森 瑤子
女ざかり
目 次
一 性 夢
二 動 揺
三 喪 失
あとがき
一 性 夢
風が吹いている。
風には色がない。暖かいとか冷たいとか温度もない。たとえばはるか宇宙の彼方《かなた》から吹き寄せてくる風があるとすれば、それに似ている。微《かす》かな死臭があるという意味で。
一陣また一陣吹きつのる風。長い髪が黒い炎のように舞い上がる。乃里子はそれを眺めている。
自分の姿が見えていると気づいた瞬間に、これは夢なのだと彼女は感じる。
吹く風の中をひた走る。恐ろしいような速度だ。前方に点が見える。点は見るまに人の形をとり始める。目前に迫る汗に濡《ぬ》れた男の背中。手を伸ばすのだが触れそうでいてなかなか触れ得ない。その男《ひと》が誰《だれ》であるか走っている乃里子は知っているが、それを見ている乃里子自身は知らない。知らないというか思い出せない。走っている乃里子と、自分の背中を見ている乃里子のギャップが厳然としてある。
非常に懐かしいひとである証拠に、どちらの乃里子も激しく胸を締めつけられる思いは共通だ。
気がつくと、身につけていたものが消えてしまっている。自分が一糸まとわぬ裸体であると意識したとたん、超高速から超低速へと、駈《か》ける速度が一気に落ちる。スローモーション映画の画面と同じ動きだ。前方を走る男の美しい裸体が、ストロボの映像を見るように白い無数の残像を残して、ゆっくりと遠ざかる。ゆっくりではあるが、確実に遠のいていく。
足の裏に触れる土の感触がいつのまにか消えている。彼女の足は虚《むな》しく空《くう》を蹴《け》るばかりだ。と、躰《からだ》が前方に傾いていき、乃里子は飛び始めているのだった。
なんと幸福なことか。幸福というより無限に快楽《エクスタシー》に近い。頬《ほお》を掠《かす》めていく風の温度は体温と同じだ。前方を同じように飛んで行く男が再び見えてくる。自由自在に美しい弧を描いて飛びながら、乃里子は男との距離を縮める。縮める。縮める。
けれどもどれだけ近づいても、ある一定の距離以上に近づけないことを、突如として彼女は知る。手を伸ばせば触れられるところにいながら、永遠に届きそうもない。たて続けに乃里子は男の名を呼ぶ。
先を行く男が首だけを捩《ねじ》るようにして振り返る。ひんやりとした美しい横顔。乃里子に注がれるひんやりとした一瞥《いちべつ》。
そこで乃里子は眼覚めた。眼覚めたとたん、男の暗い横顔も、闇《やみ》の中で三回呼んだ男の名前も、嘘《うそ》のように忘れてしまっている。動悸《どうき》だけが怪しく胸に残り続けていた。そして深い眠りの鉢型の暗闇の中へ、再び滑り下りていく。なすすべもなく。
鏡の中に乃里子がいる。しきりに口紅を塗ろうと唇の上に紅を引くのだが、どうした訳か色が引けない。
塗っても塗っても色が出ないので彼女は半狂乱のように、口紅を塗りたくる。そのうちに鏡の中の世界が暗澹《あんたん》としたモノトーンに塗りこめられていることに気づき、またしてもこれは現実とは違う世界、夢なのだ、と感じる。
鏡の中に、一人の男の姿が映し出される。それが誰であるか知っている乃里子は咄嗟《とつさ》にその場から逃げる。けれどもすぐに追いつかれ後ろから羽交締《はがいじ》めにされたまま、倒れこむ。
身につけているきつめのタイトスカートがいきなり尻の上までたくし上げられる。下着が、まるで一枚の皮膚を剥《は》ぐような具合に、剥ぎ取られる。めちゃくちゃに暴れ回る乃里子。背後から膝《ひざ》を割って、一気に彼女の中に侵入する男。
後ろから男に刺しつらぬかれて、乃里子は動かなくなる。虫ピンで刺し止められた昆虫のように、硬直して息を止める。憎悪が諦《あきら》めに変る。男の荒い呼吸が耳に熱く絡みつく。その呼吸にあわせて、彼女もまた、いつしかあえいでいる。男が何か耳の中に言う。乃里子の名前のようでもあり、女の性器の俗称のようにも聞こえた。あるいは、おまえが好きだと言ったようにも、憎いと言ったようにも思われる。呟《つぶや》きのようでもあり、絶叫のようでもあった。男は女の背中の上にへばりついたまま、いっそう喘《あえ》ぎ痙攣《けいれん》する。すると乃里子も同様に痙攣して喘ぐ。嫌悪《けんお》感と同じ量の歓《よろこ》びが、下腹の一点にむかって凝縮していき、ためられるだけためられると、一気に弾けて散る。
耳なりがして轟音《ごうおん》がしていた。あるいは逆かもしれない。ベッドに押しつけられていた左胸の中で心臓が激しく鼓動している。乃里子はゆっくりと閉じていた眼を開いていった。下腹の奥に快感のなごりが燻《くすぶ》っており、濡れた繁みの周辺に甘美なしびれが残っていた。
朝にはまだ当分間のある暗がりの中で、彼女は凝《じつ》として闇《やみ》を見すえた。
快楽の曲線は急激な下降線を経て、闇の底で平板な直線となる。すると乃里子の胸は嫌悪と腹立たしさでたちまちにして泡立ってくる。夢の中で背後から彼女を犯した人物の顔を一度も見なかったが、それが夫の治夫であるということだけは意識から一瞬たりとも逸《そ》れなかった。
夢の中で夫に犯されるという感覚は、たとえば兄とか父親とか近親|相姦《そうかん》に似て、乃里子に吐き気を催させた。
彼女はベッドサイドのランプのスイッチを入れて、躰《からだ》を起こした。
少しの間躰を硬くして胃の中の泡立ちに耐えていた。やがて吐き気のようなものがおさまると、傍の夫のベッドを見やった。
ベッドはその夜も空だった。長いこと、枕《まくら》の膨《ふくら》みを凝視していると、今度は焦燥感で躰が震えてきた。一度だって私を満足させたことがないくせに、と怒りで肉体が滾《たぎ》る。
もっていきようのない感情をもてあまして、乃里子はいきなり夫の枕を鷲掴《わしづか》みにすると、壁にめがけて力一杯投げつけた。
たとえ夢の中ででも、男の肉体によって性的な歓びを授けられたのは、後にも先にも初めての経験だった。自らの手指による快楽は知っていたが、そして快楽の質にさほど大きな違いはなかったが、男によってそれを与えられたのは、とにかく三十四年の女の人生の中で最初の出来ごとだった。
自分は不感症だと信じて一度も疑わなかったし、夫の治夫もまたそれを認めて結局若い女に走ったわけであるが、もしかしたら、私はその不名誉のレッテルを返上出来るのではないかと、ちらと考えたりもした。
けれども、その快楽を与えたのが夢の中の夫ではなく、その直前の夢に出てきた、冷ややかな横顔を持つ男であったら、どんなにか良かったろうか、と彼女は想像の枠を広げるのだった。あの見知らぬ冷たい横顔を持つ男に対して、非常に強い郷愁があった。
けれどもそれを誰か一人の人間に絞ることはほとんど不可能な気がした。強い郷愁を覚える部分で、夢の男は一部兄のようでもあり父親のようでもあった。夫の辻井治夫のようでも、かつて愛したり恋したり思いを寄せてきた男たちの一人一人のようでもあった。あるいはそれら全てを寄せ集めた感じ。確かな見憶《みおぼ》えがありながら、全く見知らぬ他人なのだった。
乃里子は再びシーツの間に躰を横たえて灯を消したが、眠れそうにもなかった。肉体の飢えのようなものは一旦癒《いつたんいや》されたような気がしたが、しばらくたつと躰の奥で疼《うず》くものがあった。彼女にはそれが肉体のひもじさなのか、精神の渇きなのか判然としなかった。
同居している義母の辻井わかが、このところずっと沈んでいる。夫の母が何を考え、何を不満に思っているか、一緒に寝起きしている乃里子には大体察しがつく。『辻井ふとん店』から『ランジュ・ド・メゾン』という名の店にイメージチェンジをすることに、消極的なのだ。年寄りにすればずっとふとん屋でやってきてそれなりの商売は成りたってきたのだから、何も横文字のベッド用品を中心とした寝装用具の店に改装しなくとも、という思いがあっても不思議ではない。大きな変化を、年齢的に受け入れにくいこともあるがそれ以上に、自分の存在理由が怯《おび》やかされる、と感じているようだった。
乃里子としては、改装に至るまで時間をかけて、義母を説得したつもりだった。夫の方は口では何だかんだと面白《おもしろ》くないことのように言うが、基本的に妻の案に賛成していた。むろん治夫の性格から言って、積極的な賛成の態度は見せなかったが、もし彼が本当に反対しているとすれば、たとえ乃里子でも強引に押し進めることなど出来ない。何と言っても夫は男であるし、『辻井ふとん店』の主《あるじ》でもあるわけだから。
「お義母《かあ》さん、今日午前中に改装の人が来ますから」朝の食卓をはさんで、乃里子ができるだけさりげなく言った。
「改装?」わかはしかし、さも初耳だといわんばかりのニュアンスをその短い言葉にこめる。
「何度もお話しましたよ。たいした改装じゃないから夕方までには終る予定です」相手の投げて来た罠《わな》にかかるまいと、おだやかに言う乃里子。
「ええ、聞きました、何度も」それきり二人は黙りこむ。
「亜矢は何時まで眠っているつもりかしら」と乃里子が時計を見上げて話題を変えた。
「何度も聞いているけど、賛成したわけじゃありませんから」と夫の母は話を元に引き戻す。気まずい空気の中で、乃里子が朝食に手をつける。するとわかは、朝から食欲があるわね、と妙に感心した声で言った。決して厭味ではないので、躰が資本ですから、と嫁は微笑で答えた。
「それにしても治夫もしようがないわねえ、この忙しい時に」老母は急に折れたように嫁に同情した。それで乃里子は思いだして、そうそう、と義母の顔を見る。「午後から一人店員が面接に来るんですよ」
わかの顔から今しがたの同情の色が薄らいだ。
「店員?」
「ええ、ちゃんとした人を一人、入れようと思って」治夫の了解はとってあった。
「ちゃんとした人を、ね」
店も新しくなるし、売るものも全部入れ替えるから、今までのふとん屋からイメージチェンジするついでにと思った。
「わたしは、ふとん屋のおばあちゃんそのものですからね」わかは冷えたお茶を口に含む。
「フランス製の枕カバーやシーツを扱うような店に、薄汚い年寄りがうろついていたら、そりゃイメージダウンだわねえ」
「そんな……」乃里子は困惑する。「まだまだ手伝ってもらわなければならないこと、たくさんあるわ、お義母《かあ》さん」
「どうだか」わかはこちらの心を見すかすように言ってから、「このところ、ずいぶんがんばっているみたいだけど、亜矢」と急に話題を転じた。
「六月に支部大会があるんですよ」ほっとして乃里子が答えた。「この前の校内大会で千五百メートルに学校新をたてたものだから、欲が出たんでしょう」
「欲だといいですけどね」妙に含むところがあるみたいな言い方だった。乃里子はそれを機に娘を起こして来ますとテーブルを立った。わかから発散される不満の空気にそれ以上耐えられそうにもなかったからだ。
十四歳になる娘の部屋には、甘いような若い女のにおいがしていた。入るなり窓をがらがらと左右に押しあけておいて乃里子が言った。
「一日なまけるとペースを取り戻すのに三日かかるわよ、さあ、起きた起きた」
すると亜矢は反抗的な声で、ペースを取り戻すのに苦労するのはママじゃなくてこのあたしなんだから、というようなことを言い返した。
自分の血を分けたたった一人の娘に反抗的な態度を示されると、かっと頭に血が昇るが、乃里子は最近それを自分と夫との不仲に原因を結びつけて、強い言葉を呑《の》みこむことが多かった。
そうすると娘にかける言葉が極端に少なくなった。口を開けば文句になったり愚痴になるから、黙ってしまうのだ。
つい先日も夫婦でそのことについて口論をしたばかりだった。
「最近君は、亜矢と話しあったことがあるのか」と治夫が何かの拍子に訊《き》いた時のことだ。
「亜矢の話に耳を傾けてやったことはあるのか、食事に連れだすとか、ケーキを食べるとか、母娘で過ごしたことがあるか?」
勝手に外に女を作っておいて夫がどんな顔してそんなことが言えるのかと、乃里子は冷ややかに答えた。「このところ私が仕事のことで手が回らないことくらい、わかっているでしょう。それに外で食事をしたりケーキを食べたりすることが、唯一のコミュニケーションであるとも思わないわ」
「もちろん、そうです」と一旦は口裏を合わせた。「しかしかつて、君という母親は一度でも娘と小猫のようにじゃれあったことが、あったかね」
夫特有の、かつて一度でも何々があったかね、が始まると乃里子の心は固く閉ざされてしまう。
かつて一度でも、やさしい言葉をかけてやったことがあるのかね。あるいは、かつて一度でも君の方から俺《おれ》にセックスの誘いをかけてきたことがあるのか、あるいは、かつて一度でもお袋の身になって物事を考えてくれたことはあったか。かつて一度でも幸せだと感じたことがあるのか。
そういう言い方をされると女の方では、ええありましたよ、ほらあの時とあの時と、などと数えあげる気にさえならない。鼻白んで黙っていると、黙っているのは、一度たりともそのようなことをしたり感じたりしなかった何よりの証拠ではないかと、鬼の首でも取ったような顔を男はするものだ。
乃里子はベッドからのろのろと降りてくる娘の動作を見ながら、何か優しい言葉をかけてやることがどうしてこんなにむずかしいのだろうかと胸を暗くした。優しいことを言おうとすると口が寒くなるのだ。それでついその朝も、
「何をぐずぐずしてるんです、スポーツやってる子らしく少しはきびきびしなさいよ」と言いおいて娘の部屋を出てしまった。自分の言葉が無慈悲な捨て科白《ぜりふ》のように耳に残った。私は無器用な母親だと、またしても自信を喪失した。
早朝の街路を行く人影はまばらだ。毎朝の同じコースを、亜矢は黙々と走る。走るという行為で何かを忘れることができるかのように。あるいは耐えるかのように。うつむいてひた走る。
「やあ」男の弾むような声で、彼女は顔を上げる。「お早よう、がんばっているね」
毎朝同じところですれ違うサラリーマン風の男だった。亜失は反射的に頭を下げた。
「今朝は少し寝ぼうしたんだろう? いつもあそこの信号のあたりですれ違うものな、僕たち」
男が、お早ようと言う以上に言葉をかけたのは初めてだった。信号のあたりですれ違うものな、僕たち、と言ったその言い方に少女は心をとめた。しかしそれだけだった。彼女はそのまま速度をゆるめずに走り過ぎた。男は少しの間、その後ろ姿に見惚《みと》れていたが、見惚れる自分に気づいて、わずかに苦笑した。
苦笑すると、口の脇《わき》に疲れたような線が刻まれた。年齢以上の疲れと悲哀の皺《しわ》だった。
事実、江崎修平は疲れていた。仕事の挫折感もあったが、それは一時的なものに過ぎないと信じていた。長い一生のうち、男は一度や二度つまずくものだし、会社はそういうつまずきを他の社員の手前、絶対に見逃がしはしないが、そして色々な意味での見せしめに閑職につかせはするが、真に能力のある男を、いつまでも飼い殺しにするはずはないと信じていた。それほど会社は馬鹿じゃないし、実際やれば人の二倍も三倍も仕事の出来る男をそう長いこと遊ばせておくような無駄もしまい。頭を冷やせよ、ということだろう。閑職をとかれるのも時間の問題だ、と修平は信じて疑わなかった。
しかし閑職は閑職である。社内における風当りはきつい。面とむかって皮肉を言ったり嫌がらせを態度に示したり、急に冷淡になったりする人間に対しては、それなりの対処の仕方があったが、何よりもこたえるのは、同情というやつだった。
これは実にやっかいだった。同情には色々な種類があって、真に善意からのものもあれば、軽蔑《けいべつ》すれすれのものまで多種多様ある。
本当に修平の痛みをわかるものは、少数で、彼と失敗を共有した部下たちの一部だけだった。しかし、それも痛みを分かち合うという関係ではない。部下の痛みまで、修平が肩がわりしてやらねばならない立場だった。事実上、決定的な責任は彼自身にあった。商談を進め、ある時点で決定を下し、書類にサインをしたのは、江崎修平だったのだから。
現在は多少は慣れてきたが、それでも執拗《しつよう》に同情の気配が彼につきまとった。まるでしつこく顔のまわりを飛びまわる青蠅《あおばえ》のように払っても払っても追い払えない同情ほど、やっかいで迷惑なものはない。
そういうこと以外に、彼を疲労させることが別にあった。修平は、東南アジアにおけるある重要なプロジェクトの失敗を、妻、加世に話していない。何となく話しそびれてしまったのだが、加世のような女をいたずらに動揺させると、結局自分にはねかえってくるのがわかりきっていたせいもある。会社でも家でも、緊張したような時間を過ごすのは厭《いや》だった。
しかし実際には閑職についている人間が、それ以前の猛烈なスケジュールをこなしていた時と同じように生活するのは――見せかけるのは、至難の技だった。そのために愚かしいと自分を嘲《わら》いながら、プロジェクト時代と同じように早朝出勤を続けたり、テレックスや国際電話が夜といわず真夜中といわずひんぱんに入った頃《ころ》と、現在も変っていないと思わせるために、酒場や一杯飲み屋で時間をつぶす、という行為を続けていた。
そういう自己|欺瞞《ぎまん》に、彼は疲れていた。自分の弱さが厭だった。唯一自分の側に立ち、自分に全てを託し運命を共にしている同胞である妻に対してさえも、自分というものをさらけだせない、その姿勢に疲れていた。
社員がそろそろ出社しはじめていた。修平が属している東南アジア開発グループの総括をしている部長の荒木も、早目の出社組の一人だった。
お早ようございます、と修平は椅子《いす》から立ち上がって、眼を合わせずに着席した。
「出社が相変らず早いね」毎朝、ばかのひとつおぼえのように、荒木は、同じ皮肉をくりかえした。
「プロジェクト時代のくせが、まだ抜け切らんらしいな」そう言って背後に立ち止まった。同じ課の山中と池真理子が出勤してきて二人に目礼する。「あれはでっかいプロジェクトだった。でっかく失敗したがね。――ま、早朝出勤はいずれにしろいいことだよ、君」
いいことだよ、君と言いながら荒木は修平の肩をぽんと軽く叩《たた》いた。その軽さが全《すべ》てを物語るようなやり方だった。
「嫌味ですよ、ねえ」と、部長が消えるのを待って山中が言った。「毎朝毎朝よくも同んなじ嫌味をくりかえして言うもんですねえ、ああいうふうに自分の責任を転嫁しないと、安心できないんでしょうかねえ。なんといったって、立場上の総責任者は部長ですからね」
「立場上はね。しかし、実際には僕の落度なんだから、部長がああ言うのは止むをえんさ」
「しかし、江崎課長があの場合マレーシアの森林|伐採《ばつさい》権を買いに出たのは当然でしょう」
「しかし僕ぁ、為替の相場を読み違えた、それは事実なんだ」
「あの時の課長の立場にいたら、誰だって同じことをしていますよ」
ちょうどその時出社してきた東欧グループの原という社員が、修平に声をかけた。
「江崎課長、今朝七時半頃外苑のあたりをぶらついていたでしょう」
「家が近いからね、無理して歩けば社まで歩ける距離なんだ、ま、健康のためさ」
自分でも愚かだと思いながら修平は言いわけめいた返事をした。まさか時間つぶしに歩いていたとは言えない。口の中が砂を噛《か》んだようにざらざらした。池真理子がそっと置いた茶を、救われたように口に運んだ。
『ランジュ・ド・メゾン』では改装工事が思いの他早く終りかけていた。改装とはいえ、棚を作りかえる程度で、あとは壁紙をはりかえるだけだった。工事にたずさわった人間が二人ばかりで、外廻りの後片づけをしている。
しかし店内は新しく仕入れたシーツ類やピロケース、ブランケット、ベッドカバーなどが至るところに山と積まれ、まだダンボール箱などがごろごろしている。
どこから手をつけようにも、あまりの雑多ぶりに、乃里子は途方にくれてしまった。こんな時にきまって夫の治夫は顔を見せようともしない。義母のわかも頑《かたくな》に奥の部屋にひっこんだまま、職人にお茶を出しに出て来ただけだった。
結局何もかも自分でやらなければならないんだわ、と、彼女は溜息《ためいき》をついて、手近にあるダンボールの中から眼についた淡い色のナイト・ドレスを取り上げた。
絹特有のねっとりとした冷たい手触りだった。そして、夢のようにはかない色。胸元の深く切れこんだデザイン。こんなナイト・ドレスをどんな女《ひと》が着るのかしら、と乃里子は一瞬ねたましいような思いで鏡の前に立った。自分とは永久に無縁な品物だと思った。
このような薄物の高価なナイト・ドレスを身にまとうような女には、女としての幸福がことごとく約束されているのだろう。乃里子はそれを胸にあて、鏡の中の自分の姿をじっと見つめた。同じ女に生れながら、公平でないという思いがつのった。
すると、自分がまだ一度も手に入れたことのないもの、あるいは、失おうとしているもの、現に失いつつあるものに対して、叫びだしたいほどの焦りを感じた。彼女が失いつつあるものは、まぎれもなく若さだった。その美しい高価な薄物を自分の躰にあてていると、女ざかりにいる自分のあまりにも満たされなさに、茫然《ぼうぜん》と自失する思いだった。
私の女としての人生は、何なのか、何だったのか、これからの残りの人生はどうなるのか。乃里子はじっと自分の顔や首筋や胸元などに、観察するような視線をあてた。女としての若さが、刻々と朽ちつつあるという、せつないほどの実感があった。文字通り身を刻まれるような痛みを感じた。自分にとって、唯一の男である治夫でさえも、今では彼女を女としては眺めない。少なくとも乃里子にはそう思われた。
男《ひと》に見られたい。私がここにこうして確かにいるということを、知ってもらいたい。認めて欲しい。私という女がいて、まだ充分に美しく、そして女ざかりの絶頂にいてこのまま朽ち果てようとしている哀れな存在に、手を差しのべて欲しい。乃里子は叫びにならない叫びを鏡の中の自分にむかって、胸の中で叫びたてる。
その時、裏の倉庫に通じる入口に立つ夫の姿が、鏡の中に映し出されているのに、乃里子は気がついて、眉《まゆ》をひそめた。いつからそこに立っていたのだろうか。彼女は胸にあてた絹のナイト・ドレスをできるだけさりげなく、ダンボール箱の中に戻した。「ちょっとおたずねしますが」と治夫は例の嫌味の口調で会話を始めた。「あれ、何て読むのですかね」ガラスドアにフランス語で書かれた文字を指した。
「ランジュ・ド・メゾン」乃里子は、出来るだけ穏やかに答える。
「ランジュ・ド、なに?」
「メゾン」
「どういう意味かね」
「直訳すると、寝装用具を扱う家という意味です」今しがたの、自分の女の部分を露出したような仕種《しぐさ》を、夫に見られていたかもしれないと思うと、ひどく自分が腹立たしかった。乃里子は抑えた声で夫に対応した。
「要するに、ふとん屋ってことじゃないか」治夫が冷笑した。またしても会話は同じ方向へ流れようとしていた。いつだって行きつくところは同じなのだ。相手を攻撃すること。そして自分の優位を証明すること。乃里子はとりあうまいと、夫に背をむけて、手あたりしだいにシーツ棚のシーツを整理しだした。
「ところで、あれはどうするつもりだね?」治夫がついて来いという仕種をして倉庫へ入った。乃里子が続いた。倉庫の中は五月とは言え風が通らないので、肌がじっとりと汗ばむ。
「この大量の僕のふとんだよ」
「ああ、それ。ご心配なく」
「心配なんだよ」治夫が声を荒立てる。「ここは僕の店だぜ、自分の店の倉庫に売れ残りの僕のふとんが山積みしてあるとしたらだな」
全部を言わせずに乃里子が言った。「売れましたよ、みんな。改装前の三日間バーゲンセールをやったのよ。あなた、一度も顔見せなかったけど」
「顔出さなかったのは、どうせ改装騒ぎで仕事などやれないと思ったからだ」治夫は憮然《ぶぜん》とした。「へえ、改装前に、バーゲンをやったのか。ぬけめのないことですな、で売れたって、全部?」
「疑うんなら、荷札を見てみたら。全部売約済みになっているはずよ。今日、明日のうちに配達しますからね、確かめるんならお早めにどうぞ」
「配達は誰がやる? 俺《おれ》かね」
「あなたはあてにならないからアルバイトを頼みました」
「しかし配達は元来、俺の仕事だぜ」
「元来ね」乃里子は意地悪い声で言い、汗を手の甲でぬぐう。
「連絡先の電話番号は知らせてあるはずだぞ」
乃里子はその言葉を無視して、仕事の終りかけた外の職人に声をかけようと行きかけた。入口のところで治夫がその腕を強い力で掴《つか》んで引き止めた。乃里子は夫の眼をみつめた。二人の視線が絡むが、夫が先に眼を逸《そ》らせた。
「気に入らんね」
「何が?」
ちょうどその時、奥からわかが出て来て、二人を避けるように店の中を横切って、店の外へ出るのが見えた。
「何もかも気に入らんのだよ、俺は」母親の姿を眼で追いながら、やがてわかが外へ出るのを見届けると治夫が言った。「俺のふとんをバーゲンで叩《たた》き売ったのも気にいらん、それにこれ、このぴらぴらしたお姫さま用品はなんだね、なんとかいう気障《きざ》ったらしい店の名前、ありゃなんだ、それからさっき店先で見かけた若い女、きどりやがって人のことを見くだすように見たが、あの女はなんなんだ?」
「新しく入れた店員です。その件はもう何回も話したし、あなたの了解もとりました」乃里子は押し殺した声で言う。「その手、放して下さい」肘《ひじ》を掴んだままの夫の手に、手をかける。が、治夫は掴んだまま放さない。
ガラス戸ごしに、わかが職人たちに祝儀を渡しているのが見えた。
「何もかも気に入らないと言うのなら、気に入るようなアイディアを出せばいいでしょう。ただ気に入らん、気に入らんと子供みたいに喚《わめ》くのは止めて下さいよ」
「俺の店だよ、ここは。俺の店の中で俺が喚くのは勝手だろう、気に入らんから気に入らんと言っているんだ、メゾンだかセブンだか知らんが名前が気に入らんね、ぴらぴらひらひらも気に入らん、店員も全然気に入らん、主人の俺にろくに相談もせずにやったおまえが何よりも気に入らんのだよ」
「冗談じゃないわ」と乃里子がついに大きな声を出す。「相談したわよ、あなたの顔みるたびに、私相談しましたよ、十回や二十回じゃききませんからね、若い女のところに入りびたりで、たまにしか顔を見せなかったけど、それでも顔みるたびに言ったわ」
「ああ、そうそう。ぎゃーすかぎゃあすか」
「ふとん屋からベッド用品に変えることも、名前のことも女の店員のことも、全部話したし、基本的にはあなたも了解したはずです。今更知らなかったなんて、よくも言えるわね、女なんて作って、好き放題をやって、店のことを全部私におっかぶせておいて、肝心の時には姿も見せないし、力にもなってもくれず、今頃やって来て、何? 知らなかった? 気に入らん?」
ついに激して乃里子は夫の胸ぐらに喰《く》らいついた。
「止めろ」治夫が言った。「お袋が見てるぞ」
「お義母《かあ》さんだって、知ってますよ」
「よく聞けよ、乃里子、落ちついてよく聞けよ」妻の興奮が静まるまで、治夫は乃里子の肩を揺すった。「いいか、俺が他に女を作ったのはな」
「もういいわ、聞きたくないわ」急に冷めた声で乃里子が背をむけた。
「俺が他に女を作ったのはな」と夫はかまわず続けようとした。その時わかが店内に入って来た。乃里子がすばやく倉庫から脱けでて言った。
「すみません、お義母《かあ》さん。でも祝儀なんて、あげなくてもよかったんですよ、どうせその分請求書に入っているんですから」
「でも気は心よ。たいした額じゃないし、あなたのお財布《さいふ》を痛めたわけでもありませんからね」
それだけ言い残して、義母は奥へ姿を消す。
「俺が女を作ったのは」と治夫が出て来て急につまらなそうな声で呟《つぶや》く。「おまえが俺に指一本触れさせないからだよ」
職人がガラス戸から顔を覗《み》せた。
「奥さん、これで終りました」
「あっ、ごくろうさま」乃里子はその方に答えた。「あっそうだ、その外の古いかんばん、持って行ってもらえます?」
「おっと待った」治夫が大声を出した。「そいつは待ってくれよ。その古いかんばん、持って行ってもらわんでもいいんだよ」
職人が、首をすくめるようにして、姿を消した。
「邪魔になりますから」乃里子が夫に言った。
「古いものは、邪魔か。俺は邪魔か。お袋は邪魔か。邪魔だと、職人に持って行かせて風呂屋《ふろや》の燃料になるってわけか」
「そんなこと、言っていないでしょう」乃里子はすっかり嫌気がさして夫の傍を離れた。
妻とは結局いつもと同じような言い争いになってしまい、治夫は後悔とも怒りとも判然としない苦い思いをもてあまして、店をふらりと出た。乃里子は何も言わず、出て行く夫に気づいても、気づかないふりをしていた。
夫婦の口論の後味の苦さは、主として、妻が言ったことではなく、自分が言ったことに原因があるような気がした。相手の言葉によって傷つくよりも、男は、自分の言葉が相手を傷つけたことの方に、より重く気分が働くものらしい。
治夫は、何もかも気に入らんと、理不尽に喚きたてた時の金属的に軋んだ自分の声を思い起こして、あれは負け犬が吠えるのと似ていたと惨めだった。
自分たちに一番欠けているのは、夫婦が一丸となって事に対する姿勢だった。妻と夫とは、相手を攻撃することか、あるいは相手の攻撃から身を守るかで精一杯で、常に敵のように対峙《たいじ》していた。二人が並んで同じ方向を向く、ということが、絶えて久しくなかった。
なぜ自分たち夫婦はこんなふうになってしまったのだろうと、治夫は思った。いつ頃からか、気がついた時には、横にいるはずの妻、乃里子が、正面にいて自分と対峙していた。
俺たちのことは、まあいい、と治夫は一人ごちた。足は自然と亜矢の中学校の方角に向いていた。しかし亜矢には罪はない。それなのに両親の不和のあおりを真っ先にうけるのは、娘だった。最近顔色にひとつ冴《さ》えのない娘を見るにつけて、父親としての治夫の胸は痛んだ。めっきりと口も重くなった。以前はよくさえずる小鳥みたいな子だったのに。眼の色も暗い。全身に反抗の気配が滲《にじ》み出ている。
乃里子は、やむを得ないこととはいえ、仕事にかまけて、亜矢の傷ついている心を、ある意味では放置している、と治夫は思い、それが不満なのだった。母親でなければしてやれないことがあるはずなのだ。
中学校の西側の校舎の後ろに、夕陽が沈もうとしていた。さまざまな部活動が終って校庭を出てくる子供たちの中に、亜矢を探した。
一度も顔をあげずに校庭を横切ってくる痩《や》せた感じの女子生徒を、治夫はずいぶんと陰気な子だなと思いながら見ていた。
ある瞬間、その子が亜矢だとわかる距離まで来た時、父親の胸は突かれたように痛んだ。あの陰気な子が、自分の娘なのだ。あの子をあんなふうにしてしまったのは、自分たち夫婦だった。
亜矢がすぐ眼の前まで来た時、彼は、今までの深刻な表情を消した。
「おう、練習、真面目《まじめ》にやったのか?」
亜矢は、父親の姿を見てもさほど驚きもせず、そのまま歩いて行く。治夫は娘の横に並んだ。
「まだ走るのかい」
「夜ね」
必要最小限のことしか言わない。
「支部大会に出るんだってな、お前」
亜矢はそれには答えない。
「どうしたんだい、口がなくなっちゃったのか?」
すると亜矢は全く別のことを喋《しやべ》りだす。
「今日、作文の時間、題が『私の家庭』でさ」
それきりふっつりと黙りこんだ。いつまでも何も言わないので、治夫が後をひきうけた。
「そいつは困ったろうねえ。うん、そいつはさぞかし亜矢は困ったろうなあ」
二人の前に長い影が落ちていた。不意に亜矢が強い声で言った。
「一行も書かなかったのよ。だから罪ほろぼしにパパ、天体望遠鏡買え!」
治夫はほっとする。まだ、わがままを言えるだけ亜矢と自分の関係には救いがあると思った。
「でも高いんだろう? 伊萬里屋のジュースとケーキにまけてくれよ、な?」
亜矢がきっぱりと首をふった。
「だめか? よし、わかった。望遠鏡買おう」治夫は娘の肩に手を置いた。「ついでにジュースとケーキもおごっちゃう。こうなったらパパはやけっぱちだ」
夕闇が急速に落ちてきたので亜矢の表情は見えなかった。けれども治夫は、娘の口元に歯がわずかだけこぼれるのを見たように思った。
テレビ局のスタジオの中には、ワイドショーの本番を前に、慌ただしい緊張感が漂っている。誰かが、「本番十五分前」と叫ぶ声がする。スタジオを見下ろす位置にある副調整室の中では、ニュースキャスターの小島麻子、レポーターの柴光太、そして演出家の飯島らが取材してきたフィルムの最後の点検をやっていた。
フィルムは、泣いている老女の、濡れた顔のアップ。カメラは執拗にその顔を映し続ける。次にマイクを押しつける柴光太の姿が続く。何とか話をさせようと、光太が懸命に話しかける。
「この場面、見るに耐えないわ」と麻子が腕組みをして、むずかしい顔をした。「カットするわけにはいかないかしら」
「それは出来ないよ、テレビを観《み》ている人間は、こういう涙ながらのシーンを期待しているんだから、カットはまずいよ」演出家が不賛成を表明する。
「事件に関係ないと思うわね」麻子は引かない。
光太が、またかというように、煙草に火をつける。演出家と麻子の反目は昨日《きのう》今日《きよう》に始まったことではなかった。
「しかし加害者の母親なんだよ、関係なくはないでしょう。罪を犯した息子にかわって泣いて謝る老母のシーンを、はずせるわけがないじゃないか」
「それでも関係ないんですよ」麻子は冷静に言い切った。「罪をおかしたのは四十歳にもなる一人前の大人の男なんだから。あくまでも母親はそっとしておくべきなのよ。日本という国は、きまって、年老いた何の罪もない両親のところへテレビ局、新聞、雑誌社が押し寄せるけど、私はそのことについては非常に腹立たしい思いを抱いているんだ」そこで麻子は我関せずと煙草をふかしている柴光太に噛みついた。
「大体あなたね、泣きじゃくっている気の毒なおばあさんにしつっこくマイクつきつけて、何を言わせるつもりだったのよ、謝罪の言葉なの? えっ? 『ごめんなさい、息子が世間様に迷惑かけて申しわけありませんでした』って、そう言わせたら、あなた満足? そりゃそうよね、それであなたはわざわざ仙台まで車飛ばして行ったんだから、さぞかし満足でございましょうね」
光太は圧倒されたように麻子の口元を見ていたが、「今日はご機嫌悪いんだなあ」と、呼吸を外しておくに止めた。
「今日は、じゃないの、この際はっきり言っときますけど、私はこの番組のせめて私のコーナーの中だけでも、こういう、フェアじゃない人の扱いをしたくないんです」
「あなたはしたくないかもしれないけれど、観ている時間帯の人間のことも考えてくれなくちゃ。主婦だよ、主婦。主婦って人種はね、あの泣きの場面が好きなの、わかるかね? わからない? 一体何年この世界で飯《めし》食ってるんだろうね」
「そういう発言は、私の番組を観てくれている主婦に対して、そもそも失礼ですよ」麻子は憤然とした。
「とにかく、あなたの気持はわかった、今後できるだけ尊重することにするよ、しかし今日はこれで行こう、今更フィルムをカットしたり修正したりする時間はないからね」
演出家がこれで決定という調子でフィルムを止めた。麻子は救いようがないとばかり、顔を背ける。いつも結局は、言いたいことだけは言うが麻子が押し切られる。
副調整室の電話が鳴った。手を伸ばして麻子がそれをとった。
「もしもし!」いきなり、怒鳴りつけるような調子で言ってしまって苦笑する。「はい、もしもし、……乃里子! なんだあなたなの、……悪い、今から本番なのよ、こっちからすみ次第電話かけ直すわ。いい?……じゃあね」そう言って麻子は、高校時代の親友の電話を切った。
副調整室からスタジオに通じる階段の途中で、後から降りて来る光太にむかって、麻子は先刻見せたずけずけとした態度とは全く違う、大人の女の余裕と柔らかさを見せて、笑いかけた。
「さっきはごめんなさい。あなたに噛みつくしかなかったのよ」
「わかっていますよ」柴光太は、きれいな歯並びを見せて笑う。「なれています」
よくハリウッドの女優や男優がやる笑い方だった。自慢の歯を見せびらかすという感じ。そういうことをやれる男が日本にもぼちぼちと出て来たというわけだ、と麻子は若い男の口元に一瞬見惚れながら思った。この眼の前の男も、ハリウッドの男優並みに自信過剰のように見受けられた。敵としては相手に不足はないわけだ、と彼女はひそかにファイトを燃やすのだった。
「こんにちは、小島麻子です」
落ちついた、どこか人を温かく包みこむような口調の麻子がテレビの中から語りかけた。「今日は、サラ金の問題を追ってみました。借金が雪だるまのようにふくれ上がって、殺人まで犯してしまった一人の人間の追いつめられた心理とは別に、ここにもう一人の犠牲者がおります。この人こそが、真の犠牲者ではないかと、私は考えるのです」
テレビの画面が、放心した老婆の顔のアップになる。見ていた江崎加世が、冷えかけたコーヒーを口元に運びながら、「やるわね、麻子。高校時代と同じ調子」と呟《つぶや》いた。
加世と麻子と乃里子は同じ高校の陸上部に籍を置いた仲間だった。乃里子の消息はふとん屋のおかみさんになったという程度しか知らないが、有名人となった小島麻子のことは、何から何まで知っていた。
もっとも、一方通行なのではあるが。
時々、電話に手が伸びかかる。麻子と話したいと思うことはある。けれども、社会的に男に伍《ご》して仕事をしている女友だちに対する気おくれがあって、まだその勇気はない。あなた何しているの? と彼女に訊《たず》ねられたら、専業主婦と胸を張って答えられるかどうか怪しかった。別に専業主婦に後ろめたさはないが、そう言っただけで、会話がぷっつりと跡切《とぎ》れてしまうのではないかと、怖れるのだ。
陸上部でもマネージャーをやっており、弁がたつひとだったが、まさかここまで名が知れるようになるとは思わなかった。昔三羽ガラスと自他共に認めていたうちの一人が、テレビに毎日のように顔を見せるほど出世したということに対する誇りを加世は感じた。まぶしさもあった。けなげな感もして、ひそかに応援を送ってもいた。それと同時に妬《ねた》ましさもあった。自分ではそうとは認めたくないが、女としての同性に覚えるあの泡立ちのような感情は、確かに存在した。だから、たった今、「やるわね、麻子も……」と呟いたその口調には、自分ではそうと気づかないわずかばかりの皮肉や揶揄《やゆ》が含まれていた。
乃里子からテレビ局に電話があって逢《あ》ってくれと頼まれて、指定された赤坂の『伊萬里屋』に小島麻子が顔を出したのは、約束の時間より十分だけ早い七時二十分過ぎだった。伊萬里屋というのは、乃里子の店、『ランジュ・ド・メゾン』よりも地下鉄の駅よりにあるコーヒー店で、西洋骨董も売っている小さな店だと教えられて、近くでタクシーを下りたのだった。五月の暖かい夜で、空気には夏を思わせるわずかな湿りが感じられた。一ッ木通り界隈には人々から、あるいは人工の光りやネオンサインから、渋滞気味に走る黄色いタクシーたちの車体などから放たれる、ざわざわとした華やかな雰囲気があった。
『伊萬里屋』は、ほどなくみつかった。中に入ると西洋骨董がうるさすぎない程度に、五坪強の店内に配置されている。そのどれもがひとつだけ目立ち過ぎるということがなく、互いをひきたてあっている。
古いヨーロッパのミシンの鉄色の胴体を、店の主《あるじ》らしい三十代前半の女が、さも慈しむような手つきで磨いていた。カウンターとテーブル三つしかない店には他に客はなく、カウンターの中で少年と青年の中間にいる感じの横顔の引きしまったアルバイトの若者が、先刻からわきめもふらずにひとかかえもある天体写真集のページをめくっていた。店内には古い、ホーギー・カーマイケルの曲で、ごていねいにも七十八回転のレコード板をこする針の音までが入ったテープの曲が、さっきから低く流れていた。麻子が手にしたコーヒーの入れ物は、古伊万里の湯のみで、ソーサーはやはり同じ古伊万里だが、中皿を組み合わせてセットに使っている。コーヒーの濃い色と伊万里に使われているエキゾチックなトルコブルーや朱が、非常によく似合う。コーヒーの味も良かった。
「その西洋骨董は飾りですか?」麻子が女主人に声をかけた。
「いいえ、売り物です。よろしかったら、お手に取ってご覧になって下さいな」鉄色のミシンから眼を上げて女が答える。どちらかというと造作の派手な顔立ちとちぐはぐの感じの低いハスキーな声だった。
「だってお高いんでしょう」と麻子は敬遠した。
「ちっとも」と女が笑った。「骨董と言っても気軽に使って頂かなかったら、意味がないと思いますの、ですからお値段もお手軽なところ」
ちょうどそこへ辻井乃里子が顔を見せた。二人の古い友だちは、うなずきあって微笑をかわした。
「どう、大変だったでしょう、改装」乃里子が坐《すわ》って落ち着くのを待ってから、麻子がいたわるように訊いた。
「まあね」
「まあねだって。すぐそれだ。ほんとうは大変なのに。苦しいことなんてちっとも顔に出さないんだから損するのよ、乃里子。大変な時には大変だって顔をしなくちゃ。苦しければ苦しいってうんうんうなるのよ。だから亭主が安心して外で勝手なことやるの。今日、彼来て手伝ったんでしょう?」
「来たけど」と乃里子が苦笑する。「店の名前が気に入らん、ひらひらぴらぴらが気に入らん、店の新しい女の子が気に入らん、女房が気に入らん、何もかもが気に入らんって喚くだけ喚いて飛び出して行った……」それきり、ふっつりと口をつぐむ。
店の女主人が頃合を見て注文を聞きにきた。乃里子はエスプレッソを頼んでから、二人をひきあわせた。「こちらね、小島麻子さん、テレビのニュースキャスター。それからこちら今井美智世さん。ね、素敵でしょう? このお店も、コーヒーの器もそうだけど、美智世さんに私、いろいろな意味で憧《あこが》れているの」
美智世が眼で笑った。「ほめ過ぎですわ、私の方こそ乃里子さんに憧れていますの、私など早々に離婚を経験した失敗者ですから、スズメの涙ばかりの手切れ金でこの通りつつましくやっています。初めまして、小島麻子さんの隠れた大ファンです」それだけ言って美智世が下がった。麻子と乃里子が再び顔を見合わせる。長い沈黙。やがて麻子がぽつりと言った。
「別れちゃいなさいよ」
乃里子ははっきりと聞こえているくせに、聞こえないふりをした。
「痩せたわよ。それ以上痩せるとガイコツになっちゃうから」麻子はわざと突き放したやり方で女友だちの気を引き立てようとする。「話、あるんでしょう? それで私のこと呼び出したんでしょう?」
「うん……でも愚痴になりそうだから」と乃里子は言い淀《よど》んだ。
「愚痴も言えないようだったら友だちとは言えないでしょう」姉が妹を叱《しか》る口調。「溜《た》めとかないで出しちゃいなさい。楽になるから」
「でしょうねえ……」
「ほらまたそれだ。そうやって全部一人で背負いこんで自分だけで我慢しているって顔してる。そういうの、もう古いんだなあ、はっきり言うけど、ちっとも素敵じゃないのよ、そういう女の生き方」
「だって何からどう話していいかわからないのよ、何もかも一度に起こって……」
「どこからだっていいじゃない、お姑《しゆうとめ》さんはどうしている? 今度の店装替えの件でもひと波乱あったんじゃないの?」
「あった、あった。ひと波乱もふた波乱も……」
麻子が聞く姿勢で待つ。しかしそれきり沈黙。
「ね、乃里子、セラピーって知ってる?」だしぬけに麻子が質問した。乃里子が瞬きして首を振った。「心理療法とでもいうのかな。治療とかそういうことではなく、セラピストの前で喋るだけなんだけど」と麻子が語りだす。
話の内容は麻子の知りあいにとても良い女性のセラピストがいるから、少し通ってみてはどうかということだった。「誰か必ず自分の話に耳を傾けてくれる人がこの世に一人はいるんだってこと、とても大事なことなのよ」
乃里子は半信半疑で首を傾けた。見も知らぬ他人に心の内を話せるとはとうてい思えないのだった。そう言うと、病気になって医者の前では平気で裸の胸を見せるのに、それと変らないのだと麻子が答えた。「セラピストは心の医者なのよ。世の中にはあなたのように言いたいことが言えずに自分だけの胸にしまいこんでいる主婦がたくさんいるわ。主婦の台所症候群やアルコール中毒や、思いあまって子連れの心中に走る女たちがそうよ」
時々、眠れぬまま夫のウィスキーに手が伸びてしまうことを思い出して、乃里子は眉をひそめた。最初はこんなまずい物をと、顔をしかめたものだが、今でもまずいと思う気持に変りはないが、いつのまにか眠る前には手放せなくなっていた。量はそれほど増えもせずグラスに半分くらいだが、それをいきなり喉《のど》にぶつけるようにして一気にあける。睡眠薬の代わりだと考えるようにしていた。薬よりは毒にもならないだろうし、習慣にもなるまいと。
けれども麻子の話に出て来た主婦のアルコール中毒云々で乃里子ははっとした。もしかしたら、乃里子のように寝酒から徐々に、人はアルコール中毒に入っていくのではないだろうかと、ひそかに怯《おび》えた。
「よかったら紹介するわよ、その人。庄司睦子っていうの。実はね、私の父と大人のいい関係を結んでいるんだけど、ま、そのことは別の時に話すわ。とにかく一度訪ねてみない?」と麻子が眼に熱意をこめた。
だが、その人に逢ったらすぐにウィスキーなしで眠れるようになるのだろうか? 夫との関係が修復出来るのか。娘と普通に話が出来るようになるのか。不感症が治るのか。乃里子には全く疑問なのだった。
「せっかくだけど、やめておくわ」乃里子は眼を伏せたまま言った。
「わかった、無理には勧めない」案外あっさりと麻子が引き下がった。「でも、考えてみてね」
乃里子はそうすると、この女友だちに約束した。
「ところで亜矢ちゃん、どうしてる? 相変らず?」と話題を変えて走るゼスチャーをした。
「うん、反抗してるわ。私とはまともに口もきかない。お互いさまだけど。私たちって、言語障害母娘なの」
「どちらかというとパパっ子でしょう?」
「そう。あんな男《ひと》でも父親は父親なのよね」と乃里子は自分に言いきかせる調子で呟く。
麻子は長いこと、この高校時代の友人のやつれた面持を凝視《みつ》めていたが、やがて、思いきったようにこう言った。
「あなた、やっぱり相手をまちがったのよ」
その言い方に、乃里子はわずかに青ざめた。
「強がっちゃって、江崎コーチを加世になんか譲っちゃったから。本当は死ぬほど好きだったんでしょう?」
麻子にまっすぐ眼を見つめられて、乃里子はその凝視に息苦しくなり、先に視線を逸《そ》らせた。
「そんなこと、今更……」先に眼を逸らせてしまったことで自分の言葉に真実味がこもらないのを感じる。
「もう過ぎたことよ。とっくに忘れたわ……」
事実、忘れていた。日常の多忙さと、夫との悪化の一途をたどる夫婦関係の破綻《はたん》と、娘とのぎくしゃくとした関係と、嫁と姑《しゆうとめ》の日常的な絶えまのない葛藤《かつとう》などの前では、一昔以上も前の傷心の思い出など色あせた古い写真と同じようなものであった。時々、アルバムを開《ひろ》げて、そのセピア色の古い写真さえも、見るような時間のゆとりも気持の余裕もなかった。たとえ苦い傷の思い出とはいえ、それを思い出すこともないほど、現在の乃里子はある意味で不幸なのかもしれなかった。過去の追憶にひたれるということは、案外、ぜいたくなことなのではないか、などとも思った。自分には過去の追憶にひたるというようなぜいたくなゆとりはなかった。
江崎修平のことなど、絶えて久しく考えもしなかった。小島麻子にその名を言われて、乃里子は非常に懐かしい人の名前を聞くような気がした。心に悲しみと共に温かい感情が流れた。痛みをも含めて、いや痛いからこそ、それが青春だったのだと思う。
修平の名をひそかに胸の中で反芻《はんすう》した時だった。しんと沈むような衝撃と共に深い郷愁のようなものに、打ちのめされた。その郷愁の思いに記憶があった。それも比較的新しい記憶。そうだ、夢だ。
昨夜の夢の場面が忽然《こつぜん》と脳裏に蘇《よみがえ》った。非常に懐かしい見知らぬ男の冷ややかな横顔と、若き日の江崎修平の顔とが二重映しになった。あの夢の中でたて続けに呼んだ男の名は、修平だったのか。修平、修平、修平。乃里子はじっと自分の胸に訊《き》く。もしたとえそうでも、なぜ今頃になって、江崎修平を連想させる男の夢などみたのだろうか。乃里子は、頭をふって夢の記憶と修平の面影とを、脳裏から追い払った。
江崎修平は伊萬里屋から数分離れた和風スタンドバー『あかね』で飲んでいた。青山通りにある会社の帰りに歩いてよくふらりとたち寄る店だった。相手がいてもいなくても別に少しもかまわなかったが、その夜は、同じ課の池真理子を連れて来ていた。少しだけ残業めいたことをやり、それで辛《かろ》うじて自分の会社における存在を正当化したつもりだったが、所詮虚《しよせんむな》しい行為には変りはなかった。残業するほどの仕事もない閑職の身で、それとなく席で長居をする自分に反吐《へど》が出るほど厭気《いやけ》がさしていた。これが飲まずにいられますかと、腰を上げた時、眼が合ったのが若いOLの真理子だった。女としては、まだ面白くもおかしくもない年齢だが、きだての良い娘だとは思っていた。ふと眼を上げると自分と眼が合うことが多かったが、その意味を深く考えるほどの興味を、その若い女に抱いてはいなかった。
眼が合ったところで、彼は周囲に特にうるさい耳も口もないことを感じて――それがあったにしても別に変りはないと思うが――つきあうかい一杯、と声をかけたのだった。
なぜあの瞬間、自分はこの娘を誘う気になったのだろうか、と『あかね』のカウンターで日本酒の冷《ひや》を呑みながら修平は考えていた。多分、一瞬だがちらりと見せた真理子のすがりつくような眼差《まなざし》のせいだったかもしれない。あの眼は、主人を慕う小犬の眼に似ていたな、と突然に気がついた。そこで彼は大人の分別をきかせて、距離を置いた声で唐突に言った。
「強いね」
「ええ。いくら飲んでもあまり酔わないんです」若い女は眼の隅に恥じらいの色を浮かべた。
「会社の帰りにそうやってよく飲むの?」
すると真理子は質問に質問で答えた。「課長も、会社の帰りによく女の子を誘うんですか?」
「いや、初めて」
「私も初めて」
面白い娘だ、と修平は内心で微笑して、「嘘つきめ」と指で娘の額を軽く突いた。
「課長も嘘つき」真理子は指のピストルで修平の胸を狙《ねら》い撃った。可愛《かわい》いという思いが男の中でふきこぼれた。そこでしいて、自分の娘に抱く感情と大差はないさと、己れに言いきかせ、チラリと腕時計に眼を走らせた。
「子供は帰る時間だよ」
真理子は一瞬不服の表情を浮かべたが、修平のとりつくしまもないような気配を敏感に感じとって、案外素直にうなずいた。
「僕は送らないからね」と、二度と若い女の方も見ずに彼はぼそりと呟《つぶや》いた。若い女の物わかりのよさが、自分から言いだしておきながら物足りないのだった。やっかいな男だな、俺も、と修平は胸の中で呟いた。
特に酔ったつもりもなかったが、真理子を帰すと急に酒のピッチが上がった。長居をしたわけでもないのに、『あかね』を出た足どりが揺れている。ある意味で中途半端な飲み方だった。もう少し手前で止めておくか、飲みつぶれる寸前まで居るかすればよかったのだ。
気持がすとーんと酔いの中で、ひえている。酔っているのに妙に覚めている。時々そんなふうになることがあった。
足取りは変に揺れて乱れるのに、頭の芯《しん》はきっかりとしていた。そのアンバランスがたまらなく不快だった。世の中に自分は天涯孤独だと、切々と感じるのはそういう時だった。
俺は淋《さび》しいぞ、と、夜空にむかって叫びたいと思った。実際、顔を上げて星のない空をふりあおぎ、口をあけたが、声も言葉も喉のところでつまったように、出て来なかった。
通り馴《な》れた道順を、外苑の方へふらりと歩いて行った。むこうから歩いてくる人々が、どういうわけか自分の方へぶつかってくる。まっすぐ歩けよ、と口の中でぶつぶつ言うと、相手が「まっすぐに歩けよ、酔っぱらい」同じことを捨て科白《ぜりふ》のように言って行く。
俺は酔っぱらいか、と修平は苦笑した。
誰かが後ろからパタパタと走って来て脇《わき》を通りぬけていく。夜のジョギングか。
「よお、お嬢ちゃん、がんばれよお」そうヤジが飛びだした後、そのお嬢ちゃんの後ろ姿に見憶えがあった。それで修平は思わず駈けだした。前を走っていく女の子とようやく肩を並べると言った。「失礼。また逢ったね、僕たち」
少女はちらと横目を流して、かまわず走る。
「でもこうして夜逢うのは、初めてだね」
相手が急に速度を早めたので、修平も慌ててそれを追った。
「ちょっと言ってもいいかい。最初の頃はとても良い走りをしてたんだけど、この頃、調子落ちてるみたいだよ、肩に力が入ってるんだ、こんなになって走ってる」と、大袈裟《おおげさ》に肩を張る。「こんな顔して(と眉間《みけん》にきついたて皺《じわ》を寄せ)走ってる。心ここにあらずという感じなんだな」
亜失が突然スピードを出したので、修平はあっという間に置き去りにされてしまった。
「走るってことはさ、辛《つら》いことだけど同時に楽しいことでもあるわけだ」酒を飲んでいるうえに普段走っていないから、修平はだらしなくも息を切らした。「特に君の年頃には楽しいはずなんだぞ。君見てると、なんだか辛そうだ。暗いんだよ。辛いだけでちっとも楽しくないんだ」
とうとう彼はその場に立ち止まった。「そんなに嫌々《いやいや》走るんなら、走ることなんて止めちまえ!」といきなり怒鳴る。
ちょっとばかり走っただけで息切れした自分への嫌悪《けんお》もあったのだ。そう怒鳴ってしまってからはっとした。
「余計な、お世話だよ、な」再び歩きだしながら、独り言のように言った。それからもう一度、亜矢の走り去った暗がりのあたりに声を張りあげた。「君は見どころがあるんだ、がんばれよぉ!」
大声を出したことで、嘔吐《おうと》をした後のような寒々しさを覚えた。俺も実はがんばったんだけどな、と声に出して自分を慰めた。がんばってついスピードを出し過ぎてつまずいちまった。修平は夜空を見上げた。厳しいね、風当り。怒りとも悲しみともつかない表情だった。淋しいね、実に。酔いはほとんどさめていた。
代々木上原まで歩くつもりだったが、肉体の疲れとは違う疲労感があったので、タクシーをつかまえて家まで戻った。
扉を開ける前に、いつもそうするように肩で大きく息を吸いこんだ。眉間に刻んでいるだろうたて皺を中指でこすって消すような仕種《しぐさ》をしておいてから、修平は自宅の扉の中へ足をふみ入れた。
早いのねと加世が明るい声で迎えた。時々妻が尻尾《しつぽ》を振りたてる犬に見えることがある。今日はやけに女を犬に見立てる日だな、と考えながら、上着を脱いだ。
「子供たちは?」と尋ねておいて、妻が答える前に「勉強」と自分で返事をした。「酔っているのね」と夫が次々と脱ぎ捨てるものをひろって歩きながら、加世がたいして怒っているふうでもなく言った。
「そうだわ、今度の日曜、修一の模擬試験があるのよ、車で送ってやってくれる?」
「送るのはいいがね」
「何か不服そうね」
「せめて日曜くらい、子供は子供らしく野球でもラグビーでもやりたいというものをやらせてやればいいんだ」
「いい中学に入れば、嫌になるほどやれますよ」と加世は取りあわない。これまでに何十回となく繰り返した同じ会話を、夫婦は繰り返していた。「第一あの子にラグビーやるかって聞いてごらんなさいよ、何て答えるか」
「何て答えるんだ?」
「そんなものやるくらいなら、勉強の方がいいやって言うわよ、あの子」
「さすがに君の息子だ。それにしても上手《うま》く洗脳したものだ」修平は妙な感心のしかたをした。
「でもねえ、うちの修一や幸子はまだいい方よ。佐々木君や君島さんのところなんて、午前一時前には寝かさないっていうもの」
「人のうちは人のうちさ。僕は自分の息子が日曜をつぶして模擬試験に行くより代々木公園を走った方が、よほどためになると思うがね」
「何のためによ?」加世は形の良い唇をわずかにとがらせた。時々、修平は妻の赤く塗られた唇を見るたびに、後ろめたい思いを味わわされる。この赤い唇に自分の唇を触れることがめっきりとなくなった、と思った。
「君だって昔陸上をやったんだからわかってるだろう。走るとまず血がきれいになる。血がきれいになると頭もすっきりする。走る子は頭がいいはずなんだ」そこでチラリと妻を見て「もっとも例外もあるからな」と修平はニヤリと笑った。
妻が膨《ふく》れっ面《つら》で修平の背広をしまいに寝室に消えると、とたんに彼の表情から笑いが消えた。修平は煙草を一本くわえ、くわえ煙草のまま煙を吐き出していた。
かなり長いことそうやって考えこんでいたので、短くなった煙草の先に、今にも落ちそうにくっついている灰に気がつかなかった。まさに落ちる寸前、加世が後ろから灰皿をあてがって、灰をとらえた。「どうしたの、ぼんやりして?」妻が声をひそめた。「お茶づけの前に、少し飲みます?」
「いや、いい、明日の朝、早いから」修平は断わった。「明日から、朝少し走ってみようと思ってさ」
加世はへえと眼を見張るが素直に喜んだ。「どういう風の吹きまわし?」
夫がスポーツをするのはいずれの場合も良いことには違いない。パチンコに凝ったり、競馬や女に手を出されるよりは、はるかに健康だし、安心だった。それにしても、ちらりと見た夫の顔には浮かない表情が滲《にじ》んでいるのが気になるが。今さっきも煙草の灰があんなに長くなるまで気がつかなかったなんて、変じゃないかしら。そんなことをあれこれと思うが、元来楽天的な加世はそれ以上心配の種を詮索《せんさく》しても仕様《しよう》がないと考えるのだった。
「あたし、朝の練習やめるからね」と、いきなり朝起きてくるなり亜矢が言った。乃里子は、またかと取りあわない。
「本当に走らないよ、あたし」
「ママのために走って下さいって言ってるわけじゃないのよ、自分のため」
亜矢が食卓についてトーストを齧《かじ》り始める。朝の早いわかにしてはめずらしくまだ部屋から出て来ない。
「あなたがママとパパのことで気に入らないのはわかっている、すまないとも思ってるわ」乃里子は自分をけしかけるようにして、言葉を口にした。「だけど、パパとママの問題なのよね、あなたが膨《ふく》れて走らないなんて言っても、何の解決の足しにもならないのよ、わかる?」
自分と夫との問題を娘にそんなふうに話したのは初めてだった。乃里子としては眼を閉じて高い所から飛び降りた心境なのに、亜矢はいとも残酷に肩すかしをくわせるのだった。
「そんなんじゃないよ」といかにも軽蔑《けいべつ》した口調で彼女は吐き捨てるように言った。「ママとパパの喧嘩《けんか》なんてあたしには関係ないの、好きなだけやって下さいっていうの、そんなんじゃないのよ、わかってないな、変な男のひとがウロウロしてるのよ」
「変なひと? 変態なの?」
「かもね。とにかく変なのよ、後からつけて来たり、怒鳴ったりするんだから」
「わかった」乃里子がきっぱり言った。「ママが行きます、一緒に」
「いいよ、来なくて」今度は亜矢が慌てた。「一人で走るって」
乃里子は疑わしそうに娘の横顔を見た。その時わかがダイニングルームに顔を見せたので会話が跡切《とぎ》れた。おはようございます、と言っても、何ごとかに気をとられている様子で義母《はは》は答えなかった。
亜矢がいつもより十分ばかり遅れて結局朝の練習に行った後、乃里子はどうにも気になって外へ出てみた。娘の朝のコースはそれとなくわかっていたので、後を追うことにした。少し走ると、前を歩いている亜矢に追いついた。
「だめじゃないの、歩いていちゃ」
「何よ、誘拐されるとでも思ったの?」子供らしくもない辛辣《しんらつ》な声で亜矢が言った。「ばかみたい。こんな朝から誘拐されるわけないじゃない」
亜矢が走り出したので、乃里子も速度を合わせた。けれどもずっと運動をしていない肉体で、十四歳の陸上選手の比ではなかった。見るまに母娘の距離が広がった。それでも乃里子は投げだしもせず、時々歩きながら走って後を追った。
亜矢が外苑の方へ曲がった時に、修平と出くわした。偶然というよりも、今朝は修平がそこで待っていたという感じだった。
「や、お早よ」いつもと違って、彼はトレーニングウェアの上下を身につけていた。なんとなく走れる人間がそこはかとなく身に漂わせている、できるな、という感じが、修平にもあった。それを感じたのか亜矢が思わず足を止めた。
「昨夜《ゆうべ》はごめん。失礼なこと言っちゃったと思ってね、ちょっと謝りたかった」
男は年に似合わず恥ずかしそうな表情をちらりと見せた。「一緒に、走ろうか?」
「ついて来れたらね」男がなれなれしく言ったので亜矢は急に突っぱねた。「一人すでに顎《あご》出したのが後からついてくるわよ。元陸上の千五百で高校新出したっていうのにさ」
「高校の千五百?」遠くを見る眼をして彼は、はっと後ろを振り向いた。亜矢がさっさとその場を走り去る。
乃里子はそれとは知らずに足早に近づいて来た。修平は朝日を真正面に受けてまぶしそうに、彼女を眺めた。見ようによっては、どこか痛むような表情だった。石垣にもたれて、眼の前を物思いに沈んだように脇眼《わきめ》もふらずに通り過ぎようとしている、かつての陸上部の教え子を眺めた。
その時何かを感じて、乃里子が顔を上げた。
「やあ、しばらく」
乃里子の顔にみるみる浮かぶ驚愕《きようがく》の色を、面白《おもしろ》そうに見ながら修平が言った。
「江崎コーチ」それきり声にならない。
「顎出したんだって?」彼自身もまた感情を抑えようとするあまり、少し掠《かす》れたような声で言った。
「ええ」乃里子が苦笑して、それからはっとした。「どうしてそれを?」
「今しがたここを走って行った女の子が言っていた」あの中学生が乃里子の娘だったのかという驚きと、運命的とも思えるめぐりあわせに対する感慨が改めて湧《わ》いた。
「それじゃあなたが」と眼を見張り、変態の正体だったのかと、いきなり乃里子が笑いだした。修平がわけもわからずつられて笑いながら、何がおかしいと眼で訊《たず》ねる。笑いが止むと、自分が何故娘の後からジョギングコースをのこのこついて来たのかその訳を手短かに説明した。
「そうか、僕は痴漢ってわけか」
修平は愉快そうに声をあげて笑った。
それから二人は急に黙った。十五年ぶりの再会の衝撃が改めて襲った。お互いに変ったといえばそれは変った。変っていないといえば、何ひとつ変ってもいなかった。乃里子には高校時代のふっくらとした頬《ほお》の線は見る影もないが、その代わり、余分な肉がそいだようになくなり、一種|凄《すご》みのある大人の女の美しさを漂わせていた。かつて自分が愛した女の肉体的な凋落《ちようらく》を見るのは辛《つら》いが、女ざかりに咲き誇っているのを見るのも、複雑な心境だった。修平は自分が失ったものの重みを、ひそかに計った。
「お元気でした?」乃里子が最初に沈黙を破った。「加世、も?」加世の名をできるだけさりげなく発音しようとするあまり、かえってぎこちなく言ってしまった。
「女房は、教育ママをやっている」
修平と加世の子供のことを考えると、古傷が痛んだ。そもそも乃里子が身を引いたのは、加世から修平の子を妊娠したと告げられたからだった。二人がそのような関係を持っていたということすら気づかなかった。加世が陸上部の部屋に乃里子を呼び出して、妊娠を告げた時、それは死刑の宣告のように乃里子の耳に響いた。彼女は口の中で舌が喉《のど》の方へとめくれあがっていくような奈落の感覚を覚えて、後退った。それきり、修平からどんなに言って来ようとも、二度と二人で逢わなかったし、従って責めもしなければ釈明も求めなかった。突然に黙って去った理由も告げなかった。彼女はひたすら彼の前から姿を消したかった。事実、消したのだった。
責めもしなければ釈明も求めなかったほどに、乃里子は深く深く絶望してしまったといってもいい。相手に説明を求めたり、髪ふり乱して責めたとて、加世の妊娠という事実をなかったことには出来ない。男が許せなかったし、親しい友であった加世の裏切りも許せなかった。乃里子はひたすら沈黙することで自分の身を守った。男と女のことで醜態をさらすことは、自尊心が許さなかった。
その修平と加世の子は、今年で十五か十六歳になるはずだった。
「お子さん、何人?」過去をふっきるように晴れやかな声で乃里子が訊《き》いた。
「二人。男の子と女の子が一人ずつ」
「私も人の子の親になりまして」と彼女は泡立ってくる感情を抑えてわざと芝居の科白《せりふ》を読むように喋《しやべ》った。「娘が一人。あなたを変態とまちがえたそそっかしい子です」
「そのそそっかしい子が戻って来るよ」修平が前方を見た。「走り方が似ているね」
「そうですか」乃里子は眉を寄せた。「よく覚えていらっしゃるのね」
「忘れないさ」低くそう言ってから、近づいて来る亜矢に、「や、よく逢うね」と声をかけた。
亜矢が困惑した表情を浮かべてそのまま走り過ぎようとするのを、ちょっと待ちなさいと、乃里子が腕をつかんで引きとめた。
「僕のこと変態だって、君、ママに言いつけたんだってな?」修平が笑った。
「そんなこと言わなかった。ママが勝手に――」
乃里子が途中で言葉をはさんだ。「こちらね、偶然なんだけど、ママの高校の陸上部でコーチして下さっていた江崎さんという方なの」
亜矢がたじろいだ。その様子を見ながら、修平はふと、言った。
「もしよかったら、亜矢ちゃんのこと、少しみさせてもらえないかな?」
口に出してみると、それはほとんど熱烈な願望に変っていた。この娘のコーチをすることが今の自分にとっては一種生き甲斐《がい》のような気さえした。江崎修平は今、何かを成し遂げるという状態に飢えていたのだ。自分ではそうと深く気づかずに、亜矢を一人前の陸上選手に育てるという思いつきに、現在の自分の不遇を重ねてみていたのだ。
「だって、お忙しいんでしょう?」と乃里子は戸惑った。亜矢のためを思えば願ってもない申し入れだった。その昔陸上の千五百と八百メートルで日本新を二つ取った男だった。コーチの腕の確かさも乃里子は身をもって知っていた。
けれどもこの男は、かつて自分を裏切った男でもあった。口約束ではあったが、結婚まで約束しておきながら、別の女に子を孕《はら》ませた男だった。乃里子の内部で激しく葛藤するものがあった。そして、理性が勝った。男としての修平に失望はあったにしろ、それは乃里子との関係であって、しかも十五年も昔のことだった。亜矢のコーチとしてだけ見れば、江崎は得がたい存在だった。
「土日は休みだし、亜矢ちゃんのコーチにかこつけて自分のためってこともあるんだ」修平は大袈裟《おおげさ》に、たいして出てもいない腹を押さえて見せた。乃里子は微笑して、それから改めてよろしくお願いします、と頭を下げた。亜矢は皮肉な眼で大人たちのやりとりを見ていたが、別に反論もはさまず、ちょこっと頭を下げると、一足先に走り去った。
二人は、そのまま自然に左右に別れた。別れ際、乃里子は、加世によろしくと修平に言った。修平はうなずいたが、自分は妻に、今日の偶然の再会について話しはしないだろうと漠然と考えた。冷静さが戻ると、亜矢のコーチをやりたいと申し入れたことが唐突過ぎたように感じられてきた。あんな小娘のランニングのコーチをやったくらいで、現在の自分の不満や怒りや飢えや焦燥感がいやされるとは、とうてい思えないのだった。では、なぜ。なぜ俺はあの子のコーチを唐突に申し入れたのだろうか。
乃里子の殺《そ》いだようななめらかな頬の線が眼の底に蘇《よみがえ》った。ほんの少し疲れたような、わずかなやつれが、逆に女の色気となっていた。修平は頭を振った。いや違う、あの女のせいじゃない。そう考えようとした。乃里子は自分から去った女だ。何の理由も告げずに。一切の説明を拒んだ。若い修平には何がなんだかわからなかった。呆然《ぼうぜん》としているうちに時がたったような気がする。いきなり背中をむけた若い女の強さに慄然《りつぜん》とした。拒絶する背中の硬さに怯《ひる》んだ。自分に何ひとつ落度がないだけに、女の無言の拒否は無気味だった。驚きは、怒りに変った。女の理不尽さ、頑《かたくな》さを、若い修平は許せなかった。反動から、かつて心より愛した女の親友と近づくことで、自虐的な解決の方法を見いだしたのだった。江崎修平が加世と結婚したのは、その半年後だった。加世が十九、彼が商社に入社した時であった。
一方、修平と偶然の再会をして、運命の不可思議な巡りあわせに打ちのめされながら、乃里子は家に戻った。十五年という過ぎ去った歳月に対する思いもあったが、修平と加世が意外なくらい近くに住んでいた、ということに胸が波立つ。毎年クラス会の誘いはあったが、乃里子は店のことで手一杯で、高校時代の友だちと顔をあわせるような気持のゆとりもなかった。誰よりも加世という女を避けていたのだった。世話好きの幹事が送ってよこす旧友の住所録にも目を通したことはなかった。
裏口から入っていくと、上がりかまちを昇ったところに、夫の治夫が固い表情で坐りこんでいた。その背後に、きちんと外出着に身をかためた姑《しゆうとめ》。
「あら、どうしたんですか、早いのね」と夫に声をかけた。
「あらじゃない! お袋が出るとさ」治夫が噛《か》みつくように言った。乃里子には咄嗟《とつさ》に事態がつかめない。
「亭主を居づらくさせるだけではなくて、お袋まで追い出すような女なんだ、おまえは」
姑が家を出る? なぜ? 乃里子は眼の前で眼をつり上げている夫の顔を呆然と凝視《みつめ》た。
「一体どうして? お義母《かあ》さんどうして急に?」乃里子が治夫の肩越しに訊いた。
「急にってわけじゃないのよ、少し前から考えてはいたの。この際店員も入ったことだし……なんとなく言いそびれてあなたには突然で、驚かしちゃったけど……」
「だって、どこへ行くんですか」乃里子は姑の前に膝《ひざ》をつめた。
「川上さんのアパートに移るとさ」夫が後ろから代わりに答えた。
「止めて下さい、行かせないで下さい」半狂乱のように、夫にむかって叫んだ。「落ち着いて下さい、お義母《かあ》さん、よく考えて……お願いします、お願いします」畳に額をつけんばかりに乃里子は懇願した。
「落ち着いてますよ、わたし」事実落ち着いた声と態度でわかが言った。「それにようく考えもしました。別居する方が、いいと思ったの。あなたのためじゃないのよ、わたし自身のために。その方が色々見たくないものを見なくてもいいし……。この年になるとね、以前のように辛抱《しんぼう》ができなくて、言わなくてもいいことをつい喋《しやべ》ってしまうのよ、いいじゃないの乃里子さん、お互いにちょっと息ぬきだと思って。こういう時期だし、ふとん屋からモダンなお店にイメージ替えたんだし、思いきってやらないと、またうやむやになっちゃう、ね?」と、姑はかえって乃里子を慰めた。「それにまだ元気だし……。お父さんの残してくれた年金もあるし、スーパーかどこかで働けばなんとか、ね」
「冗談じゃありません、お母さんをその年でスーパーで働かせるわけがないでしょう。それじゃ僕はどうなるんです。弟や妹の手前、何て言うんです。よして下さいよ、お母さんの生活費くらい僕が見ます」治夫が言った。
「あなたが?」わかが眼に軽い笑いを滲ませた。
「そうです、僕がです。嫌だな、お母さんまで。忘れてもらっちゃ困る、この店は僕の店ですからね、商売でもうけた金をどう使おうと僕の自由です」
「その商売は誰がやってくれているのでしょうね」とわかは息子に釘《くぎ》を刺した。乃里子が眼を伏せた。
「さあ、行くんなら、お母さん……」治夫は立場が悪くなると、傍のスーツケースを持ち上げてわかをうながした。わかが立ち上がった。
その姑の骨張った背中には、それ以上乃里子が止めてもきかない感じが厳然としてあった。
「おまえは、強い女だな」と、治夫は捨て科白を残して出て行った。
乃里子の表情が苦しげに歪《ゆが》んだ。私は強い女なのだろうか? 感情が激して、胸が苦しかった。
夫は強い、と言ったが、彼女は自分を落雁《らくがん》のように感じた。何かの拍子で、親指のひとひねりで、砕けてしまう砂糖菓子。乃里子は今自分が粉々に砕けつつあることを、実感した。夫を失い、義母までも失おうとしていた。
喉《のど》のところに熱いかたまりがつかえていた。彼女はいつのまにか泣いていたが、声が出なかった。泣き喚《わめ》きたい激情にかられて身をよじったが、どうしても声は出ないのだった。声をあげずに、痛々しく泣き続けた。
どれだけ放心していたのだろうか。店を開ける時間が迫っていた。店なぞ開けたくもなかった。このままいつまでもじっとうずくまっていたかった。口もききたくない。
けれども十一時十分前には新しく入った店員の中村良子が顔を出すはずだった。十一時にシャッターがあく。そうすれば嫌でも乃里子は店に出なければならない。客が来れば笑いたくなくても笑わなければならないし、開きたくもない口をこじあけて応対するだろう。今までだってそうだった。いつだって、考えてみればそんなふうに流れてきた。
しかしその朝だけは、これまでのどの朝とも違っていた。店のことを考えると吐き気がした。店の方へ顔を向けるだけで、ムカムカした。いつだったか、麻子が話していた主婦の台所症候群というのに似ていた。気力も何もかも失ってしまった主婦が、彼女にとっては唯一の存在理由、唯一の戦場である台所へ入ると、とたんに吐き気を催すという話だった。
その時は他人ごとのように聞いていた。そしてたった今、乃里子には、その言葉の意味が、だしぬけにわかるのだった。同じことを繰り返すのは、人間という動物には苦痛なのだ。来る日も来る日も、まったく同じことをしつづけるためには、支えがなければやっていけるものではない。愛するものたちの支え。あるいは憎しみでもいい。たとえマイナスの支えでも、それはそれで働くバネにもなりエネルギーにもなる。
主婦たちが三百六十五日、台所に入って米をといだり、キャベツを刻むのは、家族のためという大義名分がある。乃里子の店に対するかまえ方もそうだった。
しかし何かの拍子でタガが外れたようになると、台所は、店は、地獄となる。誰だって仕事が地獄のように感じられたら、そこへは足をふみ入れたくはないだろう。それでも無理矢理に足を踏み入れようとすると、嘔吐感となって、肉体が反抗するのだ。女たちは、己れの肉体にまで抵抗されて、その場に立ちすくむという寸法だった。
無気力に蝕《むしば》まれると、乃里子の中で激しい反発があった。このままで朽ちたくないという思い。自分を救うのは、他でもない自分自身なのだ、というぎりぎりの認識。
ただほんの少し手を貸してもらいたいだけなのだ。誰に?――誰もいない。自分の心の内をさらけ出せるような人間は見あたらなかった。小島麻子は話しなさいと言ってくれるが、女友だちは、愚痴のゴミためではない。第一、乃里子の自尊心が許さない。何かが乃里子の胸にひっかかっていた。何だったっけ?
そうだセラピストだ。麻子がセラピストの名を告げて行った。乃里子は暗闇の中の一条の光明のように、セラピストの名を心に刻んだ。
テレビ局のスタジオの扉の上には、赤いサインでオン・エアという字が出ている。扉の内側では、ちょうど小島麻子のコーナーが終ろうとしていた。
麻子はいつもの通り、くだけた服装でアクセサリーなど一切つけずに、ほとんどノーメイクに近い顔をカメラに向けていた。彼女をきれいに見せているものは、緊張感だった。緊張感なら麻子の髪の毛一本一本から足の爪先まで、ぴーんと通っていた。
来週のこの時間には、塾の問題を取り上げます、と予告して、彼女はカメラの赤いランプが消えるのを確かめてから、台本を閉じた。
番組はまだ続いているが、電話をしなければならない用件が山積しているので、麻子はすぐにスタジオから自分のデスクに向かった。
まず最初は、塾の取材。いくつかある資料に眼を通していたが、やがて、幼稚園のための塾という見出しに丸をつけた。
幼稚園に子供を入れるために、塾に通わせるという異常さに、麻子は驚くのだった。彼女には結婚の経験もないし、子供を産んだこともないから、子供の教育という見地に立って物を眺めるのはむずかしい。
実際に子供のいる母親たちに会って、話を聞くしかあるまいと考えた。母親ですぐに思いだすのは辻井乃里子だったが、彼女は教育ママとは言えない。娘の亜矢に陸上をやらせているくらいで、塾に通わせているようなことは言っていなかった。この件で乃里子は役に立ちそうもなかった。
誰かいないかな、と知った顔をあれこれ思い浮かべるうちに高校や大学での同じクラスの女たちのことが頭に浮かんだ。加世、がいたいた、と麻子は膝《ひざ》を打った。
加世とは十年以上逢っていないが、クラス会の連絡があったりするので、アドレスなどは控えてあった。加世ならきっと典型的な教育ママだろうと、受話器を手に取った。
逢って話したいと伝えると、加世は興奮したような声で、毎日あなたの番組を見ていると甲高《かんだか》い声で言った。
「ニュースキャスターの小島麻子に逢えるなんて、嘘みたい」と弾んだ口調。
約束の時間と場所を指定して、麻子は電話を切った。それから、たて続けに取材の申しこみ電話をかけておいて、手帳を取り出した。
今日の日づけに『乃里子セラピー』とあるのに気づいた。二、三日前に、突然思いつめたような感じで彼女がセラピストを紹介して欲しいと言ってきたのだった。すぐに仲介をして、二人をひきあわせる段取りをしたのだったが、乃里子がそこまで追いつめられていると思うと友だちとして胸が痛んだ。自分の無力さというものを、思い知らされた気もした。女友だちというのは、一緒にお酒を飲んだり、美味《おい》しいものを食べて男の話でもしている分には楽しいが、所詮、女は女の支えにはならないのだろうか。
そんなことを考えていると、本番終了したのか、ディレクターと柴光太がやってくる。演出家は、どさりという感じで台本を机に投げ出すと言った。
「あなたねえ、さっきの番組の中で、教育のあり方がこんなだから、子供を産もうにも産めないとか言ったけど、ありゃ何だい? 今更未婚の母云々は古いんじゃないかね」
「とんでもありませんよ」とスケジュール表から眼を上げずに、演出家の言をかわす。「古い新しいはどうでもいいんです、私」
演出家はいきなり手を伸ばして、麻子のスケジュール表を取り上げてパタリと閉じた。彼女は別段顔色を変えず、相手を見た。
「あなたがだね、未婚で子供を産もうが産むまいが、ま、そんなことは僕個人としては実にどうでもいいことだがね」
「何がおっしゃりたいんですか」辛抱強く麻子が訊《き》いた。柴光太は当たらずさわらずといった態度で明日の台本に眼を通している。
「見ている主婦たちというのは、テレビ出演者のモラルに過敏なんだ。この間だってそうだ、あなたは妻帯者である有名人の愛人騒ぎを擁護するような発言をしたが、それによって、主婦全部を敵に回してしまったんだぜ、わかるかね」
「主婦を全員敵に回してしまったかどうかはともかく、私は人が誰かを愛するということ自体、不思議でも何でもないって言っただけです」
「しかしあなたの発言といっても、結局は、見ている人間からすれば、僕の番組の発想を問われることになるし、強いては局全体の姿勢を問われかねない」
「大丈夫ですよ、ディレクター。誰もあなたが若い愛人を持てるとは思いませんからね」麻子はやんわりと皮肉った。
演出家は大いに鼻白んで、話にもならんと席を立って行った。光太が頭を振って、「小島さん、お手柔らかに頼みますよ」と言った。「ここはアメリカのテレビ局じゃないんだから、仲間を敵に回すのは損ですよ」
麻子は光太の形のよい口元に視線をあてた。
「あなたのような若い人が、そういう常識的な発想をして欲しくないな」
それは事実だった。光太に好感を抱いてはいるが、男としてもう一歩踏みこめないのは、彼が単に自分より三つか四つ歳下だという理由ではなかった。世間体を気にしないようでいて、結局は保身に甘んじるような姿勢に対して、失望しているからだった。麻子はもう一度電話を取り上げた。相手は乃里子だった。
乃里子はランジュ・ド・メゾンのレジカウンターの所で麻子からの電話を取った。麻子はさりげなく午前中のセラピーはどうだったか、と聞いた。隠してもどうせセラピストから麻子の耳に入るだろうと思ったので、あまり上手《うま》く行かなかった、と言葉少なめに答えた。「時間の無駄みたい」一回行ったきりでやめてしまいたそうな口調だった。
事実、セラピストのオフィスでは、一時間のうち五十分近くは沈黙がちに過ぎてしまった。大きなリビングルームの一角に、中国製のびょうぶがあって、その内側がカウンセリングに使われていた。椅子《いす》は大きくて、柔らかかった。けれども乃里子は寛《くつろ》げずに浅くそれに坐《すわ》った。
「なんだか坐り心地が悪そうね」とセラピストの庄司睦子が笑った。温かい人を包むような微笑だったが、逆に乃里子は、初対面の人間がそんなふうに自分に微笑《ほほえ》みかけるのは何か裏があるのではないかと用心した。そして警戒するように、相手の出方を待った。
ところが睦子の方は、話すのはあなたなのだ、という態度を露《あら》わにして、耳を傾けて待つ姿勢をとり続けた。
窓にかかったカーテン代わりのスダレから、柔らかい光が室内に射していた。観賞用植物の植木がふんだんにあって、そこから発散されるオゾンが濃かった。乃里子は次第に息苦しくなっていった。
「あの……」とうとう彼女はたまりかねて言った。「私が、喋《しやべ》るんでしょうか?」相手は当然とばかりうなずいただけだった。
「先生は、そこに坐って、そうやってニコニコしていらっしゃるだけで、何にもして下さらないんですか?」自分でも驚くほど、相手を責める口調だった。
「お医者さまとは違いますからね、お薬を上げるわけじゃないのよ」
「でも、麻子さんは、先生が私を楽にして下さると――」
セラピストは、時間の四分の三が経過したところでようやく乃里子が喋りだしたことを、むしろ喜んでいるふうだった。
「初めにお話しましたよ。私が直してあげるんじゃない、もし、直さなければならない心の問題があるとしたら、それをやるのはあなた自身だって――。あなたが自分自身とまず対決することね、そのために、自分について語りだすところから始められるといいんですけどね」
すると乃里子は酷《ひど》く驚いてしまうのだった。
「では先生は、一体何をなさるんですか?」
「私の役目は、あなたのお話に耳を傾けること」
「それだけ?」驚きが怒りの感情に変った。
「そうねえ」とセラピストは少し考えた。「一緒に感じることができるわ、話して下さりさえすれば。あなたの苦しみや悲しみや怒りなどについて、一緒に考えるわ。それからあなたが笑えば、私も笑う。怒れば私も怒る。だけどあなたが手のうちをひとつもさらしてくれなければ、私には何も出来ないのよ。何が問題なの? 話してみない?」
「それが出来るくらいなら、私こんなところへ来ません」乃里子は混乱して訴えた。「こんなことしていても、時間の無駄ですね、何にもならないわ」
「そんなことありませんよ。どうしてそう思うの?」
「だって先生、現に私、何も喋れない」
「あらだって、さっきからあなた喋っているじゃありませんか。喋れないことを、訴えているじゃありませんか」セラピストが何度もうなずいた。その感じは乃里子に海を思わせた。あるいは母親のような感じを。
「それにたとえ、一時間無言で過ぎたとしてもそれはそれに意味があるんです。辛い一時間を過ごしたという意味でね。喋りたくない人の口をこじあけて物を言わせるわけにはいきませんからね、私は待つだけです。時々いらっしゃいますよ、そういう人。黙って、時間がくるとお金を払って帰っていくの。私も辛いけど、その人はもっと辛いだろうと思うのよ」
セラピストが人間的な溜息をもらした。
「何かを言おうとすると、諦《あきら》めが先に立つんです」とやがてぽつりと乃里子が言った。「それで、私さえ我慢すればいいわけだから……自分で耐えて……すると、自分では良かれと思ったことなのに、みんなが……」そこで絶句する。
「みんなって?」赤んぼうをあやすような言い方でセラピストが訊《き》いた。
「みんなです……。夫や、義母《はは》や、娘や……」
「みんなが、どうなの?」
「私を憎みます」そこで乃里子は両手で顔を覆った。しかし泣けないのだった。
「時間の無駄だなんて思わないで、通いとおしてみたら?」と麻子が電話の中から言っている。
「何か、庄司先生からあなたに言ってきた?」乃里子がふいに質問した。
「ううん。私の方から心配だったから探り入れてみたんだけど、企業の秘密だって、つれないの」
乃里子は受話器を握り直した。その時ようやくセラピストを信用する気持が湧《わ》いた。
「そうね、少し通ってみようかしら」漠然とそう答えた。その後麻子が近日中に江崎加世に逢うことになったと取材の内容を言ったが、乃里子はなぜか麻子に江崎修平と偶然出逢ったことを言いそびれた。
電話を切ったところへ夫の治夫がふらりと顔を出した。わかがアパートへ移って行った日以来、何日も姿を見せなかった。
店員の良子があわてて、いらっしゃいませ、と頭を下げた。
「いいのよ、お客さまじゃないんだから」乃里子がたしなめた。
「そうですよ、僕はここの主人ですからね」と、治夫はじろりと店内を見渡した。「カンコドリが鳴いてますね。せっかく新しい店員さんに入っていただいたのに。開店早々、猫の手も借りたいんじゃないかと来てみたんだが、その必要はないらしいですな」
「たまたま、今、お客さまが見えないだけで、カンコドリが鳴いているわけじゃありません」良子が主人にたてをついた。
「いいのよ」ともう一度彼女をたしなめて、乃里子が言った。「せっかくですから、倉庫のバーゲンのふとん、配達してもらえますか、あと三軒だけ残っているのよ」
「アルバイトはどうした?」
「休みなんです」
「俺はアルバイト並みってわけですか」
「嫌なら結構です」
「やりますよ」
乃里子はうんざりして、顔を背けた。
「言いたかないよ、俺だって。言いたかないけどね、あなたの顔を見るとつい、出てしまうんだ。そういう顔を、あなたはしているんだよ」
「生れつきですから、この顔」と言いおいて、乃里子は倉庫に行きかけた。
とその時、店の電話が鳴った。治夫がそれをとった。
「辻井ふとん店でございます」故意か習慣でそう言ってしまったのかわからないが、乃里子のとがめるような視線に出くわすと治夫はニヤリと笑い、「ええ? ランジュ・ド・メゾン? そういう名前もチマタでは使っているらしいですな。……乃里子? はいはい、そういう名前の者もおりますですよ(と受話器を妻の方へ突き出して)辻井乃里子さんに、お電話です、江崎さんという男性の方からですよ」といかにもインギン無礼に言った。
乃里子はわずかに肩を硬くして、夫から受話器を受けとったが、表情は変えなかった。治夫は妻の傍を離れて、倉庫へ行きかけた。
客の応対をしていた良子がしきりに頭を下げていた。通りがかりに、どうしました、と治夫が訊いた。
「お客さまが婚礼用の組ぶとんをとおっしゃるのですが」
「そうですか」と彼はちらりと電話中の妻の後ろ姿を見やった。それみたことか、何がなんでもモダンなものばかりがいいってわけではない、と、鬼の首でもとったような気持になったが、そんなことは客には関係のないことだった。「申しわけございません」と治夫は素直に謝った。「現在はごらんの通りベッド用品を中心としたものを扱っておりますんで。どなたかおめでたで?」
「ええ、娘がね、嫁ぐものですから」
「さようで。組ぶとんでなければいけませんでしょうかね、ご新居はマンションで? 新築の鉄筋の住まいは湿けますから、直接床ではなくベッドの方がよろしいと思いますがねえ」
よどみなくセールスを続ける治夫を、良子が改めて見直したように見ていた。
では考えてみましょうと、客は言って帰った。見送っておいて、治夫はまだ電話中の妻を見た。何か深刻な様子だった。良子が申しわけありません、と治夫に頭を下げた。
「何が?」治夫は再び辛辣になった。「組ぶとんがないのは君のせいじゃないよ。何も君が申しわけながる必要はない。それとも僕が客の応対をしたから、申しわけないと思っているのかい? だとするとそれもいらぬ心配というものです。僕の店で主人の僕が客の応対をするのがそんなに不思議なことでしょうかね」と、妻に対するモヤモヤとした怒りの気持を、店員にぶつけておいて、治夫は配達のふとんをとりに倉庫へ入って行った。
乃里子は電話を切ると、眼で夫を探した。倉庫です、と察して良子が教えた。彼女は考えこみながら倉庫へ足を運んだ。
「何だ」ふとんの住所を調べながら、気配で妻が入って来たのがわかるのか、治夫が不機嫌に訊いた。
「……ええ」
「ええ、じゃわからんよ。話があるんだろう」
「そうなんですけど。――亜矢が」
「亜矢がどうした」
「このところ四日ばかり朝、走っていないらしいんです」
「――――?」
「毎朝走るような格好して出て行ったんですけどね」
「走っていないとどうしてわかった?」
「知らせてくれたんですよ」
「誰が?」
乃里子は一瞬返事につまった。「――コーチの人」
「さっきの電話か?」
乃里子は眼を伏せて、うなずいた。
「学校のコーチなのか」
「ええ」とっさに嘘《うそ》をついた。修平がどういういきさつで亜矢のコーチになったかを説明するのには、エネルギーがいった。それより嘘をつくほうが楽だった。
「ふん。熱心だねえ。一人の生徒のために早朝からコーチを買ってくれるってのはねえ。江崎さんていうのか、そのコーチは」
乃里子は狼狽《ろうばい》して、言葉を探した。
「それより、亜矢、走ってくるみたいな顔して毎朝どこで何をしているんでしょう」
「聞いてみるんだな、本人に。あなたはあの子の母親でしょう。だったら母親らしく、この頃娘が何を考えているか、知っていて当然じゃないか」
痛いところを突かれて乃里子は表情を硬《こわ》ばらせた。
「あなたはどうなのよ、あなたの方こそ家へもほとんど帰らないで――」
「人のせいにするな。いま俺は母親と娘の関係について言っているんだ」
「父親と娘はどうなんです?」
「それならどうぞご安心を」と、嫌な言い方をした。「亜矢と俺は、昨日ジュースとケーキを一緒に食べたよ。そして一時間ほどいろいろ話をした。もっとも、喋ったのはもっぱら俺の方だったが。その前に亜矢とデイトしたのは、四日前だ。実のところ俺たちはひんぱんに逢っているんだ」
「私は、あの子と一緒に暮らしています」
「じゃ、君は、あの子が今恋をしていることは知っているんだろうね、一緒に暮らしているんだから」
「変なこと言わないで」
「変? 恋をするのが変なことか?」
「まだ十四歳ですよ」
「じゃ聞くがね、君の初恋はいくつだった?」
「だって私たちの頃は片思いのプラトニックな――」
「亜矢だってそうさ。プラトニックなきれいな片思いさ」
「あなたにそんなこと話したの?」
「話しはしないさ。しかし、ちゃんと両眼をあけてあの娘のことを見ていればわかることだぜ」
「誰です、相手は?」
「自分で聞けよ」
「答えないわ、あの子。私には何にも言わない。反抗ばかりして」
「なぜだと思う」
「…………」
「きみがまずあの子に心を開かないからだよ。そうは思わないか」
「私のことばかり責めるのね、いつも。そんなに私が憎い?」
治夫は妻の顔の上の追いつめられたような色を見て、言葉を呑《の》んだ。妻をそこまで追いつめた原因のひとつは自分にあると感じて胸を突かれた。そこで口調を少し柔らげた。「とにかく話しかけてやることだよ、娘の話に耳を傾けてやることだ」
乃里子には、夫に言われたことがいちいち胸に突き刺さった。それどころか体中に画鋲《がびよう》のようなものを刺されたような感じだった。打ちのめされて夫の傍を離れた。
「おい」と治夫が呼びとめた。「亜矢の朝の練習の件、俺も聞いてみるよ」乃里子は微《かす》かにうなずいたが、彼女は自分の痛みに耐えることで精一杯だったので、夫の眼の中に浮かんだ悲しげな優しい表情には気がつかなかった。
何日か前、柴光太に噛みついたこともあって、小島麻子は仕事帰りに彼を飲みに誘った。番組の時はあまりくだけた服装は出来ないが、仕事を離れると光太はジャンパーにコーデュロイのズボン、カルチェのサングラスという格好になる。麻子の方は仕事中もプライベイトも同じ、要は、着やすく動きやすい服、それだけだった。
六本木のカフェバーで飲んで街に出るとまだ九時を回ったばかりだった。なんだか飲み足りないわねえ、と麻子が呟《つぶや》いた。
「場所を変えて飲み直しましょう」光太が提案した。
「飲むのはいいけど、どこへ行く?」
二人は肩をぶつけあうようにぶらぶらと溜池の方へ降りて行った。
「僕のマンションというのはどう? この少し先なんだけど」
麻子はわざと聞き流した。
「ヘネシーのいいのがあるんだけどね」
「それはあなたのベッドへの誘惑というふうに受け取れるな」
「解釈は自由です」いかにも女に対して自信ありげな流し眼を薄くカラーのついたサングラスの中から光太が送った。
「やめとくわ」肩すかしを食わせるように麻子が言った。
「どうして?」男は失望を隠せない。
「だって寝るのは簡単ですもの。その気になれば私もあなたも自由の身だからいつだって寝れるわけじゃない。そういうのって、抵抗あるんだな」
「そいつは難題だなあ。じゃ、僕かあなたが結婚でもしないかぎり永久に駄目ってことですか」
「とも限らないわ。こんな時間帯に女をくどくからいけないの。まだ宵の口だわよ。またあとでくどいてみたら?」
ところで、と麻子は口調を変えた。「あなた、あれやる時も色眼鏡かけてやるの?」
「嫌だなあ色眼鏡だなんて。サングラスって言ってくれないかな。八万円したんですよ、これ」
「どうせどこかのおばさまに買ってもらったんでしょ。私ね、夜になって色眼鏡かけてる男って、ちょっと抵抗あるんだ」
「よくいろいろと抵抗のある人ですね」と言いながら、光太はサングラスを胸のポケットに収めた。
「ほらね、ずっと素敵よ」麻子は口の脇に微笑を滲ませた。
その時、俳優座の脇から出て来たカップルが傍を通りすぎた。麻子は立ち止まり、振り返った。
「誰か知っているひと?」光太が聞いた。
上背のある四十前の男の後ろ姿を眼で追いながら、麻子はあいまいに答えた。「ちょっとね、昔知ってた男に、似てたんだ」
しかしその男は、かなり若い女と共に防衛庁の方へと曲がってしまった。江崎修平に似ていたが、もはや確かめようもなかった。
「いろいろと知りあいが多いんですね」と若い男は愚かにも嫉妬《しつと》を隠せない様子だった。
「ばかね」と麻子は笑った。「私はあなたがどこかの女にカルチェのサングラス買ってもらったといって、いちいち厭味なんて言わないでしょう?」
「言って下さいよ、厭味でもなんでも。僕ぁ、言ってもらいたいなぁ」光太は本音をにじませた声でそう言った。
乃里子は昼間の亜矢に関する夫との会話がずっと気になっていた。修平から電話がかかって、朝のジョギングコースにも亜矢は顔を出していないという。
亜矢の部屋のドアを押すと鍵《かぎ》がかかっていた。鍵などかけてと、母親の心はそれだけでもう泡立ってくるのだった。
「開けなさい、亜矢。聞こえているんでしょう」冷静に話しあいをするつもりで上がって来たのにもうはなからいけない、と彼女は深呼吸した。扉が引かれた。戸口に立ちはだかっている娘を押しのけるようにして乃里子は中に入った。
「ドアに鍵かけるような厭らしい真似、どうしてもしなくちゃいけないの?」気分が高ぶるのを押えきれないで言った。
「じゃどうして、最初からドアに鍵がついてるんだろうな」と、亜矢はどこ吹く風。
「このところ忙しくてあなたと話しできなかったけど――」自制しなおして乃里子が言った。
「忙しくない時なんて、何年もなかったじゃない」
「改装で特に忙しかったの!」ついに大声になる。「やめましょう、やめよう、ね、喧嘩はやめよう」と相手にというより自分に言い聞かせた。
その時ふと、机の横の天体望遠鏡に気づいた。
「どうしたの、これ?」
「盗んだわけじゃないわ」
「わかってるわよ、誰に?」
「他に誰がいるのよ、パパにきまってる」
いちいち反抗的な口をきくと、乃里子はかっとした。と同時にもろく崩れそうになる。「天体望遠鏡なんか、どうするの?」
「ばっかみたい。星みるのにきまってるじゃない」
「そりゃそうだった、隣りの物干しみたってしょうがないわね」
もう何日くらい前から天体望遠鏡は亜矢の部屋に置かれていたのだろうか。改装やわかの引っ越しや自分のセラピーの問題などにかこつけて亜矢の部屋なぞ覗《のぞ》きもしなかった。
いやそうではない。毎日掃除をするのだから、あれば気づいていたはずだった。それとも何も眼に入らないほどに自分は上の空だったのだろうか。
「伊萬里屋の太郎ちゃんも、いつも天体写真で星眺めてるわね」と、何げなく言ってしまってから、はっとした。夫が亜矢は恋をしている、と言った言葉を突然に思い出したのだ。
「ぜーんぜん関係ないの!」亜矢は急に不機嫌に言った。「それより、話って何よ。用があるから来たんでしょ?」
「そうだったわね」そういわれて乃里子は肝心の話に入った。「あなた、ママに嘘ついてるわね?」
「そんな遠回しな言い方しなくてもいいわよ。おばあちゃんの奴《やつ》、裏切りもの」
「おばあちゃん?」乃里子がきょとんとする。
「じゃ、あいつだ。ちきしょう、告げ口しやがった。汚いなあ」
「そんな男の子みたいな喋り方して自分で格好いいと思うわけ? ちっとも素敵でもなんでもないのに。告げ口じゃありません。あなたのこと、とても心配してお電話下さったの、江崎さん」
「じゃ心配するなって言っておいてよ。あのかたに。昼休み、運動場四周してるからって」
「なぜ朝走らないの?」
「あのかたに聞いてみて」
「――――」
「やんなっちゃうんだよ、本当に。いい年したおじんがさあ、毎朝トラックスーツかなんか着ちゃってノコノコついてくるんだからよお」
乃里子が思わず手を上げた。娘の頬《ほお》に振りおろされる寸前に、辛《かろ》うじて自制した。やり場のなくなった右手が宙で怒りのために小刻みに震えていた。
「ママがね、千五百で高校新取れたのは、江崎さんのおかげだった」怒りを静めながら乃里子が言った。「だから、そんな言い方しないでちょうだい。あの方も日本新を二つもっていらっしゃる方なの。一度だけは許してあげる。今度そういう口のきき方をしたら、ママは絶対にあなたを許さない」自分でも自分の感情的になっていることがわかって厭だった。「とにかくコーチがいらないというのなら、ママ、明日にでもお断わりの電話を入れます。だから、今まで通りに朝も練習してちょうだい。いいわね?」
亜矢は初めて見た母親の剣幕に気圧《けお》されたように黙っていた。手を上げかけたのも、初めてだった。急にしゃんとなった娘に哀れを催して、乃里子が言った。
「話はそれだけよ。そうだ、伊萬里屋のケーキ買ってあるけど、食べる?」
「いらない」断わったが、けんもほろろの感じは消えていた。
「美智世さんの洋梨《ようなし》のタルト、美味《おい》しいぞ」
「ママだって、ぞって言ったぞ」
「反省。――食べる?」
わずかに心が動くが、結局反抗心が勝つ。
「欲しくないよ」
乃里子はうなずいて部屋を出た。それでもなんとか心が通いあったのではないかと、ほっとすると同時に、疲労感を覚えた。娘と話し合うということは、口先だけの問題ではないのだ、と思った。全身全霊でぶつかっていき、相手もそれなりにぶつかってくるのを、受け止めることだった。
ところが部屋を出たとたん、背後にカチリと固い鍵の音がした。乃里子は、まだまだ前途は多難だと顔を暗くした。
そこから二キロと離れていない愛人和美のマンションの一室で辻井治夫が悪戦苦闘していた。
「どうしたの?」くぐもった声で、和美が聞いた。「あたし自信失っちゃうわ」
そう言って若い女が治夫の上から躰を起こした。
「君のせいじゃないよ、ごめん」治夫が沈んだ声で謝った。
「だってもう三日も同じなんだもの」
いきなり頭上のライトのスイッチを引いたので、治夫は腕で眼を守った。
「あたしの魅力が足りないのか、な?」ネグリジェに袖を通しながら、猫のような表情で男の顔色を伺った。
「いじめないでくれよ、頼む」若い女に対する愛しさで胸をつまらせながら、治夫が手を合わせんばかりに言った。
「心配ごと? お家のことや奥さんのこと?」
「飲み過ぎ」
「嘘」
治夫が手を伸ばして、女の髪を撫《な》でた。
「明日の朝、な」
「ほんとかな?」
「ほんとほんと。朝ごはんの代わりに和美を食べちゃう」
和美が機嫌を直して、横に滑りこんでくる。その若い温かい肉体を治夫は両腕に抱きしめて、眼を閉じた。やがて、男の腕の中で女は安らかな寝息をたてはじめた。けれども治夫はまんじりともしないのだった。彼の脳裏には、昼の言い争いで見せた妻の追いつめられた怯《おび》えた動物のような表情の残像があって、いくら追い払おうとしても、消えないのだった。妻がそこまで追いつめられているということに、夫である自分が気がつかなかったウカツさもさることながら、彼女をそこまでせっぱつまらせたのは、他ならぬ自分なのだ、という思いが、彼を眠らせなかった。
二 動 揺
居間《リビングルーム》の壁にかかった時計は十時を回っていた。いつもならその時間はテレビの洋画劇場かホームドラマを見て夫の帰りを待つのだが、加世は珍しく文庫本を開《ひろ》げていた。
もっとも、なかなか集中できなくて、先刻から同じ行を数回眼でなぞっているのだったが。
テレビをつけないのは、その日の午後遅くニュースキャスターの小島麻子に逢って刺激を受けたからだった。
加世が麻子に、あなたいいわね、毎日外をとび回って生き生きしてる、刺激的でうらやましいわ、と言った時だった。
毎日が刺激的だってことは、それに慣れてしまうから結局刺激的じゃないってことよ、と麻子は答えた。それよりも、あなたの方こそ、いい旦那《だんな》と二人の子供にめぐまれて、あくせくもせずのんびりやって、うらやましいかぎりだと言ったのだ。習い事だ、カルチャーセンターだ、友だちと昼食だと、結構楽しくやっているんでしょう? そう言われて加世ははっとした。一体自分が一日中何をして過ごしているのかと、改めて考えてみた。テレビだった。朝のNHKのドラマに始まって、ちゃんと坐って見ているわけではないが、一日中テレビがかけっぱなしの時もある。きちんと坐って見るのは、麻子の出る番組と、夜の九時、十時台の時間帯だから、正味三時間くらいだが、テレビのない生活など加世には考えられない。そう言ったら、麻子がへえ、と驚いてみせた。専業主婦ってそんなに暇なの? と悪意はないと思うのだが、いかにも馬鹿にしたような言い方をした。加世が過敏になっていたせいかもしれないが、その言い方に傷ついた。
私なんて、自慢じゃないけどテレビなんて坐ってじっくり見たことないわね、と麻子は言ってのけた。まんざら嘘のようには聞こえなかった。たとえ男のひととお酒を飲んだり、ベッドであれやったりするのだって、テレビの前に坐ってるよりよっぽどマシだと言うのだ。なぜなら少なくとも孤独じゃない。テレビからは一方的に受けるだけでこちらから働きかけられないが、外に出て人間との関係をやれば――と彼女は表現した――自分を相手に与えることはできるわけだった。
そんな会話に影響されて、今夜はなんとなく知的な気分に浸りたかったのだ。それで本箱から埃《ほこり》をかぶっている昔の文庫本を一冊引きぬいて来たという次第だった。
それにしても、小島麻子の雰囲気の若々しかったこと。加世などはテレビ局を訪《たず》ねて行くというだけで、シャネルのスーツに目一杯おしゃれをして行ったのだが、麻子の姿を見て、拍子抜けしてしまうほどだった。彼女は、多分麻だと思うが普通のワイシャツの袖《そで》をラフにめくって、茶色いタイトスカートをはいただけだった。おしゃれめいて見えるのはウエストに無造作に巻いた帯状の布ベルトだけ。加世のきんきらきんのアクセサリー過剰にくらべると、呆気《あつけ》ないほどの何げなさ、素気《そつけ》なさ。ドーランも落としてあって、化粧っ気は、口紅とマスカラだけのようだった。しかもメモをとる時には近眼なのか、女子学生のような眼鏡をかけていた。
それでも、きれいだった。身のこなしが、いつも人に見られているせいか緊張してきびきびと軽いし、喋り方も素敵だった。
私なんて、目一杯おしゃれしましたって感じで、イモもいいところだった、と、加世はひどく憂鬱《ゆううつ》だった。自分が脂肪太りでのろのろと鈍い動作をしているような錯覚に落ち入ったほどだった。
もっとも、冷静な眼で見れば、麻子は若々しかったが、決して若くはなかった。肌など、不摂生と、自堕落に近い生活のせいで――と加世はわざと意地悪く考えたのだが、荒れていた。笑うと眼尻《めじり》に四十女のような皺《しわ》が寄った。私の方が絶対に若い肌をしている、と加世はひそかに誇りに思っていた。
けれども若い肌をしていたって、それがどうだというのだ。麻子のように毎日テレビに出て、たくさんの人に見られるわけじゃないし、夜ごとに違う男と――とまたしても辛辣に想像を膨《ふく》らませたのだ――出歩くわけでもない。男といえば夫の修平だけで、彼は妻の肌などしげしげと眺めはしない。若々しい肌だなどと死んでも言わない。何を着ても、ヘアスタイルを変えても気がつきさえしない。そこらにある見なれた家具以上に、妻を眺めることはない。
夜は遅く帰ってそのまま妻の顔など見もしないで寝てしまうし、朝は朝でなんとかプロジェクトとか言って早朝出勤で一人で忙しがっている。加世はパタリと文庫本を閉じると、冷蔵庫の中を物色して、ドーナッツに手を伸ばしかけてやめた。断じてブタにはなるまいと麻子に刺激されて決意したのだった。それでイチゴを三つばかりたて続けに頬ばって冷蔵庫を離れた。
再び文庫本を膝《ひざ》の上に開いて続きを読み始めたが、なかなか集中できない。なんとなく落ち着かないのだ。なんだかじっとしておれない気持。不安なのだった。自分だけが取り残されているような気がしてならない。
加世は落ち着かない気持でもう一度立ち上がると、子供部屋を覗《のぞ》いてみた。案の定、修一が机の上につっぷして眠りこんでいる。加世は揺って起こそうと息子の肩に手をかけた。
けれども、修一のあどけない寝顔に胸を衝かれた。麻子の言葉が蘇《よみがえ》る。
「へえ、あなたも小学生の子供を夜中まで勉強させるの? 日曜も? じゃ一体、いつ遊ばせるのよ?」
「遊ぶ?」加世はその言葉を不思議そうに自分が口にしたことを思い出した。
「例えば、ほら、カンケリしたりドッジボールしたり」麻子が言った。
「だって、一人じゃ出来ないでしょう。相手が何人もいなくちゃ、遊べないでしょう、みんな勉強勉強で、そんなことする子なんていないわよ」
果して修一はカンケリ遊びなんて知っているだろうかと、加世は不憫《ふびん》に思った。
起こしかけた手で、加世はそっと息子の肩を叩《たた》いた。「修ちゃん起きなさい、風邪《かぜ》ひく。今夜はもういいから寝なさい」
「もういいの?」半分寝ぼけながら、ぱっと顔が輝いた。
「今夜だけよ」と、加世は釘《くぎ》を差した。そのままベッドへもぐりこもうとする息子の首根っ子をつかんで、
「歯を磨いてパジャマに着替える」
「今夜だけ……」
「だめ」
時計は十一時を回っていた。今夜も修平は酔って帰るだろう。加世はさっきから自分にうるさくつきまとう蠅《はえ》のような思いの原因がなんであったか、その瞬間、はっきりした。不安の原因は、麻子が別れぎわ何げなく言った言葉にあったのだ。
会話はクラス会のことから、乃里子のことになった。
「乃里子、どうしている?」加世が聞いた。
「ちょくちょく逢うわよ」麻子が答えた。乃里子が麻子としばしば逢うらしいと知って、加世は嫉妬《しつと》めいたものを覚えた。
「私も逢いたいわ、乃里子に」本気でそう思ったわけでもないが、言葉の弾みでそう言ってしまった。
「あら、あなたもうこだわっていないの?」と麻子が妙な眼をした。ぎくりとしたが加世は、あっさりとうなずいた。「こだわるって? 何言ってんのよ、十五年も前の話じゃないの、もう時効よ」
「そりゃあなたはそうかもしれないけど、乃里子の方はどうかな。時効などと簡単なわけにはいかないんじゃないの?」麻子はちょっと棘《とげ》のある言い方をした。
「ずいぶん執念深いのね」と加世は眉《まゆ》をひそめた。けれども内心おだやかではなかった。
「とにかく、私の方はこだわらない。逢ったらヨロシク言っておいて」
「わかった」と麻子はケロリと言った。「そう言っとくけど、この頃ちょっと問題があってね、乃里子」
「なに?」加世は好奇心を露わにした。
「まあ、女ざかりの悩みかな」麻子は加世の露骨な好奇心をするりとかわした。
乃里子のことが話題になったせいだろうか、と加世は、落ち着かなさの原因を探った。確かに乃里子のことを思い出すのは、触れたくない昔の傷口を無理矢理に開かれるようなものだった。忘れかけていた場面をふいに突きつけられるようなものなのだ。忘れたいと思っている場面。
妊娠しているのよ、と咄嗟《とつさ》に自分の口をついて出た言葉に、一番驚いたのは加世自身だった。ただ、私も修平が好きでたまらない、と乃里子に告白するつもりだった。それでどうなるものでもないし、まして愛しあっている乃里子と修平の仲を割こうなどと考えたわけでもなかった。ただ自分もまた、江崎修平を愛しており、死ぬほど恋いこがれている、ということを伝えたかった。直接修平に言う勇気はとてもなかった。それで乃里子に告白した。同じ女なのだから、同じ男に恋をした女同士なのだから、という甘えと共感があった。
話したいことがある、と卒業を間近にひかえたある時、陸上部の部室に呼びこんだ。
私も江崎さんが好きなのだ、と言おうとして、口を突いて出たのが、「私は彼の子を妊娠している」という言葉だった。
そう口に出して言ってしまったとたん、膝が震えた。乃里子が見るまに青ざめたのがわかった。すると不思議なことに、自分がほんとうに修平の子を妊《みごも》ったような気がした。涙が湧いた。泣きながら、お腹《なか》の子のために身を引いて、と乃里子に懇願した。乃里子は物を言わず後退った。
あの時の、幽霊のような蒼白《そうはく》の顔を、加世は長いこと一瞬たりとも忘れたことはなかった。
乃里子と修平が別れたのはその直後だった。ある時、修平から電話がかかってきて、卒業後初めて逢った。彼は乃里子を失った埋めあわせを求めていた。しかも乃里子に一番近い女友だちに求めているのがわかった。乃里子の代理か、乃里子への見せしめかわからなかったが、そうと知りつつ、その夜泥酔した修平に身をまかせたのだった。それから四か月後に、加世は修平と結婚したのだった。
それゆえに乃里子の名は、二人の間では決して出なかった。麻子と逢って、成り行きから乃里子のことが話題になり、それで記憶がなまなましく蘇ったのだ。加世は苦しげに頭を振った。何か他のことを考えよう。乃里子のことは済んだことだ。聞くところによると、ふとん屋からベッド用品の店にイメージ替えして、主婦と働く女を同時にやっているらしい。乃里子は乃里子で別の家庭をかまえ、きっと幸せに忙しく生きているだろうと考えた。加世は麻子との別れ際の科白《せりふ》をもう一度|反芻《はんすう》してみた。
「主人がよろしく言っておりました」と、形式的に加世が伝えた時だった。
「あっそう言えば、江崎さんのこと、この間見かけたような気がするのよね」
「あらそう、どこで? きっと女の子でも連れているところをあなたに見られたんじゃないのかな」
「そうよ、連れていたわよ」と麻子はケロリと言った。
ドキンとしたのを、覚えている。ケロリと言った麻子の口調を疑ったわけではないのに、妙にドキンとしたのだ。
「嘘よ」と、麻子はすぐにあっさりと否定した。実にさりげなく。「嘘ですよ、あいかわらず、嫉《や》きもち屋さんね」と彼女は笑った。加世もまたその笑いにつりこまれた。
けれども今思い出すと、あの「嘘よ」と言ったさりげなさが、さりげなさすぎる故に、逆にうさんくさく感じられるのだった。
夫が若い女と六本木を歩いていたって、すぐにどうのと騒ぎたてる気は毛頭なかった。会社の若い連中を連れて歩くことはよくあることだった。その中に女の子がいたって不思議でもなんでもない。
しかし、あのドキンと胸にきた重みはなんなのか。加世はそれ以上深く考えまいとした。考えたくなかった。でも考えまいとすればするほど、物事の本質が見えてくるものなのだ。
夫はこのところ、私に触れていない。少なくとも一か月以上それが続いていた。麻子の言葉がなければ、それほどまでに深刻には考えなかったかもしれないが、加世は今、夫との肉体関係の疎遠を、別の女の影と結びつけて考えようとしている自分に眉をひそめた。嫉妬の苦しみだけは嫌だった。これまで長いこと、嫉妬という感情と無縁に生きて来られたこと自体が奇蹟のような気がした。しかし一旦《いつたん》、嫉妬の黒い感情にとらえられると、もう闇雲《やみくも》に落ちるところまで落ちるしかないような気がした。つまり、魂の平和は終りなのだ。地獄を見るしかなかった。加世の地獄が始まった。事実は、もう少し後で始まるのだが、加世は勝手に想像から、それを少しだけ早めたのだった。
加世の思惑とは違い、修平は一人だった。『あかね』のカウンターで、杯を重ねていた。他に常連の客が二人、かなり長い時間飲んでいたが、それほど酔いは顔に出ていない。いろいろな思いが酒のために消えている。そのために飲んでいたという感じである。
「ママ、おかわりくれる?」修平がカウンターの中に声をかける。
「もういいんじゃないの、それくらいで」『あかね』のママが、低い声で言った。
「あれれ、ここのママはお客の注文断わるの?」
「時にはね。それと大事なお客の場合」
「僕はママの大事なお客? うれしいね」修平はいかにもうれしそうに笑った。「それじゃママ、今夜僕と寝ようか?」
「酔っていない時にもう一度|訊《き》いてくれる?」ママは素気ないというよりは、姉のような口調で修平をさとした。
「オーケイ。酔っていない時にまた訊きます。もう一杯、たのみます」
これだけよ、と『あかね』のママが修平のグラスにウィスキーを注いだ。
翌朝は五月晴れだった。
わかが孫の朝食を食卓に並べながら、人の良さそうな笑いを浮かべた。
「どうやら今日は、ほんとうに走ったみたいね」
「あら、おばあちゃん気がついてたの?」豆腐のみそ汁を口元へ運びながら亜矢がとぼけた。
「気づいてたわよ、そりゃ。あんた大袈裟なんだもの、あんなにわざとらしくはあはあいいながら駈《か》けこんで来るんだもの」祖母はさもおかしそうに顔をしかめた。「ちゃんと練習して来たかどうかなんて、すぐにわかります」
「気がついて気づかないふりをしていたのね」亜矢は柔らかい眼でわかを見た。「女同士の友情てわけね、おばあちゃん」
おばあちゃんが作る朝食の味が懐かしいんだ、といって、四、五日前から亜矢がいかにも練習の帰りに見せかけて、わかのアパートに立ち寄っていたのだった。みそ汁と納豆の魅力もあったが、本当は時間つぶしだった。
「それであんた、家へ帰ってからもママの朝ごはん食べるの?」
「まあね、軽くだけど」
「ママだって、このところあんたが練習さぼっていることくらい、とっくに気づいてるわよ。何しろあの人はその道の先輩なんだもの」
「ところが気づいていないんだな。あの人、それどころじゃないの、今」
わかは孫のその突き放した物の言い方に眉を寄せた。不憫《ふびん》でもあった。いずれにしろ、亜矢が朝の練習を再開したらしいので、その件はそれ以上追及するのはやめた。
「ところでおばあちゃん、あたしもおばあちゃんのこと、見て見ぬふりをしてるんだ」
亜矢が急にきまじめな表情をして箸を置いた。「スーパーマーケットでレジ係やってるなんて、嘘。お掃除やってるんじゃないの、おばあちゃん。生ゴミ集めて一日中焼いてるんでしょ?」
「あらまあ、もうばれちゃったの。パパやママも知ってるの?」
「まだ」亜矢が首を振る。「でも時間の問題じゃない? そのうち両方で別々に偵察に行くわよ」
「その時はその時だわね」とわかはお茶を飲んだ。「レジ係するって言わなければ治夫が許してくれそうもなかったから。この年寄りにレジなんて、本当はどこもやらせてくれないのよ」
亜矢が腰を上げた。
「とにかく、パパとママにそのこと黙っていてくれて、ありがと」わかが微笑した。
「お互いさま。おばあちゃんもあたしのこと見て見ぬふりしてくれてありがと」それだけ言い残して、亜矢は走り去った。
その日、乃里子は店を開けるとすぐ良子に店番を頼んで、寝装用具の輸入商社の展示会と仕入れに午前中と午後の大半を費やすことになっていた。
ところがその日は、いつになく客の入りが多く、治夫とまだ新米の良子がてんてこまいをしていた。
女の客たちはあれを出せ、この色違いはないか、ちょっとこのベッドカバーを広げて見せてくれないかと勝手な注文を次から次へと出し、たいして重くもない荷物を配達してくれと言いおいて行く。午後になると、ほっとする間もないほど客がたてこんだ。最近女性誌や婦人雑誌などで、しゃれた寝室の特集を組むことが多いので、それを見た人たちが、顔をのぞかせる。
レジのそばの電話が鳴った。客の応対をしていた治夫が出た。
「ランジュ・ド・メゾンです」乃里子がいないと、彼はこだわりもなく新しい店名を言った。良子がちらりとそんな治夫を見て、見えるか見えないかくらいの微笑を浮かべる。
「ただいま、ちょっと手が離せませんので……はいっ?……では後でこちらから電話を……」
治夫は周囲を見回して急に声をひそめた。「無理ですよ、そちらは土曜が休みでもこっちは休みじゃないんだから……」
相手は和美だった。土・日休みで退屈をもてあましているのだ。
「冗談言っちゃいけません。映画なんて無理です。そんなに暇なら手伝ってもらいたいくらいですよ。えっ? 手伝う?」治夫は慌てた。「いいよ、いいよ、冗談、冗談」汗をぬぐう。レジの前で客が列を作って待っている。「すみません、ただいま」とそちらに言っておいて電話の中へは「来なくていいですよ、来てもらっては困りますから」とくどくどと言っておいて受話器を置いた。
商店の土曜日はそんなふうだが、サラリーマン家庭では静かなものだ。江崎家もその例外ではなかった。加世は夫が留守番をしてくれることをいいことに、デパートの春物のバーゲンセールで出かけていた。修平はクレーマー、クレイマーのまねごとで焼きそばなどを作ってテレビを観ながら修一と幸子に食べさせた。
「いいのかなあ、こんなことしてて」と修一が疑問をはさんだ。
「いいんじゃないのか、たまには」父親はテレビの画面から眼を離さずに答える。
「どうしたんだ、テレビ観せろ観せろって、ママにはうるさく言うくせにして」
室内には脱ぎ捨てたソックスやセーターが散らかっていた。画面を見ていた十歳の幸子が不思議そうに父親に訊《たず》ねた。
「南アフリカの人たちって、黒人かと思ったら白人もいるのね、パパ」
「うん、いるねえ」修平がうなずく。「南アフリカにいる白人は金持が多いんだよ。そして黒人はどちらかというと貧しい」
すると幸子は真剣に考えこみ、
「じゃ、もし黒人が一生懸命働いてお金持になれば、色白くなるの?」と訊《き》いた。
「ばっかだなあ」と、幸子の兄が馬鹿にした。修平は幼い娘のその発想を面白いと思った。「でも幸子がうんと貧乏になっても、色黒くならないだろう? 肌の色とお金があるかどうかは、ほんとはあまり関係ないんだ」
幸子がその事で納得したかどうかはわからなかった。テレビの番組はスポーツニュースに変った。修一がやや残念そうに立ち上がった。
「おい、どこへ行く?」修平が息子を呼び止めた。
「塾」
「そうか」
幸子もソファーの上から立った。
「おまえも塾か?」
「ピアノの先生」
「パパ一人おいてけぼりか」
「休んでもいいわよ、ママに告げ口しないって約束するなら」
「よし。そのかわり幸子、パパと一緒にジョギングでもするか」
「いや。じゃピアノに行く」幸子が走り出して行った。修平は苦笑してテレビを消した。修一が塾の仕度《したく》を整えて出て行きかける。
「修一、塾はいいからさ、いっちょ走ってみるか」
すると息子は、
「中学の受験に落ちてもいいならね」と、素気《そつけ》ない。
「生意気な口のききかたするなあ、おまえ」修平は息子の胸をボクシングのジャブで打つ真似をする。修一が打ち返してくるのを期待したのだが、息子は、そんなバカげたことをして相手をする時間はないとばかり、靴をはき始めた。修平は拍子ぬけして、息子の胸へジャブをとばしていた右手を、自分の左手に打ちつけた。
ランジュ・ド・メゾンの店内は先刻ほどの客の数はなく、良子が二、三人の女客のために、ピロケースを広げていた。
ドアが開き、若い女が顔を覗《のぞ》かせた。いらっしゃいませと言っておいて良子は客の応対を続けた。若い女は物珍しそうに商品をひとつひとつ撫《な》でるように見て回る。
良子が客を送り出したところで、女が素早く側に来て訊いた。
「社長は?」
「はい、ただ今ちょっと配送に出ていますが?」良子はけげんそうに女を眺めた。
「何か、社長にご用ですか?」
「あれ、社長から私のこと訊いてなかった?」
「いいえ」
「お店てんてこまいだから、手伝いに来てくれって」
「それはどうもすみません」良子は用心する口調でそれでも軽く頭を下げた。「社長の、お知りあいですか?」
「ま、ちょっとね」
その言い方が、良子を刺激した。店で働くようになってまだ間がないが、一日中一緒にいれば店の奥でくりひろげられる家庭の様子や事情などは、なんとなく察しられるものだった。治夫と乃里子がいかに人前で繕おうとも、その繕うという感じ自体が、すでに破綻《はたん》を露呈してしまっているといえなくもない。どちらの肩をもつつもりもないが、女の本能からいってこの猫科の顔をした若い女には反感を抱いた。その時、店に客が入って来た。若い女が「いらっしゃいませえ!」と、良子より先に甲高《かんだか》い声を張り上げた。良子は嫌悪を露骨にして、
「おそば屋さんじゃないんですからね」と冷ややかに言いおいて、客の方へ微笑を向けた。それから、いかにも気取った態度で、
「いらっしゃいませ」と、客にというよりは、若い女に聞かせるために言った。
乃里子は寝装用具の展示会の後、仕入れ商品の交渉を行なって、四谷の商社を出た。時間は四時を過ぎたところ。店に電話をすると、良子が出て、一段落ついたところだという。それならば大急ぎで戻ることもないだろうと思った。麻子のテレビ局は五分ほどの距離にある。放送を終ったばかりで、まだ局にいるだろう。セラピーの庄司睦子を紹介してもらって以来、逢っていないので、顔だけでも見せて行こうと考えた。
テレビ局のロビーは、思ったよりひっそりとしていた。受け付けで小島麻子に面会を申し出ると、そこで待つようにと言われて、ロビーの黒い合成皮革の椅子に腰を下ろした。
麻子は、十分近く乃里子を持たせてから姿を現わした。その顔色が冴えない。
「ごめん、突然押しかけて来ちゃって。迷惑だったんでしょう?」乃里子が心配そうに言った。
「迷惑だったら逢わないわよ」麻子が苦笑した。「忙しい時は忙しいって、私、電話にも出ないでしょう?」
麻子は乃里子を局の喫茶店に案内した。窓際の席に、テレビでよく見る俳優たちが坐っていた。テレビや雑誌で時折見かけるせいか、初対面のような感じがしなかった。今日は、と声をかけてしまいたくなるような、一種の親しみが湧《わ》く。
「とにかく面白くないことがあってね、私、くさってるのよ。来てくれてかえって気が紛れるわ」席につくなり麻子が言った。
「くさってるって?」
「視聴率」吐き捨てるように、そう言った。「泣く子も黙る視聴率さまでございます」
「悪いの?」
「というより、とどまることを知らない下降線をたどっているの。非常にゆるやかではあるけれど、下降線には違いない」
「でも、麻子のせいじゃないんでしょう?」
「それがね、あなた知らないかもしれないけれど、一分刻みの視聴率が、ばっちりグラフに出るのよ。なんと一分刻みよ。私のコーナーの十五分間だって、はっきりとこうなんだから」と言って麻子は空に下降線を描いた。「逃げも隠れも言い訳も出来ないわよ。シビアなのよ、この世界。私げっそり痩《や》せたわ」
確かに麻子は疲れて憔悴《しようすい》して見えた。
「いいものをやれば当たるってわけじゃ絶対にないの。視聴率上げるためには質も落とさなければならないこともあるし、自分の気に染まない企画に甘んじなければならないってことよ。でもね、そんなふうに妥協して仮りに視聴率が上がるとするでしょう? そうすると今度は実に虚《むな》しいのよね。いずれにしろ、因果な世界よ、テレビの仕事は」
小島麻子はニュースキャスターとして特異で個性的な地位を築いたのであるから、変な妥協などして欲しくないと乃里子は思ったが、口には出さなかった。そんな忠告めいたことを言わないでも彼女は自分のやりたいことをやりたいようにする女だった。
「そうそう、加世に逢ったのよ」麻子が言った。加世の名が出ると、乃里子はドキリとした。それが顔に出てしまったのだろう。麻子がじっと見た。
「元気だった? 加世」乃里子ができるだけさり気なく訊きかえした。
「太った。いいお母さんやっているって感じ。何の悩みもなく、食べたいものを食べ、着たいものを着て、マンションに住んで亭主の尻《しり》を叩《たた》きながら教育ママやっているって、そんな感じだったな」
「そう……」自分はなぜ麻子に、江崎修平に逢ったと、話すことができないのだろうか、と乃里子は考えながら呟《つぶや》いた。「加世が教育ママ、か……」
「いかにもそういうタイプだったじゃない」
「あら、そう?」高校時代の加世を思い出しながら乃里子は首をかしげた。
「そうよ。お母さんタイプの原型。すぐに孕《はら》むタイプだし」麻子は辛辣《しんらつ》な言葉をズバリと言った。嫌な記憶がたち戻って、乃里子は顔を歪《ゆが》めた。
「ごめん」麻子が声を低めた。
「いいのよ、別に」乃里子は薄く笑った。「あの人も、大変でしょうね、上の子がそろそろ大学受験の準備でしょうから」
すると麻子が首をかしげた。
「大学? ちょっと待ってよ、乃里子。確か中学の受験だとか言ってた。そうよ、確かにそう、今小学校の五年だか六年の男の子が中学受けるんで、それで塾に通わせているって言ってたもの。そのことで二、三日前に加世に取材したのよ」
「小学生――? 下の子よ、きっと。二人、子供いるんでしょう、加世?」乃里子は疑いもせずそう言った。
「ううん、違う違う。長男だって。下の子は女の子でまだ小学校二年生だって言ってたわ。その子はピアノやってるんだそうよ」
乃里子はたて続けに瞬きをした。何かのまちがいに違いないと思った。上の子が十二歳だということはあり得なかった。まさにその瞬間だった。麻子も昔の記憶に行きあたり、急に顔を緊張させた。二人はお互いの表情を見つめあった。
「たしか、十八の時には妊娠してたのよ、ね、あの人」麻子が、十九、二十、二十一と指で計算する。「だとすると、上の子は、十五か十六にはなってるわね。生まれていれば」
「十六歳よ」乃里子は表情を暗くした。
「ということは――」麻子は眼を残酷な感じに細めた。「生まれていなかった――」
乃里子は弾かれたように顔を上げた。いきなり躰に電気を流されたような感じだった。
「どういう意味?」漠然と麻子の意味するところが透けて見えていたが、むしろそれを否定してもらいたい一心で乃里子が訊き返した。
「生まれていなかったってことよ。はっきりしてるじゃないの。妊娠など、加世していなかったんだわ。嘘だったの。あなたに嘘を告げて身を引かせたのよ」麻子は一気にそう言ってのけた。
高校を卒業してしまうと、三人は急にバラバラになってしまった。麻子は大学でマスコミを専攻したが乃里子は短大へ進み卒業を待たずに辻井治夫と見合いし結婚している。是非にと強く乞われたこともあったが、心の底での修平への思いが断ちがたく、気持の結着を無理矢理につけてしまいたかった。そのために早過ぎる結婚をしたのだった。一方加世は高校を卒業して数か月家でぶらぶらした後、修平と結婚した。乃里子と麻子の交友は続いていたが、加世との間はぶっつりと途切れたままであった。
乃里子は頭の頂点を撲《なぐ》りつけられたような気がした。何も考えられなかった。もし麻子が言ったことが事実だとしても、とうてい受け入れられなかった。躰を硬《こわ》ばらせたまま、彼女は眼を閉じた。何か恐ろしいことが自分の上に起ころうとしているような気がした。
「加世のやつ、汚いわ」麻子が押し殺した声で言った。「なんであの時、私気がつかなかったのかしら。考えてみればすぐわかることなのに、加世が上の子が十二だって言った時には、疑いもしなかった」
乃里子は耳をふさぎたかった。加世に対する憎悪はまだ湧いては来なかった。むしろ理不尽にも麻子にそれを抱いた。
「やめて、聞きたくない」冷ややかに乃里子は言った。言うと同時に立ち上がっていた。呆然《ぼうぜん》としている麻子をその場に残して、彼女は走り去った。
それでは自分は何のために修平から身を引いたのかと考えると、胸を掻《か》きむしりたくなるほど動揺した。身を引く理由などなかったとしたら、乃里子が失ったものは、何だったのだろう。喪失したものの大きさに、彼女の躰はほとんど前のめりになって、ぐらりと揺れた。どこをどう通って帰ったのか記憶に全くないが、気がつくとランジュ・ド・メゾンの文字が眼の前にあった。
店には見知らぬ女が一人いるだけだった。店員の良子の姿はない。
「いらっしゃいませ」と、その若い女が言った。
はっとして女を見た。よく事情がのみこめないという表情を乃里子の顔に見て、若い女が続けた。「何かお探しでいらっしゃいます?」
「ええ、良子さん――」乃里子は相手を観察しながら呟《つぶや》いた。
「あら、良子さんなら、銀行です。六時にキャッシュボックスが閉まる前に売り上げを入金してくると言って出かけましたよ。すぐに戻りますけど」
わずかに舌足らずのような声の感じで女が答えた。
「あの、良子さんのお友だちですか?」
「そういうわけじゃないけど、ちょっと手伝ってるんです、臨時で」女はじろりと乃里子の服装と顔に眼をあてた。「なにか、お探しなんですか?」
「いいえ、私ね」と乃里子は苦笑して女に正体を伝えた。相手の顔色が変った。
「社長の、奥さん?」
その瞬間だった。乃里子にはやっとぴんときた。和美という夫の女に違いないと思った。
「そうです」ひやりとする抑制のきいた声で答えた。若い娘の眼の中に怯《おび》えが走った。
「主人に、頼まれたんですか?」同じ冷ややかな声で、相手を見ずに乃里子は訊いた。
「ええ、まあ……」女はいったん語尾を濁したが、すぐに言い足した。「そうです。社長にぜひにと頼まれて。お店、てんてこまいだったんです。猫の手も借りたいほどだって社長が悲鳴をあげて」
女は自分の動揺を隠すために急に饒舌《じようぜつ》になった。乃里子は相手の言葉を途中でさえぎって、
「ごくろうさまでした」と言った。にべもない口調だった。それからバッグの中から一万円札を一枚出すと、手近なショーケースの上に置いた。女は一万円札をチラと見た。
「結構です」女が屈辱を隠せずに固い声で言った。「いりません」
「働いてもらったんだから、お礼はお礼です」
「そういうつもりで来たんじゃないわ」
「どういうつもりだろうと、もう結構ですから」
「手伝いに来ただけよ、善意のつもりだったわ、猫の手も借りたいほどだっていうから――」
「で、どろぼう猫の手を借りたってわけね」自分でも信じられないほどの意地悪い声で乃里子はそう言った。女の顔が歪んだ。今にも泣きだすのではないかと思ったが、自制した。彼女はそのままバッグを掴《つか》むと踵《きびす》を返してガラス戸を押した。乃里子は手つかずの紙幣をじっとみつめた。
日曜日の朝、江崎修平は九時に息子の修一を青山の模擬試験の会場に車で落としておいて、そのまま自分は代々木公園まで車を走らせた。出がけに妻には、少し回り道をして帰るからと言ってあった。
回り道って? と加世がたいして興味もなさそうに訊いたので、代々木公園で汗でも流すさ、と軽く答えた。咄嗟《とつさ》に言ったのだが、まんざら嘘でもなかった。代々木公園に行くのは行くのだし、汗を流すのも本当だった。ただし、何故行くのかは言わなかった。亜矢という十四歳の、いい走りをする少女のコーチの件は言ってなかったし、ましてその子の母親が乃里子だなどということは今となっては言えなかった。可能性のある少女をひとり発掘して、そのコーチを買って出たって、加世は別にどうこう言うまいと、たかをくくっていた。しかし、偶然ではあるが乃里子の子であるとわかってしまった後では、言うわけにはいかなかった。偶然であるということを妻にわからせるのに、言葉を尽くさなければならないことが気が重かった。
代々木公園の約束した場所に亜矢はすでに来ていて、柔軟体操をしていた。修平が近づくと表情をわずかにゆるめた。顔の輪郭や、表情のどこかに、乃里子の面影が濃かった。身体の感じは、まだ中学生だということもあって、昔の乃里子より骨が細く華奢《きやしや》な感じだった。
ストップウォッチを手に、修平が言った。
「フォームを変えたからね。タイムは下がるかもしれない。心配かもしれないけど、新しいフォームが自分のものになれば、タイムは必ずずっと良くなる。これは僕が保証する。わかったね?」
亜矢がうなずく。
「じゃ、行こうか?」
修平は約二時間、みっちりと亜矢のコーチをした。ダッシュのしかたに少し問題があるので、それを何度もくりかえした。自ら型を示して、足の曲げ方、腰の高さなど、こまかく教えこんだ。亜矢は吸い取り紙のように、修平のいう全《すべ》てを確実に記憶して、身につけた。
「あら、やっぱりまだいたのね」
背後にした妻の声で修平が汗に濡《ぬ》れた顔をふりむいた。加世が幸子と並んでいる。手にバスケットが下げられている。
「お弁当作って、ピクニックでもしようかと思って来たの」加世は、夫の背後にいる、背の高い少女を気にしながらそれでも笑顔で言った。「こんなにいいお天気だから、家にいるのがもったいなくなって――」
「めずらしいね、そんな気になるなんて」
修平は、胸の内の困惑を顔には出さずに、普段の辛辣な口調で言った。ほんとうのところは後ろめたいような気分がしていたのだ。そして、不意打ちのようにやって来て、自分を後ろめたい気持にさせた妻に対して、理不尽にも腹を立てているのだった。もっとも、不意打ちのように感じるのは修平に後ろめたい思いがあるからで、加世には含むところはなさそうだった。
妻と娘の幸子が、亜矢の姿に眼を注いでいるのに気がついて、修平は言った。
「亜矢ちゃんて言うんだよ。そこの中学で陸上やってて、朝晩走るのを見てたんだ。いいもの持ってるんで、コーチを買って出た」
それから亜矢を加世と幸子に引きあわせた。
「この人は僕の、奥さん。そしてこっちのちびっちゃいのは、娘の幸子」
亜矢はスポーツをやっている子らしい態度でペコリと頭を下げた。
「じゃ、今日はこれで終ろうか?」修平は陽気すぎる声で言った。「よかったら、君もピクニックに参加しないか」
あたし、いいんです、と亜矢は口の中で言って下がろうとした。
「亜矢ちゃん……。どこかで前に逢ったかしら?」
亜矢は首を振った。
なんとなく見憶《みおぼ》えのある顔だと加世は思ったが、遠くを見る眼を宙に泳がせた。亜矢がもう一度頭を下げて踵を返した。
「じゃまた。明日の朝ね」夫の修平がその背にむかって手をあげた。
少女の姿が遠のくと、
「朝もあの子のコーチをしているんですか」と加世が、とがった声で言った。「ずいぶん熱心なのね」
それが精一杯の嫌味だった。まだ胸も膨《ふく》らんでいないような少女を相手に妬《や》いているなどと思われるのは屈辱だった。
「あなたがコーチをしてあげている事、あの子のご両親は知っているの?」
ピクニック用の弁当を広げながら加世が質問した。妻はずいぶんこだわるなと思ったが、修平はこう答えた。
「最初はね、痴漢とまちがえられた。後ろから走ったり、あれこれ言ったものだから」
「当り前よ。それでどうしたの?」
修平は自分が喋《しやべ》りすぎたのを感じた。
「お袋さんて人に、待ちぶせされた」
加世が顔をしかめた。
「よく警察に突き出されなかったわね」
「まあね」
「それで?」
「だからまあ、なんだ。誤解がとけて、改めてコーチを申し出た」
加世は娘の幸子にゆで卵のサンドイッチを渡してやりながら、夫の話がどの程度真実なのかと怪しんだ。
「亜矢ちゃんて言ったわね?」
不意に加世が呟いた。何かが頭の中で小さくはじけた。つい先日、麻子と逢った時に、そう言った名前が出はしなかったろうか。「姓は何ていうの?」
修平の眼が一瞬警戒するように光った。
「姓など聞いてどうする?」
その夫の言い方に疑惑が一気に強まった。
「聞かれては困るの?」
修平の返事のタイミングがわずかに遅れた。
「困りはしないさ」
困りはしないと答えておきながら、困惑を隠せない言い方だった。
「困りはしないが、愉快じゃないかもしれんよ」妻が抱き始めた疑惑を察して、夫は最後の抵抗を試みた。
「いいから。姓は?」
沈黙があって、修平は覚悟をきめた。
「辻井。辻井乃里子の娘だ」
疑惑をつのらせながらも、一方では夫が事実を語らないだろうという祈るような気持もあったので、そんなにもあっさりと認められると、加世は自分にその事実を受けとめる用意が全く整っていないことを、思い知らされた。いきなり胸を突かれたような衝撃と痛みとで、呼吸ができなかった。
物も言えないで青ざめている妻の顔を見ると修平は、さすがに内心自らを責めた。全く必要のない動揺と不安とを、妻に与えることはなかったのだ。
「いつからあなたたち、私にかくれてコソコソ逢っていたの?」加世は一気に論理を飛躍させた。
「あなたたち? 誰と誰を指して言っているんだ?」できるだけ冷静さを保とうとして修平が答えた。
「きまっているでしょう、あなたと乃里子さんよ」
「どうしていきなり僕と乃里子があなたたちと、こうなるのかわからないが、この際はっきりしよう。僕らはコソコソなどしてはいない。君が想像するような関係など、まだ存在していないんだ。あるのは辻井亜矢との関係だけ。それとも何かい、君は十四歳の女の子に嫉妬《しつと》しているのかね」
夫の言葉はもしかしたら本当かもしれないと思った。加世は冷静さをとり戻しながら言った。
「あなた、気づいていないかもしれないけど、乃里子さんとの関係はまだ存在していないって言ったわね。うっかりだったかもしれないけど。『まだ存在していない』って、わざわざまだをつけたのは、あなたの気づいていない本心がのぞいたのよ。まだ今のところは関係は存在しないけど、いずれはそうなるだろうって、そんなふうに私の耳に聞こえたわ」
修平は沈黙した。加世の言葉をひそかに吟味し、それが必ずしも当たらないことではなかったので、胸が騒いだ。
「――そうかね。だとしたら君の想像力には脱帽するよ」と彼は呟いた。「それとも、いつから君は予言をするようになったんだね」
その言葉を言い終ると同時に修平は立ち上がり、ふらりという感じで歩きだした。
「パパお弁当食べないの?」と幸子の声が追ったが、修平は答えずそのまま日曜日の家族連れでにぎわう公園の中を歩み去った。
『伊萬里屋』の店内には、例によって低くカーマイケルの音楽が流れていた。ケーキと紅茶をえさに治夫が娘の亜矢を誘って来ていた。彼は昨日和美がランジュ・ド・メゾンの店に勝手に押しかけて来たのを知らなかったが、夜になって和美の様子がおかしかったので問い糾《ただ》して知ったのだった。彼らはその事が原因でちょっとした言い合いになり、翌日曜日にもすねている和美をもてあまして、亜矢に電話をして呼び出したのだった。
ひとつには、乃里子が和美のことでどんな反応をしているのか、月曜日に店が開くまでの間に知っておきたかった。
「調子はどうだ?」と治夫はまず陸上の話題から始めた。
「いいよ。フォーム変えたけど、なれてきたらまたタイムが上がるって、江崎さん言ってた」
「江崎さんは、コーチとしていいか?」
「顔に似合わず、厳しい」
「顔って、どんな顔してるんだ?」
「そうね、いいんじゃない?」と亜矢はすんなりと答えた。「まあ、かなりいいほうだと思うけどね。あたしの趣味じゃないけどさ」
「だけど熱心なコーチもいるものだよねえ、ま、それだけ亜矢に見どころがあるってことだな」治夫は誇らしいような、まぶしいような視線を娘にあてた。
「親子二代だからね」亜矢はフォークの先でケーキを崩しながら何げなく言った。
「親子二代?」治夫が訊きとがめた。
「昔ママのコーチしてた人だよ。パパ知らなかったの?」別に悪びれるふうでもない。
「ああなんだ、そういう意味か」と治夫は咄嗟に苦笑でごまかした。乃里子の高校時代のコーチがなんで今頃姿を現わしたのか、と疑惑で胸が黒ずんだ。
「パパは何にも知らないんだ」と亜矢はみすかすように言った。「おばあちゃんがレジ係なんてしてないことも知らないんだろ?」
「えっ?」
「おばあちゃん、スーパーで掃除やったりゴミ焼いたりしてるのよ」
治夫は唖然《あぜん》として、「まいったなあ」と娘の前で心底まいった顔をした。
「亜矢、おまえ、おばあちゃんに話してくれよ」
「何を?」
「あの年で、掃除なんてしなくていいんだって」
「そんなこと、自分で言えば? パパのお母さんじゃない」
「亜矢のおばあちゃんじゃありませんか」と治夫は自信なげに呟いた。
伊萬里屋のカウンターでは、太郎が例によって天体写真を開《ひろ》げていた。
美智世がひまなので横からそれを覗く。
「なにこれ? 『大熊座にある小宇宙M81』だって。むずかしいのねえ」と黒い空に白い渦をまいている星座をみつめる。「大熊座って地球からどれくらい離れているんだろう?」
すると太郎は、傍のメモにいきなり数字を書きこんだ。30,800,000,000,000,×2,400,000=73,920,000,000,000,000,000
美智世が眼を見張って亜矢を呼んだ。
「ちょっと亜矢ちゃん、ちょっと来て。この数字を見てちょうだい」
呼ばれて亜矢が立って行った。美智世と一緒にメモを覗きこんで眼を丸くする。
太郎が頁《ページ》をめくって、亜矢に見せた。彼女はわずかに恥じらいをその眼の隅のあたりに滲《にじ》ませて若者の横でそれを眺める。
「かに星雲。その昔爆発したんだよ」太郎が説明する。「水素爆弾が一度に何個爆発したのと同じくらいか、知ってる?」
「知らない」亜矢が小さな声で答える。
「一兆の一兆倍の数と同じ」
「水素爆弾が一兆の一兆倍も!」亜矢の眼が輝いて太郎の横顔にひたりと張りついた。
「おう、亜矢、パパは先に帰るぞ」
乃里子のコーチの一件云々と、わかが実は掃除婦をしていると娘に告げられたことで急に気分が落ち着かなくなったのか、治夫がせかせかと支払いをすませて出て行った。
「太郎ちゃんてすごいね、何でも知ってるのね」
父親がいなくなると、亜矢は少し喋った。
「星のことだけ」太郎が言った。「そのうちお金貯めて天体望遠鏡買うんだ。それが僕の夢」彼はぽつりと言った。
治夫は伊萬里屋を出ると、その足で駅前のスーパーマーケットへ向かった。母親がスーパーでパートタイムの仕事を四、五日前から始めたことは知っていたが、てっきりレジを打っているものとばかり思っていた。
店の者に知らされて裏口へ回ると、わかは大きなアルミ製ゴミ箱を移動していた。治夫の姿を認めると、その顔に悪戯《わるさ》を見つかった子供のような表情が浮かんだ。
「なあに?」と彼女はとぼけたような声で言った。
「いやね、ちょっと買いもののついでにお袋さんの顔見に来ただけ」わかが運びかけていたゴミ箱を代わりに持ち上げながら治夫が言った。ゴミ箱は意外に重かった。治夫の胸が痛んだ。
「じゃもう顔みたでしょ」
「なんですよ、そんなに邪険に追いたてないで下さいよ。それより、お母さん、こんなことをする必要あるのかな」
「こんなことって?」
「ゴミ集めや掃除のことですよ」
「運動になるのよ。じっとしているよりずっといいの」
「運動なら他のことでもいいでしょう。とにかくこんなことは止めてくれませんか、僕の立場も考えて下さい」
するとわかはさもおかしそうに声をたてて笑った。
「何がおかしいんですよ」と治夫は鼻白んだ。
「だってあんたが立場なんてことを言うから」わかはまだ笑いが消せない。「あんたが立場なんてこと、言えて?」
治夫は嫌な顔をした。
「あんた昨日、自分の女を店で働かせたんだって?」
治夫はぎょっとして、次に眼をむいた。
「誰です、そんなことをお袋さんの耳に告げ口したのは?」
「別に誰でもないの。私がちょっと用があって電話したらその娘《こ》が出て、和美っていうじゃない。それでピンときたわ」
「和美が僕のなにだってこと、どうしてお母さん知ってるんですか」
「そりゃね、いろいろと」
「いろいろと何です」
「調べました」
「乃里子のさし金ですか?」
「いいえ。乃里子さんはプライドが強すぎて、そんなコソコソしたことしやしませんよ」わかはじっと息子の顔に強い視線をあてた。「とにかく、どういう気なんでしょうねえ? 自分の女を店に入れるなんて、そんなむちゃくちゃやる人が、立場なんて言葉、よく使えるわねえ」
「いやあ、あれは無理矢理に押しかけて来ちまったんですよ。あれも悪気じゃなく、店がテンヤワンヤだったから、善意なんです。しかし、反省してます」
治夫は急に神妙に言った。
「今更反省したって遅いわね。そういうことはね、男として最低。そりゃあんたが乃里子さんとうまくいかないのは、ある程度やむをえないと思うわ。夫婦のことは私は口出しはしませんよ。だけど外に女を作るだけならともかく、店に入れちゃこれはむちゃくちゃ。死んだお父さんもあんたなんて足元にも及ばないくらい極道《ごくどう》だったけど、それだけはしなかったわ。女を家庭に一歩も入れなかったわ」
結局何のことはない。治夫は母親に文句を言いに来たつもりが逆に説教されて帰されるしまつだった。どいつもこいつも、思いどおりにならん、と彼はますます憮然《ぶぜん》として、スーパーを出た。
麻子は父久雄と一緒に住む目黒の家で、実に久しぶりに父親と遅めの昼食をとっていた。
しかしお互いに照れ性の二人は、ひとつ屋根の下で顔を合わせて寛《くつろ》ぐという機会が、驚くほど少ないにもかかわらず、いざとなると一方は新聞から一度も顔を上げようとしないし、もう一方の方も何かしら別のことに気をとられているという始末だった。
久雄が朝刊から眼を上げずに言った。
「おまえ、それだけしか食べんのか?」
「そう」麻子はチーズと二枚のソーダークラッカーが載った自分の皿を見ながら答えた。
「小鳥でももう少し食うぞ。躰をこわしても知らんよ」
「お父さまこそ食べ過ぎ。コレステロールの取りすぎです」麻子は食卓にひろげてある雑誌をめくる。
「誰もおまえにめんどうはかけんよ」
「いい人がいらっしゃいますものね」
「おまえなんぞ栄養失調で倒れても見てくれる男なんぞおらんだろう」
「一人だけいます」麻子はすまして答えた。
「へえ、そうか?」初めて久雄がチラと娘の顔を見た。
「お父さまよ」
「やめてくれよ」と彼は苦笑いした。「オールドミスの娘のめんどうなんてみさせられてたまるか」
「まあひどい。それが娘に言う言葉?」
「くやしかったら、さっさといい相手をみつけて一緒になることだ」本気とも冗談ともつかぬ口調。事実久雄には、娘を誰か、適当な男にまかせたいという思いと、手元に置いておきたいという思いとがあって、たいていの場合父親としての理性が勝つから、いつまでたっても身を固めそうもない三十四の娘が心配なのだった。
「当分、だめかね?」探るように老眼鏡の奥から娘を見る父親の眼。
「そういうこと。それよりお父さまお先にどうぞ。とうのたった娘のこと心配していると、行きそびれるわよ」
「何を言ってる、私がどこへ行くんだね?」
「じゃ睦子さんに入っていただくことね、この家へ」
「オールドミスの小姑がいては、どうかな」
「お父さまがそうなさりたいというのなら、私出てもいいのよ」ここで麻子も深刻に父親の表情を読み取ろうとした。
「どこへ住む?」
「アパートでも借りるわ」
「それ以上自堕落になられちゃ、ますます縁遠くなる」
「そんなことおっしゃって、結局、お父さまがまず子離れしなければだめなのよ」
久雄はばかを言えと、苦笑した。
その時麻子は久雄の口の脇《わき》に刻まれている皺《しわ》の深さに注意を止めて、慄然《りつぜん》とする思いに襲われた。一緒に暮らしていながら、なんとなく眺めてはきたが、改めて父親が年を取ったことを思い知らされたような気がした。
「どうした?」娘の顔つきに気づいて久雄が訊いた。
「えっ?」麻子はうろたえた。「ううん、ただお父さまも白髪が増えたと思って」
「じいさまだからな、年から言えば」久雄は答えた。「おまえもカラスの足あとが増えたぞ」
「ばあさまでございますから」そう言って麻子は微笑した。西南の窓に、初夏を思わせる日射しが斜めに切りこんでいた。日射しになど、もうずいぶん長いこと視線を止めなかった、と麻子はふいに口をつぐんだ。テレビ界というざわざわした世界で、同じようにざわついたまま押し流されてきた。麻子は長いこと、室内に射している明るい光りを眺めていた。日曜の午後がゆっくりと過ぎていった。
月曜の朝、治夫はランジュ・ド・メゾンと書かれたガラス戸の外から店の様子をうかがった。店員の良子がいれば、妻と二人だけで顔を合わせずにすむからだった。和美のことが乃里子にばれていることは、すでに和美の口から聞いていた。
店はまだ開店して間がないので、客の姿はない。良子は治夫の顔を見ると、お早うございますと挨拶《あいさつ》したが、妻の乃里子はとがめる眼でチラと見ただけで、口を引き結んでいる。
その顔の冷ややかな硬さを見ると、それまで内心ビクビクとしていた思いが嘘のように消えて、治夫は急に闘争的になっていく自分を感じた。どうせ一戦交えなければならないのなら、さっさとやってしまいたいという気もあった。
「その顔つきじゃ言いたいことがあるんだろう」乃里子は夫を避けるようにレジの中へ回りこんだ。「言いたいことがあるんなら、早く言っちまってくれよ」
良子が夫婦の空気を察して、それとなく倉庫へ消えた。
「店員にいらない気を使わせないようにして下さいよ」乃里子は力なく抗議をした。
「それだけかね?」
夫がしかけた喧嘩《けんか》に簡単に乗るようなのは嫌だったが、彼女もまた、いずれ一本|釘《くぎ》を刺しておかねばならないと考えていたので、言った。
「店に女を入れるようなことは二度とやめてもらいます」
「おや、今度はかなり単刀直入ですな」
「他のことは、たいてい我慢してきたつもりだけど、ここに来てもらうのは――」乃里子は口ごもった。「みっともないし、第一うすぎたない」思わず吐き捨てるような口調で言った。
「それじゃ区役所に電話して、店中消毒してもらったらいい」
治夫は面白くもなさそうにそう言った。
「私が嫌なのは、土曜の午後のことで私たちみんなが恥ずかしめられたみたいな気がするの」汚されて、傷つけられたような気がするのだった。すると治夫はその言葉尻をとらえた。
「あなたたちみんな? そうじゃないでしょう、あなたでしょう、プライドを傷つけられてまいっているのは、あなたなんだ」
その時客が入って来たので夫婦は唐突に会話を打ち切った。乃里子が応対に進み出た。別の客の応対には、倉庫から良子が出てあたった。背後のカウンターで電話が鳴り、近くにいた治夫が出た。いつもの、月曜の朝らしいルーティーンが始まろうとしていた。
「もしもーし。ランジュ・ド・メゾンでございます」治夫が電話にむかって頭を下げた。
「……江崎さん?」乃里子がはっとふりかえる。「へいへい、ちょいとお待ちを」急にへりくだったわざとらしい口調で治夫が妻に言った。「江崎さんてえ方から、あなたに電話ですよ」乃里子が客に目礼して受話器を取り上げると、治夫が呟《つぶや》くのが聞こえた。「よくかかりますな。ボクがとるかぎり、これで二度目ですよ」
電話の相手は江崎修平だった。
「もしもし、都合悪い時に電話しちゃったみたいだね」
「いいえ」乃里子は言葉少なめに答えた。それで事情を察してか、修平が言った。
「電話じゃ何だから、ちょっとだけ逢えませんか。昼休みに僕の方からどこか近くまで行きますから」
「ええ、でも……」乃里子は背後の夫の耳を意識して煮え切らない返事をした。
「乃木坂に向かって右側にあるセジュールって店知ってますか?」相手も会社からなのだろう。別の電話が鳴る音や、タイプを打つ音などが聞こえていた。「出られますか」修平が続けて訊《たず》ねた。「是非話しておきたいことがあるんです」
その口調から、緊張した気配を感じたので、ようやく乃里子は決意をして、その場をとりつくろった。
「亜矢の件ですね。では、十二時半に」夫の耳を意識した言い方だった。
電話を切ってふりかえると、夫が倉庫へ消えるところだった。少しして、彼が配達用のバンに、荷物を積みこんでいるのが見えた。ほどなくバンは排気ガスを残して行ってしまった。
十二時二十分過ぎに乃里子は良子に三十分ほど留守を頼んで、修平に指定された店へ出かけた。
治夫は、乃里子が出た少し後で配達から戻った。もともと、たいして量はなかったので、出かける必要もなかった。ただ妻が、江崎という男からの電話を受けた後で、自分にどんな言いわけをするか、それが聞きたくなかったのだ。店へ男から電話がかかってくるという、そのこと自体が面白くなかった。更にいけないのは、面白くないことだと感じる自分の嫉妬だった。治夫は、妻の身辺に男の影を感じて、自分自身のことは棚に上げ苛立《いらだ》つのだった。
店では良子が手持ちぶさたにリビング関係の雑誌の頁をめくっていた。
女の客が、自動ガラス扉の外に立った。色の白い、めかしこんだ女だった。
「いらっしゃいませ」上得意のタイプと見てとって、良子がとびきりの笑顔をむけた。
「あの……」と女は言った。「あの、辻井乃里子さん、いらっしゃいます?」どこかおどおどした感じが女の周辺に漂っていた。
「……どちら様でしょうか?」良子が遠慮がちに訊《き》いた。
「江崎と言って頂ければわかります」
レジで所在なくしていた治夫が顔を上げた。
「江崎、さん?」そう言って女に近づくと、ジロジロという感じで女を見た。「江崎さんとおっしゃいましたか?」
「はあ、江崎加世と申します。乃里子さんの高校時代の友だちですけど」加世は頭を下げた。どうやら乃里子の夫らしいと感づいて、事が大袈裟になるのを恐れた。
「乃里子はですね、出かけました」治夫は妙な具合に言った。「たった今ですが。不思議な偶然ですな、江崎さんという同名の方から――そちらは男性でしたがね――電話で呼び出されまして、すっとんでいきました」
加世は顔色を失った。彼女は乃里子を訪ねて、ただそれとなく二人で話してみるつもりだった。女同士のこととして起きてしまったことはともかく、乃里子に今後江崎修平に近づかないよう、言うつもりだった。一晩かかって、決心したのだった。
ところが乃里子を訪ねて店へ来てみると、事態は加世が考えていたより、ずっと進展しているようなのだった。乃里子の夫らしい男の口調には、悪意がありありと滲み出ていた。加世は膝《ひざ》の力が抜けそうな不安を覚えた。
「お顔の色が悪いようですな」治夫は同情を含まない声で言った。
加世はその場を取り繕えず、思わず後退った。
「何か、おことづけでも」
「あの……あの」と加世は酸素が不足しているかのように空気をたて続けに吸いこんだ。「そこの路地にあった喫茶店にいますから……」
「乃里子が戻ったら、そう伝えましょう、伊萬里屋ですね」辻井治夫は冷ややかにそう言って、逃げるように出て行く加世の姿を見送った。
乃里子は江崎修平から憂鬱《ゆううつ》な話を聞かされて、困惑しながら店へ戻った。亜矢の一件が加世に知れた、というのだった。なぜ修平がそうなる前に彼の方から亜矢の件と、乃里子との偶然の出逢いを妻である加世に話しておかなかったのか、と思ったが、乃里子は問いたださなかった。
では自分はどうなのかといえば、同じようなものだった。亜矢のコーチを突然申し入れて来た男が、自分の高校時代の陸上のコーチであった、と夫に伝えていなかった。さりげなくその事実を伝えるタイミングが見つからなかった。たとえ見つかっても、現在の自分たちが置かれた情況では、夫が刺《とげ》のある皮肉や嫌味をぶつけて来ないわけはなかった。更に言ってみれば修平は、ただのコーチではなかった。乃里子の最初の恋人であり、婚約までしていた男だった。
「もし加世の方から電話がかかるようなことがあったら、適当にあしらってやってくれないか」と、修平は言った。彼の真意は、妻が乃里子に不当でフェアでない言葉を口にして責めるようなことがあるかもしれない、という事前の予告にはとどまらなかった。修平は、乃里子のことを心配していた。それが乃里子にはわかるのだった。本来なら一番傷ついたのは加世なのだから、夫たるもの加世の心を思いやるべきなのに、修平は乃里子に迷惑が及ぶことを恐れていた。君を傷つけたくないのだ、というようなことを、呟いた。
「こんなことになったのも、元はといえば僕が、もっと早く、加世に話しておくべきところを、引き延ばしていたせいだから」
けれどもなぜ引き延ばしていたのか、そのところを修平は説明しなかった。
店に戻ると、治夫が撫然とした顔で伝票をくっていた。妻の顔を見ずに彼が言った。
「江崎さんて人が、伊萬里屋で待っている」
乃里子はぎょっとして思わず立ちすくんだ。夫は眼を上げて、妻のその動揺ぶりを皮肉な顔で見ていた。
「今度は女の江崎さん。あなたも忙しい人だね」
加世が、もうやって来たというのだ。乃里子は、まだ加世に会う覚悟が出来ていない自分を感じた。修平と自分の間に何かやましいことがあるのならともかくも、何もないのに、加世の出現といい、夫の皮肉な態度といい不当な気がした。乃里子は、自分こそが被害者のような気がしていた。それなのに、夫も加世も、自分をとがめだてようとしているのだ。
伊萬里屋の通りに面した窓際に、ぽつねんとした感じで坐っている十五年ぶりの加世の姿があった。肩に力がなく、ひどく憔悴した感じ。もぬけの殻かなにかのように。あのひとをあんなふうにしたのは、私なのだろうか、と乃里子は一瞬、自責の念にかられた。
しかし、乃里子の姿を見つけると、加世は背筋をぴんと伸ばし、顎《あご》を突き上げるようにして、彼女を迎えた。先刻の自信のない弱々しい女とは別人のような表情と闘争的な態度だった。乃里子は自分が宣告を受ける囚人のような気がして、やりきれなかった。
伊萬里屋の美智世が、いつも通りにこやかに乃里子を迎えたが、お喋りをする余裕もなく加世の席まで歩いていった。
「坐って」といきなり、挨拶もそっちのけで加世が言った。乃里子は言われたとおりにした。
「何て、言ってた?」いきなり、射るような加世の視線。
「えっ?」
「たった今の今まで、二人で逢っていたんでしょう? 主人と」
治夫に対する憎しみと軽蔑《けいべつ》の感情が乃里子の中でせめぎあった。言わなくてもいい余計なことを言ったりして、夫に対する失望を深めた。
「主人はあなたを呼び出して、何を話したの?」
十五年ぶりに再会した友人から、いきなりこのような言葉を浴びせられるとは思わなかった。しかし、加世の気持を思えば、それも当然だろうと想像した。ただ自分は、たとえ夫の愛人でも、乗りこんで行って詰問するようなことはしないし、できないと思った。乃里子は眼の前で眼を釣り上げている加世に、ひそかに同情した。
「主人も主人だけど、あなたもあなたよ。電話くらい私にくれても当然じゃない。亜矢ちゃんとかいうお宅のお嬢さんにコーチをつけるという話がまとまったんなら、妻である私にその報告があるべきじゃなかったのかしら」
加世の言うことは、いちいちもっともだった。乃里子はうつむいた。
「人の夫とコソコソと逢うなんて、最低だわ。それも高校時代の友だちの夫じゃないの」
その高校時代の友だちが、私に何をしたのか、と乃里子は胃がねじきれるような思いに耐えた。それは今口にすべき問題ではないと思い、彼女は動揺がおさまるのを待った。
「コソコソだなんて、泥棒猫みたいな言い方、しないで、加世さん」
「でもそうなんでしょ? 事実泥棒猫みたいなこと、あなたしてるんでしょう?」
泥棒猫と大きく言ったので、美智世がチラと視線を二人に投げた。乃里子は蒼《あお》くなって押し黙った。
その時、彼女の中で何かが起こった。開き直るような感じで、乃里子は相手を見た。あなたがそう言うのなら、本当に泥棒猫になってあげる、と、胸の中で呟いた。何を言っても信じてもらえないのなら、いっそのこと、あなたや夫の治夫が疑っていることを、本当に実行してやる。そんな悪意のある思いだった。
しかし乃里子はそのことをすぐに恥じてうつむいた。自分の心の中に起こった動きに、怯《おび》えた。
乃里子は言葉を尽くして、誠実に、これまでのいきさつを加世に語って聞かせた。
「というような事のなりゆきだったの。江崎さんと神宮で逢ったのは全くの偶然。それでコーチが……」
「コーチなんて言い方しないで。今はもうあなたのコーチでも何でもないんだから」いきなり高飛車に加世が口をはさんだ。
「…………」
「偶然偶然て言うけど、それはいいの、もうわかったわ。あなたのお嬢さんとも知らずに亜矢ちゃんの走りっぷりが主人の眼に止まったというのは、多分本当なんでしょう、あなたに逢ったのも、偶然なんでしょうよ」と加世は一気に言った。「問題はねえ、そんなんじゃないの。なぜそうなったらなったで、私にあなたから電話なりなんなりで報告してもらえなかったかということなのよ。そうでしょう? それが物の道理ってものでしょう、私一人がツンボ桟敷におかれてどんな気がすると思って? 主人も主人だけどあなたもあなた。どういう気? どういう神経なの? それとも昔のことで私に今頃になって仕返しかなにかしているつもり?」
乃里子の躰《からだ》が震えだす。何もかもが厭《いや》だった。おぞましかった。こんな場面は一刻も早く終りにして逃げだしたかった。ごめんなさい、ごめんなさい、と頭を下げた。「ごめんなさい。初めについ言いそびれちゃったものだから、なんだか言いにくくなって」
「つい言いそびれた、の? へえ、じゃ、つい言いそびれれば人のだんな様と浮気したっていいっていう理屈になるわけ?」
加世の論理の飛躍に乃里子は呆然《ぼうぜん》とした。「私たちがそんなことをするはずがないじゃありませんか」甲高《かんだか》い悲鳴のように響く声でふりしぼるように乃里子が言った。
「私たち、なんて言い方、して欲しくないわ」
低いがぴしりとした言い方で加世が言った。乃里子にはもうそれ以上喋ることも、説明することもないような気がした。
彼女はひたすら圧倒されていたのだった。加世の、自分の家庭、自分の夫を守る姿勢に、眼を見張らされる思いだった。自分の平和、自分の愛がおびやかされるとなると、脇眼もふらずに、まっすぐに立ち向かっていく、その強さに、恐れを抱いた。それほどまでにして、守りたい家庭とか、夫を持っている加世がある意味でうらやましいのだった。
私は違う。いつも、誰かが自分からいろいろなものを奪っていった。修平は彼女の心を奪ったし、加世はその修平を乃里子から、横取りするように奪い去った。夫の治夫は、多分、彼女から、優しさや、笑いやユーモアなどを奪った。和美という若い猫科の女が現われて、その夫を今、乃里子の寝室から掠《かす》め取っていった。
そして乃里子はというと、ただの一度でも、自分から奪われていくものを、奪われまいと必死で闘ったろうか? 髪ふり乱し、両手を拡げて不当な侵入者や敵から守りぬいたろうか?
何もしなかった。たとえば加世がたった今しているように、眼をつり上げて自分の夫にはもう二度と逢ってくれるな、逢わせない、と、和美という女に宣言したこともない。
奪われるものは、奪わしてきた。彼女が守りぬいたのは彼女自身だけだった。彼女一人のプライドだけだった。髪ふり乱したり泣き叫んだりするよりは沈黙を選んだ。
最後に加世は言った。
「これきり江崎に二度と近づかないで下さい。亜矢ちゃんのコーチの件もお断わりしますから」
乃里子は黙ってうなずいた。受け入れるしかなかった。
小島麻子が今週追うテーマは、カルチャー教室の小説入門だった。「小説教室一週間入門」というのを、彼女自身の十五分のコーナーでやろうというわけだった。講師には、実際Aカルチャーセンターで講師をしている大手の雑誌社の編集者、井田竜介という男をひっぱり出して来た。
スタジオに、特設の教室のセットを作り、生徒の主婦を五人かりだし、麻子と柴光太が一週間入門するという設定だった。
「なんだか上がってしまいそうだな、カメラを前にすると」井田が緊張して、眼をしばたたいた。
「大丈夫。カメラなんて、石ころだと思えばなんてことないですよ」光太が井田を寛がせようとした。
「でも、カメラのむこうに何百万人って人がこっちを見ているわけでしょう」井田が言った。
「何百万人の人間にむかって講義するってことは、恐ろしい気がしますよ。ぞおっとしますよね」
麻子は微笑した。自分もかつて、カメラの向こう側、何百万人の眼を意識して怯えたものだった。考えてみると、そうした膨大な人間の眼を意識して怯えることがなくなった頃から、仕事の充実感も、エキサイティングな感じも消えていったような気がする。自分の言葉遣いや失敗に一喜一憂していた時代が懐かしかった。私は今、完全にスランプだわ、と麻子は思った。
今朝も制作部長に呼び止められて、その事でチクリと嫌味を言われた。プロデューサーも一緒だった。
「視聴率が下がっているのは、何も君のせいだと言っているわけではないがね」と部長が言った。
「私も自分のせいだけだとは思っていませんけど」といつもの調子で麻子も言い返した。
「ま、そう自信をもって言い切るのは疑問だよ」と、プロデューサーは、泣く子も黙る一分刻みの視聴率表をチラつかせた。
「もともとだね、あんたをあの時間帯に投入したのは、パンチだよ。カツ。歯切れのいいはねっかえり――だったよね、あんたは、若い頃。このところやけに精彩を欠いているようじゃないか」
「そうですか。だとすれば多分視聴率、視聴率と耳の中に吹きこまれるせいでしょう」麻子は嫌味を言った。
「それはそうと、この番組が始まって六年たつから、君も六つ歳を取ったわけだ」
麻子は当然ですとばかりうなずいた。
「二十七歳の女ざかりと、三十三歳の今とでは、まあいろいろと違うしねえ」
「三十四歳です」麻子はクールに言い切った。「それに二十七歳というのは決して女ざかりじゃありませんわ。女としてはまだまだ駈け出しの部分ですよ。女ざかりってのは、三十代後半から四十代を言って頂きたいですね」
制作部長とプロデューサーがおかしな眼くばせをしあって苦笑した。
「とにかく視聴者が小島麻子に求めているものは――」とプロデューサーが言いかけたのを麻子が受けて、「歯切れのいいはねっかえり。部長、二十七歳の女ならともかく三十四にもなる大人の女が、いつまでもはねっかえりをやるわけにはいかないでしょう」
「そうだ、いかんよねえ」部長が妙な同意の仕方をした。
「要するに問題は何でしょうか?」麻子は早く切り上げたくて腕時計に眼を走らせた。「私に若返れ、二十七歳にたち戻れ、と?」麻子は二人の背後を覗くようなオーバーな素振りをして、「じゃタイム・マシーンでも用意していただきましょうか」と、チャチャを入れた。部長はその冗談を無視して、苦い表情を作った。
「君は不可能のように考えているらしいが、そいつは可能だよ。はっきりいって若返りというのはね?」
「え、そうですか? それなら是非ともその方法を教えて下さいな。女なら誰だって若返りたいですからね」麻子は負けずにへらず口を返した。
「若いニュースキャスターを採用すれば、それで済むことなんだ」と、プロデューサーはにべもなく言った。麻子は、その意味をつかみかねて、一瞬息を止めた。それから、何か言い返そうとして言葉を探した。何も思いつかなかった。何も気のきいた科白《せりふ》を返せないということに麻子はショックを受けた。生まれて初めて、仕事上に、自分の将来に、不安を覚えた。
「じゃいきましょう、本番二分前」ディレクターが合図をしていた。
井田は、いざカメラが回りだすと、意外に落ち着いていた。
「書くということは、心にあるものを吐き出す行為ですが、決して発散ではない。むしろ抑制なんです。非常に抑制されている文体が、いい小説の文体だと僕は思います。
みなさんはきっと、毎日の生活の中で、実に様々な問題をかかえ、感じている――悲しみや不安や飢えなどを抱えこんでいる。それをどうしていいかわからない。ためられるだけためて、苦しい。吐き出したい。表現したい。自分が今ここに生きて、感じて、呼吸しているということを、世間に知らしめたい――そういうところから、小説を書き始めたらどうでしょうか」
加世は魅せられたようにテレビの画面で熱っぽく喋《しやべ》る井田竜介を凝視していた。彼の喋る言葉のひとつひとつが胸に深く響いた。彼が言っていることは、全《すべ》て日頃自分が漠然と感じていたことだった。
確固とした自分自身というものを持たない加世のような女たちが陥る不安だった。夫の収入に頼りきって生きていく妻たちの悩みは、自分が表現手段を持たない、というそのことにあった。
〈言葉が与えられた〉というのが、その日のテレビを観て感じた加世の驚きだった。文字通り、〈言葉〉の世界なのだ。
その昔、加世は作文の時間が好きだった。大学は国文科に進んで文学を専攻したかった。が、彼女は江崎修平との結婚に自分の全てをかけた。
小説か、と一人ごちた。何も今すぐ小説を書くというわけでも、書けるという自信もなかったが、東京のどこかに、小説の書き方を教える講座がある、という発見に胸が高鳴った。このところいろいろあってうつうつとしていた思いが、思いがけないところで発散できるような気がした。加世は画面を流れるテロップの学校名と電話番号とをメモした。
小島麻子がテレビの画面に映り、テレビの一週間小説入門講座の第一日目を終ります、と言っていた。
「いかがでした? あなたも小説が書けそうな気がしませんか?」
軽やかな語り口。生き生きとした表情。自信に溢れた態度。私は結婚という安全パイと引き替えに何を失ってしまったのだろうか、と加世は考えた。
画面から見るかぎり、麻子は輝いていた。自由を謳歌《おうか》しているように見えた。たとえば夜ごとに違う男たちと寝たっていいわけなのだし、事実、小島麻子に十指を下らない男友だちやセックスフレンドがいたって不思議でもなんでもない。十指を下らない男たちに囲まれた麻子を想像すると、加世の胸を虚《むな》しさと孤独感と飢えなどが過《よぎ》った。あの女《ひと》は女ざかりを満喫しているのに、私は同じ女ざかりにありながら、それをもて余している。そう思うと焦燥感がじりじりと内側から加世を焼いた。
彼女はもう一度メモの電話番号を確認して、ぜひ明日にでもカルチャーセンターを訪《たず》ねてみようと思った。今からでも何かをやれるだろうかという疑問よりも、今でなければ、何もかも取り返しようもなく遅いだろうと切迫して感じられた。
閉店のあと、いつもなら治夫はふらりと近所のバーに出かけて行き、そのまま女のアパートに行くのに、その日にかぎり、店の奥に続いている母屋のダイニングルームで夕刊を開《ひろ》げていた。見かけによらず気の弱い治夫は、わかと妻の両方から和美に店を手伝わせたことで――もっとも彼の配達中に押しかけて来て勝手に店を手伝ったのではあるが、結果から見れば同じことだった――総攻撃をくらってかなり参っていたのだ。少しこのあたりで神妙にした方がいい、と考えて居坐っているわけだが、このところ二週間ばかり改装騒ぎが面白くなくて家に寄りつかなくなった頃から自然に一種の別居状態となってしまったために、久しぶりの我が家はなんとも尻が落ちつかないのだった。
それと、治夫を落ち着かない気分にさせるもうひとつの理由があった。彼は自分ではそうと認めたくないのだが、江崎夫婦のことが妙に頭にひっかかって離れないのだった。自分が妻の行動を見張っていると認めるのはプライドが許さないのだが、何かが起こりつつある、という感がぬぐえない。乃里子の顔にもこのところ思いつめたようなところがあり、それが治夫を落ち着かせない別の原因なのだった。
「夕ごはんどうするんです?」乃里子は冷蔵庫を覗きながら訊《き》いた。
「食べる」夕刊の頁をめくりながら治夫が答えた。
「こっちで食べると思ってなかったから、特別なもの用意してないわよ」
「普段のものでいいさ」
乃里子は何か言いかけるのをやめた。
「ああ、そうだ」と治夫はいかにも今思いついたことのように言った。「亜矢のコーチしてくれてる江崎って人のことだがね」
夫に全部を言わせず、「それならもうやめました」と乃里子が言った。
「やめた?」
「コーチをお断わりすることになりましたから」それ以上その問題に触れられたくなかったので、「ビール、飲みます?」と乃里子は話題を変えた。
「江崎という人は、君の高校時代の陸上のコーチだったそうだが」治夫は妻の質問を無視して訊いた。
「……ビール、ほんとうにいいんですか」
「ビールのことなんか、どうでもいいんだよ!」いきなり夫が大声を張り上げたので、乃里子は来るものが来たという感じで冷蔵庫の扉を閉じて夫の方へむき直った。
「ビールのことなど、この際いいんだ」大声を出したことで感情的になったのを恥じて治夫が言い直した。「君の陸上のコーチだった人が突然出現して亜矢のコーチをするってのはどういうことなのかと不思議に思ったんだがね、俺《おれ》は。亜矢の父親としてだ」
乃里子は夫の出方を待った。
「それとも何かね、突然の出現ではなく、もうかなりになるのか」
「亜矢のコーチをして頂くようになったのは、つい最近のことです」
「亜矢のコーチのことだけじゃなくてさ、君とその江崎なにがしという元コーチのことだ」と、思わず本音が出た。
「江崎さんと私のこと?」今日はそのことで責められるのは、これで二度目だった。乃里子は苦笑した。「何かあると思ってるんですか。冗談じゃないわ。第一そんな時間がどこにあるのよ、気持のゆとりだってぜんぜんないわ。勝手なこと想像しないで下さい」
「しかしそれにしては、江崎さんとかいう男の奥さんが店に飛びこんで来た時の様子といい眼の色といい、おかしいじゃないか。ありゃ亭主を寝とられた女の顔だった」
乃里子は思わず声をあげて笑った。少しヒステリックな感じ。
「おかしいか?」治夫が鼻白んだ。
「おかしいわ。実際にないことをあることみたいに言うんですもの、おかしいわよ」
「亭主が外に女を作ったから、女房も同じようにするってのはよくある話だよな」
「そういうきめつけ方されると、私もいっそのこと男の人でも作った方がいいんじゃないかと思うわ」乃里子がうんざりして言った。すると治夫は、「そいつが本音なんじゃないのかね」と妻の胸のうちを見すかすような感じで言った。乃里子は視線を夫の顔から逸《そ》らせた。
亜矢が学校から戻った。顔を見るなり乃里子は言った。
「江崎さんのコーチ、お断わりすることにしたから」亜矢にというより、治夫に聞かせる調子だった。
「どうして!?」亜矢がとたんに不服そうに言った。
「それがね、お仕事の都合で――」
「まったく勝手なんだから、大人は」と亜矢が腹をたてて部屋を出ながら言った。「もう信用しないから。だったら何で最初からコーチなんてかって出たりするのさ。人のフォームまで勝手に変えといてさ、今更やめるはないのよね」
その剣幕に、乃里子は眼を伏せた。治夫が立って行って、ゆっくりと階段を昇っていった。
亜矢の部屋の前で、彼はちょっと躊躇《ちゆうちよ》してから、ノックした。
「あいてるわよ」ベッドの上でふてくされていた亜矢は起き上がり、机の上のノートを開げて坐った。「なんだ、パパか。何よ、今日は。何の風の吹き回しよ」
「おまえこそ吹き荒れるね、今日は。ここは俺の家だぞ」と言いながら逆さになっているノートを置き直してやる。「おまえも変な趣味だな。ノートを逆さに見るのか」
「うるさいのよね。何か用って聞いてるでしょ?」
「用ってことのほどでもないんだがね」と治夫は娘の部屋の中を見回した。天体望遠鏡につもった埃に気づいて、「こいつは高かったんだぞ。もっと可愛がってやらないと伊萬里屋の太郎君にやっちまうぞ」
亜矢が父親を睨《にら》んだ。
「だめよ、パパ。余計なことしないでよ」
「冗談だよ」
「あたしが天体望遠鏡持ってること、誰にもいわないで」
「どうして?」
「どうしても」
「理由を言わなけりゃ約束出来んね」
「…………」
「誰にもって、たとえば誰に知られたくないんだい」
亜矢は頑《かたくな》に答えない。
「知ってるぞ。太郎君だろ」
「知ってるんなら、いちいち聞くなよ、パパ」
「自慢したいのか、自分の口から」
「違う! そんなんじゃないの。望遠鏡のことなんて死んでも言わない」
「なんで」
「見せびらかすみたいで、嫌なの。だってさ、太郎ちゃんはね、天体望遠鏡買うために、一生懸命お金ためてんだって。それなのに私なんて――」
治夫は娘を見た。
「よし、わかった。パパは喋らない。約束する」
亜矢が溜息をついた。治夫は娘の肩を軽く叩《たた》いて、部屋を出た。
治夫はそのまま足音を忍ばせて階段を下りて裏口に回った。夕食の仕度をしていた乃里子がチラと見たので、彼はそれまでのコソコソした態度を急にやめて、「出かける」と堂々と出て行きかけた。
「どうぞ」乃里子も冷ややかに答え、そのまま手を動かす方に神経を集中した。そのために夫の眼の中に浮かんだ哀願に似た色――妻がひきとめるかもしれないという本人も気づかない程度の期待のようなもの――を、見過ごしてしまった。
治夫は治夫で、どうぞとけんもほろろに言ったきり自分のことなど眼中にない妻の態度に失望と怒りを禁じ得ず、眼の中の哀願の色はすでに消えて、いつもの冷淡な表情を取り戻すと、そそくさと出て行った。
夫の姿が家の中から消えるやいなや、乃里子は野菜を刻む手の動きを止めた。夫の好きな中華風のいためものを作ろうとしていたのだが、そんな努力をした自分に腹が立った。自分と亜矢のためだけの夕食を作るのが、なんとなくおっくうに感じられて、自分をけしかけるようにしなければならなかった。
テレビ局の裏門から男女の姿が現われて、タクシー乗り場の方へ歩いて行く。残業が終って仕事から解放された小島麻子と柴光太だった。
「あーあ、このまま帰りたくないなあ」五月の夜気を胸に吸いこみながら麻子が吐息をついた。
「つきあうよ、飲むんでも、ベッドでも」光太はからりとした口調で言った。
「ベッドね」と麻子は光太の顔に視線をあてた。「そうだなあ。その気になろうかな」
そう言って一人でぶらぶら歩き出すのを光太が腕をつかんで引き止めた。二人の視線が、街灯の下で絡《から》む。麻子が先に眼を逸《そ》らした。
「やめとくわ」そう突き放すように言った。「こういう落ち込んだ状態で何かのうさばらしみたいに男の人と寝ると、ロクなことにならないもの、わかってるんだ」
光太は失望の色をかくせないまま、歩きだした麻子の後に続いた。
「第一、あなたに対してだって失礼なのよ。あとで視聴率のことで上役に強迫されたからくさって光太と寝たなんて、自分にも言いわけしたくないの。わかる?」
「よし、わかった。家まで送るよ」
相手のいたわりが通じて、麻子は温かいような悲しいような気持で、少ししゅんとなった。
「ごめんなさい」二人は並んで歩いた。「ありがと」麻子はそっと、男の腕に自分の手をおいた。
和美のアパートでは、帰らぬ治夫を待って、彼女はもうかなり長いこと、時計を相手に爪を噛んでいた。時計が十時半を回ったところで、いきなり男のパジャマをつかんで投げとばした。それでも足りなくて、ベッドの下にけとばすのだった。と、扉に物音。
「遅いのね、飲んでたの?」治夫の顔を見るなり言った。
「うん、まあな」
和美は立って行って治夫の息をかいだ。
「嘘つき。飲んでなんていないじゃない。何してたの」
治夫は急に若い女が可哀想《かわいそう》になり胸に抱き寄せた。「待っていないで先に寝てればよかったのに」
「電話くらい、くれてもいいでしょ? 交通事故でもないかと、死ぬほど心配したんだから」
そうだったか、気の毒なことをした、という思いと、そんなふうに自分の帰りを待ちわびる若い女に対する一種の気の重さ、うとましさが半々くらいあった。しかし治夫はそれを顔には出さず、悪かったと謝った。
「何か食べる?」
「何があるの?」実は腹が空《す》いていたのだった。
「スパゲッティー・ミートソース。一生懸命作ったのよ」
「和美が? めずらしいねえ。それじゃ食べようかな?」
すると和美は、疑うような眼で治夫の顔を下からすくい上げるように見て、
「無理しちゃって。本当は食べてきたんでしょ、奥さんの手料理」
咄嗟《とつさ》に治夫は、否定することが出来なかった。女房の手料理にさえもありつけなかった男だと、若い女に思われたくなかった。せめて格好《ポーズ》でもつけないことには、足元を見られそうだった。
「和美は勘がいいからな」腹の虫が鳴きそうなのをこらえて、治夫が言った。武士は食わねど高楊子《たかようじ》だ、と内心泣きべそをかく。
「美味《おい》しかった、奥さんの手料理?」
「そうでもないよ、和美ちゃんの方が――」
「無理しないの」和美が寄って来て男の胸に頭を埋めた。「結局そのあたりが問題なのよね。男って奥さんの手料理に弱いんだもの。胃袋の誘惑には勝てそうにもないんだなあ」
それを聞くと、治夫はほろりとするのだった、彼は若い女を力一杯抱きしめた。おまえも離せない、と胸の中で呟いた。なぜ治夫が女を離せないのかといえば、本当の理由はその若い肉体や可愛いい猫科の顔のせいだけではなかった。それは彼女が彼を慕うからだった。彼に躰《からだ》をすり寄せて来て、彼のわずかばかりの不在を心から嘆くからだった。自分がこんなにも必要とされていると感じることで、彼は辛《かろ》うじて、妻との間に生じた救いのない亀裂の埋めあわせをしているのだった。
同様のことが、乃里子にも言えた。一人寝の乃里子が考えていたのは正《まさ》にそのことだった。彼女は、人間というものは誰かが自分を切実に必要としてくれなければ、生きてはいけないものだと、そういう言葉と発想の仕方には、まだたどりついてはいなかったが、切実に淋《さび》しいのだった。
夫が久しぶりに家で食事をすると言った時に、何もないと口では文句を言いながらも、冷蔵庫の中をあさって、夫の好きそうなものを作りかけた自分と、結局夫がそのまま食事をせずに行ってしまった後の落胆、失意、絶望などを思い出して、そういう自分を嘲《わら》いたいのか、ああ可哀そうだと、自分を自分で抱きしめてやりたいのか、混乱してわからなかった。そして、そうした立ち騒ぐ心の底に、江崎修平の顔があった。
彼女はその日、何度も彼の姿を眼の底に浮かべた。加世に二度と逢ってはくれるなと言われた瞬間から、修平の姿が、頻繁《ひんぱん》に立ち現われるようになった。
彼女は後ろめたい思いをつのらせながら、自分はほんとうにもう二度と修平には逢わないつもりなのか、と心に問うた。答えはイエスでもあり同時にノーでもあった。乃里子は寝室の暗闇《くらやみ》の中に修平の姿を思い描いて、先日の夢の中に出て来た男の横顔と彼とを重ねてみた。
夢の話は、セラピーの時に庄司睦子に話した。
「不思議な夢でした。いくら口紅を引いても色がつかないんです。恐かったわ」
それは不安を現わしているのだと睦子は語った。「あせりみたいなものがあるんでしょうね、日常の生活の中に」
「走っているうちに、いつのまにか宙を飛んでいるんです。よく飛ぶ夢を見ます」
「どんな感じ?」
「とてもいい気持。風がぬるま湯くらいで、暑くもなく寒くもなく。ほんとうにいい気持なの」
「それはもしかして性的な快感に似ていますか?」
乃里子にはわからなかった。
「飛んでいると向こうを行く男の人の後ろ姿が見えるんです。すぐ近くまで追いつくんだけど、決してつかまえられないんです。苦しいわ、とても。ノドがつまったようになって。それで眼が覚めるの」
「誰ですか、その男《ひと》は?」
「わかりません。とても美しい男性ですけど」
「誰に似ていると思う?」
「似ているとしたら、一人だけ思いあたります。それは、昔私が愛して、結局失った男性です」
「その男性とは、性的な関係がありましたか?」
「……それは」と乃里子は言い淀《よど》んだ。「……ありませんでした。私が、拒み続けました」
「本当は欲しかったんですね」と睦子は言った。「そう、多分今でも心の底であなたはその男性を望んでいるのかもしれないわね」
それから乃里子は夢の続きを話した。夫に犯された夢のことだった。
「話はとぶけど、ご主人との性生活で、あなたはいつもどんなふうに感じていましたか?」
「どんなふうにって?」恥ずかしさに顔がほてった。
「いいとか悪いとか、悲しいとかうれしいとか、耐えるのか自由な感じなのか、何でもいいから言ってみて下さい」
乃里子はじっと長いこと考えこんだ。
「夫の手が私の躰に触れると、まずとても嫌な気がします」
「初めての時からそうでしたか?」
「そうでした。最初の夜から」
「それで?」
「次に、諦《あきら》めの感情が湧《わ》くんです。私って、すごく諦めやすいんです。ずっとそんなふうでした」
「ずっとそんなふうって、いつ頃から?」
「子供の頃から。兄弟が多かったし、私は人一倍グズだったから、いつも欲しいものが手に入らないでよく泣いたんです。すると母が、ノリちゃん、いい子だから我慢しなさいって……。で諦めたんです」
「お母さまはあなたが小さい時によくそう言ったの?」
「はい。ノリちゃん、我慢しなさい。じっと耐えると、よく誉《ほ》めてくれました。ノリちゃんは我慢強い良い子だって。小学校でも中学校でも、私はずっと我慢のノリちゃんでした」
「我慢したことで一番|辛《つら》かった経験は?」
「全部辛かったわ。ほんとうは我慢強くない性格なのかもしれませんね」
「辛かった、がまんした、耐えた――眼をつぶって一番先に浮かぶ場面がありますか」と睦子が訊《き》いた。乃里子は言われたとおりに眼を閉じて映像が浮かぶのを待った。
修平の姿が浮かんだ。加世が現われて、二人が並んで立ち去った。
「その方が、あなたにとって一番大事な人だったんですよ」セラピストが言った。「それで、ご主人との性交の時のことをもう少し話してみて」
「夫に触れられると、諦めの感情がふつふつと湧くんです。だから、あとはもう――」いけにえのように肉体を差し出してきたのだ。
「喜びはありました?」
乃里子は首をふった。「いいえ、一度も。まるで――」
「まるで何ですか?」セラピストの誠実で冷静な眼差《まなざし》が乃里子に注がれていた。
「まるで――犯されているような感じでした。いつもそうでした」
あの夢で、夫が怖しい暴行魔のように自分を襲ったのは、それが彼女の中に隠されていた治夫に対する潜在的なイメージであったからだった。
乃里子はセラピーでの会話を反芻《はんすう》しながら、眠りかけていた。美しい男の横顔が今ではぴったりと修平の顔と重なっていた。彼女は修平のイメージを胸に抱きながら、眠りに落ちていった。
三 喪 失
五月が終ろうとしていた。亜矢は朝のジョギングを重い気持で続けていた。昨夜の母の言葉に腹をたてていたのだった。
外苑のはずれのいつもの場所で、修平が反対側から走って来てくるりとユーターンすると、亜矢と自然に合流した。亜矢が、オハヨウと言った修平の挨拶にそっぽをむいたので、彼は眉を軽くあげた。
「どうかした?」
亜矢は黙って走り続ける。
「どうした? 話してくれなければわからないよ」
「放っといてよ」
その口調に修平が驚いた。
「放っておけって、それどういうことだい?」
「みんな嫌いよ、大嫌い。大人なんて嫌いだ。ママもパパも江崎さんも大嫌いよ」
「おっと待った」と修平が亜矢の腕に手をかけてブレーキをかけた。「何があった? ちゃんと話してごらん」
「そのわけ訊きたいのこっちの方よ。江崎さん忙しくてもうコーチできないんでしょ? 亜矢のこと、途中で放っぽりだすんでしょ?」
「誰がそんなことを言った?」
「ママよ。きのう言ったわ。江崎さんはコーチやめたって」
「きみのママが、そう言ったのか?」修平は考える眼つきになった。「そうか、わかった。よし、亜矢ちゃん、その件は僕にまかしてくれないか。僕は、コーチをやめない。君のコーチを続けるつもりだし、ぜひ続けたい。君のためでもあるけど僕自身のためでもあるんだよ。今は亜矢ちゃんにうまく説明できないんだけどさ。君さえよければ、このまま続けよう。いいね?」
「でも、ママが……」
「わかっているよ。君のママには僕が話をする。それでいいかい? もう二度とこの件では心配させないと約束する。亜矢ちゃんはフォームとタイムと走ることだけ考えればいいんだ。じゃ行こう!」
二人は走りだした。「ほら膝《ひざ》の高さが足りないぞ」と、とたんに修平の声が飛んだ「肘《ひじ》。肘だ。そうだ、がんばれよ」
いつもと同じ朝が始まった。
店の電話が鳴っていた。開店前なので乃里子が奥の部屋から走って行って取った。相手は江崎だった。
修平は今朝のいきさつを自分の方から説明して、こう言った。
「大人の思惑で子供を動揺させちゃいけない。どんな事情があるにしろ、それは大人の問題で亜矢ちゃんとは無関係だよ。今、彼女を途中で放り出すことは、彼女の才能の芽をつみとりかねない」
乃里子は受話器を握りしめてうろたえた。
「電話では何だから昼食でもどう?」修平が誘った。乃里子は首をふった。まるでそれが見えたかのように相手が言った。
「じゃ、お茶でも」
「駄目なんです、私。お逢いしない方がいいと思うんです」
すると急に修平が沈黙した。
「もしかして」と少ししてから、低い声が言った。
「僕の女房が何か言ってきたんじゃないだろうね。もしもし、もしもし! 加世が行ったんだね。あるいは電話か」
「いいえ、違います」乃里子は激しく首をふった。「加世は別に何も……自分できめたことです」
「でも理由があるでしょう」と修平は言いつのった。苦しまぎれに乃里子が答えた。
「もう切ります、これ以上――」
「ちょっと待った。逢って話をしよう」
「困ります」
「逢わないと、もっと困ることになるよ。君の店へ押しかけて行く」
「強迫するんですか」
「そうだ。強迫しているんだ」
とうとう乃里子が小さく笑った。
「わかりました。もう一度だけ」
修平は代々木公園の中にある場所を指定して、電話を切った。時計を見ると開店まで一時間と少しあった。開店前に戻れるだろうと思い、念のために良子にメモを残して出かけて行った。
家を出ると、乃里子は自分のしていることが急に嫌になった。第一加世にあんなに約束しておきながら破ることが辛《つら》かった。後ろめたかった。夫にもあれだけ嫌味を言われていながら、理由はどうであれ、現に乃里子は男に逢うために出かけようとしていることには変りなかった。
けれども彼女が一番不安に感じていることは、自分がほんとうは修平に逢いたくて出かけて来たということを認めることだった。
加世のためでもない、夫のためでもない、彼女は自分の身を守るために抵抗するのだった。
あたしはあれだけ抵抗したんだから、といいきかせながら、一方では、再び修平に逢えることが、胸がときめくほどうれしかった。
いや、うれしいなどという単純な感情ではない。恐ろしかった、悲しかった、倒れそうだった。
このままでは、自分の感情を抑えきれず、醜態をさらすことになるのではないかと、乃里子は怯《おび》えた。約束の時間に指定の場所に行かなければ、相手も仕事の途中で出てくるのだから、そう長くは待てまい。
そこで彼女はあえて三十分、喫茶店に坐って、時間をつぶした。約束の時間を大幅に過ぎてから、彼はもう居ないだろうと九十パーセント信じながらも、彼女は指定された場所だけでも、せめて見てみたかった。彼がいただろう場所に、自分も立って見たかった。
それなのに、江崎修平はいた。彼は乃里子を、約束の時間より四十分も遅れているのにもかかわらず、待っていたのだ。乃里子だけを。
乃里子の姿を見ると、修平の表情が輝いた。微笑が顔中に拡がっていくのを眺めながら、乃里子は自分が今にも倒れてしまうのではないかと思うような感動にのみこまれていた。
もう来ないと思ったために修平は、そしてもう待ってはいないだろうと思ったために乃里子は、相手の姿を認めあって、予期した以上の、胸の奥底からの感情を揺り起こされて、それを二人とも露呈してしまっていた。
「来ないかもしれないと思い始めたところ」
「来ないつもりでした」
「でも、来た」
「亜矢の話を、きちっとしておきたいと思って」
乃里子は男から少し離れた位置に坐った。青葉が空の大半を隠している大木の下だった。
「その前に訊きたいことがある。正直に答えて欲しい」
「…………」
「加世から君に何らかの働きかけがあったんじゃないのか?」
乃里子はうつむいた。
「やっぱりそうか」
「でも江崎さん、加世さんをそのことで責めないで下さい。女として、私がもし加世さんの立場だったら、やっぱり同じことをすると思うし、自分の夫に自分のした行動を知られたくない……加世さんを責めないで」
修平は乃里子の声に耳を傾けた。
「君はしないさ。夫の相手の女が仮りにいるとして――その女の前になど死んでも顔を見せないよ。夫から手を引いてくれなどと、絶対に言わない女だよ」
うつむいている乃里子の横顔に視線をあてながら修平は続けた。「しかし、わかったよ。加世をそのことでは責めるまい」
それから急に真顔になって言った。「じゃ、まず亜矢ちゃんのこと」
「はい」
「僕はね、女房に言われたからといって、亜矢ちゃんのコーチをやめるつもりはないんだ。はっきりいえば、この問題には加世は関係ない。もっとはっきり言うと君にも関係ない。純粋に亜矢ちゃんと僕の問題だと思う。そういうふうに考えてはもらえないか。そして改めてあの子をまかせてくれないだろうか」
修平の口調の中に、昔を彷彿《ほうふつ》とさせるものがあり、乃里子の胸がつまった。
「昔と、おんなじ……。でもどうして? 亜矢のことにどうしてあなたがそんなに?」
「理由か」修平は乃里子の背後の夏を思わせる日射しに視線を泳がせた。「今は言いたくないんだ。僕の個人的な気持の問題だ、とだけ言っておくよ。亜矢ちゃんを育てることで救われるものがある……」
乃里子は修平の顔の中にある表情を読みとって眼を伏せた。「わかりました……。改めて私の方からもお願い致します」そう言って頭を下げたのだった。それから急に不安そうにつけ足した。「でも加世さんが……」
「それは僕と加世の問題」と修平がきっぱりと言った。「あなたが心配してもしょうがない。さてと、次の問題だ。亜矢ちゃんの件はこれで終り」
「次の?」乃里子がまぶしそうに眼を上げた。
「そう。僕とあなたのこと」
「それは」乃里子が逃げ腰になった。
「加世が君にどう言ったにしろ、僕たちにやましいことはないよ、ね?」
「…………」
「質問をしてもいいかい?」
「…………?」
「きみは、今、幸せなのか?」
乃里子はうろたえて顔を相手から背けた。
「そうか。やはり……」
長い沈黙があった。人気のない週日の午前中、大きな樹木の下に蒼《あお》い影がのびていた。
「僕に話す気が、ある?」
乃里子は急に暗い表情になって首をふった。
「だろうな」と修平はうなずいた。「でも、話したいことがあったら、いつでも僕の方には聞く用意がある、ということだけを是非、覚えておいてくれないか」
「…………」
「僕たちは、今でも友だちだろう? 違う?」
その表情は、大人の男というよりは少年のようだった。乃里子がつられて微笑した。結局、江崎修平は自分を裏切ってはいなかったのだ。あれは加世の詭計《きけい》だった。乃里子も被害者だが、修平もまた、加世の詭計にかかった犠牲者だった。
しかし、そのことを自分は永遠に言わないだろうと乃里子は思った。加世をかばう気持からではなかった。加世については、許しがたかった。そのために自分が失わなければならなかったものを考えると、躰がふるえだすほど憎かった。許し難く憎くはあったが、復讐するという気持にはならない。諦《あきら》めという今では第二の習性となった性格のせいで、乃里子は沈黙の方を選ぶのだった。
自分が沈黙することで、修平が加世の仕組んだ女の罠を永久に知らないですめば、それが一番大事なことだと思った。自分が苦しむのはいい。加世がそれで苦しむことがあるとしても自業自得だった。けれども修平は? 修平に、この段になって、そんな苦しみを与えるわけにはいかない。彼を、とりかえしのつかない気持に落としこむわけには断じていかない。そう乃里子は思ったのだった。
「僕の方は、今でも少なくともそのつもりだ。いろいろあって、苦しい思いをした。僕の前から突然いなくなった君を憎んだ時もあった。しかし全《すべ》ては済んでしまったことだ。過去のことは言うまい。問題はこれからのことだよ。力になれることがあればなりたい」
乃里子がこの何年もの間耳にしたかったのは、男の、この優しい声音、優しい言葉なのではなかったろうか。彼女にだけそそがれる熱い眼差と、彼女にだけ差し出される手と、彼女にだけ囁《ささや》かれる言葉。乃里子にとって長いこと、男の声といえば夫、辻井治夫の声だけだった。
その声は、常に金属的な軋《きし》み音を含んで、彼女に突き刺さったり、打ちのめしたり、暴《あば》きたてたり、攻撃したり、あるいは言いわけしたりしてきた。乃里子は今すこしでその場に崩れ落ちてしまいそうなもろい自分に気がついて、自制しようとした。自制することがこんなにむずかしいと感じたのは、後にも先にも初めてだった。このまま、もろく崩れ去って男の膝に顔を埋め、五歳の女の子のように泣きたいと思った。声を思う存分あげて泣きたかった。そうすることにめくるめくような快感を予感した。
それでも乃里子はようやく自制したのだった。あまりにも努力をして自分をしゃんとしておこうとしたために、彼女の口調や表情は急に硬く冷ややかなものに変った。
「あなたに力になって頂けるようなことがあるなんて、とても思えません」
それを聞くと修平は失望を隠せず表情がくもった。
「私たち、別々の人生を歩いたんですもの。あなたは加世さんに属する男の人ですもの、今更力になってもらうわけにはいかないわ」そう乃里子は相手にというより自分自身に言いきかせるつもりで呟いた。「ですからどうか、私のことは放っておいて下さい。亜矢のことだけ、お願いします」
そして唐突に立ち上がった。そうでもしなければ涙がこぼれてしまいそうだったからだ。
修平は呑《の》まれたように、歩み去っていく乃里子の姿を見送った。それから急に我にかえったように立ち上がって、乃里子の後を追ったが、すぐに踵を返した。乃里子にあんなふうに言われたことで、修平の心は逆に燃え上がったのだった。今追えば、乃里子に後ろから襲いかかり、その場で骨もくだけるほど抱きしめてしまうだろうと思った。彼は自分の激情を恐れた。
乃里子は店へ戻る道すがら、義母の勤めるスーパーマーケットの前を通りかかったので、顔でも見ていこうと立ち寄った。
義母のわかは物をはっきり言う女だが、決して悪意のある女ではない。長いこと一緒に暮らしてきて、お互いの言い分はかなり通しあってそれでやってきたのだが、今度の家出だけは、乃里子には納得がいかないのだった。義母は自分のためと言ったが、自分のためだけに五十年近く住みなれた赤坂の土地を離れるような人間ではないはずだった。何かある、何か裏にあるという感じがまぬがれない。乃里子に対するデモンストレーションか治夫への見せしめか、あるいは破綻《はたん》している二人の夫婦の関係に対してわかが何らかの力を及ぼそうと計画したのかは知らないが、とにかくわかを一人で長いこと放っておくわけにはいかないと思った。
スーパーを覗《のぞ》いてみると、午前中で早退したという。急に気分が悪くなったみたいで帰って行った、とレジ係の女が伝えた。乃里子はその足で赤坂二丁目のわかのアパートへ回った。
わかは一旦《いつたん》とった床の上に坐って、黄ばんだ畳の上に落ちる日射しを眺めるともなく眺めているところだった。軽いノックがして、どなたと聞く前に、そっと開いた。嫁だった。
「あら、どうしたの? この時間に」
「お義母《かあ》さんこそ。スーパーへ行ってみたら早引けしたっていうんで。躰の調子でも悪いんですか?」靴を脱いで上がりながら乃里子が心配そうに声をひそめた。「休んでいなくていいんですか?」
「大げさねえ」とわかが笑った。「そんなんじゃないのよ。ただちょっとめまいがしただけ」
「めまい?」
「ただの立ちくらみ。たいしたことじゃないわ」
「だといいですが……」
これまで頑強といっていいほど病気ひとつしたことのない義母だったが、考えてみれば今年で六十四になる。
「それでわざわざ? いいのに。それよりお店の方――」
乃里子は室内をそっと見回した。日当りがいいことくらいがとりえの質素な部屋だった。生活に必要な最低限度のものしかなかった。家からも家具類は持ち出さなかった。そのところに乃里子はわかがこの部屋に長く居るつもりはないのだろうと楽観した。
「店は大丈夫、お義母《かあ》さん。主人がこの頃マメに顔を出すんです」
「へえ、そうなの」平然を装ったが、老母の顔に安堵《あんど》が浮かぶのを乃里子は見落とさなかった。
「それよりお義母《かあ》さん」と、乃里子はさりげなく膝をつめた。「スーパーマーケットでゴミ集めたり床なんかふくの、大変でしょう?」
「いいえ。ちょうどいいくらいの運動ですよ」
「だって、めまいや立ちくらみを起こすくらいだから、きついですよ」
「つまり――?」とわかが嫁に言った。「わたしに仕事をやめろ、と?」
乃里子はうなずいた。
「でもね、乃里子さん、仕事をやめる気なんてこれっぽっちもありませんから」とわかはきっぱりと言った。「いいこと。それじゃ聞くけど、仮りに誰かがあなたに仕事をするな、家の中だけにいて夫や子供のめんどうをみていなさい、と言ったらどうする? あなた、はいそうですか、って仕事やめる?」
乃里子は困ったように苦笑した。
「ほうら、やめられない。そう顔に書いてある」
果してわかが仕事をすることと、乃里子が店を張っていくことと同じ意味があるかどうかは疑問だった。けれども眼の前の義母の顔を眺めながら、今すぐ彼女から仕事を取り上げたら、彼女には何もなくなるだろうと乃里子は考えた。それで、くれぐれも無理をしないようにと、くどいほど言いおいて、わかのアパートを辞したのだった。
東商物産、夜七時。大半の社員は帰って、室内はがらんとしている。それでも海外からの電話やテレックスが入る予定の者が、ぽつぽつ自分の机の前とかソファーの上で躰を休めながら待機している。時差の関係でヨーロッパとは約八時間の時間のずれがあるので、そうなるのだった。
かつての江崎修平も深夜近くまで中近東や東欧からの電話やテレックスを待ったものだった。部下の山中が、机上の書類を片づけながら声をかけた。
「課長、まだですか」
「うん、まあね」別に残業までするような、さしあたっての仕事はなかった。そのことは周囲の人なら誰でも知っている。多分、少しでも忙しがって見せようというポーズだろうくらいに、人が考えているのも修平にはわかっていた。実際、荒木部長などは顔さえ見ればずけずけとそれを指摘した。
そんなことはかまわんさ、と江崎は思った。人がどう見ようが、実際の彼は今、新しい企画を練っているのだった。東南アジアのある地域の森林に手つかずで眠っている材木を、大量に買いつける段取りであった。
「課長、さしでがましいことですが、一言いいですか?」山中は信用出来る部下だった。
「さしでがましいと思うんなら、やめとけよ」と修平は言ってから、「まあ、いいさ。何だい?」と顔を上げた。
「課長がひそかに何か計画を練っているのはわかります。その企画が何であれ、立派なものであることも、誰にでも想像できる」
「……で?」
「ええ。しんぼうして下さい。もう少し時期を見て下さい。課長の仕事がいい仕事だと思うからこそ、お願いするんです。今では、たとえそれがすばらしい企画でも、右から左へと握りつぶされます。一旦ボツになった企画を再度提出して通すのは、並大抵の仕事じゃない」
「ああ、わかっている」修平は静かに言った。「時期をよく見るよ」
山中の瞳《ひとみ》に安堵の色が浮かんだ。
「今度、飲みませんか、近々?」
「うん、そうしよう」
今夜にでも、という感じの山中に、それ以上声をかけなかったのは、いずれ仕事の話になるだろうからであった。酒の肴《さかな》に閑職を愚痴るのはたまらなかった。山中が辞した。
急に静かになった部内に、テレックスの音だけがしていた。遠くで電話が鳴り、それに英語で応じる声もしていた。
池真理子がすっかり帰り仕度《じたく》を整えて挨拶をした。「まだお仕事ですか?」
とっくに帰ったものと思っていたので、修平は少し驚いて言った。「いいや。そういうふりをしていただけ。君も遅いね。みんな帰ったよ。残業だったのか?」
「また、子供の時間は過ぎたよ、ですか?」真理子が笑った。笑うと唇の両端がくぼんで女らしさがふきこぼれた。たいていの女は、男もそうだが、笑顔に童顔がにじむものだが、と修平は思った。この若い娘は、笑顔に妙な色気がある、と考えつつ書類を閉じた。
「実は私も、残業ではなく忙しいふりをしていましたの」
「そうか、じゃ同じだ。何か目的でもあったのかい?」修平は軽い気持でそう聞いた。会社の女の子をそう度々連れて飲み歩くわけにもいかないと思っていたので、その時までは彼女を誘うつもりは毛頭なかった。
「さあ――。課長は?」と真理子の眼がいたずらっぽく光った。
「僕かね?」その時ふと、修平はもしかして真理子が自分に気があるのではないか、と思った。そう思うと急にいじらしさがつのった。精一杯の強がりと冗談の中に、迫りくるかれんな思いがあった。
「実はね」と修平は急に声を落とした。「君を待っていたのさ。一杯、つきあうかい?」
「はい」真理子の顔に何ともいえない歓《よろこ》びと恥じらいが浮かぶのを見て、修平は逆に少しだけ気が重くなるのだった。若い女の好意をもてあそぶつもりも真理子とどうこうなるつもりもなかった。適当に距離をおいてつきあうとなると、神経を使うものだ。自分はいいが、若い娘の純粋な気持を傷つけることを恐れた。しかし今夜の場合、むげに何も気づかぬふりをして、彼女を帰してしまう方が、傷つけることになるわけだから、誘うしかなかった。こんなふうに中年の男は、若い女と深みにはまっていくのかと、内心苦笑するのだった。
ランジュ・ド・メゾンのシャッターは下りているが、ウィンドー・ディスプレーの中には明りがあった。中で乃里子が一人でディスプレーの模様替えをしていた。ピロケースの配置を考えているところだった。
ふと気がつくと、ウィンドーをコツコツと叩《たた》いて笑っている美智世の顔があった。乃里子は仕事を中断して彼女を迎え入れるためにシャッターをあけた。
「ちょうどよかった。美智世さんセンスいいから、ちょっと手伝って」と乃里子はディスプレーを示した。
「ピロケースだけでなく、本物のピローを山のように積み上げたらどうかしら? それに全部違う模様のピロケースかぶせるのよ」
乃里子は美智世のアイディアにすぐにとびついた。さっそくピローを倉庫から二十個近く運んで枕《まくら》カバーをかぶせた。美智世も楽しそうに手伝った。「お店は?」と、手を動かしながら乃里子が訊《き》いた。
「暇なの。太郎ちゃんにまかせて早目に夕ごはん食べちゃおうと思って」
「今夜はどこで? よかったら家で食べる?」
「いいのよ。『あかね』って仕事帰りに寄る和風の店があるんだけど、そこの焼きむすびがバツグンなの、知ってる?」
「ううん」
「じゃ、亜矢ちゃん誘って、一緒に行かない?」
「亜矢はパパと夕食のデイト」
「それだったら、あなた一人でしょ? つきあいなさい」
「そうね。ディスプレーのグッドアイディア頂いたんだから、私、おごるわ」乃里子が最後のピローにケースをかぶせながら言った。
それから二人は二十個近い色とりどりのピローをウィンドーの中に、できるだけ無造作に見えるように積み上げて仕事を終った。無造作に見せるためには、逆に神経を費やした。
『あかね』はかなり混んでいた。奥の方にひとつだけあいているスペースに、ママが椅子《いす》をつめさせて、何とか二人分の席を作ってくれた。
「めずらしいのね、美智世さん、女の方と一緒なんて」と『あかね』のママが言った。
「あら、私がいつ、男の方と一緒にこの店に来た?」
「それもあまり、ないですね」
「あまりだって。ぜんぜんでしょ。なぜか、いつも一人なんだ、私」
『あかね』のママが二人の前につきだしを置いた。
「あつかん、一本ね。それから、焼きむすびと赤だしを二人前」てきぱきと注文する美智世。
「あなた見てるとうらやましい」と乃里子が言った。「誰のためでもなく、自分のために生きてるんだもの。それも、とっても楽しみながら」
美智世は、ふと真顔になった。日本酒が出来て来たのを受けとって乃里子の杯に注ぎながら言った。
「私ねえ、乃里子さん。結婚してよかったなと思うことが、ひとつだけあるんだ」
「ひとつだけ?」乃里子が相手の杯に注ぎ返した。
「うん。たったひとつだけ。それはね、離婚できたこと。だってそうでしょ? 結婚しなかったら、離婚、経験できないもの」
美智世はからりとした調子でそう言って、おかしそうに笑った。その表情からは、過去はともかく、現在は何のかげりも感じられないのだった。
二人は黙って酒をくみかわした。周囲では客が立っていき新しい客が入れ替りに入ってきたりして、騒々しかった。
「ひとつ、訊いてもいい?」乃里子が言った。「離婚するって、どんな感じ?」
「えっ? どうして。まさか乃里子さん……?」
「ううん、ただ、どんなふうなのかと思っただけ」離婚については何度も考えた。結婚して十五年もたてば、離婚を思わない夫婦などいないと、何かで読んだ。けれども実際にするのと考えるのとでは雲泥の差がある。
「どのあたりかな、知りたいのは。離婚の前? 後?」
「直後」咄嗟《とつさ》にそう答えた。何もかも失ってしまった女の気持は、いかばかりなのだろうか。
美智世は遠くを見る眼差《まなざし》をして、やがて語りはじめた。
「雨が降っていたわ、その日。二月の寒い雨の日。二人でね、届けを出して区役所の前で『じゃあ』って別れたの、元亭主と。右と左へ『じゃあ』って。簡単なものでしょ? 十年連れそった夫婦がよ、『じゃあ』って――。
それでね、こっちと向こうへ、こう別々に歩いて行ったわけ。ほら、西部劇の決闘シーンみたいに、さっさっさっと。
私、悲しくて惨《みじ》めで、寒々しくて、腹も立っていたし、割り切れないようでもあるし、これで何もかも終ったんだってホッとしたところもあって――。こうさっさっさっと歩きながらね、でも、『じゃあ』はないんじゃないかと思ったわけよ。
うわぁっと何かが自分の中にふきあげて来たの。何が何だかわからないけど、うわっと叫びのような感じ。
で、私、ふりむいた(と言って美智世はカウンターの後をさっとふりむくゼスチャーを混じえた)。すると向こうも振りむいたところだった(そしていきなり腰から拳銃《けんじゆう》を引きぬいて乃里子を撃つまねをしたのだった)。二人で同時にこうやったの」
乃里子が眼を丸くして、まだ自分の胸に向けられている美智世の人さし指を見つめた。
「うそ。信じられないわ」ようやく声が出た。
「私もよ」と指ピストルをかまえたまま美智世が急に吹き出した。「でも本当なの。全くの偶然。二人が同時に振り返って、バン!
それからね、ニヤリと笑って、こうやって(と言ってカウボーイが耳の横でバアイと手を振る男っぽい仕種《しぐさ》をしてみせる)、別れた」
乃里子が眼を輝かせた。「すごいのね。素敵じゃないの、その別れ方」
「素敵かな? 多分ね」美智世はちょっと深刻になった。「でもねえ、乃里子さん、素敵な別れなんてないのよね。実際は胸の中ドロドロ」それから口調を変えた。「私たち、最後にバンと相手を撃ち殺してしまったのよ、お互いに。自分の中から永遠に消してしまったのね。相手と共に、その胸の内のどうしようもないドロドロを。
バン! とやったおかげで、こうやって手を振って別れたとたん、私、突然楽になっちゃった。解放されたみたいだった。過去や、十年の結婚生活や夫からね。
雨が相変らずひどく降っていたんだけど、傘なんて放り投げて、ジャスト・ウォーキング・イン・ザ・レインの気分よ。人がびっくりして見てたけど平気。唄《うた》いながら帰ったわ。全身ぬれねずみで。髪からぽたぽた雫《しずく》を垂らしながら、とても幸福だった」
それきり美智世はふつりと黙った。『あかね』のママが焼きたての小さなむすびを三つずつカウンターにそっと置いた。
「いいお話ね」乃里子が溜息《ためいき》をついた。「離婚の、コツか……」
「離婚のコツは、こう!」だしぬけに美智世が腰から拳銃をひきぬいて撃つまねをした。
「こう、ね」と乃里子が同じことをして、指で相手の胸を撃った。そして二人は眼をあわせたまま笑い転げた。
その笑い方があまりにも大きかったので、周囲の客がつられて笑ったり、何ごとかと肩ごしに二人の方を見た。その何ごとかと顔を上げた客の中に修平と真理子がいたのだった。
もっとも、正確には、少し前から修平は乃里子の存在に気づいていた。美智世の離婚の話の内容は、狭い店内だったので聞き耳をたてれば聞きとれた。自分でもあまり意識せずに、修平は二人の会話を耳にしていた。折りを見て乃里子に声をかけるつもりだった。
笑っていた二人が不意に立ち上がった。椅子を引いて向きをかえた乃里子の眼に、自分の方を見ている修平の姿が映った。
乃里子は微笑して、一歩彼の方へ向かいかかった。と同時に、彼女の眼は修平の向かい側の若い女の姿をとらえた。微笑は顔に浮かぶ前に消え去り、乃里子は固い感じの目礼をすると、そのまま修平の前を素通りして足早に店の外へ出てしまった。
美智世があっけにとられた顔で後から追って来た。
「どうしたの? 私、何かあなたの気を悪くするようなこと、言った?」
「違うのよ。ごめんなさい、何でもないの」
「でも、なんでもない顔してませんよ、乃里子さん」と美智世は『あかね』をふり返った。
「知ってる方?」
「ええ、まあ、ちょっと」と自分の咄嗟の反応の大人げなさを感じながら口ごもった。
「隅におけないのね、乃里子さんも」と美智世がわざとにらんだ。
「そんなんじゃないの――。私のお友だちの、ご主人」
「なんだ。だったら若い女といるからって、何も乃里子さんが顔色変えることないじゃありませんか」
「私、顔色変えた?」
「変えました、変えました」
「……人ごとじゃないから、きっと」と乃里子は気持をごまかした。それを素直に受けとって美智世が眉を寄せた。
「私もそうだった、別れた夫も同じ、若い子。あの頃ね、私思ったものよ。自分の女房もろくに幸せにできない男が、何を血迷って外に若い女なんか作ったりするのかって。ほんとうにそう思ったもの。乃里子さん見ててもそう思う。女ざかりの一番素敵な時じゃない、今が。若い女なんて、どこがいいんでしょ。ただベッドの中でドテッとひっくり返っているような女の、どこが、一体いいんでしょうね。結局男が成長してないってことなのね。乃里子さんや私みたいな大人の女が、手に負えないのよ。もったいない話。馬鹿な話。腹が立つったらありゃしない。とにかくその程度の若い女を追いまわす男の質《しつ》だって知れたものよ。そんな男にかかわっているとこっちの質も知れるから、私はさっさと別れましたけど……」
美智世はちらっと乃里子の横顔を見て口をつぐんだ。「ごめんなさい。私、言い過ぎたかしら」
ううん、と乃里子は首をふった。彼女の胸を一杯にしているのは、自分を裏切って若い女に走った夫の治夫のことではなく、若い女と一緒に酒を飲んでいた加世という他の女に属する修平のことであった。
そのまま店の前で美智世と別れて、裏口から入っていくと、店の方の電話が鳴っていた。時間的にいって、店の電話が鳴ることはほとんどないのだが、そのうち切れるだろうと放っておいたが、執拗《しつよう》に鳴り続ける。ついに出て行って受話器を外した。
相手は驚いたことに修平だった。まだ『あかね』にいるらしく、周囲のざわめきの中から酔客の声やそれをなだめる『あかね』のママの声などが聞こえていた。自分の方から何も喋《しやべ》ることはなかったので、乃里子は受話器を耳にあてたまま硬い姿勢で待った。
「もしもし、あなたは誤解している」と、電話の中から男の低い声が言った。あまり思いつめたという調子ではなく、むしろ面白《おもしろ》がっているような感じだった。
「私が、何を誤解しているとおっしゃるの?」できるだけ冷淡に乃里子が答えた。
「連れの女の子は、何でもないよ」
それを聞いて乃里子が笑い声をあげた。自分でも少しヒステリカルな声だと思った。
「だってそんな言いわけ、なんで私におっしゃるの? 私はあなたの奥さんじゃないんですから」
「女房になら、こんな言いわけはしないよ。あなたに、知っておいてもらいたい、と思っただけだよ。それだけ」
そして唐突に電話が切れた。
その電話から更に十分後に、また、店の電話が鳴った。乃里子には相手が誰であるかわかるような気がした。そしてその電話を、自分もまた、待っていた、ということをはっきりと意識した。何の約束をしたわけでもないのに、乃里子は明りの消えたランジュ・ド・メゾンの店内で、じっと電話の前から動かずにいたのだった。
呼出しがひとつ鳴り終らないうちに、乃里子は受話器をとった。
「今、一人?」もしもしもなければ、乃里子さんか、と相手を確かめもしなかった。
「そうです」と彼女は低い声で答えた。その声にも相手と同じ怯《おび》えのようなもの、せっぱつまった感じが滲《にじ》んでいた。「すぐに逢える?」と修平が訊いた。乃里子は掠《かす》れた声で同意した。
男の肉体は熱かった。乃里子は、そのような体温をもつ男の躰を、他に知らなかった。夫の治夫には、触れた瞬間に、ひんやりと感じられるものがあった。もっともそれは、乃里子の気持がそんなふうに働くからかもしれなかった。
熱い男の肉体によって、乃里子は溶けた。初めて自分の方から躰を開き、自分から進んで受け入れ、時には自分から相手の肉体に手を伸ばして、触れ、愛撫《あいぶ》をくりかえした。いかなる恥じらいの感情もなく、屈辱《くつじよく》や耐えるという思いや、まして夫との性愛の時に必ず覚える諦《あきら》めの感情など皆無だった。
言葉は必要なかった。躰を寄せ合うことが無上の喜びとなった。
修平の左脇腹には黒子《ほくろ》が四つあって、なんとなく北斗七星の型に並んでいた。そこへ口をつけて、乃里子はこの時間が永遠に続いてくれたらどんなにかいいか、と考えた。
けれども二人の時間には厳然とした区切りがあり、やがて別れていかなければならないのだった。別々の場所、別々の家庭、別々の配偶者へ。
それを思うと躰が前かがみになるほど辛《つら》かった。修平を知る前にも、彼の家庭や加世との生活、性愛などを漠然と想像して辛い思いを噛《か》んだが、実際に肉体を最も親密なかたちで重ねあわせた後では、単に辛いなどというものではなかった。一時間後にでも、やがて修平が左へ、自分が右へと別れる時のことを考えるだけで、自分の肉体の一部、肉、あるいは骨ごと、もぎとられるような感覚が生じた。
君は僕のものだ、と愛しあいながら、何度も修平はそう言った。乃里子に言いながら自分に言いきかせるような感じだった。
しかし、彼女は彼に厳密には属さないし、その逆もまたそうだった。男が女を本当に自分のものだと感じるためには、その女のすべてを自分がひきうけるということだった。
「できることなら、さっきの君の友だちのように、女房と君の亭主を拳銃で撃っちまいたい」
「撃ったら?」と、不意に乃里子が暗がりの中で言った。静かだが、不思議な声だった。修平が息をつめるのを聞くと、笑った。「ばかね、ほんとうに撃つんじゃないのよ。あなたの心の中で撃つの。私も、私の心の中で主人を撃つわ」
そして、夫は乃里子の心の中で死ぬ。加世も修平の心の中で死ぬ。
「よし、わかった。一緒にやろう」修平がくぐもった声で言った。二人は同時に自らの胸に指をあて、ひきがねを引いた。
その儀式のあと、二人はもう一度始めから愛しあった。
そんなこととは知らない加世は、夫が戻ったらカルチャーセンターの件を相談するつもりで待ちかまえていた。乃里子の件で不快な思いをしたが、あれだけ頼めば乃里子だってわかってくれるだろう。あの女《ひと》の性格だから、約束したことは必ず守るはずだった。
今度のことで何か収穫があったとしたら、自分自身に対する反省だった。乃里子にしても小島麻子にしても、自分にはない、はりつめたものを持っていて、それが同性の眼から見ても非常に魅力的だった。何かに打ちこんでいる女はいい、と思った。子供の受験だけが生きがいみたいになっていた自分に対して、何かとりかえしのつかない時間の無駄をやっていたような気がしていた。自分のために時間を使うといった実感はついぞなかった。家族のため、夫のため、子供たちのため、最後に自分のためだった。
それがいつぞや夫からこう言われた時、ひどくショックだった。
「塾、塾、と君はいうがね、そんなに勉強させていい中学へ入れようとするのは誰のためなんだ?」
「もちろん修一や幸子のためにきまってるじゃないの」
「そうかねえ」と夫は変な言い方をした。「君を見ていると、なんだか子供たちのためというより自分のためみたいに見えるんだがな。いい中学にさえ入れちまえば、あとは上まですいっと気楽にいく。そうすることが君には楽だから、息子の尻をひっぱたくんだ。修一のためじゃない、君のためなんだ。早々に楽をするためなんだ。しかしねえ、加世、その後君はどうする? 目的を遂げて運よく修一が目ざす中学に入った後は何をする? 今度は幸子か? で、幸子もいいとこ入ったらどうなる? 何をする?」
その時だった。自分には何にもない、と感じたのは。その瞬間には、そんなふうに言って自分に救いの手を差しのべてはくれず、むしろ突き放すように言った夫が恨めしくもあり、憎くもあったが、今にして思えば、彼のその言葉こそが、救いだったのだ。それで小説教室へ通ってみようという今日の決心になったのだから。そのことを是非とも夫に報告したかった。自分なりに努力していることを認めてもらいたかったし、ほめてももらいたかった。修平に、自分の妻を誇らしく感じて欲しかった。そういう意味では小島麻子のニュース・ショーに感謝をしなければならないし、乃里子でさえも、ある意味で刺激になった。明日にでも、言い過ぎた件を謝ろう。そして出来ることなら、乃里子や麻子との友情を復旧したいと思った。自分も何かをやる女として、友だちが欲しかった。それに、乃里子も、加世とつきあうようになれば、かえって夫とは疎遠になるだろう。
真夜中の十二時に近くなって、ようやく玄関に物音がした。修平はひどく酔っているような感じで上がって来た。
「酔ってるのね、また。どなたとご一緒だったの?」そんなふうに酔って妻の眼に映るのか、と修平はむしろほっとした。真実は全くのしらふであった。乃里子とのことのために、その感動、そのショックのために彼は放血した人のように青ざめていた。妻の手前、どう繕ってよいのかさえわからなかった。繕うという気持さえ起こらなかった。いっそのこと加世の顔を見るなり、乃里子と逢っていた、乃里子と寝た、乃里子を愛している、と言ってしまいたかった。しかし、酔っていると思われているのなら、その方が楽だった。
「ご心配なく。社の奴《やつ》だ」
「どうだか」全く疑ってもいない口調。
「女房|嫉《や》くほど亭主もてもせず、さ。子供たちは、まだ勉強か?」
「修一は今さっき寝せました。困るのよ、あなた。私が留守にすると塾を休めとかテレビを制限なく見せるんですもの。テレビの前から追いたてるのに一苦労。ほんとうに困るわ、そういうの。両親が同じ気持で教育に――」と言いかけたところで修平がさえぎった。
「ぐちゃぐちゃ、ぐちぐち」
その言い方に傷ついたが、今ここで喧嘩《けんか》しても始まらない。そうだ、と、カルチャーセンターのことを思い出した。
「麻子の番組でやっていたのを見たんだけど、面白そうなのよ、私も小説教室入門というコースに入ってみようと思うんだけど、どう思う?」
修平は上《うわ》の空《そら》だった。加世が子供のことを言いだした頃から、思いは乃里子の上に移ってしまっていた。「いいじゃないか」と、熱のない声で答えた。
それだけ? というふうに加世は思わず夫の顔を見た。修平はつまらなそうに、着替えていた。
いいじゃないか、といわれて、加世は落胆した。反対されたわけでもないのに、ひどく気分が沈んだ。いや、むしろ、「小説なんて誰でも簡単に書けるものじゃない」くらいのことを言ってくれたほうが、真実味があると思った。いいじゃないか、と突き放され、それきり忘れられてしまうよりは、そのほうがはるかに良かった。
そういえば、自分は最近忘れられた女みたいに感じる。同じ家で寝起きしているのに、夫は真には自分を見ない。私に触れもしない。上の空なのだ。今夜のように。今夜は特にひどいが。
「お風呂に入ります?」気をとり直して訊《き》いた。
「――ん」修平が答えた。
「疲れているの? この頃変よ」
「――ん」
「何か飲みます? ウィスキーでも」
「――ん」
そのまま夫が洗面所へ消えようとした。その背に、
「何を言っても、ん、ん、ん、なのね。生きてるんですか? ん。死んでるんですか? ん。浮気でもしてるんですか?――ん。好きな女でもいるんですか?――ん。まさか会社でもそうなんじゃないんでしょうね。左遷されるわよ。閑職にされるから」
最後の言葉だけが修平の耳に突き刺った。
「閑職?」修平は足を止めた。「君に閑職の何たるかがわかるのか?」
「もちろん、冗談よ」夫の口調の一種暗さに、加世は驚いた。「あなただって、わかってないんでしょう、わかって頂いちゃ困るけど。そういえば、最近あまり海外へ飛ばないようね。何かあったの?」少し不安な感じで加世が聞いた。修平は内心うろたえたが、「そんなことないけど……」と語尾を濁して洗面所へ消えた。
修平が洗面所から出て来てみると、妻はウィスキーとグラスを二つそろえていた。すでにネグリジェに着替えていた。一度も見たことのないクリーム色の薄物だった。
「飲みます?」
何か急にやりきれなくなって、修平は気分を変えた。「いや、いらないよ」そう言って妻の寝化粧から顔をそむけた。
「じゃ私は独酌」夫の態度に傷ついて、加世は開き直った。新しく買っておいたネグリジェの値段を思うと慚愧《ざんき》に耐えない。夫の関心を買おうとして、あれこれ策略をめぐらせている自分も嫌だが、それをあえて無視しようとする夫の出方も許せなかった。
「主婦のアル中が増えてるぞ」修平はそう言って行きかけた。
「あら、それでも少しは心配してくれているつもりなの?」加世はぐさりと言った。「なぜ主婦のアル中が増えているか、その理由はおわかりかしら?」
「さあね」
「何言っても、ん、ん、んって言うだんな様が増えているからよ。一月《ひとつき》も二月《ふたつき》も女房を放っておく亭主がいるから」
すると修平は首だけねじむけて妻を見下ろした。
「一月も二月も放っておきたくなるのは、亭主の顔を見れば、ぐちぐちぐちゃぐちゃ言う女どもが増えているからじゃありませんかね」
さすがに自分の言葉は不当だと思った。加世の不満はわかっていた。わかり過ぎるほどわかってはいた。しかし、仕事上の激変とそのショックから彼は一種の精神的不能の状態に長いこといた。では乃里子の件はなんなんだ? と自分で自分を問いつめておいて、眼を伏せた。乃里子のことを考えると顔がかっとほてった。妻に見られまいと、踵を返して寝室へ向かった。
「もう寝るの?」加世の声に失望が交じった。
「ジョギングにでも出かけるように見えるかい」
自分は嫌な男だと思いながら、またしても皮肉のひとつを言わずにはおれなかった。そうなのだ、嫌な男なのだから、徹底的に嫌な男になりさがれば、そいつは楽だな、と頭の隅で考えた。
「いいえ。ジョギングに行くようには見えませんわね」と加世の言葉にも毒が混じった。
「女房に迫られて逃げ出して行く亭主のように見えますわ」
「まさに、ご、め、い、と、う」修平はそう呟《つぶや》いて寝室のドアを閉じた。
そのドアにめがけて加世の手の中のグラスが飛んだ。グラスは砕けて、ウィスキーと氷があたりに飛び散った。
一夜は、夫婦にとってそれぞれの思いで過ぎた。主として、理由は違うが、悔恨と軽蔑《けいべつ》とが入りまじった複雑な思いだった。
昨夜の夫婦の重苦しい空気の再現を避けて、夫婦は取り繕いあった。修平は機嫌の良いところを見せようとしていた。
顔を洗って朝食の席につくと、修一が早々とごちそうさまと立ち上がった。それを無理矢理にもう一度坐らせた。
「せっかく一緒に食べようと今日はジョギングをやめたんだぞ。いいから坐れ」
修一は不服そうだが、とにかく坐った。
「坐ってどうするんだよ、パパ」
「どうするって、普段一家が朝、顔をそろえた時にすることをするのさ」
「そういうの、めったにないからなあ」
「生意気言うなよ。で最近は少しは遊んでいるのかい?」
横から加世が不満そうに顔をくもらせる。
「勉強したのかって聞いてよ。遊んだはないでしょう?」
「と、ママは言ってます」
修平が作為的に明るくしているのが加世には感じられた。できるだけ自分もそれに合わせようとしたのだが、先刻のジョギング云々がひっかかっているのだ。
修一と幸子が食卓でもじもじしはじめていた。
「落ち着かんやつらだな」
「だって、することないんだもん」
「そうか。よしわかった。じゃおまえたち、トーストをもう一枚ずつ食べろ」
「えーっ!」
「いいよ。わかったよ。もう行ってもいい」
二人が前後して立って行く。夫婦が向かいあって、残された。
「淋《さび》しいね。親子の断絶だ」
「一緒にいる時間が少ないんですもの、子供たちあなたとどうつきあっていいかわからないんですよ」
「僕のせいかね? 帰って来たって、父親の顔も見せずに、勉強部屋に閉じこめてるのはどっちだい」
「あら、じゃ、土、日はどうなのよ。よその知らない女の子に陸上のコーチなんかしちゃって」つい言ってしまってから、加世は声を低めた。「やめたんでしょう? コーチ。もう断わったんでしょう?」
「ん?」
修平は咄嗟《とつさ》に答えられない。
「聞こえてるんでしょう?」加世は厭《いや》な予感に顔をしかめた。
「いや」短い答え。
「どっちよ?」
「やめていない」
「どういうことなのよ!?」いきなり加世の声が半オクターブほど高くなった。「コソコソするのやめて下さいって頼んだじゃないの。もうてっきりコーチしてないと思ったわ」
「コソコソなんぞしてないさ」開き直ったように修平は言った。いっそのこと、この場で乃里子とのことも妻に言ってしまったら、どんなにせいせいするかと思った。
「とにかくさ、君も頭を冷やせ。君の方こそ裏に回ってあれこれ工作したんだろう、みっともないじゃないか?」
「私が何をしたというの?」疑惑が黒々と頭をもたげた。なぜ夫が裏で工作したなどと言い出したのだろうか? 「乃里子があなたに告げ口したのね? じゃ逢ったのね、また?」
「いや」修平は急に口を閉ざした。
「要するにだ、あることないことぎゃあぎゃあ喚《わめ》きたてるなってことだよ。乃里子に合わせる顔がないね」できるだけさりげなく言ったつもりだった。
「乃里子さんになんて、顔を合わせる必要はありません、二度と」
「おっかねえ」大袈裟《おおげさ》に首をすくめた。
「私がしたこと、あなたの気に入らないかもしれないけど、みっともないことだなんて思わないわ。妻が家庭の平和を守ろうとしてやったことが恥ずかしいとは思わないわ。今はっきり言っておくけど、私は、私たち家族と、私の幸せを守るためなら、どんなことでもやりますから」
ふと過去に自分が犯した過ち――嘘――を思い出して、その暗い影に怯《おび》えながらも、加世はそう言い切った。妻のその一種すて身の強さを感じて、修平はわずかにひるんだ。
「大袈裟な。女の子一人に陸上のコーチするくらいで、なんで家庭の平和が関係してくるんだい」とごまかした。
「ただの女の子じゃないでしょう? 乃里子さんの子でしょう?」しかし加世は真正面からの攻撃をやめなかった。
「だから?」と、ついに、修平の方もそれを受けて立つ気で、開き直ろうとした。とたんに、加世がつまった。
「――とにかく嫌なのよ。嫌。嫌です。嫌なものは嫌なんだからしょうがないでしょう!」
修平はあきれたように妻の顔を見た。
「ひどいね、女の発想は」
何かが解決したわけではなかった。妻も夫もそれを感じていた。しかしそれ以上追及することを二人とも恐れていた。修平が話題を変えた。
「小説教室へは、いつから通うんだい?」
加世も、むきだしていた鉾先《ほこさき》をおさめつつ答えた。
「今日にも申しこんでこようと思って」
「そうか」
加世は夫のカップにコーヒーを注ぎ直した。
「ああそうだ、危うく忘れるところだった」と『テレビ小説教室入門』の本番の後、喫茶室で井田竜介が言った。「江崎加世さんというひとをご存じですか」
「もちろん知ってるわ」と麻子が答えた。「どうして?」
「青山の僕の入門コースに申しこみに来たんですよ、昨日。ちょうど寄った時だったので少し立ち話をしましてね、それであなたの名が出たんです。よろしくって言ってました」
「じゃ、きっと彼女も私の番組見て、あなたのところに通う気になったんじゃないかな?」
すると横から光太が言った。
「そいつは小島麻子よりも井田竜介先生の魅力のせいだな」
井田が照れた。
「実はね、青山の教室の方にも、おかげさまで問いあわせが多いそうです。僕の魅力はともかく、主婦がいかに何かを求めているか、ということですかね」
「うん、それは言える。局の方にもね、問いあわせがかなりあるそうよ。私のところにはまだデーターが入っていないんだけど、反響はとにかくすごい」
麻子が久しぶりに表情をほころばせた。それを見て柴光太が温かい眼をした。
「少し反応を見てから、考えてみようと思うんだけど、評判さえ良かったら、テレビ小説教室のコーナーをレギュラーにしたいと思うのよ」と麻子は身を乗り出した。「いずれ企画書出すつもりだけど、そうすれば、毎日違う各ジャンルの人に出演してもらえるし――例えば第一線で活躍中の現役の作家とか、文芸評論家とか、各文芸賞の選者だとか、井田さんのような編集にたずさわっている人とかね」
「そいつは魅力的ですね。うちの教室なんかではとても高くて払えないようなギャラが出せるんだから、集まる顔ぶれも多彩でしょうし」井田が感心したように言った。
「井田さんには、常任講師ということで続けて頂くかもしれないわ」
「つまりは、お偉い先生の講座に穴があいた場合の――穴埋めですね?」
それからしばらくして、井田が帰った。二人きりになると、光太があくびをした。
「どうしたの、さっきからずいぶんあくびを噛み殺していたみたいだけど?」と麻子がひやかした。「あんまりご乱行が過ぎるからよ。昨夜は何してたのよ」
「あなたがあまりにも僕に冷淡なんで、銀座の女の子ひっかけてたんだ」
「おや、そう」
「なんて、冗談。僕もだめだね。すぐ本当のこと言っちゃうんだから。どうもあなたにかかると調子が狂っちゃうんだ」
「往年のプレイボーイ柴光太の名が泣くわよ」
「往年はないでしょう。二十八ですよ、まだ」
「まだ、ね」
「まさか、年下の男が嫌いなんじゃないでしょうね?」と光太が訊《き》いた。「あなたが夜サングラスをかける男は嫌いだと言えば、僕はサングラスをやめた。三つ揃《ぞろ》いの背広は好きでないと言うから次の日からテレビ局のお偉方にいろいろ言われながらも着てません。ニンニクも断ちました。男がオーデコロンつけるのも嫌ったらしいとか言われて、以来そいつもストップだ。しかしねえ、年だけはねえ」
それを聞いて麻子は笑った。
「ばかね。それより、その生あくびをなんとかしなさいよ」
「とびきり美味《おい》しくて苦いコーヒーでも飲まんことにはね」
「それなら一軒知ってる。今から行く? 時間どう?」
柴光太は手帳を取り出した。「今日は、もう何もなし。あなたのために一晩あいてますよ」
「私は六時から七時半までつまってるなあ。とにかく六時まで二時間弱あるわけだから、行きましょうよ、すごく素敵な店なの」
そして二人はテレビ局を出たのだった。
向かった先は伊萬里屋。
美智世が晴れやかな顔で迎えた。麻子が二人をひきあわせた。
「この人今日、すごい二日酔いでひどいの。とびきり美味しくて苦いコーヒーっていうんで、連れて来たのよ。こちら、今井美智世さん。それからこちらは柴光太さん」
「存じ上げてます、お名前は。テレビで拝見するより、すらりとしてらっしゃるのね」
「あなたはミス? それともミセス?」美智世があまりにも美しいので思わず見とれる光太。
「ミズです」美智世が笑う。
「そいつはますます素敵だ」
「すぐそれだ。美智世さん気をつけて。この人年上の美人に弱いんだから。次には、『寝よう』というわよ」
美智世がまあまあとにかくどうぞと席を示して一旦《いつたん》下がった。
「ミズって、未亡人?」光太が麻子に聞いた。カウンターの中で美智世が笑った。
「聞こえましたよ。残念ながら三下り半の口。男の人ってどうしてすぐ女が一人でいると未亡人を連想するんでしょうねえ、小島さん?」
「願望なのよ、男の」麻子が言った。「ほら、頼りなげな青ざめた楚々とした美人。自分が側にいてやらなければ、と思うらしいわよ」
「それじゃ私なんて、健康すぎて失格」美智世が古伊万里の器にコーヒーを入れて来た。その手つきに見惚《みと》れていた光太の靴を麻子がぐいと踏んだ。
「ほらほら、ヨダレ」
「きれいだなあ。あんなに美しいひと見たことないな」
「あら、一人いるじゃないの、眼の前に」
「眼の前って?」
「ふ・ざ・け・る・な!」
「だって眼の前の美人は美人でも南極の氷河だものね」
「待てば海路の日和《ひより》ありよ。待ってなさい。そのうちヤケドさせてあげるから」
「じゃ、今夜あたり、どう?」光太が案外本気で訊いた。「七時半にそっちの仕事が終ったら、どこかで落ち合おうよ」
「オーケイ。その後のことは約束出来ないけど、八時に『アンナ』にいるわ。十五分だけ待つから遅れないでいらっしゃい」
「行きます、行きます」光太がニヤリとした。「それにしてもさ、美智世さんて女性は、触れなば落ちんの風情だねえ。すごい色気だ」
「誰がすごい色気ですって?」と美智世が笑う。「ここは狭い店ですから、何でも聞こえてしまうんですよ」
「さっきからね、うちのテレビ局の若いもんが、あなたの色香にあてられて、うるさいのなんの――」
「私はどうせアテウマですよ。そういうの男の手です。将を射とめんとすればまず馬を射よというでしょ。ホンメイは小島麻子にきまっているじゃありませんか」
光太は美智世にズバリ図星をさされたので照れに照れて、「いやいや、こんなに美しい馬なら馬の方がいい!」などと叫んだ。
「ほんとうに、馬の方がいいのか?」と、麻子は急に声をひそめて光太をにらんだ。
柴光太は八時に約束の『アンナ』に現われなかった。十五分間、あまりじりじりもせず麻子は待った。彼女を知っている人間なら、十五分は待つがそれ以上は一分も待たない女だとわかっているはずだった。
八時十五分になると、伝票をつかんで立ち上がった。人が約束の時間に遅れるのには、それなりの理由があると思うから、腹を立てるよりも相手の無礼を許すことにしていた。そういう無礼を二度、三度とやった人間は、黙ってこちらから切ってきた。その夜もそうだった。光太に急に何か用事が出来たとしても不思議はない。自分が仕事をしているからわかるのだが、連絡の電話を一本かけられないような状況というものもわかっているつもりだった。
コーヒー代を払ってふと見ると、赤い公衆電話が目にとまった。手にはおつりの二十円玉があった。それでふと、電話をしてみる気になったのだった。
伊萬里屋の若い従業員が電話に出た。柴光太という人を、と頼むと、少し前にお出になりましたという。それではここへ向かっているのかもしれないと思い、念のために、美智世と話したいと言うと、彼女も出たと相手は、ぼっそりとした声で言った。
「つまり、二人で一緒に出かけて行ったということですか?」と麻子は聞いた。その質問に対する答えは、イエスであった。行き先はわかるかと訊《き》いたら『あかね』の名が告げられた。麻子は礼を言って、電話を切った。
自分と八時に約束しておきながら、伊萬里屋の美智世と『あかね』にくりこむとは何ごとか、と麻子は猛烈に腹を立てた。それならそれで電話をして、嘘でもなんでもついていいから、こっちの約束をキャンセルすべきである。光太も光太だが、店を若い男にまかせきって、飲みに出る美智世も美智世だと思った。
麻子はタクシーを拾うと、運転手に『あかね』の場所を告げたのだった。
しかし麻子はタクシーが赤坂に近づくにつれて自分がしようとしていることが我慢が出来なくなった。光太は言ってみれば同僚であって男友だちでさえなかった。彼が何をしようと、彼の勝手だった。麻子との約束をすっぽかしたのは失礼だが、失礼な若造だ、とそれですむはずのことだった。自分が『あかね』に乗りこんでしまえば、物事が大袈裟になるし滑稽《こつけい》にもなる。危いところで道化を演じるところだった、と冷静さをとりもどした自分にほっとして、行く先を同じ赤坂の乃里子の店に変えた。
しかし、シャッターを押し上げて出て来たのは、乃里子ではなく、夫の辻井治夫であった。
「あら、珍しい」と、つい嫌味が口から出た。
「どうしてです?」憮然《ぶぜん》としながら治夫が言った。「自分の店にいて、何が珍しいんですかね。あなたこそ、お珍しい」
二人は何度か顔を合わせていたが、なんとなく馬があわない。治夫は麻子のズケズケしたところが嫌いだったし、麻子の方でも治夫の慇懃《いんぎん》無礼が気に入らない。
「乃里子、いませんの?」
「家内は、出かけていますよ」
「どちらへ?」
治夫はじろりと麻子を見た。
「さあね」
「ご自分の奥さまの出先もご存じないの?」
「男と出かける女房に、どこのホテルへ、などと訊けますかい」
「ご冗談がお上手《じようず》だこと」
「むろん冗談ですよ」
ふと会話がとぎれた。
「じゃ、また寄ってみますわ。来たことだけ伝えて下さい」
「また来てもらっても、居ないかもしれませんねえ」
「あら、そんなに始終?」
「このところ、頻繁《ひんぱん》ですな。盛りのついた雌犬みたいに」
「それもご冗談?」
治夫が嫌な顔をしてシャッターに手をかけたので、麻子は肩をすくめて、引き下がった。時計を見ると、八時四十分だった。こんな時間に乃里子は何をしているのだろうか、と思っていると、シャッターが閉まった。麻子は乃里子の店を離れた。
空車が来ないので、にぎやかな通りの方へ歩いているうちに、『あかね』の前に出た。そのまま通り過ぎようとしたが、頭ではなく足の方が勝手に左折して、手がのれんを切った。そんな感じだった。
店は、半分ほどの入りだった。入ってすぐのカウンターに肩をぶつけあうようにして笑い興じている美智世と光太の姿があった。麻子の顔の上に、冷ややかな微笑が浮かんだ。
「ホンメイは、やっぱりお馬の方だったんじゃないの」と彼女は作られたにこやかさで二人の間の席に割りこんだ。美智世が、気軽にひとつ席を動いた。
「あっ、ごめん、ごめん」光太は頭を掻《か》いた。「気がついたら八時を過ぎてたんで、それから行っても麻子さんはいないだろうと思ったんでね」それから美智世に向かって、「この人ね、絶対に十五分以上人を待たないんで有名なの。たとえ相手が総理大臣だろうとアラン・ドロンだろうと」
「ウォーレン・ビーティーなら、三十分まで延長してもいいけどね」そういった麻子の表情からは、何も読み取れない。「それで、言いわけは?」と光太を見た。
「だからさ、どうせ待ってないからと思ってさ、行っても居ないんだったら、美智世さんにつきあってもらおうと思ってさ。ね、美智世さん?」
「ふふふ。お腹空《なかす》いたっておっしゃるから、お店もすいてたし、光太さんにつきあうことにしましたの」
麻子は女の方を一度も見ようともせず、美智世が言い終るのを辛抱《しんぼう》強く待った。それから光太に言った。
「どうせ待ってないだろうとか、行ってもいないとか、その言いぐさはないでしょう。だから嫌なんだなあ、若い男は。物の言い方を知らない、礼儀を知らない、道理を知らない。知ってるのは女のお尻を追いまわすことくらいね。だから言ったでしょう前にも、若い男はつまらないって。そりゃいいわよ、連れ歩くには、多少は見栄えもいいんだからアクセサリー程度にはなるわよ、仕事も局のきめた配属だからがまんして一緒にやれる。だけどそれだけのことなのよね」
麻子は一気に言って立ち上がった。
「お邪魔さまでした」と今度はひどくにこやかな愛想笑いを浮かべて、美智世に言った。
「年下の男がお好きだなんて存じませんでしたわ。せいぜい弟をかわいがるようにかわいがってやって下さいな。お店では自分はアテウマだとかいろいろおっしゃってたけど、お馬さんではなくて、盛りのついた猫のまちがいじゃありませんこと?」
美智世がゆっくりとふりむいた。その顔にも微笑が浮かんでいた。
「あくまでもアテウマのつもりでいましたのよ。伝言お聞きになりませんでした? 太郎君の? お見えになるまであかねで場つなぎしておりますからって――。そんなふうにおっしゃるなら、私もアテウマを返上いたしまして、お望み通り盛りのついた猫とやらを、やらせて頂きましょう」
そう流れるようにたんかを切ると、美智世は杯を上げた。麻子が踵を返して『あかね』を出て行った。
「ほら、光太さん。すぐに追いかけるのよ」急に普段の様子に戻って美智世が姉のような調子で言った。
「冗談でしょう? あんなふうに言われて誰が!」光太は憤然として言った。「面白くないね、よし、今夜は断然酔うぞ。酔って、美智世さんとホテルにくりこむぞ」
「酔うのは賛成。それはつきあえるわ」美智世が笑った。
「ホテルは?」
「先のことはね、その場になってみないとね」そう言って彼女は『あかね』のママに日本酒の追加をした。
『あかね』を出た光太と美智世は、店の前からタクシーを拾った。美智世は飲めば飲むほど小島麻子の言動が許せなくなった。
彼女に対する怒りがなければ、恐らく柴光太のようなタイプの男と情事を持とうなどとは思わなかっただろうが、怒りは時として性的な許容量を広げてしまうものらしかった。
それに初夏の夜独得のかぐわしさが夜気の中にはあった。ひんやりとして蒼《あお》ざめたような空気中に、なんともいえない甘い香りが混じり、それも人を官能の方向へ流すのを手伝う役目をした。そして何よりも、正直なところ、美智世は男の肉体に飢えていた。
夫と別れて以来一年近く、彼女には特定の男はいなかった。言い寄ってくる男は多かったが、離婚に至るまでのえんえんと続いた下り坂の中で、嫌というほど男女の辛酸をなめつくしてしまったために、男に夢が持てなかった。期待もなかった。彼女の年では、男と出歩いたり食事をしたりした後に、起こることはきまっていた。同じ男と出かけて関係を断われるのは二度までだった。
三度目は断わりきれないか、そういうことでいい年をした男女が言い争う愚に我ながら嫌気がさして押しきられてしまうから、男とは長続きしなかった。
性愛を含まない男友だちが切実に欲しいと渇望した時期だったが、また、生理的に好ましくないような男であったら最初から興味が湧《わ》かないという意味で、なおさらややこしいのであった。
柴光太とは妙なことから、隣りあわせてホテルにむかうタクシーに乗ってしまっていた。
しかし、盛りのついた猫よばわりをした麻子は許せなかったが、もし自分が逆に彼女の立場だったらどうしたろうかと、考えるだけの余裕が、まだわずかに残っていた。その余裕というか、大人の女の分別を美智世は今夜ばかりは、いまいましくやっかいなものだと思いながら車に揺られていた。
「ね、光太さん。後で後悔しない?」窓から吹きこむ風が美智世の髪を吹き上げた。
「とんでもない」光太がその髪に触れて自分の方に引いた。「後悔なんてしないさ。そしてあなたにもさせない」半分開いた口に男の口が重なった。
「誰かに属する男《ひと》とこんなふうになるのは初めてなの」美智世が甘い声で言った。「見かけによらず古風な女なのよ」
すると光太が顔を離して言った。
「僕は別に小島麻子に属しちゃいないよ」
「法的にでしょ? 私がいうのは――」
「法的にも、なに的にも、とにかく僕は彼女の男じゃない。彼女とは無関係なんだ。誤解しないでくれないかな、美智世さん。信じてもらえないかもしれないが、小島麻子と僕のあいだには何にもないんだ」
美智世が驚いて、クッションの上に坐《すわ》り直した。
「ほんとうに?」
「何もそんなに驚くことはないじゃないですか。第一、僕と彼女と関係があろうがなかろうが、あなたと僕のこれから起こることとは、もっと無関係ですよ」
光太がもう一度唇を寄せようとするのを手の仕種《しぐさ》で避けて、美智世が言った。
「いいえ、無関係じゃないわ」
何も関係のない男に対して、麻子があそこまで言うということは、それだけ光太に対して真剣な感情を抱いていた、ということではないだろうか?
麻子のような立場の自由な女なら、男と寝るとか寝ないとかいうことは日常茶飯事の問題のはずだった。ある程度のつきあいがある男と女なら、麻子がまだ寝ていないということの意味は二つしかなかった。
ひとつは、生理的に合わなくて、どうにもならない男。あとひとつは、彼女にとって大事な男。
当然、柴光太は後者である。でなければ麻子があそこまで言うわけがない。美智世の顔から血が引いた。
「運転手さん、そこのところで止めて頂けますか、一人降りますから」
今度は光太が驚く番だった。
どういう意味かと喚《わめ》かんばかりの若い男を、無理矢理に車の外へ押し出しながら、美智世が言った。
「あなた、わからないの? 小島麻子が死ぬほど好きなのは、あなたなのよ」
茫然《ぼうぜん》としている光太をひとり、溜池《ためいけ》のあたりに残して、タクシーは走り去った。
その夜めずらしく十時前に帰ると、修平は妻に週末の出張を告げた。行く先は関西だという。
「土、日に行ったって、仕事にはならないでしょう」と言うと、外国からのクライアントの接待だからと答えた。そういうことは、以前は別にめずらしいことでもなかったので、加世はそれ以上気にもしなかった。
それよりもむしろ、彼女には夫の優しさが気になっていた。このところ、あまり飲んで帰らないし、それほど遅くもなかった。加世の用意した食事を一通り食べるし、前のように言葉尻をとらえてからんだり、皮肉や嫌味を言うこともなくなった。早い夜には、修一の部屋に引っこんで、勉強を見てやるといった変りようが、何日も続いていた。
そうした変化は、妻にとって喜ばしいことではあった。要するに、いい父親、いい夫を修平は演じていた。
正に、この演じるという感じが、加世の気になっていたのだった。
むろん、それは加世の側の感じ方だった。修平の方では、極力平生とあまり変らないようにふるまっていたつもりであった。妻が受けとめたり感じたりするほど、優しく急変したつもりもなかった。ただいたずらに刺激したり事を荒立てたりしたくなかった。
しかし、男というものは、自分に後ろ暗いことがあると、自分では上手《うま》く隠しているつもりでも、なんとなく態度や仕種《しぐさ》に現われてしまうものだった。さりげなくしようと、さりげなさすぎるために、かえって露呈してしまうことがあるように、さまざまな状況の中で、小さなことが次々とあばかれていく。あるいは、逆のことも起こる。乃里子という一人の女を思いがけなくも得て、ある意味で修平はそのことに気を奪われるあまり、全《すべ》てにわたって上の空の状態であったともいえる。全ては呆然《ぼうぜん》とした状態の中で進んでいったともいえるわけだった。その熱を帯びたような精神状態をコントロールしながら、彼はできるだけ冷静に事を運んだつもりだった。つまり、いい夫と、いい父親を演じようとしたのだった。加世が気になったのは、この夫の一種の熱病を思わせる上の空の状態だった。
普通の女なら見落とすか気づかないだろうが、十年以上も一緒に暮らしてきた妻にだけは、それがわかるのだった。
加世は不安だった。何がどんなふうになっているのかわからないが、修平に何かが起きているらしいことは感じられた。それが自分と、自分の心の平和と、どのように関連してくるのかは、わからなかった。わからないゆえに、怯《おび》えていた。
普段の彼女なら、単刀直入に、夫に質問していたかもしれない。あるいは漠然と感じている疑惑を口にして問いただしていただろう。
漠然と感じている疑惑とは、辻井亜矢の陸上のコーチを夫が今でも継続しているらしいことから派生する問題だった。亜矢とつながっているかぎり、必ずどこかで乃里子ともつながるはずだった。今のところ、そのようなそぶりは見せないが、今すぐでなくとも修平と乃里子が再び接触する可能性はあった。その時のことを想像すると、加世の心は千々《ちぢ》に乱れた。
乃里子と夫が会って直ちに男と女の関係になるだろうというようなことを考えたわけではなかった。夫はともかくも乃里子という女の性格は、ある程度わかるような気がした。乃里子はそんなに衝動的な行動に走れる女ではなかった。
だからすぐにどうのというのではないが、たとえベッドで二人が同衾《どうきん》していなくとも、ただ逢って、一緒にコーヒーを飲むとか、物を食べるというような状況を考えるだけで、ひどく胸がむかつくのだった。夫が自分以外の女に思いを寄せるなどということは許せないが、単に、自分以外の女を熱い眼で見たり、語りかけたりする、それさえもおぞましかった。ましてや自分にはめったに見せない笑い方で笑いかけたり、優しいことを言ったりする図を想像すると躰が震えた。いっそのことその女と――もしそういう女がいるならばの話だが――同衾しているところに来あわせた方がまだましだった。そんなふうに加世は思うのだった。
乃里子と修平が、亜矢という娘を仲介にして、一本の線で結ばれていると思うと、加世の日常からはもうそれまでの平安は失われてしまったような気がした。
けれども加世には、再び亜矢の件で夫を問いただす気持にはなれなかった。その勇気はなかった。もし夫が、続けると言えば彼は妻が何を言おうとそうする男だった。そして、もし加世が、乃里子と逢っているのか、と問いつめれば、夫はそれが事実なら、逢っていると答えるだろう。修平はそういう男だ。自分から進んで事実を告げることはなくても、事実を事実かと指摘されると、簡単にそうだと認めるのだった。要するに嘘をつけない性格なのだ。
加世が夫に質問をしないのは、彼が乃里子とのことで嘘をつかないだろう、とわかるからだ。それが今何か始まろうとしているにしても、始まってしまったにしても、まだ始まっていなくとも、質問は慎重にしなければならなかった。
加世はそうした不安と苛立《いらだ》ちとを、小説教室の中に持ちこんだ。つまり、立ち騒ぐ心を、エッセイや、短編などに託して、原稿用紙の上に吐き散らしていったのだった。
最初の一週間の終りに四百字詰めで五枚の作品の提出を求められて、加世は『疑惑』というタイトルで小編を書いた。
それに対して、井田竜介から非常に誉《ほ》められた。彼は、こう言った。
「あなたの文体は、まだ稚拙で無器用だが、これは当然のことで心配はない。しかし書こうとしている内容の持っているエネルギーが、せつせつとこちらに伝わってくるのには感動した。このタイトルで五枚ではとうてい書き切れるものではないが、そして事実、書き切れていないが、この溢れ出てしまったという感じこそ、才能ではないか」と、このような感想をのべたのだった。
加世は、井田の言葉に耳を傾けた。男の声は、彼女を慰めるように響いた。いたわられ、力を授けられたように思えた。たとえ、誉めることが人の才能をのばす方法だと、井田が方法論で彼女を誉めたにせよ、現在の加世には、砂漠で行き逢ったオアシスのように感じられた。事実、焼けて乾いた砂が、一滴の水ものがすまいとするように、井田の言葉はまたたくまに吸収され、しみこんでいった。
夫の修平が、週末に関西へ出張だと告げた時に加世の胸を過《よぎ》った思いは、以上のように様々なものであった。
十時少し前に、乃里子が裏口からそっと戻ると、居間の灯りがついていた。亜矢は二階のはずだと不審に思ったとたん、畳の上に寝ころんでいた治夫が上体を起こした。予期していなかったので、声が出そうになるくらい乃里子は驚いた。
「今頃まで、どこをうろついていた」いきなり夫が詰問した。乃里子は何ひとつ言いわけなど考えてはいなかったので、黙って通り過ぎようとした。
「俺《おれ》は質問をしたんだよ! どこをどううろついていたんだ」いきなり大声を張りあげたので乃里子はびくっとして、二階の亜矢を気にした。
「答えられないのか。答えられないようなことをしていたのか」
乃里子はそれ以上夫が追及しなければいいのに、と思った。自分のためではなかった。不思議なことに、夫のためにそう思った。彼女には、嘘をつく気もなく、出来そうにもなかった。たった今、愛しあって別れて来た男への思いで一杯だった。
「誰だ、相手は!?」治夫の手が彼女の腕をつかんだ。乃里子は夫の血走った眼を避けた。「俺の顔も見れんのか。亭主の顔も見れんようなことをおまえはして来たんだな? 相手は誰だ? 昨夜もいなかった。その前の夜も出かけていた。年頃になる一人娘をおっぽりだして、おまえはどこのどいつと何をしていたんだ? 隠そうったってだめだ、顔に描いてある。すべておまえの顔に書いてあるんだよ」
妻が何も言わないので、治夫は肩をつかんで激しく揺らした。されるままになっている妻を、やがて突きとばすように放した。
「話せよ。話さないと何度でも同じことを訊く。喚《わめ》いてやる。亜矢に聞こえるぞ。それでもいいのか。娘に聞かれてもおまえの母親としての良心は恥じないのか」
亜矢の名が出たので、乃里子は諦《あきら》めたように吐息をついた。そして死んだような声で低く言った。
「何もかもわかっているんでしょう。それなら何を知りたいんです」
「おまえの口から言え」
「何と言うんです」
「男と一緒だった。その男と寝たと、それが事実ならそう言え」
「男と一緒にいました。そのひとと寝ました」まるで復唱するように、感情のない声で乃里子は言った。いきなり夫の平手が飛んで彼女の顔を打った。
「江崎修平という男か」
「わかっているんなら、なぜ訊くんですか?」打たれたことによって覚悟がきまった。
「江崎修平か?」治夫のこめかみに青筋がいく本もたっていた。
「江崎修平です」その名前を何かかけがえのない貴重なもののように、乃里子は口にして肯定した。再び治夫の平手が、今度はたて続けに二つ打ち下ろされた。乃里子は躰のバランスを崩すまいと、後ろ手をついて壁で支えた。
「江崎修平とはいつからだ? 亜矢のコーチの始まる前か後か」
「後です」
「俺への復讐《ふくしゆう》か。俺に女がいるからおまえも男を作る気になったのか」
「…………」
「どうなんだ」
「あの人を愛しています」
「あの人などというな。いつからだ、いつから」
「初めから」
「初めから?」
「結婚する前からです」
「だがおまえは俺が最初の男だった」
「愛していたこととは関係ないでしょう」
「ということは、愛してもいない男とでも、おまえはやれるっていうんだな」治夫の顔が苦痛に歪《ゆが》んだ。「どうなんだ!!」
「事実、そうしてきたでしょう」静かだが悲しみに満ちた声で乃里子が答えた。治夫がまたしても打とうと上げた手を、乃里子の顔にではなく、いきなり壁に打ちつけた。乃里子は固い壁に当たる夫の骨の音を痛ましい思いで聞いた。
「それでおまえは、ただの一度も俺とでは感じなかったんだな」と治夫は妙にしゃがれた苦しげな声でうめいた。「で、どうだったね。初恋の君《きみ》江崎修平とでは、感じたのかね?」
乃里子は答えなかった。治夫が妻の胸元をつかんだ。「答えろ」
乃里子は抵抗もしなかった。
「良かったのかね、江崎氏は、えっ?」
「良かったわ」
「感じたのか」
「感じたわ」
「いったのか」
「いったわ」乃里子はじっと夫の眼を見た。そして囁《ささや》いた。「何度も」
治夫がつかんでいた胸元をいきなり放したので、乃里子はよろめいた。
「それで、どうする? 今後のことだ。おまえはどうするつもりだ」
「離婚をして下さい」
「相手もそうか? そして晴れて二人が結婚する、とそういう筋書きか」
「相手のことは関係ありません」それは事実だった。相手がどうでもかまわなかった。
「ところが、そうはいかないね」夫は鼻先で笑った。
「離婚などしてやらん」
「それなら結構です。家裁に持ちこみます」
「家裁? 家裁がどんなところだか知っているのか? 不貞をはたらいた女の味方なぞ、まずしないところだぞ。それだけは確かだ。たとえ夫の方が先に女を作ろうともだ。妻が男を作っちゃ終りだ。家裁はおまえの役には立たんよ」
「それじゃこのままで結構です。今までだってやって来たんですから」
「このまま? 亭主がある身で、情夫ともうまくやろうってことか?」
「あなただって同じでしょう」
「ようやく本音が出たな。安心したよ」治夫が一歩妻によった。「それじゃ俺たちは案外|上手《うま》くいくんじゃないかね? 同じ条件で仲良くやっていけるってわけだ」
治夫がその場に妻を押し倒した。
乃里子は空しく抵抗して、それからすぐ諦めた。階上から亜矢が椅子をひく音が聞こえていた。下でたてる物音もつつぬけになる。そして彼女は夫のなすがままに全てをまかせた。何も今度が初めてというわけではなかった。これまでも十年以上そうやってきた。ある意味では、そうすることになれていた。
しかし、その夜、そのことがこれまでのどの場合とも違って感じられることに気がついた。修平と躰を合わせた後では何かが違った。
そう気がついたのは乃里子だけではなかった。治夫もまた、そうであった。
彼はのしかかっていた躰を放すと、上から妻を見おろした。
「そんなに俺がいやか」と彼は言った。その声が怒りのためか屈辱のためか、その他の感情のためか震えていた。「鳥肌がたつほどに、俺がいやか」
天井からの蛍光灯に照らし出された乃里子の肌が、その通り、寒々しく泡立っていたのだった。
恋人たちは、週末の逃避行を秘かに計画していた。
十五年の歳月を経て結ばれてみると、自分たちが失っていたもののとりかえしのつかなさに慄然《りつぜん》とした。最初の夜のそのすぐ後で、乃里子は修平が彼女のために、そして修平は乃里子が彼のために〈存在〉することを確認しあったのだった。
相手を識《し》らずに過ごした十五年について言うならば、それは身をねじきられるほどの欠落感としてあるにはあったが、確かに過ぎ去ってしまった年月ではある。しかし、ひとたび相手を識った今では、彼なしの、彼女なしの人生など、もはや考えられないのだった。
乃里子の頭の隅には絶えず、分別の年齢にある自分たちが、まるで盛りのついた猫たちのように背中の産毛《うぶげ》を逆立《さかだ》てているような状態に対する後ろめたさや自嘲《じちよう》の思いがあって、それを一瞬たりとも拭《ぬぐ》うことは出来ないのだったが、一方では、もし彼女の残りの人生に一度でも、髪ふり乱し、再燃した恋に身を焼くとすれば、現在という時をのぞいてはもう二度とそのような機会は訪れないだろうという、さしせまった危惧《きぐ》があるのもまた事実だったのだ。
乃里子は自分の老いをまだ意識していないが、それでも三十四歳の皮膚のすぐ下まで、老いが忍び寄っている気配のようなものは、感じていた。
三十四歳の人妻と三十八歳のこれも他の女に属する男との逢瀬《おうせ》には、後ろ暗さはもちろん、どうしようもなくうすぎたなさみたいなものがまといつく。そういうものをひっくるめて、それを充分承知の上で、今自分についに与えられたものをつかみたい、と乃里子は思った。
それは一度過去につかみそこねたものであり、今、再びつかまなければ、永久に彼女のものにはならない、そのことだけがわかっていた。
かといって修平を彼の家庭や妻や子供たちから引き離して完全に自分のものに出来るわけでもない。乃里子はそれを望んでもいなかった。乃里子自身、家庭があり――たとえ破綻《はたん》しかけた家庭であろうとも――亜矢がおり、夫がいて姑がいて、店がある。それは修平が現われようと関係なくずっと存在してきたもので、たとえあのような夫であろうとも、あのような姑であろうとも、そうしたもの全てが現在の乃里子の存在理由であるわけだった。
であるから、彼女も現在の生活のどの部分も変えるわけにはいかなかった。そして江崎修平だけが欲しいのだった。しかも浅ましいほど熱烈に彼が欲しいのだった。
ランジュ・ド・メゾンの店内で客の相手をしながら、あるいは客のいなくなったあとのレジの前などで、たえず彼女は自分に問いかけた。修平の何を――? 修平の何が、私をこのように一時もじっとさせておかないほど泡立たせるのだろうか、と。
肉体だろうか? もっと端的に言って、彼の愛の行為のその仕方、手の、指の、唇の、あるいは皮膚という皮膚、粘膜という粘膜全ての感触の、仕種《しぐさ》の、テクニックの問題なのだろうか。
夫との比較しか出来ないのが後ろめたかったが、正直なところ修平の性技が治夫のそれにまさるとは、乃里子は思わなかった。性技などではないのだ。
けれども何かが違っていた。それは何なのだろうか?
乃里子は夫の性愛において、常に受け身であった。相手の愛撫《あいぶ》を受けてはきたが、自分の方から相手に愛撫を与えようとはしなかった。形式としてはそういうことをしてきたが、それは単に夫に少しでも早く事を終らせる目的のため以外の何ものでもなかった。
修平との夜、乃里子は相手に触れたかった。手で、指で、唇で相手に触れ、撫《な》で、こすり、その匂いをかぎ、肉体の温かい感触をいつくしみたかった。生まれて初めて受け身でいることに不満を感じたのだ。
手や足や腕が自然に動きだして相手の肉体に絡みついていった。それは相手を一刻も早く終らせるためにではなく、自分もまた、快楽を相手から奪うためのように、乃里子には感じられた。快感の予感があったのだった。
この肉体によって、この肉体以外の何ものでもなく、江崎修平のわずかに色素を含んだ浅黒いひきしまった肉体によって、遂に快楽の一瞬を得ることができるかもしれない、というめくるめくような予感があったのだった。
私もまた動物なのだ、と乃里子は思った。雌なのだ、と。
もしかしたらこの予感は、日常生活の延長上にはないものではなかろうか。つまり二人の関係が二人以外の人間にとって厳重に秘密であるからこそ、この動揺――吐き気がするほどの胸の高鳴りがあるのではないだろうか。もっとはっきりいえば、不倫の関係だからこそ――。
最初の夜の――それは六月の美しい夜だった――別れの寸前、乃里子はもし修平と共に眠り、一緒に朝が迎えられるなら、一生思い残すことはないだろうと思った。そしてそれを口に出して言った。
「僕の方はかまわない。今夜だって」
女が無断外泊をしたことについて言い訳をしたり、そのことに対して受ける攻撃にくらべれば、男の方ははるかに簡単だろう。乃里子は首を振って苦笑した。亜矢の視線を避ける自分の姿を想像するのは辛かった。修平が言った。
「週末なら出られる?」
前もってわかっていることなら、亜矢をわかの所へあずけるなりの処置が出来る。土曜の夜から一泊自分が家をあける理由について乃里子は夫に説明する必要はないと思う。どうせ彼は若い女のアパートに入りびたって帰って来ないのだから、妻の不在すら知らないですんでしまうかもしれなかった。
自分の方から夫に進んで何かを言うつもりはないが、事前に訊かれたり、月曜の朝、土曜の夜からの不在について言及されれば、何か答えなければならなかった。小島麻子のところへ泊ったとでも言えばいいし、大分《おおいた》の親戚《しんせき》の急の不幸をでっちあげればそれですむことのように思われた。
江崎修平との週末の一泊旅行は、彼の口から出るとすぐに実行可能な、いやそれよりももっとさしせまった是が非でも実行したいことのように感じられたのだった。
二人は土曜の夜、乃里子の仕事が終るのを待って、八時に新宿の小田急ロマンスカー乗り場で待ち合わせることにした。
その日、修平は加世に会社の出張だということにして出かけた。
「お泊りは?」
「ん? どうして」
「何かあった時の万が一の連絡のためよ」と加世は言った。「それとも、知られると困る所なの?」
「ばかだな。都《みやこ》ホテル」咄嗟《とつさ》に修平は答えた。万が一のことなど起こるはずもないだろうし、妻がホテルに電話してくることもなかろうと考えた。「他に質問は、ミセス・コロンボ?」修平が茶化した。
そして土曜日の夜、二人は箱根に発《た》った。蜜月旅行のつもりであった。
その夜、辻井わかが倒れた。
孫の亜矢と二人で夕食をとったのまではよかったが、わかは後かたづけがなんとなくおっくうに感じられた。
洗い物を前に、ふうっと溜息《ためいき》をつくと、亜矢が言った。
「おばあちゃん、あたしが洗う」
「あら、そう。助かるわ、ありがとう」わかは孫に笑いかけた。
そこへ治夫がふらりと顔を覗《のぞ》かせた。
「家へ電話を入れたけど、何度しても誰も出ないから」ここだろうと来て見たのだ、と上がりこみながら言いわけのように言った。
「ママなら、いないわよ」と亜矢が父親の背中に向かってずばりと言った。
「別に、ママなんか探してないさ」治夫が強がる。
「で、用事はなんなの?」とわかが力のない声で息子に聞いた。
「用事がなくちゃいけませんか、お母さん」と治夫は苦笑する。「お母さんの顔見に来たって不思議はないでしょうが」
「そりゃそうだけどね」とわかが眼を逸《そ》らせる。「乃里子さんのことなら、わたしは出先は知りませんから」
「誰が乃里子の出先など訊きましたか」治夫はいっそう鼻白んだ。
食器を洗い終った亜矢が、部屋の隅で少女マンガをひろげて読みだすのを見ながら、
「今夜はこっちに泊りか?」と治夫が訊いた。
「家帰ったって誰もいないもん」マンガから眼を上げずに亜矢が答えた。
「それにしても何だな、乃里子のやつ、子供も何んもかもおっぽらかして、一体どこへ行ったんです?」
「だから、わたしは知らないって言ったでしょう」
「お母さんに亜矢あずけて行ったんでしょうが。その時にも、どこへ行くってことは一言もなかったんですかね」
「なかったわね。わたしの都合訊いて、亜矢をおねがいできるかって、それだけよ」
「訊かなかったんですか?」
「わたしが? なんで私が訊くの。向こうが言いだすのならともかく、こっちから訊くっていうのはなんとなく詮索《せんさく》がましいじゃないの。言わなかったのは、それなりのわけでもあるんでしょうよ」
わかはそれだけ言うと、もう一度溜息をついた。
「おばあちゃん、さっきからふうふう溜息ばっかりついてるよ」部屋の隅からちらりとわかを見て亜矢が言った。
「どうかしたんですか、そういやあ、顔色が悪いな、お母さん」治夫が急に声をひそめた。
「ちょっと疲れただけよ」
「仕事がきついんでしょう」と治夫。「適当にして下さいよ。第一お母さんが働かなくたっていいんだ。きついなら仕事やめても――」
「仕事は別にきつくもないですよ」わかは治夫に全部を言わさずにそう言った。「それよりもあんた、もう少ししっかりしたらどうなの。あんたはあんたで好き勝手なことをやってるし」嫁は嫁で週末に家をあける、とこれは口には出さず言外に含ませるのだった。
「あいつもしょうがないなあ」と、母親の含みを感じて治夫は舌打ちした。「一体どこをうろついているのやら」
「だけどあんたは、面と向かっては一言だってそんなこと言って乃里子さんを責められませんからね、わかってるでしょう?」
「そいつはどうですかね、お母さん。亭主が好き勝手やるのと女房がやるのと、ちょっと違うんじゃないかな」
「わたしは、何とも言えないわね。嫁として思えば、そりゃ面白《おもしろ》くないけど、一人の女として考えれば、あの人にはそれなりの苦労もあるわけだから――」
「嫌だな。一体どっちの味方なんですよ」
「できるだけ公平に物を見たいと思っているだけですよ。それにわたしは誰のためよりも、亜矢のことを考えると、今のあんたたちは不満ですからね」
「わかっています」と治夫は急に膝《ひざ》を正した。「僕もその点だけなんだ。悩みは」
「じゃまずあんたが身辺をきれいにして家へ戻ればいいじゃないの」
治夫は娘の方に気を使いながら声を落とした。
「身辺をきれいにするのはいいですよ。それはいつでもできるんだ。問題は、乃里子の方に僕を受け入れるつもりがあるかどうかなんです。わかりますか、文字通り受け入れるかどうかが僕らの――」
わかが大儀そうに顔の前で手を振った。
「あんたたちの夫婦の何が問題かなんてプライベートな事、わたしは聞きたくないわ。お願いだから、そういうことは私の耳に入れないで解決してちょうだい」
治夫は眉《まゆ》をぎゅっと寄せて黙った。
「わかりました、努力します」
「頼みますよ」とわかも神妙に答えた。「このままじゃ亜矢が心配でわたしは安心して死ねませんからね」
「嫌だなあ、縁起でもない。よして下さいよ、死ぬなんて話は」
急に居づらくなったのか、治夫は入って来た時と同じようにふらりという感じで出て行った。父親の姿がなくなると、亜矢はいかにもつまらなそうに少女マンガを畳の上に放り出した。
「おばあちゃん、おふとん敷こうか?」
そうね、とわかが腰を上げかけた。その時だった、亜矢は祖母が少し前かがみに躰のバランスを崩したのを見て、走り寄った。
「どうしたのよ、おばあちゃん」抱き起こしながら訊いた。わかは胸をおさえたまま答えない。その顔は蒼白《そうはく》だった。
亜矢があわててふとんを敷き、そこへわかを寝かせようとしている間、彼女は喉《のど》を掻《か》きむしるような動作をして意識を失った。
十四歳の少女には何が何だかわからなかった。電話を探しにアパートを飛び出したが、どこの誰にかけていいのか、わからない。父親のアパートの電話番号を亜矢は知らなかった。家に帰ればどこかに書きとめてあるかもしれないが、どこをどう探してよいかもわからない。
公衆電話の前で半ベソをかきながら、亜矢は知った大人の顔を必死で思い浮かべようとした。
亜矢の脳裏に浮かんだ大人は、江崎修平だった。電話帳をめくって、彼の自宅の電話番号を探し出すのに十分近くもかかった。
「江崎でございます」と、落ち着いた感じの大人の女の声がした。
「あの、江崎さんお願いします」
「江崎ですが――?」
「コーチの江崎さん、お願いします」
加世が息を呑《の》んだ。
「あなた、もしかして辻井亜矢ちゃんね?」
「そうです。あの江崎さん――」
「主人は出張で留守なんですよ。何かご用?」
「出張!?」そうだった、と亜矢は受話器を取り落としそうになった。修平から今度の日曜は休むという連絡があったのを忘れていたのだ。
「もしもし、もしもし」と加世が叫んでいた。
「すみません。あの、おばあちゃんが――あたしのおばあちゃん、苦しがって胸を抑えて倒れちゃったんです、あたしどうしていいかわからなくて、それで江崎さんに――」
「おばあちゃまが?」加世はさまざまな複雑な思いとは別に大人の分別をきかせた。「倒れたんですって? 意識はあるの?」少女は心細い声で半分泣きながら、眠ってるみたいにしている、怖くて、と答えた。
「わかりました。あなた一人なの? ママは?」
「ママは出かけていないんです。パパにも連絡がつけられない」
「じゃおばあちゃんのお家の住所を教えてちょうだい。私がすぐに救急車の手配をしますからね、あなたはすぐおばあちゃんのところへ戻って、救急車を待ちなさい。私も出来るだけ早く病院を調べてかけつけますから、亜矢ちゃんはおばあちゃんと一緒に病院に行っていなさいね」
動転している相手から、ようやく住所を聞きだすと、加世は一一九番を回し、救急車の手配を頼み、事情を説明したうえで辻井わかの病院がわかりしだい、自分の所へ電話で知らせてくれるよう頼んだ。
救急車は五分後には辻井わかのアパートに到着し、病人と亜矢をのせて、もよりの救急病院へ直行した。病院の名前が加世に知らされたのは、電話から二十五分の後だった。
加世は奇妙な成り行きを複雑な思いで考えながらも、とるものもとりあえず、病院へかけつけたのだった。しかしまだその段階では、夢にも乃里子の不在と夫の出張とを結びつけて考えなかった。
わかの診断は冠状動脈の硬化からくる心不全ということであった。更に悪いことには、心臓の中にできた凝血が脳内に飛んで脳栓塞を引き起こしていることだった。右半身の麻痺は避けられないだろうと、医者は加世に言った。
医者の処置を受け、ようやくほっと一息したのは、夜の十時半を過ぎた頃だった。わかの身柄が安全に医者の手のうちにゆだねられた段階で、加世が言った。
「さあ、送って行くわ。それにしてもあなたのご両親はどこにいるんでしょうねえ」少女に対する哀れさもあったが、なんで、よりによって自分が、という思いで、つい皮肉な口調になった。
「パパの居所は家に帰ればわかると思うけど」と亜矢は言った。「ママは知らない」
「知らないって、どこに行ったか言っていかなかったの?」
亜矢が細い首を振った。加世の胸に稲妻のような疑惑が走りぬけた。
「とにかくお家へ行って、あなたのパパに連絡をつけてみましょう」と疑惑を払いのけながら加世は少女の肩に手を置いた。
けれども、その手は、すぐに離れた。ほとんど生理的な嫌悪《けんお》であった。乃里子という女の娘だと思うと、神経が過敏になった。
加世は亜矢に案内されて、かつてのライバルの家の裏口をくぐった。
亜矢は電話帳の一頁を指さして、父親の電話番号を加世に示した。
「じゃ電話して、パパに事情を説明しなさい」と加世が言った。亜矢は顔を曇らせた。
「パパがいるかどうかわからないから」と口を濁した。
「じゃここはどこなの? 誰の番号なの?」事情を知らない加世が詰問の口調になった。
「よく知らないけど、女の人のところよ」と急に亜矢が開き直って言った。今度は加世が表情を曇らせる番だった。知りたいとも望まないのに、いろいろなことがわかった。彼女はなんだか、友だちの見てはならない家庭の裏側を見てしまったような気がして、すぐにでも逃げ帰ってしまいたかった。けれども、いかにも心細げな少女の姿を眼にすると、再び大人のふるまいに出て、言った。
「じゃ私が電話をしましょう」
ダイヤルを回すと、三つの呼び出しで相手が出た。若い女の声だった。
「辻井さんをお願いします」と加世は固い声でつっけんどんに言った。そのつっけんどんな声は、若い女というものに対する反感から来るものだった。乃里子のために腹を立てているというのではなく、自分もいつまた、このような節操のない若い女の出現によって夫を横取りされるやもわからない、という思いがあったからだ。
相手が急に息を呑み、それから反抗的に訊き返した。
「どちらさま?」
「辻井さんいらっしゃるんですか」相手の問いを無視した。
「奥、さん?」女が疑り深い声で訊き返した。
「急用なんです、すぐに替って下さい」加世は高飛車に言った。わけもわからず腹立たしかった。すぐに男の声に替った。
「もしもし辻井ですが」
「江崎です。いつぞや一度だけお目にかかった者ですが」
「ああ、そうでした」治夫の声に不審の色が混じった。「こんな時間に江崎さんの奥さんから、どんなご用でしょうかね。まさかおたくのご主人とうちの女房が駆落ちしたなぞと言いだすんじゃないでしょうな」
治夫は深く考えることもなく、思いつくままを口に出して喋《しやべ》った。加世の方も、そんなつまらない冗談は軽く聞き流すつもりだった。
「亜矢ちゃんのおばあちゃまが、さっき倒れたんです。乃里子さんも不在で、ご主人さまもすぐには連絡ができないと、亜矢ちゃんが泣きながら私のところに電話をかけて来たんです。それで私、すぐに一一九番しまして救急車を呼び、たった今おばあちゃまを病院に任せて出て来たところですわ」
そう一気に怒ったように喋った。事実、加世は非常に腹をたてていた。迷惑でもあり、治夫の口調も気に入らなかった。けれども、そのほかに何か別の感情、波立ちがあった。それがどこから押しよせてくる波立ちかわからないが、加世は必要以上に神経を逆立てている自分に気づいた。
「大変失礼しました」治夫の声が変った。「事情を知らず、失礼の段は許して下さい。病院は、どこでしょうか?」
加世は治夫に病院の名を知らせてから訊いた。
「亜矢ちゃんは一人ですけど、どうしますか? 乃里子さんの居所がおわかりなら、私から連絡をつけましょうか?」そう聞きながら、加世は自分がなぜそんなことまで申し出るのか不思議な気がしていた。
「それが……」と相手が急に口ごもった。「女房の出かけて行った所を知らないんです」相手はそれを恥じているような、腹を立てているような口調で言った。
そのとたんだった。加世には何もかもが明らかになった。乃里子は夫と一緒なのだ、と確信した。
「亜矢はその家に残してお帰りになって下さい」と治夫が言った。「病院へかけつけて、それからそっちへ帰りますから、亜矢には先に休むように」そう言って、もう一度加世に謝ってから、治夫は電話を切った。
加世は躰が冷たくなるのを感じた。乃里子の血を分けた娘だと思うと亜矢の顔を一瞬でも余計に見ていたくなかった。少女を力づけてあげるような言葉さえも口にしえずに、加世は辻井家から出た。ほとんど逃げ帰るようにして、自宅に戻った。
戻るとすぐに、京都のホテルに電話をしてみた。江崎修平という名の宿泊人はいないという答えだった。念のために会社の名で部屋をとっているかもしれないと東商事の名を告げたが、それもなかった。夫の出張は嘘《うそ》であった。乃里子の行方も、その夫さえも知らなかった。二人は、この今という瞬間、どこかで一緒なのだ。十一時に近かった。夫と乃里子がこの時間に何をしているのか、その情景までもが、まざまざと瞼《まぶた》に浮かび上がった。
自分には何のかかわりもない辻井わかという老婆が脳栓塞で倒れたために、思いがけぬ事実が明らかになった。事実であるという証拠は何もないが、加世の中では、もはや疑いようはなかった。不思議といえば因縁の不思議であった。更にもっと考えてみれば、辻井亜矢と夫修平の出逢いもまた、因縁の不思議さ以外の何ものでもない。夫が亜矢に出会わなければ、乃里子にも再会しなかったろう。そして亜矢のコーチを夫がしなければ、今夜、辻井わかの倒れた件で自分のところへ電話もかかって来なかったろう。
しかし今日のこの日のことを、加世はいつか起こる現実のこととして恐れたことはなかったろうか?
彼女がまだ若かった時思わず口を突いて出た嘘で修平を乃里子から奪った日以来、いつか手痛いかたちでその時の罰を受けると、怯《おび》えて過ごさなかった日はないのではないか。
亜矢という少女のコーチのことくらいで、あんなにもヒステリックになって夫を責めたてたのも、今日のこの日が加世には透けて見えていたからではないだろうか。彼女は深夜の自宅で、両手の中に顔を伏せて、夫と乃里子の密会の場所を思って呻《うめ》いた。
翌朝、治夫から改めて加世のところへ、昨夜の礼の電話が入った。
元はといえば、治夫という男が女などこしらえたから、乃里子は乃里子で人の夫と浮気などに走るのだと、加世は短絡的な怒りを抑えきれずに言ってしまった。
「お礼なんていいんです。そんなことより、今日乃里子さんが帰って来たら、本当はどこへ、誰と行っていたのか、よく聞いてみることですわ」
「その口調では、奥さん、何か知っているみたいですね」と、治夫が低く問い返した。
「確信はありませんけど――。私の主人も昨夜から行方をくらましていますから」
「なるほど」治夫は考えるふうに言った。「ひょうたんからコマですな。昨夜《ゆうべ》は考えもなく冗談に言ったつもりが、なるほど、なるほど。してみると我々は寝盗られた亭主と、妻と、こうなるわけだ。ふん、愉快な話じゃありませんか、ねえ、そうでしょう」
同病相憐れむという調子だった。
けれども加世は治夫のその急になれなれしい、なれあいの言い方にぞっとした。
「あなたは奥さんに浮気されても当然かもしれませんけど、私は違いますから。普通の貞淑な主婦ですから、我々だなんて言い方はなさらないで下さい」
そう言って一気に電話を切ったのだった。
その自分の一言によって、辻井治夫と乃里子の家庭に一波乱が起こるとしても、そんなことは当然起こってあたりまえと思った。加世には、憤懣《ふんまん》のやり場すらないのだった。
夫が何|喰《く》わぬ顔をして帰って来たら、ああも言おう、こうも言おうとあれこれ考えたが、何を言っても、どう泣き叫んでも、あるいはいきなりつかみかかって夫の顔を掻きむしろうとも、それで加世の気持が癒されるとは、とうてい思えないのだった。だからこそ、治夫に思わず告げ口をして、相手にも手痛い傷を負わしてやったのだが、それでもまだ加世は、この裏切りに対して充分に復讐《ふくしゆう》をしたようには思えない。
夫が私を裏切った。それだけでもとうてい許しがたいのに、相手が乃里子だということで加世は理性を失っていた。
自分がほんとうには何をしていたのか、わからなかった。ただ、めちゃめちゃに傷つけたい――修平を――一心だった。その修平が今夜まで帰らないとしたら、それまでの何時間をどうして過ごせばよいのかすら、わからなかった。
夫の顔に爪をたて、掻きむしり傷つけることが今すぐに可能でないのなら、加世は代わりに自分をめちゃめちゃにする以外にないような気がした。きっとこういうときに、妻たちは行きずりの男に身をまかせたりするんだろうと、初めて愚かな妻たちの愚かな行動を、内側から理解した。加世でさえも、今すぐ家を出て、最初に視線の合った男と、まっすぐホテルに直行してやりたい、という思いで、躰が震えてくるほどだった。
もちろん、加世はそうしなかったが、かわりにある電話番号を回した。
井田竜介。先週の小説入門教室の後、生徒と講師が会の流れからお茶を飲むのに参加した。一時間ほど雑談をして腰を上げると、井田が言った。
「江崎さん、たしか代々木上原でしたね」
そうだとうなずくと、方向が同じだから、と井田も立った。彼は二時半に下北沢のある作家の所へ、原稿をもらいに行くことになっていた。
新宿駅に出た時、まだ一時間ほど余分に時間があるから、つきあって下さい、と井田が言いだした。
夫以外の男とのつきあいもないので、つきあうというのはどうするのかと内心気をもんだが、井田が案内したのは紀伊国屋書店だった。
彼はもっぱら自分の興味のある本を見て回り、ほとんど加世の存在など忘れているように見えたが、二十分ほどで七冊ほどの本を選び出して買った。そして、そのなかの一冊の文庫を、加世に渡しながら、
「あなたに。つきあってくれたお礼です」と言った。ヴアジニア・ウルフの〈燈台へ〉であった。
「あなたの最初の宿題の〈五枚〉を読んだとき、なぜだかふとヴアジニア・ウルフを思ったんだ」
加世は赤くなってうつむいた。あの五枚の小説ともエッセイともつかない短編は、いってみれば心情の露出である。見も知らぬ男の前に、下着姿で出て行ったも同然の感じだ。それもきれいなフランス製のレエスの下着などではなく、普段の普通の下着姿。
恥ずかしいと同時に、自分を露出してみせた相手に対する奇妙な親しみも別にあった。ある意味では夫にさえ見せない精神の吐露を、数行の文章の中にしているのだった。
それから彼はこうも言った。
「僕は編集者なんです。編集者と作家の関係というのは、一種の疑似恋愛が成立する場合があるんです。そういうケースの場合、不思議なんだけど、小説は恋文のような感じになるんですよ。もちろん受けとり方の問題にすぎませんが」そしてこう続けた。「あなたの小説は、興味があったな。もちろんまだ稚拙ではあるんだけど、それなりに魅《ひ》かれるものがあった。多分、文体もそうだけど、ひたむきな心情みたいなものが、せまってくるからだろうね」
「いつか、井田先生に恋文のように感じて頂けるような小説を、書いてみたいものですわ」と加世が消え入りそうな声で言った。
「今でも、少しそういうふうな感じがありますよ」井田は含みのある声でそう言った。
その時だった。不意に彼はこんなことを言ったのだ。
「僕、もうじき父親になるんです。女房が出産のために里に帰ってるから、そのせいもあると思うんだけど、非常に動揺している部分があるんだ。父親になる若い男は、誰でもそうなんでしょうかねえ、消えちまいたいと思うね、突然。何もかも放り出して、どこか知らない場所へ行ってしまいたい、と。生まれてくる子供の顔を見たらもうだめだろうから、見ないうちにドロンと居なくなる。恐いんだな。責任の重さに、深夜など、時々眼をさまして、脂汗なんかかいちゃってね」
井田は、駅への道すがらゆっくりとそんなことを語った。語らずにはおれない感じで、言葉が流れ出た。
「なんでこんなことあなたに喋るのかな」と、少しして首をかしげた。「多分、あなたの感じ、年はそれほど違わないと思うけど、姉というか母性的な感じがそうさせたのかな」
「あら、そんなのちっともうれしくありませんわ」と加世が素直に胸にあることを口に出した。
「私なんて、本当は小さな女の子みたいに怯《おび》えている女なんです。母性的だなんて、とんでもないわ」
「わかっていますよ」と急に井田は神妙に言った。「あなたの書いたものを読めばわかる。あなたは繊細で傷つきやすい女性なんだ。と同時に、母性的でもある。繊細で傷つきやすい母性、とでもいうのかな」
「私にだって悩みはありますわ」と加世は井田から贈られたヴアジニア・ウルフを胸の前で抱きしめる仕種をしながら独り言のように呟《つぶや》いた。
「その時は、いつでも相談して下さい。当分――といっても一か月ほどだけど、女房もいなくて暇だから、いつでも聞き役をしますよ」
もしかしたら、その最後の言葉は社交辞令だったのかもしれない、と加世は思った。
しかし井田竜介が、社交辞令で物を言う男のようには思えないのだった。
その時もらった名刺には会社の電話と自宅のものとが載っていた。
日曜の午後のこんな時間に、ひとり者をかこつ男が自宅にいるかどうか怪しいものだったが、実際には井田はいた。本を読んでいるところだと、聞きもしないのに言った。
自分の方から電話をかけておきながら、加世はすぐに言葉につまった。さすがに、女から男を誘うというようなことはできそうもなかった。
ちょっとお電話をしてみただけです、と、ばかみたいに呟いて電話を置こうとした時、相手が言った。
「話があるんでしょう? 聞きますよ」
その思いやりがひどくうれしかった。
「僕は今、電話が何本か入るのを待っている身だから出られないんだけど、よかったら、ここへ来ませんか」
さすがに、加世は躊躇《ちゆうちよ》した。躊躇しながら、行きずりの男たちに身をまかせる妻たちの心情を思った。夫と乃里子が、今どこかで一緒にいて自分を裏切っている事実を思った。
「ええ、お邪魔でなければ」
「邪魔だったら、始めから誘いませんよ」と井田が屈託のない声で笑った。このひとはいい人だと加世は思った。
井田竜介のマンションは都心から四十分の位置にある、中くらいの新築の建物だった。
教えられた部屋のドアホーンを押すと、聞き覚えのある声がして、ドアが外側に開かれた。加世は素早く内側に滑りこんだ。
それを見て井田が笑った。
「どうしてそんな怯えたような、悪いことをしているような感じで入るの?」
「多分、悪いことをしていると内心怯えているからなんでしょう」と加世は照れかくしにズバリそう答えた。
「世間の常識で言えば、確かに人妻が、ここへ訪ねてくるのは疑われてもしかたがないな」
「そうでしょう? しかもあなたの奥さまは出産で実家に帰っていらっしゃる、その留守なんだから」
「世間は世間。とにかくどうぞ」
しかし室内は、いかにもヤモメ暮らしの男の部屋という感じの乱れようであった。本がいたるところに散乱、新聞が何日分もとび散り、コーヒーカップが十客近く洗わずに積まれてある。
「あれ、どうするつもり? 奥さまが戻ってくるまでどんどん新しいのを使うの?」
「いや。あと二つで終り。そうしたら洗います」
加世が立って行って、洗おうとすると井田がきっぱりと言った。「洗わんで下さい。くせになるから。一度楽な思いをすると、男はだめなんだ。こっちから電話をして、あなたにまた、洗いに来てくれるよう頼みこむのにきまっている」
「あら、いつでもどうぞ」加世はそう答えた。
もし室内がきちんと整頓されていたら、こんなふうにリラックスした気分にはなれないだろう、と思った。
「話があれば聞きます。でなければ、僕はこれを読んでしまいたいんだが」と井田は机の上の原稿を顎《あご》で示した。
「どうぞ」と加世はむしろほっとして答えた。「コーヒーでも入れましょうか?」
「お願いします」と井田は言って机にむかった。
二時間ほどが過ぎた。その間に加世は出来るだけ邪魔にならないように室内を整頓し、埃《ほこり》を拭《ぬぐ》った。そんなことをしながら、自分のしていることの無意味さに泣きたくなった。私は何をしているのだろうか、と情けなかった。しかし、井田にそう言うわけにもいかなかった。
井田の寝室を片づけていると、背後に音がした。井田が疲れた眼をしばたかせて、立っていた。
「お仕事、終りました?」加世はできるだけさりげなくそう訊いたが、声が少しかすれた。
「ほんとうのところ、あなたは何をしに、ここへ来たんですか」と井田が加世の問いを無視して訊いた。その声は非常に静かではあったが、少し奇妙な感じにくぐもって聞こえた。「まさか、掃除をしに来てくれたんじゃないでしょう」
二人は、ベッドをはさんで向かいあっていた。井田の眼はまともに加世の顔にそそがれていた。その視線がふいに崩れたように柔らかく溶けると、女の首筋、肩、胸元、下腹へと降りていくのだった。
男の瞳《ひとみ》の中に欲情の色を読みとると、加世が低く言った。
「掃除をしに来たわけじゃありません」もう一度男の眼が加世の顔に戻った。「ただ話をしに来たんでもないの。私は――」加世は唐突に口をつぐんで眼を閉じた。閉じた瞼の裏の赤い粘膜にからみあう乃里子と夫の姿態がちらついた。
「私は――」それ以上はさすがに口には出せずに、加世はうなだれた。男が寝室のドアを閉め、そっと鍵をかけるのがわかった。
「僕は健康で普通の性欲をもつ男だから」と井田が加世の側に寄りながら言った。「眼の前にさし出された、同じように健康で美しい女性をとうてい拒めない」
男の手が首筋にかかり、髪にさしこまれた。男の肉体の匂《にお》いを、加世は胸に吸いこんだ。井田が眼の前でワイシャツを脱ぎ、ズボンのベルトをゆるめるのが見えた。
加世は、自分の役割を敏感にさとった。その役割は男を誘惑している年上の女だった。それならそれらしく、潔くさっさとすることだった。彼女もブラウスのボタンに手をかけた。
しかしそれは、くるみボタンで脱ぐのに手がかかった。彼女は焦り、乱暴に左右に開いた。二つか三つ、ボタンが弾けて床に散った。
その仕種は男の眼に自暴自棄のように映った。加世にしてみれば、ボタンに手間どっている自分がただただもどかしかったのと、役柄を少し、はすっぱに演じたいからにすぎなかったのだが。
スカートのジッパーに手をかけた加世の仕種を、井田が不意に押し止めた。
「ほんとうは、違うね?」
「何が?」怪訝《けげん》そうに男を見上げる加世。
「ほんとうに、僕が欲しいわけじゃないね?」
「こんなふうに、男の人の前で服を脱いでいるのに、そんなこと関係ある?」
「あるさ」
その口調に、加世は剥《む》き出している乳房をブラウスで覆った。
「健康な欲望をもった男と女が、自分たちの置かれた立場を充分にわきまえたうえで、欲望に身をつらねるのは、悪いことじゃないと思う。だけど――」
「だけど?」
「あなたが本当に欲しいのは僕じゃない」
「他に、この部屋に男がいて――?」
「文字通り、男。男なのさ、あなたがもとめているのは。それは僕でなくてもいい」
「なんでそんなふうに思うの?」
「君を見ていて、ドレスの脱ぎ方を見て、そう思った。あなたには、なんていうか、怒りのようなものがあって、僕は利用されているんだと思う。そんな感じなんだ」
「…………」
「多分、ご主人との間に何かあって――何であるか知るよしもないし、今となっては知りたいとも思わないが、きっと思うに、僕はあなたのご主人への面当《つらあ》てなんだ」
「そんな……」
「違う?」
「…………」
「黙っているということはそうなんだと思っていいわけだね? 面当てだったら、僕は遠慮する。面当てや復讐に利用するなら、他の男にしてくれ。僕は嫌だ」
井田は低い冷静な声でそう言うと、脱いだばかりのワイシャツを再び身につけはじめた。
「もしあなたが、僕に純粋に欲望して、こうなるのだったら、それはひとつの喜ばしいアクシデントとして、受け入れるよ。しかし、何か別の不純な目的に利用されるのはごめんなんだ。悪いけど――」
加世は喉まで出かかる叫び声のようなものを呑《の》みこんだ。顔から火が出るほど恥ずかしかった。井田に背をむけて、ブラウスを着はじめた。返す言葉もなかった。
井田が躰をこごめて床から飛び散ったボタンを拾い集めて、加世の掌《て》に落とした。
「掃除してくれて、ありがとう」その声にようやく普段の井田らしい温《ぬくも》りが戻った。加世は声もなくうなずいた。
井田が欲望にまかせて自分を抱かなかったことで、加世はきっと後々になって感謝することになるだろうが、今のこの瞬間は、男のその潔癖さがうとましく、恨めしく屈辱なのだった。私は自分をめちゃめちゃに傷つけたかっただけなのだ。それすらも果たせなかったと、絶望した。
その後加世は繁華街を空《うつ》ろな眼をしてうろついた。子供たちが夕食を待ってお腹《なか》を空かせているだろうと思っても、とてもまっすぐ戻っていく気にはなれなかった。
二時間の間に三人の中年の男たちが、彼女に声をかけたが、加世は男たちの様子を一瞥《いちべつ》して首を振って逃げ出した。自分をめちゃめちゃにしたいのなら、こんな男がまさにうってつけじゃないかと思いきかせたが、一人の男は唇がどす黒かったし、別の男は口臭がした。最後の男は金ぶちの眼鏡をかけていた。私は井田となら寝ることが出来たのだ、とその時になって加世は井田の肉体と、匂いとを好もしく思い出しながら、思った。
家に戻ったのは七時を過ぎていた。台所で物音がして、暗い顔をして入って行くと、修平がフライパンを片手に顔を覗《のぞ》かせた。
「罪ほろぼしってわけね?」と、夫の姿を冷笑の眼で見て、加世が吐き捨てるように言った。
「その通りだよ。罪ほろぼしだ」あっけなく修平が認めた。
そんなに簡単に認められては、怒りのぶつけようがなかった。加世は躰の力がなえそうになり、食卓で前のめりになるのを辛《かろ》うじて支えた。
「君が昼過ぎからどこかへ行って帰って来ないと、子供たちに聞いて心配した」
「そうなの?」加世は瞳を光らせた。「それならもっと心配することがあるわよ。乃里子さんのところは、今頃、大騒動でしょうから」
「それも知っている」しっかりしている人のようにも、どこかタガがぬけている人のようにも、その時の修平は見えた。
「あら。さっそくね。連絡がよろしいこと」
「乃里子から電話があって、姑さんが倒れたことも、君が亜矢ちゃんからの連絡で一一九番したことも、僕たちの旅行が君や彼女の夫にすっかり知れてしまっていることも、全《すべ》て連絡があった」
「じゃ私からは何も説明することはないみたいね」
修平は逃げも隠れもしない、好きなように怒るなり引っかくなり、刺すなりしてくれ、というふうな感じで、むしろ淡々とした態度で、妻の前に立っていた。フライパンを片手に。
「乃里子さん、ご主人に撲《なぐ》られたんじゃないかしら」
「らしいね」
「胸が痛むでしょう?」
「痛むよ、ひどく」
「あたしが何していたか、わかる?」
「予想はつくよ」
「ほんとうに?」加世はきりきりと眉をつり上げた。「ほんとうに予想がつくの? 私は男の部屋に三時間いたのよ。誰だかは言えないけど。その後新宿の町を歩き回ったわ。野ら猫のように。そして三人の男がホテル行きをほのめかして私を誘ったわ」
修平がくるりと背中を見せて台所へ入って行く。その後を追いながら加世があくまでも言いたてる。「逃げないでよ、聞きなさいよ。私は男の部屋に三時間いて、裸になったわ、相手もそうよ。あなたと乃里子さんがしていることを、まさにしようとしたのよ。そうしたら――」
「――――?」
「そうしたら相手の男の人がね、急に嫌だって言ったのよ。誰かへの面当てや復讐に利用されるのはごめんだって。どうしてわかったのか知らないけど、とにかく私は裸にまでなったのに、その男の人に見事にふられたのよ。死にたいと思ったわ」
「わかるよ」
修平は沈んだ声で言った。
「僕はその男に感謝するべきなんだろうな、男としては。しかし今は、真実言って、そんな気持になれない」修平が言葉を切った。加世は待った。けれども夫は先を言わなかった。言えないみたいだった。彼はフライパンの中味――卵とハムのいためもののようだったが――がガスの火でこげるのもかまわずにかきまわしていた。
加世は、夫の肩が震えているので、彼が泣いているのではないかと思った。男が泣く、ということに愕然《がくぜん》とした。夫に泣いてなど絶対にして欲しくなかった。その女々しさが腹立たしくやりきれなかった。と同時に何もかも投げ出して、後ろから抱きつき、幼い子をあやすように夫の躰をゆすってやりたいという衝動的な思いもあった。夫の過ちを決して許せないが、理解は出来ないわけではなかった。
けれども加世はそうしなかった。夫を後ろから抱きしめてゆすってあげる代わりに、冷えた声で言った。
「あなたがそうやってみっともなく泣いているのは、乃里子のためなのね?」
修平はゆっくりと首を振った。
「じゃ誰のためなの? まさか自分のためなんじゃないでしょうね? 自分が可哀想で泣いているんじゃないでしょうね」
すると修平は、とぎれがちな、破綻《はたん》した声で言った。
「乃里子は、これきり僕に逢うつもりはない」彼はかつて若い日に乃里子を失った。ようやくこの手に抱きとめた、と確信した今、またしても再び彼女を失ったのだった。
加世は顔を叩《たた》かれでもしたかのようにそむけた。そんなことは一生聞きたくもない言葉だった。そんな泣き言は。そんな弱音は。そんな怖《おそろ》しい告白は。
「どうして乃里子を失ったと思うの?」
「彼女が言ったんだ。姑さんのことは自分のせいだから、もう二度と決して僕には逢わないと。これきりにしてくれと、そうはっきり言った」
加世は夫の傍を離れた。安堵《あんど》と絶望とを同じ量だけ感じながら。
夫は自分の元へは戻った。そして加世は自分で望んだ以上に傷ついて、やはりこの家へ戻って来た。二人は別々の場所で別々の理由で深く痛手を負い、現在血を流しあっていたが、相手の傷口の手当てをしてやることも出来ないほど、自分の苦しみに動転してしまっていた。傷口をなめあう夫婦のようではなかった。その傷はお互いが直接つけあった傷でさえもなかった。相手の痛みが全くわからないわけではないけれど、それ以上に自分の痛みに気をとられていたからだった。
乃里子は、わかの病室に入るなり、いきなり治夫にすごい剣幕で押し出されたのだった。
「そんな汚らしい躰でお袋の病室に入るな」と夫が押し殺した声で言った。「クレゾールで百回消毒したって入れないぞ」
「どうなんです、お義母《かあ》さんは?」
「もう少しで死ぬところだった」
「意識はあるんですか」
「今朝になって、意識だけは取り戻したよ」
「そうですか。よかった……」心からそう思った。
「そうですか、よかった?」と治夫は妻の口調を真似た。「そうですか、よかった?」いきなり手が出て、妻の左の頬《ほお》を叩いた。手が意志よりも先に出たという感じの叩き方だった。
ひとつ叩くと、二つ、三つと治夫の手が妻の顔を打った。
酷《ひど》く痛いという打たれ方ではなかった。そこに治夫のぎりぎりの自制が働いているのを乃里子は感じた。いっそのこと、躰のふっとぶほど撲ってくれれば、夫も自分も、この場のケリのようなものがそれでついたかもしれないと、自分のことはともかく、夫のために、乃里子は残念に思った。
打つことによって相手ではなく自分の方が余計に痛むという打ち方だった。治夫は背をむけて妻の傍を離れ、洗面所の方へ足早やに消えた。
乃里子はそっと病室のドアを押した。ベッドに近づいて行くのを、向こうからわかが見ていた。
「あらあなたの顔色――」と姑が溜息《ためいき》をついた。「それじゃどっちが病人だかわかりゃしない」
「お義母さん」乃里子は声を途切らせた。「すみません。何もかも私のせいです」
「誰があなたのせいだなんて言ったの?」
「…………」
「年のせいですよ。誰のせいでもありません」そう言ってわかは嫁を慰めるのだった。「それより、乃里子さん、悪いわねえ。迷惑をかけてしまって――」
「いいえ、迷惑なんて、お義母さん」
「自分の躰のめんどうもみれないなんて、情けないわ」わかが口ごもった。「いっそのこと、死んでしまいたい」その眼に涙が光った。
その涙を見ると身がひきちぎれるほどの自責の念が乃里子を襲った。修平とあんなふうになったからだと思った。修平との旅があんなに歓《よろこ》びに満ちていたから、その罰だと受けとめた。
乃里子は病院を出ると、顔を硬《こわ》ばらせたまま電話ボックスにまっすぐに入り、修平に別れを告げる電話を入れたのだった。
わかが倒れて四日目に、辻井家に治夫の弟妹が集まり、話し合いが行なわれた。
入院にかかる費用は一応長男である治夫がみることになったが、わかの看護人にかかる費用まではみきれない。そのことの相談であった。兄弟で割るとしても一人あたま月々十五万円近い金額になる。サラリーマンをしている弟の和夫にはとうてい捻出《ねんしゆつ》できない金額であった。妹の哲子の夫は自由業だが、それゆえに月々の収入が一定していないからと、哲子も首を振った。
乃里子は十分おきに良子が店から呼びに来て、会談の席から立って行った。
三時間に及ぶ話し合いの結果、ようやくたどりついた結論は、一家族が十日ずつ、交替でわかの看護にあたるということであった。
一家族といっても、それは女の仕事であった。席を立った間にきまったその結論を聞かされて、乃里子は思いつめた口調で言った。
「十日ずつ看護を分担するというやり方には異議はないんですが……」
兄弟たち三人が刺すように乃里子を凝視した。乃里子はその痛いような凝視にたじろいだ。自分だけが他人でよそ者であり、孤立しているのを感じた。夫さえも自分の側にはいなかった。
「何だ。意見があるなら早く言え」と治夫が苛立《いらだ》たしげに言った。「立ったり坐《すわ》ったり落ち着かんから、後になってなんくせなどつけるんだ」
乃里子の顔色が青ざめた。夫の言葉のせいではなかった。これから自分が言おうとしていることの内容に心が痛むのだった。
「申し上げにくいんですが、私、自分ではお手伝い出来ないと思うんです」
「おまえ、今更何を言いだすんだ?」治夫が顔色を変えた。
「誤解しないで下さい。分担の十日間は責任をもちます。ただ私が病院につめてお義母さんのお世話は出来ないということを、申し上げたかったんです」
わかの世話が嫌だというのではなかった。しかしそれを人はわかってはくれまい。治夫や彼の弟妹が自分をどう思おうと、非情で情け知らずの女のように罵《ののし》ろうと、乃里子はかまわなかった。一番辛いのは、どちらかといえば世間の姑たちよりはフェアな眼で息子夫婦を見て来てくれたわかがどう思うかであった。彼女は、このどたんばで嫁に裏切られたような気がするだろうか?
「それ、どういう意味、義姉《ねえ》さん?」哲子が声を軋《きし》ませた。「そりゃ誰だって寝たきりの病人の世話をするのは嫌ですよ。実の親だって、はっきり言って嫌だわ。なさぬ仲の人間だったらなおさらそうでしょう。だけどきめたことは守ってもらわなくちゃ」
「それは守ります。看護の専門の人を差しむけますし、店の休みの日にはもちろん私がやります」
「あら、つまりお金で解決しようということなの。汚いことはお金でっていうわけ?」哲子が眼尻《まなじり》をつりあげた。「そりゃねえ、義姉さんは働いているんだから、自分の収入ってものがあるんだから、お金さえ払えば看護人の一人や二人はなんとかなるでしょうよ。だけど問題はそういうことじゃないでしょう。心のことでしょう」
「だからこそなのよ、哲子さん」もし乃里子が、仕事を十日も放っぽりだして病院につめたら、きっと苛々《いらいら》するし店は心配だしで、顔にも出るし義母さんにも当たりたくなるだろう。そうすれば手の動きにも優しさがなくなったりする。専門の人の行き届いた看護にまかせるほうが、長い眼で見ればわかにとっても乃里子にとっても良いことだと思った。
「お袋の世話をしたくないというんだな? よくもそういうことがおまえに言えるな。どれだけお袋がおまえを可愛《かわい》がって、たててきたか、考えてもみろ。亜矢の世話、店の手伝い、家事、ほとんど全部じゃないか。お袋がいなかったら、今みたいな店など張れやしなかったんだぞ。そのところをよく考えたら、そういうことは言えんだろう。今度のことも亜矢をお袋におっつけて、おまえが男と行方をくらましたから――」
「兄さん、まあ、そのことは別にして」と弟の和夫が割って入った。「僕ぁ、結論として誰がお袋の下《しも》の世話をしようといいと思うんだ。義姉さんがみてもいいし、看護人でもいい。むしろ専門家の手のほうがお袋には気持がいいかもしれない。それに何も義姉さんは嫌だといってるわけじゃない。日曜日には自分がやると言ってるんだから」
弟がとりなしたことが、かえって治夫の怒りに火をつける結果になった。
「乃里子、よく聞け。命令だ。主人が言ってるんだ。仕事なんてやめてしまえ。たったの十日間、お袋のめんどうがみれないというのなら、店なんて手伝わなくともいい。今後一切、店の方へ顔を出すな。家に引っこんで、家のことと亜矢のこととお袋のめんどうをみろ。もしそれが出来ないというなら――」そこまで言って治夫は急に口をつぐんだ。それが出来ないというのなら離婚だ、と言いかけたのだった。
しかし、彼の本意はまだそこに至っていなかった。治夫には、その言葉を口にするだけの確信と勇気がなかった。
そのあたりを見越したように、乃里子が言った。
「それは私に死ねというのと同じことです。もし私があなたに仕事なんてやめてしまえと言ったら、あなたはやめますか?」
「馬鹿を言え。男に仕事がやめられるか。仕事というものはな、男にとっては一生の問題だ」
「それならば私にとっても同じです。ランジュ・ド・メゾンは私にとっても一生の問題なんです。あれだけあなたやお義母さんの反対を押し切ってやらせてもらった店じゃありませんか。今、この時に投げ出すわけにはいかないわ。私から仕事を取り上げないで下さい。私は一度も仕事から離れたことのない女なんです」
「十日だけ休めと言ってるのよ、兄さんは」と哲子が横から口を出した。
「十日だけというけど、その間、誰が店をきりもりするんです? 店はまだしっかりと軌道に乗っていないんですよ。人にまかせるわけにはいかないんです」
「じゃ俺《おれ》は何だっていうんだ。弟や妹の前でそうはっきり無能人間扱いされちゃ、俺の立場がないじゃないか」治夫の唇が怒りで震えた。
「あなたは配達で手一杯でしょう」
「配達なんぞアルバイトでも出来る」
「だけど、うちで扱っているベッド用品の品種は、二百種を超えるんですよ。補充とか仕入とか、色やデザインの選び方とか、はっきり言って、あなたにすぐにまかせるわけにはいかないわ。一日や二日ならともかく、長い間はとても――」
「実際はっきり言うじゃないか」治夫が鼻白んだ。
「悪く思わないで下さい。あなたのせいでもない。ふとん屋から今度の店に変えるために、私は室内装飾関係の勉強を夜学に通って二年間しました。そこで色彩心理やデザインのことも少しは学びました。あなたに、同じことをしてくれと言うつもりもありませんし、望んでも無理だということもわかっていますから――」
話し合いは、結局は治夫と乃里子の個人的な問題になってしまったので、和夫の提案で、誰が看《み》るにしろ、一家庭十日間の分担ということで会議はお開きになった。
その夜、二人きりになると治夫が言った。
「おまえは冷たい女だな。実際俺が考えていた以上に、冷たい女だよ」いつものように捨て科白《ぜりふ》のようにではなく、むしろ自分自身に言いきかせるような口調で呟いた。
「俺たちは、これで駄目かもしれないな」
夫の口調が気になったが乃里子はとりあわなかった。
「今までだって駄目だったんだから、これからだって同じよ」と冷たく言った。
「亜矢のことだけが心配だが、ここまでくるともう亜矢のためにも、おまえと別れたほうがいいんじゃないかと思いだした」
「私は別れるつもりはありませんから」乃里子は冷静だった。「別れるんだったら、あなたが若い女と同棲したときに別れています」
「おまえはそれでいいかもしれん。しかしこんなのは家庭じゃない。以前もそうだったし、これからだってずっとそうだろう」
「…………」
「先のことを思うと暗澹《あんたん》とした思いになる。誰のためにもならんよ。乃里子、離婚のことを真剣に考えてくれ」
「なぜ急に離婚話になるの?」乃里子はまだ本気で夫に対峙《たいじ》していなかった。「それを持ちだすなら私の方でしょ? それとも、私が男の人と週末行方をくらましたから、鬼の首でもとったつもりになったんですか」
「男のことは別だ。正直に言って、お前が男と寝て帰って来たときは、嫉妬《しつと》のかたまりだった。あのときに考えたのは離婚じゃない。もう一度おまえを取り返したい一心だった。お袋が倒れて、もしかしておまえが心を入れかえてくれれば、二人して力を合わせて店を守り、お袋の看病もして、女ともいずれ別れるつもりだった」
「…………」
「男のことは許し難いが、俺の方にだって落度はある。てめえが女作っておいて女房が男を作ったからといって、それは決して同じ問題じゃないが、自分の落度は認めざるをえない。しかしまあそんなことももういいんだ俺は……」
「…………」
「おまえと離婚しようとたった今決心したのはな、お袋に対しておまえが見せた心の冷たさだよ。なんだ? 金で解決する?」治夫は言葉を切った。「それで俺の気持は一気に冷め果てた。今日のおまえの態度で、俺とおまえをつなぎとめていた最後の糸が、ぷっつり切れてしまった」
「離婚は嫌です。亜矢が一人前になるまで絶対に承服しませんから」
乃里子はその場に夫を残して、階段を上がりかけた。その背中に治夫の声が飛んだ。
「何が怖いんだ? おまえらしくもないじゃないか、おまえは強い女なんじゃないのか? 離婚くらい、さっさとやってのけられる女じゃないのか」
離婚というのは、離婚届に印を押せばそれですむという問題ではとうていありえない。そこに至るまでの過程を思うと乃里子は怯《ひる》んだ。言ってみれば結婚した夫婦とは、ひとつの植木鉢の植物のようなものである。むりやりに根こそぎにしたうえに、今度は根を二つに分けなければならない。複雑に絡み合った家庭というしがらみの土や、根を、どんなにていねいに分けるとはいえ、ちぎれたり切れたり、引っぱられたりして、血が流れることだろう。その根分けの作業を思うと、そんなことなら、いっそこのままでいいのではないかと、乃里子は考えるのだった。
「おまえが怖いのは、仕事を失うことだろう? 店をなくしてしまうことなんだろう?」治夫の声が追ってくる。「だったら、その点は話し合うつもりだ。店がやりたいというのなら、どこかにこの店の分店を出してやってもいいと思っている」
乃里子の足が階段の途中でぴたりと止まった。
「分店? 冗談でしょう。私がこの店を作ったんです。この店は私の店なんです。誰がこれを捨てて分店なんか――」
すると治夫は、冷酷な声で言った。「ようやく本音が出たな」それを聞くと乃里子は音をたてて階段を昇って行った。治夫は、どこか寒いといった感じに背中を縮めたまま、いつまでもその場を動かなかった。
小島麻子の番組の視聴率が再び上昇しはじめた。さらに細かく言えば、彼女が企画して担当した『テレビ小説教室』の十五分間の視聴率が他よりぬきんでて良いことが、一分刻みに出てくる視聴率表で明らかになった。
テレビ小説教室は、一週間だけの企画だったが、放送が終ると電話や投書などで続行の希望があい次いだ。
緊急の上層部だけの制作会議が開かれ、その結果、ワンクールの間、テレビ小説教室コーナーをレギュラー化することになり、その直接の担当に麻子と柴光太とが決定した。
二人は数日間、行動を共にして企画を練った。毎日異なる講師で連続五日間、月曜日にレギュラーで今ではおなじみになったAカルチャーセンターの井田竜介。火曜日はムードを変えて女流作家。水曜日を文芸評論家。木曜日を男性の人気のある作家。金曜日だけはレギュラーにせず、新人賞、芥川・直木賞受賞者、話題の人などに出てもらう、ということに大枠がきまった。あとは人選。井田竜介のコネクションと情報の協力で、麻子たちは精力的に飛び回った。
「この番組から、主婦作家が続々と登場したりしてね」と光太は仕事帰りに立ち寄った伊萬里屋で冗談を言った。
あの『あかね』での口論以来、久しぶりの美智世だった。
「もうあれきりお見かぎりかと思ったのよ」
「実を言うとね、伊萬里屋の敷居が高かったのよ」と麻子は笑った。「でもそろそろあのことは時効だろう、と……」
「時効、時効」光太が椅子《いす》の中でふんぞりかえった。
「何よ。元はと言えばあなたのせいで、女同士がしなくてもいい喧嘩《けんか》をすることになったのよ」と麻子が眼の隅で光太を睨《にら》んだが、美智世の眼には睨むというよりは愛撫《あいぶ》のような感じに映るのだった。
「主婦作家で思い出したけど」と麻子が急に真面目《まじめ》になって言った。「ワンクールの終りにテレビ小説賞の募集をやったらどうかしら」
「そいつはグッド・アイディアだぞ。選考委員はレギュラーの四人の先生でね」
「そして、いい小説が生まれたら、うちの局でドラマ化してもいいわけだし」
そこへ、連絡を受けていた井田竜介がやって来た。
「今ちらと耳にはさんだんだけど、テレビ小説教室でテレビ小説賞を募集するんですって?」
「アイディアとしては、いいでしょう?」
「いいですね」と井田が言った。美智世のさし出す熱いおしぼりで顔をふき上げると、「一人、面白い小説を書く女性がいるんですがね。今のところまだ短編を三本しか書いていないんだけど、小説の切りこみ方がユニークなんですよ。期待しているんだ、僕は」
「井田さんの生徒ですか」と光太。
「うん、そうだけど、実は最初のテレビ小説入門でうちのことを知って訪ねて来た人でね。言ってみればテレビ小説教室の第一期生みたいなもんですよ。あ、そうだ、前に言った人ですよ。たしか小島さんの友だち」
「江崎加世?」麻子がびっくりして、飲みかけのコーヒーをテーブルに置いた。
「へえ、加世が……」と麻子はひどく意外な気がして考えこんだ。つい二か月前に、シャネルまがいのスーツに模造真珠のネックレスをじゃらじゃらと飾りたててテレビ局に訪ねて来たときには、いかにもエリートサラリーマンの妻でございますという感じしかなかった。小説を書くなどと一言も言っていなかったし、事実話したかぎりでは、子供の教育一本やりの専業主婦のはずだった。この二か月のあいだに一体何があって、短編とはいえ、小説を三本も書くような女に変身したのだろうか。
しかし二か月のあいだには実にいろいろなことが起こりうることも確かだった。麻子自身のことについて言えば、視聴率に翻弄《ほんろう》され、気分的にもひどく落ちこんだ時期もあり、曲線が激しく上下した日々だった。そのあいだに光太という年下の男が、自分にとって重要な地位を占めつつあった。多分、結婚という形式をとることはないだろうが、二人が結ばれるのは時間の問題だという予感があった。
もっとも今は、二人ともそれどころではなかった。来月から始まる小説教室の講師をある程度しぼったら、今度は出演依頼の交渉が残っている。全てが一段落するのは、新企画の放映が始まってからだろう。
「美智世さん、乃里子に逢ってる?」と麻子が訊いた。
「それが近頃――」と美智世が顔を曇らせる。「前にはほとんど毎日のように、ちょこっと顔出して、うちのコーヒー飲んでいって下さったんだけど、このところばったり」
「このところって?」
「姑さんが倒れたの、ご存じでしょう?」
「いいえ」麻子が顔をしかめた。「電話くれたのかもしれないけど、私も局の外を飛び回ってることが多かったから」
「姑さんのこともあるけど、ご主人との問題もかなり悪化しているみたいで――これは店員の良子さんからの又聞きだけど――」と美智世は急に声をひそめて、麻子を店のコーナーに引っぱって行った。
「乃里子さんが、いつだったか、おばあちゃまが倒れたちょうど同じ日に、男の人と外泊したらしいのよ」
「乃里子が!?」麻子は青天の霹靂《へきれき》のような顔をした。あの冷静な乃里子が? 男と外泊? とすると、と麻子はじっと考えた。その男とはたった一人の男しか考えられなかった。江崎修平。
二人がどのように再会したのかは知らないが、再会は不可能じゃない。それに加世。だしぬけに小説を書きはじめた加世。何かがある、と麻子は思った。
麻子はその場から男たちに声をかけた。
「ね、私、ちょっと失礼するけど、待っててくれる? 一時間くらいで帰るから」
「僕はいいですよ」と光太が声を返した。
「申しわけないけど僕は――」と井田が言った。「女房が昨日赤ん坊を生んだもんで、病院の面会が八時で閉まるから失礼したいんです」
「そうなの。おめでとう。赤ちゃんは男の子、女の子?」
「女の子です」
「じゃ、光太さんと先に打ち合わせておいてくれる? あとで私、彼から聞くから」
そう言い残して、麻子は伊萬里屋を飛び出して行った。
ランジュ・ド・メゾンの店はすでにシャッターが降りていた。裏口に回って声をかけると、治夫が顔を覗《のぞ》かせた。人違いかと思ったほど、痩《や》せて憔悴《しようすい》してみえた。何日も髭《ひげ》をあたらないせいもあるが、明らかに彼は今不幸であった。不幸というものは人を薄汚れて、みすぼらしく見せると麻子は思った。
「女房は、病院ですよ」と、治夫は言った。前のように挑発的な声の調子はなかった。
「病院は、どちらでしょうか?」麻子も普段の高飛車な物言いをおさえて訊き返した。
治夫が病院の名を告げた。
「お母さん、いかがですか?」別れ際に麻子が訊《たず》ねると、「長くはもたんでしょう」との返事だった。
「大変ですね」
「僕より、女房がね」と治夫はぽつりと言った。「昼間は店で立ち通しで働いて、夜になると、月のうち十日は病院につめてます」
「それじゃ躰《からだ》がもたないわ」
「僕もそう思ってね」と治夫は認めた。「しかし、止めたところで考えを変えるような女じゃないから。あんたもご存じの通り。昼間は看護の専門家にまかせるもんで、せめて夜には看てやりたいと。こうと思いこんだら、金輪際の口ですからな」
それならあなたが時には替ってあげたらどうなんです、と麻子は言いかけて、ふとやめた。そう言うことが出来ないような何かが、治夫にはあった。無力感が。疲れが。失意や絶望が。もしかしたら、この人のほうが被害者なのではないか、とその時だしぬけに麻子はそう考えた。これまでずっと乃里子の口からいろいろ聞き、乃里子を見てきて、治夫という男を麻子もまた憎んだが、そして乃里子を苦しめる加害者として治夫に批判的だったが、この夜初めてその判断に疑問を抱いた。強いのは、乃里子のほうなのではないか、と。
あの、言葉も失ったほど痛めつけられた乃里子が、セラピーに通って人間関係の復活を求めて来た弱者のはずの乃里子が、本当は一番強い女だったのではないかという考えに、麻子は心底驚いてしまったのであった。
治夫のところを辞すると、教えられた病院までの十分ほどの道のりを、麻子は深く考えこみながら歩いた。
乃里子は店を七時に閉めて、亜矢と自分の夕食を大急ぎで作り食べると、病院へかけつけるという生活を、これで五日間続けていた。あと五日やると、哲子が替ってくれる。そうなれば来月まで乃里子の番は来ない。
自分の番は来ないが、日曜日にはやはりわかを見舞うだろうし、夜も毎日とはいわなくとも、週のうち二度くらいは自分は病院に足を運ぶだろうと乃里子は思った。
義務観念だけではない。そうせずにはいられないようなさしせまった欲求からそうするのだった。
最初は金だけ出して看護人にまかせるようなことを言ったが、店に出る時間以外は、わかのことが気になり、わかの傍についていてやりたいと乃里子は思うのだった。人に言われたり夫に言われたからではなく、自然にそういう気持になっていた。
しかし連続五日も病院に通っていると、さすがに足がふらつくほど自分が疲れているのを感じた。
「あなたを見ていると、わたし痛ましくて」と、わかが細い声で言った。「ほんとのこと言うとね、あなたが昼の間、看護の専門家を差しむけてくれたんで、わたし、ほっとしたの。そりゃお金がかかるのは申しわけないけど、他人ですからね。気は楽なのよ。病人にはね、正直言ってそれが一番。気を使い使い、気がねしながら病気しているくらい惨《みじ》めなことないから――」
「そう言ってもらえると、私、救われます」と乃里子は姑の乾いて小さな手を揉《も》みながら言った。
それから二人は黙って鉢植えの花に眼をやった。消灯の時間まで二時間あったので、いつものように本をとりだして読んで聞かせる準備をしていると、わかが言った。
「今日は、本はいいわ」
「そうですか」と乃里子は姑の顔色を見た。「おかげんでも悪いんですか?」
「ううん。そうじゃないの。それより少し話をしたいと思って」
わかがじっと乃里子の顔を見た。倒れてから一回り縮んだような悲しげな表情が、ある覚悟の色を浮かべていた。「聞いてくれる? 少し長い話になると思うけど」
乃里子はうなずき、姑が少しでも楽に話せるようにと、枕《まくら》を二つ重ねて背中にあてがって、聞く姿勢をとった。
「あなたにも話したことがあると思うけど、わたしの死んだ夫は、そりゃ極道だった」とわかが静かに話しはじめた。
「結婚して三日もたたないうちに、前からの女の家へ通いだしたのをかわきりに、一時たりとも女のことで切れたことなんてなかった。ずいぶん泣きましたよ。
昔の女なんて、夫に養われるだけで何も出来ない、別れたいと思っても、その日からの生活を思うとそれも口には出せず、惨めだわねえ、嫌で嫌でしょうがなくても治夫が生まれ、次男が生まれ、哲子が生まれて来たわ。
女のところから帰って来たばっかりの夫に無理矢理にされるとね、わたしよく後でお便所にかけこんで吐いたものよ。それくらい嫌だった。だからね、乃里子さん。あなたが今、治夫のことを生理的にどれくらい嫌に思っているか、わたしにはよくわかるんですよ。
それでね、子供を三人抱えてしまうと普通は諦《あきら》めるでしょう。でもわたしは諦められなかった。わたしの人生をめちゃめちゃにしてくれた夫が憎くて憎くて、復讐のことばかり考えて暮らしたわ。
そしてね、とうとうある事を決心したの。夫が定年になって会社を退職したら、その時こそ子供ももう成人しているだろうし、夫を見捨ててやろう、と。
きっと退職で一気に気も弱くなってるだろうし、六十近ければ、もう女気もないだろうしね、頼るのは老妻だけじゃありませんか。その時こそ三下り半をつきつけてやろうと、私はひそかに固く決心しました。いくつくらいの時かしら。三十三歳くらいだから、今のあなたの歳頃よね。そう決心すると、ずいぶん生きやすくなって。
夫が定年退職した暁にはっていう一念に支えられて、来る日も来る日もそのことを呪文のように自分にくりかえし言いきかせながら、その呪文にすがって生きてきたのよねえ、わたしの女ざかりは。それが子供たちのためだと思ったし」
そこで、わかは眼を閉じ、長いこと口をつぐんだ。やがて再び喋りだした。
「ところがね、乃里子さん。ある日、夫が胃の具合が悪いって言いだして医者に行ったのよ。医者は夫には胃潰瘍《いかいよう》だと告げたけど、ほんとうは胃癌《いがん》だったの。それもかなり末期の癌で、肺にも転移していた。長くて四十日。まあ一《ひと》月の命だろうと、医者はわたしに話しました。
実際には一月ももたず、二十日ほどで死にましたよ。わたしが四十五歳のとき。夫は四十八歳でした。
夫が死ぬと――死んでも涙も出ませんでしたけど――とたんにわたしには何んにもなくなってしまったの。もちろん三人の子供をかかえていましたからね、すぐに何か始めなければいけないっていうんで、さんざん考えて、ふとん屋を始めましたけどね、生きるはりっていうのかしら、心の中は空っぽ、それこそなあんにもなくなっちゃった。だってそうでしょう、わたしの生きがいは、亭主の定年の日の復讐だったんだから。そのためだけに生きてきたような人生だったんだから、四十五歳でいきなり夫に死なれてごらんなさい。呆然《ぼうぜん》としますよ。今だにある意味では呆然としていますけどね。
わたしの女としての人生は何だったのか、と思いましたね。復讐だけを胸に抱いた女の人生はって。その復讐が遂げられればともかく。
復讐の念なんかを日々の生きがいにして来た女ってのは――ねえ。そんなものを生きがいにするしか生きられなかったってこともあるんだけど……。
ですからね、わたしの人生もある意味で、極道の夫が死んだ四十五歳の時に終ってしまったのよ。それも非常に虚《むな》しい、無念な形で終ってしまった」
わかは、青ざめ、疲れを滲ませていた。乃里子がその肩に毛布をかけてやった。
「わたしがこんなことをあなたに話したのはね、乃里子さん、もしも万一、あなたが治夫との離婚を考えているのなら、私と同じ過ちを犯してもらいたくないからですよ。
亜矢のためにとか、世間体とか、店のこともあるわね。
でもね、そういうことは次に考えればいいの。まず自分自身のことをよく考えて、決めるべきだと思うのよ、わたし。
幸いあなたには仕事があるんだし、今じゃ離婚するからといって昔と違い、女が無一文で外へ放り出されるってこともない。治夫だってそこまで悪い男じゃないでしょう。
離婚をすすめていると思ってもらっちゃ困りますよ。誰が、可愛《かわい》い孫の双親《ふたおや》を別れさせたいものですか……。
ひとつだけ確かなことがあるとしたら、まず自分自身が幸せでなければだめってことね。母親が幸せでニコニコしていれば、娘も自然にニコニコするものなのよ。幸せでない人間は、絶対に他人を幸せにはできません。
今のあなたたちは、誰もかれもが不幸せ。わたしが辛いのはね、そのことなの。もっと本音を言えば、亜矢が可哀想。次に治夫。あんなでも、自分のお腹を痛めた子ですからね。理屈ぬきでわたしは治夫が可愛いし、同情しているのよ。家を出たのも、あなたと治夫がしじゅういがみあっているのを見ていたくなかったから――。
まず、あなたがようく考えて、自分が幸せだという道を決めてちょうだい。それがもし治夫との離婚なら、それでもいいと思うし、もう一度元のさやにおさまると決めれば、それもまたそれでいいですよ」
わかはベッドの上から労《いたわ》りをこめて嫁の顔を見てから続けた。
「ただね、乃里子さん。女ってものは、もし夫を生理的に受け入れることが出来なくなったら、もう一生二人のあいだに修復の道はありえないってことですよ。こんな話、嫌かもしれないけれど、私も三人子供を生んだ女ですからね。そうよ、わたしもかつては、あなたのように女ざかりを生きた女なんですよ、今はもう何の役にもたたないばかりか、人のやっかいになるだけのお婆さんだけど。
こんな惨めな結末になるのもある意味で自業自得なのよ。だってそうでしょう。不幸な女なんて、ろくな女じゃない。復讐だけを支えに生きてきたような女には、こういう惨めな末路が似合いというものです。
幸福な老後はね、乃里子さん、幸せに生きた人にしか訪れないんですよ。もっとも、老後の話なんて、あなたにはぴんと来ないかもしれないけど。でも、あっという間でしたね。ほんとうに。女として何ひとつ楽しい思いを味わわないうちに皺《しわ》が出来、ひとつふたつと増えていき、白髪になって、そしておばあちゃん。今のままじゃ、治夫は飼い殺しみたいなものですよ。あの子があなたに未練があるのは、はたでみていてもわかるわ。でもあなたにあの子を受け入れてやることが出来ないんだったら、どうかひと思いに治夫を解放してやってちょうだい。荒療治だけど、結果的にはそれがいいのよ。そして、どうせやるなら、出来るだけ早いうちに。そうすれば傷も大きくならずにすむし、ね」
それでわかの話は終りだった。語り終えるとわかは水を求め、水さしの口からほんの数滴だけ口に含むと、ああ美味《おい》しい、と世の中にこれ以上美味しいものはないといったふうに溜息をついてから、眼を閉じた。
乃里子は姑がかすかな寝息をたてはじめるまで傍にいて、それからそっと部屋を出た。共同の洗面所には人気がなかった。
乃里子はそこで水を流し顔を洗った。洗っても洗っても涙が止まらなかった。
病室に戻ると、扉の前に麻子が立っていた。乃里子の泣きはらした赤い瞼《まぶた》を見ると、麻子は顔を曇らせて、友人の肩を無言で抱きしめた。
「どう?」と眼顔でわかの容態を麻子が訊ねた。
「今、眠ったところ」低い声で乃里子が答えた。
「じゃ少し、あっちのロビーで話そうか」麻子が誘うと乃里子はうなずいた。
「いろいろとあったのねえ。私、なんにも知らなかった」固い木製のベンチに坐ると麻子が言った。「なんにもしてあげられなくて、ごめんね」
「ううん、そんなことない。あなたセラピストを紹介してくれたじゃないの。それだけでずいぶん助かったのよ」
「ほんとうに?」
「ほんとうに。不思議なんだけどね、セラピストのところへ通うようになって、喋れないことをぽつぽつと喋っているうちに、普段でもいろいろ言える感じになってきたし、人の言葉にも耳をかたむけられるし、いろいろと行動なんかも変ってきて――時々自分でない何かがそんなふうに私をさせるんじゃないか、と怖くなるくらいなの」
「江崎修平とのことね。あなた週末、彼と駈落ちしたんだって? やったわね、ついに」麻子はわざと明るく言って乃里子の気を引きたてようとした。しかし乃里子は修平の名を聞くと、躰を硬ばらせるような感じになって、
「そのことなら、もう終ったのよ」と、言うのだった。修平とのことがあったからわかが倒れたのだ、という思いがふっきれなかった。そして、今、乃里子にあるものは仕事だけだった。夫とのことがどうなるにしろ、乃里子の支えは仕事だった。修平のことを思うと身がちぎれそうに恋情を覚えるが、修平とて、いずれ自分から離れて行く存在だろう。加世や子供たちから奪い取ってまで、彼を自分のものにしようとは思わないし、彼が乃里子のためであれ、家族を捨てるような男とも考えられなかった。
このずっと先に、もっと自分というものが確立できていて落ち着いたら、修平とのことをもう一度考えてもいいが、今はまだ駄目だった。
そしてその時の乃里子の胸を一杯にしていたのは、江崎修平への思いよりも何よりも、今さっきのわかの長い話の内容だった。
麻子はそんな友人の心の内までは読めず、乃里子の頑《かたくな》な態度から、ずっと以前、学生の終り頃に彼女が見せた姿を思い出して、それを重ねて見ていた。
すると麻子には乃里子という女の突っぱりが気の毒に思えた。他の面では強い女かもしれないけれど、本当に好きな男に対しては、乃里子は臆病《おくびよう》な女なのだと思った。
しばらく雑談をして、乃里子と一緒に眠っているわかの顔を見てから、麻子は病院を出た。
乃里子のことで話があると、江崎修平が麻子から呼び出しを受け、二人は『あかね』で会った。
「こうして江崎コーチに逢うの、実に十五年ぶりじゃない?」と麻子が緊張ぎみの修平にまず言った。「お互いにふけたわけね」
「そんなことないよ。君は前よりずっと若いくらいだ。仕事をしているせいかな」まんざらお世辞でもない様子で修平が言った。
「乃里子もね」と、麻子がやんわりと本題に入った。「昨夜、乃里子に逢ったわ」
修平は黙ってたて続けに二杯酒をあおった。
「彼女、相当まいっていた」
麻子は男の様子を横目で見て、「あなたもまいってるみたいだけど」と言い足した。
「だけど、そうやって、お酒のんで、まいりっぱなしで事がすむと思う?」
「どういう意味だい?」ママに早々とおかわりを頼みながら修平が訊ね返した。
「前も同じ。ずうっと前のことだけど、その時も乃里子があなたにいきなり背中を向けて、それっきり。あなた、追いかけもしなかった」
「ずいぶん追いまわしたつもりだったがね」苦々しい口調。
「死にもの狂いとはいえなかったわ」
「何の理由も言わず、説明もなしに、いきなり去ったんだ、あの時の乃里子は。僕がわけを聞こうと逢いに行くと、さも汚いものを見るような眼で僕を見たぜ。蛇蝎《だかつ》のごとくに嫌われた、と、若い男だった僕としてはそんなふうに感じて傷ついた」
「その理由は後で話すわ。で、今度も同じなの? 去る者は追わずってわけ?」
「今じゃどっちも家庭があり、分別のある年齢なんだ」
「話し合ったの?」
「それがまだなんだ。姑さんが突然倒れたりして、それどころじゃないらしい。しばらくそっとしておいて欲しいと言うから、僕も冷静にふるまっているわけだけどね」
「冷静にね」麻子の口調は皮肉だった。
「ところでね、さっきのことだけど。乃里子が急に掌を返したようにあなたの前から消えていなくなった理由」麻子は冷酷な光を眼に宿した。修平が緊張して聞く姿勢をとる。
「あなたの現在の奥さんが――加世が、妊娠をしていると、乃里子に告白したからよ」
「嘘《うそ》だ」低いがきっぱりとした声で修平がそれを否定した。「加世が妊娠したなんて、そんなことを言うわけがないよ。なぜなら、そういう事実は、その頃にはなかったんだから」
「でしょう? ということは、あなたの奥さんが、乃里子に嘘の告白をした、ということになるわね。もっとも、当時十八歳の乃里子にしてみれば、まさかそういうことで親友の加世が嘘などつくとは夢にも考えられず、ただただ傷ついて自分が身を引いた、とこういうわけなのよ」
修平の握りしめている手が白くなった。
「なるほど。それで納得ができる。それでなぜ乃里子が蛇蝎のごとく僕を避けたのかが、理解できる」押し殺したような声。
「私が昔のそんな話をね、こうして持ち出した理由をきいて欲しいのよ。済んだことは済んでしまったことだから、そのことじゃなくて、今度のことなの。前と同じ過ちを犯して欲しくないのよ、あなたたちに。あの時の過ちというのは、話し合わなかったことよ。乃里子が一言、なぜ自分が去るか、という理由をあなたに告げていたら、加世の嘘はバレていたのよ。そうすれば、あなたと乃里子は別れずにすんでいたかもしれないじゃないの。今度のことでもそうよ。きっと彼女にも話さなければいけないことがあると思うのよ。それを聞いてやって欲しいの。そのうえで、あなたたちが別れるなりなんなりしてもらいたい。それだけよ、私が言いたいのは」
麻子は唐突に言葉を切って立ち上がった。それから乃里子がつめている病院の名と部屋の番号とを告げて立ち去った。
乃里子は、わかの病室に突然現われた江崎修平を見て、自分でも驚くほど冷静に応対した。まず、何日ぶりかに修平の顔を見て、その顔を愛しいと思うと同時に、ひどく場違いな感じを抱いた。
修平の顔は、わかの小さな病室の中で、あまりにも健康で――恋やつれをしてはいても――これから死んでいく病人とはあまりにも無縁の顔だった。つい数日前、この顔を自分の胸にかき抱いたことが信じられない気持だった。
けれども病室を脱け出して、廊下を並んで歩いているときには、何もかもこのまま投げだして、この男の胸に顔を埋め、思いきり泣きたいという欲望に、ほとんど息のつまるような思いもあったのも事実だった。
変な言い方だが修平が何よりも必要であると同時に、うとましかった。
「今はそれどころじゃないだろうから、君の考えは聞かない。僕の方の考えだけを伝えておくよ」と彼は言った。「麻子から、十五年前の加世の嘘の告白について、今晩聞いた――ショックだった」
乃里子は顔をしかめた。麻子のした告げ口が許せない気がした。自分がしたかのように、乃里子は友人の告げ口を恥じた。
「僕が言いたいのはね、十五年前の分も含めて、今度のことで、どんな責任でもとるつもりだ、ということ。これだけだよ」
その言葉を、わかが倒れる前に聞けたら、どんなに良かっただろうと乃里子は思った。けれども乃里子の胸には、すでにある決意が芽生えかけていた。
「どんな責任?」彼女は疑わしげというよりは、むしろ悲しげに訊いた。「あなたに、現実にどんな責任がとれるのか、私にはわからないわ」
「僕には妻と別れることも出来る。そして君が望むなら、君がご主人と別れるのを待って、一緒になることもできる」
「そんなに簡単に?」ますます口調が悲しみを帯びる。
「僕は妻の嘘が許せない」
「だけど、加世は、奥さんとなってからは、真実あなたに尽くしてきた人でしょう? 麻子が何も言わなければ、あなたは奥さんとしての加世に不満はなかったでしょう」
「君が加世の肩をもつとは信じられないな」修平が不満のように言った。
「私ね、ずっと考えていたのよ。もし、本当にあなたが私にとってかけがえのない人だったら、決して加世には譲らなかったろうって。
自分にとってこの人以外にいない、という人だったら、たとえ、加世のようにありもしないことを言ってでも、たとえ親友からだろうとも、そのひとを奪うんじゃないかって。髪ふり乱し、追いすがり、絶対に放しはしないだろうって。
私は現実に、あなたを手放したわ。それもいとも簡単にくるりと背中を向けたわ。苦しかったけど、要するに手放すことが出来たってことよ。
加世は違う。たとえ親友に嘘をつき、裏切っても、親友からその恋人を奪い取ったわ。なぜかっていうと加世にとってのあなたは、必要な人だったから。そんなふうにしてまで自分のものにするのに値する人だったからよ。加世があなたを得て、当然なのだわ。あの人には、あの人にこそ、その権利があるんだと、ようやく私、このごろ考えるようになったの」
修平の顔に苛立《いらだ》ちの色が浮かんでいた。乃里子は、その横顔を今でも美しいと思い、胸に抱き寄せたいと思った。そして続けた。
「今度のことでも、私、同じだと思う。あなたは加世と離婚してもいい、と言ってくれた。で、私が返事をしなければならない番なの。私は決心をしなければならないの。そして、自分の胸に訊くわ、私は江崎修平を加世とその子供たちから奪いたいのかって――」
事実、そう言いながら乃里子は自分の胸に訊いていた。イエス。ノー。イエス、イエス。ノー。ノー。
イエスとノーが交互に叫びたてていた。やがてイエスの声が次第に遠ざかり、ノーが長く語尾を引いて残った。
「いいえ。奪いたくないわ。もっとはっきり言って、そうやって仮りにあなたを加世から奪い戻しても、事実、あなたをどうしていいかわからない。どう扱っていいかわからない。あなたはある意味で、とても遠い人だわ。見知らぬ、未知の人だわ」
と同時にその未知の江崎修平という男が欲しくもあった。乃里子の心が激しく揺れた。
「君は今、いろいろなことが一ぺんに起こって興奮しているんだ」修平の手が肩に置かれた。
「別の機会に、もっとゆっくりと話し合おう」
乃里子は何度もうなずいた。別の機会に自分の考えが変っているとも思えなかった。
「ただこのことは覚えておいて欲しい。たとえ、僕たちの関係が箱根に旅した以前の元に戻るようなことがあっても、僕たちは少なくとも友だちだよ。いいね。そのことだけは覚えておいて欲しい」
これまでのたくさんの言葉のなかで、今ほど友だちという言葉が心に触れたことはなかった。乃里子は、ようやく微笑した。
修平を病院の玄関まで送って行き、別れぎわに乃里子が言った。
「こんなこと、私とは関係がないことだけど、麻子が言ったことね、加世さんに言わないでもらいたいんだけど――。もしあなたが加世さんと今すぐ別れるというのなら別だけど、そうでないとしたら、何も知らないことにしておいて欲しいわ」
修平が、ちらりと乃里子を見た。
「それは、友だちとしての忠告かい」
「そう。友だちとしての忠告第一号」乃里子の表情が柔らかく崩れた。
翌朝、乃里子は治夫に、自分の方にも離婚の決意がついたことを伝えた。治夫は妻の顔色を読みとろうとした。乃里子のその朝の顔は、石鹸《せつけん》でていねいに洗ったばかりのときの、女のさっぱりとした表情だった。
「わかった」と治夫はうなずいた。「近く弁護士をたてて、法的な手続きをしよう」
「私はね、亜矢と一緒に住んで仕事さえ続けられればそれでいいわ」
すると治夫はニヤリと笑った。
「ところがね、俺も亜矢と一緒に住んで仕事が続けられればそれでいいんだよ」
「じゃ当分、このままということになりそうね」と乃里子は苦笑した。「ただし、書類だけは早く正式に作りましょう」
「やけにうれしそうだな」と治夫は皮肉ではなく言った。
「うれしいわけがないでしょう。でも区切りがついたっていう感じね」
それから、ふと、このことを今夜にでもわかに話そうと乃里子は思った。わかが、「そう、よかった」と言う声が耳に聞こえるようだった。
江崎修平の机の電話が鳴った。マレーシアの取引き先からの電話だった。以前彼が企画した商取引きのめどがついたから、江崎自身マレーシアにおもむいて欲しいという要請だった。
江崎はその返事は自分が出来る立場ではないから、と電話を荒木部長にまわした。
数分後に、部長室に呼び出され、荒木が言った。
「君にという名ざしだ。君に是非にと言われちゃ、会社としても拒否は出来まい。はっきり言ってしまえば、この商談は君でなければ進めるつもりはないと、先方さんは言うんだ。ハハハハ。君もずいぶん見こまれたもんだな」
荒木は白い歯を見せて笑った。実に四か月ぶりに見る部長の白い歯だった。この白い歯は、つい昨日までは意地悪くキラリと光ったものだった、と修平は思った。
彼は部長室を出ながら、このニュース――ついにあっけなくも閑職を解かれたことを、真っ先に誰に話そうか、と考えた。同僚や後輩全部に話してやりたかったが、真っ先に伝えたかったのは、なぜか加世であった。
妻とは、このところずっと言葉を交わしていなかった。加世は以前より穏やかな声で子供たちに喋り、以前のようにテレビの前ではなく、本を開《ひろ》げて過ごすことが多かった。昼間のうち何をしているのか知らないが、原稿用紙の束を見つけたこともあった。
修平にわかることは、加世もまた、ひどく苦しんでいるらしいことだけである。
自宅のダイヤルを回した。加世がそれを取った。「ボクだ」と修平は短く言った。「来週早々あたり、マレーシアに飛ぶ」それだけだった。
「じゃ、また始まるんですね」と、妻は静かに問いかけた。
「うん、また、始まるよ」修平はそれだけ言って、受話器を置こうとして、妻が先に置くのを待った。しかし加世の方でも夫を待っていた。修平は微笑して、先に電話を置いた。
あとがき
連続テレビドラマなるものを、初めて書いた。十七本である。
この本が発売になる頃には、ちょうど十七本目が台本になっているはずだが、ホテルオークラにカンヅメになって、この小説の出だしのところを考えていた段階では、脚本はようやく三話に入ったところであった。
脚本も出来ていないのに――どういうストーリーの展開になるやもわからないということだ――どうして本が書けるか、暗澹とした気持になったことを覚えている。カンヅメの第一日目のことであった。
小説というものは、元来何もないところから、ストーリーを起こしていくものだから、それならそれでいい。
けれども、ある程度テレビドラマの方が先行していて、しかも何十人もの俳優やそれを何倍も上まわるスタッフがいて、一週間に一本のわりあいで私が書き上げる脚本を、それこそ横からかすめるようにして台本印刷して、色々な人が私の科白を喋っているという、非常に混沌きわまりのない状況の中で、自分をしんとした状態にもっていくこと――小説を書くということはそういうことだ――は、至難の技であった。かつてこれほど混乱しながら、小説を書いたこともなければ今後もないだろう。
というのは、登場してくる人物が全てドラマ出演の俳優たちと必然的に重なってくる。どうしたって、彼らの個性にひきずられる。脚本なら、ある程度それでもいい。その方がいい場合もある。
小説ではそうはいかない。俳優たちの個性を出来るだけ排除して、私自身の個性、私の言葉、私の生き方、あるいは私がよしとする人物に置き変えていかなければならない。そうするための闘いの連続であったような気がする――カンヅメの十日間は。それがどんなに骨の折れる作業であったか。何もないゼロからの出発の方がよほど楽だと思うのはそのためである。
しかし、物を書くというのは奇妙な作業で、普段なら一日に二時間以上集中して書くことなどとうてい出来ない私が、六時間から八時間書き続けられた。このエネルギーはどこからくるのだろう。そして、私の頭というよりは、手が――手というよりは別の手――私の手でありながら私の手ではない不思議な手の力によって、小説がみるみるうちに組み立てられていったということ。この私の手であって私の手でない不思議な手の力というのは何なのであろうか。時に、感動する。怖くなる。
一九八四年五月十五日
著 者
角川文庫『女ざかり』昭和61年1月10日初版発行
平成10年7月20日45版発行