森 瑤子
TOKYO愛情物語
目 次
婚 約 女の場合
婚 約 男の場合
結 婚 女の場合
結 婚 男の場合
浮 気 女の場合
浮 気 男の場合
離 婚 二人の場合
婚 約 女の場合
婚約がきまった時、伊沙子の覚えた感情は圧倒的な解放感であった。
「俺《おれ》たち、結婚しよう」と羊太郎が、まるで一トンもある石の下敷きにでもなったかのような、悲愴《ひそう》な声で言った瞬間であった。
悲愴な声で言ったのは、別に彼が心底悲愴に感じているわけではなく、日本の男というのは、何か一大決心をする際に眉根《まゆね》を寄せ、口をくいしばるくせがあるからであって、羊太郎もその例にもれない。それくらいのことは、この数か月、つぶさに彼を眺めてきた伊沙子にはわかっているつもりだ。
なぜ、「俺たち結婚しようか?」と相談の形でもなく、あるいは「俺と結婚してくれないか?」という懇願の形でもないのか? ふとそのような疑問が彼女の胸を掠《かす》めはしたが、「俺たち、結婚しよう」というのには、いかにも男らしい決意が滲《にじ》んでいるではないか。この際語尾に「か」がつこうがつくまいが、かまわないのではないか。
それよりもなによりも、これでようやくあの小うるさい父親の支配から逃れられるのだ、と眼の前が明るくなる気がした。
まず門限に厳しいし、着るものにもうるさい、言葉遣いや箸《はし》の上げ下ろしにいちいちいちゃもんをつける。十九や二十の小娘じゃあるまいし、と伊沙子は苦々しく思っていたが、父親とすれば娘が二十七歳であろうと、五十歳であろうと、娘は娘。つい一言口を出したくもなるのだろう。
ボーイフレンドと遊び歩いていて門限を守らないのと、晴れて婚約した男と一緒にいるのとでは、父親の受け取り方は違うはずだ。もう半分以上はゲタをあずけたようなものだから、これで父も大人しくなるだろうと、伊沙子はほっとしたのだった。
ここまでこぎつけるには、並大抵のことではなかったのだ。若い男なんて、ほっておけば結婚のケの字も言いださないのにきまっている。
しかも初めて逢《あ》ったその日のうちに、ノコノコとホテルについて行ってしまうようなドジなスタートを、伊沙子はしてしまっていたのだ。彼女にしてみれば、まさかその時羊太郎と結婚するようになるとは思ってもいなかったし、彼だって同様だった。
それは夏の終りのことで、伊沙子はその日に二十六歳になったばかりだった。会社の帰りに親しい女友だちが四人ばかり集って、六本木の鳥屋で食事をした。その前の年はフランス料理屋だった。
「妙齢の女が誕生日を祝う場所にしては、色気がないわね」と、雑誌の編集をしている女友だちが苦笑した。小綺麗《こぎれい》ではあっても焼き鳥屋は焼き鳥屋だ。
「大体、妙齢の女が、女友だちと誕生祝いをするってのが、色気のない話なのよ」
女たちは伊沙子を前に言いたいことを言う。
「みんな勝手なことばっかり言ってるけど、もし私にきまったいい男がいたら、今夜なんてあなたたち、それぞれ一人でお茶漬けでもかきこんでいるところだったのよ」
「お茶漬けってことはないけどさ」と女編集者の愛子は言った。「でもこう忙しいと、自分のためだけに料理作るなんてことは、めったになくなったわね」
「私なんて、ほとんど三食とも外食みたいなものよ」翻訳の仕事をしているユミコが言った。
「三食とも?」伊沙子が訊《き》き返した。
「まずモーニング・コーヒーというのを近所の喫茶店に飲みに行って目をさますのよ。モーニング・コーヒーにはトーストとサラダがついているから」
「いやだわねえ」と別の一人が顔をしかめた。「ひとのことは言えないけど、だんだん男になっていくような気がしない?」
「するする。時々さ、結婚する相手は夫ではなく、妻をもらいたいなんて、私思うものね」と愛子。
その時だった。カウンターの右隣で男同士二人で飲んでいたひとりが、伊沙子たちの会話に加わった。
「そういう男が一人いるんだけどどう?」
「どうって?」と愛子がまるで品定めするような眼で、横の男を一瞥《いちべつ》した。
「つまり、家事全般に長《た》けていて、料理もできる男」
「誰れが?」
「このボク」男は自らを植田と名乗り、連れを小西と紹介した。
「へえ、あなたがね」愛子は頭の先から爪先までもう一度男を観察して言った。
「ついでに子供も産んでくれるならね」女たちがゲラゲラ笑った。「働いている女ってのはすごいね。俺なんてついていけないね」と言ったのは、もう一人の方の小西という男だった。
「どんな女だったらついていけるの?」ユミコが質問した。
「普通の女がいいね。仕事バリバリやるような女じゃなくてさ」
「あら、でもあたしたちだって女のうちなのよ」伊沙子が言った。
「それは見ればわかるよ」小西はニヤリと笑った。笑うと唇の端がわずかにめくれるような感じになり、なぜかその瞬間伊沙子はドキリとした。
「ちょうどいいわ。一緒に乾杯しましょうよ」と愛子が言った。「今日は彼女の誕生日なのよ」
「女性に年齢を訊くのは失礼かな」と初めに声をかけて来た植田が、杯を掲げながら言った。
「一般的にはね。でもここにいる女性たちは年のことなんか気にしていないわよ」
「じゃ、あてようか?」
「どうぞ」と伊沙子。
「何を賭《か》ける?」と植田。
「日本酒一本」
「だめだめ」
「焼き鳥一皿つきは?」と愛子。
「一夜の情事」植田が言った。女たちの間に嬌声《きようせい》が上った。
「オーケイ」守るつもりもないので伊沙子は軽く言った。
「よし、きまり」植田が身を乗り出した。「二十……」と伊沙子の顔色を窺《うかが》った。「二十と、八」
「二十六」すぐ横で小西が口をはさんだ。
「あたり」愛子とユミコが手を叩《たた》いた。
「どっちが?」植田が訊いた。
「そちらのハンサムボーイよ」
「なんだおまえ、横から口だしてうまいことやったな」植田が小西を小突いた。
「だめよ、そっちの人は。ゲームに加わってなかったんだから」伊沙子はツンとすまして顔をそむけた。
「こっちだって別にそんな気は毛頭ないさ」
小西もそっけなくそう言って、空の杯に手酌で酒を満たした。
小西という男のそっけなさに、伊沙子は傷つけられたような気がして黙りこんだ。自分でもその感情が意外だった。場が一瞬白けた。
「ちょっともったいないんじゃないの、伊沙子?」と愛子がその場の雰囲気をジョークに変えようとして言った。「あなたのセックス・フレンドたちよりずっと素敵だと思うけどな」
ジョークにしても悪いジョークだった。伊沙子は怒った顔を愛子に向けた。
「妙なこと言わないでよ」しかしすぐにこんな席で喧嘩《けんか》をするのも大人気のないことだと気がついて、言い足した。「私の方はともかく、あちらにも女の好みってものがおありよ」
「こいつは好みなんてぜいたくなことは言わない男なの」と植田が言った。
「仕事に生きる小生意気な女以外はね」そう言って小西は鼻の先で小さく笑った。
伊沙子はまたしても、ひどく自尊心を傷つけられたような気がした。誰れであろうと男に、そんなふうに鼻の先であしらわれたことは後にも先にも初めてだった。
「場所を変えて飲み直さない?」と、愛子が一同を見回した。
「おっ、いいね」と植田が真先に同意した。女たちが腰を上げた。
「この先に行きつけのカラオケ・バーがあるんだけど、行ってみる?」
「俺はぬける」小西がぶっきら棒に言った。
「伊沙子、早く。何ぐずぐずしてるのよ」女友だちが伊沙子に言った。
「カラオケ好きじゃないのよ」伊沙子は答えた。それは事実だった。「私、ここで失礼するわ」
「わかった、おデイトね」誰れかがひやかした。伊沙子は別に否定もしなかった。
焼き鳥屋の前で別れることにした。みんなが六本木の交差点の方向へ動きだしたので、伊沙子は反射的に逆方向へ足を踏みだした。「じゃあな」と、カラオケ組に加わらなかった小西が男友だちに言う声が背後でした。
五十メートルほど歩くと信号があった。赤だったので伊沙子は足を止めた。ふと横を見ると小西がいた。立てた衿《えり》の中で、くわえ煙草《たばこ》にライターの火を寄せているところだった。
信号が変り、二人はなんとなく並んで歩きだした。どちらも口をきかなかった。
「カラオケなんかに行く奴《やつ》の気がしれねえな」と、小西が独り言のように呟《つぶや》くのが聞こえた。それから不意に訊いた。
「どこまで?」
「え? あたし?」伊沙子が小西を見た。
「他に誰れがいるんだい」と彼が笑った。その笑顔は先刻までのとは異質で、どこか暖かかった。
「そこで車拾うけど、途中で落してあげるよ」
「ご親切に」
「嫌なら別にいいよ」小西はさっさとタクシーにむかって手を上げかけた。
「嫌だとは言ってないわ」
タクシーが停った。男が先に乗りこんで言った。
「じゃ乗れよ」
伊沙子は一瞬だけ躊躇《ちゆうちよ》してから、腰から先にタクシーの座席に滑りこんだ。
「どちらまで?」車が走りだすと、運転手がバックミラーの中に視線を投げて訊《き》いた。横で男がうながすように伊沙子を見た。
「あなたは?」
「俺は後でいいよ。どこで待ち合わせ?」
「待ち合わせ?」
「男と逢うんじゃなかったの?」
「ああ、あのこと。約束なんてないのよ。カラオケに行きたくなかったの」
二人はそこで黙りこんだ。
「お客さん、どっちに行くんですか。早くきめて下さいよ」運転手が苛立《いらだ》った声で言った。
「約束がないんだったら、もう一杯飲み直そうか?」と小西が言った。提案するというよりは、自分でそうきめてしまった口調だった。
「でもあなた仕事をしている小生意気な女は嫌なんでしょう?」
「ベッドの相手にはね」と小西は悪びれもせず答えた。「でも酒の相手ならいいんじゃないかな」
「人ごとみたいね」
小西は肩をすくめてから運転手に南青山と告げた。それが小西羊太郎とのなれそめだった。
「女って動物は、グループで飲んでいるとエゲツなくて最低だけど、一人にしてみると、それほどでもないんだな」南青山の通りに面したビルの地下にある小さなバーで、小一時間ほどウイスキーを飲んだ頃、羊太郎が言った。
「でもやっぱり仕事をしているし、小生意気な女には変りはないわ」
「そう、それはそうだ」と羊太郎は伊沙子のグラスにウイスキーを注ぎながら言った。「その点は変りはないんだがね」
「じゃ何が問題なの?」
「問題は俺」
「あなた?」
「そう俺。困ったことに、仕事をしている小生意気な女もまたいいのではないかと、思い始めている」大分酔いが回っているらしく、口調がわずかにもつれる感じだった。
「さっきの賭《か》けの件だけどさ、あれやっぱり無効?」羊太郎が顔を寄せて訊《き》いた。
「何のこと?」伊沙子はとぼけた。
「一夜の情事。俺、きみの年をズバリあてたぜ」
「そんなこと賭けで勝ってやったって、つまんないじゃない」
「そうか」羊太郎はちょっとしょげたような表情をした。
「諦《あきら》めが早いのね」伊沙子はそっと相手に肩を押しつけるようにして囁《ささや》いた。「もう一度提案しなおしてみたら?」
「よし、提案するぞ」と羊太郎。「俺たち、今夜寝ようよ」
「それは提案じゃなくて、命令だわ」伊沙子は吹きだした。しかし気持はきまった。
その夜遅く、渋谷のラヴ・ホテルの一室で情事を終えた羊太郎がこう呟《つぶや》いた。
「仕事をもっている小生意気な女のいい点は、こういうことになる前の手続きが煩雑でないことだな」
伊沙子はそれに対しては何も言わなかった。そのかわり一言だけこう言った。
「今日は私のお誕生日だったのよ」そして声には出さずに心の中でこう続けた。あなたは素敵なバースデー・プレゼントだったわ。
出逢《であ》ったその夜にベッドを共にするような女を、男は最初から結婚の相手には考えないものだ。事実羊太郎もそうだったと思うのだ。彼ともそうなのだから、彼の前にも何人もそういう男がいたと思われても仕方がないし、たしかに両手で数えるというほどでもないにしても、出逢ったその日のうちにというのではなくとも、二度、少なくとも三度目にはベッドへ行った男は、何人もいた。
羊太郎と別れたその夜、伊沙子は、彼がこれまでの男たちと違うのに気がついた。つまり行きずりの男たちとは違って、これからもまた何度か逢い続けたいと思ったのだ。
だから最初の夜、まだ二人がベッドの中にいた時、彼が、君のような女はベッドインするまでの手続きが簡単なのがいい、というようなことを呟いた時にはショックだった。
普通なら、もうそれで終りにしているはずだった。伊沙子にだってプライドはあるし、他に男がいないわけでもなかった。
にもかかわらず、終りにしなかったのは、羊太郎にすでにその時点で深く魅《ひ》かれていたからだった。彼女はさりげなく会社の名前と、所属する課の内線番号を書いた名刺を、羊太郎に与えた。彼の方もごく無造作に自分の名刺を彼女に渡した。けれども羊太郎からの電話は入らなかった。伊沙子は何度もダイヤルを回しかけたが、その都度、女の方から連絡をとるのは、相手にアドヴァンテージを奪われるようで嫌だった。
実際に羊太郎から伊沙子に電話がかかってきたのは二か月も後のことだった。十月の末の金曜日の夕方で、あわただしく人が出入りしていた。同僚が伊沙子の名を呼んで受話器を差しだした。
「男性からよ」と言われた時は、ドキリとした。もちろんこの二か月の間に、何度も男性からの電話はかかったが、彼女が心待ちにしていた男からの連絡は皆無だった。
「小西羊太郎です」と電話の声が言った。伊沙子は思わず眼を閉じて、相手に気づかれないよう送話口をおさえ、深呼吸をひとつした。それから、出来るだけさりげない声で「小西さん?」と訊《き》き直した。
「なんだ、忘れられてたのか」と相手が気ぬけしたように言った。「一度くらい寝た程度だと、すぐ忘れるっていうわけ?」
誰も聞いているはずはないのに、伊沙子は思わずあたりを見回して首をすくめた。
「あら、あなたなの?」それから、わざとそっけなく言った。「またどういう風の吹き回し?」
「冷たいんだね、意外と」と羊太郎が明らかに失望の滲《にじ》む声で言った。「もう少し歓迎してくれてもいいんじゃないの?」
「これでも普通に話しているつもりだけど」
「電話をかけようとは思っていたんだけど、忙しくてね、なかなかチャンスがなかったんだ。ごめん」
「あら、どうして謝るの?」
「どうしてって、ああいうことがあったわけだからさ」
「首を長くしてあなたからの電話を待っていたわけじゃないから――」真実はそうではなかった。一日一日が長くて、辛かった。日を追うごとに羊太郎に対する思いが怪物的に膨《ふくら》んでいった。一月たつと諦《あきら》めようとした。しかしどうしても諦めきれなかった。電話がかかるたびに心臓が止りそうだった。しかし彼からの連絡のない日がまた一か月、遅々と過ぎていった。かといって、自分の方からは掛けれなかった。日ごとに臆病《おくびよう》になっていくのだった。
「そりゃま、そうだろうな」と羊太郎は急に皮肉な声で言った。「名前を忘れられていたくらいだから」
「でも思いだしたでしょ?」自分がどうしてそんなにもクールに振るまえるのか、ほんとうに不思議であった。
「ところで、今夜ひま?」
もちろんだった。たとえ先約があったとしてもキャンセルしたってかまわなかった。
「どうして?」
「久しぶりに逢《あ》いたいと思ってさ」
「まあ、どうしたの? 他の女友だちにふられたの?」
「実はそう。約束してた子が急に都合悪くなってね。金曜の夜だっていうのにさ、ついてないよ」
「それで私を思いだしたってわけなのね」自尊心が著しく傷ついたが、それは声には出さなかった。
「そういうわけでもないさ」
「いいのよ。でも、どうしようかな」
「先約でもあるの?」
「先約があるのが不思議みたいに言うわね。私がそんなにモテない女だと思う?」
「…………」電話の中で羊太郎がふと黙った。
「先約は十時なの。その前なら二、三時間空いているわ」先約など嘘《うそ》だった。
天にも祈るような気持。羊太郎が、それならいいよ、とあっさり電話を切りませんように。伊沙子は受話器を握りしめた。
「じゃその二、三時間|潰《つぶ》すの、つきあってあげるよ」羊太郎は少し不服そうな、しかし充分に押しつけがましい言い方でそう言った。ひや汗を拭《ぬぐ》いながら、伊沙子は電話の前で救われたようにうなずいた。
羊太郎と二度目に逢ったのは、溜池《ためいけ》に新しくできたホテルのバーでだった。
驚いたことに、彼女がバーの中に入って行き、彼の横に坐るまで、伊沙子に気がつかなかったみたいなのだ。
「やあ」と、さすがに苦笑して羊太郎は頭を掻《か》いた。
「あなただって私のこと忘れてるんじゃないの」
「違うよ。俺《おれ》の記憶の中にあるきみと、全然違うからさ」羊太郎はまじまじと伊沙子を見てニヤリと笑った。「断然今回の方がいいな。別人とまでは言わないけど、ほとんど別人みたいだよ」
「髪を肩のところでバッサリ切ったからかしら?」
「前よりほっそり見える」
「痩《や》せたのよ、三キロ」
「へえ、ダイエット?」
「まさか。恋やつれ」
「ふうん、妬《や》けるね」たいして妬いているふうでもなく羊太郎が呟《つぶや》いた。「ところでどうする?」彼は伊沙子のブルーのセーターの胸の膨《ふくら》みに視線をあてながら訊《き》いた。
「どうするって?」と伊沙子はクールにとぼけた。
「どこかで軽く飯食ってさ、それから……」
羊太郎の印象も前の時より数段良かった。最初に出逢ったとき彼はすでに酒が回っていたし、ワイシャツの衿《えり》のあたりにうっすらと一日の汚れがついているような感じだった。それにネクタイも曲っていてくたびれていた。
「そのネクタイ素敵。誰れかのプレゼント?」
「といいたいところだがね、女ってのはろくなネクタイを選ばないから。俺が自分にプレゼント」それから彼は身を乗りだすと、もう一度彼女の胸を眺め、それから唇をみつめて言った。「どうする? 二時間あればいろいろのことが出来るけどさ」
「ここで飲んでてお喋《しやべ》りしても二時間くらいあっという間ね」
「だからどっかで軽く飯食ってさ」と羊太郎が先を言いかけるのをさえぎって、
「こないだなんてね、軽く食べるつもりで入ったイタリア・レストランで、なんと三時間もかかったのよ」
「フルコースをたらふく食えば、かかるさ」
「それが違うの。オードブルとスパゲッティとデザートの軽いコースなのよ。おかげで場がつなげなくて、ワイン飲みすぎちゃった」
羊太郎はあきらかに苛立《いらだ》って、煙草の喫《す》い口を歯でかみ始めていた。
「じゃ、イタリア料理は止めといてさ、このホテルのレストランで軽くカレーでも食ってさ、部屋へ行こうよ」
と、ついに最初から言いたくてウズウズしていたらしい言葉を口にした。
「今日は、だめなの」
「え? どうして? あれか?」あきらかに失望したように羊太郎が言った。近くに人がいなくてよかったと、伊沙子は思わず顔をあからめたほどだった。
「いやだわ、違うわよ」
「それじゃ、どうして?」まるきりわけがわからないといったふう。
「じゃ逆に訊くけど、どうして今夜部屋へ行くときめたの?」
「それは……」
「一度女と寝れば、そのあといつでも寝れると思っているわけ?」
「というわけでもないけどさ」
「もしかしたら今まであなたのつきあってきた女たちはそうかもしれないけど――」
「きみは違うとでも言うのか?」
その羊太郎のニュアンスには、初めて逢ったその夜にホテルに行くような女だっていうのにかい、という意味あいが含まれているのを、伊沙子は敏感に嗅《か》ぎとっていた。ここが勝負のしどころである。
単なるセックス・フレンドと割り切ってつきあっていくのなら、事は簡単である。カレーライスで軽くお腹を満たして、喜んでホテルルームへ上るだろう。羊太郎のラヴ・メイキングはちょっとしたものだし。
そうなのだ。彼のやり方はどこか一味も二味も違うのだ。
もっとも二十六になるこの年までに伊沙子が知った男の数なんて知れている。
知れてはいるが、ごく平均的な普通の女よりは多いかもしれないし、行きずりふうの男と一夜の情事をもったことだって何度かある。
伊沙子の経験した男たちと比べて――この考え方は伊沙子は嫌だが、この際あえて言えば、羊太郎だけが、他の誰れとも違っている。プロセスも行うことも大差はないのだが、つまり、彼はあの事を行う際の運動というか動きにおいて、実に自然体なのだ。リラックスしているのだ。
これはすごいことだった。ほとんどの男たちが、ベッドの中で行う動作というものは、悲しいほど一種の滑稽《こつけい》感がつきまとう。ひどく動物的だったり、かと思うと、がんばってるなと女に思わせたり、なんとなく気の毒になってきたりするものだ。
ゆいいつ羊太郎だけが、この行為にみじんも滑稽さがともなわない。それが他の男たちとの相違だった。
この男《ひと》とのことは、終らせたくない。伊沙子が最初の夜、惨めなラヴ・ホテルの一室で心に固く誓ったのはそのことだった。
過去の経験からいって、寝たい時に気分のおもむくまま寝て来た相手とは、必ず終っている。そういう関係は長続きしないのだ。
羊太郎とだって、面白おかしくやっていくつもりなら、それもいいだろう。
しかし今夜もまた簡単にベッドに行ってしまえば、もうそれまでだ。次に彼から電話がかかってくるのがいつになることやら。三か月も放っておかれるのはたまらない。そうなのだ。今夜が勝負なのだ。
「そうは見えなかったけどな」羊太郎の表情に意地の悪いものが見えていた。
「初対面の二時間後にホテルへ行ったんだぜ、きみって女は」
「だからといって、次からも同じだなんて思うのは、大まちがいよ」
「おや、そうですかね」
「そうよ、もちろん。私のこと簡単に誰れとでも寝る女だと思ったの?」
「だって、そうじゃないか?」
「あの日はね、ああいうふうにならないと、あのままあなたが永久に私の前から消えてしまうと思ったからよ」
「へえ。躰《からだ》を張ったってことか?」いかにも軽蔑したような物言いだった。伊沙子は内心焦った。こんなふうに会話が進むとは夢にも思わなかった。
「もしかしたら、せっかく躰を張っていただいたけど、あのまま俺、二度と電話などしなかったかもしれなかったんだぜ。そうだよな。その可能性の方が大きかったんだよな」とちょっと考えこむ。
「事実、きみのことなんてケロリと忘れてたしな」
「…………」伊沙子はうつむいて下唇をひそかに咬《か》んだ。「でも、結局電話をして来たわ」
「うん。なぜだかね。俺もバカだな」
「どうして?」
「どうして?」羊太郎が苦笑した。「ドジふんでさ」
「女と逢ったら、寝ることしか考えないの?」伊沙子は口調を柔らかく変えた。
「女と逢う時は、たいてい寝るね」
「それじゃまるで女なんてセックスの道具みたいなものじゃないの」
「そいつはお互いさまなんじゃないのか?」冷めた表情で羊太郎はじっと伊沙子をみつめた。
「だとしたら」と伊沙子は言った。「もう電話をくれなくていいわ」
そう言ってしまってから、後悔が激しく彼女の胸を咬んだ。このまま二度と彼に逢えないくらいだったら、セックスの道具としてでもいい、たとえ数か月のセックス・フレンドでもかまわないではないか。このまま終ってしまうよりはるかにましなのではないか。
しかし、いったん言ってしまった言葉を拾い集めて口の中へ戻すわけにはいかなかった。
「わかったよ。多分もう電話をしないよ」
押し殺した声でそう言うと、羊太郎は伝票に手を伸ばした。
多分もう電話はしないよ、と言ったのにもかかわらず、羊太郎から伊沙子に電話があったのは四日目のことだった。
彼女にすれば祈りながら過ぎた四日間である。
近くまで来たから昼食でも一緒にしようか、という言葉で飛び出して行った。サラダつきのスパゲッティ・カルボナーレを食べただけで、その日は別れた。羊太郎は最初の時一緒だった同僚のことをもっぱら話題にし、伊沙子は女編集者のことを喋《しやべ》った。それであっという間に昼休みが過ぎ、慌しく別れたのだった。次の約束も何もなかった。
その週末は羊太郎から声がかからないまま過ぎた。しかし、翌週になると、ひんぱんに電話がかかりだした。
婚約までのプロセスを要約するとこうである。デイトの誘いを三度に一度、伊沙子は断った。時には断腸の思いで三度のうち二度まで仕事だとか、先約があるとか言ってしりぞけた。
ベッドへの誘惑も、全て柔らかく断った。男の自尊心をたてながら断るのは並大抵のことではなかった。
そのことで喧嘩《けんか》になったことも一度や二度のことではなかったし、一時羊太郎から長いこと連絡がとだえたことさえあった。そんな際は伊沙子の方から電話をして、思わずギブアップしそうになる夜もあったが、彼女は歯をくいしばって耐えぬいた。
三か月が過ぎ、街に冷たい風が吹きすさぶ頃、ついに、小西羊太郎は伊沙子にプロポーズしたのだった。
「婚約の記念にさ」と、羊太郎がひもじそうな声を出した。「俺たち寝ようよ」
婚約というのはあくまでも結婚の約束であって、結婚そのものではない。紙切れ一枚ないし、印を押したわけでもない。何の保証もないわけだ。
婚約が破棄されたケースはいたるところにあるし、結婚に至らない婚約だって巷《ちまた》には数知れずあるのに違いない。
「婚約の記念には、これをあげるわ」と伊沙子はデパートのネクタイ売り場を二時間近くウロつき回ったあげくに、ようやく選んだストライプのネクタイを差し出した。
羊太郎は包みを開くと、
「女にしては趣味がいいね」と言った。
「こんなのが一本欲しかったんだ」
ほんとうに気に入ったのかどうか、彼の表情からはわからなかった。
それから数日後、女編集者の愛子に誘われて、二人で飲むことになった。愛子とは何でも話しあえる仲で時々誘いあって帰宅前に飲むことがあったのだ。
「婚約したのよ、ついに」と言うと彼女は「そうだってね、オメデトウ」と言った。
「あら、どうして知ってるの?」
「ま、いいじゃない。現在の気分、どう?」
「すごく幸せよ。信じられないくらい。じっとしているのが辛いくらいよ」眼の前にいるのが愛子ではなくて、羊太郎でないのが悲しいくらいせつなかった。今この場に彼がいたら飛びついてキスしてしまう。可哀相《かわいそう》な羊太郎。さんざんおあずけをくらって。
「結婚はいつ頃?」と愛子がグラス越しに訊いた。カフェ・バーは混んでいて、カウンターのあたりには立ち飲みの客もいた。
「来年の一月末日」
「へえ、スピード結婚ね」
「何ごとも勢いなのよ」
ウイスキーの味も良いし、バーの雰囲気も上々だし、愛子は陽気だし、伊沙子はご機嫌だった。もしかしたら、生涯最良の日なのかもしれない、などと思った。好きな男を見事に獲得し、結婚の日々を指折り数える女ほど、幸福な女はいないだろう。そして一日又一日と結婚にむけて過ぎていく、この日々ほど、いつか先になって思い出して感動的な日々もないだろう。唄《うた》いだしたいような気分だった。カラオケ・バーにだってくりだして行けそうだった。
「よお、伊沙子じゃないか」と、軽く酔いを帯びた男の声が背後でし、肩に手が置かれた。
ふりむくと、かつてのセックス・フレンドの一人、山際であった。
「このところおみかぎりだな。いい男でも出来たのか?」山際は白い歯をみせて機嫌良く笑いながら訊いた。
「それが実はそうなの」と伊沙子も悪びれずに答えた。
「年貢の収め時ってわけ?」山際はいっそう笑いを広げた。彼は白くて、きれいな歯並びが自慢なのだ。ハリウッドのスター並みの、いい歯だった。その歯で、かつて伊沙子の躰《からだ》のいたるところを噛《か》んだものだった。
「年貢収めちまう前に、もう一度僕とつきあえよ」
愛子が横でニヤリと笑った。酸いも甘いも噛み分けた笑いだった。「あなたが断るんだったら、あたしに回してよ」
伊沙子は山際を見つめた。羊太郎というきまった男がいて見るのと、いない時の山際と、少し違って見えた。こちらに余裕が出来たせいかもしれなかった。今までに見えなかったものが、チラリと見える。
男に求められるということは、女にとっていつだって悪い気がするものではない。そして今伊沙子は幸福の絶頂にいて、解放感を味わっている。この幸福を誰れ彼れとなく分け与えたいという楽しい衝動と、ひそかに闘ってもいるのだ。愛子と分かち合うことでは充分でないような気がする。もっと親密な温《ぬく》もりの中で、この幸福感を分かち合いたいのだった。
「あたしのこと、浮気だと思う?」と彼女はそっと愛子に訊いた。「でも違うのよ。なんていうのかなあ、すごく満たされて幸せだから……」
「うずうずするんでしょ? 幸せを分かち合いたいって思ってるんでしょ? わかるわよ、そんなこと。何年女をやっていると思ってるの」
愛子は理解を示す表情をして、伊沙子を山際の腕の中に押しこんだ。
「悪いわね。途中でドロンしちゃって」
と伊沙子が謝った。
「いいの、いいの。実は私十時に人に逢うことになってるから」
「男の人?」
「きまってるでしょ」
愛子のウインクに送られて、伊沙子は山際とそのカフェ・バーを出、タクシーを拾い、ホテルへ行ったのだった。
そんなことは自慢にも何もならない。かといって、後悔したり自らを恥じたりもしなかった。羊太郎を裏切ったという思いもないのだった。もっとずっと個人的なことであり、羊太郎との関係に影響を及ぼすようなものはみじんもなかった。
スポーツみたいなもの。そう伊沙子は思った。もう二度と山際とは逢わないつもりだった。彼は気持の良い若い男で、気が合えば時々寝てきたが、愛しているわけではなかった。
そういえばこの何か月も男と寝ていなかった。かといって欲求がたまっていたともいえない。もしかして羊太郎の方は、伊沙子で満たせなかった欲望を、他の女で満たしていたかもしれないが、そのことはさほど彼女を悩ませはしなかった。
ただ羊太郎もそうしたに違いないから、自分も山際とちょっと浮気したのだ、というふうにも考えたくはない。とにかく、全ては済んだことで、肝心なのは伊沙子がうしろめたさも後悔も感じていないことだ。もしもそういう感情を抱いたとすれば、山際との一夜の情事は、羊太郎への本物の裏切り行為だったのに相違ない。伊沙子はそんなふうに考えるのだった。
そんなことがあってから、羊太郎からうんともすんとも言って来なくなった。もちろん、山際のことと、羊太郎の連絡のと絶えとは関係はないはずだが、とそこまで考えて、伊沙子は急に不安を覚えた。羊太郎が電話をしてこないということで、嫌でも山際との情事が生々しく思いだされる。
しかしそんなはずはないと否定し、自分の方から彼の仕事先に電話をした。一度目は留守だった。夕方頃もう一度かけると、そのまま帰宅するとのことだった。
翌朝十時頃電話を入れると運悪く会議中で、都合の良いときに電話をくれるようにという伝言を残した。しかし羊太郎からの連絡はその日一日なかった。
しびれを切らした伊沙子が午後遅く会社へ電話を入れて問いただしてみると、伝言は確かに伝えたが、という返事。
きっと猛烈に忙しいのだろうと、一日、二日様子をみることにした。
三日目に電話をすると、ようやく彼がつかまった。
「忙しいの?」と、声が尖《とが》らないようにして訊《き》くので精一杯だった。
「うん、まあ」煮え切らない返事。
「私の伝言、聞いたでしょう?」
「ああ」
「ああって、それだけなの?」
「悪いけど忙しいんだ。後にしてくれないか。こっちから連絡する」一度も耳にしたこともないような冷たい声だった。伊沙子は心配のあまり躰が凍りついた。
「後にするって、いつ頃まで? 電話くれるっていつくれるの?」思わずかぼそい悲鳴のような声で問いただした。
「二、三日うちにするよ」
その言い方は、少しもあてにならない言い方だった。
「どうしたの? 何があったの?」
「電話じゃなんだから」
「それなら、今夜にも逢えない?」このまま何日も待つのは耐えがたかった。
「悪いけど切るよ。部長に呼ばれてるんだ」
待ってという声におおいかぶさるように、電話の切れる音がした。
更に不安な日々が過ぎた。羊太郎からはあいかわらず何も言って来なかった。伊沙子は三度会社へ連絡したが、三度ともつかまらなかった。伝言も完全に無視だった。
二週間が過ぎたある深夜のことだった。伊沙子の自宅の電話が鳴った。両親が眼を覚まさないうちに、伊沙子は受話器を取った。羊太郎だった。酔っていた。
「話がある」
「今どこ? すぐ行くわ」
「いや電話でいい」
「でも酔ってるんでしょう、あなた」
「酔ってても話はできる」
「…………」
「婚約はなかったことにしよう」
「え?」伊沙子は息を呑《の》んだ。「だって、どうしてなの? いきなり……」
「理由は自分の胸に訊《き》けよ。俺の口からは何も言いたくない」
「言ってくれなければわからないわ。なぜなの?」
「きみは俺《おれ》の知らないところで、いとも簡単に一夜の情事をもてる女だってことさ」
山際のことがどうしてわかったのだろう?
「愛子が?」まさか、そんなことは。
「いや」と、羊太郎。「植田から聞かされた」
「植田さんが何を知ってるっていうの?」
「彼は君の親友の女編集者といい線行ってるんだよ」
「やっぱり愛子じゃないの」
慄然《りつぜん》としながら、伊沙子は呟《つぶや》いた。
「人のことはいいよ。自分のことを考えろよ」羊太郎は、少し哀しげにそう言い残すと、電話を切った。
伊沙子の背骨に沿って、冷たい汗がしたたり落ちた。たった一度の過ちなのに。過ちとすら考えなかった。幸せだったから。自分の幸せを他人に分け与えたかっただけなのだ。
しかし、それが羊太郎の耳に入ったとなれば、事情は違ってしまう。そんな理屈が通るわけはない。
伊沙子は肩のあたりを寒そうにさすると、寝室へと戻り始めた。女の親友なんて、全くあてにならない、と思った。共犯面していたくせに。
だが憎んでも羊太郎は戻らない。時計を見ると午前一時半を回っていた。とにかく眠ろうと思った。それからいろいろ考えよう。考える時間は、延々とありそうだった。
婚 約 男の場合
退社時刻に机の電話が鳴った。羊太郎は無意識に顔をしかめた。この時間帯にかかってくる電話にろくなことはないのだ。ぎりぎり間際になって残業になるとか、すでに通っている企画が急にボツになるとか、クライアントの都合で来週の予定だった会合を急拠とり行うことになったとか。
クライアントの都合などと気取った言い方をするが、要するにクライアントの気まぐれのことである。来週銀座で飲ませることになっていた酒を、今夜にでも飲ませてくれろや、という、そういうことなのである。泣く子とスポンサー様には勝てない社会の宿命である。
過去の体験から学んだ自衛本能から、小西羊太郎は咄嗟《とつさ》に周囲を見回して、トイレにでも立ってしまおうかと思った。とたんに左斜めむこうのミズ桑野がジロリと眼鏡の奥から睨《にら》む視線と、視線がぶつかった。
浮かせかけた腰を椅子《いす》に沈め直し、片手を受話器に、もう一方は照れ隠しで、乱れてもいない髪を手ぐしでかきあげる仕種《しぐさ》。あのミズ桑野って女は、どうも苦手なのだった。なぜか都合の悪い時にかぎって眼が合ってしまう。
他の時には眼など合うこともないから、おそらくミズから見ればこっちはよっぽど後ろ暗い男に思われるのではないか。ああいう女は早く片づくべきなのに、ああいう女ゆえにもらい手もいなくて、三十を五つも六つも過ぎたというのに未だ独身。
とにかくあのキンキラキンの眼鏡がいかんのだ。アメリカの金持の未亡人みたいな、フレームにダイヤの模造品をはめこんである奴だ。
「もしもし小西ですが」
ダイヤル・インなのでまず自分の名を言う。
「アタシよ」と、いきなり女の声。「麻子」
「なんだキミか」小西はミズ桑野に背中をむけるように躰《からだ》を椅子の中で回した。
「悪いんだけど急に今夜だめになっちゃったのよ」
「なんで?」つい羊太郎の声は詰問調になった。
「それがちょっと」と女は言葉尻《ことばじり》を濁した。
「急に言われたって困るんだよねぇ」
と、羊太郎はピンチヒッターをつとめられそうな女たちの顔を思い浮かべながら、声に不満をこめた。
面食いの羊太郎の女友だちのことだから、みんな相当にいい女たちだ。金曜日の夕方に急に電話したって先約があるのにきまっている。
「ごめんなさいね」と、人の気も知らないで麻子はケロリと言った。
「ごめんで済むかよ。来週は俺の方が都合悪いかもしれないからな」と遠回しに脅迫すると、麻子はいっそうケロリと、
「来週の金曜日は私もちょっとあるもんだから。ちょうどよかったわね」と言うではないか。
何があるのか知れないが、そんなことを言ってると今に後悔するようなことになっても、俺は知らんぞ、と口にこそ出さなかったが、羊太郎は胸の中で呟《つぶや》いておいて、「じゃあな」と憮然《ぶぜん》として電話を切ったのだった。すぐには誰れとも結婚する気はないが、もし将来するとすれば麻子のような女がまあいいんじゃないかと漠然と考えてはいたのだ。
もっとも、とその夕方羊太郎は、急に一方的にデイトをキャンセルされたことへの腹いせで考えを訂正した。麻子のような女がまあいいんじゃないかということであって、何も麻子がいいと言っているわけじゃないからな、と。
金曜の夜を女気なしで過ごしたことなど、自慢ではないが記憶するかぎりでは皆無だ。風邪《かぜ》を引いて寝こんでいても、会社は休んでも女には逢《あ》いに出かけるか、逢いに来させたくらいだ。女に風邪を移して悪いなんて気持も抱いたことはない。どうせ誰れか別の女から移された風邪なのだから。そしてまた羊太郎から風邪を移された女は、別の夜別の男にそいつを移してやるのにきまっている。世の中もちつもたれつ。風邪が巷《ちまた》に蔓延《まんえん》するわけだ。
もしも麻子という女を他のセックス・フレンドたちと区別をするとすれば、多分ゆいいつ、風邪を移すことを躊躇《ちゆうちよ》するだろうという点だ。躊躇はするが、結局風邪を移してしまうことにはなるのだが。
しかしこのチラとでも相手の健康を思いやるという配慮を男にもたせることができるだけ、麻子は他の女共と一線を画しているわけだから、その点彼女は謙虚にならなければいけないのだ。二週間も続けて金曜の夜のデイトをキャンセルするなんて、言語道断もいいところだ。
腹立ちまぎれで次々とピンチヒッターに電話を入れたが、案の定、みんな空振り。それもこれも麻子のせいだと、マイルドセブンの吸口を前歯でギュッと咬《か》んだとたんに、またしてもミズ桑野の眼と、眼がぶつかった。
何もかも見通している眼だ、と羊太郎は思った。あの女の顔の上に浮いているのは嘲笑《ちようしよう》気味のわけ知りの表情だ。その薄ら笑いをいつか泣き面に変えてみたいものだ。
ああいうタイプの女はむろん羊太郎の趣味には入らないが……しかし眼鏡を外したらどういう顔になるのだろうか? 彼はミズ桑野の硬質の顔の上から眼鏡を外したところを想像してみた。
鼻が横に広がりすぎているのと、口元が人を小馬鹿にするように少し突き出ている感じが気にはなるが、あのアメリカ未亡人眼鏡をとればまあ人並の器量ではある。
ついでにミズ桑野のグレーのカーディガンと、その下の男物のようなシャツを想像の中で剥《は》ぎ取ってみる。細からず太からず。少々胸のあたりが物足りないが、それは我慢するとして。
ミズ桑野を凌辱《りようじよく》する自分の姿が眼の中にチラついた。ああいう女は案外、いざとなると淫乱《いんらん》である場合が多いのだ。
あのとりすましたわけ知り顔が快楽の歓びに歪《ゆが》むのを是非とも見てやろうではないか。そして虫ケラみたいに、一度だけで棄てるのだ。
もっとも、そう考えたのは羊太郎の中の悪魔の部分で、良心の方は多少はびびってはいたのだ。
状況としては、ミズ桑野の眼と、羊太郎の眼とが、オフィスの机越しに出合ったところで停止している。
「桑野さん、今夜は何か予定が入ってる?」
羊太郎の口が動いて、羊太郎の本当の意識がまだきめかねているのに、言葉が先行してしまった感じだった。
「どうしたのよ? 相手してくれる女がいないの?」
そこまであからさまに言わんでもいいじゃないか、と、羊太郎の顔に血が昇った。売り言葉に買い言葉だ。
「はっきり言ってそういうこと」
「女なら誰れでもいいような言い方だわね」
何を血迷ったのか、ミズ桑野が妙に絡んだ。
「そこいらへんのあなたのセックス・フレンドと一緒にしないでもらいたいわね」
「そいつはおっしゃいましたね」と羊太郎も眼には眼だ。「別にあんたをベッドにお連れしようと思ったわけじゃないんでね。自惚《うぬぼ》れてもらっちゃ困るよ」
「それじゃ何? ただで夕食をご馳走《ちそう》してくれるとでもいうの?」
やけにただでというところに力を入れてミズ桑野が言った。何でこんな女にただ飯を食わせなければならないのだ、と羊太郎は鼻白んだ。飯など予定には入ってもいなかった。早いとこやってしまって、あとは徹底的に冷酷に、虫ケラのように。ほら『カサブランカ』のハンフリー・ボガードのようにだ。女が『昨夜はどこにいたの?』と訊くとボガード扮《ふん》するところのディックは冷たく答えるのだ。
『そんな大昔のことなど憶《おぼ》えちゃいねえな』
『それじゃ今夜逢ってくれる?』女は哀願する。ディックが言う。『そんな先のことまで、予定がたたんよ』
ただ飯食わせて逃げられては元も子もないではないか。
「飯は割勘ということにしようよ。桑野さんの方が給料多いんだからさ」
すると、ミズ桑野の眉《まゆ》が片方ぴくんと跳ね上り、未亡人眼鏡の上方に飛び出すのが見えた。
「自分のお金だして食事するんなら、相手を選びたいわね。趣味のいい男といい会話しながら食べたいわ。でなければカウンターに坐って、店の親父さんの話でも聞きながら一人で食べた方がよっぽど気が楽よ。所詮《しよせん》あなたみたいな新人類とは話も合わないし、気も合わないからね」
それだけ一気に言うと、ミズ桑野はさっとバッグに手を伸ばして席を立って歩きだした。
「お先に失礼。本当はおデイトなんだ」
「あんたのその年じゃ相手は妻子持ちなんだろうね。今流行の不倫の関係ってわけだ?」
「ところがどういたしまして。私は人のおふるは嫌なのよ」ミズ桑野は肩ごしに言った。「今夜の相手は劇団の研究生。水もしたたるいい男で、あんたよりずっと若くて純真よ」
歯ぎしりせんばかりの羊太郎をその場に残して、ミズ桑野は若いジゴロに金を注《つ》ぎこみに行ってしまったのだった。
伊沙子のことを思いだしたのは、その直後だった。麻子への腹いせのつもりのミズ桑野に見事に背負い投げをくらった感じで、羊太郎はますます面白くなかった。麻子とミズ桑野の二人分の復讐《ふくしゆう》をしないことには、気持がおさまりそうにもなかったのだ。
伊沙子の顔が羊太郎の脳裏を不意によぎったのは、彼女が、彼の嫌いな働く女のタイプを代表しているからだった。要するに伊沙子は麻子の三年後の姿であり、ミズ桑野の九年ばかり前の姿であった。
伊沙子という女には二か月前に逢《あ》ったきりになっていた。なんでも彼女の二十六回目の誕生日だということで、けったいな感じの同じような仕事をしている女四人ばかりで、六本木の焼き鳥屋で気炎を上げていたのだ。
そこで同僚の植田と飲んでいたところから自然に女たちに声をかけて――声をかけたのは植田であったが――その二時間後に伊沙子と渋谷のラヴ・ホテルにくりこんでいたという事の成り行きだった。
口説き文句を並べたわけでもなく、押し問答があったわけでもなかった。そうなのだ、気がついたら伊沙子という名の女とラヴ・ホテルのベッドの中にいたという感じなのだった。
そういうイージーな出逢いだったので、忘れるのも簡単だった。事実、翌日にはすっかり忘れてしまった。
確か名刺があったはずだ、と、羊太郎は仕事関係以外の名刺を雑然と放りこんでおく引出しの中をかきまわしてみた。
十分ほどゴソゴソやっているうちに名刺がみつかった。商事会社の秘書課とある。あの時は気にもとめなかったが、一流会社だ。ちゃんとしたところの娘でなければ、まずは採用されないはずであった。何がちゃんとしたところの娘なものか、と羊太郎はおかしくなった。もっとも家庭はちゃんとしていても娘の方がちゃんとしていないということはままあるが。
ダイヤルを回すと若い女が出て、「お待ち下さい」と言った。かなり待たされたような気がしたが、伊沙子が出た。心なしか記憶にある声と違う。
「小西さん?」乾いたよそよそしい声でそう訊《き》き返した。
「なんだ、忘れられてたのか」自分の方こそ二か月も忘れていたことは棚に上げて、彼はなんだか傷つけられたような気がした。それで相手を多少辱しめてやろうというような作意から「一度くらい寝ただけじゃ、すぐ忘れるのかい?」と言ってやった。
それで伊沙子には誰れだかわかったようだった。「またどういう風の吹き回し?」ときた。
そういう言い方をする女は羊太郎はもともと嫌いだった。
「今夜ひまかい?」と彼は熱意の失せた声で一応訊いた。電話をしたのだから用件も言わずに切るのも妙だったからだ。
ところが相手の言うことが頭に来た。
「あら、どうしたの? 他の女たちにふられたの?」
伊沙子の姿がミズ桑野と重なった。同種類だと思った。伊沙子のために残念と言わねばならぬ。ミズ桑野よりはるかにきれいな女なのに。
きれいだったということを、唐突に羊太郎は思い出し、受話器を握りながら眼を二つ三つ瞬《しばたた》いた。そうだった。なかなかきれいでいい女だった。
「実はそうなんだ。約束していた女の子が急用でだめになってね。金曜日に野郎《やろう》が一人で飯食ってもしょうがないしさ」
「それで私を思いだしたってわけね?」女の声が急に冷たくなるのが感じられた。もう少し言いようがあったかなと後悔したが、遅かった。
ところがである。驚いたことには、相手が承諾したのである。
声の感じといい、喋《しやべ》り方といい、お高く止っていたのでほとんど諦《あきら》めかけていたものだから、羊太郎は一瞬狐につままれたような気分だった。伊沙子は先約があるから、ほんの二、三時間くらいしかつきあえないけど、と、クールな、感情のこもらない声でそう言って、羊太郎の突然のデイトの誘いを受け入れたのだった。
あらかじめ電話で予約しておいたホテルルームのチェック・インを済ませておいてから、羊太郎は地下のバーへ向った。女と一夜を共にする時にはよくやることなので、彼としては手なれた行動だった。伊沙子が二度目のベッド・インを断るとは思えなかった。あれくらい経験のありそうな女であるから、こういうホテルのバーで待ち合わせるということは、その後の可能性も計算に入れているはずである。それに第一、初めて出逢った日のその二時間後に見知らぬ男とラヴ・ホテルへしけこむような女と、もう一度寝る以外に何をしたらいいというのだろうか。相手だって同じはずだ。
女を待ったがなかなか現れない。まさかすっぽかされるのでは、と、すでに支払い済みのホテル料金のことを考えると苛々《いらいら》した。
ふと入口に女の気配がしたので見たが、違う。伊沙子はもっともったりとした感じの女だった。その女はなかなか美人で男心をそそる女だった。誰れと待ち合わせるにしても、待っている男は幸運な奴だな、と羊太郎は他人の男に嫉妬《しつと》さえ覚えたほどだ。
女は、髪を揺らせながら歩いて来る。色が白くて、髪が黒くて、そして唇が真紅だ。黒いスカートにブルーのセーターという出立《いでた》ち。肩にかけるようにはおっているのは、肩パットの張ったロングコート。若い頃のローレン・バコールみたいな感じの女だった。
驚いたことには、それが伊沙子だった。二か月で女というものはこうも変るものなのか?
「髪型を変えたのよ」と彼女は片手を髪にやって薄く笑った。しかし髪型だけではない。全体にすっきりとしまった感じだ。
「痩《や》せたのよ、三キロも」と彼女は答えた。
「ダイエット?」
「まさか。恋やつれ」
そう聞いたとたん、頭の中が赤くなったような気がした。この後に伊沙子が逢うことになっている男なのだろうか? その男に伊沙子を会わせたくないと羊太郎は突然思った。
「ところでどうしようか?」と、彼はポケットの中に手を忍ばせ、ルームキーにそっと触れながらあいまいな口調で訊いた。
「どうするって?」まるで何も気づかないみたいに涼しい顔。
「だから軽く飯でも食ってさ。それから」
相手は全然乗ってこない。
「ここでお喋《しやべ》りしない?」
「でも二時間もあるんだぜ?」と羊太郎は強硬に出た。「そこのレストランでカレーでも食って部屋へ上ろうよ」
と、ポケットからキーを取りだして、ちらっと伊沙子に見せた。
羊太郎の予想では、そこで伊沙子がニヤリと笑い、「負けたわね」とか「要領がいいのね」とか言うはずだったのだ。彼の記憶にある伊沙子ならなんのかのとあまり抵抗もせず、一杯飲んだあと、羊太郎の後からスイと立ち上ってそのままエレベーターで上の階まで行くような女であったはずなのだ。
眼の前の伊沙子はまるで別人のようにふるまっていた。ほとんどレディーのようにふるまった。先夜は娼婦《しようふ》みたいだった同じ女が良家の子女のように抵抗するのであった。羊太郎はわけがわからなかった。
そんなのは初めてだった。女なんてものは一度寝てしまえば、二度目も三度目も簡単にそうなるし、むしろそうならなければむこうの方から何かとアプローチしてくるものなのだ。
そういえば伊沙子は二か月、こっちから何か言っていくまで、何のアプローチもなかった。
妙な女だと思った。
「女と逢ったら寝ることしか考えないの?」と伊沙子はいかにもバカにしたようにそう言った。「それじゃまるで女のことセックスの道具みたいに考えているのね」
「しかし女の方だってそうだぜ」と羊太郎は言い返した。「男をセックスの道具みたいに考えている女をたくさん知っているよ」きみもその一人だと言わんばかりの口調。いや、一人だった、と彼は胸の中で訂正した。
「だとしたら」と伊沙子の眼が怒りで燃え上るのが見えた。「もう電話をくれなくてもいいわ」
ガンと頭を撲《なぐ》られたような気分だった。
「わかった。こっちもそのつもりはないさ」と伝票に手を伸ばして立ち上った。
見たこともない伊沙子の今夜のデイトの相手を殺してやりたいほど、腹立たしかった。伊沙子という女も、生意気で、お高くて腹立たしかった。そして何よりも、自分という男に羊太郎は猛烈に腹を立てていた。三人の女たちにたて続けにふられるなんてことも後にも先にも初めての経験だった。その三人の女たちのおかげで、自分という人間が、女の下着を引き下げることしか頭にないかのような男に思えることが、何よりも腹立たしかった。羊太郎をそこまで下劣な男におとしめた女たち全部が憎らしかった。
二度と電話などしないぞと思ったにもかかわらず、羊太郎は伊沙子に連絡したいという欲求に悩まされ始めた。
さすがに舌の根の乾かぬうちの実行は止めたが、二日目三日目は砂漠の中を水なしで行軍する兵士のような気分で時間をやりすごした。
もう一日も待てなくて四日目についにダイヤルを回した場所は、自分でも信じられないことに、伊沙子の勤める丸ノ内の公衆電話からだった。
自分がどうやって丸ノ内まで出かけて行ったのかさえ、おぼろげな記憶だった。とにかく、逢って伝えなければならなかった。何を?
一体何を伝えなければならないのか、羊太郎にはわからなかった。俺《おれ》以外の男には逢うな、逢っては欲しくないのだ、というのが、言いたいことといえば一番言いたいことだ。
だがそんなことがどうして言えるのか。たった一度だけしか寝たことのない女だ。しかも二か月もケロリと忘れていた女である。
羊太郎には、彼女に他の男とつきあわないでくれという権利はない。しかしそれこそが今、伊沙子に言いたいことの全てだった。
つけ加えることは何もない。愛しているから、他の男には逢《あ》ってくれるなと言えたらどんなにいいかしれない。そうなのだ。愛しているからと言えたら、心がどんなに楽になるかしれない。
けれども、羊太郎は伊沙子を愛しているわけではない。初めて逢ったその日に男についてホテルへ行くような女を、どうして愛せるだろうか? いやそんなことではないのだ。そんなことは問題ではないのだ。愛というのは全てを許すことなのだから、そんな娼婦《しようふ》のような女だって許すことができれば、愛することはできるのだ。
俺は彼女を愛してはいない。だけども他人にも渡したくはないのだ。こんな苦しい思いが他にあるだろうか。
その苦しい思いが羊太郎を丸ノ内くんだりまで運んで来てしまったのだった。
伊沙子はたいして乗り気でもなさそうな声で昼食を一緒に食べることを承知したが、羊太郎は自分が何を食べたのか全く憶《おぼ》えていないしまつだ。そして話題はといえば、なぜか二人に関することではなく、もっぱら最初の日に同席していた人たちの噂話《うわさばなし》だけに終始したのだった。
その後もひんぱんに伊沙子と逢うようになったが、二人の仲は、最初の日ほどに打ちとけることは一度もなかった。
羊太郎は、彼女に強く魅《ひ》かれながらも、心の底のどこかで激しく彼女を嫌悪しているような矛盾する二つの感情に悩まされ続けた。彼はどうしても、初対面の二時間後に、見も知らぬ男とベッドへ行くような女を、本質的に許せないのだった。その見知らぬ男がたとえ自分でもそれは同じことだった。
だから伊沙子がその後どんなことがあっても、彼のベッドの誘いに応じないことは、彼には驚きというよりもショックであり、彼の胸はそのために波立つのであった。
街に冷たい風が吹く季節だった。この二週間ばかり伊沙子とは逢っていなかった。羊太郎の方から逢わないようにしていたのだ。そうして自分の心を試してみようとしたのだ。
二週間過ぎてから電話をすると、今度は都合が悪いと彼女は冷たい声で言ったのだ。
「どうして?」と羊太郎の声は金属音を含んだ悲鳴のように響いた。
「だってあなたから連絡があるとは思わなかったから。ちょっと約束があるのよ」
男だ、と直感した。例の男だ。もしかしたらその男とはまだ始終逢っていて、デイトのたびに寝ているのではないか? だから自分の誘いには乗らないのではないかと妄想が高じた。
「先約なんか断れよ」と羊太郎は強い調子で命令した。
「断る理由がないわよ」と、伊沙子も同じような強い調子で言い返した。
「理由ならある」と羊太郎は送話器の中に喚《わめ》いた。「俺たち、結婚しよう」
そう言ってしまって、彼は自分の言葉に愕然《がくぜん》とした。思わず口走ってしまった言葉が、実は案外自分でも気づかない本心だったということは、ままあることである。しかし羊太郎の場合は絶対に本心なんかではない。彼は結婚したくはなかった。伊沙子とは、更に、結婚などしたくはなかった。彼は狼狽《ろうばい》した。
「そういうことなら」と伊沙子はゆっくりとした調子で、一言一言含めるように言った。「先約を解約することにするわ」
耳のせいかもしれないが、伊沙子はまるで羊太郎のプロポーズを予想していたかのようにそう言った。少なくとも、彼女は驚かなかった。驚いたような気配は、電話を通しては伝わってはこなかった。
「そういうことなら」彼女はまたしても言った。「今夜|逢《あ》いましょう」
羊太郎は奇妙なことに、伊沙子に逢いたくなかった。まともに顔をみたくないような気がした。なぜだかわからないが、後ろめたいような、そんな気分なのだ。何も悪いことをしていないのに後ろめたいのはどういうわけなのだろう?
愛してもいないのに、結婚なんて申し込んだからだった。それは彼女に対して誠実とは言えないのではないかと思うのだ。
男の方はいいのさ、と羊太郎は半ば、自暴自棄な気持で考えた。男には仕事があるし、ある意味で仕事だけが生きがいである。
しかし女はそうはいかない。家庭こそが全てであり、夫が全てである。スタートでつまずいてはならないのだ。愛されてもいないのに、結婚などすべきではないのである。羊太郎は心からそう思ったし、その時は伊沙子を可哀相《かわいそう》だとさえ感じたくらいだった。
だが、実際に伊沙子の顔を見たとたん、彼の心は疑惑でいっぱいになった。伊沙子の顔に浮かんでいるのは、幸福な微笑というよりは勝利の笑いに近かった。
ほくそえんでいた、といえばあまりに悪意にとりすぎているかもしれないが、それが羊太郎の正直な感想であった。
罠《わな》だったのではないか、と彼は考えさえした。全ては、彼女の計算だったのでは?
伊沙子は美しかったし、魅力的だったし、レストランの中で何人かの男たちがちょっとまぶしそうに彼女を見たのも知っている。女たちがある種の羨望《せんぼう》の視線を彼女に浴びせたのも気がついていた。羊太郎の自尊心はそれで満たされはしたが、同時に彼は冷たい汗をびっしょりかいていた。
眼の前に坐っているその美しい女の人生を、一生自分のそれとよりあわせるのだと思うと、足が萎《な》えるような気がした。彼はとうてい視線を上げることができず、膝《ひざ》の上に置いた自分の手を凝視していた。
「どうかしたの?」と伊沙子が訊《き》いた。とても柔らかく優しい声であった。優位に立っている人間だけがもつ、気持のゆとりからくる優しさだ、と羊太郎は感じた。
「俺たち、今夜、寝ようよ」と残酷さをむきだしにしたような調子で彼は、提案というよりは命令するように言った。
「婚約したんだから、もういいじゃないか」
もしも彼女がそれで承知したら、ホテルへ行って、それからタクシーで送り返し、婚約は破棄だ。理由など何でもいい。泣こうが叫ぼうが婚約は破棄だ。
「いいじゃないか。もう結婚をしたのも同じなんだから」自分でも嫌悪感を覚えるような猫なで声だった。
YESといえよ。YESと。そしたらきみを喜んで捨ててやるから。頼むからYESと言ってくれ。
伊沙子は言わなかった。ニッコリ笑いながら、だ・め・よ、とまるで幼稚園児に言いきかせる若い保母のような口調で羊太郎の要求をしりぞけたのだった。
「それよりも、私の両親に逢《あ》ってもらいたいし、あなたのご両親にもごく近いうちにお逢いしたいわ」
「まあな、そのうちに」
「え? そのうちって?」と、彼女の表情が心なしか白っぽくなった。「そんなあいまいな段階じゃないでしょう?」それから白っぽくなった表情を急に柔らかく崩すと、「だって私たち、婚約したんじゃないの、そうでしょう?」とゆったりとした感じの声でつけたした。
「結婚式はいつ頃がいいと思う?」と訊くから「まだそんなに急がなくてもいいんじゃないかな」と答えると、再びあの白っぽい表情になって「婚約してから結婚式までは、短いほどいいのよ」と言うのだった。「六か月以上だと、破談になるケースも出てくるし」
喜んで六か月以上にするよと言いたいところを、羊太郎はぐっとこらえた。
「じゃ一応、六か月以内ということにしようか」と彼は最大の譲歩をしたのだった。
それが来年の一月の末日と急に日取りが大幅に短縮されたのは、彼女に言わせると、彼女の祖母の日蓮《にちれん》さんのお告げと、それから家相と姓名判断の結果であった。
「一月三十一日までに結婚しないと、私たちの場合、幸福になれないんだって」と、さっさとホテルの式場を申し込んでしまった。そんなに急によくとれたものだと思ったら、仏滅であった。万事休す。羊太郎の心こそ仏滅。真暗だった。
人のことはわからないが、男が女に結婚を申し込む瞬間なんて似たようなものなのではないだろうか。冷たい汗をかき、場合によっては吐き気がするのをこらえながら、愛してもいない女の一生をしょいこむ約束を口にする。一体なぜなんだろう?
不本意なことこの上もない。罠《わな》にはまったような気がするのだ。どうやらそれも自らが作ってしまった罠らしいのだが。
「今月一杯で会社に辞表を出そうと思うの」と伊沙子はうれしそうにいった。
「どうしてさ?」羊太郎はぎょっとした。女に会社を辞めてくれなどと頼んだ覚えはない。
「だっていろいろ準備があるし。第一あなた女が仕事するの、反対なんでしょう?」
女が仕事をするのはかまわないのだ。彼が好きでないのは、いかにも仕事していますのっていうタイプの女だ。男と同等に仕事してますのよ、って鼻にかけてる女たちだ。
ほんとうに男と同等を意識するなら、そんなことは鼻にかけるなと言いたい。男だって仕事をしているが、そんなことは改めて鼻にかけたりはしない。
伊沙子がそういう女の典型的タイプだというのではない。しかし彼女はミズ桑野の予備軍であることは確かだ。そして伊沙子の女友だちの鼻持ちならないこと。どこかの雑誌の編集者をしている愛子という女のひどいこと。
その愛子のどこが気に入ったのか、同僚の植田が時々逢っているらしいのだ。
「きみの友達の女編集者みたいになって欲しくないけどね、女が仕事をすることに反対なわけじゃないよ。きみに仕事を止めろなんて、一度も言った覚えもないし、それに言うつもりもない」
「あら、愛子のどこがいけないの?」
「可愛げのないところ」
「そうかしら。あれであんがい女らしいところがあるんだけど」
「恥じらいのない女は嫌だな」と言ったら、「恥じらう女ってのは下手するとコケットリーにおちいりやすいのよ」などと伊沙子が言い返した。
「そういう物言いは、完全に愛子って女の影響だな」と羊太郎は言った。「そんなに愛子の生き方をいいと思うのなら、いっそのこときみも真似《まね》したらいいじゃないか」
「真似するって?」
「だからさ、男の働きに頼りきって、べったりと亭主にしがみつかないで、自分の基本的なめんどうくらいみれる女でいて欲しいってことさ」
「あら?」と伊沙子は眼を丸くした。
「自立している女がお好みだったの?」
「自立している生意気な女は嫌だけどね」
「経済的に自立していることだけが、女の自立だとは言えないわ」
「まあそうだな」と羊太郎は適当にあいづちを打っておいた。
「経済的に一人立ちしている女でも、自立してない場合をたくさん知ってるもの」
「そんなものかな」
「要するに精神的に一人立ち出来てるかどうかってことだと思うのよ。それと肉体的に自分をコントロールできるかっていう問題ね」
「肉体的な自立ってのはどういうこと?」羊太郎は興味を覚えて訊《き》いた。
「つまりね、自分の肉体の欲望をコントロールできるかどうかっていうこと」
「つまり俺たちみたいにだね」と羊太郎は強い皮肉を声にこめた。
「ほんとうはがまんすることだけを指して言っているんじゃないんだけど。コントロールするということは、欲望を抑えることと、もうひとつ欲望を満たすことの両方を意味するのよ。その両方を上手くコントロールできる人を、肉体的に自立している、っていうの」
「俺たちはそうすると欲望を抑えることのみコントロールしているわけだから、自立した男と女とは言えないね」と逆手にとると、伊沙子は躰をすりよせるようにして「それもあと二か月とちょっとの辛抱じゃないの」と甘い声で囁《ささや》くのであった。
会社ではあいかわらず羊太郎はミズ桑野ににらまれている。
「どうしたの。この所ずっと冴えないじゃない」と部課長に聞こえるような大きな声で言うのだ。わざとだ、と羊太郎は思う。わざとみんなに聞こえるように言うのだ。同僚の足を引っぱるのはもっぱら男だと思っていたが、女にもいたというわけだ。もっともミズ桑野を女とみなせばの話であるが。
羊太郎が無視することにきめて黙っていると、ミズ桑野はニヤリと笑って回りこんで来るではないか。
「この所ひんぱんに電話がかかってくる女のせいね?」とわけ知り顔。
「そんなにひんぱんになどかかって来ないよ」と、なぜか伊沙子をかばってやりたくなる。まだミズ桑野よりは伊沙子の方が可愛げがあると思うからだ。
「そうでもないわよ。あなたが外へ出ている時に、一体誰れが電話を取ってあげてると思ってるの」
「俺《おれ》のダイヤル・インの電話を、あんたにとってもらわなくてもいいよ。頼んだ覚えもないし」
「でも誰れかがとらなくちゃ。ね? 会社は休みじゃないんだから」
「しかし、そんなに度々電話を受けてもらったわりには、伝言など一度も残してはくれないね」とチクリと皮肉。
「私用の伝言をメモする義務は全くないものね」とミズ桑野は威丈高に言った。
「私用かどうか、きみにどうしてわかる?」
「あんた誰れにむかって言ってるつもり?」とミズ桑野はニヤリと不敵に笑った。つくづくと嫌な女だ。「私が何年この道で働いていると思ってるの? 仮りにもスポンサーと消費者相手に、両方を立てる仕事なのよ。かかってきた女が、仕事の関係か、ただの女か、それくらいのことがわからなくてどうするの?」
「驚いたね。声でわかるっていうの?」
「声でもわかるし、言葉遣いでもわかる。間のとり方、呼吸のしかた、最初のもしもしで、わかっちゃうことだってあるわよ」
「しかし、俺にかかってきた女だって、たいてい仕事している女だぜ」
「どのていどの仕事をしているか、それが問題だわね。それから、あんまり女から会社に電話が入らない方がいいと、私は思うけどね」
「大げさに言うねえ」と羊太郎は嫌気がさして言った。
「あーら、大げさじゃありませんよ。昨日なんてその同じ彼女から四度も電話があったわよ。何かトラブルなの?」と、最後の一言の時、ミズ桑野の顔が好奇心で輝くのを羊太郎は見た。
トラブル? と彼は胸の中で呟《つぶや》いた。そう、トラブル。人生の最大のトラブルさ。彼はそれきり企画書に眼を移した。
二ページも書かないうちに机上の電話が鳴った。ミズ桑野がジロリと眼を上げるのが視界に入った。彼女に俺が結婚するなんてことが知れたら、鬼の首でもとったみたいに小躍りするだろうとふっと思った。ミズ桑野は他人の不幸、とりわけ小西羊太郎の不幸がうれしいのだ。
「もしもし」と不機嫌を隠せない声で言った。
「なんだよ、二日酔いか?」と男の声。ほっとした。営業の植田だった。植田とは、スポンサーが共通なので、一緒に行動をとることが多いのだ。飲むこともよくある。伊沙子らと初めて逢った夜一緒だったのが植田だった。
「いや、違うよ」と羊太郎は苦笑した。
「じゃ、なんだって地獄の底から聞こえてくるような声で喋《しやべ》るんだ?」
「原因ならミズ桑野に訊《き》いてくれ」
「またやりあったのか?」
「他人の私用の電話のことで嫌味を言われた」
「なるほど」
「で、そっちの用事は? 今夜あたり一杯飲むか?」
「いや、今夜は先約がある」
「女か?」
「うん、まあね。ところで話がある。ちょっと出れるか?」
なぜか羊太郎はミズ桑野の方をチラとうかがい、「ああいいけど、何か重要な話なのか?」と訊いた。
「逢ってから話すよ」と、植田の電話が切れた。
会社の近所の喫茶店に行くと、すでに植田はいた。テーブルのコーヒーも半分ほどに減っている。
「ここから電話をしたんだよ」と彼は言った。
「あんまり時間がないんだ。話っていうのは?」と羊太郎が訊《き》いた。
「ひどく言いづらいんだがね」と植田が口ごもった。「伊沙子さんのことだ」
「彼女のこと?」
「昨夜愛子と一緒だったらしいんだ」
「ああ、それで?」
「パブで昔の男友だちにひょっこり出逢《であ》ったらしいんだな」
「愛子さんの?」
「いや違うよ。伊沙子さんの」
「男友だちくらい、いたろうからね。偶然逢ったって不思議じゃないさ」
「問題はこれからだ。二人はたちまち意気投合して、ヤケボックイに火さ」
「二人?」
「だから伊沙子さんと昔のセックス・フレンド」
「セックス・フレンド?」
「と、愛子はそういう言葉で言ったがね。要するに、気の毒な愛子をその場にすっぽかして、二人でホテルへ行ったというんだ」
「愛子さんは二人の後をつけたのか?」
「そんな趣味の悪いことをするかっていうの」
植田は気分を害したようだった。
「じゃなぜわかった?」
「それは大人の女同士だ。眼つきでわかるって」
「確かなのか?」
「あの様子じゃ百パーセント確かだと愛子は言ったよ」
羊太郎はそこでようやく問題の意味するところを考え始めた。
「こんなこと言いたくはなかったんだが……」と植田が気の毒そうに眉《まゆ》を寄せた。
「いや、言ってもらってよかったよ。心配するな」
「気を落すなよな」
「ああ」
「大丈夫かおまえ?」
「ああ、大丈夫だ」
「ショックだとは思うが……」
「まあね」
「で、どうするんだ? 伊沙子さんとは?」
「考えてみるよ」
「うん。人生、たった一度の過ちってこともあるしな。あんまり性急に結論を出さん方がいいかもしれんな」
「ところで、おまえ、愛子さんとはどうするんだ?」
「どうするってこともないが……」
「伊沙子からいろいろ訊《き》いてるぞ。知りたければ話してやってもいいよ」
「いや」と、植田は何かを強く拒否するように右手を前に差しだした。「言わんでもいいよ」それからはっとしたように、「俺、伊沙子さんのこと、言わなかった方がよかったのかな?」と、後悔の声で訊いた。
「いや、いいんだ。言ってもらって、よかったんだ」
羊太郎はフラリと立ち上った。しかつめらしい顔をしつづけるのが限度だったからだ。喫茶店の外に出ると、耐え切れず笑いだした。
一人笑いしながら歩いていく彼を見て、人々がケゲンな顔をしたが、かまうことはなかった。笑いが次から次へとこみあげて来て涙まで流れた。俺はこれで自由になれる。伊沙子との婚約を堂々と破棄できる。
オフィスに戻るとミズ桑野がけんめいにスポンサーへの報告書と格闘中だった。その背中を見ながら、羊太郎はふと言った。
「桑野さん、昼飯おごるから一緒に食おうか?」
ミズ桑野の皮肉な眼が光ったが、もう羊太郎は少しも怖くはなかった。すばらしい解放感だった。
結 婚 女の場合
貸衣装の試着をしたら、胃からウエストにかけてカギホックがとまらない。ぐいと胃袋と腹部を引っこめて空気を抜けば、なんとかなるが、空気を抜きっぱなしというわけにもいかない。
「無理ですね」と、ホテルの貸衣装係のマネージャーみたいな男が首をかしげた。頭髪を油でテカテカにして七・三に分けている。「はっきり言って、ドレスよりウエスト・サイズの方が大きいんですから。別のドレスになさった方がよろしいのでは?」
それにしてもずいぶんはっきり言うじゃないの、と今日子は憮然《ぶぜん》とした。多少は自分自身に対しても腹を立ててはいたのだ。
一月ばかり前に貸衣装を選びに来た時より、完全に三キロは肥えてしまったのだ。一か月で三キロというのはちょっとひどい。油断をすると肥えやすい体質であることはわかっていたが、この分で計算すると一年で三十六キロもオーバーすることになる。
原因はわかっている。暴飲暴食だ。なんのかのと理由を作っては、友だちと飲んだり食べたりした結果なのだ。『独身最後の会』というのが連日連夜だった。友だちが多いというのもこうなると考えものだと思った。
暴飲暴食の上に、緊張感を欠いたこと。これがいけない。
結婚の日取りがきまり、式場が決定し、お嫁入り道具も早々とそろえ新居となる彼のマンションに送りこんでしまうと、とたんに気がゆるんでしまったのである。
思えば結婚に至るまで長い道のりであった。学生の頃からのつきあいだから、足かけ六年。恋愛関係になってからは四年。
結婚の相手と意識したのはほんの数か月前のことだ。彼が突然郷里の両親に呼び戻され、三日ばかり東京を留守にした時だった。お見合いだ、と今日子はぴんときた。
そのとたんだった。三郎を他の誰にも渡せないと思った。
それまでは、恋愛と結婚は別だとお互いに口では言わないまでも、割り切っているようなところがあったのだ。三郎など「こいつをとにかく無事に嫁にやらないことには、俺も落着いてカミさんもらえないからな」と、今日子の後頭部を指で突きながら、悪友たちの前で笑ったりした。
今日子の方も負けずに、「いいからあたしのことなんて心配しないで、いい人がみつかったらさっさと一緒になってよね。お嫁さんもらいそこねて男ヤモメにウジをわかせても、あたしのせいにされたら困るもの」などと言い返した。
会社の同僚にいい男がいるんだと言って、デイトの時に三郎が引っぱって来た時もあった。確かにいい人ではあり誠実そうでもあったが、問題は今日子の好みに合わなかったことだ。
「野心とか豪放さみたいなのに欠けるのよね」と後で彼女が感想をもらした。
「人生はギャンブルじゃないんだからな。誠実で健康な男が亭主としては一番なんだぞ」と三郎は同僚を肯定した。
「そうかもしれないけどね、ただ――」と今日子は男の姿を思い浮かべながら言った。「あの人と二十年も三十年も一緒に暮らすというイメージが、どうしてもわいてこないのよね」
「この際、イメージなんかどうでもいいじゃないか」
「だめよ。イメージってのは大事なのよ。相手が仕事して、あたしが子育てに忙殺されている時はなんとかごまかせるかもしれないわよ。でも子供たちが手を離れて巣立ってしまったあとのことを考えなくちゃ。定年になったあの人と一日中顔合わせて生きていくことを考えなくちゃ。とても耐えられないわね」
「せっかく紹介してやったのに」と三郎は膨《ふく》れ面をした。
「紹介してくれなんて頼んだ覚えはないわよ」
とそこで口論になり、一、二週間はどちらからも電話をかけあわない。
別の時には今日子が三郎に若い女の子を引き合わせてあげたこともある。何度もある。
「おまえね、俺《おれ》の好みを知っているくせに。わざと好みでない女を連れて来るみたいだぞ」
「女は外見じゃないの、心根《こころね》なの。ほんとうに男ってバカなんだから」
「しかしあんな肉のつきすぎたのは、気色悪いぜ」
「妻になる女の第一条件は、子供を産める躰《からだ》かどうかを見ることよ。痩《や》せぎすで骨盤の細っこい女に、ろくな子供が産めるわけないでしょ」
「かといって、おまえの連れて来た女の子みたいなのじゃ、子供を産ませる以前の行為そのものも、思わず躊躇《ちゆうちよ》するんだよな」
「冗談言わないでよ。人の気も知らないで。あたしの顔つぶすような悪ふざけばかりしてさ」今日子は心底腹を立てて「絶交だわ、もう」と宣言した。絶交状態はやっぱり一、二週間は続いたが、結局うやむやになっていつのまにか仲直りしている。
三郎が見合いをしたらしいとわかったのは「俺、ちょっと仙台に帰ってくるからな」と、まるで近くの郵便局に行ってくるみたいに彼が軽く言った、その軽さでピンときた。
「お見合いでもしてくるつもり?」相手と同じ程度の軽さで、今日子が質問をひょいと投げた。
「見合い? そんなもん、この俺がするかって」実に、実に自然な普段の三郎らしい態度で否定した。鼻の先で薄っすらとせせら笑いもした。
だが、その実に実に自然な態度というのが、時と場合によっては、ひっかかるのだ。その時が正にそうだった。そのさり気のなさが、逆にうさん臭いのだった。
似たような状況を今日子も前に体験していた。一時《いつとき》、三郎の親友の良介に心を魅《ひ》かれかけた際のことだった。
「良介に気があるんじゃないのか?」と、三郎が何かのついでにからかうような口調で訊《き》いたことがあった。どうしてそんなことがわかるのかとぎょっとした。しかしそんなことは臆面《おくめん》にもださずに、ケロリとして、
「良介? なんであたしが良介みたいな男に惚《ほ》れるのよ?」と、鼻の先で一笑したものだった。実にあっけらかんと、さり気なく自然に。あの時のあたしのあのあっけらかんとした口調と、三郎の見合いを否定する口調は酷似していた。それでぴんときたのだ。
週末を仙台で過ごした三郎は、何食わぬ顔で、今日子の前に現れた。
「久しぶりにお母さんに甘えてきたって顔してるわよ」
「お袋の手料理をたらふく食ってきたよ」
「やっぱりいいものでしょ。何がかなわないって、お袋さんの手料理ほど若い女にとって手ごわいものないものね。で、お見合いどうだったの?」
油断していたところへいきなりジャブが飛んできたボクサーみたいに、三郎が上半身を思わず引いた。
「だからさあ、見合いなんてしなかったって」上半身を後へ引いてしまったので、言葉に迫力が欠けた。
「どうして嘘《うそ》つくのよ」と今日子はまともに三郎の眼を見た。「下手《へた》なうそつくから、かえって怪しいのよ。気に入ったんでしょ、相手の女《ひと》」
一瞬、三郎の瞳が横に動いた。眼をそらせるというところまではいかない。が、動揺の気配は充分に見てとれる。
「眼が動いたわよ」追いつめるというよりは、むしろ優しく今日子が言った。ナイフのひと突きで息の根を止めるというより、真綿にくるんで窒息させるような効果があった。
「親の顔立てるためにさ、ちょっと顔だけ出せばいいというからさ、それでしかたなく出かけて行ったんだ」とついに事実を認めた。
「初めからそう言えばいいじゃないの。隠しだてするから疑われるのよ。それで、相手の女の人、どうだったの?」
「どうって?」
「気に入ったの?」
「気に入るとか入らないとかの問題以前だから」と何やらあいまいな返事。
「きれいな人?」
「お姉さんがミス仙台に選ばれたくらいだからね」
「つまり、きれいなのね?」と、今日子は念を押す。「似ても似つかない姉妹なんて世間にはザラにいるのよ」
「どちらかというとお姉さんと似ているんじゃないかな」
「ふうん」と今日子はじろじろと三郎の顔を眺めた。
「何がふうんなんだよ?」と居心地が悪そうに、行きつけのレストランバーの椅子《いす》の中で三郎は、お尻《しり》をもじもじと動かした。
「ま、いいわ。それでどうするつもり?」
「どうするつもりもないよ」
「でも返事はするんでしょ?」
「何か言ってやらんと、いけないだろうな」
「他人《ひと》ごとみたいに言うのね。そりゃそうよ、お見合いしたんだから、気に入ったとか、気に入らないとか、お嫁にぜひもらいたいとか、ご縁がないようだからお断りするとか、何とか言うのが人の道でしょうね。断るのなら、早い方がいいわよ。日が経つにつれて断りにくくなるものだから」
「そうだな」
「そうだな、なんて呑気《のんき》な場合じゃないのよ」
「それじゃどうすりゃいいんだよ? 今この場で電話に飛びついて先方に断りの電話を入れろというのか?」
「なんだか断りたくないような様子ね。断れないような理由でもあるの?」
「時間のことを考えろよ。夜中だぞ。こんな時刻に人に電話するのは非常識だよ」
「真夜中まであと一時間半あるじゃない。十時半ならとりわけ非常識な時間でもないと思うわ」
「見合いの相手に断りの電話を入れる時間としては、非常識だ」
「とかなんとか言って、本心は断りたくないんじゃないの? それが本音なんでしょう」
「妙なことを言うじゃないか? そんなに断りたければ、おまえが自分で直接電話でもなんでもしろよ」
「わかったわ」とあっさりと今日子が言った。「電話番号教えて」
「え?」前のめりにならんばかりの三郎。しかし売り言葉に買い言葉。ここまで来ては後へは引けず、渋々と胸ポケットからアドレス帳を取り出した。
「あら、もうちゃんと彼女の電話番号まで写しているのね」
「しょうがねえだろ。相手が教えるっていうもの、無下にも断れなかったんだよ」
いかにも女文字という感じで、仙台の見合い相手の直筆が今日子の眼に飛びこんだ。
「だけど直接その相手に電話するものなの? 間に入ってくれた人を通して普通返事するんじゃないの?」
「普通はそうだな」と三郎。「しかし俺、仲人にあたる人の電話番号は今もってないよ」
「いいわ、それじゃ」三郎の手からアドレス帳を奪い取りながら今日子が言った。
「なんだよ? いいってどういう意味だよ?」
「どうせいずれは相手の耳に届くことだもの、直接電話しちゃう」
「待ってくれよ」
「あら、どうして?」
「明日、お袋に電話して、お袋の方から断ってもらうことにする」
「なんで明日なの? お母さんに電話して、そのお母さんがお仲人さんにまた電話して、そのお仲人さんが相手の人に電話して、ずいぶん回り道じゃないの。こういうことは一刻も早い方がいいのよ。その方が誠実だし、相手に対しても親切というものよ」
「おまえね、いいかげんにしろよな」とついに三郎が声を荒立てた。周囲にいた客たちがチラチラと二人の方を見た。
「言わせとけば勝手なことばかり言って。一体自分のこと何だと思ってるんだよ? 俺のお袋のつもりか?」
「あなたのお母さんて年じゃないわね」
「俺のことに、あんまり頭つっこむなっていうの。一体何の権利があって、おまえがだよ、俺の見合いの相手に、今夜、しかもここから、この時刻に断りの電話を入れなけりゃならないんだ?」
「権利?」今日子はその言葉を初めて口にするかのように呟《つぶや》いた。権利なら誰よりも自分にこそあるような気がする。しかし、何の権利なのか、と問われると答えられない。
「あれやこれや根掘り葉掘り訊《き》くしさ、挙句には見合いの相手を断れと指図までして。言っとくけど俺にはいちいちおまえに毎日の出来ごとを報告しなければならないような義務はないんだぜ」
「義務なんてないかもしれないけど、そういう習慣にはなっていたじゃないの。お互いに日常の出来ごとをあらいざらい報告しあっていたわよ、あたしたち。それを急にこの件に限りあなたが隠しだてしようとしたから、事態がおかしくなったのよ」
もしかして、隠しだてしようとしたことに、何か特別の意味でもあるのだろうか、と今日子はふと思った。どうでもいいことだったら日頃の三郎ならぺらぺら喋《しやべ》っているだろう。こちらからあえて訊《たず》ねなくとも、進んで「実は見合いをしちゃってさ」と自ら語りだすだろう。
「おまえに知らせなければならないことだったら、とっくに報告してるよ」と三郎は吐きだすように言った。
「これまでには、わざわざ知らせてくれなくてもいいようなことまで事こまかに教えてくれたじゃないの」
「だから、そういうのと、今度のとは違うんだ」
「どう違うの?」
「もっとプライベートなことなんだよ」
「あなたのママが、その昔あなたの家庭教師と不倫をやっていたって話まで聞かせてくれたのに?」それから、俺は十四歳の時にオタフク風邪をやっているから、もしかしたら子供が出来ないかもしれないんだ、とそんなプライベートな問題まで、打ちあけているのだ。それに比べれば見合いのひとつふたつ、どうっていうことはないではないか。
「わかったわ」と今日子は急に表情を緊張させ、冷えた声で言った。「よくわかった。あなた、その女《ひと》と結婚したいんじゃない? だったらそう言えば? そういうことこそ、はっきり言うべきよ。それが男らしいというもんじゃない? あたしに根掘り葉掘り質問なんてさせないでちょうだいよ。それこそ残酷というものだわ」
「ちょ、ちょっと待てよ、待ってくれよ。どうしてそういう方向に話がなるの? 見合いはしたさ、そいつはみとめる。見合いはしたけど、かといって結婚をするなんて言ってないぜ。とにかくもう止そうよ、ごちゃごちゃごちゃごちゃ、めんどくさいよ、俺」
「ごまかしてる」今日子は射すように相手を見た。「ここまできたからにははっきりさせてもらいたいわ」
「はっきりさせる? 何を?」三郎も眉を寄せた。
「どうするつもりか教えておいてもらいたいのよ」
「教えたらどうなる?」
「それなりの覚悟をあたしもきめるし」
「どんな覚悟だって?」
「あたしの年のことだって考えてもみてよ、二十六歳よ、もう」
「俺は二十八だよ。しかしおまえが二十六になったのは年月がそれだけ流れたってことで、俺のせいじゃないぜ」
「あなたのせいだなんて言っていない」なんだか涙がこぼれてきそうだった。
「じゃ何が問題なんだよ。この際はっきり言ってよ」
「このままずるずると年を取りたくないってことよ」三郎から視線をそらせながら今日子が呟《つぶや》いた。自分の眼つきがすがりつくように尖《とが》ってくるのがわかるからだった。すがりつくような眼ざしで、男を見るのは自分が許せなかった。
「別に俺は引きとめないぜ」と三郎が言った。
「わかってるわよ。あなたってそういうひとなのよ」
「その言い方は気に入らないね。そういうひとなのよ、ってきめつけられるのは嫌だね」
「でもずっとそうだったわ。おまえは自由だってそう言うくせに、決して手放しでそうじゃなかった。好きな男が出来たらさっさと結婚しろよと言いはしたけど、あたしに他の男を好きになる時間も暇も与えなかった。そして気がついてみたらあたしは二十六になっていて周囲にいる男といえばあなただけ。そしたらどう? 見合い結婚することにしたからおまえは好きにしな、って放っぽりだすってわけね?」
「誰が見合い結婚するなんて言ったんだ? 誰がおまえを放っぽりだした?」三郎は胸を張ってそう喚《わめ》かんばかりだった。「俺、そんな男に見えるか?」
「もちろん、それほど卑劣な男だとは思わないけど……」
日頃卑劣な人間を嫌っている三郎には、卑劣な男ときめつけられるのが一番こたえることだった。
「わかったよ、見合いの相手のことは断って、おまえの責任をとるよ。おまえと結婚すればいいんだろ?」
そんな風に言われると逆に冗談じゃないという気になってくる。何だか哀れまれてお情けで結婚してもらうようなのは、今日子の自尊心を著しく傷つける。
「責任とれなんて言っていないわ。そんな消極的な理由から結婚してもらっても、ちっともうれしくない」
ついに三郎は髪をかきむしった。
「一体全体何だっていうんだよ? ああ言えばこう言う。こう言えばああ言うで。おまえはどうなんだ、俺と一緒になるつもりはあるのか?」
この六年間、今日子が待っていたのはこの言葉だったのだ。俺と一緒になるつもりはあるのか?
もちろんある。最初から、あたしは三郎と一緒になりたかったような気がするのだ。そもそもの最初から。今日子はこっくりとうなずいた。
「あるわ……」
なんだか予想外の反応をまのあたりに見でもしたかのように、三郎は瞬間|呆然《ぼうぜん》として、今日子の白い横顔を見た。
「……そうか」
彼は一種呆然とした面持でそう呟《つぶや》いた。沈黙が流れた。
「そういうことなら、俺、見合いの話断るよ」自分では気づかないのかもしれないが、未練というか諦《あきら》めというか、失望というか、そんな感情が全て混じりあった声だった。
今日子は何やら後ろめたいような気分に襲われた。見合いした相手の女の方が三郎にはふさわしい女かもしれないし、もしかしたら彼女との方が彼は幸せになれるかもしれないのに、あたしは六年という交際の歳月を盾《たて》にとって、三郎を相手から、そしてもしかしたら彼が手に入れ得たかもしれない幸福から遠ざけようとしているのだ、とそんなふうに感じるのだった。
「あたし……ちょっと考えてみるわ」と今日子は呟いた。仕方なく結婚してもらうという感じが、まだひっかかるのだ。それは絶対にフェアじゃないし、彼女だって嫌だった。
「考えてみるって?」と、三郎がおうむ返しに訊《き》いた。
「うん。もう一度よく考えてみる」と今日子は答えた。「だから、あなたの方も考えてみて。お見合いの相手とのことも含めて、あなた自身の結婚のことを真剣に考えてみて」
その場はそれで終りだった。
三郎から何の連絡もない日が続いた。今日子はその沈黙に耐えた。あの夜のあの話しあいの結果はあれで良いのだと思う。
事の成りゆきで三郎は今日子にプロポーズするようなハメになったのだから、ああいう機会を利用するのは、今日子の気質には合わない。話を白紙に戻して別れた自分を、彼女は心底誇りに思った。
けれども三郎からの連絡が何日も途絶えたままだと、不安にかられた。自分の心を誇りには思うが、その誇りとともに捨てられてしまうかもしれないなどと考えた。
今日子の方から三郎に電話を入れられない。ああいう別れかたをしたかぎり、男から女へ連絡をしてくるべきだ。今日子はひたすら待つことにした。
気持がざわざわと波立つまま、彼女は二、三人の同僚と行きつけのバーへ仕事帰りに立ち寄った。
夕食をとっての流れだったので、時刻は十時を回っていた。
コンクリートが剥《む》きだしたままの状態を逆に利用した今風のバーで、ホーギー・カーマイケルの音楽がいつもきまって低く流れている。
カウンターの中に、ゴマ塩の髪をオールバックにして髭《ひげ》をはやしたバーテンダーが一人と、その息子のような年格好の若いのが一人いるだけ。
この店は深夜から混みだすので、店内にはポツリポツリと客が背中をまるめている。三郎ともよく来る店だった。
今日子ら一行はボックス席に落着くことにして、コートを脱ぎ始めた。それまでわいわいがやがややっていた連中も、この店では自然声をひそめる。そんな雰囲気が漂っている。
静寂とはいわないまでも、しんとした店内に男の声がした。
「もう一杯作ってよ」
その声でギクリとして今日子はふりかえってカウンターの奥を見た。三郎が背中をまるめたスタイルで坐りながら、空のグラスをバーテンダーの方へ押しやるのが見えた。
「ピッチが大分早いですよ」さして批難がましくもないが、相手を労《いたわ》るように髭《ひげ》のバーテンダーがボソリと言った。
「そういう気分なんでね」吐き散らすような言い方だったので、今日子は思わず浮かせかけた腰をいったん座席に埋めた。
バーテンダーはグラスの中に氷を落して、ウイスキーを注《つ》いだ。
「シングルにしておきましょう」
「いや。ダブル」三郎が言った。
バーテンダーはチラと三郎の表情を見て口をつぐみ、ウイスキーを注ぎ足した。それを待ちかねたように手にすると、三郎はバーテンダーにむかって軽く掲げて言った。
「乾杯しよう」
バーテンダーは黙って、自分の薄いバーボンだかの水割りを手に持った。
「薄情な女に、乾杯」うめくように言うと、三郎が一気にウイスキーを喉《のど》へあけた。
薄情な女? 今日子はカウンターに背をむけたまま躰《からだ》を硬くした。
三郎はあたしの真意を誤解しているのだ。あんなふうにいったんプロポーズを断ったのはあたしの自尊心のためもあるけど、三郎のためでもあったのだ。
「女なんてのはたいてい薄情なもんですな」バーテンダーが静かに合いづちを打つ声がした。
「親父さんもそう思うかい?」だいぶ酔いの回った声で三郎が言った。
「俺《おれ》はあの女に一目惚《ひとめぼ》れだったんだ。後にも先にも一目惚れなんて初めてでさ、頭がカーッとなったんだよね」三郎の舌がもつれる。今日子の心臓の鼓動が早まった。
「一目惚れですか……」とバーテンダーが何かを思いだしでもするかのように遠い声で呟《つぶや》いた。
「最近逢《あ》った女でね」と、三郎。「実は見合いなどして、初めは頭からバカにして出かけて行ったのよ。それが一目見るなり、頭をガーンとぶち割られたみたいに、惚れちまった」
「その相手にね」
「そう、見合いの相手に」
今日子の躰《からだ》がグラリと揺れた。一瞬自分がどこにいるのか、何をしているのか我を忘れた。眼の底が暗くなり、口の中に酸味のある嫌な苦い味が広がった。
「どうしたの? 顔、真青だよ」と同僚の若い男が訊《き》いた。
「大丈夫?」と事務をしている女友だちも顔を覗《のぞ》きこんだ。
「ちょっと……気分が」と言ったきり口もとをおさえて今日子は絶句した。ほんとうに気分が悪かった。胃の中がひっくりかえりそうだった。「お願いだから、放っておいて。静かにしていれば直るから」
ボックス席の小さなざわめきには全く気づくことなく、三郎は酔いにまかせて喋《しやべ》っていた。
「けどねぇ、人生ってのはうまくいかないものだとつくづく思ったね。俺の方では一も二もなく気持が定まったのに、先方から断りが入ってさ。もう一杯ダブルで頼むよ」
「縁がなかったんですねぇ。シングルしか差し上げませんよ、もう」
「何でもいいよ、酒なら」三郎がやけくそに言った。躰はすっと冷たくなったのに、今日子の耳だけが熱を持ったように熱いのだった。
「今まで見も知らずの全くの他人だったのにさ、断られたとたん、なんだかとりかえしのつかないようなさ、世間からたった一人俺だけがとり残されたような、すごい孤独感だよ、親父さん。一度も俺の腕に抱いたこともない女なのに、自分の躰の一部をもぎとられたようなさ」
「わかりますよ」とバーテンダーが囁《ささや》いた。「そのもぎとられた傷口から、見えない血がドクドクと流れているみたいな感じなんでしょう?」
「いっそのこと死んじまいたいね、俺」
「女のために死ぬことはないですよ。死ぬのは一回こっきりのことだからね。つい最近のことなんですか?」
「見合いの相手に断られたの?」
「そう」
「うん、三日前。こっちからはこの話を進めて欲しいと返事をした翌日。俺さ、自分でいうのもなんだけど、女には自信があってさ、振られたことなんてこれまでの人生に一度もなかったのよ」
「その男前ならそうでしょうね」
「そんなもんだからさ、慌てちまってさ。思わず受話器もったまま泣いたものね。みっともないよな。いい年した男が、見合い相手に断られたくらいで鼻水も涙も一緒くたに泣くなんてさ。嫌だねぇ」
三郎の声が自嘲《じちよう》に満ちていた。
今日子はフラフラと立ち上ると、左手のトイレへと逃れるように駈《か》け込んだ。それ以上三郎の言葉を聞いていられなかった。
鏡の中に映っている自分の顔が、自分の顔とは思えなかった。蒼白《そうはく》で無表情だった。
「もう少し悲しそうな顔してもいいんじゃないの?」と彼女は鏡の中の顔にむかって言った。
しかし悲しいという感情だけでは今の気持を言い表わせそうにはなかった。苦しみ、驚き、怒り、絶望。そしてあまりにも悲愴《ひそう》なのでどこかに滑稽《こつけい》な感じもしないでもないのだった。
女友だちが心配顔でトイレを覗《のぞ》いた。
「何か食べたものがいけなかったのかしら?」と彼女が言って、今日子の背中をさすった。
「飲み過ぎよ。このところ忙しくて体調悪かったところへ風邪《かぜ》気味だったから」と今日子は力なく言いわけをした。
「悪いんだけど、このままみんなに黙ってこっそり帰りたいの。そっとコートとバッグを持って来てくれる?」
わたしも送っていくわ、という友だちを制して今日子は言った。「せっかくなんだから、いてあげてよ。二人とも帰っちゃったら男の人たちガッカリしちゃうから。ね、おねがい」
女友だちはうなずいていったん消えると、今日子の黒いコートとバラ色のスカーフと、ハンドバッグをかかえて戻ってきた。
今日子は礼を言い、誰にも気づかれないように、バーからぬけだした。
バーの中では緊張していたせいか、むしろ冷静だったが、外へ出たとたん体中の力が抜けてしまった。胃がほんとうにひっくりかえってしまい、人通りのある歩道の片すみにしゃがみこんで、今日子は嘔吐《おうと》した。悲しみと絶望の嘔吐だった。
しゃがみこんで嘔吐している今日子の後を、人々が早足で通りすぎていく。彼女はこの時ほど孤独感を覚えたことはなかった。
すっかり吐いてしまうと、彼女は立ち上り歩きだした。空しさが霧のように彼女の内部を満たした。
更に数日が過ぎた。今日子は自分自身の苦悩にどっぷりと溺《おぼ》れることで、ようやく生きているような気がしていた。相変らず三郎からはうんともすんとも言って来ない。
連絡すらつけられないほどまいっているのかと思うと、見たこともない三郎の見合いの相手に対する嫉妬《しつと》と憎しみがいっそうつのった。
けれども同時に、それほどまいっている三郎と自分の苦悩とどちらの苦しみが大きいだろうか、とふと考えてみた。
酒場で背中をまるめて、まるで自分を痛めつけるみたいにダブルのウイスキーをあおっていた三郎の姿が、眼の底に焼きついて離れない。
あのひとも苦しんでいる、という思いが逆に彼女を慰めた。苦しみの同志。
人を突然好きになるということは、罪でも何でもない。見合いの相手の女に夢中になったからといって、今日子を嫌いになったわけでもないだろう。振られたんだから、いずれは自分の方をふり返ってみるかもしれない。他に彼がすぐにでも帰っていく女はいないのだから。
最初のショックがおさまって、あたしの慰めが必要になれば、彼は再びあたしのものになる。
けれども、三郎が再び自分のことを思いだすのを待っている、というのは耐えられないことのように感じられる。
耐える女、待つ女なんてあたしの柄じゃない。もうこれきり逢うのを止め、きっぱりと三郎に見切りをつけるか、あるいは今すぐに進んで彼の苦しみを分かち合うか。
三郎は苦しんでいる。女に死ぬほど惚《ほ》れて苦しんでいる。今日子は意を決して電話を取り上げ、彼を呼びだした。
待ち合わせの場所に現れた三郎を見て、今日子は愕然《がくぜん》とした。面変りがするほど憔悴《しようすい》しているのだった。顔の肉がひとまわり落ち、眼もくぼんでいた。
「風邪《かぜ》ひいてさ、しばらく寝こんじまったものだから、ごめん、連絡しなくて」と三郎は嘘《うそ》の言いわけをした。
「風邪ひいて寝こんでたんなら、そう言ってくれれば良かったのに、卵酒でも作りに飛んでったのに」と、今日子はつとめて明るく言った。「水臭いなぁ。そういう時の友だちじゃないの、あたしたち」
三郎が視線を落した。
「ねぇ、違う? あたしたち今でも友だちでしょ?」
「ああ」と、ほっとしたように三郎は肩から力をぬき、それから微笑した。
「もう、風邪、いいの?」
「ん?」三郎の眼の焦点が合うのに時間がかかった。彼はまだ今日子ではなく彼女の背後の見えないあの女を見ているのがわかった。
「ん。ほとんど治った」ようやく今日子に焦点を戻すと、三郎が言った。「それよりか、ほんとに悪かった」
「何が?」
「あれきりになっちゃって」
「しかたないじゃない、寝てたんだから」
「…………」
「フグでも食べて元気になって欲しいわ。今夜行かない?」
「そうだな」今日子の陽気さに心がなごむのか、三郎の気持が動いたようだった。
「それより、俺、おまえに言っておきたいことがあるんだ」
「大事なこと?」胸がズキリと痛んだ。
「うん」
「もしかして風邪で寝こんでいる間に起きたこと?」
「…………」三郎の眼がキラリと光った。
「そうだ」
「いいじゃない。風邪、もう治ったんでしょ? だったら、もういいよ。治れば、あたしはそれでいい」
「多分、まだ時間がかかると思うんだ、治るまで」
二人の視線が絡んだ。
「時々、卵酒こしらえてあげに行くわよ」
「ん、ありがとう」
その瞬間、三郎が自分のところへ戻ってきたのが今日子にはわかった。
二人は決して見合いの相手のことには触れあわなかったが、暗黙の了解が成立していた。それぞれ相手に知れないように自分の苦しみを苦しみぬいた。一月ほどが過ぎた。
クリスマス前の週末、今日子の眼の前に金と銀の紙で包まれた小箱が置かれた。
「プレゼント?」今日子は顔を輝かせた。「今、開いていいの?」
「もちろん。今開いて欲しい」
紙を破らないように、そっと包みを開いた。ブルーのベルベットの小箱が出て来た。ふたを押し上げる。小さなルビーがはめこんである指輪だった。今日子は頬《ほお》をおさえた。
「きれいだわ」
「はめてくれる?」
二人は眼と眼を合わせた。
「……つまり、これ……」
「正式に申し込むよ」
沈黙が流れた。やがて、ぽつりと今日子が答えた。
「正式に、お受けします」
そっと指輪を指にはめてみた。サイズが少し小さかった。
「店で直してくれると思うから」と三郎は言った。
「ルビーってきれいなのね」と彼女は凝《じ》っと宝石をみつめた。保証書に書いてある買った日は、ちょうど見合いの直後だった。仙台の見合いの相手は七月生れなのだろうか。今日子の誕生月は十一月だった。
「ほんとうに血みたいに赤いのね」
なんだかとても悲しかった。三郎が今日子のその眼の色を見て視線を落した。
いいじゃないの、と今日子は自分に言いきかせた。たとえ仙台の女に与えるつもりのお古でも。三郎が戻ったのだもの。彼だって、大枚をはたいて買ったルビーの指輪を捨てるわけにはいかないだろうし。
あたしは一度捨てられた女だし。だから捨てられかけた指輪で充分。
「あたしの両親に逢《あ》ってくれる?」
「もちろん逢うよ。それから式場のことも何もかも、みんなおまえにまかせるから、進めてくれていいよ」
三郎と別れたその夜、今日子は薬指のルビーの指輪をつくづくと眺めた。あたしの取り得は、明るいことと、楽天的なこと。そう自分に言いきかせた。何度も言いきかせた。
色々あったが結局彼女が望んでいたように事が運んだわけだった。それでいいんじゃないか、と彼女は思った。
納得すると、嫌なことは忘れるのも早かった。安堵《あんど》が彼女を満たした。
友だちが次々と彼女のために『独身最後の会』を開いてくれた。新年会も重なったりしての暴飲暴食。それで三キロも太ってしまったのだった。
「そうねえ」
と、今日子は、貸衣装係のマネージャーに言った。「サイズのひとまわり大きいのに変えるしかないわね」
貸衣装の試着をもう一度し終えたその足で彼女は宝石店に行った。
三郎がくれた指輪を取り出した。
「サイズのお直しですか?」
「というより、これとよく似たデザインで、別のものに替えて頂けないかしら? 少しお金を足してもいいんですけど」
店員はうなずいて、ケースの中から色々と取りだした。
「石はルビーでないと……」
店員はかなり大きなルビーのついたものを台の上に置いた。
「石の大きさも同じくらいで」
結局、良く似たデザインで、石が〇・二カラットだけ大きなものに取り替えた。二つを並べて比べれば違いはわかるが、別々に見ればほとんどわからなかった。差額を払って、今日子はそれを指にはめた。
これで少なくとも指輪はあの女のお古ではなくなった。今日子は幸せだった。
あの事件は、二人にとって、それぞれ良い体験だった。何の波乱もなく一緒になるより、あの教訓が生きるような結婚をしたいと、彼女は思った。
結 婚 男の場合
新婚旅行から新居のマンションに帰りつくと、今日子はスーツケースをどすんと置いてそのままソファーに躰《からだ》を投げだした。
スーツケースのどすんという音も、ソファーに投げだした躰全体から滲《にじ》みだすものも、全て何かに対する抗議を現しているかのようだ。
三郎の方もまけないくらい不機嫌だったが、冷蔵庫の扉を開いて中を覗《のぞ》きこんでいた。
「ジュースか何かないのかね?」
「そこに入ってなければないんでしょうよ」
両足を前へ投げだして、土踏まずのあたりを揉《も》みながら今日子が棘《とげ》のある声で答えた。
「先が思いやられるね」冷蔵庫の扉をばたんと閉じながら三郎が言った。スーツケースのどすんに匹敵するばたんの音である。
「まだここに住みだしてから三十秒しかたってないのよ」
「それだけで充分さ」
「何が充分だって?」
「ぐうたら女房の資質をみぬくのに、充分てこと」
「たったの三十秒一緒に住みだしただけで?」
「十秒だってよかった」
「ちょっと待ってよ、もうちょっと時間くれない? 新婚旅行でプケットから帰って来たばかりなのよ、私」
「知ってるよ、俺《おれ》もそうだから」
「冷蔵庫の中にジュースが入っていなかったくらいのことで、人生の一大事みたいに言われちゃかなわないわ」
「しかし今俺は喉《のど》が乾いてジュースが飲みたいんだから、そのジュースが冷蔵庫に一本も入っていなければ、俺にとってはこの瞬間人生の一大事なんだ」
「変な理屈! そんなに喉が乾いてるんなら、水でも飲めば?」
「東京の水なんて臭くて飲めるか」
「じゃビールは? 冷蔵庫の中に缶ビールが入っていない?」
「入ってるよ。缶ビールだらけ。というより缶ビールだけ。しかしアルコール分は嫌なんだ」
「ミキサーにかけて五分間かきまわせば気がぬけるわよ。ついでにお砂糖も入れるといい」
こんな女じゃなかったぞ、今日子は、と三郎は改めて唖然《あぜん》とする思いで彼女を眺めた。新婚旅行の間中プリプリしていて、二言目には突っかかってくるのだ。六年もつきあっていたのに人間なんてわからんものだ、と三郎は思った。それが四六時中一緒にいたプケットで、嫌という程正体を知らされた。ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。怒れば膨れて何時間も口をきかない。それにあの食欲。ブッフェスタイルの食い放題なのをいいことにして、皿に山盛の食物をわき目もふらずに掻《か》きこんでいた。
食料は充分にあったんだから、何も冷たいのも熱いのもいっしょくたに盛りこまなくたって、少しずつ取ってなくなったらまた取りに行けばいいのに、と思うのは男の発想なのか? ブッフェスタイルの食事の様子を見れば人柄が知れるなんてことは、新しい発見だ。見合いはブッフェでやるべし。ただし今日子は見合いで知りあった女じゃない。大学時代からの腐れ縁だ。
プケットでの彼女の食欲もすごかったが、一緒に寝起きしてわかったことは他にもまだある。ヘアドライアー・マニアックとでもいうか。
プケットは海のリゾートだ。朝に昼に夕方に海につかる。そして朝に昼に夕方にシャワーを浴びる。彼女はその上シャンプーだ。その都度、東京から持参したドライヤーでブローをする。三度三度だ。おかげで食事どき、空腹のところをタップリ四、五十分は待たされた。他にも発見はまだまだある。夜の歯ぎしり、そしてイビキ。女がイビキをかくなんてついぞその時まで知らなかった。今日子と朝まで過ごしたことも以前にはあったが、その時はイビキなんかかかなかった。結婚したとたん、そいつが始まったというわけだ。イビキは離婚の理由になるだろうか? 俺もかくけど。しかも女のイビキというのは性質《たち》が悪い。しかし今じゃ男の浮気が許されて女の浮気が許されないなんて時代じゃないらしい。男女雇用機会均等法なんていうのも適用される世の中だ。こっちがイビキをかかなければともかく、かいているかぎり、女房のイビキばかりをせめて離婚にはもちこめまい。
そして新居に足を踏み入れてたったの三十秒で、主婦としての才覚ゼロも実証してみせてくれたってわけだ。それが何だ? 自分の非を認めるどころかビールをミキサーにかけろだと? 砂糖を入れろだと?
「冗談じゃないぞ、おまえ。旅行前はバタバタ忙しくても、タンスの上や鏡台の前にはやたら細かいものがごちゃごちゃ取りそろえてあるじゃないか? スヌーピーの縫いぐるみだとか香水の空ビンだとかドライフラワーだとか、写真たてなんかにはちゃんと神経がいくのに、冷蔵庫の中身にはいかなかったってわけなんだ。ところで、あの写真たての中の男は誰れだ?」
「ミッキー・ローク」今日子が憮然《ぶぜん》と答えた。
「誰れ? おまえの前の男か?」
「ミッキー・ローク。ミッキー・ローク知らないの?」
「知るわけないだろう」
「アメリカで今一番人気のあるスターよ。あたしの前の男であるわけがないじゃないの。だったら死ぬほどうれしいけど。あなたの前にいた男はあなたよ、もう六年もずっとあなた。あなたが最初の男で処女もあげた」
「それでこういうなりゆきになった」
「何か言った?」
「いんや」
「一体どうしたの。本当は何怒ってるの、冷蔵庫の中身のことなんかじゃないんでしょ? ジュースなんて実はどうでもいいんでしょ?」
しかし三郎は不機嫌さをいっそうつのらせて、ベッドルームへ向って歩きだした。ベッドルームといったって、四・五畳。目と鼻の先。部屋中ベッドが占領している。ベッドが大きいわけではなくて、部屋が小さいのだ。四・五畳といっても団地サイズの四・五畳。とたんに彼は嫌な気分になった。あのイビキ、一晩中この四・五畳の中で聞かされるのか?
「ねえ、何とか言ったらどう? 怒ってるのはわかってるんだから。ミッキー・ロークが気に入らないんなら、あなたの写真と入れ代えるわよ。それとも何なの、空港のタックス・フリーショップでのこと、根にもってんの?」
「一人三本ずつ無税だからって何も律儀《りちぎ》に三本ずつ計六本ブランディーを買うことはなかったんだ。おまけに六本のブランディーをもたされたのは、この俺。トランク一個にブランディー六本にマカデミアン・ナッツの十箱入りに、煙草《たばこ》二カートン。二人とも喫《す》わないのにだぜ。ブランディーだって、めったに飲まないのによ。めったにどころかほとんど飲みもしないのに。一本で二十年はもつよ。六本で百二十年だ。俺たちあとせいぜい生きて五十年だよな。きみは七十年は生きそうだけど。百二十ひく五十で七十年だ。飲む人間が死んだ後七十年分も余分にブランディーが残る計算だ。すごい無駄!」
一気にそれだけ喋《しやべ》ったので、さすがに三郎も息が乱れた。
「ブランディーのことなの? あなたが怒っているのは。ほんとうにブランディーのこと?」
「それに喫《す》いもしない煙草の二カートン」
「デパートで六万円もするブランディーが一万円で買えたのよ。五万円の得。六本で三十万の得」
「まさか三十万円もうかったってんじゃないだろうね? えっ? その三十万円どこ?」
「やっぱり、別のことだわ、あなたが怒ってるの。ブランディーが重かったからなの? でも腕がひきちぎられたわけじゃないでしょう? ちゃんとまだくっついてるもの。それともそこにぶら下ってるの義手か何か?」
「撲《なぐ》るぞ」
「ユーモアの精神もわからないのね。重い思いをさせたのは確かに申しわけなかった。だけど私だってスーツケースとお土産で手がちぎれそうだったのよ」
「ちぎれたのかね?」
「いいえ、あなたと同じにまだついてる。それとも義手かな?」
「その土産が頭にくる」
「お祝い頂いてお土産なしってわけにはいかないからよ」
「しかし従姉妹の娘にまで買うこたぁないだろう。同級生のお袋さんや、きみの兄貴の嫁さんの妹にまで買うこたぁなかったろ」
「だから自分で持って帰って来たんじゃないの。一言でも私泣き事言った? 荷物持ってくれって頼んだ?」
「そのかわりブランディー六本と煙草《たばこ》二カートンとマカデミアン・ナッツを十箱持たされた」
「その前よ。ブランディー買ったのは帰りの飛行機の中でしょうが。その前はあなたスーツケースとマカデミアン・ナッツだけ。妻が重そうにヨロヨロよろめいているのを見て、自分の方から手を貸そうなんて、そういう思いやりの気持も湧かないってわけ?」
「腕なんて俺より太いのに? 体重だってこのところ、俺よりあるんじゃないの? 思わず手を貸したくなるようなソソとしたタイプじゃないよ、きみは。どちらかというとたくましい」
「誰れに比べて?」
飛び出しナイフみたいに鋭い質問だった。三郎は一瞬たじろいだ。
「一般論」
「誰れか特定のひとを頭に置いての発言みたいに聞こえたけど、私の耳のせいかしら」
「俺より少なくともたくましいよ、あの食欲だものな。それに俺はこのところずっと寝不足で体力もないんだ」
「寝られないのは私のせい?」
「そうだ」
「ずいぶんはっきり言うわね」
「断言してもいい。神かけて誓ってもいい。おまえのイビキのせい。一晩中」
「変ね。私もあなたのイビキで目を覚ましていたけど。一晩中なんてオーバーよ。でも溜息《ためいき》ばかりついてたわ」
「誰れが?」
「あなた。私でもなくあなたでもなかったら、ユーレイだ」
「気がつかなかったな……」
「無意識なんでしょう。……他にも歯ぎしりしたり、寝言言ったり、うなされたり、昼も夜もにぎやかな人だと思ったわ」
「寝言って、俺何か言った?」
「気になるの?」
「別に。何か言ったかと思っただけさ」
「たとえば女の人の名前とか?」
二本目の飛び出しナイフだ。前例があるので、こっちも身のかわし方は学んだつもりだ。
「とはかぎらんさ。おまえの悪口をののしったかもしれんしな」
「夢の中でののしるくらい、私が嫌い?」
こいつは痛烈。油断したのでグサリと来た。
「嫌いだったらプケットまで何しに行ったと思うんだよ」
「プケットに行ったのホテルのウェディングパックについていたからよ」今日子は投げだした両足をソファーの上に縮めると、膝《ひざ》を抱きかかえるような格好で考えこむ風。
「あなたは何かが原因で新婚旅行の間中ひどく不機嫌だったけど、でもそれは絶対にブランディーのせいじゃない」
「またかよ。明日にしようよ、頼むから。今夜は眠りたいんだ。明日から仕事だからな。もっとも今夜おまえがイビキをかかないでくれればの話だけどな」
「明日は明日で、ちゃんと始めたいのよ。こんな惨めな続きで始めたくないの。今夜決着つけなかったら、私たちこれからもずっとこんな調子で結婚生活続けることになるのよ。それは嫌。それに言っとくけど、あなたが一晩中眠れないのは絶対に私のイビキのせいじゃない。別のことを考えて、悩んでいるせいよ。よかったら、その悩みのこと私に教えてくれない?」
「悩みって? 何の悩み?」
三郎が金属的な響きをもつ声で思わず訊《き》き返した。
「さあ知らない。だから訊いてるのよ。あなたの悩み」
「悩みなんてない」
「ほんとうに?」
「……眠れないほかは。それもおまえがイビキをかかなければ悩みは解消だ」
「じゃ言うけど、昨晩、あたしは一睡もしてないの。一睡もしてないのにどうしてイビキがかける?」
「どうして一睡もしなかった? それが趣味なのか?」
「こんな時そんなジョークちっともおかしくない」
「俺もおかしくないよ」
「眠れなかった理由は多分あなたと同じ」
「同じ?」三郎としてはギョッとする。
「つまり悩み事があったからよ」
「まさか女の?」
「ついにボロを出したわね」
「俺と同じと言ったからさ」ドジめ。
「あなたの悩みは女のことなの?」
「おまえは、女じゃないのか?」
「まさかあたしのことで悩んでいるっていうんじゃないでしょうね? 問題すりかえないでよ」
「元を正せばそう。おまえは女で俺のカミさん。そのカミさんが横で一晩中イビキをかいているときちゃ、悩まんわけにはいかんだろうが。この先何年生きるか知らんがあと五十年ばかり、横でグースカグースカ声高らかにやられてみろよ」
「もういい! ごまかさないで! そんなの嘘《うそ》だ。あたしはイビキなんてかかない。少なくとも一晩中なんてかかない。昨夜は一睡もしなかった。あなたのおかげで一睡もしなかった。あなたの冷たい背中を眺めて一晩中まんじりともしなかった。あなたの心は何かのことで一杯で、それを知りながらあたしは無力だった。だからイビキの件は忘れて。いい? 忘れるのよ、イビキは」
「腹へった」
「ごまかさないでといってるのよ、三郎さん」
三郎さんとさんづけの時は要注意。知恵でなければ体験が俺に教えた。
「とにかく今日はひどい日だったんだ。一日中空港と飛行機の中でくったくただ。俺が何か言ったとしたら忘れてくれ。今夜こそ、眠ろうじゃないか。少なくとも眠れるよう努力しようじゃないか、お互いのため」
「あなたが何か言ったことじゃないの。問題は、何も言わないことなの。さあ吐きだして。彼女のことを思いきって吐きだしてしまって」
「カノジョ、カノジョ……彼女って?」
「あたしに訊《き》くの?」
「この部屋に他に誰れがいる?」
「ハハハハ、おかしい」
危険信号。笑いがひきつっている。あの腕の太さだ。あの体重、あの体力だ。取っ組みあいになったら俺がやられる。新婚旅行から戻った翌日、腕をつって目の回りに青あざなんて作って会社へ行けるか? 女房が女プロレスだと思われる。もっとも見かけはそれに近いけど。
「わかった。じゃ話す。しかし今夜じゃない。今夜はだめだ。とてもそんな気分になれないし、たとえ話が出来ても俺の神経が持ちこたえられるかどうか自信がない」
「心配なのはあなたの神経が持ちこたえられるかどうかってことだけ? じゃあたしの神経はどうなのよ? 何だかよく知らないけど心が爆発しそうになっている新婚の夫の横で、時限爆弾装置みたいにカチカチ鳴っている心臓の音を一晩中聞かされるこのあたしの神経のことは考えてもらえないの? もうこれで八日目よ。あたしの心はズタズタ」
「俺の心臓はガタガタ」
「どっちが先に爆発して自滅するかだわね」
「心配するな、この分じゃ俺が先」
「そしてあたしは手をこまねいて夫が自爆するのを見ているってわけ? ごめんだわね。お断り。あたしはあなたに自爆して欲しくない。あなたの横でその爆風のあおりであたしまで道連れにされるのもゴメン」
「だったら離れていろよ。どっか俺の見えない遠くへ行っていろよ」
「そしたらどうするの。邪魔者がいなくなったとばかり一晩中あの女の名前を喚《わめ》き続けるつもり?」
「どの女?」
「だからあの女よ。あなたの心を一目でとりこにしたお見合いの相手の女。仙台のいいとこのお嬢さん。言っとくけどあたしは出て行かない。一人であなたを失恋の痛手の中に残して出て行ったりしてやらない。思うぞんぶん人目をはばからず、結婚相手が彼女ではなくこのあたしだったことを嘆き悲しみ、世界中を呪《のろ》いたいところでしょうけど、その楽しみを与えてあげるわけにはいかない。なぜなら、あたしたちは結婚したのだから。夫婦なのよ、あたしたち。もう、一人の女と一人の男がバラバラにいるんじゃなく、二人が一緒に物を考えたり、決定したり悩んだりするの。そのための結婚なのよ。どんなに望んでもあの一人暮らしの頃の孤独な生活は取り戻せない。
だからあたしが言いたいのは、あなたの悩みはもうあなた一人の悩みじゃないっていうことよ。あたしの悩みでもあるっていうこと。一人の胸の中に収《しま》って、一人で悩み苦しむ贅沢《ぜいたく》は、もう許されないっていうイミよ。わかった? わかったら、白状しなさい、私も悩んであげる、一緒に苦しんであげる。お願いだから、私だけをのけものにしないで。私もあなたたちの仲間に入れて。それだけよ、私が言いたいのは。あとはあなたの決意だけ。ああ疲れた。出来ることなら熱いお風呂に入って、あなたの腕の中でぐっすり眠りたい。なのに、今じゃそれが一番の贅沢だなんてね」
俺はもしかしたら今日子という女を、本当は理解していなかったのかもしれないという疑惑が、三郎の胸を掠《かす》めた。
二重の打撃だ。
「プケットにいる間中、おまえが苛々《いらいら》していたのは知っていた。俺のせいでおまえが悲しい思いを味わっていることも承知だった」
「でもどうしてあなたは新婚旅行の間に問題をしぼりこもうとするの? あれはあたしとあなただけの問題、あたしたちの旅行。問題は別のところにあるんじゃないの?」
「そんなに何もかもわかってるんなら、おまえが話せよ。おまえがおまえと話しあってくれ。そうすればその間俺はちょっとでも眠るからな」
「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「だってあなたが怒ったから」
「自分が悪くないと思っているんだろう? 実際おまえが悪いわけじゃない。どちらかといや、俺が理不尽なんだ。なのになぜ謝る?」
「ごめんなさい。今のはほんとのごめんなさい。前のごめんなさいは撤回する。あなたってこの所ずっと殺してやりたいくらい憎らしいけど、時々素敵。今のは特に良かった。誰れだって人間自分の非を口に出して認めるのはむずかしいことよ」
「特に俺みたいな男にはな。わかってくれると思うけどさ」
「わかってる。でもさ、サブちゃん、認めちゃうのよ。その方がはるかに楽だから。心の中に収っといて、強がっているのが一番本当は辛《つら》いんだ。吐いちゃえよ、サブちゃん、聞いたげるから」
「巧みな誘導尋問。危くひっかかるところだ」
「いいじゃないの、思いきってひっかかっちゃえば。ひっかかるふりしてひっかかっちゃうのよ。あたしは受けとめる。これだけお肉ついてるんだから、ちゃんと受けとめてあげる。クッションみたいに安心していいのよ」
「おまえがお袋にみえて来た。強いんだ、きみは」
「違う! ほんとうは違うの。怯《おび》えてるのよ。この厚い脂肪の下には神経が張りめぐらされていて、人一倍ピリピリしてるのよ。あなたがこれから言いだすことを想像するだけで、もう怖くてたまらないのよ。見かけほどには楽天的じゃないのね」
「じゃ止めようぜ」
「いくじなし」
「それ俺のこと?」
「そう。あんたのこと。いくじなし。物事を正面からちゃんと見て、それにぶつかっていけない人間を、いくじなしっていうの。なぜそうだと思うかっていうと、このあたしも、今の今までそうだったから。いくじなしだったから。だけど一家に二人のいくじなしってのは多すぎるわ。特に一家に二人の人間しかいないとしたら、ひどいパーセンテージよ。だから、あたしはいくじなしでいることを止《や》めたの、止めようと思っている。だからあなたも努力してみて欲しいの」
「物事を正面から見つめるってったってさ、俺の悩みなんて実にくだらなくて糞《くそ》みたいなもんよ」
「じゃなんでそんなに苦しんでいるのよ」
「糞みたいなもんだからさ。更にいけないのは、そんな糞みたいなくだらんことに気をとられて、新婚の自分の女房を幸せにしてやれないってことさ」
「じゃその糞みたいなもんってのについて、話してみてくれない?」
「嫌だ」
「じゃあたしが言う。仙台でお見合いをした女のひとって、どんな人だった? いいから答えて。何でもいいのよ。どんなふうに言ってもいい。背は高いのか低いのか、色は白いのか黒いのか、声はどんなか、そういうことを思いつくまま話してみて」
「それできみの気がすむならな。彼女は、美人だ。美人だった。背は高い方、高い方だった。色は白、かった。声? その声が悩みの種、どこか迷いこんだ森の中に突然出現した湖みたいに、透明で静かな声」
「あなたがそんなに詩的な表現が出来るなんて知らなかった。それだけ素敵な人なのね」
「素敵だったよ。あんなにきれいな人を、俺、世界中探したって知らないもの」
「どんなものを着ていたの?」
「白いスーツ、だ、いや、だった。南洋真珠のイヤリングと首飾りをして、髪は長いんだ。いや長かった。止めようぜ、こんな話。一体何になるって言うんだ?」
「止めちゃいけない。それにあなたどうして、だったっていちいち過去形で言い直すの?」
「これ以上は耐えられそうにもないんだ」
「どうして? 彼女が好きだから?」
「そうだ。……すまない」
「いいのよ。本当のことが知りたいと言ったのはあたしの方なんだから、答えてくれてうれしいわ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「信じないぞ。どうしてそんなにきみは物わかりがいいんだ? そんなのは嫌だね。絶対に。気持悪いよ」
「ごめんなさい」
「きみのごめんなさいも、もううんざりだ。だから言ってやる。言ってやるとも。俺は彼女が好きだった。いや好きだ。今でも好きだ。結婚したかったのはきみじゃなくて彼女の方だった」
「知ってるわ」
「知ってる? いやきみは知らない。知っているわけがない。あんなに素晴しい女なんているものじゃない。一目で胸がつぶれた。胸がつぶれたんだよ。ただ一目見ただけで。この気分がわかるか? それくらいショックだった。まだ一度も俺に属していたこともないのに、一目見た瞬間、彼女を失いたくない、と思った。それが一番先に頭に浮かんだかけねなしの思い。とたんに震えが来た。彼女を失うかもしれないと予感したからだった。絶対に俺のものになどなる女じゃない、と直感したからだ。そのために一層彼女を失えないと思った。殺してでも俺のものにしてみせると心に誓った。震えが止まらなかった。
その日以来、彼女が、彼女だけが俺の全てとなった。呼吸をするのさえ、恐ろしかった。彼女を手に入れるしか俺は生きていく方法はないと知りながら、一方では彼女を手に入れられないのではないかと思うと、四六時中俺は汗にまみれた。傷つくか? え? 傷ついたろう?」
「ええ。想像以上に。でも先を続けて」
「恋なんて理屈じゃない。気がついた時には、頭のてっぺんまで恋のどろ沼にざっぷりと浸っちまっていた。ついに恐ろしいことが起った。彼女が断ってきた。俺は何でもすると言った。望むなら生きたまま心臓をくりぬいてもいいとさえ言った。それでも断られたら、生きていくつもりはないとも言った。でもそれはわたくしの問題ではございませんわ、と彼女は例の湖のような声で言ったよ。どうぞご勝手に、といわんばかりに。それでも愛していた。以前より百倍も好きになった。朝目が覚めると、永久に彼女を失ったことを思いだして、のたうちまわった。虫の息で何日も過ごした。あの頃のことはあまり憶《おぼ》えていない。時間が流れて、ふと、まわりをみるとおまえがいた。何か月も漂流していた難破船から、初めて見た陸影のように、きみがいた」
「知ってたわ、みんな。あなたがお見合いの相手から断られたあとバーでそのことを話しているのを見かけたの。全部聞いたわ」
「それじゃ、俺がきみと結婚したのは、彼女を忘れるためだったってのも、知ってたかい?」
「ええ。そうだろう、と想像はついたわ」
「ところが忘れられるどころか、日ましに思いがつのるんだ。きみと彼女とをたえず比較しては、絶望して、そんな自分に腹を立てた。――ごめん、ブレーキがきかない。きみが俺をどんどん残酷にするみたいだ」
「吐きだしてと頼んだのはあたしなのよ。だからいいの」
「彼女は完璧《かんぺき》な女性だった。きみみたいに太っていないし、バカバカ食いもしない。イビキだってかかないだろうし、喉《のど》の奥まで見せて笑いもしない」
「あたしだって、結婚したばかりのあたしの夫が、他の女に気を取られて気も狂わんばかりじゃなかったら、あんなにヤケ食いしなかったわよ。それにイビキですって? 彼女と一晩過ごしたこともないのにどうしてイビキをかかないなんてわかるのよ? 結婚して三年もたてば、喉の奥どころか、胃袋まで剥《む》きだしにして笑うかもしれないじゃないの。もしかして、あなた、そのひとがおしっこやウンチしないとでも思ってるんじゃないの? 言っとくけど、そのひとだってウンチするわよ。便秘してるかもしれないから、とくべつに臭いウンチよ、きっと。何日もお腹にたまってるから、特別に臭くて太い大量のウンチよ。目を覚ませ、このバカ。お腹の中に三日も四日もウンチためてるような女のことを思って、死ぬほど恋こがれているってわけ?」
「おまえは最低だ。それに下品だ」
「そうよ。そして彼女はお腹の中に三日分のウンチためてるお上品。私のかわりに彼女がここにいれば、あなたうれしい?」
「そうだ」
「彼女が今ここにいないのが辛いのね? 淋《さび》しいのね?」
「そうだ、そうだ、そうだ!……いや違う!」
「どっちなの?」
「きみは最低だ」
「それはもう聞いたわ。あたしのことすごく嫌だってこともわかった」
「きみのこと? 違うよ! 嫌なのはきみじゃないよ。俺なんだ。俺が嫌なんだ。俺が俺自身を嫌なんだ。なぜかというと、きみを不幸にしているから。きみを幸せにしてやれないから」
三郎ははっとした。自分の言葉にはっとした。とんでもないことを言ってしまったのではないかと慌てた。
俺が言わんとしていたのはそんな言葉ではなかったはずなのだ。思わず口が開いて勝手にそういう言葉がバラバラとこぼれ落ちたというのが実感だ。
「今、何て言った?」と今日子が、沈黙のあとで訊《き》いた。
「忘れちゃったよ」
「あたしは覚えてる」
「じゃなぜ何て言ったかなんて訊くんだよ」
「確かめたかったから。ほんとにそうなの? ほんとうにわたしを不幸にしていると思って、そのことで悩んでいたっていうの? あなたのこの八日間の苦しみの本当の理由は、あの仙台の美しい人を手に入れそこなったことそのこと自体ではなくて、そのことでくよくよしていて私を幸せに出来ないことなの?」
「なんだか自分でもよくわからないんだ」
「でもあなた、今ちゃんとそう言った」
「正気じゃなかったんだろう」
「ううん、今までで一番正気で、一番真剣な目の色だった。でも今はまた曇っちゃってるけど。さっきは本気の目の色だった」
今日子の目に涙が浮かんだかと思うと、急激に膨れ上って、こぼれ落ちた。そいつが次から次へと止《とど》まることを知らないかのように続けて落ちていく。まるでナイアガラの滝だった。結婚式の時も、オフクロさんたちへの花束贈呈の時も泣かなかった女なのに。今しがたのひどい俺の告白にも、ケロリとしていた女なのに。俺が幸せにしてやりたかったのは実はおまえだったと、つい心にもないことを口から滑らせたとたん、この涙、涙、涙だ。
心にもないこと? そう俺は言った。いや違う。前言取り消しだ。まるきり心にもないってわけではなかった。俺は仙台の女を失った。手酷《てひど》く失ったが、しかし今でもちゃんと生きている。立派にとはいえないが、とにかくも生きている。
今日子を泣かして、それでも生きている。
だが、もしも今日子を失っていたとしたらどうだ? 誰れが俺のために涙なんぞ流してくれる? 仙台のあの美人か?
あら、それはあなたの問題であって、わたくしのではございませんわ、だと?
自殺するなり破滅するなりどうぞご勝手に、だと? 俺はふっきれたぞ。たった今。そしてそう言ってやったんだ、今日子に。
「俺、ふっきれた。信じられないかもしれないけど、目から鱗《うろこ》が落ちるみたいに、きれいさっぱりふっきれた。とりついていたものの怪《け》が、ぱったりと落ちたって感じだ」
「仙台の彼女、ものの怪だったの?」
「そう、ものの怪だ。……世にも美しいものの怪だったな」
「ごめん、また思いださせちゃったみたいね。あたしってドジだ。いいのかな、こんなにあっさりと幸せになったりして?」
「いいんじゃないのか? おいでよ」
「どこいくの? ディズニーランド? ちょっと遅いんじゃない?」
「バカだな。誰れが夜の八時にディズニーランドなんか行くかよ」
三郎は今日子の手をとって彼女をそっと引き寄せた。
「いい気持……」三郎の胸の中で今日子が小声で言った。「時間がこのままずうっと止ってくれればいい。あたしの心臓の音が聞こえる?」
「いや」
「あら変ね。どっかんどっかん大砲みたいに鳴っているのに……」
「俺さ、自分で不純だと思ってた」
「彼女のみがわりにあたしと結婚したから?」
「みがわりじゃなかった。彼女のみがわりになんて誰れもなれない。あのひとはあのひとだしな。ごめん……」
「またしても逆もどり。でもいいの。そりゃそうだ。あたしなんかが仙台美人のみがわりになれるわけもない」
「自分を卑下するなよ、今日子らしくもない」
「このところ卑下しっぱなし。自分でも嫌になるわ」
「俺が俺のこと不純だと思ったのは、そういうことじゃない。なんだか悲しくてさ、淋《さび》しくて一人ぼっちみたいでいる気持をごまかすために、きみと一緒になったこと」
「つまり言いたいことは、本当にあたしと結婚したかったんじゃないってこと? 自分の淋しい気持から思いをそらせるための一時しのぎだったってこと?」
「怒るなよ。怒るのはもっともだけど」
「じゃどうすればいいのよ、あたし。怒っていいの? それともガマンしろっていうの? いずれにしろ、そんなのいいのよ、わかってたことだもの。わかっていてあなたと結婚したんだもの。だけどさ、サブちゃん、あたし思うんだけど、みんなそうなんじゃないかな。結婚てそんなもんだと思うんだ、みんな淋しくてさあ。それで自分のことごまかすために結婚しちゃうってところ、あるもの。あたしだってもしかしたら少しはそうよ。淋しかったもの。一人ぼっちで捨てられちゃったみたいな気持でいたもの」
「謝る」
「でもさ、そのあたしを一人ぼっちで捨てられたような気持にした張本人に、拾われて結婚したんだから、変よね」
「変だな」
「あたしだってプライドあるから悩んだりはしたのよ。だけどね、あたしを捨てて仙台の女に心を走らせた三郎さんは死んだことにしたのよ。そんな人間もういらないものね。
それから次に現れた時、三郎さんはかつての三郎さんじゃなかった。メタメタに傷ついて、目に見えないところからタラタラ血を流しているような男だった。あたしが選んだのは後者の方の男。死んだ三郎さんじゃなくて、傷ついてた男。仙台の女は過去のことなのよ。さっぱり忘れてくれとはいわないわ。でも、新婚旅行にまで彼女を連れて来るとは思わなかった。あれにはまいった。二人のはずの新婚旅行に仙台の女が同伴しているんだもの。何かというと、あたしは彼女に見比べられて。これじゃ怒るのあたりまえでしょ? 膨れっつらもしたくはなるわよ。イビキかいてたって言うけど、イビキかいてたのあたしじゃなくて、彼女だったのかもよ」
「それじゃユーレイだ」
「そうよ、そう、ユーレイよ。仙台の女はユーレイ。実在しないのに、あんなにまであたしを怖がらせたんだから、完全にユーレイだ」
三郎はなんだか気がとがめてきた。男にとどめをさすには、正面攻撃ではなくユーモア作戦が一番だ。笑わせておいて泣かせるって奴《やつ》だ。今日子がやっている戦術だ。ついホロリとくるってわけだ。
「ちょっと言いにくいことだけどさ」
「勇気だして言ってみたら? これまでだってあたしたち、ずいぶん言いにくいこと言ったもの。もしかしたら一生分の言いにくいこと、言いあっちゃったかもしれないわよ。だったらあとひとつやふたつ増えたってどうってことないわ」
「おまえって女は、すごいよ」
三郎は感に耐えないように溜息《ためいき》をついた。
「実は――」
「実は、で始まる告白にロクなことはない。ちょっと待って、息を整え心の準備をするから。ハイ、オーケイ、いいわ、始めて」
「実はな、きみの薬指のその指輪のことなんだ」
「プロポーズの時にくれた指輪ね」
「そのことなんだけど、実は、彼女に渡そうと思って買ったものなんだ」
「つまりお下り、お古」
「怒らないのか?」
「だって知ってたもの」今日子はケロリと言ってのけた。
「知ってたの?」三郎は仰天した。
「保証書の日付けを見たら、プロポーズの一月も前だった。あなたが仙台のお見合い相手に逢って来た翌日くらいだった」
「じゃ彼女のために買っていらなくなったものだって知っててはめてるのか?」
三郎は思わずこぶしを握りしめた。
「他の女にくれてやろうとして、いわば突っかえされた指輪と知って、おまえはめたのか?」
「まあそうね、その通り」
「まあそうねだ? その通りだ? そりゃ何だ? プライドはどうした? 自尊心はないのか? 他のことではない、婚約リングのことなんだぞ」頭に血が昇り、声が上ずった。
「ちょっと待ってよ、あなたが怒り狂うのはちょっとばかり筋違いじゃない?」
そういわれればそうだ。三郎は言葉につまった。
「お古をくれたのはあなたなの。そのことに対してまずは反省を加えてよ」
「とっくに加えているよ。おまえの薬指のルビーがこの八日間というもの赤い目をして俺をにらみ続けていた。針のムシロとはこのことだ」
「なら許すわ。苦しんだのなら許してあげる」
「悪かったと思っている。その赤い目でこの先一生にらまれ続けるのかと思うと、ぞっとする。今日子、指輪を代えよう。新しいのを買ってやる。多分今度はクレジットだと思うけどな」
「それじゃあたしも本当のことを言うわ。実はこれ、あなたがくれたものじゃないのよ。よく似ているけど、違うもの。お店に行ってあなたに内緒でこっそり取り替えてもらったの。石も〇・二カラットばかり大きいのよ。だからもうお古じゃないんだもの。だけど新しいの買ってくれるつもりなら、〇・二カラット分の差額だけ払ってくれる? そしたらあたし、うれしいんだけど」
もちろんそうするつもりだ。三郎はうなずいた。俺も俺なら彼女も彼女だ。しかし今回は完全に俺の負け。
「お礼を言わなくちゃね。俺の心から悲しみや苛々《いらいら》や怒りやらをもののみごとにきみは追っ払ってくれた。それだけじゃない、仙台のユーレイまで追っ払ってくれた。この部屋に入って来た時には暗闇《くらやみ》だった俺の胸の中が、嘘《うそ》みたいに晴れ上ってしまった。このところ、ずっと塞《ふさ》がっていた胸が風が吹きぬけたみたいに軽くなった。俺の胸の中からススをとりのぞいてくれてありがとう」
今日子はうなずいて部屋の中を見回した。二人の新居だ。さっきと今とではたたずまいまでがうんと違う。彼女もそれを感じているのが三郎にもわかるような気がした。
「腹空いた。今度は本当にペコペコだ」
「何か作るわ」と今日子が立って行った。
「しかし冷蔵庫の中は缶ビールだけだぞ。作るったって何を作る?」
「ビールのオムレツとビールのステーキなんてどう? デザートはビールのプリン」
「いいね。ついでにビールで乾杯といこうや」
若い二人は声をそろえて笑った。笑いながら三郎はふっと思うのだった。それにしても先が思いやられるものだ、と。新婚旅行から帰った夜にちょっと食べれるようなものくらい、買いおきしておくだけの頭が回らなかったものか。チーズとか卵とかサーディンの缶づめとか。インスタントラーメンだっていいじゃないか。それなのに何にもない。缶ビールの他にはもののみごとに何もない。
しかし今夜は言うまい。あれだけ言いあえば充分だ。ビールを飲まずともゲップが出るほどだもの。
多分今夜も、空っ腹では寝れまい。まんじりともせず新妻のイビキなど聞かされることになるのだろう。
そして明日、俺たちはそのことで朝一番でやりあうんだろうな。眼に見えるようだね、と三郎は苦笑した。
浮 気 女の場合
クラス会の夜。二次会なんてとっくに終っていて、今は四次会くらいだろう。女も男も相当にリラックスしている。
ホテルのフランス料理で会が始まり、次は同じホテルのバーへ場を移し、三次会は六本木に流れてカフェ・バーだったが、今や、カラオケ・バーである。
もっともここでマイクを握っている素人《しろうと》の出たがり屋は、テレサ・テンとか吉幾三のレパートリーではなく、何やら横文字調。
さっきは五十くらいの会社役員風のおじさんが、眼を閉じてマイ・ウェイを絶唱していた。今は四十代がジャンバラヤを裏声混じりに唄《うた》っている。年齢からいって小坂一也がロカビリーやカントリーウェスタンで一世を風靡《ふうび》した頃の落し子なのだろうか。
マイ・ウェイとジャンバラヤの共通点は知らないが、共に英語で唄うということ程度でヨロシイらしい。不思議なもので、日本人が英語で喋《しやべ》ったり唄いだすとたん、日本人の最も日本人らしい特徴が露呈しだすのだ。鼻が低くなり、顔が横にどんどんだだっ広く見えだすから妙だ。日本人の顔には、大|袈裟《げさ》な西洋式のゼスチャーは合わないんだよ、と、誰れかが横でブツブツ呟《つぶや》いているので見ると、高木次郎である。
「今の賛成ッ」と美緒子が言った。自分でもびっくりするくらい声が大きかった。想像以上に酔っているのか、と思って、グラスに伸びかけた手を引っこめた。
「やあ、美緒ちゃん、久しぶりだねぇ」
「久しぶりって、昼の三時頃からずっと一緒じゃないの」
「その前、ずっと逢《あ》ってなかったよ」
「そうね。あたしクラス会って出る気なかったから」
「ボクもさ。しかしそれが美緒ちゃんの場合は、どうして出る気になった?」
「心境の変化よ」
「何があったの?」
「結婚」
「アイ・シー。なるほどなるほど」と次郎がうなずいた。まだ少年のまま大人になってしまったという級友が多い中で、高木次郎だけが、二十七歳という本来の男の年齢に見える。日本には二十七歳でもマザコンのガキみたいな男ばかりしかいないので、次郎のような大人度を雰囲気に持ち合わせた男は、目立つのだ。
クラス会が始まってすぐに、彼の存在が美緒子の眼をひいた。若き頃のスクリーン上のクラーク・ゲイブルみたいだというのは、あまりにも誉め過ぎではあるが、四次会になり、アルコールが回り、ギラギラと脂切ってきたあたりは、ますますゲイブルを彷彿《ほうふつ》とさせなくもない。
「風と共に去りぬ、観《み》た?」
「テレビと映画館で二度ばかり」
「クラーク・ゲイブル覚えている?」
「女たらしみたいなの?」
「何言ってるの、女たらしはアシュレ役の方じゃないの。ゲイブルは、男そのものよ」
「へぇ、そうかね」
「あなた、ちょっと似てるわよ」
「女たらしに?」
「クラーク・ゲイブル。そう言われない?」
「実は、よく言われる。クラーク・ゲイブルというより、ゲイブルのそっくりさんに似てるって」
なんだ、つまんない、と美緒子は口をつぐんだ。もう同じ発想で彼に物を言っている女が何人かいるみたいだ。でもどんな女たちなのだろうか?
「結婚して心境の変化を起すってことは、実際のところ何かな、一人の男を知って夢破れたってところなの? 幻想が壊れて、そろそろ他の男はどんな味がするのかいな、って好奇心を起し始めているってところ?」
「遠回しな言い方するの止めてよ。つまりあなたがズバリ訊《き》きたいのは、あたしが浮気か不倫の相手を求めて、このクラス会に顔出したのかどうかっていうことでしょ?」
「ズバリそう。昔から美緒ちゃんは勘と頭の回転が良かったけど、今だにさえてるね」
「ありがと」
「で、答えは?」
「当らずとも遠からず」
「ということは、ボクらにも希望がもてるってこと」
「ううん、もてないってこと」
「あれ、どうして?」
「小学校の時の同級生って、言ってみればガキの頃一緒に暮らした兄妹みたいなものなのよ。とても色気を感じあう仲じゃない。それが今日来てみてよくわかった」
「そんなこと言い切っていいのかな? ヤケボックイに火って言うじゃないか。同級会シンドロームって言葉知らないのか?」
「やっぱり嫌よ。半ズボンはいて毛ズネのない頃の次郎ちゃん知ってるのと知らないのとじゃ、大違い」
「ベッドの可能性は全くないってこと?」
「うん、そう。全くなし」
「じゃ、これまで」
高木次郎はゲンキンにもクルリと美緒子に背をむけると、左側のユキちゃんを口説き始めるのだった。そこでフン、失礼しちゃうわ、と思わないのが同級生の不思議さだ。それより、ガンバッテネと肩を叩いてやりたいくらい。
「ユキちゃんて相変らず可愛《かわい》いね。全然あの頃と変ってないんだもの。ホラホラ八重歯《やえば》がこぼれて、色気あるよ」
「何よ、あの頃ドラキュラ・ユキって、人の顔みるといじめてたくせに。あたしすごく傷ついたんだから」
「その傷、まだ癒《い》えてなかったら、今夜あたりボクが責任とって癒やしてやるよ」
「もうとっくに癒えたわよ。八重歯がいいっていう男が現れたから」
「その男、マゾじゃない? キミに喉元咬《のどもとか》みつかせてウハウハ言うんじゃないの?」
「マゾじゃないわよ。今のあたしの亭主」
「なんだ、キミも亭主持ちか」
「二十七歳よ、もうあたしたち。でも亭主持ちだと何か不都合でもあるの?」
「いやないよ。それどころか逆に結婚を迫られないだけ好都合だ。どうかな、ユキちゃん、今夜この後」
「どうって何が? 夜食にラーメンつきあえっていうのならお生憎《あいにく》。お腹バンバンなんだ」
「夜食のラーメンはその後でいいよ」
「そのあとって? まさかこれからドライブで湘南《しようなん》へ連れてくつもりじゃないでしょうね」
「あそこへ行く途中にモーテルやらホテルはやたらとあるけどね。でも、あそこまで行かなくったって、ホテルはいくらでもある」
「ハハァッ、そういう魂胆だったのか」
「他に魂胆などある奴がいるかね。何のために会費八千円のクラス会なんぞに出て来たと思ってるの」
「あなたはそうかもしれないけど、色々なんじゃないの?」
「キミは違うのか?」
「結婚してるのよ、あたし。見損なわないでよね」
「浮気がなんのためにあると思うんだ、ユキちゃん。結婚してるから浮気って言うんだぜ。その特権利用しない手はないと思うけどね」
「特権利用するんなら、別の機会にせいぜい利用さしてもらうわよ」
「どうしてさ。クラス会の相手ってのは、特権利用するだけの価値もないか?」
「だって、あたしの亭主そこにいるもの」
「え? 誰? 何? オサム? オサムがユキちゃんの今の亭主?」
「今も前もね」
「こりゃだめだ」と次郎が立って逃げだして行く。ユキと美緒子は腹の皮がよじれる程笑った。
笑いがふと途切れたところで美緒子は腕時計に眼を落した。そろそろ行かないと――。
「まだ七時よ。これからじゃないの」ユキが察して言った。「よかったらこの後ウチに来ない? あたしたちのとこ広尾だから近いわ」
「せっかくだけど、それは今度のお楽しみ。ちょっと人に逢う約束があるのよ」
「その口調じゃ、ご主人じゃないわね」
美緒子は否定も肯定もせず、そっと席を立った。
オフィスにはまだ明りがついていた。数人の営業マンが報告書を記入している。額田もその中にいた。
「あれ、今日はそのまま帰るとか言ってなかった?」営業マンの一人が美緒子の顔を見るなり言った。額田は顔も上げないで、記入を続ける。
「そのつもりだったんだけど、みんながちゃんと湯沸《ゆわ》かしのガスの栓を止めて帰るか心配だったから」
美緒子はそう言いながら、いくつかの机の上から湯呑《ゆの》み茶碗《ぢやわん》を片づけにかかった。
「そんなのいいから放っとけよ。せっかくのドレスが汚れるぞ」別の営業マンがくわえ煙草のまま言った。せっかくのドレスという言葉で他の二人も彼女を見たが、額田の視線は書面の上に注がれたまま。
「だって、今夜は土曜日でしょう。月曜まで放っといたら、茶碗に渋がこびりついちゃう」と美緒子は湯沸かしのある小部屋に入った。胸がしめつけられるように痛むのだった。小娘みたいにドキドキして。なのに額田はチラともあたしの方を見もしない。堅物《かたぶつ》。仕事の鬼。
美緒子は湯沸かしの横にある曇った鏡に自分の姿を映し出して見た。二十七歳の女の顔がそこにはある。結婚して三年。年より若くもふけても見えないごく普通の十人並み。結婚に不満があるわけでもないし、夫に早々愛想をつかしたわけでもない。結婚はうまくいっていると思うし、同じ年の夫を今でもかなり愛している。さ来年には、埼玉のベッドタウンに小さいが一戸建ての土地つきの家を買う予定だし。今はそのための頭金を貯《た》めるために、子供も産まずに、二人でがんばっている。
この二十七歳の十人並みの顔は、夫を愛し家庭を愛し、そして今は恋している女の顔なのだ。額田雄二が好きだった。朴訥《ぼくとつ》で、不器用で、無愛想で。
かといって、ナイーヴでないというわけではない。動作や言動にデリカシーが欠けるというのでもない。激しさやエキセントリックなところはない分、刺激的ではないが、じんわりとした温かさがある。自分のことを卑下もしていなければ、オゴリも見せない。それは他の社員に対しても同じことが言える。額田は上役であろうと平社員であろうと、美緒子のような結婚している事務員であろうと、同じノンシャランとした寛《くつろ》いだ態度を崩さない。
最初の頃は、牛《うし》のように鈍感な男なのかと思ったが、すぐにその誤解は解けた。
額田は非常に神経の細い、むしろ繊細すぎる男であるが、それを極力表面に出さないように努力しているのである。
営業マンの一人が報告書を書き終えて、ボールペンを投げだした。
「終ったぞ! 土曜の夜だってのに。そうだ、みんなで一杯飲みに行こうか? そっちはまだ終らない?」
みんな口々に、いいねえ、飲みに行こう。もうすぐ終る、とか、あと一行だとか答えている。額田は何も言わない。
「中西ちゃんはどうする? つきあう?」と営業マンは美緒子を誘った。彼女は反射的に額田を眺めた。
その時初めて額田が顔を上げたので、二人の視線が出逢《であ》った。
「額田さんは?」咄嗟《とつさ》に美緒子が訊《き》いた。たった一言、それだけの言葉を口にするのが、こんなに勇気のいることだとは思わなかった。
「僕は止めておく」悪びれる風でもなく自然に額田が答えた。「つきあいが悪くてすまないね」
いつもそうではないのだ。額田が格別につきあいの悪い男だという評判は立っていない。
しかし、じゃ私も止めますとは、美緒子には言えないではないか。額田が行くと思ったから訊いたのだが、今夜は止めておくと答えられては、じゃ私も、などと言えない。
「あたし、どうしようかな」と、美緒子は腕時計を見るふりをした。「ガス湯沸かしの火を消しにちょっと寄っただけだから……」額田の顔を見たことだし。内心みんなで飲みに行くようなことになるかもしれないと、期待していないわけでもなかった。土曜の残業の後には、たいていそういう流れになるのだ。額田がみんなと流れないとわかれば、それであきらめがつくではないか。まっすぐ家にでも帰るのだろうか。確か家には奥さんと四歳になる女の子がいるはずだ。それとも、どこかへ寄ってから帰るのかも。
寄るとしたら彼のような男はどこへ立ち寄るのだろうか? 駅前の一杯飲み屋みたいなところでひとりポツンといると絵になるような男だった。と同時に、映画で観たハンフリー・ボガードのように、高級バーでブラックタイをして、ひとりマテニーなんかをあおっても、それはそれで充分に観賞に耐える風景になるような気もした。先刻のクラス会で調子良く昔のクラスメートを口説いていたクラーク・ゲイブルのそっくりさんとは、全然逆のタイプだ。
額田がどんな所に立ち寄るのか、見てみたいという気持が酷《ひど》く高揚してくるのだった。美緒子は黙って、社員の机の上をふき始めた。
営業部の社員たちが三人、連れ立って飲みに出てしまうと、事務所の中は急にガランとしてしまう。二人きりであるという実感で息苦しいくらいだ。じっと耳をすませると額田の走らせる万年筆の音が、さらさらと聞こえてくる。
もうこれ以上、事務所に居坐っている理由もなさそうだった。額田は、美緒子がそこにいることさえも忘れているみたいな様子だ。
リーンと突然電話が鳴り響いた。思わず飛び上るほどの音だった。日中にはほとんど気にもかけないのに、人気のない夜の事務所では、唐突な音の兇器《きようき》みたいに感じられる。
近くにいたので、美緒子が電話を取った。
「もしもし、わたし」といきなり女の声が言った。
「こちら、三興商会ですが」
「あら、まだどなたかいらしたんですか? ごめんなさい」女の声に笑いが滲《にじ》んだ。
「失礼しました。そちらに額田さんいらしたら、お願いします」女は礼儀にかなった言い方でそう言った。妻ではもちろんない。若い女の声でもない。しかしいきなりわたしと言った。いきなりわたしと言えるのは、相手と肉体的な交渉がある場合の女たちだけだ。美緒子の胸が泡立つもので一杯になった。
「はい、おりますが、どちら様ですか?」相手が名乗らない場合、こちらから名前を聞いて電話をとりつぐことになっている。もっともそうするのは昼の仕事中のきまりで、この時刻、しかも完全にプライベートと知れる電話には適用されない。にもかかわらず、あえてどなた様と訊《き》いたのは、美緒子の心のありようだ。好奇心、嫌がらせ、失望などが混然となった感情が、ついそう訊かせたのだ。自分がせんさくがましい嫌な年増女のような気持にさせられる。
「山口といいます」
「お待ち下さい」美緒子は保留のボタンを押して受話器をかけると、額田の横顔にむかって言った。
「山口さんという方からお電話です」
出来るかぎり事務的に言ったつもりではあったが、声が変に掠《かす》れた。仲間と飲みに流れなかったのはその女からの電話を待っていたからなのだろう。
額田はさして急ぎもせず、ゆっくりと受話器を耳にあてた。
「額田です」
相手の言葉にじっと耳をかたむける。
「ああ、そう、かまわないよ、全然。……うん、じゃ又の時に」実にあっさりとそれだけ言うと、額田は電話をそっと切った。
「額田さん、おデイトの約束振られたみたいね」できるだけさりげなく聞こえるよう、美緒子が言った。彼が振られたことがうれしかったが、それを気どられても困る。
「そうみたいだね」報告書を読み返しながら、額田が言った。
「じゃあたし、お先に失礼します」
それ以上間が持てなくて、美緒子はそう言ってバッグを肩にかけ直した。
「急ぐの?」と額田が彼女の背中に訊いた。ふり返って見なくとも、眼が書類に注がれたままなのがわかるような声である。
「別に。クラス会でうんと遅くなるかもしれないって、家の者には言ってあるけど」一言余計なのは充分にわかっていた。でもなぜかその余計な一言が口から滑りだしてしまう。あるいは言うべき時に言うべき言葉が言えなくて呑《の》みこんでしまったり。余計な一言か、言葉を呑みこむか、額田に関しては、いずれにしろそのくりかえしだ。
「じゃつきあってもらえるかな」報告書をたたむ音がした。
「デイトの身替り?」それこそ余計な一言の最たるものだと思いながら、美緒子は言った。
「そうとりたければとってもいいよ。だから断ってくれてもかまわない」
こんなに淡々とした物言いをする男はめずらしい。
「ご一緒します」妙にしゃんとして、素直に美緒子は言った。この一瞬を最初から期待して自分が今ここにいるのだ、という実感が胸を咬《か》んでいた。クラス会から回って来たのは、その場の思いつきではなかった。朝、ドレスを選んでいる段階で、誰よりも額田の眼を意識して彼女はドレスをきめてきた。大人っぽいスーツに絹のブラウスにしたのは、額田の好みに合いそうな気がしたからだった。
一時に仕事が終ったところで事務服を着替えたのだが、男たちの仕事が土曜の一時に終ったためしはない。額田も他の営業マンも、外へ出ていて社内にいなかった。
クラス会が終ったら、湯沸かしを口実に、事務所へ寄るつもりだった。額田らがいることは十中八九確信があった。クラス会でのクラーク・ゲイブルのそっくりさんの軽薄さが、額田に逢《あ》いたい美緒子の気持にハクシャをかけたと言ってもいい。
三十分後に額田と美緒子は小ざっぱりとした日本料理屋のカウンターに並んで坐っていた。
「きみとこうして食事するの、久しぶりだね」とおしぼりで顔を下から上へと拭《ふ》き上げながら、額田が言った。
「七か月くらい前に一度――」と美緒子が言いかけた。
「へぇ。よく憶《おぼ》えているね」と、額田はおしぼりを持った手の動きを止めた。
「その前は去年の六月のボーナスの翌日に一度と。だから今夜で三回目です。五年会社にいて、三回目です」
最後の一言は、非常に軽く言ったつもりだったが、成功したかどうかは怪しいものだった。
「嘘《うそ》だよ。もっと何度も何度も食事しているよ」と額田は瞬きをいくつかして言った。
「他の人たちが一緒の時を入れれば、もっとたくさんご一緒してますけど」そんなのは数には入らないのだ。
「そうだろう? 僕はそう言う意味だった。三回だなんて言うから、驚いた」
「でも、二人で食事をするのは、本当にこれで三回目」
「うん、そいつはわかった。きみがそういうのだからきっとそうなんだろう」
熱カンを美緒子の杯に注いでやりながら額田が薄く微笑した。「信じるよ」
「その言い方じゃ、何もわかっていないみたい」と美緒子はぽつりと言った。
「わかっていないって、何のことだい」額田が杯を口へ運ぶ。ぐいと一気に喉《のど》へ流し、続けて手酌で酒を注ぎ入れる。その一連の動作がなんとも男っぽい。夫の秀二にはとうてい望めない男ぶりだ。美緒子はホレボレとそれにみとれた。
「どうした? 僕の顔に何かついてる?」
あわてて彼女は自分の杯に口をつけて、少しだけ中身を口に含んだ。
「何もわかっていないって?」ともう一度額田が訊《き》き直した。
「いいのよ。忘れて下さい」
「気になるよ」
「時々額田さんがわからなくなる、私」
「それは困ったな。どうして?」
「本当は何もかもちゃんとわかっているくせに、あえて何も気づかぬふりをしているのか。それとも、本当に何も気づいていないのか」
「だったら後の方だ。僕は不器用で無粋な男だからね」美緒子の杯を新たに酒で満たしながら言った。
「あたしは、案外前者だと思うんだけど、酸いも甘いも噛《か》みわけた上での知らんぷり」
「買いかぶりだよ」
「じゃこういうこと知ってる?」と美緒子はある決意を声に滲《にじ》ませた。「女がある男の一人と、さしで食事をするっていうことの意味。一度目はまあいいわ。最初はおつきあいってこともあるし、断りきれないケースもある。でも二度目は少し意味が違うわ。二度さしで食事をする場合、それは女の場合、相手に対してかなり好意を持っているという風に考えてもいいのよ」それから上眼使いに額田を見て、彼女は言い足した。「男の人の場合はどうかわからないけど――」
「男の方も同じだよ」と、誠実さの感じられる声で額田が言った。「男だって好意を持っていない女をさしの食事には誘わないさ」
沈黙が流れた。美緒子は沈黙が長引くのを恐れて言った。
「そして三度目というのが問題なのよ」
できるだけ他人《ひと》ごとのように言った。
「どう問題なの?」
「ここで将来の二人の関係がきまるのよ。もちろん一般論を言っているのよ、私。誤解しないでね。三度さしで男と女が食事をして、その夜何も起らなかったら、その二人には永久に何も起らないんですって。つまり二人は死ぬまで食事友だちで終るんですってよ、世間一般では」
「なるほどね」
カウンターの中へ、空になったトックリをふって合図をしながら、額田が呟いた。「食事友だちねぇ」
「世間一般はともかく、私たちの場合はどうなるのかなあ、と思って」
「もしかして僕は決定を迫られているの?」
「時間はタップリとありますから、どうぞごゆっくりお考え下さい」
「かたじけない。こういうシチュエイションに追いこまれたことがあまりないから経験不足なんだよ。僕が決定しなければいけないのかい?」
「あたしはヒントを与えたの。これでも勇気がいったのよ」
「女はヒントを与え、男が決定する。古代から同じことを我々はやっているんだ。一線を先に越えるのは常に男の方で、女からは越えないってわけだな?」
「越えてしまえば、どちらからだろうと同じことよ」
舌の回転がすごく早くなっているのは、酒のせいだけではない。覚悟さえきめてしまえばいいのだ。羞恥《しゆうち》心というのは、時にはグロテスクだ。
「きみは結婚している」
「あなたもそうよ」
「男と女では意味が違うよ」
「あたしはそうは思わないけど」
「いや違うね。男は単なる浮気だけど、女がすればそれは不倫だ」
「言葉なんてどうでもいいじゃない」
「問題は、僕らの職場が同じだということだよ。仮りに今夜僕らの間に何かあったとしたら、僕はどういう顔で明日の朝からきみの顔を見たらいい?」
「少なくともその心配はあさってからすればいいわ。明日は日曜日」
額田が笑った。そして言った。「オーケイ。きめた。今夜、僕たちは一線を越そう」
五年もひそかに憧《あこが》れつづけてきた男だった。夫の秀二と結婚したことと、額田に対する思いとは別のものだ。結婚したからといって、急に思いが変るものでもない。
それよりか、前よりも額田に対する好奇心がつのっている。結婚を通して男というものを知るに従い、額田を思う回数も多くなっていった。
今その男は、無言で着ているものを脱いでいる。
「指輪とか時計外してくれないか」バスルームに行きながら、額田が言った。
「あら気がつかなかったわ」と美緒子は結婚指輪のダイヤ入りの方を外しながら言った。「人さまの大事な躰《からだ》に傷つけちゃ申しわけないもの。これから気をつけるわ。教えてくれてありがとう」
額田はバスルームから出て来た。ざっとシャワーを浴びてある。
「あたしも先に浴びて欲しい?」
「特に嫌だというのでなければ」
「別に特に嫌だというわけでもないから、ご要望に応えるわ」
美緒子は陽気にシャワーを使った。出てくると額田はすでにシーツとシーツの間に入っている。
「髪にピン、ついてない?」
「ついてないわ。よっぽどあなた柔肌なのね」
こういうシチュエイションになると、これまで見せなかった人間の面が出て来て、なかなか面白い。そう美緒子は無理矢理に自分に言いきかせた。
「ピンで引っかかれるより、もっと悪いのは、知らずにピンの上で一、二時間眠ったあとのピン型。これはなかなか消えないんでね」
「ムツゴトにしてはあまりムードのない話だけど。何かセクシーな話をしてちょうだい」
実際にはありもしないピンを一つ二つ頭から取り去るゼスチャーなどしてから、美緒子は男の横に滑りこんだ。
セックスは一度はしてみるものだ、とつくづくと美緒子が思ったのは、そのあとだった。してみなければその男というものが真にはわからない。外観や、日頃の言動とは似てもいないセックスをする男が、いるものなのだ。
額田がその例だった。やってみてわかったが、感動とは程遠く、貧相でおそまつで、せこいセックスであった。百年の恋が一夜にして覚めるとは正《まさ》にこういうことなのか、と眼からウロコが落ちる気分だ。
せかせかしていて、自分だけが満足すればそれでいいというタイプなら、それに徹すればまだいさぎよいものを、あっという間に終ってしまった後、やたらにこちらのことを気にする。「どうだった? 良かった?」
良いわけがないとは言えないが、良かったとも言えない。「まあね」と口を濁すと、
「次からはもっと良くなるよ」
「次は、なしにしましょう」
「え、どうして?」とまるで青天のヘキレキみたいに驚いたりするのだ。
「あなたも言った通り、同じ職場でどういう顔してあなたを見ていいかわからない」
「どういう顔でもいいよ」
「でも女は顔に感情が出るから、すぐに同僚にバレる恐れがあるわ」
「バレたらバレたのことさ」
「これ以上続けると、きっと私たちお互いを憎みあうようになると思うのよ。外で二人でお食事しても、もうドキドキしないだろうし。会話が生活じみて所帯じみて来たら惨めじゃない?」
「僕のことなら心配いらないよ」
「あたしが心配しているのは、あたしのことよ。思い余って、あなたの奥さんに電話しちゃうかもしれないし、奥さんや子供さんのところへ押しかけて行くかもしれない。セックスに狂うと、女って自分で自分をコントロールできなくなる動物なのよ」
「それは、困る」額田の顔が急に青ざめた。
「女房子供に迷惑が及ぶのは絶対に困るよ」
「でしょう?」
「僕のテクニックがそれほどきみを狂わせたとは知らなかった。こうなってからで悪いけど、これがやっぱり潮時かな」
「そう、これが潮時なのよ」
美緒子はそそくさとシャワーを浴び、ドレスを身につけて、ストッキングもはかずに靴に足を突っ込んだ。一刻も早く部屋から脱けだしたかったのだ。五年間の片思いが、こんなふうに片がつくなんて夢にも思わなかった。あまりの事の成り行きに、笑いだして良いのか泣けば良いのかわからないくらいだ。
セックスの仕方がせこくて稚拙だったからと言って、その人の人間性まで疑うのはまちがっているのかもしれないが、今は自分が恥かしい。出来ることなら何もなかったことにしてしまいたいが、そうも出来なければ、悪いアクシデントに逢ってしまった、と思いこむしかない。
でも逆にもしも、額田のセックスが素敵でめくるめくような技能と耐久力の持ち主だったとしたらどうだろうか。ただそれだけのことで、額田を神様みたいにたてまつってしまっていただろうか?
せいぜい十人並みの、ごく普通のテクニシャンであったとしたら、どうだったのか? 夫の秀二みたいに。そうしたら多分、あと、二回か三回思いだしたようにラヴ・ホテルに通い、自然消滅をしていただろう。
男と女の関係なんてつまらない。所詮《しよせん》、セックスが良いか悪いか、その二つに一つでしかありえない。セックスがすごく下手でも、会社での仕事ぶりや人柄に関係ないだろうし、家庭では案外いい夫でありいい父親でありうるわけだ。
月曜の朝、会社に行って額田を席に見た時、どんな気持になるのだろうか。彼は何事もなかったかのように落着いてふるまうだろう。自然な寛《くつろ》いだ調子で物を言い、静かに笑うだろう。
そしてその様子とベッドの中での彼との滑稽《こつけい》なギャップを知っている美緒子はどんな気がするのだろうか?
その夜美緒子が家に帰り着いたのは十一時半だった。けれども夫の秀二は帰宅していない。
遅くなるからと朝出がけに言いおいてあったから、彼は彼で外食をし、バーで飲んでいるのであろう。あまり飲める口ではないから午前様になるようなことはめったにない。マージャンの類にも一切手を出さない。
にもかかわらず秀二が帰宅したのは午前三時であった。玄関の微《かす》かな鍵の音で美緒子は眼を覚ました。
「どうしたの? こんな遅くまで。心配するじゃないの」
「嘘《うそ》つけ。ぐーすか眠ってたくせに。枕《まくら》にヨダレの染みがついている」
「それより、何してたの?」
たいしてお酒を飲んでいるようでもないのだった。
「河井と連条に誘われてさ。断りきれなかったの」
「でも飲んでたわけじゃないでしょ? お酒の匂《にお》いしないけど」
「奴らは飲んだよ。最後はヘベレケ」
「それは嘘だ」
「へぇ、どうして?」服を脱ぎながら秀二が訊《き》いた。
「だって連条さん、今東京にいないもの。取材でアメリカの西海岸回っている」
「へぇ。連条こっちにいないの? どうしておまえが知ってるんだ?」
「絵葉書が来てたじゃない、サンフランシスコから。二月一杯は戻らないって」
「俺《おれ》は見なかったぞ」
「でもテーブルの上へ置いといたわ。見なかったのはあなたの勝手よ。でも悪いわね、嘘がバレて。今夜一緒にいたのは連条さんじゃなかった。もう一人は何て言ったっけ?」
「河井」
「河井なんて言うの?」
「河井、英雄」河井と英雄の間に一秒の十分の一ほどの、わずかな沈黙があった。
「河井敬子のまちがいじゃなくて?」
「河井敬子って?」
「とぼければいいって問題じゃないでしょ。敬子よ。あなたがあたしか彼女か最後まで結婚を迷っていた相手」
「どうしてそんなことまで知ってるんだ?」
「自分が結婚する相手のことは、全部知りたいじゃないの」
「興信所に調べさせたのか?」
「あなただって同罪よ」
「どうしてそれを知ってる?」
「興信所の報告書にあったから」
「じゃそっちの方が腕がいいな。俺の方には書いてなかった」
「河井敬子と逢って、何をしていたの? 昔話? 女房の悪口? それともベッドの中?」
「その全部」
「ぎょっとさせないでよ」
「嘘《うそ》だよ。冗談」
「真夜中の三時の会話にしちゃ冗談がきついわ」
「じゃ寝ようぜ。俺もくたくただ」
「何をしてきたから? 昔話で? 女房の悪口を言い過ぎて? それともベッドの中でがんばったから?」
「その全部って言ったろ」
「冗談だって言ったじゃない」
「冗談だよ」
「一体どっちなのよ? 冗談なの? 全部なの?」
「夜中の三時に話しあう会話じゃないと言ったのはおまえだぞ。明日の朝にしよう」
「今夜にして。明日の朝まであと三時間もある。眠れずにモンモンと三時間もベッドで過ごすのは嫌よ」
「じゃ眠れよ。だれも眠ってくれるなとは頼んでいない」
「すごいユーモア」
「俺は疲れて眠いんだ」
「あたしも疲れて眠い。けれどもう眠れない。あなたが明日私に話そうとしていることを思うと、もう絶対に眠れないわ」
「俺が何を話そうとしているのかわかっているみたいだな。だったら、もう朝まで待つこともなく、ぐっすり眠れるじゃないか」
「でももしかしたらあたしがまちがっているかもしれないもの。まちがっていてくれることを神に祈るわ。さあ話して。今、話して」
「話したら眠るか? 俺を眠らせてくれるか?」
「ええ、約束する」
「河井と飲んでいた」
「河井敬子とでしょう」
「それから話をした」
「あたしの悪口ね」
「時計を見たら二時半。あわててタクシーに飛び乗った。そしたら女房がアミ張って待ってて、ゴーモンだ」
「時計みたのはバーで? それともベッドの中で?」
「バーでだよ」
「嘘《うそ》よ、嘘。全部嘘。最初からやり直し。本当のこと言わなければ言うまであなたを眠らせない。従って私も眠れない」
「じゃ何て言えばいいんだ?」
「本当のことよ」
「本当のことって? 知ってるなら教えて欲しいね」
「だから河井敬子と二人で二時半までベッドの中にいたってことよ」
「それ認めれば釈放? ベッドへ行っていいのか? じゃ認める。何でも認めるぜ。親父を金属バットで今夜|撲《なぐ》り殺した。ついでにお袋と近親|相姦《そうかん》もやって来た。河井敬子と今までベッドの中にいた。さあいいだろう、満足か? だったら失礼してお先に眠るよ、おやすみッ」
「お父さんを金属バットで殺したのは嘘。お母さんとの近親相姦もデタラメ。でも河井敬子とベッドにいたのは本当だ。あたしは朝まで眠れない」
「勝手にしてくれ」
秀二は頭からふとんをかぶってしまった。美緒子は頭が冴《さ》えて眠れない。自分の浮気は許せるが、夫の浮気は許せないのか?
そうじゃない。隠そうとするから、疑惑がつのるのだ。半分バレかかるような言いわけをするから疑われるのだ。女房に浮気の疑いを抱かせる夫なんて最低だ。思いやりに欠けることはなはだしいではないか。浮気して来たら絶対に相手に知られてはいけない。
眠ったはずの夫がむっくりと起き上った。
「おまえにひとつ質問がある」その口調、なんとなく重い。
「明日の朝にしましょうよ」美緒子はケンセイした。
「質問に答えてくれればいいだけだ。そしたら眠るよ。おまえ、今夜どこにいた?」
「色々なところよ。クラス会であっちこち場所変えたから」
「八時から十時の間だ」
「八時から十時の間にも三度場所を移したわ」
「六本木のラヴ・ホテルにいた時のことだよ」
「じゃ六本木のラヴ・ホテルにいたんでしょ。そんなに確信があるなら、どうして訊《き》くの? それにしてもすごい想像力」
「想像力で物を言ってるわけじゃない。夢だったら覚めて欲しいと思っている。きみは六本木のラヴ・ホテルに八時から十時まで男といた」
「どうしてそんな言いがかりを言うの。まるで見てたみたいに言うじゃない」
「実は見ていたのさ」
「どこで」
「六本木のラヴ・ホテルで。おまえがエレベーターに乗りこむのを見かけた」
「ということは、あなたも?」
「ひどい偶然だ」
「相手は、やっぱり河井敬子ね」
「そうだ」
「ついに認めたわね。今度は信じるわ」美緒子は絶望的に言って、ベッドに腰を落した。
「じゃそっちも認めるな。八時から十時までラヴ・ホテルに男といたこと」
「男といたことは認めるけど、二時間もいなかった」
いたのはせいぜい三十分だ。そのうち二十八分は洋服を脱ぐのと着るのに使った。
「話それだけ?」
「今のところはな。続きは明日だ」
「眠れそう?」
「うん。おまえは?」
「なんだか眠れそう」
ベッドにもぐりこむと、窓の外が白々と白んで来はじめていた。長い一日であった。溜息《ためいき》をつくと、次の瞬間美緒子は小さな寝息を立て始めた。
浮 気 男の場合
中西秀二がその夜浮気をした相手は河井敬子ではなかった。
妻の美緒子が何故《なぜ》かそう信じて疑わないのも奇妙だが、否定したところでどうしようもないことだ。否定すればするほどいっそう疑惑を深めるということになりかねない。
いずれにしろ浮気の相手が河井敬子であろうと松坂慶子であろうと、秀二にとってはそんなに大差はない。浮気は所詮《しよせん》浮気なのである。
ところで昨夜の相手の名前は何て言ったっけ? 覚えていない。もしかしたら、名前なんて訊《き》きもしなかったのかもしれない。要するにカフェ・バーで隣合わせた女だった。
その女は、もう一人の女と二人連れで、すでにかなりメートルを上げていた。土曜の夜、女が二人でカフェ・バーにいれば、男を物色していると見てまずまちがいない。
秀二のすぐ横にいたのが、その女で、連れの女の方は、すごいような美人だった。細面の切れ長の眼で、髪は淡黒のストレート。いわゆる狐顔《きつねがお》の美人顔。着ているものもシンプル。カシミアのグレーのカーディガンに、黒のタイトスカート。ブラウスは白。首に一連の小つぶの真珠の首飾り。時計なし、指輪なし。耳たぶに、更に小つぶのピアスがあったような気がするが。社長室つきの秘書というタイプの典型。
天は二物を与えぬというが、そんなのは嘘《うそ》にきまっている。狐顔の美人秘書嬢は、顔も良ければスタイルも悪くない。頭も切れそうだし、声がまた良い。
甲高くもなく低すぎもせず、落着いた大人の女の声で、きびきびと喋《しやべ》るのだ。天は二物どころか三物も四物も一人の女に与えるという良い例だ。
ところが、秀二のすぐ横に陣取った女というのがその反対で、天が一物も与えなかった不幸な例。
連れの女とは全てに正反対と思えばイメージしやすい。つまりタヌキ顔。髪は止《よ》せばいいのに流行のカーリーヘアー。膨みかげんの肉体を包むのはコム・デ・ギャルソン風の、ババッチイ色のゾロリとした上下。それにピカピカ光るブローチの類を退役軍人の晴れ姿みたいに飾り立てて。手首には本物かイミテーションか見分けはつかないがロレックスのオイスター。
声も頂けない。ガサガサとした耳ざわりな低音の、おそろしく早口。ソイデサ、とか、ヤダー、とかなんとかナンダヨネとかやたらと下品な感じ。
で、いきおい、秀二は美人の方へ主として話しかけたりしていたわけだった。
「女性の年齢というのは、わからないものだねえ。きみ、幾つ?」酒場で婉曲《えんきよく》なのはかえって嫌らしい。この時代ストレートが好まれる。
「幾つに見える?」
コム・デ・ギャルソンごしに、カシミアのセーターが質問に質問で答えた。
「二十五といったところ」
「当らずとも遠からず。二十六歳」
「ハハン」
「ハハン、て?」
「つまり、抱き頃って意味」
「アラッ」
「アラッって?」と秀二。
「アラッっていうのはね、つまり自惚《うぬぼ》れるな、っていう意味」
真中のカーリーヘアーが右へ向いたり左へ向いたりしていた。会話はもっぱら彼女を素通りして進行した。
「あたしの年には、興味ないの?」
タヌキ顔がついに口をはさんだ。
「そんなことないけどさ」と秀二は言葉を濁した。「言いたきゃ言ってもいいよ」
「じゃ訊《き》いて」
「きみ、幾つ?」苦笑しながら秀二が訊いた。
「あたしも、抱き頃」女はじっと秀二の横顔をみつめた。「ハハンはなし?」
「なし」
「そういうのいけないんだ。差別ツウのよ」
「ハハンを言わないから?」
「あたしのことブスだと思ってるから。知ってる? ブスっていうの今、差別語なのよ」
「へぇ? 知らなかったな。でも何だね、心の中で思ってることまであげつらうのはインネンだぜ。俺、口にだしてきみのことをブスとは言わなかったぞ」
「口にこそ出さずとも、心でそう思っていれば、わかるのよ。眼は口ほどに物を言い、っていうでしょ。あたしは何たって、多感なんだから」
「俺の眼、きみのことブスだって言ってるの?」
「言ってる」
「そういうのヒガミっていうんだよ。それより」と秀二は一人おいて美人に語りかけた。
「恋人みたいなの、いるの?」
「みたいなのはいないけど、恋人ならいるわよ。当然でしょ」
「その美貌《びぼう》ならね」と秀二は認めた。
「あたしにも訊いてよ」と隣の女。秀二はそれを無視して美人の方へと言った。
「いいねぇ。ますますいいよ」
「何が?」
「恋人がいるってのがさ。めんどうになったら、そいつに押しつけちゃえばいいんだもの。恋人のいる女ほど、男にとってありがたいものはないんだよ」
「頭にくるわ」美人嬢がつんと横をむいた。
「ねぇ、あたしにも恋人みたいなもんがいるかどうか訊いてよ」と隣の不美人。
「いるのかよ、恋人?」
秀二はめんどくさそうに一応訊《き》いてやった。
「恋人はいないんだけど、らしきものの方は、いるんだ、数人」
「へぇ」
「へぇって?」
「びっくりしたってこと」
「らしきものがいることにびっくりしたの? それともびっくりしたのは数人の方?」
「両方」
「どうしてびっくりするのよ?」
「だってさ、それはその……」
「知ってるわよ。あたしのことブスだと思ってるから、らしきものなんて出来るわけがないと思ってるんでしょ」
「そうははっきり言ってない」
「はっきり口に出して言わなくてもわかるのよ」
「眼の色でだろ? もうわかったよ。堪忍してほしいよ」
秀二は救いを求めるようにひとりおいた向うの女を見た。
「ところで今夜、きみの恋人はどこにいるの?」
「台湾に出張中」
「そいつはいい。じゃ僕たちチャンスじゃない?」
「何の?」
「わかってるくせに」
「だってあなた結婚してるんでしょ?」
「どうしてわかるの!!」
「そんなに驚くことないでしょ。指輪よ、結婚指輪」
だからこんなものするの嫌だと美緒子と言い争ったのだ。男にとっては百害あって一利なし。
「しかしきみにだって貞操を許した恋人がいるわけだから」と秀二は言い逃れた。「貞操、当然許してるんだろう? だったら女房持ちと恋人持ちで、おあいこ。フィフティフィフティ」
「冗談でしょ」と、美人女は鼻の先で笑った。
「ねぇ、ねぇ、振られたのよ、あなた。男らしく引き下りなさい」
カーリーヘアーのタヌキ顔がニヤニヤしながら言った。
「それよか、あたしのらしきものたちが今夜どうしているか訊《き》いてよ」
「わかったよ。どうしてるんだい、その幸運な奴らは?」
「幸運?」
「そう。きみにからまれずにすんで幸運な連中」
「物には言って良いことと悪いことがあるのを知らないの」
「冗談だよ、冗談。言い直すよ、どうしてるんだい、きみのらしきものどもは?」
「それがさ、ひとりは四十二歳のおば様のお相手。学生時代の家庭教師先の奥さんでね、ご主人が出張というとお声がかかるのよ。それで美味《おい》しいものにつられて彼もバカだから行くのよね」
「ほんとかね。美味しいものったって色々あるからね」と秀二は嫌がらせを言った。ところが若い女は全く動じる風でもないのだ。
「たとえばベッドのお相手をおおせつかるとか? だったら大丈夫よ、渡辺クンは喰気《くいけ》しかないから。何しろ体重八十五キロの肥満体でしょ」
「肥満体の男には性欲ないとでも思ってるのかい?」
「渡辺クンの場合ね」と自信あり気にカーリーヘアーをふりたてるのだった。「何度も同じ部屋で夜を明かしたことがあるけど、指一本触れなかったもの」
「それ、むしろきみにとっては悲しむべきことなんじゃないのかね」と言ったが、この皮肉が通じたとは思えない。
「もうひとりはね、スキー。週末っていうとスキー行っちゃう人なのよ。夏はヨットでいないし、春と秋はテニスだし」
「それじゃほとんど逢《あ》うチャンスもないだろう? それでもらしきものっていうの?」
「気持のもちようだもん。徹ちゃんに最後に逢ったのはいつだっけ?」と美人の女友だちに訊いた。
「去年の冬だったんじゃない。雪が降ったの覚えてるから」
「そうそう。足首痛めたとかで珍しく彼が東京にいた土曜日だったわ」
「他にもそういうのまだいるの?」
「山岸さんという先輩がいんだけどさ、彼、結婚してて妻子持ちなのよね。それで土日の休みは完全に家族孝行で、こっちには絶対おこぼれが回って来ないってわけ」
「じゃそいつとはいつ逢うんだい?」
「昼休みよ」
「なるほど。きみ、みかけによらないんだな」
「みんなそう言うわ」
「しかし昼食抜きで、激しい運動する割りには、体重、あるね」
「昼食抜きって? だれがお昼抜くなんて言った。それから激しい運動って何のこと?」
「え? そっちこそどういう意味? 『昼休みの情事』のことじゃないの?」
「お昼抜きで? 嫌だァ、そんなこと」
「じゃその山岸って男と昼休みに何をしてるの?」
「近くの小公園でお弁当食べるのよ。彼は愛妻弁当。あたしはお袋弁当。時々おかず取りかえっこしたりね。なんてったって料理は年季だもん、あたしのお母さんの味の方が抜群にいいの」
「それだけ? 昼休みに男と女がすることにしちゃ、いやにドメスティックだな」
「ドメスティックじゃない友だちだっているのよ。彼はデザイナー。それがすっごくいい男で、才能があってお金もあって、優しいのよね。あたしのこと女の中では一番好きだって言ってくれるわ。女にしておくのが惜しいって。彼、ホモなのよ」
「ろくなのいないね」秀二は苦笑した。
「それじゃきみのセックスライフはどうなってるんだい?」
「ご想像にまかせるわ」と急に気取ってみせた。
「想像するも何も、おそろしく貧困なセックスライフと見うけるけどね」
「そうはっきり言われちゃ身もふたもないわよ」とカーリーヘアーをふりたてた。「そりゃステディのいる奈々子とは比べものにはならないけどさ」
秀二は奈々子という名の美人に眼をやった。
「奈々子さんは、週にどれくらいたん能してるの?」
「ご心配なく。二十六歳の女が普通たん能する程度にたん能しています」奈々子はまだツンツンしている。
「美人ってのは、得だね。そうやってツンツンしていればいるで綺麗《きれい》だし。笑っても美人。泣いてもよし。怒ればそれもまた風情あり。おシッコしてもウンチしても、きっときみなら風情があるんだろうな」
「誉めてくれてるつもりなの?」奈々子がきっと睨《にら》んだ。すると背筋がぞくっとする程色っぽいのだった。
「ねぇったら」と隣のタヌキ嬢が肩をぶつけて来た。「奈々子のことはいいの。ちゃんとステディがいるんだから。それに彼女は絶対に浮気なんてしないタイプなの。だから諦《あきら》めて、さっきの続き。というわけでさ、あたしのらしきものたちは今夜東京にいなかったりでさ、あたしフリーなのよ。どう?」
「どうって?」
「チャンスじゃない? って訊《き》いてよ」
「訊きたかないよ、そんなこと。俺にだって趣味もあるし、選択の自由もあるんだぜ」
「それが差別だっていうの。人権擁護局に訴えるわよ。いいから訊いてみてよ」
「訊いたら断るか?」
「訊いてみなけりゃわかんないわよ」
「今夜チャンスあるかね、って訊いて、あるあるなんて答えられちゃかなわないよ、俺。そんなのめんどうみきれないよ」
「そんなのって何よ。また差別用語が出たわね。何よ。奈々子には眼尻《めじり》下げてるくせに、あたしとなると急に眼尻が上って貧乏揺すりしながら話すんだからね。ほんと失礼しちゃうわ」
「怒るなよ。ますます酷《ひど》いぜ」
「どうせです。あんたみたいな男、たくさん知ってるわ。日本中あんたみたいな男だらけなんだから。いばらないでよね、別にユニークでも何でもないただの女房持ちのサラリーマンじゃないの。格別男前ってわけでもないしさ。胸板だってたいそう貧弱じゃないか。お酒の一杯でもご馳走《ちそう》してくれたっていうのならまだしも、もう三十分も前から眼の前に空になったグラスがあるのに気づいてか、気づかぬか、あるいは気づかぬふりなのか。何様だと思ってるのよね」
「そいつは気がきかなかった」と秀二は素直に認めた。「話し相手になってもらったんだから酒くらいご馳走すべきだったよ。何にする?」
「自分の非を認めるのには勇気がいるものよ。その点は買うわ」とカーリーヘアーが溜息《ためいき》をついた。「それじゃあたしはマルガリータ、フローズンじゃなくてね。薄くなるから」
「私もいいの?」と奈々子。「ステディの恋人がいるのよ」
「どうぞどうぞ」と秀二はやけっぱちだ。
「じゃジン・トニックを頂くわ」
「さっきのはパンチがあったよ」と秀二は隣の女に言った。
「男前じゃないって言ったこと? ごめんなさい。つい言い過ぎたわ」
「違うよ」
「胸板の貧弱なただのサラリーマンって言ったこと?」
「違う。もっとも男前じゃないのも胸板の貧弱なのも、ただのサラリーマンていうのも、正しいけどな。パンチがきいたのは、ユニークじゃないってきみが言った一言」
秀二は水割りを喉《のど》へぶつけるようにして飲むと、後味を咬《か》みしめるように奥歯に力を入れた。
「男って動物はさ、自惚《うぬぼ》れてんだよな。特にこういう気取った場所へ一人で飲みに来ると、嫌でも肩肘《かたひじ》張ってさ。しかも妙齢の女が二人いるってことになれば、口説いてみようかって気にもなる。表面的には図々しく、女なんて口説きなれてんだなんて顔してるけど、胸の中は冷汗脂汗。カッコ良くやらにゃならんし、どうせ振られるにしろカッコ良く振られにゃならん、てわけで、神経使ってるの」
「わかるわよ」
「ほんとかい」
「なんとなくね。男も神経使って肩肘張ってるかもしれないけどさ、女だって神経使って肩肘張ってるのよね。奈々子みたいに美貌《びぼう》に恵まれている女のことは知らないけど、あたしなんて、自分がどう人の眼に見えるかよぉく知ってるから、進んでピエロやったり、馬鹿やったり、こう見えても色々大変なのよ」
「わかるよ」とつい秀二は本音の声で言った。
「ほんとに、わかるかな」カーリーヘアーの女は遠い眼をした。そういう眼つきは不美人には全然似合わない。彼女はますます醜く見えるだけだった。もしも奈々子が同じように遠い眼などすれば、男としては抱きしめたくもなるだろうが。秀二はちょっぴり隣の女に同情を感じた。
「どこまで話したっけ?」
「男は肩肘張ってるって話」
「そうそう。ある意味でさ、女口説くのも命がけみたいな馬鹿なところが男にはあってさ」秀二はいつのまにか美人の奈々子の存在は忘れて、カーリーヘアーの方に話しかけていた。「それくらい、馬鹿にならないと、見知らぬ女なんて口説けやしないし。たかがバーで出逢った女口説くくらいのことで命張るみたいな気持に、自分を一種|騙《だま》くらかすっていうのかね、暗示かけるっていうのか。世界一の美男子で、もてる男になったつもりじゃなければ、男なんて劣等感の動物だから、一言も声などかけられもしない」
「たとえばハンフリー・ボガードのつもりとか?」
「正にそのとおり。そこへドカンときみの言葉。全然ユニークじゃないときた。どこにでもいるありふれた男、ときた。完全に自信喪失」
「悪かったわ」
「本当にそう思っていないのなら謝る必要ないぜ」
「半分くらいそう思ってる」
その時横の美人が妙に騒々しい声で言った。「あなたがた、なんだか意気投合したみたいで、私なんかお邪魔でしょうから、お先に失礼しましょうか?」
「あら、奈々子、そんなこと言わないでよ。先に帰っちゃ困るわ。帰るなら一緒に帰るって」
「俺は別に引きとめないよ」と秀二は奈々子を見て言った。
「じゃ、私、帰る」奈々子は自尊心を傷つけられて立ち上った。「あなた、どうする?」
「無理に連れて帰ることないよ」と秀二は奈々子に言った。「いるかいないかは、彼女の自由だ」
「もちろん自由よ」
「どうする? 帰る?」と秀二はカーリーヘアーに訊いた。「さっきの話の続きがまだ残ってるんだけどさ」
「どの話の続き?」
「チャンスはあるかって俺が訊《き》くところから」
女は一瞬どこかが酷《ひど》く痛むかのような表情をした。
「じゃ、訊いてみて」
「俺たち、今夜、チャンスがあるかね?」
秀二は低いが誠意のある声でそう訊いた。
女は奈々子の方に顔をむけた。「悪いけど、あたし残る」
奈々子が片方の眉《まゆ》を額の中程までピクリと上げて、踵《きびす》を返した。女の友情なんて底の浅いものだ、と秀二は思った。
「あたしが残ったのは」と、奈々子が消えてから五分ほどして、女がポツリと言った。「チャンスがあるから、ってわけじゃないのよ」
秀二は黙っていた。女が続けた。
「誤解されると困るけど――」
「誤解していないと思うよ」と秀二。
「あたしがあのことに飢えてる女だと思われるのも嫌だな」
「でも満喫しているようにも見えないよ」どちらかというと温い声で秀二が言った。
「フフフ、それは認める」と彼女。「とうてい豊かなるセックスライフとは言えないわね」二人は初めて声を出して一緒に笑った。秀二はカーリーヘアーの女が今さっきほど醜いとは感じなくなっていた。
「あたしが一人でも残る気になったのは、あなたが意外にいい人そうだから、ってわけでもないのよ。さっきも言ったように、いい人なら他にもたくさんいるわ。そういう人もたくさん知ってる。いい人なんて本当は一番遠い存在なのかもよ。これはあたしの経験で言ってるんだから確か。いい人ってのはサ、一番ウサン臭いのよ。いい人ってのは、どうでもいい人っていう意味なんだ」
「体験からの言葉なりの説得力があるよ」
「あたしが今夜、あなたと一緒にいてもいいなと思った本当の理由はネ、あなたってすごい無防備なんだよね。さっきだってさ、男が女口説くのに際して何だか見ているの気の毒になるくらい熱弁振るったジャン。ああいうのに弱いんだよネ、あたし。自分の弱さみたいなもの平気で前面に押しだしてくる男のひとのさ、バカみたいな本音の部分に、ツイ、ホダされる口。自分でもどうしようもないと思うんだけどサ、それでいつも結果的には騙《だま》されるの。つまりサ、男ってサ、バカみたいに無防備である時も、どこか一個所さめてるのよネ、そしてそのさめてる部分で、あたしみたいな女がコロリと騙されるのを見てるわけよ。
そういうのちゃんとあたしに見えててサ、その上でコロリと騙されるふりをするあたしもちょっとしたもんかもね」
「うん、ちょっとしたもんだな」眼でバーテンダーにグラスのおかわりを命じながら秀二は言った。「それで、今夜、ちょっと騙されてみる気になったってこと?」
「ちょっとだけね。気が変るかもしれないけど」
「これまでこんなふうにずいぶん男に騙された?」
「てわけでもない。ずいぶんなんて数はいなかったわね。ご覧の通りのご面相だから、こっちで騙されたいと思っても、あちらの方でいいよ、騙さないよっと尻《しり》ごみしちゃったりしてさ」
「卑下するこたぁない」
「卑下じゃないの。冷静にさめて言ってるの。カフェ・バーに出かけて行って、進んで口説きたくなるタイプじゃないものネ、あたし。もしあたしが男でサ、あたしみたいなドタっとした女がバー・カウンターにもたれかかって、マルガリータなんて啜《すす》ってるの見たら、何も言わずに回れ右しちゃうもんネ。自分で自分が好きになれないような女を、一体誰れが好きになると思う?」
「中身を問題にする男が、そのうちきっと現れるさ。きみは普通の女よりよっぽど頭いいし、それこそユニークだよ」
「そんな男、現れるかな? ユニークって言ってもらって本当はうれしいけどさ、でも女だったら一生に一度、きれいだよ、かわいいよって言ってもらいたいのよネ。嘘《うそ》でもいいからさ。ねぇ、言ってみてよ」女はすがるような眼で秀二を見た。「ほらね、言えないでしょ。嘘でもいいって言ってるのに、言えないんだから」
「嘘できれいだと言われて、うれしいか?」
女はしばらく首をかしげて考えていた。
「わかんない。だって言われたことないんだもん。だから試しに言ってみてよ、そしたら感想言うわ」
「じゃ言うよ。きみはきれいだよ」
「そんな心のこもらない言い方じゃ、白けるわ。たとえ嘘でももっと心をこめてくれなくちゃ」
「嘘言うのに心をこめたことなんてないんでね、経験不足なんだよ」
「練習だと思ってやってみて。そのうちうまくなるから。さ、もう一度」
「きれいだよ、きみ」
「あたしの眼を見てない」
「きれいだってば」
「そんなのやけっぱちだ」
「当り前だろ。きれいじゃない女にきれいだなんて言えるわけがない。諦《あきら》めろよ。もう言わないぞ」秀二はグラスをドスンとカウンターの上に置いた。
「きれいだとは言えないけど、でもさ、きみ、信じないかもしれないけど、きみって子は、かあいいとこあるよ。うん、あるある。なかなかかあいい」
「嘘よ」女は急に不機嫌になって言った。
「嘘だと思うならそれでもいいさ。別に信じてもらわなくとも俺は困らない。だけどきみほど勘のいい女が、人の嘘と真実が見抜けないはずがないと思ったんだけど、どうやら俺の買いかぶりすぎらしいな」
「そう、かいかぶり」女はいっそう声を低くして、そう呟《つぶや》いた。
「たまには素直になれよ。きみみたいな女には素直になることがむずかしいのは理解できるけど――」
「ちょっとまって。きみみたいな女ってどういう意味?」
「つまりさ」と秀二は言葉を探した。「ある種の劣等感に支配されている女」
「ある種の、っていうところを具体的に言ったら? 言えないの? 差別用語でもいいわよ。あと一度だけ許してあげる」
「許してくれなくてもいいよ。きみみたいな不美人。ブス、オカチメンコ」
「言ってくれたわね」
「おお言うとも。きみみたいな女が、男から相手にされない本当の理由を知ってるかい? オカチメンコだからじゃないぞ。姿形なんてたいした問題じゃないんだよ。心根さ、問題は。きみの問題はだな、心までブスなことだ。そいつを直さないことには、これからもずっと男とは縁がないと思えよな。顔の美醜は生れつきのものかもしれないが、心根の方は、きみしだいで美人にだってなれるんだぞ」
「言ってくれるわね。心が痛むわ。躰《からだ》中がズキズキ痛い」
「結構。せめて心の美人てやつになってみろよ。それから大きな口を叩《たた》くんだな。自分のブスにアグラをかくのは止《よ》せ。ブスを売りものにするのは止《や》めろ。それが俺の忠告だ。なぜ見も知らぬ女に忠告するはめになったのかはわからんが、こうなったら徹底的に言ってやる。きみは美人じゃない。ひねくれている。素直でもない。時々意地悪で鼻持ちならない。生意気で、突っぱっていて、可愛いよ」
「何て言った?」
「全部か? 初めから全部言えっていうの?」
「ううん。最後のところだけ」
「生意気で突っぱっていて可愛い」
「カアイイって、あたしの耳に聞こえたけど、もしかして聞き違いかしら」
「いや」
「カアイイって、言ったのね」
「さっきも言ったぞ。もう忘れたのか?」
「さっきのと今のとでは、全然違って聞こえるわ」女の表情からこれまでの暗さがふっと外れたように、秀二は思った。
「ほんとうにあたしのこと、そう思う? カアイイって思う?」
「生意気で突っぱっていてってのもつくんだぜ。その前にもひねくれてるとか一杯ついた上での可愛いんだぜ」
「わかってる」女はグラスの中身をじっとみつめた。「じゃ、あたしと今夜、寝てくれる?」
「え?」秀二はうろたえた。
「いいのよ、わざと言ってみただけ」女はニヤリと笑った。「あなた、顔色変ったわよ」
「突拍子もないこと、突然言いだすからだよ」
「でもいいのよ。可愛いけど、寝たいほどじゃないってことなんだ。そうでしょ? 当然よね」
「それがいけない。すぐそうきめこむ」
「じゃ寝る?」
「だからさ」
「わかった、もういい」
「まただ。勝手に自分で結論を出すなよ。俺に質問したんだろ、だったら俺に答えさせろ」
「いいわよ、答えて」女は肩をすくめた。諦《あきら》めの感じがわずかに彼女の首すじのあたりに漂っている。
「寝るよ、俺」
沈黙。秀二は十回同じ言葉を自分の胸の中で問い返した。俺が? 寝るって? この女と? 気でも狂ったんじゃないのか?
「ありがと」女が晴れやかに笑った。「今の嘘《うそ》、最高の出来だった。もう少しで騙《だま》されるくらい、うまかったわ。ほめてつかわすぞ。でも嘘でもうれしかったわ」
「嘘じゃない」
「いいのよ。気持だけですごくうれしいんだから」
「冗談じゃないぜ。ここまで男を追いつめといて、そのあげくに肩すかしくわせるなんてのは、やり方が汚いぜ」
「やり方、汚い?」
「ああ、汚い。あんまり汚くて吐き気がすらぁ」
「…………」
二人はそこで黙りこくった。
「あたし、ひとつもいいとこないみたい。何やっても何言ってもダメなんだ」
「自分をダメだと思ってる時のきみって、最低だよ、知ってるか?」秀二が温い声で言った。「いいから出よう」
「出てどうするの?」
「男と女のすることをしに、しかるべきところへ行くのさ」
「ホテル?」怯《おび》えたように女は首をすくめた。
「この季節は寒いから、外よりいいんじゃないか?」
「あなたってユーモアある。こういう時、男と女の違いを痛切に感じちゃうのよね。ユーモアってのは男の資質の中で、一番スゴイものだわ」
「妙な時に妙なことに感心するんだな、きみは」
「ホテル、行かなくちゃいけない?」
「怖いの?」
「信じないかもしれないけど、実はそう」
「まさか初めてじゃないんだろう」
「信じないかもしれないけど、実はそう」
「驚いたね」秀二は再びたじろいだ。
「二十六歳にもなって、恥かしいわ。気持悪いでしょう? 気が変った? いいのよ。ちっともかまわないからサ、どんどん気ィ変えてくれていいからネ。実はサ、あたし、いくつまで処女を守り通せるものか、自分に賭《か》けてるのよネ、だから、気ィ変ってもいい。止《や》めようよ、ね? ね?」
「もういい、黙れよ」
「気、変った?」
「いや」
「…………」
「もうこれ以上何も言いたくないし、今の気持を説明したくもない。いいね?」
「……いいわ」
「じゃ出よう」秀二は女の答えも待たずにさっさと伝票を手に取るとレジへと向った。
そのホテルの一階から四階までは、事務所だとか店舗などが入っていた。ホテルは五階から上で、普通の連れこみホテルとは少し様子が違っている。
フロントで手続きをすませ、エレベーターに乗ったところへ、下から別のエレベーターが止まり、四、五人の男女が下りて来た。その中の一人の姿を眼の隅に認めて秀二は一瞬|躰《からだ》を凍りつかせた。
「どうしたの?」と、背後でエレベーターが扉を閉じるのを待って、女が囁《ささや》いた。「誰れか知ってる人?」
咄嗟《とつさ》には声が出なかった。しかし秀二には、たった今見かけた女が自分の妻だとは、言えなかった。しかし美緒子にまちがいはない。
見たのは一瞬だけではあったが、自分の妻と他人とを混同することはありえない。よく似た女はいるかもしれないが、毎日見なれている妻を、見まちがえるわけもない。
「ねぇ、どうしたのよ、顔、青いわよ」女は心配気に顔を寄せた。
「知ってる人に、あたしたち見られたの? だったら今から下へ行って、その人の前でホテルをキャンセルしたら? そしたら誤解がとけるかもよ? 会社の人か何かなの?」
「うるさいな」と秀二は苛立《いらだ》って言った。「黙っててくれよ。ぺちゃくちゃ喋《しやべ》るなよ」
「ごめんなさい」
エレベーターが七階で止まり、二人は外へ出た。それから無言で廊下を歩き、706号室のキーを開け、中へ入った。
秀二はまっすぐに窓に向うと、夜景を見下ろして、ぼうぜんと立ちつくしていた。
「もしも、俺の気持が変ったと言ったら、きみ、傷つくだろうな」
少し沈黙があって女が答えた。
「うん。少しはね。でもサ、傷つくことにあたしなれてるから、すぐ立ち直るわよ、気にしないで。もし、よかったらどうして気が変ったか少しでも説明してくれるとうれしいんだけど。でもムリでしょうね」
「いや、説明するよ」と秀二は女の方をふりむいた。
「いいえ、いい。言わないで」急に女は怯《おび》えたように後退《あとずさ》った。「やっぱり嫌なんでしょう? わかっていたのよ」
「待てよ。何も言うなよ、俺の説明を聞いてくれ。どたんばになってきみが嫌になったんでも、欲望がなえたわけでもないんだ。実は、さっきエレベーターから出て来たのは、女房なんだ」
「奥さん……!」
「そう、俺のカミさん。貞淑なる妻の美緒子」
「ショックでしょう」
「そりゃまあね」
「わかるわ」
「そうかね?」
「あなたがかわいそう」
「俺が今、何考えているかきみにわかるかなぁ」と秀二は静かに言った。
「奥さんを殺したいほど憎いんでしょ?」
「いや。女房のことなんかじゃないんだ。自分でも意外だけどね。俺の心を満たしている思いは女房のことでも、コキュの俺自身のことでもないね。俺だって、女房|騙《だま》してんだからその点はお互いさまでサ、お笑いだよな。しかし今、俺が一番心配してるのは、きみのこと」
「あたしのこと?」女は眼を見張った。
「そう。きみ。二十六歳の処女のきみ。俺さ、女房のことがなかったら、きみと寝るよ、今夜。だけど、女房がこのホテルのどこかで同じ時に他の男とセックスしていると思うと――」
「わかるって。気持、なえるわよね」
「そうじゃないんだ」と秀二は言った。
「欲望のことを言うなら逆に高揚するよな、こういう場合。理不尽だけどさ、頭にくるけどさ。気が狂いそうだけどさ。でも女房が同じホテルで誰れか他の男に抱かれていると思うと、逆に、欲望がめちゃくちゃにつのるよ。俺さ、そうすると、きみのこと傷つけてしまうような気がするんだ。きみにやさしく出来ないと思うし、きっとどこかで女房に対する復讐《ふくしゆう》の気持が重なってくると思う。
きみの肉体を使って、女房に復讐するのは、嫌だ。それはきみに対してフェアじゃないからだよ。この点をわかってもらいたい。きみが抱きたくないんじゃない。きみがブスだからでもない。女房の腹いせみたいに、きみを愛したくないんだ。それだけだよ」
女は長いことベッドに腰をかけたまま、壁にかかったマチスの複製画をみつめていた。
「ありがと……」
そういう女の眼から、涙が転がり落ちた。
「今の言葉、あたしが生涯で聞いた一番ステキな言葉だ。一番ステキで、一番きれいだ。男のひとって、すごいよね。すごい発想をするんだよね。たいていの時は、くだらないことばっかり言ったり、イバったり、スケベだったりするけど、いざとなると、男って、ほんとにステキだよね」
「そういう感じかたをするきみも、すごくステキだよ」
秀二は両手を広げた。女が立ち上り、少しよろけて、彼の腕の中に飛びこんだ。二人は一分ばかり、そうして抱擁しあっていた。
「今夜は駄目だけど、別の時にまた逢おう」と秀二は熱心に囁《ささや》いた。
「どうかな」と女は秀二の腕をほどきながら呟《つぶや》いた。「次の時なんてないかもよ。たいてい人生って、そんなもんじゃない? チャンスは一度きりよ。タイミングって大事なんだ」
「そんなことはない。今、じゃ約束しよう。来週の同じ時間に、あのカフェ・バーに俺はいる」
「あたしは……わからない」秀二から離れながら女が言った。
「どうして? 自分のことだろう」
「そうよ。でもサ、考えてョ、次に逢《あ》った時に、あなたがあたしと寝たくなるか、冷静に考えてよ。今よりもぐっとさめた眼であたしを見るわけでしょ? あの気取ったカフェ・バーのカウンターで、ブクブク肥えた醜い女がお酒飲んでいたら、あなた、ぎょっとするわよ。正気に返るわよ。だからできたら、今夜のことは大事な大事な思い出として取っておきたい。そうさせてよネ、おネガイ」
秀二はうなずいた。「わかったよ。約束するのは止《よ》そう。何も約束せず、もしもまた、俺たちがどこかで出逢って、自然にまたこうなったら、その時に愛しあおう。いいね? それがきみの望みなんだね?」
「そう。それがあたしの望み」
女は窓の外へと顔を背《そむ》けながらそうはっきりと言った。
離 婚 二人の場合
冬にしては日射しの柔らかいポカポカとした陽気の日曜日だった。ぐっすりと眠り十時頃起きだし、妻の作った朝食を新聞片手にすませてしまうと、もう何にもすることはない。こんな時にテレビでもあれば何とか間がもつのだろうが、妻はテレビ嫌い人間で、結婚の条件のただひとつが、家にテレビを置かないということだった。そのためにテレビがないのである。
徹にしても、結婚する前は、テレビなど観ることは皆無に近かった。週日は仲間と飲んだり、まだ恋人だった頃の現在の妻とデイトしたりで、帰宅は連日深夜近かったし、土・日の休みもほとんど家にいなかった。
テレビが結婚生活に必要欠くべからざるものだと知ったのは、新婚旅行からまっすぐに新居に落ちついた、正にその日からだった。何とも手もちぶさたなのだ。することがなくて気づまりな感じが二人の間にどうしようもなく高まると、仕方がないから二人はセックスをした。
新婚の間はまあそれでもいい。しかし三か月もすれば、飽食《ほうしよく》にはあきあきしてくる。そしてまたぞろテレビのチャンネルをひねりたいという切実な願望に悩まされるようになるというわけだった。
「おい、テレビ買おうよ」
「だめ。約束じゃない」と妻はにべもない。
「しかしなぁ」
「だめって言ったらだめよ。テレビなんて買えば私たちの結婚が危機に直面すると思いなさいよ」と妻は脅迫した。
「しかしなぁ」とまた徹。「このままでも充分に結婚の危機に直面しているような気がするんだがなぁ」
「あなたって、想像力に欠けるのね」と妻が言った。徹はゆううつそうに溜息《ためいき》をついた。
ある時、会社の帰りに同僚に誘われて飲みに行く気になった。
「へぇ、珍しいな」と、同僚がびっくりしたように言った。結婚前は共にへべれけになった仲だ。
「いいのか嫁さん」
「いいんだ、いいんだ。うちのは想像力があるんでね、一人でも退屈しないんだよ」
久しぶりのカフェ・バー。なんだか自分が急に年をくってジジむさく感じられる。女の子がやけに生き生きピチピチとして見える。横に並んだ黒いニットのスーツの女が首をねじって彼を見ると、いきなり言った。
「あなた、私の好みのタイプよ」
そんなふうにスムーズに女からアプローチされるのは初めてで、徹には驚きだった。
「うれしいね」と徹は黒いニットスーツの女をジロジロ見ながら言った。「案外、おたく、いい趣味してるじゃない。豊富な体験のたまもの?」
「どういたしまして。数じゃないわ。男を見る天性の眼よ」
その若さでこの応答ぶりとは、近頃の若い女もなかなかなものじゃないかと、徹はいっそう感心した。
同僚は席を移動してニットスーツの連れの女の方を口説き始めている。そっちの女もこちらに負けず劣らずのかなりの線。女たちの水準が、新婚生活に引きこもっていたわずかばかりの間に、ずいぶん上ったものだと、徹は思わずにはいられなかった。そっちは白いニットのワンピースに赤いベルト。赤い靴。どちらかというとキュートで扱いやすそうなタイプだ。
「たとえばさ、俺《おれ》のどんなところがおたくの気を引いたの?」徹が黒いニットのスーツにむき直った。
「結婚しているところよ、まず。絶対うるさくつきまとわないもの」
「うるさくつきまとう結婚している男はゴマンといると思うけどな」
「私の眼にかなった男は違うのよ」
「他にも何かある?」
「一応女の扱いになれてるじゃない。それにまずエイズの怖《おそ》れが少ないわね」
「いきなりそういうことになるわけか」
「はっきり言って、段階ふむのって、めんどくさいのよね」
「え?」徹はちょっとばかり度肝を抜かれて眼を瞬《しばたた》いた。
「男と女ってさ」と黒いニットの女は顎《あご》の下で両手を組みながらやけに大人びた様子で言った。「結局寝るか寝ないかのどっちかしかないのよね」とすごいことを言うではないか。
「いろいろ段階ふんだってさ、行きつくところは寝るか寝ないかなのよね。で、どうなの?」
「え? どうなのって、きみね」徹はみっともないほどうろたえて訊《き》き返した。
「寝たいの? それとも今夜は寝たくない気分?」
「ずばり言うんだねぇ」徹は溜息《ためいき》をついた。
「物事ってさ、やっぱり順序ってのがあると思うんだよねえ。俺さ、古い人間かもしれないけど、段階をふみたい方なんだよね」
「段階を楽しむのは、特別に好きな人の場合にとっておきたいのよ。過程を楽しむのは、恋人だけでたくさん。言っとくけどあたし恋人いるのよ」
「俺にもカミさんがいるんだ」
「だったらお互いさまじゃないの。段階ふむってのは、恋人や奥さんに対する一種の裏切り行為だと思うのよね、あたし」
「へぇ、そんなもんかなあ」徹は女の顔をまじまじとみつめた。「で、一足飛びにホテルに行っちゃうのは裏切りじゃない?」
「変な理屈みたいに聞こえるかもしれないけど、そう。いわば行きずりのセックスなんて、スポーツと同じだと思うわ。サウナ入るみたいなものよ。汗かいて、終り。気分そう快。だけどそこにお酒だとかお食事だとかお互いの身の上話とかの会話が入ると、もうスポーツとは言えなくなっちゃう」
「やっぱり妙な理屈としか思えないね」徹はすっかり自信をなくしたような気分になって呟《つぶや》いた。
「だったらいいのよ。別に男に飢えてるってわけじゃないもの」そう言って女はぷいと反対側を向いてしまった。
「でもそう見えるぜ」徹はずばりと言ってやった。「そこにそうして女が二人坐っていると、網張っているクモみたいに見えるぜ」
「その形容気に入らないけど」と言って女はニヤリと笑った。「でもサ、金曜の夜、妙齢の女が二人、カフェ・バーで何してると思うのよ? ピンポン?」
「いや。やっぱり男を漁《あさ》ってるとしか見えないね」
「事実そうだもの」女はクールに言った。
「男だったら誰れでもいいのかい?」軽蔑が声に出た。
「その発言だけは許せないわね」と女は今度は本気で怒ったようだった。「あなたに声かけたからって、誰れにでも声かけると思うのは、あなた自身をおとしめることにならない?」
「じゃ俺は少数の選ばれた幸運な男ってわけ?」
「信じなくても全然かまわないけど、実はそうよ」
女は口をつぐんでウイスキーらしい飲みものをちびりと口に含んだ。
「じゃ訊くけどさ、俺が性的異常者じゃないとどうしてわかる? もしかして切り裂きジャックじゃないと、どうして言える?」
「結婚指輪をしている男はまず大丈夫なのよ」と女はすまして答えた。「それからあたしは、まず男の手を見るの。手を見れば、その男がどういう男か、百パーセントわかるわ」
「ほんとかね」思わず自分の手をつくづくと見てしまったくらいだ。
「ほんとよ」と女は言った。「性的な変態は、やっぱり厭《いや》な感じの手をしてるものよ」
「俺の手は、そうじゃないと?」
「そう。色つやとか大きさとか、手と指のバランスとか、均整がとれてるもの。ごく健康で正常な証拠よ」
「手相見みたいなこと言うね」
「たいした数じゃないけど、経験よ」女は肩をすくめた。
「もしかして、きみ、金取るの?」
「冗談じゃないわ。誤解しないでよ」それから躰《からだ》をかたむけると隣の連れの女に向かって言った。「あたしたち商売女と間違われてるわよ、ケイコ」
「アーラ」とケイコと呼ばれた女が言った。「それ、光栄なのよ。女がそういうふうに見られるのって」
「話にならないんだから」と黒ニットスーツの女はグラスに視線を戻した。それからひどくポツリとした感じで呟《つぶや》くように言った。「あなたの手が、気に入っただけよ」
ポツリとした感じだったが妙に胸に響く言い方だった。
「週に三回はケイコとここに来るけど、アプローチする気になったのは、あなただけ」
「そいつも手なんじゃないのかね」半ば自信なげに、徹はそう言った。言ってしまってから、後悔したが遅かった。女が立ち上り、バッグに手を伸ばしたからだ。
「怒ったのかい?」
「放っといてよ。口をきく気にもならないわ。あなたって最低」女はケイコという白いワンピースの女に向かって言った。
「どうする? あたしは帰る」
「じゃあたしも」ケイコはストゥールを滑り降りた。「ちょうどよかった。退屈してたの」
徹の同僚が白けたように肩をすくめた。
女たちは連れだって出口に向かった。
店は混んでいて彼女たちを通すために何人かの男たちが道をあけた。
「もう帰るの? まだ、早いんじゃない?」と男の一人が声をかけるのが聞こえた。
「ねぇ、よかったらつきあわない?」もう一人の男がアプローチしている。
「冗談でしょ」と黒ニットの女が冷やかに言った。「そこの鏡で自分の顔よく見て言ってよね」その言い方があまりにもストレートでユーモアもなかったので、一瞬男の手が黒ニットの女に伸びるのではないかと、徹は緊張したほどだった。しかし殺気だった感じはすぐに消え、男たちは二人の女から白けた顔をそむけた。女たちがレジを出たところで徹がコートを取って立ち上った。
「帰るのかよ?」と同僚が聞いた。徹は返事もせずに出口へ急いだ。
女はバーから数メートル先の交差点で、タクシーを待っていた。
徹が近づくと、チラリと見たが表情は変えなかった。
「俺」と徹が黒ニットの硬質の横顔に言った。
「さっきは言い過ぎたみたいだ。ごめん」
しかし女は何も言わなかった。
「じゃ失礼する。一言謝りたかっただけなんだ」
徹は踵《きびす》を返して歩きかけた。
「待ってよ」と女が徹の背中に言った。
「それじゃまるで捨て台詞《ぜりふ》と一緒じゃない。人に謝るんだったら、もう少し恐縮した態度見せるべきじゃないの? それじゃこっちに許してあげるって言うひまもないでしょ?」
徹がニヤリと笑って立ち止った。
「じゃ仲直りにそこいら辺で一杯飲み直そうか?」
「一杯飲むのは止《や》めるわ。そういうプロセスふみたくないんだ。情が移るからね。言ったでしょう、恋人がいるって」
「わかった」と徹はうなずいた。「だけど、その子はどうする? ホテルまでついて来させる気?」
するとケイコはプイと膨れて言った。
「ご心配なく。その子は帰りますッ」
「いい子だ」徹が笑った。
ラヴ・ホテルというのはもちろん初めて来るわけではなかった。妻が恋人だった頃、月に四、五回は利用したものだった。
しかしその時には部屋にあるテレビになど、注意もしなかった。空気と同じくらい、気にもとめなかった。
しかし徹は、その黒ニットの奇妙な女とホテルの部屋に入るなり、真先にテレビに眼をやった。それからスイッチを押して画像を入れた。
「何よ、テレビを見に来たわけじゃないでしょ」と女が言ったが、たいして気にとめる様子でもなかった。
「うちにはないんだよ、テレビ」
「まさか買えないのと違うでしょうね」
「女房がさ、大のテレビ嫌いで、テレビかあたしかどっちかを選べっていうもんだからさ」
「あたしなら、テレビ選ぶわね」
「最近俺もそう思いだしたよ」
「そう思うのはあなたの勝手だけど、どうするの? そうやって一晩中テレビ眺めている気? それともカミさんの話をあたしとする?」
徹は笑った。「きみのことがますます気に入った」
「だったらそれ以上気に入られないようにしてもらわなくちゃ」
「どうして?」
「だって深入りしちゃうもの」
「深入りしちゃまずい? それにもう充分に深入りしてんじゃないのかなあ」
「恋人いるって言ったでしょ」
「ああ。それなら三、四回聞いた。俺にもカミさんがいるよ」
「カミさんの話、これで四度目よ」
二人は、画面を見ながら話した。
「きみが今ひとつわからないんだ」と徹は急に表情を引きしめた。「きみと話をしていると、とても行きずりの男と、ホテルへ来る女のようには思えない」
「実を言うと私もよ。実を言うと私も今あなたと自分がホテルにいることが信じられないの」
「だってきみ、そんなふうには言わなかったぞ、あのバーでは」
「あのバーではね。あんなふうにするしか他に方法がなかったのよ」女は視線を膝《ひざ》の上に落した。「女が大真面目《おおまじめ》に自分の方から男を口説けると思う? ああやるしかしかたなかったわ」
「それにしてもさ」と徹は考えこんだ。
「誰れだって、最初の出逢いってのはあるじゃない。それに誰れだって始まりは行きずりみたいなものじゃない」
「でもさ、恋人がいるんだろう?」
「奥さんいるんでしょう?」
「質問に質問で答えるなよ」
女はテレビの画面から、奥のベッドへ視線を這《は》わせた。
「いるってことにしときましょうよ。その方があなたが楽じゃない」
「なんでそんなに人のことに気を遣うんだい?」
「あら本当はあなたのためってわけじゃないのよ。あたし自身を守るため。結婚している男のひととつきあえば、痛いめにあうのはたいてい女の方だもの。約束して。二度とあたしに逢わないって」
「俺のどこがそんなにみこまれたのかわからないけど、そうしろというのなら、約束するよ」
「自分から望んだくせに、そうあっさりと言われると淋《さび》しいわね」
女は自分の感傷をふりきるように黒いニットのドレスを脱ぎ始めた。
あの女はどうしているだろうか、と徹はガラス窓から射しこむ温い日射しを背中に受けながら、ついつい考えてしまうのだった。妻と差しむかいになり、退屈で気分がむしばまれてくると、テレビのチャンネルを思い、そしてあの女のことを思うのだった。
黒いニットドレスの女。結局電話はもちろん名前さえも教えてはくれなかった。せめて徹の方の連絡先でもと名刺を押しつけたのだが、別れ際背広のポケットに突っこんで、そのままタクシーに飛びのって消えてしまった。
その後何度も例のカフェ・バーに足を運んではみたが二度と彼女を見かけることはなかった。一緒にいたケイコという女も同様だった。バーテンにも訊《き》いてみたが、あの夜二人でいた女たちのことはほとんど覚えていないのだった。常連ではないのだ。
得体の知れないミステリアスな女だった。一種の色情の強い女なのかと最初は疑っていたのだが、ベッドの中ではひどく乱れるということもなかった。はっきり言って肉体的にはさほどとびぬけて魅惑的というわけでもない。肉づきの点や肌の感じからいえば、妻の方がはるかに良いとさえ徹は思っている。
にもかかわらず女のことが脳裏から去らない。
「どうしたのよ。溜息《ためいき》ばっかりついている。この頃あなた変よ」不意に妻が読みかけの朝刊から眼を上げて徹をじっと見た。
「変かな」後ろめたい気がしたので、徹は用もないのに立ち上ってキッチンへ入り、仕方なく飲みたくもない水を飲むために、水道の水でグラスを満たした。
「ええ、確かに変よ」と妻の声が背中に響いた。「何かあるんじゃないの?」
「え? 何かって何だよ」あわててグラスの水を飲み干した。
「私に訊《き》かないでよ。自分のことでしょう」新聞をたたむ音がした。そのうちに掃除機をかけだすはずだった。それがすむとコーヒーを入れて一休み。そして昼までの間に一週間分の夕食を作って冷凍庫に収めるのだ。一週間のメニューはきまっている。カレー。シチュー。グラタン。ヒレカツ。そしてまたカレー。シチュー。グラタンとくりかえす。七日のうちに同じものが二度出てくる。レパートリーが貧困なのだ。文句を言えば、私も働いているのよ、なんならあなた作りなさいよ、とくる。徹に作れるのはせいぜいカレーだ。それでは週にカレーが三回出てくることになる。彼は黙って引き下った。
欠伸《あくび》が出た。チクショウと、思わず小さく悪態をついた。こんなはずではなかったんだ。チクショウ、退屈で死にそうだ。
するとまるで彼の内部の声が聞こえたかのように妻が言った。
「あなたが退屈だからといって、私のせいじゃないわよ。いくら妻だってあなたの心の中のめんどうまで見てあげられないのよ、わかるでしょう」
ああわかるぜ。骨の髄までしみじみとわかっている。しかしあの女は、なぜか骨の髄までしみじみと慰めてくれたような気がするのだ。
「子供、作ろうか?」逃げ道を求めて徹が言った。
「だめよ、夜にして」妻は誤解してそう即座に答えた。徹はその誤解をとく気にもなれなかった。こりゃだめだ、この結婚はだめだ。とうてい持ちこたえられそうにもない。新婚第一日目にして覚えた予感は当っていたのだ。
「なぁ、おい」と徹はキッチンの中から言った。「離婚しようか」
妻の返事がない。聞こえなかったはずはないと思ったが、徹はもう一度言った。
「なあ、俺たち離婚しようか」
キッチンから出てみると、妻はたたんだ新聞の皺《しわ》をのばしている。
「なぁ、聞こえたろう。離婚――」
「三度もくりかえさなくてもいいわよ」
ごく冷静な声で妻が言った。
「本気だぞ、俺」
「声の調子でわかるわ」
「で、どうなんだ?」
「どうって」
「だから今の――離婚」
妻からは感情らしいものは感じられない。水のように冷静だな、と彼は思った。
「でもどうしたの? 急に」
「別に理由なんてないんだ」
「理由もなく別れるなんて変だわ。人にどう説明するのよ?」
「人に説明なんてしなくてもいいさ。俺たちの問題だものな」
「第一、私にどう説明するつもり? まず第一に、私を説得してみてよ。妻の方に落度がないかぎり、一方的に離縁出来ないことくらい、知ってるでしょう」
「俺の方に落度があったらどうなんだ?」
「内容にもよるけど。何か落度、あるの?」妻はまっすぐに徹を見た。たじろぐような強い視線だった。
「たとえばの話だよ」顔を日射しの方に背《そむ》けながら徹は言った。こんなのは妻に対してフェアではないな、と胸の中で呟《つぶや》く声があった。
「たとえばの話、何かあるの?」
「仮りにだよ」と徹。「仮定の問題だけど、もしも俺に好きな女が出来たとするよな、万が一そういうことがきみに知れたら、どうする?」
「仮定の問題に答えを出すのは不可能よ」妻はきっぱりと言った。「仮りにとか、もしもというのをぬかして言ってみたら答えるわ」
「好きな女がいるんだ」
「その人と一緒になりたいの?」顔色ひとつ変えないのだった。
「そうじゃない。そんなことは全く考えていないよ」
「だったら、このままでもいいじゃない」冬の陽光を斜めに受けて、妻の頬《ほお》の産毛《うぶげ》が銀色に光った。
徹は思わず妻を眺めた。初めて見る女のような気が、一瞬した。
「自分で言っていることの意味がわかっているのか?」
「もちろんよ」
「このままでいいって、どういうことだ?」
「あなたの浮気を容認するってことよ」
徹はひどく落着かない自分を感じた。
「それじゃ困る」
「どうして?」
「どうしてって、フェアじゃないよ、絶対に」
「私がいいって言ってるんだから、いいんじゃないの?」
「じゃもしも俺の気持がその女に近づいて、彼女と一緒になりたいと言いだしたら、どうする?」
「その時は、また考えるわ」
「その時まで、待てないんだよ、俺」思わず徹は悲鳴のような声で叫んでしまった。
「その女《ひと》、何してるひと?」と妻が訊いた。徹が叫んだことなど、完全に無視していた。
「知らないよ」
「知らないわけないでしょう?」
「本当に知らないんだ」
「幾つ?」
「それも知らない」
「私より若いかどうかくらいはわかるでしょう」
「感じから言って、少しは若いかもしれない」
「名前も知らないなんて言わないでね」
「ところが知らないんだ」
「何度|逢《あ》ったの、そのひとに?」
「一度だけ」
「次にはいつ逢う約束なの?」
「約束なんかしなかった。次に逢えるかどうかもわからない。多分二度と逢わないだろうな」
「それでも、そのひとのために私と別れたいの?」
「その女のためじゃないんだって。わからないのか、俺のためなんだ、この俺のため」
「じゃ私はどうなの? 私のことも少しは考えてみてくれた?」
「きみ? きみは大丈夫だよ。きみに必要なのは夫じゃない。きみは一人でもやっていけるさ。きみときみの想像力とやらで」
妻は黙りこんだ。
「ごめんよ。きみのせいじゃない。悪いのは俺なんだ。問題は俺にあってきみにじゃない。悪いクジを引いたと思って、俺のことは頼むからあきらめてくれないか、なあ、頼む」
「別れてどうするつもり? また別の女と結婚するの?」
「わからんね、先のことは」
「別の女と結婚するとしてどうなると思う? まったく同じことが起るわ。だったら、まちがいは一度でいいじゃない。別の女を巻き込む必要はないと思わない?」
「まちがいと知って、この生活をどうして続けられる?」
「あたしはそう思ってないもの」
「俺は、そう思ってるんだよ」
「三か月目の危機よ。よくあるケースだわ」と妻は落着いて言った。「これを乗り切ると例の三年目の浮気よ。たいていこれもなんとか人は乗り切るものなのよ。子供がカスガイでね。それから更に十一年目にいっそう重大な危機が訪れるんですってよ。駄目になる夫婦はそこで初めて離婚ってことになるケースが一番多いのよ。それもなんとかやりすごせば十八年目にまた一波乱あるそうよ。でもそれは十一年目ほどではないらしいの。それで大きな危機は終り。今、私たちは結婚の最初の困難に直面しているのよ。たいてい子供を作ることでなんとか解決していくの。いいわよ、子供を作りましょう。そうさっきあなたも言ったでしょう? 今すぐやる? それとも夜まで待てる?」
徹は妻から顔を背けた。彼女は中学で教鞭《きようべん》をとっている女である。口では昔からかなわなかった。いつも冷静で決して感情的にはならない。
徹の母が何かというとヒステリーを起し、徹たち子供にガミガミと当り散らすタイプだったので、妻のような女は新鮮だった。
彼は昨夜彼女が買って来て読んだらしい「朝日ジャーナル」が置いてあるテーブルの一隅を眺めた。「朝日ジャーナル」が悪いわけではない。「朝日ジャーナル」を読む女が悪いのでもない。自分の妻が「朝日ジャーナル」を読むような女であるということが、徹のような男にとっては問題なのかもしれない。
しかし彼女が「朝日ジャーナル」を読み始めたのは昨日今日のことではない。知りあった時にはもう読んでいた。
「テレビが解決になるとは絶対に思わないけど」と妻がふと呟《つぶや》いた。「でもそれで気が紛れるのなら、テレビ、買いなさいよ」
徹は黙っていた。それから言った。
「確かに、テレビで何かが解決するわけではないな」
「私はね、最初から結婚というものに多大な期待を抱いていなかったのよ」
「俺は、期待していた」
「だから、私は、期待が外れることもないし、裏切られたようにも思っていないわ」
「俺は、期待が物の見事に外れたよ」
「じゃあなたの考えていた結婚って何なの?」
「俺は、結婚というのは家庭を作ることだと思っていた。暖かいホームだ。黄色い灯がともり、だんらんの笑いが聞こえてくる家のことだ」
「食事中に、みんながテレビにむかって笑い声をあげているとか?」
「テレビのことは忘れてくれ」
「そうは簡単に忘れられないわ。新婚第一夜から、あなたはテレビを買おうって叫びつづけてきたもの」
「それより、きみの考えていた結婚て何だった?」
「共同生活」と妻はずばり言った。「自立した大人の男と大人の女が、相手に寄生しあわずに、一緒に暮らしていくことよ。私、あなたがとても自立した男性に見えたけど、結婚したら違っていた」妻の声に初めて失望が滲《にじ》んだ。
「そりゃ独身の一人暮らしが長かったから、自分のめんどうくらい見れるさ。見ようと思えばな」
「私もそう思っていた。誰れが掃除をしてどっちが洗濯をするとか、食事はどちらの分担かとか、そういうことが問題になっているんじゃないのよ、わかる?」
中学生の生徒に話しかける時には、きっとこんな調子なのだろうな、と徹は考えていた。
「そうじゃないの。分担主義は私の趣味じゃないのよ。分担闘争でクタクタになっている同僚や知人を嫌というほど見て来たから。最初から相手に期待しなければ、失望することもないし。分担のことでクタクタになるまではりあうだけのエネルギーがあったら、自分一人でサッサと家事を片づけてしまった方が、よほど精神的にも楽。能力がある方がやればよいのであって、頭から家庭内の仕事を二分するのは、ナンセンスなのよ。だから私が言っているのは、別のこと。自分の基本的なめんどうをみるっていうことの中で一番大事なのは、自分の精神のめんどうをみれるかどうかっていうことよ。私ね、あなたが家事に対し何ひとつ進んで協力しようとしないことを発見しても、それほど失望しなかったけど、あなたが日曜日など退屈をもてあましているのを見るのは、辛かった。退屈をもてあましている男ほど、魅力のない人間はいないもの」
徹は耳が痛かった。
「しかしね、何もかも一人でやらにゃいかんのなら何のために結婚があるんだろうね。休日の時間を共有するとか分けあうということが全くないのだったら、男と女は何のために一緒にいなくちゃならないんだろうか」徹はもう一度考えてから言った。「俺、やっぱり別れたいよ」
妻は固い表情で口をつぐんだ。
「別れる理由がどうしてもいるっていうんならさ、あの女のせいだと思ってくれよ」
わけのわからない女だった。ふざけているのか深刻なのかわからなかった。もう一度どこかで逢《あ》っても、同じことが起きるかどうか、自信もなかった。本当に逢いたいというわけでもないのだった。
それなのに、尻の下に火がついたみたいに、徹はじっとしておれないのだ。
「たった一度の過ちのせいで、離婚しようっていうのね」と妻は言った。「私、その人に逢ってみたいような気がするわ」
「黒いニットのスーツを着ていたというくらいで、あとはあまり憶《おぼ》えてもいないんだ」
「あのことがとても上手だったの? 躰《からだ》がすごくよかったの?」
「その点なら、きみの方がいいよ」
妻はその言葉を全く信じない風だった。「知性も感じられないし、下品なところもあるし、とてもきみの比じゃない」
「離婚の決意は変らない?」
「ああ、別れたい」
「いいわ。それほど決意が固いのなら別れましょう」
妻は抵抗するだけした後、あっさりと離婚に同意した。わずか半年も続かない結婚だった。
たとえ六か月でも結婚は結婚だ。離婚というのは実に嫌な経験だった。二度と同じ過ちを犯したくないと、徹は身に滲《し》みて思った。とりわけ、妻にこれと言って落度もないのに離婚を強要してしまった場合はなおのことだった。
一人になって、ただ寝るだけのためにあるようなアパートに住みだしたが、そこへ夜帰っていく惨めさは、結婚している時に、妻のもとへ帰っていく時の感じとさほど違わないということに気づいた。つまりあの結婚は最初から恐ろしく惨めだったのだと、彼は改めて思ったのだった。
冬という季節は独身者にはこたえる。特に一度結婚を体験してまた再び独り身になった者には、その寒さが身にしみじみとこたえる。
そんな夜、ふらりと立ち寄ったバーで、彼はあの女を見かけたのだった。ある意味で、心の底で探し求めていた女だった。探し出してどうするという意思はないが、逢って話をしてみたいと思っていた。
徹はつかつかとその女の方へ近づいて行った。ところが、女は横に坐っている男にむかって何か言いかけたので、徹は足を止めた。
「あなた、私の好みのタイプよ」と女が言うのが聞こえた。徹は眉《まゆ》を寄せ、女から五つばかり離れたカウンターのストゥールにゆっくりと腰を寄せた。
女はやっぱり黒のニットスーツを着ており、横には白いワンピースの同じ女が坐っていた。
男が女に何か言っていた。それに対して黒いニットスーツがまた何か言った。全てはあの夜に似た経過で進行していくようだった。
「誰れにもそう言うんだろう?」と男が言っていた。
「そう思うのはあなたの勝手よ」と女が答えた。
「まさか、今夜だけが特別だなんて言うつもりじゃないだろうね」
「ところがそうなのよ」
「今まで何人もの男に同じことを言ってきたのにきまっている」
「疑い深い人ね」女は答えに怒りを滲《にじ》ませた。それから傍のバッグを手にとると連れの女に言った。
「私、帰る。不愉快なのよ」
「待ってくれよ」と男がひきとめた。
「嫌よ」と女が答えた。「さんざん恥を忍んでがまんしたけど、もう限界よ」
女たちが立ち上りレジに向かうのが見えた。徹は反射的に腰を浮かせて二人を追った。
「きみ」と徹は女の黒いニットの肩に手をかけた。女の顔がふりむいた。表情を読みとろうとしたが、無理だった。徹を記憶していないのが、その表情から、はっきりとわかった。
「何よ?」と思いのほか邪険な声で女が訊いた。
「いや、別にいいんだ」と徹は女の肩から手を外しながら呟《つぶや》いた。
「変なひと」と女は苦笑して、白ニットの女にむかって言った。「鏡で顔みてもらいたいって言いたいわね、このタイプ」
二人は肩をいからせながら店を出て行った。徹の脇《わき》をすりぬけて、バーカウンターにいた男が二人を追って飛びだして行った。
カウンターに戻ってウイスキーをオーダーした。
「ダブルで頼むよ」
ウイスキーが来ると徹はそれを口に含み時間をかけて飲みほした。喉《のど》の奥でしこっていたものが、ゆっくりと解けていくのがわかった。そしてかわりに胃の底の方から笑いがこみ上げて来た。
グラスに額を押しつけ、徹は別に声を殺しもせず、一人で笑った。
バーの一隅で声をあげて笑っている男がいても、誰れも気にとめる人間はなかった。
一九八七年四月、実業之日本社より単行本として刊行
角川文庫『TOKYO愛情物語』平成3年1月25日初版発行
平成8年4月30日16版発行