥミトゥリイという名を知り、祖国が同じだということを知った青年と、砂でざらついた暗い土間に対《むか》い合って立った瞬間から、長い間抑えていたモイラへの火、狂暴を蔵した烈しいものが燃え上がった。その烈しいものが今、ピータアの中で、爆発しようとしている。
ピータアをサジスティックな慾望に駆りたてているのは、モイラの不節操ではない。ドゥミトゥリイという、馬丁だときいた男への残虐でもない。ドゥミトゥリイを自分の前に立たせることで、ドゥミトゥリイの、抑えている慾情を挑発すると同時に自分に火を点けようとした、モイラの残酷でもない。石沼の家の扉を叩く、ひそかな音を聴いた時、ピータアはそれがドゥミトゥリイだと直感した。
(モイラが俺のところに使いに寄越すとすればドゥミトゥリイは適役だ。モイラが残虐を遣ろうとするのにはまるで、切って嵌めたような誂え向きな人間というものだ)
ピータアはドゥミトゥリイを出して遣《や》って扉を閉めた時、心に呟いたのだ。だがピータアを狂暴にしているのはそれではない。モイラが遣《や》っているらしい、指鬘外道《しまんげどう》の話に似た男の心《しん》の臓《ぞう》の蒐集でもない。それらの、モイラの貪婪ではない。ピータアをサジスティックなものに駆りたてているのはモイラの肉体《からだ》である。既に隈《くま》なく知っているモイラの肉体《からだ》である。皮膚を指で抑える時、抑えても、抑えても、指の腹と皮膚との間に何かがある、何かのもやもやとしたもののあるモイラの肉体である。寝台の上で、忘我状態にいたモイラの、あずかり知らぬところで皮膚自体がふてぶてしく挑みかかって来た、そのモイラの肉体である。ふてぶてしく挑んでくる年増女のような皮膚である。モイラが夢中に拒んだり、悶えるようにしたりする度に一層|滲《にじ》み出てくるようであった、花の茎に似た、不思議な香気である。それを香《か》いだ人間を、不思議な怠惰の底にひきこまずにはいないモイラの肉体の香気である。それはモイラの肉体の魔であった。サドゥ侯爵が、自国の女を抱いて、サドゥ自身の名を被せられた、その残虐に走ったとは信ぜられぬ、と、ピータアは思うのだ。ピータアは白人の女を抱いたことはない。だが白人の女の皮膚は白く、荒くて、気孔が大きい。それが見ていてわかるのだ。ピータアはモイラを知ってから、母親のタマァラにそれまで抱いていた、乳房の間に顔を埋めたい郷愁を失った。彼女の海のような、大きな愛情に応えようとする柔《やさ》しさだけが、残ったのだ。
ピータアは下脣を強く噛み、何処を見るともない眼を宙に据えた。一昨年《おととし》の夏、横から分けた髪が自然に横撫でにしてあった頭が、短く、頭の地なりに寝かせて刈ってある。彫刻のシイザアの頭のように緻密な、癖のある髪が形のいい頭を横|薙《な》ぎにとり巻いている。十八年前に林作が、薄闇の砂丘ですれちがって眼を止めた、小さなピータアと同じ頭になったのだ。額の下に光る眼は凶暴なものを宿しているが、ピータアの風貌は英智を湛え、隆盛を誇っていた羅馬《ロオマ》の嫩い兵士のように見える。この頭に変えたのは苦悩の日々が長く続いて、長い髪が重苦しく感じられたからだが、この頭はピータアに似合って、セルゲイもタマァラも、それを望んでいるのをピータアは知っていた。「月桂樹の枝を頭に巻いて、白い、あのぶかぶかした奴を着て、革のサンダルを履いたピータアを見たいね」と、吉田という友達が言ったことがある。顔のことにせよ、才能のことにせよ、批評めいた言葉に向っては貝のように表情を閉ざしているピータアだが、その時は珍しく(まんざらでもない)といったような表情を覗かせた。吉田というのは一人だけ、ピータアが心を許した男だが、一昨年の事件以来のピータアの様子を見て、モイラとの交渉に賛成を表わしていない。それで心持は変っていないが会う日数は減っている。
今朝、羅馬の兵士の眼は獅子に立ち向って闘いを挑む時のような怒張をひそめていて、表面は静かだ。林作が見たように、ピータアは二年の間に三つほど年をとったように見える。
(Moila[#i はウムラウト付き] ……)
と、ピータアは低く呟いた。
事件以来ピータアは、父親たちにあまり会わぬようにしている。セルゲイは、息子の苦痛を自らの肉の中に持っていて、それを耐えている。タマァラもそれは同じだが、タマァラの方は嫩いピータアを、たった一度の出会いで狂気のようにした異国の少女を憎んでいる。タマァラは折々には、心を籠めて焼いた麺麭や、月桂樹の葉、カルルスなぞの香料に浸しておいて焼いた焼肉を包《くる》んだ丸い、大きな紙包みを持って、ピータアを訪れる。ピータアが居ない日には紙包みを階下の管理人にあずけて帰った。石沼とは違って、帝大の周辺の町には露西亜の人間であるということに特別の偏見はないようなので、タマァラはそんなことも不愉快を感ぜずに遣《や》っていた。東京の町に委《くわ》しくないタマァラは、日本に来る汽車の中で知り合った露西亜語を解する男の世話で、赤門前の裏通りに家を借りたことを神に感謝していた。農学部前に、珈琲、紅茶、なぞの他に洋菓子の材料、外国の香料なぞを売っている店があったからだ。その店でタマァラは月桂樹の葉に肉桂粉、毎日の麺麭に入れるカルルスなぞを手に入れることが出来た。パラダイスというペンキ塗りの看板を掲げているこの小さな店の主人は、自分で豆を挽いて珈琲を喫《の》んでいる男で、タマァラの示す絵を見て、小麦も米屋に注文して呉れた。
やがてピータアは寝台を下り、書物卓《かきものづくえ》の上に置いてある腕時計を見、部屋の隅に並べてあるラルウスを一冊|寝台《ベツド》に放っておいて、洗面台の鏡の前に立った。もう一時を廻っている。鏡の中の眼と眼を見合っていたが、襯衣《シヤツ》を脱いで戸棚の洗濯籠に放りこみ、体を拭いて寝台の背にかかっている白のいい方の襯衣に着替えた。白木綿の洋袴《ズボン》と焦茶のコオドバンの帯《バンド》が、羅馬の兵士を引き立てている。ピータアは又寝台に胡座をかき、辞書の頁を手当り次第に繰《く》っていたが、ふと眼に入った cafe の欄に眼を落した。そうして珈琲の種類の名を手帳に書き止めていたが、その脇に珈琲の花の挿絵を写し始めた、やがて懶《だる》そうに肱を突いた掌に頭を支えてごろりと、横になった。
ピータアは自由な、柔かな心を持っている。だが林作のようではない。激しい慾望の遂行を、道徳に反するからといって躊躇《ためらい》はしない、姦通という字があて嵌まる行動だからといって躊《ため》らいはしないが、そこに宗教的な罪の意識ではないが天上を気の毒に思う心がある。やよの掲《かか》げた洋燈《ランプ》の、暈《ぼんや》り赤い光の中に浮び上った砂丘の食卓《テエブル》に、後《うしろ》向きにかけていた天上の、なにかの蹄《わな》にかかった男のような背中が、ピータアの頭に深い傷のようにして、今も残っている。ドゥミトゥリイの苦しみにも心《しん》の臓《ぞう》に突き刺さってくる疼《いた》みがある。石沼で、砂の上に蹲《うずく》まっていたドゥミトゥリイの、苦しむ男を彫像にしたような姿は殆ど不快な疼みをピータアに与えていて、その姿が石沼の薄明るい空と海とを背負って記憶の襞の中に映し出される時、ピータアはその像を打ち消そうとする。固く眼をつむって頸を烈しく打ちふるのだ。ドゥミトゥリイにとって、その哀しみは今では胸の中に抱いている大切なものと化《な》っているだろうことも、モイラの命令で東京の住所を訊《き》きに来た時の彼の様子から、ピータアは読みとっていた。
何処を見るともない眼を据えているピータアの頭にふと、滑らかな、白い紙の上に並んだ一連の羅馬字が浮かんだ。二行から、六行止まりの短いバルザックのエッセイである。
珈琲《カフエ》、茶《テ》、カカオ、煙草《タバ》、砂糖《シユツクル》、火酒《ロオ・ドウ・ヴイ》、なぞの表題が新鮮だ。それぞれの表題から珈琲や煙草の香いが立つようである。どうかした時に頭に浮かんでくる綺麗な印象だ。ピータアはそれを読んだ時、それまで遥かに高い、手の届かぬところにあるもののように思っていた文学というものが、俄かに自分の傍に来たのを覚えた。エッセイ、短文なぞなら、自分にも書ける、というような気がしたのだ。そうして、自分にもいつかは何か、素晴しいものが書けるのだ、と信じたのだ。ピータアの凶暴がふと、鎮められたかに見えた。
その時、扉の向うにドゥミトゥリイに違いないゆっくりした、力強い跫音がした。あまり響きのない、弱い靴の音がそれに混っている。扉の前にくると力強い跫音は直ぐに引返した。
(モイラがそこにいる)
鎮められた凶暴がむくむくと持ち上がってくる。まるで、立ち上がったコブラの頭だ。一二秒の後、ピータアは起ち上がって鍵を抜き、扉を引いた。
薄暗い中に、大きく見開いたモイラの眼があった。意味の無い上目遣いの眼をピータアにあてている。
(この眼だ。石沼で、あの窗枠の中で忽ち俺を自分のものにした、この眼だ……)
モイラがのろのろと入って来て、ピータアに眼をあてた儘、扉の左側の壁に体をもたせるようにして立った。モイラの眼を微かな、気づかぬ程の怯《おび》えが掠めたのを見たピータアの顔が、頬がざらついたようになってひき締まった。
モイラの眼がピータアから外《そ》れ、意味なく漂い、再びピータアに還る。平常《いつも》の曇った眼になっている。モイラはピータアの様子に、何かを感じ取ったらしいが、モイラの恐怖はモイラの核までは届かぬようだ。モイラは家庭教師の御包《みくるみ》と、聖母学園のロザリンダとの、なにものかを潜めた眼によって、恐怖というものを覚えたが、モイラの恐怖はつねにモイラの核心までは届かずにいたようだ。ひょっとすると、モイラという果実は核心を持っていぬのではないのだろうか? モイラの左掌が、脚の上部の辺りの衣《きもの》を上から捻るようにしている。それがピータアを刺戟する。モイラが無意識に遣る媚態である。幼いころからの癖だ。無意識の媚態は男を罠にかける。男をその女の中へひき込む。その動作がピータアのサジスティックな慾情に火を点けた。
ピータアが起ち上がってモイラの前に立ち、骨太の大きな掌がモイラの頸にかかる。頸を締めるような形に掌が頸を上から下へ、撫で下ろすようにする。白い縁《ふち》取りをした、あるかないかに薄い薔薇色の木綿の夏服が汗ばんで、四角く開《あ》いた襟の間から、決して忘れることのなかった百合の茎の香いがピータアを襲った。上目遣いのモイラの眼が無心の挑みを湛え、両掌の指がピータアの掌にかかって、除《の》けようとする。指に汗が滲んでいる。
ピータアの掌はモイラの頸を抑えた儘、又ゆっくりと、撫で下ろす。
「モイラ、君はドゥミトゥリイとも、僕とのように……一度はなるべきだ……きいているのか? 僕とのようにだ。それを遣らなくては神の赦《ゆる》しは無いんだ。それは〈ピータアの神〉だがね」
モイラの頸の両側を抑えつけた二本の指に力が入った。
モイラの咽喉が小さく鳴った。上目蓋にひきついていた瞳が落ち、大きく見開かれる。
ピータアの眼が牙のように尖ってそれを覗きこんだ。依然、無表情な眼だが、苦しげだ。だが肉体の苦しみだけのようだ。それが更にピータアをひきこむ。
(こいつの苦しみは肉体《からだ》だけなんだ)
ピータアの指に力が加わる。モイラの指がゆるく動いて、最初の時に比べて明らかに肉の附いた肩が腰もろともくねる。くねる、というよりは、くねる気配のようなものだ。ピータアの狙った悔いと怖れはそこにはなくて、ピータアが指で、眼の端《はし》で、捉えたのはふてぶてしい媚態である。しかも暈《ぼんや》りとした、無意識の、それだ。
* *
丁度その時林作は、書斎の革の椅子に背をもたせ、午《ひる》の光が鈍く当たっている窗に眼を遣《や》っていた。林作はモイラとピータアとのこの出会いが、こんなような場面になるだろうことを察知していた。
蒸して裂いた鶏に、ドレッシングで和えたトマト、萵苣《ちさ》なぞを添えた一皿に、ドゥミトゥリイを日本橋まで遣《や》って購《か》ったかますのひと塩を焼かせ、もよに鍋と調味料を持って来させて、自分で味をつけ、味噌も分量分小皿に分けて造らせた蓴菜《じゆんさい》の三州味噌の味噌汁に、もよに田舎の家で遣る通りに煮させた茄子の丸煮を添えた昼飯《ひるめし》を遣《つか》って、書斎に上った林作は、扇風機のスイッチを入れてウェストミンスタアに火を点けたところである。
ウェストミンスタアの、薄藍色の烟《けむり》が一瞬まつわる林作の頬の辺りに、微笑いとまではゆかぬ、何かの影のようなものがよぎる。
(悪い奴が……ふむ。ピータアといったな、あのコザック兵の末裔は完全に火になっているのだろう。モイラの男を虜《とりこ》にする仕科《しぐさ》、あれは生来のものだ。まだ小さな娘のころから、あれはああいうものを持っていた。まだ十八になったばかりで、男が前に置いて視る時、なにかの過去の影を背負《せお》っていることを感じさせる、そういうものを持っている。指を脣《くち》へ持ってゆく、肩と腰とが微かにくねる気配をみせる、そんな仕科《しぐさ》の一つ一つが、知らずに遣《や》っていてそれが罠になる。小さな娘のころから、解らぬ奴が見れば白痴《ばか》かと思うような暈《ぼんや》りとした眼で男を見ていた。無意識だとは厳密に言えば言えぬかも知れない。モイラ自身にもその無意識と、そうでないとの境界《さかい》はわかってはいまい。その意識しているのか、そうでないのか判らぬ、暈《ぼんや》りとした眼が罠になる……その意識と無意識との境界《さかい》に、魔がある)
林作の眼にはモイラの、稚い娘のころからのそんな動作の一つ一つが、浮び上がっている。その稚いモイラのようすの一つ一つに可哀くてならぬ、というような眼をあて、吐き出す烟の中に、眼を細めた。
(困った奴だが……あれは天然のものだ。繁世も、繁世の母親も、あれの従姉妹《いとこ》たちも、ああいうものは持っていない。母親の胎《はら》の中で目鼻だちが造られて行く過程の不思議を、俺はよく想うが、それと同じものかも知れない。どこかで、祖父母をも越えた遠い人間たちの持っていたものが、その出来上がって行く過程の中で混ざりこんで来るのだろう。モイラの眼の中にあるものはなにか、それは誰にもわからぬ。あの肉体《からだ》の、眼には明瞭《はつきり》とは見得ぬくねるようなものも、一つ一つの動作も、そのわからぬものから発している。あれの、徹底した自己愛《ナルシシズム》も、そこから出ているのだろうが、そればかりでは説明はつかぬ……俺に、そんなものがあるかも知れぬ。それは女たちを見ていてわかるが……モイラの場合、あれはたしかに優性遺伝というやつだろう。その上に、あの肉体《からだ》だ、皮膚だ。百合の茎の香気だ。あのような、男にとって不可抗力といえるものを何が、どこから取って来てモイラの内部《なか》に差し入れたのか……それは誰にもわからぬ。説明はつかぬ)
肱掛椅子の背に深く凭れ、依然、窗の辺りに眼を遣《や》っている林作の、頬に窺える微笑いの影には、想いがモイラの肉体《からだ》に移ったころから、これは父親のものだと、林作自身釈明の出来ぬなにかが、あった。
ややあって林作は、起ち上がって扇風機のスイッチを切り、新しい紙巻に火を点けた。
* *
ピータアは不意に、肉体《からだ》の内部に衝撃を覚えて掌をモイラの咽喉から離し、横抱きに寝台の上に圧《おさ》えつけ、立ち身でモイラを見下ろした。
油のような艶を出したピータアの美しい顔は、熱病に冒《かか》った男のような眼が妙に眉にひっ附いて見え、火の呼吸《いき》を吐く脣は半ば開《あ》いて、片端が引き吊るように上がっている。髪も眉も艶をおびて洗われたようだ。
熱のある眼に嫩者の怒りと激情がくるめき、ピータアの汗ばんだ右掌が弛く額を払った。
顎を仰向けたモイラの、褪《あ》せたような薄紅色の脣は半ば開《あ》いている。ピータアの様子を窺うようにもみえる下目遣いに見開いた眼は、居据ったしぶとい甘えの中にくぐもっている。モイラのくぐもりである。いつ、どこから持って来たものか? 母親の胎内からか? 太い、肥え切った蚕。水灰色の鈍いくもりと、重みを持った、あの蚕のくぐもりだ。
ほっと、短い呼吸《いき》をつき、ピータアはゆっくりと、モイラの上に屈《かが》みこんだ。ピータアの黒い、上瞼にひっついた眼を間近に見たモイラは、半ば開いた脣を泣きかけた子供のように歪め、腕を高く曲げて眼を蔽い、かすかに身を捩じった。モイラの香気が強く発つ、ピータアがその腕をひき毟《むし》る、暗い眼がちらとピータアを視、歪んだ脣のまま、がっくりと、モイラは顔を横に伏せた。
ピータアはモイラの肩を掴んで寝台に押しつけ、火のような呼吸《いき》を吐いたが、一息つくとゆっくりと背中のフックを外した。縁《へり》に三角形の枠のある、太く荒い格子の窗硝子が、午の鈍い光を反射している、蒸されるような部屋の中で、まだ固さを残しながらに熟した十七歳のモイラの肉体《からだ》は再びピータアの犠牲《いけにえ》台の上に置かれた。最初の時のピータアの、烈しいがやさしい愛撫は酷《むご》い遣り方に変っている。胸の尖端から加えられた啄《ついば》みは残虐で鋭い。はっきりと伝わるモイラの怯えがピータアの残虐をあおる。切なげな、断《き》れ断《ぎ》れの呼吸《いき》をついて逃れようとするモイラの下で、三分幅の鉄を格子に組み、藁のマットを置いたピータアの寝台《ベツド》が啼くような音をたてて軋む。ふと、生温かなものがひろがり、それが腰の番《つが》いに響くのを覚えてモイラは戦慄の中で抵抗の力を失くした。殆ど哀れみを覚えさせずにはおかないモイラを、ピータアはその生温かな戦慄から放とうとはしない。次第に弱まってゆくモイラの短い呼吸《いき》に、残虐なものをいやが上にもあおられ、ピータアはわれにもあらず残虐を繰り返し、その儘何度か、恐ろしい陶酔の中に陥ちこんで行った。
ようよう、残酷からモイラを解き放したピータアは、モイラの肩の両脇に突いた掌に半身を支えて、モイラを見下ろした。顎を空に、屍のような体を横たえ、腰の辺りを襲う強い余炎に力無くくねるモイラに据えたピータアの眼は、まだ熄《や》みやらぬ残虐への慾求を潜め、むしろ静かに、暗い。何かを断ち切ろうとするようにピータアは体を起して、足元の洋服をモイラの体にかけて遣り、時計の針を確かめた。三時を四十分近く廻っている。モイラの横に体を延ばした時、ふと|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》くように動いて、モイラがピータアを仰いだ。ピータアの眼は怒張していた虹彩が消えて、陰気に光っている。ピータアの仕科に愕いたのだろう、両端が下がって半ば開いた、哭くような脣、何か異様なものを見た子供のような眼が暗く曇って一瞬ピータアを見たが直ぐに外《そ》れて、又仰のけにがっくり頭を落した。琥珀《こはく》色の、湿り気のある、可哀らしい肉の柱のような右腕が出て、(熱い……)というように、洋服の襟を掴んでひき下げようとする。その胸の辺りに、どこかに、しぶとい媚が見える、意識して遣《や》っているのか、そうでないのかわからぬ、重みのある媚びだ。閉め切った部屋の中で、モイラの皮膚の下から蒸し出される、ピータアを挑撥して止まぬモイラの香気は、二年前の、百合の茎から摘出した香気に加えて何かの果実のような酸味が加わっていて、それが今日、モイラが部屋に入って来た時からピータアを襲いつづけている……今の今まで、嗜虐《しぎやく》と言ってもいい残虐に駆りたてられていたピータアだが、ピータアの理性はどこかで覚めていて、その残虐には危いところで埒《らち》を越えぬ刃止めがなされていた。と、ピータアは信じていた。モイラの体に、何かの痕を残さぬようにしていた。〈ピータアの神〉に従って遣《や》っているのだ、という、どんな時にもピータアを離さぬ意識がある。モイラを横たえたのが、祖父のサチンの寝台の上だという誇りもあった。嗄《か》れ嗄《が》れのモイラの吐息にも手を弛めぬ、残虐な愛撫は、気品を失わなかった、とピータアは信じていた。今日の狂気には限らない。日頃、(俺は莫迦なことはしない)という自負を持っているピータアだった筈だ。それがこのモイラの、意識しているとも、無意識とも明瞭でない媚び、あらがいえぬ圧しのようなものに会ってピータアは、眼がくらんだようになって、抑えようにも抑えられぬ疼《うず》きを、覚えた。ピータアは咽喉元に突き上げてくる熱い塊のようなものを嚥《の》み込んだ。
(俺は何をするか知れない……もう離して遣らなくては……そうでないと俺は……)
再びモイラの咽喉に伸びたピータアの掌が根元を抑えつけようとするように見えたが、熱いものに触れたように直ぐに外され、仰のいた顎を捉まえて、モイラの顔を自分の方にひき向けた。脣は歪んで開《あ》いた儘、怯えた眼をしたモイラの顔は脣が妙に膨らんでいる。
「もう時間がない……」
「レモネェドがある。嚥《の》むか?」
モイラの顎がピータアの掌の中で、肯《がえ》んじるように微かに動いた。半身を起しかけたピータアが言った。
「まだ起き上れないだろう?」
顎が又動いた。目が平常《いつも》のモイラの目になって、うっとりとしたような曇りを出してピータアを見上げている。ピータアの、憎悪か、惑溺かわからぬものが燃え上がる。
(抑えなくてはいけない……まだ稚いんだこの女は。蛇のような反応をしていながら、まるで子供だ……だが底に持っているものがある……それを意識していないとは言えない)
ピータアの様子に幾らか安心したのだろう、モイラの目は自らも得知らぬ、媚びのつやを出して凝とピータアにあてられている。ふと香気が強く、発った。ピータアの眼が光り、形のいい脣が再び嗜虐の色を纏って戦《わなな》いた。
モイラは体を悶え、顎を捉まえているピータアの掌に両掌をかけて必死に|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ離そうとしながら、
「……帰る……」
と呟くように言い、懸命に身を起こし、いただきの膨んだ二つの乳を露《あら》わに寝台を下りた。
飛び立つように起き上りざまピータアがモイラの肩口を強く、小突いた。
中心を失ったモイラの体が跳《と》ぶように前へのめって、ピータアの卓《つくえ》の角に眼の下を強く打ちつけ、どこかの骨がどうかした人のように床にくず折れた。
飛びついてモイラを抱き上げ、寝台に横たえるとピータアは、両掌にモイラの頭を挟み、顔を起こした。ピータアの掌の中でがくりと、モイラの顔が俯向いた。顔を覗くと、モイラは恐ろしげに眼を瞑《つむ》り、脣は弛んで、全く勢いを失くしている。右腕はぐたりと折って投げ出されている。傷は皮膚が切れているがわずかで、大したことはない。痕にはならない、と、ピータアは判断した。唯|地腫《じば》れがして、表面が暗紫色を帯びている。
モイラが恐怖に大きく眼を見開いた。眉が顰《しか》んで、脣は細かな上歯をわずかに覗かせて開《あ》いている。
「大丈夫だ。冷やせば直ぐによくなる。……待っておいで」
ピータアは洗面器を取り、扉に鍵をかけておいて、飛び出して行った。氷室までかなりの距離があったので、階段を駆け上がったピータアは扉の前に、極度の不安を現して立っているドゥミトゥリイを見出した。氷を見たドゥミトゥリイは直感的に発熱などではない、モイラがどうかされた、と思ったのだろう、|顳※[#「需+頁」、unicode986c]《こめかみ》の血管がみるみる怒張したが、ピータアに頭を下げ、扉の前から退《すさ》った。
「怪我をさせた」
ピータアが短く言って扉を開け、先に入った。ドゥミトゥリイは黙って洗面器を受取り、ピータアが指で示す抽出《ひきだ》しから氷割りを探し出して、洗面器の上で砕き始めた。細かく砕いた氷をピータアが薄く剥がした脱脂綿を当てた上に当て、ドゥミトゥリイが手早く裂いて出すガァゼを手に取った。ドゥミトゥリイがそっと、抱えるように持ち上げるモイラの頭から顎にかけて、器用に繃帯をかけながら、ピータアはドゥミトゥリイを見ずに横顔を見せた儘で、言った。
「痕にはならない。子供が膝を擦り剥《む》いた時の傷と同じだ」
ドゥミトゥリイの眼にもそれは、認められた。
「さあ……いいか。そっと起きてごらん」
ドゥミトゥリイが扉の外に出て行くのを見送り、ピータアはモイラを抱き起して下着を着けさせ、洋服を着せて遣り、靴下を履かせると扉を開け、モイラを扉口までつれて行った。扉口で立止まったピータアはモイラの肩を抱いてドゥミトゥリイを視た。気持が鎮まって来ていたドゥミトゥリイは、自分を凝と見るピータアの目から、男の哀しみを受けとった。ドゥミトゥリイは黙って眼を伏せた。
ドゥミトゥリイは(では)、というように低く頭を下げ、ピータアは、まだ衝撃が去りやらぬ中にも明らかに、自分が深く、根のようなところで、絡《から》め取ったのだと思う男の様子を見とどける眼をしているモイラに、鋭い、嘴のような眼をあてると、黙って扉を閉めた。
ドゥミトゥリイはモイラの足元を見て、瞬間|躊躇《ためら》ったが決心したようにモイラを横抱きに抱きかかえた。階段を下りながらドゥミトゥリイは、モイラが、肩に手を掛けて掴まることもしない、何も言わず、眼で訴えもしないが、自分への信頼をひそめているのを見て取った。胸の奥で血が荒れ狂うのを覚え、ドゥミトゥリイは燃え上がろうとする胸の火を抑えた。ドゥミトゥリイは自ら自分の不謹慎を戒しめ、抑えつけ、モイラを抱えた肱で玄関の扉を開けると、辺りに素早い眼を配り、モイラをシイトに横たえた。そうしておいて、誰もいないのを見定めておいた管理室の電話に飛びつき、稲本軍医と浅嘉町とに電話をかけた。ドゥミトゥリイが車に帰り、慎重な運転で浅嘉町の家に着いたのは五時を四五分廻っていた。一時から四時までピータアの部屋に居て、四時半には浅嘉町に着く筈であったのだ。
* *
林作の書斎の長椅子寝台《ソフア・ベツド》にぐったりしているモイラは、まだ衝撃から完全に自由になっていない。林作が直ぐに着せ替えた、紅地木綿の普段着がひどく似合っている。この夏林作が、輸入品の中から除《の》けておいた、濃い紅地に、大きな白い水玉《ドツト》の夏服は、広く開いた襟と袖口とにつけたゆるやかなフリルに、これも白の太い縁取りが入っている。二三日前に精養軒に、ロオスト・ビイフ入りのサラドゥを頼んだが、いつものいい肉がないというので、林作は肉が入ってからそれと一緒に届けさせようと思っていたのである。林作が風邪をひいた時に頸に巻く、黒い紋羽二重の布で電球を包《くる》んだ薄暗い光線の中で、モイラはうっとりとしたような目を開《あ》いている。
繃帯は除《と》らずにそっとしてあるが、ドゥミトゥリイの電話でピータアの言葉をきいていて、林作はモイラの傷の状態の不安からは救われていた。ドゥミトゥリイも、必ず痕《あと》にはならぬと思うと、見たところを述べている。自分と同じ程度に、モイラの顔が損じられることに衝撃を受けるにちがいないピータアとドゥミトゥリイとの眼に間違いはあるまいと、林作は思っている。稲本に往診を頼んだ、ドゥミトゥリイの電話をきくと、稲本は西片町に往診に行っているが、出来得る限り早くそちらに伺うだろうという夫人の言葉を得ている。
モイラの枕元に自分の肱掛椅子をひき寄せて掛け、モイラを見遣る林作の微笑は、いつもの林作の顔である。モイラが常にその中に抱かれ、包みこまれる、何もかもを、すべてを察知している、林作の表情である。だがその日の林作はその微笑いの中に、一抹の不安を隠していた。林作の頭にはピータアがモイラの体に、最初の時のような恋の痕跡を残していはせぬか、という不安が萌《きざ》している。林作はピータアを、じっくり観察したことはない。道で擦れちがったことがあるきりだが、しかもピータアの燃え上がっている時にしか、見ていない。だがピータアの中に知性と、ストイックなものを見当ててはいる。だが石沼で、朝と夜とに二度見たピータアは二度とも、恋に陥った間際のピータアである。ピータアは黒い水着の下の胸の火を、隠しもあえず、自分の前にその精悍な姿を現わした。ふとした時に脳裡に現われるピータアは紛れもなく、火酒をあおり、腰を低め、ルパァシカの胸を叩き、長靴を交互に蹴上げて踊る、露西亜民族の男であったのだ。そうして林作は、二度目に見た、今年の夏のピータアに、モイラを捉える手段《てだて》を失った懊悩の二年間の間に、充分に培われたらしい、サジスティックな激情の萌芽を見ているのだ。
モイラはドゥミトゥリイが電話をかけたのも知っていた。稲本が直ぐに来るだろうことも、林作が天上に電話で巧《うま》く話をすることも、報らされている。ピータアが氷を当てながら、ドゥミトゥリイに言った言葉も聴いている。
モイラは幾らか元気が出たらしい。林作に凝と眼をあて、薄い掛布の下で胸の辺りから腰をくねるようにした。モイラの眼には、どこか一部が女になっている、しかも中に魔を持っている女の、したたかなものが窺えるが、モイラ自身は意識してはいない。モイラは林作に、ピータアから受けた衝撃の恐怖を訴えているのだが、モイラの中の、幼い時から持っていた魔が、モイラの知らぬところでしぶといものを出して、凝と、林作を見据えるのだ。
林作が紅い木綿の衣《きもの》に蔽われたモイラの肩を軽く叩いた。
「ピータア君が前とちがったのだね……そうだろう?……」
林作の、稚い娘に微笑いかける微笑の中に、今は何かの、別な要素がある。どこかに、大人の女にものを言うようなところがある。林作の内部と、モイラの内部とで父親と、既《も》うどこかで女になっている娘とが対《むか》い合っているのだ。
林作が後を続ける。
「……モイラがそうしてしまったのだ。そうだろう?……モイラの中にいる悪い魔ものが遣《や》ったのだね。モイラはよくわかってはいないのだろうが……」
稚い悪魔の仔を見て微笑っている、親の悪魔は、肱突きに肱を突いた右掌で頬を軽く支え、モイラの心の中を覗くようにして、見た。
(困った奴だ。太い奴だと、言って遣《や》ってもいいのだ。……最初がピアノの教師だったが、今度はピータアだ。だが中にある火を抑えて、外に出さぬようにしているドゥミトゥリイの傷手《いたで》が、他の誰のよりも酷《ひど》いかも知れぬ。あれは今日、兄の掌で、モイラを抱いて来たが……それでいてこれはまだ子供だ。本人はよくわってはいない。もっとも意識した悪魔で狂気になる男もいないだろう……問題は天上君だが……モイラには嘘が吐《つ》けない。嘘の吐《つ》けない悪魔というのは困ったものだ……)
支えた右掌の人差指で、深く窪みの入った林作の頬が、独白とは別な、好色とも言えぬこともない、艶めいた微笑いを浮べている。
やがて、ドゥミトゥリイの案内で入って来た稲本軍医は、モイラの繃帯に上からそっと触ったが、この儘で置くのがいいだろうと、言った。ドゥミトゥリイに、何を下に当てたかを、聴いていたのである。脱脂綿に橄欖《オリイヴ》油を塗らなかったのがいけなかったので、今はこの儘そっとしておいて、傷口が固まるのを待った方がいいだろうと、いうのだった。幼い時からモイラを診ている稲本にはモイラが、小さな子供のようにも、又自分の娘のようにも見えるのだろう。モイラに、結婚前に恋人のあったことを、林作から打ち明かされている稲本は、ドゥミトゥリイの様子から大凡《おおよそ》の察しがついているらしく不安気で、言葉少なに帰って行った。天上の家に診に行くことも請け合い、繃帯がずれて来てもその儘、上からそっと抑えるように縛っておいて、痛まずに繃帯が除《と》れるようになったら手当てに行くからと、言い置いて、行った。
稲本軍医が帰ると林作は、卓上電話で天上を呼び出した。
「やあ、今日はモイラを一寸遅く帰します。いや、いやなに、例の妙な癖が出て、ピアノの椅子から跳《と》んだのです。傍《そば》にあった椅子の角に眼の下を打《ぶ》つけたのですが、稲本君が今帰ったところです。心配はないということで、……ええ、小さい頃膝小僧を擦り剥いた時の状態より軽い。傷が元通りになるのは僕が見てもわかる。稲本君が厚めに繃帯を巻いたので、見たところは大袈裟だが……繃帯は痛まずに除れるまでその儘にしておくのがいいということで。自然に外れたら手当てに行くということです。ええ、本人は大分|衝撃《シヨツク》で今、書斎に寝かせています。これから飯を食わせて、ええ、ドゥミトゥリイがむろん送って行きます。ああ、いえ、こっちこそご心配をかけます。じゃあ」
膝小僧を擦り剥いた状態、というところでは軽い笑い声をたてたりして話す林作の話は天上に疑いを挟ませなかった。だが、電話を切る前に、車で迎えに行こうと言い出そうとした時、天上は何かが自分を引き止めるのを、感じた。不思議な感覚である。何ものかが細い、弱い力で、だがあらがい得ぬ力で、後《うしろ》からひいたような感じを、天上は覚えた。後頭部の皮膚の裏で、細い、だが強い糸が後《うしろ》からひいたのだ。同時に背筋を走り抜ける、ぞっとするような感覚があった。天上は我に返ると、重いものを置くようにして、受話器を置いた。モイラが林作の家で怪我をしたことに疑惑を抱いたのではない。林作が話した理由以外にどんな場合がある、と考えたのではない。理由はないのだ。だが天上は林作の書斎に入って行くということに強い抵抗を覚えた。今、自分があの二人のいる部屋へ入って行くことは、何かいやな眼に会うことになる、自分が喜劇的な役割をつとめることになる、そんな恐怖が天上を、襲った。何がどうだから抵抗がある、というのではない。全く理由はないのである。林作も、天上が電話を切る直前の様子に、感ずるものがあった。天上の沈黙の中に何か解《げ》せぬものがあったのだ。もともと天上は林作とモイラとを前に置いて、見ていることに苦痛を感ずる。そんな時、林作のふとしたそぶり、言葉のはしばしに、二人の間に出てくるなにかに、天上の神経を痛めるものがあるのは常のことである。天上はモイラを実家に遣《や》っている時に迎えに来たことはない。極く稀なその日は、父親と娘の日にしておいて遣ろうという、それが天上の、夫としての思い遣りだと受けとるのは表面的な受けとり方だと、林作も思っている。その父娘《おやこ》と天上との関係はとうに、互いの間で知れていることである。だが今の天上の無言の中にあったものは、受話器の向うに感ぜられた余韻はそれだけではない。それもあるが、それだけではない。
(俺の想像が当っているとすると、守安という男はかなり敏感だが……モイラを溺愛しているためだろう)
と、林作は思った。そうして、
(今日は下手に早く帰さぬ方がいいだろう。慌《あわ》てたようすを見せることはまずいだろう。なにも明確《はつきり》疑問を起しているという訳ではない。要心をして見せることは疑惑を抱かせることになる)
と、思案した。
林作が受話器を置いて椅子に戻ると、モイラは不敵な思いの中に沈んでいるらしい。片耳に、電話の様子は聴いていたのだろうが、大してそこへ気を取られてはいなかったようだ。
恐怖の後《あと》で、一人の男の燃え上がりを杯の底まで、一滴《ひとしずく》も余《あま》さず自分のものにしたことを自覚したのだ。可哀らしい肉食獣は、まだ生々しい衝撃の記憶の中で、男の恋の肉片を思うさま食いちらした満足に浸っている。微笑を底に潜めた林作の目に、幾らかの苦みが加わる。(仕方のない奴が)という愛《いと》しみとは別に、(なかなかの奴だ)という共感がある。してやったり、という気持がある。気分のいい、藁床《わらどこ》の上に転がり廻る獣のような、不思議なよろこびが、林作の中に生じている。石沼の二階の、板張りの部屋で、ピータアと密会した直後のモイラといた時の、空間になにかが漂う、音の無い音のような一つの情緒が今、薄暗い書斎の内部に紛れもなくただよい、林作の娘を見遣る微笑いに、苦味《にがみ》と、幾らかの鋭さを添加している。モイラも今はそこに気づいている。林作を見る懶《ものう》げな目の中に、林作は仲間の、共感者の色を、見当てていた。
林作はモイラが、軽いとはいえ怪我をしていることを考えて、もよを呼んで献立を訊《き》いてみると、やよに習った、鶏の叩き肉をいためて馬鈴薯のマッシュで包《くる》んだコロッケだというので、鶏ならいいだろうと言ったが、牛肉の肉汁《スウプ》は止めさせて、時間はかかるが野菜を幾種類か使った野菜|清汁《スウプ》を新しくとらせることにした。モイラの勉強机を運ばせ、もよが荒れた掌でがさがさいわせながら拡げた、野葡萄の地紋のある真白な卓子《テエブル》掛けで急|拵《ごし》らえの食卓が出来た。鱒の塩焼に蜆の三州味噌汁などの、林作の分と一緒に鶏肉のコロッケ、温い清汁《スウプ》が並ぶと、暗い電燈の下の、楽しい晩餐が始まった。
もよが、彼女なりに気を利かせて、冷たくした生のトマトの輪切りを、大皿に盛って運んで来た。もよは牟礼家に来る前に、他の家に勤めていて気に入られていたのを、やよの懇請で別な理由を申し立ててこっちに来ているので、常に前の雇い主に済まない気持で、肩をすぼめるようにしている。やよによく似た性情の女である。モイラが、もよが皿を卓子《テエブル》に置くや否やフォオクを伸ばして一切れ突刺して脣《くち》に入れながら、そんなもよをじろりと、見た。
「あたしの匙は?」
「うん、これは美味《うま》そうだ。モイラの匙は柄に飾りのあるやつだ。やよが教えて行ったろう?」
もよはモイラをチラと見てから林作を見、
「はい」
と答えて、顔を赤くし、肩をすぼめて、退《さが》って行った。林作が言葉をかけなかったらどうなったろうと、思われるほどである。もよは牟礼の家に来てそろそろ半年になるが、まだこの家に馴れていない。もよは漁師の娘であるというためばかりではなく地の黒い、固肥りの胸を痛めることが多いのだ。
ドゥミトゥリイは用事の口しか利かぬが、温い気持を持っていることは伝わってくる。だがやよにきいてみると露西亜人との混血児《あいのこ》だということで、もよにとっては見たことのない人間である。林作も自分を気に入っている様子で、劬《いた》わって呉れる。だが、この家の、元いた家とは異《ちが》う雰囲気がもよには馴染めぬのだ。ことに全く物を言わないモイラをもよは恐れていた。
(稀《たま》には宿《とま》らせて、朝飯《あさめし》を一緒にくいたいものだ……)
林作は、トマトを又もフォオクに突き刺しているモイラを見遣り、独り心に呟いたが、モイラはフォオクでコロッケを突き崩し、もよの持って来た自分専用の匙で清汁《スウプ》と飯と肉料理とを、交る交る脣に運ぶことにただ、熱中している。
(大分腹が空いていたのだな。だが動物のような奴だ……刹那、刹那のことより頭にない。可哀らしい動物だな)
面白いものを見るような微笑いが、林作の頬に浮んだ。
七時半近く、車の支度が出来た。モイラがドゥミトゥリイに輔《たす》けられて車に乗り、紅い普段着を入れた風呂敷包みを持ってドゥミトゥリイが運転台に乗りこむのを、玄関に立って見届けた林作は、ふと胸にひろがる不安を覚え、書斎への階段をゆっくりと、上って行った。
(爆発物だ……)
書斎の扉を閉め、紙巻を一本抜いて火を点けた林作は心の内に独白した。
(天上守安はあの男なりに、静かな生涯を送ることが出来た筈だった。そこへ俺が爆発物を送りつけてしまったのだな……)
* *
顔半面が繃帯で包まれたモイラが、車を下りて門内に入った時、モイラは花園の中の道を近づいてくる伊作を見た。繃帯の蔭から伊作を見た時モイラは、秘密を持って帰って来たのだよ、というような、どこやら事ありげな顔つきを隠そうとしなかった。モイラは、頭にあるものがそのまま顔に出る自分なのだということを知っていた。それもあったが、花々の厚く重なった闇の中からその痩せた体を、いやな物怪《もののけ》のように現わして来た伊作を見た瞬間、モイラのふてぶてしさが腹の底から滲《にじ》み出たのである。車が浅嘉町の家を出た時から、モイラは苛々していた。又もう一度あの家に帰るのだということが、退屈な人間の集まっている家の中に帰って行くのだということが、いやだった。ピータアと林作とに会い、ドゥミトゥリイにかしずかれて来たこの日、モイラはことさらに天上に、伊作に、嫌厭を覚えたのである。いつ何時《なんどき》来るかも知れぬ磯子にも、その天上の家の、退屈な人間たち全部に、嫌厭を、抱いたのだ。表面慇懃な様子で、伊作は尚も数歩歩み寄って立ち止まり、頭を下げた。顔を上げざまモイラをチラと見た伊作の眼は、鶏小屋の外に吊した貝の内側のように、光った。伊作は既に天上から、モイラの怪我について聴いて居る。そうしてその出来事《アクシダン》に、なにかを、感じていた。もやもやとした、外側との間に境目《さかいめ》のない、禍を運んで来る暗い、湿った靄のようなものを感じとっていたのだ。
この日、モイラが牟礼家に行ったことを知っていた伊作は、既《も》う薄暗い花畑に出て、薄紅と白との暈《ぼ》かしのと、薄黄との天竺《てんじく》牡丹(球形のダリア)を剪《き》り、天上の食卓を飾ろうと邸に入った。台所で食堂の花壜を洗い、花の水切りをしていると、自分と並んでサラドゥの野菜を刻んでいる台所女中のともえの後《うしろ》に立って指図をしていた李がつと、退《ど》いたので振り返ると女中頭の本間いしが後に立っていた。
「食堂の花? 相変らず旦那思いだね。今日はモイラ様はお帰りが遅くなるんだそうだよ。どうしたんだか、旦那は黙っているがね」
本間いしを認めると直ぐに顔をもとに戻した伊作は無表情に水切りをつづけている。
ふと、サラドゥの萵苣《ちさ》の香いが立ち、それが伊作の寂寥を強めた。伊作が花を挿《さ》した花壜を持って出て行くと、本間いしはそれを尻目|遣《づか》いに見送り、
「全く張合いのない……旦那によく似ているよ」
と、呟いた。
食堂には電燈が点いていて、もう天上がそこに立っていた。
「花か。綺麗だ……モイラが怪我をして少し帰りが遅くなる。あれは運動というものが嫌いで、あまり活溌な動作をせぬ女だが、稀《まれ》に椅子に乗って跳び下りたりする。子供の頃からだ。それはお前も知っていたな。……今日牟礼さんの家で、ピアノの椅子から跳んだ拍子に椅子の角に眼の下を打ったのだ。林作さんの電話では大したことはないが、皮膚が一寸切れたということだ。それで今日は少し遅くなる……」
「それは……」
「稲本君というモイラを小さい頃から診ている軍医が診て、傷は痕にはならぬということだ」
「さようでございますか。それはよろしゅうございました」
「迎えに行って遣ろうかと思ったが。……いや、……もう退《さが》ってよい。ああ、それから今夜はどうも食慾がない。料理を箸をつけぬ内にとり分けて、持って行かせるから晩飯にたべておくれ」
「はい。勿体のうございます」
伊作は低く頭を下げて、退《すさ》って行った。
扉口で一度振り返った伊作を、天上は凝と見遣り、そうして、(もう行け)というように顎を掬《しやく》うようにした。
林作がひそかに思い遣《や》っていたように、やよはひどく苦しい立場に立たされていた。やよは一昨年《おととし》の夏、モイラの上に起きたことについては、唯驚き恐れるばかりであった。やよは、この家に来てからのモイラの心持を、わからぬのではない。だが、石沼の家の階段の下で、モイラから無理やりに懐に押し込まれ、預からせられた紙切れといい、この頃のドゥミトゥリイの様子といい、モイラの周囲には何か秘密な気配がある。モイラの部屋から出てくるドゥミトゥリイは、平常《いつも》の暗い顔が一層暗くなっていて、可怕いように見える。何か言いかけようと思ってもそれが出来ぬ。それらの一切があの、露西亜の嫩い人に関係しているのではないだろうか。そんなことには疎いやよの胸にも、その疑惑は今では抜き難いものになって来ている。その不安が、それでなくても周囲《あたり》に気を置いているやよをいよいよ身の置きどころのない思いに追い遣るのだ。
やよは李に頼まれて裏庭にパセリを摘みに出て、戻って台所口から入ると、本間いしが立ちはだかるようにして、立っていた。
「ちょいと、モイラ様は今日はお帰りが遅《おく》れるとさ……何があったか知らないけどね」
と、本間いしは言った。
やよが不安を抑えて、ともえの仕事を手伝っているところに食堂の呼鈴が鳴った。本間いしが行きはすまいかと思ったやよは、急いでエプロンで濡れた掌を拭きながら食堂に、行った。エプロンで掌を拭かぬようにと、やよは林作から躾けられている。それは長いこと習慣になっていたのだが、やよは落つきを失くしていた。廊下でやよはハッとしてエプロンの皺を伸ばし、食堂の扉を開けた。天上は静かに、卓子《テエブル》に着いていた。天上の深い静かさが、やよの心《しん》の臓《ぞう》を掴んだ。
邸の近くにある呉服屋で反物を買い、暇を見て縫い上げた、細かい縦縞の中に玉菊をおいた、地味な浴衣の体を小さくして、やよは天上の言葉を聴いた。伊作の挿したダリアの鮮かな色がやよの胸を切なくする。やよは天上の様子の中に、言葉の表面には出ていないなにものかを、感じないではいられなかった。
林作の電話を聴いた後《あと》で、ふと湧いて出たおののきのようなものが、そのおののきの小さな細胞のようなものが天上の中で、思いもかけず分裂して殖《ふ》え、それが天上の胸の底に落ちている。それが、天上が隠していようとしても、やよには見せまいとしても、その気遣《きづか》いの隙き間を破って天上の様子の上に現れる。それがやよに伝わるのだ。モイラの怪我という胸のいたむ衝撃を、それでなくても抱《かか》えているやよは、この天上の、不吉な匂いを漂わせている様子にひしがれて、凝と頸を肩の間に埋めるようにして、天上の話を聴いた。そうして俯向いた顔を一層低く下げた。
「ひどいお怪我でなくて、よろしゅうございました」
と、呟くように言い、跫音を盗むようにして、退って行った。
一《ひと》箇所《ところ》には笑いをさえ混じえた、林作の完璧な演技は、やよの真実な、嘘いつわりのない不安な様子と、明瞭《はつきり》と見て取れる恐怖とによって一挙に突き崩された、と、天上は見た。質実な性情を裸に剥《む》いた、このやよの様子に眼をあて、天上は哀れみを抑え得ぬと同時に、そのやよの哀れさの中に、自分を嘖《さいな》む何者かが自分に向けて突きつける白い刃を見た。だが天上は、やよの、身も世もない、というような様子を見ていて、気の毒に思う一方で、大きな肥えた人間というものは、それが大きく肥えていればいるだけ、哀れさも深いものだと、そんな気楽なことを想った。
(大分神経が緊張している)
と思い、天上は頭を左右に弛く、振った。
伊作が台所口を出る時、「お食事はお運びしていいようだ」と、李に言って行ったので、やよはから拭きした通い盆を配膳台に置き、冷たい魚の皿、サラドゥを並べると、清汁を熱くして、吸物椀に注いだ。やよの顔色の悪いのを見た李は、「わたしが代りましょう」と言って、前掛けを外し、通い盆を持って行った。ともえに運ばせては粗相をしかねないのだ。いしが代ればいいのだが、と、李は心の内に怒った。
李が、燈《あかり》の下に並べた、馬鈴薯とレモンを添えた冷たい鱒に、萵苣《ちさ》とトマト、グリイン・アスパラガスの盛り合わせに玉葱の薄切りとパセリを散らしたサラドゥ。やよが心を籠めて造《こし》らえたらしい、海老の擦り身団子に、種抜きした白瓜の輪切りをあしらった清汁。吸い口の青柚子。それらの色彩《いろ》が、壁に黒い影を落している天竺牡丹の薄紅、薄黄と映え合うように美しいが、天上の眼にその夜の燈火《ひ》は冷たく見え、食卓の色彩《いろ》は言い知れぬ悲哀を伴っていた。
(確かに事があった、というのではない。それなのにこの俺のとり乱しかたは、どうしたのだ。いや、何かがある……それでなくて……)
天上はとつ、おいつ、想いながら、脣もとに自嘲の笑いを浮べ、箸を取った。
伊作をもう一度、嘲りをひそめた眼で凝と見ると、モイラは伊作と挨拶を交しているドゥミトゥリイをそこに残して、一人玄関に入った。出迎えた他の雇人たちには眼もくれず、モイラはやよに顎を掬《しやく》って、やよと居間に上った。
用意した着替えを出して来たやよが、口籠るように言った。
「旦那様が……」
「うん」
モイラはやよに手伝わせて洋服を脱いだ。
「お風呂を召しませんでした。お料理も……」
「黙っておいで」
モイラが言った。
モイラはほんの一寸でも湯が熱いと、痛くて入れない。それで、その日は林作が湯加減を見た湯に一人で入った。もよは、モイラの傍に来るとおずおずして、火傷《やけど》をした皮膚に触るようなさわり方でモイラの体に触れ、背中に湯をかけようとして耳の上辺りまでかけたりするので、一人で入ったのだ。紅い普段着と一緒に、林作が買い取っておいた暗い橙《オレンジ》色の海綿に石鹸の泡をふくませたのを手に、頸から体をぞんざいに擦り、暑さと恐怖で浮いた汗を流したモイラの体は、新しい香気を放っている。
やよが差し出す、白に薄藍色の二本縞の普段着を押し戻し、
「赤い洋服……」
と言った時、憚《はばか》るようなノックの音がした。
やよが扉を細めに開けると、ドゥミトゥリイが扉の影に隠れるようにして立っていて、見馴れた濃い鼠の縮緬の風呂敷包みを差し出した。やよはその包みが、今モイラの言った、赤い洋服であろうと、それを受け取り、黙って引返すドゥミトゥリイを見送った。二人の召使いは廊下の突当りの部屋にいる天上に何となく気を兼ね、不安な想いを無言の中に交していた。モイラが、やよの手から引ったくるようにして真紅《あか》い洋服を着ると、真紅《あか》い木綿の色がよく似合って、やよの眼にも、どこかの外国の女のようにみえる。モイラは鏡の前の椅子にかけて足を組み、黒い靴下を脱ぎ、やよの顔を凝と見ると、寝台にもぐり込んだ。
(やよはわかっているんだ。……やよがあんな顔をしていれば守安もあんな変な顔になるんだ。きっと、……。そうなればいいんだ。あんな、口から涎を流している獣《けもの》みたいな守安なんか)
モイラは一旦《いつたん》ひき被《かぶ》った掛布をうるさそうに剥《は》いで、やよに背中を向け、こう、心の中に、呟いた。
九時にはまだ二十分余りあるが、モイラには時間の観念がない。再びいやな家の中に還って来たことへの不機嫌で寝台にもぐりこんだのに過ぎない。掛布の中から立ち昇る、なにかの靄のような香気の中で、モイラは凝と眼を開《あ》いていた。窓のある側の隅に、雲の形をした汚染《しみ》のある高い天井に、部屋の隅に、空間に、退屈の空気が張りつめている。
睡気が差して来ているがモイラの神経の尖端《さき》は生きていて、天上の跫音が、廊下の突当りの居間を出て、一度隣の寝室に入って明りを点け、そうしてから、この部屋に入って来る常時の定《き》まった物音に不快《いや》な予期を抱いている。だが物音はしない。どの位経ったのかモイラはいつか、ずり落ちるような深い睡りの中に、陥《お》ちていた。
ふと、深い睡りから醒《さ》めたモイラは、朝の薄明りの中に立って、自分を見下ろしている天上を見た。天上の顔は一夜の内に憔悴した。目蓋から頬が、青く浮腫《むく》んでいる。
天上は薄明りの中で眼に滲《し》みるように紅い、白い水玉《ドツト》の浮いた服に林作を強く感じ取った。モイラの裏切りを輔佐している男、モイラの、あるゆる意味での後見人、モイラの蔭の恋人!!! 昨夜の林作の、事もなげな、軽い、電話の話しぶりが嘲りの鈴《れい》のように耳の底に蘇ってくる……一夜かかって抑えつけた狂気が再び騒ぎたつのを覚え、天上は両の掌を固く拳《こぶし》に握り締め、軽く瞼を閉じた。ようよう気持をなだめた時、モイラが眼を開《あ》いたのだ。
天上は掠《かす》れた、低い声で、言った。
「よく睡れたようだね。……傷は痛まないか?……」
天上はモイラの、汗の滲んでいる頸の辺り、紅い服の襟から覗いている胸の一部に眼をあてた。
「今朝は暑い。やよに体を拭いて貰うよりも湯殿に行って、シャワアにかかっておいで。僕は今日は会社に行く前に寄るところがあるのでもう出るが、夕飯《ゆうめし》には帰る……」
静かな声でそう言うと天上は、幾らか乾いたモイラの脣に眼をあて、苦しいものを追い払おうとしているように見えたが、ふと、耐え得ぬようにモイラの上に身を屈《かが》めた。汗に湿った顎に掌をかけて持ち上げ、血の色の薄いその脣に深い接吻を埋《うず》めた。淵の中へのめりこんで行くような接吻である。天上にとって、それは危険な接吻で、あった。これ以上モイラの深みに嵌ることが、自分にとって危険であることを天上は自覚している。しかもそこに嵌りこまずにいることは出来得ぬと、天上は知っている。モイラの接吻の表情は常と変らぬ。ただ男のする儘に委せている、なげやりな、懶い脣の表情は、常時《いつも》変らぬモイラのものである。そういう表情であることが、相手の気を惹きこむ一つの技なのだということを、モイラは最初から、最初の接吻をせぬ内から、どこかで、さとっていたようにみえる。モイラがどこから、どこの空間から、そんなものを、そのような機微のようなものを取って来たのか、それは誰にもわからぬ。神か、悪魔か、一つの超人間的な存在が、いつか、どこかで、モイラに手渡したのか、モイラ自身が掴みとったのか。おそらく、その超人間的なあるものからモイラの魂の中に移り、なにかの悪い細胞のように繁殖して固まった一つの練りものなのだろう。モイラと交渉を持った男はまだ二人だけであるが、そのピータアも、天上も、女が相手の接吻なり、愛撫なりに応える脣の技巧、体のテクニックなどというものが、その巧緻であるべきものとされている技が、モイラの稚《おさな》いともいえる反応の仕方に及ばぬものだということを、モイラを愛撫していて、知ったようだ。少なくともピータアという青年と天上に限っては、自然に、そんな観念を持ったといっていい。
モイラは目ざめたばかりの眼を凝《じつ》と見開いていたが、天上の息づかいさえ静かな、拵えたもののように見える静かさを持った言葉が終った時、その曇りのある表情には何の変化も、現われなかった。昨夜の帰途の車の中で、むらむらとモイラを包んだ不満が固まり、それが練りもののようになって、そこからモイラの中のふてぶてしさが滲み出て来たのである。その梃《てこ》でも動かぬ、魔のようなものが今、完全なものとなってモイラから発している。もうそこには、鳩のエンミイを逃がした後《あと》のモイラは居ない。ようようのことで自身を抑えている、自身の中の呻《うめ》きをなだめている天上は、そのモイラの様子を見て、その金縛《かなしば》りになった胸の中で、絞られるような呻きを発した。
天上はモイラから離れると、やよを呼ぶための呼鈴を押して、部屋を出た。隣の、自分の寝室に一旦入り、そこを抜けて奥の書斎に入った。肱掛椅子にかけてある上着を取って着け、紙入れ、印鑑の袋、ハンカチイフ、万年筆なぞをそれぞれの場所に納める間も天上は、胸の辺りに纏《まつ》わりついていて離れようとせぬ、今離れて来たばかりのモイラの香気に、手もなく酔いしれている己《おのれ》に哀れみを催し、今日から明日へ、それから又いつの日までか、続くであろう苦しみの時間を想うのだ。髪に櫛を入れようとして覗いた柱鏡に映った天上の顔には、見るに耐えぬ苦渋がある。
(これが俺の顔だろうか? 今から二年前の……いや、少なくとも一年前の、まだ俺が、モイラとの日々に希《のぞ》みを抱いていた頃の、あの俺の顔だろうか? あの頃はまだ俺は、希みを抱いていた。楽しくもあった。楽しくしていたことが、何故、このようにして、罰せられなくてはならぬのだろうか? 何故? それは何故だ。俺が何かの宗教を持っていたらこう言って神に問うただろう。稀有《けう》な花のようなモイラの、花粉の中に溺れ果てて、酔いしれたような俺だった。花々に埋《うず》もれたようなこの館《やかた》の中で……伊作の咲かせる花々の中で、朝夕エンミイを見ることに安らかな、よろこびを見つけていた俺は、その庭の花々よりも、どこの世界の花よりも香気のある、モイラという肉で造られた花を得た。そうして俺は、思ってもみぬ歓びを得た。はかない歓びであったかもしれぬ。偽《いつわり》の歓びであったかもしれぬ。だが毎朝の鏡の中にみる俺の顔には生気があった。眼にも力があった。……大体俺はもとから、嫩者らしさを持っているとは言えぬ男だ。磯子もよく言って微笑っていたように、ごく若い頃から若年寄りのようなところがあった。たしかに俺には嫩者の溌溂としたところがなかった。だが、モイラを得た俺の眼には生々《いきいき》とした光があった。皮膚にも張りがあった。……それがこの鏡の中の顔はどうだ。皮膚の色は青ざめている。頬の皮膚は垂《たる》んでいる。眼には力が無い。……)
天上は指先で浮腫《むく》んだ高頬の辺りを押した。そうして、厭なものを払いのけようとするように、頭を左右に振った。
天上が階下に下りると、その日も常のように、玄関には雇人達が居並んでいる。雇人達の様子の中には当然、既になにかを知っている気配が、あった。天上は彼らの前を通らないでは外には出られぬ。天上が彼らの前を通った時|河岸《かわぎし》の葦の葉をよぎる風のように、その気配が渡った。眼を上げて、自分を見ることもせぬ女どもの俯向けた庇髪《ひさしがみ》の辺りに、掌を揃えた膝の辺りに、それがある。侮《あなど》りわらいの気配である。女たちの侮りの、声のない笑いは今日の天上にとって薄い両刃《もろは》の刃物であった。うすうす感じとってはいるらしいが、奥のことに関心を持たぬのはコックの李と、運転手の木村利夫である。特に木村利夫が、何ごとにも関心を持たぬ男であることは天上にとってこの朝、吻《ほつ》と吐息を吐《つ》く程の救いであった。花園の間の小径《こみち》に出て見送っている伊作にも、天上は少なからず抵抗を覚えるのだ。
車に乗り込んだ天上の眼が伊作に行く。
(旦那様。……お元気でお帰り下さいますように)
伊作の眼が言った。
天上の眼がそれに応《こた》える。
(そんな眼をして呉れるな、伊作……俺は大丈夫だ……)
そうして苦しげに伊作の眼から逃れ、天上はシイトの背に寄りかかった。
(大丈夫でなどあるものか。意気地のないこの俺が……意気地のない、痴《し》れ者の、この俺が……)
木村利夫の肩越しに、フロント硝子を照り返す朝の陽に、充血した眼を瞬き、天上はふと突き上げてくるものを、覚えた。
(車で迎えに来て、運転をしたのはあの、ドゥミトゥリイだ。あの屈強な、容貌もいいドゥミトゥリイ……モイラへの恋心を、胸の奥に隠しているドゥミトゥリイだ。どこへ寄り道をしようと、モイラの意志の儘だ。そうしてその後《うしろ》にはあの父親がいる。あの父親が黒幕だ。俺がこれまで見たことのない種類の、さほど美男というのではないが様子のいい、林作という父親。あの男は、どのようにも取れる微笑いを浮べることがある。ふと眼を伏せて、翳《かげ》るような微笑いをすることがある。モイラが、俺の前もかまわずに甘えようとする瞬間に見せる微笑いが、それだ。微笑いと一緒に上半身を折るようにして、それを俺に見せぬようにする。……俺や磯子には解らぬ、深いところに、考えをおいているところがある。深い……深いところに、なにかをおいて、それがどんなことであろうと、恬《てん》としているところがある。その俺にはわからぬ考えから、どのようなことをモイラの自由に委せるかも知れぬ……嗚呼《ああ》!!!……どのようなことを!!!)
天上は整った顔を醜く歪めた。
(それでいて常識を備えている。もののわかったところがある。その考えにも誰にも批難をさせぬ清潔《きれい》なところがある。それがどうも、深いところで、召使い達なぞを服させているふしがある。あのドゥミトゥリイとやよとはあの男を、神のように崇《あが》めている。慕っている。やよなどは、あの男への奉仕のために、苦しい思いを耐《こら》えている。まるでサン・セバスチアンだ。そればかりか、モイラを嫌っているこっちの召使いたちまでが、あの父親にいい感情を抱いている。服している。モイラという香いのいい花を、この家に迎えてからというもの、俺は孤立無援だ。双方の召使い達から軽侮をうけている、侮《あなど》りの礫《つぶて》を、浴びている。それが又昨夜から酷《ひど》くなった……段がついてひどくなった……ドゥミトゥリイの、やよの、哀れみも、俺には耐えられぬ。伊作の献身さえもが、俺にはわずらわしいばかりだ。すまぬと思う。だが不愉快だ。唯一人の味方の伊作の顔からさえ、俺は逃げている。唯一人の味方顔をする……そんな不快を、覚えるのだ。……磯子が遠いところで、俺を案じている。見まもっている。それさえ、耐えられぬ。俺は、……誰もいない、誰からも見られぬ場所で、この苦患を耐えていたい)
天上は青白い掌で、重い額を支えた。汗ばんだ額に少し熱があるのを、天上は感じた。
(何という俺は、腑甲斐《ふがい》のない男だろう。哀れな男。意気地のない、いや、愚かなのだ。愚か者だ……あの林作氏に比べて俺は、多分|稚《おさな》いのかも知れぬ。そうなのだろう。あの父親の中に悪魔を見るこの俺は多分、稚い男なのだ。どうされようと、どうすることも出来ぬ。この俺には……何処かにいる、モイラの蔭の男の手から、モイラを奪い返すことも、まして父親の手からモイラを奪い取ることも、出来ぬ。あの、肉で創られた、香気の高い花を自分のものにして、永く傍に置こうとした俺の慾望は、許されぬことであったのか……惑わしと、香気に満ちたあの花の、花粉に塗《まみ》れて溺れ死ぬ夜を……幾夜かおくった俺は、唯神に感謝を抱いていた。それが罰せられなくてはならぬのか? 何故だ。俺は自分を醜いとは思わぬ。美しい部類だと、思っていた、だが……あの父親の、ウェストミンスタアの烟の中で微笑う様子のよさには及ばぬ。洒落男とはああいうものか。林作という男が唯者でないことは、あの教練場で最初に顔を合せた時に俺にはわかっていた。モイラとの関係が、特異なものでないまでも、通常の父と娘との続柄《リエエゾン》でないことも、わかっていた。あの時から、あの最初の日に二人を見た時から、俺は罠に落ちたのだ……)
天上は、額を支えた掌を放して顔を上げた。車は綱島街道に出ていて、綱島温泉辺りをゆっくりと走っている。性悪《しようわる》な女狐《めぎづね》の罠を見抜いた男のような、覚めた眼をした天上は、明るい窗外に少時《しばらく》眼を遣《や》っていたが、再び眼を膝に落した。
(なるほど。……あのモイラを嫁入らせるとなれば牟礼の家と同等か、それより上の金のある家でなくてはならなかったろう。召使いも、やよを附けて寄越《よこ》すとしても他にも数人はいなくてはなるまい。婿になる男も或水準の智識階級の男でなくてはなるまい。そこに林作氏の眼鏡《めがね》にかなうものがあったのだ……家《うち》は係累も少ない。式の日に見たモイラの母方の祖父という郷田重臣氏の賛成も、それで得たのだろう。多分、あのドゥミトゥリイも、やよも、相談に加えられて、俺の申入れは受諾されたのだ。……大審院判事だったという、いかにもその職柄らしい厳しさと一緒に、温かさも充分なあの重臣という祖父は、父親にも負けぬ程、モイラを溺愛しているらしい様子が見えた。肺炎の後《あと》で、快癒祝いをした直後だという話だったが、そこへモイラの慶事のよろこびが重なって、見ていても静かな歓びが漂ってみえた。今も眼に残っている。モイラの配偶者として俺を適任と見て、俺の申入れを受けたのはいい。結婚というものはそういうものだ。だがあの父親の場合は他になにかがあった筈だ。モイラとの間に、父と娘というより以上のなにものかを持っているあの父親にとって稚い、人の好い俺という男は、恰好の婿だったのに違いない。一目でモイラに惚れた俺は、喜んでモイラを嫁に申し受けた、それだけであの男にとっては充分だった筈だ。あの父親も最初は、それ以上のことを考えてはいなかったろうが……あの男はその俺の稚さにつけこんで、モイラの、何かの要求を入れた。……何ということだ! モイラを貰った、というそのことだけで、俺は立派に或意味で cocu だ)
天上の左眉の上の血管が怒張した。
(そうだ。……俺は cocu にされたのだ。もうそれだけで俺は充分に苦しんでいる。あの男にはこの俺の苦しみがわかっている筈だ。だがこの俺の苦しみが、あの父親にとってはむしろ笑うべきことなのだろう。今まで見ていて、それが俺にはわかる。あの種の男にとって、男と女との間のことで稚いということは、取るに足りぬ程その人間の価値をひき下げる条件なのだ。男女のことに疎いということはそれだけで、嘲笑われていいことなのだろう。あの男にとって、俺を欺くことは赤子の掌を捻じるようなものだ。だが、やよがいた。やよの様子が俺になにかを報らせたのだ。やよの素朴な、可憐な苦しみが、俺の眼の前に曝露せられて、あの男の巧妙に隠蔽《かく》した筈の秘密の匂いを、俺の前にさらけ出したのだ。……だがそれも、これもいい。すべて俺は耐えよう……だがすべてを俺が耐えるとしても、今朝のモイラの、あのようすは!!!……あの、びくともしない、不逞なようすは!!! モイラは……もう居直っている。ほんの僅かの愛情さえ持ってはいなかったのだと、今朝のあの、モイラの眼は、俺に向かって言い放ったのだ)
天上は瞼の窪んだ眼を軽く閉じ、シイトに頭を凭《もた》せた。
稍《やや》あって、天上は身を起こしたが、天上の眼は何も見ていないようにみえる。望みを失った男の、洞《うつろ》な眼が、窗の外に向かって開かれていた。
* *
モイラは掛布をうるさげに、胸の下まで押しやると、天上の去った後《あと》の扉の上に、呪いに近い不機嫌の眼をあてたが、その眼を睨みつけるように宙に据え、長いこと凝《じつ》としていた。やよがノックをしたが「もっと後で」と言って、去らせた。ピータアの部屋の、曇った窗硝子を透《とお》して鈍い、黄色い光が満ちていた暑苦しい寝台《ベツド》の上で、自分を襲った恐怖の愛撫も、眼の下に傷を造った衝撃も、モイラの中で、怖ればかりだったのではない。逃れようとしたのは真剣だった。だがその中に、ピータアを惹いてやろうとする気が無かったのではない。繃帯を巻かれて、部屋を出た時には、モイラは衝撃の後《あと》の疲れの中で自分をとり戻していた。そうして、ピータアの残虐を、自分の持っているものへの自信を測量《はか》る目盛として、モイラは測っていたのである。
(ピータアの方がいい。守安は薄のろいんだ。何をしても、何を言っても、薄のろいんだ。……神様のような顔をして……パァパが一番いい)
モイラは、睡っている間に幾度か寝返りを打ったのだろう。乳房の形をその儘現わして皺になり、体に密着している紅い普段着の姿で起き上がり、やよが来ないかと扉を睨んだ時、遠慮勝ちなやよのノックが、聴えた。
* *
モイラの厭な予感。苛々する、不快な予期は、向うから外された。天上が、自分が怪我をして帰ったことについて何か問い質《ただ》すだろう、という、モイラの不快でならぬ予期は、天上の側から外されたのである。次の朝も、天上は何も言わぬ。又次の日も。天上はモイラの傷について深く問うことをせずにいる。
一日、一日と、日が経った。静かな、表面何事もない日々が、続いていた。睡り足りた、不逞なものを露わにしているモイラが、階上から下りて来る。浴室に入って行く。やよが、肥えた肩をすぼめるようにして、急ぎ足に後について入って行く。白い卓子《テエブル》掛けの地紋が光る朝の食卓で、常のように天上が、モイラの分の半熟卵の殻を匙の柄で軽く叩いて口を開け、別な乾いた匙で食塩を受け皿に少量|滾《こぼ》して、モイラの方に押して遣る。モイラが、食塩の分量が多いのか、少ないというのか、一目見た半熟卵が固過ぎて見えたのか、緩《ゆる》く見えたというのか、むっと黙って、別の皿に匙をつける。そんな朝食がある。李と、やよとが特に気を配り、味にも、盛りつけにも心を籠めて造った料理が並ぶ昼食、そうして夕食が、繰り返される。食卓には花は無い。伊作が花を飾ることを、断念したのだ。だが伊作は、天上一人のために飾る花だけは止めずにいた。朝早く、粒選りの一輪を剪《き》り、天上の書物卓《かきものづくえ》の花壜に挿《さ》しに行くのである。花壜の水かえの行き来にも、天上の睡りを妨げぬように注意しているのだが、夜睡らずにいて、その儘起きていることの多い天上は、伊作が通る跫音を知っていた。跫音を盗んで通る伊作の気配が、天上には切《せつ》ない。むしろわずらわしい。伊作は主人が、ともすれば自分を避けようとするようすのあるのを解っていて、今では天上と顔の合う時には努めて、眼を伏せるようにしているが、心の寂しさは蔽い難い。天上と、モイラとの間の、容易ならないこじれをみて、内心、踊り上らんばかりの興味を示していて、寄るとさわると囁き合っている本間いしと、石田ウメとを除いて、後《あと》の召使いたちはいずれも、主人の気分に圧《お》されていて、何かの重いものが頭に載っているような風で、黙々と立ち働いている。天上の家は、家全体が暗く、うち沈んでいた。生き生きとしているのはモイラ一人である。機嫌はよくない。だが天上の様子に何の痛癢《つうよう》も感ぜぬ様子で、平常《ふだん》と変らず振舞っている。幼い時から膝に抱き、背中に背負って睡らせたりして来たやよさえもが、愛《いと》しいと思う心は変らぬが、(あんまりだ……)と見る瞬間も、あったのだ。
モイラという名の、肉で創られた花は、周囲の状態がどうであろうと、何が起きようと、すべてを自分の養分にして生育を遂げようとするらしく、その暗鬱な家の中で、いよいよ艶と香気を帯びて、花開いて行くように見える。この年の終りに、ようよう満十八歳になるモイラである。モイラの体は、まだ遠い完全な成熟に向って少しずつ近づいているのだ。入浴の手伝いをするやよは、微温湯《ぬるまゆ》で流す石鹸の泡の下から露《あら》われる、モイラのいい香《にお》いのする体のなめらかさに、眩しげな眼を、あてるのだ。
天上は、体の何処かに、悪い腫瘍を持っている男のように、見える。まだ疼痛《いた》みの自覚はないが、内臓に質の悪い肉塊を持っている、というような、そんな風に見える。どことなく疲れた様子をしていて、日頃から好んでいる果物の他にはあまり食慾を示さぬ。
九月も五日を数えた暑い日の朝、稲本軍医が来て、前の晩に繃帯の除《と》れたモイラの傷痕の手当てをした。この一週間程の間モイラは、既《も》う除《と》れそうになっていて、まだ小さな一部分が眼の下の皮膚に膠着《こうちやく》しているために、繃帯を除《の》けることが出来ないのに自烈《じれ》切っていた。繃帯を直す度にやよは、腫れものに触るようにして、気を遣《つか》っていたのだが、ようよう繃帯が離れたので、稲本軍医に往診を願ったのである。眼に着かぬほどの極く細かな、卵の殻の破片のような瘡《かさぶた》が残っているだけの傷痕を見て、天上も、暗い眼色《めいろ》の中にも安堵の気色を見せた。「こうなっていればこの儘にしておくのがいいでしょう」稲本軍医は言って、白いクリイム状のものを薄く延ばし、薬を入れた平たい容れ物をやよに渡して、直ぐに帰って行った。何もないが、茶の用意をしてありますので、と言って、天上が引き留めたが、重い患者を置いて来ましたので、と言って、稲本軍医は丁寧に茶を辞退して、席を立った。稲本軍医は自宅の裏に、簀《す》の子《こ》で渡るようになっている、四畳半と六畳の、患者を預かる部屋を持っていた。軍人の家でなど、腕の確かな軍医に診て貰いたいという家が多少はあるので、簡単な病室を建て増しをしたのである。そこにいる患者がその朝悪くなったのは事実だったが、天上の茶を辞退したのはその理由ではなかったのは、言うまでもない。稲本軍医は林作から、モイラの怪我をした日から後の、天上の家の様子を聴いている。彼は天上の顔色を見て愕き、心痛を深めた。そうして、モイラの側に立っている者として天上から茶の接待《もてなし》を受けることをひどく辛く思ったのである。やよはよく冷えた水蜜桃を二つ、天上が好む皿に載せ、階下の客間で何か読んでいる天上のところに持って行った。
天上は書物から顔を上げると、言った。
「ああ、有難う。……明日《あした》の昼飯にドゥミトゥリイ君が来る。手紙で招いたのだ。ドゥミトゥリイ君のとくに好きなものがあるだろう。それを加えて、献立を造っておくれ。うちの会社の、ドゥミトゥリイ君と話の合いそうな青年が一緒だ。四人前頼む」
瞬間、やよには、何かが響くようにして、天上の苦衷が、伝わった。やよは鼻の上に細かな汗を浮かべ、二つの小さな眼をちらと天上にあてたが、気の毒げにその眼を伏せた。
(はい)
やよは通い盆を持って、廊下を退りながら、思った。
(お気の毒に……)
やよは林作とモイラへの忠誠の誓いを胸に持ちながらも、今の天上の様子を見て、その真実の情の幾分かを分かち与えざるを得ぬ。だが、それかと言ってやよは、天上の前に出るのが恐ろしくてならぬ。やよの立場の苦しさはいよいよ煮詰って来ている。この頃のやよにはどうかすると、此処を逃れて、浅嘉町の家に帰りたい、と思う瞬間がある。林作が、モイラに何かを届けるドゥミトゥリイに、別に自分のための、袷《あわせ》にするための反物をことづけて寄越した時などに、ふっと、魔がさすように、そうなるのだ。やよはモイラが、浅嘉町に帰ろうとしているのではないかと、思ってみることがある。そうして、それを隠しているのではないかと、思うのだ。そうしてやよは直ぐにそれを打ち消す。そうではない。モイラ様はもう今では、何も隠したりはなさらないのだ……。お強くて……それとも……と、もう一つの考えに行く時やよは、恐ろしさに身を縮めるのだ。やよは、今度あったようなことがもう一度繰り返されることを何よりも恐れている。やよは、悩んでいてもさしては窶《やつ》れのこぬ、厚く肥えた、可憐な胸の中で思い廻らすのだ。
(あのようなことがもう一度起きたら、旦那様は今度は、黙ってはいられないだろう……いいえ、やっぱり何も仰言らないのだ。旦那様は。旦那様は黙っていて、ドミトリさんをここにお招びになった。旦那様はなんでも黙っておいでになる。……ああほんとうに、恐ろしい……)やよは呼吸《いき》が止まったように、思った。(……そうだ。お献立を定《き》めなくては……ドミトリさんはシチューが好きだと言っていたことがあったけれど、旦那様と違ってはいけまいし、やっぱりコオルド・ビイフとコンソメにでも、……李さんをわずらわすけれど。おいしさんが又、何か言いはしないだろうか。李さんがいい人だからいいけれど……)
やよはとつおいつ思いながら、李を探して台所に入った。
その日の午後から空が曇り、翌日はひどい吹き降りに、なった。他の者が出てはならぬと、やよは大分前から耳を澄ましていて、呼鈴の音を聴くと直ぐに玄関に出て行った。
ガバガバと音をさせて入って来たドゥミトゥリイは、林作が買い与えたらしいトレンチ・コオトを着ていた。服装《なり》のことはわからぬやよも、見違えるようだと、思った。が、次の瞬間、ドゥミトゥリイの額の深い立て皺を見た。その蒼みがかった暗い色を見た。そうして、自分と同じものを、胸に潜めているのを、見た。ドゥミトゥリイは、事件の日以後のモイラを見ていない。事件以後モイラが、その不逞な本心を露骨に現わして何も恐れず、ふてぶてしい様子で家の中をのし歩いていることを知らない。自分の顔色から天上に、何かを悟られてはならぬと、思っている。だが林作の指示を貰って来てはいるが、それでなくても今日の訪問が、格別に警戒しなくてはならぬものだと考えているわけではない。相客《あいきやく》も招いてあることだ。だが、まずいことのないことをひたすら希っている。モイラの機嫌を取るために、モイラと気心の合った自分を招いた天上ではあるが、顔色、動作には気を附けなくてはならぬと、思っている。ドゥミトゥリイはコオトを脱いでやよに預け、ハンカチを出して袖口などを拭いながらやよに、相客はまだかと、訊いた。その時階段の奥の扉が、細めに開いていて、人のいる気配があるのを見た。この家に御包や柴田によく似たばあさんがいるのを知っているので、おどろきはしなかったが、その時彼はやよの様子に、気附いた。可憐な胸が、精一杯耐えている。胸の中の怯えが、全身に滲み出ている。困った事態を読みとったドゥミトゥリイはやがて、後から来た相客の青年と二人、階下の客間に天上と向い合っていた。
(旦那様はあれを読んでいられたのだろう。だが自分をあまり固くならせぬためにそれは言われなかったのだ。おやよさんがあれでは、ここの旦那様に疑惑を抱かせようとしているようなものだ)
平常《ふだん》着ている灰色の、厚地木綿の襯衣《シヤツ》に、白い洋袴《ズボン》、林作の革バンドのドゥミトゥリイは、努めて不安を抑え、生来の情の厚い、静かな顔を上げていたが、ふと顔を伏せる時などに、そこはかとない気落ちをしたようすが窺われた。ドゥミトゥリイは林作を、殆ど犬がその主人を慕うように、慕っている。最も忠実だと言われる、或種の日本犬のように、林作を慕っている。ドゥミトゥリイは、頭の中に林作を思い浮べることで、むつかしいこの訪問の場を持ちこたえようとしていた。
天上の顔色は、ドゥミトゥリイがこれまでに見たことのない程、蒼かったが、彼は微笑いを浮べて言った。
「ドゥミトゥリイ君のお父さんはたしか、神戸で亡くなったのだったね」
「はい」
「ご主人のロマノフという将校に従《つ》いて日露戦争に従軍したのだったね。君のお父さんは縁がなくて、林作さんの下では働かなかったが、ロマノフという人の、忠実な馬丁で、その人とは友だちのようにしていたそうだ。ドゥミトゥリイ君もお父さんにそっくりだと、林作さんにきいたことがある」
「いいえ……私どもは荒武者でございます。教育も御座いません」
「いや、そんなことはない。……」
天上は、
(羨ましい。林作さんはいい召使いを持たれた)
と続けようとして、その言葉を呑みこんだ。そうしてユウセフの方に顔を向けた。
「ユウセフ君。どう見るね? ドゥミトゥリイ君を。彼は父子《おやこ》揃って忠誠な男だ。コオカサスの生れだ」
「はい。僕はコオカサスの人のことは話に聴いたり、物語を読んだだけですが、あっちの人にはそういう気風があるようですね」
ユウセフという若者はドゥミトゥリイと違って、小柄で痩せているが、母親に似たのだろう、スラヴ民族特有の深い眼の色をしていて、その眼は何ごとかを、感じ取っているように見える。
天上の、この一緒に招かれた逞しい若者を見遣る目顔の中に、どこかに、底意のようなものを、彼は見た。
(美しい女だと聴いている、モイラ夫人の浮気の相手だと見てもおかしくない男だが、そうではないようだ。社長の紹介の言葉に、夫人の家に長くいて、今でもよく使いなぞをして呉れる、というのがあったが……)
と、この嫩者は考えた。
(いずれにせよ、俺の感覚に来た憶測に過ぎない。人に言えることじゃあない)
ユウセフが言った。
「ドゥミトゥリイ君はモスクワをご存じですか?」
「いいえ。親父はたった一度、音楽を聴きに行ったことがあるそうです。母からきいています。友達が案内してくれたのだそうです。オペラで、ああ、『ペトゥリュウシュカ』です」
ドゥミトゥリイはこの初対面の嫩者の、詮索的な眼を愉快に思わなかったが、さり気なく、応えた。
「あれは素晴しいものですね」
「わたしも見てはいないが、レコオドで聴いている。音楽が伸びやかで全体にいいが、最初の出だしがとくにいい。人形芝居の呼び込みに集まった群集の場面だそうだが」
「僕もあそこの音楽が好きでした。僕もレコオドで聴いたのですが」
ユウセフが、言った。
「君たちの国は素晴しいものを持っている……」
そう言った天上の頭にこの時、常に天上の胸の奥底にある何者とも知れぬ嫩者の影が、浮び上がった。石沼の、夜の砂丘で出会った、たしかに異様な出来事以来、天上の胸の奥に在《あ》って、去らずにいる不快を伴う影だ。一人の嫩い人間の映像だ。その影のようなものは、モイラが傷を拵《こしら》えて帰った日を境に実体化して来ている。もともとその影は、影というより、実体が何処かに、たしかにあって、その実体が明瞭《はつきり》せぬままに影のように、朧《おぼろ》げなものになっていたのに過ぎない。俄《にわ》かに実体化した男の幻は、数日前、ユウセフの都合を確かめておいて、林作に宛てて招待の手紙を遣《や》ってからというもの、俄かに一つの実体となり、人間の匂いをさえ、つけて来ている。石沼の夜の砂丘で、後を通った何者かを、林作も、モイラも、知っていた。知っていて、声をかけずにやり過ごした。それが天上の疑惑の種子となった。その種子から、天上の疑惑は少しずつひ弱ながらに育っていた。それが今、天上の頭の奥底に、人間の匂いを纏って、一人の逞しい異国の青年の、何《なに》とも知れぬ香気をさえつけて、現れ、天上を強迫する……、天上の前にはその不快な影の男と同国の、二人の嫩者がいた。同じ文化を背負い、コザック兵の物語を聴いて育った、そうしてヴォルガの水の匂いをつけた、二人の、恐らく影の男と略《ほぼ》同年齢の嫩者。……ユウセフと、ドゥミトゥリイとがいるのだ。
天上は頭を軽く、椅子の背に凭せると、言った。
「失礼、僕はこのところ一寸疲れ気味なので……」
そう言って少間《しばらく》天上は、そうしていたが、頭を起こすとさり気なく紙巻を一本手に取った。ドゥミトゥリイが直ぐに燐寸《マツチ》を摺って差し出す。煙草を吸いつけるために伏せた天上の、疲れ果てた人のような瞼の辺りに眼を遣り、ユウセフは、理由は明瞭《はつきり》しないながらに気の毒な気持は気持として抱きはしたものの、彼はまだ入社して間もない嫩者である。その天上の様子に、(わかりますよ)と、いったような一種の嗤《わら》いを、腹の中では禁じ得ない。モイラの魅力については一度天上家の玄関まで行った嫩い社員の話で、社内で知らぬ者はない。その社員が玄関で、天上の返事を待っていた時、モイラが階段の後から姿を現わし、その男をじろりと見て直ぐに又階段の向うへ入ったのだ。あまり大仰《おおぎよう》に言うので、蕗田《ふきた》という社員が、「ひと目惚れか? いくらひと目惚れしたって社長の奥方じゃあ、どうしようもないだろう」と言い、そこにいた者は皆笑った。その時、常に皮肉な笑いを浮べている男で、嫩い者の話の中に嘴を挟んでくる中老の社員が、言った。「社長のところのは奥方じゃあない。寵姫《おもいもの》だよ」と。ユウセフは寵姫の意味がわからなかったが、後でその意味を知ったのだ。モイラを家に迎えて以来、周囲の嘲笑というものに馴れている天上は、ユウセフの笑いを見ないでも敏感に嗅ぎあてている。天上は、ドゥミトゥリイの燐寸を摺る手もとに、われにもなく感動した。誠実の籠った掌だ。そうして、林作への忠誠の、幾分の一かの分け前に、感動している自らの惨《みじ》めさを、思わずにはいられぬ。しかも、モイラの裏切りに手を貸しているかも知れぬドゥミトゥリイの、そうしてこの男自らもモイラの情人と言って言われぬことはない、ドゥミトゥリイからの分け前に……。天上は心の内に苦しい吐息を吐《つ》いた。
「ああ」
天上はドゥミトゥリイに礼の気持をこめて言い、顔を上げると一服深く吸いこんだ。
隣室で皿や肉刀《ナイフ》の触れ合う音がしていたが、この時境の扉が開いた。
「お仕度が出来ましてございます。旦那様」
細かい紅葉が陰とひなたで出ている浴衣を、肥えた体につつましく着、膝に手をおいてかしこまっているやよの様子には、包み切れぬ不安がある。豆を叩いて横に長くしたような形の、上り気味の二つの眼が落つきなく天上を見たが、続けて言った。
「モイラ様はお気分がお悪くて、失礼をいたしましたけれど、唯今お出でになると、……仰言いました」
「そうか。それはよかった。もう気分はいいのだろう……」
天上は咄嗟《とつさ》に、自分も知っていたように取り繕い、立ち上がった。
「では、何もないが、食事の用意が出来たようだから……」
と言い、二人の先に立った。
やよは心もとない天上の足許に手を添えたげに出した手で、懐の手巾《ハンカチ》をとり出し、鼻の上の汗を拭いながら、三人の後《あと》に従《つ》いて食堂に入った。
コオルド・ビイフに、同じく鶏《チキン》、それと燻製ハムの盛り合わせに、ポテト・サラドゥを添えた皿、秋茄子に小芋、莢隠元《さやいんげん》の炊き合せ、なぞの並んだ卓子《テエブル》に二人を招じ、席についた天上は、ユウセフに、
「このやよというのはこれも、モイラの実家《さと》から来ているのですが、モイラの父親が料理にやかましいので、中々いい味につくるのですよ。そのうま煮ですが、君たちには味が淡《うす》いかも知れんが」
といい、二人の客に目顔で野菜の煮ものを指し示すと、
「さあ、自由にやってくれ給え」
と言い、自分も箸をとったが、食慾は全く、無かった。
やよが運んで来た南瓜のポタァジュをひと口味わうと味がよかったので、幾らか食指が動いた。煮もの、漬物なぞを相手に飯を一膳ゆっくりと摂《と》り、天上は二人の前を繕っている。
(なんということだ。この二人の召使いが傍にいることで、俺は心が和んでいる。いわば敵方の召使いに仕えられていることが、俺の心を柔《やさ》しくしている……)
ドゥミトゥリイがどこか心得た、礼儀のある男だということは、教練場で見た時からわかっていたが、箸を伸ばす手つきといい、挙措がすべて自然で、いやしさがみじんもない。林作の躾もあるだろうが、生来|気稟《きひん》のある男なのだろう。天上はそう思って、ドゥミトゥリイを見た。天上は林作への恨みに耐えぬ想いとは別に、林作の人柄に改めて尊敬の念を抱くのと一緒に、羨望を感ずるのだ。
(やよのいじらしさも、俺の胸を痛くする程だ。林作氏はこのような召使いにかしずかれている。そうしてあの、憎いほどな、説明の出来得ぬあるものを持っている、体全体が香ぐわしい果実のようなモイラを、彼女の胸の中の愛情ぐるみ、自分のものにしていて、その日々に香いを増してゆくのを、傍にいて飽かず眺めていたのだ……ひょっとすると……あの男は、再びその贅沢な生活を、自分のものにする運命を握っているのかも知れぬ……)
眉の根に醜い皺が寄ったのが自分にもわかった天上は、不吉な想いを振り払おうとするように、言った。
「ユウセフ君のお母さんの名はなんというのかね。ドゥミトゥリイ君には親しみのある名だろう」
「マスロオヴァです。『復活』のあの、女の名です。若い頃はマアシャなんて呼ばれていたらしいですが、僕とそっくりの尖った顔をしていて、愛嬌のない女で、それで親父に置いてきぼりをくったんでしょう。僕は親父の顔も知りません」
「『復活』は僕も若い頃読んだ。ドゥミトゥリイ君は? 読んでいるか?」
「はい、旦那様に拝借して読みましたが、始めの方の、家の中のところなぞが、こちらや、浅嘉町のお家に感じが似ているように思いました」
「成程。古風なところがそうかも知れないね」
その時扉が開いて、モイラが入って来て、天上の隣の席に着いた。
モイラの顔色は、常の琥珀《こはく》色がどことなく蒼みをおびている。先刻《さつき》のやよのおこつい[#「おこつい」に傍点]た、落つきのない様子を見ているので、此処にいるものは皆、モイラを仮病だろうと思っている。ユウセフは(なんだ、本ものだったのか)という顔をかくそうとするように肉を一切れ切って口に入れたが、制しようとしても、この不思議な女をまじまじと見ずには居られない。
「まだ、顔色がよくない。無理をしないでもよかったのだ……」
天上が伏目《ふしめ》遣いに、モイラの顔を覗きこんで、言った。
モイラは退屈なので、出て来たのだ。モイラは黙って首を左右に振り、やよが運んで来た熱い肉汁《スウプ》を見たが、匙を取らず、ドゥミトゥリイからユウセフに凝視を流し、サラドゥを脣《くち》に入れた。
天上がコオルド・ビイフにナイフを入れて遣ると、モイラはそばから肉刺《フオオク》で肉を脣に入れる。天上が幾度見ても飽きぬ、紅をつけていない、赤児のように稚い脣である。不安|気《げ》にモイラを偸み見たドゥミトゥリイの眼は、思わず知らずその薄紅い脣の動きに、吸い寄せられた。ドゥミトゥリイは、モイラがものを食うところを見る機会は、遠い昔の森の散歩以来、あまり、なかったのだ。
(挨拶もしないが、とくに俺たちを見|下《くだ》しているのでもないらしい。莫迦のようだがどうしてどうして……自分を見る男という男が自分の罠に陥ちこむのを愉しんでいる、そんな気配もない。罠を仕掛る気なぞないのだ。全く、なんていう奴だ。社長も大変だなあ、こりゃあ……ドゥミトゥリイという男は彼女の相手でないらしいが、親より、夫より以上の熱い眼が彼女の健康を気遣っている。この男も惚れているんだな。もしこの女に、俺の勘通りに何かがあったのだとすると、ただじゃあ済まないな。この、やよとかいう女中も大変だなあ。俺は何のことはない。何も知らずに妙な渦の中へ、巻き込まれたんだ。話が合うだろうからなんていうのは表向きで、この女に何かが起きていて、今日のこの場の空気を緊迫させまいための俺は、道具だったのだ……社長は全く気の毒な状態だ。道具にされようが利用されようが、俺としちゃあ何も言えた義理じゃない。これも残業の一種だろう、会社の禄《ろく》を食《は》んでいる以上はな、それにうちは給料がいい)
ユウセフは心に呟いた。
モイラは、天上の何も口に出さずにいる、膿《う》んだでも潰《つぶ》れたでもない態度が不愉快である。ピータアの部屋へ行って帰った夜からこっち、天上は完全な無風帯である。眼の下の傷について、深く訊くこともしない。疑惑を表に現わすのでもない。裏に疑惑を潜めた言葉を弄するのでもない。天上はモイラの眼から見ると、言ってみれば殉教者の匂いのする様子をしていて、その様子で、そのいやな匂いで、自分を圧迫しているように見えるのだ。絶対者の前に頭《こうべ》を垂れ、ひたすら耐え忍んでいる殉教者の構えで、モイラの仕打ちに耐えている。モイラが何をしようと、足で自分を踏みつけようと、免罪符を与えようとしている、神のようなものになり済ましている、そんなように見えるのだ。モイラの眼にどう見えようと、天上はただ、耐えている。他に想いを遣る心の余裕はないのである。神のように静かな様子をしていて、行い済ました坊主のように、召使いたちにも柔《やさ》しい静かな声で何か言う。その癖どうかすると、眉の間や鼻の脇に醜い皺を寄せる、そうして後頭部の削《そ》げた頭を右に左に、振る。頭の中に、自分で好きで閉じ籠めている苦痛をふり落そうとでもいうように、ゆっくりと振るのだ。そんな天上の様子が、モイラは不愉快でならない。そんな天上の様子に苛々する。その苛々が昴じて顔が蒼んでいるのだ。天上の顔は、英国的な美貌なのだが、鼻が長く、全体に坊主じみたところがある。それをモイラは前から好いていなかったが、モイラが怪我をして帰った日以来、天上の顔にあるその宗教臭のある特長が、俄かに色濃く前面に押し出された観がある。モイラには、天上の顔を見るということが既に、不愉快になっている。もともと、この家に棲みついてはいなかったモイラの心は、今は全く、この家から離れている。天上との関係も、同じである。モイラは今完全に、厭離《おんり》の念に捉えられている。だが、食うことへの慾望は、それとは全く別らしい。飲める程度に冷《さ》めた南瓜のポタァジュを、少しも余さずに平らげ、やよに代りを命じた。二皿目の肉汁《スウプ》を一匙|脣《くち》に入れると、モイラはやよを顧みた。
「これを李に教わって、今度浅嘉町で造《こし》らえて」
やよは、モイラのいないこの家では用事は半減することではあるし、モイラの来ぬ前には他の召使いだけで用は充分足りていたのでもあるから、時折天上が、息ぬきをしてこい、という意味を言外に籠めて、モイラの供を命ずる時なぞには、周囲に気を兼ねながらも喜んで、モイラに従《つ》いて浅嘉町に行くのである。モイラはそんな時に造れという意味で、言ったのだが、言葉半ばにモイラは、自分の言った言葉の持つ危険に、気づいた。自分の今言った言葉が天上に与える或刺戟に、気づいたのだ。モイラは心の中に小さく、嗤った。
(フン)
天上は、モイラの厭離の情を、知っている。モイラの心が、自分からも、この家からも、既に離れていることを知っている。怪我をして帰って来た翌る朝、モイラの自分を見上げた凝視の中に、天上はモイラの変化を見た。その眼は何も考えていない。生々《なまなま》とした、獣のような眼である。天上はその無感情な眼の中に残酷以上の残酷を見た。モイラの変化はそれ以来続いている。モイラが、すべての人間に、あたりのもののすべてに、無関心なのは今に始まったことではない。だがそれまではその無感情が、そのまま出ていたのに過ぎない。モイラの中にあるものがただ自然に、流れ出ていた。動物のようなものを持っているのも、前からのことである。だがモイラに他意がないので、それがモイラの可哀らしさに、繋がっていた。だが天上にとって不倖《ふしあわせ》なその朝以来、モイラの無感情には悪意の裏打ちがなされている。しかもそのふてぶてしい、憎体《にくてい》な様子は徐々にひどくなって来ている。憎体なものは、モイラの中から滲み出て、モイラ全体を蔽っている。モイラの肉体《からだ》の香気と同じことである。遅《のろ》くて、あまり跫音のしないモイラは、艶のある毛並みの獣《けもの》のように、家の中を音を立てずに、歩いている。廊下なぞで出会うやよはそんなモイラを、息を詰めて見送ることがある。やよはモイラの、辺り憚らぬ憎々しい態度の責めを自分の身一つにひき被《かぶ》って、肩を縮め、胸を細めるのだ。やよばかりではない。奥の人間の変化は召使い達にも響いていて、召使い達は黙々として立ち働き、跫音を忍んで歩いている。勢いのいいのは本間いしと石田ウメとの二人である。彼女らは互いに目ひき袖ひき、顔が合えば声をひそめて、何ごとかを、囁き合っている。
自らの気分が造り出した、陰々とした家の中で、天上はますます坊主めいた相貌をあらわして来ている。さして窶れたとも見えぬが脇から見ると鼻が尖って見え、高い鼻の脇には皺に見紛う筋が一本刻まれている。脣の辺りが浮腫《むく》んだように膨らんでいるのが、醜い。
やよが、心の中で思いまわしているのと同じに、天上はモイラの失踪を憂えている。
今偶然に放たれたモイラの、ききようによっては針のある言葉が聴えたのか、聴えぬのか、天上は気のない箸づかいで脣に入れた小芋の甘煮《うまに》が美味《うま》かったのか、その味を確かめようとでもするように頬の辺りを動かしていたが、ふと、眉の間に深い皺を寄せた。今のモイラの言葉は、モイラが浅嘉町に再び帰る日を頭に浮べて発した言葉だと、取りようによっては取れる言葉である。
天上はその時別のことを、考えていた。天上はモイラを迎えて以来、モイラの肉体《からだ》と、モイラの内部に持っているものの中に溺れていて、跡継ぎのことを考えたことは無かったが、曾つてないモイラの、蒼みをおびた顔色と懶げな様子を見て、天上は、俄かに胸騒ぎを覚えた。うれしさの胸騒ぎではない。赤子誕生の歓びは、そこにはなくて、天上がもはやどこかで確実に探りあてている暗い運命の影が当然、赤子の誕生という、歓びのときめきである筈の予感の中に入りこんでいる。その、不倖《ふしあわせ》なものを伴っている不安な胸騒ぎは、又、やよのものでもあった。
ドゥミトゥリイは、モイラの結婚以後は前より以上に林作の生活に近く、触れ合いを持って来ている。モイラを知ることではやよの比ではない。ドゥミトゥリイは先刻《さつき》からモイラを見ていて、退屈と苛立ちから来た顔色だろうと判断している。
(食慾はあるが。磯子がマリイを懐姙した時のようになるのにはまだ間があるのだろう……)
天上は心の中で、言った。
最後の一匙を美味そうに飲みこむと、モイラはドゥミトゥリイを見た。
「この肉汁《スウプ》、おいしいだろう?」
自分の言葉が天上に与えた反応が、判然《はつきり》しないことはもう既にモイラの念頭にはない。モイラは、そう言うと、向い側のドゥミトゥリイに凝らした眼をユウセフに流した。(なんだい、この男は)といった眼だ。この時顔を上げた天上は、努めて気を鎮めようとする様子でドゥミトゥリイに向い、
「どうも今日は、気分が引き立たなくて失礼した。ユウセフ君も気にかけずにくれ給え」
と、言ったが続けて、
「今日の料理はどうだった。やよもなかなかの腕前だが、俺の所の李も支那の料理の他に西洋料理もよくやる。もっともここへ来て独りで勉強したので、日本の西洋料理なのだがね」
「はい。南瓜の肉汁《スウプ》が結構でした。この肉汁《スウプ》は僕ははじめてです」
白い歯を見せて応えはしたものの、ドゥミトゥリイは直ぐに眼を伏せた。
部屋の空気が重くなって、上から何かで圧しつけてでもくるような気分を、此処にいる誰もが感じているのがわかる。
ドゥミトゥリイの後《うしろ》を廻って、やよが差し出した盆に、ユウセフは、
「軽く下さい」
と断って茶碗を載せた。
ユウセフは、先刻《さつき》から何かわからぬもやもやとしたものにあてられ詰めで、うんざりしているが、彼が稀《たま》に行く料理屋ではお目にかかれないコオルド・ビイフ、肉汁《スウプ》も大したものだが、薄い黄色の夏服を着たモイラの、肩まで剥き出しになった腕のまだ固さの残る肉附きと、湿り気のある艶とはそれにも増したご馳走である。モイラは自分に無関心、あとの三人は何か知らぬが悩みの中に頭を突っ込んでいるのを幸い、ユウセフはそのつい鼻の先に突きつけられたご馳走に、チラリ、チラリと、眼を遣《や》っている。
硝子戸を打つ雨風《あめかぜ》の音がひどくなって部屋の中は暗くなり、やよが次に運んで来た、トマトをあしらった萵苣のサラドゥだけが生々と冴え返った色彩《いろ》を放っている。
* *
天上がドゥミトゥリイを招《よ》んだ昼食は、厭離の念に凝り固まったモイラの心を、針の先ほども弛めたわけではない。それどころか、社員の一人であるユウセフに、見せずともよい家の中の暗い面をさらけ出して見せてしまったのだ。これで社内にも、天上を侮る空気が拡がることは疑いない。それに天上は気づいていなかった訳ではない。ドゥミトゥリイとユウセフとを招くことを考えた時に既に、それが効果のないことを、天上は知らなかった訳ではない。だがそれだとしても天上は二人を招待することに、快癒《なお》る望みの無い病人が、わずかな希望をかけて薬を飲むのに似た心持を抱いてはいた。にもかかわらず彼はそのことに深い失望を覚えたのかどうかが判然《はつきり》しないところがある。ドゥミトゥリイを昼食に招んだこと自体が、どこか暈《ぼんや》りとした状態で考え出されたようなところが見えるのだ。この日頃天上は、何にせよ明確な考えに基いて遣《や》っているのかどうかが判然しないように見える。傍で言う人の言葉を、聴いていたのか、いなかったのか、言葉の意味を、どこまで耳に止めていたのかどうか、それも、疑わしいのだ。もともと天上は感情を表に出さぬところがある。磯子に対する感情の現れも、又その娘のマリイに対する愛情の表現も、常に内側に潜んでいて、静かである。生来、天上は静かであることを好んでいる。感情をことさらに隠そうとするのではないのだが、ついそうなるのである。或は、感情が触発せられやすい男で、それを自分で知っていて、その知っていることが、自然に自分から抑制をかけるようになるのかも知れない。それが、事がモイラに関する限り、抑制が破れた。或日、抑制が破れたことに自ら気附いた時には既に遅く、天上は周囲の軽侮の円陣の中にいたのである。天上は、召使いの末にまで内面を見透かされることになった。見るからに遊び人であって、品位というものを決して落さぬ、という条件つきなら、好《す》きものでさえある林作の、奥に潜めた微笑いは更に苦痛である。やよと、ドゥミトゥリイの憐憫を潜めた劬わりに対しても、それに不快に感ずるところは通り過ぎて、施しの餌を投げられて、額にたて皺を寄せ、哀しげに近寄る犬のような惨めなものをおぼえるように、なっている。今、天上の何よりも恐れているのは磯子の訪問で、あった。磯子は、まだ三十五にはなっていない筈である。それにも係らず、額や眼の下、鼻の脇などに、皺が多い。化粧もしていない。それでいてまだ女学生のような、色気のない、可哀げな顔をしていた。幼い頃からどんな時にも変りなく、自分を、姉のような愛情で見護って呉れている磯子である。その磯子の悪気のない可哀げな顔が哀しみを湛えて自分を見るだろう、と、思うので、その顔をおもい浮べることが、天上を苦しめるのだ。伊作の顔を見ることもわずらわしい。伊作の顔はまるで鏡のように、己が心の哀しみを映している。それが耐えられぬ。
天上は今日も鬱々として、肱掛椅子に凭れていた。階下の食堂のポーチに、籐の肱掛椅子が、据えてある。古くからあるこの椅子は、もうニスが落ちて、縁《へり》などはけばだっていて、少しでも身動きすればギイギイと鳴るこの籐椅子を、天上は新しいのと替えようとはしなかった。今になっては尚のこと、胸に悩みのない頃の、懐しい想い出の椅子となった。この籐椅子には嫩《わか》くて死んだ親友の林忠雄との想い出が籠っていた。忠雄と、飽きずにチェスを闘わしたのも、この椅子で、ある。天上がギタアを爪弾いて、忠雄が静かに聴いていたのも、この椅子に寄ってで、あった。この椅子の上に幼いマリイを載せて、不器用な体操をさせていて、食堂に入って来た磯子が駆け寄ってマリイを奪《と》り上げたことがある。その時、磯子は、
(まあ危い。マリイは私の宝ものなんですからね)
と言ったが、彼女はすぐに言葉を続けた。
(守安も私の宝ものだけれど、マリイは小ちゃな私の宝ものなのよ)
と。まだその頃は皺一つない、可哀げな顔に浮んでいた柔《やさ》しい微笑いを、天上は忘れない。磯子はそんな心配りのある柔しい女である。天上はそんなような細君を望んでいた。片山園子はそういうような女だったのだ。モイラはそんな想い出話をして聴かせても、聴いていない。モイラは懐しさ、想い出、というものを殆ど感ずることがない。モイラは自分の方からは何も話さぬ。大体モイラは話というものをしたことがない。モイラは興味を持った相手にだけに、ものを言う。それでさえ、たとえ興味ある相手とでも、殆ど口を利かぬといっていい女である。歓びの表情、感動を現わす様子も示さぬ。幼い頃、林作が外から帰った場合でも、他の子供のように飛んで行ってぶら下ったりはしなかった。むっとしたようなモイラの大きな眼が、相手をみると絡みつくような、粘りのあるものを出す。それだけである。モイラの眼が幾らかでも、歓びを現わしたのは天上の家に林作が、久しぶりに訪れたことをやよが告げた時位のものといっていい。モイラを家に迎えて、その肉体に溺れ、痴《し》れ者のような日々を送っていた天上は、今不意に、モイラの残酷に会った。幾分、鬱病の気味に見える天上の上に寂しさが静かに、迫ってくる。遠くの方でする潮騒の響きが少しずつ近づいてくるように、そくそくとして、迫ってくる。この頃天上は毎日のように、この椅子に寄りにくる。逆に自ら自分を苛めないではいられないようになっている異常な心理からだろうか? もともと天上は、自分の感情というものを、歓びのそれでさえ表に出そうとせぬ男である。出そうとせぬというよりも、自然にそうなる。知らずに、どこかで、抑制がきくのである。それで天上の持っている奥深い賢《かしこ》さも、表には現れない。そのために幼い頃から、小学校の仲間の子供からも侮られ、苛められて来た。それが今だに尾をひいていて、天上には世渡りをする上で、そういった傾きが、ないではない。瑞西《スイス》かどこかの国の話に、こんな話がある。椅子に掛けたきりで、一人では何も出来ない老婦人がいた。附いていて世話をするのが酷《ひど》く意地の悪い婆さんだったが、長い間来る日も来る日も、苛めぬかれている内にその老婦人は、婆さんの意地悪なしでは物足りぬようになった。そうされないでは生きていられぬようになった、というのである。天上はそれを読んでひどく面白く思ったことがある。今の天上にそんな心理もないではない。天上はモイラと暮していて、知らず知らずの内に想い出、懐しさ、というものに飢えるようになっていた。モイラを家に迎え、モイラと住むようになった天上は殆ど全くといってもいい程、想い出に浸るということのないモイラを傍に感じている内に、次第次第に或る飢えを覚えたのである。今、モイラの残酷に会って、気鬱の状態に陥った天上の上に、その飢餓状態が一層大きなものになって襲いかかったのである。
殆ど心、そこにない、といった様子で、天上はその椅子に掛け、指で古びた籐椅子の肱突きの一部を撫でさすっている。そこには跳ね散ったようなインクの汚染《しみ》があった。林忠雄が入っていたサナトリウムに遣る手紙の宛書きを書こうとして、インクが跳ねた跡である。天上の暈《ぼんや》りとした頭の中に、『復活』のネフリュウドフが、兵営から家に帰って居間に入った場面が映っていた。嫩いネフリュウドフが元気一杯に歩き廻り、部屋の柱や壁なぞに残っている少年の頃につけた小刀の瑕《きず》の一つ一つに触れては懐しむ場面である。ポーチで暈《ぼんや》りしているのを好む天上のために、伊作が竹を組んでしつらえ、蔓薔薇を絡ませたアーチのような日覆いを洩れる陽がそんな天上の上に、細かな斑模様を造って、降りそそいでいた。伊作は又、天上の健康を気遣い、同じ気持のやよと語らい、やよの辻堂の家からちゃぼを五羽取り寄せた。日に二つ、多い日には四つ五つの、茜《あかね》色をした新鮮な卵がやよの手によって、天上の好む半熟卵、スクランブルドゥ・エッグ、実なしの茶碗蒸しなどになって、食膳に供せられた。だが依然として天上の食嗜は進まなかった。伊作が細かな心遣いをして養った鶏の卵は、伊作の側からいえばいたずらに、モイラの食慾を満たすだけに、了《おわ》ったのである。やよには天上の悩みの原因もわかっている。その悩みが、どれほど酷いかも察しはついている。だがそれにしても、と、やよは思うのだ。伊作のように以前の天上を見ていないやよである。磯子との信義のある親しみ、婚約者の片山園子との静かに楽しい語らい、そうして伊作との厚い、主従の結びつき、それらの中で威厳のある主人として、召使いにも接していた天上が、代々木の教練場でモイラを見て恋の罠に陥ち、一人の痴れ者となった経緯を見ている伊作とはちがうのである。そうして天上は今、内外の侮りを一身に浴びている。やよの眼にも、天上の愚かではない人柄が、見えていないわけではない。だがそれにしても男らしくない、女々しいと、やよは思わぬではない。辻堂の田舎の娘として育ったやよには、女に迷う男はうつけ者であるという認識がある。東京に来て見た男は林作だけである。やよは林作の悪魔性を知らない。やよにとって林作は、(お偉くて思い遣りの深い旦那様)であった。男性というものの典型で、あったのだ。コックの李の考え方も略《ほぼ》、やよと同じである。李は二十代の大半を中国の大きな邸に雇われて過した。何人もの細君を置いている主人を見て来ている。女のことにせよ、何にせよ、事々しく心にかけぬ、駘蕩《たいとう》とした男を大人《たいじん》と見ている李は、内心では近頃の天上を侮りはじめている。
一方でやよは、モイラの不機嫌が巻き起す、周囲の顰蹙《ひんしゆく》の矢面《やおもて》に立つ立場にあって日々心を砕いている。モイラはやよにも時折は酷く当る。皮膚の湿り気と、その香気とが日増しに度を加えるのに正比例して、思い上がったふてぶてしい様子もひどくなっている。近頃ではモイラの香気は、それを香《か》いだ人間が、何一つ遣る気の起らぬ、深い、曇《どんよ》りとした惰気の中に陥ち込む体《てい》の、一種いいようのないものになっている。モイラは今までにも増して、殆ど物を言わなくなった。そうして心に何かを思いめぐらしているのが窺われる。モイラは、前の夏とは変ったピータアの、サジスティックな愛撫を、恐れている。だが天上の薄のろい、執拗な愛撫よりは数段上のものだと、思っている。モイラはピータアの、恐ろしい愛撫の中で恐怖しながら、一人の嫩者《わかもの》を完全に絡めとった満足を感じ取っていなかったわけではない。それにも係らずモイラは、ピータアの部屋に再び行くことを躊躇《ためら》っている。今日、行こうと、思い立つ日がないのである。モイラはピータアの鋭い、気迫のようなものに圧迫せられるのだ。それより以上に、灼いた解剖刀《メス》のような、恐ろしい愛撫に恐怖を感ずるのだ。モイラはピータアの愛撫に危険を感ずる。彼女はピータアが自分に、酷い危害を加えることはないのを知っている。そのことには確信を持っているのだが、又怪我をするのではあるまいか、という恐怖がある。ふてぶてしいがその半面臆病なモイラは、再度の逢いびきに踏み切ることが出来ずにいる。そのことが又モイラの不機嫌を拡大しているのだ。
やよは今日、午飯の支度のために、少し早めに台所に入っていた。モイラが、馬鈴薯、玉葱、人参、鶏なぞに青い剥《む》き豌豆《えんどう》を加えた清汁《コンソメ》を、何より好んでいるのを知っているやよは、剥き豌豆の出る初夏には勿論であるが、李が、大粒で柔い、青豆の缶詰を仕入れたのを見ると、時季に係らず造ることにしている。今日やよは、明治屋から届いたボオル箱の中に外国製の青豆の缶詰を見つけ、早速に鶏と野菜の清汁《コンソメ》の支度にかかったのだ。一昨年《おととし》の夏、遥か眼の下の海岸《うみぎし》に、モイラといるピータアを見た時やよは、半裸でいて、半裸のモイラと向い合っていながら、どこにもいやらしさのない嫩者であったことをみとめた。男と忍び会うということを、やよは恐ろしいことのように、思っている。まして不義密通ということには、足の顫《ふる》うほどの恐怖を抱くやよなのだが、ピータアには好感を抱いてはいる。ドゥミトゥリイがピータアに抱いている好感から見ればわずかではあるが、幾ばくかの好意を持っている。そこからやよは、天上の傷心をいたましく思いながら、モイラの苛立ちにも、判るところがないでもない。そんな方面には殆ど無智なやよではあるが、やよも一人の女では、あった。まして、忠誠を誓っている林作の唯一人の愛娘《まなむすめ》のモイラである。膝に抱き、背に背負って育てたモイラである。人参、馬鈴薯、鶏の笹身なぞを、小さな賽《さい》の目《め》に刻みながら、やよはどこか浮き浮きしてくるのを覚えた。時折、用もないのに台所に入ってくる本間いしを気にしながらも、俗に盤台面といわれている面積の広い、長四角の、顎の大きい顔を幾らか紅くしてやよは肉汁《スウプ》をとり始めた。そんなやよを、李が横から複雑な気持で見ている。
やがて、李の造らえた間鴨《あいがも》の蒸したものなぞと一緒に、剥き豌豆入りの清汁《コンソメ》が食卓に載った。花が落ちて、葉ばかりになった蔓薔薇を透した眩しい九月の陽光が満ちた真昼の食堂で、食卓についたモイラは、いつになく機嫌よく清汁を平らげ、「もう一つ」と、言った。
暈《ぼんや》りと箸を動かしていた天上が、垂るんだような片頬に薄《うつす》らと、微笑いを浮べて、モイラを見た。天上が掌に箸を持って、料理を脣《くち》に入れるのを見ていると、何ものかに箸を持たせられて、半ば無意識に箸をあやつっているように見える。モイラの天上への残酷を、いちいち傍で見ているやよではあるが、天上の急激な変りように愕かずにはいられぬ。伊作が天上の不興を恐れて、食堂に花を運ぶこともやよに頼むようにしているので、今では天上の唯一人の側近であるやよは、彼の異様な様子をいたましく見ては胸の中に吐息をつき、徒労《むだ》に終るのがわかっていながらも、天上に供する料理に気を遣《つか》っている。この家に来てまだ年月が浅く、天上の好みを会得していないやよは李の意見に従って、そこへ少しずつ、林作のもとで、林作に加減をきいては覚えこんだ日本料理を加えるようにしている。ついこの頃まで天上は、やよの清汁、煮ものなぞにすべて、満足を表わしていた。注文の出ぬのをみてやよは、磯子が李に教えていたものよりは、自分の造るものを気に入っていると見て、つい先頃までは安心していたのだ。そんなやよだが、この頃にはない、モイラの満足そうな顔を見ては嬉しく、天上の陰気な眼が自分の背中に当てられているような気がしながらもいそいそと、替りを取りに退《さが》った。台所に入ると、広い台所に李が一人、調理台の前に立って、窗から外を見ている。本間いしと石田ウメ、愚かしくて、同じことを何度でも指図をしなくては出来ない山口ともえとは違って、李は天上に尊敬を抱いていて、気持よく勤めていただけに、近頃の腑甲斐ない天上の有様を見ては失望を禁じ得ない。すべてに手堅い、杜漏《ずろう》なことを嫌う李は前と変ることもなく勤めてはいるが、何となく遣る気を失くしている。そんな李の気分をやよは一人立っている李の背中に見た。
天上は平均週に一度は、会社を休むようになった。事を構えて欠勤するのである。会社へ出ずに、額を掌で支え、ポーチの椅子に寄っている天上が、モイラは鬱陶《うつとう》しくてならない。モイラが天上を嫌厭する度合いは、更に、増大した。
天上は磯子に手紙を遣ることは欠かさなかったが、磯子に哀しみを与えることを恐れて、モイラの近頃の様子についても、自分の状態についても、殆ど全く真実を伝えぬようにしていた。モイラが浅嘉町に行った折、怪我をして帰ったことは既に知らせていたが、林作の電話の口上をその儘踏襲して書いて遣るだけに止《とど》めておいたのである。若しモイラが天上の疑惑通りにその日、林作の家を基地にして何者かの、恐らく石沼で背後《うしろ》を通った嫩い男の部屋に行って、そこで何時間かを過したとすれば、そうしてその男の手で怪我をさせられたとするなら、林作の電話の口上以上に巧妙な説明はないだろう。もともとモイラに突飛な癖があって、それで怪我をすることがあり、それが前もって林作によって天上に報告されていた、という、林作側にとってこれ以上はない天与の隠れ蓑《みの》が、偶然用意されていたとしても。天上は胸に疑惑を持っていた自分の耳にも、ごく自然に聴き取られた林作の口上を、磯子に遣る手紙に用いたのである。だが磯子は既に、天上の食慾の衰えたことも、家の中の状況も、知っていた。天上の様子を気遣うあまり、伊作が手紙を出していたのだ。むろん、証拠とてないモイラの行先についての疑惑などは、書かれていない。天上の状態の報告も、控えめに書かれている。
朝と夕刻との送り迎えをする度に、伊作は天上の様子を見ている。天上も注意をしているので度々ではないが、玄関から門までの間を歩く天上の足がふとよろめきかけることがある。又伊作は花畑にいて、背高く繁った花魁草《おいらんそう》、虎尾《とらのお》、藤袴《ふじばかま》、なぞの花越しに、ポーチに居る天上を、見ている。そんな天上を見るだけでも応《こた》えたが、伊作はやよと鶏の件で話し合った時にきいた、食嗜がひどく落ちたということが何にも増して、気にかかっている。気にかかってはいるが、磯子に手紙を遣《や》ったことで、天上に対して秘密を持ったことになったことを思うと気が咎めて、天上に話しかけることも出来ぬ。天上が以前のようにふらりと、自分の部屋に入ってくることを、伊作は心待ちにしているが、天上はぱったりと来ぬようになった。天上は今、自らの苦悩の中に一人身を沈めていることを、欲している。自らの苦痛は自分で処理しようと考えている。天上が持っている気嵩《アルダン》な気質からでもあるが、何よりもかによりも、今天上は自らの苦痛を他人《ひと》に覗かれたくない。伊作からも、磯子からさえも、覗かれたくない。覗かれることは苦痛が倍加することで、あった。天上は自分がモイラを家に迎え入れたことが、紛れもない愚挙であったことを、知っている。自分というものは自分一人のものではないことも、知っている。自分の幸福も、不倖《ふしあわせ》も、自分一人のものではない。自分自身の倖《しあわせ》も、自分一人で受けるべきものではない。哀しみも、自分一人が耐えれば済むというものでもない。それも知っている。
磯子は天上のその気持を、知らぬのではない。だが不安を抑えられぬ。磯子は、石沼から帰った頃から天上の様子に翳《かげ》が生じたのを、いち早く見つけている。否、それより前に磯子は、天上の身の上に降りかかるであろう何かを、感じ取っていなかったわけではない。モイラという十七歳の女の持っている、磯子から見ると魔性としかいいようのない何かが、いつか、天上の上に黒い、不吉な影を投げかけるのではあるまいか、と磯子はふと、思うことが、あったのだ。それはモイラを、最初に見た時からのことである。まだ幼顔《おさながお》を残している、潤いのある花片《はなびら》のような肌目《きめ》をしたモイラの顔に、磯子は可哀らしさと同居している魔を見ていたのである。
天上が石沼から帰ったのを知って一度、磯子は田園調布を訪れている。モイラの機嫌を気にかけながら訪れたその日、磯子は前にも増して、故知らぬ不安に捉えられた。磯子はモイラのために、小卓掛を一枚、例の袋《バツグ》に入れて行った。磯子が暇をみて刺繍をしたもので、明るい薄灰色に、鮮やかな紅の濃淡の花をつけた薔薇の枝を縫ったものである。だがモイラは喜ばなかった。黙って掌に取ったが、喜んだのか、そうでないのかわからぬ様子で、気を遣う天上の様子だけが、磯子には痛く、感ぜられた。モイラは不機嫌のために蒼んだ顔をしている時でも、食うものと、身につけるもの、装飾品の類には全く別な反応を示すのだが、身につけられぬ、卓子掛のようなものには、たとえ機嫌のいい時であっても全く、興味がない。モイラはそれを持って居間に上った切り、再び姿を見せなかった。モイラの不機嫌がいつも、この家を暗いもので蔽ってしまう。それを象徴するように、冷い秋風のはしりがその時、屋根を打ちはじめた。その日磯子は天上と二人、モイラの来ぬ前のように淋しい食膳についたが、天上は磯子と食事をしたことが、わずか乍ら楽しそうであった。磯子はそれだけを慰めに、不安の儘で帰って行った。
磯子はモイラが怪我をして帰った日のことを、ほんの小さな出来事《アクシダン》のようにして書いて遣《や》った天上の手紙を受取り、続いて伊作の手紙を見た。前の手紙に書かれたことと、後《あと》の手紙に書かれたこととの間に、深い関聯があろうとまでは思い及ばなかったが、磯子の不安は深まった。
天上の食嗜は依然として恢復しない。
* *
そんな日々の間、林作は行きつけの香雪軒にもあまり行かず、書斎にいて心を痛めていた。浅嘉町の家は、もよが徐々に馴れて来て、おどおどするところはまだ除《と》れないが、煮物や汁の味つけに林作をわずらわすこともないように、なった。客が来ても一応の挨拶、接待もするように、なった。漬物は来た当時から、林作にかなりの満足を与えるように漬けている。半年近く、前にいた家で仕込まれたものだろう。東京風の浅漬けの白瓜。茄子なぞも、絶やさない。林作とドゥミトゥリイとの、親しみの深まった生活は静かである。ドゥミトゥリイの造った朝顔はとうに盛りを過ぎ、花も小さく、すがれて来たが、瓜、秋茄子、枝豆、なぞの野菜の収穫は豊富で、林作を喜ばせている。もよの手助けも大きく響いているようだ。
日曜日で家にいる林作は、今階段の踊場に立って、窗の硝子越しに裏庭を見下していた。ドゥミトゥリイが野菜畑に跼《しやが》んで、茄子を|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》いでいる。漬物にするのだろう。ドゥミトゥリイの上に空は隈なく晴れて、一昼夜降り続けた秋雨の上った後《あと》の爽やかな秋日和である。
林作はたしかに心を痛めている。だが心を痛めている、といっても林作の場合は林作は林作なりに、と附け加えた方が、当っていよう。林作の心痛は、天上が気鬱状態に陥っている田園調布の家に、モイラが存在している、というところにある。そればかりではむろんない。天上の状態に惻隠の心を抑えかねていることは言うまでもない。だが林作の心痛は、モイラがひょっとして、林作の許に帰ろうといい出して、林作がモイラの希いの実現に手を貸すとするなら、林作の心痛は殆ど無くなる。胸の中の暗いものは晴れるのである。モイラがピータアの部屋に行った日には、まだ今の悪い状態は起きていなかった。モイラの意志をきいてみることも無かったのだ。
ドゥミトゥリイから、モイラの様子を聴いた時林作は、ピータアと会ったために平常《へいぜい》の生活の、一種いわれぬ鬱陶しさと、苛立たしさとが爆発したのだろうと、推察した。モイラはあの日、小半日、コオカサスの嫩者の部屋で長い時間を過ごした。それも寝台の上で恋の刻《とき》を過ごしたのである。ドゥミトゥリイに劬わられて、モイラはこの家に帰って来た。それから俺の部屋で、俺と飯を食った。俺が加減を見て遣《や》って湯に入り、そうして、帰って行ったのだ。ドゥミトゥリイに附添われて。露西亜の青年も、同じコオカサスの生れのドゥミトゥリイも、女を退屈させる男ではない。そこでいつになく、モイラは小半日を、天上から離れて暮した。それがモイラの平常《いつも》絶えない苛々を、爆発させたのだろうと、林作は見ている。最初の内林作は、天上をさほど退屈な男とも感ぜなかったが、二度、三度、往き来して見ると、次第に面白くない男であることがわかって来た。天上は思慮の深い、賢い男ではあるが、女に対しては、善良だ、というだけの男である。恐らく、モイラに対しては優しいというだけの夫だろう。モイラが、「なんにでも、薄のろいのだ」と言っていたこともある。天上の顔の中の気に入らぬところが、だんだんに前よりも厭になってくる、と言ったのは、嫩者の部屋に行った日であった。
その日めごちのフライに、枝豆の莢ごとの甘煮《うまに》、蜆の三州味噌汁なぞで夕食を摂った後、書斎に上った林作は、もよに白葡萄酒を持って来させ、ついでドゥミトゥリイを呼びに遣《や》った。
ドゥミトゥリイの胸にも、林作と同じ心痛があったが、入って来た彼の顔には爽やかな微笑いが、あった。ドゥミトゥリイは林作に呼ばれて、話相手をするのがこの上なく、楽しいのだ。
「やっと涼しくなったね。畑が大変だろう、秋茄子も小さくなったが、丸ごと塩漬けしたやつもいい。小さい奴の丸煮も、もよが中々美味く煮るようになった」
「はい。わたくしも戴きますがおやよさんとあまり違わないようになりました……」
やよの名が口脣《くち》に乗ったとたんにドゥミトゥリイは脣《くち》を噤《つぐ》み、二人の間に沈黙が生れた。
林作がドゥミトゥリイの洋杯《コツプ》に葡萄酒を注いで遣り、ドゥミトゥリイは洋杯《コツプ》を軽く上げ、一口飲んだがその儘両掌で膝の上に、囲むように持ち、顔を伏せた。
少間《しばらく》して林作が言った。
「やよも、……あれはいい奴だけに……ずい分苦しいことだろう。むつかしい人間関係のひずみをあれが全部|引被《ひつかぶ》っているのだ。あれを向うへ附けてやる時に、気の毒だとは思ったのだが。……ドゥミトゥリイも見ているように、やよというのは誠実だけでやって行く奴だ。困難な中をくぐり抜けるのには誠実が一番近道、ということも、或はあるかも知れんが……だがこの状態もそう長いことはあるまい。何かの形でかたづくだろう……望んではならないことだがね」
葡萄酒の洋杯《コツプ》を掌にした儘、脣へは持って行かずに、ふと眼を上げたドゥミトゥリイを見|遣《や》った林作の顔には複雑なものが、あった。
(旦那様の中には神がある。そうしてその又奥に……)
ドゥミトゥリイは心の内に、言った。
林作はドゥミトゥリイのその内部の声を、確実に捉えている。
(だが俺の敬愛する旦那様だ。俺の大切な、旦那様なのだ。神の後にいる悪魔も……旦那様の中にあるのだから……)
ドゥミトゥリイは又心に、呟いた。ドゥミトゥリイは林作というものを解りかけて来ている。まだよくはわからぬ、暈《ぼんや》りとしたものとして、見えているようなのだが。
「ドゥミトゥリイは赤の方が好きだったが、白葡萄酒でもいいだろう?」
「はい。この辛い方なら戴きます」
「ドゥミトゥリイもなかなかになったな」
ドゥミトゥリイは、そう言った林作の顔を仰いだが、林作の眉が曇っているのを見てハッと、胸先が冷たくなるのを覚えた。だが、林作と万事同じ見方をするようになって来ているドゥミトゥリイである。林作の不安が、(万が一)という譬《たと》えの、万という数字を、もっと膨大な数字に置きかえなくてはならない程度のものなのだということに直ぐに心附き、吻と小さな息をつき、再び掌の洋杯《コツプ》に、眼を落した。林作も、ドゥミトゥリイも、モイラが危害を蒙ることを、大根《おおね》では予想していない。たとえそれが胸に浮んだとしても、直ぐに消え去る体《てい》のもので、あった。モイラの危険。それは一つの、仮想のようなものである。
気を変えるように、林作が言った。
「ドゥミトゥリイは稀《たま》にだが向うの家に行く機会があるから厭だろう。天上君の状態はひどいようだね」
「はい」
主従は少間《しばらく》、黙って、葡萄酒を味わっていた。
「当分の間だろうが、俺とドゥミトゥリイとの話はあまり愉快なものにはならんね。……馬もいなくなったし、ドゥミトゥリイは朝顔造りと畑仕事だけになったね。一層《いつそ》花でも造るか、あの家のあれ、伊作君のように」
ふと顔を上げたドゥミトゥリイと林作との眼が合い、二人の顔に同時に一種の苦笑いが、浮んだ。ドゥミトゥリイの眼は、(あんな男と同じことは)と言い、林作はそれを肯んじたのである。
「そうだ。もう牡蠣《かき》の食える月になった。今度神楽坂の田原屋へでも行って生の奴を食うか。ドゥミトゥリイは生の牡蠣はどうだ?」
「はい。おやよさんの酢の物で味は知っております。大好きなものの一つでございます。有難うございます。お供させて頂きます」
「モイラも伴れて行かれるといいが」
「はい……」
白葡萄酒のほのかな酔いと一しょに、親しみ深い主従の夜は更けて、行った。
すべてが通じ合い、解け合っている、林作とドゥミトゥリイとの、幾らかの心痛を抱きながらも楽しい、平和な夜であった。
もよがおどおどと入って来て、庭へ向いた鎧戸を閉ざし、窗掛をひいた。サイド・テェブルの上に眼を遣り、まだ下げなくていいのだと判断したらしく、又肩をすぼめて、退って行った。
その夜、部屋に帰ったドゥミトゥリイは、部屋の電燈を捻《ひね》ると、五|燭《しよく》の電球の光に清潔に片附いた部屋が照らし出されたが、その黄色い光が隈なく照らす小さな部屋の中に、どこかに希望の明りのようなものが仄見えているのが、胸に来た。又モイラと同じ邸内《やしきうち》に住む日が来るのではないか、という想いが、ドゥミトゥリイの胸に静かな波のように、拡がったのである。
一人残ってウェストミンスタアに火を点けた林作の胸にも同じ想いが、あった。
* *
ドゥミトゥリイの部屋が、五燭の電球の明りながらもその清潔な生活が照らし出されていると同時に、どこかに明るさがあるのにひきかえ、伊作の部屋は暗かった。同じ五燭の光も暈《かさ》を被《かむ》ったように曇っていて、伊作の気持の尖った、惨めな暮しの様《さま》を、照らし出していた。伊作のモイラを憎む心がこの部屋の毎日の暮しの中で、鑢《やすり》にかけられる細い鋼《かね》のように一日一日と尖って来たのだ。天上がこの部屋を訪れなくなったのは、天上が、自らの苦痛の中に一人で沈みこんでいたいためではあるが、又彼は今自己の苦痛以外に心を遣ることは出来ない状態でもあるが、この棘々しいものが感ぜられるということも、無意識の内に、原因になっていたのかも知れない。天上はモイラに、嫉妬の針を尖らせてはいるが、又、若し自分にそれが出来るなら、オセロオのように、モイラの細い頸に掌をかけて、縊《くび》り殺して遣りたいと、思うこともあるが、彼はモイラを憎んではいないのである。
その憎んでいない、天上の、憎むことの出来ぬ性格がいよいよモイラに天上を嫌厭させ、モイラの苛立ちを強める。思うさま逆毛を立てた獰猛な山猫のようなモイラは日、一日と、やよをおびやかすようになって行った。
再び蒸暑さがぶり返して来た九月の半ばの或日、やよはいつも通り、モイラの部屋で呼鈴が鳴るのを聴いて急ぎ足に居間に上った。マントルピイスの上の仏蘭西陶器の洗面器を小卓に下ろし、水入れの水をたっぷり注《つ》いで、オオ・デ・コロオニュをざぶざぶと注《そそ》ぐと、汗の滲んだ下着を脱がせ、白地のタオルを水に浸して絞り、モイラの頸から先にゆっくりと拭き始めた。白の無地の縁《へり》に紺と紅臙脂との細い線の入っている、ごく普通の、どこにでもあるタオルである。林作は下手に洒落た外国製のものなぞを嫌っていて自身もモイラも、これ以外には使わぬ。気のせいかこの頃になってますます緻密になったように思われる、潤んだような皮膚を拭いながら、やよは恐る恐る言った。
「あの、モイラ様、今日あたりパパ様のところにお遊びにお出でになりましては……」
「いかない」
モイラはにべもなく言った切り、黙って拭かせている。何か心に思うことが、あるようである。思うことがある、というより、心に定《き》めていることがあるように、見える。やよにもそれが伝わり、やよは何故か心の中に戦《おのの》くものを、覚えた。
昼の間は何事もなかった。
天上の食嗜の衰えがここへ来て酷《ひど》いので、やよは李と相談をして、夕食の献立を立てた。麺麭は明治屋から焼きたてのものを取ることにし、ついでにウィルキンソン炭酸水を頼んだ。李が鶏を控えめに使った清汁《コンソメ》を取り、小さめの舌平目をシシリア風の軽いフライにした。胃に重いのか、天上は近頃麺麭を命じるようになっている。附合せは薄切りのポテト・フライを附け、独活《うど》と萵苣《ちさ》と淡紅色のトマトをサラドゥにし、麺麭の時にも漬物を摂る天上のために小茄子と白瓜の塩漬けに紅生姜をあしらうことにした。李もさすがにこの頃では天上の健康をひどく憂えている。李とてモイラの、普通の女とちがう点を見ていない訳ではないのである。やよはモイラの食事にも深く心を使い、舌平目は骨を嫌うので平目の切身を選び、モイラに、刺身にするかフライにするかをきいてから李に、同じようなフライに頼んだ。馬鈴薯、人参、生の玉葱に、缶詰の青豆を入れた野菜サラドゥを作り、他に砂糖と塩を少量使った煎り卵と、刻み焼海苔とを用意した。その献立をモイラに告げるとモイラはやや満足そうに、肯いた。あまりたべたい気のない様子である。襟首《えりくび》に滲んだ細かな汗を、オオ・デ・コロオニュを入れた水で拭いて遣りながら、やよは不安気で、あった。どういう訳か、モイラが平常《いつも》よりひどく綺麗に見える。
モイラがふと振り返ってやよを凝と見た。
眼があやしく光っている。モイラがこのように妖しく見えたことはない。やよは奇異の念に打たれ、恐ろしいものを見るようにして、モイラを見た。
(いつも、いつも、お美しいけれど……こんなにお綺麗だったことはなかった。今のこのお顔をもし隣の別荘の人が見たら又どんなに……)
やよは自分が、ひどく不謹慎なことを考えた、と思い顔が俄かに紅潮した。モイラは顔を紅くしたやよを不審げに見たが、
「もうお行き」
と、言った。
やよは弾かれたように頭を下げ、退《すさ》って行った。
やよは夕食が近づくのにつれて、何故か知れぬ不安が胸を波立たせるのを覚え、夕食の支度をしながらも、心が落ちつかぬ。林作に電話で訴えたいとまで思うが、やよに使うことの出来るのは台所の板壁にとりつけてある電話である。又たとえ自動電話をかけるにしても、そんな訳のわからぬことを林作に、ことさらに告げることが出来よう筈もない。隣に並んで肉汁《スウプ》を取っている李にさえ話して見たいように、やよは思った。モイラの嫌っている女《ひと》であると知っていながら、やよは磯子の来訪をさえ、希った。
(旦那様……)
やよは胸の中で、言った。ふとやよの胸に、夏に稀《たま》に来たことのあるヱセルの姿が、浮んで、消えた。
(おやさしそうな、そうしてモイラ様をお好きになったらしいお嬢様だった……)
モイラの好む馬鈴薯を茹でる時の、常にやよには楽しかった香いが、今日はもの哀しく感ぜられる。
「馬鈴薯《じやがいも》、それ位でいいのじゃないか、おやよさん」
李の声にやよは我にかえって、急いで鍋を下して笊《ざる》に上げ、缶から青豆を出して水を切った。
その日も天上は食堂のポーチの椅子に、寄っていた。右の掌は癖のように、籐椅子の肘突きの一部を撫でさすっている。昼過ぎ、モイラが、そんな天上を尻目に食堂を横切り、奥の客間に入って、シャアロック・ホオムズを一冊抜き取り、又食堂を通って、居間に上って行った。モイラは天上が、茫然とした様子で、いつ見ても、椅子の肘突きを撫で廻しているのが特に気に障るのだ。モイラには、天上がどういう訳で肘突きをさするのか、わからぬ。天上の身動きで、椅子のギイ、ギイ鳴るのも、何ともいえず不快である。やよを取りに遣りたかったのだが、やよにはどれが、モイラのまだ読んでいない分なのかが、わからぬのだ。ホオムズの仮名はわかるだろうが、題名がわからぬ。委しく説明することも、題名を書いて遣るのも、なんとなく面倒で、苛々するのだ。やよは苦労をするので、この頃ではすべてに気がつくようになったが、小学校を四年で止《や》めているので、難しい漢字が判らぬ。
モイラは居間に入ると寝台《ベツド》にもぐりこみ、本を読み始めたが、時折脣の両端を窪ませるようにしてひき締め、眼をひと所に凝と、据えるようにした。天上の籐椅子の鳴る音が耳についていて、二階にいても聴えるような気がする。それが不愉快なのである。
平常《いつも》夕飯を摂る七時近くになると、不機嫌ではあるが健康なモイラは、空腹を覚えた。
階下《した》に下りて食卓につくと、やよの心尽しの好みの料理が次々に、並んだ。透明な清汁《コンソメ》の中に浮かんだ薄い賽の目切りの人参の色と青豆の青とが、モイラの食慾を刺戟した。
だが、眼の前に年寄った男のような天上が、陰気な顔で匙を脣へ持ってゆくのを見ると、モイラの楽しい食慾がふと、どこかで閊《つか》えたようになる。それも瞬間に消えたらしく、内側に |Lion《リオン》 と、聖母学園の修道女の書くような字体で彫られている白銀《ぎん》色の匙を取り、盆を持って控えているやよをチラと見ると、青豆と人参の浮かぶ清汁《コンソメ》を脣に入れ、美味《うま》そうに飲み下した。
「美味いか。モイラ」
天上が匙の手を止めて、モイラを見た。針のような嫉妬の憎しみを抑えている溺愛の目である。モイラは黙って、菜の花のような、鮮やかに黄色い煎り卵と海苔の細切りを飯の上に載せて、脣に入れた。天上にとって、既《も》うずいぶん長いように、思われる月日の中で、毎日見て来た、匙で脣に詰めこむような、稚い食い方だ。モイラは桃なぞを食う時、腹の空いた幼児がやるようにしゃぶりつく。好む菜を載せた飯は匙で脣に詰めこむようにする。飽くことなく、むさぼろうとするモイラの、〈愛の肉食獣〉の特質が、ものを食うモイラの脣つきに現れているのだと、林作も見、天上も見ている。あて気のない、可哀らしいふてぶてしさが充分に意識したものになり、裏に悪気を張りつけた無関心を、自分に見せつけるようにするこの頃のモイラに、一つだけ残っているのが、この肉食獣の特質を無意識に現わしている、ものの食い方だ。モイラはやよが密かに思っているように、この家から、又、天上を含めた天上系の人間たちから、離れたいと思っている。だがモイラの心の中には、昨日《きのう》よりは今日、今日より明日と厭になってくる天上を苦しめて遣りたいという理不尽極まる憎しみがある。平常《へいぜい》体の内側に、もくもくとして持ち上がっているモイラの憎悪がこの日、ことにこの朝、モイラの中に、俄かに燃え上がったようだ。
モイラが、青豆と人参とが浮んだ清汁《コンソメ》の匙を掌にして、自分をチラと見た時、やよは今朝のモイラの凝視を又、そこに見た。
(朝の、あの時のお眼だ)
と、やよは思った。今度の眼は何気ないようでいて、ほんの一瞬ではあったが、カッチリと極めつける眼である。やよはドキリと一つ、大きな動悸が鳴るのを覚え、モイラが匙で詰めこむようにして、煎り卵を載せた飯を食うのを、暈《ぼんや》りと眺めた。やよの頭は今、緊張し過ぎているために気が抜けたように、なっている。やよの眼はつい先刻《さつき》の天上の、嫉妬の針を抑えた愛撫の眼をも、捉えているのだ。モイラは李が揚げた、焦げ色の綺麗な平目のフライ、粉をはたいて|※[#「火+蝶のつくり」、unicode7160]《いた》めた薄切りの馬鈴薯、青豆の入ったポテト・サラドゥ、等を次々に、美味《うま》そうに食い、飯も二碗半平らげた。食が進むモイラを見てやよは、平常《ふだん》より飯を多めに盛って勧めながら、一方天上の、味の無いものを食うような箸使いを、窃《ぬす》み見た。
(モイラ様はどうかなさっている。やっぱり、モイラ様はこのお家《うち》を、出ておいでになるのだろうか。……でも、モイラ様はほんとうにお強い。男の方のように、お強い)
又、やよは天上の様子を窃み見た。
(旦那様はお病気になっておしまいになるのではないのかしらん。もうなにか、お病気が出ていらっしゃるのではないのだろうか……)
タングステンの、檸檬《レモン》色の明るみの下で、モイラの顔は異様に美しい。
今朝傷痕に塗った白い薬が殆ど落ちて、乾いているモイラの顔は、傷痕があるために憎いほど可哀らしい。洗った髪が厚く顔を囲み、顎から頸、固い円みを持った肩から腕へ、湿り気のある皮膚の上に、モイラの香気が、眼には見えぬ湯気のように迷い出ている。
不思議なものを見るように、やよはモイラを見ている。
最後の一口を匙で脣に詰めこむようにすると、モイラは匙を掌に持った儘、不意に、起ち上った。やよが慌てて引いた椅子が、厭な音を立てた。燈の下に濃い睫毛の影を落とし、脣の中のものを、不味《まず》くて飲みこめぬというように、頬を動かしている天上の顔に凝と、眼をあて、モイラは言い放った。
「ピータアって、知ってる?」
夢から醒《さ》めたようにモイラを見上げ、洞《うろ》のように開《あ》いた天上の眼は忽ち苦渋の色を一杯に、宙に据わった。
その天上に追い撃ちをかけるように、モイラが言った。
「きっと、知ってる」
茫然と、モイラの匙を持った掌の辺りに当てられた天上の顔は、惨めに歪んで、モイラの残酷な心を充分に、満たしたようだ。
天上の醜い顔に凝と、眼をあてると、モイラは匙を卓の上に投げるように落として、部屋を出た。それまで、息を詰めて見守っていたやよが、この時、二人の食事の世話は自分の役と、きまってはいるものの、この場に他の者が入って来てはと気附いた。急いで、食器を下げる通い盆を取りに扉に向ったのと、モイラが擦れ合うようになった。慌てて体を引いたやよの脇をゆっくりと擦り抜け、モイラは階段を上がった。
一瞬、やよはその小さな眼を見開くようにして、階段を登ってゆくモイラを、見上げた。モイラの仕打ちを逐一見ていたやよの眼にはその時モイラが、|※[#「口+激のつくり」、unicode566d]《くち》の端に血が一筋、糸をひくように膠着している豹のように見えたのである。だが、可哀らしい肉の柱のような腕で手摺《てす》りに掴まり、足音のない足で登って行くのを見ていると、矢張り可哀らしいのだ。大きく開けた時、笑ったように見える、猛獣特有の|※[#「口+激のつくり」、unicode566d]《くち》で、喰いちぎった縞馬の肉を咥《くわ》えて登って行く仔豹のようなのだ。足音の無いところも似ている。やよは一つ瞬きをして、尚も見送っていたが、我に返って急ぎ足で、台所に行き、通い盆を取って引返した。やよは天上の顔を見るのが辛く、恐ろしい。天上の方を見ぬようにして、食器を片附け始めた。三度目に土壜を載せた盆を下げに行った時、階段を上って行く天上の後姿が見えた。よろめくように、上履《うわば》きを落しはせぬかと思われるような足どりで、上って行くのをやよは足を止めて見上げていたが、何か恐ろしいものを見たように頸がすくむのを覚え、逃げるように食堂に、入った。その夜やよは、食堂の電燈のスイッチを切ることがひどく恐ろしく、ついそれを怠った。
居間に入ったモイラは、幾らか昴奮しているようである。やよを呼ばずに自分で寝衣に着替え、寝床に入った後も眼を光らせ、脣の両|端《はし》をきゅっと窪ませて、辺りを見ていたが、やがてホオムズの書物を開き、続きを読み始めた。八、九頁も読んだ頃、モイラは扉の外を通る天上の跫音を、聴いた。蹌踉《そうろう》として、亡霊のように歩いているのがわかる、妙に軽い跫音である。
(きょうは来ないだろう)
モイラの、細かな汗の浮いた鼻の先を嘲りの色が掠めた。長い間の怒りと、満足とが綯《な》い交《ま》ざった、頭が熱いような昴奮の中で、モイラは睡りに入った。
* *
その夜遅く、やよは寝部屋の呼鈴が鳴るのを聴いた。柱時計を見ると、十一時を過ぎている。静かな、ひそかな音である。恐ろしさと、不思議な昴奮に襲われていたやよだけが耳聡く、聴きつけた。やよは体を起こした。
(旦那様のお居間だ……)
やよは素早く、寝巻の浴衣を着直すようにして枕元の帯を締め、五燭の球に替えてある玄関を抜け、二階の天上の居間に急いだ。やよの寝ていた部屋には山口ともえが睡っている。ともえは睡ったら起きぬが、直ぐ隣の部屋に本間いしと石田ウメとが寝ている。二人の内の一人でも眼を醒まして、先を越されてはならない。天上が目をかけて呉れていて、天上の用事も、モイラの用事はいうまでもなく、奥のことは、この頃ではやよの掛りになっているのだが、本間いしと、石田ウメとが、既《も》う充分に嗅ぎつけている奥の様子を、眼で見て確かめようとしていて、折さえあれば奥の居間や食堂に出て行こうとしているのを知っているやよは、寝部屋の扉《と》の開けたてにも気を遣《つか》っていた。床に就いている時には、今日の夕飯の時の恐怖で昴奮していて、初秋の冷えにも気がつかずにいたが、裸足で踏む革の上履きがひどく、冷たい。
(何のご用だろう)
呼鈴の音で目を醒ました瞬間から、やよの頭を襲った不安は、階段を上がりかけたころから酷《ひど》く、なった。やよの頭には今だに、モイラのことで何か訊かれはすまいかという不安がある。動悸がするので浴衣の胸を抑えながら階段を登り切り、廊下にかかったが、どうにも足が進まない。階段に足がかかった頃から、(お気分でもお悪くなったのでは……)と、思い始めたが、やよは(お気分がお悪いのだったら……いいけれど)と、思うのだ。そのようなことを仮にも思ってはならない、とわれとわが心を責めながら、やよはそう思わずには居《お》れない。かと言ってやよは、天上がひどく気分が悪くて、どうかなっていたら、と思うとそれも恐ろしくてならぬ。とうとう居間の扉の前に、来てしまった。
ノックすると、
「お入り」
と、低い声がした。
呼吸《いき》も乱れていない、確《しつか》りした、静かな声である。やよは恐る恐る、扉を開けた。
黒革の肱掛椅子に寄りかかっている天上の後姿が、眼に入った。肌寒いのではおったのか、天上は薄地|羅紗《ウウル》の部屋着を着ていた。肱掛椅子の背中から出ている、駱駝色の部屋着の肩を見たやよは、ひどく気の毒に、思った。
(お呼びになれば寝室のお箪笥からお出ししてお上げしたのに)
とやよは思った。天上は平常《いつも》着替えなぞに使用人の手をわずらわさない。それは林作もそうなので、平常《つね》にはやよは、そんなことを気にかけたことはない。だが食慾のとみに衰えた、近頃の病人じみた天上であることを思って、やよは辛く、感じたのだ。
やよは天上の居間に、掃除をする時以外には入ったことがない。天上がこの部屋の中で、何を考えているのかと思うと、恐ろしい心持がするのだ。やよは天上が自分を憎んでいるとは、思っていない。だがモイラを憎んでいることは知れているのだ。そのモイラを、可哀らしいと思っていて、どんな振舞いをしようと、可哀らしいと思って仕えている自分なのだ、と思うと、やよは平常《つね》から、この部屋に入ることが恐ろしかった。
「ご用でございますか、旦那様」
やよは肱掛椅子に近づいて、膝に掌を仕《つか》えて、言った。
「ああ」
天上はほんの僅か顔をやよの方に向けるようにして、言った。
「遅く呼び出して、済まなかった。……やよも知っているように、俺はこのところ体の具合が悪くて食慾もない。それがわずか宛《ずつ》だが、ひどくなってくるようだ。……それでやよに頼んでおきたいことがある……」
「はい、旦那様、なんなりとお申しつけ下さいまし」
やよは心から、言った。
「ありがとう。今のところ、これといって病状といったようなものはない。だが不意に、気分が悪くなるようなことが、ないとも限らぬ。もしそのようなことがあったら、伊作が知っているから、医者に連絡をしておくれ。榊《さかき》という俺の体を昔から診て呉れている、……年は大分違うが友人だ。……」
そこまで言ってひと息|吐《つ》いて、天上は続けた。
「榊はこの間見えた稲本さんより、或は一つか二つは上かも知れない、高齢の人だ。死んだ父の友達なのだよ。それで……いつ向うの方が倒れぬとも限らぬが、その時はその時で、代りも居《お》るし、なんとかして呉れよう。……会社で悪くなれば会社の者がこっちに報せるようにしてある」
天上はそこで、言葉を途切らせたが、首を深く垂れ、呟くように、つけ加えた。
「榊の家は大分遠い。車で、早くて一時間と四五十分はかかるだろう……それで、早く計らってもらいたいのだ……伊作は平常《いつも》向うの家に居るから、やよに頼んでおきたい。いいか、頼んだよ」
天上は所々で、何かを考えるように、言葉を切り、又は感慨に耽《ふけ》るように、首を垂れたりしながら、言い終った。
「はい、旦那様。……かならず、仰言いましたようにいたします」
そう言うとやよはなにか不安げに、天上の横顔を、仰ぎ見た。そうして眼を伏せたが、直ぐに又小さな眼を上げ、瞬《まばた》きをしながら、言った。
「お茶か、何かお飲み物でも、お持ちいたしましょうか」
「いや、要らない。心配しないでいい。もう退《さが》ってお寝《やす》み」
「はい」
その時天上はやよの方に首を捻じ向け、何か言おうとしたようだったが、黙って又首を元に戻した。やよは首を下げていたので、それには気附かずに、部屋を出た。
やよは又、革の上履きを足に冷たく感じながら、モイラの部屋の前を過ぎ、寝部屋に帰ったが、部屋の扉を開けるや、本間いしの声がした。天上の居間からの呼鈴だとわかるように、点滅器の明りが点いた儘なのをうっかり忘れていたのである。
「おやよさん。何の用だったの? 今頃」
黙って帯を解きながらやよが隣室の方に眼を遣ると、隣の寝部屋との境の襖が細く開いていて、電燈の光が差しこんでいる。襖の際までいざって来たのか、本間いしの顔が細めに開けた襖の間から、やよの方を窺っている。
「旦那の部屋だろう?」
やよの頭に天上の、薄地羅紗の部屋着の肩が浮んだ。
「……まだ何かお卓《つくえ》にお向いになっていらっしゃって、……私《わたくし》に、薄いガウンを持って来るようにと、仰言ったんです……それでお隣からガウンをお出ししてお持ちしたんです。そうして、お着せかけしました……それで、お寒いらしいので、お茶か、お飲みものでもと申し上げたのですけれど、要らないと仰言って……」
「へえ。それだけ? 随分長かったじゃないの。何か仰言ったんでしょう? モイラ様のことなんかをさ」
豆電球の明りは暗いが、いしの顔は朧げに、わかるのだ。耳の辺りが張り出て、鼻の大きな、淫靡《いんび》なものがちらつく卑しい眼が、その鼻の両脇に据わったいしの顔を、成るべく見ぬようにしてやよは、帯を解き、あら畳みにして枕元に置いた。
「モイラ様のことは別に、何も仰言いませんでした」
「ふうん……そうかい。大したもんだよ、お前さんは。どっちにもいい顔しようってんだから」
そう言うと本間いしは荒々しく、襖を立てた。
いしの顔が引っ込むと、やよは吻《ほつ》として寝床に入った。
その夜やよは、寝つかれなかった。その夜の天上の姿はやよの眼に、平常《つね》にも増して寂しげに映った。ことに、睫毛が見える程度にこちらに向けた横顔が、眼に焼きついていて離れぬのだ。天上の言った言葉の中に、別の意味を見つけることはやよには出来なかった。だが何故こんなに遅く、突然に自分を呼び出したのか、という疑いが起って来た。(この頃は、お加減がお悪くていらっしゃるのだから、夜遅くになって急に気におなりになったのだろうか)考えている内に少しずつ、暗いところが明るくなってくるような作用が、やよの頭に働いてくる。やよは天上が話の間で何かを考えこむようにしたり、吻と息を吐《つ》くようにしたりすることに、気づいていた。暗い寝部屋に来て考えていると、次第に、理由のわからぬ不安が萌《きざ》してくる。やよはふと、背筋のあたりが寒くなるような気分に、襲われ、思わず浴衣の襟をかき合わせ、母親が送って来た薄綿の掻巻《かいまき》をひき被った。
* *
翌日《あくるひ》はよく晴れて、つきぬけるような青い空が眩しかった。やよは毎日の習慣で、蒲団の中に隠している目覚し時計が、鳴るのを慌てて抑えて止め、こそこそと、起き出した。昨夜やよは、味噌汁の出しを、昆布を使って丁寧に取り、枝豆を茹でなぞして、朝食の下拵えをした後《あと》で床に就いた。そうして寝入りかけたところを起され、又|退《さが》って来て床についてからも少間《しばらく》は睡れなかったので、頭が暈《ぼんや》りとしている。顔を洗い、着替えをして帯をきちんと締め、髪を撫でつけると、七輪を戸外《そと》に持ち出し、台所の土間の隅に片寄せておいた、細く割った薪と、新聞紙とを揃え、飯を仕掛けるばかりにした。食の進まぬ天上のために物置から七輪を出して掃除をし、薪を細く割って、飯を炊く用意をしておいたのである。そうしている間にも昨夜の、理由のわからぬ不安が、やよの胸を脅やかしている。自分が起き出る一寸前に、本間いし達の寝部屋の、向う側の襖の開く音がしたのを聴いたので、手洗いに立ったのかと思っていたが、石田ウメが一人、起きて来ただけである。不審に思ったが、やよはその儘台所に入って、磨いでおいた米を仕かけ、李に、飯を見て貰うことを頼むと、急いで寝部屋に入って、モイラの着替えを出そうと小箪笥に手をかけた時、階段の方で何かが転げ落ちるような音が、した。愕いて走って行くと上から、ひき吊った顔をした本間いしが、転げるように降りて来、二三段踏み外してやよの肩を掴んでようやく、踏み止《とど》まった。
男のような骨格の本間いしの重みでやよはよろめきそうになりながら、何か言おうとしたが声が出ない。本間いしも物が言えぬらしく口を動かしている。
「どうしたの」
やよが縺《もつ》れる舌で、言った。
「旦那が……冷たくなってる……眠り薬の壜が……皆全部無くなって」
咄嗟《とつさ》にやよはいしの体を押し除けた。そうして両掌を固く握り締め、腹に力を入れるようにして、思った。
(確《しつか》りしなくては)
やよは伊作の部屋に行こうと足を動かしたが、膝に力が入らない。ともすると膝が折れて、座ってしまいそうになる足を踏みしめ、踏みしめ玄関を出、裸足なのにも心附かずに、花畑の小径を急いだ。明るい花畑の、眩しいほどの陽差にくらくらとする頭の中で、やよは本間いしが、今日に限ってわざわざ新聞を取りに行って、天上の居間に入ったことに、怒りと同時に胸の痛む程な後悔を、覚えた。
(もっと、気をつけていなくてはいけなかったのに。おいしさんを、旦那様のお居間に入らせてしまった……最後のお顔を見せたくないと、思っていらっしゃったにちがいないおいしさんを……)
伊作はもう起きていて、花畑に出る支度をしていたらしく、日除け帽を被って部屋の真中に立っていたが、やよの顔を見ると、眼尻《まなじり》が裂けるほど、大きく眼を開いて、一瞬その儘立っていた。
「旦那様が……お薬を……」
部屋を出ようとする伊作に追い縋《すが》るようにして、やよが言った。
「あの昨夜《ゆうべ》旦那様が……気分が悪くなったら、伊作さんにきいて、榊さんという方にお電話をと」
もう伊作は花畑を走っていた。
「今そこにかけるんだ」
やよは体全体が乾し固まったように小さく固く見える伊作の後《あと》から、縺れる足で走った。台所への入口から一寸離れた、やよたちの寝部屋に通ずる板の間に本間いしと石田ウメとが、固まって立って、何ごとか、囁き合っていたが、伊作を見ると、口を噤《つぐ》んだ。
台所の、調理台の脇の小椅子に、李が俯向いて掛けている。
伊作はそこに誰がいるかも眼に入らぬ様子で玄関を抜け、台所の電話機に取り附いた。
(伊作さんを除《ど》ければ、李さんだけなのだ……旦那様を思っているのは……磯子様は別だけれど)
やよは李の姿に眼をあて、一瞬、立っていたが、のろのろと歩き、階段を上がり始めた。階段を上がるやよの耳に、伊作の沈んだ声が入った。水の中でする音のような、曇った声である。
「はい、先生でございますか、伊作でございます。はい。左様で。まだ参って見ませんが昨夜飲まれたものと思われます、はい。はい。どうぞお願いいたします……」
伊作の声を聴いてやよは、今更のように天上と伊作との繋りを、思った。そうして二人の不倖《ふしあわせ》を、思った。モイラはよく睡っているらしい。
(モイラ様でも……やっぱり、恐ろしくお思いになるだろう……どうしよう……旦那様を見るのはわたしは恐ろしい……でも……)
と、思い迷いながらやよが、モイラの寝室の扉の前を忍び足に通り過ぎようとした時、後《うしろ》から伊作が追いついて、早口に言った。
「榊様が見えて指図をして下さるまで何も動かさないで下さい。警察に報せなくてはならないかも知れないからね。面倒なことになるといけない。それよりおやよさんは、モイラ様にお報せしてくれなくてはね」
やよは警察という言葉に怯え、続いてモイラのことに触れられたことに、それもやよには皮肉にも、意地の悪い言いようにも思われる口調で、触れられたことに怯え上がった。やよは天上の居間に急ぐ伊作の背中に向って、懸命に、言った。
「わたくしはまだお部屋に入りませんのです。おいしさんが今朝わたくしの知りません内にお居間に入って、そうして……」
伊作はよくも聴いていない。全く感情のない、氷のような背中を見せて、もう扉の把手《ノブ》に掌をかけていた。やよは従いて行くことを諦め、重い足どりで、モイラの寝室に引き返した。
ノックをして、少間《しばらく》躊躇した後、ふと気附いて把手《ノブ》を廻すと、扉は開《あ》いた。モイラは幾度言いきかせるようにして、注意をしても、鍵をかけることを忘れる。奥に出入りする本間いしと石田ウメ、やよの三人の召使いは、非常な時のために各々合鍵を預っていて、常時懐に持っていたが、モイラの寝室だけはそれが不必要な状態になっている場合が多いのだ。
やよが寝台《ベツド》に近寄ると、モイラが眼を開《あ》いた。
「モイラ様。……おおどろきなさいませんように、……旦那様が」
モイラは枕を外していて、顎を胸につけたようになっていたが、曇りのある眼が上目遣いにやよを見上げた。朧げに何かを予知したようにも見える。
やよは声を落として言った。
「旦那様が……お薬をお飲みになって、お亡くなりに……」
モイラは眼を大きくしてやよを睨み据えるように見たが、曇《どんよ》りとした眼の底に、怯えが動いた。やよは急いで洗面器に水を取り、タオルを絞ってモイラの顔を拭って遣り、そうして、言った。
「モイラ様。……やよもご一緒にまいります。旦那様のお居間にいらっしゃらなくては……。パパ様にはやよが直ぐにお電話をおかけいたします。ドミトリさんがきっと、来て下さいます……」
モイラはその儘凝と、眼を据えていたが、のろ、のろと、起き上がった。
「いくよ」
不貞《ふて》たような、声である。
やよは手早く、着替えをさせた。ゆっくり、歩き出したモイラに従《つ》いて部屋を出たが、モイラは扉の前に立った儘、動こうとしない。
「モイラ様……」
その時玄関の鈴《ベル》が、鳴った。
やよは躊躇《ためら》っていたが、モイラをその儘に、急ぎ足に階段を降りた。玄関を開けると、紺の地味な夏服を着たヱセル・カハアネが、立っている。やよは不躾《ぶしつけ》なのも忘れてヱセルに近寄り、小声で事情を打ち明けた、そうして今、モイラを天上の居間に伴《つ》れて行かなくてはならないことを、訴えた。
「モイィラは何処?」
ヱセルはもどかし気に靴を脱いだ。
ヱセルは、モイラから恋人のあることを打明けられている。天上から、モイラの友だちになってくれるようにと、頼まれて訪れたヱセルである。それを知ってからは訪ね難《にく》くなっていたのだが、モイラというものに惹かれていたヱセルは、モイラのことを忘れたことはなかった。そこへ父親のリヒヤルトから、天上の様子の変ったことを聴いて不安になり、今朝俄かに思い立って、出向いて来たのである。
やよが目顔で二階を示し、先に立った。
扉の前に、先刻の儘立っていたモイラは、不機嫌な眼を据え、ヱセルを見た。ヱセルは駆け寄り、心を籠めて、言った。
「モイィラ。確りしなくては……ね。やよさんと私《わたくし》とが一緒に行きますから、大丈夫です。恐ろしいことありません。今行きませんと、却って後《あと》になって大変に苦しいことになります。わかりますでしょう? モイィラ。……さ、行きましょう」
やよは祈るような気持で、緊張に体を固くし、モイラの顔を窺っていたが、ヱセルがモイラの右掌を取り、肩に柔《やさ》しく掌をかけると、自分も恐る恐る、反対側に廻って、モイラの肩に掌をかけた。
「モイラ様」
不機嫌な眼を据えていたモイラが、ヱセルをふり仰いだ。暗い眼の底にしぶとい甘えが、絡《から》みつくように、ヱセルに対《むか》って迫ってくる。
(モイィラの中には悪魔が棲んでいるのだろうか? そのくせ子供のように怯えている。それが可哀らしい。平常《ふだん》、不遜な顔をしている時でも、可哀らしい。憎めないのだ。……何故だろう?)
モイラは歩こうとしない。
ヱセルはやよに目配せをして、肱をモイラの脇にかけ、持ち上げるようにした。やよも、反対側の脇に肱をかけ、二人はモイラを引き摺るようにして天上の居間の方に近づこうと、懸命になった。モイラは強いてあらがう様子もない。ずる、ずると、引き摺られるようにして、歩き出した。それに力を得て、ヱセルとやよとは少しずつ、モイラを中にして進んだ。二人の腕にぐったりと、体の重みを預け、ひき摺られて行くモイラは、罠にかかった獣《けもの》か、主人の掌で縄で引き摺られる犬のように、運命に服従しているように、見える。やよは胸の中で林作を、呼んだ。(旦那様)やよの林作を呼ぶ声も、銃口を定められた氈鹿《かもしか》か兎の叫びのように、哀れである。
扉口に着くとやよは、ヱセルにモイラの体重を預けるようにして凭せかけ、扉を開けた。
朝の光に洗われた、静かな部屋の中に、やよは昨夜の姿のままの形で、此方《こちら》向きにがっくりと首を折っている天上と、椅子の向うに立って、深く頭を垂れている伊作とを、見た。すべて片づけられて何も置いてない書物卓《かきものづくえ》の、冷たく光る表面には、一度倒れたのを起したらしい錠剤の壜がひっそりと立っていて、白い粉が少量|滾《こぼ》れている。そこにもう一つ、置かれていたものがあったのだが、それは伊作の手で隠されてしまったので、誰も見ることは出来なかった。それは天上が結婚当時林作から渡されて、毎日|定《き》まった時間にモイラに飲ませていた、造血剤の壜である。牛の血をその儘固めた素朴な錠剤が、黝《くろず》んだ褐色を薄青く透き徹った壜の内側に覗かせている、口の広い小壜である。それは天上のモイラへの、愛情の証《あかし》で、あった。モイラへの未練と執着の心を示したもので、あったのだ。部屋へ入って、かねて聞き知っていたその壜を見た伊作は口角を醜く歪め、誰もいぬのに辺りを窺い、閃光よりも早い動作でその壜を、洋袴《ズボン》の隠しに入れたのである。
伊作は、花畑の中を電話に走った時には、天上の命をくい止めようという一心だったが、直ぐにそれが不可能であることに気附いたのである。思慮深い天上が、発作的に薬を嚥む筈がない、嚥んだのなら昨夜だ、と、気附いたのだ。薬も、致死量の少なくとも倍の量を嚥んだにちがいないと、伊作は悟らぬ訳には行かなかったのである。
ヱセルと、ヱセルに全身で凭れかかったモイラとが続いて入った。ヱセルはモイラを抱きかかえるようにして、後《うしろ》に退《すさ》ったやよと入れ代わり、天上の遺骸に、近づいた。
天上の死顔は哀《いた》ましかった。永い間、何かを耐えていて、疲れ切った人間の顔である。これ以上は耐えることが出来ぬところまで追い詰められた人間の顔である。だが苦痛に脣《くち》を開き、頬の辺りを歪めた表情のどこやらに、安らぎが、あった。
モイラは天上を一目《ひとめ》見ると、瞼がひき吊ったような眼を大きく、見開いた。厚めな脣が弛んで、下|下《さが》りに開《あ》き、稍《やや》もつれて額にかかった、もくもくとした髪の下で、眉が吊ったように上がっている。自分を刺そうとする人間の、刀の切先《きつさき》を見た子供の顔である。モイラは、それほどのことをした気はない。だがこれが、自分の遣《や》ったことが引き起こしたことだとわかった恐怖が、内側に張りつけられたモイラの顔は、青白くなっただけで、皮膚の艶は平常《つね》より粘りを出し、恐ろしいほどの魅する力を持っている。ヱセルはモイラを抱えているので、十字を切ることが出来ぬ。ヱセルは深く頭を下げて、神に祈った。天上のために。又、モイラのために、祈った。彼女が今日此処に来たのは、父親の会社の社長であって、親しくその人柄に触れた天上のためでもあり、最初会った時から、不思議な恐れと、愛情とを同時に抱いたモイラのためでも、あったのだ。
ヱセルは伊作に眼を移した。伊作はヱセルたちの方に顔を向けることもなく、哀しみの中に、沈み込んでいる。白髪の一二本光る髪がそそけている。耳の後の辺り、頸は削いだように痩《こ》け、口は哭《な》いていた。ヱセルは伊作に声をかけるのを止《や》めて、モイラの方に眼を返した。モイラの脣は軽く閉じられ、眉ももとに戻っていたが、どこか異様な、ねっとりとしたものは前よりも増して滲み出ている。視点の定まらない、潤んだ眼が宙に据えられている。
(これが、モイィラなのか)
と、ヱセルは思わず知らず、その顔に見入った。可哀らしい魔もののようなモイラの顔の中に、ヱセルは一人の偉《おお》きな男の顔を、見た。自分以外のことには関心の無い一人の男が、さほどのこととも思わずに屠《ほふ》った女の死顔を見た場合の、愕きの顔である。愕きの中に怯えがある。
(これがモイィラなのだ)
と、ヱセルは思った。ヱセルはモイラの肩に掌をおいた。
「モイィラ、さ、もう彼方《あちら》に行きましょう。あなたのお部屋へ」
ヱセルはやよを振り返り、再び二人はモイラを輔けて、居間に伴れ帰った。
モイラは疲れた様子で、直ぐさま寝台《ベツド》にもぐりこんだ。薄い毛布を掛けて遣っているやよに、ヱセルが言った。
「やよさん、檸檬がありますでしょうか。ありましたら半分程絞って、モイィラは炭酸水で割るのと水と、どちらが好きですか?」
「はい。炭酸水の方でございます。直ぐお持ちいたします。ヱセル様はなにか?……」
「わたくし牛乳《ミルク》の入ったお茶をいただきます」
やよが台所に入ると、李がヱセルのためらしく、薬缶《やかん》を火にかけている。やよは、牛乳紅茶《ミルク・テイイ》と、檸檬炭酸水とを李に頼んでおいて、浅嘉町に、電話をかけた。交換手が取り次いでいる間に、台所の大時計に眼を遣ると、八時にはまだ十分余りある。林作は平常《ふだん》、八時に車に乗る。やよは吻《ほつ》と、息を吐《つ》いた。
ドゥミトゥリイが出た。天上の死を告げると、ドゥミトゥリイは少間《しばらく》黙っていた。
ドゥミトゥリイの低い、嗄《か》れた声が言った。
「そう。……旦那様に直ぐに申上げます。おやよさん、確りして、モイラ様をお護りして下さい。……いいね」
ドゥミトゥリイの低い、力のある声で、やよは蘇生したようになって、李から紅茶と檸檬水とを載せた通い盆を受け取り、モイラの居間に戻った。やよはこの時、昨夜の天上の言葉の中に、榊の家は大分遠い。一時間と四五十分はかかるだろう、という言葉があったのを、想い出した。天上はその言葉を、脣《くち》の中で呟くように、言ったのだ。首を垂れて、自分自身に言って聴かせるように。
(ほんとうに私《わたし》はなんといううっかり者なのだろう)
やよは吻とした胸の中で、切なげに、呟いた。
(旦那様は、先生のお宅が遠ければ遠いだけ、お着きになるのが遅ければ遅いだけいいと、お思いになって、そうして、お淋しくお思いになったのだ。おかわいそうに……どんなにお辛くいらしったのだろう)
と。だがやよは、モイラの居間の扉の前まで来ると、まだまだ苦しいことが、この先どれ程起きるか知れぬという想いが、胸に押し寄せて来た。
(お医者様と、ドミトリさんが来て呉れるのと、どちらが早いだろうか……)
やよは敵団に囲まれた捕虜のような思いの中で、切なく、ドゥミトゥリイを、待った。
伊作は哀しみに逆上していることもあるが、天上のことは、少くともこの家の中では、自分以外に取り計らう者は居らぬと、信じているところから、その態度、もの言いに、俄かにこの家の主権を握ったようなふしが見えぬでもない。又天上の死と同時に、日頃溜まりに溜まったモイラへの憎悪が、伊作の中で爆発している。自分では天上に尽し、そのことで伊作と協力して来たと、信じているやよに取って伊作のこの急変は、胸の潰れる思いで、あったのだ。
伊作は伊作で、榊医師の到着を一刻も早くと待つ一方で、磯子の来るのを待ちわびていた。天上の様子が不安になった伊作は、磯子に速達を出していた。少くとも昨日《きのう》の内には、磯子は速達を読んだ筈である。
* *
林作と、ドゥミトゥリイとを乗せた車が天上の家の近くまで来た時、ドゥミトゥリイは、隣の家の長い塀を廻ったところに、車を止めた。そうして自分だけが降りて、天上の家の方へ向かって、歩き出した。車の中で林作が、そうするように命じたのである。林作は、委しい事情はわからぬながら、天上の突然の死にはなにかの導火線がなくてはならぬと考え、火を点けたのはモイラだろうと、見ている。林作は、天上の居なくなった天上の家でのモイラとやよとの立場を考え、兎に角二人を一応、浅嘉町に伴れて帰ることに心を決めた。俺がすべての批難を引き被ろう。小野の奥さんには会って詫びなくてはならぬ。伊作という男にも、詫びの言葉をかけて遣らなくてはなるまい。伊作という男にとって、天上君の死は、ドゥミトゥリイが俺の死に会ったのと同じことだ。林作は、ドゥミトゥリイを当座の手助けという名目で、天上の家に遣ることも、考えた。だが難《むつ》かしいだろう。葬式が済むまででいいのだが。所詮は姑息な手段に過ぎぬ。天上の家で、恐らく横暴を極めていたにちがいないモイラの現在の孤立と、モイラのために他の召使いの憎しみを一身に被って、周囲に気を遣《つか》って息も吐《つ》けずにいるやよが、その状況をこのまま続けて行くことの困難とは姑息な手段ではどうにもならぬ。伊作という男の気持をモイラが害していることも、極限まで行っているにちがいあるまい。林作は車の中で、自分と同じ想いを胸に持っているであろう、ドゥミトゥリイの背中に眼を遣りながら、この多分に利己的な結論に達した。
(止むを得ぬ)
と、林作は心に呟いた。そうして心《しん》の臓《ぞう》の辺りに鈍い痛みを、覚えた。だが林作の中にはもう一人の林作がいる。林作の中の、もう一人の林作の顔には微笑いがある。この朝、天上の死を知った瞬間のことだ。モイラを再び手許に引き取ることの歓びか? 何処か苦笑いとも見紛う、美しい微笑いが、林作の頬に浮んだ。片頬の、指で圧したような窪みの辺りに、たゆたうように暫時《しばらく》残っていた密かな微笑い。それはモイラというものが終《つい》に、自分一人のものである、という勝利の微笑いで、あった。いささかも忸怩《じくじ》としたものの無い、誰をも憚らぬ美しい悪魔の微笑いで、あった。林作の細胞から、モイラの細胞に、転移したかと想われる、ふてぶてしい微笑いである。世間全体を向うに廻した、不逞な微笑い、不逞な歓びで、ある。
* *
現在《いま》では唯一人の味方となった李と働く幸《さいわい》を、心に吻としながらやよが、台所で立ち働いていた時、玄関の鈴《ベル》が鳴った。鈴《ベル》の音は弱く、短くて、一度だけである。
(ドミトリさんかも……)
胸を轟かしたやよが扉を開けると、ドゥミトゥリイが立っていた。固く結んだ脣の端に、渋面を造った人のような深い襞の見える怒ったようなドゥミトゥリイの顔を、恐ろし気に見上げたやよに、ドゥミトゥリイは囁くように、言った。
「直ぐにモイラ様をお伴れするんだ。お車が向うに止めてある」
やよは戸惑い、愕きに一瞬小さな眼を見張ったが、弾《はじ》かれたように引返し、階段を上った。
モイラを中に挟んでやよとヱセルとが現れた。ドゥミトゥリイもヱセルのことは聴き知っている。直ぐにモイラとやよとの、今日の幸運を知ったドゥミトゥリイは、ヱセルに向って丁寧に会釈をし、モイラを抱きかかえるようにしたヱセルを中に、二人は花畑の間を足早に、進んだ。花々は朝の陽を嚮《う》け、何ごともなかったかのように、静かに咲き群れている。やよが小声で、
「よくわかりませんでしたけれど伊作さんが今がた、彼方《あちら》のお部屋の方にいらっしゃったようです」
と、告げると、ドゥミトゥリイは油断なく、伊作の部屋の方に眼を配り、ヱセルは低くモイラに囁いた。
「大丈夫ですよ。モイィラ」
無事に門まで辿りついた時、やよが恐る恐る玄関の方に振り返った。
「おいしさんが……」
本間いしが気配を聴きつけて玄関に出て来たのだろう。遠く、暗い穴のような中に一人茫然と、立っている。
ドゥミトゥリイが振り向きもせずに、言った。
「もう心配はない」
四人が、隣家の長い塀を廻った時、やよは車に林作が乗っているのを見た。やよは懐しさに耐えず、涙ぐみながら、ヱセルを見た。
「旦那様でございます」
車に近寄ると林作が車を降り、ヱセルに、言った。
「ヱセル・カハアネさんですね。何卒《どうぞ》、お乗り下さい。モイラがお世話になった模様《よう》で。お家《うち》へはお送りします」
モイラは平素の、不機嫌にむっとしたような顔に戻っていたが、衝撃《シヨツク》の後《あと》で顔色はまだ青い。このところ、天上の居間に入ることをしないので、造血剤を大分休んでいる故《せい》もあるのだろう。粘りのある艶が滲み出ていて、恐怖の後《あと》の、陰影《かげ》のようなものが憎いような可哀らしさを出している。林作と、ヱセルとの間に乗り込んだモイラは、微かな微笑いが、瞳の奥に靄っている林作の眼を一寸見ると、髪が乱れて、雲のようにもくもくとした頭を林作の肩に凭せかけ、ぐったりとなった。
それを見て、何かを感じ取ったように見えるヱセルは、優しい、だが複雑な眼で、二人を見た。林作は心の中で、言った。
(又一人|犠牲者《いけにえ》を出したのだな。今度はとうとう、命を絶たせてしまった……)
運転台に乗り込む時、やよは始めて、足の裏に怪我をしているのに気附いた。小石の角かなにかで切ったらしい裂傷《きりきず》である。俄かに痛みを感じたのだ。まだおどおどとして、やよはドゥミトゥリイの隣に、肥えた体を縮めて腰をかけた。林作はその様子に痛わし気に眼を遣り、ヱセルに微笑いかけた。
「このやよというのが一番の被害者で……」
始めて吻《ほつ》とした、穏かな微笑いで、あった。
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後記――小説とお菓子
私はこの「甘い蜜の部屋」という小説を足かけ十年かかって書いた。それは長い、苦しい月日だった。ことに後篇の半ばごろになってからは、(この小説をうまく終らせることは、出来ないかもしれない。「とうとう書けませんでした」と言って、編集者にあやまらなくてはならないかもしれない)という、恐ろしい不安がおそっていた――私は玄人の小説家ではないようで、書いていく内に終るころにはなんとなく辻褄が合ってくる、というような小説家だからである。いつも不思議に、辻褄は合ってくるし、伏線も、いつのまにか張られているのである――。始めての小説ならともかく、既《も》う五つも六つも小説を書いていて、それは恥辱である。「もし、そうなったらどうしよう」という大きな恐怖を抱きながら、私は十年目にさしかかった、苦しい日々の中を歩いた。ひと口の水も貰えないで、重い荷物を背負《しよ》わされている驢馬かポニーのような感じである。私という驢馬を歩かせていたのは、私の小説の終るのを待って呉れていた室生犀星、三島由紀夫、の二つの霊、友だち、読者の人たちの、声のない声である。
苦しみというものは、いつかは終る。どんな苦しい病気も死ぬことによって終る。私の小説も去年の十二月三十一日に、不思議な出来事のように、終った。
ところで九年の間わき目もふらず、楽しみはすべてやめてひたすら書いて、ようよう書き終ったという有様は、よくあるドコンジョーの人の感じであるが、今も書いたように私は、重い荷物を背負わされてのろのろ歩いている驢馬そっくりの人間である。のらくらな人はコンジョーの人より苦しい。満ち溢れた活気があって、男の人なら向う鉢巻で、夏なら裸になり、全身で岩にぶっつかる勢いでやるというのは、ぐうたらぐうたら、怠けたいのをむりに働かせられるのよりは楽だと思う。しゃっきりしていると思う。ドコンジョーの人になってみたことがないのでわからないが。
そういう私にも、ドコンジョーとヤッタルデで取り組むことがたった一つだけある。それは自分のたべるものを造《こし》らえることで、目下三日おきに造っている常用のお菓子にはドコンジョーで立ち向かっている。板チョコを好みのこまかさに砕いて、次に角砂糖を下《お》ろし金《がね》で三分の二程すりおろし、その粉を砕いたチョコレエトにまぶす。残りの三分の一の角砂糖を、板チョコと同じ位の細かさに砕いて、それも混ぜるのである。切り出しで割るのに、むずかしい大きさの好みがあるので、それを造っている間は全ドコンジョーがその作業に集中している。食事の支度も同じだから、ずいぶん時間もかかる。
私の仕事場である、寝台《ベツド》の上を見た人は例外なく、内側が白で外側が薄クリイム色の中型ボオルに盛られたチョコレエトを不思議そうに見る。見たことのないお菓子だからだ。角砂糖の粉にまんべんなく紛《まぶ》されているので、「ゼリー?」と訊いたのは瑛子さんという近くの杉木さんのお嬢さんである。
ボオルごと持って行って見せると、金井美恵子は少し食べて見たいと言い、私が多過ぎぬように、さりとて少な過ぎてケチに見えぬようにと、神経を使い、茶匙にすくって差し出すと脣《くち》に入れ、目を天井に遣《や》って、その不思議なお菓子を味わっていた。熱心なその目は、(森茉莉の美味とするものは一体、どんな味のものだろう?)と、呟いていた。一緒に来た編集者の伊藤貴和子も金井美恵子の姉さんも試食を申出た。私が惜しがっているのを見破った伊藤貴和子は、自分の掌《て》にうけたチョコレエトを、金井美恵子の姉さんに分けた。
というようなわけでお菓子製造の方は、小説よりもドコンジョーで造るが大して辛いとは感じないのである。
杉木瑛子にも乞われて、分けた。もうこれ以上分けるのは困るが、私の小説を読み、私のお菓子をたべた人は、私の苦しい仕事と、楽しい仕事との両方を味わったことになるのである。
[#地付き]著[#1字下げ]者
[#3字下げ]昭和五十年六月
森茉莉(もり・まり)
一九〇三年、東京に生まれる。森鴎外と二度目の妻、志げの長女。生来の病弱もあり、父の溺愛を受けて育つ。結婚、出産、フランス生活を経て、二度の離婚を経験。一九五七年、父を憧憬する娘の感情を繊細は文体で描いた随筆集『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。五〇歳を過ぎて作家活動を開始。六一年『恋人たちの森』で田村俊子賞受賞。七五年、本作で泉鏡花文学賞受賞。八七年、歿。主な作品に『贅沢貧乏』『記憶の絵』『私の美の世界』等がある。
本作品は一九九三年六月、筑摩書房より刊行された『森茉莉全集第四巻』を底本に、現代仮名づかいに改めた上、一九九六年十二月、ちくま文庫に収録された。