森 瑤子
彼と彼女
目 次
ふたり
優しい別れ
星と夜光虫と雪とバラと
|欠 伸《あくび》
ブランチ
いつもの日曜日
カフェバー
誤 解
バーミラーの女と男
ポール
シルキーな女
年上の女
お楽しみはこれから
カマボコとカマス
カーペットの情事
|煙 草《たばこ》
バード・ウォッチング
誘 惑
強がり
白いドレスの女
カラオケ
夢物語
弦楽四重奏
駈《か》け落ち
夫婦の風景
あっ
だめ?
食事友だち
11:25 p.m.
壁の月
初出誌一覧
ふたり
二人は同じ部屋の中にいる。女と男とは。
もう久しく以前に、女は、一緒に暮らしている男のためにことさら美しく自分を装うことをやめてしまっていたし、男の方も、たとえば朝の食卓で朝刊から眼《め》を上げることはない。
会話が全く交わされないわけではないが、その際二人はお互いの顔ではなく、その背後の空間をみつめて話をする。ずっと前、まだ二人がお互いを熱烈に欲望しあっていた時、男は感動をもってよくこんなふうに言ったものだった。――きみの瞳《ひとみ》をみつめるだけでも、ぼくは絶頂感が得られる。きみの躰《からだ》に指一本触れずともだよ――
しかしそうした時期は人生の中《うち》においては一瞬のことでしかなく、流れる刻《とき》が二人の欲望をすり減らしてしまうのだ。二人は次第に声高《こわだか》に荒々しく話すようになり、口論が絶えなくなっていった。関係が日毎に下り坂を転がり落ちていくようになる過程では、男の暴力や凶暴さや痛みをたたえた怒りで燃え上がる眼の色をみることが、女にとって最後の陰惨な楽しみとなった。そうしたことは束《つか》の間、偽りの親密さを二人にもたらした。憎しみと区別のつかない愛。その混乱の中で繰りひろげられる性愛――半ば犯されて――。
それから二人は石のように沈黙する。以来、お互いの感情を柔らげあわないことによって、二人はお互いをひそかに見捨てたのだった。それでも彼らは一緒にいる。女と男とは。
今宵《こよい》外は雨だ。暗い窓ガラスに、幾筋もの水滴が斜めに走り下りる。冷い冬の雨。そして相変わらず、二人。女は自分の年齢を思う。理由もなく自分の年齢について考えることが、このところよくある。女は三十五歳。
夜を塗りこめた濡《ぬ》れた窓から女は視線を男にふと戻す。数年間の怠惰な生活にもかかわらず、彼は躰のどこにも余分の脂肪をつけてはいない。別の場所で、別の女が見れば、彼は今でもふるいつきたくなるほどいい男なのに違いない。
男が膝《ひざ》の上に開《ひろ》げた雑誌の頁《ページ》をはらりとめくった。
「何を読んでいるの?」答えを要求しない訊《き》き方で女が質問する。
「別に……」男は雑誌の上に視線を落としたままものうげに答える。
「それにしては熱心に読みふけっていたわ」と女はマニキュアの剥《は》げた爪《つめ》を噛《か》む。
「世の中には色々な人間がいると思ってさ」男は女をチラと見る。
「それより映画にでも行くかい」
「今から?」
「六本木のシネマテンなら間にあうよ」
「何やってるの?」
「さあね。行ってみればわかるさ」
「じゃ行かないわ」
男は肩をすくめて口をつぐむ。時々繰りかえされる同じパターン。
「世の中には色々な人間がいるって、どういう意味?」女はつい今しがたの男の言葉を思いだして言う。
「言葉通りだよ。色々な発想をする面白そうな人がいるってことさ」男は再び雑誌に視線を落とす。「それより何か飲むかい?」
「ええ、そうね」
「何を飲む?」
「何でもいいわ」女は投げ槍《やり》に言う。
「またしてもだ」と男は急に苛立《いらだ》ちをつのらせる。「何でもいいわ。どこでもいいわ。どうでもいいわ。自分の意見ってものがまるきりないんだからな。それに比べると――」
「それに比べると?」女の瞳《ひとみ》が暗く光る。
「いいよ、別に。何でもない」
「言ってよ。何か言いかけたでしょう」
「言ったってしようがないさ。それで何かが変わるわけじゃないし」
「言ってみなければわからないわ。何なのよ?」
「たとえばの話さ。こんな女も世の中にいるってこと」男は雑誌の求む交際欄の一点を指して、ある種の残酷な喜びをもって読み始める。「――ボジョレを一本だけ持って、夕陽《ゆうひ》を見に行かない? 香港《ホンコン》のリパルス湾《ベイ》とかマンダレーの夕陽といきたいところだけど、冬の湘南《しようなん》あたりで妥協するとして。数時間だけ、人生から逃避したい男性《かた》、私にご連絡下さい。私書箱二九四――」
「それがどうしたの? 死ぬほど退屈している女の戯言《たわごと》だわ」女は奇妙な表情で、だが静かに言う。
「たとえそうでも」と男は言う。「自分の好みや意見をちゃんと持っている女だよ」
「まだ何か言い足りなそうね」
「同じ女でも発想が違うものだと思ってさ」男は皮肉な眼《め》で女を眺める。「マンダレーの夕陽のこととかさ、きみなぞ逆立ちをしたって思いつかんだろう」
「あなたがマンダレーの夕陽に心を動かされるとは、私には意外だわ」女はちょっと遠い眼をする。
「いっそのことその女に逢《あ》ってみたら?」
「案外いい女だったりしてネ、ぼくはきみを捨てるかもしれないぜ」試すように男は言う。
「案外それで私たちの脱出口が見つかるかもね」
「ずいぶん落ち着いているんだな。きみを捨てるかもしれないとぼくは言ってるんだよ」
「その見たこともない女のために?」
「そういう素敵《すてき》な発想をする女のためにさ」
「でも多分、あなたは私を捨てないと思うわ」
「たいした自信だな」男は顔をしかめる。「実を言うとね、ぼくはその女のために既にボジョレを一本買ってあるんだ」残酷な男の声。
「ブラボー」女は動じない。
「もううんざりなんだ。そこにそうしてマニキュアの剥《は》げた爪《つめ》を噛《か》んでいるきみを見ると、むかむかするんだ」
「でもその女も同じよ」女はあくまでも落ち着いている。
「え? 何と言った?」男が訊《き》きとがめる。
「きっと普段は剥げたマニキュアをしているってことよ」
「そんなこと、きみにどうしてわかる?」
「どうしてわかるか、ほんとうに知りたいの?」女は奇妙にも輝くような表情で男をみつめる。
「そのわけはね」と彼女は囁《ささや》くように言った。
「その交際欄の女、実は私なのよ。私が書いて広告を出したの」
少しして、二人はボジョレをあけている。
「まいったね」と男は苦笑して、女とグラスを合わせる。「実際まいったよ」
それから二人は、ワインを静かに飲み始める。視線はお互いの顔ではなく、やはりそれぞ
れの背後の空間に注がれている。
優しい別れ
ヨットクラブの中は、週末のクルージングから戻った男たちでごったがえしている。海の男たちの顔は冬の相模湾《さがみわん》に吹く寒風のせいで、どれも少し荒《すさ》んでいる。その中にあのひとの顔は見当たらない。誰《だれ》よりも荒んで見えるあのひとの顔は。
室内にはエンジンオイルや海や風やコーヒーの香りが充満している。それとウィンドブレーカーの下のアラン模様のセーターが放つ、羊毛の脂じみた匂《にお》いも。
ここは男の世界だ。男たちの匂いに満ちている。しかし私の男はまだ海から戻らない。
クラブの一隅では、半年前にスェーデンをヨットで出た海の冒険者が二人――男と女が――カナダに向かう途中二日前から寄港しており、週刊誌のインタビューを受けている。男の名はヤン。女はインガ。
――いいえ、私たちは夫婦じゃありません。インガが微笑する。この指輪のこと? これはわたしの夫がくれたものです。ええ、子供が二人います。
ということはかけ落ちですね、と週刊誌の記者が念を押す。ご主人やお子さんを捨てて海へ逃避行というわけですね。
――そうおとりになりたければ……。ヤンを愛してましたから。
二人はそこでしっかりと手を握りあう。その時ハーバーに面したドアが勢いよく押され、冷い風を先行させながら海の男たちが傾《なだ》れこんでくる。男たちはあたりに新鮮な潮の匂いを放ちながら、舌の焼けるような熱いコーヒーめざして、クラブハウスの中を突っ切って行く。その中に私の男がいる。しんがりに。潮と太陽と風とに荒らされた横顔が私の前を通り過ぎる。
――タヒチには二週間|錨《いかり》を下ろしたわ。インガが喋《しやべ》る。インガだけがもっぱら質問に答える。その横顔をヤンがそれ以上は望めないやさしいまなざしでみつめている。
――タヒチは今でもまだ楽園よ。ココナッツとバナナと魚さえ食べていれば、一生ただで暮らせるわ。
ではなぜその楽園で一生暮らさないのですか? 記者が訊《き》く。
――ココナッツとバナナと魚に飽きたからよ。そして人々が笑う。
私はあのひとをみつめる。あのひとだけを。すると、誰《だれ》かにみつめられている時に覚える微《かす》かな胸騒ぎで、彼の視線がクラブハウスの中をさまよう。そして私を発見する。私は微笑する。
けれども彼は笑わない。潮風に痛めつけられた顔に、さらに荒《すさ》んだ感じを滲《にじ》ませてゆっくりとこちらに向かって歩きだす。私は惨めな気持ちで自分の顔の上の微笑をひっこめる。
――ヨットで航海していて、一番|怖《おそ》ろしいのは風よ。インガの声が続く。
「一体きみはここで何をしているんだ?」押し殺した冷い声。「どういうつもりなんだ?」
「歓迎されるとは思わなかったけど」と私は男の顔の上に愛情の片鱗《へんりん》でも残っていないかと必死に探す。だがそんなものは――。
「わかっているだろう。ここは僕の領域《テリトリー》なんだ。ここにいる連中は僕の仲間でもあるが妻の友だちでもある。妻を裏切ってはいるが、僕は最低のルールを重んじる人間だ。彼女のテリトリーの中で、妻の面目を潰《つぶ》すのはしのびないね」
「面目のことを言うのね。それならお互いさまよ」私の体はなぜかドロテビスの黒い特大のセーターの中で泳ぐように揺れる。「男の心が離れていくのを知っていて、それでも男を追い回す女の面目のことも、少しは考えてくれた?」
――ただの風じゃないの。壁のような風。いったん海上にその風が起こると、何日も吹き続けるわ。想像を絶する風なのよ。それは怖ろしい吠《ほ》え声で悲鳴を上げるの、風が。わたしはキャビンにたてこもって耳を塞《ふさ》ぐ。それでもまだ聞こえるの。身の毛のよだつような風の叫びが。そういう時わたしは床を転げ回るわ。そしていつのまにかわたしも絶叫している。あの風が吹くと、いつも発狂するのよ。インガはそう言ってヤンの厚い胸に顔を埋める。ヤンの手が彼女の髪を静かに愛撫《あいぶ》するように、動く。いつまでもその手は動き続ける。
「だとしたら」と私の男は、薄情な声で言う。「きみは自分で自分の墓穴を掘っているようなものだぜ」
「知ってるわ」いずれにしろ私の恋は葬られるのだ。「だけど少しずつ死んでいくのはたまらないのよ」何か月もかけて恋が腐《く》ちていくのを見るのは。「わかっているの? 私来月で三十六になるのよ」
人々の頭ごしに、インガの顔が見える。私とインガは一瞬みつめあう。なんという眼《め》の色だろう。あの眼は毎日海を眺めてきたひとの眼だ。風や波や雨や嵐《あらし》が突き刺った眼だ。でもあなたにはヤンがいるわ。ぴったりと傍《そば》によりそう男の熱い肉体がある。
「それを言いにわざわざ来たのかい?」かつては私の横で熱く燃え上がったその肉体が、今では敵のように体を硬ばらせてそそり立つ。
――カナダに着いたらわたしたちが結婚するかという質問? インガは急に苦悩の色を浮かべ、別人のように言う。
――あの狭いヨットの中で男と女が何か月も一緒に暮らすことがどういう意味かおわかり? どこへも逃げられないのよ。ひとりになるということが出来ないの。四六時中|誰《だれ》かと一緒にいるのは、地獄よ。ヤンを愛しているわ。でもささいなことで口論が始まると、最後にはいつも殺し合いになるのよ。何度殺し合ったかわからないわ。ヤンを憎んでいるわ。彼もそうよ。私たち、地獄を見たのよ、ね、そうでしょう? とインガはヤンの手をさも愛《いと》しそうに愛撫《あいぶ》する。そしてそのオイルで黒く汚れた男の掌《てのひら》の中に、情熱的に口を埋める。それからインガは沈んだ声できっぱりと言う。――カナダに着いたら、わたしたち別れるのよ。
そうなのだ。あの眼《め》は男と女の地獄を見た眼なのだ。
インタビューを終えて二人がクラブハウスを出て行く。二人は腕を組みぴったりと寄り添いながら、ハーバーの風の中へ出て行く。笑いながらほとんど幸福そうに。愛の別れのパターンはいくつもある。そして私は私の男にチャオを言う。彼の領域の中で、ちょっとばかり砂塵《さじん》を撒《ま》きちらして。
星と夜光虫と雪とバラと
誕生日が近づくにつれて、胸が疼《うず》く。
胸が疼くのは、ついに三十五歳をむかえるからではない。そういう意味でなら、三十歳の誕生日の時の方が、私ははるかに動揺した。
胸が疼いてならないのは、過去三度の誕生日が、生涯忘れえぬ美しくも哀《かな》しい思い出に満ちているからだ。しかしそれは、もはや完全に過去に属する思い出。取り戻すことの出来ない日々。おぉマリオ。
マリオとはお互いに一眼《ひとめ》で魅《ひ》かれあった。どこでだったか。多分六本木の角の本屋か、その近所のドラッグ・ストアの中か、あるいは煙草屋《たばこや》の店先だったかもしれない。
視線が出逢《であ》った時、一瞬身動き出来なかった。胸に痛みが走りぬけた。彼は口の端を微《かす》かに歪《ゆが》めるようにして微笑を浮かべ、視線を逸《そ》らせかけた。そのまま行かせてしまってはいけないと感じた。見知らぬ男なのに、まだ一度たりとも自分のものであったわけでもないのに、彼を永久に失うような気がした。躰《からだ》が揺れるほど、それは耐え難い思いだった。見も知らぬ男なのに。背中をみせて歩み去ってしまったら、自分はひどく孤独に感じるだろうと思った。見捨てられ置去りにされたように感じるだろう、と。
「待って」と私は思わず言った。「置いて行かないで」
彼はたいして驚きもせず、長すぎるくらい私をみつめた。それから、マリオと唐突に名乗った。それが私たちの恋の始まりだった。
「どうしてマリオなの?」と少し後で訊《き》くとこう答えた。
「ずっと昔観たゴダールの映画の中に出てきた男がマリオと呼ばれていて、ボクに似ていたんだ。それから、当時の女がボクをそう呼び出した」マリオは遠い眼をした。「それがね、ちっともハンサムな男じゃなかったんだけどね」
私は胸の中で別のことを考えていた。ゴダールの映画を彼と観た女のことを。そしてひそかにその見知らぬ女に嫉妬《しつと》したのだった。
最初に六本木で出逢《であ》った日が、私の三十二歳の誕生日だった。私はそのことを暁《あかつき》の中で別れ際マリオに伝えた。
「なぜもっと早く言わなかったの?」と彼は哀《かな》しそうな顔をした。
「贈りものが買えたのに」「あなたが贈りものなのよ」と私は少しずつ白んでいく暁の空の下で、寒さと感動に震えながら答えた。
マリオの腕が私の肩に回された。
「あそこの星が見える?」と彼は西の方角の一点を指した。まだひとつだけ輝いている星がぽつんとあった。
「あれを、きみにあげる。ボクからのプレゼントだよ」
「あの星を?」私はうっとりとその金色の星を眺めた。
私たちは固く手を握りあって、私たちを離れがたく結びつけたその一夜のホテルを後にした。
一番幸せだったのは、翌年の誕生日だった。私たちはマレーシアにいた。小さな入江のある美しい村だった。
月のない夜だった。空気は湿気を帯びて熱かった。一面に潮と濃い熱帯の花の香りと、そして夜の放つ獣めいた匂《にお》いがしていた。
遠浅の海で私たちは何ひとつ身につけていなかった。波打ち際で激しく愛しあったあとでマリオが言った。
「またしてもボクは誕生日のお祝いを買ってない」悪びれない少年のような態度だった。「ごめんね」
いいのよ、と口では答えたが、ほんとうを言うと少し淋《さび》しかった。その時、雲間に月が出た。
「そのかわり」とマリオは言った。「ほらこの一面の夜光虫」
月が出ると、夜の海面には、ひとつぶが〇・五カラットもあるダイヤモンドのような夜光虫が、さんぜんと輝き始めていたのだった。
「まるで宝石みたいだわ」私は息をのんだ。
「これ全部、キミにあげる」そうマリオは言って両手で海水を汲《く》み上げて私の手の中に落とした。「ハッピー・バースディ」私の淋《さび》しさはそれで消えた。世の中にこんな素敵《すてき》な贈りものがあるだろうか。そしてこんな素敵な贈りものをもらった女が他にいるだろうか。私は夜の中で少し泣いた。
更に一年が過ぎた。私たちは私の父の山荘にいた。外は深々とした雪だった。あと少しで私の三十四歳の最初の日が終わろうとしていた。暖炉の火をみつめながら私は苦い口調で言った。
「また、贈りもの買い忘れたって言うんじゃないでしょうね」
マリオは肩をすくめて立ち上がり、窓に顔を寄せた。粉雪がしんしんと降っていた。
「まさかその雪を私にくれるって言うんじゃないでしょうね」いっそう悪意のある声で私は重ねて言った。マリオは無言だった。
途方に暮れたような、道に迷った子供のような様子をしていた。
その様子のせいで、私は足かけ三年、彼に貢いできたのだった。
「女というものはね、マリオ、たとえバラ一本でもいいのよ。好きな男から、そういうふうに愛情を示してもらいたかったの」
愛情を示してもらいたかったの、という言い方の、過去形に私たちは二人とも気づいていた。マリオはついに一言も喋《しやべ》らなかった。
翌朝目覚めると、傍らのベッドは空だった。山荘の中のどこにもマリオはいなかった。
カーテンを押し開いて雪の庭を見下ろした。早朝の冬の日射《ひざ》しを受けてマリオの残した雪文字が浮き上がっていた。――I LOVED YOU――キミを愛した、と。
その雪の朝いらい、私はマリオに逢《あ》っていない。
ついに今日、私は三十五歳になった。人生の半分。女のターニングポイント。そして相変わらず独り。ドアにノックの音がする。出て見ると花屋の若者が立っている。真紅《しんく》のバラが三十五本。私の胸に押しつけられた。贈り主の名はない。
|欠 伸《あくび》
ジョン・レノンの唄《うた》が流れている。店の中にはエスプレッソと香水とジンの匂《にお》いがする。それに微《かす》かな香木の匂いも。
もっとも香木の匂いは錯覚かもしれない。東洋調《オリエンタル》の室内装飾のせいで、そんな気がするのだ。ジョン・レノンの声がゆっくりとフェイド・アウトして、唐突にチェンバロ音楽に変わった。
「覚えている? ラッフルズ・ホテルで朝食を食べた部屋の名前?」長めの沈黙を破って女が訊《き》いた。女の夫はただひっそりと肩をすくめる。
天井がおそろしく高くて、明るい部屋だった。天井にとりつけられてあったプロペラ型の扇風機が回っていた。シンガポールのコロニアル風のホテルのあの部屋で、扇風機がかきまわしていたのは熱い湿った空気だった。
「どうして?」とずいぶんたってから女の夫が訊き返した。今度は女が肩をすくめた。「別に」
あの時も、夫婦は沈黙がちだった。美しい早朝で、ホテルの窓の外では熱帯性の小鳥たちが鳴き騒いでいた。ホテルの窓はすべてクジャク椰子《やし》の立ち並ぶ中庭にむけて開いていた。
暑いね、と夫が呟《つぶや》いた。こめかみから頬《ほお》にかけて、汗が滑り落ちるのが見えた。
暑いわね、と妻も呟いた。それきり彼は一日遅れのタイムス紙から眼《め》を上げなかった。
中庭にむけて開いている窓際に一人、イギリス人が坐《すわ》っていた。男から漂うひややかさでイギリス人だとわかった。イギリス人の視線はクジャク椰子のあたりをさまよい、時々食卓のリモージのコーヒー・カップの上へと戻った。
もしも、と彼女は思った。この旅に出たのが夫とではなく、たとえばあの男とだったら。そうしたら異国での一瞬一瞬がめくるめく興奮に包まれるだろう。朝食の食卓でお互いの顔から眼を背《そむ》けあって欠伸《あくび》を咬《か》み殺すことなんてなくて、むさぼるように相手をみつめあう。そして相手のことを知るためにたくさんの質問を重ねる。ジンは好き? ビートルズは? ラオスに旅したことがあって? ベトナム料理はお好き? それから一日に三回も四回もベッドで愛しあうのだ。習慣からではなく好奇心から。与えるよりも奪うために、激しく愛しあう。
何を考えている? 不意に新聞《タイムス》から顔を上げて、あの時夫が訊《き》いた。例の答えを要求しない訊きかただった。
え? と妻は現実に引き戻されて一瞬うろたえた。別に何も――。
そうか。再びタイムスに戻る夫の視線。
「思いだしたわ」と、女はチェンバロ音楽の第一楽章の終わりで不意に言った。「ティフィン・ルームだったと思うわ」
「何を思いだしたって?」と女の夫が少し空《うつ》ろな声で質問する。
「三年前に旅行したシンガポールの」と女が言いかけて、ふと夫を眺める。「ラッフルズ・ホテルの」夫の様子がとても無防備なのに彼女は気づく。夫が眺めているもの――正確には若い女を、彼女も眺める。「朝食を食べた部屋の名前のことよ」若い女は絹の靴下をはいている。
「ふうん」と、絹の靴下の女に気をとられながら夫が言った。「名前がなんだって?」
「ティフィン・ルーム」妻は思いがけず声を強めた。
「あぁ、ティフィン・ルームね」夫の視線が見知らぬ女の顔から剥《は》がれて、しぶしぶ妻の顔の上に戻った。彼はバーボン・ウィスキーを口に含み、チェンバロの響きにしばらく耳をかたむけた。それから店内の観賞用植物を眺め、更に視線が流れて行く。妻は小さく欠伸《あくび》を噛《か》み殺した。
夜の遊び人たちに混って、女は死ぬほど退屈なのだった。自分たち夫婦以外の人々は、たえず笑いさざめいたり、囁《ささや》きあったり、顔を寄せたり、視線を絡めたりしている。
けれども彼らには会話がない。夫婦には会話が成立しないのだ。何か言いかけると、センテンスは意味をもたないまま立ち消えていく。もう長いこと、そんな風だった。
結婚して十年もたつ夫婦ってそんなものよ、と女友だちは言うし、彼女もそうだと思うのだ。だからと言って、死にそうに退屈なことに変わりはない。三年前のシンガポールでもそうだったし、これから先もずっとそうなのだろう。
彼女は欠伸を噛み殺したせいで眼《め》に滲《にじ》んだ涙をそっと指の背でぬぐった。むろん夫はそんな妻の動作には気がつかない。チェンバロ音楽が三楽章に入って嵐《あらし》のように荒れ狂う。
わたしは、退屈のあまり泣いているんだわ、と彼女はふと思った。夫と一緒で、都心の素敵《すてき》な店の中で、食前酒を飲みながら。見知らぬ人々に囲まれて。
家には子供が二人いて、コリーが一匹いて。小さいけど芝生の庭があり、白いガーデン・ファーニチャーが置いてある。夏の宵にはそこでバーベキューをよくやった。多すぎもせず少なすぎもしない程度に夫婦の営みがあって。つまり幸せで、めぐまれていて、安全で、そしてどうしようもなく退屈で。夫はまたしても絹の靴下の女に気をとられている。見知らぬ女に気をとられているゆえに彼は無防備この上なく見えた。そして今、妻には夫の胸のうちの思いが痛いほどわかるのだった。
「何を考えているの?」と彼女はやさしく訊《き》いた。
「別に」夫は妻を見て薄く苦笑した。
「でもあなたが何を考えていたのか、わたしにはわかるような気がするわ」
妻は、静かな理解のある声で言った。
「まさか」と夫は苦笑を深めた。「ほんとうにわかるのかい?」
「ええ」と妻は若い女に視線を移しながら言った。「どうしてわかるかというとね、わたしも、同じことを考えたことがあるから」
「いつ?」と夫が訊いた。
「ずっと前」妻が答えた。「ティフィン・ルームで」でも、それからはたびたび。その時夫がでかかる欠伸を噛《か》み殺した。夫もやはり退屈のあまり泣いていると、妻は思った。
ブランチ
陽光のふんだんに射《さ》しこんでいる窓際の席につくなり、南海子《なみこ》が弾んだ声で言った。
「驚いたものね。ニッポンも経済大国なわけだわ。朝の十時からこんなに高級レストランが満員になっちゃうんですものね」
「日曜の朝だけよ。特別なの。いつもこうってわけじゃないのよ」マスミは落ち着き払ってメニューを開《ひろ》げながら言った。
ブランチのメニューは二種あって三千五百円と五千七百円のコース。五千七百円の方にはシャンペンがつく。
「朝からシャンペン飲んでどうするのよ」南海子が大して声をひそめずに言ったので、後や横や前の席の二人連れが、いかにも無粋《ぶすい》な女だといわんばかりの一瞥《いちべつ》を、まず南海子の横顔に、それからマスミの顔に、素早くくれた。
朝からピンクシャンペンを飲んでいるのは、ほとんどが男と女のカップルで、男は中年、女の方はうんと若いのから年増《としま》までさまざまだった。
「嫌だわね」と南海子はマスミに顔を寄せた。「シャンペンなんて目立つものとって。わざわざ昨夜不倫やったってこと、世間に公表しているみたいなものじゃないの」
「あなたも辛辣《しんらつ》な女《ひと》ね」マスミは親友の白い額を軽く人差し指で突いて苦笑した。「これだから独身のキャリアウーマンは嫌になる」
「モラルの問題じゃないのよ。モラルの、と言ったら私だって同罪よ。この年で相手になる男といえば例外なく妻子もちですものね」
「そうよ。南海子みたいな女は、あたしたちみたいな人妻の敵なのよ」純白のナプキンを開《ひろ》げながらマスミは微笑した。
「何があたしたちみたいな人妻よ。とっくにコトを起こしているくせにして」南海子がマスミの顔を軽く睨《にら》んだ。「それはともかくね、日曜の朝っぱらから不倫の相手とシャンペン飲んでいる連中の問題は、だわね」と彼女が続けた。「節度と抑制の問題よ。それと羞恥心《しゆうちしん》の問題。大体ね、前の晩ベッドの中であれこれ厭《いや》らしいことの限りをつくした相手と、よくもまあお天道さまの下で顔合わせる神経をもちあわせているものだと思って」
「ひがまないの」笑いをこらえながらマスミが言った。
「こっちが見ていて恥ずかしいくらいよ、冗談じゃないわ」それから南海子は改めてじっくりとメニューに眼《め》を通し始めた。
「相変わらず仕事忙しいの?」マスミが話題を変えた。
「まあね。あなたは? 相変わらず主婦やってお母さんやって人妻やって浮気してるの?」
「テニスとPTAとカルチャーセンターがぬけてるわ」
南海子はメニューから眼《め》を上げてマスミをじっと見た。
「質問」と南海子は言った。「一体何が不満なの?」語調は柔らかかったが切りこむようにマスミの胸に響いた。
「不満?」マスミはちょっと考えた。「不満なんてないのよ」
「そうでしょうね」と南海子はなぜか勝ち誇ったように言った。「郊外に庭つきの家があって、まあまあ出来のいい子供が二人いて、自家用車が二台あってよ、働きざかりで真面目《まじめ》な亭主が一人いて、テニスだ陶芸教室だって飛び回ってさ、言ってみれば幸せを絵に描《か》いたような幸福な奥さまがよ、一歩間違えばこれまで築き上げた幸福の全《すべ》てを失うかもしれないような危険な浮気をなぜするんだろう。私には永久に謎《なぞ》だわね」
マスミは相手の顔からゆっくりと視線を窓の外へ移した。表参道の歩道を、どこからともなく吹き寄せられた桜の花びらが春風にのって転がっていくのが見えた。
「もしかしたら、幸福だからこそなのよ」とマスミはくぐもった声で静かに呟《つぶや》いた。
「そんなものかしら」南海子は懐疑的だった。
「ねぇ、南海子」とマスミは転がっていく桜の白っぽい花びらに視線をあてたまま言った。
「あなたにわかるかな。同じ男と十年以上もあれやり続けるってことの意味。そして今後も、頻度は別問題として、十年も二十年も場合によったら三十年もあれやり続けるってことの意味よ。一人の男と」
「まあ想像できないことはないわね」南海子の声にその朝初めて同情が混じった。
「でも想像でしょ。想像と実際問題とは別よ。結婚生活の中には、たくさんの義務があるわけよ。あのこともそうよ、義務のひとつよ。でも私たち女はあそこに穴のあいた機械じゃないのよ。感情もあれば健康な欲望もあるのよ。亭主を愛していないわけじゃないわ。子供たちがいて、庭つきの家があって、自家用車が二台あって、テニスや陶器をやって、たしかに幸福よ。もったいないくらい幸福。だけどね」
マスミの顔がどこかひどく痛むかのように歪《ゆが》んだ。
「だけどね、もしもよ、あのことが結婚生活の中で義務のように感じられるとしたら、どう? 惨めよ。すごく惨め。罠《わな》にはまったみたいよ。絶対に抜けだせない罠ね。なぜなら、やっぱりこの幸福な結婚生活から脱落するわけにはいかないもの。今の私の年でたった一人で始めからやり直すわけにはいかないわ」
「あら言うわね。私はどうなのよ。たった一人で、ほとんど文無しだわ」南海子が温い声で笑った。
「要するに、あたしたちみたいな妻には、支えがいるっていうこと」
「つまり別の男って意味?」
「そうね。たとえば男ね。つまり刺激ってことよ」
「じゃ話して。あなたの男ってどんなひと?」
「すごく卑猥《ひわい》。若くて。頭は悪いわ。少しずるい。でも今の私の生き甲斐《がい》。だからって、家庭を捨てる理由になんて、ぜんぜんならないの」
「そろそろメニューきめない?」と南海子が言った。「シャンペンつきの方なんてどう?」
「シャンペンなんてつけて何に乾杯するの?」
「きまってるわ。私たちの年齢によ」
そう言うと南海子はボーイにむかって手を上げた。
いつもの日曜日
電話が鳴る。多恵子が受話器をとる。「沢口ですが」と言って、相手の声に耳をかたむける。
長いこと相手の言い分を聞いている。それから「お待ち下さい」と言って多恵子は夫を見る。
恒が読みかけの日曜版の新聞を脇《わき》に置き、立ってくると妻の手から受話器を受けとる。その際チラと妻の顔を見るが、多恵子は無表情だ。
「もしもし」と恒が送話口に低く話しかける。「電話、かわりましたが」
多恵子はその場から歩み去る。
キッチンで水道の蛇口をひねって水を流す。水音で電話中の夫の声がかき消される。
再び居間に戻ると、恒は再び新聞を開《ひろ》げている。さも記事に集中しているという顔。ほんとうは文字など眼《め》には入っていないのだ。
「子供たちは?」と新聞に視線をおとしたまま恒が訊《き》く。いかにもさりげなく。
「一郎はサッカー。美加はさっきエレクトーン教室へ出かけたわ」
食卓の上から朝食のトーストのパン屑《くず》を拾い集めながら、多恵子は答える。
背後で新聞をたたむ音に続き、夫が動く気配。次の瞬間、恒は妻の後にたたずみ、背後から彼女の躰《からだ》に腕を巻きつける。二人きりの朝。暗黙の了解。隣室に子供たちがいないのは、日曜のこの時間だけだった。恒の湿った口が多恵子の項《うなじ》にあてられる。多恵子は軽く身をよじるが、そのために夫の手がいっそうきつく自分の躰に巻きつく具合になってしまう。
項にたつ鳥肌は、快感のためだけとは言えなかった。少しは嫌悪の情も混じっている。けれども、既に乳房が固くなっている。夫の熱をもったような手が、それを包みこむ。諦《あきら》めの感情が彼女を支配しはじめ、躰から力が抜けて行く。二人は重なるように、カーペットの上に崩れおちる。
いつもの呻《うめ》き声。いつもの喘《あえ》ぎ。同じ優しさと同じ荒々しさの入り混じるいつもの手順。
いつもの汗。激しい息使い。そしていつものあの硬直がきて、彼女は軽く弓なりになる。弓なりになった彼女の上で、彼は二つ三つ少し卑猥《ひわい》な言葉を呟《つぶや》き、眼《め》を閉じ、いっそう深いところで彼自身と彼女とを荒々しく揺さぶっておいて、そして終わるのだ。
グレーのカーペットの上に、日射《ひざ》しが斜めに差しこんでいた。日射しは、カーペットの上に広がっている多恵子の髪の毛の上にまでのびている。微《かす》かな太陽の温もりが髪を通して彼女の頭皮にも伝わる。下半身はまだ少し痺《しび》れたままだった。涙が眼に滲《にじ》みでる。
なんという荒涼とした惨めさであろうか。満たされて肉体は安らいでいるのに、胸の中はふつふつと泡立ってくるもので一杯なのだった。
多恵子はもて余した。自分自身を。女の飢えを。欲望を。混乱を。怒りを、彼女はもて余した。
夫がふいに彼女の上から離れていく。性愛のあとでいつも見せる例のよそよそしさを露《あら》わにして。多恵子自身もカーペットの上から身を起こす。
少しして、夫が言う。実にさりげなく。「出かける」と。「社の連中とテニスの約束なんだ」と。「日曜日ものんびり出来ないよ」と、さも大儀そうに彼は溜息《ためいき》をついてみせる。
多恵子の中で何かが軋《きし》む。彼女は自制しようとする。これまでもずっと自制してきたのだから。一家の平和は、大げさでもなんでもなく、ただひたすら多恵子の自制と沈黙にかかっているのがわかるから。
だが彼女は、カーペットに落ちる日射《ひざ》しを背中に浴びながら、もうたくさんだ、と思うのだ。もし自分が今日かぎり自制することを止《や》めてしまったら、何が起こるのか、知りたいような気もするのだった。日曜の午前中の、子供たちの留守に行われる、束《つか》の間の性愛。もしかしたら彼女が失うのはあの束の間の性愛だけなのかもしれなかった。
やがてこの日々は過ぎるだろう。女の肉体の狂おしいまでの飢えにひきずられた時期は、いつか終わるだろう。彼女は鎮《しずま》り、石のように沈黙するだろう。
その時がくれば、もう胸の中がふつふつと泡立つもので一杯になることもなく、安らぎが訪れるだろう。欲望をもて余すこともなくなって、そうすれば彼女は自制を強いられることもなく、言いたいことを口にするだろう。
「待って」と多恵子は出がけの夫の背中に言う。「出かけるのはわかっているわ。何で出かけるのかも知っているわ。テニスを理由にしないでもいいのよ。さっきの電話の女と逢《あ》うんでしょう」
多恵子の意志とは別に、彼女の口が勝手にそう喋《しやべ》ってしまっている。
夫の背中が硬直する。だが
「出かける」ともう一度言って、彼は靴をはいて出て行こうとする。
「認めてよ、お願いだから」多恵子の声が追いすがる。
「テニスだよ」と夫が答える。「さっきの女は、会社の子で、ダブルスの相手のチームだよ」
「そうじゃないと思うわ。違うわ」
「そう思うのはきみの勝手だ」夫の手がノブにかかる。
「そうじゃないということを、私は知っているわ。あなたも知ってるわ。なぜ隠すの?」多恵子は夫の腕に手をかけて引き止める。
「テニスに行くんだよ」と、夫はあくまでも落ち着いて言う。
「嘘《うそ》よ。女よ。もう何年も続いているのよ。でももう嫌よ。気が狂うわ。認めてよ、お願いだから」
「仮りに女だと認めたら、何かが変わるのか」と夫が訊《き》く。「きみは変えたいのか?」
多恵子ははっとする。ええ変えたいわ、何もかも。しかし、彼女は慄然としたまま首をふる。
「だろう?」と夫が言う。「出かけるよ、テニスに。僕は五時には戻る」ドアが開き、夫はそのすきまから滑り出て消える。多恵子は、その場に釘《くぎ》づけとなって、いつまでも首を振りつづける。
カフェバー
土曜の夜を女友だちと過ごすのは、少し惨めだと賀恵《かえ》は思う。水曜日とか、金曜日なら、それほどに感じないかもしれないが、土曜というのは特別に、恋人と逢《あ》う日なのだから。
その恋人の竜一は今週末は大阪に出張。アメリカから来ている商社のヴィジターの、京都案内も兼ねるのだという。
先週末も、東京にいなかった。理由は接待ゴルフ。まだ二十七歳の若い社員が、そう度々接待役を会社からおおせつかるものかどうか、OL一年生の賀恵にはよくわからない。
第一、竜一の英会話力など知れている。アメリカ人の京都案内が上手《うま》く出来るかどうか、非常に疑問だ。
「大丈夫なの?」と訊《き》いたら「お寺見て廻《まわ》るくらい、どうにでもなるさ」と強気。
竜一のいない土曜日の夜を、アパートでテレビを観て過ごす気にはなれないので、女友だちを二人誘い、何か美味《おい》しいものでも食べようよ、ということになったのだ。
今流行の小綺麗《こぎれい》なフランス料理屋で、海の幸のサラダと、鴨《かも》のこしょう焼きというのを食べ、カシスのシャーベットと香り高いエスプレッソで胃袋が満たされる頃《ころ》には、恋人不在で淋《さび》しい思いをしていた賀恵も、ようやくいつもの陽気さをとり戻し、やはり今大流行のカフェバーなるものにくりだしてみましょうよ、と出かけて行ったのが、六本木のそのカフェバーだった。
メタリックなインテリアの店内は、クリスタルグラス類でキラキラしていた。照明も程良く、常連らしい人々で九分の入り。
壁際の観賞用植物の陰に空席が三つ。そこへ三人の女たちが坐《すわ》り、飲みものを注文した直後だった。
何気なく店内の様子を見回していた賀恵の眼が、カウンターのあたりに釘《くぎ》づけになった。
「竜一」反射的に腰を浮かせかけて、はっと動作が凍りついた。連れがいるのだ。
その女は右隣に肩を寄せるような感じで坐っている。竜一の方を下からすくい上げるように見上げているので、白い横顔が見えた。そして、彼女の左手は、実に何気なく、竜一の膝《ひざ》の上あたりに置かれているのだった。
そしてその置かれた手の人差し指と中指の間にロングサイズの煙草《たばこ》。
賀恵は一瞬にして、そうした全《すべ》てのことを見てしまった。更に、女が真赤なマニキュアをしていることも、絹の大人びたブラウスの胸のボタンをひとつ余分に外していることも、はらりと顔に落ちてくるセミロングの髪を掻《か》きあげるその手つきのセクシーな美しさも、彼女がそんなに若くもないことも、タイトのスカートに深々とスリットが入っていることも、ふと顔を竜一にむける時、柔らかそうな髪が彼の肩と頬《ほお》に触れるか触れないかの感じになることも、全部見たのだった。
「どうしたの、蒼白《そうはく》な顔して?」女友だちの一人が訊《き》いた。賀恵は我にかえって、観賞用植物の大きな葉の重なりあう陰に、身をひそめた。無意識の仕種《しぐさ》だった。
彼女は突きとばされたような激しい惨めさに襲われた。うつむいて、自分の手を眺めた。マニキュアは子供じみたピンク。爪《つめ》も短い。手もぷっくりとしている。着ているものはバーゲンで買ったオフィス用のスーツ。
賀恵は葉の陰から、もう一度暗い眼《め》で竜一の方を見た。女のほっそりとした白い手は、まだ彼の膝《ひざ》の上に乗っている。指先の煙草《たばこ》から立ちのぼる青い煙。竜一が何事か言う。女が笑ってそれに答える。今度は竜一が声を上げて笑う。女の髪が揺れる。手はまだ竜一の膝の上。さりげなく。
賀恵たちの飲みものが運ばれてきて、テーブルに置かれる。
「煙草もっている?」不意に賀恵が二人の女たちに訊いた。
「もってるわよ」と一人がバッグを開けた。
「でも賀恵、煙草|喫《す》わないんでしょ?」
賀恵はそれには答えず、無言で友だちの煙草を一本ぬきとる。
口にくわえ、百円ライターの火を近づける。指先がふるえる。眼の前の二人の友だちだけでなく、カフェバー中の客が、自分の喫いっぷりを凝視しているような気がする。
煙を喫いこんでみる。不思議にむせなかった。煙草は冷たい味がした。女の手はまだ竜一の膝の上だ。賀恵の躰《からだ》がぐらりと揺れる。
誤 解
「おい安樹ちゃん、飲みに行くぞ」
退社まぎわになると塚原が言った。週に一、二回はお声がかかる。
「今夜はご遠慮します」机の上を片づけながら、断りなれた口調で安樹が答えた。
「今夜もご遠慮しますだろ?」さして苦にもせずに塚原。「さてはデイトだな?」
「というわけじゃないけど」
二つ向こうのデスクに視線を走らせる。西井明がくわえ煙草《たばこ》で電話中だった。
「それだったらつきあってくれてもいいだろう?」塚原の手が軽く安樹の肩をポンと叩《たた》いた。
「たまには僕たちにも声をかけて下さいよ」帰りじたくの若い社員が言った。
「野郎と飲んでもつまらんよ」スプリングコートの袖《そで》を通しながら、塚原はさりげなく安樹の視線を追って西井を見た。
「一種の職権|濫用《らんよう》ですよ、課長」別の社員が苦笑した。
「別に安樹ちゃんに強制などしとらんよ、僕は」
「やっぱり今夜はやめておこうかなあ」
安樹は煮え切らない。金曜の夜まっすぐ家に帰ってもしょうがないとは思うのだが、今ひとつ気が進まない。
「振られたかい」案外あっさりと言って塚原はオフィスの中をひとわたり眺めた。
「それではと、西井くん、つきあうか?」ちょうど受話器をかけ終わったところで、西井は顔を上げた。
「どういう風の吹きまわしですか」短くなった煙草《たばこ》をぐいと灰皿に押しつけて火を消しながら西井が言った。
「たまにはいいさ」
「野郎でいいんですかね」腰を上げ、背広の上着をひょいと椅子《いす》の背からすくい上げながら西井が言った。
「からむなよ」そう言いながら塚原は素早く安樹の顔に視線を走らせた。彼女は慌ててうつむいた。
「君も、来るか?」口調が柔らかかった。安樹は反射的にコックリとうなずいた。
「コンピューターで結婚の相手を選ぶっていうのがあるそうじゃないか」と塚原が水割りの入ったグラスを手にして言った。
「結婚相談所にコンピューターを持ちこんだというだけでしょう」くわえ煙草の口もとをわずかに歪《ゆが》めて西井が言った。
「しかし何だよ、コンピューターを導入することで企業的な清潔感が生まれたね。大型結婚産業になるんじゃないかな」
「自分の相手を、機械に弾《はじ》き出させるってわけですか。嫌ですね、僕は」
「安樹ちゃんはどう思う?」西井が訊《き》いた。「さっきからずっと借りてきた猫みたいに黙ってるけどさ。君もそろそろ真面目《まじめ》に考えないと売れ残るぞ」
「もう売れ残りつつありますから、ご心配なく」安樹はすまして言った。
飲み始めて一時間近くたつのに、西井明はただの一度もちらりとも彼女の方を見ようともしないのだった。
タクシーの中でもそうだった。安樹のことなどまるで存在しないかのように、徹底的に無視しているのだった。
そのせいで、彼女はさっきからずっと気持ちがざわざわと波立ってならなかった。
「あたし、登録しようかな」挑発するような感じで不意に彼女が言った。
「コンピューター結婚にかね?」と塚原。
「面白そうじゃない」
カウンターの奥に鏡が張ってあった。酒のボトルや色々な型をしたグラス類や、店内の様子や、西井の横顔などが映っていた。
「面白い?」西井が塚原ごしに安樹を見た。不快気な表情だった。多分、まともに彼に見られたのは、それが初めてのことではないか、と安樹は思った。
それにしても好意の眼差《まなざ》しとはほど遠かった。眉間《みけん》に刻まれた深いたて皺《じわ》や、口元の歪《ゆが》みを、安樹は絶望の思いで見返した。胸が鈍器で打たれたように痛むのだった。
「面白いなどという了見《りようけん》の女にあたった男こそ、いい迷惑だよな」吐きだすように言った。
その言い方にあまりにも悪意があったので、安樹は深く傷つくと同時に、心を閉ざした。
「少なくとも、あなたがその相手である可能性は全くないんですから、気にすることないんじゃない?」負けないくらい毒を含んだ言い方だった。
「可能性などあってたまるかよ」西井は安樹から顔を背けた。
なぜ自分が彼からそんなにも嫌われているのかと思うと、彼女は涙ぐみそうになった。
「おいおい君たちねえ」と塚原が苦笑した。「君たちはさっきから仮定の状況について口論しているんだよ。起こってもいないことをまるで起こってしまったみたいな言い方をして、二人とも妙だよ」
「妙ですかね」西井はちょっと考えるふうに言った。「たとえ仮定の問題でも、そういう発想を安易にする女っていうのは、堪《た》え難いですね、僕は」グラスを揺すって、西井は氷の動きをじっと眺めた。
「別に西井さんに堪えて頂かなくとも結構ですから」硬い声で安樹も言った。
「そりゃまあそうだ」と西井は自嘲《じちよう》した。「堪えなければならない理由など、どこをどう探してもぜんぜんないわけだ」
ぜんぜんという言葉にやけに力が入っていた。安樹はますます遠ざけられたような気がした。
「一体どうしたんだね、君たちは」あきれたように塚原が言った。「仲が悪いねえ」
西井は憮然《ぶぜん》として黙りこんだ。バーテンダーが新しい水割りを作り始める。
「仲が悪いもなにも」と西井が呟《つぶや》いた。「仲なんていうほどのつきあいもありませんよ」
「しかし同僚だろうが。会社で毎日顔をつき合わせるんだ、口ぐらいきくだろう。その時もそんな喧嘩《けんか》ごしなのかね?」
「そういえば、会社で、口きいたことなどないよね、僕たち?」西井が安樹の眼《め》をとらえた。不思議な表情だった。僕たちという言い方が他の語調と少し違っていた。ドキリとして安樹は眼を伏せた。
「信じられんね」と塚原が言った。「今の喧嘩のしかたなんて、相当長くつきあった男と女の口調だったぞ」
「そうですかね」再び黙りがちになりながら西井。
「さて、と」と塚原は時計を見た。「僕はもう帰るよ」伝票をとり上げてストゥールから降りる。「君たちは、勝手にごゆっくり」
かなり唐突だったので、安樹は、私も、と言いそびれた。
「別に無理しなくてもいいんだぜ」西井が言った。
「無理って?」塚原の後ろ姿から視線を西井に戻して訊《き》いた。
「課長とつきあえばいいじゃないか。気どることはないさ」
「気どってなんていないわ」
「普段と違う行動をとることないぜ」
「どういうこと?」
「ベッドまでお供するんじゃないのかい」
安樹は唖然《あぜん》とした。心が静まるまで大分時間がかかった。やがて押し殺した感じの震える声で言った。
「もし課長とそういう関係なら、私たち、もっとコソコソとふるまうと思うわ」それから西井の横顔を見て続けた。「信じる信じないは、もちろんあなたの勝手だけど」
長い沈黙が流れた。二つのグラスの中で氷が溶けて、時々軽やかな涼しい音をたてた。
「さっきの話だけどさ」
ようやく西井が沈黙を破った。「コンピューターの話。一般論として言うと、いささか問題があるよね」
西井は安樹のグラスにウィスキーを注《つ》ぎ足し、氷片をいくつか落とした。その動作に優しさが滲《にじ》み出ている。
「相手を選ぶ範囲が限定されるってことが、問題だよ。登録した人間同士の間で相手がきまっちまうということがね」
「でもね、考えようによっては」と安樹は言葉を誠実に選んだ。「普通の女の子が一生のうちに出逢える男性の数なんて知れてるもの」
「しかしさ、その中に自分に本当にむいている相手がいるかどうかね」
「普通にお勤めしていたって、ふさわしい相手にめぐりあえるかどうかわからないわ」
西井が煙草《たばこ》の煙を深々と吐きだした。「でもコンピューター結婚で、君と僕とが出逢う可能性は、全く皆無なんだよな」
安樹はドキリとして、それをごまかすためにウィスキーを口に含んだ。
「今のは変な言い方だったね?」西井の眼差《まなざ》しが柔らかくなっていた。
「ううん」と安樹が首を振った。「変じゃないわ」自分の眼差しも負けないくらい柔らかくなっているのが、安樹にも感じられた。
バーミラーの女と男
カフェ・バーは混んでいて、カウンターに空きがあるだけだった。
人と待ち合わせているわけではなかったから、それで充分だったが、その高いストゥールに無様《ぶざま》にならないよう腰を滑りこませるのは、案外むずかしいのだった。
左隣はアヴェックで、右の男は、どうやら一人らしかった。誰《だれ》かを待っているのかもしれないので、坐《すわ》る前にスミコは訊《き》いた。
「空《あ》いてます?」
男は軽くうなずいただけで、自分のグラスから目を上げない。浅黒くひきしまった横顔だった。
さぞかし女たちからもてるだろうと、彼女は内心思った。そういう自惚《うぬぼ》れた男の横にしかたまたま空席がなかったとはいえ、そこへ坐るのはなんとなく男の自惚れに拍車をかけるような気がした。ほんの少し顔がいいからと、世界中の女が惚《ほ》れると思ったら、大まちがいなのだ。スミコはストゥールに坐ると、右側の男のことは完全に無視して、バーテンダーにバーボンの水割りを注文した。
ふと目を上げると、正面のバーミラーの中に男が映っている。相変わらず手の中のグラスに視線をあてたままだ。
男の手が動き、煙草《たばこ》を一本口の端にくわえる。更にその手がポケットのあちこちをゆっくりと探《さ》ぐる。彼はあきらめて、バーテンダーの方に声をかけようと口を開きかけるが、バーテンダーは客の注文に訊《き》き耳をたてている。バーミラーの中で、男の視線が初めてスミコの顔の上に止まった。
彼がわざと長めに彼女の顔を見ているのが、目を伏せているスミコには感じられた。ミラーの中で、二人の目が合うことを、男は望んでいるのだろう。その手にのるものかと、彼女は頑《かたく》なに目を上げなかった。
「マッチか、ライターありますか」
男が言った。それで、スミコはやっとミラーの中で相手を見つめた。
「マッチがよろしいの? それともライター? 両方ともあるわ」
男がニヤリと笑った。スミコはバッグの中からマッチを取り出して、カウンターに置いた。男は無言でそれをみつめた。あまり長いこと、くわえ煙草のままそうしているので、スミコは気になった。
「まさか、火をつけるのを待っているんじゃないでしょうね?」
「火をつけてくれる女性もいるよ」男は口に煙草をくわえたまま、くぐもった声で言った。
「あたしはホステスじゃないわ」スミコは憤然として言い返した。
「もちろん」男は同じ表情で答えた。「ただ、時々、やさしい気持ちからそうする女もいるっていうだけのことさ」
男はマッチをとり、火をつけ、煙をゆっくりと吐きだした。
「見も知らぬ他人に、どうしてやさしい気持ちがもてるのか疑問ね」
と、スミコがやり返した。
「特定の人間にだけしか、やさしい気持ちが持てないとしたら、それは君の不幸だよ」
スミコは内心ギクリとして、改めて男をみつめた。
「初対面の男のひとに、ホステスみたいにマッチの火をすってあげることが、やさしさとどう関係があるの?」
「発想に、柔軟性がないね、君」男は愉快そうだった。
「それで結構よ」スミコは突っけんどんに言った。「あたし、自惚《うぬぼ》れた男《ひと》って、好きじゃないから」
男は面白そうに右|眉《まゆ》を上げた。
「僕が自惚《うぬぼ》れているって?」
「ええ。違う?」スミコは負けずに言った。
「ここに入ってきた時から、一目でわかったわ」
「僕のことが?」
「そう。女にチヤホヤもてると思って、鼻持ちならない種族だって、ぴんときたわ」
「鼻持ちならないと感じるのは君の勝手だけど」と男は笑いながら言った。「女にもてたりチヤホヤされるってのは、あたってないね」
「嘘《うそ》ばっかり」
「本当さ」と男はグラスの中味を揺すった。氷が快い小さな音をたてた。「げんに、君に嫌われているし」
「あら、あたしは別よ」
「どうして? 君だって女だろう?」男はしげしげとスミコを眺めた。「女以外の何者にも見えないけどね」
「自分でもそのつもりだけど」つい相手のペースにつられてスミコは小さく笑った。
「要するに自惚れた男は好きじゃないと――。他にも嫌な男の条件ってのがあるの?」少しうちとけて男が訊《き》いた。「あるわ」スミコも、自分が笑ったせいで、寛《くつろ》いだ気持ちになった。
「オーデコロンをつけている男。ディスコで上手にダンスを踊る男。パーティーに出かけたがる男。みんな嫌い。絶対に好きになれないわ」
「まいったな」と、男は頭の後ろに手をやった。
「全部僕にあてはまる。上手かどうか別にして、ディスコダンスは好きだし、パーティーも嫌いじゃない。それにコロンはオー・ソバージュにきめてるし」だが少しも悪びれないのだった。「どうやら、君とは縁がないらしいね。残念だな」
「残念ね」スミコはニッコリと笑って、グラスを掲げた。
「例外は、ない?」男が未練気に訊《き》いた。
「だってそれだけ悪い条件がそろってるんじゃ、無理よ」
「そうか」と男は溜息《ためいき》をついた。「僕は、君みたいなタイプの女性には、魅力を感じるんだけどね」
「あたしみたいなタイプって?」
「つまり大人の女ってこと」短くなった煙草《たばこ》を消しながら男が答えた。「逢《あ》うなり、星座は何座で血液型は何かって、訊かない女。それから、男が少しでも黙っていると、すぐに『あなた今、何考えているの?』なんてことは、死んでも口にしそうもない女」
「そういう女が嫌いなのね?」
「大嫌いだね」
バーミラーの中で一瞬二人は視線を絡めあった。スミコの唇の両端になぞのような微笑が浮かんだ。
「ところが、あたし、まさにそういう女なの」微笑は柔らかい笑いに変わった。「あたし、すぐに星座のこと訊《き》くし、星座占いにこってる女なの。それから、好きになった男が黙っているとすごく気になるから『今何考えてるの?』って、ついつい訊いちゃうほう」
「おやおや」男が眉を上げて溜息《ためいき》をついた。
「偶然とはいえ、嫌いな条件がこんなにもそろった男と女が隣同士になるとは、奇遇だね」 それから二人は同時に吹きだした。周囲の人々が何事かと二人を見た。ひとしきり笑った後、笑いを共有したという、不思議な共犯の意識がスミコの中に芽生えた。
「だけど、奇妙だな」と男が呟《つぶや》いた。
「何が?」スミコも柔らかい声で言った。
「全然嫌いじゃないんだな、君のことが」
「あたしも。変ね」スミコが小声で呟いた。
沈黙が流れた。
「もしかしたら」と男が言った。「友だちになれるかもしれないね、僕たち」
「……ええ」
再び沈黙。今度はずっと長かった。ふとスミコの口を質問が突いて出た。
「何考えているの、今?」
すると男がニヤリと笑った。
「さっそく出たね?」
はっとしてスミコは口元をおさえた。
「かまわないよ」と男が言った。「実は、今夜のことを考えていたんだ」
「今夜のこと?」
「うん。今夜、これから僕たちがどう過ごすかってこと」
「どう過ごすの?」スミコの瞳《ひとみ》がうるんでいた。
「多分」と男は言った。「どこかのホテルのベッドの中で、僕と君は、星座と血液型の話をするんだと思うよ」それから男はスミコの耳に囁《ささや》いた。
「そろそろ出ようか?」
スミコはかすかにうなずいて、ストゥールから降りた。
ポール
珊瑚礁《さんごしよう》に太陽が沈むと、火消し蓋《ぶた》のように暗黒が島をすっぽりと包むんだよ。
たちまち、ボクの部屋の中は、闇《やみ》と孤独でいっぱいになってしまう。
燦然《さんぜん》たる太陽や、ほとんど眼《め》にしみるばかりの紺碧《こんぺき》の海や、潮の甘い香りが忽然《こつぜん》と存在しなくなり、無数に生えているココ椰子《やし》の輪郭さえも闇に呑《の》みこまれてしまうんだ。
たまらなく淋《さび》しくなって、ボクはやたらに何かに触れずにはいられない。何か丸みのあるもの、温かいものに。とにかく名状できない暗闇で、かつて見たどの夜よりも、島の夜は暗いんだ。
絶対的な闇。
慰安を求めて何かに寄りそいたくなるのはそんな時だ。
捨てて来た文明に、都市の人工的な明るさに、アスファルトの車道や林立する高層ビルや夥《おびただ》しい人間の顔や、ボクたちがよく行った街角のイタリア料理店や、そこで飲んだ一九七八年もののキャンティ・クラシコや、ボクたちが大好きだった犢《こうし》のレバーソティーとか、キミの小さなキッチンでキミがよく作ったロシア風のマッシュルームのパイとか、ケニー・ロジャースやボウイやマイケル・ジャクソンのカセットとか、そういったボクが置き去りにしてきたものすべてが、たまらなく恋しくなるんだよ。
特に、キミが。
最愛の女《ひと》。後に残して来てしまったものの中で、ボクをとりかえしのつかない気持ちにかりたてるのは、常にキミなんだ。
キミの不在がボクをひそかにすすり泣かせる。――夜。母親を恋しがって泣く男の子みたいにだよ。キミの笑顔や、声や、くすんだ色の髪の毛や、お喋《しやべ》りや沈黙や、キミの匂《にお》いや――要するにすべてが、ボクをすすり泣かせる。
どうして一人の女が、ボクの中心の暗闇《くらやみ》にこれほどまでに君臨してしまうのかと――。そもそもボクは逃げだしてきたんじゃなかったのか?
文明から。文明の体現するすべてから。キミから。
憎しみの感情だけになってしまい、都会の喧騒《けんそう》の中で一瞬も呼吸ができなかったから。キミの愛――夜ごとの交接。もはや愛でも、めくるめく快感でも、慰めでもなくなってしまったボクらの性愛。
むしろ責め苦。かつてゆりかごであったベッドは、戦場と化して。
それなのにキミに逢《あ》いたい。キミを抱きしめたい。ボクの島は成田から四時間半の距離。
すぐにおいで。夜が明けてしまう前に。
ポール。
あなたはいない。きらめく白い砂浜にも、あなたの借りた小さな漁師の|離れ屋《バンガロー》にも、椰子《やし》の作る葉陰にも。
入江のどこかで息をひそめて私をみつめているのかしら。あるいは背後の密林《ジヤングル》のどこかで。
それとも珊瑚礁《さんごしよう》の海底で、熱帯魚とたわむれているのかしら。
島の小さな飛行場に降り立ったとたん、ここがあなたの求めた楽園であることが、私にもわかった。楽園と同時に地獄であることが。
なんという光りの量。肩にくいこむ日射《ひざ》しの重さ。光りの粒子が肌に突き刺さる。あたりに一面たちこめているのは、黄色味を帯びた酷熱の空気。
あなたの借りている漁師のバンガローも無人で、海からの風だけが吹きぬけていた。
たった今まであなたがこの部屋にいた痕跡《こんせき》だけを無数に残して、ポール、あなただけがいない。
飲みかけのコーヒー。触れてみるとカップは微《かす》かにまだ温かい。
寝乱れたベッド。皺《しわ》のよったシーツ。ポールの匂《にお》い。
ピロの上の巻毛。
シャワーを浴びたばかりで、まだ濡《ぬ》れている床のタイル。湿ったバスタオル。
トマトとマッシュルームと卵が二つ、スパニッシュ・オムレツを作るばかりに準備されている。ペッパーと塩と。フライパンにもバターまで引いてあり、そのバターが室温で溶けかかっている。
ちょっと母屋の漁師のおかみさんに、チリパウダーを借りに走り出ていったような具合に、なにもかもがやりかけの状態で。ポールだけがいない。
「わたしはルンヌ。ポール? さぁ知らないわ」
漁師の妻はチョコレート色の額にかかった髪を、同じチョコレート色の指先でものうそうにかき上げる。あわてて奥から出て来たので、ブラウスのボタンが全部外れている。
それを前で掻《か》きあわせながら、野生のピューマのように、油断なくこちらをみつめている。
「誰《だれ》、あなた?」
「ポールの、友達」
「ポールを訊《たず》ねて来たの? ポールがあなたを呼んだの?」
ルンヌの胸から、チョコレート色の乳房が半分ブラウスの外へこぼれ出た。彼女はそれに気づいてさえいない。
「でもそのポールが、見あたらないの。どこにもいないの」
「前の海で、ひと泳ぎしているんでしょうよ」
「それでは待ってみます」
「いつまで島に?」
「ポールが良いと言うだけ。彼が戻ったら、二人で考えるわ」
ルンヌの黒い瞳《ひとみ》が光る。次の瞬間、彼女はパレオの裾《すそ》をひらめかせて、そのまま家の奥へ――寝室へと消える。
ポールはそこにいるのに違いない。漁師のベッドに。
早朝、漁師が入江から珊瑚礁《さんごしよう》の外へ漁に出かけて、夕日を背に戻るまで、漁師の妻は一人ぽっちだ。そしてポールもひとりぽっち。
一面の夕焼けだった。一日の漁《りよう》を終えた小舟がいっそう、逆光の中を入江に入ってくるのが見えた。醜悪だけど精悍《せいかん》な容貌《ようぼう》の若い漁師が、小魚の入った網を背に、白い砂を踏んで行った。夕日を浴びて腰のさやナイフがキラリと光った。
珊瑚礁の海が、血の色に染まった。めくるめくようなミクロネシアの日没の色。
島で何が起こったのだろう?
あの夜、ポールは帰らなかった。私はポールの不在と共に不安な一夜をまんじりともせず過ごした。
朝早く、真珠色の靄《もや》の中を、漁師が褐色の輪郭を滲《にじ》ませながら砂浜へ向かうのが見えた。精悍《せいかん》な背に、網に包んだ何か大きなものを、軽々とかつぎ上げて、足早に靄の中へと消えて行った。
太陽が出ると乳白色の靄はたちまち蒸発してしまい、島は再び発光体となって燃え上がるのだった。
殴《なぐ》りつけられるような暑さの中を、私は飛行場へ向かった。漁師の家はしんとしており、通りすがりに覗《のぞ》くと、ルンヌの青いパレオが見えた。
「もうお帰り?」
「ええ。ポールが戻らなかったから」
ポールは二度と戻らないだろうと確信しながら私はルンヌをみた。チョコレート色の顔が少しむくんでいた。白眼が真っ赤だった。
さよならルンヌ。さよならポール。さよならミクロネシアの島。
私の家のマンションの十一階の部屋から、街並を眺めていると、都会の光景に、あの島の海の景色が重なって見えるような気がした。
けれどもあの時、私がみつめていたのはさえぎるものひとつない大海原だったが、都会の蜃気楼《しんきろう》の中では、ポールの島が、忽然《こつぜん》と浮かび上がって見えるのだった。
そうなのだ。すべては蜃気楼なのだ。夢なのだ。何も実際には起こりはしなかったのだ。
私はミクロネシアにも行かなかったし、飛行機に乗りもしなかった。
ポールのバンガローでは、部屋の主――すなわちポールが、今ごろ作りかけのスパニッシュ・オムレツを上手に焼いて朝食を作っているのに違いない。
あの熱気も、海からの熱風も、空にそびえ立つ椰子《やし》も、圧倒的な夕焼けも、ルンヌも、漁師も、殺人も、すべて私の想像でしかなかったのだ。
美しいポール。ヨットが港から港へ渡り歩くように、ポールも女から女へと移っていく。そして現在ミクロネシアの美しい島に寄港しているというわけだ。
かつて私を残酷に捨てた男の面影を追って、私は想像上の旅に出て、憎むべき男を殺したのだった。空想の中で――。
二日後にポールから絵葉書が届いた。
とうとうボクは光りを見つけたよ。だから島の夜も怖くはない。
月だよ。
この島にかかる月のおかげで、ボクはもはや孤独じゃない。夜の闇《やみ》の中で、慰安を求めて一人震えることもなくなった。
彼女は――月は――、暗黒の脅威からボクを救いだしてくれた。
キミに書いた前回の手紙は、訂正するよ。キミが来てくれても、結局、ボクらは同じことになるだろう。同じ破局に。もっとずっと早く、もっと残酷な破局に。
ボクらの恋は終わったんだ。
全身をねじ切られるような悲しみが、私を襲った。ポールの葉書に書かれてある日付けは、私がミクロネシアに向けて出発したあの日と同じだった。辞書をひくとルンヌは月というフランス語であることがわかった。
ルンヌのチョコレート色の豊かな乳房に、慰安を求めた愚かなポール。
私が待ち受けている自分の部屋に戻ってくるわけにはいかず、結局|嫉妬《しつと》に猛《たけ》り狂ったルンヌの夫に殺されてしまったポール。
彼を照らした月。ルンヌ。
彼女も又、そんな風に残酷にポールを失わなければならない運命にあったということだ。
そしてポール。
乳白色の靄《もや》の中を、死体となって漁師の背にしょわれ、舟に揺られて珊瑚礁《さんごしよう》を越え、南の海の奈落《ならく》へ葬られたポール。
一匹の細身の魚のように、深海へ向かって無限に落ちていくポールの姿が、私には見えるような気がする。
ポールの絵葉書を手に、どれだけ時間が経《た》ったのだろうか。
窓の外には、朝の最初の光が射《さ》し始めていた。
太陽の日射しがまだ充分に街の隅々まで届いていないので、風景の大半はまだ薄靄の夜の中で眠っていた。
私は立ち上がって、顔を洗いに洗面所へ行った。冷たい水で、熱をもったような顔をひやした。
鏡の中から、あの朝、島に別れを告げた時に見たルンヌと同じ、泣きはらした赤い眼《め》が、じっと私をみつめていた。
ポール。あなたが憎い。そしてポール、あなたが愛《いと》しい。あなたの死が悲しいけどあなたが死んでくれて、私はうれしい。
なぜなら、あなたがどこかに生きていて、私以外の女たちと愛しあっているということを想像しながら生きていくことは、とても辛《つら》いことだから。
ポール。南の海底から、夜になると月が見えますか? あるいは、あまりに深すぎて、月の光りはおろか、あの太陽光線も届かないのかしら。あんなに夜と孤独とを恐れたあなたが永遠に横たわる場所が、絶対の暗闇《くらやみ》と静けさの中とは、皮肉なことね。あなたのために、マイケル・ジャクソンのスリラーをかけることにするわ。いつかあなたが海の底からよみがえるように。
シルキーな女
その女はバーのカウンターの左から二つめのストゥールに、浅く腰をあずけるようにして坐《すわ》っていた。
肩にパットが入り、腰のくびれを極端に強調したダークなスーツが、どこか一九五〇年代に一世を風靡《ふうび》したアメリカの女優たちを思わせる。イングリッド・バーグマン、ジェニファ・ジョーンズ、ローレン・バコールなどを。
カウンターには他に人はいなかった。まだ外は黄昏刻《たそがれどき》で、本格的に飲み始めるのには大分早いからである。
女からは、多分に冷笑的な空気が漂っている。とうてい自分のような男の手にはおえそうにもない種類の女だと、川瀬は初めから諦《あきら》めたような、しかし完全には諦めきれないような、感情を妙に波立てながら、その女から四つばかり離れたストゥールに、ゆっくりと腰をおろしたのだった。
と、女の視線が動いた。斜めの冷ややかな視線。まるで細い鞭《むち》をふりおろすような素早い一瞥《いちべつ》だった。
いったんカウンターの中のバーミラーへと外れた女の視線が、再び川瀬の顔に戻ると、今度は改めて徐々に下へ下へとおりていく。
まるで男が女の品定めをやる時のような眺め方だ、と川瀬は喉《のど》に乾きを覚えた。なめるような視線というか、衣服の下の裸体を見ているような。
女の横顔に薄い微笑が浮かんだと思ったら、すぐに消えた。
「ところで、僕は――」と川瀬は勇気をふるい起こして言った。「合格ですか、それとも不合格?」
しかし女はすぐには答えず手にしたグラスの中の琥珀色《こはくいろ》の液体を静かに揺らせた。
「さっきのあなたの眼つきは、ローレン・バコールにとても似ていた。斜めの視線の冷ややかさが特にね」
「光栄だわ」と女は低いハスキーな声で呟《つぶや》いた。「彼女の映画は、全部見たわ」
「とすると当然、ハンフリー・ボガート風の男が好みですか」ボガートはローレン・バコールの夫であった。
「ボギー?」と女は遠い眼《め》をした。ステンドグラスのランプから落ちる影のような光りのせいで、女を中心にしたバーの光景がセピア色を帯びて、まさに名画の一場面を見ているような思い。川瀬は溜息《ためいき》をついた。
「ボギーは永遠の恋人よ。女なら、みんなそう思うわ」ハスキーだが、絹のような光沢のある声。
「ボギーには遠く及ばないけど」と川瀬が自信なげに言いかけた。
「誰《だれ》だってボギーには及ばないわよ」と女が途中から川瀬の言葉をさらって言った。
「ボギーはボギーよ。煙草《たばこ》を一本頂ける?」
実にさりげなく、実に自然に彼女はそう言いながらストゥールを滑り降りると歩いて来て、川瀬の横に坐った。
「煙草は喜んで進呈するけど」と川瀬は言った。「そのかわり条件があるんだけど訊《き》いてもらえますか」
「条件によるわね」女は男みたいにニヤリと笑った。
「一杯ご馳走《ちそう》させてもらいたいだけですよ」
「あら、それだけ? それならオーケイよ。ウィスキーを頂くわ、オン・ザ・ロックで」
彼女はそう言って紅い唇の端に、煙草をくわえた。川瀬がライターの火をつける。女はそれを煙草の先に移し、深々と喫《す》いこんだ。
「じゃ乾杯ね」白い手に、オン・ザ・ロックのグラスが重たげだった。「ヘミングウェイ流にね」
「男はグラスの中に自分だけの小説を描く≠チてやつ?」
「ううん違うわ。我々のために≠諱Bそして我々が今後犯すであろう全ての過ちに乾杯っていう科白《せりふ》よ」
川瀬は女とグラスを合わせた。ウィスキーは、スモーキーで軽くてハスキーな、一九五〇年代のアメリカ映画の味がした。夢ならしばらく覚めないでくれ、と川瀬は胸の中で呟いた。
年上の女
「西田クン、何やってんのよォ。何年編集部でアルバイトしてんのォ」と美人のミズ山口の甲高い声が人の出払った編集室の中に響き渡った。「さっきからゲラが上がってんのよォ。さっさとイラストレーターのところへ持っていかなきゃだめじゃないの」
「わかりました」と西田次郎はたいして悪びれもせずゲラ刷りを取り上げた。「それより先輩、胃潰瘍《いかいよう》になるから、あんまり苛々《いらいら》しないようにした方がいいですよ」
「そんなもん、とっくになってるわよ」とミズ山口。「あなたみたいなテンポのずれているようなひと使ってると、治る胃潰瘍も治らないのッ」
「食事時にちゃんと食事をして、普通の人間が寝る時間に眠るようにすればいいんですよ」そこで次郎はチラと腕に巻いたダイバーズ・ウォッチを眺めた。「これイラストレーターに届けた後、俺《おれ》、夕食につきあってもいいですよ」
「それはどうもありがとう」とミズ山口は皮肉タップリに礼を言った。「だけど訊《き》くけど、夕食代はどっちが持つの?」
「先輩です。俺、今日は文無し」
「今日もでしょ。いつも文無しのくせして」ミズ山口は机上の電話を取り上げながら言った。「第一ね、夕食くらい好きな男と食べたいわ」とダイヤルを回し始めた。
「広報室の杉野氏なら、もういませんよ」
「どうしてそんなこと知ってるの!?」とミズ山口はきっとなった。「それに私が彼にダイヤルしてるなんて、あなたにどうしてわかったのよ?」
「それは」と西田次郎はわずかに遠い眼《め》をした。「先輩のことをよく見てれば、わかりますよ」
そんなはずはない、とミズ山口は胸の中で呟《つぶや》いた。充分すぎるくらい注意してきたのだから、杉野との関係は社内の人間には知れていないはずだった。
「余計なことかもしれないけど」と次郎が口ごもった。
「余計なことだと思うんなら、言わないことよ」とにべもなくミズ山口。
「男はほかにいくらでもいるんだし、何も妻子持ちの男とだけつきあうことないと思うんだけどなあ」
「へえ。生意気ね。さしあたって現実に、今、私のまわりに男が一人でもいると思う?」ミズ山口は顎《あご》を突きだした。みんな出張校正に出払っていて編集室には、他に誰《だれ》もいなかった。
「俺《おれ》も男のつもりだけど」
「私のいう男ってのはね、本物の男のこと。女を誘っておいて、その夕食代も女に出させるようなのは、男のうちには入らないのッ」
「妻子がいて、他に女が二、三人いて、手首や首に金の鎖チャラチャラ巻きつけているようなのでも、男のうちですか」と次郎は押し殺した声で言うと、そのまま行きかけた。
「ちょっと待った」とミズ山口が次郎の背中に呼びかけた。「他に女が何人ですって?」
「俺の知るかぎり、先輩の他に少なくとも二人ばかり」
「なんでそんなことまで調べたのよ?」ミズ山口は心もち青ざめた。
「――先輩のことが、心配だから」
それだけ呟くと、西田次郎はスタスタと歩きだした。少しくたびれたジーンズの尻《しり》ポケットから文庫本がのぞいている。フィリップ・ロスの名が読めた。
「待って」とまたしてもミズ山口が言った。「待ってよ」それから彼女は少し考えて続けた。「夕食のことだけど……。今でも私につきあう気ある?」
次郎がふりむいた。それから彼はゆっくりと首をふった。ミズ山口の顔に軽い失望の色が滲《にじ》んだ。すると次郎はニヤリと笑った。
「女に夕食おごる金ないけどさ」と彼は言った。「あとで俺の部屋に来ませんか」
「あなたの部屋に、何があるの?」
「文庫本とカセットテープが山ほどと、それからコブラのウィスキーと、水と氷」
「オーケイ」とミズ山口もニヤリと笑った。「オーケイよ。バラの花束と美味《おい》しい肴《さかな》をもって、あなたの部屋に行くことにするわ」
お楽しみはこれから
陽《ひ》が完全に沈みこむには、まだだいぶ時間があった。一旦《いつたん》社に戻ってもいいのだが、格別にそうしなければならない理由もない。社に戻れば戻ったで、用事など山ほどある。ひとたび手をつけ始めればきりがなくなるのは眼《め》に見えている。
それにたった今しがた、重要な取り引きに関するミーティングが終わったばかりであった。まずは満足のいく成果だった。
倉橋は左手首に巻きつけたロレックスにちらりと視線をあて、取り引き先の人たちが立ち去ったホテルのロビーの方角をじっと眺めた。体が酒を求めているのが感じられた。
まだ陽のあるうちから酒を飲む贅沢《ぜいたく》を、たまに自分に許すのもいいではないか。彼はそう胸の内で呟《つぶや》き、ゆっくりと踵《きびす》を返した。
バーは薄暗く、本格的に飲みだすには早いせいかひっそりとしていた。倉橋はこの帝国ホテルのインペリアルバーの渋さが気に入っていた。ここなら、いいバーテンを相手に美味《うま》い酒にありつければ、女気など一切必要ない。しかも外は真夏の黄昏刻《たそがれどき》だ。たいていの人間は額や首筋に汗をしたたらせている時間である。倉橋は満ち足りた気分で、熱々のおしぼりを広げると、顔を下から上へとこすり上げた。
別に語呂《ごろ》合わせのつもりもないが、インペリアルバーで一杯やるのなら、インペリアル・ウィスキーのオンザロックにかぎる。倉橋はずっしりと手に重量感のあるクリスタル・グラスの中の氷をゆすった。
「ニューヨークはいかがでしたか」と、ほどよい間をとってから、バーテンダーが訊《き》いた。その控えめな態度といい、間のとりかたといい、さすがだと、倉橋は思った。
どうやら先月のニューヨーク出張の前に、ここでそんなことをバーテンダーにもらしたのかもしれないが、入れかわり立ちかわり出入りする客の動きのことなどいちいち覚えていられるものでもない。
「三つばかり変わったことが目についたよ」と倉橋は答えた。「若手のエキゼキュティブクラスの人間が煙草《たばこ》を喫《す》わなくなったこと、酒を飲まなくなったこと、それからエイズをひそかに怖《おそ》れていることだね」
「そうですか」とバーテンダーがうなずいた。「一昔前には、ニューヨークあたりの重役クラスはランチ時にマティニーを四、五杯飲んだものでしたがね」
「そうさ。それからTボーン・ステーキの巨大なやつを平らげてさ。それがどうかね。今じゃペリエだよ、きみ。ペリエってのは水じゃないか。そいつを飲みながら、チキンサラダなんぞをついばんでいるんだよ。働き盛りの大の男がさ」倉橋は情けなさそうに首を振った。
「それと早朝のジョギングとか」バーテンダーは中々の情報通とみられる。
「夜だってそうさ、スポーツジムでスクァッシュなんぞで汗を流して終わり」倉橋は肩をすくめた。
「要するに肥満はビジネスの敵というわけですね」
「そう。自分の肉体も満足にコントロール出来ない人間はビジネスにもダメだというわけだ。しかし」と倉橋は年相応に出かかった下腹を眺め下ろしながら続けた。
「僕はやっぱりランチ時マティニーを四、五杯飲んで、Tボーン・ステーキを平らげるエネルギッシュな人種の方が好きだね。それにスクァッシュなんぞより、女のベッドの中で汗を流す方が、何倍もいいよ」
倉橋はそう言って、クリスタル・グラスの中の黄金色の液体を愛《いと》しそうに眺めた。いいバーで、いい酒で、いいバーテンダーとのいい会話。
「お楽しみはこれからですね」とバーテンダーが微笑した。その通り。倉橋は、今宵《こよい》ベッドの中で汗を流すべく相手の女を、あれこれと頭の中でゆっくりと思い浮かべていく。この至福の瞬間。
カマボコとカマス
どうせ飲むのなら、新宿あたりのなじみのバーの止まり木に止まり、倍賞美津子本人などと贅沢《ぜいたく》は言わないまでも、少なくとも倍賞美津子に面影の似ていなくもないホステスを前にして、角瓶などをしんみりと傾けたいと思うのが人情だ。
そうしたいのは山々だが、結婚十二年になんなんとする中古女房が言うのには、金曜日というときまって夜中まで帰らないのはけしからん、浮気の相手でもいるのではないかと、このところやけに気色ばんでいるものだから、浮気のうの字に身に憶《おぼ》えがあればともかくも、そんな浮いた話など皆無の身にすれば、とんだ濡衣《ぬれぎぬ》。家庭の不和は諸悪のもとであるからして、疑惑の芽は早いうちに摘み取るにこしたことなく、そんなわけで早坂はこうしてデパートの食料品売り場などをウロつき回っているのであった。
要するに彼は、地方直送の美味《うま》いものを求めて、今宵《こよい》の酒肴《しゆこう》にしようと考えたわけである。
妻の手料理など、十二年前に期待できないことを思い知らされている。普通の女なら、月日を重ねればそれなりに亭主の好きな味も覚えるだろうし努力もするだろうが、味も覚えなければ努力もしない。子供が生まれてからというものは食卓にのぼる料理は三種類、カレーかハンバーグか、スパゲッティのケチャップいため。ひどいものである。
そこでせめて美味い酒でも飲みたければ、自分で肴《さかな》を調達するしかないのであった。早坂は小田原のカマボコとカマスの開きを求めて家路についた。
「あら、どうしたのよ?」といきなり妻は玄関口で言った。家の中は珍しくしんかんとしている。
「子供たちはどうした?」
「実家に泊まりに行かせたのよ」見ると妻は珍しくも外出姿。ホステスみたいな化粧に、ウエストのくびれたサマーワンピースなど着ている。
「だってさ、どうせ今夜も遅いと思ったから」と妻はまるで早く帰った夫をなじる口調で言った。
「たまには私も、女学校時代の友だちとお喋《しやべ》りでもしようと思って」ちょうど出かけようとしていたところだといわんばかり。
しめたッと早坂は思ったがそれはむろんオクビにも出さず、「それにしてはずいぶんめかしこんだもんだな」と嫌味を一言。「人に早く帰って来いとさんざん言っておいて、このざまとはな」
「あら、だって、どうせひとの言うことなんて聞かないと思ったんだもん。どうしても家にいろっていうんなら――」
「いや、いいよ。出かけろよ」恩きせがましく居坐《いすわ》られてはかえって迷惑だった。せっかくの美味い肴と酒の味が台無しだ。下手をすれば外出しそこねた妻が不貞腐《ふてくさ》れて、角瓶の半分とカマボコの大半と一枚しかないカマスを全部、ヤケ食いしかねない。
結婚を心にきめた頃《ころ》には、何となく倍賞のおミッちゃんに感じが似ていなくもないと思ったのはアバタもエクボの口で、似ていたのは四角い顎《あご》ばかりであったと気づいたのは後の祭り。四角い顎の女特有の我の強いこと。
本音を言うなら、早坂は妻が外出してくれた方がはるかにありがたい。テレビのナイターを眺めながら、久しぶりにのんびりと家の中で寛《くつろ》げる。かしましい子供たちもいないし、更にかまびすしい妻も留守となれば、これは正しく天からボーナスを与えられたようなもの。
「でも、何だか悪いわぁ」と妻の声が後ろでした。
「いいよ、いいよ」あんまりうれしそうにしてはヤブヘビである。
「だけど、なんとなく後ろめたくて。あんたの背中、惨めったらしくて、かわいそうな気がしてきたわ。きめたッ。私出かけない。あんたにつきあって一緒に飲むわ」
早坂の瞼《まぶた》に一瞬、カマスとカマボコが浮かんで消えた。
カーペットの情事
毎週とまではいかないが、金曜の夜ともなれば大谷のデザイン事務所は即席の酒場となる。
スタッフも酒飲みだが、雑誌社やクライアントに酒好きが多いせいもある。バーへくりだせばよさそうなものだが、大谷が仕事中の四時、五時あたりからオールドの水割りを飲みだすので、たまたまその場に居合わせた編集者やカメラマンなどは、相伴《しようばん》のかたちで一杯二杯とつきあっているうちに、自然酒盛りの様相を呈していくというわけなのだった。
たいていは男ばかりの色気のない顔ぶれで、ビニール袋を裂いただけでぽんと置かれているスルメやピーナツの類を肴《さかな》に、めいめいが勝手に言いたい放題を言いあう。
時々、男にあぶれた女の編集者が、近くのデパートで山菜風のおかずや、変わった台湾《たいわん》料理のつまみなどを持ちこんで、酒の肴がぐっと豪勢になると、たとえ多少のおかちめんこでも女は女、男たちの話題が急に下半身のことに集中しY談の花が咲く。女のいない席でのY談など面白くもおかしくもないからだ。
さて、七月の蒸し暑い金曜日の夜。めずらしく大谷の事務所には飲んべぇの顔がない。大谷がただ一人、窓から見える東京タワーを中心にする六本木の夜景を肴に、ちびりちびりと水割りをやっている。七時四十五分。もうそろそろ女がドアをノックする時刻である。
女が訪ねて来る夜は、七時半までには事務所も即席の酒場も閉めてしまう。スタッフも客も心得顔で帰って行く。
月にせいぜい一回か二回、曜日はきまっていないが、大谷のデザイン事務所は女との密会の場所になる。
女と酒を飲み、喋《しやべ》ることとてこれといってないからなんとなくテレビをつけ、なんとなくそれを眺め、眺めながら大谷の手が女のスカートの下に忍びこみ、それでなんとなくセックスが始まる。テレビはつけっぱなしで、女は日頃《ひごろ》男たちが靴のまま踏みつけていくグレーのカーペットの上で両肢《りようあし》を開いて横たわる。つまり大谷のデザイン事務所は、仕事場兼酒場兼情事の部屋というわけだった。
ドアにようやくノックの音。続いて尚子が白い顔を覗《のぞ》かせる。結婚していて亭主も子供もいる女だが、そういう所帯じみた生活臭の全くないところがあっぱれであり、大谷の気に入っている。これまでも情事の相手は三十歳を過ぎた女に限られてきた。結婚していようといまいと問題ではないのだが、三十過ぎの女はたいてい亭主がいるというだけの話だ。若い女などに興味はなかった。『老いた雌鶏《めんどり》はいいスープを作る』という西洋の諺《ことわざ》、いいえて妙だと大谷は思っている。
尚子が大谷の机の上にプラスチック容器に入ったものを置いた。
「まだ少し温いわよ」
見るとブロッコリーと平貝の中華風の惣菜《そうざい》。オイスターソースの香りがぷんと匂《にお》う。
「所帯じみたことするなよ」大谷は急に不快そうに言った。事実、不愉快であった。尚子はおよそ、そういうことをしない女だったのだ。
「お腹空いていないの?」
食事なら家に帰れば女房が作ってくれる。大谷は憮然《ぶぜん》として窓の方へ顔をそむけた。
「せっかくあなたのために作ったのに」尚子が恨めしそうに呟《つぶや》いた。
「嘘《うそ》つけ」と大谷。「今夜のきみんところのおかずだろう? 亭主や子供に作るついでに、俺《おれ》の分もつめて来たくせに」
図星だったのか、尚子がうつむいた。
「嫌だね、俺は。きみの亭主や子供が今頃喰《いまごろく》ってるのと同じもんなんか」
「バカね。あなた妬《や》いてるの?」尚子が睨《にら》み、それからうれしそうにクククと笑った。
筋違いにも程がある、と大谷はテレビのスイッチを入れ、グラスにオールドを注《つ》ぎ足した。それから女のスカートの中に指を滑りこませ、床の上に押し倒した。彼女の膝《ひざ》の間に分け入りながら、画面の中のビートたけしのアップを眺め、この女とは別れようと思った。
|煙 草《たばこ》
ほんの少しまえまで、たてこんでいたカフェバー・ギャレットの客も、午前二時の閉店時間が間近になるとともに、潮が引くように静かになった。
壁際の魚をかたどった青い飾りネオンの下で、若い男女がもう長いこと無言で、煙草だけを喫《す》っている。あとはカウンターに男が一人と、ぽつりと女が一人。
「もう閉店?」と男がバーテンダーに訊《き》いた。「かまいませんよ」とバーテンダーが誠意のこもった声で応じる。「うちではお客さまが閉店時間をきめますんでね」
四つばかり離れたカウンターの席で、ずっと飲んでいた女が、わけもなく低い声で笑った。白い小さな顔が半分、カリーなロングヘアーで隠れている。
「もう一杯、ちょうだい」ひどく大儀そうに女は、空になったグラスを前方に押しやった。
「もう今夜は、それぐらいでいいんじゃないですか」バーテンダーが控えめではあるが、ある意志をこめて女に言った。
「もういいかどうかは、自分できめるわ」女はそう言って顔を隠していた髪を荒々しく手で払い上げた。
しかし、バーテンダーはほとんど表情を変えない。女がかなり酔っているのは、傍目《はため》にも明らかだった。飲むほどに青ざめるタイプ。口紅の真紅が、かえって女を痛々しく見せている。
「それではもう一杯だけ」とバーテンダーは女をさとすように言って、ウィスキーをグラスに注ぎ入れる。「これを飲んだら、タクシーを呼びましょう」
「ちょっと待ってよね」と女が絡む。「勝手にきめないでよ。あたしを追い払おうっていうわけ?」
バーテンダーは無言で新しいグラスを女の前にそっと置いた。女は二口でそれをあけてしまう。そして言った。
「もう一杯」
バーテンダーが女の前から離れかかる。
「聞こえてるでしょう、もう一杯」女はいっそう命令調で言った。「ダブルでよ」
「もう、止《よ》した方がいいですよ」と寛大さと哀れみと、わずかに冷酷な感じを滲《にじ》ませて、バーテンダーが断った。女とバーテンダーの視線が長いこと絡んだ。
「笑わせないでよね」と女は肩をそびやかした。「何さ。何さまだと思ってるのさ。以前はともかく、今はあんたの女なんかじゃないからね。お金払ってお酒飲んで、どこが悪いっていうのさ」
女はバッグの中に手を突っこむと、一万円札を抜き出していきなりバーテンダーの顔へ投げつけた。
奥のネオンサインの下の男女が、驚いたように顔を上げた。カウンターのもう一方の男は見てはならないものを見てしまったように、グラスの中味をみつめている。バーテンダーの表情が一瞬凍りついた。その瞬間、彼はひどく大男に見え、その場にいた誰《だれ》もが、彼が女を撲《なぐ》るのではないかと息をつめた。女の眼《め》に怯《おび》えが走った。
けれどもバーテンダーは、女を撲るかわりに腰を折って足元に落ちた一万円札をゆっくりと拾い上げた。
沈黙の後、バーテンダーは穏やかな声で女に訊《き》いた。
「煙草を喫いますか」
女は微《かす》かにうなずいた。それを見るとバーテンダーは胸元のポケットからラッキーストライクを一本抜きとり、自分の口にくわえた。店のマッチで火をつけ深々と一服喫いこんでから、そっと女の方へ差しだした。女はそれを無言で受けとると、眼を閉じて唇にあてがった。
「これを喫い終わったら、帰るわ」やがて、女もまた穏やかな声で呟《つぶや》いた。カウンターの男がホッとしたような声で、「お勘定」と言って立ち上がった。
バード・ウォッチング
大体金曜の夜というと、テツオはストレートにアパートに帰り、九時にはふとんをひっかぶって眠ることにしているのだが、あいにくの熱帯夜。とてもまっすぐに自分の部屋には帰る気になれず、寝酒を兼ねて一、二杯ひっかけて帰ろうと決意したところである。
下手《へた》にホステスのいるバーへ行くと長居にならないまでも飲みすぎる。飲みすぎれば当然翌朝が辛《つら》い。なにしろテツオの趣味は早朝のバード・ウォッチング。
早朝も早朝。四時起き。車に飛び乗り高尾山《たかおさん》まで飛ばす。那須《なす》あたりまで遠出する場合は、真夜中|頃《ごろ》自宅を出る。この場合は一晩中眠らない。
そんなわけで自分のペースで酒を飲むには、ホテルのバーに限る。そこでテツオは自宅に近い新宿の高層ホテルのバーにふらりと立ち寄った。
金曜ともなるとアヴェックが多く、バーは混《こ》んでいる。運良くカウンターに席がひとつ。
座ったとたんに、ほのかなオーデコロンの香り。左隣の妙齢の美人だ。
ちらと見たかぎり一人らしい。テツオが横に坐っても文句を言わなかったところを見ると、男を待っているわけでもないらしい。
「いい匂《にお》いだな」と、まずは一人言《ひとりごと》風に呟《つぶや》く。女と話をするくらいのことでは睡眠不足にもなるまい、というわけだ。
「あら、私?」と相手も応ずる気配。
バーテンダーに水割りを頼んでおいて、「何の匂い?」と女に訊《き》いた。
「あててみる?」
「いいよ、何を賭《か》ける?」この種の会話なら、外国のミステリー小説の中から、しこたましこんである。
「一度であてられたら、何でもお望みのものをあげるわ」女は自信ありげに答えた。
「じゃ、きみ」すかさずテツオ。
女はニヤリと笑う。今流行のいい女ふうというか、ハンサムな女というか。
「オーケイ、いいわ。ただし答えは一度だけ」といさぎもよい。
テツオはおもむろに息を深く吸いこんで言った。「女物の香水じゃないね、これは。男物のオーデコロンの一種」最近男物をつけるいきがった女がやたらに多いのだ。
「ノーコメントよ。答えは一度」女は眉《まゆ》ひとつ動かさない。
「シダ類とナメシ革を想像させる匂い――となるとクリスチャン・ディオール社の独壇場《どくだんじよう》だな」
「あらっ」と少し驚く女。
「オー・ソバージュ」
「あたり」女が眼《め》を見張る。
「香水関係の仕事している人じゃないでしょうね」
もちろん違う。実は偶然だが、学生時代からオー・ソバージュは愛用していたのだ。
というようなわけで二人は意気投合して、親しげに一時《いつとき》ほど語り合った。
やがてテツオは腕時計を一瞥《いちべつ》すると呟いた。
「そろそろ失礼するかな」
「帰るの?」
「知りあえて楽しかった」
「だって、賭《か》け、どうするの?」
テツオは改めて女を眺めた。白いきれいな肉感的な感じの顔、形の良い足の線。今夜が金曜の夜でなければ、文句なく……。
「お楽しみはまたの時にってことに」バード・ウォッチングには代えられない。
「またの時なんてないかもよ」女の瞳《ひとみ》がキラリと光る。「それとも家で誰《だれ》かが待ってるの?」
「うん、まあね」今夜これから車の中に積みこむバード・ウォッチングには欠かせない愛用の品々を思い浮かべながら、テツオがうなずく。
「まず双眼鏡。それから煙草《たばこ》とジッポー」そして、アウトドアー・ライフに欠かせないウィスキー。
女はキョトンとする。そうだよな、この楽しみは女にはわかるまい、とテツオはバーを出る。
誘 惑
書斎のドアに軽いノックの音。そして妻の声。
「お電話ですけど、どうなさいます?」
「誰《だれ》から?」と、書きかけの原稿から眼《め》を上げずに杉本が訊《き》く。
「水野さんとおっしゃる、女性の方」それきり妻のスリッパの音が遠ざかって行く。止《や》むをえんな、と杉本は立ち上がる。
「もしもし、先生?」と妙齢なる女の弾んだ声。
「杉本ですが」と彼は落ち着いて答える。自分の教えている学生か、出版社の編集者か。
「こんな時間にお宅にいらっしゃるなんて」
「そうですか」
「でもよかった。おかげで先生がつかまって。出ていらっしゃいません?」
声の感じは中々良い。白い花を思わせる。
「出ていくって、どこへ?」
女は杉本の知っている六本木のバーの名を上げた。
「ああ、そこの女性《ひと》?」バーのホステス嬢から仕事中に呼びだしなどかけられてはたまらない、と彼は眉《まゆ》をひそめた。
「違いますわ」
「しかし僕の電話をどうして?」少なくとも酒を飲むような場所で名刺を配るような趣味は、杉本にはない。
「それよりも先生、飲みに出ていらっしゃらない? 金曜の夜ですわ」
金曜の夜という言葉と、それを言った時の女の声のニュアンスに杉本の心が少し動いた。
「しかし……書斎が僕の酒場だから」
「それじゃあたしがそこへ伺っていい?」
急に女は甘い声で訊《き》く。
「そういうわけにはいかんでしょう」背後のどこかに妻を意識しながら、杉本は答える。
「なら、あたしの部屋にいらして」囁《ささや》くように女は誘いかける。
「特上のコニャックがありますから」
「コニャックね」と杉本は呟《つぶや》く。
「コニャックてのは女々《めめ》しい感じがしてあまり好きではない」
「そうでしたわね。先生はウィスキー党でいらっしゃる。あたくしの部屋にもスコッチがございましてよ」
「それはありがたいが、僕は銘柄を変えない頑固な性質《たち》でね」
「どうしても今夜はだめ?」
「というより、あなたを知らないし」
「だったらこれから知りあえますわ」微妙なニュアンスが電話の声に含まれる。
「僕は女性の好みがちょっと片寄っていてね」どんな女が現れるかもしれない、と彼は牽制《けんせい》した。
「どんなお好み?」女が挑発的に訊く。
「加藤治子のようなね。でなければジェーン・フォンダのようなね」
「その二人に共通点があるようには思えないけど」と女が忍び笑いをもらす。「どちらかといえば、あたしはフォンダのタイプかな。もちろん若いころの」
女の部屋はどんなだろうか、とふと杉本は考えた。このまま素知らぬ顔をしてこのゲームに乗ってしまったら、どういうことになるのか、ひどく気持ちが揺れる。
と、その時、背後に軽やかな氷の触れ合う音。受話器を握ったままチラと見ると、妻がトレイに氷の入ったグラスと『山崎』のボトルを乗せて、書斎の方へ静かに歩いて行く。その後ろ姿を見送りながら杉本が電話の女に言う。
「残念だが」
きみの負けだ、女房の勝ち。それと『山崎』の勝ち。僕は酒の銘柄にあくまでもこだわるんでね。そして杉本はゆっくりと受話器を戻した。
ほっと溜息《ためいき》が出た。安堵《あんど》の溜息でもあり、諦《あきら》めの、そしてちょっぴり後悔の溜息でもあった。
強がり
カメラマンやモデルが帰ってしまったスタジオの中。照明も消えて急にひっそりとしてしまった。
雄介は照明道具を所定の位置に片づけてしまうと、カメラ助手の浅井をふりかえって言った。
「オイ、一杯やろうか」
「うん、いいね」浅井は日に焼けた顔をほころばせた。
「ミヨコ、おまえも飲んでけよ」と雄介は、借りて来た衣装をていねいに畳んでいるスタイリストの小倉美世子にも声をかけた。目下のところ彼女は雄介の女である。
「この後ブティックにドレス返しに行かなくちゃならないのよ」
「一杯ぐらいどうってことないよ」と雄介は言いながら、スタジオの隅からバーボンのボトルをひっぱりだしてきた。
「だってあたし運転なのよ」
「車置いて、タクシーで行けばいいよ」浅井が横から静かに口をはさんだ。ふと美世子の表情が変わった。
「そうねぇ……。そうしようかしら」
「よし、きまり」雄介は手際よく三つのグラスに氷を落としこみ、バーボンを注ぎこむ。それをペリエで割る。
「バーボンは、冬はお湯で割っても美味いんだ。しかし、夏場はペリエで割るのが一番だな」
三人はグラスを合わせる。
「何に乾杯する?」美世子が誰《だれ》にともなく訊《き》く。
「仕事、仕事」と雄介。「仕事に乾杯!」
「じゃ僕は」と浅井「きみたちに乾杯。きみたちの幸せな未来に、乾杯だ」
そして男たちが美世子の言葉を待つ。
「あたしの番?」と美世子は少し考える。
「それじゃ、我々三人に乾杯。ヘミングウェイ流に言うと、我々が今後犯すであろう全《すべ》ての過ちに、乾杯というところね」
一瞬、ほんの一瞬、美世子と浅井の視線がぶつかって絡み、すぐに離れる。三つのグラスが軽い音をたてて触れ合う。
「ブティックの後、俺《おれ》んところへ来いよ」と雄介がほとんど命令のように美世子に言った。
「今夜は帰るわ。疲れちゃった」
「だったら小平《こだいら》に帰るより俺のところの方が近いさ」
「でも止《や》めとく」
雄介がチラと強い視線を美世子の横顔にあてる。
「最近変だぞ」
「そぉ?」
雄介は美世子から浅井へ視線を移し、それからグラスの中味を一気に喉《のど》へ流し込む。浅井がふらりという感じでその場を離れ、カセットのスイッチを押す。ブルーアイド・ソウルが流れ出す。美世子の眼《め》が無意識に浅井の行動を追っている。それをみつめる雄介。
「来週月曜日はサイパンだったね」浅井がカレンダーの予定表を見ながら言う。「ミヨちゃんも一枚加わってる?」
「あたしは入ってないの」なんだか悲しげに美世子が答える。
「サイパンなど飽々するぐらい何度もおまえ行ってるじゃないか」と雄介。
「でも行きたいなぁ……」と美世子。
「みんなで……」
みんなで、という時、彼女の眼は浅井に注がれている。雄介が乱暴にホワイトをグラスに注ぎ入れる。
「たまにはいいさ」と淡々と浅井が言う。
「恋人同士が始終一緒だと、まわりの僕らがあてられる」
「い・じ・わ・る」ほとんど聞きとれない声で美世子が呟《つぶや》く。
「じゃ、あたし、そろそろ、行くわ」
誰《だれ》も何も言わない。美世子が大きな紙のバッグを両手に抱えて行きかける。
「おい」とその背中に雄介が呼びかける。
「重そうだな」
「なれてるから」美世子が歩きだす。
「俺、まだここの片づけがあってさ、送ってやれないからさ」雄介はグラスを眺める。「よかったら、浅井に送ってもらえよ。どうせ彼も通り道だから」男同士の眼が合う。浅井がゆっくりとうなずく。
白いドレスの女
その女がバーの中にふらりと入ってくると、男たちがいっせいに顔を上げた。白いドレスの女。かなり日焼けしている。
男たちの視線を平然と全身に浴びながら、彼女はバーの中を奥へと進んだ。ゆったりとした歩き方。男に眺められることにも、ホテルのバーへ一人で入ってくることにもなれた感じ。
一体何ものだろうという表情が、男たちの顔に一様に浮かんでいる。年の頃《ころ》は三十二、三。しかし人妻のようにはぜんぜん見えない。婚期を逸した夜の遊び人なのか、離婚した元亭主の莫大《ばくだい》な慰謝料でのんびりやっている女なのか、あるいは高級|娼婦《しようふ》なのか。可愛《かわ》い子ちゃんしか相手に出来ないマザーコンプレックスの男などおよそもてあますような大人の女だった。
日本にもその種の女がようやく出て来始めたか、とニューヨーク滞在の長かった磯崎《いそざき》は、興味深げに女を眺め、それから手にしたグラスに視線を戻した。
ニューヨークのシングル・バーとか、カフェ・バーには、ちょっと得体《えたい》の知れないようなとびきり魅力的な女が、よく出没していたものだった。
グラスの中味が空《から》だった。磯崎は眼顔でバーテンダーに合図した。
バーテンダーはよく磨きこまれた新しいグラスに氷塊を放り込み、ウィスキーを注《つ》ぎ、水を足し、マドラーで軽く混ぜると、すいと磯崎の手元にそれを置いた。
磯崎はグラスの中味をすかさず口に含み、ゆったりとうなずいた。水割りを作らせれば、バーテンダーの腕がわかるというものだった。氷の大きさ、ウィスキーと水の分量、それと混ぜ具合や冷え具合。申し分なかった。
ふと横に人の気配が生じた。気配と同時にグリーンノートの香りが微《かす》かに鼻を打った。
「前に、どこかでお逢《あ》いしたかしら?」
白いドレスの女が、低い声でそう言った。質問するといった訊《き》き方ではなかった。
磯崎は自分が試されているのを感じた。こちらの応答いかんによっては、歯牙《しが》にもかけずに逃げられてしまいそうだった。
「お逢いしてたら、絶対に記憶していると思うから」と彼は女を見つめた。「以前お目にかかっていたとしたら、タイムマシーンで二、三百年 溯《さかのぼ》った前世のことでしょうね」
女は磯崎をゆっくりと一瞥《いちべつ》した。まるで男が女に対してよくやるように、頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで値ぶみするような視線だった。彼は自分がたいして気のきいた答えをしなかったことを少し悔いていた。
「前世のことなんて信じないわ」と、女はひややかな声で呟《つぶや》いた。「それから来世のこともね」そう言って、彼女はタイトスカートの白い腰を磯崎の横のストゥールに滑らせて坐った。
「わたしが信じるのは、現在だけ。つまりこの瞬間だけってこと」
「そいつは同感だ。何を飲みます?」
「同じもので結構よ」
磯崎はバーテンダーに合図を送った。
「それにしても意外だな。あなたのようなひとが」と言いかける磯崎の言葉をさえぎって女が言った。
「誰《だれ》もが言うようなつまらないこと言って時間を無駄にしないで」
それから彼女はカチリとグラスを合わせて言った。
「わたしが信じるのは、今のこの瞬間だけよ」
「ということは、つまり」と磯崎は探るように女の横顔を眺めた。「つまり、この後、ベッドのことを期待してもいいのかな」
女の肉感的な口の端に薄い微笑が滲《にじ》んだ。磯崎の胸が期待と興奮とでちくりと痛んだ。
「この後のこと?」と女が言った。「そんな先のことはわからないわ。わたしにわかっているのは今、この瞬間のことだけ」
磯崎はうなずいて、女の空になったグラスにウィスキーを注ぎたした。
カラオケ
「最近浮かない顔してるわよ、お父さん」と妻の光代が心配そうに言った。「浮気の相手が不足しているのと違う?」これぞ糟糠《そうこう》の妻。さすがに一代でたたき上げて中小企業の経営者となった男の縁の下の力持ち。
「わかるかね、実はそうなんだ」共に戦場で闘い抜いた同志に向けるような視線を妻にむけて大山三郎は苦笑した。
「おかしいわねえ、別に男っぷりが、がっくりと落ちたというわけでもないのに」と妻の光代が首をかしげる。「ケチっとるのと違う?」
「いや、ケチっとらん」大山三郎は顔の前で手を振った。
「じゃ、あちらの方の具合が急に悪くなったとか?」
「そんなもん、まだ悪くなるわけがないだろう」三郎は憮然《ぶぜん》として妻をにらみつけた。
「デートコースに工夫が足らんのかしら?」
「それどころか、新たにつけ加えてバラエティーに富ませたんだが」
「新たに何をつけ加えたの?」
「カラオケバー」
「多分それだわ」と腕を組む妻。
「それって何だね? 歌は素人ばなれして抜群だと誉《ほ》められてるんだぞ」
「ふーん」とますます考えこむ糟糠の妻。
「それじゃお父さん、ひとつ私をそのカラオケバーへ連れて行きなさい」
「そんなとこおまえと行ってどうする?」
「どうするって、お父さんがもてない原因を確かめるんじゃないの」
「なるほどねえ」と大山三郎は妙なところで感心するのだった。
さて、何日かたった金曜日の夜、大山三郎は浮かぬ表情のまま妻をカラオケバーへ誘った。
カラオケバーといってもピンからキリまであるようで、ここはかなり高級。黒いタキシードを着た結婚式の新郎のようなウェイターたちが跪《ひざまず》いてのサービス。
「奥さまもブランディーでよろしゅうございますか?」と大山のボトルを差し出した。
「さあ、お父さん、自慢の喉《のど》を聴かせてちょうだいよ」と、光代はさっそく夫の肩をポンと叩《たた》いた。
大山はことさら渋って、グラスを重ねる。
「そんなに気取ることないでしょう、お父さん」
「お父さん、お父さん言うな」
ちょっと皺《しわ》っぽいが大山三郎はどこか高倉健に風貌《ふうぼう》が似ていなくもない。普段無口なところも同じだ。それでどこへ行ってもかなりもてたのだった。やがてアルコールが回り始めた。大山が立ち上がる。照れたような表情が中々いい。
「ヨオ、高倉健!」光代がヤジを入れる。前奏が始まり、大山が片足でテンポを取り始める。歌いだす。とたんに大山三郎は人格が変わったみたいにニカニカして黄色い声を張り上げた。
「あ、こりゃだめだ」光代はとたんに頭をかかえこんだ。
夫が席に戻ると妻が言った。
「原因がわかったわよ、お父さん」
「え? そうか」
「高倉健がいきなり三波春夫になるのが悪いのよ」
「え?」大山三郎はきょとんとした。
「歌が始まったとたん性格変わったみたいにニッカニッカするんだもの。お父さんは高倉健でいけばいいの、高倉健で」
「カラオケはだめか」
「絶対にだめ。高倉健が一瞬にして三波春夫に変わったら気持ち悪いわよ。吐き気するわ」と中々手厳しい。
「よしわかった。明日からはカラオケをデートコースから外そう」大山三郎は妻にむかってブランディーのグラスを掲げてニヤリと笑った。
「乾杯」光代もニヤリと笑って夫にグラスを掲げた。
夢物語
タツジは今年も早く冬が来ればいいと思っている。去年古着屋で二束三文で買った一九五〇年初期のオーバーコートに、この夏みかけて飛びついた時代もののソフト帽を合わせ、新宿の一杯飲み屋のノレンをくぐる図など想像すると、それだけで心楽しくなってくるのだった。
もっと欲を言えば、更に時代を溯《さかのぼ》って、バレンチノが着ていたような肩パットの入った細身の、ぞろりと長いカシミアのコートなど、オールバックにポマードでなでつけた髪型と共に、着てみたいのだが、バレンチノほどの美男ならともかく、オールバックはオールバックでもどちらかというとタモリに近くなるタツジにしてみれば、己れを知るくらいには恥を知るで、目下のところは自分の父親が着ていた程度のもので、大いに満足なのであった。
現在はまだまだ残暑などぶりかえしているが、冬というのは中々いいものである、とタツジは思うのだ。木枯しが吹いたり、小雪でも降れば更に情緒的だ。
雪景色はモノクロ映画の世界だ。なんとなくうらぶれた詩情もある。
汚れちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる……≠の世界である。
かじかんだ手指の先などに、ふうーと息を吐きかけて、ふと見ると人懐しいかんじの赤ぢょうちん。くったりとしたノレンを手ではねてガラリと開く引き戸。
店の中はカウンターだけの手狭だが、親父の「らっしゃい」の声の温かさ。冷えた顔を打つおでんや煮込みの湯気。毛穴が開く感じまでタツジには想像できるのだった。
カウンターのわずかなすき間に割り込んで。周囲が焼酎《しようちゆう》の湯割りなどをイキがって飲んでいるのを尻目《しりめ》に、タツジはトリスの炭酸割り。
「似合うねえ、おたく、ハイボール」ねじりはちまきの親父がニヤリと笑って、グラスをストンとタツジの前に置く。
熱々の豆腐と臓物の煮込みなどを肴《さかな》に、喉《のど》にしみるこのさわやかさ。このうまさ。この詩情。
「おっ、雪だ」と親父がノレンのすきまから夜空を見上げる。客たちがおお寒《さむ》というように一様に肩をすくめる。いいねえ、ますますいいねえ、タツジはニンマリとトリスをすする。
そこへカラコロと下駄の軽やかな音。ガラリと開く引き戸から、ふとのぞく素足の白さ、痛々しさ、そして美しさ。小指の先が、冷たさでほんのりと赤く染まって。
タツジは思わず床にひざまずき、その冷たくひえきった白くも華奢《きやしや》な足を両手にとって温めてやりたい、更に爪先《つまさき》を口に含んで暖をとってやりたいと胸の中で切に思いながら見上げる女のなんと、そそとして美しい顔。
思わず守ってやりたいと、男に思わせる風情《ふぜい》。男より常に三歩あとを伏眼《ふしめ》がちに歩くタイプ。それでいてリンとして、これぞ女の中の女。男をやる気にさせ、男が安心して男らしくふるまえる女。
「お待ちになって?」え? 僕? 胸ときめき腰を浮かせるタツジの横で、
「いやそれほどでもないさ」とおおように女を迎えるのは、なんとバレンチノとコールマンを足して二で割ったようないい男。
――オレってドジなんだよな、とタツジはグラスの中味を揺すりながら、スタジオタイプのアパートの一室で呟《つぶや》いた。――オレって、空想の中でも自分を失恋させちまうような、なんていうか照れ屋というか、つつしみがあるというか、要するにナイーヴなんだ。これが俺《おれ》の欠点なんだと、現在のタツジは、冷房のきいた部屋で、FAXやワードプロセッサーやTVビデオなど、ありとあらゆる文明の利器にとりかこまれながら、溜息《ためいき》をつくのだった。
全《すべ》ては空想夢物語。バレンチノも小雪もそそとした女も。
しかし、これだけは現実だ、とタツジはハイボールをもう一口、口に含んだ。
弦楽四重奏
長い一日であった、と永井総一は衿《えり》にサテンを張ったエンジ色の室内着に着替えながら、そう思った。男には七人の敵がおり、職場はさながら戦場であるというのが、このところ永井の偽らざる実感である。
しかし要は勝つことである。敵の大将の首を討ち取ったというほどではないにしても、敵陣深く攻め入ったという実感みたいなものはある。彼は満足の溜息《ためいき》をつくと、レコードプレイヤーに近づき、お気に入りのベートーヴェンの室内楽をかける。こういう日はベートーヴェンにかぎる、と永井は思うのだった。
寝室のドアが少し開き、妻の顔が覗《のぞ》く。
「お茶漬けでも召し上がりますか?」
「いやいいよ」と永井は首をふる。今夜は銀座でフランス料理の接待であった。「かわりに、氷と水を頼む。つまみはいらんよ」
フランス料理が美味《うま》いのは、コースの最初のうちだけだ。確かに生《なま》のフォアグラは絶妙な味ではあった。だが、あとはもう、胃にもたれるばかり。生のフォアグラあたりで止めておけば、妻のお茶漬けでちょうど良く仕上がったところだが、客を前にしてはそうもいかない。
まだこってりとしたソースが胃の中に溜《たま》っている気がする。そこで永井は極上の葉巻きを一本。
そこへ妻が氷と水を運んでくる。踝《くるぶし》まである室内着に、風呂《ふろ》上がりのつるりとした顔をしている。清潔ではあるが色気に欠ける。もっとも銀婚式を過ぎた女房に、色気を求める方が無理かもしれぬ。
妻が何事か言う。ベートーヴェンの音で聞きとれない。しかし妻が言おうとしてることくらい、体験上わかっている。だてに二十五年の結婚生活が流れ去ったわけではない。ベートーヴェンの四重奏の彼方から妻はこう申しておるのだ。――お風呂はどうなさいます?――
「今夜はいい」と永井は答える。「明日は土曜日だから、ゆっくり朝風呂にでも入るさ」
永井はグラスに氷片を数個投げ入れ、寝室のサイドボードの上からスコッチのボトルを取って、これに注《つ》ぐ。水は入れない。こればかりは水で割りたくないウィスキーだ。水は別のグラスに注いでベッドサイドに置いておく。
妻は室内着を脱ぐと、早々にベッドにもぐりこむ。多分、おやすみなさいと言ったのだろうが、ベートーヴェンで聞こえない。
こんもりと盛り上がった妻のベッドを一瞥《いちべつ》しておいて、永井はレコードプレイヤーの方角にグラスを掲げる。
「ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」乾杯。喉《のど》を過ぎる贅《ぜい》をつくした味わい。永井総一は口を閉じ鼻穴の奥にその美味《うま》みを一時封じこめる。これぞ極み。
彼はゆっくりと妻の方をふりかえり、そのこんもりと盛り上がった寝姿をつくづくと眺める。
あれが妻ではなく、うら若い愛人であったら、もう言うことは何もあるまいだろうな、と、声にならない声で思わず呟《つぶや》く。
仕事はうまく行き、しかも今宵《こよい》は金曜日だ。寝室には弦楽四重奏が流れ、極上の葉巻きの香りと、スコッチの香り。マリリン・モンローとまではいわないまでも、モンローのごとき泡立てした生クリームのような素肌の女が傍《そば》にいさえすれば、正に天国というものである。
しかし考えてみるに、モンローのような女がベッドにひかえているということになると、年がいもなくハッスルせねばならない。
年がいもなくハッスルすると、腹上死という危険な罠《わな》もある。永井は肩をすくめて、再び妻の寝姿に視線を投げる。
「美津子……乾杯」
妻がふとベッドの中で寝返りを打つ。
「何か、おっしゃった?」
いや、別にと永井はベートーヴェンのボリュームをしぼりに部屋の隅へ行く。平和な金曜の夜長。
駈《か》け落ち
旅仕たくが整うと下村徹は、マンションの一室をひとわたり眺めわたした。いずれこの住み家に戻ってはくるつもりだが、さしあたってはそれが何時《いつ》になるかわからない。ほとぼりがさめる頃《ころ》か――と彼は胸の中で呟《つぶや》いた。
他人の女房を寝盗《ねと》る話なら今どき珍しくも何ともないが、その女と駈《か》け落ちしようというのには、やはり勇気がいる。
ひとりの女に亭主を捨てさせ、子供を置き去りにさせ、家庭を遺棄させるわけだから、その女を今以上に幸せにしてやれるかどうか考えると、徹はめまいのような感覚を覚えるのだった。
しかし、事はとうに決意され、考えに考えた末の行動である。今さら怯《おび》えるわけにもいかないし、後戻りするつもりも彼にはない。
和子との愛は宿命を通り越して彼には必然のものだし、彼女にしてもまた、徹との愛をつらぬき通すことだけが、今となっては人生の全《すべ》てだった。
和子なしの徹の人生もまた考えられないことだし、これで良いのだ、ともう何百回もくりかえした同じ呟《つぶや》きを最後に、徹はスーツケースひとつ下げてマンションを後にしたのだった。
二人は逃亡先をまずホンコンに決めていた。ホンコンで五日ばかり過ごした後、シンガポール、タイ方面を旅行し、一月ばかり日本を離れようと相談は決まっていた。
最後の最後まで用心には用心を重ね、二人が一緒になるのは、飛行機のファーストクラスの座席という打ち合わせもしてあった。誰《だれ》がいつ、どこで見ているかもしれないからだ。別々に成田空港に向かい、別々にチェックインして、座席で合流するという案は、徹が出したものだった。
箱崎から乗ったリムジンバスの中で、彼は自分たちがしでかそうとしている事の重大さをかみしめると同時に、いよいよ和子の全てが自分一人のものになるのだという喜びの実感も、ひしひしと感じていた。
俺《おれ》のために、一人の女が何不目由ない暮らしと家族を捨てるのだと思うと、男としては奮い立つような気分になるのが当然だった。そして事実、彼は生まれて初めて、一人の女を愛することの意味、その責任と歓《よろこ》びと期待とに酔いしれる気持ちだった。
少々無理をしてファーストクラスで旅をするのも、それが二人にとっての門出となるからである。
成田でチェックインをすませ、ファーストクラス専用の待合室で出発までの三十分ばかりをバーボンのオンザロックを飲んでやり過ごした。めずらしくダブルで飲んだ。気分が妙に高揚していたからだった。
万が一、ふたりが空港内で顔を合わせても、決して話しかけたりしないようにしようと約束がしてあった。和子はおそらく先に税関のチェックを受け、まっすぐに搭乗口に向かったに違いない。
はやる胸を押さえて、徹は搭乗ゲートに向かった。
和子の姿はまだなかった。飛行機のファーストクラスの座席に身を沈めた後も、彼女はまだ顔を見せない。
不安が徹の胸を襲った。事故でもあったのか? それともタクシーが金曜日の渋滞にでも巻き込まれたのか? あるいは、こんなことは考えたくはないが、直前になって亭主に駈《か》け落ちの一件がバレたのか? 徹は血走った眼《め》を入口に釘《くぎ》づけにした。
その時、スチュワーデスが徹に近づいてくると、一枚の紙切れを渡した。
――ごめんなさい。ギリギリまで悩んで悩んだ結果、やっぱりあなたとは行かないことにきめました。どたんばになって、あなたを裏切るのは死ぬほど辛《つら》いけど、どうしても行けません。許して下さい。和子――。
ふと眼を上げると、ドアが閉じられるところだった。慌てて浮かした腰を座席に沈め、徹は眼を閉じた。失意、怒り、絶望の思いが噴き上げてくる底に、たとえようもない安堵《あんど》の思いがあるのを、彼はいなめなかった。
夫婦の風景
けだるいような熱気の午後だった。チンザノのソーダ割りを片手に、マルグリット・デュラスを読むにはぴったりだ。
窓はわざと八月の激しい日射《ひざ》しにむけて開けてあった。だから吹きこんでくるのは都会の熱風だ。ガソリンとアスファルトと埃《ほこ》りの匂《にお》い。
だけど汗をかくのは素敵《すてき》なことだ。一種快感に通じるから。私はベッドの上で、少しでも冷たいシーツの部分を求めて、無意識に転々と躰《からだ》を動かす。
デュラスの言葉はなんて美しいイメージなのだろう。メコン川、ハノイ、ベンガル湾。ショロンの男とか森の匂いとか、運河《クローン》の匂いとか。ショロンの男は、主人公の愛人。美しい中国人で、いつも英国|煙草《たばこ》とオーデコロンの香りがする。私の思いはいつのまにかベトナムの田舎《いなか》にとんでいる。
電話が鳴る。たいてい贅沢《ぜいたく》な午後の読書の楽しみは、この突然に鳴りだす電話のベルで破られる。
「もしもし」と私は重たげな声で言う。
「僕だけど」と電話のむこうで夫が言う。
「どうした、声が変だよ」夫の背後で別の電話が鳴っている音が聞こえる。いかにもオフィスらしいざわめきが伝わってくる。ショロンの男のイメージが遠ざかる。
「本を読んでいたのよ」と私は答える。
「いいご身分だ」
すると私はもっと言ってやりたくなる。
「チンザノ片手に、ベッドの上よ」
「亭主が汗まみれで働いているというのにね。ひどいデカダンスだな」
「何か用?」と私はわざとそっけなく訊《き》く。
「たいしたことじゃないさ。今夜暇かい?」
「家庭の主婦はいつだって夜は暇よ。結婚してみてわかったことだけど」
「虫の居所が悪いね」
ショロンの男のせいだわ、と私は思ったが、口に出しては言わなかった。英国煙草とオーデコロンの香りを漂わせている優雅な男なんて、所詮《しよせん》小説の中にしか出てはこない。
「今思いだしたけど今夜は例外だわ。ブリッジの約束があったと思うの」
「そうか」と夫は呟《つぶや》く。「そいつは残念だな」
「どうして?」
「きみを連れだそうと思ったんだけどね」
「珍しいのね」もうそんなことは夫婦の間に何年もなかったような気がするのだ。
「次ってことにするか」
「次っていつ?」私は急にベッドの上で上半身を起こして訊く。
「ブリッジなんだろう?」
「ブリッジは明日だってまた出来るけど、あなたの次ってのはあてにならないから」
「今日はからむね」
「多分暑さのせいよ」私はそっとデュラスの本を閉じる。そして夫の電話が切れる。
相変わらずの熱帯夜。だが夫が指定した店は冷房と、ふんだんにある観賞用植物の落とす緑色の影のせいで、ひんやりと涼しい。夫はまだ来ていない。
二つむこうのテーブルにいる男女から、倦怠感《けんたいかん》が漂ってくる。あの二人は夫婦なのに違いない。もしかしたら昨日の私たちの姿かもしれないし、今夜の私たちかもしれないし、将来の二人の姿かもしれない。私は少し憂鬱《ゆううつ》になる。二人はもう十五分もいるのに一言も喋《しやべ》らない。
結婚が二十年近くも続けば、夫は妻をそこいら辺に置いてある家具を見る以上の興味をもって眺めないものだし、妻の方だって同じようなものなのだ。
どちらが悪いというわけではない。悪いとすれば双方の問題だ。二十年という歳月がすり減らしてしまうのは、ドキドキするような二人の間の緊張感なのだ。それでも結婚は安泰のまま続いていく。おそらくはずっと。
入口に男の姿が現れる。何人かの女客が視線を上げる。私はそれが自分の夫だということに初めて気づく。
私の席から入口まで七メートルほどあった。最後に七メートルの距離を置いて、夫の姿を眺めたのはいつのことだったろうか。
家の中で夫と顔を合わせる時は、たいてい至近距離にいる。七メートルの距離を置いて見る夫は、私の知らない男のようだ。ネクタイのストライプがゴルフで焼けた顔をきりりと引き締めている。私の胸は誇らしさと歓《よろこ》びで一杯になる。こちらへ歩いて来る夫の顔の上にも、私のとよく似た表情が浮かんでいる。誇らしさと歓びと、それを照れる彼の思いとが。
「やあ、しばらく」と夫が言う。
「しばらくだなんて。今朝出かけて行ったくせに」私は柔らかい声でそう言って笑う。
「今朝別れたのは女房だよ」夫は私の前ではなく横に坐《すわ》りながら、やっぱり柔らかく笑う。
「そして今|逢《あ》っているのは、一人の女」
私は私たちを凝視する女たちの視線を感じる。二つ先のテーブルから先刻からずっと黙っている女の、羨望《せんぼう》と、微《かす》かな軽蔑《けいべつ》のまなざしにぶつかる。
「なんだか店中の女の人にねたまれているみたいだわ」
「かまわんさ」と夫は言う。それから彼はスーツのポケットから、英国製の煙草《たばこ》を取りだす。火をつけると、辛口のシダ類の香りが漂う。森や運河や、メコンに吹く風の匂《にお》いなどだ。私はショロンの男を、横に発見する。
あっ
金曜の夜でもないのに酒場は混《こ》んでいる。そして金曜日でもないのに|※[#「火」+「華」]子《ようこ》がそこへ顔を見せたのは、十日ほど東京を留守にするからだった。
「あれ、珍しいね」
とカウンターの中からマスターが言った。
「金曜の|※[#「火」+「華」]《よう》ちゃんが木曜の夜現れるのは、曜日まちがえたんじゃないの?」
「今週と来週、これないから」
※子はカウンターの空いている椅子《いす》に、常連に取り囲まれて坐《すわ》りながら言った。
「また仕事で海外?」
映画雑誌を作っている男が訊《き》いた。
「仕事じゃないの。休養」
「へえ、十日も。贅沢《ぜいたく》だな」
「だってこの二、三年働きづめだもの。死んじゃうわよ」
「今や※ちゃん売れっ子だもんな」
とマスター。
「現在レギュラー何本かかえてるの?」
と、映画雑誌の編集者。
「週刊誌が二本と、月刊誌がエッセイなんか入れて七つ、八つあるんじゃないのかな」
おしぼりで手をふきながら※子が答えた。
「若いのによくやるよな」
「若いからやれるのよ」
と言って彼女は日本酒のオン・ザ・ロックを注文した。
「だけどそれだけのノルマかかえて、よく十日も休みとれたよね」
マスターがちょこちょこと酒の肴《さかな》を※子の前に並べながら言った。
「書きだめよ、死にもの狂い。見て、三キロも痩《や》せちゃった」
実はまだ今夜もこのあと徹夜で頑張り、明け方ちょっと寝て、また出発まで机の前にカンヅメにならなければならない運命なのであった。週刊誌一本とエッセイの連載がまだ残っているのだ。
「で、どこ行くの?」
映画雑誌の編集者が、訊《き》いた。
「バリ島」
「へえ、バリハイのバリ島か。いいねえ南太平洋」
マスターが遠い目をする。明日の今|頃《ごろ》は夜の渚《なぎさ》を眺めながら、月光を浴びてピナコラーダなどを飲んでいるのだ。黒いココ椰子《やし》のシルエット。※子は思わず溜息《ためいき》をついた。
「飛行機で行くの?」
映画雑誌の男の隣で飲んでいた中年のサラリーマンが訊いた。
「当たり前だよ」
マスターが笑った。
「泳いで行けやしないさ」
「飛行機か」
とそのサラリーマンは独り言のように呟《つぶや》いた。初めて見かける顔だ、と※子は思った。頭髪が薄くて陰気な顔をしている。
「飛行機といや、こんな話がある」
と映画の男が思いだしたように喋《しやべ》りだした。「ある男が羽田まで行ったんだ。ほら、例の一二三便」
「落ちたやつね」
「そう。ふと電光掲示板を眺めていてね、こう呟いた。一、二、三便か。とすると次は四だ。四、つまり死だとね」
「嘘《うそ》でしょ」
※子が大きく目を見開いた。
「それでどうしたのよ?」
「やめたって」
「乗らなかったのか?」
とマスター。
「眉《まゆ》つばだなあ、その話。安田さんのストーリーじゃないの?」
「俺《おれ》も訊いた話だよ」
映画の男はニヤリと笑った。
「その前に外国で事故があったでしょう」
と、顔なじみのないサラリーマンがふいに口をはさんだ。
「その時の話だけど、不思議なことがあったんですよ」
中年のサラリーマンはおもむろに両切りのピースを口にくわえた。歯がヤニで黄色い。※子はなんとなくこの男に反感を覚えた。
「何かの都合である男がその便に乗り遅れたんですな。ところがその飛行機が落ちた。乗客名簿が発表されると男の名があるんで、留守宅では騒然となった。当然ですな」
男は芝居がかった間をおいて煙を吐きだした。
「親戚《しんせき》の者が集まって、嘆き悲しんでいる所に、件《くだん》の男が次の便でひょっこりと帰ってきた。悲しみの場転じて祝いの席となり、飲めや唄《うた》えやの大騒ぎ。酒盛りは延々と続き、客も帰り、男は酔った足でトイレへ行ったんですな。ところがいつまでたっても出てこない。奥さんが心配してドアを叩《たた》いた。返事がない。それでドアを開いてみると、男がこと切れていた。脳溢血《のういつけつ》ですわ」
「死んじゃったの?」
※子が甲高い声を上げた。
「結局、そういう運命《さだめ》なんですな、その男は。人間の寿命というのは生まれた時から定まっているそうですから。その男はどうあってもその日に死ぬことになっていたんでしょう」
一同は一瞬しんとして顔を見合わせた。
「嫌だわ」
と※子が表情を固くした。
「あたしこわいわ」
するとピースをくわえたままの男は、まじまじと※子の顔をみつめて言った。
「大丈夫ですよ」
「そお?」
眉《まゆ》を寄せたまま※子。
「大丈夫です」
ひどく確信のある言い方だった。
「絶対です。私がうけおいます」
「うけおいますっていったってねえ」
と※子は苦笑してマスターを見た。
「大丈夫ですって」
と男は煙草《たばこ》を消しながら執拗《しつよう》に言った。
「死相というのがあるんですな。知ってますか」
「知らないねえ」
マスターが首をすくめた。
「あるんですよ、それが。死相というのが出るんです」
「あんた、わかるの?」
映画の男。
「だれでもわかります。気をつけて見さえすればの話ですよ」
「どう出るの?」
※子が身をねじって中年男を見た。
「ここにこう出るんです」
と男は自分の手で、鼻のあたりを水平に撫《な》でた。
「このあたりに横に線が出る。少し幅のある暗い線です」
またしても一同がお互いの顔をまじまじとみつめあった。
「ほんとうかねえ」
映画の男が信じられない口調で言った。
「ほんとうですよ。現にさっき、電車の中で一人見かけました」
「横に線が出てた?」
「死相が出てましたな」
「じゃ、今夜死ぬの?」
「ということでしょうな」
「嫌な話だね」
と映画の男が口元を歪《ゆが》めた。
「お宅《たく》も嫌なひとだよ」
だれかが後ろの方で椅子《いす》を引くと、
「マスターお勘定」と言った。マスターがレジに向かった。
「だけどさ」
と映画の男が口調を変えた。
「さっきの話の続きだけどね、その脳溢血《のういつけつ》で倒れちまった男の奥さん、気の毒だねえ。だってさ、どうせ死ぬ運命ならさ、何も自宅のトイレの中でなく、飛行機の方がだよ、保険金下りることだしねえ。トイレじゃ一銭にもならないからなあ」
それでみんながちょっと笑い、その場のしらけた空気が消えた。
「※ちゃんもっと飲めよ、おごるからさ」
とマスターが言った。
「ううんやめとくわ。まだ二十枚も仕事が残ってるのよ」
※子はチラと腕時計を見て、グラスに残っている酒を飲み干した。
「じゃ、みなさんお先に」
と彼女は椅子をひいた。
「ちょうどいい気分転換になったから、またひとがんばりしなくちゃね」
レジで勘定を払い、出口に向かった。
「※ちゃん」
とだれかが言った。
「え?」
と※子がふりむいた。
「出てるよ」
「何が?」
と※子は声の主を探した。
「顔に一本横の線が」
「悪い冗談、やめてよねッ」
※子が目をつり上げた。
「ゴメン、ゴメン。冗談だよ、冗談」
映画の男が頭を掻《か》いた。
「ゴメンじゃすまない。安田さんにはお土産買ってこないから」
※子はプイとそっぽをむいてから、ちょっと気になって酒場の壁のバーミラーに顔を寄せた。
「何よ、失礼しちゃうわ。線なんてどこにも出てないじゃないの」
※子は肩を揺すって勝ちほこったように言った。小さな酒場の中が笑いで一杯になった。
机の上の電話が鳴り続けている。十回も鳴らしたら留守だと思って諦《あきら》めればいいのに、と苛々《いらいら》しながら※子は原稿用紙を睨《にら》んでいる。十五、十六、十七……二十回目の呼び出しで、彼女は受話器をわしづかみにすると耳にあてた。十一時に家を出なければ間にあわないのに、まだ七枚も残っているのだ。
「小柴さまのお宅でいらっしゃいますか?」
ばかていねいにも甘ったるい女の声だ。そういう声でとろとろと喋《しやべ》るのは、証券とか土地の電話セールスにきまっている。
「そうですけど、結構です」
といきなり先制攻撃に出て電話を置こうとした。
「あのッ」と敵も必死である。その気迫に息を呑《の》まれていると「小柴さまご本人でいらっしゃいますか?」
と訊《き》いた。
「ご本人は留守ですッ」
と思わず答えた。
「それではあなたさまは?」
「派出所の家政婦ですッ」
「小柴さまは、何時|頃《ごろ》お戻りでいらっしゃいましょうね?」
「そんなことわかりませんッ」
憮然《ぶぜん》として※子。
「それでは明日の今頃《ごろ》もう一度お電話をしてもよろしゅうございますか?」
まどろっこしくもばかていねいな口調。
「よろしいんじゃないんですかッ」
どうせ明日の今時分はバリ島だ。バリ島の白砂の上に横たわり、南国の太陽をさんさんと浴びているはずなのだ。電話でもなんでも好きなだけかけてくれ、と※子は電話を切った。
と、待っていたように玄関のチャイム。こういう時に限り自動車のセールスマンとか聖書研究会とか建て売り住宅を売りつけにくる。つかまったら最後、二十分はねばるから無視することにする。
しかしチャイムは執拗《しつよう》に鳴り続ける。ついに※子は形相《ぎようそう》もものすごく玄関へ。
「どなたッ」
「週刊ウィークリーです」
「あ、ごめんなさい」
慌てて机に戻り、徹夜で仕上げた原稿をとってきて渡した。
出発まであと一時間と少しだ。スーツケースの中身が途中までしか詰っていない。気が散って、原稿が一行も進まない。
まずスーツケースを詰めてしまい、出かけられるばかりにしておこうと、書きかけのまま机を離れた。歯ブラシと便秘薬とサンオイル。そうそうパスポート。そこへまたまた電話。
「できてますか?」
と心配そうな編集者の声。
「今、やってます」
不機嫌に答える※子。
「大丈夫でしょうねえ」
「今やってますから」
「間にあいますか」
「そのために今やってるんです」
「何枚くらい残ってますか」
敵も必死だ。
「あと三枚ばかり」
四枚サバを読んでそう伝える。
「じゃ何とかいけますね」
「次々と電話がかからなければね」
「どこで頂けますか」
「箱崎《はこざき》にきてもらえる?」
「じゃ箱崎のリムジンの切符売場あたりで」
「遅れないでね。家を十一時に出るから十二時ぴったりよ」
「遅れませんよ」
スーツケースを詰め終わると、ついでに旅用の服に着替えた。旅用といってもジーンズにTシャツ。それに東京はまだ寒いからジャンパーを着て、スーツケースとパスポートの入ったバッグを玄関に出しておき、仕事に戻った。なんとあと二十分しかない。
どう逆立ちしても二十分では七枚は書けない。七転八倒して三枚。十一時を十五分も過ぎている。大あわてでスーツケースを手に家を飛びだした。
表通りでタクシーを拾いながら、※子は顔も洗っていないことを思いだした。歯も磨いていない。お化粧も昨夜酒場に出かける前にチョコチョコとぬりたくっただけだから、剥《は》げちょびれなのに違いないのだ。飛行機に乗ったらゆっくりと洗面し、お化粧も出来ることだし。タクシーが止まると行き先をつげ、原稿用紙を膝《ひざ》の上に広げた。
タクシーの中で原稿を書いたことはなかったが、贅沢《ぜいたく》は言っていられない。揺れるのでひどい字だ。ひどくても字には変わりない。それで一枚なんとか仕上がる。もうやけっぱちだ。あと三枚。
リムジンの切符売場でウロウロしていた若い担当者が、ぎょっとしたような顔で※子を見た。
「何よ?」
「いやいや、お疲れのようで」
※子は苦笑して手で顔を撫《な》で上げた。
「花の素顔を見せちゃって、お見苦しいわね」
「花ですかねえ」
担当者が口を滑らせる。
「それより原稿だけど」
「頂いていきます」
「それがダメなのよ」
「え? ダメ〓」
相手は絶句する。
「成田まで一緒に行ってよ。バスの中で書くから」
担当者は否応もなく成田へ同行した。
リムジンの中で※子はなんとか二枚がんばった。が、それが限度。バスは成田の南ウィングに滑りこんだ。
「どうするんですか、あと一枚」
「飛行機を持たせてでも書くから」
と※子は空港内の空いている椅子《いす》に突進した。チェック・インはおろか、彼女の乗る便の搭乗のサインが点滅している。脂汗が流れた。何の因果でこんな仕事をするのかと、つくづくと情けなかった。顔も洗わず歯も磨かず、朝ごはんだって食べていないのだ。それにもしかしたら、飛行機に間に合わないかもしれない。隣で担当者がたて続けに煙草《たばこ》を喫っている。
「ちょっと、その貧乏揺すり、やめてよ」
※子の声が尖《とが》る。あと数行でなんとかストーリーがしめくくれそうだ。今に見ておれ。明日の今|頃《ごろ》は太陽にジリジリと焼かれているのだ。蒼《あお》い海。白い砂。冷たいトロピカルドリンク。そしてバリの夕陽《ゆうひ》。ついに出来た。※子は最後の一枚を担当者の手に押しつけると、チェック・イン・カウンターへ駈《か》けつけた。
その後はひたすら走り続けた。エレベーターを駈け降り、パスポート検査の一番短い列を探して右往左往し、細長い空港を、搭乗口へ向かってひたすら急いだ。アナウンスが彼女の便の最後の放送をしていた。
長い長い廊下を抜けて三十五番の搭乗口へ飛び込んだ。スチュワーデスが早く早くと手で呼んでいる。そして機内へ。背後で部厚いドアが閉まった。
自分の席がみつかると、安堵《あんど》のあまりそこへへたりこんだ。スチュワーデスがきて、ベルト着用を注意した。ほどなく飛行機が動きだした。
胸の動悸《どうき》が収まるまで長い時間がかかった。飛行機が滑走路を離れてふわりと浮いたのがわかった。いよいよヴァカンスの始まりだ。そう思うと、躰《からだ》の底から歓《よろこ》びが突き上げてきた。すべてやるべきことをやり上げてきたのだ。少しでもやり残したことはなかった。危なかったが、とにかく、連載に穴もあけず出発までこぎつけたのだ。
この解放感。自然に顔がほころんだ。あとは一気にバリ島だ。これだから、この仕事はやめられないと思った。書いている時は死ぬほど辛《つら》いけど、書き終えて、こうしてぼんやりと飛行機の揺れに身をまかせているのは、なんという幸福な気持ちだろう。この解放感のために私は仕事をするんだわ、と※子は思った。
ベルト着用のサインが消えた。飛行機はまだ上昇しているが、※子はバッグの中を探して洗面用具を取りだした。トイレが混《こ》まないうちに顔を洗いたかった。
トイレは狭かったが、ドアの鍵《かぎ》をカチリと閉めると電気がついた。まだだれも使用していないので、どこもかしこも清潔でピカピカしていた。まず歯を磨いた。たっぷりと歯磨きをつけて、心ゆくまで磨いた。それから洗面器にお湯をタップリ張って石鹸《せつけん》を泡立てて顔を洗った。すすぎも充分して、タオルのかわりにペーパータオルで顔を拭《ふ》いた。
そこで※子は満足の溜息《ためいき》をついた。いい気分だった。久しぶりのいい気分だ。顔はさっぱりしたし口の中も爽快《そうかい》だった。彼女は狭い洗面所の壁の鏡を幸福な気持ちでみつめた。
顔色が悪いのは、ずっとうつむいて書き続けたせいなのだ。※子はペーパータオルで、鼻の脇《わき》のあたりの洗い残した暗ずんだ汚れを落そうとこすった。あれだけ石鹸を泡立てて洗ったのに落ちないなんて変だわ、と思ったとたんだった。はっとした。
その黒ずんだ影のようなものは、彼女の顔の半分から下に三センチほどの幅で、鼻を横切っているのだった。この線は――。
あの中年のサラリーマンの顔が脳裏を掠《かす》めた。まさか。※子は掌《て》でそこを強くこすった。だが消えない。今や、鏡の中の彼女の顔にはまぎれもない線がはっきりと水平に走っているのだった。※子はぞっとした。
逃げだすようにトイレのドアを押して外に出た。頭の中がクラクラした。目の底が青くなった。
どこをどう通ったのか、とにかく自分の席にたどりついた。躰《からだ》が揺れて隣の人にぶつかった。
「大丈夫ですか?」
とその男が訊《き》いた。
「顔が青いですよ」
「気分が悪いんです」
男に助けられて席についた。
「スチュワーデスを呼びましょう。乗物酔いでしょう」
男の顔が近づいて彼女をのぞきこんだ。あ、と思った。男の顔にもはっきりと水平に線がでていた。
男に呼ばれて、スチュワーデスが近づいてきた。その顔にもやはり水平に線が出ているではないか。
※子は躰が冷たくなるのを感じた。
「どうかなさいました?」
スチュワーデスの声がした。
「ご気分がお悪いんですか?」
※子は身動きもせずじっとしていた。躰じゅうの力がぬけてしまっていた。
「飛行機は初めてですか?」
とまたスチュワーデスが訊いた。※子は微《かす》かに首を振った。
「お薬をお持ちしましょう」
と彼女は言った。
そんなものいらないと言おうとしたが、言葉が出なかった。
茫然《ぼうぜん》自失したようになっている※子の目に、前の座席の人々が心配そうに自分の方を見ているのが映った。その二人の男女の顔にも横線があった。
思わず※子はとび上がって後ろを見た。何十人という人々の顔がいっせいに見えた。その顔のどの上にも一人残らず死相が出ているのだった。
更にその奥の禁煙席の人々の顔にも不気味な横の線が見えた。どの顔もどの顔もそうなのだった。※子は椅子《いす》に崩れるように坐《すわ》ると両手で顔を覆《おお》った。
「大丈夫ですか、ほんとうに? 吐きたいですか?」
隣の男が、彼女の背中を当惑したようにそっと撫《な》でた。
「違うのよ、違うのよ」
※子は手の中に顔を埋めたまま呻《うめ》いた。
それからどれくらいそうしていただろうか。ずいぶん長い時間がたったような気がした。その時、機体がぐらりと揺れた。そらきた、と※子は思った。
だめ?
別れぎわに男は、
「じゃ、また」と言った。こちらの眼《め》をまともに見なかったことと、声のどちらかというと冷ややかなニュアンスから、また逢いましょうではなく、もう二度と我々が逢うこともないでしょうを意味する「じゃ、また」であることを、ユカリは体験的に感じとった。
それでほっとする相手もいれば、不意に胸に短刀を突き立てられるような喪失の痛みを覚える相手もいた。
たった一度の出逢《であ》いに過ぎなくとも――たとえ一杯のコーヒーを飲む小一時間ばかりを共有しただけの関係に過ぎなくとも――「じゃ、また」と歩み去る男の後ろ姿を見送っていると、多かれ少なかれ自分が置き去りにされるようなせつない気持ちになるものだ。今の男は完全にそういう男の一人だった。
髪が濡《ぬ》れたように黒く、黒眼と白眼とがくっきりしていて、肌が浅黒い痩《や》せ型のタイプ。文通を往復しているうちに、写真を送りあうから、腹の出た色白眼鏡はその段階で切ってしまう。
一度お茶でも、という相手は当然、ある程度ユカリのお眼鏡にかなった男であるわけだ。
沢田正一というその男は、達筆ではないが感じの良い字で、無駄のない文章を書き送って来た。十六歳の時から二十七歳の現在まで十年以上の経験から、手紙美男はいるものだということは知っている。あまりにも上手《うま》い手紙の書き手は、往々にして実物には失望させられる。
沢田は温いユーモアのある、自然な語り口で、ユカリに話しかけるような調子の手紙をくれた。実際に逢《あ》ってみると、大きめの筋ばったいい手をしており、歯並びがきれいで清潔感があった。彼は正味四十分、パブ・カーディナルの赤い椅子《いす》に浅目に腰を下ろし、斜《は》す向かいからユカリを眺め下《おろ》すように坐《すわ》っていた。
男と女の出逢《であ》いには、最初の瞬間に役割がきまってしまう。愛する役割と愛される役割とにだ。あるいは好意を持つ側と、持たれる側とに。
沢田が約束の時間に十分遅れて、パブの赤いカーペットを踏んだ瞬間に、役割が決定した。ユカリはドキリとして耳が赤くなるのを感じた。彼はゆっくりと店内を見渡し、ユカリの上に視線を止めた。一秒の十分の一ほどの短い時間に過ぎなかったが、ユカリはその視線をはっきりと感じて、ぱっと微笑を浮かべかけた。
ところが沢田の視線はそのまますっと流れ去り、店内の別の方角に移ってしまったのだった。ユカリの顔の微笑が途中で凍りついた。
確かにあたしをあたしだと認めたのに、とユカリは失望に胸を冷たくして、おそらくはわからないふりをしているらしい初めての、デイトの相手にむかって、右手を遠慮がちに上げて合図を送った。
沢田の顔に、苦笑が滲《にじ》んだ。彼は落ち着いた足取りでテーブルを縫いながら、ユカリの斜め前に坐《すわ》った。
「写真と印象が違うね」と、表情のない声でいきなり言った。挨拶《あいさつ》もなしにである。
どう違うのか質問する勇気は、ユカリにはなかった。
「ごめんなさい……」と咄嗟《とつさ》に呟《つぶや》いてしまって、自分の卑屈さにユカリは下唇を噛《か》んだ。
彼は彼女の当惑や間の悪さや不安などといった感情に対して、一切おかまいなく、近づいて来たウェイターにカンパリ・ソーダーを注文した。
「ソーダーを多くしてね。甘ったるいのは嫌なんだ」そう言って、前歯を全部見せてウェイターに笑いかけた。
けれども、ユカリに視線が戻された時には、気前のいい笑いは、わずかに左の口の端に斜めに残っているに過ぎなかった。
あらかじめ文通で知りあっているわけだから、お互いのことはおおよそわかっている。趣味や好みや仕事の内容といったことだ。
それが助けとなって会話にスムーズに入っていけることがメリットである場合が多かった。しかし沢田との場合は逆に作用した。
「テニスをおやりなんですってね」会話の糸口を自分の方から探しながらユカリが口にすると、
「そう手紙に書いたでしょう」とにべもない返事。
「……私も少しするんですけど」
「そのことは読みましたよ」
「いつもどこでおやりになるんですか?」
「それも書いたと思ったけど。練馬《ねりま》の会員制のクラブ――」
ユカリは口をつぐんだ。彼に気に入られなかったというだけでなく、積極的な敵意を感じとったからだ。長めの沈黙が流れた。男の方に、その場を繕うようなつもりがないことは明らかだった。彼は黙って薄目に作らせたカンパリ・ソーダーを啜《すす》っていた。
「時間が、六時半までしかないんだ」と、半分に中味の減ったグラスを置きながら、男が言った。「すみません……」ユカリはまたしても卑屈な気持ちにさせられて呟《つぶや》き、なんで自分が謝らなければならないのかよくわからないままに、眼《め》を伏せた。手紙ではあんなにやさしかったのに。いろいろなことを質問し、こちらに興味をもっているのが文面に溢《あふ》れ出ていたのに。今自分の前にいるのは、とうてい同一人物とは思えないのだった。
「あの手紙……」とユカリが上眼《うわめ》使いに言いかけた。「とても素敵《すてき》で大事にとってあります」
「あぁあれね」と男は唇の左端にダラリと煙草《たばこ》をたらしながら言った。「あれ代筆」
「代筆?」
「弟が書いたんだ。趣味でね、そういうの。筆マメっていうの? 月に三通も四通も書いてるよ、ヒマなんだね」
「写真は、あなたのだったわ」
「弟の顔みたら、一発で返事が来なくなる」
ユカリは唖然《あぜん》として沢田をみつめた。胸に怒りが湧《わ》いた。
「それはサギです」と思わず言ってしまった。
「私がお逢《あ》いしたかったのは、あの手紙を書いた人です」
「それじゃ何故《なぜ》、写真など送れと書いたの?」
沢田は細めた眼の隅で冷酷そうに笑った。
ユカリは返事に窮した。
「君は、写真に魅《ひ》かれてここへ来たんだよ、手紙じゃない。少なくとも写真が直接の動機だ、違うかい?」
「ずいぶん自信がおありなのね」
「そうね、自信あるね」と男はニヤリと笑った。
「君のような女が、ゴマンと弟のところへ逢いたいと、手紙を送ってくるんだ。そして僕は少なくとも、そういう女たちに三十人は逢っている」
「私のような女って、どういう意味ですか? それからサギみたいなことして、心がとがめないんですか?」
「お互いヒマなんだから――手紙書くなんてのはヒマつぶしの最たるものだから――そのヒマを少しでもつぶす手伝いをしているようなものだよ、僕は。人助けだよね、むしろ」
「まだ質問に全部答えてくれていないわ。私のような女って、どういう意味なんですか?」
男はわずかに口ごもったが、
「――触れなば落ちんの風情《ふぜい》とでも言えば聞こえはいいがね」と、語尾を濁した。
聞こえはいいけど、それがどうなのか、とユカリは思った。すると沢田はこちら側の胸を読んだかのように、
「触れたとたんに、パラパラと花ビラが散ってしまいそうな女はねぇ」と今度はズバリと言った。さすがに傷ついてユカリは黙った。嫌な男だと思った。ほとんど憎みさえした。
けれども、たとえばパルマルの赤い紙袋から煙草《たばこ》を一本ひきぬく動作に、はっとするような男の魅力があった。それを薄目の唇の端に軽く押しこんで、ライターの火を近づける時、伏眼《ふしめ》がちになる視線に、酷薄ではあるが美しさが漂った。そのような男と、この後《あと》ほとんど無縁になってしまうのだと思うと、ひどく惜しい気持ちにさせられる。
沢田はいかにも文通などしそうにもないタイプだった。こういう男《ひと》は手紙など絶対に書かないものだとユカリは考えた。あの手紙を書いた人は、ほんとうはどんな男なのだろう? 兄弟なのだから少しは似ているのではないかしら? などとひそかに考えた。
沢田が残りのカンパリ・ソーダーを飲み終わったところで、腕時計を大袈裟《おおげさ》にみて、腰を浮かせた。
伝票を指先ですくい上げるように取ると、
「じゃあ」と言った。まったくこちらに再会の期待を抱かせない調子で――。そして歩み去った。
ユカリはその場に残っていた。自分の何がいけなかったのか、考えようとしていた。身長百五十八センチ、体重五十一キロ。顔立ちはまあ十人並み。
十人並みだと自認していなければ、手紙の中に、写真など入れるわけもない。もっとも比較的よく写っているスナップを選んで送りはしたが、そんなことはユカリに限らず誰《だれ》だってやることだ。
沢田のような男前の人間でさえそうだった。顔映りの良い一枚を送りつけたのに違いない。
ユカリは別に他人に嫌悪の情を催させるような顔をしているわけじゃないから、沢田のあの冷えびえとした初対面の態度はふに落ちなかった。
むろん肉感的で派手な女というタイプではないから、マリリン・モンローのような女が好みだというのなら、多少冷たくあしらわれても仕方がないが。多分、沢田は俗に言うチーズ・ケーキのタイプの女が趣味なのだろう、と思うことで、ユカリは傷ついた自尊心をわずかに慰めた。
パブ・カーディナルの店内がたてこんできていた。夕食をどこかで食べるとか、映画《ロードシヨー》の最終回を観ようとする人々の待ち合わせ場所に、ここは最適なのだった。
赤い服のウェイターが、ユカリのコーヒーカップを下げて行った。
しかし彼女はそのまま地下鉄に乗って家へ帰る気分にはなれないでいた。
半地下のようになっている店内から、大きな通りと、むこう側の阪急デパートが見えた。デパートには華やかな明りがともっていたが、日はまだすっかりと暮れてはいない。
夜と昼とが微妙に混じりあって、空気が蒼《あお》く見える時刻。通りを行く女たちの白っぽいスカートが、わずかに吹いているらしいビルの谷間特有の風によって、時々ひるがえる。
ユカリは夏の、宵の口といった時刻がたまらなく好きなのだった。
並木通りにある画廊の勤めを終わった後、よく一人でここへ来て、カウンターの片すみに陣取ると、ちょうど眼《め》の高さにある通りを行く人々にぼんやり視線をあてていることがあった。
ほんとうは、店の一番奥の、窓際のカーブしたソファーに身を沈め、軽いアルコールでも飲みながら、一時間ほど過ごしたいのだが、店はいつも混《こ》んでいて、ソファーを一人占めなどとうてい出来ない。
一度比較的空いている時に来あわせたので、人が来たら移ればいいと思い、奥へ行きかけたのだ。
そうしたら赤い服のウェイターがすっと寄って来て、
「お待ち合わせですか」と訊《き》いた。一人だと答えると、
「では、こちらで」と、バーのカウンターの高い椅子《いす》を示した。
ユカリは失望して、背もたれのない、小さな椅子に坐《すわ》った。
今でこそ、なれはしたが、最初のうちは落ち着かなかった。ああいう高い椅子は躰《からだ》のバランスが取りにくく、足のかける位置によって、ぶざまにずり落ちそうになる。
そんなことを考えていると、例の赤い服に金ボタンが眼の前にいる。
「お相席、お願いします」
見上げると中年の男とOLらしい女の二人づれが立っている。
「どうぞ」と答えたものの、アヴェックを眺めたり逆に眺められたりするのも嫌だった。
「私、カウンターに移りますから」とユカリは席を譲った。
二人がそれに対して、ありがとうとか、すみませんとか言わなかったので、彼女は追い出されたように感じた。
カウンターの赤い電話の横に、ひとつ席があいていた。ユカリはそこへ腰を下ろした。
アールヌーボー風のガラス窓の外の大通りには、既に夜がわずかに勝ち始めていた。
バーの中からボーイがユカリに注文を訊《き》いた。新しい客だと思ったのだろう。ユカリはアイス・コーヒー、と答えた。
沢田という男のことは、もうどうでもよかった。あれくらいはっきりと拒絶されれば、余計な期待を抱かなくともすむ。何が辛《つら》いかといえば、あるかなきかの期待を男に抱くことほど、切実に辛いことはない。
それにもっとひどい例を一人、知っていた。あの男に比べれば、沢田はまだ多少はいいのではないか。
その男というのは、三年ばかり前の文通で知り合った相手だった。
数か月手紙のやりとりがあって――その頃《ころ》は今よりずっと慎重だった――一度逢《あ》いましょうというところまでこぎつけた。
写真の交換はしていなかった。手紙の中で相手がブラインド・デイトを提案して来たからだった。見たこともない相手を、探しだすわけだった。
しかし店が混んでいると、あまりにもとりとめもない話なので、二人とも文庫本を何か一冊目印に持っていく、という約束が成立した。
当日、ユカリは言われた通り、文庫本を手に、お茶の水のジローへ行った。
約束の時間の十分前に着き、なんとなく恥かしくて、ぎこちない歩調で店内を一|廻《まわ》りし、文庫本を手にするかテーブルに置いてある男を探した。
相手はまだ来ていなかった。一人で坐《すわ》っている若い男が二人いたが、二人とも文庫本を所有していなかった。
ユカリは、あまり奥まっていない席に入口に向かって腰を下ろした。本は、テーブルの手前に、あまり目立ち過ぎないように置いた。
約束の時間になっても、相手は現れなかった。十分程過ぎて、ユカリはもう一度店内を巡ってみた。文庫本はみつからない。
二十分も経過した時、日焼けした感じの、髪の短い若者が、入口に立った。ユカリの心臓が跳ね上がった。あの男《ひと》だ、と彼女は直感した。芸大の油絵科の四年だということは手紙のやりとりで知れていた。浪人を二年しているから二十四歳で、年の頃《ころ》も一致した。
美男というのではなかったが、物を創造する人らしい引きしまったいい表情をしていた。スラリとして、どこにも無駄な肉のついていない躰《からだ》つきで、入口で一瞬、室内の暗さになれるために顔をしかめた。その表情が少年のようだった。
ユカリは男の手元をみつめた。
しかし男は手ぶらだった。ストライプのシャツにジーンズという軽装で、ゆっくりと店内に入って来た。
人を探すというよりは、空席でも探している感じでユカリの方へ近づいてくる。彼女はそれ以上男を凝視しているわけにはいかず、眼《め》を伏せた。このひとだ、という確信が更に強まった。しかし、文庫本はどこだろう?
ユカリは不意に顔を上げた。男の視線がテーブルの上の彼女の本に一瞬、止まった。
ユカリの息の根も止まった。彼女は待った。長い時間が経過したような気がしたが、実際には、一、二秒のことにすぎなかったのかもしれない。
男が本から彼女の顔に視線を移すのが感じられた。男のその視線が、顔を伏せていても痛いようにわかった。
もうすぐに声をかけるだろうという予感で、ユカリの耳が赤くなった。
ところが、男はそのまま彼女の横を通り過ぎようとしていた。ユカリは失望というよりは、ほとんど驚愕《きようがく》した。人違いだったのだろうか?
何がなんだかわからないうちに、その男は奥のコーナーを曲がって反対側の通路に達していた。ユカリはふりむいて男の動きを見守った。もう何かを探すふうな素振りもせず、男はまっすぐに出口に向かっていた。そのズボンの尻《しり》のポケットに、文庫本の一部が、覗《のぞ》いていた。
ユカリは反射的に腰を浮かしかけた。しかし男はガラスの扉を押して外へ出ると、そのまま足早やに駅の方角へ歩み去った。
あの男《ひと》は、私をちゃんと認めた――。文庫本を見たし、私の顔も見た。それでも声をかけなかった。何故《なぜ》?
こちらからは、声のかけようもなかった。彼は文庫本を隠していたからだ。こちらだけが一方的に手の内をさらしてしまい、相手はきり札を卑怯《ひきよう》にも隠していたというわけだった。
男の胸の内は痛いほどわかった。気に入れば尻ポケットから本を取りだし名を名乗るつもりだったのだ。
そういう男も過去にいたのだから、沢田など、少なくとも、四十五分は同席しただけ、まだましだというものだった。
その後、芸大の男からは手紙がきた。都合で当日お茶の水のジローへは行けなかったというようなことが書いてあった。文面は、今までと様子が違って、全体にそっけない調子が流れていた。『都合が急に悪くなった、ということは、多分僕たち縁がなかったってことかもしれないね』などと書いて、文通の打ち切りを仄《ほの》めかしていた。
ユカリは実は私も行けなかったのだと書き、美人の友人の写真を送りつけた。相手から折り返し言い繕った風な返事が来て、是非もう一度チャンスを作りたいと言って来たが、それに対しては返事も出さなかった。芸大の男とは、それきりになった。
アイス・コーヒーの氷が溶けかけている。
店の中にさき程より空席が目立ち始めた。男や女たちは、それぞれ連れだって、ロードショーや食事にむかったのだ。
ユカリは自分の心にさっきからずっとひっかかっているものがあるのを感じていた。沢田が、じゃ、またと立ち去った直後からだ。
彼女はそのひっかかる思いからわざと気をそらせるためにあれこれ他のことを考えようとしたのだが、もうそれ以上自分の心を偽るわけにはいきそうもなかった。
膝《ひざ》の上にのっているルイ・ヴィトンのイミテーションバッグの中から、手帳を取り出した。沢田正一の弟に逢《あ》わなければならないと思った。手紙の本当の書き手に逢っておきたかった。彼女が興味を持ったのは、あのような手紙を書くことの出来る男の質に対してではなかったろうか。
二十七歳の今日まで独身でいた最大の理由は、相手の好みが気むずかし過ぎたからだった。
家ですすめられる見合いの相手も三、四人はいた。
お互い気に入ったケースも前後して二つはあった。交際に入ると、ユカリは電話ではなく手紙を書き送った。
二人からは返事が来たが、一人の字は金釘《かなくぎ》文字で、百年の恋もさめ果てる感じで唐突に終わらせてしまった。
もう一人の男は、一流大学を出たというのに、文章がなっていなかった。
その人の書くものを読めば、人格や性格がかなり正確にわかるものなのだ。ユカリは失望した。
手帳には、沢田正一の自宅のアドレスと電話番号がひかえてあった。兄弟が同居している可能性は濃かった。ユカリは電話のダイヤルを廻《まわ》した。
出たのは女だった。
「沢田でございますが」声が若かったので、ユカリはうろたえた。沢田正一に妹がいるという話は聞いていない。声の感じから母親であるはずもなかった。
「突然で失礼します」とユカリは自分の名を名乗っておいて、
「沢田正一さんの弟さんをお願い致します」
と言った。
「義弟は、まだ仕事からもどっておりませんが」と女の声に不審な感じが含まれた。ということは、女は沢田正一の妻だという公算が大だ。ユカリは受話器を握りしめた。
「おことづけをお願い出来ますか?」
相手が書く物を取ってくるから、と電話の前から消えた。
再び戻った相手に、パブ・カーディナルの電話番号を伝えて、八時|頃《ごろ》までいますから、と伝言を頼んだ。
沢田正一の弟が仕事先から八時までに帰宅するとはきまっていなかった。たとえ戻ったにしても、ユカリの名を聞いて、電話をしてくるかどうかも、定かではなかった。自分たち兄弟のたくらみが露見したことを、どう彼がとらえるかで、態度が違ってくるわけだ。多分、沢田の弟は、兄とは異なって内向的性格で、嘘《うそ》がバレたとわかるやいなや、首を縮めて引っこんでしまう可能性の方が大きかった。
ユカリは八時二十分まで待った。沢田の弟からの電話は入らなかった。あと十分だけいて、家へ帰るつもりだった。
店内には、外国人の旅行者らしい家族連れと、銀座のどこかの勤め帰りの男たちのグループが残っているだけだった。
ユカリは、バッグの中から小銭を出して、伝票の上にのせ始めた。
誰《だれ》かがカウンターのひとつ席をおいた横に坐《すわ》り、ボーイにスコッチの水割りを注文した。
「人と待ち合わせていたんだけどね、約束の時間に遅れちゃったんだ」と、その男は低いがよく通る声でボーイに話しかけた。
伝票と小銭を手に、椅子《いす》から下りかけたユカリが、何気なく男の横顔を見た。同時に男が首をねじむけて彼女の視線をとらえた。
男が微笑した。
「もう帰ってしまったのか、と思って心配しながら来たんですよ」
悪びれない態度だった。
「沢田さんの弟さんですか?」あっけにとられながらユカリが訊《き》いた。
「沢田二郎です」椅子からいったん下りて、相手が軽く頭を下げた。「今回のこと、申しわけありませんでした。謝ってすむことじゃないけど、義姉《あね》があなたから電話があったと言ったもので、とりあえず飛んで来たんです」
並んで立つと、沢田二郎は兄よりずっと背が低かった。ヒールをはいているユカリとほとんど同じぐらいだった。そして兄とはぜんぜん似ていなかった。
「あっちの席へ移りませんか?」と二郎が訊いて、一番奥の席を指した。ユカリはうなずいた。
「この席、一度|坐《すわ》ってみたいと思っていたんです」と、彼女は相手の顔ではなく、窓の外の夜の光景に眼を転じながら呟《つぶや》いた。
「僕が臆病《おくびよう》なものだから……あなたに不愉快な思いをさせてしまって」二郎はわずかに口ごもった。
「普通ならとても顔出しなどできないんだけど、今日はとにかく謝りたい一心で、飛び出して来ました」
「もういいんです」ユカリは低い声で言った。「謝って頂くために来て頂こうと思ったわけじゃないですから」
「しかし、僕たち兄弟は卑劣なことを――」
ユカリは男の顔に視線をあてた。不思議なことに愚かさというもののみじんもない表情をしていた。
「私は、むしろ、あなたのお手紙に対して、電話でお礼が言いたかったんです」
相手の醜い顔立ちの中の良質なものに、注意を奪われながら、ユカリは消極的に言った。
「手紙は書きますけど、これまで一度も文通の相手には逢《あ》ったことがないんです」二郎はうつむきかげんに続けた。「しかし文通を続けているうちに、なりゆきというか、どうしても相手の女性《ひと》に逢わなければならないような状況になってしまって――僕がそこで毅然《きぜん》としないのが悪いんですが――にっちもさっちもいかなくなった時、兄貴がかわりに逢って来てくれると言いだしたことがあって、つい頼んでしまった。もう止《や》めようと思うんだが、再び別の文通が始まって、又しても追いこまれる。そんなことが何度かあって……」
「お兄さま、三十人は逢ったって言ってらしたけど」
「とんでもない。三十人だなんて」二郎が悲し気に首を振った。「三人です。あなたは四人目。二人目の女性《ひと》が兄貴の現在の奥さんになったけど……」
車道を埋めつくしている車の赤いテールランプが、窓ガラスに反映して、映画の一シーンを眺めているような気分だ。
「……ひとつだけ、質問していいですか?」
ユカリが長目の沈黙の後で訊《き》いた。
「どうぞ」男が答える。
「お兄さんの奥さん、手紙のことご存知なんですの?」
沢田二郎はゆっくりと首を振った。
「じゃ、その方、あなたの手紙を、お兄さんが書いたものと信じているのね」
「でしょうね」
男の表情にほんのわずか苦痛の色が滲《にじ》んだ。窓ガラスの上の赤いテールランプの反射をうけて、眼尻《めじり》から頬《ほお》にかけて、赤い、切り傷のような影が走った。もしかしたら、その女性を彼も又ひそかに愛しているのかもしれない、とユカリは思った。
「あんなに温いいい手紙が書けたら、たいていの女は、心を動かされますものね」
「それと兄貴の顔とが組合わされればね」
始めて、その言葉に苦さが加わった。
「とにかくこんなゲームはこれきりにします。人騒がせな遊びだ、なんてことではすまないから」そこで二郎は声をひそめた。「もしかして、あなたを傷つけてしまったなんてことがないといいんだけど」
「お兄さんは、実にはっきりとしてらしたわ。でも考え方によっては、それは親切というものかもしれないわね。いたずらに期待を抱かせない、という意味で――」
沢田正一のようなタイプの男に、ひきまわされたら、それこそ女は地獄だろう。
「何故《なぜ》、あなたに手紙のこと、言ったんだろう?」
「さあ……」
九時を廻《まわ》ると通りの人の波が少なくなった。ユカリは急に疲れを感じた。
「私も、しばらく文通を止《や》めようかしら」
二郎が肩をすぼめるような感じで、下をむいた。
「僕のせいで?」
「あなたのおかげで」と、彼女は相手の言葉を柔らかい声で訂正した。
沢田正一はもちろん、二郎にも二度と逢《あ》うこともないだろう。ユカリはバッグをとり上げると、そろそろ失礼します、と呟《つぶや》いた。
二郎はその言葉で反射的に腰を上げた。二人は店を出て、そのまま無言で地下鉄まで歩いた。
お互いの住所を知っているわけだから、そこで立ち止まった。二郎は池袋方面へ、ユカリは渋谷《しぶや》へ向かう。
「じゃ」と男が口ごもりがちに口を切った。
「……じゃ、また」
ほんのわずか尻上《しりあ》がりの感じで二郎がそう言って、遠慮がちに視線を上げた。ユカリの心にだしぬけに温いものが湧《わ》いた。
「じゃ、また」と彼女も一言、明るく言い残して、踵《きびす》を返した。
自分を見送っている二郎の視線が背中に感じられた。
じゃ、またが、ほんとうにまた逢いましょうを意味する、じゃ、またなのだった。歩くうちにユカリの顔に微笑が浮かび、歩調も軽くなっていた。
電話が鳴っていたので彼女は立ち上がる。
もしもし――。窓の外は雨。光りのない冬の雨。きのうは悪かった、といきなり男の声が謝る。彼女の頭がめまぐるしく回転する。きのう? それに、悪かったと自分に言いそうな男たちを思い浮かべる。
そんな男はいない。きのうも、おとついも、一月前も。その前には短い期間だがいた。六本木のシネマテンで横に坐《すわ》った男だった。黒い革のジャンパーに、コーデュロイのスラックスといういでたちだったが、そんなに若くは見えなかった。最後まで歳《とし》は明かさなかったが、ある朝、窓から射《さ》しこむ太陽光線の下で見たら、眼《め》の下に女のような隈《くま》があったから、若くみつもっても三十七、八歳だろうと思った。
面白くなかったね、と映画が終わると男が言った。ほんとう、期待外れ。彼女は見知らぬ人に同意して立ち上がった。なんとなく前後して外へ出ると、エスプレッソでも飲みませんか、と男が誘った。他の映画館ではなくシネマテンへ来る男だということで、彼女はさほど用心しなかった。お茶でも、というウェットな常套《じようとう》文句ではなく、エスプレッソと言ったのも気がきいていて、抵抗がなかった。
僕のアプローチの仕方が悪かった、と電話の男が続ける。つまり、女も男がそうであるように、肉体だけでなく精神もあれば感情もあるということを、つい――人違いの相手に喋《しやべ》っていることなど露も疑っていない声。何番におかけでしょうか、と固いすげない声で訊《き》き直す微妙なタイミングを彼女は既に失っていた。男が更に喋る。女も男がそうであるように、肉体だけでなく精神もあれば感情もあるということを、頭では認めてはいるんだが、いざとなるとつい――もしもし、聞いている?
ええ、聞いているわ。咄嗟《とつさ》に彼女は答える。実家に住んでいた頃《ころ》、家によく蕎麦屋《そばや》と間違って電話がかかった。ある時、電話をとった彼女は、なぜか、はいそうですと言ってしまった。半分は恐れながら、半分は日頃《ひごろ》の腹いせと好奇心で。注文を聞き、毎度ありがとうございますと言って受話器を置いた。ざまあみろと、声には出さず胸の中で叫んだ。心臓が気持ちが悪いくらいドキドキしていた。
二度と同じいたずらはしなかった。あの時の注文は一生忘れない。きつね蕎麦とカレー南蛮だった。
あの時と同じ後ろめたさ、恐怖、木村|庵《あん》ですか? はいそうです。受話器を握りしめる掌《て》が冷たい汗で濡《ぬ》れる。
あまり喋らないんだね、と男が言う。やっぱり怒っているんだね。温い、どちらかというと慰安に満ちた声。彼女は相手に見えもしないのに頭を振る。男の声というのは、大体その男自身に似ているものだ。電話の声は深みがあって感じがいい。
田中は――シネマテンで隣あわせた男は、深夜のカフェでエスプレッソを注文した後で、そう名乗った。田中と言っただけで名刺を出すとか、職業について触れる気がないのがわかった。彼女だってそれほど野暮《やぼ》ではないから、自分の方からは一切質問しなかった――少し酷薄な感じの低音で話した。酷薄な感じというのは、どことなく田中の全身に漂っている雰囲気と共通だった。薄刃のカミソリのような視線で、斜め上から女を眺め下ろし、無駄な肉のついていない手指のひとひねりでぐいと煙草《たばこ》を揉《も》み消した。
灰色の冷たい雨足を、時折風が吹き払う。寒々とした週末。雨に似た灰色のコートや、黒い傘が行きかう。
もしもし、やっぱり怒っているね、そうだろう、怒っていても当然だけど。電話の声が微《かす》かに不安を滲《にじ》ませる。
今、どこから? 不意に女が訊《き》く。
麻布《あざぶ》十番の電話ボックス、声が硬いね、機嫌を直してくれないか。
相手がどこから電話をしてきているのか知ってどうしようという気は毛頭なかった。訊いてみたかった、というのでさえない。ただ訊いただけ。
雨が降っているでしょう。見知らぬ男と会話がしたいのでもない。違います、番号違いですと言い出すのが億劫《おつくう》なだけなのだ。
降ってるよ、土砂降りというわけではないけど、冬の雨にしてはかなり。
風も吹いている? 理由もなく悲しくなりながら女が訊く。なぜ悲しいのかわからない。見知らぬ男と、土曜の雨の昼下り、会話をしていることが、悲しいのかもしれない。会話ですらなかった。自分は相手の男がかけているらしい女になりすましたわけでもない。人違いと、最初の瞬間から気づいていたのだ。かつて、いいえ蕎麦屋《そばや》じゃありませんと言えなかったように。男にはわからないのだろうか? 自分が話している相手が他人であることに、ぜんぜん気づかないのだろうか。気づかないとしたら、果たしてそんなことがありうるのだろうか。人間の耳というものは、我々が考えるよりずっと敏感なのではないか。動物的な勘が働くのではないか。
女には、すぐに電話の男の声が、自分の知っているいかなる人物とも違うことがわかった。男にはそれがわからないことが不可解だ。ひどく鈍感なのか、あるいは逆に、とっくにこちらが別人だと気づいていて、あえて会話を続けているのか。気づいたとすると、どのあたりからだろうか。なぜ会話を続けるのだろうか。
風? いや風はまだ吹いていないよ。男が屈託のない声で答える。何かをたくらんでいる人の声のようではない。それより逢《あ》えないか、今から。
風に吹きつけられた雨水が、礫《つぶて》のように窓ガラスにはりつき、とろりとした感じで流れ落ちていく。
田中の車の中から見た雨も、そんなふうにとろりとしていた。そのとろりと粘るような具合の雨水を、ワイパーがせわしなく弾《はじ》きとばしていた。
田中はエスプレッソの伝票を取り上げると、さっさと立ち上がった。当然彼女が後から来ることをみこしたような態度だった。
腕時計を見ると十二時半を廻《まわ》っていた。一人で深夜のカフェに残るのも嫌だったので、腰を上げた。
田中と名乗った男とは、カフェの前で左右に別れるつもりだった。エスプレッソ、ごちそうさま、とても美味《おい》しかったわ。
ところがカフェの外へ出ると雨だった。車で送るよ、と田中が言った。俳優座の二つ向こうの路地に停《と》めてある、ひとっ走りの所だから、さあ。肩を強く押されて彼女は走り出した。ちらと眺めるかぎりでは、時間からいってタクシーの空車は走っていなかった。数メートル置きに、それでも空車を漁《あさ》る男女が、頭を雑誌や新聞、バッグなどでおおって、雨の中に立っていた。
田中は助手席を開いて、まず彼女を車内に入れた。車の種類にうといので左ハンドルの外車だということだけはわかるが、それがオースチンだかボルボだかになるとまるでわからない。ばかでかいアメリカの車でないことだけは、わかる。
車内はうっすらと革《レザー》の匂《にお》いがした。田中が運転席に乗りこみ、エンジンをかけすぐにワイパーのスイッチを入れた。雨水で濁っていた視界が扇形にくっきり晴れた。扇形の中に六本木の裏通りの仄暗《ほのぐら》い歩道が見えた。するとたちまち雨が仄暗い光景を滲《にじ》ませた。それをワイパーが払いのける。室内がほどよく暖まってくると、雨に濡《ぬ》れた純毛のコートや、髪や、皮膚や靴などが、独得の匂いを放ち始めた。どこか動物めいた匂いだ。行く先も聞かずに田中がハンドルを回し、車をスタートさせた。
今から逢《あ》えないか、と電話の声がくりかえす。このままでは僕も君もまいってしまう。
逢ってどうするの、と女がガラス窓に指で扇形を描きながら物憂げに訊《き》く。男と逢えばする事はきまっている。それが彼女の不幸なのだ。男と待ちあわせる、お茶を飲む、男の手が露骨にテーブルの下から膝《ひざ》をなでまわす、眼《め》が欲情している。男が欲情している状態は彼女を後ろめたい気持ちにさせる。愛情より諦《あきら》めが先に立つ。いいわ、わかっているわよ、と席を立つ。時には夕食を共にする。そして男たちは歯を楊枝《ようじ》でせせりながらホテルへ直行する。
田中はエスプレッソ。ミルクも砂糖もぬきのイタリアの濃いコーヒーを、三口ほどで飲むと、立ち上がる。そして車。緑色のヨーロッパの車で彼女を連れ去る。
あたしが求めているのは、あのことの後で優しい男。あのことの後でカフェバーでウォッカを飲んだり、食事を楽しむ男。
むろん、そんな男は二十九歳になる今日まで一人もいなかったが。エスプレッソが前でなく、後でであったらよかったのに。
事がすむと男たちは例外なく、肩を少し寒そうにして、ちょっと不機嫌になって――掌《てのひら》を返したように饒舌《じようぜつ》になった男も例外的に一人だけいたが――そそくさと帰って行った。田中はもっとあからさまに、自分が今しがた寝たばかりの女の顔を見たくないと言って、それでもタクシーの拾える所まで送り、夜の中へ彼女を放りだした。彼女は顔には出さなかったし、そのことについての不満など一切口にしなかったが、夜の街にぽいと放り出されるのが耐え難く嫌であったなら、そのような男と二度|逢《あ》わなければそれでいいわけだった。
それでも、相手から呼び出しがかかると、時間の都合がつくかぎり逢っていたのだから、耐え難く許しがたいというほどではなかったのだろう。もっとも、もし田中が彼女の手にタクシー代だと、二、三千円の札を握らせたとしたら、それで彼とは終わっていたのに違いない。
彼と落ち合うのはいつもシネマテンの横のカフェで、逢うのは十日に一度くらいの割だった。彼女の方からではなく、常に田中からの一方的な連絡だった。彼女は彼の連絡先を知らないし、訊《たず》ねようともしなかった。知りたくない、というのではないのだが、知らせたければ相手が言うはずだと考えた。言わないのはその意志がないからだと、受けとめた。
その物わかりのよさが縁遠い原因だと、女友だちが指摘した。二十九歳まで独身でいるのはそのせいだと。要するに、あなたみたいにある意味で自立している、プライドの高い女って、男にとって都合がいいのよね、と。
自分の両親の夫婦関係を長いこと身近に見て来たせいで、必ずしも結婚が女を幸せにするとは考えなかったし、結婚に対していかなる幻想も抱いていない。してもいいし、必ずしもしなくてもいいと思っている。要は相手次第というわけだった。
彼女の母は、離婚のことばかり考えているような女だった。私に手に職があれば、あなたのお父さんととっくの昔に別れているわよ、というのが口癖だった。それで娘に早いうちからありとあらゆる稽古《けいこ》ごとをやらせた。ピアノもバレエも習字もソロバンも一通りやったが、そのどれも人前に披露《ひろう》するところまでには至らなかった。結局普通の女の子がたどるようなコースを経て、大学の英文科に進んだ。普通の女の子と少しだけ違ったとすれば、大学を卒業した後で更に二年間、専門学校に通い、外資系の商社の秘書に必要なことを学んだことくらいだ。
イエスとノーが日本人にしては、はっきりしていることと、妙にはにかんだり、あいまいな態度をとらないということが幸いして、望み通りの職を得た。もっともすぐに秘書というポストについたわけではなく、一年間、お茶くみ同然のことをやり通したあげくだった。
大学を出て、更に専門職を身につけた女が、なにゆえにお茶くみに甘んじなければならないのかと慙愧《ざんき》に耐えなかったが、二十四にもなった女を雇ってくれるだけでも、あなた、ありがたく思わなくちゃ、と周囲の人たちにさんざん言われ、とにかく一年間だけ頑張ってみようと決心した。その間、それこそお茶くみ女に専念した。どうせやるなら、徹底的にやる、お茶くみ雑用の専門家になってやる、そんな開き直りがあった。
年齢からくる落ち着きもあり、知性もあったから、髪ふりみだしてという感じではなく、傍目《はため》には余裕をもち楽しみながら仕事をしているように見えたそうだ。会社の人間とのつきあいも、どちらかというと距離を置いたが、お高い女だと悪評をこうむることもなかった。
一年後に、いきなりその社の日本支社長の秘書に抜擢《ばつてき》された。突然だったが、彼女は驚かなかった。イギリス人の新しいボスが握手を求めて、こう言ったことを、彼女は内心その通りだと思ったからだ。つまりウェッブス氏は、こう言ったのだ。
一年間、ひとつの課の全員の秘書役を、あなたは実にみごとに務め上げたからね、これからは、ずっと楽だよ、何しろボク一人のために働いてくれればいいんだから。
ウェッブス氏はフェアーな人柄で穏やかな性格ではあったが、仕事に関しては厳しかった。
要求も多かった。言われた事をきめられた時間内にやると必ず、サンキューと独得の節回しと声音《こわね》で言った。そのサンキューが聞きたくて、彼女は仕事をして来た。秘書という者は――言われたことだけをやればいいというわけにはいかない。気配りも大いに必要だった。
ウェッブス氏に対する唯一のタブーは、Excuse me, but……だった。No, but! と低いが鋭い声で言って背中を見せるのだった。ウェッブス氏につかえるうちに、あっという間に四年が過ぎた。
男にとって都合のいい女か、と彼女は窓ガラスに描いた扇形の線の中に Mr.Webbs と書き込む。ほとんど無意識の指の仕種《しぐさ》だ。
逢《あ》って、君と話したい、とにかく君の怒りを解きたい。電話の男が言う。
女にも、精神もあれば感情もあるってことについて話すっていうのね。彼女は下唇を軽く噛《か》む。それからどうするの、話した後? やっぱり寝るの、いつものように?
そういう言い方はしないで欲しい。男が誠実味のある声で言う。その言い方はあなたらしくない。
あらそうなの。にべもなく彼女は受話器の中に言う。あたしはどんな人間なの?
すると間違い電話の相手が答える。最も女性らしい女性――僕にとってはということだけど。声にある種の甘さが含まれる。そういうことを、そのような声の調子で言ってくれた人があっただろうか。一瞬彼女は目眩《めまい》を覚える。その束《つか》の間の奈落《ならく》の底で彼女はガラス窓の Mr.Webbs の文字を凝視する。指で書いた文字の上下が蒸気のせいで滲《にじ》みはじめている。あら、いつあたしはボスの名前なぞ書いたのかしら。もしもし、言っときますけど、あたしは女だと思われないのも嫌だけど、女であることが性器とその周辺にかぎられるのも嫌なのよ。電話の相手が絶句する感じが伝わってくる。
誰《だれ》が君を女だと思わないと言った? そして誰が君の――。男の声を裂いて彼女が言う。あたしのボスよ。ボスはあたしを女だとすら認めていないわ。四年も仕えているのに、一度も食事はおろかお茶にも誘ってくれたことがないのよ、ただの一度もよ。
君のボスの名は? 男の声が急に緊張する。ウェッブス氏よ。女は冷静に答える。少し長い沈黙があって男が言う。
どうやら、電話が混線したようですね。急に言葉遣いが変わる。距離感が滲《にじ》んでいるが、少し面白がっているような節もある。
混線じゃないでしょう。彼女が笑う。
間違い電話と言う意味ですよ、と男の声も笑う。しかしまいったな、声がそっくりだから、人違いだとは夢にも思わなかったんですよ。電話の向こうで男が頭を掻《か》く様子が手にとるように見える。ちょっと待って下さい、十円玉が切れそうだから。ポケットに手を突っこんで男が十円玉を取り出す様も見えるようだ。コインがいくつか落ちる音。もしもし、すみません、しかし驚きましたね、世の中には似た声のひとがいるものなんですね。男が続ける。一体|何時《いつ》から間違い電話と気づいていたんですか?
初めから。
まったく初めから?
ええ、初めの、もしもしから。あたしは耳がいいの、たいていの電話の声の主は最初のもしもしでわかっちゃうの。
あなたも人が悪い、間違い電話と知ってて、会話を続けたわけですか? 男が訊《き》く。少しも怒ってはいないようだ。それどころか声に好奇心が加わっている。なぜですか? と声が訊く。
なぜと訊かれても彼女には答えようがない。Mr.Webbs のMとSが、涙を流している。彼女は指先で水滴をすくいとり、それを唇に持っていく。
もう電話を切るわ、と女は唐突に言う。
待って下さい、電話は何時でも切れますよ、ただ、いったん切れたらこの電話は二度とつながらない。
そんなことちっともかまわないわ。
僕だって。男が言う。切れて二度とつながらないのはかまわないけど、それだって、もう少し後でもいいじゃありませんか。
唇に含むと、窓ガラスの水滴はほんのわずかに塩の味がする。ウェッブス氏の涙。なぜかしら、今はウェッブス氏のことが差し迫った問題のように感じられる。窓ガラスの上のウェッブス氏。ウェッブス氏の涙。およそ涙なんて流しそうもない人物なのに。
ところで、と男が言う。リラックスした声。出すぎた事を言って失礼かもしれないけれど――。
失礼だと思うのなら、言わない方がいいわ。ひややかに女が答える。
あなたは、ミスター・ウェッブスなる人物が好きなんですね――ところで、あなたの名前を知らないな、名前もしらない相手と会話するのは妙な具合だ、僕は一ノ瀬と言います。
あたしが〓 と女は高々と眉《まゆ》を上げる。あたしがボスを好きだって〓 彼女はびっくりしたように眼を見開いて、刻々文字が崩れていく窓ガラスの Mr.Webbs を眺める。
とんでもない盲滅法《めくらめつぽう》なことを言うのね。女は一層冷たく言う。
盲滅法か、と言って声がハハハハと笑う。正に盲滅法だ、あなたがどんな女性か僕は全く知らないんだから、でも声の感じである程度のことはわかるから。
あら、そう? さっきまでお友だちと勘違いしていたじゃないの。
でも、そうですよ、たとえば林真理子は林真理子以外の何ものでもない声で話すってことです。
林真理子のような喋《しやべ》り方をする、素敵な女を何人も知っているわ。女は嘘《うそ》をつく。そして内心ニヤリとする。
そんな女が本当にいたらお目にかかりたいな、首をかけてもいいですよ。
別に、あなたの首なんて頂きたくもないけど。
たいした首じゃありませんからね。
ところでその首は、ネクタイを締めている首?
つまりサラリーマンかと訊《き》いているんですね? ネクタイを締めている男かどうか、ひとつ実物で確かめてみませんか。
結局そういうことになるのよね。女は皮肉な口調で言う。女にだって精神もあれば感情もあるなどと、言った舌の根も乾かないうちに、間違い電話の素姓《すじよう》も知れない女にむかってよからぬ企てを抱くってわけ。
よからぬ企てって、何ですか? おかしそうに声が訊き返す。
あわよくばって魂胆が見え見えよ。
そんなに自信をもって言い切っていいのかな、と声が曇る。あなたのために、僕は心配しますね。
それこそ余計な心配というものよ。女は受話器の中へにべもなく言う。
かもしれませんがね、ひと言だけ言わせて下さい、これも何かの縁ですから――袖触《そでふ》れあうもじゃない耳寄せあうも、というのかな、冗談はともかくとして、男が常に一番興味をもっているのは、必ずしもセックスじゃないって事ですよ、つまり、あなたの言ったよからぬ企てだとか、あわよくばとか言う魂胆がセックスを指すと考えての話です。
あら、そうなの、あたしは男はあのことばかりを考えているのだと思ったわ。少なくともあたしの知っている男たちはみんなそうだったわ、寝ることばかり。逢《あ》えばすぐにやりたがったわ。ファック、ファック、ファックって感じよ。さもなくば、冷血動物のミスター・ウェッブスみたいな人よ。
こちらの思いが通じないはずはないのに頭から無視する。彼女はボスの誕生日を覚えていて、毎年ネクタイを贈った。クリスマスにはタイピンを贈った。去年は真珠で今年は18Kのだった。ボスが彼女に何を贈ってくれたかというと、サン・ローランのスカーフだった。サン・ローランのスカーフが悪いというのではない。問題は課の他の三人の女たちにも柄こそ違えサン・ローランのスカーフを贈ったということだ。しかもそれを見立てたのはウェッブス氏ではなく、彼《ヒズ》の妻《ワイフ》だった。
あなたも不運な人ですね、と声が気の毒そうに言う。そんな男たちしか知らないとはね。見知らぬ他人に同情してもらう必要はないわね。女はきっぱりと言い切る。
僕に言わせれば、あなたに何もしないミスター・ウェッブスこそ誠実な人ですよ。
そうかしら? 自分を解放できない男を誠実と言うのかしら。女の指が窓ガラスに文字を描き加える。
秘書との情事を解放と呼べるのかな、まあいいですけどね、男というものは、本当に恋している女に対しては、実に臆病《おくびよう》な動物だということを知っていますか、手も足も出せないってわけです。
あるいはどうでもいい女ね。彼女は呟《つぶや》く。呟いてはっとする。
窓ガラスの Mr.Webbs の下に I love you の文字。何時《いつ》書き加えたのか、女には記憶すらない。
どうでもいい女か、と彼女は I love you 越しに外の雨を眺める。そういうことだわ、あたしは知っていたんだわ、そのことにとっくの昔に気づいていたのよ、気づいていたけど、気づかぬふりをしていただけ、あたしは秘書としてはウェッブス氏に必要だけど、女としては実にどうでもいい存在なのだ、ボスはあらゆる瞬間、そのことをわからせようとしてきたではないか、肩で、背中で、手のちょっとした仕種《しぐさ》で、はしばみ色の眼《め》の隅で、仕事以外の会話の声音《こわね》の冷ややかさで、あたしに他の女の子たちと同じサン・ローランのスカーフを贈るということで、夕食に一度も誘わないということで、それにまだある、あたしの全《すべ》ての好意――仕事も含めて――に対して、その場でサンキューと言うことで――儀礼的で冷たく――まだまだ限りなくある、ロイがあたしの思いをまるでこうるさくつきまとう青蠅《あおばえ》かなにかのように振り払う仕種なら、今すぐに百も二百も並べたてることができる、あたしは見て見ぬふりをしてきたけど、その冷たい仕打ちのやり方のどのひとつも決して見逃しはしなかった、ロイの眼《め》が――はしばみ色の柔らかな瞳《ひとみ》が――あたしに注がれる時にだけ、どんなに冷ややかであるかを、あたしが知っている、あたしはそのことを絶対に認めたくなかったので、ボスのことを礼儀正しい紳士と人に言いもし、自分にも言い含めて来た。あたしは彼を最初の一瞥《いちべつ》で好きになったのに、そして日を重ねるごとに思いはつのる一方だったのに、彼はそうではなかった、ロイ・ウェッブスはあたしを愛していない、ロイはあたしを女として好きですらないらしい、でも彼はあたしを秘書としては必要としている、その点あたしは努力した、ロイ・ウェッブスとの不毛な関係――それを関係と呼ぶとして――があたしを行きずりの男との情事に走らせる、例えば田中――。
風が吹きだしましたよ、ここでも、と声が言う。降りも激しくなったようだ、なんとも陰鬱《いんうつ》ですね、冬の雨は。熱いココアでも飲みませんか、ご馳走《ちそう》しますよ。
ウィンド・ワイパーがガラスに貼《は》りつく雨を、勢いよく左右にはねのけていた。田中の車はどこかよくわからない空地に入って、その隅に止った。これからマンションの工事に入る直前の状態で、ビニールの青い幕とか、鉄骨などが雑然と置かれていた。他に車はなく、人影もなかった。
エンジンは切らずに、ブレーキだけひくと、田中はことさらゆっくりと煙草《たばこ》をくわえ、カーライターの火を近づけた。女には男の胸の内が一から十まで読めた。二十九歳の女には、それが読める。そして今さら、この段に及んで、何をする気なのか、とは言えない。二十二の女なら言えるだろうが、二十九歳の女には、気がつかなかった、知りませんでした、うっかりしていましたは通用しない。最悪の事態を避けるつもりなら、見知らぬ男の車になど乗らないことだ。いや、もう少し溯《さかのぼ》って、エスプレッソの誘いに応じた時から、あるいはシネマテンの隣で、面白くなかったね、と呟《つぶや》いた男に、ほんと、期待外れ、と呟き返した時から、用心していなければならなかったのだ。
しかし、用心て何を? 女は非常に醒《さ》めた眼《め》でワイパーの動きを見守った。自分の身の内に起る最悪の事態ってなんだろう? 強姦《ごうかん》、あるいはもっと運が悪ければ強姦の上に殺人が重なるかもしれない。
彼女はある時期から男を、男の体現するものを恐れなくなっていた。強姦も死もそれに含まれる。どの時期からかと言えば、多分性愛に幻想を抱かなくなった時から。幻想と期待を抱かなくなった時から。すなわち性と愛は分離したものであり、男との交渉はことごとく不真面目《ふまじめ》でエロティックでそして多少ともグロテスクであることが判明した時からだった。
それよりも、もっと最悪なことがあるとすれば、恋いこがれる男が、自分を女として一瞥《いちべつ》だにしないこと、この苦しみ以上のものがこの世にあるだろうか。そして彼女には、現在自分の上にのしかかっている男の顔を、ひそかに好きな男――すなわちウェッブス氏――と置きかえて想像するような、ある意味で不健康な趣味もなかった。彼女の愛と性は永久に分離したままだった。
そんなわけで、彼女は待った。男の出方を冷静に待った。彼女がもし恐れることがあるとしたら、病的で兇暴な変質者だけだった。田中は性的な変質者には少なくとも見えなかった。もっとも外見は大学教授のごとき変質者がいたって、不思議でも何でもないが。
田中は煙草《たばこ》を半分まで喫《す》うと、もうすっかりおなじみになった、残忍な指先のひとひねりでそれをアシュトレイの中で揉《も》み消した。彼女はほとんど欲情していなかった、例によって諦《あきら》めの感情だけが、ひたひたと胸の内を浸していた。
男の手が、彼女の顔を自分の方へ向かせた。二人は車の中の薄暗がりの中で、視線をからめた。男の二つの眼は、二つの黒い穴でしかなかった。
嫌じゃないんだろう、と訊《き》くというよりは、自分の考えていることを再確認するような言い方で田中が囁《ささや》いた。黒々と湿った声だった。
女はいいとも嫌だとも言わずに、男の顔から視線だけを逸《そ》らせた。数分たたぬうちに、二人はほとんど衣服を身につけたまま窮屈な姿勢でファックしていた。体をゆるやかに上下に動かしながら、男はそれまでの無口の埋め合わせをするかのように、下品にはならないすれすれの線で卑猥《ひわい》なことを囁《ささや》き続けた。すると彼女はいつのまにか、持続的な快感に引き込まれているのだった。
彼は急ぎもせず、自然に、巧みに彼女をリードしていった。行きずりに近い男から、これほどいい思いをさずけられることは、ほとんどなかった。彼女は男の眼の色を見た。しかしそれはあいかわらず、二つの黒い穴でしかなかった。彼女はウィンド・ワイパーに視線を移した。
ワイパーのリズムと、男の腰の運動のリズムとが酷似していた。そのために彼女は急におかしくなり、高まっていた快感の波が急速に遠のいた。まだか、と男が訊《き》いた。多分だめよ。女は答えた。あたしはいいから――。男の動きが激しくなる。彼女も腰を回転させるようにして彼を助けた。男が溜息《ためいき》のような声をもらして、一気に果てた。
田中は煙草《たばこ》を再びくわえて、火をつけ、一服をさもうまそうに喫《す》った。
どうして急に醒《さ》めたんだい、途中で。大量の煙を吐きだしながら訊いた。
あたし、めったにいかないのよ。
めったにって、ぜんぜん? 田中がチラと眼《め》の隅で見るのがわかった。
そうね、ほとんどぜんぜんね。なぜこの男にかぎり、そういうことを進んで言う気になったのか、わからなかった。
じゃ、なぜこういうことになったのかな。田中の指が二口喫っただけの煙草をひねりつぶす。
だからじゃない?
だからって?
不感症だからこそってことよ。彼女は言葉少なく喋《しやべ》る。
なるほど。田中が車をスタートさせる。
それに、あたし、カーセックスって一度してみたかったのよ。それは咄嗟《とつさ》の嘘《うそ》だった。いわば機転というものだ。おかげで田中の体面も彼女自身の体面も、辛うじて保たれたような気がする。田中は、向かい側から来る対向車のライトを顔に浴びながら、ニヤリと笑った。
熱いココア、どうですか? 温まりますよ、特に今日のようなうすら寒い雨の、退屈な土曜日の午後には。
どうしてあたしを誘うの? 女は固い声で訊《き》く。
なんとなく、放っておけないような感じが、あなたの声からするんですよ。男の声が誠意を帯びる。
でもあたしは、間違い電話の相手とブラインド・デイトする趣味なんてないから。女は語尾を濁す。
ブラインド・デイトか、いい言葉だな、いいじゃありませんか、土曜の午後の無聊《ぶりよう》を慰めあうなんて、どうせ暇なんでしょう?
そうなのだ。どうせ暇なのだ。退屈を持て余していたのだ。土曜日だというのに、あたしには誰《だれ》もいなくて、死にそうに退屈だったのだ。
田中とは、二か月ばかり続いた。それも十日おきだから、逢《あ》ったのは五回だった。彼からの連絡がぷつりと切れて三か月になる。時々、無性に逢いたいと思う。いるとはほとんど思われなかったが、シネマテンにも行って見た。同じ映画を、週末ごとに三回、続けて見た。田中は、来なかった。
ミスター・ウェッブスは、冬の週末はきまって家族と奥志賀《おくしが》でスキーだ。そのホテルの予約をやるのは彼女だった。
あなたの、電話をかけたかった女《ひと》のことはどうするの? かなりシリアスだったけど――。
ああ、あのひとね、と声が沈黙する。なんだか、今はどうでもいいような気がするな、彼女、スーパーでレジやってる女の子でね、可愛《かわい》いんだけど、なんとなく会話がかみあわないんですよ。声が続く。あなたと話していると、とても具合がいい、打てば響くというか、適切にして辛辣《しんらつ》な言葉が返ってくる。含みもあって。
男の声は、なんとなく竹脇無我を連想させた。彼女は知らず知らずに竹脇無我の顔を思い浮かべながら喋《しやべ》っていた。
スーパーでレジやっている女の子を馬鹿《ばか》にする気はないけど、その女の子より、竹脇無我の声をもつ男には、自分の方がふさわしいような気もしないではない。
広尾に一軒|美味《うま》いココアを飲ませる店があるんだけど、と声が言う。今から出られますか?
女は掌《てのひら》でさっと窓ガラスの文字を拭《ぬぐ》い消す。Mr.Webbs も I love you も、彼女の掌に湿り気となって貼《は》りつく。それをスカートでそっと拭う。
いいわ、三時に。女はそれだけ短く言うと、唐突に受話器を置いた。
結局、彼女がどうしたかと言うと、ブラインド・デイトには出かけて行かなかった。竹脇無我のような声の持ち主が、竹脇無我のような風采《ふうさい》をもつとは限らないからだ。もし万が一――その可能性の方が圧倒的に強いと思うが――声の男が、薄ら寒い貧相な男だったら、と考えると怖気《おじけ》づいた。
それならいっそのこと、出かけていかないで、広尾のカフェで竹脇無我に似ている男が自分を待っていると想像する方が、愉快ではないか。
四時になると、彼女は電話を眺めた。あの声の主から、二度と電話がかかる可能性はなかった。五時になって、ようやく本を膝《ひざ》の上に広げて読み始めた。声の男が伝票を取り上げて、カフェを出て行く姿が活字の上に重なって見えた。もはや、彼が竹脇無我に似た男であったかどうか、永久に確かめるわけにはいかない。彼女は安堵《あんど》と後悔の入りまじった複雑な吐息をもらして、頁《ページ》をめくった。
食事友だち
パーティーはブッフェ形式で、三十人ほどの小人数だった。
主催者は、ごくごく内輪の家庭的な集まりだから、それこそジーンズでいらしてよと言ったのだが、ゲスト・オブ・オナーに天皇陛下の遠縁の方が出席するのでは、ジーンズというわけにはいかないだろうと、茜《あかね》と隆介は夏の夜の集まりとしては多少スポーティーにすぎるきらいはあったが、麻のスーツとドレスで出かけてきたのだった。着飾り過ぎるよりも、いくらか質素に過ぎたかな、というくらいの方が、まだくつろげるものなのだ。
来てみてわかったのだが、出席者には世間に名前や顔の知れたカップルが多く、高名な指揮者やその美しい夫人、ファッション・デザイナーとその夫、どこぞの国の文化参事官とガールフレンド、有名な宝石商、現役のテニスのプロ、女流作家とその夫といった顔ぶれ。
家庭的な集まりというのは、雰囲気を言うわけだからいいとして、何が内輪なものかと、茜は皮肉な眼《め》で出席者を眺めていた。謙遜《けんそん》というよりは、むしろ自己顕示もいいところだと思ったが、そんなことはおくびにも出さずに、ボーイがトレイで運んできたドン・ペルニョンの入ったシャンペングラスを、にこやかにこの夜のホステスにむかって掲げるのだった。
夫の隆介は、その夜の顔触れの中で一番美しい女は誰《だれ》かとしばらく観察していたのだが、かなり迷っているらしかった。
ただ顔の造作が美しいというのなら、どこぞの国の文化参事官が同伴した若い女の右に出るものはいないのだが。
彼女は中国人とフランス人の混血で、象牙色《ぞうげいろ》の皮膚と切れ長の眼と、ほっそりとしたスタイルで人の眼を奪うのには充分だったが、どこか熱い血が流れているという感じに欠けている。マネキン人形みたいで、セクシーではない。パーティーが始まってから四十分ばかりたっているが、自分の方からは誰にも話しかけようとはせず、ニコリと笑うのも誰も見ていない。
隆介の視線が若い女を離れて、パティオの方へ流れる。
「お久しぶり」とファッション・デザイナーの山室|乃里子《のりこ》が茜に近づいて来る。「先日はショーに来て頂いてありがとう」
「あのショーはとても良かったわ」と茜が答える。「色が華やかで、贅沢《ぜいたく》な気分にして頂いたわ」
「そうなの。私、ドドメ色に飽々《あきあき》していたの。誰もかれもが、黒とかグレーとか紺とか茶色でしょう? パッとやってみたかったのよ」
隆介がパティオに向かって歩きだして行く、その背中を見送りながら乃里子がニヤリと笑う。
「ショーにご一緒だった方、どなた?」
「あら、ただのお友だちよ」
「まあ、しらばくれて」と乃里子が大きな眼《め》で茜の顔をのぞきこんだ。「ちょっとめったにお眼にかかれないような、いい男だったじゃありませんか」
「怪し気な関係だったら、昼日中から、しかも人眼のあるファッション・ショーに一緒に現れるわけがないでしょ?」
隆介が熱心に話しこんでいる後ろ姿を眺めながら、茜が笑った。夫の話し相手は女流作家の川村里子。もちろん美人だからではなく、彼女がたまたまそれまで話していた方の女性が美しいからである。女流作家はいわばあて馬なのだった。
「逆手をとるということもあるわね」と山室乃里子がぬけめのない表情で言った。「実に堂々と見せびらかすから、よもや愛人ではあるまいと人が思うその逆をやるわけよ」
「あなたならやりそうね」と茜はやんわりと皮肉った。
ダイニングテーブルの方でブッフェの用意が整ったらしく、客たちがその方角に動きだしている。茜と山室乃里子もゆっくりと歩きだしながら会話を続けた。
「私?」と乃里子がニヤリと笑った。「私はそんなことしません。だって亭主に惚《ほ》れているんですもの」
絵に描いたようなおしどり夫婦で有名だった。どこで逢《あ》っても山室夫妻はぴったりと一緒だ。女だけのランチをする時でも、二度も三度も、女だけよ、と念を押さないと、乃里子の亭主がついてくるのではないかと、女たちが心配するほどだった。
しかも女たちだけのランチのテーブルでも乃里子は亭主の話ばかりをするので、仲間たちのひんしゅくを買うのだった。
女たちのランチのテーブルでどんな会話がかわされるのかといえば、乃里子にしろ茜にしろ他の女たちにしろみんな職業を持っているわけだから、仕事の話はまずしない。そういう話は大体愚痴のように聞こえるものだし、それでなくとも人一倍自尊心の強い女たちの集まりだから、自分の弱味などさらしたくはないわけだった。
かといって上手《うま》くいっているようなことも、わざわざ言うまでもない。へたをすれば足をすくわれるかもしれないから、いずれにしろ仕事の話はタブーだった。
「どう? 最近」
「まあまあね。おたくは?」
「同じようなものよ」といった程度である。
となると会話はもっぱら食べることか男の話になる。
男の話でも、情事の相手についてはお互いに口をぬぐって素知らぬ顔。主として亭主の悪口に終始する。
自分の夫の話をしておけば、ともかくそれが悪口であろうと愚痴であろうと安全なのであった。
山室乃里子が変わっている点は、亭主の悪口を言わないところにあった。口を開けばのろけなのである。
ランチではなく、夜食に女たちが顔をそろえたことがあった時のことだ。真夜中に近かった。店は茜の夫が経営するイタリア料理店だった。
乃里子が自分の金ピカのロレックスを見て甲高い声を上げた。
「あらもうこんな時間」と腰を上げる。
「もうって、まだこれからじゃないの」と茜が引きとめた。
「今夜はだめなのよ」
「今から仕事じゃないんでしょ?」
「違うわよ」と乃里子がニヤニヤ笑った。
「今夜はあれをいたす日なの」
「だって水曜日じゃないの」誰《だれ》かが言った。
「水曜日じゃいけないの?」乃里子がバッグの中から千円札を二枚出しながら訊《き》き返した。
「あれをいたすには土曜日の方が何かといいんじゃないの?」
すると乃里子が大真面目《おおまじめ》に言うのだった。
「あら、土曜日もいたしますわよ」
「へえ、週に二度もやるの?」別の女が心底驚いたように言った。乃里子は更に落ち着いてその女の言葉をやんわりと訂正するのだった。
「いいえ、三度でございます。月・水・土といたしますの」
ちょっとどぎもを抜かれたようになって全員が沈黙。
「まさか相手はご亭主なんじゃないでしょうね?」ほとんど必死の声が上がった。
「亭主にきまってるでしょ。嫌ねえ」呆然《ぼうぜん》としている女たちを尻眼《しりめ》に山室乃里子が立ち去った。あとはもうカンカンガクガク。
結婚して十五年にもなる夫婦が、月、水、土といたすのは実に気持ちの悪い話だ、と言う者。うらやましいわと溜息《ためいき》をつく者。相手は亭主じゃないわね、愛人がいるのよ、と想像をたくましくする者。一種騒然としたものであった。
で、結論めいたものが出たとすれば、あの方のご亭主、あれがめっぽうお上手なんだわよ、そうにきまっているわ、ということで一応騒ぎは収まったのだった。
食卓の風景はかなり贅沢《ぜいたく》であった。天皇様の遠縁にあたる方から始まって、わきあいあいとした行列が出来ていた。
テニスのプロと女流作家が茜の前に並んで談笑していた。隆介は先の方でとうとうお目あての女性に、皿など取ってやっている。絵の値段が一号百万円もする画家の再々婚の妻という女性だった。
すぐ前で女流作家の喋《しやべ》る声がしていた。
「もうあんな恥をかくのは嫌よ。プロに物書きの女がチャレンジするなんて、初めから話にも何にもならないわ。実に虚《むな》しい企画だったわね。ほんとうにその節はご迷惑かけました」
「そうでもないですよ」とテニスのプロがひかえめに言う。「そういうことでもないかぎり僕らなんかが作家の先生と知り合えるということもないわけだし」
「あら、作家の先生だなんて言い方、嫌だわ」と女流作家が笑った。何人かの人間の背後から彼女の夫が、妻の横顔をじっと見ている。全《すべ》てが体験だとはいわないまでも、生活及び精神の奥を露出するような職業を持った女の夫であることの、悲哀のようなものが男の顔に滲《にじ》んでいる。
女流作家と茜の眼《め》が合った。
「先日はどうも」茜が言った。
「こちらこそ。私、あなたのお店のお料理のファンなの」と女流作家の川村里子が微笑した。「というより私、あなたのファンなのよ」
「あら、私の?」茜が思わずはにかむ。
「ええ、そう。あなたがごくひかえめにお店の采配《さいはい》を振っていらっしゃる姿、とても素敵よ」
「それはほめすぎですわ。でも、色々なことよく見ていらっしゃるのね」
「見ることが私の商売だから」と彼女が笑った。
「川村さんはいつもお召しものが素敵《すてき》」とデザイナーの乃里子が横から感心する。
「ありがとう」と川村里子は悪びれずに言う。
「たいていほめられるのは着ているものとかアクセサリーなのよ。女の作家なんてそれ以外のことでほめられることはないわ」
順番が来たので皿を取り上げながら川村里子が言った。乃里子が何か言いかけようとするのを手の仕種《しぐさ》で制して、川村里子が続けた。
「この前ね、ある対談で山口洋子に逢《あ》ったのよ」銀色に鈍く光る極上のロシア産キャビアを小さじですくいながら言う。「彼女がね、私の顔を見るなりこう言ったの。『女流作家に美人がいないっていうけど、ほんとねえ』」キャビアの横に一口大に焼いてあるソバ粉入りのクレープを添えてから、川村里子は場所を茜に譲った。
「私もつくづく山口洋子の顔を見て言ったのよ。『ほんとにねえ』って」
今夜のホステスがさりげなく寄って来て言う。
「こちらのサーモンもぜひお試しになって下さいな。今朝カナダから空輸してきたばかりですのよ」
茜はサーモンを三切れとレモンに手を伸ばす。スモークド・サーモンは淡いバラ色で、いかにも燻製《くんせい》が浅そうだ。それだけ味がデリケートだということだった。
「お宅のパーティーはいつも楽しみなの」とパティオの入口で画家の妻がホステスに声をかけた。「それは贅沢《ぜいたく》で美味《おい》しいものがでるから。つい食べ過ぎて、二、三日何にも食べられないのよ」
「でもねえ、今夜一番贅沢なのは何だかわかる?」と隆介が画家の妻に問いかける。
「キャビアかしら? それともさっきのシャンペン?」
「このシャブリもかなり贅沢なお味がするけど」と川村里子。
「お客さまかしら」と茜。「あちらの皇族の方?」
「あるいはバカラのグラスね」骨董《こつとう》に眼《め》のない山室乃里子が眼を細める。
「みんな違うよ」隆介が男たちを一渡り見て言う。「男性陣の声があがりませんね」
パティオに出ていた画家が右手を上げる。
「風だよ、風。この初夏の夜に吹く風。それが一番|贅沢《ぜいたく》だよ」
「いい線ですな」と隆介が感心する。「さすがに芸術家の言うことは違いますね」
「夜景かな」と、文化参事官の声もあがる。パティオをとり囲む樹木の向こう側にクリスマスツリーのように飾り立てた東京タワーがそそり立っている。
「男性の方が、言うことが詩的だわね」乃里子が感心する。
「だんだん近づいていますよ。もう一声どうですか?」隆介が一同を見廻《みまわ》す。茜は夫から眼を逸《そ》らせて、部屋の奥に進んだ。夫婦が二人だけでいる時にあの十分の一でも愛想が良ければいいのだけど。
「もう一声」隆介が再び言う。まるでセリねと女流作家が小声で誰《だれ》かに向かって囁《ささや》くのが茜の耳に届く。
「どうせこれもいつかどこかのシーンにお使いになるんでしょう?」茜がわずかに毒を含ませた声で川村里子に言う。
「どのシーン?」川村里子が面白そうに訊《き》き返す。その時隆介の発表。
「今夜一番|贅沢《ぜいたく》なものはですね」と彼はそこでいったん言葉を切る。劇的な効果を狙《ねら》っているわけだった。茜はますます寒い思いで、サーモンを切り分ける。
「実はこの庭なんですよ」隆介が言う。「この二十坪ばかりの小さな庭。ここの土地が幾らすると思いますか? 一千万ですよ」
「一坪一千万?」画家の妻が驚いた声を上げる。
「そう。一坪一千万の庭を眺める、これが今夜の最大の贅沢です。最高に高価な酒の肴《さかな》です。せいぜいお楽しみ下さい」
「大演説は終わったらしいわね」茜は誰《だれ》にともなく呟《つぶや》いて、スモークサーモンの切り身を口に運んだ。
「でもあなた」と画家の妻がパティオの夫に話しかけた。「あなたの絵の方が少しお高いわね。十号で一千万ですもの。一坪だと幾らになるのかしら?」
「天文学的数字ですよ、奥さん」隆介が言った。あちこちで笑い声が上がり、パーティーはいっそうなごやかな雰囲気になるのだった。
「女流作家の眼《め》を通してご覧になると、うちの亭主なんてどんなふうに描かれるのかしらね?」茜は率直に質問を投げだす。川村里子はキャビアを含んだ口元へ、いつのまに手に入れたのか、よく冷えた生のウォッカを運びかけて、チラと隆介を眺めた。
「正直に言って、あなたのご主人には、素材としては全然興味はないわ」そしてウォッカを口に含んでから続けた。「作家としての興味はないけど、一人の女としては別よ。彼、とてもいい男だと思うし」
それから急に表情を引きしめると茜にむかって言った。
「私はむしろ、あなたに興味があるわ」
「わたしに?」茜のフォークの動きが止まる。その時、暖炉の前の一団から笑い声が上がった。天皇様の遠縁の方々を囲んだグループだった。
「わたくしね、それまでお料理など作ったことがございませんでしたのよ」天皇家の遠縁にお嫁入り遊ばされたご婦人がはきはきとした声で話している。
「ある時、わたくし、一生懸命お夕食を作りましてね、食卓に並べましたのよ」よく通る若々しい声だった。夫にあたる方はニコニコと耳を傾けておられるのだった。
「こちらの方が、急におっしゃいますの」と彼女は傍らでニコニコしておられる方を指して言った。「『とうとう飼いならされてしまいましたね』って。でわたくし、『はい、やればできるものでございますわね』とお答えしましたの。そしたらこちらの方、何と言われたと思います? 『いえ、僕ですよ、飼いならされてしまったのは、僕の方です』」
なんというユーモアのおありになる方かと、あちこちで笑い声が上がる。ホストがシャンペンとシャブリを両手に持って、人々の間を走り回る。
「イギリスでご教育を受けられた方々は、ユーモアもイギリス風ですわね」誰《だれ》かが心から感心して言うのが聞こえた。
茜は女流作家の手にしたリキュール・グラスをみつめていた。
「わたしの方に興味がおありになるって、どういう興味かしら?」
「つまりこういうことよ」と川村里子はナプキンで口もとをぬぐってから言った。
「私の友だちがある時私にこんなことを言ったの。ちょっと遠回しになるけど聞いてちょうだい」と彼女は膝《ひざ》の上の汚れた皿をテーブルに置いてから続けた。
「彼女ね、ご主人と生まれて初めてカラオケバーなるものに行ったって言うの。そこでご主人がマイクを取り上げて何か唄《うた》ったらしいの。ご主人という人はね、私はよく知らないけど普段は大人しくてあまり口もきかないような人らしいわ。それがマイクを手にしたとたんに、人格が変わったみたいに色気を出して唄い始めたというのよ。『わたしぞっとしちゃったわ。今まであんな色気だして唄っている主人のこと見たことないもの。これがわたしの主人なの? って思わず自分に問い返しちゃったわ』って彼女が私に言ったのよ」
「わかるわかる」と山室乃里子がしきりにうなずいた。「そりゃぞっとするわ。高倉健がいきなり三波春夫みたいになっちゃうようなものでしょう? わかるわよ。気持ち悪いわよ」
茜には川村里子が言わんとすることがすでに透けてみえるような気がした。先刻、夫の隆介から思わず眼《め》を逸《そ》らせたのを、里子は見ていたのに違いない。
「わたしと、そのカラオケのお友だちと、同じ心境だと言うわけね?」茜は言った。
「というより、私ね、その話を耳で聞いただけで、その時の彼女の様子を見ていたわけじゃなかったの。そういう時女というものがどんな風な表情をするかとか、どんな仕種《しぐさ》をするかとかね」
「で、今夜、ご覧になったわけでしょう?」茜は微笑した。「ご参考になりまして?」
「ありがとう」川村里子も微笑を返した。
「ああ怖い怖い」と山室乃里子が首をすくめる。「物書きと同席すると、これだから嫌だわ」
隆介と画家の美しい妻が料理ののった皿を手に、会話に加わった。
「率直なところ」と隆介が女流作家に言った。
「あれはみんな体験したことですか?」
「あれって?」里子はわざと冷たく聞き返す。
「つまりベッドの中のあれこれですよ」
背後の別のグループの中で談笑していた川村里子の夫が、一瞬横顔を緊張させる。
「ひとつ確かなことはね」と川村里子が表情も変えずに答える。「体験したこともないことは、書けないということよ」
「やっぱりね」と隆介がニヤリと笑った。
ダイニングテーブルから白ワインとまだ少し残っているカナダ空輸のスモークド・サーモンが下げられ、かわりにメインディッシュが並び始める。骨つきラム・チョップの香草焼き。温野菜が数種類。クレソンとアンディーブとクルミのサラダ。そして数種の赤ワイン。
「指揮をしている時に、指揮者というものはベートーヴェンのことだけを考えているもんですか? 雑念というのは入る余地はないですか」
宝石商が指揮者に質問をする。すると指揮者は意味ありげに川村里子の方を見て答える。
「そうね、たった今、川村女史が言った流にかっこよく答えれば、雑念などとんでもないね、というところだろうね。四六時中ベートーヴェンのことしか考えていないとね」
川村里子がニッコリと笑った。
「ということは、雑念が入るということね?」
「ということは」と指揮者も同じような笑いを浮かべて川村里子を見た。「あなたも必ずしも全《すべ》て体験に基づいて書いているというわけじゃないということさ」
「嘘《うそ》つきね」
「あなたもね。しかし嘘も方便。ファンに対するサービスですよ」
「待って下さいよ、よくわからないな」と宝石商の男が首をかしげた。指揮者があっさりとした口調で説明する。
「つまりね、こういうことですよ。ベートーヴェンを振りながら、チラリと今夜はビフテキが喰《く》いたいな、と考えたりするわけ。そしてしばらく棒をふる。またチラリとビフテキならハマの鉄板焼きにしよう、と思う。あそこのは最高だからね。二楽章の途中あたりで、暑いなと思う。プールに飛びこみたいなどと考える。チラチラとビキニ姿の女の子たちの姿が脳裏を過《よ》ぎる。三楽章。僕はカンヌの海岸でトップレスの女の子たちを眺めている。棒を振る。しばらくベートーヴェンに集中。トップレス。それからいきなり女房の怒った顔が浮かぶ。あわてて指揮棒をつかみ直す。そして四楽章。もうくたくただ。ひたすらベッドに倒れこむ自分の姿を思い浮かべる。という具合」
「みなさん、ラムが熱いうちにどうぞ」とホステスがテーブルから声をかける。女たちが腰を上げてテーブルを取り囲む。
「まあ美味しそう。これどう作るの?」山室乃里子が熱心に訊《き》く。
「案外簡単なのよ」とホステスが説明する。
「ニンニクとパセリとミンツの葉とパン粉をすりあわせて塗りつけるだけ。あとはオーブンで焼けばいいの」
夫の隆介と画家の若い妻がパティオの先の暗がりに向かうのを、茜はぼんやりと見送る。ふと視線を感じて顔を上げると女流作家の眼《め》とぶつかる。料理を手に、二人は庭先のテーブルのひとつに坐《すわ》る。
「パーティーでの浮気《フラート》はよくあることよ」川村里子が別に慰めるという風でもなくさりげなく茜に言う。
「ええ。それに私、なれているわ」茜もあっさりとうなずいた。
「私、パーティーって好きなのよ。色々なことが実に良く見えて面白いわ」
「無責任ね、面白いだなんて」
「あら、私自身のことも含めてよ。それに夫のこともね」川村里子は声を一段落として言った。「私には背中にも眼があるのよ。夫が今までに白ワインを何杯、赤ワインを何杯飲んだか知っているわ。それからなぜそんなにも飲まなければいられないのかその理由もね」
皇室の遠縁の方のグループから華やかな笑い声が上がる。
山室夫婦がいかにもむつまじそうに庭先のベンチに並んで坐ってラム・チョップをかじっている。夫が妻の膝《ひざ》から落ちたナプキンを拾って、かけ直してやる。茜の表情に羨望《せんぼう》の色が浮かぶ。それを見て川村里子が低い声で言う。
「あのむつまじさは見せかけよ」
「え?」茜が里子をみつめる。
「あのひとたち、食事友だちよ」
「どういう意味?」
「文字通り、一緒に食事をするだけの関係」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「観察すればわかることよ」なんだか女流作家は少し哀《かな》しそうだった。「その夫婦にノーマルな性関係があるか、ないのかなんてことは、二人の素ぶりを注意してみてみれば、たいていわかってしまうことなのよ」
「わたしにはわからないわ」茜はひどく驚いて呟《つぶや》いた。
「それはね、別にわかろうと思って観察しているわけじゃないからよ。つまり私のようには、きっと誰《だれ》も他人を見ないでしょうから」
「作家ってみんなそうなの!」茜が溜息《ためいき》をついた。
「作家によるんじゃない? 少なくとも私はそうよ」川村里子が苦笑した。「時には色々なものが見えすぎて、あまりいいものじゃないわ」
「わたしたちのことも、まる見えなんでしょうね?」
里子はそれには直接に答えず、ワインを口に含んだ。
「他にも三組いるわよ、食事友だちが。誰と誰と誰かは言わないけれど」
「その中に、わたしたちも含まれているの?」試すように茜が訊《き》いた。
「その答えは、あなたが一番よく知っているでしょう? なぜ私に訊くの?」川村里子はほとんどやさしく響く声で言った。
「じゃ、あなたとご主人は?」茜はまっすぐに女流作家の眼《め》をみつめた。川村里子の表情は変わらなかった。
「私の主人の眼の色を見たことがあって? それからなんで私が主人の飲むお酒の量をいちいち知っているか考えてみて」それから彼女はニッコリと笑ってつけ足した。「それがヒントよ」
女流作家がふと腕時計に眼をやって、夫の姿を探した。ほとんど同時に彼女の夫が里子の視線をとらえた。二人は人々の肩や頭ごしにあるかなきかの微《かす》かな眼配せを交わして、同時に立ち上がった。
「まさか、もうお帰りになるんじゃないでしょうね?」と茜が言った。
「いけない? ここはもう退屈だわ」川村里子はそっとあたりを見廻《みまわ》した。
「でもゲスト・オブ・オナーがお立ちにならなければ、私たち勝手に帰れないわ」
「ゲスト・オブ・オナーは、とても楽しんでいらっしゃるようよ。とうぶんおみこしをお上げになりそうもないわね」川村里子は若いお二人に理解のこもったまなざしを投げてから言った。「でもお楽しみになられることは、いいことよ」
「それにねえ」と指揮者の声がした。「ベートーヴェンを振ってる時に、急に腹が痛くなったら、これはベートーヴェンどころじゃないですよ。真青ですよ、これは」
川村里子が微《かす》かな合図のような仕種《しぐさ》でホステスに別れを告げると、里子と彼女の夫は全く人眼につかずにパーティーの会場から消える。ホステスが一呼吸置いてそっとその後を追う。
パティオの方で隆介の声がする。それに答える女の声。
「そんなわけでさ、笑っちゃうんだよね」実にさりげのない夫の声。あまりにもさりげがなくて平静なために、かえって内心の動揺が露呈してしまっているのに。ふりむいて見なくとも茜には夫の顔が見えるような気がした。
「あれ、川村里子女史は?」と夫の声がすぐ近くでする。
「たった今お帰りになったわ。あなたにヨロシクって」
「別にヨロシクされる筋合いはないけどね。それにああいう人種とヨロシクおつきあいしたいとは思わないしさ」
画家の妻が必要以上に笑い声をたてる。
「同感ね。ヨロシクおつきあいしたくないわよねえ」
ある種のなれあいが感じられる媚《こび》のある声だった。
「あなた方ご夫婦も、食事友だちでしょ?」
茜の口から不意に質問が投げかけられた。
「え?」画家の妻がよく聞こえなかったのか訊《き》き返した。
「いいのよ、別に。たいしたことじゃないの」茜は肩をすくめた。
時計は十一時半をとっくに廻《まわ》っていた。パーティーが始まったのが八時で、夕食が出されたのは九時半だった。ゲスト・オブ・オナーの談笑は続いていて、まだ当分お腰を上げそうにもなかった。
茜は小さくあくびをして、退屈しのぎに、あと一組、食事友だち夫婦を探そうと、周囲を観察し始めた。
11:25 p.m.
9:07 p.m. ざっと店内を見渡したところでは、Kの姿はない。
もっとも観賞用植物の植木の陰までいちいちじっくりと見たわけではないので、断定はできない。入口に立ったとたん、バーテーブルの客たちのいくつかの視線がイサコの顔に突き刺さったので、彼女はわずかに怯《ひる》んでしまったのだった。
イサコは自分の着ているスーツが、こういう場所に集まる客層の女たちの装いとは、かなり異なることにすぐに気づいた。女はそういうことに敏感なのだ。
女たちの服装は、ファッション雑誌のフロントページからそのまま抜けだしてきたような、じゃらじゃらとしたアクセサリー過剰なファッションなのだった。年齢も二十代後半が大半だ。
その店を待ち合わせの場所に指定したのは、むろんKの方だった。CAY というタイレストランで、食前酒を飲んだり、スパイスのきいたタイ料理を食べたりするほかに、客同士がお互いのファッションや顔ぶれを眺めあったり、ひそかに批判したり、羨望《せんぼう》したり、あるいは優越感に浸ったりする別の楽しみもあるらしかった。
そういうタイプの店が最近東京に増えているという情報くらいは、イサコも、美容院でペラペラとめくる雑誌の記事やグラビアから知ってはいた。
やはりKはまだいない。
バーテーブルの席だけではなく、その奥のレストラン部をざっと見たかぎりでも、人待ち顔の男の一人客の姿はない。
ゆるやかなカーブを描いた壁面の長いバーカウンターで、背中を見せている男客が四人いるが、そのいずれもKの背中ではない。
もちろんKの背中ではないと自信をもって言いきれるわけではなかった。イサコはまだKの背中をじっくりと眺めたことがなかった。もしかしたら先夜のパーティーで一度くらい、チラと見たのかもしれないが、その時は単なるパーティーの顔ぶれの一人として見ただけで、まだKが自分との係わりにおいて特別の存在になる以前のことだった。彼と会話を始めてから後は、正面と斜めと横顔しか見ていない。だから、厳密には、イサコはKの背中を知らないのだった。
少なくとも、夜の九時に待ち合わせる男の背中の風景を知らないという事実は、奇妙な感じだった。つまり、それくらいKとの関わりが浅いということである。
それは当然なのだ。Kとは十日前にあるパーティーで出逢《であ》ったばかりだった。他のほとんどのパーティーの参加者と同じように、会釈《えしやく》程度の挨拶《あいさつ》で、そのまま右と左に別れ、もう二度と同じ人生の中で顔を合わせることがなかったかもしれないのだ。
むしろその可能性の方が圧倒的に強かった。なぜかというと、もしもあの偶然がなかったら、イサコとKは口をききあうことは絶対になかったからだ。Kは見たかぎり二十七、八歳といった若い男だったし、寛《くつろ》いだいい感じの服装の趣味からいって、イサコのような中年の女などに興味をもつはずもなかった。
イサコはバーの中に足を踏み入れるかわりに、入ってすぐ右手にあるトイレットの中に一旦《いつたん》消えることにきめた。
先に着いて男を待つというのが少し嫌だったし、鏡に映る自分の姿も点検しておきたかったのだ。それに昔から、男と逢《あ》っている途中でトイレに立つということが出来ない性格なので、Kの現れる前に用を済ませておきたくもあった。
トイレは清潔で、黒い大理石張りであった。一時流行った芳香剤の甘ったるい匂《にお》いも、しない。イチゴとかレモンのきつい匂いで、あれはむしろ悪臭であった。髪や衣服に匂いがしっかりと移ってしまいそうで、イサコはあの芳香剤のあるトイレには近づかないことにしていた。
彼女の着ているスーツドレスは黒を含んだ濃いエメラルド・グリーンのヘンリーネックだった。上から二つ目までボタンを外して着ているのを、ちょっと考えて、ボタンをきっちり首のところまで止めてみた。その方がレストランのエスニックな雰囲気に合うような気がした。
アクセサリーの類は一切身につけていない。多分ゴールドの特別大きな耳輪がピッタリなのだろうが、普通の主婦がそんなピカピカの揺れるものを耳につける機会なんてあまりない。かわりにイサコは真紅の口紅を重ねて塗り直し、赤い唇をゆいいつのアクセントにすることで自分に妥協した。
自分の姿を点検し直したせいで、再び店内に戻った時には、前ほど物おじしなかった。彼女はまっすぐにカウンターに進んだ。Kは来ていない。
自分の方からイサコを誘ったくらいだから、すっぽかしたりはしないだろう。しかもとてもていねいに場所の説明をしてくれたのだ。
それでも心のどこかで、もしかしたらどたんばでKの気持ちが変わったのかもしれないという不安がつのった。
一方ではKが姿を見せなければ、かえってその方が良いのだという思いもあった。きっとわたしは心の奥でホッとするだろう。
しかし二つを天秤《てんびん》にかけると、やっぱりもしKにすっぽかされたら、イサコは深く傷つくような気がするのだ。
まだ何も始まっていないのにもかかわらず、Kが現れなかったら、自分が惨めにも打ち捨てられた女のような気分になるだろうと思うのだった。
そう想像するだけで、ストゥールの上で上半身がぐらりと揺れるくらい、せつなかった。
9:48 p.m. Kは来ない。
イサコに店の電話番号を教えたくらいだから、急用が出来たのなら出来たで、電話くらい入るだろう。遅いのはタクシーが渋滞に巻きこまれたかどうかしたのに違いない。
男を待つこんな気分を味わうのは、実に十数年ぶりのことだった。
だけど昔、婚約者であった当時の夫を待つ気分とは、全然異なる感じなのだ。夫とは結婚を約束していたし、絶対に現れることがわかっていたし、彼も彼女も若かった。トキメキはもちろんあったが、今まさにイサコが覚えているような妖《あや》しいトキメキとは全く異質のものである。
今、イサコは妖しく胸をトキメカせながら、時々、勇気をふるい起こして入口のあたりに視線をやるのだった。
そのトキメキが何からくるものか、彼女にはよくわからなかった。全身が神経そのものになったような感じ。軽い嘔《は》き気さえするくらいだ。膝《ひざ》の方から震えが立ち昇ってくる。めくるめくような密会のスリルとでもいうのか。
後ろめたさ、悔恨の情もある。だが圧倒的な期待と不安。この怖《おそ》ろしさ、この嘔き気、このトキメキ、この歓《よろこ》び。この瞬間が永遠に続けばいい。Kが永遠に現れなければいい。そんな風にイサコは思う。
あのパーティーで、イサコは異端者だった。自分がどうしてそこに居るのか、納得《なつとく》が出来なかった。個人の自宅で開かれた、料理持ち寄りの一種のホームパーティーだった。
主催者を直接知っているわけでもなかった。友人に誘われて出かけて行ったのだ。金曜日で夫は翌日のゴルフコンペのために夕方から箱根の方へ行っていた。
イサコは料理の分担を担うかわりに、友人に言われた通り花束を持参して、友人の描いてくれた地図を頼りに、その見知らぬ人の家を訪ねた。
すでに大勢の男女で家の中はごった返していた。主催者の主婦は台所と居間とを飛び回っていて、正式な挨拶《あいさつ》さえ交すひまもないようだった。友人を探したがまだ来ていなかった。
落ち着かないまま、料理には手を出さず、飲みものだけを手に、ひっそりと友人を待った。
ホステスがようやくイサコに声をかけたのは、彼女がそこに着いて四十分近くたってからだった。
「マサコさんのお友だちのかた?」と、彼女は訊《き》いた。「マサコさん急用でいらっしゃれなくなったみたいよ。今電話があったわ。でもどうぞごゆっくりなすって。ご覧の通りざっくばらんなホームパーティーですから、気楽に何でも召し上がってね」
子供ではあるまいし、それでは失礼しますとすぐに帰るわけにはいかないような気がした。ホステスは何人かの男女にイサコを紹介して、再び台所と居間のテーブルの間へ戻って行った。
ほとんどの人が片手に皿を持ち、料理を食べていた。飲みものだけしか手にしていない人間が、イサコともう一人いた。
それがKだった。
ごく薄手の黒いカシミアのセーターを地肌に直接着ていた。下は木綿のゆったりとした白いズボン。時計も、金のブレスレットも、金のネックチェーンもしていなかった。
特にそう思ったのは、一見いかにもそういうものを身につけて似合いそうなタイプだったからだ。
二十七、八。白い壁に軽く背中をもたせかけて、視線は自分のグラスの中の氷に注がれていた。
わたしとは無縁の男だ、と、そう言葉で考える以前に、イサコはそのように反応していた。つまりチラと眺め、ブレスレットやネックチェーンのないのを認め、自分の年齢を思い、心のどこかで淋《さび》しさを咬《か》みしめ、次の瞬間には、彼から別の人間に視線を移して行ったのだった。
それきり、その若い長身の退屈している男のことは忘れたつもりだった。若すぎて話にならないし、自分にというよりは十七歳の娘の男友だちにむしろふさわしいような男だった。
溜息《ためいき》をつき、グラスの中の飲みものを啜《すす》り、何の気なしに視線を移していくと、さっきの男がまさに欠伸《あくび》を咬み殺すのが眼《め》に入った。すると、欠伸がイサコに移った。彼女は慌てて、その男と同様、それを咬み殺した。
まさにその瞬間だった。壁際の男の視線が不意に動いて、イサコの視線を捉《とら》えた。
そして彼はニヤリと笑ったのだった。欠伸のせいで眼に滲《にじ》んだ涙ごしに、イサコは男が自分の方にゆっくりと歩いてくるのを、ドギマギしながら見ていた。
「退屈ですか?」と、たいして声をひそめもせずに、彼が訊《き》いた。それが初対面の最初の言葉だった。まわりにいた人たちの何人かがふりかえって、男を見、それからイサコを見た。
「あなたは?」とイサコが微笑すると、「今の今まではね」と、男が答えた。
黒いカシミアのセーターはVネックで、その下の素肌は軽く日焼けしていた。
イサコと同年配の女が、一種|軽蔑《けいべつ》と羨望《せんぼう》の眼《ま》なざしで、イサコを睨《にら》んでいた。
「何も食べないのね」とイサコは男のグラスを見て言った。
「こういう場所ではね」と男が口の片側だけを歪《ゆが》めるような笑いを浮かべた。「立ったまま何か食べるのって、スマートじゃないよね」
「スマートかどうかが気になるの?」
「人の眼にどう映ろうと全くかまわないけど、自分で嫌なんですよ」
その時初めて、男は値ぶみでもするような、あからさまな眼つきで、イサコの顔から首筋、そして胸へと視線を走らせ、それから再びゆっくりとそれを彼女の顔に戻した。
その男の、あからさまなゆっくりとした一瞥《いちべつ》は、イサコには不愉快だった。多分無意識の行為なのだろうが、彼女は不安にかられた。
「あなたの今の眼つき、ずっと前にマラケシを旅行した時のアラブ人の眼つきを思い出させるわ」とイサコは、ややひややかな声で言った。
「そうですか」と、男は肩をすくめた。「どんな眼つきなのかな。自分ではわからない。説明して下さい」
「あそこの国では、女が街の中を歩くこと自体珍しいことなのよ。旅行社の人にも、出来るだけ肌を見せないように、注意されていたの」
「イスラム教だからね」
「それで私、暑かったけど長袖《ながそで》のシャツを着て、スラックスをはいていたわ」
「なるほど」
「でもそんなもの、全然役に立たなかったみたいよ。街を歩くでしょう。男という男が、足を止めて、じいっと私を見るの。つまり衣服の下の私の裸を見ている感じなのよ。いたたまれなかったことを覚えているわ。今よりずっと若かったけど」
男は笑った。
「あなただって、人のこと言えませんよ」と彼は言った。
「わたし?」イサコは驚いて訊《き》き返した。
「さっきあそこで、ボクが欠伸《あくび》していた時のあなたの眼《め》つきはやっぱり、ボクの裸を見ていた眼だった」
「嫌ね」と、イサコは顔を赤くした。
「ところが」と男が言った。「ちっとも嫌な気分じゃありませんでしたよ。そんなふうにあからさまに裸を想像しながら女の人から見られた経験って、あんまりないんだけど。悪い気はしないな」
「からかわないでちょうだい」
ふと男から周囲に視線を移すと、周囲の女たちの固い眼つきに出合った。
「なんだかわたし、パーティー中の女の人たちを敵に回しちゃったみたい」
「どうして?」
あなたが若くて素敵《すてき》な男性だからよ。そして私がもうあまり若くもない中年の普通の女だから。しかしイサコにはそう口に出して言う勇気はなかった。
10:25 p.m. やはりKは約束を忘れたのに違いない。いくら何でも遅すぎる。腕時計から眼を離すとバーテンダーが眼に入った。マルガリータを一杯で一時間以上ねばるのも気がひけた。同じものを、と眼でバーテンダーに告げた。もう一杯飲んだら帰るつもりだった。
すっぽかされたのだと思うと心穏やかではないが、最初から一人でふらりと飲みに立ち寄ったのだと思えば、ここは素敵なところだった。
少なくとも、女が一人で飲んでいてもあまりみっともなくないような場所だ。それに一人でいる女にお酒をおごっておいて、あからさまに誘惑してくるような男もいそうにない。この場所を教えてもらっただけでもいいではないか、とそんな心境の直後に、イサコは歯ぎしりしたいほどの無念さを禁じえない。
この十日間、今夜のことばかりを自分は思っていた。それは日を重ねるごとに激しくつのる思いで、Kと再会したら、こうも言おう、ああも喋《しやべ》ろうと、様々な言葉を何度頭の中でくり返し反芻《はんすう》したかわからない。
今夜着るものだって、十日間の間に五着も六着も想像の中で変更したのだった。
アクセサリーも、鏡の中で取っては別のをつけ直し、結局、イヤリングもネックレスもダイヤモンドも、おまけに結婚指輪まではずしてしまったのだった。
出がけには、シャワーを浴びて来た。夜外出することは、普通のサラリーマンの妻では、そうままあることではないが、もちろん皆無でもない。月に一度は、学生時代の女友だちと夕食を食べたりその後バーで飲んだり、亭主公認の外出が許されている。
もっともそれは夫が仕事とかゴルフで東京の家にいない夜に限られているし、今はともかく、子供たちが小学生の間は、ベビーシッターの手配もちゃんとしてからでなければならなかった。
けれども夜女友だちと逢《あ》うために、わざわざシャワーを浴びて出たことはなかった。そのことを、イサコはシャワーを浴びながら、複雑な気持ちで考えた。
それだけではなかった。シャワーの後、下着の入っている引き出しの奥をひっかき回して、まだラベルのついたままの絹のパンティと、それと対《つい》になった半透明のレエスの、やっぱり絹のブラジャーを、身につけたのだった。
三年ほど前に、衝動的に買った下着だった。上下で一万三千円ほどした贅沢《ぜいたく》な買いものだった。むろん普段絹をはくわけにはいかない。特別の日のために、と漠然《ばくぜん》と自分に言いわけしたのだ。
あの三年前に、それがどんな目的で使われるのか、具体的には想像も出来なかった。結婚記念日の夜にでも身につけようかとも考えたが、一度は生憎《あいにく》生理中だったし、次の年は夫が大阪に出張だったかして不在だったし、今年の記念日は、双方ともその日を忘れていたりで、結局絹の下着はずっとタンスのこやしだった。
今になってみると、シャワーを浴びた自分が哀れである。絹の下着のラベルをハサミでていねいに切り取って身につけた自分が惨めであった。二杯目のマルガリータがそっと眼《め》の前に置かれた。惨めさをふり払うために、イサコは二口続けて、その冷たい飲みものを口に含んだ。
何をやっている男なのか知りたくて、パーティーのその会場の片隅でイサコは質問した。
「日雇い労働者」と男はすまして答えた。つまんないことを訊《き》きなさんな、というニュアンスが、その答え方に感じられた。
「サラリーマンだって、一種の日雇い労働者よね」とイサコは夫のことを考えながら苦笑した。
「ボクは本物の日雇い労働者ですよ」と男は真面目《まじめ》くさった表情で言った。「日々肉体を酷使するという意味でね」
「とてもそんなふうには見えないけど」と疑わしそうにイサコは笑った。
「別の言い方をすれば、ジゴロ」
「え?」
「ジゴロって、すごい肉体労働なんですよ」
ほんとうなのか嘘《うそ》なのかわからないような調子で男は言った。「もっとも労働をするのは、もっぱらベッドの中だけど」
女に囲われているタイプの男には思えなかった。だが女に囲われる男のタイプを、イサコが知っているわけでもない。
「今のは嘘ですよ」と、イサコの胸の内を見すかしたように男はニヤリと笑った。「ボクは女に奉仕するタイプの人間じゃないから」
「本当は何なの?」と訊かずにはいられなかった。
「産婦人科の医者ですよ」こともなげに言うのだった。
「それも怪しいものね」
「信じるか信じないかはあなたの勝手だけど、三時間前、ここに来る直前、双児の男の子を取り上げてきたばかり」
男は部屋の中をゆっくりと眺めまわして言った。「このパーティーにも二人ばかり、ボクの顔の前で両肢《りようあし》を開《ひろ》げたことのあるご婦人もいますよ」
その時ホステスの婦人が作り笑いを浮かべて二人の会話に加わった。
「何のお話ですの? 楽しそうね」
「僕の患者の話をしていたのですよ」と男は愛想よく答えた。
「あら、Kさん」とホステスが笑った。その時初めて男の名がKと知れたのだった。「あなたいつ、お医者に職業替えなさったの?」
「五歳の時からですよ。最初の患者は隣のミヨコちゃんでした」
「今でも相変わらずお医者さまごっこをしているってわけね」ホステスはわざと顔をしかめて二人から離れた。
「そう相変わらず」と今度はイサコにむかって呟《つぶや》いた。「もっとも今では毛のはえた患者ばかりだけど」
「不真面目《ふまじめ》なのね」とイサコはわざとKを睨《にら》んだ。「わたしは真面日に訊《き》いたのに」
「じゃボクなんて相手にしないで、あっちの真面目人種と話したらいい」別に怒ったようでもなく、むしろ楽しげにKは言った。
「そんなにボクの仕事を知りたいのなら、教えようか?」と急に秘密めかして瞳《ひとみ》を輝かせた。「ポンビキ、三助、パチンコの景品買い、それとニコヨン、ペテン師、刑事、法定弁護人、ヤクの運び屋と、以上の中から、あなたの好きなのを適当にひとつ選んで下さい」
それがKだった。イサコはすっかり先刻までの退屈さを忘れて笑い転げた。
「まだ足りない? 死刑執行吏、死体解剖人、牢番《ろうばん》。薬剤師、宇宙飛行士というのもあるな、それから、精神分析医。どれがいい?」
次から次へと職業を挙げ続け、止まることを知らないかのようだった。
「もういいわ」とイサコがついに言った。
「きめた?」
「ええ」
「何だと思う?」
「嘘《うそ》つき。それがあなた」
10:55 p.m. 嘘つき。それがK。イサコは奥のボーイに手で合図を送って叫んだ。
「ちょっとききますけど、Kという人の名で、今夜九時過ぎに、夕食の予約が入っていました?」
お待ち下さい、と一たんボーイが下った。タイの民族衣装をアレンジしたようなのを着ている。ドレープの多いふくらんだズボンは眼《め》も覚めるようなトルコブルーだ。
予約一覧表を手にボーイが戻って来た。
「Kさんですね」と表を眺めた。「九時半に二名。確かに予約が入っておりますが」
「それ、いつの予約ですか?」
「ええと、十日ほど前ですね」
「そうですか」とイサコは考えこんだ。
「Kさんから、キャンセルの連絡ありませんでした?」
「いえ。そのようなことはありません」とボーイは否定した。「あの、Kさんとお待ち合わせで?」
「そうなんですけど」とイサコは眼を伏せた。「どうしたんでしょうね。何も連絡が入らないところをみると、事故でもあったのかしら」などと、いらぬことを呟《つぶや》いた。
「申しわけありませんが、ラスト・オーダーは十一時です。どうなさいますか?」
「悪いけど、食事はいいわ。キャンセルにして下さい」
「結構です」と、ボーイは頭を下げて引き下った。
見ると奥の食事用のテーブルは二十ばかりあり、ほとんどの席に人がついている。どの顔も楽しげで談笑する低いざわめきが伝わってくる。
Kはすっぽかすつもりは、どうやらなかったらしい、とイサコは自分を慰めた。何か理由があって来れないのだろう。電話もかけられないところからすると、よほどのっぴきならないことでも起こったのかもしれない。
「何か食べに出ましょうか?」と唐突にKは訊《き》いたのだ。
「今から?」とイサコは驚いた。「食事ならこんなにたくさんあるのに」とブッフェのテーブルを示した。ローストポークやコールド・チキンなどがまだかなり残っていた。
「食事というのは、ちゃんと坐《すわ》ってするものですよ。それも好きな女とね」
その直後だった。「タイ料理は好きですか?」とKが訊いた。
「スパイスのきいた食べものは好きよ」とイサコはほほえんだ。
「青山に一軒あるんだけど、行きませんか?」
「今から?」時計を見ると十一時を回っていた。
「いけない?」
「普通の女には遅すぎるわ」
「でも、あの店は素敵《すてき》なんだ。ぜひ案内したいなあ」とKは残念そうに言った。
「いつかね」とイサコもなぜか残念な気がして、あいまいに言った。
「いつ?」とKが追求した。
いきなりそんなことを言われてもイサコは困るだけだった。「二週間くらい後なら」とたいして考えたわけでもなく、そう答えた。
「じゃ今きめておこう。十日後」Kはテーブルの上から紙ナプキンを取り上げると、日時を書き入れ、場所の地図と電話番号を記してイサコに手渡した。
「夜の九時では遅すぎますか?」
「そんな時間までお仕事ですか?」イサコはKの質問に質問で答えた。普通の主婦が出かけて行く時間帯ではむろんなかった。しかしその時イサコは、それ以上時間にこだわりたくないような気がした。そんなことでちゅうちょしていると、男に軽蔑《けいべつ》されそうな気がしたのだ。少なくとも自分の時間ぐらい自分でコントロールしている女に、思われたかった。
「必ず来る?」とKが念を押した。イサコはうなずいて、紙ナプキンをハンドバッグの中に収めた。
「あなたは忘れない? どこにもメモしなくて?」
するとKは自分の頭を指して、「ここにもうしっかりとメモしましたよ」と、白い歯を見せて笑った。その時イサコの胸に、どうしてKのような若い男がイサコみたいな十歳近く年上の女を食事に誘う気になったのか、知りたいという衝動が湧《わ》き上がった。しかし、訊《き》けなかった。そんな質問は口に出来なかった。彼の若さを認めるのも嫌だったし、私みたいな中年の女という言葉をKの前で認めるのも嫌だった。
この十日ばかり、彼女の胸を泡立てていたのは、その疑問だった。どうしてKが?
何度鏡の中の自分の姿をまじまじと眺めたか知れない。年齢相応より若く見えるといっても、せいぜい三十七、八歳にしか見えない。食事は坐《すわ》ってするものですよ。それも好きな女と二人で。そうKは言った。好きな女と二人で。その言葉を呪文《じゆもん》のようにくりかえした。
結婚している中年の女の胸をわしづかみにする感情は、他の男に認められるという歓《よろこ》びだ。夫以外の男に、女として興味をもって眺められるという満足感だ。しかもKはイサコより十歳も若い美貌《びぼう》の男だった。中年の女の最後の夢は、そんな美貌の若い男を、自分の腕にかき抱くこと――。
その瞬間、イサコは自分がなぜシャワーを浴びたり絹の下着を身につけて出て来たのかがはっきりとわかった。
今という時を逃がすと、もう二度とKのような男から声をかけられるようなこともないだろう。そのせつなKはイサコにとって全《すべ》てだった。彼女の青春の最後を華々しく飾るべき最後の男のような気がした。失うわけにはいかなかった。
なのにKは現れない。11:10 p.m. その時ボーイが近づいて来て「お電話がかかっております」と言った。心臓がはね上がった。ボーイに案内されて、コーナーの受話器を耳にあてた。
「Kです。ごめんなさい」といきなり謝る声。「いずれにしろ言い訳は後にします。今からそっちへ行くけど、待っていて下さい」
イサコは時計を見た。「ええ、いいわ。待ちます」歓《よろこ》びで躰《からだ》がぐらぐらと揺れた。Kが来る。Kは忘れていたわけではなかった。シャワーを浴びて来て良かった。新しい絹の下着をつけてきて良かった。
電話を切るとイサコはトイレへ行った。トイレの中の鏡の中には、青白い蛍光灯の光りに照らされた中年の女の顔があった。蛍光灯は残酷に、彼女の眼《め》の隈《くま》や、眼尻《めじり》の皺《しわ》を浮き上がらせていた。
たった二時間の間に、イサコは自分が十年も年をとったような気がしてぞっとした。この顔を、Kが十分後に見るのだと思うと、いたたまれなかった。
落ち着いて考えるのよ、とイサコは自分に言いきかせた。どう考えたってKがイサコのような女に、純粋な思いを抱くわけがなかった。単なる遊びなのに違いない。それにどんな事情があるか知らないが、約束を二時間も遅れるような男なのだ。仮りに今夜、Kと深夜の食事をするとしよう。その後は? ホテルへ行くのだろうか? あの日焼けしたどこもかしこも若々しい肉体が、イサコの躰《からだ》に重なる図を想像してみた。それから彼女は自分が二人も子供を生んでいる躰であることを思った。
イサコはトイレから出ると、もうカウンターの席には戻らなかった。そのまま飲みものの代金を払い、逃げるように店を出た。11:25 p.m. 今からタクシーを拾えば十二時前には家に着く。多分夫はまだ帰っていないだろう。たとえ帰っていても、妻が夜中の十二時前に戻るのと十二時過ぎて戻るのと、印象がずいぶん違うはずだ。Kを待てば、自分は絶対に三時前には帰宅できないだろう。しかし、もう二度と、そのようなめくるめく時を自分が持てないのかと思うと、後ろ髪を引かれる思いだった。たとえたった一夜のアヴァンチュールのために家庭も夫も全《すべ》て失うことになっても、かまわないじゃないか、という思いが吹き上げた。11:25 p.m. 再びそういうチャンスはないかもしれないのだから。心がひどく揺れた。Kが欲しかった。と、その時空車のタクシーが眼の前に止まって、ドアが開いた。その開かれたドアの中へ、イサコはほとんど上の空で滑りこんだ。諦《あきら》めが胸を浸した。
壁の月
夏の間あれほど賑《にぎ》わった避暑地は、嘘《うそ》のようにひっそりとしている。もう秋。
木立の間に見え隠れしている別荘はどれも鎧戸《よろいど》を固くおろし、木洩《こも》れ日の中を黄色く色の褪《あ》せた落葉が、絶えず身をひねりながら舞い落ちていく。
落葉は都志子の肩にもふりかかる。頬《ほお》をかすめる時、乾いた微《かす》かな感触を残して足元に散る。そしてアスファルトの日だまりの上に、まるで剥《は》がれ落ちた金箔《きんぱく》のように横たわるのだ。
風が吹き、無数の金箔が道路から放れて転がって行く。風は淋《さび》しいほど透明で冷たい秋の風だ。
なんでこんなに淋しい風の吹くところへ来てしまったのだろうと、後悔が泡のように胸を塞《ふさ》ぐ。まるで犯罪を犯した人が犯行の現場に舞い戻るように、再びこの道を歩いているのだ。今度は独りで、独りぼっちで。
あの時もそうだった。都志子はずっと独りだった。けれども自分を独りぼっちだと身にしみて感じたのは初めてだった。あの男と知り合うまではそんな感情とは無縁だった。正確には、知り合い、知り合ったすぐその夜のうちに愛しあい、そして翌日には名前も告げあわぬまま別れたのだった。この淋しさはあの次の朝目覚めた時に忽然《こつぜん》と彼女を訪れ、それ以来夏の間ずっと彼女の胸に巣喰《すく》ってしまっていた。
つまり都志子は、犯罪者が犯行現場に舞い戻るように、彼女の恋の現場に帰って来たのだった。そうせずにはいてもたってもいられない差しせまった気持ちに急《せ》きたてられて、秋の週日の二日間、仕事の都合をつけて上野から汽車に乗った。
恋の現場に立ち戻ってどうなるというものでもなかった。ただ二人が出逢《であ》ったホテルのバーと、バーからそれぞれの部屋に通じる薄暗いマホガニーの廊下と、そして二人が愛しあった部屋とを、もう一度見ておきたかった。見て、そして記憶を葬るつもりだった。二人が出逢い、ホテルルームに向かい、愛しあったという痕跡《こんせき》などあとかたもないだろう故に、あきらめられると思った。是が非でもそうしなければ。あの男のことなど、忘れなければ。でないとあたしは、この淋《さび》しさのために自分を失ってしまう。
あんなゆきずりの男に恋をするなんて。それも一夜だけのことなのに。名も知らず、年齢も仕事も何ひとつわからないあの男。
朝食を部屋に運ばせて二人でとっている時、彼は訊《き》いたのだ。都志子の名前を。
「そんなこと、意味ないわ」と都志子は咄嗟《とつさ》に答えてしまった。そう言ってしまってからすぐに胸が後悔で痛んだ。本心ではなかった。本心なら逆だった。何もかも知りたかった。どうしたら次に逢えるか、名前は、仕事は、歳《とし》は、妻がいるのか、子供たちがいるのか、どこに住み、どんな趣味をもち、どんな女たちとこれまで愛しあってきたのかといったこと全《すべ》てを。
しかし知ってしまえば、都志子は自分が彼にまとわりつくであろうことが怖かった。電話番号を知れば日に何度も彼に電話をしたいという誘惑と闘わなければならないことを予想して怖気《おじけ》づいた。ただの一度なら、事故みたいなものだと思えばいいのだ。しかし、彼との関係が二度三度と重なると、都志子は必ず彼に深く溺《おぼ》れてしまうだろうと確信した。それは、彼の声の質とか、皮膚の感じとか、男から漂う雰囲気とか、ベッドの中の独得の優しい仕種《しぐさ》とか逆に激しさとか――彼女を小さな子供をあやすみたいにあくまで優しく扱うかと思うと、次には娼婦《しようふ》であるかのように濫用《らんよう》し、荒し、痛めつけるのだった――そういったことからわかるのだ。
男に溺れることを恐れるわけではなかった。男によってはそうなってもかまわないと思うのだ。しかし、あの男には、何か奇妙なひややかさみたいなものが心の中心にカチリとあって、それが都志子を怯《おび》えさせたのだ。
どう説明してよいかわからないが、男はほとんどそのひややかな中心部を隠すことに成功していたが、眼《め》のすみとか、口の端とか、ベッドの中でのほんのわずかな行為の端々とかに、その奇妙なひややかさが、ふと露呈することがあったのだ。
冷たい金属に触れるような、触れたらスッパリと切り傷ができるような、そんな感じなのだった。
そんなこと意味のないことだわ、と都志子が答えると、男は薄く笑った。
「僕は一度でお見かぎりか」
口ではそう言ったが、たいして気にする風でもなく、コーヒーカップを口に運んだ。「つまり避暑地の出来事ってわけだな。よくある話だ」
前の夜彼女の躰中《からだじゆう》を愛撫《あいぶ》した唇に触れるカップから、都志子は思わず眼《め》を背けた。昨夜から今朝にかけてあんなに堪能《たんのう》したのに、あたしはもうひもじがっている……。その認識にひどく恥じて、心にもないことを更に言った。
「あれは、あなたのやり口なんでしょ?」
「何が?」
「一人旅のめぼしい女に、怖い話をしてきかせるっていう手よ」
すると男は、眼に一瞬例のひややかさを浮かべて言った。
「女とやりたければ何も怪談話なんてまだるっこしいことをするまでもないさ。単刀直入に口説《くど》くよ」
それから、男は細めた瞼《まぶた》の間からじっと都志子をみつめた。
「君はどうなんだい? あの話が怖かったから僕と寝たのか? つまりそれだけの理由なのか?」
「もちろん違うわよ」と都志子は鼻の先で軽く笑った。「寝たかったから。昨夜はそんな気分だったから、あなたと寝たのよ」
けれども心のどこかで、それだけが理由ではなかったと、認める声が上がった。やっぱり、あの話は怖かったのだ。
あんな怪談話を耳にした後、とても一人でホテルルームで眠れるわけはなかった。たとえ相手が彼でなく、ヒヒ爺《じじい》であろうと一緒に居てくれると言ったらそうしただろう。いや頼みこんでも隣のベッドで寝かせてもらっていただろう。むろんその後で男と女の関係になるかどうかは全然別の問題だ。
事前にどんな話をしようとしまいと、あの夜、あのホテルのバーで彼と出逢《であ》ったことが問題なのだった。あの最初の瞬間、不思議な胸騒ぎがしたのだった。
ホテルのバーはひっそりとしていた。客たちはほとんど各自の部屋に引き上げてしまったらしく、バーテンダーがひとり、薄暗い船ランプの下で夕刊を広げていた。客は都志子だけだった。
避着地には珍しく蒸し暑い夜だった。部屋には冷房がなく、眠れそうにもなかったので、彼女は地下のバーでバーボンの水割りを重ねていた。バーテンダーが欠伸《あくび》をひとつして、音をたてて夕刊の頁《ページ》をめくった。
「今何時?」
質問をしなければ悪いような気がして、都志子は訊《き》いた。
「十時を少し過ぎたところです」
自分の腕時計をチラとみてバーテンダーが答えた。
「バーは何時まで?」
「十一時半まで開いています」
「いつもこんなに空いているの?」
「そうでもないですよ。特にウィークエンドは混みますし。今夜は妙に暇ですけどね」
そう言って、夕刊から眼《め》を上げると、ひかえめではあるが値ぶみするように都志子を一瞥《いちべつ》した。世界中のバーテンダーに共通のあの素早い一瞥だ。
彼女が仕事でタイにいった時に泊まった大きなホテルのバーでも、ロンドンのホテルでも、パリでもニューヨークでも東京でもそうだったが、ホテルのバーテンダーのその種の眼つきは人種を越えて不思議なほどよく似ている。
客質を見分ける眼だ。アラブの石油成金と王様を見分ける眼、単なる金持ちと貴族を見分ける眼、駈《か》け出しの俳優とマフィアのチンピラとを見分ける眼、レディと娼婦《しようふ》とを一瞬にして見分ける眼だ。
都志子は仕事柄一人旅はなれているとはいえ、いつまでたってもこの種のバーテンダーの一瞥は苦手だった。女が一人でバーに入っていくと、躾《しつけ》の悪いバーテンダーは、まるで薄汚い娼婦でもみるように見る。躾の良い方のバーテンダーでも、どうせ男を引っかけに来たのだろうといった態度を鼻のあたりにちらつかせる。
たった今もそうだ。夕刊からチラと上げた短い一瞥で彼はこんなふうに思っているのがわかる。――今夜は、引っかけようにも男がいなくてお気の毒さま――。
そろそろ部屋へ引き上げようかと考えたその時だった。都志子は背中に一種の緊張感を覚えた。人が誰《だれ》かにじっとみつめられている時に覚えるあの居心地の悪い緊張感だ。
誰かが後ろからあたしを見ているんだわ、と都志子は胸の中でゆっくりと呟《つぶや》いて、その不快な緊張感に耐えた。第六感とか本能を信じるとすれば、その何者かはひどく不快な人物に相違なかった。脂ぎった中年男の人相と躰《からだ》つきが彼女の脳裡《のうり》に浮かんだ。振りむかずに無視すれば、そのうち視線を逸《そ》らすだろうと思った。
ふっと冷気のようなものを首筋から背中に感じて思わず躰を強張《こわば》らせた。誰かがすぐ背後に立ちそれから滑るように隣のストゥールに移動して腰を下ろした。都志子は同じ姿勢のまま眼のすみでそっと様子を盗み見た。男の手が眼に映った。
その手はわずかに青白く筋張っていた。手入れのゆきとどいた清潔な手だった。手を見れば、その男のおおよそのことがわかるものだ。都志子はひそかに苦笑した。
「何か、おかしいですか」
静かだがわずかに笑いを含んだ声で、隣の男が呟いた。
「いいえ、別に」
都志子はそう答えながら初めて男の横顔に視線をやった。やっぱり……。手の感じと男の感じはよく似ていた。脂ぎった中年男とはほど遠い、硬質の横顔だった。第六感も本能もどうやらあたっていなかったらしい。
「ずっと後ろからあたしを見ていたでしょ?」
「おや、背中にも眼があるんですね」
男の方もそれで初めて都志子の顔を見た。二人は視線を素早く合わせた。
「今夜はラッキーだな」
「どうして?」
「こんな時間にここで素敵《すてき》な女性と逢《あ》えるなんて、ラッキーですよ」
「私も同じことを言うべきかしら?」
と都志子は微笑した。
「旅なれていらっしゃるね」
「本当はすれているって言いたいんでしょ?」
「そうは言っていませんよ。旅をしなれている、違いますか?」
「どうして分かるの?」
「酒の飲み方、会話の間のとり方、ただそうして坐《すわ》っているその坐り方ひとつだけでも、わかる」
「仕事ですのよ」
「旅そのものが?」
「ええ、そういう雑誌専門のライターです」
「趣味と実益が一致して、いいですね、うらやましい」
「趣味ならね」と都志子は苦笑した。
「でも仕事となると、楽しいことばかりじゃないですから」
「なるほど」と男は口をつぐんだ。少しして、「で、今夜は、やはり仕事ですか?」
「それがここは違うの。休暇なのよ。東京があんまり暑いものだから、ついに我慢出来なくて逃げて来ちゃったの」
「幸運な女性《ひと》だな」
「そうですか?」
男は黒っぽいスーツを着て、スーツと同じ色合のネクタイをしていた。避暑地なのに正装に近かったが、そんなに気にならないのは、リラックスした着かたと態度のせいらしかった。
「二重の意味で幸運ですよ」と男は言った。「ひとつは、逃げて来れる状況。逃げ出したくとも逃げだせずにじっと東京で我慢している人間はゴマンといます」
「そうね」
と素直に都志子はうなずいた。「フリーでライターをしている者の特権かもしれないわね」
「それともうひとつ」と男が続けた。
「このホテルに空き部屋があったこと」
「知ってるわ。ほとんど満員なんですって?」
「お盆ですからね」男はうなずいた。
「もっともこういうホテルは何かの場合にそなえて空き部屋のひとつやふたつ、かならず確保してあるものではあるんだけどね」
バーテンダーが二人の飲みものをそれぞれカウンターの上に置きながら、例の皮肉で酷薄な薄笑いを口の端に浮かべて引き下った。あたしが男をつかまえた、と思って軽蔑《けいべつ》しているんだわ、と都志子は考えた。
「あなたも、東京から逃げだして来た口?」
と彼女は、バーテンダーを無視することにして、男に訊《たず》ねた。
「僕は帰省組ですよ。お盆だから」
「あら、この土地の方?」
「昔はね」
男はそう答えて少し遠い眼《め》をした。
「いつもこのホテルに泊まるの?」
「そういうことになるね。もう長年の習慣みたいなものだけど」
「避暑客には見えないわ」
都志子は男の黒っぽい服装に改めて眼をやった。
「結婚式かなにかあったみたいね」
「お盆にですか」
男は少しひややかな感じに答えた。
「でなければお葬式」
軽口のつもりだった。
「ま、当らずとも遠からずってところですよ」
と男は呟《つぶや》き、酒のおかわりのためにバーテンダーに合図した。
二人は少しの間黙って、それぞれの飲みものを口に運んだ。沈黙が長びくと、都志子がそれとなく言った。
「夜になってもこんなにここが暑いなんて。これじゃ東京と変わらないわね。あたし、損しちゃったみたい」
「今年はめずらしいんですよ。ここでは熱帯夜など、めったにないんだが」
「部屋に冷房がないから、今夜は眠れそうにもないわね」
と、つくともなく溜息《ためいき》。
「普段は冷房など全然必要ないんだけどね」
男はきちっとしたスーツを着ているのにもかかわらず、汗ひとつかいてはいなかった。なんとなく汗っぽい自分が、都志子は少し恥ずかしかった。
「それじゃ、僕が何か涼しくなるような話をしてあげましょうか」
と男が静かに言った。
「つまり、怪談? 面白そうね」
都志子はこころもち男の方へ躰《からだ》を傾けて笑った。
「実はね」と男が横顔を見せたまま淡々と語り始めた。「昨夜のことなんだ――」
いつになく眠りにくく、蒸し暑い夜だった。バーで飲んだ後、シャワーを浴び、寝酒にブランディーのミニチュア瓶《びん》をひとつあけてベッドに入った。それからシーツの少しでも冷たい位置を求めてベッドの上を転々としたあげく、いつのまにかうとうとまどろんだらしい。
男はふっと室内の薄暗闇《うすくらやみ》の中で眼をあけた。少し前から、眠りのふちで何かひどく厭《いや》な気分がしていたのだ。
ゆっくりと目覚める過程で、その何ともいえない不快な気分はいっそう強まった。彼をとりかこむ夜気に異変があるような、そんな感じだった。
暗い室内の空気が、かたまりかける寸前のトコロテン液のような半流動体になっていて、吐き気を催すほど濃密にたちこめているようなのだった。
しかも何ともいえぬ不安感、いたたまれないような差しせまった危機感もあった。
男はしばらくの間じっと息を殺して、自分を金しばりにしているものの正体は何なのかと考えた。日覚めの直前まで何かひどく恐ろしい夢でも見ていたのかもしれないと思った。夢の内容は忽然《こつぜん》と記憶から拭《ぬぐ》い去られているが、恐ろしさの金しばり状態だけが肉体に残り続けているのかもしれない、と。
彼はホテルルームの中を、眼だけの動きでゆっくりと眺めていった。
そのうちに、何かが妙だと思った。そう感じたとたん、背筋にそって生毛《うぶげ》が逆立った。電気は全《すべ》て消してあり、カーテンがぴったりと閉じているのにもかかわらず、室内が仄白《ほのじろ》いのだった。
それは不思議な仄白さで、ナイトテーブルや椅子《いす》や、その椅子の上に脱ぎ捨てた彼の衣服や、壁の上のマチスの複製画などを、浮き上がらせていた。
まるで月光に照らされているみたいな光景だと、男は頭の片隅でぼんやり考えた。むろん、カーテンが閉じているから、仮りに外は月夜だとしても、月光が射《さ》しこんでくるはずはないのだが。
室内の物体の輪郭はくっきり浮かび上がっていたが、そのどれもが蒼白《あおじろ》く色彩を失っていた。男の胸は得体《えたい》の知れないせつなさで満たされていた。
彼は視線を壁に沿って這《は》わせて行った。バスルームに抜ける通路の上部の壁のところで、男の視線はぴたりと釘《くぎ》づけになった。
壁と天井の境目のあたりに、月が掛かっているのだ。男は一瞬、狐《きつね》につままれたような気持ちになって、その月を眺めた。三日月だった。鎌のような鋭い月であった。
なぜ月が室内に? と彼は思わず声に出して呟《つぶや》いたほどだった。それほど突拍子もなく奇妙なことだった。
最初は何かの反射だろうと考えた。しかしカーテンはあくまでもぴったりと閉じているのだった。あと考えられるのは、これは夢の中の出来ごとだということだ。
時々、ああこれは夢なのだと思いながら夢をみていることがある。それと同じだ。夢なら覚めるだろう、と、彼は頭を振った。馬鹿《ばか》みたいに頬《ほお》をつねってもみた。
頬をつねると痛かった。とすると夢ではないのかもしれない。細い三日月は一種すごいような蒼白《あおじろ》さをたたえて、まだ壁の上部に掛かっているのだった。
よく眼を凝らすと、月面のクレイターらしきものの一部までうっすらと見えるのだ。よく晴れた夜空の月がそうであるように。
はて、なぜ月が室内に掛かっているのだろうか、と男はもう一度自分に問いかけた。なぜなのだ。何かの反射でもなく、夢でもないとすると、あれは何なのだ?
悪寒《おかん》のようなものが走りぬけたと同時に、笑いが突き上げてきた。なんとも理解しがたい奇妙な状況に接すると、もう笑ってしまうしかないという状態だ。
男は室内の淡い月光に照らしだされながら、一人で声を殺してクスクスと笑った。
笑いを口のあたりに残しながらベッドを抜けて窓へ寄った。カーテンを押し開き、夜空を見上げた。夏の霞のかかったような夜の空に、ぼんやりと輪郭をみせて、月が掛かっていた。
その月は三日月ではなく半月であった。
男は振りかえって、室内の月をもう一度みた。壁の上の月はいっそう蒼ざめて、冴《さ》え渡っているのだった。変だな、外の月より、この部屋の中の三日月の方が本物に見える。そう男は呟《つぶや》いた。
二つの月を見たために、彼はひどく気分が悪くなった。船酔いのような、二日酔いのような気分で、脂汗が滲《にじ》んだ。男はバスルームに急ぎ、便器の中に少し吐き、それから冷水でシャワーを浴びた。
冷たいシャワーのおかげで、気分は嘘《うそ》のようによくなった。たっぷり眠った後の目覚めのように爽快《そうかい》だった。
鼻唄《はなうた》でも歌いたい気分でひき返してみると、しかし壁の上の月はまだ依然としてそこに掛かっていた。出かかった鼻唄がひっこみ、彼は憮然《ぶぜん》として再びベッドに横たわった。
ずいぶん長いことそうして彼は三日月を睨《にら》みつけていた。そして眠りが訪れるのを待った。しかしどう考えても部屋の中に月が掛かるのは妙なことなので、そのために彼は眠れそうにもなかった。
どれだけ時間がたったのだろうか。男は喉《のど》に乾きを覚えて、首をナイトテーブルに振りむけた。ナイトテーブルの上には、水差しとグラスが置いてあった。水差しに手を伸ばしかけた瞬間であった。グラッときた。
地震だと思い咄嗟《とつさ》に動作を止め様子をうかがった。かなり激しい揺れだった。
男はベッドから降りようと身を起こしかけて、おやと思った。
天井から下っているランプは微動だにしていないのだ。ベッドがガタガタと音をたてて上下しているのに変だな、と何気なくナイトテーブルを眺めた。水差しの中の水も、全く水平で、揺れていない。
そのうちにベッドの上下動に横揺れが加わった。ベッドの両ふちに手をかけて躰《からだ》を支えないと振り落とされそうだった。男はベッドにしがみついた格好で、地震が終わるのを待った。
ベッドはまるで荒れ狂う大海の中の小さなボートみたいに揺れ始めた。何メートルもある大波に持ち上げられたかと思うと、奈落《ならく》のような海底に落ちていくあの感じとそっくりだった。変じゃないか、理屈に合わないじゃないか、と呟《つぶや》くのがやっとで、ベッドから放り出されまいと彼は必死だった。
気の遠くなるほど長い時間彼はあばれまわるベッドにほんろうされていた。
疲労|困憊《こんぱい》してほとんど気を失いかけていた。
ふと気がつくと、地震は終わっていた。ベッドはもはやカタリとも揺れなかった。
今のは何なのだと、男は、またしても声に出して呟いてみようとしたが、声はしゃがれて出なかった。地震なら、ランプが揺れるだろうが。水差しの中の水が波をたてるだろうが。
揺れていたのは、ベッドだけだった、という認識が彼を襲った。ベッドが生きものみたいに暴れたのだ。次の瞬間男はベッドから転がり降りた。
壁と天井の境目には、月がまだ掛かっていた。何だこの部屋は〓 男の眼が廊下に通じるドアをとらえた。彼はドアに駈《か》け寄って、さっと押し開いた。
と同時に廊下から生温い厭《いや》な風が吹きこんだ。男は一瞬|怯《ひる》んだ。次に思い切って顔を突きだした。
多分、他の部屋でも地震で眼《め》が覚めたのだろうか、いっせいにドアが廊下にむけて同じように開かれていた。そして同じように人々の頭が突きだされていた。
男は右の方を見ていたので、同じように向こう側を見ている人々の黒い後頭部が、数えると七つばかり見えた。彼はあわてて今度は左の方を見た。
と、左側の泊まり客がいっせいに向こうへ頭をひねるのが見えた。部屋数は五つ。五つのドアがいっせいに開いており、彼同様左の方向を眺めている人たちの、やはり後頭部が五つ見えた。
その階は四階であった。廊下の片側にだけ部屋が全部で十三室あるわけだった。男はもう一度首をねじって、最初の右方角を眺めた。すると七人の人々の顔がじっと自分に注がれた。背筋がぞうっと凍りついた。七つの顔はのっぺらぼうであった。
とたんに舌が喉《のど》の方にむかってめくれ上がった。男は反射的に左側をチラと見た。五つののっぺらぼうが彼の方を見ていた。男はドアを力一杯閉めてその場に尻《しり》もちをついた。
「大の男がと君は笑うかもしれないが」と男は話し終わると都志子に言った。「あの時は完全に腰が抜けたね」
「それでどうしたの?」
「部屋から一歩も出なかったよ」
「その夜は寝なかったの?」
「あのベッドの上で?」
「月はどうしたの?」
「夜が明けると自然に消えた」
「それをずっと見ていたの?」
「他に何が出来る?」
男は憮然《ぶぜん》として言った。
「ほんとうにのっぺらぼうだったの?」
と都志子は疑り深い口調で訊《き》いた。
「僕が嘘《うそ》をついていると思う?」
男はひんやりとした眼《め》で都志子を見た。
「右の部屋も左の部屋も、全員正真正銘のっぺらぼうだった」
と男は断言した。
「その時、あなた鏡でご自分の顔を見ておけばよかったのに」と都志子は少しからかうような口調で言った。「鏡に映ったあなたの顔も、のっぺらぼうだったりして」
男は笑わなかった。
「あたし思うんだけど」と都志子は、ゆううつそうな男の横顔をチラと見て続けた。「結局、夢だったんじゃないのかしら」
「どこからどこまでが?」
と、いよいよゆううつそうに男が呟《つぶや》いた。
「初めから終わりまで。壁に掛かっている月を見たところから」
「頬《ほつ》ぺたを力一杯つねったんだぜ」
「でも眼がさめなかったのよ。よっぽどぐっすり眠っていたんでしょうね」
男はグラスの中の氷とウィスキーを眺めていたが何も言わなかった。
バーテンダーがわざとらしく腕時計を見て、二人の前から水や氷を片づけ始めた。男は伝票を取り上げるとストゥールを降りた。
「お部屋、替えてもらったの?」
「一応頼んではみたんだけどね」と勘定を払いながら男が答えた。「シーズン中なので空き部屋はもうないって断られた」
「その空き部屋にあたしが入っちゃったから」
二人はそれとなく並んでバーの外へ出た。
「今夜も、お部屋の壁に月が掛かると思う?」
「確かめに来てみる?」
さりげなく男が訊《き》いた。
「のっぺらぼうなんてみたことないから、見てみたい気もするわね」
「じゃおいでよ。ベッドは二つある」
都志子は立ち止まり、男を見上げた。清潔そうで、どこか信頼できそうだった。
「じゃ行くわ」と都志子は呟《つぶや》いた。「でも誤解しないで。好奇心に勝てないのよ、あなたの魅力に負けたんじゃないわ」
「ということにしておこう」
男はようやくニヤリと笑った。
二人は暁の白さの中で、ようやくまどろみ始めていた。ベッドは乱れシーツは皺《しわ》だらけだった。上掛けの毛布はどこかに行ってしまって、なかった。ベッドの上だけでなく、室内はまるで戦場のようだった。愛の戦場だわ、と、眠りの中へ落ちていく寸前、都志子は心の中で呟《つぶや》いた。あたしたちは死闘をしつくしたみたいに、疲れ果てている。
「ねえ、もう眠った?」
かすれた声で都志子は男に話しかけた。
「眠りかけていたところ」
ぬるくけだるい声で男が答えた。
「やっぱり、夢だったのよ、あれ」
「あれって?」
「三日月とか、のっぺらぼう。出なかったわね」
「……ああ」
男は眼《め》を閉じたまま、短く答えた。
「それとも、作り話?」
都志子は男の鎖骨のあたりに額を押しつけながら言った。「作り話で、あたしを誘惑したの?」
それに答える男の声はなかった。男は眠っていた。
再び訪れたホテルのロビーには人気はなかった。夏にはあんなに混んでいたテラスにも、誰《だれ》もいない。恋の現場に舞い戻ってきたのに、どこか別の場所へ足を踏み入れてしまったみたいな気持ちだ。思い出は心の中にしまっておくべきなのだわ、と都志子はもう一度思った。過去を掘り起こしてはいけないのかもしれない。
あの男と、あの激しい一夜のことを、忘れるために、葬るために、ここに来たはずだった。けれども人気のないロビーに立ったとたん、この旅の目的がはっきりとしたのだった。葬り去るためなんかではないのだ。再現するためなのだ。八月のお盆の時に、四階の四〇六に泊まっていた男の名前と住所とを何としてもフロントで訊《き》きだすために、あたしははるばる季節外れのこのホテルに来たのだ。
そう認めてしまうと、はるかに気持ちは楽になった。あの夜以来、一刻も忘れることができなくなったあの男の住所を探しだすために、自分は来ているのだ。
「もし出来たら四階の四〇六号室に泊まりたいんですけど」
と、都志子はフロントの係に申し出た。
「よろしいですよ。空いていますから」
係の男は無表情に答えた。その顔を見ると都志子は咄嗟《とつさ》に男のことを訊《たず》ねかねた。あとでまた機会を見て聞くことにしようと思った。少し顔なじみになり、愛想よくしておいた方が聞きだしやすいかもしれない。フロントの係から渡されたキーを持って、都志子は部屋に向かった。
四〇六号室のドアを押し、中に入り、都志子は二人が使ったベッドを見下ろした。あの夏の一夜の二人の姿態がまざまざと脳裡《のうり》に蘇《よみがえ》った。都志子の躰《からだ》がぐらりと揺れた。胸がしめつけられるように痛んだ。
都志子は夕方までホテルの周囲を散歩して歩いた。落葉を踏みしめながら、あの夜とあの男のことだけを思っていた。
秋の陽《ひ》が沈むと部屋に戻り、バスを使い着替えて下に降りた。
ゴルフ客が全部で十人ばかり食堂で談笑しているのが見えた。夕食の前に軽くアペリティフをと思い、地下のバーに降りた。
バーテンダーは同じ男だった。
「今晩は」
と都志子が言った。
「いらっしゃいませ」
男はひかえめに言い、それから都志子の顔を思いだして笑った。
「夏に一度いらっしゃいましたね」
「ええ、お盆の時に」
「その時もお独りでしたね。独り旅がお好きなんですか?」
「まあね」
と都志子はあいまいに答えた。
「たしか、お好みはバーボンでしたよね」
夏の頃《ころ》とは対照的に、バーテンダーは愛想がよかった。よほど退屈していたのだろうか。
「まあ、よく覚えているのね」
「それが私の商売ですからね」
バーボンの水割りをバーテンダーが作るのを見守りながら、都志子は出来るだけさりげなく言った。
「ほら、あの夜、この席に坐《すわ》った男のひとのこと覚えている? のっぺらぼうの話をここでしていたひとよ」
「のっぺらぼう?」
バーテンダーがきょとんとした顔をした。
「あなた、そこで聞いていたじゃない、一緒に」
「覚えてませんねえ」
「お盆の時よ。他にお客は一人もいなくて、あたしと、そのひとだけだったわ」
「確か」
とバーテンダーは遠くを見るような眼《め》をして言った。「あの晩、お客さまは独りでしたよ」
「だから、あたしとそのひとと」
「いえ、おたくだけでしたよ、そうだ思いだした。やけに暇な夜だもんで、早く閉めたかったんですよ。おたく独りだから、悪いけど早く帰らないかなってそんなこと考えたの覚えてますよ」
人の記憶がいかにあてにならないか、その良い例だった。人の飲みものの名前は覚えているのに、と都志子はおかしいような、ふに落ちないような気分だった。
「で、それがどうかしましたか?」
とバーテンダーが都志子の飲みものをカウンターに置きながら訊《き》いた。
「いえ、別に。ただ、覚えているかなと思っただけよ」
「記憶にないですねぇ。あの夜は絶対お客さまはおたく一人だけで、そうだ、その同じ席にずっと坐《すわ》っていたでしょう?」
「でもあのひと、三泊したはずなのよ。その前の夜もバーで飲んだって言ってたから。そうだわ、ほら、暑い時だったのに黒っぽいスーツ着てた人よ。ネクタイも黒っぽかったんで、あたし、お葬式帰り? なんて訊《き》いちゃったもの」
「黒いスーツねぇ」
とバーテンダーは首をひねった。
都志子はあきらめてバーボンを喉《のど》に流し込んだ。
バーテンダーが彼のことで何かを覚えていたら、少し話してみたかっただけだ。あの男のことについてなら、どんなささいなことでも知りたかった。
「おかわりなさいますか?」
と、バーテンダーが訊いた。
「いえ、食事前だから。またあとで来るわ」
と言い残して、都志子はバーを出た。
食堂へ向かう前にフロントに寄った。バーテンダーがあんまりきっぱりとあの男の存在を否定するので、多少は腹が立ってもいたのだ。
「あの、お願いがあるんですけど」
フロントの係は先刻とは別の男だった。
「なんでしょうか」
と微笑を浮かべる。感じは良さそうだ。
「実はこのお盆にあたくし、ここに泊まったんですけど」
「は、まいどありがとうございます」
「ああ、いえ。……その時に、写真を撮ったんですの、ここにお泊まりの方が何人かご一緒に写ってるんですけど」
都志子は背中をしたたり落ちる汗の感触に顔をしかめた。
「写真が出来たらぜひ送って下さいって名刺頂いたのに、それ失くしちゃったの。約束を破るのも嫌だなと思って……あの、四〇六号室に、お盆の三日間泊まってらした方ですわ」
「お盆の三日間ですね?」
と係の男は宿泊者名簿を開きながら訊《き》いた。「お名前は?」
「それが名刺を失くしたものですから」
フロントの係はチラと眼を上げた。
「四〇六号室ですね?」
「すみません」
おそらくそれはルール違反なのだろう。しかし係の男はなぜか都志子を信用することにきめたらしかった。
「おや」
と男は呟《つぶや》いた。「四〇六号室は、お盆の三日間空き部屋になってますねえ、おかしいな」
「そんなはずありません。ちゃんと泊まっていました」
「しかし、ホラ」
と係は台帳を示した。
「でも、お盆の頃《ころ》は全室|塞《ふさ》がっていたと聞きましたけど」
「私もそう思ったんですが」
係は台帳を閉じながら言った。「急なキャンセルでもあったんでしょう」
「何かのまちがいですわ」
都志子の顔色が変わった。「だってあたし、四〇六号室に泊まっていた方と一緒に……」と言いかけて不意に口をつぐんだ。フロント係の眼《め》が光った。
「記録によりますと、あの部屋はお盆の間三日間、空き部屋でした」
それが結論であるというような言い方だった。
「つけまちがいということもあるわ。念のため他の部屋も調べて下さい。男性一人で泊まったんです」
フロント係はしぶしぶと台帳に眼を通した。
「お盆の頃《ころ》の一人客は、女性の方がお一人だけですねえ」
「それは、あたしよ」
「しかし、男性の一人客は全くありません」
「でも変よ、じゃあそこに泊まっていたのは誰《だれ》なの?」
思わず悲鳴のような声を都志子があげた。それではあの夜起こったことは何なのだ? 都志子を抱いたのは誰なのだ。部屋中を愛の戦場みたいにした男は? 朝、一緒に遅めの朝食を二人で食べたではないか。
しかしフロント係の男は、逆に批難《ひなん》するような表情で都志子を見返すのだった。
「ユーレイでもみたんじゃないですか」
冗談のつもりだろうが、それにしても悪い冗談だと都志子は思った。
彼女はすっかり頭が混乱していた。食欲などとっくになくなっていた。気を落ちつけるために、自分の部屋に戻った。
そうよ、この部屋よ。まちがいないわ。あの人の部屋だったわ。あの人は確かにこの部屋で三日間を過ごしているのよ。
だが、フロント係の口調は断固としていた。お盆の三日間四〇六号室は空き部屋だった、と。それに男性の一人客はなかった、と。
そして、あのバーテンダー。彼もあの男のことを否定した。
とすると、あの夜のあの男はこのホテルに一度も存在しなかったということになる。フロント係とバーテンダーの言葉を信じれば、だ。
そんなバカな、と都志子は頭を激しく振った。あたしが知ってるもの。あたしが覚えている。あたしの躰《からだ》が、あの男をしっかりと記憶している。
都志子はあの夏の夜愛しあった同じベッドに横たわって固く眼を閉じた。
ということは、もう二度とあのひとをみつけだす手だてはないということだわ。
あれこれ思い悩むうちに、都志子はうとうととしたらしい。
ふと、厭《いや》な予感のようなものがして、浅い眠りから眼を覚した。しんとしていた。
室内には、月光が射《さ》しているかのように、全体に仄白《ほのじろ》かった。
いつのまに眠ってしまったのかしらと呟《つぶや》き、腕時計を見た。十二時を過ぎたところだった。とすると三時間以上も眠ったらしい。
口の中が粘ついていた。胸が妙に重苦しい。空気が濃密で、微《かす》かな吐き気がする。空腹でバーボンを飲んだせいかしら、と思った。
仄白い室内を眺めていると、胸が妙にざわざわと騒いだ。おかしいとふいに思った。月の光が射しこんでいるような感じなのに、カーテンは閉まっているのだ。はっとして壁づたいに視線を移した。なんということだろう、天井と壁の境目に、月が出ている。三日月だった。都志子は打ちのめされたように、ベッドに身を沈めた。
あの話は本当なのだわ、と金しばりの状態で彼女は思った。ベッドに釘《くぎ》づけにされたように横たわっている都志子の上に、月の青々とした光が惜しみなくふりそそいでいた。やがて、ベッドがぐらりと揺れた。
初出誌一覧
ふたり  「クロワッサン」一九八六年三月十日号
優しい別れ 同 一九八六年三月二十五日号
星と夜光虫と雪とバラと 同 一九八六年四月十日号
|欠 伸《あくび》   同 一九八六年四月二十五日号
ブランチ  同 一九八六年五月十日号
いつもの日曜日 同 一九八六年五月二十五日号
カフェバー 「マリ・クレール」一九八五年八月号
誤 解  "Suntory Quarterly" 一九八五年六月 季刊21
バーミラーの女と男 「週刊小説」一九八五年七月十九日号
ポール  「詩とメルヘン」一九八四年十月号
シルキーな女 「夕刊フジ」一九八六年六月二十八日
年上の女  同 一九八六年七月七日
お楽しみはこれから 同 一九八六年七月十二日
カマボコとカマス 同 一九八六年七月十九日
カーペットの情事 同 一九八六年七月二十六日
|煙 草《たばこ》   同 一九八六年八月二日
バード・ウォッチング 同 一九八六年八月九日
誘 惑   同 一九八六年八月十六日
強がり   同 一九八六年八月二十三日
白いドレスの女 同 一九八六年八月三十日
カラオケ  同 一九八六年九月六日
夢物語   同 一九八六年九月十三日
弦楽四重奏 同 一九八六年九月二十日
駈《か》け落ち  同 一九八六年九月二十七日
夫婦の風景 「家庭画報」一九八六年八月号
あっ   「週刊小説」一九八六年二月二十一日号
だめ?  「増刊週刊大衆」一九八四年七月四日号
声    「別冊婦人公論」一九八四年冬
食事友だち 同 一九八五年夏
11:25 p.m.  同 一九八六年夏
壁の月  「週刊小説」一九八五年十月十一日号
角川文庫『彼と彼女』昭和62年6月25日初版発行
平成9年11月30日43版発行