森 瑤子
恋のインデックス
目 次
[#地から3字上げ]「いずれ女房とは別れて、君と一緒になるつもりだ」
[#地から3字上げ]愛川欽也ほか非常に大勢の男たち
[#地から3字上げ]「なんかさあ、フィーリングが合わないみたい、悪いけど」
[#地から3字上げ]〈なんとなく、クリスタル〉田中康夫
[#地から3字上げ]「魚座と山羊座って、うまく行くンだって」
[#地から3字上げ]〈駅〉=降旗康男監督
[#地から3字上げ]「理由なんか特別にないさ。|要するに《ヽヽヽヽ》、|嫌いになったんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
[#地から3字上げ]〈二十四歳の憂鬱〉源氏鶏太
[#地から3字上げ]「あなた、今、何考えているの?」
[#地から3字上げ]「今度生まれてきたら、一緒になろうね」聖子
[#地から3字上げ]「そんな先のことまで、約束できないよ」ひろみ
[#地から3字上げ]「じゃ、また」不特定多数の男たち
[#地から3字上げ]「彼と私とでは生きていくための哲学が、かなり違うんです」
[#地から3字上げ]夏純子――離婚に際して
[#地から3字上げ]「キミとなら棺桶の中まで一緒に行けるような気がするんだ」
[#地から3字上げ]高田明侑、加賀まり子へのプロポーズ
[#地から3字上げ]「別れてくれないか? 突然で、どうも、なんだが」
[#地から3字上げ]〈川のない街で〉丸谷才一
[#地から3字上げ]「ボクの方から、また電話するよ」
[#地から3字上げ]〈別れの予感〉森瑤子
[#地から3字上げ]「フツーのおばさんから抜け出したいの」
[#地から3字上げ]富士真奈美、林秀彦との離婚に際して
[#地から3字上げ]「フツーのおばさんになりたい」都はるみ
[#地から3字上げ]「女の口からでる『ノー』は否定とはかぎらない」
[#地から3字上げ]シドニー=イギリスの詩人
[#地から3字上げ]「ね、自宅の電話お教えするわ」
[#地から3字上げ]「言い出しにくくてね…要するに別れてくれということなんだけど」
[#地から3字上げ]〈吊橋のある駅〉瀬戸内晴美
[#地から3字上げ]「今、僕が何をしたいか、わかるかい?」
[#地から3字上げ]ハーレクイン・ロマンスより
[#地から3字上げ]「嫌いなら、こうして酒を飲んじゃいないだろ」
[#地から3字上げ]〈ミスティ〉牛次郎
[#地から3字上げ]「ワタシ、アメリカ生まれだけどさあ、慰謝料っていうの、
[#地から3字上げ]あれ、女がグズグズ要求するの大嫌いなの。
[#地から3字上げ]女の方にだって責任あるじゃん」アン・ルイス
[#地から3字上げ]「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
[#地から3字上げ]「真実を語るよりも、嘘《うそ》のほうが女たちには効果があった」
[#地から3字上げ]〈キリマンジャロの雪〉ヘミングウェイ
[#地から3字上げ]「母は来ました今日も来た。この岸壁に今日も来た」
[#地から3字上げ]〈岸壁の母〉藤田まさと作詞
[#地から3字上げ]「ほんに別れたあのおんな、いまごろどうしているのやら」
[#地から3字上げ]〈雪の宵〉中原中也
[#地から3字上げ]「アタシ、シャネルの五番を着て寝てるのォ」
[#地から3字上げ]マリリン・モンロー
[#地から3字上げ]「振りむけば君がいて」国鉄フルムーン
[#地から3字上げ]「いいことがある。結婚しよう」
[#地から3字上げ]「もっといいことがあるわよ。結婚しないでおくのよ」
[#地から3字上げ]映画〈ジョルスン物語〉
[#地から3字上げ]「使いこんでさ、使い勝手が判った時分になると、
[#地から3字上げ]あきてポイなんだから――どういう気、してんだか」
[#地から3字上げ]〈隣の女〉向田邦子
[#地から3字上げ]「よその女房と寝た男を殺していたら、
[#地から3字上げ]この町の人口は半分になるわ」
[#地から3字上げ]映画〈逃亡地帯〉ジェーン・フォンダ主演
[#地から3字上げ]「女は結婚前に泣き、男はあとで泣く」
[#地から3字上げ]西洋の諺
[#地から3字上げ]「アタシ、今夜、酔っちゃう」
[#地から3字上げ]「男は黙ってサッポロビール」
[#地から3字上げ]サッポロビールのコマーシャル
[#地から3字上げ]「気をつけよう甘い言葉と夜の道」
[#地から3字上げ]防犯標語
[#地から3字上げ]「別れることは辛いけど 仕方がないんだ君のため」
[#地から3字上げ]〈星影のワルツ〉千昌夫
[#地から3字上げ]「女と申すものは、
[#地から3字上げ]下着とともに恥じらいの心も脱ぎ去るものでございます」
[#地から3字上げ]ヘロドトス=ギリシアの史家
[#地から3字上げ]「三十過ぎて、あなたという人が見抜けなかった私が
[#地から3字上げ]バカだったのよ」
[#地から3字上げ]池田理代子
[#地から3字上げ]「ゆうべはどこにいたの?」
[#地から3字上げ]「そんな昔のことは憶えていないね」
[#地から3字上げ]「今夜会ってくれる?」「そんな先のことはわからんよ」
[#地から3字上げ]映画〈カサブランカ〉より
[#地から3字上げ]「ウーム、マンダム 男の世界」
[#地から3字上げ]マンダムのCM=チャールズ・ブロンソン
[#地から3字上げ]「だいたい永遠の愛なんてのは考えられないわけよ。
[#地から3字上げ]夫も妻も変化していくわけだから」
[#地から3字上げ]田中康夫
[#地から3字上げ]「ねえ、ユウコちゃん。今夜このままキミを帰してしまうと、
[#地から3字上げ]ボクたち、|ただの友だち《ヽヽヽヽヽヽ》になってしまうと思うんだ」
[#地から3字上げ]〈週刊文春〉コピー塾より
[#地から3字上げ]妻「あなたあの女《ひと》と寝ているんでしょう?」
[#地から3字上げ]夫「いや。寝ていない」妻「…その方がはるかに悪いわ」
[#地から3字上げ]映画〈恋に落ちて〉より
[#地から3字上げ]「念には念をいれよ」日本の格言
[#地から3字上げ]「涙より早く乾くものはない」
[#地から3字上げ]西洋の格言
[#地から3字上げ]「ねえ、私が何をしたの。嫌われるような何をしたの」
[#地から3字上げ]〈酔どれ〉和田アキ子
[#地から3字上げ]「大部分の女は多くの言葉を費やして、
[#地から3字上げ]ごくわずかしか語らない」
[#地から3字上げ]フェヌロン=フランスの思想家
[#地から3字上げ]「われわれを恋愛から救うものは、理性より多忙である」
[#地から3字上げ]芥川龍之介
[#地から3字上げ]「俺《おい》ら東京さ行ぐだ」
[#地から3字上げ]吉幾三
[#地から3字上げ]「女房を殺したくなる理由なんて、
[#地から3字上げ]亭主の側には掃いて捨てるほどありますよ」
[#地から3字上げ]〈傷だらけの天使〉市川森一
[#地から3字上げ]「ま、長い人生、いろんなことがあらぁな」
[#地から3字上げ]映画〈スローなブギにしてくれ〉藤田敏八
[#地から3字上げ]「よろしいんじゃないですか」
[#地から3字上げ]56年キンチョールのCM
[#地から3字上げ]「あの声でとかげ食うかや時鳥《ほととぎす》」
[#地から3字上げ]其角
[#地から3字上げ]「腹が立ったら十まで数えよ。
[#地から3字上げ]うんと腹が立ったら百まで数えよ」
[#地から3字上げ]ジェファーソン=アメリカの政治家
[#地から3字上げ]「前にも言ったと思うけど、あなたって最低よ」
[#地から3字上げ]〈風の歌を聴け〉村上春樹
[#地から3字上げ]「女は灰になるまで恋をするんです、ヨーッ」
[#地から3字上げ]浦辺粂子
[#地から3字上げ]「とにかくね、生きているのだからね、
[#地から3字上げ]インチキやっているのに違いないのさ」
[#地から3字上げ]太宰治
[#地から3字上げ]「だってこれは恋愛じゃないよ。言ってみれば過失だよ」
[#地から3字上げ]〈ポートノイの不満〉フィリップ・ロス
[#地から3字上げ]「いやだわ、まっぴら―、もう結婚なんかしません」
[#地から3字上げ]森光子
[#地から3字上げ]「新しい恋? 当分いいわ」
[#地から3字上げ]池田理代子
[#地から3字上げ]「笑う女を信用するな。泣く男を信用するな」
[#地から3字上げ]ウクライナの諺
[#地から3字上げ]「疑心は安全の母である」
[#地から3字上げ]スキュデリ=フランスの作家
[#地から3字上げ]「男というものは、わが家から離れている時が、
[#地から3字上げ]常に、一番陽気なものだ」
[#地から3字上げ]シェイクスピア
[#地から3字上げ]「女の人っていうのは、正直いいまして、
[#地から3字上げ]ぼくにはまだよくわからない面があります。
[#地から3字上げ]試行錯誤でした」小川宏
[#地から3字上げ]「やっぱり巨人が強い方が世の中うまくいくんですよ」
[#地から3字上げ]王貞治
[#地から3字上げ]「約束を守る最上の方法は、決して約束をしないことである」
[#地から3字上げ]ナポレオン
[#地から3字上げ]「私は貧乏な会社の一介のサラリーマンでございまして、
[#地から3字上げ]生活も意識も、これまでと全く変わっておりません」
[#地から3字上げ]はて、誰れが言ったのでしょう?
[#地から3字上げ]「為せば成る為さねば成らぬ
[#地から3字上げ]成る業を成らぬと捨つる人のはかなき」
[#地から3字上げ]武田信玄
[#地から3字上げ]「クリープを入れないコーヒーなんて」
[#地から3字上げ]森永製菓
[#地から3字上げ]「だからセックスは天敵にしてるんだなぁ天敵よ、天敵」
[#地から3字上げ]MIE
[#地から3字上げ]最初のデートのときは、ステーキをご馳走《ちそう》してくれたが、
[#地から3字上げ]「あとはよくてハンバーグ、いつもはラーメンばかりでした」
[#地から3字上げ]伊藤素子
[#地から3字上げ]「ごめんなさい。私テニヲハに弱い女だもんで」
[#地から3字上げ]坂本スミ子
[#地から3字上げ]「ねぇ、あなたのオヘソの匂いって、私のと同じよ。
[#地から3字上げ]私アナタと暮らしてみることにする」
[#地から3字上げ]〈奇妙な愛〉落合恵子
[#地から3字上げ]「家庭の幸福は諸悪の本《もと》」
[#地から3字上げ]太宰治
[#地から3字上げ]「ナイ、ナイ、ナイ。マジでっせ。本当にない話ですヮ」
[#地から3字上げ]明石家さんま
[#地から3字上げ]「つきまとうわよ。…わるい女をつかんだわよ、あなた」
[#地から3字上げ]〈ハートブレイクなんて、へっちゃら〉片岡義男
[#地から3字上げ]「結婚とメロンは、|ひょっとして《ヽヽヽヽヽヽ》うまいのに当ることがある」
[#地から3字上げ]スペインの諺
[#地から3字上げ]「一を聞いて十を知る」
[#地から3字上げ]「物言えば唇さむし秋の風」
[#地から3字上げ]芭蕉
[#地から3字上げ]「腕白でもいい、たくましく育ってほしい」
[#地から3字上げ]丸大ハム
[#地から3字上げ]「眠くなるしねぇ。でも寝てると怒られるし…
[#地から3字上げ]何かしていないとねぇ」
[#地から3字上げ]内海建設大臣
[#地から3字上げ]「私、ネクラだって言われるんですよ。
[#地から3字上げ]でも人間って誰しも本来ネクラだと思うのよネ」
[#地から3字上げ]山田邦子
[#地から3字上げ]「大胆なご意見ありがとうございました」
[#地から3字上げ]サントリーのCMで藤島親方
[#地から3字上げ]「死んでもらいます」
[#地から3字上げ]高倉健
[#地から3字上げ]「初めてあなたを見た時、この人だと思ったわ」
[#地から3字上げ]〈死ぬのは奴らだ〉イアン・フレミング
[#地から3字上げ]「災害は忘れた頃にやって来る」
[#地から3字上げ]寺田寅彦
[#地から3字上げ]「朝《あした》には紅顔あって夕《ゆうべ》には白骨となる」
[#地から3字上げ]蓮如上人
[#地から3字上げ]「芝居こんにゃく芋南瓜《なんきん》」
[#地から3字上げ]女の好きなもの
[#地から3字上げ]「おかぁさーん」
[#地から3字上げ]ハナマルキ味噌のCM
[#地から3字上げ]「中村さんちもマックロード」
[#地から3字上げ]松下電器のCM
[#地から3字上げ]「私ってさ、頭の中は空っぽだけどさ、
[#地から3字上げ]黙っていると屈折した女に見えるんだって、ハハハ」
[#地から3字上げ]美保純
[#地から3字上げ]「でも、うるさいっていうのは、確かにあるみたい」
[#地から3字上げ]古舘伊知郎
[#地から3字上げ]「どうしても、どうしても、
[#地から3字上げ]どうしてもだめだったら帰っておいで、妹よ」
[#地から3字上げ]かぐや姫
[#地から3字上げ]「天守閣の扉の金粉の光り具合がよくない」
[#地から3字上げ]黒澤明
[#地から3字上げ]「あっしにはかかわりのねえことでござんす」
[#地から3字上げ]木枯し紋次郎
[#地から3字上げ]「見ざる言わざる聞かざる」日本の諺
[#地から3字上げ]「舌は頭の知らないことをたくさん喋る」
[#地から3字上げ]ロシアの諺
[#地から3字上げ]「思い内にあれば色外に現わる」
[#地から3字上げ]世阿弥
[#地から3字上げ]「|あれ《ヽヽ》の後は、いつでも辛いんだ」
[#地から3字上げ]〈愛人〉マルグリッド・デュラス
[#地から3字上げ]「人は女に生れない 女になるのだ」
[#地から3字上げ]ボーヴォワール
[#地から3字上げ]「知はいつも情に一杯食わされる」
[#地から3字上げ]ラ・ロシュフコー=フランスのモラリスト
[#地から3字上げ]「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」
[#地から3字上げ]マクベス
[#地から3字上げ]「棄てられて、棄てられて、ありがとう」
[#地から3字上げ]藤公之介
[#地から3字上げ]「男子家を出ずれば、七人の敵あり」
[#地から3字上げ]「また結婚するとしたら、この人しかいない」
[#地から3字上げ]前川清
[#地から3字上げ]「忠言耳に逆い、良薬口に苦し」 史記
[#地から3字上げ]「葉巻のような一生がある。吸いはじめだけがうまい」
[#地から3字上げ]フレヴォ=フランスの評論家
[#地から3字上げ]「ワタシにもウツせます」
[#地から3字上げ]フジカシングル8
[#地から3字上げ]「どうせ私をだますなら死ぬまでだまして欲しかった」
[#地から3字上げ]東京ブルース
[#改ページ]
「いずれ女房とは別れて、君と一緒になるつもりだ」
[#地から1字上げ]愛川欽也ほか非常に大勢の男たち
九十九パーセント嘘《うそ》。結婚している男の切《せつ》なる願望であり見果てぬ夢である。愛川欽也氏はわずか一パーセントの例外で、みどり嬢は幸運であった。たいていの男たちは、そんなことを口にしても「古女房」とは離婚しないし、「君」とも一緒にはならない。
「あの時、奥さんと別れるって約束したじゃないの。あれは嘘だったのね」とリヨコは眼をつり上げた。
「嘘?」と中年男はびっくりしたような、ひどく傷つけられたような顔を、まずしてみせる。「嘘じゃないよ。あの時は本当にそう思ったし、女房と別れるつもりだった」更に中年男は言い繕《つくろ》う。
「嘘というのはね、最初から出来もしない約束をあたかも実行可能なように言うのが嘘なんだ」中年男は更に巧妙に言葉をあやつる。
「あの時の僕の気持は真実だ。女房とは別れたいと|思っていた《ヽヽヽヽヽ》」
「だったら思うだけじゃなくて、実行してよ」リヨコは一層つめよる。「奥さんとすぐに別れてよ」「あのね、リヨコちゃん」中年男はあくまで説得しようとする。
「日本の法律では、妻の方に落度がないかぎり、この場合離婚が言いだせるのは妻だけなんだよ」中年男の妻は、夫が好き勝手に不倫《ふりん》の恋をやっている間、じっと忍《にん》の一字。夫に負けじと自分も若い男と浮気などはしなかったのである。
「それにリヨコちゃんね」中年男はついにトドメの一言を口にする。「最初から僕に妻があるということを知ってつきあった場合、事と場合によると、妻《ヽ》は君《ヽ》を告訴できるんだ。君を訴《うつた》えて慰謝料を取れるんだ」
ここで大抵《たいてい》の女はヨヨヨと泣き崩れる。あたしの青春を返してよ、などと言いながら結局は泣く泣く身を引く。
しかし経済力がある女は引き下らない。あるいは破滅型の女も。リヨコは顔を引きつらせてこう言った。
「今までのこと、全部会社にバラしちゃうからね!」
(女って怖いですねえ。係わりになるものじゃありませんねえ。アシュラのごときとはよく申しましたねえ。だからワタシは女には近よらないんですよ、と淀川長治氏の声が聞こえてきそう)
不倫の恋は秘めごとであるからこそ燃え上りもするのだ。家庭に知られ会社に知られ、マスコミに知られては、男も女も格好悪いだけである。
男が「いずれ女房とは別れて君と……」と言う本当の意味は、「君との関係を|もうしばらくは《ヽヽヽヽヽヽヽ》続けたい」ということなのだから、利口な女ならそこでさっさとおさらばすべきなのだ。
大体女房の悪口を言ったり、離婚するなどと口にする男なんてのは、男の風上にも置けないつまらない人間なのである。つきあうだけ時間の無駄というものだ。
しかしこれを逆手《さかて》にとって、この女、鼻についてきたなと思ったら、この科白《せりふ》悪用できるかもしれない。
☆ あくまでもリヨコ型はだめ。相手の女の質による。
[#改ページ]
「なんかさあ、フィーリングが合わないみたい、悪いけど」
[#地から1字上げ]〈なんとなく、クリスタル〉田中康夫
金曜の夜、カフェバーは混んでいた。
ヤスオは視線を動かして、素早く店内を見渡した。
と、カウンターに大人ふうのいい女。ほどよく焼きこんだ肌に、白麻のドレスの皺《しわ》の具合もきまっている。
「ここ空《あ》いてる?」
すると女はチラと眼を上げてヤスオを眺めた。まるで男が女を眺める時によくやるのとそっくり同じ値ぶみするような眼なのだった。
ヤスオは内心手ごわいぞと思いますます闘志を掻《か》きたてられた。
「いいえ」と女はクールに煙草《たばこ》に火をつけ、タップリ間《ま》を置いてからニヤリと笑った。「たった今、ちょっといい男が坐《すわ》ってしまったわ」
滑り出しは上々。「お近づきに、一杯ご馳走《ちそう》するよ」
「そう? じゃカンパリソーダーを頂く」悪びれずに女が答え、赤いマニキュアを塗った指の、美しいひとひねりで、灰皿の上で煙草をもみ消した。
バーテンダーが女の飲みものとヤスオの水割りをカウンターに置いた。「爪《つめ》の色に合わせたの? それとも口紅の色?」ヤスオが女の赤いカンパリソーダーを指して言った。
「どっちも違うわ。血の色よ」
「つまり赤く燃える血というわけだ」
「いいえ、赤く冷たい血」女はグラスの中の氷片を揺らして薄く微笑した。
ますますステキな女だと思った。
「乾杯しよう」ヤスオがグラスを掲げた。
「ありきたりの乾杯は嫌よ」
「じゃヘミングウェイ流にやろうか」ヤスオが言った。「つまり、僕たちがこれから犯すであろう過ちに乾杯、というのはどう?」
「気に入ったわ」女の顔の上の微笑が広がった。
二人はグラスを重ね、会話を重ね、時間が過ぎた。話がふと途切れた。ヤスオが呟《つぶや》いた。
「今、僕が考えていることが、わかるね?」
「ええ」と女は長い睫《まつげ》を伏せた。「……多分、私と同じことだと思うけど」
再び絶妙の間を置いて、ヤスオが囁《ささや》いた。「出ようか」
女がうなずく。「その前に、顔を直してくるわ」彼女がスツールを滑り降りてトイレットの方へ向った。
その後姿を見つめて、ヤスオは思わずのけぞりそうになった。坐っている時はわからなかったが大女だった。男としてヤスオは決して背が低いわけではないが、あの女の足の長さだと、彼女の耳くらいまでしかないのではないかと思った。彼には自分より背の高い女を抱く趣味はなかった。
女が戻った。行きましょうか? というふうにヤスオを見た。ヤスオはスツールに腰を下ろしたまま躊躇《ちゆうちよ》した。「どうしたの?」女が訊《き》いた。「気が変ったの?」
「なんかさあ」とヤスオが必死で言葉を探した。
「なんか、フィーリングが合わないみたい、悪いけど」
☆ にっちもさっちも後《あと》に引けなくなった時、なにがなんでも振り切って逃げるのに便利な科白《せりふ》。
[#改ページ]
「魚座と山羊座って、うまく行くンだって」
[#地から1字上げ]〈駅〉=降旗康男監督
男にとっては恐怖の星占い。
女というのはどうしてこうも星座のこととなると眼の色を変えるのであろうか。ピンからキリまで、美女もブスも、俗にいうインテレクチャルな女たちまで、世をあげて、国籍に関係なく、一も二もなく「今週の星占い」を信じて絶対に疑わない。
知り合って最初の質問が、
「あなた何座?」なのである。次に「血液型は?」とくる。
「えっ? サソリ座のO型? ウッソォ! いやだ、あたしカニ座のA型なのォ」
「あ、じゃ相性悪いの?」男は内心シメタと思う。
「違うわヨ、違うノ。相性はいいの。抜群なの」
「だって君、今、|ウッソォ《ヽヽヽヽ》、|いやだ《ヽヽヽ》って言ったじゃないか」
「バカねぇ」若い女が男に躰《からだ》をぶつけるようにして笑い転げる。
「カニ座もサソリ座も、同じ水に属する星座でしょう? だから相性ピッタシ。O型とA型もバッチシなの」
明日にでもウエディングベルが鳴りそうな勢いである。
「えー!! あなた乙女座なのォ!!」深い失望の色が彼女の顔を過《よ》ぎる場合も、男は油断はならない。
「ひゃァ、血液型はABなのぉ? ヤバイなあ」
「良かった。相性が悪いんだね」と、男はつい本音で微笑してしまうが、そんなことではなかなか解放してもらえない。
「でもねぇ、考えてみればたかだか十二の星座と、四つの血液型にしか分類できないていうのに無理があるのよね」などと節操のないことを言いだすしまつ。「相性よりもフィーリングよね! フィーリングでいきましょ、フィーリングで」
要するに一度ねらった獲物《えもの》を逃がさないのが女なのであって、「あなたは私の原点、私の郷愁なのよ」と訳のわかったようなわからないような事を並べたてられ、気がついた時にはもはや後《あと》へは引けない。
さて結婚をして、何年かたち、やっぱり上手《うま》くいかない。すると女は言うのだ。「相性が悪かったのね。最初からわかってはいたんだけど……」こういう場合、慰謝料を請求するのは、女ではなく相手の男であるべきではないだろうか。
だから男は開口一番にこう言うべきだ。
「オレ、星座と血液型の話をする女とは、絶対につきあわないことにしているんだ」
すると女は言うかもしれない。
「あら、めずらしいのね。男らしいのね。そういうひとって、私好きよ」尊敬と憧《あこが》れの眼差《まなざ》しでじっと見上げられて、男は悪い気はしない。「あなたみたいな男のひとって初めて」女はうっとりと更に言う。「女を支配するタイプね、ゴーイング・マイ・ウェイで。きっと水ガメ座でしょ? 違う? 血液型は……そうね、B型、当ったでしょう?」
[#改ページ]
「理由なんか特別にないさ。|要するに《ヽヽヽヽ》、|嫌いになったんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
[#地から1字上げ]〈二十四歳の憂鬱〉源氏鶏太
ジローはもうかなり前から婚約者のアキコが鼻についていた。別れたいと思い、日がたつにつれてその思いはますます肥え太り、日夜彼を悩ませ続けた。
彼が言いたいことはズバリ「君が嫌いになったんだ」の一言。特別に理由などないのだ。「どうしたの近頃《ちかごろ》? 電話かけても居留守なんて使って。ちゃんとわかるのよ」アキコがまなじりを釣り上げた。
「一年や二年のつきあいじゃないんだから。あなたの考えていることくらい想像つくわ」
「じゃ、説明する必要もないね」とむしろジローはほっとした。
「長すぎた春なのよ。秋まで待つことないわ。すぐに籍だけでも入れましょうよ」
結局、何もわかっちゃいないのだった。
「実はね」とジローは注意深く言葉を選んだ。「僕たち、しばらくの間だけでも別れてみないか?」とたんにアキコの顔色が変った。
「しばらくの間って?」
「つまりさ、その、一か月くらいだよ」苦しまぎれにジロー。
「一か月別れて、それからどうするの?」
「それはさ、その時にまた考えようよ」
「あたし、考える必要なんてないわ」アキコはじっとジローをみつめた。「まさか」と急に彼女は呟《つぶや》いた。「まさか他《ほか》の女を好きになったなんて言うんじゃないでしょうね」
「それが、実は、そうなんだ」不意をつかれてジローが告白した。「すまないと思っている」
もちろん、すまないことで済む問題ではなく、しばし狂乱の態《てい》。
「他の女を好きになったと言っても、君のことが嫌いになったわけじゃないんだ」心とは反対の言葉が口を突いてでる。「今でも君を好きだよ。ただ――」
「ただ、何なの?」
「だからさ、今のままだと、何だか君を不幸にしそうで」嘘だ。みんな嘘。アキコなんて嫌いだ。もう顔を見るのも声を聞くのも嫌だ。肌に触れるのも彼女のにおいも何から何まで嫌で嫌でたまらない。
「不幸になってもいいの。あたし、別れないからね」
「でも僕は二人の女と結婚するわけにはいかないじゃないか」ますますうんざりしながらジロー。「どうしても別れてはもらえないのか?」
「それはあたしに死ね、というのと同じよ」じゃ死んでくれ、とジローは心の中で叫んだ。どこでどうまちがえてしまったのかわからなかった。よく考えて言葉を選んだつもりなのに、別れ話は成功しなかった。それどころか死ぬなどと強迫されて、結局翌朝早く泣く泣く区役所へ婚姻届けを出さざるを得ないハメにまでなったのである。
☆教訓 女には、歯に衣《きぬ》をきせずに、そのものズバリを伝えること。なまじ優しいと、それが裏目に出ることが多い。
[#改ページ]
「あなた、今、何考えているの?」
映画館から出て来たばかりの二人連れ。
「今の映画のエンド、良かったわね。やっぱりハッピーエンドの方がホッとするわ」女はしきりと感激のてい。「それにさ、あの主役の男、何て言ったっけ? そぉそぉクリストファー・ウォーケン。あのひと格好良かったわねえ。ひっそりと静かで、すごみがあって」
しかし男は憮然《ぶぜん》とするばかり。
「どうしたの? 元気ないじゃない?」女はちらと男の横顔を見上げる。
「あっ、わかった。クリストファー・ウォーケンの気分なんでしょ?」と勝手な早トチリ。「うん、わかる、わかる。そういうのってすごくよくわかるんだなぁ」
「わかるって、何が?」男がユーウツそうに訊《き》く。
「映画|観終《みおわ》った後、十分くらい、自分が主役を演じたみたいな気分になれるのよ」女はウットリ眼を閉じる。「あたしだって、メリル・ストリープの気分よ」
男は素早く女を盗み見る。とてもじゃないがメリル・ストリープっていう顔じゃない。以前ならこういう時「お前、よく鏡でも見ろよな」と額を指で突ついて、二人で笑い転げたものだが、最近は全然そんな気分になれない。女の一挙手一投足が鼻につきだしたのだ。
「あたしお腹空いちゃった」女は相変らず少しもくったくがない。「ラーメンかなんかスープのタップリしたものが食べたいわ。冷房がききすぎて、躰《からだ》が冷えちゃったのよ、ホラ」と彼女は男の手を取って、自分の腕に触れさせる。「ね? 冷たいでしょ?」
女の肌は事実魚みたいにひんやりとしていた。男は思わず露骨に顔をしかめて、手を引いた。まるで死体に触れでもしたかのようだった。
「何よ、大げさね!」女は陽気に声をたてて笑い、ラーメン屋を探して歩きだした。
前には、小鳥だって彼女より食べたのに、と、男は眼の前でドンブリからスープを直接|啜《すす》っている恋人を眺めながら、胸の内でせつなく思った。フランス料理だって、コースの半分もいかないうちに、お腹が一杯になってしまい、上品《ヽヽ》に残したものだった。それが今や、スープと鼻水とを交互に啜り上げながら、ラーメンをきれいに平らげてしまうのだ。
すっかり食べ終ると、彼女は満足の溜息《ためいき》をついて言った。
「どうしたの? 全然食べてないじゃないの?」
「あんまり、腹、空いてないんだ」
「なんだ、もったいない」
女は冷めてしまった男のラーメンを未練気にみつめた。それからコンパクトを取り出すと、鼻の頭をパフで叩《たた》いた。粉がパラパラと男ののこしたラーメンの上に舞い落ちた。
「今夜はやけに静かなのね」ふと、女がコンパクトから眼を上げ、急に不安そうに訊いた。
「あなた、今、何考えてるの?」
男は、女が空にしたラーメンのどんぶりをみつめる。「俺《おれ》が今、何を考えているかって?」ますますユーウツな口調だった。「どうしたら、おまえと別れられるかって、そのことを考えているのさ」
[#改ページ]
「今度生まれてきたら、一緒になろうね」聖子
「そんな先のことまで、約束できないよ」ひろみ
そもそも結婚とは何であろうか?
思うに、男と女が共に生活する歳月の中で、本来のあるがままの正体を少しずつ暴《あば》きだしていくという、残酷な過程が、結婚生活なのではないだろうか。
新婚の夢|覚《さ》めやらぬうちに、ステテコ姿で家の中を歩きまわる若い夫を見ての新妻の失望。あるいは、朝食の最中朝刊片手に慌《あわ》ててトイレに馳《か》け込む新婚の妻の後姿を見る夫の思い。
チャタレイ夫人の恋人《ヽヽ》は「あんたがウンチしたり、オシッコするのが、オレはうれしいんだ。ウンチもオシッコもできねえような女なんか欲しかねえ」と勇|かん《ヽヽ》にも豪語したが、普通の神経ではそうは言わない。ましてや新婚の間においてをや、である。
結婚して三年もすると妻は言う。
「あなたって、釣った魚に餌《えさ》をやらない口なのね。レストランにも連れて行ってくれないし、ドライブもだめ、結婚記念日も私のお誕生日もすぐ忘れるし、何にもしてくれないのね」
|くれない《ヽヽヽヽ》、|くれない《ヽヽヽヽ》に追いたてられて、夫はますます家庭から遠ざかる。
それならば勝手にやらせて頂きます、と女房は亭主の稼いだお金でカルチャーセンターに通い、せっせと「教養」を身につける。出たついでに女友だちとフランスレストランで二千五百円のランチを週に二回食べる。
夜になっても亭主は何にもしてくれないので、そっちの方も勝手にやらせて頂いて。おきまりの人妻の情事。不倫《ふりん》の恋。
知らぬは亭主ばかりなり。夜、ちゃんと家にいれば、自分の女房が|悪さ《ヽヽ》をしているなどとは、まず夢にも考えない。考えたくない。昼間のラブホテルがそういう浮気妻たちで一杯なのを、自分も時たまオフィスラブの相手と|昼休みの情事《ヽヽヽヽヽヽ》を楽しむから、目撃して知ってはいるのに、|うちの女房《ヽヽヽヽヽ》とは結びつかない。結びつけない。
それに比べれば、亭主の浮気なんていうのは、オシャカ様の掌《てのひら》の中の孫悟空のようなもので、女房には全て見通されている。男がどんなに巧妙にやろうとも、妻にはバレる。匂《にお》いでバレる。仕種《しぐさ》でバレる。声音《こわね》でバレる。普段しないようなちょっとした余分のことをしてしまってバレることもあるし、さりげなく振るまったつもりでも、そのあまりのさりげなさ故にバレてしまう場合もある。要するに亭主は何をどうやっても、女房の眼から浮気を隠せない。諦《あきら》めることだ。
さて停年。
「離婚して頂きます」と妻は退職金の半分と、カルチャーセンターでつちかった長年の「教養」を元手に独立。哀れなるかな亭主よ。
だから、結婚は、一番好きな男とはすべきではない。二番目ぐらいの男とするのがいい。聖子ちゃんは正解かつ誠実であった。好きな男と結婚しないのは思いやりなのである。
世の中には、更に上を行く人がいるもので、
「またの世も、また、またの世も、お前と一緒に暮らしたいね」と願望を述べている(「火宅の人」檀一雄)。
「そんな、先の先の先のことまで……」とひろみくんが思わず憮然《ぶぜん》として絶句する様子が、眼に見える。
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「じゃ、また」
[#地から1字上げ]不特定多数の男たち
女は顔や姿じゃないわ、心だわと自分を慰めているうちに、ユリコは二十七歳になっていた。親友の美子が心配してある日言った。
「ほら、覚えている、タツジさん? 彼、あなたに逢《あ》いたいって」
「タツジさん? キャ、あのフリオ・イグレシアスにちょっと似てるタツジさんが?」
「そう。ユリコのこと気にしてるみたい」
「キャ。ウッソォ!」
「ホントよ。逢ってみる?」
「逢う、逢う、逢ってみるともさ。キャホホホホ」
さてユリコ、鏡の前に立って、しげしげと自分の姿を眺めて溜息をついた。
「どうみても小錦の妹だわさ」
ダイエット、ダイエット。デイトは一週間後だ。確実に五キロは痩《や》せなくては。タツジさんはほっそり型だから。一番効果的な方法は、何も食べないこと。一週間食べなくとも死にはしない。というわけでユリコは涙ぐましい努力でがんばりぬいた。
当日、足取りもフラフラ、眼もちょっとカスむ。が頬《ほお》に大望のカゲリが。ウエストも三センチ縮んだ。
ホテルのロビーの一隅に、タツジ端然と坐っている。色浅黒く硬質で、惚《ほ》れぼれと良き男。ユリコの胸がキュンと痛んだ。
「お久しぶり!」
「あれ」とタツジが妙な表情でユリコを眺めた。「なんだか面《おも》やつれしてるね」
「痩せたのよ」あなたのために、とユリコはホホホと笑った。
「というより空気のぬけた風船みたいだ」
「|しどい《ヽヽヽ》」
タツジは何となく憮然《ぶぜん》として、やたらに煙草《たばこ》を喫《す》いまくった。
「あの、どうかしたんでしょうか?」ユリコ、おずおずとお伺いをたてる。「まさか太った女がお好きなのでは? 小錦の妹みたいな女がお好みなのでしょうか? でも、まさか、でございますわねえ、ホホ」
するとタツジはこう言ったのだ。
「でもさ、きみが小錦の妹みたいじゃなかったら、ユリコのユリコたる|ゆえん《ヽヽヽ》がないじゃないか」とりつくしまのない態度。
「さて、と」とタツジはやおら腕時計を眺め、「僕このあとちょっと……」と言う。
「え?」ユリコのけぞる。「あの、お食事を一緒にって、タツジさん……」
「それが急なヤボ用でさ。悪いね。またってことにしてくれないかな」
男の手が伝票に伸びる。すっと立ち上る。そして言う。
「じゃ、また」
振りむきもせず歩み去る。
|じゃまた《ヽヽヽヽ》が、また逢おうねの|じゃまた《ヽヽヽヽ》ではなく、もう二度と逢わないつもりの|じゃまた《ヽヽヽヽ》であることを、ユリコは経験から感じとる。これまでに嫌というほど男たちの口から聞かされたあの|じゃまた《ヽヽヽヽ》なのだった。椅子《いす》の中でユリコはクラクラとした。胃がキュウキュウ痛んだ。さしあたっては失恋の痛みより、空腹の応急手当てをする必要があった。ユリコはマクドナルドとケンタッキーとカレーウドンめざして立ち上った。
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「彼と私とでは生きていくための哲学が、かなり違うんです」
[#地から1字上げ]夏純子―離婚に際して
楽しかるべき新婚旅行が、なぜもこんなにまで無残な結果になったのか、当人同士以外には絶対にわからないことである。
そもそものことの起りは初夜の翌朝であった。
イチローは欠伸《あくび》をしながらホテルのベッドをぬけだし、バスルームに入って用を足した。長々と放出して、まずは満足。再び欠伸をしながら新妻の休んでいるベッドへ戻った。
ジュンコが、なんとなく固い表情をしている。
「どうしたのさ? 寝不足かい?」
「…………」
「ねぇ、黙っていちゃわからないよ。どうしたのか言ってごらん」
「だって……」といかにも言いにくそう。
「いいから、言ってごらんって」
「じゃ言うわ。あのね、おトイレで用を足す時、水を流しながらしてもらえる?」
「ん?」イチローはちょっとびっくりする。「どうして? 水を二度も流すの、もったいないじゃないか」
「でも、あの音、ブスイだわよ」
「ブスイね」
が、そこは新婚のこと、なんとなく了解でその場は収まった。
しかし習慣とは恐ろしいもので、そう簡単には変れない。変えられない。イチローはついつい水洗を流さずに小用を足してしまう。三日目、四日目と段々新妻の様子が冷たくなっていった。
「たかがオシッコの音じゃないか」とイチローは笑いとばそうとした。「生理的現象にともなう自然な音色だぜ」
「でもあたし、耐えられないのよ」
「きみね、神経質すぎるんじゃないかな」
「だって聞こえちゃうんですもの。たとえ夫婦でも節度というものがあると思うのよ、あたし」
「オシッコの音は、いけないかね」イチローは急に憮然《ぶぜん》とする。
「というより、あたし排泄感《はいせつかん》に耐えられないの」
「そういえば」とイチローは妻をじっと見た。まるで初めて見るかのような妙な眼つきだった。「きみいつ、でっかい方をするの? おれ、ずっと不思議に思ってたんだ」
「ま、お下品なひとね」さも軽蔑《けいべつ》したようにジュンコが言った。
「しかしまさかきみ、ぜんぜん出さないんじゃないだろうね。一週間もフンづまりじゃないんだろうね」
「ほんとに嫌なひとだわ」ますますジュンコは態度を硬化させた。
「だけど気持悪いよな、一週間分がきみの躰《からだ》の中につまっていると思うとさ」
新婚旅行から戻ると、その足でジュンコは実家へ帰って、二度とイチローのところへは行かなかった。人に訊《き》かれるとジュンコは言うのだ。「彼とあたしとでは、生きていくための哲学が違うのよ」と。
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「キミとなら棺桶の中まで一緒に行けるような気がするんだ」
[#地から1字上げ]高田明侑、加賀まり子へのプロポーズ
こんなの嘘《うそ》にきまっている。
女が欲しいとなったら、男は色々言うものなのだ。
――あなたと一緒なら、どんな砂漠でも絶壁でも海でも平気で越えて行けます――と言ったのはボヴァリー夫人≠フフローベルの科白《せりふ》。そういえば私の亭主も、結婚前ホンコンから似たような手紙を寄こした。
――君と逢うためなら、たとえこの海を泳ぎきってでも必ず行くよ――
でも彼は海を泳いでなど来なかった。ちゃんと飛行機に乗って来たのである。ケロリとして。嘘つきめ。
それから私の昔々の恋人は、
――おまえのためなら死ぬことも出来る――とかなんとか言っていたくせに、私以外の女と結婚して、離婚して、また別の女と結婚している。
あなたは月だ太陽だ、プラトンの半身だなどと歯の浮くようなことを言っていたのに、何年かすると、この薄らブタめ、顔も見たくない、などと平気で言うのである。
しかしよくよく注意して見ると、案外最初から男は逃げ道を考えて物を言っている。「キミとなら棺桶の中まで一緒に行くよ」とは高田氏は言っていない。「行けるような気がするんだ」と、あいまいにぼかしている。結局、あの時はそんな気がしたんだけど、やっぱり無理だったかなぁ、という風に逃げられるようになっている。実に巧妙である。
私の昔の恋人は、「おまえのためなら死ぬことも出来る」と言っているのであって「おまえのために、死ぬ」とは絶対に言い切っていない。死ぬことも出来るが、生きているのがいいわけである。
その点、初めからこちらに少しも誤解させないで、見事に口説いている例があるから、読者の参考にして頂きたい。
――僕は本当に君が好きなんだ、僕の気持はいつまでも変わらないよ! 僕なりに……僕の流儀で。(「夜の果ての旅」セリーヌ)
僕なりに、僕の流儀でというのが憎いではないか。流儀でというのが。
こんなのもある。
――僕は家庭を壊すことは出来ない。しかし、これからも君に会いたい。非常に勝手なようだが、僕はあなたが好きだ。(「砂の巣」黒岩重吾)
非常に勝手でありますが、こんなふうに真正直に迫られたら、女というのは弱いのではないだろうか。これが真情の吐露《とろ》ではなく、計算されつくした言葉だということもありうるので女はゆめゆめ油断しないでもらいたい。
――あんまり好きだから、仕合せを通り過ぎてしまったのだ――(「豊饒の海」三島由紀夫)というのもある。好きになるのは勝手だが、あんまりせっかちに幸せを通り過ぎてもらっても、女としては味気ない。
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「別れてくれないか? 突然で、どうも、なんだが」
[#地から1字上げ]〈川のない街で〉丸谷才一
「パンツ一枚で家の中を歩きまわらないでちょうだい」新婚の妻は悲鳴に近い声をあげた。それがそもそもの始まりだった。
「君、朝刊ってもの、読まないのか?」と若い夫がある朝|訊《き》いた。
「だって、あなたトイレの中へ持ちこむんですもの、不潔」
ステテコなんてはかないで。スープをズルズル飲まないでちょうだい。一度はいた靴下の匂いを嗅《か》いでもう一度はいたりしちゃいやだわ。歯をせせらないでよ。帰ってくるなり手も洗わないであたしのスカートの中に手を突っこまないでもらいたいわ。日本酒は止めてよね、息が臭いから。朝起きてすぐじゃなく、朝ごはんの後で歯を磨いた方がいいんじゃない? その薄汚いジーンズと、煮しめたようなTシャツ、どうしても着なくちゃならないの? 本の頁《ページ》めくるとき、いちいちツバつけないでよ。何かっていうと髪を掻きむしるくせ、止めてくれない? その貧乏ゆすりも絶対に直してちょうだいね。
|うるせえ《ヽヽヽヽ》なんて言葉お下品だわ、止めて頂きます。お夕食に遅れるんなら必ず電話してと言ったでしょ。夜中の十二時を過ぎたら家に入れませんからね。ゴルフ・ウィドウはお断り致します。週に一回じゃ少なすぎるわ、でも三回じゃあたしシンドイわ。そんなくだらない週刊誌、読まないでちょうだい。お義母《かあ》さまのところに毎月一回行くの、多すぎるわよ。フォークは左手に持つものよ、知らなかった? お風呂《ふろ》の中で長々と唄《うた》うの気になるわ。カラオケですって? あんなもの実にくだらないわよ。人格を疑うわね。
お友だちをたまに連れてくるのはいいのよ、でもねBさんは嫌、フケ性なんですもの、Cさんは息が臭いしDさんはあたしを裸にするような眼で見るから気持が悪いわ。歯磨チューブのフタをいつもしめわすれるんだから、お義母さま、どんな教育なさったのかしらね。たまには映画や芝居に連れて行ってくれる気にはならないものかしら? 寝そべって牛みたいにTV観《み》るの止めてくれない。あたし、ナイター大嫌い。演歌も好まないわ。それに女の裸見て、一体何が面白いの?
そもそも夫婦の会話ってものが存在しないと思わない? その冷房強すぎて、腰が冷えるわ。ねぇ下着毎日替えてと百回は言ったわよ。あいかわらずスープのむ時ズルズルさせるのね。頼むから、会社の愚痴なんて、妻の耳に入れないでってば。この頃、なんとなく|あのこと《ヽヽヽヽ》ごぶさたじゃない? おならしないで。いびきかかないで。眠りながら歯ぎしりしないで。息しないで。えっ? なに? なんですって?
「だからさ」と夫は妻にむかって言った。「別れてくれないか? 突然で、どうも、なんだが」
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「ボクの方から、また電話するよ」
[#地から1字上げ]〈別れの予感〉森瑤子
金曜日の夜、男と女がふと出逢う。
欲をいえばきりはないが、お互いに相手をまあまあの線だと思う。
「ひとり?」と男が訊く。
「ええ、まあね」女はあいまいに語尾をぼかす。
ほんのわずかに崩れた感じだな、と男は胸の中で呟《つぶや》く。
真面目《まじめ》そう……、ちょっと手が繊細《せんさい》すぎるけど。女も女でそれなりの感想を抱く。
けれども、二人ともそれぞれ独りで、金曜の夜は延々と長いのだった。
男と女が出逢った時、二種類にしか分類できないのではなかろうか。つまり、寝たい相手か、寝たくないか。
厳密にいえば、その夜の二人の他人同士は、一眼|惚《めぼ》れとはとうてい言えなかった。|まあ寝てもいいけど《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という風な感じ。寝なくても別にかまわないという程度。何がなんでもその相手とベッドに行きたい、というようなものでもなかった。
しかし前述のごとく、金曜の夜でもあり、たまたま一人同士でもあり、淋《さび》しくもあり、退屈もしていた。
外は雨が降っており、バーの中は冷房がききすぎて肌寒かった。男はウイスキーと煙草《たばこ》の臭いの微かにする溜息と共に言った。
「おたがいに、もっとよく知り合いたいな、せっかくの雨だから」
そんなわけで、見知らぬ二人の男女は、お互いをもっとよく知り合うために、やがて腰を上げた。そして、そのように知り合うべく、しかるべき場所で、ごく親密な一時をもったのだった。
朝がきて、二人は眼覚める。快晴だった。
男は自分の横に見知らぬ女がいるのを見て、一瞬ギョッとする。しかし女は、快楽のなごりを、残した表情でうっすらと微笑して男に言う。
「お早よう」女の手が男の胸に置かれる。「素敵だったわ……昨夜」
男はさりげなく、女の手から逃れて、床に足を降ろした。
「私たち、また、逢える?」
男がシャツを着るのを横たわったまま、じっと見守りながら、女が訊《き》く。
「ん」
「名刺、もらえる?」
男は手の動きを止めて、ちょっと考える。
「今、ないんだ。それより君の電話番号教えてよ」
女はバッグの中からメモ用紙を出して名前と電話を書く。「あなたのも、ここに書いて」
男はその小さな紙切れをポケットに無造作にねじこんで、さりげなく言う。
「あ、僕の方から電話するよ」
少しして、二人は握手して別れる。
男の方からは、二度と女に電話はかからない。
☆教訓「ボクの方から電話するよ」ということは、「君から電話はくれるな」ということであり、「もう二度と君には逢うつもりはない」という別の言い方である。
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「フツーのおばさんから抜け出したいの」
[#地から1字上げ]富士真奈美、林秀彦との離婚に際して
「フツーのおばさんになりたい」
[#地から1字上げ]都はるみ
「あたし、もうこんな生活こりごりなの」とナオミ。
「あたしも」とミハル。
「道行く男たちがあたしのこと振り返って見なくなるまで、あと何年あると思う?」ナオミは溜息をついた。「昔は十人のうち五人は見てくれたわ。それが最近じゃよくてせいぜい二人よ。あと二年もすると、もう誰《だ》れも見むいてもくれなくなると思うと、あたしゃ淋しくて淋しくて」
「昔も今も十人が十人振り向いてあたしを見るわ。あたしそれがわずらわしくて、わずらわしくて」
「んまあ……もったいない」としばしナオミ絶句。
「あなた、そういうの贅沢《ぜいたく》というものよ。バチが当るわよ、今に」
「男は数じゃないのよ、質の問題。不特定多数の男たちなんて、実にどうでもいいの。あたしは好きな男と墓の中まで……」
「それは甘い甘い。男なんて一年もしてごらんなさい、掌《てのひら》を返したみたいに、くるりと変るから」とここでナオミ声をひそめる。「うちの亭主なんてひどいもんよ。|あのこと《ヽヽヽヽ》めっきり遠のいちゃって。最後にしたのが何時《いつ》だか覚えてないものね。まだ寒い頃だったから、あらま、もう六か月もごぶさただわ」と改めて怒り心頭に発する様子。
「うらやましい。あたしもたまには長期休暇をとりたいわ」とミハル。
「長期休暇!」ナオミしばし呆然《ぼうぜん》。
「そんなに悩むんなら浮気でもしたら? みんなしてるんでしょ? お相手、いないの?」とミハルがしきりになぐさめる。
「さしあたってはいないのよね」ナオミ悄然《しようぜん》。「ひとりいることはいるんだけど」
「あら、どなた?」
「テニスの、コーチなの」
「よくある例ね。ま、いいけど。それで?」
「でもねぇ」とナオミはユーウツそう。
「暇な女共がチヤホヤするもんだから、コーチのやつ近藤正臣かなんかみたいに自惚《うぬぼ》れちゃって、本人はツルタローのくせしてよ。あたし、こう見えても面食いなの」
「どっちかといえば、ツルタローの方ね、あたしは。男は顔じゃないわよ」
「絶対、顔よ」
「違いますよ。男は心よ」
「とにかく、なんでもいいのよ。男ならもう何でもいいって感じ。こんなの砂漠よ。不毛もいいところだわ。あたしゃ断じてこんな生活捨て去るわ」
「何をおっしゃいますの、ナオミさん。芸能界こそ砂漠ですよ。あそここそ不毛の最たるものよ。あたしも断じてこんな生活捨てるわ」
「あたしゃね、フツーのおばさんから抜けだしたいのよォ!」
「あたしはフツーのおばさんになりたいのよォ!」
二人はみもだえし、心の底からそう叫んだ。やがて、二人はそれぞれの希望がかない、環境が入れ替った。しかしその後二人が幸せなのかどうか、誰れにもわからない。
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「女の口からでる『ノー』は否定とはかぎらない」
[#地から1字上げ]シドニー=イギリスの詩人
「夕食でも食べようか」と男が訊《き》いた。
「食欲ないわ」と女が答える。
「じゃ、飲む?」
「イヤ。そんな気分じゃないの」
「映画でも行くか」男は思案顔。
「映画観ると頭が痛くなるのよ」
「とにかくその辺でコーヒーでも飲みながら相談しようよ」
「喫茶店、冷房がききすぎて寒いからイヤ」
「ホテルのバーは?」
「そんなのもっとイヤ。妙なこと考えてるんじゃないんでしょうね?」
「妙なことって?」
「イヤ、イヤ。わかっているくせに。厭《いや》らしいったらないんだから」
男、ハタと思いあたる。
「そ、そんなつもりで言ったんじゃないよ」とあわてて打ち消す。
「あら、違うの?」
「それじゃあっと、プロレスでも見に行くか」
「冗談でしょ」
「じゃボクの部屋に来る?」
「ホラまた、始まった。あなたのコンタン、ちゃんとわかってるんですからね。ノーよ、お断り」
「ボクのコンタンて? 部屋に来て、一緒にビートたけし見ようって言ってるんだよ」
「だからイヤだって、始めから言ってるでしょ。わかってるんだから」
「わかった。それなら、ジョギングだ。ひとっ走《ぱし》り走らないか?」
「バッカみたい。汗かくからイヤよ」
「じゃ公園を散歩しよう」
「お断り。公園はイヤ。蛇がいるんだもの」
「チクショー、ヤケクソだ。そこのお堀に飛びこもう!」
「アタシはイヤよ。あなた勝手に一人で飛びこんだら?」
「いいことを思いついたぞ。ディズニーランドだ」
「行ってどうするの? ミッキーマウスと握手するの? どうかしているんじゃないの。イヤだわ」
「わかったよ。それじゃキミの家へ行こう」
「ママがいるのよ。イヤ、イヤ」
「じゃディスコだ」
「イヤ」
「カラオケだ」
「イヤよ」
「別れよう」
「イヤにきまってる」
「一体全体、キミは何がしたいんだい」
「まだ訊いてないことが、ひとつだけありはしませんかっていうのよ」
「?」
「ホラ、アレ。鈍いひとね」女は男に躰《からだ》をぶつける。男、はっと気づく。
「あっ、そうか」とニヤニヤ。
「わかった。今夜、ボクと寝よう」
すると女は蚊《か》の鳴くような声で、
「イヤヨ……」と答えた。ノーがイエスに聞こえるあの|イヤヨ《ヽヽヽ》だった。
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「ね、自宅の電話お教えするわ」
男も女も恋をするとがぜん臆病《おくびよう》になる。恋でなくとも、ちょっと気になる異性のことでは、なにかと気を使う。自信もない。
しかし女が、自宅の電話を教えるわと、むこうからわざわざ言ってきた場合は、ほとんど触れなばおちんの状態だと思って、十中八、九まちがいない。
好きな女なら、喜んで教えてもらい、すぐにでも機会をみつけて電話をするべきである。
この場合、効果的な電話のしかたは、二つある。
別れたすぐその夜中に、直ちに電話をする。
「あら、さっきさよならしたばかりじゃない」と、女が少し驚いて言う。
「別れたとたん、君に逢いたくなったんだよ。せめて声だけでもと思って」
すると女は、私もよ、とか何とか言うから、次回のデイトの時早くもベッドのことを仄《ほの》めかしてもまず大丈夫。
もうひとつは、二週間ばかり放ったらかしにしておく手。
大体二、三日で電話をしたいような気分になるが、そこはぐっと抑えること。一週間目というのも、指がムズムズしてくる。相手がせっかくいい感じになりかけたのに、また気が変るのではないかと、不安にさいなまれるわけだ。
けれどもここで折れてはいけない。相手のペースに完全にはめられることになる。
女の方は、まず二、三日で電話がくるだろうとあてにしているからだ。それを外すと、ちょうど一週間目にかかってくるだろう、と推測する。恋の手管《てくだ》は、まず相手の意表を衝くことから始めなければ効果は上らない。
一週間目あたりで電話がないと、相手は動揺する。自信がぐらつく。
で、二週間くらいたったら、おもむろにダイヤルを回すわけだ。これは電撃作戦と同程度か、それ以上に効果的。
余計な言葉は一切不用。
「今夜、ホテルの部屋をとっておくよ」これだけで女はグウの音も出ない。とにかく女の方から進んで自宅の電話を教えるということは、それくらい男が自信を持っていいということである。
電撃、遅延作戦どちらも効果的だが、相手の女の性格によって、使い分ける必要はあるかもしれない。
どちらかというとインテリっぽい女には、奇襲攻撃の方が相手の理屈を全て封じて効果的だし、自意識|過剰《かじよう》、自尊心の強い女なら、断じて引き延し作戦が功を奏す。
ただし、敵の方が最初に「あなたの電話番号、教えて下さる?」といったら要注意。似たような言葉だが、女のタイプがまるっきり違う。どう違うかは紙面の関係でまたの時に説明するが、一口で忠告すれば、|選択権を女に与えないこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。電話番号を教えたが最後、女のペースに悩まされること必定《ひつじよう》である。
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「言い出しにくくてね…要するに別れてくれということなんだけど」
[#地から1字上げ]〈吊橋のある駅〉瀬戸内晴美
「最近女房がガミガミうるさくてね……」中年男がぼやいた。
「気にしないことね。ガミガミ言うのは、まだ愛されている証拠よ」物のわかったミズコが慰めた。
「吠《ほ》える犬を恐れないで、吠えない犬を恐れろって言うじゃない。ガミガミ言わなくなったら、むしろ用心した方がいいのよ」
「それにどうも我々のことが社内で噂《うわさ》になっているような気がするんだ……」
「いずれはそういうことになるだろう、と思ってはいたのよ。よく言うじゃない、火のないところに煙は立たないって。それから、こんなふうにも言うわ。今だかつて、根拠のないスキャンダルは一度もなかったって。イギリスの劇作家が言った言葉よ」
「ボクはね、キミの将来を心配しているんだよミズコ君……」
「苦は楽の種、楽は苦の種って言うわ。くよくよ心配しても始まらない。私はね、今のままで充分幸福なの」
「しかし……」
「部長さん、元気だして下さい。部長さん見てるとつくづく男に生れなくて良かったと思うの」
「……どうして?」
「だって、男に生れたら、女と結婚しなければならないもの。フフフフ辛辣《しんらつ》でしょ?」
「全くねえ……同感だ」
「奥さんのことで悩んでいるのね?」
「それもそうだが……」
「あのね、ひとつ忠告していい? 女ってね、騙《だま》されることを望んでいるのよ、フローベルも言ってるわ。あくまで、騙してあげるのが、親切というものよ」
「そんなもんかねえ……」
「そうよ。家庭は大事にしなくちゃ。そのうち部長さんも歳とったらきっとわかるわよ。歳とった時に信頼できるものは、三つだけだって」
「ほう……?」
「老いた妻、老いた犬、それに若干の貯金」
「なるほど。キミ、たいしたもんだね……」
「フランクリンの言葉よ」
「それにしてもさ……なんでもよくわかっているんだね」
「まあ言ってみれば、それが私の欠点でもあり悩みの種なの。女はとかく多弁でいけない、人間も猫ぐらい沈黙であるといいって漱石も言ってるけど」
「…………」
「でも女は黙っている時でさえ嘘をつくって言うし……イスラエルの諺《ことわざ》よ」
「あのね、ミズコくん……」
「はい」
「そんなに何もかも目から鼻へ抜けるようにわかっているキミのことだから、察してくれないか……」
「何をでございましょうか?」
「だから、その、なんだ……」
「ですから、何を察したらよろしゅうございますの?」
「言い出しにくくてね……」
「どうぞおっしゃって」
「要するに、なんだ……別れてくれということなんだけど……」
「人、我に背くとも、我人に背かず……ノーですわ、部長。ノーです」
[#改ページ]
「今、僕が何をしたいか、わかるかい?」
[#地から1字上げ]ハーレクイン・ロマンスより
時と状況にもよるが、だいたいに於《お》いて|したい《ヽヽヽ》のは|ベッドのこと《ヽヽヽヽヽヽ》にきまっている。
「多分、わたしと同じことだと思うわ」と女が答えれば、文句なし、悩みなし。
が、世の中、そううまい具合に事が運ぶとはかぎらない。
「見損なわないでよね。アタシそんな女じゃないんだから」ピシャリ、とくるかもしれない。
あるいは、機を見るに鈍感な女もいて、
「あら、どうかなさったの? 眼がうるんでいるわ、もしかしてモノモライじゃないかしら? え? 違うの? 胸なんか押えて、どこか痛いの? 飲みすぎね? 違う? じゃ食べ過ぎだわ。苦しいんでしょう? トイレ、行ったら? わかった、あたしちょっと飛んで行ってお薬買ってくる」と勝手に腹薬買いにすっとんで行く。
|君と今夜ベッドに行きたい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、とこれだけのことを相手に伝えるのに、古今東西の男たちが頭を悩ますわけである。
口説《くど》き文句も多岐にわたり、それこそピンからキリまで。
「あのう、どう、今夜俺と泊らない?……いやそうじゃなくてさ、そういう意味じゃなくてさ、つまり、ほら二人だったら、旅館だって、あれでしょう、ね、そういう意味よ」(「幸福の黄色いハンカチ」山田洋次監督)と、なにがなんだか支離滅裂《しりめつれつ》でいて、結構言いたいことをなんとなく伝えている妙ちくりんなのから「やるか?」(「薔薇屋敷」立原正秋)と、実に単刀直入なのまであって、この中間にゴマンと言葉があるわけだ。
「きみが欲しい」
「今夜は帰したくない」
「おれと寝よう」
「きみのすべてを知りたい」
などはごく平凡だが、打率は確かな線だ。
「しようか」
「よし、やるか」
「おい、欲しくなったぞ。出来ないかな?」(「くれない匂うとき」富島健夫)
「やらせろ」
などは、相手をよく見て言った方が良いと思う。
「しあわせだなァ……僕は君といる時が一番しあわせなんだ」(「君といつまでも」加山雄三|唄《うた》)と一人で感激しているしあわせな男も中にはいるが、これだといつまでもプラトニックの域から出られそうにもない。
さて、冒頭の言葉、今《ヽ》、|僕が何をしたいか《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|わかるかい《ヽヽヽヽヽ》は、次のような殺し文句が続く。
――|その服を脱がせて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|君の体を見てみたい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|全身にキスして《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|そのあとで《ヽヽヽヽヽ》、|心も体も君と一つになりたい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
西洋人のいうことは、さすが違う。言葉でセックスしているみたい。さもなくば完全に言葉のフォア・プレイである。
もっとも、こういう文句はウォーレン・ビーティーとかリチャード・ギア並みの男が口にしてこそ功を奏すのであって、タケちゃんやサンマちゃん風だと、ちょっと無理かもしれない。
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「嫌いなら、こうして酒を飲んじゃいないだろ」
[#地から1字上げ]〈ミスティ〉牛次郎
これは一見、口説《くど》き言葉に思えるが、実は別れに通じる科白《せりふ》なのである。
「最近電話もくれないのね。あたしのこと、嫌になったの?」とルミコがショウジの横顔をうらめしそうに見つめた。
「嫌いなら、こうして酒を飲んじゃいないよ」とショウジはグラスの中の氷をみつめながら答えた。
女の眼ではなく、氷をみつめていることが、心変りの動かぬ証拠。更にコメカミをピクピクと動かせば、完璧《かんぺき》である。よほど勘の鈍い女ではないかぎり、「そうなの、わかったわ……。あたしやっぱり嫌われたみたい……」と諦《あきら》めの溜息をつこうというもの。
ここで女が涙ぐんだりすると、男たるもの良心が痛む。一言優しい言葉でもかけてやらねば、などと思うのが、まちがいのもと。
「キミが悪いんじゃない。悪いのはボクだ。ボクが我がままなんだ」
これは最悪の例。せっかく諦めかけていた女の胸に、新たな希望の灯をともすにも等しい、自殺行為。
「まあショウジさん。そんなことないわ。そんなこと言っちゃいけない。自分を卑下《ひげ》しちゃいけないわ」と、やたらと女の母性本能を刺激してしまう。母性本能に火をつけてしまったら、これはちっとやそっとでは解放してもらえない。
「やっぱりあなたには誰れかが必要なのよ、守ってくれるひとが。危くて見ちゃいられないもの。あたしが守ってあげる。ショウちゃんのこと、あたしがきっと守ってあげる」
あれよあれよという間にまるめこまれて、気がついた時はホテルのベッドの中。更に悪いことには、事前ではなくあの事の後に、男は我に返るのだから困ってしまう。
「どうしたの? 浮かない顔して?」と、足などからませながらルミコが訊く。
「これっきりにしよう」遅まきながらショウジ、憮然《ぶぜん》として答える。
「これっきりって……じゃたった今やったことは何なのよ。あんなことして……あんなに情熱的だったのに、最高だ、特別だ、ダイナマイトだ、死ぬほどいいってあれは嘘《うそ》なの? やっぱり、あたしのこと、嫌いなのね。嫌いなのに抱いたのね」ルミコ半狂乱。
「嫌いだったら、あんなことするわけがないだろ」ショウジ天井の染《し》みなど見上げて、憮然と呟《つぶや》く。
だからである。最初に酒場で氷など見つめながら呟いた後は、口にチャックして、絶対に何事も喋《しやべ》らぬこと。
「じゃ……」と、女はやがて必ず腰を上げる。「じゃ、さよならね」
「……ああ」
「ああ、ってそれだけ? それであたしはお払い箱?」ここで再び騒動がもち上ってはいけない。止《とど》めの殺し文句。
「さよならを言うのは、わずかの間だけ死ぬことさ」とかなんとかチャンドラーの言葉をもじって煙《けむ》に巻いて送り出すこと。辛うじてジ・エンドである。
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「ワタシ、アメリカ生まれだけどさあ、慰謝料っていうの、あれ、女がグズグズ要求するの大嫌いなの。女の方にだって責任あるじゃん」
[#地から1字上げ]アン・ルイス
ハナコはタローがそろそろ鼻についてきた。お定りの別れ話。
「考えたんだけどさあ、アタシたち別居しようじゃん」
「どうしてぇ。別居する理由をボクは思いつかない」
「理由なんてないの。要するにフィーリングよ」
「ボクに飽きたんだね、そうなのか?」
「そうはっきり言ったら身もフタもないじゃん。今でもタローのこと好きよ、嘘《うそ》じゃないって」
「心にもないこと言わないでくれ」
「だからさあ、これ以上一緒にいると、なんだかアンタを不幸にするような気がするのよね、アタシ」
「それでボロ雑巾《ぞうきん》でも捨てるみたいにポイかい? ボクは、もてあそばれたのに過ぎないのか」とタローすねる。
「困っちゃうのよね、そういうの。なんて言うのかさあ、今ならまだお互いに憎みあわないで別れられると思うのよね」
「ボクが何をした? キミに嫌われるような何をしたっていうんだ?」ここでタローとりみだす。
「弱るのよねえ、そういう発想されると、ほんとに」ほとほともてあましぎみのハナコ。
「じゃボクの青春はどうなるんだ。キミに捧げたあの日々を、どうとりかえしてくれるんだ」
「ちょ、ちょっと待ってよね。そういう言い方をするのならアタシだって、青春捧げたじゃん」
「一生捨てない、一生ボクを愛しつづけるって誓ったじゃないか。あれは嘘なのか?」
「嘘じゃないわ。あの時はアタシ本当に心からそう思ったのよ。信じないかもしれないけどさ」
「わかった。男だな。男が出来たんだな?」
「…………」
「黙っているってことは、そうだと思っていいんだな?」とタロー激しくつめ寄る。
「ん。実は、そうなの。アンタを傷つけると思って、今まで言い出せなかったのよ」
「どうせなら、だまし続けて欲しかった。死ぬまでだまして欲しかった」髪を掻きむしっての詠嘆調。
「できるだけのことするから。ね?」
「キミに放り出されたら、ボクはどうやって生きて行ったらいいかわからない」タロー、シャツのスソを噛《か》む。
「それもわかってるって。悪いようにはしないつもり」
「では、具体的な数字を出して欲しい」それまで鼻を啜《すす》っていたタロー、急に改まった口調。
「さしあたっての生活費に月々十五万でどうかしら」
「たったのそれだけでお払い箱に出来ると思うのか?」
「このマンションもあげるから」
「ボクが言うのはね、ボクの気持に対する、ほら、なんていうの、あれ……」
「慰謝料? アンタ、女から慰謝料までとろうっていうの?」
ところがアメリカにはもっと上がいる。エリザベス・テイラーは、三度目か四度目の夫のエディ・フィッシャーと、別れんがために百万ドルの慰謝料を払ったという話である。
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「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」
よく百人の女と寝たとか、千人切りだとか自慢たらたら豪語する男がいるが、そういう男はおそらく、ただ一人の女をも、ろくに満足させられなかったのに相違ないと思うのだ。
充分な歓びを与えられたのなら、女というものそう簡単にその男と離れはしない。離れられるものではない。徹底的につきまとう。
であるから、捨てられたとみせかけて、本当は女の方がその男を捨てたのである。百人の女と|やった《ヽヽヽ》という男は、実は百人の女たちに見捨てられたたいしたことのない男なのである。知らぬは本人ばかりで、おめでたい話だと思う。
ことセックスに関するかぎり、普通、男も女もかなり臆病なのではないだろうか。相手の躰《からだ》のどこがかゆいのか、あるいは痛いのか、くすぐったいのか、いい気持なのか、それこそ手探りという状態だ。
背中ひとつ掻《か》いてもらうのに、そこじゃない、もっと上、違う左へ少し、違う、それじゃ上すぎる、近いけどまだ違うって、それじゃ下すぎる、右、いきすぎ、左へ、違うってば、バカ、アッ、ソコ、ソコ、ソコォウーン、痛い、痛いじゃないの、ホラまた外れた、もっと静かに、爪を少しだけたてて、ソウソウ、ウン、イイ気持、もう少し強くして、それじゃ強すぎる、そこじゃない、どうしてわかんないの、違うわよ、さっきのところよ、もっと右、それじゃ右すぎる、もういい、ほんとに頭にくるわ、といったあんばい。運動場の中を駈《か》けずり回っているわけではないのだ。たかだか背中なのである。それも十センチ四方内の急所を他人は探りあてることが出来ないのだ。|かゆいところに手が届く《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことなど、めったにない。セックスも全く同じことである。
タダシは、なぜか女の急所は耳にあると信じて疑わない男だった。外国映画で男が女の耳を咬《か》み、女が身をもだえるシーンが克明に心に残ったのだ。それ以来、ひたすら女の耳を咬むことに専念した。
ところがどうも効果がかんばしくない。修業《しゆぎよう》が足りないのだと謙虚に反省して、技術改良に日夜これ務めた。
結局、女に振られた。けれどもタダシはそれが耳を咬むせいだとは、夢にも思わないのである。
タダシの耳咬みのテクニックはその後飛躍的に向上し、その道では彼の右に出るものはいないだろうというところまでになった。しかし彼は徹底的に女に振られてしまうのである。
当り前だ。女が全て耳に性感帯があるとはかぎらないし、かりに感じたとしても耳を咬まれるのが好きだとはかぎらない。たとえ好きでも、その時の気分にもよるわけだ。ベッドに入るなり、いきなり男が耳に咬みついてきたら、普通、ぎょっとする。気分は冷める。
耳咬み男は、ひとつの例である。多かれ少なかれ、男たちは似たようなエラーを犯しているのではないかと思うのだ。つまりセックスとは、盲目の人がゾウの脚《あし》をさすってゾウの全体像を想像するのと同じで、だいたいあてはずれ、かゆいところになかなか手など届かないものだと思って頂きたい。
それより「きみ、耳咬まれるの、好き?」となぜ最初に一言|訊《き》かないのだろうか。
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「真実を語るよりも、嘘《うそ》のほうが女たちには効果があった」
[#地から1字上げ]〈キリマンジャロの雪〉ヘミングウェイ
どんな女でも、ほめられるとうれしいものだ。ただし、自分でも知っている長所をほめられても、これはたいしてうれしくはない。
あきらかに美人をつかまえて、「あなたはきれいだ」と言ってみても効果はない。インテリ女に対して、「インテリですね」とか「知的だな」とか言えば、軽蔑の眼で睨《にら》み返されるのが落ちにきまっている。
これは逆であって、たとえ嘘でも美人に対して、知的であるとほめるべきだ。
「きみはきれいだけど、ただ美人っていうんじゃないね。そう、知的なんだ。知性がキラキラして眩《まぶ》しいみたいだよ」
頭のいい女は、絶対に姿形をほめてやること。とうていほめられないような顔でも、「横顔の線が柔らかいね」とか、「黒子《ほくろ》の位置がいいね、すごくセクシーだよ」とか、たとえゲジゲジ眉《まゆ》でも「ブルック・シールズみたいな黒々とした眉だ」などと言う。
いくら考えても顔がどうにもならなかったら、手がきれいだとか、足首がいいとか、鎖骨のくぼみ具合がなんともいえずセクシーだとか、要するに肉体のどこかをほめること。
どこもかしこも全部駄目なら、声をほめるとか、着ているものをほめるとか、靴をほめるとか、字をほめるとか。それも完全に駄目なら、おまえのような女は居ない方が世の中の為にいいのだ、と言うかわりに、
「君といるだけで、ほっとするよ」と嘘をつく。そうすれば世の中安泰なのである。
しかしである。女が男の嘘を信じるのは、その嘘を信じたいからであって、信じると快いからである。
「今夜帰りが遅くなるよ、マージャンなんだ」なんて言っても、
「嘘ばっかり。女のところへ行くんでしょ」とたちまち見ぬかれる。
「今度のウイークエンドなんだけどさ、箱根で接待ゴルフ」
「とかなんとか言って、秘書のK子と軽井沢行くんでしょ? 嘘ついてもだめ」なぜか、わかってしまうのだ。
「野郎共と飲んでて、つい遅くなったんだ」と言えば、「女の子たちひきつれてカラオケ行ったくせに」と見ぬかれ、
「課長の愚痴一晩中聞かされてさ、飲む酒のまずいったらなかったよ」とひとひねりしても「浮気してきたんでしょ、下手な嘘つかないでちょうだいよね」とすごい剣幕。「ちゃんと匂うんですからね、すぐにわかるわ」
匂うはずはないのだった。あのことのあとでシャワーを浴びて来たのだ。石鹸《せつけん》は用心して使わなかった。しきりに心の中で首をひねっている夫に「シャワーなんて浴びるからよ、バカね」と妻が言う。
「浮気の匂いを消したつもりなんでしょうけど、普通に男が一日外で仕事してつく汗の匂いも消えちゃってるじゃないの」
であるから、いっそのこと敵の意表を突くのが良いのではないだろうか。
「何してたのよ、こんなに遅くまで」
「女と浮気してたのさ」
「バカばっかり言って。浮気なんて出来ないくせに」
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「母は来ました今日も来た。この岸壁に今日も来た」
[#地から1字上げ]〈岸壁の母〉藤田まさと作詞
「ね、自分で着たものくらい、自分でハンガーにかけてよ。あたしだって外で働いているんだから」共稼ぎのヤエコが新婚早々の夫に文句を言った。
「うん……」とマモルは煮え切らない表情。「ボクのお袋だって働いてたんだけどね……」
「あたしはあなたのお母さんじゃないの」とヤエコ、トドメの言葉。
翌日、残業で遅く帰ったヤエコ。きちんとハンガーにかかっている夫の背広を見て、眼を細めた。しかし……、
「……お袋がちょっと来てたんだ」マモルがヤエコの顔から視線をそらせながら呟《つぶや》いた。
それから間もない別の夜。
「たまにはね、あなたが先に帰った時くらい、ごはんの仕度してくれてもいいと思うのよね」
「しかしボクはそういう教育を受けていない……」と途方に暮れるマモル。
「だったら今からだって遅くはないわよ。女だけが家事も料理も仕事も一切合財《いつさいがつさい》引き受けるなんて、もう時代遅れなの」
次の日、ヤエコが仕事から戻ると台所に立つ義母の背中。
「ま、お義母《かあ》さま、いったい何をなすっているんですか?」
「マモちゃんが、あんまりかわいそうだから、つい見るに見かねて」
「でも、お義母さまにお願いしたわけじゃないんです」
「いいの、いいのよヤエコさん、どうせ私は暇だから、気にしないでちょうだい」
それからというもの、マモルの母はことあるごとに若夫婦の家庭に顔を出す。
来るたびに家中はピカピカになり、夕食の仕度が調い若妻のパンティまで洗濯をして帰っていく。ある時など、ふとんを敷いて行った。その敷き方がことの他ヤエコの神経にさわった。たっぷり一メートルは、間隔が取って敷いてあるのだった。
そんなこんなでヤエコは苛々《いらいら》しだし、ノイローゼ気味、食は細るし疲労がたまっていく。
夜になって、夫の手が伸びてくるとついつい溜息が出る。
とうとうある夜ヤエコがたまりかねて夫に言った。
「お願い、疲れているの、今夜はとうていそんな気分になれないのよ。わかるでしょ?」
するとマモルは憮然《ぶぜん》として不機嫌な声で、何かモゾモゾと言った。
「えっ? なぁに? 何をブツブツ言ってるの?」ウトウトしかけたヤエコが訊き返した。
「だからさ」と、マモルが呟《つぶや》いた。「お袋はさ……」
「……だからお義母さんが、なんだっていうのよ」
「……お袋の場合さ、夜のことをさ、要するに、拒絶しなかったんだけどなぁ……」
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「ほんに別れたあのおんな、いまごろどうしているのやら」
[#地から1字上げ]〈雪の宵〉中原中也
「おい、またYシャツのボタンが取れてるぞ」という夫の声で、ミチヨはベッドの中で寝返りを打った。
「文句ならクリーニング屋に言ってよね」
「女房ならちっとは女房らしく、起きて来てボタンをつけてくれたっていいじゃないか」
そう言われてミチヨ、ちらと片眼を開けた。
「そこのところなら、ネクタイすれば、わかんないわよ」といっこうに起き出す気配《けはい》もない。
気の毒な夫は、子供たち二人と冷たいミルクとトーストでわびしい朝食を済ませて、出勤。子供たちも学校へ。
十一時、ようやく一家のグータラ主婦のお出まし。ざんばら髪で大《おお》欠伸《あくび》などしながら、ボリボリとお腹を掻《か》いて、まずはトイレへ。
そこへ悪友のサダコからマージャンの誘いの電話。
「うん、いくいく」二つ返事でミチヨ、オーケイ。片膝《かたひざ》立ててチーポンやっているうちに、すぐに夕方だ。
「ちょっと電話借りるわ」とミチヨは、自宅のダイヤルを回す。「一郎? ママよ。悪いけどさ、ちょっと遅くなるのよ、TVの下に二千円あるから、ケンタッキーでも買って花子と食べなさい。え? パパ? パパの分はいいから。冷蔵庫の残りもので勝手に何か作るわよ。それより一郎、TVばかり観《み》てないで宿題やるのよ」がちゃん。この悪妻ぶり、このダメママぶり、実に堂に入っている。
「そうだミチヨ、来月あたりクラス会をやるって話よ」と、パイをかきまぜながら、悪友サダコ。
「クラス会?」ミチヨ一瞬遠い眼をする。
「ナベシマ君が幹事らしいの」
「ナベシマ君が?」
「そう、あなたの昔の恋人」
「ケケケケ、言わないでよ、思いだしちゃうから」
「ナベシマ君、しきりとあなたの近況知りたがってるって話よ」
「やけぼっくいに火かもね」別の女友だちがニヤリと笑う。
「ウヒヒヒ」と思い出し笑いのミチヨ。「ナベシマ君たらさ、洋画とクラシックが趣味でさ。あたしも結構気取って、無理してあわせたりしたものよ」
「なんで別れたの?」
「結局、あたしの無理が続かなかった。二年つきあって、ようやくキスよ、辛抱出来ると思う?」
「思わない、思わない」
「で、さっさとお見合いして今の亭主と一緒になったんだけどね。それがうちのひとときたらイカサマもいいところ。あんなにタップリあった髪の毛が三十代の後半ですっかり抜けて禿《は》げちゃった」
「それお互いさまじゃないの」とサダコが皮肉な眼でミチヨの三段腹を見た。
「頭の薄い亭主と、デブ女房。似合いのカップルよ、まったくもう。それポン!」ミチヨ腹を揺すってウハハハと笑うのだった。
☆ そんなこととは露しらず、あわよくばヤケボックイに火をつけんと、ナベシマ君、着々とクラス会の準備をすすめているそうであります。
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「アタシ、シャネルの五番を着て寝てるのォ」
[#地から1字上げ]マリリン・モンロー
ココ・シャネルはマリリン・モンローのおかげで香水の売り上げが天文学的に伸び、世界一お金持の女性になったわけだった。
寝る時に、女が身にまとうもので何が一番セクシーかといえば、今のところマリリンのシャネル・|NO《ナンバー》 |5《フアイヴ》の右に出るものはない。
もっともマリリン・モンローだからいいのであって小錦の妹みたいな女が、一糸《いつし》まとわぬ姿に香水をいくら振りかけても、気持悪いだけである。
大体香水というのは、ただつければいいというものではない。
仮にアイコがシャネルのNO5をつけるとする。アイコは冷え性なので、とても一糸まとわぬ生れたままの姿で眠るわけにはいかない。それで素肌にシュッシュッとNO5を吹きつけた上で、パジャマを着るわけだ。
つまり香水はまずアイコ自身の体臭と混じりあう。それから三日続けて着たパジャマの匂い――正確にはアイコの汗とか皮膚の老廃物とか、アカとかの匂いだが――がそれに加わる。
この段階ですでに香水は化学反応を起し、本来のNO5とは似て非なる香りを放ち始めるのである。むろんアイコ本人にはそんなことは、わからない。
更にいけないことには、枕カバーもシーツも一週間も替えていない。部屋の中には夕食に食べた焼き魚の匂いなども、うっすらと残っている。
さて、酒気を帯びて亭主、深夜のご帰還。少しばかりセクシーな気分だったので、着ているものを脱ぐのももどかしく、妻のベッドにもぐりこむ。
「ギャ」とたんに鼻をつく異臭。「おまえ何をつけてるの?」
「シャネルNO5よ」アイコ悩ましげに身をくねらせる。
「何がシャネルなものかよ」こみあげる吐き気をこらえて、ほうほうのていで妻のベッドから逃げだす亭主。
「まあひどいわ」アイコ思わず涙ぐむ。「このところずっと|ごぶさた《ヽヽヽヽ》だったから、香水でもつければと、思ったのよ」
シャネルNO5がシャネルNO5の本来の匂いを放つためには、本人はもとより、シーツも寝巻きも何もかも洗いたてのとびきり清潔なものでなければいけないのである。室内に焼き魚の匂いが残っていてもいけないし、過去二日三日焼き肉、ギョーザの類を食べてもだめ。高温多湿の日本の夏も香水の敵。クリームや口紅やファウンデーションの匂いも邪魔《じやま》になる。要するにそれくらいならつけないほうがよほどましなのだ。
シャネルNO5は、パリの石畳にこそ似合う香りなのである。マロニエの葉をそよがせて吹く、柔らかい緑色の風、乾いた空気、セーヌの流れ、カフェの匂い、そしてパリジェンヌの軽やかに通り過ぎた後に微かに残るシャネルの甘い香り。
余談だが、マリリン・モンローはシャワーとかお風呂があまり好きではなかったらしい。「彼女の躰《からだ》は臭《にお》った」と、トルーマン・カポーティーが何かで書いていたのを読んだ記憶がある。もしかしたら彼女のベッドの中でも、シャネルのNO5は胸をつく悪臭に過ぎなかったのかもしれない。
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「振りむけば君がいて」
[#地から1字上げ]国鉄フルムーン
都心のラブホテルは、昼休みの情事≠楽しむカップルで満杯だった。
辛うじて部屋がとれて、ヨースケはホッとしながら経理課のカネコに言った。
「この暑いのに、みんなよくがんばるよね」
「運動不足の解消にちょうどいいんじゃないんですか? 一時間せっせと汗を流して」とカネコ、可愛い顔に似合わぬ激しいことを言って、ヨースケに期待をこめた流し眼を投げかけた。「一時間ね……」と出かかった腹を見下ろしながら、ヨースケは自信なげに呟《つぶや》いた。「ま、がんばってみるよ」
「よろしくおねがいいたしまぁーす」カネコ、ブラウスのボタンを外しながら言った。
ヨースケ、全身汗まみれになってがんばること十数分、ついに力尽きて……。
「ごめんごめん、この次には」
「この次って、何時《いつ》ですか?」不満|気《げ》なカネコ。
「来週まで、待つんですか?」
「悪いね」
「何も来週まで待たなくたってまだ十二時二十分なんですよ」
「今日はもう堪忍《かんにん》してくれないか、ね、カネコちゃん」
「嫌《いや》。あたし浮気しちゃうから」
「そんなこと言わないの。いい子だから、ね?」
「それでよく奥さん、もちますね」
「辛辣《しんらつ》だね、君」
「案外、奥さん浮気してるのと違いますか?」
「カミさんの顔見て言って欲しいよ」
「あら、|あれ《ヽヽ》、顔でやるわけじゃないでしょ」
「出歩くたちじゃないしね、うちのは」
「どうしてわかるんですか?」
「夜は出かけないし、僕もいい顔しないから」
「夜、ちゃんと家にいれば、絶対に浮気していないって、言いきれるんですか?」
「と、思うがね」
「じゃ、このホテルでみんな何をしてると思うの? 課長気づきました?」
「何をだね?」
「ここの利用者、半分以上、主婦ですよ」
「まさか」
「まちがいないわ」
「しかし、まあ、仮にそうだとしても、うちのカミさんにかぎって」
「みなさん、そうおっしゃいます」
何となく不快な気分になって、ヨースケは脱いだものを身につけ、カネコをうながして部屋を出た。
ホテルの一階は、ショッピング・アーケードになっている。二台のエレベーターが前後して止り、ヨースケがカネコとは他人のような顔をして、降りて来た。いつもアーケードまでくるとホッとするのだ。安全地帯に足を踏み入れて、リラックスした気分のヨースケ。
と、後頭部に何やら視線を感じて、思わず振り向くヨースケ。
もう一台のエレベーターから出て来た数人の人々に混じって、見憶えのある顔があるではないか。
「おまえ……」
「あなた……」
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「いいことがある。結婚しよう」「もっといいことがあるわよ。結婚しないでおくのよ」
[#地から1字上げ]映画〈ジョルスン物語〉
世の中、映画の科白《せりふ》のようには、かっこう良くいかないものなのだ。誰れしも結婚に一度は憧れる。そして考えに考えぬいて、実に様々なプロポーズの言葉を口にするわけだ。
「三食昼寝つきの就職先あるけどどう?」
あるいは、給料の明細表をそっと見せて、
「これで、やっていけるかい?」
などは、女性の意表を突いて、案外効果的かもしれない。
「一緒にお墓に入らない?」というのも、どこかで読んだような気がするが、現実問題として、古代エジプトの王様じゃあるまいし、片方が死んだら片方が生き埋めになるなんて、考えられない。
けれども、単に「結婚しようよ」というよりは、鬼気せまる迫力があるのかもしれない。
プロポーズの言葉が功を奏して、めでたくウエディングベルが鳴る。
三食昼寝つきがそんなに楽ではないことに、あるいは、給料が二週間で底をつくことに気がつくには、さして時間がかからない。一緒にお墓に入るどころか、お風呂にも入りたくないということになる。
結婚とは、まさしく相互の誤解に基づくものである≠ニ言ったのはオスカー・ワイルドだが、彼に言われなくとも身をもって厭《いや》というほど知りつくした挙句《あげく》に、離婚。
結婚さえしないでおいたならば、絶対に吐くことがないのが離婚の言葉である。一緒になる前にあれこれ甘い言葉を並べたてた手前、一言、言わずにはおれないのが人情というもの。中にケッサクなのがある。
「神様のイタズラだったんです」と神様のせいにしたのは星由里子。
「おれには女運がないよ」(梅宮辰夫)と、運のせいにする人もいる。
「やっぱり僕が若かったんです」(小倉一郎)と、僕《ヽ》のせいではなく、|若さ《ヽヽ》に原因があったと呟《つぶや》くもの。
「これ以上自分がついていると彼を甘えさせてしまうから」(有馬稲子)と、相手の|だめさ加減《ヽヽヽヽヽ》を暗に仄《ほの》めかすもの。
きわめつきは、
「離婚の原因は二人が結婚したことです」と言った前川清。離婚の理由を結婚のせいにしているが、結婚の前にこれがわかっていれば、今回のタイトルのような会話が成立したろうに、もう一歩のところだった。
どの人もこの人も、決して自分が悪かったとは言わないのである。原因は若さであったり、神様であったりするわけだ。
ひとつだけ確かなことがあるとすれば、離婚をしたければ、結婚することである。結婚をしなければ、絶対に離婚はできないわけだから。
☆「がまんおし!! そのつもりで結婚したくせに!!」(「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」オールビー)というのもある。
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「使いこんでさ、使い勝手が判った時分になると、
あきてポイなんだから―どういう気、してんだか」
[#地から1字上げ]〈隣の女〉向田邦子
女が二人、真剣な表情で話しこんでいる昼下りの喫茶店。
「最近亭主に失望してるのよ、あたし」
「うちなんか失望通り越して、絶望よ」
「週に一回くらいは、なんとかしてもらいたいと思うじゃない? それがせいぜいよくて月に二度よ」
「あら、それならまだいいわ。うちなんてもう四か月もごぶさたよ」
「それじゃ部品が錆《さ》びついてしまうわね」
「えっ? 部品? あっ部品ね。いやだわ、ウフフフ」
「前なんて手入れもよくしてくれたんだけどね」
「ご主人が?」
「ボディ洗うの趣味なの」
「ん、まあ、うらやましいわ」
「石鹸《せつけん》ぬりたくって、スミズミまでそれはていねいに洗うのよ。あらどうしたの? あなた、身もだえたりして?」
「だってうらやましいんだもの」
「でもこの頃じゃ手抜きもいいとこ。何にもしてくれないの。のったらのりっぱなし。あんまりしゃくにさわるから、私も放っとくの。絶対に自分で洗わないことにしたの。汚れても汚れっぱなし。そりゃそうよ。乗るのは彼なんだもの。違う?」
「なんだか激しいのねぇお宅。うちなんて洗ってくれるの待ってたら、永久にだめね」
「性分にもよるのよね。本来好きだから、うちは。フフフ。先週なんて、五時間も下にもぐりこんで、部品をいじくりまわすのよ」
「ん、まあ……。五時間も!」
「あたしなんてもう苛々《いらいら》してきちゃうの」
「替ってあげたいくらいよ、ぜいたくね」
「でも頭にくるものよ。さんざんいじくりまわして、乗り回して、使いこんでさ、使い勝手が良くなってきたかなって頃になると、あきて、ポイなんだから」
「まさか。ポイだなんて」
「本当よ。それが本気なの」
「冗談でしょ」
「本気で下取りに出すって言うのよ、ようやく良さがわかってきたところなのよ、信じられる?」
「それであなた、納得《なつとく》したの?」
「するもんですか。反対したわよ」
「そりゃそうよね」
「下取りなんて二束三文《にそくさんもん》ですもの」
「断固、抵抗すべきよ、人権|蹂躙《じゆうりん》だわ」
「え? 人権蹂躙って?」
「あなた、下取りに出すなんていうご主人によく、がまんできるわね」
「えっ? えっ? 何の話」
「たとえ言葉のアヤだとしても、許せないわ」
「車を下取りに出すことが?」
「えっ? えええ? 車の話なの!!」
[#改ページ]
「よその女房と寝た男を殺していたら、この町の人口は半分になるわ」
[#地から1字上げ]映画〈逃亡地帯〉ジェーン・フォンダ主演
ということは、浮気をした片われの|よその女房《ヽヽヽヽヽ》どもも殺したら、町の人口はゼロということだ。つまり、それくらい結婚している連中の生活が乱脈をきわめている、ということを言いたいわけ。
もちろん、映画の中の科白《せりふ》である。しかも場所はアメリカ南部の田舎《いなか》町。保安官が出てくる時代の話。
だが、外国の話かと、安心するのは早い。現在の日本の実生活にも充分あてはまる数字なのである。
ごくノーマルな欲望を持ち、かつ充分に健康な男なら、ただ一人の女、すなわち妻だけをひとすじに、わきめもふらず愛し抜くなどということは、まず考えられない。そういう人間がいるとしたらもしかしたら、それこそ、ある意味でアブノーマルであり、不健康なことかもしれない。つまり人間の本能をねじ曲げて生きるということで、健康的ではないのである。
モラルというものが、そもそも不健康なのである。
であるから、成人男子のほとんど大部分が潜在的浮気願望を抱き、かつその願望をせっせと実現に移しているはずだ。世を上げて健康時代である。
実現に移し得ないのは、単にチャンスとタイミングの問題で、もてないのは、どこかマメでないからだ。
仕事が忙しくて女どころではないよ、というのも、もてない男の言いわけである。かのJ・F・ケネディだって分刻みの政務の合間を縫って、ホワイトハウスの情事に精を出したと噂されるではないか。
さてそろそろ本題に入ろう。男の浮気には当然相手がいる。女である。
女は二種類にしか分類されない。独身か、結婚しているか。
全ての男たちが、未婚のOLや女子大生に手を出しているとは考えられない。|よその女房《ヽヽヽヽヽ》である場合も、やたらと多いのではないかと思うのだ。
他人のものをちょろっと盗んで、美味《おい》しいところだけを頂くというのは、これはいいにきまっている。他人の女房の話であるかぎり、大変にいいのだ。
|うちの女房《ヽヽヽヽヽ》? うちのは例外さ。子供がまだ小さいからね。それに第一あの顔で。とうてい浮気の出来る性質《たち》じゃないしね。この自信。一体どこからこんな自信が湧《わ》いてくるのだろうか。
子供がまだ小さくて、そこそこの顔立ちの、浮気などとうてい出来そうもない性質の主婦たちが三人寄るとこんな会話をしているのを、ご存知だろうか?
「不倫《ふりん》の恋って、いいのよね。秘密にしなければならないから、めくるめく快感なのよ」
「この間の小学校のクラス会で、ヤケボックイに火よ。彼ったらお医者さんごっこで、ボクたちやり残したことあるじゃない?≠ネんて言うの」
「あの後さ、シャワーなんて浴びて帰っちゃだめよ」
「えっ? いけないの?」
「浮気の匂いは消えるけど、他《ほか》の匂いもみんな消えると、かえって亭主に怪しまれるのよ。浮気の後はね、焼き鳥とか、焼き肉食べて、別の強烈な匂いをつけて帰るの」
「毒をもって毒を制すね」
「そういうこと。ウフッ」
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「女は結婚前に泣き、男はあとで泣く」
[#地から1字上げ]西洋の諺
アサコに電話で呼び出されたケースケ。
「お話があるのよ」と言ったアサコの口調が妙に気になって。
「話って?」
「電話じゃ言えないわ」
電話で言えないようなこととは、もしや、と厭《いや》な胸騒《むなさわ》ぎで、待ち合わせの場所に急ぐ足取りも自然重くなるのだった。
喫茶店の片隅で、じっとうつむきかげんのアサコ。
「やあ」とケースケ。しかしアサコは膝の上に視線を釘《くぎ》づけにしたまま、眼を上げない。クライクライ雰囲気。
「…………」ケースケ、黙って女の前に坐る。
「…………」アサコも黙しがち。
「で、話って何?」判事の宣告を待つ気持。
「今月、アレが、無いの」
宣告はいとも簡単に下される。
「冗談《じようだん》だ。冗談だろ? だってたった一回だけで――」見苦しくもうろたえるケースケ。
とたんにアサコの眼にみるみる膨《ふく》れ上る大つぶの涙。あとはもう涙、涙、何を言っても涙、涙の大|洪水《こうずい》。
「わかったよ、わかったって。責任とるよ、責任とればいいんだろう? だから頼むから、もう泣かないでくれないか」
ついにケースケ手錠をかけられ、結婚という牢獄《ろうごく》につながれる身となったのでありました。
やがて月満ちて、愛の結晶ならぬ二人の過ちの証拠が……。
じっとみつめるケースケ。
「色、白いね」
「あたしに似たのよ」
「鼻、やけに横に広がっている」
「あたしに、似たの」不本意ながらもアサコが言う。
「髪の毛、縮れてるね」
「くせっ毛なのよ」
「だからさ、縮毛《ちぢれけ》って優性遺伝だろ。ぼくたち二人とも直毛だぜ」
「あたしの父がそうだったの。隔世遺伝よ」
「瞼《まぶた》が二重だぜ」
ケースケもアサコも、二人の両親も全て一重なのだ。アサコが言った。
「劣性遺伝よ」
「それに眼もなんだか蒼《あお》いみたいだ」
「突然変異じゃないの?」
「どうしてもぼくの子とは思えない」
「気のせいよ」
しかし気になるケースケ、病院の帰り看護婦に赤んぼうの血液型を訊《たず》ねた。
「O型です」
「やっぱり」
そこで愕然《がくぜん》とするケースケ。
「やっぱりって?」怪訝《けげん》そうな看護婦。
「ぼくの子じゃない」
「あら、そんなこと」肩をすくめて行きかける。「よくあることですわ」
ケースケ、その場に泣き崩れる。
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て
「アタシ、今夜、酔っちゃう」
まことに残念ながら、酔って欲しいような女は、まずこんなことは口にしないと思ったほうがいい。
だいたい並か並以下の女が、今宵《こよい》我が身を投げだそうという決意のもとに言う言葉なのである。
ワタシ今夜酔うから、あなたのお好きになすっておよろしいのよ、と言外にはっきりと仄《ほの》めかしているわけだから、まちがいのないように。
女ならもう誰れでもいいという男はこの際別にして。据膳《すえぜん》など食わなくとも別に恥でも何でもない、むしろ据膳食うは恥だと言うくらい己れの好みに忠実かつ毅然《きぜん》とした男が今は素敵なのだ。
過ちを犯すのに、酒のせいにしなければならない女というのは本来どちらかというとインテリっぽいのが多いから、|お断り《ヽヽヽ》のしかたもそのように。
シェイクスピアの引用など、どうであろうか。
「『夏の夜の夢』にもあるじゃないか、|すべては時がくるまで熟さない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と」
しかし敵も負けてはいないかもしれない。酔眼をひたとこちらの顔にすえて、
「|ほしいくせにやると言われて手を引っこめる男には《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|二度と機会はつかめまい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、というのもあるわ」
と、『アントニーとクレオパトラ』から引用して素早く応戦のかまえ。
ならば男も、
「|世にあるものはすべて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|手に入れてからより追いかけているうちが花なのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と『ヴェニスの商人』でいく。
かくして長き夏の夜を、ああ言えばこう言う、こう言えばああいい返すで、丁々発止《ちようちようはつし》の長丁場。
「女にはずいぶんいろんな事を言ったけれどね」と、今度は映画『モロッコ』でのゲイリー・クーパーを気取っての名《めい》科白《せりふ》まで飛び出るしまつ。
「いいかい、君には誰れにも言わなかったことを言いたい」
「ええ……いいわ、何なの? 早く言って」
「もう十年、早く会いたかった」
「…………!」女は一瞬、相手の言葉の毒にタジタジとなるが、
「でも十年前の私、歯にブリッジしていたわ」
と、これも名画の名場面から応酬。
「|後悔先に立たず《ヽヽヽヽヽヽヽ》と言うじゃないか」
「明日の百より今日の五十よ」
「念には念を入れよ」
「据膳食わぬは男の恥」ついに出ました。言いました。
「知って知らざるを上とす」男も負けじと老子で返す。
「ああ、もうじれったい」女がとうとう叫び出す。
「今夜、あなたと寝たいのよ!」
「それがぼくは嫌なんだ!」
最初からお互いそう言えばいいのに、お疲れさまでした。
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「男は黙ってサッポロビール」
[#地から1字上げ]サッポロビールのコマーシャル
「煙草の火、かしてくれない?」
「…………」
「今夜はなんだか、帰りたくない気分なの」
「…………」
「このまま、どっかへ行かない?」
「…………」
「あなたのところへ泊めてくれる?」
「…………」
「あなたが好きなのよ……私のことも好きだと言って」
「…………」
「黙っていないで、何とか言って。お願い、あなたの心を見せて」
「…………」
「もう少し傍《そば》に来て、ね?」
「…………」
「いつまでも、あたしの傍を離れないでね」
「…………」
「愛しているのよ。あなたの気にいるように、好きにしてくれて、いいのよ」
「…………」
「棄《す》てないでね。あなたに棄てられたら、どうして生きていったらいいかわからない」
「…………」
「逃げちゃだめよ、わかった?」
「…………」
「奥さんのいることは初めから知ってたのよ。そのことを責めてるんじゃないの」
「…………」
「いっそのこと、駈け落ちしない?」
「…………」
「つれて逃げてよ、ね?」
「…………」
「いや死んで。一緒に死んで」
「…………」
「どうしたら、あなたに気にいられるのよ?」
「…………」
「何でもするって。あなたの望むことなら、なんでも……」
「…………」
「あのね、黙っていようと思ったけど、言うわ、今月、あれがないのよ」
「…………」
「妊娠したらしいの」
「…………」
「あなたの子よ」
「…………」
「生むわ」
「…………」
「あなたの子だから生みたいの」
「…………」
「迷惑はかけないつもり。自分で育てるつもり」
「…………」
「ねえ、何か言ってよ」
「…………」
「男なら、何か一言、言ってくれてもいいんじゃないの?」
「……。男は……黙って……サッポロ……ビール……」
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「気をつけよう甘い言葉と夜の道」
[#地から1字上げ]防犯標語
星影の渚《なぎさ》。夜の水平線から吹いてくる潮風の香《かぐ》わしさ、その甘さ。暗い波間に光る夜光虫は、星を細かく砕いて、散りばめたようだ。グループで来た男女が、いつのまにかなんとなく一組ずつに別れ、夜陰《やいん》にまぎれて消えていく。
ふと気がつくと、アキラの傍《かたわら》に女が一人。
「いい風ね」うっとりとした口調で彼女が言った。
「ん」
女のむきだしの肩が、星明りをうけて、仄白《ほのじろ》く浮き上っている。
「潮の匂《にお》いって、ロマンティックね」
「そうだね」
「夏って好きよ。四季の中で一番セクシーじゃない、夏?」
ノーブラのタンクトップの胸の隆起が、悩ましい。
「夜の海で泳いだことある?」
「いや」
「わたしはあるわ」女は波打ち際で身をかがめて、海水に手を触れる。「夜の海ってね、温いのよ、不思議な温かさなの。そうね、まるで羊水そのものなのね」
「ヨースイ?」
「子宮の中の水よ」
「アッ、そう……」
「羊水って、子宮の中の海なのよね」女の声が湿《しめ》った重さを帯びる。「泳いでみる?」
「エ?」アキラは一瞬ドギマギする。
女は服のまま、波間を歩きだす。
「服のまま、泳ぐの?」アキラが当惑した声で後を追う。
「なんなら、全部脱ぐ?」
「イヤ」アキラあわてる。「そういう意味じゃないんだけど」
女が波間を泳ぎだす。アキラなんとなく後を追うような型で、海水を掻《か》く。
一泳ぎして。
「寒いわ」女がぴったりと躰《からだ》を寄せる。濡《ぬ》れたタンクトップが躰にはりついている。
「濡れているもの着ているから寒いのよ。いっそのこと、脱いじゃわない?」夜道の林道を、歩きながら、女が言う。
「ん? うん」アキラ消極的ながら、女に続いてTシャツを脱ぐ。
「自然体って素敵ね」女が夜道で立ち止る。
「ん? うん」
「あたしの中のもうひとつの海で、今度はあなたの精子を泳がせてみたくない?」
「エ? エッ?」
しかしながら、たくみに誘われて、二人はヤブの中。
数時間後、ハイウェイ添いのレストランでむかいあうアキラと女の二人。
「あなたって、シャイなのね。さっきから下ばっかりむいている」
「ん。まあね……」
ほんとうはシャイなのではなく、女の顔をまともに見られないのだった。
「自己紹介するわね。あたしの名前、マサコ」
「して姓字《みようじ》は?」おそるおそる訊《き》くアキラ。
「オオヤ」
同姓同名とはいえ、実によく似た顔なのだった。
「気をつけよう甘い言葉と夜の道」
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「別れることは辛いけど 仕方がないんだ君のため」
[#地から1字上げ]〈星影のワルツ〉千昌夫
ミエコの今度の見合いの相手は、最高だった。医者の卵で、ゆくゆくは親の後を継いで開業医になる予定。よく日焼けしたスポーツマンタイプで、がっしりした長身。
煙草《たばこ》は喫わないが、酒は適量にたしなみ、話題も豊富で人をあきさせない。趣味はテニスに洋画にジャズ、とこれも悪くない。
これまでさんざんケチをつけて見合いの相手を振ってきたカイがあったと、ミエコは内心有頂天だった。
式は三か月後と決まり、デイトも週に一度。すでに六回ほど逢《あ》っているが、いつも気のきいたレストランでのしゃれた会話。場所を変えてジャズを聴きながら軽く一、二杯。必ずミエコの家まで送り届ける紳士ぶり。もうホレボレするような相手なのである。
しかし十回ほど楽しいデイトを重ねる頃《ころ》になると、ミエコの胸にひとつだけ不安が湧《わ》いた。いっこうに彼からベッドへの誘いがかからないのだ。
これまでの経験から言えば、二度か三度の夕食の後、たいていの男はベッドのことを仄《ほの》めかすものなのだ。
二度めではさりげなく断り、三度めで危いところまでいき、四度めでホテルへ行くというコースが圧倒的だったので、ミエコは、ちょっと戸惑《とまど》い気味。
こればかりは女の方から誘うこともできず、逢うたびに、今日こそは、と期待に燃えるのだが、結局何ごとも起らず、無事に送り届けられるしまつだった。
「ね、わたしは、かまわないのよ」とついにミエコがある夜、別れ際に囁《ささや》いた。「もしかして、あなた必要以上に遠慮しているんじゃないのかしら?」
「何がですか?」
「あのことよ、わかっているくせに」
「アッ……」はっと思いあたる婚約者の表情。
「でも、大丈夫だよ」
「大丈夫だなんて。無理しなくてもいいのよ。そういうことって、自然なことだと思うの。自然の欲求に逆《さから》うことないじゃない。どうせ結婚するんですもの。ね? そうでしょ?」
甘い声で囁き迫るミエコ。
「そりゃまあそうだけど」気持が動きかける相手。
が、
「でもやっぱり我慢するよ」
「どうして? どうして我慢するの? 我慢なんてすること、ぜんぜんないわ。それとも、わたしのこと気にいらないの?」
「そ、そんな」
完全に当惑する男の表情。
「じゃ、して。ね?」
「君がそれほどまでに言うのなら」
ついに彼は決意を秘めて、暗がりへ。しばらく続く長き放尿の音。
その後、ミエコからの連絡はぱったり。いくら電話をしても、逢いたくないの一点張り。
「どうして? 訳を言ってもらいたい。どうして急にそう冷たくされるのか、僕は何としてでも知りたい」
しかし女の口から、あたしはセックスがしたかったのに、あなたがしたいのオシッコだったとは、言えないではないか。
「訳を言って下さい、訳を」と電話でつめよる男の声。
「わたしたち、感覚が違うみたい……別れるなら、早いうちがいいと思って。辛いけど、仕方がないのよ、結局、あなたのためだと思うのよ」ミエコ、しどろもどろに言うのだった。
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「女と申すものは、下着とともに恥じらいの心も脱ぎ去るものでございます」
[#地から1字上げ]ヘロドトス=ギリシアの史家
「ねえ、ボーイさん、冷房、こしょうしているんじゃないの? さっきからあたくし暑くて」
田中夫人は、鼻の頭の汗をスイス製レエスのハンケチーフで、そっと押えながら、通りすがりのウェイターに訊いた。
「いいえ、そのようなことはないと存じますが」ウェイターは控えめに言った。「もしよろしかったら、その麻の上着を、おあずかりいたしましょうか?」
田中夫人、チラと連れの若き男《ジゴロ》を見て答える。
「でも、この下、タンクトップなのよ。肩や腕がむきだしで、恥ずかしいわ、わたくし」
「どうして?」と若きジゴロ。「美しい肩の線をしているのに」
「まあ、美しいだなんて、オホホホ」
田中夫人、|えんぜん《ヽヽヽヽ》と笑いながら、スルリと麻の上着を脱いで、ウェイターにあずけた。
しばらく楽しげな談笑が続き、田中夫人、再びウェイターを呼び止める。
「ねぇ、ほんとうに冷房、こわれていないのかしら? 調べてみて下さらない?」
タンクトップからのぞく胸の谷間に、玉の汗。
ウェイターが冷房を調べに行っているすきに、ジゴロが囁《ささや》く。
「多分、コルセットのせいじゃないかな、暑いのは」
「マ……」
恥じらい眼を伏せる田中夫人。
「ちょっとトイレでコルセット外して来たら?」
「デモ……」
「今どき、そんなもの流行《はや》らないし、第一、あまりセクシーじゃないな」とあくまでもクールなジゴロなのであった。
「セ、セクシーじゃありませんの……?」
ほんのりと頬《ほお》を染めうつむく田中夫人。「それじゃ、アドバイスに従って。ちょっと失礼しますわ」と腰を浮かせた。
やがて、さっぱりとした面持ちで田中夫人が戻る。
「あなたの言った通りだったわ」夫人、椅子《いす》にかけ、顔を寄せる。「ご忠告、ありがと」
二人、優雅にフォークを使い、ニジマスのムニエルなどを、冷たいシャブリで流しこむのだった。
ふと田中夫人の手の動きが止る。
「あたくし、何もはいていないのよ」
「え?」ジゴロ訊《き》き返す。
「コルセットと一緒に、みんな脱いじゃったの」
「あっ、そうですか」
「それがね妙な気分なの」田中夫人の瞳《ひとみ》がうるんでいる。
「妙な気分って?」ジゴロが質問する。
「きまってるじゃないの、あなたも鈍感なひとね。ね、ちょっとテーブルの下で手を伸してみて」
ジゴロ、観念して言われた通りに。
「もう少し奥の方。もっと奥よ、ずっと奥だってば、ああじれったいひとね、もっとずっと奥の方なの、ずんずん奥だってば、もう、じれったいったらありゃしない」田中夫人、あられもなく、もだえるのであった。
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「三十過ぎて、あなたという人が見抜けなかった私がバカだったのよ」
[#地から1字上げ]池田理代子
などと口では言っているが、この女性《ひと》は自分のことをバカだなどとは、これっぽっちも思っていない。それが言葉のはしばし、態度や仕種《しぐさ》にちらちらと露《あら》わになる程度に、本当はやっぱり愚かなのだと思うが、彼女の演じた醜態《しゆうたい》劇は、同じ女として実に恥ずかしかった、とだけ言っておこう。
ヨリコは三十一歳。自他供に認めるところのかなりの美人。男が放っておくわけもなく、当然のことながら男性遍歴も豊かであった。おかげで男を見る眼も肥《こ》え、言い寄る男に不自由はしないが、なかなかこれといった決定的な男に出逢えない。
私の半身は必ずいる。私にぴったりの男は絶対に現れる。そう固く信じて疑わなかったのである。
ある時、カフェバーのカウンターで、奇妙な男に出逢った。
背は彼女の肩の上あたりまでしかないが、がっちりとした体格。平べったい押しつぶされたような顔。およそ醜男《ぶおとこ》であった。
「初対面でこんなことを言うのはなんだけど、あなたはボクの探し求めていた理想の女性だ」と醜男はいきなり、鼻の頭に汗を浮べながら言った。
ヨリコは軽蔑《けいべつ》と冷笑をこめて、男をチラと見た。カエルみたいな顔していて、よく言うわ、と心の中で嘲《あざけ》った。
「結婚を前提につきあって下さい」男は更に臆面《おくめん》もなく言いつのった。
カエルと結婚するつもりなんて毛頭ないわ、とヨリコは胸の中で真赤《まつか》な舌を出した。
適当にふりきって帰ろうとすると、男がついて来る。
「お宅まで送らせて下さい」
「送って下さらなくても、結構……」と言いかけて、ヨリコの眼が男の車に釘《くぎ》づけになった。真赤なポルシェ。
「そうね、送ってもらおうかしら。ちょっと飲み過ぎたみたい」
もしかしたらこの男、魔法使いに醜いひきガエルにされた王子さまかもしれない。そんな思いがムラと胸を過《よ》ぎった。よく見れば、無器量な顔の中で、眼がなんとなく澄んできれいだわ、などと思い始める。
カエルの王子さまは、次のデイトの時、ベンツのスポーツカーで現れた。オープンルーフのやつである。
結婚を前提につきあう必要などもうなくなって、ヨリ子即、結婚を決意。
さて当日カエルの親族が集って、にぎやかではあったが……。百万長者の一族のようには見えないのが気がかりではあったのだが……。人は決して見かけによらぬものとヨリコは不安を鎮めた。
新婚旅行は、仕事が忙しい彼のスケジュールの都合で、箱根に二泊三日のドライブとなった。
新郎が駐車場からもってきた車を見て、ヨリコの眼が、今にも飛び出しそうになった。ベンツでもなければポルシェでもない、国産車のそれも中古に近い代物《しろもの》だった。
唖然《あぜん》としながら車内に。親族にバンザイ三唱で送られて出発。
「一体これ何よ? ポルシェはどうしたの? ベンツはどこよ?」ヨリコが顔色を変えてつめよった。
「言わなかったっけ? あれ会社の車」「…………!!」
「外車の中古車販売してるんだ。話したろ?」
「お父さまの会社だと思ったけど?」
「そう思ったのは君の勝手だけど、ぼくはそうは言わなかった」
「じゃ、王子さまじゃなかったのね! やっぱりカエルだったのね」
ヨリコ愕然《がくぜん》と青ざめたのであった。
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「ゆうべはどこにいたの?」「そんな昔のことは憶えていないね」
「今夜会ってくれる?」「そんな先のことはわからんよ」
[#地から1字上げ]映画〈カサブランカ〉より
|にべ《ヽヽ》もないというか、ハンフリー・ボガートが、酒場で女につれなくしている科白《せりふ》。当の女はいたく傷ついて、手にしていたグラスを投げつけるかどうかしたのだと思うが――もしかしたら記憶違いかもしれない。数本のボトルを倒し、バーミラーが砕け散る光景が鮮かに頭に残っているのだが……。これは別の映画の別の場面がごちゃまぜになっている可能性もある――。真意のほどは別にして、あんなふうに言われたら、女たるもの無惨に打ちひしがれてしまう。
ボガートは私の好みのタイプの男であるからして、ここは他人事《ひとごと》のように話が進められない。つまり私は生れ落ちてすぐからの面食いで、単に顔が美しいだけでなく、頭が良くてニヒルで、冷淡な男たちだけが好きだった。従ってハンフリー・ボガートは理想の男性像なのである。
であるから、男につれなくされた数では人後に落ちない。つれない言葉の数々がこの身に無数に突き刺さって満身|創痍《そうい》とは、この私のことなのである。
忘れもしない、中学時代の仮装大会の時のことだった。野球部の名ショート兼キャプテンで、生徒会長でもあり、少年時代の嵐寛寿郎もかくやと思われるきりっとした美貌《びぼう》のススムくんに、恋い焦がれていた頃《ころ》の苦しさ、切なさ。もちろん片思い。
嵐寛寿郎に似たススムくんは、当然といえば当然、丹下左膳の扮装《ふんそう》。腰刀に帯をきりりとしめて、肩で風を切るように歩くその姿の凜々《りり》しいこと。虚無感などを背中に漂《ただよ》わせ、ぞくぞくっと鳥肌が立ってくるような凄《すご》みであった。
私はカメラを手に、髪振り乱して彼を追い回した。日頃の私の思いを充分知った上での、ススムくんの冷たさ、すげなさ。カメラかまえる私の前を速度も落さず、スタスタと行ってしまう。それでも追いすがる私。
しばらく無言の追いかけっこが続いた。と、不意に彼がぴたりと足をとめ、首だけねじるようにして、背後の私に言った。
「撮るなら、早く撮れよ」
斜めのひややかな視線だった。無表情な冷酷な声だった。
彼は刀に軽く手を置き、冷笑を浮べて、私の前でポーズをとった。絶好のシャッターチャンスであった。
にもかかわらず、私はシャッターを押せなかった。カメラをかまえたまま、彼の冷笑をみつめているうちに心臓もろとも凍りついてしまっていたのだ。
ススムくんは、まさしく、「カサブランカ」におけるハンフリー・ボガートである。たかだか十五歳の少年が、どうしてあれほどまでに徹底して冷淡に女をあしらえたのか、今にして思えば実に不思議である。その後彼がどういう男になったのか知らない。同姓同名の年格好も同じくらいの有名なカメラマンがいるが、それがかつてのススムくんであるかどうか、私にはわからない。
さて、一度でもいいから男に、「ゆうべはどこにいた?」などと訊《き》かれてみたい。
実はゆうべもその前の夜も、その前の前も要するにじっと家にいてTVを観《み》ていたのだが、
「そんな昔のことは憶えていないわね」
「今夜会えるかい?」
「そんな先のこと、わかりっこないじゃない」
などと、言ってみたい。
[#改ページ]
「ウーム、マンダム 男の世界」
[#地から1字上げ]マンダムのCM=チャールズ・ブロンソン
短足胴長ながら、ボディビルで即席だが夏にむけて鍛えた効果もあって、まあなんとか見れる肉体。と、キンヤは自分ではそう思い、鏡の前で筋肉をぐりぐりと動かしてみるのだった。
自分の容姿を客観的に眺めるのは非常にむずかしいが、キンヤは自分をまあ醜男《ぶおとこ》だろうと思っている。
しかし醜男にも色々あって、救いようのないのは、フヤけた醜男だ。「ハイウェイ・パトロール」に出ていた何とかクロフォードというおっさんは、蒸しパンみたいで気持が悪かった。
俺《おれ》はどちらかというと、チャールズ・ブロンソン風の醜男だな、とキンヤは分析する。絶対にどこもフヤけてなんぞいないのだ。
どちらかというと痛い顔。痛々しいのとは全然違う。皮膚の下に無数の切り傷があって、文字通り、痛いのだ。見えないところで血が吹きだしているといったらいいのだろうか。キンヤは自分の姿に、造作もなくブロンソンの面影など重ね、悦に入っていた。
今日のデイトはアケミと三浦海岸、一日泳いで夕陽を見ておりよくば口説《くど》くつもりだ。
アケミは大学で英米文学などといったコースをとっているインテリ好み。ああいう若い女のアプローチは、断然粗野ふうなのに限る。「今夜、おまえとやりたい」と、ズバリがいいのだ。もちろん、お手本は男の中の男。男の体臭ムンムンのブロンソンである。
当然、マンダムの用意はある。マンダムなくして、何の男の世界。
さて三浦海岸。ビキニ姿のアケミと、黒いこれもビキニ型の海水パンツのキンヤ。ブロンソンなら、絶対に黒のこの型の海パンをはくのに違いないと、確信しての高いフランス製。全身日焼けオイルでたくましく光らせて日射しの下、身を横たえる。
アケミ、キンヤの思いを知ってか知らずか、半裸身をビーチパラソルの下にさらして、さっきから涼し気に本など読んでいる。キンヤの肉体美も、大枚投じて買ったフランス製海パンも、チラとも見むきもしない。
「おいアケミ、泳ごうぜ」ドスをきかせたブロンソン風の声で誘う。
「今はだめ」アップダイクとかいう作家の本からアケミは顔も上げない。その間真夏の太陽がジリジリとキンヤの肌をこがす。
「おいアケミ、見てみろよ、夕焼けが、きれいだぜ」
「うん、あとで。もうすぐ読み終るから」
やがてアケミが本を閉じる。
「マ、どうしたの? タラコみたいに真赤にふくらんで」
「タラコはないぜ」ヒリヒリ痛むのをこらえて見栄をきるキンヤ「日焼けだぜ」
実際にはヤケドだ。
海の見えるマクドナルドで、二人は夕食のハンバーガーにかぶりつく。
「痛いんでしょ。バカね、一遍に焼くからよ」
さもバカにしたように言うアケミ。
が、もはやガマンの限界。
キンヤ、トイレに飛びこみ、燃えるように熱い日焼けあとに、マンダムを無我夢中でふりかける。地獄に仏とはこのことである。
ウーム、マンダム、ウーム、ウーム。キンヤ、渋面を浮べて自分の痛い顔をみる。これこそ、本物の痛い顔であった。ウーム、ウーム。
[#改ページ]
「だいたい永遠の愛なんてのは考えられないわけよ。夫も妻も変化していくわけだから」
[#地から1字上げ]田中康夫
二十年ほど前、私自身聖オルボンヌ教会で、結婚の誓いをした。詳しい言葉は憶えていないが、牧師が言ったことは大体こうだった。
「あなたは、この男の妻として、健《すこ》やかなる時も、病《や》める時も、この男だけを愛し、この男を敬い、この男に従い、永遠に添いとげることを誓いますか?」
「はい誓います」と私は答えた。
誓うことは簡単だった。涙まで流して誓ったのだった。
が、言うはやすく行うは難《かた》く。
「ねえ、ベッドがくちゃくちゃだよ」新婚の朝の会話。
「あなた直しておいてよ。わたしだって働いてるのよ」
「女の仕事じゃないか、君がしろよ」
「ベッドを直すぐらいのつまらないことで男の沽券《こけん》にかかわるってわけ? それじゃ男の沽券ってものも、たいしたことないわね」
「つべこべ言わずに、ベッドを片づけろよ」
「あたしは嫌よ。他《ほか》にも色々やってるんだから、ベッドくらい手伝ってくれてもいいでしょ」
「だめだ。断じてだめ。ひとつ譲れば次々譲歩することになる。ベッドは君の仕事、君の義務」敵も絶対に譲らない。
こっちだって必死だ。なぜ女だけが仕事も家事も何もかも一手に引き受けなければならないのか、全く理解に苦しむ。ふに落ちない。ひとつ諦《あきら》めれば次々と諦めなければならない。
新婚まもないまた別の夕刻。食事のあと、夫がふらりと立ち上って言った。
「ちょっと出かけてくるよ」
「え? どこへ?」
「ちょっと、一杯飲みに」
「なら、家で飲んだら」
「外で飲みたいんだ」
「じゃあたしも行く」
「一人で出かけたいんだよ」
「あたしのこと、もう嫌になったの?」
「バカだな違うよ。男には週に一度くらい息ぬきが必要なんだ。わかってくれなくちゃ」
「そんなのわかんない」
そのうち週に一回の息ぬきが、週に一回くらいの浮気が必要なんだよ、にエスカレートしないともかぎらないではないか。一事が万事なのだ。私は必死で闘い続けた。
月日がたつのは早いもの。ある時、私は何気なく交されている我々夫婦の最近の会話に気づいて、感慨もひとしおであった。
「ねえ、まだベッドくちゃくちゃよ」と私。
「君やっておいてくれよ。二日酔で辛いんだ」と夫。
「だめよ。例外を認めるとすぐ図にのるんだから」
また別の時。
「ちょっと出かけるわ」
「え? 今夜も? ちょっとってどこだい?」
「ちょっと飲みに出るだけ」
「じゃ僕もいくよ」
「だめよ。編集者と仕事の打ち合わせだから」
「昨夜もそんなこと言って出たじゃないか」
「仕事なのよ。理解してくれなくちゃ」
「そんなこと理解できるか」
このところ夫はぶんむくれなのである。
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「ねえ、ユウコちゃん。今夜このままキミを帰してしまうと、ボクたち、|ただの友だち《ヽヽヽヽヽヽ》になってしまうと思うんだ」
[#地から1字上げ]〈週刊文春〉コピー塾より
男が女を誘って「|お食事《ヽヽヽ》」に行く。「お食事」に誘うのは、もちろん魂胆《こんたん》があるからだ。
もちろん、一度目の「お食事」の席では、魂胆らしきものは、ちらとも見せない。
二度目の「お食事」メインコースも終り、デザートのカシスのシャーベットも食べ終り、コーヒーが出て、ブランディーがくる頃、男がさりげなく仄《ほの》めかす。もちろん魂胆を、である。
「ユウコちゃん、今、ボクが考えていること、わかるね?」
ユウコ、もちろんわかる。ほんのりと頬を赤くそめて、うつむくユウコ。
「よかった、わかってもらえて」
男はユウコにたくみにブランディーをすすめる。
「でもわたし……まだそんな、気分じゃ……」
「もちろん、わかっているよ。|ユウコ《ヽヽヽ》がそんな女の子じゃないことくらい、ボクにはわかるんだ」そこは年の功。魂胆は一応引っこめる。
「だからこそ、ボクはユウコが好きなんだからね」
ユウコ、ほっと安堵《あんど》の表情。
「でも、いやじゃないんだろう?」すかさず男が探《さぐ》りを入れる。
「…………」
「あ、もちろん今夜ってことじゃなくてさ。ボクのこと、というか、そういうふうになることに、ユウコちゃん、別に抵抗ないんだろう?」
「……ええ。課長のこと、いやだったら、二度も一緒にお食事していません」
この言葉を聞きたかった。言わせたかった。で、第二ラウンドは大満足で、指一本触れずに、送り届けて終る。
さて、いよいよ三度目の「お食事」これが分れめである。ここでしくじると、永遠に「お食事友だち」の関係に留《とどま》る恐れが、経験上も、他人の体験からしても、大いにありうるわけだ。
相手にその気がないのならともかくも、まんざらでもない様子。
しかし油断は大敵。まんざらでもないが、「お食事」そのものも捨て難く思っている節もある。なにしろ相手は若き胃袋の持ち主なのだ。食い逃げされては身もふたもない。で、男は悪知恵をしぼりだすのである。
「ねぇ、ユウコ、真面目《まじめ》な話なんだ」といつになく深刻な表情。「今夜キミをこのまま帰してしまうと、ボクたちの関係は、|ただの友だち《ヽヽヽヽヽヽ》になってしまうと思うんだよ」
|ただの友だち《ヽヽヽヽヽヽ》を強調し、言外に「お食事」ももう終りだよ、という意味を含ませての、言わば強迫的|口説《くど》き文句の決定版。
|ただの友だち《ヽヽヽヽヽヽ》と言われれば若い女の自尊心がいたく傷つく。「お食事」までもだめになりそう、と不安がつのる。見かけもそれほど悪くないし、セックスもボーイフレンドたちより少しは上手かもしれないし、まあ、いいんじゃないの、とユウコの胸に諦めの思いが過《よ》ぎる。
魂胆は今や功を奏して、予定通りのベッドイン。当然、事の前にホテルは予約しておくこと。
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妻「あなたあの女《ひと》と寝ているんでしょう?」夫「いや。寝ていない」
妻「…その方がはるかに悪いわ」
[#地から1字上げ]映画〈恋に落ちて〉より
男と女がある時ふと出逢う。一瞬相手の存在に釘づけになるような、躰《からだ》がぐらりと揺れるような、そんな驚きが体内を駆け抜ける。二人には言葉もなく、右と左に別れる。
が、そのまま永久に相手を見失ってしまうかと思うと恐ろしい。まだ一度たりともその相手を所有したことがないというのに、失うことが怖いのだ。それが恋の始まりなのである。
一度として係わったこともない赤の他人に対して、そのような感情を抱くということが。
「わたし、結婚しているの」と、メリル・ストリープ演じるところの人妻が、言葉少なに呟《つぶや》く。
「僕もだ……」ロバート・デ・ニーロが扮《ふん》する男もポツリと応じる。そして二人はまるで立往生したみたいに、凝然《ぎようぜん》とみつめあう以外、どうすることもできない。大人の男と女が、まるで清純な少年と少女のような感情にのみこまれてしまうのだ。
恋する二人なら、当然、結ばれたい。ひとつになりたい。せつないまでに好きあっているのに、なぜかそれが出来ない。相手も自分も結婚しているからではない。あまりにも愛しすぎて、怖いからだ。
今どき、珍しいような男女だ。ずいぶん古典的ね、と言った友人もいた。珍しいような存在だからこそ、映画にもなったのだろう。失われたロマンといったものかもしれない。
パーティなどで知りあって、そのままバーへ行き、いきなり男が口説くなんてことは、日常茶飯事の世の中だ。
「きみとやりたい」一杯飲み終るか終らないうちに、男が耳元で囁く。
「ちょっと、早すぎるんじゃない?」女は軽く受け流す。あたし、結婚しているの、なんてことは、馬鹿《ばか》じゃあるまいし、口から出てはこないのだ。
「じゃきみにさわりたい」すかさず男が言う。
「ここで?」
「もちろん場所を変えて」
「多分、別の時にね」
「しかし、別の時なんてないかもしれないよ」
男は試すような声でそう言う。女は改めて値ぶみするように男を眺める。
「いいわ」決意を含んだ声で答える。二人はやがてストールを滑り下り、ホテルルームへ。
今日この頃の恋愛というのは、この程度なのではないだろうか。
苦しい思いもないし、せつないこともない。出逢いも安易なら、別れもまた簡単だ。傷つくこともめったにない。お互いさま、楽しかったわ。それで終り。
だから世の夫も妻も、自分の配偶者が浮気していることに対して、そんな目クジラをたてることはないような気がする。あれはスポーツの一種だくらいに考えて。
「お疲れさま、楽しかった?」と訊くくらいの太っ腹。
むしろ男と女が好きあって、二人の間に何もないことの方を、警戒するべきだ。それこそ本物の恋だから。
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「念には念をいれよ」
[#地から1字上げ]日本の格言
「じゃ、いつものところで七時に」とユキエが電話で言った。
「ちょっと待って、切らないで」とマコトは念を押した。「いつものところって、つまりブルー・ラグーンだね?」
「そうよ、じゃね」
「あ、待って。道玄坂《どうげんざか》のブルー・ラグーンのことだよね」
「そうよ。他《ほか》にあるの?」
「ちょっと念を押しただけだよ。渋谷《しぶや》から道玄坂上りきった左手にある店だよね? ビルの名前はOSビルだったっけか?」
「ビルの名前まで知らないわよ」
「確かそうだよ。OSビル。電話番号が四六二の五六九一だった」
「ブルー・ラグーンの?」
「違うよ。OSビルの」
「関係ないじゃない」
「ブルー・ラグーンは四六二の一一〇一」
「それだけ知っていれば、絶対にまちがいなく着くんじゃない?」
「物事には絶対ということはないんだよ。絶対だと思っても思わぬまちがいはあることだし、記憶違いや勘違いだってあるんだ。人間のやることなんて、タアイがないからね、ハハハハ」
「マコトさんなら、大丈夫よ。わたしが保証する。じゃ明日ね?」
「エエト、七時だったね?」
「エエ、そうよ」
「十九時の七時だね? 六時の後の七時。NHKのニュースが始まる七時だね」
「ちょっとしつこいんじゃない?」
「物事はしつこいくらい確かめて、ちょうどいいの、じゃ十九時の七時に、四六二の一一〇一のブルー・ラグーンで逢うことにしよう。明日だよね、確か?」
「そう言ったでしょ」
「あれ、怒ったの? 怒ることないよ。万が一まちがえて明後日《あさつて》ボクが出かけていったら、困るのは君だよ。デイトに放っぽらかされて」
「わかったわよ。明日の十九時。渋谷は道玄坂左上のブルー・ラグーンで、会いましょ! それでいい?」
「しかし、万が一休みってこともあるから」
「年中無休なの、あの店は」
「でも親が危篤だとか」
「そういうことはあっても、店は開いてるわよ」
「ともかぎらない。その場合のことだけど――」
「だったら店の前で待ってるわよ」
「店の前と言ったって、漠然としているなぁ」
「ブルー・ラグーンの店の前よ」
「道玄坂の?」
「バカバカ」
「店の前っていっても広いから」
「入口の真前《まんまえ》!」
「わかった。じゃ明日、渋谷の道玄坂のブルー・ラグーンで。十九時に逢おう。万が一休みの場合は同じく道玄坂のブルー・ラグーンの入口の真前で、同刻に」ふとマコト、声をとぎらせる。
「まだ、何かあるの!!」
「そうなんだ。明日の十九時にブルー・ラグーンで逢うのはいいけど、一体僕は誰れとデイトの約束をしているんだっけ?」
「ガチャン」
☆ 女と別れたかったら、この手でいこう。
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「涙より早く乾くものはない」
[#地から1字上げ]西洋の格言
普段と変らぬ、日曜日の朝食の風景だった。妻がコーヒーをいれ、夫の前に置く。
そっとというわけにはいかず、置いた拍子にコーヒーがこぼれ、受け皿を濡らした。そのことに妻はたいして注意もとめない。夫もわずかに眉を寄せる程度。結婚十年近くなれば、みなれた図である。
しかしその朝、夫は眉を寄せたまま、視線を妻の上に移した。ざんばら髪。足を組み、肘《ひじ》をテーブルについて、しどけなくコーヒーを啜《すす》りながら朝刊を読んでいる。これも飽きるほど見てきた姿だ。ふと視線を下げる。最近では剃《そ》り忘れるのか、女としては濃い毛が生えている脛《すね》が眼につく。
もう我慢の限界だと、その朝、夫は思う。なぜ別の朝ではなく、その朝そう思ったのかわからない。とにかく、この女とはもう一日も一緒に住めないと、胸がしめ上げられるように感じたのだった。
「突然で驚くかもしれないが」と夫が不意に言った。
「ん?」朝刊から眼を上げずに妻が応じる。
「別れたいんだ」
「離婚?」反射的に妻が顔を上げる。「まさか、よね!!」
「そうなんだ、離婚したい。前からそう思ってはいたんだが、切りだせなかった」
「いや、絶対にいや。離婚なんてしません」新聞をテーブルから払いのけて言う妻。「例の女のせいでしょ。浮気相手の」
「単なる浮気じゃないよ。真剣なんだ。二人とも」
「|二人とも《ヽヽヽヽ》、だなんて言い方、ひどいわよお」と、妻ヨヨと泣き崩れる。
「悪いと思っているんだ。しかし――」
「浮気でいいじゃない。今までだって見て見ぬふりをしてきたんだもの。別れるのは嫌よ。ほんとうに嫌」
「ボクたちが、もう浮気じゃすまないんだ」
「そんなに簡単に、妻子が捨てられると思うの?」激しく泣きながら抗議する妻。
「いや。出来るだけのことはするよ」
「さんざん苦労させといて。若い女が出来たら、ポイと捨てるなんて、非情な人ね。あんたみたいな人に何もかもささげて、人生を賭《か》けたあたしがバカだった」と、身も世もない嘆きぶり。とどまることなく流れ出す涙なのであった。
「出来るだけのことはするから、わかってくれ」夫、ひたすら頼みこむ。
「子供たちの養育費は?」
「払う、払う」
「一人につき、七万円払う?」
「払うよ」
「あたしの生活費、十五万、払える?」
「それも払う」
「このマンション、あたしの名義にする?」
「止むをえんだろう」
「それから、こんな辛い思いをするんだから、慰謝料も払うんでしょうね?」
「退職金の前借りをして払うよ」
「タップリと?」
「うん」
「じゃいいわ。手を打つ」
見ると、妻の涙、嘘《うそ》のように乾いているのでありました。
☆ 後日談。妻は親友のアケミに電話する。
「ねえ、聞いて。うまくやっちゃった。|亭主は丈夫で遠くに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の完成版よ。遠くも遠く。うんと遠くに離婚しちゃって、とるものは、タップリ。うるさいだけで手のかかる亭主を、ついにお払い箱にしたわよ。お祝いに一杯やりに来ない?」
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「ねえ、私が何をしたの。嫌われるような何をしたの」
[#地から1字上げ]〈酔どれ〉和田アキ子
「覚えていないのかい?」と、男は軽蔑《けいべつ》の色を露《あら》わに言った。
「もう止めておけと、さんざん忠告したのにもかかわらず、きみは僕の言うことなど、ぜんぜん聞かない。耳もかたむけない。
酒場中の男にキスしてまわったのは序の口で、あられもないことを口走るわ、醜態《しゆうたい》は演じるわ、しまいには着ている物を脱ぎ始めるしまつ」
「なぜ止めてくれなかったの?」とアキコ、ほとんど泣き顔。
「止めたさ。止めましたよ。必死で止めた」男はうんざりした顔で言った。「しかしね、それでなくとも大柄なうえに、酔った勢いでのバカ力。僕は見事にふっとばされたからね。ホラ、見ろよ、このアザ。ここもだ」
「まあ……。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい」大きな躰《からだ》を小さくして、ひたすら謝るアキコ。しかし、ひとたび失われた愛は、そう簡単には甦《よみが》えらない。戻っては来ない。
「あげくの果てに、床にひっくりかえり、殺せ殺せの大|絶叫《ぜつきよう》。思わず眼をそむけたね」
「あの、質問……」
「?」
「その時、わたし、何か着ていた?」
「一糸《いつし》まとわぬ丸裸」
「んま」慄然《りつぜん》と反省するアキコなのであった。
「それでも僕はね、男として君を見捨てて帰るわけにはいかなかった」
「すみません」と身をすくめるアキコ。
「とにかく君をかかえ上げ、服を着せ、へべれけで足腰のたたないその巨体を、ひきずるように外へと連れだした」
「恩にきます」
「タクシーを呼び止め君を車の中に押しこんだ。そしたら何と言ったと思う?運ちゃん、ホテルにやってよね≠セ。
どちらのホテルで?
どこでもいいんだよ、頭を働かしな、頭を。深夜男と女がホテルへ行きたいと言ってるんだから、1982でも目黒エンペラーでも気いきかせて、さっさと走らせんか、このバカ、マヌケ
運ちゃんは怒ったね。危く電柱に衝突するところだった」
「もう一生、顔上げられません。ごめんなさい。すみません」
「それも何とかなだめて、君のアパートの前まで行ってもらった。僕はそのまま帰りたかったが、君に車から衿首《えりくび》もたれて引きずりだされて。タクシーは走り去り、しかたなく、君に引きずられる格好で、アパートのドアの前。失礼するよ、帰りたいと言うボクを、君は、力ずくで部屋の中に引きずりこんで……」しばし絶句のてい。
「あの……わたし……何か……したんでしょうか?」とおそるおそる聞くアキコ。
「全然覚えていないのかい?」男は眼をしばたたき、そこでヨヨと泣き崩れたのであった。
「ボクは、あの夜、犯されたんだ。君はいきなりボクを押し倒すと、ボクの上にのしかかりあとは口にもできない乱行の数々……」
泣き伏す男を、アキコはなすすべもなく茫然《ぼうぜん》と眺めるばかりであった。
[#改ページ]
「大部分の女は多くの言葉を費やして、ごくわずかしか語らない」
[#地から1字上げ]フェヌロン=フランスの思想家
「ねぇ、ねぇ聞いてよ、この間ね、すっごい体験しちゃったのよ」
「へぇ、どんな?」
「ほら、あそこ……あそこから出ている線、何って言ったっけ? 緑色で、たいてい四輛《よんりよう》編成の電車よ」
「|あそこ《ヽヽヽ》がわからなけりゃ、言いようがないよ」
「西武デパートがあるところよ、A館とB館と。たしかB館は男のデパートになっているはずだわ。違ったかな、A館かな、ま、どっちでもいいんだけどさ」
「西武なら、池袋だろ?」
「何言ってんのよ池袋にハチコーがありますか!! 東急デパートがある? スペイン通りがあるかっていうのよ」
「なんだ、渋谷のことか」
「当り前じゃないの、さっきからそう言ってるの、それでさ、渋谷駅がさ、あれ、あたし何の話してたんだっけ?」
「だから渋谷から出ている線かなんかの話だよ、しっかりしてくれよ」
「あんたがいけないのよ、池袋だなんて言うから。池袋から出ているのは東上線と西武池袋線でしょ? あたしが言うのは違うの」
「渋谷からだと、地下鉄の銀座線と東急線と井《い》の頭《かしら》線」
「そうよ、その井の頭線のことよ。もうやんなっちゃうわ、そこまでたどりつくのに十分もかかるんだから。だいたいね、あんたトロイのよ、あんたにかぎらず、男ってトロイのよね、女同士の会話なら、いっぺんにぴんとくるわよ、ね、あそこのアイスクリーム食べた?∞うん、食べた食べた≠アれでOKよ。いちいち、原宿《はらじゆく》のハーゲン・ダッツのチョコチップにココナッツをまぶしたの食べた? なんて説明しなくても、女同士ならわかるんだから」
「驚いたね」
「想像力の問題よね、男って想像力なんてぜんぜん働かないみたいなのよね」
「というより、単に行動範囲と習性の問題じゃないのかね」
「つべこべ理屈を言わないの。理屈って言えば総務課のアベさん、あれ何よ、まるでショーペンハウエルのつもりなんだから」
「へえ!! 君意外と学あるね」
「我思う、故に我|在《あ》りって言った人よ」
「そいつはデカルトだよ」
「あっ、そうか。どうでもいいけど、要するにアベさんって嫌いってこと言いたいだけよ。こないだなんてね、映画の切符二枚あるけど、なんて言うのよ。じゃ二枚とも頂くわ、K子と行くからって言ったら、すごいシラけるのよ、バカみたい、自分の顔見て考えろっていうの」
「とにかく話を戻そうよ。井の頭線がどうしたの?」
「井の頭線って?」
「なんだかすごい体験をしたって話じゃないの?」
「えー? すごい体験って?」
[#改ページ]
「われわれを恋愛から救うものは、理性より多忙である」
[#地から1字上げ]芥川龍之介
「もしもし? おばちゃま? ボク。リュウノスケ」
「あらまあ、リュウちゃん、お電話くれて、おばちゃま、うれしい!」
「じゃ、今夜逢おう」リュウノスケ、電話口できっぱり言った。
「ま、その言い方、頼もしいワ! おばちゃま、感激!」
「それではいいんだね、今夜?」
「ちょっと待って、リュウちゃん、スケジュール調べてみるから」としばし沈黙。
「おまたせ、ええと、今日のスケジュールは、と。あらあら、あら。これは困ったわねえ。どうしましょう」
「また仕事?」
「そうなの、試写会が二つも入ってるの。悪いな、ほんとに。リュウちゃん、ごめんなさい」
「じゃ明日は?」
「ええと、明日の夜は、と。――録画撮りが一本と、あらあら大変、ジミーのこと書かなければ」
「ジミー?」ふとリュウノスケの声が尖《とが》った。「ジミーって誰れ? まさか新しい男が出来たんじゃないだろうね?」
「バカ、バカ、バカ、あんたって、ほんとうにおバカちゃんなんだから。ジミーよ。ジェームス・ディーン。おばちゃまとジミーのこと、知らないの?」
「なんだ。三十年も前に死んでしまった男のことか」
「ま、その暴言許せないわ。ジミーは絶対に死んでなんていませんわよ、ちゃんとおばちゃまのハートの中で生き続けているんだから」
「犬の心臓に巣食うのはフィラリア。おばちゃまの心臓にはジェームス・ディーン」
「犬とあたくしを一緒にしないでちょうだい。ましてフィラリア原虫とジミーちゃまを一緒にするなんて、おばちゃま、絶対に許せない」
「じゃ明後日のスケジュールはどうなってるのさ?」いよいよふてくされるリュウノスケなのであった。
「運が悪いわねえ、レセプションがひとつと、対談で一杯よ」
「ボクと仕事と、どっちが大事なのさ」
「そりゃリュウちゃんよ。あんたに一週間に一回か二週間に一回逢うのだけを楽しみに、おばちゃま生きているのよ」
「そんなの信じないぞ。本当にボクのこと好きだったら、毎日でも逢いたいと思うのが普通じゃないか」
リュウノスケは憤然と言いつのるのだった。
「まあ、まあ、リュウちゃん、そんなにおばちゃまを苦しめて、どこがうれしいの? 毎日だなんて!! おばちゃま、毎日はだめ。とうていついていけないわ。そんな体力、あるわけないでしょう? せいぜい二週間に一回よ。それだって、もうきついくらいなんだから。ねぇ、リュウちゃん、おばちゃまの歳、知っている?」
「歳なんて、関係ない」
「でもおばちゃま七十五歳なのよ」
「え? え? まさか? え? うそだ。まさかそれほどまでとは、知らなかった」リュウノスケ、しばし絶句なのであった。
[#改ページ]
「俺《おい》ら東京さ行ぐだ」
[#地から1字上げ]吉幾三
「イグゾーさん、東京暮らしの感想をひとこと」
「驚いだねぇ、東京には何でもあるんだねぇ」
「もう、TVは買いましたか?」
「秋葉原《あきはばら》っつうの? あそこで買ったですよ」
「他《ほか》に、どんなものお買いになりました?」
「そんな、どんなものつうても、何でもかんでも買えるってもんじゃないだべさ」
「そんなことはないでしょう。レコードも売れたことだし」
「ウハハハハッ。それ、言いっごなしにしましょうや」
「ところで、東京の女性はどうですか?」
「いいんじゃないの、みんな映画スターみたいにべっぴんで。ちっとばかり痩《や》せすぎてるのが多いげどな」
「東京の女性は痩せすぎですか?」
「んだ。鶏のガラみたいのが多いね。原宿あたりには、鶏のガラみたいのが、汚《きたな》ったらすいズダ袋みたいな布《ぬの》きれひきずって、ゾロゾロ歩いてるわ」
「ファッションなんですよ、コム・デ・ギャルソンとかヤマモト・ヨージとか」
「それ何のごとだね?」
「流行のことです」
「ああ、流行ねぇ。刈り上げした男か女かわからないのも、ありゃ流行ですかね」
「そうですよ」
「色気のねえごと。髪の毛もなければ、おっぱいもねぇ、やさしさもねぇ、可愛|気《げ》もねぇ、女らしくもねぇ、東京のおなごには何にもねぇ」
「出ましたね、お得意が」
「ついでに言わしてもらえば、東京の男は男じゃねぇ、力もなければ、金もねぇ、女だか男だかもわがらねぇ」
「なるほどなるほど」
「しかもなんだ、男の化粧が流行《はや》ってるっていうじゃねぇの? 男が女みてえに化粧するようになっちゃ、この世も終りだべ」
「終りですか」
「んだ。おしめぇだ。東京も、おしめぇだ」
「東京も、絶望的ですか?」
「んだ、んだ。人が多くて仕事はねぇ、土地が狭くて家はねぇ、どこもかしこも渋滞で、車に乗れば走らねぇ、排気ガスやら何やらで、空気は汚染できれいじゃねぇ。物価は決して安ぐはねぇ、とうてい人間の住めるところじゃねぇ」
「わかります、わかります」
「ほんとに、わかるのかね、東京の人間に、このひどさが」
「ところでカラオケバーには行きましたか? 念願だったでしょう?」
「行った行っただ、どご行っても、『俺ら東京さ行ぐだ』が大流行。笑っちゃうね、おら」
「でもうれしいでしょう」
「いんや、そうでねぇ。妙な|こんころもつ《ヽヽヽヽヽヽ》だな。なんでみんながそんなに東京さ、いぎでぇって騒ぐのか」
「憂鬱《ゆううつ》そうですね、イグゾーさん」
「んだ。おら、東京さ、きれぇだ。おら、田舎さけえりてぇだ」
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「女房を殺したくなる理由なんて、亭主の側には掃いて捨てるほどありますよ」
[#地から1字上げ]〈傷だらけの天使〉市川森一
私自身も、夫婦生活を二十年間やっているけれど、男というものはどうしてこう、こちらの神経を逆撫《さかな》ですることに長《た》けているのかと、思わない日はないし、次のようなことを亭主に言われると、かっときて咄嗟《とつさ》の殺人衝動を抑《おさ》えるのに苦労する。
〆切《しめき》りまぎわで、髪の毛を逆立てている私の背後に来て、ぬっと人差し指を突きだす亭主。
「…………? なによ」と邪魔《じやま》されて憮然《ぶぜん》と私。
「見ろよ」と夫。
「だから、あなたの人差し指がどうしたの」
「埃《ほこり》」
「そんなもの、どこからもってきたの」
「窓枠」
仕事の都合で、三日ばかり埃を払うひまがなかったのだ。
そういう時、私は亭主を殺したいほど、怒り心頭に発する。が、殺人は罪である。だからせいぜい眼の前に突きだされた埃つきの亭主の指を、ガブリと咬《か》みついてやるのである。
これはこっちから見た男の憎らしさであるが、相手もそれ相応に、こちらを憎々しく感じているのに相違ないと、時々私を見ている亭主の眼の色から察せられるのである。
「ずいぶん敵を持ったけれど、妻よ、お前のような奴は初めてだ」とイギリスの詩人、バイロンが、いみじくも言っている。私の亭主など手を打って喜びそうな言葉だが、「妻よ」を「夫よ」に変えれば、そのまま女の思いにもあてはまる。
「良い妻というのは夫が秘密にしたいと思っている些細《ささい》なことを常に知らぬふりをすること」とサマセット・モームは言うが、イギリス人というのは日本人以上に男尊女卑の人種である。とんでもないことで、結婚の平和を求めるのであれば、昨今の世の中夫の方こそ、妻の秘密を見て見ぬふりをするべきである。なぜなら夫の浮気は男の甲斐性《かいしよう》とかなんとか言ってウヤムヤに帰せるが、妻の浮気は夫の不名誉である。よほど出来た男でないかぎり、ウヤムヤにはしてもらえない。
同じイギリス人でも、物を公平に見る男もいるもので「その女が私の妻となった。つまり私が彼女を不幸にするとともに、また彼女が私を不幸にしたのだ」と、責任を半々にとろうとするウェルズという作家もいる。
そうかと思うと、ひどくふざけたのもある。
「四十歳になった女房について私の見解をいうならば、紙幣の両替と同様に、男はその女を二十歳の女二人と交換することもできるはずなのである」と言ったのは劇作家、ジェロルドというこれもイギリス男。
あっそう、どうぞどうぞ、一週間もしないうちに心臓|麻痺《まひ》で倒れるのがセキの山だから、どうぞご勝手に、二十歳の女二人とおはげみなさいまし。
その点、女なら四十歳の男を二十歳の男二人と交換すれば、これはもう桃源郷《とうげんきよう》である。
[#改ページ]
「ま、長い人生、いろんなことがあらぁな」
[#地から1字上げ]映画〈スローなブギにしてくれ〉藤田敏八
朝めざめると、女房の機嫌がすこぶるいい。そんなことは近年めったにないことだから、何が原因でご機嫌うるわしいのかわからないが――|あのこと《ヽヽヽヽ》を前夜いたしたわけでもないし。いたしたからといって、必ずしも次の朝上機嫌であるとはかぎらない。むしろいたした翌朝の方がかえって女房|憮然《ぶぜん》としているくらいだ。なにしろこっちは夏バテと仕事と、マンネリのせいで気力も情熱も根気もない――、いずれにしろ下手な詮索《せんさく》はヤブからヘビ、そっとしておくにこしたことはない。
「行ってくるよ」
「お帰りは?」
「このところ仕事がたてこんでいるからいつものように十二時前には帰れそうにもないよ。悪いね」
「ううん、いいのよ。じゃ簡単な夜食でも作っておくわ」
こんなことはめったにない。ふつうは玄関で夫が「あ」と言い(行ってくるよ、のつもり)、妻が寝巻き姿で頭なぞボリボリと掻《か》きながら、「ん」(こっちは行ってらっしゃい、のつもり)と言うだけ。あうんの夫婦である。
始まり良ければ全て良しで、仕事も上手《うま》く運んで、予定より大幅に早く終えた。調子にのって秘書課のイクコを誘うとこれまたOK。ついているついでに口説《くど》いてみるとこれまた「うふん」と色良い返事。
しかるべく手はずを整えて、二人はタクシーの中。ところが走りだしたと思ったら二つ目の交差点で、左折車にタクシーが追突。大事には至らなかったが、イクコのその気は、それで消滅。
「悪いけど、気が変っちゃった」とあっけなくも別の車を拾って闇《やみ》の中。運もこれまでかと、近くのバーでヤケ酒を飲んでいると、
「お一人?」とハスキーな声。みると妙齢の女。姿も悪くない。顔も、厚化粧だが、かなりの美形《びけい》だ。
「もちろん一人。二人に見えるかい?」などとハンフリー・ボガートを気取っての応答が功を奏してか、それはそれ、大人の男と女のこと、たちまち意志が通じあい連れだって再びホテルへ向う夜の道。用心して今度はタクシーではなく徒歩で近くの連れ込み宿。
いざ、いざ、いざ。「……。……? ……! ……ギャ」
一目散に部屋の外へ、ホテルの外へ。そういえばどうも様子が変だった。バーにいる時から息遣いが荒かった。声もハスキーだった。しかしまさか男とは。
気分すこぶる悪く憮然として、飲み直す気にもならず、ふと思い出すのは妻の顔。妻の微笑。ふとなごむ思い。日頃のつれなさに後悔の念が胸をはむ。
罪ほろぼしに今夜は、と、スシ折りなどを土産に家路を急ぐ夏の夜九時過ぎ。あら早いのね、とうれしそうに驚く妻の顔が眼にうかぶ。
「あら、早いのね」と妻は言うには言ったが、なにやらうろたえる気配《けはい》。髪が乱れ、瞳が充血している。
「どうかしたのか?」
「いえ、別に」と後ろを気にする様子。
「誰れかいるのか?」
「えっ? ああ、家庭教師のフジタ君」
「家庭教師がこの時間まで何をしていたんだ?」と、つのりくる疑惑を抑《おさ》えきれず、足早やに寝室へ。
案の定、乱れたベッド。あわてて服を着ている家庭教師のフジタ君。紙数が尽きたので、この後のことは想像におまかせする。ま、長い人生のうちには、色々あるんですね。
[#改ページ]
「よろしいんじゃないですか」
[#地から1字上げ]56年キンチョールのCM
「実はわたし、結婚することになったのよ」とタカコは女友だちに得意そうに打ちあけた。
「めったにおめにかかれないようないい男なのよ」
「いい男なのは良いけど、力とお金がなかりケリじゃないんでしょうね」と友だちは少し心配顔に訊《き》いた。
「と思うでしょ? だけど、いくらなんだってこのわたしが、お金もない男と結婚するわけないじゃないの」とタカコ。
「そりゃそうよ。ない、ない、絶対にないわよ」と妙に力説する友人。
「持ちもので人のこと判断しちゃいけないけど、彼はね、いつも総額にして軽く五千万円くらいのものを身につけている人なのよ。それも実にさり気なく」
「親の土地かなんか売った、にわか成金のお百姓息子じゃないの?」
「あのさり気なさや、板についた感じじゃ、違うわね。あれは生れつきのものよ。あの優雅さは」
「あなたほどの場数を踏んだひとが言うんだから、きっとそうなんでしょうよ」と女友だちはうらやましそうに言った。
「それにガツガツしたところが全くないのね。ひょうひょうとして。いいところの出だけにそなわった品格なのよ」
「これでいよいよ、あなたも良家の若奥さまね」
「そうなの。これまで、さんざん嫌なことも我慢したけど、やっとむくわれたわ」と、タカコは、その嫌な思いの数々を交換に手に入れたロレックスのオイスター・レディー・デイトジャトを、感慨深げに眺めるのだった。
「実は俺《おれ》、いよいよ結婚することにしたよ」とタミオが友達に語った。「ちょっとふるいつきたくなるようないい女なんだ」
「美人なのはいいけど、金持の娘なのか? おまえみたいな贅沢三昧《ぜいたくざんまい》になれた男を養っていけるのか?」
「俺がつまらん女にひっかかると思うのか? この俺がだよ」
「ま、絶対にないとは思うがね」
「当り前さ。女ってのはその身につけた持ちもので判断しちゃいけないんだ。もちろんセイコーよりロレックスがいいにきまっている。しかし同じロレックスでも、銀座あたりのバーの女がつけるのと、いいとこのお嬢さんがつけるのと、全然違うからね。さりげなく板についた感じというのがあるからね、彼女には。あれは本物。俺の眼に狂いはないね」
「まずはおめでとう。そのうち俺にもカミさんの実家の財産を食いつぶす片棒をかつがせてくれよ」と友人はタミオの肩を叩いた。
「俺もやっとむくわれたな。これまでさんざん金持のばあさん共を相手に、したくないこともして、はいつくばって生きてきたがこれでジゴロともお別れだ」
タミオは、屈辱と交換に手に入れた太い金のネックレスや数千万円はする金時計などを、思い入れをこめてみつめるのだった。海千に山千、お似合いで、ま、よろしいんじゃないですか。
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「あの声でとかげ食うかや時鳥《ほととぎす》」
[#地から1字上げ]其角
「ユキコさんて、なんていうのか、女の理想像に完璧《かんぺき》に近いね」
「まあ、そんな」とユキコは口元に白魚のような指をあてて微笑した。
「色白は七難《しちなん》を隠すっていうけど、ほんとうに、ぬけるように白いんだね。それに項《うなじ》がきれいだ」
「ホホホホ、恥ずかしいわ」
「天は二物を与えずって、あれ大嘘《おおうそ》だね。美人で頭が良く、それにテニス、スキーとスポーツもこなし」
「ほめすぎですわ、ホホ」と目元に漂う恥じらいの色。
「それだけじゃない。また声がいいんだ。鳥で言えばホトトギス」
「もうおやめになって。くすぐったいわ」
「だって事実だもの。それに何ていうか、あなたには排泄感《はいせつかん》みたいなものが、全然ないんだね」
「ハイセツカン?」
「つまり、トイレに駈《か》けこんで、オシッコしそうにはとても見えないってことさ」
「ま、ウフフフ。いやですわ」
「いかにもかよわいというか、はかな気《げ》で、ハシより重いもの持ったことないんじゃないの?」
「ウフフフフ」
「男に、このひとを守ってやりたい、と思わせるような何かを持っているんだよね」
「ウフ」
「さぞかしもてるんだろうね」
「それほどでも、ありませんのよ」
「片っぱしから、男どもは振られるんだろうな」
「お上手ばっかり」
「ユキコさんほどの美人を口説《くど》くのには、ちょっと勇気がいるね」
「そんなこと、おっしゃらないで」
「それにくらべると、ナツヨさんは」
「妹は?」
「ぜんぜん違うタイプだね」
「みなさん、そうおっしゃるわ」
「色は黒いし、お喋《しやべ》りだし。色気なんて、ぜんぜんない」
「ほんとうに、姉として心配ですの」
「そうそう、こないだね、ナツヨさんと飲みに行ったんだよ。バーのハシゴ。彼女すぐに立ち上るんだ。『どこ行くの?』って訊くと『おシッコ』実にあっけらかんとして言うんだよね」
「んま、はしたない子」
「ところでユキコさん」
「はい」
「おり入ってお話が」
「まあ、改まって……」
「あの、ボクの気持、もうわかって下さっていると思うんだけど」
「え? ええ……ええ、ええ、ホホホホ」ほんのりと頬を染めてうつむくユキコ。
「この際はっきり申し上げます。ボク、結婚したいんです」
「……は、はい」
「一眼《ひとめ》見た時から好きでした。ああいうタイプが理想なんだ。お姉さんから、ぜひナツヨさんに伝えて下さい」
「え? ナツヨ?」とたんにユキコの形相《ぎようそう》が著しく変ったのであった。
「ナツヨ? ナツヨとは何なのよ? ひとをバカにしなさんなっていうの」
「だから、つまり」と男はタジタジとなった。「つまり将を射《い》んとせば馬を、のたとえで」
「あたしが、ウマだっての? さっきはウグイスとか言わなかった? ふざけんなっつうの。つべこべ言って叩《たた》きだされないうちに、さっさと消えちまいなっつうの!」
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「腹が立ったら十まで数えよ。うんと腹が立ったら百まで数えよ」
[#地から1字上げ]ジェファーソン=アメリカの政治家
食卓の上でトーストの焼ける香ばしい匂い。インスタントコーヒーをカップに計り入れながら、妻が言う。
「せめて朝くらい、本物の美味《おい》しいコーヒーが飲みたいわね」
「ん? うん」
「だけどま、無理ね、あなたのお給料じゃ、ブルマンやモカは夢のまた夢よね」
「一、二、三、四……」
「あら、あらトースト焦げちゃったわ。どうしたのかしら、このトースター。もうガタがきている上に、あなたに似て気分屋なんだから」
妻、黒焦げのトーストを夫の皿に置く。
「……二、三、四……」と数えながら、バターを塗る夫。
「ママレードは?」
「あ、切れてるの」
「一、二、三……」
「お砂糖でも振りかけて食べたら? 同じようなものよ」
「……一二三四五六七。ミルクは?」
「さっき、起きぬけに冷たいのをグーッと飲んじゃった。ちょっと便秘ぎみなのよ、あたし。いいじゃないの、ブラックで飲みなさいよ。一回くらいミルクぬきだって、死にやしないわよ」
「四五、六七八九……朝刊は?」
「そこら辺にない?」妻、キョロキョロとあたりを見回す。
「あっ、そうだ思いだした。トイレだわ」
「一二三四五六七八九十!」
「何よ、そんな大声出すことはないでしょ? とってくればいいんでしょ、とってくれば!」
「そんなもの、読めるか、四、五、六七八……」
夫、怒って席を立ち、着替え始める。
「おい、またYシャツのボタンがとれてるぞ。何度言ったらわかるんだ」
「そんなこと、何であたしに言うのよ。クリーニング屋の責任じゃないの。文句ならクリーニング屋に言ってよね、ほんとに」
「一、二、三、四、五、六……ソックスがないよ、一足も。ソックスどうなってるんだ?」
「洗濯機の中じゃない?」
「一、二、三、四、五……」
「子供たちの宿題見るので精一杯なのよ。適当に洗濯機の中から引っぱりだして、もう一度はいたら?」
「五、六、七、八、九、十!!」
さて、とにかく夫は憤然と玄関へ。その背を妻の声が追う。
「ねえ、どうせ帰り遅いんでしょ? ご飯作らないわよ」
「……三、四、五、六……」
「たまには四、五日出張とかないの?」
「一二三四五六七八九」
「単身赴任とか、そういう可能性、ぜんぜんないの?」
「……四五、六七、八、九、十」
「とにかくさあ、この残暑で寝苦しいっていうのに毎晩帰ってくるんだから――。どっか、泊るとこないの?」
「一二三四………………………九六、九七、九八、九九、百! テメエ、言ワシトキャつべこべ勝手ナ事ヲヌカシヤガッテ。ブッ殺シテヤル! 離婚ダァ!!」
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「前にも言ったと思うけど、あなたって最低よ」
[#地から1字上げ]〈風の歌を聴け〉村上春樹
お見合いをして、結婚を前提のおつきあいに入ったエイコとシロー。
映画を観《み》た後、夕食でもということになった。
「何、食べましょうか」とエイコが訊《き》いた。
「ボク、別に、何でもいいけど」
「じゃイタリア料理なんて、どう?」
「それでも、かまわない」
「他に、食べたいものあるんなら、そっちでもいいのよ」
「いや、別に」
で、イタリア料理店へ。
「何にする?」とエイコがメニューを開けた。
「ボク、別に、何でもいいよ」
「じゃ、イカのスミ煮っていうの食べてみる?」
「え? スミ煮? 黒いやつ? そんなの、嫌だなあ」
「じゃオ・ソ・ブッコにする?」
「いいけど……。それ、なに?」
「牛の骨のズイの煮込み」
「ジョ、ジョーダンでしょ。遠慮するよ」
「それじゃごく普通のもの食べたら? スパゲティーでいい?」
「うん。ニンニク臭いから入れないやつね」
食事の途中で、シローふと訊いた。
「今、何時?」
「九時五十分」
「エー、嘘《うそ》ォ」と飛び上らんばかりのシロー。
「大変だ。ボク、帰らなくちゃ」
「だってまだ十時前よ。それにお食事まだ終ってないじゃない」呆気《あつけ》にとられるエイコ。
「でも、門限が……」
「門限って何時なの?」
「十時」
「だってあなた、小学生じゃあるまいし、幾つなのよ」驚きあきれるエイコなのだった。
「ボク、二十六」几帳面《きちようめん》に答えるシロー。
「そんなの無視しなさいよ」とエイコは抗議の口調。「大の男が、何が門限よ」
「でも、ママが……」
「ママが、どうなの?」
「叱《しか》られる」
「どう叱られるの?」
「お尻《しり》、ペンペン」
「嘘でしょ」と絶句するエイコ。
「ほんと。ボク、お尻イタイイタイ」
「冗談《じようだん》でしょ」
「悪いけど、送ってくれる?」とにもかくにも急いで帰るというシロー。
「私が、送るの?」
「夜の一人歩き、安全じゃないから」
それでもシローを家の前まで送りとどけて、エイコが言った。
「おやすみのキスくらい、しないの?」
「キ、キス?」顔色を変えるシロー。「そ、そんなこと出来ないよ」
「どうして?」
「そういうことは、結婚の日まで大事にとっておくものだって」
「そうママが言ったの?」
「うん」
「前にも言ったと思うけど」とエイコ、車のエンジンを入れながら言った。「あなたって最低よ」
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「女は灰になるまで恋をするんです、ヨーッ」
[#地から1字上げ]浦辺粂子
エリザベス・テイラーは、八回結婚しているが、まだ男にこりたというような発言はしていない。
たしかまだ五十代の後半だから、あと二回や三回、結婚しそうな感じである。
彼女ほどの絶世の美人で、世界的なスターで、なおかつ大金持なら、
「あれが好きよ」といえば|あれ《ヽヽ》が手に入り「これも好きだわ」といえば、|これ《ヽヽ》も即《そく》手に入る。
相手が十歳も年下であろうと、大スターであろうと、たとえ結婚している男であろうと、|好きよ《ヽヽヽ》となったら、たとえ奪い取ってでも、自分のものにすることができるのである。
彼女ほど美人ではないけれど、そして彼女ほどには大金持ではなかったかもしれないが、ココ・シャネルという女性は八十幾つまで生きて、直前まで男に恋をしていた。あのシャネル五番のシャネル女史である。
エリザベス・テイラーは恋をすると、結婚というかたちでそれを成就《じようじゆ》し、結婚生活の中でそれを燃え尽くし、すりへらしてしまったが、ココ・シャネルは生涯一度も結婚しなかった。恋だけをしてきたのである。
五十を過ぎた女が、と世間のひんしゅくをかうかもしれないが、たとえ六十になろうと七十になろうと、女は女なのである。
「もしもし、ケイタさん? 私、アヤコ」
「え? アヤコさん?」
「どうしてますの、その後?」
「あいかわらずですヨ、仕事もお金も人生も女も、もてあましぎみだ」
「あなたらしいのね。ところで、久しぶりにお逢いできないかしら?」
「うれしいね。アヤコさんと最後に逢ったのはいつだっけ?」
「三十五年ぐらい前かしら」
「なるほど。そりゃ、久しぶりだ。喜んでご一緒しますよ。どこでお逢いしようか?」
「それが、ちょっとあまり出歩けないのよ」
「健康がすぐれない? ああそうか、そろそろ更年期障害にさしかかるのかな、アヤコさんは」
「まッ、ひとを喜ばせてぇ。そんなのとっくに卒業しましたよ」
「え? まさか。そうだったかなぁ」
「とぼけて。いやですよ、相変らずね、ケイタさん」
「そうか。五十肩だな、アヤコさん。五十肩でしょう?」
「またまたお世辞を。もォ!」
「それにしても僕の居場所が、よくわかったねぇ」
「そりゃわかるわ。忘れようたって、忘れられないお方だもの、ケイタさんは」
「それは同じ思いだよ、アヤコさん」
「嘘《うそ》ばっかり。最後に裏切ったくせに」
「ハハハハ。もう時効だよ、時効ハハハ」
「デモ、私……、ウラメシイ……」
「え?」
「ウラメシヤ〜」
そこでケイタ老人ハッとする。
「もしもし、もしもしアヤコさん、あなた今どこから電話している?」
「……お墓の中、ヨーッ」
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「とにかくね、生きているのだからね、インチキやっているのに違いないのさ」
[#地から1字上げ]太宰治
ノブコの夫は几帳面《きちようめん》な男であった。遅くなる時は必ず自宅に電話を入れて、妻に言うのである。
「八時から十時頃まで銀座のソメノというバーにいる予定。電話は五六一の何々番だから、何かあったら連絡を頼む。その後、場所を移動するようだったら、また電話を入れるから。じゃ」という具合。
ウイークエンドも同じ調子。
「今週は〇〇社のヤマノ氏とゴルフ。場所は御殿場《ごてんば》のカントリークラブ。クラブの電話は、君、知っているよね。夜はプリンスホテルに一泊。ルームナンバーがわかり次第、連絡を入れる」
ある時、ノブコに、友人の女友だちから電話がかかった。
「ノブコさん? ちょっと話があるのよ」
「話って?」
「それがちょっと言いにくいんだけど、あなたのためだと思うから思いきって言うわね。実は――」
女がいるのだと言うのだった。
「偶然見かけちゃったのよ」
「それいつのこと?」と驚くノブコ。
「先週の土曜日。軽井沢で」
「軽井沢?」
「そうなの。あたし軽井沢でゴルフしてたのよ。そしたらさ、あなたの亭主がいるじゃないの。声を掛けようと思ったら、女連れなのよ」
「そんなはずないわ」とノブコ。
「あら、あたしが嘘《うそ》ついているとでも?」
「ううん、そうじゃなくて、あのひと、軽井沢じゃなくて、御殿場に行ってたはずだから。きっと人違いよ」
「御殿場? それ、確かめたの?」
「電話番号置いていったし、お相手はヤマノさんて方だから」
「それ真赤な嘘よ。あれは絶対にあなたの亭主にまちがいなかったわ」
「でも夜、箱根の主人から電話がかかってきたし、ヤマノさんともお話ししたわ」
「箱根からだと、どうしてわかるの?」
「主人がそう言ったもの、それにヤマノさんが……」
「あなた騙《だま》されてる」
「主人はそんな男《ひと》じゃないわ」
「じゃ聞くけど、あたしが軽井沢で見かけたひとは、誰れだったのかなあ?」
「ひと違いよ、きっと。よく似た人だったのよ」
「どうしてあたしがあなたの亭主を見まちがうのよ? 先週も逢ったばかりなのよ」
「先週? どこで?」
「あら、言わなかったっけ? 新宿《しんじゆく》で。偶然飲んでいる時に、彼が来たのよ」
「それ、何曜日のこと?」
「たしか、木曜日」
「そんなはずないわ。木曜日なら彼、銀座のソメノよ。その後は六本木に流れたから、新宿へは行っているはずないわ」
「すごい自信なのね、ノブコさん」
「あなたこそ、嘘ばっかり言うのね」
「そんなに信じないなら」と彼女がついに言った。「あなたの亭主の女っていうの、実はあたしなのよ。軽井沢へ一緒に行ったの、あたしなの。だから、この話、絶対に確かなのよ」
「あらまあ」としばし絶句するノブコ。「それじゃお互いさまじゃないの」
「え? お互いさま」
「そうよ。先週あなたたちが軽井沢とやらへ行った時、私誰れと葉山へ遊びに行ったと思う?」
「まさか」
「そうなの。まさかなのよ。あなたのご亭主」
とにかくインチキ、色々あるのであります。
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「だってこれは恋愛じゃないよ。言ってみれば過失だよ」
[#地から1字上げ]〈ポートノイの不満〉フィリップ・ロス
女が鼻につきだし、いやになってくると、男たちは言うのだ。
「あれは過ちだった。失敗だった、全てボクが悪いんだ」、と。
「だけどあなた、やっと理想の女にめぐりあえたと言ったじゃないの」
「だから、あれは過ちだった」
「一生離さないって」
「それも過ちだった」
「おまえのためなら死ぬこともできるって言ったでしょう、忘れたの?」
「それも同じく……」
「きみなしでは、一瞬も生きていけないとも言ったわ」
「同じく……」
「ボクの青春だ、ボクの命だ、ボクの郷愁だって」
「それも……」
「絶対に不幸にしない、悲しいめにはあわせないって、誓ったじゃないの」
「めんぼくない」
「死ぬ時は一緒だって。同じお墓に入るんだって」
「申し訳ない」
「何が起ろうと平気だ。幸福でも不幸でも、ボクは受け入れるって、言わなかった?」
「穴があったら入りたい」
「今年の初めに、手を握ったでしょう?」
「あれがそもそも失敗の始まりだった」
「二月にキスをしたわね」
「それも失敗だった」
「三月には、車の中でペッティング」
「失敗もいいところだ」
「そしてとうとう四月には全部を許したわ」
「それなんだ。失敗の最たるものは」
「私、妊娠したわ」
「あれは大失敗だった」
「結婚するからと言われて、泣く泣く手術したのよ」
「それ失敗」
「どっちが? 手術したこと?」
「違うよ、結婚するなんて言っちまったこと」
「ご両親にもお逢いしたわ」
「失敗、失敗」
「式場も日程もみんなきまっているのよ。一体どうしてくれるの?」
「何もかもボクが悪いんだ」
「ウエディングドレスもお色直しの着物も、出来て来てるのよ」
「ボクが悪い」
「お祝いの品も、次々に届いているわ。お友だちにも今さら何て言ったらいいの?」
「だからボクが」
「第一うちのパパやママが」
「悪いのはボクだよ」
「マンションの頭金――」
「悪いね」
「ハワイへの新婚旅行も」
「ほんと悪い悪い」
「結納金だって頂いてるし」
「悪いね……結納金? あ、それ、悪いけど返してくれる? ほんと悪いね、ゴメンゴメン」
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「いやだわ、まっぴら―、もう結婚なんかしません」
[#地から1字上げ]森光子
「三食昼寝つきの完全就職だと思ったから、結婚したのよ、アタシ」と、ミツコは憤然として言った。「それが聞くと見るとは大違い」
「昼寝なんてしているヒマなかったんでしょう」
と友人が同情をこめて言った。
「昼寝? したわよ毎日」
「あら、そ。じゃ三食ろくに食べられなかったとか?」
「食べたわよ、そりゃ。三食どころか十時におやつに夜食までびっしり食べに食べたわ」
「とすると、問題は?」
「亭主よ、亭主」
「まさか、あの方《ほう》が……?」
「それが、だめなのよ、ぜんぜん役立たず。夫としてまるきり機能しないんだから」
「人は見かけによらないものねえ」と友人は気の毒そうに溜息をつくのだった。
「でしょ? いかにもやれそうじゃない、あのひと、好きそうな顔しているし。このアタシでさえコロリと騙《だま》されたんだから」
「それじゃ仕方がないわね。運が悪かったと思ってあきらめるしかないわ。あちらの方《ほう》がだめなんじゃ一生がまんして暮らすってわけにもいかないもの」
「いかない、いかない。一生どころか一日も嫌よ」
「そりゃまあ、新婚なんだから、わかるけど……でもさ、何で事前にわからなかったの?」
「そんなこと一緒になってみなければわかるはずないでしょう?」
「だけど今の時代そんなこと言うほうが珍しいわよ。みんなやってるわよ」
「事前に?」
「当り前じゃないの。あなたほどのひとが、何もなかったなんて、それこそ信じられないわね」
「だっていくらなんだって訊《き》けないわよ。そんなこと。女のアタシの方から訊いたら、逃げられちゃうじゃない」
「何も女から言いだすことないわよ。そういうことは男の方から切り出すものじゃない?」
「へぇ、そうなの?」
「当り前よ。お食事を二、三回した後くらいに、彼、さりげなく仄《ほの》めかさなかったの?」
「ううん、ぜんぜん」
「普通はそうするけどねぇ」
「ちらとも仄めかさなかったわ。そうなのよねえ。その頃あやしいと気づいておくべきだったのよねぇ。あたしもウカツだったわ」
「手ぐらい握ったでしょ?」
「そりゃ握ったわよ」
「キスは?」
「そりゃするわよ。そんなもんじゃないもの、あたしたち」
「…………?」
「もう出逢ったその日から、即ホテルよ」
「え? え?」
「彼ったら激しいし、アタシも好きな方だから」
「何の話? あの方《ほう》、だめなんじゃなかったの?」
「あなたこそ、何の話よ? あらいやだ、あの方《ほう》って、あのこと? いやだ、いやだ違うわよ、あの方《ほう》のあのことじゃないの」
「じゃどのことよ?」
「掃除、洗濯まるでだめ。料理もだめ。後片づけも無器用でお皿割っちゃう。植木に水もやらない。脱いだら脱ぎっぱなし。ソックスも一人ではけない。煙草の火も自分でつけない。何かというとママのところへ電話する。マザコンのだめ男もいいところだったのよ」
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「新しい恋? 当分いいわ」
[#地から1字上げ]池田理代子
「リヨコさん、一言」とつきつけられるマイクを、うんざりしたように見ながら、リヨコが答える。
「何であたくしだけが、いつもいつもマスコミの餌食《えじき》になるの? なんで放っておいてくれないの?」
「それは、言われてみれば、なるほどそうだ」と、件《くだん》のマスコミ氏、殊の外物わかりがよく納得。
「わかりました、失礼しました」といさぎよくマイクを収めて退散しかける。
「あら、待って」リヨコなぜかあわてて引き止める。「何もそんな意味じゃないのよ、一般論を言ったまでで、あなたに対して個人的な恨みがあるわけじゃないのよ」
「あ、そうですか。では質問に一言」
「だから再三言っているように、あの件は三十を過ぎて相手のことが見ぬけなかった、あたくしがバカだったのよ」
「しかし、こんなこと言っては何ですが、口ではそう言うけど本心、少しもご自分をバカだなどと思っていらっしゃらないような印象を受けるのですが」
「それは誤解ね。世間はなぜかあたくしを誤解するみたい。どうしてなの? あたくしが美貌に生れついたのはあたくしの責任じゃないわ。頭が良く理知的なのも、生れつきよ。もしそのことで文句があるなら、神さまに言ったらいいのよ。天が二物をあたくしに与えたからって、そのことでやっかまれるのはフェアじゃないと思うんですよ」
「その後も次々と噂《うわさ》があるようですが?」
「単なる噂よ」
「しかし、火のないところに煙は立たないと言いますからね」
「あたくしだって女よ。まだ三十そこそこよ。男性とお食事くらいしますわ。いけません?」
「ところでどんな男性がお好きですか?」
「あたくしね、意外と面食いじゃないのよ」
「あ、それはわかります」
「頭が、カミソリみたいに切れる、というタイプも、嫌なのね」
「つまり、早く言えば、どちらかというと頭の悪いという……?」
「お金なんて、なくてもいいの」
「ジゴロとかヒモの類いですね……?」
「とにかくやさしいひとがいいの、それに結婚している男がいいわ」
「チヤホヤされたい……?」
「男ってね、本当は弱いのよ。女々《めめ》しいの。どこか破綻《はたん》しているのね。あたくし、そういう男のダメな部分に、とても弱いのよ」
「これからもそういう恋が続きそうですか?」
「それは相手次第よ」
「新しい恋は?」
「えっ? そんなもの、当分いいわ」
「どうもお忙しいところをありがとうございました」
インタビューが終った。突然リヨコが言った。
「あなた独身?」
「いいえ」
「ステキ。今夜おひま?」
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「笑う女を信用するな。泣く男を信用するな」
[#地から1字上げ]ウクライナの諺
「先週飲み過ぎてね、とんでもない失敗しちゃったよ。駅で転んでね」
「ブハハハハ」とマリコは笑った。
「打ちどころが悪くてしばらく身動きできなかったね」
「フフフ」
「そしたらさ、誰れかがそっと支えてくれてさ」
「ブフフ」
「それが妙齢の美人」
「プーッ、グハハハハハッ」
「アパートまで送ってくれるというんだ、彼女の車で」
「ハハッ」
「車はポルシェでさ」
「ハハハのハッ」
「いいっていうのに僕のアパートまで上りこんでさ、打ったところを冷たいタオルでひやしたり、撫でたりさすったり」
「撫でたりさすったり? ククククッ」
「そのうちこっちも妙な気分になってきてさ」
「ウヒヒヒヒ」
「気がついたら彼女とひとつになっていた」
「ブハーッ、やっちゃったの? その送ってきた女と? ヒャハハハハ、ハッハッ、ハッ」
「それ以来彼女はずっと僕のアパートに住んでいる」
「んマッ。ブハ、ブハ、ブハ」
「出逢いは偶然だが、僕たちの愛はなるべくしてなった必然の愛なんだ。マリコ、悪いけど君との婚約は破棄したい。許してくれ」
「つまりあたしと別れたいってこと?」とマリコはとたんに血相を変えた。「ならぬ、ならぬ、絶対に別れたりするものか。どうしても別れるというのならアタシ死んでやる。死にますからネッ」女の笑いは信用出来ない例。
「きのう飲み過ぎちゃったわ」
「また? もう君という女は……すぐ……グスン」
「飲むとあたし前後不覚になるタイプじゃない?」
「知ってる……グスン、グスン」
「気がついたら知らない部屋にいるじゃない」
「一度や二度じゃないんだから。トホホホホ」
「しかもベッドの中で丸裸。隣を見ればムクツケキ男の姿」
「んもお(と泣きじゃくるマスオ)」
「躰《からだ》に残るなんともいえぬ快感の生温かさ。しばらくうっとりしていたわ」
「ぬけぬけと……(と更に泣く)」
「結局、朝まで一睡もせず」
「そのムクツケキ男とか(止らぬ涙)」
「合うのよね、あたしたち。フィーリングというか、躰が。もう別れられないと思ったものね」
「ボクは、つまりお払い箱なのか(ヒステリックに泣く)」
「運命なのよ。仕方がないわ。許して」
「(ひたすら泣きじゃくる)」
「そんなに嘆き悲しまないで……」
「(ヨヨと泣く)」
「ね、お願いよ。こっちまで悲しくなるじゃないの」
「(身も世もなく、泣く)」
「わかったわ、わかったマスオ。もういいから泣き止んで。あたしが悪かった。浮気してごめん。別れたりしないから、ね? これからもあなたと恋人同士、いいでしょ? ね? ね?」
「(なぜか、絶望的に泣き伏す)」
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「疑心は安全の母である」
[#地から1字上げ]スキュデリ=フランスの作家
ベッドのことは、きっかけを失うと、なかなかきりだしにくいものである。
一番いいきっかけは、初対面も初対面、逢って五分後に切り出す方法。
「今夜、つきあう?」
言いかたはピンからキリまでで、ズバリ「君とやりたい」というのから「部屋、とろうか」と仄《ほの》めかすのまで色々あるが、要するに愛情とか恋心一切なしに、男と女の関係になろうというわけである。
普通のケースは、|お食事《ヽヽヽ》を二、三回した後に、男がさりげなく切りだす方法で(お食事を二度三度ともにするくらいだから女にもその気は充分あるわけで)十中八、九成功する。
お食事を三度ならず四度もした上で尚も|お断り《ヽヽヽ》する女は、早々に見切りをつけないと、文字通り食い逃げのおそれあり。彼女らは単に食欲のみでつきあっているのだから、見通しは遠いと思った方がいい。
お食事を二度三度四度したあたりで、|ベッドのこと《ヽヽヽヽヽヽ》を切り出し兼ねると、あとはもうずっと永久にお食事友だちの関係が続いてしまうという可能性なきにしもあらず。
マコトはその口であった。相手のウタコは内心ジリジリしていた。憎からず思っているわけだからお食事を共にしているのに、いっこうにお声がかからない。
「わたしのこと、お気に召さない?」などとカマをかけてみるのだが、
「嫌いだったら、こうして、十回も二十回も食事するわけないだろう……?」とうるんだ眼をする。
「今夜、わたし、帰らなくていいのよ」と、ついに彼女の方から誘いかけてみる。
「え? ほんと? 君、どこへ泊るの?」
「いやん、バカね。あなたと朝までいてもいいっていう意味よ」
「しかしそのことを、君のご両親はどう思うであろうか」
「どうも思いはしないわよ。熊本に住んでるんですもの」
「しかし電話がかかるということもある。夜半過ぎ娘がアパートに戻っていなかったら、さぞかし」
「電話なんてまずかかってこないわよ」
「万が一ということがある」
「ね、率直に聞くけど、わたしと寝たいの? 寝たくないの?」
「僕も男のはしくれだから」とマコトは口を濁す。「そりゃまあ、ムニャムニャ……」
「だったらいいじゃないの、ね? いきましょ?」
「しかしだね、君の気持はどうなの? こういうことは充分な愛情の裏づけがあってこそ行うことであるべきだよ」
「女のわたしの方からこうして誘っているのよ。気持くらい、察して欲しいわ」
なんとかマコトようやくその気になるが……。「ひょっとすると危いとか」とまだごねる。
「危いって?」
「ほら、その、排卵期とか」
「そういう心配はないの」
「え? 排卵しないの?」
「その時期じゃないってことよ、嫌だわ」
「それから念のために訊《き》いとくけど」
「なあに?」
「あの心配はないんだろうね?」
「どの心配?」
「各種性病とか、トリコモナスとかカンジダ症とか、それからごくたまにエイズとか」
「!」
石橋を叩《たた》いて渡るのも、過ぎたるは及ばざるがごとしの例えである。
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「男というものは、わが家から離れている時が、常に、一番陽気なものだ」
[#地から1字上げ]シェイクスピア
朝。
「あなた七時よ、会社に遅れるわよ」と妻の声。
……ブスと夫は起きだしてくる。
「また二日酔? じゃ朝食どうする」
「……コーヒー」
「今夜は?」
「……遅い」
「行ってらっしゃい」
「…………」苦虫をつぶしてのご出勤。
昼。
「ユウコちゃん、昼めし一緒に食べようかぁ?」同じ男とは思えぬ表情とはずんだ声。
「いいですけど、課長、ごちそうしてくれるんですか?」
「もちろん。なんでもごちそうしちゃう」
「そういうの用心しちゃうんだなぁ、あたし。何かコンタンあるんでしょ課長?」
「コンタンなんてありませんよ、嫌だな疑うなんてぇ」
「本当かなぁ? 信じられないなぁ」とユウコ。「あとでなにかあるんじゃない?」
「そりゃまあねえ。いずれは君とニャンニャンしたいとかなんとか思っちゃって、ウフ」
「でしょ?……」
「し、しかし、今すぐってわけじゃないから、今日は気軽にいこうよ」
「そんなこと言って、すぐに口説《くど》くんだから。こないだなんて、総務のキムラ係長ね、お昼食べながら今夜、君と、そのなんだ、男と女の関係になりたい≠ネんて言うのよ」
「ウ嘘《うそ》ォー」
「本当よ。だから男って嫌なの」
「そんなのフェアじゃない。キムラ君と僕とを一緒にしてくれちゃ困る。僕、傷ついちゃう」
「じゃ、お昼ごちそうになるだけよ? 指切りする?」
「ん。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ますッ」といたくはしゃぐのであった。
夜。バーにて。ホステス相手にさんざんいちゃついて、
「今夜こそ、僕と寝よう」
「イーさんとぉ?」
「ダメか?」
「あたし、面食いなのよぉ」
「ハハハハ、またしても振られたか。これで三振だな。しかしまだまだ僕はあきらめないぞ。君を口説いて口説いて、必ず口説き落してみせる」
「ま、がんばってみてちょうだい」
「言っとくけどさ、僕のような男と一度は寝てみるべきだよ。絶対後悔させない」
「ま、言うわねえ」
「本当さ。僕と一回でも寝た女は、もう絶対に離れられないって言うからね。自分で言うのもなんだけど、僕はかなりのテクニシャンで持久力も相当あるんだ」
「じゃそのうちにね、お手並拝見といくわ」
「そのうちなんてのんきなこと言ってると、他《ほか》の女の子を口説いちゃうよ」
「あら、どうぞ、どうぞ、どうぞ」
「冗、冗談、冗談。僕の好みはミカちゃん一人。ごめん謝る。そんなに膨れないで」
夜更け。再び人格が変ったようなご面相で、不機嫌なるご帰還。
「……フロ」
「……メシ」
「……ネル」
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「女の人っていうのは、正直いいまして、ぼくにはまだよくわからない面があります。試行錯誤でした」
[#地から1字上げ]小川宏
「スズキさん、少々アドバイスを願いたいのですが」と新人アナウンサーのヒロシが先輩を訪ねた。
「明日僕はある女流作家にインタビューしなくちゃならないんです」
「それは気の毒というか不運というか」
「僕は正直いってああいう種族をどう扱っていいかわからんのです」
「しかし女であることには変りはないんだから」スズキ氏が慰める。
「そうでしょうか、僕はそれすらも疑う時があるんです」
「ああいうおっかないおばさんたちは、知性だの理性だの哲学だの古典だの、そんなことを持ちだしちゃダメなの。こっちは負けるにきまっている。視聴者の前で恥をかきたくなかったら、相手の意表をつくことだね」
「意表?」
「そう意表。黒を白という。大を小という。醜を美とほめる。これみな意表」
「しかし」とヒロシは遠い眼をした。「女の作家に美しいひとが果しているだろうか?」
「嘘《うそ》でもいいんだよ、君。嘘も方便さ。きれいだと言われて喜ばん女は、おらんよ」スズキ先輩は自信をもってそう言い切ったのであった。
さて当日のモーニングショー。
「今日のお客さまは華麗な文体としゃれた都会的なアンニュイを描いてファンの多い……」さっそうと登場した女流作家を見て、ヒロシはハナから絶句。
「あのずいぶん色がお黒いですね?」
「あ、これテニス焼け」
「でもなんですな、そ、それくらい黒いと南洋じゃもてるでしょうね」
「なんであたしが南洋まで行かなくちゃならないのッ」
「し、しかし、イ、イメージが少々違いますね」
「それ、誉め言葉?」
「も、もちろん。お美しくていらっしゃる。つ、つまり、作家にしてはという意味ですが」
「ちょっと妙な言い方だわね。物事はストレートに言わなくちゃだめッ」とお説教。
「ですから、あの、僕が言わんとするのは、作家にしておくには、お、おしいような美人ですね、という意味でして。つ、つまり南国人のミクロネシア美人のですね、その、あの」
「形容詞が多すぎるッ」
「ス、スミマセン。しかしあれは何ですね、小説の主人公というのは全く創造の産物なんでしょうね」
「『小説とは根も葉もある嘘』なのッ。わかる? 知らないことは書けないッ。やったことのないことも書けないッ。体験なくして書けるものなんてひとつもないのッ」
「ス、すると、あの華麗な出来事の数々はすべてご体験ですか? し、しかし」ヒロシうろたえ気味。「しかし、そ、そのご面相で? そのス、スタイルで? その色黒で?」
「言っていいことと悪いことがあるッ!」女流作家は激怒のあまり台本を投げつけた。
「アッ、怒りました、怒りました」とヒロシ、カメラに向って喋り始めた。「ご覧下さい。女流作家が怒り狂っております。しかし、猛然と怒る女流作家の表情は一種感動的です。否怒れる美です。これで放送を終ります。XYZ」
「あんた」と女流作家が叫んだ。ヒロシ思わず首を縮めた。「今の最後の科白《せりふ》、頂きよ。怒れる美≠「い言葉ねえ。今度の小説に使うわ」
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「やっぱり巨人が強い方が世の中うまくいくんですよ」
[#地から1字上げ]王貞治
何を隠そう、私は巨人、大鵬、玉子焼≠フ口である。
しかし今の巨人のことは全く知らないし、王さんの時代の巨人≠フこともよく知らない。知っているのは川上哲治が四番打者だった頃《ころ》の、あの巨人軍のことなのである。川上哲治、知ってる?
ジャイアンツなどと片カナで書かれる巨人は私にとっては全く別の軍団なのだ。巨人軍《ヽヽヽ》でなければならぬ。水原監督や川上選手や千葉選手や青田や別所が現役だった時代。テレビはまだなくて、ラジオで「二十の扉」をやっていたあの頃。
紅梅キャラメル≠買うと、おまけにメンコがついてきて、そのメンコに憧《あこが》れの川上選手や水原監督や、宿敵の中西選手などの顔が印刷されていたのだ。
学校の校庭や家の庭で、毎日のようにメンコ合戦がくりひろげられた。私は断然巨人軍びいきで――美男子が多かったのだ――私のひきいる巨人軍は強かった! 川上も青田も別所も実によく活躍して、すり切れるまで頑張った。要するに女の子のくせに、私はメンコがめっぽう強かったのである。
実は野球など見たことはないのだ。球場へ行ったこともないし、今のようにテレビのナイターもないし、ラジオも聞かなかった。もっぱら「おもしろブック」といった子供むけの雑誌に載っている巨人軍に関するニュースをむさぼり読んだ程度である。「おもしろブック」には、少年王者というワクワクするような絵物語の冒険小説が載っていて、それが毎月の楽しみであった。従って、私の巨人軍は、メンコの巨人軍である。顔写真の軍団である。
メンコもなくなり、紅梅キャラメルも姿を消したが、今でも私は、どこが好きかと聞かれれば無条件に、反射的に「巨人軍!」と答える。強くて美男であればいいのだ。だから大鵬も好きなのだ。
従って、やっぱり巨人が強い方が世の中うまくいくんですよ≠ニ言った王貞治の言葉が、なんとなくよくわかる。んだ、んだと納得する。理屈など全然なし。
そのデンでいくと、
気分しだいで埼玉だって東京だ≠ニわめいた所ジョージの言葉も、同じ発想でよくわかるし、
戦車が恐くて赤いきつねが喰えるか≠ニ武田鉄矢が言った何かの広告も、わけがわからないなりに、なぜかすんなりとわかったような気がするんだなぁ。
しかし圧巻は、「異邦人」のカミュの言葉だ。
「私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも私は正しいのだ」
うーん、さすが、うむうむ、納得、脱帽という感じ。
であるから、巨人軍には頑張ってもらいたいし、大鵬も奮闘して欲しいのだ。エ? 大鵬はもう引退したの? えーッ!
[#改ページ]
「約束を守る最上の方法は、決して約束をしないことである」
[#地から1字上げ]ナポレオン
「ねぇ、こんなことになっちゃって、あたしもう他《ほか》の男《ひと》と結婚できないわ」とユウコがうつむいた。
「あなた、責任とってくれるでしょ? 結婚してくれるでしょ?」
「約束するのは、実に簡単だよ」とマコトが答えた。
「だけど約束を守り、実行するのが至難の業《わざ》なんだ」
「だから、どうなの? 結婚してくれるの、くれないの?」ユウコが不安そうに訊《き》いた。
「結婚するかどうかはこの際問題じゃない。結果として、君と結婚するということになるとしてだよ――」
「じゃ結婚してくれるのね!!」
「だからさ、僕が言わんとするのは、最後まで聞いてくれよ」
「あら、してくれないの?」
「する、しないの問題じゃないんだよ。わからないんだなぁ」
「するか、しないかしか答えはないじゃないの」
「それは女の発想さ。だから女と話し合いなんて金輪際《こんりんざい》出来っこないんだ」
「だから、するの、しないの、結婚ッ」
「あのね、ユウコ、落ち着いて最初から話しあおう。いいかい、僕は思うんだがね、男というものは、もし誠実でありたかったら未来に関するいかなる約束をもすべきではないと思うんだよ。それが男の誠意というものなんだ」
「要するに、結婚したくないってことねッ?」
「そうじゃない。誰《だ》れもしたくないなどと、言っていないよ」
「じゃ、する?」
「さっきから言ってるだろう、落ち着いてよく僕の言わんとすることを汲《く》み取ってもらいたい。僕の未来の妻になるなら、僕の物の考え方を理解してもらわなくては」
「未来の妻! それじゃ!!」
「早合点は困る。誰れもするとは言っていないぞ」
「んま、じゃしないの、結婚?」
「しないのは、結婚じゃなくて、未来に関する約束のことだよ。それは僕のある種の生き方というか、哲学に反するんだ」
「結婚することが?」
「違うよ、違うって。実行不可能な約束をする、ということがだよ。君もバカだぁ」
「実行不可能って、つまり結婚のことでしょ?」ますます疑惑が強まるユウコなのであった。
「約束のことだよ。何度言わせるの」
「何の約束よ?」
「だから、結婚の」
「ちょっと待ってよ、じゃ要するに、同じことじゃない、結婚の約束はしないってことじゃない。つまり、あたしと結婚しないってことじゃないのッ」
「それが短絡的な考えだっていうんだよ。いいかい、ユウコ、僕が言わんとすることはだね、結婚のことじゃないの、約束についてなの。初めからやり直すから、よく聞くんだよ、男というものはね、誠実であろうとしたらだねー」
「もういいわ。止めた、止めた、止めたッ。あんたみたいな人、大嫌いッ、結婚なんて、してくれなくて結構よッ、こっちから願い下げにしてもらいますからネッ」
「……ホッ……」
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「私は貧乏な会社の一介のサラリーマンでございまして、生活も意識も、
これまでと全く変わっておりません」
[#地から1字上げ]はて、誰れが言ったのでしょう?
昔々、ある所にお父さんとお母さんがおりました。お母さんは妊娠し、赤ちゃんを産みました。
その赤ちゃんというのが変った子供で、お母さんのお腹から取り出されると第一声にこう言ったとか言わなかったとか。
「あ、みなさま今晩ハ、わたくしが司会者の何の何兵衛です」
世の中には口から先に生れてきたような人物が本当にいるもので、彼がまさにそうだったのである。
何の何兵衛は長じてある貧乏会社の一介のサラリーマンとなり、口八丁手八丁、類《たぐ》いまれなる記憶力の良さを生かし、詭弁《きべん》を弄《ろう》して、出世街道をまっしぐら。ハゲ、デブ、メガネの三悪もものともせず、ついに花形サラリーマンになったのでありました。めでたし、めでたし。
と、ここで話が終われば良いのだが、人間誰れしも名声とか金銭に目が眩《くら》む。彼もその例外ではなかった。
自己顕示欲と金銭欲とを満たす最善の方法は、書くことである。それもむずかしい純文学などいくら書いても名声もお金も入ってこない。
大衆にむけて書くことである。書くというより語りかける。語りかけるというよりお説教するのがいい。今の世の中、誰れもかれもがだらけきっている。行儀作法も礼節も知らん。気配《きくば》りも出来ない。こんなことでは日本の将来は危ぶまれる。
正義感に燃えて、彼は書きまくった。
意外や本が当った。面白いほど売れに売れた。貧乏会社の支給する年間ボーナスの十倍もの印税が、がっぽがっぽと入り始めた。
一介の花形サラリーマンの名は日本の津々浦々まで広がり、彼は大金持となったのでありました。
と、ここで話が終れば、誰れも何にも言わないのだが、人間誰れしも、色々言ってみたいのである。言いわけをしたいのだ。
「ほらご覧なさい。わたくしは変ってなぞおりませんよ。そっくり返ったり、いばりちらしたりなどするわけがありません。記憶力の良さを鼻にかけたり、知識の豊かさを自慢したりするわけもない。仕事場も、全く以前と同じです。この通りごく普通の貧乏会社の一介のサラリーマンの仕事場の風景に過ぎません」
一介のサラリーマンというものは、普通は机の上を一応きちんと整頓《せいとん》して、他人の眼に見苦しくなくするものだが、それはそれ、花形だから、多少の乱雑さは許されて――
「でありますから、生活も意識も、これまでと全く変っておりません」
声はすれども姿は見せず。それもそのはず、山と積まれた資料、書物の類に埋もれて、花形氏は見えないのである。
よく言うよ。何が貧乏会社よ。何が一介のサラリーマンよ。
――NHKからの実況放送を終ります。
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「為せば成る為さねば成らぬ成る業を成らぬと捨つる人のはかなき」
[#地から1字上げ]武田信玄
ゴルフ? 嫌だね、あんな耳カキの大きなもんかついで草原一日中ほっつき歩くなんて、どこが面白いの、趣味じゃないね。
マージャン? やったことないよ、やる気も起らないし、第一、あれは何だね、やたらと不健康じゃないか、パイを睨《にら》みながらラーメンかきこむ姿なんて、いじ汚くて、ぞっとするね。
酒? あんなもん何が美味《うま》いの? ビールはなんだか馬の小便みたいだし、ウイスキーはガソリンの味がするしさ、大体何かに酔わなけりゃ生きてけないってのは、人間としてどこか弱いんだよ、欠陥があるんだ。酒のんでるくらいならミルク飲んで寝ちまった方が、はるかに健康的だしね。それに便通も良くなって翌朝は、快便よ、ハハハハ。
煙草《たばこ》? 百害あって一利なし。煙など吐き出して何が面白いの、僕ならどうせ吐くなら悪態かゲロを吐くね、嫌煙運動、結構だね。禁煙車も大賛成。できるなら全車輌《ぜんしやりよう》禁煙車にして、一台だけ喫煙車にすればいいと、ぼくは本気で考えているんだ。煙草|喫《の》みは、迷惑料として、周囲の者に罰金を払うようにすればなおいいんだ。
子供や赤んぼうの前で喫《す》ったら、死刑とかね。
趣味? 別にないね。テニスもやらんし、音楽鑑賞も気取ってるよ、映画も見ないし、芝居も行かない、読書なんて肩がこるだけで面白くもなんともない。
だいたいね、世の中面白くないんだよ。本当に面白い、いい本を書けば、人は読むさ。活字離れの時代だなんて言われてるけど、当り前の話なんだよね、書き手側に責任があるんだ、嘘《うそ》だと思ったら書いてみろっていうんだよ。
テレビ? およそつまらんね、吐き気がするよ。テレビ人間ってのはみんなアマチュアだね、プロの仕事じゃないよ、テレビ観るくらいなら天井眺めていた方が、ずっと楽しいからね、見てもらいたかったらね、タモリもサンマも鈴木健二も、みんな逆にこっちに金払えっていうの、いきなり人のうちの茶の間にズカズカ入りこんできて、言いたいこと言って、芸にもならないことをやって、高いギャラ取ってんだろ? 何かがまちがっているんだよね、まったく。
女? 冗談《じようだん》じゃないよ、女が同じ人類だっての、ぼくも信じないね、あれは化けもの、中には多少可愛らしい顔しているのもいるけど化けものには変りないからね、女三人寄れば身代《しんだい》が潰《つぶ》れる と言うよね、女の猿知恵 ってのもある。女の情けに蛇《へび》が住む ってのはどう?女子《じよし》と小人《しようじん》は養いがたし、近づければ不遜《ふそん》、遠ざければすなわち恨む と言ったのは孔子《こうし》だよね、女というものは黙っているときでさえ、嘘をつく というのはイスラエルの諺《ことわざ》。嫌だね、女は。
結婚? するわけないじゃない。訊《き》くだけヤボ!
友情? 信じないね、そんなもの。男なんてものは、一歩外へ出れば、全部敵。男の嫉妬《しつと》ってのはすさまじいよ、女々しいしね、男は足を引っぱるし。接触すればエイズになるし、くわばらくわばら。
なんで生きてるって? 答えは非常に簡単よ。死ぬのがバカらしいから。自殺もめんどうだしね。
[#改ページ]
「クリープを入れないコーヒーなんて」
[#地から1字上げ]森永製菓
「映画行こうよ」とケンジがガールフレンドを誘った。「『インドへの道』なんてどう?」
「いやよ、リチャード・ギアの出ない映画なんて」
ガールフレンドのモリナガ・セイコが答えた。
「じゃ飯でも食う?」
「内容にもよるけど」
「焼き肉なんかどう?」
「嫌よ、ワインのつかないお夕食なんて」モリナガ・セイコはひややかに答えた。
で、ケンジは無理をしてワインつきのディナーへ。
「スープのないコースなんて嫌よ」
「じゃスープ」
「サラダのないお食事なんて味気ないわ」
「じゃサラダも」
「もちろんメインコースのない夕食なんて、おかしいわね」
「うん、じゃメインコースも」
「デザートのないディナーなんて」
「わかったよ、何でも食いなよ、こうなったらやけっぱちだ」
「コーヒーのないお食事なんて」
「どうぞ、どうぞ、コーヒーでもなんでも飲んでくれ」
コーヒーが運ばれてくる。
「クリープ、入れないの?」ケンジが訊いた。
「クリープなんて、通の飲み方じゃないのよ、バカね」とモリナガ・セイコは笑った。
「クリープの入ったコーヒーなんて、ウフッ」
「じゃそろそろ行こうか?」
「どこへ」
「きまってるじゃないか、ホテル」
「いきなり? アルコールが入らないセックスなんて」
「わかったよ」
二人はホテルのバーで一杯飲み、予定のコースでベッドルームへ。
「シャワーに入らないで、いきなりなんて」とモリナガ・セイコがはやるケンジを制した。
「わかったよ、シャワーを浴びるよ、浴びればいいんだろう」
さていよいよベッドの中へ。
「嫌だ、ケンジ、バカみたい」とモリナガ・セイコが顔をしかめた。「前戯のないセックスなんて!」
「すればいいんだろう、すれば!」
「だけど、心のこもらない、形だけの前戯なんて」
「心をこめればいいんだろう? こめますよ」
「バック・グラウンド・ミュージックのないセックスなんて……」
「…………」
「適当に会話のないセックスなんて」
「…………」
「灯りのないセックスなんて」
「…………」
「どうしたの?」
「……その気がなくなった」
「まあ、その気のないセックスなんて! 失礼ね!」
モリナガ・セイコ、ふんぜんとベッドから起き上ったのでありました。
[#改ページ]
「だからセックスは天敵にしてるんだなぁ天敵よ、天敵」
[#地から1字上げ]MIE
まず「天敵」という言葉の正式な意味を調べ直してみよう。「新潮国語辞典」によると……「テンテキ【天敵】@ある生物にとって害敵となる生物。天然の敵」とある。
つまりある生物(すなわちミーという女性)にとっては、害を及ぼし、場合によっては生命をおびやかされる宿命的な敵なる生物(文字通り生きもの)ということになる。
ミーが生物の一種であることは、これはいい。しかし|セックス《ヽヽヽヽ》はこの場合|ある種の行為《ヽヽヽヽヽヽ》をさすもので、生物《ヽヽ》では絶対にない。従ってミーなる女性の言葉の使用法はまちがっている。だからおかしい、おもしろい、というわけである。
ではなぜミーなる女性にとってセックスが天敵なのか?
ミー自ら言うには、彼女は顔もよくないし、声もたいしてよくない、自慢できるのは躰《スタイル》だけである。
躰の線が崩れれば、即、失業に通じる。すなわち、パンの問題、生存の問題、死活の問題となってくる。躰の線を崩すわけには、断じていかないのである。
躰の線が崩れる、という言葉ですぐ頭に浮ぶのは、セックスである(ミーの場合)。従って、セックスは厳禁なのである。
要するにセックスをすると躰の線が崩れる(ミーの場合)。
躰の線が崩れると死活問題である(ミーの場合)。
だから、セックスは天敵である(ミーの場合)。
と、こうなる論法。
でも、しかし、かつてのブリジット・バルドーなんて、ぜったいに陰でセックスしていたと思うけど、躰の線、崩れていなかったなぁ。
ジェーン・フォンダだって、四十過ぎて立派に現役のスターだけど、躰、ぜんぜん崩れていないものね。結婚しているわけだから、当然性生活もあるわけだし(ともかぎらない例もあるけど、ジェーンの場合は、うまくいっていると思うのだ)。
マレーネ・ディートリッヒなんて、七十歳の時だって、ふるいつきたくなるようなきれいな肢《あし》していたもの。
日本人だって頑張っている。岸恵子だってきれいな躰の線しているし、五月みどりだってなかなか魅力的だ。
そりゃたとえば、エリザベス・テイラーみたいに八回も結婚して、セックス・ライフを満喫した女性もいるけど、今、彼女が見るに耐えないとしたら、それはセックスのやりすぎではなく、寄る年波と、美食のせいなのではないかと思うのだが。
そこでミーの|セックス天敵説《ヽヽヽヽヽヽヽ》というのは、根拠のない論法だと、言えるのではないか。そう言い切る自信はないが、できるなら根拠がないと、私などは心から信じたい口なので、そう祈りたい。
むしろ、適当に|あれ《ヽヽ》がないと、女はうるおいがなくなってしまうのではないかしら? そういえば、この頃、彼女、カサカサしていない?
[#改ページ]
「最初のデートのときは、ステーキをご馳走《ちそう》してくれたが、あとはよくてハンバーグ、いつもはラーメンばかりでした」
[#地から1字上げ]伊藤素子
初めてホストクラブに足を踏み入れた高木夫人。テーブルについたジョーというホストに一眼惚《ひとめぼ》れ。
「煙草《たばこ》、喫《す》いますか?」とジョーが訊ね夫人はコックリとうなずいた。すると彼は外国煙草の箱から二本ぬきとりそれを口にくわえた。
「あれ、ライター失《な》くしちゃったのかな?」苦笑してマッチで火をつけた。そして口先から高木夫人の分を一本ぬきとると、そっと手渡した。
男の唾液《だえき》でわずかに湿《しめ》っている喫口《すいくち》を唇に感じながら、初心《うぶ》な高木夫人、めくるめくような陶酔感にひたったのであった。
「おねがいがあるの?」
「何ですか?」
「あたくしにライター、プレゼントさせて下さる?」
「え? 悪いな」と輝くジョーの顔。
次の週、カルチェのライターがホストのジョーに贈られた。「どうも」と、ごくクールに彼はそれを受けとった。
さてまた次の週。
「ごめんなさい。僕また失くしちゃった。よくやるんですよ。せっかく買って頂いたのに」とえらく恐縮のてい。
「いいのよ、また買ってあげるから」夫人は明るく笑顔で答えた。
今度は国産のにした。カルチェを買ってまた失くされてはかなわないからだ。それを見てジョーの表情が一瞬白けた。
そのライターも結局紛失したらしい。
「よく失くすのね」と高木夫人はちらとジョーの横顔を見上げた。
さてその次の時。
「まさかまたライターじゃないんでしょうね」ジョーが顔を見るなり言った。
「あらどうして? どうせまたないんでしょ?」
「きりがないからいいですよ、ライターは」
「それが大丈夫なの」とニッコリ笑う夫人。
「当分これでまにあうと思うわ」
バッグを逆さまに振ると出てきたのは百円ライターが十コ。
「ね? これで来週まで何とかもつでしょ? それに失くしてもそんなに惜しくないから」
またまた次の週、行ってみると、ジョーの姿が見当らない。
「ジョーなら先週で止めましたよ」
「で、今どこに?」
あんなに貢《みつ》いだのに、貢ぎっぱなしでドロンされてはかなわない。高木夫人の顔色が変った。
「さあ」と店のマネージャーが首を傾《かし》げた。「確かなことはわからないけど」
「ええ、だから?」
「噂《うわさ》によると」
「噂によると?」
「新宿あたりに夜店を出しているとかいないとか」
「夜店を!! して、ジョーは夜店で何を売っているのですか」
「これも噂ですが」
「いいから」
「ライターを。ピンはカルチェ、ダンヒルから、キリは百円ライターまで」
「んマ」
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「ごめんなさい。私テニヲハに弱い女だもんで」
[#地から1字上げ]坂本スミ子
不倫の恋の現場をフォーカスされて、
「アタクシ、不倫《ふりん》って言葉好きじゃないわ」とスミ子は居直った。
「しかし、あなたも結婚していらっしゃる、相手の男性にも妻子があるとなると、これは立派に不倫じゃありませんか」と芸能リポーターがつめよった。
「不倫かどうか別にして、その言葉が好きじゃないって言ってるだけ」
「あなたがどう思おうと、事実は不倫ですよ」
「お食事をするだけで、どうしてそうきめつけるんですか?」スミ子断じて抗議の声。
「お食事をする時間と場所によるんですよ」とリポーター氏。
「NHKの食堂とか撮影所で慌しくラーメンとかAランチ食べてるっていうのならともかく」
「慌しく食べていたら良かったんですか? NHKの食堂で顔つきあわせてラーメン食べている不倫のカップルを、何人も知っているわよ」
「しかしですね、あなたの場合、深夜の十一時ですよ、それもキャンドルつきのディナーだ」
「あら、キャンドルがいけないのね」
「どうってことのない男と女だったら、そういう時間帯に額《ひたい》をつきあわせて食事はしないものでしょう?」
「額は、離れていたわ」
「ご主人は、そのことをご存知なのですか?」
「もちろん、Sさんは夫婦共通の友人ですから。そう友人ですよ、友人」
「それにしても単なる友人とは思えぬ親密な様子」
「いわゆる大人の関係ですから」
「大人の関係とは?」
「ですから、お互いに責任をもって」
「つまりお互いに責任をもつということは、ホテルへ行ってもいいということですか?」
「エ?」
「実はですね、ある信頼すべき情報によりますと、あなたと相手のS氏とはですね、午前零時十五分に、都内のホテルに別々に前後して入ったというんです」
「……まさか」
「そしてですね、きっかり一時間後に、まず男性が、そして十五分遅れてあなたが、地下の駐車場に現れたのを、目撃されています」
「だからといって、何があったというのですか? その一時間に、私たちが一緒の部屋に入っていたという、証拠でもあるんですか?」
「これが証拠です」リポーター氏は二枚の写真を示した。「四〇一号室へ入っていくS氏。こちらは同じく四〇一号のドアを押すあなた」
「で、で、でも」とあくまでも白《しら》を切り通すスミ子。
「たとえ、仮に同じ部屋にいたとしても」
「では認めるわけですね?」
「ですから、そうだとしても、お話をしていただけですわ、お話ですよ、してたのは」
「ところが、部屋の外に漏《も》れる物音及び声を録音したものがあるんですがね、お聞きになりますか」
「い、いえ、いいわ」
「では認めますか、不倫の件は?」
「エッ、マァ、その、ごめんなさい。私、テニヲハに弱い女だもんで」
☆ せっぱつまった時に言う科白《せりふ》。
[#改ページ]
「ねぇ、あなたのオヘソの匂いって、私のと同じよ。私アナタと暮らしてみることにする」
[#地から1字上げ]〈奇妙な愛〉落合恵子
マリコは今をときめくコピーライター。一行一千万円などという仕事にはまだありついたことはないが、まあ|それなり《ヽヽヽヽ》にスポンサーにもめぐまれ、同世代の女の子たちよりははるかに豊かな暮らしぶりなのであった。
そろそろ適齢期も最後のあたりを過ぎかかっていた。男に頼って生きていくつもりはないが、一人寝はやはり淋《さび》しい。特に秋の夜長など、とっても淋しい。
結婚は色々とめんどくさいし、周囲の例を見ても、働く女にとってはあまり割のあう生活ではない。好きな内はいいが、嫌いになった亭主のパンツを洗ったりクツシタ洗濯するなんて、耐え難い屈辱だと、マリコは思うわけなのだ。
ボーヴォワールとサルトルでいいじゃん、と自分にも言い、他人にも吹聴《ふいちよう》するのだが。
男に口説《くど》かれた経験が皆無ではないが、同世代の女にしては、もしかしたら少ないのではないか、とマリコはひそかに考えている。もっともあたしは同世代の女たちみたいに暇じゃないから。それにシナを作るとかコビを売るとかそういうの柄でもないし。第一知性が邪魔《じやま》をして、なんちゃって、グフッ。
待っていてはいっこうにラチがあかない。女が男を口説いて別に悪いということはない。法律で禁じられているわけでもない。
「だけどそれがむずかしいんだよね」と、マリコは悪友のヨウコとカフェバーで一杯やりながら溜息《ためいき》をついた。
「女になまじっか収入があると、こっちから気軽にっていうわけにもいかないからね」
「それにマリコは業界に顔も名前も知れてるし」とヨウコ。
「それほどでもないけどさぁ」とマリコは一応謙遜するが、「でもさ、その子の月給と同じくらいを、コピー一行で稼いじゃうとさぁ」
「わかるわかる。男の方じゃ気軽に誘えないわよね」
「でもお金のことは別にしてもよ、こんな仕事していると敬遠されるのよね、知的すぎるんじゃないかって」
「なるほどね。顔みりゃわかるのにね」
「何が?」
「いや、別に何でもないわ」
「もっとさ、色気とかさ、美貌《びぼう》とかさ、そういうところに着目してもらいたいと思ってんだわさ」
「誰れの!!」ヨウコ慄然《りつぜん》と悪友マリコを眺めた。
「エリザベス・テイラーなんて八回も結婚したのよぉ、同じ女としてさぁ、公平じゃないと思うのよね」
「同じ女、ねぇ」疑問そうなヨウコの声。
「違うの? 彼女、女でしょ?」
「彼女は、もちろんそうだけど」
「じゃ同じじゃない」
「でもねぇ、あの美貌とよ、あの名声と、それにあれだけの大金持だから、欲しいと思った男が手に入るのよ」
「似たようなものじゃない」
「誰れと!!」
「まあ、いいからさ」
「男が口説くの待っていてもだめだから、いっそあんたの方から口説いてみたら?」とヨウコが提案。
「な、なんてぇ!!」
「だってあんた、仮りにもコピーライターでしょ?」
「そ、そうだけど」
で、その晩、寝ないで考えに考えたのが、次の文句、
――ねぇ、あなたのおヘソの匂いって、私のと同じよ。私、アナタと暮らしてみることにする。――
結果はいかに?
[#改ページ]
「家庭の幸福は諸悪の本《もと》」
[#地から1字上げ]太宰治
オサムはエリート中のエリートサラリーマン。しかも役者にしても決して遜色《そんしよく》のないほど良き男。いつもダークなスーツがぴしりときまっている。
会社中の女の子が一度は必ず熱を上げるのだった。仕事ぶりはきりりとしているし、マナーはいいし、決して女の子に対してお茶! などと横柄《おうへい》な声を上げない。ちょっとセブンスター、買ってきてよ、とか、ひどいのになるとキャッシュカードで預金をおろしてきてよとか、そういう公私混同の類いもいっさいしない。その上花の三十代前半。
ヨシコはそんなオサムに一眼惚《ひとめぼ》れ。
「お願いします、つきあって下さい、好きなんです」とアタックもストレート。
するとオサムはあくまでもクールに、
「つきあうって、どのていどのことなのかなあ、断っておくけど、僕結婚しているのよ」
「いいんです、かまいません、てってい的につきあって頂きたいんです」
「てってい的にね」オサムは微笑し、それからうなずいた。
さて初めての逢引《あいびき》。都心のホテルのバーで落ち合うことになった。
ホテルのトイレで最後の化粧直しも念入りに、少し遅れて行くと既にオサムは来ていた。
ヨシコの姿を認めると、さりげなく立ち上り椅子《いす》を引いてくれる大人の心遣い。
とみると、オサムの前にはオレンジジュース。
「お酒、召し上らないの?」
「ん、僕だめなんだ」
「ぜんぜんだめなの?」
めっぽうアルコールには強いヨシコ、失望の思いを隠せない。
「かなり飲める口に見えるけど……」
「最近、止めたんだ」とオサム。
「じゃわたしも、トマトジュースを」と一応相手に調子を合わせる。
「ところでさ」とオサムが急に親密な感じで椅子を寄せる。今にも腕が相手に触れそうな近い距離。
「ええ……」ベッドのお誘いにはちと性急ではあるが、いずれは行きつくところへ行くわけだから、と眼を伏せて、待つ感じのヨシコ。
「こんなこと言うと、君に笑われそうだけど」
「いえ、笑いません、絶対」あわてて顔の前で手を振るヨシコ。誰れが笑ったりするものですか。
「バカにしてるとか、軽蔑《けいべつ》しないかなぁ」
「しませんって」
「ほんとかい?」
「ほんとうでーす」
「じゃ、これ」とやおらふところへ手。取りだしたるは何やら赤子の写真。
「これ?」肩すかしを食った気持で一枚の写真を見入るヨシコ。「何、これ?」
「僕の子」
とたんに相好が崩れ、全身これメロメロ。「この子のために酒やめたんだ」見れば見るほど猿に似て、どう誉めようもなくヨシコしばし絶句。
「こないだなんてね、おムツ替えてたら、顔にかけられちゃったよ、オシッコ」
そこには人格のすっかり変った|お父ちゃん《ヽヽヽヽヽ》の柔和な顔のみがあるのであった。だめだ、こりゃ。
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「ナイ、ナイ、ナイ。マジでっせ。本当にない話ですヮ」
[#地から1字上げ]明石家さんま
昔々あるところに明石家タローという男がおりました。
タローが波打ち際を歩いておりますと、子供たちが数人カメをいじめているではありませんか。
「このおにいちゃんにめんじて逃がしてやらんかいな?」
「地獄のサタも金しだいだからな」悪童ども。
「ホナ、千円で」
「ジョーダンでしょ。今ベッコウは貴重品だよ」
「ホナ一万円」
「もう一声」
「一万二百円」
「しょがない、売った」
というわけでタローはカメの命を救ったのでありました。
「お礼に海底遊歩にお連れしましょう」とカメが申し入れました。
「そんなけったいなとこ、行けますかいな」
「ピンクサロンもあります、ソープランドもポルノ館も」
「おサワリバーも?」
「もちろん、覗《のぞ》きバーも、ヌードショーも」
「行く、行く、すぐに行く」
助けたカメに連れられて、タローは海の中。
「してあのピンクの建てものは?」
「サロン龍宮城」
「そこへまいろう」
というわけで、酒池肉林《しゆちにくりん》の桃源郷。右をむいても左をむいてもタイ子やヒラメ子の舞い踊り、ものめずらしくも面白く、ハーレムの月日のたつのも夢のうち。
「タローさま、どうなさいました、浮かぬお顔?」
とある時タイ子。
「……ゲップ」
「まあ、ゲップだなんて、私たちに飽きましたの?」
「さわるな、もう満腹じゃ、見とうない、下《さが》れ下れ」
「そうおっしゃらず」
「グハッ。吐き気を催《もよお》すぞ、われは」
もう充分だ、うんざりだ、女には食傷《しよくしよう》したというわけで、再びカメの背へ。一途《いつと》向かうはなつかしの地上。
「世の中、変ったのう」見回すと林立するビル。走りまわる自動車。とたちまちあたりは黒山の人だかり。
「珍しい人が立っております。二百年前に忽然《こつぜん》と姿を消した幻の人、明石家さんです」マイクを持った男が近づいたのでありました。
「龍宮城はいかがでした?」
「疲れましたワ」
「タイやヒラメの舞い踊り。その上|選《よ》りどり見どりで、噂《うわさ》によると関係した魚は千人は下らないと?」
「エ? 魚?」タローの顔色が変りました。
「魚? ナイ、ナイ、ナイ! マジでっせ、本当にない話ですわ」
「そう言えばあなたもなんとなく、魚に似てきましたねぇ」
世を挙げてのタレント時代、明石家タローは、さんまと改名し、望むと望まざるとにかかわらず、茶の間の人気ものになったのでありました。
テレビをひねると、画面に例の顔が現れ、
「ナイ、ナイ、ナイ。マジでっせ」
めでたし、めでたし。
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「つきまとうわよ。…わるい女をつかんだわよ、あなた」
[#地から1字上げ]〈ハートブレイクなんて、へっちゃら〉片岡義男
タミヤ君、長年|同棲《どうせい》していた女に飽《あ》きがきた。
「そろそろ俺《おれ》たち、別れようか」
「エ? 別れる?」鏡の前で髪にブラシをあてていた女が、きっとなって振り返った。「好きな女でも出来たの?」
「はっきり言ってそうなんだ」とタミヤ君、悪びれずに答えた。
「うちの会社のクライアントの伊藤常務の娘でウメコというのがさ、俺にぞっこんなんだ」
「それで、乗りかえようってわけなのね?」
「ま、お互い五分五分、充分に楽しんだじゃないか」
「あたしを捨てようっていうのね?」
「まさか、ボロ布じゃあるまいし」
「でもそうなんでしょう? 使い古して、ボロボロにして、それでポイなんだわ」
女はブラシについた抜け毛をていねいに取ってチリカゴに入れながら言った。
「もっと自尊心のある女だと思ったがねぇ」とタミヤ君は嫌な顔をした。
「前々から情け知らずだとは思っていたのよ、邪険なひとね」
「何とでも言ってくれ、俺はおまえが嫌になった、だからお前と別れたい、そう言ってるんだ」
「それで済むと思うの?」
「ああ済むね。結婚しているわけでも女房でもない。気に入らなけりゃ、すぐにでも出て行けばいいんだ」
「どこへ行けと言うのよ?」
「どこへでも勝手に行ったらいいんだ」
「本気じゃないんでしょう? ねぇ、あたしをからかっているのよね?」
「それどころか」タミヤ君、吐きだすように言った。
「飽きたのね?」
「ああそうだ、飽きたね、うんざりだね、顔もみたくないね、触わるのも嫌だ」
「それほどまでに……」
「もっとはっきり言ってやろうか、おまえの体に飽きた、ああ飽きたね、ヘドが出るわ」
言葉もなく、じっと鏡の中をみつめる女。手が独りでに動き、無意識にブラッシングが続く。
「うらめしいわ」
タミヤ君、ふと女のブラシに注意を止めた。
「おい、おまえ、やけに毛が抜けるな」
「くやしいわいの、くやしいわいの」
「止めろよ、な、もう。さっきから毛がずいぶん抜け落ちて。やや、その落毛から、したたるなま血は」と顔色が蒼白《そうはく》となるタミヤ君。
「一念通さずにおくべきか」
ふと上げた女の顔。
ここで、鐘の音。どこからともなく、ゴーンとすごみのある響き。続く、ドロドロの音。
「や、や、やめろ、どうしたってんだ、何だその顔は!!」
「うらめしやー」
「やめろよ、ふざけるなよ、おイワ」
「もてあそんだ上に、ボロ布のように捨てるとは」
「やめろ、おイワ、助けてくれ」
タミヤ君腰をぬかして絶叫《ぜつきよう》。
「うらめしやー」お岩青ざめて……つきまとう。
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「結婚とメロンは、|ひょっとして《ヽヽヽヽヽヽ》うまいのに当ることがある」
[#地から1字上げ]スペインの諺
が、たいていは一生不作である。「よい結婚はあるが、楽しい結婚はめったにない」とラ・ロシュフコーというひとも言っている。
結婚を鳥籠《とりかご》にたとえた人もいる。モンテーニュだ。「外にいる鳥たちは徒《いたず》らに入ろうとし、中の鳥たちは徒らに出ようともがく」、というわけだ。
バーナード・ショーは一歩進めて、鳥籠がインコにとって自然でないと同じように、我々人間にとっても自然ではないと述べる。
「男は退屈から結婚する。女は物好きから結婚する。そして両方とも失望する」(オスカー・ワイルド)
ワイルドというのはイギリス人らしく皮肉な観察眼をもっている。彼はこうも言っている。「結婚とはまさしく相互の誤解にもとづくものである」と。あるいは「絶対に愛のない結婚より悪いことがひとつある。愛はあるが片方だけにあるような結婚である」
それでもまあなんとか一緒に暮らしていくとする。
「二十年もの情痴生活は、女性を廃墟のように見せる。二十年もの結婚生活は、女性を公共建築物のようなものに仕上げてしまう」これもオスカー・ワイルドの言であり、言い得て妙というか。
で、シェイクスピアは言うのだ。「尼寺へ行け」と。「なぜ男に連れそって罪ふかい人間どもを生みたがるのだ?」
我が日本人は楽天的だ。「妻をめとらば才たけて顔《みめ》うるわしくなさけある」と鉄幹は言う。が同じ邦人でも冷《さ》めた人もいるにはいる。「男子は、結婚によって女子の賢を知り、女子は、結婚によって男子の愚を知る」(長谷川如是閑という評論家)
では、そんなにまで問題をかかえた結婚を、人間はなぜするのだろうか。ギリシャの哲学者ソクラテスに質問してみよう。
「結婚したほうがいいのか、それともしない方がいいのかと問われるならば、わたしは、どちらにしても後悔するだろう、と答える」と、さすが奥深い解答ぶり。
チェホフはこう忠告している。ご参考までに。「孤独が怖ければ、結婚するな」わかるわかる。|ひ近《ヽヽ》な例では石野真子がこう言っている。「ふたりでいても寂しいなぁって感じるようになって……」彼女は離婚した。
ではどうすれば、結婚をなんとか維持できるのであろうか。トーマス・フラーというイギリスの警句家に訊く。
「結婚前には両眼を大きく開いて見よ。結婚してからは片眼を閉じよ」
それに従って片眼で見てはいるんだけど、それでも色々見えてしまうんですよ、フラーさん。
さて、とどめの一言。
「男が一生で喜びを受ける日が二日ある。ひとつは彼女と結婚する日、もうひとつは、彼女の葬儀に立ち会う日」(ピポナックス)
でもこれ、男と女を入れかえても成立しますね。
[#改ページ]
「一を聞いて十を知る」
「こないださ観た映画――」
「あっ『インドへの道』ね」
「違うわよ、TVでやった奴《やつ》よ」
「わかった、『ロッキーU』あたしも見た見た」
「『ロッキーU』じゃないの、『クレイマー』」
「そうそう、あの子供可愛かったわねえ」
「子役じゃなくてさ」
「ダスティン・ホフマン? あのひと、あたしわりと好きよ」
「違うって」
「なんだ女優。あれはたしか――」
「女優じゃないのよ。作るでしょ、二人で、父と子が、ほら、パンケーキ」
「なんの話よ?」
「こっちもわからなくなっちゃったじゃないの」
「そうなのよ、あたしって、一を聞いて十を知るってタイプでしょ、鼻から眼にぬけるというか――」
「よく言うわね。たんにそそっかしいだけじゃないの、早のみこみっていうの、そういうの」
さて、別の時。
「話があるんだけど」と何時になく深刻な恋人の表情。
「さては、女ができたのね?」とピン子。
「なんでそういう話になるの?」と呆然《ぼうぜん》とする恋人。
「あら違うの? じゃ男ができたの?」
「ホモじゃないんだよ、僕は」
「じゃ何が出来たのよ、おでき?」
「誰れも何かが出来たなんて言ってないじゃないか。実はね」
「言わないで、わかったわ」と涙ぐむピン子。
「ほんとうに?」
「婚約を取り消したいのね?」
「違うよ、バカだな」
「あら、じゃあのことね?」
「何のこと?」
「あれがばれたのね?」
「?」
「本気じゃなかったのよ、ほんの出来心だったの」ピン子俄然《がぜん》しょんぼり。
「出来心?」
「許して。たった一度の火遊び、まちがい、ミステーク。交通事故だと思って堪忍《かんにん》して」
「エ? エ?」
「シミズ君との浮気のことじゃないの?」
「したのか、浮気?」
「エ、違うの?」
「そんな女だとは夢にも思わなかった」
「あたしはてっきり」
「許せない。よりにもよって浮気とは」
「別れるっていうのね?」
「当りッ」
初めての当りでありました。一を知って十を知るより、まず最初の一が何であるか、とくと確認することが大切。
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「物言えば唇さむし秋の風」
[#地から1字上げ]芭蕉
男にも、結婚したい病《やまい》があるみたいで、この病気にかかると、もう女なら誰でもいいという感じ。
「ねえ、ねえ、俺と結婚しない?」とノリオは秘書課のA子と、廊下ですれちがいぎわに言った。
するとA子は何を思ったか後ろなど振りむいて、「え? あたし?」などと訊いたのだ。
「他《ほか》に、女の子いないだろ? 調子狂っちゃうよ」
「お断り。カフェバー誘うみたいな言い方しないでよね」
言い方が悪いのかと、ノリオ反省。水のみ場のB子に近づいて言った。
「僕のためにミソ汁毎朝作ってくれる気ある?」
「ないわね」B子さっさとその場から歩み去ってチョン。B子は多分パン食党なのだろうとノリオはお茶汲《ちやく》みのC子の方へ。
「ねぇ、突然で何だけど、よかったらボクの子供生んでよ」
「きゃ、気持わるいッ」C子すっとんで消えてしまった。柔軟なのがいけなかったのかとノリオしばし黙考。そこへD子がコピーの山を両腕に通りかかった。
「おッ、D子、おまえ、俺についてこい!」
「お茶ごちそうしてくれるの?」
「バカ、結婚だ」
「バカはそっちッ」D子大またに歩み去る。
ゴーマンなのも効果なし。それではこの手で、とノリオは受けつけ嬢のE子にプロポーズ。
「E子ちゃん、あのね、他に好きな人がいなかったらさ、ボクと一緒にお墓に入らない?」
「え? 何であたしがいきなり死ななけりゃならないの!! アホッ」
「それならばF子、結婚してくれたらオレ、炊事でもそうじでも洗濯でも何でもしちゃう、F子のパンツも洗っちゃう」
「ヘンタイ!」
「じゃG子、キミ、オレのパンツ洗ってくれ!」
「ナヌ? 今何つったの?」
「あの、出来ることなら、ボクのパンツをでありますね、洗って頂きたいと……」
「なんでアタシがあんたのパンツを洗わにゃならんのよ!!」
「ですから、できることならと」
「できるわけないだろが。テメーのパンツぐらい自分で洗えつうの!」
「洗う、洗う、洗いますよ、何もそんなおっかない顔して怒鳴らないでもいいでしょう」とほうほうのていで逃げだすノリオ。
すっかり自信喪失の態《てい》。
「あのお」
「え?」とH子机の上から顔を上げる。
「こんなボクでよかったら」
「…………?」
「ボクでよろしかったら……」
「だから、何なのよ、はっきりしてよね、はっきりッ」
「もらって頂きたいと……」
「だから何を!」
「あの、ボクをです……」
「そんなもの、いるか!」
秋は時期が悪いんだろうな、プロポーズは春まで待つか、とノリオ、すごすごと引き下った。
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「腕白でもいい、たくましく育ってほしい」
[#地から1字上げ]丸大ハム
ダイサクはコンピューター関係の営業マン。大学時代はサッカー部の花形選手だった。身長百八十センチ、逆三角形の体形、色あくまでも浅黒くきりっとひきしまった美形《びけい》。
しかも独身。女の子が放っておくわけがない。
よりどりみどり、きれいどころがずらりと並んだ中で、ダイサクの心を射とめたのはなんと、人事課のオールドミス、ウタコであった。
「何でよりにもよってえ」とあちこちで悪意のある陰口が囁《ささや》かれた。「年上じゃないの、おばんじゃないの」
「それにブスだわさ」
「ペチャパイだし」
「知ってる? 課長と出来てたって噂《うわさ》もあるし」
「でもばっちし貯め込んでいそうなタイプね」
などとひそひそがやがやそのうるさいこと。
しかし、当の本人ダイサクは今や真剣なのであった。
何度かデイトを重ね、やがてプロポーズ。
「こないだボクの|ハハ《ヽヽ》に会ってもらったよね」と遠回しに本題へと。
「……ええ」
「|ハハ《ヽヽ》はさ、キミのことかなり気に入っているんだ」
「……そう」
「キミとなら、なんとかうまくやっていけるんじゃないかって、言うんだよ、|ハハ《ヽヽ》は」
「……えェ」
「ああ見えても悪い人間じゃないからね」
「……ええ、まあ」
「きっとキミを幸せにしてあげれると思うんだ」
「……お母さま、が?」
「うん、|ハハ《ヽヽ》はキミを実の娘みたいに思い始めているからね」
「……そ」
「絶対に裏切ったり悲しいめにあわせたりしないって誓うってさ」
「誰れが? お母さま?」
「もちろん。|ハハ《ヽヽ》は、本当はキミに首ったけなんだ」
「…………」
「あんな|ハハ《ヽヽ》でよかったら、結婚してくれないか?」
「……誰れと? お母さま、と?」
「まさか、ハハハハ、冗談きついね。いくらなんだってそんな」
「でもなんだかそんな気がするのよね」
「ハハはきっとキミを大事にするから」
「お母さま、がね……」
「愛しているんだ、ハハは」
「……あなたはどうなのよ」
「結婚したいんだ」
「と、お母さまが希望しているわけね?」
「そうだけど。どうしたの? 気乗りしないみたいだね?」
会社では、なぜウタコがダイサクのプロポーズをしりぞけたのか、しばらくの間ケンケンゴーゴーでありました。
[#改ページ]
「眠くなるしねぇ。でも寝てると怒られるし…何かしていないとねぇ」
[#地から1字上げ]内海建設大臣
「ウツミさん起きてよ」と映画館の暗がりの中でミヨコが囁《ささや》いた。「ダメじゃないの、眠ったりしちゃ。あたし恥ずかしいわ」
「エ? 僕、眠ってた?」
「すごいイビキかいてたわよ」
「ごめんごめん」
「映画館に来たんだから、ちゃんと映画観なきゃだめ!」
「うん、わかった。ごめんね」
「……ま、ウツミさん、何してるの?」
「だって」
「その手をスカートの中から抜いてちょうだい」
「ごめんごめん」
しばらく画面をみつめる二人。
「また、ウツミさん! 起きてよッ」
「ハッ、ハイ」
さて映画が終り、食事も済み、一杯飲みに。
「ウツミさんてば……」とバーのカウンターでミヨコが揺り起した。
「悪い悪い」頭を掻《か》くウツミ君。「腹はくちくなるし、酔いは回るし、いい気持なもんで、ついウトウト」
「だめでしょ? ウトウトしちゃ」
「わかっている、ごめんね」
「ウツミさん」としばらくしてまたしてもミヨコが文句を言った。「ビンボーユスリ、止めてくれる?」
「あっ、ハイ」
「爪咬《つめか》むのも、止めなさいよ、みっともないわ」
「気がつかなかった」
「ウツミさんッ」
「ごめんごめん、またウトウトしちゃった」
「何でそんなに髪の毛掻きむしるの?」
「ヤメル、ヤメル」
「ピーナツのおかわりそれで四皿めよ」
「何かしてないとね、つい眠くなるんだ」
「鼻唄《はなうた》は人のめいわく。カラオケバーじゃないんだから。あら、マ、また。ウツミさん、眼を覚してよ」
「めんぼくない」
さて秋の夜長。これといってすることもなく、それで若い二人はなんとなくホテルへ。
「ウツミさん?」
「…………」
「ウツミさん!」
「…………」
「ウツミさんッ」
「ア、ごめんごめん。ボクまた眠ってた?」
「失礼しちゃうわ。一体ここに何しに来たと思ってるの」
「わかっています。努力してみます」
「ウツミさん……?」
「…………」
「ウツミさん、一体あなたなにしてるの?」
「あの、マンガを……」
「マンガ描いて、どうするの?」
「眠ると怒られるし、何かしていないと……」
「他《ほか》にすることがあるでしょうがッ、他にィッ」
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「私、ネクラだって言われるんですよ。でも人間って誰しも本来ネクラだと思うのよネ」
[#地から1字上げ]山田邦子
「クニコさん、今夜飲みにつきあってよ」
とトオルが誘った。
「……今夜? どうしようかしら」
「用でもあるの?」
「……別にないけど、なんとなく……」
「じゃいいじゃないか、行こうよ、ね? ね?」
と無理矢理一杯飲み屋へ。
「前々から、キミのこと気になってたんだけどさあ」
「……わたしの髪形、変だからでしょう」
「違うよ。そんなんじゃない」
「でもわたし、ブスだから」
「人間顔じゃない、心だよ」
「わたしの心の中、知らないからそんなこと言うのよ」
「見れば人柄はわかるよ。ほら眼は心の窓っていうじゃないか」
「わたしの眼、一重《ひとえ》でつり上ってるし」
「そんなこと、ぜんぜんかまわないよ、僕は」
「顔は長いし、胸はぺっちゃんこだし」
「問題ないって」
「それにわたし、お料理がまるっきり出来ないの」
「いいんじゃないの」
「おそうじも。針を持つと指さしてしまうし」
「可愛気《げ》があっていい、いい」
「なんだかバカにされているみたい……」
「そんなことないって」
「あたしのこと、騙《だま》すつもりなら、簡単よ、わたしって、すぐ人を信じるから、コロリと騙されるの。今までだってそうして何人の人に騙されたか……」
「騙しゃしないって」
「もうボロボロなのよ、身も心も、ほんとよ……」
「これからだよ、人生」
「そう思う? あたしは信じないけどね」
「まだ若いんだもの」
「もうおばんよ……」
「そんなことないって。いいから君のことは僕にまかせないか?」
「とかなんとか言って、あとでポイでしょう?」
「物事、もっと楽天的に考えようよ、悪いようにはしないからさ」
「うまいこと言って……」
「絶対に傷つけたりしないから」
「いいのよ、どうせもう傷だらけの人生ですもの。傷がひとつ増えたって、どうってことないわ……」
「またまた、暗いんだよ、クニコは」
「みんなそう言うわ」
「いいから僕についてこいよ。きっとうまくいくって」
「でもねぇ、わたし持参金なんてないのよ……」
「持参金?」
「あるのはこの顔とこの体とこの声だけ」
「それだけで充分だよ」
「嘘《うそ》ばっかり言って……」
「クニコのその顔とその体とその声があれば立派なタレントになれるよ」
「エ? タレント? なんだ、結婚の話じゃなかったの……」
「オイ、そんな暗ーい顔するなって、な、ね? ね?」
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「大胆なご意見ありがとうございました」
[#地から1字上げ]サントリーのCMで藤島親方
結婚式もなんとか終り、成田空港に向かう車の中。
「ほんとにくだらないわね、披露宴」
「全くだ」新郎も同意する。
「キャンドル・サービスなんてお笑いだよな」
「それよりポルシェのオープンカーで二人が登場するシーンよ、完全に見世物だわよ」
「ちょっと浮かれ過ぎだよな」
「今度結婚する時は、ああいうこと一切、やりたくないわね」
「同感」
「とかなんとか言って、あなた結構楽しんでいたじゃないの」と新婦、声に皮肉を含ませる。「オープンカーから下りる時なんて、Vサイン作っちゃって愛敬《あいきよう》ふりまいたりして」
「そういうキミだって、タレント気取りでさ」
「言うわね。そっちみたいにヘラヘラペコペコしませんでしたからね、まるで選挙中の田舎《いなか》議員みたいなんだもの。まいっちゃう」
「よく言うよ、そっちは松田聖子を気取ったつもりかもしれないけど」
「それが何よ?」
「松田聖子のお袋さんかと思うよ、な」
「それじゃ言わしてもらうけど」
「どうぞどうぞ」
「あのお色直しで着たあなたの白いタキシード姿、はっきり言って思わず吹きだしそうになったわ」
「そうかい。ボクはアメリカン・ジゴロのリチャード・ギアを気取ったつもりだったがね」
「冗談でしょ。どうみたってどさ回りの三流演歌歌手って風情《ふぜい》だったわよ」
「ということなら、こっちも正直な感想を言うけどね、キミのお色直しのピンクのヒラヒラ」
「フランス製で六十万円のイヴニングドレスよ」
「どう見てもキャバレーの二流ホステスってところだった」
「言ったわねッ」
「おお言ったッ」
「あたしが知らないと思って、前の恋人の女を招待していたくせに」
「そっちは何だい。不倫の相手の課長だか係長だかに、堂々とスピーチさせたくせに」
「そうそう、あなたのお母サマの派手だったこと。あれじゃオオヤマサコだって顔色《がんしよく》なしってところね」
「そっちのお袋さんは、黒いスーツに真珠の首飾りだもんな。葬式とまちがえたんじゃないのかねえ」
「自分の結婚式みたいな格好してくるお母サマよりましよ」
「死んだ魚みたいなお袋さんがかい」
「何よ、デクノボウのくせして」
「ウスラデブ」
「メガネザル」
「ブス」
「言ったわね。アデランス!」
「や、やや許せない。運転手さん、Uターン!」
[#改ページ]
「死んでもらいます」
[#地から1字上げ]高倉健
A「景気どう、この頃」
B「それがよくないのよ、どうしてだかねぇ」
A「顔に出ている」
B「投資しないかって言われてさ」
A「したのか」
B「うまい話だと思ったんだよ」
A「うまい話ってのは疑えという諺《ことわざ》があるじゃないか」
B「ころりと騙《だま》されてさ」
A「持ってかれたのか」
B「全財産」
A「大袈裟《おおげさ》だな、財産てほどのものなんて持ってないくせに」
B「しかし全預金だぞ」
A「幾ら?」
B「二万四千五百円」
A「それですってんてんか?」
B「文無し。家でも何でも売りとばしたい」
A「貸アパートのくせに」
B「じゃ女房だ」
A「あの顔じゃ買い手がないよ」
B「ランチつけるから」
A「いいって」
B「じゃデザートにコーヒーもつけちゃう」
A「何つけてもダメ! 欲しくない! それより」
B「それより?」
A「そんなにカミさんが厭《いや》なら」
B「厭だねぇ、厭だ厭だ」
A「あの手があるじゃないか」とA、Bの耳にゴソゴソ。
B「!! 保険金殺人!!」
A「声が高いよ」
B「しかしねぇ、殺人はねぇ」
A「自分でやる必要はないさ」
B「エ? そうなの」
A「保険金かけたら、まず亭主が疑われる。まるきり面識のない第三者をやとって殺《や》らせる。ぜったいにバレないね」
B「なるほど。……しかしねえ、そんな第三者がいるかねぇ」
A「ここにいる」
B「おたく?」
A「そう」
B「そ、そういえば、おたく、どなたでしたっけ?」
A「ま、いいじゃないか。知らないほうが、あとあとのため」
B「し、しかし、女房の顔のことなど知っていて」
A「ま、それもいいじゃないか。で、どうする?」
B「どうするって?」
A「カミさん殺《や》るの、殺らないの」
B「どうしよう」
A「報酬は保険金の半額」
Bしばし悩む風情。
A「厭なカミさんがいなくなり大金がころがりこむんだぜ」
B「やるッ」とついに決意。
A「で、保険金は、いくら?」とポケットより掛金表をとりだす。B、しばらくふところ具合と相談。
B「三千万くらいが、せいぜいかなぁ」
A「なに? それっぽっち?」
B「何にしろ保険料の現金の持ち合わせがないんで」
A「じゃ、カミさんの話の方が有利だな」とA、無気味な一人言。「死んでもらおうか」と、いきなり刃物をとりだすとBの胸元へブスリ。
B「……! どうしてこうなるの!!」と虫の息で絶叫《ぜつきよう》。
A「実はカミさんに頼まれた。俺《おれ》はどっちでもかまわない。保険金の高い方を殺《や》る」
B「……して……女房の……掛金……は?」
A「五千万」
B「…………」B、すでにこときれていた。
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「初めてあなたを見た時、この人だと思ったわ」
[#地から1字上げ]〈死ぬのは奴らだ〉イアン・フレミング
「今日は折り入ってお話があるんだけど」と、美人で人気のある秘書課のカズコが言った。>
「エ? お話って!!」ダイサクは一瞬自分の耳を疑った。
「こんなところではちょっと話せないわ」となにやら恥じらう様子。美人がぽっと頬《ほお》を染める風情《ふぜい》は中々いいものだった。「それに、こんな陽のあるうちにする会話じゃないし」
「なるほど」ときめく胸をおさえて、一応そう答える。
「今晩、お暇かしら?」
「エ? 今晩? 暇です、暇、暇ッ」
「あたくしのために、少し時間空けて下さる」
「モ、モチロン、少しなどと言わず、ボクは、ソノ、何時間でも、場合によったら朝まででも」
「あら、いやダ……」ホホホと恥じらう姿がまた何とも言えない。
「朝までといわず、二日でも一週間でも」
「マ、悪い冗談」と睨《にら》む眼つきにまた色気。
さてその夜、都心に近いビルの地下にある小粋《こいき》なカフェバーへと、彼女の案内でくりこんだ。
「して、話というのは?」ダイサクはやる思いを制しかねて、身を乗りだす。
「そんなに慌《あわ》てないで、まずはお近づきに乾杯しましょうよ」
「いいですよ、どんどん近づいちゃう」と、ぐっと躰《からだ》をカズコに寄せるダイサク。
「実はね」と伏眼がちに始めるカズコ。「前々からあなたのこと、気になっていたの」
「……前々から! 気になっていた!」ダイサクの顔が感激のあまり紅潮する。「し、しかし、ボクはご覧の通りの面相だし」
「そんなこと……」
「決していい男じゃない、水もしたたるハンサムにはほど遠い」
「見ればわかるわ」
「はっきり言えば、ブスだ。醜男《ぶおとこ》だ」
「でも男の人は顔じゃないから」
「そうですッ、顔じゃない、男はッ、カズコさんよく言ってくれましたッ」感情が高まりほとんど泣きださんばかり。
「思いきって言うけど……」
「ハッ、ど、どうぞ」
「初めてあなたを見た時、この人だって、思ったわ」
「ウ、ウ、ウ、ウッソォ……」
「ホント」
「し、しかしボクはあなたにふさわしい男じゃないし、アパートも一間だし、出世もせいぜい課長止りだろうし、給料も安い」
「知ってます、いいんです、そんなこと」
「エ? イイの? ほんとにいいの?」
「ぜんぜん、かまいません」
「色男でもない、金もない、あるのはこの馬鹿力《ばかぢから》だけ」
「それなんです、今度の日曜、引越しの手伝いをお願い出来るかしら? 結婚するんです」
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「災害は忘れた頃にやって来る」
[#地から1字上げ]寺田寅彦
その日は五十五歳のトラヒコの誕生日でもあり、結婚三十年目の記念日でもあった。そして定年退職の日と、おめでたいことが三つも重なって夫婦は感慨無量。
その夜トラヒコは糟糠《そうこう》の妻であるウメコを、ホテルの最上階にあるスカイラウンジに連れだし、夫婦二人だけの夜を祝うことにした。ドンペルニョンというわけにはいかないが、一応シャンペンをとり、グラスを合わせた。
「ごくろうさん」と、トラヒコは労《いたわ》るように妻に言った。
「ごくろうさまでした」とウメコ、シャンペンを口許へ運んだ。美容院へ行って整えた髪型と、黒ラメの入ったスーツのせいで、思いの他《ほか》若く見える。
「それ、中々いいじゃないか」
「それって?」
「そのスーツ」
「あら、これですか?」とウメコは苦笑した。
「これ、二十年も前に買ったものですよ。人さまの結婚式というとこればっかり着て出たじゃありませんか」
「そ、そうだったか」と、ヤブを突ついてヘビを出してしまった感じで、今度はトラヒコが苦笑した。
「ここはどうだい、中々ムードがあるだろう」と彼は老妻の機嫌をとるように言った。
「あなたがヨーコさんをよくお連れになったところね?」
「え? ヨーコ?」
「嫌ね、忘れたの? あなたが昭和四十七年から二年間つきあっていた愛人ですよ」
「ど、ど、どうしてそんなことをおまえが知っている?」うろたえるトラヒコ。
「興信所で調べました」冷静なウメコの反応。
「マユミさんの時もアサコさんの時もミホさんの時も全部知っています」
「し、し、しかし」としばし絶句。トラヒコは妻の顔色をうかがう。眉ひとつ動かさずウメコは運ばれてきたスープをスプーンで口へ運んでいた。
「しかしまあなんだ」とトラヒコは額の冷や汗をぬぐいながら言った。「すべて済んだことだから」
「存じています」とウメコ。
「昭和五十七年から、女気がぱったりとなくなりましたから」
ぐっとつまるトラヒコ。ウメコが言った。
「でも、考えてみると、こうしてあなたと二人だけでお食事するなんて、実に二十八年と二百六十五日ぶりですねぇ」
「そ、そんなになるか……」とトラヒコ、さすがに表情をしかめた。「おまえもよくがんばってくれたな。感謝しているよ」
「子供たちも無事に片づきましたから」
「うん、うん、これからは、おれたち、二人だ、色々あったがね、男が外で働くということはそういうことなんだ、だから、なんだ、水に流して、な、よろしく頼むよ」
「そういうわけにはいきません」すっとウメコの背筋が伸びた。
「今夜はおり入ってお話があるんです」
「…………?」
「離婚して頂きます。この日をずっと待ち続けました。退職金の半分を慰謝料に頂きます」
トラヒコ、あんぐりとあけた口がふさがらないのだった。
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「朝《あした》には紅顔あって夕《ゆうべ》には白骨となる」
[#地から1字上げ]蓮如上人
披露宴で初めて花嫁を見た新郎の友人、知人、親族は、一様にびっくり仰天してしまったのである。
「なんであんな女性《ひと》が?」と、悪友どもは眼がとびださんばかり。あのような美人がどうしてまたヨシカズなどを選んだのか、二人を並べて眺めれば眺めるほど疑惑がつのるのであった。
花嫁はすらりとした長身のふるいつきたくなるようないい女。口もとにたえずうっすらと浮んでいる微笑はモナリザを思わせる。
かたや新郎のヨシカズ、身長は花嫁の耳のあたりまでしかないズングリむっくり。まだ二十七歳の若さなのに、頭髪が後退の徴候を見せている。早い話が、NHKの鈴木健二アナをそのまま二十歳ほど若くした姿を想像してもらえばいい。
「財産じゃないよな」と悪友がひそひそと言う。
「ないない、親は地道なサラリーマン」
「顔でもないとすると?」
「性格はどちらかというとネクラだし」
「およそ会社の女の子にもてなかったものな」
「とすると残る可能性は――」
「して可能性は?」悪友どもが顔を寄せあう。
「あれが抜群にうまいとか?」
「それはありえない」とやけにきっぱりと断言するものあり。
「なぜ分る?」
「あれがうまい顔かよ」
「顔で、あれがうまいかへたか、わかるのかよ」
「あいつの顔は、絶対に下手《へた》な顔だ」と、理屈も何もあったものではない。
「いずれにしろミステリアスな組み合わせだよ」と一同|眉《まゆ》をひそめた。「裏に何かあるぞ」
「何があるんだ?」
「いずれわかる」
と、披露宴での無責任なひそひそ話が続くのであった。
幸せな新婚のカップルは、その日のうちにハネムーンへと出発。
蜜月《みつげつ》の目的はアメリカ西海岸、ロスアンジェルス。
ホテルに着いたのは、朝方。部屋に入るやいなや、ヨシカズ、興奮のあまり顔を紅潮させいきなり美人の新妻に抱きついた。
「あら、いけないわ」とやんわりと新妻、新夫を制した。「もうじき人が来る約束でしょ?」
「人が?」ケゲンな表情を浮べる夫。
「ほら、三日で背広を作る人がいるからって、紹介してもらったんじゃない。寸法を計りにくるのよ」
「ああ、そうだった」としぶしぶ美しき妻から離れるヨシカズ。
そこへノックの音。
「ボク、洋服屋サンあるネ、おたくノ寸法計リニ来タアルよ」
「じゃあたしは、ちょっとロビーで雑誌でも読んでいるわ」と入れかわり出ていく美人の妻。
「早く計って下さいよ」と、洋服屋に背をむける気のいい夫。いきなりふりおろされるはT字型のハンマー。その場に崩れ落ちるヨシカズ。ロス疑惑のお粗末。
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「芝居こんにゃく芋|南瓜《なんきん》」
[#地から1字上げ]女の好きなもの
テニスの練習帰りとおぼしき主婦の四人連れ、南麻布《みなみあざぶ》あたりに並んだしゃれたフランス料理屋にくりこんだ。
「ああお腹ペコペコよ」
「午前中タップリ汗流したから、たくさん食べても大丈夫ね」とメニューを選ぶことしきり。
「ボーイさん、このオードブルのピリカーラ・コンニャークというのは何?」
「ハッ、手短に申しますと、コンニャクをタカノツメでピリッときかせたものでございます。当店工夫のダイエット・メニューです、ハッ」
「マ、ダイエット。じゃあたくし、これ」
「あたくしも」と他の三人も同調する。
「メインディッシュは何にいたしますか?」とボーイが訊く。
「そうねぇ、どれもこれも美味《おい》しそうだけど、このポム・ド・テールなんとかっていうの、どういうお料理?」
「早く申しますと芋でございます」
「イモ!」
「ゆでた芋をマッシュいたしまして、チーズをふりかけオーブンで焼いたものですが」
「マ、美味しそう。あたくし、そのポム・ド・テールなんとか」
「あたしも」あたしもと全員右へならえ。
「して、デザートは何に致しましょうか」
「何があるの?」
「クレーム・ド・カラメルとか、そうでございますね、当店自慢のパンプキン・パイはいかがでしょう?」
「パンプキン・パイって?」
「一口で言いますと南瓜《かぼちや》のパイでございます」
「南瓜!!」
「蒸したものを裏ごしにかけまして、卵黄と生クリームと砂糖を加えて、パイに流しこんだものですが」
「ま、珍しい、それ、それ、それッ」と全員が南瓜のパイなるものを指定した。
「ね、ね、ね、こないだのミュージカル、どうだった?」と食事中一人が訊《き》いた。
「歌が今ひとつだわねぇ」
「じゃ帝劇の方はどうかしら?」
「評判いいけど、今度観に行く?」
「うん、行く行く」
「ね、ね、ね、今度入ったコーチ、素敵じゃない?」
「ちょっと気障《きざ》よ、自分でいい男だと自惚《うぬぼ》れている男なんて虫が好かないわ」
「だけど、横顔なんて、ふるいつきたくなるくらいだわ」
「だめよ、ふるいついちゃ。あたしが先」
「ところでね、中華のヌーベルキジーヌ風っての、試したことある?」
「え? ないけど、美味しそう!」と話題は延々とつきないのでありました。
さてその夜、夫婦の会話。
「結局」と亭主が肩をすくめて言った。「キミたち、時代が変っても芝居こんにゃく芋|南瓜《なんきん》≠カゃないか」
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「おかぁさーん」
[#地から1字上げ]ハナマルキ味噌のCM
新婚第一夜。ホテルの一室。
淡いベッドサイドのランプに照らされて、なにやら悩ましいベッドの風情。透き通るような透き通らないような微妙な色あいのマサヨのネグリジェ。
「なんだかナーバスになっているみたいね、ブランディーをちょっと飲む?」あくまでも優しく柔らかな声で彼女が言った。
「ブランディー飲むと、よく眠れる?」
「もちろんよ」とマサヨ、ニッコリとほほえんだ。「でも眠るのは後で、ね」
ミニチュアのブランディーボトルから、中味を洗面所のグラスに注いでテルヒコに差しだす。
「さぁ、ぐっと飲んで」
「でも強いんだろうね」
「大丈夫よ、いい気持になるわ」
テルヒコ一気にぐっとあける。
「ね?」
「ん。ここのところが熱くなった」
「何となく、燃え上ってくるみたいじゃない?」とマサヨ迫る。
「あの、ぼく」わずかに後退するテルヒコ。
「疲れているから……ほら、結婚式だ、披露宴だって色々あったから」
「わたしも同じよ」とあくまでも説得する口調のマサヨ。「わたしも結婚式と披露宴と色々あったわ。でも――」と更に迫る。
「なんだか、ぼく」
「……わかるわ、まだ少し神経が立ってるのよ、さあさ、落ち着いて」
「ああ、だけど」
「いいから、わたしにまかせて」となだめるマサヨ。
「躰《からだ》の力を抜いて。そう、そう……、そうよ」
「電気、気になるんだ。消してもらえる?」
「あら、だめよ、だってわたし、あなたのことみていたいもの」
「恥ずかしいヨ、僕……」
「何言ってるの、テルヒコさん、わたしたちもう他人じゃないのよ。それにどうして恥ずかしいの、裸、きれいじゃありませんか」マサヨ次第に興奮する。
「そんなに固くならないで」
「痛くしない?」
「痛くなんてしないわよ。だから躰の力をもっとぬいて。もっと、リラックスして」
「あッ」
「大丈夫よ、怖いことないのよ、わたしにまかせて、ね」
「でも、僕にそんな恥ずかしい格好させないで」
「初めはそう思うけど、今にきっと大好きになるわよ」
「あッ、何するの!!」
マサヨ、テルヒコの上にのしかかる。
「あぁ、止めて、止めて、マサヨさん、お願いだから止めて。あッ! あぁッ! あぁぁ! 死んじゃうッ、あぁぁぁ! おかぁさーん!」
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「中村さんちもマックロード」
[#地から1字上げ]松下電器のCM
「ねぇ、お隣、とうとう買ったわよ、車」
「そうか。いずれは買うとは思ったんだ。じゃ、うちでもそろそろ買うか」
「それからお隣ね、買ったのよ、あれも、大型冷蔵庫」
「今ので充分間に合うじゃないか」
「でも、ビールがずらりと十本並ぶのよ。瞬間冷凍だし」
「そうか、ビールがずらりと十本か。それじゃまあ仕方ない」
「あのね、お隣でね」
「またかい。いいかげんにしてくれよ。金無いよ、金」
「お金なんていらないのよ、どうやらまた赤ちゃんが出来たらしいの」
「もういるじゃないか、うちは」
「でもお隣に出来ると、欲しいのよねぇ」
「そんなに欲しいか?」
「ええ、すごおく欲しいわぁ」
「じゃ、いたすか」
「ね、ね、ね、お隣今度は何だと思う?」
「さ、さ、さぁ、何だい」
「家庭教師を入れたのよ、上の子に」
「うちのはまだ幼稚園だよ」
「早い方がいいわよ」
「そうかねぇ。じゃまあ……」
「どうせならお隣のより頭のいいハンサムな学生を」
「ハンサムである必要は、ない」
「ねぇ、聞いて聞いて」
「またお隣の家庭教師かい」
「そうなの。どうやら奥さんと出来ちゃったらしいの」
「それで」
「あたしも……。ぐふん」
「だめッ」
「それがね、お隣じゃ、二台目の車買うっていうのよ、奥さん専用」
「しかしおまえね、運転免許もってないじゃないのッ」
「習いに行くわよ、明日から」
「どうして二台も車がいるんだよ」
「だってテニスコートに通うのに、駅から遠いんですもの」
「テニスなんて何時からやってるんだ」
「ついこないだよ」
「隣の奥さんがやり始めたのか、チクショー」
「カルチャセンターで、小説入門コースにも入ってるのよ、お隣」
「小説なぞ、習って書けるようになるもんじゃないだろうが」
「そうでもないんですって。クラスから新人賞とった人もいるのよ」
「ところで最近お隣のダンナの姿、見かけないな」
「それ、言わないで」
「まさか、女房に愛想をつかして逃げだしたんじゃないだろうな」
「それが、どうやらそんなところらしいのよ」
「そうか! 助かったッ。お隣がそうなら、俺も逃げだすッ」
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「私ってさ、頭の中は空っぽだけどさ、黙っていると屈折した女に見えるんだって、ハハハ」
[#地から1字上げ]美保純
こういうひと、よくいるのよね。特に男に。
芸能レポーター「ええ、ちょっと伺いますが」
男優「…………」
芸能レポーター「うわさの愛人に子供が生れるそうですが? それについて一言」
男優「…………」
芸能レポーター「奥さんは、そのことをどのようにお考えなんでしょうかね」
男優「…………」
芸能レポーター「役者としての今後の方向を、ぜひ一言」
男優「…………」
芸能レポーター「もてすぎて、それどころじゃないと? ハハハハ」
男優「…………」
ファンの女たち「マ、あの無口なのがたまらないわ。それにあの屈折した魅力! あの苦《にが》み走った苦渋にみちたいいお顔」何をかくそう。実は天下の二枚目。お尻にジが出て屈折もしよう、顔も苦渋に歪《ゆが》もうというもの。
記者「今度の大麻事件、深く反省していると人づてに聞きましたが?」
歌手「…………」
記者「ヘンリー・ミラーはつかまらないのに、なんでオレが、と言ったとか言わないとか?」
歌手「…………」
記者「奥さんにも逃げられて」
歌手「…………」
ミーハー「うつむいて耐えているあの横顔のけなげさ。涙出ちゃうッ」実はこの人気歌手、耐えているのは昨夜からのひどい二日酔。
アナウンサー「ついにやりましたねぇ、ホールインワン。感想をひとこと」
ゴルファー「…………」
アナウンサー「やっぱり、ホールインワンともなると、喜びはひとしおでしょうねぇ」
ゴルファー「…………」
アナウンサー「予想もしないボーナスをもらったみたいな気持ですか?」
ゴルファー「…………」
アナウンサー「さすがスポーツマンです。ひたすら無口であります。男は黙ってサッポロビールというわけです。ゴルフ場からの実況を終ります」
TVを観ていたファン「男らしいの一言に尽きるわネッ」と、そばでべちゃくちゃとさえずっている亭主をギロリと睨《にら》むのであります。
刑事「あの段階でバクダイなワイロが渡された証拠は出そろっているんですよ」
政治家「…………」
刑事「関係者及び共犯の名前を上げてもらえれば、あなたの刑もずいぶんと軽くなるんですがねぇ」
政治家「…………」
刑事「日本の政治を動かす責任ある立場を考えてもらわなくちゃねぇ」
政治家「…………」
ヤジウマ「じっと眼を閉じて不動の姿勢。さすが国会議員だ」しかし、本当は、いつも国会でやっているようにいねむりしているのにすぎなかったりして。
[#改ページ]
「でも、うるさいっていうのは、確かにあるみたい」
[#地から1字上げ]古舘伊知郎
イチロー、念願の美人カナコとベッドイン。
「それにしてもまぶしいような美人です」と服を脱ぎながらの独り言。
「こんなに美しい人といたすとなると、なんとなくビビッちゃうのであります。ベッドはまるでリングのように見えますし、正《まさ》しく戦場とでも申しましょうか」
「イチローさん? なにをぶつぶつ?」と早くも準備の整ったカナコがベッドから見上げた。
「敵は早くも準備完了。手ぐすねひいて待っております」とイチロー、ズボンをかなぐり捨てた。「こちらも負けてはおれません。はやる心を必死に自制しつつ、ウォーミングアップ」
「アラ、そんなところでいきなりラジオ体操なんて始めて。プッ。色気のないひとね」
「とかなんとか敵のあざわらう様子を横目に、相手のすきをねらってコシタンタンと身がまえるイチローであります」
「早くーん」
「敵の誘惑にひっかかるようなイチローではありません。相手の弱点を見つけて、そこを徹底的に責める。それが頭脳的プレイヤーと言われるイチローの得意|技《わざ》」
「なにをぶつぶつ言ってるの。早くいらっしゃいって。いったいやるの? やらないの!!」
「相手は次第に激昂《げつこう》しております。勝負は怒った方が負け。冷静さを先に失った方が負けであります」
「やるのッ? やらないのッ!!」
「やる、やる、やります。それではゴメンとリングに飛びのるイチロー。いきなり敵の喉《のど》もとを責めまくる。敵も負けてはいません。海老《えび》のように反りかえり、足げりで応酬。あっ、痛。そこは男の泣きどころ。反則、反則。レフェリー反則だって」
「バカみたい」
「と相手がスキを見せたところを背後から逆ガタメ。まいったか、まいったか」
「いい、いい、とってもいいわぁ……」
「どうしたわけか敵の肘《ひじ》から急に力がぬけます。ぐったりとしてしまい、眼もトロリと」
「もっとぉ、もっとよぉん」
「とここで油断をすると大変だ。エイとばかり持ち上げて、地獄のヘッドスロー」
「ギャ。何するのよぉッ。痛いじゃないのォ! 首の骨折れるじゃないのッ、ほんとにもうッ」
「と、ひるんだところにとびかかり、息の根もつかさずに、ゴリ押し、もみ殺し」
「ん、ん、んふうん」あえぐカナコ。「もうだめぇ、死ぬう」
「一、二、三、四。ついにやった! ついにやりました。魅惑の勝利。チャンピオンへの第一歩。敵は完全にノックアウト。あぜんとしております。この感激、この喜び、イチロー選手は一生忘れないでありましょう。それにしてもよくやりました。リングは軋《きし》み、敵は断末魔《だんまつま》のうめきをあげ、死闘はついに終りました」
「ホラ、バカッ、うるさいんだょ、あんた」とカナコ。
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「どうしても、どうしても、どうしてもだめだったら帰っておいで、妹よ」
[#地から1字上げ]かぐや姫
「兄さん、彼ったらひどいのよ。夕食までに戻るって約束したのに、一時間も遅れたのよ。おかげでご飯がすっかり冷めちゃったの。それで温め直したらお料理がすっかりごちゃごちゃして台無し。もうあたし耐えられないわ。帰ってもいい?」と新婚の妹。
「だめだよ、それしきのことがまんおし」と兄は言った。
また、別の日。
「聞いてよ、兄さん、彼ったら連日のように十一時、十二時。それでいて、ちゃんとお茶漬食べるんだから、あたし寝不足。お願い、帰りたいわ」
「そのていどでおまえ、何を言ってるの」と兄はとりあわないのだった。
更に別の日。
「兄さん、兄さん、あたし淋しくて。土日はマージャンだゴルフだって、うちのひと家に寄りつかないんだもの。これじゃ何のために結婚したかわからない。そろそろ帰ってもいい?」
「いやいや、まだしんぼうが足りないよ」と兄はさとした。
それからまた別の日。
「変だと思ったら、うちのひと若いOLと浮気しているらしいのよ。ポケットからラブホテルのマッチが出て来たわ。あたし断じて帰るから」
「男の浮気は、|かいしょう《ヽヽヽヽヽ》のうち」と兄は妹をさとした。
別のまた別の日。
「ねぇ、兄さん、うちのひと中々出世しないのよ。同期の山田さんなんてとっくに課長になっているのに、うちはまだ係長、夢も希望もないわ、別れたい。うちに帰ってもいい?」
「しかしねぇ、亭主が丈夫で働いているうちはがまんおし。子供もいることだし」と分別のある兄の言葉。
別の日。
「兄さん、もう許せないわ。あの人、愛人囲ってるのよ。子供まで一人あったの。これで家へ帰れるわね?」
「今までなんとかがんばったじゃないか」
さて別の別の日。
「兄さん、うちのひと、とうとう愛人問題がバレて左遷《させん》よ。これを機にあたしだんぜん里に帰りますからね!」
「長い人生、色々あらぁな」
「でもね、夫婦のセックスだって、もう五年もないのよ。あの人、指一本もあたしに触れないのよ。これで妻と言える?」
「おまえも浮気でもおしよ」
「そんなものとっくにしてますよ」
別のまた別の日。
「兄さん、うちのひとついに窓ぎわ族よ。もういいでしょ? 娘たちは無事にお嫁に行ったし。あたしを帰らせてちょうだい」
「せっかく添いとげたんだから、もう一息」
別々の日。
「兄さん、兄さん、兄さん、なんとうちのひと、ホモに走ったわ。気持悪いしエイズは怖いし。あたしもうがまんの限界、帰りますからね」
「しかしねぇ」
「何と言って止めてもだめ。荷物は全部トラックにつみこみました」
「しかしねぇ、帰るにもおまえの家なんてないのだよ」
「え?」
「二十年ほど前にオレも事業に失敗し、売り払ってしまった」
妹は、ヨヨと電話の前で泣き崩れるのであった。
[#改ページ]
「天守閣の扉の金粉の光り具合がよくない」
[#地から1字上げ]黒澤明
何ごとにつけても人間、クレームがつけてみたい。
「おい、でかけるぞ」とアキラが妻に声をかけた。
「あのネクタイだしてくれ」
「でていますよ」と妻は、ベッドの上を指《さ》した。上着もベルトもポケットチーフも全て完璧《かんぺき》のとりそろえ。
「おい、この靴下のストライプの一方の色の具合が、ネクタイの色と合わないぞ」
「でもあなた、そのストライプ、パンツの柄とそろえてありますのよ」
「ん? そうか」とアキラ。やがて、
「靴は磨いてあるか? 車のワックスは?」
「どれもぴかぴかですよ」
「ではまいるぞ」とようやくのお出かけ。
「行ってらっしゃいまし」
「その言い方、妙に気になるぞ。いかにもうれしそうに言うな」と難くせをつけるアキラ。
「それでは、どうぞお早いお帰りを」
「早く帰れ? 男がいったん家を出たら、七人の敵ありだ。家を出たら男は家のことなど忘れる。いつ帰るかわからんと思え」
「それではどうぞご無事で」
「そんなことは分らんよ。表通りに出たとたんトラックに追突されて一巻の終りということもある」
「覚悟はできております」
「そんな覚悟はせんでもよろしい。それとも何か、おまえは、俺が一刻でも早く死ねばいいと思っとるのか? 保険金が入れば一生左ウチワで暮らせるものなあ、ついでに若い男を後ガマにすえ、朝から晩までいちゃいちゃと――ああ考えるだけで腹が立つ」
「途方もない想像で物をおっしゃいますな」
「こうなったら、何もかも腹が立つ。今日は出社はせんぞ」
「さよでございますか」
「腹が立つとなったら何もかもが気にくわんぞ」
「たとえばどのようなことが?」
「おまえのその格好が気に入らん」
「わたくしの格好のどこが?」とよく出来た妻はこざっぱりとした着物の胸元をおさえた。
「その、なんだ、帯じめのよじれぐあいとか、刺繍《ししゆう》の色糸とか」
「それはあいすみませんねぇ」
「それにほれ、その壁の額《がく》の裏側をこすってみい。埃《ほこり》がついているだろうが」
「つい昨日、埃はとりました」
「それにしても気に入らん」
「何がでございます」
「おまえのその声音《こわね》といい、態度といい」
「あいすみませんです」
「第一、顔が気に入らんぞ」
「どうすればよろしゅうございます?」
「どっか引っこんでいろ、俺の前から消え失せろ、息をするな」
「おおせの通りにいたしましょう」
「そ、そんなヒモなぞハリに通して、なんのマネだ?」
「たった今、死ねと」
「しかしだ、あのハリの太さといい黒光りの具合といい、どこか微妙に俺の気に入らんのだ」
[#改ページ]
「あっしにはかかわりのねえことでござんす」
[#地から1字上げ]木枯し紋次郎
早朝、モンタの電話が鳴った。
「エイコが睡眠薬自殺を計ったのよ、すぐに来て」と、ルームメイトのユミが上ずった声で言った。
「エイコの自殺とオレが、どういう関係があるんだい」モンタはひややかに言った。
「よくそんな口調でそんなことが言えるわね、エイコをもてあそんで捨てたくせに」とユミが言い返した。
「誰れがもてあそんだって?」とモンタは鼻の先で冷笑した。「ま、お互いさま。関係ないんじゃないの?」
「ところがエイコ、妊娠していたのよ」
「誰れの子だかわからんよ」
「あなたのにきまってるわ」
「まず、ありえないね。防備したからね、オレ」
「エイコには他《ほか》に男なんていないこと、あなたが一番よく知っているでしょ」
「知らないねぇ」
「ずるい人ね、男として最低ね。卑劣だわ」
「エイコに大事にするよう伝えてくれよ」
「それだけ? 三年もさんざんもてあそんで、それだけなの?」
「三年もいい思いさせてやったんだぜ」と冷たくモンタは居直った。
「そうなの、やっぱりね、やっぱりそういうひとだったのね、噂《うわさ》は聞いていたんだけど。これでよくわかったわ。エイコもこれできっぱり見切りがつけられるでしょうよ、その方が彼女のためにもいいのよね」
「おっとまった。噂ってのは一体何のことだい」とモンタは相手の言葉を聞きとがめた。
「巷《ちまた》では大騒ぎよ」
「だから何の噂だい?」
「前の奥さん、事故死じゃないらしいって」
「へぇ? そんな噂がねぇ」と歯牙《しが》にもかけないモンタの態度。
「なんでも莫大《ばくだい》な保険がかけてあったらしいじゃないの」
「保険金? 関係ないね、そんな話」
「じゃその前に同棲《どうせい》していた女の人はどうなっちゃったのかしら。行方不明なんですって?」
「好きな男でも出来たんだろうさ」
「でも変じゃない。彼女の銀行カードで、その後あなたがお金を引き出したって話、聞いてるけど」
「そんなこと、あったっけかなぁ。いずれにしろ、昔のことは忘れたね」
「今の奥さんはどうなの? エイコには、別れるつもりだから、もう少しの辛抱だとか、さんざん言ってたらしいけど」
「それは事実。女房とは別れたい。ところであんた名前なんて言うの? ユミ? 前々から思っていたんだけどね。オレ、おたくみたいな性格のはっきりしたズバリと物を言う女の子が好きなんだ。この際どう? 何もかも片がついたら、オレと結婚しない?」
「え? 結婚!!」
「うん、そう。それでね、実はね、相談があるのよ……(中略)……そうそう、そういうこと。やってみる? もちろん君ならやれる。絶対に上手《うま》くいくから。そしたら保険金は山分け。君とも晴れて結婚できる」
しかし何をどうまちがったのか、ケイサツの手が。
「エ? エ? 殺人? オ、オレ、被害者なんだよ。女房殺されて、オ、オレだって、ホラ、ここんとこケガして」と泣いてみせるモンタ。だめだなぁ、ここで楊子《ようじ》などプッと飛ばして、一言いわなくちゃ。
――あっしにはかかわりのねえことでござんす。
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「見ざる言わざる聞かざる」
[#地から1字上げ]日本の諺
「ねぇ、これ絶対に秘密なんだからさぁ、誰れにも言わないでぇ、いい? 約束する?」
ノブコはさも重大なことのように声をひそめた。
「前々から怪しいとは思っていたのよね、テニスのコーチと林さん。それがやっぱり勘が的中、見ちゃったのよね、あたし、浮気の現場」
ノブコは劇的な効果を狙《ねら》ってそこで長めの間《ま》を置いた。
「まさかと思うでしょうけどね、男子用のトイレなのよね。テニスコーチが入って行く後姿を見た時は、別にどうってことなかったのよ、ところが女子用トイレに行くようなふりして林さんがよ、すっと左の方へ入っちゃったのよ、つまり男子用トイレよ。あれあれって思ったとたん、消えちゃった。
十二分きっかりで、まずコーチが何食わぬ顔で出て来たわよ。それから一分ほどして林さんが、まだ興奮さめやらぬって表情で、左右をうかがってから出て来たわ。何があったかは一目瞭然《いちもくりようぜん》よ。でもまさか男子用トイレの中でねぇ、よくやるわっていうのよね、もちろん大の方の扉にロックをするとしてもよ。もっともさあ、ウィークデイのこのテニスクラブには女しかいないものね、男子用トイレ使うのコーチ一人くらいのものだから、やろうと思えばやれちゃう話なのよね。
でもさあ、考えてもみてよ真昼間からよ。それもトイレの中でなんてよ。林さんも大胆よねぇ。しかもあのスタイルとあの顔で。コーチも言ってみれば物好きというか、ゲテもの食いというか、変った趣味の女が好きなのねぇ、顔はちょっと草刈正雄に似て二枚目なのに、人って、わからないものよねぇ。
大体林さんみたいな女《ひと》が、テニスをやるなんてことからして、信じられないわよ。やっていい体型ってものがあるわよね、限度ってものがさ。スコートはいて見られるスタイルじゃないものね。スコートの下から、レースのヒラヒラが半分見えるんだものね。お尻の下半分、スコートの外へはみ出てるんだもの。ボール拾う姿なんて、お尻の全部丸見えだもの。同性でも思わず顔背《そむ》けちゃうわよ。
ああいう方にはテニスして頂きたくないわねぇ。いずれにしてもこの話、聞かなかったことにしてちょうだいね、いいわね」とノブコは念を押した。
「いいわ、約束する」とA子が答えた。
「もちろん、誰れにも言わないわよ」とB代も言った。
「林さんもやるわねぇ。でもここだけの話にしましょうね」とC子も請《う》けおった。
「今の話、なかったことにするわよ」とD江はうなずいた。
「秘密は守るわ、女の約束」とE世が小指をからめた。
「あたしも絶対言わないわ」とF子とG子が異口同音《いくどうおん》に言った。
しかし次の日には、テニスクラブの会員全員が、二日後にはそのクラブのある杉並区の住民全部が、三日後には東京都民のほとんどが、テニスコーチと林さんのスキャンダルを知るところとなったのである。
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「舌は頭の知らないことをたくさん喋る」
[#地から1字上げ]ロシアの諺
「ちゃっぷいちゃっぷい、どんとぼっち。今夜は冷えるねぇ。あぁ、さむッ」と男がバーに飛びこんできた。とたんに「くしゃん!」
「くしゃみ三回ルル三錠、いらっしゃい」とにこやかにむかえるママ。
「かぜの季節の思いやり」
「いえいえ、風邪は社会の迷惑です」
「いいからくだらないこと言ってないで、ショウチュウお湯で割ってよ、ママ」
「はいはい。ショウチュウのお湯わりね。ブランディー水で割ったらアメリカン」
「ウィスキー、麦茶で割ってアカプルコ。ああくだらない」
「はい、お湯わり」とママがさしだす。一口飲んで客が言う。
「オレ、この味、好きだよ、ぐふッ、なんちゃって」
「好きだからあげる」
「赤いカードのクレジットだな」
「赤いカードで123」
「1姫2太郎3サンシー」
「123枝ゴクローサン」
「あんたも好きねぇ」
「わかっちゃいるけどやめられない。ママ、今夜、俺とにゃんにゃんしない?」
「いいとも」
「芸術は爆発だ!!」とわけのわからない喜びの声をあげ、連れだってホテル・イン。
「オーモーレツ」
「あっと驚くタメゴロー」
「大きいことはいいことだ」
「ファイトで行こう。腕白でもいい、たくましく育ってほしいわ」
「ハッパふみふみ」
「ガンバラナクッチャ」
「チカレタビー」
「ダメおやじッ」
「近ごろ気になることがあるもんで」
「がんばれ! 大正生まれ。四十歳になったら強力フローミン」
「自分のサイズで生きる」
「飲んでもらいます」と強精ドリンクをつきつける。
「ファイト一発リポビタンD」
「ウーン、マンダム、ウーム、ウーン いいわーん」あえぐママ。
「セブン、イレブン、いい気分」
「スカッとさわやかコカコーラ」
「実はこの人サイボーグ」
「ああ実感!」
「シェーン、カンバック」
「ぐっすり右門」とたぬきねいりをきめる中年男。
「ファイトでいこう、もう一度ッ」
「すいません……飲みすぎで」
「飲んだら乗るな乗るなら飲むな」
「みじかびの、きゃぶりてとれば、すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ わかるね?」
「わからないわよッ」
「大胆なご意見ありがとうございました」
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「思い内にあれば色外に現わる」
[#地から1字上げ]世阿弥
秋晴れの一日。大安吉日。結婚日よりである。正装に着飾った男女が披露宴の食卓を囲んでいる。
と見ると、青白き乙女の顔あり。
「ヒナコ、どうしたの、真青よ。気分でも悪いんじゃないの?」と、同じ祝いの食卓を囲む級友が心配そうに訊いた。
「気分悪いなんてもんじゃないわよ」
「大丈夫?」
「大丈夫なんてもんじゃないわよ」
「今にもぶったおれそうな様子して」
「ぶったおれるなんてそんな甘いもんじゃないわよ」とヒナコ、蒼白《そうはく》の額に冷や汗を浮かべている。
「どうしたのよ、ヒナコ?」級友たちが気にした。
「あたし、妊娠してるのよ」と小声で呟《つぶや》くヒナコ。
「え? ニンシン……!」と絶句する一同。「じゃツワリ……?」
「ツワリなんて生やさしいものじゃないわ」
「誰れなのよ、相手は?」
「きまってるじゃないの」チラと正面の新郎に恨めし気な一瞥《いちべつ》を投げるヒナコ。
「嘘《うそ》でしょ……!」と再び絶句する一同。ヒナコの顔色は、いっそう冴《さ》えざえと青ざめるのであった。
また別の一角に、赤き男子の顔あり。
「おいおい、おまえ、もう酔ったのかよ」と新郎の悪友たちがたしなめた。
「酔うどころか」と吐きすてるように言うユージ。
「じゃなんだってんだよ。真赤だぞ。腹でも下してるのか?」
「あいつ、ぶっ殺してやりたいよ」
「何だよ、こんなおめでたい席で」
「俺を裏切りやがって」
「誰れのこと言ってるんだよ」
「花嫁に訊《き》いてみな。昨夜《ゆうべ》誰れの腕の中で眠ったのか」
「誰れの腕の中だよ?」
「きまっている、この俺だ」
「嘘だろッ」とそれきりこれまた絶句する悪友ども。ユージの顔面はますます怒りに燃えて赤黒くくすぶるのであった。
見れば緑色の顔あり。
「鈴木未亡人、お顔がなんとも妙でございますな」と傍の紳士が心配した。
「妙にもなろうというものですわよ」とつり上った眼をすえる鈴木未亡人。「あたくし、あそこに坐っている新郎に、夫が残してくれた全財産をつぎこんだあげく、このざまでございますから」
テーブルを三つ飛んで紫の顔あり。
「田中課長、どうかしましたか」
「どうもこうもない」と紫色の苦渋の顔で田中課長、茫然《ぼうぜん》と呟いた。「何もかもバレて女房には逃げられるわ、子供らには去られるわ、持家は慰謝料に取られるわ、退職金の前借りは養育費に消えるわ、あげくに女は結婚してしまうわ、トホホホ」
さて正面に白き二つの顔あり。新郎と花嫁なり。しらばっくれちゃってッ。
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「|あれ《ヽヽ》の後は、いつでも辛いんだ」
[#地から1字上げ]〈愛人〉マルグリット・デュラス
と言って、男が哀しげに虚《うつ》ろに溜息《ためいき》をついてみせるっていうのは、デュラスの小説の中の話。
しかもその男はエレガントな中国人の大金持ちの息子で、その象牙《ぞうげ》のような色合の肌からいつも上等の巻き煙草と、上等の絹と、上等のオーデコロンの香りを微かにさせている。そして言うのだ、|あれ《ヽヽ》のあと。十五歳の白人の少女の恋人の質問に答えて。
少女が訊《き》くからだ。――いまみたいに、もの哀しい気持になるのは当りまえのことなの?
中国人の青年は答える。――昼間の暑い盛りにセックスをしたからだ。|あれ《ヽヽ》のあとはいつでも少し辛いんだ、と。お互いに愛しあっていても、愛し合っていなくても、つらいんだよ、と。
実際には、こんなふうに文学的なケースにはめったにおめにかかれない。たいていの世の中の男たちは、|あれ《ヽヽ》の前と後とでは人格が変ったみたいに豹変《ひようへん》する。
くるりと背をむけて、十秒もしないうちに高イビキなんてのは、まだいい方なのだ。ある男など(聞いた話。念のため)|あのこと《ヽヽヽヽ》の後、女がまだ甘えて足など絡めてくると、猛烈にかっときて、突き飛ばしたくなると、言っていた。
別の男は(これも聞いた話。更に念のため)、ことが終るやいなやベッドから転がりでて、一目散にシャワーへとむかうというから、失礼な話だ。
けれども考えてみるに、|あのこと《ヽヽヽヽ》というのは別にベッドの中で男と女がやる|あのこと《ヽヽヽヽ》に限らないような気もするのだ。
たとえば、舞台で他人の人生を演じる役者。無事演じ終えて楽屋で放心している姿など、一種哀感と虚脱感が漂っている。
コンサートを終えたばかりの歌手だってそうだ。辛そうに肩の力を落としてしまっている。
作家にも同様のことが言える。ひとつの小説を書き終えたばかりの瞬間の、あのなんともいえない心境。解放感とか、何かをなし終えたという満足感とはほど遠い(それはもう少し後からくる感情だ)、一種後悔にかられたような嫌悪《けんお》感といったらよいか。
自分の中にたまっていたものを出すという意味において、作家の作業も、役者の演技も、歌手も、それから男のセックスも、何かが共通するのかもしれない。
そういうふうに考えれば、男が|あのこと《ヽヽヽヽ》の後で、かっと来て女を突き飛ばしたくなる気持も、おおいに理解できようというものである。
あれは飽食の後、もう美味しいものを見るのも嫌だ、という気持とは又違うのだ。苦しみ、汗を流し切磋琢磨《せつさたくま》して放出することにともなう喪失《そうしつ》感というか。そこにある種の強烈なエクスタシーがともなうことが、人類をして悲哀の情に突き落とすのだ。
であるから私なども書き上げたばかりの長編の原稿用紙の束など、見るのも嫌だからね。一種ゲロみたいなものだから、あれは。それこそ口と鼻をおさえて、バスルームに駈けこみ、シャワーでも浴びたい心境だからね。うん、わかるわかる。
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「人は女に生れない 女になるのだ」
[#地から1字上げ]ボーヴォワール
スギオとマミコはとても仲の良い共稼ぎのカップルであった。
スギオはフリーのシナリオ・ライター。マミコは高級化粧品のセールス・レディ。一日中外を歩きまわって仕事するマミコの方が、フリーでシナリオを書いている夫より、ハード・ワーク。フリーとは他人にこき使われないということであるが、仕事の注文がパッタリとこないということでもある。
当然のことながら、マミコの方の収入がケタ違いに多い。当然のことながら帰宅時間は不規則。
「スギオさん、悪いけど、今夜も遅くなりそうなのよ。お米は朝といでおいたから、電気釜のスイッチ、七時に入れておいてくれる?」
「あ、いいよ」というのはまだ序の口であった。
「もしもし、あたし。今朝寝ぼうしちゃってお米とぎ忘れちゃった。悪いけどさ、三合ばかりといで、スイッチ入れといてくれない?」
「うん、やっとくよ」
というのも、まだまだ序の口であった。
「スギオちゃん? 夕食のおかず買って帰るひまないのよ。駅前のスーパーでコロッケかなんか出来あいのもの買って来てくれる?」
「わかった。あ、電気釜のスイッチ入れておいたから」スギオもなんとなくペースがのみこめてきたみたい。
「もしもし、スギオ? 今夜も遅いのよ」
「だろうと思ってさ、コロッケ買っといた」
「またコロッケ? 少しは工夫してよね、メニュー。たまには手作りの味も食べたい気分なのよ、疲れて帰るんだからさ」
「じゃ肉じゃがでも工夫してみるよ」と素直に答えるスギオだった。
「スギオ? あのね、今夜ご飯いらないから。お得意さまと少し飲んで帰る」
「あら、せっかくおからと甘ダイのミソ漬《づ》け作ったのに」とスギオ失望を隠せない声であった。
ある時、妻から何の連絡もなかった。その夜午前さまで帰宅したマミコに、スギオが恨めしそうに言った。
「遅くなるなら遅くなるで、電話くらいくれたらいいじゃないの」
「しようと思ったんだけどさ、きっかけが中々つかめなくてさ」とマミコ。
「このところずっと午前さまだし」
「ごめんごめん、ただ化粧品売ればいいってもんじゃないからね、接待も仕事のうちよ」
「土、日くらい家にいてくれたっていいじゃないの。それなのに、ゴルフだマージャンだテニスだと家にいたためしはないし」
「だから稼げるんじゃないの、がまんしてよね」
「それに、このところずっとごぶさただし」と不意に涙ぐむスギオ。
「わかった、わかった。じゃ今夜、ね?」
「そ? じゃお風呂|湧《わ》かすわ」と機嫌を直すスギオ。
「スギオも入る?」
「|オスギ《ヽヽヽ》と呼んで」と恥じらいつつ、バスタブに水を入れに急ぐスギオのなんとなく内股《うちまた》っぽい身のこなし。
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「知はいつも情に一杯食わされる」
[#地から1字上げ]ラ・ロシュフコー=フランスのモラリスト
「君と僕とは、言ってみれば水と油だ。互いにどうしてもまじらない。しっくりとしないんだ。あまり深入りしないうちに、別々の人生を歩んだ方が、お互いのためだと思うんだな」
「つまりそれ、別れ話なの?」
「そう君がとりたければ、そうとってもかまわない」
「まわりくどいのね。でも水と油ってどういう意味よ? お互いにしっくりとまじらないってどうしてわかるの? ねぇ、どうしてわかるのよ? まだ一度もまじわってもみないのに、しっくりいくかいかないか、どうしてそんなことが言えるの? じゃ、やってみましょうよ」
「やってみるって?」
「だから試してみましょうよ、しっくりとまじわれるかどうか」
「つまり君が提案していることは、もしかして男女のインターコースのことだろうか? カーナル・リレーションのことをもしや提唱しているのであろうか?」
「だからつまりあれよ、あれ、ベッドの中で男と女がすることよ」
「それなら、ボクはいいよ。あまりその気にならないのだ。今朝は七時までぐっすり八時間睡眠をとったからね」
「ベッドの中ですることって、眠ることだけじゃないのよ。冗談きついわねぇ。あれよ、あれ、セックス」
「セ、セックス。そ、それは、し、しかし」
「顔色、青いわよ。どうしたの?」
「そのようなことを、うら若き女性が口にすること自体が、僕には驚きだ。しかも女性の方から、男性に要求するということは、まことにもって、その、驚異というか衝撃的というか」
「だから、どうなの、セックスするの、しないの?」
「そのような重大な問題は、一概にはとうてい答えられない。ちょっと時間をくれないか。水、水をくれないか」
――しばし閑話《かんわ》。
「で、どうする? セックス、やりたくない?」
「充分に考えた末にボクの持論を言わせてもらうと、そのようなことは、やはり結婚をしてから行うべきではないだろうか」
「じゃ、結婚しましょうよ、すぐに」
「それですよ、それ。問題は結婚にある。君とボクとは、水と油の性格で、絶対にしっくりとは来ないと思うんだ」
「性格なんて関係ないの。問題は性の一致よ」
「しかし、急いで結婚する理由はないんだよね、当方には。結婚は果物と違って、いくら遅くとも季節外れになることはないって、ほれ、トルストイも言っていることだし」
「でもそれ、絶対にまちがっているわ」
「え? 偉大なるトルストイがまちがっていると?」
「そうよ。女は果物と同じよ。食べ頃ってものがあるのよ。あたし今が食べ頃よ。どう? 今なら最高に美味しいわよ」
「あの偉大なるトルストイも誤ちを犯すなら」
「それなら?」
「ボクも犯しちゃうッ」
というわけで、冷静なボクちゃんもついに堕落の一途をたどるというわけ。
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「顔を見て人の心のありようを知るすべはない」
[#地から1字上げ]マクベス
悪女というのは、大体美人にきまっている。大体というより十中八、九、美人だ。美人だから悪くても許されるというのではないが、美人だから悪くても仕方がないだろう、と男は諦《あきら》める。
が、美人はイコール悪女ということにはならない。美人でも心根の優しいひとも、たまにはいる。
「あいつは悪女だ」と、ちっとも悪くないのに男が喚《わめ》く場合、振られた腹いせ、いやがらせだ。その点美人は損だ。
美人はほんとうに損だ。きれいね、美しいわね、美人だね、と言われる以外、めったに誉められない。ツンツンしているとか、自惚《うぬぼ》れてるとか高慢だとか必ず陰口をたたかれる。でなければ、「美人のわりには頭がいいね」などと言う。美人には頭の良い女がいないみたいな言い方だ。たとえ実際にそうであっても、例外だってあるのだから。
失恋しても、離婚しても、男と別れても、絶対に同情してもらえないのも美人の宿命。
「あのひと、捨てられたのッ?」と、いかにもうれしそうに人は言う。
美人が小説を書いても、評判はかんばしくない。美人が書く小説など面白いわけないと頭から信じてしまう。第一絶対に読まれない。その証拠によく売れている女の小説家の顔、ちょっと思い出してみよう。
この世の中、だから美人に生れるよりブスに生れた方が、ずっと暮らしいい。
いくら悪いことしたって、ブスなら誰れも何とも言わない。ひたすら無視で放っておいてもらえる。相当の悪女でも、話題にならない。話題にもならないから、ブスには悪女はいないと思われている。
「ヨウコが男を騙《だま》して捨てたって噂聞いてる?」
「ぜんぜん聞いてない。何かのまちがいじゃないの? 騙されて捨てられたのがヨウコじゃないの?」
「それがそうじゃないの。男は何でもヨウコのために公金を横領までしたらしいのよ」
「でも一体、ヨウコの何がそこまで男を……。で、その公金は?」
「全部飲食代に消えたって、ヨウコの」
「どうりで」
「知ってた?」
「いや見ればわかる。とみに肥えてるもの最近」
「その上、小説など書いてるっていうじゃない」
「一体何を書くことあるの?」
「ま、自分のことじゃないの、多かれ少なかれ」
「やるじゃないの。見直したわ。彼女、我々の希望の星よ。我々フツーの女にもやればできるって夢を与えてくれたわ」
「けなげだしね」
「うん、けなげ。よし、それじゃ本でも買ってあげようじゃないの」
と、女共を本屋に走らせることが出来るのも、美人じゃないからだ。で、ますます印税が入り、ますます肥える秋となるわけ。
「ウヒヒヒヒ」とひそかに笑うはヨウコなり。「全て計算の上でのことよ。ブスやるって大変なのよ。ブスやってその上肥え太るって、並の苦労じゃないのよ。ブスやってその上肥えて、もてないって女の地獄よ。もてないこと本に書くって、これ勇気よ。実は、あたしこそ稀代《きだい》まれなる悪女なのぉ」
[#改ページ]
「棄てられて、棄てられて、ありがとう」
[#地から1字上げ]藤公之介
男と女。逢うは別れの始まり。どうせ別れるなら、楽しい時ばかりじゃなかったが、ありがとよと言って別れたいものだが。
現実はなかなか。女の方にまだ未練が残っている場合、別れの最後の科白《せりふ》は相当せつない。
「何か残していって、別れる前に」(別れる前に/詞なかにし礼)――この場合女にとって、男の身につけたもの、触れたもの、日頃愛用しているもの何でもいい。男の首のまわりの18Kのチェーンでも、奥歯の金冠でも。金《ゴールド》などだめだというのなら、かつては二人の愛の時を刻んだカシオの腕時計でも。それも嫌ならあなたの|におい《ヽヽヽ》のしみたもの――セーターでもYシャツでも(ソックスや下着はやっぱりちょっとね)。それで思いだした話がある。
「あなたの煙草くれない?」と最後に女が訊く。
「いいよ」と男が一本抜きとろうとする。
「ううん、袋ごと全部」
「いいけど」男は肩をすくめて、少ししわくちゃになったマイルドセブンを渡す。すると女は立っていって、レジで封を切っていないマイルドセブンを買ってきて男に返す。
「どうして」と男はちょっとけげんな表情をする。
「いいの」女はただほほえむ。
しわくちゃのマイルドセブンは、彼の思い出だ。こんなに素敵な別れを演じられる女を棄てる男は、なんにもわかっちゃいないのよね。
「思いでをのこしてちょうだい。思いではつらいけど、残らないよりましだという気がするわ」(流れのさなかで/立原正秋)
別れ際に何か思い出を残せといわれても、男はきっと困るだろうな。
それだったらいっそのこと「別れる前にお金をちょうだい」(お金をちょうだい/歌美川憲一)と、はっきり言ってしまうか。
この場合の額は、どれくらいが適当なのか。咄嗟《とつさ》の申し出だから、まあ一応十万円くらいでその場の手はうてるのではないかしら。うろたえてポケットを探り、出てきたのが四千二百三十円なんてのは、だめ。
お金でことが無事にすめば、まだいいと思うべきだ。世の中全てお金で解決できるものでもない。
「今さら離縁というならば、もとの十九にしておくれ」(十九の春/歌田端義夫)十九に戻してくれと言ったって、そんな。
「あたしの青春を、そっくりそのまま、返してよね」と言われるのも同じこと。
私が個人的にすごいと思った女の別れの科白は、さだまさしの詞。――「捨て去る時には、こうしてできるだけ遠くへ投げ上げるものよ」
こんなこと言われたら、男はまいるだろうなあ。
であるから、女を棄ててはいけないのである。では女と別れたかったらどうするか。女に棄てられるように仕むけること。その方法は紙面の都合で割愛するが、いいじゃないの格好悪くたって。負けるが勝ちという言葉もあるし。棄てられて、棄てられて、ありがとうッ。お酒の味だって、ずっといいと思うわ。
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「男子家を出ずれば、七人の敵あり」
「行っていらっしゃい」という妻の声に送られて家を出たテルヒコ。
「おや、お早いですな」と隣の家の亭主が庭先からヒョイと顔を出した。こんな時間に庭で何をしていたのだろうか? もしや我が家の中を窺《うかが》っていたのではなかろうか。オレが出かけた後で女房を誘惑する気ではあるまいか。ふとい野郎だ。で、テルヒコは隣人の挨拶《あいさつ》に応えず、プイと顔を背《そむ》けるのであった。敵一号。
「おお、さっき鈴木さんの|奥さん《ヽヽヽ》から電話が入ったぞ。お待ちかねのようだから、すぐ電話をしてやれよな」と、会社に一歩足をふみ入れるなり同僚の声。敵二号だ。嫌な奴。鈴木さんの|奥さん《ヽヽヽ》などと会社中に聞こえるように言うことはないのだ。鈴木氏は三年前に他界しており、ご亭主の会社を継いできりもりしている女丈夫だ。我が社の大事なクライアントではないか。それに鈴木夫人は当年とって五十八歳、おばんと婆さんのあいの子だ。
「あらぁ、お安くないわねぇ、そうやってあちこちで女を泣かせてるんでしょ」とは経理のオールドミス。彼女に食事に誘われて、そのあとで口説《くど》かなかったことをいつまでも根にもっているのだ。
「あのひと食い逃げ専門よ」と噂《うわさ》をふりまいたものだから、オレの評判はガタ落ちだ。許せないね。敵三号。
「昼飯でも一緒に食わないかね」と肩を叩《たた》いたのは課長だ。このひと敵四号。のこのことついて行っても、ご馳走してくれるわけでは決してない。それなら誘うなっていうんだ。自分の金払って昼飯食うんなら、こっちにも相手を選ぶ権利があるってもの。昼食代払って、部長や重役の悪口を聞かされちゃたまらない。下手に相槌《あいづち》を打とうものなら、すぐに当の部長や重役の耳に入って中傷される。くわばらくわばら。さわらぬ神にたたりなし。そこへ電話。
「え? あっ姉さん。何? 親父が危ない? えっ何? 死んだ? 何時《いつ》死んだの? 先月? なんですぐに知らせてくれないんだ? え? 遺産? オレにくれない? そういう親父の遺言だって? 親の臨終にも駈けつけない息子は息子とは思わないって? しかし、知らされなければ、知るわけがないだろうがッ」
陰謀だ。姉貴の奴、昔からいつもそうだった。その手でたいていのオヤツをちょろまかしたものだった。憎っくき敵五号。
くさりきって仕事の帰り、行きつけのバーへくりこんだ。テルヒコの顔見るなりホステスが言った。
「ミチやめたわよ」
「え? やめた?」
「もう顔見るのも嫌だって」
「だれの?」
「あなたのよ」
「どうしてぇ!!」
「知らない」
五年間もさんざんつぎこまされたあげくにドロンとは。
好きな男が出来たのにきまっている。そんな女はこっちからねがい下げだ。敵、敵。敵六号ッ。
むしゃくしゃして家へ帰ると、ちょうど門のところで女房とすれ違うテルヒコ。
「今時分どこへ行くんだ?」
「おいとまさせて頂きます」
「どうしてぇッ」
「好きな人が出来たんです」
「まさか隣の亭主ではあるまいなッ」
「それがそうなんです。これから二人で駈け落ちをします。失礼ッ」
ならぬ、許さぬ、敵七号ッ。
[#改ページ]
「また結婚するとしたら、この人しかいない」
[#地から1字上げ]前川清
でもやっぱり、|この人《ヽヽヽ》とは再婚しないと思うのだ。だって、必ず同じ失敗をくりかえすのにきまっている。
同じ失敗をくりかえすのは、バカだ。前川さんは頭の良い男性だから、絶対にバカなことはしないはずだ。従って|この人《ヽヽヽ》との再婚はないと思うのだ。
けれども世の中には同じ失敗をくりかえす人もいる。有名な例ではエリザベス・テイラーとリチャード・バートンの二人。
十年間の結婚生活を解消した後、また一緒になった。バートンとは再婚だが、それまでリズは四、五人の男と結婚と離婚をくりかえしているから、再々々々々再婚になるわけだった。バートンの方も、再々々再婚くらいにあたるだろう。
が、リズとバートンの復縁の期間は、ごく短かったと記憶する。ヤッパリだめだということがわかったのだ。そんなこと、当の二人をのぞいては、世界中の全ての人がわかっていたもの。バカは死ななきゃわからないっていうけど。そう言えばバートンはもう死んでしまってこの世にはいないんだっけ。
でも私は個人的にはリチャード・バートンが好きだった。シェイクスピア役者としては、大変に秀でた人だった。
役者は舞台の上で輝けばそれでいいのであって私生活などどうでもいいことなのだ。
「女性の扱い方のこつは?」とバートンはインタビューで訊《き》かれたものだ。
「ダイヤモンドをあげればいいのさ」バートンはこうこともなげに答えている。
事実彼はエリザベス・テイラーに、世界で一番だか二番目に大きなダイヤモンドをくれてやった。多分、クレオパトラの出演料を全部注ぎこんでも足りなかったろう。イギリスの貧乏な炭坑地帯の出の男が、そんな時どんな気分がしたことだろう。そう言えば、ダイヤモンドは木炭から出来るのだっけ。あまり関係ないけど。
そのリズとバートンが離婚の際に言った言葉。
「私たちは九年間、あまりに愛しすぎた。常にお互いのポケットに入りこんだみたいに……。これでは二人ともだめになるばかりです」
さて頭の良い前川さんは、「また結婚するとしたら、この人しか……」と言ったが、こうも言った。「離婚の原因は二人が結婚したことです」
これ名答。これほど明解かつ正解はない。バートンの負けね。前川さんの科白《せりふ》勝。
それで思いだしたけど、離婚に際してこんな言葉を吐いた人がいる。
「オレなにがなんだかわからない」
言ったのは小林旭。言わせたのは美空ひばり。
[#改ページ]
「忠言耳に逆い、良薬口に苦し」
[#地から1字上げ]史記
「テルカズさん」と母親は嘆くのだった。
「あなた今年で幾つになりました?」
「三十六です」母親には頭の上がらないテルカズは神妙に答えた。
「三十六! 普通の男なら、もうとっくに家庭をもち、子供がいたって不思議ではありませんよ。家族をもたない男など、根無し草と一緒。子供を育てあげてこそ、男も一人前に完成するのです」
「しかし母上。この世の中にボクの子供を生ませたいような女は、存在しないのです」
「それはね、テルカズさん。あなたがつきあっている女たちが悪いのですよ。噂《うわさ》によりますと〇〇商事の社長夫人とか〇〇物産の重役夫人とか、ずいぶん年上の方たちとばかり。母親の私とそう年の違う人たちではありませんよ」
「だから、子供が生めないのです、母上」
「冗談を。そのような方々とおつきあいをして何の徳があるのです?」
「それゆえに、ボクはこうしてアルマーニの背広を何十着と買いました。靴は全てイタリア製。このロレックスの金の時計も、先日新しく届いたポルシェの車も、同じことです。母上を歌舞伎座まで送ったあの車です」
「おおなんという情けないことを。それでもあなたは男ですか? 男子というものは、身を粉にして、切磋琢磨《せつさたくま》するものではありませんのか」
「もちろんです、母上。ぼくとて日夜、身を粉にして切磋琢磨しているのですよ」
「でも一体、いつ、どこで?」
「あのお金と暇をもてあました老夫人方の寝室で」
「ああ情けない、ああ恥かしい。それが男子の生きる道ですか。それではまるで若いツバメではありませんか」
「別の呼び名をジゴロといいます。しかしジゴロ業一すじなわではいきません。教養もマナーも積みませんと。肉体も常に鍛えておりませんと。決して簡単な職業ではありませんよ、母上」
「よいかテルカズ、よくお聞きなさい。まがりなりにも、我が家系は落ちぶれたとは言え、由緒《ゆいしよ》ある家柄。そのような自堕落な職業、今日をかぎりにすっぱり足を洗いなさい。母の命令です」
「母上の命令とあらば、しかたがありませんが、しかし母上、今夜からはもう二度と松阪牛のスキヤキなどは食卓にのぼりませんぞ」
「覚悟の上です」
そのような会話があってより数か月。
「どうしましたテルカズ、顔色が悪い。それにそのように痩《や》せてしまって」
「母上のおおせに従ったまでです」
「私の?」
「そうです。女どもからはいっさい手を引いておりますゆえ」
「して、今どのような方と、どのようなおつきあいを、テルカズさん、しているのですか?」
「それは、たとえ母上でも申し上げられません」
「でもその様子、只事《ただごと》とは思えません。病院で調べてもらいましたか?」
「はい。調べました。後天性免疫不全症候群です」
「つまり?」
「エイズです」
「ま、恐しい。薬は飲みましたか?」
「よう飲まんのです、ボクは」
「なぜです」
「ひどく苦《にが》いのです、母上」
[#改ページ]
「葉巻のような一生がある。吸いはじめだけがうまい」
[#地から1字上げ]フレヴォ=フランスの評論家
「最初のうちだけよ、熱心だったのは」と結婚三年目の女たちが寄り集って、お互いの亭主の悪口に花を咲かせていた。
「毎日毎日だったのにね」
「それどころか朝もよ」
「休みの日なんて一日中ベッドから出なかったわ。昼食はベッドの中よ」
「それがこのところめっきり減って」
「ねぇねぇ、お宅何回?」
「四回もあればいいんじゃないの」
「週に四回なら、文句ないわよ」
「バカね月に四回のことよね、ね? そうでしょ?」
「違いますよ。年よ、年。年に四回ってこと」と件《くだん》の人妻は憮然《ぶぜん》と言ってのけるのであった。
「結婚三年で年に四回じゃ頭にくるでしょうねぇ」
「頭にもくるけど、|あそこ《ヽヽヽ》にもくるわよ。もうイライラしちゃって」
「でもさ、似たり寄ったりよ、うちだって。この前いつしたのか、思いだせないことが多いもの」
「こういうの許せないと思わない?」
「もちろん許してないわよ」
「じゃどうするの」
「当然」
「当然って?」
「浮気」
「するの?」
「もうしたわよ。とっくに。おまけにさ」
「おまけに?」
「彼の子、生んだわ。亭主はもちろん知らないけど。もっとも亭主が少しでも私に関心があればよ、月数が合わないとか、その時期に事をいたさなかったこととか、すぐわかるのにね。俺に似てハンサムだなんて言ってるわよ。フフ、バカねえ」
「でもさ、男共ってさ、女房のこと何だと思ってるんだろう? 石ででも出来てるとでも考えてるんだろうか?」
「絶対に、男にはモテないと信じていることだけは確かみたいよ」
「女房は性欲ゼロと信じて疑っていないわよ。子育てで、全て発散してると思ってるのね」
「でも、そう信じているから逆に楽よね。夜家にいさえすれば、それで何にも疑わないのよ」
「昼、女房が何をしようがね」
「ところがその辺のラブホテル、主婦たちで満員なのよ」
「ま、当分女房は性欲ゼロって顔していましょうよ。その方が何かと便利で得だから」
「それにしても男ってバカよね。若い女ばっかり追っかけて」
「そうそう。ちょっと使いこんだ頃から、味はずっと美味くなるのにね」
「スルメと同じなのよね。あたしたち」
「咬《か》めば咬むほど味が良くなる。美味しくなったところを、他の男に取られちゃってるなんて、知らぬは亭主ばかりなりよ」
「でもそれでいいのよ。なまじ亭主に迫られると、今じゃぞっとするわ。あの恐怖のワンパターン」
「そうそう同感。女はスルメだけど、男は葉巻だわね。喫《す》い始めだけが美味いってやつよ」
「そしてあとは恐怖のワンパターン」
と、つきることのないお喋りが延々と続くのであった。
[#改ページ]
「ワタシにもウツせます」
[#地から1字上げ]フジカシングル8
「怖いねぇ、エイズって」巷《ちまた》では男たちがセンセンキョウキョウ。
「アメリカじゃ全ての軍人二百十万人の検査をするっていう話じゃないか」
「すでに兵隊百人がエイズ患者とわかっているっていうから、検査の結果、ぐんと数が増えるんじゃないのかねぇ」
「ハリウッドじゃ、映画のキスシーンを拒む俳優が続出だってね。キスシーンのない映画なんて、観る気も起らないよね」
「ニューヨークあたりじゃ、挨拶のホッペタにするキスはおろか、握手だってしなくなったって何かに書いてあった」
「止むをえずしてしまったら、トイレに飛んで行って、ゴシゴシ洗ったりね」
「男ばかりがかかるかというとそうでもないってね」
「輸血とか」
「それもあるが、ほら両刀使いっていうの。あれでどこかの航空会社のスチュワーデスが感染したって何かで読んだよ」
「そうとは知らず、そのスチュワーデスと寝た男共は災難だよな」
「空港空港に男ありだからね、スチュワーデスは」
「ということは、女だからって安心してやれないってことだ。くわばらくわばら」
「当分のあいだ自家製でまにあわせるか」
「急に迫りだしたらどの家でも女房連中がとまどうだろうな。さんざっぱら放っといて手も足も出さなかったのに」
「しかしだなあ、女房連が絶対に安全かどうかねぇ」
「エ? どういうこと?」
「浮気してないかどうかの問題だよ」
「ま、まさか。うちのに限って。第一あの面《つら》だ。男なぞいるわけがない」
「そういう君の彼女だって、人さまの女房だろうが」
「そういえばそうだが。しかしありえないね、うちの女房の性格から言って、浮気はまず不可能だよ」
「しかし彼女も女だ。一体どれくらい放っておいた?」
「そうだねぇ。もうかれこれ三年近く手を出してないねぇ」
「そいつはひどいね。三年もか。とするとこの三年奥さんのセックスライフはどうなっていたと思う?」
「なしさ」
「自信ありげに言い切るね。大丈夫かい?」
「大丈夫、大丈夫」
大見得を切って帰宅した夫。久しぶりに妻のベッドへ。
「まあ、一体どういう風の吹き回しなの?」と妻が驚いた。「彼女にふられたの?」
「ふられはせんがね、エイズがはやっているから、ちょっと用心しようと思ってさ」
「まあ、ゲンキンな人ね」
「おまえなら、安心だからな」と事に及んだ。
事が済むと、妻が言った。
「あんまり安心なさらないほうが良いわよ」
夫はギクリとして妻をみつめた。
「まさか、おまえ」
「実は、どうやらそうらしいの」
[#改ページ]
「どうせ私をだますなら死ぬまでだまして欲しかった」
[#地から1字上げ]東京ブルース
「今夜ちょっと帰り遅いよ」と出がけに亭主が言う。
「わかっているわよ、女でしょ」
「冗談じゃないよ、仕事だよ、仕事」憮然《ぶぜん》とした表情をとりつくろうが、亭主内心ギョッとする。どうしてそれがわかるんだよ?
ところがそれが女房にはわかるのである。全部ゴムがゆるんでいる亭主のパンツの中に、ひとつふたつちゃんとしたのがあって、それも奥の方に突っこんである。普段なら、手前の分から無造作にはいていく亭主が、これもだめ、次のもだめとパンツを選択したら、すなわちこれ怪しいのである。ゴムのゆるんだパンツばかりを亭主にはかせるのは、女房の陰謀である。ひとつふたつあるちゃんとしたパンツは罠《わな》である。
陰謀や罠がはりめぐらされているとばかりはかぎらない。
「今日ね、うちのひと浮気してくるわよ」と、女友だちとランチなど食べながら、話題のきれめにふと言った女性がいる。
「どうしてわかるの?」と友だちが訊いた。
「それがね、傘でわかるのよね」
彼女曰《いわ》く、亭主の傘が三つある。ひとつはフツーのコーモリの黒。もうひとつもフツーのコーモリの茶。三つめがイタリア製の細身のコーモリ傘。女と逢う時、雨が降っていれば、このイタリア製をさしていく。実に単純。男というものは、前例の下着の件でもわかるとおり、見栄っぱり。いい格好しいなのである。
かといって、仮に男がその裏をかくとする。イタリア製ではなくフツーのコーモリで出かけたとする。それでも浮気は妻の知るところとなる。
「自分では、さりげなくフツーにふるまったつもりなんだけどね」と件《くだん》の女性は言うのだ。「その|さりげのなさ《ヽヽヽヽヽヽ》、その|フツーさ《ヽヽヽヽ》が、うさんくさいのよね」とこうなる。結局何をどうやっても亭主の浮気というものは、女房にばれるものと考えた方がいい。
長い人生色々あり、すったもんだやりながらもなんとか無事に添いとげる。
「ばあさんや、庭を見てごらん。スズメが可愛いねぇ」とかつての浮気亭主は眼を細める。
「若い頃には色々とおまえにも迷惑をかけたが、しかしこうしてなんとか一緒に年をとったのも、おまえ」
と、年おいた女房が亭主の言葉をひきとる。
「そうですねぇ、色々ありましたわねぇ、おじいさん」じっと庭のスズメの動きを追い、続ける。
「ほんとうに、あなたはドジばかり。それにくらべれば、わたしなんぞは」
「おまえは?」とじいさん。
「一度もばれませんでしたわねぇ」
「何が?」
「浮気ですよ」と淡々とした口調。
「おまえが、浮気を?」青天のへきれき。
「ええ、ええ、二十代のイチローさん。三十代はマサキさんにゴローさんにジュンジさん。四十代はもっといましたねぇ。ホホホ。五十代で整理しまして減らしたけどフフフフ。そして現在も、まだ二人ばかり、ヘヘヘヘ」
「ふ、ふたりばかりだと?」
老いたる亭主は驚愕《きようがく》のあまりそのまま昇天してしまったのでありました。
本書はカドカワ・ブックス『男上手女上手』を改題したものです
角川文庫『恋のインデックス』昭和62年1月25日初版発行
平成9年6月10日25版発行