森 瑤子
秋の日のヴィオロンのため息の
目 次
ママンの恋人
あのときかもしれない
二人で乾杯
傷心と空虚と
女の軌跡
枯れ葉よ
夫婦の肖像
娘の結婚
幕間《まくあい》にて
P.S.ガンジス河のほとりで
あとがき
ママンの恋人
結婚している女が、夫以外の男に逢《あ》うためにシャワーを浴びているときのこのめくるめくようなトキメキは、何ものにも換えがたいと、阿里子はいつもながら思うのだった。
長い人生の中で幸福な瞬間というものがたびたびあるけれど、好きな男と密会する直前のシャワーは、その一つだ。
シャワーを浴びた後、ふかふかの純白のバスタオルで身体を包んだときの贅沢《ぜいたく》な味もそうだけど、肌とそっくり同じ色のスリップをするりと着た瞬間の、皮膚にまとわりつくひんやりとした感触も幸福そのもの。ついでに冷えたグラス一杯のシャブリとシガリロを一本。
自分を確実に幸せな気持ちにしてくれる小道具を寝室に持ち込んで、阿里子はまず全身にクリスチャン・ディオールのオーソバージュをすり込んだ。
オーソバージュは物心ついてから今日までの間につきあった十一人目か十二人目のボーイフレンドがつけていたオーデコロンだった。その男のことはすぐに忘れたが(十一番目だか十二番目だかはっきり記憶にないくらいだから)、オーデコロンの匂《にお》いだけは忘れられなくて、以来、オーソバージュと阿里子とは切っても切れない仲になってしまった。
「香水をつけた女は嫌いだけど、きみに逢《あ》って考えが変わったよ」
という男にその後出会ったので、ますます阿里子は自信を深めた。
「香水じゃないのよ。男性用のオーデコロン」
「それはいい。僕もそいつを一本買おう。そうすればきみの移り香《が》を心配しないでもいいからね」
移り香を心配しないですますためにオーソバージュを買った男はほかに二人いた。クリスチャン・ディオール社から感謝状をもらってもいいくらいだと、ひそかに阿里子は思うのだった。
寝室のドアに軽いノックの音。
「入っていいわよ」
と言うより前に、阿里子の十六歳になる娘、弓子が顔を覗《のぞ》かせた。
「何よ、この匂《にお》い」
と彼女は顔をしかめた。
「あら、いい匂いだって言ったじゃないの」
ほっそりとした華奢《きやしや》なシガリロに火をつけながら、阿里子が言い返した。この細身のシガーは今の前の男友だちが香港から買ってきてくれたものだ。
「過ぎたるは及ばざるがごとしって言うじゃないの。肢のつけ根まで香水すり込んで、娼婦《しようふ》のつもり?」
十六歳の女の子が娼婦の何たるかを知っているわけがない。
「あなた、今何読んでるの?」
鏡の中に映った娘に阿里子が質問した。
「デュラスよ」
「ははん」
「ははんって?」
弓子はベッドの端に腰を下ろしながら、じろりと母親の姿を眺めた。
「さてはまた男に逢いに出かけるのね?」
「男とは限らないわよ」
「ママンが肌色の絹の下着を着るときはそうよ」
「女の友だちに会うときだって絹を着るわ」
「でも肌色のときは、男よ。それからワインとシガリロを持ち込むときもそうよ」
阿里子はさすがにどぎまぎして、鏡の中の娘から視線を逸《そ》らせた。
「パパの眼はごまかせても、あたしはだめよ」
「パパの眼、ごまかせていると思う?」
「その点は大丈夫。ママンがうまくやってるってわけじゃないわよ。パパが見ようとしないだけ。あの人何も見ないんだもの。結婚すると、男の人って、妻をそこいらにある家具以上の興味をもって眺めないものだってこと、おかげでよくわかったわ」
阿里子は娘が喋《しやべ》っている間、眼の周囲にアイ・クリームをたっぷりすり込んだ。
「でも、それでいいのね。サルトル流に言うと、見えなければ何も存在しないのと同じですもの。あのねママン、いったん皺《しわ》ができちゃったら何を塗ってもだめなんですってよ。小皺が消えるクリームなんてまだこの世に存在しないんだって」
皺のことが話題になると、阿里子はなんだか急に悲しくなった。
「いざとなれば顔のリフトアップするからいいの」
実はもう下調べがしてあるのだ。
髪の生え際《ぎわ》に沿って顔の皮を剥《は》がし、ぐいと上へ引き上げるだけの手術で四百万円。入院日数二十日間。
「ママンてばかね。皺のことなんてどうして気にするの?」
「男の人が気にするのよ、わたしじゃないわ」
「じゃ若い頃より今のほうがもてるっていう事実はどうなの?」
「嘘《うそ》よ、そんなの。道歩いていて、もう誰もふり向いてわたしを見ないもの」
「あら、あたしなんて、今でも誰かがふり向いて見てくれるなんてことないわ。この事実どうしてくれるのよ?」
「あなたは父親似なのよ」
「はっきり言うわね」
「だって事実ですもの。わたしなんて、あなたの年には十人中十人の男の子が道ですれ違うとふり向いたものよ。二十代でも十人のうち七人はふり向いたわ。三十代の前半は三人くらいに減ったけど」
「皺《しわ》のせいなの?」
「そう思うわ」
「でもあたしは、今のママン、好きよ。皺ごと好きよ。これからだってずっと好きだと思うわ」
「ありがと。でもあなたは男じゃないから、そう言ってくれても慰めにはならない」
「皺なんてくそくらえよ、ママン、気にしないで」
「そうはいかないわ。あなたは若いからそんなこと言うのよ。わたしみたいにもう若くもなく、手に職もなく、結婚している中年の女には、皺が最大の敵なのよ。そのうちあなたにもわかるようになるわよ」
阿里子はしみ隠しのカバーマークを、眼の下に塗りながらため息をついた。
「ママンは皺恐怖症にとりつかれてるのよ。精神分析でも受けたらどう?」
弓子はちょっと突き放したように言った。
「そんなもの、とっくに受けたわ。四回も通ったのよ。あなたには話さなかったけど」
「それでどうなった?」
「皺が余計に増えたわ。ここのところ」
と、阿里子は眉間《みけん》にわざと縦皺を寄せた。
「一回五千円で四回、合計二万円払って、一つ皺を増やしただけよ。だからやめたの」
「ママンの認識が違うのよ。セラピストは皺とり師じゃないのよ。皺にとりつかれているママンの心のあり方を直してくれるのよ」
「もうやめてよ、その話。ますます憂鬱《ゆううつ》になるだけ」
阿里子はいつの間にか火の消えてしまったシガリロを口にくわえて、ライターの火を近づけた。
「せっかくいい気分だったのに、あなたのせいで気分がめいるわ」
「贅沢《ぜいたく》な女ね、ママンは」
と、弓子がベッドの上にあおむけに倒れ込みながら言った。そうやってあおむけに倒れて頭の後ろで腕を組んでも、弓子の二つの乳房はツンと上を向いていた。阿里子はそのことが娘のためにはうれしかったけれど、自分との比較においてはうらやましくもあり嫉《ねた》ましくもあった。
「わかってるの? ママンほど幸せな女なんて、めったにいないのよ。お金持ちのご主人がいて、三人で住むには広すぎるほどの家に住んでよ、車が二台あって、通いのお手伝いが一人いて週に三回来てくれて、ご主人は年のうち三分の一は海外出張で留守がちで。お姑さんの悩みもないし、ご主人の浮気で悩まされることもない。少なくともそういう兆候は今のところないわね。おまけにママンは美貌《びぼう》に恵まれている。ちょっと皺《しわ》っぽいけど。あたしと一緒に出かけて、一度でもあたしのママンだって思われたことある? ママンとあたしと比べて、男たちが欲しそうな顔をするのは常にママンのほうよ。ぴちぴちの十六歳のあたしじゃなくて、三十八歳のママンのほう。あたしの気持ち、真っ暗よ」
「ごめん。傷つく?」
「傷だらけの青春よ。でも事実は受け入れなくちゃね。ママンは美人で、あたしは父親似の色黒不美人」
「だけどあなたはわたしにないもの、いっぱい持ってるわ」
阿里子は本気で娘を慰めた。
「たとえば?」
「知性、頭脳、ユーモア」
「十六歳の女の子に必要なものじゃないわね。十六歳の女の子がもてたいと思ったら、そんなもの邪魔なだけよ」
「でもあなた、かわいいわ。そのこと気づいている?」
「ううん。それに男の子たちも気づいていないみたいよ」
弓子は頭の後ろで組んでいた腕をほどいて、上半身だけ起こすと、母親をじっと見つめた。
「あたしが言いかけてたことの意味だけど」
「わたしが世界一幸せな女だってことでしょ」
「自分でそう思わない?」
「思うわ」
「じゃ、なぜ?」
小さな声だが、阿里子の胸にその質問は突き刺さった。
「なぜって何が?」
阿里子は時間を稼ぐつもりでワインを口に運んだ。
「あたしの質問の意味わかっているくせに」
「そのことが初めから言いたくて、来たの?」
「多分ね。自分でも気がつかなかったけど」
「わたしが出かけていくことがいやなの?」
「もっとはっきり言ったら、ママン?」
鏡の中の弓子の真剣な眼に射すくめられて、阿里子は一瞬黙った。
「つまり、男の人に逢《あ》ったりすることが、いやなのね?」
「男の人によるのよ、ママン」
急に十六歳の女の子らしい素顔を取り戻して弓子が言った。
「ママンが男の人たちに逢って楽しくするのはいいのよ。あたしだって男の子たちと一緒にいると楽しいもの」
「あなたが男の子と一緒にいて楽しいのと、ママンが男の人とひとときを過ごして楽しいのと、きっと意味が違うと思うけどね」
「あら、見くびらないでよ」
と弓子はベッドの上に起き上がると、男の子のようにあぐらをかいた。
「あたしだって男の子とキスぐらいするわよ」
「ママンはしないわ」
「男の子とペッティングだってするわ。もっとすごいことだってしようと思えば……」
「わたしはしないわ。でもあなたはあなたよ。ママン、あなたのこと信じてるわ」
「今、何て言った?」
「あなたのこと信じてる」
「違う、その前」
「その前?」
「男の人とペッティングしないって言わなかった?」
「うん、言った」
「キスもしないって言わなかった?」
「言ったわ。でもそれ、少し訂正。グッドナイトのキスはすることがあるわ。でも舌をからめるようなキスはしないっていう意味」
「嘘《うそ》だ。信じない」
「それはあなたの勝手よ」
「じゃ、なんで肌色の絹の下着なんて着るの? なんでシャワーなんて浴びて出かけるの? 男の人に見せびらかしたり、アレするためでしょ?」
「見せびらかしたことはあるけど、でもスカートの下からチラリとよ。それにアレはしないの」
「だめよ、信じない」
「残念ね」
阿里子は黙ってしみ隠しのカバーマークを点々と顔に塗り終わると、今度はシャネルのファンデーションをスポンジに少し含ませて、それで顔をそっと押さえた。
「ママンがそうやっている姿、どんなふうに人の眼に映ると思う?」
と弓子が戦略を少し変えた。
「あなたの眼にでしょ? それで、どんなふうに映るの?」
阿里子は質問に質問で答えた。
「まさにこれから、男の人の腕に抱かれようとしている女みたい」
「言うわね、あなたも。こういうとき、普通の母親っていうのはどうするんだろう? 娘の頬《ほ》っぺたを力一杯|叩《たた》いたりするんじゃない?」
「もう遅いわよ。それにママンは普通の母親じゃないわ」
「あなたも普通の子じゃないわね。一体どこでどう子育てを間違ってしまったのかしら。反省するわ」
阿里子はほんの少し泣き顔になった。ときどき弓子のことで途方に暮れる。
「あたしの眼に今のママンがどう映るか知りたいって言うから、正直に答えただけよ。今のママンは、まっすぐにパパ以外の男の腕に飛び込んでいく女のように見えるって言ったの。ほんとうにそうなんですもの」
「二度繰り返して言わなくてもいいの。ちゃんと聞こえたんだから。でもほんとうにそんなふうに見える?」
「うん。触れなば落ちんていう風情《ふぜい》。なんだか頼りないなあ」
「うまく説明できるといいんだけど」
と阿里子は自信のない声で言った。
「わたしが男の人と逢《あ》うのは、多分、幸せだからなのよ。浮気もせず、毎月せっせとお給料運んできてくれるパパがいて、わたしにはできすぎた年頃の娘がいて、要するに満ち足りて何の不満もないの」
「顔の皺《しわ》のほかはね」
「意地悪ね」
「何の不満もないと男の人に逢《あ》いたくなるわけ? 変じゃない?」
「それが変じゃないの。ママンの中ではちゃんとつじつまが合うのよ。うまく説明できないけど」
「でも説明してくれなくちゃ」
「だからさっきから頭を悩ませてるのよ。それに何かがひっかかってるのよ、ママンの頭の端のほうに。そのことがずっと気になってわたしの頭は今、混乱しちゃっているの」
「まず一つずつ片づけていったら? そのうちにひっかかっているほうも思い出すんじゃない? 幸せだから浮気できるっていう論法のほうを、ぜひとも先に片づけていただきたいわね、娘としては」
「あっ、思い出したわ」
と阿里子は小さく叫んだ。
「あなた、男の子とペッティングなんてするの?」
「いけない?」
「あなたの年頃の女の子たちはみんなするの?」
「してる子もいるし、まだキスも経験してない子もいるわ。それに仮に女の子たちがみんなしているとしてもよ、ひとがみんなするからあたしもするという発想は、あたししないの」
「わかった、わかった。それで、あの、あなたの場合、それ以上すごいこともやるわけ? そう言わなかった?」
「それ以上すごいことって?」
「ママンに訊《き》くの?」
「抽象的な会話は誤解を招く恐れがあるからよ。つまりアレのこと?」
「アレってつまり、あのアレ?」
そこで母親と娘は顔を見合わせて吹き出した。
「はっきり言ったら、ママン? セックスのことでしょ? 男と女がベッドの中でやることよね? 性交ともいうし、英語ではカーナル・リレーション・シップという例のアレね。ファックとも言うわね」
「恐ろしい娘《こ》ね。いやだわ」
「どうしてママンがそこで赤くなるの?」
「だってドギマギするわ」
「単なる言葉よ、単語。ママンが赤くなるのはあれこれ卑猥《ひわい》なことを連想するからよ。いやらしいのはあれこれすぐ卑猥な連想する大人のほうよ」
「わかったわ。それじゃ訊《き》くけど、あなた、アレもう体験した?」
おそるおそるといった口調だった。
「つまりセックスのことね?」
「うん、まあそう」
「まあそうって、ずばりセックスのことでしょ? どうしてあいまいにボカそうとするの?」
「じゃ言い直すわ、セックス、経験したの?」
すると弓子はひどく真面目《まじめ》な表情をしたかと思うと、突き放すように言った。
「そんなプライベートなこと、たとえ親子だって答えたくないわ」
二人はお互いの顔を見つめ合った。先に視線を逸《そ》らせたのは阿里子のほうだった。
「わかった。ママンが言いたいのはこういうことよ。十六歳でセックスを知るのは格別の悲劇じゃないわ。でも十六歳で妊娠するのは、これは悲劇よ。ピルのこと知ってる?」
「あたしにすすめるわけ? ピル飲めって?」
「すすめたくない。わかってるくせに」
「でもピル飲めって言うの、セックスを奨励しているみたいに聞こえるわ」
「十六の女の子にそんなこと奨励する母親がいると思う?」
「わからない。ほかの母親がどんなものか知らないもの」
「じゃ言い直すわ。わたしがそんなのうれしがると思う?」
「自分は不倫やってるくせに?」
阿里子は一瞬絶句した。
「仮に、ママンが不倫しているとして、わたしが不倫するからあなたも自堕落していいという発想にはならないと思う。少なくともそれはふだんの弓子の発想じゃない。それくらいわたしにもわかるわ。それに言っとくけど、ママンは不倫なんてしていない」
「ちょっと訊《き》いていい?」
弓子の眼が光った。
「自堕落ってどういう意味? 男の子に恋をして愛し合うことは自堕落なことなの? 恋もしないで結婚して夫婦にさえなれば、アレしても自堕落じゃないっていうつもり?」
「恋もしないで結婚したって、誰のこと?」
「ママンよ」
不意を突かれて阿里子はうろたえた。二人とも黙りこくった。ベッドサイドの金色の目覚まし時計がカチカチと固い音で時を刻んでいた。
「ごめんなさい、ママン。あたし言いすぎたみたい」
弓子が急にしょんぼりと肩を落とした。
「うん、そうね。たとえ事実でも言っちゃいけないことがあるわね。ママン、泣きたい気持ち」
「あたしも泣きたい気持ち。自分にとって一番大事な人を傷つけるって、自分も傷つくことなんだね」
「ママンが一番大事な人?」
曇っていた阿里子の表情が晴れた。
「じゃ許してあげる。それにママンも悪かった。ほんとうに恋して好きになった相手と愛し合うことは、自堕落なこととは別よ。訂正するわ」
弓子がベッドから起き上がり、阿里子の座っているスツールのところまで歩いてきて、母親の足元にうずくまった。
「あたし、猫タン」
弓子はそう言って阿里子の膝《ひざ》に頭を押しつけた。阿里子は片手で娘の顎《あご》の下をくすぐってやった。
「グルルル、いい気持ち」
「さっきのことだけど、もう片方の問題のことね」
と、阿里子は片手で娘の髪の毛を愛撫《あいぶ》しながら切り出した。
「結婚している幸せな女に、どうして夫以外の男が必要なのかっていう問題に対する釈明ね?」
「あなたって頭いいのね」
「パパに似たから」
「わかってる。言っとくけど、ママンは結婚するとき確かにパパに恋してなかったけど、尊敬してたわ。敬愛してたと言ってもいい。結婚する男女の間で大事なものはね、恋する心じゃないのよ。そんなもの二か月で冷めてしまうもの。恋だけしていて、もしその恋が冷めてしまったら、どうするの? 結婚をやめてしまうわけにはいかないわね? 結婚って何かっていったら、恋が冷めた後も延々と続く生活のことなのよ。恋が冷めちゃった後で、二人が一緒に暮らしていくために必要なのが、相手を尊敬する心だとママンは思う」
「じゃ、パパはママンを尊敬していると思う?」
「あなたはどう思う?」
珍しく阿里子は、必死なほどの真面目《まじめ》さで娘の眼の中を見つめた。
「そうね、パパもママンを尊敬してると思うわ。ママンのだめさ加減も含めて」
「そう思う?」
「ママンは?」
「わたしもそう思う。だから感謝してるわ、パパに対して」
「そんなこと言いながら、今夜だってパパの留守を利用して男の人に逢《あ》いに出かけるんでしょう?」
「あら、それとこれとは別のことよ」
「ずいぶん勝手ね。パパを尊敬するって言いながら、パパを裏切ってるんじゃない」
「違うわ。ママンは神かけてパパのこと裏切ってなんていない。誓うわ」
「相手と寝なければ、裏切りにならないと思う?」
弓子は鋭く追及した。
「ママンの言うことを一応信じるとしてよ」
「たとえ相手と寝るとしても――わたしは寝てないけど――裏切りにならないと思うわ。わかってもらえないと思うけど」
「でもわからせて」
「努力してみるわ」
阿里子は下唇をかんだ。
「結婚って、素敵よ。生活が安定するし、精神的にもそう。赤ちゃんが生まれてその子が育っていくのを見守るのも素敵。生活の心配をしなくていいし、老後の心配もいらない。死ぬことだって、パパと同じお墓に入るんだと思えば、それほど怖くない。これ結婚のいいところよ。結婚って、素敵で、でも惨め。幸せだけど不幸なの、わかる?」
「わからない」
「そうよね、わからないわよね。パパのこと尊敬しているって言ったわね。多分、愛してもいると思うのよ。でもね、たった一人の男の人を何十年も愛し続けなければいけないことって、惨めなことよ。退屈だし、ときどき死にそうな気持ちになる。これから先何十年も、パパとだけアレをしなければならないのかと思うとき、ときどきだけどあのことが結婚生活の中で一番耐えがたい義務そのもののように感じちゃうの。ごめんね、弓子。こんなこと聞くのは辛いわね。言わなければよかったわ」
急に阿里子は悄然《しようぜん》として呟《つぶや》いた。
「ママンの人生観があたしにもあてはまるとは限らないから、いいのよ。それにもう言っちゃったんだから、最後まで話してくれる?」
弓子は逆に落ち着き払ったものだった。
「いいわ、そうするわ」
と阿里子はうなずいた。
「今、ママンがつきあっている男の人のこと聞いてくれる?」
「聞きたくないけど、いいわ、話して」
「年下なのよ。十歳も。正確には九つ年下。売れない俳優なの。売れないのは彼にそれだけの魅力と売り出そうという情熱がないからよ。話し方にちょっと品がないのね。派手好みだからいつもお金ないし。だから飢えたような感じが常に漂っている。そういうところは正直言って好きじゃないわ。ある意味でどうしようもない男だと思っているの。でもね、こう言ったら弓子が驚くかしら、あの人、あのどうしようもないような売れない俳優が、もしかしたら今のわたしを支えているのかもしれないってこと。いつもじゃないわ、でも束の間、あの話し方に品のない男が、わたしの生き甲斐《がい》そのもののように思えるときがあるのよ。結婚している女にはね、とりわけ幸福な結婚を二十年近くも続けている女にはね、結婚生活の中で、そういうささやかな支えが必要なのよ。寝る寝ないは問題じゃないの。たまたまわたしはあの男と寝ないけど、でも絶対に寝たくもないような男とは逢《あ》いたいとは思わないから。もしも寝るようなことになってもそれはしかたがない。だからママンは肌色の絹の下着をつけるのよ、いつそうなるかわからないから」
「パパに対して何とも感じないの?」
「パパには関係ないもの。パパに落度があるわけじゃないの。パパはパパで一生懸命にやっているわ」
「じゃ、誰が悪いの?」
「悪いのは、結婚というものよ。次に悪いのは多分ママンよ」
「どうしてもそういう男の人がいなくちゃいけないの?」
「うん、今のところはね。どうしても彼が必要なの。でないと、ママンは破裂してしまうと思う」
「まだよくわからない。ママンが必要としているのは、刺激なの?」
「多分似たようなものよ。わたしがちゃんと生きているってことを、しっかりとわからせてくれるもの。わたしが今でも女だっていうことを、わたしにはっきり感じさせてくれるものね。考えてもみてよ、ママンは三十八歳なのよ。三十八で死んだように生きろっていうのは無理よ。ほんとうに死んじゃうもの、わたし」
「ママンに女を感じさせてくれるのに、年下のジゴロみたいな男が必要?」
「悲しいけど、イエスよ」
弓子の温かい体が、阿里子からすいと離れるのが感じられた。
「あたしも悲しい」
「わかるわよ、その気持ち。泣きたい? 泣いてもいいわよ」
「あたしやパパだけで充分じゃないなんて、すごいショック」
「わかるわよ」
「それよりも、ママンが今のようなママンでいられるために、そんなどうしようもない男が存在しているってことがショック」
「わかってもらえるとは思っていないわ」
「今のママンが陽気で明るくて、美人で幸せなのは、そいつのおかげだってことがショック」
「時間の問題よ。ママンだって成長するわ。そのうち過ぎるわよ」
「平気なの?」
「ううん。今すぐはだめ。あの人なしだと、ママン破裂するわ」
「恋してるの?」
「してないわ」
「愛してる?」
「ううん、愛していない」
「そんなのってある?」
「あるのよ、それが。一緒にいるとドキドキするわ。そしてすごく楽しい。さよならを言う時間になると、ママン、自分が蒼《あお》ざめるのがわかるわ。だからといって彼は、家庭を捨てる理由にはならない。あなたやパパと引きかえるわけにはてんでいかない」
「せめてママンがその人に恋をしていると言えば、あたしは許せるんだがなあ」
弓子は疲れたようにため息をついた。
「残念ながらそうじゃないもの」
「そうね。すごく冷めているみたいね」
「そうなのよ、冷めてるの。あら、もうこんな時間。悪いけどあなたとこれ以上お喋《しやべ》りしているわけにはいかないわ、急がなくちゃ」
と言って、阿里子は上下の唇に慌てて真紅《しんく》の口紅を塗りつけた。
「あなたは今夜どうするの?」
「デイトよ」
「あら」
「どうして驚くの? あたしだってボーイフレンドくらいいるわよ」
「そりゃそうね」
阿里子は鏡の前を離れた。
「ママン、いいこと教えたげる」
と弓子が母親の腕を押し止めた。
「耳たぶに頬紅《ほおべに》ちょっとつけてみて。確実に五歳は若く見えるから、だまされたと思ってやってみて」
阿里子は娘の言うとおりに頬紅を指の先で耳たぶに塗りつけた。ほんとうだ。顔に輝きが増したみたいだった。
黒いジャージーのワンピースを素早く着て、ケンゾーの大型のスカーフを肩に巻きつけると、阿里子は娘に明るくチャオ≠ニ言った。
「ママン」
と弓子が呼び止めた。
「過ち犯さないで」
「ママンのこと信用してないのね。ママン、あなたに過ち犯さないで、なんてひと言も言わないわよ。だって信用してるもの」
「信用してもらっていいと思うわ」
「ほんとうに?」
阿里子と弓子の視線がからんだ。
「うん」
と弓子が言った。
「それに多分ピルなんて当分必要ないと思うわ」
「そう」
阿里子は微笑した。
「それ聞いてママンうれしいわ」
それだけ言い残すと、阿里子は弓子を寝室に残して部屋の外に出た。もうそれほど男に逢《あ》うのが楽しいことのように感じられなかった。シャワーを浴びていたときの浮き浮きするような感覚はすっかり消えてしまっていた。
自分をけしかけるようにして靴をはくと、外に出た。今夜すぐにではないけれど、あと二度か三度男と逢って、彼と別れられるかもしれない、と阿里子は思った。
あのときかもしれない
黄昏《たそがれ》どきの南麻布《みなみあざぶ》で、阿里子は急に歩きたくなってタクシーを捨てた。そのまままっすぐ行けば約束の時間に辛うじて間に合ったのだが、どうしても歩いてみたくなったのだ。
翔《しよう》はどうせ待っているのに違いない。煙草のフィルターのところをいらいらとかみながら、貧乏揺すりをしているのに決まっている。フィルターをかむのも貧乏揺すりも下品だからやめなさいと、何度も言ったけど、翔は改めようとしない。いつか貧乏揺すりが耐えがたくなって、翔と別れることになるのかしら、とときどき阿里子は考える。今もそのことを考えながら、広尾《ひろお》のほうへ向かって、黄昏どき特有の蒼《あお》ざめた空気の中を、彼女はゆっくりと歩いていく。
あと三十年は生きるとして、と阿里子は思った。初夏のこんなにきれいな宵の口のぶらぶら歩きが、この後何回くらいできるのだろう? 南麻布のこの界隈《かいわい》でふとタクシーを停めたくなり、男が待っているのを承知でするこんな寄り道が、生きている間にあと何回可能なのかしら? 十回かもしれない、もしかしたらこれと同じ状況なんて二度と起こらないのかもしれない。
そう思うと、阿里子は急に感傷的な気分に陥った。感傷に湿った眼で眺めると、あたりの風景が琥珀色《こはくいろ》のもやに包まれるような気がした。
こんな琥珀色を帯びた光景を、かつてどこかで見たことがあると思った。いつであったかわからないが、やっぱりこんな黄昏《たそがれ》どきに、南麻布かこれに似た街角で、途方に暮れてしまったような気持ちをもてあまして、呆然《ぼうぜん》と立ちつくした記憶が阿里子には確かにあるのだ。いつだったろうか? ずっと昔。少女であるよりもっと昔。
すると急に心の中に小さな穴があき、そこを風が通り抜けるような気がした。
少し行くと花屋があった。歩道の三分の一まで花が溢《あふ》れ出ている。そのあたりだけが、ぱっとはなやかだ。裸電球の下に、花屋の店員が黄色い表紙の本を広げて読みふけっている。
季節の花たちが彼を取り囲んでいた。花屋さんになりたいと夢見た子供時代の記憶が、樟脳《しようのう》の匂《にお》いのようなものと一緒に、阿里子の胸を一杯にした。
誰かに見つめられているという気配《けはい》を感じとって、花屋の店員が顔を上げた。右と左の眼の大きさが違う不思議な顔立ち。だがなんてきれいな顔なのだろうか。一瞬、阿里子は我を忘れてその顔に見惚《みと》れた。
「いらっしゃい」と言って、花屋の店員が膝《ひざ》の上の本を、小さなガラスケースの上に無造作に伏せた。『深呼吸の必要』というタイトルが読めた。詩集らしかった。
「花束を作ってもらおうかしら」
咄嗟《とつさ》に阿里子はそう言った。言ってしまってから少し驚いたくらいだった。
「小さい花束でいいんだけど」
「花は何にしますか?」
男というよりは少年のほうに近い年齢に見える。この人は、自分の美貌《びぼう》に全然気づいていないみたいだわ。
「そうね」
と阿里子は小さな店内の花たちを見回した。
「こんなにあると迷ってしまうわ」
「贈り物ですか?」
「まあ、そのようなものね。わたしがわたしに贈るのよ」
「そいつは素敵だ」
と若者が初めて打ち解けたように笑って、短く刈り込んだ髪を撫《な》でた。
「あなた選んでくれる?」
いいですよ、と若者は言い、あまり迷わずに白バラを一抱え取り上げた。
「白いバラは好きですか?」
「ええ、大好きよ。実は花の中で一番好きなのが白バラなの」
「だろうと思いました」
形のよいのだけ手際《てぎわ》よく選り分けながら若者が言った。
「白バラだけっていうのはどう? 霞草《かすみそう》をわざと合わせないで」
阿里子が口をはさんだ。
「僕もそうしようと思っていました」
「セロファンだけで包んで、リボンはいらないの」
「賛成」
喋《しやべ》りながらも彼の手は絶えず動いていた。男の人が働いているときって感動的だわ。阿里子は夫の働いている姿を知らないし、翔もそうだった。第一あの人は労働をするタイプではない。
「自分で自分によく花束をプレゼントするんですか?」
根元のところを白いひもでしっかりとしばりながら花屋の店員が質問した。
「たまにね」
そう言いながら、阿里子はガラスケースの上の本を無意識にひっくり返した。
――『遠くへいってはいけないよ』という文字が眼に飛び込んできた。花屋の若者が何を読んでいたのか、阿里子は突然知りたくなった。彼女はページをパラパラとめくってみた。『あのときかもしれない』という詩の第四章らしかった。
「ちょっと読んでもいい?」
「ほんとうはいやだけど」
と若者はわずかに眼を伏せた。
「どうして?」
「覗《のぞ》き込まれるような気がするから」
「じゃ、やめるわ」
「でもいいですよ、どうぞ」
彼はわずかに口ごもった。
「つまり、誰でもいいってわけじゃないけど、お客さんならいいです」
「ありがとう。花束を作ってくれている間に読めるだけね」
と阿里子は黄色い表紙の詩集を取り上げて、裸電球の下の丸椅子《まるいす》に腰を下ろした。
その詩はこんな詩だった。阿里子がこれまで読んだ中で一番素敵な詩だった。読みながら、何度も目頭が熱くなり、活字が涙で滲《にじ》んで困った。
「遠くへいってはいけないよ」。子どものきみは遊びにゆくとき、いつもそう言われた。いつもおなじその言葉だった。誰もがきみにそう言った。きみにそう言わなかったのは、きみだけだ。
「遠く」というのは、きみには魔法のかかった言葉のようなものだった。きみにはいってはいけないところがあり、それが、「遠く」とよばれるところなのだ。そこへいってはならない。そう言われれば言われるほど、きみは「遠く」というところへ一どゆきたくてたまらなくなった。
「遠く」というのがいったいどこにあるのか、きみは知らなかった。きみの街のどこかに、それはあるのだろうか。きみはきみの街ならどこでも、きみの掌のようにくわしく知っていた。しかしきみの知識をありったけあつめても、やっぱりどんな「遠く」もきみの街にはなかったのだ。きみの街には匿された、秘密の「遠く」なんてところはなかった。「遠く」とはきみの街のそとにあるところなのだ。
ある日、街のそとへ、きみはとうとう一人ででかけていった。街のそとへゆくのは難しいことではなかった。街はずれの橋をわたる。あとはどんどんゆけばいい。きみは急ぎ足で歩いていった。ポケットに、握り拳を突っこんで。急いでゆけば、それだけ「遠く」に早くつけるのだ。そしたら、「遠く」にいったなんてことに誰も気づかぬうちに、きみはかえれるだろう。
けれども、どんなに急いでも、どんなに歩いても、どこが「遠く」なのか、きみにはどうしてもわからない。きみは疲れ、泣きたくなり、立ちどまって、最後にはしゃがみこんでしまう。街からずいぶんはなれてしまっていた。そこがどこなのかもわからなかった。もどらなければならなかった。
きた道とおなじ道をもどればいいはずだった。だが、きみは道をまちがえる。何遍もまちがえて、きみはわッと泣きだし、うろうろ歩いた。道に迷ったんだね。誰かが言った。迷子だな。べつの誰かが言った。迷子というのは、きみのことだった。きみは知らないひとに連れられて、家にかえった。叱《しか》られた。
「遠くへいってはいけないよ」。
子どもだった自分をおもいだすとき、きみがいつもまっさきにおもいだすのは、その言葉だ。子どものきみは「遠く」へゆくことをゆめみた子どもだった。だが、そのときのきみはまだ、「遠く」というのが、そこまでいったら、もうひきかえせないところなんだということを知らなかった。
「遠く」というのは、ゆくことはできても、もどることのできないところだ。おとなのきみは、そのことを知っている。おとなのきみは、子どものきみにもう二どともどれないほど、遠くまできてしまったからだ。
子どものきみは、ある日ふと、もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」と言われなくなったことに気づく。そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになっていたんだ。
長田弘という人の詩だった。阿里子は詩集の元のページを開いて、そっとガラスケースの上に戻した。
「なんだか泣きたい気分だわ」
ほんとうは、水に濡《ぬ》れたその花屋のコンクリートの床にしゃがみ込んで、わっと泣き出したかった。小さな女の子みたいに。
「でもだめよ。泣けないわ」
「花屋の店の中だから?」
と若者がセロファンの合わせ目を、セロテープで止めながら訊《き》いた。
「そうじゃなくて、どこでも」
「大人だから?」
「そうよ。『遠く』に来てしまったから」
阿里子はふと若者の横顔に眼を止めた。
「あなた幾つ?」
「十九歳です」
「まあ、ずいぶん若いのね」
「僕も自分の今の年があまり好きじゃないな」
「どうして?」
「おもしろくもおかしくもない年齢だもの」
「おもしろおかしく生きたいの?」
いつか、彼が自分の美貌《びぼう》に気づくか、女たちの彼を見る視線の熱さによって自分が美しい雄であることを気づかされる日がくる。そしたら彼は少し変わるだろう。
「子供の頃ね、お花屋さんになるのがわたしの夢だったわ」
花屋の若者からでき上がった花束を受け取りながら、阿里子は言った。
「花屋なんて見かけほど楽な仕事じゃありませんけどね。ほとんど肉体労働者みたいなものだな」
「それ、素敵なことだと思うけど」
「汗をかくのが? バラの棘《とげ》でひっかき傷が絶えないことが?」
「ええそう。そのうちに人は汗もかかなくなり、傷つくこともなくなるわ」
「お客さんは、汗はかかないかもしれないけど、傷つくことはあると思うな。どちらかというと、自分から進んで傷つけるタイプに見えます」
「十九歳で何がわかるの」
阿里子はわざと突き放すように言った。
「わたしの息子みたいな年のくせして、生意気ね」
でもそれは親猫が子猫をじゃらすような言い方だった。
「息子の年だと話も通じませんか?」
阿里子はバッグの中から一万円札を取り出して花屋の少年に渡した。そのとき二人の指が触れ合った。
「お花屋さんは水仕事みたいなものだから、冷たい手をしていると思ったけど、あなたの手温かいわ」
指先が触れ合ったとき、ほんの一瞬ドキリとしたのだった。
「私の娘は今十六歳だけど、完全にゾンビーと話しているような気がするときあるわ。まるっきり話が通じないの」
「僕もゾンビーですか?」
花屋の十九歳は釣り銭を数えながら苦笑した。
「だけどどうして、大人の人は僕たちを差別するんだろう?」
「ゾンビーって言ったことを怒ったの?」
「何かというと近頃の若者はものを知らないとか、礼儀を知らないとか、ユーモアに欠けるとか。僕たちは大人を差別したりしないのに」
「今に限らず、大人は子供たちをつかまえるとそう言うのよ。わたしが若い娘のときにも、その頃の大人たちは近頃の若者は≠ニ言ったものよ。あなたもいつか大人になって、自分の子供を育ててみればわかるわ」
「ほらね、また子供扱いだ」
「じゃ、そこの鏡の中の自分を見てごらんなさい。何が見える?」
彼はチラと花たちに囲まれた自分の姿を一瞥《いちべつ》して肩をすくめた。
「何が見える?」
もう一度阿里子は同じ質問を重ねた。
「僕が見える。花と、あなたが見える」
「それだけ?」
「夜の一部が見える。まだ完全に夜じゃないけど」
「それだけ?」
「ほかに何があるっていうのだろう?」
少年の眼が遠くを見るふうに細まった。
あなたを見ているわたしが見えない? わたしの眼の色。女の眼。わたしはあなたの前を素通りしてしまうことができなかった。かといって花束を買う以上のかかわりをもつこともできない。ほら、ヴィスコンティのあの映画、『ベニスに死す』の老教授のように。彼は美少年に恋いこがれて死んでしまうのだけれど、あなたがあの美少年みたいなものよ。あなたが十九歳ではなく二十七歳だったらいいのに。自分の魅力に自惚《うぬぼ》れている男だったら、事は簡単なのだけど。わたしはウインクをして誘惑すればいいだけ。
若者は釣り銭と一緒に白いバラを一本適当な長さに折って、それを阿里子に手渡した。
「これは僕からのささやかな贈り物」
「うれしいわ。男の人からお花をもらったことがないわけじゃないけど、今までで一番きれい」
若者は腰に手をあてると、一歩下がって、阿里子がそのバラを胸のポケットに差すのを見守った。
「ありがとう。どう?」
と阿里子は眼を上げて訊《き》いた。返事のかわりに若者は微笑した。胸を突かれるような笑顔だった。無防備さが全身に漂っていた。
女は決してこんな無防備に笑うことはできないだろう。娘の頃の笑い顔を幾つか思い浮かべたが、この青年の無垢《むく》、無防備さには遠く及ばない。
男がそこまで無防備になれるのは、どこかでちゃんと自分の強さを自覚しているからなのだ。いざとなればちゃんと雄として闘えることを知っているからだ。
阿里子は眼の前でニコニコ笑っているその青年が、雄として闘うさまを思い浮かべてみた。すると彼女は自分が密《ひそ》かな欲望で汗ばむのを感じた。結局こういうことなのだ。きれい事を並べたけど、わたしはこの子が欲しいだけなのだ。
「さよならね」
と、阿里子は唐突に言った。
「また来てください」
営業用の声と誠実さを半々に混ぜて、若者が言った。
「もしまた自分に花束が贈りたくなったら、あなたに作ってもらうことにするわ」
右手でつかんだバラの花束を軽く振ってみせると、阿里子はすっかり濃くなった黄昏《たそがれ》の中を歩き出した。
失恋したみたいな気持ちだわ、と阿里子は声に出して呟《つぶや》いていた。十九歳の花屋の店員に一目惚《ひとめぼ》れ。でも出逢《であ》ったときからすぐに別れなければならない出逢いというものがあるのだ。今まで知らなかった人なのに、出逢ったとたん、なぜか別れがたくて。
だからといって、あの子をどうこうできるわけでもないし、あんな若者を連れ歩いたり、ましていちゃついたりするのは、わたしの趣味じゃない。
では何なのかしら? よくわからないけど、私が三十八歳で、人生の秋の日にさしかかっているということかしら?
花屋の店先に、あの子を手つかずでそっと残してきたのが哀しかった。あの子は大人と子供の間で、今、揺れ動きながら、大人に近づいたり子供に戻ったりしているのだ。
彼にとって、阿里子は「遠く」の世界だ。阿里子から見るとあの子はやっぱり「遠く」の子だ。手を差しのべて、こちら側へ引っぱり込むことはできない。あの子は自分で「遠く」へ旅立てばいい。
一体わたしは何をしているのだろう? 阿里子は不思議そうに手にしたバラの花束を見つめた。こんなものをどうして買ったりしたのだろう? 少し魔法が解けたような感じだった。
翔は思ったとおり、貧乏揺すりで待っていた。フィルターに歯型のついている吸い殻が全部で七つ。阿里子が席に着くと新しいポールモルに火をつけて、フィルターをかみ、渋面《じゆうめん》を作った。
「わたしが遅刻した理由|訊《き》きたい?」
「きみが話したいならね」
「うん、話したいわ。とても素敵なことだから」
「じゃ、話したら?」
翔はあくまでもクールだ。
どんなふうに話そうかと阿里子は少し思案した。
「世にも短い恋愛物語よ。聞いてくれる?」
テーブルの上にそっとバラの花束を置いた。
「そいつと関係があるわけ?」
顎《あご》でバラの花束をさして、翔が口をはさんだ。
「あるわ」
「なるほど」
「なるほどって?」
「男の影が見えるよ」
「少年よ。十九歳」
「きみの半分だ」
「親子ほど違うわ。それが問題なの。わたし、一目でその子に恋したのよ。わかる? 一目惚《ひとめぼ》れって信じる? 一目で心を鷲《わし》づかみにされるの。痛いのよ。初めてだわ」
テーブルの上に置かれている翔の手に自分の手を重ねて、阿里子は言った。
「手が冷たいのね。あの子はとても温かい手をしていたわ」
「手が早いね。一目惚れですぐ手を握るなんて」
翔がしゃれのつもりでそう言った。
「偶然に指が触れただけよ。偶然でなければ、あの子に指一本触れることさえできなかったわ。順序立てて言うとね、花屋の店員だったの。裸電球の下で詩集を読みふけっていたわ。それで私から声をかけたの。黙って通り過ぎてしまうことができなかったから。花束を作ってくださいって。
一瞬顔を上げて彼はわたしを見たわ。詩の世界からすぐには現実に戻れなくて、ぼうーっと輝くような表情をしていたわ。右と左の眼が違うのよ。右は一重で左は二重なの。ずっと昔、わたし猫を飼っていたの。その猫がペルシャ猫と虎猫《とらねこ》の雑種で、右の眼が蒼《あお》くて左が緑色だったわ。その子を見たとき、あの猫を思い浮かべたわ。もう死んでしまったけど、とてもきれいな、人を夢中にさせる猫だったのよ」
「その子もね」
歯の間でフィルターをかみながら翔が言った。
「わたしね、その猫がまだ小さなときに見かけたのよ。首輪がついていたから誰かの飼い猫だってことはわかっていたわ。でも欲しかったの。どうしても欲しくて、そのまま家に連れてきてしまったの。ものを盗んだのは、それが初めてで最後よ」
「その子も盗みたかった?」
「ええ。あの店先から誘拐してしまいたかった。どこか誰もいないところに拉致《らち》してしまいたかった。何もかも失っても悔いないわ。あの子と、たとえ二十四時間でも二人きりでいるためなら、夫も弓子もあなたもみんな投げ出せるわ。ほんとうにそう思ったわ。
勇気がなかったの。理性や常識や知恵が働いたの。まだ何かを始めてもいないのに悔恨し始めるのよ。小猫を盗んだときには何も恐れなかったけど」
「それが大人になるということだろうね」
「そうなの。それだけ少女の日から遠くへ来てしまったというわけ」
「密《ひそ》かに恋を葬ったというわけだ」
「世にも短い恋物語の巻の終わりよ」
阿里子はほほえんだ。
「それが三十分遅れた理由」
「きみを待っている間に三人の女が僕に色眼を使ったんだぜ」
「あら、わたしだって、もし彼女たちの立場だったらあなたに色眼を使うわ」
そう言いながら阿里子は反対側の席に移り、ぴったりと翔に体を押しつけて囁《ささや》いた。
「肌色の絹のスリップをつけてきたのよ。肢のつけ根にあなたの好きな香水をすり込んであるわ。それに今夜はパンティをはいていないのよ」
「まさか」
「嘘《うそ》だと思うのなら調べてごらんなさい」
阿里子はテーブルの下でそっとスカートをたくし上げた。
「人に見られたらどうする?」
たいして心配をするふうでもなく、翔がたしなめる。
「よけい燃えるわ」
「淫乱《いんらん》だな」
「あなたのせいよ」
翔の手が阿里子の太腿《ふともも》の上に置かれた。
「お食事の予約はしてあるの?」
「七時に」
「何を食べるの?」
「タイ料理」
「大好き」
翔の手が素早くスカートの下に滑り込む。
「……素敵」阿里子の息が甘くなる。
「もっと奥よ」
「タイ料理は初めて?」
わざと何ごともないような顔で翔が訊《き》いた。
「プーケットとチェンマイに行ったとき、向こうで食べたわ」
翔の手が阿里子のスカートの下の絹のスリップをかき分けるのがわかった。
「今夜の店も味のほうは確かだと思うよ。タイ人のコックが作っているから」
翔の指が阿里子のスカートの一番奥にあるものにようやく触れた。彼はニヤリと笑うと、彼女の耳を素早くかんだ。
「今ここでやめようか? それとも続ける?」
一つおいたテーブルから若い女が二人のほうをじっと見つめている。その顔の驚いたような表情を見ると阿里子が言った。
「あの娘《こ》気づいたみたい」
翔がゆっくり眼を上げて若い女を見た。女は慌てて窓の外に視線を泳がせた。
「でも続けて。すごくいい気持ち」
翔が左手で煙草をくわえ、ライターをつける。その間の彼の右手は彼女のスカートの奥をまさぐり続ける。
「そう言えばあなた日焼けしているわね。どこで焼いたの?」
「猫の額ほどのベランダで」
「ばかね、嘘《うそ》でもいいからチェラティンとかバリとか言うものよ。ああ素敵だわ、溶けちゃいそう」
「また見てるよ、あの娘」
「見せておきなさいよ。あら、困るわ、わたし……ああ」
「困るならやめるよ」
「意地悪ね」
「まさか、このバーのこんな場所でイクんじゃないだろうね」
「あなた次第よ。じゃ、やめて」
けれども翔は攻撃の手を引かない。
「こんなの初めてよ」
と阿里子が小さくあえいだ。
「僕だってそうさ」
「もうどうしていいかわからない」
「まさか叫んだりしないだろうね」
「叫ばないように努力するわ」
若い娘の視線はいまや二人のテーブルの下に釘《くぎ》づけになってしまっている。相手の若い男は何も気づいていないみたいでしきりに何か喋《しやべ》っている。
「痙攣《けいれん》がくるわ」
阿里子の瞳《ひとみ》がうつろになる。彼女は下腹に自分の手を強くあてると、座ったまま軽くくの字になって眼を閉じた。「今よ」光景が白濁したようになってしばらく何の物音も阿里子の耳に届かなかった。
「やったね」
と、やがて翔がニヤリと笑った。彼は濡《ぬ》れている指を阿里子の内腿《うちもも》に軽くこすりつけてから、手を引いた。二人は同時にため息をつき、それから声を殺して小さく笑った。
「出ようか」
と翔は言い、阿里子を助け起こした。
「店中の噂《うわさ》にならないうちにここを抜け出そう」
「大げさね」
「僕らは二度と出入り禁止だね」
「まさか」
翔に腕を支えられて阿里子はレジに向かった。通りすがりに、先刻の唯一《ゆいいつ》の目撃者の娘に阿里子は素早くウインクをした。
店の外に出ると今度は声を殺さずに、二人は思いきり笑った。
二人は南麻布の交差点まで歩き、反対側からタクシーを拾うことにした。
「阿里子が好きだよ」
と翔は歩きながら言った。
「きみの臆面《おくめん》もないところが」
「わたしは正直なだけだと思っているけど」
「正直な大人なんていないさ。臆面がないんだよ」
「それならそれでいいわ。そこが好きだと言ってくれるのなら」
花屋の前に差しかかった。裸電球の光が強く、前よりも黄色くなっていた。若者はやっぱり詩集を読んでいた。
バラの花束を忘れてきたことを阿里子は思い出してハッとした。同時に若者がまっすぐに阿里子を見た。それからゆっくりと視線を連れの翔に移し、もう一度阿里子の顔を見ると、口の端をわずかに歪《ゆが》めるようにして微笑した。それからそのまま二人の背後のどこかの夜の空間を見つめた。
そのときだった。阿里子はなにか見抜かれたような気がして恥ずかしかった。若者は彼女を見抜き、彼女の連れの男の質を見抜き、二人の関係を見抜いたのだ。
阿里子は自分が恥ずかしかった。横でオーデコロンと煙草の匂《にお》いをさせている自分の男が恥ずかしかった。
花屋の若者は再び詩集に集中し始めた。もう二度と顔を上げて阿里子のほうを眺めそうにもなかった。
「きみが言うほど美男子でもないじゃないか」
と、翔が阿里子を促しながら言った。
「どこにでもいるような普通の若者だよ」
そんなことはないわ、と打ちひしがれて阿里子は呟《つぶや》いた。今の表情見た? たった今、あの子は乗り越えてしまったみたい。子供から大人になってしまったみたい。「遠く」のほうへ来てしまった。彼には見え始めたのだ。人生の諸々のことが。
今すぐにはそれがわからないかもしれないが、いつかふり返ってみてこの瞬間を思い出すだろう。
花を買った中年の女がいたことを。そして彼女が恥じていたことを。なぜ恥じていたかを。あのときかもしれない、と彼は思い出すだろう。
二人で乾杯
暢子《のぶこ》から電話があったのは、梅雨が明けて間もなくの頃だった。普通の主婦が、家族の者を会社や学校へ送り出し、ひととおり家事をやり終えた頃の時間帯。
自分のために、コーヒーをていねいにいれて、ガラス越しに庭に射している夏のギラギラする日射しを眺めていたときだった。
その時間に阿里子にかかってくる電話は、目下の恋人か、食い道楽の仲間の一人に違いない。
自分の男からかかってくる電話にすぐとびつくような印象を与えるのはおもしろくないので、四つ五つと呼び出しが鳴るのを待って、ようやく阿里子は受話器を取り上げた。
それが山際《やまぎわ》暢子からの電話だった。
「どうしているかと思って」
と彼女は陽気な声で言った。
「あなたこそ。先週の『おいしいものを食べる会』にも顔見せないし、先月も欠席だったからみんなで男でもできたんじゃないのか、って噂《うわさ》してたのよ」
「それが実はそうなのよ、男なの」
と、暢子はいともあっさりと認めたので、阿里子はちょっと度胆を抜かれて絶句したくらいだった。
「ほんとうに?」
と、ややして訊《き》き直した。
「ほんとよ。目下大恋愛中」
抑えきれない歓《よろこ》びが、電話線を通して伝わってきそうだった。
「私今、すごく幸せよ。もったいないくらい」
「大丈夫?」
そんなにのぼせ上がっていたら、家人に知られはしないかと、阿里子は人ごとながら心配なのだった。
「うちの人?」
とさらに晴れやかに暢子が笑った。
「それがね、うちの人とも最近、なんだかすごくうまくいっててね、両方でしょ、大変なのよ」
「あら、じゃ、セックスライフは充実しているってわけね。ごちそうさま」
「それならいいんだけど、充実しすぎて、ひりひり痛いわ」
と臆面《おくめん》もなく言って、暢子はくすくすと笑った。
「そのことを私に言うために電話くれたの? あそこがひりひりするくらいアレやってるって?」
「まさか、ばかね」
と暢子。
「それじゃ当分、われわれ女どもの集まりなんかに顔を出しそうもないわね」
「意地悪言わないの、阿里子。それよりわかってよ。私、今年で三十九歳よ」
「私もよ」
「相手は幾つだと思う?」
「若いの?」
「二十二」
「まさか」
「嘘《うそ》じゃないわ」
「息子といったっておかしくない年だわね」
「私もそう思う。でも自慢にならないわね」
と、ちょっぴり暢子は自嘲《じちよう》ぎみな声で言った。
「最初に熱上げたの、どっち?」
と阿里子は訊《き》いた。
「向こうよ、決まってるわ。息子の家庭教師なの」
「ああ、ときどきあるやつね」
「そんな冷めた口調で言わないでよ」
「だけど、ちょっと安易すぎない? 自分のところに来ている家庭教師に手を出すなんて」
「私が? ひどいわね。そんな言い方しないでよ。向こうが猛烈にのぼせ上がったのよ」
「相手にしないという手もあったわけよ。大人の女の分別をきかせて」
「もちろんそうしたわ」
「でも結局、手を出した。違う?」
「あんなに激しく男から思われてごらんなさい」
「男っていったって大学生でしょう」
「大学生でも男は男よ」
「ああ、なるほど」
「何がなるほどなの? 冷たいのね」
「あなたの頭を冷やしてあげようと思う一心の親心よ。しようのない人ね」
「もう遅いわ。当分だめよ。だって私、頭なんて冷やしたくないもの。このままずっとしばらくのぼせ上がっていたいもの」
「始末に負えないわね」
と阿里子は苦笑した。
「そんな若い男のどこがいいの?」
「全部よ。身体なんてすべすべしていて、どこもかしこも固くしまっていて、それはきれいよ」
「適当にしておかないと、ヤケドするわよ。いいこと、私の忠告を聞く耳ある?」
「ううん、今はない。だから忠告しても無駄。ヤケドくらい覚悟の上よ。適当になんてするつもりないし、こうなったら、最後の恋と思って、燃え尽きたっていいんだ。そう思ってるわ」
「だったら、密《ひそ》かに燃え尽きてちょうだい」
「そのつもりよ」
と、急に暢子は現実的な声で言った。
「どんなに身体がすべすべしてきれいでも、そのことのために今の生活を棄てようとは思っていないし、あの子が主人の代わりになれるわけでもない。狂っているようでも、どこかでちゃんと冷めているから大丈夫。それに完全犯罪だしね」
「そのまま無事終了するといいんだけど」
「そんなこと言わないでちょうだい。あの子との終わりのこと考えると、胸が張り裂けるわ。今はだめよ。今すぐはね。今すぐあの子とだめになったら、私……」
「破裂しちゃう?」
阿里子は言葉を探した。
「そう。まさに破裂するわ」
「わかった。ところで私はどうすればいいの? 忠告も聞く耳持たないとしたら?」
「なんにも。ただ聞いてもらって、うれしいわ」
「あなたが勝手に話したのよ。私は聞かされただけ」
「もうしないわよ、電話」
「怒ったの?」
「怒ってない。むしろ自分のことを怒ってるの。あなたに話しながら、自分に猛烈に腹が立ってきたわ」
「それだけ冷静なのよ。それ聞いて安心した」
阿里子は優しく言った。
「電話またちょうだい。彼のこと聞かされてもがまんするから。遠慮しないでね」
「ほんとうにいいの?」
と束の間、暢子の声が明るくなった。それから二言三言、二人は女友だちの噂《うわさ》をしてから電話を切った。それが梅雨明けで、暢子のほうからの連絡はそれきりになった。
気になっていたので阿里子は一月《ひとつき》ほどの間に四度、自分のほうから暢子に電話をしてみた。二度は誰も出なくて、一度夜九時過ぎにしたときは暢子の夫が出た。
「女房はいませんが」
と山際は低い声で言った。暢子の夫には一、二度|逢《あ》っているが親しく私語を交わすということはなかった。たいてい挨拶《あいさつ》程度で終わっていた。
「電話をいただきたいのですが」と口ごもると、山際は「伝えておきましょう」と言って、自分のほうから先に電話を切った。
しかし、暢子からその夜、連絡はなかった。翌朝もなくて、二、三日してからもう一度、今度は日曜日の午前中に電話をしてみた。声変わりのしかかった男の子が出た。
「母はいません」と硬い声で少年は言った。
「お出かけ?」と阿里子は訊《き》いた。
「そうですけど」
「何時頃戻るかわかりますか?」
「わかりません」
「じゃ伝言をお願いしようかしら」
「いいですけど」少年は口ごもった。
「いつ帰るかわかりませんけど」
「え? どういうこと?」
しかし、少年は同じ言葉を繰り返さなかった。固い沈黙が流れた。
「もしもし、そこにお父さまいらっしゃる?」
「はい。代わります」救われたように少年が言った。
少し待たされて、聞き覚えのある低い男の声が電話に出た。
「山際ですが」
阿里子はもう一度名乗った。
「家内にご用でしたら」と相手が言った。
「当分、連絡がつきませんよ」
「あの、暢子さんは」
「出ました」
「…………」
「それでは失礼」と先方が切りかけた。
「ちょっとお待ちになって」阿里子は鋭く言った。
「あの、ご実家のほうでしょうか?」
「いや。違うでしょう」
「では、どちらへ?」おそるおそる訊《き》いた。
「わかりませんね」
はっとして彼女は喉元《のどもと》へ手をやった。その気配《けはい》が伝わったのか、暢子の夫が逆に訊いた。
「何かご存じですか?」
「私が? いいえ、とんでもない」
あわてて眼に見えない相手に向かって首を振った。
「そうですか」と山際は呟《つぶや》いた。
「先夜も一度電話をくださいましたね」
「はい、何度かしたのですが、なかなかつかまらなくて」
「立ち入ったことをお尋ねしますが、家内のことで何か耳にしたからではありませんか?」
「そういうわけではなく」と阿里子はうろたえた。
「ご存じかと思いますが、月に一度、私たち集まるものですから……。何かおいしいものを食べようじゃないかという女のくだらない集まりなんですけど、その連絡に何度かお電話をさし上げましたの」
「なるほど」と山際は言った。
「なるほど。――女性というのは、そういう集まりでプライベートな問題をあれこれ喋《しやべ》るものでしょうな」
質問というような訊《き》き方ではなかった。自分に納得させるふうな感じだった。
「家内は、何か言いませんでしたか?」今度ははっきりと質問だった。
「私は別に聞いていませんが」
と阿里子は語尾を濁した。家庭教師の一件を口にしてよいのか、少し時間をかけて考えたかった。
「女の集まりのときには、バーゲンセールの情報交換とか、今度はどこのレストランで食事をしようとか、およそくだらない話題ばかりですから」
実際に女たちがランチの席で交わす会話の内容を男が知ったら、肝をつぶして驚くだろう、と阿里子はこんな状況なのにもかかわらず、少しおかしかった。事実、彼女は暢子の夫のベッドの中の性癖まで聞かされて知っている。阿里子自身には、夫であれ誰であれ、自分のかかわった男との情事の一部始終を他人に話す趣味はないが、女たちの大半が、平気で自分の夫や恋人のごくプライベートな部分を、あからさまに喋《しやべ》るのだった。
――もうワンパターンもいいところ、と暢子は言った。おっぱい触るでしょ。かわるがわる三回ずつもんでおいて、下へ移るのよ。それからあの部分へ、刺激を与えるというよりは潤っているかを確かめる感じで、二、三度こねまわして(そこで暢子はニヤニヤ笑った)、さっさと入ってくるわ。それからカッキリ三十四回突いて、私がイキそうかどうか訊《き》くのよ。イクわけないじゃない。突くのがカッキリ三十四回ってわかった日から、私は不感症になったものね。
でもね、まだだって言うと、また、初めから三十四回突き直すから、イクふりするのよ。だって三十四回ずつ何十回同じこと繰り返したって無駄だもの。私、すりきれちゃうわよ。それでね、イクわよ、イクわよ、ってあえぐのよ。すると右に三回、左に三回腰を回して、「あっ」と小さくうめいて、それで一巻の終わり。
「へえ、『あっ』というわけ?」
と女たちの誰かが言った。
「そう、『あっ』て小さく言うの。ちょっと驚いたときみたいに、『あっ』って、ため息みたいにひと言」
「もしもし」という山際の声で阿里子は我に返り、一人で少し赤面した。
「もしも家内のほうから万一、あなたに連絡がありましたら、現在の居場所だけでも訊《き》いておいてもらえませんか」
「ええ、もちろん」慌てて阿里子は答えた。
「下のお子さん、確か来年受験でしたわね?」
「そうです」
「こんなときに大変ですわね」
「三月まで家庭教師がいたんですがね」
「では、その方やめましたの?」
「今年就職したんですよ」
「今は?」
「夏休み中は予備校の夏期講座に通ってます」
「その方の電話か住所わかります?」
「誰ですか? 前の家庭教師?」
「はい」
「わかりますよ」と山際は言った。
「しかし、まさか大友君のことを疑っているんじゃないでしょうねえ」
「疑ってはいらっしゃいませんの?」
「全く疑っていませんよ」山際の声に苦笑がまじった。
「ありえんですな」
「そうですか……」
「そんなことを家内はほのめかしでもしたんですか」
「というわけでも……」
「大友君はくそ真面目《まじめ》な男でね、どちらかというと貧相な感じの小柄な男でした。家内があの若者とどうのなんてことは、まず万が一にもないでしょうな」
山際はきっぱりと断言した。そう暢子の夫が言う以上、阿里子としては黙るほかなかった。
落ち着かないまま一週間ほどが過ぎた。
「ママン、どうしたの、浮かない顔しているわね」
娘の弓子が心配して訊《き》いた。
「まさか、ママンの恋にヒビが入ったんじゃないでしょうね」
もともと色が黒い娘なのに、このところサーフィンに夢中で連日のように千葉方面へ出かけているので、表も裏もない真っ黒に焼けている。
「色の白いのは七難を隠すっていう言葉知らないの? そんなに焼いて一体どうする気?」
「ミクロネシアじゃ、こんな私でも美人なのよ」
「ここは日本ですよ」
「ごまかさないの。ママン、何があったの? ママン自身のこと? それともパパの浮気がバレたの? もしかしてあたしのことかしら? あたしだったら当分大丈夫よ。男の子よりサーフボードと波に恋してるんだから」
「あなたのことは心配してないわよ。それよりパパの浮気って?」
「たとえばの話よ」
「たとえば? 何か知ってるのね」
「子供の仁義としては言えない」
「どっちの味方なの、パパなの、わたしなの」
「そんなの無理よ。そういう問いつめ方は親として最低だわ」
「最低でもいいの」
「ママンの味方よ。同時にパパの味方でもあるわ。ママン覚えてる? ずっと昔、あたしがちっちゃかったガキのとき、やっぱり似たような質問でママンはあたしを苦しめたんだから」
「あら、そう」
「そうよ。忘れちゃったの? ママンとパパとどっちが好き? って、ママンは訊《き》いたのよ。なんでだかはわからなかったけどママンは泣いてたわ。眼に涙が一杯たまっていたのを覚えている。あれは戦略としては大変にずるいわよ」
「そんなことあった? じゃ、きっとパパと喧嘩《けんか》でもしたときじゃなかったの?」
「ケロリとしてよく言うわ。ママンにとってはそれでよくても、小さな娘の心には忘れられない傷になることだってあるんですからね」
「そうなの? 傷になったの?」
「ママンがあたしにつけた傷は数々あるけれど、かなり深い傷のうちの一つね」
「大げさに言わないでよ」阿里子は苦笑した。
「それにしてもあなた、ママンとパパとどっちが好きだったの、その頃」
「あたしね、一生懸命考えたのよ。ちっちゃな頭が変になるくらい考えたの。それでこう答えたのよ。あたし、ママンが一番好きって」
「あら、ありがとう」
「でもパパにも言ったの。パパも一番好きって」
「そういうのをコウモリっていうのよ、裏切り者ね」
「ママン嫌い」
「怒ったの?」
「もう慣れてるわ。でも嫌いよ、ママンのそういう軽薄さ。今はあたし、ボキャブラリーがたくさんあるからちゃんと言い返せるけど、それでも傷つくわ。ママンが一番好きだったのはほんとうよ。でもパパも一番好きだったのもほんとうよ。どうして大人は子供に、どっちが好きかなんて、愛情に一番と二番をつけさせるの? そんなこと決められるわけがないじゃない。パパはあたしを愛してくれてたし、ママンもそうよ。あたしはどちらも一番好きだった」
「わかった、ごめん」
「いいのよ。それよりママンの心配ごとは何なの?」
「言いたくないの」
「自分のこと?」
「自分のことだったら喋《しやべ》っちゃうわ」
「友だちのこと?」
「そうよ。大切な友だちのね、人に言えない秘密」
「自分の娘にも言えないの?」
「大切な友だちの秘密は言わない」
「そういうママンて好きよ。モラルがちゃんとしてるから」
「ありがと」
慰められて阿里子は娘の黒い顔を見て微笑した。それにしても可哀想《かわいそう》に父親似のため、それでなくとも無器量な娘が、眼もあてられないほど日焼けして、鼻の頭と額が因幡《いなば》の白兎《しろうさぎ》≠ンたいに赤むけになっている。白兎じゃなくて弓子の場合、黒兎だけど。
「ちょっと訊《き》くけど」
と阿里子は、サーフボードをかついで出かけようとしている娘に言った。
「あなたの年頃の男の子たちって、年上の女のことどう思ってるの?」
「年上って、どのくらい年上のこと? 二つとか三つとか?」
「ううん、もっとずっと年上」
「十も十五も?」
「もうちょっと」
「それじゃ、おばんもいいとこじゃない」
「そういう話、聞いたことある?」
「自分の母親みたいな年の女の人とどうなるとか?」
「うん、そう」
「実際の母親とほんとうにどうにかなっちゃってる男の子の話はたまに聞くけど」
「まあ恐ろしい。なんてこと言うの」
「だけどほんとう。今や一人っ子の時代でしょ。あたしは娘でよかったと心から思うわ。もしも息子だったらと考えるだけでもぞっとするもの」
「なによ、その言い方」
「男好きのママンのことだから、きっと舐《な》めるようにかわいがるわよ」
「自分の息子を誰が舐めたりするものですか」
阿里子は本気で腹を立てた。
「だけど一人息子って特別なんだってよ。自分の愛する夫に似てる子でしょ。もう食べちゃいたい一心で、息子とアレやっちゃう母親もいるんだって」
「気持ち悪いこと言わないでよ。吐き気がするわ」
「娘でよかったと思いなさい」
「思ってるわ」
「息子が生まれてたら、今頃吐き気くらいじゃすまなかったかもしれないんだから」
「いい加減にしてよ。なんでこういう話になったの」
「ママンの友だちが、うんと若い男の子と駆け落ちしたかなんかしたからでしょ」
「……! わたし、そんなこと言ってないわよ」
「言わなかったっけ?」
因幡の黒兎《くろうさぎ》がとぼける。
「勝手な想像でものを言わないでちょうだいよ」
娘の勘のよさに内心ドキリとしながらも、阿里子は一応怒ったふりをせざるを得ない。
「何をそうトゲトゲしてるのよ、ママン」
「わたしトゲトゲなんてしてないわ」
「してますよ。どうしたの? その駆け落ちしたお友だちのことが心配なの? それともその人たちの行動力に嫉妬《しつと》してるの?」
「嫉妬ですって?」
阿里子は娘の発想にびっくりして大きな声でわめいてしまった。
「なんでわたしが、二十二歳の家庭教師と駆け落ちした人に嫉妬なんてするのよ!!」
「わめかないでよ、ママン」
弓子がニヤリと笑った。
「ハハン、相手は家庭教師か」
「もういいから行って。あなたと話していると頭が変になるわ」
「それはこっちの台詞《せりふ》よ。ママンの頭はもともと変なのよ。じゃ、あたし出かけるから、いい子にしてるのよ」
「言われなくてもそのつもりよ」
「妙な気起こしちゃだめよ」
「妙な気って?」
「刺激されて連鎖反応起こすとか」
「そんなもの起こさないわよ」
「今のボーイフレンドあたりが、ママンにはお似合いなのよ」
「なんにも知らないくせに、生意気言わないの」
「じゃね、バァイ」
「チャオ。今夜は早く帰ってきてよ」
「出かけないの?」
「家にいるわ、ご飯一緒に食べない?」
「多分だめ。タクローと約束しちゃったから」
「タクローって?」
「ワン・オブ・マイ・ボーイフレンズ」
「へえ。どんな子?」
「マザコンの一人息子。それがすごい派手っちいママでさ。ママンといい勝負よ」
「マザコンのどこがいいの?」
「いいとこないわよ。好きな食べ物がケンタッキーフライドチキンとマクドナルド、なんてマザコンの男の子、誰が惚《ほ》れると思う?」
「じゃ、なんでつきあうの?」
「だってあたしもケンタッキーとマクドナルドに目のないマザコン娘だもの」
そう言い残すと、弓子はくるりと背中を見せて、部屋を出ていった。
弓子がサーフィンに出かけて十分ほどしたときだった。外はギンギンの夏の日射しで、ちょっと見るだけで阿里子はくらくらめまいがするほど。電話が鳴った。
「わたし。暢子よ」
いきなり相手が言った。
「今どこ?」
もっとくらくらして阿里子は思わず椅子《いす》にへたり込んだ。
「言えないの、悪いけど」
「どうして、探すから?」
「しばらく、放っておいてもらいたいの。電話したのは、心配していると思って。私のことなら大丈夫だから。それだけ伝えたくて」
「大丈夫って、ほんとうに?」
「信じてもらえないと思うけど、私、すごく幸せよ。こんなに幸せなことって、今までになかったような気がするの」
「例の家庭教師の人と一緒なんでしょう?」
「……ええ」
「やっぱり……。ご主人は全然疑ってもいなかったけど」
「手紙を書いて出しといたわ」
「その人のことを?」
「何もかも」
「じゃ、戻らないつもりなの?」
「もう戻らないわ。戻りたくても、戻れない」
「そんなに彼、いいの? 彼のどこがいいの」
「すごくいいわ、最高よ。二十二歳の若造がよ、三十九の女をメロメロにするのよ。もうだめよ。離れられないわ」
「つまりセックスなの?」
「ほかに何があると思うの?」
「…………」
「私が毎日何してると思う? アレよ。アレばっかり、やってやってやりまくってるの。もう天国よ。何もいらないわ。何も考えたくない。とにかく忘れて、私のこと」
「忘れるわけにいかないわ。そんなこと、いつまで続くと思うの?」
「反吐《へど》が出るまでよ」
「その後は?」
「わからないわ、そんな先のことまで考えられない」
「そんなに先のことだと思っているの?」
「もう切るわ。大友君が心配するといけないから。とにかく私は大丈夫。それだけ伝えたかったの」
「待って暢子。今どこ? 東京にいるの?」
「言えないの。ごめんなさい」
「大友さんは仕事はどうしたの?」
「棒に振ったわよ、あの人。あたしのために何もかも棒に振っちゃったのよ。さよなら」
最後のさよならは唐突だった。
「約束して。また電話ちょうだい」
「うん。いつかね」と暢子が笑った。
「多分、私たちのただれた生活が終わったときかな、次に阿里子に電話するとしたら」
「必ずね」
「そうするわ」
そして暢子の電話が切れた。家庭も夫も子供たちも何もかも棒に振ってまで彼女を夢中にさせるセックスって、何なのだろうか、と阿里子はしばらく呆然《ぼうぜん》とするのだった。
そんなものがこの世の中に存在することすら不思議だった。一人の主婦であり、母親であり、ちゃんとした大学を出た女を、破滅させる力を持っているセックスというもの。三十九歳の分別を失わせ、暢子を一匹の雌に変えてしまったのだ。
暢子は今、天国にいると言ったが、きっとそれは地獄と背中合わせの天国なのに違いない。阿里子はちょっと身ぶるいして、自分の身体を自分の両腕で抱きしめる仕種《しぐさ》をした。
その夜、暢子の夫が戻る頃を見計らって、山際に電話を入れた。
「暢子さんから、電話がありました」
「そうですか。実は僕も手紙を受けとったばかりです」
「アドレスは?」
「ありません。消印は都内です。しかし、たいした意味はない。相手は大友君でした」
山際の声はうつろだった。
「意外でした」
「それでどうなさるおつもりですか?」
「離婚してくれと言っています」
「…………」
「僕もそうするつもりです」
「それでは、あの人を見捨てるようなものですわ」
と阿里子は思わず言ってしまった。
「僕が家内を? 逆でしょう。家内が僕らを見捨てて出ていったんですよ」
「本気で離婚をしたいわけじゃないと思うんです」
「虫がいい話だな」
「…………」
「まさか、家内が戻ってきたら温かく迎え入れろ、と言うんじゃないでしょうね」
「…………」
「暢子は男と旅に出たようなものだから、いずれ旅が終わり、ボロボロに傷ついて帰ってくる。そのとき再び迎え入れてやれと?」
「山際さん、そうお考えになった?」
「善意にね。極力善意に考えようとしました。しかし、だめでした」
「…………」
「いずれにしろ、あなたにはご心配をおかけしました」
「いいえ」
阿里子は無力感のために、ほとんど声もなかった。
「まあせめてもの救いは、家内が自分のしでかした愚かな行動を後悔していない、ということです。彼女は今幸せだと手紙で言い切っていますから、それがまあ、唯一《ゆいいつ》の救いですよ」
最後の山際の口調は、阿里子にというよりは自分自身に言い聞かせているように響いた。
一人の女の出奔のために、何人もの人たちが深く傷ついたのだ。そしてその当の本人は今、天国と地獄の間を揺れ動いている。多分背中にぴったりとはりついた地獄のせいで、天国の味がいっそう甘美なのだろう。いつか、それが逆になるときが来る。天国の日々が終わるとき、それがめくるめく甘美な日々だった分だけ、暢子の地獄は深いのに違いない。
山際との電話を切って物思いにふけっていると、玄関で物音がして弓子が戻った。
「早かったじゃない。夕食は?」
と阿里子は娘を迎えながら訊《き》いた。
「タクローと食べたわ」
「ケンタッキー?」
「マクドナルド」
「色気のない子たちね」
「内心安心してるくせに」
それからふと弓子は立ち止まって、母親の顔をじっと見た。
「人生の重荷を一人で背負ったみたいな顔してる」
「そんな気分なのよ」
「少し分け持ってあげようか?」
「いいの」
「人のことでくよくよしてもしようがないわよ、ママン。人は人、自分は自分。ママンときたら自分のめんどうもロクに見られないんだから、まず自分のこと、立て直しなさい」
「そうします」
「手始めに、娘と一杯飲むのはどう?」
「あなた、いつから飲むようになったの?」
「今夜から。ビールくらいどうってことないわよ」
さっさと冷蔵庫から父親の缶ビールを取り出してくると、一つを阿里子に手渡した。
「じゃ、乾杯」
「何に乾杯するの?」
「さしあたってはあたしとママンのために」
「じゃ、弓子とわたしに乾杯」
「次にあたしたちのパパのために」
「うん、パパに乾杯」
「パパといえば今夜も遅いのね。浮気でもしてるのかな」
「パパは浮気しないわよ」
「どうしてそんなこと言えるの?」
「だってパパは今でもママンに夢中だもの」
「自惚《うぬぼ》れてる。次はあたしたちのボーイフレンドに乾杯」
「タクローに乾杯」
「ママンの相手はなんていう名前?」
「翔」
「ふうん」
「ふうんって?」
「まあいいわ、翔に乾杯」
「暢子に乾杯」
「暢子って例の駆け落ちしたおばさん?」
「知らない」
「それじゃ、バランスとって家庭教師に乾杯」
「山際さんと、二人の子供たちにも」
「うん、乾杯。要するに、全《すべ》ての愚かな人間たちに乾杯ってことよ。ヘミングウェイみたいにさ。われわれが今後犯すであろう全ての過ちに、乾杯」
阿里子は不覚にもポロポロと涙が流れて止まらないのだった。
傷心と空虚と
雨が降っている。夏の熱い雨だ。こういう日は、ベッドルームでなまけ猫になるのに限る。チンザノを炭酸水で割ったものに、ぶっかき氷をたくさん入れて、猫殿はベッドに長々と寝そべり、本などを広げている。
――ねえ、ほとんど何も……インドでは可能ではない……私の言えるのは、これだけ……
アンヌ・マリ・ストレッテルが言う。
――何のことでしょう?――と若い大使館員。
――ああ……別に……この漠然とした失望のこと……インドで生きることはつらくも、楽しくもない。やさしくも、むずかしくもない。なんということもない……そう……それはなんでもない――
――インドで暮らすのは不可能だとおっしゃりたいわけですか?
――つまり……たぶん、そうね……だけど、そんなふうに言ってしまうのは、ええ、おそらく単純すぎるわ……(インディアン・ソング)
阿里子はページの上の活字から眼を上げる。自分の眼が倦怠《けんたい》と退廃感をつむぎ出しているのを感じる。映画を見終わった後、しばらくの間、主人公になったみたいな気分で、ジェシカ・ラングや、フェイ・ダナウェイを気取って歩くときのあの気持ちと同じだ。
夏の雨の午後には、マルグリット・デュラスの世界がぴったりだ。
――彼女はペキンにいる。
それから、マンダレイ。
バンコク。
彼女はバンコクにいる。
ラングーン。シドニー。
ラホールにいる。
十七年。
カルカッタにいる。
カルカッタ。
そこで彼女は死ぬ。――
たくさんの見知らぬ土地の名前。それらの場所の名は、阿里子をうっとりさせる。バンコクの運河とか、マンダレイの夕陽《ゆうひ》とか、ショロンの男とか。
ショロンの男というのは、デュラスの『愛人』の中に出てくる中国人。いつもオー・ド・トワレと、イギリス煙草と、身につけた絹の匂《にお》いがしている。ほっそりとして肌が黄色味を帯びた象牙色《ぞうげいろ》で、体毛がなく――それは多分|琥珀色《こはくいろ》なのだろうと阿里子は想像するのだが――黄金の匂《にお》いのしみついた皮膚をしている中国人の男。十五歳の少女を愛人にした男。あるいは十五歳の白人娘の愛人だった中国人の男。どちらでもいいけど、デカダンスだわ、と阿里子はため息をつく。現在ではデカダンスなんてどこをどう探したって見つかりはしない。最高の贅沢《ぜいたく》。
「ママン、ママン」と弓子の声が寝室の外でする。
「入ったら? 鍵《かぎ》がかかってるわけじゃないんだから」
阿里子はドアのほうを見ずに答える。
「何の用?」
弓子が阿里子のベッドに飛び乗る。
「もう退屈で死にそう」
「でも、わたしのせいじゃないわよ」
「少しはママンのせいもあるのよ」
「それどういうこと?」
「血に流れるママンの倦怠《けんたい》。遺伝よ」
「でもわたし、退屈で死にそうだなんてこと、ただの一度もなかったと思うわ」
「同じ血が流れていても、生き方が違うのよ、ママンとあたしとでは。人生観の違いね」
「大げさね」
「でもそうよ」
弓子はジロリと阿里子の読みかけの本を睨《にら》んだ。
「何読んでるの?」
「デュラスよ」
「あたしの本棚から持ち出したんでしょう? 今、娘が何を読んでるかで、娘の心境がわかるとでも思ったら、大間違いだわ」
「あなたの心境がわかりたくて読んでるわけじゃないわ。それより人生観の違いって、どういう意味?」
「ウィリアム・フォークナー読んだことある?」
と、いきなり弓子が訊く。
「あると思うわ。全部じゃないけど」
「じゃ、こういうの覚えてる?――もしも僕が今、傷心と空虚のうちどちらかを選ばなければならないとしたら、僕は傷心を選ぶ――っていうの」
「どうしたの、急に」
「ママンは、どっちを選ぶ?」
「どちらか今、選ばなくちゃだめなの?」
「そうよ。どっちを選ぶ?」
「あなたは?」
「質問に質問で答えるのはずるいよ」
「じゃ、言うわ」
と、阿里子はベッドに肘《ひじ》をついて軽く上半身を起こしながら言った。
「どちらかを選べというのなら『傷心』だわね。『空虚』なんて、わたしはいや。何にもない人生なんて砂漠だもの。傷ついたっていいと思うの。傷つくのが好きよ」
「ママン。傷心というのはね、ジャン・リュック・ゴダールに言わせると、妥協の悪《あ》しき産物なのよ。人生に妥協ばかりしているってことよ」
「傷つくことが?」
「そうよ。適当に傷つく人生が。あたしは、イチかバチかよ。全《すべ》てでなければ何もいらないわ。だから『空虚』のほうを選ぶ。ママン、ところであたし、恋に落ちたの」
「あら」
「それだけ?」
「それだけって?」
「たった一人の血を分けた最愛の娘が、生まれて初めて恋に落ちたと告白しているのよ」
「素敵じゃないの」
「怒るわよ、人ごとみたいに言わないで」
「だってやっぱり人ごとだもの。弓子の恋であって、わたしのじゃないし。幸せ?」
「ちっとも。恋って素敵でも幸せでもバラ色でもないってことがわかったわ」
「困ったわね」
阿里子はチンザノのグラス越しに、娘を見つめた。
「恋って醜いわ。だって相手のことなんてどうでもいいんだもの。自分を満足させることだけしか考えないんだもの」
「彼がそうなの?」
「ううん、あたしが一人でそうなの。あたし、あの人をめちゃめちゃにしてしまいたい気分。飛びかかって、食いついて、八つ裂きにしてしまいたい気分よ」
「すごいのねえ。でも、あの人って?」
「彼よ」
「だから名前とか年とか、仕事とかのことよ」
「そんなこと関係ある?」
「興味があるだけ。話してくれる?」
「名前は北徹《きたとおる》。年齢不詳、住所不定、職業は無職」
「なに、それ?」
「彼に言わせると、親のあるかなきかの財産食いつぶしてるんだって」
「年の見当くらいつかないの?」
「二十から五十の間くらい。あたし知らないの。訊《き》かないし、彼も言わないから」
「結婚してるの?」
「知らない」
「どうして知らないの」
「だって興味ないし、訊かないもの」
「住所不定っていうのはどういう意味?」
「ひと所に居を構えると、女たちが押し寄せてくるからだって。それで始終、居場所を変えてるのよ」
「ほんとうに女たちなのかしらね。借金取りじゃないの」
「どっちでもいいじゃない」
「わたしがあなたなら、どっちでもなんて絶対によくないけどね」
「どっちが困る?」
「わたしがあなただったら、当然女たちよ。でも母親の立場からいえば借金取りのほうだわ」
「でもママンはあたしじゃないんだから」
「ほんとうに仕事もしてない男なの?」
「無職っていうのは一つの職業だって言ってるけどね、本人は」
「冗談じゃないわよ」
「どうしたのよ、ママン。何をプリプリしてんのよ?」
「ずっと我慢して聞いてたけど、ふざけすぎよ。冗談言ってママンをからかうつもり?」
「冗談でもからかっているのでもないわ。あたしは本気よ。徹が好き。今のところママンよりもパパよりも、もしかしたらあたし自身よりも好きよ」
「許さないわ」
「何を?」
「そんな男と交際することをよ、決まってるでしょ。常識のある親なら誰だって同じよ」
「あら、ママン。あなたに常識があると思ってるの? それにもう遅いわ」
「もう遅い? どういう意味」
「だからもう遅いのよ。交際はしちゃってるの」
「どういう交際かママンに話して」
「できるだけそうするつもりよ。だからここに来たのよ」
阿里子と弓子はそこでじっとお互いの眼の中を見つめ合った。
「もう過ちを犯してしまったの?」
阿里子の声はなんだか悲しそうだった。
「過ちって?」
「わかっているくせに。男と女の関係のことよ」
「はっきり言ってくれる?」
「だって……」
「じゃあたしが言ってあげる。セックスのことね? 性交のことでしょう? ママンが心配しているのはあたしと徹がもう寝ちゃったかどうかって、そのことなのね?」
「寝たの?」
「その前にママンに訊《き》きたいわ。男と女が愛し合うことは、過ちなの?」
「そんなこと言わない」
「言いました。はっきり言いました、ママンは。もう過ちを犯したの? って訊きました。あのことは過ちなの? それじゃママンは今の年までずっとずっと過ちを犯し続けてきたってわけ? あたしはママンの過ちで生まれた子供?」
「愛し合って結ばれるのは過ちじゃないわ。あなたはわたしが欲しくて生まれてきたのよ」
「でもママンはパパを愛してないわ。一度だってパパを愛したことなんてないはずよ。だからママンのしてきたことは過ちなのよ、ママン流に言えばそうなるわ」
「パパを尊敬してるわ。それにこれだけは言えるけど、パパのこと、ママン流に愛してるわ」
「じゃ、例のボーイフレンドのことは何なのよ? 翔《しよう》とかいう人のことよ」
「ママンを責めて、うれしいわけ?」
「そうじゃないわ。自分のことは棚に上げて勝手なことばかり言わないでっていうことよ」
「でもわたしにはあなたに関して勝手を言う権利があると思うわ」
「へえ、どうして?」
「理由はね、弓子、ママンはあなたを愛してるからよ」
「だったらあたしだってママンに勝手を言う権利があるわ」
「…………」
「ママンのこと、愛してるもの」
「もう言わないで。なんだか泣けそう」
「泣かないでよ。そうしないと、ママンのこと、あたしがいじめたみたいな気になるから」
「じゃ、泣かない。でも答えて。その人と、寝たの?」
「徹の部屋には何度も行ったことがあるわ。ほんとのこと言うとね、まだよ。あたしは寝たいと毎日思ってるし、そう徹に言うの」
「あなたから? 正確にはなんて言ったの?」
「この部屋に連れ込んだほかの女たちにやるのと同じことを、あたしにもしてちょうだいって」
「そうしたら?」
「笑ったわ。鼻の先で、せせら笑うみたいに笑ったわ」
「そう、笑ったの」
阿里子は奇妙な複雑な気持ちだった。
「徹が言うのよ。あたしなんて青くさくて、棒切れみたいで色気がないって。好きなのは、どこもかしこも泡立てた生クリームみたいに柔らかくて、いつも赤い唇を半開きにしているような女がいいんだって。『マリリン・モンローみたいに?』ってあたしが訊《き》いたら、そうだって答えたわ。おっぱいが大きくて、わずかにたれ気味が好きだって言うのよ。おなかもできたら二段腹くらいにお肉がついているのが淫《みだ》らでいいんですって。お尻《しり》はハート形で、少し下がっているくらいがたまらなくセクシーだって。それから頭はできるだけおバカさんに越したことはなく、年も四十以下は興味がないって」
「冗談じゃないわ。それじゃ、なぜあなたみたいな子とつきあうのよ!!」
「あたしもそう思う」
「それなら初めから自分の部屋になぞ、あなたを連れ込むことないじゃないの」
「あたしもその意見」
「全く頭にくるわ。どういう了見なんだろう」
「そんなに怒らないでよ、ママン。とにかく、おかげであたしは今のところ傷ものにならずにすんでいるんだから」
「あ、そうか」
そこで阿里子はようやく冷静さを取り戻して苦笑した。
「それであたし徹に言ったのよ。あたしに何もする気がないんなら、もうつきあわないでほしいって」
「そうしたら?」
「それでフォークナーの『傷心と空虚』の会話になったの。きみのは、エブリシングorナッシングだって。きみの生き方は空虚だって」
「彼はどっちをとるって?」
「傷心だって」
「ふうん」と阿里子は考え込んだ。
「ねえ弓子、わたしその人に逢《あ》ってみたい」
「逢ってどうするの? ひっかくの?」
「まさか。見てみたいのよ、どういう人だか」
「それだけ?」
「そうよ。弓子が初めて恋に落ちた相手を、ママンも知っておきたいの」
「余計なことしないって約束する?」
「余計なことって?」
「説教したりとか」
「わたしがお説教する柄だと思う?」
「思わない」と弓子。
「それより、彼を横取りしないって、約束できる?」
「わたしが? あなたの好きな人を横取りなんてするわけないでしょう」
「でも、徹のほうが信用できない。あいつ、年増好みだから」
「ママンのおっぱいはたれてないし、二段腹でもないわ」
「でもお尻《しり》はちょっぴりたれ気味よ」
「怒るわよ」
「いつでもいいわ。ママンの都合のいい時に逢《あ》ってもいいわ」
「ほんとにいいの?」
「女に二言はないわ」
「わたしのこと、信用する?」
「女としては全然信用しないけど、母親としてなら、信用するわ」
「ありがと」
というわけで、阿里子は娘の恋人に逢うことになったのであった。
「まさか、あなたが弓ちゃんのママンなのではないでしょうね」
と、北徹という男が言った。句読点の多い喋《しやべ》り方だった。
「でもそうよ」
と、阿里子は相手を手厳しく観察しながら答えた。
「信じられない。弓ちゃんのお姉さんとしか見えないけど……」
「そんなお世辞、少しもうれしくありませんわ」
「お世辞ならね。でも、僕はほんとうのことしか言わないから」
北はちょっとまぶしそうに阿里子を眺めた。その斜め下からの視線にどこかシャイな感じが漂った。でも、演技かもしれない、と阿里子は気を許さない。
「わたしの娘をどうするおつもり?」
北は一、二度瞬きしただけで微笑した。
「ねえ、あの子、まだ十七歳になったばかりのほんの子供よ」
「年はわかっています。でも、子供だとは思わない」
「でも十七歳で未成年で、高校生だってことお忘れにならないで。それにわたしやあの娘の父親があの子をとても大事に思っているということもね。あなた、お幾つ?」
「弓ちゃんと同じ年」
「ふざけないで」
「じゃ、五十六歳」
「あなたって不真面目《ふまじめ》ね」
「年を知ってどうするつもりです?」
北はゆっくりと喋《しやべ》る。楽しげに、阿里子を半ばからかうように。
「年相応の常識がわかるわ。三十なら立派に大人の男でしょう」
「三十でも乳離《ちばな》れしない男もいますよ。十八歳で大人の精神を持った男もいますし、ね」
「それであなたはどっちなの?」
「どっちだと思います?」
「はっきり言って、かなり年をくった少年、という感じね」
「だとしたら、とてもうれしいけれど」
北は青味を帯びた繊細な手で煙草の火をつけた。繊細だけども男らしい手だった。
「ずいぶん痩《や》せているのね」と阿里子はズケズケと言った。
「まるで骨と皮と神経だけでできている人みたい」
年齢はおそらく弓子の倍くらいだろうと、阿里子は想像した。
「もう一度だけ訊《き》くけど、わたしの娘をどうするおつもり?」
「今のところは、どうもしません」
「今のところはって?」
「弓ちゃんは、たとえてみれば真っ白いキャンバスなんだ……。まだ何の色も塗られていない、白いキャンバス」
「あなた好みの色を塗って、あなたの絵に仕上げようってわけ?」
「僕は、絵描きじゃありません」
「絵描きにはとうてい見えないわね」
「したがって、弓ちゃんを僕の好みの絵に仕上げるつもりも、ない」
「だったら放っておいてくださらない?」
「なぜです?」
「あなたは、危険だからよ。あの年頃の女の子にとっては、とても危険だから。女を不安にするわ」
「僕が彼女に手を出さないからですか? 白いキャンバスの彼女を、白いキャンバスのままにしておくからですか」
「手ぐらい握らないの?」
「指一本触れていない」
「もしかして、ホモ?」
「違いますよ。女が好きです。二とおりの女が好きです。肉体的に淫乱《いんらん》な女。それから、精神だけの女」
「あなたを満足させるには、二種類の女が必要だっていうわけ?」
「もっとはっきり言いましょうか?」
と、北は言った。わずかに切れ上がったような眼が、一瞬鈍く光った。
「弓ちゃんの精神と、あなたの肉体で、完璧《かんぺき》です」
阿里子は怒りのあまり一瞬|蒼白《そうはく》になった。
「わたしは二段腹じゃありませんからっ。それにおっぱいだって、たれていませんからね」
北が笑った。白い歯がこぼれるような笑いだった。
「ちっともおかしくないわ。今のひと言取り消してちょうだい」
「ほんとうの気持ちだから、取り消せない。あなたのような大人の熟れた肉体に、弓ちゃんの精神が宿っていたら、男の理想ですよ」
「すごく失礼だわ。女を何だと思っているんでしょう」
「女性を尊敬してますよ」
北は短くなった煙草を、指先の優雅な一ひねりでもみ消しながら、そう言った。
「真面目《まじめ》な話。弓子はあなたに夢中なの。恋をしているわ。あなたがその相手でなければ、とわたしは願うの」
「よくわかりますよ」
「もうそれは熱烈なのよ」
「触れなば落ちんの風情《ふぜい》です」
「いずれ触れるつもり?」
「先のことはわからない。でも今は、ノー」
「据《す》え膳《ぜん》食わぬは、って言うじゃない」
「変な女《ひと》ですね。僕をけしかけているつもり?」
「とんでもないわ」
「でもそれは事実です。弓ちゃんは毎日僕の部屋に来て、僕に体を投げ出す。ほとんど投げ出さんばかりという意味です」
「それじゃ、簡単ね、あの子をものにするのは」
「そう。赤子の手をひねるよりね」
「なぜ、ものにしてしまわないの?」
「赤子の手をひねるのが好きじゃないから」
「それだけの理由?」
「多分違う」と言って、北は阿里子の眼をまともに覗《のぞ》き込んだ。
「多分、僕は弓ちゃんの情熱に、怖気《おじけ》づいているんだと思う。今、彼女は恋に恋をしているんです。相手はたまたま僕だけど、ほんとうは誰でもいいんだ。彼女が恋をしているのは、恋をしているという彼女の状態に対してなんだから」
「わかるような気がするわ」
「だったら、こういうこともわかってもらえるだろうか……。彼女は今、恋に恋をしてものすごい勢いで自転しているわけです。恋の自転作用っていうのはすごいもんです。下手《へた》に手を出したら、弾き飛ばされるか、もっと下手をすると彼女の中に巻き込まれて、あっという間に粉砕され、僕は骨だけになって吐き出されちまう。
弾き飛ばされたくないし、粉砕されたくもないから、僕は目下、少しだけ離れた安全な場所から、弓ちゃんの自転作用を眺めているんです。多分それは卑劣なんだろうけど」
「こんなこと認めたくないけど」と阿里子は口ごもった。「それにこんなこと、口が裂けても言わないつもりだったけど」――長い沈黙。やがて阿里子がうつむいたまま呟《つぶや》く。
「弓子が恋に落ちた相手があなたであってよかった、と思うわ」
「ほんとうに?」
「ええ。母親としてはすごく複雑な気持ち」
「わかりますよ」
「あなたを信頼するしかないみたい」
「そいつはどうかな。男はみんなオオカミですからね」
「あなたは、そうじゃないと思うわ」
「僕だって一匹のオオカミですよ。時と場合によればね。今すぐこの場でオオカミになって、あなたに襲いかかることだってできそうです」
阿里子の身体がビクッと震えた。
「大丈夫ですよ」
北はさもおかしそうに笑った。
「襲いかかるにしても、今じゃない」
「あなたがまたわからなくなったわ」
阿里子は少し考えた。
「弓子があなたに魅《ひ》かれる理由は漠然とわかるけど、あなたが弓子に興味を持つ理由は全然わからないわ」
「僕は単にロリータ趣味なのかもしれない。ロリータ趣味で不能者にすぎないのかもしれませんよ」
「そんなの、信じない」
「じゃ、こう言おう。男は、一人の女から――それが何歳であろうと――熱狂的に愛され、尊敬されるのが好きなんだ。自分を、世界一いい男だと思わせてくれる女が、好きなんだ。
僕の話をひと言も聞きもらすまいと、ほとんど命がけで耳を傾けてくれる女。僕のひと言ひと言をすべて吸収し、すごいのね、すばらしいのね、と言ってくれる女。
僕に、もしかしたら僕が親の財産を食いつぶすだけの能なしではなく、何かの才能があるのかもしれない、と本気で信じさせてくれる女。無条件で僕を許してくれる女。僕を自惚《うぬぼ》れさせてくれる女。彼女といるとアメリカ大統領にだってなれそうな気のする、そういう女。無限にスポイルしてくれる女。彼女の前にいると僕は絶対的な権力を持ち、神にもなれる。そういう女を、男は手放せない。ということです」
「あなたのつかまえた女の子は、素敵なのね」
と、阿里子は深いため息とともに言った。
「そんな女の子をつかまえることができて、あなたはほんとうにラッキーだわ」
「そう。僕もほんとうに、そう思います」
そこで二人は黙り込んだ。その日も灰色の熱い雨が降っていた。
阿里子はチンザノとデュラスの本を一冊、ベッドルームに持ち込む。すごく寂しい気持ちが、ずっとしている。あの娘が、遠くへ行ってしまったみたいな感じだ。ついこの間、阿里子の下腹から滑り出てきたような気もするのに。
弓子を失う。その思いに阿里子は耐えようとする。何かが終わるのだろうか。デュラスはこう書いている。
――物語、それがはじまる。
それははじまった。海辺の歩行、叫び、動作、海の運動、光の運動より前に。
しかし、それは、今、目に見えるものとなる。
それは、既に根をおろしている、砂の上に、海の上に――「愛」
女の軌跡
このところ阿里子の周囲で、女たちがざわめいている。阿里子の年代の女たちという意味だが。男と駆け落ちをした女もいれば、離婚係争中もいる。阿里子の親しい友人ですでに離婚したものは三人、別居中が一人。離婚も別居もせずに無事結婚生活が続いているのは、阿里子を入れて三人。もっとも結婚生活が無事に続いているといっても、幸福かどうかは別問題。そのうちの一人は、夫に十年越しの愛人がいるし、阿里子ともう一人は、女のほうに男がいる。阿里子はその言葉が嫌いだが、不倫の関係である。
ざっと見渡しただけで、そんなふうなのだった。阿里子の周辺だけが特別にそうなのかもしれないが、もしかしたら世の中全体が、我慢し合わない方向に向かっているのかもしれない。幸福の追求の時代といえば聞こえはいいが、誰かを犠牲にして自分一人が幸福になるのでは、ほんとうの意味での幸せではありえない。
このまま一緒にいたら、私たち両方ともだめになっちゃうから、と別れた女には、実はすぐにでも同棲《どうせい》したい男がいた。子供まで置いていかれた夫のほうは、元の女房と一緒にいたらだめになっていたかもしれないが、別れた後は別の意味でだめになり、深酒に溺《おぼ》れ、子供たちどころではない。当然、子供たちもだめになる。
妻一人だけが第二の青春を謳歌《おうか》しているわけだが、そういう状態は決して長くは続かない。結局、同棲した男とは一年と少しで別れてしまい、今は一人きりで勤めに出ている。たった一年と少しのための幸福と引きかえに、何もかも失ってしまったわけである。
その話が出ると、その和子という女がため息をついた。
「一年なんて続かなかったな。ほんとうに幸せだと感じていたのは、三か月くらいの間だけよ。あとはもうひたすら別れに向かっての下り坂」
それから考えて、さらに言い足した。
「めくるめくような歓《よろこ》びみたいなものってね、今から思い出してみると、同棲を始める前までだったわね」
つまり、夫や知人や世間の眼から隠れて彼とデイトをしていた頃の密会の味。そのドキドキするようなスリルとか後ろめたさとか、夫にバレるのではないかと、絶えず彼女自身を脅かしていた思いとか。
「だから、彼と誰はばかることなく一緒に暮らし始めたとき、あれ? っていうのが心の底の正直な思いね。あれ、違う! っていう感じ。あれはどこへ行っちゃったんだ? ってね、ドキドキ、ハラハラ、チクチクするような思いよ」
「つまり緊張感ね」と阿里子が言った。
「そう、つまりそれ」と和子は何度もうなずいた。
「ある日ね、デパートで買い物して帰ってくるじゃない? 同棲《どうせい》してまだ間もない頃よ。スイート・ホームに必要な食器とか、箸《はし》とか、タオルとか、靴べらとかこまごましたものよ。
両手一杯抱えて、タクシーで帰りたいところを節約節約と、ふうふう言いながら電車を乗り継いで帰っていくわね。彼が家にいるわ。テレビで高校野球なんて見ている。
『ただいま』って言うわ。『お帰り』って声は出すけど、眼はテレビに釘《くぎ》づけになったまま。あれれ、って思うわけね、私。一瞬、前の亭主の家にいるような気分になるわ。そういうことの連続じゃない、結婚生活って。どっちかが何か言う。相手がそれに対して何か答える。だけど両方とも真には相手のことなんか見ない。見慣れた家具みたいなものよ。
だから、あれれ、って思ったの、私。『ちゃんと眼を見て、お帰りって言ってよ』自分でもおかしいと思うけど、十七、八の娘みたいにすねたりするわけ。『どうして?』って彼。『どうしてもよ』って私。『わかった、わかった』って彼。でも何にもわかっちゃいないの。翌日になるとやっぱり、別のところを見ながらの生返事」
「安心感で気がゆるむのよ」と阿里子は言った。
「でも家庭は緊張の場である必要はないと思うわ。私だったら、それくらいのほうが気が楽だけど」
「だけどねえ」と和子は言った。
「その楽な家庭生活を二十年近くもやってきたわけでしょう?」
「そうか……」と阿里子はすっかり考え込んでしまったものだった。
「そうよ。新しい生活に入ったとたん、そばに元亭主とそっくりな男がいたとしてごらんなさいよ」
「そっくりなの?」
「見かけや外見じゃないのよ、私が言うのは。男が体現するものっていうのかな、そういうものが似てるのよ」
「ふうん」
阿里子は首を傾ける。
「初めにそういうのわからないもの?」
「わからない、わからない」
と和子はやけに自信をこめて言った。
「一緒に暮らしてみなければ絶対にわからないものよ」
阿里子は翔《しよう》のことをチラと思った。そういうことはまず絶対に起こり得ないが、万一、彼と駆け落ちみたいなことをして同棲《どうせい》するとして、翔がどんな男であるかは、ほとんど想像がつく。彼は変なところで神経質になるだろうし、また変なところでひどくだらしがないであろうということも。それから、彼の弱さや女々《めめ》しさや卑劣なところも、今からだってちゃんと見える。
「そうかしらねえ」
と阿里子はため息をついた。
「だってそうよ。三十八の分別のある大人の女と、三十五のこれも一応大人の男が、ある日を境に一緒に暮らし始めるんだもの」
「そりゃいろいろ引きずっているでしょうね」
「もうあまり自分ってものを変えたくないわけよ、こっちも、向こうも。もうそういうのさんざんやってきて、ある型ができ上がっちゃっている人間同士なんだから。どうしても柔軟性ってものはないわよね。どちらかといえば、こっちの型に向こうを合わせようとする」
「でもそういうことは、あらかじめわかっていたことでもあるんでしょう?」
「ある程度はね」
と和子は何かを思い出すような、耐えるような眼差《まなざ》しをした。
「でもねえ、たとえば、二人で迎える最初の朝に、歯磨きチューブのフタがちゃんとはめてなくて、そこいら辺にころがっているのを見るとするわね。読みかけの新聞や週刊誌がそこいら辺に投げ出してあったり、会社から帰って脱いだものが点々と脱ぎ捨ててあったりするわけよ。やれやれって思うの。でも何も言わない。黙ってチューブのフタをしめ、新聞や週刊誌を捨て、彼の脱ぎちらかしを拾って歩く」
「どうして?」
と阿里子は驚きを隠せなかった。
「言わなけりゃ永久にわかんないじゃないの。それに何か注文つけるとしたら、最初が肝心なのよ。最初に厳しくしとかなくちゃ男なんてつけ上がるだけよ」
「そんなこと知ってるわ」
と和子。
「だけどねえ、阿里子。この年でまた、やれ歯磨きのチューブのフタだ、やれ新聞紙だ、やれ洋服だって、ワイワイやり始めるの、辛いのよ。さんざんやってきたわけよ。初めは元の亭主に口うるさくワイワイ言って、それから子供たちを躾《しつ》けてきたんだから。なのに、今この年になって同じこと始めるのかと思うと暗澹《あんたん》とした気分よ。ああいうことは、エネルギーがいるんだから。黙ってさっさと私がやってしまったほうが、よっぽどエネルギーの節約になるってことがわかったし、精神衛生上もいいのね。
ところがあるとき、ハッとしたの。彼の様子を見ていて、あることに気がついたのよ。我慢して黙ってやってしまっているのは、私だけではなく、もしかしたら、彼のほうもまたそうなのかもしれないって……。私だって完璧《かんぺき》な女じゃないし、むしろ欠点も多いほうよね」
「まあ、そうね」
と阿里子は笑った。和子も笑った。
「彼は何も言わないけど、黙って耐えているんじゃないかと思って、よくよく観察してみると、やっぱりそうなの。あの人は、たとえば、食べた食器なんかを、私がそばから洗っていくようなせっかちなやり方は初めてなの。きっと落ち着かなくて、いやなんだと思うのよ。でも何も言わない。もし言ったとしても、私が譲らないこと、知ってるのかもしれないわね。私だって流し台の中が汚れものでいつまでも一杯だなんて思うと、いやだもの。性格だから変えられない。ほかにもいろいろあるわ。服の好みだとか、音楽の好き嫌いとか。だけど黙っている。二人とも黙って耐えている。そしてあるとき、彼が言うの。『別れたい』って」
「いきなり?」
「そうよ、青天のへきれき」和子は苦笑した。
「だって一度だって文句を言われたことないし、喧嘩《けんか》もしたことない。いやな顔もしなければ、皮肉も言わない。『何が理由なの?』って思わず訊《き》いたわ。彼は困惑したみたいに肩をすくめるだけで、理由なんてないって言うの。それっきり黙っちゃったのね、何日も。
そして何日かして私にはハッとわかったの。私だって、彼に対して一度だって文句を言わなかったし、口論をふっかけたこともない。いやな顔も皮肉も言わなかった。なぜだろう? って自分に問いかけたわ。なぜだろう」
そこで和子はじっと黙り込んだ。
「――なぜなの?」
と阿里子は長い沈黙の後で小さく訊いた。
「結局ね、情熱の問題だとわかったわ。相手にどれだけ期待するかってこと。そして相手の期待にどれだけ自分が応《こた》えられるかってことよ。別の言葉で言えば、それは愛ってことなの。私たちは、ほんとうにはお互いを愛してなんていなかったのね。多分」
「だって家庭を捨てたのよ」
阿里子には信じられないような気がした。
「それも考えたわ。一体私たちのしたことは何だったのかって」
「何だったの?」
阿里子もぜひとも知りたいところだった。
「ああいう状態に憧《あこが》れたのね。つまり、若い女の子が恋に恋をするような時期があるでしょう。あなたにもあったし、私にも確かにあった。死ぬほど好きだと思う相手だったけど、よく冷静になってみると、別に相手は彼でなくてもよかったってわけよ。恋をする状態に恋していただけなんだから。今度の私たちのこと、それと同じだったのよ。ああいう状態っていったのはね、晴れて離婚して彼と同棲《どうせい》にこぎつけてから後のことじゃなかった。それ以前の頃の、あの心トキメク、不倫時代のことだったのね。危険で後ろめたくて、でも幸せで、身体がぐらぐら揺れっぱなしの頃。だからもう危険でも何でもなくなっちゃったときには、ある意味で、私たちの恋も死んだのよ。恋が死んだときから、私たちは一緒に出発したということなの」
それからまた和子はこうも言った。
「もしかしたら、私たち、そのことに気づいていたのかもしれないわね」
「恋が死んでしまったことに?」
「そう。もしかしたらね。そう認めるのは辛いけど。だから、お互いにひたすら耐えたのよ。二人ともそれぞれの家庭を一つずつだめにして出てきたんだから、その意味でも、やーめたっていうわけにはいかなかった。耐えて、我慢して、そしてある日、気がつくのよ。愛なんて何もないってことに。相手の肉体に対する興味も消えてしまった後では」
「それが一年なの?」
「正確には一年と二か月と十日」
「もしもよ、もしも、恋が死んでしまったって二人とも気づいていたのなら、その瞬間に中止するわけにはいかなかったの?」
「後戻りってこと?」
和子は急に暗い表情になった。
「それはまず絶対になかったわ。子供のことは別にしてよ」
子供のことになると和子の声はふるえた。
「あの結婚の中へ戻るくらいなら、たとえそれがたったの一年と二か月と十日しか続かないとしても、私は、彼とのほうを選ぶわ。事実そうしたでしょう」
あの結婚という言葉が阿里子の胸に深くひっかかった。
和子の夫という人を少しだけ知っている。仕事の鬼というほどの人でもなく、土・日というとゴルフに出かけていくような家庭を顧みない男でもなかった。
むしろ趣味は日曜大工とか庭いじりとかで、和子自身何かというと、「ねえ、聞いてよ。うちの人が庭の一部に子供用のプールを作ったのよ。プールといったって、池を少しばかり大きくしたようなものだけど」とか「うちの人ったら、ぬれ縁だったところを改造して、ベランダに作り直したのよ。夏になったらそこで子供たちとバーベキューをするのが楽しみだって言ってるんだけど、夏になったら蚊が出て、バーベキューどころじゃないのにね」
ほとんどおのろけみたいに阿里子の耳には聞こえた。
「家庭的なご主人だと思ったけど」
と遠慮がちに阿里子は言った。
「うん、まあね。子供たちには確かにいい父親だったわ」
和子はそう答えて、何かに耐えるように眼を閉じた。そして続けた。
「あるときね、こういうことがあったの。多分、そのときのことがきっかけというか、心の中で引きがねになって、今日のようなことになったんだと思うんだけどね。それはこういうことなの。子供用のプールの上のところに――池に毛の生えたようなやつよ――藤棚《ふじだな》を作りだしたのね。『そんなところに木を植えたら、葉が落ちてプールのお掃除が大変だわ』って、私が言った。そしたら別れた夫が、『それくらいのことは俺《おれ》がやるさ』と笑ったわ。『そういう時間は、定年後にはいくらでもある。むしろ、やることが増えて退屈しないですむ』って。『定年後のことなんて今から考えてるの?』って私は驚いて訊《き》いたわ。まだ下の子は小学生なのよ。『きみは、藤の花が好きだって言ったよね』と別れた夫。『ずっと先に、子供たちが独立する頃、ちょうど藤の花が咲くようになっているよ』って。頭を撲《なぐ》られたような気がした。子供たちが誰もいなくなったあの家の中で、夫と二人だけになった自分の姿を思い描こうとしたわ。でもどうしても思い描けなかったのよ。あの男と二人だけの生活なんて、想像することもできないほどに、私は……」
と言いかけて、和子は唐突に言葉を切った。
阿里子は自分のことにその言葉を重ねてみた。わたしは、弓子がお嫁に行ってしまったあとのこの大きな屋敷の中で、夫と二人だけで一日中顔を合わせて暮らしていけるだろうか、と。
それは、彼女が幾つかにもよるだろう。六十にでもなれば、翔はもちろんのこと、男気なんてなくなるのだろうから、案外、家の中で落ち着いていられるだろう、という気もするのだ。自分というものにすっかり諦《あきら》めがつけば、心など騒がないものだ。諦めという点についてなら、大丈夫だ。普通の女のことなどは知らないが、阿里子は自分のことなら知っている。他人に期待しないこと。そして誰よりも自分に期待しないこと。そうすれば物事はあまり彼女を苦しめずに流れ去ってくれるものなのだ。
「わたしは、先のことなんて思い煩わないようにしてるから」
と阿里子は言った。
「まだ起こってもいないことを思って、今から心配したって仕方がないと思うわ。そのときが来たらそのときに、解決していけばいいのよ」
だから、現在、彼女には翔という男がいるのだ。自慢できるような男では決してないけれど。
「でもあのとき、私は思ったわ」と和子が続けた。
「このまま老いたくないって。このまま年とりたくないって。夫だった人はいい人だけど、彼と二人だけになって、庭のプールや、藤棚《ふじだな》を眺めるのはいやだって。絶対にいや……。だったら一人のほうがよっぽどいいわ。というわけで、今、私は一人。天涯孤独のひとりぼっち。でも自分で望んだことよ。これでいいと思っている。どうせ人間はいずれ年とるのよ。あの家の中にいれば、まず安全に年をとってはいけたわね。だけど、私は安全に年をとりたくなんてなかったの。だから後悔していない。人生なんて二度はないのよ。一度だけ。そして、今この人生が私の選んだ人生。たとえ尾羽《おは》うち枯らしてドブ板に顔突っ込んで死ぬとしても、それでいいの。喜んでドブ板に顔突っ込んで死ぬわよ」
和子という女のどこに、そんな強さの原動力があるのか、外側からだけではうかがい知れない。
子供が独立して手元から巣立っていった後、ずっと二人だけの生活が続くのだと想像すると、暗澹《あんたん》とした気分に陥るという女たちの数は少なくない。日頃、会社だ、出張だ、マージャンだ、ゴルフだと家に寄りつかないから、なんとかやっているわけで、定年後になって、べったり一日中家の中にいられたら、気色悪くてたまらない、という女友だちもいた。
日頃の夫婦のコミュニケーションのあり方に問題がありそうだ。夫に趣味がないというのも悲劇だ。テニスもゴルフもやらず、本も読まない、子供の相手は苦手だという男がよくいる。そういう男に限って、仕事が趣味だなどと言う。土・日までも無理に仕事を作って出社したりする。
「誰も偉いなんて思っちゃいないわよ。会社の人だって心の中で軽蔑《けいべつ》してるのよ。本人だけが肩肘《かたひじ》張っちゃって忙しがっているけど、滑稽《こつけい》なのよ。つまり趣味もない、遊べもしないって、精神が貧しいってことを証明しているもんじゃないの」と、その男の妻は冷ややかに分析する。しかし、夫が土・日をつぶして稼ぎ出したお金の一部で、妻や子は豊かな趣味に興じる。テニスだ、水泳教室だ、母と子の温泉旅行だ。etc。
「ところで、暢子《のぶこ》だけど――」
と阿里子が言いかけた。
「あっちでもこっちでも、人騒がせで迷惑な女どもよね」と和子が遮って言った。
「彼女、元気? その後どうなったの?」
「三か月で家庭教師との恋、破綻《はたん》したわ」
「三か月……」和子が悲しそうな顔をした。
「でもね、この間|逢《あ》ったとき、なんか一枚も二枚も皮がむけたって感じでね、前よりずっと感じのいい女になってたわよ。どっかギラギラしたようなところがあったでしょう、暢子。それが取れてね、年相応に落ち着いたというか」
「ギラギラの正体が何だかわかる?」
と和子が阿里子に言った。
「飢餓感なのよ、それ。飢餓感が女をギラギラさせるの。それで暢子、今何してるの?」
「家におさまって、亭主と子供のめんどうを見てるわ」
「へえ、よくご亭主が許したわね」
「葛藤《かつとう》はあったようよ」と阿里子。
苦しい話し合いが何度か持たれたという。女房がちょっと旅をしてきた、というふうには考えられませんからね、と暢子の夫は以前、電話で阿里子に語ったことがあった。それほど寛大にはなれない、と。
「許してはいないんだけど、受け入れたっていうことはそれなりに彼女を理解したんだとは思うわ」
「男を作って、駆け落ちした女房を理解する男なんているかしら」
と、和子の口調は苦かった。
「私なら、理解もしてほしくないわね。そんなのはどこか嘘《うそ》よ。うさんくさいわ。ごまかしがあるわよ」
「でもそれは暢子たちの問題であって、わたしたちの問題じゃないから」と阿里子。
「ありがたいことにね」
和子は肩をすくめた。それから思いついたようにすぐに訊《き》いた。
「相手の男はその後どうしたの? 確か二十三、四歳だったわよね」
「二十二」
と阿里子は数字を訂正した。
「たいした違いじゃないわよ」
「彼はね、仕事を棒に振っているわけよ、一応。それでなんとなく故郷の町でブラブラしているうちに、造り酒屋の一家に見込まれてぜひ養子にと」
「へえ、婿養子」
「何が幸いするかわからないものね」
「全くね」
沈黙が流れた。女たちは眼を見合わせ、それからどちらからともなく視線を庭へと逸《そ》らせた。わずかだが空気の中に透明感のある午後だった。
「もうすぐ秋ね」
と和子が呟《つぶや》いた。
「まだもう一度くらい暑さがぶり返しそうよ」
と阿里子が元気づけるために言ってみた。
「多分ね。そしてそれから本格的な秋になる」
和子の視線が宙をさまよう。
「身にしみそうね、今年の秋は」
阿里子はなんと言って慰めてよいかわからなくて、コーヒーのおかわりをいれに立った。
キッチンには弓子がいて、冷蔵庫からアイスクリームを取り出している。
「あら、帰ってたの」と阿里子。
「だからいるんじゃないの。学校にいたら、ここにはいないでしょ」
「虫の居所が悪いのね」
「何の虫のこと?」
アイスクリームをグラスに山盛りにしながら、弓子が反抗的に答える。
「それだけで何カロリーか知ってるの?」
と、娘の質問を無視して阿里子が言う。
「軽く四百カロリーは超すわよ」
「いいの」
「わたしはいやよ。肥満児の娘なんて持ちたくない」
「あたしの身体なんだから、放っておいてよ」
「そうはいかないわ。二十歳になるまではあなた一人の身体というわけにはいかないのよ」
弓子は立ったまま、スプーンをアイスクリームに突っ立てる。
「じゃ、今日だけは眼をつぶって」
と弓子が呟《つぶや》く。
阿里子が首をかしげる。
「いいわ。今日だけは眼をつぶってアイスクリームのやけ食いを許したげる。でも何があったの?」
「何にも」
「話したくないのならかまわないけど、でも話したくなったら、いつでも聞いてあげるってこと忘れないで」
「ありがと。覚えとくわ」
「いいのよ。そのための母親ですもの」
阿里子はコーヒーをいれ終わってキッチンを出かかる。弓子はアイスクリームにスプーンを立てたまま、まだ一口も食べていない。
「ママン?」
と弓子が呼び止める。
「もしもよ、もしもママンだったらこういうときどうする?」
「どういうとき?」
「それを今から言うところ」
弓子がちょっと怒った声で言う。
「好きな男がいてね、あたしが彼に夢中だってことはとっくに知ってるわけ。でも彼はあたしに夢中っていうわけじゃない。何かに夢中になるには年とりすぎてるってこともあるわけ」
「三十四歳は年寄りなの?」
と阿里子が質問をする。
「あたしから見ればそうよ。すごい断絶感よ」
「でも好きなんでしょう?」
「愛しているわ。……と思うわ」
と自信なげに言い足す。
「それで本題だけど、三日前にデイトの約束をしたの。七時に六本木のクローバーで待ち合わせたのね。七時半まで待ったら電話が来て、八時半まで行けないから、先にキャンティへ行って何か食べていてくれないかって言うのよ」
「うん、それで?」
「で、しかたないから言われたとおりにキャンティに行って八時半まで待って、来ないから先にスパゲッティのバジリコを注文して、九時になっても来ないからデザート食べて、コーヒーを飲んで十時よ。そしたらまた電話で呼び出されて、十時半に渋谷《しぶや》のルイっていうカフェに行っててくれないかって」
「行ったの?」
「行ったわ」
「それで来たの?」
「来たのは電話だけ。今夜はこれ以上きみを待たせるわけにはいかないから、すまないが、お帰りって」
「へえ」
「すまないが、お帰り、だって。七時から三度もすっぽかされて、あっちこっち行かされて、その都度自分でお金払ってよ、もうお帰りって」
「よっぽど大事な会議かお仕事だったんでしょうね」
「どうだか」
と弓子。
「言いわけ一切なし。ただ、お帰りだって」
「すまないが、とは言ったでしょ」
「誰の肩持ってるのよ、ママン」
「ごめん、ごめん」
「それで、ひと言くらい何か言いわけくらいは言ってくるだろうと思ったのに、三日間、連絡なし。電話一本入らないの。あたしのほうからなんて死んだって電話しないの知っててよ。ねえ、ママンだったら、こういうときどうする? ね、どうする?」
弓子は阿里子に迫る。
「やっぱりアイスクリームを山盛り食べるわ」
「ね? そうでしょ?」
と、弓子の顔が一瞬明るくなり、ようやくアイスクリームを口へ運んだ。阿里子は一応ほっとしてその場を離れかけた。
「ただし」と、その背中に阿里子は釘《くぎ》を刺した。
「未成年の女の子が夜中の十一時頃まで、盛り場をウロウロするのは、それが最後よ」
「どうしたの? ニヤニヤして」
と応接間で、和子が阿里子の顔を見るなりいきなり言った。
「うちの娘よ」
と阿里子は笑いながら答える。
「心の憂さをアイスクリームで晴らそうってわけなの」
「いいわね。若いってことは」
和子もつられて笑った。
「われわれもアイスクリームで憂さが晴らせれば文句はないんだけど」
そうね、と阿里子は言って、コーヒーを和子の前に置いた。ほんとうにそうだといいんだけどと、もう一度心の中で思った。
枯れ葉よ
阿里子は翔《しよう》と別れようと決意した。この一年、実にいろいろなことがあった。女友だちが前後して二人も駆け落ち事件を起こしたし、娘の弓子が中年の男と恋に落ちて三キロ近くもやせてしまった。
そうした中で阿里子は、自分と翔との関係について、絶えず考えてはきたのだった。
つい何か月か前までは、彼と別れてもよいと考える裏で、実際に翔の存在が完全に彼女の前からなくなってしまったら、それは耐えられないことのような気がしていた。
翔を愛しているからでも恋をしているからでもなかった。もしかしたら、彼を好きですら、ないのかもしれなかった。ほとんど役のつかない俳優で、人生に対する野心も抱かず、そのことに対してどこも痛まない男を尊敬できるわけもない。そのことを除けば、そしてほんのわずかに卑しいような貧相な感じが表情や仕種《しぐさ》の中にごくときたま露呈することさえ我慢できれば、翔という男はつきあっていて悪い男ではなかった。見栄えはなかなかいいし、ユーモアはあるし、決して女を見下さないし、妙な媚《こび》もない。男の媚ぐらい幻滅させられるものはないからだ。
だから週に一度か二度、映画に行ったり外で食事をするときのエスコートとしては、まずは上々の男であった。それは彼と一緒にいるときに、彼や彼女を見る他の女たちの羨望《せんぼう》の眼差《まなざ》しからも、はっきりわかった。明らかに夫婦でもない男女。女がずっと年上で、男は美貌《びぼう》のカップル。
そのことを恥ずかしいと思ったことはなかった。翔のことを恥じたことも、ただの一回だけを除いてはなかった。それはある夏の夕暮れどき、花屋の店員が、彼女に抱かせた、たった一度だけの感情だった。
花屋の若者は、黄色い表紙の詩集を読んでいた。その詩集から眼を上げて、阿里子を眺め、それから横に連れ添った翔を眺め、再び詩集に視線を戻したのだった。ただそれだけのことだった。けれどもあの一瞬だけ、阿里子は翔のことが恥ずかしかった。若者のイノセントな眼と感性に映った自分の男がたまらなく恥ずかしかった。花屋の無垢《むく》な若者の澄んだ瞳《ひとみ》に映る自分たちの関係がいやだった。
あのときだったのかもしれない。阿里子が心の底のどこかで翔と別れようと本気で考え出したのは。あの、自分とは何の関係もない、詩を読む若者のせいで、阿里子は自分の生き方を、少しずつだが確実に変更させているような気がするのだ。
それと女友だちが次々と引き起こした駆け落ち事件。阿里子には彼女たちの無謀さ、無防備さ、勇気などが最初は信じられなかった。非難もしなかったが、感心もしなかった。自分とは違う精神構造をもつ人たちなのだと、距離感さえ感じた。
阿里子には翔のもとへ走るなどという発想はどこをどう探しても生まれようがなかった。相手が翔でなくとも、たった一人の男のために、今自分の持っているものをすべて棄てる気にはなれない。
そんな相手など現われるはずもない。第一、男と駆け落ちをするという行為そのもののせっぱ詰まった感じが、彼女にはなじめない。そもそも駆け落ちとは何かと言えば、男と逃げるということである。そして目的は、彼と四六時中《しろくじちゆう》誰はばかることなく一緒にいたいからである。何をするために? 愛し合うために。もっとはっきり言えばメイクラヴをするために。
つまりはそれなのだ。メイクラヴ。雄と雌になるためなのだ。
そういう剥《む》き出しの欲望に対して、阿里子は気恥ずかしい気がするのだった。生理的にも嫌悪感がある。まるで世界中に、自分たちはセックスをやってやってやりまくるのよ、とわめき立てているみたいではないか。
阿里子にはそういう趣味はない。
けれども一方で、それもまた情熱だと思うのだった。駆け落ちをする情熱。
阿里子は、自分に情熱というものが欠けているのを感じた。時の流れに逆らわずに、ゆらゆらと流れていく自分というものを、最近つくづくと感じるのだった。夫婦の関係もそうだし、翔とのこともそうだった。それでいいのだ、とずっと思っていた。
だが、少なくともそのようなゆらゆらとした時の流れの中からは、何も生まれてこない。翔との関係は、毒にも薬にもならないかわりに永久に不毛である。そして、今では、翔との別れを考えるとき、もうひりひりするような痛みはない。彼なしでも、やっぱり阿里子はゆらゆらと流れていけそうな気がしていた。
翔との関係は、何だったのだろうか。それが何であったにしても、もはやひりひりと痛まないということで、彼女の一つの時代は終わったのだ。
阿里子はそのことを伝えるために翔に逢《あ》うことにした。
阿里子がざっくばらんにその問題を口にし、ひととおり喋《しやべ》り終わる間、翔は口をさしはさまなかった。
「というわけよ、どう思う?」と、やがて阿里子が言った。
「ぼくがどう思うかということは別にしておいて、あなたの言うことは理路整然としているし、異論をはさむ余地はないみたいだね」
「でもどう思う?」と、もう一度阿里子。
「あなたの決心はできているんだろう? だったら、ぼくが何を言ったってしようがないじゃないか」
「あら、そう」
と阿里子はなんだか拍子抜けするのだった。
「そんなもんなの? 四年間も続いた関係が終わろうとしているのよ、しようがないじゃないかで、それであなたはいいわけ?」と妙な感じにからみたくなる。
「じゃ訊《き》くけどね」と翔が言う。
「あなたはぼくに別れの愁嘆場を演じろとでもいうのかい? あるいは、醜態を見せろとでも?」
「そんなこと期待してないし、第一、あなたはそんなタイプじゃないことくらい知ってるわよ」
阿里子はじっと翔を眺めた。彼は今でも彼女をドキリとさせるほど魅力的だ。なんだか手放すのが惜しくて泣きたい気分だった。彼女が手を引いたとたん、他の女たちがハエのように彼に群がり寄るのではないか、と思うのだ。
「それにしても、ひと言くらい、なぜなのか、とかなんとか抵抗したっていいじゃないの。あるいは、まだ別れなくともぼくたちは充分にうまくいっているじゃないか、くらいのこと言ったっていいじゃないかと思うのよ、わたし」
「わかった」と翔は苦笑する。すると、頬《ほお》が少しひきつれたようになって、彼はいっそう苦《にが》み走った男前になる。
「じゃ、言うよ。まだ充分にうまくいっているのに、何も今すぐ別れなくたっていいじゃないの?」
たいして情熱のこもらない声で、翔は阿里子の言葉をそのまま繰り返した。
「心のこもらない声だわね」
と阿里子はじろりと翔を睨《にら》んだ。それから言った。
「充分うまくいっているうちに別れたほうが、いい思い出だけが残るわ。そうじゃない?」
「うん、ぼくもそう思う」
「そこであなたがそう思っちゃいけないのッ」
阿里子はいらいらして声を高めた。
西麻布のそのレストランは、遅めのディナーをとる人たちで混《こ》んでいた。隣の席から女が、ちらと好奇心のある眼で二人を見た。
「あなたっておかしな人だな、一体、ぼくと別れたいの、それとも別れたくないの、どっちなんだい?」
翔はもう少しで笑い出しそうな顔つきだ。こんな別れの場面なんて想像もしなかった。別れって、もっと深刻で、涙なんかのシーンもあるんじゃないかしら?
「別れたいとか別れたくないとかじゃなくて、今がそうする時機じゃないかって言っているの。それにわたしの気持ちはもう決まってるんだから」
エスプレッソを口元に運びながら阿里子は言った。
「あなたの気持ちが決まってるんなら、それ以上、ぼくは何も言うことはないね」
「へえ、そんなもの?」
「跪《ひざまず》いて、気持ちをひるがえしてくれっていうのは簡単だよ」
「ならそうしてよ。跪いてみてよ」
「それで気持ちがひるがえる?」
「ううん、だめ」
「なら跪くだけズボンが汚れて損だな」
「損得の問題なの」
「もちろん違うよ」
「男でしょ、男だったらもう少しなんとかするものじゃない? 少なくとも女に恥をかかせないようにとか、女の体面を傷つけないようにとか、そういう心配りがあって当然じゃないの?」
「つまりあなたは、こういうことを望んでいるわけ? いきなり別れ話なんか切り出されて、逆上する男がいい? 頭に来て、思わずあなたの顔を叩《たた》くとか、手をねじり上げるとか、そういうシーンをお望みなわけかい?」
「それ、一種の情熱じゃない」
「情熱とは言わないんだよ、そういうのは未練というんだ。阿里子はぼくにありもしない未練を見せろというわけかい?」
「ちょっと待って、今の言葉ひっかかるわ。ありもしない未練ですって? 未練がないんですって? ほんとに? ほんとに未練なんてこれっぽっちもないの?」
阿里子が興奮して身を乗り出す分、翔は身体を後ろへ引く。
「声が大きいよ、みんなが見ている」
「全然かまわないわ、あなたはかまうの?」
「ぼくは平気だけど」
「ならいいじゃない。見たいだけ見せればいいのよ、ただなんだから。ただで男と女の別れのシーンを見せてあげるんだから」
「人に見せびらかすものだと思わないね」
「そんなのどうでもいいの、それよりわたしたちのことよ。まるでわたしの別れ話を待ってましたとばかりじゃないの、気に入らないわ」
「あなたが別れたいと言い出したんだよ。ぼくじゃない。ぼくはこのままでも充分にいいと思っているし、あなたには捨てがたい魅力がまだある。だけど女のほうから別れたいと言い出すんなら、男としてはあれこれ言わずに受け入れるのがマナーじゃないかと思うだけさ」
「男の美学ってわけね?」
「マナーと言ったんだよ」
「最後までいい人ね。でも、もう一つだけ訊《き》いていい?」
「どうぞ」
「わたしのこと、今でもうんと好き?」
「イエス、好きだよ」
「うんとよ」
「うんと好きだよ」
「ほんとうの心は別れたくない?」
「そう、ほんとうの心は、別れがたい」
「それで決心がついたわ」
「やっぱり別れないことにする?」
「ううん、やっぱり別れる」
二人はそこで視線を深々とからめ合った。そして、どちらからともなく声を出して笑い合った。すっかり笑いが引くと、二人は握手をして、立ち上がった。それが阿里子と翔の四年にわたる恋愛の終わりだった。
すっかり秋になっていた。日焼けもさめかけた弓子が、阿里子の寝室を覗《のぞ》いた。
「ママン? ちょっといい?」
「いいわよ」
「ママンたら、相変わらずデカダンスなんだから」
「どうして?」
「昼過ぎからベッドに横になってカンパリなんて飲んでるんだから」
「本を読みながらっていうのが抜けているわよ」
「今、何読んでいるの?」
「『蜘蛛女《くもおんな》のキス』」
「やや」
「ややって?」
「おぬしやりますな、アルゼンチン文学ですぞ」
「それより何か用?」
「ん、まあね」と、弓子はちょっと間を置いた。
「それよかママン、最近ちょっと沈んでない?」
「沈んでる」
「何かあったの?」
「ちょっとね」
「水くさいね」
「自分のほうから言い出せないもの。常識的に言って母親が娘に話すようなことじゃないもの」
「ママンが常識的だったことがこれまで、ただの一度でもあった?」
「ない」
「じゃ、いいじゃない。話して」
「あなたが訊《き》いて」
「わかった。男と何かあったの?」
「男の人って言えないの?」
「だって男でしょう。MAN、情人、ママンの男、恋人、どうでもいいじゃない。翔っていったっけ?」
「別れたのよ」
「なるほど」弓子はチラと上眼《うわめ》づかいに母親を見つめた。
「それで沈んでるわけだ。ところでどう、ママン。沈んでてもしようがないからさ、いっそのことヒステリー起こして娘に当たり散らしてみるとか、パーッとハデにやってみない?」
「別にヒステリー起こしてみたいと思わないもの」
「悲しい?」
「そりゃ悲しいわよ」
「泣いた?」
「うんと泣いた」
「で、なんとか立ち直れそう?」
「と思うわ」
「今はまだ沈んだ状態でいたいわけだ」
「そう、今はまだ沈んでいたい」
「沈んだ状態を楽しんでいるわけかな?」
「まあ、そういうところね」阿里子はちょっと寂しそうに微笑した。
「今度はあなたの番よ、話があるんでしょ? いいことなの?」
「そう見える?」
「うん、見える。浮き浮きしているみたいよ」
「悪いわね、ママンが沈んでるのに」
「二人とも沈んだら、わが家は沈没しちゃうわよ。それでどんないいこと?」
「ちょっと言いにくいんだな」
弓子は阿里子のベッドのふちに腰を下ろした。
「例の虚無の彼のこと?」
「あたしね」と弓子。
「結婚するかもしれない」
「プロポーズされたの?」
「あたしがプロポーズしたの」
「へえ」と阿里子は眼を丸くする。
「女の子のほうからプロポーズするのが流行《はや》ってるの?」
「流行ってるからしたんじゃないわよ」
「それで彼、OKしたの?」
「考えてみるって」
「驚いた。まるで逆だわ」
「そんなこと問題になる?」
「わからないわ。でも、彼、あなたより十七歳も年上でしょ?」
「それが考えてみる理由じゃないわよ」
「あら、そうなの?」
「彼はね、あたしと結婚することによって、彼の自由な魂がどの程度束縛されるのか、心配しているのよ。彼はね、一生旅人であることをやめたくないんだって」
「そんなに始終出歩く人なの?」
「ママンたら、心の旅よ。魂の旅のことよ」
「そういう人は、結婚なんてすべきじゃないと思うけどな。お友だちなら最高かもしれないけど、結婚は別よ」
「あら、そ?」
「ごく普通の人がいいのよ」
「パパみたいに? それでママンはどうなの? パパみたいな人と一緒になった結果、恋人つくらなくちゃニッチもサッチもいかなくなったことはどうなの?」
「意地悪言わないで」
「あたしが彼にプロポーズしたのはね、パパとママンの結婚を見てきたからよ。ただ形だけ一緒にいるだけの結婚なんてしたくないからよ」
「彼だと違うの?」
「もちろん違う。彼とはね、夫婦とか恋人とかそういうなまなましいものじゃなくて、もっと大事なものがはぐくめるような気がする。彼ね、言ったのよ、僕たちはロイヤルフレンドだって。素敵じゃない?」
「素敵ね」阿里子は言った。
「なんだか羨《うらや》ましくて泣けそう」
「泣いてもいいわよ」
そして事実、阿里子は泣き出してしまったのだった。弓子がその肩をしっかりと抱きしめた。
泣きたいだけ泣くと、阿里子は言った。
「彼、あなたのプロポーズ受けると思う?」
「それが全くわからないのよね」不思議にもケロリとして言う弓子。
「彼はね、まだ自由な魂に未練があるんだと思うのね。でもあたし言ったのよ、自由な魂のことなら心配しないでって。世の中であなたの自由な魂を大事に思う女がいるとしたら、それはあたしだけよ、って。他のどんな女だって、男の魂の自由さをしめつけてしまうか、怖気《おじけ》づいて最初から近づかないものよ。でも、あたしは違うんだ。あたしはありのままの彼でいいの。彼が変わることを望んでいないの」
「あなたのこと誇りに思うわ」阿里子は言った。
「でも、あなた、自分のことはどうなの? まだ十七歳の弓子の魂のことはどうなるの?」
「あたしの魂も自由なのよ、ママン。彼と一緒にいると、それがわかるの」
「二つの自由な魂が寄り合って、どうやって生活していくの?」
「生活?」
「そうよ、生活よ。結婚って魂が寄り添い合うことだけじゃないのよ。知っていると思うけど、結婚って生活でもあるのよ、弓子ちゃん。ときに生活そのものでもあるのよ。まず二人がどこに住み、どうやって食べていくかって問題よ、わたしが言ってるのは」
「あら、それなら簡単よ、今までどおり、何も変わらないわ。あたしはママンとパパとこの家に住み、ここで食べるわ」
「へえ、それで相手は?」
「彼も今までどおり。彼の家に住み、彼は彼で食べるのよ。もっともしばしば、彼の取り巻きの女どもが手料理運び込んだり、レストランに招待したりするんだろうけど」
「ちょっとうかがうけど結婚するんでしょう、あなたたち? 一緒に住まないの?」
「一緒に住まなくちゃ、いけないの?」と逆に弓子が訊《き》いた。
「普通はそうよ」
「でもあたしたち普通じゃないもの」
「それはうんとよくわかるけど」阿里子は頭を抱えてしまった。
「つまり、今流行しかけている別居結婚ていうやつ?」
「呼び方なんてどうでもいいわ」
「まあそうだけど……。ということはあなたたち、結婚はするけど、形式は独身なのね。ときどきは逢《あ》うんでしょうね」
「毎日ではないと思うけど」
「逢ってどうするの?」
「話をするわ、それから黙って一緒にいるわ」
「それだけ?」
「手を握ったりするわ」
「それだけ?」
「いけない?」
「でも結婚するんでしょ? 子供が生まれるようなことはしないの?」
「なんだ、ママン、赤くなってる。当たり前じゃない、するに決まってる」
「でもいつ、どこでするの?」
「電車の中や喫茶店ではしないから安心して」
「とにかく変だわ。頭がおかしくなってきた」
「ママンは自分の尺度で物事を考えるからよ」
「だけどもしもよ、もしもパパに万一のことがあって、ママンにも万一のことがあったら、あなたどうするの? どうやって生きていくの?」
「パパとママンが残してくれたもので生きていくわよ」ケロリと弓子は言った。
「この家はわたし一人で住むには大きすぎるから、マンションに改造して人に貸せば、女が一人、一生食べていくのには困らないわ」
「女が一人って、あなた結婚してるはずでしょう?」
弓子の現金なのに腹を立てるというよりおかしくなりながら阿里子は訊《き》いた。
「そうよ。でもあたしは、男を養う気はないのよ、ママン。彼が文無《もんな》しになって、あたしのところに転がり込まれたらいやだわ。彼は彼、あたしはあたしよ。経済的にお互いに負担をかけるところから、男と女の間に支配の感情が生まれるんだわ。そうなったら魂の自由はもうおしまい」
「なるほどねえ」今度は阿里子は感心するのだった。
「だけどもしも、あの人が相変わらず定職を持つのを嫌って、食いつなげなくてよ、今の家や土地を売っちゃって行くところがなくなった、というのであれば、あたしのマンションの一室に入れてあげるのは、ヤブサカじゃないのよ。そこまで冷たい女じゃないの、あたし。もっとも家賃はちゃんといただきますけどね」
「ご亭主から?」
「ご亭主であろうとなかろうと」
「冷たい女じゃないかもしれないけど、しっかりしているわ、あなた」と阿里子は言った。
「それくらいしっかりしていれば、わたしもパパも安心して死ねるわね」
「いやよ、ママン。死ぬ話なんて」
「あら、さっきはママンたちが死んだ後の人生設計なんか、しっかり話していたようだけど」
「それはママンがあたしの行く末を心配したから言ったまでじゃない。それにパパはともかく、ママンは当分長生きするわよ。ことによったらあたしなんかよりずっと長く生きそうよ」
「あなたより長く生きたら困るわ」
「どうして?」
「あなたのご亭主をどうするのよ?」
「別にあたしのご亭主をどうしてもらわなくてもいいわよ」
「でも上のマンションの一部屋に転がり込む予定でしょう? 無視するわけにはいかないじゃないの。わたしが何かおいしいものを作って食べてるのに、インスタントラーメンなんてすすらせておくわけにはいかないわよ、義理の母としては」
「あのね、ママン。言っとくけど、そういうの余計なお節介っていうの。それだから、ママンの男たちはみんなだめになっちゃうの。ママン、いいこと、あたしは、彼をジゴロにしてほしくないッ。絶対にお断りッ」
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃないの」
「だって信用できないんだもの、ママンは。安心してママンより先には死ねやしないわ」
「じゃ、死なないで」
「そうするわ、せいぜいがんばって生きるわ」
「ところで真面目《まじめ》な話」と、急に阿里子は表情を引きしめた。
「ママンね、ちょっと考えるところがあって、旅に出ようと思うのよ」
「一人で? 長いの?」
「一人よ。長くなるかもしれない」
「どこへ行くの?」
「インドとかカシミールとか。仏像をたくさん見てこようと思うの。インドの森の中になんて、それはたくさん仏像が彫られたものがあるでしょう?」
「そういえば、ママン、昔彫刻やってたんだっけね。また始めるつもり?」
「わからない。もう二十年も粘土や石に触っていないから。インドへ行ってね、そういう気持ちが湧《わ》いてくるかどうか試してみたいのよ」
「賛成」
「ずいぶんあっさり言うのね。三か月も留守にするかもしれないのよ。ご飯の支度とかパパのめんどうとか、いろいろあなたがするのよ」
「もちろん、やる気満々」
「ありがと。週に三回くらいは今までどおり通いのお手伝いさんが来るから」
「パパには話したの?」
「これから話そうと思うの」
「OKすると思う?」
「むずかしそうね」
「OKしなくとも、出かけるんでしょう?」
「できるだけ納得してもらうよう努力してみるわ」
「あたしも説得してみる」
「ありがとう」阿里子はほほえんだ。
「じゃあね、ママン、あたしデイトなの」
「ちょっと待って。まだ肝心の話がすんでないわ」
「何よ?」
「あなたのことよ」
「全部話したわ」
「全部じゃないわよ。ねえ弓子、あなたは何をするの? 大学で何を勉強して、何をやるつもり? あなたは自由な魂を持つ他に、何者になるつもり?」
「職業のこと言ってるの?」
「ケロリとした子ね。でもまあそうよ」
「大学では児童心理を勉強したいんだ、あたし」
「心理学?」
「子供の心の問題。母と子の関係の問題とか、そういうこと」
「それで将来は?」
「子供のためのカウンセリングとかセラピーをしようと思うの」
「ママン知らなかった。あなたがちゃんとそういうこと考えてるの。何も言ってくれないんだもの」
「だって、ママンが何も質問しなかったんだもの、男にかまけて遊んでばかりいたから」
「それ言わないで」
「ごめんね」
「でも、どうして子供のためのセラピーとかカウンセリングをやってみようっていう気になったの?」
「だってさ、世の中精神的に不安定な母親に育てられた子供が多いもの。日本の女って、マチュアー(成熟した)じゃないのよ。それでいて、窒息しそうな母性愛でもって、幼い子供の上にそそり立って支配するのね。子供たちが、押しつぶされてる。登校拒否とか、いじめ問題とか、いろいろ起こるのは、家庭の中における母親の存在が巨大すぎるのに反して、父親が不在だったり、脆弱《ぜいじやく》だったりするからよ」
「まいったわね」
阿里子は両手をホールドアップのスタイルに上げて、弓子を見つめた。
「とにかく、ママン、あたしのことは大丈夫。それよりママンには支えが必要よ。旅行もがんばって」
「そうする」
「一つ忠告していい? 今までママンは心の支えを人に求めてきたけど、これからは他人じゃなくて、ママン自身にそれを求めてほしいの。つまり、ママンがママンの支えなのよ。わかる? そうすれば世の中、誰もママンを裏切らないし、ママンも期待に裏切られないわ。じゃあね、遅くなるから行くわ。チャオ」
と弓子は寝室を出ていった。
――わたしがわたしの支え、か――と阿里子は呟《つぶや》いた。そうすれば誰もわたしを裏切らないし、傷つかない。なんだか心が温かくなって、希望が湧《わ》いてくるような気がした。窓の外はすっかり秋で、木の葉が身をよじりながら、散っていくのが見えた。
夫婦の肖像
阿里子の夫は養子である。青山の小町娘と言われても不思議はないくらい美人だった阿里子と、広い土地つきの屋敷と、軽井沢と箱根と葉山の別荘と、それから三つの会社とを一度に任された男である。
壮一郎が偉いのは、過去二十年、そうしたもの全《すべ》てを少しも損傷することなく維持してきたのみならず、三つの会社の規模を拡大し、それだけにとどまらず、新たに同系会社を二つ増やしたことである。
それよりも実に驚嘆に値するのは、阿里子というおよそ世間知らずのわがまま娘を、見事にコントロールしおおせたということではなかろうか。
かつてのわがまま娘は自由奔放なわがまま妻となり、一人娘の母親となったが、彼女のほうにも非常な美点があって、それでこの夫婦はいまだに健在なのである。
阿里子の美点は、夫を尊敬していること。そしてちゃんと夫を立てていることである。これは何も計算でもなければ女のたしなみからでもない。真実、心の底から彼女は夫を尊敬しているのである。
壮一郎は仕事の虫ではあるが、家庭を大切にし、家族を愛している。彼もまた日本の大部分の彼と同年齢の男たち同様に、家族への思いを器用に表現する才能に欠けるが、しかしその思いは充分に妻や娘に伝わっているはずだった。
彼の唯一《ゆいいつ》の、そして熱烈な趣味は磯釣《いそづ》りで、日躍日というとよほどの嵐でもない限り、葉山の家へ出かけていく。そして日がな一日、釣り糸をたれて過ごすのである。ときどきその楽しみが社用ゴルフなどで犠牲になると、その週の間は少しいら立たしげにしている。
新婚の頃は、毎週ではないが阿里子も夫について葉山に行ったが、夫の横に坐《すわ》って一日中釣り糸をたれて過ごすのは、ただの一度でこりてしまった。あんな退屈なことをするくらいなら、そのまま海に飛びこんでしまったほうがいいと思ったのだ。もっとも阿里子は泳げないので、海には飛び込めない。したがって釣りはそれでやめてしまったのだった。
十二月の初めのある日躍日のことだった。阿里子は急に思い立って、夫について釣りに出かけてみようかという気になったのである。実に二十年ぶりの心境の変化であった。
朝食の席で彼女が言った。
「ねえ、あなた、今日ご一緒してもいいかしら?」
壮一郎はコーヒーカップの上から静かに視線を上げた。
「一緒に来たいって、釣りにかね?」
あまり感情を表わさない夫の顔に、珍しく困惑したような表情が現われるのを阿里子は認めた。二十年も放《ほ》ったらかしにして、いきなり一緒に行くなんて言われれば、無理もない話かもしれなかった。
「あら、そんなにびっくりすることないでしょう。ちょっと海を眺めていたいのよ。釣りはほんの一、二時間。あとはお邪魔しませんから」
「しかし、一体どういう心境の変化なんだろうねえ」
再び穏やかな声でそう言い、彼は小さくため息をついた。それから思いついたようにつけ足して言った。
「十二月の海岸は寒いよ」
寒いのに弱い阿里子は顔をしかめた。
「すごく寒いの?」
「風が吹くからね」
「重装備して行ってもだめかしら?」
「風邪《かぜ》ひかなければいいがねえ」
「でも物は試しよ。せっかく行くつもりになったんだから、私の気を変えようとしてもだめ」
阿里子は立ち上がり、防寒用のスラックスとセーターに着替え、ラフな感じのレッドフォックスの毛皮を取り出した。
壮一郎は先に外に出て、ベンツのトランクの中を覗《のぞ》き込んでいた。着ぶくれた阿里子の姿を見ると、トランクを閉めながらもう一度だけ忠告めいたことを言った。
「途中で飽きて帰りたくなっても、私は送らんよ。それでもいいね」
いまだに夫が彼女をわがまま娘扱いするのが、阿里子には愉快だった。
「よっぽどわたしを連れて行きたくないのね」
と彼女は軽く言って笑った。
「葉山に隠した愛人でもいるんでしょう」
夫の顔色が変わった。阿里子は慌てて言った。
「あら、いやだ。冗談よ。困るわ、ほんとうに。冗談も通じないんだから」
それから彼女は毛皮ごとベンツの助手席に乗り込んで、反射的に日射しよけを下げ、そこにはめ込まれた小さなミラーの中を覗《のぞ》き込んで髪の具合を直した。それから口紅の色を眺め、上と下の唇をこすり合わせた。
ミラーの中にはトランクから離れようとしている夫の姿が映っていた。もうそろそろ五十に手が届くのに、髪は薄くもならず白髪も少ない。体重も若い頃と同じで、一キロも余分な脂肪をつけていなかった。肩のあたりにだけ年相応の疲労感が滲《にじ》み出しているが、その年の男にしてはかなりいい線をいっているのではないだろうか。わたしは何にも気をつけてあげなかったのにと、ふと阿里子は一瞬、深い悔恨の念に駆られた。その壮一郎の表情に、一種途方に暮れたような感じが漂っているのに気づいて、阿里子はわれに返った。
しかし運転席のドアを開け、ハンドルを握るときには、その途方に暮れたような表情はあとかたもなく消えていたので、阿里子は再び浮き浮きとフロントガラスの中を見つめた。
車が第三京浜を抜けたあたりで一時渋滞に巻き込まれたが、横浜と横須賀《よこすか》を結ぶ有料道路に入ると、車間距離ができた。壮一郎はベンツを百二十キロで走らせ、やっと煙草を口にくわえた。
「お正月の予定は何かあります?」
阿里子があらためて尋ねた。
「何もないよ。箱根でゆっくり温泉にでもつかろうか」
「わたし、できたらインドへ行ってきたいんだけど」
と彼女は切り出した。
「インドへ? またなんで急に」
煙草をくわえたまま、壮一郎が質問した。
「元気なうちに、見ておきたいと思っただけよ」
「まるで二、三年の命みたいな口調じゃないか」
「でも、いろいろなことに好奇心が持てる間って、それほど長くないんじゃないの?」
「それもそうだ」
と壮一郎は同意した。
「私など、もうインドへなど行きたいとも思わんね。とてもそういうエネルギーも興味も湧《わ》いてこないよ」
「でしょう? だからよ」
「しかし、なんでインドなんだね?」
「インドの仏像の顔をたくさん見たいの。穏やかなとてもいい表情をしているでしょう。なんだか疲れたのね、そういういいお顔をゆっくりと見て回りたい」
「誰と行くんだね?」
「弓子を誘うつもりだったんだけど、とてもそれどころじゃないみたいよ」
「例のろくに仕事もしていない男のことでかね?」
「詩人なのよ」
「詩を一作も書いていないのにかね?」
「弓子が話したの?」
「弓子も話したし、私もそれなりに調べた」
「興信所?」
「いけないか? 一人娘の一生の問題だよ」
壮一郎は車を左車線に移し、スピードをわずかにゆるめた。
「それで何か発見しました?」
と阿里子。
「いや。弓子が私に話した以上のことは何もなかった」
「あなた、反対なんでしょう、二人のこと」
「私に勇気があったら、あの男を絞殺してやりたいよ」
「彼に一度だけ逢《あ》ったけど、変わっているっていえば変わっているわ。でも、弓子だって普通じゃないし」
「きみに男を見る眼があるとは思えんよ」
いつになく辛辣《しんらつ》な言い方だった。壮一郎らしくない。
「私はあくまでも反対だ。父親としては、ああいう男へ娘をやるわけにはいかんのだよ」
「気持ちはわかるわ」
と阿里子は譲歩した。
「でもあの子の話聞いたでしょう? お嫁に行くなんて感覚、何にもないみたいよ。一緒に住むつもりもないのよ。籍を入れるかどうかだって怪しいものだと思うわ」
「じゃ、一体あの二人は何を望んでいるんだ? 結婚でなければ何をしようっていうんだ?」
「やっぱり結婚なのよ。弓子に言わせると、そういうことになるらしいの」
阿里子も困ったように語尾の力を抜いた。
「籍も入れず、一緒にも住まないというんじゃ、反対のしようもないな。式は挙げるのか?」
「それもしないんじゃないのかしら、あの二人。とにかく冷めてるのよ」
「わけがわからんよ。しばらく放置して様子を見てるしかなさそうだな。騒ぎ立てれば逆に火のつくタイプだ。そのうちに熱が冷めれば、ケロリとするさ」
「そうね」
阿里子は消極的にうなずいた。
「それで、インドへは一人で行くつもりかね?」
「ほかに一緒に行く人はいないもの」
「そうかね」
耳のせいかもしれないが、壮一郎のそのひと言は懐疑的に響いた。しかし、阿里子は何も言わないことにした。
「女が一人で行くには危険すぎやしないかね」
と、壮一郎が語調を変えた。
「もちろん、あっちでガイドを雇うし、危ないようなところへは行かない。わたしはご存知のとおり臆病《おくびよう》だから」
「臆病だが、無鉄砲なところもあるよ」
と壮一郎は笑った。
「誰か一緒のほうがいい。そのほうが私も安心なんだ」
「誰かって?」
「私に訊《き》くのかね?」
さっきと同じ辛辣《しんらつ》な調子が言葉に滲《にじ》み出た。
ベンツは海岸に平行に走っている道に突き当たり、壮一郎はハンドルを右に切り、その海岸通りに乗り入れた。
左側の浜には、家族連れや若いアベックの姿がポツポツと見られた。もちろん夏のにぎわいとはほど遠い。
ウインドサーフィンをやる若者たちが、黒いウエットスーツに身を包んで波間に見え隠れしている。黒光りするのでアザラシの群れみたいだ。波はあまり高くはない。
「わたしのことで何か疑っているの?」
アザラシの群れみたいな若者たちを眺めながら、阿里子が不意に尋ねた。
「疑っている?」
と壮一郎がおうむ返しに言った。
「いや、疑ってなぞいないさ」
と彼は苦笑した。
「確信があるだけだ」
しばしの沈黙。再び壮一郎は煙草を口の端にくわえるが、すぐには火をつけない。
「また興信所?」
無表情な声で阿里子は呟《つぶや》いた。壮一郎は返事をしない。
「そうなのね? それで何もかも承知の上というわけなのね」
「私は一度もきみを責めたりはしなかったよ」
「つまり、お釈迦《しやか》様の掌の上で飛び回っているおサルさんていうわけね」
「そうとるのは、きみの勝手だよ」
「それでよく許せるわね」
「誰が許したと言ったかね?」
葉山の町並みの中を車は走っていた。すぐ背後に迫るそそり立つような山。川を渡ったところで壮一郎は右折した。
丘を百メートルほど曲がりくねって登ると、別荘は左手にある。ガレージに続く道はきれいにはき清めてあり、玄関口までの飛び石にも水が打ってあった。
阿里子の父親の代からずっと管理人をしている夫婦はもうかなりの年齢なので、その娘が主として家の内外の管理をしているということは、ずいぶん前に壮一郎から聞いていた。一度結婚したが理由があって別れ、家に戻ったという話であった。
その女が、車の音を聞きつけたのか、玄関から転がるような感じで走り出てくるのを阿里子は見た。そのことには、彼女は奇異な感じを受けなかった。若い娘みたいで無邪気な気がして、口元がほころびかけたくらいだった。
けれども、その女が助手席の阿里子の姿を認めた瞬間、彼女は、はっとしたのだった。転がるような感じが嘘《うそ》のように消えていた。身体中に溢《あふ》れていた喜びのようなものが、一瞬にして凍結してしまったような具合だった。
顔に浮かんでいた少女めいた笑いがいったん引っ込み、無表情になり、それから年相応の落ち着いた控え目な微笑に変わるのを、阿里子は助手席から見ていた。
「おいでなさいまし」
と、ドアを開けて降り立った阿里子に対して、まず女はそう言って頭を下げた。それから慌てて壮一郎に挨拶《あいさつ》をした。そのとき、二人は視線を合わせなかった。
「あなたが、関さんの娘さん」
阿里子はつとめて寛大な口調でそう言った。
「はい、暁子《あきこ》と申します。どうかよろしくお見知りおきを」
土地のなまりのある言い方でそう言うと、深々と腰を折った。
下げた頭の後ろの美しい項《うなじ》が阿里子の眼に入った。真っ白な首に黒い髪が一筋乱れて落ちていた。顔を上げしなに、女はマニキュアをしていない白い指先で、頬《ほお》に乱れ落ちた髪を耳の後ろに引いた。その仕種《しぐさ》が妙になまめかしいのだった。壮一郎はすでにトランクを開け、釣りの道具を取り出していた。
暁子という女は、さっと壮一郎の傍に寄り、彼の手から餌箱《えさばこ》を受け取って、彼の一歩後ろから歩き出した。無意識に近いその動きから、それがほとんど習慣に近い動作だと、阿里子は感じた。数歩遅れて、彼女は二人の後ろから歩いていった。前を行く壮一郎と暁子からは、もう十年以上も連れ添っている夫婦のような感じが露呈していた。
家の中に入ると、暁子は言った。
「奥さまがおいでになるとは存じませんでしたので」
と言い、てきぱきと座布団を置いた。
「いいのよ、お客さまじゃないんだから」
と阿里子は答えた。
「それよりご両親はお元気?」
「はい、おかげさまでなんとかやっております」
暁子の眼は、海に面したほうの濡《ぬ》れ縁へ出ていく壮一郎の姿を追っている。
「この家のことは、ほとんどあなたがやっていてくださるんですってね」
「行き届きませんで、申しわけありませんです」
「そんなことないわ。とてもきちんとしていて」
阿里子は部屋の中を見渡した。ふだん人気のない別荘という、がらんとした感じはなかった。週に一度か二週間に一度釣りに来る壮一郎のために、隅から隅までチリ一つないよう管理が行き届いている。
「奥さまも釣りにおいでなさいますか?」
と暁子がお茶を注《つ》ぎ入れながら訊《き》いた。大小の夫婦茶碗《めおとぢやわん》があるのを阿里子は見逃さなかった。しかし暁子は大のほうを壮一郎に渡し、阿里子の分は客用の茶碗に注いだ。何かに気をとられているのか、うわのそらの仕種《しぐさ》だった。あの女用の茶碗を使っていたのは暁子なのだ、と阿里子は思った。
「行くよ」
と壮一郎があとも見ずに言った。反射的に暁子が腰を上げた。少し遅れて阿里子が続き、ブーツに足を通した。
夫にはどこかに隠れた女がいるだろうくらいのことは、漠然と予想くらいはしていたが、実際そういう女と鉢合わせしてみるのと、予想していたのとは大違いである。
自分がこれほど動揺するとは思ってもいなかった。しかし逆上するほどではない。胃のあたりが硬くなって吐き気がしたが、女に対しては悪意は湧《わ》いてこない。壮一郎を恨む気持ちもない。ただこんなふうに夫の女と出逢《であ》いたくなかった、という思いだけが胸を満たしていた。
女は美しくも、若くもなかった。おそらくは阿里子より幾つか年上なのだろう。首から下は色白だが、いつも夏には日にさらされる顔や手の甲は硬く、しみついた日焼けの名残りがあった。いい性格なのには違いないが、女が若くもなく、美しくもないことが、阿里子を悲しませた。なぜだかわからないが、悲しいのだった。
暁子は門のところまで二人を送ると、そのまま引き返した。夫婦は海岸まで無言で歩いた。
「あなたが毎週葉山に来るのは、必ずしも魚の顔だけ見に来るわけじゃなかったのね」
決して責めるような口調ではなかった。
適当な岩場に腰をおろしたが、壮一郎は黙っていた。
「そうと知ってたら、わたし、来なかったのに」
「しかし、来たいと突然言い出したのは、きみのほうだよ」
穏やかな横顔を見せて、壮一郎が言った。眼は海面に浮いている黄色と白と赤の浮きに当てられている。
「来るなとは言えないだろう」
「今になって思い当たるけど、あなた、いかにも来てほしくなさそうだった」
「私は器用な男じゃないからね。きみとあの人が顔を合わせる状況を想像しただけで、内心|怖気《おじけ》づいてしまったよ」
「そうは見えなかったけど」
「見えていなくたって、いろいろなことが起こるのさ」
「そうでしょうね。彼女とはいつから?」
「そんなことを訊《き》いてどうする?」
波があるので、浮きが上下していた。
「ただ訊いただけよ」
「八年かな」
と壮一郎は言った。
「いや、九年になるな。この十二月で」
「十二月だなんて、よく憶《おぼ》えてる」
と、阿里子は水平線に眼を移した。白浪《しらなみ》がところどころに立っている。沖のほうに風が吹き出したのに違いない。あのあたりに白浪が立つと、海岸にもやがて間もなく風が吹き始める。子供の頃、夏休みに葉山に来ると、関さんがそう教えてくれたのだ。彼は漁師だった。
翔と出逢《であ》ったのが何月だったのかなんてことさえ、阿里子は憶えていない。秋だったのか、春だったのかも定かでない。わたしはずいぶんぼんやりと人生を過ごしてきたんだわ、と彼女は不意に胸を突かれるような気がした。
「それで、わたしのことも、黙認したのね」
「そういうわけじゃないよ」
と夫は静かに言った。
「自分が後ろめたいからじゃない。それに私はあの人のことで後ろめたいという感情を一度も抱いたことはないんだ。あの人とのことがなくとも、きみの男のことは黙認したと思うね」
浮きがぴくりと動いた。だが、すぐには糸を上げない。壮一郎の眼が注意深く浮きを見守る。そのまま浮きは動かない。彼が続けた。
「そうでもしなければ、きみがこの結婚にとどまるとは思えなかったしね」
海上の半分まで白浪《しらなみ》が広がっていた。風はじきに阿里子たちのところへ押し寄せてくるだろう。
「でもあの人、よさそうな人じゃない」
「そんなことは言わなくてもいい」
と、思いのほか強く壮一郎が言った。
「私は、きみの男のことを、そんなふうには言わんよ」
「別れたのよ。それも調べてとっくに知ってるとは思うけど」
「いや。知らなかったよ」
壮一郎は妻を見つめた。
「じゃ、わかったでしょう。もう逢《あ》っていないの」
「そうか」
と壮一郎。
「それはよかった。つまり、きみのためによかったと思うよ。あの男がきみのためになることは一つもない」
そんなことはない、と阿里子は胸の中で呟《つぶや》いた。あの男《ひと》がいなかったら、三十三から三十七にかけての、あのひもじい何年間かを生き通すことはできなかった。あのめくるめくような性愛の体験。それが何年も続いたのだ。あの一時期を抜かしたら、阿里子の人生はつまらないものだったに違いない。人に言えるようなことではないが、あの性的な四年間のおかげで、彼女の人生は、女としてのバランスを保ち得たのだ。
いつか死ぬとき、自分の過去をふり返って、どの瞬間が一番幸福だったかと自分に問いかければ、まちがいなく彼とのあの四年間と、わたしは答えるだろう。たくさんのたくさんのオーガズム。
世の中にはどれだけ多くの女たちが性的不毛と飢餓感を抱えて生き、やがて老いていくことか。もちろん女にはそれぞれの生き方があり、選択がある。チャンスもあるし、運不運もある。誰もかれもが阿里子と同じ選択をするわけではない。ただ、阿里子はそうした。それだけのことである。そして終わってみて、あの四年間があのように存在したことに満足しているのだ。もしも何もなかったらと思うと、むしろ冷たい汗が出るくらいだ。そのことで夫を傷つけたかもしれないが、人間、最終的に自分のめんどうをみるのは自分なのである。夫と一緒に墓に入るのではなく、自分の過去の記憶と思い出とともに永久に眠りにつくのである。
不倫の選択をしない女もゴマンといる。彼女たちがそれでいいのならいいではないか。夫を一度も裏切らなかったことで、自分を誇りに思うのなら、それはそれで結構なことである。
「それでどうなの? 関さんの娘さんは、あなたのためになるの?」
阿里子は立ち上がりながら訊《き》いた。
「ためになるとしたら、どんなためになるの?」
「よしなさい」
と夫は言った。
「きみは感情的になっている」
「そんなことないわ。冷静よ。ただ知りたいのよ、彼女がどんなふうにあなたの力になっているのか」
「全《すべ》てにわたってという意味では決してないが、ある時期、私の心の支えになってくれたよ」
「ある時期?」
「そう」
と壮一郎は呟《つぶや》いた。
「私が男として、人間としてスランプになっていたときだ。今でこそ、スランプなどという言葉をあっさりと使ってはいるが、当時は辛かった」
「それ、いつ頃のこと?」
「そうだな、六、七年になるか」
「知らなかったわ」
「いいさ。たとえ知ってたにしても、きみに何かができたわけじゃない」
「暁子さんにはできた……」
夫婦は黙った。
そのとき一陣の冷たい潮風が阿里子の髪をなぶって吹き過ぎた。風がついに海岸線まで達したのだ。
「わたし、戻ってるけど」
阿里子は海に吹く冬の風が嫌いだった。
「ああ」
と壮一郎は言った。
「夕方までには戻るよ」
「お昼、どうなさるの?」
「あの人が弁当を作って持ってきてくれる」
阿里子は海に背を向けると歩き出した。強い寒風が彼女の背中を押した。
釣りについてくるなんて言い出さなければ、何も知らずにすんだのに。でもこれでいいんだわ、と阿里子は自分に言い聞かせた。そうよ、このほうが何も知らないでいるよりずっといい。不思議なことに、夫のことを何も知らないでいたつい今朝《けさ》までより、今のほうがずっと好きだった。ずっと理解しやすいし、共感も覚える。彼は決して鈍感な男ではなかったし、暁子とのことが妻に知れてしまった際の彼の態度も、きわめてフェアであった。
奇妙にも、これで自分たちの結婚は、今朝方《けさがた》よりずっと安定するだろうと思った。曲がりくねった丘を登り始める頃には、阿里子の胸はずっと晴れていた。
わたしは楽天家なのよ、と彼女は自分に言った。家の方角からは、魚の焼けるいい匂《にお》いがしていた。
あの女《ひと》は、どんな思いで壮一郎と阿里子の昼食を作っているのだろうか、と考えないではいられなかった。
娘の結婚
「ついに徹《とおる》は陥落したわ」
と、ある夜、弓子が言った。
「あたしたち結婚するのよ」
「それにしてはなんだか元気がないわね」
と阿里子は娘の顔を見た。
「普通、そういうことは、もっとうれしそうな表情で言うものなんじゃないの?」
「ママンは? 結婚が決まったとき、うれしかった?」
「わたしは親が決めた結婚だもの」
「そんなのないわよ。たとえ親が決めたってさ、本人が死ぬほどいやだと言えば結婚しないでもすんだはずよ」
「そりゃね、死ぬほど嫌っていたわけでもなかったからよ」
「あたしのそもそもの不幸な原因はそこにあるんだ」
「そこってどこに?」
「死ぬほど嫌ってるわけでもない男と結婚した主体性のない女によ」
「そんな大昔のことを責められたって、ママンは困っちゃう」
阿里子は自信を失って、娘から視線を逸《そ》らせた。
「それであなたたち、いつ結婚するって二人で決めたの?」
「もういつでもできるの。明日でもいいし、来週でもいいの」
「まさか。そんな急に言われても困るわ」
「あら、どうして?」
「だって準備が整わない」
「何の準備?」
「着るドレスとかいろいろよ。それに心の準備もある」
「あたしは別に特別なドレス着るつもりないからね。それに心の準備ができたから結婚を決めたのよ」
「違う、違う」
と阿里子は叫んだ。
「あなたじゃなくて、ママンのこと」
「あら、娘の結婚だってのに、自分のドレスの心配してるだけ?」
「だけってことないわよ。でもいけない?」
「誰もママンが何着ようと気にしないんじゃない?」
「いやよ。わたしが気にする。それに出席者だって、ママンがヨレヨレのドレス着てったら、やっぱり何だろって思うわよ」
「誰がヨレヨレのドレス着るって? ママンがヨレヨレ持ってるわけないじゃない。それに出席者はママンとパパだけだから、その点安心して」
「え? なんて言った?」
「だからごく内輪の式しか挙げないの」
「いやだわ、そんなの。それじゃ何のためにドレスを新調するっていうの?」
「だからヨレヨレでいいって言ってるでしょ」
「ヨレヨレなんて、持ってませんよッ」
「もうこれだ。相手してられないわ」
「でも出席者二人だけってどういう意味なの?」
「ほかに誰もいないってこと」
「だっているじゃない。ルリコおばちゃまだって警一郎おじさまだって。杉村家に伊藤の一族も――」
「ママン、頭を働かせてよ。いいこと? あたしが結婚する相手っていうのはね、杉村家や伊藤の一族から見ればルンペンみたいなものよ」
「じゃ、なんでルンペンなんかと結婚するのよ」
「あたしは彼をルンペンなんてこれっぽっちも思ってないからよ」
「だったら堂々とすればいいじゃない。大いばりで見せびらかしてやればいいじゃない。どうしてそれができないの? ママンが言いましょうか? 恥ずかしいからでしょ? 本心は彼のこと恥じているからじゃない?」
「あたし、ママンのこと今まで一度も嫌いと思ったことないけど、今のママンは嫌いだ。最低」
弓子の眼に涙が浮かんだ。
「あたし、徹のこと誇りに思ってる。彼みたいな人があたしと結婚してくれるってこと、ほとんど奇蹟《きせき》みたいなものよ。恥ずかしいどころかありがたいと思ってるわ」
「じゃ、ママンも失言を引っ込める。それから謝るわ。ごめんなさい。ただやっぱり娘には人並みの結婚式をやってもらいたい。世間の人や親戚《しんせき》の人たちから祝福してもらいたいと、そう思ってるのよ」
「人並みの結婚式でホテルでさらしものにならなくたって、祝福してくれる人は祝福してくれると思うわ。それにもう決めちゃったの。ああいう大騒ぎはしないって。ママンとパパだけ。なぜなら徹の両親はとっくに亡くなってこの世にいないから」
「そんなことだろうと予想はしてたのよ。実を言うと、式さえも挙げないんじゃないかと恐れていたわ。でもわたしとパパだけは呼んでくれたってわけね。ありがと」
「すごい皮肉。よかったら招待取り消してもいいのよ」
「そうしたいの?」
「ううん。ママンたちには立ち会ってもらいたい」
「だったらわたしは喜んで立ち会うわ。パパは疑問ね」
「ママンもそう思う?」
「ほとんど確信してる」
「実はあたしもそれを恐れてた」
「パパは反対なのよ」
「うん、知ってる。はっきりあたしにもそう言った」
「パパなりにあなたを愛しているからなのよ。あなたに幸せになってもらいたいからなのよ」
「あたしは幸せよ」
「ずっと先のことよ。三十になり、四十になってからもよ」
「先のことなんて約束できない。嘘《うそ》なら約束できる。空手形なら出せる。でも三十になったとき、あたしが幸せでいるかどうかなんて、そんなこと誰にもわからないじゃない。徹と結婚しなくたってその点は同じだわ」
「そりゃそうね。言うとおりだわ」
阿里子は両手を娘に向けて差し出した。
「ついこの間までおしめあててヨチヨチしてたわたしの赤ちゃんだったのに、なんてお利口さんになっちゃったんだろう」
「ママンお願いよ。パパを説得して」
「あなたがしたら? あなたの父親じゃない」
「ママンの夫じゃない」
「いっそ、彼に説得させたら?」
「徹に?」
「そうよ。彼三十四歳でしょ。立派な大人の男だわ。この際、男同士で話し合うっていうのはどう?」
「刺し違えるのが落ちよ」
「まさか。でも首くらいは絞め合うかもよ」
「パパ、徹に逢《あ》ってくれるかしら」
「それも彼に任せたら?」
「徹がなんて言うかな」
「そこでどういう態度に出るかで男の質が決まるわよ。あなたのことをほんとうに愛していれば、彼はパパに逢うわ。パパが説得されるかどうかはこれは別の問題。もしかして徹さんは立派な人格を持っているかもしれないけど、父親の意地っていうのも理解してあげないとね」
「もしかしてじゃなく、ほんとうに立派な人格の持ち主なのよ、彼」
「失礼しました。でもパパもそうよ。パパも立派な人格の持ち主よ。わかった? わかったら、早く徹さんに電話をしてパパに逢うように言いなさい」
「わかったわ。ママン、ありがとう」
弓子は阿里子の肩をぎゅっと抱きしめた。
「いいのよ。それよりさっきの続きだけど、どうしたの? 元気がないのはパパのことが心配だから?」
「それもあるけど」
「ほかにもあるの?」
「なんだかあたし、自信もないの。誤解しないで。彼のことは好き。問題はあたしよ。あたしがあの人にふさわしいかどうか、心配なの」
「結婚が決まると、たいていの人がそう思うらしいわよ。最後のあがき。はたしてこの人でいいのだろうかっていうね」
「だから言ったでしょう。徹には問題ないのよ。問題はあたし。まだ十七歳だし、自信ないわ、全然。こんな女で徹はいいのかしらって」
「もしほんとうにそう思うんだったら、せめて一年待ったら?」
「そういう問題ではないのが、ママンわからないの? いいわよ、一年待つとする。やっぱりあたしは自分に自信がないと思うの。二年待っても五年待ってもそれはきっと同じ。ママンだったらどうする?」
「いよいよ出たわね? ママンだったらどうする? いつ出るかとドキドキしてたのよ。そうね、ママンだったらどうするかしらね」
阿里子はそこで考えた。
「ママンだったら、一年待つわ。そして高校だけは卒業する」
「それで?」
「でも今の訂正。それはあくまでママンだったらということだもの。それに今のママンは十七歳じゃないしね。決めるのはあなたよ。忠告くらいはできるけど」
「じゃ忠告して」
「また全部繰り返すの? もう百回も言ったわよ」
「百回は大げさだ。三十四回くらいよ」
「それだってかなりの数よ。ママンはもう疲れた」
「あたしも疲れた」
「何を言ったってあなたのことだからしたいようにするつもりなんでしょ?」
「そうなの。結論はそうなの。ただいろいろ言ってもらいたいだけ。あ、そう、いいわよ、どうぞどうぞなんて言われたらガッカリだもの。あたしのことなんてどうでもいいんだな、って思っちゃうもの。だからパパのことも許せるの。反対したり、たった四人だけのお式にも出てくれないってことは、それだけパパがあたしのことを愛して、大事に思ってくれてる証拠でしょ?」
「うん、そうよ。でもそのことに甘えちゃだめよ。ああそうですか、じゃ出席してくれなくてもいいわ、なんて言っちゃ、パパがかわいそう。そこで泣きわめいてパパを説得するのも親孝行だと思うわ」
「やってみる。徹と二人でありとあらゆる方法でパパを説得してみるわ」
「がんばってね」
弓子は部屋を出ていき、阿里子は再び一人になった。彼女は読みかけの本を開いて読み始めた。
『ハート・バーン』――ノラ・テフロンという女性の小説だ。お料理のレシピがとても効果的に入っていて、このレシピがとてもリラックスした書き方だけど、本物って感じがわかる。ちゃんと毎日お料理作っている頭のよい女が書いたものだっていうことがわかる。
たいてい小説の中の料理の作り方っていうのは、どこかに破綻《はたん》があるのだ。卵を入れてかきまぜる、というひと言でも、白身を入れるべきでないのに白身を入れてしまったりで、そういうところでお料理が全然だめになるのに気づかない鈍感な人間もいるのだ。小説のほうはともかくも、このレシピを読むだけでも充分おもしろい。
ついに弓子も結婚するっていうわけ。だけど何かが変わるわけではないらしい。結婚しても弓子はこの家に住み、この家から学校へ通い、この家で食べるのだ。いつ二人はセックスするのかしら? 娘がセックスすることを想像すると、阿里子はとてもいやな気分になるのだった。相手が三十四歳の非労働者だと思うと、なおのこといやだった。でも、いずれ遅かれ早かれ、娘は男とセックスするようになるわけだし。
阿里子は小説の筋に神経を集中しようとしてあせったが、だめだった。そこですっかり本は諦《あきら》めると、キッチンへ行き、『ハート・バーン』の中のレシピの一つを料理してやろうと、冷蔵庫の中味を覗いてみた。
それはカリカリポテト≠ニいうので、用意するのはベーコンとじゃがいもだ。
でも日本製のベーコンは絶対にだめ。本にはもちろん日本製のベーコンについてはひと言も触れていないが、日本製のベーコンについてなら任せておいて、と阿里子は誰が見ているわけでもないのに、胸を張った。たとえどんなに高級品の手造りベーコンであろうと、ローマイヤが作ろうと、日本の豚を使っている限り、絶対にだめ。つまり、日本の豚に与えられるえさの問題だと思うのだ。阿里子が思うに、どうも魚粉がまじっているに違いないのだ。だからどれもこれも、総じて太平漁業の味がするのだ。生ぐさい。油が重くて粘っこい。肉の部分が固い。それにカリカリさせると、まるで味がない。
苦労して探し出したのが、アメリカ製の冷蔵パックになったベーコン。二十枚くらい入っていて千円前後だから、安くはないが高級手造りよりはずっと安い。そして品質は理想的。一枚のベーコンから出る脂《あぶら》の量は、日本の同じ大きさのざっと二倍。しかも肉の量も二倍というのだからどうなっているのだろう。この脂でいためた野菜のおいしいこと。脂自体がいい味いい匂《にお》いだから、カロリーの心配さえしなければ、薄切りパンにじっくりこの脂をしみ込ませて、カリッときつね色に揚げたものなど、頬《ほお》がきゅっと痛くなるほどおいしいのだ。このベーコンは、紀ノ国屋とかナショナルスーパーマーケットで買えるので、阿里子はほんとうに重宝している。
さて、このベーコンを小口切りにして、カリカリにする。次にポテトのせん切りをこれでさっといためる。パイ皿に一杯敷きつめてオーブンで、三十分ばかり焼き上げる。もちろんお塩とペッパーをたっぷり振って。
でき上がったカリカリのポテトのお焼きを、はてどうしたものか。家の中には阿里子しかおらず、したがって焼きたてのホヤホヤは阿里子の胃の腑《ふ》におさまるという寸法。
これだから困っちゃう。ストレスがたまるとどうしたわけか胃袋が一杯になるというしかけ。で、お腹の周りに余分なお肉がついて自己嫌悪。それもこれも全て弓子のせい。あの親不孝者めが。
阿里子はぶつぶつ言いながら、キッチンを片づけ、寝室に戻ってお得意のなまけ猫になり、もう一度『ハート・バーン』の続きに戻るというわけ。ハート・バーンって胸焼けっていう意味じゃなかった? 次のレシピは、マッシュポテトのおいしい作り方。なによ、これ。恋愛小説読んでるつもりなのに、お料理の専門書みたい。
夫の壮一郎が帰宅して、珍しくひどく機嫌が悪かった。夫の精神状態がどうであるかなんて、あまり気にもかけなかったのんきな阿里子だが、このところ彼女自身も過敏性気味なので、ピンときた。
さては、弓子の結婚相手、三十四歳にして無職、北徹と逢《あ》ったのに違いない。
案の定、「彼が訪ねてきたよ」と、脱いだ上着を阿里子に渡しながら、壮一郎は憮然《ぶぜん》として言った。
「で、どうでした?」
「何もかも気に入らん」
「まさか意気投合するとも思ってもいなかったけど」
と阿里子はため息をついた。
「ああいう男がきみや弓子の気に入るとは、不思議としか言いようがない」
と夫はズボンを脱ぎながら言った。
「チャールズ・マンソンのような男なのに違いない」
「そうね。一種カリスマ的な魅力、なきにしもあらずね」
「私には通用しなかったぞ」
と壮一郎。
「話し合いは決裂?」
「見事に決裂」
「やっぱり」
「理屈はこねるんだ、奴《やつ》も。そしてその理屈は筋も通っている。言われてみればなるほど、とも思う。とんでもない話だと思っていたが、いつの間にか、この頃の若いもんはそんなものなのか、と納得する気持ちにさせられる。弓子を思う気持ちもわかる。彼なりの正義感には感心した。しかしだ。問題はなんとしても生理的嫌悪感。十七歳も年の違う無職の男に、娘をくれてやるわけにはいかんのだ」
「そう言ったら?」
「肩をすくめた。で、私としては最大に譲歩して、寛大に提案したのだよ。うちの会社の一つに入って、仕事をする気はないか、と」
「そしたらなんだって?」
「養子に入るつもりがないのと同じくらい、義理の親父の仕事を継ぐ意思もないだと」
「おや、まあ」
正面衝突。そんなことなら話し合いなどすすめるのではなかったと、阿里子は後悔したわけだった。
「その言葉を聞いて、私はついに決心をしたよ」
「あなたの気持ち、よくわかります」
「そうかね」
と、壮一郎は阿里子を横眼で見て言った。
「その最後のひと言で私は、式には出ることに決めたよ」
「え? 今、なんておっしゃったの?」
「喜んで出るとは言わんぞ」
「まあ、ほんとなんですか?」
「何の取柄《とりえ》もない、しようのないぐうたら男にもたった一つ取柄があったというわけさ。反骨精神てやつだ。あるいは男のプライドだな」
というわけで、呆気《あつけ》なく事態は好転。弓子は次の週の土躍日、目黒の小さな教会で四人だけの式を挙げる運びとなったのだった。
結婚式の前の晩から雪が降り出した。弓子はそれを幸運の印とひどくおもしろがったが、寒がりの阿里子はちっともうれしくなかった。しかも一晩中降り積もって、翌朝には深いところでは四十センチも積もる、都会には年に一度か二度あるかなきかの大雪。
壮一郎の運転するベンツはノロノロと道路を進み、式に遅れること四十分。ところが新郎の北徹も雪に足をとられたらしく、さらに遅れること小一時間。
「結婚式に遅れるとはけしからん」
と、壮一郎はご機嫌斜め。
弓子は白いシルクウールのスーツに、白いバラの花束を抱き、眼を閉じている。教会の中はひっそりとして薄暗く、空気はひんやりと凍りついていた。弓子はベールを被《かぶ》らず、そのかわり髪の片側に白いバラのつぼみを一つ止めている。ピンクの口紅だけをひいた顔は、緊張のためか蒼《あお》ざめて見える。
阿里子は寒さのせいでもっと蒼ざめていた。少しでも花嫁の母親らしく見せようと苦労して求めたのは、英国王室の淑女たちのお好み、ロイヤルブルーの絹のスーツ。女王様の真似《まね》をして、帽子も同じ色のブルー。靴はさすがにあり合わせの白いキッド。鏡に映る姿はまさしく英国王室の一員みたい。でも十歳かそこら老《ふ》けて見える。
でもいいの、と彼女は呟《つぶや》いた。でないと牧師さまが新婦がどちらだか迷うと困るもの。
北徹がようやく現われた。彼はかなり古い型の、ほとんどオンボロとも言えるモーガンの車体をガタガタ言わせながら止めると、のんきな顔をして雪の前庭に立った。紺のスーツに、銀色の絹のネクタイ。黒い靴。でもスーツはダブルでとても素敵。彼を見る弓子の顔が輝いた。阿里子の横で壮一郎が、犬のように低く呻《うな》った。
「いいかね、弓子」
と彼は娘に話しかけた。特にあらたまって言う口調ではなかったが、阿里子の夫がその結婚式の朝、娘に言ったことは立派だった。
「弓子、パパはひと言だけおまえに言っておきたい」
「ええ、どうぞ、パパ」
教会の階段をゆっくりと上ってくる新郎から眼を離さずに、弓子が言った。
「よく世間には、嫁入り直前の娘に向かってこういう父親がいるそうだ。いやになったらいつでも帰ってこいよ。私はそんなことは言わないからね。とんでもない話だよ。外国へ留学に出すのとはわけが違うんだ。たとえ外国留学だって、私はいやになったらいつでも帰ってこいよ、などとは言わないがね。自分がいったん選んだ生き方だ。いやになっても歯をくいしばって貫き通してほしい」
弓子の視線が北徹から父親に向けられた。
「パパの言わんとする意味よくわかる」
それから彼女は心をこめて言った。
「ありがとう、パパ」
それから四人そろって祭壇に向かって歩き出した。
牧師が誓いの言葉を二人に与えている間、阿里子は泣いていた。ちっとも悲しくないのに泣くなんて変だと思っても、涙がとめどもなく溢《あふ》れ出てくるのだった。夫がそっとハンケチを渡してくれ、彼女はそれを眼に当て、鼻をかんだ。
二人は新婚旅行には行かないで、その夜は二人だけでマキシムで食事をするのだそうだ。
「じゃ、バイバイ」
と、式のあと弓子は教会の階段のところで両親に別れを告げた。
「今夜は帰らないからね。心配しないでちょうだい」
「結婚したその日に家に帰ってこられちゃ、そのほうが心配だよ」
と壮一郎が言った。
「でも明日からは戻るわ。受験勉強が大変だから」
弓子はケロリとしてそう言うと、北徹の腕に自分の腕をからめた。
「きみは、非常に幸運な男だよ」
と壮一郎は新郎に向かって、わずかに皮肉の入りまじった声で言った。
「わかっています」
と、北徹は義理の父親を階段の下から見上げた。
「そして感謝しています」
「だったら、普通こういうとき男が言うように、新妻を必ず幸福にしてみせます、とかなんとか言わないのかね?」
「未来に対するできもしない約束を、僕はしたくないんです」
と丁重だが、きっぱりと徹が言った。
「できもしない約束?」
と壮一郎が言った。
「おねがい、あなた」
阿里子が夫の袖《そで》を引いた。
「いいのよ、ママン」
と弓子がにこやかに言った。
「パパも徹も結局同じことが言いたいのよ。あたしを幸せにしたいって思っているの。全然反対の表現で、二人はそれを言おうとしているの」
北徹が壮一郎に向かって微笑し、それから右手を出した。壮一郎は少し躊躇《ちゆうちよ》したが、徹の右手を握り返した。
二人がガタピシのモーガンで雪の中を走り去ると、阿里子はため息をついた。
「ねえ、娘が結婚すると普通、親ってものは一段落、ほっとするものなんじゃない?」
「普通はね」
と壮一郎が答えた。
「しかしあの娘はとうてい普通じゃないし、きみも普通の母親とは言えないぞ。それにあの男もだ」
「でも握手してくれてうれしかったわ」
「私が心の中で何を考えていたか、想像もつかんだろうがね」
「あら、それくらいわかるわよ」
と、阿里子は夫の腕に自分の腕を差し込んで笑った。
「こいつ、絞め殺してやりたい。そうでしょ?」
弓子の結婚式のあった夜、阿里子と壮一郎は久しぶりに二人でレストランで向かい合っていた。西麻布《にしあざぶ》にある小さな、フランスの田舎によくあるような店だった。
外国人が三分の一ほどを占め、あとは女性だけ四人のグループ。明らかに不倫の関係とわかる年上の女と若い美しい男の二人連れ。それから阿里子たちのようなどこから見ても夫婦と知れるカップルが二つ。
どう見ても夫婦と知れるのは、向かい合っている男女の顔の上に浮かんでいる倦怠《けんたい》の表情だ。どちらにも相手の気を引こうとする媚《こび》がない。そして必要最低限度の言葉しか交わさず、黙々と食事をしている。まるで自分たちを見るようで、いやな気がした。
だけど男と女が二十年も一緒にいれば、お互い心ときめくことなんてあるはずもない。でもまだあと何十年も一緒に暮らしていくわけなのだから、黙々として生きるのは耐えられない。楽しくやりたいではないか? でもどうしたら、何年も連れ添った古女房と古亭主がお互い新鮮な思いに胸を掻《か》き立てられるのだろう?
阿里子はつくづくと夫を眺めた。こめかみのあたりにかたまって吹き出した白いものが、夫の表情を柔らかくしている。落ち着きと品のよさと寛《くつろ》いだ感じ。なかなかいい線いっているじゃないの、と胸の中で呟《つぶや》いた。もしも他人の女の眼で見たら、渋い魅力がたまらないってタイプかしら。
そういう阿里子だって、来年四十に手の届く女としては上等だ、と自分でも思うのだ。腰のあたりが娘時代よりは肉づきがよくなってはいるが、醜いほど脂肪をつけているわけではない。
だけどこのまま手をこまねいて年をとるだけだったら、あと何年、彼女の存在そのものが人を魅《ひ》きつけられるだろうか? つまり若い男というわけではなく、同性にも、それに夫の眼にも、魅力的な女でいられるだろうか? 皺《しわ》が刻まれ、髪にも白いものがまじり始めたとき、彼女の何がアピールできるだろう。世間から見捨てられ、忘れられたような女にだけはなりたくなかった。それくらいだったら死んだほうがましだと思った。もはや、阿里子の対象は、男ではないのだ。世間、社会、人々。今、わたしがこうして生きていることの証《あかし》。あるいは証人。
「弓子も結婚したことだし、わたし、少し外へ出てみようかしら」
と彼女は、的場のカキをフォークですくっている夫に話しかけた。
「外へ? これまでだって充分に出かけているじゃないか」
「そういう意味じゃなくて。仕事をするとか」
「きみにどんな仕事ができるんだね?」
シャブリを口へ運びながら、夫が真面目《まじめ》に訊《き》いた。
「すぐに何かはできないけど、友だちに子供向けのアトリエを開放している人がいるんだけど、前から手伝わないかって声はかけられていたの。子供たちに、週に何回かデッサンを教えたり、粘土をこねさせたりするのもさしあたってはいいんじゃないか、と」
「私は反対はせんよ」
壮一郎は穏やかに言った。
「でもほんとうの目的は、もう一度、彫刻を創ってみようということなんだけど。もうずいぶん離れていたからこわくて」
「何事もやる気さ。やりたいと思ったときにやったらいいよ」
「そうね」
と阿里子はワイングラスを取り上げた。
「そうするわ」
「インドへはいつ発《た》つんだね?」
「二十六日。いいかしら?」
「覚悟はしたよ。やっぱり一人旅か?」
「そのことで考えてるんだけど」
と、阿里子は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「一緒に出かけたらおもしろそうな人を、一人思いついたのよ。でもどうかな」
「男かね」
「そう。男性」
阿里子は微笑した。
「年は三十四歳」
壮一郎がチラと妻の顔を見たきり、空《から》になったカキの皿をそっとわきへ押した。
「結婚したてのヒマ人」
「なんだ、北徹のことかね」
「弓子が二月一杯受験で新婚生活どころじゃないでしょう」
「人助けのつもりか? あきれたな」
「このアイディア、変かしら?」
「変だね」
「どうして? 私のこと信用してないの?」
「信用してないね」
「じゃ、だめ?」
「私がだめと言っても、きみは行くんだろう?」
「一人でも行くわ」
「北徹にだって考えがあるだろう」
「それならとっくに訊《き》いてみたの。彼のほうは問題ないわ。弓子もよ」
「信じられんね」
「弓子はおもしろがってるわ」
いやはや、というように壮一郎が頭を振った。
「当人同士がそれでいいなら、いいんだろうよ。きみは全く信用していないが、私は北徹という男を、どこか信用しているんだ。行っておいで」
阿里子は手を伸ばして夫の手の甲に触れた。
「お正月は弓子と水入らずね」
「うん、まあね。そしてきみは娘の亭主とインドで初日《はつひ》でも拝むのか」
ふつふつと煮えているオニオン・グラタンが運ばれてきた。熱々《あつあつ》のチーズのとける匂《にお》いと、玉ねぎの甘やかな香りが鼻を打った。阿里子は久しぶりになんだかとても幸福な思いに包まれて、スプーンを手にした。
幕間《まくあい》にて
弓子が奇妙な形式の結婚をしたあと、阿里子たちの生活に表面的にはこれといった変化はなかった。
弓子は新婚旅行もなしに、そのまま元どおり自分の部屋に引きこもり、娘時代の続き、受験勉強の最後の追い込みにかかっている。
阿里子の夫は、完全とは言えないまでも、どこか弓子に関しては諦《あきら》めたようなところがあり、急に五つばかり年をとったようにはた目には見えた。葉山のほうにも最近はそれほど足繁く通っていかない。以前は月のうち二度は出かけていっていたのに、一度行けばいいほうである。多分、葉山の家の住み込みの愛人の存在が、阿里子にばれたせいもあるのだろう。
あのとき夫は、特に取り乱しもしなかった。本気で避けようと思えば、阿里子と愛人との遭遇は避けられたはずなのに、彼はあえてそうもしなかった。なるようになれ、という投げやりさはないが、どこか自然な成り行きに任せるといった、これも一種の諦めがあったように、阿里子は感じるのだ。
そういえば夫は仕事からの帰宅も、前ほど遅くはなくなっていた。彼もまた、人生の秋にさしかかったのだろうと、阿里子は妻として少し寂しいような、哀《かな》しいような気分になる。
一方では、そんな気弱では困ると思うが、別のところでは、彼もまた一人の人間なのだと、同情と共感を覚えないわけではない。
そんなある日、阿里子はある舞台の招待状を受け取ったのだった。
切符は二枚あった。弓子を誘ったが、「お勉強」と言下に断られた。
「よかったら、あたしのハズを誘ってもいいわよ」
「徹さんを?」
「あの人、芝居にはかなりうるさいほうだから」
「じゃ、やめとく」
と阿里子は言った。
「芝居なんて楽しんで観《み》るものよ。ひと言もふた言もある人と観たら肩が凝っちゃう」
「だったらパパと行けば?」
「え?」
夫と連れ立って映画に行ったことがあったが、それは一緒になる前のことで、しかもたったの一回だけだ。芝居や舞台の類は一度もない。
「パパはだめよ。興味ないわよ」
「そんなこと、訊《き》いてもみないでママンにどうしてわかるの?」
弓子はねじり鉢巻きを締め直しながら非難した。
「そういうの一人よがりのきめつけっていうの。ママンの最大にして致命的な欠点よ」
「そうかしら」
「そうよ。ママンはそうやって、ずいぶん大事なものを知らないうちに、切り捨ててしまっているのよ。それ、損よ」
一体私は、どんなものを知らずに切り捨ててきたのやら、と阿里子は一抹の不安を覚えた。弓子の言葉がそのとき、ひどく胸に応《こた》えた。
「なるほど」
と阿里子は呟《つぶや》いた。
「パパを誘ってみることにするか」
夫は意外にも「いいよ」と承諾した。
「いいって、途中で眠くなっても知りませんからね」
誘っておきながら、彼女は夫を脅迫した。
芝居はイギリスの翻訳劇で、夫婦の話だった。中年夫婦が離婚するところから始まって、十年ほど前の時代までさかのぼって見せるという、新しい手法が凝らしてある。
劇の中の中年の夫婦には、それぞれ愛人がいるということがわかる。妻は夫にそのことを途中で告げるのだが、夫のほうは最後の最後までそれを妻に隠していた。ついに浮気を知って、二人は一気に離婚ということになるのだ。
ところで、夫のほうはとっくに妻の浮気を知りながら、それに耐えていたわけだ。妻はというと、自分のことは棚に上げて、夫の浮気が許せなかった。
その気持ちは、阿里子にも生理的にわかるような気がした。しかし生理的にわかるからと言って、実際にどうするかは別の問題だ。
ときに舞台を眺めながら、彼女は自分たちの結婚生活を重ねていた。
四十分ばかりして、短い幕間《まくあい》の休憩時間が入った。二人は無言で席を立ち、ロビーに向かった。
「どうですか」
と、阿里子は煙草に火をつけている夫に訊《き》いた。
「眠くならなかった?」
「どうにもねえ」
と、煙とともにため息を吐き出しながら夫が言った。
「奇妙な夫婦だな」
「そうかしら。わたしはどこにでもあるような話だと思ったけど」
「あんな話がどこにでもあっちゃ、男はたまらんよ」
と夫は苦笑した。
「なんていうか、女主人公に同情ができないんだなあ」
「それは男の眼から見るからよ」
「きみには同情できる? あの女に」
「理解できるわ」
「そんなものかね」
と夫は言った。
「しかし、男のほうは二人ともうまく表現していると思うよ」
「作家が男だからじゃない? 男の気持ちは書けるわけよ」
「あの二人の離婚、どう思う?」
と不意に夫のほうが阿里子に質問した。
「離婚しないですませられたろうと思うんだけど」
と阿里子が答えた。
「いや。あの場合、離婚すべきだよ。だから、あれでいいんだ」
やけにきっぱりと夫は発言した。
「現実問題では、男にはその勇気がないんだ。男なんて女々《めめ》しくて優柔不断だからな」
「なんだか意味ありげね」
「そうかね」
「ご自分のことを言ってるみたいよ」
そうじゃないと夫は否定しなかった。
「わたしたちも、そうすべきだと思う?」
「離婚?」
「ええ」
長い沈黙。
「すべきだとしたら、多分今が最大のチャンスだろうね」
夫が静かに言って、煙草の火を近くの灰皿の中でもみ消した。
ロビーには人々が溢《あふ》れていた。予想外に中年の男女の姿も多かった。
「弓子も結婚したわけだし」
と阿里子は夫の言葉につけ足した。
「あなた、そうしたい?」
「きみは?」
「質問で答えるのはずるいわ」
「一番苦しい時期は終わったよ」
「それじゃ答えにならないわ」
夫は阿里子の言葉を無視して続けた。
「一番苦しいのは、劇の中で、亭主が妻を疑いの眼で眺めるところだ。恋に身を焼き、嬉々《きき》としている妻を見ているところだよ、苦しいのは。彼は非常にうまく演じていたな、その点」
「あなたにはかなわないわよ」
ある嫌味をこめて阿里子が呟《つぶや》いた。
「あなたの演技力のほうがはるかに上だったわ」
「もうすんだことだ。ありがたいことにね」
夫は言った。
「そして多分、私にはあの人たちのような勇気もエネルギーもないよ」
「それが答えなのね?」
しんみりと阿里子は念を押した。
「きみは?」
阿里子は考え、言葉を選んだ。
「できたら、その答え、保留にしたい」
「保留?」
夫が妻を見た。
「なるほど。だが、いつまで?」
「わからない。でもそんなに長くはないわ。少しだけ時間をいただけないかしら。考えてみたいの、わたしたちのこと。これからのこと」
不安に似た光が夫の眼に宿ったような気がしたが、それもすぐに消えた。彼は微《かす》かにうなずいた。
考えるって、私は一体何を考えればいいのだろうか、と阿里子はそう言ってしまってから、下唇をかんだ。劇場内のたくさんの見知らぬ人々のざわめきに囲まれていながら、彼女はひどく寂しいような気がしていた。
ただわかっていることは、このまま少しずつ若さがむしばまれ、老いていくままになりたくないという思いだった。少しずつ死んでいきたくないのだ。
やがて弓子に子供が生まれるだろう。そのとき、どんな思いで孫を抱けばよいのか。
私は何者でもない。ただおもしろおかしく生きてきただけのこと。その結果がこうだ。自分をどうしてよいかわからない。どう孫を抱き、どのように老いていけばよいのか、皆目わからない。
そうなのだ、私は老いていくいき方を学ばなければいけないのだ、潔《いさぎよ》く、胸を張って老いていく方法を見つけるのだ。
それを夫とともにやるのか、やれないのか、一人のほうがよいのか、今のところ阿里子にはわからない。
「ねえ、あなた、わかるかしら」
と彼女は夫に言った。
「わたし、これまで人のことばかり頼ってきたけど、ただの一度もわたしのことを必要としてくれた人はいないわ」
「弓子がいるじゃないか。それに私もだ」
「いいえ。弓子は小さなときから不思議と自己充足したところのある子供だったわ。それに今、問題なのは過ぎてしまった過去のことじゃないの。これからのことだわ」
誰かに――それはものかもしれないし、行為かもしれないし、ある特定の場所かもしれないし、あるいはある時間帯かもしれないが――切実に必要とされることが、阿里子にはさし迫って必要なのだということだけがわかっている。
では誰に? あるいは何に? どこにそれがあるのだろうか。
阿里子は胸が塞《ふさ》がれるような圧迫感を覚えた。新鮮な空気を大量に必要としている気がしてならない。
これまでさんざん贅沢《ぜいたく》をし、いい思いをしてきた分、これからは収穫していかなければならないのだ。刈り入れの時期なのだ。
「必要とされたいときみは言うがね」
と夫が長い沈黙のあとで言った。
「きみの何を人に与えたいんだい?」
それすらわかっていなかった。
「答えにならないかもしれないけど」
と阿里子は口ごもった。
「尼さんがいるでしょう。彼女たちが所有するのは聖衣二枚だけだと、何かで読んだことがあるわ。聖衣が二枚だけ。それが彼女たちが持っているものの全《すべ》てだなんてね。ショックだったわ。わたしの生き方とか存在感を根こそぎにされるほどの衝撃を受けたのよ。折にふれて、そのことが頭をかすめるの。もしも、わたしに聖衣二枚だけの生活が可能だったら、逆にどんなに心が満たされるだろうって」
「無理だね、きみには。物質的欲望を抜きにした阿里子は考えられんよ」
と夫は笑った。
「みんな、そう言うわ」
ずっと前、翔《しよう》にそのことを告げたときも、彼もそう言った。
「だけどもし、わたしが何もかも捨てて聖衣を一枚着て、汚れたらそれを洗い、もう一枚着る生活に入ったとしたら、どれだけ心が穏やかになるだろうかって考えることくらいは、わたしの自由だわ」
「考えるだけならね」
夫はじっと彼女を眺めた。
「まさか尼さんになろうっていうんじゃないだろうね」
「もちろんよ」
と即座に阿里子は否定した。
「ただ、聖衣二枚だけの生き方みたいなところへ、いつかたどりつけたらいいという思いがあるだけよ」
「だったら私も大いに助かるよ」
夫は温かい声でそう言った。
開幕を知らせるベルが鳴っている。人々が急にざわめいて動き出す。
いつの間にかあたりの人の気配《けはい》が潮が引くように遠のいて、阿里子と夫の二人だけが、ガランとしたロビーに残っていた。
「行くかい?」
と夫が訊《き》いた。
「そうね」
と阿里子は答えた。
「後半の筋書きは眼に見えるようね」
「そうだね」
「出ましょうか」
夫がうなずいた。
芝居は見なくてもわかっている。男と女が出逢《であ》い、欲望に燃える姿をさらすのだ。盛りのついた二匹の猫みたいに、髪振り乱しての狂態を演じるのだ。
そういうのは見たくない、と阿里子は思った。きっと舞台は白けるのみだろう。恋の歓《よろこ》びなんてのは、ごく個人的な体験でしかありえない。詩人が勝手に詩を作るのはいい。だけど恋の詩を大勢で声をそろえて読むのは滑稽《こつけい》だ。
季節は二月で風が強かった。けれども風の中にわずかであったが、春の匂《にお》いがまじっていた。
劇場の外は人っ子一人いなくて、薄暗かった。二人はタクシーの通るところまで、自然に歩き出した。
「どこかで一杯飲んでいくか」
と夫が言った。
「でも弓子が」
阿里子は勉強中の娘の姿を思い浮かべて反対しかけた。
「弓子がどうかした?」
「夜食でも作ってあげようかしら」
「あの子はもう、われわれの手を離れたんだよ」
と夫が諭した。
「いつまでも子供扱いにするのはいけない」
ほんとうは、弓子のことは口実にすぎないことを阿里子は知っている。夫と二人っきりで対峙《たいじ》していることが、なんともせつないのだ。
二人には共通の言葉がないような気がする。むろん会話は成立するが、自分を鞭打《むちう》って奮い立たせないことには、ひと言も喋《しやべ》れない。夫と会話をするのには、エネルギーがいる。そのことを夫も感じているのが、阿里子にはわかる。
これから先、来る日も来る日もそうなのだ、と思うと、どこかで暗澹《あんたん》とする思いが吹き上げる。いつか弓子がほんとうに出ていってしまったあとの、夫婦二人の生活を思うと。
「かまわんよ、一杯くらい」
と夫は強引に言った。そして先に立って近くのホテルのバーに彼女を案内した。その強引さは、しかしそれほど阿里子にはいやではなかった。
二杯目のブランデーの途中で、ようやくぽつりと夫が言った。
「きみはまだ放浪する気らしいね。私はもう、終わったと思っていたんだが」
「今までのは確かに終わったわ」
阿里子はしんみりと言った。
「言っている意味わかるでしょう?」
夫はうなずいた。
「それではこれからはどんな旅をするつもりだね?」
「主として自分の心の中に入っていく旅」
「そのほうがなんだかきみを見失ってしまいそうな気がするよ」
夫はどこかが痛みでもするように顔をしかめた。
阿里子は何も言わなかった。
「きみに覚えていてもらいたいことがあるんだが」
と夫が言った。
「私の心からの希望なんだよ」
「ええ、聞いているわ。どうぞ続けて」
「いずれ、私たちは老いる。すでにその入口にいるわけだ。私はね、阿里子、きみとともに老いを生きていきたいと思っている。きみと一緒に孫との生活を楽しみたい。もし、いつの日かきみが精魂尽き果て、ダウンすることがあったら、きみのめんどうをこの私がみてやりたいし、老いたきみの傍に静かにいたいのだ」
そこで夫は言葉を切った。
「私の望みは、法外な贅沢《ぜいたく》なのだろうか?」
「いいえ、あなた」
涙が出そうになるのをこらえて、阿里子は首を振った。それだけ言うのがやっとだった。
しばらくして夫が続けた。
「前に言ったと思うが、私は理解あるもののわかった男じゃないんだ。妻が結婚の途中で、忽然《こつぜん》と眼の前から消えてしまったり、ほかのもの――文字どおりものの場合もあるし、男のこともあるよ――に深く心を移すのも、わかったふりをして理解するつもりはない。それほど物わかりはよくないんだ。けれどもね、それでもなおきみが自由にしたい、ときには結婚生活の外へ出て違う空気を吸う必要があると、是が非でも主張するなら、私は理解はできなくても、我慢するしかない。そう思っている。きみがときどきふらりと出かけていって、無事に再び私のところへ戻ってくることを、祈るしかない」
わたしの何が、それほどまでに夫に言わせるのだろうか、と阿里子は思った。
「いっそのことわたしみたいな女は放り出してしまえば、あなたずっと救われるでしょうに」
そう心から言った。
「実際、私もそう思うよ」
「ではなぜそうなさらないの?」
「きみを放り出す?」
「そう」
「危なっかしくてね、見てられないよ」
「ときどき、あなたがそんなに優しい人でなければいいと、わたし思うわ」
バーの中は温かく、静かだった。外国人が二人、三人と連れ立ってひっそりと喋《しやべ》っている。老夫婦と思われる二人が、お互いの顔になんとも言えない微笑を送り合いながら、もう長いこと黙っている。
あの年齢にいずれ私もたどりつくのだわ、と阿里子は考えた。そのとき、私もあんなふうに全《すべ》てに満ち足りた微笑を浮かべていることができればどんなにいいだろう。
あの銀髪の女性が過去にしてきたことは、もしかしたら、三人の子供を生み育てることだけだったのかもしれない。それでも満ち足りて幸福な人もいる。そうでない人もいる。それぞれの問題にすぎないのだ。
私は何かこの手でしっかりつかめる生の証《あかし》が欲しいのだ、と阿里子は思う。そして自分が今や、人生の|折り返し《ターニング・》地点《ポイント》に立っているのを、はっきりと感じる。
夫が静かに動作で、帰ろうか、と彼女に伝えた。阿里子はゆっくりとうなずいた。
P.S.ガンジス河のほとりで
北徹《きたとおる》は阿里子のスーツケースの数を見て腰を抜かしてしまった。大小取り揃《そろ》えて五つ。
「一体何が入っているんです? 世界一周旅行しようってわけじゃないんですよ」
「お洋服が七日分。汗かくから朝昼の分とそれから夜の少しドレッシーなもの。靴が七足。アクセサリーとかバッグとか、いろいろよ。ああ、それと下着もね」
「下着も七日分朝昼夜用ですか?」
徹はニヤリと笑った。
「驚いたな。日本にもイメルダ夫人みたいな人がいるんだ」
「じゃ、靴は五足に減らすわ」
阿里子は渋々譲歩した。
「それだって多いですよ。昼間歩き回るスニーカー。これは出発のときにはいていけばいい。あとは少しエレガントな白いサンダル一足くらいで全《すべ》て用が足りますよ」
「ソニアのドレスにスニーカーはくの?」
「ソニアなんて、なぜインド旅行に着るんです?」
「じゃ、また別のを買いに行かなくちゃ」
「別に僕のふところがいたむわけじゃないからいいけど、別のを買う必要もないと思うけどな」
「スニーカーに似合うドレスなんて持っていないもの」
「ジーンズとTシャツでいいでしょう」
「ジーンズ七枚とTシャツ七枚?」
「ジーンズは一本。Tシャツ三枚。洗濯するってこと知らないんですか?」
「洗濯機持っていけっていうの?」
「ああ」
と徹は頭を抱え込んでしまった。
「僕はどういう親を持つ娘と結婚してしまったんだろう?」
「今のはいくらなんでも冗談よ。ジーンズ二本とTシャツ五枚、コットンのキュロットスカートをプラスして夜用のドレスを三枚というあたりで妥協するわ」
「いいでしょう」
そこで二人は握手をした。その結果、阿里子のスーツケースはサムソナイトの大と手荷物一つにまで見事に減った。
「『インドへの道』っていう映画に憧《あこが》れていたのに」
と彼女はまだ未練げに言った。
「イギリス人のレディーがスーツケースを十個ばかり従えて旅に出るのよ」
「それはいいですけどね、あなたの場合、誰がスーツケース十個抱えて従うと思ってるんですか?」
「それはそうね」
と阿里子は徹をじろりと見てため息をついた。
「ペンより重いものを持ったことがないのを忘れていたわ」
そこへ受験勉強中の鉢巻きを巻いた弓子が顔を出した。ニコニコしている。
「ご機嫌だね。どうして?」
夫であるところの徹が訊《き》いて、頬《ほお》にキスを一つ。
「だって邪魔者が二人も消えていなくなるのよ。これでスッキリ勉強に集中できるわ」
「邪魔者って、もしかしてわたしのこと?」
「そうよ、それと徹。ほかに誰がいると思うの? あなたたち二人が周辺百キロ以内でウロウロしていると思うと、それだけでとたんに気が散るのよ。二人ともすごい存在感なんだもの」
「インドあたりまで遠ざかれば、お邪魔になりませんの、お嬢さま?」
阿里子は娘をにらんだ。
「助かりますわ、お母さま」
弓子は徹に向かって甘い声で言った。
「お水に気をつけてね。ウイスキーのオンザロックもだめよ。氷はお水からできてるんだから」
「うん、わかってるよ」
「わたしには言わないの?」
「ママンもよ」
弓子は阿里子を見もしない。すごい差別だ。
「手紙、毎日出してくれる? あたしは返事書くひまないけど」
「じゃ、手紙読むひまも節約したら?」
と嫌味を阿里子が一つ。
「毎晩、電話くれるわね?」
「その国際電話代、誰が払うの?」
「もちろん、ママンよ。付き添い料ただなんだから、当然でしょ? それから、お土産ね」
「それもママンが払うの?」
「インドはルビーとかサファイアが安いんですってね」
「冗談じゃないわよ。インドへ何しに行くと思っているの。あなたに毎日手紙書いたり、国際電話したり、ルビーを買いに行くわけじゃないのよ」
「なら、徹貸さない」
「結構です。そのかわり百キロ以内にウロチョロするわよ、彼」
「お言葉ですが、ウロチョロって僕、トカゲじゃありません。それに母娘喧嘩《おやこげんか》もいい加減にしたらどう? 第一、僕は本とかドライヤーじゃないんだから、勝手に貸し借りされたくないね」
「大学に受かりたいの? それとも一年浪人したい?」
阿里子は徹を無視して娘に迫った。
「大学に受かりたい。結婚のせいで成績が落ちるなんて、野球選手とかお相撲さんの世界のことだけでいい。あたしは絶対に一度でパスしたいの」
「だったら?」
とますます阿里子はいばりくさった。
「どうか徹をお連れになってインド旅行をしてきてくださいませ」
弓子がやけになってわめいた。
と、そんなわけで出がけに少しもめたが、今や無事インド・カルカッタへ向けての飛行中。青や緑や赤のサリーを着た美しいインド人のスチュワーデスが、ひらひらと行き交う。インドの美人てなんて美しいのだろう、と阿里子は内心感嘆した。完璧《かんぺき》な美。非の打ちどころがない。その上に優雅で高ぶらないでニコニコしている。もしかして、自分がとびきりの美人だっていうことを知らないんじゃないか、と疑ってしまうほど。
でもやっぱり彼女らも女だなと思うのは、「マダム?」と言って阿里子の飲み物の注文を訊《き》くときよりも、「サー?」と徹に話しかけるときに浮かべる笑みの柔らかさ、深さでわかる。
「徹さん」
「何ですか?」
「鼻の下、長いわよ」
「知ってます」
「わたしは弓子じゃないんだから、嫉妬《やきもち》焼くわけじゃないけど、ちょっとは人目ってものも考えてくれない?」
「人目がどうかしましたか?」
「あのね、わたしたちのこと、どうやら興味深いカップルだとみんな思ってるみたいなのよ」
「つまり、年の取り合わせの奇妙な夫婦と?」
「ずいぶんはっきり言うわね。いずれにしろそういうこと。人がどう思おうといいようなものだけど、いちいち違いますって言いわけできないじゃない? 夫婦だということだけでも充分奇異な眼で見られているっていうのに、その上年の若い夫がスチュワーデスに色目使って鼻の下伸ばしてるって、みんな笑ってるわよ」
「そうかなあ、笑っているようには見えないけど」
と徹はファーストクラスの中を見渡した。
「心の中で密《ひそ》かにっていう意味よ」
「笑いたい奴《やつ》には笑わせておけばいいでしょう。第一、僕とあなたは夫婦じゃないんだもの」
「人はそうは思わないのよ」
こういう場合、外国人のほうがずっと他人に干渉的だということを阿里子は初めて知った。東京では、人々は無関心だった。翔とよく連れ立って出かけたが、そりゃ翔はいい男だったから、それだけで女たちは翔をチラチラ見て、ついでに阿里子をチラッと見はしたが、このファーストクラスの人々のように、じっと観察するような執拗《しつよう》な眼差《まなざ》しではなかった。
不愉快なので阿里子は眼を閉じて、人々を視界から締め出した。そのうちにいつか眠ってしまったらしい。
ふと眼を覚ますと、インド人のスチュワーデスがニコニコと笑っている。機内サービスの食事の時間らしい。さっきよりよほど愛想がよい。ニコニコ。その視線が隣の徹の胸に移り、クスリという笑い声まであげるではないか。
見ると、徹の胸に小さな紙が止めつけてある。
『Son in Law』と英文で読めた。あわてて自分の右胸を見ると『Mother in Law』とあるではないか。
「それならいいでしょう? もう誰も僕らが夫婦だと思わないですよ」
と徹はすまして言った。
「いやよ。五つしか年上じゃない母親なんて、もっと奇異だわよ」
と彼女は、慌てて胸に止めてあるカードをはずした。
「あなたもはずしなさい」
と徹に命じた。
「第一、あなた、私の胸にこれ止めるとき、触ったでしょう」
「感じました?」
「知らなかったわよ」
「なら、かまわないでしょう」
「あまりなれなれしく人の身体に触らないでちょうだい。弓子になんて言えばいいのよ」
「別に何も言うことないし、弓子だって、気にしないと思いますけど」
「わたしが弓子なら気にするわね」
「どうして?」
「だってまだ女盛りの美しい義母と二人だけの旅行なのよ」
「だから?」
「いろいろと問題あるんじゃないかと」
「問題あると思いますか?」
「わたしは思わないわよ」
「弓子も思わないでしょうね。それに僕も思わない」
「あら、だったら問題なんてないじゃないの」
「だから最初から誰も問題にしていなかったでしょう」
などと言い合っているうちに、また少し眠り、もう一度食事に起こされて、やがてカルカッタに着いたのだった。徹は胸に『義理の息子』のカードをまだつけたままだ。阿里子は鼻に皺《しわ》を寄せたが、無理に取り上げもしなかった。
その国にはその国の匂《にお》いがある。土地土地で異なる香りがする。香港には香港でしかありえない空気の匂いがしたし、ロンドンもそう。そしてパリもそうだった。東京の匂いだけは平素|嗅《か》ぎ慣れているせいか、それがどのようなものかわからないが、初めての国に足を踏み入れた瞬間、まず異国へ来た実感に締めつけられるのは、この匂いのせいである。
インドの匂い。まさにインドでしかありえない匂い。それは水の匂いだ。生温かいカルキ臭のような、生ぐさいような、郷愁を誘う水の香り。それは清潔さと不潔さとを同時に同じくらい思わせた。それから実にさまざまな香料が入りまじっている。線香、香木の類。気のせいか、カレーの香りも確かにある。なぜかバニラの甘ったるい香り。
阿里子は東洋の神秘の香りを胸に一杯吸い込んだ。
それにしてもなんという日射しであろうか。全てのものを焼き尽くすかのような激しい怒りに似た光。湿度はさほどには高くないせいか、八月の香港のような息苦しさは感じられない。
空港の外へ足を踏み出したとたん、じりじりと音を立てて肌が焼けるのがわかるほどだった。
「ああ、来てよかったわ」
阿里子は傍の徹をふり仰いだ。
「これなのよ、この光の突き刺さる感じ。この透明感。ねえ、徹さん。あなた詩人なんだから、この気持ちわかるでしょう? 表現意欲が湧《わ》かない?」
徹はまぶしさのために顔をくしゃくしゃにしかめていた。そのせいで、妙に男っぽい雰囲気が漂う。吹き出した汗が額から頬《ほお》に伝い落ちるのが見えた。グレーのTシャツの上に止めた『義理の息子』の白いカードがギラリと反射した。
「そのカード、帰るまでずっとそこに止めておきなさい」
と阿里子は言った。
「どうして?」
タクシーの来る方角に手を上げながら徹が訊《き》いた。
「あなたの義理の母親であることを忘れると困るから」
徹は阿里子を見つめ、それから白い歯を見せて笑った。
白いターバンをした男が運転するタクシーが眼の前で停まった。車はトヨタだった。運転手は、まるで哲学者か文部大臣みたいな重鎮ともいうべき顔をして、フロントガラスの中を見つめて走り出した。道路に注意を払うというよりは、深い思索にどっぷりと浸っているという感じがして、なんとなく気がかりだ。眼などつぶって瞑想《めいそう》などされてはたまらない、と阿里子は義理の息子の脇腹《わきばら》を肘《ひじ》で押した。
「大丈夫かしら?」
「と思いますけどね」
徹は一向に意に介さぬ様子で、車窓の外の飛び去る光景を眺めている。
「だってとても運転手みたいに見えないもの。ガンジーさまの息子じゃないの?」
「訊《き》いてみたら?」
車はすぐにゴミゴミした路地に入っていった。車がスピードをぐんと下げたので、たちまち車窓に子供たちがハエのように群がって右手を差し出す仕種《しぐさ》をした。
こんなにたくさんの人間が群れているのを見るのは初めてだった。もちろん香港も人が多かったが、あそこでもほかのところでも人々は少なくとも動いていた。歩いていた。目的を持っていた。
それがインドでは違うのだ。夥《おびただ》しい人々が、彫像のようにじっと動かない。たいていの男たちは、しゃがんだ姿勢で、じっと前方を見つめている。見つめているようで何も見ていない感じ。貧しさのあまりに茫然自失《ぼうぜんじしつ》している人々。窓に額を押しつけている子供たちの大きな見開かれた黒眼。知性もなく、人間としての尊厳もない、ただ見開かれた眼差《まなざ》し。動物の眼だと阿里子は思った。
ずっとずっと以前、詩集を読む花屋の店員の少年の眼を阿里子は思い出していた。共通点はほとんどないが、ともに、阿里子にいたたまれないほど恥ずかしい思いを味わわせたことが似ていた。
「ただ人に見られるだけで、舌が喉《のど》の奥のほうへめくれ上がっていくような気がすることがあるのね」
と阿里子は徹に話しかけた。
「行きずりの何のかかわりもない人たちが、わたしを反省と後ろめたさで一杯にすることがたまにあるのよ」
「飢えほど悲惨なものはないですからね」
と徹が静かに言った。
「機内食を半分以上残した人間は誰だって後ろめたい気分になりますよ」
「わたしが言うのはもっと根源的な意味でよ」
タクシーがホテルの前に乗り入れて停まった。やっぱり大臣か王様以外の何者にも見えないような風体《ふうてい》のドアマンが指図すると、ページボーイが駆け寄ってきて、タクシーのトランクから阿里子たちの荷物を運び出していく。ページボーイですら、若き日のエジプト人の俳優オマー・シャリフみたいな顔をしている。
「このホテルの一部屋の宿泊代が、この人たちの十か月分に近い給料と同じだという点はどうです?」
徹が阿里子を車から助け降ろしながら言った。
「怒りを通り越して空しさを感じるわ」
「あなたの後ろめたさの解消に役立つのなら、一部屋キャンセルしましょうか」
「どういうこと?」
阿里子は、すぐに徹の言わんとすることの意味に気づいた。
「あなたがわたしの部屋に移ってくるということ?」
「いえいえ。あなたが僕の部屋に移ってきても、僕はかまわないという意味」
「わたしはかまうわ」
「それじゃ、後ろめたい気分のまま旅を続けましょう」
と徹は笑った。
「でも真面目《まじめ》な話」
と、彼は超豪華なホテルと向かい合わせにある、ほとんどスラム街とも言えるバラックの建物に眼をやりながら言った。
「僕も、飢えというものは残酷だと思う。残酷だけど、およそ無意味だ。でもね、全《すべ》ての人間が平等で、富める者も貧者もいなくなる社会というのも、人間にとって同じように無意味だという気がしますけどね」
ホテルの中は冷房がきき、ひんやりとしていい香りが漂っていた。夥《おびただ》しい観葉植物から発散される濃いオゾンの匂《にお》い。それから贅沢《ぜいたく》の香り。お金の匂い。
「今、あなたは道のこちら側にいる。まかり間違えば、道のあちら側に生まれていたかもしれないんです。今はこっち側にいるんだから、こっちの空気を楽しめばいいんじゃないかな」
「そうね」
と阿里子は肩をすくめた。
「前世では向こう側にいて、膝《ひざ》を抱え込んでいたのかもしれないし、そうでなければ、次に生まれるときは、きっとそうよ。突き出した膝の骨に顎《あご》を乗せて、ひたすら前世に食べたステーキのことを考えて暮らすわ」
「それがインド哲学さ。やっぱりインドへ来るとものの考え方がインド式になるんですね」
若き日のオマー・シャリフが、両手に大きなスーツケースを下げて、二人のあとからついてくる。トルコ・ブルーに金モールがピカピカ光って、それがまた彼の男前を引き立てるのだった。
隣り合わせの部屋に別れて入ると、阿里子はシャワーを浴び、電話を取り上げた。
「徹さん? わたし。今からちょっと出かけてくるわ。え? 一人で大丈夫かって? もちろんよ。それに一人で出かけたいの。お夕食に逢《あ》いましょう。わたしがあなたに一緒に来てもらいたかったのは、夕食を一人で食べたくなかったからなの。わかるでしょう。中年の女が旅先で一人でディナーを食べているくらい惨めな図はないもの。ところで、あなたはどうする? もちろん、自分のめんどうくらい自分で見られる人だと思うけど。じゃね、夕食前の七時に、下のバーで逢いましょう」
徹がその電話で忠告してくれたとおり、阿里子は身につけていた宝石の類を全部取り去って、ホテルのセーフに預けた。残っているのはシンプルなプラチナの結婚指環が一つだけ。ジーンズにTシャツ、ヘアバンドという、およそ目立たない服装にスニーカー。その格好で再びホテルの外に出ると、タクシーに乗り込んだ。
その夜七時、徹と約束した時間に、すっかり着替えて、阿里子が現われた。
「日焼けして赤くなっていなければ、昼間中ホテルの部屋で昼寝でもしていたんじゃないかと思いますよ。疲れていませんか?」
やっぱり夜の服装に着替えた徹が、彼女のために席から立ち上がりながら言った。
「それどころか、すごく元気。夕食のあとディスコへだって行けそうよ」
阿里子は陽気に笑った。
「どこへ行ったんです? いいことがあったみたいですね」
「とっても幸福なの。何を見たと思う? 死ぬ前に一度眺めてみたいと思った光景よ。ガンジス河に陽《ひ》が沈むさまを、じっくりと見てきたわ」
「どうでした?」
「もう思い残すことはないわ」
「何を感じました?」
「神様は、それほどひどくないって。あの光景は、万人のものだもの。富める者にも飢えた者にも、等しく与えられていると思った。わたしみたいに思い上がった旅人にもよ」
ウエーターが来たので言葉を切り、ダイキリを注文した。英語ではダッカリーと言う。
「フローズン・ダッカリー・プリーズ」
「イエス・マダム」
とウエーターがニッコリとして引き下がった。
「ほかはどこへ?」
と徹が訊《き》いた。
「どこにも。ずっとガンジス河のほとりに坐《すわ》っていたの。人々を眺めたわ。河の流れと、対岸の風景と」
「それだけ?」
「そうよ。それだけ。明日も行くわ」
「仏像は?」
「名もない小さな仏像を幾つか見かけたわ。それで充分なの。わたしね、河のほとりで沐浴《もくよく》する人たちのポーズに魅《ひ》かれるわ。実にさまざまなおもしろいポーズ。日本人が決してしないポーズがそこにはあったわ。全《すべ》ての人々のポーズは祈りに似ていたわ。それより、今度はあなたの話よ。この午後何をしたの? 話して聞かせてちょうだい」
「僕は、詩集を一冊読みました」
フローズンのダイキリが来たので、阿里子はそれに口をつけ、それから訊いた。
「それだけ?」
「ええ。それだけ。詩集を一冊読んだだけ」
「インドまで来て、詩集を一冊読んだだけ? まさか部屋のベッドの上でと言うんじゃないでしょうね」
「うん、違う」
「じゃ、お風呂《ふろ》の中で?」
「違いますよ」
徹が微笑した。
「ロビー? それともずっとこのバーで飲みながら?」
「もう少し想像を広げることはできませんか?」
徹の眼が阿里子の視線を捉《とら》えた。彼もまた強烈な日射しに焼かれた赤い顔をしていた。
「もしかして……?」
と彼女は疑わしそうに訊《き》いた。
「ガンジス河のほとりで、と言うんじゃないでしょうね」
「いけませんか?」
「ほんと? ガンジス河のほとりで詩集を読んでいたの?」
阿里子の声が弾んだ。
「素敵だわ。あなたって、素敵。夕陽《ゆうひ》は見た?」
「ええ。詩集のページに落ちる赤い影で顔を上げたとき」
「その詩集は誰の?」
「長田弘という人の詩集」
徹は答えた。
「知らないかもしれないけど」
「ええ、知らないわ」
そう答えた拍子に、何かが胸に疼《うず》いた。
「ちょっと待ってちょうだい。もしかして、『あのときかもしれない』っていう詩を書いた人じゃない?」
徹の顔が驚いていた。
「どうして知ってるんですか? 僕の荷物の中を調べたの?」
「詩のことは何も知らないわ。でもその人のその詩集だけは知ってるの」
阿里子は眼を閉じた。
――遠くへいってはいけないよ。「遠く」というのは、ゆくことはできてももどることのできないところだ――
六本木の外れの花屋で、阿里子を打ちのめした詩だった。そしてそこで働いていた少年のような眼をした青年。不思議にもその青年のことをタクシーの中でチラッと考えたりもしたのだった。
「明日は?」
と阿里子が訊《き》いた。
「明日もガンジス河に出かけて、長田弘の詩を読むの?」
「ええ」
と低く徹が答えた。
「明日もガンジス河のほとりで詩集を一冊読むつもり」
「今やっと、弓子がなぜあなたに魅《ひ》かれたのかわかったような気がするわ」
阿里子はカクテルグラスの中味を見つめて呟《つぶや》いた。
「あなたもいつか、詩を書くつもりでしょう?」
「いいえ、僕は書かないでしょう」
と徹はしっかりとした口調で答えた。
「すでに、僕が感じていることを、こんなふうに書いてしまった人がいるのに、それ以上何を書けというのですか?」
徹はなんだかとても悲しそうだった。抱きしめてあげたいという思いが阿里子の胸に浮かんだ。徹の胸の『義理の息子』の文字が彼女の視線を捉《とら》えた。
「でも人の書いたものを読むだけで満足?」
「何もしないで自分一人食っていけるんなら、僕はこのままで幸せですよ。労働は、僕を惨めにするだけです」
「贅沢《ぜいたく》な人」
「そうですか」
と徹は呟《つぶや》いた。
「ちっぽけな贅沢だと思うけどね。一人か二人の愛する人たち。それからいい詩と本。腹八分目の食事。誰かのお供でする旅。それから食前酒。これ以上、人生に何を望めばいいのか僕にはわからない」
「あなたがそれでいいのなら、それでいいんでしょうよ」
と阿里子は言った。
「一人か二人の愛する人の中に、わたしは入らないかしら?」
徹は黙って笑っただけだった。阿里子は東京で受験勉強をしている弓子のことを思った。あの娘は強い子だわ。あの娘は大丈夫。
「今、あなたが考えていること、あてましょうか?」
と不意に徹が言った。
「僕の大事な人のこと」
「そうよ。乾杯しましょう。わたしたちの大事な娘に」
二人は、グラスを合わせた。
「弓子に乾杯」
「それから、黄色い表紙の詩集に乾杯ね」
あとがき
小説を書きだしてから十年がたった。この間、私を悩ませてきたのは、何を書くかではなく、いかに書くかの問題であった。
すなわち文体である。
自慢するようなことではないが、私の文体は三年周期で、変わってきたように思う。もちろん、一作一作ごとに常に何か新しいことに挑戦はしてきたつもりだ。
こう言うと偉そうだが、要は飽きやすいのだ。同じことをくりかえすのが嫌いなのである。だからどんどん変わっていく。
最初は、センテンスの長い翻訳調であった。句読点をたくさんつなぎ、ピリオドまで三行も四行もある長い文章で小説を書いていった。
次にはこの反動で、センテンスの短いものになった。
更に数年がたつと、重層的な試みもやってみた。三つも四つも異なる時限を同時進行的に書いてみたのだ。更に、意識下の流れも加えたりしてみた。
ややこしい文体の後はまた反動で軽くなった。科白《せりふ》だけで小説が書けないものかと考えていた時機でもあった。
『秋の日のヴィオロンのため息の』は、そのような時に書き始めた作品である。会話だけでどこまで小説が成立するものか、という試行錯誤の最初の試みとなった。
それからもう一つ、新しい試みが行われた。登場人物は、私には知らない人たちばかりなのである。
これまで小説を書いてきて、主人公やその周辺の人間は、私自身や私の知っている人間が、多かれ少なかれ顔を出していた。女主人公にはたいてい私自身の性格や体験が反映した。
『秋の日の……』の主人公阿里子は、私の知らない女である。モデルも存在しない。娘の弓子もまたそうである。弓子のモデルもどこにもいない。そういう小説が書けるものかどうかも疑問であった。
けれども、阿里子は小説世界でちゃんと生き、言葉を放ち、考え、行動をしてくれた。弓子もまたそうである。
完全に想像上の人物であるゆえ、行動は自由奔放となり、型破りになったが、その分、視野も広がった。そんなふうに思った。
今後、彼女たちがどのように生きていくのかは私にもわからない。頁《ページ》を閉じた時から彼女たちの次の生活が始まるのである。
一九八七年五月
森 瑤子
一九八七年五月、主婦の友社より単行本として刊行
角川文庫『秋の日のヴィオロンのため息の』平成1年5月25日初版発行
平成7年3月25日8版発行