森 禮子
モッキングバードのいる町
目 次
モッキングバードのいる町
離島狂騒曲
遊園地暮景
風を捉える
あとがき
[#改ページ]
モッキングバードのいる町
小馬の走路は
ただひとつの道
――アメリカ・インディアンの諺――
天井裏でエアコンディションが、低く唸りつづけていた。家中でその音だけが生きているもののようだった。戸外の広い住宅地も、連日華氏百二十度を越す暑熱に音を吸い取られて、ひっそりしていた。
だしぬけに電話のベルが侵入して来た。日中もブラインドを閉ざした仄暗い寝室の床にビニールクロスをひろげ、用具を取り散らして壁紙の張り替えに熱中していた圭子は、急に眠りから醒めたように顔を上げ、背後を振り返った。
アメリカ南部風のがっしりした樫材のダブルベッドと白い化粧台との間の薄暗がりに、ダイヤル盤の灯りを小さな花輪のように泛べた淡緑色の電話機が、単調にベルの音を断続させている。見返ったまま、圭子は迷惑げに眺めていたが、ふと確信を失った眼色になった。スウではなく、テキサスに行っている夫のジェフからかも知れない……。
糊《のり》刷毛を持ったまま慌てて立って行き、左手で受話器を取った。
――ケイ、あたしなんだけどよ……。狎《な》れ狎《な》れしいべったりした声音の日本語が、受話器の奥から絡みついて来た。
圭子は露骨にうんざりした表情を泛べ、未練げにやりかけの仕事の方へ眼を投げたが、声だけは愛想よい冗談めかした調子で答えた。相も変りませず……のスウね。
いっそう狎れあうふうの、けたたましい笑い声が返って来た。
反射的に圭子は、受話器を耳から離した。ぐちゃっとした濡れ雑巾か何かを膚に押しつけられた感じがした。
――ねえ、ケイ。聞いてよ、ちょっと……。離したままの受話器からの遠い声が云った。
圭子は心の中で溜息をつき、傍の化粧椅子に腰を下した。答えようと答えまいと、いつも同じその言葉を皮切りに、自分の感情以外は目もくれないスウの長電話がはじまるのだ。しかも話はきまって、退役将校でアル中気味の夫の悪口か、更年期過ぎてからはじまった若い男相手の情事《アフエア》の――スウ自身は恋愛《ラブ》と云っているが――相談めかした惚《のろ》け話なのだ。ごく稀に用事らしきものがないではないが、用件に辿り着くまでに必ずきまった線路を走って、更にくどくどしい用件の前置きが加わり、小一時間はかかる。今度スウから電話がかかって来たら、日本人同士という血の狎れあいは嫌いだ、他人の色事にも自分は興味がないときっぱり断ろうと、もう何年も圭子は思いつづけている。
――もうあたし、我慢出来ないわ。昨夜《ゆうべ》あたし、フィルのお蔭で一睡も出来なかったのよ……何の役にも立たない本なんぞ読み耽って……夜中過ぎてやっとベッドルームに……当てつけがましくわざと大きな音をたてて……たかが枕カバーくらいのことで……日本の捕虜収容所じゃ破れ毛布一枚の生活を……徹底したエゴイスト……
エンドレステープさながらのスウの声を切れぎれに聞きながら、圭子は眼だけ逃れるように壁にやり、三分の一ほど張り上げた生漉《きず》き和紙の出来工合を眺めた。
今年の春、定年で軍隊を退役した夫のジェフは、ひと月ばかり前からテキサス州南部の従弟の農場に農繁期の手伝いに行っていた。娘と息子の二人の子供は去年の秋、不意に渡りの季節が来た鳥のようにそれぞれ独り立ちして遠くへ行き、下士官ながら三十年あまり軍隊を勤めあげた夫の終身恩給だけで生活の心配はなかった。更に現役軍人家族と同様に陸軍病院や軍隊の保給購買部《コミサリー》などを利用出来る退役軍人恩典もあり、州で最大の陸軍ミサイル基地に隣接しているこの町に住んでさえいれば、医療費の心配はまったくなく、食料品なども安く購入出来た。しかし、アイルランド系移民の三代目で勤勉な夫のジェフは、狩猟や魚釣りなどの趣味だけで日を送るのは落着けぬらしく、といって広大な草原地帯にとり囲まれた人口三万の田舎町では適当な再就職口もなく、従弟から招かれたのを幸いにアルバイトを兼ねてテキサスへ出かけたのだった。
まだ水気を帯びて黝《くろず》んでいる壁の和紙は、まるでティッシュペーパーを張ったように頼りなく、見窄《みすぼら》しく見えた。扱いも思っていたより難しく、障子張りの要領を思い出しながら、壁に薄糊をひいて手早く張ったが、それでも紙が伸びて、かなり目立つ小皺があちこちに出来ていた。やはり、町で売っている糊つきの簡便な壁紙にした方が無難だった……と、圭子は後悔した。夫が帰宅した時に愕《おどろ》かせようと寝室の壁紙の張り替えを思い立ち、町のスーパーストアを何軒も廻って気に入る壁紙を探した揚句、日本の生漉き和紙を使ったら……と思いついて、白人の女達には真似られないアイディアだとひどく得意になった。だが、アメリカ南部風の頑丈な家具とうまく調和するだろうかと不安も覚えて何日も思い迷った揚句、諦めきれずにロスアンゼルスの日本百貨店に注文して取り寄せたものの、記憶にあった以上の繊細な優美さに狼狽し、不安が募った。失敗だったらやり直すより仕方がないと、一刻も早く仕上げて出来工合を確めたい気持に急き立てられていた。
が、受話器からは相変らず夫を非難しつづけるスウの声が流れ出ていた。言葉を挟む隙もない。圭子は心の中でふたたび溜息をつき、右手に持ったままの糊刷毛を親指と人差指でつまんで眼の高さに吊るし、意味もなくぶらぶらさせた。日本人同士の血に甘えきっているスウを疎《うと》ましく思いながら、それを許している自分にも苛ら立ちを覚えた。
スウと知り合ったのは二十数年前、生後八ヵ月の娘のフランシスを抱いて夫とともに太平洋を越え、東海岸の夫の実家で半年ほど暮した後、大陸の中央部にあるこの町に来たばかりの頃だった。馴れない生活に加えて、聞きとり難い南部訛の言葉と、はじめての子育てに身も心も消耗しきっていた圭子は、基地内の保給購買部《コミサリー》で不意に日本語で声をかけられた時、暫く返事が出来なかった。お河童《かつぱ》髪がよく似合う日本人形めいた、ほっそりとした容姿にも魅了された。たちまちその場で親しみを深め、圭子がこの町に来て日が浅く、車の運転も出来ないことを知るとスウは、子供のない身軽さで三日にあげず訪ねて来て、あれこれと世話を焼いた。横浜の貿易商の娘で、母親を早く失ったために甘やかされて育ったというスウは、自分の感情に溺れてしつこくなる癖はあったが気のいい人柄で、圭子も何かにつけてスウを頼りにし、スウと知りあったことを自分が幸運に恵まれているしるしとさえ思った。基地内の陸軍病院でロバートを生んだ時も、まだよちよち歩きのフランシスを二週間も預ってくれたのはスウだった。
昔のことを思い出すと圭子は、ほとんど毎日、時間構わずかかって来るとはいえ、スウの長電話を迷惑がっている自分に、いくらか後ろめたさを覚えた。自分もかつては日本人の血に甘えて、苦境を助けてもらったのだった。
同時に、あれほど魅惑的だった愛らしいスウはどこへ行ってしまったのだろうと、訝しい気がした。今のスウにあるのは、どこか皮肉な匂いがする魔女めいた乾涸《ひから》びた容姿と、ぎすぎすした身勝手さばかりだった。
――あたし、用があって出かけなきゃならないんだけど……。やっとスウの声の隙をみつけて、圭子は早口に遮った。
受話器の奥で一瞬、不吉な沈黙があった。どこへ行くのよ、と機嫌を悪くした声で訊ね返して来た。それだけは昔と変らないお河童髪の長い前髪の下から探るような硬い眼を覘かせ、薄い唇を不満気にぎゅっと結んだスウの顔つきが眼先に見えた。
――ジューンに、と咄嗟に圭子は嘘を重ねた。あのスーツケースを届けようと思って。銀行に行く用もあるし……。
――ああ、あのスーツケースね。
訳知りにスウは答えた。自分だけが知っている内証話に機嫌を直したらしく、不意に面倒見のよい年長の女の声になって、
――早く届けてやりなさいよ。ジューンはほんとに何も持ってないのよ。車もないんだし……。
気にかかってたんだけど、と圭子は言訳した。
――でも、なにしろもう七、八年前の代物でしょ。それにもともと目星い物は入ってないのよ。良い物はアトキンス大尉が売り払うか、メキシコ女が自分の物にしたんじゃないかしら。ガレージセールでも売れないような普段着とか、使いかけのこちこちになった化粧品とか、安物のブローチなんかばかり。おまけに、誰の目にもつかないようにガレージの屋根裏の物置の隅に隠しておいたから、取り出すだけでも一仕事だし……。ジェフが留守だから、かえって忙しいのよ、庭の芝刈りから犬の世話までやらなきゃならないでしょ……。
思いつくままに圭子は、言訳を並べ立てた。日本人同士なのにジューンに冷淡だと蔭口をきかれたくない用心もあったが、アトキンス大尉から無理に預けられたのを迷惑に思いつづけていたスーツケースを、何故ジューンに届けるのを一日延ばしにしているのか、自分でも理由がはっきりしなかった。さまざまな言訳をつづけながら、確かにその通りに違いないと思う一方、なんとなく本当の理由ではない感じがした。七年ぶりでジューンと顔をあわせるのが億劫なのかも知れないと考えたが、それも確かにそうでもあれば、そうでない気もした。
――よかったわ、ちょうど……。
当惑めいた圭子の気持とは関わりなく、スウの声はふたたび一方的な調子になった。
――じゃあ、行きがけに寄ってよ。彼にちょっと用があるんだけど、あたしの車、エアコンディションの調子が悪くて修理に出してるのよ。
圭子は答えず、壁に眼をやった。苛ら立たしげに暫くさ迷わせていたが、不意に決心して息を吸い、
――よしたほうがいいわ、と素っ気なく云った。彼はもう、あなたと手を切りたがってるのよ。
かすかに怯《ひる》んだ気配がした。が、すぐ、憤《む》っとした声が熱っぽく押し返して来た。どうしてそんなことが分るのよ。あなたはエドガーを知らないじゃないの。エドガーは……エドガーは……エドガーは……エドガーは……。
余計なことを云った、と圭子は後悔した。またしても受話器を耳から離して聞き流すより仕方のない、手放しの惚け話のきっかけを与えたようなものだった。スウは|気違い《クレージイ》だわ、と忌々しく心の中で呟いた。他人の迷惑がまるで見えない、だから次つぎに相手の若い男に逃げられるのだということが、何度も同じ事を繰返しながらどうして解らないのだろう。いや、それよりも自分の容姿の衰えに気づいていないのだろうか。まだ若い男を惹きつける魅力があると思っているのだろうか……。反射的に圭子は、町で時折見かけるエドガー・スミスという名の、白人との混血インディアンの青年を思い浮かべた。町のYMCAの美術教師をしている無名画家のその青年は、大地から真っ直ぐ生えた樹のような躰つきで、同じ蒙古系民族のせいか膚色も髪の色も顔だちも日本人そっくりだったが、眼の色だけが青く、義眼めいた不気味さがあった。町から三十マイルほど離れた|鹿の森《エルク・ウツド》と呼ばれるインディアン保留区《リザベイシヨン》の首長の一族とかで、様子にどこか肩を怒らせているような傲慢な構えが見え、しかし白人の若い娘たちに人気があるらしく、何人もの娘たちと派手やかに連れ立っていることが多かった。
その彼が、どんな心の迷いでスウと関係を持ったのか訝しかったが、いずれにしてもスウの惚け話から自己陶酔的なひとりよがりの癖を差引くと、彼がいろんな口実を設けてスウを避けはじめていることは圭子にも透けて見えていた。にもかかわらず、頑固に気づこうとしないスウが、真暗な狭い部屋に閉じ籠っている感じがした。
――あたしの思い違いだわ、きっと。
雪崩のようなスウの声がようやく一段落したのにほっとして、素早く圭子は折れて出た。とにかく、一刻も早く仕事に戻りたかった。ましてこの陽盛りに、熱くシートが灼けている車を運転してスウの媾曳《あいび》きの手伝いをする気にはなれなかった。
――でもね、いい加減で別れた方がいいんじゃないの。もし人の噂にでもなったら……。
――噂なんて! 焦れたように高飛車にスウは切り返して来た。そんなこと気にするのは偽善者《ヒポクリツト》がすることよ。莫迦《ばか》莫迦しいわ。それで自分の人生を取り逃してしまうなんて。いずれは誰も死ぬんだわ。
――平凡な生き方があたしは好きなの。それに知ってるでしょう、ジェフが真面目人間《スクウエヤー》だってこと……。
――何の関係があるの、それが。
――だって……困るわ。
――ああ、ジェフに知れたらってこと?……わかったわ、いいわよ。頼まないわ、そんな友達甲斐がない人には。二言目にはジェフがジェフがって、あなたって夫の顔色を窺って小心翼々と生きることしか知らないのね。それで生きてるつもりなの。ずいぶんと幸福な人ね!
乱暴な音を立てて突然、電話が切れた。
スウは|気違い《クレージイ》だわ、と圭子は心の中でふたたび呟いた。が、なんとなく気持がひき千切られたように宙ぶらりんで、化粧椅子から腰を上げるのが億劫だった。不意に切れた電話の、虚空で鳴る弦に似た電波音が、まだ何処かで鳴りつづけている感じがした。
ぼんやりと圭子は手の糊刷毛を暫く眺めていたが、何気なく顔を上げて傍の化粧鏡を見返った。途端に、ぎくりとした。ブラインドの隙からの仄明りを鈍く反射している鏡の中に、胡粉《ごふん》が剥げ落ちた泥人形そっくりの老けた日本女の顔があった。わたしだろうか、これが……。まじまじと圭子は鏡の中を見凝めた。すこしも齢をとらないと他人に云われ、自分でもそう思い込んでいたが、鏡の中から見返している女の顔のどこにも、若さはなかった。繭のようだと賞めそやされていた膚は異国の激しい太陽に晒らされて古びた揉み革のようになり、大きく艶やかだった眸は生気を失って、空虚な二つの穴に見える。この国に来てからの歳月が、一瞬の間に鏡の中に雪崩れかかったようだった。
この国に来て、もう二十四年になる……。数えて、圭子は狼狽した。生まれ育った母国で過したよりも三年永い歳月だった。と、その歳月の彼方に置き忘れていた風景が突然、鮮やかに甦った。
抱きかかえるように両側から松林が続く岬が伸びた、濃青《こあお》の玻璃椀《はりわん》の海。岬と岬の間には、夕暮になると灯台の小さな赤い灯が点滅する三角形の島が淡い藍色に霞んでいる。その玻璃椀の海を縁どっている白い砂浜で、熟れた真夏の午後、太陽と潮と砂にまみれて戯れている水着姿の少年と少女たち。
エッちゃん、ダルマさん、コウちゃん、シュンちゃん、ノブ……。遥かな谺《こだま》のように少年たちの呼び名が圭子の脳裏に還って来た。同時に、浜辺に打ち上げられた海藻や塵芥が熱い砂に埋もれて分解してゆく濃密な匂いが鼻先を掠め、滑かなひろい渚に白い布をひろげては素早く退いてゆく波が見えた。
サヨちゃん、フウコ、ミキ、セッちゃん、アメンボ……。少女たちの呼び名も還って来た。潮に濡れたお河童髪の幼獣めいた匂い。波が残していった泡がぷつぷつ呟く音。片方だけ大きな鋏を振り上げて一斉に走って行く汐まねき。岩場の方へ駆けて行く少年たちの喚声……。
痩せて躰がひ弱く、アメンボと渾名《あだな》をつけられていた圭子は、年長の少年や少女たちの遊びに心惹かれながら、乱暴に揶揄《からか》われるのが怕くて、ひとりで砂の城を作るのが好きだった。真昼の海辺の空気のざわめきを背中で聴きながら、池や、回廊や、幾つもの塔を持つ城を築くのに時を忘れた。最後の仕上げには波打際の砂を潮と一緒に掬い取って来て、両掌の間から塔や城壁に滴らせると、蝋燭の雫の塊りに似た美しい城が現われる。しかし、潮が満ちて来て、波が城を崩して行く時が、もっとも心のときめく瞬間だった。波が打ち寄せるたびに城壁や塔が少しずつ崩れ落ち、やがて思いがけなくやって来た大きな波が崩れ残っていた城をひと飲みにして浚《さら》って行くと、思わずほっと溜息をついた。そしてふたたび寄せて来て、陽に焼けた細い踝《くるぶし》をくすぐる波の感触に恍惚となりながら、遠い沖合に眼をやって心で語りかけた。自分はこの海と深く結ばれているのだ、この海の傍でしか生きてゆけない人間なのだ……と。
エアコンディションのモーターが単調に唸りつづけていた。戸外の住宅地も相変らず物音が絶えたままで、激しい太陽が家を炙《あぶ》りつけている気配だけがあった。
ここは、アメリカ大陸の真只中なのだ……、呆然と圭子は、仄明るい鏡の中の老けた日本女の顔を眺めた。どうしてこんなところに居るのだろう、あれほどあの海との絆を信じていたのに――。ほんとに二十代の初めからこの齢までの人生を、こんなところで過してしまったのだろうか?……。圭子は、ぼんやり周囲を見廻した。モデルルームそのままに整った清潔な寝室が、不意に見知らぬ部屋に見えた。畝織りのベッドカバーが皺ひとつなくかかっている大きなベッドも、頑丈な揺り椅子も、衣裳戸棚の白い鎧扉も、塗り替えたばかりの天井も、圭子の視線さえ拒むような他所他所しい表情をしている。壁の到る処に、日本の舞扇や軸や臈纈染《ろうけつぞめ》の布などが洋妾趣味そのままに飾り立てられている。ここが、わたしの家なのだろうか……。圭子は何かに騙《だま》されて自分のものではない人生に閉じ込められ、しかし目先の家事に追われて、それと気づかずに歳月を過ごしてしまった気がした。育て上げた娘と息子も、夫婦として暮して来た夫のジェフも、騙されて家族だと思い込んでいただけのように思われた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。あの海の傍で、日本語で話し合える夫や子供たちと、畳や白い障子がある家に住んで暮すことも出来た筈なのに――。これから先も、あの海から遠く遠く隔てられたまま、自分の感覚も心も休ませてはくれない家の中で、来る日も来る日もエアコンディションのモーターの音に捉えられて過し、そして死んでゆくのだろうか。もう二度と、あの海の傍で暮すことはないのだろうか……。悪夢から醒めるのを希うように圭子は、鏡の中の顔に訊ねかけた。
胡粉が剥げ落ちた泥人形の女は、答えなかった。空虚な穴に似た二つの眼から、水が流れ出ていた。
圭子は、顔をそむけた。電話機のダイヤル盤の灯りが滲んで、大きな輪になった。咄嗟に受話器を取り上げ、スウの電話番号をダイヤルした。数字をひとつ廻すごとに、冷ややかな企みが心に居坐ってゆくのを覚えた。
スウの家の前で車を止め、圭子は短くクラクションを鳴らした。
白い炎になった太陽が遮るものなく真上から撲りつけている住宅地は、どの家もブラインドや厚いカーテンを閉ざして息をひそめ、大きな柩が並ぶ墓地に化したようだった。手入れが届いた芝生の前庭の奥に、ポーチの白い円柱が眩しく陽を撥ねているスウの家も物音ひとつ聞こえず、玄関脇の花盛りの合歓《ねむ》の木が、喪章のように濃く短い影を足もとにつくっている。
家の外には灼けつく太陽の檻。町の外には一直線のハイウェイが涯なくつづく草原の檻。幾重もの檻にとり囲まれた牢獄同然のこの田舎町に、七年ぶりでマキャルスターの刑務所から釈放されたジューンはなぜ戻って来たのだろうと、スウを待ちながら圭子はバックミラーに眼をやった。
ワイドのバックミラーの中央に淡いべージュ色の後部座席が映り、その端に臙脂《えんじ》色の古びたスーツケースがのっている。ガレージの屋根裏の物置から取り下ろした時、屋根裏にこもっている熱気で火傷しそうにビニール皮が灼けていたが、外見は七年前とまったく変っていない。なんとなく腐った血を連想させる色の褪せ工合も、柄の中ほどが手垢で黝んでいる加減も、止め金の鍍金が剥げて錆が霜降っている様子も、ジューンの夫のアトキンス大尉が何の前触れもなく預けに来た時のままだった。あの時、玄関のチャイムの音に何気なくドアを開け、スーツケースを提げて立っている肥り気味の金髪の中年男がアトキンス大尉だとは暫く気づかなかった……と、圭子は思い出した。
彼は挨拶もせず、いくらか前跼みな姿勢で黙ってつっ立っていた。服装はきちんとしていたが、視線をあわせるのを避けるふうに焦点を曖昧に散らした胡乱《うろん》な眼や、眼の下の紫色の大きなたるみなどに生活の荒さみが見え、田舎廻りのいかさまなセールスマンに違いないと、圭子は警戒気味になった。
と、いきなり相手は放り出すようにスーツケースを圭子の足もとに置き、腹立たしげな声で云った。
――これはジューンのです。ジューンに渡して下さい。
ジューンとは誰だろう、何かの間違いか詐欺ではないかと疑わしくスーツケースを眺め、廃品同様の代物で、腐った血のような嫌な色だと思った途端、あ……と、相手がアトキンス大尉であるのに気づいた。が、暫く、挨拶の言葉が見つからなかった。
アトキンス大尉は五、六年前、隣接している陸軍ミサイル基地に転属して来た参謀本部付きの青年将校だった。当時はまだ少尉だったが、金髪碧眼の際立った容姿に加えて、いかにもウエストポイント出身らしいエリートの匂いを身につけていた。順子が本名の日本人妻のジューンとの仲も良く、基地の保給購買部《コミサリー》や町のスーパーストアなどで、父親似の金髪の幼い息子のロニイを抱いたアトキンス少尉が、もう一方の手で買物ワゴンを押し、連れ立って買物している姿をよく見かけた。少尉クラスでは町中のアパートメント暮らしが普通にもかかわらず、周辺部住宅地《デベロプメント》の小綺麗な家を買い取って住み、ウエストポイント出身でアングロ・サクソン系の将校としか交際せず、日本人妻たちが町で出会って挨拶してもジューンがかたちばかりの愛想の良い微笑を返すだけで、アトキンス少尉は道端の石ころを見るような表情のままだった。が、その高慢さがあまりにも身につき、民族的自尊心を傷つけられた日本人妻たちにさえ、一種の魅力を感じさせるほどだった。
しかし、スーツケースを押しつけるように圭子の足もとに置き、不貞《ふて》腐れた感じでつっ立っている眼の前のアトキンス大尉は、エリートの匂いはおろか、凡庸な人間の安らかさすらなかった。膚の毛穴のひとつひとつから生活の荒さみが滲み出し、なんとなく無残に圧し潰された銀貨を見るようだった。その原因がひと月ほど前、州の中央裁判所で懲役九年の判決をうけた妻のジューンの事件にあることは疑いなかったが、それにしてもあまりな変り方だった。
――アトキンス大尉……、
圭子がようやく言葉を口にしかけたのと同時に、彼はさっと身を返した。まるで圭子の言葉を振り払うかのような素早さだった。
言葉をのんだまま圭子は、激しい陽光に金髪を白く光らせ、逃れるように前跼みに前庭の芝生の間を車の方へ去って行くアトキンス大尉を見送った。呼び止めて、理由のない依頼を断わらねばならないと思いながら、何かがそれを阻んだ。その日彼が軍隊を退役し、家を売り払って酒場のメキシコ女と駆け落ちしようとしているなどとは、まったく思いもしていなかったけれども――。
しかし服役中に夫も家も失ったジューンが、たとえ刑期が明けても子殺しの日本人妻という烙印だけが残っているこの町に戻って来ることはないと思いながら、また小心で癇癪持ちの夫のジェフの目につくのを怖れながら、屋根裏の物置に何年も隠して預っていたのは何故だろうと、訝しく圭子はバックミラーに映っているスーツケースを眺めた。いかさまな田舎廻りのセールスマンと思い違えたアトキンス大尉が、厄介な死体でも放り出すように玄関のポーチに置き去りにした時とまったく同じ表情のスーツケースが、人目を盗んで永年飼って来た生き物のように見えた。そしてこのままジューンに戻すのが、なんとなく惜しい気がした。
|気違い《クレージイ》だわ、この町に住んでいる日本人妻はみんな。声に出して圭子は呟き、一向に開く気配のないスウの家の玄関を見やった。カーテンを閉ざした薄暗い家の中で、表のクラクションも耳に入らぬほど若い男に逢いに行く身仕度に夢中になっているスウの姿が心に泛び、ふと、その暗い情念が乗り憑《うつ》って来そうな怖れを覚えた。圭子はもう一度、今度はいくらか強くクラクションを鳴らした。
玄関のドアが開き、しかし姿を見せたのはスウの夫のフィリップだった。部屋着姿で、起きたばかりらしい薄い膜を被ったような感じを漂わせたまま軽く肯き、顔の身振りだけで家に招いた。
――ケイコサン、かっふいヲノミマスカ。
それが癖で灰色の口髯を指先で撫でつけながら、棒読みのような日本語でスウの夫は訊ねた。
――ええ、有難う……。
殊更明るい弾んだ声で答え、スウの夫は何も気づいていないと思った。第二次大戦中にフィリッピンで捕虜になり、戦争が終るまで日本で二年余り捕虜生活を過した退役少佐のスウの夫は、表情も言葉数も無愛想なほど寡《すくな》く、枯葉のような寂しい感じを身につけているが、何故か日本好きで、片言の日本語を使う時だけいくらか様子が明るむ。
居間とひとつづきになった食堂に、スウの姿はなかった。家具やさまざまな装飾品だけが賑やいでいる部屋を、窓を閉ざした青いカーテン越しの陽射しが海の底のような色に染めあげていた。台所との境のスタンドテーブルの端に薄黄色い水割りらしい液体が入ったグラスがひとつ、孤独な感じで載っていた。
スウはまだ身仕度に手間取っているらしいと思いながら、圭子は訊ねるのを避けて、代りにスタンドテーブルの上に吊るされている観葉植物の茂り工合を賞めた。もともと狷介な性格で社交嫌いのスウの夫には気づまりなところがあったが、四、五年前に慢性心臓疾患で傷痍退役して以来、読書と園芸の他はこれということもせず、何を考えて日を過しているのかスウにもよく解らない様子だった。寒くない季節の時は、古びた野戦服を着て玄関のポーチの階段に腰をおろし、両手で膝をかかえて、ぼんやり時を過していることが多かった。どこか遠いところを見ているような表情だった。
車を運転して通りかかり、その姿を見かけると夫のジェフはきまって、悪戯っ子が恰好の獲物を見つけた眼つきで圭子を見返り、車のスピードをおとした。窓を開け、ゆっくり家の前を通り過ぎながら芝生の前庭越しに陽気な声をかける。
――ヘイ、何をしているんだい、フィル。
スウの夫は何の表情も見せず、ゆっくり車の方を見やって、いつも同じ返事をする。
――ドゥ・ナッシング。
ジェフは面白い冗談を聞いたように大きな声で笑う。
スウの夫は僅かばかり優しいような寂しいような眼色を泛べる。
ギヤを入れ替えて車のスピードを上げながら、変人の怠け者だ……とジェフは圭子に云う。時にはもう一言つけ加えることもある。大学中退の戦時志願将校なんて役立たずばかりだ、捕虜になっただけが彼の唯一の国家への貢献さ。
しかし時折、スウの夫がダンボール箱に入れて届けてくれる家庭菜園の野菜は、なんとも見事な出来だった。あまり賞めるとジェフが機嫌を悪くするのでほどほどにしているが、見た目にも味にも、濃まやかな丹精が感じられた。野菜という野菜は日本のより何倍も大きくて、味も大味なのに飽き足らぬ思いをしている圭子は、スウの夫の野菜でいくらか味覚の飢えを慰められていた。
――齢のせいかしら、食意地ばかりはってきて……。
スタンドテーブルの椅子にかけ、台所の流しで硝子玉のコーヒーサイフォンを丹念に濯いでいるスウの夫に、圭子はさりげなく微笑いかけた。食道楽のスウの夫は、コーヒーひとつ熬《い》れるにも手間暇を惜しまない。
――それとも、子供たちがいなくなって暇になったせいかしら。細くて、かりっとした日本の胡瓜や、こんな小さな焼茄子や、ぷりぷりする鯛のお刺身や……そんな日本の食物ばかり思い出して、無性に食べたくって……。
云いながら圭子はふと、夫のジェフとは日本の食物の話をしたことがないのに気づいた。父親を早く失い、女手でガソリンスタンドを経営していた母親に育てられたジェフは、砂糖気のないポーク・アンド・ビーンズや玉蜀黍《とうもろこし》粉をつけただけのフライなど、圭子には粗野に思える南部の田舎料理が好物で、日本料理はスキヤキしか好まない。それに反してスウの夫は日本料理にも通で、スキヤキは日本料理とは云えない、日本の風土にしかない繊細な材料の持ち味を生かした関西風の薄味の料理こそ、日本料理そのものだというのが持論だった。
――日本の食物の味を知っている人間は不幸だよ。
スウの夫は頭を振り、サイフォンの水の分量を眼で計ってレンジにかけた。そのまま傍に突っ立って沸くのを待つように眺めていたが、唐突に日本のクリハマという所を知っているか、と云った。
――クリハマ?
圭子の心の中に、弓なりに連った小さな日本列島が、学校の頃の世界地図の赤い色で見えた。すると自分でも思いがけぬ素早さで久里浜の地名が泛んだ。
――三浦半島の久里浜かしら。横須賀の近くの。
――そう、ヨコスカの近くだ。そこで私は百姓をしていた。
――捕虜収容所で?
――イモ、タマネギ、カボチャ、トマト……。
枯葉色の眼をあげて、指で口髯を撫でつけながらスウの夫は日本語で野菜の名を挙げた。
――トマトは失敗したが、あとはみんなよく出来た。とくにカボチャは退避壕の上に這わせたら、見事なのが幾つも実ってね……。
圭子は物珍しく、スウの夫を眺めた。彼が日本での捕虜生活の話をするのは、はじめてのことだった。もちろん、聞かなくてもそれがどんな生活だったかはおおよそ見当がつき、また彼が帰国後、日本人の悪口ばかり云っていたという噂話も町で耳にしていた。その彼が何故、日本で知りあった十《とお》子という変った日本名のスウと一年以上文通を重ねて結婚し、スウと不仲になってからも日本好きでいるのか、どうにも理解出来ずにいる。
――空襲とカボチャは、わたしにも忘れられない思い出だわ。
笑って云いながら圭子は、苦しい時代を共にした日本人同士のような親しさをスウの夫に覚えた。
――でも、折角作ったカボチャも、あなた方の口には入らなかったんでしょう?
――日本人全体が飢えていた時代だったからね。それでも葉っぱや茎は我々の重要な食糧になったし、収穫の時に、監視兵の眼をかすめて青い小さいのを服の下にこっそり隠して帰るたのしみもあった。なかには見て見ぬ振りをしてくれる監視兵もいてね……。栄養失調で脚気になってからは、高台にある陸軍病院の看護婦たちが作っているダイコン畑の番人をしていた。逃げようがないことは分っていたから、畑の隅の掘立小屋にひとり置かれてね……。
圭子の脳裏でふと、古びた野戦服を着て玄関のポーチにかけ、膝をかかえて遠くを見るような表情でぼんやり時を過ごしているスウの夫の姿と、同じ姿勢で三浦半島の大根畑に蹲っている若いアメリカ人捕虜の姿が重った。そして見た目も生活ぶりも健康人とほとんど変らないが、慢性心臓疾患のために飛行機に乗ることも車で長時間走ることも医師に禁じられている彼は、いわば大草原の只中にあるこの町の囚われ人なのだと、はじめて気づいた。圭子はそっとスウの夫の横顔を盗み見た。
――いや、私には仲間と一緒の収容所より、ひとりの方がよかった。
スウの夫は、圭子の方は見ぬまま云った。圭子の気配に、日本人のひとりとして居心地悪く感じているのではないかと、とり違えたらしかった。
――私は仲間づきあいが苦手だし、それに収容所には捕虜がいるだけで、仲間はいなかった。畑の掘立小屋には、監視兵も時どきしか来なかったしね。あの掘立小屋が今でも懐しいくらいだ。天気が良い日は、ぼんやり一日中ダイコン畑を眺めて過した。戦争が終って国に帰ったら、焼き立ての香ばしいマフィンにママレードをたっぷりつけて食べようとか、大学に戻った時に皆に聞かせてやろうと大真面目でバビロンの虜囚に自分をなぞらえた長詩を作ったりして……そう、有名な学者になって再び日本に来る日のことを考えたりもした。その時、新聞記者たちのインタビューにこたえる言葉まで考えてね……ダイコン畑のずっと遠くに、色紙の切れっ端みたいな海が見えていた……何かを信じていたらしい、あの頃はまだ……。
話し出したのと同じ唐突さでスウの夫は言葉を途切らせ、不意に陽が翳ったような表情になった。そのまま遠くに眼をさ迷わせていたが、ふと気づいて紛らすふうに、
――いや、生きたかったというだけのことかも知れない、と苦笑めいて呟いた。
圭子は黙ったまま、小さく頭を振った。スウの夫は変人ではなく、いろんなことを感じ過ぎ、知り過ぎたために寂しい人間になったのかも知れない、という気がした。
――どうして今は……。躊躇《ためら》いがちに訊ね返しかけた圭子の言葉を、フィル!……フィル!……フィリップ!……と呼び立てるスウの良く透る声と、気忙しく階段を下りて来る跫音が遮った。
――あら。ケイ……来てたの。
痩せぎすの躰を華々しく装い立てて、急ぎ足に食堂に入って来たスウは思いがけぬ様子で、お河童髪の下から覘いている硬い眼を動かした。が、身ごなしまで浮々と華やいで、不安な影や後めたげな様子はまったくなかった。圭子は失望した。
――クラクションを二度も鳴らしたんだけど、聞こえなかった?
スタンドテーブルに片肘をついたまま、無邪気そうに圭子は云った。
スウは圭子の問いを無視して、顔を夫の方へ向けた。艶のある変り織の青い服の胸にかけた長い金鎖のネックレスを、紅いマニキュアをした骨ばった指にきりきり捲きつけながら、
――わざと知らさなかったのよ、フィルは。そうなのよ、いつも子供みたいな嫌がらせをするのよ。自分は好き勝手に暮しているくせに……。
スウの夫は滾《たぎ》ってきたサイフォンに目を落したまま、黙っていた。コーヒー粉を入れたサイフォンの上部に湯が吸い上げられてしまうのを見届けて、ゆっくりした手つきでレンジを切った。不意に自分だけの殻の中に頑なに閉じこもってしまった気配だった。
肩を竦《すく》め、スウは指に捲きつけていたネックレスをぱらりと解いた。共犯者の眼顔で圭子を見返って、
――行きましょうよ、ケイ。ジューンが待っているわ。
――コーヒーも飲ませてくれないの。
素っ気なく眼をはずし、肘をついたまま圭子は云った。何があろうと圭子は自分の味方だと決めこんでいる、スウの勝手な自信が腹立たしかった。どんなことも撥ね返すゴム毬のような心をスウは持っているのかも知れないと、なんとなく不気味でもあった。
腰を上げる様子をみせない圭子に、仕方なげにスウは食堂椅子にかけた。そわそわと片手でネックレスを弄びながら、夫が丁寧にコーヒーカップを暖めてからコーヒーを注ぐのを見守っていたが、無理に気を紛らすふうに喋り出した。
――でも、ジューンも莫迦ね。こんな退屈な、何かといえばステーキ・ディナーに招きあって他人の噂をする以外なにもない、猫の欠伸《あくび》みたいな町にわざわざ戻って来るなんて。日本に帰るか、何処か噂の届かない遠くの町に行って暮せばいいのに。そうじゃない?
――だけど、それには旅費がいるわ。有難う、フィリップ。
ほとんど気配もなく食堂に出て来て、黙って圭子の前にカップを置いたスウの夫に、圭子は礼を云った。スウの夫は軽く肯き、黙ったまますっと離れて行ったが、何か揺らぐような感じが残っていた。
――虚栄心が強いのよ、ジューンは。スウは強い口調できめつけた。この町に帰って来る旅費はあったんだから。子殺しの日本人妻、という悪名でもいいから人の注目を惹いて暮らしたいのよ。それもエリート将校の妻で、服役中に夫は酒場のメキシコ女と駆け落ちしたなんて、同情も惹くわ。ちょっと盛りは過ぎてるけど、まあ美人だし、ねえ、男ってそんな女に関心持つんじゃない……そこまで計算して戻って来たのよ。
コーヒーは日本風に濃く熬れられていた。スタンドテーブルの端のスウの夫を見返ったが、やや背を向け加減に椅子にかけ、本を読みながらグラスを口に運んでいた。
――そもそもね、あの事件からしてジューンの虚栄心が原因なのよ。エリート意識の強い派手な連中とばかりつきあっていたから、小学校にあがったロニイを何がなんでも優等生に仕立て上げて、学年末に新聞に掲載される優等生欄に名前を出さなきゃと思い詰めたのよ。ひとりっ子だし、アトキンス大尉は朝鮮《コリア》駐留中だったし、ねえ……。それが通知表の成績が悪くって、ロニイが悪い点数のテスト用紙を学校の帰り道に捨ててたことが分って逆上したんだわ。でも、そのくらいのことで椅子に縛りつけて野球バットで撲るなんて……。
ばたんと手荒く本を閉じて、スウの夫が立ち上った。目を伏せたまま口髯の蔭でぶつぶつ呟き、しかし訊ね返す暇を与えず食堂から出て行った。その呟きの一言だけが圭子の耳に届いたが、不安《ソリシチユド》……とも、孤独《ソリチユド》……とも、聞こえた。
――旧市役所裏のセント・ジョゼフ通りの東側よ。
車に乗り込むとすぐ、ハンドバッグからコンパクトを取り出しながらスウは云った。
圭子はバックミラーにちらと目をやって、車のキーを廻し、アクセルを踏んでエンジンをかけた。座席も空気も熱く灼けた車の中に、エアコンディションの冷い空気が流れ込んで来た。コンパクトを覗き込んで前髪の工合を直していたスウが、いそいで手を伸ばして風の向きを変えた。ギヤを入れ、サイドブレーキをおろして、圭子はアクセルを踏み込んだ。
春先にトルネードと呼ばれる大きな旋風が吹くこの町では、住宅はもちろん、商業地区の建物も平屋建か、せいぜい二階建で、建物の周囲には広い駐車場が設けられ、博覧会場めいただだっ広い町づくりになっている。しかし自家用車が発達しすぎて他の交通機関はなく、子供たちが小学校にあがるまで運転免許を取る暇がなかった圭子は、何処へ行くにも夫の車かスウの車に頼っていた。食料品は一週間分まとめて買い、不足分は夫にメモを渡して勤務帰りに買って来てもらうか、急ぐ場合はスウに電話した。もちろん、かなり不便だったが、ある程度の貯金が出来たら軍隊を退役して日本に戻り米軍基地関係の民間職について暮す、という結婚前からの夫の言葉を信頼しきっていた圭子は、一時の辛抱と思っていた。が、そのために衣食住のすべてについて夫に依存的になり、常識を重んじる夫の轍にあわされた女に仕込まれて、その後、日米安保条約の改定を巡って日本で反米運動が激しくなったのを口実に、子供たちの安全を考えれば日本へ戻るのは問題外だとジェフが云い出した時も、母国で暮したくなった夫の本心を悟りながら、気づかぬ振りで従ったのだった。
まるで永い間、気を失っていたようだ……、スウの香水の匂いが強くこもっている車を旧市内に向って走らせながら圭子は、思わず深い息をつき、六車線の広い通りの左右に平坦な建物を置いただけの町を見やった。はじめてこの町に来た時、街路樹もなければ人影も殆んどない町が、未知の都市模型の中に迷い込んだようで奇異に感じられたが、間もなく、誰もが車を使うせいだと納得した。町そのものが、人が足で歩くようには出来ていないのだ。しかし、人が足で踏みしめない土地に骨を埋めるのは侘しいと、不意に眩暈に似た感情を覚えた。何年住んでも町全体がどこか他所他所しく、第二の故郷と思えないのはそのせいかも知れない。ちょっと下駄をつっかけて買物に行ける、黒い屋根瓦がちまちまと軒を連ねた日本の町が、今更のように懐しく心に泛んだ。この国に来て暫くの間、夫のジェフは日本に里帰りしたければ何時でも行っていいと云っていたが、フランシスとロバートが運転免許を得られる齢になるまでは毎日送り迎えをしなければならず、子供たちが成長してそれぞれ自分の車を持ち、ようやく送り迎えから開放された頃には、夫は忘れたように口にしなくなって、そのかわりに町から八十マイルほど離れた田舎の、野生の七面鳥やホロホロ鳥のいる農場を買い取り、定年後はそこで暮したいという話をするようになった。現在の持主は子供のいない老夫婦で、年に何回か泊りがけで猟に行くのが夫の道楽のひとつである。
――その先の信号を左よ。
さきほどまでの浮き浮きした様子とはうって変った、思い詰めた様子で膝の上のハンドバッグを握りしめ、車の正面を見据えていたスウが不意に云った。
圭子は黙ったままバックミラーに眼をやり、ハンドルを切って道の左側に出た。そのあたりは六、七年前まで町の中心だった旧市内の目抜きの一郭で、しかし建物が古びて危険になったことと、道幅や駐車場が狭いために、隣接しているミサイル基地寄りに新しく町の中心が移り、今では寂びれて、走っている車も疎《まば》らだった。
スウの指示通りに二度曲って入り込んだセント・ジョゼフ通りは、古めかしいその名のとおり、狭い道の両側に年老いた暗鬱な獣めいた建物が並んでいる裏通りだった。ところどころに取り毀し中の建物が目立ち、しかし人影も物音もなく、建物に身をすり寄せるようにして停まっている何台かの車がなければ、廃墟の街に迷い込んだようだった。
――何時頃、迎えに来たらいい?
通りのはずれの、薄汚れた黄褐色の化粧煉瓦造りの建物の前で車を停め、スウの家を出てからはじめて、圭子は言葉を口にした。黝《くろず》んだ漆喰が到るところ剥げ落ち、部屋の窓ごとに錆びた冷房装置の四角い箱が不様に突き出している貧乏白人《プア・ホワイト》のアパートらしい見窄しさに、何不自由ない暮しの身で、気羞しいほど着飾って男に逢いに来ずにはいられないスウの哀しさが、ふっと自分に重って来る思いがした。
そうね……、思案するふうにスウは赤いマニキュアをした骨ばった手で膝の上のハンドバッグをそわそわといじっていたが、急に狡いような切端詰ったような様子でニヤッとした。
――ねえ、ケイ。一緒に来て彼の絵を見て行かない?
――まさか。
――いいのよ。才能のひらめきがあるとても素晴らしい絵なのよ。彼も喜ぶわ。ねえ、手間は取らせないから。
二階への階段は、狭くて暗かった。部屋数はかなりあるらしいのに人が住んでいる物音も気配もなく、暗がりのなかに古びた漆喰の匂いだけがただよっていた。先に上って行くスウの靴音が、深い井戸に落ちてゆく小石のような空虚な響きを伝えて来た。不安《ソリシチユド》も孤独《ソリチユド》も意味は同じなのだ……と、圭子はふと思った。不安のなかに孤独があり、孤独のなかに不安がある……。
両側に戸口が単調に並んでいる袋小路めいた二階の廊下にも、人気はまったくなかった。天井のところどころに煤けた蛍光灯が薄明りを投げ、躰を動かすだけで炎が煽ぎ立てられるような暑熱が籠っていた。
――留守なの?
奥近い戸口の前に佇み、何度も呼鈴を押してはドアを振り仰いでいるスウに近づきながら、さりげなく圭子は訊ねた。部屋の中でチャイムが鳴っているのが聞えたが、何の物音もなくひっそりしていた。
スウは答えず、ふたたび強く呼鈴を押した。押しつづけながら顔を硬くして、部屋の中の気配に耳を|※[#「奇+支」]《そばだ》てていた。
――留守なのよ。
ゆっくり、圭子は云った。
――そんな筈ないわよ!
振り向きもせず乱暴に答え、呼鈴から手を離すとドアをノックし始めた。エドガー……エドガー……と高い声で呼んだ。
――留守なのよ、スウ……。慌てて今度は宥《なだ》める口調で云った。何か急用で出かけたのよ、きっと。
が、スウは薄い唇をひき結んだまま、ノックしつづけた。丹念に化粧した顔に前髪の下から滴っている汗を拭おうともしないその様子には、どこか狂気めいたものがあった。
――スウ、帰りましょうよ。
そっと青い服の肩にかけた圭子の手を、まるで傷に触れられたかのように腹立たしげに振り払った。躰が強くドアにぶつかり、鈍い大きな音が廊下中に響いた。思わず圭子は並んでいる戸口に目を走らせたが、スウはいっそう気を昂ぶらせた様子で、両手でドアを激しく叩きながら、
――エドガー……エドガー……、と命令するように呼び立てた。
――わかってるわよ、どうして居留守なんか使うの。あなたの車、下にちゃんとあるじゃないの。それに電話でも云ったでしょ、あたしだけじゃないのよ、あなたの絵のお客と一緒なのよ……あなたの絵を買いたいって云ってる人よ……ねえ、エドガー、意地悪しないで。仕事の邪魔になるのなら、もう決して電話はしないわ。約束するわ。でも、あなただけがあたしの生甲斐なのよ。それを奪わないで。愛する人間なしにはあたしは生きてゆけないわ。今までのように時どき、逢ってくれるだけでいいの。おねがい。あなたに渡すものもあるのよ……。
マスカラが溶けおちた薄黝い泪《なみだ》を流しながら、スウは慌ただしく腕のハンドバッグを探って白い封筒を取り出した。ドアの隙から押し込み、そのまま縋りつくように両手を上げて、弱々しくドアを叩いた。口が開いたままのハンドバッグを肘のところまでずり落し、両手でドアを叩いているその姿は、翅が破れた蛾が硝子戸にはりついて虚しく羽搏きしている姿に似ていた。
背後でかすかな物音がした。振り返ると、斜め向かいのドアが細目に開き、白髪を逆立てた、男のように背が高い老女が覗き見していた。その貧乏と孤独がはりついたいかつい顔の、まばたきもせずスウを凝視している薄緑色の眼に、圭子はぎくりとした。飢えた野良犬のように他人の不幸を貪り喰っている眼だった。
見てはならぬものを見てしまった怖れが、背筋を走った。
が、老女は圭子にはまるで気づかぬ様子でスウを見凝めつづけていたが、急に飽きた表情になって、薄茶色のしみに覆われた乾涸びた手で頸筋を掻いた。それから不意に圭子の方に眼配せして、頷いた。同じ親しい仲間に合図するかのような、狎れあった眼配せだった。
中央に観葉植物が茂った大きな鉢を置いたYMCAの明るいロビーの床に、淡い人影が動いていた。
馴れない場所を訪れる緊張に逆うように、急ぎ足に正面玄関から入った途端、一瞬、圭子は立竦んだ。エアコンディションがよく利いた爽やかな空気のなかに、どこの家の衣裳戸棚にもスーパーストアにもただよっているアメリカの婦人用肌着特有の甘い香料の匂いが、かすかに混っていた。アメリカだ、ここも……と、敗戦後の日本では胸を締めつけられるほど魅惑的だったその匂いが、逆に異郷に逃れ難く繋がれている自分の人生を鋭く意識させ、絶望に似た衝撃が躰を貫いた。
咄嗟に圭子は、手の甲で額の汗を拭う振りをして衝撃を紛らし、さりげなくロビーを見廻した。約束の時間よりいくらか早く、若者たちがアルバイトに忙しい夏休中のせいか人影の寡いロビーに、エドガー・スミスの姿はまだ見えなかった。
深い息をつき、圭子はいくらかぎこちない身ごなしで窓際の辛子《からし》色の椅子に腰を下した。昨日の午後、だしぬけにエドガー・スミスから電話がかかって来て、突然で失礼だがお目にかかりたいことがあるという申し入れを受けたのは、おそらくスウをもてあましてに違いないと見当がついていたが、なんとなく久方振りに舞台に呼び戻されたような気持の華やぎを覚えていた。なにより、暫くの間でも、エアコンディションが唸りつづけている家の中に孤《ひと》りでいるよりはましだった。圭子はもう一度深い息をつき、不意打ちに襲った衝撃がうまく嚥み込めぬ塊りになって胸に閊《つか》えている感じから気を逸《そ》らして、ロビーの人びとを眺めやった。
芝生の広い前庭に面した二方は素通しの硝子張りで、磨硝子の天井からも柔かな照明が降り注いでいる明るいロビーにいる人びとは、誰もが自分の人生に居心地良く落着いて見えた。痩せこけて腹だけ異常に膨れたアフリカ黒人の子供の写真と、『世界の難民に援助を!!』という大きな文字がイラストされたポスターの真下で、肉づきの良いマシマロめいた中年の女たちが五、六人、賑やかに談笑していたが、その他の四、五組の若者のグループは訝しいほど静かで、低い話声がひとつになって遠い潮騒のように聞こえていた。時折、テニスラケットを小脇にかかえた綺麗な脚の娘や、トレーニングパンツ姿の青年が跫音も立てず入って来て、グループのどれかに加ったり、誰かが席を立って出て行ったりするが、当世の若者たちの流儀なのか、声をかけるでもなければ挨拶の身振りを交すでもなく、水槽の中で魚が自在に群れたり散ったりするのに似ている。
ここは彼等の国、そして時代ももう彼等の時代なのだ……。ふたたび、胸に閊えている塊りが咽喉もとに突きあげて来、圭子は戸外に顔を逸らした。白く灼けたフライパンの空の何処かでギラついている太陽に挑むように、猛々しく燃えあがった合歓の紅い花が眼に映った。あの花色も日本のとは違う、日本の合歓はもっと淡《あわ》々した優しいピンク色だ。広大で激しい気候の風土が、花の色まで変えてしまうのだろうか……。
――ケイ、浮気はいけないわ。
イタリア訛り丸出しの華やいだ声がした。反射的に表情をつくろい、ロビーに顔を戻すと、同じ住宅地に住んでいる開業医の妻のジゼッラが、脅すように人差指を立てて、派手な微笑を見せていた。快活な銅貨色の髪と眼を持つ戦争花嫁のイタリア女で、八人の子供のうち四人まで独り立ちした齢ながら、大きなゴム毬を幾つも隠しているような躰つきをしている。
――あなたが減量教室に通ってるなんて言訳は聞かないわよ。バイブルクラスだのキルティングクラスなんてのはもっと嘘臭いし……そうね、どうせのことなら東洋美術クラスのゲストで来たとでも云って頂戴。それならまことしやかだわ。こちらもニューヨークかボストンにいる気分になれるし……。
ポップコーンが爆《は》ぜるような賑やかな早口で一気に喋り立て、不意にジェフはいつ帰って来るのかと訊ねたが、返事をする暇は与えずつづけた。
――アメリカ男を勝手にさせておいちゃ駄目よ、ケイ。アメリカ男なんて身勝手で鈍感な莫迦《ばか》ばかり揃ってるから、大袈裟に悲鳴を上げてみせなきゃ、女を驢馬同然に思ってるんだから。黙って我慢なんかしてると損するわよ。べつに喰うのに困る訳でもないのに、子供を手離したばかりのケイをひとり留守番させて、テキサスに行くなんて。あたしなら絶対行かせないわ。家中で一番大事な物を毀して喚《わめ》いてやるわ……。
圭子は曖昧な微笑をつくり、縦横に忙しく動く、独立した生き物のようなジゼッラのくっきり彩られた唇を眺めていた。同じ戦争花嫁でもジゼッラには、母国を恋うなどということはまったくないようだ。その豊満な躰から生命力のままに八人の子供を産み出し、午前中は町のメディカル・オフィスにある夫の医院の受付をやり、午後は山ほどの家事を片附け、週に二日YMCAの減量教室に通い、子供のPTAの役員をし、犬四匹と猫七匹と一マイルほど離れた牧草地に乗馬用の馬三頭を飼い、日曜日には教会のミサに行き、あまり出来の良くない子供の誰かが絶えず、自動車事故を起したり、マリワナを吸って警察沙汰になったりの後始末をしては、その災難を自分で吹聴して廻って賑やかに生きている。
――ちょっと手遅れだけど、小火《ぼや》を出したとか何とか云ってジェフを脅してやりなさいよ。男って、自分の命の次には粒々辛苦の家が大事だから、すっとんで帰って来るわよ。でなきゃ、せいぜいこのチャンスを利用して羽を伸ばすのね。この世にいい男というのも多いわよ。面倒が起ったら、あたしが後始末してあげるから。
ジゼッラは真顔で頷き、が、すぐ冗談にするように派手にウィンクして、濃い色のマニキュアをした指を仇っぽくひらひらさせて裏の体育館の方へ行きかけたが、ふと足を止め、独立記念日にはピクニックに行くわね……とあたり憚からぬ声を投げかけた。
――マギイが婚約者を連れて帰って来るのよ。それからジョージも夫婦連れで来るの。フランシスやロバートも帰って来るんでしょ?
――……ええ、多分。思わず答えてしまい、自信なく圭子はつけ加えた。
――まだ何とも知らせて来ないけど……。
――大丈夫よ、そろそろ家が恋しくなる頃よ、クリスマスに帰って来なかったんだから。もっとも、向うで恋人でも見つけてれば別だけど。そうなのよ、親子の絆なんて儚いものよ。それは覚悟してた方がいいわよ。生物学的にそうなってるんだから。ま、でも、それまではこっちのものよ。うんと手なずけて滅多なのには渡さないようにするのよ。今年はあたしがハンバーガーとパンチ受持つわね。ええ、それからチョコレートケーキも。スウにもそう云ってて頂戴。ケイは、オムスビを是非ね。あれは日本人の特殊技能よ。中に入れるのはピクルスがいいわ。ウメボシは酸っぱすぎるわ。それから場所取りをジェフにね。頼んだわね。
云いたいだけのことを云うとジゼッラは自分で大きく頷き、素早くさっと向きを変えて、縫目が弾《はじ》けそうなスラックスのお尻を気忙しく振って遠去かって行った。
強引に鋤き返して通って行く小型トラクターを思わせる後姿を見送り、圭子はある羨望とともに、自分の精神の脆弱さをしたたかに思い知らされた気がした。
同時に、その精神の脆弱さは、自分だけではなく、日本人妻に共通のものに思われた。ジゼッラなら賑やかに笑いとばして片附けたに違いない原因で、子供を殺してしまったジューンも、惨めな情事に溺れているスウも、何かにつけて日本料理を一品ずつ持ち寄って集り、日本のレコードをかけて、母国の思い出話に耽っている日本人妻たちも……。温暖で、濃まやかな光と翳りに満ちた日本という国の風土には、人間の情念を絡め込んで、精神を自立させない魔力が秘められているのだろうか……それとも、生まれながらの民族性なのだろうか……それとも、日常の生活に何かが……。
それとなくロビーを見廻しながら、若さを誇示するような撓《しな》やかな素早い足どりで階段を下りて来るエドガー・スミスの姿が見えた。オールドローズ色の半袖シャツに焦茶の裏皮のネクタイをきちんと締め、癖らしく片方の肩をやや聳やかしている。その見え透いた気取りを滑稽と眺めながら、義眼めいた青い眼の他は、黒い髪や熟れた杏色《あんずいろ》の膚だけでなく、腰骨が張って上背に比して脚が短い重心の低い躰つきも、日本人の青年を見るような懐しさを圭子に覚えさせた。
突然、娘だった頃のある時間が甦った。何処であったか、階段下の椅子にかけて誰かを待っていた。戸外と変らない空気は蒸暑く、午後の陽射しが素通しのガラス壁越しに射し込み、灰色のコンクリートの床をかっきりと一直線に区切っている。その陽射しの境目に、埴輪人形に似せた素焼きの灰皿が置かれている。(物音は思い出せない。待っていた相手が誰だったかも。)小さく畳んだハンカチを掌に握り締め、すぐ汗ばんでくる顔を気にしながら、階段の上に相手が姿を見せる瞬間を凝っと待ちつづけていた。その瞬間だけを自分の未来のように感じながら……。
エドガー・スミスは階段の途中で見凝めている圭子の視線を捉えた瞬間、灰色がかった青い眼に鋭く撥ね返す色を泛べ、さっと逸らせた。
あ、と圭子は気づいた。若者には無遠慮に感じさせる齢なのだと、狼狽と寂しさを覚えた。
――これをハンクス夫人に返して下さい。あのひとが勝手に置いていった二百ドルです。
横柄なほど大股な歩き方でロビーを横切り、真っ直ぐに近づくと挨拶もせず青年は、いきなり二つ折の封筒を圭子の前に置いた。ポケットに入れて持ち歩いていたのか、折り目が擦れて薄汚れていたが、二日前、スウが彼のアパートのドアの隙間からすべり込ませた封筒に違いなかった。
圭子は、落着いた眼差しで突っ立ったままの青年を見上げた。
――御電話頂いたエドガー・スミスさんですのね……と、青年が内気で挨拶を忘れているかのように云い、身ぶりで椅子をすすめた。意識的な青年の無礼さが、年長の女の余裕を取り戻させていた。
青年は、さっと顔を赫くした。圭子を無視するふうに半眼に逸らせていた眼を深く伏せると、一粒ずつ磨き立てた豆を並べたような喋り方で一気にまくし立てた。
――用事は、これだけです。いや、もう二度と僕に関わらないでくれと、あのひとに云って下さい。まったく、あのひとのお蔭で僕がどんなに迷惑を蒙ってるか。用もないのに日に何度も、それも勤め先にまで長電話をかけてくる、勝手に家に押しかけて来る、閉口して居留守を使えば近所構わず大騒ぎする。おまけにパトロン気取りで金まで置いていく。二百ドルぽっちの金をね。あなたもあなただ、そんな気違い沙汰を止めるどころか、蔭で嗾《そその》かしたり附知恵したり。知ってますよ、あのひとは嘘がつけない人ですからね。一昨日の騒ぎだって、もとはと云えばあなたが嗾かしたからです、僕の絵が欲しいの何のと無理にあのひとを連れ出して。一体、どういうつもりなんです、暇つぶしの好奇心ですか、それとも僕が若くて才能があるのが癪に障るんですか。酒煙草を飲むことさえ口うるさいこの町で、たとえ噂にすぎなくても人妻との醜聞が立てば僕がどういうことになるか、知らないとは云わせませんよ。そうでなくても、僕を嫉《や》っかんでる奴等がこの町には多勢いるんだから。それを承知の上で僕の足を引っ張って、面白い慰み物にしようと云うんですか。
――そんな……、
云いかけて圭子は言葉を失い、まじまじと青年を見返した。お化け鏡に映った奇怪な自分の姿に突然出会った気がし、同時に、青年の機嫌をとり結ぶためにはどんな嘘も躊躇わないスウのひたむきな姿が見え、たとえ嘘でもスウにとっては真実なのかも知れないと、つづける言葉が見当らなかった。ひょっとすると、どれほど歪められた奇怪な姿に思えても、他人の眼に映っている自分しか存在しないのではないか、という思いも掠めた。何かに騙されて、自分自身のものではない人生に閉じ込められているような不確かな自分しか感じられない以上……。
それでも圭子は覚束なく言葉を探し、躊躇いがちに口をひらきかけた。
――何か誤解を……。
途端に青年は高飛車に遮った。
――恍《とぼ》けてみせても駄目です。
鼻先でドアがぴしゃりと閉ざされた感じがした。圭子はすっとテーブルの上の封筒を取ってハンドバッグに入れ、黙ったまま席を立った。
青年は意外なような不安なような気配をちらとみせたが、素早く肩を聳やかした。
――今後、絶対に僕には関わらないで下さい。
――惘《あき》れた自惚れ屋ね、あなたは。青年の刺《とげ》々しい感情が反映《うつ》ったように圭子は急に嫌悪に似た苛ら立ちを覚え、口から言葉が衝いて出た。
――解らないんですか、スウが追い廻しているのは、あなたではなくて、自分の人生だということが。スウは人生に失敗したことを認める勇気がなくて、なんとかもう一度、違った人生を捉えようと足掻いているだけなのよ。人間には多分、誰にでも魂というものがあって、ただ生きているだけでは満足出来ないんだわ。何か魂の餌が要るんです。たとえそれが、金で買った情事でも。
不意を打たれた様子でエドガー・スミスは、圭子を見凝めた。生まれてはじめてのものに出逢ったような唖然とした表情だった。そのまま暫く見凝めていたが、急に大きな声で云った。
――莫迦な!
一瞬、遠い潮騒に似たロビーの話声に罅《ひび》が入り、中年女たちが一斉に白い顔を振り向けたのが青年の肩越しに見えた。
――莫迦げてますよ。失敗に気づいて青年は、狼狽を押し隠しながら極端に竊《ひそ》めた声で早口に云い直した。
――情事だなんて、とんでもない。誰が、あんな女と……。
――スウは、あなたとのベッドのことまで話します、いつも……。疑う余地をいれない口調で答えながら圭子は、離れた席の中年女たちがマシマロめいた白い顔に薄い冷笑を泛べて、眼交ぜしあっているのを見て取っていた。インディアンたちよ……というような、人種的侮蔑を露骨に見せた眼交ぜだった。不意に、圭子は理解した。このインディアンの青年も異郷で生きているのだ、と。圭子は、いくらか和解する声になった。
――でも、心配なさらなくてもいいわ。誰にも他言はしてませんから。
――だって、ほんとに彼女とはただのつきあいだけですよ。いや、頼みもしないのにお節介ばかり焼くのを、我慢してるんだ。あんな……ひとりよがりで、勿体ぶってて、しつこくって……。
――じゃ、みんなスウの妄想だとでも? でも、かえって疑われますよ、あまり悪口をおっしゃるとね。
青年は、黙り込んだ。否定したくても出来ぬ矛盾に相手を追い込み、圭子は内心で勝ち誇ったが、しかし、青年が醜聞《スキヤンダル》を惧れてしらを切っているのか、自己陶酔癖のあるスウの作り話なのか、どちらも十分あることに思われ、後味が良くなかった。
――もう止しましょう、こんな話。いずれにしても関係ないことですわ、私には……。不意に熱していたゲームを投げ出すように圭子は云った。
――お金は確かにスウに返します。あなたが迷惑していられることも伝えます。多分、スウだって分りますよ。
軽く頷いて、入口の方へ歩き出した。息子ほどの若い青年を相手に齢甲斐もなくむきになった自分に、苦笑めいた後悔を覚えていた。家に帰って、やりかけたままの壁紙の張り替えをつづけよう。これまで通り生きて行くほかないのだ、長い長いトンネルのような人生の果てまで……。そうだった、ジューンのスーツケースもまだガレージに置いたままになっている。青年のアパートからスウを無理に連れ出して、夜中の十一時近くまで涙まじりの愚痴を聞いてやらねばならなかった。だが、ジューンはなぜこの町に戻って来たのだろう、夫も家もないこの町に……今の私に必要なのはジューンに会うことかも知れない……。
――待って下さい!
咄嗟な気配で青年は、さっと圭子の腕を捉えた。思わず若い野生の力が迸り出たような強い力だった。
かすかに息をのみ、圭子はたじろいだ。薄いボイル地の長袖の上からしっかり締めつけている鉄輪に似た感触に、生ま生ましい男を感じた。夫と子供の壁に囲まれた暮らしの中で摩滅し、忘れていた感覚が躰の中で身動きした。
が、青年は思わず強く捉えすぎた自分に当惑した様子で、いっそう強く締めつけた。
――兎じゃないんですよ、あたし……。
――あ、すみません。ほっとしたように青年は、ようやく手を離した。
――そんなつもりじゃ、なかったんです。もっとよく話し合う必要があると思ったものですから。……でも、ここじゃ出来ない。教室の方へ来て下さいませんか。
ブラインド越しの午後の陽射しが、青いフェルトを敷きつめた教室の床一面に檻の中めいた縞模様をつくり、油絵具とテレビン油の匂いが強くこもっていた。縞模様の中ほどに折畳みのパイプ椅子が五、六脚散らばり、白い上っ張りを着た大柄な助手らしい娘がひとり、奥の方で入口に背を向けて何かやっていた。
――キャル。|笑い猫《チエシヤ・キヤツト》≠ノ行っててくれないか。
勢よく縞模様の陽射しの中に踏み込みながらエドガー・スミスは、いくらか横柄な口調で云った。
返事はせずに娘は、気懶《けだる》い身ごなしで振り返った。膚の色艶の悪い、冴えない感じの二十四、五の娘で、金髪に染めた髪を鬘のように複雑な形に高々と結い上げていた。躰つきもどことなく不恰好で、上っ張りの裾から茶色のスカートがいびつにはみ出していた。
鳶色のくすんだ眼で圭子を見たが、何の表情も見せず、「オーケー」と抑揚のない声で答えて、すっと教室から出て行った。まるで自動人形が向きを変えられた感じだった。
遠去かって行く跫音を聞きながら、圭子は教室の匂いをふかぶかと吸い込んだ。無意識にしたことだったが、突然、女学生だった頃の図画教室が心に泛んだ。一般教室より広くて、古びた画架や石膏の首や花瓶などが隅にごたごた置かれている埃っぽいその教室で、女学生の圭子は週に二回、放課後に教師から特別に指導をうけていた。前歯が何本か抜けたままで口もとがすぼんでいる年老いた図画教師は、圭子の絵のどこが気に入ったのか東京の美術学校に進学するように熱心に勧めて、そのための特別指導をする時間を惜しまなかった。稚くて無自覚だった圭子は、画家になりたいとはっきり希んでいた訳ではなかったが、子供の頃から絵を描くのは好きで愉しかったから、東京の美術学校に行けば青春を賭けるのに十分な素晴らしい日々が待ち受けているに違いないと思われた。しかし、まやかしの若い日の希望が与えられていたのは一年間だけで、二年生になると学徒動員で飛行機工場で働くことになって絵の勉強どころではなくなり、更に敗戦の直前に両親をつづけて失った。唯一の遺産の古びた家と二百坪ほどの土地は婿養子の姉の夫が相続し、圭子が成人するまで面倒をみてくれる約束になっていたが、敗戦後のすさまじいインフレと食糧難は、その約束を反古同然にしてしまい、圭子自身も義兄の生活の愚痴で塗りつぶされている日々から逃れたい一心で、女学校から切り替えられた新制高校を卒業すると、その当時、米軍の管理下にあった国際電話局に勤めたのだった……。
――絵は、お好きですか?
青年の声が、色褪せたフィルムの断片に似た遠い過去から圭子を呼び戻した。ふたたび強く、油絵具とテレビン油の匂いを感じた。教室の壁という壁を埋めている、青年の作品らしい大小さまざまの絵から匂い立っているらしかった。
――……多分、昔は。
答えながら圭子は、家に帰った主人のような無雑作な身ごなしで縞模様の陽射しの中を往き来してパイプ椅子を片附けている青年に、不意に鋭い嫉妬を覚えた。占領軍関係の勤労者は、日に七勺だけ多く特別配給米を受けることが出来たのが国際電話局に勤めた理由だったが、そんな時代に生まれあわせなければ、あるいは自分も……。
――多分? 昔は?
頓狂な声で圭子の言葉を繰返し、青年は大袈裟な愕きの仕草で、両手のパイプ椅子をとり落すふりをしてみせた。
――信じられないな、とても。ええ、あなたのような方が。だけど、まるで人生を一部分しか生きないようなものだとは思いませんか、芸術を享楽しないのは。他の動物とは違う人間の絶対的な特性は、芸術を創造したり、あるいはそれを享受する能力を持っていることですよ、ええ、確かに……。
――でも、そんな余裕がない人生もありますわ。だからと云って、人間的でない訳ではないでしょう。人間的ということはもっと別な……。
――いや、余裕の問題ではなく、意志の問題ですよ。
性急に青年は遮った。
――あなたは|鹿の森《エルク・ウツド》のコマンチ族達が、どんな暮らしをしているか知っていますか。八割までが生活保護をうけて暮らしているんです。ええ、八割ですよ、生活保護が。戦争中に陸軍基地を拡張するために、保留区《リザベイシヨン》の肥沃な畑地の大部分を強制的に政府に買い上げられて耕す土地を喪い、買い上げ代金を資本にはじめた商売も殆んどうまくゆかず、生業といってもトルコ石細工や観光客用の土産品を作るぐらいですしね。想像出来ますか、あなたに、そんな村の暮らしが。貧しいだけでなく希望のない、無気力な……だのに、彼等は莫迦莫迦しい迷信に囚われて、保留区《リザベイシヨン》から離れようとしない……。
青年は急に暗い、かたい表情になって口を噤んだ。
どんな迷信かと圭子は訊ねたが、苛らだたしげに肩をすくめて、首を振っただけだった。
――とにかくぼくは、ええ、自分の才能を伸ばして自由に生きるために、どんな理由でも部族の者が保留区《リザベイシヨン》から出て白人社会で暮らすことを許さない旧弊で頑迷な年寄り達に支配されている周囲と、まだ小学生の頃から戦って来たんです。親兄弟からも変人扱いされるほど、がむしゃらに勉強して、ええ、ずっと一番の成績を通して保留区《リザベイシヨン》の高校を卒業すると、嘘をついたり悪知恵を働かせて貯めていた百四十七ドル七十三セントの金を持って家出をして、あとは貧乏学生おきまりの皿洗いやら土方やらのアルバイトと奨学金で、どうにか美術大学を出たんです。そのあとも職がなくて食うや食わずの生活をしましたが、たゆまぬ意志さえあれば、人間はどんな環境に生まれても自己を実現することが出来るんです。ええ、そうなんです。
――それでは今のあなたが、もっとも望ましい自己だと思っていらっしゃるのね?
――もちろんです。今のぼくには希望もあるし、自由もある。あ、おかけになって下さい、その長椅子は真物のロココですよ。レバノン系の金持の未亡人が寄附してくれたんです。ええ……。それから、これが重要なことだけど、ぼくらの民族が野蛮な未開人種だと考えられている強い偏見と差別を乗り越えて、白人社会で指導職に就き、信望をうけていることです。|鹿の森《エルク・ウツド》の連中は今でもぼくを反逆者、いや、裏切者扱いにして白い眼で見てるけど、狭苦しい民族意識や生活習慣を後生大事にして白人社会に背を向けて、それで何が出来たというんです。八割の生活保護と高い死亡率、そして若者から希望を奪って、無気力で怠惰な毎日を与えただけなんだ。いくら、|本来のアメリカ人《ネイテイヴ・アメリカン》などと誇ってみたところで、保留区《リザベイシヨン》から出て白人社会で能力を発揮しないかぎり、インディアンはインディアンとしか思われやしない。ええ、もちろん、保留区《リザベイシヨン》の中でわらじ虫のように暮す方が楽は楽だろうが。だがぼくは、孤立無援で奴等には出来ないことをやってのけたんだ、爪から血を流して一歩一歩這いずって行く思いをして!……だのに、奴等は!……。
眼の前に|鹿の森《エルク・ウツド》の同族達がいるかのように青年は言葉を滾《たぎ》らせ、青い眼に憤りと憎しみの色を泛べた。彼と同族との間には、根深い近親憎悪めいた感情が蟠《わだかま》っていて、何かにつけて彼の心を刺激し、昂ぶらせるらしかった。
が、自分でも感情的になり過ぎたと気づいたのか、青年は軽く頭を振り、急に話題を変えた。
――先刻《さつき》、ここに居た娘《こ》は、町でも指折りの資産家のドウスン商会の一人娘なんですけどね、ええ、キャロライン・ドウスン……。何か心的障害があって、病的な人嫌いなんです……。
――ああ、それで……。助手の方かとあたし……。
――ええ、助手は助手ですが。
青年は頷き、教卓に倚りかかって白墨を弄びながら、何気ないふうに事情を喋りだした。
キャロライン・ドウスンは両親が四十近くになって生まれた一人娘で、過保護で育ったせいか子供の頃から人見知りする性質《たち》だったが、高校の頃、突然学校に行かなくなって、一日中家でぼんやり過すようになった。親ともあまり口をきかず、美しい服や高価な装飾品などを買い与えても、嬉しい様子もしなければ身につけようともせず、屋根裏の古櫃《ふるびつ》から見つけ出した囚人服のような灰色のダブダブの服を着、汚点《しみ》が出来ようと綻びようと平気で着ている。眼が悪くもないのに、太い黒縁の眼鏡をいつもかけ、客があるとさっさと部屋に閉じ籠って食事の席にも出て来ない。ただ、長い豊かな髪だけは大事にして、金髪に染めて日に何度もブラッシングし、丹念に結い直す。シャンプー剤やヘアクリームの選択もうるさく、女中がうっかり間違えて別な銘柄の物を買って来ると、日頃の無口に似合わず口汚く罵って投げつけたりする。心配した両親は、わざわざ州都まで連れて行って権威のある精神科医に診察を乞うなどさまざま手を尽くしたが、一向に良くなる様子もなく諦めかけていた。ところがある時不意に、「フランコ・カンタブリアの洞窟の絵の顔料に鉱石が使われているというのは本当かしら? どうやって定着させたのかしら?」と母親に訊ね、そんなことはYMCAの絵画教室にでも行って訊ねたらいいだろうと答えると、不満そうに何かぶつぶつ口の中で呟いていたが、翌日朝早く、一晩中眠らずに考えたのか赤い眼をして寝ていた母親のところへ来て、絵画教室に入る手続きを取って欲しいと、重々しい厳粛な口調で云った。そして最初は嫌々らしい様子で絵画教室に来ていたが、次第にエドガー・スミスにだけは素直な様子を見せるようになって、二ヵ月ほど経つと、自分から助手として働きたいと云い出し、勿論、親は大喜びで、早速、YMCAの理事に話をつけ、無給助手として働くことになったのだった。
――ドウスン夫人は、奇蹟だと云っています。絵の顔料のことなら絵画教室へ行って訊ねたら……と云った時も、まさか本当に訊ねに行くとは、まったく思っていなかったくらいですから。絵画教室に入る手続きをしてくれと云われた時は耳を疑い、手続きをしても無駄になるか、せいぜい一度きりだと思いながら、それでもましだと承知でやったのが、そんなことになったのですから……。
――きっとミス・ドウスンは、あなたを敬愛して、あなたの傍にいると心丈夫なんですね。
圭子はごく何気ない振りで云った。
――そんな……いや。
エドガー・スミスは照れたように顔を伏せて、否定の身振りをしたが、得意さと嬉しさがありありと見えていた。若者の常で、世俗的な野心の実現を自己の実現と思い違え、その野心を成就するためには何事も躊躇わない彼にとって、町にがっしりと根を張っている有産階級の娘と、娘の母親の信頼を得たことは、それこそ奇蹟のような幸運に思われているに違いなかった。そして彼女との結婚によって白人社会の確かな一員になることを目論んでいても不思議はなかった。郵便で送り返してもすむ筈の金を、わざわざ圭子を呼び出して手渡したのも、圭子がスウを唆《そそのか》していると思い込んでいたことより、いざという時に金銭的にもスウとの間柄が潔白であることを証明するための慎重な布石で、同時に、もはやスウには希望を繋ぐ余地がないことを圭子から伝えさせようという、一石二鳥か三鳥の狙いと読めないでもなかった。
圭子は理由のない失望を覚えた。その失望を紛らすように、嫌な青年だ、と思った。
――絵を拝見させてくださいね。
唐突に云って圭子は立ち上り、さりげなく青年に背を向けて壁の方へ近づいた。しかし、かなり写実的な作風の絵とはいえ、芸術とはまったく無縁な歳月を過ごしてしまった女に鑑賞出来るとも思えず、また稚い夢にしろ画家を志した時期があったなど自分でも信じかねるほど、絵画への興味も消え失せていた。食事に招かれた時と同様に、悪びれず適当な讃辞を鏤《ちりば》めながら鑑賞している振りをして時間を稼ぎ、見終ったところで最大級に感嘆して礼を云い、さっと引き揚げよう……。
が、最初の絵と向きあった途端、圭子は後悔した。躰の中で何かが目醒め、鮮やかに作品が眼に映った。一年間でも美術学校を目指した時に身につけたものがあったのか、あるいは人並よりいくらか余計に美術的感受性に恵まれていたのか、いつもの自分とは違った人間になった感じで、心の中で用意していた月並な讃辞が、どうしても口に出来なかった。讃辞を受けることに馴れ、待ち受けている青年の気配を背後に感じながら、圭子は黙ったまま次の絵に歩を移した。
――もちろん、素人のわたしに絵の鑑賞力などないことは御承知ね……。
最後の三十号ほどの花の静物画の前に佇んだまま、ようやく圭子は云った。
――ですから、余計なことを云うよりは……。
――御気に入らなかったんですね。露骨に尖った声で、青年は遮った。
――いえ……じゃ、感じた通りに云いますわ。とても魅力的、です。誰でもそう思うでしょうね、きっと。ただ、|鹿の森《エルク・ウツド》の人たちは……。
――何の関係があるんです、あの連中に!
突然にまた激しい昂奮をみせて、縞模様の陽射しの中を忙しく往き来しながら青年は声を荒らげた。
――迷信なんぞに頼って、自分で自分の墓穴を掘っている愚かしい連中のことなんか、はじめっから問題にしちゃいない。奴等がどう思おうと、糞喰らえだ!
――じゃ、そんなに腹を立てる必要はないでしょう?
――そ、それは……。青年は突然、陽射しの檻にぶつかったように立止った。
――ひょっとすると人間は、自分で思っているほど自由ではないんじゃないかしら、生まれ育った大地や血の絆から。わたしはこの国に来て以来、疑わずにこの国の生活習慣に懸命に従って来ました。国土の広さ、物の豊かさ、それだけでも想像を遥かに越えているうえに、衣食住のすべてが殆んど非現実に思えるほど清潔で美しく、自家用車が発達し過ぎている交通の不便さの他は、何もかも快適で素晴らしく、それだけに、日本人は文明度が低い民族だと思われたくなかったからです。どんな場合でも、日本人だからと蔑視されてはならないという意識が反射的に働いて、自分の考えも欲望も咄嗟に殺して、この国の良識に従った自分を演じる――いえ、演じてしまっていたんです。この国では清潔が最高の美徳だと知ってから、家の中は誰に何時見られても恥をかかないように隅々まで磨き立てて、家族の衣服は毎日、下着から寝巻まですっかり取り替えて日に二度洗濯し、いつも清潔な衣類がきちんと箪笥の中に仕舞ってあることが、わたしの竊《ひそ》かな誇りでしたわ。まだアイロンの温もりが残っている洗濯物を同じ寸法にきっちり畳んで箪笥の抽出しに納めて、得意にこう思ったものです、まるで真新しいクッキーの箱の中みたいだ、急に死ぬことがあっても大丈夫だ、って。莫迦莫迦しいと思うでしょうね、自分の国に住んでいる日本人は。子供達も、どんな天気の日でも洗濯しなければ気がすまないわたしの癖を、「ママの病気」って云ってましたけど……。
――一体、何が云いたいんです、青年は苛ら苛らした色を隠さずに云った。衣食住が清潔で快適なことは、それこそ文明が進歩している証拠じゃありませんか。
――でも、人間の心とは別なことですわ、それは。自分の民族の生活習慣には、たとえ非文明に見えるものでも魂と結びついた懐しさや優しさや、心を豊かにしてくれるものがあるんです、何かしら。けれども異国の生活習慣は従えば従うほど、心が乾いて来るんです。手入れの届いた芝生と鋪装道路で蔽い尽くされているこの国の都市という都市の大地のように。わたしは自分では一生懸命にこの国で生きて来たつもりでしたけれど、心の添わない生活習慣と、白人に軽蔑されまいという日本人意識に縛られて生きて来ただけで、わたし自身はどこにも見出せない気がするんです。そして多分……ええ、多分、同じ罠にかかっていらっしゃる、あなたも。
用心深く鋭いナイフを置くように圭子は、最後の言葉をそっと云った。
――罠に? ぼくが?
ちょっと間をおいて青年は、とんでもない冗談を聞いたと云わんばかりに素頓狂な声をだした。更に念を押すように、
――解らないな、ぼくにはまったく! とつけ加え、響きのない嗤い声をたてた。
――いいえ。と圭子は断ち切った。解っていらっしゃる、あなたには。……どれも、白いアメリカ人好みの魅力的な売り絵だと。
――ジューンが戻って来てるんだって?
隣りの食堂で夫のジェフが起きて来た物音と、声がした。一昨日の夕方、六週間ぶりにテキサスから戻って来たばかりとは思えぬ不機嫌な声だった。
朝早い光線に無機的に光っている調理台の前に立っておむすびを握っていた圭子は、ええ、と短く答えて、手についている御飯粒を口で掬い取った。夫や娘のフランシスに行儀が悪いと窘《たしな》められながら、子供の頃に母親や姉から見覚えて癖になっているしぐさに、米は一粒でも粗末にしない母国の女達の何代もの血を圭子は感じる。それは貧しい国の倫理というより、自然への優しさのように思う。
――電話なさったの、フィルに。
手を洗いながら圭子は、べつなことを訊ねた。多くの家族がピクニックに出かける慣わしの独立記念日には、町から三十マイルほど離れた野獣保護区に隣接した森のキャンプ場に、朝早いうちに誰かが先に行って、何家族かのグループが入る樹蔭と野外|竈《かまど》がある、その日の祭の上桟敷を確保しておかねばならない。律儀で手柄好きのジェフがいつもその役を買って出、あまり喜ばしくない顔のフランシスかロバートかを命令的に連れて出かけていたが、どちらもいない今年は、スウの夫を相棒に誘い出して、昼までキャンプ場の池で魚釣りをしていることになっていた。
――感心にもう起きてたがね、あの変人が何を思いついたと思う。ジューンもピクニックに誘ってやったら、だとさ。莫迦莫迦しい。あの事件でわれわれが……いや、この町に住んでいる日本人妻や家族の全部が、そうとも、子供達までがどんなに肩身の狭い思いをして迷惑したか。フランシスは学校へ行くのが嫌だと云って泣いた。そうだろう。それでも日本人妻達はロニイの葬式をしたり、弁護士をつけたり、まるで身内のように面倒をみてやった。それで十分じゃないか。あの女が本当に自分が犯した罪の怖しさを自覚して、新しく更生するつもりなら、この町に戻って来るべきではないんだ。そのことをなぜ、誰もあの女に云ってやらないんだ。え?
説教調になった厳《いか》つい夫の声と、コーヒーを注いでいるらしい音が、別な遠い世界からのもののように圭子の耳に聞こえる。永年の下士官生活で身につけた癖か夫のジェフは何かにつけて、「こうこうであるべきだ」とか、「これこれが正しいことなのだ」とか、断定的で嵩高《かさだか》な云い廻しを好んで用いる。一週間ほど前、娘のフランシスと息子のロバートがそれぞれ、|受信人払い《コレクト・コール》の長距離電話で、車や家具などのローンの支払いが精一杯で旅費まで手が廻らず、独立記念日の休暇にも帰省出来ないと知らせて来て、圭子はテキサスにいた夫に電話して旅費を送ってやろうかと相談したが、夫の返事は即座にノーだった。独り立ちした以上、生活の責任は全部自分で持つべきで、親は一切手を貸すべきではないのだ。これが正しいアメリカの親子のあり方なのだ……。
そう、夫はいつも正しい。その真面目さに惹かれて、わたしは結婚したと云える。他のアメリカ兵達のように浮わついたところがない彼の愛情は間違いないものに思えたし、わたしは自分を不安定な危い性格の女だと思っていたから、確かな安定したものが欲しかったのだ。だが、結局、夫の正しさとは世間的な小心さやエゴイズムの自己欺瞞にすぎず、だからこそ、妻や子供がすこしでも言葉を返すとすぐに癇癪を起して怒鳴りつける。自分と結婚したのもあるいは、性欲を正しい手段で満足させるためだったのかも知れない。日本で暮らす気などはじめからなかったのに、わたしは疑いもせず、うまうまとのせられていたのだ。いや、本当にのせられていたのだろうか。真面目な夫と生活には一応不自由のない収入、周辺部住宅地《デベロプメント》にある小綺麗な家、子供たちの笑い声……そうした倖せのかたちを失いたくなくて、自分で自分を騙していたのではないか。わたしがジューンのスーツケースを何年も屋根裏の物置に隠していて、まだ返さずにいるのは……。
――え? どうした。まさか、あの女とつきあってはいないだろうな。
――いいえ。もう三週間くらいになるけど、町で見かけたこともないわ。なんでも、メソジスト教会の牧師の世話で黒人住宅地の近くの空家を借りて、洋服の仕立ての下請けをしてるそうだけど……。何をあがる、今朝は?
――ああ。海藻サラダにトースト、グレープフルーツ、スクラムブル・エッグ、それからべーコン二切れ……いや、一切れでいい。
――プルーンの煮たのは?
――いらない。いや、食べよう。プルーンには林檎の十三倍ミネラルがある。ビタミンも豊富だしな。ベーコンはカリカリに焼いてくれ。だが、焦がさないように。スクラムブル・エッグはマーガリンで塩気をごく少く。
退役して以来、ジェフは健康に非常に用心深くなり、血管や血液を老化させる脂肪分や塩分は神経質すぎるほど避け、日に何杯も飲んでいたコーヒーは一杯だけに制限して、アメリカ人の食習慣にない海藻類が老化を防ぐと聞いてからは、自分で町の日本食料品店から買って来て熱心に食べるようになった。もちろん煙草はぷっつりやめ、酒もビールを時たま口にする程度である。熱がある時でも仕事が大事だと、アスピリンとウイスキーを一緒に飲んで勤務に出かけたことさえあったのに、社会的に無用な存在になった途端、人間はかえって命が惜しくなるのだろうかと、調えられた食事をまるで重病人のような用心深い眼差しで吟味しているがっちりした体格の夫に、竊《ひそ》かな嘲笑を圭子は覚える。
――とにかく、あの女とは決して関わりを持たぬことだ。
スクラムブル・エッグをほんの少しだけ口に運んで塩加減を確め、やっと安堵した様子を見せてジェフは、ふたたびジューンの話を蒸し返した。アメリカでは社会的信用度があらゆる人間関係の基礎なのだ。刑務所帰りの女などとつきあうことは、お前だけでなく、われわれの社会的信用を傷つけることになるんだ。分ってるだろうな。
――偶然だったと思うのよ、あれは。あの時、アトキンス大尉は朝鮮に派遣中で、ジューンは神経が参ってたんだわ、きっと。だから……、云いかけた言葉の先をジェフが奪った。
――だから、子供に当り散らして殺しても許されるというのか。莫迦莫迦しい。夫が家を離れている家庭は、アメリカ中に何十万何百万とある。その何十万何百万の家庭で子殺しが起っても当然だというのか。
圭子はテラスに続いているガラス戸の傍に寄って、庭に目をやった。きちんと刈り込みが届いた、まだ陽が射さない芝生の庭は涼しげで、隣りの庭との境に一本だけ立っている合歓の木の下に灰色の物真似鳥《モツキングバード》が一羽、長い尾を指揮棒のように上げ下げしながら、きょときょととあたりを見廻している。
夫の方を見返って、モッキングバードが来てるわ……と云おうとした途端、また先を越された。
――日本人同士だからといってケイ、あさはかな同情をすると物嗤いの種になるぞ。善悪の区別をきちんとつけることが社会秩序の基礎なのだ。でなくても、日本人に偏見を持っている連中が多いんだからな。だのにフィルは……、そうだ、フィルに良い土産をテキサスから買って来たんだった。
突然、ジェフは機嫌を直し、得意気ににやっと笑った。
――ケイ。野戦用のザックのポケットに、青いリボンがかかった箱が入ってる。衣裳戸棚の中だ。取って来てくれ。
モッキングバードが鳴いている。駒鳥《ロビン》だと思っていた啼声が、途中で不意に牛の啼声に変り、道端に止めた車のトランクから臙脂色のスーツケースを取り出していた圭子は、思わず声の方を見上げた。が、白い炎の陽光が眼を射ただけで、姿は見えなかった。
――ケイコさん……。
背後で声がした。強いアメリカ訛りの、息を竊《ひそ》めたような声だった。
振り返り、ジューン……と云いかけた言葉を、なぜか圭子は途中で嚥み込んだ。
こまかな罅《ひび》に犯されて白ペンキが黝《くろず》んだ木造家屋の戸口のベランダに、跣《はだし》で田舎風の大きな前掛をつけて立っているジューンは、圭子の予想を裏切って顔立ちは殆んど変っていなかった。色白の肌理《きめ》のこまかな膚も、いつも精一杯に瞠《みは》っているような眼も昔のままだった。しかし、鮮やかな銅貨色に染めて鬣《たてがみ》のように背に波打たせていた髪が単純なボーイッシュカットに変り、その髪が三十代半ばとは思えぬほど白髪まじりで、眼にだけ懐しげな色を泛べていたが、気配がひっそりして、なんとなく在俗の修道女めいた感じがただよっていた。圭子が提げているスーツケースが自分の物とすぐ気づいたらしかったが、それ以上の感情は何も見せなかった。
――暑いわ。ちょっと入れて頂くわね。車のエンジンかけっぱなしだけど。
方言まじりのぎこちない日本語で改った挨拶をしかけたジューンを遮って、圭子はベランダを横切り戸口に急いだ。車の中のピクニックの食物が気がかりではあったが、何年も夫や子供の目を盗んで飼い馴らした生き物のように思えるスーツケースを、戸口でそそくさと渡す気にはなれなかった。
云われるままに靴を脱いで家の中に入り、圭子は呆気にとられた。日本でも、これほど見事に取り散らかっている部屋を見たことがなかった。畳代りにコーンマットを敷いた床に、さまざまな洋裁用具や、布地や、植木鉢や、ダンボール箱や、食べかけのサンドイッチがのった皿や、新聞や、薬瓶などが、雑然と置き散らされていた。家具は、ミシンを置いた仕事台の低いテーブルと長椅子だけで、テーブルの上は縫いかけの服地や裁ち屑などが乱れ、長椅子の上もパターン・ブックとパターンが山積みになって、その上にアクセサリーのように食卓塩の瓶が平然と落着いていた。
――うちはやっぱし日本人やけん、日本人のごと靴《シユーズ》を脱いで暮らす方が気持の平らかごとあって。タタミとかショージとか、日本の家は全部植物《オールプラント》で、こまか時分から毎日、植物《プラント》を手や足の裏に感じて育ったせいかも知れまっせんね。……馴れれば、べつに辛かところじゃなかったですけど、コンクリートと鉄ばっかしで、タタミの上で靴《シユーズ》を脱いで暮らしたかて、そればっかし思いつづけて。お茶を飲んでいってくれまっせね。
独り言のような口調で話しながら、ジューンはゆっくりした身ごなしで床に跪いて散らかっている物を片寄せ、テーブルの傍に小さな手作りの座蒲団を置いた。乱雑に取り散らかった部屋と修道女めいた物腰との対照が不思議な感じでもあったが、同時に、何十年も住み馴れたふうにも見えた。が、言葉遣いが愕くほど変っている。巻舌のアメリカ訛りと日本の方言のおっとりした響きがまじった奇妙なアクセントの日本語に、異郷の刑務所で過した七年の歳月が滲んでいた。
――あなたのスーツケース、預かってたのよ。いきなり圭子は、誰からかは省いて云った。でも、礼なんか云わないでね。預けられた時はとても迷惑に思って、家の者には内緒にして屋根裏の物置に上げっぱなしだったのよ。
魔法瓶を傾けて、急須に湯を注いでいたジューンは手を止め、顔を上げた。
――ええ、ジェフや子供達が屋根裏に行くたびにはらはらしてね。だけど……このスーツケースを隠してたから、なんとかジェフとやって来れた、そんな気がするのよ。今朝、不意に気づいたけど。
ジューンは暫く黙って、圭子の顔を見凝めていた。それからゆっくりと、大きく頷いた。
――そげんかもんがなかと、生きてゆけんとかも知れまっせんね、人間は……。
と、自分の心の中を覗き込むような眼色を泛べ、静かな口調でつづけた。
――アトキンスは|見栄っ張り《スエル》でしたばって、機嫌が良か時は一緒にいるとが楽しか人でしたとよ。それに他人眼を惹くエリートで、うちは得意だったとです。ばって、気に入らんことがあると、ジャップ!≠チて怒鳴りつけますけん、うちは一生懸命、アメリカ人になりきろうとしましたと。ロニイのことは、とても自慢にして可愛がっとりました、金髪《ブロンド》で碧眼《ブルーアイズ》で、利巧《スマート》だと。朝鮮《コリア》へ行く時も、ロニイを必ず優等生にしろと、繰返し云うて行きました。うちはロニイをアトキンスの期待通りに育てて、彼の心を家庭に繋ぎ止めようと努めましたとよ。優等生になって新聞《ニユースペーパー》に名前がのったら、切り抜いて朝鮮《コリア》へ送ろうと、そればっかし考えて。それがロニイには負担《ヘビイ》だったとですね。それで、あんなことをしてしもうたとですね。ばってうちは、もう何もかも駄目になった気のして。
ジューンは目を伏せて、ゆっくりと急須を取り上げた。丹念な手つきで二、三回揺すってから、二つの湯呑みにきちんと注ぎきり、ほっと息を洩らした。まるで自分で自分の動作を息を凝らして見張っているような気配だった。
――そう、自分で何もかも駄目になったと思うと、人間は|気違い《クレージイ》になるとですね。うちが|気違い《クレージイ》になって叱りつけてる最中に、ロニイは知らん顔で外へ遊びに行こうとしたんです、野球バットを持って。かっとなって掴まえて、椅子《チエア》に縛りつけたんです。ロニイは口惜しがって、脚をばたばたさせて悪態を吐きましたとよ、ジャップ!……ジャップ!……≠チて。ぎょっとしてうちは、もう思うごとアメリカ語の口から出んごとなって。
子供に反抗された時の母親の暗い血の滾りは、圭子にも覚えがあった。しかも子供に頒け与えた血を、子供に罵しられた衝撃と怒り。圭子は、自分がその時のジューンであるかのような息苦しさを覚えた。
――お黙り!……って云うて、頬を撲ったんです。夢中で、何度も……そのはずみに椅子《チエア》が倒れて。
ジューンは、ふっと口を噤んだ。圭子も、黙っていた。どんな日常性の中にも竊んでいる無数の暗い裂け目を、自分は気づかずに、ただ偶然に跨いで来ただけに過ぎない気がした。
――でも……もう、思い出して自分を苦しめるのは止した方がいいわ。圭子は、月並な慰めを云った。故意《わざ》としたことじゃないんだし……。
――いいえ。忘れたいとは思うとらんとですよ。忘れることは、ロニイも、うちのこれまでの人生も、なかったことになるとですもんね。一生、罰せられつづけてゆきたいとです、うちは。それでこの町に戻って来たとです、ロニイのお墓のあるこの町に。
――ああ、ロニイのお墓……。
陸軍基地内にある、現役及び退役軍人とその家族が使用出来る広大な墓地を圭子は思い泛べた。一様に刈り込まれた芝生の間に、幾何学的な正確さで長方形の碑板が填め込まれているその墓地に葬られることを、夫のジェフはこの上ない誇りに思っているが、圭子はせめて死後くらいは、母国の優しい自然の中に戻りたい思いがあった。
――ほんとは、お墓を見るとが怕かったとです。なのに何故か、余計、ここで暮しとうなったとですよ。この土地が懐しい気のして。
ジューンはちょっと含羞《はにか》んだように微笑して、白髪の目立つ短い髪をかき上げた。
洗い晒らしたデニムの布目のような美しさだとその髪に眼を奪われながら、圭子はふと、他所者は何十年住んでも、家から葬式を出すまでは村の者とは認められない遠い故郷の田舎の慣習《しきたり》を思い出した。人間は、死や罪や秘密などの暗いものを埋めなければ、その土地と結ばれないのだろうか。それとも、自分が犯した罪を思い返しつづけていた苦悩によって、ジューンは異郷の土地と結ばれたのだろうか。
神秘な絡まりあいの奇蹟を目にする思いで圭子は、荒れた浜辺に似た部屋にひっそり坐っているジューンを眺めた。
ジューンの家を出て、森のキャンプ場に着いたのは、もう正午過ぎだった。
斑に日光がこぼれている森の中の、野外竈があるそこここの広場は、とりどりの車とピクニックの人びとで賑わい、焚火の煙が淡く木立を縫って流れていた。
ジェフとスウの夫は、池近くの広場を取り、待ち草臥《くたび》れた様子でパイプ椅子にかけて、罐ビールを飲んでいた。
ハァイ……と、圭子は明るく声をかけて、車を広場の端の木蔭に廻り込ませて止めた。
――途中で、タイヤがパンクしたのよ。けど、スウやジゼッラ達もまだなの?
スウの夫はいつもの寂しい静かな様子で圭子を見ただけだったが、ジェフはちょっと変な顔をして、
――うん、とだけ答えた。
――ジゼッラは約束の時間を守ったことがないけど、スウはどうしたのかしら? 昨夜の|不意打ち《サプライズ》パーティの後片附けが大変だったんじゃない?
車に積んで来た食料品を広場の中央のコンクリートのテーブルに運び、テーブルクロスを拡げながら圭子は、スウの夫に微笑を向けた。
――日本へ発ったよ、スウは。
――ええ?
思わず圭子は、声をあげた。昨日の夜、ジェフの帰宅歓迎の|不意打ち《サプライズ》パーティだと俄かに食事に招かれ、他にジゼッラ夫婦と陸軍基地に留学中のスペインの少佐夫婦も招かれていたが、そんな話もなければ、素振りもまったくなかった。スウの夫は冗談を云っているのだろうかと、圭子は愕いた顔のまま、まじまじと見返した。
スウの夫は軽く頷き、
――今朝の、ジュウジサンジップンの飛行機で。多分。
――多分?
――スウがそう云ったから。今朝、私が髯を剃っていた時にね。
――……それで、いつ帰って来るの?
――さあね。スウは云わなかったからね。私も訊かなかった。
――あんたは、スウを甘やかし過ぎたんだ。面白くなさそうにそっぽを向いていたジェフが、憤《む》っと顎をふくらませて口を挟んだ。だから、スウは……。
――しかし、子供が出来なかったのは私の責任だからね……。
――子供が無い夫婦なんて沢山いるさ。
――戦争が終ったあと、栄養失調で陸軍病院に三ヵ月ばかり入院していた。その時、検査で分っていたんだが、それを隠して結婚したんだ……。勿論、あとでは打明けて、その時はべつに問題にはならなかったんだが。
――じゃあ、なにもあんただけの責任じゃないじゃないか。
――いや、若かったのさ、まだ。子供というものの存在の意味を認めないほど、傲慢だったんだ、お互いにね。スウが帰って来なくても仕方がないと思っている。
――まさか、フィル。スウはただ、急に日本へ帰りたくなったのよ。思いつくとすぐ夢中になるんだわ、スウは……。
なんでもない事のように圭子は笑って頷いてみせ、そのまま手もとに目を戻したが、急に何かが衝きあげて来て、テーブルクロスの模様が眼のなかで白っぽく滲んだ。いそいで男達から顔を背け、拡げたテーブルクロスの端を乱暴にコンクリートのテーブルの向う側へ投げた。
エドガー・スミスとの仲が決定的に破綻し、そのことが動機で急に日本へ旅立ったに違いないと察しはついたが、今頃スウは日本へ向って空を飛んでいる!……と思うと、遠い日本との距離が更に無限に拡ってゆくようだった。わたしも一度里帰りをしたいと云い出せば、圭子が家庭的な女で、現在の生活にすっかり満足していると思い込んでいる夫のジェフは意外な顔をして、けれども許してはくれるだろうと思われたが、今となっては夫と別れる決心なしには日本には帰れない気がした。だが、スウは今、日本へ向っている!……。圭子は汗を拭くふりをして、眼もとを拭った。
ジェフとスウの夫は、竈の用意をはじめていた。新聞紙を丸めた上に、集めて来た枯枝を積み上げて豆炭をのせ、ガソリンを少しかけて、スウの夫のライターでジェフが火を点けた。すぐに焔が高く燃え上り、焚火の匂いがテーブルの方にも流れて来た。夏の独立記念日と秋の感謝祭と年に二回、親しい家族同士で森にピクニックに来るのが町の人びとの祭りのひとつで、焚火は欠かせないつきものだった。雨が少く年中乾燥している草原地帯では、キャンプ場の野外竈以外での焚火は、州の法律で禁じられている。
日本では正月のどんど焼きや落葉焚きなど、庭先や道端で自由に焚火が出来たのに……と、焚火の匂いにも圭子は胸が締めつけられた。
豆炭が赤く熾《おこ》っても、上で焼く筈のハンバーグを受け持ったジゼッラの一行は姿を見せなかった。
――遅いわね。あるもので先にはじめましょうか。
と圭子は云ったが、男達は黙っていた。確かに竈で肉の脂が焼ける匂いや、華やかなパンチボールや、走り廻る子供たちの姿なしにはピクニック気分がでず、圭子もただ云ってみただけのことだった。森の遠近《おちこち》で響いている他のグループの賑わいを聞きながら、圭子とジェフとスウの夫は竈の傍に手持ち無沙汰に立って、白く灰をかぶってゆく豆炭を眺めていた。圭子はふと、今頃スウはもう、ロスアンゼルスに着いているだろうか……と考え、三人が三人とも同じことを考えている気がした。
――魚釣りはどうだったの? 圭子は顔を上げて、夫に訊ねた。
が、訊くまでもなく魚信もなかったらしいことは、来た時から二人の様子で解っていた。釣り好きのジェフが、一度も釣りを試みようとしたことのない森の池で魚釣りをしようと云い出したのは、場所取りの相棒にスウの夫を誘い出すための計略に違いなかった。
いることはいるらしいんだが……とジェフは曖昧な口調で云い、それから不意に話題をみつけた様子になって、池の傍にテントを張ってキャンプしていた連中がいたが、夜の間にラックーンがテントを齧って穴を開け、ソーセージや果物を盗って行ったそうだ、と話した。
――まあ、ラックーンが。
――うん。これくらいの穴だ。とジェフは、金色の長い生毛が生えた骨太い指で、野球ボールほどの輪を作った。
スウの夫もちょっと微笑した眼色で、圭子に頷いてみせた。
圭子は小さく笑ったが、しかし町の住宅地にも時折やって来て、塵芥罐《ガーベージ・キヤン》の蓋を上手に開けて食べ散らして行くこともあるラックーンが、野獣保護区に隣接している森にいても、べつに珍しくはなかった。
――ケイコサン。ラックーン、ニホンゴデ、ナニイイマスカ。
――さあ? タヌキに似てるけど、でも、タヌキじゃないわ。タヌキは badger ね。
――そう。狸に似てるけど種類は違う。尻尾に横縞があるのが特徴で、中国のパンダと同じ仲間だ。
――へえ。パンダの仲間か。あんたはよく本を読むだけあって変なことまで知ってるね。
皮肉気味にジェフが口を挟んだ。
――あ、アライグマ、アライグマよ。
――アライグマ?
――ええ。日本の動物園で見たのを思い出したわ。ウォッシング・ベアって意味。
――ウォッシング・ベア……アライグマ。可愛い名前だ。
スウの夫は眼に翳りのような微笑を泛べ、不意に吐息を洩らした。
あ……と圭子は、咄嗟に話題を変えた。
――フィル。ジェフがテキサスから買って来たお土産って、何だったの?
スウの夫は怪訝《けげん》な様子で、首を横に振った。
――いや。まだだ。あとで。
ジェフがぶすっとした表情で圭子を見、いくらか尖り声で云った。皆の前で不意打ちして愕かせようと企んでいたのを、圭子が駄目にしたので機嫌を悪くしたらしかった。
圭子は、黙り込んだ。いつもは夫が機嫌を悪くすると素早く謝るか、気づかぬ振りで軽く受け流すのだが、何故か億劫だった。
ジェフも機嫌を悪くした様子のまま口を噤み、うっかり砂粒を噛みあてたような気不味い空気が、竈の周囲にただよった。
――途中でバッファローに食べられてしまったんじゃないだろうな、ハンバーグと一緒に……。
道の方を見やって、スウの夫が独り言のように云った。彼が冗談を云うのは珍しく、ジェフはにやっとして、釣られたふうに道の方を見た。
――ジゼッラじゃ、バッファローも歯が立たんだろう。
金縛りの空気がほどけ、圭子がほっとした時、広場を囲んでいる木立の向うを銀色の物が掠めて、すぐに大きなキャンピング・カーが現われた。運転台に赤いスカーフをかぶったジゼッラの姿が見え、隣りで末っ子のフランキイが手を振っていた。
――ハァイ、ケイ。キャーシュでインディアンがお祭りをやってるんだって。帰りに見に行くんだよ。でも、用心しないと頭の皮を剥がれるぞって、ガソリンスタンドでね、スズキのモーターバイクに乗ったG・Iが云ってたよ。ケイも見に行く?……。
母親譲りの甲高い早口で喋り立てながら、高い運転台からフランキイが跣で跳び下り、ジゼッラも豆を炒り立てるような賑やかな早口で、遅くなった言訳をのべ立てながら下りて来た。後のドアからは、最初にセッター種の黒と茶の二匹の犬が陽光の中に跳び出し、つづいて軽快なショートパンツ姿の末娘のエリザベスと、次女のマギイと婚約者らしい青年が、いくらか気取った様子で姿を見せた。
――遅くなったのはあたしの責任じゃないのよ、ほんとに。すぐ帰るなんて云って患者を診《み》に行った|お医者さん《ドツク》≠ヘ一向に帰って来ないし、今朝早くタルサのモテルを発った筈の長男夫婦も着かないし。遅くなるのなら、途中からでもそう電話してくれれば待たないのに。フランキイはフランキイで、出かける間際になって金魚鉢をひっくり返してくれるし。大変だったのよ、ドギーが面白がって床で跳びはねてる金魚を口で銜えようとするから……。とにかく、一度として物事が思うように運んだ例《ため》しがないわ、あたしの人生は。いつも、何かに振り廻され通し……。ええ、先に行くってドアに張紙して来たのよ。御馳走残しといて頂戴ね……。
コーヒー皿ほどもあるハンバーグを竈の鉄網に並べながら、ジゼッラはもう一度、遅くなったのは自分のせいではないことを主張した。
何かに振り廻され通し……。自信に満ちて陽気に生きていると見えるジゼッラのその一言を、意外な思いで圭子は受け止めながら、同時に、親子夫婦の間でも自己主張の強い欧米人の性癖を今更のように感じ、そう出来たら自分も、夫や子供たちと、もう少し心が通い合えるようになっていたかも知れないと、気持が沈んだ。
ハンバーグが焼き上り、まだ脂が熱くはぜっているところに辛子を塗って丸パンに挟み、やっと昼食になった。めいめい好みの飲物や食物を手にして、パイプ椅子や木蔭の石に腰をおろして食べはじめたが、毎年一緒だった圭子の二人の子供とスウが欠け、来る筈のジゼッラの夫や長男夫婦や三男坊のブルースもまだで、なんとなく気が抜けて落着きの悪い感じだった。マギイと婚約者の青年も、皆から離れたキャンピング・カーの後階段に並んで腰をおろし、いかにも仕方なしにおつきあいしている様子を見せていた。フランキイと二匹の犬だけが、森に来たのが嬉しいらしく、活溌に動き廻っていた。
三時近くになって、やっとジゼッラの夫の|お医者さん《ドツク》≠ェ青いフォードの新車を運転して来、更に三十分ほどしてアルバイトを終えた三男坊のブルースが、中古の黄色いスポーツカーに二、三人の友達を乗せてやって来て、いくらか空気が活気づいた。しかしそれも束の間で、食べるだけ食べてお腹が一杯になると、誰もが手持ち無沙汰な様子になった。マギイと婚約者の青年は、ラックーンが穴をあけたテントを見に行くと手を繋いで池の方へ出かけたが、すぐに暑い暑いと云いながら戻って来た。
事実、木蔭から一歩出ると、ひどい暑さだった。まるで木立に遮られて行き場を失った陽光と暑熱が、束になって雪崩落ちているようだった。人びとは広場の木蔭に勝手勝手に腰を下し、時折、思い出したようにまだやって来ないジゼッラの長男夫婦を気にしたり、アイス・ボックスからコーラやビールの罐を取り出しなどして、気懶くのろのろと午後が過ぎて行った。
木立の影が道の方まで伸びて来た頃、煙が出ていないパイプを口の端にひっかけたまま、ぼんやり椅子にかけていたジゼッラの夫が、嫌がる犬の背中に乗ろうと何度も試みているフランキイに声をかけて、自分の車の中からアイス・ボックスを持って来させた。
フランキイが一人では持てずに、兄の友達の青年に手伝ってもらって運んで来たアイス・ボックスの蓋を開けると、氷水の中にラグビーボールより大きな西瓜が二個浮んでいた。退屈しきっていた青年や娘たちは喚声をあげ、何も云わずに隠していた|お医者さん《ドツク》≠ヘ相当なポーカーフェイスだとか、早く帰らないでよかったなどと、冗談を云った。
我先にと切り分けた西瓜に手を出し、その騒ぎが一段落した時、今度は自分の番だという様子でジェフが立ち上った。
紳士淑女諸氏……、と片手をズボンのポケットに入れたまま皆の注意を集め、自分は暫くテキサスへ行っていたが、フィルのために特別な素適な土産を見つけて買って来たと、青いリボンが派手にかかった小箱を高く上げて皆に見せてから、少し離れた石に腰を下していたスウの夫に上手に投げ渡した。悪戯っぽいその顔つきから、何か面白い物らしいと誰にも分って、皆の視線がスウの夫の手元に集った。
――ありがとう。
寂しげな翳のある表情のまま礼を云い、スウの夫は西瓜を傍の石の上に置いて、ゆっくり包みを開けた。
リボンだけは麗々しくかかっていたが、いかにも子供騙しふうの粗末な紙箱から出て来たのは、シガレットケースをひと廻り大きくしたほどの正方形の木の盤で、右の横側に小さなハンドルがついていた。
盤には縦横に十文字になった溝があり、それぞれの溝の端に小さな駒が入っていた。ハンドルを廻すと、二つの駒は緩やかな同じ速度で溝の中を往き来したが、縦溝と横溝の長さに僅かばかり差があり、駒は中央の溝の交叉点でぶつからず、うまくすれ違った。が、ただそれだけで、スウの夫は正直に不審気な表情でジェフを見た。
皆も口々に、一体何に使う物かとか、何の玩具なのかなどと訊ねたが、ジェフは思わせぶりににやにやしているだけで答えなかった。
奇妙な木の盤は、皆の手に次つぎに渡って行ったが、正体は一向に判明しなかった。ジゼッラの夫は職業的な眼つきで駒の動きを見守ってから、連動式だな……と呟いたが、それ以上は首を傾げるだけで次に渡した。圭子もハンドルを廻してみたものの、二つの駒がすれ違って往き来するだけで何の役に立つとも思えず、かと云って玩具にしては単調過ぎ、まったく見当がつかなかった。
ひと通り皆の手に渡ってから、木の盤はふたたびスウの夫の手に戻った。皆の当惑がつけ加って戻って来た感じの物体を、スウの夫はもう試す気にもならぬふうに眺めて、片手でしきりに耳朶を引っ張っていた。
ジェフは得意気な高い声で笑い、笑いが残った声で云った。
――フィル。裏返して用途を読んでみろよ。
圭子は、はっとした。夫の声音に、苛めっ子が手に入れた獲物をさんざん焦らして弄んだ揚句、最後の止めを刺すような残忍な響きを感じ取った。
しかし、云われたままにスウの夫は、盤を裏返した。暫く何の表情も見せず眺めてから、白髪まじりの短い口髯をゆっくり動かして、読んだ。
――ドゥ・ナッシング。
弾けるように待ち構えていた大きな笑い声をジェフが立て、その言葉がスウの夫の口癖であることを知っている他の人びとも、無遠慮に笑い声をつづけた。
咄嗟に、圭子は顔を伏せていた。深い衝撃を覚えた。確かに、ただ往き来するだけで出会うこともない二つの駒の運動は、まったく無効に違いなかった。が、それはそのまま自分の人生であり、スウの夫の人生に思えた。圭子は、スウの夫がどんな思いでその小さな玩具を眺めているかと、顔が上げられなかった。高い声で笑いつづけている夫に憎しみを感じまいと、地面に滴った西瓜の汁を細い触角で忙しく探っている大きな山蟻を、はじめて見るもののように見凝めていた。
戦慄に似た衝撃をようやく鎮めて、窺いがちに上げた眼が、スウの夫の眼と出会った。スウの夫は醒めた眼色で、灰色の口髯を人差指と中指の二本で撫ぜていたが、圭子の眼と出会うと、仕方なげな微笑を泛べた。そのままジェフに眼を移して、穏やかな声で云った。
――ありがとう、ジェフ。旅先でも覚えていてくれる友達がいるのは嬉しいよ。
ふたたび、笑い声が立った。が、応酬にしてはタイミングがはずれた感じで、笑い声も前ほど高くなかった。
その笑い声が納まると、長閑で退屈な例年の行事も闌《た》けてしまった感じだった。それでも到着しないジゼッラの長男夫婦を待って、なんとなくお開きにしかねていたが、ブルースと仲間の若者たちが先に引き揚げ、遊び相手を失ったフランキイが早くインディアンのお祭りを見に行こうと急き立てだしたのをきっかけに、みんなは帰り仕度をはじめた。
男達がアイス・ボックスの水で竈の火を消したり、パイプ椅子を車に積み込んだりし、女達は使った紙皿や紙コップを集め、ジゼッラの長男夫婦のために取りのけておいた御馳走をタッパーにまとめて、仕事があるので真っ直ぐ家へ帰るという|お医者さん《ドツク》≠フ車に積んだ。観たい夕方のテレビ番組があるというエリザベスも、マギイと婚約者の青年も|お医者さん《ドツク》≠フ車で帰ることになり、結局、インディアンのお祭りを見に行くのは、フランキイとジゼッラ、圭子夫婦にスウの夫の五人だけになった。
来た時と同じにジェフの車にスウの夫が同乗して先頭に立ち、圭子の車がつづき、ジゼッラのキャンピング・カーが最後になって、森のキャンプ場を出発した。野獣保護区に入ると、夕方の餌を求めてか、見はるかす広大な草原の彼方に四、五十頭ほどのバッファローの群が、黒い雲が湧き立つように移動しているのが見え、更に薄茶色の大鹿の群も見えた。臆病なプレイリードッグは、逸早く地面の下の巣に戻ったらしく、一匹も見かけなかった。
野獣保護区を通り抜け、キャーシュの村の入口にさしかかって、先頭のジェフの車がスピードを落した。ハイウェイに近いあたりに郵便局や雑貨店など、粗末な木造の建物が五、六軒あったが、祭りに出かけてしまったのか人影はなく、ガソリンスタンドの奥の修理工場に、臨時傭いらしい黒人の青年がひとり、影のようにぐんなりと椅子にかけていた。ジェフの車が傍で停まり、祭りの場所を訊ねている様子だったが、すぐに確かな気配で走り出した。
ギヤをトップに入れ、更に地平に向って車を走らせた。広漠とした牧草地の間の道は、何時の間にか鋪装されていない赤土の道になった。真夏の激しい太陽に灼かれて赤土の表面にカルメラ状の亀裂が出来、前日、珍しく一時間ほど降った豪雨の名残りの大きな水溜りに、子供の掌ほどの蜘蛛の死骸が幾つも浮んでいた。時折、野兎や蛇が道を横切り、裸のままの自然の中に帰った懐しさを圭子は覚えた。
傾いた陽が燃え立つばかりの薔薇色に染め上げている草原に、突然、何十台もの車が停まっているのが見えた。その傍の広場に、濃い膚色のインディアンの人びとが群れている。どこから集って来たのか、まるで大海原に蜃気楼が立ち現われたようだった。広場の一隅には、白地に呪術めいた派手な模様を描いた昔ながらの円錐形のテェペ(インディアン・テント)が二つ三つ見えた。
が、祭りらしい賑わいも華やぎもなく、くぐもった詠唱と鈴の音が流れているだけだった。集っているインディアンたちの服装も、ごく一般的なピクニックの服装だった。男はスポーツシャツにズボン、女はパンタロンや裾丈の長い服で、色だけはインディアン好みの鮮やかな赤やトルコ・ブルー、濃い黄色などの無地が多く、一様に黒々とした髪の色も手伝って、どことなく田舎廻りのサーカスの集団めいていた。ピクニック用のパイプ椅子にかけて、詠唱が行われている広場の中央を幾重にも取り囲んでいる。人間とも思えぬほど肥りきった躰を古びた服で包み、派手な腰布をつけて車椅子で運ばれて来ている、化石めいた老女の姿もあった。
広場の中央で詠唱を行っているのは、十五、六人ほどの男女だった。女は、長い房で縁どられた色とりどりの大きなショールで躰をすっぽり包み、男は黒地に赤い刺繍を施した、細長い飾り布を斜めに肩にかけている。足には鹿皮靴《モカシン》をはき、輪になって内側に向き合って立ち、赤あるいは黒の、長くてたっぷりした房がついた鈴を片手で打ち振って、ゆるやかで単調な節廻しの詠唱を歌いながら、あわせた足どりでゆっくり前進し、輪がひとつに縮ったところで不意に立ち上り、同時にのけぞるように一斉に空を仰ぐ。が、ほんの一瞬だけで、すぐ顔を元に戻し、またゆっくりと後退する。それだけのひとつ動作を、ただ繰返す。楽しそうなふうもなければ、厳粛な気配もなかった。
――なんだか、陰気で退屈なお祭りね。
白人はなんとなく近づき難い感じで、少し離れたところから遠巻きに眺めながら、皆の感想を代表するようにジゼッラが云った。
――どうして誰も鳥の羽根をつけていないの? とフランキイは、がっかりした様子でしゃがみ込んだ。
――お祭りじゃなくて、ゴースト・ダンスだろう……。
眩しげに眼を細めて見やったまま、スウの夫が云った。
――ゴースト・ダンス! まさかといった派手な声を、ジゼッラがあげた。
――らしいね、多分……。百年ばかり前、アメリカの平原インディアンの間で起った宗教的な民族運動でね、ある部族の呪術師《シヤーマン》がはじめたのが、たちまちインディアン中に拡まったんだ。白人社会に同化せず、先祖からの慣習を守り、ゴースト・ダンスを行っていれば、古い神が甦って、神の霊を宿している自然――獣や、樹木や、石や、風などが一斉に白人と白人の物質文明を滅し、アメリカ全土がふたたびインディアンの手に戻るという信仰だが……。
――なるほど、ジェフが薄嗤いを浮べて云い、顎を露骨にふくらませた。
――まあ大変。じゃ、復讐のお祭りなのね……。ジゼッラも陽気に派手な微笑を見せた。
――いわば、次元の違う抵抗運動なんだろうがね……。
スウの夫は口髯に二本の指先をあて、熱心なような放心したような表情で見入ったまま、言葉をつづけた。
――だが、すぐに政府軍の強い弾圧をうけて急速に衰えてしまったんだが、まだ根強く信じているインディアンも多いらしい。何日間も、即興の歌を繰返し詠唱して、古い神の甦りを希うんだそうだ……。
|鹿の森《エルク・ウツド》の人びとが迷信を信じているというのはそのことかと、圭子はエドガー・スミスの腹立たしげな眼つきを思い出した。恵まれぬ境遇に育ちながら、優秀な成績で大学まで出た彼が|鹿の森《エルク・ウツド》に戻る気持になれなかったのも無理がない気がした。だが、どんな意味の詠唱なのだろう、人びとがインディアン語で今歌っているのは……。あてなく訊ねるようにさ迷わせた圭子の眼に、テェペの方からやって来た四、五人の若者たちの姿が映った。
狩に出かける猟犬のように絡まりあいながら近づいて来た若者たちは、誇らしげにビーズ玉のヘアバンドをつけて、赤い紐をまぜて編んだ長い弁髪を両肩に垂らし、遠巻きに眺めている圭子達の一行を無視するように何か声高に喋り合っていたが、何気なくその中の一人を見やって、思わず圭子は愕きの声をあげそうになった。オールドローズ色のシャツの胸を大きくはだけている逞しい躰つきのその青年は、髪かたちこそ違っているが、エドガー・スミスにそっくりだった。真正面からの強い夕陽を浴びてはっきりとはしなかったが、眼の色も青か灰色だった。
不意に動悸が激しくなり、ジェフやスウの夫に気づかれてはならないと思うと、余計に息苦しくなった。が、よく見定める間もなしに若者たちは通り過ぎて、雑作もなく群れている見物人たちの中に紛れ込んでしまった。
近親憎悪めいた感情を同民族たちに抱き、白人社会での成功に酔っていたあのエドガー・スミスが、こんな場所にいる筈はない、まして誇らしげにインディアンの民族的な髪かたちを装ったりする筈がない、同じコマンチ族の若者だから顔立ちや躰つきが似ていただけなのだ、と打ち消したが、動悸は鎮まらなかった。
人生のどこかで失った自分の分身を探すように、圭子は暫く、若者たちが紛れ込んだあたりに視線をさ迷わせていたが、諦めて、顔を戻した。もし、あの若者が確かにエドガー・スミスだと分ったら、わたしはもっと寂しくなるだろう……。
広場の中央で吟唱者たちは、依然としてくぐもった詠唱と、同じ動作を繰返していた。鈴を打ち振りながら、ゆるやかな重い足拍子で前進して、輪がひとつに縮ったところで不意に立ち止り、のけぞるように空を振り仰ぐ。すぐに顔を戻し、同じ足拍子で後退する。そしてまた前進し……。どうして飽きないかと思われるほど、すべてが単調そのものだが、吟唱者たちはきりなく繰返し、見物しているインディアンの人びとも、チュウインガムを噛んだり、両手を頭の後で組んで椅子の背の上に載せたりしてはいるが、誰ひとりとして席を立つことなど思いもしない様子で見入っている。陽が傾いていることも、その時刻になってもまだ煮え立っている大気も、すこしも気にしているふうはない。
この木蔭ひとつない草原の真只中で、何日間も朝から晩まで絶え間なく詠唱を繰返し繰返す忍耐強さ。更に白人に広大な父祖の地を奪われて以来、ただ執拗に神の甦りを待望しつづけるエネルギーが、日頃は保留区《リザベイシヨン》で無気力な暮らしをしている人びとのどこから生じるのかと、圭子は呆れるよりも訝しかった。
同行の誰もが退屈し、わざわざ見に来たということだけのために立ち尽くしている感じだった。
が、地平線が丸く見渡せる薔薇色に染まった草原に流れてゆく低くくぐもった、どこかもの哀しい響きの節廻しに聴き入っているうちに、ああ、日本の御詠歌の節廻しだ……と、圭子は胸を衝かれた。打ち振っている鈴の音も、日本の巡礼の鈴の音と同じリズムだった。
不意に、圭子は理解した。これは復讐の祭りではない、望郷の祭りなのだ。白人文明に奪われた魂の故郷を恋う祭りなのだ。繰返し繰返す鹿皮靴《モカシン》の重い足拍子は、太古にアリューシャンの海峡を渡って来た人びとの永い旅の足どりなのだ。振る鈴の音は、愛する者の血を埋めて得た故郷を奪われた者の果しない嘆きなのだ……。
圭子は息をつめ、眼を瞠った。絶え間なく流れている詠唱と鹿皮靴《モカシン》の重い響きの間から、大草原に犇めきあっている目に見えぬ自然の大きな力と縒れあおうとする声のない希求がうねうねと湧きあがっているのが見えた。そして詠唱者たちが前進して輪を縮め、不意に立ち止って躰をさっとのけぞらせて空を振り仰ぐ一瞬に、神の沈黙に耐えつづけている人びとの捨身な法悦さえ感じた。人間の文明のみを信じている者の眼には、ただ虚ろなひろがりに見えるこの草原の上の空に、インディアンの人びとは個人の時間を超えた大きな花ひらく幻影を見ているのではないか……。
呼び戻すようなスウの夫の声が傍でした。
――ケイコサン、ナニカンガエテイマスカ。
落暉《らつき》に染まった薔薇色の草原がゆるやかに傾き、インディアンの人びとの輪がするすると遠去かって小さな砦になり、大地から離れて高く空へ昇って行くような一瞬の眩暈を覚えながら、圭子は小さく答えた。
――ドゥ・ナッシング。
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離島狂騒曲
あの男が何処から来たのか、私は知らない。季節だけはまちがいなく、まだ底冷えがきびしい三月上旬の、ようやく咲きかけた辛夷《こぶし》の白い花が、風に舞う紙屑めいて、海青の空に揺れている日だった。
島の人びとも当時、「ほんなこつ、|竜神狂い《ヽヽヽヽ》んごたる日にみえなはったが」と、意味ありげに語りあったりしていたものだ。
しかし、ここから先は東シナ海の、日本列島の西の果ての島では、冬の終りから春先にかけて、大陸からの激しい北西風が旬日近くつづけて吹きまくるのは、いわば年中行事の自然現象で、あの男とはむろん関係はない。むしろその日、私にとって異変だったのは、新聞社支局兼社宅の家事一切を頼んでいる望洋荘のおかみさんが、昼近くなってもあらわれないことだった。
綺麗好きの働き者で、毎朝十時きっかりにいかにも気忙しげな騒々しい物音をたてはじめる、時には忌々しい相手であっても、さて、あらわれないとなると、これまた、かなり忌々しいことだった。なにより前夜、独り暮らしの私の家を、勝手にクラブかなんぞのように心得ている連中に押しかけられ、遅くまで飲みすぎ喋りすぎたおぞましい痕跡が、応接間兼用の表の支局事務室はもちろんのこと、到る処に散乱していた。家中の空気も冷えたままで、とりあえず石油ストーブに火を点けようと思ったが、事務室用もダイニングキッチン用も油がすっかりきれている始末だった。
なんだって起きぬけにこんなことを……と、パジャマの上に外套をひっかけて土間から灯油罐を運び込みながら舌打ちしたが、考えてみれば、油がきれているのは遅くまで飲んでいたせいだった。またおかみさんが断りなしに休んだにしろ、私がこの島に来て以来かれこれ六年近く、嫁と二人だけできりまわしている本業の旅館業が忙しい夏場も嫌な顔ひとつせず、きわめて安い給料で良心的に働いてくれていることを思えば、とても文句が云えた筋合いではなかった。
まあ、これが生活というものだ、と私は自分に云いきかせた。すると不意に、人生そのものが、ひどくくだらなく思えた。鍵が毀れたままの硝子戸が、風で小うるさく鳴りつづけている音を伴奏にして、頭がうすくなりかけた四十男が、埃が溜ったいかにもちゃちな灯油ポンプの蛇腹頭を、せっせとつまんだり離したりしている姿が見えたからだ。同時に自分の毎日が、それと大同小異に思われた。いっそ、リエと結婚しようか、という考えがちらと頭を掠めたが、それもくだらない気がした。
ようやくストーブに火を点け、それだけでもうがっくりと椅子に腰をおろした途端、私はぎくりとした。傍の中廊下との境の硝子戸に、よれよれのパジャマを着た骸骨が明るい庭を背景にして映っていた。もちろん、よく見れば私自身に違いなかったが、光線の加減で削げている頬がいっそう削げて見え、飲み仲間からバテレンの血が混っとるっちゃなかねと揶揄《からか》われる窪んだ目は、暗い二つの穴になっていた。左肩が右肩よりかなり下っているのは、八年前に肺結核を患って左肺の三分の一を切除する手術をうけた名残りだが、私はもうひとりの私をそこに見る気がした。背後の庭ばかりが明るく、梢いっぱいに花をつけた辛夷が、まるで青い空を泳いででもいるように硝子戸の中で大揺れに揺れている。外が明るいから、骸骨の私の目が、いっそう空虚に見える。この風では当分、本土からのフェリーも飛行機も欠航が続くだろうと習慣的な職業意識で思いながら、揺れている白い花の群れを昔の遠い日々を眺めるような気持で、見るともなく見やっていた……。
「あってまあ、支局長さん!……」
不意に勝手口の戸が開き、年中変ったことのない薄青い割烹着姿の胸に、買物籠をかかえこんだ望洋荘のおかみさんが、風にあふられたようにととっと入って来て、大きな声をあげた。
「なんばしとんなはっとですか。そげんか寝巻姿んままで。もう昼じゃなかですか」
「よかが。そげん大きか声ば出さんでちゃ……」
私は苦笑し、慌てて立ち上った。硝子戸に映っているもうひとりの私の姿を、他人には見せたくなかった。しかし同時に、ほっとしてもいた。おかみさんがあらわれるやいなや、家中に生き生きとした日常が戻って来たからだ。私は、まだ顔を洗っていなかったことを思い出した。
「めずらしゅう休みんごたるけん、どげんするかて考えとったつたい」
「なんであたしが、病気でんなかとに休みますもんね」
おかみさんは身についた気忙しい動作で、くるっと背をむけてサンダルを脱いで上りながら、むっとした声で云った。が、どことなくうきうきした様子で、「妙なお客のありましたもんですけん、そるで手間どってしまいましたと」
「どげん客ね? 妙なお客て……」
私は、流しの棚のコップに手を伸ばしながら、歯磨の飛沫がいくつもの白い点になっている小さな掛鏡を覗いた。二日酔い気味のせいで顔色は冴えなかったが、平常通りの顔をしていた。
「なんとかいう宗教の教祖さんですと。立派な顎髯ば生やしてなはるとですが。そるがお供もなしに、たったお一人でふらっとみえて、暫く逗留したかって云いなはっとですばって。まあ履物やら鞄やらは良かもんばつけとんなはっとに、部屋はいちばん狭い部屋がいいて云いなはっとですよ。うちはもともと簡素かですし、今はどのお部屋も空いとりますけん、どうか広かお部屋ばお使いなはりまっせて云いましたとばって、いや、狭い部屋のほうが落着くて云いなはって、そるでとうとう、二階のいちばん奥の部屋にしましたとですよ……」
「貧乏性たいなあ、よっぽど……」
ちょっと笑って私は、練歯磨をつけた歯ブラシを口につっこんだ。つまらん話だ、と思った。じつはおかみさんから妙な客があったと聞いた時、そのうきうきしたような様子から、まあ簡素といえば簡素だが、旅館というより学生相手の下宿屋といったところの望洋荘の客にしては、思いがけない茶代をくれた……というようなことを想像し、更に習い性となった商売気から、ひょっとしたら本土で公金横領か何かした人間が逃げて来たのではないか……と、そこまで想像していたのである。それがお供もないような教祖の、凡人並みのケチ臭い話で、余計馬鹿馬鹿しい気がしたのだ。
「ほんなこつ……」とおかみさんは、買物籠から買物の包をとり出しながら私の言葉を肯《うべな》ったが、やはり釈然としない顔つきだった。その顔つきのまま、暫くもじもじするような気配をみせてから、曖昧な、やや弁護めいた口調で、
「そるだけでん、なかごつありましたばって……」
やはり、茶代でもはずんだのだろうかと私は思い、ふと、この一年ほどの物価の値上りにもかかわらず、おかみさんの給料がそのままになっているのに気づいた。いくらか上げなければならないだろうが、今月からにするか、来月からにしようか……。
おかみさんはまだ何か云いたそうな様子をしていたが、思い直したらしく、
「新若布のでとりましたけん、買うて来ましたと」と、話題を変えた。
歯ブラシを使っていた私は、顔で満足の意を表したが、心の中ではまだおかみさんの給料について思案していた。おかみさんの給料は、朝十時から午後三時まで働く約束の日給制なので、今月から上げるのでは中途半端になるという理由を見つけだして来月からに決めたが、その額がなかなか決まらなかった。二百円では少なすぎ、三百円では多すぎる気がするのだ。なにより三百円では、毎月一万円近い支出がふえることになるので、安月給の私にとってかなり痛手である。間をとって二百五十円というのも、なんとなくみみっちい感じがする……。
若布は|きんなご《ヽヽヽヽ》とぬた和《あ》えにしまっしょうか、それとも味噌汁がよかでしょうか、いや、やっぱ新若布は、そのまんまあっさり二杯酢で食ぶっとが香りがあって美味しかごつありますなあ……と、私の心中も知らずおかみさんは、買ってきた物をそれぞれ冷蔵庫や戸棚にしまいながら勝手に喋りつづけていたが、何を思ったのか突然、その手と口を止めて私の方を振りむいた。そしておかみさんの小まめに立ち働く姿を眺めながら、まだ給料の額について思い悩んでいた私の顔をはじめて見るふうにしげしげと見て、訊ねた。「なして支局長さんは、結婚しなはりまっせんと?」
あとから考えると、あの時すでに、私はおかみさんの様子がいつもと変っていたことに気がつくべきだったのだ。なぜなら望洋荘のおかみさんは、自分の家のことはあれこれとよく喋るが――主として嫁がいかに勝気であるか、にもかかわらず仕事ぶりはなっていないかという嫁の悪口が多いが――、他人の事には決して立ち入らないし、また気にもしないという、女にしてはまことに稀な美徳の持主だったからだ。私に対しても仕事やプライバシーに関するような事は、ただの一度として訊ねたことがなかった。もちろん、訊ねなくても六年近く家事手伝いをしていれば、私が肺結核と離婚という二つの前科持ちで、給料はいくらぐらいかは知っていたし、また現在のリエとの関係も、うすうす知っていると思われる節があった。しかし、ただそれだけで、それ以上深く知ろうとか、またそのことについてあれこれ考えるなどということはまったくなく、ただもう、毎日忙しく働いてさえいればそれだけで十分、といった様子だった。
そのおかみさんが、突然、「なして結婚しなはりまっせんと?」などと訊ねたのだから、私は思わず使っていた歯ブラシの手を止めかけたくらい愕《おどろ》いたが、そこは年の功で、にやにや笑っただけで歯を磨きつづけた。それに満足して、なぜそんなことをおかみさんが訊ねる気になったのか、ということは考えもせず、それが町に起った異変の前兆だったことにもまるで気がつかなかったのである。
それから一週間ばかり、私はひどく忙しかった。
突風で隣島の小型連絡船が転覆して遭難者が出、その取材にとび廻っている最中に、今度は島内の南端にある漁港町で、食用油の製造過程で混入したPCBによる大量の中毒患者が発生したのだ。とくに後者の事件は、大手メーカーの食用油であったため、私が受け持っている近隣の幾つかの島の情報も集めねばならず、ほとんど連日、支局を留守にして出歩いていた。
そうした折も折、今度は四月の人事異動で、私のK支局転勤が内定したことを本社から知らせて来た。K支局は、九州本土のかなり大きな市の支局で、いわば栄転ではあったが、私としては今更、新しい土地へ行く気はなかった。でなければ自分から希んで、本社の連中が島流しと称しているこの支局へ来はしなかったのだ。その理由は本社の人事部長の耳にだけそれとなく入れてあり、相手も了承しているものとばかり思っていたから、この転勤話はまったく寝耳に水で、かなり私は慌てた。しかもそれが、道理も無理も一緒に押し通す編集局長からでた話と聞き、更に狼狽した。だが、リエには知られたくなかったし、噂の早い島ではあり、迂濶に誰にでもは相談出来なかった。
私は思案の末、アカコボスに相談することにした。アカコボスというのは、車で三十分ほどの、島の西側にある町の町議会事務局長を勤めている男で、私のところを勝手にクラブのように心得て出入りしているひとりでもあった。東京の大学を中退して二年ばかり社会党左派の代議士秘書を勤めていたことがあって、現在は物持ちの網元の家の婿養子におさまっているが、舅《しゆうと》が死んだら町長選挙にうって出ようと、虎視眈々と準備工作に励んでいた。酔っての彼の口癖は、革命は地方の末端から起るべきで、東京や大阪などの大都市からだけ革新首長がでている現状は、決して真の革命にはつながらないという慷慨だった。そこでアカコボス、つまりアカの小ボスという渾名《あだな》を飲み仲間が進呈したのだが、顔がひろくて面倒見がよく、しかも気心が知れている点で、相談相手にはうってつけの男だった。
なんね、安か給料でこげんか時間まで働かさるっとね……と、アカコボスは不意に訪ねた私を怪訝《けげん》な顔で迎えたが、離れ座敷に通ってから、じつは……と転勤話を打明けると、馬鹿ん連中ばっか揃っとるけんなあ、世の中にゃ……と、自分のことのように大きな声で慨嘆した。いくら頭は良かか知らんばって、片っ方の肺の三分の一なか男が、無事に新聞記者が勤まっとっとは、俺のごたる男がついとるけんちゅうこつが、なして新聞社のお偉ら方にゃわからんかなあ……。確かに彼は、一市四町村のこの島の情報通のひとりで、事件があれば電話で知らせてくれ、また日に一度、必ず本社へ入れることになっている原稿ダネがない時も、彼に電話をすれば何かしら喋ってくれる。もっとも彼の話には、かなり法螺《ほら》がまじるので、その点は用心しなければならなかったが、おおいに助かっていた。で、あえて私は反論せず、ただ彼の声が大きいのに閉口して、まあ、ばって、この話はなるべく知れんごとしときたかとたい、と抑えると、彼はすぐ思い当った神妙な表情になって肯き、自称海賊の子孫にふさわしい濃い眉根を寄せて、切れ長の鋭い眼で暫く空の一点を見据えるようにしていたが、確か町の漁業組合にあんたんとこの重役の甥にあたる男がおった筈ばいと、たちまち茶の間へ立って行き、あちこちに電話をかけて取消し工作にとりかかった。その動きの素早さはまことに目ざましく、私のところへ来て鬱々と飲みながら、旧家の婿養子の立場の辛さを洩らす彼とは、まるで別人のようだった。
やがて彼は、戦果をひっ提げるように一升瓶を片手に戻って来て、もう大丈夫ばい、大船に乗ったつもりでよかが、と古風なことを云い、まあ、ゆっくり飲んでいかんね、とすすめた。そうもしちゃおられんばって……と云いながら、結局十一時近くまで腰を据え、車を呼んでもらって帰途についた。
顔見知りの老運転手と、二言三言喋っているうちに疲れと酔いとで思わず眠り込み、ふと目を醒ますと、人影のない通りの両側に街灯だけが等間隔に並んでいる、なんとなく舞台の書割りめいた夜更けの町の入口にさしかかっていた。
低い家並の屋根瓦まで潮風で白くなった、西の果ての島のこの港町が、俺の終《つい》の棲家になったのだな、と私は、あらためて自分を納得させるように見やった。心が妙にしんとしていた。
と、車のすぐ斜め前の歩道を、こちらへ向って歩いて来るひとりの男の姿が目に映った。まるで突然、そこにあらわれたような感じだった。海風に逆って長髪顎髯の顔を傲然とあげ、大股な歩き方で黒いレインコートの裾をなびかせていた。
あいつだな、と咄嗟に閃めくように思い、思った時はもうすれ違っていたが、私の目に映った瞬間の男の顔が、写真機のシャッターを切ったように心に焼きついていた。齢は四十五、六くらいで、長髪顎髯もさりながら、どこか遠くを見定めようとするかのように眉根を深く寄せて、目を細め、髯に囲まれた肉感的な口をすこしひらいているその顔の表情が印象的だった。不逞にも何かに戦いを挑んでいるようでもあれば、苦悶の果てに息絶えた死人のようでもあった。
思わず私は振り返った。この夜更けに何処に行くのか、勝手を知った歩き方で男は遠去かって行った。
私は顔を前に戻し、首をふった。教祖というには意外に若い男だった。妙に傲然としていて、にもかかわらず暗鬱で、いかにも宗教家らしくもあれば、人を喰っているような感じでもあった。若くもなければ年寄りでもないくせに、ぬけぬけと長髪顎髯というのも気にいらなかった。いかにも露骨な演出、と思われたのだ。
「島にも妙な人間の来るごつなったなあ……」なかば独り言で私は呟いた。
七分刈りの頭にかなり白髪がまじっている老運転手は、べつに何とも答えず、黙って運転していたが、暫く経って突然、
「シュウマツちゅうとは、来《く》っとでしょうか」
「ええ?」男の去った方角と町の地理とを考えあわせていた私は、ぼんやり訊ね返した。
運転手は私が聞きとれなかったと思ったらしく、同じ言葉を繰り返した。
「シュウマツて……」云いかけてふと、それが終末という言葉だと気づいた。私は、呆気にとられた。同時にかすかな狼狽も覚え、返答に窮した。老運転手がなぜ突然、そんなことを訊ねるのかもわからなかった。仕方なく思いがけない冗談を聞いたように、笑いながら私は答えていた。
「そげんかこつ、心配することはなかが。何千年、何万年先のこっちゃけん……」
「何千年、何万年先のこつにしても、来《く》っとは来っとですか」
「そりゃまあ……来っとは来っとじゃろうなあ。ばって、死んだあとのそのまた先んこつまで、気にしたところで仕様がなかたい」
「私ゃ、息子が東京ん大学ば出るとばたのしみにして働いて来ましたとばって、終末んこつば考ゆっと、気のおかあしかごつなって、なんでん馬鹿馬鹿しゅうなっとです……」
私は、黙っていた。運転手の声に、どうしようもない恐怖の響きがこもっていたからだ。それから不意に、ある憤りを覚えた。
「なしてそげんかこつば」と、私は云った。「考えだしたつね?」
「知んなはらんとですか」と、意外そうに老運転手は、「さっきの、あの教祖さんが話しとるそうじゃなかですか、もう終末のはじまっとるて……」
「へえ……。詳しゅう聞かせんね」私は、前に身をのりだした。
しかし、老運転手もそれほど詳しくは知らない様子で、あの男が黙示教という宗教の教祖で、泊っている望洋荘に毎日人を集めて、世界の終末には神の審《さば》きがあり、その終末はもうはじまっていると説教していると聞いたが……と云い、
「ばって、うちん町の方にも、もう何人か信者になった者《もん》のおっとです。望洋荘のかみさんも嫁さんも、信者になっとるっちゅう話ですが」
「へえ……聞かんなあ。望洋荘のかみさんなら、毎日来よるばって……」答えながら私は、このところ暫く、忙しさにとり紛れて、おかみさんとはろくに顔をあわせていないことに気づいた。しかし、毎日変りなく来てはいたし、仕事ぶりもいつもと変らないようだった。なにより、あの毎日忙しく働くことに誇りと自信を持っているおかみさんが、突然、信仰などに凝りだす、それも現世的な御利益宗教ならともかく、終末思想を説く宗教に凝るなどとは、とても考えられなかった。しかし、また聞きの老運転手すら影響されるくらいだから、ひょっとしたらという気がしないでもなく、どっちにしても、終末思想などで素朴な島の人びとを脅して信者にする遣り口は、御利益宗教などより遥かに性《たち》が悪いと、私は思った。すると、心に残っている男の顔が、なにかひどく忌わしいものに感じられた。
翌朝、台所の物音で目を醒ました途端、まるで待ち構えていたように、奇妙な鮮やかさであの男の顔が、私の心に浮びあがってきた。長髪顎髯の、なにか遠くを見定めようとするかのように眉根を深く寄せて目を細めた、どことなく死人めいた感じの顔だった。
ある危険なものを、私は覚えた。
その正体を探りあてようと、そのまま暫く天井をぼんやり眺めていたが、なぜか思考がまったく働かなかった。ただ漠然と、どうしても思い出せない悪夢を無理に思い出そうとしているような、狂気めいた不安な気分に捉われた。この気分を昂じさせたら危いぞと、なんとか脱け出そうとしたが、溺れかかった人間が足掻くように、かえって募ってゆくばかりだった。
と、隣りの部屋との境の襖が、パタパタ音をたてはじめた。おかみさんがはたきをかけだしたのだ。いくら綺麗好きでも、人が寝ている部屋の襖にまではたきをかけることはないだろうが、その真意は、いい加減で起きたらどうだ……との催促である。いつまでも寝ていられては仕事が片附かないということもあるが、なにより、早寝早起に対する確固とした信念がおかみさんにはあるのだ。人間はお天道様と一緒に暮すとがいちばん正しかとですよ、と折にふれて、それとなく私に説教する。私は聞き流し、あの信念さえなければ……と、朝毎に思わせられていた。
しかし、あれが健康な人間の生活なのだ、とはたきの音を聞きながら私は思った。この人間の世界を支えているのは、そうした平凡ではあるが健康な生き方をしている人びとではないか……。私は、終末思想などというものをこの島に持ちこんで来た男に対して、ふたたび、むらむらと反感を覚えた。
「お早よう、おかみさん……」襖越しに声をかけて私は起き、起きとんなはっとですか……という返事を聞きながら、いつもの手順で枕元の煙草を一本ぬきとって火を点け、くわえたまま茶の間をぬけて台所へ顔を洗いに行った。茶の間を通りぬける時、窓の硝子戸にはたきをかけているおかみさんの後姿をちらっと見たが、こまかい埃がキラキラ光っている陽射しの中で、気忙しく右から左へ、左から右へとはたきを使っているずっしり肉のついた後姿には、終末思想どころか、いかなる虚無的気分も寄りつけそうもなかった。
ちょっと懐ろにはひびくが、おかみさんの給料はやはり三百円上げることにしよう……と思いながら、薬罐の残り湯を洗面器に入れて顔を洗っているところへ、部屋の掃除をすませたおかみさんが戻って来た。土間の方へ行きながら、昨夜《ゆんべ》、弁天鼻の部落ん者《もん》が、ウマンゼで|きんなご《ヽヽヽヽ》ば漁《と》っとるところば、松ヶ浦ん若か者に見つかって、袋叩きにされたげなですばい……と、のんびり事件を伝えた。もっとも、こうした漁区の侵犯に関する争いは、この島では日常茶飯事で、わざわざ記事にするような事件ではないのである。また記事にしようものなら、あん新聞記者は物の道理ば知らん、おまけに島の恥を晒らしたと島中の非難をうけることは明らかだった。生活に直接繋っている漁区の掟は、この島では日本国憲法などより先んずる掟であって、侵犯する方もその行為が袋叩きに値いすることを十分認めているからだ。したがって袋叩きにされても相手を警察へ訴えるなどということもないし、警察も死人でもでないかぎり、見て見ぬふりをしている。おかみさんが私に伝えたのも、今日はいいお天気ですねというくらいの意味なのだ。
こちらも至極のんびりと、「へえ……」とだけ答えて、タオルで顔を拭き、ふと思い出して土間のポリバケツに灰皿の吸殻を捨てているおかみさんを見た。黙示教の男のことを訊ねようと思ったのである。が、思わず私は、口先まで出かかっていた言葉をのみこんだ。おかみさんが、口紅をつけていたのだ。
もちろん、もう大きな孫があるといっても、まだ五十七、八なのだから、口紅をつけようと白粉をはたこうと当り前といえば当り前だが、これまで口紅どころかクリームひとつ塗っている様子もなく、しょっ中気忙しく躰を動かして大きな声で物を云うおかみさんを、私はなんとなく、女でも男でもない人間のように思っていたのである。そのおかみさんが、唇にひとまわり小さくピンクの口紅をつけているという目の前の事実は、なんとなく私をドキッとさせた。思いがけず、足をすくわれた感じだった。
私は、部屋へ戻った。おかみさんはいつから化粧をはじめていたのだろうかと、着替えをしながら考えてみた。すくなくとも、あの黙示教の男が来る以前にはなかったことだった。とすれば、終末思想などとはかかわりなく、おかみさんが黙示教の信者になっていることもあり得ることで、これは迂濶にはあの男のことは訊ねられないと、用心する気持になった。あの男に反撥を覚えているにしろ、毎日顔を会わすおかみさんと気不味い思いはしたくなかった。そうでなくても私は、他人の信仰について訊ねるのは、気恥しい気持がするのだ。なんとなく、相手のアキレス腱に無神経に触れることのような気がするのである。もっともこれは、神などというものを信じていない私の思い過しかも知れないが。
まあいい、暫く様子をみることにしよう、と私は考えた。どうせ今晩の会で、何か聞きこめるに違いない……。
会というのは、島の文化協会の定例会で、いつも寿みよし≠ニいう磯料理を兼ねた寿司屋の二階でひらかれることに決っていた。文化協会の定例会といっても、島暮らしで暇をもてあました学校教師や老人達が、趣味的にやっている郷土史研究やら俳句づくりやらを喋りあう親睦会で、私がそれに出席するのは、例会そのものよりも二次会の方がどちらかといえば目あてで、島の出来事に関するさまざまな情報が得られるからである。いつもはたいてい会の半ば頃に顔を出すことにしていたが、その晩ばかりは定刻きっちりに、寿みよし≠フ狭くて急な二階への階段を登っていた。一刻も早くあの男について聞き込みをしたいという気持と同時に、二次会を待たずにあの男の話がでるのではないかという予感がしたからだ。
その予感は当った。会がはじまって間もなく、郷土史家をもって任じている文房具店主が、珍らしい掘出物をしたと、茶褐色のなまこ餅のような形の石を得意気に披露した。近郊の部落の家の石垣をとり壊した際、石垣の中に祀《まつ》られていた石で、裏側に手彫りの十字の刻印があるところからみて、隠れキリシタンの遺物に違いないというのである。その石を順々に手廻ししながら、その部落は地下《じげ》(古くからの島の者)の部落で、居付《いつ》き(他から来て住み着いた者)の部落ではない、この島の隠れキリシタン部落はすべて寛永年間に長崎の外海《そとめ》地方から移住して来たのであるから、十字の刻印はあっても史料の裏づけがなければ隠れキリシタンの遺物とは云えないという意見や、いや、隠れキリシタンが移住して来る以前に、アルメイダという修道士が布教に来て領主をはじめとしてかなりの信者をつくった、その後、豊臣、徳川と続いたキリシタン禁教令によって、それらの信者はすべて改宗したということになっているが、なかには改宗した振りをしてひそかに信仰を守っていた者があったことは十分考えられる、そもそも隠れキリシタンが隠れキリシタンである由縁は、それが公然のものではないところにある、したがって史料の裏づけがないのはむしろ当然ではないか、という反論がでて、いつになく議論が白熱した。もっとも白熱したといっても、めいめい自分の知識をひけらかすのが主目的だから、狎《な》れあいめいた議論にすぎないのである。
ところがその真最中に、突然、佐多という男がぼそっとこう云ったのだ。
「いいじゃありませんか、隠れキリシタンのものであろうとなかろうと。誰かが、人目を盗み、音に怯えながら石に十字を彫った、金儲けのためか信仰のためかはわからないが……、それだけのことです。終末の時にはその石も、ただの石に還ります。そしてもし神というものがあれば、石に十字を彫った人間の心だけが量られるでしょう……」
暫く、誰も答えなかった。馬鹿野郎が……という感じでもあれば、なんだよ……という感じでもあった。そうでなくてももともと、佐多という男は皆から、なんとなく馬鹿にされていた。顔立ちだけは優男の二枚目だが、覇気というものがまるで感じられない男で、欠かさず会に出席はするがほとんど黙って坐っているだけで、たまに発言してもその内容が一向に冴えない。また実生活の面でも、病身というわけでもないのに何の職業も持たず、自分では詩人のつもりでいるらしいが、若い頃に幾つか詩らしきものを書いたことがあるというだけで、しかし音楽教室をやっているオールドミスと抜け目なく結婚して、女房に養われて暮している、などといった理由からだった。また彼が、いかにもインテリ風に標準語を使うことも、能もないくせに……と、逆に皆の軽蔑をそそっていた。その彼の場違いな発言など、相手にすればこっちまで馬鹿に見えてソンをする、といった雰囲気だった。
「まあ、佐多君のですね、御意見は、なかなか深遠な御意見で……」白けた沈黙が暫くつづいた後、会長をしている清家という病院長がさりげなく云い、それからちょっと笑いを含んでつづけた。「しかしです、文化というものはもっと俗な、そして現在ただ今に関する事柄でして、終末、あるいは神というようなことは当店の取扱い品目ではありませんので、(ここで待ち構えていたように笑い声がたった)それは一応置きまして、この石が……」
「なぜ、一応置くのです」不意にせきこんだ口調で、また佐多が口をひらいた。いつになく興奮した様子で、縋るように両手でしっかり箸を握りしめていた。「文化というのは文化それ自体のためにあるのではなく、人間のためにあるのです。ですから当然、神とか終末とかいうことも……」
座が、騒然となった。それは違う、とか、会長の発言中ばい、とかいう声が聞えた。佐多はそれでも何かきれぎれに喋ろうとしていたが、私のところには聞えなかった。清家病院長も憮然とした様子で、黙って天井を見上げていた。と、騒然とした座のなかから、誰かの一際大きい嘲弄を含んだ声がした。
「かみさんの尻について、黙示教とかいう世迷い言ん信者になったっちゃなかね」
私は、思わず佐多を見た。私もまた、彼が終末≠ニいう言葉を口にした時から、おなじ疑いを抱いていたからである。しかし佐多は、もう黙りこんで卓の一点を見凝めていた。それはいつもの佐多に戻ったようだったが、どことなく違っている感じもした。
「黙示教ちゅうとは、どげん宗教ね?」折を逃さず私は、隣りに坐っている高校の倫理教師に訊ねた。「本土の方でん流行《はや》っとっとね」
ふくらんだ餅に似たやわらかな顔をした倫理教師は、ちょっと当惑したような表情を浮べた。公立高校の教師で、同時に僧籍も持つ彼は、こういう話になると非常に慎重になるのである。その慎重居士の彼の話では、黙示教がどの程度の組織を持つものかは知らないが、望洋荘に泊っている男は灘真実《なだまさみ》と名乗っている、その説教の大意は、キリスト教は贋宗教だが、聖書の黙示録に書かれている終末に関する預言だけは正しい神の預言で、その預言の終末の時≠ヘ既にはじまっている、やがて神の予定の時が来れば神は悪魔を滅ぼし、新しい神の国を建設する、その時、神を信じる者は復活して神の国に迎えられるが、そのほかの者は悪魔と共に永遠の滅びに投げ入れられる、というものであった。
「ばって、そげんかこつば、わざわざ聞きに行く者《もん》のおっとね?」わざと私は、まったく初耳の顔をした。
「おっとたいなあ」慎重居士の倫理教師もつい釣り込まれたらしく、首をかしげた。「なかにはわざわざバスで来よる者もあるらしかが……まあ信者は、大方は女が多かちゅうこつばって」
「それなんだよ、君」憮然と天井を見上げていた清家病院長が、私達の方へ顔を向けて肯き、口をはさんだ。「うちの患者のなかにも信者になっているのがいるんだけどね、その集会時間がだね、日曜を除いて毎日、午後三時からなんだよ。ということは、まともな男はだね、みんな働いている時間ですよ。なぜわざわざ、そんな時間に集会を開くか。これはちょっと興味のあることじゃないですかね……」
「なるほど、考えたばい」遅れてやって来て、その分をとり戻そうとするように、私の斜め前の席で、かなりピッチをあげて盃を口へ運んでいたアカコボスが、突然、口元まで運んだ盃の手を止めて、大きな声で云った。「まったく馬鹿ばっかり揃うとるけんなあ、女ちゅうとは……。おまけに迷信深うてくさ、占いやら予言やらに凝ってくさ……」
アカコボスの声があまり大きかったので、それまで勝手勝手に喋っていた人びとの耳にも届き、笑い声がたった。そげんかこつ云うて大丈夫ね。嫁さんに聞こゆっばい、と誰かが揶揄った。なあにが……とアカコボスは受けて、手酌で盃に注いだ徳利を、どんと卓の上に置いてわめいた。
「よし、これからあん男ば袋叩きしに行こう。あん男は、革命の敵だ!」
酔ってくると、猫でもポストでも革命の敵にしてしまうのが彼の癖で――もちろん、私達が本気にしないのを承知のうえでだが――、またはじまった……と私達はにやにやしたが、かなりの共感が含まれていないこともなかった。
すると、それまで黙りこんでいた佐多が、ふたたびせきこんだ口調で吃りがちに反論した。
「しかしですね……その、迷信でもなんでも……それでその、安心が得られたらですね……その、それで、よかとじゃないでしょうか」
席にいた何人かはもう正直にうんざりした表情をみせ、清家病院長はちょっと躰をゆすって、ちらっと軽蔑したように横目使いで佐多を見た。が、佐多は、すっかり興奮した口調で言葉をつづけた。
「私にはわかったとですよ、その……つまり、人間は、生きている人間は幸福であるべきだということがです。不幸であってはならない……」
当り前んこったい、と誰かが呟いた。
「いや、いや、いや、そういう意味ではなくて、病気の苦痛というような不幸は仕方がないにしても、人間の不幸の多くは、人間自身がその心でつくりだしている、ということです。そしてその原因は、人間が、人間はいいものだということを知らないからです。……確かに私の家内は、毎日熱心に黙示教の話を聞きに行っています。そして話を聞きに行くようになってから、家内はその……まるで人が変ったように気分が穏やかになって、私にも優しくしてくれるようになって……このあいだなど、はじめて自分から私の下着を買って来てくれて、せめて下着ぐらい、いつも気持のいいものを着てなさいなんて云うんです。食事なども、今日は何が食べたいかなどと訊いてくれるようになって……いえ、べつに、家内がこれまでそうでなかったことを不満に思っているわけではないんです。あれは毎日、十人あまりの子供にピアノを教えているんですからね、それだけでもう神経がくたくたになってしまうのは当然です。それに几帳面で、家賃でもなんでも決った日にきちんと払わないと気がすまない性質《たち》で、それで頭の中はいつもそういうことで一杯で……それが近頃では、先のことばかり考えてあくせくしても仕方がないなどと云うようになって……そうなんですよ、乞食したって何したって、人間は人間がいいものだということを誇っていいんです。そうすると、自分で不幸をつくることはなくなります……」
佐多の長広舌のあいだ、皆は呆気にとられたようにしんとしていた。しかし佐多の妻がひどくケチで、夫にも口やかましいことは私達のあいだに知れわたっていたから、この折角の長談議も、ただ無言の嘲笑を誘っただけで、いささかの感銘もひき起さなかった。ただアカコボスだけは、食べかけていた蒲鉾を口にくわえたまま、じっと中空に目を据えて聞いていたが、佐多が口を噤むと、くわえていた蒲鉾を手でぐいとひきちぎり、口をもぐもぐさせながら、やおら佐多の方へ向き直った。
「そるで、何があろうとも幸福でいらるるっちゅうとな?」
「すくなくとも、上役が自分を認めてくれないとか、失恋したとか、受験に失敗したとか、そんなことで不幸だと感じるのは間違いなんです。そう気づきさえしたら……」
「そんなら」アカコボスは、大きい声を更にはりあげた。「どこの馬ん骨とも知れん男に、女房がうつつを抜かして、寝盗られてん倖せ、ちゅうとか。え、そうか、元子爵!」
座がいっそう、しん……となった。確かに私達は、蔭で佐多のことを、揶揄的に、というよりは嘲笑的に元子爵≠ニ呼んでいた。というのは、彼が十年ばかり前――もちろん、その頃まだ私はこの島にいなかったが――、このあたり一帯の島の旧藩主であった八十島家の当主である、子供に恵まれぬまま未亡人になった元子爵夫人の数多い男関係の相手のひとりであったからだが、それも私が聞いたところでは、いかにも酒の肴に恰好な事の次第だったのである。この話は、話す人間によってさまざまに尾鰭がつくので、細かい部分の真偽のほどはわからないが、ともかく何かの事の成りゆきで、島の銀行に勤めていた佐多が、当時六十歳あまりだった子爵未亡人の何人目かの新子爵≠ノなり、彼はそれまでの勤めを辞めて、執事という名目で八十島邸に住み込んだ、つまり、体《てい》のいい同棲をしたのである。と、そこまではよかったのだが、三月経たぬうちに、一週間ほど上京した子爵未亡人が、山ほどの派手やかな買物と一緒に|若い甥《ヽヽヽ》を連れて帰って来たため、島の人びとは、当然佐多は邸を出るものと思い、その身の振り方を同情まじりに噂した。ところが佐多は、元子爵≠ノ転落しても平然と邸に居坐って、一年経っても一向に出て行く気配を見せなかった。そこで遂に夫人の方から、なにがしかの金を渡して退職《ヽヽ》を申し渡し、やむなく彼は二、三日思案の末、音楽教室をやっている色気もなければ愛想もない、彼より六つ年上で大女のオールドミスの所へ出かけて結婚申し込みを行った、という次第だった。そして彼がそれほどあっさり夫人に棄てられたのは、太平洋での牛蒡《ごぼう》洗いだったからだとか、うんね、奥方さんが好きな四十八手にしくじって|ぎっくり腰《ヽヽヽヽヽ》になったつばいとか、笑いを誘う好色な落ちがつくのだった。
だが、佐多のためにいくらか弁護すれば、島の人びとはなぜか子爵未亡人に対してはまことに寛大で、そのとっかえひっかえの男道楽や、贅沢好みの浪費癖や、またそのために八十島家の私有財産になっている広大な城址にある学校や結婚式場などからの地代だけでは生活が賄えず、端の方から少しずつ切り売りするという暮しぶりについても、非難するどころかまるで自慢話のように語り、逆に相手の男たちのことはひどく嘲笑的に話す癖がある。したがって佐多についての話も、かなり伝説化したものと考えられないでもなく、ただ、いかにも佐多らしい、と思わせる話であることだけは、確かだった。おそらくアカコボスが、面とむかって佐多に、「元子爵」という言葉を浴びせたのも、同じ入婿として佐多の腑甲斐なさが焦れったく、叱咤激励するつもりで、つい口をすべらせたに違いなかった。
私たちは、かなり残酷な期待を持って佐多の反応を窺っていた。が、彼は、それまで伏せつづけていた目をちらっとあげて、アカコボスを見ただけだった。色の白い顔がいくらか更に白くなっている感じはしたが、酒のせいのようでもあった。
「どげんね?」アカコボスは返事を促した。気勢をそがれた、しかし今更引っ込みがつかないといった、間が抜けた調子だった。
やっと佐多は、目を伏せたまま答えた。「それでも幸福です」
「すらごつ(嘘)云うな!」アカコボスは、ふたたび猛り立った。「なら、貴様ん目の前で俺が貴様の女房ば……」
まあまあ坂田君、そこまで行くと夫権侵害が成立する、と清家病院長が冗談めかして割って入った。それから急に真面目な顔になって、これはですね、刑法上の罪ではありませんが、民法上、損害賠償が認められますのでくれぐれも皆さんもその点は……、と皆を笑わせ、では、まだ少し早いようですがここらでと、いかにも病院長らしい世馴れたタイミングのよさで会を閉じ、坂田君、喋り足りないところは二次会でゆっくり……、とさりげなく促して立ちあがった。
その意をうけて皆どやどやと立ちあがり、清家病院長につづいて部屋を出て行った。病院長と一緒に行けば、二次会の払いは病院長持ちというのが慣例になっていたからだ。その驥尾について私も部屋を出て行きかけたが、ふと振り返ると、小鉢類の乱れた卓の端に、ただひとり佐多が、放心したように腰を据えていた。
二枚目の顔だちの彼が身動きもせず、目の前の一点をじっと見凝めている姿は、まったくそのまま人形だった。
不意に私は、何かがわかった気がした。
私は後戻り、佐多の横に坐りこんだ。
「佐多さん、こう云っちゃなんだがね」私は意地悪さと親切心がいりまじった気持で、佐多の横顔を覗きながら云った。「あんたは幸福どころか取越苦労をしてるんだよ。奥さんが黙示教の教祖とかいう男に夢中になっているんじゃないかと。だから、それで傷つくのが嫌だからあんな空想的な考えをね、考えだして……」
「いや、空想じゃない。ほんとにわかったんですよ。ほんとに……」佐多は、相変らず前を見凝めたまま云った。
「だって、嫉妬とか自己顕示欲とかいうのは本能的な感情で、理屈じゃないんだからね。どんな理屈を持って来て納得させたって……第一、人間は人間がいいものだと誇っていいと云ったって、何に対して誇るんかい? 他人の目をあてにしない、としたら……」
佐多は、答えなかった。無意識のように左手を口へ持ってゆき、指先で下唇を捻っていたが、ちらっと横目で私を見て、妙に嬉しそうににやっと笑った。
胡麻化しだ、と私は思った。要するにこの男は、臆病者なのだ。自分に都合のいい理屈をその時その時に考えだして、絶望もせず、のんべんだらりと百十歳までも生きる人間なのだ……。私は、わざわざ居残ったのが馬鹿馬鹿しくなった。話の成り行きでは、私が過去において妻に裏切られた男であることを打ち明けてもいいと思っていただけに、一層馬鹿馬鹿しくなった。私は、立ちあがるつもりで腕時計を見た。と、その私の耳に、佐多はまるで重大な秘密でも打ち明けるように囁やいた。「神様にですよ。人生をこんなふうに作った神様にです……」
私には、町中に、何か忌わしいものが蔓延してきている、としか思えなかった。白髪まじりの実直なタクシーの運転手が、運転中に終末のことなど考える。頭の先から足の先まで勤労精神に輝いていた望洋荘のおかみさんが、突然、化粧をはじめる、佐多のような怯懦な男が人前で、さも深遠な哲理でも発見したかのごとく長広舌をふるい、島の名士である清家病院長やアカコボスに異議を申し立てたばかりか、どうやら神などというものにまで異議を申し立てているらしい。しかも更に、異変はつづいた。
文化協会の例会があった翌日、私は潮の匂いの強い朝のうちに、近くの銀行へ出かけた。急ぐ用ではなかったが、アカコボスに依頼した転勤の取消工作がうまくいっていれば、そろそろ今日あたり、本社から何か云ってくるのではないかと考えたからだ。その時、留守にしているのはまずい。記者が一人きりの支局は女房持ちでないと留守ん時の連絡がとれんと、かねがね本社の連中にぶつぶつ云われていた。
銀行での用はすぐ片附いた。その足で一軒隣りの文房具店に寄って、昨夜の議論のきっかけになった裏に十字の刻印のある石の写真を何枚か撮らせてもらった。皆が議論している最中から、今日の原稿ダネにすることを考えていたのである。これであとは原稿をまとめるだけだと、我ながら手際のよさに満足して私は家へ戻った。石の由緒がはっきりしないところが、かえって謎めいていて新聞記事としては面白い、毎日送る原稿をほとんどボツにする小憎らしいガマ面の本社の整理部長も確実にのってくるなと考えながら、××新聞社支局と看板だけは麗々しい玄関のドアを開け、途端に私は我目を疑うほど愕いた。玄関からすぐの狭い事務室の応接椅子に、八十島子爵未亡人の姿があったのだ。
もちろん、子爵未亡人といっても歩ける足はあるのだし、盗難というもののまったくないこの島では、玄関のドアの鍵などかけたこともなく、したがって子爵未亡人がいたとて何の不思議もないといえばいえるようなものの、しかし、広大な城址の一郭に、巨大な龍舌蘭の葉が猛々しく垂れた城壁に囲まれて住み、用がある時は相手を邸に呼びつけるのを当然としている子爵未亡人の日頃の暮らしぶりからすると、やはり驚天動地の出来事に違いなかった。
「ああた、結婚しなはりまっせ」
派手づくりの着物を姿よく着て、脇息にでもよりかかっているような風情で古びた応接椅子にかけていた子爵未亡人は、齢には思えぬ艶のあるお侠《きやん》な声で私の顔を見るなり云った。
いや、どうも……留守ばして失礼しました、と私は愕きを隠してそそくさとレインコートを脱ぎながら、心の中では子爵未亡人がわざわざ出向いて来た理由を忙しく考えていた。最近、未亡人が城址の一部を観光ホテルの用地に売却したのを非難する声があるとか、地代の値上げをめぐって学校と話し合いがつかずにいるとか、新聞記事にされては困るような事柄が幾つかないでもなかったが、依頼事の場合でも相手を邸に呼びつけるのがこれまでの未亡人の遣り方だった。ただし、依頼事の場合は時代劇そのままの邸の奥座敷に通されて、手厚い饗応がつくのである。
「お電話下さりゃ、こっちから伺いましたとい……」云いながら私は、相変らず子爵未亡人が齢よりずっと若く見えるのに感心していた。実際はもう七十に手が届いている筈だが、どう見ても五十そこそこで、結構昔美人の面影がある。もっとも齢は齢で、薄暗い邸では気づかなかったが、狭いながら明るい事務室で向かいあうと、毛をむしった鶏そのまま小皺がよってたるんでいる首の皮膚がはっきり目に映り、その上に整形手術で皺をとった顔がのっているのがなんとなく借り物のように見えた。
「近くまで来ましたけん、ちょっとお寄りしただけですと」未亡人は片手で衿元を揃えるようなしぐさをしながら、ちらと流し目で私を見た。「どげんかお暮しば、しとんなはるかて思うて……」
「いや、もう、こん通りの殺風景か暮しです」私は殊更恐縮したように、改った口調で答えた。何事にも芝居がかる癖はあるが、未亡人の人柄はその男関係からも察せられる通り、きわめて天真爛漫といってよかった。その未亡人が訪問の目的を隠していることに、ひょっとしたら……と警戒心が働いたのである。しかし、未亡人の面喰いは有名だったから、男として満更悪い気持がしないでもなかった。
「めずらしかですよ。男ん方のお一人暮しにしては、綺麗にしてなはりますなあ……」
未亡人は、面長なうえに更に長い首をめぐらして、事務室を見廻した。「ばって、やっぱ何か足りんごとありますが」
私はますます警戒心を強めた。未亡人には気に入った人間に色んな物を遣りたがる癖があり、呉れ屋の奥方≠ニも云われていたからだ。
「ああた、結婚しなはりまっせ」未亡人は部屋をひとめぐりさせた顔を元に戻し、真正面から私を見凝めて、また云った。「家にはおなごの要りますが」
おや、と私は思った。未亡人の目的は縁者のオールドミスか何かの押売りだろうか……。
いやあ、結婚しとうても出来んとですよ、と相手の手が読めぬまま、結婚をすすめられた時のきまり文句を持ちだした。「じつは八年ばかり前、胸ば悪うして手術ばうけとっとです。そるでもう、おなごはでけんごつなったとですたい」
「港の待合室の売店にいなはるでっしょうが、ああたのお好きな娘さんの」真正面から見凝めたまま、きっぱり未亡人は云った。「結婚しなはりまっせ、あの娘さんと」
「……まあ、あの子はいい子ですがね」思わぬ不意打に素早く観念し、しかし肝心のところはぼかして、「病身で寝たり起きたりの姉さんのおっとですよ。そるでもう両親はなかですけん、まあ、病身な姉さんば置いて結婚も出来《でけ》んちゅうような事情があって、まあ気の毒か娘ですたい……」
「ああた、新聞記者んくせに」と未亡人は、齢にそぐわぬ少女めいたしぐさで顎をひいて着物の衿にうずめ、意味ありげな上目使いで、「意外と、ものば知っとんなはらんですなあ」
私は苦笑して、新聞記者というのは単なるリポーターで、ものを知らないのは当然だ、と答えた。
「ばって、リポーターなら、世の中は変るちゅうこつぐらい、人よりわかっとんなはるでっしょうに。女心は、もっと変りますとよ。そげんかこつば云いなはっとるうちに、魚は逃げてしまいますが」
まあ、逃げる魚なら逃げても仕方がない……と、私はやや素っ気なく答えた。未亡人の思わせぶりな口調が不愉快な気がしたのだ。
「あたしはああたの味方ですが」未亡人は甘えるように云った。「いつでん、ああたのことは気にかけとりますと。そるでつい、まあ……ほんなこつ、突然お伺いしてお邪魔ば致しました。時には、話においでてくだはりまっせ……」
未亡人はすっと立ち上り、首をちょっとかしげるようにして姿よく腰を軽く折った。
私は慌ててひきとめ、一体誰からそげんかこつばお聞きなはったつです? と訊ねた。未亡人はひたすら帰りを急ぐ様子で何とも答えず、足早やに玄関へ出て、三和土《たたき》の草履に片足をおろした。そこで不意に思い出したようにちょっと振り返り、流し目でとどめを刺した。
「灘先生にですと。あの娘さんの病身か姉さんが熱心か信者さんで、娘さんとも親しゅうしとんなはっとですが……」
その日の午後、望洋荘に私が出かけて行ったのは、もうこれ以上放ってはおけない、という気になったからである。子爵未亡人が帰ったあと、私はすぐ、本社から電話があったら、取材に出ているが正午には戻ると伝えてほしいと、望洋荘のおかみさんへの書置きを台所の食卓の上に残して、波止場へ行った。ちょうど九州本土行の連絡船の出航前で、待合室は混雑していたが、私が売店の端のコーヒースタンドに近づくと、売場の向うにいたリエが素早く気づいて、コーヒースタンドの方へ移って来た。暫く逢わなかったせいか、衿にうぐいす色の線が一本はいった黄色の無地の制服を着て、ひどく生真面目な顔でコーヒー保温器の蛇口からカップにコーヒーを注いでいる姿が、新鮮で可憐に見えた。あの男が私の知らぬ間に子爵未亡人はともかく、この娘にまで近づいていたかと思うと、危険きわまりない女蕩しに思われ、なんとしてもこの娘だけはあの男から守ってやらねばならぬと、妙な気のたかぶりを覚えた。やあ、有難う、カウンター越しにコーヒーを受け取りながら、どげんね……と私はつけ加えた。この漠然とした挨拶用語は、私とリエのあいだでは、その晩の約束を意味していたが、いつもはきまって黙ったまま肯くリエが、なぜかびくっとしたような様子をみせた。濃い睫《まつげ》を伏せて躇《ためら》うふうにしてから、「遅うなってよかなら……」と、周囲には聞えない程度に声を落して答えた。姉さんの工合でん悪かつね? と訊ね返すと、「うんね、ちょっと……」と言葉を濁して、そのまま売店の方へ戻ってしまった。
本来はよく喋り、よく笑う性質《たち》にもかかわらず、どこか手なずけ難い動物のような感じのあるリエは、人前では私にも、いつも素っ気ない態度しかみせなかった。しかし、どこかいつものリエとは違っているように感じられ、私は、疑念と腹だたしさが募ってくるのを覚えた。が、それ以上どうすることもならず、不味いコーヒーを二口三口飲んだだけで私は家に戻ったが、家でも忌々しいことが待ちうけていた。当然、とっくに来ているものとばかり思っていた望洋荘のおかみさんが、まったくあらわれた様子がなく、食卓の上の書置きもそのままになっていたのだ。それでも、あるいは病気では……と望洋荘に電話すると、当のおかみさんが電話口にでて、今日は嫁がPTAで留守をするので休ませてほしいと、いとも平然と答えた。貧乏育ちのせいか他人に文句が云えない私は、そのまま電話を切ったが、そのあとになって猛然と腹が立ってきた。それならそうと、なぜ前もって断っておかない、こっちにだって都合がある。第一、これまで嫁が留守をするなどという理由で休んだことはないじゃないか……と、心の中で鬱憤をぶちまけながら、むしゃくしゃと煙草に火を点けかけたが、その手を思わず途中で止めた。窓のレースのカーテンが、見苦しいほど薄黒く汚れているのに気づいたのである。私は不意に、おかみさんに対してある疑いを抱いた。
すぐ台所へ立って行って点検した結果、その疑いが事実であることを私は知った。流しには水垢が溜り、ガスコンロは油でべとべとで、冷蔵庫の奥には腐った野菜がそのままになり、製氷室は霜でふくれあがり……。ちょっと見にはわからないが、おかみさんが仕事の手を抜いていることは明らかだった。それでいて二、三日前、取材に出歩いていた私が三時前に家に戻って来ると、おかみさんはもう帰っていて、しかし、その時は、仕事が早く片附いてしまったのだろうくらいに考えて、べつに気にもしなかったのだ。
これは詐欺だ、裏切りだ。原因はあの男に違いない。おかみさんは年甲斐もなく、恥ずかしげもなく、あの男に惚れこみ、わけもわからず終末とやらを信じこみ、ガスコンロも冷蔵庫も放り出してしまったのだ。佐多の妻が明日を放り出し、子爵未亡人が慣習を放り出したように……。そしてあるいはリエも?……。いや、これを放ってはおけない、穏やかな日常性への挑戦だ、なんという退廃……。
無闇やたらに気を昂ぶらせて事務室に戻った私は、それでも灰皿の傍に置きさしになっている煙草に気づき、とりあえず一服しながら思案することにした。しかし、黙示教なるものの実体すらわからぬ私に、一服したところでこれという思案が浮ぶわけはなかった。それどころか、気を昂ぶらせている自分が馬鹿馬鹿しくさえなってきた。私には生れつき短気なところがあるが、八年前、肺結核を患って入院中に、他の男のもとに奔った妻が、まことに理路整然と彼女自身を責める手紙と一緒に劇場のカーテンコールに使うような大きな花束を送り届けて来て以来、どんなことでもすぐ投げやりな気分になる癖が出来ていた。が、投げやりな気分になればなるほど、やはり、これ以上放っておくわけにはいかないという気持も強まった。ともかく、黙示教の集会をこの目で見届けよう、と私は決心した。
だが、町通りからすこし入った、海の匂いがする河口近くの望洋荘の玄関の前に立った時、私はある気後れを覚えた。普通のしもたやと変りのない玄関の三和土に、いとも日常的なビニールのサンダルやら鼻緒のゆるんだ下駄やらが、それこそ足の踏み場もないほど脱がれていて、それでいて家の中はしんと静まりかえっていたからだ。いつも必ず、足音を聞きつけて真っ先に廊下の奥から駆け出して来る頭にリボンをつけた白い狆《ちん》も、どこへ行ったのか、まるで気配もなかった。玄関前の、青い波形のビニール板で囲った車庫は空っぽで、隅の方に、赤い玩具のシャベルと、真新しいステンレスの鍋が転っていた。
すると不意に、人間の歴史の終りの、あっけらかんとした白じらしさが、私の心にひろがっていった。骸骨の暗い目の穴よりももっと虚しく、もっと果しない……。
背後で小走りのサンダルの音がし、振り返ると、赤ん坊を背負った小肥りの二十七、八の女が、お襁褓《むつ》入れらしい袋を提げて、薄い愛想笑いを浮べて立っていた。集会に遅れてやって来て、玄関の前に私が立っていたので遠慮して立止ったらしかった。慌てて躰をよけたが、「よかですと。どうぞ……」と、女は先を譲った。思わず促され、私は玄関に入った。靴を脱ぎながらわざとぐずぐずして後からの女を先にやり、その後について奥の集会が開かれている部屋にそっとすべりこんだ。
二間つづきの部屋の境の襖をとり払って、一間にしたその部屋に入った途端、私は急に黄色い色硝子の中に入ったような気がした。まだ陽射しが暑いという季節でもないのに、廊下と反対側の長窓に橙色のカーテンがひかれ、カーテン越しに斜めの陽射しが部屋の空気を染めていた。その両側に橙色の人形のような女たちがずらりと並び、そのひとつが何かを読みあげていた。
「……第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は『苦《にが》よもぎ』と云い、水の三分の一が『苦よもぎ』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのため多くの人が死んだ……」
第四、第五……とつづいてラッパが吹き鳴らされ、そのたびに災いが起り、第七まできたところで朗読が終り、代って中央の奥にすわっていたあの男が話しはじめた。長髪顎髯に肉感的な唇、眉間に深い縦皺を刻んだ風貌にもかかわらず、話し方はまったく抑揚のない、ぼそぼそと呟くような単調な話し方だった。話の内容は、要約すると、この黙示録に預言されている、「苦よもぎ」という星は、人間の科学のことである。火の燃えさかっている大きな山のようなものとは、原水爆のことで、つまり、原水爆汚染、PCB汚染、水銀汚染など、今や全地球に及んでいる科学汚染を予言したものだ。そのために地球上の生物が、食物はおろか水さえ安心して飲めなくなっている。「水が苦くなった」というのはそのことを意味し、これらはすべて、この世が悪魔の代行者である資本家、政治家によって支配されているためで、神と悪魔との終末の戦い、即ちハルマゲドンはすでにはじまっているのだ。しかし、この終末に関するこれまでの預言が成就されている以上、この先の預言、即ちもろもろの災いのあとで神の最終審判が行われて新しい神の国が到来することもまた、必ず成就されることは疑いがない……。
なるほど、俗耳に入りやすい説教だ、と私は思った。とくに食用油による大量中毒が起ったばかりのこの島では、台所を預る女達に信じられやすいに違いなかった。しかもぼそぼそと、抑揚もなければ切れ目もなく、どこまでもつづいてゆく男の話し方は、いわゆる説教調でないために、かえって真実味があり、聞き手を惹きつける奇妙な力を持っていた。部屋の左右に並んでいる女の人形たちは――落着いて眺め渡してみると、望洋荘のおかみさんや男の老人も一人まじっていたが――身をのりだして男を見凝め、その一言一言にコクリコクリ大きく肯いていた。その光景は、滑稽でもあれば、なんとなく淫靡でもあった。
「今日あたり、お見えになるだろうと思っていました……」
集会が終り、女達がそれぞれ、男と短い話をしたり挨拶をしたりして帰って行ったあと、男は泊っている二階の部屋に私を案内し、狭い部屋のほとんど半分を占領している電気炬燵の卓の上に置いた私の名刺を、改めて見ながら云った。しかし、なぜそう思っていたのかと訊ね返すと、それには直接答えず、自分はこの島に黙示教の布教のために来たのではないが、縁があって人びとに話をするようになったと云い、「縁とは、人間の業《わざ》ではなく、神の計り事です。あるいは、神の予定と申してよろしいでしょう」
私は苦笑したが反論はせず、それでは何のためにこの島に来たのか、と質問した。
「ごく個人的な興味からです」ひどく素直なあっさりした調子で、男は答えた。「この島には今でも相当数、隠れキリシタンの人達がいると聞いたものですから」
「隠れキリシタン?……いるのはいますがね。しかし、黙示教の教祖であるあなたが、なぜ?……」
いや、教祖ではない、と男は否定した。「教祖というのは新しい宗教の開祖のことですが、私は新しい宗教の開祖ではなく、劫初よりの神の預言について語っている者です。したがって、黙示教と名づけることすら好ましくないのですが、他の偽りの宗教、とくに、キリスト教と明確に区別するために、方便として用いているにすぎないのです」
狡猾な奴だな……と、私は思った。うまくはぐらかしたな、だが、胡麻化されはしないぞ。
「なるほど。ですが、あなたが神の預言とされている黙示録は、キリスト教の聖書のものでしょう?」
「贋真珠の首飾りのなかに、たまたま一粒だけ本物の真珠がまざっていたのです」なんとなく石のような感じのする灰色の動かない目で男はじっと私を見凝め、説教の時と同じ何の抑揚もないぼそぼそした調子でつづけた。「私は、黙示録のみを真の神の預言として認めるのです。そして黙示録にあるキリスト、即ち救世主というのは、十字架にかかったイエスという男のことではないのです。なぜなら、十字架にかかったイエスという男は、義にして裁く神に耐えられず、神は愛なりなどと勝手に神の姿をつくり変えた贋預言者にすぎないからです。彼の犯したもっとも大きな誤ちは、人間の尺度でもって、超越的存在である神を推測《はか》ったことです。そうではありませんか、もし神がほんとうに愛であるならば、たとえそれが人間の自由意志の結果であるにもせよ、見知らぬ男に道を教えてやろうとした幼女が凌辱されて殺されたり、母親が水銀汚染された魚を知らずに食べて、躰の自由がきかない不具の赤ん坊が生れたりするのを、どうして見過していられるのです。また、もし、そうした赤ん坊が、自分がどういう運命を与えられたかを知り得たとしたら、愛の神などというものは拒絶するでしょう。怒りの神、裁きの神こそを要求するでしょう。私は、この赤ん坊の味方です。そして真の神は、窮極において自らの手で義《ただ》しい裁きを行うことを知り給うゆえに、悪魔の跋扈《ばつこ》する世にも耐えていられるのです……」
「しかし、もし、神が、その裁きを行わない時はどうなるんです?」
いくらか焦り気味に、私は口を挟んだ。さきほどから私は、じっと私を見つめている石のような男の動かない目と、切れ目なくどこまでも果なくつづく呪文のような話し方とに、ある不安を覚えていた。それは聞き手を知らず知らず受け身にして、批判力を失わせる、一種の催眠術めいた力を持っている感じがしたからだ。
「神を信じるということは、神の義、義《ただ》しさを信じることです」即座に男は、しかし素っ気ない調子で答えた。「ですが、あなたは、べつに信仰を求めていらしたわけではないでしょう。求めていない人に私は、信仰の押し売りをする気はありません。お互いに不愉快な思いをするだけですから……」
「話を聞きに来ているおかみさん連中にしても、ほんとうに信仰を求めているのかどうかわかりませんよ」ようやく斬りこむきっかけを私は掴んだ。このことにはかなり確信があった。集会の終り近くで、男が八十島子爵未亡人の希望で、週の月水金の集会は八十島邸で開き、火木土は従来通りここで……と告げた時、部屋全体に少女歌劇の観客のような溜息が流れたからだ。またその時、部屋の隅で土瓶に魔法瓶の湯を注いでいた望洋荘のおかみさんが、不意を打たれたように一瞬手を止め、気丈にもそのまま湯を注ぎつづけたが、その手が震えているのを私は見逃さなかった。
「あなただってそれはわかっている筈だ。というより最初から承知の上で利用してるんじゃないかな。私についてのプライバシーまで八十島未亡人に喋ったりしているところをみると。それも方便だというわけですか」
男は狼狽もせず、腹も立てなかった。
「やっと、正直になりましたね」と、石のような目の奥でかすかにおかしそうな色をみせた。そしてまるで子供をなだめるような口調で、つづけた。
「あなたはね、思い違いをね、していらっしゃる。私はね、欲のない人間なのですよ。べつに何にも不自由していませんしね……」
生きている人間で、まったく欲のない人間などいないだろう、と私は云った。「欲がなきゃ、生きてゆけませんよ」
「ああ、通俗的な欲は、という意味です。そういう普通人間が抱いている欲望は、すべてウソの欲望だからです。そして誰でも、それがウソの欲望だということを無意識に感じているんです。で、その不安からますます欲望にしがみつくんです。八十島未亡人は次つぎに男を作り、ここのおかみさんは忙しく働くことに夢中になり、ね。しかし、だからといって不安が解消するわけじゃない。あなたは、私が色仕掛けであの人達を信者にしているように思っていらっしゃるが、それは違っていますよ。私はただ、あの人達の心の中にある、無意識の不安を指摘するだけなのです。そしてそれでも人間が神の計画の中に包まれている存在であることを悟らせて、安心を与えるのです。すると女性というのは素直ですからね。自分の心を見抜いて慰めてもらったと思い、相手に絶対的な信頼を抱くのです。絶対的な信頼というのは、女性の場合、たちまち恋愛感情に変る。逆なんですよ、つまり、順序が……」
「あなたもずいぶん正直に話される」私は皮肉に切り返した。「もっとも、八十島未亡人やここのおかみさんが、そんな不安を持っているとは私には思えませんけどね。健康ですよ、もっと」
「どんなに健康に見える人でも、それはそう見えるだけです」
私は、黙った。男の言葉の調子が、あまり自信に満ちていたからだった。それを押し返すほど、人間を知っているという自信が私にはなかった。が、そのまま黙りこむのも忌々しく、それではあなたが持っているウソの欲望ではないホントウの欲望とはなにか、と訊ねた。
男は、石のような目で私の目をじっと覗きこむようにして、それから答えた。
「私の欲望は、神の再臨です」
望洋荘から戻ると、私は本社に電話して、黙示教と灘真実という人物について問い合わせた。ひょっとするとあの男は前科者ではないか、という疑いを抱いたからだ。表情や声に感情をほとんど見せないにもかかわらず、どこか暗鬱さがあり、男の泊っている部屋に案内された時、「これは……こんな狭いところで……」と思わず云うと、「いや、刑務所よりはましですよ」と答えた口調に、妙な実感があったからだ。両手の甲に灸をすえた痕のような黒い引攣《ひきつ》れが幾つもあり、爪が奇型かと思われるほどいびつな形をしていたのも、不審に思われていた。
しかし、本社からの返事は、黙示教という宗教法人はない、灘真実という人物についても不明、という素っ気ないものだった。それでも私は諦めず、今度は、いわゆる大新聞の各本社の社会部に片っ端から電話をかけた。たとえニュース関係でないにしろ、他社に問い合わせるというのは、本社の連中の耳に入れば非難をうけかねないことだったが、この際、そんなことに構っていられなかった。あの男のことを思い返せば思い返すほど、いい加減向うのペースであしらわれたようで、まして女は……と、畑を荒らす狐の正体を暴いて、捕えなければならない気持に駆りたてられていた。
各社の返事も、本社の返事と似たりよったりだったが、ただK市にあるM新聞西部本社の男の反応だけは違っていた。黙示教というのは聞いたことがないが、戦前、黙示社という宗教団体があり、黙示録の終末預言を教理の中心にしている点で似通っている、その黙示社を主宰していた恩田徹の長男が、確かではないがそんな名だったように思う、と答えた。更に、恩田徹と黙示社について知りたければ、「無名の思想家」という本にある、と教えてくれた。
私はその晩、かなり遅くなってやって来たリエにも、あの男のことを問いただした。が、リエはひどく鬱陶しげな様子で、うちは知らん、姉さんがえろう信者になって話聞きに通うとるだけよ。一度だけ誘われて一緒に行ったばって……、と答えただけだった。それがどこまで本当なのか私にはわからなかったが、それ以上は訊ねなかった。私はリエが気にいっていたが、結婚する気持はなかったから、逢っていない時についてまでの干渉は避けていたからだ。どんなものでも永続性のある人間の感情などありはしない。しかし、こうしたリエとの関係がもっとも望ましい男女の関係なのだろうかと、リエが帰ったあと、暫く考えこんだ。
あの男の正体がわかったのは、数日後に届いた「無名の思想家」によってだった。M新聞の男のカンは正しく、ニューヘブンというアメリカに本部があるキリスト教から派生した新興宗教の日本支部の黙示社を主宰していた恩田徹の長男で、恩田真実が彼の本名であった。戦争中、義務兵役で北九州の歩兵師団に入隊したが、一週間後、「殺すなかれ」という聖書の教えに反するとして銃器返上を申し出たため、陸軍刑務所に送られ、のち転向して原隊に復帰し、その時、黙示社の教理批判の一文を父恩田徹に送り、治安維持法で検挙されて懲役刑をうけながらも敗戦まで非転向を貫いた恩田徹は死ぬまで長男と会おうとはしなかった、というのが、「無名の思想家」によって私が知り得た、あの男の過去の経歴だった。口絵写真の一枚に、十人ばかりの信者に囲まれた恩田徹の写真があったが、そのなかにまだ青年の彼もまじっていた。いが栗頭で、皆が笑っているなかにただひとり、なにか気遣わしげに眉を寄せたその顔は、いかにも先長い未来に怯えている少年めいた感じがあり、ちょっと見ただけではまったく別人のようだったが、暗鬱な眼と父親譲りの大きな鼻は、紛れもなくあの男のものだった。
なんという男だ……と、私は思わず呟いた。この色白の、弱々しい感じさえする顔が、奴の素顔なのだ。とても教祖という柄の顔ではない。まったく髪かたちとか髯とかで、簡単に人間は騙されるものだ。しかも一度転向して黙示社批判まで書いた男が、ぬけぬけとその黙示社の教義を布教しているのだ。それもこの本によれば、父親の恩田徹は敗戦後、不意に黙示録以外の聖書を否認しはじめ、そのためニューヘブン本部から除名されている。つまり、あの男は、ニューヘブンの教義から逸脱した戦後の黙示社の教義を、そっくりそのまま布教しているのだ。これはまるで、父親に短刀をつきつけた男が、父親の死体から盗みを働いているも同然ではないか……。
私は、灰のこぼれかかった煙草を灰皿にぐいと押しつけて、電話に手を伸ばした。今すぐあの男に会って詰らねばならぬ、という義憤めいた気持に駆られていた。
「先生はお出かけですと」素っ気なく、小学校一、二年くらいの甲高い女の子の声が答えた。望洋荘の孫娘らしかった。私は慌てて、どこへ出かけたのか、と訊ねた。ひと役果したとばかり、あっさり電話を切りかけた気配が受話器の奥に感じられたからだ。暫く答えがなく、それからいかにももっともらしい口振りの声が聞えた、うん……ちょっと歩いてくるって……。
外はかなり風が強かった。レインコートを着ずに出て来たことを私は後悔したが、そんなことに構っていられなかった。あの男とリエがどこかで一緒にいるのではないかという疑いを抱き、するとそれがほとんど確実なことだという気がしていたからだ。船が欠航になった場合は波止場の売店も休みだったし、休みでなくてももう閉まる時間だった。私は、私がかつてそうしたように待合室のコーヒースタンドの端の椅子にかけてさりげなくコーヒーを飲みながら、店が閉まる時間を待っているあの男の姿が見えるように思った。
しかし、待合室には人影はなかった。私の足音に売場のケースにシートをかけていたリエが振り返り、吃驚《びつくり》した表情をみせた。その表情のまま、目で訊ねかけた。私は拍子抜けし、ぶっきら棒にあの男がどこに居るか知らないかと訊ねた。急用のあっとたいね……。
リエは薄く唇を開けたまま、考える眼になったが、ふと思いついたように云った。
「ウマンナダレの方じゃなかかしらん、信者さん達とようお祈りに行きなはるて、姉さんから聞いたばって……」
ウマンナダレの展望台へ登る径は、かなり荒れていた。もともと熔岩流が海に流れこんで出来た断崖で、ごつごつした黒い熔岩が径のあちこちに突き出ているうえに、灌木の茂みでところどころ径が切れ、いかにもお役所仕事で作った観光名所のたたずまいをみせていた。登りながら私は、信者達の目の前で、あの男に過去をつきつけたらどうするだろうな、と考えた。しかし、果してあの男は信者達とここへ来ているかと径に目を配ってみたが、それらしい痕跡は見当らなかった。何度か立ち止って、耳をすませてもみたが、遥か下の方から断崖に打ち寄せる波音が、地鳴りのように聞えてくるほかは、何の気配もなかった。無駄骨かなとも思ったが、折角来て展望台まで登らずにひき返すのも心残りだった。まあ、あの男と信者達がいれば幸い、いなくても久し振りに、何ひとつ目をさえぎるもののない渺渺《びようびよう》とした東シナ海と、真下の黒々とした熔岩の岩場に波が見事な飛沫をあげている雄大な眺望を眺めるのも悪くないと、自分を納得させて登りつづけた。
広い展望台に着くと、海にはかなり濃いガスがかかっていた。私は、展望台の端の一枚板の低い腰掛けの端に、こちらに黒いレインコートの背をむけてかけているあの男を見出した。他には誰の姿もなかった。
ひどく意外な気がしたが、予め知っていたようにも思った。
男は、私の足音にも振りむかず、ガスのかかった海の方を見ていた。しかし、なぜともなく私には、その表情が見える気がした。
「追い着きましたよ、やっとあなたに」私は、男の背中に云った。「恩田真実というあなたの本名を知った時にね」
男の背中は、何の反応もみせなかった。まるで声がとどかなかったようだった。私はかすかな焦りを覚えた。いや、焦ってはいけない、と自分に云いきかせた。
私は煙草に火を点け、ゆっくり男の方へ近づいた。そのまま腰掛けの傍を通り過ぎて、展望台の端のコンクリートの柵のところまで行った。濃いガスの向うに、溶けかかったシャーベットのような陽が沈みかけていた。真下の海から絶えず吹きあげてくる、白いガスを含んだ風が寒かった。
「あんたは裏切り者だ」と私は、男の方は見ずに云った。「親父さんを裏切っただけじゃない、その親父さんが命を賭けて守りぬいた信仰も、この島の素朴な人びとも、みんな裏切ったんだ。なぜかといえば、あんたは何も信じちゃいないからだ。終末の時も、神も、もちろん新しい神の国もだ。それがあんたの正体だ」
しかし、男は相変らず答えなかった。黙んまり戦術をきめこんだ感じだった。焦らだって振りむいた私は、更にかっとなった。男は、笑っていた。両手をレインコートのポケットに突っこんだまま、大人が子供の悪戯を眺めるような寛大な眼つきで私を見ながら、妙な工合に口元をひん曲げて笑っていた。
私は怒りで躰が震えた。
「ねえ、支局長さんよ」宥《なだ》めるように男は云った。「待ってたんだ。永いあいだ、誰かそれに気づくのをね。だって、わざわざヒントまで作ってあるのに、誰も気づかないんじゃつまらないからね……。私が自分でつけた名前の灘《ナダ》ってのはね、スペイン語でナッシングという意味なんだよ。神なんてものを信じてた恩田徹は、神のみが絶対の真実だとね、考えたんだな。で、その神に与えられたのだからと、息子に真実《まさみ》なんて名前をつけてさ、その息子も馬鹿正直に、なんと二十すぎるまで神なんてものがあると信じて、そのためいろいろ苦労したんだな……」
男は突然、黒いレインコートのポケットから両手を出して、前に差し出した。「あんた、気づいてたかね、この両手の甲の模様。これは陸軍刑務所でね、拷問をうけた時の土産さ。だが、私が転向したのはそのせいじゃない。ある日、わかったんだな、神なんてものは存在しないってことが。でね、灘真実。面白くないかな、このジョークは……」
最後の一言だけひどく素直な声でいい、片手をあげて|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》のあたりをちょっと掻いた。
「遊びにしちゃ、罪が深すぎるな」私は男の手から目をそらせて云った。「あんたが来るまで、この島はきわめて日常的な穏やかな島だったんだ。まあ、漁区争いはよくあるが、それでも穏やかだったんだ。誰でも終末なんてことは考えずに、毎日よく働いて、夜はぐっすり眠ってたんだ。そういう健康な日常性というのが、私は好きだし、大事だとも思っているんだ。ところがあんたが来てから、おかしな工合になって来た。まったく、もし、終末なんてことを本気で考えだして、それが近いと信じたら、誰だってガスレンジを磨いたり、倹《つま》しく暮したりする気になるものか。夜だって、眠れなくなるのが当り前というもんだ……」
そりゃ違うな、と男は云った。「終末はね、誰の心の中にもあるんだ。ただ、それをそれと意識していないだけのことでね。だから健康にみえる人間でも、みんな不安を持っているんだ。終末は、人間のすべてをウソにしてしまうからね。私はそれを意識させてやっただけのことでね、私の罪じゃないな。むしろ啓蒙家としてね、感謝されていいくらいだ。第一、あんただって、本当に健康な日常性というのが好きなら、そして大事だと思うのならね、どうして結婚しないんだ。何年も一緒に寝てる女の子がいるのにね。病身な姉さんがいるなんてことは理由にはならないさ……」
それはあの子自身の気持なんだ、と私はぶっきら棒に答えた。それにこっちは前科持ちだしな。
いや、あんたが希んでいないのをあの娘が知ってるからさ、と男は軽く受け流して、「その理由は、あんたが、いつだか知らんが終末を見てしまったからさ、神のない終末を……」
「馬鹿な。そんな大袈裟な男じゃないよ。ただ、人生をおりてしまっただけさ……」云いながら私は、ふと、寝つけぬまま毎晩見上げていた病院のコンクリートの白い天井に走っていた太い亀裂のかたちを、はっきりと思い出していた。強いクレゾールの匂いのなかで眺めていたその亀裂は怖しかった……。
「うん、ただ、それだけのことだ。またかりに、あんたの云う終末とやらを見たとしても、他の人間にまで及ぼそうとは思わないよ。ところがあんたは、そうじゃない……そうだ、やっとわかった、あんたがなぜ愛の神を否定するかが。あんたは復讐してるんだ、世界に対して」
「私はただ、神が欲しいだけなんだ。たとえ、怒りの神でもね……」男は、ガスの濃い海の方へ真っ直ぐ顔を向けて云った。何か遠くのものを見定めようとするかのように深く眉根を寄せ、目を細めたその表情は、私が夜の町通りではじめて、彼を見かけた時と同じ表情だった。
「陸軍刑務所で服役中に私が転向したのはね、愛の神に絶望したからだ。治安維持法で検挙されて、天皇の神性を認めないという罪状で恩田徹と一緒に四年八ヵ月の懲役刑をうけた母親が、仙台刑務所で獄死したという知らせをうけたんだ。殉教といえば美しいがね、殺すなかれ≠ニいう聖書の教えにある心は、たとえ敵であろうと、人間の命がいかに大事なものかということじゃないか。とすれば、神がほんとうに愛の神であるならば、その神のために一人の人間が惨《むご》い死に方をしてゆくのを、なぜ見棄てておくのか。天国とかに早く迎えいれてやるためかね。それならはじめから人間なんぞ造らなければいい。人間の世界で生きている間だけが、人間は人間なんだからな。つまりお袋は、神に殺されたのだ、神は殺人者だ、ということに気づいたんだ。しかし、俺は神に殺されるのは嫌だ、と思った。生きてやろう……そう考えて、転向上申書を書いたんだ。そして原隊に戻って、今度はせっせと銃器磨きなどして模範兵になったりした。すごく生甲斐があったな、あの頃は。なにしろ、神を敵にまわしてたんだからな……」
眉根を深く寄せたまま男は、白いガスに閉ざされた海のどこかを見凝め、いつものぼそぼそした抑揚も切れ目もない調子で喋りつづけた。死人めいた表情の動かない顔の中で、黒い髯に囲まれた肉厚な唇だけが独立した生き物のように絶えず伸び縮みし、唇の端にねっとりした白い唾が溜まっていた。私はなんとなく、男がなにかに憑かれているような不気味な感じさえ覚えた。海から吹きあげて来る風がひどく寒かったが、男は私に話を遮るきっかけを与えなかった。
「敗戦後、俺は家には戻らなかったが、恩田徹が非転向を貫いて、刑務所から釈放されたということは嬉しかった。思わず、棄てた筈の神に感謝したい気持にさえなったよ。ところがそのあと、あんたも知ってるだろうが、恩田徹は黙示録以外の聖書を否認しはじめて、ニューヘブン本部から除名されてしまった……確かにね、恩田徹が異端者になったことは間違いない。しかし、刑務所にいた俺にはわかるが、まったく孤独で、自分の心の中だけであれこれ考えていると、人間はどんなものでも歪めてしまうんだ。人間の心の中には、恣意という毒がある。恩田徹は、刑務所の中で、時代への憤りから黙示録の裁く神だけを育ててしまったんだ。だが、彼が刑務所に入れられたのは、信仰を守ったからで、云いかえれば信仰を守ったために、信仰を裏切ったんだ。これはなにも恩田徹ひとりのことじゃない、古今東西ね、人間の歴史には沢山あることだ。たとえばこの島の隠れキリシタンたちもそうだ……」
この島へやって来たのは、隠れキリシタンへの個人的興味からだ、と彼が云っていたのを私は思い出した。が、私に口を挟む間を与えず、彼はつづけた。
「愛の神どころか、裁きの神もないんだと、はっきりわかったのはその時だよ。どう裁くんだね、神は、恩田徹や隠れキリシタンたちを。この島の隠れキリシタンたちが今も納戸に隠し祀って拝みつづけている納戸神、あんたも見たことがあるかも知らんが、無理に頼んで俺が見せてもらったのは、はははは、稚拙な絵なんてのはいい方でね、木切れとか、何の変哲もない石とか、はははは、女陰そっくりの貝殻まである始末だ。しかも知らないんだな、部落のほとんどは納戸神の神体が何か……」
「自分達が隠れキリシタンだということも知らない」私は、島の人びとが|隠れ《ヽヽ》と呼んで卑んでいる山奥や辺鄙な岬にある、戸数もごく寡《すくな》い部落を思い浮べながら云った。「元帳《ヽヽ》とか|ふる帳《ヽヽヽ》とか、そんな名で呼んでいるようだな、自分達の信仰組織のことを……」
「電話ごっこと同じさ。こそこそと次から次に耳打ちして信仰を伝えてゆくうちに、もう何が何やらわからなくなってしまったんだな、めいめいの恣意がまじってね。公然でないものには、かならずこの毒がまじってくるんだ。しかし……あんたが選択出来る状況のなかで、結婚しないことを選んだ、というのとは違って、恩田徹にしろ、隠れキリシタンにしろ、孤独な信仰に生きることを自分から希んだわけじゃないんだ……とすれば、彼等が心の中に異端の納戸神を育てたことは、神自身の責任じゃないか。いや、それこそが神というものがない証拠といえる。ナッシング、それが真実さ……」
「ナッシング、ということには賛成だが」
うんざりして私は、遮った。「あんたは喋りすぎるね。いくらどう喋ったって、ナッシングはナッシング、だ」
「だから、喋るのさ。わからないかな」彼は、にやりとした。「しかし、裁く神もないとわかってから、俺はまったく喋ることをやめて、というより喋ることがなくなってね。だって、敵としての神もなくなったんだからな、新しい神が見つからず……で、教祖ごっこを思いついた時は、とても面白かったよ。みんな神妙な、有難そうな顔をして聴いててくれるからね。ただ……ちょっと、飽き飽きしてきたんだ、もう。そろそろ商売変えしようかと考えてたのさ、さっき、あんたが来る前にね……」
商売変えは結構だが、何に商売変えするつもりか、と私は訊ねた。
「それなんだな、問題は……」と彼は、ひどくのびやかな微笑を浮べて答えた。「なにかねえ、もう黙って、一日中メトロノームの音かなにか聞いていたい気がねえ、するんだ……」
その言葉の意味がわかったのは、ほんの直後だった。陽が沈んでしまったな、そろそろ戻るか……、と呟いて、彼は立ちあがった。私は、展望台の端へ行って、小便した。それから振り返ると、彼の姿はもうなかった……。
彼の突然の失踪後――私は、ウマンナダレでの出来事を誰にも語らなかったし、東シナ海も彼の躰を島に返しはしなかった――、島の生活はまた元に戻った。もう誰も、終末のことなど口にしないし、望洋荘のおかみさんもお化粧をやめて、嫁の悪口を云い云い毎日忙しく働いている。もっとも、私の家へはもう来ていない。リエの病身な姉の家の家事手伝いに行き、私の家の家事はリエがしている。つまり、私はリエと結婚したのだ。子爵未亡人については、このところ暫く、新子爵≠ヘあらわれないが、そのかわり未亡人は、過去のあまたの男性遍歴を小説に書くことを思いたち、熱心に書いては東京へ送っているそうである。そのうち、元子爵夫人の華麗な生涯とかのキャッチフレーズつきで、本になるかも知れない。佐多も、自己流幸福論を人前でブツというようなことはしなくなった。その必要がなくなったからだ。十二月に、彼の妻にはじめての子供が生れる。昨日、沖干しのカマスを持って久しぶりに支局にあらわれたアカコボスにその話をすると、へええ……と露骨に指を折って数えてみてから、まさか、あん男の種じゃあるまいなあと大きな声で云ったが、結構、よろこんでやってはいるようだった。アカコボス自身は、相変らず小まめに人の面倒をみて、今日は何票とったと町長選挙にうって出るための票読みをしながら、舅の死ぬのを待っているが、私のみるところでは、なまじインテリ化して、しかも旧家の婿養子でいろいろストレスが多いらしい彼よりは、海で鍛えられ、物心ともに安定した毎日を過している舅のほうが、はるかに永持ちするのではないか、とも思われる。
しかし、そうした日常の中で、突然、あの男のことを思い出すことがある。その度に、ひとつの疑念が私の心に萌すのだ。あの男を殺したのは、一体、誰なのだろうか……と。それが神であってくれれば、どんなにか私は楽だろう。またすでにひとつの物体に変って、東シナ海のどこかに沈んでいるあの男自身にも。
お彼岸が過ぎても暑かこつねえ、とリエが云う。リエの心の中には、あの男のことも終末のことも、もうないのだろうか。
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遊園地暮景
三月なかばの午後を過ぎた力ない陽射しが、海岸の埋立地にあるヘルスセンター前の広場にあたっていた。
中央に、人工の土地と季節とに葉色を奪われたビンロー樹が立っていたが、広場にも、周囲のベンチにも、人影はなかった。古びた格納庫めいた建物の背後にある遊園地から、ウェスタンミュージックが、子供の時間への郷愁を駆り立てるように流れてきていた。
うすい橙色の陽射しのなかに、かすかに泥臭い海の匂いがまじっていた。
その時、広場のむこうから、玩具めいた青いタクシーが一台走って来た。砂埃をあげて広場を廻り、建物の入口前で止った。
建物の片隅にある、大きなガラスの水槽に似た入場券売場の中に人形のように並び、退屈しきっていた売子の娘たちは、一斉に好奇心に満ちた眼差しをむけた。日の短いこの季節に、週日の午後を過ぎてから、タクシーで、この古びたヘルスセンターにやって来る客は珍しかった。週日の利用客は、国鉄の駅からの連絡バスで昼頃までにやって来る、五、六人から十二、三人の小団体客がほとんどで、午後の演芸時間が終るとつぎつぎに引揚げてゆく。
車から最初におりたのは、真赤なダッフルコートを着た、十三、四の少女だった。おりるとすぐ少女は、両手をコートのポケットにつっこみ、気難しい小動物のような顔つきであたりを見廻した。齢にもコートにも不似合な黒エナメルの踵の高い靴と、揃いの華奢なショルダーバッグが、陽射しに鮮やかに光っていた。
ちょっと間をおいて、ずんぐりした躰つきの、中年過ぎた男が、車のドアの蔭から姿を見せた。手擦れのした皮財布をオーバーのポケットにしまいながら、探るような目つきで、少女の生気のないくすんだ顔を眺めたが、不意にせかせかした様子になって、慌ただしく目で入場券売場を探し、そちらへ歩きだした。追われつづけている者のような疲れが、古びたオーバーの肩先にみえた。
男は、真っすぐ売場の窓口に近づくと、気ぜわしさを押しつけるような口調で、二枚、と短く云った。売子の娘が釣銭の紙幣を数えているあいだも、苛ら苛らと躰をゆすって露骨にせきたてながら、車からおりたままの場所につっ立っている少女の方を、何度も見やった。まるで少しでも離れていると、たちまち攫《さら》われそうな危惧に駆られているようだった。
改札口を通って建物の中に入ると、暖かすぎるほどの温風が、天井からつよく吹きつけていた。
男は、はじめてほっと安堵した目色になって、後の少女を見返った。
「あったかいわね」と、素早く少女は云った。
「うん」男は、入口から一直線の通路を眺めた。
「いろんなお店もあるよ」また素早く少女は云った。しかし、ここにも人影はほとんどなく、祭の名残りのように青いフェルトの敷物のあちこちに、吐き捨てられたガムが黒いしみになっていた。
「時間は、まだたっぷりあるからね」男は通路の長さを測るように見やり、ふたたび危惧に躓《つまず》いた目色で、云った。「ゆっくり、見物して行こう」
少女は、ちらと男の顔を見てから、「だいじょうぶよ。かえって調子いいくらい」と云った。「ほんとうよ」
「そうかい」男は、ひどく優しく答えた。目に、傷に似た笑いが浮んでいた。
通路の両側の店は、どの店も似たような安物のみやげもの店ばかりだった。男と少女は後先になって、それまでの気忙しさとはうって変った、ぶらぶらと縁日をひやかすような様子で歩いて行った。時折、少女は足を止めて、店先の品物に見入った。男はすぐ気づいて、そのたびに後戻り、何か欲しい物があるのか、と少女にたずねた。が、きまって少女は、はにかんだ微笑で、頭をふった。ううん、なんにも。
「なんでも買っていいよ、欲しい物は。お金はあるから……」男は、せきこんだ手つきでオーバーのポケットから財布をとり出しかけたが、少女は更に大きく頭をふり、男を置いて、すっと歩きだした。
女親だったら、と男は、玩具めいた品が雑然と並んでいる店先を眺めて、思った。女の子がどんな物を欲しがるかわかるだろうに……。それとも、心臓の工合が悪いのだろうか。男は目を、離れて行く赤いダッフルコートの後姿に移した。五つの時に熱病を患い、回復はしたものの心臓に決定的な損傷をうけて、よくて数年生きられたら、と医者に云われた少女だった。
「ねええ」男の眼差しを感じとったように不意に少女は振り返り、五、六歩先から弾んだ声で云った。「駅のところで、蛤を売ってたでしょ。あれ、帰りに買ってって今晩のおかずにしない?」
「いいね」と、男は答えた。「今頃がいちばん美味しい季節だからね」
少女は、得意げに大きく肯いた。
「それから、あとで遊園地に出てもいい? あたし、ゴーカートに乗りたいな」
「出てもいいけど、やめたほうがいいね、ゴーカートは。その靴じゃ危いよ」
「そうか」思案らしく少女は、自分の足もとを見た。「じゃ、靴脱いで乗るよ」
男は、笑った。「やっぱり早すぎたね、そういう靴は。パパの失敗だね」
「ううん」と少女は、頭をふった。「一度こういう踵の高い靴、はきたかったの」
男は、不意をつかれたように一瞬黙り、それから、「うん」と、短く答えた。
男は十年近く、少女と二人きりで暮していた。医者の意見で就学をとりやめた少女にとって、男はただひとりの家族であると同時に、ただひとりの友達であり、教師であった。少女は、男そっくりの字を書き、男から覚えた仕草や話し方をした。顔立ちと、敏感で勝気な性格だけが、母親譲りだった。少女の母親は、苦労知らずの育ちにしては愚痴や不平のすくない女だった。しかし、気温や気圧の微妙な変化でも激しい呼吸困難の発作を起して苦しむ、希望のない幼い命を持ち耐《こた》えることに疲れてか、ある日ふいと、家を出て行った。あとで男は、男が勤めに出た留守に、新興宗教の布教師の男が、足繁く訪ねて来ていたことを知った。
男は、妻を責めはしなかった。関わりのない人間にしか語れぬ絶望もある。それを利用した人間がいただけのことだった。しかし、編みかけたまま縁側に置き捨てられていた小さな赤いセーターに、憤りを覚えた。男は、勤めをやめた。郊外の家を売り払い、市街地の大学病院の近くにある分譲アパートに移り住んだ。そして昔の友人の手蔓で、やっつけ仕事の翻訳の下請けをしながら、少女のいのちを一日一日、いや、一分一分、それを奪おうとしているものからかすめとる不逞な賭をはじめた。
その賭に、これまでのところ、男は勝ちつづけていた。発作によく利く新薬が出来たこともあろうが、一時はひねこびた老婆のようだった少女の顔に、稚い明るさが見られるようになり、人並の生活は出来ないながら、医学が予想した限界をいつの間にか越えて成長し、女としての成熟のしるしさえ順当にみていたのだから。
しかし男は、少女が娘らしい成長をみせればみせるほど、自分がイカサマをしていて、しかも賭金がどんどんふえているような心地になった。ひょっとすると、自分が賭を挑んだ相手は、それを知っていながら、ただ騙《だま》されているふりをしているだけではないか、とも疑った。が、その一方で、イカサマだろうとなんだろうと、賭けつづけることだけが大事なのだ、と信じようとした。
毎年、春から秋過ぎるまでのあいだ、男はしばしば、少女と短い旅に出た。適当な運動が心臓の機能回復に役立つと、医者からすすめられていたためもあったが、旅に出ているあいだは、姿の見えない相手から逃れられるように思われたのだ。少女も列車が街から離れると、ほっと和んだ表情をみせた。そしてすぐ、血色のうすい頬を窓枠に押しつけて、うとうと眠りはじめた。男は、旅行鞄から本とザラ紙をとり出して翻訳にとりかかり、時折、泥人形めいた少女の寝顔を眺めやりながら、生きることに獣のようにふてぶてしくなっている自分を感じた。
秋につづく冬は、忌わしく、永い季節だった。男は日に何度となく家中の寒暖計を見廻り、室温を二十度に保った住居に、少女はほとんど籠りきりで暮したが、毎日のように呼吸困難の発作に襲われた。何の前触れもなく、突然、息が吸えなくなり、チアノーゼ反応を起した唇を瀕死の金魚のように喘がせた。激しい時は呻きながら冷汗を流し、大きく見ひらいたままの目尻から涙が伝った。とくに寒冷前線が通過する前は発作が起りやすく、日に、三度四度と起ることも、稀でなかった。少女はその発作を、出来るかぎり男の目から隠し、頑固なほど自分ひとりで耐えようとしたが、発作の多い日が何日もつづくと、根こぎにされた草のように日一日と、気力が萎えてゆくのが、言葉より確かに目色にあらわれていた。最初の頃はよく利いていた発作をしずめる新薬も、いつの間にかあまり利き目をみせなくなっていた。
ある晩、夜中に男が目を覚ますと、薄赤い豆電球のあかりのなかに、隣の床の少女が上半身を起し、短く殺した呻き声を洩らしていた。冷汗に濡れた、水からひきあげた石のような顔に、寝乱れた長い髪が幾筋かはりついていた。
思わず声をかけようとし、それを男は抑えた。
唇と肩を大きく喘がせながら、じっと前を見つめている少女の目が、ひどく大人びて、厳しかった。
刻むような時間が、過ぎた。不意に少女はしゃくりあげるように深い息をつき、パジャマの袖で額を横ぬぐいした。ようやく発作がおさまったらしかった。少女は疲れ果てた様子で薄い瞼をおとし、もう一度深い息をついてから、ひっそりと床に横になった。
男はそっと、抑えていた息を吐いた。
「おきてたの」くぐもった声で、少女が云った。
「うん」と、男は答えた。
暫く黙っていてから、静かすぎる低い声で少女は云った。「あたし、もう駄目な気がする」
男は一瞬、どんな言葉も少女に届かない気がした。
しかしすぐ、科白《せりふ》を忘れた役者のように慌ただしく言葉を探しながら、「何度もそう思ったさ、パパだって……」と、云った。「そうさ、まだとても小さかった頃にね。だけど、駄目じゃなかったろ。それは子供だったから、苦しくても諦めたりなんかしなかったからだよ。それに医学は毎日進歩してるからね、頑張ってれば、もっといいお薬が、明日、出来るかも知れない……出来るとも。たたかうことが大事なんだよ。どこまでもたたかうんだ……」
「たたかう、って、なんのために」
「生きるためさ」即座に答えて、だが、なんのために生きるのか、と重ねて訊ねられたら自分には答えることが出来ない、と男は思った。
しかし、少女は黙っていた。
「もう、ひといきだよ。暖かになりさえすれば、調子が良くなるさ」男はつづけた。「今年は春が早いようだから、来月の末には、九州ではぼつぼつ、桜が咲きはじめるんじゃないかな。そうしたらまた、旅行に行こう。長崎でも、鹿児島でも、どこかあったかいところへ。九州にもう一度行きたいって云ってたろ……」
「うん。天草でお魚釣りしたの、とっても面白かった。アジコが沢山釣れて……。クジラがかかったってパパが騒いで、糸をあげてみたら、ちっちゃなフグの子だった……躰の調子もとても良かったし、海の色が濃くて、綺麗だった……」
「ああ、綺麗だったね」
「あたし、もう一度、あんな海でお魚釣りしたい……」
「いくらでも出来るさ、あと、ひと月ぐらい辛抱すれば」
少女は、また黙った。
ビルの間を吹き抜ける風の音が、嵐の日の潮騒のように聞えた。
「そうね」やや経って少女は答え、また暫く間をおいて、云った。「倖せになってね、パパ」
その翌日から、寒波が来た。毎日、男と少女が待ちかねて見る、テレビの夕方の天気予報では、いかにも信頼出来そうな実直な感じの気象協会の職員が、寒気は二、三日中に遠のくでしょう、という託宣を告げたが、月を越しても平均気温を下廻る日が続いた。少女はもう、新しい本にもゲーム遊びにも興味を示さず、一日中、とりとめない会話を男と交して過した。
ある日男は、商業カタログの翻訳原稿を届けに行く途中、通りかかった駅の構内で、ふと、呼び止められた感じがして立止った。
切符売場とコインロッカーの間の煤けた壁に、安っぽい色彩とデザインのポスターがあった。『温泉遊園地・××ヘルスセンター』
男の左右を急ぎ足の人びとが川のように往き交い、慌ただしくぶつかって来て、舌打ちしてゆく者もいた。しかし男は、誇大広告に違いない丈高い椰子の木や、ジェットコースターなどが描かれているポスターから、目を離すことが出来なかった。不意に、思いがけぬ味方を見出した気がした。近郊にあるそのヘルスセンターが、下町や農村客の多い、わかし湯の大衆温泉にすぎぬことを男は知っていた。しかしそこには、猥雑な活気があるに違いなかった。また、擬《まが》いものにしろ春の季節があると思われた。そしてもう、そうしたいかがわしいものにしか、生を断念してしまったいのちを、この世にひきとどめる力がないように感じられた。
「こっちが大浴場で、こっちが大広間と食堂」入口から一直線の通路のはずれに立止って、少女は標示板を見上げて云った。そこから通路が、左右に分れていた。
「うん」と答えて、男はゆっくり左右を眺めた。しかし、眺めるまでもなく、人気がなくがらんとしていることはわかっていた。
大広間の方角からレコードらしい民謡が聞え、縁日のような食物の匂いが流れてきていたが、ただそれだけで、ひっそり空気が沈んでいた。
合成樹脂のモザイク壁と、広いガラス窓にはさまれた通路の青い敷物の上に、午後の陽射しが、かっきりと四角くおちていた。
不意に、激しい徒労感が男をとらえた。
通路の奥のどこかで、パタンと乱暴にドアが閉る音がした。
「あたし、おなかへった。何か食べたいな」唐突に少女は、男を見上げて云った。我儘一杯の甘えた娘の口調だった。
「あっちで、おいしそうな匂いがしてるよ」
「うん」
「焼そばか、あったかいおでんがあるといいな」
「わからないが」と、男は云った。「ともかく何か食べよう」
「うん」少女は顎をしゃくって大きく肯き、先に立って大広間の方へ歩きだした。
男は方途なくあとにつづきながら、奇蹟を念じるように思った、焼そばかあったかいおでんがあってくれ……。
大広間は、薄暗かった。正面の明るい舞台で、造花の藤の花を手にした御殿女中風の振袖姿の女たちが、ひとりの若衆姿をとりまいて派手やかに踊っていた。が、幾列もの長い座卓のあちこちにひとかたまりずつになって、一斉に舞台に顔をむけている広間の客たちは、なぜか生きた人間の気配がなく、切抜きの紙人形が並んでいるようだった。
周囲の食物店も、ただ明るいだけで、書割り同然に閑散としていた。廊下からの出入口のすぐ傍にある焼そば屋では、もう火を消した鉄板の上の冷えた焼そばの山を前に、給食婦然とした五十女の売子が、不貞《ふて》腐れ顔で売り台に頬杖をつき、舞台を眺めていた。おでん屋もどこかにあるらしかったが、ただ生ぬるい匂いがただよっているだけだった。
仕方なく男は、舞台に目を戻した。
踏切の停止信号に似た表情で忙しく点滅を繰返しながら流れている、赤と黄のネオンに縁どられた舞台で、金銀の舞台衣裳を寒々しくきらめかせて、あやつり人形のように若衆姿が、女たちのあいだを縫い踊っていた。舞台の袖から流れているレコードだけが、賑やかに囃したてた、エーサ、サエサエ、サエコノヨイヨイ……。
少女も仕方なげに、黙ったままつっ立っていた。男の思いを先取りし、とり繕いようもなくなった表情だった。
いたたまれない恥ずかしさに、男は襲われた。サエサエ、サエコノ……と、口の中で呟いた。
広間の隅の座卓の前にすわり、習慣的に煙草をとり出しかけて、目の前の、縁がひずんだ古びたアルミの灰皿の傍に、赤や緑の揚げ豆が散らばっているのに気づいた途端、男は底のない暗い穴に沈んでゆくような重い疲れを覚えた。おれも齢をとったな、と男は、焼そばを買っている少女の後姿に目をやって思った。望遠鏡を逆さにのぞいたように、少女の姿が遠く見えた。
一日一日、ただ目の前の些細な事柄に心をとられて、自分が齢をとっていることに男は気づかずにいた。しかし、稚かった少女と二人で暮しはじめた頃、昼間は馴れぬ繁雑な家事と少女の遊び相手をして過し、夜は夜で、少女とテレビを見たり、風呂の世話をしたりして、少女を寝かせつけてから翻訳の仕事にとりかかった。仕事の多くは、待ったなしの期限を限られた外国テレビ映画の台本の翻訳で、徹夜を重ねることも多かったが、さほど疲れを覚えなかった。むしろ徹夜をしたあとの幾何《いくばく》かの肉体的疲労は、少女のいのちを償いとる保証を得たかのような満足感すら、覚えさせた。それが最近では、すこし無理をするとすぐに肩が凝り、疲れが二日も三日もとれなかった。老眼鏡も必要になり、眠るためにアルコールや睡眠薬の助けを借りるようになっていた。また時折、理由もなく襲う激しい頭痛を、市販の鎮痛薬で胡麻化していた。
たった十年足らずでも、と男は、頼りなく軽いアルミの灰皿を手元にひき寄せながら、明るいような暗いような気持で思った。下り坂は早いものだな……。
「おでんも買ったの」
すぐ前で、少女の声がした。
薄暗がりの中に、発泡スチロールの小さな皿を、両手の上にひとつずつ載せた少女が、ほとんど咎めるような目つきで、男を真っすぐ見つめて立っていた。
「うん。よかったね」男は、目を灰皿におとして答え、右手に持っていたマッチの燃え殻をぼんやり捨てた。
「どっち、食べる?」立ったまま少女は、相変らず真っすぐ男を見つめたままたずねた。「おでんのほうがあったかいけど……」
どっちでもいい、と男は答えた。
少女はふっと気配を沈ませて、何も云わずに二つの皿を座卓の上に置いた。のろのろとダッフルコートを脱ぎ、男の向い側に横ずわりした。しかし、男と目をあわせることを怖れるように暫く舞台の方を見ていたが、気をとりなおしたように男を見返って、云った。「疲れて、また、肩こってるの?」
男は、無意識に、左手で右の肩を揉んでいたのに気づいた。いや、たいしたことはないと弁解するように答え、肩から手を離したが、頭がなんとなく重かった。やはり、肩が凝っているせいかも知れない、と思った。
「仕事のしすぎよ、きっと」少女は断定するように強く云い、「ゆっくり温泉に入って、マッサージしてもらってきたら? きっと楽になってせいせいするよ」
「うん……」気乗りのしないぼんやりした口調で男は答え、同じ調子でつづけた。「遊園地に出るんじゃないのかい」
あとで、と少女は云った。ここでひと休みしてから。久しぶりに外に出たから、なんだかすこしくたびれたみたい。だからそのあいだに、温泉に入ってきたらいいよ。
「だけど、退屈しないかい、ひとりで」
「ううん。踊りを見てるもの」少女は舞台の方へ、目をやった。
「そうか。じゃ、そうするかな」
「うん。それがいいよ。いないあいだに焼そばもおでんも、みんななくなっちゃうかも知れないけど」
「それが狙いか」ようやく男は、笑いのまじった声で云った。「まあ、いいさ。だが、あとで忘れずにお昼のお薬を飲むんだよ」
「いいから、パパ」
浴場への通路には、相変らず人影がなかった。青い敷物を四角く区切っている窓からの陽射しを踏んで歩いて行きながら、そうだ、ひとりになりたかったのだ、と男は思った。無理の多い生活の疲れよりも、死の影によって精神の成熟をはやめ、間近かな死の気配を確実に感じとって、ひそかにもう死への纜《ともづな》を解いていながら、それを遊びにするかのように生きつづけるふりをしているいのちと、昼も夜も向きあっていることに耐えられなくなっている自分を感じた。賭けていたのは自分ではなかったと、うたれるように悟らされていた。
『精力増進にドリンク剤を!!』黄色い紙に達筆の毛筆で書かれた広告がさがっている売店の前を通路のままに曲ると、病院の待合室めいた殺風景な小ホールがあり、古びたビニール張りの長椅子のひとつに、野暮くさい外出着の上に揃いの盲縞の半被を着た五十女が四、五人、押しあうように大きな尻を据えて、狎《な》れあった猥褻な響きの笑い声をたてていた。入るかぎり土産物をつめこんだ紙の手提袋を、競うように膝の上や足もとに置き、一様に太い金指輪をはめた手に、ドリンク剤の小瓶を持っていた。
十年も二十年も生きつづけるだろう、この女どもは! 締め殺したいほどの思いが、男の喉もとに衝きあげた。しかし、女達は男には目もくれず、なお笑いつづけていた。
荒い感情を喉もとで堰《せ》きとめ、急ぎ足に女達の傍を通り抜けながら、揃いの半被の衿に染めぬかれた文字を目にした途端、男は更に嫌なものを見てしまったように、顔をそむけた。新興宗教の一派らしい団体名が、去った妻のことを思い出させたのだった。男は少女に、母親が家を去ったのは、心が弱かったためだと説明していた。パパとの未来が信じられなかったんだ。少女はそれ以上、母親については一言もたずねなかったが、少女の齢に似合わぬ気丈さのなかに、母親の責めまでを負っている気配を、男は感じていた。どうせ真実を隠すのなら、むしろ、母親は死んでしまったことにしておいたほうが、少女には倖せだったのではなかったろうか。だが、それもみんな過ぎてしまったことだった。
通路が、行き止りになっていた。右手に階段があったが、二階に浴場がある筈はなく、どこかで浴場への標識を見落したらしかった。男は、後戻った。後戻りながら、「あたしがいなくなったら、どうする?」と何年か前、少女が不意にたずねたことを思い出した。さあね、考えたことがないね、と男は答えた。パパの方が先に死ぬさ、ずっと年寄りだからね。でも、もし先にあたしが死んだら? しつこく少女はたずねた。考えてみてよ、いま。そうだね、お葬式をする。それから。御飯を食べる、お葬式をしたらおなかがへるからね。それから。お酒も飲むだろうね。それから。眠くなって寝てしまう。それから。夢をみるさ、毎晩毎晩……いろんな夢をみる。昔、好きだった女の人の夢や、学校の試験の夢や、死んだお祖母さんに叱られてる夢や、意地悪な友達の夢や、それからおまえが赤ん坊だった頃の夢や、旅行した時の夢や、これまでのことをみんな夢にみるから、忙しくっておちおち眠っていられないくらいさ。
それにどう少女が答えたか、男は覚えていない。多分、少女は笑い、話は打ちきりになってしまったのだろう。だが、そうした語らいの時こそが夢だったのだ、と男は思った。死は常に間近かにあったものの、まだ言葉にし得るものだった。そして危険な遊びに似ていつまでも続けられる、と思っていたのだった。
浴場の脱衣室は、空気が冷えきっていた。古びたロッカーにとり囲まれた倉庫のような板の間で、陽に焼けた痩せた裸の老人がひとり、まるで罰でもうけているような孤独な様子で、黙々とロッカーから衣類をとり出して身につけていた。
男は老人に背をむけ、手近かなロッカーの戸を開けた。自分には耐えられるだろうか、と考えた。すると息苦しくなった。こうなるまえに、まだ稚かった子供と一緒に死を選んでいたらどんなに楽だったろう、と男は思った。あの頃、稚い娘は発作が起ると床を転げ廻って苦しみ、男の躰を小さな拳でぶったり、時には手に噛みつきさえした。「倖せになってね、パパ」などと、云いはしなかった。
もしかすると自分はあの時、やはり去って行った妻を憎んでいたのかも知れない、と男は思った。憎しみと憤りとを区別するのは難しい。ひやりとした空気の冷たさを、衣服を脱いでしまった躰に、あらためて感じた。
ペンキがあらかた剥げおちた浴場へのドアを押すと、濃い霧のように白く一面に湯気がこめていた。が、温泉らしいやわらかな湯の匂いも、のびやかな人声もなく、目地が黒ずんだタイルの床にもぬくもりがなかった。ただ広いことだけは広いらしく、床から天井まで隙間なく充たしている湯気のずっと奥の方で、水音がしていた。
暫くつっ立っていた男は、やむなく義務を果すように、三角の山に積まれているプラスチックの湯桶のひとつを取り、湯気の中へ入って行った。湯気が濃いわりに足もとの方は見通しがよく、そこここに使い捨てられた湯桶が、空虚な表情で散らばっていた。
すこし行くと、瓢箪型の薄緑色の浴槽があったが、そこにも人影はなく、水音は更に奥の方でしていた。男はなぜともなく、水音の方へ近づいて行った。
突然、周囲が明るくなった。思いがけず浴場はそこから円形にひろがっていて、壁が磨硝子に変っていた。磨硝子の外は狭い中庭になっているらしく、上の三分の一ほどに陽があたっていた。中央に周囲と平行した大きな円形の浴槽があり、絹漉しのような明るい湯気のむこうに四つ五つ、裸の人影が動いていた。
男は立止り、湯桶を傍のカランの前に置いた。
磨硝子越しのかすかな陽のぬくもりと、水音だけの静謐《せいひつ》さが男の心を和ませた。ここまで来てよかったな、と男は思った。
浴槽の湯はいくらかぬる加減だったが、どこからか湧き出ているらしく透明で、肩まで身を沈めると、重荷を一度におろしたようなこころよい痺れを、頭の芯に覚えた。久しぶりにゆっくり疲れをとろう、と男は目を閉じて、自分に呟いた。何も考えずにゆっくりしよう、ともかく、これ以上、もう何も出来はしない……。
「生れるに時があり、死ぬるに時があり、人の労苦は皆、空なるものさ」不意に野太い声が、天井に反響して落ちかかってきた。ぎくりと男は目をひらいた。自分に云われたように思ったのだった。
やや離れた濃い湯気の中に頭が二つ、いくらか間隔をおいて浮んでいた。近い方のむこう向きの頭は、海坊主のような五分刈の並はずれて大きい頭で、それより遠いもうひとつは、顔立ちは朧ろながら色白の横顔だった。野太い声はむこう向きの海坊主のものらしく、色白の横顔の方から口ごもるように何かたずね返すらしい声が、聞えた。
「すべて、無意味さ」
断ち切るようにふたたび野太い声が云い、同時に乱暴な湯音をたてて、赤く染まった肉づきのいい背中が湯槽の中からたちあらわれ、大きな波が男の方へ押し寄せて来た。思わず躰をすこし浮かして波をよけながら、男は目の前の赤壁のような背中に、右肩から袈裟がけに、醜くひきつれた大きな濃い傷痕が走っているのを見た。
「空の空、空の空、いっさいは空なるかな……」野太い声と共に、大きな傷痕のある背中は、傍若無人な波をたてながら浴槽からたちのぼっている湯気の奥へ移動して行き、やがて見えなくなったあたりから、流し場へあがる水音と波紋が伝わって来た。つづけて痰をかっと吐き捨てる音がした。
エセ教祖か……、男は目を閉じた。くだらない、御託宣はみんな、旧約聖書の伝道の書の盗用じゃないか。あれで商売になるのなら、結構なことだ。言葉だけならいくらでも自分は知っている、聖書だろうとシェークスピアだろうと。鉛板が張りついているような重い右肩に、左手を廻して強く揉みながら、男は安い下請けの翻訳料を稼ぐために、何度も屈辱的な苦い思いを味わったことを思った。
「そののち、銀のひもは切れ、金の皿は砕け」男は口の中で呟いた。こんな言葉を覚えたのも、少女との生活を支えるためだった。それがいま、まさしく空になろうとしている。「水がめは泉のかたわらで破れ、車は井戸のかたわらで砕ける。ちりは、もとのように土に帰り、霊は……」
不意に、手が止った。そうだ、稚い娘のいのちをこの世にひきとどめる賭をはじめた時、先のことを思いはしなかった。ただ、一日一日をかすめとって、それが十年あまりつづいただけのことなのだ。そしてまだ、今がある。今が与えられている。男は目をひらき、肩から手を離した。広間にいる少女のもとに早く戻らなければならないと、急に気がせく思いになった。
男はそそくさと浴槽からあがりながら、カランの水音がしている浴場の奥を、ふと見返った。が、上の方だけ陽が明るく粒子を透かしている白い湯気が、ゆるやかに渦巻いているだけだった。
海からの風の冷い遊園地は、まだ冬枯れのままだった。
平坦な埋立地のむこうに傾いた夕陽が、枯れた芝地を淡く染めていたが、怪獣めいたさまざまな遊戯機械は無表情にうずくまり、さきほどまで賑やかに聞えていたウェスタンミュージックも絶えていた。
遠い遊園地のはずれにある観覧風車だけが、ゆるやかに廻っていた。
「もう、終ったのかしら」
出て来た建物の入口の石段の上に立止って、少女は未練気に呟き、人影のない遊園地を見やった。うすくひらいた唇の上の短いうぶ毛が、金色に光って風にふるえていた。
「どっちにしろ、ゴーカートはないようだな」日がまだ短いことを忘れていた迂闊さを悔いながら、男はさっぱりした口調で云った。「明日、天気が良かったら、他の遊園地に行くさ」
「うん」と少女は答えたが、なんとなく心残りげに遠い観覧風車を眺めていた。
男は、あたりを見廻した。急に湯冷えしてきたらしく、背筋がひどくぞくぞくしていたが、何かひとつ、少女に楽しいことを見つけてやりたかった。浴場から広間へ戻って来た時、ショウが終って明るくなり、まばらに客が残っているだけの広間の隅に、置き忘れられた荷物のようにぽつんとすわっていた少女の、虚ろな暗い表情が心に残っていた。
しかし、傾いた淡い陽射しのなかに無表情にうずくまっていると見える遊戯機械も、注意深く眺めてみると、どれもが、少女の病んだ心臓にとどめの一撃を与えようと待ち構えている、陰険な獣のように見えた。だが、帰りを促すきっかけを、男はすでに失っていた。
と、傍の大きな看板に気づいた。あまり大きすぎてそれまで目に入らなかったのだが、看板いっぱいにアーチを描いている虹の中に、派手な金文字で、『アラビヤンナイト館』と書かれていた。虹の下には、玉葱型の屋根の建物が並んでいる通俗的なお伽話風のアラビヤの町と、その前を流れている川を、少年と少女がモーターボート風の舟に乗って行く絵が描かれ、『総工費五億八千万円、コンピューターシステムによるお伽の国、堂々完成』とキャッチフレーズがついていた。
「子供騙しだろうけど」と男は云った。「まあ、開店祝に入ってみようじゃないか。だけど、寒くないかい?」
西部劇のセットめいた、真新しいペンキ塗りの建物の方へ歩きだすと、いっそう風が冷く感じられた。芝地のところどころに植え込まれた低いビンロー樹の色褪せた葉が、乾いた音をたててざわめいていた。いつになく足早やになって先を歩いて行く少女の赤いダッフルコートの向うに、夕陽を隠して、縁だけ金に輝いている暗い雲と、かすかに夕暮色をたたえてひろがっている空があった。
おさまらぬ背筋の悪寒のなかで、男は、不安と安堵がまじりあったような感情で思った、この地上のひとときを覚えておこう……。
派手な看板にもかかわらず、アラビヤンナイト館にも、客のない空虚さがただよっていた。幅広い短い階段の上の、舞台に似た入口に、係員らしい若い男がひとり、こちらに背を向けて片手を腰にあて、何をするでもなくつっ立っていた。ひと足先に着いた少女が、階段下から、まだ入れてもらえるのと遠慮がちに声をかけると、返事はせずに振り返り、品定めするような素早い目つきで上から少女を眺めた。が、すぐ興味を失った顔になり、後の男をちらと見やって、黙ったまま顎をしゃくった。
階段をあがると、入口に平行した浅い水路があり、平らな小型ボートが何台も一列に並んで浮んでいた。係の若い男は、躰をぐなりとさせて傍の柱のスイッチに手をかけ、顎で並んでいるボートの先頭を示した。
少女につづいて男が乗り込むと、同時にブザーが鳴り、何秒か間をおいて水路の水が激しく流れ出した。流れに乗ってボートは進みはじめた。前方のドアが開き、たちまち暗い建物の中に入っていた。
と、正面に、真赤な口をあけて笑っているアラビヤ衣裳の魔物じみた大男の姿が浮び、「ようこそ……」と不吉な胴間声が、天井に反響した。つづいて魔物めいた男は、悪意に満ちた大笑いのまま、差し出している右手をゆっくりさげながらお辞儀をしたが、その手の下に真暗な穴があいていた。水路の水は、穴の中へ流れ込んでいた。
男は、罠にかかった、と思った。穴の中に、少女にショックを与える仕掛けが待ち伏せているに違いない。いや、ほんの遊びなんだ、とすぐ打ち消したが、なぜともなく、死に呑まれる感じがした。
「馬鹿げてるね」と、男は云った。「こけ脅しなんだよ、みんな」
穴の中は、ただ真暗闇のトンネルだった。周囲の壁に反響する水音だけが、滝のように聞えた。男はかすかに安堵し、しかし、鋭く神経を張りつめて、暗闇のどこかに潜んでいる罠の気配をいち早く嗅ぎつけ、不意打から少女を守ろうと身構えていた。
少女も、ひっそりと息を殺していた。
ボートはかなり進んで行ったが、ただ暗闇と激しい水音が続くだけだった。前方に出口の明りが見える気配すらなかった。まるで果のない死の中を流されているようだ、と男は思い、同時に、相変らず少女が黙りこんでいるのが不安になった。闇に目をこらしても、すぐ傍にいる筈の姿が見えず、耳をそばだてて息遣いを探っても、激しい水音が聞えるだけだった。身動きする気配も感じられず、まるで不意にいなくなったようだった。急に高くなった自分の動悸の音を、男は聞いた。罠はこの暗闇そのものだったのだ、と気づいた。緊張の持続が耐え難いまでの永すぎる暗闇。しかし男は、自分の動悸の音に縛られたように言葉をかけることも、手を伸ばしてみることも出来なかった。水音が不意に遠ざかり、凍りついた。
突然、水路がカーブするのが感じられた。次の瞬間ボートは、光の充ちた部屋に入っていた。あ、やっとね。耳元で少女の声がした。平常となんの変りもない声だった。
「うん」前を見たまま、男は云った。「永かったね、ずいぶん……」
少女は、忙しく左右を見廻していた。水路の両側に、ペンキ塗りの絵と等身大の人形で、アラビヤンナイトの王宮らしい場面がつくられ、天井から流れているアラビヤ音楽とは無関係なリズムで、踊り子の人形がぎこちなく手をあげさげしたり、ただぐるぐる廻ったりしていた。見物しているだらしない笑顔の玉座の王様や、傍に立っている黒人奴隷は動きもせず、奴隷の手の大きな鳥の羽のうちわだけが、ゆっくりと上下にピストン運動を繰返していた。
「やっぱり、子供騙しだね」と男は云った。
「でも」相変らず忙しく左右を眺めながら、少女は慰めるように云った。「見たんだから、それだけでいいよ」
「うん。……」答えかけて男は、不意に耳の奥に鋭い金属音を聞いた。二、三度強く頭をふると、すぐおさまったが、口の中になにか嫌な感じが残った。
「ずいぶん、たくさん見てきたね、一緒に」嫌な感じを押しやるようにして、男は云った。少女が稚い頃から、連れて歩いた公園や、マーケットや、海岸や、山奥の温泉場などが、ガラスの破片のようにかすめ過ぎた。「一緒だったから、たのしかった」
「うん」少女は、肯いた。
幾つかの部屋をボートは通り抜けたが、いずれも似たりよったりだった。船乗りシンドバッドらしい若い男が、筏《いかだ》に乗って雷鳴の響く海を漂流している場面の部屋に入ると、どういう訳か水路の前方に、誰も乗っていないボートがふらふら流れていた。
「幽霊船だ」と男は云った。口の中の嫌な感じはなくなっていた。
少女は、くすくす笑った。そして素直な声で云った。「あったかになったら、船でどこかへ旅行したいな」
「いいとも」と男は答えた。「帰ったら旅行案内を調べて、どこへ行くか決めよう。そして船会社に電話して、切符の予約をしておこう。魚釣りが出来る窓つきの船室のね……」
ボートはふたたび、トンネルに入っていた。しかし薄明るくて、前方に出口の明りが見えていた。
「もう、終りね」と少女は云った。
いや、はじまりさ、ほんとの船に乗る……、そう答えようとして、「いや」と云った時、男はふたたび耳の奥に、より鋭い金属音を聞いた。同時に、鈍く深い衝撃を頭のどこかに感じた。周囲が不意に薄暗くなり、胸を強く締めつけられ、息苦しくなった。無理に大きく息をつこうとしたが、躰が意志に従わなかった。
「あした、いいお天気だといいな。きっと、いいお天気よ」募る息苦しさのなかで、少女の声がはっきり聞えた。
男は、急速に自分の手足が冷えてゆくのを覚えた。やられたな、と男は思った。それが少女でなくて自分なのが、助かったような辛いような気がした。少女に何か云おうとしたが、どうしても声に変らなかった。と、どこかで囃し声が聞えた、エーサ、サエサエ、サエコノヨイヨイ、エーサ、サエサエ……。いや、と男は、次第に大きく近づいて来る囃し声にあらがった。切り抜けなければ、なんとしても! 明日は、いいお天気なのだから……。するとトンネルの前方の出口が明るく広がりながらみるみる近づいて来て、まわりは陽光の漲《みなぎ》った群青の海になっていた。こころよいエンジンの響きが足もとから伝わり、赤いダッフルコートを着た少女が、髪を風に乱しながら、船のデッキの手すりから身を乗りだして、稚いような大人びたような声で、しきりに何か喋っていた。眩しげに眉を寄せた少女の顔に、波の照り返しが揺れ動き、明るく華やがせている。
そうか、約束通り、船で旅に出たんだな、と男は安堵した。しかし、この船は何処へ行く船なのだろう……。きららかな絞り模様にひろがっている海のどこにも島影は見えず、水平線は真珠色の靄に閉ざされていた。その上に、真夏のような力強い雲が湧きあがり、涯なく深い空に伸びた頂きが、招くように陽に輝いていた。
ボートがトンネルの出口からあらわれ、係の若い男が片手でボートの縁を掴えた。その腕に、男の躰が倒れかかった。
鋭い少女の叫び声が、淡く橙色に染まった遊園地に響いた。
同時に、賑やかなウェスタンミュージックが拡声機から流れはじめた。
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風を捉える
あ、昔のままやわ、ここは。私は、路地の入口で足をとめた。叔母が思わずのように呟き、足をとめた場所だった。
右側は黝《くろず》んだ長い築地塀で、左側は狭い畑になっている。築地塀越しに紅葉がしきりに散り急いでいる明るい路地の奥に、質素な寺の門があった。大阪に近い旅先から、国電、地下鉄、私鉄、ケーブルカー、バスと乗物を五度換えて着いた、高野山の浄鶴院だった。
白っぽい痩せた土に僅かずつ、色々な種類の野菜が植え付けられた自家用の畑の作物だけが、叔母と来た時と違っていた。立竦んだように佇み、しかしすぐ、私を見返って微笑をみせたいくらか額のひろすぎる叔母の顔が、薄縹色《うすはなだいろ》の日傘のせいか蒼く見えた。その顔の傍らに胡瓜が黄色い小さな花を幾つもつけていたが、今は大根が不揃いに葉を茂らせている。ところどころ引き抜かれて、その跡に黒土がこんもり盛りあがっていた。
畑の畝の間々にも、路地の端にも、茶色にちぢくれた紅葉の枯葉が吹き溜り、空が間近い澄んだ空気の底に、初冬の冷気が感じられた。平地より一月は、季節が進んでいるようだった。
レインコートの衿を立て、私は寺の門へ目を戻した。東京へ戻る予定を延ばしてやって来たものの、来てしまうとなんとなく、寺の門をくぐるのが億劫だった。
浄鶴院に叔母と来て泊ったのは、一昨年の夏だった。仕事で関西に来たついでに、若くて未亡人になり、ずっと独り暮らしをしている染色家の叔母の家に立寄って、
「なんやもう、生きてるの草臥《くたび》れてしもたわ」と愚痴ると、
「そら草臥れますわ」軽く聞き流すふうに叔母は云い、暫く経ってから、「高野山へでも行きましょか」
冗談と思った。関西女らしく外見はやわらかだが、頭が鋭く、ちょっと皮肉っぽいところのある叔母は、生きている人間は愛しても白骨は愛さずと葬式には一切でなかった医者の叔父の影響か、宗教にはとくに辛辣だった。
「人間は死んだら骨になるだけやわ」と叔母は口癖のように云った。「あの世やら魂やらいうもん、人間の作り事やわ。その証拠に、私がどない浮気したかて叔父さんでてきやしはらへんわ」
また叔母の意見によると、もし世界や人間を創ったのが神様なら、だいぶ手え抜いてはるわ、というのだった。私かてお他人《ひと》の手に渡すもん、手え抜きまへんわ。しやのに手え抜いたもん押しつけて有難がらせよういうのん、ずうずうしい思うわ。神社のお札売りや、宗教の戸別訪問員が来ると、叔母は嬉しげに高い声で云った、「間にあってますよって」……その叔母と、仏教のなかでも加持祈祷が盛んな真言密教の本山詣りとは、冗談にしろあまりに懸け離れすぎて、咄嗟には答えようもなかった。
「あした行て、二、三日ゆっくりして来ましょ」私の曖昧な表情をどうとったのか、叔母はもう部屋の隅の電話の方へ行っていた。「二つ三つ、野暮用の約束があるねんけど、延ばしてもらえばよろしいわ」
呆気にとられ、しかし思いがけず叔母と旅をする心の弾みが先に立った。叔母とはいっても母の末弟の妻で、逝った叔父との間には子供もなく、ただ四十過ぎのその齢まで再婚せずにいるために叔母であるに過ぎなかったが、子供の頃から私はこの叔母に、ある憧れめいた感情を抱いていた。しかし東京と関西に離れ住み、それぞれ独り立ちの仕事を持っていることもあって、一緒に旅をしたことはなかった。
「高野山には知ってるお寺がありますわ」あちこちに電話をかけ終えてから叔母は、極くさりげない調子で云った。「叔父さんが逝かはったあと、すこし躰をこわして一夏保養に行てたことがありますねん。そのお寺に何時でも泊めてもらえますよってに……」
そういうことかと半分ほど納得し、それにしてもわざわざ高野山へ行って寺などに泊まらなくても……と、やはりいくらか怪訝《けげん》な思いが残った。
叔母と二晩泊った浄鶴院は、百二十あまり寺院がある高野山のほぼ中どころの寺格の宿坊寺で、六十過ぎの院主夫婦と、院家《いんげ》さん≠ニ呼ばれている三十一になる一人息子との三人家族で、ほかに見習いの少年が四、五人ほどいた。
叔母が保養に来ていた頃、まだ高野山大学に入ったばかりだったという院家さんは、背丈はやや低目ながら快活な顔立ちで、筋肉がこりこり盛りあがった良く熟れた栗の実のような躰つきといい、いつもランニングシャツ一枚のきびきびした動作といい、僧というより運動選手の感じだった。生活ぶりもきわめて精力的で、一日中、古びた寺の廊下をだッだッと勢よく踏み鳴らして、広い宿坊寺の掃除、薪割り、風呂沸かし、台所の手伝いと、小気味のいいスポーツカーのように動き廻っていた。客扱いも行き届きすぎるほどで、私達が外出しようとすると、どこからかさっと現れて靴を揃え、玄関先まで出て直立の姿勢からきっかり七十五度に頭を下げて送り出した。戻って来るとまた素早くとび出して来て、
「お帰りなさいませ。お疲れでございましょう」と、愛想のよい笑顔で迎え、揃える必要のないスリッパまで揃え直したが、様子のどこかにわざとらしい感じがあり、むしろかすかな抵抗感を私は覚えた。
院主は院家さんとは正反対の、いかにも老僧らしい穏やかな物腰の老人だった。白い着物をゆるやかに着、古びた寺の廊下をほとんど足音をたてずに歩いた。仏前のお勤めのほかは院家さんに一切渡して暇らしく、私達が泊まっていた離屋の書院によく話しに来た。
顔の真ん中の丸っこくて大きな鼻がやや肉感的で、人懐しげな感じだったが、何時間でも膝頭を揃えてきちんと正座したまま、上体を穏やかに定めて崩さなかった。
「もう何年になりますか」と、首をやや前に傾げて独り言のように呟き、「大阪へ出る用もなくなりましてな」
「でもお達者で……」叔母は表情の豊かな眼で懐しげに見上げた。
「若さんも御立派にならはれまして」
「いや、あれは……」云いかけて口を噤み、院主は紛らすふうに穏やかに微笑した。その目に叔母と私を等分にいれて、
「ようおいでて下さいました。近頃はまことにもう、淋しゅうて淋しゅうて、かないません……」
私は、途惑った。挨拶した時からそのいかにも僧侶らしい物腰に、仏の道などを説かれるのではないかという危惧と同時に、あるいは透徹した深い境地にふれて、何か悟らせてもらえるのではないかという虫の良い期待を抱いていたが、それがいきなり、俗人でも気羞《きはずか》しいような愚痴だった。目のやり場に困り、叔母を見た。
叔母は憤ったような表情で、忙しく目をまたたかせた。両手がきつく握りあわされて、やわらかな襞のある服の膝に押しつけられていた。一、二度口をひらきかけたがやめて、目を膝に落した。握りあわせていた手をゆっくりほどき、仕方なげに月並な慰めを云った。「奥さんも立派なお子達もいやはりますのに」
「いや、嫁に行った娘達は滅多に手紙も寄越しませんし」穏やかな微笑のままで院主は、説法をするような淡々とした口調でつづけた。「伜は、私が何を云うても取り合うては呉れません。思いつきだけで、派手な事を遣りたがりましてな。家内はもう十年近う、ろくに口も利いて呉れませんし、ひとつ屋根の下で暮していて、二日も三日も顔をあわせないこともめずらしゅうはありません……今朝も手洗いに立った時、淋しゅうて、ひとりで涙がでてきましてな……」
叔母は、庭先へ目をやっていた。皮肉な影もなかったが同情の色もなく、放心したような表情だった……。
あの淋しさのまま院主は、あれから一ヵ月後に脳溢血で急逝したのだろうか……、二年前と変った様子のない浄鶴院の門を眺めて、私は院主の姿を思い出していた。新聞の死亡欄の小さな切り抜きを同封した叔母からの手紙を受け取って以来、院主の言葉がしきりに思い出されてならなかった。二晩浄鶴院に泊っていた間に、身上話や高野山の昔のことなどを聞いただけで、深い話は何ひとつ交さなかったが、なぜか、ただの行きずりの人とは思えなかった。院主の妻が一度も姿を見せず、叔母も会いたい様子をみせなかったことにようやく気づき、あれこれと思いめぐらしたりした。
が、その後叔母とも会う機会がないまま、今年の春、叔母が逝った。風邪が原因の急性肺炎で、救急車で病院に運ばれる途中で息をひきとった。清潔な工場に似た火葬場で、焼きたてのクッキーそっくりの音がする骨を拾いながら、明るい華やいだ叔母の声を聞いた、人間は死んだら骨になるだけやわ……。すると、いくらかひろすぎる額と表情の豊かな眼を持っていた叔母が、ほんとうに魂も残さずに骨だけになってしまった、と思われた。乾いた骨の音が、私の心のなかに降り積んでいくようだった。そんな筈はない、四十七年さまざまな思いで生きて来た人間が、ひと山の白い物体に変ってしまうだけである筈はないと考えようとしたが、私の心に聞えるのは骨の音だけだった。理由もなく私は、そこへ行けば何処かで叔母にもう一度会えそうに思え、ふたたび高野山へやって来たのだった。
寺の門をくぐると、白砂利を敷きつめただけの前庭には、二年前と同じに人影がなかった。白昼夢めくほどからんとした明るい光の中を、ひろい額に汗を滲ませた叔母は、手染めの薄縹色の日傘を傾けて、寺の建物を見上げるようにしてゆっくり横切った。過ぎた時間の中を辿るような足どりだった。玄関先に立つと、ちょっと上体を傾げて中の気配を窺うようにしてから、躊《ためら》いがちに声をかけた……。
私は、声をかけた。なんとなく奥からだッだッと勢いの良い足音が出て来そうな気がしていたが、そのかわりに遠くでひっそりした障子の音がした。待ちながらふと、式台の戸の蔭に哺乳瓶が置かれているのに気づいた。中にいくらかミルクが残っていた。式台に腰かけて飲ませているうちに赤ん坊が眠ってしまい、そのまま哺乳瓶を置いて寝かせに行った、という感じだった。院主の跡を継いだ院家さんは、間もなく妻を迎えたのだろう。
死んでゆく人間があり、新しく生きてゆく人間がある。当然なそのことを、はじめてのことのように思った。そして私はそのどちらでもなかった。
低い足音がして、黒い僧衣をまとった二十前後の若い僧が姿をみせた。この前来た時には見かけなかったようだった。ぎこちない所作で膝をつき、黙ったまま軽く頭を下げて、用件を訊ねる表情になった。光が眩しげで、病身そうな感じだった。
「院家さん……」と云いかけて、途中で云い直した。「御院主さまはおいででしょうか」
「大阪の檀家の方へお出かけになっていますが……」と、気の毒そうな表情で、「お戻りは多分、夕方か夜になると思いますが」
いずれにしても、一晩は泊めてもらうつもりだった。それもあの離屋の書院に泊まりたかった。
泉水のある明るい中庭に面した離屋の書院は、叔母と来た時と変っていなかった。六畳と八畳の二間続きの部屋には、古びた簡素な座卓と箱火鉢があるだけで、他には何ひとつない。部屋に入るとすぐ目につく奥の八畳間の、時代がついた襖の水墨画に見覚えがあった。蓬髪の男の子が三人、松毬《まつぼつくり》で遊んでいる図で、子供の小さな口にだけ朱が入っている。英一蝶《はなぶさいつちよう》の筆と院主から聞いたが、子供の表情が小意地悪げで、蓬髪と赤い口のせいもあって、どことなく小妖怪めいている。
「保養に来てた時、夜、あの絵が怖うてね」ひろい額をあげて叔母は、懐しげだった。それから不意にかすかに眉を寄せて、訝しげに呟いた。「お化けなんて、信じてもいやへんのに……」
あけっぴろげのようでいて心を他人に覗かせない叔母にしては、素直に感情の滲んだ声だった。旅先のせいかもしれなかった。
廊下で、足音がした。明るい障子に淡い影が動いて、さきほどの若い僧が炭火と薬罐を運んで来た。急いで炭火を吹き熾《おこ》したのか、色白の虚弱そうな顔がぽうと赤らんでいる。伏眼勝ちの内気な様子で軽く会釈して、隣りの部屋に入って来た。
「お詣りにおいでになったのですか」
ふと、火箸の手をとめて顔をあげ、青年僧は遠慮がちに訊ねた。目的のわからない女のひとり旅が、なんとなく気になるらしかった。
私は曖昧な笑いに紛らし、
「一昨年の夏、叔母と来ました」
叔母、という言葉を口にした途端、その叔母はもう何処にもいない、と思った。理不尽な気がした。
この前来た時は、三度の食事の膳を運んで来るのも、蒲団のあげおろしに来るのも、中学生くらいの少年達ばかりだった。遊び盛りの年頃に、寺に身を寄せて暮している少年達が、それぞれどんな境遇を負っているのかはわからなかったが、院家さんに心服しきっているらしい様子だけは感じられた。奥ノ院へ叔母と出かけた時も、町通りの途中で十四、五の少年が追いかけて来た。案内するように院家さんに云われたというのである。面皰《にきび》の散った気短かそうな顔立ちで、汚れた運動靴の踵を踏んでいた。案内はわかっているからと叔母がどれほど断っても、院家さんの云いつけだからと少年は頑固だった。
老杉と石燈籠が連っている長い参道の道すがら、少年は案内はそっちのけで、院家さんのことばかりを熱心に話した。院家さんは何でも出来ます、祈祷で病気を治すことも出来るし、誰も出来ない力石を持ち上げることも出来る。自分達の心を見抜くことも出来るし、遠くにいる人の様子を当てることも出来る……。口をとがらせて喋っている少年の横顔に、叔母は日傘の蔭から揶揄《からか》いたそうな眼つきを投げたが、途中で思いとどまったらしく、皮肉っぽい微笑を浮べただけだった。
奥ノ院の霊廟の前で、私達が見物するだけで参詣しないのを少年は怪訝そうに眺めたが、戻りの参道でもいっそう熱っぽく院家さんを賞讃しつづけた。老院主のことはまったく眼中にないようだった。
木洩れ陽が散った戻りの参道の両側一帯は、苔むした由緒ありげな墓石で埋め尽くされていた。その中途あたりまで来た時、少年はようやく目的の場所に来たという様子で、得意気に前方を指さした。
「あの碑は、院家さんが昨年建立された山川草木の魂の供養碑です。お大師様の霊夢を見られて、山川草木の魂を供養せよというお告げをうけられたのです」
黒御影石のモダンアート風の形をした、二米ほどの高さの碑だった。台石に碑の由来が刻まれていたが、叔母は日傘を傾げてちらと眺めただけで足もとめず、
「変った思いつきしやはるわ」と、独り言のように云った。「人間の魂かて、あるもんやらないもんやらわからしまへんのに」
少年の顔の面皰が赤くなった。
「この供養碑の建立で、高野山での浄鶴院の名が高くなったのです」
叔母は大人同志の話というように私を見返って、
「昔から曲者《くせもの》やったわ、若さんは」
少年は今度は完全に腹を立てた。むうと黙りこみ、足を早めてどんどん先に行ってしまった。
その後姿を機嫌よく見送り、叔母はくすっと笑って云った、まあ、どないしたらあんなに何でも信じられるんやろ……。
あの少年は、まだこの寺にいるだろうか。若い僧に訊ねてみたい気がしたが、名前を聞いていなかった。聞いたかも知れないが、覚えていなかった。気短かな小型日本犬のような顔立ちは覚えているが、これという特徴のない顔だった。それにもう背が伸びて、顔立ちも大人びているに違いなかった。
「こちらには、いつからおいでですか」と、べつなことを訊ねた。
「昨年の春からです」若い僧は顔をあげて、眼をまたたいた。
家は札幌で、父親は炭坑に勤めているが、高校の頃大病をして医者に見放され、昏睡状態のなかで極楽の有様を見た。意識をとり戻した時は四日経っていた。それで僧になる決心をして、高野山大学に入ったと、ひっそりした声で話した。右の黒目が、牛乳を一滴流し込んだように薄く沈んでいて、大病のせいかと思ったが、しかし話そのものはひどく古臭く感じられた。ようある話やわ、危篤状態の時に極楽やら天国やら見たいう話は。そんなん、日頃の潜在意識が肉体の危機状態の時に浮びあがってくるだけのことやわ。あの世いうもんが幾通りもある筈ないのんに、人によって極楽やったり天国やったりするのん、おかしい思うわ。叔母ならそう云うに違いなかった。すくなくとも叔母や私のような人間は、息をひきとる間際でも、極楽や天国の幻を見ることはないに違いない。おそらく叔母が見たのは、無限の暗黒ではなかったろうか。そう考えることは怖しかった。
喋りすぎたと思ったのか、青年僧は不意に黙りこんだ。その表情からは何を考えているかわからなかった。
寺の裏山の杉木立に、夕陽が幾筋もの光を射しこんで沈んでゆくのを縁側に立って眺めていると、少年が夕餉の膳を運んで来た。
使い古された高脚膳に、精進料理が小綺麗にととのえられている。ひとりで食事をするのはいつものことだが、自分が手をかけない料理を馴染のない部屋でひとりで食べるのは、なんとなく手持無沙汰で侘しかった。叔母と食事の時、どんな話をしたか思い出そうとしたが、何も思い出せなかった。寺の人びとは遠く離れた部屋で暮しているのか物音ひとつ聞えず、泉水の筧の単調な水音だけが取り残されていた。
微温《ぬる》くなった湯葉の吸物を啜りながら、老院主の愚痴を思い出した。家内とは二日も三日も顔をあわせないことも珍しくないといったのは、食事は居間でひとりでとる習慣にでもなっていたのか。森閑とした寺の一間で、白い着物を着た老人が、ぽつねんと箸を運んでいる姿が見えた。そういう時院主は、何を考えていたのだろう。信州の諏訪に生れ、三つで父親をなくして家が破産し、翌年、母親も失って、兄弟離ればなれに親類に引き取られて、後に行方を尋ねてみたが一人もわからなかったという、肉親との縁の薄い生い立ちのことだろうか。福島の親類に引き取られ、八つの時に寺に預けられて、成長後、その寺の一人娘と結婚して住職の跡を継ぐまでの、寄る辺のない少年時代のことだろうか……。私は、院主から聞いた身上話を辿っていた。
しかし、東北の寺の住職になるまでのことは、親類や妻の家族に障るためだろう、極く手短かにしか語らず、その後の話のほうが詳しかった。
入婿のかたちで住職になり、しかし田舎の末寺のことでたいして用もなく、近くの法類の寺へよく碁を打ちに行っていた。法類の寺の住職は、齢も僧位もずっと上だったが、縁があったとでもいうのかよく気があい、二、三日行かないと向うから迎えを寄越すほどだった。そのうち、法類の住職が無住になっていた高野山の浄鶴院から招かれたが、妻をなくして気が弱くなっていたためか、この齢になって何かにつけてうるさい本山の寺へ行くのは気が進まない、しかし一緒に行って呉れるなら引き受けてもよいが……と、相談をうけた。希ってもないことなので承知して、高野山では当時、僧が公然と妻帯することは憚られていたので、妻子を田舎に置いて、法類の住職と浄鶴院へ来、ずっと執事のような仕事をしていた。十年ほどして住職が逝《なくな》り、その跡を継ぐつもりでいたところ、先住の法縁(弟子)ではないからと、高野山の住職会が反対した。しかし追い出されるまではと腰を据えていたところ、浄鶴院が負っている三百円という当時にしては相当な額の借金を返済したら住職にしてもよいと、住職会が申し入れて来た。もともと調達出来るあてがないことを見越した上の難題で、思案のあまり寝込んでしまった。たまたま、医者の息子と参詣に来て泊まっていた檀家の老夫人が同情し、一晩寝ずに相談したのか翌朝早く、息子が赤く充血した眼で院主の部屋へ来て、喜捨を申し出た。そこで借金を返済し、ようやく正式に浄鶴院の住職になることが出来た。
院主の身上話はそこまでで、その先は語らなかったが、物心つかぬうちに家を失い、捨猫のように他家の屋根の下で肩身狭く暮して来た身にとって、己れひとりの才覚で本山の一寺の住職に納ったことは、はじめて自分の枕する所を得た思いであったに違いない。その同じ屋根の下が、何時の間に淋しい孤独な場所に変ってしまったのか……。
気づくと、庭はすっかり暗くなっていた。少年が膳を下げに来た。入口で膝をついて膳をひき寄せてから、ひどく改った口調で、
「どうぞお風呂をお召し下さい。御院主さまはただ今戻られまして、のちほど御挨拶にお伺い致します」
その口上通り、風呂から戻って来ると間もなく、早足のやや高い足音が近づいて来た。思いがけず茶色の僧衣で、焦茶色の珠数が手にかけられていた。翳のない快活な顔立ちは以前のままだったが、見違えるほど物腰に住職らしい落着きが出来ていた。
ひととおり挨拶を交してから父親の院主の悔みをのべると、まったく感傷のない様子で、
「いえ、いい最期でございました」
それまで私は逝った院主を、ごく普通の住職としか思っていなかったが、大僧正の僧位を持っていたと聞いて驚いた。またそれとはべつに、高野山だけの階級の上綱《じようこう》という位にあり、上綱になると年功順に、弘法大師の身代りである最高位の寺務検校法印に昇進して、一年間その職を勤めるが、翌年の法印に就く内示を総本山の金剛峯寺へ行ってうけてきたその晩に逝ったと聞き、ほとんど呆気にとられた。淋しゅうて淋しゅうて、手洗いでひとりで涙がでてきたと愚痴りながら、穏やかな微笑を絶やさないのが哀れでさえあった老人が、それほどの地位の僧とは思いがけないことだった。ひょっとすると、あの言葉を愚痴と聞いたのは浅墓で、所詮人間には、家族によっても栄誉によっても信仰によっても救われない淋しさがあるという、到り尽《つ》いた道を説く言葉であったのだろうか……。
「父は、学者でした」
仏教漢語はもちろん、サンスクリット語、パーリ語にも堪能で、経典学に詳しく、その方面の著書も何冊かあって、高野山大学をはじめ仏教系の学校で講師をしていたこともあるという。
「学問好きというのでしょうか、いつも部屋に沢山本をとり散らして、疲れると本を枕にして寝ておりました。お勤めは朝夕の礼だけでいいとほかには拝みませんでしたし、加持祈祷などもあまり致しませんでした……」
父親は学者ではあったが、信仰者ではなかった、と云いたげだった。裏返せば、自分は父親ほどの学者ではないが、信仰者だという自負であるのか。
「あなたは御祈祷で病気などもお治しになるとか……」私は無遠慮に、相手の目を真っ直ぐに見て訊ねた。
「ええ、檀家の子供ですが、医者にかかっても治らない激しい自家中毒を起す癖のある子や、保養に来ていた喘息持ちの娘さんを治しました」と相手は悪びれず、私が、黙ったまままじまじと見つめていると、「まあ、一種の暗示療法ですが、しかし、何事も方便ですから」
縁なき衆生と見てとっての率直さらしかった。私は、失望した。
相手はふと話を変えるように如才ない口調で、
「すっかり御無沙汰しておりますが、叔母さまはお変りありませんか」
「ええ、まあ……」
咄嗟に、私は答えていた。なぜか、叔母がもう何処にもいないと告げるのが嫌だった。
暫く寺の生活の話などしてから、夜のお勤めがありますのでと住職らしく挨拶して、院家さん――私にはやはり、浄鶴院の院主は白い着物を着た、どことなく哀れげであった老人に思われていた――が、庫裡の方へ戻って行ったあと、主を失った座蒲団の窪みを眺めながら、どうして叔母の死を隠したのだろうと、自分に問いかけた。相手の口調があまり油を流すように如才なかったので、つい、云いそびれたのか。それともその死を、自分だけのものにしておきたかったのか。しかし、相手があの老院主であれば告げたに違いない、と思われた。
ごめん下さい……。隣りの部屋の障子の外で声がして、青年僧が真赤に熾った炭火を持って来た。他家に身を寄せている遠慮がちな様子が、逝った院主の若い頃を思わせた。
「お寒くありませんか」と寂しい翳のある人懐しげな微笑で、首をすこし傾げるようにした。「高野山は夜が冷えますから」
ふと、誘惑してみたくなった。誘惑して、その素朴な心に懐疑を注ぎ込んでみたかった。懐疑を知らない信仰など、迷信に等しい。あるいは動物の本能的忠誠心とたいして違わないのではないか。
青年僧は、隣りの部屋で忙しく立働いていた。座卓を片附け、三十糎四方ほどの小さな炉に炭火を移し、櫓を置いた。その上に掛蒲団の裾がかかるように床をのべた。
「こうして寝《やす》みますと、真冬でも朝まで暖かです」と、丁寧に蒲団の四隅を押さえた。
不恰好な僧衣をひらひらさせながら、烏がはばたくように蒲団の端を押さえている青年僧を見ていると、なんとなく自分がおかしくなってきた。もともと信仰のない私に、たいした懐疑などあり得るわけがない。それに信仰というものが超越者から来るものなら、人間の懐疑などというものも、限界のあるちっぽけなものにすぎないだろう。寂しい烏のような青年僧を誘惑してみたいと思ったのは、山の夜の静寂が誘った幻想だったようだ。青年僧はちらっと自分の仕事工合を眺めてから、おやすみ下さいと十能を持って部屋から出て行った。
床板を軋らせて足音が遠去かると、急に夜が深くなった。床に入ったが、泉水の音が耳について寝つけなかった。時折、庭先の熊笹が驟雨のような音をたてて、鳴った。寝つけぬまま寝返りをうち、ぎくりとした。仄暗い電球の灯りのなかに、何代もの物怪《もののけ》が潜んでいるような茶褐色に変色した襖と、その上で遊んでいる蓬髪の三人の子供が目に入った。昼間見るよりいっそう小妖怪めいて、無気味だった。朱い口から嗤い声をたて、襖からぬけでてきそうに思える。馬鹿馬鹿しい……と打ち消したが、本能的な怯えは去らなかった。なんだろう、この感情は?……、私は考えることで自分の感情に抗った。なぜ人間は理性と矛盾する感情を持っているのか。唯物論者の叔父ならば、人間が血のなかに伝えている原始的感情とかなんとか説明づけるだろうが、しかし、そういう感情が失われずあるということは、理性だけでは認識出来ない存在があるからではないだろうか……。と、叔母の顔が見えた。いくらかひろすぎる額の顔をあげて襖絵を見ながら、やや眉を寄せ訝しげに呟いている顔が。お化けなんて信じてもいやへんのに……。
あ、と思わず声をあげそうになった。あの時叔母は、同じことを考えていたのだ。伏せてあったトランプの札を返したように、私には見えていなかった叔母の思いがはっきりと、感じられた。叔母は叔父を喪《うしな》った時から、人間の魂の存在を、永遠なものの存在を、求めていたのだ。求めていたからこそ、皮肉で辛辣だったのだ。一夏、高野山に保養に来ていたというのも、何かを求める気持からではなかったか。
叔母に死なれて、ようやく叔母の心を知った。それもまた、虚しかった。
大門のバス停に、人影はなかった。近づいて時刻表を見ると、午前の大阪行の特急バスは正午近くの一本だけで、まだ二時間ばかり間があった。往路のコースを戻る方が大阪には早く着くが、東京へは今晩中に戻ればよかったし、もう二度と来ることもないに違いなかったから、叔母と来た時と同じに帰りはバスにしたかった。もちろん、そんなことをしたところで叔母の魂に出会えるわけもないことはもうわかっていたが、やはり心のどこかに未練があった。私は待つことにした。が、土産物店と寺ばかりが並んでいる高野山の町には、もう一度行ってみたいと思うほどの場所はなく、茶店に入って時間を潰すのも退屈なだけで気が利かなく思われた。暫くバス停の傍にぼんやり立っていたが、絶えず谿下から吹き上げてくる霧を含んだ風が寒く、何処かへ歩き出すより仕方がなかった。
と、岳弁天への登り口の径が目についた。径の前に赤い鳥居が建ち、「弁天社まで五百米」と立札があった。鳥居の傍にミニチュアめいた代社があり、「商売繁昌・願望成就・一家繁栄」と功徳が並べられている。ここで賽銭をあげて帰る善男善女がほとんどらしかった。不信の蛇が喰らいついている悪女でも、五百米登ってみたら信仰心が与えられるかもしれない。冗談めいた気持で、手提鞄を前の茶店に預けた。
登りはじめると山径は意外に急で、崎嶇《きく》としていた。昨夜、驟雨が通ったのか落葉の散った赫土が濡れ、ともすると足が滑った。いくらも登らぬうちに左右の木立から流れ出てくる霧が次第に濃くなり、足もとの周囲が僅かばかり見えるだけになった。時折、木立の中で鳥の羽音や、霧の雫がしたたり落ちる音が聞えるほかは、町の物音もまったく聞えず、不意に時間の外の世界に迷いこんだようだった。ひき返そうかと迷いながら、ひと足、ひと足と登って行ったが、径はますます険しくなる一方で、息が弾んできた。
何度か立止って息をつき、また登りつづけた。もうかなり登って来たと思われるのに、無限軌道を逆さに辿っているように足もとに落葉の散った山径が霧の中からあらわれるだけで、一向に頂上が近づく気配がない。ひと足毎に荒くなる息遣いと心臓の鼓動の音が躰の外から襲いかかるように意識を囚え、同じ径を繰り返し登っているのではないかという不安な錯覚に陥りそうだった。が、もうすこし、もうすこしと、自分を騙すように登りつづけ、と、目の前の霧の中から黒い木の枝が突然あらわれ、よけようとしたはずみに、足を大きく滑らせた。したたかに両膝を地面にうちつけ、暫く立上れなかった。
ようやく身を起し、泥を払った。靴下は破れていなかったが、両膝に血が滲んでいた。掌も汚れ、ひりひり痛む。時間潰しにしては馬鹿気ていると、諦めをつけた。
二、三歩下りかけた時、鈴の音が聞えた。一瞬、そら耳かと思った。立止って耳を澄ましていると、暫く経ってからまた聞えた。そう遠くない上の方らしかった。私はふたたび登りはじめた。
不意に、明るい場所に出た。息をのんだ。谿をへだてて山の尾根が連り、谿も尾根もいちめん雪が降ったように薄《すすき》の穂だった。ほうけかけた白い穂が風になびき、陽をうけてキラキラ光っていた。薄原の裾の方は杉林に続き、更にその下に学校らしい建物が小さく見え、たどたどしいサキソフォンが聞えていた。陽が翳ると薄原はさっと光を失い、陽が射すとまたキラキラ光った。
額の汗を腕でぬぐいながら左手へ目をやると、すぐ上に頂上の台地があり、弁天社が見えた。社の前に巡礼姿の女が、人形のように両脚を投げ出して土台石に腰をおろしていた。
女は、私が近づいても振りむかなかった。谿の方を眺めたまま、頬骨の高い陽に焼けた横顔を見せ、煙草を吸っている。四十五、六の齢に見えた。
「今日は」と声をかけた。
相手はかすかに狼狽したような気配で振りむき、「今日は」と挨拶を返した。荒々しさと優しさがまじりあった感じの、肉体労働をしている女の顔だった。
私も煙草が吸いたくなり、隣りに腰をおろして火を借りた。慌てた手つきで、白というより灰色に近い巡礼着の袂をまさぐって台所マッチの箱を私に手渡すと、不意に女は親しげな様子になって、
「転びなはったとね。痛かっつろう」
私の郷里近くの方言だった。懐しかった。
「まあ、めずらしか。こげんかとこで」
相手も眼を瞠るようにした。
「傷ば洗いなっせえや。黴菌のはいるとえずかですが」と肩の水筒をはずして私に押しつけた。大丈夫だと答えても、メンソレなら持っとるばって……としきりに気を揉んだ。それから今はどこに住んでいるのかとか、高野山へはひとりで来たのか、などと訊ねた。
「あなたもおひとりで?」
「私は、お山へ来ても中へは入らんとです。この女人道ば歩くだけで戻るとです」
「女人道?」
「知ってなかとですか。お山が女人禁制の頃、女が歩いた道ですと。ぐるっとお山の周りば廻っとるとです」節太い人差指で円を描いた。
「じゃ、私が登って来た道も?」
相手は、肯いた。
「ばって、女人堂の方から登った方が楽ですと」と、私が来たのとは反対の林の方を指した。女はもう何度も来て、よく知っているらしかった。
「でも、遠くから来られて、どうして奥ノ院へお詣りにならないんですか」
「罪深か女ですと、私は」さらりと女は答えた。
が、それ以上立ち入って訊ねられるのを嫌うように、
「なら、私はひと足お先に」
女は短くなった煙草を足もとに捨て、爪先で強く踏み消してから、杖をとって腰をあげた。腰の鈴が鳴った。うす汚れた巡礼着が清々《すがすが》しく見えるような音だった。
「お気をつけて、下の径は霧が深いですから」
「おおきに」
歩き出しながら、女は腰をかがめた。古びた笠の、同行二人の文字が目についた。
すぐに鈴の音は遠去かった。私は、台地のはずれの林の方へ行ってみた。疎《まば》らな雑木林沿いに、杣径《そまみち》ほどの径がほそぼそと続いていた。その昔、罪障多い身は立ち入ることが許されないと知りながら、密厳浄土を憧れて旅をして来た女達が、浄土の面影を心に描きながら辿った径だった。
私は、時計を見た。まだ一時間ほどしか経っていなかった。女人堂へ下りて大門へ戻っても、かなり遠廻りにはなるが下り道だからバスには十分間にあうと計算して、私は歩き出した。永劫回帰さながらの、永久に到り尽けないとわかっている廻る径を歩きつづけた女達の心が覗きたかった。
尾根伝いの径を、ゆっくりと私は歩いて行った。目の高さに、紀州の山脈が濃く薄く重なりあい、その果が空に溶けこむまで眺望がひらけていたが、谿下の高野山の町は、深い杉木立に隠されていた。知らなければ、そこに百二十あまりの寺院と門前町の賑いがあるとは思えなかった。
暫く行くと、遠く杉林の間に寺塔がひとつ、淡く霞んで見えた。美しく、浄らかな眺めだった。この眺めを目にした時、その昔の女達の心の中には、彼女達の貧しく卑小な日常を超えた密厳浄土が、遥かながら確かに存在したに違いない。そしてその不壊《ふえ》の幻を見た満足を抱いて、ふたたび日常の世界へ戻って行ったのだろう。しかし、足を踏み入れてしまった私の眼には、ただの風景でしかなかった。
私は、歩きつづけた。淋しゅうて淋しゅうて……と院主の嘆きが聞えた。叔母の放心したような額のひろい顔が見えた。めったに歩く人もないらしく、疎林の中に入るとほそい径は落葉に隠され、枯草に埋ってきれぎれになった。私はすかし見るようにして径らしい跡を探し探し、辿って行った。が、何度も見違えて藪や崖に行き当り、慌ててひき返した。時計を見ると、歩き出してもう二十分経っていた。私は、焦ってきた。するとますます、どれが径かわからなくなった。
ひょっとすると山奥へ山奥へと迷いこんでいるのではないかと疑わしかった。足が腫れて、靴が締めつけてきた。しかし歩きつづけるより仕方がなかった。
何か黒いものが傍をかすめた。みると黒い蝶だった。紋白蝶よりやや大きく、高く低く、私にまつわりつくようについてくる。この季節に蝶が……と目で追い、立ち竦んだ。不意に径から湧いてきたように径の前方に、夥しい数の黒い蝶が草から草へ秋の陽を乱していた。
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あとがき
思えば、モッキングバードのいる町≠ェ私の心に棲みついて、久しい。昨年、ようやく作品化し、「新潮」誌上に発表して宿願をひとつ果した思いであったが、今回、第八十二回の芥川賞を頂くという望外の幸運に恵まれ、私の心の裡にだけ存在していた町が新しく地図に書き入れられたような喜びを覚えている。
これまでの私の永い文学の道の歩みを支えて下さった多くの先輩友人たち、とくにあまりに遅い私の歩みのためにすでに故人になられた「文芸首都」の保高徳蔵先生、また現実世界と文学について眼をひらいて下さった椎名麟三先生に、この最初の作品集を捧げさせて頂きたいと思う。
過分の栄を与えて下さった日本文学振興会と選考委員の方々にあらためて御礼を申し上げると同時に、多くのお力添えを頂いた新潮社の谷田昌平、岩波剛、宮脇修の各氏をはじめ関係者の方方に心から感謝申します。
一九八〇年一月二十日
[#地付き]森 禮 子
この作品は昭和五十五年二月新潮社より刊行された。