森 瑤子
スクランブル
目 次
六本木エレジー
香港の夜
夫婦の四角《よつかど》
終着駅
淑女と娼婦
別の桜の木と恋した話
ある出来ごと
夫婦の肖像
約束と嘘と
視線
ミセス・コワルスキー事件
言葉の魔術
六本木エレジー
「今夜は独りかい?」という声で女は振りかえる。
「ええ、そうよ」男をチラリと見て、女が答える。
「ご亭主はどこさ?」
「どこか太平洋の上」
「ヨット? じゃ今夜、ボクたちチャンスだね?」
もしチラリと見た男が自分の好みでなければ、太平洋上のどこかと答えるかわりにこう素気なく言う。
「あと十分もすれば来るわ」
その頃六本木にはパブがたくさんあった。現在ではその大半がカフェ・バーと名前や内装を変えてしまったが、十年ほど前には英国風のキャッシュ・アンド・デリバリーという、要するに飲みものと引きかえに代金を払うシステムの安心して飲める店がずいぶんと流行《はや》った。
そういう店のいくつかのパブに外国人の姿がとりわけ多く見られた。安心して飲めるということもあって、夫婦連れや女同士や、時には夫が出張中とか、ゴルフ旅行とかいって放っておかれる人妻なども、子供を寝かせた後に顔を見せるのだった。
すると、たいていはなんとなく顔見知りだから、男がそれとなく近づいてきて、今夜は独りかいと訊《き》く。必ず訊かれる。
一人でパブにいる女に、独りかと訊くのは、もちろん下心が多少はあってのことだが、女に対する男の礼儀でもあるらしかった。
六本木に住んでいた頃、夫とそういうパブで待ち合わせていると、私も何度も顔見知りや時にはぜんぜん知らない男たちに、今夜は独りかい、と声をかけられた。
私の最初の小説『情事』は、人妻がパブで男に声をかけられ、それがきっかけで恋になり情事を重ねたあげく破局する男と女の話である。
そういう光景は実際、夜毎くりひろげられた。恋に発展するものもあれば、一夜のそれこそ情事で終るものもある。
最初の男の質問にうなずくか、首を振るかで全てがきまった。ルールがあるとすれば、ひとつだけあった。その男とどうなる気もなければ、きっぱりと首を振ることである。
実際に独りであっても、「ノー。人を待っているの」と答えれば、それで男はひき下がる。
ある時、私たち夫婦のよく行くパブに、あまり見かけない顔の女性がふらりと現れた。
もうそれほど若くもなく、化粧は派手だったが髪にはつやがなかった。女はひどく疲れているようだった。生活というよりは人生に疲れているという感じだった。
人生に疲れているように見える不幸な女は、なんとなく薄汚れて私たちの眼に映った。実際にはそうではなかったが、口紅が少しはみだしているような、そんな感じなのだった。
彼女はカウンターでウォッカの注文が出来るのを待つ間、無意識に、プラチナの結婚指輪を右の指でぐるぐる回していた。
若い男がそれとなくその女に近づいた。例のやり取りが始まった。女の微笑する横顔が見え、彼女はうなずいた。笑うと女の淋しそうな顔に少し野卑な感じが漂った。すると女は妙にエロティックに美しく見えた。
若い男はその夜の思いがけない楽しみを思って、ニヤリと笑った。彼は女に酒をおごり、何事か語りかけるたびに、彼女の腕や手や胴体に触れるのだった。
男が女の耳に何事か囁き、二人は出口に向って歩きだした。その時、別の一人の男が二人の前に立ちはだかった。女の夫らしかった。
夫らしい男も妻同様、人生に疲れて不幸そうに、そして汚れて見えた。夫と妻は二口三口何事か言い争った。勝負はすぐについた。夫は寒々と肩をすくめ、二人の前から歩み去った。女は顎《あご》をつき上げて哀れな夫を見送ると、連れの若い男に婉然《えんぜん》とほほえみかけた。若者は少しちゅうちょし、当惑を隠せない面もちで、女と歩きだした。
その後二度とその女は見かけなかったが、若者は再び顔を見せた。
だれかが、からかうような口調で声をかけた。
「このあいだの女はどうだった?」
すると若い男は眉《まゆ》を曇らせて言った。
「どうって、知らないよ」
「ベッドへは行かなかったのかい?」
「行くには行ったがねぇ」と若い男は憂鬱《ゆううつ》そうに呟《つぶや》いた。「相手の亭主の姿が眼にチラついてさ」と彼は語尾を濁した。
「いい教訓だったな」と年長の男が若者の肩を叩《たた》いた。「結婚指輪をいじくっている女には、手を出さんことだよ」
それからずいぶんたってから、私たちは妙な噂《うわさ》を耳にした。すさまじく破綻《はたん》してしまったある女の噂話だった。
女は子供たちを寝かしつけると、家を出た。夫はその夜も留守だった。もう何年も夫婦の仲は冷え切っていたのだ。
土曜日の冬の夜で、彼女は孤独だった。人々の笑い声や話し声が無性に聞きたかった。パブは歩いて十分の場所にあった。コートをひっかけて、口紅だけを軽く引き、女は出かけた。
三十分もすれば戻るつもりだった。ウォッカ・トニックを一杯か二杯飲む間くらい、子供たちは眼を覚まさないだろうと。
パブは混んでいた。少しは知っている顔もあったが、女はやっぱり淋しかった。大勢の人々の中にいる方が、もっと淋しいのだった。
ウォッカは確かに躯《からだ》を温めてはくれたが、心はあいかわらず寒いままだった。
「独りかい?」とだれかが聞いた。どこか遠くでサイレンの音が長く尾を引いた。
腕時計を見ると十時を過ぎていた。四十分がたったのだ。女はふらりと入ってきたのと同じように、唐突にパブを後にした。
歩いて家に向った。外はサイレンの音が騒がしくしていた。消防車が何台もいた。どこかの家が燃えていた。
最初、それが自分の家だとは、女は思わなかった。頭の動きが一瞬止まったようになったのだ。次の瞬間女は燃えている家めがけて走りだした。だれかが抱き抱えて彼女を止めた。女は絶叫して気を失った。
燃えている家の中には、眠っている三人の子供たちがいたのだった。
淋しさに耐えかねたわずか四十分ほどの間に、彼女は全てを失ってしまったのだった。彼女の頭の中でプツリと何かが切れた。
長いこと女は病院で治療を続けたが、ついに正気を取り戻すことはなかった。従って夫が正式に自分を離縁したことすら、知らずにすんだ。
時々私は、その女と、ずっと以前パブのカウンターにもたれて指輪をぐるぐる回していた女と同じひとなのではないかと考えるのだ。あるいはその女はもう一人の私だったかもしれないし、もう一人の孤独なあなただったかもしれない。
六本木のきらびやかな夜には、さまざまなことが起る。
香港の夜
九龍《カウルーン》サイドの『|紅い唇《レツド・リツプス》』というバーへ私を連れていきたいと言ったのは、香港在住のジョンだった。
彼は陽気でシンプルでちょっとウエットな典型的な妻子持ちのアメリカ人だった。東京駐在だった時代に、彼らの別荘が私たちの海の家の隣組だった。だから私は彼の妻メリーの友だちでもあったが、本当はジョンとの方が心が通っていた。私とジョンは時々六本木で昼食《ランチ》や、時にディナーを一緒にした。密会ではあったが不倫の関係ではなかった。彼が香港に移ることで私たちの間は一応クールダウンしたわけだった。
ジョンとメリーとの約束は九時ということにきまった。
どうしてそんなに遅い時間なのか≠ニジョンが電話で訊《き》いた。
「その前に食事の約束があるの」
「男かい?」ジョンは皮肉な口調で訊いた。
「妹の友だちよ」
「いい男なのかい?」
「逢《あ》ったことないもの、わからないでしょ」
それは事実だった。成田へ向う直前妹が男友だちの電話番号を私の手に渡しながら言ったのだ。
「とにかくお姉さん、一度逢ってごらんなさいよ。それは美しい男なのだから」
私に負けず劣らず面食いの妹がそういうのだから、いい男であろうと私は信用し、香港に着くとホテルからすぐに電話をしたわけだった。
「もちろん喜んで」と妹の男友だちは、TVの『ダーバン』のコマーシャルのアラン・ドロンそっくりの、ぞくっとするような低音で私の誘いに応じてくれたのだった。
さてその夜の六時ジャスト。私のホテルルームのドアにノックの音。
覗《のぞ》き穴からそっと見て、私は卒倒しそうになった。若き日のハンフリー・ボガードそっくりの男が、赤いバラの花束を手に立っているではないか。妹の男友だちだった。
それから九時までの時間を、海と香港の夜景の見えるレストランで、私が夢見心地で過ごしたことは言うまでもない。
もっとも百万ドルの香港の夜景など、チラとも見なかった。私の眼は妹の男友だち――ボギーということにしておこう――の美しい顔に釘づけになってしまっていたのだった。
九時。ボギーとそんなに早くサヨナラをする気はサラサラなくなっていた。かといってジョンとメリーをすっぽかすわけにもいかない。窮余の策でボギーを同伴することにした。相手も夫婦連れなのだから、ちょうど四人でむしろ具合が良いと思ったのだ。
教わったアドレスを手に『紅い唇』の玉ノレンをくぐった。正にスージー・ウォンの世界。戦後の立川あたりの外人相手のバーを想像すればそれに似ている。アンモニア臭がツンと鼻をついた。
「メリーは?」と私が訊いた。ジョンはひとりだった。
「頭痛なんだ」ジョンはボギーをジロリと見て憮然《ぶぜん》と答えた。
「ひどいところね」と私はジョンとボギーを引きあわせてから言った。
「君の小説の舞台に使えると思ってさ」とジョンがボギーを気にしながら答えた。
赤いバーの灯が店内を陰惨に見せていた。不思議なことにその赤い灯は、美しいボギーの顔をいっそう美しく見せるのだったが、どちらかというと醜男のジョンは更に醜く見えるのだった。年増のホステスたちはどうみても全員五十歳を越していた。明らかに性質《たち》の悪い性病持ちの女も何人かいた。私の作家としての興味が突然つのり、小一時間、彼女たちと熱心に話しこんだ。
その間、ジョンとボギーは仕方なく二人で飲み、ポツポツと会話をかわしていた。
ふとジョンが酔いの回った足取りでトイレに立っていった。
「ジョンはキミにメロメロだよ」とボギーが私に耳打ちした。
「あなたのこと嫉妬《しつと》しているのよ」
「キミが命をくれと言えば、彼は命を差しだすよ。足を一本切りとれとキミが言えば、ジョンは喜んでそうするね」
「でも私、別にジョンの足なんて欲しくないわ」
「今夜キミを口説こうと思ったけど止《や》めておくよ」
「当り前でしょ。妹に殺されちゃうわ」
「それもあるけど、ジョンのためにさ」
「私がジョンと寝てあげるべきだと思うの?」
するとボギーは真顔でうなずいたのだった。
私たちは明け方近くまで『紅い唇』で飲み続けてから外へ出た。
「送ってくれる?」と足元をふらつかせているジョンに訊いた。
「ボギーと帰れよ」躯《からだ》をぐらぐらさせながらジョンが呻《うめ》いた。
「ボギーは反対方向なのよ」
「奴は男のボクでも惚《ほ》れぼれするぐらい、いい男だぞ。ボギーと寝ろよ」
「バカね。妹の友だちなのよ」
タクシーが走ってきた。ボギーがそれを止めると、私とジョンを押し込んだ。
「あなたが妹の友だちでなかったら良かったのに」と別れぎわ私は思わずボギーに囁いた。
「実は僕もそう思っていたんだ」ボギーがニヤリと笑いドアが閉った。
タクシーは白々とした九龍の暁の中を猛スピードで走りだした。私とジョンは無言でそれぞれの側の車窓から暁の白さをみつめていた。
「どうする、ジョン、私の部屋に来る?」やがて私は哀しみに包まれながら訊いた。
「いや、止めとくよ」とジョンは答えた。
「メリーがさ」
「そうね、じゃあ」私は最後まで言わせずに言った。
「メリーはね」とジョンは続けた。「どっちみち僕たちのことは東京にいた頃から疑っている。今夜『紅い唇』に現れなかったのもそのせいだよ」
「疑われるようなこと、私たち何もしていないわ」食事を二人で何度かしたけれど、それだけのことではないか……。
「だからこそさ」とジョンは両手の中に頭を抱えこんだ。「いっそのこと、僕たちが寝ていればいいって、そうメリーは言うんだ。何もない方が辛いって。それだけ僕がキミに魅かれているせいだって」
タクシーが私のホテルの前に停《とま》った。
「それじゃ、いっそのことメリーの気持を楽にしてあげる?」ともう一度私はジョンの気持を訊《たず》ねた。
彼は疲れた顔で長いこと私をみつめ、それから静かに首を振った。私はうなずいてタクシーを降りた。その背にジョンが言った。
「ボギーはいい奴だ」それからこうつけ足した。
「今夜は邪魔をして悪かった」
「ううん、おかげでボギーとも親友になれたから」私はボギーの最後の眼差しを思いだしながら微笑した。
「そして私たちも親友ね?」
私がそう言って差しだした手をジョンが握った。一瞬苦渋の色がその顔に浮かんだが、笑いがそれに変った。
「うん、親友だ」
ジョンの乗ったタクシーがホテルの前庭を回って消えると、ホテルのステップに朝の最初の陽光が射《さ》した。
夫婦の四角《よつかど》
時々、私は夜家をあける。仕事で編集者と話しこんでいることもあるし、女友だちとわいわい食事をしていることもある。あるいは男と飲むことだってある。
すると夫は、夜遅く帰宅した私に訊《き》くのだ。
「誰に会っていたの? 何の用だったの?」
「本のことで編集者よ」と私は答える。
「編集者は男?」
「たいてい編集者は男よ。でも今夜は女の編集者だったわ」
「そうかい」
「あら、全然信じていないみたいな口調ね」
「事実まるきり信じていないもの」
夫は暗く眼を光らせる。
「それじゃ何故、質問するの?」
「キミがどんなふうに嘘をつくか見てみたかったのさ」と夫は言う。「それにしても段々上手になるね、嘘のつき方が」
結局彼は避ける。私を徹底的に追いつめない。私が女の編集者と会っていたと嘘をつくのは、私のためではなく彼のための嘘だと、辛うじてわかるからだ。
夫が私を追いつめないのは、彼が怖《おそ》れているからだ。一体何を、夫は怖れているのだろうか?
私が夫に「女の編集者よ」と嘘をついて逢っている男たちの存在を彼は怖れているのだ。
私の男たちというのは、ヤボな説明を加えるなら、恋人でも愛人でも今流行の不倫の関係でもない。友だち。男の親友たちである。
もしそういうことがあればの話だが、私が夫以外の男と浮気をするとすれば、絶対に彼ら、私の男の親友たちの中からでは、ありえない。浮気や情事を重ねるには、あまりにももったいないお相手なのである。浮気や不倫の恋などというものは、小説の中でこそ多少は美しく脚色できるが、現実の生活の中で起ってしまうと、美しくもなく、ロマンティックでもなく、かなり薄汚いものなのではないかと、私は思うのだ。
そういう一種の薄汚さの関係に、私の親友をひきずりこみたくないし、私もまきこまれたくない。もっとずっと大切な人たちなのだ。
そこが問題なのかもしれない。たとえばもし、私の夫が、そうした男友だちの一人とサシでお酒を飲んだり食事をしたりしている時の私たちを目撃したとしたら、夫は、私の顔の表情の柔らかさとか、声の優しさとか、弾けるような笑い声などに対して、怒りを覚えることだろう。それを共有するのが夫ではなく、他人の男であるということに、彼は傷つくだろう。
いっそのこと、ベッドの中で浮気をしている現場をおさえた方が、まだしも楽かもしれないとさえ、考えるかもしれない。そういうことになれば、彼はコキュだから、正々堂々と思う存分に怒り狂い、相手の男なり裏切った妻なりを打ちのめすことも出来るのだ。
けれども、妻が他の男と親しげに微笑を浮かべて語りあっているということだけだと、彼は怒り狂うわけにはいかない。浮気されるのと同じくらい、場合によってはそれ以上に彼は厭《いや》な思いを味わい傷つくのだが、その怒りを表すわけにはいかない。もし万が一、そのような現場に出喰わしたら、私の夫なら一言二言|辛辣《しんらつ》な冗談混じりの皮肉を残して、足早に立ち去るだろう。そうでなければ、こちらが目撃されたことに気づく前に、こっそりとその場から彼は消えるだろう。
もし何か事が起った時、私は夫にむかってこう開き直ることは出来ないのだ。
「何が悪いのよ。男と逢うのが悪いのだったら編集者と仕事の話も出来ないってことじゃないの」
そんなふうに事をもっていくのは、卑怯《ひきよう》だ。とてもずるい。
「実際のところ、誰なんだい? 本当のことを言えよ」ともし夫が詰問したとしたらどうだろう。
「男よ」
「その男はキミと、どういう関係?」
「友だちよ」
「どういう友だち?」
「いい友だち。別に寝るわけじゃないのよ」
「その方が悪いんだよ」
かといって、私は彼らと逢うことをやめるわけにはいかない。それは私の子供たちと逢うなということと同じだし、私の両親を訪ねてはいけないと言われるのと同じくらい、さもなければ、小説を書くことを禁止されるのと等しく、理不尽なことなのである。もし夫に、そういう種類の女友だちがいても、だから私はやはりひっそりと耐えるだろうと思うのだ。
配偶者以外に、心を寄せたり信頼したりするそういう別の存在があるからこそ、もしかしたらある意味で私たちの結婚生活が辛うじて安泰であるということも言えるかもしれない。
考えてみれば、子供たちがいて、夫がいて、庭のある家に住み、その庭にコリー犬が駆けまわり、家の中には小鳥が鳴き、まるで幸福を絵に描いたような暮らしを、私はしているわけだが、それでも何かが欠けているのだ、ということが、せつないような気がする。それだけでは、私が私でありえないような気がするのだ。
しかし、幸福の条件のひとつでも欠ければ、私の男友だちの存在は今ほど意味を持たないだろう。むしろ、現在私が満たされて幸せだから、男たちと、いい関係が結べるのだと、そんな気もする。
終着駅
もうかなり前から、その別れは透けて見えていたのだった。ただ見えないふりをしていたのにすぎない。
見えないふりは、相手も同様だったので、それは『見えないふりごっこ』というべきものであった。見えないふりごっこは一年近くも続いた。
ある時、私たちは例によって相手の顔ではなく、その背後の空間を見ながら、ぽつりぽつりと会話を交わしていた。時々私はひそかに欠伸《あくび》を噛み殺さねばならず、その都度両眼に滲《にじ》む涙の処理にそれでもわずかながら困惑を覚えていた。
わずかながらにしろ、困惑を覚える程度に、まだ彼に対して何らかの感情を抱いているわけだった。もう実にどうでも良い男なら、喉《のど》の奥まで見せて大欠伸を辞さないことだし。
けれども、困惑を覚えた私の一人相撲で、相手は私が欠伸を噛み殺したことにすら、気がつかず、相変らず私の顔ではなく、私の背後数メートルの虚空をみつめたまま、煙草をふかしていたのだった。
もう別れましょう、と言うには、あまりにも遅すぎた。それを言いだして格好がつくのは一年ほど前の状態の時であった。今更、別れようなどと言えば、事が大げさになってしまう。
非常にゆっくりとではあるが、死んでいく関係なのだった。自然消滅的に先細っていき、ふっと炎が消えるような。そしてその時私たちは、その先細っていく過程のほとんど後半にいたのだった。
そのことを二人とも知っていた。あとほんの一息、ふうっと静かに溜息をつけば、最後の炎は消えてなくなりそうだった。だがそんな状態が、もう何ヵ月も続いて、最後の炎は半ば消えそうで消えない。そうなのだ。私たちが相手の背後の虚空にじっとみすえていたのは、その小さな今にも消えそうな炎なのだった。
「汽車に乗ろう」と、ほとんど唐突に相手が呟《つぶや》いた。唐突ではあったが、私にはその時の彼の心情や、やりきれなさが切実にわかるのだった。
「いいわ」と答えた。
汽車にいかほどの意味があるというわけではなかった。二人で旅をしたことなどなかったし。
どこへ行きたいのか、彼は訊《き》かなかった。私もどこへ行くの? とは質問しなかった。質問しても私たちは答えられなかったろう。
私たちが乗ったのは、しかし汽車というよりは電車に近かった。どこへ行くのかも知らなかった。駅のアナウンスが伝える土地の名も、初めて耳にするものであった。
グリーン車でもなく、普通の背のまっすぐな座席に、むかいあって座った。彼は黙って私に煙草を差しだしたが、私は首をふって断った。乗り物の中で煙草を喫《す》うのは好きではないからだった。汽車が駅を離れた。
私たちは無言だった。喋《しやべ》るべき何ごともないのだった。うつうつと悲しいだけだった。車窓の外には、薄汚れた町並みの風景が延々と続いていた。
かつて、彼に逢《あ》うために走ったことがあった。彼に逢うという思いになぎ倒されそうになって。幸福で胸が痛かった。あまりにも幸せだったので、いつもどこかで怯《おび》えていた。男に逢うために小走りに駆けながら、常になぜか哀しかった。幸福のあまり哀しかったのだ。
あの歓《よろこ》びが深かった分だけ、今、私たちは罰を受けているのだとわかるのだった。私はつくづくとむかいの席で車窓に眼をやっている男の顔を眺めた。
見なれた親しい顔だった。飽きるほどみつめてきた顔なのだった。しかし何の感動もなかった。
見なれた顔ではあったが、私はふと思った。この顔、この見知らぬ顔、この遠い顔、この顔を私は識《し》らない、と。
彼の視線が動いた。彼は私を眺めた。私が彼を眺めたように私を眺めた。そして彼もまた、私が感じたように感じるのがわかった。この女の顔を自分は識らないと。そして私たちは微笑を浮かべあって、お互いの顔の上から視線を車窓の風景へと逸《はし》らせたのだった。
町並みが途ぎれ、畠や小さな森が見える光景に変っていた。
「多分ね」と相手が言った。駅を出てから――いや喫茶店を出てから、彼の口をついた最初の言葉だった。
「ええ」と私は相手の次の言葉を待った。
「多分、女房とはだめだと思う」
「そう」私はひどく寒く感じながらそう呟いた。三人が三人とも疲れ果ててしまったのだ。三人とも力尽きて、ただもう寒いだけなのだ。その時初めて私は彼の妻を身近かに感じた。彼女もまた、男と女の戦場で血みどろに闘った兵士であった。それきり彼は口をつぐみ二度と喋らなかった。
私は彼の妻を知らない。逢ったことがないのだ。逢いたくもなかった。だけど彼の妻はただ一度の例外もなく、彼の背後からじっと私たちをみつめてきた。私は常に、その彼女の眼を感じていた。
僕は二人の女を同時に失うかもしれない、といつだったか彼が予感の中で言ったことがあった。事実そのとおりになったのだった。
しかし誰かが誰かを棄《す》てたということではないのだった。彼は妻と私とを失うことになるかもしれないが、それは別の見方をすれば、彼が私たちを去ったのかもしれない。私こそ彼を失ったのかもしれない。彼の妻もまた、彼を失ったのかもしれない。私たちは完全に何かを見失い、茫然としているのだった。
汽車が止まった。終点だった。小さなローカル駅で、降りる人も少なかった。
駅には薄い陽が射していた。季節がいつであったかもう私は完全に忘れてしまって思いだせないが、コンクリートのプラットホームに斜めに射していた淡いような陽光だけは覚えている。
汽車が去り、人々が駅を離れ、駅員が消えると、私たち二人だけになった。
「歩こうか」と彼が言ったが、私は歩きたくなかった。
「しばらく消えるよ」それから彼は少し考えて言ったが、それが出張のことを指すのか、蒸発を意味するのか、単なる旅立ちなのか、私にはわからなかった。わからなかったが訊《たず》ねもしなかった。
やがて、反対方向から汽車がホームへ滑りこんできた。私たちはそれに乗りこんだ。
汽車はやがて走りだした。終着駅は始発駅となった。
淑女と娼婦
アルフレッド・ヒッチコックという天才的映画監督がいた。サスペンスの巨匠だ。『鳥』とか、古くは『裏窓』などを作った人。
そのヒッチコックが女の魅力についてこんなふうに言った。
――我々男というものは、特等車に座るのが似つかわしいタイプの女性、本当に淑女《しゆくじよ》らしく見えて、いったん寝室に入ると娼婦《しようふ》に変貌するような女性に惹《ひ》きつけられるものなのだ――。
たとえばヒッチコックは、グレイス・ケリーのような女性を頭において言っているわけなのだ。
だけどこれ、ヒッチコックにかぎらず、たいていの男の願望らしいのだが、口で言うのは易し、行うは難きの典型例。
昼間おさんどんしたり、出来の悪い悪ガキ共を怒鳴り散らしたりしながら、どうして淑女ができる? 夜は夜で疲れ果ててただひたすら眠りたいだけなのに、どうやったら娼婦など演じられるのかって訊《き》きたい。
大体、そういうことを言う亭主族ってのは、日曜ともなれば一日中パジャマでゴロゴロしているわけでしょう。膝《ひざ》のぬけた垢《あか》じみたパジャマ姿で無精ヒゲはやしている男の前で、淑女をやったら気が狂ったとしか思えないじゃないの。
夜は夜で、なんだかくたびれたボロ雑巾《ぞうきん》みたいになって会社からご帰宅あそばされる男の前で娼婦演じたら、これ完全に色情狂にまちがえられる。
勝手なことをあれこれ注文なさる前に、そちらさまこそ昼は紳士、夜はターザンのごとくあって頂きたいと思うのだ。こっちが淑女にならざるを得ないような素敵な男性、夜は思わず娼婦になりたくなるようなセクシーな男性を、まずやってみて下さいと言いたい。
私の友だちの夫に変ったひとがいる。彼は妻ができるだけ肉体を露出するようなドレスを着て、パーティーや人前に出るのを喜ぶのだ。だからパーティーなどでは、彼の妻の周囲には男たちが群がり集まる。
彼女はお尻の割れ目がチラリと見えそうな背中のバックリとあいたドレスを着て現れたり、おへそのところまで深く切れこんだイヴニングを着ていたり、足のつけ根まであるスリットのロングスカートを着用に及んだり、その都度男たちをドッキリさせ、女たちのヒンシュクと嫉妬《しつと》をかうのだった。
私の夫は、そういう彼女の周囲に群がり集まる鼻の下の長い男の一人だが、他人の女房だから鼻の下を長くしていられるわけで、自分の妻がそれをやるのは、全く別問題なのである。
私の夫というのは、前述の男性とは正反対の男で、胸のボタンが二つ目まで開いているのはまあ許せるが、三つだと、とたんに眼が尖ってつり上がる。そういう種類の男なのだ。
私の夫に言わせれば前述の彼をして、ひどく変っている男だよ、となるわけ。理解の範囲を越えている。彼《むこう》はむこうで、自分所有の(妻は彼の所有物なのだ)美しいものを、他の人々と共有しない方がおかしいと思っている。それなのに、彼の妻の美しい背中からお尻の割れ目のあたりまでをとっくり観賞しておきながら、たとえば私の夫が自分の妻は胸元のボタン二つまでしか許さないというのは、ずるいではないかというのだ。不公平で偏狭《へんきよう》だというのである。当然のことながら、私の夫と私の友だちの夫とは仲が悪い。
ある時興味深い場面にぶつかった。例のごとく私の女友だちは、ぎりぎりのところまで肌を露出したイヴニング・ドレス姿。彼はブラック・タイ。その二人がパーティー会場の隅の方で険悪なムードになっている。
「そういうのは許せない」と彼が言った。
「そういうのって?」と彼女。
「他の男とああいうふうに親しげにするのは許せない」
「親しげって、ただお話ししていただけよ」
「きみは微笑《ほほえ》んでいた」
「相手の男性が微笑んだからよ」
「他の男と微笑みなど交わしてもらいたくないよ」
「気持よくお話ししていただけよ」
「他の男と、気持よくお話しされるのも、夫としては嫌《いや》だね。キミはいかにも楽しげにしていたぜ」
「いけないの?」妻はふっと表情を曇らせた。
「一度だって僕に、あんな楽しげな表情を見せることないじゃないか」
「じや、他の男性とお話しするなっていうのね?」
「そうじゃないよ。僕には決して見せないような、あんな楽しげな態度や、うっとりした微笑みが、嫌なんだ」
この夫は、妻のおへそやお尻の割れ目を、他の男性が眺めて楽しむのは平気だが、妻の方から、男にアプローチすると、たちまち嫉妬の鬼と化すのである。
「要するに、私って、マネキン人形ってことね」とついに、私の友だちは膨《ふく》れっ面《つら》をした。
男というものは実に複雑だという一例。
私の別の友だちの夫に、夜眠る時一糸まとわぬ素っ裸という男性がいる。もちろん友だちの言葉をそのまま言っているだけで、私が直接目撃したわけではない。
真冬でもともかく素っ裸。もう子供の頃からの習慣なのだということだ。
「え? 何も着ないの? パンツも? 風邪ひかない?」と私はびっくりして訊いた。それよりパジャマなら洗濯は簡単だけど、シーツ毎日とりかえるのは大変ね、と妙なところに同情したり。「だけど毎晩、セクシーな気分にならない?」と好奇心を起したり。
「ううん、それが全然」と友だち。「そりゃ新婚のうちはいいわよ。でも素っ裸って、普通なのよね。刺激的でもなんでもないの。自然で健康で、可愛らしいのよ」色気とかセクシーな感じではないのだそうだ。
「それでね、セクシーな気分になった時は、頼んで彼にパジャマを着てもらうの」と彼女は笑った。そういう時、普通の場合素っ裸になるものじゃない? 逆なのね、と私も笑った。
セクシーさって、こうしてみると意外性だということがわかる。普段見せない顔。あれ? とかおや? とか相手をふりむかせること。ミステリアス。だから昼は淑女で夜は娼婦に変貌してもらいたい、などと男が言うのだ。
別の桜の木と恋した話
仕事机にむかって、ない知恵を絞っている時だった。外では春特有の強い風が吹いていて、窓ガラスが時々鳴っていた。
見るともなく窓の外を眺めていると、どこから飛んできたのか、白っぽい桜の花びらが、身をよじるようにして舞い落ちてきて、ガラスに当った。
うちの庭には桜はない。ご近所にもないし、あるとしたら五〇〇メートルくらい離れた教会の前庭に一本あるだけだ。その花びらは、教会の桜の木のものであるかもしれないと思った。あるいは風のいたずらで、とんでもなく遠くの方から何十キロも旅をして、私のところへたどりついたのかもしれない。花びらに訊《き》いてみるわけにもいかないので、真相は永久に謎のままだ。
たった一枚のその桜の花びらのせいで、私の思いは、原稿用紙の上からさまよいだしてしまい、そういえばこの二、三日が桜の山場だろうと気がついた。
机にばかりむかっていて、危いところで見逃すところだった。しかもこの南の強風。一気につぼみが開いて満開となり、下手《へた》をするとそのまま散ってしまう怖《おそ》れもある。
そう思うと、いてもたってもいられない。どうせいくら考えても書けない原稿のために半日から一日机にむかっているのなら、いっそのことすっぱりと原稿のことは諦《あきら》め、花見に行った方がどれだけ身のため、眼のため、魂のため、ひいては原稿のために良いかわからない。
ということになったら、原稿書きだけは遅いが、決意は速い。さっさと机の上を片づけ、京都の友だちに今から行くからと宿の手配を頼み、簡単な着替えだけ入れた小さなバッグを片手に、新幹線へ飛び乗った。
めざすは京都。他の桜の名所は知らないから、京都の桜が一番だと信じて疑わないこの単純さ。
昨年も一昨年もその前もまたその前も、京都で一人お花見をしたのだった。
お花見だったら東京でも鎌倉でもいい所があるよ、と人は言うけれど、そういう人は東京や鎌倉でお花見をすれば良いのであって、私のことは放っておいてもらいたい。私の方だって、そういう人にむかって京都がいいから行きましょうとは誘いはしないのだから。
京都の私の友だちはなれたもので、
「そろそろ電話があるな、と思っていた矢先だったのよ」と、電話口で言っていた。
「ごめんなさいね」と私は一応謝った。
「なんのなんの。そんなのはなれっこでございます」と彼女も涼しい声。「それに今日を外したら、アウトだったわ、花が散ってからでは、遅すぎるもの」と今が満開、見頃も大見頃とミエを切ったものである。
新幹線の中では大体文庫を一冊読んでしまうのだが、その日だけは例外。お花見列車であった。おかげで小田原の桜、熱海の桜、静岡、名古屋と、車窓の花見で、眼は幸せの極まり。富士山の広大な雪を頂いた姿を背景にした桜など、めったに見れるものではない。
さて京都。年に数回の懐かしき京都。花につけ、紅葉につけ、雪見につけ、時間をつくっては訪れる大好きな京都。
常宿のホテルなどもたない。色々なところに泊ってみたい。お寺も一度に一つだけ。欲かいて三つも四つも回ると、みんなごちゃまぜになって記憶に残らない。
有名な花の名所には近づかない。見たいのは桜であって人の波ではない。
友だちが予約しておいてくれたホテルで情報を仕入れて、タクシーで駆けつけ、ぽとりと近所で落してもらう。その寺への道すがら、右、左と眺めブラブラ歩いていると、ひなびた感じの古寺があったりする。寺の名も長年の雨風に色|褪《あ》せて読めないあり様だ。こわれかけたような入口からふと覗《のぞ》くと、これもひなびたいい感じの建て物があり、あまり手を入れすぎない程度に手入れされた庭がある。その奥に、程良い大きさの、なんとも形も姿も良い桜の老木が、九分ほどに花を咲かせ、ひっそりと立っているではないか。
見えない何者かの手によって導かれるがごとく、私はその名も知れぬような寺に佇《たたず》み、時の過ぎるのも忘れてしまうのであった。
花の色のしめやかで、ピンクの深い、なんとも晴れやか。その華やかさ。それでいて物の哀れを誘うような独特の風情。
飽きることなく、私はそこに根をはやしたように立往生してしまうのであった。圧倒されて。
その静かなこと。威厳のあること。やがてこの美しき物が風に散り雨に打たれてこの地上から姿を消す日が、ほどなく迫りくることが、ひしひしと私には感じられるのだった。
あぁ私はこの花に出逢うために、ここにいるのだ、という感情に突然おそわれた。この桜の老木に出逢うべくして東京を発ってきたのだ、という思い。あの仕事部屋の窓ガラスを叩いた一枚の花びらは、私をここへ導くべく、この木から散っていったのに相違ない。どれだけ時間がたったのだろうか。あたりは薄闇に包まれ始め、空気がぴんと張りつめて冷えていた。
立ち去りがたかった。
あの最初の出逢いの瞬間に、悲しいほど胸がときめいたのは、この立ち去る時が透けて見えていたからだ。
人との出逢いもまたそうだ。初めて会った時から、さよならを言わなければならない瞬間が辛いように感じる人がいるものだ。逢ったばかりなのに、別れを思って心が暗くなってしまうような人との出逢いがあるものだ。
そういう人ともつ時間の心楽しさ。貴重さ。物哀しさといったらない。
名も知れぬ寺院の桜の木も、そういう人の出逢いと同じことだ。
遠くでタクシーの私を呼ぶ音がしていた。三時間ほどしたら同じ場所へ迎えに来てくれと頼んでおいたのだ。私は立ち去りがたい思いで、タクシーの方へのろのろと歩いて行った。
「花はどうでした?」と運転手さんが訊いてくれた。
「あそこへは行かなかったのよ」と私は言った。
その手前で別の桜の木と恋に落ちちゃったから。「道に迷ったんですか?」と彼は奇妙な顔をした。私は名も知れぬお寺の話を運転手にした。
また来年も来ようと思った。それから、生きている間にあと何回、私はお花見が出来るのだろうかと数えてみた。せいぜい十五回かそこいらだ。そのあまりの少なさに一瞬|唖然《あぜん》とした。
ある出来ごと
駅のホームで酔っ払いにつきまとわれた女性がいた。躰《からだ》に触れられたり、卑猥《ひわい》なことや屈辱的なことをさんざん言われた。
ついに頭にきて「あんたなんて死んでしまえばいいんだ」と、その酔っ払いを突いた。
男はヨロヨロと二、三歩よろめいてそのまま線路に落ちた。一分後に、電車が来て男は死んだ。
その女性は傷害致死罪で起訴された。
問題は、この女性の行為が過剰防衛にあたるかどうかということらしい。
私はこの事件を新聞で読んで、びっくりしてしまった。なんで過剰防衛になるのかわからない。彼女が酔っ払いを突いたことは確かだ。私だって同じ立場にいたら突いていたかもしれない。「死んでしまえばいいんだ」と彼女は言ったかもしれないが、計画的な殺意があったなんて、誰も本気で考える人はいないだろう。かっときて咄嗟《とつさ》に口走ったのだ。私も同じ立場にいて、相手の執拗《しつよう》さに心底腹を立てれば、「死んでしまえッ」と叫んだかもしれないと思うのだ。多分そうだ。よく夫と口喧嘩して、うちでは英語なのでたいてい言い負かされるが、悔しくて最後には日本語で「死んじゃえッ」と叫んでいる。あれと同じだ。
酔っ払いの執《しつ》っこさにかっとして、相手を突くのは過剰防衛ではない。落ちたのが線路だった。一分ほどして電車が来て男は死んでしまったのだが、男が死んだのはきつい言い方をすれば自業自得である。
もしも酔ってさえいなければ、一分も時間があるのだから、ホームに昇れたし、反対側に逃げることだって出来た。そこで一分もモタモタして逃げられなかったのは、彼の非であって、彼女の非ではない。私はそう思うのだ。
電車がすぐそばに近づいているのを承知で突いたのなら、その行為は直接男の死につながるから、問題は違っていたかもしれない。が、彼女が突いてから、充分に逃げだせる時間があったわけだから、男の死の責任を彼女にだけかぶせるのはフェアではない。
私がなぜこのことでそんなにムキになるのかというと、もしかしたら、その女性が私であったかもしれないし、私の娘であったかもしれないと思うからだ。
それで私はある雨の降る日、千葉裁判所まで出かけたのだった。
その日は証人の喚問の日だった。証人は亡くなった人に同情的で、被告席の女性に冷たく私の眼に映った。
事実彼はこんなことを言った。
「彼女は普通の主婦のようには見えなかったね。なんというか水商売の女のように見えたからね」そしてこうも言った。
「気が強そうだし、躰《からだ》も大きかったからね。男の同情を誘うタイプじゃないよね」
だから、あの夜駅のホームで酔っ払いにからまれていた時、誰も助けてくれなかったのだ。そればかりか何人かがゲラゲラ笑った。
「笑ってないで助けてくれたっていいでしょう」と彼女はその場にいた人々に助けを求めた。しかし誰も酔っ払いを止めなかった。
そこで彼女は自分で自分を守るしかなかった。酔っ払いを突いたのはその時だ。
私だって、普通の主婦のように見える女ではない。大柄だし、気も強く見える。男の同情を引けるタイプではない。
もしも、あの事件に巻きこまれた女性が、普通の主婦であったり、あるいは深窓のお嬢さんであったら、過剰防衛などという言葉は出てこなかったかもしれない、と私は大いに疑うのだ。
確かに被告席に座っていた女性は毅然《きぜん》としていた。彼女は心の中で、自分がその席に座らなければならないことに、怒りを感じているように見えた。そこで、涙を流して小さくなっている女性ではなかった。日本の男は毅然としている女が好きではないのだ。でも私は彼女が背筋をすっと伸ばしていることがうれしかった。
この事件で私が気になったことがもうひとつある。それは目撃者たちだ。証人になった人も含めて、その場にいて、事の一部始終を眺めていた人たちのことだ。
女が一人、酔っ払いにからまれて助けを求めたのに、ゲラゲラ笑っていた人たちのことだ。
彼らの何人かは、男が線路に落ちた直後に、助けようとはした。手を出して男を引き上げようと必死になりはした。
だが、彼らは男を助けられなかった。電車が来るまで一分も時間があったのにもかかわらず、助けられなかったのだ。これは事実だ。
ある者はやはり酔っていたのだろう。あるいは冷静さを欠いたのかもしれない。
助けようと思えば助けられたはずだった。「反対側へ逃げろ」と言うことも出来たし、自分が飛び下りて、線路のむこう側に男を引っぱっていくことも出来た。なにも反射的な行動を起す必要もなかった。ゆっくりと降りて、ゆっくりと男を導く時間があった。
一分という時間は、パニックに陥《おちい》ってもたもたとやっていればあっという間に過ぎるが、冷静に事を行えばありあまるほどの時間である。
線路に落ちた酔った男を救えなかったことに、問題はないのか? あの場にいて冷静な判断を下せなかった目撃者たちは、全くの不問に付されるのだろうか。彼らが男の命を救えなかったために、それを彼女がつぐなわなければならないのだろうか? 私には、そのことがどうしてもわからない。もしも、彼女に罪があるというのなら、あそこにいた目撃者全員にも罪があるような気がしてならない。
彼女が絡《から》まれているのを見過ごした罪。あきらかに助けられたはずの罪だ。
私から見れば、被告席の女性こそ被害者だと思う。彼女を被告席に座らせた全ての人々が一様に少しずつその罪を分けあわなければならないように思う。私自身もそう感じた。私は傍聴人の側に身を置いて、被告席の彼女を見ていたという理由で、うしろめたかった。
そしてこの事件で考えさせられたのは、男たちのある種の差別の意識である。普通のタイプの女でないと同情もされないし、助けてもらえないし、過剰防衛という罪まで、かぶせられてしまうということだ。
美人だったり、可愛子ちゃんだったら、男たちは彼女に同情し、酔っ払いを止め、もう少し真面目に必死に線路から男を助け起したかもしれないと思うのだ。
こういう事件がまた起らないとはかぎらないし、次に起る時は、私の身やあなたの身に起らないともかぎらない。だから私は、この裁判の成りゆきに注目しているのだ。
夫婦の肖像
マルグリット・デュラスというひとの戯曲の中に、ある痛々しい夫婦の二人劇がある。
離婚をした夫婦が、ある日、昔二人が愛の日々を過ごしたホテルで再会し、夜を徹して過去を反芻《はんすう》する話である。
ホテルのロビーで深夜、元《もと》夫婦は、さまざまな声のトーンで語りあう。ある時はよそよそしく、ある時は激情の発作の中で、ある時は憎悪を露《あら》わにし、ある時は愛の思いに息をつまらせながら、二人は延々と、過去の破綻への過程を語りあうのである。
次第に、なぜ二人が別れなければならなかったのか、その理由が明らかになっていく。
夫に女がいたこと。妻に男がいたこと。つまりそれが表むきの理由のように思える。
それだけならば、よくある話なのだ。
ところが夫は言う。
「しかしあの女は行きずりの女だったんだよ。アメリカ人の観光客の若い女だった。カフェで言葉を二、三交わして、すぐにそのホテルに行った」
妻が問う。
「でも、愛していたんでしょう? 好きだったんでしょう?」
「いや」と夫は答える。「ぼくは彼女を絶対に愛していなかった。好きでもなかった。でも素晴らしい一夜だった。本当にそれは素晴らしかった」
妻だった女は、そこで昔夫だった男をじっと見る。彼女が心の深くで酷《ひど》く傷つくのがわかる。
今度は夫が訊《き》く。
「きみにも男がいたね」
「ええ、いたわ、パリに」
「愛していたのかい?」
「いいえ。ちっとも。愛してなんかいなかった」
「好きでさえもなかった?」
「ええ」
「でも、素敵だったんだろう?」
「そうなの。信じられないくらいよ。それは二日間続いたわ。夜も、昼も……。一種の狂気、恐怖……犯罪だった。人生からその瞬間あなたは消えてしまった」
そこでやはり昔夫だった男は深く傷つく。
そして私たちも傷つく。傍観者でありながら、私たちも、そのことにショックを受ける。
あきらかに愛しあっている男女が、そんなふうにいわば行きずりの相手と、素晴らしくめくるめくような、一種の狂気、一種の犯罪のような性愛がもてるということに、私たちも、そして当のその本人たちも驚くのである。
また夫は言う。
「ある日の午後、ぼくは町できみを見かけた。きみはとても美しく、思わずぼくは後をつけた……。きみはホテルへ入っていった。そしてホテルのバーへ行くとウイスキーを注文した。バーテンはきみの手に接吻した。きみは黒い服を着ていた。そう、バーテンが注いだのは確かにウイスキーだった。こんなことに気づいたのも、きみは家じゃ絶対にウイスキーを飲まなかったからだ。好きじゃないと言っていた。ぼくはバーに通じる人気のないサロンにいた。ぼくは思った。きみの足を今まで一度も見たことがなかった。きみを一度も見たことがないって。バーテンはきみから目を離さなかった。きみとバーテンは声をそろえて笑った。なんどとなく。結婚して二年目のことだったと思う」
ある時、普段見なれた相手が、かつて一度も見たことがない、と感じるような瞬間のことを、私も知っている。それから、普段飲まないウイスキーを、別の場所で飲んでいる女の気持も、私は知っている。それをたまたま目撃して、ショックを受ける夫の感情も、私はやっぱり知っている。二十年にわたる私自身の結婚生活の中にも、そういう発見やら経験があった。
妻は答える。
「バーね……そう好きだったわ。いろんな所のバーテンたちを知っていた。あの人たちが相手だと、私きれいでいられた。はじめてあなたに会った時みたいにね。きれいな女のように見せていた、好きなだけ。でもあなたのことしか考えていなかった。頭の中はあなたでいっぱい、行くところ、どこでも。私たちの間には、何も入りこまなかった」
やっぱり私もこの女の気持を知っている。頭の中は夫でいっぱいなのに、別の男と一緒にいて、その男の眼に私がきれいに見えていることを楽しんだことが、私にもあった。だから私には彼女の言葉の意味がよくわかる。
問題は、お互いに何も訊《たず》ねあわなかったこと。相手を問いつめなかったこと。ひそかに疑惑をつのらせてしまったことだ。バーテンと楽しげにやっているところしか見ていない夫は、その時、妻の胸が本当は夫のことでいっぱいだなんてことには気がつかない。どうしてそんなことを知り得ようか?
「彼は恋人じゃなかったの?」と夫が訊く。
「いいえ。その方がよかった?」
「そう」
「でもバーテンてね、決して女のお客とは事を起さないものよ。カウンターの後ろにいるだけ。話しかけられるために」
「ぼくは悪いことをしたような気がした。見るべきでないものを見たような気がした。きみがぼくを裏切ったのよりひどい気分だった。ぼくを裏切っていたんだよ。それはベッドでの裏切りより以上のもの……背信だった。この言葉の意味がわかる? 背信」
それはバーでなくとも同じことだと思う。たとえ夫が、映画館へ一人で入っていく妻を見かけたとしても、夫は同じように感じるだろう。たった一人で着飾って暗闇の中で映画の画面を見上げている妻を、もしも目撃していたら、同じように彼はそれを背信と思うだろう。
公園のブランコで、いつまでも揺れている妻の背中を目撃しても、彼はそれを背信と感じるだろう。
目的もなく、やってきたバスに妻が乗り、どこの駅でも下りずに、ただバスに乗って、終点から再びぼんやりと折りかえしてくるのを見たら、夫はそれを背信と感じるだろう。
つまり、二人の人生の中で、相手が茫然《ぼうぜん》自失している様を見るのは、辛いことである。愛しあっていると信じてはいても、ある時相手の背中や横顔が自分の知らない別の様相を呈していたら、それはショックである。もしある時、この人を自分は知らないと感じることがあったら、それはやっぱり怖《おそろ》しいことである。
わかっていると思っていた相手のことが何ひとつわかっていなかった、ということは、まるで相手に裏切られたような気がするものである。
お互いに、その都度話しあっていれば、もしかしたら良かったかもしれないが、夫婦なんて、一日に一回、お互いを確かめあったり出来るものではない。
「ねぇ、聞いてちょうだい。バーのことなんて、私たち二人の愛の中では横道のお話なの、意味なんてなかったのよ」と妻は呟《つぶや》く。横道の話だということが、今なら二人ともわかる。すでにとりかえしようもない今なら。
そうやって夫婦はお互いをすりへらしていってしまう。お互いと、お互いの中の愛を。
相手を憎み、殺してやりたいと思い、やがて、殺そうなどという情熱もなくなり、憎しみもなくなり、無表情になっていく。お互いに対して完全に無関心になる。そして愛が終る。
そういう夫婦を、私はたくさん知っている。
(会話のある部分は大間知靖子訳の『奏鳴曲』からの引用です)
約束と嘘と
女というものは、好きな男の言葉は全て約束と受けとる。ところが悲しいかな、恋愛中の男というものは、苦しまぎれに嘘《うそ》ばかりついている。
嘘と言っても、良く思われたい嘘、相手のためを思えばこその嘘、傷つけないがための嘘なのだが、恋に夢中な女は、この男の真意がなかなかわからない。それが悲劇の始まりだ。
大事なデイトの約束をすっぽかされた娘は、かっときて翌日相手を責める。
「六時に誠志堂の雑誌売場で待ち合わせると約束したじゃないの」
「ごめんごめん。悪かった」と男は心から済まなそうに言う。
「七時半まで立ちんぼうで待ったのよ。本屋のおじさんには睨《にら》まれるし、足は棒になるし、どうして連絡もなしにすっぽかしたのよ」と若い女はいよいよ激しく相手に喰ってかかる。
「だから悪かったよ。連絡しようにも、本屋じゃ電話も取りついでもらえないしさ」
「本屋で待ち合わせようと言ったのは、そっちよ」
「だから謝るよ。ほんとうに悪かった。ごめんごめん」
「電話だって真剣に頼めば取りついでくれたかもしれないでしょう」と若い女はなかなか許さない。
「だって本屋の番号なんて知らないからさ」と男も少し気を悪くし始める。
「知らなけりゃ一〇四番で調べればいいじゃないのッ」
「それどころじゃなかったんだよ、残業でッ」
「残業なんて、言ってなかったじゃない」
「急にそうなったんだよ」
「急に残業になると、女は一時間も二時間も立ちんぼうで待たされっぱなしになるわけだ」と若い女はぶんむくれである。
「だから何度も謝ってるだろうが。男には、連絡もできないような突発の仕事が時にあるんだぞ」
「仕事だから、約束破っていいっていう法があるかしら? 嘘つきッ」
「嘘つき?」ついに相手も怒りだす。「嘘つきとは何だよ、嘘つきとは。訂正してもらいたいね。さもないと――」
「さもないと何よ? 約束守らないんだから嘘つきでどこが悪いのよ」
「ちょっと待てよ。約束守らないことと、嘘をつくこととは違うんだぜ。昨日約束した時点では、僕は約束を守るつもりだった。今日だって君との約束をなんとしてでも守ろうと努力したし、できるかぎりのことをしてみた。嘘つきというのはね、昨日君と約束を守れないことを承知でいる場合のことだよ。守るつもりもない約束をすることを嘘つきと言うんだ。わかるかい?」
「結局約束すっぽかしたじゃないの。同じことじゃないの。嘘つき。嘘つきッ。嘘つき!」と若い女性はついに金切り声で電話を切ってしまう。
似たような経験は誰にもあると思う。私も若い頃、同じようなことで男友だちや恋人や婚約者や夫と、ずいぶん傷つけあってきた。どうやら、男というものはのっぴきならない突発事故や、急な仕事や商談や、ぬきさしならない出来ごとが、かなりひんぱんに身の周りに起るらしい動物だ、ということが、たくさん反故《ほご》になった約束の経験からわかった。
しかし、恋人を何時間も本屋で立ちんぼうにさせたり、旅先の京都で丸々二日も待ちぼうけさせたり、心をこめて作った結婚第二年目の記念日のディナーをすっぽかしたり、結婚の約束まで反故にするに足りるだけの、そんな重大な理由など、男には本当にあるのだろうか?
男は、さもあるというような顔をする。私も若い時代には、さもありなんと、なんとなく洗脳されかかったりした。
けれども、私自身も世の中に出て、男と伍して仕事を何年もしてきたし、結婚した後もずっとまがりなりにも社会と関《かかわ》ってきたし、更に小説を書き始めてからの十年の経験から、はっきりとわかることは、本気で約束を守ろうと思えば守れるということである。
少なくとも、本屋で立ちんぼうで待ち続けているデイトの相手に、なんとしてでも連絡くらい取ろうとするだろう。そんなことは本気でその気になれば、わずか二、三分の手間である。よほど突発的な交通事故にでもあわないかぎり、二、三分の手間がさけないことはない。
たとえ渋滞の高速道路に巻きこまれても、聞いた話だが、後《あと》から来る囚人用の護送車に取りつけてある無線電話を、おがみたおして、連絡に使ったという人のケースだってある。もちろん再三規則は曲げられない、と断られたそうだ。その人の場合は、手形が落ちる三時前に銀行に現金を入れないと会社が危いというケースで、男と女の約束とは約束の種類は違うが、見習いたいのはその真剣さである。とにかく銀行に電話して事情を説明しなければならないと、護送車のケイサツの運転手にかけあったがラチがあかない。あきらめきれずに、件《くだん》の男性は、渋滞で止まっている車の運転手に一人一人あたった。するといつのまにか数十人の運転手が護送車につめかけ、「電話をかけてやって下さいよ」と全員で頼んだり説得したり。
多勢に無勢。やむをえずケイサツが折れて、無線電話を私用に使ったのであった
要は情熱である。
私自身はめったなことで約束をすっぽかすことはない。恋人はもちろん、相手がただの友だちであろうと、仕事の相手であろうと、自分との私的なつながりが薄い人であればあるだけ、約束は守るように努力している。
だがそうは言ってもごくごくたまに約束を違えることは皆無ではない。ある編集者と夕食をしようという約束が出来ていたとする。ところが当日のしかも夕方近くになって、好きな男から急に電話がかかってきたりする。「今夜あいてる?」と相手が訊く。「今夜しかだめなの?」と私が恐る恐る訊き返す。「今夜逢えないと、次は来月の二十日過ぎまで躰《からだ》があかないんだ」と好きな男が答える。「じゃ今夜逢うわ」と私は言ってしまう。
さあそれからが大変だ。先に約束した編集者をつかまえなければならない。会社に電話をする。すると出先からそのまま帰ると言う。出先を訊く。そこへ電話を入れると出た後だ。あとは仕方がない。待ち合わせた場所へ彼が現れる頃電話を入れる。これは実に後ろめたくも嫌な気持だ。
「ごめんなさい。今、京都なの。仕事が長びいて戻れそうにもないのよ。会社に電話を入れたんだけど――。すみません。ごめんなさい、ごめんなさい」と嘘電話。冷や汗脂汗びっしょりかいて電話に平身低頭。
連絡もせずすっぽかすなんて、もっての外だ。もしもそれが自分の好きな男や、恋人だったら尚のことだ。
すっぽかすのは、私が思うに、もっといいことがあるからだ。私の経験から言ってもそうだ。待たしている女よりも、新しく知りあった女の方がはるかにスリリングな魅力に富んでいたら、どうだろう。そういう女から誘いがかかれば、男は一も二もなく古い女をすっぽかす。が、電話ですみません、ごめんなさいと冷や汗脂汗をかくだけの度胸が男にはない。それに楽しい夜の期待があるのに古い方の恋人と一戦交わすのも、わずらわしい。すっぽかしてしまえ、ということになる。
一度ならず二度、三度と男が約束を反故にするようなら、その男とは脈がないと思った方がいい。男はやっぱり嘘つきなのだ、と思う。
視線
プールサイドで日光浴をしていた時のことだ。
私はウォークマンで、R・シュトラウスの『ドン・キホーテ』を聴いていた。顔の真上には夏の太陽があって私をジリジリ焼いており、ヨーヨー・マのチェロの音はまるで男の声のようであり、束の間、生きているって幸せなんだ、と感じる短い刻《とき》の流れがあった。
夫は傍でジャパンタイムズのクロスワード・パズルに興じていた。娘たちはプールの中で百円玉の拾いっこで大騒ぎ。平和な休暇の一日だった。
雲ひとつない深い蒼空《あおぞら》。どこからともなく吹いてくる熱い風。プールのエメラルド・グリーン。そしてR・シュトラウスの交響詩。肌のこげる快い感触。
ふと影が射したような気配がして、次に若い女の声が、
「そこの寝椅子、ひとつお借りできます?」と、夫に、なかなかの英語で訊《き》くのが耳に入った。
「ええ、もちろん、いいですよ」とそれに答える夫の声。
誰かがプールサイドの椅子を借りにきたり、こちらが誰かのところへ行って、借りてきたりはよくやることだ。だから別段顔を上げて、誰が借りにきたのかまで確かめることはまずないわけだ。
ところがその日にかぎり、仰向けに寝ころんでいた私は、チラと眼を開いて、女を眺めたのだった。
そうしたのは、多分、夫の「ええ、もちろんいいですよ」という言い方の、もちろんの、なんともいえない柔らかなニュアンスであった。
なにさ、色気なんてだしちゃって、と私は咄嗟《とつさ》にその柔らかいニュアンスを悪意に取って、胸の中で呟《つぶや》いた。それというのも、その若い女がすごいグラマーで、超ビキニの水着をつけていたからだった。
ふん、とばかり私は再び眼を閉じた。普段なら、椅子を借りにくると夫の反応はかなり冷たいのである。虫の居所が悪いと、「それ子供が使うから」と貸さなかったりする。まあ大抵の場合は、渋々といった調子で、
「ああ、オーケイ」と答える。「もちろん、いいですよ」なんて言い方は二十一年も一緒に暮らしていて初めてのことだった。
眼を閉じていても、その若いグラマー美人が椅子を手に歩み去る姿が見えるようだった。更に、その姿を眺めて鼻の下を長くしている夫の顔も見えるようだった。
ふん、なにさ、と私はR・シュトラウスのボリュームを上げた。私だってこのあいだホンコンでみつけたイタリア製の真白い超ビキニを着用して、彼の鼻のすぐ下に横たわっているのである。なのに夫ときたら水着も私も誉めるどころか、水着が小さすぎる、とか、くりが深すぎるとかブツブツ言う始末。もちろんまじまじとも眺めもしないし、ましてや鼻の下を長くするわけでもない。
時と場合によっては、この私だってまだまだもてるんだからね、と胸の中で負け惜しみを呟いて、それから急になんだかおかしくなってしまった。
十年も前には、夫が他の女に鼻の下を長くしたとたん、喰ってかかったものだった。私はやたら嫉妬深くて闘争的な女だった。パーティーなどで夫が他の女と話しているのはいいが、いかにも楽しげに笑いあったりすると、とたんにかっと頭に血が昇ってしまう。
そうなると自分で自分のコントロールがきかなくなり、私はさっさとそのパーティー会場から一人で帰ってしまうのである。まさか夫が他の女といかにも楽しげに笑い興じていたからといって、夫やその女に喰ってかかるわけにもいかないから、その場から自分が消えてしまうわけだ。そうやってずいぶんたくさんのパーティーや集まりの席を憤然と立ち去ったものだった。
それが、最近では、胸の中で、ふん、なにさと呟く程度まで闘争心がなくなった。嫉妬はあいかわらず感じるのだが、それを口に表すのは、さすがに大人げないと自覚するようになったせいでもあるが、本当は、闘争的エネルギーがなくなったせいである。
そしてあと十年もするとどうなるのだろうか、と考えてみた。その昔イギリスのパンチというマガジンで見た四コママンガをそこで思いだした。
夏の海岸で日光浴をしている老夫婦の図だ。二人ともしなびた肉体をつつましげにさらし、太陽の下で寄り添っている。その前をすごいようなグラマー美人が通りかかる。
すると、老妻が横で居寝りをしている老夫をそっと揺り起す。
「ほら、あなた、見て。すごいグラマーが通るわ」
老人は眼を覚まし、いかにもうれしそうに言う。
「ありがとうよ」
この四コママンガを見て、私も夫も大笑いしたものである。
そう、あと十年もすると私もあのマンガの老妻の心境に達して、傍の夫に、グラマー美人が通りかかるのを教えてあげるようになるのかもしれない。
そんなことをあれこれ考えているうちに、R・シュトラウスの『ドン・キホーテ』のカセットがパチンと音を立てて止まった。側で夫がジャパンタイムズを畳んだ。娘たちがお腹が空いたとわめいている。
「そろそろ引き上げるかい?」と夫が訊《き》いた。
「そうね」と私も立ち上がった。
私は左の方へ歩きだした。夫はちょっとだけちゅうちょして、
「そっちは人が多勢いて歩きにくいな」と独り言のように呟いて、右の方へ歩きだした。
「人がいたってこっちの方が出口にずっと近いわ」と私はかまわず左へ行った。
ちゃんと夫の腹のうちは見えているのだ。あのグラマー美人のそばを、通りすぎようという魂胆。
案の定、チラと盗み見ると、通りすがり際、夫がニッコリと女に笑いかけ、サヨナラと言うようにうなずいた。そしてその若いグラマー美人も、満更でもないふうに夫を見上げ、長い髪など指先で掻きあげ、ニッコリと笑い返した。
なんなのだ、あの二人は。なんなのだ、あの日本娘のあの誘惑的というか媚《こ》びた微笑は。だから外人の男が日本ではつけ上がるのだ。それにしても夫の鼻の下はまたしても一インチばかりのびているではないか。
「何をツンツンしているんだい」と夫は車を運転しながら、気にして訊いた。
「別に」と私はそっぽを向いて答えなかった。
もっとも今の夫の年で、グラマー美人に眼を全く奪われないようでは、お墓に片足突っこんだみたいなものだからして、それもまた不自然だ。私はなんとも複雑な心境。なにさ、ふんッ。
ミセス・コワルスキー事件
この夏休みの間、我が家にはミセス・コワルスキー旋風が吹き荒れた。
あのネ、これは秘密の話ヨ、と、まず私の友だちがそのニュースを私の耳に吹きこんだ。
「知ってるでしょ、ミセス・コワルスキー」
もちろん。ご亭主がアメリカ人で、四人のティーンエイジャーの子持ちながら、びっくりするほど若々しくてきれいなスミコさん。それがミセス・コワルスキーなのである。
「スミコさんがどうしたの?」
「駆け落ちしたんだって」
「へえ……」私はほんとうにびっくりしたので束の間絶句した。「誰と?」
「それが二十歳も若い男と」
「あれまあ」とまたしても絶句。
「ほら覚えてる、いつだか一緒にテニスしたことあるテツヤ君」
「テツヤ君? あッ、あのヒョロ長い男の子ッ?」三度絶句の私。「だって、あの子スミコさんの息子といってもいい年じゃないの」
「だから大変なのよ」と私の友だちは眉をひそめた。
「だってそんなの信じられないわ」と私はストーリーをようやく呑みこむと、友だちにむかって言った。「スミコさん、そんなことするような人に絶対見えないもの。それにミスター・コワルスキーだって、ほんとうに素敵でやさしい人じゃないの。四人の子供たちだって天使みたいにいい子だし」
スミコさんが駆け落ちするなんて、ありえないことなのだ。スミコさんが駆け落ちしたなんていったって誰も信じないだろう。自慢じゃないけど、私の方がよっぽど駆け落ち向きの人間だ。だって現に私は不倫の話ばっかり書いている不真面目な女だし、うちの亭主はガミガミのコチコチで、頭だって薄くなってちっとも素敵じゃないし、よその男と逢うのはもちろんのこと、男の編集者にだって積極的に嫉妬《しつと》するし、女の編集者の場合にも、ほんとうに女なのかと疑り深い口調になるし、仕事をしすぎると怒るし、取材旅行は認めてくれないし、もうほとほと嫌気がさしているのだ。その上私の三人の娘たちときたらコワルスキー家の天使たちとは天と地ほども違う地獄の回し者で、一日おきに小遣い銭を私からしぼりとるし、家の手伝いはいっさいしないし、学力は落第寸前だし、男好きだし、誰に似たのかほんとうにわからないような子たちで、実際私から生れた子供だとは信じられない無法者ども。駆け落ちがダメなら家出したいような家族なのである。
そんな私がちゃんと家にいて、亭主や子供の横暴にひたすら耐えているのに、あの幸福を絵に描いたような貞淑なスミコ・コワルスキーが駆け落ち? 変じゃないか、おかしいじゃないか、なにかまちがっているじゃないかと、駆け落ちしたくとも相手もいない私は、しばし憮然《ぶぜん》としたのでありました。
さて、このニュース、友だちには秘密ヨと念を押されたのにもかかわらず、その夜のうちに我が家の夕食のトピックスとなったのであった。(時々私は自分が信じられないことがある)
「だってそんなの信じられないヨ」というのがうちの娘たちの反応。私と同じであったのは、やっぱり親子なのネ。亭主の反応は陰険というか読みが深いというか早トチリというか、「ミセス・コワルスキーは一人でたくさんだよ」とグサリと釘をさされた。
身から出たサビとはいえ、おかげでうっかり若い男の子と一緒に町を歩けなくなった。若い編集者が打ち合わせに来ても、家族の眼が冷たい。
ところが、私の担当の編集者はたいてい三十代だし、中には二十代の若者もいる。たまたま今一緒にテレビのサスペンスの共同制作をしているアメリカ人の男性は当年とって三十歳の、ウォーレン・ビーティーとリチャード・ギアとミッキー・ロークを足して三で割ったようないい男。
この男性がこの夏の間、我が家族の憎しみと嫉妬と疑惑を一身に背負いこんで、ありもしない濡れぎぬをかぶせられたのであった。
お仕事で「行ってきます」と言う私の背に、行ってらっしゃいのかわりに投げつけられるのは、
「ママッ、ミセス・コワルスキーしないでヨッ」という娘らの脅迫じみた声。
少しでも帰りが遅いと、「ママッ、まさかミセス・コワルスキーしてきたんじゃないでしょうネッ」と、ギロリと睨《にら》みつけられる。
「ママはママです。コワルスキーじゃないッ」と私は必死で抵抗する。
夫も夫だ。何かというとこう言うのだ。
「キミネ、まさかミセス・コワルスキー化を考えてんじゃないだろうネ」
しかし考えたくもなるじゃないか、ミセス・コワルスキー化を。相手は妙齢で美貌のなにせウォーレン・ビーティーの若かりし頃を偲《しの》ばせる容貌。その上頭がきれて、やさしくて、力もちときている。することなすことをけなしまくる亭主と違って、私の全てを尊敬と敬意の眼差しで見守ってくれるのだ。
問題は、である。彼の方に駆け落ちの意志が全くないこと。
いくら私がそうしたくたって、彼がそうしたくないのだから話にもなんにもならないではないか。別にそのことを訊ねたわけではないから、一〇〇パーセント確かとは言えないが、私の勘では九九パーセントは確かだ。
たったの一パーセントの可能性に夢をかけて、私は私の地獄の回し者である娘たちと、横暴なる夫に、ひたすら耐えているのが現状なのである。
さて、本物のスミコ・コワルスキーはどうなったのか。結論を言うと、彼女は六カ月間、その若い長身のテツヤ君と暮らして、別れたそうである。
別れた直接の理由はわからないが、別れた後、テツヤ君は若い女の人と結婚をし、スミコさんはコワルスキー氏と離婚をしたのであった。
許されてコワルスキー氏と四人の子供たちの許へ戻れば、メデタシ・メデタシなのに、現実はそんなに甘くはなかったらしい。
もっともスミコさんがもとの生活に戻りたかったのかどうか、本当のところの気持は、訊《き》いてみなければわからない。
だけどこの事件の教訓は明瞭であった。スミコさんには失うものが多すぎたのに比べ、若いテツヤ君には、失うものは何もなかった。それどころか、若い娘さんまで手に入れたのだ。
駆け落ちなんて、年上の女には絶対に割りに合わないことなのだ。
元・コワルスキー夫人には、そんなことはわかっていたのかもしれない。きっとわかっていたはずだ。にもかかわらず、六カ月だけの駆け落ちに全てを賭けてふみ切ったのはなぜだろうか?
全てを失ってもいいと思ったからではないだろうか? もしかしたら、あの優しそうな素敵なご亭主や天使のような子供たちに、ほとほと愛想がつきていたのかもしれない。ご亭主は、優しいのではなく女々しかったのかもしれず、天使のような子供たちは、猫をかぶっていたのかもしれないではないか。もちろんそんなことは外からあれこれ詮索しても、詮ないことである。
言葉の魔術
たまらなく心|魅《ひ》かれる人というのが、時々いる。逢って別れた後、心が温かくなり、それからなんだかとても淋しくなってしまうのだ。
心淋しく感じるのは、その人と別れてしまい、次に何時《いつ》逢うのか約束もしていないし、おそらくよほどのことでもないかぎり二度と逢えないと思うからである。
そういう人というのは、大体聞き上手だ。こちらの眼をみつめ、それは熱心に話を聞いてくれる。
こちらに並々ならぬ興味を抱いているという感じで、当を得た質問をさしはさみ、話しているこちらの方は次第にいい気分になってくる。
その人と話していると、なんだか私は才能があるような、やればなんでもやれるような、そんな気がしてくる。おまけに私はチャーミングで美人かもしれないなどと思いだす。世の中の役には少しはたち、注目されていると信じるようになる。
その人と話をしていると、自分の声が生々として、すごく話し上手に感じられる。
一時間ほど話をして、ほんとうに素敵な会話だった、ありがとうと別れ、それからはっとするのだ。相手は一体何を喋《しやべ》ったのだったっけ? 素敵な会話だったと思ったけど、喋ったのはもっぱら私だけだったではないか。
相手のことが、ほとんどわかっていないことに気づくのは、たいてい後の祭りなのである。心淋しさに襲われるのはそんな時だ。一方的に自分だけが吐きだしたことに対する恥ずかしさと、後ろめたさもある。
相手のことを知りたいという思いもある。聞き上手というのは、一体どんなふうに喋るのか是非とも知りたい。
でも、私のそれほど多くはない経験からいうと、聞き上手の人が必ずしも話し上手ではないということ。残念ながらめったに両方の才能をそなえている人には出逢えない。
私は一体どちらなんだろうと考えてみるに、話し上手ではむろんないが、聞く方はもっと下手である。
せっかちな性分なものだから、相手が充分に喋り終らないうちに、言わんとすることがなんとなくわかり、しばしばこちらから結論めいたことを言ってしまったりする。
「――要するに、こうなんですね?」とやるのがそうである。これは一を聞いて十を知るというのではなく、早トチリ。相手に対して大変に失礼なことなので、充分に気をつけているつもりなのだが、時々失敗をする。
相手の話を辛抱強く最後まで聞かない、というのは、一番の聞き下手である。
しかし世の中には話し上手ばかりがいるわけではないので、対談などする時に、話し下手と聞き下手が顔合わせしてしまうことがある。すると私の会話には、「つまりこうなんですね?」とか「要するにこうですね?」とかがヒンパンに入ってくる。こうなると対談の内容はすごくつまらなくなる。
家庭を守る主婦は、聞き上手であることが望ましい。夫の話をよおく聞いてやったり、子供たちの話を熱心に聞いてやることが、家庭の平和の第一歩だと思うのだ。
たとえ夫の話が会社の仕事の愚痴であろうとも、「あなたはたいしたものだわ」、「よくがんばるわ」、と感心したようにあいづちを打ってやることが大事。人間というものは、いくつになっても人から誉《ほ》められたい動物なのだ。たとえお世辞とわかっても誉められたら悪い気はしないではないか。
誉めて誉めて誉めまくることで夫がすごく出世してしまったり、きみはきれいだよ、かわいいよ、チャーミングだよ、と毎日のように言われているうちに、ほんとうに見違えるほど美人になってしまった女の人を、実際に知っている。
頭ごなしに、「だめねえ、だから出世しないのよ」とやれば、夫は本当に出世しなくなるし、「バカな子ねぇ、誰に似たんだろう」なんて言っていると、その子供は母親そっくりの本物のバカになってしまう。
「きみはブスだな」とくりかえし言われていると、ほんとうにブスになってしまうものなのだ。
人間というのは、自分に自信のない動物なので、たえず人に認められたい、よく思われたいと願っている。聞き上手の人というのは、そのあたりの心理をよく心得ていて、ぴたりとツボをおさえるように、人の心をとらえてしまうのだろう。
聞き上手の人に逢うと、ああ私もあんなふうになりたいと思うのだ。話し上手より聞き上手の人の方が、ある意味ではるかに素敵に見えたりする。
ある時――もう十年以上も昔のことだが、ある新聞記者の人にインタビューを受けていた時のことだった。彼はとても少ない言葉で静かに私に質問をしていた。
いくつかの質問のあいまに、ふとこう言った。
「ところで、あなたは美しい方ですね」
私は聞き違いかと思って、彼の顔を見たが、新聞記者はすでに次の質問に入っていた。
しかし「あなたは美しい」という言葉は、まるで棘《とげ》のように私に突き刺さった。これまでに誰一人として私を美しいなどと形容した者はいないし、事実私は美とは無縁の女である。
彼はなぜあんなことを言ったのだろう、と記者が帰った後何日も、何カ月間も、その言葉がたえず私の脳裏に引っかかっていた。
そして実に度々、無意識に、あるいは意識的に鏡を見るようになったのである。その都度、なにさ嘘ついて、美しくなんてないじゃないの、と私は胸の中で呟《つぶや》き、またしばらくすると自分が美しくないことを確かめるために鏡を覗《のぞ》くのだった。
何年かがたった。ある時私は鏡の中の自分の姿を眺めてふとあることに気づいた。私は少し変ってきていたのである。あいかわらず決して美しい女ではないが、確かに何かが変ってきていた。少なくとも表情にはりがでていた。それまで一度も誉められたことがないような言葉で、人々は私を誉めだした。「お洋服のセンスがいいね」とか「生々《いきいき》しているね」とか「きぜんとしてますよ」とか、ごくたまに「チャーミング」などと言われて、びっくりしてしまう。
話し半分に聞いたとして、それというのも、全て十何年前のあの新聞記者の言葉が原因なのである。言葉というものは、ほんとうに人を殺してしまうことも出来るし逆に生かすことも出来る不思議な力をもつものだ。
角川文庫『スクランブル』平成7年7月25日初版発行