森 瑤子
香水物語
目 次
1 香水物語
甘美で神秘的、ドラマの始まりは……
異国《どこか》の森の奥深く、緑の雫《しずく》あふれて
一瞬炎のごとく、瞳《ひとみ》の中で揺れる思いは
あなたのことかもしれない
てのひらに、波のおと
女のボーダーライン
パーフェクトな残像
華麗なる復刻
雪と花束とあなたと
やさしすぎる別れのしるし
土曜の夜の幸福、日曜の朝の胸さわぎ
触れもしないのに……
男は小さな変化を待っていた
パパの恋人
ダブルブッキング
再会の瞬間
美しき冒険者
本当のことだけ言って……
エゴイストの漂泊
クリスマス・ピンク
2 宝石《ジユエリー》物語
恋の予感
バスタイム
あなたに電話
ブランチとピンクシャンパン
一人でコーヒー
イタリアン・レストラン
NOはYES
真夜中のニコラシカ
ビトウィーン ザ シーツ
真珠の首飾り
アイランド
よくある話
秋風とスカーフと
コートの季節
ボローニャの春風
グッドニュース
ついてる日
プレゼント
華麗なる変身
立ち話
第二章
ヤブヘビ
ギンブラ
二人の未来に、乾杯
愛の先付け小切手
スターダスト
1 香水物語
甘美で神秘的、ドラマの始まりは……
彼女は見知らぬ部屋の中で眼を覚ました。
霧の中にいるような気がしたのは、トルファンの麻で織られた蚊帳《かや》のせいだ。蚊帳は天井の一点でしぼられ、流れるようにベッドの四角をおおっている。
――わたしはインドにいる。全《すべ》ての物語の発祥の大地に――。
物語のひとつが終ったのだ。素晴らしい恋の物語だった。
しかしあの恋にも、何かが決定的に欠けてしまっていたのだ。何かめくるめくようなものが……。それは初めのうちには確かに在《あ》ったもので、歳月と共に、少しずつ、しかし確実に色褪《いろあ》せていったもの。――神秘性――。
自分の部屋で何週間も泣いて暮らすこともできた。それも傷心を乗り切る方法だ。
けれども彼女は別の方法を選んだ。歩みだすことを。悲しみの中に止まらないこと。そして今インドにいる。
木製のブラインドの向こう側には、肺を燃《こ》がすほどの熱気がたちこめているはずだった。その向こうを流れるガンジスの土気色の流れ。
インド人のボーイが朝の紅茶と薄切りのトーストとマーマレードを運んでくる。お茶の香りが空間に濃くたちこめる。
朝食をとりながら、彼女は絵葉書を一枚書く。――ここには想像を絶する悠久の刻《とき》の流れがあります。昨日路傍で逢《あ》った老人はおそらく二百年も前から同じ場所にうずくまり続けているとしか思えません。両脚のない少年が、両手でいざりながらいつまでも私の後をついてくるのです。何のために? いずれにしろここにはミステリーがあまりにもたくさんありすぎるのです。
彼女は絵葉書に恋人だった男の名を書き、読み直しもせずそれをスーツケースの底に収《しま》いこむ。決して投函《とうかん》されない他の絵葉書と共に、永久にそこに閉じこめるために。
窓を開くと、熱風が吹きこんできて髪を乱した。空気には不思議な香木の匂《にお》いや、雨や河や、土や砂の匂いが混じっている。そして熱風は他にもコーランの祈りや人々の呟《つぶや》きや沈黙、シタールの調べなども運んでくる。
出かける前に、彼女はCOCOの香りをハンカチーフに滲《し》みこませた。その瞬間だけ、彼女はこの上なく幸福だと感じる。インドで。
異国《どこか》の森の奥深く、緑の雫《しずく》あふれて
夏にはまだかなり早いのに、一陣の突風を先行させて夕立がやってきた。
降りだすな、と気づく寸前、空間は暖かく湿り気を帯び、乾いた苔《こけ》やシダの香りを連想させた。
他にも、一陣の突風は色々な匂《にお》いを運んできた。潮や果物の香り。どこか遠い南国の匂い。
けれども次の瞬間、パラパラっときて、またたく間にスコールのように降りだした雨が南の島の連想を叩《たた》き潰《つぶ》した。
わたしはどこか駆けこめそうな軒下を素早く探したが、そういう場所はすでに突然の雨から不意に避難した人々で鈴なりだった。それに今さら、とわたしは肩をすくめた。髪から雫がしたたり、衿首《えりくび》の中へ流れこんでいる。奇妙にも無人になってしまった歩道を、そのまま歩き続けた。軽快ともいえる足取りで歩いたのは、軒下で鈴なりになっている人々の視線に対する気取りといえなくもなかった。
その時背後で車のフォーンが小さく三つ鳴った。肩ごしに振り返ると黒いポーシェのカブリオレがスピードをゆるめながら傍らに止まるのが見えた。窓が開き、日焼けした顔が覗《のぞ》いた。
「そういうの趣味?」
と、まだどこか少年の面影を残した男が、雨ごしに訊《き》いた。「雨の中を濡《ぬ》れて歩くのが?」
「ええ、そう」
わたしは歩きだしながら答えた。ポーシェがゆっくりついてくる。「何か用?」
「たとえ小犬だって――」
と男は雨の中で声を張り上げた。「ずぶぬれじゃ、ほっておけないよ。乗らない?」
「ありがとう。でもわたし小犬じゃないから」
「たとえ、と言ったんだけどな」
「好きでやってることよ」
「無理にとは言わないさ」
男の眼が笑っていた。「強情なんだな」
わたしは不意に、オオカミ ナンテ コワクナイの節を口笛で吹きだした。コワクナイコワクナイ。
「ほんとにいいの?」
笑いだしながら、男はもう一度だけ訊いた。
「また偶然|逢《あ》ったら誘ってみて」
わたしは半分後悔しながら断った。彼の車に乗ったら、車内の空気に暖められて、わたしの濡れた髪や肌が、動物めいた匂いを放つのが嫌だったからだ。別の時になら……。
「そうね。もしまた偶然見かけたらね。その時はまた声をかけるよ」
男はそう言うと、ギアを上げ、わたしから離れて走り去った。
熱いシャワーを浴びて――とわたしは少しがっかりしながら自分に言った。乾いたバスタオルで体を包んで、イザティスを体中にすりこむつもり。
やがてわたしはさっきの続きを口笛で吹きながら歩きだした。オオカミナンテ コワクナイ コワクナイ。雨はだいぶ小止みになってきていた。
一瞬炎のごとく、瞳《ひとみ》の中で揺れる思いは
この結婚でいいのかしら――
女なら誰《だれ》だって、式を明日にひかえたぎりぎりのどたんばになって、そんなふうに考えるものだ。
もう引き返しようがないから――。それに胸の中で呟《つぶや》くくらいなら罪にもならないだろうし。
でも――。私はふと眼を上げて宙に焦点をあてる。本当にもう引き返しようがないのだろうか?
私は今、六本木のカフェにいる。彼を待っているのだ。彼というのは婚約者のことではなく、幼なじみ。悪友とか戦友のたぐい。
「いよいよ、明日だな」と彼は電話で言った。
「取り消すんなら今日のうちだぞ」
いつもの調子、いつもの口調。
「人妻と、そうそう逢《あ》い引きもできないからな。ちょっと逢うかい?」
それもいつもの調子。そして私はこうしてぼんやりと彼を待っている。黄昏刻《たそがれどき》。
考えてみると、彼とはいつも黄昏刻だった。
夜は恋人のための時間だったからその前に、ちょこっと逢うことが多かった。そのことを二人とも当たり前のように思っていた。
お茶を一杯飲み終ると、じゃまたね、とお互いそれぞれのデイトの相手のもとへ出かけていった。
彼が少し遅れてカフェのドアを押す。とても無防備でとても若々しい。見なれた顔。知りつくした仕種《しぐさ》。聞きなれた声。
「やぁ」
なのに一瞬、この男《ひと》、初めて見るみたい、と私は感じる。今日に限り。なぜだか。
「その匂《にお》い……」
腰をおろしながら、ふと彼が言う。
「あ……ビザーンス」
去年の誕生日に彼がくれた香水だった。
そして、私たちは急に黙りこむ。
「俺《おれ》のため? 最後だから?」
「違うわよ。自惚《うぬぼ》れないで」
でもなぜだろう? なぜ今日に限り、私はあの青いボトルに手を伸ばしたのだろう。他にもたくさんある香水の中からふと魔がさしたように選んでしまったビザーンス。ぎりぎりのどたんば。私の胸は無性に泡立ち始める。
――でも、もしかしたら――。私は彼の瞳の中をじっとみつめる。
あなたのことかもしれない
女はたった一人の男に出逢《であ》うために、生まれくるのだと思う。私は長いことそう信じていた。
けれども一方では、どうやってその男《ひと》をみつけることができるか不安だった。たとえどこかで出逢っても、そうと気づかないまま行き過ぎてしまうかもしれないと思った。
それに、時期の問題もある。あまり遅すぎてもいけないし、早すぎてもいけない。果たしてちょうどいいタイミングに、運命的な出逢いが可能なのかどうか――。
それでも私は、人の力では及ばないところで、何もかもがなるようになっていくのではないかと、漠然と考えていたのである。
そしてついに、その男《ひと》が現れたのだ。夏の黄昏刻《たそがれどき》だった。私は少し蒸し暑いカフェテラスで女友だちを待っていた。彼女はなかなか現れず、私は苛々《いらいら》していた。
そこへ彼が現れた。一目でこの人だとわかった。それはどうしようもなくわかってしまったのだ。
彼も私を見た。そして彼もまた、私がわかったのだ。
――誰《だれ》かを待っているの? と彼が眼で訊《き》いた。――ええ、とても長いこと待っているの、と私が無言で答える。――で、そのひとは来たの? と彼。――ええ、来たわ、たった今、私の眼の前にいるあなたがそうよ。
私たちはその場で恋に落ちたのだ。映画のシーンか何かのように。でも考えてみればどんな出逢いだって、その唐突さからいえば、映画のシーンめいているものなのではないだろうか。
めくるめくような一年が過ぎた。私の人生の中で最も美しい季節となった一年が。そしてあのちょうど同じような夏の黄昏刻。彼が唐突に私に告げたのだ。――実は、妻がいたのだと。黙っていて悪かった。しかしどうしても言えなかった。何度も言おうとしたのだけど――。
「知っていたわ。あなたが苦しんでいたのも知っていた」
と私は呟《つぶや》いた。
「知っていた? なぜ何も言わなかった?」
「そしたらきっと私たちの間に何も始まらなかったわ」
何か過ちを犯して後悔するのならかまわないと思ったのだ。だが何もなく、過ぎてしまったことを後になって悔やむのは、あまりにもせつない。
最後に彼は、私の手に小さな小箱を置いた。
「きみに最もふさわしい宝石を選んだんだ。受け取ってほしい」
それはジェムという名の香水だった。香りの宝石。そして私たちは別れた。私には、美しい香りと、そして世にも哀《かな》しい思い出が残った。
てのひらに、波のおと
「バリ島、ステキだったわ」
と女友だちが甘い溜息《ためいき》をついた。
「南十字星っていうのを、見たよ」
一緒に行った彼女の恋人が口をそえた。
私は、ハイビスカスやブーゲンビリアの花の色を思い描いた。潮の甘い匂《にお》いを想像した。
「バリもいいけど、プーケットへは絶対一度は行ってみるべきだわ」
と、別の女友だちが、まだ日焼けを残した顔を輝かせた。
「バリとどう違うの?」
と、私の恋人が素朴に質問した。
「もっと開放的なんじゃない?」
と彼女が答えた。
「でも」
と最初の女友だちが言った。「バリには文化があるわ。あの音楽、あのリズム――躰《からだ》が震えだすのよ」
バリ島の音楽を、私はテープでしか聴いたことがない。躰が震えるほどの感動は、味わわなかった。やはり、バリ島の熱くけだるいような土地で聴かなければ――。
パーティで、人々は夏休みに出かけていったバカンスについて、嬉々《きき》として喋《しやべ》っていた。
「きみたちは、バカンス、どこへ行ったの?」
と誰《だれ》かが私に質問した。どこかへ行くのが当然みたいな口調だった。
私の恋人が、どこへも行かなかったよ、と言いかけるのを制して、私は答えた。
「南の海へ行ったわ」
「ほんと。どれくらい行ってたの?」
「夏の間中、ずっとよ」
人々は顔を見合わせた。
「南の海ってどこだい?」
疑わしそうに訊《き》く者もあった。
「マンゴやパパイアの樹木がおい繁る場所よ。ココ椰子《やし》の林の下を、彼と二人で裸足《はだし》で歩いたわ。椰子の木が、珊瑚《さんご》礁の浅瀬に青い翳《かげ》を落としていた」
「夏の間中、ずっとバカンスしていたなんて、信じられないわ」
と女友だちの一人が、意地の悪い口調で私を眺めた。
「でも本当なのよ」
と私は言って、愛する恋人の瞳《ひとみ》をじっとみつめた。
「あなたが夏の初めにくれた香水のこと、覚えている? アールデコのボトルの中に閉じこめられた南の海。私がこの夏、ずっと旅に出ていたのは、そこなのよ」
香りは想像を掻《か》きたてる。多分、私は誰よりもステキな、南の島のバカンスをもったのだ。
「もちろん覚えているよ」
と彼は温かい声で答えた。
「そしてきみがいつもそれをつけていてくれて、うれしく思っていた」
彼の絵の具代が、私の香水に化けたのだ。でも彼は、そのことには一言も触れなかった。
オンブル ブルウ。夏は終り、バカンスの季節は過ぎ去ったが、私だけは幸福だ。南海の花々の中で、遊べるのだから。
女のボーダーライン
九〇年代。輝く世紀末。
そこに私は全《すべ》てを賭《か》ける。人生の第二幕。本でいえば第二章。エスティローダーのKNOWING≠ェ似合う女。栄光の三十歳。知的で、ゆとりのある真の大人の女への第一歩だ。私は現在の自分が嫌い。何もかもが中途半端で、地に足がつかない感じなのだ。
二十代の後半というのは、女は誰《だれ》でも同じように、漠とした自己嫌悪の中で生きていくのだろうか。
それとも、私だけが例外なのか。
いつも同じことを考える。いつかきっと――。
何かが起こるか、私が変わるか、誰かが現れるかして、今の場所から私をさらってくれるといい。
どこかへ――。きらめくような安定の土壌へ。KNOWING≠フ香りが体現する大人の世界へ。
「またしても、自分の殻《から》に閉じこもっているね」
恋人の声で、私は我に返る。
「一体、何を考えているんだか」
彼は溜息《ためいき》をつく。
「デイトの相手に、何を考えているのかなんて訊《き》く人、嫌いだわ」
私は、邪険に答える。自分でも理不尽だとは思うのだが。
「しかし、俺《おれ》たち――、結婚するんじゃないのか?」
「三十歳になったらね」
「またそれだ」
と彼は、どこかが痛みでもするかのように、顔をしかめる。「なぜなの? なぜ三十歳にこだわるんだ?」
またしても同じことのくり返し。
「何度も説明したはずよ。まだ、準備ができていないのよ」
すると彼はまっすぐに私の眼をみつめる。
「何の準備だい?」
あまりにまっすぐな視線なので、私はうろたえる。返す言葉がみつからない。
「幸福になるために、準備がいるかい?」
それから彼は続けてこうも言った。
「三十歳までに幸福になっちゃいけないというルールでもあるのかい? あるいは、人を心から愛し愛されるのにも、三十まで待たなくちゃいけないというルールがあるのか?」
「ルールなんて……」
私は私の人生観に杭《くい》を打ちこまれるような気がした。
「俺は今のきみが好きなんだ。三十歳になって完成されたきみじゃなくて、今のままのきみが」
私は、はっと胸を突かれて彼をみつめた。
三十歳まで待たなくていいのだ。
「一緒に来て。買いたいものがあるの」
私は腰を浮かせた。
「何を買うのさ?」
「香水」
彼は怪訝《けげん》な表情をしたが、立ち上がった。
パーフェクトな残像
フランス料理のフルコースとワインと香水と。でもそれってちょっとやりすぎじゃない? あまりにもパーフェクトというのも、重苦しいし、時代の感覚とずれてしまう。
そんなわけで、フルコースというのはパスして、前菜とアントレにエスプレッソという軽い乗りに、シャンパンだけで初めから終りまで通してしまう。当然香りもオードトワレ。
でも世間全般がひたすら軽い方向に向かっていると、それに抵抗したくなるのも人情なのだ。軽い乗りって、たいていの場合、軽薄ってことと同義語じゃない?
で私は、近頃流行の若いオーナーシェフが経営する、それこそ軽い乗りそのものの小綺麗《こぎれい》なフレンチレストランを避けて、あえて、それこそあえて、マキシムを指定したのだ。妙齢の女が、ちゃんとしたレディを演じる場所は、日本ではそこしかない。
予想していたとはいえ、銀座のマキシムは零落の美女を見る思い。かつては絢爛《けんらん》としたきらびやかさと、贅沢《ぜいたく》のかぎりを誇った銀幕のスターは、自らの驕《おご》りと、取り巻き連中の人選に無頓着《むとんちやく》だったために、全盛の頃の面影は、哀《かな》しいかな色褪《いろあ》せてしまっている。
色褪せたとはいえ、尊厳だけは保たれていて、私のコートは使用人の優雅な手つきによって肩から外され、見事なエスコートでバーコーナーへと誘導される。
そこは、不思議にも時間が後退した琥珀《こはく》色の世界で、一昔前の紳士《ジエントルマン》たちが、静かに食事前の一杯を楽しんでいた場所だ。
私は、長い長い銀狐の尻尾《しつぽ》を、ふっくらと厚いカーペットの上に、ほとんど引きずるようにして、男たちの琥珀色の視線の中をゆっくりと進んだ。
ここには今でも優雅でひめやかな刻《とき》の流れが存在している。確かに最盛期のきらめきは失われたが、少し年を取って闘争的でなくなった美しい女の膝元《ひざもと》に寛《くつろ》いでいるような、懐かしさがある。
この古き良き寛ぎの中に、私のつけたプワゾンが眼に見えない煙のように広がっていくのが感じられる。設定はパーフェクトだ。
「ジン・フィズを」
私は、母の時代に彼女たちが好んで飲んだというカクテルの名を口にする。琥珀色の刻の中に、今一番新しく、最も人工的で華美な香りが、ゆっくりと混じりあっていく。私のデイトの相手は、まだ現れない。
華麗なる復刻
彼が彼女を捨てた時、彼女は負け惜しみではなく、いつかそのことで彼が後悔するようになるだろうと、胸の底で思っていた。
それだけが女優としての彼女の支えだった。でなければ悲しみのあまり自分は破裂してしまうだろう、と感じていた。
彼女は結婚することを希望していなかった。彼は違った。愛する女と一体になるために、彼女を守るために、結婚を主張した。うんざりするくらい話しあい、いつも平行線のまま終り、彼は腹を立てついには彼女を憎むようになっていった。彼は結論を要求した。彼女は答えた。「私が私であるために、他の人とは違う私自身であるために、どうしても自由でいることが必要なのよ」と。
「きみはまちがっている」と彼は予言した。
「孤独は決してきみが考えているほど感傷的でもロマンティックなものでもないよ」
そして彼は去った。
男の言葉は、ある意味で正しかった。孤独と共存するということは、生きながら葬られるのと、ある時期、似ていた。それでも彼女は歯を喰《く》いしばって耐え、良いと思う役だけを大切に演じ、そのために生意気だと批判されることも少なくなかった。が、ある時の映画で助演女優賞に輝き、それ以来急にスポットライトが当たるようになって、やがて主演の座が約束された。
クリスマスが近いある夜のことだった。かつての恋人が電話もなしに、いきなり彼女を訪ねてきた。
「きみは正しかった。そして僕はまちがっていた」男の結婚は破綻《はたん》しかかっていた。
「あいつは土足で僕の中に踏みこんでくるような女だった。僕だけのものである魂までも差し出せと要求するような女だった」
「私に、どうしてほしいの?」と彼女は同情を含まない優しい声で訊《き》いた。
「やり直せないか?」彼は彼女をじっとみつめ、そして溜息《ためいき》をついた。「だめだろうな……」
人生というものは、ある程度、自分でコントロールできるものだ、と彼女は思っていた。自分が望んだとおりの道を人は歩むのではないだろうか? 彼女は彼が戻ってくることを一度も望みはしなかったことを思い出していた。彼が後悔するだろうと、それだけを望んでいた。
「ワインでも飲む?」と、ますます優しい姉のような声で、彼女が訊いた。
雪と花束とあなたと
彼がエスプレッソを注文する。
わたしはハーブティー。白いキャンドルが金色のスタンドの上で、静かに燃えている。不思議なキャンドル。二時間以上たっても、ちっとも短くなっていない。
「どうなっているのかしら、このキャンドル」
「いつかは燃えつきるさ」
彼はイギリス製の煙草を取り出して、キャンドルの炎から直接に火を移す。息を吐き出しうっすらとした煙の向こうで、少し遠い目をして言いそえる。「永遠の命なんて、あるわけがない」
彼が何を考えているのか、そして何を言外に含ませているのかが、わたしにはわかるような気がする。婉曲《えんきよく》に脅迫しているのだ。恋も同じなのだと。
全《すべ》て生あるものには終りがある。造花は枯れることがないが、香りがない。命がはかなければはかないほど、それが生きている時の姿というものが、美しいのだ。
熱いミントティーが、わたしの神経を鎮めてくれる。
「もう四年、待ったんだ」
エスプレッソのカップのふちごしに、彼が穏やかに言う。
「これ以上は待てない?」
「僕が言いたいことはそういうことじゃない」
いっそう穏やかに彼が答える。「更にあと四年、きみが待てというのなら僕は待つ」
わたしは、彼の優しさやわたしを理解しようという気持に対して本当は感謝しなければならないのだろうが、理屈を超えたところで妙な苛立《いらだ》ちを感じるのだ。理不尽かもしれないけど。
「四年後にも、あなたはきっと同じことを言うんだろうと思うわ。もしも、途中で気が変わらないかぎりね」
「僕の気持は変わらない」
彼はそう、確信のある声で、静かに断定する。
わたしにはとても、そんな確信はもてない。確信のもてないことなど、更に約束はできない。
「コニャックをいただける?」
彼がうなずき、ウェイターを呼び、コニャックを二つ注文する。
彼の声はとても低くてその上に張りがある。近くの席で食事をしている女たちが顔を上げて、彼の方を眺める。女たちの眼に浮かぶ羨望《せんぼう》の色によって、わたしは彼が今でもとても魅力的なことに、改めて気づかされる。そして、今でもわたしは彼がとても好きなのだと、痛いほど感じる。
でも、このままでは、わたしたちはきっとだめになる。彼の優しさが、わたしたちをだめにするのだ。
「なぜ……」
とわたしは訊《き》く。「更に四年待つと言うかわりに、何がなんでもすぐに結婚しようって言わないの?」
すると彼はほんのわずかに眼を見張る。
「そうしたら、きみは断るにきまっているじゃないか」
それはそうだ。わたしには仕事と結婚の両方はできない。どちらも中途半端になってしまう。結婚するならば、そのことで彼もわたしも幸福になるのでなければ意味がない。そしてわたしの仕事に、結婚の影を少しでも持ちこみたくはない。そう、理屈はそういうことなのだ。わたしは、再び自分ががんじがらめであることを感じる。
息苦しい。ブランディーグラスから、一気に半分ほど飲み干す。
「僕はきみのことも大事だけれども、きみが仕事を大切に思う気持も大事に思っているんだよ」
食道から胃にかけて熱が走りぬける。
「どっちかにしてよ」
と、わたしは苦しまぎれに言う。「どっちかひとつにきめてよ。あれも理解できる、これも理解できるっていうあなたの寛大さが、結局わたしたち二人を辛《つら》くしてしまっているのよ」
すると、彼は少し傷ついたように、わたしから、視線を逸《そ》らせる。
「僕が一番どうしたいかは、きみにわかっているはずだ。そうして僕が何がなんでもそれを押し通せば、きみを失うことになる、ということも、僕たち二人ともわかっている」
「でも、相反する二つのことを理解しようというのが、そもそも無理なのよ。それはかえってわたしを苦しめることでもあるわけなの」
「答えが明らかにノーであるとわかっているのに、プロポーズなどしたくない」
「そうかしら? ノーかイエスかどうしてわかるの?」
「きみの顔に描いてある」
「わたしの心の奥の方までは覗《のぞ》けないでしょう?」
沈黙が流れる。風もないのに、キャンドルの炎が揺れる。
「結婚してほしい」
彼の声がわずかにかすれる。
彼を追いつめたのはわたしだ。今度はわたしが追いつめられる番だ。何かを選択するということは、別の何かを失うということだ。めまいの中で、わたしは答える。
「ええ、いいわ」
でも、そんなに簡単なはずはない。わたしは内心うろたえ、あわててつけ足す。「ただし、条件があるの」
彼は仕事のことだと思っている。仕事を続けるといえば喜んで承知するだろう。そんなに簡単に妥協するわけにはいかない。わたしはめまぐるしく考える。
「来月のわたしのお誕生日に、あるものを贈ってくれたら」
それは何か? そうめったやたらに用意できるものじゃないものを――。……雪!
「わたしのお誕生日に雪を降らせて」
十二月の末に、雪が絶対に降らないとは言えない。現に、これまで、二度だけ、雪の誕生日があった。子供の頃だったけど。
「それから――」とわたしはもうひとつ無理難題を吹っかける。「特別の花束。百以上の異なる種類の花を集めて作った小さな花束《ブーケ》」
冬に、それほどの花を集めるのは、至難の業だ。
「きみは――」
と彼が言う。「アラビアのお姫さまか、楊貴妃《ようきひ》みたいに、傲慢《ごうまん》でわがままだな」
「ギブアップ?」
「いやいや」
と彼は微笑する。「なんとかするよ」
その言い方があまりにも素朴だったので、わたしは笑いながら心の中で、たった今、口にした馬鹿げた条件のことは、ひそかに撤回する。
自分の弱さを認めるのは辛《つら》いが、結局、自分ではきめられなかったのだ。決意するのに彼の助けが必要だったのだ。わたしはグラスを取り上げ、彼のグラスとそっと合わせる。
「僕のために、きみも祈っててほしい」
と彼が真剣に言う。「雪が降るように。そして、注文の花束がみつかるように」
「ええ、祈るわ。心から……」
ふと、眼覚める。ホテルルームのカーテンの透き間から忍びこむ仄白《ほのじろ》さをみつめる。とても静かだ。特別の静けさ。特別の仄白さ。わたしはある予感を覚えてベッドからそっと滑り降りる。そしてカーテンに手をかける。
「お誕生日おめでとう」
ベッドの中から彼が微笑する。わたしはそっとカーテンを引く。
一面の雪景色。白樺《しらかば》の樹々の間に、音もなく降りしきる雪。
「昨夜車でここに着いた時には、星が出ていたのに」
わたしは感動して彼を振り返る。
「祈りが通じたのさ」
彼が起き上がってくる。背後からわたしをそっと抱く。彼の躰《からだ》は温かく、わたしたちの愛の匂《にお》いがしている。白樺の向こうから、湖尻《こじり》地方特有の霧とも露とも、雲とも区別のつかないものが、吹きこんできて、雪に混じり、光景がいっそう幻想的になる。
彼が後ろからわたしの手の上に何か小さい包みを落とす。
「きみが望んでいた、もうひとつの贈りもの」
「花束には見えないけど……」
包みを開くと、雪よりも白い箱が現れる。更にそれを開く。
「ニナ……」
わたしは彼の腕の中で、くるりと向きを変え、彼の首に両腕を巻きつける。
「ずるい人」
でも素敵。これ以上のことなど、誰も思いつけないだろう。
「|こうさん《ギブアツプ》?」
わたしの耳の中に、彼が訊く。
「ええ。無条件降伏」
わたしたちは一緒に雪を眺める。長いこと黙っている。
「ひとつだけ言っておきたいんだ」
と彼がやがて言う。「僕はきみが何よりも一番大事だけど、きみが大切に思っていることも、大事にしていきたいんだ。だから、僕のためとか、僕らの結婚のために、何かをぎせいにするということはしてほしくない。これだけは覚えておいてほしいんだ」
わたしの眼に、熱いものが滲《にじ》む。ありがとう、と呟《つぶや》くが声にならない。
雪も、ニナ・リッチの香水も、心が震えるほどうれしかったが、わたしにとってかけがえのない贈り物は、彼その人自身だったのだ、ということが、今はっきりとわかる。
だからわたしも、わたしを彼にあげよう。わたしの全《すべ》てを。わたしの躰と心と魂と、わたしが大切に思っているものも含めて、全てを――。
やさしすぎる別れのしるし
沙羅双樹《しやらそうじゆ》の花は、私の好きな花だが、諸行無常の響きありで、その命は短い。
ふくいくとした南国の香りも、枝を離れた瞬間、あとかたもなく消えてしまう。そして地に落ちた白い花は、ひんやりとして冷たい。
沙羅双樹の花が散る頃、ひっそりと息づいた黒い動物のような夜が訪れ、私は眼覚める。どこかで波の音がしている。
夜行性の鳥たちが、急にけたたましく、笑い声のような悲鳴を上げる。どこかで夜の始まりを告げるボンゴに似た響きがし、それに合わせてシタールのような絃《げん》が音曲を奏でる。陽気でいて物哀《ものがな》しく、野性的でありながら、抑制がきいた不思議に心をときめかせる異郷の響き。
窓を開くと、生温かいというよりは熱をはらんだ空気が、潮の匂《にお》いと共に流れこんできて、冷房のきいた室内は、たちまち外と同じ気温と湿気に満たされる。
私はこの暑い釉薬《ゆうやく》のような空気が、肌にまとわりつく感触を、きわめて官能的だと思う。
誰《だれ》かが香木をたいているのだろうか。懐かしくも神秘的な香りが、夜の幻想を激しく掻《か》きたてる。
こんなに理由《わけ》もなく胸がときめくのは、私が前世でポリネシアのどこかにいたからではないだろうか。
寒い東京を離れて、ここの飛行場に降り立ったとたん、なにかが胸をしめつけ、やたら懐かしく胸の底にめまいを感じたほどだった。
まず、空気の匂いが懐かしかった。肌を焼くというよりは刺しこむような強烈な日射《ひざ》しに、郷愁を覚えた。人々の顔はどれも、かつて私がとても良く知っていた人のように、見覚えがあった。
家々の素朴なたたずまい、熱帯樹木が落とす黒々とした影、うっそうとした密林のそこかしこにひそむ動物たちの息遣い――そうしたこと全《すべ》てに記憶があった。
夜になるとその感が更に強まる。このぬれぬれとした闇《やみ》の深さは、私を泣きたい気持にさせる。
この土地の全てを、私は知っている、とそう思うのだ。なぜなら、過去のいつだったか、私はここで生まれ、ここで成長し、ここで愛を知り、ここで傷つき、そしてここで死んでいった女だから。
断っておくが、私は輪廻転生《りんねてんしよう》論者ではない。それの熱心な信奉者がいることは知っているが、それはそれで良いと思っている。人が何を信じようと私には関係ない。そして偏見ももっていないつもりだ。
それに私は神秘主義者でも、オカルトを信じる者でもない。私が信じるのは、私自身だ。私自身の感覚を信頼している。
そして今、私の感覚が私に告げるのだ。ここはおまえの魂《たましい》の故郷だ、と――。夜が深まり、地鳴りのようなボンゴの音が高く速くなる。
それに誘われるように、私は部屋の外へ、裸足《はだし》のまま歩きだす。星明かりしかない暗闇の中へ。
歩いているうちに、私は自分がどこへ行こうとしているのか、はっきりと感じることができる。過去、何十回となく通った道だとわかる。とても遠い遠い昔。
ブーゲンビリアが作りだす樹木のトンネルを抜け、椰子《やし》の林を突っきり、その先の小屋に向かっているのがわかる。小屋の様子も、手に取るように見える。
そこに彼がいる。私の双子《ふたご》の弟が。私と何から何までそっくりのほっそりとした美しい肉親が。
私がかつて世界中で一番愛した異性。だが決して結ばれることのない二人。
私は彼の中に私自身を見出して、狂おしいまでに愛した。全てが愛《いと》しく、全てを許すことができる存在。私の分身。いや、私自身を。
そしてそこに、彼がいる。私の出現を予感して、息をひそめ、じっと待っている。私たちは、長い宇宙の刻《とき》を飛び越えて、再び出逢《であ》う。私と彼の視線が絡む。毎朝毎晩、いや四六時中、私が鏡の中に見ている姿が、そこにはある。私たちはせつなく抱擁を交わす。私はそこに自分自身の体臭をかぐことができる。夜に咲く黒水仙のはかない匂《にお》いを。
愛しさで胸が塞《ふさ》がれる。涙がとめどなく流れる。私の双子の弟もまた、私の肩に顔を埋めて熱い涙を流す。
あんたが好きよ、と私は囁《ささや》く。それなのにどうしたことだろう、私の口は別の声を発している。「おまえが憎い」
私の腕の中で、私によく似た弟の体が硬直するのがわかる。
「おまえのせいで、私は他の誰も、真には愛せないのよ。もう何年も――」いや何十年……何百年も――。
「おまえがあまりにも美しいから。あまりにも完璧《かんぺき》だから――」
美しい弟は汗をかき、黒水仙の匂いが夜の中で更に強まる。
「もう、私を愛さないで。そして私を自由にして。私ももうおまえを愛さないから。そしておまえも永久に私から自由にしてあげる」
すると私の腕の中から、弟の肉体が静かに滑り出ていく。
私は、自分がなぜこの見知らぬ国に不意にやってきたかが、今、わかる。私が美しいと認め、そこに価値の全てを見出していたものと、訣別《けつべつ》するためなのだ。ナルシシズムと。
ふと我に返ると、私は見知らぬ暗い場所にいて、右も左もわからず、途方に暮れている。私から何かが剥《は》がれていき、私は前世の記憶を失ったのだ。星明かりでは、どれが道で、どれがイバラで、どこから崖《がけ》なのか、まるきり見当がつかない。ボンゴの響きだけが、私をホテルに導く道しるべだった。
何十分もかかって、足や、脹《ふく》らはぎに擦り傷や棘《とげ》のあとをつけて、ついに私はホテルルームの前までたどり着く。もはや空気も、鳥の鳴き声も、シタールの音も、潮の香りも、郷愁をさそわない。全てが見知りであり、別の意味で心が躍った。
ホテルルームの前に植えてある沙羅双樹の木から、また白い花が音もなく散っていく。とたんに、私はたとえようもなく淋《さび》しくなって、自分の腕で自分を抱きしめる。こんな思いは初めてだ。
いつだって、自分自身に満足で、自分だけで充実していたのに。
淋しいなどという感覚ほど、私と無縁のものはなかったのに。
唐突にひとりの男の顔が脳裏に浮かぶ。もう何年も私につきまとい、私をうるさがらせ、うんざりさせてきた顔だ。
それなのに今、その顔が切実に懐かしい。彼がそばにいなくて、とても淋しい。まるで恋をしているような気持。せつなくて、熱くて、淋しい。
あの人に電話をしなければ、と呟《つぶや》き、私は部屋の中へ駆け戻る。はやる指でダイヤルを回し、続けて二回、ナンバーをまちがえ、三回目にようやく通じる。
無音のあと回線が通じ、相手を呼び出す音が続く。ああ彼がいますように、神様……。
六つ呼び出しが鳴り、受話器がカチリと外れる音がし、もしもしと低い彼の声がする。まるで初めて聞くような気がする。男らしい誠実な声。
「もしもし、私……」
彼が驚く気配が伝わる。
「そっちから電話をかけてくるなんて、初めてじゃないか。何かあったのか?」
とても心配そうに訊《き》く。
私は受話器を握りしめたまま、茫然《ぼうぜん》としている。何をどう話して良いかわからない。今まであなたが見えなかった。本当のあなたとあなたの心が。
いやそうではない。見えなかったのは私自身の心だ。
「ねぇ……あのこと……」と私はどぎまぎして言う。「何年か前に私にプロポーズしたこと、覚えてる?」
彼は笑うかもしれない。そんなこと大昔のことだよ、忘れた、と。
「もちろん」と彼は答える。「もちろん覚えているよ」
――きみがその気になるまで何年であろうと、何十年であろうと、僕は待つよ――と。
「あのこと、もう時効?」
掌《てのひら》が、冷たい汗で濡《ぬ》れてくる。
「いや」
と、彼はやけに静かに答える。国際電話とは思えないほど、息遣いまでが伝わってくる。
「今でも僕の気持は同じだ」
安堵《あんど》と幸福の思いで、私は自分の体が支えられない。受話器を握りしめたまま、近くのソファーに倒れこむ。
「ありがとう」
と囁《ささや》く。「でももう、これ以上今夜は話せないわ」
泣きだしてしまうから。「また明日電話するわ」
そして私は急に考えを変えて言う。「ううん明日、そっちへ帰るわ」
彼も黙る。感情を制《おさ》えようとしているのがわかる。そして言う。
「ああ、待っている」
私は受話器を置く。そして本当に少しだけ啜《すす》り泣く。
私は、私の美しい双子の弟の思い出を、小さなクリスタルボトルの中に封じこめる。私が愛してやまない香水。ナルシス・ノワール。
弟は私の中から完璧に消えたが、彼の思い出は永久に残る。せつない南国の夜に一人咲く黒水仙の匂い。
その時ダイニングルームの方から、ダンス曲が流れ始める。人々の陽気な笑い声や話し声がそれに混じる。私は、たったひとりでとる最後の夕食に、出かけていく。
土曜の夜の幸福、日曜の朝の胸さわぎ
人々が、私や、私の傷心、私の孤独とは無縁の足取りで、通り過ぎていく。
一人残らず、道行く人たちは、これから愛する者の腕の中へ帰っていくか、あるいはその温かい腕の中から出てきたばかりのように、見える。
他の季節ならば、歩道までテーブルや椅子《いす》がはみだし、パリジャンや旅行者で一杯のこのカフェも、今はガラスパネルに取り囲まれ、内側の水蒸気のせいでガラスが汗をかいたように濡《ぬ》れている。店内はガランとしている。
手もちぶさたなギャルソンが、白い壁に背をもたれて、くわえ煙草のまま新聞を立ち読みしている。ジタンの匂《にお》いが、ゆっくりと無人のカフェの中を流れ、私の鼻をとらえる。
ギャルソンはとても痩《や》せていて、顎《あご》のあたりに、すさんだ青春時代を送った記念の古い裂き傷のあとがある。でも今は、妻がいて帰っていく家庭がある。左手の薬指のプラチナの指輪が鋭い輝きを放つ。
私は今、パリにいる。昨日は東京にいた。おとといはまだ、自分がパリへ飛び出していくだろうなんて、知らなかった。おとといはまだ、私は幸福だった。
何も知らされていなかったから、幸福だった。ジューン・ブライドを夢見て。
私が生まれたのも六月で、真珠は私が一番好きな宝石なのだ。その日、彼から婚約の時に贈られた、南洋真珠の首飾りを身につけるつもりで、それに合う南洋|珠《だま》のイヤリングもそろえてあった。母が着たウェディングドレスのフランスレェスの一部を衿飾《えりかざ》りに使った衣装も、すでに注文済みだった。来月にはそれができ上がってくる。今となっては無用となった結婚《ウエデイング》衣装《ドレス》が。
おとといの夜、彼の車で家へ送られていく途中で、私の人生が変わってしまったのだ。それまでは普段と全く変わらない陽気で快活な彼だったのに。初めて行った広尾の小さなイタリア料理の店は、噂《うわさ》に違《たが》わずとても美味《おい》しくて、これからもまた来ようね、と彼はキャンドルライトごしに私に囁《ささや》いたくらいだった。
助手席の窓を少しあけ、私はガビ・デ・ガビの酔いをさましていた。風は冷たかったが、気持が良かった。
私は、私たちが六月の終り頃から住むことになっている、目黒のマンションに入れる家具を、明日見にいくつもりだと彼に話した。
「あなたはイタリアの明るいデザインが好きだけど、椅子だけは英国の物にしましょうね。坐《すわ》り心地がなんといっても抜群だし、見た眼よりもこぢんまりとしているから、日本の家には合うのよ」
まだ、早いんじゃないか、と彼はハンドルを握りながら言った。
「きめるわけじゃないわ。見に行くだけよ。いいのがあったらあなたにも見てもらって、それから注文する。別に早すぎるとは思わないわ」
私は窓を閉めながらそう答えた。それから話題を変えた。
「ねぇ、やっぱりハネムーンはサンフランシスコは止めて、モロッコとかカサブランカにしない? サンフランシスコならあなたの仕事の関係でまた行くこともあると思うけど、アフリカはめったには行けないと思うのよ」
私は、砂漠に吹く熱い風を想像して、胸をときめかせた。「ねぇ、どう思う?」
彼は、私の質問には答えず、フロントウィンドウの中をみつめたまま、車を走らせていた。その横顔が、いつになく硬かった。
「気に入らないみたいね」
と私は相手の顔色を読んで、いさぎよくあきらめることにした。「カサブランカは、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの映画を観て、行ったつもりにするわ」
けれども、彼の横顔の表情はますます硬く、凍りついていった。私は居心地が悪かった。
「どうしたの? 私何か気にさわるようなこと、言った?」
答えるかわりに彼は溜息《ためいき》をついた。
「サンフランシスコでいいのよ、ハネムーン」
私は気弱に言った。
「サンフランシスコには、行けないんだ」
と、不意に彼が喋《しやべ》った。
「じゃ、他にしましょう」
私は別にこだわらなかった。
「他のところも」と彼が言った。私がどういう意味なのか訊《き》こうとして口を開く前に、彼が続けた。「ハネムーンには行けない」
「どういう意味?」
その問いに答えるかわりに彼はこう言った。
「同じ理由で、家具の件も忘れてほしい」
長い息づまるような沈黙が車内に流れた。彼は時速七十キロで車を走らせ続けた。私の胸は恐ろしい予感で、気分が悪くなるくらいドキドキしていた。胃がしめつけられ、吐き気さえした。
「もしかして、私たちの結婚そのものも忘れてほしいって、そういうこと?」
私は自分の方から結論を急いだ。
「説明しなければいけない」と彼が言った。
「いいえ、言い訳なんて聞きたくないわ。理由もいらない。結論だけ言って」
眼には見えない恐ろしいものから身を守るように、私は身をすくめた。
「そう、きみとは結婚できない。そういうことになってしまった」
「他の女ね」私は呟《つぶや》いた。
「まさか、こんなことになるとは思わなかった。でもそうだ、あの女《ひと》に、深く魅《ひ》かれてしまった。僕は、彼女を裏切ることはできない」
何かが私の中で軋《きし》んだ悲鳴を上げ、私は自分がバラバラに砕けるのを感じた。彼女を裏切るですって? 裏切られたのは私の方ではないか? 彼女は後から現れ、私から彼を、未来の夫を、私の結婚を、私の幸せを、奪ったのではないか。
それなのに、彼は、私ではなく彼女を裏切ることはできないと、悲愴《ひそう》な声で言ったのだ。その言葉は、私から抵抗する意欲を、勇気を、怒りを一瞬にして奪ってしまった。
「いつ頃からその女の方が私より大事になったの?」
と最後に、私は冷たい声で質問した。
「そのことに気がついたのは、たった今だよ。家具のこととかハネムーンのことをきみが口にするのを聞いた時だ。――すまない」
「私を、裏切ることになるっていうふうには、考えないの?」
「それについては、できるだけの誠意でつぐなうつもりだ」
彼は少し声を落とし、辛《つら》そうにそう答えた。
今私はパリにいて、あの夜の彼の胸の内を想像しようとしている。人を愛してしまうということは、ほとんどアクシデントみたいなものだと私は思う。それは、そういう人に出逢《であ》ったが最後、不可抗力なのだ。人を愛することは、罪ではない。私にだって、同じようなことが起こらないとはいえない。もし、そうだったら、私も彼と同じことをするだろう。結婚の前なら。
けれども、見捨てられ追放されてしまったのだという思いは、まぬがれない。私はいたたまれなくなり、衝動的に立ち上がると、代金とチップを置いて、唐突にそのカフェを歩み出た。
パリは灰色で、建物もくすんだ灰色だった。マロニエの樹は、裸で寒そうに風に震えている。
私はコートのポケットに両手を突っこみ、足早に目的もなく歩き回る。気がつくたびに、エッフェル塔が右に見えたり、左に見えたり、正面に見えたり、その位置を変えていた。
セーヌのほとりに出た。屋台のような車に、本や絵葉書を積んだものが、数台並んでいる。
「ガイドブックはいらないかね」
と、マフラーの中に顎《あご》を埋めた老人が訊いた。
「いらないわ」
「じゃ絵葉書はどうだい?」
エッフェル塔の写真を私に押しつけようとした。私は首を振った。
「フィルムは? そうだサルトルを読むかね」
「サルトルはもうみんな読んだわ」
老人は肩をすくめた。私は人と会話をしたことで少し慰められたような気がした。老人から何か買ってあげたかったが、欲しいものは何もなかった。老人が台の上から、新聞紙に包んだものを取り上げ、ひょいと私の方へ差し出した。「どうだい」
焼き栗《ぐり》であった。
「こんなにいらないわ」
「売るんじゃないよ」
私は微笑して、焼き栗を二つ三つ手に取った。まだ温かかった。私たちは無言で栗のカラを割り、渋皮をはがし、中身を口に入れた。
「この季節は、旅行者にはベストじゃないな」と老人が優しい眼をして言った。
「かまわないの、旅行者ってわけではないから」私はセーヌの流れを眺めた。
「傷心旅行かね」
「どうしてわかるの?」
「顔に描いてある」
冷たい風が足元を吹き過ぎた。
「おじさん、愛する人に裏切られたことある?」
「何度も」
「どうやって乗り越えた?」
「わしを裏切るなんて、バカな奴だと思うんだ。この唯一無二のわしを。それからこう思う。大事なものを失ってしまうのは、わしの方ではなく、その相手の人間だとね」
私は唯一無二。私が彼を失ったのでもなく、彼の方が私を失ったのだ。そう私は老人の言葉を自分の身に置きかえてみた。
「ばかな奴……」私は栗をむきながら呟《つぶや》いた。
「何か栗のお礼をしたいのだけど」
と私は無意識にポケットを探った。固い真珠の珠《たま》に、指先が触れた。
「これ、とても高価なものだけど、私にはもう必要ないの。実はね、ひとつぶひとつぶセーヌの中に投げ捨てようと思って来たの。彼と出逢ったのが三年前のパリだったから」
私は南洋真珠の首飾りを、老人の手に押しつけた。
「いや。とても美しいけど、もらうわけにはいかないよ」
老人は首を振った。
「でも私、もういらないのよ」
途方に暮れて、私は呟いた。
「だったら予定どおり、セーヌに投げたらいいよ。手伝おうか?」
最後の手伝おうかは、温かく優しい声だった。
「そうね」
と私の心が動いた。「手伝ってもらおうかな」
私たちは並んでセーヌのほとりまで降りていった。私は首飾りの糸を引きちぎり、真珠のひとつぶを老人に渡した。まず私がひとつ、続いて彼がそれを河に投げこんだ。
全部で二十八つぶあった。私が十四コ、老人も十四コ、セーヌに捨てた。老人はとても悲しそうだった。私よりもずっと悲しそうだった。
多分、大事なものを、過去、何度となく捨ててきたことを思い出しているのだろう。
ありがとう、そしてさようなら。私は老人を残して歩きだした。河から吹きよせる風の中に、春の匂《にお》いが微《かす》かにしていた。
触れもしないのに……
潮風がコロニアル風のロビーの中を吹き抜けていく。まるで室内の細部に至るまで知りつくしているかのように、風は楽しげにあちこちで寄り道をし、悪戯《いたずら》な男の子が女の子のスカートをめくるように、カーテンの裾《すそ》をひるがえし、アーチ型の出入口ではなく、わざわざ木製のブラインドの斜めに開かれたわずかな空間の中へ、潔く消えていく。
もしも風に色があったならば、ブラインドの透き間の中へ、平べったいトコロテンのように吸いこまれていく様が見えるだろうに。そして風に色があったら、私のこの白いビスコーゼのドレスは、風色に染まるだろう。
風にはどんな色が似合うだろうか。透明なブルーグレー。虹《にじ》のような色の風。ダイヤモンドヘッドの朝焼けのようなバラ色。パラオの海の色。マンダレーの暁の蒼《あお》。メコン河に漂う紫の霞《かすみ》。カイロの夕日色。香港の夜景のようにキラキラ光る風も素敵だ。
ムームーを着た母娘がロビーを横切っていく。母親の方は妊娠しているように見えるし、娘の方はネグリジェを着て歩いているように見える。ムームーが女をセクシーに見せることはまずあり得ない。私は眼を上げて、ココ椰子《やし》の向こうの砂浜とそれに続くくれなずむ海を眺める。
私はそうやって何時間でも海を眺めていられる。海が好きだからという単純な理由だけではなく。多分私は、あの穏やかな顔の下にひそむ神秘を恐れているのかもしれない。その計り知れない容積と深みとを。その想像を絶する暗闇《くらやみ》とを。私を窒息させることのできる海水を。
ついこの間まで、海と私は友だちだった。私たちはたわむれあい、無邪気だった。疲れると海水に自分自身を安心してゆだね、いつまでもたゆたっていた。あの温かい羊水のようなものの感触を、私はせつなく回想する。
ロビーに人の数が多くなっている。このリノベイションされたホテルの見学かたがた夕食の予約をしてある人たちなのだろう。
イギリス人が最初に作ったこの様式の建物は、確かに湿気を含んだ風との組み合わせで、エキゾチシズムを漂わせる。あるいは降るような満天の南国の星空の下で。今はまだペイントが真新しいから結婚式の日の花嫁のようにピカピカしているけど、時間と潮風とによって建物が微妙に傷んでくる頃、このホテルは古き良きコロニアル時代の、あの頽廃《たいはい》の感じを取り戻すだろう。
私は夕食の着替えのために、いったんホテルルームに戻ることにして、エレベーターに向かった。夕食はマウイに別荘をもっている音楽関係の友人と約束してある。彼らが私に逢《あ》うためにマウイから来てくれる。
彼らに限らず、他にもコンドミニアムを持っている友人たちも、なぜ私が彼らのところに泊まらないのかと批難するが、私はホテルが好きなのだ。ホテルの自由さが。出ていきたい時には理由も告げずに歩み去ることのできる自由さが。
エレベーターの中は、私ともう一人男性だけだった。私が自分の階のボタンを押そうとしたら、一瞬早く男の指がCを押した。同じ階なのだ。エレベーターは優雅なスピードで、昇っていく。
「以前にもお逢いしましたね」
男は、私の方を見もしないで、とても静かな口調でそう言った。他に誰《だれ》もいないから、辛うじて私に話しかけているのだとわかる。
「そう……?」
私は斜め後ろからちらりと男を眺めやる。ハワイでは当然なことだけど、日焼けしていて、頬《ほお》から顎《あご》にかけてちょうど二日間だけ剃《そ》らないでおいたような感じの髭《ひげ》が伸びかけている。その無精髭と日焼けとヘンリーネックのシャツと痩身《そうしん》とがそれぞれしっくりと似合っている。どこで出逢っているのだろう。私には記憶はなかった。
「バンコクで」
と男が言った時、エレベーターが停り、ドアが開いた。彼は私を先に通すためにドアを抑え、私に続いて四階で下りた。「更に詳しく言えばオリエンタルホテルのバンブーバーで」
それでも思い出せない。私は首を振った。覚えているふりをするのは簡単だったが、なんとなくその男には私の嘘《うそ》がわかってしまうような気がしたのだ。
「記憶がないわ。バンブーバーには確かに行ったけど」
「多分、僕を見なかったんでしょう」
あっさりと彼が言った。「僕の方も、実はあなたの背中しか見ることができなかったけど――あなたはフィリピン人の歌手の歌に聴き惚《ほ》れていましたね」
「背中しか見てなかったのに、よく私がおわかりになったのね」
私はバッグの中からキーを取り出しながら言った。男はとても自然な歩調で、私と並んで歩く。もう数えきれないほど一緒に歩いたことがあるような、そんな感じにふととらわれる。
「――匂《にお》いで」
低い声で彼が答えた。
「え? 何ておっしゃった?」
私は少しギクリとして訊《き》き返した。
「香水の匂いで、すぐにわかりました」
「でも」
わずかに心臓がドキドキしていた。「この香水をつけているのは、世界中で私一人というわけじゃないわ」
私は部屋の前で立ち止まった。
「そう、KLをつけているのは何もあなただけではない」
男はあわてずにそう答えた。「でも、あなたの体温で、KLは唯一無二の香りになる。あなたの匂いになる」
これほどまでに、直接言葉が官能に訴えたことがあったろうか。少し赤くなりながら私は言った。
「よくおわかりなのね、香水の名前まで」
「バンブーバーで、その香りに出逢って以来、忘れられなくて。探しましたよ、ずいぶん」
その言葉は二重の意味を含んでいるように思われた。私はそれに答えるべく気のきいた言葉が咄嗟《とつさ》に思いつけず、キーを差しこんで回した。
「では――」
と、あっけないほどの幕切れで、男は踵《きびす》を返した。そして元来た廊下を戻り始めた。私はなんだか取り残されたような気分で、部屋に入った。
バスタブにお湯を落としていると、電話が鳴った。水栓を止めておいて、受話器を取る。
「ところで、最近のオリエンタルホテル、どう思いましたか」
先刻の男の声だった。
「とてもゆるやかに、でも確実に、零落の過程をたどっているという印象を受けたわ」
「同感ですね。では、ここモアナは?」
「むしろあなたの感想を聞きたいわ」
「ファーストレディが娼婦《しようふ》のごとく蘇《よみがえ》ったというところかな」
「それ誉め言葉?」
「絶対に。僕は品性の下品なレディより、プライドの高い娼婦の方がはるかに好きだもの」
ところで、と彼が続けた。
「今夜、食事でもご一緒できますか?」
私は先約があるので、と断った。
「その後は?」
「多分どこかへ飲みに行くわ」
「じゃいっそのこと、ここで飲みませんか。いい風が入ってきます」
「友だちが一緒でもかまわない?」
「あなた一人がいいのにきまっています」
私は一瞬だけ躊躇《ちゆうちよ》した。
「ええ、うかがうわ、後で。時間はとても遅くなるかもしれないけど」
彼は私に部屋の番号を言った。そして「あの香水をつけるのを忘れずに」と言いそえた。
「どこにつけましょうか」
私はふざけて聞いた。
「それは、あなたがどこにキスをしてほしいかによります」
彼はまたしても私をドキリとさせる。
「じゃ後で」
と私は言った。「そうそう、あの無精髭、そのまま剃らないでおいてね」
すると彼は笑った。私も笑い電話を切り、バスタブに再びお湯を満たすために、蛇口を回した。
それからKLを二滴水槽に落とした。するとたちまちバスルームには、フルーツやスパイスや木の香りなどのエキゾチックなフレグランスがたちこめる。
男は小さな変化を待っていた
彼女はどちらかというと、自分の中に流れているフランス人の血より、北京人《マンダリン》の血の方をより愛している。
磨かれた象牙《ぞうげ》のようにつややかな肌や瞳《ひとみ》の中の神秘的な輝き、絹のようなしっとりとした、どちらかというと低い声、黒い豊かな髪といったようなこともそうだが、それよりも彼女の中にある誇り高いマンダリンの血そのものを、愛しているのだ。
けれども彼女が世間から評価されるのは、スラリとした長身、豊かな胸、高い腰、ふるいつきたくなるような脹《ふく》らはぎから、ひきしまった足首への線、立体的な顔と豊かな唇、大きな眼などといった、フランス人的要素なのである。
人々は一見して彼女の職業をマヌカンだと思うが、実はライターなのだ。美を売らずに知性を売って生きている現代女性というわけだった。
生まれはマンダレー。そのあと両親の仕事の関係でバンコクと香港に移り、ソルボンヌで学んだ四年間の後、再び香港に戻り、今は、ホンコン・ウィークリーというタブロイド判の新聞を発行する若き社主でもある。つまり自分で書いた記事を自分で編集し、発行している。
レイアウトとカメラマンとイラストレーターの三人がフリーの形で参加している。彼女は自分の仕事に誇りをもっているが、ゆくゆくは作家になりたいと思っている。そしてそのつもりでいる。彼女には書くべきことがあるのだ。それは、ここ、第二の故郷ともいうべき香港のこと。イギリスから中国に返還される一九九七年前後のこと。
それをしっかり自分の眼で目撃し、自らの体験を通したドキュメンタリータッチのフィクションにしようと思っている。
「ボクはあと二年でここから逃げだすつもりだ」
と、カメラマンのピーター・ウォンは言う。
「私はこの国がどうなっていくか、最後まで見届けるわ」
「きみに赤んぼうがいたら、そうは言わないだろうな」
「どうして?」
「天安門の二の舞を、ボクの小さな娘には、絶対に味わわせたくないからだよ」
デザイナーのシドも、来年か遅くともさ来年までにはメドをつけて、カナダかオーストラリアに移住すると言う。
「いいわ、あなたたち、好きなように逃げていきなさい」
彼女は肩をすくめる。一人去り二人去り三人去りと、親しい人々が香港から歯が抜けるように消えていく。その淋《さび》しさも書こう、と彼女はひそかに思う。
「あなたはどうするの?」
と彼女はさし絵画家のB・Jに訊《き》く。彼を見るとすぐに眼を背けたくなるのは、頬《ほお》から顎《あご》にかけての古い傷あとのせいだ。その傷あとは、B・Jの顔を陰惨で醜悪にみせている。
「当分いることになるだろうな」
と、B・Jは答える。訊かれたから仕方なく答えるという感じだ。
「いつまで?」
だが、彼はそれには答えない。
「なぜ他の連中みたいに、逃げだす準備をしておかないの?」
するとB・Jが言う。「それじゃエマ、きみはどうなんだ? 準備はしてるのか」
「してないわ」
「なぜだ? ほとんどの人間が、何か考えているんだぞ」
「一九九七年になったら、その時考えるわ」
そしてエマはB・Jを見る。傷あとさえなければ、フォトジェニックな美しい顔をしている、とふと思う。三年以上も一緒に仕事をしているのに、そんなふうには一度も思わなかったのが、不思議といえば不思議だ。
「あなたは?」
「オレも一九九七年になったら考えるよ」
二人の視線が出逢《であ》って絡む。
「勇気があるといおうか無謀といおうか……」とB・J。
「何が?」
「きみさ。普通それほどの美貌《びぼう》と若さがあったら、別の生き方だってできるのに」
「別の生き方って、たとえばどんなこと?」
エマが絡む。セントラル地区にある五十八階のビルのオフィスから、対岸の九龍《カオルーン》サイドのビル群が一望に見渡せる。時間は午後九時過ぎ。ピーター・ウォンもシドもすでに引き上げて、オフィスにはエマとB・Jの二人だけだ。
「貴族の御曹子《おんぞうし》とかアラブの大金持と結婚すれば、一生きれいに着飾って生きられる」
「B・J、知らないのなら教えてあげるわ。私が一番きれいに見えるのは、何も着ていない状態の時なのよ」
すると信じられないことに、B・Jの耳に血の色が射《さ》す。大の男が赤くなるなんて、とエマは内心思う。なんて純情なんだろう。「着飾ることにも結婚にも興味がないのよ。それに」
と彼女は遠い目をする。「結婚しようと、ここから逃げだそうと、ここに残ろうと、若さと美貌が剥《は》がれ落ちていくという点では、どこにいても同じじゃない?」
それからエマはまっすぐにB・Jに視線をあてる。傷あとからも、眼を逸《そ》らさない。
「あなたはなぜ残るの? 真面目に答えて」
「オレは……見届けたい。……見守りたい。それだけだ」
「何を見守りたいの? この国の行く末?」
「そんなものは、正直いってどうでもいいんだ」
「どうでもいい?」
とエマは厳しく聞きとがめる。
「オレが言うのは、ここに止まる理由としては、どうでもいいことだという意味だ」
「じゃ何なの、B・J」
エマは残酷に彼を追いつめる。答えなど、とっくに知っているくせに。問いつめて、その結果、それに応えてやるつもりも毛頭ないくせに。彼女は、今や兎《うさぎ》を追いつめた虎のように、眼を輝かせて男をみつめる。
「ばかな女が一人いるんだ」
とぽつりとした感じでB・Jが喋《しやべ》り始める。
「素手で闘おうとしている愚かな女が」
「だから?」
「あやうきを見て闘わずば勇なきなり――誰《だれ》かがそばにいてやるしかない。番犬みたいにな。襲いかかってくる者に片っぱしからかみついてやる」
「それがあなただっていうの?」
エマは唇の端に苦笑を浮かべる。
「他に誰かいるかい」
ズバリと核心を突くように、B・Jが訊き返す。エマは様々な男たちの顔を思い浮かべ、視線を落とす。
「私が残ってほしいと思うような男たちは、みんな退却を考えているわね」エマはB・Jをもう一度みつめる。蛍光灯の光にさらされて、斜めの傷口がグロテスクに浮き出して見える。「B・J、質問してもいい? その傷、どうしたの?」
B・Jは黙って傷あとに手をもっていく。そして呟《つぶや》く。「ヴェトナム」沈黙が流れる。「でもB・J、私はいてくれなんて、あなたに頼んでないわよ」
「オレも、頼まれてないよ。だから給料をくれなんてことは言わない」
「第一、一九九七年に何が起こるというの、戦争?」
「何も起こらないかもしれんさ。ごく静かに交替劇が演じられるかもしれん」
「じゃ、かみつく番犬なんていらないかもしれないわね」
「その時は、大人しく眠ってるさ」
「B・J、もうひとつ訊いていい?」
B・Jがうなずく。
「その後どうするつもり? 一九九七年の後。私に番犬がいらなくなった時――」
B・Jの顔の傷口にそって、微《かす》かな痙攣《けいれん》が走る。
「その時は――」
とB・Jは低い声で答える。「おまえさんに称号を贈って、立ち去るよ」
「称号? どんな称号なの?」
「サムサラ=v
「サムサラ――? どういう意味?」
「自分で調べろよ」
B・Jは椅子《いす》を引き立ち上がる。
「そろそろ退散するかな」
オフィスの出口でB・Jは振り返る。「送ろうか?」
「いいのよ、フェリーで帰るわ」
エマは振り向かずに答える。
B・Jが帰った後、しばらくしてエマは探していた言葉の意味をみつけだす。
サムサラ=輪廻《りんね》・誕生と再誕生の無限の周期。つまり永遠の夜明けだ。彼女は遠い眼ざしで、B・Jのいた場所をみつめる。
パパの恋人
「今度の金曜日の夜、あいてるか」
と、朝刊から眼を上げて、パパが訊《き》いた。
「今のところはね」
私は大急ぎで、パパが作ってくれたベーコン入りのスクランブルド・エッグをフォークで掻《か》きこみながら答えた。九時からの小児心理学の講義を落としたくなかったからだ。
カリカリのベーコンが入ったパパのスクランブルド・エッグが美味《おい》しいと誉めて以来、毎朝、パパはそれを私のために作ってくれる。私はフルーツとミルクの朝食で本当は充分なのだ。
けれども、多忙なパパと一日のうちで顔を合わせるのは朝だけなので、パパはこの時間に父親と母親の二役を演じようとするのだ。
もしそれでパパの気持がすむのなら、お安いご用だ。ちょっとくらい塩味が薄かろうと、ベーコンの脂でギトギトしていようと、美味しい美味しいと平らげるのが、父娘家庭の円満の秘けつなのだ。
というわけで、私はその朝も胡椒《こしよう》の足らないベトベトのかき卵と向かいあっていたのである。
「じゃ、一緒に夕食でも食べようか」
そうさりげなく言って父は朝刊に視線を戻した。実にさりげなく。あまりさりげないので、逆に私の胸に小さな疑惑の火が灯《とも》った。
「パパと、私だけ?」
「ん?」
と父は聞こえなかったふりをして、時間をかせいだ。やっぱり……。私はフォークを置き、「誰《だれ》かが一緒なのね」と呟《つぶや》いた。「女のひとね」
父はすっかり朝刊をたたむまで黙っていたが、まっすぐに私の眼を見て、答えた。
「そう。女性が一緒だ。かまわないね?」
「最初からそのつもりだったんでしょう」
私の声は、理不尽なほど冷たく響いた。父は少しの間、自分の手をみつめていた。私の大好きな手。大きくて温かくて乾いていて、清潔で美しい父の手。
「おまえに、ぜひ逢《あ》ってもらいたかったんだよ」
とても穏やかに父はそう言った。
「どうして」
私はじっとしていられなくて、食卓を片づけ始めながら、そっけなく訊いた。
「とにかく逢ってもらいたい。いい人だよ」
父は即答を避けた。
「つまり結婚したいってわけ?」
私は水道のお湯を流しながら、たいしたことじゃないみたいに、軽く言った。でも成功したとは思えない。
「そうだな、いずれ時機をみて……。しかしそのまえに、おまえと――」
父が全部を言い切らないうちに私は言った。
「いいじゃないの、結婚すれば」
もう少しでお皿をシンクの中に落としそうになった。
「おまえにも、彼女を好きになってもらいたいんだよ」
父は少し困惑しているみたいだった。
「好きになれるわけがないじゃないの」
と私は咄嗟《とつさ》に喚《わめ》きそうになった。
「逢ってもみないで、なぜそんなことがわかるんだ」父は哀《かな》しそうだ。
「なぜでもわかるのよ。私にはママは一人でいいの」
父は完全に黙りこんだ。私は同じお皿をまだ洗い続けながら奥歯をきつくかみしめた。自分がどんどん残酷な気持にかりたてられるのがわかる。「まだ一年半にもなってないのに、よくもママのことが忘れられるものね」
その瞬間、私は死ぬほど自分が嫌だった。二十一歳にもなるのに、十二、三歳の娘みたいな言葉を口走るなんて。
「おまえが恐れているのは――」
とやがて、とても静かに父が言った。「ママが忘れ去られることじゃないね。おまえ自身が遠ざけられることなんじゃないかな」
今度は私が黙りこんだ。必要以上に手だけ忙しく動かす。もう十回くらいリンスしたお皿にお湯をかけた。
「おまえはいつまでたったって、僕の娘であることに変わりはないのさ」と、父が言った。「たとえ、おまえが六十歳になってもね」
六十歳の時の私を思い浮かべようとした。やっぱり膨れっ面をして八十九歳の父親に当たり散らしているのだろうか。とたんに私はおかしくなって、思わず笑った。父も笑った。
笑ったことで、胸が楽になった。
「ごめんなさい。ママのことを持ち出すのはフェアじゃなかった……」
パパがどれだけママを愛していたか、それを一番知っているのは私なのだ。ママがいなくなった日から、私の父は、どこか見えないところからたえず血を流し続けているように、私には思われる。
父は淋《さび》しいのだ。私がいてもなおかつ淋しいのだ。娘では慰めきれない大きな喪失があるのだ。私だって淋しいけど、私と父とでどちらの喪失感が大きいかといえば、それは父の方なのだと思う。そう思えるほどに、私は成長しているのだ。だったら、そのように振るまおう。金曜の夜の夕食を、私は承諾した。
その夜、私より父の方がよほど緊張していた。父の緊張を感じると、私にはその女性が父にとって、すでにかけがえのない存在なのだろうと思われて、せつない気がした。頭では、父が幸せになることを願いながら、私の心はまた少しずつ冷たくなっていくみたいだった。私とママから、パパを取り上げようとしている未知の女を、一瞬憎んだ。
ふと、香水の匂《にお》いがした。
温かくて柔らかく懐かしい気配が漂った。満面に微笑を含んだ女性が近づいてきた。父が立ち上がり、彼女を迎えた。
「毎朝ベーコン入りのスクランブルド・エッグを食べさせられているんですって?」
香水と同じような温かく柔らかい声で、いきなり彼女が言った。「実は、私もたまに、ご馳走《ちそう》になるんだけど」
とその眼が笑っている。共犯者の親しい眼だ。「あなたが文句ひとつ言わないと聞いて、優しいんだなって思ったわ」
きっと何か仕事をしているひとなのだろう。
きびきびとした身のこなしで、私たちの前に腰をおろした。
「あなたは、文句をおっしゃるの?」
と私が訊《き》き返した。胸の中の苛立《いらだ》ちはもう収まっている。
「いいえ、言わないわ」
「どうして」
「だって、彼の楽しみを奪ったら、可哀相《かわいそう》でしょう?」
パパの下手なスクランブルド・エッグが、私と彼女を急速に近づけた。
「その香水、アルページュでしょ?」
と私は訊いた。
「あら、よくご存知ね」
彼女の顔が輝いた。でも私は、それがママの愛用の香水だったことは言わなかった。
ダブルブッキング
バリ島に行くはずだった予定を変更して、私は今ニューヨークにいる。彼は私へのあてつけのために、一人でバリ島へ発《た》っていった。
「五月の連休も君は仕事だった。クリスマスも正月も約束を違《たが》えて僕を放置した」
彼はそう捨て科白《ぜりふ》のように言い置いて、私より一日早く出かけてしまった。
それらの言葉をかみしめながら、私はニューヨークのスタジオで、搬入すべき舞台装置の巨大なタピストリーに、アイロンをあてている。もはや、男をとるか仕事をとるかの議論の余地などない。そのような段階はとっくに過ぎていた。
そんなに仕事が大事なのか、と言われても、むきになって言い訳もしない。そんなにがむしゃらに仕事ばかりで、どうするんだ。そのうちにすり切れる時がくる。その時になってあたりを見廻《みまわ》したって、僕はもういないかもしれないぞ。
そうした言葉や批難の眼《まな》ざしに対して、私はもう一言も言葉を返さない。仕事が好きだからなどと甘い言葉では表現できないのだ。生き甲斐《がい》であるとか、仕事をとったら私には何も残らないだとか、そういう一連の説明を試みた時代もあった。
しかし仕事とはそういうものではない。プロフェッショナルであるということは、もっとシンプルなことだ。約束を守ること。手抜きを絶対にしないこと。それ以外のことは、実にもうどうでもよいことなのである。
男が、仕事をもつ女の、真の支えであることなど、めったにない。それどころか、一番身近にいる敵に回る。批難と攻撃を雨あられと浴びせかけ、あげくの果てには飛び出して行ったきり、二度と戻ってこない。
君は女じゃない。男と同じだ。僕は男と一緒に暮らすつもりはない。男たちは判で押したように同じ文句を吐いて、去っていく。
私はタピストリーを皺《しわ》にならないように、ソファーの上に広げ、少し下がって全体の具合を眺める。とても薄地に、薄墨をはけでひとはきしたようなデザインのものが、全部で四枚。舞台につり下げられると、向こう側が透けて見える。心の混沌《こんとん》を心象風景として表現したものだ。
傍らで、オブジェの仕上げに余念のないティム・ジョンソンが、自作から顔を上げて、私の作品に視線を向ける。彼とはもう何年も組んで、舞台美術の仕事を手がけている。
「蚊帳地《かやじ》を使ったのは正解だったな」
穏やかな声だ。私に向かって軋《きし》んだ金属音で物を言う男たちとは異質な音声だ。
「素材にいきづまっていたから……。蚊帳地を思いつくまで地獄だった」
「だろうね」
ふと彼は遠い眼をする。何日も顔にカミソリをあてていないので、髭《ひげ》が一、二ミリ伸びかけている。
短い言葉だが、それで意志が通じあう。友だちとはそういうものだと思う。
「そっちはあとどのくらい?」
「今夜のぎりぎりには間に合わせる」
彼は再び製作に取りかかりながら答える。巨大な岩石に見せかけたスタイロフォームのオブジェが、スタジオの天井からのライトを浴びて、鋭い光を放っている。その巨大な岩石は、人の心の不透明さと、重さ、強い意志などを象徴するものだ。
二人で受けもった今度の舞台演劇は、二人の役者だけが出演する心理劇なのだ。
私はようやく仕事のメドがつき、一休みするために、スタジオの隅にあるソファーに引きとる。煙草を一本吸い、背中が痛むので軽く横になったと思ったら、どうやら眠りこんでしまったらしい。
電話の鳴る音ではっと眼覚めた。窓の外にはすでに黄昏刻《たそがれどき》の気配が漂っている。いつの間にか掛けてくれたのだろう、埃《ほこり》っぽい毛布が私の躰《からだ》を覆っている。
「出るわ」
と言って、床に長いコードと共に無造作に置かれた受話器の方へ、起きだして行く。
出ると、国際電話のパーソン・ツー・パーソンで、バリ島からだった。私は反射的にティムに背を向けると、コードを引きずって部屋の隅のソファーに戻った。
「今、何してるんだ?」
と、恋人の声が訊《き》いた。人恋しさの響きが伝わってくる。
「眠ってたのよ。疲れちゃって」
「一人?」
「ううん」
「誰かいるのか」
「ティム」
「二人だけでいるのか」
「スタジオよ、ここは」
「いつも一緒だよな、その男と」
恋人の声には悪意がある。
「そっちはどうなの? ホテルは快適?」
「快適さ。快適すぎて涙が出るよ。バーでも一人、夕食も一人。眠るのも一人。泳ぐのも一人」
「悪いと思ってるわ」
送話器に向かってできるだけ小声で言う。
「悪いと本当に思うのなら、今から来いよ」
「そんな無理言わないで」
「やっぱりな」と恋人が嫌な声で言う。「その男に、惚《ほ》れてるんだろう」
私は一瞬ドキリとする。次に猛烈に腹が立つ。
「黙っているところをみると、ズバリだな」
「あきれて物が言えないだけよ。発想が貧しくて、反応のしようがないわ」
再び同じことのくり返しになろうとしている。
「そいつとは、もう寝たのかい」
彼はますます意地悪に言いつのる。
「そんなことするわけないじゃない」
「なんでだい、そいつも男だろう。四六時中行動も一緒だし、ひとつ部屋で二人きりだ」
私は微《かす》かな吐き気を感じる。もうだめだ。
「私はね」と、冷えた声でゆっくりと言う。
「本当に大事な男《ひと》とは、そういう関係にはならないのよ」
相手が何か言うのもかまわず、私は一方的に電話を切った。そして、毛布を頭から被《かぶ》り、その暗闇《くらやみ》の中で膝《ひざ》を抱え、少しだけ泣く。
気がすむまでそうして、毛布を取りのぞくと、眼の前のテーブルにココアが置いてある。温かそうな湯気が上がり、柔らかいカカオのいい匂《にお》いが漂う。
「ありがとう」
と私は背後を振り返らずに言う。ココアをありがとう。見て見ぬふりしてくれてありがとう。
「ごめんね、醜態を演じて」ココアの甘さに少し元気づいて私が言う。
「醜態ってほどのことはなかったさ」
とティムの、ゆったりとした感じの声が返ってくる。
「でももう終り」
「無理しない方がいいよ」
「本当に終りなの。続ける方がずっと苦しいの」私はココアの表面に息を吹きかける。
「あの人は私をとても低次元の人間に引きずり降ろそうとするの。自分が汚れてしまうの」
彼は何も言わない。
「あたしは男なんだって」
「そんなことないよ」
「見た眼じゃないのよ」
「見た眼も、何もかも、君は女だよ。女以外の何者でもない」
私はその言葉に振り向いて彼を見る。私に横顔を向けて、オブジェの表面に最後の仕上げをしている。
「本当に女だと思う?」
私は爪《つめ》をかみながら、問いかける。
「当たり前だ」
「じゃ……」と私は口ごもる。「私と寝てくれる?」
彼は何も聞こえなかったように、表情ひとつ変えず、オブジェの仕上げを続けている。私はいたたまれないような気持で、待つ。
「聞こえたんでしょう? 私と――」
「聞こえたよ」
「じゃ返事して」
「女に言われて、そうするのは嫌だな」
淡々とした口調だ。
「なら、あなたが私を誘惑してみてよ」
「いつか」
「いつかじゃなくて、今夜」
「今夜はだめだ。先約がある」
「あら、そ」
と私は冷たく突き放す。「よっぽど大事な約束なのね」
「うん、大事な約束だ」
タオルで汚れた手をぬぐいながら、ティムが答える。
「女の人なの?」
「そう、女だね」
「約束は何時?」私は再び爪をかむ。裏切られたような淋《さび》しさが襲う。
「九時」
とたんに私はかっとして言う。
「何よ、それって、ダブルブッキングじゃない。八時に搬入して、その後一緒に『コロンバス』でご飯を食べる約束してたじゃないの」
「そうだよ。約束したよ」
タオルを腰のベルトにはさみながら、穏やかに彼が答える。私は彼をみつめる。とたんに笑いだす。
「罠《わな》にかけたのね。ひどいわ」
そして私たちは黙りこむ。私の冷えた胸が、急速に温かくなっていくのが感じられる。
「その先約の女、食事の後口説いたりするの?」
できるだけ冗談めかして言うが、声が掠《かす》れる。
「少し様子を見るよ。大事な女《ひと》なんだ」
ぽつりと彼が答える。再び電話が鳴りだす。
「俺《おれ》。やっぱりおまえのことが好きだ」
バリ島からの声。「今夜俺、おまえの香水を枕にかけて眠るよ」
私たちはイヴォアールを共有していたのだ。再び私は混乱する。
「おまえもあの香りに包まれて眠ってくれ。夢の中で、俺たち、逢《あ》おう」
そしてバリ島からの電話が切れる。私は思わず手首に鼻をあてて、その匂《にお》いを嗅《か》ぐ。グリーンノートの清潔さが、恋人を彷彿《ほうふつ》させる。孤独な恋人。孤独な私。そして孤独なティム。私の心が揺れる。
再会の瞬間
カサブランカで、彼女はリックのカフェ・アメリカン≠探す。
けれどもそんなものは存在しない。あれは、映画の世界の作りごとなのだ。リックのカフェは。ハリウッドのスタジオ・セットだというのは、やはり本当なのだろう。
偽物《レプリカ》がいかにも本物らしく見えることに、いつも驚かされる。レプリカのメッカたる東京を後にしてきて、その思いが増殖する。
本物以上に本物らしく見えるものには、用心が必要だ。
かく思う彼女自身だって偉そうなことは言えない。〆切りぎりぎりに突っこんで来た宣伝コピーは、「ヴォーグ」の中からのいただきだ。むろんそのまま直訳して使いはしないが、単語の順序を入れかえ、「魅力」という言葉を、「生命」に置きかえ雰囲気を変えた。
世の中|全《すべ》て、誰《だれ》かが誰かの真似をしている。もはや新しい言葉など皆無だ。言葉は使いつくされ、せいぜいその組み合わせや順序に変化があるだけだ。それすらも、すでに誰かが組みかえたものを、別の誰かがまた順序を入れかえる。時には別の言葉を、やけくそに放りこんでみる。
そしてある時、偶然から、画期的なコピーが生まれたりする。あるいは苦しまぎれから。一万に一つあるかないかの話だ。仕事のことは忘れよう、と彼女は自分に言う。
ひとつだけ、カサブランカで、リックのカフェ≠フレプリカがあるという噂《うわさ》を聞きつけて彼女は足を運んでみる。
そして後悔する。「思い出」に再会したってろくなことはないのだ。
店はピアノバーで、アメリカ人の観光客で一杯だ。ボギーとイングリッド・バーグマンの大きな顔写真が、これみよがしに飾ってある。黒人がピアノを奏《ひ》いている。
バーテンダーは、店が流行《はや》っていることを鼻にかけて、不味《まず》いカクテルを、まるで慈悲をたれてやるんだとばかりに、客に売りつけている。安手のバーテンダー、安手のカクテル、安手の客。そしてお定まりのテーマソングアズ・タイム・ゴーズ・バイ≠ェ始まると、満席のアメリカ人たちの間から拍手が湧《わ》き起こる。
ピアニストは、日に最低三度はその曲を奏《ひ》くのに違いない。沸いている客に向かって笑ってみせるが、内心|欠伸《あくび》をかみ殺している。
彼女は耐え難くなって、曲の途中でその店を出る。
どうしようもなく、彼のことを思う。夫ではなく彼のこと、とても酷《ひど》いやり方で捨てた男のことを。
そして今、その手酷いしっぺ返しを彼女は受けている。彼を今でも愛しているという認識によって。彼女がボギー≠ノ重ねてみるのは、彼の姿なのだ。彼女が最も愛した映画と、最も魅《ひ》かれる男優とが、自分たちの状況に酷似しているというその理由で、彼女は今、カサブランカにいる。一人で。低俗な感傷――と彼女は自分を嘲笑《ちようしよう》する。
ホテルに戻ってみると、東京からメッセージが入っている。MR・SUGINOガ連絡ヲ欲シイトノコト。彼女は凍りついたまま、じっとその名前をみつめる。
彼は、彼女がカサブランカに来ていることを知らないはずだ。もっとも調べようと思えば簡単に調べはつく。彼女の宣伝部に電話をして訊《き》けばわかることだから。クライアントが、担当のコピーライターと連絡を取りたいというのを拒むことはできない。
彼女は、彼との再会の瞬間をありありと思い浮かべる。大口のスポンサー獲得のためのプレゼンテーションを、届けた日のことだ。彼女は営業部の責任者と、その応接室で長いこと待たされた。約束の時間に四十分も遅れてようやく姿を現したスポンサーサイドの男を見て、彼女は息を呑《の》んだ。それが彼だった。
相手もすぐに彼女に気づき、一瞬動作を硬《こわ》ばらせた。しかし、それは一瞬のことで、次の瞬間には、何ごともなかったかのように、応対を始めた。まるで彼女とは初対面ででもあるかのように。親しさも懐かしさの片鱗《へんりん》もなかった。
同席した営業の上司の手前そうしたのだろうと思ったが、その後、上司が一足先に部屋を出、束の間だが二人だけになった時にも、彼はその態度で通した。つまり初対面のよそよそしさで。彼女は、その冷ややかさに声をかけそびれ、目礼して退室するのがやっとだった。
けれども、彼女が出したプレゼンテーションが通り、彼の会社の商品の宣伝がまかされることになった。かなり大きな予算だったので、彼女は有頂天になり、うれしさのあまり自分の方から彼にお礼の電話を入れた。
「何か誤解しているんじゃないですか」というのが、彼の電話の返事だった。「おたくの会社の出したプレゼンが、公平に見て一番良かったので、今後の宣伝をおまかせしたんですよ。それだけです」実に冷たく素気ない声で彼はそう言うと、彼女が二の句もつげないでいる間に「では失礼」と電話を切ったのだった。
それでも彼女は、こう思いたかった。もしも彼が、彼女の裏切りを絶対に許していなかったら、たとえすぐれたプレゼンテーションであろうと、採用しなかったのに違いないと。そう思いたかった。
数カ月が過ぎた。プレゼンテーションは具体的な宣伝キャンペーンに取ってかわり、彼女は制作側の責任者兼コピーライターとして、彼はクライアント側の人間として、度々仕事で顔を合わせた。彼女はなんとかして、過去の酷い仕打ちを一言、彼に謝りたかったが、彼は徹頭徹尾、彼女にそうしたチャンスを与えなかった。決して二人だけになろうとはしなかったし、仕事以外の私語を厳しく避け続けた。
ついに、今年の下半期の全てのキャンペーンの制作を終了し、それを収めた時のことだった。彼のオフィスには、ほんの一握りの人間しかいなかった。誰も二人に注意を払っている者はいなかった。
「ごくろうさんでした」
と、彼が言った。「非常に満足しています」
彼は、うながすように、出口の方を見た。彼女は目礼し、踵《きびす》を返しかけた。しかし足が止まった。
「杉野さん、私……」下唇を血の出るほどきつくかみ、勇気を奮い起こした。「私……以前のことで、どうしてもあなたに――」
「忘れましたよ」
と彼は冷ややかに言った。「そんなことはとっくの昔に忘れてしまいました」
その冷ややかさに、彼女は深く傷つき言葉を失った。そしてその二日後、会社に休暇届を出し、夫には充電するためと説得し、日本から逃げ出したのだった。
ダイヤルを回す手が震える。すでにカサブランカの夜が始まっているが、東京はランチ時間にあたる。常に東京が今何時なのか、彼女は知っている。知っていたいから。その時間に、彼が何をしているか気になるから。その認識に彼女は再び傷つく。
国際電話番号を回し、ダイヤルインの番号を続ける。三つの呼び出しで、彼が直接でる。
「お電話をいただいたそうですけど」
「今、部屋?」
「そうです」
「では折り返し、こちらからかけ直します」
事務的な声で言って、電話が急に切れる。彼女は受話器を戻して、待つ。心臓が破れそうだ。
気が遠くなるほど長い時間がたち――実際には五分後だったが、彼女にはその十倍にも思えた――。電話が鳴る。彼女はびくりと躰《からだ》を震わせ、それを取り上げる。
「失礼しました。別室からです」
落ち着いた彼の声。日の出《い》づる国から、日の沈む国を結ぶ一本の電話線を通して、驚くほど近くに聞こえる。
「何か大事なことでしたか?」
彼女は怯《おび》えた声で聞く。
彼は少し口ごもり、そして言う。「そう……大事なことなんだ。僕の頑《かたくな》な態度がきみを苦しめていたのは、承知していた」
「…………」
「きみを許さないことで、なんとか僕自身の面目と尊厳を保とうとしてきた」
「当然だと思います」
「いや、聞いてほしい。きみを心の底で許さずに、きみに仕事をさせてきたことに対して、僕は、自分が実にアンフェアだったと、後悔しています」
「仕事は仕事ですから」
「違うよ。僕は、きみの弱い立場を利用したんだ。職権を使って、きみに復讐《ふくしゆう》したつもりでいたんだ。今はただ恥ずかしい」
「恥ずかしいのは、私……」
「四年前、きみが愛想をつかした理由が、やっとわかったような気がする。僕って男は基本的には成長していなかった」
「自分を責めないで。責められるべきなのは私なんだから」
「きみの書いたコピーの中に、こういう一文があった。――全《すべ》ての偶然に見える選択も、必然なのだ。それを証明するのは過ぎゆく歳月だ――。覚えている?」
「ええ、もちろん」
「どうやらきみの方が、辛《つら》い年月を過ごしたようだね」彼の声はとても穏やかだ。ふと、その口調が変わる。「あの香り、今でも使っているんだね」
「気がつきました?」
「最初から気がついていた」
「昔、私が毎晩バラの香りに包まれて眠るようにって、あなたが贈って下さった香水――」
「カサブランカには何時《いつ》まで?」
「そう長くはないわ。ここにはボギーの亡霊さえもいないのよ」
「戻ったら、食事でもしよう。よかったらきみのご亭主も一緒に」
「彼は妬《や》きもち焼きなのよ」
「僕と同じだ」
彼と彼女は同時に笑う。彼女は、恋が死に友情が復活したのを感じる。
美しき冒険者
ピアニストが、オール・オブ・ミー≠、夜にふさわしい幾分スローな速度で演奏している。
グランドピアノを取り囲むかたちで、常連たちが静かに談笑している。
彼女と彼の前に、三杯目のギムレットがそっと置かれる。二人は視線を合わせて微笑《ほほえ》みあう。
気持の良い夜、気持の良い仲間、そして彼との気持の良い関係。多分、今が人生の最高の時――彼女の微笑が広がる。
週に二度のデイト。電話はどちらからともなく毎日かけあっている。どこかで食事をして、このピアノバーへ寄り、そして彼か彼女の部屋へ行き愛しあう。
ようやく手に入れたゆるぎのない関係。これまでの過程を思うと、今のこの安定が嘘《うそ》のようだ。つまりお互いに別の男と別の女に属していた二人が出逢《であ》い、そこに恋が芽生え、ひとりの男とひとりの女を裏切るかたちで、成立した関係なのだ。
自分たちの今の幸せの陰に苦汁をなめた男と女が確実に存在するのだ。そのことを二人は忘れるわけにはいかない。彼女は手を伸ばして、彼の手首の上にそっと置く。その手に、彼のあいている方の手が重ねられる。
「幸せになろう」
と彼が囁《ささや》く。彼女はゆっくりとうなずく。二人は重ねた手を離し、ギムレットのグラスを静かに合わせる。
「この曲、スローテンポで奏《ひ》くと、哀《かな》しい曲に聞こえるわね」
彼女はオール・オブ・ミーの歌詞を声には出さずに口ずさんでみる。
「テンポには関係ないと思う。あの時代のスタンダードジャズはみんな、スモーキーでメランコリックなんだよ」
メランコリックという言葉が、彼女の郷愁を掻《か》きたてる。今、自分たちがいる世界には、もはやロマンとかメランコリーとか、冒険とか、驚異といったものは存在しない。今日は昨日の続きであり、明日もまた今日と大差はない。それを平和と呼び安定と呼ぶ。豊かさがもたらせた安定――、でも――。
「昨日土地を見てきたよ」
と、彼が話題を変える。
「そう」
彼女は爪《つめ》を無意識にかむ。
「勤め先には少し遠いんだけど、その他の点では気に入ってるんだ」
彼は地方都市に近い、新興のベッドタウンの町の名を挙げる。
「会社まで何時間?」
「ドア・ツー・ドアで一時間と四十五分」
「大変じゃない?」
「僕さえ我慢すればいいのさ」
「私のために?」
「きみのために。それから僕たちの子供のために」
「でも私は、あなたに犠牲を払ったり我慢してもらいたくないの」
「僕がそうしたいんだよ。きみと子供たちに、小さな家と、芝生のはえた庭のある場所に住んでもらいたいんだ。そうだ、犬を飼おう」
「私にはまだ子供のことなんて、実感が湧《わ》かないわ」
爪をかみながら彼女は呟《つぶや》く。見知らぬ新興のベッドタウンに自分の身を置いてみる。新しい家。新しい家具。新しいカーテン。そして植えたばかりのはえそろっていない芝生。見知らぬ隣人。彼が出かけた後延々と続く、長い孤独な刻《とき》。
「僕だってそうさ。でも、いずれは子供をもつわけだし――、子供は、嫌い?」
彼が心配そうに彼女の横顔を覗《のぞ》きこむ。彼女は黙って首を振る。
「さっそく二人でもう一度土地を見に行こうと思うけど、どう思う?」
「あなたは気に入っているんでしょう?」
「きみもきっと気に入るよ。そしたら銀行にローンをくもう。今住んでいる僕のワンルームのマンションを売って、頭金にすればいい」
「私のマンションはどうするの?」
「とっておこうよ。残業があったりした時、都心に眠る場所があれば僕も疲れないし」
彼は、自分が設計した未来の見取図を、彼女に話して聞かせる。つまり幸せと安定の二文字だ。彼女はなぜだかわからないが、だんだんに気が重くなる。
「ねえ、その地方都市に建てるその家って、私たちにとって何なの?」
不意に爪をかむのを止《や》めて、彼女が質問する。
「家庭だよ」と彼が答える。憩いの場所。戦って疲れた彼の翼を休めるところ。
「でも、あなたが残業で帰らなかったり、帰っても夜中近い日が延々と続くとしたら、それでも家庭って言える?」
「みんなそうしているんだ。この土地高の日本で、都内に住めないのは何も僕たちだけが例外ってわけじゃない」
「けれど、あなたも犠牲を払い、私も犠牲を払う、そういう家庭って、一体何なの?」
「きみが? きみが何の犠牲を払うっていうんだい?」
「追放されたような気持で、毎日生きていくのは、犠牲以外の何ものでもないわ」
「追放? 何から追放されるんだい?」
「全《すべ》てからよ。都会から。都会で起こる諸々のことから。友だちから。仕事《キヤリア》から。ドキドキするような全てから。そしてあなた自身から」
「しかし、僕は毎日帰っていくんだよ」
「眠るためだけにね」
そこで二人は黙りこむ。ピアノを取り囲んでいた常連の顔触れが少し変わっている。ピアニストは二十分の休憩に入り、かわりにカセット・テープから、ホーギー・カーマイケルの曲が流れてくる。
「すると、きみは家をもちたくないんだね?」と、彼が改めて訊《き》く。「今のまま、青山や広尾あたりで夜毎に面白おかしくやっている方がいいって言うんだね?」
「夜毎にとは言ってないわ。それに面白おかしくやっていきたいとも言っていない。追放されたような気持で生きたくないって、言ってるの」
「ドキドキするようなことって、何なんだい? 第一、結婚した後も、ドキドキしていられたら、こっちはかなわないよ」
彼の口調は苦味を帯びてくる。
「何も異性のことでドキドキしたいなんて思っているわけじゃないのよ。映画とかオペラとか芝居とか、こういうピアノバーとか。そして友だち――、そういうものたちから立ち去りたくないの」
「友だち? どんな友だちなんだ? 女なのか男なのか?」
急に彼は、不快感を顔に浮かべる。
「男も女もよ。結婚と引きかえにする気はないわ。あなたも大事だけど、彼らもまた、かけがえのない人たちなの」
「そんなもの」
と、彼は吐き棄《す》てるように言う。
「冗談じゃない」
沈黙が続く。
「私は自分が自分であることを変えたくないの。今のありのままの私であっては、なぜいけないの?」
「郊外に家をもったら、きみはきみでなくなるのか。それだけのことで、自分が自分でいられなくなるきみって何なんだ?」
「ひとつはキャリアよ。今の仕事を止める気はないってこと。それには友人の助けがいるの。そしてそれには、たえず緊張していることが大事なの。安定の中に隔離されてしまうわけにはいかないの」
「わかったよ」
と彼は冷ややかに言う。「僕をとるか、その大事な友人をとるか、どっちかひとつだな」
「選択はそれだけなの?」
絶望の思いが彼女の胸をひたす。これまで二人が大事に築き上げてきたものが、突如として音もなく崩壊していく。
「僕はきみと幸せに暮らしたいんだ。きみに安定した家庭を与えたいんだ」
幸せの基準が違うのだ。
「友だちか、あなたのどちらかを選べという選択をしたくはないわ」
「どうしてだい」
「両方とも失いたくないからよ」
彼女はギムレットの空のグラスをじっとみつめる。どうしてこんなことのなりゆきになってしまったのか信じられない思いだ。彼のことは今でも誰《だれ》よりも愛しているのに。彼女は下唇を血が滲《にじ》むまでかみしめて、そして呟《つぶや》く。
「あなたを失ったら、とても辛《つら》いでしょうね……。でももし、あなたを失って辛い思いをするのが、私が私自身でいるために払わなければならない代償なら……」
「そうなら?」彼もまた絶望の思いをかみしめているのがわかる。
「私、その代償を、払うわ」
彼が息を止める。彼女も呼吸をしない。やがて彼が苦しげな溜息《ためいき》をつく。
「それがどうやら結論らしいな」
「そうね」と彼女はうなずく。
「仮にもし、僕が大いなる妥協をして、都心のマンションに住むことにしたら、どうなる?」
「私は妥協しなかったのよ。あなたにも妥協をしてもらいたくないわ」
彼女は穏やかに言う。だが心の中は泡立っている。彼を失いかけているのだ。あれだけの犠牲を強いて手に入れた男なのに。
「それに今となっては、問題が地方都市の家ということだけでもないし。私たちの求めているものが、どうやら大きく違うのよ」
「僕は自分が求めているものは知っている。でもきみは? きみは人生に何を求めているんだい?」
「うまく言えないけど」と彼女は言葉を探す。
「多分冒険とか、驚異――」
「なんと、なんと……」
「ギムレット、もう一杯ずつ飲まない?」
「何のために?」彼は投げ遣《や》りに言う。
「乾杯するため」
「今更何に乾杯するんだい」
「私たちが犯してしまった過ちのためと、危うく犯さずにすんだ未来の過ちに対してよ」
「それより」と彼は思い直したように言う。
「美しくも愚かな冒険者のために、僕は乾杯するよ」
やがて二人は最後のグラスを合わせる。彼はギムレットの香りと共に、彼女の香水の香りを、記憶に止《とど》めるように、深く胸の奥にまで吸いこむ。彼女の使っている香水の名は、サファリ=\―。
本当のことだけ言って……
不意を衝《つ》くグリーン・ノート。男はギクリとして躰《からだ》を固くする。喪失の鋭い痛みが、過去の思い出のシーンに先行して、彼の胸を切り裂く。映像は、その後に続いた。白いスカートの裾《すそ》をひるがえして歩み去った女の後ろ姿――。その仄白《ほのじろ》い脹《ふく》らはぎの、息を呑《の》むほどの美しさ。その瞬間、奇妙なことだが、彼は彼女のその仄白い脹らはぎに痛切なる未練を感じたことを、思い出す。女の姿が、走ってきたタクシーの中に消えた後、香水の香りが残った。いやが上にも彼女の不在と喪失感とを掻《か》きたてるような、香りだった。彼はその場に立ちつくしたまま、肺一杯、その匂《にお》いを吸いこんだことを、昨日のことのように思い出す。
男は、できるだけ時間をかけてゆっくりと振り向く。その視線が、決して忘れることのなかった横顔をとらえる。
女の視線が動く。次の瞬間、二人はお互いをみつめあっている。
「やあ」
と男は胸の中の複雑な思いとは別の、淡々とした声で言う。「きみを見かける前から、気づいていたよ、……その香りで」
女はうなずく。二人の間に、アルマーニ≠フ匂いが漂う。どんな言葉より雄弁に香りが伝えてくる思いが、男の心を打つ。彼女は香水を変えなかった。今でも彼が贈った香りを愛用している。男は感動で胸が熱くなるが、あくまでも自制する。
「元気だった?」
と訊《き》く。女は、ええとうなずき、ご覧のとおりよというゼスチャーをする。彼女は彼女で、この突然の再会にどう対処して良いのか、わからずにいるのだが、内心の泡立ちは|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》にも出さず、従って男の眼には、実にクールに映るのだった。
彼女が、どちらかというと冷ややかな感じに肩をすくめたので、彼は言うべき言葉を失って黙りこむ。あまりにもたくさん言いたいことはあったが、同時に、二人の間に成立する会話は、何もないような気もした。
「当然、仕事は上手《うま》くいっているんだろうね」
と、男は急に皮肉な口調で喋《しやべ》り始める。「仕事だけでなく遊びも男も、すべて上手くいってるんだろう」
最後の、遊びも男もというのは余分だった。そんなことまで、彼は口にするつもりなどなかったのだ。彼女が彼にそう言わせたのだ。彼女のそっけない再会の態度が。彼は胸が締めつけられるような気がし、それが表情に表れるのを恐れて顔を背けた。
女は、彼がそっぽを向いたので、もうこれ以上、そこに止《とど》まって立ち話を続ける理由はないのだと確信する。彼の気持がもうとっくに冷えきっているのは、明らかだった。すでにそのことは、二年前の初秋に証明されていたはずだった。二人が口論し、それがあっという間にエスカレートして、二人の仲を決定的に引き裂いたあの日――。憤然として駆けだしていった彼女を、彼は引き止めようともしなかった。追っても来なかった。ただ冷然と彼女の歩み去るのを眺めていただけだった。
つまらない口論だった。今から思えばお互いに相手を愛しすぎたために起こった心のいき違いだった。
――これからどうしようか、と彼が言った。
――きみはどうしたい?
――どうでもいいわよ、と彼女が答えた。投げ遣《や》りなどうでもいいではなく、あなたのしたいようにするわというニュアンスを含めたつもりだった。なのにどうしてか、ニュアンスは伝わらず、彼には投げ遣りに聞こえてしまったのだ。
――浦安《うらやす》の方までドライヴにでも行くか、と彼もまた熱意のない調子で呟《つぶや》いた。
恋人同士というものは、感情が異常なほど素早く相手に伝染するものなのだ。彼女は彼のサーブをオープンにしてドライヴするのがとても好きだったし、黄昏刻《たそがれどき》の浦安の雰囲気も好きだった。けれども彼の熱意のない言い方に傷つけられたような気がして、こう答えてしまったのだ。
――それより映画でも観て時間を潰《つぶ》さない?
――時間を潰す? と彼がおうむ返しに言った。
――何のために時間を潰すんだい。アレをやるまでのか?
すでに彼女は自分の口から出てしまった言葉に腹を立てていたので、彼の言葉で息もできないほど、いきり立った。
――お望みなら、夜になるまで待たずに、今すぐホテルに行ったっていいんだぜ。
それで決定的だった。彼女は一言も発せず、くるりと踵《きびす》を返したのだ。彼は訂正すべきだった。追いかけて、今のは言いすぎだったと言うべきだったのだ。
今、男は、彼女が二年前そうした時と同じ表情で自分を眺めていることに気づく。絶望と怒りの表情だ。
あの時、彼をその場に釘《くぎ》づけにしてしまったのは、彼の自分自身に対する自己嫌悪ゆえだったのに彼女は気づかなかった。本心であるわけがないではないか。そんな思いで彼の方は茫然《ぼうぜん》と彼女がタクシーに乗りこむのを見送っていたのだった。
「じゃ、失礼するわ」
と女が唐突に言う。
「――そう」
と男はうなずく。そういうことなら、しかたがないじゃないか。彼女の気持はとっくに冷めているのだから。
彼女の顔の上に一瞬どこかが痛むような表情が浮かんで消える。そして、ゆっくりと踵を返して歩きだす。彼にはもはや見えないが、その美しい顔は悲しみに歪《ゆが》んでいる。あの時とそっくり同じように、彼女の仄白い脹《ふく》らはぎが彼の眼に焼きつく。香水の残り香。
不意に彼は雷に打たれでもしたかのように、顔を上げる。あの時と同じあの過ちをまたくり返そうとしているのではないか?
彼は素早く動いて、後ろから女の腕をしっかりととらえる。二度と離すつもりはなかった。驚いて振り向いた女の眼が濡《ぬ》れている。
「なんなのよ?」泣いていたことをさとられまいと、彼女は強気で言う。
「ちょっとドライヴでもしないか」
女は信じられないというように、首を振る。
「よかったら芦《あし》ノ湖《こ》あたりまで飛ばして、食事でもしよう」
彼は今や誠実な声で喋《しやべ》っている。
「浦安は卒業したの?」
と女が初めて微笑する。
「そう、浦安は鬼門だ」
男も笑う。
「今でもサーブに乗っているの?」
「何も変わっていないよ」
と、その言葉に男は思いをこめる。
「――私も」
女は下唇を軽くかみ視線を落とす。
「知ってるよ」
と彼は彼女の背にそっと手を回す。
「俺たち、ひどい回り道をしてしまったね」
彼はしんみりと言う。
「言葉って、怖いわね。人って、自分が思っていることの十分の一も言葉に出して言わないのよ。でも自分では、充分に言ったような気になるの。私、あれからずっと一種の失語症――」
「俺のせいだ」
「いいえ、自分自身のせい」
「俺《おれ》たち二人の過ちだ」
二人は、彼の車が駐車してあるところで歩みを止める。
「二度と同じ過ちはくり返したくないわ」
「俺もだ。あんな痛い思いは――」
男は急に言葉を呑《の》みこむ。そして続けるかわりに女を腕の中に抱きしめる。彼女の匂《にお》い。一度として彼の記憶から消えなかった彼女の香り――。
エゴイストの漂泊
キーを鍵穴《かぎあな》に差しこんだ時、彼は室内に鳴り渡る電話のベルの音を聞く。壁やドアやカーテンに遮られた、とても小さな音。だが、悲鳴のように耳に響く。硬質な横顔に微《かす》かな渋面を刻み、彼は腕時計に視線を落とす。午前二時少し前。
鳴り続ける電話を無視して、上着とネクタイを取り、ブランディーを注ぐ。ベルの音はいっそうヒステリックな響きを強め、その華奢《きやしや》な象牙《ぞうげ》色の器体を震わせる。
ブランディーを含み、口の中でゆっくりと転がしておいて、彼はようやく受話器を取り上げる。
「六十九回」
いきなり相手がそう言う。「六十九回目の呼び出しで電話に出たわね。いかにもあなたらしい数字じゃない?」
皮肉と棘《とげ》がたっぷりと含まれた声。
「でもさ」
と彼はいかにも無造作を装った調子で言い返す。「僕が  |69《シツクステイ・ナイン》  を好きだったことは、ただの一度もないんだ」
まるで不意に背中から刺されでもしたように、女は息を呑《の》んで黙りこむ。男は自分の方から、その固い沈黙を破ろうとはしない。
「なぜ黙っているの?」
と、ついに女は悲痛な声で訊《き》く。
「電話をしてきたのはあなたの方だよ」
男は、二人が深い関係になる前のように、彼女をあなたと呼ぶことで、現在の二人の位置、彼の彼女に対する気持を、正確に表現している。二つ目の短刀も彼女の急所に突き刺さる。
「私は用済みだってこと?」
女の声が怒りで震える。「私の上に乗っかって最後にあなたが満足の呻《うめ》き声をたててから、まだ十日もたっていないのよ。一体あれは何だったの?」
「そのとおり。満足の呻き声だったのさ」
彼は声に真実味をこめた。それは事実だったから。
「その時、自分が言ったこと憶えてる? 私が好きだって言ったわ。私と私の躰《からだ》が。これほどひとを好きになったことはないって。――あれ、嘘《うそ》だったの?」
男は、相手には気づかれないように、深い溜息《ためいき》をついて、室内を眺める。必要にして最低限度のものしか置いていない男の部屋。
その部屋も、女と同じように、幾度かの変遷を経てきた。黒と白とクロームで無機的に統一した時代。次はオリエント調だった。コリアン・チェストや黒漆で仕上げたダイニング・テーブルと椅子《いす》。古伊万里《こいまり》の食器。
オリエント調時代の最後の方には、アフリカの仮面や、タイの置物、バリの古布、ペルシャ・カーペットなどが混じって統一を失い、室内装飾の饒舌《じようぜつ》さにすっかりへきえきし、何もかも放り出してしまった。
今、彼の部屋は、南仏かスペインの、めったに使わない別荘のような趣を漂わせている。見るたびに坐《すわ》ってみたくなるような、古い皮革の肘掛《ひじか》け椅子《いす》。そこにかけてあるラルフ・ローレンのチェックの膝掛《ひざか》け。足元の麻の敷物。
「嘘じゃなかったんだよ」と、彼は電話の女に説明する。――あの時は、本当にそう思っていた。彼女が誰《だれ》よりも大切で好ましかった。
「じゃどうしてなの? 何があったの? 掌《てのひら》を返したように冷たくなった理由は何なの?」
「きみのせいじゃないよ」
彼の声は憂鬱《ゆううつ》そうだ。
「誰のせい? もしかして、新しい他の女に気を移したの?」
女は切羽つまったようにそう訊く。
「それも違う。しいていえば、僕自身が原因だ。僕のエゴイズムが――」
「それじゃ説明にならないわ。ちゃんと話してよ。私は真剣なんだから」
彼は適切な言葉を探そうとして眼を閉じる。
「やっぱり女なんでしょう? それで今夜も遅く帰ってきたんだわ。そうにきまっている」
彼女は彼の沈黙に耐えられずに、言葉を撒《ま》き散らす。
「あんなことを僕は言うべきじゃなかったんだ。つまりきみがすっかり安心して緊張を解き――」彼はその後に、大きな怠惰な猫のようにゴロゴロと喉《のど》を鳴らして、という言葉を思いついたが、口に出しては言わずに、こう続ける。「あれこれと僕に指図をし、恋人というよりは母親のように振るまい始めるような、そんなきっかけを作るべきじゃなかったんだ」
「母親のようにですって?」
傷ついた叫び声を彼女が上げる。
「僕が愛を告白したとたん、きみは別のものになってしまった」
なんと素早くその変身が起こったことか。彼女の肉体と精神は急にくったりとし、自信と傲慢《ごうまん》さが露呈し始めた。
「私がどう別のものになったっていうの?」
「何かつかみきれないもの、神秘的な魅力が一夜にして失われてしまった。きみはきみの全《すべ》てを、僕に押しつけてきた。きみの過去、現在だけでなく未来までも」
「それが気に入らないのね。つまり男として愛情の責任を取りたくないってことなのね」
「僕は、神秘的な距離間を保っていたきみが好きだったんだ。その緊張感がたまらなくエキサイティングだった」
「じゃなぜ愛を告白したりしたの?」
「まさかそれできみが、くったりべったりの女に豹変《ひようへん》するとは夢にも思わなかったからさ」
「私はただ、つつましやかな幸福に酔っただけだわ。ついにあなたを獲得したんですもの。女だったら誰だってそうよ。愛する男から、ついに愛の確認を得たら、どんな女だって有頂天になるわ」
「きみは僕を獲得することはできないよ。僕は誰にも獲得などされたくないんだ。そもそもその時点で、きみは過ちを犯したんだ」
その時彼は、過去にも似たような会話をくり返したことを思い出す。何度も――。
「あなたは、女を完璧《かんぺき》に魅了させてしまっておいて、そこから逃げだそうとしているのよ。残酷なひと」
彼女は哀《かな》しげに呟《つぶや》く。すでに諦《あきら》めの気配がそのか細い声に含まれている。
「きっと、いつもそうだったのね。ひとの心に踏み入りながら、危機を脱する術を、誰よりも心得ているのよ」
それは果たして彼の責任なのだろうか。なぜ女たちは、愛の確証を得たとたん、あんなにもあっさりと神秘のベールを取りはずしてしまうのだろう。そればかりではない。あっという間に、眼に見えない楔《くさび》を打ち、牢獄を作り上げ、鎖で縛りつけてその中に閉じこめようとするのだ。愛という名の権利において。
更に許し難いのは、まるでその白い肉体が煙ででもできているかのように、彼の過去や未来にまで入りこもうというのだ。
なぜ女たちは、今現在のこのドキドキするような一瞬一瞬をいつくしまないで、過去を探り回って嫉妬《しつと》を呼び起こしたり、未来を案じてやきもきするのだろう?
「十日前にはあなたは私に夢中だった。そして愛を告げた。それが別れの告白だったとはね」
女は苦々しく言う。
女は彼をほとんど嘘《うそ》つき呼ばわりをして、彼の非情さを責める。そして男の方は、女にこそその原因があるのだと思う。二人の会話は決して交わることのない平行線を延々とたどる。
すでに東の空が、微《かす》かに白み始めている。彼はあくびをかみ殺す。
「あくびをしたわね」
と女が言う。「疲れたのね。それともうんざりしているの?」
「その両方だよ」
静かに彼が答える。
「正直なひとね」
女は敗北感に打ちのめされて呟く。
「私もあくびをして電話を切れるといいんだけど――。そしたらおあいこね。でも今の私にできるのは、あなたを憎むことだけ。なぜなら、今でも気が狂うほど、あなたが好きだから。あなたが好き。あなたの顔や、手や、躰《からだ》や、あなたの匂《にお》いが――」
女の声が少しずつ啜《すす》り泣きに変わっていくところで、彼は静かに受話器を置く。
そのとたんにまたベルが鳴る。
「ずいぶん長い電話だったのね」
と別の女の声が言う。
「ビジネスさ」
「こんな時刻に?」
「ニューヨークは真っ昼間だよ」
「で、取り引きは成功したの?」
女は面白そうに質問する。彼の嘘を見破っている声で。
「ちょっと強引だったけどね。成功したと思うよ」
「それにしては声が沈んでいるわね」
ところで、と女が言う。「さっき私の部屋であなたが提案したことだけど――」
「考えてみてくれた?」
彼は急に眼を輝かせる。
「ええ。だから電話したのよ。やっぱり止《や》めるわ」
「どうしてさ?」
「そんなに簡単に、私の生活や習慣を変えるわけにはいかないからよ。私は今のままの自分のやり方が好きなの」
「ということは、僕の気持なんてどうでもいいってことなんだな」
「そんなことないわ。あなたのことはとても気になるわ。でも私たち出逢《であ》ってまだ五日にもなっていないのよ」
「だから、もっとよく知りあうために、一緒に旅行しようって言うんだよ」
「どうしてそんなに急ぐの?」
「きみのことを全《すべ》て知りつくしたいからさ」
男と女は甘い声で暁の会話を続ける。やがて東の地平線に顔を出した太陽の最初の光線が、男の部屋の窓から射《さ》しこみ、洗面所のタイルの上に無造作に置かれたシャネルのオードゥトワレットを浮き上がらせる。
その名は、エゴイスト=B
クリスマス・ピンク
彼女の趣味は好きな順から挙げていくと、ゴルフに競馬にカラオケ、そして赤ちょうちんである。
今や悪評高き、「おやじギャル」そのものの趣味のレパートリー。
けれども彼女がそんじょそこらの「おやじギャル」たちと厳しく一線を異にしているのは、その華麗さにある。
ゴルフでいえば女だてらにハンディ十八。力まずいばらず、実に軽やかに優雅にゴルフを楽しむ。
競馬にしてもそうだ。アスコット競馬場に集まるイギリスの貴婦人たちのように、しゃれた帽子を被《かぶ》って現れ、競馬評論家そこのけの知識で、勝ち馬を予想し、当てても外れても楽しげに遊んでいく。
カラオケではスタンダードジャズを一曲かせいぜい二曲だけ唄《うた》い、それがまた素人離れした歌なのである。赤ちょうちんへは、正装のパーティの帰りなどにわざと立ち寄り、酔った中年男たちを煙に巻く。その会話の軽妙な洒脱《しやだつ》さ。一口で彼女を表現すれば「優雅なミーハー族」。
当然なことに、彼女は男たちからすごくもてる。遊び相手にはそれ以上は望みようもない、最高のヤングレディだからだ。その結果同性がねたむほどたくさんの男友だちにめぐまれている。
彼女の才覚のひとつは、それもきわめて良質の才覚のひとつは、男たちを親友にしてしまうことだった。
ケイ子のためなら、たとえ火の中水の中、もしも彼女が求めれば、手足の一本くらい喜んで切り取ってくれようという男たちが、両手の指に余るほど存在するのだ。
そしてどの男たちも、自分こそが誰《だれ》よりもケイ子に愛されていると、心から信じているところが、彼女の魅力というか頭の良さなのである。
つまりどの男もいつか彼女が、「ねぇ、私のために腕を切り落としてもいいって、言ってくれたわよね?」と、思いつめたような顔をして、その胸に顔を埋める日が来ると、ほとんど確信しつつ期待して、その日を待ち望んでいるのだ。
腕の一本を切り取れということは、言いかえれば、その男の愛を受けるということであり、その愛とその男に対して責任をもつということである。つまり、結婚だ。
ある時彼女の女友だちが、心から不思議そうに、また羨《うらや》ましそうに、訊《き》いた。
「ねぇ、十人もの男にプロポーズさせて、彼らをつなぎとめておく秘訣《ひけつ》って何なの?」
「それはネ」とケイ子が答えた。「女を売らず、さりとて女も捨てず、よ」
つまり、いつでもベッドへの期待がそこに存在するということだ。それがコツ。
「つまりあなたは」
とケイ子の女友だちが少し考えてから言った。「真には誰にも恋してないってことね」
「恋?」
と急にケイ子はせつなそうな眼をした。「恋している人は別にいるのよ」
「その表情から察するに、片思いね。ケイ子らしくもない。どうしてアプローチしないの?」
「だって彼、ゴルフはやらない、競馬みたいなギャンブルには全く興味なし。カラオケなんて軽蔑《けいべつ》してるし、赤ちょうちんたるや下品だと思ってるような人なの」
「でも、ゴルフと結婚しろと言うわけじゃないし、カラオケと恋愛するわけでもないんでしょ。相手は生身の、しかもとびきり魅力的な女じゃないの。一体その男、何考えてんだろう」
と女友だちはケイ子のために憤慨してくれた。
「その生身のあたしに、興味がないみたい。彼ってあたしのこと、単なるミーハー族、おやじギャルだと思ってるみたい。事実面と向かってそう言われたわ」
「だったらそんな男、諦《あきら》めなさいよ」
と彼女はきっぱりと言った。が、恋とは理屈ではない。「で、その彼って誰なの?」
「あなたの知らないひとよ」
とケイ子は深い溜息《ためいき》をついた。
「何よ、いつものケイ子らしくもない。元気出しなさいよ。そのうち、別のもっと素敵な男がきっと現れるから。そうだ、一人紹介するわ、最近知りあったんだけど、私のタイプじゃないのよ」
「だったらあたしのタイプでもないわよ、きっと」
「でもね、何やらしてもプロはだしなの。ゴルフはシングルだし、唄は和製シナトラね。といってもマイウェイは嫌いなんだって。軽いスイングものを、それはしゃれて歌うのよ」
「気障《きざ》なんだ、きっと」
「それが違うの。赤ちょうちんとか屋台が好きで、ぜんぜん気取ってないの」
「じゃすごい醜男《ぶおとこ》なのね?」
「残念でした。トール、ダーク・ハンサムの見本みたいな男よ」
「結婚してるんでしょう」
「独身」
「じゃホモね」
「とんでもない」
「ならどうしてよ? なんであなたがつきあわないのよ」
「私の趣味知ってるでしょう。じゃがいもみたいに、ほっこりとした男がいいのよ。どうする? 一度|逢《あ》ってみない? だめで元々じゃないの。私はいい線いくと思うけどな、坂本さん」
「坂本さんていうの?」ケイ子の表情が緊張した。
「うん。坂本敬介っていうのよ」
「嘘《うそ》だァ」信じられないケイ子。
「坂本敬介っていうのよ。嘘なんてつかない」
「S商事に勤めてる?」
「そうよ。どうして知ってるの?」
「S商事の坂本敬介なら、ゴルフもカラオケも赤ちょうちんも、全然興味ないわよ」
「どうして自信をもって言うのよ」
「だって本人がそう言ったんだもの。直接このあたしに」
「もしかして、片思いの男って、坂本敬介のことじゃないでしょうね?」
「それがそうなのよ」
二人はまじまじと顔を見合わせた。
「だとしたら、彼、あなたに嘘ついたのよ」
と、女友だちが結論を下すように言った。
「どうして嘘なんかついたのよ?」
「そこよね。どうしてだろう?」
「あたしを遠ざけるためだわ。きまってるわ」
「これはぜひ、坂本敬介本人に訊《き》いてみるだけの価値ありね。何ゆえにケイ子に嘘をついたのか――」
「探ってくれる?」
「まかしておいて」
と親友の女友だちが胸を叩《たた》いて請けおってから数日がたった。
ある昼下がり、バイク便で小箱がケイ子に届いた。袋を開けるとショッキングピンクの箱が出てきた。更にその箱を開くと香水が。その名はセ・ラ・ビー!=B
しかし送り主の名前も手紙も見当たらない。狐につままれたような面持ちでいると、机上の電話がルルルルと鳴った。
「TV企画制作部です」
「塩見ケイ子さんお願いします」
「塩見ですが」
「坂本です。坂本敬介です」
「はっ」と息を呑《の》むなり、ケイ子は受話器を握りしめた。
「何からどう話してよいのかわからないのだけれど――」と坂本が口ごもった。「とにかく嘘をついた点についてのみ弁明させて下さい」
「……どうぞ」
「うまく言えないんだが、たとえば高校生だった頃」と坂本は唐突に言った。「すごく好きな同級生の女の子がいて――。寝ても覚めても彼女のことばかり考えていました。英語でいうとMADLY IN LOVE≠ニいうやつです。狂ったような恋ですかね。
ところが、その子の顔を見ると、なぜか心とは正反対の行動に出てしまうんですよ。『ヤイ、ブス!』なんて言っちまったりね。一度など向こうから歩いてくる彼女の前にヒョイと足を出して、転ばせてしまったこともあった……。胸は張り裂けそうなのに、『ヤイ、ブス! ざまぁみろ』なんて口走っていた。
――つまり、大人になっても、基本的には同じことをしているんですよ、僕という男は。この説明で、わかっていただけますか?」
「……つまり……?」
「つまり、あなたがゴルフや赤ちょうちんやカラオケに誘ってくれるたびに、心ではイエス、イエスと叫ぶのに、口ではケンもホロロに、心にもない嘘をつきました。右脚を出して、あなたを何度も転ばせてしまった」
「そうでしたの」
ケイ子は言葉を失って黙りこんだ。ふと眼の前の香水に気がついた。「もしかして、香水を送って下さったの、坂本さん」
「そうです。僕の正直な気持です」
「ありがとう。とてもうれしいわ」
なんだか、泣けそうだった。
「そのセ・ラ・ビー!≠ニいう香水の匂《にお》いは、僕がひそかにあなたについて抱いていたイメージそのものなんだ。陽気で勝ち気で優雅な遊び人で――」
「『おやじギャル』は嫌いだって、あなた言ったわ。悲しかった」
「それも、僕の心にもない右脚のなせるわざでした」
夢のような電話が終った時、デイトの約束がひとつ成立した。電話を切ってケイ子は香水のふたを開き、鼻を近づけた。甘く酸っぱい恋の匂いが立ち昇った。
2 宝石《ジユエリー》物語
恋の予感
眠りから眼覚めていく、ゆっくりとした過程の中で、すでに彼女は幸福だった。
その証拠に、眼を開いた時、彼女は微笑していた。
このときめくような思いは、どこからくるのだろう? 甘く、せつなく、ほんの少し物哀《ものがな》しく不安で、でも圧倒的にうれしくて――。
もしも私が、と彼女は考える。古き良きコロニアル時代に生まれた、インドかシンガポールのイギリス領事の娘だったら、ベルを押してメイドを呼ぶわ。そして熱いミルクティーを注文する。
透き通るローンの部屋着に袖《そで》を通し、ピローをいくつも背中に重ねて。ベッドの上でいれたてのインドの紅茶を飲む。薄くカリカリに焼いたトーストにマーマレードを塗って。
でも彼女はコロニアル時代のイギリス領事の娘ではないし、そこはインドでもシンガポールでもなかった。
窓から吹きこむのは頽廃《たいはい》的な熱い異国の風ではない。
従って彼女はベッドを抜け出して、自分のために自分で紅茶をいれる。
湯気の立ち昇るティーカップを手に、再びベッドに戻れば、彼女は空想の中のイギリス領事の娘。
そして、私の白馬の騎士は今どこにいて、何時《いつ》現れるのだろうかと、想像の翼を拡げる。
私はここにいるわ、と彼女は囁《ささや》く。あなたのために生まれ、あなたのために美しく成長し、今はもうあなたを待つだけ。
あなたは、エメラルド色の涙のような宝石をたずさえて現れる。
それから私の左手の薬指に、花のようなデザインのダイヤモンドのエンゲージリングを、そっと滑らせてはめる。
彼女は紅茶を飲み干すと、眼を上げて窓の外を眺める。たった今、思い描いたばかりの美しい宝石たちが、残像となって窓の向こうの光景と重なる。
バスタイム
彼女は、宝石を身につける瞬間の緊張感を好むが、それを外す瞬間も好きだ。
同じように、映画を観終った後、自分を主人公《ヒロイン》に重ね、気取ったテンポで歩きだす、あの瞬間も好きなことのひとつだ。
待ち合わせた恋する男が現れるまでの十分ばかりの時間――。
あのめくるめくような時間に身を置くのも大好きだ。
あるいは逆に男を待たせ、待ち合わせのバーに遅れて入っていく時、男たちがいっせいに彼女を眺め、その中でひとり微笑している恋する男の眼をみつけた瞬間の、あの誇らしさを、彼女はひそかにとても楽しんでいる。
言ってみればどれもこれも、ささやかな贅沢《ぜいたく》だ。朝の光の中のバスタイムも、そのひとつだ。
まだ完全に眼覚めていない体の細胞が、温かいお湯の中でゆっくりと眼覚めていく。
久々に訪れた何の予定も入れていない一日。彼女だけのために用意された二十四時間。可能性は無限だ。車を飛ばして海を見に行くこともできるし、都心に出て画廊廻りをしてもいい。
面白そうなビデオ映画を二、三本借りてきて、クラブサンドイッチを食べながら、部屋で映画|三昧《ざんまい》というのもいい。それとも家の模様替えでもしようか。
でなければ、気になっているベストセラーの本を一気に読み上げてしまおうか。泡だらけのお風呂の中で、彼女は次々と考えていく。みんな心を魅《ひ》かれはするが、どれかひとつにしぼれそうにもない。
なぜならば、あれこれと可能性を数え上げるのは、たったひとつのことをあえて避けているからだ。
あの人に逢《あ》うこと。彼女がしたいことの全《すべ》ては、そのことだった。
お風呂を出て、髪が乾いたら、あの人に電話をかけよう。
それがその朝、彼女の一番したいことだった。
あなたに電話
彼女は受話器の手に躊躇《ちゆうちよ》する。深呼吸をしてプッシュボタンを押す。3412――。そして受話器をおろす。心臓が百メートルを走ったばかりみたいにドキドキしている。
恋するティーンエイジャーでもあるまいし、と彼女は苦笑する。
まだ彼は眠っているかもしれないと、思い直す。電話で起こされたら不機嫌な声で喋《しやべ》るかもしれない。
でも、十時まで待ったら、彼は出かけてしまうかもしれないではないか。だけどもしも、他の女が電話をとったら? そう思うと彼女の舌は喉《のど》の方へと縮み上がっていく。
それならそれで彼から解放されるではないか。このせつない苦しみから。そこでようやく思い切って彼女は彼に電話をする。
「――起こしてしまったかしら?」
「いや起きていたよ」
「そう、よかった」けれども後が続かない。
「何か、急な用?」
「いえ、別に」あなたの声が聞きたかったの、という言葉を呑《の》みこむ。「何だか、お取りこみ中みたいね」
「というわけでもないけどね」言外に、実はそうだというニュアンスがこもっている。
「じゃ、切るわね」心にもなくそっけなく彼女が受話器の中に言う。
「あぁ、また」それっきり。電話が切れる。
電話さえしなければこんな惨めな思いをせずにすんだのに。彼女は身の置き場もないほど、動転した自分をもて余す。朝の光が急に色褪《いろあ》せる。少しして電話が鳴る。
「僕だけど、さっきは失礼」
先刻とはうって変わったご機嫌な彼の声。「実は、電話をもらった時、シャワーの途中だったんだ」
男が裸で電話をとっている時というのは、妙に落ち着かないものだからね、と。
「今から、出られるかい? 一緒にブランチでも食べようか?」彼女の顔の上に微笑が広がる。
ブランチとピンクシャンパン
「午前中に逢《あ》うのは、初めてだね」
と彼は、まぶしいものを見るように彼女を見てそう言う。
いつもと違うわずかにくだけた服装。でもとてもエレガントだ。ジャケットの胸元に少し覗《のぞ》いているサングラス。
彼女は彼をとても誇らしく思う。
彼もまた同じように彼女に対して感じているのがわかる。
彼の視線が彼女の胸元のサファイアにとまって、更に優しくなる。
「しかし」
と彼は語調を変える。「周りを見回してごらん」
そう言われて、彼女はホテル・レストランの中をそっと見回す。
昨夜の情事のなごりを、どことなく漂わせた男女が、ほとんどのテーブルを占めている。
「私たちも同じように見えるのかしら」
「多分ね」
「嫌だわ」
「どうして?」
「だって、そんなことしてないんですもの」
すると彼が笑う。
「嫌なのはそんなことをすることなのかい」
「問題は、他の人たちと同じに見えることよ。それが嫌いなの」
「じゃ差をつけよう」
と、彼はウェイターに合図する。「僕たちに、よく冷えたピンクシャンパンを一瓶」
「朝から、シャンパン?」と彼女は眼を丸くする。やがて二人の前のグラスに泡立つピンク色の飲みものが注がれる。
「情事をしていない僕たちに、乾杯」
そして、と彼は急に真面目な表情になって「僕たちが近い将来犯すであろう過ちに、乾杯」
彼女は視線を伏せて、小声で乾杯を唱和する。
一人でコーヒー
午後の一刻《ひととき》。何もしたくない。彼女は文庫本を一冊だけもって、近所のカフェに行く。独り。誰《だれ》も待たせていないし、誰も待たない時間。自分だけの刻がゆっくりと流れる。
――サファイアは、きみの色だね――と言った彼の言葉が、文庫本の行間にふと浮かび上がる。
彼女は出逢《であ》いの不思議について考える。もしも、フィレンツェに行かなかったら、彼とは決して出逢いはしなかったことを思う。
当初の予定では、フィレンツェは旅程には入っていなかったのだ。ほんの気まぐれ。ミラノが予想外に退屈だったのでそこで三日過ごすかわりに、フィレンツェへ回ろうということになった。
そこにあの人がいた。小高い丘の上の廃殿のような建物の中に。独りで。すっくと立っていた。私たちの眼が合うと、彼は微笑した。もうすでにずっと以前からの知りあいででもあるかのように。あるいは長いことそこで彼女を待ち続け、ようやく現れたことに満足と歓びを感じているような、そんな微笑だった。
後でホテルに戻った時、彼女は連れの女友だちに言った。「素敵なひとじゃない?」
「そうかな。普通の男みたいだけど」
「それは、彼があなたに向かって微笑を投げかけなかったからよ」
「言えてるわね。恋の魔力ってやつね」
その夕方、彼女の部屋に白いバラの一抱えもある花束が届いた。
名前はなかったが、それが誰からの贈りものか、彼女にはすぐにわかった。
あの時、フィレンツェに行ったのは偶然なのだろうか? だってベニスでも良かったわけだし。
出逢いの不思議とその歓びについて、彼女はとめどもなく思いを馳《は》せる。
カフェの窓のレースのカーテンごしに射《さ》しこむ午後の光が柔らかい。
イタリアン・レストラン
細長いレストランの中は、ほぼ満席だ。いかにもイタリア人といった感じの、カーリーな長髪をなびかせたウェイターたちが、ごった返すテーブルの周りを、水すましのように動き回っている。
店内は雑談や哄笑《こうしよう》で、まるで駅の雑踏のような喧騒《けんそう》に満ちている。しかし陽気な騒ぎではある。
「キャンドルの光というのは、どうも柄に合わないんでね」
と、彼はガビ・デ・ガビをグラスに注ぎながら言う。
「それに、きみにフィレンツェのことを思い出させるつもりで、ここを選んだわけでもないんだ」
「そんなに言い訳する必要はないわ。ここ私も好きよ」
「ブランチの後、午後は何をしていた?」
あなたのことを考えていたわ。あなたのことだけを。でもそう答えるかわりに彼女はこう言う。
「本を読んでいたわ」一行も頭に入らなかった。「あなたは?」
「手紙を書いていた」
ウェイターがテーブルの上に二人前のパスタを置いていく。
誰《だれ》に? と訊《き》きたいのを、彼女は抑制する。
「で、書き上げたの?」
「たった一行しか書けなかったけど」
「一行だけ?」
「きみが欲しい――と」
彼女は慌ててパスタに手を伸ばす。
「で、その手紙、投函《とうかん》したの?」
「いや。急に恥ずかしくなって、破り捨てた」
「じゃ、永久に手紙は届かないのね」
「ここのペンネ・アラビアータは最高なんだ」と彼は急に話題を変える。
「よく来てるみたいね。でも男同士というはずはないわね」と彼女は軽く彼を睨《にら》む。
二人の間の緊張した空気が、ようやくなごみだす。
NOはYES
ゲームをしよう、と彼が言った。
「これから僕がする質問に、きみは全てNOと答えるんだよ」
「いいわ」
食後のグラッパを口に含みながら、彼女がうなずく。
「質問1。白いバラの花束は好き?」
「NO」
「宝石は?」
「NO」
「フィレンツェで初めて逢《あ》った時、僕の印象はすごく良かった?」
「――NO」
「僕はきみの理想の男?」
「NO」
「星空の下で初めて僕とキスした時、胸がときめいた?」
「――NO」
彼は少しテーブルの上に身を乗りだすようにして、彼女の視線をしっかりととらえて、続ける。
「結婚しよう」
「NO」
「僕を好き?」
「NO」
「きみが欲しいんだ」
「NOよ」彼女は息苦しそうに喉《のど》に片手を置いて、ついに言う。「もう止めて」
「どうして?」
「だって嘘《うそ》ばっかりつかせるんですもの」
そこで二人は唐突に口をつぐむ。熱い焼けるような沈黙が二人のテーブルに流れる。
「僕たちは、ずいぶん時間をかけたね。多分、必要以上に」
「そうね。途中で何度か深刻な自信喪失に見舞われたわ。私にはセックス・アピールがないのかと」
「特別に大事なひとになるという、予感があったんだよ」彼の手が彼女の手の上に重なる。
真夜中のニコラシカ
|帰り道のための一杯《ワン・フオー・ザ・ロード》、と彼女は言った。
ナイトキャップだよ、と彼が訂正する。「今夜は、初めて僕ときみは、同じ部屋へ帰っていくんだ」
二人が選んだ飲みものは、ニコラシカ。ブランディーの注がれたグラスのふちに、グラニュー糖をこんもり盛り上げたレモンスライスがのっている。
ブランディーはベッドのための飲みものだと、どこかで読んだことがある。後で躰《からだ》がとてもいい匂《にお》いになるのだと。嘘《うそ》か本当か知らないけど。
彼はレモンを少し指でたわめて、ひとつぶも砂糖をこぼさずに、口の中に放りこむ。
そしてすかさずブランディーを一気にあける。惚《ほ》れぼれとするような男の連続的な動作だ。
「これ、男のための飲みものね」と、彼女は溜息《ためいき》をつく。
「ニコラシカに女らしい飲み方などないさ」と彼が笑う。「さあ、僕と同じようにやってごらん」
彼女は覚悟をきめて、レモンを口に入れ、ブランディーを注ぎこむ。
「逆になかなか、色っぽいよ」
彼は二杯目の合図をバーテンダーに送る。
喉《のど》から胃にかけて、かっと熱くなり、やがて温かい血がセンセーショナルに躰の内側をかけめぐる。
「あと一杯ずつで終りね」と彼女は彼の耳に囁《ささや》く。
「どうして? ニコラシカは嫌い?」
「反対よ。美味《おい》しいわ。いくらでも飲めそう」
「じゃ飲もうよ」
「でも、今夜だけは、頭の芯《しん》を、はっきりとさせておきたいの。これから私たちに起きることを、ちゃんとみつめて、覚えておきたいの」
「わかった」
と彼がうなずく。それから二人はブランディーとレモンの香りのする甘い口づけを素早く交わす。
ビトウィーン ザ シーツ
彼が彼女の躰《からだ》に腕をまきつけて、何かを言おうとした時、彼女は彼の唇に指を置いて、それを制した。
「何も言わないで」
それからとても優しい声でこう続けた。「今夜は、何も約束しなくていいのよ」
彼女は純粋に愛しあいたいのだった。将来のことを約束しあったり、愛を確かめあう言葉なしに。
たとえ明日、別れ別れになったとして、今夜のことを後悔するのは、その時何をしたかという行為に対してではない。
何を自分に課し、何を約束してしまったかについてだ。
言葉は、人を縛りつける。
「僕たちは永久に一緒だよ。たとえ冗談でも明日別れるなんて、言わないでくれないか」
「明日でなければ明後日よ。でなければ二年か五年か十年先よ。永久に輝くのは宝石だけ」
言葉の輝きなど、じきに薄れる。
「きみが刹那《せつな》主義だとは知らなかった」と彼は溜息《ためいき》をつく。
「他にも、私についてあなたの知らないことは、たくさんあるわ」
「では、さしあたって今夜のところは、あそこに横たわる快楽の舟たるベッドに行って、神秘のベールのひとつを探険させていただくことにいたしましょう」
彼は往年のクラーク・ゲーブルがよく画面で見せた、斜めに上半身をひねるおじぎをして、ニヤリと笑った。
「私は真面目なのよ」
と彼女は両手を彼の首筋に投げかける。
「僕だって。これまでになく真面目だよ」
やがて二人は、ベッドへ、シーツの間へ、手をとりあって滑りこむ。
真珠の首飾り
デビュタント。少女から大人の女性の仲間入りを、公私共正式に認められる大事なデビューの日。
もう何カ月も前から、彼女の頭の中はその夜のことで一杯だった。
デビュタントに招待されている少女たちは、白いドレスを着ることを義務づけられている。だから思い思いの素材とデザインとで、その美しさを競うことになる。
ダンスを踊るのが主目的なので、ウェディングドレスのように重くなってはいけない。踝《くるぶし》より少しだけ上の丈にして、足首の細さを強調するように、大きく膨らんだスカート。
彼女は鏡の中に全身を映し、白いサテンのハイヒールを履いて、さっきから横を向いたり後ろから振り向いてみたり、また正面の姿をまじまじと点検する。
たったひとつの点を除けば、自分に百点をあげられるのに――。そう思うと急に彼女の顔は曇った。
どう考えても、胸元が淋《さび》しいような気がするのだ。宝石箱の中からあれこれ選んで試しにつけてみるのだが、どれもしっくりしない。
――やっぱりあの真珠の首飾りを買うべきだったんだわ――。
街のショーウィンドウの中に見つけた、一連の真珠の首飾りの前で、身動きができなくなってしまったとき、彼の忠告なんて無視して思い切って買えばよかったのだ。
「首の周りにごてごてつける必要なんてないじゃないか。どんな宝石よりもきみの素肌の方が美しいんだから」
でも今にして思えば、あの真珠の首飾りは、彼女の素肌の美しさを更に強調し、顔に晴れやかな輝きを与えてくれたに違いないのだ。後悔先に立たず。彼女はすっかり気落ちして、ベッドに坐りこんだ。
その時、外に車の止まる音がして、フォーンが三つ鳴った。彼の迎えの合図なのだ。彼女はわざとそれを無視した。少ししてまたフォーンが三回。
三度目にようやく出ていくと、彼女は物も言わずに助手席に収まった。
「どうしたの、ママと喧嘩《けんか》でもしたの?」と、彼が訊《き》いた。
「別に」
「でも別にって顔じゃないよ」
「そんな顔で申し訳ないわね。でもこれが私の顔なの」
「一体何をそうプリプリしているんだかわけがわからないよ。僕のせいかい?」
「別にって言ってるでしょ!」自分の理不尽さにも腹が立ってきて、彼女は思わず大粒の涙を浮かべた。
「ごめんなさい。ただ私、あなたのために今夜のデビュタントで一番きれいでいたかったの」
「きみの涙、初めて見たよ」と、彼は優しく言った。
「変なことに感激しないでちょうだい」と彼女は怒ったように言った。「さあ、車をスタートするの? それとも一晩中そんなふうに私の涙に見惚《みと》れてるつもり?」
彼女はわざと乱暴に手の甲で眼尻《めじり》を拭《ぬぐ》った。
「出発する前に、きみに渡したいものがあるんだよ」
「コサージュでしょ? ありがと」
彼はポルシェの後部座席に手を伸ばして、二つの小箱を取ると彼女の膝《ひざ》の上に置いた。ひとつは白バラの小さなコサージュだった。彼女は黙ってそれを胸元に留めつけた。
「もうひとつの包みをあけてごらん」と彼が笑いながら言った。銀色のリボンを解き、純白のビロード張りの箱を開くと、出てきたのはあの真珠の首飾りだった。
「まあ……あなたって!」
「きみの涙の美しさには及ばないかもしれないけどね」
「お願いよ。最初からやり直させて」
そう言うと、彼女はもう一度家の中へ駆け戻った。
男の人って、本当に妙だわ、と呟《つぶや》きながら、彼女はプレゼントされた真珠の首飾りをつけてみる。でも今日のこのうれしさは永久に忘れないだろう。その時ポルシェのフォーンが三つ短く鳴った。彼女は鏡の中に輝くような微笑をひとつ残して、部屋を出た。
アイランド
「夢のようだわ」と少女リラは熱い声で言った。「あんなに有名で立派な監督に声をかけられるなんて……。ねえ、マニュ、こんなことって一生に一度しかないチャンスだわ。あたしがあの街に行くの、賛成してくれるでしょ?」
そのときリラは恋人の悲しげな眼に気づいて有頂天の自分を反省した。
「あら、マニュ、あたし必ず戻ってくるわよ、この島に」
「――そうかな」と懐疑的な口調で言うと、若者は輝く珊瑚《さんご》礁のあたりに遠い眼ざしを投げかけた。
「信じないのね。約束するわ。映画に一本だけ出たら帰ってくる。ほんとよ、マニュ。今のあたし、多分あたしの人生の中で一番きれいな時のあたしを何かのかたちで残しておきたいの。わかる? いつか将来、あたしの子供たちに、あたしたちの子供たちに、おかあさんはこんなにきれいだったのよ、と自慢するものが欲しいの。あなたには、女の子のこんな気持わからないでしょうね」
「わからないね」と若者は顔をそむけた。
「でも、約束するわ。映画を一本撮ったら、あたし、帰ってくるってこと。命にかけて約束する」
リラは熱心に恋人を説得しようとした。
「約束なんてしなくていい」とマニュはぶっきら棒に言った。「どうなるかわからない先の約束でお互いに縛りあうのは止そうぜ」
リラはその言葉を聞くと、本当は自分の方から島を出ていくのに、なぜか逆にしめ出されるような淋《さび》しい気持に襲われた。
「あなたには喜んでもらいたかったのに――少なくともがんばってこいよ≠ニ言ってもらいたかったのに……」
出発の日、島の小さな空港は、リラを見送る人で一杯だった。しかしマニュの姿だけが最後までなかった。リラは歯を喰《く》いしばって飛行機のタラップへ向けて歩き始めた。
その腕を誰《だれ》かが強く引いた。マニュだった。呼吸は早く、額に汗が浮かんでいる。しかし、その眼は澄み、そして笑っていた。
「これ」と言って、彼は小さな小さな包みをリラに渡した。「飛行機が飛び立ったら、開いてみてくれ」そして彼は走り去った。
やがてセスナ機は空にひらりと舞い上がった。彼女がそこで生まれ育ち、恋をした島はみるみるうちに透明な青緑色の海に囲まれるエンゼルフイッシュのかたちになり、雲が流れ始めた。
リラは、小さな包みを膝《ひざ》の上でそっと開いた。まず、折りたたんだ手紙が一枚。
――リラへ。色々と考えさせられたよ。そしてこういう結論に、オレなりに達した。きみを本当に愛しているなら、きみが幸福な気持で生きていることがオレにとっての幸福であるはずだと。そして今ではそう信じている。映画の撮影、思う存分、楽しんでおくれ。たとえきみが大成功して、一本が二本になり、十本になり、そのまま都会に居続けたとしても、きみがそれで幸せなら、オレは何も言うまい。それをオレの幸せとしよう。しかしリラ、もしきみが、少しでも惨めだったり不幸だったり、傷ついたりしたら、その時は、オレは風神《ふうじん》のように駆けつけ、きみを島へ連れ戻すよ。それだけは覚えておいてほしい。
さて、きみに身につけておいてほしいものがある。エメラルドだ。小さいけれどね。いつか指輪にしてきみに贈るつもりだったが、そのかわりペンダントにしたよ。いたずらにきみを縛りたくないからね。もしかしたら、きみは、この島の美しいサンゴ礁を思ってホームシックになることがあるかもしれない。その時は、このエメラルドが慰めになると思う。サンゴ礁の海の色を閉じこめてあるからね。――マニュ。
リラは小箱から小さなエメラルドを取り上げると、それを唇に押しつけた。
――そのとおりよ、マニュ。あたしもう、すでにホームシックよ。あなたのところへ、Uターンして舞い戻りたいくらいよ。ありがとう。こんなふうに送り出してくれて……。
リラは窓に額を押しつけて、一面の海原をみつめた。
よくある話
「モーパッサンの頸飾《くびかざ》り≠チて短編読んだことある?」と彼女が訊《き》いた。
彼は首を振った。
「ちょっと怖い話なのよ」と彼女は話し始めた。
「貧しい女が、頸飾りを知人から一夜だけ借りるんだけど、盗まれるか失くしたかしちゃうのね。それで死ぬような苦労をしてお金を掻《か》き集め、それとそっくり同じものを買って返すんだけど――。実はその頸飾りはイミテーションだったって、後で教えられるの」
「そのどこが怖いんだい?」と彼は訊いた。
「一夜で髪が真っ白になるほどの苦労をしたっていうの、怖くない?」
「それって、浦島太郎に通じる話かな?」と彼は少し考えこんだ。「タイやヒラメの舞い踊りで面白おかしく過ごした後、タマテバコを開けたら、一瞬にして太郎は真っ白い白髪のおじいさんになっちまう――」
「無理にこじつければ、一瞬のいい思いを味わった後、苦労がついて回るってことかしら?」
「楽あれば苦あり。でも、どうしてモーパッサンと浦島太郎の話になったんだっけ?」
「首飾りのことを考えていたのよ。そしたらモーパッサンの短編を思い出したの」
「首飾りのこと?」
「わたしたちの三度目の結婚記念日が刻々と近づいているわよ」
「え? そうだったっけ?」
「ほらね。忘れてたでしょ。そんなことだろうと思ったわ」
「記念日忘れたら一生恨まれるな」
「去年もそっくり同じことを言ったわ、あなた」
彼は苦笑して頭を掻いた。「去年、何を贈ったんだっけ?」
「これよ」と彼女は右手の小指を突きだして見せた。「小指用のプラチナの指輪」
「ああ、思い出したよ」
「ついでに、もう少し思い出してくれない? だめ? 毎年の結婚記念日のテーマをきめたじゃないの」
「何だったっけなあ」
「プラチナでしょ? しっかりしてよ」
「プラチナね、覚えとくよ」
彼は出がけのキスを彼女の頬《ほお》にして、靴に片足を突っこんだ。
「プラチナったって、色々あるからな、プラチナの何が欲しいんだ?」
「さっきの話、何にも聞いてなかったのね!」
「そんなおっかない顔するなって。そうか首飾りだな。それならそれで、回りくどいクイズみたいなやり方をしないで、最初から、プラチナのネックレスが欲しいって、素直に言えばいいじゃないか」
「あなたの愛を試してみたかったのよ」彼女はプンプンして言った。
「そんなことで愛なんて試されちゃ、たまんないよ。ところで、記念日って何時《いつ》だっけ?」
「今夜です!」
ついに彼女は金切り声を上げて、彼をドアの外へ押し出した。
秋風とスカーフと
スカートの裾《すそ》をひるがえして吹き過ぎる風に、ほんの少し秋の気配が混じる黄昏刻《たそがれどき》。恋人が欲しいと、胸を締めつけられるのは、そんな時。季節が変わったのだ。
夫がいるけど、彼は恋人ではない。結婚して数カ月もたつと、恋人であることを止めてしまった男だ。
釣った魚に餌《えさ》はやらないと言ってはばからないし、勤め帰りに待ち合わせて、どこかしゃれたレストランで夕食を一緒に食べようなんていう発想とはとっくに無縁になっている。家庭より妻より何よりも仕事が大事で、それが生き甲斐《がい》だ。
でもそんなのはちっとも格好良いことだとは思えない。妻や将来生まれてくる子供たちのためだというけど。毎日毎日が充実して暮らせることの方が、はるかに大事だという気がしてならない。
夫は夫で楽しみがあり、妻は妻で自分を充実させる方法をみつければいいというのなら、結婚の意味なんてないではないか。
彼女はそんな思いを胸の中でふつふつと煮《た》ぎらせながら、家路を急いだ。
そしてふと、まっすぐ帰ったって、どうせ夫は午前さまだと思うとひどく虚《むな》しくなり、時々ランチを食べる焼鳥屋のカウンターを思い出した。あそこなら、女が一人で坐っていても妙な眼で見られることはないだろう。親父さんとも顔見知りだし。彼女は通りをいくつか越えた。
店にはひとつだけ空いている席があったので、そこに腰を滑りこませた。とたんに横にいた男が驚いたような声を上げた。
「な、なんで――」
「あら」と見ると夫ではないか。
「あなたこそ、どうしたのよ?」
「誰《だれ》かと待ち合わせか?」
「そっちはどうなの?」
「どうせ家に帰ってもロクなもの食わせてくれないと思ったからさ」
「ほとんど家で食べない亭主のために、何作ったって、虚しいわ」
夫が苦笑して妻のグラスにビールを注いだ。
「実は、アポがひとつ急にキャンセルになったんだよ」
「そういう時、まっすぐに帰るって気にはならないのね」と皮肉が重なる。
「女房が焼鳥屋で呑《の》んだくれてるのにか?」
「たまたまそうだったってことですよ。嫌味ね」
「アポというのは嘘《うそ》だ」
と夫が前言をひるがえした。
「まっすぐ帰るつもりだったが、途中で気が変わった」
「なんとなくもって回った言い方ねえ」
「今日はまっすぐ帰らなければならない理由があった。そして同じ理由で、帰る気になれなかった」いつになく言葉を慎重に探すふうだった。夫が何を言いだそうとしているか、わからなかった。
「今日が何の日か、知ってるか?」
そう言われて、彼女ははっとして口元に手をやった。二度目の結婚記念日。
「あなた、知ってたの? なぜ今朝言わなかったの?」
「きみは完全に忘れていたな。忘れていたというのが腹立たしくもあった。それに淋《さび》しかった」
「ごめん」
と彼女は、ペコリと頭を下げた。
「本当にごめんなさい」
やがて夫は無言でカウンターの下に手を入れると、きれいな包装紙に包まれた薄く四角い箱を取り出して、無造作に妻の膝《ひざ》の上に置いた。戸惑いながら開くと、それはエルメスのスカーフだった。手に触れると、ひんやりと冷たいような、同時に温かい感触。軽いようで贅沢《ぜいたく》な絹の重み。
「ごめんなさい」
もう一度彼女はそう言って、夫からの贈り物をそっと頬《ほお》に当てた。
コートの季節
気がつくとすでに約束の時間が一、二分過ぎている。
デイトの直前になると、なぜか時間が超特急で過ぎてしまうのだ。鏡の前で、少しずつ自分が美しくなっていく過程こそ、女の、つつましくも無上の喜びなのである。
それに、彼自身にも多少の責任があると思うのだ。
「男を待たせるくらいの女の方が、魅力的だよ」
ひどい時には、一時間を越える遅刻もあった。が、それでも彼はちゃんと待っていてくれた。
「ポイントは、男が何時間でも待ちたいと思うほどの女かどうかだよ」
灰皿が吸いがらで山のようになっていたのは、少し気にはなったけど――。
でもそのうち、態度が変わってきた。
「どうせなれっこだよ」
とか、あっさりと「毎度のことさ」と言いながら時々、貧乏ゆすりなどするようになった。
――男を待たせる女は魅力的――のパターンも、そろそろ通用しなくなったみたい。
わたしはクローゼットの中からコートを取り出して、表に飛び出した。遅刻するのは今日でおしまい。そう固く胸に誓った。
タクシーを降りると、コートの裾《すそ》をひるがえして少し走った。裾が軽やかに膝《ひざ》のあたりで揺れた。
ステップを駆け下りて、待ち合わせのドアを押す。
だが、いつもの席に彼の姿が見当たらない。とたんにわたしは胸の底にめまいを感じた。三十分遅れただけなのに――、彼はいない。
わたしはもう、待ちたいような女じゃないのだ。こんな日がいつかくると恐れていた。
でもあと一回だけがまんしてくれたらよかったのに。
失ってみると、失ったものの大きさに、愕然《がくぜん》とする。わたしは涙が流れそうになるのをこらえて、踵《きびす》を返した。
ドアのところで、向こうから押して入ってくる人と正面衝突しそうになった。
「やあ」
と、笑いながら言ったのは、彼だった。安堵《あんど》のあまり、わたしは人目をかまわずに彼に抱きついた。
「心配したわ。死ぬかと思った」
「どうして?」
「二度と現れないような気がしたの」
「でも、時間ぴったりだよ」
彼はそこでニヤリと笑った。そんなはずはない、とわたしは自分の腕時計に目を落とし、それから店内の掛け時計を見た。一時間、わたしのが進んでいる。
「まさか――」とわたしは彼を見た。
「実はそう。進ませたのは僕」
「いつ?」
「二日前。きみがシャワーを浴びている間」
「どうしてそんなことをしたの?」
「きみを、嫌いになりたくなかったんだ」
彼は少し口ごもった。
「それ以上言わないで」
彼の言わんとすることは、痛いほどわかった。
「もうコートの季節か」
と、わたしのミラ・ショーンのコートに気づいて、不意に彼の眼ざしが和らいだ。
「すると、僕たちも一年になるんだ」
それから彼は更に優しく言った。
「そろそろ結婚しようか」
ほっとして私はコートを脱ぎ、そのふんわりとして優しい感触の上に手を置いた。
ボローニャの春風
彼と彼女の結びの神は、ハンドバッグだった。
彼が編集している社内報で「ハンドバッグの中身」という企画を特集したのだ。三十数人いる女子社員に、何の予告もせず、ハンドバッグを見せてもらい、その場で中身の写真を撮る、という企画だった。
たった一人の女性が、この取材に応じなかったが、ほとんどは、むしろ面白がって協力してくれた。
その結果、彼はある結論を得た。それは、ハンドバッグの中身というものは、実に明確に、その女そのものの性格なり感性を映し出しているということだ。
なんとなく着こなしのだらしのない女は、バッグの中もぐちゃぐちゃとしていた。いつも机の上が乱雑な女のバッグも、やはり乱雑だった。
そうかと思うと、てきぱきと仕事をこなすキャリアウーマンが、意外に女っぽい中身を披露してくれたりする。
化粧品と財布とキーホルダー、手帳が中身の基本だったが、予想に反してハンカチーフを入れている女は二人しかいなかった。後はティッシュの小さな袋。なんとなく味気ないような気がしたが、ティッシュもハンカチーフも入っていない女もいた。
彼女は、協力を拒んだ唯一の女だった。
「冗談じゃないわ。覗《のぞ》き趣味もいいところ」
とケンもホロロの対応。
「人に見られたら困るようなものでも入っているのかい?」と思わず嫌味を言いたくなった。
「ええそうよ。私の秘密。そう簡単に誰《だれ》にでも見せたりはしないものよ」
彼女は毅然《きぜん》としてそう言うと、傍らのバッグを取り上げて、踵《きびす》を返しかけた。その瞬間から、彼にとって彼女は気になる存在となった。彼は彼女が小脇《こわき》に抱えたバッグをみつめた。それは決して手の届かない神秘とタブーの象徴であるかのような気がした。
決して手が届かないゆえに、ますますミステリアスであり、秘密めいてもおり、心をそそられるのだった。
彼女のこと全《すべ》てを知りたいと思った。そしてできうるかぎりの情報を調べ上げて、彼は自分の頭の中にインプットした。趣味、好きなブランドの傾向、学歴、etc etc……調べれば調べるほど、ますます彼女のことがわからなくなる。そこで彼は一計を案じたのだ。
つまり、例の「ハンドバッグの中身」でわかったことの逆手をとったのだ。ハンドバッグの中身はその持ち主そのものに似ている、という彼なりの論理だ。
彼は自分が理想とするハンドバッグを求めて、ついでに、理想とする小物類をそえて、プレゼントすることにした。
彼が彼女のために選んだのは、ア・テストーニのカリブ皮のハンドバッグと、同じ素材のキーホルダー、そして財布の一式だった。そしてカードに一言。
――ボローニャより愛をこめて――。
そして現在《いま》。二人はイタリアへ向けて新婚旅行《ハネムーン》にたとうとしている。
「今だからこそ言うけど」
と彼女は彼に囁《ささや》いた。
「あの時のプレゼント、もし、ア・テストーニ以外だったら、こんなふうになっていたかどうかわからないわ」
もちろんそうだろうと彼は思った。彼女の毅然としたところ、上等で優雅な感じなどを表現するのにふさわしいのは、他にはないのだから。
グッドニュース
明日は大事な日だ。お見合い。しかもただのお見合いではない。相手の写真を一目見た瞬間から、彼女は彼に恋をしてしまったのだ。
ハンサムだとかそういうことではない。目の輝きと、口元に浮かんだ温かそうな微笑。それが彼女を深く魅《ひ》きつけたのだ。
写真の一目惚《ひとめぼ》れなんて言ったら、人は笑うかもしれない。でも彼女はいつになく真剣なのだった。
当日の着るものにさんざん迷ったあげく、選んだのは、ドレープの柔らかいサマーウールのスーツ。春先に買ってあったものだ。女らしい中に、どこかきりっとしたキャリアを感じさせるスタイルで、彼女のお気に入りだ。
ただ、有名なイタリア人のデザイナーのものではない。彼女にはブランド志向はないのだ。
鏡の前に立って、自分の姿を注意深く点検した。悪くはないが、何となく物足りない。それがなぜなのか、彼女にはわからない。
ふとその時、何かで読んだ言葉が、脳裏を横切った。普段着でも、靴が上等だと、それだけでよそ行きに見える、といったようなことだ。
そうだ、靴を買おう。
その結果、彼女が選んだのはタニノ・クリスチーだった。今年らしいクロコの素材を上品に配したデザインで、それを履くと、サマーウールのスーツが何倍にも引き立って見える。
それよりも何よりも、足を入れた瞬間の履き心地だ。
足元に自信がもてると姿勢も歩き方も違ってくる。そのことが彼女にはよくわかった。
いよいよ当日。彼は彼女が想像したとおりの輝く目と、人をくつろがせるような微笑を絶やさない男性だった。自分の目に狂いはなかったと、彼女の胸はドキドキした。
お見合いの間、ずっとドキドキしっぱなしだった。自分が何を話し、どう振るまったのかさえ覚えていないしまつ。
「僕は結婚に妻を求めていない。パートナーを求めているんです」と彼が語ったことはよく覚えている。それに対して自分が何を言ったのか、上の空で忘れてしまった。
だめだわ、とお見合いの終った後、彼女は絶望して呟《つぶや》いた。私はちっとも自分が売りこめなかった。いいところを見せることができなかった。このまま、あの人と無縁になってしまうかと思うと、泣きたいような喪失感におそわれた。
その翌日のことだった。紹介してくれた女性から電話がかかった。
「おめでとう。彼、あなたに一目惚れだそうよ」
と彼女は弾んだ声で言った。その言葉が信じられなかった。からかわれてるのだと思った。
「あなたの何もかもがステキだったって」とそのひとが続けた。「でも、決定的だったのは、あなたの履いていたハイヒールだったらしいわよ。彼ってね、女の人の靴がすごく気になるんですって。履いている靴で、ほとんどそのひととなりがわかるって言ってらしたわ」
その言葉で、ようやく彼女は我を取り戻した。次に歓びが――めくるめくような歓びが、彼女を包みこんだ。
ついてる日
電話を切ると、早瀬はしばし無言で喜びをかみしめた。実際には、社内中駆《か》けずり回って、そのグッドニュースを叫びだしたいような思いと闘っていた。
めったにないような、大口の取り引きがきまったのだ。しかも彼が企画を立て、一人で交渉し、数カ月説得に通いつめ、ようやくにして得た大物なのだった。
「おう、どうだったんだ?」
同僚が、早瀬の顔を見て訊《き》いた。
「やったよ。きまった」
むしろぽつりとした感じで彼は答えた。確かにうれしいが祭りの後、あるいは華やかな宴《うたげ》の後に似た、一抹の空しさが、微《かす》かにあった。
「へぇ、すごいじゃないか。おめでとう」
同僚の瞳《ひとみ》が光る。現実は闘いなのだ。「このところ、きみばかりがヒット続きだものな」
「ついてるだけだよ。そのつきが落ちるのが怖いよ」
できるだけくったくのない声で早瀬は答え、上役に報告するために席を立った。
早瀬の報告をすっかり聞き終ると、部長は満足げにうなずき、柔らかい視線を部下に投げて言った。
「この分でいくと、きみは異例の出世をするな」
言葉そのものではなく、上役の視線の柔らかさに、早瀬は安堵《あんど》を覚えた。軽く礼をして退出しかける彼の背に、部長が訊いた。
「ところで、きみのそのスーツはどこのものかね」
「スーツですか?」
怪訝《けげん》そうに訊き返した。「エルメネジルドゼニアですが」
「なるほど」
部長は再び満足そうにうなずき、早瀬は辞した。
自分の席に戻ると、ダイヤルインの電話が鳴っている。
「圭子です」と相手が言った。
早瀬の胸が騒ぐ。
「あれからずいぶん考えたけど、あなたのプロポーズ、喜んでお受けします」
「――そうですか」感激のあまり、彼は言葉につまった。「うれしいです。ありがとう」
週末に食事をする約束をして、早瀬は受話器を置いた。
「またもやビッグニュースかい」
同僚が羨望《せんぼう》の表情で声をかけた。
「そう、いいニュースだ」
ひかえめに、早瀬はそう答えた。プライベートなことはできるだけ口にしないようにしている。
「なんだか知らないが、今日はやけにおまえにはいい日だな」
同僚はそう言って、机の上を手早く片づけると、クライアントの約束でもあるのか、ネクタイの曲りを直し、椅子《いす》にかけてあったスーツの上着を取り上げた。
「いつも思うんだが」
と同僚がふと言った。「おまえの着ているものは一味違うな」
「そうかな」
「色合いがいいよ。それにいかにも上等だ。他人に威圧感を抱かせる上等さでなく、ひかえめなのが立派だ。それでいて、きちんとした主張を持っている。――つまり、しゃくだけど、おまえそのものに似ているよ」
「それはどうも」
早瀬はシャイな笑いを浮かべた。今日はやけにスーツが話題になる日だ。
プレゼント
「今夜、きみの誕生パーティには行けないんだけれど、これ」
と言って尭《たかし》がプレゼントらしき包みを差し出した。「僕からの心ばかりのもの」
「どうして来れないの?」
私は内心とても落胆して訊《き》いた。
「ちょっとね」
と尭は視線をそらした。
「他に約束があるの?」
「ああ」
「なら無理にとは言わないわ」
私は強がって顔を背けた。じゃ、と尭がキャンパスの中を走り去った。
カフェバーを借り切ってのパーティに、大勢の仲間が集まった。花束や香水やレターセットなどの山のようなプレゼントの中に、ダイヤモンドのプティ・ペンダントがあった。学生の身分には不相応な贈りものだった。
「こんなの、もらえない」
と私は雄介に言った。
「どうしてさ、傷つくなぁ」雄介が口をとがらせた。彼はたいして傷つくわけではない。父親の泡銭《あぶくぜに》のそのまた泡みたいなお金で買ったのだから。
「たとえバラの花一本でも、あなたが汗を流して働いたお金で買ってくれたものの方が、私何倍もうれしいの」
「尭みたいにか?」
尭の名前を聞くと、私の中で何かが疼《うず》いた。
「あんな冷たい人なんて、どうでもいいのよ」
彼からのプレゼントは包みを開かれないまま、雄介の車のトランクの中に放りこんである。
「そういえば、尭、どうしたのよ?」
と誰《だれ》かが訊いた。
「バイトだよ」雄介が答えた。
「何であいつバイトなんてする必要があるんだよ。親父がビルを四つも五つももってんのにさぁ」と仲間の一人。
「出来が違うんだよ、俺《おれ》たちと。あいつ親父がサーブくれるっていうのを断って、夏休み二年まるまる働いて、とうとう自分で車買っちまった」
「バカみてえ」仲間たちは笑った。
「ねえ、雄介」私は声をひそめて訊いた。
「今夜も尭、アルバイトだって言ったわね? なんのため?」
「あれ、尭の奴、言わなかったのか?」
「言わないって何を?」
「きみに何かプレゼントを買うために、二週間、ホテルでドアボーイやってるよ。たしか今夜で終りのはずだ」
「どこのホテル? 終るの何時?」
「赤坂のTホテル。十一時半まで」
「じゃ悪いけど雄介、今夜この後そこまで送ってくれる?」
「ますます傷つくよぉ」と言いながらも、雄介は承知してくれた。
私は雄介の車の中で、尭からの包みを開いた。小型のフェンディのショルダーバッグだった。今使っているバッグの中身をそれに移して肩にかけ、赤坂のホテルの前で雄介と別れた。
「いらっしゃいませー」と言いかけて、尭の表情が変わった。「どうしたんだい?」
「迎えにきたのよ」
尭は腕時計を見て、うなずいた。
「あとまだ、明日まで三十分あるわ。私の誕生日を一緒に祝ってくれる?」
「それ、気に入ってくれた?」と彼は真新しいフェンディに視線をやった。
「一生の思い出にするわ」私は心からそう答えた。
華麗なる変身
「深刻な家庭の危機に突入したわ」
と、彼女は女友だちに言った。昼下がり。二人の前にはそれぞれ二杯目のコーヒーが置かれている。
「驚かさないでよ。理由《わけ》を話して」と、女友だちは身を乗りだした。実はネっと彼女が語りだした。
「私たちが、結婚した時に誓いあったことがいくつかあったの。絶対に嘘《うそ》をつかないとか、門限を守るとか。その中のひとつに、夜の食卓では、お互い新聞を読まないという条件があったのよ」
「朝刊は、いいのね?」
「まあね。でも夜は、お互い働いていてすれ違いが多いから、たまに顔を合わせた時くらい、ゆっくり話もしたいじゃないの」
「そりゃそうよ、わかるわ」
「それがこのところルールを破って、彼ったら夕食の時にも夕刊広げるの。頭にきたわ」
「それは許しちゃだめよ。習慣になるわよ」
と女友だちが忠告した。
「でしょ? だから私も考えたのよ。正攻法でやっても喧嘩《けんか》になるだけだと思ったから、ある夜、夕食の前に鏡に向かってオテモヤン的メイクをしたのよ。白塗りにして頬《ほお》をまんまるく赤く染めて、口紅なんてどぎつくはみだして。その顔で彼の前に坐ったわ。どうだったと思う?」
「腰抜かした?」
「だったらまだ救いがあるのよ」と彼女は腹立たしそうに答えた。
「全く気づきもしなかったのよ。 つまり一度も食事中、私の顔を見なかったっていうわけ」
「で、どうしたの?」
「そのままの顔でTVを観て、そのままベッドに入ったわ」
「それでも気がつかなかった?」
「もう完全に無関心なのよね。何を言おうと何をしようと、妻なんてのはそこいら辺にある家具以上の注意を引かないのよ」
「同病相憐れむわ」と女友だちは溜息《ためいき》をついた。
「で、どうするつもり?」
「あと一度だけやってみるわ。それでだめならさっさと別れてやるつもり。同じ家に住んで忘れ去られた妻を演じるのは、ごめんだもの」
「何をするつもり?」と女友だちが訊《き》いた。
「それはこれから考えるのよ」
その日から一週間がたった。女友だちが心配して彼女に電話をかけてその時の様子を訊いた。
「無事、離婚だけは回避したわよ」と彼女が明るい声で答えた。
「ほんと、よかった。でも一体どんな手を使ったの?」
「ミッソーニ・ドンナのニットスーツよ」と彼女が言った。「それを着て出勤しようとしたら、彼、『今夜、外で待ち合わせて食事でもしないか』って言ったの」
スタイルのいい彼女のニットスーツ姿が、電話口の女友だちにも見えるような気がした。
「おめでとう」
「でも私ね、わざと先約があるからって断ってやったのよ。そしたら急に嫉妬《しつと》深くなって、誰《だれ》とどこで逢《あ》うのかって大変だったわ」
「気を引いておいて、向こうがようやくその気になると外すんだから、あなたも相当意地悪ね」
「とんでもない。女の知恵と言ってほしいわ」
というわけで、しばらくは彼女たち夫婦は、安泰。めでたし、めでたし。
立ち話
タクシーを降りようとしていると、入れ違いに乗ってくる男がいた。小銭でお釣りを受け取り歩きだそうとすると、「ヨシコじゃないか」と、その男が言った。視線を上げると二年前に別れた男の驚いた顔があった。
「あら、偶然ね、しばらく」
ヨシコは咄嗟《とつさ》に陽気な声で、表情を繕った。癒《い》えたはずの傷口が、その存在を主張するように、ズキンと傷んだ。
「一瞬わからなかったよ」と彼は言い、彼女の全身に素早く視線を走らせた。
――もう君といても、ぜんぜんドキドキしないんだ――と言って一方的に別れを宣告した時の声と、冷ややかな表情とが、つい先日のことのように、ヨシコの脳裏に蘇《よみがえ》った。
「変わったね、君」
という男の瞳《ひとみ》の中の好奇心と賞賛の色を、彼女は複雑な思いでみつめる。
「お客さん、乗るんですか、乗らないんですか」タクシーの中から運転手の苛立《いらだ》った声がした。
「あ、ごめん。いいよ、行って」
ドアが閉まり、車が乱暴に走り去り、二人は排気ガスの中に残された。
「立ち話もなんだから、ちょっとお茶でも飲もうか」
彼は当然のように、彼女の肘《ひじ》に手をかけた。ヨシコはさりげなく、それを外した。男は照れたように、やり場のなくなった手を広げ、肩をすくめた。
「その後、どうしてた?」
と、彼はアプローチを変えた。
「楽しくやってるわ」
「見ればわかるよ。すごくいい女になった」
「そう思う?」
「もちろん。惚《ほ》れ直しそうだ」
「私、変わったのよ、あなたと別れてから」ヨシコは言葉を言い直した。「ううん、あなたと別れたから」
「僕が最後にアドバイスした言葉が、効いたんだ」
「アドバイス?」ヨシコは片方の眉《まゆ》を上げた。
「いつも男をドキドキさせるような女でいてほしいと言っただろ?」
「物は言いようね」とヨシコは冷ややかに言った。
「もう私にドキドキしなくなった、とあなたは言ったのよ」そして続けた。「私に魅力がなくなっていったのは、あなたにも魅力がなかったからだと、後でわかったわ」
「きついこと言うね」と彼は苦笑した。「とにかく、君はいい女に蘇った。おめでとう」
「あなたのおかげじゃないわ。素晴らしくいい男にめぐり逢《あ》ったからよ」
ヨシコは唖然《あぜん》としている男を、その場に残して、さっさと歩きだした。ジャン・マルコ・ベントゥーリの服の中で肉体が軽やかに躍動するのが感じられた。古傷が完全にふさがったのがわかった。新しい男なんていないけど、彼女の胸は勝利感で一杯だった。
第二章
「犬でも飼おうかしら」と、ある朝、妻がぽつりと呟《つぶや》いた。
「止めておけよ」新聞から眼を上げずに夫がそれに答えた。
「だってあの娘《こ》がお嫁に行ってしまってから、家の中が妙にがらんとしちゃったんですもの」
夫は黙って朝刊をたたんだ。退屈しのぎに飼われるんじゃ、犬の方が迷惑だと、思ったが、口には出さなかった。
「あなたはいいわよ、仕事があるんだもの」
と妻は、背広に袖《そで》を通している夫に言った。
「しかし、退屈しのぎで仕事をしているわけじゃないぞ」
「私も何かしようかしら」
「止めとけよ」
「犬も止めとけ、仕事も止めとけ――。ひとの身にもなって下さい」妻は不満顔だ。
「おれが言うのは、退屈しのぎで何かをはじめるのはつまらんということだよ。娘を嫁にやって淋《さび》しいのは自分一人だと思っているんだな」夫のその最後の言葉で、妻は口をつぐんだ。
「あの時――」と妻が言った。「私、人生が終ったような気がしていたの」結婚二十七年目の、ささやかな祝いの食卓での会話だ。
「かなり落ちこんでたな」夫は妻の杯《グラス》にワインを注いでやりながらそう答えた。
「あなたはちっとも相談に乗ってくれなかったし――、なんだか世界中で自分一人だけ、置いてきぼりになったような気がしてたわ」
夫が何か言いかけるのを制して、妻が続けた。「憶《おぼ》えてる? あの日、出がけにあなたが言った言葉? それで私、眼からウロコが落ちたようになって――」
「どんなことを言ったっけ? 憶えとらんよ」
「淋しいのはお前一人じゃない≠チて、そう言ったでしょう? 自分一人で淋しがっているって……」
「そんなこと言ったかな」夫は遠い眼をした。
「忘れたの? 呑気《のんき》ね。あれで私は救われたのよ。私だけが淋しいんじゃない。同じ淋しさをあなたが共有してくれているんだっていう実感――。あの娘の不在に慣れるまで、私を支えてくれたのは、その実感だったんです」
「で、今はどうなんだ」
「改めて、犬を飼おうと思うの。退屈しのぎではなくて」
「そうか。それじゃ子犬でもプレゼントすれば良かったかもしれんな」そう言いながら、夫は膝《ひざ》の上から、細長い包みを取り出して、妻の前にそっと置いた。
「エベルの腕時計だ。色々考えたのだが、おまえさんに、人生の第二章をスタートしてもらうために――」悲しい時ばかりでなく、楽しい時も共有しようじゃないか、とそう彼は言いたかったが、妻の瞳《ひとみ》に光るものを見ると、言葉のかわりに、贈り物の包みを解き、中身を取り出すと、無言で妻の手首にそれをつけてやった。
ヤブヘビ
「女はいいよな」
と夫は妻の日焼けした顔を眺めながら、溜息《ためいき》をついた。
「ウィークデーに、のんびりゴルフがやれてさ。しかも亭主があくせく働いた金で、いいご身分だ」
「それ以上言わない方がいいんじゃない?」と妻はクールに言い返した。「ヤブヘビになるわよ?」
「どこでも好きな所を突っついてくれてかまわんよ」
「そんなに自信たっぷりに言って、あとで後悔するわよ」と妻はニヤリと笑った。「あなたね」と急に開き直った。「ゴルフ代くらいですんで安いと思いなさいな。私の知っているある女性は、夫の浮気が発覚するたびに、宝石をひとつせしめるんですからね。今年だけで指輪三つだそうよ」
「おいおい、冗談じゃないぞ。おれほど清廉潔白な亭主をもって――。おまえは自分がどれだけラッキーな女か、わかっちゃいないんだ」
「そうでしょうか」
「月に二回ゴルフをやらせてもらってか? 年に一度旅行にも連れていってるぞ。クリスマスや誕生日だって忘れたことはないじゃないか」
「ええ確かに」と妻はすまして言った。
「でもひとつだけ、忘れているものがありますよ」
「なんだ、それは?」夫は怪訝《けげん》そうに訊《き》き返した。
「結婚記念日」
「け、結婚記念日!?」
「そうです。合計十一回分の貸しがあるわ」
「か、貸し?」
「そろそろ、十一回分まとめて貸しを返してもらおうかしら?」
「かんべんしてくれよ」
「だから初めに言ったでしょ。ヤブヘビになるって。ね? ヘビ、出たでしょ?」
「しかし結婚記念日ってのは、夫婦双方の問題だぞ。お互いさまだ。帳消しだな」
「あなたぁ」と妻は語調を変えた。「この間のウィークエンドの一泊のゴルフ旅行。あれ、嘘《うそ》でしょ。ゴルフ場へなんて行ってない」
「な、なにを根拠に!?」
「着替えがいつものようにゴルフ場のビニール袋に入ってなかったこと。ゴルフズボンの裾《すそ》の折り返しに、芝草がひとつもみつからなかったこと。本当にゴルフ場を歩き回っていたら、芝草がみつかるものよ。あのウィークエンドはゴルフをしないで何をしていたのかしらね?」
「結婚記念日に、何が欲しいって?」夫は額の汗を拭った。
「ロベルタ・ディ・カメリーノのゴルフ用具一式」
「進呈させていただきます!」
「それに、靴とウエアとバッグも、ラインでそろえようかしら」
「結構でございます」ひたすら平身低頭の夫であった。
ギンブラ
結婚記念日をどうしようか、と彼が訊《き》いた時、ちょっと考えて彼女は、「ギンブラ」と答えた。
「ギンブラ!?」と彼はきょとんとした。「ギンザ行って、どうするんだよ」
「だから文字どおり、ブラブラ歩くのよ。これって盲点よ、結構知っているようで知らないのがギンザじゃない? 案外新しい発見があるかもよ」
「ブラブラ歩くだけで、いいのか?」
「行きあたりばったりの方が面白いわ」
「イタリア料理でも食うか」
さて当日、会社帰りの夫と四丁目の交番の前で待ち合わせ。
まずは和光の方から京橋へ。セゾン劇場側に渡り、新橋方面へブラブラ逆戻り。交差点を渡り、資生堂の前を通って――。
「感想は?」と夫が訊いた。
「予想どおりよ、発見があったわ」
「なんだい?」
「ここよ」と、彼女は一軒の靴屋へ入っていく。「結婚記念日に、ヨシノヤの手縫の靴をあなたにプレゼントするわ」
「うれしいね」
「お返しは、同じものでいいわ」
「なんだ、ちゃっかりしているぞ」
「ギンブラの記念に、靴ってのはいいアイデアだと思うけどなぁ」
「そのかわり、イタリア料理はパァーだな」
やがて二人は、それぞれの包みを抱えて、星空の下を、ホーム・スゥィート・ホームへと一路向かった。
「腹ペコペコだぞ。背中の皮とくっつきそうだ」と彼が情けない声を出して言った。
「がまんがまん! レストラン代まで残らなかったんですもの」
「駅前でラーメンくらい食えたじゃないか」
「まあ、あなたったら! 結婚記念日にラーメンで我慢しろっていうの!!」
口論がエスカレートする前に、なんとか愛の巣にたどり着く。
ドアを開け、スイッチを入れる。
「あっ」と驚く彼。
純白のテーブルクロスの上に食卓の用意が整い、ワインボトルとキャンドルが――。
「牛肉の赤ぶどう酒煮込みが作ってあるの。すぐに温めるわね」いそいそとキッチンに向かう妻の背に、彼が叫んだ。
「わかったぞ! 全部計画どおりなんだろ?」
「まぁね」とキッチンの中から彼女が答える。
「ヨシノヤの靴もか?」
「当然でしょ!」
やがて室内に、夕食のいい匂《にお》いが漂いだす。
二人はワインで乾杯。
「とにかく、二人三脚で、これからもがんばろうや」
「銀座ヨシノヤの靴もあることだしね」
二人の未来に、乾杯
彼はなかなか現れない。毎度のことだけど、クリスマス・イヴの時くらい、先に来て待っていてくれてもいいはずだ。
美代子は夜のガラス窓に映っている自分の姿を点検するようにみつめた。黒いベルベットの衿元《えりもと》で仄白《ほのじろ》く輝くパールのネックレス。去年のクリスマスの彼からの贈りものだ。それから耳たぶにとまっているパールのピアスは、その前の年、二人が知りあって最初のクリスマスに、彼から彼女に贈られた大事な思い出の品だった。
今年もきっと――と美代子は心の中でひそかに期待していた。彼は何を贈ってくれるつもりだろう? セットになるようなパールのブレスレットだろうか。それとも指輪?
どうか指輪でありますように。大切にはぐくんできた二人の愛はちょうど三度目のクリスマスを迎えていた。彼からのプロポーズはまだだった。
どんなに愛されていても、確かな実感が欲しかった。彼女は夜のガラスの中の自分の顔をじっとみつめた。
「遅くなってゴメン」
後手に花束を隠しながら、彼がニコニコ笑いながら現れたのは、その直後だった。
「君への贈りもの探しているうちに、遅くなっちゃった。花屋ってあるようで意外にないんだね」
そう弾んだ声で言いながら、彼は大きな花束を二人の間に置いた。
「クリスマスおめでとう。これ僕のささやかな気持」
「――ありがとう」
内心の失望を顔に出さないですますのが、やっとだった。
「説明するまでもないと思うけど、一応言わしてもらうよ。このバラの赤は僕の血だ。そしてカスミ草の白は僕の誠意だ。受けてくれるね?」
「――うれしいわ」
まだ少し戸惑いながら、美代子は心をたて直した。愛は品物じゃ計れない。愛する人からもらうものなら、たとえクリスマスカード一枚だってうれしいはずだ。本物の指輪でなくたって、たとえ缶ビールの輪っかだって――。
「元気、ないみたいだな」
と、彼が気にした。
「ううん、そんなことないわ」
と美代子は雑念を払うように首を振った。
「花束もうれしいけど、あなたがそえてくれた言葉、血と誠意の意味を考えてたの。一生忘れないわ。これまでもらった贈りものの中で、何よりも大切にするわ」
彼は静かにうなずき、小声で「ありがとう」と呟《つぶや》いた。
「乾杯しよう」
と改めて彼が言った。シャンパンが一杯ずつ運ばれてくるのを待って、二人はグラスを揚げた。
「メリークリスマス。これからもよろしくね」
「メリークリスマス」
軽くグラスが触れあった。美代子は眼を閉じて、ゆっくりとシャンパンを味わった。
次に眼を開いた時、二人の間のテーブルの上に、小さな銀色の包みが置かれていた。とても小さな包み。指輪の箱程度の――。
美代子の胸が高鳴った。彼の眼が笑っている。意地悪ね、じらして。頬《ほお》を染めて彼女は包みのリボンを開く。
「なんだか怖いわ」
包みの中はグレーのビロードの箱。ふたを押し上げると、ひとつぶのパールが、頭上のペンダントのライトに浮かび上がった。
「僕の気持」と彼が囁《ささや》いた。
「受けてくれる?」
「――つまり、プロポーズ?」
彼女の瞳《ひとみ》が輝く。
「そのつもりだけど」彼は今や真剣だ。
「よろこんで」と彼女は答える。
「お受けするわ」
「じゃ乾杯。君と僕の二人の未来に」
「メリークリスマス」
愛の先付け小切手
「今夜、外で食事しましょうよ」
と駅で別れ際、圭子は彼に言った。
「外食は金がかかるよ。家でしようよ」
「だってクリスマス・イヴですもの」
「そうだけど、君も承知のとおり僕には払えない」
「そんなの気にしないの。三年先、あなたがはれてインターン卒業したら、利息つけて返してもらうから」
彼はうなずき、肩を落として反対側の電車に乗った。彼はいったん社会人になって就職したのだが、医者になる夢が捨てきれず、仕事を一年でやめ、医学部を受験し直したのだ。当然生活費は彼女の肩にかかってくる。学費は家庭教師やその他のアルバイトで彼が作りだしていた。きりつめた生活だが、二人には若さがあった。それよりも相手を信じ、愛があった。
圭子はその日仕事が引けるとデパートに寄ってつつましい買いものをした。温い毛のソックスを三足。本当はもっと高いものをあげたかったが、それでは逆に彼の負担になるのはわかっていた。
待ち合わせたイタリアン・レストランでは、彼が先に来て待っていた。
「懐かしいね」
と彼は遠い眼をして店内を見回した。就職して最初のお給料の出た日、彼が圭子をともなったのがそのレストランだった。二本の赤と緑のキャンドルの火が、静かに揺れていた。
「あっという間に時間って過ぎるわね」
メニューを開けながら圭子が答えた。
「だから卒業だってあっという間よ」
「君にばかり苦労かけるな」
「そういうの言いっこなしの約束でしょ」
「でもさ、一人前の医者になったら、もう君には働かさないからね。そうだ最初の正月休みには、バリ島へ連れてくよ。バリ島、夢なんだろ?」
「ええ、夢よ」
「じゃ絶対に行こう。僕が連れていくからね」
「世の中、絶対なんてことはないのよ。私、先のこと約束されるの好きじゃないわ」
「そりゃ色々突発事故は起こるさ。でも今の僕の気持なんだ。君をバリ島へ連れていく。新婚旅行だ」
「その前に結婚しなくちゃ」
と圭子は笑った。
「もちろんだよ」
「でも、今約束してほしくないの。三年後にあなたがまだそのつもりだったら、改めてプロポーズして」
「僕の気持が変わるとでも?」
「変わらないとも言えないわ。あなたでなくても、私だってそうよ。お互い三年も四年も先の約束で自分を縛るのやめましょ」
「君は本心じゃない。無理して強がっているんだ」
「そうね。そうかもしれないわね」
と言い、圭子は話題を変えた。
「はい、これ私からのクリスマス・プレゼント」
包みを受け取ると、彼も手でポケットを探し、小さな平たい包みを取り出して、圭子の前に置いた。とても軽かった。不安に思って開いてみると、出てきたのは四つにおりたたんだ小さなカード。
カードを開けると、彼自身の絵で、指輪が描いてある。ボールペンで描かれた線画で、宝石の部分が赤鉛筆で真っ赤に彩色されている。
「これ、ルビー?」
と圭子がうれしそうに聞いた。
「うん、ルビー」
「うれしいわ。私ルビーが好きなの」
「知ってる」
彼が言った。
「大事に取っておいてくれよ、こいつは先付け小切手なんだから」
「日付けは三年後?」
「もう少し先かな」
「大事な証書ね」
圭子の眼が濡《ぬ》れて光った。
キャンドルライトの炎で、絵に描かれたルビーが赤さを増した。
スターダスト
またクリスマスの季節がめぐってきた。でも由美子は今年は浮かない気分だった。
毎年、クリスマス・イヴを海外で過ごしてきたので、彼が今年はどこへも行かないと言った時、まるで「別れよう」と言われでもしたかのように、傷ついたくらいだった。去年はバリ島の山地ウブドへ行った。夜ともなると満天の星空。プールサイドのデッキチェアに並んで二人でいつまでも見あきなかった南十字星。
「あんなに大きくて、あんなにたくさんで、あんなに輝く星空を見るのは初めて――。まるでダイヤモンドをちりばめたみたいだわ」
由美子は何度も溜息《ためいき》をついて言った。
「じゃ由美子」
と彼が彼女の手をとると言った。
「空一杯のあの星を、君にあげるよ。僕からのクリスマス・プレゼント」
「何よりもうれしいわ。あれを全部私にくれるのね」
由美子は胸をときめかせた。
「あなたってステキ」
彼の発想は、他の若い男とは一味違う。
「前の年もあなた私にユニークな贈りものをしてくれたわね。覚えている?」
「もちろん」
その前の年のクリスマスに訪ねたマレーシアのチェラティン・ビーチでのことだった。
ディスコで流した汗に濡《ぬ》れた躰《からだ》を、すぐ眼の前の海にドレスのまま沈めた異国の夜。あたりに漂う甘い南国の香り。夜鳥の鳴き声。海水は羊水のように温かかった。
ふと気づくと一面の夜光虫の海だった。腕にも肩にも髪にも、その銀や金色の光が。シンデレラの魔法のツエにかかったみたいに、二人の全身が、宝石の輝きを放っていた。その美しさに恋人たちは声もなく見惚《みと》れていた。
「きれいだね。これ君にあげる。この宝石もみんな君にあげる」
あれも忘れ難い夜だった。今年はハワイあたりを期待していたのだ。でも、彼は彼女を誘わなかった。
「久しぶりに東京でイヴを過ごしたい」
というのが彼の希望だった。
そしてクリスマス・イヴの当夜、彼女は待ち合わせの高層ビルの四十二階にあるカフェ・バーを訪れた。
二人は口数少なく向かい合っていた。
カクテルを口に含みながら、由美子は視線を窓の外に転じた。一面の光の海。光の都市。その美しさに彼女は心を慰められ、機嫌を直し始めた。
「空気が澄んでるせいか、きれいね。星くずがダイヤモンドみたいね」
それから、キラリと瞳《ひとみ》を光らせて、
「あら、そういうことだったのね」
と彼女は膝《ひざ》をたたいた。
「今年のクリスマスのプレゼントは、この夜景ってわけね。そうでしょ?」
「当たらずとも遠からず」
と彼はニヤリと笑った。
「今年の僕からのクリスマス・プレゼントは、これ」
そう言って彼は小さな箱を彼女の前に軽く置いた。
胸をときめかせつつ包みを開けると、小さなダイヤモンドをちりばめた指輪が……。
「……まあ、きれい。小さな小さな星くずみたい……」
「今年は海外旅行に行く予定で貯めた金をそっくりその指輪に注ぎこんだんだよ」
と彼は優しく笑った。
「私はこのビルから眺める夜景のプレゼントでも幸せだったのに……。でもありがとう。やっぱり、本物のダイヤモンドの輝きにはまさるものはないもの」
彼女は心から幸せそうにそう言って指輪をそっと指にはめるのだった。
一九九三年十月に角川書店より単行本として刊行
角川文庫『香水物語』平成11年10月25日初版発行