森 瑤子
ジンは心を酔わせるの
目 次
私は……
ターブル・ムジークについて
心を柔らかく
パティオで朝食を
美しき悲哀
過去からの声
ヴァカンス村
脆弱な都市
ファナティックなセーター
味泥棒
ジンは心を酔わせるの
風を入れる
離婚狂詩曲
海草サラダにお水を添えて
肥満との闘い
女盛りの時間割
原稿用紙症候群
私の読書法
ご存知ないのは男たち
お家で寝てよ
友情の奥にあるもの
近ごろコワイ話
ある体験
愛はいまどこにあるのか
暮らしの中の香り
理想の家
都会の夏
期待外れの夏
独断的同年代論
あなたは……
池田満寿夫のこと
フランソワーズ・サガンのこと
私自身の父のこと
セラピストのこと
宝石とバスルーム
セクシーさの定義
愛の予感とアプローチ
男と女・性の暗闇
就職の中でも一番厳しい就職が結婚である
色に出にけり我が恋は
痩せる実験
女が集まることの意味と無意味
彼は私に対して興奮するのだ
不倫と覚悟
家族は……
私の新婚時代
母との和解
母親って何?
イギリスの母
真昼の孤独
夜の歌
クリスマスのお客さま
女の自由・男の魅力
情事が生む緊張感
喧嘩のボキャブラリー
チャップイ的シェイクスピア論
結婚の条件
好きこそものの上手なれ
勉強ぎらい
娘の恋
娘と二人旅
娘たちのアルバイト
娘の大学
家族の風景
国際電話
娘の留学
手紙魔
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私は……
ターブル・ムジークについて
ディナーに招待されて「|食事中の音楽《ターブル・ムジーク》は、何がお好み?」と訊《たず》ねられることがある。
そういう時私は、
「クラシック音楽以外なら何でも」と答える。ほんとうはメニューインの真似をして、食事中音楽などいっさい聴きたくない、と言えればいいのだが、そうもいかないから。
モーツァルトとかヴィヴァルディーあたりを用意していたらしい相手は、
「クラシックはお嫌い?」と困惑する。
「いえ、その反対。ついつい聞き耳をたててしまって、せっかくの食事が上の空になってしまいますから」
私には、六歳から十七年間、ヴァイオリンの専門家になるべく音楽一筋の生き方をした期間があった。
これが災いして、気軽にクラシック音楽が楽しめない。特に弦楽器の演奏だと耳をそばだて他のことが上の空になってしまう。
どういう聞き方をするのかといえば、習慣とは悲しいもので楽譜が眼の前にちらつく。どうしても演奏するほうの側に立ってしまう。ヴァイオリンをすっぱりとやめて、かれこれ二十年になるというのにである。
では、どんな音楽ならお食事が美味《おい》しく頂けるか。きむずかしいメニューインもゆいいつ例外を認めた。彼はジプシー・ヴァイオリンなら、と許した。
私は唄がいい。カンツォーネ、アメリカのカントリーソング。ケニー・ロジャースが好きだ。
目下最高にこっているのは、ホーギー・カーマイケルの曲。一九二〇年から四〇年くらいにかけてアメリカで流行《はや》ったスタンダード・ナンバー。マレーネ・デートリッヒの若かりし頃。スモーキーでハスキーな声。けだるく退廃のムード。大昔の録音を再生したものだから、たえず波か雨のような雑音が入る。それはそれでまたいい。食事がゆっくりとしたテンポで進み、非常に贅沢《ぜいたく》な感じになるから不思議。
どんなお料理が食卓に並ぶかという楽しみもさることながら、どんな音楽をごちそうして下さるか、という興味もあるわけだから、そして音楽によって味が倍増したり半減したりするくらい、ある意味で食事中に流れる音楽は大切だ。
時には、いっそのこと音楽などないほうがはるかにましだ、と思うことだってある。まさか、その音とめてもらえませんか、と頼むわけにもいかず、ひたすら我慢で黙々と食事をするが――。
一流中の一流のレストランでは、さすがにこのあたりの機微がわかっていて、へたに音楽を流さないからいいが、それでもバロック音楽を小さく流しているところもないではない。
するとすぐ、出ましょうよ、と私は回れ右をする。バロックが嫌いなのではなく、好きだからだ。お料理に香水が邪魔なように、音楽も時と場合と種類によっては邪魔になるということ。私の場合、多少神経質にすぎるのかもしれないが。だから冒頭のケースのように、主客となる人に、ターブル・ムジークは? とリクエストをきいたほうが親切といえる。
食事中に限らず、日常の中で流れる曲なり音楽なりが、もし夫婦で、親子で、趣味があわなかったら、これはまさに地獄だ。音の地獄。
幸い私たち夫婦は年齢が同じということもあってか、日本と英国という国籍の違いがあるにもかかわらず、音楽の好み、映画、読書の傾向、人間の好みなどが、驚くほど酷似しており、そのおかげで今日まで何とか一緒に暮らせてこれたわけである。
私たちは、あまり大きな声では言えないが、カントリー・ウエスタンが好きで、カーボーイソングさえかかっていればごきげんなのだ。これは全く偶然の一致で、ありがたい一致だった。なぜカントリーか、と聞かれてもちょっと困る。「女に惚れた、裏切られた、ロンリーだ、喧嘩した、ギャンブルをやった、殺した――」そういう歌の内容であるから、なぜ、と聞かれてもほんとうに答えに窮する。自分とあまりにもかけ離れた世界だから、気楽なのだ、と言ったらいいか。その単純さ、喧嘩っ早さ、強い男、裏切る女にある種のノスタルジーを感じる。
ただし原稿を書いている最中は絶対にだめ。いかなる音楽といえども受け入れられない。音そのもの、話し声、囁《ささや》き、すべて気になる。
さて、食卓で食事をいちばん美味しくしてくれるのは、実は音楽ではない。会話である。会話が弾み、笑い声が上がれば音楽など当然耳に届かないはずだ。したがって、音楽が食事の間ずっと耳に入ってくるというようなディナーは、その人選において失敗なのだ。自分が気むずかしいから、お客を招んだ時ハタと困るのが選曲。あれこれと直前まで迷って、今日は会話でいきましょうと音を抜くと、食事の途中で夫が立って行き勝手にかけるのは、なんとカントリー・ミュージック。たいていの人が、ロマネ・サンヴィヴァンのワインを、うっと喉《のど》につまらせる。
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心を柔らかく
インターナショナル・スクールに通っている娘たちの新学期は、日本の場合と異なり九月である。
六月から九月まで、まるまる三か月、宿題まるきりなしの長い夏休みを、軽井沢でテニスとサイクリングで遊びほうけたあげく、一年進級する。
もっとも彼女たちの母親である私は、三度の食事と山のような洗濯物と、犬と二匹のハムスターと手のり文鳥のピーチクとパーチクの世話を一手に引き受けて、そのあいまを縫ってテニスをやり、更にそのあいまに原稿用紙を広げるという日常。
軽井沢へ引っこみます、と言うと、なぜかみなさんはよほど時間があると誤解して、原稿の依頼も倍増、今年は何故か特に多く、もしかしたら世界中の作家が私一人に仕事をおっかぶせて、休暇をとっているのではないかと、少々大げさにひがんでいた。
そして九月。ようやく私も人間並みの生活に立ち戻れるというわけである。
毎年九月になると、急にしんとしてしまった東京の家の中で、奇妙な手もちぶさたと、後悔に襲われる。
手もちぶさたというのは、いっぺんに家事重労働から解放されてしまったため。周囲に洗濯機の回り続ける音や、年柄年中お腹を空《す》かせて喚きたてる娘たちの声や、その子たちの好きな、何やらわけのわからないカセットテープの音楽やらが、急になくなってしまったことにもよる。うるさいの、仕事に集中できないのと、さんざん悪態をついてはみたものの、結局はそれにならされて、そうした騒動が急になくなってしまうと、かえって落着かないというか仕事がはかどらない。そんな状態が約一週間ほど続く。
そして後悔。私はこの三か月、私にうるさくまとわりついてくる小さな娘たちを、ことあるごとに仕事にかこつけて周囲から追い払う以外に、何をしてやったのか、ということ。マスターマインドをやりましょうよ、と言われるのを十回に九回はダメ、忙しいと言ってきた。自分のやれる時以外は、テニスの相手すべてダメ。トランプで遊んだ回数は、二度か三度。サイクリングは四度、寝る前に童話を読んでやりましょうといういきごみも初めのうちだけで、次第に尻切れトンボ。ああダメな母親だと自己嫌悪に陥ること数えきれず。娘たちが成長した暁に、覚えていることと言えば、原稿用紙に向かって呻吟する母親の背中、だけなんていうことになりかねない。
今、|子供たちを楽しまなかったら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》一生後悔するよ、と夫は時々私に忠告する。子犬のようにじゃれあってやれるのも、膝《ひざ》に抱き上げてやれるのも、もうあと一、二年の間だけだよ、と。
その通りだと思う。放っておいても、確かに子供は育つ。しかしそれで良いのだろうか。
私は無器用で、きり換えが上手《うま》くない。今の今まで原稿用紙のマス目を相手にしていた人間が、くるりと向き直ると、ただちにお母さんの顔、というわけにはとうていいかない。眼が釣り上がり、口元がへの字に曲ったような顔で、フライパンの中身をかきまぜ、子供たちの宿題をチラチラと眺める。
夕食をすませ、お風呂に入れて、ようやく顔つきのこわばりが取れた頃には、彼女たちはベッドの中へ。こんなすれ違いが果てしなく続く。
夫は私に、まず娘たちの母親であってくれ、次にボクの妻であってくれ、そして最後にモリ・ヨーコであって欲しいと、ことあるごとに言う。そして、私はことあるごとに、夫のその悲痛な叫びを裏切ってきた。
締切りがさしせまり、にっちもさっちもいかなくなると、編集者は私を家族から|ラチ《ヽヽ》して、ホテルへカンキンしてしまう。それこそ誰《だれ》にも有無を言わせぬ強引さ。
そんな時、私という人間は、私でさえもなくなって、奇怪な一人歩きを初める。ときどき、モリ・ヨーコという女が私とは別に存在し、一人歩きをするような無気味さに襲われる。
子供たちと一緒に遊ぶということは、なんとむずかしいことだろうか。それこそ服を泥だらけにし、顔や手を絵の具で汚して、一日中彼女たちと行動をともにできたら――。時間の問題ではなく心の問題。心の柔らかさ、心の童心のこと。それが失われているのを知るのは哀《かな》しい。
三時半。そろそろ下の娘が学校から帰ってくる時間である。今すぐにペンをおけば、ただいまと言って玄関に飛びこんでくるまでに、とんがっていた眼も少しは柔らかくなっているのに違いない。あと数行、あと少しとやっている間に、時間はあっという速度で駆け進み、背後で娘の「お腹ペコペコ」の声がする。
「ペコペコっていったって、あと少しだから」と私はまたしても手の仕種《しぐさ》で彼女を追い払う。性こりもなく。そして自責と反省にねじくれた思いで歯ぎしりしながら、ペンをおく。
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パティオで朝食を
気持よく晴れたウィーク・エンドの朝、ふと思いついて籘のテーブルと椅子《いす》をパティオに出して、そこで朝食をとった。
海に面した私たちの週末の家のパティオには、柔らかい潮風が吹いており、日射しを背や肩に重いほど浴びながら、カリカリに焼いたトーストをかじり、コーヒーを飲む。
我が家のウィーク・エンドには、新聞もTVもラジオもない。かわりに、風景を二分する水平線と、季節によって、日によってさまざまに変化する海がある。
おかげで、夫婦が朝っぱらから面とむかって、黙々と食事をとらずにすむ。それにしてもいつもの場所からわずか五メートルばかり移動しただけで、なんと違った朝食の光景となることだろう。頭上に空と太陽がある、ということだけで――。潮の香りのする微風が顔を掠《かす》めていくということで――。
スコットランド産のニシンの燻製《くんせい》をフライパンで温めたものに、小さめのトマトを同様に熱を通して添え、普段だと朝っぱらからニシンの燻製にはちょっと手を出せない私だが、その朝は、夫の好みの英国風朝食がとてもおいしいのだった。
話は少々脇道にそれるが、イギリス人というのは朝食にひどく執着する人種で、私の夫もその例にもれず、前日どんなに深酒をして、二日酔で青い顔をしていても、ジュースかフルーツに始まり、夏なら各種セリアル類、ベーコンに卵料理――これは日によってスクランブルド・エッグになったり、目玉焼きになったりするが――薄いトースト二枚、そしてコーヒーという全コースを、しっかりと食べる。ベーコンと卵の項目が、ウィーク・エンドには前出のニシンの燻製や、ポークビーンズに変るが、とにかく手間もかかるが、量も多い。私など大幅に割愛してトーストとコーヒーですませるが、パティオにテーブルを出すと、不思議に食欲が出る。
ゆっくりと時間をかけ、めったにないことなのにコーヒーのおかわりまでして、油壷やシーボニア・ハーバーからクルージングに出ていくヨットを眺める。すると何かとてつもなく贅沢な気持になる。食堂から場所を日射しの下に移したというだけで。
食べるというパターンひとつをとっても、そうやって日常性から出るというか、ワンテンポずらすというか――具体的には場所を変えてみるとか、昼食兼用のブランチにするとか、野の花を飾るとか、チェックのナプキンを使うというようなことで――豊かな気分になったり、心楽しくなったりできるわけだ。これも結婚生活に、いい風を入れることになる。もっともあるかなきかの微風ではあるが、ちょっと重くなってよどんだ空気の中へ、吹かないよりは微風でも吹いたほうがよろしい。
頭ではわかっているのだが、そして先週あんなに贅沢でいい気分を味わったのだから、今週も同様のことをやるかというと、それがそういうわけでもない。テーブルを移す、椅子を運ぶというわずかひと手間が、かったるいというか、しんどい。気持に遊び心、ゆとりがないのである。
外で食べれば美味しいし、気分がよいのは充分に承知で、そのまま何週間も同じいつもの食堂で、あまり食欲もなくコーヒーを飲んだりする。夕食だってそうだ。せっかく何時間もかけて作るのだから、もうひと工夫――たとえばキャンドルライトでムードを盛り上げる、といった時間になおせばせいぜい三十秒ほどの手間ひまを惜しむ。惜しむというか、やはり心のゆとり、遊びの精神が欠落している。
同じ人生なのだから、少しでも楽しく、少しでも美味しく、幸福感に包まれて過ごした方が、ずっと得なのにきまっている。
現にそうやって日常の至るところで生活をエンジョイしている人もたくさん知っている。多分、私はものぐさなのだ、きっとそうだ。
そう言えば、フランスから十年ぶりに帰国した妹が、カルチャー・ショックで呆然《ぼうぜん》としていたが、そのひとつが、日本人の食事時間の短さを挙げていた。ただ食べる、空腹を満たす目的のみで、がさがさと掻きこんで終える貧しい光景。
これでは第一、心をこめて作ったひとに対して失礼だし、食事を楽しんでさえもいないのではないか、と彼女は疑問を呈する。
同じ食事を、ゆっくりと会話を楽しみながら――そして出来ることならおしゃれ心も楽しみながら(つまりナプキンやテーブル・クロスやキャンドルなどの演出と共に、食卓を囲む人間も髪にクシを入れ、服装を整えるという意味も含め)すすめたら、人生は二倍も三倍も楽しいはずだと。
確かにその通りなのである。
で、私は再びパティオにテーブルを出す気になり、今度はそこでサンセットを眺めながら食前酒と軽いおつまみを楽しんだ。
そして思った。ごくたまにやるから、もしかしたら感激も幸福も深いのではないか、と。もし、毎日のようにパティオで朝食を食べたり、食前酒を飲んだら、それはやがて習慣となり、習慣は日常性の中に埋没してしまう。従ってもうそれほどには心も踊らず、幸福でも、贅沢な気持でもなくなってしまう。
だからこれでいいのだ、ものぐさでいいのだ、と沈みゆく夕日にキールを掲げながら、私はひそかに考えたものだ。
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美しき悲哀
香港のツアーに参加した時のことだ。飛行場に出迎えてくれた台湾人の女性ガイドが、開口一番、スリ、置き引き、強盗の恐ろしさを延々とのべ始めた。
雪のせいで、成田で六時間も飛行機の発着を待たされ、一日がかりで香港に着いたばかりである。早くホテルのベッドにもぐりこみたいの一心で聞いていた。
彼女はホテルに向かうバスの中でも、スリのことばかり喋《しやべ》っていた。パスポートまであずかると言い、事実、ツアーの参加者のパスポートをその場でとりあげた。それで香港というのはさぞかし物騒な場所なのだろうと、私たちはすっかり洗脳されてしまった。
であるから、単独行動をとろうと予定した私も、最初の日はバスのツアーに参加することにした。
まず連れて行かれたのは、免税店である。香港へは買い物に来たわけだから、連れていかれれば、香水だ、グッチのバッグだ、煙草だ酒だ、と眼の色を変えて買い漁《あさ》る。
ねえねえ見た? 東京で三百八十万円もするロレックスの男物の金時計が百三十万円位の値で出てるわよ。
安いには安いが、むろんロレックスはパス。一時間ほど、広い免税店の中を右往左往して札びらを切っていると(というほどでもないのだが)私の母が顔色を変えて近づいて来る。
みると布製のバッグの脇を、カミソリの刃のようなものでざっくりやられている。
「何か盗《と》られたの?」と息を呑《の》む私。みるみる周囲は黒山の人だかり。
運よく母のバッグには、ガイドに耳にタコが出来るくらい注意されていたので、金目のものは入っていなかった。パスポートもあずけてあった。お金はフロシキに包んでお腹のまわりに巻いてあるから、意味ありげにそのあたりを撫でまわして、ホッとしている。
ホーラ、ごらんなさい、とオールドミスのガイド嬢、まるで鬼の首でも取ったみたいに鼻の穴をふくらませた。「私が言ったとおりでしょ。パスポートも私にあずけておいてよかったのよ。パスポートを盗まれると、あとで十万円で売りつけられたりすることがあるんだから。いいわね、香港では単独行動はだめですよ。私にまかせて、私についてくれば、安全なんです」
その『私』に連れられて行った最初の安全な免税店でスリにやられたことには触れずに、結局、参加する気のなかったオプショナル・ツアーまで全部つきあわされることに、自然のなりゆきに。
そのオプショナル・ツアーで案内された夜のヴィクトリア・ピークの美しさといったらなかった。宝石箱をぶちまけたような、なんてチャチなものではない。何億というビルの窓という窓がすべてダイヤモンドであり、トパーズであり、サファイア、ルビーの輝きを放っていた。この百万ドルの夜景にしばし茫然と見入ったが、ふと気がつくと、なぜかいたたまれなく淋しいのだ。
美しいもの、感動的なものを一人で見る時に覚える、あの同じ淋しさである。
この夜景の美しさを共に感じあえる|ひと《ヽヽ》の不在を、この時ほど痛烈に感じたことはない。
むろん、母がいたし、七十歳になる父もいた。知りあいの小母さんもおり、私のコンパニオンとしてツアーに同行した女の友だちもいた。
それでも、不在感がつのった。夫ならいいのかと、自分に問うてみた。もし夫と来ていてヴィクトリア・ピークからの夜景を眺めていたら、この淋しさ、飢餓感のようなもの、無情感、哀しみ、などは消えるのだろうか。
多分、夫といても、それほど違わないのではないか、と私はひそかに眼を伏せた。
では誰なら? 恋人か――、仮りに恋人がいるとしての架空の話だが――。恋人がいれば、この索漠とした思いから解放されるのか。
恋に胸をときめかせながらこの夜景を眺めれば、灯のひとつひとつの輝きは確かに違うだろう。それは、めくるめくように、さんぜんと眼に映るだろう。
けれども一抹の淋しさは、拭《ぬぐ》えないのではないか。
つまり、女ざかりが去ろうとしている、とそういうことなのだ、原因は。
美しい夜景は、おそらく永久にそこにあって変りはしないだろうが、私は確実に年とっていく。事実、現在ですら、もはや若いとは言えない。
若さを失いつつあるという怖《おそ》れを抱いて眺める夜景が、眼に、胸に、魂にしみるのだ。
では、すでにすっかり老いている私の両親はどうなのだろう。私は、ヴィクトリア・ピークの頂上のレストランで、コーヒーを飲んでいる両親を観察した。
するとどうだろう。彼らは夕食に食べたアバディーンでの海鮮料理の品定めに余念がなく、しきりとコーヒーの中の砂糖をかきまわしているのだった。母が、チラ、という以上に、香港の夜景に眼を注いだかどうか、疑問だった。年をとるということは、そういうことなのだ。
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過去からの声
ある朝、どさりと配達された郵便物の中に、赤と青にふちどりされた手紙がまぎれこんでいた。なぜその朝にかぎり、私の胸が刺されでもしたかのように、その航空便を見た瞬間に痛んだのかわからない。封筒は薄くて差出人の名はなかった。
泡立つような思いが消えないまま、私は封を切った。手紙は、過去からの声だった。
それにしても、この一通の航空便に対して、なぜ、私の胸が波立ったのだろうか。海外から手紙がくることは別にめずらしいことでも何でもない。私の妹は十年フランスに住んで最近帰国し、私の家の二階に住んでいるから、妹にあてた航空便がまず一日おきに舞いこむのと、私の夫はイギリス人であるから、彼あての赤と青のストライプにふちどられた封筒もこれまたよく届く。最近では、娘たちあてに海外へ帰国していったインターナショナル・スクールの友だちからも頻繁にたよりがあって、ほんとうのことを言うと航空便《エアメイル》など、めずらしくもなんともないのだった。
しかし、その朝私が胸を波立たせた、何の変哲もないエアメイルは、特別の手紙だった。それがどうして事前に特別だと感じられたのかは、多分予感のせいだろう。
手紙は、二枚の紙にタイプで打たれていた。Dear Masayo と、私の本名で呼びかけ、
――遠い過去からのノートです、と始まった。
最後に彼から手紙が届いたのは二十数年前のことであった。最愛なる人と私に呼びかけ、しかしそれは別れの手紙であった。
|別れの手紙《ヽヽヽヽヽ》であることは、封筒を手にした時の重みでわかった。たくさんの言いわけや慰めや説明を要するのは別れであって、ハッピーエンドには説明などいらないからだ。
ちなみに、私がもらった一番短い手紙は、現在の夫が二十年前ホンコンから書いてきた一枚の便箋で『I love you! |Let get married《結婚しよう》』の一行だけであった。
別れの言葉が書かれた手紙は長くて重い。昔の恋人が二十数年前にくれた手紙は、そういう手紙だった。つまり、少し離れて、時間をかけて考えた結果、ボクたちは別々の人生を歩む方がよさそうだ、と彼は結論したのだった。
少し離れてというのは、太平洋を東と西に大きく隔ててという意味で、考えるのにかけられた時間は三週間余りだった。
僕らは人格が異なり、使う言葉が違い習慣が違うと彼は書いた。それは恋の障害にはならないが、結婚生活には重大な障害をもたらすだろう。なぜならば、|自分は《ヽヽヽ》作家を志す人間であるから、何よりも言葉を大事にしたいからだ。日本人の娘とアメリカ人の自分との間に、恋愛感情が消えた後に残るものを想像すると、僕はおじけづく。沈黙、意思の疎通の欠如、会話の不在etc、etc。
私はこの別れの手紙を死刑の宣告のように読んだ。手紙は一方的な宣告に他ならなかった。別れを決意したのは|彼であって《ヽヽヽヽヽ》、私ではなかった。それから間もなく、作家志望の若者は、同じ国籍の女性と結婚し、ひそかに、いずれは自分も何かを書きたいと考えていた私は、彼が身をもって示した忠告を破って、異国《イギリス》人と結婚した。
二十数年ぶりに届いた手紙の内容を要約すると、まず、彼はあいかわらず作家志望の中年男であること、結婚生活の中で必ずしも完璧《かんぺき》な会話が必要ではなかったことなどに触れて、どこで知ったのか、私が現在小説を書いていることについて記していた。
もしかしたら、私に小説が書けたのは、日常生活における一番身近な人間である夫との間に、完璧な会話が成立しなかったゆえではないか、と彼は問いかけていた。そしてその逆の理由で、彼は日常性の中へあらゆる言葉を流出してしまったがために、タイプ用紙はずっと空白のままなのだ、と。
かといって、二十数年前、別れのかわりにプロポーズの手紙を彼が私に書いたとしたら、彼が志どおりに作家になり、私がひそかに考えていたように私自身も小説を書くようになったかは、はなはだ疑問だった。そうなったかもしれないし、そうならなかったかもしれない。
あるいは、もし私が現在の夫と結婚していなかったら、どうなのか? 私が今までに書いたほとんどの小説は、成立し得ないわけだから、他の男とだったら、小説を書いたとしても、全く別のものになっていただろう。二十数年前までタイムマシーンで飛ぶわけにはいかないから、誰にもわからないことなのだ。
最後に彼は、私が小説家となり作品を次々と発表していることは、自分《ヽヽ》のことのようにうれしい、と結んでいた。
多分、それは真実の感情とは異なるだろうと思うが、私は彼の言葉どおりに、ひとまず信じることにして、手紙を封筒に戻した。返事は、まだ書いていない。いずれ書くだろうが、それは少し先のことになるだろう。
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ヴァカンス村
マレーシアのチェラティン・ビーチというところに地中海クラブのヴァカンス村がある。
私は真夜中の一時過ぎにそこへ到着したのだが、吹きぬけのロビーには煌々《こうこう》と明りがともり、どこからともなくボンゴの音が響き、バスから降りるとなんとなくそのボンゴのリズムにあわせて自分が歩くような感じになり、妙に照れていると、パレオ姿の男女に囲まれてしまっていた。
裸の上半身を金茶色に日焼けさせた腰布《パレオ》姿のフランス男が、「マダム?」とにこやかに差し出すのは、ピンク色のカクテルであった。グラスのふちには、赤い熱帯の花が一輪。
マレーシアのこんな奥まったところに、まるで砂漠のオアシスか、蜃気楼《しんきろう》のように忽然《こつぜん》と存在する、ヴァカンス村の不思議さ。そして更に、もっと眼に衝撃的だったのは、このアジアの奥深い場所に、何十人もの白人の男女が、それもとびきり美しい若い男女が、一枚の布をまとっただけの姿で、深夜、ボンゴのリズムにのって踊りさざめいていることであった。
夜だというのに、体温よりも熱い南シナ海の風がロビーに吹きこみ、色とりどりのパレオの裾をはためかせていた。女たちの、余分な脂肪などひとつもついていない美しい肢《あし》が見えかくれしていた。
ピンクのカクテルが何杯もサービスされ、酔いが回るほどにこちらもつられて陽気になり、旅の疲れも忘れて足を踏み腰をふっていると、歓迎の深夜パーティーはいつ果てるともしれない。
知らず知らずにパーティーの輪が広がり、プールサイドや深々とした夜の芝生の上へと人々が踊りながら散っていく。
昔観たエスター・ウィリアムズの『水着の女王』のプールそっくりそのままの色と風情をたたえたプールに、ロビーからの明りがこぼれて揺れているのだった。
誰かがパレオを宙に投げるように脱ぎ捨てると、無人のプールにとびこんだ。辛うじて隠すべきところを隠しているような超ビキニの若い女が、金色の細身の魚のように、青い水の中で体をくねらせる。続いてパレオが二つ、三つと芝生の上に飛んで落ち、プールのあちこちに水しぶきがあがる。
私も若かったなら、旅装のジャンプスーツを脱ぎすてて、素裸でも飛びこむものをと、半ば諦めとうらやましさでしばし見惚れていた。
ふとふりあおぐと、南国の夜空。黒々としたビロードの闇に、無数の画鋲《がびよう》をとめつけたような夥《おびただ》しい星の数。
くずダイヤのように夜空に流れる天の川があった。ひきこまれるようにその下を歩いていくと、芝草がいつのまにか砂に変り、私はホテルの裏手の砂浜に出ていた。ココ椰子《やし》の黒いシルエットが何本も何本も星空にむかってそびえ立っていた。
砂浜には、何人かの男女が私と同じようにホテルから出てきて、南シナ海の熱風に吹かれていた。足の先に、温い海水の感触があった。
ふいに私は、この遠浅の夜の海に身をゆだねたいと欲望した。正に欲望であった。
幸い月もなく、砂浜に点在する人々は単に黒いシルエットにしかすぎなかった。私は旅の服装のまま、靴《サンダル》だけを脱ぎ捨てて、海の中へ入っていった。
百メートル以上も沖へ出ただろうか。それでも海水は私の膝のあたりを洗っているのにすぎなかった。遠くにボンゴの響きがしていた。
私は海の中へと腰を沈め、膝を抱いて坐《すわ》った。すると、下脇腹のあたりに海面がきた。
その時だった。ふいに月が雲間から顔を出した。するとどうだろう。一面の輝く夜光虫の海だった。
かつて見たどの夜光虫よりも明るく大きく光り輝く海なのだった。
たった一人で、きらめく夜光虫にかこまれて膝をかかえていると、私は今、海に抱かれているという実感に陶然とした。幸福で、淋しくて、その美しさに泣きたくなった。この美しい光景を共に分ちあう人がそばにいないことが、無性に残念でならないのだった。
ところが私は一人ではなかった。いつのまにそんなに近くまで、|そのひとが《ヽヽヽヽヽ》来たのか、私はまるで気がつかなかった。多分、自分の思いにどっぷりと浸っていたからだろう。
その男はパレオではなく白っぽいスラックスをはいていた。彼もまた、そのままの姿で私の横に腰を沈め無言で膝を抱いた。
年も容貌も国籍さえも、月の明りではわからないのだった。
私は、次第に黙っていることに息苦しさを覚え始めていた。日本人ではないということだけが確かだったので英語で言った。
「こんなにたくさんの美しい宝石、見たこともなかったわ……」喋るというよりは呟《つぶや》きに似ていた。すると、その男が少し考えて、答えた。「よかったら、あなたにあげる。これ全部、ボクからのプレゼント」
私は笑ってありがとうと言った。私はこれまで男から宝石をもらったことがなかった。それなのに世界中のどんな女がもてるよりもっとたくさんの宝石を、その夜見知らぬ男から贈られたのだった。そのことを伝えようとして横をむいた時には、男は遠浅の海へ滑りこんで沖へ向かっていた。私は再び独りぽっちだった。かかえきれないほどの宝石にかこまれて――。
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脆弱《ぜいじやく》な都市
去年の暮れのサンモリッツには雪がほとんどなかった。ケーブルカーを乗りついで山の頂上まで登ったが、ところどころ岩などが露出していて、とうていスキーに最上のコンディションとは言えないありさまだった。
地元のホテルの人たちの話によると、この冬の天候は異常で、ふだんなら二メートルから三メートルの積雪はあるという。スキー客のキャンセルがあいつぎ、観光で成りたっているその小さな美しい村の人々は浮かぬ顔つきであった。
サンモリッツの後に寄ったイギリスでも三十年ぶりくらいの暖冬だということで、それでなくとも天候の話ばかりしている国民が、もうその話でもちきりだった。
私はスイスはもちろん、イギリスのなんとも|いんうつ《ヽヽヽヽ》な、じめじめした厳寒にそなえて、タヌキのモコモコした毛皮のコートを着ていったのだが、スイスでもイギリスでもそんなものは一度も必要としなかった。ただでさえ重い荷物を引きずっての旅だというのに、ぼってりと重いコートをかかえて、ずいぶんもて余したものだった。
ところが年が明けて東京に戻ってみると、こちらの方は例年になく寒い。一月には大雪が何度も降り、その雪がいつまでも解けなかった。スイスやイギリスで全然役に立たなかった毛皮のコートに連日のようにくるまって、近所のスーパーマーケットを往復するしまつ。
でも私は、冬なら冬らしく寒いほうが気持が納得するような気がするのだ。暖冬とか冷夏とかいうと、なんとなくやり残したことがあるような、なんとなく損をしたような気分になってしまう。すっきりしないのだ。
冬には雪が降り――私の子供の頃には一冬に何度も何度も東京に雪が降ったし、ずいぶん積もりもした。それでも電車が止ってしまったり、道路が閉鎖されてしまうということもなかった。学校だって途中で休校になったりしなかった。雪が降ると、学校中の生徒が校庭に出て、先生と一緒になって大雪合戦をしたものだ。それを今の子供たちは、バスや電車が止ってしまうと言って、大急ぎで帰される。校庭で雪まみれになってやる大雪合戦のカンジなど全然知るよしもない――冬にはやっぱり何度も雪が降ったり、奥歯を噛《か》みしめてからっ風に耐えたり、霜を踏みしめたり、そんなふうであってもらいたい。
逆に夏は、かっと照り、汗をダラダラ流し、息もたえだえに打ちひしがれながら、カキ氷など食べる。そんなふうなのがいい。
だからこそ、春のわき上るような華やかさや軽やかさがひきたつのだし、秋は秋で日一日と増していく透明感がうれしいわけだ。
そんなわけで、私は今年、仕事部屋の窓から降り積もる雪を眺めて、ひそかに満足していたのである。
人の顔を見るたびに、「今年は何て寒いんでしょうねえ」と挨拶はするが、相手が「ほんとうに、嫌ですねえ」と顔をしかめているのを、こちらはニコニコと見るわけである。
しかし本当は人一倍寒がり屋なのだ。そのくせに伊達《だて》の薄着で、下着は夏と同じ。上にTシャツを着るかセーターを着るかの違いだけである。そして寒い寒いと肩をちぢめている。
手も足も感覚を失うほど冷える。氷のようになってしまった足が一晩中暖まらないという夜が続く。まんじりともせず夜明けを待つわけだ。
以前は冷え切った足を夫のふとんの中に差し入れると、喜んでとまではいわないまでも、可哀相だと温めてくれたのだが、もうこの頃では敵は逃げる一方。つい最近とうとう夫は二つのベッドの間に小さなテーブルを置いてしまったので、足を差し入れようにも入れられない。
それでも実は冬が嫌ではないのだ。もっと言えば、うれしいのだ。もしかしたら私はマゾではないかしら――。
だから雪が降ったといって授業打ち切りで早々に帰ってきた子供たちが、暖房の入った部屋で、更に電気こたつの中に潜りこんでTVの、チャップイチャップイ≠ネど見ているのを目撃すると、かっと腹が立つ。「子供は風の子と言うんです」と、うちの子は半分イギリス人なので英語でいうと、なんとも間がぬけて滑稽なのだが、とにかく庭で遊びなさい、と追いたてる。
庭に出ても、子供たちは遊び方を知らない。雪の玉を作って、投げつけあいなさい、と言えば、そんなことしたら○○ちゃんが痛くて可哀相だなどと変な時に姉妹愛を発揮する。カマクラを作れ、とカマクラなるものを英語で説明しているうちに、こちらは馬鹿らしくなってくる。じゃ、好きにしなさいというと、元のもくあみ、こたつの中で丸くなってしまう。
我が家では、コリー犬まで脆弱《ぜいじやく》というか堕落というか、喜んで庭をかけまわるどころか、雪というと家の中から一歩も外へ出ようとはしないのである。雪ではしゃいでいるのは、母親である私だけだ。
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ファナティックなセーター
暖炉に薪《まき》をくべる季節になると、なんとなく夜が手淋しくなり、編み物を始める。やりだしたことは必ずや仕上げてしまいたい性分なので、ほとんど一気|呵成《かせい》に編み上げる。
といっても、作家業、主婦業、お母さん業をやった後に編み棒を手にとるわけだから、今夜は右袖、明日の夜は左袖というふうに区切りをつけて、一枚のセーターを編むのに早くて四日、遅くとも五、六日かかる。
そう言ったらそれでもたいていの人が、ずいぶん早いわね、と眼を丸くした。別にマジックを使うわけではなく、極太の毛糸に太い編み棒でざくざくやるからである。
それとこれはコツとは言えないかもしれないが、極上の高価な毛糸を使うこと。途中で飽きたり、投げだしたりしないためだ。一枚分の毛糸代が三万円近くしたら、誰だってもったいなくて最後までがんばるにきまっている。
そんなふうにして、私は毎年一枚か二枚、セーターを編む。夫のものでも娘たちのものでもなく、ひたすら自分のものだけを編む。買った方が安いし、見ばえも出来もいいのはわかっているが、それでもせっせと編む。ゲージもとらない。体《からだ》にあてながら作っていく。ゴム編みとメリヤス編みに限る。それしか編めない。
出来上がったものは、たいてい右と左の袖の長さが違っている。袖のくりの目の数が合っていないなどと自慢できる代物ではない。
けれども肩に厚めのパットを入れ、流行のベルトをしめ、長すぎる袖はくるくると巻き上げれば、結構素敵に見える。自分のものしか編まないのは、私以外に私の編んだセーターを着こなせないと思うからだ。
編み物をしていると、いろいろなことが頭に浮かぶ。お米が切れているとか、長女の下着を買い足さなくては、とか、誰それさんに長いこと逢っていないから、そろそろ連絡しなくては、とか、あの人に手紙をかこう、この人とこの人に電話をしようとか、日頃忙しさにかまけてすっかり忘れていたような要件が次々と浮かぶ。それを割にマメにメモする。
時には、母のこと。母が編み棒を動かしていたずっとずっと昔の姿とか。よく毛糸巻きを手伝わされたっけ。すると、あの時の毛糸の色とか匂いとかがたちまちにして蘇《よみが》える。あの頃は、毛糸巻きをやらされるのが嫌で嫌でたまらなかったのに、そんなことすっかり忘れて、ほっかりとした毛糸の温かさと優しさと、羊毛の匂いが懐かしい。
好きだった人々の顔も次々と浮かぶ。嫌なことよりも良かったこと、楽しかったこと、幸せだった思い出ばかりが浮かぶ。だからきっと私は冬の夜の編み物が好きなのかもしれない。
書きかけの原稿のことが気になっていると、ときどき主人公たちが勝手に動きだしたり、お喋りを始めたりして困ることがある。以前は慌ててメモなどしたのだが、この頃は慌てもしないしメモもしない。翌朝――私は朝原稿を書くので――までに忘れているようなら、それほど重要なことではないはずだ、と考えるようになったからだ。
編み物をする母親の横で、子供たちが宿題をやったりTVを観たり口ゲンカをしたりする。やっぱり手淋しいらしい夫が、みかんの皮をむいたり、ピーナッツやくるみの皮をむいたりしている。そして切りがないね、と困っている。
編み物をしていると、娘たちのけたたましい口ゲンカもTVの音も夫の文句も、あまり気にならない。普段なら苛々《いらいら》したりかっとするようなことも、なんとなく許せてしまう。下の娘は、編み物をしている時のママって優しい、と私にちゃんと言った。
けれども、冬の間延々と毎夜編み続けるわけではない。前に言ったように、一枚か二枚だから、編み棒を手にとる夜も三日から十日くらいだ。
そして不思議なことに、年のおしせまった暮れだとか、なんとなく周囲も自分もそわそわざわざわしている時にかぎり、毛糸を買ってきてしまう。三十分きざみにさまざまな用事をやっつけて、かなり無理をして編む時間を捻出しているような気配も一方にはあるのだ。
ざわざわ、苛々している心をもてあまして、結局手淋しいというよりは、痙攣《けいれん》している手を憩《いこ》わせてやるような感じもなきにしもあらずだ。
編み棒を動かしていると、その単純な動作で手の痙攣もおさまり、波立っている心も次第に静まっていく。
今年の冬は、スイスのホテルでセーターを一枚編み上げる予定だ。子供たちや夫がスキーを楽しんでいる十日ほどの間に、スキーの出来ない私は編み物を楽しむ。ずいぶん高いセーターが一枚、編み上がることだろう。
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味|泥棒《どろぼう》
何ごとでもそうだと思うが、たとえばお料理がとても上手だというような場合、それはそのひとがいかに他人の、あるいはレストランでの美味しい料理のコツを、うまく盗んできたか、ということではないだろうか。
好きこそ物の上手なれ、で、食べることが大好きでなければ、一皿の料理は胃袋の飢えを満たす以外の何ものでもないだろう。
かくいう私は、美味しいもの大好き人間だが、本質的には調理が好きではない。
お客さまを十六人も夕食にお呼びするような日には、その前日あたりからほとんど正気を失っている。
温かいものを、温かく、冷たいものは、冷たく、サラダは、水々しく――ただそれだけのことであるが、そのあたりまえのことをするために、髪の毛の一本一本が逆立つような、胃が痙攣するような、地獄の苦しみを味わうことになる。料理は何度も火を通しては不味《まず》くなるから、ちょうどよいタイミングに、最もよい状態に仕上がるよう、頭の中に調理地図みたいなものを描き、万全の態勢をしくのではあるが、結局、お客さまが集まり出すころが、調理の山場と重なることは避けがたい必然の成りゆきで、玄関でニコヤカにお迎えしては、そろりそろりと後退《あとず》さり、脱兎のごとくキッチンに駆けこみ、オーブンの中の肉の焼け具合を形相もすさまじく睨《にら》みつけ、眉間に八の字を寄せて芽キャベツのゆだっている鍋を一瞥《いちべつ》するわけだ。
それから指先で眉間の皺《しわ》をしごいて消しながら、居間にとってかえし、夫が飲み物のサービスに手ぬかりがないかどうか観察しながら、あくまでもニコヤカに会話をちょこちょことこなし、氷が足りないような顔をしてアイスバケットを手に再々再度キッチンへ後退さり――。
と書くと、いかにも余裕《ヽヽ》という感じだが、内心はもう爆発寸前。卒倒寸前。このまま外へふらりと出ていって、何もかも投げ捨てたい気持と必死に闘わなければならない。
この内部|葛藤《かつとう》で疲労|困憊《こんぱい》してしまうわけだから、食卓に無事十六人分の料理が並んだ暁には、食欲もなくゲンナリ。それでも、調理人がゲンナリしていては、美味しい料理も美味しくなくなるから、最後のムチを打ってニコリニッコリ。
さてお開きの段。いろいろとまあお世辞を聞かされるわけだが、ある女性がこう言った。
「あなたって、すばらしいわ、キッチンに専用のコックを三人くらい使っているみたいな涼しい顔して、十六人分のディナーを手ぬきなくおやりになるなんて――」
これは最上級の誉《ほ》め言葉であるかどうか――。
私のゆいいつの取り柄は、手早いというくらいのものだ。とにかく早い。なぜ早いかというと、ごちゃごちゃめんどくさいことが嫌いだからだ。嫌いなことは一秒でも早く終らせてしまいたい。ただそれだけのことなのだ。
この手早さが高じて、以前お客さまのディナーの用意が昼頃までにはすっかり出来てしまったという、まぬけな話があった。その結果サラダは作り直し、野菜はゆで直しと、労力を二倍、お金も二倍使ってしまった。
手早くやっつけてしまいたい、というほとんど本能的な内部の欲求と、お客様の前では余裕を見せなければ、という葛藤が、実に惨めなのである。
それでもとにかく、私が作る料理は悪くないという評判がたっているらしく、その評判のために、ときどき胃をギリギリよじりながらお客さまをしなければという強迫観念にかられるわけだ。
考えてみれば、私の料理は人から盗んだものばかりで、盗品で生計をたてているようなものだ。
何か作るたびに、その味を盗んできた人のことが憶いだされる。
「おもちの中華風いため」なんてのを教えてくれたのは、なんと在日イギリス人のおばあちゃんだった。そのひとからは、チキンカレーの中にゆで卵を半分に切ってきれいに並べることも盗んだっけ。中学三年の頃のことである。
今、ときどきカレーを作ると、やっぱり私もゆで卵を半分に切ってきれいに並べながら、高見山みたいに太ったミセス・サンチェス(ご主人がスペイン人だったのだ)の顔や、指輪をたくさんつけたぽっちゃりした手だとか、あの時の香水の匂いまで憶い出せる。
同様に、グレービーソースをいかにも美味しそうな褐色に仕上げるコツを教えてくれたのはスーザン。アメリカ人なのに、スノビッシュなイギリス英語を使って、友人たちのひそかなひんしゅくを買っていた女性だった。「コツはね、スプーンにお砂糖を入れて、火にじかにあて、アメになるまで焦がすのよ」と、彼女はそれ用のテーブルスプーンを出して見せてくれた。それは両側とも黒く焦げあとのついたスプーンだった。私も現在そういうのをひとつ常備している。そしてそれを使うたびにスーザンと彼女が使ったスノビッシュなイギリス英語が耳に蘇る。
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ジンは心を酔わせるの
夏とジン。テニスを二時間ばかりやって、シャワーでざっと汗を流した後、トニックウォーターと砕氷で割ったジンの爽快な味。
近頃はだんだん甘さが口に残るようになってきて、トニックウォーターと炭酸水とを半々に混ぜて甘みを薄めるようにしている。
一日に自分に課した原稿がまあまあ満足いく程度の枚数進み、軽井沢の太陽の下でテニスボールを追いかけて午後を過ごし、四時になるのを待ちきれぬ思いでジンを飲む。
太陽は肌を外側から焼くが、ジンは体を内側から焼く。その両面からひりひりと自分を焼く感覚に耐えながら、夕食までの間、トールグラスを握りしめて過ごす。実に幸福で、実に虚《むな》しい思いにひたりながら。
私の日程はほとんどきまっている。最低四時間の原稿用紙に文字を埋める作業。食事作りを含めて二時間の家事。二時間のテニス。二時間の読書。夕食後四時間は家族――主として娘たちに私を与える時間、二時間ばかり寝酒とミステリーを手にその時々の思いにぴったりとする音楽を聴いて。そしてたっぷり八時間の睡眠。
このどれも予定通り進み、まあまああまりはみださずにすんだ一日を「充実」と呼ぶわけ。
そしてこのところ、この「充実」した日々が無気味なほど長々と続いている。
やるべき仕事をしなければ、テニスをしても面白くない。テニスをやらなければ午後四時のジンはさほど美味でもなく、従ってカセットで流れる音楽にも陶然とせず、眠りは浅い、とこうなる。
眠りが足らないと、たちまち言葉に対する感覚が鈍るから、原稿用紙はなかなか埋まっていかないという悪循環。
これを恐れるあまりの「充実」である。ほとんど必死にスケジュールをこなしての「充実」なのだ。
何かが欠けているような気がしてならない。何かが決定的に不足しているような思いで、私の胸が常に泡立っている。
それは何か? 私にはよくわかっているのだ。「危機感」なのである。
自分を常に「危ない」ところに置いておく、という作業が小説を書く人間には必要なのである。それは「充実」などという日常性とは正反対のもの、対極にあるものだ。
体がぐらぐらするくらい(ジンなどの酔いで体が揺れるのではなく)、辛い思いをしていなければ、小説を書く、という作業に本当は入っていけないのである。
で、私のような状況にいる――妻であり娘たちの母親であり、同時に作家であり一人の女でもある――人間は何に危機感を求めるかというと、「旅」にである。
さまざまな「旅」。一人旅。
それは実際に飛行機に乗ってミクロネシアの島々を訪ねる旅でもあるが、心の旅路でもある。男への旅立ちもある。
そうなのだ、午後四時のジンが私にもたらす幸福感と、とりわけ虚しさは、私の旅立ちへの欲求が高まっているからなのだ。
ジンが内側から体を焼くほどに、旅への思い、焦燥感がつのっていく。たとえば、熱烈な恋愛に身をつらねたい、といった思いが。
もはやこの「充実」の中には、そのような冒険、そのような危機、めくるめくような恋の体験など起るべくもない。しかし果してほんとうにそうなのだろうか?
もう私という女の年齢、この「充実」の日々では、恋などで身を焼くことはありえないのだろうか?
ジンが内臓をこがし、太陽が皮膚をこがすように、恋に身をこがすことはもはや不可能なのだろうか?
虚しさの正体は、このことなのだった。しかし、現在のこの「充実」はそうたやすく破壊するわけにも、できるわけもなく、だから恋の味に一番似ているもの「ジン」に手が伸びる。
飲むほどに陶然としてきて、幸福になり、虚しくなり、実に淋しい。
「ジン」は恋の味なのである。
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風を入れる
インターナショナル・スクールに通っている娘たちの新学期が、日本の学校と違って九月なので、そのわけかどうか夏休みが六、七、八月一杯とまるまる三か月もある。
三十代の前半から中頃にかけて、いわゆる結婚七年目と十一年目(日本では十一年目の危機という言葉があるかどうか。英国人の夫の言を借りれば、結婚生活前半二十年の間に四回、シリアスな危機に見舞われると、あちらでは言われているらしい。すなわち、三年目――これは多分新婚の夢さめ果ててというところだろう。そして例の七年目――例のというくらい有名な倦怠期。次に十一年目の危機、十八年目の危機とこれに続く。回を重ねるごとに危機感が深くなっていくことは、言うまでもない)――引用が長くなったが、私自身も人並みに、この中間二つの危機をくぐりぬけなければならなかった。
七年目は、子育てに忙殺され、髪ふり乱していた時で、辛いことは辛かったが、娘たちが小学校、幼稚園へと上がって、一応手を離れたところで解消された。
ほっとする間もなく、十一年目の危機に見舞われる。三十四、五歳、女盛りの真っ最中のことである。
危機感は主として、自分の内側にあった。つまり、たいていの主婦たちが陥るあの憂鬱《ゆううつ》――このままで老いていっていいのだろうか、という思い。
もしかしたら、別の生き方があったのではないか、いや今からでもあるのではないか。一刻一刻がもはやとりかえしのつかない方角にむかって、自分を押し進めていくあの焦燥感。
生き方を修正したいという思いの他に、人にかまってもらいたい、もっと切実に愛してもらいたい、私がここにいることを認めて、それを尊重して欲しいという欲求もあった。
けれども何ひとつかなえられず、何ひとつ進んでやろうともせず、私は、うつうつと不毛の一年を送った。この期間の苦しみを思い出すと、今でも口の中で舌が喉《のど》の方へめくれこむような、凝縮を覚える。
さて、冒頭の三か月にも及ぶ夏休みのことに話を戻すと、この毎年私に与えられる三か月間が、私を(強いては夫と――夫婦の関係とを)救ってくれた。
つまり、私は三人の娘たちを連れて、毎年軽井沢へ引きこもってしまうのである。一種の夫との別居である。
むろん、彼は週末にはるばる車をとばして子供たちに逢いに来るが、週日は不在であった。
夫婦が危機に突入した時は、何をしても何を言ってもだめなのである。かといって毎日顔をつきあわせている二人の男女が、徹底的に沈黙もできなければ、相手を無視することもできるものではない。お互いの存在が悪としか感じられないのだから。
そういう状態の時に与えられる三か月の休暇は、天のめぐみ、砂漠のオアシス、それこそ、酸欠の金魚のように、冷たい高原の空気をむさぼって一息ついた。
考えてみれば夫の方は連日高温多湿の東京で汗水しているわけだから、たまに週末やってくると、やっぱりごくろうさま、という気持にもなる。
もっとも彼のほうだって、連夜のごとくパブでとぐろをまき、深夜のご帰館が続いても、青すじたてて詰問する女が家の中に待っているわけではないから、敵も敵で一年の憂さをそうやって晴らしていたことは想像に難くない。
この点では、私はとても幸運だったと思う。三か月も丸々妻子を送り出しても文句ひとつ言わない、よく自立した(自分のめんどうは自分でみれるという意味で)夫をもったこともそうだが、毎年一年の四分の一にあたる夏休みがとれる、ということも、そう誰にでも許されることではないのだから。
夏休みといっても休みなのは三人の娘たちだけで、私の方は一日に三度の食事、山のような洗濯物(テニスだ、サイクリングだ、山登りだと彼女たちは日に二度も三度も上から下まで着替えてくれるので、洗濯機は連日一日中回りっぱなしである)、それを干したり取りこんだり畳んだりアイロンをかけたり、更に十四もある部屋の掃除やらワックスがけ。普段のしつけが悪いから、「テニスラケットをちゃんとしまいなさい」「自転車が出しっぱなし!」「靴をそろえて脱ぎなさい」と追いまわして喚き、三か月間に及ぶ強制労働の生活が続く。土、日は夫が来るので、事態は更に悪化――ほっと腰をおろす間もない。
私が十一年目の危機を脱すべく、苦しまぎれに『情事』を書いたのが、この夏の強制労働のさ中であった。内に自分自身の問題と、飢えと空虚さをねじこみ、外敵(これは夫)と対峙《たいじ》し、家事の間をぬって書き進めた。
『情事』は運よく、私の脱出口となり、今日に至っている。
今でも六月が近づくと、私たち夫婦はなんとなくほっとする。結婚生活に風を入れる、風通しをよくすることが必要なようである。
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離婚狂詩曲
私は小説の中で男と女の間に起るさまざまな破綻を書く作家だ。それにしても現実的に、なんと離婚が多いことか。
私の最も親しい三人の女性のうち、二人はすでに離婚しており――うち一人は二度目の結婚も危機に直面しているらしい――残る親友も現在別居中である。
肉親では妹がやはり結婚に失敗してフランスから去年帰国しており、普段一緒に映画を観たり美味しいものを食べあるく女たちのグループ六人組は、一人が離婚、一人が協議中、一人が別居で親元に帰っており、あと二人は年中すったもんだやっている。おまけに私のセラピストも離婚経験者である。
なぜか一番危なく人の眼に映っているらしい私たち夫婦のみが、別居もせず、親の家に一時的避難もせず、なんとか共存している。もっとも誰も彼もが私のわがまま、悪妻ぶりを認めているから、ただただ、|夫が偉い《ヽヽヽヽ》ということになっている。
さて、彼女たちの年齢はというと、大体三十五歳から四十二、三歳。要するに女盛りの年代だ。
女として最も美しく洗練された|この季節に《ヽヽヽヽヽ》、一体何が起るのだろう? 何が原因で私の女友だちは、親友は、妹は、従妹は、セラピストは、結婚にみきりをつけなければならなかったのだろうか。
性格の不一致よ、と彼女たちは異口同音に言う。けれども、ある女《ひと》の夫には別の女の存在があったし、自分の方に新しい男が出来たケースもある。日常の会話が全く停《とどこお》ってしまい、それがあと三十年も四十年も続くのかと思うと発狂しそうになったという女性もいる。あるいはただ、日々が無力感と倦怠感に満ち満ちていたためとか、もう一度世の中に出て仕事がしたかったとか。
ある女友だちなど、ある朝、いきなり夫から別れてもらいたい、と言われたそうだ。きみとは最初からしっくりいっていなかった、とその男は結婚八年目に、そう言ったのだという。しっくりいっていなかったような素ぶりなど、ちらとも見せなかったと彼女は後で言ったが――。そんなふうに離婚話は青天の霹靂《へきれき》のように切りだされる例も少なくない。
彼女は自分では上手《うま》くいっていた、しっくりいっていたと信じて疑わなかったらしい。二人が全然別の感じかたを八年してきた、ということがなんとも恐ろしいような話だ。
私の周囲にいる女たちというのは、仕事をもっている女であることが多いのも、離婚に進みやすい原因かもしれない。全く仕事をしていないという女たちは、年中すったもんだはしながらも、なんとかくっついている。
男の方から無理矢理に言い出したのをのぞくと、共通している問題は、夫婦間の性愛がとっくに破綻していたことである。
私たちはいくらなんでも夫婦のベッドの中のことを、ことこまかく報告しあうというような趣味はもってはいないが、なんとなくその言動から明らかになることは、相手に対する肉体的な嫌悪で、ピリオドになっている。
とにかく夫に触れられるのが嫌で嫌でたまらなかった、と彼女たちはいう。しまいには鳥肌がたつほどだったとか、トイレにかけこんで嘔吐《おうと》したとか、壮絶だ。
一度は愛し、楽しい時期もあり、そのひとの子供まで宿し産んできたのに、である。
相手の肉体に対する嫌悪に至るまでの理由は、むろんその人さまざまだが、最後は夫婦なのにとにかく触れるのも嫌、夫の入った後の風呂にも入れない。洗濯物も自分や子供たちのと一緒に夫のものが洗えない。そして離婚。
何かが起ったのだろうか? それとも、何かが失われたのか。突然にではなく、徐々に少しずつ、だが確実に下降線をたどっていったのだ。愛の絶頂点にいる時に、その驚くべき下降が始まっていたのだ。
最も親密なかたちで共存していたのだから、破局は痛ましくも無惨だ。残酷でさえある。離婚というのは、ひとつの鉢から植物を根こそぎに取りだし、それを更に二つに根わけする作業である。無理矢理に裂けば、互いに絡《から》みあっている根が切れたり折れたり傷ついたりする。そうした根わけをやると、後二年間は立ち上がれないと友人の一人は言った。で、再婚には懐疑的なのだ。
それにしても私の女友だちたちは、屈託もなく、悲劇の主人公をきどるわけでもなく、実に淡々と生きている。あれだけの修羅場をくぐりぬければ、もうたいていのことにはオタオタしないものよ、と笑う。
私など、鉢から根こそぎ抜かれて、根わけの作業など死んでもごめんだが、日常茶飯事のオタオタ、右往左往も、ほんとうにしんどくてやりきれない。もっともありていに言えば、ある意味で、離婚か、そうでないかの選択には常に迫られているようなものだから、離婚もしたくない、日常茶飯事のゴタゴタも嫌だ、という私のような女は、小説を書くしかないのである。それも男と女の破綻に関する小説を……。
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海草サラダにお水を添えて
風邪をこじらせて医者にかかったおり、薬の量をきめる必要から体重を訊ねられた。大体のところを答えると、大体ってのは困りますね、と言われて体重計にのせられた。妊娠中は別にして、実に十数年自分の目方など正確に計ったことがなかった。
体重計の目盛りは、私が大体《ヽヽ》と答えた数字を十キロ近くオーバーしていた。脳天をガンと撲りつけられたようなショックをうけた。数日間、食事が喉《のど》を通らなかった。で、一キロ減った。なんだ簡単じゃないかと、ダイエットにふみきった。去年の十二月中旬のことである。
ショックのあまり食欲が減退したのは最初の三日だけで、喉元すぎれば熱さを忘れるのたとえのごとく、その後はたえざる食欲との闘いとなった。
更に悪いことに、パーティーやら忘年会のシーズンと重なった。サラダばかり食べていても、見知らぬ人は誰も文句は言わないが、会場せましと並んだご馳走を横目に、レタスやキュウリをつついていると、鳥じゃあるまいし、と腹立たしいやらうらめしいやら。カニの一切れくらい、ロブスターならカロリーも低いことだし、と一度手綱を緩めたが最後、あとはなし崩しに手が伸びる。後悔の苦き後味を思う存分なめさせられる。
そういう場へ足を運ばなければいいのだが、それでは解決にはならない。そこで思いついたのがリンゴ作戦。食事の直前に一個食べるのである。
リンゴを一個食べると、胃袋の半分が一杯になる。パーティーの類《たぐい》は、なんとかこれでのり切った。
困るのは食いしんぼう仲間たちの誘惑である。類は友を呼ぶで、みわたしたところ、友人の全部が自他ともに許すグルマンたち。顔を合わせばすぐに、美味《おい》しいもの食べよう、になる。電話がかかる。手作りのメニューの夕食会への招待状が届く。
今度麻布にできたなんとかいうフランス小料理屋で、なんとフグをヌーベル・キィジーヌ風に食べさせるのよ。曰くアンコウの肝《きも》で、どこそこの地酒を飲《や》るから出てこいよ、地酒は樽詰《たるづ》めの超辛口だぜ。曰く毛ガニだウニだ、帆立だホッキだとそのうるさいこと、執拗なこと。食いしんぼうの友だちなど持つものではない。
樽詰めの生ガキにつられて行ってしまえば、それだけで済むわけがない。寒いところをわざわざ来てもらったのだから、とか何とか言い訳をしつつ、油ぎとぎとのブイヤベースなんか出てくるのにきまっている。
ヌーベル・キィジーヌのフグだってそうだ。フグだけ食べてレストランを出るわけにもいくまい。犢《こうし》のカツレツに生クリームタップリのフルーツソース添え、なんていうメニューがくっついてくる。
アン肝だって? マイッタ、マイッタ。アン肝には目のない私は気もそぞろ。
しかし待てよ。敵は男だてらに台所でウロチョロ、レバパテやらサーモンディップなど手早く作って並べたてるに相違ない。その手はくわなの焼き蛤《はまぐり》。ああ蛤のバター焼き! レモンをしぼって醤油を一滴。
貝料理といえば新宿のはまぐり=B毎年冬になると足を運ぶ。貝の甘味がえもいえぬ美味。はまぐり≠フ近くにあるワインの地酒を飲ませる店も、冬の味だ。そこで出る車えびのクリーム焼きがこれまた最高。えびのミソが生クリームに溶けて、きれいなアカネ色――と、慢性飢餓状態だから思いはつきるところを知らない。
世界各地の名産美食を頭に描きつつ、玄米パンの超薄切りにカッテージチーズなどを塗っていると、何の因果でと不本意にも涙がこぼれる。それもこれも、去年の医者の体重計のせいだ。あんなもの、載《の》るんじゃなかった。
かくして一か月が過ぎた。食いしんぼうたちの誘惑を振り切ったおかげで、三キロばかり体重が減った。
ダイエットにたよるばかりでは不健康だというわけで、今年になってヘルスセンターにも通いだした。かなりハードなトレーニングコースのあと、各種のローラーで脂肪をもみほぐしてもらい、仕上げはサウナ。
困るのはお腹が猛烈に空《す》くことと、喉がかわくこと。一緒にトレーニングを始めた仲間たちが、焼き鳥だ、ビールだと叫んでいる横で、こちらは海草サラダにお水を、と小声で呟《つぶや》く。私の胸の内ならぬ胃の内を少しも察してはくれず、彼女たちの食べること、飲むこと。その憎々しげな姿を眺めると、友情の何たるかをつくづくと疑問に思う今日この頃である。
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肥満との闘い
うれしいにつけ悲しいにつけ、男だったら酒のグラスを重ねるところだろうが、女はひたすら食べることに専念する。そして悩みは贅肉《ぜいにく》。
贅肉というのは、まだそれが躰になじんでしまわないうち、なんとなく違和感があるうちに退治してしまわないと、それこそテコでも動かなくなるから、ついたかなと思うとテニスラケットに手を伸ばしたり、少し以前まではディスコへ出かけて一晩中踊り明かしたりして、一応苦労はしている。
ところで、私の周囲には手料理の得意な人が多くて、「お昼を食べにこない?」とよく声がかかる。女友だちばかりとはかぎらない。「エビのクネルを作ったんだけど」と、仏文を専門とする男性からも誘われる。これが最大の悩み、贅肉の敵なのである。
それも、彼らは私の弱味につけこんで、「あなたの大好きな明太子《めんたいこ》ソースのスパゲッティよ」とか、「京都からおいしいお漬けものが届いたから、お茶漬け食べにこない?」とか、シズル効果巧みに誘う。
こちらは日ごろ机に向かって変りばえのしない原稿用紙相手に、文字を書いている身だから、誘惑に勝てるはずもなく、二つ返事で出かけていく。
スパゲッティだけよ、というものの、おいしそうなソースが三種類も添えられている。茸《きのこ》のソースは、マッシュルームやエノキダケや季節のいろいろな茸類を生クリームで軽く煮こんだもの。魚貝類のソースはイカや白身魚や貝をソテーして、白ワインとレモンで仕上げてある。私の大好きな明太子はシソの葉とレモンバターと合わせてあった。
上等にゆで上げたスパゲッティを少しずつ取り皿にとって、好きな具をかけていただく。どれもおいしいので、たいていついつい食べすぎてしまう。最後にクレソンとラディッシュのサラダが出て、コーヒーに続く。だれかが途中で買ってきたおみやげのフルーツやルコントのケーキがデザートに出て、おしゃべりの合間に知らずに手が伸びるという恨めしさ。
ところで、昨年訪れたパリでの話だが、例によっておいしいものを食べすぎて身動きできない私を、彼《か》の地に住む妹がヘルスクラブへ放りこんだことがある。
そこでまず驚いたのは男性の数の多さであった。痩身《そうしん》を保つために、男たちが仕事帰りに二、三時間汗を流していく。
聞くところによると、おしゃれや健康維持だけが目的ではないらしい。むしろ肉体を鍛える苦しい過程で要求される、厳しい自己コントロールと意志力が問題にされるという。つまり、己れの肉体さえもコントロールできないで、どうして社会における競争に勝てるかと、そういう見方があるわけだ。肥満は、怠惰と意志薄弱の象徴ということか。
欧米では(そして日本でもそうなりつつあるが)、中流以上の生活をしている女性はだいたい痩身を保っている。ハイソサエティーほど、さらにほっそりとしてくる。逆に商店のオカミさんやメードなどがずんぐりと太っている。
放っておいても痩身を保てるという人は例外で、たいていの場合、食欲との壮絶なたゆまぬ闘い、単調で苦しいシェイプアップのための運動、それにたえず同性や異性の批判的な視線にさらされることによって、美しいスタイルは作られるのに違いない。どなたか私に、友情をこわさずに、昼食の誘いをじょうずに断る方法、教えてくれませんか?
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女盛りの時間割
知的に時間を使おうなどと、もし意識したことがあったとすれば、それはヌーベルバーグの映画や実存主義に夢中になっていた二昔も前のことだ。
三人の育ち盛りの娘たちと、人一倍亭主関白の夫と、コリー犬一匹、ハムスター二匹、文鳥二羽の世話と、雨が降ってもテニスがしたいテニス気狂いの自分自身を持てあましている現在、どこをどう探しても小説など書くまとまった時間などない。やむなく、無惨にも、寸断された時間を拾い集めるようにして、机に向っている。
シチューを煮ている台所の片隅で原稿用紙を前に呻吟している耳に、風呂場の洗濯機の回る音。電話。でると、土地の案内。いりません、買えません。なんとか仕上げて――シチューも洗濯もついでに原稿も――で、飛び出す先はインタビューの会場、広尾の喫茶店。
一時間が二時間に延び、ハラハラドキドキしながらかけつけるテニスクラブ。一時間もラケットを振り回していると、そこへも電話。ずいぶん探したわよ、家にいたためしがないじゃないの、それでよく作家稼業が務まるわね。ほんとね、私もそう思う。で、なによ? 今夜あたり、何か美味しいものでも一緒に食べない?
なんのことはない、それでよく作家稼業が務まるわねと皮肉を浴びせた本人の女友だちが、私を夜の仕事場である机の前から引き離そうという誘いの電話である。喰いしんぼうの私は、一も二もなく、うん、行く行く。シャワーを浴び、すっとんで家に戻り、子供と夫とコリーの夕食を作って食べさせて、鼻の頭に白粉たたきながら靴を突っかけてかけつける先は、|美味しいもの屋《ヽヽヽヽヽヽヽ》。
飲み過ぎて、もう仕事はいいわ、今夜は諦めたと夜も更ければ、明日の朝の後悔も透けて見えて、複雑な心境。これで知的な時間の使い方と言えますものか。おまけに家では苦虫かみつぶした夫の顔が待っている。結婚している女が小説を書いたり遊んだりするとは、かくのごときものである。
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原稿用紙症候群
ある時、机に向かっている最中|目眩《めまい》に襲われた。変だなと思っているうちに、猛烈に天井が回りだした。這《は》うようにしてベッドに倒れこんだが、天井はいよいよ速度を増して回るばかり。眼をきつく閉じた。すると吐き気がした。症状が治まってから近所の医者に行った。一通り調べてから、脳の使いすぎですよ、と医者は笑った。脳が疲れて、休養を求めているんだそうである。
現にそれほど仕事をするわけではない。一日に午前中四時間も書くと、それ以上は神経が集中できないから、午後はテニスをしたり女友だちと食事をしたり、あとは普通のお母さん業。土、日も原則としてはノーワーク。
しかしそれ以後、三か月とか六か月を置いて目眩が出る。
つい先日もやられた。ちょうど三週間ばかりヨーロッパを回ってみようとしていた直前で、いわば連載物などの書き溜めをやっていた。
電話が鳴り、新年号や二月号の原稿依頼もひっきりない。ありがたくも一応お断りするのだが、二度三度と言われると、ついついひきうけてしまう。気が弱いのだ。旅行前に必要な買いものや、パスポートのことも気になる。石油も二日前から切れたまま。冷蔵庫の中は空っぽ。アイロンがけも溜っている。
原稿用紙に文字を埋めていると、くらりときた。あっきたな、と思ったら左に体が傾き、眼の底が暗くなった。ベッドまでどう這って行ったものやら。ぐるんぐるん天井が回り、そのあまりの激しさに酷《ひど》い嘔吐。
医者がトラベルミンをくれた。目眩と吐き気にきくのだそうだ。いわば臨時の応急手当。ヨーロッパ旅行まであと十五日、あと十日、とがんばった。
原稿用紙を広げただけで、もうむかむかっとする。ペンを握ると目眩に襲われる。
主婦の台所症候群というのが、ちょうどこんな状態なのだろう。
台所に入ったとたん、吐き気と目眩に襲われるというのも似ている。私の場合は、台所ではなく、原稿用紙を広げると、そうなる。
原因は多分、ストレスだと思う。自分の生理的物理的能力をはるかに超えた量の仕事を抱えこんで、青息吐息なのだから。
それに加えて私には軽い躁鬱《そううつ》の気があって、ある種の絶望感、無力感に捉えられると、右手の力が文字どおり無力になって、ブラシだとかフォークだとかペンなどがぽとりと手から落ちてしまう。ペンを握る力が全く手指から抜けてしまうのだ。こうなると、一、二時間は仕事にならない。
ペンのようなものだけでなく、一本の煙草さえ、持てない。あんな軽いものが支えられなくて、往生してしまう。
あれやこれやで、要するに仕事をするな、という体のサインなのだ。原稿用紙など広げるな、お前さんに向いている仕事じゃないよ、とまあそういうことなのだと思う。
とかなんとか言っているうちに、トラベルミンが効を奏し、手にも握力が立ち戻ったので、こうして原稿を書いている訳だ。
なんとかヨーロッパ旅行へもつれこめば、あとは全くのノーワーク。電話も鳴らない。しかしこのままのペースでいくと、一つ二つやり残した仕事をスーツケースに詰めて行くことになりそうだな、と不安がチラと頭を掠《かす》める。とたんにムカっとくる。いけない。考えまい。するとドアにノックの音。子供たちがママ、お腹空いたよ、ランチはまだかと喚きたてる。今日は、日曜日。
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私の読書法
さて、現在の私と本のかかわりかたはどんなふうかというと、まず読書量が極端に減ってしまった。あれだけ印刷された文章ホリックだったのが一挙に十分の一になった。
それでも全く本を読まないと、なんだか歯を磨かずに寝てしまうようで気持が悪く、歯を磨かず寝てしまうことがまれにあっても、本を一頁でも読まないという日は、まずない。
もっぱら、ベッドの中で読む。夜の一時、二時まで飲んで帰った時でも、必ず本は開く。そんな夜は、二行も読むとコトリと眠ってしまうのだが……。
しかし、朝六時半に起きて娘たちのおべんとうを作らなければならないので、ベッドの中で読む本の内容は限られてしまう。面白くて止められないというのでは、寝不足になるからだ。最低七時間眠らないと、原稿用紙に向かっても何にも出て来ないから、面白くて止められないという本は困るのだ。今はラテン・アメリカ系の作者のものを読んでいる。
三十五歳で小説を書き始める直前までは、実によく本を読んだ。薄い文庫なら一日に二冊の割りあいで乱読した。
その頃の傾向としては、作者別に集中するようなところがあって、ある時期にはアガサ・クリスティーばかりを、ゲップがでるくらい読みあさった。
別の時期にはアイリス・マードックだったし、グレアム・グリーン、フィリップ・ロス、ギュンター・グラスとポリシーもなく集中した。
そうした中でゆいいつ読んだ日本人の作品は三島由紀夫だけだった。
三島作品は、私の中で小説を書こうかどうしようかという直前の無意識のうちに読みあさったものだ。日本人はどのように小説を書くものか、という興味からだった。であるから三島作品をお手本に選んだのが適当かどうかわからなかった。なぜ三島だったのかは、テレビ洋画劇場で観た『午後の曳航《えいこう》』のせいだった。あれは非常に秀れた外国映画だった。
以前は旅先とか乗り物の中が重要な読書の場所だったが、自分で小説を書くようになると、一歩外へ出ると、どこかアンテナを張りめぐらせるようなところがあって、何にも読まない。
そんなわけだからしっかり集中して読書する時間は、無理矢理に作り出さないといけない。たいてい、机にむかって一仕事終えた二時頃から、一、二時間。子供たちがお腹を空かせて学校から帰ってくるまでのわずかばかりの時間である。その時に読むのは比較的新しい翻訳物で、今日は、イアン・マッキューアンの『ベッドのなかで』―― In Between the Sheets を読んでしまうつもり。読みだしたら、とにかく二時間くらいで一冊読んでしまうのが、最近の傾向だ。
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ご存知《ぞんじ》ないのは男たち
気のおけない仲間が集まって飲んでいる時、嫉妬《しつと》の話になった。
「僕はまだ寝ていない女が――日頃なんとなく気になっている女だよ――、他の男にむける視線に嫉妬を感じるな」と一人の男が言った。「それも相手の男が知っている奴だったりしたら、猛烈に怒り狂っちまうと思うね」
そうだ、そうだと男たちが相づちを打った。「一度でも寝た女は、ある意味で自分のものって感じだからね、安心感があるんだよな」
安心感があるんだよな、と言った男たちの女友だちや妻たちが、秘密の情事を昼下りに持っていることなど夢にも知らないのであります。
お気の毒にも、裏切られたり騙《だま》されている男たちは、女の視線がどうのとのんきな事を言っているが、知らぬがはな、知らなければ何ひとつとして実在しないに等しいわけだから、それはまあ幸せと言えば言えるわけで、ウイスキーの水割など飲みながら男の嫉妬について気炎を上げ、その傍で女たちはというと、そ知らぬ顔で、これ又ウイスキーを飲むという次第である。
男がキッチンに入って、何やらごちゃごちゃと作るのが流行しているらしい。なるほど、たしかに一昔前の男たちほどには惨めったらしくもなく野菜を刻み肉塊など扱っている。
中には天才的な男もいて、野菜を刻んだナイフはさっと洗い、ふきんで拭いてしまってしまうし、使用済みのマナイタもただちに洗われて、あるべき場所におさまってしまう。片づけながら料理をするのが、男の料理だ、と彼らは語るのが非常に好きなのだ。その点、女は駄目だと、言外に言いたいのだ。女の台所は、流しに汚れものが山のようにたまるじゃないか、と。
整理整頓しながら作り上げた男の料理を、ご馳走になる段は、やたらと気骨が折れるものだ。美味《おい》しいと言えば美味しいのだが、たとえば、鶏肉を上等のボージョレで煮こもうと、安いクッキングワインで煮こもうと、素人の手料理にそんなに差があるものじゃない。しかしクッキングワインで充分だわよ、などとは、口が裂けても言えないのである。口直しに、おたくわんでお茶づけ一杯食べましょう、と失礼なことをいう訳には、これまたいかないのである。
では女が料理をする場合を考えてみよう。野菜を刻む。電話が鳴る。「オイ、電話だぞ、出ろよ」、という相手がいないから自分ででる。
フライパンに油を溶かしておいて、玉ねぎを放りこみ、走って行ってお風呂に水を落とす。ついでに洗濯機の中に洗剤をパッパと入れて、スイッチ・オン。
フライパンの中身をかきまぜつつ、鶏肉を切る。切った鶏をいためる。再び電話。火を弱めておいて居間に走っていく。
ふと見ると花がしおれかけている。花びんを持ってキッチンに戻り、花を捨て、花びんを洗う。いためた鶏と玉ねぎの中へ、クッキングワインを入れて、煮こむ。子供たちが学校から帰ってくる。オヤツちょうだいと、かけこんでくる。冷蔵庫の中を覗《のぞ》いてあるものを食べさせる。風呂の水を止めにいく。火をつける。子供がオヤツの量のことでケンカをする。最初は無視する。上の子が下の子を突きとばす。ここで子供たちを叱る。またまた電話。この頃セールス電話がやたらと多い。それも夕食の仕度をしている時に集中するのはなぜか。子供たちの宿題をチラチラ横眼で見ながら、サラダを作り、食卓を整える。お隣の奥さんが、留守中にあずかっておいてくれた小包みを届けてくれたついでに、ちょっと立ち話。玄関の乱れた靴を整頓する。
夫が帰ってくる。背広とズボンをハンガーにかけてやる。靴下とYシャツはカゴの中へ。「お風呂にします? それとも食事?」と聞いて、風呂と答えれば湯かげんを見る。どうぞ、と言っておいて、料理の味をみにキッチンへ戻る。うん、おいしい。
おい、湯あげタオル、と夫が怒鳴る。はいはいすみませんと、タオルを手に走る。
いよいよ食事。うまいが、ワインのソースは胃にもたれるね、日本人はやっぱり最後にお茶漬けといきたいね、と夫がいう。どうぞと別に嫌な顔もせず、たくわんを切ってくる。自分もつきあってお茶漬けを食べる。ざっとこんな具合である。文句もいわず、髪をふりみだしもせず、女たちはこういうことを毎日やっている。整理整頓しながら料理を作らないかもしれないけど、料理をしながら風呂をわかし、電話や――恋人からの明日のデートの打ち合わせも含めて――玄関の呼び鈴の応対をし、子供たちのオヤツ、宿題の監視、洗濯もやる。私は締切りに間にあわない原稿をキッチンの片隅で書くことだってある。
だからと言って、「女の手料理は」などと言って女はいばらない。ご存知ないのは男たちだけである。
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お家で寝てよ
ホテルのカンヅメで一日仕事をすると、夜にはさすがにゲッソリとしてしまう。
一杯飲んで眠ってしまえばいいのだが、妙に神経が高ぶっていて眠れない。そこで電話魔となり猛烈にしゃべりまくる。要するに人間の声が聞きたいわけだ。
なんとなくしゃべり足りない気がしていると、相手が「どうせ眠るだけでしょ、今から行ってあげるわ」という。三人四人そんな調子で集まってくると、私のホテルルームは酒場に変ってしまう。
飲んでしゃべって酔うと、酔いざましにおふろに入る者がいたり、私のベッドで仮眠したり、ひたすら飲み続けたりで、延々と続く。明日は二日酔いかと、内心ひどく後悔するのはそんな時である。
ある時など、例によって女たちの酒盛りが始まり、その中の一人が何を思ったかボーイフレンドに電話をかけ、言葉をやりとりしているうちに、「いらっしゃいよ」などと勝手に誘ってしまったのだ。
たまたまみんなの知っている男だからまあ良かったが、私などカンフー風のガウン姿だから慌てて服に着替えるしまつ。
夜も更けて、酔ったくだんの彼女が言った。
「ねえ、どうせここ眠るだけに使うんでしょ? だったら車代出すからお家で寝てよ。今夜、あたしたちにこの部屋使わせてくれない? お願い」
気がつくと他の女友だちと共に私はホテルの外に追いだされていた。
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友情の奥にあるもの
私は本音でしか人とつきあったことがないから、他のことは知らない。本音でないとその逆は何というのだろうか。嘘音《ヽヽ》かしら、などと考えてしまう。
一度|嘘《うそ》をつくと、次々とたくさんの嘘を重ねてしまわざるを得ないから、そういうことはひどく神経を疲れさせるから、この二十年以上、ずっとずっと本音しか言って来なかった。そして友だちも同じように、私に対して、嘘をつかない人たちに、自然しぼられていった。
しかし逆に、いつも本音の関係というのも、見ようによっては、これもしんどいかもしれない。あいまいなこととか、口を濁すとか、語尾を「……」にするとか、そういうことを一切許せなくて、きっちりと物を相手に伝え、相手からも、きっちりとした言葉を期待するというのは、ある意味で、真剣勝負みたいなところがあるわけだ。
こっちも真剣、命がけでかかわるわけだから、相手にも当然それを求める。となると、いい加減な相手では相つとまらない。どうでもいいような人と、いちいち真剣勝負をしていたら、身がもたない。それでなくとも本音のつきあいというのはすり切れる部分があるわけだから。
しかし、本音だからといって、何でもかんでも頭に浮かんだことをポンポン相手にぶつけるのかというと、そういうものではない。本音仲間にも、言っていいことと、悪いことがある。嘘はつかないが、都合が悪い場合は本当のことも言わないという、暗黙のルールはあるわけだ。その嘘が自分を守るための嘘ではなく、相手の立場を救うための嘘であれば、それは許される嘘である場合がある。そういう意味だ。
本音でつきあえる関係というのは、愛しあっている人間関係だと思う。しかし恋愛はこの中に入らない。恋愛はもっと気取っているし、下手をするとひどく相手を傷つける。友情――無限に愛に近い――こそ、本音でつきあえる関係だ。
この男のために、あるいは女のために、死んでもいいんじゃないか、多分、そういうことを(死ぬということを)こいつは自分に絶対に求めはしないだろうが、その上でなお、死んでくれと言われたら、相手のために死ねる――そういうのが友情の一番心根の奥にあるような気がする。相手のために、死んでもいい(本当に死ぬかどうかはこの際全然別問題なのだが、とにかくそう思えるかどうかが問題なのである)というその相手に対して、私は本音を言えるし、その相手の本音も受けとめることが出来る。つまり相手の言葉に対して、こちらが責任をとることができる。
言葉は単に相手に投げつけるものではなくなり、本音とは、その言葉が相手の中で生き、時には自分も相手も手酷《てひど》く傷つくこともあるわけだ。
「今度の作品はよくないよ」と、相手が私に言うとする。それが本当であることは誰よりも私が一番良く知っている。当然傷つく。そして相手も、その言葉を発した瞬間に傷ついている。つまり友人を傷つけるのが目的で言っているわけではない。本当のことをいうと友人は傷つくが、そういう自分もまた傷つく。それが本音の本音たるところだ。つまり、自分の言葉に責任をとるということ。
だから、「今度の作品よくないよ」と言われても、どこかで救われるのだ。彼もまた、そのことで傷ついていてくれる、という意味で。自分は見放され、天涯孤独なのではない、ということで。
私が友人と呼んでいる人たちは、そういう人たちである。そんなに多くはない。けれども仕事を終えて少し寛《くつろ》ぎたいというような時には、そういう友人とお酒を飲んだり食事をしたりする。友人は私の生の証人であると同時に、私もまたその友人の生の証人であるという認識が、この世の中に生きていく上で、何よりも貴重なのではないかと思う。
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近ごろコワイ話
小説の登場人物というものは、多かれ少なかれ作者が重なるものだから、性格が似ていたり、意識の流れに共通点があったりする。けれども今私は週刊誌に読みきりの短編小説を連載しているが、これは毎回ちがう話で、当然のことながらありとあらゆる男女を次々とひっぱりだして来て、ドラマを演じさせているわけだ。
作者の分身や影とはいえないようなヒロインも数多く登場する。
にもかかわらず、「よく似てますね」と人に言われる。
あんなに毎週ご自分のことを書いていて、よくネタがなくなりませんね、というわけだ。
私のことを個人的によく知らない人まで、似ている、似ていると言うのである。なんでこの人に私のことがわかるのだろう、と唖然《あぜん》としたが、ムキになることもないから、「そうですかあ?」とトボけていた。
ある時、鏡の前に座って愕然《がくぜん》とした。私は私の短編のさし絵に描かれている女たちに、そっくりなのである。
ちょうどその朝は寝起きのザンバラ髪であった。私の小説のさし絵の飯野さん描くところの女たちとそっくり同じであった。
考えてみるに、毎週毎週その絵を何度も見ているうちに、作者である私が、そのさし絵の女たちにだんだん似てきた、というのが正解らしい。もともととても好きな絵であるから、それで気づかぬうちに似てきたのだ。連載を始める頃はショートヘアだったが、六か月目にはかなり伸びて、イラストレーターの描く女と同じになっていたのである。
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ある体験
「失礼ですけど」と背後で女の声がした。「あの、森、瑶子さん?」
振りむくと、若い女性がじっと私の眼の中を覗きこんだ。私と話していた編集者が、用件が終ったので伝票を取り上げ、席から立ち上がった時であった。
そうですけど、と答えると、長い髪をきれいな指でさっと掻き上げて、
「私――」と彼女が言った。「――西脇俊輔の――」
えっ? と私は一瞬うろたえた。見知らぬ美しい若い女は、うろたえる私の顔に視線を注いだまま、薄く微笑した。茶色がかった瞳が、試すような、面白そうな、心配そうな、怯《おび》えたような、複雑な色あいを帯びて輝いていた。
彼女の微笑がさらに広がった。うろたえた私の眼に、その微笑は同情するようでもあり、共感のようでもあり、愛情のようでもあり、嫉妬のようにも映った。
「あら、ごめんなさい」と女が言った。「西脇俊輔は偽名《ヽヽ》でしたわね」彼女は若いくせに、ひどく思わせぶりに言った。「私、Mの――」
「あっ、Mの――」そして私にはいろいろなことが一度にわかった。実にいろいろなことが。
「あなた、Mのお友だち?」
「ええ、|特別に親しい《ヽヽヽヽヽヽ》――」若い女は臆面《おくめん》もなくというよりは、誇りをもってそう答えた。少し挑発するような感じもあった。そこに若さがまぎれもなく露呈していた。その瞬間、私と、その見知らぬ若い女との力関係が逆転した。私はもう、うろたえてはいなかった。
「森さんのことは、Mからいつもいろいろ伺っています。『情事』、読みました。Mが、この中に僕が出てくるから、と言ったものですから」
女の眼が束の間、すがりつくような具合になった。やはり愛情と嫉妬とが複雑に絡みあって、彼女はほほえもうとして顔を歪《ゆが》めた。
「そう。Mがそうあなたに言ったのね」
私はそう呟いて、女のつややかな若い顔から視線を移し、窓ガラス越しに広尾の裏通りを眺めた。
「他のご本も全部読ませて頂きました。人ごととは思えないんです」
つまり彼女は、同じ男を時を違《たが》えて愛した女同士として、熱い共感で私を捉《とら》えているのが、ありありと感じとられるのだった。
「二十年も前のことよ」私は言った。
「知っています。全部聞いています」うれしそうに、同時に悲しそうに彼女はうなずいた。
「二十年前、彼はそれは素敵だったわ。色が浅黒くて、すらりと痩せていて、地中海の色のブルーのシャツを着て、いつもジーンズで」
「今でも、彼、とても素敵です」Mの若い恋人は口紅を塗っていない唇の先を少し尖《とが》らせるようにして、言った。
「彼、元気?」
「ええ、とても。昨夜も一緒でした」
「息子さんたち、大きくなったでしょうね」
私はちょっと意地悪を言ってみた。
「上のが今年大学です」彼女は自分の息子でもあるかのような口調で答えた。
「あっ、そうだ、思いだしたことがあるんだけど」私が続けた。「彼に五年ぐらい前にある事を頼んだんだけど、そのままになっているのよ」と、|ある事《ヽヽヽ》を説明した。
「あら、私はもう彼に|それ二つも《ヽヽヽヽヽ》もらいました」若い女性は自慢そうに笑った。「Mに伝えておきますわ、森さんのご伝言」
別にMの愛人から伝えてもらわなくとも、自分で電話できるのだが、私は黙ってうなずいた。
「こんな所で、|新旧《ヽヽ》二人の女がバッタリ顔を合わすなんて、不思議ね。Mが知ったらどんな顔するでしょうね」私は、彼女がさっそくその夜にでもMに事の一部始終を報告するだろうと思って、しんみりと言った。「罪ほろぼしに、二人でいつかMにごちそうしてもらわない?」
「Mに、|そう《ヽヽ》伝えておきますわ」
その時私はその若い女を、とても可愛い人だと思った。必死なのである。痛々しいくらいに必死なのだ。背のびをして、現在自分の恋人の、過去の女と張りあおうとしていた。
私たちはそれから十五分ばかり更にお喋りをして、別れた。Mの妻の話は、一度も話題にのぼらなかった。私たちに共通の敵《ヽ》というわけだった。
ところで、西脇俊輔《ヽヽヽヽ》という『情事』に登場する|ヨーコ《ヽヽヽ》の過去の婚約者のモデルは、Mでは|ない《ヽヽ》。Mは同じ時期に|私の《ヽヽ》青春を掠めて行った実在の男の一人であったが、Mが西脇俊輔でないことを|私が《ヽヽ》知っているし、誰よりも|Mが《ヽヽ》それを一番よく知っている。
奇妙なことに、私の耳に入ったかぎり、他に二人ばかり、自分が西脇俊輔だと信じて疑わない男がいる。ところが、現実には、西脇俊輔など存在しないのである。彼は完全に架空の、想像上の人物でしかない。あるいはこうもいえる。|彼は《ヽヽ》一部Mであり、一部SでありHでもあり、一部私の夫であり、私の父でもあると。
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愛はいまどこにあるのか
今、誰かを愛しているとすれば――ありのままを受け入れ、ほどこし、愛して決して悔いのないのは――血を分けた娘たちだけなのではないかと思う。十二歳と十四歳と十八歳の娘たち。
純粋に愛されることだけを望んでいる子供たち。親から愛されること以外何も期待しないでいる現在の彼女たち。十二と十四と十八の私の三人の娘。
先のことはわからない。ずっと先々まで彼女たちを今と同じように愛せるかどうかわからない。彼女たちにそれぞれ男ができ、子供が生まれ、生活が始まり、さまざまな苦労や金銭のしがらみがつきまとうようになれば、変ってくるだろう。けれども先のことを心配しても始まらない。私が言いたいのは、この世に愛するものがあるとすれば、それは娘たち以外にはありえない、とそういうことなのだ。
夫に対して抱いている正直な感情は、「情」である。熱烈に愛した時期、悲しかった時期、辛く恨めしかった時、激しく憎んだ時々などを過ぎて、残っている思いが、「情」なのである。
「情」というのは、愛に一番近い感情かもしれない。しかし愛のもつ強さのようなものは、完全に取りのぞかれている。娘たちのために必要ならば自分の命を投げうつことが出来るが、情だけを感じている相手のためには、そこまではしない。愛が失われて、情が残ったと言えるだろうか。二十年の結婚の嵐のあとで――。
物が少しよく見えてくるとわかったのだが、過去自分が愛したと思った男たちに対して抱いていたものは、すべて欲情であったのだということ。
若い頃の恋愛は、あれらはすべて発情そのものであったと思うのだ。
ある時私は、男たちについて、親しい女友だちと語りあったことがある。彼女は私より十歳年上で、今アメリカに住んでいる人だ。一年に一度か二年に一度日本に里帰りすると、私たちは美味しいものを食べ歩き、六本木のバーで語りあい、それでも足りないと京都あたりまで彼女を送っていく(彼女の実家が大阪なので)。そして、徹底的に話しあうのだった。過去について、男たちについて。とりわけ私と彼女が共通に愛したある一人の男について。
芸大でヴァイオリンを奏《ひ》いていた頃、私は一人の男を紹介された。紹介者は美校の油絵科の学生で、その相手は詩人だということだった。
生活感など何もなく観念の世界に生きていた頃だから、本物の詩人に逢えるの、と私は単純に喜んだ。今で言うところのブラインドデイト。今はなき新宿の|※[#「几」の中に「百」]月堂《ふうげつどう》で逢いましょうという電話の約束だけが交わされた。
その詩人の声の印象だけが頼りであった。詩人は低い微かにかすれを帯びた黒々とした声で静かに私との約束をとりつけたのだった。私は多分、あの最初の彼の声そのものに恋をしたのだと思う。声のもつ不思議な響きと、それから言葉と言葉にひんぱんにはさみこまれる沈黙と、選びぬかれたあまりにも少ない言葉そのものに。
※[#「几」の中に「百」]月堂で――詩人はすぐにわかった。彼は声の印象と同じ様子をしていた。私は一目で恋に落ちた。
その日から一年間、彼は私の恋人となった。
詩人との恋愛は、まことに奇妙なものだった。彼を愛するということは、彼の体現するすべてのことに耐えることと同じことであった。
彼は約束の時間を一度として守ったことはなかった。たいてい二時間は人を待たせた。六時間、喫茶店の隅で彼を待ったこともある。
それからさらに辛かったのは、驚くほど大勢の人々と、彼を共有しなければならなかったことだった。芝居関係者や芸術家の卵や、無職や浮浪者のような男や女たちが、彼をとりまいていた。
にもかかわらず、詩人は、私に対して誠実だった。私と一緒にいる時間内で、彼は彼にできる精一杯のやさしさを私に示しつづけた。
ほとんど毎日のように私たちは逢っていた。最後には二人だけになったが、たいてい誰か別の男女が何人も一緒だった。芝居を観たり、個展を観たりして、ロシア料理店で食事をし、それからお茶の水のジローとか※[#「几」の中に「百」]月堂に流れて、みんなで閉店まで語りあった。
それから誰かのアパートへ場所を移し、たいてい明け方、暁の中を、私は彼に送られて家へ戻るのだった。
一年ほどがまたたくまに過ぎた。私はあいかわらず詩人に夢中だった。
ある時、詩人に妻がいることを第三者から知らされた。それだけでも当時十九歳の私にはショックだったのに、その妻という女性が、日頃私が一番親しくしていたグループの中の一人だった。
彼女は女優にしてもおかしくないくらいきれいな女で、絵を描いていた。私たちはいつもグループで芝居を観たり食事をしてきた仲だった。
妻といっても結婚しているわけではなかった。ボーヴォワールとサルトルの関係と同じだった。
身を引こうとした私に、彼女が言った。「どうして? 今までと同じでいいじゃないの」
「でもあなたは苦しくないの? 私には苦しくて耐えられそうもないわ」と私が答えた。
「もちろん苦しいわ。でもこの一年間、ずっと耐えてきたわ。これからだって、多分耐えられると思うわ」
「私のこと、憎いと思った?」
すると彼女は長い沈黙の後にこう言った。「彼が愛しているひとだから、私も愛そうと努力したわ」
ほんとうに人を愛するのは、そういうことなのだろうと、その時初めてわかった。もし今、身を引いてしまえば、私の彼に対する愛情の質というものが、おのずと知れるような気がした。私が彼を愛しているのなら、彼が愛するすべてのものを私もまた受け入れられるはずであった。
そして結果的に私は彼の妻を受け入れた。それ以来、私と彼女は本当の親友となった。
奇妙な三角関係が二年ほど続き、彼女が彼を捨てた。彼女は別の男と結婚してアメリカへ渡った。
彼女がいなくなると私と彼との関係も変化した。彼女なしで今までと同じように彼を愛せない自分を発見した。彼もまたそうであった。やがてほどなく私も彼のもとを去った。
それから年に一度か二年に一度、彼女が里帰りすると、私たちは三人で逢うようになった。あれから二十年以上たつ現在でも、必ず三人で食事をする。
彼は年をとり、彼女もまた年をとり、私も若くはなくなった。彼はあいかわらず貧乏で、食事代は昔のように彼女と私とで彼の分を払った。彼は年をとった分だけ頑固になったが、依然として驚くほどやさしいのだった。
「ねえ、覚えている?」とある時、彼が私に言った。「僕が訊《き》いたことがあったよね? 傷心と空虚について」
「ええ、覚えてるわ」と私が答えた。「私に、傷心と空虚のどちらをとるかって訊いたのよね、あなた」
「そう。君が十九歳の時」
「それで、あなた何て答えたの?」と、彼の昔の妻が訊いた。
「傷心をとるって」
たとえどんなに傷ついてもいいと思った。空虚な関係など、選びたくはなかった。「彼は、空虚をとると答えたのよ」
「結局」と、詩人はひっそりと笑った。「二人とも、最初に望んだようになったじゃないか」
中年になった私と彼女が京都旅行をした時のことだった。例によって私たちは過ぎ去った日日と過ぎていった男たちについて、フジタホテルのバーで語り明かした。
「でももうほとんど忘れたわ」と彼女が深い疲労感を滲《にじ》ませて呟いた。「顔さえ覚えていない男たちも大勢いるわ」
「ほんとうね。顔も声も、仕種《しぐさ》も、忘れてしまうものね」私も同意した。
「ひとりだけ、忘れていない男がいるわ」と彼女が呟いた。「妙な話だけどね、彼とは一度も寝ていないのよ」と遠い眼をするのだった。
「彼は役者でね、とてもむずかしいタイプの男だったわ。ほんとうに好きになってしまうと、女を抱けなくなるの。いきずりの女とか娼婦ばかり抱いていたわ」
「そのひとのことだけが忘れられないの?」と私は訊いた。
「すべて覚えているわ。眼の色とか、手の形とか、声の感じとか。昨日のことみたいに、ありありと。寝た男たちはみんな忘れたわ」
「彼とは何年つきあったの?」
「恋人としてなら一年よ。すごく苦しかったわ」
「私と同じね」ついに私はぽつりとそう言ってしまった。
「同じって、何が?」京都のホテルのバーで彼女は顔を上げて私をじっとみつめた。
「私と彼よ」私は、私と彼女が共通に愛していた詩人の名を言った。
「まさか」と彼女が絶句した。
「でも本当よ」と私は答えた。「私たち、何もなかったのよ」
「嘘でしょう」彼女の顔色が蒼ざめた。
「彼、一度もあなたを裏切っていなかったのよ」
彼女が何事かめまぐるしく考えているのがわかった。
「何でそう言ってくれなかったの、あの頃」とりかえしようのない声で、彼女がそう呟いた。
「私がどうして他の男と結婚したと思うの?」
「私のせいなの?」私も彼女の顔をじっと見た。
「だってあなたは私より十歳も若かったのよ。いずれ私が捨てられると思ったわ」再び彼女は軋《きし》んだ悲鳴のような声で言った。「どうして、本当のことを言ってくれなかったの?」
「言えなかったわ、とても。彼が私を抱いてくれないなんて、そんなこと、とてもあなたに言えなかった」
「でもどうしてなの?」
「本当に愛されていないと思ったのよ。愛されているのは、あなたの方なんだって。それを口に出して認めたくなかった。あなたに負けたくなかった」
「私はてっきり……」と彼女は下唇をきつく咬《か》みしめた。「あなたたちが愛しあっていると思っていた。つまりセックスをしていると……」
私と彼女はそれきり黙りこんだ。
「つまり」と長い沈黙の後、彼女が呟いた。
「彼は、本当にあなたを愛していたんだわ、セックスができないほど本気で」まるで何か新事実を発見したような言い方だった。「なんてことなの」と彼女はひどく淋しそうに苦笑した。「私はむしろそのことを苦しむべきだったのに、見当違いにも、あなたと彼との関係を妬《や》いたりして」それから、声の調子を変えた。「いずれにしてもあの段階で見切りをつけておいてよかったわけだわね」
しかし私は――。二十年以上も、別の思いの中に捨て置かれていたのだった。彼女が言った言葉――「彼はむずかしい人だったのよ、本当に愛してしまうと、抱けなくなるの」――もしそれが詩人にもあてはまるのなら、私は、彼に、愛されていたのかもしれない。本当に、心から愛されていたのかもしれないのだ。
しかしもうすべては過ぎ去ったことだった。二十数年も前に、終ってしまったことだ。
「私、あなたのこと恨むわよ」と、最後に彼女がぽつりと言った。それから私たちはそれぞれの部屋に引きとって、眠った。
その会話の日からすでに三年がたった。去年も彼女は里帰りをした。私たちの関係は少しも変っていない。彼女が手紙を寄こし、私は、彼に電話をする。
「――彼女、またやってくるわよ」
「そう。ついこのあいだ一緒に食事したばかりだと思ったけどね」
「でも、もう一年以上たつわ。お元気?」
「元気ですよ、僕は。あなたは?」
「私も元気。じゃ彼女が来たらまたね」
「うん、楽しみにしている。電話をありがとう」
短い電話だ。いつもそんなふうに話して私は電話をおく。そして瞼《まぶた》に涙が少し滲むのだ。可哀相な詩人。可哀相な詩人のもとの妻。可哀相な私。
もうとりかえしようもないほど遠くまで来てしまった。
「ねえ、あなたたち」と私たちが例によって三人で飲んでいた夜、不意に彼女が奇妙な表情をして言った。「私、ずっと考えていたんだけどね、あなたたち、寝とくべきよ、一度」
私と詩人とは顔を見合わせた。
「妙な発想をするね、突然」と彼が呟いた。私たちは、彼女のホテルルームにいた。こっそりと持ちこんだワインが一本空になっていた。
「私ちょっと出かけてくるから、ね」と、何を思ったか彼女は突然コートを手に部屋を出て行ってしまったのだ。
「あいかわらず、そそっかしいね」と、詩人は苦笑した。
私と彼は、二本めのワインのコルクを空けた。それからマルグリット・デュラスについて主として彼が静かに喋った。
二時間ほどして、彼女が部屋のドアをノックした。
「どうだった?」と彼女はやはり奇妙な表情を浮かべて訊いた。
「素敵だったよ」と、詩人が答えて微笑した。私も微笑した。「素敵だったわ」
彼女は二本めのワインボトルがほとんど空なのを疑わしそうにみていたが、やがて呟いた。
「そう……、よかった」
今愛はどこにあるのかと問われて、私の頭に浮かんだのは以上のようなエピソードである。
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暮らしの中の香り
私の住んでいる家というのは、風の吹く家、といえば聞こえはよいが、要するに昔ふうの日本家屋なのである。
東京の家も油壷の毎週末用の別荘も、軽井沢の家もみんな同じような造りだ。木造でひんやりと薄暗く、木やタタミや障子がある。
私は日本家屋のもつ匂いというのがとても好きなのだ。木の香り、新しいタタミの匂い、紙の匂い。どこか自然でうつろいやすい。
イギリスの主人の実家を訪ねた時のことだが、石やレンガで作ってある何百年もの古い建物には、独特の匂いがしみついていた。もう何十年も敷きっぱなしのカーペットや、よく洗ってはあるがやはり時代もののモスリンのカーテン、石の壁、天井などが歴史の中での暮らしの匂いを放っているのだった。
それはキャベツの煮込みの匂いや、雄猫が生理的に放つおしっこの匂いや義母が使っていた香水や義父の紙巻き煙草やチョコレートやその他もろもろの匂いが入り混じったものである。
イギリスの家の中にしみついていた匂いは窓を開けたくらいでは消えない。けれども日本の私たちの家にこもる匂いは、窓をあけ、風を入れると、あとかたもなく消えてなくなってしまう。
そして油壷の別荘には絶えず相模湾から潮風が吹きこんでおり、潮のなんともいえずノスタルジックな、甘やかな匂いがたちこめている。ときどき磯の匂いがひときわ強くなったりすると雨が降り出したりして。
軽井沢の百年もたつ家は、今にも傾いてしまいそうだが、この家はほとんど窓だけで出来ているような二階家で、ここにも高原の風が吹きこむのである。
透明で、ハッカの匂いのする冷たい風が家の中を吹きぬけると、私はとても幸福な気分になる。
雨が降れば降ったで、エゾマツの濡れた匂いが強くたちこめて、それはそれで大変に結構なのだ。
自然のものの香りは私を幸せな気持にしてくれるが、考えてみれば暮らしの中には香りが満ちているわけだ。
できることなら良い香り、上等な香りに囲まれて生きていたい。
いいワインの香り、仕事部屋に流れるいれたてのコーヒーの匂い、バラの花の香り、洗いたての木綿の匂い、赤ちゃんの頬《ほお》のあたりの匂い、シガーの香り、ふと匂う男の髭《ひげ》そりあとのオー・ソバージュの香り。それからずっとずっとはるかな昔、青森からリンゴ箱が届いた時のあの匂い。
木箱をクギヌキで開けると、びっしりのモミガラ。手を突っこんで、固くて小さなリンゴを取りだす時のあの匂い。モミガラとリンゴと木箱の、甘酸っぱく、期待に満ち、すがすがしい香り。なんと郷愁を誘う過去の匂いの記憶であることか。
それからこんな不思議な匂いもある。
それはふと迷いこんだ路地とか街角で、おや、私はここを知っていると感じる時のあの感覚。樟脳《しようのう》が鼻の奥にたちこめるような懐かしくも気の遠くなるような匂いなのだ。その場所はただ単に前に通りかかったことがある、というような記憶ではなく、昔、住んでいたとか、前世に深く何らかの関わりがあったのに違いない場所なのだ。遠い昔、私が別の私であった時。もう何も覚えていないが。もしかしたら小町娘であったかもしれないし、三味線のお師匠さんだったかもしれない。あるいはそのあたりに住んでいた飼い猫だったか、土手に咲くスミレであったかタンポポであったか。いずれにしろその地に関わったのに違いない。
そういう場所にたちこめている奇妙にも哀《かな》しい香り。過去から立ち昇ってくる匂いなのだ。
その家にはその家の匂いがあり、その国にはその国の匂いというものが厳然としてある。そして人にも、その人だけのもつ匂いがある。それはもちろん使っている香水やオードトワレの匂いのこともあるが、その人から漂う風情のようなものでもある。
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理想の家
何かを所有するということが、あまり好きでない。
それがどんなものであれ、ひとたび自分のものとなると、守りの姿勢になるからだ。
守勢というのは私を不安にする。以前、といっても三十年も前のことになるが、ソフトボール・チームの選手であった時、毎週のように他校と試合をしていたが、守備よりも攻撃に回るほうが、ずっと気分がよかったのを覚えている。多分、性格がかなり攻撃的なのだと思う。
で、たとえば絵を買うとか、宝石を求めるとか、車を所有するとか、本を増やしていくとか、そういうことが辛いわけだ。
その最たるものが家である。家を守るということにともなうエネルギーを思うと、気が遠くなりそうな気がする。
にもかかわらず、生活者であり、家庭をもつ身であれば、物が嫌でも増え、住む器である家を持たざるを得ない。
嫌だ、辛いと言いながら、気がついてみると、私は借家を含めて四つの家を所有しているのである。
生活の大部分である東京の家は、私の父親のものだが、油壷の海の家と渋谷の小さなマンションは私と夫が買ったものだ。それから夏の三か月を過ごす軽井沢の家は借家である。
この四つの家を私たち親子五人は――犬と小鳥も入るが――フルに使っている。贅沢といえばまことに贅沢な話だが、四つの家を守ることのエネルギーや金銭的な負担も含めての話である。
家から家へ、週末ごと、季節ごとに移動する。衣料や食料品や動物たち、原稿用紙から辞書、書物、一切合財ひっくるめて、小型トラック一台分の移動である。
私たち一家を見て友人や親しい人々はなかばあきれ顔。何をそうあくせくあっちこっちの家を往復するのだ? というわけだ。
なるほど、傍目《はため》にもあくせく見えるらしい。週末ごとに海の家へ行けばお金もかかるだろうという。
けれどもお金のことなら、東京にいたほうがずっとかかる。三人の年頃の娘たちが、映画だ、ディズニーランドだ、サマーランドだと出歩くと、たちまちお金に羽根が生えて飛んでいってしまう。油壷にいれば、海はタダである。
しかし、こういう生活も、あと五年もすれば終りになる予定だ。末娘がイギリスの大学へ行ってしまうと、私たち夫婦二人だけ。東京のこの父親の家は、部屋数が十四もあって私たちには大きすぎる。軽井沢の借家も、ベッドルームだけで六つもあるから、これも必要なくなる。小さなマンションに移って、週末に油壷へ行ければ、私も夫も満足だ。
更に欲を言えば、私も夫も物を書くのが仕事だから、これはペンと紙さえあればどこでも出来るわけだ。東京も油壷も処分して、大きなヨットでも買い、のんびりと世界中を回りながら、好きな場所に一か月でも二か月でも停泊しながら、暮らしてみたい。
目的地も、予定もなく。つまりボートピープルになるわけだ。これが私と夫の最終的な夢である。
私たちの家であるところのヨット。移動する家。風が変り、たえず風景が変り、接する人々が変る。嵐がくるかもしれないし、クジラの大群に遭うかもしれない。三十メートルの大波がヨットの両側にビルのようにそそり立つだろう。風は、夜通し、吠え叫ぶだろう。恐ろしさに歯の根も合わない思いで、私はキャビンに閉じこもり、耳をふさぐのに違いない。
それでも出て行きたいと思うのだ。海にはロマンがあるからだ。
もはや都会にはロマンなんてものは存在しない。血湧き肉躍るような冒険は、皆無に等しい。明日のことはおろか一年も二年も先のことまで見えてしまっている。海に出たら、翌日の命さえ、おおげさに言えば定かでない。
私の理想の家は、そういうロマンのある家のことである。
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都会の夏
私の東京の夏は、毎年どういう訳か上野駅に降り立ったところから始まる。
つまり夏の三か月を都会ではなく軽井沢で過ごすので、月に一度か二度、どうしても外せない用事で上京する時以外、東京とは全く縁がなくなるからだ。
上野駅のホームで、東京の夏に一気に取りまかれるのは、実に情けない惨めな体験である。空気は悪臭を放っているし、高温多湿はほとんど耐え難い。好きでもない男に全身をなめまわされるような、そんな熱くて湿った空気なのだ。そして駅の雑踏。慌しいアナウンス。地下鉄から立ち昇ってくる生臭いような熱気。とたんに身も心もすっかり薄汚れたようになって、私はタクシーを必死で探す。そして上野駅から一目散に逃げだす。
用事はたいてい六本木あたりで済ませることにしている。仕事は二時間くらいですんでしまう。あとは延々と長い六本木の夜に、私は取り残される。
あらかじめ飲み友だちと連絡がとってあるので、仕事の後はバーからバーへのカニの横バイ。夜は何もない軽井沢での分をとり戻す勢いで、とにかく飲んで喋って笑いまくる。
都会の男は柔弱だから真夜中にはダウンしてしまう。そこで男を捨てて深夜族と合流する。この場合は女友だちだ。
キャンティーあたりで落ち合って夜食にスパゲティを食べる。それからイタリアのワインを二時の閉店まで飲む。四時まで開いている店に移ってまだまだ飲み続ける。女たちが欠伸をしはじめる頃、六本木に暁が訪れる。
白々とした無人の街だ。猫が横断歩道を横切って行ったりする。じゃまたね、と女たちがタクシーを止めて言う。空気はひんやりと肌に心地よい。やがて東の空にバラ色の朝焼けが始まる。私は反対方向のタクシーを止めて乗りこむ。再び都会の夏が始まる前に私は上野駅にたどりつかなければならない。そして朝一番の電車で家族の待つ軽井沢に向うのだ。朝日がかっと照りつける頃、私は車内で眠っている。
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期待外れの夏
毎年夏の三か月で、長編を書くのがこの数年来のパターンだったが、今年は例外になった。
というのは昨年、春に一本の予定の長編がずるずるにのびて、夏休みに二本という無謀なスケジュールになり、涼しいはずの軽井沢で脂汗を流し続けた苦い体験が、骨身に滲《し》みているからだった。
更に悪いことには、私たちの軽井沢の家というのが、たとえば北軽井沢とか追分あたりにあればまだしも、旧軽の通りのすぐ裏にあるものだから、これが悩みの種だった。まず友人知人が、ちょっと顔を見に寄るわ、とやってくる。その友人知人が、どこそこのバーゲンでTシャツが五枚で千円だったわ、と情報を披露する。歩いて五分の距離に、美味《おい》しいもの屋がいくつもある。わかどり≠竍ちもと≠竅C今年はキャンティ≠ワでできた。
当然食いしんぼうの友人知人からお声が掛かる。三日にあげず何やかにや誘惑する。
私が憮然《ぶぜん》として「パスするわ」と答えると,彼や彼女らはびっくり仰天する。私が美味しいものを食べる機会を逃すなんて,信じられないわけなのだ。
彼や彼女らが,どこかで美味しいものを食べたりお酒をのみながら,私の悪口を言っているのに違いないと思うと,私の筆のスピードもがたんと落ちるのだった。
テニスの誘惑は,更に苦痛だった。家がテニスコートの二本裏通りにあるので,ポンポン打つボールの音が,日がなしている。普段の年なら朝から二時頃まで書いて,あとは二,三時間テニス。お風呂にはいりビールを飲んで,ほっとするわけだ。
二,三時間の運動で,汗をびっしょりかくということが,どんなに健康的にも精神衛生的にも良いことか知っているので,テニスをがまんすることが何よりも応えた。毎日ポンポンというテニスボールの音を聞きながら,来年はテニス三昧《ざんまい》だ,と自分自身に誓った。
そんなわけで,今年は去年自分に約束したとおり、テニスの明け暮れとなるはずだった。ところが例年になく今年の軽井沢には人が少なく,毎年手あわせするメンバーが顔を見せなかった。テニスクラブには,子供たちばかりがやたらに目立ち,テニスはしたいけれど相手がいないという状態。毎日テニスラケットを手に,空しくベンチを温める悲惨な日々となった。友人知人も今年はひっそりと鳴りをひそめて,顔を見に立ち寄りもしないし,美味しいもの屋の声も掛からない。ちょうど二週間ほど夫が英国へ帰って留守なので,遊びまわるチャンスと手ぐすねひいて待てども,遊ぶ相手などいないのだった。
テニスもできない,美味しいもの屋へも出かけない,遊びまわる相手もいないと,惨めな夏だった。おまけに小説は一編も書かなかった。こんなに暇なら,長編の二本ぐらい書けたものを,と,これは仮定の話。来年はどうなるやら。
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独断的同年代論
最近男も女も若造りになったせいか、ちょっと見ただけでは相手の年齢がわからないことが多い。
特に男は、生活臭のようなものを全然引きずっていないので得である。
どうみても二十五、六歳にしか見えないある編集者が、あとで聞いてみたら子供二人の父親だったなんてことがよくある。すりきれたジーンズにTシャツ、スニーカーといった格好で走り回っているせいもあるが、身体つきじたいが柔軟なのである。
時にそれで失敗するので、外見の感じに十をプラスして接することにしている。
ジーンズにスニーカーをはいて編集している世代は、完全に私より後の世代である。もちろん私の年齢の男にも、ジーンズとスニーカーでがんばっている男たちもいるが、私が言うのは、すんなりとジーンズとスニーカーが似合う世代という意味があって、がんばっているな、とこちらに思わせるのは、年のせいである。
ジーンズとスニーカー族は、小回りがきき、機転が働き、サービス精神に富んでいる。驚くほどの知識を、それも広範囲に持ち、押しの強さと同時に退き際を心得ている。要するに器用なのである。
彼らとお酒を飲むと、何時間でも喋りあっていられるが、なかなか核心に触れるということはない。で、世代が違うのだ、ということでなんとなく納得する。
同世代というのは、どういうことだろうか。私はすぐに自分との関係において物事をとらえるほうなので、同じくらいの年齢の男たちを思い浮かべてしまうのだが。――多分、一緒にいて、沈黙が苦痛でない人種、といったらよいか。
始めから終りまでペラペラ喋っていなければならないのは、二人の間に何ひとつ共通の基盤がないから不安なのである。
同じ時期に、ロカビリーを聴き、FENにかじりつき、大人たちが君の名は≠ノ夢中になるのをちょっと冷めた眼で見ていた多感な少年少女時代を送り、力道山の出現にドキドキした時代。エルビス・プレスリーからビートルズの初期の頃まで。サルトルやカミュやサガンの時代。六〇年の安保が輝かしき青春の頂点であった若者たち。
お茶の水のジローや、今はなき新宿の※[#「几」の中に「百」]月堂の片隅で、若さを浪費していた、今思えば贅沢な時代。
だから横にいる男が、年の頃が同じなら、何かポツリと言い、次に黙りこんでも、その沈黙が気づまりではない。沈黙に意味があり、黙々と流れる刻《とき》にさまざまな色合いの思いが重なる。
「今度の作品どう思う?」と私が訊く。
「うん、いいんじゃないの」と相手が答える。
どういいのか、別に説明してもらわなくともかまわないのだ。背景にFENの放送や、力道山やプレスリーや安保やサルトルや、※[#「几」の中に「百」]月堂があるかぎり、彼が言わんとすることが、わかるのだ。
同じ質問を若い世代にしたとする。すると彼らは言うのだ。「今度の作品は、一連の前のものと様相をはっきりと異にしますね。まるで一種ハードボイルドを読んでいるような気がしました。こんなことを言っては失礼ですが、女の作家が書いたとは思えないんですよ。完全に男ですね、あれは。男の書いたものです。あの、これほめ言葉なんですけどね、わかってもらえますか」
前出の「うん、いいんじゃないの」とは、ずいぶん違う。
けれども、「うん、いいんじゃないの」には、次のような意味合いもこめられているのだ。
「君が書いた小説の良し悪しの判断は、すでに君が自分でしているはずだし、君が一番よくわかっているはずなんだ。更に言えば、僕には君があの作品をどう自分で評価しているかもわかるからね。作家っていうのは、山口瞳じゃないけど一種の人殺しでさ、欲すると欲せざるとにかかわらず自分の周囲の一番身近な大事な人たちを毎日少しずつ、書くことによって絞め殺していくような作業をする因果な人種なんだよ。そして友人である僕らは、そういう因果な商売の君を、ほんの少し距離を置いて見守ることしかできない。助けてやりたいけどね、助けることなど所詮できない話しだし。第一、君は絶対に我々の助けなど求めもしない。だから君はただ書く。そして我々はちょっとばかり重い気分で、そいつを読む。そして君の血縁や君の関りをもった男たちほどではないにしても、やっぱり君の両手が僕の首を絞め上げるような気が、ほんのわずかではあるがするんだよ。君は知らないと思うがね。いいんじゃないの、それで」
そうなのだ。同世代というのは「うん、いいんじゃないの、それで」ということなのだ。
従って、私の友人には自分と同じ世代の人たちしか、いない。「いいんじゃないの、それで」と私を抱きしめつつ突き放してくれる男や女たちだ。
わかりきったふりもしなければ、世界が違うんだなどと見捨てもしない。要するに自然体。シャイで。
ある夜、そういう男たちの一人と出かけるとする。彼は男優だ。
それでなくとも人眼を魅《ひ》く顔立ちなのに、真白いパナマ帽と、白い靴。白い麻のジャケット。それにサングラスといういでたちで現れる。
イタリアのジゴロみたいだ、と私は心の中で思う。でもそれが彼の狙《ねら》いであることは明瞭なので私はニヤリと笑って意地悪く言う。
「どうしたの、マフィアのチンピラみたいに見えるわよ」
「アリガトウヨ」と彼はくわえ煙草の煙りのむこう側から答える。
私たちはホテルのロビーで待ち合わせていたので、人々の視線が彼に集中する。彼の白い気障《きざ》な帽子に。
そして彼はというと、その肩のあたりに優雅さを漂わせ、実に淡々と回転ドアのほうへ向かって歩きだす。軽く折りまげた腕に一人の女流作家の腕を絡ませて。
そして私は内心舌を巻いて、感心するのだ。男優がその背中に漂わせるものに。軽蔑とか野心とか。超然としてあたりの空気を凍りつかせながら、それでもどうしようもなく滲《にじ》みだす大衆へのおもねりもあるのだ。それでいて傲慢《ごうまん》で。たとえば映画の中のヘンリー・フォンダの歩きぶり。
駐車場の車の中に入ると、彼は帽子を後の席に投げ出し、椅子に深々と背をあずけて長いこと眼を閉じる。そしてやがて言うのだ。
「ボクが、どんなに恥ずかしい思いをして、こんな格好しているか、あなたにわかるだろうか」
そう、彼もまた同世代の男なのだ。
別の時。私の夫が言う。
「|あのシャツ《ヽヽヽヽヽ》はどうした?」
私はピンとくる。十五年も前に軽井沢のバーゲンで五百円で買ったインド綿の半袖シャツのことなのだ。
最初の頃、どんな色をしていたのか、もう完全に記憶にない。現在のシャツの色が、元々の色の面影をとどめていないことも確かだ。
何百回となく洗ったせいで、布地はガーゼ状になり、なんともいえない色の褪《あ》せかたをした複雑なベージュ色である。
いくつもカギ裂きができるたびに、彼が自分で無器用に繕《つくろ》ってある。
一度捨てかけて、危うく殺されかけるところだった。
「あのシャツはどうした?」とその時もそう夫は訊いた。
「あのシャツって?」
「|ボクのあのシャツ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「軽井沢でずっと前に買った五百円の安物のこと?」
「ボクのシャツさ」
「袖のつけ根がほころびてたから……」
「縫えばいいさ。ボクのシャツ、どこ?」
「雑巾にしちゃったかも……」
ボロになったタオルとかシャツを一定期間積み上げておく場所があり、ある程度溜ると、私の母が上京したおりなどにそれを宅急便にして母の家に送り、忘れた頃に雑巾三十枚くらいになって送り返されてくるのだ。
夫の顔色が変るのを見て、私はあわててしかるべき場所に飛んでいった。ボロ布の山は三十センチほどあったが、件《くだん》のシャツはその中にない。この前母が来た時に実家に送ってしまったのに違いない。
「ないわ」
「ボクの|あのシャツ《ヽヽヽヽヽ》がないって?」
あんなに怖い夫の顔を見たことはなかった。私は母に電話をかけた。長いこと待たされて、ようやく母が再び電話口で言った。
「まだ、雑巾にしていなかったわよ」
私は命拾いしたと、ホッとした。
それ以降、私はお手伝いのおばさんに、どんなことがあっても、|あのシャツ《ヽヽヽヽヽ》は捨ててはいけないと言い含めた。
夫がなぜ、たくさんのシャツの中から、|あのシャツ《ヽヽヽヽヽ》だけを溺愛《できあい》するのか、私にはわからない。元々、日曜日の朝からネクタイを締めて朝食をするようなイギリス男が、あのシャツに関してだけ、理不尽になってしまうのも不思議だ。普段は自分だけではなく、家中の者の着るものに、ひどくうるさい男なのだ。染みひとつ、皺《しわ》ひとつ許せない性格なのだ。
多分、|あのシャツ《ヽヽヽヽヽ》が、彼のセキュリティー・ブランケットの役割を果しているのだろう。スヌーピーのマンガに出てくるルーシーという、威勢のいいお姉ちゃんの弟で、ライナスといういつも指をくわえている男の子がひきずっているボロボロの毛布、あれにあたるのだろうと思う。
見回してみると同じ世代の人間は、この種のセキュリティー・ブランケットを何か持っている。それは古いナイフだったり、くたくたのジーンズだったり、ボロボロになった一冊の書物だったりする。そういう意味で私自身は何かと考えてみると、妙なことに、口紅がそうである。化粧机の引き出しを開くと、過去何十年分の口紅が、百近く林立している。自分ではその奇妙さに気づかないが、もう全然使わない古い口紅が捨てられないというのは、やはり妙である。心理分析的に、口紅が何の象徴であるかは知らないが、そのあたりに意味があるのだろうか。口紅を一本しか持たない自分を仮に想像すると、不安で気が狂いそうになる。なぜ不安になるのか、まったくわからない。
|あのシャツ《ヽヽヽヽヽ》にこだわる私の夫は、私と同じ年である。正確には三か月、私の方が早く生まれた。
彼は英国人であるが、国籍の違うことに対する違和感はまるでない。彼もまた、ロカビリーとエルビスと、海洋冒険小説と、ヘミングウェイをくぐり抜けてきた人間である。同じ時期に同じ音楽を聞き、同じ小説を読み、映画を見て成長したわけである。地球のこちら側とあちら側の違いはあっても。
イギリスと日本の時差は、八時間である。だから私たち夫婦の間のくいちがいは、この時差の違いからくると思っている。結婚二十年になるのに、夫の好みの状態にトーストが上手《うま》く焼けないのも、じゃがいもの塩の加減が常に彼の気に入らないのも、クリーニング屋から戻ってきたYシャツのボタンがついているかどうか点検をおこたるのも、時差が悪いのである。
なぜなら、彼からしてみれば、トーストがいつもカリカリに焼き上がらないのが気に入らないのかもしれないが、私に言わせれば、いつもと同じパンで、同じトースターで、同じ時間焼くのだから、日によってカリカリの具合がちょうどよかったり、足りなかったり、あるいは黒コゲになったりするのは、まったく私のせいではないのである。
責められるべきはトースターなのに、夫は何故か、トースターに文句を言わないで、私を叱る。
「君は二十年もトーストを焼いていて、|未だに一度だって《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》満足に焼けたためしがない」
「トーストくらいのことで何よ」と私は猛烈に反発する。何かというと、「今までに一度だって何々したことがない」と同世代の夫は言うのだ。他の同世代の男がそういうことを口にするかどうかは、夫にしてみたことがないからわからないが、我が家の同世代はそうなのである。トーストのことでは、うちの出来の悪いトースターのおかげで、私は超神経質になっているから、|一度も満足に焼けなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのは真実ではない。失敗は十回に一回くらいなのだ。その九回の成功を無視して、|いつもいつも《ヽヽヽヽヽヽ》と言われては、かっとくる。フィリップ・ロス顔負けの大げんかになるのはこんな時だ。
「トースト、トーストって、あなたほんとにファナティックなんだから。トーストなんて、人生においてちっぽけな問題じゃないの。トーストくらいのことで人生の一大事みたいに言うの止めてちょうだい」
「とんでもない。一事が万事なんだ。じゃがいものゆで方にしろ、Yシャツのボタンにしろ、君は一度だってボクを喜ばせてくれたことはないじゃないか。歯磨きのチューブのフタはどうだ? 靴の脱ぎ方はどうだ? 窓枠に埃《ほこり》がたまっていない日が、一日でもあったか? しかし今は、トーストが問題になっているわけだからな」
「だけどトーストは人生じゃないわ。大げさに言わないでよね」
「いや、トーストは人生だ。人生そのものだ」
同じようにじゃがいもが人生そのものになり、とれたYシャツのボタンで人生がひっくりかえるような騒ぎになる。厭味たっぷり窓枠の埃を指にこすりつけて私の鼻先に突きつけ、夫は私に人生観をあてこする。これすべて、理不尽。八時間の時差のせいである。時差のことさえなければ、我々は実に仲むつまじい同世代夫婦なのだろうと思うのだが。
それでは、女たちはどうか。
もう完全に二派に分かれる。貞淑な妻か、不貞を働いている妻か、どちらかしかない。そしてはっきりしていることは、不貞を働いている女の方が、ずっと魅力的だし、若々しいということである。
そしてそういう女の方が、料理も上手いし、家の中もこぎれいにしているし、幸福そうなのだ。ちょっと驚くが、夫婦の仲もきわめていい。もちろん夫が妻の不貞を知らない場合にかぎる話だが。
「あたしはね、亭主が外に女を作ったからその仕返しに浮気をしているんじゃないのよ」
と彼女は言う。夫が最低のルールを守り、家庭は家庭で大事にしてくれているかぎり、自分以外の女の影が、少しばかり射すのは、これは人間的に止むを得ないのではないか、と考えるのだ。無理を通せば道理がひっこむで、ヤブを突ついて蛇を飛び出させる必要もない。
「むしろ今の生活に満足しているわ。幸福でさえあるわ。だから、別の男に心を移せるのよ」
幸福だから、男を作る。これが私の世代の女たちに共通した人生観だ。といって早計ならば私の知っている女たちの考えである。
自立云々に血まなこになり、女の自立をスローガンにして闘争的なのは、私たちの後の世代である。確かに私たちは、それに火をつける役割は果したが、すぐにバカバカしくなって手を引いた。
自立なら、とっくにする女はしているのだし、男女の対等の問題だって、意識の上でも経済上でも、やっている女は、もうずいぶん前にそれをやっているわけだ。
声高にスローガンを叫ばなければならないのは、出来ない女たちなのである。もうすでにそうしたものを手に入れている女たちは、それに気づき、早々にグループを抜けた。
男に家庭内の役割分担を求めて、毎日闘争するのは、無意味である。そういうふうに育てられていない男たちのお尻を叩《たた》いて、ベッドメイキングをさせたり、お皿を洗わせたり、料理を作らせたりしようとすれば、夫の後につきっきりでガミガミ言うだけで疲れ果ててしまう。
役割分担の争いで消耗してしまうくらいなら、自分でさっさとやってしまった方が、はるかに能率的であり、精神衛生にもよろしい。そんなこんなで、別に歯を食いしばりもせず家事も仕事も手ぎわよくやってのけるのが、私たちの世代である。
特別にスーパーウーマンなのではない。別の世代の女たちがとても出来ないわとサジを投げるのは勝手だが、出来ないのは、男に対する期待があるからである。期待などきれいさっぱり消えてなくなれば、女も楽になれるのだ。
台所に入るのがとても好きだとか、家事が趣味だとか、アイロンをかけると一日の疲れがすっと引くとか、男がそう言って進んでやるのでないかぎり、何も男たちを家事労働に追いやって、女々しくする必要はないと思う。
男と女というのは不思議なもので、見事におぎない合っているところがあるのだ。男が強ければ、女は弱くてもいい。男が男性的であればあるほど女は女性的になる。
今はなぜか、男が女性化している時代だ。ファッション的にもそうである。台所に立ち得意料理など作らせて、マスコミがとり上げる。男が髪の毛を染め、パーマをかける驚くべき時代だ。男の香りとか、男のためのファウンデーションが売れている。
そうすると嫌でも反動的に女が強くなる。強くならざるを得ない。強いということは、ほんとうは切ないことなのだ。
我々の世代の女たちは、多分、ギリギリのところで、|我々の男たち《ヽヽヽヽヽヽ》を女々しくしまいと、がんばっているのではないだろうか。そんなような気がしてならない。
今、働き盛りであり、男盛り、女盛りである。ロカビリーや力道山やプレスリーが、六〇年安保が、私たちの原動力である。
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あなたは……
池田満寿夫のこと
長い人生の中に、決定的な節目というのは必ず幾つかあるものだ。結婚がそうだったり、出産体験、あるいは親の死というものがそうだったりする。
それは突然ある時私たちを襲う出来ごとであるかもしれない。そうでなければ、もう何年も、何十年もかけて用意周到に準備していたことが、時満ち、熟して発酵するというようなことでもあるだろう。
私自身、それはとても不思議な具合に起きた、まさに事件であった。
不思議な具合だというのは、ひとつには全く偶然のあることに誘発されて、私の中から何かが引きだされたのだが、あとから冷静に考えてみると、|そのこと《ヽヽヽヽ》を私はもうかなり長い年月ずっと夢みていたのではないかと気づくのだ。
具体的に説明するとこうだ。「|私の中から引きだされた何か《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」というのは小説を書くということ。「|偶然のある《ヽヽヽヽヽ》こと」というのは、池田満寿夫が芥川賞をとったことである。
池田満寿夫が小説を書いていた、ということ自体、私は知らなかった。絵描きは絵を描く人間であって小説など書かないと信じて一時も疑うことはなかった。私もまた大学の国文学を専攻した訳ではなく、音楽学校でヴァイオリンを専門に学んだ人間であったから、小説など書きたくても書けないし、第一書いてはいけないような、それは一種のルール違反のように考えていた。
その池田満寿夫が禁を破って、小説を書き、しかも芥川賞を受賞した。目から鱗《うろこ》が落ちるとは正にこのことを言う。エー、嘘ォー、ホントオ! いいのォ!? というのが掛け値のない驚きの言葉だった。
それなら、私が小説を書いてもいいわけだ、と咄嗟に考えた。考えた次にはペンと原稿用紙がキッチンのテーブルに並んでいた。
そのようにして、私は「情事」という最初の小説を書いたのである。その年、池田満寿夫が芥川賞をとったすぐ直後に。
もしあの時彼が賞などとらなかったら、私は永遠に小説を書くことはなかったかもしれない、と思うと、何だか空恐ろしいような気がする。
絵描きが書いたのだから、音楽をやっていた私も、という発想が実にすらすらと成立したのだ。別の、ごく普通の人が賞をとっていたら、その年の夏もまた私は自分が小説を書くなどということに思いも及ばず、時間が過ぎ去って行ってしまっていただろう。もしかしたら、永遠に、小説を書くという発想をしないまま、死んで行ったのかもしれない。
けれども果してそうだろうか。私は池田満寿夫という人の存在がなければ、絶対に小説など、書きはしなかったのだろうか?
青春時代の大部分を、そして結婚し子供を生み育てた長い年月を、たえず何ものかから眼を逸《そ》らしているというあの実感は、それでは何だったのか? 私はヴァイオリンを学んでいるんだから、とか、後には子育てに忙殺されているのだからと始終自分に言いわけをして、あることから逃げ回っていたのは、どういうことか。あることとは――「書く」ということではなかったか。
物を書くということがどんなに自分を消耗し痛い作業であるかということは、少女の頃から知っていた。私の父が物を書くことを宿命として生きていた男であったから、私は幼い日々、青春の日々、机にむかう父のうつむき加減の背中を眺めて生きてきた。けずられ、そがれ、見えないところでたえず血を流しつづけているような孤独きわまりない背中であった。
自分は父の血を受けて、いずれ物を書くだろうという予感が、漠然と、ごく幼い頃から私の中にあったと認めないわけにはいかない。ただし、それはいかにも辛そうな作業として私の脳裏に焼きついたために、長い年月、私は見て見ぬふりをしてきたのだ。そう、逃げ回っていたのだ。
|ふり《ヽヽ》をしていると、その|ふり《ヽヽ》がいつのまにか自分の生きざまになってしまうことがある。私はもう決して自分が書くことはないだろうと、あの頃、三十五歳のターニングポイントで、半ば諦めていたのだと思う。
しかし、そのギリギリのところで、池田満寿夫が出てくる。もはや言いわけや、逃げ口上はない。彼がやったのだから、おまえにやれないわけがない、とそう考えた。
ということは、池田満寿夫は偶然の出来ごとであったが(私にとって)、物を書くという行為は、用意されていた必然であったということだ。
この両方のどちらが欠けていても、私は小説を書きだすことは出来なかっただろう。不思議な具合に事が起ったというのは、そういう意味である。
今、池田満寿夫に様々な場で顔を合わせる。パーティーや、受賞式などで。そのたびに、私は彼を見て、実に感慨深い思いに打たれる。
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フランソワーズ・サガンのこと
「悲しみよ今日は」を読んだ時、頭をぶちわられたような激しい衝撃を受けた。読みながら、あらゆる行間で、私はほとんど茫然自失し、眼の前が次第に真暗になっていったのを覚えている。
読み終って最後に残ったのは絶望感と吐き気だった。
自分と同じ世代で、しかも同じ女で、もうすでにこんなに完成された文学的世界をもっているひとがいるのだ、という発見は、私を打ちのめした。
その当時、私は|潜在的《ヽヽヽ》作家志望の少女だった。もちろん小説など一行も書いたことはないし、すぐにも書きだすつもりもなかった。ただ漠然と、いつかわたしも、という思いだけが、意識下にあったように思う。
その希望を――まだ生れてもいず、自覚もしていなかった希望を――フランソワーズ・サガンはもののみごとに打ち砕いてしまった。
嫉妬すら湧かなかった。私はゼロで、彼女は百だった。私は何ものでもなく、彼女は天才で、神だった。文体のもつ驚くべき抑制力に、私は完全にひれ伏してしまい、ぐうの音もなかった。もしかして、サガンがこの世に現れなかったら、わたしは十代の終り頃小説を書き始めていたかもしれないし、少なくとも、書くつもりであるとか、いずれ、書く予定であるとか、作家になりたいとか、そういうことを口にして友人たちに吹聴していたかもしれないと思うのだ。
サガンがデビューしたおかげで、私は貝のように口をきつく閉ざした。自分はもうだめだと思い、作家志望であるなどという言葉は、恥かしくて、死んでも口に出来なかった。
そして事実、私は誰にも何ごとも喋《しやべ》らず、そんなことはきれいさっぱりと忘れてしまったのである。あまりにもぺっちゃんこに、希望を叩きつぶされてしまったゆえに、そこに私の夢が存在していたことさえ、忘れようとし、事実忘れることに成功した。
忘れたふりさえしないですんだほどだった。あまりにも耐え難く苦しい体験をくぐりぬけるひとつの方法は、それを精神的にも肉体的にも忘れることである。頭で無理にそうしようとはしなくても、自然が、本能が、忘れさせてくれた。そのようにして、私の青春の最も輝かしい時期に、サガンが君臨した。私は屈折した愛情と憧憬《どうけい》とをもって、次々に発表される彼女の作品をむさぼり読んだ。
作品と同時に、サガン自身の近況とか、日常とか男たちのこととか、スキャンダルや、自動車事故や、ギャンブルや、自殺未遂や、彼女の莫大な印税の使い道や、サントロペの別荘のことや、映画俳優たちとのパーティーや、レストランでの馬鹿騒ぎ、結婚、離婚、失恋、新しい愛などといった夥《おびただ》しいニュースを、私は片っぱしから読んだ。
それまでの女の作家というものが、本人の小説世界と、あまりにもかけはなれたものであるのに比べて、サガンの日常と人となりは、鮮烈なショックであった。その作家と、彼女が描く世界が近ければ近いほど、私は面白いと思い興奮した。「彼女は嘘《うそ》を書いていないのだ」と思うと、ゾクゾクするほど楽しかった。
やがてずっと後になって――サガンに叩きつけられた時から十五年も後に――私もまたついに、小説に手を染めてしまうのだが、そして、小説というのは、前にも触れたが、佐藤春夫の名言――|根も葉もある嘘である《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――ということが、身をもってわかるのだが、この嘘の部分こそ、作家の正念場であるということが、わかったのである。
根とか葉の部分というのは、確かに体験である。しかし嘘の部分、創造の部分にリアリティをもたせようとしたら、それこそ生命をけずりとるような作業になっていくのだ。
なぜ、サガンが、まだ四十代なのに、あのように消耗《しようもう》し、あのようにひからびた肉体と、疲れた表情をもつかが、それでよくわかる。
そういえば、サガンのような肉体と顔をもった老作家がなんと多いことだろう。川端康成が一番よく似た例だ。
私は時々、鏡の中をみつめて、自分の顔がたいして消耗したりひからびたりしていないのを認めると、安堵《あんど》だけではない複雑な気持になるのである。
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私自身の父のこと
子供の頃私は、日曜日というと、薄暗い四畳半の文机に向っていた私自身の父の後姿を見て暮らしたような気がする。
ある程度年齢を重ねた男の後姿というものは、どういうわけか無防備で、どこか痛々しく見えるものだが、文机にうつむくようにして物を書いていた父の背中は更に歪み、何かの重味で打ちひしがれたように、私の眼に映るのだった。
父は、小説を書いていたのであった。サラリーマンだった父は、日曜日だけが、文筆にあてられるゆいいつの時間だった。
私はなぜか、文机にむかっている父の背中を見ると、いつも厭《いや》な気持にさせられた。父は少し猫背で、物を書く姿勢をとるといっそう背中が丸くなるのだった。
理由はわからないけど、妙にせつなく悲しいような気持にさせられて、家の中を通るたびに、父の書斎を見ないようにした。書斎は、北東の位置にあり昼でも薄暗く、どこかひんやりしていて、陰鬱《いんうつ》な場所だと、子供心に記憶している。
――お父さんはどうして物なんか書くんだろう――と私は口に出さなかったが、たえず自問するのだった。物を書いている時は、機嫌が悪くて、そのために家中がピリピリと神経質になり、物音など立てられない。用事があっても話しかけられないし、たとえ話しかけても決して父は返事をしなかった。
夕方近くなると、父は筆を置いた。それからゆっくりとお茶を飲んでから、立ち上って来た。そういう時の父は、青ざめて、幽霊みたいだった。すっかり放血してしまった人のように、今にも倒れるのではないかと、そんな風に見えた。
物を書いた後は、何時間も父は喋らなかった。喋れないのだった。放心したような虚脱感の中で、躯《からだ》を流れるわずかばかりの血が、少しずつ温まるまで、ひたすら耐えているという感じだった。そういう弱々しい無防備な父を見るのは、ほんとうに厭だった。
父は日曜作家であった。二つか三つの作品が活字になって人眼に触れたことがあったが、ほとんどの作品は誰れにも読まれることなくダンボール箱に重ねられていった。父は挫折した作家であった。
私が小説を書きだす前――それがどれくらい前なのか、もうあまり判然としないのだ。直前かもしれないし、サガンに出逢った十代の終わり頃かもしれないし、それはもしかしたら物を書く父の背中を眺めて暮らした少女の頃にタンを発しているのかもしれない――、父のようにだけはなるまいという思いが、ひとつ強く胸の底にあった。
父のように不毛でありたくない。あのような歪んだ背中を持ちたくない。それから、家の中に物を書く人間が一人でもいると、家族が辛いということも頭にあった。ということは、私が作家になるというのは、まずありえないことなのだった。
たとえ心の奥底でそれを望んでいたとしても、私はそれを見て見ぬふりをしているうちに、そのような思いが自分の心の中にあるという事実すら、ほとんど忘れかけていた。少なくとも忘れるふりができたのだった。
前回にも書いたが、フランソワーズ・サガンの出現も、私の夢を打ち砕いてしまっていた。
ある時――それは多分私が三十代に入ったばかりの時だったと思う――私の父が、ふと呟くように私に言ったのだ。
「おまえ、書かないのか」
ぽつりと、実にさりげなく父はそう言った。なぜ父がいきなり、そんなことを言いだしたのか、全くわからなかった。物書きになりたいなどと、父にもらしたことなどただの一度もなかったのだ。
私は一瞬自分の耳を疑って、父の顔を見た。けれども、父は、たった今しがた言った言葉など、あたかも言わなかったごとく、平静な普段の顔をして、庭先を眺めているのだった。
「まさか……」と私は短く答えた。
「そうか」と父はうなずいた。そのことはそれきりになった。
しかし、|まさか《ヽヽヽ》と答えたその直後から、私の心臓は気分が悪い程激しく打ち始めたのだった。気持も波立った。
その日以来――父が、書かないか、とふと言ったその日――私の心臓は平常な鼓動を忘れてしまったかのように、ドキドキと脈打ち続けるようになった。
それでも五年近い歳月が、動揺したままに流れた。父は私の胸にクイを打ちこんだが、私はそのクイを抜きとることも、又、すぐに書きだすということも出来ないまま、心臓の動悸だけを聞いて過していた。
そして、とうとうその日がやってきたのだ。池田満寿夫が芥川賞をとるというニュースが私の耳に入り、ついに私は物を書き始める決心がついたのだった。
先日の週末、伊東の両親を訪ねた。母はTVを眺めており、父は書斎で文机に向っていた。あいかわらずの痛々しい背中だったが、伊東のその家には、少なくとも秋の日射しがさんさんとふりそそいでいた。
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セラピストのこと
小説を書き始めて何年かするうちに、私は自分の創りだした女たちが、どうしようもなく自分に似ていることを発見して愕然とした。
生きていく上での姿勢とか、感覚のようなものが、まったく私と同じ女たちなのだった。
短編も含めると、夥《おびただ》しい数にのぼるが、一人の例外もなく、彼女たちは私の分身に他ならないという発見であった。
どういう女たちなのか。つまり、人を心から愛せない――というより愛しかたの方法を知らない女たち。それとは逆に愛され方を知らない女たち。頑《かたく》なで、孤立している女たちだった。
そういう女たちを無意識に書き、それが活字になって読み返していくうちに、彼女たちを通して次第に私自身というものが見えてくるようになった。
孤立していたのは私であり、愛しかた愛されかたを知らないのは私なのだった。そういうことは漠然と感じていたが、自分の創りだした女たちによって、その事実を突きつけられた思いだった。実に憂鬱《ゆううつ》であった。
夥しい数の私のヒロインたちが、私を糾弾し始めていた。彼女たちはあきらかに不毛で不幸だったし、私もまたそうであった。
ちょうど主婦の台所症候群という現象が雑誌などに取り上げられている頃だった。私は台所に入っても吐気に襲われたりはしなかったが、何かの拍子で自分の中に無力感のようなものが生じると、手指の先から力がすっかり失われ、何もつかむことができなくなったりした。ペンとかヘアブラシとか、フォークなどが、突然手から滑り落ちたりして、私は自分がなにか重大な病気にかかっているのに違いないと、ひそかに怯《おび》えたりした。それが神経症的な心の病気だとは、考えもしなかった。
セラピストにかかろうと思ったのは、私ではなく私の創りだした小説の主人公の女であった。彼女は、夫との関係、娘たちとの関係、とりわけ自分の母との関係がうまく結べなくて、そのためにニッチもさっちもいかなくなっている女だ。性的にも解放されていない。不感症なのだった。
そういう女を書いている時のことだった。彼女は救われたい、と思った。そう心から願った。彼女はそれでセラピーにかかろうと決心するのだ。
彼女にけしかけられて、作者である私はセラピストを探した。そしてある女性のセラピストに出逢ったのである。出逢ったのは、彼女ではなく、書いている私の方であった。
私のセラピーはそのようにして始まった。奇妙な体験だった。セラピーを受けながら、その体験を彼女のものに移しかえし、私は小説を書いていった。それが「夜ごとの揺りかご、舟、あるいは戦場」という本である。
私のセラピストは女性であった。年齢も私とそう変らなかった。一目見た時から彼女が私の支えになってくれる女性であることが直感できた。
セラピーにかかっているうちに、私自身の問題はどうやら私と母との関係にあったらしいということが、浮かび上ってきた。母というひとは非常に強い人で、私はいつも彼女によってぺっちゃんこに押しつぶされてきた人間であった。その上、私の母は私同様、愛情の授け方と受けとり方を全く知らない女であった。
そういう女に育てられると娘がどうなるかが、セラピーを受けながら少しずつ明らかになっていった。
セラピストは分析したり、こうしなさいとかああしなさいとかそういう類のことは一切言わない。喋るのは常に私であって、彼女はほとんど黙々と私の話に耳をかたむけた。セラピーの過程で得た知識とか発見とか結論めいたものは従って、セラピストではなく私が自分のくりかえしの言葉の中から、わかったことだった。
ではセラピストは何をしてくれたのか、|私の話を興味をもって聞いてくれた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。私の母がかつて一度でもそうしてくれなかったこと――娘の話を聞くこと――だった。それからセラピストは、時々、『まあ可哀相に』とか『辛かったでしょうね』とか『よくがんばりましたね、えらいえらい』などと言ってくれた。母はそういうことを一度も私に言ってくれなかった。
つまりセラピーのある時期からセラピストはいつのまにか私の母になっていた。というより私がそうあって欲しかった母になっていた。私はそのようにして幼児期の母の愛情の欠落を、とりもどしたのである。代理の母によって。
セラピーは六か月で終った。もちろんそれで私の問題が完全に解決されたわけではない。それに私は私の心の中のさまざまな思いを全て白日のもとにさらしたいとは思わなかった。そんなことをすれば、私にはそれ以上物を書く必要も必然性もその欲求もなくなるだろうと恐れたからだ。
セラピーのあと、何がどう変ったか、明確なことはわからない。ただひとつだけ、私の主人公の中に時々、今までの女たちにはない反応をするヒロインが現れだしたことだろうか。つまり彼女は、捨て科白《ぜりふ》を残して、パッと男から歩み去るかわりに、歩み去ることには違いないが、相手の痛みを少しだけ柔らげるような言葉なり行為が残せるようになった、というその程度の違いなのであるが。
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宝石とバスルーム
私の女友だちの一人に、たいそうお金持ちのご主人を持ったひとがいる。彼女はとてつもなく大きな彼女専用の外車を、それこそ近くのスーパーへ買いものに行くのにも乗り回し、バレンチノとかベルサーチェとかいう最低一着十八万円はするドレスを、これも近くのちょっとしたスーパーへの買いものの時にも惜し気もなく身につけるようなひと。
何時逢っても、両手十本の指のうち指輪をしていないのは親指くらいのもので、どの指もアメ玉やビー玉のような巨大な宝石つきの指輪で飾りたてられているのだった。
あまりにも石が大きいので、私などいくら眺めてもガラス玉にしか見えないのだが、何をかくそう左手の中指の石が、実は数千万円もするダイヤで、薬指の巨大なアメ玉みたいなのは、ビルマ産のルビーで、値段はちょっと想像つかないわ、と言うのだ。更に人差し指の分は南米産のエメラルドで三・五カラットもあるのよ、値段? そうねえ石だけで三千万はするんじゃないかしら。そして小指の小っちゃなのはね(と彼女はケンソンしていうのだが)、たったの一・二カラットの猫目石。
でも私は知っているのだ。その|小っちゃ《ヽヽヽヽ》な猫目石を売れば、軽井沢あたりに軽く別荘の一軒くらい建ってしまうことを。
そんなわけで言ってみれば、彼女は左手の小指に軽井沢の別荘を、薬指にちょっとしたマンションを、中指には中型のヨットを、人差し指にロールスロイスなどをくっつけて歩いているようなものなのである。私にはよくわからないが、彼女のご主人というひとは、もしかしたらアラブの王さまではないか、と時々想像してしまうのだ。
そんなある日、私は彼女の家のランチに他の女友だちと十人ばかり一緒に招かれた。「きっとミンクのスリッパが出てくるわよ」と誰れかが言った。
「前菜に殻つきの生ガキが出てきて、その中に本物の真珠が一つずつ埋まっているかもしれないわね」などと勝手な想像や期待を抱いてくりこんでいったわけだ。
一等住宅地にある彼女の家は、想像に違わずお金のかかった家であった。イタリアから輸入した家具が所狭しと並び、カーペットは足音まで埋まりそうな毛足の長いフカフカ。壁には一見偽せものに見えるが実は本物のゴッホやモジリアニやルノアールが無造作に飾られている。生ガキは出なかったが、冗談はぬきにしてお料理の味もなかなかであった。本物の国産の松茸を贅沢に使った松茸オンパレード。器も高価な磁器や、いわくありそうな塗りものなど。眼と舌の久しぶりの保養であった。
おトイレを借用した。ふむふむ、なるほど、これも相当のもの。毛足の長いカーペットにトイレットペーパーを掛ける小物も何やら金メッキ風。
ついでにお風呂場をこっそり覗いてみて仰天した。さぞかし豪勢なバスルームだろうと、当然考えたわけだ。
ところが、ところがである。私は自分の眼を疑い開いた口がふさがらない。田舎のうちのおばあちゃんのお風呂場だって、もう少しましなくらいだった。普通の小さなタイルにポリ風呂。タイルの目地は黒ずんでいる。桶や石けん箱や椅子は、そこいらの雑貨屋で売っているブルーのプラスティック製。これらも全て長年のアカで黒く汚れているのだ。
一体これは何なのだ、と私は眼を白黒しながら食堂に戻った。彼女の小指の猫目石を売れば、純金の蛇口つきのお風呂場がそっくり作れそうなものなのに。
私はなんとなく落ちつかない気持ちで、デザートの柿などをいただいた。それから急にひどくおかしくなって、ハハハと一人で声を出して笑ってしまった。いいじゃないか、バスルームがひとつだけ汚くたって。それでこそ人間的ではないか、とむしろうれしくなった。あれは彼女の恥部なのだ。人には必ずどこかに人に見られたくない恥部があるものだ。それでこそ、人はバランスがとれるのだ。そんなわけで私はますます彼女が好きになってしまったのだった。
それから一年ほどしたある日、彼女から電話をもらった。
「ねえ、お風呂に入りに来てよ」
私ははっとした。
「あなた見たでしょう? 去年。何にも言わなかったけど知ってたのよ。うちのお風呂見られたの」と彼女は言った。「今度きれいなバスルームに改装したのよ。あなたに一番最初に見せたいの。だからお風呂に入りに来てちょうだい」もちろん行く行く、と私は二つ返事で答えた。
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セクシーさの定義
女から見て、女のセクシーさの第一条件は、ある程度以上の「知性」が不可欠だと思う。それから媚《こび》がないこと。更に他人の悲しみとか痛みがわからない女ではだめだ。要するに心根の温かいということ。
こうして数えあげてみると、外見よりも内面が優先してしまうが、どんなに外から見ためが一見セクシーふうであっても、内面がともなわないかぎり、かならずどこかでセクシーさの破綻があるはずだ。
外見のセクシーさというのは、人それぞれ、好みそれぞれだから、胸の豊かな女がいいというひともあれば、逆にジェーン・バーキンみたいに少年のような胸がいいというひともいて不思議ではない。
私は女であるからして、女を抱きたいとは思わないから、内面的なものが滲《にじ》みでた顔立ちと、知的な様子――姿勢とか、さりげのないポーズとか、煙草の喫い方、喋り方の間のとり方など――さえしていれば、それにセンスの良い装いがともなえば、もうそれで充分いい女だと思うのだが。
夏には日焼けが、冬には毛足の長い毛皮のコートが似合うような女だと言えば、的がぐっとしぼられるかもしれない。日焼けも毛皮も、ねぼけたような顔立ちや、贅肉のついた躰《からだ》では似合わない。
それと声。甲高い声というのは可愛らしくあっても、セクシーではない。日本人はどちらかというと可愛らしい甲高い声を美声みたいに思って、女のアナウンサーなど、鳥肌がたつような甘ったるい高い声で物を言うが、声が高ければ高いほど、子供っぽさが露呈する。大人の女は低い、耳に快く響く声で喋ったほうが、素敵だ。
具体的にどういう女《ひと》がセクシーかと言うと、これは完全に私自身の好みでしかないかもしれないが、古くはマレーネ・デートリッヒ。ローレン・バコールの顔立ちと声。バネッサ・レッドグレーブの姿勢と表情。フェイ・ダナウェイの豹のような身のこなし。スカーレット・オハラを演じた際のヴィヴィアン・リーの眉と顎の猛々しい感じ、燃えるような緑色の眼。
日本人ではかろうじて甲高い声をのぞいた岸恵子と、実像はよくわからないけど雑誌などで見かけるかぎりの稲葉賀恵。
反対に絶対にセクシーじゃないのは、ジェーン・マンスフィールドに代表される女たち。毛皮のコートを身にまとった時、高級娼婦のように見えてしまうすべての女たち。五分も一緒にいると退屈させられてしまう女たち。少女マンガやハーレクィーンロマンスを読む女たち。ジーンズとTシャツを薄汚く着る女たち。赤ちゃんや幼児の前で煙草を喫う女たち。大きな宝石の指輪を片手に二つ以上はめている女たち。カラオケで唄う女たち。いい年をしているのにテニスのスカートの下からレエスのパンツをまるみえにしている女たち。毛皮を着てベンツのスポーツカーを乗り回しているサングラスの女たち。全くきりがない。それと、サーファー・カットの女子大生全部。
男の大多数が、実物のバネッサ・レッドグレーブやローレン・バコールのような女にセクシーさを感じるかどうかは全く疑問だが、逆の言い方をすれば、|彼女たちのような大人のいい女《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の良さがわからないような男は、魅力がない。そういう男には魅《ひ》かれないし、セクシーでもないと思う。
男あっての女のセクシーさだし、女あっての男のセクシーさなのだから、女が女のセクシーさを語っても本当はあまり意味がない。私など、世の男たち一般にセクシーだと評価されるより、自分の夫、自分の男、自分の恋人だけにそう思われれば、それで満足だ。それに、惚れあっていれば、すべてが、一挙手一投足が、それこそぞくぞくするくらいセクシーに感じられるものなのだから。
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愛の予感とアプローチ
コンピューターで結婚の相手をはじきだすシステムが営業ペースに乗っていると聞いて、びっくりした。
機械が、お嫁さんなりお婿さんを探してくれるというわけである。
これは、これまで延々と続いてきた、人類の、愛の歴史を完全に変えてしまいかねない、ゆゆしき現象だと思う。
そもそも地球上に住む動物が、愛の相手を選ぶ際に不可欠なのは、匂いである。人間だとて例外ではない。
今でこそ鼻をくんくんして相手の躰を嗅《か》ぎまわらないが、その昔、原始の時代は、人類は犬並みに嗅ぎ合ったのである。
現代では、躰の匂いそのものずばりというより、五感をフルに活用して相手を識別する。
見る。触れる。声を聞く。ちょっとイミシンだけど味わう。そして匂いを嗅ぐ。それに第六感という感覚もある。なんとなく虫が好かないとか、一眼見ただけで、これは|自分の男だ《ヽヽヽヽヽ》とか、絶対にこの女《ひと》と結ばれるという予感があったりする場合。
私はこの中で見ることの次に大事なのが、匂いだと思うのだ。まず容姿が自分の好みでも、相手から発散される匂いが全く好きになれなければ、もう駄目である。この場合の匂いというのは、使っているオーデコロンとか香水の香りではむろんない。もちろんコロンにしろ香水にしろ、ひどく趣味の悪いものをプンプン匂わせるような人は問題外だが。
そのひとのもつ体臭そのものと、そのひとの雰囲気が漂わすある種の匂い。
恐らく世の多くの人がそうとは気づかずに、鼻をひくひくさせているのに違いないと思うのだ。
相手から放たれる無形の香りというものは、かなり重要なのだ。
コンピューターは、この匂いを断ち切ってしまう。見合の相手の写真は添えられて来るだろうが、写真には匂いがない。
そしてこの|匂い《ヽヽ》を無視した結婚には、必ず問題が出るだろうと、私は予想する。
男と女とが出遭う。あっ、いいなと思う。握手するなり、外国だと頬《ほお》を寄せあうなり、躰が近づく。相手の匂いを嗅ぐ。そして|愛は《ヽヽ》きまる。これは|俺の女《ヽヽヽ》だ。あるいは|私の男だわ《ヽヽヽヽヽ》と感じる。あるいは、自分とは無縁の存在だ、と。
問題はその後である。両方が同じように相手の匂いが好きであればいいのだが、必ずしもそうではないところに、人類の、いや動物の悲劇がある。
動物の世界なら、それで終りである。相手の匂いが嫌だとなれば、金輪際だめだ。それでもしつこくつきまとう雄に対して、雌はなにするのよ、とばかり容赦なく咬《か》みついて徹底的にノーであることを知らしむる。
人間だと、なんとなく情にほだされるというか、あいまいなのだ。黒か白かはっきりしていれば単純明快でいいのだが、そうはいかないところが面白くもあり、複雑にもなる。
このあいまいさのおかげで、ある意味では人類みな兄弟的に、一応どんな人でもそれなりに相手にめぐりあえるのだ。
匂いでなく、情にほだされて、という結婚が、案外多いのはそのせいである。
従って愛のアプローチは、相手の情に訴える。これしかない。匂いが良くて好きあった二人には、何の問題もない。愛のアプローチもへったくれもない。磁石が引きあうようにパッとくっつく。ボルトとナットのようにぴったり合わさる。逢って次の日結婚というケースである。
相手の情に、どのように訴えれば、情と愛が一緒になって愛情になるのだろうか?
アプローチは二つ。
まず相手を徹底的に尊敬し、世界中で一番素敵なのはあなただと思っていることを躰中で表現すること。
相手の言葉に、聞き惚れんばかりの風情を漂わせ、「それからどうなったの?」「それで次は?」と眼を輝かせること。
話の終りには、深々と溜息をつき、「いいお話だった」と心から呟《つぶや》くこと。「あなたの物の考え方、心から敬愛するわ」と、相手に直接アイラブユーを言わずに、考え方とか、仕種《しぐさ》とかをほめちぎる。
そして止めの一言。
「もし世界中の誰《だれ》もかれもが、あなたの敵になるようなことがあっても、私だけはあなたの味方だということ、心にとめておいてね」と。たとえ相手がどんなに卑劣なことをしたとしても、「男の人生には、時にはあえて卑劣なふるまいをしなければならないことがあるでしょう?」と、寛大さをのぞかせる。
これはもう男をめちゃくちゃにいい気持にさせる。
第二のアプローチ。この女を放っておけないという気持に相手をさせること。
寛大でまるで母親のような、海のような敬愛の情を示した同じ女が、ふとある時、ひどくたよりのない言動をしたりする。ほんの一瞬だが、あなたが傍《そば》にいないとすぐに駄目になりそう、といった感じを漂わす。しかしそんなことはすぐにケロリと忘れて、突っぱったり強がったりしてもいいのだが。
この女を守ってやらなくては、と男に思わせれば、しめたもの。
第一のアプローチで相手を大きく許し包みこむ。第二のアプローチではその反対に、かよわくもはかなげな女を演じる。愛のアプローチの基本である。
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男と女・性の暗闇
女には男のことがほんとうにはよくわからない。男にも女がわからないと言う。
でも相手のことが知りたいから、問いかけたり、あれこれ想像したり、聞き耳をたてたりする。あるいは相手の肉体に触れ、撫《な》でたり、まさぐったり、匂いをかいだりする。そうやって相手の輪郭をなんとかつかもうとするわけだ。
それはちょうど眼の見えない人が、ゾウの足を撫でて全体像を言いあてるのに似ている。
男はこうであるべきだ、女はこうあるべきだという既成の概念でふくらませた相手像《ヽヽヽ》を創り上げる。
けれども、時がたつにつれて、男の実像が少しずつ現れてくると、こんなことを考えていたのか、とか、こんな面があったのか、とか、こんなはずではなかったとか、失望したり、驚かされたり、逆にうれしかったり、時に悲しい思いを味わわされたりする。
時とともに相手像《ヽヽヽ》を著しく修正しなければならない。歳月を重ねることは必ずしも相手を理解するための助けにはならないからだ。
男との関わりが深くなればなるほど、一緒に暮らす年月が長くなればなるほど、相手はいっそう不可解で、時にはまるで敵ででもあるかのように、自分の前に黒々と対峙《たいじ》していたりするのだ。依然としてゾウの足を撫でまわしている自分を発見して、愕然《がくぜん》とするわけだ。結婚生活を重ねること十八、九年にしてそうなのだ。
結局、私たちは男も女も、性に関するかぎり病的に臆病なのではないかと思う。相手を傷つけることも恐ろしいが、自分が性的に傷つけられるのが怖いのだ。
男らしさ、女らしさをベッドの中まで持ちこんできた結果、なんと男らしさ女らしさの伝説に、今ではがんじがらめになってしまっている。
男は強いもの。女は弱いもの。だから、男の指導に従うもの。セックスは男が女にするもの。男が女に喜びをさずけるもの。女は男の躰の下で、男にさずけられた快楽の頂点で躰をのけぞらせ、せつなげにうめくもの、等々。
男が男らしさの証明のために、肉体を酷使して切磋琢磨《せつさたくま》するので、女は適当な頃合いを見計らってありもしない快楽の演技をしなければならない、というような現象も生じてくるわけだ。
ひとつには、男がこれほどまでに励むのに、こちらの肉体に何の喜ばしい変化も起らないのでは、自分の躰に欠陥でもあるのではないかと恐れる理由から。またひとつには、汗水たらして切磋琢磨する相手への同情、すまなさのために、女はしばしば|そのふり《ヽヽヽヽ》をせざるを得ないのだ。
それでは私たちはセックスと、どうつきあったら良いのだろうか。相手の性については、ほとんど暗闇《くらやみ》の状態だとしたら――。
まず会話を成立させること。
ただでさえ、男と女の会話はむずかしいのに、ましてや性的な会話を上手に運ぶのは、特に若い女性にとっては至難の技だ。
何も上手《うま》く喋《しやべ》れというのではない。気取らなくてもいい。性的な会話でゆいいつ守ればいいことは、|嘘をつかないこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「今のよかった?」と彼が訊《き》く。
「うん、とってもよかった」だけど絶頂感がなかったら、やっぱりそう言うべきだ。たとえば「私の躰はまだ未開発だから」
あるいは男はこんなふうに訊く。
「今の、|いった《ヽヽヽ》?」
そんなことを質問する時の男の心の中はやっぱり複雑なんだと思う。それが表情に出ている。恐れるような、不安なような、心配そうな表情が、|男らしさ《ヽヽヽヽ》の仮面の下に露呈している。
その顔つきにほだされて、つい女は不正直になる。ありもしない絶頂感を、あったように言ってはならない。躰でそんな演技をするのも、つまらないことだと思う。
相手を傷つけないような言い方で――ということは、相手の技術や肉体のせいにしないで――本当のことを伝えたほうがいい。
もしそれで、君は不感症なんじゃないの、なんて短絡的に言うような馬鹿な男だったら、「どういたしまして、あなたのテクニックがお粗末だからよ」と、タンカを切って、そんな男はさっさと見切りをつけてしまえばいい。
性的な会話で注意することは、常に相手を思いやるという気持。双方にこれさえあれば、ただ単にゾウの足を撫でまわしている状態より、はるかに相手のことがわかるようになるだろう。
次に私たち女が考えなければならないことは、セックスは男にしてもらうものだとか、歓びは男が女にさずけてくれるものだとかいう、受け身の概念から、自分を解放すること。
今、世の中は、いろいろな面で女の立場が強くなり、男女平等に近づいているが、なぜかベッドの中では依然として昔のまま。男の人に|やって頂く《ヽヽヽヽヽ》セックスが圧倒的なのではないだろうか?
セックスこそ、男と女が完全に対等でなければ、双方に真の歓びなどありはしないのだと、私は思う。
女は単に肉体を貸し与えるというような消極的なポーズで、相手によってさずけられる絶頂感をひたすら待つのではなく、自分も又、積極的に快楽を引き寄せる、あるいは相手の肉体を使って奪いとるくらいの気持が持てないと、なかなか意識は対等にはならない。
女がベッドの中で情熱的になることを嫌う男なんて、この世にいるのだろうか。もしそんな男がいたら、それは酷《ひど》くつまらない男だから、これも早々に手を切った方がいい。
男が誘い、女が受けるという形だってそうだ。いつも誘うのは男。それならそれで、ノーが上手に言えればいいのだが、もしここで断ると嫌われるのではないかとか、他の女を誘うのではないかとか、これきり捨てられてしまうのではないかとか、若い女性は、そんなことで怯《おび》えるものだ。
けれども、女にセックスを一度や二度断られたくらいで他の女に眼を移したり、それじゃ、俺たちはもうダメだから別れよう、なんて言う男が、本当にいるのだろうか? もしそんな男がいるとしたら、これもまた程度の低い男だから、喜んで別れてしまったらいいのだ。
女のほうから上手にスマートに、好きな男をセックスに誘えないのなら、せめて、スマートで素敵な断り方をすればいい。三度に一度くらい、そうやって小憎らしいくらい素敵に男を振ることができれば、男は逆に気狂いのようにあなたにのぼせ上るかもしれない。
セックスと上手につきあう法があるとすれば、まず私たち女は、もっと自分自身の躰を知らなくてはならない。女の躰――解剖学的にから生殖まで含めて、まず自分自身のことを隅から隅まで知りつくすことから始めたらどうだろうか。
相手のことがわからない、相手のどこに触れれば喜んでもらえるのか皆目けんとうがつかないと、ひそかに嘆く前に、自分を熟知すること。どこにどう触れればどんな感じなのか。すると意外にも、たくさんの素敵な発見があって驚かされる。
掌《てのひら》の中心から、指の先でそっと渦巻状に撫でると、ゾクゾクしてくるとか、膝の裏がとっても敏感だとか、小さな小さな発見が夥《おびただ》しいほどあるものだ。
自分の肉体を知るということは、ある意味で、相手の――すなわち男の肉体を知るということにつながるのではないだろうか。
つまり、私たちは男のもっているものを、型や大きさが違いこそすれ、ことごとく持っているのだし、男だってそうだ。私たちの肉体上の凹凸を、すべてそのまま男のものに置きかえることができるなら、|女にとって快いことは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|男にとっても又《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|快い《ヽヽ》のではないか、と考えることはできないだろうか。
同じように温かい血と肉とで出来ている人間なんだから――。そんなふうに考えると、物事がとても楽になる。
最初に、女は男がわからないと書いたが、少なくとも女は、自分のことがわかっているわけだから、自分にとって快いこと、うれしいことを、相手にそのまましてあげれば良いわけなのだ。あいかわらず男についてはわからないけど、わからないまま、そうやって係わっていくしかないのではないだろうか。
そして、それは何もベッドの中のことに限らず、普段の男との係わりにおいても言えることだ。自分が、してもらってうれしいこと、言ってもらって、胸が温まる言葉、仕種、まなざし、などを憶えておいて、それをそのまま、彼にもおかえしする。
今日の君はきれいだ、と言われてうれしくない女はいないように、今日のあなたは素敵と言われて、内心喜ばない男はいないはずだ。
それにセックスというものが、厳密にベッドの中で行われることだけを指す必要もないと思うのだ。セックスそのものより、会話、まなざし、思いやり、相手の体温、匂い、顔に浮ぶさまざまな表情――とりわけ微笑、こうしたもののひとつひとつが、あるいはすべてとりまぜたものが、セックスに結びついていくべきだ、と私は思う。
二人の男と女が作りだす関係が、夜にかぎらず、昼も朝も、セクシーな関係であるということのほうが、私は好きだ。発情している盛りのついた二匹の猫のような状態より、男と女が、街の隅で交わしているひそやかな会話や、絡みあう熱いまなざしから受ける印象の方が、ずっとセクシーだと思うから。
ではセクシーであるとは、どういうことなのか。
思いやり。微笑。清潔さ。恥じらう気持。与えようと思う心と、奪いたいという思いの葛藤《かつとう》。自分というものを知っていること。とりとめもないが、そういうことだと思う。
「性交のあと、すべての動物は悲しむ」というラテン医学の諺《ことわざ》がある。男と女が対等に愛しあって得られる快楽の後にくるものは、この|悲しみ《ヽヽヽ》の感情なのだ。
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就職の中でも一番厳しい就職が結婚
日本には成熟した若い女が、ごく少ないと思う。ほとんど存在しないのではないか。ここで成熟という意味は、むろん肉体のことではない。肉体の成熟にみあった精神の大人度ということである。
私たちほど、精神と躰とのアンバランスな人種は他にいないのではないか。世間には、年齢は二十歳で成人しても、精神的には十四歳くらいの若い女性たちでいっぱいだ。
未だに、結婚は女の永久的就職と信じて疑わない。自分が基本的に食べるもの、着るもの、眠る場所さえも確保しないで平然としていれる神経。つまり一人の男に寄生して生きていくことに、何の疑問も感じないということ。男が外へしば刈りに出て行き、女は家で洗濯というパターンをごく当り前に受けとめる。結婚て、そんなにいいものなのだろうか。そんなに、楽なのだろうか。女が外へ出て男たちと伍《ご》して働くことは、勇気のいる大変なことなのだろうか。
もしも、結婚が気楽で、要するに楽ちんだからと考えている人がいたら、結婚して三年経たないうちに、うんざりしてしまうだろう。基本的に自分の食べもの、自分が着るものくらい自分で面倒みれないような、そういう人間が、結婚というひとつの場で上手に、賢くふるまえるとも思えないからだ。
楽ちんだから、と最初から緊張感も闘いも放棄したような人生に、一体何が期待できるというのだろう。
楽ちんな人生って、何だろう。ひとは本当に安泰だけあれば、それで幸せなのだろうか。
もちろん、子供を産み育てることは、決して楽ちんな仕事ではない。けれどもほとんどの女は子供を産めるのだし、少し乱暴な言い方だけど、放っておいても子供は育っていく。手ぬきでごくごく楽ちんに産み育てることは、とても容易なのである。そういう親たちはたくさんいるし、手ぬきで育てられているかわいそうな子供たちも、たくさんいる。
楽ちんに結婚生活を七年も続けると、どういうことになるかというとちょっと近くのスーパーマーケットを覗いてみれば、そういう見本が、黄色いプラスティックのカゴを腕にぶらさげてぞろぞろ歩いている。
|楽ちん服《ヽヽヽヽ》を着て、|楽ちん靴《ヽヽヽヽ》をはいて、|楽ちん表情《ヽヽヽヽヽ》で、買いものしている。もちろん手を伸ばすのは、インスタントのこれもまた|楽ちん《ヽヽヽ》食品類。
どういうわけか|楽ちん組《ヽヽヽヽ》は同じような服装をして、同じようなよく似た表情をしているのだ。つまり、ウエストをあまりしめつけない楽なスカートに、どぶねずみ色のブラウスとかセーター。
なぜか一様にくすんでいる。洗濯を二、三日さぼって|楽ちん《ヽヽヽ》をするために、初めから汚れの目立たない色を選んで着ているわけ。表情も同じだ。なんとなくくすんでいる。どこにも緊張感の片鱗も感じられない。
きっとそういう人の台所の流し台の中は、朝と昼使った食器がまだ積んであるのだろうな、と思ってしまう。コーヒーカップのふちに茶色っぽい口紅のあとがついていて、それがカサカサに乾いてしまっているのに違いない。|楽ちん《ヽヽヽ》するっていうのは、だらしのないことなのだな。
だけどほんとうには、だらしなく生きるって、せつないんだけど。たとえば使ったたびにすぐに食器を洗って片づけてしまえば、気分はさっぱりするのに、朝の分と昼の分と、夜の分をためこんで一度に洗うとなると、これは一仕事だ。よいしょ、という感じで自分をけしかけなければいけない。それに、一日中、流し台の中にうず高く積まれた汚れものが、眼の片すみにちらつくのに、うんざりしないのだろうか。
どぶねずみ色の服だって同じことが言える。汚れが目立たないからついつい長いこと着てしまう。いざ洗うとなると、洗濯機に放りこんだくらいでは簡単にとれない油染みや汗染みなどがこびりついている。結局、手間ひまが二倍も三倍もかかってしまうのだ。|楽ちん《ヽヽヽ》するって、ほんとうはそんなに楽なことではないのだと思う。
テレビばっかり眺めて、書物を読まないでいても、なんとなく日々は過ぎていく。
ところがある日、鏡の中をつくづくと眺めてガクゼンとする。この薄汚いようなくすんだ女は誰かしら? このでれりとしてしまりのない太った女は、まさか、私ではありえない。
大慌てで自分を磨きにかかる。タワシや軽石でごしごしやったくらいでは、くすみはとれない。一冊や二冊の本を読んだって、とうてい追いつけない。そしてそんなある時、夫の浮気が発覚する。相手は同じオフィスの若いOL。すらりとしていて、清潔で、キラキラと光る知的な瞳の――そう、かつての自分とよく似た――女の子だ。
「わたしの青春は、あなたにささげたのよ」と、くすぶった妻は夫を責める。髪ふり乱し、嫉妬に黒ずんだ顔を見て、つくづく夫は言う。「ぼくの青春だって、きみにささげてきたんだぜ」
けれども、ちょっと自分で自分の姿を鏡で見てみろよ、というわけである。もし君が男だったとして今の君のような感じの女に、魅力を感じると思うかい? 心トキめくと思うかい?
同じ青春をささげあった仲であり、共に寝起きをしてきた関係の、|その夫《ヽヽヽ》はと見れば、なんと光輝いている。真白いYシャツ。ピシッとした背広。一瞬も緊張を解けない仕事のせいで、表情もひきしまり、男前も上がっている。若いOLに慕われるのも、なるほどとうなずける。
いつのまにか、妻と夫とでは、雲泥の差がついてしまっていた。それもこれも楽ちんの罰である。
夫がそうなら私もやるわよ、と楽ちん組の発想はいたって短絡的だ。大慌て、大急ぎで自分を磨きにかかる。インスタントで飾り立て、パートに出るわ、ということになる。お金のためではない。男を探すためである。そして男はすぐにみつかる。
本当は、逆なのだ。飛んで火にいる夏の虫で男に利用されてしまうのだが、当人はそれが読めない。恋愛のつもりになる。しかしそういう関係は長くは続かない。男は|楽ちん《ヽヽヽ》女にすぐ飽きる。なぜなら、彼女には男に与えるべきものが何もないからだ。すぐに化けの皮が剥れるくすんだ肉体以外には、何もない。面白い会話ができるわけではないし、男をほっと寛《くつろ》がせるユーモアがあるわけでもない。長年の|楽ちん《ヽヽヽ》生活の|つけ《ヽヽ》がそんなふうに回ってくる。かつては夢多き、すらりとした若い娘であったはずである。結婚というのは、ほんとうは就職の中でも一番厳しい就職なのだ。なぜかというと、誰もあなたの勤務評定をしないから。あなたをチェックするのはあなた自身なのだから。結婚とは長く、辛く、厳しい孤独な職場なのである。
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色に出にけり我が恋は
一度でも真剣な恋をした人ならいざ知らず、死ぬの生きるのなどという恋愛をしたこともないのに、「恋なんてまっぴら」と敬遠するさめた若い人たちが確実に増えているらしい。
理由は、異口同音に、「めんどうくさい」。
めんどうくさいのは恋そのものじゃなくて、きっと心なのだ。若いくせに心がかったるい。|かっけ《ヽヽヽ》にかかっているんだと思う。
恋が始まれば、彼のためにせっせとお弁当作ったり、彼がふともらしたフレデリック・フォーサイスのスパイ小説を、一晩徹夜で読み上げてしまったり、ごくごくマメになったり勉強家に変身。それも喜々として。
恋っていうのは色々あって――ちょっと傍若無人なところもあるけど――(一番悪い例が、屋根の上の盛りのついた二匹の猫みたいな二人)でもあの目眩《めまい》のような、奈落のような、めくるめく感じ、一度味わったらちょっと止められないという感じ。
一方には恋多き女もいて、そういう素敵な三十代、四十代の女性が、数こそまだ少ないけど、確かにちらほら存在する。
もちろん楽しいだけが恋じゃない、歓びだけでもない、楽しい分だけ苦しみや危険がともなう、それが当り前。生きた形態が、塑像として見えるためには、深い影を必要とするのと同様に、困難や危険や涙がともなうから、恋がきらびやかでもあるわけだ。
恋するひたむきな心を忘れている人って、多分、食生活なんかも貧困なんだと思う。ジャンク・フードやファースト・フードで間に合わせても、お腹は一杯になるわけだけど――。
問題はどこのあたりにあるのだろうか。あの人が大事だ、あの人が欲しいと切実に思う前に、セックスしちゃう点だろうか。
セックスに入るまでの過程が恋なのだと思うけど。それに、恋にハッピーエンドは似合わない。どちらかが去り、どちらかが取り残される。あるいは二人とも傷つく。もしかしたら、三人かもしれないし四人かもしれない。ある日突然彼の妻と名のる女性から怒鳴りこまれるのは、あまりいい気持ではないけど。
そんな罪なこと、やっぱりようしない? 傷つくことが怖いんだろうな、結局は。でもたくさん傷ついてみると、人間って優しくなれるんだ。それだけ人生も色合いが深くなるし。
第一、女の人は確実にきれいになる。三キロは痩《や》せる。中年太りの解消にはジャズダンスやストレッチ体操より数段効果的。太ったかなと思う頃、かっこうの相手が現れて恋に現《うつつ》をぬかせるといいんだけど。
私の友だちに、フリオが日本に来るときまっただけで、痩せ始めた人がいる。フリオが東京にいる間中、すごくきれいだった。やがて彼が去って、一週間というもの寝込んでしまったくらい。ああ辛い、うう辛い、おお辛いと電話で溜息吐息。
大丈夫、辛いのは一週間だけよ、と私は自信をもってうけおってあげた。事実、最初の一週間が過ぎたとたん、「お腹が空いちゃったあ、お寿司つきあって」と電話で呼び出された。
フリオのいない月曜日は初体験、そりゃ悲しい。フリオのいない火曜日も水曜日もそう。やがてフリオのいない日曜が終り、フリオのいない二度目の月曜日。既にこの月曜日の不在には、なれている。そうやって、傷がいえる。
「今年中にフリオさまにもう一度逢うつもり、それまで頑張ってお金ためなくちゃ、あたしバリバリ働いちゃう」三人前くらい寿司をペロリとたいらげて、彼女は笑った。
そういう恋もあっていいんじゃない? 私自身だって、憧れのウォーレン・ビィーティが来日していた間は、妙にそわそわしたものね。すると勘のいい編集者たちが、「森さん、また恋人ができたんでしょう」とからかう。色に出にけり我が恋は――ご用心、ご用心。
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痩《や》せる実験
うれしいにつけ、悲しいにつけ、男だったらお酒のグラスを重ねるところだろうが、女は、ひたすら食べることに専念する。そして悩みはウエストのサイズ。
ジョギングは寒いし、面倒だし。脂肪をもみだす方法もあるらしいけど……。一晩中踊りに踊って、脂肪を燃焼させてしまうという手も、若い頃にはよく利用したものだったが……。
しかし激しい運動をしないで、適当に痩せる法を発見して以来、最近はもっぱらそればかり。つまり――。
つまり、まずパーティーとかディナーの約束とか、美しくドレスアップして出かける計画をたてる。
次にその夜に着るものをきめる。(もちろん理想のサイズのドレス)
結論――運動もダイエットもしないのに、当日、ちゃんとドレスが着れるように痩せている、というわけ。
でも、どうして??
@それにはまず、すこぶる楽しい計画をたてること。A是が非でも着たいと思うような、とびきり素敵なドレスにきめておくこと。(その夜のためにドレスを新調すれば、更に効果的)Bそのドレスを着て、楽しそうにふるまっている当夜の自分の姿を、くりかえしくりかえし、頭の中に思い浮かべること。
するとどうなるかというと、体の方で当日までにちゃんと体重を減らしておいてくれるのだ。ひとによって違うけど、私自身の場合は、お米とか脂肪が食べたくなくなるし、私の友人の中には、そんな時必ず下痢になって、痩せてしまうという不思議なひともいる。
私も、三日間で、急激にウエストを三センチ縮めなければならないハメになると、やっぱり病気気味になったり、時には下痢になったりして、結局、目的は達するが、健康的とは言えないので、痩せる目標を少なくとも一週間以上先におくようにしている。そうかといって、一月も先だと、気分を緊張させつづけることが不可能なので、これまた失敗する。
ここで大切なことは、計画をたてドレスをきめたら、理想の自分の姿を思い浮かべる――ヴィジュアライズする、ということだ。それも新しいドレスで、実際に楽しんでいる自分の様子を、まざまざと、いきいき思い描くこと。特に、眠りに陥る直前の、トロトロした意識の中でヴィジュアライズすると、効果は上がる。あとは、眠っている間に潜在意識が、お腹の脂肪に出ていけ、出ていけ≠ニたえず追いたててくれるから、脂肪は|いたたまれなくなって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、出ていくという寸法。
なんだか他力本願みたいで信じられない? でも、半信半疑でいくらヴィジュアライズしても、これはだめ。本当にやれるんだ、私は痩せるのだと、心から信じていなければ、潜在能力は絶対に働いてはくれない。
これは一種の自己サイミン、念力だから、痩せることだけでなく、色々なことに応用できる。家が欲しい、車が欲しい、恋人が欲しい。欲しいものを手に入れた状態の自分の姿をくりかえし、ヴィジュアライズするだけ。
ヴィジュアライズするだけだけど、実は、このヴィジュアライズする際、ある種の猛烈なエネルギーを消費する。だから、いいかげんな他力本願のお願いでは効果なし。心から欲しい、絶対にそうなりたい、という強い気持と意志、これが一番大切なのだ。まず、痩せる実験から試してみたら?
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女が集まることの意味と無意味
男が集まるというと飲み屋のチェーン店みたいなところへくりこんで、ビールだの日本酒だのを林立させてすぐに手拍子が始まる。やがて蛮声を張りあげての大合唱。男は集まるのが下手である。
女たちの集まりというと、男たちが一律に飲み屋へくりこむのに比べると、集まり方の種類が実に豊富だと思うのだ。
よくやるのが、こぎれいなフランス料理店でランチを賞味するという集まり。女たちはほんとうにきれいなレストランと、きれいな器と、きれいな料理が好きなのだ。カスミソウやトルコ・キキョウなどが店内にふんだんに飾られていて、とびきりのクリスタルグラスや銀器が、アンティックレースのカーテン越しに射しこむ光線にきらきらと輝いて。そしてみんな小粋におしゃれをして。教育のことや、近頃読んだ本、観た映画の話をして。そしてやっぱりいきつくところは、亭主の悪口と、何かいいことはないかしら、という溜息。
もっとも、集まるのが昼であれ夜であれ、こういう種類のかたちの集まりというものは、およそ何事も生みはしない。言ってみれば不毛である。
その集まりが何かを創造したり、作ったり、学んだり、自分を与えたりするものでないかぎり、どんな集まりも不毛なのだが。
けれども、何かを創造したり、学んだりする集まりというものが、手放しに良いものかと言うと、私は必ずしもそうではないと思うのだ。もともと創造することも学ぶことも、厳密に個人的なものであるからだ。
誰もが芸術家を志したり、学者になるわけではないから、なんとなく集まって、一緒に何かやりましょう、作りましょうというのなら、それはまあそれでいい。
コーラスの団体に所属して、老人ホームを訪問して孤独な老人たちを慰めるのは、とてもいいことだし、何かで集まってお菓子を作り、それを売れば、趣味と実益を兼ねて、生活に張りが出る。単にランチ時に集まって食べるだけというよりは、はるかに素敵なことだと思うのだ。
しかしながら、ここで私たちが反省しなければならないことがあるような気がするのだ。
|なぜ今《ヽヽヽ》、|女たちの眼は外へ外へとばかり向かうのだろうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?
ちょっと前まで、マスコミというマスコミが鳴り物入りで騒ぎたてた「女の自立」の成果だろうか。それとも後遺症なのか。
誰もかれもが外に出て、自分の収入を持つことがまず第一条件のように言われ、次に女の生きがいが叫ばれた。女も何かしなくてはいけないのだとか、社会に参加すべきだとか、男と対等な精神構造とか経済力とか。
すると「自立している女」がふえだした。一見自立しているふうの女も、自立しているふりをしている女も、自立したいと思っている女も――。
ところが私たちは重要な過ちを犯してしまったことに気がつかない。「自立」というのは、どこか居丈高で、高慢で、自己本位な匂いがするのだ。わたしは、わたし。自分のめんどうは自分でみるの。余計な口だしをしないで欲しいわ。
主婦たちも同じような口調で、子供たちや夫に言う。ママは働いているのよ。疲れているから後にして。そんなことまで私にさせないでちょうだい、自分のことはできるだけ自分でやるようにしてくれなくちゃ、わたしの体が続かないわ。
|自立したママ《ヽヽヽヽヽヽ》や|自立した妻《ヽヽヽヽヽ》をもつ子供たちや夫は、家庭らしい憩いの場を急速に失ってしまう。すると自立ママや自立妻は、まるで家族が自分の敵に回ってしまったような気分になるのだ。ほんとうは自分の方から離れていき、自分の方が彼らを疎外しているのに、それに気がつかない。
こうして自立した女や、自立しているふうな女たちは、「孤立」していく。
つまり最初から孤立を自立と勘違いしていただけなのだ。
ほんとうの意味の自立というのは、|人との良い関係《ヽヽヽヽヽヽヽ》を結ぶことから始めなければ、話にも何にもならない。
職場や、友だちの間や、家庭で良い人間関係を結べないで、どうしてほんとうに良い仕事ができ、家庭と職場とを両立できるだろうか。人々の理解や協力なしに。
そして今、飛び出しすぎた女たちが、少し反省して――つまり風当りの強さもさることながら、真の意味の自立の困難さ、厳しさの壁に弾き返されてというのが真相に一番近い見方だと思うが――後退というと聞こえは悪いが出直しにかかっている時期だと見ていい。
自立旋風で、個人プレーの淋しさとむずかしさを嫌というほど味わったので、個人プレーはしばらく敬遠、グループで行動しようという動きがでてきた。
いいおかあさんをやり、いい主婦、いい女房そしていい職業というふうには簡単に問屋がおろさないのだ。仕事に生きようと思ったら男たちが普通にやっているように、家庭をほとんどないがしろにしなければプロに徹しきれない。
グループで行動するということは、もしかしたらプロの道から多少遠のくかもしれないが、痛いめにあうにしてもひとりではなくみんなで痛みを分かち合える。頭を打たれる時も打たれる頭は複数だ。たとえ失敗してもみんなでごめんなさいと合唱すればいい。
今、主婦が集まるということには、そういう一面がある。いずれにしても過渡期という気がする。
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彼は私に対して興奮するのだ
「愛人」というとすぐ次に「囲う」という言葉を連想する。「若いつばめ」にしろ「ジゴロ」にしろ、やはり「囲う」ものだ。
そこには必ず金銭が介在する。愛人が持てるのはお金持に限られた。
「愛人を|持つ《ヽヽ》」なんて言い方からして、一方的な所有を意味し、紙幣が眼の前にちらつくような感じだ。
それが何時《いつ》の頃からか、私の周囲でも、「あのひと、愛人がいるのよ」とか、「わたしに愛人ができたの」と言う女性が目立ち始めた。
と同時に双方からの金銭の介入もなくなり、男と女とは完全に対等になった。
彼女たちが相手の男を「恋人」と呼ばないのは、結婚しているからである。「愛人」というのはつまり、結婚している女の(あるいは男の)「恋人」の別の言い方なのだ。(もっとも言葉はそんなに厳密ではなく、「愛人」を「恋人」と呼んでいる結婚している女たちはたくさんいる。)
以前、金持の男に囲われたり、男の作家たちが小説に書いてきた「愛人」というのは、まず、酒場のホステスであるとか、若くて、あまりお金のないOLとかが圧倒的だった。
若くて、美しいということがまっ先に条件になるわけだ。知性とか、気だてとか、感性、その女《ひと》の意識および質などは、見栄えの次になる。お金で「愛」および「肉体」が買われるかぎり、女は常に弱者である。「愛」および「肉体」を買われることを、潔しとする種類の、つまり|その程度《ヽヽヽヽ》の女たちでもある。
そういう意味で「愛人」を|もつ《ヽヽ》男たちも、そういう「愛人」しか書かない男の作家たちも、その質《ヽ》というのは、知れたものである。|その程度の質《ヽヽヽヽヽヽ》の女たちしか相手にできないという意味で。
ところが今や、女たちに「愛人」が|いる《ヽヽ》時代となり、そういう女たちが選ぶ相手は、絶対に、若くて美しいだけの男ではないということだ。そんな男は、実につまらないわけだから、大金持のもうお世辞にも若いとは言えない、腹や胸のたるんだ女たちが、車だとか金の鎖だとかどこそこのライターとか札束などをちらつかせて、一夜の相手にすればいいのである。
三十代から四十代の女たちが相手にするのは――一般論ではつまらないから、少し限定してみよう。彼女たちは、大学を出ており、夫の年収は一千万円以上、車が二台ある。子供は二人。生活のためというのではなく、自分の充実のために、何か仕事をしているか、子供が手を離れた段階で仕事をしようと考えているか、あるいは何かのグループに属して何らかの形で社会とかかわりを持とうとしている。
夫は今や働き盛りで週のほとんどの夜は家で食事をすることもない。
そのような場合に、何かを夫に求めたり、一日のつまらなさ、退屈さのつぐないを夫に期待したりすることが、決して自分たちのこれからの結婚生活のためにはならないと、彼女たちは知っている。
疲れて不機嫌な夫に、自分の不毛や愚痴をもらしたとて、何の足しにもならない。私を見てちょうだい、相手をしてちょうだい、愛してちょうだいと喚きたてたとて、かえって夫の帰宅時間を遅くしてしまうのが関の山だ。誰だって、家の中にあらゆる種類の欲求の不満不平で膨れ上った怪物のような妻が待ちかまえているとしたら、まっすぐに帰る気はしないだろう。
夫に期待できることはこの程度までと、早々に見きわめがつく女たちは、夫から与えられないものを、外に求める。そのひとつが「愛人」の存在だ。
彼は夫に欠けたものを持ち合わせている男。何よりも|私《ヽ》に興味を持っており、|私《ヽ》に|女《ヽ》を感じさせてくれる。
私《ヽ》をみつめ、熱い言葉で話しかけ、私《ヽ》が今この瞬間快適かどうか、楽しいかどうか、幸福かどうかに心を砕いてくれる。そして何よりも、私《ヽ》に欲望を抱いてくれる。私《ヽ》の躰を新鮮に感じ、美しいと口に出して言ってくれる。夫はとうの昔に、見なれた家具を見る以上の眼で私の躰を見なくなっているのに、彼は違う。|彼は私に対して興奮するのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「愛人」がいるというのはそういうことなのだ。結婚生活の中で決定的に欠けてしまっているもの、それなしでは三十代の、四十代の女たちが生きていけないものを、彼《ヽ》が補ってくれるのである。夫のかわりに。
それはもはや夫に求めようもなく、無理に求めれば結婚が破綻《はたん》する。その結婚を無事に維持しようとするならば、別のところで解決するしかない。ある意味で彼《ヽ》のおかげで彼女《ヽヽ》の結婚は安泰なのだ。それが夫の知るところでないかぎり。
別のいい方をすれば、その結婚をなんとか安泰に長続きさせようとするなら、夫と妻の双方に何らかの形で別の異性の影がささないかぎり、結婚は非常に息苦しいものになってしまうだろう。暗礁に乗り上げてしまうのに違いない。
もし妻が、どこか別の知らないところで、あらゆる種類の欲求が一応満たされていれば、夫を迎える態度だって数段気持がいいのにきまっている。欲求不満でギスギスとした妻を見るより、愛想のよい気持のいい態度の妻を見るほうがいい。それはお互いさまだ。
もちろん、結婚という契約事から言えば、「愛人」がいることは違反である。裏切り行為でもある。そのことを知っていなければならない。
そして裏切り行為にも、それなりのルールがあるということ。当事者以外の人間を、まきこまないというルールだ。
人が知らないことは、存在しないことと同じであるというサルトルの哲学流に、あくまでも秘密は露呈させないこと。
金銭が介在しない関係なのだから、相手を選ぶことができる。生理的にも、男の質の点でも、自分にぴったりした人間でなければ「愛人」にはしたくない。
家庭とか、子供、生活などが介在しない男と女の関係は、ある意味で非常に純粋だ。
けれどもそれは別の点では実にうつろいやすく危険で、はかない関係ともいえる。だからこそエキサイティングでもあるわけなのだが。
そういううつろいやすいもの、はかないものに身を投じるのは、独身の身だとすると、まことにしんどく辛いことだ。
しかし結婚している女――夫がいて、家庭があり、子供まである女なら――それに耐えられる。彼をいつの日にか失うことがあっても――そしてその日は必ず将来来るわけだが。つまり男と女というはかない関係は、肉体的に結ばれればあとは終るしかないのである――失うのは彼だけであって、結婚は――夫は、家庭は、子供たちは――安泰のままなのだ。そしてそういうものを安泰のまま残すような形で、「愛人」との関係をもつべきである。
別の言い方をすれば、家庭というものが安泰な形で存在するからこそ、別の形で「愛人」の存在が可能だということである。
よく、家庭がうまくいっていないから、不倫の恋に走るなどという言い方をするが、家庭が上手くいっていないような不幸な状態の時に、女は、別の場所で幸せな恋など楽しめないものなのだ。
めくるめくような恋に陶酔できるのは、それなりの条件が整っているからであり、家庭の不和でじりじりしているような最悪の条件下では、何ごとにも安心して自分というものをつらねられない。であるから、「愛人」がいるのも、その「愛人」との関係が非常にうまくいくのも、安泰な家庭があり、夫との関係も比較的うまくいっている場合に限られる。
小賢《こざか》しく立ちまわれというのではないが、知性がなかったら大人の関係というのは結べないし、感性的にも成熟していなければ、とてもクールにはふるまえない。ちょっと男と寝たとたん、身も世もなくつんのめってしまったり、駆け落ち話になったりするのは、ほんとうは実にみっともない話で、自分というものをコントロールできないような女は、最初から「愛人」などもつ資格はないと思ったほうがいい。
そしてどんな場合にも責任はフィフティーフィフティーであると自覚すること。自分も楽しみ、いい思いをしたのであるから、いざ別れる段になって、裏切られたの捨てられたのだの、死んでも口にしないことだ。
うつろいやすい男と女の関係というものには、始まりがあれば別れは必ずやってくるものだし、二十代よりは三十代の方が、三十代よりは四十代が、その充実した期間は短いものだと知るべきである。
両方が同じように愛が冷めていけばまだいいが、どちらかに未練がたっぷりという場合は、別れはひどい痛みとなる。しかしその痛みに耐える覚悟がなければ、最初から男と女の関係に飛びこむべきではないと思う。
ある編集者とそういう話をしていた時のことだが、男というものは、女と三回食事をしたらその夜は必ずベッドのことをきりだすものだという。
女のほうだって、嫌な男と二度デートするわけはないから、三度食事をするということは、ベッドの覚悟がある程度できているはずなのだ、というわけである。
三度目などときめられてしまうと、ひどく白けた感じになるが、まんざら当っていないわけではない。
けれども、男と女というのは、何も食事を三回しなくたって、たとえば出逢った二時間後にベッドを共にしているということもあるわけだ。そういう軽率な行為に走れるのは、全く生理的な好感だけが先行した場合に限られる。だからそれきりの関係で終ってしまってもかまわないわけだ。将来の別れの痛みなどについての考察もちらとも脳裏をよぎらない。事実、痛みなどほとんど感じない。
男と女の関係になる直前に、いつか来るべき別れの痛み具合を想像するくらいの相手なら、「愛人」の条件になりうる。たとえ彼の方が先に別れを言いだしても、それに耐える覚悟が自分にあると自覚してから関係《ヽヽ》に入っていくべきである。
人を愛するのも自分の責任であり、人との別れも自分の責任において受けとめなければならないのだから。
彼と逢って一時を過ごし、じゃまた来週ね、と別れる場合だって、女は躰がぐらりと前のめりに揺れるくらいせつない。
夫がいて、子供がいて、家があるのに、恋人と別れたすぐ後では、自分が天涯孤独なような気持になる。また、来週逢えるということがわかっていても、その日までどうやって時間をやり過してよいか途方にくれる。息をするのさえ辛いほどだ。
実際、恋などして楽しいことなどたいしてない。せつなく苦しい時間のほうがずっと長いということも知っておくべきだ。
若い恋人同士のように、始終一緒にいてベタベタできるわけではないのだから。耐え、待つことの方が圧倒的に多いということ。そしてある意味では、逢っているその時間以外に、彼から何も期待できないし、期待してはいけない。
いわば自分をどれだけセーブでき、どれだけそういう緊張に耐えられるか、自分との闘いが延々と続く。
相手を所有しているわけでも何でもない。急に電話があって、今日は行かれない、と言ってきたって、何がなんでもと責めるわけにもいかない。二人の関係を縛るものは何もないのだから。よほど精神がタフでないとまいってしまう。タフであっても、繊細でなければ男と女のいい関係は維持できないから「愛人」などやはり並の精神の持ち主には無縁であると考えるほうが無難と言える。
だから素敵な「愛人」を持ち、やがてその相手といい別れ方のできる女性は、ほんとうに魅力的な人に違いない。
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不倫と覚悟
「不倫」ということが、すでにルール違反なのである。法律で定められた婚姻を、解消されかねないくらいに重大な罪なのだ。
それをあえてやろうというのだから、「不倫」なりのルールが当然あってしかるべきだと思う。
あくまでも結婚生活は守りたい、しかし情事も楽しみたいと、言ってみれば虫のいい話であるから、「不倫」のルールは、徹底的に日の当らない場所で、こそこそと行うべきものなのである。
人眼をしのんでこっそりと始まり、そして同様に人知れずこっそりと終るのが、「不倫」の原則だと私は考える。
不倫の恋などというものは、はなはだ傍《はた》迷惑なものだし、一種トタン屋根の上の発情した二匹の猫たちを連想させなくもない、なんとなく薄ら寒く、後ろ暗く、薄汚れて感じられるものだ。決して人眼にさらすものでも、まして自慢できるものでもない。
一番みっともないのが、相手との駆け落ち、あげくの果てにっちもさっちもいかなくなっての心中。そしてもっとも卑劣なのが、恋の終りに相手を告発するというケース。愛《いと》しさ余って憎さ百倍なのかもしれないが、恋の終りに口をつぐんでこそ、なんとか己れ自身の面目が保たれるのに、それはそこ、トタン屋根の上で狂態を演じた発情猫の延長で、髪ふり乱し尊厳のかけらもないといったていたらく。「不倫」の関係の終止の打ち方で、その人間の質が如実に暴露されてしまうという恐ろしさ。
大体「不倫」には説明も言いわけも無用なのである。ひたすら畏縮《いしゆく》して沈黙を守るべきもの。
「不倫」にかぎらず、すべての男と女の関係《ヽヽ》は、いずれ早晩終るものだと、覚悟をきめてかかれば、少なくとも分不相応の期待など抱かないですむかもしれない。男と女の関係が、辛うじて長続きするのは、「結婚」だけである。関係《ヽヽ》が法律によって保証され保護されているからだ。
その他の男女の関係など、従って、関係《ヽヽ》が始まったとたん、終局にむけてまっしぐらに突き進んでいるのだ、と思った方がいい。ましてや「不倫」の関係だったら、それがいっそう顕著なのだ。
|男と女の関係《ヽヽヽヽヽヽ》になったら、終りなのだ。そういう自覚があると、「不倫」は多少は洗練されるかもしれない。不倫の洗練とは、いかに秘密を守り通すか、ということと、いかにすみやかに別れるかの、その別れ方の質を指すものなのだ。
日本の男も女も、夫や妻以外の異性に対して、あまりにも免疫がないから、一度肌を接すると必要以上に深くのめりこんでしまいがちだが、もし、自分がのめりこむ性質だと思ったら、少なくとも「不倫」は相当せつない、痛い体験だと覚悟したほうがいい。
恋の喜びも悲しみも、つらさも、誰にも話せないのである。たった一人でそれに対峙《たいじ》しなければならないのである。
だいたいにおいて、私の知るかぎり、ちょっとした浮気のつもりで始まった「関係」において、女はメロメロになっている。あんなになっていて、よくご主人に気づかれないですむものだと、こっちが心配するくらい、傍目《はため》にも著しく|恋の印《ヽヽヽ》が露わになってしまうのだ。
彼女たちはたいていひとまわりほっそりと|やつれ《ヽヽヽ》、なんとなく美しくなり、もうれつに飢餓感を滲ませ、溜息ばかりついている。それでも妻の変化に気づかないというのは、ご主人はよっぽど彼女に興味がないとしか言えない。夫というものは、だいたいにおいて妻を、そこにある見なれた家具を眺める以上の興味をもっては見ないものだが、それにしてもである。言いかえれば、それほど夫が無関心だから妻は他の男にそれを求めるのかもしれない。
さて、不倫の恋に終りがくる。終り方には二種類ある。あくまでもルールを守って、二人だけでひっそりと終局をむかえる場合と、世間を騒がせてしまう場合とである。この場合世間とは双方の家庭、配偶者を指すのだが。世間迷惑なほうはその迷惑をかけた分だけ、自分たちの肩にふりかかるものも大きいわけだから、それは自業自得だが、ひそかに始まり、ひそかに終っていく男と女の関係のほうに、私はより興味を抱く。
何も「不倫」の関係を声高にすすめるつもりは毛頭ないが、長い結婚生活の間に、夫や妻のどちらか、あるいは双方に、|ひそか《ヽヽヽ》に異性の影がチラホラとささなかったら、そのほうがこの結婚は危ないのではないかと、私は常日頃考えている。それは|長い凪《ヽヽヽ》の間《あいま》に吹く風のようなものだと思うのだ。風はあくまでも微風であって欲しいし、嵐や暴風雨では結婚という家が壊れてしまう。
不倫の恋というのは、痛いものである。せつないし、辛いものだ。喜びなど、ほとんどない。ましてその恋の別れとなると、躰《からだ》がぐらぐらするほど辛い。しかもすべてはひっそりと進まなければならない。それに耐える強さが、充分になければ、始めから不倫に飛びこんでいくべきではない。そして、すべてに耐え、何もかも終った後に残るものは、|何もない《ヽヽヽヽ》という「虚《むな》しさ」以外の何ものでもない、とようやくわかるわけだ。
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家族は……
私の新婚時代
共稼ぎであったから日曜くらいはのんびりしようと思ったのが、まずあてが外れた。せっかくの休みを少しでも長く楽しもうと相手は小鳥のごとく早起き、小鳥のごとくはしゃぎ回った。
何よりも驚いたのは、週日もさることながら、日曜の朝食の席に、きちんとネクタイをしめて座ったことである。
このネクタイの一件には、新婚早々、厭な予感がしたものだ。この予感はすぐに的中して、一事が万事、今日に至るまで英国式男の尊厳が幅をきかせたのである。
台所仕事の手伝いなど、男の沽券《こけん》にかかわると言って、一切足を踏み入れない、掃除、洗濯しかり、私だって働いているんだから少しくらい手伝ってくれてもいいでしょ、と新婚の妻が涙を浮かべたくらいではびくともしない、そうこうしている内にそれが当り前みたいになり、一切合財私が背負ってしまい、それでも足りなくて、日本語の不得手な彼のかわりに区役所へ税務署へ、中古車の月賦の手続き、生命保険と個人的な雑用まで何から何までやらされたのである。
そして当の本人は、いかにも満足気に日曜の朝からネクタイをしめて、ジャパンタイムズのクロスワード・パズルなどに優雅に興じていた。そして曰く、中国の料理とアメリカの家と(だったかどうか記憶が怪しいが)そして日本人の妻、これが男の夢さ、と豪語した。もっとも本人は英国料理なる面白くも可笑《おか》しくもないような家庭料理以外受けつけず(食わず嫌い)、アメリカの家ならぬ当時はそれこそ兎小屋に毛の生えた程度のアパートに住んでいたのだから、日本人妻《ヽヽヽヽ》以外にはあまり大きなことは言えない。しかもその日本人妻、新婚の間は猫を被《かぶ》っていたが、早々に新婚の夢破れ果て、猫から虎に豹変《ひようへん》したのだから、何のことはない、男の夢などあとかたもなく消え去る運命なのである。
新婚時代をどれくらい見るかにもよると思うが、実感としては一年(もっと辛辣《しんらつ》に見れば三か月ね)、ごくごく多めに見て三年というところか。
この三年間、私はTVの広告を作って生計を分担していた。私の当時のお給料が三万円。家賃が二万五千円だったので(狭いとは言え身分不相応なところに住んでいたわけだ。かと言って身長百八十二センチと百六十二センチの国際結婚のカップル――むろん百八十二が彼、念のため――では、蜜月といえども四畳半だの六畳にキッチンなんてのは不可能で、英国《あちら》の尺度で言えば、四畳半なんてのはクイーンサイズのベッドで一杯になってしまう。まあまあなんとか住めるというと、日本の住宅事情では身分不相応になってしまうのである。家賃は全収入の七分の一くらいが理想ということであったから、二人分の収入を足してもエンゲル係数ならぬ家賃係数は異状に高かった)私のお月給はほとんどそっちに回された。
さて、そのエンゲル係数の方も、破壊的。ひものや納豆や豆腐などと言ったものは全く駄目で(私大好き)オール肉食。それも日本の豚は魚粉を餌にするから魚くさいと受けつけず、鶏肉もしかり、牛肉ならいいよ、とのたまう。いいよ、と言われたって毎晩ステーキというわけにはいかないじゃないか、衣食住は米国並みでも、給料の方は日本並みなんだから。
なんのかんのと苦労のやりくり、大いに無理をして、だんな様を一応の線で満足させると、係数はぐんとはねあがり、なんのことはない、我が家の家計は家賃係数とエンゲル係数で百パーセントを越えてしまったのである。
更にずっと後になって、三人の娘たちが次々に生まれ、育ち、学校に通いだすと、自由業の主人には、他の外国人商社員や外交官のように会社や英国政府が学費や家賃を払ってくれるという特典もなく、すべて自前。前述の二大係数にインターナショナル・スクールという膨大な学費が加わって、彼は四苦八苦。私はとっくに子育て専業主婦に転向していたので、扶養される身。
更にまた少し後になって、私も小説などを書くつもりになって、再び家計を折半。少しは楽になったはずなのに、あいもかわらず三大係数に苦労するのは何故だろう? ほんとうに何故だろう? ちっとも贅沢《ぜいたく》なぞしていない。夫はあいかわらずステーキでも(今日日《きようび》では、オーストラリアやアメリカのチルド・ビーフが入るから大幅に安い肉が買える)、我々(私と三人の娘たち)は大の和食党で、ノリと生卵と納豆さえあればニコニコしている粗食・経済食にもかかわらず、やたらとお金が出ていくのである。ほんとうにほんとうに何故かしら。
話が大幅にそれてしまったのでもう一度新婚期に逆戻り。お金の苦労はあったが、まあそれは苦労のうちには入らず、よく笑い、よく泣き、そしてよく喧嘩したものだ。喧嘩の種は、ああ言った、いや言わなかった、の類。要するに言葉の障害があったわけだ。
日常会話は英語。それも二十四歳まで日本語を喋っていた私は、突然英国語圏に放りこまれたのだ。言いまちがいも多いが、習慣の違いに泣かされた。「ねえ、あれとって」で日本語なら用が足りるが、それを直訳して「Pass me that」では横柄というか相当カチンときてしまうらしい。前後にプリーズをつけたくらいでは駄目なのだ。「今あれをとってと言ったら、ご迷惑でしょうか」的な英語にしないと、レディーらしくない、可愛くない、ということになる。何事も、二言、三言で用が足りる日本語の夫婦の言葉は、なんと便利なことか。
とりわけ最大の失敗は、日本人特有の|てれ《ヽヽ》を英語でやってしまった時だ。「まあ、あなたのご主人、いい方ね」とお世辞を言われて、つい、「あーら、とんでもありませんわ、オホホホ、いい方だなんて」とやってしまったのだ。後で夫に「じゃ何かい、ボクは良くない、すごく嫌な人間なのかい?」とこっぴどくやっつけられた。以後、誉《ほ》められたりお世辞を言われると、なにがなんでもまずサンキューを言うようになった。するとこれが日本人同士では、逆に、恥じらいのない、ケロッとした方ね、と評判が悪いのである。困ったものだ。
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母との和解
私と私の母とは、二十七年間、ずっと反目しあっていた。二十七歳で最初の子を産むまでずっとだ。
むろんこれは物心がついてからの感情だが、それ以前の幼児期、逆にさかのぼって赤んぼうの時代も、記憶の向こう側で、私は母を恨めしく感じていたのに違いないと思うのだ。
母は私の記憶するかぎり冷淡で、幼い私がすり寄っていくと犬か何かを追い払うような手の仕種《しぐさ》で私を寄せつけなかった。私はたえず、ずっと、母の愛にその肉の熱さと柔らかさとに、優しい声音に、飢えさらばえて生きてきたように思う。とにかく彼女は母性愛の極端に薄い女《ひと》だった。
幼い私は始終こう自分に言いきかせながら生きてきた。いつか私が子供を産んだら、その時は母が私にしてくれなかったすべてのことを私の子供にしてあげよう、窒息するくらいべたべたに愛して愛しぬいてあげよう。そしてその決意は二十七歳で自分の子供を産む瞬間まで変らなかった。
下腹を締めあげるうねりのような陣痛が始まった。舌が反り返り眼の中が血の色に真っ赤になる。この痛み。この孤独。太古の昔から女たちが気丈にもくぐり抜けてきたこの拷問を、もしかしたら私だけが耐ええないのではないかと、私は怯《おび》えた。すると酸のような汗が全身に吹きだした。
その時であった。産みのこの全き孤独、恐怖、痛みの中で、何がこうまでせつなく、哀しく痛ましいのか、忽然《こつぜん》とその答がわかった。「母よ、あなたもまた、この孤独の痛みを経て私を産んだのだ」
涙が出て止まらなかった。灼《や》けつくような酸の涙が胸を濡らし、皮を灼き、肉を溶かし骨に滲《し》みた。すると痛みはついに肉体を離れ、大量の羊水と共に体外へと流れ出た。そのようにして、実に陣痛開始から三十時間もの後に、長女は生まれたのだった。
母に対する確執も恨みも憎しみも、羊水と共に私の中から流出してしまっていた。私はひたすら感謝の思いに包まれて幸福だった。看護婦や夫はその私の微笑の意味をきっととり違えたろうと思う。私の頭の中をその時占めていたのは生まれたばかりの赤んぼうのことではなく、母のことであった。母に対するせつないばかりの愛と許しを乞う気持だけがあった。やがて興奮が去ると私は少し冷静になり赤んぼうを腕に抱いた。きっと母も又こんなふうに私を抱きあげただろうという確信と共に。
赤んぼうの頬《ほお》に唇を触れてみた。母も私にそうしたに違いないと思いながら。指を小さな手につかませると、磯巾着《いそぎんちやく》のように五本の指がからみついた。私は感動した。母の感動がわかった。
乳房を含ませるとヒルのように吸いついた。そして私は幸福のあまり声をあげて笑ったのだった。その耳に母の笑いもはっきりと聞こえた。母は赤んぼうの私を愛していたのだった。それが実感された。私自身の子供を産むことによってそれが証明された。
私は心の中で母と和解したのだった。それ以前の私は、彼女の手に負えない我がまま娘であったが、立場が逆転した。母が、私の我がまま娘になってしまったのだ。年を重ねるにつれて私の母はわからず屋になり、愚痴っぽくなり、我がままになっていく。それを私はなだめたりすかしたりして辛抱強くあやすことができる。ただひたすら彼女をやさしく揺すり慰めることができる。ついに母が幼い娘になったのだ。あの激しい気性の、猛々《たけだけ》しかった私の母が、私の支配下に素直に身をゆだねたのだ。
私にとって子供を産むということはそのようなことであった。
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母親って何?
私の読者の中で一番恐ろしいのは、実の母親である。
「あなたの小説は私の性《しよう》にあわないわ」などと言っているくせに全部読んでいて、折りにつけてこちらの胸にグサリと刺さるようなことを言ってくる。
歯に衣《きぬ》をきせないという言い方の最たるもので、ほとんど罵詈雑言《ばりぞうごん》に近い。喚きたてているうちに、彼女は自分の言葉や声音の甲高さにますます興奮して手がつけられなくなる。
「でもね、お母さん……」とか「そりゃそうだけど……」などと、歯切れの悪いセンテンスの語尾を濁して、娘である私は老母の攻撃的な批判にひたすら耐えるしかない。
どんな場合でも、自分の作品の悪評を読んだり聞いたりするのは、辛いものだ。肉親の口からだと、ほとんど肉体的な苦痛となる。
「あんな小説はだめよ。私は大嫌いだわ」と言いきる母の前で、私は四歳の少女に逆戻りして、ぺしゃんこにされてしまう。
理屈にあわない理不尽な批評ではあっても、その場になぎ倒されるような気がするのだ。
ほとんど言葉の暴力だと思う。何ゆえに母親だけが、このように私の前に立ちはだかり、私を押しつぶすことができるのか。
小説を一編書き上げるたびに、私の脳裏にまず母の顔が浮かび上がり、私はひやりとして首をすくめるのである。母親とは何なのだろうか。
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イギリスの母
夫の母は、この三年来、記憶を喪失してしまい、イギリスの小さな町のホスピスにいる。すでに下半身のコントロールもきかず、看護婦さんたちの世話になっている。
毎年一回、クリスマス頃に私たち家族は夫の実家に年老いた父を訪ね、それからホスピスに母を訪ねる。
去年のクリスマス・デイのことだった。イギリスの冬特有の霧が出ていて肌寒かった。門を入り車で五分も行くと病院の建て物が見えるといった贅沢な場所だった。ステンドグラスが張ってある入口のドアのむこうに大きなクリスマス・ツリーに点滅する豆電球が見えていた。病室の窓には雪ダルマとかブーツとか星の模様が白いスプレーで描かれていて、いかにもクリスマスらしかった。
ドアを押すと、強いクレゾールの匂いが鼻をついた。もしそうでなかったら、そこは病院というよりは、ベッド・アンド・ブレックファスト(民宿のようなもの)と言ってもいいくらいだった。
義母は奥の大部屋のベッドにいた。腰枕をして、ぼんやりと大きな庭に面した窓の外をみていた。表情というものが何もなく、肩は沈み、いかにも哀《かな》しげだった。彼女自身は実際にはいかなる感情も抱いていないのだから、それゆえに更にあわれであった。
義父が近づいて行って頬に軽くキスをした。
「東京からお客さんだよ」と彼は私たちを手招いた。夫が進み出た。
「やあ、ママ」できるだけ陽気に、まるで昨日の今日といった感じで夫が母に声をかけた。
「どなた?」とゆるゆるとした声で彼女が息子を見上げた。「わたし、この方を知らないわ」
一瞬夫の顔が、どこか痛そうに曇った。
「ボクだよ。アイヴァン。あなたの一人息子だよ」優しく、ゆっくりと彼は言った。
「アイヴァン? わたしの息子なの?」母は遠くを見る眼をした。けれども彼女の今の頭の中には過去に息子が存在したという記憶はぬぐわれていた。
私たちは妙に物哀しい対面をし、話すこともあまりないまま、じっと母を眺めた。夫が子供たちを一人一人紹介した。彼女は孫娘たちの顔をみつめて、ニコリともしないのだった。一番下の娘が涙ぐんで廊下のほうへ駆けだして行った。
夫の父がその後を追って、そして彼女をしっかりと抱いてやった。
「おばあちゃんはね、わたしのことも時々忘れるんだよ」と彼は説明した。
「おじいちゃんのことも、だれだかわからないの?」
「そうだよ。それでね、わたしがやあアイダって言うとね、ぽっと頬を赤くするんだよ」老父は息子のほうを見て続けた。「毎日三時になると訪ねてくるのが、自分の夫だと思っているかどうか怪しいものだよ」
「ボーイフレンドだと思っているのかもしれないね」夫が父親の背中に手を置いて慰めた。
「お父さんは素敵だから、お母さんは改めて恋をしているのかもしれないわね」と私も言った。
「わたしはもう年だよ」と義父は照れた。義父はバート・ランカスターにどこか似た面影の老人である。
三つ離れたベッドでは、百歳にも見えるくらいの老女が、「ママ。ママー。ママアー」とたえず叫んでいるのだった。その声はいつ果てるともなく、続いていた。もうすっかりなれっこになっているのか、義母も他の病人もその方をチラとも見なかった。ママ、ママアーというこの世のものとも思えない哀しげな細い声が、病室の中にするゆいいつの物音だった。
私たちはすっかりつらくなって、誰からともなく立ち上がって母に別れを告げた。
「また来てくれる?」と彼女は別れ際に聞いた。
「もちろん。また来るよ」と夫が答えた。入口のところでふりむくと母は前と同じ無表情で庭を眺めていた。もう私たちが訪ねたことさえ、すっかり忘れている顔であった。ドアの外へ滑り出ると、ママア、ママアというか細い叫び声がふっつりと途絶えた。
私たちは無言で霧の中を車まで歩いた。車の中に入ると夫が言った。
「よしと、今夜は何かとびきり美味しいものを食べようか」
娘たちの顔に笑いが戻った。
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真昼の孤独
六本木に住んでいた頃、娘たちはまだ小さくて近所の幼稚園に通っていた。有栖川《ありすがわ》公園に面した小さな教会がやっているところだった。
場所柄、色々な子供たちがいた。広尾の住宅地に住む子供も、商店街の子供も、外国の大使館員の子供もいた。うちの子のように外国人との混血の子もいた。
幼稚園は九時に始まり、十一時半に終った。その間、私はまだ生まれたばかりの下の娘と共に、有栖川公園の中で時間をつぶすことが多かった。
大きな樹がたくさんあって、五月には薄いハッカ色のこぼれ日が、それは美しかった。秋には紅葉して、その照り返しで、赤んぼうの顔が生き生きと紅味を帯びてみえるのだった。
冬になると、樹々はすべて丸ぼうずとなり、枝々が寒風に揺れていた。
公園の中には、私のように赤んぼうを連れた若い母親や、小さな子供を砂場で遊ばせる祖母と思われる人や、お腹の大きなアメリカ人の女性や、フィリピンのメイドにつきそわれた西洋人の子供たちなどがいた。
毎日のように顔をあわせるうちに、お互いに目礼を交わすようになるのだが、結局それ以上には進まないのだった。
誰も誰にも話しかけず、ただじっと自分の子供の遊ぶ様子を眺めているだけだった。そんな時、私はいたたまれないような孤独感をよく覚えた。とろとろと眠くなるような昼前の日溜りの中で、淋しさのあまり叫びだしそうになることがあった。
見回すと、私と同じような女たちが、虚《うつ》ろな眼をして、子供の動きをぼんやりと追っているのだった。もしかしたら、彼女たちも亦《また》、発狂しそうな孤独感を、その皮膚のすぐ下にかかえているのかもしれなかった。
けれども、彼女たちのうわべからは、そうしたさしせまった淋しさはうかがえないのだった。
多分、私だって同じことだろう。子供がいて、夫がいて、生活には適当にめぐまれ、ほぼ幸福と言ってよい日常を送っているわけだった。にもかかわらず、虚しさが、不幸の予感が、どうしようもなく私を内側から蝕《むしば》んでいるような気がしてならなかった。
つまり、私は退屈だったのだ。子育ては多忙をきわめたが、いくら躰《からだ》を動かしていても、胸の中は退屈していたのだ。
結局、あの公園で、私は三年余りの午前中を過ごしたのだった。ひたすら何もせず、退屈に蝕まれながら、じっとしていた。
私は何かを待っていたのだ。おそらくは変化を。それは誰かが私に与えてくれるはずの変化だった。夫とか、誰かが。
しかし、誰も何も与えてくれなかった。変化は、私自身の内側から起った。決して誰も何も与えてはくれないのだと、徹底してわかった時に、それが始まった。何かをやろうという気持。あのうだるような倦怠の長い日々がなかったら、やはり小説など書き始めてはいなかったろうと思うのだ。
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夜の歌
小説に登場させる人物の名前に凝《こ》るというか。むしろ凝らないといった方が正しいのかもしれないが。出来るだけ名前から生活感とか生活の臭《にお》いを取りのぞきたいと思っているものだから、記号でもいっこうにかまわないくらいだ。
『週刊文春』に毎週短編の読み切りを連載していた時は、ストーリーを考えるよりもそのつど名前を選ぶことに、何倍も苦労した。
小説の舞台となる場所も同様で、生活臭を排除したい。で、私の場合は六本木ということになる。
銀座でも赤坂でもよいのだが、ある程度そこに土地勘がないと、その中で人物を思う存分に動かせない。
六本木には六、七年住んでいた。三十代の、女として多感(?)な時期を、そこで過ごした。三十代の女に普通起ることが私にも普通に起って、傷ついたり、人を傷つけたり、泣いたり笑ったり。辛いことの方が多かった。進んで辛いことを追い求めていた節もある。
誰か一人の男の妻である以外の何者でもなく、世間や人々から忘れられ置きざりにされているという実感の中で生きていたように思う。その不毛さを夫にぶつけるものだから、彼はそれを嫌がり、背中ばかり見せていたのもその頃だ。
私たちが住んでいた家は、急な坂の中ほどにあった。夜、お酒を飲んでふらつく足で帰る坂道で、ふと顔を上げると、クリスマスツリーみたいに飾りたてた東京タワーが見えるのだった。顔などめったに上げず、うつむいて歩くことが多かったが、あの坂にくると必ず夜空を振りあおいだ。それでわずかに気がまぎれ、救われる思いを味わうことが出来た。
小説を書いてみようという唐突な思いに突き動かされ、現実に書き始めたのも、六本木の時代だった。もしも、一度も六本木という街に住むことがなかったら、あの最初の小説が生まれたかどうか、大いに怪しいものだ。
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クリスマスのお客さま
私の家では年に一度、十二月二十五日にだけ、七面鳥を焼く。十キロ前後の中ぐらいのを紀の国屋で買ってきて、セージと玉ねぎの詰め物をお腹に詰めて、クリスマスの朝から半日がかりで焼き上げる。正月料理を作らないので、これが年に一度の改った正式ディナーになる。
家中に、七面鳥の焼けるいい匂いが漂いだす頃、玄関にノックの音がする。食事にお招きしたお客さまの到着だ。
何時《いつ》の頃からか、クリスマスのディナーに、一人か二人、多くて四人ほどのお客さまを招待するのが慣習のようになってしまった。
普段親しくつき合っている人たちではなく、ほんの少しだけ顔見知りだというのに過ぎない人たち、たとえばご主人を亡くされたばかりの老夫人とか、生涯独身を通したイギリス人の老英語教師だとか、時にはクリスマスの前日夫がパブで知り合ったアメリカ人の留学生だとか、手描きの地図を頼りに訪ねてくる。
顔ぶれは毎年きまっているわけではない。日本の土に骨を埋めるつもりの老英語教師は、この三年ばかりの常客だが、未亡人は従姉妹《いとこ》たちの住むスコットランドへ引き上げてしまったし、留学生の行方は知れない。
ほとんど初対面に近い人たちをクリスマスに招待するようになったのは、夫の希望であった。その昔、英国をふらりと発って流浪の旅に出た彼が、一番寂しい思いをしたのが、異郷で過ごすクリスマスだったからだ。
柊《ひいらぎ》で飾られた窓の中で豆電気が点滅し、湯気で曇ったガラスのむこう側のクリスマスの団欒《だんらん》。そうしたものと無縁に過ごした若い頃の数回のクリスマスの惨めな記憶が、この季節になると鮮やかに立ち戻ってきて、彼はつい、孤独な人たちに声をかけてしまうのだそうだ。
前の夜にサンタクロースからピロケース一杯のプレゼントをもらって大満悦の娘たちも、クリスマス当日の見知らぬお客さまの前では神妙に緊張している。口で特に教えなくとも、彼女たちの頭の中に、分け合う、与え合うというささやかな奉仕の精神が自然に浸透すれば、夫も私も満足である。
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女の自由・男の魅力
一時期、家庭も夫も何もかも捨ててしまって、自由だったらどんなに良いだろうかと、深刻に考えていた時期があった。
どうして結婚している女だけが、仕事をやろうとした場合、何もかも一手に引き受けなければならないのかと、非常に不満だった。
けれども夫の方にしてみれば、最初から女流作家と知って私と結婚したわけではない。結婚の途中で作家に転身してしまった妻に対して、実に割り切れない、言ってみればサギにあったような気がしているとしても、不思議ではない。
「私も仕事をしているのだから少しは協力して下さいよ」という言葉は、従って最初から引っこめなければならなかった。好きで始めたことだろう、と言われればそれまでである。
家事の役割の分担の件などもちだして、口論になるくらいなら、さっさと自分でやってしまったほうがよほど時間とエネルギーの節約になる、ということも早々とわかってしまった。
でとにかくひたすらがんばってみたのである。
その結果はどうかというと、こちらが黙ってがんばればがんばるほど、敵はさらに制約を増やし、無理難題をふっかけてくるのである。締切りでかっかしている時に窓枠に薄く積もった埃《ほこり》のことをもちだすのである。東京に住んでいれば埃など一晩で積もるのだが、そこで言い返せばエスカレートするので、はいすみませんとダスキンを手に立って行き、窓枠をなでくっておいて再び原稿用紙に向かう。
家事の無理難題ならまだ良いがこんなことを言われた時には、ほんとうにまいってしまった。「子供たちの寝顔を見たかい?」と夫がある時|訊《き》いたのである。「あの顔は、母親に充分かまってもらえない子供たちの、愛情に飢えた寝顔だ」と私を責めるのだった。
私はその時、ああこの人は私を責めるだけで少しも支えになってくれないんだと心に感じ、離婚をひそかに決意したのである。
ところがそれから少したって、私は中村真一郎さんとお逢いする機会があってお話をして、「それでは又お逢いしましょうね」と別れた。中村さんの歩み去る背中をみつめているうちに、はっとして胸を突かれるような思いにおそわれた。
中村さんの背中は、痛い背中だった。淋しそうで孤高で、苦痛に満ちていた。
一日二十四時間、作家だけでいるということは、ああいうことなのだ、と私は眼からウロコが落ちる思いだった。私にはとてもできないことだとわかった。
小説を書きながら、家族や夫に対して何か申しわけない、すまないと思いながら、コソコソやっているほうが、本当ははるかに楽なのだと身にしみた。それで一応離婚の危機はまぬがれたのである。物を書く女が自由になるということは中村真一郎のような背中をもつということだからである。
そしてありがたいことに、表現上の自由ということは少しも犯されていない。自分の書きたいことを、書きたいように書くということは、ゆいいつの救いでもある。
夫が英国人で私の作品が読めないからだと指摘されることがしばしばあるが、私は彼が読もうと読めまいと、書きたいことは書くだろうと思うのだ。現に私の両親は私の小説を全部読むが、私は親のことを、とくに母親のことを、サジかげんなどせずあることないこと徹底的に書いている。
小説を書くということは、そういう意味で自分の周囲の大切な人々を傷つけたり苦しめたりすることなのだ。そして多分、それを書く本人が一番傷つくのではないだろうか。
なぜならば、夫のことを書き、母親のことを書き、娘たちのことを書きながら、結局、すべての原因は作者である自分にあるというところに必ずいきつくからだ。私は私の愛する人たちを責めるために書いているのではない。私は私自身を追求し、自分に責任を負わせるために書いているのである。
そのことを止められるものは誰もいない。たとえ夫でも私の魂の叫びを封じることはできない。
家の中に物を書く人間が一人いるということは、家族にとっても辛いことである。私はいい。私には表現の自由があり、魂のその自由さの中ではばたけるからだ。
だから私の門限が厳しく夜の十一時にきめられていようと、窓の埃について文句を言われようと、子供たちのことでチクリと刺されようと、ほんとうはそれほどこたえない。
男たちは、私の夫をも含めて、女に自由を与えたがらない。夜の十時を過ぎるまで女が外で遊んでいるということが、別の男とベッドの中にいることとほとんど同じことだと思ってしまうような発想をする。
世の中には男とベッドに入ることよりはるかに素敵なことがたくさんあるのに、残念なことである。
でもそういう風に言うと、結婚している女が、自分以外の人間との関係においてなぜそういう素敵な思いを味わう必要があるのだということになる。
かといってそれでは当の本人が妻に素敵な思いのひとつでも与えてくれるのなら話はわかるが、自分では何ひとつ与えようとはせず、あれもだめ、これもだめと禁止事項ばかりが多いのだ。
男は、女の扱い方がとても下手だと思う。制《おさ》えつけることによってしか支配できないからだ。
強制からではなく男の魅力によって女が彼の傍にとどまりたいと欲するのでなければ、ほんとうはつまらないことなのだ。
だから女を力ずくで支配したり強制したりしなければならない男というのは、男としての魅力がない人間なのかもしれない。少なくとも本人はそういうふうに感じ劣等感を抱いているのかもしれない。だから意地になり力に出るのである。
自分と深く係わりのある女が良い仕事をしたり世の中に認められたり、評価されることを、手放しで喜べる男は少ない。男同士なら嫉妬とか羨望《せんぼう》の感情を露《あらわ》にして足を引っぱれるが、男が女にあからさまな嫉妬は見せられないから、制えにかかるのである。力で男の沽券を示そうというわけである。なぜ男は、女を一人の人間として見ることができないのだろうか。
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情事が生む緊張感
相手の欠点が眼につきだして、顔を見るのも嫌だ、触られるのも嫌だとなったら、まず思いきって別居してしまうことだ。
彼が困るのではないか、子供たちの幼稚園や学校もあるしなどと言って、なんのかのとなかなか実行に移せないものだが、何も女の方が出て行く必要もないわけだから、実はこれこれこういうような理由で――あまり露骨にはっきりとは言わず、適当にぼかして(つまり相手にある程度花をもたせるような言いようをして)――頭を下げ、つきましては二、三日、都心のホテルへでもお泊り頂きたい、かかる費用は私が、となにがしかの紙幣を差し出す。これも別居の方法のひとつである。
とにかく離れてみる、風を入れるというのは、結果的にみて効果がある。相手がいなくてせいせいした、ということもむろんそうだが、相手がこのままいないと困る点も、諸々見えてくるからだ。それは双方にとってそうだから、別居の間、相手の欠点よりも利点を探しだして再び寄りあうということになる。
時々このように、あまりシリアスでない別居を、ある程度のユーモアと余裕とをもってくりかえしつつ倦怠期を乗りきる。
しかしこれはどちらかというと消極的な方法だから、もっと積極的に結婚生活をリフレッシュするなら、恋にかぎる。
私は何もすべての人妻に浮気をすすめるつもりなど毛頭ないし、浮気の仕方について書くつもりもない。
ただたとえば、こんなふうなことなのだ。
私の友人にフリオ・イグレシアスに夢中という女性がいる。彼が来日するというので、人が違ったみたいに眼を輝かして駆けずりまわり、ありとあらゆる方法を駆使してディナーショーの切符を一枚手に入れた。
むろん利口な彼女は、フリオ様の|フの字《ヽヽヽ》も口にせず、したがって夫に「色気狂いのおばん」などとばかにもされず、出かけて行き、それこそ(彼女にとって)夢のような一夜を持ったわけである。
フリオが来るときまった頃から急に食欲がなくなり、腰の周囲や顔の贅肉がすっきりととれ、見違えるばかりの変身ぶり。ディナーショーの夜が近づくにつれて肌がしっとりとし、眼に輝きが増す。なんとなく浮き浮き、楽しいから子供にもやさしくできるし、夫の顔を見てもなんとなく許せるような寛大な気持にもなる。
色に出にけり我が恋は――で、急に変身して生々と輝いている妻を見て、夫は絶対に緊張する。「|おや《ヽヽ》?」と思う。
この緊張感は、倦怠のよどんだ空気を吹き払う風になりうる。
「おまえこの頃変だぞ、いい年してチャカチャカして。男でもできたんだろう」などと半分冗談めかして――実は内心必死の思いで――妻に言えば、
「まさか、男なんているわけないでしょう」とフリオ様を心に思い浮かべて、何くわぬ顔でさらりと否定する。実際に男がいたら、こうさらりとはいかない。やっぱり顔が突っぱるものだ。
逆にさらりとやられると男の胸はなおさら波立つ。顔色も変えずに否定されればされるほど、疑惑はつのる。休日などパジャマ姿でゴロゴロしているわけにはいかないぞ、と夫は生活態度をひきしめる。
結婚生活に、男と女の意識がわずかでも戻れば成功なのではないだろうか。結婚をリフレッシュするとは、夫婦の間にもう一度相手を男と女として、見なおすという要素が、ぜひとも必要なのではないか。
件《くだん》の女友だちは苦笑しながらも私に語ったものだ。亭主に焼きもちを妬《や》かれるのも、決して悪いものじゃないわ、と。女として見られることで、彼女の方も夫を男として見る。二人の間に、おやっ、という新鮮な発見があった、ということだ。
さてその後日談。
やがて愛しきフリオ様の乗った飛行機が成田を離れると、我が友人は全世界でたったひとり取り残されでもしたかのように、猛烈な孤独感、寂寥《せきりよう》感に襲われた。それは、まさしく失恋の痛みそのものであった。物も言わず石のように黙りこくって、その痛みに耐えるしかない。
夫に、どうしたんだ、躰でも悪いのかと訊《たず》ねられても、|フの字《ヽヽヽ》のことは言えない。言ってはならない。この恋を笑いとばされるわけには断じていかない。女の沽券にかかわる、と私の友だちは考えたわけだ。
青息吐息の一週間が過ぎた。するとどうだろう、長らく失っていた食欲がたちまちにして戻り、あっという間に元気回復。腰や胴回りに元通りのたっぷりの肉をつけ、顔にも血色が戻った。あら太った、嫌だわとラケットをふりまわしつつテニスコートを駆けまわるのも前と同じ。
テニスの後、シャワーを浴びて生ビール。溌剌《はつらつ》にして健康美。それこそあなたらしいというものよ、と言うと、彼女、大口をあけて、がはははと笑った。その笑い声を聞いて、ああこの女《ひと》はなんとか倦怠期を乗り切れそうだな、と私は感じた。
フリオ事件は、彼女と彼の間にほんの少し朽ちかけていたものを、もう一度元気づけるために役立ったものだ。
多分彼女の夫も、腰に肉を取り戻し大口をあけて、がはははと笑う妻を横目で眺め、ほっと安堵《あんど》の溜息をもらしたのに違いない。
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喧嘩《けんか》のボキャブラリー
私の家庭では夫が英国人だということもあって、日常会話の八〇パーセントが英語であるが、メシ、フロ、ネルとまではいかなくとも、夫婦の会話なんていうものは国籍を問わず似たようなものである。
朝は、「オハヨウ」と、玄関での「何時に帰るの?」で大体こと足りる。「オハヨウ」から「何時……」までの会話の空白は、もっぱら彼がジャパンタイムズの活字を追いつつ、朝食をしたためているせいだ。(たまに新聞が休刊だと食事も喉《のど》に通らないと、ひどく機嫌が悪い。そんな時には朝食をパスすればいいと思うのはこちらの考えで、あちらさまは前日の朝刊などをひっぱりだしてきて、浮かぬ顔でクロスワードパズルなどなさりながら、トーストを噛《かじ》るのである。)
夜は夜で、「おかえりなさい」(と、これは英語にこの種の言葉がないので、日本語でそのまま)「|い い 一 日 で し た《デイド・ユー・ハブ・ア・ナイス・デイ》 ?」とねぎらっておいて好物のマッシュポテトとステーキの大盛りの食事を押しつけておけば、あとはモグモグ。しばし沈黙。
夕食が終る頃にタイミングよろしく、TV洋画劇場が始まるから更に二時間は画面に集中。のこるは「おやすみなさい」の一言。
とまあ、結婚十八年になんなんとする夫婦の会話は以上四つばかりを骨格に、その日の虫の居どころ、事件の有無で増えたり膨らんだりはするが、そんなところである。
従ってある時点から会話がさっぱり上達しない。パーティーでも食べもの、ファッションていどならお茶が濁せるが、専門分野の会話になると、情けないくらいわからない。
それよりも何よりも慙愧《ざんき》に堪えないのは、夫婦喧嘩の時である。日本語なら、相手の痛いところをチクリと刺すことも、辛辣な言葉の短刀でグサリと敵を突くことも、胸のすくような罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけることも簡単にできると思うのだが(やった事がないから、あくまでも可能性の問題だが)、英語ではとうていそうはいかない。逆上すればするほど言葉につまって、雨アラレと降りそそぐ敵の言葉の槍《やり》から身を守れない。眼を覆うばかりの惨敗である。
充分に、対等に、丁々発止と渡りあった闘いなら、それなりにあきらめもつくだろうが、敵の言葉の槍を針ねずみのようにあちこちくっつけて退散するのではあまりにも屈辱的ではないか。あまりの悔しさ、あまりの憎さに夫婦問題を越えて、国際問題に発展しかねない。
もっとも我が家の喧嘩はとっくに国際紛争的色彩を帯びていて、夫が一番キリキリするのは、彼の国をおとしめておいて、それを夫の次元にまでひきずりおろす時である。すなわち、
「イギリス男の威信がどうだか知らないけど、女王さまだけじゃなくサッチャー夫人にまで頭が上がらないからって、なにもか弱き妻で鬱憤《うつぷん》をはらすことはないじゃないの」
とこんな具合。
結構やるじゃない。それだけ出来れば充分充分と、お思い?
もちろん努力。私もがんばった。夫婦喧嘩のお手本のような二か国語放送の番組をあさりまわったのである。そしてピッタリのにめぐりあった。ベルイマンの『ある結婚の風景』がそれ。
とにかく、初めから終りまで、夫と妻だけしか登場しない。最初のシーンは、いかにも幸せそうだった。それが(多分友人夫妻が目の前ですさまじい夫婦喧嘩をしたのに触発されたかして)一気に暗転、離婚に至るくだり坂をひた走るわけだ。
連夜真夜中近い十一時から一時間、五日続けて、むさぼるように観た。しょっぱなから、ドキッとして、わくわくした。これは使える、利用できると、胸が躍った。この夫婦の執拗な口論は、充分に我が夫婦の喧嘩に盗用できると、メモを片手にきき耳をたてた。
夜毎に口論は峻烈《しゆんれつ》をきわめ、言葉はフェンシングの切っ先のように相手を切りつけ、切り刻み、さすが肉食の国の夫婦の争いはすさまじい、とうてい日本人の比ではないわいと呆然《ぼうぜん》とし、ますますメモの手に力がはいる。
こんな風に罵倒してやったら、夫はどんな顔をするだろう、と想像するだけで胸がすいた。
五時間にわたる『ある結婚の風景』からの会話のメモはレポート用紙五枚ほどになった。
秘かに練習したかいがあってか、ちょっとした言い争いの際、夫が「おや」というように片方の眉を上げることが多くなった。「言い返す言葉にいちいち棘《とげ》があるじゃないか」といかにもうさんくさげ。わざわざ棘のあるのを選んで盗用してるのだから、あって当り前。口論のテクニックは日を追って上達。
ところがである。こちらの腕が上がると、相手もますます容赦しなくなった。口論の質が一級も二級もエスカレートする。元々彼のお国の言語である上に、こちらはほとんど一夜漬けの丸暗記。たて板に水のごとくとはいかないのである。
またしても言葉に窮す。暗記したはずが、とんと思い出せず絶句したりして。こんなはずではなかったと、茫然自失。あげくの果てに、くやし紛れと血迷ったのとで、大切なアンチョコを丸めて敵の顔へ投げつけた。
「|読みなさい《リード・イト》!」これが私が言いたかったことなのだ、と――。
あとのなりゆきはご想像にまかせる。
大事なアンチョコを夫に読まれ一笑にふされてしまったので、再び元のスタートラインへ逆戻り。あいもかわらず二か国語放送にチャンネルをあわせて、もう|メモ《ヽヽ》にはこりたから、もっぱら|メモリー《ヽヽヽヽ》のお世話になっている。
この年になると、メモリーの方も思うにまかせず、従って英語の会話の上達は遅々として進まない。石の上にも三年というが、三年後に英語で罵詈雑言が使いこなせるか、疑問である。願わくば、二か国語放送の英語の|ドラマ《ヽヽヽ》を、増やしてもらいたい。人助けだと思って、ぜひともお願いしたい。
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チャップイ的シェイクスピア論
テレビのコマーシャルの影響はすごいなと最近つくづくと思うのは、あるフランス人の家を訪ねた時、日頃のきまじめな表情からは想像できないような、おどけた仕種で、そこのご主人が、
「チャップイ・チャップイ」
と手をすりあわせ、ポケットから何と紙カイロを取り出してニヤリとウィンクした時のことである。
まずフランス人に「チャップイ・チャップイ」という言葉を言わせたことがすごいと思うし、チャップイがサムイの意味だとわからせたことも大したことだ。しかし何と言っても、紙カイロなる彼らから見れば奇妙キテレツな代物を買いに走らせたという、快挙がすごいではないか。
実は、私はこの「チャップイ」の何たるかをその時まで知らなかったので、一秒か二秒は眼を見張ったのだが、すぐにピンときた。
どうピンときたのかというと、まずTVだろうとピンときた。TVの仕業に違いないと。
そして紙カイロを手なれた(?)手つきで揉《も》むのを見て、チャップイがサムイの意味であることもピンときた。
ということは、実に単純なことなのだ。この単純さこそが怪物なのだが。
そして何ということだろう、その夜、暖い居間から火の気のない廊下に出たとたん、私の口から「チャップイ・チャップイ」が突然、とびだしたのである。
それ以来、私の意志とは無関係に――元来そういう流行語を口にするのは沽券にかかわると思っているほうだから――「チャップイ」が始終私の口をついて出る。雪がたくさん降ったり、何度もシベリアの寒気団が異常に南下したりして、今年は本当によく冷えるチャップイ冬であったから。
もうひとつは、「ズコー」なる言葉とそれにともなうゼスチャーだ。
これはかなり前から私の子供たちが使っていて、時効になりかかっているのだが、ちょっと遅れてフランス人の子供たちの間で蔓延《まんえん》し、猛威をふるっているのだという。
私の子供たちというのは半分イギリスの血が混っている。従って会話は主として英語で行われる。
学校が終ると「アイ・アム・ハングリー」と駆けこんでくる。こちらはまだ机に向かっていることがある。
「悪いけどピーナッツバターのサンドイッチでも作って、食べていてちょうだい」と私は一応英語で叫びかえす。とたんに「ズコー」ときた。
ピーナッツバターなんてシロモノはシラケルわよ、というような感じで「ズコー」なのである。
何にでも「ズコー」なのかというと、決してそうではない。どうして日本語の微妙なニュアンスが彼女たちにわかるか、ほんとうに奇妙な気がするが、実にぴったりのタイミングで「ズコー」とやる。
私の姪というのが、これまたフランス人との混血で――このために私と妹の父親が純血種が絶えてしまったと嘆くのであるが、この話は別に置いておいて――、この娘は日本に来てまだそれほど日数がたっていない。私たちの家族と目下同居しているが、日本語もカタコト。
それがやはり、「ズコー」に関してはぴたりときめるのである。母親とフランス語でやりとりしているうちに、「ズコー」とよろける。「ズコー」だけが日本語なのだ。
「なんです、はしたない」と私の妹であるその子の母親がたしなめた。すると姪が口をとがらせて答えた。
「だってみんなやってるもの」
「みんなって?」妹は、姉である私の娘たちを横目で見ながら聞いた。
「リセのお友だち。クラスのみんなよ」
ここで姪がクラスルームの模様を私たちに再現してみせてくれた。
日本のリセ、すなわち、フランス人学校。当然先生はフランス人で生徒も主としてフランス人。授業もフランス語で行われる。
先生がフランス語で何やらペラペラとやる。何か、生徒を刺激するようなことを口にしたとたん、全クラスのフランス人生徒がいっせいに、「ズコー」と叫ぶそうである。
日本人が一人もいない教室で、青い眼の先生にむかって、青い眼の子供たちが声をそろえて「ズコー」とのけぞる図を想像してみて頂きたい。おかしいにはおかしいが、気持悪いではないか。
「チャップイ・チャップイ」も同じだ。日本語のまるでわからない外国人が、TVそっくりのイントネーションと仕種とでそう言うのだから、目撃者はちょっと呆然としてしまう。
もちろん、直ちにすべては笑いに巻きこまれてはしまうのだが――。
話は少し飛躍するが、イギリス人の私の夫は、よく、シェイクスピアを日本語に直すことができるわけはないと言って、日本語をおとしめるような発言をして私を怒らせるのだが、もし外国人が「チャップイ」を感覚的に、あるいは生理的に理解し、「ズコー」を完璧に使いこなせるのなら、その逆もしかりで、私たち日本人にシェイクスピアの世界観で、感覚的生理的不可解はない、と言えるのではないか。
たとえば、「武士は喰わねど高楊子」というのを、夫に説明してあげたことがある。元来英国人というのは大変に自尊心の強い人種であるのにわをかけて、私の夫は超沽券亭主。武士のやせがまんが少しはわかるだろうと、翻訳してみたら、案の定、わかる、わかるとニヤリと笑う。腹が空いていても、一杯のような顔をするのが、サムライというものだ、と理解した。
でもそこにこめられた揶揄《やゆ》のニュアンスまではわかるまいと、タカをくくったような口のきき方をしたら、それはどっちの側の人間が言うかによるさ、と答える。サムライが言えばプライドを表すし、それを見ている庶民が言えば揶揄にもなるだろうよ、とわかったふうなのだ。
そこで私はハタと膝を打ち、
「ホラ、ちゃんとサムライの心も、その裏も、外国人であるあなたにだって、わかるじゃないの。だからシェイクスピアも同じよ。日本語ってすごいのよ。日本の心って奥深いのよ」
このPRがきいてかどうか、この頃では夫はもうあまり、日本人にシェイクスピアの世界観が理解できるものか、などと暴言を吐かなくなった。
その彼は、家中の者が上から下までこの冬「チャップイ」を連発しているのにもかかわらず、全く感染しない。もっとも、大きな躰のイギリス男が、身を縮めて「チャップイ」などと口走ったら、私はきっと嫌な気がするだろうと思う。男は寒いなどと始終口に出さないほうがいいし、安易に紙カイロなど買いに走っても、もらいたくない。
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結婚の条件
育った環境が違うというなら、私たち夫婦の場合は、イギリスと日本で、これはもう大変な違いである。
とりわけ彼など私の食生活をみて、呆然としたのに相違ない。私の好物は、イカの塩辛の類、ナマコやもずくの酢の物、納豆といったもので、それぞれの原料や、元の形態、食料となるまでの過程を説明して聞かせたら、それからしばらくの間、私にキスをしなくなったところから察して、かなりのショックだったようである。
毎日同じ食卓を囲むわけだから、この気色の悪いものどもを横眼に、夕食を食べなければならないという点で、環境の違いにひたすら耐え、それを克服していったのは、もっぱら夫の方なのではないかと思うのだ。
もちろん彼は、ごく普通の保守的なイギリス男であるから、自分が食べたいもの、着たいもの、したいことなど、物静かにではあるが、しかし厳然として自分の主張を通してしまう。
従ってたとえば夕食に例をとるとすると、彼はこの二十年間、嫌というほどステーキとじゃがいもと、芽キャベツといったメニューを食べつづけてきたことになる。
洋服なども、ジーンズなど決してはかない。Yシャツを素肌に着ない。他にも数えきれないほどあるが、とにかく彼流を一貫して押し通す。
結論を早めに出してしまうなら、環境の違う育ちをした男と女が上手《うま》くやっていくのには、まず、生活の基本的な点で、もろもろの相違を|無理に一致させようとしない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということではないかと思う。
ナマコを見ただけで鳥肌をたてている男に、それを食べなさいとすすめるのはナンセンスだ。納豆や塩辛がなくてはご飯が食べられないという私に、そんな気色の悪いものは止めてくれと言われたら、深刻に悩んでしまう。
私は私の食べたいものを遠慮なく食べさせて頂くかわりに、彼にも彼の食べたいものを食べたいように調理してあげる。それはたとえ、夕食作りの手間が二倍になるとしても、仕方のないことである。
またあるいは、日曜で寛《くつろ》いでいる時に、カーディガンにYシャツネクタイ姿の夫を見て、ジーンズとTシャツが楽だから着なさいよ、とは強制できない。
しかしながら、相手にこちらの好みなり習慣なりを強制しないだけでは、結婚を上手くやっていくことにはまだ不充分なのである。
相手の|習慣や好みの違いに耐えること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これが案外むずかしい。
虫の居所が悪い時など、日曜日の朝っぱらからネクタイなどしめられちゃリラックスできないわ、と、言いたくなる。
彼だって、機嫌の悪い時には、その厭なにおいのする食べ物を今夜は止めてくれ、と私の納豆に敵意のこもった一瞥をくれたくもなるだろう。
ひたすら、黙って相手の気に入らない点に耐えることは、積極的に相手との違いを認めるより、場合によってはずっとむずかしい。
私たち夫婦がとにかく二十年間、共にやってこれたのは、育った環境の違いもさることながら、共通点も多々あったからである。私たちはまず年齢が同じだ。彼が三か月だけ私より年下である。
ということは、育った時代が同じということになる。ラジオからは、イギリスと日本と場所は違うが、同じロカビリーが流れ、同じカントリー・ウェスタンが流れた。
彼はエルビス・プレスリーを聞いて青春を過ごし、私も又、そうだった。
もし家の中に四六時中、私の嫌いな音楽が流れていたら、どんなに耐え難く苛々《いらいら》することだろう。
その点、ありがたいことに、私たちは大変うまくいっている。彼のカセットテープのコレクションと私のコレクションと、非常に良く似ているからだ。
自分と似た趣味の相手、できたら同年代を結婚の相手に選ぶのが、いいのではないかと思う。
十人いれば十色というくらいだから、育ち方はみんな違うわけだ。違ってあたりまえだくらいに考えると、いいのではないかと思う。そして相手との違いをあれこれ数えたてるのではなく、むしろ、いい点、よく合う点、似たところを数えてみること。
それと、ある程度の距離を相手とおくこと。夫婦が一心同体などということはまずはありえないことで、夫婦はもともと他人、見も知らずの男と女が出逢って、強引に一緒に暮らし始めるわけだから、相手を思うようにコントロールできるなどと考えたら、失望するのにきまっている。
相手には相手の人格があり、たとえ夫婦でも別々の人間なのだと思えば、いたずらに期待しすぎることもない。
必要以上に期待をしなければ、裏切られたり、失望することもない。別の人格だと、自分の中できちんと意識できれば、髪ふり乱した姿や、膝のぬけたようなトレーナー姿を夫の前にさらせるわけがない。
彼の方だって、相手が少し冷めた眼で自分を見ていると思えば、日曜日を一日中パジャマで過ごすことも止めるだろう。
要するに、自分が嫌だと思うことは、相手も嫌なのだと思えばまちがいない。自分にとって快いことは、そのまま相手にとっても快いことだと信じていい。
基準を自分においてあてはめれば、相手の立場を想像するのはそれほどむずかしくない。環境が違うから、その結婚がむずかしいのではなく、ほんとうは、どれだけ相手を許せるか、どれだけ相手に自分を与えることが出来るのかによるのだと思う。
結婚前は両眼をしっかり開いて相手を見、結婚したら片眼くらいにしておく、というのは、実に正解なのである。
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好きこそものの上手なれ
"How do you do?" とか "How are you?" とか "Fine, thank you, and you?" などという簡単な会話は、成城学園の初等科ですでに習っていたから、私の英語体験は、当時の普通の人よりは幾分長いと思う。
けれども、勉強が大嫌いで、とくにめったやたらに暗記しないと駄目なものは苦手だったから、英語の文法とか、単語を覚えるという点にかけての才能は皆無だった。
幸か不幸か、私の実家には、子供時代からずっと、誰か一人か二人、外国の人が下宿していた。
東南アジアの政府交換留学生だったり、早稲田の国際部に通うアメリカ人学生だったり、ある時期には、イギリス人のおばあちゃんだったり、オーストラリア国籍の中国人だったり、下宿人たちは実にさまざま変ったが、それが結婚して家を出るまで、ずっと入れかわり立ちかわり続いた。
私の結婚後も、私の母は、相変らず留学生のめんどうを見続けていたようである。実の子供たちよりもずっと可愛いがっていたみたいだ。そして実の子供たちが一人去り、二人去り三人去りと母の手を離れると、留学生の数も二人三人と増えたりした。
私の家に下宿していた人々の国籍も顔の色もいろいろ違ったが、共通していたのは英語を喋る人々だったということである。彼らは日本に日本語を習いに来ていたのであるが、未熟だったために日本語と英語のチャンポンで、私たち家族と話をした。それで私たちは英語に親しむようになったのである。
スペルを知らなくても、いつのまにかボキャブラリーだけは耳で増えていった。自分の方からはまだ会話らしい会話は出来なくとも、相手の言っていることは、なんとなく理解できるようになるのだ。子供の頃耳から覚えた英語というものは、|まちがいも含めて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、忘れないものらしい。私が未だに喋っている英語は、当時の体験に根ざしている。
家に外国人が入れかわり立ちかわり出入りしていたせいというわけではないのだろうが、私も私の妹も長じて外国人と結婚するようなハメになった。
もちろん相手は、家の下宿人ではない。そう安易に、夫たる人間を身近なところから選べるものではない。とまあ、これは私と妹がひそかに心に灯している自尊心みたいなものだが。といって家の下宿人たちがつまらない人間たちだったというつもりもないのである。彼らは言ってみれば同じカマの飯を食べた仲、人類みな兄弟という感じだったので、男として眺めることはあまりなかった。私の母をみんな "OKASAN" と呼んだし、それにあまりタドタドしい日本語で喋るのを見聞きしていると、ロマンスは生まれにくいものらしい。で、私も私の妹も、日本語などまるで出来ない男たちを勝手に探しだしてきて、一緒になった。私は英国人と、妹はパリまで出かけて行ってフランス人と結婚した。
両親は唖然《あぜん》としたかもしれないが、結局強い反対はしなかった。それというのも、自分たちが外国人の下宿人などを置いた影響だと、ひそかにあきらめていたのかも知れない。
さて、英国人と結婚して私の英語に磨きがかかったかというと、それがあまりそうでもない。家の中で芸術全般、政治経済の話をするというのでもないかぎり、夫婦の会話なんてタカが知れている。
"Breakfast is ready!" と怒鳴る。お風呂に入る? 何時に帰るの? 今日の仕事はどうだった? 疲れたわ、口をきくのもめんどくさいわ、と共稼ぎだったので会話をポリッシュするより、黙っているほうが楽なので、ほんとうに進歩しないのだ。
語学というのは、私が思うに好きでなければ上達しない。英語を喋るのが好きで好きでしょうがない、という人でなければ、決して上手にはなれないものである。私は語学は苦手だった。今でもほんとうに苦手なのである。だから未だもってボキャブラリーは中学生の頃と同じだし、会話の程度も上達していない。私には語学の才能が全然ないのだ。
主人の関係でパーティーなどがあるし、子供たちはインターナショナル・スクールに通っているから、その父兄会とか先生との面接などもある。その都度、死ぬような思いを味わう。英語でペラペラと自分の言いたいことが言えないのである。相手の言っていることは、ほとんどわかるのだが、それに対して、何かが言えない。簡単なことは答えられるが、一歩突っこむともういけない。なぜなのだろうかと、考えてみた。スペルを知らない単語があまりに多いせいだとわかった。
前に書いたように、私の英語は耳から入った英語だ。それとなく喋っていても、その単語を書くとなると、スペルを知らない言葉がほとんどだ。
それはまずいことなのである。喋る言葉のスペルがはっきりと頭に入っていないと、だめなのだと思う。そしてスペルなどというものは、若い時に頭に入れておけば、後で苦労しない。
私でも、通り一遍の会話ならなんとかなる。それから先が問題なのだ。通り一遍からは、何も生まれない。一歩突っこんだところから、人間関係なり、友情なり理解が生まれる。そういう意味で、日本語はともかく、英語では大変な損をしている、と私は思っている。
国際結婚のことであるが、言葉が最大の問題なのか、というと、私の場合でもよくわかるように、言葉は一番の障害ではない。結局、どんな結婚でも同じだと思うのだが、要は相性である。それは日本人同士であろうと変らない。相性が悪ければその結婚はだめなのだ。
私の英国人の夫もまた、語学に才能の全くない人で、二十年住んでも日本語の能力はゼロに近い。
私の妹とフランス人の夫とは、結婚十年で離婚した。妹のフランス語は私が喋る英語の数倍も達者だった。言葉ではなく、相性が悪かったのである。
私の娘たちは、英語と日本語で暮らしている。どちらも完璧《かんぺき》に喋るが、日本語に関しては、書くのがだめ。耳で覚えた日本語だから、まさに私が耳で英語を覚えたのと同じである。というわけで彼女たちは母親である私が書いた小説は、永久に読めないのである。
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勉強ぎらい
私たち夫婦が、子供の成績が少しぐらい悪くともあまり気にしないので、娘たちが図に乗ってなまけものになってしまったらしい。
先日、真ん中の子供の担任の先生に夫婦そろって呼び出された。
テストの結果を見せられた。五科目中三つが「アンサティスファクトリー(不満足)」で二つが「フェイル(落第)」であった。
これは由々しきことだと担任が顔をしかめた。私たちも少々あわてた。
真ん中の娘は、動物が好きで、小さい時から獣医になるのが夢だった。
「このままの成績では、とても獣医にはなれないよ」と夫がその夜彼女を自室に呼んで話しかけた。
「絶対になれないの?」
「うん、このままでは絶対になれないと思うね」
真ん中の娘はすっかりしょげかえり、珍しくTVも観ずにベッドにもぐりこんでしまった。これで少しは努力をするようになるだろうと、私と夫は希望的観測を述べあった。
翌朝さっぱりとした表情でその子が食堂に現れた。
「よく考えてみたかい?」と夫が訊いた。
「うん、よく考えたわ」と晴々と彼女が答えた。「あたし獣医になるの止めようと思うの」
「それはまたどうして?」と夫が驚く。
「あなた動物が大好きだったじゃないの」と私もあわてた。
「うん、だから、わたし獣医の奥さんになることにきめたの」あっけらかんとしてそう言い切ったのである。私と夫は子供のこの転換の早さというか諦めの良さに、唖然として二の句がつげなかった。
そんなわけで彼女は目下獣医の妻になるべく、最低落第をしないように勉強にとり組んでいる。
考えてみれば、私も勉強しなかった。夏休みの宿題など最初の数頁やったまま提出したが、呼び出された記憶はない。先生だって宿題にいちいち眼など通さないのだと、その時にわかった。数学と理科と歴史が大嫌いで、国語と英語も嫌いで、絵ばかり描いていた。でなければ本ばかり読んでいた。
本を読んでいると、母親によく叱られた。本ばかり読んでいないで庭を掃きなさいとか宿題をしなさいとか言われた。ちょうど今の私の子供たちが始終私に、テレビばかり見ていないでお勉強しなさいと叱られるのと同じである。
だからこっそりと隠れて本を読んだ。別に妙なものを読んでいたわけでもないのに、後めたさと罪悪感が、私の読書にはつきまとった。
今でもふと書物を手にすると、部屋の薄暗い片隅に意識がいくことがある。そうやって、親の眼を逃れてコソコソと読んだ本のなんと面白かったことか。なんと胸がドキドキしたことか。『レ・ミゼラブル』や『風と共に去りぬ』を、そのようにして私は読んだ。
今、子供たちはTVでそれをやっている。私の姿が見えなくなると、TVの前でバカ面をしている。いつ母親がドアをあけて「TVばっかり見てないで」を始めるかと、嫌な気持で、ドキドキしながらマンガを見ている。
とすると彼女たちの子供たちは一体何をして胸をドキドキさせるのだろうか。予想もつかない話である。
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娘の恋
一番下の娘が恋をした。彼女は同じ年で別のインターナショナル・スクールに通っているトシ君が大好きなのだが、自分の方からアプローチするのは沽券にかかわるとなぜか思っていたらしい。
それで友だちを動員してあれこれ子供の頭で考え悩み、トシ君の方から電話をさせることに成功した。
気の毒なトシ君は、何がなんだかあまり良くわからないまま、多分トシ君の姉に半ば強迫されて、うちの娘に電話をかけなければならないはめになってしまった。トシ君のお姉さんがうちの末娘の親友のお姉さんと同級生であるとかそういう関係で、私の娘の意志が通じたわけである。
彼女はある日学校から蒼い顔をしてすっとんで帰って来た。今日の夕方、トシ君から電話がかかってくることになっているというのである。
「あたし、ぶったおれそう」と、電話の前に坐りこんで言った。
四十分も五十分もそうやって坐っていた。やがてトシ君からの電話が鳴った。ぶったおれそうなわりには、結構クールに喋っている。
相手はなかば姉に強制されているわけだから、ちょっと消極的らしい。うちの子がなんとなく会話をリードしている。
リードはしているが、時に胸をおさえてひどく顔をしかめたりする。今にも心臓が喉から飛びだしそうな様子だ。
相手がデイトに誘ったらしい。
「えっ? 明日?」と一応とぼけて聞いている。「そうね、ちょっと考えてみるわ」
なんというクールさ。聞いている私の方が驚いてまじまじと娘の横顔を眺めてしまった。トシ君とアイスクリーム・ショップでデイトするのが夢だったではないか。
さて娘は電話を切ると、まっすぐに私の胸にとびこんで来て、顔を押しつけた。
「ああ、ママ、あたしすごく怖かった」
娘の小さな胸が事実、ドキドキしているのが私にも伝ってきた。
「でもママ、トシ君、あたしのこと嫌いにならないかなあ?」と不安そうに訊いた。「またデイトに誘ってくれるかしら? もうだめかしら?」と今にも泣きそうだった。
「じゃどうしてさっき断ったの?」と私が訊いた。
すると娘は肩をすくめて、わかんないと答えた。
おそらく本当にわからなかったのだと思う。それが女というものが本能的にもっている恋のかけひきだなんていうことには、まだ気づいていないのだ。
けれどもその恋のかけひきは成功して、トシ君から再びデイトの申し込みがあった。今度は申し込みを受けて彼女は私に言った。
「あのね、トシ君ね、あたしのためにナンシーのこと捨てたんだって」と鼻をうごめかした。
さて、トシ君との当日のデイトはアイスクリーム・ショップで待ち合わせて、トシ君が娘にチョコ・ミントのダブルをおごり、二人はそれをなめながら約一キロ、バス停まで歩いたのだそうである。それから娘がやって来たバスに乗ってさよならをした。
どうだった? と訊くと、また来週も逢うのだそうである。娘十一歳の恋愛である。
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娘と二人旅
三人も娘がいると、そのうちのひとりだけと徹底的に何かをするというわけにはいかない。せいぜい、このあいだの音楽会は上の娘と行ったから、ベジャールのバレーは真ん中の娘と、その後のミュージカルは末娘と、とふりわける程度で精一杯である。
音楽会に行って、帰りに何か甘いものでも食べて帰る、それだけのことだが、娘たちは|ママと二人だけ《ヽヽヽヽヽヽヽ》のその機会を、クリスマスの次くらいに楽しみに心待ちにしている。
考えてみればいじらしいことだ。この頃の私ときたら、家族よりも出版社とねんごろなのだから。
ある週刊誌の編集者など、気の毒なことに週に四回も顔を出すから、彼が来ると、家の者たちに「おかえりなさい」と皮肉を言って迎えられる。
従って娘たちに対するこまやかな時間は、極端に制限され、それこそ十把《じつぱ》ひとからげ。
「みんな集まれ」「みんなごはんですよ」「みんな歯を磨きなさい」
その娘たちに、私はある時約束した。十七歳で高校を卒業した年、ママからのお祝いに、ママと二人旅をプレゼントするわね、と。
そしてあっという間に年月がたち、長女がつい先日の六月七日に、聖心インターナショナル・スクールを卒業した。
さて、どこへ行きたい? と訊くと、モルジブと答えるではないか。モ、モルジブ?! 一体そんなお金、と言いかけるのをぐっとこらえて、一瞬考えこむ。お金は借金してでも作れるが、モルジブともなれば最低一週間。これだけの日数東京を離れるために、事前にやらなければならない仕事の量を素早く計算した。
二つの長編が、直前までひっかかっていた。
今から思えばよくも書き上げたと思うのだが、とにかく必死でがんばった。ホテルに自らカンヅメ状態になって、がんばったのだ。
さてモルジブ。十七歳の娘にはこの上もなくロマンチックな南の楽園。そして旅先の小さな恋。
ママ、帰りたくない。もう一週間いようよ、ね、一生のお願い。
一生のお願いと言われたってそんなに物事が簡単に運べるわけがない、と私は首を横に振った。
「他の子たちが待ってるでしょう。ダディだって待ってるから、ね」それに出版社の編集者たちが、遅れた締切りの原稿を、誰よりも首を長くして待っているのだ。
私はだんだん気持がむしゃくしゃしてきた。
でもお願いよ、もう二度と来れないんだから、と泣かんばかりの娘に、ノーですよ、ノー、ノーと言っているうちに、猛烈に腹が立ってきた。
何を好きこのんで、この美しい楽園を去りたいものか。私だって、残りたい。一週間でも一月でも残って、昼過ぎから早々とブラディメリーなど片手に、珊瑚礁の海を何もせずぼんやり眺めていたいのだ。
が、泣く泣く二人は帰途の飛行機上の人。娘はほのかな恋心を、私はひたすら無為な贅沢をそこに残して、後髪を引かれる思いで発ってきた。
帰るなり真ん中の子が叫んだ。「あたしはタヒチだからね!」
四年後のことが思いやられる。
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娘たちのアルバイト
上の娘二人が、現在軽井沢で、時給五百円のアルバイトをしている。アイスクリームショップの売り子である。
最初は上の娘だけが、学費の足しにということで始めたことだった。要するに、親である私たち夫婦が、大学の学費は、夏の三か月の休みに、自分で働いて貯めなさいと、常々口にしていた、その結果であった。
しかし口ではそうは言うものの、いざとなれば親が何とかするであろうと、娘の方はとっくにタカをくくっているものだから、一日八時間の労働が、どうしてもがんばりきれない。歯を食いしばってもやってみせるという根性も気力もない。
鼻の先にニンジンをぶら下げて、ひた走りする馬ではなく、ニンジンは、既に与えられ、かなり満腹気味の世間知らずだから、苦労という言葉を知らない。(要するに学費は前払いで、とっくに親が大学に払いこんでいることを、彼女は知っているわけなのである。)
で、八時間のうち、二時間を、妹に替ってもらうことで、姉妹の契約が成立した。
十日もすると、妹の二時間が三時間になり、ついに四時間ずつの半交替。二人で一人前というわけである。
親も親で(主として父親だが)、軽井沢に来ている時は日に何度も店の前をうろうろと通り、娘に呼び止められて、いりもしない散財をする。なんのことはない、娘のアルバイト代を自分で払っているようなものだ。
更にいけないのは、アイスクリーム屋の店長で、娘たちのおやつにアイスクリームを三つ重ねで与えてくれる。
カロリーにして五〇〇カロリー。ほんとうに困るのである。
四時間働いて、アイスクリームを色々三つも食べて、二千円もらえるものだから、彼女たちの人生は今やバラ色だ。
さて、最初のお給料日。一万円札一枚以上手にしたことのない二人が五、六枚ずつわしづかみにして、それは興奮して帰って来た。
「ママ見てよ。すごいでしょ。自分で働いてもらったのよ。見てよ、こんなにあるよ」と声が上ずり、眼が三角、顔は上気して真っ赤。
その表情を見ると、鬼でもあるまいし、「さあ、おだし、全部貯金に回します」とは言えない。言わなければならないのだが、私には言えない。
「ま、とにかく、半分は貯金しようよね」と妥協の言葉。
ところが猛反撃を喰うことになる。
「ねえ、ママ。これでお金のありがたさがよおくわかったのよ。自分で働いたお金だもの、そう簡単には使えないよ。大事に大事に使うから、まあ見ていてよね」とかなんとか二人に丸めこまれて、空手を引っこめた。
大事に使うなら、それも勉強と思ったのが甘かった。寛斎だ、アルテモーダだと、年頃の娘が眼の色を変えて買いあさる。たちまち全額使い果し、三日もしないうちにお小遣いの前借りだ。
「必ず返すよ。働いているんだもの。きっと返すからね。借用証も必要なら書くから」
お小遣いの前借りは日に日に増えていく。私はもはや不安でいてもたってもいられない、この分でいくと、必ずや前借りはふみ倒されるのではないかと、心配なのだ。
「絶対に返してもらうわよ。店長にかけあって今月のお給料はママに渡してもらいますからね」と宣言しているのだが。
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娘の大学
長女が今年の九月からイギリスの大学に留学する。
ありがたいことに、受験もなければ、浪人も経験せず、彼女は自分一人で、自分の学力と将来のコースにあった大学をリストアップし、自分で手紙を書き、資料を集めた。
そして父親の助言を求めた上で、ターゲットを四つにしぼり、去年の冬休みに家族でイギリスの主人の実家に里帰りした時、面接と大学の下見とをした。
そのうちの一つに、彼女は私を同伴した。
娘はアートコースを希望しており、そこはいわゆるアート専門のカレッジであった。
校門を出てくる男女を見て、私は腰をぬかしそうになった。
トサカのように突ったった金髪を、赤や青に染めた性別の不明な学生たちが、くわえ煙草でやってくる。
アートカレッジの学生だということは、辛うじて手に手にかかえた大きな図画帳でそうと知れるだけで、どうみてもロンドンの下町のパンク以外の何者にも見えない。
「あっ、だめ」と咄嗟《とつさ》に私は娘のコートの袖をひっぱった。「だめ、だめ。絶対にだめです」
「何よ、ママ、まだ学校の中を見てないのよ」娘があきれる。
「見なくともわかるわよ。私はあんたをパンクにするために、十七年間も育ててきたわけじゃないのよ」
「これだから、嫌になる」と、娘はずんずん校舎の中へ。「外見で物事をきめるのは、ママの悪いところよ」
耳に四つも五つも穴をあけてピアスをした大男が通り過ぎた。あんなのにかかったら、入学したその日にうちの子は処女を奪われるのに違いない。私はぞっとした。
「朱に交われば赤くなるという言葉があるのよ」娘を引きずるようにして校舎の外に出ながら私は言った。
「あんな頭に刈って、夏休みに東京に帰って来てごらんなさい。家に入れないから」
それからあんなパンクの一人と結婚するなどと言って連れて来られたら、たまったものではない。
「心配しなくていいの」と娘はいたって冷静だ。「ここはちょっとイモっぽいわ。学生の作品も見せてもらったけど、スタンダードも少し低いみたいだし」
私は胸を撫で下ろした。
結局四つ面接をして、ロンドン郊外にある全寮制の男女共学の大学に焦点をしぼった。そこが一番雰囲気が良く、アートコースもきちんとしていたからだ。
面接の結果は、二か月後に東京の方に知らせてくることになった。例のパンクのいるアートカレッジは三つとも合格だった。最後になってようやくロンドン郊外の大学からの返事も来た。OK。誰よりも私がほっとした。
それにしても外国の大学入学というのは、簡単だと思った。高校の推薦状とほとんど面接だけ。そこでの受け答えだけで、すべてがきまる。アートの場合は自分の作品を見せればいい。
入るのは比較的簡単だが、いったん入学すると進級するのも、卒業するのもむずかしいと聞く。トコロテンのように押し出されて卒業する日本の大学のようには、とうていいかないらしい。成績によっては、進級どころか大学から追い出されることもあるという。
現在娘は、六月から八月までの夏休みに、学資を稼ぐためのアルバイト探しに夢中だ。大学に行きたいのなら、学資は、自分で働いて出す、というのが、私と夫が娘に課した条件だった。そうでもしないと勉強しないということくらい、私自身の経験で知っているからだ。
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家族の風景
私は、イギリスへ留学する娘を、成田まで送りに行くつもりは毛頭なかった。
成田はおろか、東京までも行くつもりもなかった。軽井沢でさよならしようと思っていたのだ。駅まで見送ろうとも考えていなかった。
朝、テニスコートに出かけて行くような感じで長女が「行ってきます」と出かけてくれたら、一番いいと思っていたのだ。多分下の妹たちは食堂から「じゃねえ」といつものやりかたで姉を見送りさえもしないだろうと。
別にお嫁に行ってもう帰って来ないというのではないのだし、三か月もすれば我々がイギリスに乗りこんで騒々しく再会するわけだし、来年の夏休みは四か月タップリ日本に帰ってきているわけだから、どうということもないのだ。
ところが実家の両親から電話で、それはないのではないかと言ってきたのだ。娘が初めて一人で外国へ行くのだから、前の晩みんなが集まって、食事をするくらいは常識だし、ちゃんと見送ってやるのが親というものではないかと、えらく怒っているのであった。
で、しかたなく、残暑の中を汗だくで東京へ出た。とてもではないが、汗みどろで夕食の仕度をする気にもなれず、外へ食べに行くことになった。
乾杯、とワインのグラスを合わせた。全部で私の両親や弟夫婦など十人。
「これでうるさいママと当分お別れだ」と娘がうれしそうに言った。
「うん、ママもあんたと別れられて、ほんとうにうれしいと思っているのよ」と私もニコニコしながら言い返した。
「あたし、手紙なんて書かないからね」
「うん、こっちも忙しいからね」
「電話くらい、してあげようか」
「いいわよ、しなくとも。電話代誰が払うと思うのよ」
憎まれ口を叩《たた》きあって、その夜は終った。
翌朝は昼まで、持ち帰った原稿の締切りで、仕事部屋へ閉じこもった。成田へは、送らない、ということに話がきまっていた。何度かドアにノックの音がしたが、
「仕事中!」と怒鳴って開けもしなかった。
ママ、ちょっと、という長女の小声も聞こえたが、「あとちょっとだから」と言って無視した。
しばらくして机の上の電話が鳴った。出ると長女である。
「何よ、あんたなの? 今どこ?」
「駅よ」
「駅? 駅で何してるの」
「もう行くから」
「え? そんな時間?」時計を見ると二時過ぎだった。
「それならそうと言えばいいのに」
「言ったよ。何度もノックしたじゃない」
「ごめん、ごめん、締切りが過ぎてるもんだから」
「別にいいよ、毎度のことだもの。じゃね、バイバイ」
「うん、じゃバイバイ」
娘が切るのを待ったが、なかなか切らない。で私の方が先に受話器を置いた。娘は渋谷で夫と待ち合わせて成田に向かうはずであった。彼女の父親がイギリスまで送っていくことになっていた。
電話を切ってしばらくぼんやりと原稿用紙をみつめているうちに、不覚にも涙が流れ出た。電車の車窓に顔を背けながら、手の甲で涙をさっと拭う長女の姿が、ありありと私の脳裏に浮かんだ。素直でない母娘なのである。
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国際電話
案の定、ロンドンの娘から三日に一度の割で電話がかかりだした。
電話料で破産してしまうから、最初に約束したとおり、月に二回以外は応じまいと、母親としては心を鬼にした。
ところが、コレクトコールなら、いいえ、その電話は受けません、とやればそれで一応すむのだが、娘も知恵を働かせるのか公衆電話からかけてくる。
多分、寄宿舎を走って出て、表通りまで行き、国際電話のかけられる電話ボックスに駆けこむのだろう。それからなけなしのお小遣いの中からコインを取り出してダイヤルを回す。それが幾らぐらいで日本に通じるものか今度訊いてみようと思うのだが、いずれにしろダイヤル直通で、こちらにつながる。
「もしもし、あたし。十五分したら寄宿舎に電話して。待ってるから・ガチャン」一方的に喚いて電話が切れる。
「おととい電話したばかりじゃないの」と私は切れてしまった受話器を置きながら悪態をつく。時間はたいてい夕方の七時だ。仕事から帰っている夫に一応伝える。
「たまらんね」と首を振る。「放っておこうよ」
「別に用事じゃないと思うし。来週にでもこっちから電話をしてみるわ」と私も答える。それから食卓の準備など整え始める。
けれども、外の電話ボックスから一目散に寄宿舎に駆け戻る娘の姿がちらつく。
「手紙も今朝書いて出してやったんだから、いいわよね」と呟《つぶや》いて、ステーキなど焼き始める。もうかなりロンドンは寒くてセーターの重ね着をしているのだと言っていた娘の言葉が耳に蘇《よみがえ》り、彼女がトックリの衿《えり》に顎《あご》をうずめ、肩をすくめながら、寄宿舎に走りこもうとしている姿を想像する。吐く息が白い。
焼き上がったステーキを皿に取りわけ、マッシュポテトを添える。夫がワインのコルクを抜く。下の娘たち二人を呼ぶ。
食卓について、ワインを注ぎ、ナイフで肉を切り始める。長女が寄宿舎の電話室に走りこむ様子がチラチラする。
更に数分が過ぎる。長女が一方的に通告した十五分が過ぎ始める。夫が微かに溜息をつく。電話を前に、じっと受話器を凝視している娘の姿が額にカッチリと焼きこまれる。
「今日は学校で何があった?」と夫が下の娘たちに質問する。
「別に、何にも」次女が答える。
「たいしたことなかったよ」三女が同調する。
「でも何かあっただろう」
「ほんとに何にもなかったよ」
「テニスはしたんだろう」
「まあね」
ついに私が立ち上る。夫が眼を上げて私の動きを追う。
「ほんとにもう、厭になるわ」とぶつぶつ言いながら、国際電話を申しこむ。少し待つ。呼び出しが鳴る。私の頭の中で受話器にとびつく長女。「もしもし」と言う娘の声。夫と二人の下の娘が食卓から立ってきて私を囲む。
「一体何なの? え? 元気? 元気ならなんで電話なんてかけさせるの」私は更に不機嫌にブツブツと言い続ける。
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娘の留学
上の娘がイギリスの大学に行き始めたものだから、逢う人ごとに、お淋しいでしょうね、と慰められる。ご心配でしょう? と訊かれる。ところが私がいつもケロリとして、それがぜんぜん淋しくないんです、むしろせいせいしています、それに心配なんて全くしていません、と答えると、疑いの眼つきでチラと見られる。無理しなさんな、といわんばかりである。
人さまがどう思おうと別にかまわないのだが、娘が一人くらい遠くへ行ったって、ほんとうにどうということはないのだ。上の娘は私に似てお金使いが荒いので、そのことで始終口論ばかりしていたから、その分だけ気持が安定し、きわめて快適である。
そういうと、まるで母性愛などはないかのように言われるが、母性愛などなくてもいっこうにかまわない。母性愛など、愛する方も愛される方も息苦しく暑っ苦しいだけだと思っている。
普通の愛で、いいではないか。女と女同士の友情でかまわないじゃないかと思うのだ。十八年間も一日も離れずべったりと一緒だったのだから、お互いのために良い休養である。成長した娘にとって(息子もそうかもしれないが、私には男の子がいないからわからない。それにかつて私が息子であったこともないから、見当もつかない)、母親が何かにつけ口をだしたり、ただ眼の前にチラチラいるということだけでも、百害あって一利なしである。
可愛い子には旅をさせろの心境ね、と先回りをして言ってくれる友人もいるけど、そんな出来の良い母親でもない。
長女がいなくなると、たちまちにして次女が長女の部屋を占領して、模様変えをしてしまう。あれよあれよというまに長女の痕跡はあとかたもなく消え失せてしまう。
親子四人の生活が、まるでもうずっと以前からそうであったかのように、自然に続けられる。
三人の娘たちに分散していた親の関心が、二人だけになったせいで、前より濃く充分になったと、下の娘たちは目下、大変にハッピーな状態である。
もう数年すればその子たちも、親の関心を干渉と受けとめ、うるさがるのにきまっているが、今はまだ、ママと一緒にいたい、ダディにかわいがってもらいたい年頃である。
私たち親の方も、三人だと|じゅっぱひとからげ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》で荒々しい子育てをしていたが、二人になるとずいぶん違う。ていねいなとまではいわないまでも、神経がいき届くような気がする。
そんなわけで目下のところ日本に残った四人の方は、きわめて快適、一家四人の生活をさっそく楽しんでいる。
考えてみると、十八歳で親がかりで外国へ出してもらえるなんて、ラッキーな話だと思うのだ。私など行きたくても、三十過ぎるまで行けなかった。
最も多感な年頃に、ロンドンのさまざまなレベルの生活や人間や文化や芸術に触れ得るのを、ラッキーと言わずして何と言うのか。将来どういう人間になるにしろ、そのことは必ず彼女の人間形成上、プラスになるはずだと信じている。
私は十八歳の頃、サガンを読んで、脳天をガンと撲《なぐ》られたような気がしていた。あの頃パリに、フランスに、憧れた。どんなにパリへ行ってみたかったことか。当時の情況とか、親の考え方とか、経済状態とかが、パリ行きをとうてい可能にはしてくれなかった。
自力で働いてでも、と言っても、親が許さなければ出来るはずもない。
今もし、私が自分の過去を後悔するとしたら、そのことである。パリに十八歳の時行けなかったこと。
何かをやって失敗したり手酷《てひど》く傷ついたり、死ぬ思いをしたりするのは、決して後々の後悔にはならないと思っている。何かをしなかったこと、するべき時期に成し得なかったとりかえしのつかない気持――これほど空しく、切なく、悲しいことはない。無念なことはない。後悔してもしきれない。いまだにその無念さが私を内側から咬《か》んでいる。
だからというので、長女をイギリスにやったのか、というと、そうともかぎらない。第一長女は私がかつてパリに憧れたような激しい憧憬をイギリスに対して抱いてはいない。イギリスにかぎらずどこに対しても、そのような憧れの地を持っていないみたいだ。
わりとすんなりと、家族全員の希望で、彼女のイギリス行きはきまったのだ。誰も反対しなかった。むしろ一番消極的なのは彼女自身だった。
親にお金を出させて、ロンドンで勉強出来るなんて本当に幸せなのよ、と言っても、本人はあまりピンとこないみたいだ。まあいずれ自分の子供を持ってみればわかるだろうと、私は肩をすくめて、彼女を送り出した。
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手紙魔
長女はもともとお喋《しやべ》りな娘だったのである。意味もないようなことをくだくだと喋り続けるような性格ではあったのだ。
「少しは考えて物を言いなさいよ」とか、「それだけ喋ったら頭の中は空っぽなんでしょうね」とか嫌味を言っているうちはまだ良い方で、しまいには「うるさい、だまれ」と私に怒鳴られるしまつ。
そのうちにお喋りの内容が微妙に変ってきて、私はオヤと思った。
父親に対してさかんにお説教めいたことを言いだしたのである。
「ダディ、飲むのはまあいいけど、十時になったらきっぱりときり上げて帰って来なくちゃ」とか「そうガミガミ言ってばかりいると、みんな耳ふさいで効果ないわよ。怒る時はためておいてパッと怒った方が、きくのよ、ね?」とか例の調子でくだくだ、とうとうと喋るのである。
私がさんざ言ってきて少しも効果が上らなかったために、この五、六年、すっかりあきらめていたところだった。
私が言っても何のかのと反論していた夫が、今度は娘にむかって、同じようにむきになって反論しているからおかしかった。二人は寄るとさわるとそんな風に議論をし、相手を打ち負かそうと、えんえんとそのお喋りが続くのだった。ロンドン留学の直前の頃だった。
私は私の役割を喜んで娘にまかせて、さっさと手を引いてしまった。これはありがたかった。
その長女がロンドンへ行ってしまってからは、家の中の喋り魔が一人減り、もう一人の喋り魔である夫が相棒を失ったショックにひとり耐えている。下の娘たちはどちらかというと無口なのである。私も今更夫と喋くりあうことなどないので、家ではもっぱら無口ということで通っている。
喋り魔であった長女は、ロンドンに居住するようになるやいなや、手紙魔と転じた。最初の一月は毎日のように手紙が届くのであった。それも家族それぞれ一人ずつあてに四通届くのであった。
内容は例のごとく空疎なお喋りに満ちているが、妹や父親にあてた手紙はお説教調なのである。
妹たちにはお勉強をしなさいとかママの手伝いしなさいとか、どうせテニスをやるのなら学校一ではなく東京都の高校生の一番になりなさいとか、犬のブラッシングを忘れるな、文鳥の水を毎日とりかえろ、ダディーは飲みすぎるな、毎日ビタミンCを飲んでいるか、ママは夜の外出を週に一度くらいに減らせとか、誰れそれとつきあうなとか、それはそれはうるさいのである。
リモート・コントロールが効を奏してか、次女のテニスの腕ががぜん上り始めたり、宿題をなまけて始終学校から注意されていた三女が机にむかうようになったり、驚くばかり。私もなぜか、夜の外出を極力ひかえたりなどして、ふと気がついて苦笑したりする。
そしてあの浪費家の長女が、冬用のジャケットを一枚あきらめて、冬休みの最初の一週間を友だちとスイスで過ごすために貯金をしている、などとしおらしいことを書いてくると、夫は鬼の首でもとったように言うのだ。
「ほらね、やれば出来る娘なんだ。金使いが荒かったのは、キミがそばにいたせいだよ」
私もそうかなと思い、しばらく神妙にしているが、一週間ほどすると手紙の間に一万円札を二枚ほどしのばせたりするダメママなのである。
角川文庫『ジンは心を酔わせるの』昭和61年1月25日初版刊行
平成7年11月15日20版刊行