森 瑤子
ドラマティック・ノート
目 次
第1話 ディオリッシモ Diorissimo
第2話 シャネル No 5 CHANEL No 5
第3話 オピウム OPIUM
第4話 オーソバージュ Eau Sauvage
第5話 ミ ル "1000"
第6話 |石 の 花《フルール・ド・ロカイユ》 FLEURS DE ROCAILLE
第7話 アンフィニ infini
第8話 ホワイト リネン WHITE LINEN
第9話 ニ キ Niki
第10話 フィジー Fidji
第11話 ココ・シャネル COCO CHANEL
第12話 ビザーンス BYZANCE
第1話 ディオリッシモ
ディオリッシモ〈Diorissimo〉
すずらん、ジャスミン、ローズウッド――ロマンチックなブーケの香りのする、クリスチャン・ディオールのフローラル系香水。雨あがりの花園の、さわやかさをイメージ。
冬の夜ってきれいなんだ、と詠子は歩道に落ちるネオンや店のディスプレイやビルの明りをヒールの爪先《つまさき》で踏んでいきながら、つくづくと思った。
冬の夜の空気は冷たく澄みきって、肺の中が痛くなるほどだった。これまで冬といえばスキーしかなかった。雪山とスキー。それが彼女にとっての冬の象徴だった。
そのスキーには、今年はもう行けないのだ、と詠子は呟《つぶや》いた。行けなくても少しも悲しくなかった。スキーにかわるものがみつかったからだ。もっとドキドキするものが。
詠子はこの三月をもって大学を卒業する。十一月に就職先が内定しており、その時から週に三日か四日、大学の授業のない日にかぎり、仕事先に顔を出すようになったのだ。四月一日づけで正式の社員になるのだが、それまでは見習いのようなものである。
詠子が就職したのは、インテリアル・デザインの事務所で、スタッフが十四、五人いる。チーフは現在中堅どころではかなり名の知れたデザイナーで、詠子はひそかにして熱烈な彼のファンであった。彼個人もそうだが、その仕事――特に椅子《いす》のデザインの斬新《ざんしん》さには、日本では肩を並べる者はいないという定評である。
美術学校で詠子が専攻したのは、グラフィックのほうだったが、志沢インテリアル・デザイン・オフィスの試験を受けて、運良く採用されたのだった。
試験といっても、これまでの彼女の作品を数点見せ、あとはほとんど面接だけ。
面接したのは、志沢哲也その人一人だけで、試験場にあてられた小部屋には、他のスタッフはいなかった。
「きみは、僕のところで何がやりたいの?」
と、彼は詠子のデザイン画をひととおり眺めた後で、寛《くつろ》いだ声で訊《き》いた。ヘンリーネックのゆったりとしたシャツに、三宅一生のいかにもはき心地の良さそうなズボン。服装はリラックスしているが、それを身につけた本人にはある種の厳しい緊張感が漂う。
「私、椅子が好きなんです。子供の頃からどうしてか椅子にばかり興味がありました」
「変った女の子だったんだね。それで?」
と志沢は微笑した。
「ええ、だから、いつか志沢先生のように、オリジナリティーのある椅子を私も――」
「先生はいいよ。志沢さんでいい」
イギリス製らしいパッケージの煙草《たばこ》を取り出しながら志沢哲也が言った。
「それにオリジナリティーというのは、そんなに重要な要素ではない。どこにでもありそうで、しかしどこにもない坐《すわ》り心地の良い椅子、というのが、僕の理想なんだ。まだまだだけどね」
最後の一言に謙虚さと、はにかみのような表情が浮かんだ。四十を幾つも越した男が、そんなふうにはにかんでみせることが、詠子には新鮮な驚きだった。
「さしあたっては、きみはきみの椅子の夢を胸の中で温めておいて欲しい。僕のところで必要なのは、インテリア関係全般のアシスタント。つまり見習い。あっちに使い走り、こっちに使い走りなんてことが多い。それで良ければ、さっそく来週からでも、授業のない日に顔を出してください」
「え? 私、採用ですか?」
詠子は呆気《あつけ》にとられて眼を丸くした。
「そうだよ。どうして? 不満なの?」
詠子のデザイン画をまとめて返してくれながら、志沢が笑った。
「だって、あんまり簡単なんですもの。かえって心配になります」
「何が?」
「あとで採用取り消しだなんて」
「それはお互いさまじゃないかな。僕のほうがきみに気に入られないということだって起るかもしれない。それはやってみなければわからないさ。そのための見習い期間というふうに取ってもらいたい。きみのためでもあり、僕の、というよりうちの事務所のためでもありさ」
それで詠子は納得《なつとく》して、デザイン画を小脇《こわき》にかかえて、一礼した。あまりにも簡単なので、まだ半信半疑だった。
面接室を辞するために、ドアのノブを引いた時、志沢の声が背中にした。
「きみのその香水、何ていう名?」
詠子はドアのところで振り向いた。
「ディオリッシモです。クリスチャン・ディオールの」
「そう」
と志沢は温かい表情をした。
「いい匂《にお》いだ。きみにとても似合っている」
そのとたんに、詠子は、躰中《からだじゆう》の血が顔に向かって一気に昇っていくような眼眩《めまい》を感じた。人に誉められたことは度々ある。しかし人に何かを誉められて、躰がぐらりと揺れるほど嬉《うれ》しかったのは、初めてだ。
「父にもらったんです。若い娘はこれ以外つけちゃいけない、って言うんです」
思わずそう言ってしまってから、詠子はたちまち後悔した。まだ親離れしていないと思われるのではないか。一生懸命背伸びしていたのに、土壇場でボロが出てしまった。
「わかるよ、お父さんの気持。ういういしい処女の香りだもの」
志沢はそう言って、じゃ来週からと片手を上げた。
あの日から一か月が過ぎた。あっという間に過ぎた。毎日が楽しくて仕方がなかった。次々と新しいことが起こり、新しい発見があった。
仕事はしかし、楽ではなかった。誰《だれ》も詠子を女の子だからといって、あるいは見習いだからといって甘やかしたりはしなかった。
志沢は初めての日、彼女の足元を見て、「そんな靴はいてたら、三日で足が脹《は》れ上がるよ」と一言注意しただけだった。詠子は次の日から、リーボックスを持参してオフィスではき替えることにした。
六本木の交差点を霞町《かすみちよう》のほうへ向かいながら、詠子は歩調を速めた。潤との約束に大幅に遅れていた。
このところずっとそうで、約束をやむを得ずスッポかすこともままあった。そのために潤と逢《あ》うと喧嘩《けんか》ばかりしている。その夜も詠子は彼の渋面を想像すると憂鬱《ゆううつ》なのだった。
「仕事がなければ帰っていいんだよ」
と志沢は言ってくれるのだが、オフィスにいるのが楽しくて仕方がないのだった。使い走りよりも、オフィスにいて、志沢を中心にスタッフが仕上げていく仕事を眺めていることのほうが、よっぽど勉強になるからだった。それに男の人が、真剣に仕事に打ち込んでいる姿を見るのは、初めての経験だった。男たちの横顔はひきしまり、とてもいい顔をしていた。
志沢哲也は、ことさら素敵なのだった。彼は肩のあたりに緊張感を滲《にじ》ませ、眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んでいる。くわえ煙草の先からたえず煙が上がっていた。
話しかけられることを拒絶するような厳しさがあった。詠子はオフィスの片隅から小さくなって、息を殺すようにして、スタッフの仕事ぶりを観察していた。とりわけ志沢を眺めていた。
みんなは仕事に没頭していて、詠子の存在などに気を払うこともなく、彼女は忘れられたような、妙に淋《さび》しい気持さえ抱いていた。まるで部屋の隅に置き忘れられた置物みたいだ、と彼女は自分のことを感じた。
役に立ちたい。何時《いつ》か私もあんなふうに志沢哲也の近くで、デザインをしたい。彼の役に立ちたい。彼に認められ、優しい言葉をかけられたり怒鳴られたりしたい。
一緒に仕事をしている現場のスタッフに対する羨望《せんぼう》で、自分の眼がとがってくるような気がした。
気がつくと、スタッフは一人帰り二人帰りと消えて、オフィスには志沢一人が残っていた。
詠子は退社するタイミングを失ってしまったために、できるだけ物音をたてないように、部屋のいちばん隅からそっと立ち上がった。
できることなら、志沢哲也に自分がまだいたことをさとられたくなかった。彼女は熱心に広げていたアメリカのインテリア誌を閉じた。
「まだ帰らないの、きみは」
と、背中を見せたまま、志沢の声がした。詠子はドキッとして動作を凍らせた。
「気づいていらっしゃらないと思ってましたけど。お邪魔するつもりはなかったんです。すみません」
「どうして謝るのさ? 邪魔じゃないよ、少しも」
くるりと椅子《いす》を回すと、志沢はまっすぐに詠子を見た。思わずたじろぐような視線だった。
「香水の匂《にお》いがしていたからね。きみがいるのがわかっていたよ。ディオリッシモだったよね、確か」
詠子はわずかに頬《ほお》を染めた。それを見て志沢は微笑を広げた。
「きみは気づいていないかもしれないけど、その香りのおかげで僕たち男どもは大いに士気を上げているんだ」
それから彼は腕時計を見て、
「腹が空《す》いたな。何か食べて帰ろうか」
と、さりげなく詠子を誘った。格別に魂胆があるわけでもない自然な誘い方だった。
もしかして、魂胆のようなものがわずかでもその声に滲《にじ》んでいたら、詠子はその誘いに応じたかもしれないが、あまりのさりげなさにむしろ傷ついたような気がして首を振った。
「先約があるんです」
他の男のスタッフにもきっと同じような調子で声をかけるのだろうと思った。つまり一種のつきあい的なものだ。帰るきっかけを作るための儀式のようなものだ。
相手がつきあいで言うのなら、こちらも儀礼的に断るのが常識だ。志沢は今夜、何がなんでも詠子と夕食を共にしたいわけではないだろう。それが声の感じでわかるのだ。
「残念。振られた」
と志沢はあっさり言って、頭の後ろに片手をやった。いい人なんだ、と詠子は思った。そんなにもいい人でないほうがむしろいいのに……。
「ちっとも残念だなんて思ってもいらっしゃらないくせに」
と、だからつい詠子はチクリと言ってしまったのだ。
「ほんとうさ。ひとりで夕食を食うのは惨《みじ》めだもの」
「無理なさらなくてもいいんです」
「無理って?」
「だから、さっさとお宅へお帰りになって、奥さまの手料理を召し上がれば?」
「その手料理ってのに縁がなくてね」
「あら、奥さまはお料理なさらないんですか?」
「そもそも、その奥さまってのが問題でね。僕は追んだされて、したがって帰っていくお宅もない身だ。わびしい仮のアパート住まいさ」
「嘘《うそ》ばっかり」
びっくりして詠子は絶句した。
「だといいんだがね」
あっさりとそう言って、志沢は椅子《いす》の背の革のジャケットから煙草を取り出した。アメリカ空軍のパイロットが着ていたという戦闘用の本物だ。
「じゃ今夜はあきらめるよ、そのうちまた」
自分のほうから断ったくせに、詠子はなんだか閉めだされたような気がした。お先に失礼します、と志沢の背中に声をかけた。
その背中には、心なしか男の寂しさが漂っていた。前言をひるがえして、デイトはキャンセルすると言いたい衝動にかられたが、詠子はもちろん自制した。そんなことをしても志沢が少しも喜ばないとわかるからだった。
その瞬間から、詠子の胸に突きささってくる何かがあった。それが何であるかわからなかったが、確かに棘《とげ》のように彼女に刺さったものがあった。もしかしたら、恋の棘。
まさか、と彼女はそれを強く打ち消して、オフィスから外へ出た。四十を過ぎた男に恋をするなんてありえないと思おうとした。第一、潤がいるのに。逢《あ》えば喧嘩《けんか》ばかりしているけど、潤とはもう三年になる。卒業を待って、五月には結婚する予定だ。結婚後も仕事を続けるという話し合いは、とっくにできていた。
潤はもともと、自分の妻となった女が一日家にいて、夫の帰りを待つだけなんていうのは、性に合わないと言っている。女も経済的に自立するべきだというのが彼の考えで、結婚も自立した二人が同居するのが理想と考えている若者だった。
志沢哲也は、ディオリッシモのことをういういしい処女の香りだなんて言ったけど、処女なんて十九歳の時に捨ててしまった。相手は潤ではないが。
ディオリッシモを使っているのは、もちろんその匂《にお》いが好きなこともあるが、父親へのデモンストレーションなのだ。あの香水を使っているかぎり、詠子の父は娘の純潔を信じて疑わない。ばかみたいだけど、父親って娘のことになると、ほんとうに何も見えないみたい。
かといって詠子は自分が他の同年の女の子に比べて、特別|奔放《ほんぽう》だとは思わない。二十二歳のごく普通の女の子と同じ程度に、健康な欲望があるだけだ。不純だとも思わないし、後ろめたいわけでもない。潤を愛していると思うし、今ではセックスはスポーツみたいなものだ。
霞町の交差点を左に曲って少し行くと、詠子は階段を下りて地下にあるイタリアンレストランに入った。
時刻は八時を回っており、もしかしたら潤は帰ってしまったかもしれないと思った。約束は七時だ。
しかし潤はいて、詠子を待っていた。あきらかに不機嫌なのがひと目でわかる。彼は店を入ってすぐのところにあるカウンターの隅のほうで、暗い眼をして煙草を喫《す》っていた。灰皿の中の喫い殻の数が、彼の苛立《いらだ》ちを証明していた。
「ごめんなさい」
と言いながら詠子は潤の横にぴったりと坐《すわ》った。「怒ってるんでしょ? 今夜の夕食私がご馳走《ちそう》するから、ね? 機嫌直して」
けれども潤は視線をグラスの上に落したまま、しばらく何も言わない。
「しょうがないでしょ。仕事なんだから」
「おまえ、ふた言めには仕事、仕事だ。仕事って言えば、格好いいとでも思ってんのか?」
「事実を言っただけよ。遊びほうけて約束に遅れたわけじゃないもの。仕事は仕事よ」
「だけど何か勘違いしてるんじゃないの? おまえ」
と潤は低い声で言った。
「七時に約束したら、七時に来いよ。八時になるなら最初から八時ってことにしろよ。仕事のせいで約束を毎回一時間も、それ以上も遅れるなんてさ、そういうのは格好悪いぜ。現代人ていうのは、仕事を時間内に片づける能力がなくちゃだめなんだ。おまえ見てると、いかに無能かってことを証明して歩いているようなもんじゃないか。今からそんなだと、先が思いやられるよ」
潤の言うことには一面の真理があった。詠子がオフィスでグズグズしていたのには、一種不純な動機がないとも言えなかった。志沢哲也のそばに、少しでも長くいたいという思い。
しかしそれを認めるのが嫌だったので、詠子は潤の言葉を素直に聞かなかった。
「先が思いやられるって、どういう意味よ?」
「だからさ、この調子で結婚したら、眼もあてられないってことだよ」
「つまり、結婚に問題があるわけ?」
「ばかやろ。おまえに問題があるんだよ。おまえの仕事に対するけじめのなさが、今問題なんだ」
「だけど、仕事やめないわよ、私」
「俺《おれ》もやめろとは言ってないよ」
「でも、これからもずっと仕事で帰りが遅くなるたびに、あなたに怒鳴りつけられるの嫌だわ」
「誰も怒鳴りつけたりしないだろう」
「ガミガミ咬《か》みつくじゃないの」
「おまえのために言ってるんだよ。自分で自分の首を絞めているようなもんだから、忠告してやってるんだ」
「あなたが私の首を絞めてるんじゃないの」
「俺はね、何ごとにもルールがあるって言ってるんだ。仕事も結構。しかし結婚をするんならするで、そっちのほうのルールも尊重してもらいたいってことだよ」
「ということは、仕事は適当に手ぬきでやれっていうことなの?」
「手ぬきでやれとは言わない。一日に与えられた時間の中で、最大限のことをすればいい」
「ちょっと待ってよ。あなたはサラリーマンになるから、ナイン・ツー・ファイブでいいけど、私はデザイン事務所に勤めるのよ」
「それがどうした? 何か特別ごたいそうなところなのかい」
「ナイン・ツー・ファイブの世界と一緒にしてもらいたくないわね」
「誰が一緒にした?」
「あなたの話聞いてると、どうも仕事をするなっていうふうに聞こえるのよね。私、結婚か仕事かっていう選択に、もしかして迫られているの?」
自分でもフェアーじゃないと感じるが、詠子は我を押し通した。強気の背後に彼女はいつも志沢哲也の存在を感じないわけにはいかなかった。潤は何かというと突っかかってくるけど、志沢はずっと大人で、女の扱い方を心得ている。
「こんなことなら、今夜来るんじゃなかったわ。志沢さんと食事したほうがずっと良かったわ」
「志沢? 誰だ、そいつは?」
「うちのボスよ。今夜食事に誘われたのよ」
「行けばよかったじゃないか。なぜそうしなかった?」
潤もさすがに理不尽な怒りにかられていた。
「なぜそうしなかったのか、と私も今頃後悔してるのよ」
「おまえ、その男に惚《ほ》れてるのか?」
「私が?」
と詠子は訊《き》き直した。
「私が志沢哲也に惚れてるかって?」
「惚れてるんだな、態度でわかる。それでなくとも、最近のおまえの様子でピンときた。そいつと寝たのか?」
「すぐそれだ。若い男って短絡的に結論にもってくから嫌になるわ」
「志沢って中年男は、違うのかい」
「全然違うわよ。こせこせしてないし、あなたみたいに人の顔みると責めたりしないわ」
「それはおまえを愛してないからさ」
愛という言葉を、重い鎖かなにかのように潤は口から取りこぼした。
「とにかく私、志沢インテリアル・デザイン・オフィスをやめる気はないわよ。もしも結婚か仕事かという選択をあなたが迫っているのなら、今、はっきり言っとくわ。私、志沢さんのオフィスで働くわ」
沈黙が流れた。
「わかった」
と潤が言った。
「わかったよ。別れよう」
「別れる?」
と詠子が驚いて訊き返した。
「別れたいの?」
「わからない。しかし、俺は志沢哲也とは違う。彼と対等に張り合えるとも思えない。おまえが奴《やつ》に男の魅力を感じているのなら、髪ふり乱してもみっともないだけだ。俺に勝ち目なんて何もないしな」
そんなに呆気《あつけ》なく別れ話になるなんて夢にも考えなかった。詠子は言った。
「別れるなんて言ってないわ。結婚について考えちゃうって言っただけよ」
「俺にとっては、その二つは同じことさ」
二人は急に黙りこんだ。傷ついた二匹の動物のように惨《みじ》めだった。
「こうしようか」
とやがて潤が言った。
「少しだけ逢《あ》わないでおこう。そしてお互いによく考えよう。俺も反省してみるよ。おまえだけを責めたが、歩み寄りの道がないかどうか、俺も考えてみる。だからおまえも、前向きに考えてみてくれないか」
「前向きの別れというわけ?」
「別れじゃないよ。少しの間だけ逢わないで自分をみつめてみようって言ってるんだよ」
「少しの間って?」
「二週間か一月か」
「…………」
「すぐにたつよ、時間なんて」
「次に何時《いつ》逢うの?」
「俺のほうから電話する」
「私から電話しちゃいけないの?」
「いいけどさ、俺の気持が定まるまでおまえからの電話には出ないよ」
「じゃ、しない」
「俺のほうから電話するよ」
「あたしも出ないかもしれないわよ」
「そしたらまた少しして掛けなおすかもしれないし、そうしないかもしれない」
「わかったわ。好きなようにして」
と詠子は不意に立ち上がった。
腹立ちまぎれにどこをどう歩いているのかさえ意識しなかった。時間に遅れたのは悪かったが、こんなことの成り行きになるとは思ってもみなかった。このまま潤と別れることになるのかと考えると、冷静でなくなった。何にもわかっていないのだから、と視界が涙で曇ってくる。
ふと我に返ると、詠子は志沢哲也のデザイン・オフィスのドアの前にいた。室内からは明りがもれている。ということは志沢哲也はまだ仕事をしているのだ。
そっとドアを押した。イギリス煙草の匂《にお》いがした。詠子はしばらくそうしてドアのところでたたずんでいた。
すぐにはどうして良いかわからなかった。
「きみかい?」
と言いざま、志沢がふりむいた。
「匂いでわかったよ」
お入りというように、彼は顎《あご》を引いた。
「どうした?」
詠子は言葉を探した。
「あの、さっきの夕食のお誘い、まだ有効ですか?」
「なんだ、そのこと」
と志沢は笑った。
「もちろんさ」
そう言って彼はチラと探るように詠子を見たが、すぐには何も訊《き》かなかった。
「実は、僕も腹の皮と背中の皮が、くっつきそうなんだ」
志沢は机の上をしばらく整理してから、たいして急ぎもせず席を立った。
「あの、私……」
と詠子は言いよどんだ。
「いいよ、別に。無理に言い訳しなくても」
一瞬鋭く顔色を読んで、志沢が言った。
「要するに、美味《うま》い飯を食べようよ。それでいいさ」
と、ポンと詠子の肩を叩《たた》いた。
彼が案内したのは、小さな日本料理屋だった。歩いて二、三分のところにあって、構えは地味だが高そうな店である。
志沢はすぐに日本酒を熱燗《あつかん》で注文した。
「あとは適当にまかせるよ。このお嬢さんも僕も腹ペコなんだ」
とカウンターの中の板前にそう伝えた。
「お嬢さんだなんて、子供扱いしないでください」
と詠子は軽く志沢を睨《にら》んだ。
「だって僕から見れば娘みたいな年だよ」
「二十二です。それに志沢さんが考えてるような娘じゃありません。二十二の女が普通しているようなことを私もしています。男も知ってます」
と一気に言った。
「おやおや。いきなりどうしたんだい」
志沢は苦笑した。
「僕が何か怒らせるようなことを言った?」
「いいえ。ただ誤解を解いてあげたんです」
「誤解ね」
と志沢が呟《つぶや》いた。
「僕は誤解などしていたかな?」
「してました。私のことういういしい処女だって言いました」
「おっと、それは違う。きみじゃなくて、香水のことだよ。ういういしい処女みたいな香りだ、と言ったんだよ」
「でも私に似合っていると言いました」
「それは事実だよ。きみは処女じゃないかもしれない。僕もそうとは思わなかった。だけどきみはまだやっぱり小娘だよ。まだ何にもわかっていない小娘には変りないさ。ディオリッシモはきみにぴったりだよ」
「そういう意味だったんですか?」
「そう。突っぱっていて、背伸びしていて、小なまいきなお嬢さん。でもなかなか闘志があって、やる気はあるんだ。僕はその点を買ったんだよ」
志沢は穏やかにそう言って、詠子の杯に酒を満たした。
「私がお注《つ》ぎします」
と言うと、
「いいんだよ。そんなことはしなくても。きみには似合わない」
と志沢は笑った。
「それより、どうした? 何かあったの?」
と言葉を改めた。
「私、ボーイフレンドと喧嘩《けんか》して別れてきちゃったんだけど。もういいんです」
「え? たった一時間でケンカして別れてしまった?」
「もういいんです、あんなひと」
「うーん。そういうものかね」
「それより志沢さん。私、お願いがあるんですけど」
「どんなこと?」
杯ごしに詠子を見て志沢が訊《き》き返した。
「なんだか胸がチリチリしているんです。自分をどうしていいかわからない。私と今夜、朝までつきあってください」
志沢はゆっくりと杯を置き、それに再び手酌で酒を注《つ》いだ。
「弱ったね。この店は十一時で閉まるよ」
「いじわる。わかっていらっしゃるくせに」
志沢は黙って杯の中の酒を飲みほした。
「わかった。野暮な質問はしないでおこう。若いきみがそういう言葉を口にするには、さぞかし勇気がいることだろう、ということだけは、わかるよ。
さて、単刀直入なきみの申し出に対して、僕も率直に、答えなければならないね」
「……断らないで。恥をかかせないでください」
蚊の鳴くような声で詠子は呟《つぶや》いた。
「そんなことは恥でもなんでもないよ」
と静かに志沢は言った。
「じゃ率直に言うけど、僕はね、個人的な好みから言うと、ディオリッシモのお嬢さんを抱きたいとは思わないんだ」
詠子の杯に酒を注ぎ足してやりながら、彼は優しく続けた。
「いつかきみが本当の大人の女性に成長して、男性用のオーデコロンか何かをさりげなくつけるようになったら、僕のほうからきみをぜひともベッドに誘うよ」
「大人の女性……? 大人の女って、どういうひとのことなの?」
「ひと口では言えないよ。でもさ、きみがきっとそうなることは保証するよ。たくさん痛い思いをして、それでもこりずに痛い思いをしてさ。自分の痛みを通して他人の痛みを推し量れる女性とでもいうのかな」
「じゃ私は、まだ当分だめね」
「うん、まだ当分だめだね」
「このままずっとディオリッシモね」
「そう。まだディオリッシモでいい。いや、ディオリッシモがいいんだ」
志沢は慰めるように彼女を見た。
「ボーイフレンドとの喧嘩《けんか》の原因は何だった?」
「志沢さんのことです。私が志沢さんに惚《ほ》れてるって妬《や》くんですもの」
「へぇ。で、きみは僕に惚れてると思う?」
「さぁ」
「よく考えてごらん」
「多分……」
と詠子は呟《つぶや》いた。
「違うと思います。もし本当に愛してたら、今夜寝てくださいなんてこと、怖くて言えなかったと思う」
「僕もそう思うよ」
沈黙が流れた。
「志沢さんて、すごくいい方なんですね」
「悪人じゃないことは確かだよ」
「私、もしかして、自分で自分の首を絞めてるのかしら?」
「どうして」
「だって、見習いでこんな恥をかいて、前代未聞でしょう? 本採用にはならないでしょうね」
「前代未聞なことは確かだよ」
と志沢は愉快そうに言った。
「しかしきみをクビにする気はないよ。その理由もない。ただし条件がひとつあるな」
「条件?」
「そう、条件。ボーイフレンドと仲直りすること」
それを聞くと、詠子の表情が曇った。
「だめだわ。あの人、電話もしないし、電話にも出ないって言ったんです」
「大丈夫だよ。今夜、これからでも彼のところへ走って行くんだ。明日じゃだめだ、今夜。今夜のうちなら彼を取り戻せるよ」
「そんなこと、どうして志沢さんにわかるんですか?」
「その昔ね、実は僕も嫉妬《しつと》しやすい若者だったことがあるからだよ」
二人の前に料理が並んだ。
「じゃ、そうします。でも、これ頂いてからね」
急に元気が出て、詠子は箸《はし》をとり上げた。
「世代の違いをつくづくと感じるね。昔の若い女は、食欲どこじゃなく素っ飛んで行ったものなのに」
志沢は首をふりふりニヤリと笑った。
第2話 シャネル No 5
シャネル No 5〈CHANEL No5〉
エッセンスはジャスミン、5月のバラ、黄水仙。ココ・シャネルが選んだテストボトルの番号が5番だったことからそのまま命名された。M・モンローがセクシーな神話を作った。
その恋は、マロニエの季節に始まった。六月のパリで。パリは汚れていた。いやパリは美しかった。パリは汚れていてそして美しかった。
そこらじゅうに犬の糞《ふん》が落ちていて悪臭ぷんぷんだったが、なんというかパリにいると、それすらも郷愁を誘うのだ。最初は嫌でしようがなかった地下鉄のにおいも、同様に好きになるのだ。全ては恋の仕業だった。
もう二度と、あんな恋をすることはないだろう。あんなに痛くてきらめいていた恋は。彼女は六月のセーヌの風のように、軽《かろ》やかに僕の人生の中に入ってきて、そして、愛の終りに、入って来たのと同じような軽やかさで、行ってしまったのだ。シモンヌを思い出す時、僕はいつもハッカ色のセーヌの風を思う。
彼女を失ってから、僕は長いこと死んでいた。ずいぶん長いこと仕事以外には外に出ず、誰とも逢《あ》わず、最低命をくいつなげる程度のものを無理矢理に食べ、彼女のいない人生に永らえてもしようがないと思うと、悲しみのあまり胃が痙攣《けいれん》して食べたものを吐いた。つまり女々しかった。徹底的に女々しくしていると、それが楽だったからだ。
気がつくと季節が変わり、僕はもう食べても吐かなくなり、人と逢っても石のように黙りこまずに話ができるようになっていた。
すると、それは彼女との恋に対する裏切り行為のように思われて、僕はまた少し病気になったりした。
でもやっぱり少しずつ元気になっていったのだ。どんなに抵抗しても、少なくとも僕の肉体は回復していった。そんな時僕は、再びあちこちにつき始めた筋肉を憎んだ。
夏に季節が変わり、ふと気がつくと僕はまたしても恋に落ちてしまったのだ。今度は東京で。新しい恋に。由布子に。
シモンヌが僕の中から消えた。正確にはシモンヌのことを考えるたびにそこにあった痛みが消えたのだ。そして新しい別の恋のめくるめく痛みが始まる。その前に、僕はシモンヌのことを書いておこうと思う。完全に彼女の記憶が忘れ去られる前に、僕はぜひとも彼女のことを書き記しておかなければならない。もう一度だけ、あの美しくも悲しかったパリでの日々を掘り起こして、あそこで何が起ったのかを冷静に眺めてみたいのだ。つまりそうする勇気が、今や僕にはあるのだ。その勇気を僕に授けてくれたのは由布子だ。
シモンヌは、とても良い匂《にお》いをさせながら僕の前に現れた。忽然《こつぜん》と。つまりこんなふうだった。
まず犬が一匹歩いて来たのだ。とても大きな茶色い犬だった。毛が長くて輝いていた。僕はセーヌ河沿いに立ち並んだ屋台風の古本屋の前で、モジリアニの古い画集を眺めていた。そこへ犬が来たのだ。
最初はその大きさに驚いて、僕は実はそいつが恐かった。それでできるだけさりげなく場所を移動した。
ところが犬は僕が気に入ったらしく、ついて来た。眼を見ると意外に優しい。それで僕は警戒を解いて話しかけたんだ。
「君は女なのかい?」
すると声がした。
「いいえ、男の子よ」
見ると、少年のような躰《からだ》つきの若い娘が立っていた。
その前に大事なことを忘れていた。僕が犬に、君は女かいと訊《たず》ねるために顔をうつむけた時に、あたりにとてもいい匂《にお》いがしたんだっけ。
軽くて、ハッカ色の匂い。甘やかで、はかなげで。一瞬、僕は幸福な気持になったのを覚えている。そして彼女が、いいえ、男の子よ、と微笑しながら答えたのだった。
そのようにして、シモンヌは微笑しながら、とても甘やかではかない香りと共に、僕の人生に入りこんできたのだ。
「でも僕のこと、好きみたいだよ」
と僕はドキドキしながら彼女に言った。
「少しホモっ気があるのよ、ブルータスは」
シモンヌの声は、不思議な声だった。少しも彼女自身に似ていない声だった。彼女はピーターパンみたいだったけど、声は低くて、少しハスキーで、どこか完成した大人の女を思わせた。
「ブルータスという名前?」
と僕は犬の頭に手を置いた。
「そして私はシモンヌ」
よろしく、と僕は言って慌てて名前を告げた。
「謙一。でもケンでいいよ。みんなケンと呼ぶから」
彼女はうなずいて、それから唐突に歩きだした。ブルータスと僕がそれに続いた。
少しの間、彼女は僕やブルータスの存在を忘れてしまったかのように、一人でスタスタと歩いていた。僕は自分の存在を知らせるために、ブルータスに声をかけて駆けだした。
僕はまるでバカみたいに、犬と追いかけっこをして、パリの街の中を走り回った。シモンヌは何事か考えるような上の空の足取りで、勝手に右に曲ったり左へ折れたりした。そのたびに僕とブルータスは慌てて彼女を追いかけた。
散歩の終りに、彼女は不思議なしゃがれ声で言った。
「ブルータスとすっかり仲良しになったのね」
「うん」
と僕は息を弾ませながら言った。
「できたら、君とも仲良しになりたいんだけど」
すると彼女は、大きな灰色の眼で僕をじっと見た。思わずこちらが視線を伏せてしまいそうな、たじろぐような眼ざしだった。
「私たち、とっくに仲良しじゃないの?」
と彼女は言って、一軒のアパルトマンに通じる階段を登りかけた。
「どうしたらまた、逢《あ》える?」
僕は急いで訊《き》いた。
「私の家はここよ」
と彼女は建物の上を指で示した。
「いらっしゃい。お茶をご馳走《ちそう》するわ」
なんという無造作さであろうか。
「そんなふうに、いつも見知らぬ人間をお茶に招待するの?」
僕は彼女の後から階段を登りながら訊いた。そこはシテ島の中にある、古いけれども高級なマンションのひとつだった。
「まさか」
とシモンヌは言った。
「友だち以外は入れないわ」
それでも僕は、彼女がいささか無防備だと思わずにはおれなかった。そんなに簡単に誰でも自宅に招じ入れるということで、自分が軽く見られたような気もして、少し傷ついた気分でもあった。
「どうしたの? 遠慮しているの? それとも恐いの?」
入口のところで、彼女が試すような表情で僕をからかった。僕より幾つか年下のはずなのに、と、僕は少しムッとした。
「違うよ。誰にでもそうするのかと思っただけさ」
「だから言ったでしょ。友達だけって。わかった、あなた妬《や》いているのね」
低い声で笑うと、シモンヌはドアに鍵《かぎ》を差しこんで開いた。
「どうするの? 入る? 入らない? それともそこでずっと膨《ふく》れ面《つら》しているつもり?」
なんだかずっと年上の女にあやされているような気分だった。僕は彼女にというよりは自分自身に腹を立てて、黙ってドアの間に滑りこんだ。
彼女の部屋は五階で、日当りの良いマンションだった。大きな居間にはいかにも坐《すわ》り心地の良さそうな椅子《いす》が、数えてみると全部で十八もあったが、彼女が僕を案内してくれたのは、キッチンに続いた小綺麗《こぎれい》なダイニングルームのテーブルだった。
「こんなところに、一人で住んでいるの?」
と僕はあたりを見廻《みまわ》して訊《き》いた。僕の住んでいる屋根裏のアパートは二部屋しかないちっぽけなものだった。
「父の家なのよ」
と、ヤカンに水を入れながら彼女が答えた。
「お父さんは一緒?」
「時々ね。パリに出て来た時」
お湯が沸くとシモンヌはコーヒーではなくて紅茶を入れて、温めたミルクをタップリ注いですすめてくれた。
「私、よく旅行をするのよ」
とお茶を飲みながら、シモンヌが言った。
「東京へも行ったことがあるわ」
今度行くことがあったら僕が案内をしてあげるからね、と僕は約束した。
「でも、ブルータスは君が留守の時、誰がめんどうを見るの?」
と、僕たちの足元で伏せている犬を見て、僕は訊いた。
「お友だちよ。たとえば、あなたとか」
僕はニヤリと笑った。
「それでわかったよ。近々どこかへ行くんだね?」
「まあね」
とシモンヌが笑った。
「僕にブルータスをあずけて行きたいの?」
「かまわない? 他にも友達はいるんだけど、ブルータスが好きな人がいいと思うの」
「それが僕?」
「あなたもブルータスが好きでしょう?」
彼女の大きな灰色の眼にみつめられたら、誰だって嫌だなどと断れない。で、僕は承知した。
「旅って、どこへ行くの? 誰かと一緒? そして何日くらいパリを留守にするの?」
と僕はたて続けに訊いた。知りあったばかりなのに、彼女がどこかに行ってしまうということが、とても淋《さび》しいような気がしていた。
「コルシカ島へ行くのよ。二週間。それからスペインを旅してから戻るわ。全部で三週間」
「一人じゃないよね?」
「友だちが一緒よ」
「男?」
シモンヌはちょっと沈黙して、それから、小さくうなずいた。なぜか僕はひどく理不尽に感じた。シモンヌみたいな魅力的な若い女に、男友だちがいないほうがよっぽど不思議だが、彼女がボーイフレンドとコルシカ島で楽しんでいる時に、パリで彼女の犬のめんどうをみているなんて、バカみたいだと思った。
「ちゃんと、それなりのお礼はするつもりよ」
と何を思ったのかシモンヌがそう言った。
「お金? そんなものはいらないよ。お金を払うんなら、専門家にあずければいいんだ。犬のホテルだってあるだろう?」
と僕は傷ついて言った。
「そんなところに入れたら、ブルータスはハートブレイクで死んでしまうわ。淋《さび》しがりやなの。好きな人と一緒でないと、あの子病気になっちゃうの」
シモンヌは困ったように肩をすくめた。その様子を見ると、僕はまたしても彼女を守ってやりたいと思った。
「いいよ。ブルータスはあずかるよ。でもお金は受け取らない」
そう僕は言った。
三週間、僕はブルータスと暮らした。シモンヌとは、犬を受けとる時に逢《あ》ってカフェでレモネードを飲んで別れた。
僕の小さな屋根裏部屋で、ブルータスはいい子にしていた。僕と同様、美しいシモンヌが留守なのを、心から淋しがっていた。僕たちは朝と夕方、毎日長い長い散歩に出た。
僕は語学学校の学生だったので、学校で三、四時間フランス語の勉強をするほか、これといってすることはなかった。だから一日の大半を茶色い犬の相手をして過ごした。
シモンヌは旅先から絵葉書ひとつ寄こさなかった。けれども約束どおり二十一日目の夜、彼女は電話をしてきて、僕にブルータスをシテ島のアパルトマンへ連れて帰るように、やさしく命じた。そしてその夜、僕は彼女と寝た。
そのことは、とても自然に起った。僕とブルータスがシテ島に到着したのは午後の十時過ぎで、彼女は部屋着で僕たちを迎えた。夜だというのに窓の外は、夏特有の青さで、なかなか暗くなりそうにもなかった。彼女は居間を通り抜けて、ダイニングルームでもなく、奥に四つあるベッドルームのひとつに入って行った。僕とブルータスとは例によって彼女の後を、僕はちょっとばかり戸惑いながら、ブルータスのほうは久しぶりの女主人との対面にはにかみながら――犬のくせにブルータスは、はにかんだりするのだ――ついて行った。
「旅から戻ったばかりで疲れているの。道路がとても混んで大変だったのよ」
と彼女は事実少し青ざめた顔で言った。シモンヌの寝室は少女趣味なところが全くなくて、男の眠る場所みたいだった。
「じゃ、また改めて来るよ」
と僕は言った。
「あら。帰らないでちょうだい。私が留守の間、何があったのか全部話してくれなくては」
シモンヌが心から僕を引き止めた。彼女が僕に本当にいてもらいたがっていることは、その眼の色で感じられた。オーケイと僕は同意した。
彼女はクッションをいっぱい積み重ねて、そこに背中をあずけると、右側の膝《ひざ》のあたりのベッドの上を叩《たた》いてブルータスを呼んだ。
「おまえはここ。そしてケン、あなたはこちら側よ」
僕は言われるとおり、彼女の膝のあたりにクッションを重ねて、軽く横たわった。僕の反対側にはブルータスがいて、シモンヌの膝に顎《あご》をのせていた。なんだか僕自身も彼女のお気に入りの犬みたいな気がしたが、それよりも僕は彼女の傍にいる幸福感に圧倒されていた。薄い部屋着を着たシモンヌからは、いつものとおり良い香りがしていた。
「さあ、話して」
とシモンヌがブルータスの首筋の毛を撫《な》でながら言った。
「何を話すの? ブルータスのこと? 僕のこと?」
「あなたたち二人のことよ。何をしたの?」
「長い散歩をしたよ。朝晩」
「どこを歩いたの?」
「セーヌ沿いにシテ島まで。君の家の前を何度もぐるぐる回るんだ、二人で」
「他には何かあって?」
シモンヌのけだるげな手が僕の髪の中にさしこまれ、髪の毛に優しく絡みついた。ああ、その時僕がどんなにドキドキしたことか。
「そうだった。恋をしちゃってね」
「誰が?」
「ブルータスだよ。そして僕もだけど」
「ブルータスは誰に恋をしたの?」
「それがさ、真白いテリアなんだ。とっても小さくてね。二人とも恋をしているのに、どうしてもできないんだよ、あのことが」
「まあ、可哀想《かわいそう》なブルータス」
シモンヌは声に同情を滲《にじ》ませて、ブルータスの頭を優しく叩《たた》いた。
「そしてあなたは? 誰と恋に落ちたの?」
僕はすぐには答えられなかった。答えるのが怖《おそろ》しかった。
「言いたくなかったら言わなくてもいいのよ」
シモンヌの声は優しく湿っていた。彼女の片手はあいかわらず僕の髪の毛に絡みついていた。
「旅はどうだった?」
と僕は話題を変えた。
「楽しかったわ。でも淋《さび》しかった」
「淋しかったって? ボーイフレンドが一緒じゃなかったの?」
「一緒だったけど。でも淋しかったのよ、ケン」
シモンヌの声が聞きとれないくらい小さくなった。
「どうしてかって聞かないの?」
「どうしてなの、シモンヌ?」
と僕は訊《き》いた。
「ブルータスとあなたをパリに残して行ったからよ」
僕は最初聞き違いかと、自分の耳を疑った。
「だってそんなこと信じないよ。僕たちはまだ、何度も逢《あ》ったわけじゃないし、お茶は飲んだけど、一緒に食事をしたわけでもないし、バーへも行っていないし、寝てもいないのに」
「でもね、ケン、恋って夕食を一緒にしたり、バーに行ってから始まるってわけじゃないのよ」
「そんなことはわかっている」
と僕は跳ね起きながら言った。
「じゃ抱いて」
シモンヌは灰色の眼を閉じながら、そう僕に言った。その夜僕は彼女の恋人になったのだ。
彼女は痩《や》せていてとても骨が細いのに、驚くほど柔らかだった。どこもかしこも柔らかくて、清潔で、セクシーだった。
疲れてすっかり放血してしまった人のようにみえるのに、二度も三度も僕を求めた。時々シモンヌはその灰色の眼を閉じて、とても淫乱《いんらん》な言葉を平気で口にしたり、レディらしくないやり方で僕を愛したり、僕にあれこれ命じていろいろなことをさせたりした。でも彼女がそうすると卑猥《ひわい》なことでもなんでもなくて、とても素敵なのだった。彼女が下品なことを言ったりしたりすると、僕はぞくぞくするほど興奮した。
「私、日本人のアマンを持ってみたかったのよ」
と、暁の忍びこむ時刻に、ようやく僕を解放するとシモンヌが囁《ささや》いた。
「どうして?」
疲れと彼女に対する愛《いと》しさで混乱しながら、僕が訊《き》いた。
「父親のコレクションで春画を見たの。私のパパは浮世絵のコレクターなの。私、こっそりとあれを眺めてとても興奮したものよ。どうしようもなく興奮すると、自分で自分を慰めたの。その頃から、私の夢は日本人のアマンを持つことだった」
「じゃ、僕に失望しただろうね」
と僕は言った。
「いいえ、ケン、あなたはあの絵の中の男たちより百倍もいやらしくて、そして素敵だったわ」
そして僕たちは眠った。眼が覚めると、もう夕方だった。お腹が空いていたのでベッドでパンとチーズを食べた。元気が出るとまた二人は愛し合って、眠った。僕たちはそうして丸々二日間ベッドの中で過ごした。
パリの夏がまたたくまに過ぎていった。僕は九月に日本に戻ることになっていたが、そのことを言い出せずにいた。もちろん帰りたくなんてなかった。シモンヌにさよならを言うくらいなら、セーヌに飛びこんで死んでしまうほうが良かった。
その午後、僕と彼女は十六区のベトナム料理店でご飯を食べて、食後のコーヒーを近くのカフェで飲んでいた。とても暑い夜で、いつまでたっても温度が下がらなかった。
「暗くなれば涼しくなるかしら」
とシモンヌは愛らしい口元に、小さな汗を浮かべてそう言った。風が凪《な》いでいて、空気は澱《よど》んだように動かなかった。シモンヌの躰《からだ》からは、例の香りがしていた。汗の匂《にお》いが混って、とてもセクシーだった。
「シモンヌ。その匂いは何なの?」
と僕は初めて香水の名前を訊《き》いた。
「シャネルの五番よ」
僕はちょっと驚いた。シャネルの五番なんていう香水は、もっといかにも女らしい肉体派が使うのかと思っていたからだった。だがもしそれが事実なら、シャネルの五番は成熟した大人の女が使う香水ではない。シモンヌこそ、その香水をつけるために生れてきたような娘だと思った。
「できることなら世界中のシャネル五番を全部、君のために買い占めてしまいたいよ」
と、僕は言った。ほんとうにそうしたかった。他の女たちが、彼女のシャネル五番を使うなんて耐えられなかった。
するとシモンヌは言った。
「私がつけると、シャネル五番は私だけの香りになるのよ。だから世界中探しても私と同じ香りのシャネルの五番はないの」
きっとそのとおりだと、僕はその言葉を信じて、世界中のシャネル五番を買い占める計画を投げだした。そしてホッとした。
「暑いわね。ずっと前、タイに旅したことがあったけど、あの時の蒸し暑さを思い出すわ」
とシモンヌがだるそうに呟《つぶや》いた。
「どこもかしこも汗をかいているわ。脇《わき》の下もおへそのあたりも、胸の谷間も、それからあそこにも」
彼女はそう言ってクスクスと笑いながら、ボクの首筋に燃えるような熱い口を埋めた。
その時、僕たちのテーブルに人影が立った。
「シモンヌ」
と男が言った。
「あら、ピエール。今晩は」
男は身をかがめて彼女の頬《ほお》に接吻《せつぷん》をした。
「いつ出て来たの?」
「今日の午後」
それから彼女は僕にその男を紹介した。落ち着いた中年の男で、身につけている高価なものから、彼が金持ちなのがわかった。日に焼けて、ハンサムでそして洗練されていて優雅だった。僕の持っていないものを彼は全てもっていた。
僕はあまり愛想が良いとは言えない態度で、よろしくと言った。
「じゃ後でね、ピエール」
とシモンヌが言った。
「あまり遅くならないで帰っておいで」
と男は言って、もう一度僕と握手をすると行ってしまった。
「今のは誰だい? 後でってどういう意味?」
「どうしたの? 何を膨《ふく》れているの?」
とシモンヌが笑った。
「ごまかすなよ。ピエールって誰なんだ? 君と一緒にコルシカ島へ行った奴《やつ》なのか?」
周りのテーブルから、人々が僕たちのほうを見た。
「まあ、バカね、ケンたら。父よ。言ったでしょう。時々パリへ出てくるのよ」
「嘘《うそ》だ。じゃなんでピエールなんて呼ぶんだい? 自分の父親の名前を呼ぶなんて聞いたこともないよ」
「でも、パリではよくあることよ」
とシモンヌは平静な声で言った。「私の友だちも、パパのこと名前で呼んでいる人は大勢いるわ。ママのことだって、フランソワーズって、私呼んでるわ」
そういうことは小説で読んだことはあったが、実際の場面で耳にするのは初めてだった。僕は彼女を信じた。信じるしかないじゃないか。
「君のところに泊るの?」
と僕は質問した。
「当り前じゃないの。もともと父のアパルトマンですもの。彼にはその権利があるわ」
「お父さんは、いつまでパリにいる?」
「その時によって違うわ。二、三日の時もあるし、一週間いる時もあるのよ」
「よく来るの?」
「月に一、二度ね」
「最後に来たのはいつ?」
「二週間前」
「二週間前のいつ?」
「ウィーク・エンドよ」
「僕との約束をすっぽかした時だ」
「すっぽかさなかったわ。電話をしたでしょう。ケンたら、一体どうしたの? まるで警察の訊問《じんもん》みたいよ。私を疑っているの?」
ううん、そうじゃない、と僕は眼の前を往来する男女に眼をやった。みんな楽しそうだった。僕だけがひとり、不幸のどん底にいる人間みたいだった。僕はやっぱりシモンヌの言葉を信じていなかった。
彼女はとてもさりげなく振るまった。ピエールという中年の男のほうもそうだった。寛大でいかにも保護者然としていた。
しかし、あまりにもさりげなさすぎて、作為が露呈するということがあるのだ。僕は八月の終りのパリのカフェで、嫉妬《しつと》と疑惑でびっしょり汗をかいて黙りこんだ。
「今夜、僕の部屋に来て泊らない?」
と僕は訊《き》いた。彼女の答えは訊く前からわかっていた。ノーだ。ノーにきまっている。
「だめよ。父が帰っているもの」
「だってきみ、お父さんと寝るわけじゃないだろう? だったらお父さんは一人で眠るさ」
「ばかなこと言わないで。それに私を困らせないで」
シモンヌは悲しそうだった。彼女が悲しそうにすると、たちまち僕も悲しくなった。
「ごめんよ。どうかしていたんだ。明日は何時に逢《あ》える?」
「ランチを食べない?」
「いいけど」
「夕食は父とするわ。久しぶりなんですもの」
「わかるよ」
だが僕はわかりはしなかった。腹の中が煮えくりかえっていた。
「シモンヌ。コルシカへは誰と行ったんだい?」
「ボーイフレンドよ。あなたの知らないひと。あなたに逢うずっと前からつきあっていた人よ」
「さっきの男じゃないんだね」
「ピエールは私の父よ」
忍耐強く、静かにシモンヌはそう答えた。
「僕には信じるしかないんだ」
「そうよ。信じるしかないのよ」
シモンヌは少し投げやりに言った。
「同じことを一晩中くりかえすのは嫌いよ。私、そろそろ帰るわ。送ってくれなくてもいいわ」
僕は彼女が怒ったのかと思った。しかし彼女は怒ってはいなかった。少し上の空で、ほんの少し冷淡だった。
いっそのこと、腹を立ててくれたほうが良かった。上の空で冷淡なシモンヌを、僕は恐れた。
彼女が唐突に立ち上がって、やってきたタクシーに乗るのを茫然《ぼうぜん》として見送ると、僕は歩きだした。どこをどう歩いたのか知らないけど、気がつくと午前二時で、シテの彼女のアパルトマンの前にいた。
僕は彼女からもらっていた合鍵《あいかぎ》でドアを開くと、そっとその中に忍びこんだ。たくさんウイスキーを飲んでいて、足元がふらついた。もっとも、ウイスキーをしこたま飲んでいなかったら、とうてい真夜中過ぎの彼女のアパルトマンに忍びこむなんていう勇気はなかったはずだ。
どこもかしこも暗かった。何度かつまずきながら、ようやくシモンヌの寝室のドアをそっと押した。
最初は何も見えなかった。やがて眼がなれると、窓から射しこむ三日月の淡い光の中に、シルエットが浮かび上がった。
シモンヌは眠っていた。あの可愛《かわい》い頭を男の腕にのせて。男は、彼女の肩にもう一方の手を広げて置いていた。
多分、この光景を僕は期待していたんだ。つまり、僕にはこの光景が前もって透けてみえていたんだ。その証拠に僕は驚かなかった。そっとドアを閉めて、もうつまずかずにアパルトマンの外へ出た。
泣きたかったが泣けなかった。僕が考えていたのは、たったひとつのことだけだった。もうこれで、シモンヌに、日本に帰るということを告げなくても済む。
僕には帰っていく国もあるし、両親もいるし、兄弟もいるのに、なぜか天涯孤独《てんがいこどく》な孤児のような気持だった。僕はそのようにして、突然シモンヌを失った。
僕は再び今、恋をしている。そして少年のようにこの恋におののいている。
由布子と待ち合わせているホテルのバーには、まだそれほど客は多くない。シモンヌの追憶から覚めて眼を上げると、由布子がいた。微笑していた。少年のような髪型と、ほっそりしている体型がシモンヌに似ていた。
僕は彼女の前に、無言でプレゼントの包みを置いた。由布子はうれしそうに素直に喜ぶと、
「開けてもいい?」
と訊《き》いた。
「うん、気に入るといいけど」
と僕は心からそう願って、言った。
由布子はていねいに包み紙を開いた。
「あら、シャネルね」
ときれいな声で言った。
「ナンバー・ファイブだわ。いけない人ね」
「いけない人?」
「だってこの香水、すごくセクシーなんでしょう?」
セクシーというよりは、僕は可憐《かれん》だと思っていた。
「あなたって隅におけないのね」
「どうして?」
「ベッドインの時、この香水のほか、何も身につけるなって、そういうことでしょう?」
僕はそんなことは断じて考えていなかった。由布子という女が、急にしたたかな女に見えてきた。僕は急に何もかもが嫌になって黙りこんだ。
「ベッドのことなんて、一度も仄《ほの》めかしたことはないよ」
「あら。そんなの女に対する侮辱だわ」
と由布子は躰《からだ》をくねらせた。僕の気持はますます冷めていった。
あの時シモンヌは少年のようだった。セーヌ河のほとりで、少年のようにストイックに微笑していた。そしてシャネル五番の香りが、彼女のストイックな感じに、よく似合っていた。
僕はどうやって、その場をきりぬけようかと、ひそかに思案しだした。
第3話 オピウム
オピウム〈OPIUM〉
イヴ・サンローランの東洋系香水。「阿片」の意。麻薬にも似た東洋の神秘をイメージ。アニマルノートでありながらフローラルな甘さ、スパイシーな清々しさをあわせもつ幻想調。
食事が済み、食後のエスプレッソも終ると、伸也が言った。
「この後、僕の部屋で飲まない?」
まるで、これから映画でも観ないかと誘うような、さりげない言い方だった。あまりにも他意がなくて、ノーと答えるほうが逆に変なこだわりを感じさせるような口調だった。
「そうね」
と、るり子はできるだけ伸也に似せたさりげなさで答えた。
「そうすれば車の運転、気にしないですむわね」
ペパーミント・グリーンのナプキンで唇をそっと押さえると、彼女はそれを無造作にたたんで置いた。
テーブルクロスは白いリネンで、交差するように同じ大きさのペパーミント・グリーンのクロスが掛かっている。
店のあちこちに贅沢《ぜいたく》に配してある草花も、全て白。グリーンの葉と白の花だけで統一してあるという凝りようだ。
料理はイタリアの家庭料理というふれこみだが、ここにもヌーベル・キュイジーヌの波が寄せていて、量も味も軽い。
ただし、コーヒーだけは強く焦がしたイタリアンローストで、ぐっと手ごたえがある。
ふつうの家をそのままレストランに使ってあって、いくつかの個室に分かれている。各部屋にテーブルが三つとか四つ。窓に掛けてあるイタリアのアンティーク・レースの黄ばみ具合が、なんともいえない。窓の外は冬の夜だ。
メニューには男性用と女性用とがあって、るり子に渡されたほうには、プライスがついていなかった。そういう店では気軽に女同士でランチなどとれない。
「ねえ、もしも女のほうがすごくお金持ちで、若くて綺麗《きれい》なジゴロを同伴した場合、ウェイターはどちらに値段のついていないメニューを渡すのかしらね」
と、るり子は好奇心をつのらせて伸也に訊《き》いた。すると彼は、
「もちろん、あくまでも女性さ」
と自信ありげに答えた。
「どういう場合にも女性を立て、失礼な扱いをしない、というのが、サーヴィス業の基本だよ」
「あら、よくご存じなのね」
と、るり子は感心した。
「でも、食事代はどうせ女性の懐《ふところ》から出るんでしょう?」
「出どころはそうでも、表向きには若い男に払わせるよう、あらかじめ渡してあるのさ」
「まさか、あなたも経験者じゃないでしょうね」
「何の?」
「だから、前もってお金渡されたことよ」
「つまりジゴロの?」
伸也は少し突き放したように言った。
「あら、怒ったの?」
るり子は自分の軽口を後悔して、急にしょんぼりと肩を落した。
「ごめんなさい」
「いいんだよ」
ウェイターが食前酒を運んできたのでその会話は打ち切られ、あとは気持よく食事が進み、そして満腹でふうふう言わない程度にお腹が満たされて、終ったのだった。
伸也が会計をしている間に、るり子はバスルームで顔を直した。たいてい、乾燥した冬の季節に、そんなふうにバスルームの鏡を覗《のぞ》くのは、女にとって嫌なものである。天井や鏡に取りつけられた蛍光灯の光が、必要以上に残酷に乾燥性の小皺《こじわ》を浮き彫りにするからだ。
けれどもさすがにそのレストランでは、バスルームの照明にまで神経がゆき届いている。蛍光灯などではなく、ちゃんと白色電球を使っている。アンティークっぽい照明器具で、ほんのわずかに薄暗い印象を与えるのはやむをえないのだろう。少しくらい明るさが不足でも、そのほうがよほど女性に喜ばれるにきまっている。るり子は鏡に顔を寄せて、赤い口紅を引き直した。
今から伸也の部屋に行くのだ、ということが大きく胸を占めていた。彼と交際するようになってもう半年以上たつのに、彼の部屋に誘われるのは初めてのことだった。
バスルームを出しなに、彼女は洗面台の周囲をもう一度見渡して、髪の毛やコンパクトの粉などが落ちていないか、素早く点検した。
伸也はレストランの出入口で彼女を迎えると、ドアを開いて彼女を先に通した。ふと見せる仕種《しぐさ》に、洗練された優しさがあった。
洗練された、優しさである。優しいだけで無骨な男もいる。洗練されるためには、場数と訓練が必要だ。伸也は、どんな女たちによって、優雅に洗練されていったのだろうか。るり子には大いに気になるところだった。
外車の助手席にるり子を乗せると、伸也は前を回りこんで左側の運転席についた。それから彼は、ようやく二人きりになれたね、というように彼女の左側の頬《ほお》に口づけをしておいて、エンジンをスタートさせた。
「ブティックの仕事、面白い?」
と車をスタートさせながら、伸也が質問した。
「面白かったのは、最初のうちだけ。慣れるにしたがって、厳しくなるわ」
車窓を流れる夜景を眺めながら、るり子が答えた。そもそも伸也と知り合うようになったのも、彼が彼女の勤めているブティックにふらりと立ち寄ったからだった。
『ウラベ・ユキコ・ブティック』には、メンズ部門もある。もっとも、メンズとレディスの違いはもっぱらサイズだけで、基本的には同じ素材、同じデザインである。
ウラベ・ユキコは、ユニセックスのデザインで、最近、特にマスコミ業界の男女に高い評価をされているデザイナーだ。るり子はそのブティックのハウスマヌカンをやっている。
ゆくゆくはフランスのパリに支店を出すということで、フランス語が流暢《りゆうちよう》に喋《しやべ》れる彼女が採用されたのだ。現在は、パリ店ができるまでの間、仕事を覚えることが目的で、青山店に勤めている。いわば待機中である。
伸也が初めて店に来たのは半年前の夏の終りで、メンズコーナーで秋物を物色していた。客のほうから求められて初めて、積極的に応対するように、と言われていた。
けれども伸也はどれも気に入らないらしく、ふと助けを求めるように、るり子を見たのだ。
その眼差《まなざ》しに、彼女ははっとした。秋物の服をひとつきめるだけなのに、とても深刻な表情をしていたのである。
るり子は控えめに近づいていった。
「何かお手伝いしましょうか?」
「黒とグレー以外にはないの?」
「黒とグレー、お嫌いですか?」
「違うよ。好きだから、黒とグレーばかりなんだ」
るり子はセーターの棚からペパーミント・グリーンのカシミアのセーターを取りだして広げた。
「綺麗《きれい》な色だね」
と彼が感心して言った。
「お手持ちの黒とグレーに一番合う色ですわ」
「それは、君の意見だよ」
と彼が笑った。
「そうは思わない人もいるかもしれないよ。でも、君、この色が好きなの?」
「ええ、好きです。大好きだわ」
るり子は何か貴重なものででもあるかのように、そのセーターをゆっくりと撫《な》で、それからたたむと棚に戻しかけた。
「ちょっと待った。どうして戻すの?」
と彼が言った。そしてペパーミント・グリーンのセーターを買ったのだった。
忘れた頃になって、ふらりと再び彼が現れた。夏の終りに買ったセーターを、グレーのジャケットの下に着ていた。あれから五週間ほど過ぎていた。
「今日はね、買いものに来たんじゃないんだ」
と彼は言った。
「君にぜひ、見せたい場所があってね。レストランなんだけど」
「見せたいって、何を?」
いきなり食事に誘われたので、るり子は驚いて訊《き》き返した。
「それは行ってのお楽しみ。お店、何時に終る?」
「八時です」
「じゃ、その頃、迎えに来る」
ほとんど一方的にそう言って、彼は出ていった。
お店のお客との個人的なつきあいは、一応タブーになっていた。それでなくとも、お茶や食事や、あきれたことに週末旅行の相手に、客からよく誘われるのだ。
けれども、その日はたまたま店長は休みだったし、店長の背後で眼を光らせているオーナーデザイナーのウラベ・ユキコはパリだった。
店の客に誘われて、気持が動いたのは、彼が初めてだった。
そしてその夜案内されたのが、何もかもがペパーミント・グリーンと白でできているイタリアン・レストランだった。
「そろそろパリの店の準備は整っているんだろう?」
とハンドルを握りながら、伸也が訊《き》いた。
「ええ。それで今、うちの先生、パリに行っているのよ」
ウラベ・ユキコは年に最低六回はパリと東京を往復する。
「君のパリ行きはいつ頃の予定?」
「開店が六月なの。でもあくまでも予定よ。先生がおっしゃるには、あちらの職人さんたちはなまけものだから、大体二か月は遅れるんですって」
「いずれにしろ、夏までだね」
「そうね」
るり子の胸が疼《うず》いた。パリに行くのはうれしい。けれども伸也との別れは哀しかった。
「君をパリにやりたくないよ」
と、低い声で伸也が呟《つぶや》いた。彼がそんなふうに感情を露わにするのは初めてだった。
「だったら、あなた、私と結婚するしかないわよ」
わざとそんなふうに、るり子は言った。冗談めかした言い方に、本心をこめないでもなかった。このままずるずると伸也とのつきあいを深めて、パリ行きを棒にはふれない。
けれども、彼との結婚が可能ならば、話は別である。伸也は、るり子のこれまでの二十五年の人生の中で、できるものなら結婚をしたいと思った最初の男である。
しかし、それはあくまでもるり子の思いであって、伸也のほうは、あきらかに結婚を前提としてのつきあいではない。それはこの六か月に重ねたデイトからも、嫌でもわかる。もしかしたら、るり子は彼の恋人になりかかっているのかもしれないが、完全に恋人というわけでもないのだ。ただのガールフレンドでもないが。どうしても、伸也の背後に他の女の、あるいは女たちの気配を感じるのである。
時間をかければ、彼の心を完全に独り占めできるような気はしていた。だが、その前にパリ行きがある。
「僕は、誰とも結婚はしないよ」
と、急に横顔をひきしめて、伸也が言った。
「そういうふうには出来ていないんだ。結婚にはむいていない男なんだよ」
「わかってるわよ。私だってパリと引きかえにするつもりないもの。あなたが結婚しない男だとわかっていたけど、ちょっと言ってみたかっただけよ」
「パリには、そんなに行きたい? パリに何があるのさ」
「風景が変わるわ。それに人間関係も」
と、るり子は答えた。
「漠然とした答えだな」
「わかってるわ。何かが変われば、別の何かが見えてくるかもしれないと思うの」
「何もないかもしれない」
「日本にいるからって、何かがあるわけじゃないわ」
ちらと伸也の横顔を見て、そう、るり子は言った。
代々木上原《よよぎうえはら》の閑静な住宅地の一角にある、三階建てのマンションの駐車場に車を乗り入れると、伸也はエンジンを切った。
「着いたよ」
と落ち着いた声で彼が言った。
るり子が借りている1LDKのマンションとは、外観からして比べものにならなかった。駐車場のスペースの感じから、三世帯しか入っていないらしい。一階と二階を借りているのは、外国人の家族と思われる。とすると伸也の住まいは三階のペントハウス風のマンションなのだろう。
専用のエレベーターを降りると、なんとそこは玄関の外側ではなく、小さなホールになっていた。その奥に、広々とした居間が見える。
ホールの壁には、マチスの版画が四枚掛かっていて、見事な和箪笥《わだんす》が置いてある。
和箪笥の暗褐色の漆《うるし》の色と、モダンなマチスの版画が、不思議な調和を醸《かも》しだしている。香木を焚《た》いたような微《かす》かな香りがしていた。それは非常に微かな淡い香りなので、もしかしたら、るり子の錯覚かもしれなかった。
事実、数秒後には、もう何も匂《にお》わなかった。
「どうかした?」
と居間へ通じるアーチ型に壁をくりぬいた下で、伸也が訊《き》いた。
「いいえ。ちょっと香の匂いがしたものだから」
「香?」
と伸也は意外な表情をした。
「気のせいよ。そんな気がしただけ」
そう答えながら、ふっとその香りに記憶があるような、懐かしいような、そんな思いを一瞬抱いた。
そうだ、伸也の車に乗った瞬間だった。やっぱりそんな匂いがした。どこか東洋的な、神秘的な匂いだ。
「あなたが使っている男性用のコロンかもしれないわね」
「そうかな」
と、広々とした居間を横切って行って、伸也はカーテンを左右に大きく開いた。一枚ガラスの窓の外に、西新宿の高層ビルの光景が映し出された。
「僕は普段は、クリスチャン・ディオールのオードトワレを使っているけどね」
多分、それに含まれる香料の中に、東洋的な香りを放つ原料があるのだろう。
それからるり子は、伸也の部屋から眺められる夜景に、注意を移した。
とてもホンコンの夜景に比べられはしないが、それでも驚嘆に値する。こんな夜景が毎晩眺められるなら、パリになんて行かなくてもいい、とふと、そう胸の中で呟《つぶや》いて、るり子は思わず苦笑した。
居間は広く、ざっと見渡したかぎりでも四十畳ほどはありそうだ。あまり多すぎるというほどでもない数の、熱帯植物の鉢植が配されていて、壁には現代風な大きな抽象画が掛っている。
床は木張りで、部分的に、中国産やトルコ産のカーペットが敷いてある。椅子《いす》は超近代的なデザインのイタリア製。韓国の箪笥《たんす》はアンティークだ。
そんなものがそれぞれの主張をしあいながら、全体的には奇妙な統一を見せている。
「他の部屋も見る?」
と伸也は屈託なく言い、先に立ってるり子を案内していく。バスルームは、それだけでるり子のマンションのリビングルームほどはありそうだった。何もかもがクリーム色の大理石で出来ている。タオルも、石鹸《せつけん》も、バスマットも全て、淡いクリーム色だ。キッチンに続いたダイニングルームは、どこかスペイン風で、温かい寛《くつろ》いだ感じがする。今まで見た中では、その部屋が一番るり子の気に入った。
次に、伸也は彼女を寝室に案内した。廊下の突き当たりで、やはりアーチ型の扉がついている。
室内は薄暗く、入ってすぐの壁のスイッチをつけると、ベッドサイドのランプがついた。とたんに、例の香木を焚《た》いたような匂《にお》いが、ここでは先刻よりも強く、るり子の鼻を打った。
香木というよりは、はっきり言って香水の残《のこ》り香《が》であるような気がした。スパイシーなグリーンノートに、動物性の性腺《せいせん》の匂いが混じっている東洋的な香水だ。
「これ、香水の匂いだわ」
と、思わずるり子は口に出して言った。
「嫌だわ。前の女の人の香水の匂いが消えないうちに、私を誘うなんて」
怒りと失望で声が震えた。
「違うよ。君の思い違いだよ。香水じゃなくて他の匂いだよ」
伸也は、そう言って否定した。
「いいえ、香水よ。何という名前かすぐには思いだせないけど、これと同じ香りをうちの先生が使っているから、まちがいないわ」
「ばかだな」
と伸也は言って、るり子を胸に抱こうとした。けれども彼女が後退《あとずさ》ったので、彼はやり場のなくなった両腕を、横に広げて肩をすくめた。
「神経質になっているから、ありもしない匂《にお》いのことが気になるんだよ」
そう言われれば、そうかもしれないと思った。鼻がその場の空気に慣れて、もうあの香りはしなくなっていた。るり子は狐につままれたような気持がした。
「さあ機嫌を直して。せっかくの夜なんだから、仲良く楽しくセクシーにいこうよ」
伸也に手を取られて、彼女は下唇を噛《か》んだ。完全に疑惑が晴れたわけではなかった。
しかし考えてみれば、彼と婚約しているわけではなかった。他に女友だちがいても不思議はないし、いるだろうとは思っていた。
もしもまだ彼がそういう女たちとの親密な交際を続けているのが嫌ならば、さっさとサヨナラにすればいいのだ。
サヨナラにする? とるり子は自分の胸に訊《き》いた。
伸也が急にいなくなってしまったら、どんなに空虚だろうか。あたしはどうやって、彼のいない夜を埋めていったらいいのだろう?
「せめてパリへ発つまで、お願いだから、あたしに、女はあたしだけなんだって、思わせるようにして」
と、るり子は衝動的に言って、自ら男の胸に飛びこんで顔を埋めた。
「君の他に、好きな女はいない」
と、囁《ささや》くように伸也が言った。
「嘘《うそ》よ。嘘だってことはわかっているわ。でもいいの。騙《だま》し続けてちょうだい」
「パリに行かないでくれ。日本にいてくれ。君が行ってしまったら、僕はもう何をしても、何を見ても空しいだけだ」
その声の調子には真実が含まれているような気が、るり子にはした。
「あたしをどうしても引きとめたいのなら、せめて女と別れてよ」
「女?」
るり子の背中に回っていた腕の力が緩んだ。
「どの女だい」
そのとたん、ど忘れしていた香水の名を、るり子は思いだした。
「オピウムを使っている女よ」
「オピウム?」
「香水の名よ」
「誰か特定の女のことを言ってるのかい」
「いいえ、知らないわ。知りたくもない。でも女がいるのはわかるわ。隠してもだめよ。匂《にお》いでわかるし、気配でわかるのよ」
「わかった」
と押し殺した声で伸也が言った。寝室の壁に彼の影が恐ろしいほど大きくそそりたっていた。
「認めるよ」
「認めるの?」
とたんに悲鳴のように響く声で、るり子が叫んだ。認めてなんか欲しくなかった。あくまでも否定して欲しかった。
「しかし、その女と別れたら、今の僕はない。君の知っている僕はいなくなる。この意味がわかるか?」
「いいえ、わからないわ。どういうことなの?」
「つまりさ、外車も取り上げられ、このペントハウスからも追いだされる。イタリアン・レストランでの豪勢な夕食も、何もかもだめになる。一体このマンションの家賃が幾らするか、わかるかい」
何か恐ろしいことを聞いてしまったような気が、るり子にはした。
「わからないわ。でも知りたくない」
「教えるよ。百四十万円。年間じゃないぜ。月々の家賃がだよ。一体そんな金、サラリーマンみたいなことをやっていて、出せると思うかい」
「でもあなた、サラリーマンじゃないわ。不動産の会社をやっていると、言ったじゃないの」
「あれは形だけ。前はサラリーマンだった。ごく普通の平凡だが、それなりに幸福なサラリーマンだった。こんな贅沢《ぜいたく》の味を知った後ではもう二度と、あの生活には戻れないけどね」
伸也はじっとるり子をみつめた。
「もう普通の生活には戻れないし、普通の娘を愛することもないと思っていた。君に逢《あ》うまでは」
「普通の娘が愛せるなら、普通の生活にも戻れるわよ」
「そいつはどうかな。君は、今のこの贅沢|三昧《ざんまい》の僕に魅《ひ》かれているんじゃないのかい? ベンツや、このペントハウス、ホテルやレストランでの金のかかったデイトに魅かれているんじゃないのかい?」
「いいえ、あなたに魅かれたのよ。あの日ふらりとお店に入ってきた時、あなたが外車やペントハウスをもっているなんて、知らなかったもの」
「しかし今は君は知っている。僕との贅沢なデイトにも慣れてしまっている。とうてい後戻りはできない。それにこの僕がだめだ。今の生活を維持しているからこそ、君が欲しいんだ」
「つまり、その女とあたしの両方ね。お断わりよ。あたしはパリへ行くわ。パリへ行ってあなたのことなんて、きれいさっぱり忘れてやるわ」
「そうはいかないぞ。僕がそうはさせない。君をパリへなんてやるものか」
「あら、そう? いくらお金があったって、人の人生まで買えないわ。そうでしょう?」
「そうかな」
伸也の瞳《ひとみ》が光った。
「あなたのパトロンがどんな女性かは知らないけど、こんな場面を見たら、どんな顔をするかしらね?」
「僕のパトロンのことを知りたければ教えてやろうか」
「いやよ。聞きたくないわ。聞けば、いやでもあなたの薄汚い情事の共犯者になってしまうわ」
「わかったよ。言わないよ。大丈夫だよ。彼女は今夜は絶対ここには現れないよ」
伸也は、休戦を求めるように両手をるり子に差しだした。
「仲直りしよう。いいね」
「いいわ」
とるり子は言った。
「でも今夜は帰るわ。とても優しい気分にはなれそうもないの」
「どうして?」
「わからないの? あなたとこうしているのも、その眼に見えない女性のおかげだと思うと、あたし、ムカムカするのよ」
「今に、君にもわかるよ。人生なんて、きれいごとばかりじゃないってことが」
「そんなことわかりたくもないし、わからないでも生きていけるわ」
「僕もそう思っていた。けれどね、罠《わな》ってやつは実にさりげない顔をして我々をとっつかまえちまうもんなんだよ」
「いいえ、違う。罠は罠よ。つかまりたいと望んでいる人間をつかまえるのよ」
るり子は室内を眺めわたした。もしかしたらこんなベッドルームで寝起きをするようになるのかもしれない、などと考えた自分があさましかった。
「帰るなんて言わないで、おいでよ。もう無理にとは言わないからさ。面白おかしくやろうよ」
「パトロンのお金で?」
「そうさ。僕の懐が痛むわけじゃない。パーッとやろうよ」
「あたしは、あなたの懐を痛めたお金で、つつましくやりたいわ。でも無理のようね」
「無理だね。僕がサラリーマン時代に稼いだ月給なんて、今の僕の一日の小遣いにもならないよ」
「可哀想《かわいそう》なひとね」
るり子は、くるりと背を向けると出口に向かって歩きだした。
「待って。どこへ行くんだ」
「出て行くのよ」
「出て行く?」
「そうよ。このマンションとあなたから」
「何を言う。そんなことは許さない」
「あたしは行くわ。止めようとしても無駄よ」
「きみは僕のものだ。どこへもやらないぞ。パリへだって、絶対にやらないぞ」
と伸也はるり子の背中に喚《わめ》いた。
「そんなこと、どうしてできるの?」
とるり子が苦笑した。
「いいわよ。できると思ったら、何でもやってみたらいいのよ。世の中に、お金や、男と女のことでは、どうにもならないことって、あるのよ」
それだけ言うと、るり子はエレベーターのボタンを押し、開いたドアの中へ乗りこんだ。
ドアが左右から閉まる寸前、髪をふり乱した伸也の姿が見えたが、ドアが閉じ、彼も消えた。全てが悪夢のような気がした。
その日から一週間が過ぎた。あれ以来、伸也からの電話はない。るり子のほうも、三日前にパリからウラベ・ユキコが戻ったので、なんとなく慌ただしい。
その上、そろそろ夏物のディスプレイに店中の模様替えをしなければならず、その準備に忙殺されていた。
その日は新しい夏物の何点かを広げて、店長とウラベ・ユキコが顔を突き合わせていた。時々、るり子も呼ばれて、二、三、意見を言ったりした。一段落ついたところで、るり子は、雑談風にユキコに話しかけた。
「パリのお店、進行状態はどうですか?」
「まあまあよ」
素っ気なく、ユキコが答えた。思わず顔を見直すほどの、素っ気なさであった。
「そうですか。じゃ大体予定どおりですね」
遠慮がちにるり子が言った。
「予定どおり?」
「パリ店の開店です」
「ああ、そうね」
と、ユキコは眉《まゆ》を寄せた。
「ちょっとそのことで、あなたに話があるのよ。ちょうどいいわ。私の部屋へ来てちょうだい」
とユキコは先に立って奥の部屋の扉を押した。
そこは、オフィスというよりは、寛《くつろ》いだ居間のようになっていて、ユキコが仕事で疲れた神経を休めるために、時々使われる部屋だった。
いかにも坐《すわ》ってみたくなるような肘掛《ひじか》け椅子《いす》に深々と躰《からだ》を沈めて、ユキコが言った。
「さっそくだけど、私、あれこれ言いわけするの性分じゃないから、結論から言わせてもらうわ」
ウラベ・ユキコの表情がいつになく固かった。るり子の胸は不安で泡立った。
「パリの店の件だけど、あなたが行くっていう話、なかったことにして欲しいの」
はっとして、るり子は顔を上げた。心臓が喉《のど》から飛び出しそうになった。
「なぜですか。どうして急にそんな……」
怒りとも失望ともつかぬ驚きで、顔が赤くなるのを感じた。
「理由?」
と言って、ユキコは立ち上がり、ふらりと部屋の隅の鏡の前に立った。ガラスの飾り板があり、その上に、ガラス細工だとか、化粧瓶《けしようびん》や香水などが並んでいた。
ユキコはその中から、ヒョイとオピウムの瓶を取り上げると、無造作にふたを回して、少量指先に落した。
それを首筋につけて、掌で揉《も》みこむようにした。
少しして、香りがたち始めた。煽情的《せんじようてき》な東洋系の匂《にお》いが、るり子の鼻を打った。
「その匂いは……」
そのとたん、何もかも明らかになった。伸也のマンションに漂っていた匂いと同じだった。一瞬にして、何もかもが明らかになった。
「わかりました。伸也さんに頼まれたんですね?」
と、るり子は相手から顔を背けながら言った。
「じゃ、伸也さんと私の関係もご存じですか?」
今度はユキコがるり子から顔を背ける番だった。
「みんな知ってるわ」
どこか痛そうな表情だった。
「そんな男の言いなりになるんですか?」
しばらく沈黙が続いた。
「そんな男でも、私には手放せないのよ」
ウラベ・ユキコが一瞬気弱な声でそう言った。
「女っていうのはね、ある年齢以上になると、急に臆病《おくびよう》になるものなのよ。あんな男だけど、まだ手放せないわ。別にわかってもらいたい訳じゃないけど。とにかく、パリの件、忘れてちょうだい」
再び普段のウラベ・ユキコの態度に戻って、そう高飛車に言うと、彼女はさっさと部屋を出て行った。あとにはオピウムの匂いが強く残った。
第4話 オーソバージュ
オーソバージュ〈Eau Sauvage〉
クリスチャン・ディオールの男性用フレグランス。西洋杉、ラベンダー、ローズマリー、岩コケ等をミックス。太陽や海の力強さ、大自然のすがすがしさ、新鮮さをイメージ。
オーストラリアへ、シナリオハンティングに行く女流脚本家のアシスタントということで波子がついて行くことになったのは、もちろんその脚本家と顔なじみということもあったが、その昔、国際線でスチュワーデスをしていた語学力をかわれてのことであった。
英語を解する能力もさることながら、レンタカーの手配や、帰りの飛行機のリコンフォメイションなどといった、めんどうな手続きを易々《やすやす》とこなせる外国旅行慣れ、みたいなものも当然期待され、もちろん波子としては充分にその期待に添えるつもりであった。
結婚して以来、三年ぶりの海外だった。幸い子供はまだいないので、夫を説得して七日間羽根を伸ばしてくることになった。
「もちろん、往復のビジネスクラスの飛行機代とホテル、それに食事代などはテレビ局がもつけど」
と中堅どころの女の脚本家、水野孝子が出発前に言った。
「アシスタントはノーギャラよ。それでもいい?」
その話があった時、「行きます、行きます」と二つ返事で答えてしまった手前、今更、それでは嫌ですとは言えないではないか。波子は内心ガッカリしたが、黙っていた。
たとえ脚本家のアシスタントであろうと、仕事は仕事である。旅をして、いいホテルに泊り、美味《おい》しいものを食べ、あとはゴールドコーストに寝ころんでいればいい、というわけにはいかないのだ。
政府の観光局と話をつけたり、取材先の担当者と連絡を取り合ったりと、前もって渡されたスケジュールは、波子がするべき仕事でびっしり埋っている。
アシスタントという仕事に報酬がつかないのは、世界じゅう広しといえどもおそらく日本だけだわ、と波子は腹をたてた。
だったらきっぱりと断ればいいのだが、行きますと二つ返事をした手前の他に、久方ぶりの日本脱出に魅力がないわけでもなかったので、結局相手の言い分に屈して、ノーギャラで仕事を受けることにした。自分のような女がいるから、永久にこういう仕事に正当な報酬がつかないのだ、私はそのお先棒をかついでいるようなものだと、自分のふがいなさに対しても、波子は腹をたてたのであった。
一日じゅう、何もしないで働いている主婦であっても、それなりのギャラが出て当然だと思うが、波子は一応、専業主婦ではない。外国雑誌の記事などを専門に翻訳するプロダクションに属し、週に三回はそこのオフィスに出ているし、出ない日は自室で辞書を手に、与えられた翻訳をこなしている。
一日に最低五ページはこなせるとして、そのギャラは約一万円である。オーストラリア行きで七日間|潰《つぶ》れるとすると、最低七万円の損失だ。せめてその程度の保証をしてもらいたいと思ったが、水野孝子の次のような言葉で、それも口に出さずじまいになった。
「とにかく渋いのよ。わたしなんて、このシナリオハンティング、一銭ももらえないのよ。脚本を書いたって、その企画がもし何かの都合で流れたりしたら、泣き寝入りよ」
そんなものか、といったん割り切ると、波子は納得が早い。貯金から小遣い程度のものを引きだして、出かけて行ったのである。
どこかでアバンチュールめいたものを期待しなくもなかったが、取材先で逢《あ》う人たちは杓子定規《しやくしじようぎ》なお役人ばかり。第一スケジュールがきつくて深夜ホテルにたどりつくと、バーで女同士寝酒を飲むような気力もなく、バタンキューとベッドに倒れこんで、あとはぐっすり。眼覚し時計で叩《たた》き起こされるまで死んだように熟睡する。シドニーを舞台に、新婚旅行の二人の男女がまきこまれるサスペンスドラマを書くための取材なのだが、オーストラリアという国はどうも健康すぎてなかなか構想がまとまらないらしく、女流脚本家が日毎に苛立《いらだ》ちをつのらせるので、旅の後半は一日も早く取材の終る日を待ち望むような感じで過ぎて行った。
めずらしく、八時にホテルに帰りついた夜、脚本家がバーで一杯飲まないかと波子を誘った。
一日じゅう顔をつき合わせた相手と、お酒の席まで一緒にいたくないというのが、嘘偽《うそいつわ》らざる波子の思いである。
「なんだか頭が重くて……」
と彼女はこめかみのあたりを押えて言った。
「熱いお風呂に入って思いきり汗を出し、アスピリン、一錠飲んで眠ることにしようかしら」
「あら、そう」
と帰国を明日にひかえて水野孝子は失望を顔に出した。外国のバーなどに、一人では行けないのだ。食事だって、絶対に一人では行かない。メニューを指して、「これ」と言ったって通じるのだと教えても、それくらいなら食べないほうがましだというのだ。
そのくせ食欲だけは旺盛で、朝食からきちんと食べる。朝はコーヒーくらいしか受けつけない波子は、仕方なくつきあいで前に坐《すわ》り、彼女のこまかい注文をウェイターに伝えてやる。
頭が重いのはまんざら嘘でもなかったので、波子は、すみませんと謝って、なんとかお酒のつきあいをまぬがれた。水野孝子は結婚をしたことのない四十代前半の女で、年齢のわりには若く見えるが、どうしてもエキセントリックなところが鼻につく。知り合いといっても、ある雑誌に出ていたアメリカの短編ミステリーをTV化するので、その交渉と翻訳の依頼がTV局から波子の会社にあった時に担当になったのが、波子であった。翻訳したものを脚本家へ届けるようにという指示で、水野女史の自宅のマンションを訪ねたのが初対面である。その後、二度ばかりその本のことで相談を受け、夕食をご馳走になっただけである。
おそらくその時少し話した、スチュワーデスをしていたという経歴を覚えていて、今度の抜擢《ばつてき》となったのだろう。
日本を発つ前は、もう少し親しくなれるだろうと思っていたのだが、予想は当らなかった。生活のテンポが違うし、食事の好みも違う。ものの考え方も違った。
そういう感性とテンポの違いは、旅を一緒にするうえでは、お互いに苦痛なものである。
というわけで波子は脚本家水野孝子の誘いを断って、自室へ引き上げてきたのだった。エレベーターで部屋に向かう途中、乗りこんできた長身の男が、眼が合うと微《かす》かに笑った。別にどうという意味はないのである。眼が合ったら相手が男であろうと女であろうと、老人だろうと子供だろうと、色が黒かろうが白かろうが黄色かろうが、ニコリと笑うのが、こちらでのしきたりなのだ。だから波子も微《かす》かに微笑を返した。
男はバーのある三十七階のボタンを押して、後ろのほうへ控えた。
水野孝子が二十四階で降り、波子は自分の階の三十一階まで、わずかの間ながら、その男と二人だけでエレベーター内に閉じこめられた。
男は彼女の斜め後ろに静かに控えていたが、波子はいつになく緊張感を覚えた。男の使っているオーデコロン、オーソバージュが微かに匂《にお》っていた。その男性用コロンは、波子がスチュワーデス時代働いていた、ファースト・クラスのトイレに常備していたものなので、その香りはよく知っているのである。
「部屋に戻って、そのまま寝てしまうんじゃないでしょうね。気持のいい夏の夜ですよ」
軽く咳払《せきばら》いをして、男が笑いを含んだ声で、実にさりげなくそう言ったのだ。英語という言葉のせいもあるかもしれないが、決して唐突すぎるという感じも、嫌な感じも受けなかった。そこで波子は、
「気持のいい夏の夜には、どんなことができますの?」
と訊《き》き返した。相手は彼女のその応対に気をよくして、
「もちろん、いろいろなことができるけど」
と言って波子の眼をじっとみつめながら、
「さしあたっては、上のバーで、どんなことができるか一杯飲みながら相談するという手もありますよ」
陽気で屈託のない口調だった。ふるいつきたくなるようないい男というほどではないが、感じのいい清潔な印象を与える男であった。言葉のアクセントからすると、西海岸のアメリカ人らしい。ちらと見ると、プラチナの結婚指輪をしている。
三十一階でエレベーターが停って、ドアが開いた。
「そのご相談の前に、見ず知らずの方とバーで一杯やるかどうか、ちょっと部屋に帰って考えてみますわ」
「オーケイ、じゃ、少し後で?」
波子の背後でドアが閉じ、男の声がぷっつりと途切れた。
エレベーターが二十四階から三十一階まで上る間に女を口説《くど》けるのは、ニール・サイモンのアメリカ映画の中でくらいのものだろうと思っていたのに、世の中には、ニール・サイモンの脚本顔負けの人もいるものだわ。波子はいたく感心しながら自室の鍵《かぎ》を開けていた。
こんなこと、日本ではたとえエレベーターを百万回乗り降りしたって起こり得ないことだわ、と彼女は同邦の男たちのことを考えて、ちょっと鼻の頭に皺《しわ》を寄せた。ほんとうに日本人の男たちに、今のアメリカ人の爪《つめ》の垢《あか》でも煎《せん》じて飲ませてあげたいわ。もっとも、夫がエレベーターの中で他の女を器用に口説いては困るけど。夫以外の男全部に、魔法の粉をパラパラと振りかけてやるのはかまわない。
それに、日本では男と女の物語を書かせたら第一線級と折り紙つきの水野孝子みたいな脚本家が今頃、バタンキューの世界で、こんな粋《いき》な体験を知らないということが、なんとも情けないではないか。それでよく男女の話が書けるものである。もっとも彼女の脚本の男と女は、アカぬけないのは事実だ。
気持はとっくに決まっているのに、波子はわざとゆっくりとシャワーを浴び、髪を洗い、一度も肌につけていないが念のためにと持ってきていたフランス製の下着を身につけた。
念のためって? とわざと自分のことをからかった。もちろん必ずしも、ベッドに行くことだけとはかぎらない。今日び、見知らぬ男と一夜かぎりの契りを結ぶのは、非常に怖いことになるかもしれないから、ほとんど期待していない。ただベッドに行ってもいいと思えるような男性と、ベッドには行かずに夜の更けるまで差しで飲むということが、素敵なことなのだ。
たとえフランス製の下着が何の役に立たなくても、そんなことは問題じゃない。要は、そうすることで、自分が気持よければそれでいいのである。
そして、波子はしごくいい気持で髪にドライヤーをあて、メイクアップをし、持ってきて一度も役に立てなかった夜用のドレスを着て、やっぱり一度も足を通さなかった華奢《きやしや》なシャルル・ジョルダンのハイヒールをはいて鏡の前に立った。
最初から男と寝ないと決めてかかれば、事ははるかにたやすく、気楽なのではないだろうか。まだエイズなんかが知られていなかったスチュワーデス時代、旅の先々で似たようなシチュエーションに遭遇したが、相手によっては気が重くなったものである。
相手と寝なければいけないような状況に、追い込まれないともかぎらないからだ。そして困ったことに、もともと生理的に嫌な相手とはデイトをしないわけだから、しばしばそのような状況に追い込まれてきた。
夜のそのような状況で、大人の男と女が寝るの寝ないのと言い争うのは、あまりみっともいい風景ではない。そして承諾してしまうほうが、断り続けるよりはるかに容易なのだった。なぜなら、ベッドの可能性がないと知ったとたん、男というものは急速にサービスが悪くなるものだからだ。お酒のおかわりをすすめてくれないし、膝《ひざ》にこぼしても、知らんぷり。いそいそと拭《ぬぐ》ってもくれない。そしてあからさまに他の女をじろじろと眺め始めたりする。
その反対にベッドの期待が持てるとなれば、彼らはそれはマメマメしく女につかえるし、それ以上は望めないほど優しくしてくれるし、シャンペンだってご馳走してくれる。そして長い夜が陽気な笑いとセクシーな会話で延々と続き、ようやくベッドにたどりつけば、それはまたマメマメしく女を歓ばせるためのサービスを怠らない。自分だけが満足してさっさと眠ってしまうなんて男に、まだ波子は逢《あ》ったことはない。その点、日本人は……と、またしても波子は同邦の男たちを情けなく思い、ドアを開けて部屋の外へ出た。
行きずりのセックスの楽しみが期待できなくなった現在を、それはまたそれで結構ではないかと、波子は心楽しく受け入れていた。あんなこと、してしまえばどうということはない。ほんとうに身も心も愛しあった相手とではないかぎり――それも最初の三か月くらいのうちが花で――上手か下手かの違いくらいしかない。それくらいだったら、想像の世界で遊んだほうがはるかに楽しいくらいだ。もしかしたらめくるめくような夜が延々と繰り広げられたかもしれない、とあれこれ想像をめぐらせながら眠りにつくほうが、実際ベッドの中であくせく奮闘した挙句《あげく》、それほどのこともなく、性愛のあとにつきものの、生物学的悲哀を噛《か》みしめ、パートナーへの裏切りをちょっぴり後ろめたく思うより、はるかにはるかに素敵なことなのである。
その意味で、さっきのアメリカ人は理想的な相手といえる。会話が洒落《しやれ》て楽しそうだということは、既にエレベーターの中で充分証明済みだし、左手の指輪が示すとおり妻帯者であるから、何がなんでもと、さもしい言動にはまず出ないだろう。お酒を飲んで、きわどくセクシーな会話をかわし、時には大真面目《おおまじめ》に経済問題なども話し、大いに笑い、すっかり意気投合したところで、ベッドの期待を抱きつつお互いにきれいにオヤスミを言って、右と左に別れる。人生は捨てたものじゃないわ、と思うのは、そのようなつつましやかな出逢《であ》いと別れの一瞬にあるといっても決して大袈裟《おおげさ》ではない。
というわけで、波子はささやかなアバンチュール論を胸にエレベーターに乗り、三十七階で降りたのだった。
バーの中は薄暗く、ひと渡り眺めたくらいでは人の見分けもつかない。ウナギの寝床のように縦に細長く、一方が全面ガラスの窓になっていて、その眺めが絶景なのだった。
シドニー市の半分が眺められた。ふと奥のほうに眼をやって、波子はドキッとした。水野孝子の平べったい顔があるではないか。あの顔でよくも出てくるものだわ、と波子はつい悪意でもってそんなことを呟《つぶや》き、彼女にみつからないように目指す相手を探しだすにはどうすればいいかと、一瞬身をひそめた丸柱の陰で思案した。
頭が重いと断った手前だけでも顔を合わせたくない気分なのに、先刻エレベーターの中でちょっとだけ一緒になった男とさっそく調子よく待ち合わせることにしたなんてことが知れると、軽薄な女だと誤解されかねない。孝子がエレベーターで例のアメリカ人をちろちろと上眼遣いに盗み見ていたのを、波子がまた見ていたのだ。
一人では朝食にも行けないとかなんとか言って。このぶんだと案外バタンキューと眠ってしまったのは、若い波子のほうで、水野女史は夜毎バー通いをしていたのでは、と思いたくもなる。
少しバーの薄暗がりにも眼が慣れてきたので、柱の陰からそっと覗《のぞ》くと、水野孝子は何がおかしいのか、口に手をあてて笑っている。一人で笑うわけがないので、おや、と思ってもう少しよく見ると、相手がいるようだ。男である。
あのタヌキ婆あ、とつい下品にも心の中で悪態をついて、相手の男をとくと見た。
なんと、先刻のオーソバージュの男ではないか。
彼のほうが先にきていたはずだから、まさか女史と波子を見まちがえたのではあるまいか。この暗さでは近づいてくる女の大小はわかっても、顔立ちの詳細は、すぐ近くまでこなければわからない。とすると、同じ日本人ということで、彼が早トチリして、水野女史を手招いてしまったのだろう。そうに決まっている。
女史は、驚きながらも胸ときめかしたに相違ない。なにしろ相手は身なりもいやしからぬ好男子である。一瞬、言葉の障害など頭から吹きとんだとしても無理はない。
それにしても彼はびっくりしたのではないだろうか。遠目にはともかくも、眼の前に嬉々《きき》として坐《すわ》った女の顔が見えた時は。
似ても似つかぬご面相だもの。さぞかし今頃は途方に暮れているだろう。追い払おうにも、人違いだと説明しようにも、女史の語学力では理解の外だ。現に今もコロコロとうれしそうに笑っているが、彼はさしずめ、『このオカチメンコ、とっとと失せてくれ』とでも耳の中に囁《ささや》いたのかもしれないではないか。
女史に男を横取りされたあまり、波子はかっとして、ますます意地悪さをつのらせた。
とにかく、彼をこの窮地から救いだしてやらねばならぬ、と彼女は柱の陰から一歩踏みだした。
が、そのとたん、飛びすさって逆戻り。たった今見てしまった光景は、一体何なのだ。例のハンサムなオーソバージュの君が、水野女史のほうへ身をのりだすようにしたばかりか、その右手を女史の膝《ひざ》の上にそっと置き、何やら楽しげに話しかけているではないか。どう見たって、誰が見たって、女を口説いているとしか思えない図柄だ。
もしかしてあの男、ど近眼なのではなかろうか? 格好つけて眼鏡をしてこなかったものだから、この暗がりの中では、隣にいる女の顔が見分けられないのではないだろうか。だとしたら、相手がたとえ水野孝子でなくてもわからないわけだ。たとえパオパオ犬だって、口説きかねないかもしれないではないか。
それにしても水野女史の顔ときたら、ゆるみっぱなし。ケロケロ笑い続けながら、絶対にわかりもしないのに、しきりにうなずいたりしている。
とにかく出て行って、あの男の早トチリを正してやらねばと、ついに波子が決意したまさにその時、件《くだん》のオーソバージュの君が席を立つと同時に、水野女史を助け起こすではないか。
次に起こったことは、もっと信じられないことであった。オーソバージュは女史の腰になど手を回し、それは見事にエスコートをしながら、出口に向かって歩きだしたのである。
ふん、女なら誰でもいいってわけなのね、と波子はすっかり頭にきて、鼻先を天井に向けた。でなければ、東洋の女と一度はなにがなんでもやってみたかったのだ。それならそれで、ちゃんと眼鏡でもかけてきて、相手を選べばいいのに。パオパオだなんてあとで知ったら、さぞかしギョッとすることだろう。是が非でもその時の顔を見てやりたいものだ。波子は身をひるがえして二人の後を追い始めた。けれども同じエレベーターに乗り合わすわけにはいかないので、どちらの部屋でことが展開されるのかは、神のみぞ知るである。映画などによく出てくる旧式のエレベーターだと、扉の上に停る階の明りがつくから、それで犯人などを追いかけたり、追いかけられたりするシーンが可能になるのだが、オーチスの最新式のエレベーターでは、それがわからない。
トンビに油揚げさらわれたとは、まさにこのことだ、と波子は内心舌打ちしながら、次のエレベーターに乗り込んで、自室へ戻ることにした。ふん、なにさなにさ。せっかく綺麗《きれい》なフランス製のパンティはいてるっていうのに。
それにしても水野孝子にはあきれるではないか。ろくに言っていることもわからない男と一夜を過ごすなんて。無防備にもほどがある。いくらオールドミスでその機会に乏しいとはいえ、危険を承知なのだろうか。
それに外見は普通でも、ひと皮|剥《む》くと異常さを現わすさらに怖《おそろ》しい男もいるのである。一夜明けて惨殺体となって発見されたら、どうしよう。
にわかに不安になって、波子は水野孝子の部屋のダイヤルを回し始めた。
しかし呼び出し音が虚《むな》しく鳴り続けるばかりで、答えはない。とすると、アメリカ人の部屋へ行ったのだ。総客室が四百もあるホテルルームに、いちいち電話をかけるわけにはいかない。波子は途方に暮れて、ベッドにどすんと尻《しり》をついて仰向《あおむ》けに倒れた。
人にこんなに心配をかけるなんて。ヤキモキして一晩じゅう、眠れないではないか。今頃あのパオパオはどんな顔をしてもだえているだろうか。もしかしてあのひと、処女だったりして。
いくら追い払っても妄想が妄想を呼んで、眠ろうにもかっと眼が冴えて眠れない。ついにほとんど一睡もしないまま、夜明けを迎えた。
四度ばかり電話を入れてみたが、ついに女史は部屋に戻らなかった。ということは、多分殺されたりはしなかったのだ、と疲れてむくんだ顔を洗いながら波子は考えた。別の部屋で死体がみつかれば、その部屋に泊っている人間がまず疑われる。
もっとも、バラバラにされて海に投げ捨てられれば、直ちにサメの餌食《えじき》となって、水野孝子は永久にみつからない。
そんなことになれば、波子も重要参考人として取り調べを受けることになる。場合によっては殺人の疑いをかけられないともかぎらない。
その時、リーンと電話が鳴ったので、波子は飛び上がった。そら、おいでなすった。シドニー警察の殺人課からだ。
「ハロー」
おそるおそるそう言うと、
「何がハローなのよッ。おはよッ」
と、それは晴ればれとした水野孝子の声が耳にがんがん突き刺さってきた。
では無事だったのだ。安堵《あんど》とともに闇雲《やみくも》に腹が煮えくりかえった。
「いつまで眠ってるのよ、波子さん。もうさっきから朝ごはん注文しないで、ずっと待ってんのよ。早く来てちょうだいッ」
それだけ一気に喋《しやべ》ると、ガシャンと電話が切れた。
内心ムカムカしながら中二階の食堂へ。水野孝子が満面これ笑みといった感じで、大きく手を振っている。
「わたし、低血圧だから、朝、機嫌悪い人なのよ」と宣言して、事実、午前中はぶすっとしている同じ人間とは思えない上機嫌さである。
「何かいいことでもあったんですか?」
と、相手の前に坐《すわ》りながら、つっけんどんに波子が言った。別に何があったかなんて訊《き》きたくもないので、語尾を上げない訊きかただった。
「別に何もないわよ」
ケロリと言って、女史が質問に質問で答えた。
「あなたこそ、どうしたのよ? 顔、むくませちゃって」
「眠れなかったんですよ」
「眠れないなんて、そんな繊細な神経していないくせに」
と、いつもながらずけずけと言った後、何を思いだしたのかニヤニヤと独り笑い。おお嫌だと、波子は思わず相手から眼をそらせた。
「それより先生、昨夜はどちらへ?」
「どちらって? 別にどちらへも行きませんよ」
「あら、ご冗談を。夜じゅう、電話にお出になりませんでしたよ」
「おや、バレたか」
と水野孝子はペロリと舌を出した。
「それよりあなた、夜じゅう電話って、何か急用だったの?」
「いいえ、それが、その」
と波子は一瞬言葉につまったが、「今日のスケジュールで確認したいことがあったものですから」と逃げた。
「それよりも先生、昨夜はまさか、アバンチュールでは?」
「フフフ」
「フフフって、そうなんですか?」
「ヤボなこと、訊《き》きっこなしにしましょ」
「まあ、あきれたわ、先生」
「あきれることないでしょ? あなただって結構うまくやっているんじゃないの?」
「私はもう毎日こき使われて、ベッドにたどりつくのがやっと。バタンキューの世界ですよ」
と、憮然《ぶぜん》と波子が答えた。
「毎晩?」
「当然ですよ」
「それこそあきれたわ。その若さで何ですか」
「じゃ先生は、毎晩あの後、バーへ?」
「実はね、何を隠そう、そうなの」
「ま、毎晩アバンチュールを?」
「相手には事欠かなかったわね」
「とっかえひっかえ?」
「わたしは、バラエティーを好むから」
へえ、と腰が抜けそうになって、波子はまじまじと眼の前の中年女を眺めた。このひと、見かけによらない怪物だわ。
「知りませんでしたわ、先生にそんな面がおありだなんて」
「私がというよりは、私の中の作家魂がそれを要求するのよ」
と水野孝子は、ちょっと神妙な顔をした。作家魂だなんて都合のいい言葉だ、と波子は思った。
「だって、そうでしょう? 男と女の脚本書いていて、その当の本人が男と女のことに精通していなかったら、これはもう一種のサギだわよね、そう思わない?」
それはその作家によるのではないでしょうか、と言いたいところであったが、波子は黙っていた。何もかも実体験だなどと、言って格好のつく人もいれば、そんなことは言わないほうがはるかに格好のつく人もいる。いずれにしろ、そんなことはごく個人的な問題であって、波子がどうのこうのと言えることではない。
「できることなら、先生のような方は神秘のヴェールに包まれていていただきたいわ」
と、ちくりと皮肉を言う程度が無難であろう。
「あらまあ、波子さん」
と水野孝子は顔の前で、だめよ、というふうに手をひとふりして、
「私たちだって霞《かすみ》ばっかり食べていくわけにはいかないのよ」
と、のたもうた。
ありがたいことに、あと七時間ほどで仕事は終る。夕方の飛行機で帰路につくことになっている。かねがね水野孝子の脚本では、どうも男女の関係が深まっていくプロセスに説得力がないと感じていたが、そのわけも、今回の旅でなんとなくわかるような気がした。彼女自身、プロセスなんてどうでもいい人間だからだ。特にオーストラリアでは、プロセスはチンプンカンプンで、全て割愛せざるを得ないだろう。孝子がコーンフレークスに、目玉焼き二つと、ソーセージ、トースト三枚といった食事をたいらげるのを待って、二人は腰を上げた。
さて、帰りの飛行場で、ようやくお土産《みやげ》を買う時間がとれて、二人は免税店をうろうろしていた。
孝子が香水売場で熱心に品定めをしている。ちらと見ると、男性用オードトワレに関心があるらしい。
「ねえ、ちょっと波子さん。通訳してくれない?」
孝子に呼ばれて波子が行くと、
「さっきから何度言っても通じないのよ。ディオールで出している男性用の香水を、いくつか出してほしいと頼んだんだけどね」
と、さすがに照れ臭そう。
「ディオールで出している男性用は、いくつかありますけど、名前は知りませんの?」
「それがねえ、忘れちゃったのよ」
「お土産ですか? お安くないですね」
「そんなもの、あげたいような人、いないわよ」
「じゃ、男性用オードトワレなんて、どうなさるの?」
「ま、いいじゃないの」
と言った孝子の横顔を見て、波子はぴんときた。香りで、情事の相手を偲《しの》ぼうというのである。水野女史も可愛《かわい》いところがあるではないか。
すっ、と波子はオーソバージュの瓶《びん》を水野孝子の前に置いてやった。それをシュッと手首に吹きつけて香りを嗅《か》ぐと、女史はニッコリとうなずいた。少なくともこれで、彼女の書く脚本には香りの味つけが加わるだろうと、波子は肩をすくめ、夫の土産を物色するために、彼女もショーウィンドウの中を覗《のぞ》き込んだ。
第5話 ミ ル
ミ ル〈"1000"〉
ローズ・センティフォリア、オスマンサス、香りすみれなど稀少な天然香料のみを調合した、ジャン・パトウの贅を尽くした香水。香りがゆたかで、持続性がすぐれている。
ニューヨークのプラザ・アテネのロビーですれ違った女のことが妙に気になっていた。
世の中には国籍不明に見える人間がごくたまにいるものだが、その女がまさにそうだった。
スペイン人のようにも見えるし、香港《ホンコン》あたりに住んでいる大金持の中国人の娘にも見える。もちろん東京で見れば、日本人の女に見えるかもしれない。
気になるのは、しかし、国籍不明に見える顔のことではない。
では何がひっかかるのか。
研吾は肩を動かさずに首だけひねって、レセプションのあたりをふり返ってみた。その女がホテルの若いコンシェルジュと何事か話しこんでいる。ミュージカルかオペラの切符でも頼んでいるのかもしれない。
コンシェルジュは、アメリカ人にしてはあまり大柄ではない。フォトジェニックという言葉がぴったりである。
そういえば、このニューヨークでも最高級のホテルで働いている従業員は、みんなどこか共通点があるような気がする。女はほっそりとして身長は百六十センチどまり。男たちも総体的に細身だが、身長の制限はないらしい。アメリカ人というよりはヨーロッパの人間を思わせる。洗練と知性がスノッブなほど漂う。態度はしかし、無礼にならない程度に慇懃《いんぎん》。
女の従業員は、キャリアウーマン風の黒いスーツを着ていて、どれもすごいような美人|揃《ぞろ》い。ただし、例外なく眼鏡をかけている。
それぞれが自分の顔に似合った、デザインの違うもの。眼鏡はおそらく、度が入っていないのに違いない。ユニフォームと同じに、非個性的に見せるための、ホテル側の強要する小道具なのだ。研吾はほとんどそう確信していた。
あんまり美人だと、客のほうが気おくれしてしまうからだ。何しろこのホテルにはヨーロッパやアジアやアラビアからの、超金持の男女が泊りにくる。超金持の女たちというものは、金で解決がつかないものに対して、異常に敵対心を抱くものなのだ。
だからホテル側では警戒して、超美人に、ブス眼鏡をかけさせているのだろう。
そう、プラザ・アテネの従業員全部に共通していえるのは、フォトジェニック。ごついガードマンやドアマンまで、フォトジェニックなのだ。
なかなかのものだな、と研吾はひどく感心して、もう一度、と件《くだん》の女を盗み見た。遠くから見たかぎりでは、以前どこかで逢《あ》ったような感じはしない。それを強く意識したのは、すれ違い際である。遠目には、膝《ひざ》から下が長くて、足首が細く、靴は華奢《きやしや》だ。なかなかいい女だな、と研吾は胸の内で呟《つぶや》いた。
エレベーターから降りてくる人々の顔の中に、須藤和子はみあたらない。約束は六時だった。研吾はこぢんまりとしたロビーの中をゆっくりと眺め回しながら、こういういわゆる贅沢《ぜいたく》なヨーロッパ風の粋を集めたホテルは、とうてい日本では建てられないだろう、と思った。
第一に地価がばか高すぎる。第二に、この手の客室五十ばかりの小さなホテルでは、ソロバンが合わないだろうこと。第三に、いわゆるヨーロッパ風の贅沢を満喫するところまで、日本のホテル業者も、それを利用する客も、造る側の建築家も、その意識や趣味が達していない。残念なことに、と研吾は呟いた。俺《おれ》も一応建築家なんだが、な。
いわゆるオーソドックスな贅沢というやつ。こいつがいちばんの贅沢なのだ。そしていちばん扱いにくいやつである。
コンシェルジュと話しこんでいた女の姿が消えていた。研吾は眼で女の姿を探した。素晴しい鹿革《バツクスキン》のスーツを着ていた。多分ジャンフランコ・フェレ。すごいミニだ。こうみえても研吾はファッションになぜか詳しかった。
ファッションと建築デザインは酷似しているというのが研吾の考えだった。ともに人を容れる器である。
そういえば、ジャンフランコ・フェレも、建築デザインをするはずじゃなかったか、と研吾はふと思った。
ジャンフランコ・フェレのミニスーツが、視界をさっと至近距離で過ぎた。あぁ、匂《にお》いだ、と研吾はほとんど声に出して言うところだった。
女に見憶《みおぼ》えがあるのではなくて、その女のつけている香水かオーデコロンの匂いに記憶があったのだ。
とたんに、その女をどこで見かけたのかを思いだした。そのどこか高貴でスノビッシュな香りのおかげで、記憶が鮮やかによみがえったのだ。
新宿というよりは四谷《よつや》寄りのピアノバーでだった。ひらたくいえば、カラオケバーだが、オーナーはそう呼ばれるのを好まない。ピアノとベースとドラムスで、客の歌の伴奏をしてくれる。要するに少しは高級路線を狙《ねら》ったわけだ。値段のほうも高級路線だが――。
そこで、『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌った女だ。曲の名前などめったに覚えないのだが、その曲名だけは知っていた。それを持ち歌にしている女の歌手に、一時期熱を上げていたことがあったからだ。もちろん相手は知らない。勝手に、一方的に熱を上げただけの話である。
実はその歌手には、青山の別のピアノバーで一度だけ逢《あ》っている。その時彼女は亭主らしい男と一緒で、ひどくご機嫌の様子だった。めったにそういう場所でプロの歌手が歌を披露することはないのだが、そして彼女もまた例外ではなく、それは初めてのことだったらしいが、どういう風の吹き回しか、例の曲を歌ってくれるということになったのだ。
研吾は、グランドピアノのカウンターに肘《ひじ》をついて、その歌声に聴き惚《ほ》れた。
奇妙なことに、すぐ鼻の先で歌っている歌手の顔が、なぜだかまともに見れなかったことを、今でもはっきりと覚えている。時々たまらなくなって、チラリと盗み見をすると、白い喉《のど》がのけぞり、カーリーヘアーが黒い炎のように宙に舞うのが見えた。官能的だった。
というわけで、四谷に近い、スノッブなカラオケバーで『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌っていたその女に対しては、はなから冷笑的というか批判的だった。何しろこっちは眼と鼻の先で本物が絶唱し、喉をのけぞらすのを見てるんだ。いや聴いたんだ。
それに、その女は、かなり普通の感じの、そこいらによくいる、高校を出て勤め始めて六、七年のOLといったタイプ以外の何者にも見えなかったのだ。
着ているものが原宿あたりのデザイナータイプで、一応流行にのってはいるが、布地にも縫製にも配慮がゆきとどいていない。そういう服を平気で着る女には、研吾は全然興味を示さない。自分に主張がない女は好みではない。仮にも自己主張があれば、あんなヘラヘラしたスカートに中途半端な上着丈のスーツを着るわけがない。第一、色感が最低だった。黄緑。全然似合ってもいなかった。
髪も後ろにひっつめて茶色いリボンで結んでいるだけ。
それにしても、俺もよくそんなささいなことまで覚えているよな、と、研吾はここニューヨークのプラザ・アテネのロビーで、和子が現れるのを、今か今かと待ちながら、ひとりごちた。
そうだ、そんな面白くもおかしくもない女のことを憶《おぼ》えているのは、歌い終って研吾の後ろを通り過ぎた時、かなり強く匂った香水のせいなのだ。女の身なり風体とはちぐはぐな、優雅にしてスノッブな香りであった。
しかしそれだけのことだ。声をかけたいような女でもなかったし、そのまま忘れてしまったくらいだった。
このホテルで見かけた女は、あのピアノバーの女とは、ほとんど別人のようだった。匂いのことさえ思いださなければ、二人の女はひとつに結びつかなかったろう。服装も極端に違えば、髪形も違う。第一、化粧法が天と地ほど違う。
しかし同一人物だ。研吾の眼は、そういうことには並はずれて鋭い。彼にはさっき二度すれ違った顔の上から、あのどぎつい化粧を取り去り、ジャンフランコ・フェレを脱がせて原宿ファッションに着せかえたら、ピアノバーの女であるということが、確信をもっていえる。
研吾には妙な特技みたいなものがあって、どんなに厚化粧の女でも、想像力の中で、その素顔がちゃんと見えてしまうのだ。もちろん、そうしようと思って意識を集中すればの話だが。
それにしても、ピアノバーの普通のOLが、ニューヨーク一高級なホテルで何をしているのだろうか。
コンシェルジュとペラペラやっていたのを見ると、英語も達者のようだった。
あの普通のOLと、今のジャンフランコ・フェレを着こなした国籍不明の女のタイプと、一体どっちが本物なのか。
またエレベーターが止まって人々がぞろぞろと出てきた。和子は小さいのですぐには見つからなかったが、アラブの石油王みたいな巨大な肥満男の陰から、いきなり飛び出してきて、ヒラリと手を振った。こうして外国人に混じって和子を見ると、彼女が小柄なのにもかかわらず、何の遜色《そんしよく》もないことに、研吾は改めて舌を巻く思いがした。
小さくたって、ちゃんと人間やっている、という感じ。日本人の若い女でも、きちんと大人の女をやっているんだって感じが漂っている。研吾の胸は誇らしさで満たされた。
彼女はごくさりげなく見えるがすごく上等なカシミアの、シンプルな丸首のベージュのセーターに、これもまたごくシンプルだが実は眼の玉が飛び出るような値段の南洋真珠の一連の首飾り。同色のスリットの入ったスカート。多分シャネル製と思われるカシミアの淡いトルコブルーのストールは、首に巻かずに、両脇《りようわき》に垂らしている。ベージュと真珠色と淡いトルコブルー。つまりヨーロッパやニューヨークあたりの超金持ちな生活をしている女たちの好む色だ。その昔、グレース・ケリーもその配色が好きだった。
願わくば、髪はブロンドでありたい。濃いくり色の和子の髪だと、少々重い感じがする。グレース・ケリーが百点とすれば、和子は七十五点といったところだ。しかし、日本人にすれば大出来も大出来。拍手してやりたいくらいだった。
「何よ、ニヤニヤして。逢《あ》うなり気味が悪いわねぇ」
と、気持の良いアルトソプラノで和子が言って、研吾の左頬《ひだりほお》に軽く自分の頬を押しつけ、さっと身を離した。
「豪勢なホテルに泊ってるんだな」
と研吾は言った。
「あら、そうでもないわよ。一流のホテルより二十五ドル程度、高いだけよ」
「しかし、金を出せば誰でも泊れるってわけじゃないぜ。現に俺は、日本での予約で断わられた」
「それはね、あなたが昔の全学連の学生みたいに、闘争的で薄汚いジーンズなんてはいて行くからよ」
和子はそう言って、研吾の服装を点検するように、わざとジロジロと見た。
もっとも今日の研吾はジーンズではなく、オーソドックスにきめている。いや、きめているというふうに見えないように、きめている。もしかしたら中華街かイタリアン・レストランで皿洗いをしている男かもしれないが、ことによると、どこかアジアの国の大臣の息子《むすこ》かもしれないと思わせるような。くつろいで、こざっぱりとしていて、実はよく見ると安物ではない。決め手は、腕時計。ブルガリをさりげなく、軽く巻き上げた袖口《そでぐち》からのぞかせる。
俺も嫌味な男だなと反省しつつ、研吾は和子と共にホテルのバーへ入った。エレベーターのすぐ左手だ。三十人も入れば一杯の広さで、グランドピアノがその大半を占領している感じだ。上等の革製の椅子《いす》が配置されており、ヨーロッパ系の男がすでに寛《くつろ》いでシャンパンなどを飲んでいる。
バーの奥がホテルのレストランの入口になっている。トルコブルーに金をあしらった制服のウェイター達が、音も立てず移動している。湖水を行くウインドサーフィンのような動きだ。
驚いたことに、和子と坐《すわ》った席の隣に、ジャンフランコ・フェレの女がいた。一人である。研吾と女の視線がそこで初めて出逢《であ》い、一瞬|絡《から》んだ。
和子が素早くそれを見とがめて、軽く研吾の脛《すね》を蹴《け》った。ジャンフランコ・フェレの女を完全に無視して、一瞥《いちべつ》だにしようともしないところを見ると、逆にかなり気にしているのだ。
ぎんぎんに飾り立てている女より、きみのほうがはるかに趣味もいいし、上等だよ、と後で和子にそう言ってやるつもりだった。
和子はマティニーを、そして研吾はドライ・シェリーを一杯ずつ注文した。隣の女は、どうやらジントニックかウオッカトニックを飲んでいるらしい。
「明日は何するの?」
と和子が質問した。
「仕事」
研吾はあっさりと答えた。
「仕事なのはわかってるわよ」
和子が気を悪くしたように眉《まゆ》を曇らせた。
「デザインセンターで、展示の説明だよ」
研吾のこれまでの建築設計の模型とかデザイン、写真、ビデオフィルムなどが、ディスプレーされているのだ。彼はニューヨークのオーガニゼイションから名指しで世界の若手建築デザイン展へ参加を求められた、日本人の三人の建築家の一人である。むろん費用は全てあちらもち、ただし、ホテルも指定されていて、それ以外のところ、例えばこのプラザ・アテネに泊りたければ、自費ということになる。
その話が具体化すると、和子が一緒に行きたいと言いだした。来てもいいが、めんどうはいっさいみれないかもしれない、なにしろ俺は仕事で行くんだから、ともったいをつけて言ったが、和子は意にも介さなかった。買いものをしたり、ニューヨーク在住の友達に逢《あ》って喋《しやべ》ったりしていれば、退屈しないわ、と言ったのだ。それで研吾が一足先にニューヨークに発ち、二日遅れて和子が到着したのだ。彼女は例によって自分にいちばん似合うホテルを選んだというわけである。
研吾は、和子の趣味の良さを愛していた。建築家の妻となるような女が、悪趣味では困るのだ。
「きみは明日、誰に会う予定?」
と今度は研吾が質問した。
「二人ばかりアポイントメントがとれてるの。もっとも、あなたの知らない人たちだけど」
「男かい」
「コーネル大学の時のクラスメートよ」
和子は聖心のインターナショナルスクールに高校まで行って、アメリカの大学で四年間児童心理学を学んだのだ。もっとも現在は、仕事という仕事にはつかず、時々広尾の母校で頼まれると、小さな子供たちを相手にしているらしい。要するに臨時の保母である。もっとも彼女の夢は将来、自分の幼稚園をつくることである。その資金は彼女の父が出すことになるのだろう。金のかかる娘である。研吾も、和子の夢につきあわされ、これまでにない自由奔放な発想で、子供たちのための楽園を設計することを約束させられている。
設計料は格安にしてもらうわよ、と彼女が当然のことのように言ったので、正規の料金を払わなければいい仕事はできないのだと研吾が言い返し、しばらく口もきかないこともあった。
「それでは答えになっていないよ」
と研吾が言った。
「男性よ」
と和子が答えた。別に悪びれる様子もない。
「ランチにピザ食べる約束したの」
「なんだピザか」
と研吾は鼻の先で笑った。
「あら、ピザっていったって、東京で食べるようなのを想像しないでよ。一度あなたも連れていくけど、絶対にピザの概念が変わるわ。私の好物はね、本物のロシアのキャビアがふんだんにかかっているやつ。もう最高なんだから」
「キャビアのピザだって? 妙なもんがあるんだな」
「聞くと食べるとは大違いなの。やみつきになるのよ」
そんな他愛もない会話をして、奥のレストランに二人は移動した。ジャンフランコ・フェレの女はあいかわらず一人で、二杯目の飲みものを啜《すす》っていた。誰かを待っているのだろうか。
食事が済んで、バーを通りかかった時には、当然のことながら、女の姿は消えていた。和子と研吾はタクシーでブロードウェイの外れにある、ちょっと名の知れたジャズバーへ出かけて行った。
予約をしていなかったので、当日売りの長い行列の後ろに並ばねばならなかった。並んでいるうちにも彼らの後ろにまた長蛇の列ができた。
実に様々な人間が入り混じって並んでいた。黒人もいれば白人もいる。黄色い顔も赤褐色もある。どこかのパーティの帰りか、タキシード姿の男にイブニングドレスの女の組み合わせもいる。白人の女と黒人の男が眼と眼を見合わせている。そういえば、白人の女と黒人の男の組み合わせはたまに見かけるが、その逆は公の場ではほとんど見ない。
ようやく中に入ると、もう満員で、かなり後ろのほうの席しか空いていなかった。舞台とは名ばかりのスペースにむけて、テーブルつきの椅子《いす》が、学校の教室のような感じに、びっしりと並んでいる。舞台には、まだベースを奏《ひ》く黒人が一人だけでいて、調音をしている。
その十分後に演奏が始まったが、その夜のメンバーは、ニューヨークではかなり有名らしかった。研吾たちは知らないが、ジャズでもかなり哲学的というかクラシックの部類に属する。いわゆる躰《からだ》を揺すったり手拍子を打ったりして聴く側が参加するてあいの演奏ではない。それこそクラシックの音楽会に行ったように、緊張して聞き耳をたてる。
一時間もすると、研吾も和子も耐えがたい疲労感を覚えた。それで限度だったが、さすがニューヨーク人種はタフである。小休止をはさんでまた始まる二部の演奏も聴く人が大半だった。研吾と和子は、この素人《しろうと》が、というようなあからさまな軽蔑《けいべつ》の視線を浴びながら、退出した。途中で出てしまう客は他には皆無だった。
和子を送る帰りのタクシーの中では、二人は無言だった。東京から着いたばかりの和子は上瞼《うわまぶた》と下瞼がくっつきそうだと言って、研吾の肩に頭をもたせかけていた。白い花を思わせる淡い香りが、彼女の髪の毛からしていた。
「きみのその香り、何ていうの?」
不意に、ジャンフランコ・フェレの女を思いだしながら、研吾が訊《き》いた。
「香水? 今日のはカルチェのオードトワレだけど」
「ふうん」
と眼を閉じた。
「私、香水をプンプンつけるの好きじゃないのよ。なんだか男に媚《こ》びるみたいな気がするから」
眠そうな声で和子がそう言った。
「ほら、さっきホテルのバーで隣にいた女みたいなのって、最高にヤボなのよ」
研吾が視線を絡めたことを皮肉って、和子が必要以上に辛辣《しんらつ》に言った。
「そうかな」
「そうよ、何もかも最高級を身につけてますって、宣伝して歩いているみたいよ。ヤボの骨頂」
「厳しいね」
「ジャンフランコ・フェレに『ミル』とはね」
和子は投げ槍《やり》に言って、口をつぐんだ。眠りが急速に彼女を襲ったようだった。軽い寝息が研吾の耳に届いた。
その夜は、ホテルのエレベーターのところで和子と別れた。彼女はちょっと上がってきてもいいような口振りだったが、研吾は彼女の額に接吻《せつぷん》だけして、おやすみと言った。
エレベーターが閉まると、彼は踵《きびす》を返しかけてふと考え直し、|寝 酒《ワン・フオー・ザ・ロード》を一杯ひっかける気になって、先刻のバーを覗《のぞ》いた。
照明がさっきよりも一段階暗くなっており、白人の初老の男が静かに一九四〇年から五〇年にかけてのジャズを奏いていた。音楽というよりは、そよぐ風のようだった。研吾はバーの中をゆっくりと見回して席を探した。
ピアノの向こう側の隠れるような位置に、見憶《みおぼ》えのある顔があった。三度、いや四度目かな。やけに偶然が重なるものだと、研吾は苦笑した。
女は今度も一人で、クリスタルのグラスをやけに重そうに手で持っている。飲みものは、多分、アレクサンダーだ。
研吾は、躊躇《ちゆうちよ》せず、まっすぐにバーの中を横切ると、女の前に立った。
「よく一緒になりますね。一人ですか」
と彼は、一応儀礼にかなった言い方で尋ねた。
女は研吾を見上げ、唇の端だけで微笑した。
「以前、どこかでお逢《あ》いしなかったかな」
と彼はさりげなく言って、女の横に坐《すわ》った。
「どこで?」
「六本木か西麻布《にしあざぶ》か、四谷あたりのピアノバーで」
女の表情がわずかに動いた。が、
「人違いじゃないかしら」
とあっさりと否定した。
「以前どこかで逢ったことがないと、不都合でもあるの?」
と続けて言った。なかなかユーモアがあると、研吾は急に胸の中が華やぐのを感じた。
「いや。それはないな。男と女の間に不都合なことなど、ありません」
そこで彼は、わずかに口の端を歪《ゆが》めるような微笑を、たっぷりとみせた。たいていの女が、彼のその微笑にまいってしまうことを、研吾は体験的に知っていた。
「ニューヨークへは、仕事で?」
と研吾は訊《き》いた。女はただ肩をすくめただけだった。
「泊りはこのホテル?」
女はうなずいた。
「よくここに泊るの?」
すると女は、さも軽蔑《けいべつ》したようにこう言った。
「見かけによらないつまんないことばっかり質問するのね」
「まいったな」
と研吾は、本当はたいしてまいってもいなかったが、首の後ろに手をやった。
「どんなふうにアプローチすべきかと思ってね」
「それで、サメが獲物のまわりをぐるぐる回るように探ったわけ? そんなの時間の無駄よ。いっそのこと、直截《ちよくせつ》にアプローチしてみたら? いずれにしたって、最後にはイエスかノーしかないのよ」
不意に背中を、一滴の冷たい汗がしたたり落ちるような気が、研吾はした。しかし彼とて男だ。ここで怯《ひる》んでいる場合じゃない。
「で、答えは? イエスorノー?」
まっすぐに女の顔をみすえて、もう一度例の、女の官能をとろかすような笑みを浮かべた。
長い沈黙のあと、研吾がほとんどあきらめかけた時、女がゆっくりとうなずいた。
「いいわ。イエスよ」
女は研吾の唇の端をみつめながら、うっすらと笑った。そして先に立って腰を上げると、彼をうながすように見おろした。
その夜を境に、研吾はその女に惚《ほ》れてしまった。奇妙にもミステリアスな女で、敬子という名前の他には何ひとつ明らかにしようとしなかった。和子と同じホテルに泊っているということは具合が悪かったが、逆にその障害のせいで、彼はなおのこと、その情事に溺《おぼ》れていくのだった。自分でも天才的だと思うくらい、二人の女をたくみに操った。敬子のほうは和子のことを知っていたが、和子には敬子の存在を気づかせるわけにはいかなかった。
和子に対する後ろめたさが、ないわけではなかった。けれども和子が陽なら、敬子は陰だった。健康で優雅でどこもかも清潔な和子に比して、敬子は不健康であり、野卑なところがあり、猥雑《わいざつ》であった。その両方に同じように研吾は魅《ひ》かれた。どちらが欠けても、彼の人生は完璧《かんぺき》でないような気がした。
幸い、ニューヨークでは仕事があるということで、和子の眼をごまかすことができた。研吾には現状を生きるだけが精一杯で、東京に戻った後、三人の関係がどうなるのか、まるきり考えることもできなかった。
ニューヨークに和子が来て四日目のことであった。夕食の後、和子をホテルの前まで送り、研吾はうまくも一人になった。近くの公衆電話ボックスから、ホテルの敬子の部屋番号を言った。
フロントが出て言った。
「その部屋にお泊りのお客様は、今日の夕方チェックアウトなさいました」
「チェックアウトした? で、どこへ行くって?」
研吾はかっとして大声で訊《き》いた。
「それは、私どもでは……」
とフロント係の冷たい声が答えた。
「すみません」
と、研吾は、電話を切った。敬子がいなくなって初めて、自分がどちらの女に余計に、男として――もっとありていに言えば肉体的に――魅かれているかがわかった。敬子のほうだった。
「あなた、変よ」
と、朝食を一緒に食べることになっていたので、翌朝和子のホテルを訪ねると、開口一番、和子が言った。
「変?」
「そうよ。眼が濁って血走ってる。何かあったの?」
「何かあったかって?」
と、研吾は眼の前のエッグベネディクティンを押しやりながら、茫然《ぼうぜん》と相手の言葉をくり返した。
「そうだ、あったんだよ、何かが」
不意に両手がわなわなと震えた。
「俺、女に惚《ほ》れぬいちまって――」
自分でも驚いたことに、研吾は婚約者に白状しているのだった。
「女って?」
和子の顔が急に白くなった。
「こっちで知りあった女。『ミル』の香水をつけてた女」
「そのひとがどうしたの?」
和子が死んだような声で訊《き》いた。
「消えちまったんだ、ゆうべ。俺に一言の伝言も残さず」
震える手で思わず顔を覆った。どうしたというのだ? いつものクールな研吾はどこへいった? 彼は胸の中で叫びだした。
「そのひとと、いつ逢《あ》っていたの?」
和子はあくまで静かだった。
「毎日。毎晩だ」
「だって、私とも毎日毎晩逢ってたじゃないの」
軋《きし》んだ悲鳴のような声だった。研吾は思わず頭を垂れた。
「すまん、すまない」
和子はそれを無視して続けた。
「それで、その女が消えてしまって、苦しいわけね、あなた。とても苦しいの?」
研吾は何度もうなずいた。
「ごめん」
「人を好きになることをとめることはできないけど――」
と遠くのほうから聞こえるような声で、和子が言った。
「同じ夜、私のベッドからその女のベッドへ移っていったってことは、許せないわ」
そのとおりだ。
「なぜなの? なぜそんなこと、私に知らせたの? 黙っていることだってできたじゃない。残酷だわ」
和子の声が急にひび割れた。
「知らないでいたら許せても、そんなこと知った後では、もうあなたを許すことはできないわ。私、あなたをまだすごく好きなのよ。酷《ひど》いわ」
それが和子の限界だった。彼女はバッグを取り上げると、レストランから走り出て、研吾の前から消えてしまった。彼はニューヨークの四日間に、二人の女を失ったことを感じた。
東京に戻って研吾が真っ先にしたことは、四谷のピアノバーへ行くことだった。開店と同時に店に飛びこむと、マスターをつかまえていきなり訊《き》いた。あの女を覚えているかい? ほら、『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌った女だよ。あんまり上手《うま》くなかったけど。
「そう言われても。あの歌を歌う女は多いですからねえ」
とマスターは困惑して首をかしげた。
「二か月か三か月前だよ。黄緑のツーピースを着た、あんまり目立たない女だった」
「ああ、もしかしたらあの子ですかね」
とマスターが言った。
「たしか丸の内の外資系の商社に勤めてた子でしょう」
「勤めてた?」
研吾はマスターの使った過去形をくりかえした。
「ええ。なんといったっけかなあ、彼女……」
「敬子……?」
「下のほうは覚えてないですがね。あの子がどうしたんですか?」
「今どうしているか、マスター知ってるかい? 居所とか勤め先とか?」
研吾はワラをもつかむ思いで訊いた。
「あの子は確か先月いっぱいで退社したそうですよ。何でも、九州のほうで、親がみつけてきた相手と結婚することになったそうで」
マスターは、グラスを拭《ふ》きながら淡々と語った。
「あんまり本人は乗り気じゃない結婚話らしいが、地元の歯医者だとかでね。青春は終りよ、とか言ってましたねぇ。そうだ」
と彼は何かを思いだしてつけ加えた。
「結婚する前に、退職金を全部はたいて、ニューヨークへ行くって言ってましたっけ。そこで思う存分、最後の青春をやるんだって。実行に移したのかなぁ。彼女――」
研吾は黙って踵《きびす》を返してバーを出た。もちろんさ。彼女、青春をやったよ。見事に。ニューヨークで。初夏を思わせる風が研吾の顔を柔らかく打って吹き過ぎた。
第6話 |石 の 花《フルール・ド・ロカイユ》
|石 の 花《フルール・ド・ロカイユ》〈FLEURS DE ROCAILLE〉
岩間に咲く花をイメージしたエレガントな香り。ジャスミン、ローズ、イランイランなどのフローラル・ブーケ調で1933年発売の古典的な香水。キャロン社の代表作。
彼は待ち合わせの時間にいつも十五分遅れてやって来る。一度だって、定刻に現われたためしはなかった。ついに最後まで、約束の時間を守ることはなかったというわけだ。それなりにポリシーが通っている。他にポリシーなど何もない男だったけど。
彼が気にするのは自分のことだけ。それも自分が充実しているかどうかということよりも、現在が自分にとって快いか不快かだけで物事を選択する。不快なことは、全て切り捨てていく。それで通っていく。世の中が彼に対して甘いのだ。世の中というよりも、女たちが、と言いかえたほうがいい。
どんな女だって、彼を眼の前にしたら、自分が溶けかけたバターのような気がするものだ。そういう天性の魅力を持った男が、ごくたまに存在する。
一眼見た時、私には彼がどういう種類の男であるかが、ほとんど正確にわかっていた。その種の男の女に対するアプローチの仕方も、狙《ねら》いも何もかも。そして彼は滑稽《こつけい》なほど、その種の男の定石《じようせき》通りに私に近づいて来た。
いや、近づいて来たというのは正確な表現ではない。その種の男は、自分からは積極的に初対面の女にアプローチはしない。女のほうから自分にアプローチをさせるように、仕向けるのである。こんな具合に。
私たちは、あるホームパーティで出逢《であ》った。三十人ばかりの小さな集まりだった。ざっとひとわたり見わたせば、どんな人間がいるかわかる。彼はその中で一番目立つ存在だった。
もっとも、彼ならば、千人の人間が集まっていようとも、容易に眼につくだろう。どこにいようと、その会場で最高の男というものがいるのだ。
彼がそうだった。若くて、ほっそりとして上背があり、顔は硬質で美しく、動作は猫科の動物を思わせ、現代的優雅の典型であり、その上、いかにもシャイなのである。
そう、彼は最高だった。最高にエレガントだった。
私はパーティ会場に一歩足を踏み入れた瞬間に、真っ先に彼を見つけた。そして、何度も何度もみつめずにはいられなかった。
けれども、最後のほうまで、ただの一度も、彼の眼と私の眼が出逢うことはなかった。それは彼が、私の存在に気づかないわけではなく、むしろ私の存在そのものを強く意識しているせいなのだ、ということが、今の私にはわかる。
だが、二十代の時には、そういうことはわからなかった。自分をただの一度も眺めようとしない男に対してひどく落胆し、自信を失ったものだった。
経験が私に教えたことは、こちらに対する不自然な無視は、興味がないからではなく、むしろ興味があるからなのだということである。
彼と視線が一度も出逢わないのは、彼がこちらを一度も見ないからではなく、注意深く、相手のすきを狙《ねら》って観察しているからである。視線が合わないように相手がこちらを見る寸前に、それを逸《そ》らせるからである。私がまさにそうしていたように。
つまり、我々は、たかだか三十坪程度のリビングルームで、全く同じことをしていたわけだった。彼のほうは、私がそのことを知っていることを知らない。私だけが気づいている。そういう状態だった。パーティから最初の客が退出するあたりのタイミングで、私たちの視線が、いかにも偶然そのもの、といったふうに出逢うのだ。それは彼の計算である。
そして、ついに私たちの視線が出逢い、長々と絡んだ。
とたんに、彼は口元になんとも蠱惑《こわく》的な微笑を浮かべゆっくりと視線を逸せた。次にもう一度、私たちは視線を絡ませる。そして私は、私の眼でこう語りかける。
――そこでいつまでそうしているつもり? こっちへいらっしゃい。私が怖くないのなら。そのかわり決して退屈はさせないから――
私は常にそんなふうに、男に自分からアプローチする女ではない。ただ、彼との関係においてのみ、私の役割がそうであるだけなのだ。
そして初めて、彼は行動を開始する。恥かしげに、そして淡々と。でも本当は事が思い通りに進んだことに自惚《うぬぼ》れながら。
彼は私の斜め前に、ひっそりと微笑しながら立った。
――さあ、僕はあなたに呼ばれて来たんだよ、僕を楽しませてくれるんだろうね――
その微笑は傲慢《ごうまん》に私にそう語りかけていた。
その段階では、まだ私のほうがアドバンテージを取っている。なぜなら、彼のやり方は、こちらの見通したとおりだからだ。
だが彼のほうは、私がアドバンテージを取っていることに気づいていない。これはゲームなのだ。彼には彼のゲームの仕方があるように、私にもプレーの方法が私なりにある。
「ここにいて、まだ何か面白いことがあると思う?」
と私は言った。
いや、というように、彼は肩をすくめた。
「じゃ、出ましょうよ」
彼はもう一度、どうでもいいみたいに肩をすくめた。
「私は帰るわ」
私は彼を甘やかすつもりはないので、さっさと踵《きびす》を返して出口に向かって歩きだした。すると彼は黙って私の後を追う。私は内心ニヤリと笑った。
「あら、もうお帰りになるの?」
とパーティのホステスが失望を露《あら》わに、私にというよりは背後の彼に言った。
「あなたって」
とそれから私に向かって、彼女はなれあいの口調でこう言う。
「いつも、その場で一番いい男を、さらって行っちゃうのね」
それで私はやんわりと言い返すのだ。
「あら、違うわよ。彼が、その場で一番いい女をさらって行くのよ」
そして私はさっさと外に出て、車道の端に止めてある私のオープンのスポーツ車の助手席に乗りこんだ。そこで彼は有無を言うひまもなく、運転席に坐《すわ》った。
「どこへ?」
と彼が訊《き》いた。
「あなたが私をさらって行くのよ。だからあなたが決めなさい」
彼は無言でエンジンをスタートさせた。
「どこへ行くか決めたの?」
「いや、まだ」
「知ってるわ、決められないんでしょう」
彼はぐっとアクセルを踏みこんで、スピードを上げたままカーヴを大きく曲った。
私は怖がるかわりに面白がって口笛を軽く吹いた。
「ホテルにする? それともあなたのところにする?」
車が一定のスピードで都心に向けて走りだしたところで、私はさりげなく質問した。
「俺、自分の部屋に女を連れこまない主義なんだ」
と彼は少し冷ややかに答えた。
「それは賢明な主義だわ。実は私もそうなの。自分の部屋に男は入れないの」
「それに俺は」
と彼はいっそう冷ややかに言った。
「女のほうから、あのことをアプローチされるのも好きじゃない」
「あら、困ったわね」
私は風に髪をなびかせながら呟《つぶや》いた。夜風がいい気持だった。
「実は私も、男の人からアプローチされると、興ざめするタイプなの」
「へえ。いつも自分のほうから、『寝たい』って男に言うわけ?」
彼は前方を凝視しながら、片方の眉《まゆ》だけを高々と上げた。
「寝たい相手にだけね。そこのところ、まちがわないでちょうだい」
「で、僕はお眼鏡にかなったというわけ?」
「ねえ、お願いだから、こんなつまらない会話はやめましょうよ。もういいわ。そのあたりで止めてちょうだい。降りて頂くわ」
私はあっさりとそう言った。
「怒ったの?」
彼はニヤリと笑った。
「怒りはしないわ。つまらないと思っただけよ。いいこと、あのパーティで私はあなたが気に入った。そしてあなたも私が気に入った。それが事実でしょう? だったら気取ることもないし、つまらないプロセスで時間を無駄にすることもない、と思っただけよ」
「要するに寝るかどうかという問題だけ?」
「今はね」
「寝たらどうなるの、俺たち」
「それは寝てみなければわからないわ」
「俺が下手《へた》くそなら、それでお終い?」
「その逆も言えるわけでしょう?」
「しかし、そんなものかね」
「なにが?」
「男と女って、寝なくちゃ何も始まらないのかなあ」
「私たちの場合はね。そこから入るしかないのよ」
「色々な女に出逢《であ》ってきたけど、あなたみたいに単刀直入なひとは、初めてだ」
タクシーを次々に追いこしながら、彼が言った。
ホテルルームに入ると、私たちは相手を眺めながら、ものも言わずにそれぞれの服を脱ぎ始めた。必要以上に急ぎもせず、のろのろしすぎるといったこともなく、ごく自然な動作であった。彼のほうが先に脱ぎ終ると、まだストッキングを片方しか外していない私の腰を抱きかかえるようにして、彼はベッドに倒れこんだ。そしてまるでそうすることが私に対する仕返しでもあるかのように、いっさいの愛撫《あいぶ》をはぶき、いきなり私の両肢《りようあし》の間に彼の熱い肉体を沈めこんだ。それからこちらの都合など全く無視して、自分の欲望のおもむくままに腰を激しく揺すりたてて、そして一気に果てると、私の肢の間から躰《からだ》を離して、煙草を一本口にくわえた。
「さあ、テストは終ったろう。俺はこれで一巻の終りだな」
彼は自嘲的《じちようてき》なニュアンスの混じる声でそう言った。
「あなたのほうで終りにさせたいのならね」
私は躰の向きを変えて、片肘《かたひじ》をつきながら言った。
「おや、テストに失格じゃないの?」
「どうしてそう思うの?」
「どうしてって」
と言って彼は笑いだした。
「俺が女なら、怒り狂っちゃうけどね、さっきのようなのは」
煙草《たばこ》を喫《す》い終ると彼はさっさと衣服を拾い集めて身につけ始めた。ネクタイは結ばずにポケットに収めた。
「チャオ」
と言ってドアに向かった。
「また逢《あ》える?」
と私はその背に言葉をそっと投げかけた。高飛車でもなく、皮肉でもなく、かといって哀願調でもなく、ただ率直な声でそう言ったのだ。
彼は首だけをねじるように、私を見た。
「この次だって同じさ。俺は自分のやりたいようにしかやらないよ」
「そのうち変るわ」
私は静かにだが、確信をもってそう言った。
「どうしてそんなに自信をもって言えるのかな」
と彼はうそぶいた。私はそれにはかまわず、ただ微笑をして、チャオと言った。
そのようにして、私と彼の関係は始まった。
もしもあの最初の性愛の直後に、彼が私の躰《からだ》から離れ、服を着る前にさっさとシャワーを浴びていたら、全ては違っていただろう。
もちろん、あれの後シャワーを浴びてはいけないということではない。現にたいていの男たちはそうしている。二人の間に愛情とか信頼関係が存在すれば、シャワーを浴びようと浴びまいと、それはどちらでも良いことなのである。
けれども信頼関係というべきものが何もない場合、あのような状況で彼がさっさとシャワーを浴びていたら、それの意味することは明らかである。女の体液を躰につけたままにできるのは、その女に対する儀礼か好意のようなものがあるからである。嫌な女だと思ったら、一刻も早く洗い流して、さっぱりとしたいところだろう。私は彼が、あの時シャワーを浴びずに、しごく無頓着《むとんじやく》に下着を身につけたことを、非常に好ましく感じたのだ。そこに私たちの可能性を見たような気がしたのである。
そして彼は私の情人《ラヴア》となった。以後、彼はベッドの中では確実に私を快楽に導いてくれ、私はその点で失望することは二度となかった。
それに対して私は彼のちょっとした贅沢《ぜいたく》な願望を満たしてやる程度のお返しをした。私たちはそんなふうに、相手から自分にとって欲しいものだけを与えられることで充分に満足だったし、その意味でもよい関係が続けられると思っていた。
私たちはもちろん、一緒に住もうとも思わないし、彼と逢《あ》うのはもっぱらホテルの一室内にかぎられ、二人ともスキャンダルを恐れて人眼のある場所では逢わなかった。食事を共にしたこともないし、パーティはもちろん、映画を一緒に観ることもなかった。私には守らなければならない家庭があったからだ。
私は、情事の相手とひきかえに、家庭を失うわけにはいかないし、そのつもりもなかった。私の生活の安定も、幸福の全ても、夫によって支えられていた。ある意味で、情事が可能なのも、家庭があり、夫によってかなり安易に生活を支えられているからだといってもよかった。
彼との関係が始まって、二か月程が過ぎたある夜のことであった。私と夫は友人宅のディナーに呼ばれていた。
「その香りは新しいね」
と、友人宅へ向かう途中、車を運転していた夫が言った。
「気に入って?」
と私は微笑した。
「フルール・ド・ロカイユ。『石の花』という香水よ」
彼からの贈りものだった。この香りをいつも身につけていて欲しいと言って、美しい小瓶《こびん》を私の手に載せたのだ。
「私に似合うからくれるの? それともあなたの過去の女たちにも、同じ香りをつけさせたの?」
私はわざと意地悪く訊《き》いた。彼はその問いには答えなかった。わずかに眉《まゆ》を寄せただけだった。
私の勘では、彼が同じ香水を、女たちにプレゼントしていたような気がするからだった。
大勢の中の一人にはなりたくなかった。だから、彼と逢《あ》う時には、決してその香水をつけなかった。
しかし、香りは好きだった。シックで優雅な大人の女を彷彿《ほうふつ》とさせる香りだった。その匂いは、確かに私に似合うと、私は多少|自惚《うぬぼ》れないでもなかった。
その夜も、だから首筋と、膝《ひざ》の裏と手首にタップリとすりこんで来たのだ。
女は時々香水を変えたくなる。色々な理由で変えるが、私の場合はつきあう男によって香りが変る。相手が好きだと言った香りを優先させてしまう。前の相手はシャネルの十九番が好きだった。彼とは二年続いて終った。
「前に使っていたのより、いいよ。前のは少し僕には甘すぎた」
と夫は言って、深沢の交差点を左折した。
「そう? 今頃になって言っても遅いわ。その時にそう言えば良かったのに」
私はいくらか後ろめたい思いで、夫の横顔を盗み見た。
再び路地を右折し、また少し行って二本目を左折した突き当りの袋小路が、友人宅であった。車道の左側に寄せて、夫は車を止めた。すでに先客の車が三台停車してある。ディナーは八時からだったが、食前酒が三十分前にふるまわれるのだ。
玄関にはすでに十人以上の男女の靴が脱ぎ揃《そろ》えられていた。私たちは出迎えに出た友人夫妻に挨拶《あいさつ》をし、お土産《みやげ》の花束を夫人に渡すとスリッパにはきかえた。
夕食はブッフェ・スタイルらしく、居間の左側にテーブルがしつらえてあった。出張サービスのウェイターがどこからともなく現れて、シャンパンの注がれたグラスを差し出した。
私はそれを手にとり、客の顔ぶれをゆっくりと眺めていった。たいていが、一度や二度逢《あ》ったことのある顔だった。
グランドピアノのある位置まで私の視線が移って、その一点で凍りついた。そのあたりで談笑している男女の中に、あのひとの横顔があったからだった。
彼のほうはまだ私の存在に気づいていない。友人夫婦が私たちを初対面の人たちに紹介すると言って、ピアノのほうへと誘いだした。私は覚悟をきめて、夫の腕に自分の腕を軽く絡めた。
彼は私の存在に気づいたが、顔色ひとつ変えなかった。おそらく、私もまた外見上では、彼と似たようなものだったろう。でも私の胸は、気分が悪くなるくらい、ドキドキしていたのだ。
若いカップルが紹介されてから、彼が私たちに改めて紹介された。
「こちら木村恭二さん」
私は初めまして、と言って、夫と挨拶《あいさつ》をしている彼をみつめた。私たちは二人とも大人だから、こんな場面をやり過ごすのは造作もないことであった。私の胸の動揺もおさまりかけていた。
「テニスがお上手なのよ」
と夫の友人の夫人が言った。
「時々、ダブルスのパートナーをお願いしているの、恭二さんに」
私は彼がテニスをやるのを知らなかった。他にも知らないことがいくらでもあるような気がした。私がつけている香水の匂いに気づいたのか、ふっと彼の表情が動くのを、私は見逃さなかった。彼はちらりと私を見て、それから宙へ視線をさまよわせた。
その時、部屋の反対側で喋《しやべ》っていた人たちが、私たちのグループに合流するために移動してきた。私はその中の三十代後半の女に注意をひかれた。
エキセントリックな、不思議な魅力のある女だった。小さな痩《や》せた顔は決して美しくはなかったが、独特の強い個性があった。ちりちりにカールした長い髪が背中まであり、少し歩くだけでも軽やかに後ろになびくような感じだった。彼女は木村恭二をみつめ、彼と眼があうと、口元だけで微笑した。
一眼で二人の関係が知れるような微笑であった。彼が、微《かす》かな眼配せのような忠告を彼女に送るのを私は見た。――注意して――とそんなふうに、彼は彼女に眼配せしたのだ。
とたんに、その女はさりげなくその場を離れていった。そしてパーティの間中、二度と彼の側へは近づかなかった。
私も、そのパーティの間、二度と彼には近づかなかった。私たちは――私と、彼と、その女性とは、奇妙な眼には見えない正三角形を形づくり、その位置から動きださなかった。
パーティがお開きになる直前に、私はもう一度だけ、彼らが何かの合図の眼配せを交わすのを見逃さなかった。いつのまにか、先に女が姿を消し、十分ほど遅れて、彼がパーティを退出していくのを見た。私たちは一番最後の客にならない範囲で居残り、頃合いを見計らって友人宅を辞したのだった。
あのパーティの後半と、それから家に帰りつくまでの詳細を、私はあまり覚えていないのだ。自分では落ち着いていたつもりだったが、いかに内心では動転していたかが、それでわかる。
家に帰って、私はまっすぐに洗面所に直行すると、ドレスを脱ぎすててシャワーを浴びた。そうせずにはいられなかった。
寝室に戻った時には、すでに夫はベッドの中にいた。私はそっと反対側に埋りこんで躰《からだ》を横たえた。隣に寝《やす》んでいるのが夫でありながら、遠い人のような気がしてならなかった。
長いこと眠れないでいた。本を読もうとしたが、同じところを何度も読み、少しも頭に入ってこないので、それもやめた。
横で夫がつく深い溜息《ためいき》の気配がした。
「まだ起きているの」
と、私はちょっと驚いて言った。
「とっくに眠っているのかと思ったわ」
「おまえが寝返りを打ったり溜息ばかりついていたんじゃ、眠るにも寝つかれんよ」
と夫は答えた。
「そんな大げさなこと言わないでちょうだい」
私はベッドサイドの明りを消して呟《つぶや》いた。
「おまえが眠れないのは、あの男のせいか」
実にさりげなく夫が言った。私は暗闇《くらやみ》の中で息を止めた。
「あの男って?」
できるだけ平静な声を装って、私は訊《き》き返した。
「ブッフェ・パーティで逢《あ》った男だよ。木村とかいう」
「木村?」
と言って、尚《なお》も私はしらを切ろうとした。
「誰のことを言ってるのか、わかっているだろう」
「わからないわ。一体何が言いたいの?」
「おまえの今つきあっている男なんだろう、あの木村なにがしというのは」
「妙なこと言うわね」
「よせよ。ちゃんとわかってるんだ」
「何がわかるっていうのよ」
「俺の眼は節穴じゃない。それに俺の鼻をばかにしちゃいけない。俺は多分、今夜、おまえが見た以上のことを見ていたと思うよ」
「何を見たっていうの?」
「何もかもさ。おまえがあの男をパーティで最初に見た時の動揺。それからいかにも初対面を装った時の、ぎこちなさ。相手を無視しようとすればする程、どうしようもなく露呈するものがあるんだ。それから、あの女だ。ジャクリーヌ・ケネディみたいな顔をした女を見るおまえの眼の中の嫉妬《しつと》。あの女が木村なにがしを見る眼。何もかもさ。まるでパントマイムの喜劇を眺めているようだった。誰もかれもが、誰かを見ていた。この俺を見ている奴《やつ》もいたかもしれん。コキュの夫の眼線《めせん》を追う奴の視点で、パントマイムが演じられたら、こいつはちょっとした芸術作品になるかもしれんな」
それだけ言って、夫は言葉を切った。
「おまえに、男がいるらしいということは、なんとなくわかっていたんだ。今夜は多分偶然なんだろうが、あそこで逢《あ》ったのは、おまえのためには不運だったな」
「不運?」
私はぼんやりと夫の言葉をそのままくりかえした。
「そうさ。あそこまで見てしまったら、俺としても考えざるを得ない。つまり、今までは情況証拠だけで何も実証出来なかったが、ついに現場をおさえてしまったという感じがしないでもない」
「それで?」
と私は死んだような気持で訊《き》いた。
「認めるのか?」
と夫が訊いた。
「ええ」
私は低い声で答えた。
「では止むをえんな」
「離婚ね」
私は念を押した。
沈黙が流れた。やがて最後に夫がぽつりと言った。
「香水だよ、問題は。おまえは男が変ると香水を変えるんだ」
「わかっていたのね……」
「当然だ」
「じゃ、あの女の香水のことにも気づいた?」
「ジャクリーヌ・ケネディみたいな女のか?」
「ええ、そうよ」
「いや、気がつかなかったな」
「それじゃ、あんまりいい鼻をしているなんて、いばれないわね」
と私は嘲《あざけ》った。
「あの人がつけていたのも『石の花』よ」
私の胸は屈辱で再び煮えくりかえりそうだった。
彼の姿がついに現れる。熱帯植物の植込みの陰から、忽然《こつぜん》と姿を見せる。とたんに私の胸が再び泡立つ。あんな男のためになら、家庭を失ってしまうのも仕方のないことかもしれないのだ。もしも引き替えに、彼が手に入れられるのなら。
「この間は、驚いたよ」
と、いきなりそう言いながら、彼は私の前に斜めに坐《すわ》る。
「大丈夫だった?」
「どういう意味?」
「何か、感づかれなかった?」
「いいえ、全然」
私は顎《あご》を引いて、膝《ひざ》の上に視線を落す。眼の色に、嘘《うそ》が表れるかもしれないからだ。
「よかった……。少し心配していたんだ」
「私のほうは心配ご無用よ。それより、あなたのほうは問題は起らなかったの?」
「僕のほう? 問題って何の?」
「あの女《ひと》、後でヒステリー起さなかった?」
「あの女って誰さ」
「いいのよ、別に」
と私は言って、その話題を打ち切った。
「それで何か急用だった?」
と彼が訊《き》いた。
「ええ。それでこんな時間に来てもらったのよ。私たち、これで終りにしない?」
すると、彼の顔がふっと曇った。
「もしかして、あの女のせいかい?」
「女の人がいたって、別にかまわないのよ。でも、同じ香水つけさせられていたっていうの、許せないわ」
「わかってる」
「わかってる?」
「実は、彼女にも同じことを言われた」
「私のことがわかったの?」
「一眼でね。というより匂いでわかったってさ。それでかんかんさ」
「当り前じゃないの」
と私は思わず、笑わずにはいられなかった。
「それで、あなた、捨てられたの?」
「早い話がそう。あの手の女はプライドを傷つけられると、容赦がないんだよ」
「あの手の女でなくたって、プライドは大事よ」
私はじっと彼をみつめる。
「私だってそうよ」
「結構楽しくやっていたじゃないか、俺たち」
「今まではね」
「これからだって、やれるさ」
「それはどうかしら」
そう言って、私は腰を上げた。
「まさか、本気じゃないだろうね」
一瞬、彼は柄にもなくうろたえる。
「本気よ」
もう、あなたと寝るかわりに、その代償としてあなたに贅沢《ぜいたく》をさせるお金がないのよ。私はそう胸の中で呟《つぶや》いて、歩きだす。
「忘れものだよ」
と彼が追ってくる。そして伝票を私の手に押しつけた。私は苦笑いしてそれを受けとると、五千円札と共に、彼の手にペタンと置いた。
「おつりは取っておきなさいよ」
それから私はすごくおかしくなってしまって笑った。笑っているうちに、今度はすさまじいばかりの虚しさが私を襲ってきた。
第7話 アンフィニ
アンフィニ〈infini〉
昨日のような、明日のような……無限≠テーマにしたフローラルグリーン調の香り。主香料はジャスミン、黄水仙、白檀、ヴェチベールでクールで現代的なキャロン社の自信作。
都会が一日のうちでいちばん美しい時刻。黄昏《たそが》れ刻《どき》。夏の……。
ひと泳ぎして、わずかに重くなったような気がする躰《からだ》を、デッキチェアーに横たえると、心地良い疲労感が手指の先まで広がる感じ。
ずっと前、パリで一年だけ暮らしたことがあった。ただフランス語を勉強するだけのために。もう何年も昔の話だ。
あの頃、七か月だけ恋人だったジョルジュ・メランと十六区のベトナム料理店『クイ』のカフェバーでよく待ち合わせたものだった。約束の時間にたいてい十分か十五分遅れてくるジョルジュの髪は、いつも湿っていた。
仕事が五時に終った後、スポーツクラブのプールで毎日一キロ泳ぐのが、彼の日課のひとつだった。
人生は楽しむためにあるのだ、というのが彼の口ぐせだった。
「僕は、自分の魂と肉体が歓《よろこ》ぶことしかしたくない」
そう言って、ジョルジュは自分を歓ばせることだけを厳密に選んだ。
湿っている黒い髪を無造作に手櫛《てぐし》で後ろに撫《な》でつけると、ジョルジュの紫色を帯びた真っ蒼《さお》な瞳《ひとみ》に一段と輝きが増し、イギリスの上流階級の女たちを思わせるようなきめの細かい肌の白さが鮮烈に際立った。彼は美しい男だったが、自分の美しさに無頓着《むとんじやく》だった。もしもそれが演技ならば、その無頓着ぶりは完璧《かんぺき》だった。
私はまだとても若かったので、彼に夢中だった。彼が「僕はベトナム・フリークだ」と言って好んだフレンチ・ベトナミーズの料理も、たちまち私の好物になってしまった。
『クイ』のカフェバーで出るマルガリータは、ジョルジュに言わせれば、世界一の味だった。
「何を根拠に世界一なの?」
そう訊《き》くと彼は、
「僕がそう言うからさ」
と答えた。たいした自信だった。彼もまたとても若かった。
ジョルジュは、束《つか》の間《ま》を愛した。刻々と過ぎていく、彼を歓ばせる刻《とき》を、惜しみつつとても愛したのだと思う。何故なら彼は約束ごとが嫌いだった。自分を縛る一切の束縛を憎んでいた。
「また明日ね」
と言うことはあっても、来週の約束はしたがらなかった。
「ねえ、来週の週末、田舎《いなか》にドライヴに行かない?」
あるいは、夏休み《バカンス》は南仏で過ごさないか、とか、クリスマスはどうしようとか、そういった提案に対する彼の答えは何時《いつ》も同じだった。
「その時に考えようよ」
ジョルジュは、そうとてもさりげなく、微笑しながら言うので、私はいつもそれを否定の言葉というよりは、肯定的に受けとったものだった。
そのうち、ジョルジュに関していろいろな言葉が私の耳に入ってくるようになった。彼は刹那的《せつなてき》な男だよ、というのがいちばん多い忠告だった。
同じ女と二度以上は寝ないとか、今までいちばん長く続いたのがリュンヌというフランス人とベトナム人の混血の女の子で、それもせいぜい四か月だったとか。
にもかかわらず、私たちの間は七か月続いた。私が日本へ帰国しなければならない日が、私たちの別れの日となった。
シャルル・ドゴールの空港まで私を見送ってくれたジョルジュは、あとで開いてと言って、小さな贈り物を私のバッグの中にそっと落した。
私は彼に相変らず夢中だったけど、そして空港での別れは身を切りつけられるほど辛かったが、ついに涙を一滴もこぼさなかった。
今までだって、ずっと涙をこらえていたのだから、最後まで毅然《きぜん》としていたかった。そして私はそうした。
「あなたとの間が七か月も続いたこと、みんなが奇跡だって言っていたわ」
私は、世間話をするような具合に、そう言った。私たちの前にはエスプレッソがあり、周囲には国際空港独特のざわめきがあった。
「きみとなら、無限に続いたよ」
「無限に?」
私はひやかすように彼を見た。
「ウィ」
その時初めて、彼の髪が濡《ぬ》れていないことに私は気がついた。
無限――。しかしそうじゃない。ジョルジュと私が七か月もいい関係を続けてこれたのは、今日という別れの日が、二人の前に厳然として透けて見えていたからである。別れが約束されていたから、彼は安心して私との日々に身をゆだねたのである。私はそう思っている。そして若き日のジョルジュ・メランは私にとって過去となった。
私もまたジョルジュの影響で、自分の魂と肉体を歓《よろこ》ばせることだけしか、したくなくなっていた。ジョルジュと別れた直後の飛行機の中で、私は彼からの贈り物を開いた。
それは7.5ミリリットルの香水で、『アンフィニ』だった。アンフィニ……つまり無限。
あのジョルジュが、私に『アンフィニ』を贈るなんて、なんという皮肉であろうか。
黄昏《たそが》れ色が濃くなっている。プールの水の色が透明度を増したように見える。夏の夕暮れ刻《どき》特有の霞《かすみ》のようなもやが、空気の底を蒼《あお》く染めていた。
プールサイドにはさっきより幾分人が増えている。誰かが飛びこんだのか、ひらきかけたユリの花のような感じに水しぶきが上がり、私の脚を濡《ぬ》らした。私は無意識に水面を眺めた。
ずいぶん長い時間がたって、男が水面からぽっかりと頭を現した。黒髪に続いて白い額。そして夕暮れ刻の光のせいで青く見える二つの瞳《ひとみ》。男は、まるで細身の魚のように水中で身をくねらせると、片手で髪を掻《か》き上げた。
その一連の動作と、額の広さと髪の感じが、一瞬、若い日のジョルジュを思わせた。私は男の動きを眼で追い続けた。胸が刺されたように痛かった。
考えてみれば、あれ以来、いつもパリ時代のジョルジュにどこかが似た男だけを求めていたような気がする。ほんのわずかでも似ていれば、それで安心した。
男はプールから上がると、タオルで躰《からだ》を拭《ふ》きもせず、濡れたままの躰をチェアに横たえた。私はずっと彼を見ていた。彼の視線が私に気づいて私をとらえるまで。
そしてついに、その男は私を見た。私の口元に自然に微笑が浮かんだ。男も微笑した。
私たちは、そのあと二十分ばかり、プール越しにお互いを眺め合い、時に眼を合わせて微笑《ほほえ》みあった。やがて男が立ち上がり、両手で髪を掻き上げると、ゆっくりとプール際をこちらへ向かって歩き始めた。
「やあ」
と男は、まるで旧知の女友だちに話しかけるように言った。
「どこかで前に逢《あ》わなかった?」
彼は私の隣に空いている白いデッキチェアーではなく、タイルの上に直《じか》に腰を下ろしながら訊《き》いた。
「いいえ、初めてよ」
ジョルジュに似ているところをその顔の上に探りながら、私は答えた。
「じゃ、お近づきに」
と言って男は右手を伸ばしてきた。私はそれをあっさりと握り返した。
「じろじろ見たりして、変な女だと思ったでしょう?」
「というより、女の気持がそれとなくわかったような気がするな。日頃僕たち男って、あんなふうに、女を眺めているんだって」
「あんなふうって?」
「裏返しされるような気がしたけどね。もっとも女性から、あんなふうに眺められたのは初めてだけど」
「昔、知っていた人に似ていたような気がしたの。ごめんなさい」
「今は? もう似ていない?」
斜め下からすくい上げるような眼で、彼は私をみつめた。
「少し似ているわ」
「どんなところが?」
「自分が美しい男だということに対して無頓着《むとんじやく》にふるまうところがよ」
それを聞くと男が笑った。笑うと、形の良い白い歯が、そろそろ暗くなり始めた夜気の中で驚くほど白く光った。
「そんなことズバリと言う女《ひと》に逢《あ》ったのも初めてだ」
「じゃ、認めるのね、自分が美しい男だってこと」
「僕が認めるのはむしろ、無頓着にふるまうというところ。そのあたりは、見透かされた気がするね」
男は顔の上の微笑をいっそう広げた。
「僕に似ていたという男性は、恋人だった?」
「そう、恋人だったわ。でも大昔のことよ」
「忘れられないわけ?」
「いいえ。もう忘れたわ。あの頃のことを時々思い出すだけよ。似ている人に逢うと」
「それはよかった」
と、男は言って顔を上げた。濡《ぬ》れた髪の先から水滴がしたたり落ちて、肩を濡らした。
「よかったって?」
男の左手の薬指には、平打ちのプラチナがはまっていた。
「代用品にはなりたくないからね」
「結婚しているんでしょう」
私は咄嗟《とつさ》に、意味もなく呟《つぶや》いた。多分、うろたえたのだと思う。
「つまらないことを言う」
男は急に興味を失った声で言った。
「出だしは良かったのに、残念だな」
「でも事実でしょ」
私は言い返した。
「だからどうなのさ?」
男はまっすぐにこちらの眼の底を覗《のぞ》きこみながら言った。
「事実を言ったまでよ。でも、どうってことはないわ、別に」
「そうさ、どうってことないさ。結婚している男とできないことは、結婚することだけ。あとはあらゆることができるよ」
男はそう言うと腰を上げて、私のほうに手を差しのべた。
「さしあたっては、ひと泳ぎしようよ。それからマルガリータでも飲もうか。このホテルの地下のバーで出すマルガリータは、世界一だよ」
その言葉を聞いて、私は微笑した。
「どうして世界一だなんて言えるの?」
ずっと昔ジョルジュにしたのと同じ質問を、口に出して言った。
「仕事であっちこっち飛び回るからね。いろいろ場数を踏んでるんだよ、マルガリータに関しては」
「でも、パリの『クイ』ってカフェバーは知らないでしょう?」
「知らんね」
「そこのマルガリータが世界一だと言って譲らない人を、一人知っていたわ」
プールぎわで、男がふりむいた。
「それがきみの恋人?」
「ええ、そう」
私は視線を落した。
「やっぱり忘れられないんだな」
「そういうわけじゃないの。ただあなたが、昔の彼を思いださせるだけ……」
次の瞬間、私はプールに飛びこんだ。すぐ後から彼が飛びこむ水の音がした。私は平泳ぎしかできなかったので、クロールの彼にたちまち追い抜かれた。私たちはプールを往復して、水から上がった。
三十分後にホテルの地下のバーで待ち合わせることにして、私たちはプールサイドでいったん別れた。
シャワーを浴び、髪を乾かし、着替えをすませ、メイクをすると、たちまち時間が過ぎていった。私は手首と膝《ひざ》の裏に香水をすりこんでおいて、エレベーターに向かった。
彼はすでに先に来ていて、マティニーを啜《すす》っていた。
「あら、マルガリータじゃなかったの?」
と私が訊《き》いた。
「ここのは世界一とは言ったけど、僕がいちばん好きだとは言わなかったよ」
と彼は笑った。
「でも、責任とって一杯つきあうよ」
ボーイを呼んで、マルガリータを二つ頼むと、改めて私の全身を眺めた。
「水着姿もいいけど、ドレスを着てもまたいいね。その香水、何ていうの?」
「アンフィニ」
「いい香りだ。とても似合うよ」
「ありがとう」
「もしかして、昔の恋人の形見の匂《にお》い?」
「いいえ」
と私は嘘《うそ》をついた。
飲みものがきたので、軽くグラスを合わせた。
「私のこと、本当はどう思っている?」
最初の一口を飲んで、そう訊《き》いた。
「どう思われたい?」
「ふしだらな女に思われたくないわ」
「この程度じゃ、ふしだらとは言えないさ」
「どこからふしだらということになるの? 出逢《であ》ったその夜にベッドに行ったらそうなの?」
「そういう場合もあるし、そうしてもふしだらにならない場合もあるよ。どう、マルガリータの味。パリのその何とかいうカフェバーの味と比べて、どっちが美味《うま》いと思う?」
「私は世界一なんてこと、きめつけたりする女じゃないもの。これはこれ。パリのはパリの味」
「うまく逃げるね」
と男は笑った。
「それにしても、ふしだらかどうかなんて、どうでもいいじゃないか。そんなこと気にするのはつまらないよ。第一、男と女の間のことは、ふしだらでなかったら興奮もしないさ。ふしだら、おおいに結構。まずふしだらから始めようよ」
私も笑った。
「ふしだらから始めて、どうなるの?」
「どんどんふしだらに、卑猥《ひわい》になるのさ。それが理想」
男は煙草《たばこ》を取り出して口にくわえながら言った。
「でも、あくまでも理想でしかなくてね、男と女の現実ってのは、理想とはほど遠い。セックスが習慣や義務になってしまった途端に、ぞくぞくするような卑猥さは色あせる」
煙草の先にマッチの火をつけ、煙りを喫《す》いこんでゆっくりと吐いた。
「習慣や義務感の他に、めくるめくようなセックスの敵は、愛というやつだよ」
なんだか、男は悲しげだった。
「今の僕たちは、いちばん理想的な状況にいると思わない? セックスが習慣でもなく義務にもなっておらず、愛の罠《わな》でもって縛られてもいないんだからさ」
私には彼の言おうとしていることが、わかるような気がした。それは、自分にとって常に快いことだけをして生きていたいと言っていた若い頃のジョルジュの考え方に、どこか共通するものがあった。
「要するに、行きずりのセックスが最高というのと似てるわね」
と私は少し批判的に言った。
「行きずりで終ってしまうかどうかは別にしてね」
「でも本当は、行きずりが理想なんでしょう?」
私は彼にうんと言わせたいような気がして、もう一度そう言った。
「きみを行きずりの女の一人にしてしまうのは、ちょっともったいないような気がしてね」
男は、ちょっぴり本音を声に滲《にじ》ませた。
私たちは三杯ずつマルガリータを飲んでから場所を変えて食事をした。
「男の悲劇はね」
と食事中のワインのためにかなり酔った声で、男が言った。
「心から惚《ほ》れてしまった女に対しては、卑猥《ひわい》になれないことなんだ。性と愛というのは、永久に平行線をたどるしかないらしい」
「愛はお家の中で飼っておいて、性を外で求める典型的な例ね」
「男の悲劇だよ」
と彼はもう一度同じ言葉を呟《つぶや》いた。
「女にとっても悲劇よ。女だって同じよ」
と私は言った。
「男が感じることは女だって同じように感じるのよ。男だけがそうだっていうことはないと思うのよ。結婚した男だけが卑猥なセックスに対して飢えているわけじゃないの。女も同じなの。女の性にとっても、愛とか、習慣とか義務といったものは障害になるのよ。私も結婚しているの」
私はそう言って白状した。
「結婚している女が、こんな時間に、他の男とこんなことをしていても、いいのかい」
男は額のあたりをわずかに曇らせて言った。
「あら、今の言葉は、今夜のあなたが口にした中で、いちばん平凡ね」
私はがっかりして言ってやった。
「じゃあ、あなたは何なの? 結婚している男が、こんな時間に他の女とこんなことをしていてもいいの? どう違うの?」
「男と女はやっぱり違うんじゃないのかなあ」
少し自信がなさそうに、男が呟《つぶや》いた。
「人妻だとわかったら、急に弱気になったみたいね」
「そんなことはないさ。むしろそうとわかって喜んでいるくらいだ。独身女と事を起すと、場合によってはやっかいな問題を背負《しよ》いこむからね」
「そういう映画もあったわね。観た?」
「『危険な情事』? 観たよ」
私たちは食後のブランディーをもう一杯ずつおかわりした。
「ところで今夜、ご亭主は何してる?」
「さあ、わからないわ。日本にいないんですもの」
「出張中? それで羽根を伸ばしているわけ?」
「パリと東京を行ったり来たりしてるわ」
「パリ?」
ふと男の表情が止ったようになった。
「ええ、パリ。私の夫はフランス人なの」
私は相手の顔から眼を逸《そ》らせながら言った。
ジョルジュと私は、シャルル・ドゴール空港で別れた後、半年後に彼が突然東京に私を訪ねて来て衝動的に結婚したのだった。
私はまだ彼のことが忘れられなかったし、彼のほうは別れてみて初めて、私を愛していたことを知ったからであった。
私たちは、半年という冷却期間を置いたのだから、この結婚は大丈夫だろうと、お互いに胸の中で考えたのだった。
そしてふと気がつくと、ジョルジュはもう昔のジョルジュではなくなっていた。スポーツクラブへも行かなくなって、まだ三十代を出たばかりだというのに、お腹のまわりに二重の脂肪がつき始めていた。
彼のつややかだった黒髪は、いつもカサカサと乾いていて早くも薄くなり始めていた。
彼はもう女あさりをして私を苦しめることはなかった。彼はついに私だけのものになったが、私はもう彼に夢中というわけではなくなっていた。
そして今、私はよくわからないのだ。女あさりをして私を苦しめるくらい美しい男が良かったのか。それとも、そんなことで心身をすりへらさずにすむほうがいいのか。ジョルジュ・メランは変ってしまった。彼はベトナム料理を二度と口にしないし、『クイ』のマルガリータを思い出すこともない。しっとりと湿った黒い髪に十本の指をさしこんで、無造作に髪を整える仕種《しぐさ》もないし、第一、彼はもう美しくさえもない。家と仕事場の往復ですっかりすり切れてしまっているように見える。
「どうする? 今夜このあと、僕とホテルルームへ行く?」
男がそう言ったので私は我にかえった。
その時、その瞬間だけ、私には彼の妻が眼に見えるような気がした。彼女もまた、結婚によって緊張を欠いてしまい雌豚になってしまった女なのかもしれない。
けれども、私だってある意味では例外ではないのだ。今頃パリのジョルジュの腕を枕《まくら》に、誰か若い娘が眠っているかもしれないのだ。その娘は、ジョルジュの青い眼をきれいだと思い、彼の声を素敵だと感じ、それゆえにジョルジュを歓《よろこ》ばせることができる、未知の存在なのだ。私からはもはや得られない束《つか》の間《ま》の緊張感を、ジョルジュに与えることができるのだ。
結局、眼の前にいて、まだわずかに髪を湿らせているその男も、ジョルジュと同じなのだ。私たちはお互いの腕を貸しあって、そこに自分たちと似たような他の人間の頭を、束の間休めてやるだけなのだ。
「いいわ」
と私は低く答えた。
「香水だけを着ておいでよ」
と、バスルームに入る私の背に向かって、男が優しく言った。
「それから、香水は、キスしてもらいたいところに、全部つけておいで」
それを聞くと、私は思わず微笑した。ジョルジュがずっと昔、それと同じことを言ったことがあったからだ。
「ウィ、ムッシュウ、お望みどおり致しますわ」
私は空《から》陽気に答えた。
「もっとも今のは僕のオリジナルじゃないよ。ココ・シャネルが言った有名な言葉さ」
男の声がドアのむこうから聞こえてきた。
――香水は、男にキスしてもらいたいところ全部につけるのよ――私はココの言葉を鏡の中の自分に向かって、もう一度ぽつりと言いきかせた。ひどく淋《さび》しかった。それから三角形を二つ逆さに合わせたような『アンフィニ』のボトルから、一滴指の先に落し、まず項《うなじ》にそっとすりこみ始めた。
第8話 ホワイト リネン
ホワイト リネン〈WHITE LINEN〉
白麻を意味するエスティローダーのフレグランス。バイオレット、ヒヤシンス、ライラック等をブレンドしたフローラル調。可憐で優しい雰囲気がありブライダル用にも好評。
その香水は、彼の部屋のぎっしりとつまった本棚に、まるでわざわざ眼に触れるように置かれていた。
それがそこに忽然《こつぜん》と出現したのは、三週間前で、今にも降り出しそうな梅雨時の夜だった。
逢《あ》えば五度のうち四度は彼の小さなマンションの部屋に行くようになっていた。彼は彼女を抱いてしまうと、もう何にも興味を失ってしまって、ただぼんやりとテレビを観るだけだった。そして時々腕時計を大袈裟《おおげさ》に見るのだ。口には出さないけど、今夜はもう用済みだから、帰れよ、という態度が露骨だった。
他に何もすることがないので真由美はかったるい動作で立って行って、流しの中に積んである彼の二、三日分の食器を洗いだす。
「いいよ、そんなことしなくたって」
テレビに視線をあてたまま、水洗いの音を耳で聞いて、彼がそう言った。
「だって」
真由美はカップの底にこびりついたコーヒーかすを、爪《つめ》を使ってこそげ落しながら口ごもった。
「そういうことはしなくていいって」
今度はことのほか強い調子で、豊夫が言った。「奥さんでもないんだからさ」
「じゃ、奥さんにしてよ」
と反射的にそう言ってしまってから、真由美は後悔した。そういうことは女のほうから頼んだりするものではないからだ。
豊夫は、いいとも悪いとも答えなかった。ぽぉんと打ったテニスのボールが、相手に打ちかえされずに、そのままどこかへ飛んでいってしまったみたいな感じだった。
この頃、そんなふうに真由美の打ったボールが行方不明になることが、よく起る。それもかなりひんぱんにだ。
「今の、冗談よ」
と、だから真由美は自分の言葉を引っこめることが多い。テニスのボールにゴム糸がついていて、ストンと戻ってくる。
「うん」
背中を見せたまま、豊夫がそう言う。安堵《あんど》が肩のあたりに漂いだす。
食器を洗ってしまうと、もうやることは何もない。
「そろそろ帰ろうかしら」
「そうだね」
と少し早すぎるタイミングで彼が同意する。
そんな延長上の夜のことだった。汗にまみれてベッドの上で躰《からだ》を起したまさにその瞬間、真由美はそれに気づいたのだ。本棚の香水の瓶《びん》に。
とても女らしいボトルだった。まるでそこに女そのものがいるような気がした。とても気取った感じの大人の女で、白いリネンのスーツに黒い衿《えり》がついている服装まで、ありありと眼に浮かぶのだった。肩にパッドが入り、腰がきゅっと細くて、スリットの入ったミニのタイトから、骨っぽいきれいな足がのびている。
真由美は慌てて幻想を追い払った。彼女は、香水瓶から黙って眼を背《そむ》けた。豊夫に、そこになぜ香水があるのか問いただすことはできそうにもなかった。彼の答えを聞くのが怖かったからだ。
恋が終りに近づいていることが痛いほどわかった。
もしも自尊心のある女なら、自分のほうからさっさと身を引いてしまっているだろう。もっと前に。打ったテニスボールが打ち返されなくなって、どこかへ行方不明にならないうちに。
どうせ捨てられるのなら、そんなに簡単には別れてやりたくない。さんざん手こずらせて、困らせて、へとへとにしてやりたい。真由美はそう思った。
「お腹|空《す》いたわね」
と言って、一糸まとわぬ裸のまま歩いて行って冷蔵庫を覗《のぞ》いた。前にはそんなことはしなかった。周囲の固くなったチーズのかけらがみつかった。彼女は裸のままそれを齧《かじ》り、缶ビールを手にベッドに戻った。
「食べる?」
と半分齧ったチーズを差し出した。豊夫がいいというように首を振ったのに、いきなりその口の中に押しこんだ。
次の瞬間、豊夫はそれを床の上に吐きだした。
「いらないって言っただろう」
にべもない調子だった。いかにも汚いと言わんばかりだった。
「ビールは?」
わざと平気を装って、真由美は冷えた缶ビールを突きだした。豊夫は顔を背けた。
「ほら、ビール。ねぇ飲みなさいよ」
一種残酷なマゾヒズムにかられて、彼女はいっそう執拗《しつよう》に缶ビールを彼の唇に押しつけんばかりに言った。
「いらないっていったらいらないよ!」
そう言いざま豊夫の手が缶ビールを払った。中身が泡となって吹きだして、それも床にころがった。
「一体どうしたのよ?」
真由美は肩をすくめて、膝《ひざ》を抱いた。そうなることがわかっていて、それがことごとくそうなっていったのにもかかわらず、胸がしんと冷えていた。自分が何を証明しようとしているのかわからなくなった。
「しつこいよ、おまえ。うるさいんだよ。暑くるしいのはうんざりだよ」
豊夫は実際うんざりしたようにそう言って、ベッドを降りるとさっさと服をつけだした。
Tシャツとコットンのズボンをはいてしまうと、もう二度と口をきこうともしなかった。そして二度と彼女を見ようともしなかった。テレビをつけて、それにじっと見入っている傍で、真由美はあいかわらず裸のまま膝を抱いていた。
「服、着ろよ、いい加減に」
真由美を見もせずに豊夫がそう言った。彼女はノロノロとベッドの下の物を拾い始めた。
「あたし考えたんだけど、今の会社辞めようかと思って」
豊夫の背中が緊張するのがわかった。
「辞めて、どうするんだよ」
「別の仕事探すわよ」
「だったら、今の会社辞める前に探せよ。探してから会社辞めろよ」
「どうでもいいじゃない。たいして違いはないわよ」
スカートのジッパーを引き上げながら真由美は声の調子を変えた。
「それとも、いっそのこと結婚しちゃおうかなぁ、とか思って」
しかし豊夫は何も言わない。
「結婚、しちゃおうかなぁとか――」
と同じ言葉をくりかえしかけると、
「うるせえな。したけりゃさっさとしろよ」
と彼が怒鳴った。
「何よ、怒鳴らないでよ。ほんとにいいの?」
「何がいいんだよ」
明らかに苛立《いらだ》って豊夫が貧乏揺すりを始めた。
「だから誰かと結婚しちゃうのよ」
「あぁいいよ。そういう男がいるんなら、しろよ。いちいち俺《おれ》の了解を取るまでもないって」
「あ、そう」
真由美は膝《ひざ》を床に落してベッドの下からストッキングを引っぱり出した。
「じゃするわよ、いいのね? ねぇ、いいのね!?」
「うるさいって言ってるんだよ。しろよさっさと、せいせいすらぁ」
真由美は黙ってストッキングをはいた。それから髪にブラシをあてて、口紅を塗った。
「結婚式には出てよね」
豊夫は憮然《ぶぜん》としている。
「ねぇ、出てくれるでしょう?」
ティッシュで唇の余分の油を吸いとりながら、真由美が言った。
「出るよ」
それから豊夫は一気に爆発した。「もうやめろよ、くだらないよ、相手もいないのに何だっていうんだよ。ゲームのつもりか? それともあてこすりなのかよ? 今夜は帰れよ、いいから」
「帰るわよ」
真由美はそう言って、サンダルシューズに足を入れた。追いだされる自分より、女を部屋から追いだす男の気持のほうがしんどいだろうと思いながら。
香水の瓶《びん》は依然として同じ場所にあった。ボトルの肩のところに、微《かす》かに埃《ほこり》がたまっていた。豊夫の肩ごしに真由美はずっとそれを見ていた。
「何見てんだよ。気が散るじゃないか」
と、彼女の上で彼が動きを止めて言った。
「眼をつぶれよな」
真由美は眼を閉じた。それから豊夫は彼女の中で激しく動いて、やがて完全に動かなくなった。
彼はバスルームに消え、そして戻ってくると、大きく欠伸《あくび》をした。
「ねぇ、こんなこと言うのやめようと思ってたんだけど」
と真由美は横になったまま、彼を見ずに言った。
「あたし、まだ一度もほんとうに満足したことないのよ。演技してたの。知らなかった? あれ、いつも演技だったのよ」
一瞬、豊夫の表情が凍りついた。
「演技?」
それから彼はいきなり笑いだした。笑いはすぐに消えた。
「ほんとかよ」
彼はちょっと宙を睨《にら》んだ。「しらけるよなぁ」
なんだか、茫然《ぼうぜん》とした感じが漂った。
「おまえ、不感症なんじゃないの?」
困惑した表情で、彼が言った。
「あのね、ほんとうに不感症の女なんて、めったにいないのよ。何かで読んだわ。女が何も感じないって場合、九九パーセント、男が悪いのよ」
「俺のせいだっていうのか」
豊夫はじろりと横目で真由美を見た。
「そうは言ってないわ。でも、ほとんど女のことがわかっていないんじゃないかと思うのよ」
「俺がか?」
豊夫の顔が赤くなった。怒りのせいか、屈辱のせいか、真由美には測りかねた。
「こんなこと絶対に言うまいと思ったんだけど、言ってあげるほうが親切だと思うからやっぱり言うことにしたのよ。あなたのやり方、九九パーセント、あてはずれよ」
豊夫の顔がますます赤くなった。
「はっきり言って、やっぱりなんにもわかってないんだと思うわ。女の躰《からだ》のこととか、構造のこととか生理とか」
真由美は本棚に並んだ書物の背表紙をゆっくり読んでいきながら呟《つぶや》いた。――風葬の教室、恋愛相談、ノルウェイの森上下、そしてだれも笑わなくなった――香水の瓶《びん》はノルウェイの森のちょうど前あたりに置いてあった。村上春樹の名前が見えなくなる位置に。
「どんなひとなの?」
ふと言葉が真由美の唇からこぼれ出た。
「何が?」
豊夫が眼を上げて彼女を見て、それから彼女の視線を追った。
「ううん、いいの。何でもない」
真由美はうろたえて眼を逸《そ》らした。知りたくない。
「俺のせいなのかよ」
豊夫が会話をまた元に戻した。
「何のこと?」
「だから俺だけが悪いのかってことだよ、おまえに問題があるのかもしれないじゃないか」
「それはないと思うわ」
真由美は下唇を湿らせて、ゆっくりとそう言った。豊夫の部屋のクーラーはあまりよくきかなくて、湿度が上がっている。ディスポーザーに生ゴミが溜《たま》っているのだろうか、微《かす》かな悪臭が時々強く漂った。
「やけに自信ありげじゃないか」
豊夫が嫌味をこめて言った。
「うん、確信してるもの」
「しかし俺に言わせると、反応がにぶいよな」
「わたし?」
「テンポがずれるというか、反応がいまいちだと思うこと、よくあったな」
「わたしのこと言ってるの?」
「そうだよ、おたくのこと言ってるの、俺」
「わたし、不感症じゃないわよ、なんだったら証明できるわよ」
「へえ?」
「どうしても疑うんなら、小崎さんに訊《き》いてもいいわよ」
「小崎? 小崎昭良?」
豊夫の眼が大きく見開かれる。「おまえ、小崎とやったのか?」
真由美は下唇を噛《か》んだ。
「あいつ、ぶっ殺してやる」
豊夫がいきなり喚《わめ》いた。それからやり場のない怒りをこめて、平手でテーブルを力一杯|叩《たた》いた。それから二人は黙りこんだ。
遠くで電車が通過する音がしていた。
「小崎とは何時《いつ》寝たんだ」
とやがて豊夫はうめくように言った。
「言いたくない」
真由美は首を振った。
「やつとは、何度やった?」
「それも言いたくない」
「何度もやったのか」
「…………」
「今でも続いてるのか?」
「何にも言いたくないって言ったでしょう」
「じゃなんで、小崎のことなんて最初に言い出したんだよッ!!」
急に大きな声で豊夫が言った。真由美は打たれるのかと思って躰《からだ》を縮めた。
豊夫は唐突に立って行くとクーラーのダイヤルを十にして、また元の位置に戻って床に腰を落した。あぐらをかいた両膝《りようひざ》が大きく揺れ始めた。
「やめてよ、それ」
「それって?」
「貧乏揺すり」
豊夫の膝の動きがぴたりと止まった。
「あいつとなら、何か感じるのか」
そっぽをむいたまま豊夫がぶっきらぼうに訊《き》いた。なんとなく、自分たちが日本映画の男と女のシーンを演じているような気が、真由美にはした。日本の映画って、どうして男と女が何か話しあう時お互いの顔や眼をみつめないで、それぞれがロンドンやパリの方角をみつめながら愛を告白したり別れ話をしたりするのだろうと、いつも不審に思っていたのだ。洋画なら、お互いの眼を覗《のぞ》きあって話をするのに、日本映画って、だから嘘《うそ》っぽいんだ、といつも批判的だった。
それが今、自分たちもそれぞれロンドンとパリどころか、ニューヨークの方向を見つめながら、話をしている。日本人って奇妙な人種だ。真由美は床の木板の隙間《すきま》を爪《つめ》でなぞった。
「あなたとだって感じるわよ」
と彼女は言った。「感じるけど、いきつくところへいきつけないのよ」
「小崎となら、いきつくところへいきつけるのか」
「あのひとは、女のことをよく知っているのよ、きっと。私が言うのは、あの部分の構造のこととかよ」
いきなり、何かが宙を過《よぎ》ったと思ったら、真由美は頬《ほお》とコメカミのあたりに熱感のようなショックを覚えて、横倒しに吹きとばされた。宙を過ったのは豊夫の手だった、と後でわかった。
「そういうことを言ったら、終りだな」
頬《ほお》を押さえて床に眼を落している真由美にむかって、彼が冷たく言った。
「何よ、とっくに終ってるくせに。別れやすくしてあげてるんじゃないの」
「どういう意味だ?」
真由美は顔にふりかかっている髪の間からチラッと香水を見た。美しい、それだけで完成しているデザイン。一糸乱れぬクールな女の顔がそこに重なった。
「好きでこんなシーン演じてるんじゃないんだから」
「俺と別れたいんなら、黙って立ち去ればいいんだよ。なにも、わざわざ修羅場《しゆらば》にする必要はなかったんだ」
真由美を打った右手が痛むのか、豊夫は無意識にそれをさすりながら、呟《つぶや》いた。
「俺だって、清廉潔白の身というわけじゃないしさ」
「それ、どういう意味?」
ノルウェイの森。村上春樹。ホワイト リネン。真由美は喉《のど》に手をやって待った。
「だからさ、叩《たた》けばホコリの出る躰《からだ》だってことさ。ま、お互いさまだがね、こうなったら」
「知ってたわよ」
と真由美は観念してうめくように言った。
「知ってた?」
豊夫が眼をしばたたかせた。
「三週間前から、気がついていたわ」
「勘がいいんだな。小崎のこと、俺のほうは気がつきもしなかった」
「死にもの狂いで愛していれば、そんなことわかるものよ」
「暑いな、ちくしょう。クーラーどうかしちまったんだ」
「そのひと、あなたに私という女がいること知ってるの?」
「ん?」
「私のこと、知ってるのって訊《き》いたの」
「話したよ」
「そしたら?」
「両方ってわけにいかない、って答えたよ」
「後からやって来て、そんなこと言ったの? 冗談じゃないわ」
真由美は、顔にかかっている髪をさっと払って言った。
「で、あなたはどう答えたの?」
「適当に答えておいたよ」
憂鬱《ゆううつ》そうに豊夫は言った。
「そんなに好きってわけでもないんだよ」
どこか気弱な態度だった。
「最初はいいと思ったんだよ。きれいだし。今まで知らないタイプだし」
「どういうタイプよ?」
「一種、高嶺《たかね》の花って感じでさ。骨っぽくて清潔で、それで妙に色気があってさ」
「あの香水と同じね」
と真由美は呟《つぶや》いた。
「どの香水さ」
「あれよ」
と彼女は顎《あご》を突きだして教えた。
「いつのまに、あんなところに香水があるんだろう?」
不思議そうに豊夫が呟いた。
「本当に知らなかったの?」
「知らなかったよ、今の今まで」
と彼は眉《まゆ》をきつく寄せた。
「三週間前よ。私はすぐに気がついたわ」
「知っていて、なんで何も言わなかった?」
真由美は絶望的な仕種《しぐさ》で肩をすくめた。
「なんとなく、太刀打ちできないって感じたからよ」
「でも一度だけだよ、彼女と寝たのは」
「その時、忘れていったのね、きっと」
「多分な」
「わざとよ、きっと」
二人はそれぞれの思いをとりとめもなく追っていた。近所の飼い犬がやたらに吠《ほ》えているのが聞こえた。
「わざと? 何のために」
「挑発するためよ。きまってるじゃない」
真由美は溜息《ためいき》をついて、床の上から起き上がると、バッグを取り上げた。
「帰るのか?」
彼女の動きを眼で追いながら豊夫が訊《き》いた。
「ええ、そろそろ退《ひ》け時《どき》だわ」
壁の絵の歪《ゆが》みを直しながら彼女が答えた。
「あの女とは、あれから逢《あ》ってないよ」
とその背中に豊夫が言った。
「二、三度むこうから電話があったけど、なんとなくうやむやにしておいたら、何も言わなくなった」
「プライドがあるんでしょう、むこうにも」
本棚の前に立つと、彼女はその香水の瓶《びん》に触れた。
「そんなもん、捨てちまえよ」
「捨てるの?」
ふたをねじって、中身を嗅《か》いだ。想像していたとおり、粋《いき》で軽くて、わずかに饒舌《じようぜつ》な感じだ。
「私、もらっていい?」
「そんなもの、持って行ってどうするんだ」
ほんとうに、どうするつもりだろう、と彼女は思案した。
「わからないけど。どうせ捨てるんでしょう?」
「ああ」
真由美はそのボトルをバッグの中にそっと落した。
「じゃ行くわ」
「送るよ」
豊夫が腰を浮かせかけた。
「いいの。送らないで」
「しかし……」
「送られたくないの」
「つまり……俺たちはこれで終りか」
「そういうことになるんじゃない?」
「ま、お互いさまだけどな」
煮え切らない感じで豊夫が呟《つぶや》いた。
「かといって帳消しにはならないわ」
豊夫のスニーカーをきちんと揃《そろ》えて並べてやりながら彼女は言った。
「まあな」
「何もなかったように振るまうわけにはいかないでしょ」
「そのうち忘れるさ」
「どうかしら。忘れないんじゃない?」
「かもしれないな」
真由美は、ドアに手をかけて、少し待った。
「さっきの話だけど」
と彼女は躊躇《ちゆうちよ》した後、言った。
「小崎さんと、いきつくところへいきついたって話、あれ、嘘《うそ》」
「嘘?」
「ええ。彼とも、決定的には何も感じなかったわ。多分、私がだめなのよ。きっと不感症なのよ」
「しかし、不感症なんて九九パーセント存在しないって――」
「ありがと」
彼女は思い切りドアを押した。わずかに待ったが、引き止める豊夫の声はもうなかった。真由美はドアの間を滑り出た。
途中、曲り角のところで振り返って見た。四つ辻に街灯の光が落ちていた。追ってくる豊夫の姿は、当然なかった。
もしも、あそこにあの香水が忽然《こつぜん》と現れなかったら、何もかもが違っていたのだろうか? そしてうやむやに、まだ彼との関係が続けられたのかもしれない。
でもそれは、いったいいつまで? あのことが終ってしまうと、急に緊張も思いやりも何もかもなくして、大《おお》欠伸《あくび》をしたり、早く帰ってほしそうな態度をとった豊夫、のそれぞれの仕種《しぐさ》が思い起こされた。
結局は、時間の問題だったのではないだろうか。ゆっくりと少しずつ関係が腐っていくのと、思い切って、腐ったものを断ち切ってしまうのと、それだけの違いだったのかもしれない。
思いきった手術には、痛みがともなうものである。多少傷跡がヒリヒリしたって当然のことなのだ。真由美はそんなことを考えながら、駅前の明りの方角へと急いだ。
途中でバッグから香水の瓶《びん》を取り出して、手にとった。
どうしよう、これ。
小さいながらも、ずっしりと持ち重りがした。途方にくれたまま、彼女はいつまでもそれを握りしめていた。
第9話 ニ キ
ニキ・ド・サンファル〈Niki de Saint Phalle〉
フランスの女性芸術家、ニキ・ド・サンファルがブレンドした香水。太陽の光、月の雫、星のかけら、蛇の快楽、そして愛をイメージした幻想的な花の香り。神秘とエロスの香り。
ファーストクラスの待ち合いラウンジは、完全に夜の世界を演出していた。外はまだ午前十一時だというのに。
淡いベージュの、みるからに坐《すわ》ってみたい気持を起させるような一人掛けのソファの脇《わき》には、それぞれ品の良いランプシェイドがついており、心もち黄色味を帯びた温かい光を放っている。
ラウンジの待ち合い客のほとんどが、旅なれた様子のジェットセッターで、ランプの明りで新聞やタイム誌を読んでいる。
|禁 煙《ノー スモーキング》の表示が示してある奥のコーナーに、中年のイギリス人らしい夫婦がいて、静かな調子で時々言葉をかわす他に、喋《しやべ》る人はいない。イギリス人だとわかるのは、肌の感じと、もちろん英語のアクセントのせいだ。それに女の声が心もち上ずったように高いのも、イギリスのレディの特色である。そして二人とも、ほんのわずかにやぼったいのも。もっとも、それは作為的なやぼったさである。
妻はオフホワイトの絹のごく普通のブラウスに、ベージュのスカート。スカートには、坐りやすそうなギャザーが少し入っている。ごく普通のベルト。同じ色と素材の、中ヒール。首に一連のパールのネックレス。それより二まわり小さなパールのピアス。袖《そで》を通さずに肩にはおっただけのカシミアのカーディガンは、彼女の髪より少し明るい感じの茶色だ。
男のほうも、茶系統の三つ揃《ぞろ》い。二人ともごく上等のものをさりげなく身につけている。そして似たような、狐顔《きつねがお》。つまり、眼が顔の中心のほうに寄りぎみの細面《ほそおもて》。共にすらりとして長身だ。
「トムとケイトは、アムステルダムからミラノに転勤になったそうね」
と妻のほうが、濃いミルクティーを一口飲んでから夫に言った。
「アムステルダムにはかなり長かったからね」
夫が穏やかな声で答える。
「何年いたの?」
「結局七年」
「七年もあの退屈な街にいたんじゃ、今度のミラノ勤務は大喜びでしょうね」
「多分ね」
「ローマから、電話をしてみようかしら」
「ケイトが嬉《うれ》しがるよ」
ラウンジの客たちは――主として男だが、ほんの時たま読みかけの雑誌や新聞からチラリと眼を上げて、会話中のイギリス人夫婦を見るともなく眺める。そしてトムとケイトという人たちの住んでいたアムステルダムの街並みを思い浮かべ、次に陽気なミラノの街について、知っていること、記憶している風景、匂《にお》いなどを思い描く。それから何者だかしれないトムとケイトのために祝福してやりたいような気持になって、唇の端にほんのわずかな微笑を滲《にじ》ませる。
見も知らぬ、どうでもいい人間のために、たとえほんのわずかでも微笑を浮かべることができるのは、たまたまそこに居合わせた男たちが、程度の差こそあれ、満たされて幸福だからである。離婚話が進んでいたり、破産しかけていたり、ローンが返せなくなったりしていたら、他人のことなどにかまってはいられない。ほんのわずかな頭痛や胃潰瘍《いかいよう》を病んでいても、人は微笑《ほほえ》めないものだ。
だから、他人のほんのわずかな幸運に対して好意的な反応ができるということは、そこに居合わせた人たちが少なくとも健康で幸福だということの証拠である。
他人の痛みが分かるのは、同じような痛みを経験したことがある人間だけだというのには一理あるが、問題は他人の痛みを自分の痛みのように感じることが出来るかどうかではなく、その後の問題である。
貧しい人々は、似たような貧しい人々に対して決して寛大ではないということ。彼らは自分自身の問題で精一杯だから、せいぜいぷいと顔を背《そむ》ける程度の反応しか見せない。
もしも、トムとケイトの話がファーストクラスのラウンジではなく、エコノミー客のたむろしている一隅で行なわれたとしたら、誰一人として、唇の端に微笑など浮かべたり、七年目の転勤をひそかに祝福してやろうなんて気持を抱きはしないだろう。
もっとも、そうしたことがどうだ、といわれてしまえば、それまでのことである。唇の端に微笑を滲《にじ》ませた男たちは、十分もすれば何もかもきれいさっぱり、他人の会話のことなど忘れてしまうのに違いないから。
「ニキをどうするつもりかしら」
と、奥のほうでイギリス人の女が呟《つぶや》くのがまた聞こえた。彼女の夫の反応がない。
「ニキを、どうするんでしょうねえ」
女はもう一度、今度は少し大きな声で言った。
「え? 何か言ったのかね」
イギリス人は膝《ひざ》の上に広げていたザ・タイムスから眼を上げずに訊《き》き返した。
「だから、ニキのこと。ちゃんと聞こえていたくせに、二度とも」
一瞬だけ女の声に悪意が含まれたので、別のコーナーにいた男たちのうち、一人か二人が再び聞き耳をたてた。
「ああ、ニキね」
それでも穏やかに男は呟いた。
「それで、ニキがなんだって?」
「アムステルダムの学校に残るのかしら」
「一人でかね? まだ十四歳だよ」
「一人じゃ残れないっていうの? なんだって出来る娘《こ》よ。現になんだってやっているわ」
女の口調が皮肉と苦味を帯びたので、彼女の夫は困惑したような横顔を見せて、新聞の頁《ページ》をガサゴソとめくった。
「おやおや、株がまた少し下がったよ。困ったものだね」
と彼は深い溜息《ためいき》をついた。株という単語が聞こえたので、別の待ち合い客が、そうっとイギリス人夫婦の方角に眼を走らせた。
「去年の十月みたいなことにはならないわよ。それより、ニキは両親についてミラノへ行くと思う?」
「さあねぇ。どうして僕に訊《き》くんだい?」
紙面から顔を上げずに、イギリス人が訊き返した。こまかく縮れたコメカミの髪の毛が、そこだけ白髪になっている。そのコメカミのあたりが、わずかに膨《ふく》らみをみせており、その下で血管が神経質に二、三度ケイレンしたようにびくついた。
「どうして? ニキから相談をうけたんじゃないの?」
マニキュアのついていない白い指先で、首のまわりのパールを無意識にいじりながら女が言った。
「相談なんてうけてないよ。第一、なんで僕があの娘《こ》の相談にのってやれる?」
相変らず男の眼は新聞の株価面に注がれたままだ。
「HSMの株が二ポンド近く下がったよ。実際、嫌になるね」
「でもあの娘、ケントの寄宿学校に入学するみたいよ」
イギリス人の肩や背がわずかに強張《こわば》った。
「ケントの学校に入学することを知りながら、君はなんでニキがアムステルダムに残るのかどうかなんてことを、僕に訊《き》くのかね?」
低い声で男が妻を非難した。近くで聞くともなく二人の会話を小耳にはさんだファーストクラスの乗客のうち何人かは、同じ疑問を抱いたとみえ、同感の面持で女のほうをじっと見つめた。
「あなたが嘘《うそ》つくかどうか知りたかったのよ」
髪を耳の後ろにかけ直しながら女は答えた。
「僕は嘘などついた覚えはない」
新聞が騒がしい音をたててたたまれたので、語尾のほうがよく聞こえなかった。
「知っていて事実を言わないのは、嘘をつくのと同じことだと私は思うわ」
本人はとても抑えた低い声で喋《しやべ》っているつもりらしいが、生憎《あいにく》イギリス女特有の震えを帯びた高音のために、部屋の隅のほうまではっきりと聞こえてしまうのだ。むろん彼女はそのことに気づいていない。
「それは君の考えであって、普通はそうは言わないよ。嘘《うそ》をつくというのは、最初から嘘とわかっていることを言うことであって……」
また新聞のガサゴソという音で言葉が全部聞きとれない。
ラウンジの入口で乗客のチェックをしている航空会社の若い女性が、もうさっきからずっと、奥の二人から眼を離せないでいる。
その時、新しい客が入って来たので、彼女はそっちの応対のために立ち上がった。
東洋人のビジネスマンである。顔つきの締まった感じと姿勢から、タイかホンコンあたりの国籍に見える。ラウンジの客たちの注意が束《つか》の間《ま》、その新しい客のほうへと逸《そ》れた。
「飲みものをお作りしますわ。何になさいます?」
と若い女性が訊《き》いた。
「コーヒーを」
と答えてから、東洋人はすぐに訂正して言った。「いや、コーヒーはやめにして、何かアルコールの入ったものにしよう」
彼はバーに並んでいるボトルに眼をやった。
「ウオッカ・トニックがいい。ダブルで」
東洋人はあたりを見渡し、禁煙席のコーナーに移動した。そしてイギリス人夫婦の横の席に静かに腰を下ろした。
「ハロー」
と東洋人はまず女のほうに微笑した。女は無表情のまま、義理でハローと返した。
「ハロー」
今度はイギリス人にむかって微笑した。
「ハロー」
イギリス人は礼儀正しく会釈を返した。
「株がまた下がりましたね」
と東洋人は、イギリス人の新聞面をチラと見てそう言った。
「すぐにもち直すと思いますよ」
イギリス人はいっそう愛想よく答えた。
航空会社の地上係の女がダブルのウオッカ・トニックを運んで来て、東洋人の横のコーヒーテーブルに置いた。
「サンキュー・ヴェリマッチ」
と東洋人はていねいに礼を言い、彼女と出発便について話し始めた。
「ニキを寄宿学校に入れるなんて、トムとケイトの気が知れないわ。自分たちの眼がいき届かないところへ、あのあばずれを野放しにするなんて」
室内には複数の人々の話し声がしていたので、幸い、女の話ははっきりとは人々の耳に届かなかった。
「ねぇ、君《デイア》、そんなふうに言うものじゃないよ」
と夫が低い声でたしなめた。
「事実を言ったまでよ」
冷ややかに彼女は言い返した。
意志の強さというよりは頑固さを示す角張った顎《あご》を、高めの衿《えり》が一層強調している。
その年齢の女たちが一様にそうであるように、少女の頃の面影がその顔から完全に消えてしまっていた。そして、その今の顔立ちの中に、実にはっきりと七十歳の時の女の老けた顔が重なってみえるのである。つまり典型的な中年の域に、女はいた。
その点、男のほうが一般的にかなり長いこと、少年の頃の面影をその顔に刻み続けるものである。たとえ眼尻《めじり》に皺《しわ》があろうとも、髪に白いものが混じったり髭《ひげ》をたくわえようとも、ふと見せるはにかみの微笑の奥に、幼い顔が彷彿《ほうふつ》とすることが、男のほうにはよくあるものだ。
「あの娘は寄宿学校の男の先生という先生を、一人残らず試してみずにはおかないでしょうよ」
「そんな話は聞きたくない」
押し殺した声でイギリス人が言った。
「でも事実ですよ、|あなた《マイ・デイア》。ニキの頭にはあのことしかないのよ。まだ十四歳だというのに、あのことで頭の中が一杯なのよ」
「|お願い《プリーズ》だから……」
イギリス人が哀願の眼をして妻を黙らせようとした。
「でも、世の中、不公平だわね」
と女は急に口調を変えた。「ねぇ、そう思いません?」
「何が不公平なんです。|奥さん《マダム》?」
横でウオッカ・トニックを啜《すす》っていた東洋人が自分に話しかけられたので、少し当惑して訊《き》き返した。
「殿方《とのがた》の注意がひとりの女に集中するということがですよ。おかげで何人もの女が長いこと放っておかれるという結果になりますの」
「|おまえ《デイア》、よしなさい」
イギリス人が妻の腕を軽くつかんで言った。
「あなたが私の話を聞きたくないとおっしゃったからよ」
「わかったよ、聞くよ」
イギリス人は渋面を作った。東洋人は再びウオッカ・トニックに集中した。
「可哀想《かわいそう》なあなた……」
と女は急に破綻《はたん》したように、ひび割れた声で言った。
「あなたの頭もあの娘《こ》のことで一杯なんでしょう?」
「何を言いだすんだね?」
男はひどく驚いたように、唖然《あぜん》として妻をみつめた。
「ニキのことが忘れられないんでしょう? 隠さなくてもいいのよ、何もかもわかっているの」
「わかっているって、いったい何のことだね?」
見開いた男のはしばみ色の瞳《ひとみ》の奥に、不安そうな感じが浮かんでいた。
「何もかも知っていたわ。あなたとニキの間に何が起ったのか、何時《いつ》起ったのか、そして何時それが終ったのか、そういうこと全てについてよ」
「ちょっとお待ち。君が何を考えているのか知らないが、全て妄想《もうそう》だよ。とんでもないことだよ。第一こんな場所で持ちだすような話題じゃあるまい」
「ずっと言うまいと耐えてきたのよ。でも急に耐えるのが嫌になってしまったの」
先客の男たちの耳は、まるで舞茸《まいたけ》のようにそそりたってしまい、イギリス人夫婦の会話をひとことも聞きもらすまいとするあまり、赤く充血していた。
東洋人の男だけが、ほとんど無頓着《むとんじやく》に二杯目のウオッカ・トニックを啜《すす》っている。
「アムステルダムのトムとケイトの家に、春のホリデイで滞在していた時、食堂のテーブルの下で、あなたの嫌らしい指がニキに何をしていたか、私が知らないと思うの?」
「お黙り!」
男は激怒のあまり大声を出しかけて、必死に自分を抑えた。
「そんなこと、僕はしなかったぞ」
「あらそう? ニキはうっとりしていたわ。顔が上気して、口の端からヨダレがたれていたのを覚えているわよ」
比較的二人に近いラウンジの客は、さすがにいたたまれないのか、一人は雑誌に集中するふりをし、もう一人は立ち上がって飲みもののおかわりをしたついでに、ひそかにではあるが、もっとよく奥の二人を観察できるような離れた隅のほうに、席を取り直した。
「トムの書斎の時はどうなの? 大きな革張りの肘掛《ひじか》け椅子《いす》に坐っていたあなたの膝《ひざ》の上に、ニキがいたわ。まるで発情した雌猫みたいな顔して。
私がお昼の用意が出来たと知らせるためにドアを開いた時のあなたたちったら、すごくびっくりしたみたいに青ざめた」
「嘘《うそ》だ」
イギリス人はきっぱりと否定した。
「でも二人とも額に汗をかいていたわ。汗をかくような何をしていたんでしょうね。まさかニキのために絵本を読んでやっていた、なんて言わないでね」
「ところがそれが事実なのさ。僕はニキのフランス語の宿題を見てやっていたんだ」
「女を膝の上にのせて?」
「女じゃない。子供だよ」
「でもあの子の胸は大人と同じよ」
「もうやめてくれないか。これ以上何も言いたくない」
男は妻の顔から視線を背けて、他に見るべきものがなかったので、ラウンジの壁に掛かっているゴッホの複製画をみつめた。他の何人かがつられて、同じ絵に一瞬眼をやった。
「トムとケイトのアムステルダムの家にあるプールで起ったことはどう?」
「プールで何が起ったというんだ?」
冷たい怒りにかられながら、イギリス人はしゃがれた感じの小声で、そう訊《き》いた。
「家じゅうの人たちが、昼間の運河下りのピクニック疲れで寝静まった後のことよ。常夜灯をわざわざ消した真夜中のプールで泳いでいたのは、あなたとニキの二人だけよ。
ずいぶん長いこと、プールの中にいたわね。水音もたいしてしなかったわ。やがて水から上がったニキは、何も身につけていなかった。完全にヌードだった」
「常夜灯が消えていたんだろう? よく見えたな」
イギリス人は冷たい皮肉の笑いを浮かべた。
「月が出ていたわ。三日月だったけど」
女はそう言って爪《つめ》を噛《か》んだ。見るとその爪はどれも肉のところまですっかり噛み切られていて、グロテスクなほど醜かった。
「じゃ、僕の完全なヌードも見たんだろうね」
とイギリス人が押し殺した声で言った。
「いいえ。私は疲れと絶望のあまりカーテンを閉めて一人で泣いていたわ」
「君が僕を見なかったのは、僕がプールになどいなかったからさ」
と彼はきっぱりと言った。
「じゃ、あなたはどこにいたの? 私たちの寝室にもいなかったわ」
「下で小説を読んでいたんだよ」
「嘘《うそ》よ、信じないわ」
「それは、下へ降りて来て僕が小説を読んでいたのを見ていないからさ。君が見なかったこと全てが、この世に存在しないというわけではないよ」
とイギリス人は静かに言った。
「君が見ていない場所で、実は様々なことが起っているんだよ。そして反対に、君が見ていた場所では、実際に何も起りはしなかった。君は嫉妬《しつと》のあまり、存在しないものを見ていたんだ。僕にはそうとしか言いようがないね」
とても静かな声だったので、ラウンジの客たちの耳には、とぎれとぎれにしか話の内容は届かなかった。
その時、スピーカーから飛行機の搭乗時間を告げるアナウンスが聞こえてきた。
「でも、ひとつだけ確かなことがあるわ」
と女がアナウンスにはかまわず言った。
「あれ以来、あなたが私に触れなくなったことは、絶対に錯覚じゃないわ。それとも、実際にはあなたは時々前みたいに私を抱いたのに、私がそのことに気づかなかったとでもいうの?」
「なに? よく聞こえないよ」
イギリス人は耳に片手をあてた。
「アナウンスと同時に喋《しやべ》るから、聞こえやしないよ」
「私に指一本触れようともしないのは、錯覚じゃないって言ったの」
女は同じ言葉をくり返しかけた。途中でスピーカーから流れるアナウンスが急にやんだので、彼女も唐突に口をつぐんだ。それから小さな声で、「ニキのせいよ」
と言い添えた。
「あの子のことであなたの頭は一杯になっちゃったからよ。あんな小娘にイカれるなんて、みっともないったらないわ。ご自分の年齢を考えたらいいのよ。実の娘とファックするようなものじゃない」
次の瞬間、男の手が女を叩《たた》くような感じで、さーっと横に伸びたが、彼は辛うじて自制した。
「もう何も言わないでくれ。何も言うな。いいな」
夫に打たれると思って一瞬息をとめ、すくみ上がっていた女は、ゆっくりと緊張を解いた。ラウンジのところどころで、深い溜息《ためいき》のような音がしていた。
「僕たち夫婦関係の問題と、ニキの存在とは全く別のことだ、ということだけ言っておくよ」
男はそう言うと、足の下に落ちているザ・タイムス紙を拾い上げて、ていねいにたたみ直した。
ラウンジの客たちが何人か、前後して腰を浮かせると、手荷物を取って出口に向かい始めた。東洋人は、三杯目のウオッカのせいで、口をあけて眠りこけている。
「ニキの名誉のためにもうひとことつけ加えておくが、あの娘は君が思っているような色情狂でもないよ。十四歳にしてはユニークな、個性的な娘なのさ。女というより、少年みたいなところがあるよ。ニキが大人とうまく折りあえないのは、あの子が知的すぎるせいもある。あの子は自分のことを女だなんて少しも意識していないんだ。だから誤解される。深夜のヌードの件もその一例にすぎないんだと思うね」
しかし自分を女だと意識していない美少女は危険な存在であることに、変りはない。イギリス人の妻は、疑わしそうに夫を眺めた。
「あなたの言ったこと、全然信じないわ」
と彼女は言った。
「あの娘は立派に大人よ。自分の魅力を百も承知よ。唇を半開きにすれば、男たちがハチのように集まることも知っているわ。子供のふりをして、だらしなく足を開いて坐りながら、チラリと脚の奥にあるものを男たちに見せる手だって、そりゃ熟練したものよ」
「そんなふうにニキが見えるのは、君の眼が悪意で曇っているからだ」
夫は非難するようにそう言うと、片手を伸ばして東洋人の肩を揺すった。
「もしもし、起きたほうがいいですよ」
東洋人は、はっとしたように眼をあけ、それから慌てて口のまわりを手の甲で拭《ぬぐ》った。
「そろそろ飛行機が出ますよ」
イギリス人は優しくそう教えてやった。
「や、恐縮です」
東洋人は礼を言った。
ラウンジの中が急に慌ただしくなった。入口に向かいながら、客たちはチラリとイギリス人夫婦を一瞥《いちべつ》して行った。どの顔にも軽蔑《けいべつ》と哀れみと好奇心とが浮かんでいた。
彼らはラウンジを出ると、例外なく、いったいどっちの言い分が正しいのか、と考えざるを得なかった。
夫が嘘《うそ》をついているのか。あるいは妻が病的な妄想を抱いているのか。その二つに一つの疑惑を、大きなアメダマのように、口の中で右へ左へと転がしながら、彼らは税関の審査を受けるために、歩みを早めた。
「なんとなく、そのニキって娘《こ》に逢《あ》ってみたい気もしますな」
と、ラウンジ客の一人が、審査を受ける行列に並びながら、すぐ前の男に話しかけた。
二人は同じラウンジに居合わせたファーストクラスの客同士だった。
「あなたは、男のほうに同情的なんでしょう?」
と、話しかけられたほうの男が言った。
「どちらかというとね。あの奥さんは被害妄想の気《け》があるような気がしますね」
「そうかな。僕は、男のほうが、ずる賢いような気もするんですがね」
その時、同じ列の後方に、件《くだん》の夫婦が並ぶのが見えたので、二人は口をつぐんで、前を向いた。夫婦はまだ低い声で言い争っていた。
第10話 フィジー
フィジー〈Fidji〉
南太平洋上に浮かぶフィジー島でバカンスを過ごしたギ・ラロッシュが初めて創作した香水。太陽、海、樹木、風、花々のイメージをブレンドしたフレッシュでフェミニンな香り。
浜辺の夏が終った。
あの熱かった喧噪《けんそう》を偲《しの》ばせるものは何もない。砂は、一種無情な浄化作用で、夏の痕跡《こんせき》を素早く消してしまう。
たとえば煙草《たばこ》。若者たちが砂の中に突き刺して埋めた夥《おびただ》しい吸い殻は、どこを掘り返してもみつからない。たとえばサンオイル、汗、涙。したたり落ちたそうした液体を大量に吸いこんでなお、砂はさらさらと乾いている。たとえば恋。
満月の夜に始まって、月が細っていくごとにつのっていった海辺の熱い思い。だがそれも、二度目の満月の夜に怪しくたち騒ぐ心の戯れで、ふと別の男が女に思いを逸《そ》らせることによって、一気に終ってしまう束《つか》の間《ま》の恋。快楽と涙のくりかえし。砂は、女たちの背中の曲線どおりに自らを凹《くぼ》ませ、束の間の恋のベッドにもなった。潮騒《しおさい》に混じるたくさんのうめき声やら溜息《ためいき》。
砂はそうしたもの一切を浄化して、今や白々と静まりかえっている。波と風が形作った優しい砂紋は、石器時代の恐竜の背中に似ている。
いつのまにか葉子は、フラットなシューズを脱いで、片足ずつ片手にぶら下げて歩いていた。うつむき加減に。探しものでもしているみたいに。
波打ち際の湿った砂の上に押された彼女のきれいな足跡は、つけられるそばから、寄せる波が消していく。そうなのだ。全てをいったん受け入れておいて、次の瞬間には消してしまうのだ。だったら、受け入れなければいいのに、と葉子はひそかに下唇を咬《か》みしめる。
限りなく優しいものは、限りなく残酷であることにつながるのだ。
葉子が探しているものは、しかしそこにはない。彼女は暁生《あけお》の面影を求めて再びここを訪れたのだが、今では来てしまったことを深く後悔している。
岩のくぼみに、砂浜の一角に、樹影に、バナナの皮でふいた小屋に、つまり至るところに暁生との激しい恋の記憶と、その激しかった分だけ、彼が突如として凍りついた後ろ姿を見せて歩み去った時のあの恐ろしいまでの悲しみの記憶が、まざまざと蘇《よみがえ》り、彼女はむせかえるような喪失の痛みでその場になぎ倒されそうになるのだった。
ただのひとことも説明を加えず、二度と葉子の顔を見ようともせず、暁生は背中を強《こわ》ばらせたまま、荷物を車の後部座席に投げこむと、次の瞬間、ガソリンの排気臭を残して走り去ってしまったのだ。
何が起ったのかまだよくわからないまま、唖然《あぜん》としていた葉子が、我に返って駈《か》けだした時には、既に暁生の乗ったメルセデスのSL350はホテルのアプローチを過ぎ、右折して消えるところだった。
茫然自失《ぼうぜんじしつ》してホテルルームに戻ると、一緒に来ていた親友の美保が訊《き》いた。
「どうしたのよ? 躰《からだ》じゅうの血がみんな流れ出てしまったみたいな顔して」
「まさにそんな気分なのよ」
と葉子は、たった今さっき起ったことを美保に話した。
「暁生さん、何か言って行った?」
美保が眉《まゆ》を寄せた。
「一言も」
葉子はまだ釈然としない気持で呟《つぶや》いた。
「そう……。どうしたのかしら」
美保も声を曇らせた。
少しして敬一が二人の部屋を覗《のぞ》いた。
「一体何をやっているんだい? こんなに天気がいいのにさ。ビーチにいたんだけど誰も出て来ないんだもの」
それから彼は、
「暁生は?」
と訊いた。
どちらの女もすぐには答えなかった。
「暁生はどこさ?」
もう一度、敬一が同じ質問をくりかえした。
「何にも言わずに帰っちゃったんだって、突然」
美保が葉子のかわりに答えた。
「帰った? なぜ?」
敬一はぽかんとして訊いた。
「それが何がなんだかわからないのよ」
美保は怒ったように言った。
「誰にも、何にも言わずに帰ったって?」
敬一は顔をしかめた。
「あいつ、何を怒ってんだろう?」
と彼は首をひねった。
「何か、言ってなかった?」
と葉子がすがりつくような声を出した。
「いや……」
「妙なそぶりしてた?」
「つい一時間くらい前、部屋に戻って来て……」
と敬一は言葉を切った。
「ちょっと喋《しやべ》っていたと思ったら、いきなり飛び出して行った。そういえば態度がおかしかったな」
「何を喋ったの?」
「午後からサーフィンをやろうとか、そういうことだよ。別に暁生が怒り出すようなことじゃなかった」
敬一は眉《まゆ》を寄せて考えこんだ。
「態度がおかしかったって言ったけど……」
「うん。最初はいつものように陽気にしていたんだけど、一言か二言喋った後、急に口をつぐんで、不機嫌になった」
敬一はちらりと美保と視線を交わした。
「入って来た時は普通だったのね? それ確か?」
葉子は念を押した。
「うん、百パーセント。ひどく楽しそうに口笛吹きながら、ノックもせずに部屋に入って来て、『いつまでぐだぐだしてるんだよ、サーフィンやりに行こうぜ』って、おそろしく張り切ってたんだ」
「じゃやっぱり、あなたが言ったことが原因じゃないの?」
と葉子は疑惑を深めた。それにしても仮に敬一と暁生の間に感情的ないさかいがあったとして、葉子に見せたあの氷のような冷ややかさは何としても解《げ》せない。
「何も言わないよ。『よし、やろうぜ』って答えて……僕が『女の子たちは?』と訊《き》いて、暁生が『ビーチじゃないのか』と言い……」
敬一は記憶をたぐり寄せながら続けた。「僕がベッドカヴァーを直して、それから『腹へったな』と言ったんだ。うん、思いだしたぞ。そしたら急にあいつ様子が変って、妙に固い声で皮肉言ったんだ。『昼間からベッドにしけこんじゃ腹も空《す》くさ』」
そこで美保が顔を背《そむ》けたので、葉子は事情を察した。二人は恋人同士ではなかったが、四人で海へ来ている間に何となくできてしまったのだろう。
「暁生らしくない言い方だと思ったけどさ」
と敬一が肩をすくめた。「別に悪いことをしたとも思わない……。葉子といちゃついていたっていうんなら話はわかるけどさ」
敬一の声にも途方に暮れたような感じが含まれた。
「それで?」
「そのまま部屋を出て行ったんで『ビーチで逢《あ》おうぜ』って暁生の背中に声をかけておいて、少ししてから僕もビーチに行ったんだ」
とすると暁生はその足で葉子の所へ来て、何か言いかけ、結局何も言わずにくるりと背をむけたのだ。
慌てて追うと、彼はいったん部屋に戻り、物も言わずに荷物をまとめ、唖然《あぜん》としている葉子を置き去りにして、ベンツで走り去った。と、そういうことになる。
「変じゃないの。もしほんとうにそれだけのことなら、彼が怒って帰ってしまうなんてこと、起りえないわ」
葉子はますます混乱して呟《つぶや》いた。
ホテルの彼女と美保の部屋の窓からは、銀盤のように輝く盛夏の海が見えていた。楽しい休暇は一瞬にして悪夢に変ってしまったのだ。
「それとも、あいつ……」
と敬一は言いかけて慌てて言葉を呑《の》みこんだ。
「それともって?」
と、葉子が反射的に訊《き》き返した。
「いや、いいんだ。何でもない」
敬一が首を振った。
「何よ。言いかけて黙ってしまうなんて気になるじゃないの。それともって、なんなの?」
「だから、何でもないって。つまんないことが頭に浮んだだけだよ。よく考えればくだらない」
「でも言ってよ、お願い」
葉子は必死な声で頼んだ。「何でもいいから言ってよ。何かの手がかりになるかもしれないじゃないの。このままじゃ、訳がわからなくて気が狂いそうだわ」
「わかったよ」
と敬一は苦笑した。「僕が言いかけたのはさ、もしかしたら、あいつ、僕たちのことを妬《や》いたのかなってことだけど……。ね? くだらないだろう? 妬くわけないもの。暁生が惚《ほ》れてたのは葉子なんだからさ。僕と美保がセックスしたって、屁《へ》でもないよ」
全員が黙りこくった。海のほうから人々のたてる笑い声や喚声が低く聞こえていた。
敬一がふっと言った。
「しかしあいつ、僕たちがセックスしてたなんてどうしてわかったのかな?」
「そりゃわかるわよ」
と、それまで黙っていた美保が、投げだすような言い方をした。
「どうして?」
敬一が美保の顔をみつめた。
「気配みたいなものでわかるわよ」
美保は爪《つめ》を咬《か》んだ。「それに、あれ特有の匂《にお》いもあるじゃない。敏感な人間ならピンとくるわ」
「ふぅん」
と敬一は考えこんだ。「匂いか。なるほどな」
しかしそれでは、暁生が物も言わずに三人を置き去りにして帰ってしまった理由にはならない。葉子は暗い眼で輝く海面を眺めた。
その後を追うようにして、敬一の車で東京に戻り、葉子は暁生に電話をした。彼の母親が出て、暁生はテニス部の合宿で長野のほうに行っていると答えた。
テニス部の合宿があるのは葉子も知っていたが、それまでにはまだ十日もあった。明らかに葉子を避けているのだ。彼女はひどく傷ついた思いで電話を切った。
一週間ほどしてもう一度連絡を取ったが、暁生の母は、今月いっぱい合宿から帰らないはずだと言った。合宿先の電話を教えられたが、葉子はすぐにかける気にはなれなかった。
けれども、気持が波立つままなので、ついに意を決して、教えられた民宿に電話を入れてみたのだ、しかし電話に出たのは同じテニス部の人間で、暁生は今回の合宿に参加していないという返事だった。
そう言われれば、葉子には打つ手はない。暁生の母が嘘《うそ》をついているとは思えないが、かといってテニス部の学生の口調も屈託がなかった。
結果は火をみるより明らかだ。暁生は葉子を避けている。
九月になっても、暁生からは何も言ってこなかった。葉子は怯《ひる》む思いをふるいたたせて、二度ほど、自宅に電話を入れたが、二度とも留守だった。ことづてを頼んだが、彼からの電話はかかってこなかった。
三度め、日曜日の朝九時頃に電話を入れたら、長いこと待たされてようやく暁生が電話に出た。
「もう電話しないでくれ」
といきなり聞いたこともないような冷ややかな声で言われた。
「待って、切らないで」
葉子は必死に言った。「するなというなら、二度と電話しないと約束するわ。でも理由を聞かせて。でないと、納得ができないの」
「理由?」
嘲笑《ちようしよう》するような感じが暁生の暗い声に混じった。
「理由なら自分の胸に訊《き》けよ」
「なんどもそうしたわ。でも思いあたることがないの」
涙が出かかった。
「へぇ! ない?」
いかにも見下げたような声。心が完全に冷めてしまっているのを、認めないわけにはいかなかった。
「わかっているんなら教えて」
葉子は死んだように眼を閉じた。
「とにかく俺《おれ》の気持は……」
と暁生が言った。「きみのような女は嫌いだ。それだけだよ」
そして有無を言わせずに電話は切れた。その最後の言葉と声音の冷えびえとした感じが、いつまでも耳について離れなかった。二度と彼に電話をする気持にもなれなかったし、第一、そんな勇気はもう葉子にはなかった。
結局、理由もわからぬまま不当に傷つけられたような気持で、葉子は大学三年の二学期の授業を受け始めた。時々美保とも逢《あ》ったが、彼女とは学課が違うので、始終見かけるわけではない。
それに葉子のほうではそうでもないのに、美保のほうで避けているような節《ふし》も感じられるのだった。もっともそう感じるのは、葉子の思い過ごしかもしれなかった。
とにかく彼女は、ともすれば被害者意識の中にひっこんで、自己憐憫《じこれんびん》に溺《おぼ》れがちだったのだ。
九月も末のことだった。敬一から久しぶりで連絡があって、逢《あ》いたいという。
敬一は暁生の親友なので、逢いたい気持もある一方で、傷口がいっそう開くような気もしたが、とにかく逢うことにした。
葉子の大学の近くにある喫茶店で、授業の後、二人は逢った。
「やぁ、元気?」
と彼は日焼けの褪《あ》せかかった顔をむけた。
「なんとかね。あなたは?」
相手の前に腰を下ろしながら、葉子が訊《き》き返した。
「それがあんまり……」
「どうしたの?」
「俺《おれ》も、失恋しちゃったらしい」
敬一は頭を掻《か》いてそう呟《つぶや》いた。
「失恋って、美保に?」
「うん」
二人は黙った。店内は同じような学生のカップルや、女同士で、ほぼ満員だった。
「美保の相手、誰だと思う?」
とやがて、敬一が訊いた。その眼が暗く光った。
「え? 誰なの?」
口の中に嫌な苦い味がした。ぞっとするような予感で葉子は首をすくめた。
「暁生」
「…………」
長いこと、息もできずに葉子は躰《からだ》を固くしていた。
「いつ頃からなの?」
と、ようやく押し出すようにして訊いた。
「九月に入って、まもなく……。急に美保が冷たくなってさ、電話しても居留守を使いだしたんでさ、彼女の家まで行って問いただしたんだ。そしたら白状したよ。新学期に入って間もなく暁生から電話があって、それから急に親しくなったらしい」
あまりのことに、葉子は再び黙りこんだ。最近の美保が自分を避けるように見えたのは、やっぱり気のせいではなかったのだ。
「こうなってみると、なぜあの時、海から暁生が怒って帰っちまったのか、謎《なぞ》が解けたよね」
と敬一は深々と溜息《ためいき》をついた。
「え? なぜ?」
と葉子は思わず訊き返した。
「やっぱりあいつ、僕に嫉妬《しつと》したんだよ」
「そんな……。そんなことは絶対にないわ」
葉子が思わず大きな声を出してしまったので、近くにいた学生が顔を上げて彼女を見た。
「ありえないわ」
なぜなら、あの前の夜、暁生と葉子はビーチサイドの大きな樹《き》の下で、それ以上は望めないほど、親しく結ばれたばかりだった。そして何度もお互いに口に出して愛を確かめあったのだ。
そのことがあった翌日に、いくらなんでも暁生が別の女のことで嫉妬などするだろうか?
「心の底に眠っていた思いが、むっくりと顔を出したんじゃないかな。あいつ、自分でも気づかずに、本当は美保に惚《ほ》れてたんだよ」
「ひどいわ」
と葉子はうつむいた。
「ごめん」
敬一は力のない声で謝った。
「でもこうなったら、そうとでも考えるほかに、考えようがないよ。結果から見ればね」
と彼は肩をすくめた。
「僕たち二人とも、捨てられちまったんだ」
葉子は何か釈然としない気持のまま、レモンティーの入ったカップをみつめていた。一度も口をつけないまま、お茶は冷たくなっていた。
「しかし、誰かが誰かを好きになるってのは、しょうがないことだよ。こいつばかりは、どうにもならないよね」
と彼は気弱につけ足したのだった。
葉子は大きな樹《き》の下に立って、愛《いと》しそうにその木肌を撫《な》でた。ここで、この場所で暁生は愛を誓ったのだ。
あれはこんなふうに始まった。
「葉子、俺《おれ》……」
と暁生は言ったきり、苦しげに絶句した。彼が何を言いたいのか、そして何を望んでいるのか、痛いほど彼女には理解できた。なぜなら彼女もまた同じ気持だったからだ。
「あぁ……」
と暁生は葉子の首筋に顔を押しつけて溜息《ためいき》をついた。「いい匂いだ。葉子の躰《からだ》は、いい匂いがする」
「フィジーをつけてるのよ」
と彼女は優しく囁《ささや》いた。
「葉子にぴったりだ」
と暁生も囁いた。「これからも他の香水に変えちゃだめだよ。それを嗅《か》ぐたびに葉子のことを思うからね」
けれども葉子は、あれ以来、フィジーを使っていない。香水をつけるような気分にはとうていなれなかったからだ。彼女は、自分の部屋の化粧台の上で薄く埃《ほこり》を被《かぶ》っている香水の瓶《びん》を思い浮べた。
ふと何かが彼女の脳裏を掠《かす》めた。しかし形をなさないまま消えていった。ただ何か落ちつかなかった。不安で胸がいやにドキドキするのだ。葉子は木肌に顔を寄せたまま眼を閉じた。
すがすがしい乾いた幹の匂いがした。海から吹いてくる潮の香りもそれに混じった。潮風には一足早い秋の気配が感じられた。それにしても親友に恋人を奪われるなんて。涙が驚くほど熱い糸をひいて頬《ほお》を流れ落ちた。涙の糸はすぐに潮風に冷やされて、つめたい線になった。
再び先刻の奇妙な胸の高ぶりが彼女を襲った。何かが喉《のど》のところまで突き上げて、出口を求めているような感じなのだ。
その時、背後に砂を踏む微《かす》かな音を聞いたように思って、葉子はゆっくりと首をねじってふりむいた。
砂浜の上を歩いてくる人が小さく見えた。男である。顔形は定かではない。遠すぎてディテールは見えない。葉子は再び樹に顔を押しつけて溜息《ためいき》をついた。
何かが気になって、もう一度ふりかえって眺めた。そして喉がしめつけられるような気がした。
だんだんに男の輪郭がはっきりとしてきた。暁生だった。
彼は一人だ。ゆっくりと、一歩ずつ砂を踏みしめながら確実に近づいてくる。彼のほうはここに葉子がいることを最初から知っているような足取りである。
日焼けがさめ、こころもち青ざめてみえる顔が、五メートルの所まで近づいていた。
二人とも、物も言わずにそこでみつめあった。
「やぁ」
と彼は言った。声が掠《かす》れていた。
「顔色、悪いわ」
葉子はいちばん先に思い浮んだことを言った。
「このところ、ずーっと眠れなかったもので」
思いつめたような声だった。
「どうして眠れなかったの?」
優しい声で葉子は訊《き》いた。自分がそんなふうに落ちついているのが不思議だった。
「恐ろしい考えが俺にとりついて……。そいつをどうにも振り払えなかった」
ますます苦しげに暁生が言った。以前より少し痩《や》せてみえた。新しい恋を得た若者のようにはとても思えない。
「どんな恐ろしい考えなの?」
「疑惑なんだ。考えただけで足元が崩れそうになる」
「話して」
「そのためにきみを探し回った。学校を休んでいることがわかったので、きっとここだと思った」
「ほんと。よくわかったわね」
葉子は暁生からそっと眼を背けた。
「確かめたくて……」
と彼は口ごもった。
「何を?」
「きみ、あの香水、今でも使っている?」
葉子は首を振った。
「どうして?」
「いや、それはどうでもいいんだ。俺が知りたいのは、あれと同じ香水を、美保が使っていたかどうかということなんだ」
「美保がフィジーを?」
はっとして葉子は息を止めた。何かが彼女の頭の中で弾《はじ》けた。さっき喉《のど》まで出かかっていたものが出口を求めていっそう激しくせめぎあった。
「そうなんだわ」
と彼女は深い深い溜息《ためいき》のような声で呟《つぶや》いた。
「たった今思いだしたわ」
あの日、暁生が車で走り去った後、ホテルルームで茫然《ぼうぜん》としていた時、後から入って来た美保の躰《からだ》から、ほんのわずかに匂っていたのはフィジーの香りだった。
葉子はそのことに気がついたのだが、それよりも暁生のことで気も転倒していたので、すぐにそのことを意識の片すみに追いやってしまったのだ。
なぜ美保からフィジーの香りがしたのかなんてことは、さほど問題ではなかったのだ。多分シャワーの後、洗面所にあった香水をちょっと借用したのかもしれない。その程度にしか、考えるとしても考えなかった。
だが今は違う。彼女が無断で借用して躰につけた香水の残り香のせいで、暁生が逆上したのだとしたら?
「あの日、美保は私のフィジーをつけていたわ」
「ああ……やっぱり」
暁生の顔から更に血の気が退《ひ》いた。
「じゃ、あれはきみじゃなかったんだ。敬一と寝たのは美保だったんだ」
「もちろんよ。美保にきまっているじゃないの」
葉子は事実がはっきりと透けて見えてきたので、めまいを覚えた。
「しかし、ベッドからはっきりときみの香りがしたんだ。それで俺はてっきり……」
「私だと思ったのね。それであんなふうに物も言わずに立ち去ったのね」
「あの香りはきみの香りだと信じて疑わなかったから」
沈黙が濃く流れた。美保はなぜ、あの時にかぎりフィジーを黙って使ったのだろうか。彼女の愛用するのはミス・ディオールなのに。しかもその香水を持って来ていたのに。
もしかして、故意に……?
その考えは彼女を打ちのめした。
「ああ、取り返しがつかないことをした」
と、暁生はこの場に坐りこんで頭をかかえた。「罪もないきみを勝手に疑って……。しかも僕は……美保と……」
切れ切れに暁生は言った。全体から苦悩が滲《にじ》みでていた。
「でも、美保が好きなんでしょう?」
葉子は静かに訊《き》いた。
「美保を? 彼女を好きだったことは一度もない」
暁生は頭を激しく振った。
「彼女のほうから新学期になってたびたび電話がかかり……俺はやけっぱちで……」
「やけっぱちで、彼女とつきあっていたの?」
葉子はいっそう静かに呟いた。「やけっぱちで、一人の女が抱けるの?」
暁生ははっとしたように顔を上げて葉子をみつめた。何かを言いかけて、口をつぐみ、うなだれた。
葉子はその横顔を眺めた。見おさめのような眼だった。
「いずれにしても、誤解が解けてうれしいわ」
と彼女は言った。そしてゆっくりと歩いて彼から離れかけた。
「待って。許してくれとは言わない。でも俺はやっぱり今でもきみのことを……」
「言わないで」
葉子は首を振った。「もう元へは戻れないわ。あなたはもうあの頃のあなたじゃないし、私もあの頃の私じゃない」
「でもたった一か月しかたっていないんだよ。俺は変っちゃいない。あれは恐ろしい誤解だった。美保の策略だった。あいつは汚い手を使った」
「それ以上聞きたくないわ」
と葉子は悲しそうに言った。「あなたはどうでも、私のほうは変ったわ」
それもたった今。
「私、自分が親密につきあっている女を、やけっぱちで抱くような男《ひと》、尊敬できないの。あなたが心から美保を好きだったと言ってくれたほうが、ずっとよかった」
そして彼女は歩きだした。二度と後ろをふりむかなかった。潮風が透明さを増し、冷たかった。
第11話 ココ・シャネル
ココ・シャネル〈COCO CHANEL〉
豪華さと落ち着き、情熱と静謐、強さと繊細さ――鮮やかな個性のコントラストの妙を調香した、シャネル・ハウスのパーフューム。新しい女性像を表現した新ジャンルの香り。
別にうつむいて歩いていたわけでもないのに、危うく人とぶつかりそうになった。反射的に左に飛びのいて、美樹子はゴメンナサイと言った。
「お見事。豹《ひよう》みたいな身のこなしだ」
男の感心したような声がしたが、彼女は相手の顔も見ず、足早に行き過ぎた。心の中は恭に対する怒りで一杯だった。
――美樹は、俺《おれ》を所有したつもりでいる、と彼は言った。
物じゃあるまいし、と美樹子は鼻先で笑って否定した。
そうだよ、俺は物じゃない。
だから?
だから言ってるんだよ。人前で俺があんたに属している男みたいに、ふるまわないでくれ。
なるほど、と美樹子は吐きだした煙草《たばこ》の煙ごしに、恭を眺めた。九か月前には、美貌《びぼう》の中にも少年っぽさの残るおどおどとした男だった。
郵便配達人に扮《ふん》して、二度ばかり舞台を横切る役で、共演したのだ。
美樹子はその舞台では準主役だったが、主役を食う演技で成功を収めた。
認められるのが遅すぎたくらいだわ、と彼女は内心そう思った。この世界に入った時から、自信があった。美しさにも演技力にもスタイルにも、演劇にかけるエネルギーと情熱にも、彼女は強烈な自信を内に秘めて生きてきた。
けれども、運だけに見放されていた。ただ、いずれその運も、自分にまわってくるのだという確信だけがあった。
女優としてのほとんど全ての条件をそなえ、虎視眈々《こしたんたん》としてチャンスを待ち続けるうちに年月が流れた。若さが、少しずつ失われていくのが感じられた。
三十歳までに、というのが、彼女のデッドラインだった。そしてそのぎりぎりの線で、ようやく日の目を見たのだ。
新聞の演劇批評欄に、自分の名前が取り上げられ、その演技力を高くかわれた時、美樹子は躰《からだ》が浮遊するような、めくるめく喜びを覚えた。
――新聞に出ていましたね。なんだか自分のことのように嬉《うれ》しかった、と浅井恭が郵便配達人の扮装《ふんそう》のままそう言って、女の子みたいに頬《ほお》を染めた。
女の子みたいに、ほんとうに頬を染めたのだ。その同じ男が、たったの一年足らずで、鼻の上から見下すような酷薄な態度で、所有物みたいに扱ってくれるな、とそう言っているのだ。
その傲慢《ごうまん》な口を力一杯|叩《たた》いてやりたいと美樹子は思った。しかしそうするかわりに、押し殺した、むしろ静かな感じの声でこう言ってやった。
あらそうなの。でも違うの?
あきらかに違うさ、そりゃ多少は世話になってるけど――。
多少? と美樹子はおうむがえしに言った。それを恭は無視して、
犬みたいに鎖につながれなくちゃならない覚えはないぜ。
多少と言ったわね? どうやって着たり住んだり食べたりしているのか説明してよ。
わかってるよ。だけど、あんたが現れる前だって、俺は食ってたし、着るものも着てたし、屋根の下で眠ってたよ。
三日にあげずキャンティーで飲み喰《く》いしたり、アルマーニのシャツ着たり? 忘れたの? あなたの一間《ひとま》きりの惨《みじ》めな安アパート。畳にカビがはえて、湿気でブヨブヨしてたゴキブリの巣窟《そうくつ》みたいなところ。あそこにまた戻っていけると思うの?
戻る必要もないね。
恭は冷淡な声でそう言った。
そう? そんなに自信もっていいの?
美樹子は思わずかっとしてそう言った。
今の日本の経済体制の中で生きているかぎり、生活の向上ということはあっても、絶対に下降することはないんだ。したがって、もし俺が次に移るとしたら、一間の安アパートってことは、どうしたってありえない。広尾あたりのスタジオタイプのマンションってとこかな。
へえ、そうなの。その家賃、いったい誰に払ってもらうつもり。新しい金づるでも見つけたっていうの?
その気になれば、女なんていくらだっているさ。あんたより金持ってる女はゴマンといるし。金の力で男を所有物みたいに扱わない上等の女もいるのさ。
だったら、今すぐその女のところに、出て行きなさいよ。
美樹子はそう言って、ドアをまっすぐ指で差し示した。
女が具体的にいるなんて、俺は言っちゃいない、と恭が苦笑した。金のある女はあんただけじゃないって、一般論を言ったんだ。それに俺は、今の生活で満足してるし、ただ、あんたが人前でペットか何かみたいに俺をひきまわすのだけをやめてくれればいい。
わずかに折れるような感じで恭が言った。俺にだってプライドってものがある。
どんなプライド?
と、美樹子は首を振った。
バーテンダーやったり、デパートの配送のアルバイトやれとは言ってないのよ。何かやったらいいじゃないの。なぜこないだの新しい役を断ったの?
あんな端役《はやく》に甘んじるなら、乞食《こじき》をやったほうがまだましさ。
そうなの。それであなた今、それをやってるわけね、乞食を。
あぁそう。俺、乞食をやってる。あんたはその乞食のスポンサー。
美樹子は急に手に負えなくなって、不覚にも涙ぐんだ。彼女の涙を見ると、恭は口調を変えた。
問題は金なのか。金なんて、紙切れじゃないか。今はあんたがその紙切れを余分に持っているが、もしも立場が逆だとして、俺、ケチケチしやしないよ。もっといいマンション借りてやるよ。本物のシャネルのスーツだって買ってやる。考えてもごらんよ、俺たちの喧嘩《けんか》の九九パーセントは、金のことだぜ。表面的には違っていても結局そこへいくんだ。俺が何を言っても、あんたは二言めには、金のことで口を封じようとするんだ。人間の生活が金で支配されるなんて最低だよ。俺、なきゃないで、それなりにやっていけるしさ。
さっきは違うことを言ったじゃないの。
美樹子は疑り深い声で呟《つぶや》いた。
金のためにあんたといるわけじゃないんだよ、俺。あんたといると、学ぶことが多いんだ。ものの感じ方とか、いい生活のし方とか、優雅な物腰とかね。もっとも、金の鬼みたいにガミガミ言ってる時のあんたは、いただけないけど。
美樹子はそれを聞くと思わず笑いだした。そして、彼の言うことにも一理あるような気がした。
でもねえ、あなたがカルバン・クラインのパンツ買うために、私がスーパーで三枚千円のパンティーでがまんしなくちゃなんないって、何だか変だと思わない?
カルバン・クラインのパンツ以外、はく気にならないからな、と恭がうそぶいたので、またしても激しい口論になりそうになった。
彼はズボンのバックポケットに手を入れると、一万円札をぬきとって、美樹子の前に広げてみせた。
俺たちは、こんな紙切れのためにいがみあっているんだよ。言っとくけど、俺、こんなもの燃やせるぜ。
ちょっと待ってよ、と美樹子は、ライターを取り上げた恭の腕を押さえた。
冗談じゃないわよ。そんなの論理の飛躍もいいとこだわ。燃やすんなら、自分で稼いだお金を燃やしてよ。
同じことさ。
そう言って、彼はカチリとライターの火をつけた。
絶対に同じじゃないわよ。
ライターを取り上げようと手を伸ばして、美樹子が言った。
俺は、これがただの紙切れだってことを、あんたに示したいんだ。
恭もひどく真剣な眼をして言った。
そんなこと説明してどうするの? やれるならやりなさい。
美樹子は突き放したように言った。半ばタカをくくってもいた。いくらなんでも一万円札を燃やしはしないだろう。
カチッともう一度ライターの火がつき、その炎の先が、眼の前にかざされた紙幣にゆっくりと近づいた。
ふと、本気ではないかと、美樹子は感じた。背筋が強《こわ》ばるような気がした。
恭は魅せられたような表情で炎の先をみつめていた。美樹子は、その顔を一瞬だけとても美しいと思った。
次の瞬間、紙幣の底が黒くなり、あっというまに火がついた。彼はそれを指先で器用にまわし、あまり炎が立ちすぎないように調節しながら、注意深く徐々に燃やした。
小さな燃え残りを灰皿に落すと、ふっと息を吹きつけ、その灰を空中に散らした。
あっけないものだな。
それで何かが証明できたと思っているの、バカなひとね。
押し殺した冷たい声で美樹子が言った。
紙切れだってことを証明したのさ。あんたも見たろう。
でも、たった今あなたが燃やしたのは、ただの紙切れじゃなかったのよ。その紙切れを一枚得るために、私の情熱とエネルギーが注ぎこまれたのよ。別のいい方をすれば、私は身を少しだけけずり取って、その紙切れをようやく手に入れたの。だからあなたが燃やしたものは――と言って、美樹子は絶句した。
何か、とっても大事なものだったのよ、と長い沈黙の後で、そう、彼女は沈んだ声で言った。
出て行って欲しいわ。
その声は厳然としていた。
しかし、今のは……と恭は笑いにまぎらそうとした。
ゲームだったの? 何でもいいのよ。終ったの。全て、さっきの一万円札と一緒に燃えて消えてしまったの。灰も残っていないわ。出て行って。
あのな、美樹――
出て行きなさい。
美樹子は三度くりかえした。
今、すぐにか?
ええ、たった今すぐによ。
わかったよ。
足音を荒げて、恭は立ち上がった。
ま、潮時だけどね。それにあんただって、結構楽しんだみたいだし、ベッドの中では。おつりがきてもいいんじゃないかな。
それ以上何も言わないで。私のためじゃなく、あなたのために言ってるの。自分で自分が恥ずかしくなるわよ。
恭の手が玄関のドアのノブにかかった。その背中に、美樹子は言った。
もし私が、あなたをペットのようにひきまわしたり、私に属している男みたいな気持にさせたとしたら、多分それは、あなたの中にある劣等意識のせいだと思うわ。それに、今だから言うけど、あなたと人眼のあるところに出て行くたびに、私、恥ずかしかった……。
バタンと音をたててドアが閉まった。九か月前には少女のように頬《ほお》を染めていたのに……。彼女はいつまでも身じろぎしなかった。
どれだけ時間がたったのか、実感はなかった。室内はすでに暗かった。急にひとりぼっちだということが切なくて、たまらなくなり、美樹子はバッグももたずに、外へ飛びだした。
男にぶつかりそうになり、あわててよけて、更に歩いた。自分のほうにむかって歩いてくる人々の群れに、気圧《けお》されるような気がした。あれらの見知らぬ人々をかきわけながら先に進むエネルギーを、急速に失うのを感じた。
彼女は急に立ち止まり、ほとんど反射的に左の路地に折れ、眼についた最初のバーのドアを押した。
ドアはひどく重かった。木製ではなく、金属性で、軋《きし》んだ蝶《ちよう》つがいの音が、さしせまった悲鳴のように美樹子の耳に突き刺さった。
店内は薄暗く、微《かす》かにカビと皮革の椅子《いす》の臭《にお》いがしていた。カウンターの上を、等距離に間隔をおいたスポットライトが、真上から照らしている。若い女が背中を見せたまま首だけねじって美樹子を眺め、いらっしゃいませと、渋々のように言った。
どこの世界にもプロ意識をもたないその道の人間はいるものだと、胸の中で再び恭を思い浮かべながら、美樹子は若い女を半ば無視して、カウンターのストゥールに腰を滑りこませた。
白いシャツに蝶ネクタイの中年のバーテンダーが、無言で頭だけ軽く下げた。若い女が、重そうに躰《からだ》を運んでくると、熱いおしぼりを置いた。
何にします?
美樹子は、それには答えずおしぼりも手に取らないで、しばらくじっと坐《すわ》っていた。
若い女が、もう一度、何にするんですか、と言いそうになった直前、彼女は静かに、直接バーテンダーにむかって、グラスホッパーができますか、と訊《たず》ねた。
バーテンダーはうなずき、背後の酒棚からクレームドミントの瓶《びん》を取り上げた。
カクテルを作る間も、彼は無言だった。ゆっくりとではあるが、正確で無駄のない手の動きが美しかった。
冷凍庫の中から出されたばかりの、氷の粉の吹いたような凍ったクリスタル・グラスが音もなく眼の前に置かれ、シェイクされたばかりの、カクテルがすかさずそれに注がれた。
ミントグリーンの、夢のように美しい色をしたカクテルは、ぴったりグラスのふちすれすれだけあった。
美樹子は満足の微笑を浮かべ、注意深くそれを手にすると、口元へ運んだ。
グラスのシャープな冷たさを唇に感じながら、最初の一口を啜《すす》った。生クリームとミントの味が、舌の上に広がった。きりっとした味に仕上がっていた。
とても美味《おい》しいわ。
美樹子はそう言って微笑を広げた。
ありがとうございます。
バーテンダーは低い声で礼を返した。
今何時ですか、と、ふと気になって彼女が訊《き》いた。
十時四十五分です。
え? そんな時間?
時間の感覚が全く失われていた。自分がどれくらい夜の町を歩き回ったのかも、わからない。
妙なこと伺いますけど、ここはどこですか?
横で若いホステスがばかみたいな表情をして自分を見るのがわかったが、美樹子は平然としていた。
目白ですよ。
バーテンダーがていねいに教えてくれた。
目白?
とすると新宿に出て、山手線に乗ったのだろうか。タクシーを使ったような記憶もある。
どうかなさいましたか。
心配げというよりは、いたわるような感じで、バーテンダーが静かに訊《き》いた。
どこをどう通ってきたのか、覚えていないの。途方にくれたように、美樹子はそう呟《つぶや》いた。
そんなことも、時にはあるものですよ。まぁ、ごゆっくり。
そう言って、バーテンダーはカウンターの中に一歩引っこんだ具合になって、グラスを磨き始めた。
その時、背後で、ドアが軋《きし》んだ悲鳴を上げた。
いらっしゃいと、若い女が反射的に言って、腰を上げた。先刻とは声が違う。
どうぞ、とボックス席を勧めたが、客は顎《あご》でカウンターを示し、あっちでいいよ、寝酒に一杯だけもらうつもりだから、と、低い声で言った。
男は美樹子からひとつおいた席に坐ると、スコッチのオンザロックスをダブルで、と言った。それから美樹子の飲みものに目をとめて、
美しい色ですね、と感嘆したような声で言った。
私の後をつけてきたの?
顔も上げずに美樹子が言った。訊くというより頭からきめつけている感じだった。
さっき、ぶつかりそうになったひとでしょう、声でわかったわ。
いい耳ですね。
男は屈託のない声で言ってから続けた。
そう、なんとなく気になってね。
なんとなく気になった女の後をつけるのが、あなたの趣味なの?
美樹子は薄い笑いを口元に浮かべた。
それは辛辣《しんらつ》だ。
別に気にしてもらわなくとも結構なのよ。
ペパーミント色の飲みものをスポットライトに軽くかざしながら、彼女がつれない声で言った。
ちょっと覗《のぞ》いて、あなたが気持よく飲んでいるようなら、一杯で引き上げるつもりでしたよ。
気持よく飲んでいるわ。
バーテンダーにむかってグラスを上げながら、美樹子は共犯者のように笑った。
男の前にグラスが置かれた。金茶色に輝く透明な液体が、とろりと重さのあるものに見える。どうやらグラスはバカラのようだった。アイスピックで欠いた氷のシャープなエッジが、ウィスキーの先から突き出て、燦然《さんぜん》と光っていた。
なら、安心しました。
見知らぬ男が、グラスを掲げて、乾杯の仕種《しぐさ》をした。美樹子は、それに自分のグラスを合わせるかわりに、初めてその男の顔に視線をやった。
年齢は三十代後半。恭のような男をみなれた眼には、全く異質の大人の男に見えた。悪い感じではない。仕種も、表情も、リラックスして穏やかだ。美樹子は緊張と警戒心とをわずかにといた。
あなたの舞台を二度ばかり観たことがありますよ。
ゆっくりと男は喋《しやべ》りだした。
自分が舞台女優をしていながら、芝居好きな男のタイプを、美樹子は嫌っていた。
しかし、二度くらいなら、芝居好きの部類には入らないかもしれないと思い直した。
それはどうも。
わずかに態度を和らげ、あらためて男の差し出すグラスに、自分のグラスのふちを軽く合わせた。
光栄です。
男は微笑した。
もう一杯いかがです?
断ろうとして、その時初めて美樹子は自分がハンドバッグを持って出なかったことを思い出した。腰のポケットに、わずかばかりのコインの重さと形とが感じられるだけだ。
いいえ、もう結構です。そのかわり、今飲んでいる分をご馳走《ちそう》してくださる? お財布《さいふ》を置いてきたのを、たった今思い出したわ。
別に悪びれるでもなく、あわてるふうでもなく、美樹子はそう言った。
男はいいですよ、と気持よく引き受けてから、ほんとうにもう一杯、いりませんか? と訊《き》いた。
見知らぬ方からご馳走していただくのは、一杯だけときめています。
お気持のすむように。
男は慇懃《いんぎん》に視線を落した。
さっき、あなたが飛びのいた時、さすが舞台で肉体を鍛《きた》えている人だと思いましたよ。すばらしい反射神経で、思わず一瞬|見惚《みと》れてしまいました。
誉《ほ》めていただいているわけね、と美樹子は苦笑した。
考えごとをしていたのよ。
そう、ひどく思いつめていたようでしたね。
急に酔いたいと思った。しかし見知らぬ男に酒をねだる気にはなれない。彼女は自分の部屋のキャビネットの中のバーボンウィスキーを脳裏に浮かべて、腰を浮せかけた。
ちょっとだけ、待ってください。これを飲んでしまうまで。送ります。
男の手が、軽く彼女の腕に触れた。
送っていただかなくても、よろしいわ。
なに、たいした回り道でもないでしょう。
最後の数滴を直接|喉《のど》にぶつけるように飲み干すと、男がポケットから五千円札を取りだして、無造作にカウンターの上に置いた。
遠慮なくご馳走になります。
バーの外で美樹子が言った。
いや、たいしたことじゃありません。
走って来る空車にむかって、男は手を上げた。タクシーが止まると、じゃ僕が先に、と乗りこんだ。美樹子は少しだけ躊躇《ちゆうちよ》して、結局、後に続いた。
どちら? と運転手が訊《き》いた。
代々木上原、と美樹子が答えた。
その後、環七《かんなな》に出て下さい、と男が言った。
しばらく二人とも喋《しやべ》らなかった。
いい方なのね、とぽつりと彼女が口をひらいた。
自分でも悪い人間じゃないと思っていますよ。
私のような仕事を長いことしていると、たとえば今夜のようなことが、素直に受けとれなくて。
つまり下心があると?
そう。無償の行為なんて、ありえない世界。全て、ギブ・アンド・テイク。わかる?
美しいご婦人に、酒を一杯ご馳走したうえ、送らせてもらえたら、僕なんて、一週間くらいぼーっと夢心地ですよ。お礼を言うのは僕のほうだ。
その言葉を、恭に聞かせてやりたいと、美樹子は胸の中で思った。すると、自分が帰っていく無人の部屋を思い出して、急に虚《むな》しさと、哀しみがこみ上げてきた。彼女は男の横顔を一瞬だけ、すがりつくような眼で見た。
何ですか?
それ以上は望めないほどの優しさで、男が訊《き》いた。今夜だけ、きりぬけることができれば、多分自分は大丈夫だろう。今夜だけ、この見知らぬ男に自分を慰めさせても、いいのでは……。
お寄りになる?
囁《ささや》くような声だった。言ってしまったとたん自分が恥ずかしくて、耳に血が凝結するのが感じられた。
男は一瞬だけ戸惑いを見せたが、静かに、気持だけいただきますよ、と答えた。
ほっとすると同時に、傷つけられたような気がした。
妙なこと考えていらっしゃるんじゃないでしょうね? 固い尖《とが》った声で彼女が言った。
美しいご婦人に一杯ご馳走して、車で送り、そのうえその人の部屋に上がったら、もう無償の行為とは言えなくなります。
男はそう美樹子の耳に囁いた。どうか僕に一週間、ぼーっと夢を見る贅沢《ぜいたく》を許してください。
タクシーは環六を横切って|井の頭《いかしら》通りを進んでいた。
その先の信号を右に曲って、二本目の角で下してください、と美樹子は運転手に声をかけた。
車が止まると、彼女は男にむかって右手を差しだした。
男はそれを何か非常に貴重なものででもあるかのように、そっと自分の右手の中に握りしめた。温かく乾いた手だった。
どんな夜でも一夜あければ、太陽は必ず昇りますよ。元気で。
ドアが閉まった。タクシーは走り出し、すぐに角を曲って消えた。
ありがとう。タクシーの消えた方向にむけてそう呟《つぶや》くと、美樹子は歩きだした。
もう二度と逢《あ》うこともないだろう。芝居を観にきても楽屋を訪ねてくるようなタイプの男でもなさそうだった。そして一、二週間もすれば、目白のバーのことも、そしてあの男のことも記憶から薄れていくのだろう。
自室のドアをあけ、暗い室内に入った。それからバーボンウィスキーを飲むかわりに、熱いシャワーに、長いこと打たれ続けた。
シャワーから出ると、彼女はココ・シャネルのボトルに手を伸ばし、首筋や腕の内側や乳房のまわりにその香りをちりばめた。
その温かく乾いた甘い香りは、彼女の疲れた神経を癒《いや》した。お酒よりも男よりも、場合によっては心をしずめてくれるものがあったのだ。美樹子はベッドサイドの灯を消した。
第12話 ビザーンス
ビザーンス〈BYZANCE〉
西洋と東洋の文化の接点に生まれたビザンチン帝国に由来する、その名のように東洋の神秘とバロックの心が融合した、ロシャス社の香水。セミ・オリエンタル・フローラル調。
レパルス湾から吹き上げてくる風が肌を刺すようだ。長い夏が終ったと思うまもなく、秋から冬へと季節が変っていく。
潮の香りと汚れた空気。そして、ひしめきあう半裸体の男女から放たれる体臭とが混じりあった、あの一種気の遠くなるような悪臭が消え、今では甘さをともなう潮の香りだけが残っている。
ナンシー・李は、衿《えり》をたてたセーブルのコートの下で、その肉体を微《かす》かに汗ばませていた。香港《ホンコン》では、防寒のために毛皮はいらない。それは他人に見せびらかすためだけのものである。
見せびらかす目的なら、ナンシーのセーブルは立派にその目的を果たしていた。
レパルス湾から少し登った丘の中腹に位置するレストランの建物は、その昔レパルスベイ・ホテルというあまりにも有名なホテルを復元したものである。現在はホテルとしてではなく、レストランとブティックが主で、建物はよくできてはいるが、いたるところに建築上の破綻《はたん》が目立っていた。
昔の、シックな美しさはない。ある意味で全てはレプリカ、偽物だった。あちこちに置いたり、中二階の手すりにからませてある植物は、全て驚くほどよくできた人工の植木やツタだった。
もっともその観賞用の植物が、偽物であることに気づく人はほとんどいないように、この一見豪華なレストランの空間を、昔日のホテルと重ねて眺めることのできる人間も、ほとんどいなかった。レパルスベイ・ホテルは既に伝説の域にまで遠ざかっているのだろう。
ナンシーはロビーにある椅子《いす》には坐らず、やや中央寄りの大きな円柱の側にたたずみ、人々の視線を嫌というほど浴びていた。ひとつには、その豪勢な、くるぶしまである毛皮のコートゆえに。そしてひとつには、百七十センチという長身ゆえに。それにもうひとつには、ユーラシアン独特の息を呑《の》むような美しさゆえに。
ドアが開き、イギリス人にエスコートされた東洋女が、黒いミンクの肩で風を切るように入って来た。
彼女は挑発的な素早い視線をナンシーの横顔とコートに投げると、何を思ったのか、よせばいいのに顎《あご》を突き上げるようにして、ナンシーに近づいた。
彼女は束《つか》の間《ま》、その場に居合わせた人々の視線をナンシーと二分することに成功したが、次の瞬間、無惨《むざん》な敗北感に打ちのめされて、ナンシーの傍から尻尾《しつぽ》を巻いて逃げるように遠ざかった。セーブルとミンクでは、並んでしまったら一目瞭然《いちもくりようぜん》の違いがある。セーブルは、東洋女の黒ミンクを、みすぼらしく見せてしまったのである。ナンシーの口元に、あるかなきかの微笑が浮かんで、そして消えた。
セーブルの光沢は女の顔を輝かせ、柔らかくふちどる。けれどもミンクには、女の表情を硬質に見せる光がある。そして値段はセーブルのほうが十倍以上高い。
またドアが開き、湾から這《は》い登ってくる潮風を先行させて、長身の浅黒い顔の男が、比較的ゆったりとした歩調で入って来た。
着痩《きや》せしてみえるしなやかな肉体が、上等なカシミアのスーツの作りだす微妙な透き間の中で、優雅に泳いでいる感じだ。上唇の上に古い傷がある。そのせいで、甘くなりがちな東洋的|美貌《びぼう》がおさえられている。
男はナンシーの横顔に一瞥《いちべつ》をくれ、そのまままっすぐフレンチ・レストランのほうへと歩みを進めた。
ナンシーはややひもじそうな視線で、男の後ろ姿にお返しの一瞥をくれてやる。
「待たせてごめんなさい」
という声でふりむくと、女友だちのペギーが、色気のないまん丸眼鏡の中で、眼を細くして笑っている。
「いつ来たの?」
「たった今よ」
「気がつかなかったわ」
「男に見惚《みと》れているからよ」
ペギーはナンシーの毛皮に向かって大袈裟《おおげさ》に両手を広げ、
「ウァーオ」
とだけ言った。
「ウァーオって?」
と、ナンシー。
「なんだか恐ろしく高そう」
毛皮の知識なんてないペギーが、低い鼻の頭に皺《しわ》を寄せる。
ナンシーはニヤリと笑っただけで答えない。
「ミンクなの?」
「まさか」
「でもミンクみたい」
「違うわよ」
ペギーはセーブルとミンクの違いもわからないのだ。
「でも、気にすることないわ。あなたが着てれば何だって高価に見えるわよ」
と、逆にナンシーを慰めた。
「久しぶりね」
とあらためてナンシーは、ハイスクール時代の親友を抱きしめて頬《ほお》をすり寄せた。アメリカン・スクールの同級生だったペギーはアメリカの大学に行くために、ハイスクールを卒業すると、ニューヨーク州へ渡った。クリスマスの休暇で戻って来たペギーが、旧友のナンシーに電話をかけたのだ。二人が逢《あ》うのは、三年ぶりだった。
「全然変っていないのね、ペギー。その眼鏡、何とかする気ないの?」
「昔も同じこと言ってたわよ、ナンシー。でもあなたはものすごく変ったわ。ますます美人になったわ。それに背も伸びた? 結婚したんですって? それで幸せ? 彼はきっと大金持ちなのね」
とペギーはナンシーのコートに一瞥《いちべつ》をくれた。
「待ってよ、一度に答えられないわ。あっちへ行って、何か飲みながら話しましょうよ。また逢えてうれしいわ。昔と同じね。三年も逢ってなかったのよ、話が山のようにあるわ」
ペギーの興奮がうつったのかナンシーも上ずった声で喋《しやべ》った。
二人はフレンチ・レストランに続いている小さなバーに入った。ウェイターが飛んで来て、二人を迎えた。
「コートをどうぞ」
とウェイターがナンシーに言った。
「いいえ、いいのよ、着ているわ」
ナンシーは開いたコートの間から、無造作にスカートのポケットに手を突っこみながら答えた。
「結婚ってどう? 幸せかどうか、あなたまだ答えてくれてないわ」
ペギーがせかせた。
「どう見える?」
「すごく幸せそうよ」
「じゃそうなのよ」
二人は、高校時代の時のように顔を見合わせてクスクスと笑った。
「子供は?」
ペギーの眼が輝いた。
「いるように見える?」
ナンシーは自分の下腹に手を置いてみせながら訊《き》き返した。
「全然」
「じゃいないのよ」
そしてまた二人は笑った。
「それより、あなたのこと話して。ニューヨークの生活はどう?」
「エキサイティングよ。香港が逆立ちしてもないものがあるわ」
「…………?」
「劇場、オペラ座、文明。そして未来」
「エンパイア・ステートビルディングへは絶対に行くって言ってたけど?」
「最初の日にね」
「で、どうだった?」
「あれは登るものではなく、眺めるものだとわかったわ」
ウェイターがアイスバケットに突っこまれたルィーズ・ポメリーをうやうやしく運んで来た。
「何かのまちがいよ」
とナンシーが言った。
「シャンパンなんて頼んでいないわよ」
「あちらの方からです」
とウェイターは肩ごしに背後を示した。
二人は同時にその方向を眺めた。
先刻のカシミアのスーツを着た男が、ゆっくりとバカラのグラスを掲げてみせた。二人はあいまいに微笑した。
「どなたなの?」
とペギーが小声でウェイターに訊《き》いた。
「ロイ・陳。何をしていられる方かわかりませんが、時々お見えになります」
「へぇ」
とペギーは白い歯をみせた。
「何か特別いいことでもあったのかしら? それでお祝いのお相伴《しようばん》?」
「お二人の美しい女性に、ということです」
ウェイターはシャンパンの栓を抜きながら言った。
「お一人の美しい女性のまちがいよ。それとも彼、近眼でよく見えないのかな」
「ペギーったら、相変らずね」
ナンシーはもう一度、ウェイターのウェストの陰から奥の男を眺めながら、用心深く言った。
「何の魂胆もなく、男の人が高価なシャンパンを一本まるごと贈ったりはしないものよ」
「ということは、狙《ねら》いはあなたね?」
「あるいは、あなたってこともあるわ」
「だとすると、相当物好きだわ」
ペギーはニヤリと笑った。
「もしかしたら二人一緒ってこともあるかもね? 三人でやるのが好きとか」
「まぁ、ペギーったら」
「何も赤くなることないじゃない。結婚しているんでしょう?」
「だから?」
「あれは恥ずかしいこと?」
「いいえ、でもあなたの口からそんなこと聞くと、妙な気持よ」
「あたしもあなたと同じくらい年をとっているのよ、忘れたの?」
「そうね、あなたの顔見ていると、また十八歳に戻っちゃうのよ。でもすごいこと言うのね」
「三人でやるっていうのが? 三人でやったことない?」
「ないわ。あなたは?」
ナンシーは不安そうにペギーを見た。
「残念ながら、ないわね、まだ」
ウェイターが、泡が吹きだす寸前にシャンパンをグラスにていねいに注ぐ。
「二人でするほうの味は知ってるわ」
「恋人がいるのね?」
二人の前にシャンパンが置かれる。
「いないわ」
ウェイターが礼をして行きかける。
「ちょっと待って」
とペギーがウェイターを呼び止める。
「あちらの方によろしく伝えて。それから、十分後にこちらにいらっしゃいませんか、と訊《き》いてみてちょうだい」
「ペギー」
とナンシーが口をはさむ。
「いいのよ。ちょっとステキな男じゃない。ウェイターとも顔見知りのようだし。心配することはないわ」
ペギーはグラスを取り、奥の男に向かってそれを掲げ、次にナンシーのグラスに合わせた。
「恋人がいるのね?」
ナンシーは話を戻した。
「いない。二人でするほうの味ってのはね、強姦《ごうかん》されたの。だからひどい味よ。でもよくある話だから、悲しがることはないし、慰めてくれなくてもいいのよ。それにもう三年も前の話よ」
淡々とペギーは喋《しやべ》る。
「なんてひどい……」
ナンシーは言葉を失って視線を伏せる。
「言ったでしょう。ニューヨークじゃ、一日にどこかで十人は強姦されているわ。私だけが悲劇の主人公じゃないのよ。その話、忘れて。私はもう忘れたんだから」
ナンシーは手を伸ばして無言でペギーの腕を握った。
ふと二人の間に淡い影が射したようになり、ふり返ると、カシミアスーツの男がたたずんでいる。
「お招きを受けたので」
と、低く張りのある声で言い、男は二人の顔を交互に見た。
「どうぞ、どうぞ」
ペギーがひどく愛想のいい声で言って、傍の肘掛《ひじか》け椅子《いす》を示した。それから腰を浮せ、
「ちょっと失礼」
とナンシーの耳に囁《ささや》いた。
「…………?」
ナンシーは不安げに旧友を見上げた。
「レディスルームよ、なに心配してるの」
とペギーはニヤリと笑った。
ペギーの姿が消えると男が言った。
「どこかで以前、お逢《あ》いしなかったかな」
「いいえ。お逢いしていないわ」
ナンシーは確信をこめて言った。
「そうかな、記憶があるんですよ」
「でも……」
「香りかもしれない」
「え?」
「あなたの使っている香水」
ナンシーは困惑したように、シャンパングラスの中身をみつめた。
「それにしてもすばらしい毛皮ですね」
と男は話題を変えた。ウェイターが新しいシャンパングラスに、ルィーズ・ポメリーをたっぷりと注いでおいて引き下がる。
「それほどのものではありませんのよ」
とナンシーは謙遜《けんそん》する。
「いや、最高級のロシアンセーブルです」
男は自信をもって言った。
「毛皮のことをよくご存じですのね?」
ペギーが消えた方角を気にしながら、ナンシーが呟《つぶや》いた。
「僕は最高級のものだけが好きでね、毛皮も、シャンパンも女も香水も」
「女は、ものですの?」
ナンシーは声に皮肉をこめた。
その時、再びウェイターが近づいてくると、折りたたんだ小さな紙切れをナンシーに手渡した。
「先ほどのお友だちからのご伝言です」
不審に思いながら開いてみると、ペギーの走り書きだった。
――三人でやるってのは、やっぱり私の趣味じゃないわ。それにその美男子はあなたがお目あてだし。そうとわかれば、お邪魔虫は消えるのがスマートというものよ。それにあなたたち、とてもお似合いよ。またTELするわ。チャオ。LOVEペギー――
「ひどいわ」
とナンシーは下唇を噛《か》んだ。
「どうしました?」
男が訊《き》いた。
「彼女。帰っちゃったわ」
「気をきかせてくれたのでしょう」
男が微笑した。
「しかし、せっかちな女性《ひと》だな」
「私も、失礼するわ」
とナンシーは腰を浮せかけた。
「あなたもせっかちだ。せっかくのシャンパンが、まだ半分も残っていますよ」
「私、結婚していて夫がいるの。夫を愛していますから」
「僕も結婚して妻がいる。そして妻を愛していますよ」
男は愉快そうに言った。
「だから、どうだというんです?」
「人に見られるわ」
「別に、僕たち恥ずかしいことをしているわけじゃない。手を握りあっているわけでも、キスしあっているわけでもないですよ。シャンパンを飲み終るまで、つきあって下さってもいいでしょう」
ナンシーは浮せかけた腰を、もう一度、クッションのよくきいた椅子《いす》に沈めた。落ち着かなかった。
「それ以上は長居できませんけど」
とそれでも渋々と承諾した。
「僕もそれ以上お引きとめしませんよ、今日のところは」
男は意味ありげにそう言って、グラスのふちをそっとナンシーのグラスに合わせた。
「お引きとめしたいのは山々ですがね」
「無駄ですわ」
固い口調でナンシーは答え、シャンパンを口へ運んだ。
「どうして?」
男はますます図に乗って訊《き》き返した。
「私にその気がないからよ」
冷ややかにナンシーは答えた。男の自信たっぷりな態度が、鼻につき始めたのだ。
「でもあなたは、きっとその気になる」
「今までたいていの女たちをルィーズ・ポメリー一本でその気にさせてきたから?」
「それもありますがね」
男は悪びれずにニッコリと笑った。
「他にも何か言いたそうね?」
ナンシーは美しい眉《まゆ》を、さそりの尻尾《しつぽ》のように上げた。
「いずれにしろ、今日のところは見逃してあげますよ」
ユーモアたっぷりに男はそう言った。
「二度とチャンスはないわね」
ナンシーはきっぱりと言った。
「その理由を教えましょうか? 第一に、女をものと思っている男が嫌いなの。第二に自信|過剰《かじよう》なところ。第三にシャンパン一本くらいで女を釣ろうなんて、ケチな了見ね」
「そろそろ時間切れですよ、マダム」
と男はいんぎんに言った。
「実に楽しい一時《ひととき》でしたが、失礼しなければ。僕の今夜の相手が現れたのでね。悪く思わないで下さい」
そう言って、男はナンシーが憤然として席を立っていくのを、礼儀正しく立ち上がって見送った。
バーの入口のところで、彼女は美しい若い女とすれ違ったが、相手の存在を完全に無視した。猛烈に腹が立ってならなかった。その見知らぬ図々しい男にも、そして彼女を黙って置き去りにしたペギーにも。
「絶対に許さないわ」
とナンシーは翌日電話でペギーに言った。
「気をきかせたつもりかもしれないけど、余計なお節介以外の何ものでもないわ」
「あらら」
ナンシーの剣幕《けんまく》に驚いてペギーが呟《つぶや》いた。
「それほど頭にきているところを見ると、彼に口説《くど》かれたのね?」
「自惚《うぬぼ》れ男もいいところよ」
「でもねぇ、ナンシー。もしもよ、あなたほどの美女をつかまえて口説かないような男がいたら、そっちのほうがよっぽど腹立たしいと思わない?」
「思わないわ」
送話器に向かって、ナンシーは口をへの字に結んだ。それから周囲を見廻《みまわ》して少し声を低めた。
「二度とあんなことしないと約束して。でないとあなたとは絶交して、二度と逢《あ》わないから」
「約束するって。だからそんなに怒らないでちょうだい。でも、なかなかジェントルマンだと思ったんだけど……彼。私の眼に狂いはないんだけどなぁ」
「あんな押しつけがましい人、他に見たことも逢ったこともないわ。とにかく最低。今度万が一見かけても、絶対に口もきかないわ」
「でもシャンパンのお礼くらいは言うものよ」
「ナンシー」
と彼女の名前を呼ぶ声がした。
「私用電話は短めにしなさい」
「はい、主任」
ナンシーは送話器を押さえて返事をした。
「あちらで、お客様がお待ちよ」
「すぐに参ります」
そう答えておいて、ナンシーは送話器の中に早口で言った。
「これ以上お喋《しやべ》りできないわ、ペギー。とにかく反省してちょうだい。それから今夜、自宅のほうに電話くれるわね? じゃそのときにね」
「チャオ」
ナンシーはそっと電話を切り、レジの端にとりつけてある小さな鏡の中に向かって髪を整えた。
「お待たせいたしました。何かお求めでしょうか?」
ずらりと並んでいるミンクやセーブルのコートを眺めている男の背に、ナンシーが愛想のいい職業的な声をかけた。
「セーブルのコートを探しているんだがね」
と男が呟《つぶや》いた。
「それでしたら、素晴しいものがございますわ」
ナンシーはてきぱきと、ハンガーの間をかきわけていった。
「奥さまにですか? なんてラッキーな方でしょう」
「ロシアンセーブルを」
男の声の感じにはっとして、肩越しにナンシーがふりむいた。
「あら」
と彼女は眼を見張った。昨日のカシミアの男が笑っていた。
「どうしてここが!?」
驚きのあまり、後が続かない。
「以前、ちょっと知りあいの女を連れて来たことがあるのですよ、ナンシー。その時、彼女の相手をしてくれたあなたを、すぐそこのコーナーの椅子《いす》から眺めていました」
「でも記憶にないわ……」
「毛皮を売ることに熱心だったからでしょう」
ナンシーは顔がほてりだすのを感じた。
「それで、何か?」
と精いっぱい平静を装いながら、ナンシーは相手に訊いた。
「今夜は、シャンパンだけというわけにはいかない、ということ、おわかりでしょうな」
リラックスした調子で男が言った。
「そうでしょうか?」
あくまでもナンシーは強気で言い返した。
「どうかして、ナンシー?」
奥から主任の怪訝《けげん》そうな声が飛んだ。
「そこのセーブルを見せてもらえませんか?」
と男がいかにも自然に、客を装って言った。
「どれでしょうか?」
ナンシーはそれに応じるふりをした。
「ロシアンセーブルですよ」
男が意味ありげに言った。ナンシーは一着のコートをハンガーから外した。
「いや、それではない。その横の……そう、それ」
「…………」
「まちがいない、それです。確かビザーンスの香りがするはずですよ」
その言葉にナンシーはギクリとして躰《からだ》を強張《こわば》らせた。
「ちょっと着て見せてくれませんか。どんな感じか見てみたいのです」
男は静かに、そして何かゲームを楽しむかのように言った。
ナンシーが表情を硬くしているのに気がついて主任が近づいて来た。
「ちょっとおたくのハウスマヌカンに、このセーブルを着て見せてくれるよう、頼んでいるんですよ」
と男は安心させるように主任へ言った。
「ナンシー」
と彼女はうながした。ナンシーは言われるままに袖《そで》を通した。別の客が入って来たので主任はそちらへ笑顔で歩いて行った。
「店の毛皮を無断で借用するのなら、香水はつけるべきではなかったね」
そうナンシーの耳の中へ言って、男は口の片方の端だけで微笑した。すると口の上にある古い傷がひきつって、一種すごみのある顔になった。
「計画的じゃなかったわ。ペギーから電話があって、家を出たの。でも急に、私が羽ぶりよくやっているってことを見せたくなって……こっそり店に寄ったの。二度とするつもりはないわ」
ナンシーは哀願するように男をみつめた。
「僕は警察の人間じゃないですよ」
と男は安心させるように言った。
「で、今夜は、つきあってもらえるんでしょうね?」
柔らかいが、有無を言わせぬ口調で、男がそう訊《き》いた。
一九八九年四月、単行本として小社より刊行
角川文庫『ドラマティック・ノート』平成3年12月10日初版発行
平成10年2月20日14版発行