森 瑤子
クレオパトラの夢 世にも短い物語
目 次
ディオリッシモ
三越百貨店
ボウリング
男は天下のまわしもの
ジタン
STAND BY ME
ワン・フォー・ザ・ロード
山口君に鈴木君に林君に
トイレット・ペーパー
ホットライン
マルグリット・デュラスの男
ワイングラス
「妻と別れて」
ロールスロイス
悪 友
パーソン ツゥー パーソン コール
結婚の理由
プラチナ
メビウスの輪
アライア
入国カード
タンパックス
買われた男
ホテルルーム
アンケート
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ディオリッシモ
年賀の客たちが、朝から入れかわり立ちかわり訪れていた。昼を過ぎた頃から夫の会社の若い女の子たちが、二人、三人と連れだって顔を見せだすと、がぜん正月らしい華やいだ雰囲気が盛り上がる。
たてこんだ時など玄関に靴が二十足以上並び、文字通り足のふみ場もなくなる。しかし毎年のことなので、顔見知りとなった女の子たちが気軽にキッチンに立ってくれる。だから恭子一人でてんてこまいするということもない。
「宮下部長のお宅に伺うと、お料理の勉強が出来るから毎年楽しみにしているんです」
と、すすんでオードブルの盛りつけなど手伝ってくれる。
「私もあなたたちのことあてにしているのよ」
と恭子は笑ったとたん、くしゃみをひとつした。
「あら、お風邪《かぜ》ですか?」
スモークサーモンでクリームチーズを巻いたものを、皿に並べながら、秘書課の山口美似子がちょっと眉《まゆ》を寄せた。
「ううん違うのよ」
と恭子が首を振った。
「アレルギーなの」
「杉の花粉の季節にはまだ早いけど……」
「杉の花粉のアレルギーじゃないことは確かなのよ」
と恭子。
「去年の九月頃から急に始まって……」
そこでまた二つばかり続けてクシャンクシャンとやった。
「ブタ草かしら?」
山口美似子が細くて白い首を傾《かし》げた。リヴィングの方では男たちの陽気な笑い声が上がっている。午前中からずっと居坐《いすわ》っている若い社員たちはかなりアルコールが回っているはずだった。そのうち手拍子が始まるだろう。
「何が原因かよくわからないんだけど、夜遅くになるとくしゃみが出ることが多いわね」
くわいをベーコンで巻いて楊子《ようじ》で止めたものを、フライパンで炒《いた》め終わると恭子はそれをレタスを盛った中皿に移した。
「家ダニかしら? でも家ダニだったら昼にもくしゃみ出ますわよねえ」
山口美似子は邪気のない口調で言った。
「案外ご主人さまだったりして」
と別の女の子が言った。
「え? 部長? 部長のアレルギーですか?」
キッチンの中に女たちの笑い声が弾けた。
あっと恭子はその時思った。宮下かもしれない。夫が深夜帰宅すると恭子のくしゃみが始まるのだ。週に一度か二度だが。そう言われてみると思いあたることがある。
「おまえは俺《おれ》の顔みるとくしゃみをするな」
と宮下が苦笑したことがあったのだ。
「亭主アレルギーって奴《やつ》じゃないだろうな」
恭子はベーコンとくわいの中皿を女の子の一人に渡しながら言った。
「じゃこれ、みなさんの所へお持ちして。熱々が美味《おい》しいからすぐに召し上がれね」
言い終わらないうちにくしゃみが、たて続けに三つ。間をおいてまた二つ。
「お大事にどうぞ」
と山口美似子が気の毒そうな表情を残して、オードブルを運んで行く。彼女が動くと、香水の匂《にお》いが柔らかく立ち昇った。
「いい匂い……。ハッハックション」
と恭子。
「その香水なんていうの?」
その香りに記憶があるような気がしたのだ。
「ディオリッシモです、クリスチャン・ディオールの……」
山口美似子が微笑した。笑うと白い花を思わせるような若い彼女に、その匂いは実によく似合った。そしてまたくしゃみが三つ。山口美似子がキッチンから消える。
ディオリッシモという名の香水に何の心当たりもなかった。しかし、なんとなく近しい感じがしないでもない。いつもとはいわないが、時々身近に漂っている匂いのような気もするのだが――。
恭子は鼻をかみ、髪を整えると燗《かん》をした日本酒を運んでリヴィングルームへ向かった。
夫の宮下がすでにかなり赤い顔をして、女の子たちにシャンパンなど注《つ》いでやっている。とたんにくしゃみが一つでた。
だけどどうしてかしら、と恭子は胸の中で呟《つぶや》いた。夫が真夜中に帰宅し、背広など脱ぎだすとどうしてくしゃみが始まるのだろうか?
それからあの微かな匂《にお》い。非常に微かなので匂いというよりは残り香というか気配というか――。夫の着ているものや髪の毛の中や肌にまとわりついているものが、空気の中にふと混じる感じ。
いつもなんとなく、カーネーションの緑色の葉を連想したものだ。それはほんの束の間、恭子の脳裏に浮かぶのだが、すぐに無粋なくしゃみのために弾けとんでしまうイメージ。微かなグリーンノート。
恭子は年賀の客たちの中で、無意識にくんくんと鼻をうごめかした。するとどうだろう、あの匂い。グリーンノート。同じ香り。しかもはっきりと。ハッとして横を見ると山口美似子がいる。
恭子の頭の中が混乱した。胸が奇妙にも不安に立ち騒ぐ。香水。この匂い。そしてくしゃみ。ハークション、クション、クションまたひとつ。客たちがいっせいに恭子を見た。宮下の赤い顔。
「風邪《かぜ》かね?」
夫の眼が恭子の顔から横の山口美似子に流れる。そしてさりげなくさらに流れ、食卓の杯の上に落ちる。その時だった。全てがはっきりとしたのだった。まるでジグソーパズルが次々とはめこまれ、ひとつの絵が組み立てられるように、恭子の頭の中にも一枚の絵が出来上がっていた。
夫は浮気をしているのだ。そしてその相手は山口美似子。証拠は彼女の香水。彼女に逢《あ》った夜は、その移り香を宮下は運んでくるのだ。すると恭子はくしゃみをする。
つまり真夜中にくしゃみが出るのは、夫がうつされて来た微かな微かな香水のせいなのだ。
それとたった今の夫の視線。風邪かね? といって妻の顔に落ちたその視線が、実にさりげなく山口美似子の顔に流れた時、そのさりげなさゆえに、何かがはっきりと露呈していたのだ。
山口美似子に注がれていた宮下の視線は長すぎもせず短すぎもせず、特別柔らかくもなく無頓着《むとんじやく》でもなく、要するにごく自然でさりげなかった。
あまりにも自然のさりげのなさゆえに、作意が感じられてしまうような――。それから、山口美似子の顔から剥《は》がれ、酒杯の中に落ちた宮下の視線の中の一秒の十分の一ほどの戸惑い。
恭子は動揺のあまりめまいを覚え、その場に坐《すわ》りこんだ。
「どうかなさったのですか? お顔が青いわ」
山口美似子の曇り顔が近づいた。恭子のくしゃみが始まった。
「そばに寄らないで。アレルギーの原因がわかったわ」
くしゃみの切れめに、恭子が言った。
「ディオリッシモ」
「え?」
山口美似子の瞳《ひとみ》が怯《おび》えたように見開かれた。
「あなたの香水の中に含まれる成分の何かが私の鼻を刺激するらしいわ」
それが浮気の証拠。浮気は去年の九月に始まったのにまちがいない。山口美似子がうろたえた視線を宮下に注いだ。二人の視線が絡んだ。恭子の疑惑はそれで確信にまで高まった。
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三越百貨店
二郎は、日本橋の三越本店のライオンを見上げ、これから逢《あ》う女のことを考えた。ライオンは黒光りして威圧的だった。彼はなぜかこのデパートに郷愁に似たものを感じている。会社が京橋にあって近いせいもあるが、ちょっとした買い物はもちろん、人の待ち合わせや食事の約束なども、三越本店を利用する。
入り口の二頭のライオンは、二郎にとってはその時々の健康及び精神状態の、いわばバロメーターの役割を果たしている。
ライオンが親しみに満ちユーモラスに感じられる時は身心共に元気、余裕のある時である。三越のライオンは、その時の二郎の心と健康とを微妙に映しだして、実にさまざまな表情を見せるわけだった。
そして本日のライオン。なぜか威圧的に彼を見下ろしている。気弱くなっているのだろうか。二郎は少し憂鬱《ゆううつ》だった。
彼が逢いに行く女は、今日が初対面で、見合いの相手だった。二郎の希望で形式ばらずにやりましょうということになり、これもまた彼の要請で場所は三越本店の七階の食堂で二時、ということになったのである。
何が憂鬱かというと、自分の独身についに終止符を打たねばならなくなりそうなことだった。新潟の母が肝硬変の末期で、年内もてばいいほうだと知らされていた。その母のたっての願いが、一人|息子《むすこ》の二郎に嫁をもたせ、更に運が良ければ初孫の顔くらいは見て死にたいということなのだ。
そんなことを言われても、所帯をすぐにでも持ちたいような女は、これといっていなかった。そう伝えると、新潟の方から嫁さん候補を一人送りつけてくるということになり、それが今日の見合いの相手である。
女の年齢は三十六歳。なんとなく嫁《い》きそびれているうちに、そんな年齢になったのだと、母親が手紙に書いてきた。二郎も偶然同年の三十六。おまえだってとっくにトウがたっているのだから、文句は言えないよ、と母親は言った。
年齢よりも、女は気立てと健康だ、と二郎は自分に言いきかせた。自分の子供の母親になる女は、心根と骨盤の大きさが問題だ。腰にたっぷり肉のついた下半身の安定したタイプがいいのだ。
いずれにしろ、よっぽどのひどいご面相でないかぎり、最後の親孝行のつもりで、彼は母親が見込んだその女と、一緒になってもいいと思うのだった。
さて、食堂は昼食時のピークを過ぎているので、比較的空いていた。入り口の待合室で逢《あ》いましょうということになっている。
見合いの相手は先に来て、壁を背に坐《すわ》っていた。写真を見ていたのですぐにわかった。
写真よりかなり若く、そしてずっと美人だった。ふっくらとしたなで肩で、雪国の人らしく色が白く、目鼻立ちが派手で華やいでいる。二郎は心がはずむのを感じた。
「どうもわざわざ」
と二郎は名乗ってから、食堂の方へ彼女を案内した。
彼は一応紳士らしく、女を先に立たせ、近くのテーブルに向かった。後ろから見るともなく眺める女の骨盤はなみなみとした広さを持ち、まずは理想的。
「何を召し上がります?」
と席につくと、二郎が訊《き》いた。
「私」
と女ははきはきと言った。
「洋食を頂きたいんですけど」
なんでもいいんです、という女が意外と多いものである。そういう時、男というものはかなり失望感を禁じえない。自分の好みをはっきりと、しかもでしゃばりの感を与えずに言える女は、好ましい。
「ここのポタージュとステーキは、抜群ですよ」
と彼はアドバイスを与えた。
「そうですの?」
といったん受けておいて、相手が言った。
「でもポタージュはカロリーが多いから、私、スープはコンソメを頂きたいわ。よろしいですか?」
「もちろん」
それとなくこちらを立ててくれるようなこまかな気配りというのは、二十三、四の女にはとても望めない。二郎はますます見合いの相手に好感をつのらせた。
「くにのなまりがありませんね」
「あなただって」
「僕は高校の時からこっちへ出て来ていますからね」
「私は短大でこちらに来て、十年ばかり東京の商社に勤めましたのよ」
「なぜ新潟に戻ったのですか?」
「母が病気をして。それで引き揚げました。五年ほど看病しましたけどその母も去年亡くなりまして」
ああそれで、と二郎は納得がいき、うなずいた。
「僕のお袋があなたに相当無理を言ったんじゃないですか?」
「いいえ」
と女は首を振った。
「こんな言い方妙ですけど、ある意味で実の母よりお母さんみたいに感じるところがありました」
「それは何よりもありがたい」
と二郎は感謝を声に滲《にじ》ませた。
「ただ、私、もう若くもありませんし、二郎さんに気に入って頂けるかも自信がありませんけれども、あんなにお母さんがおっしゃって下さるものですから……」
「わかります。こっちこそすみませんでした。お袋はああいう性分ですから、言いだすとしつっこくて。ご迷惑だったでしょうね」
「いいえ」
と女は微笑した。
「上京して、おめにかかって、よかったと思っています」
誠意と本音が言葉尻に出ていた。
「僕もそう思っています」
暗黙の了解に似た視線を、二人は絡ませ、照れたようにそれぞれのグラスの中をみつめた。グラスには氷が浮き、水が満たしてあった。喉《のど》は別にかわいていないのだが、二郎はグラスを取って口に流しこんだ。それから思いついたように、それを女にむかって軽く掲げ、
「乾杯」
と低く言った。
相手もひかえめにグラスを取ると、そっと二郎のグラスと合わせた。何か温かいものが胸に湧くのを彼は覚えた。
いよいよこれで年貢の納め時か、と彼は心の中で呟《つぶや》き、それが少しも嫌でないのに驚くとともに、ほっとした。
ふと眼を上げると、女の髪が見えた。彼女は軽くうつむいていた。髪にはやわらかなウエーブがかかっていた。黒い中に一本、白い毛が見えた。
とたんに、何かが二郎の中で軋《きし》んだ叫びのような声を上げた。哀れさと愛《いと》しさと同情の思いが湧き上がった。しかし、同時に、たとえようもない嫌悪感もあった。たった一本の白髪が、二郎の胸を締め上げていた。
何か? というように女が二郎を見た。彼はひどくうろたえて、女の白い一本の髪の毛から視線を逸《そ》らせた。浮き浮きしていた気分は、ぬぐったように消えていた。諦《あきら》めの思いがふつふつと湧いた。
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ボウリング
「きょう、ボウリングに誘われているんだけど」
と、妻が朝食の席で急に思いだしたように言った。
どちらかというと、あまり気乗りのしない声だったので、山岸は、つとめて元気づけるように言ってやった。
「いいじゃないか、行って来いよ」
ボウリング場のレーンの上を転がっていくのは、ボールよりもむしろ妻の方が肉体的構造からいって適当だと思ったが、むろんそのようなことはおくびにも出さない。家の中で妻が機嫌良くしていてくれることにこしたことはないのだ。
「でも私、ボウリングなんてこの年になるまでやったこともないから」
「これからプロボウラーになろうっていうのでもあるまいし。何事にも最初はある。はなからストライクをとろうなんて考えなけりゃ、気は楽さ」
「ストライクって?」
「え? ストライクも知らないのか」
と山岸もさすがに愕然《がくぜん》とした。
「つまりだな、十本あるピンを全部いっぺんに倒すことだ」
「ピンて?」
「レーンのはるかむこうの方に十本立っているもの」
と山岸は手のジェスチャーでピンの形を描いてみせながら言った。
「そいつをボールを転がして倒すゲームをボウリングっていうんだよ。まさか、ボールくらいはわかるだろう?」
「真っ黒くて大きな玉でしょう?」
「そうだ。重さは色々あるが、きみのような初心者なら四キロくらいのボールを選べばいいと思うよ」
「四キロもあるの? だけどどうやってそんな重いボールをつかむのよ?」
「ちゃんと穴が三つあいてるの。そいつにきみの親指と人指し指と中指突っこみゃいい」
「指が抜けなくなったら?」
「その時は指を切ればいいんだよ」
悪気はなくとも、ついに苛立《いらだ》って山岸はそう言った。
「話聞いてるだけで自信なくしそう」
と妻は消極的だ。
「ボウリングなんてものは話するもんじゃなくて、やってみるものさ。いいから騙《だま》されたと思って一度試してみろよ。適当な運動になって、少しは痩《や》せるかもしれないぞ」
それより、更年期障害をうまく乗り切れるかもしれんぞと、言いたいのを山岸はじっとこらえた。朝食のテーブルが戦場になっては元も子もない。妻と朝やりあうと、気力が回復するのに午前中一杯かかる。朝妻を怒らせないこと。これは二十年になんなんとする結婚生活の経験が彼に教えた教訓だ。
「あら、痩せた女は嫌いだって言ったじゃないの」
「ギスギスに痩せた女は、と言ったんだ」
しかもそう言ったのは二十年前のことだ。以来妻は安心して肥え続けている。口は災いのもととは、このことである。
「どうしようかしら」
やろうかな、止めようかな、と彼女は口の中でアメ玉を転がすみたいに呟《つぶや》いた。
「一度やってみるだけやってみて、面白くなけりゃ止めちまえばいい」
「そうねえ」
とわずかに気持ちが動く様子。
「でも帰り、遅くなるのよね。仕事している人もいるから、集まるのが六時でしょ」
「たまにはいいさ。俺や子供たちの夕食なら寿しでもとればいいから」
「そお? それほどまでにあなたがすすめるんなら、しかたないわね、一度ボウリングとやらを試してみようかしら」
とついに妻はその気になり、しぶしぶと承諾したのだった。やれやれ。
さてその日の夕方、仕事も一段落、机上の整理をしている山岸の向かい側から、ミズ河井の声がした。
「今夜は残業なしですか?」
「そう。残業なし、つきあいなし」
「まっすぐ家路に?」
「女房が生まれて初めてボウリングに出かけるというんでね」
「奥さんがボウリングに出かける夜は、山岸さんがベビーシッターってわけ?」
「いつもってことじゃないけどさ、嫌がる女房を無理矢理けしかけたのは僕だから」
「もしかしてボウリング行きたいと、奥さんから言いだしたんじゃないんですか? それも急に思いだしたみたいに。違う?」
「まあね。だがいかにも気乗り薄そうだった」
「それでつい、出かけて来いよ、とすすめる気になった?」
「そんなところだね。適当な運動でもすれば更年期のやつあたりでこっちの被害も少なくて済むとは、思ったしね」
「それでも奥さん、いかにも嫌々だったでしょ?」
「ボウリングが何たるかも知らないんだよ、うちの女房は。ピンも知らないし、ストライクも知らない」
「それで山岸さん得意になってあれこれ知識を披露したんでしょ?」
「得意になんてならなかったよ」
離婚経験者はだから嫌だ。ミズ河井の言葉には常に毒がある。
「あなたの奥さん、ボウリングなんて行かないわよ、今夜」
ミズ河井はやけにきっぱりと言い切った。
「え? 今何て言った?」
「だから、ボウリングじゃないっていうの」
「じゃ僕の女房はどこで何してるの? おわかりだったら、是非教えて頂きたいですな」
山岸の口調も皮肉になった。
「何をしているかそこまで知らないわ。でもボウリングじゃないことだけは、神かけて確か。いずれにしろ、嘘《うそ》をつかなくてはならないようなことを、しているんでしょうね」
「たとえば、浮気とか言うつもりかい?」
「たとえばね。断言はしないけど」
「どうしてそんなことが君にわかる?」
「あたし自身の体験よ。浮気する時はよくその手を使ったもの。あたしはボウリングじゃなくて、ゴルフだったけど。ゴルフの方が色々と便利なのよ、浮気の相手と遠出できるから」
「しかし、僕の女房にかぎって――。そんな馬鹿な。彼女はそこまで利巧じゃないさ」
「女は誰だって浮気をするためにはお利巧さんに頭が回転するものなの。ボウリングのピンも知らないって? ストライクも? それであなたコロリと騙《だま》されたのよ。そこで得々と知識を披露することで、男って頭から信じちゃうのよね。その上子供まで引き受けて。お気の毒ね、山岸さん。ヤケ酒つきあってあげてもいいわよ」
「いや結構。僕は女房を信じるからね」
とは言ったものの胸の中は疑惑で一杯。
「今夜奥さんは帰ってくるなり、つまらなかったって言うわ。うしろめたいからよ」
とミズ河井は追いうちをかけるようにそう言った。
さてその夜。時刻は十時四十五分。妻は夫の顔を見るなり、ゆううつそうにこう言った。
「ボウリングなんて、ちっとも面白くなかったわ」
声ににじむ疲労感。
「今度友だちの一人にゴルフ誘われたのよ」
そしてちらりと夫の顔色をうかがった。
「箱根にコース持ってるんだって。でもゴルフなんて、歩くだけで何が面白いのかしらねえ」
そこでさも気乗り薄そうにつけ足した。
「ねえあなた、ゴルフってどうやるものなの?」
山岸の胸はますます疑惑で膨らんだ。
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男は天下のまわしもの
高貴なお生まれの方というのは、意外なもので立て膝《ひざ》ついてマージャンなどおやりになることがある。女同士のこととて花の素面《すつぴん》、髪などもふりみだしてのザンバラ髪。傍にスープが冷めて白い油の浮いている昼食のラーメンのどんぶり鉢などが重ねてあったり。もうもうたる紫煙。とうてい高貴の方々とは思えぬそのありてい、その風体。
が、そこは歴《れつき》とした高輪《たかなわ》のお屋敷の奥座敷。チイ、ポンのあいまに聞こえてくるのは高貴なるゆえの「ごきげんよう言葉」。
「先日、玉川高島屋でサンローランのイヴニングの半値バーゲンがございましたのよ。それポンね」
「およろしいことね。あっ、チイ」
「そろそろお腹の具合いかが? はい上がり」
「あらマ、コクシムソー! お見事なことね」
さてお夜食、天丼《てんどん》とりましょうということになり、上か中か並かの話しあい。
「天丼は並にかぎりますのよ」
昔だったら何々家のお姫《ひい》さまにあたられるうら若い女性の発言。
「上はいけませんですの、上は。塗りの重箱なんぞに入って上品に収まっておりますが、天丼のダイゴミは、汁をたっぷりと吸ったご飯を、セトモノのふちからかきこむことにございますから、並でまいりましょう、並で」
それできまり、高貴な生まれの方々は経済観念も味覚も、世俗的知識も充分にそなえられておられるのである。
それに比べ、高貴の生まれでない庶民のイモ娘たちは、親に買ってもらったベンベーだとか、アウディの80SLといった車を西麻布《にしあざぶ》の地中海通りに路上駐車させ、小綺麗《こぎれい》でしゃれたフランス料理店へとくりこむ。そして気取ったギャルソンをはべらせておいて、ああでもない、こうでもないとメニュー選びが始まる。
「あた|しィ《ヽヽ》」
とJJギャルがいう。
「舌ビラメとオマールえびの、キィウィソース」
「ウッソォー、オマールえびなんてあるのォ?」
と別のイモギャルがいう。
「じゃ、あたしもソレ」
「あたしも」
「あたしもソレで行く」
と他の女の子たちも付和雷同する。そしてなれたような、なれないような手つきでナイフ、フォークを使い、上品なようでいて下品なお食事風景が展開されるのである。
さて一方、高貴な方々の方は、天丼《てんどん》などを花の素面でかきこみつつ、マージャン台の上に並べたパイなどを睨《にら》んでおられるが、そこは生まれは争えず、下品なようでいてどこか優雅さなどが漂ってくるのは、どのようなわけであろうか。
「美也子さま、いよいよお輿入《こしい》れですって? あ、それポン。ごめんあそばせ」
「そろそろ年貢の納め時と覚悟をきめましたのよ、ホホホ。チイ!」
「あの方どうなすったざます? ほら、ハワイに一緒にいらした御曹司《おんぞうし》の方? アラ、ツモリましたわ」
「今日はやけにオツキだことね。ハワイにご一緒したのは前の殿方《とのがた》よ。今の相手は、とある高名なムービースターですわ」
「美也子さまは面食《めんくい》でいらっしゃるから」
「嫁いでしまいませば、カゴの鳥でございますから、結婚前にやりたいことを思いきりやりますのよ」
「そのムービースター、どうなさるの?」
「およろしかったら、春子さまにお譲りいたしますわ」
「マッ! ほんとうにおよろしいの?」
「では、ノシをつけて春子さまに」
「つかぬことを伺うけど、その方、あちらの方はお上手でいらっしゃる?」
「それはもう。私が保証いたしますわ」
うら若き高貴の方々は天丼の夜食も終わられ、再びガチャガチャとパイをかきまぜ始められるのであられた。
地中海通りのフランス料理店の方では、同年配のギャルたちが、やはり男談義に花を咲かせている真っ最中。
「ネェネェ、訊《き》いて訊いて。あたしィお見合いしちゃった」
「ヤダヤダ、ほんとッ」
「相手はどこの誰よ?」
「それがさ、何々家の御曹司でさあ」
「エ? その人もしかして、さる高貴なお嬢さまとロマンスの噂《うわさ》があったひとじゃない?」
「もち」
「へえ、いかすじゃない。イイナ、イイナ」
「結婚しちゃえばもうメじゃないもんね。あたしィ、不倫に憧《あこが》れてんの。もう不倫をやってやってやりまくるつもりなんだからァ」
「結婚て、そのためにあんじゃないのォ?」
高輪の奥座敷でお姫さまがたが、チイポンとやりながら片膝《かたひざ》立てて歯の間の海老《えび》のカスなどを、優雅に楊子《ようじ》でせせりだしている間、こちらでは、エスプレッソの香りが漂うデザートの時間。
「だけどさァ、飯野クンどうするのさ」
「大丈夫よォ、彼。ほら例のすごいママがいるから」
「彼、マザコン?」
「マザコンもマザコン。お手々つなぐのに|ママ《ヽヽ》の許可がいるんだから。こないだもさぁ、夜の十時過ぎて車で送ってったら、門の所で飯野クンのママったら、たたずんで待ってんのォ」
「気持ちわるーい」
「だけどさ、今日び、マザコンでない男の子みつける方が無理じゃない?」
「そ、無理」
「ついてないよねぇ、あたしたちの時代ってサ」
ドラ娘たちのお喋《しやべ》りはまだ延々と続きそうな気配だが、高輪の奥座敷では、点棒の計算が終わりかけていた。
「美也子さまが大勝でございましたわねぇ……」
「そうそう先日、わたくしの弟の同級生が家に遊びにまいりましたのよ。その子がまたカワユイ青年で」
「まあ美也子さま、お気をつけ遊ばせよ、お輿入《こしい》れ前ではございませんか」
「せっかくのご忠告だけど、ちょっとばかり遅うございますわ」
「あらら、では、もう手をおつけ遊ばして?」
「その日のうちに」
と美也子はとり澄ましていった。
「それがまた、|飯野くん《ヽヽヽヽ》の初心《うぶ》なこと、シャイなこと、ナイーブなこと。もうゾクゾクしてくるのでございますのよ」
「ごちそうさまでした」
「では、ごきげんよう。末長くお幸せに」
「ごきげんよう」
めでたく奥座敷のマージャンはお開きに。
地中海通りも一人が七千八百円プラスの税サービス料を払って解散に。
「じゃねェ」「バーイ」「バイバイ」「玉の輿《こし》祈ってるわョォ」「サンキュ」
かくして高貴の方も庶民の娘も、しごく幸せなのである。
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ジタン
レディス用のトイレのドアを押すと、女が一人鏡に向かって口紅を引いていた。色はスカーレット。グレー地に黒のパターンのドレスは無彩色なので、赤が眼に焼きつくほど鮮やかだった。
女の傍を通りぬける時、彼女から微かに冷えた煙草《たばこ》の匂《にお》いがした。洋子は反射的に眉《まゆ》を寄せた。そしてすぐに、自分がどうして眉を寄せたのだろうかと考えた。けれども使用中のトイレのひとつから水洗の流れる音がして、もう一人女が出て来たので、思考が中断された。
「あらいいじゃないその口紅の色。服によく似合う」
二人はどうやら友だちらしかった。
「どうしたのよ、すごくめかしこんで。さてはデイト?」
トイレから出て来た女が手を洗いながら訊《き》いた。洋子はあいている奥の方のトイレに入った。
「デイトはもう済んだのよ」
スカーレットの口紅の女らしい声が答えるのが、トイレの扉越しに聞こえてくる。
「あら早々と。一体どういうデイトなの?」
「昼休みの情事」
と言って、フフフと含み笑いが続いた。
「ウッソー。信じられない」
「ウソじゃないわよ。何のために昼休みがあると思ってるの」
「ランチ食べるためじゃないの?」
「もっと美味なるものを食べるためよ」
「もっと美味なるものって?」
「そんなこと口に出して言えないわよ。|アレ《ヽヽ》よ、|アレ《ヽヽ》」
「アレって、アレのアレのこと?」
「もちろんそう」
「嫌だぁ、お日さまの出ているうちからアレやるの?」
「別に私たちだけが例外ってわけじゃないのよ。昼休みのラブホテルは、サラリーマンとオフィスガールで満員なんだから」
「というと相手はサラリーマン?」
「うちのデザイン事務所のアートディレクター」
水洗を流して洋子がトイレの中から出て来て手を洗い始めても、二人の若い女はまるで気づかぬ様子。
「独身なの、そのアートディレクター?」
「当年とって三十六よ。妻子もち」
「じゃ不倫の関係だ。うらやましいなぁ。あたしも一度不倫ってのをやってみたい」
洋子はゆっくりと石鹸《せつけん》で手を洗い、温水を流して泡を落とした。鏡の中の自分の顔を見つめ、化粧道具をバッグから取り出した。夫の雄介とロビーで六時半に待ち合わせているのだ。今日は結婚七年目の記念日で、外で食事をすることになっていた。夫の勤めているデザイン事務所が六本木にあるので、近くのホテルオークラで、ということになったのだった。
「ねえねえ、どんなひと?」
「そんなこと一口で言えないわよ。でもアノコトは|非常にお上手《ヽヽヽヽヽヽ》」
「どう上手なの?」
「口で説明できると思う?」
と若い女は鏡の前で髪の感じを直しながら言った。それから何かを思い出したのか、クスクスと笑った。
「何よ、思いだし笑いなんかして」
ともう一人の女が背中を押した。
「それがね、彼ったらおかしいのよ、彼の奥さんてひとが絶対に電気をつけたままでやらせてくれないんだって。でね、ある時彼が奥さんにこう頼んだんだって。『ねえ、ヨーコ、頼むよ、俺のこと信頼できるだろう? 亭主なんだからさ。約束するって。誰にも言わないよ。電気つけて一度やらせてくれよな』あたしその話聞いて笑いが止まらなかったわ」
「その奥さん、ヨーコっていうの?」
「そうなんじゃないの、彼がついそう口を滑らせたから。別にいいじゃない、ヨーコでもマサコでも。あたしには関係ない」
女たちが身づくろいを終えて出口に向かい始めた。洋子は口紅を塗り終わり、上下の唇を強くこすりあわせて、紅をなじませた。顔は無表情だ。
「その彼とはいつもどこで逢《あ》うの?」
と若い女の声がまだ聞こえる。
「渋谷。オフィスが六本木だから、あんまり遠くへは行けないし、六本木周辺というのも人目があるしね」
扉が開く音。
「その彼のゆいいつの欠点がヘビースモーカーだってこと」
扉の外へ消えながら女が言った。
「タクシーの中といわずホテルルームの中といわずやたら喫《す》うのよ。しかも愛用の煙草がホラ、フランスのジタン。服にしみついて困っちゃう」
「すごく匂《にお》うやつね」
扉が閉まり女たちの声がぷつりと途切れた。
ホテルオークラのロビーは、時間のせいか人が多かった。洋子は眼で夫の姿を探した。
雄介の姿を探しながらロビーの中をゆっくりと歩いた。ふと、嗅《か》ぎなれた煙草《たばこ》の匂い。雄介の背中が眼に入った。
「やぁ、時間ぴったりだな」
と、灰皿の中でぐいと喫い殻をひねりながら洋子の夫は言って、少しまぶしそうに妻を見上げた。
「時々こうして外で逢《あ》うのもいいな。今夜のおまえ、きれいだよ」
雄介は妻の表情が固いので怪訝《けげん》そうな顔をした。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
「今日の昼休み、どこにいたの?」
え? というふうに雄介は妻をみつめた。
「どこにって、飯食ってたよ」
「どこで?」
「だから近所のレストランで」
「日本食? 洋食? 中華?」
「――そば」
一秒くらい間をおいて雄介が答えた。
「嘘《うそ》よ。そばっていうのも嘘。近所のレストランも嘘。飯食ってたっていうのも大嘘」
「どうしたんだよ? すごい顔して。いや、一体俺が何をしたと思うんだ?」
「浮気。渋谷のホテルで。グレーと黒のドレス着て、口が食人種みたいに赤い女と」
さすがに雄介の顔色が変わった。
「胸にブスリと突き刺さった?」
「しかし……どうしておまえ……」
酸素が足りない魚のように雄介はあえいだ。
「あなたって最低。自分の女房の名前を教えたり、夫婦の寝室での秘密をペラペラと喋《しやべ》ったり。そりゃヨーコという名の女は他にもゴマンといるかもしれないわよ。それから明かりを消さなければ絶対にセックスしない女も、たくさんいると思う。だけど明かりを消さなければセックスをしないヨーコという名の女の夫が六本木のデザイン事務所の三十六歳のアートディレクターだとしたらどう? しかもその男の喫《す》う煙草がジタンだとしたら? あなただけよね。今度浮気する時は相手を選びなさいよ。トイレの中で昼休みの自分の情事をペラペラ喋るような女には手を出さないことね。もっとも今度浮気をするチャンスがあればのことだけど――」
それだけ言うと、洋子は呆気《あつけ》にとられている夫をその場に置いて立ち去った。――煙草はマイルドセブンあたりが無難なのではないだろうか?
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STAND BY ME
このところケイコからの電話がない。といってもまだ二日だ。そろそろかかってくるんじゃないか、と横目で電話機を盗み見たら、リンと鳴った。虫の知らせというか、長年のつきあいから生じた勘というか。
「もしもし、あたし」
「電話がかかってくる前からわかってたわよ」
「今、何してるの?」
「テレビの深夜劇場で『若草物語』を観《み》てたの。そっちこそどうしたのよ、こんな時間に?」
聞かずもがなである。どうせ男と一悶着《ひともんちやく》起こしたにきまっている。いつも男と別れるの死ぬのとやっては、あとで泣き電話で報告が入る。
「もうぐちゃぐちゃよ」
「どのあたりがぐちゃぐちゃなの? 仕事? 亭主? それとも男?」
「仕事も亭主も男も全部ぐちゃぐちゃ。もうあたしの手に負えないわ」
元はといえば自分でまいた種である。かといって、いい気なものだとは、友だちとしては言えない。
「それで真夜中の三時に何してるの?」
「ひと泣きしたところ」
「まだ泣き足らないのね? うちに来る?」
「いいの?」
「どうぞ。ただし私は『若草物語』の続きを観《み》るから、あなたは勝手にソファででもどこででも、足りない分だけ泣いていて」
「ありがと。あなただけよ、そう言ってくれるのは」
ケイコはやおら鼻声になってそう言った。
ものの二十分もたたないうちに、タクシーを飛ばして彼女が駆けつけて来た。
「ソファに毛布と枕《まくら》を用意しといたわ」
と和代は居間にケイコを招き入れながら言った。
「悪いわね。毎度」
「なれっこよ」
と和代はテレビの前に坐《すわ》った。雪のクリスマスの名場面である。
「邪魔しないからね。最後までテレビ観てね」
とケイコが言って、ソファに腰を下ろした。
「言われなくてもそうするわよ」
しかしそうは言っても何となく集中できないではないか。
「今度は何なの? 亭主がまた浮気でもしたの?」
「亭主なら問題ないのよ」
とケイコが頭をかかえた。
「浮気したのは恋人の方よ」
「元々浮気の相手じゃないの」
と和代は少し冷淡に言ってやった。テレビの画面はジョーが髪を切ってお金に替えるところだ。
「たとえそうでも、許せないのよ」
「ご亭主の浮気は許せても、浮気相手の浮気は許せないの? 勝手なものね」
「あなたなんかにわからないわよ」
「あら、そう?」
「結婚している女の淋《さび》しさがわかってたまりますかっていうの」
とたんに和代は頭に来た。
「淋しいですって? 浮気相手のコピーライターが浮気したくらいで?」
「二言めには浮気浮気って言わないでよ」
「あなたが淋しいだとか孤独だなんて言葉を口にするとね、気分悪いからよ。それじゃこの私はどうなのかって言いたいわね。真夜中の三時過ぎに、深夜放送で『若草物語』をぽつりと観てる三十の独身女の淋しさはどうしてくれるんでしょうねッ」
「だって結構面白おかしくやってるじゃない、あなただって」
「この年で相手になる男なんて、みんな女房持ちか恋人のいる人ばかりよ」
ケイコは黙りこんだ。
「そのあげくには、ここは駆け込み寺でさ、若い女に亭主とられた女や、恋人に捨てられた女共が泣きにやってくる」
と和代はケイコが坐《すわ》っているマレンコのソファを見ながら言いたくもないことを言った。
「さっきのことだけど」
とケイコが妙な声で口ごもった。
「さっきのこと?」
「たしかあなた、あたしの恋人がコピーライターだって言わなかった?」
「言ったっけ?」
「言ったわよ、確かに。どうして私の男がコピーライターだって知ってるの?」
「あなたが教えてくれたんじゃないの?」
「いいえ。私じゃない。私は彼の仕事のことなんて、誰にも話してないわ。浮気っていうのは、そのくらい用心しないとすぐに世間にばれるものなのよ。たとえ親友でも、私は彼の名前や仕事のことはいっさい言わない主義なのよ」
「そうかなぁ」
と和代は困惑したように呟《つぶや》いた。
「あなたが口を滑らしたかなにかしたのよ、絶対」
「たしか」
とケイコは考える口調で続けた。
「先週末、箱根でゴルフとか言ってたわね?」
「箱根で? いいえ、違うわよ、軽井沢よ」
「ひっかかったわね」
とケイコの眼が光った。
「彼も軽井沢へゴルフだとか言って出かけたのよ」
「まさか高地さんとあたしが一緒に軽井沢へ行ったなんていうんじゃないでしょうね?」
「ついさっきまでは疑ってもいなかったわよ。親友だと思っていた。いつもそばにいて支えてくれる友だちだと思っていたわ。でもたった今の今、わかったのよ。彼の浮気相手はあなたよ」
「見たことも聞いたこともないのに?」
と和代はあくまでも白《しら》を切ろうとした。
「ではどうして高地って名前知ってるの? コピーライターしてるってこともなぜ知ってるの?」
和代は万事窮したように急に口をつぐんだ。
「あなたばかりが、いい思いしているのが許せなかったのよ。亭主がいながら次から次へと男を替えてさ」
「だからって、ひとの男を取ることないじゃないの。信じてたのに」
ケイコはそう言ってから、はっとしたように顔を上げた。
「ひょっとして」
と疑惑で顔が青ざめた。
「亭主の浮気相手も、案外あなたなんじゃないの?」
「まさかぁ」
と和代は顔の前で手を振った。
「いくらなんだってさ、悪いけどたとえ真冬といえどもズボンの下にタイツはいてる男なんて、男のバレリーナみたいで気色悪いわよ」
それを聞くと、ケイコはその場でワッと泣き伏した。和代は再びテレビの画面に眼を戻した。エイミーに扮《ふん》した少女時代のエリザベス・テイラーは、大人子供みたいであんまり感心しなかった。
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ワン・フォー・ザ・ロード
オフィス街に陽《ひ》が傾きかけている。仕事が終わって既《すで》に帰宅した者もいるし、残業組もいる。これから社を出てどこかへ寄り道する者もいる。
希和子はふと企画書から眼を上げ、無意識に煙草《たばこ》に手を伸ばした。ところがマイルドラークはいつのまにか空になっている。
次の瞬間、前の席からセブンスターの白い袋が飛んで来て、希和子の手元に落ちた。
「サンキュウ」
と彼女は別に相手を見るでもなく言って、セブンスターを一本抜きとると、再びそれを前の席の相手に投げ返した。それから企画書に向かって集中し、少し時間が過ぎた。
また煙草が喫《す》いたくなったが、自分のマイルドラークが空なのはわかっているから、かわりに希和子は小さく溜《た》め息《いき》をついて仕事を続けようとした。
そのとたんにまたまた前の席からセブンスターが飛んできた。今度は眼を上げて希和子は同僚を見た。
「よっぽどヒマなのね」
「どうして?」
と藤野一樹が訊《き》き返した。少し元気がない感じ。
「だって眼の前にいる女が、タバコを喫いたくなるタイミングに、いちいち応《こた》えてやるなんて、ヒマ人のすることよ」
そうズケズケと言って、煙ごしに希和子は藤野を眺めた。
「どうしたの?」
「俺?」
「そうよ。しょぼくれてる。また失恋でもしたの?」
「ま、そんなようなもの」
「この間も失恋したばかりじゃないのよ」
「俺って、そのタイプらしいな」
「それほど不細工ってわけでもないのにね」
と彼女は同情を声に滲《にじ》ませた。
再び企画書を書きだしたのだが、落ち着かない。
「さっさと帰ればいいじゃない」
「うん、まあね」
と煮え切らない。
「飲みに行けば?」
「相手がいないよ」
「めんどうみきれないわね」
といったん突き放したが、
「いいわよ、つきあったげる」
とついに腰を上げる。
「悪いよ、金曜の夜だってのにさ」
「女に二言はないの」
と希和子は手早く机の上を片づけ、バッグの中から口紅を一本取りだし、コンパクトも見ずに両方の唇にさっと塗りたくった。
「女に振られたくらいで、クヨクヨしたってしょうがないじゃないの」
と希和子は場所がバーに移ると、同僚を慰めにかかった。
「完全に振られたわけでもなくてさ」
と藤野一樹が言葉尻を濁す。
「いいとこまで行くんだけどさ、最後のところでなぜか、俺のガールフレンドって、言うんだよ」
「何て?」
「あなたとはベストフレンドでいたいって」
「ふうん」
「ただの友だちっていうなら、いいよ。だけどさ、ベストフレンドなんて言われるとさ、眼の前にニンジンをつきつけられた馬みたいなもんで、永久に走らされそうでさ」
「ベストっていうのだけ返上すればいいじゃないの」
「それがさ、惚《ほ》れた弱味でさ」
「永久にニンジンを食べさせていただけないまま、走り続けるわけね」
「らしいね」
「ハンコ、ペタンと押されたわけだ。|オトモダチ《ヽヽヽヽヽ》っての」
「そういうこと」
藤野は溜《た》め息《いき》とともにウイスキーのオン・ザ・ロックを喉《のど》へと流しこんだ。
「どういうわけか、俺ってオトモダチのハンコ押されるタイプらしいんだよね」
「そんなにペタペタ押されてるの?」
「四つ五つあるよ」
「ふうん」
希和子はチラリと藤野を横目で眺めた。
「いつでも、どこにいても呼べば駆けつけてくれるオトモダチっていうわけね。駆けつけてどうするの?」
「恋人や亭主の浮気話聞かされたり、泣いたり愚痴ったりさ。ろくなことじゃない」
「わかるわ、その気持ち」
と希和子は言った。
「わかるわけないよ。ハンコ押された人間じゃなけりゃ、絶対にわからないさ」
「まあね」
と希和子は空のグラスにウイスキーを注《つ》ぎ足した。
かなり二人とも酔いが回っていた。
「あなたってね、気を回しすぎるのよ。わかる? 気を回しすぎるのってのはね、女にとっては切ないのよね」
「優しいって、よく言われる」
「でしょう? たまには、強くでるとか、もっと自分ってものを押しださなくちゃだめよ。女ってのは、時には押し倒されるのを待ってたりするんだから。そういうタイミングを読むのが、すごく下手なのよ、あなた」
「自分でもそう思う。あとになって、あっ、あの時だったのかな、なんて後悔することはよくある」
「女から言いだすわけにはいかないものね」
「まあそうだよね」
「断られたっていいのよ。男なんだもの。当たって砕けろよ。悪くいったってオトモダチの線は変わらないんだから、どんどん当たって砕けるのよ」
「だんだんそんな気分になって来たよ。当たって砕けてみるか」
「その調子」
希和子はポンと藤野の肩を叩《たた》いた。
「元気が出たようだから、私帰るわ」
「送るよ」
と藤野は慌てて彼女の腕を取った。
タクシーで世田谷《せたがや》通りまで来た時、希和子がさり気なく訊《き》いた。
「寄ってく?」
「え?」
「嫌ね、男のくせにそんなにドギマギすることないじゃない。襲ったりしないわよ。ワン・フォー・ザ・ロード。帰り道にうちで一杯ってわけよ」
「そりゃきみの方は大丈夫かもしれないけどさ、俺が狼《おおかみ》に豹変《ひようへん》する可能性大だからさ」
と藤野は心から残念そうに言った。
「今夜は止めておくよ」
「わかったわ」
と希和子はタクシーの外へ一人で出た。
「でも、次の夜なんて、二度とないのよ。じゃね、おばかさん。チャオ。おやすみ」
タクシーが走り出した。
「あっ、そうか」
と藤野はハッとした。しかし希和子の姿は消えて見えなかった。
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山口君に鈴木君に林君に
「今夜は遅いぞ」
と羊太郎は靴のヒモを結びながら言った。何かをしながらさりげなく、しかも自然でかつ断固たる口調で言わなければならない。
しかし決して眼を合わせないこと。眼を合わせたら嘘《うそ》がバレる。世の妻という種族は、夫の眼を読むことにかけては百パーセントの的中力をもつと信じて疑ってはいけない。
ひたすら相手の眼を避け、なおかつ避けているなどということはおくびにも出さず、態度にも見せず、いちばんいいのは、何かしていて次の行動に移る直前のあたりで、さりげなくきりだせれば、まずは大丈夫。
というわけで、羊太郎は靴のヒモを結びながら続けた。
「山口君とさ、日曜の草野球の打ち合わせの件で、飲むからな」
「今夜|は《ヽ》じゃなくて今夜|も《ヽ》でしょう。遅いのは」
美知代が|は《ヽ》と|も《ヽ》に力を入れて言った。
「珍しくからむじゃないか」
「だってあなた、すぐ底が割れるような嘘つくんだもの」
「何が嘘なんだよ?」
図星だったので声に力が入った。そのために逆にムッとした感じが出たのではないかと羊太郎は思うのだが。
「普通、男の人がお酒飲む時、いちいち草野球の件でとか、春の社員旅行の打ち合わせでと、言わないんじゃない? ほんとに只《ただ》飲むだけだったら、飲んでくるぞ、でいいわけじゃない。現に、あなたそうしてるわ」
「そうかね」
相手の出かたをまず見て、応戦せねばならない。
「いちいち断るのもおかしいし、山口君と、なんて名前を出すのも見え透いてるわよ。ましてや理由までつけるなんて、バカね。草野球? 先週は誰それさんの結婚式の贈りものをグループで贈る件で、とか言ってたわね」
美知代がせせら笑った。
「そんなに疑うのなら、おまえ今夜一緒に来て確かめればいいじゃないか。そうだよ、そうしろよ、そんなに信用が出来ないっていうんならな」
言っているうちに段々腹が立って来て、声に真実味が滲《にじ》むような気がした。
「そんなバカな。いちいち亭主の嘘《うそ》を確かめに出かけて行ったら、あたしなんて毎晩忙しくて」
「毎晩と言ったな。じゃ昨夜はなんだ? 鈴木たちとマージャンしてたの信じないって言うのか? 電話したろ」
「ええ確かに後ろの方でマージャンのパイをかきまわす音はしてたけどね」
「それでも疑るのかぁ?」
興奮したので、かぁと声が思わず裏返り、自分でもカラスが鳴いたみたいだと苦笑した。
「それと土曜日はどうなんだ? 林君とゴルフ行ったってのは? え? コンペの賞品、持って帰ったろうが」
「そんなことでコロリと騙《だま》されてたらむしろ幸せなんだけど」
冬の玄関口は冷える。それに出社の時間を過ぎていた。急行に乗り遅れると遅刻だ。
「俺はもう行くぞ」
「どうぞ」
と美知代が言った。
「鈴木さんによろしくね」
「ああ、言うよ」
ドアに手をかけたとたん、妻の声。
「ちょっと待った」
女だてらにちょっと待ったと言ったのだ。羊太郎は耳を疑った。
「今夜、誰と飲むって言った?」
と妻。
「だから、鈴木君だ」
「あらッ。さっきは山口君て言わなかった?」
「い、言ったかな、俺?」
「立派に言ったわよ、草野球の打ち合わせで山口君と飲むから、今夜も午前さまになるぞって」
「あ、そ、それはつまり鈴木君のことだよ。言いまちがえだ、言いまちがえ。単純なミスだ」
「じゃ山口さんというのは?」
「だから昨夜マージャンしてた相手」
「変ねえ」
と美知代が小首をかしげた。小首などという可愛《かわい》らしい代物《しろもの》ではとうになくなってはいるのだが。
「山口さんて、マージャンやらないんじゃなかった?」
「え? マージャンやらない?」
「そうよ、マージャンやるのは林さんで、山口さんはゴルフでハンディ十二とかいうんじゃなかった?」
「俺、そう言った?」
こういう混乱が起こると困ると思って、友だちの使いわけは充分に気をつけていたのだが、どこかで混線してしまったらしい。
「私が知ってるわけないもの。あなたが言ったのよ」
と妻はニベもない。
「そりゃそうだ。とにかくさ、鈴木君と今夜は飲むんだ。文句あるか?」
と最後の強がり。グイとドアを押した。
とたんに冬の寒風が顔に吹きつけた。
「ついにボロ出したわね」
と、妻の声がまたしても彼を引きずり戻した。
「まだあるのかよ?」
「今の全部|嘘《うそ》よ。私の出まかせ」
「なに?」
「今夜、あなたが飲むことになっていることにしている相手は山口さんでいいの。鈴木さんはマージャンの時のお友だちで、林さんはゴルフのハンディ十二のひとよ。少なくとも、その線であなたはずっと通していたわよ」
「じゃなんでカマなんてかけたんだぁ?」
とまた語尾が裏声になった。今度は悲鳴のように自分の耳に響いた。
「頼むから、かんべんしてくれよ。会社遅れちまうよ」
「じゃ本当のこと言いなさい。今夜の相手は山口さんじゃないわね?」
あいにく妻の眼がまともに羊太郎の眼を見つめていた。
「うぅ、まあ……」
「じゃ、誰?」
「鈴木君」
「嘘《うそ》」
「林君」
「それも嘘」
「秘書課の新しく入った女の子」
ついにヤケっぱちで羊太郎が喚《わめ》いた。
「最初からそう言えばいいの」
「そしたら、出かけてもいいのか、その子と?」
「いいわけないじゃない」
「まっすぐ帰るよ、帰ればいいんだろう」
捨て科白《ぜりふ》で家を飛び出した羊太郎。しかしなんで妻にバレたのか、皆目わからない。げに恐ろしきは女房なり。
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トイレット・ペーパー
「最近結婚について書いてある面白い本を読みましたのよ」
と、見合いの相手は一通りの挨拶《あいさつ》と紹介がすみ、ほどよい間をおいてからいきなりそんなふうに切りだした。
「どういう本ですか?」
大原麗子に良く似た容姿を非常に好ましいと感じながら、斎田堯は訊《き》いた。
「|バターはどこか《ヽヽヽヽヽヽヽ》って訊く男性の話」
これは有望だぞと、斎田はひそかに内心|膝《ひざ》を叩《たた》いた。今まで二十七回見合いしたが、二十七人の女が一人の例外もなく、最初に話題にしたのが星座のことと血液型。
「お生まれの星座は何ですかァ?」
カラスみたいに語尾が|かァ《ヽヽ》と鳴くのも近頃《ちかごろ》の若い女の共通点。
「五月だから双子座でしょう」
|かァ《ヽヽ》と鳴くのも、星座の話しか出来ないような女も、彼の趣味ではないので、斎田は急に興味を失ってしまうのだった。
「まァ、双子座?」
女たちは一様にうれしそうに言う。
「相性、ピッタシみたい」
絶対に合うはずのないサソリ座生まれの女までがそう言ったのだ。家柄も良くエリート中のエリートで、色浅黒く彫りの深い顔、長身|痩躯《そうく》、四月からニューヨーク栄転ということになれば、女にもてないわけはない。
「血液型はなんですかァ?」
「AB型」
「双子座といいAB型といい、複雑な性格みたい」
そこで女たちはふっと溜《た》め息《いき》をつく。
複雑ではないが、かなり厳しい好みをもっている方だと、斎田は思っている。普通の男が見逃せるようなことが、我慢出来なかったりする。だから三十三のこの年まで独身なのだ。
「バターは普通、冷蔵庫の中にあるよね」
斎田はうれしくなって軽く身を乗り出して言った。
「そうでしょう?」
と、見合いの相手大原麗子生き写しの向井マリコは、ニッコリと笑った。
一目惚《ひとめぼ》れなどというものを彼は信じたことは一度もなかった。それは動物的な本能、一種の性衝動のようなものだと、軽蔑《けいべつ》さえしていたのだ。どうやらその考えを変えなければならないようだった。そして彼は喜んで宗旨《しゆうし》変えするつもりだ。
「まあまあ、すっかりお気が合うようですから」
と今日の見合いの仕掛人の山田重役夫人が腰を浮かせながら口をはさんだ。
「あとはお二人だけでどうぞ」
そう言って彼女は二人を応接間に残して出て行った。
「普通はそうなの」
とマリコが続けた。
「でも既婚の男性が、|バターはどこ《ヽヽヽヽヽヽ》? って訊《き》く場合、バターがどこにあるかは問題じゃないのね。つまり|バターを取ってくれ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》っていう意味。同じように|Yシャツはどこ《ヽヽヽヽヽヽヽ》? っていうのはYシャツを出してくれっていうことね」
甘やかなわずかに鼻にかかった、それでいてきびきびとした声でマリコが話した。
「そこで新婚の奥さんが、|バターなら冷蔵庫《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》よって答えると、それが夫婦の危機の始まりになるの」
話術のたくみなこと。斎田は惚《ほ》れぼれとした。これで結婚生活に退屈することはないだろう。
「男の人は渋々冷蔵庫の中を覗《のぞ》くとするわね。|どこにもないよ《ヽヽヽヽヽヽヽ》ってきまって言うそうよ。つまり結婚したとたん、男の人って角膜に異状をきたして見えるものも見えなくなっちゃうんですって」
「僕も最近何かで読んだんだけどね」
と斎田が応酬した。
「女というものは結婚したとたん亭主のすべての期待を裏切ることになっているそうだ」
「|たとえばバターを自分で探しなさい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、とか?」
「うん、そう。たとえばそういうこと」
斎田は陽気に言った。
「どうやら僕たちひどく気が合いそうだね」
「実は私もそう思っていたの」
「見合いで星座と血液型の話をしなかった初めての、きみは女性だよ」
「あなたも。なんとなく大原麗子に似ているね、って言わなかった初めての男性」
「結婚を前提におつきあいなんていう過程は、はぶかない?」
「そんなにせっかちにきめてもいいの?」
「これでも女を見る眼はあるつもりなんでね」
「二十七回のお見合い経験のおかげね?」
「いやいや。悪い例はいくつ重ねても身につかないよ。女を見る眼は天性」
すっかり意気投合した二人は、山田重役夫人宅を辞したあとで夕食を共にしシャンパンでこの歓《よろこ》ばしい出逢《であ》いを祝福しようという相談がまとまった。
「ちょっと待ってね」
とマリコは化粧を直すことを口実に山田宅のトイレに入った。
ほどなく身なりを整え、晴れやかに現れた。世の中に排泄《はいせつ》感のまるでないような女がいるが、排泄感はあったほうがいい、と斎田は更にご機嫌なのだった。
「僕もちょっとトイレを拝借」
玄関の脇《わき》にある山田家のトイレは洋式。半分が簡単な洗面台になっている。
マリコの香水の残り香が、そこはかとなくまだ漂っていた。時々洗面台の周囲に髪の毛や、パウダーなど落としたままの無神経な女もいるが、もちろんマリコは完璧《かんぺき》。髪の毛一本落ちてはいなかった。
用を足しながら、斎田は見るともなくあたりを眺めていた。白いプラスティックのペーパーホルダーが眼に止まった。
ホルダーからのぞいているトイレット・ペーパーの先が三角になっていた。彼はじっと、そのきちんと折られた三角の紙を眺めた。
眺めているうちに、背筋がゾクゾクとするのを感じた。
嫌だなぁ、と斎田は知らずに声に出して呟《つぶや》いていた。こういうことをする女は、生理的に許せないなぁ。
別に実害はないし、次に使用する人には使いやすいわけだから、文句を言う筋合いなどない。
しかし、理屈ではなく興ざめだ。ホテルのメイドさんが客室のトイレでするならいい。銀座のホステスがそうするのもいい。
しかし自分のカミさんになる女はだめだ。トイレット・ペーパーの先を三角に折るような女はごめんだ。
百年の恋も一瞬にしてさめ果てた思いで、斎田は手を洗い、トイレを出た。
大原麗子によく似た笑顔が彼を迎えた。この可愛い顔で、よくもあんなつまらん、取り返しのつかないことをしてくれたものだと、斎田は心底残念だった。
それから話をどう切りだしたものかと、ひどく憂鬱《ゆううつ》な思いで、靴をはき始めた。
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ホットライン
空気の中に湿気が含まれている。
それに埃《ほこり》やらスモッグやらが加わって、やりきれないような夏の日をシオリに思わせた。
あのひとと知りあって二年目の夏なのだ、と彼女は改めて時間の流れの早さに呆然《ぼうぜん》とした。
最初は遊びのつもりだった。結婚している男に本気でのめりこんでいったら、ぼろぼろに傷つくのは女の方だ。そんな例はたくさんあるし、友だちの中にもいる。
男たちは言うのだ。いずれ女房と別れるよ、と。妻と別れてきみと結婚するよ、と。だけど、そんな話が実現したためしはない。
須賀野は金曜の夜をシオリと過ごすことが多かったが、ウイークエンドは家族のために確保している。それは最初から二人の間の暗黙の了解であった。
シオリが無理に土曜日の夜、彼を誘いだすとか、ウイークエンドの小旅行を口にすれば、彼は応じるかもしれないが、三度に二度は嫌な顔をするに違いない。その時の彼の困惑と気持ちを思うと、シオリには最初からそのような提案を口にする勇気はなかった。妻子もちだと初めから承知している男との関係には、自ずからルールがあるのだ。
たとえば、彼は十二月の二十三日を彼女と過ごしたが、二十四日のクリスマスイヴは家族と一緒だった。クリスマスイヴをたった一人でやりすごした時の、ねじきれるような淋《さび》しさを、シオリは生涯忘れないだろうと思った。その時初めて自分をひとりぽっちと感じさせる須賀野を恨んだ。
ついに昨夜、シオリは初めてタブーを犯した。
「奥さんてどんな人?」
と、何気ない会話の間にさりげなく訊《き》いたのだ。
「そうだな」
と須賀野も彼女と同じくらいのさりげなさで答えた。
「ま、いい女なんじゃないのかな」
「どんなふうに?」
「気性がさっぱりしている。そこに惚《ほ》れてるしね、俺」
やはりそんな質問などしなければよかったと、シオリはとたんに嫌な気がした。
「私のこと、ぜんぜん気づいてないの?」
「それがルールだしね。そのあたりのことは心配ないよ」
と彼は安心させるように言った。
「俺、これでもずいぶん注意してるからね」
その発言は、シオリにはショックだった。男の立場からすれば当然そういう発想になるのだろうが、妻だけがいたわられ、守られているような気がした。
あたしだって女なのよ、とシオリは言いたかった。妻は内《うち》の女であり、シオリは外の女――言ってみれば、あくまでも他人という発想が、言外に露呈していた。
それが昨夜の会話だった。翌土曜日、昼近くになってシオリはワンルームの彼女のマンションで目ざめた。そのベッドは昨夜、彼との欲望の舟であった。それは二人を乗せて、快楽の波間を激しく揺れながらたゆたった舟だった。
シーツにはまだなごりの皺《しわ》が刻まれ、彼女が寝返りをうつたびに男の匂《にお》いが立ち昇ってきて、彼女の鼻腔《びこう》を満たした。
奥さんとする時も、あんなふうにするのかしら。あんなふうに彼女を押し開き、あんなふうに激しく、あるいはこれ以上は望めないような優しさで、彼女を責めたてるのだろうか。
他の女と彼を共有しているのだと思うと、急に落ち着かないような、いたたまれない気分に襲われた。須賀野の妻はどんな女だろう? どんな表情で、どんな風に喋《しやべ》るのだろうか? 声は?
それは制止しがたい衝動だった。残酷な破壊的な気持ちだった。自分が何をしようとしているのか、すぐには理解せず、また理解しようとも思わず、シオリは電話を取り上げた。
須賀野の自宅の番号は、ひそかに調べてあった。けれども自分がそこへ電話をかけることは一度もないだろうと思っていた。
指が固くなり、二度番号をまちがえた。三度目に通じたが、呼び出しが二つ鳴ったところで慌てて切ってしまった。それから呼吸を整えて再度ダイヤルを回した。
呼び出しが鳴っている間、ほとんど吐き気がしていた。五つ目に相手が出た。
「須賀野でございます」
いくぶん冷たい感じの女の声が答えた。
「もしもし……あの」
シオリは絶望的に言い淀《よど》んだ。
「須賀野でございますが。どちら様?」
「……山口といいますけど」
一瞬の迷いの後にシオリは名乗った。
「どちらの山口さんでしょうか」
それ以上はとても続けられそうにもなかった。シオリは受話器を置きかけた。
あっという声にならない気配が伝わってきた。
「あなたなのね?」
と相手が急に別のニュアンスの声で言った。
「去年から夫がかなりひんぱんに逢《あ》っているひとね?」
有無を言わせぬ調子だった。
「ちょうど良かったわ。あなたとお話がしたかったの」
「あの、失礼しました」
「ちょっと待って。電話を切らないで」
と須賀野の妻は言った。
「あの人が若い女と浮気をするのは、何もあなたが初めてってわけでもないのよ」
「…………」
「一種の病気なんだわね。浮気の相手がとぎれたことなかったんですもの。たいてい、二、三か月。長くて半年もてばいいのよ。つまり、ほんの遊びね」
「あの、すみません。切ります」
「いいから聞いて」
と更に強引に須賀野の妻は言った。
「今度のは少し違うのよ。おかしいとは思っていたの。何しろ一年続いているケースは初めてなのよ」
それからふと相手が口調を変えた。
「あなたも、さぞかし辛い思いをしているんでしょうね」
「…………」
「一年ですものね。日陰の身は応《こた》えるでしょう」
声に同情が含まれていた。
「とてもよくわかるわ。ほんとうよ」
と須賀野の妻が言った。
「いっそのこと、あなたに譲るわ」
「え?」
「譲るわよ。あたしもつくづく嫌気がさしていたところだから。ノシをつけて差し上げるわよ」
「え? でも……。とんでもありません。あの、結構です。絶対に、いりません」
「あら、でも責任とってもらわなくちゃ。あげますよ」
「嫌です。断固としてお断りします。もう二度と逢《あ》う気もありませんから。じゃさよならッ」
冷や汗をかいてシオリは電話を切った。男に対する思いは、冷めていた。
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マルグリット・デュラスの男
夫の晋介がテレビの前で大《おお》欠伸《あくび》をひとつすると、たいして目的もなくチャンネルを回していく。どこもいっせいにコマーシャルなので、NHKの教育番組で手を止めた。別に西洋絵画に趣味があるのではなく、ちょうど画面に映っている裸婦に興味を覚えたのだ。女は太めで、しどけなくカウチに横たわり、流し眼で晋介の方を見て笑っている。晋介はマッチ棒で耳の掃除を始める。
どこかで犬の遠吠《とおぼ》えがしていた。犬があんなふうに吠えるのを最後に耳にしたのはいつだったろうか。美也子は読みかけの本から眼を上げて夫を眺め、テレビの画面の脂肪太りの裸婦を眺め、それから湯気で曇ったガラス窓の外の気配を窺《うかが》った。電車の音が重なり、どこか遠くのオートバイの排気音が交錯し、それからふっつりと全ての音が途絶えると、テレビの美術解説者と女アナウンサーの声がした。晋介が無慈悲な表情でパチンとチャンネルを変えた。今度は黒メガネの男が、ぴったりとなでつけた髪をテカテカと光らせながら画面の中を右往左往している。若い女たちが何が面白いのかそれを見ていっせいに笑っている。晋介もつられて笑う。
「何がおかしいの?」
と美也子が思わず質問する。
「全然」
と晋介が答える。
「だからおかしいのさ」
美也子は視線を食卓の上に広げた本の上に戻しかける。突然、いいようのない倦怠《けんたい》の痛みが、肉体の奥に生じ、彼女を内側から鷲《わし》づかみにする。時々そんなふうになる。ただ単に退屈に蝕《むしば》まれるのではなく、それが内側から彼女に噛《か》みつくのだ。テレビがあり娯楽を提供しているにもかかわらず、あるいは話しかければあいづちぐらいは打ってくれる男が、眼の前でゴロゴロしているにもかかわらず。長期のローンで買ったとはいえ郊外の小さな庭つきの家に住み、特別に出来が良くもなければひどく悪くもないそこそこの二人の子供にめぐまれ、格別目を見張るような出世は望めないがまちがいなく安全コースを行く真面目《まじめ》な夫がおり、浮気をするでもなく、マージャン、ゴルフの類もやらず、月に平均三回セックスをし、庭にはフォックス・テリアが馳《か》けめぐり、ガレージには時たま家族でドライヴに使うファミリアが置いてある。世間の同じ年頃の女たちと比較して特別めぐまれてもいなければ、不幸でもない。まずまず分相応の生活。分相応の幸せ。分相応のセックス。にもかかわらず――。
にもかかわらず、美也子は内側から自分に噛《か》みついている空虚さに耐えかねて、思わず今しがたの犬の遠吠《とおぼ》えのような声をもう少しで上げそうになった。そうなのだ。あの犬の遠吠えは私の内部の吠える声なのだ。そう思った。
「おまえ、さっきから何を読んでいるんだ?」
晋介がつまらなそうな声で訊《き》いた。
「本よ」
「へえ、そうかい」
と晋介は片方の眉を上げた。典型的な夫婦の会話。別に夫は妻が読んでいる本の名を知りたいわけではないし。
美也子が読もうとしているのは、マルグリット・デュラスの『愛人』。本屋が自動的にしてくれたカバーがかかったままだ。晋介は今度は鼻の中に指を突っこんで、しきりに鼻くそをほじくりはじめている。耳の掃除の後は鼻の穴で、次は歯をせせり始める。テレビを見ながらそういうコースで夫はお顔のお手入れをする。マルグリット・デュラスの本など読みもしないし、デュラスの名さえ知らないにきまっている。
それでも夫婦は暮らしていける。だがこの倦怠《けんたい》。美也子は本の頁《ページ》の間にはさんでおいた雑誌の切りぬきを、こっそりと眺める。
『ティオペペのシェリーを傾けながら、デュラスについて語りあうことに興味のある女性に連絡を乞う。当方多少の遊び人ながら知的労働者』そして郵便局の私書箱のナンバー。最後に『デュラスの男気付』とある。
求む交際欄の中では出色のコピーで、美也子の想像力はいやが上にもかきたてられたのだった。別に交際欄の積極的読者ではなかった。パラパラと雑誌をめくっていた時、ティオペペという単語がいきなり眼に飛びこんできたのだ。そして『シェリー』『デュラス』『遊び人』『知的労働者』といった言葉が次々と。
何かが美也子の胸をしめつけた。もしかして。もしかして、きっかけぐらいにはならないだろうか? 何の? この果てしない幸福の倦怠から抜けだすための。シェリーを飲みながら見知らぬ男とデュラスの本について語りあったって、別に夫を裏切ることにはならないだろう。
美也子は私書箱の『デュラスの男』に簡単な手紙を書き、返事をやはり私書箱の『愛人《ラマン》』あてにくれるようにしたためた。|デュラスの男《ヽヽヽヽヽヽ》からほどなく|ラマン《ヽヽヽ》宛の返事が来て、二人は逢《あ》うことになったのである。それが今度の金曜日の夜七時。夫の晋介には大阪から親友が出て来たので夕食を一緒に食べるのだと言ってある。
美也子は夫を眺めた。くたくたになったパジャマ姿で、お顔のお掃除コースの最終段階、歯せせりに入っている。|デュラスの男《ヽヽヽヽヽヽ》の爪《つめ》のアカでも煎《せん》じて飲ませてやりたいくらいだ。そして最後に再び大《おお》欠伸《あくび》。パチンとテレビを消して晋介が言う。
「子供たち、寝たかな」
つまり月三回の|あれ《ヽヽ》のうち、今夜一回分をいたしたいという別の言い方。美也子の中で声のない遠吠《とおぼ》えが湧き上がる。
が、結局彼女はそれから何分か後に、夫の腕の中にいる。躰《からだ》が震えるほど興奮もしないがまた死ぬほど嫌だというわけではない。友だちの中には、夫とのセックスが結婚生活の中で最も耐えがたい習慣となってしまった、という女もいるが、美也子はまだありがたいことにそこまでいっていない。テレビを観ながら鼻くそをほじっている男とのセックスが耐え難くないなんて、もしかしたらその方が哀《かな》しむべきことなのかもしれないのに。いつもと全く同じ手順で|コト《ヽヽ》が行われ、彼女の中でいつもと同じ三十四回腰を動かし、いつもと同じ溜《た》め息《いき》のような、あるいはわずかに悲鳴のように聞こえなくもないエクスタシーの声を短くもらすと、自分のベッドへ移り、一分もしないうちに寝息をたて始めるのだ。
夫が自分のベッドに移った拍子に、枕《まくら》の下から本が一冊滑り落ちた。晋介はそれに気づかずふとんを顎《あご》の下まで引き上げると、おやすみと呟《つぶや》いて、語尾の終わりの方はもう半分まどろみかかっている感じ。
もしも|デュラスの男《ヽヽヽヽヽヽ》だったら、と美也子は思わず想像をかきたてられながら夫の本を拾い上げた。彼はどんなふうにベッドの中で女を愛するのだろうか? |遊び人のデュラスの男《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、どんなふうに私をエクスタシーに導いてくれるのかしら? 指や口や歯を巧みに使うのだろうか?
ふうと溜め息をつき、夫の本を傍のサイドテーブルに置こうとした時、何かが本の間から滑り落ちた。
『デュラスの男へ。ラマンの女より』
見覚えのある自分の文字だった。ぎょっとして本のカバーを開くとマルグリット・デュラスの名が見えた。美也子はしばらく呆然《ぼうぜん》として本を眺め、寝息をたてている夫の寝顔をみつめた。
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ワイングラス
春というよりは初夏めいて。
ふと遠出してみようと思いたっての京都の週末。一人旅。
切り取ってあったグラビアと首っぴきで、女一人でも安心な店というのを二、三軒、ハシゴしてホテルへ戻って来たのであった。
時刻は十時。そのままベッドにもぐりこむというのも妙齢の女としては色気のない話。由布子はホテルのバーへと立ち寄った。
外国人の観光客とおぼしき男女が数人、ひっそりと飲んでいる他は、あまり客はいない。
別にアヴァンチュールを求めての旅ではない。事実三週間後には二年越しのフィアンセと結婚式を挙げることになっている。
それまでずっと勤めてきた会社も、つい一週間前に、結婚を理由に退職したばかりである。ある意味で現在ほど、女に生まれてきた幸せを噛《か》みしめたことは、かつてなかった。
結婚準備のための四週間は、あわただしくも、浮きたつような晴れがましさの中で、過ぎていくみたいだった。
幸福だから、一人旅がしたくなったのだ。男たちが独身最後の夜、悪友連中と飲み明かすように、由布子は一泊だけの旅に出たのだ。ふらりと。
「何になさいます?」
とバーテンダーがカウンターの中から訊《き》いた。
「ブランディーを頂くわ」
と由布子は答えた。それから、
「ヘネシーのVSOPを」
とつけ足した。それくらいの贅沢《ぜいたく》を自分に許しても良いと思った。
中年の二人連れが、いかにも物欲しげに由布子を見ている。二人ともケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースを少し若くしたような様子をしている。由布子は、フライドチキンにもサンダースおじさんタイプにも興味がないので、ホテルルームから持って降りて来た絵葉書を取りだした。よくあるホテルそなえつけの絵葉書だ。一枚はホテルの夜景。もう一枚は嵐山《あらしやま》を背景にした遠景。
女が旅先で、一人食事をしたり、飲んだりする時、格好つける意味と、男よけをかねる小道具がいくつか存在する。文庫本を開《ひろ》げるとか、カセットのイヤフォーンを耳に突っこんでおくとか。別に文庫本は読まなくてもいいし、カセットから音楽が流れていなくてもいい。要は女一人|淋《さび》し気に無聊《ぶりよう》をかこっているように見えなければ良いわけだ。
絵葉書も、その一つ。由布子はケンタッキーのおじさんたちの誘惑を回避するためにペンを取りだしたのである。
彼女は三週間後に挙式することになっている婚約者にあてて書きだした。
――今、どういうわけか京都です。お寺をひとつだけみて、新橋《しんばし》の川辺を歩いて、アンティークのお店を覗《のぞ》いて、そこでブリストルのワイングラスを二つみつけたわ。私たちの記念に買って帰ります。怖いみたいに幸せです。旅に出てそれがわかりました。明日帰ります。ユウコ――。
考えてみると絵葉書より自分の方が先に東京に着いてしまうのだが……。ブランディーを口に含み、由布子はもう一枚の絵葉書を眺めた。
ホテルの夜景が、一週間前のある情景を彼女に思い出させた。会社を辞めることになった由布子のために、同僚が小さな夕食の会を開いてくれたのだ。七人ほどの男女が出席した。二次会で四人になり、それも終わると由布子は西崎良二と二人になっていた。
別にそうしめしあわせたわけではなかった。気がつくと西崎が側《そば》にいた、という感じだった。普段お互いにどうという間柄ではなかった。嫌いではなかったが、特別に好きでしょうがないという相手でもない。
「もう一杯飲もう」
と西崎が由布子を誘った。すでにかなり二人とも酔っていた。
「もうこれっきりなんだからさ」
「そうね」
と、由布子は同意した。ほんとうにもうこれっきり一生|逢《あ》わない男かもしれなかった。
次のバーで、西崎が言った。
「今夜、きみを抱きたい」
冗談じゃない、と由布子は思った。
「もうこれっきりなんだからさ」
とまた、西崎が言った。
なぜだかわからないが、ふっと由布子の心が揺れた。西崎の存在そのものではなく、彼女自身の中で何かがざわめいていた。六年勤めた会社を辞め、キャリアに見切りをつけたばかりだった。それから婚約者との近づいた結婚のことを思った。期待と幸福感で胸が深く満たされた。
淋《さび》しくて幸せだった。淋しいから、余計に幸せが濃く感じられた。何かに終わりを告げ、別の何かが始まろうとする時間の谷間で、由布子の心が、ほんの一瞬揺れたのだった。お酒のせいで躰《からだ》がとても温かくなっていた。
「いいわ」
と由布子は答えた。
ああいうことを魔が射したとでもいうのだろうか、と京都のホテルの薄暗いバーカウンターで由布子は考えていた。あるいは酔いのせい……。
そうじゃないわ。あの時私ははっきり欲望を意識していたわ。淋しかったから欲望したのだ。そして同時に、満たされてとても幸福だったから欲望したのだ。そのことを西崎に伝えたいと思った。二枚目の絵葉書は、彼に出そう。
――今京都です、と彼女はいきなり書きだした。
――あの夜のことを忘れようとしての旅というわけではありません。事実今の今まで忘れていましたもの。でも後悔していないわ。むしろ素敵だったと思っています。全然知らない人から一抱えもあるバラの花束をもらったような、そんな気持ち。びっくりしたけれども、でもうれしかった。それだけ言いたくて書いています。もうこれっきりですものね。ユウコ――。
由布子は文面を読み返して、ブランディーを飲み干した。それから腰を上げるとバーから出た。サンダースおじさんたちの視線が腰から、ふともも、ふくらはぎへと這《は》いまわるのが、痛いほど感じられた。
ホテルのフロントでアドレス帳を取りだして、それぞれに住所を書いた。ふと思い直して西崎の絵葉書は会社宛なので、ホテルの封筒に入れることにした。切手を買いポストに投函した。
数日後に、西崎から電話があった。
「絵葉書ありがとう」
と彼が口ごもった。
「もしかして、誤解しているのかもしれないけどさ、例の夜のこと」
「あら……」
やっぱり絵葉書など出さなければ良かったのかしら、と由布子は思った。
「せっかくワイングラス買って来たのに悪いけど、あれはあの時だけのことって……」
「ワイングラス?」
「実は僕も近々結婚するんでね。あれっきりってことにしてもらえないかな」
由布子は青ざめて電話を取り落とした。絵葉書をまちがえて、投函してしまったのだ。そういえば、婚約者からはうんともすんとも言って来ない。
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「妻と別れて」
「木村さんお電話」
ミズ松井が受話器をこっちへ差しだして言った。おがつくのは女からの電話だということの言外の嫌み。しかも彼女の地声は大きいときているから、事務所中に女からの電話だと知れてしまう。
初めて夕食に誘った時、割り勘にしたのを未だに根にもっているのだ。それももう二年も前の話なのだ。三十を過ぎると女は執念深くなるから困る。
「あ、もしもし木村ですが」
できるだけビジネスライクにそう言う。
「わ・た・し」
いきなりこういう電話。ウイークデーの午前十時。仕事が回転しばなのこういう電話は、まことに困るのである。
「あ、どちらの?」
ミズ松井の眼と耳とをごまかすのは至難の技なのである。
「わたしよ、加世子」
「それはわかりましたですが、どの方面の?」
ミズ松井がチラリと眼を上げ、木村と視線が合うとニヤリと笑った。
「井《い》の頭《かしら》の。嫌ねえ、とぼけて」
「そのようなことはありません。で、ご要件はどのようなことで?」
聞いちゃいられないわ、と捨て科白《ぜりふ》を残して、ミズ松井が席を立っていく。ほっとして木村が送話器の中へ早口に言った。
「困るよ、こんな時間。常識を働かせてくれなくちゃ。それで何の用? 悪いけど忙しいんだ。早く言ってよ」
「まあ、そんな風に言われるんじゃ、考えこんじゃうわ」
相手の声に失望が滲《にじ》んだ。しかし電話口で考えこまれてもなんだから木村は言った。
「ところで、あなた、どなた?」
「だから加世子。まだとぼけてるの? 先週|逢《あ》ったばかりじゃないの」
「加世子って他に二人もいるからね、偶然。ハハハハ」
「山田加世子よ。六年二組の」
「あッ」
木村は少し思いだした。先週の土曜日夕方から小学校のクラス会に出席したのだ。
「あの時の加世子さん」
しかし顔は思いだせない。
「それでご要件は?」
「あなたの言ったこと、よおく考えたんだけど、ようやく決心しました」
「ボクが何か言いましたか?」
背筋をひやりとさせながら、木村は声をひそめた。何人かが営業に出て行って空席が出始めている。しかしミズ松井がそろそろ戻ってくるはずだ。
「私と結婚するって言ったじゃない」
「そんなこと、言わない。言いませんよ」
思わず大きな声が出た。
「言うわけがないよ。なぜならばボクはすでに結婚しているんだ。重婚罪になっちまうよ」
「だから、あなたこう言ったのよ。妻とは別れて、きみと一緒になるって。そうはっきり言ったのよ。証人だっているんだから」
相手の声がヒステリカルになっている。
「わかった。電話じゃなんだから、今夜|逢《あ》おう」
場所と時間を指定して電話を切ると木村は額の汗を拭《ぬぐ》った。
山田加世子は女を一人ともなって現れた。
「証人のケイコよ。覚えてる?」
同級生にたしかケイコちゃんという女の子がいたけど、眼許《めもと》の涼しい可愛《かわい》い子だった。中年のおばはんじゃ絶対になかった。加世子という女はもっと記憶が薄かった。
おそらく三次会か四次会で泥酔していたのであろう。
「あなた、私たちの前でこう言ったの。|加世ちゃんにはずっと惚れてた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|一時も忘れたことがない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。だから一緒になろう。|ボクは妻と別れてきみと結婚する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。確かそんなことを言ったのよ、ね? ケイコ?」
「その通りよ。印鑑でもなんでも押すわ」
「し、しかし、きみだって困るだろう、そ、そんなことは」
木村はしどろもどろ。
「ちっとも。わたし二年前に離婚してるから」
「な、なるほど」
助けを求めるような眼で、店内を見渡したが、むろん助けてくれる人などいるわけもない。
「酒の上のたわごとですよ」
と呟《つぶや》いたが、たちまち女たちの反論にあってしまった。
「あの時はすごく酔っていたようにも見えなかったわ。眼なんか真剣だったし、わたしが断ったら自殺するみたいなこと、言ったわよ」
「そんなことは断じてない」
周囲の人々がふりむく程の声で木村は否定した。
「確かにボクはきみたちが言う通りのことを言っただろう。そのことは否定しないよ」
女たちがフムフムと身を乗り出して来た。男ってのはたいていこんなふうにして女と結婚しちまうもんだろうな、と木村はふと考えたりした。追いつめられて、罠《わな》にはめられて。女房がいて本当によかった。
「しかし、本気じゃない」
女たちが何か言おうといっせいに口を開きかけた。
「ちょっと待って。ボクの言い分をまず聞いてもらいたい。もしもだよ、ボクが本気でそう言うとしたら、こう言うと思うんだ。|カミさんと別れて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|きみと一緒になるよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》って」
「へぇ。同じじゃないの。どこが違うの?」
女たちは狐《きつね》につままれたような表情をした。
「|妻と別れて《ヽヽヽヽヽ》と、|カミさんと別れて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とは、全然違うよ。真意度が違うんだ」
女たちはますます狐顔。ぽかんとしている。
「妻と別れて、と言った場合は、ジョークなんだよ。男のジョーク」
「そんなの女には通用しないわよねえ。女を口説《くど》いたんだから、ちゃんと女に通用する言葉で言ってもらいたいわ」
「その点だけはうっかりしていた。ボクも反省する。ゴメンナサイ」
木村はペコリと頭を下げた。
「ゴメンナサイじゃ済まないわね」
ケイコが腕組みをした。
「責任取ってもらわなくちゃ」
「うん、とるよ。|カミさんと別れる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》以外なら、何でもするよ」
「女心を傷つけたんだから」
と加世子は木村をにらんだ。
「頼むよ。カンニンしてくれ。そうだ、さしあたっては寿しでも食おう。ガンガンご馳走《ちそう》するからさ」
場所を寿し屋に移し、食うほどに飲むほどに、空気がほどけてきた。
「わかったわ。今度だけは許したげる。私も勉強になったことだし」
「うれしいねえ、女っぷりがいいねえ」
と酒の勢いで木村が上機嫌で言った。
「惚《ほ》れぼれするよね、ボクさ、妻と別れてきみと結婚しちゃおうかな?」
パシンと割りバシで額を打たれた。
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ロールスロイス
サーキットの広大な駐車場に、イサムはバイクを乗り入れると、駐車スペースを眼で探した。
千台近い車がすでに入っているのだろうか。ほとんど満杯の状態だった。わずかばかりのスペースを探しながらバイクを流していると、象牙《ぞうげ》色に輝くロールスロイスが眼についた。幸運なことに、横に程良いスペースがみつかった。
イサムはバイクを駐車させ、キイを抜きとると、ほっとして煙草《たばこ》を取りだした。駐車中のロールスの扉が開き、男が車外に降りたった。
一見何者ともわからぬ風体《ふうてい》。年齢不詳。着ているものはきわめて上等だ。小指にダイヤ入りの指輪。
イサムは男と男のロールスから顔を背《そむ》けて、ポケットからライターを取りだした。男は車の中にまだ残っているらしい人間に――多分女なのだろう――小声で話しかけている。
イサムのライターはジッポーだ。もう何年も使っている。ずっしりと重く、薄物を着る時には入れ場所に不便をするが、ジッポーの使い味を知ったら、他のライターなど玩具《おもちや》みたいで使えない。
駐車場には風があった。左手のサーキットの方から吹いて来る柔らかい初夏の風だ。サーキットのスタンドは、レース見物の客たちで八分の入りだ。まだまだ見物人の人数は増えそうである。
風なんぞで驚くジッポーではない。カチリとイサムは火をつけ、煙草の先に近づけた。
「ちょっと失礼」
とロールスの男が言った。
「火を拝借できるかね」
イサムはうなずいて、カチリとつけた。ぽっと上がる長い炎。
「いいライターだね。特に風の中では一番だ」
男が英国製らしい楕円《だえん》形の切り口の煙草から煙を喫《す》いこみながら言った。
「どんな風の中だって、一発でつきますよ」
イサムは少し得意気な気分になって答えた。
「必ずかね?」
と男が尋ねた。
「百発百中」
自信タップリにイサムが答えた。
「賭《か》けるかい」
イサムはチラと男を眺めた。
「いいですよ」
その時彼の脳裡を、ある短編小説のシーンが掠《かす》めた。ライターで賭けをやる話だ。確か作家はロアルド・ダールだった。
「だけど何を賭けます?」
「何でもいいさ」
と男は無造作に言った。
「よかったらロールスを賭けてもいい」
イサムはぎょっとして男を凝視した。ますますロアルド・ダールの小説に似てくる。確か、そうだ、「南から来た男」という短編だ。
「で、僕は何を賭ければいいんです。まさか指を一本賭けろっていうんじゃないでしょうね」
ダールの小説ではそうだった。
「百発百中なんだろう? 自信があるならかまわんじゃないか」
男の眼が冷たく光ったように、イサムには見えた。
「おたく本気? 本気でロールス賭けるっていうの?」
「なんなら一筆書くよ」
男は胸ポケットからモンブランを取りだして、名刺の片隅に、何事か書いて、イサムの手に滑りこませた。それをチラと読んでイサムは、世の中、小説みたいなことが起こるもんだ、と呆然《ぼうぜん》とした。
「オーケイ」
イサムは一言強く承諾した。
「やりましょう」
ロールス対指一本だ。ジッポーの威力はすでに証明ずみだ。
この八年間、ただの一度も着火しなかったことはなかった。
「十回続けて着火したら、ロールスはきみの物だよ」
と男は落ち着いて言った。チョロイもんだとイサムは内心ホクソ笑んだ。すでにロールスロイスを手に入れたようなもんじゃないか。
万が一にも失敗したとて――そんなことはありえないが仮定の話だ――失うのは小指一本。
ロアルド・ダールの小説を正に地で行く話。イサムがジッポーをかまえた。
カチッ。着火。カチ、カチ、カチッ、全て順調。これで四回だ。チラと男の顔を見る。無表情。いい度胸をしているぜ、とイサムは胸の中で呟《つぶや》いた。それにしても酔狂な男だ。
カチッ。五回目、着火。長い炎が風で真横に倒れる。しかしこれしきの風なんぞ。六回目、親指がちょっと滑りかける。が無事着火。一瞬ヒヤリとした。
少し慎重にやらなくては、と七回目をかまえる。奇妙なことに、ここまでは手に入るかもしれないロールスロイスのことだけを考えていたが、この段階からイサムの胸に浮かぶ思いは、失うかもしれない小指のことの方なのだ。畜生。カチッ。七回目も着火。
カチッ。八回目、いったん点って炎が揺れる。ヒヤッと冷たい汗が背骨に添って滑り落ちた。どうしてしまったのだ、やけに指が固くなっているぞ。
九回目をつけるのに、勇気がいる。彼はすがりつくようにロールスの中を眺めやった。ロアルド・ダールの小説ではこのあたりで男の女房が姿を現すのだ。
ばかなまねはお止めなさい、と止めるのだ。どうしたんだ、女は? なぜ車の中から出て来ない?
カチッ。生ツバを飲む一瞬。つかないのではと思ったくらいだ。辛うじて着火。命が縮む。喉《のど》がカラカラだ。女はどうして出て来ないのだろうか?
男は九回目のライターの火に、新しい煙草の先を近づける。
無言のまま、深々と煙を吐く。
と、その時ロールスの中から、すごいような美人が姿を現す。年の頃は三十前後。ほっそりとしているのに、重たげな乳房の感じ。ものうげに、二人を眺める。
「賭《か》けをしているんだよ」
と男が言う。
「指をかけてるんですよ」
イサムが悲鳴のように聞こえなくもない声で、女に訴えた。正に訴えた。止めてくれ。中止しろと言ってくれ、小説ではそうだったじゃないか。
小説では男の妻がやって来て止めるのだ。あらあなた、またなの? 悪いくせが始まったのね。そして男の妻が言うのだ。いけませんよ、お止めなさいな。妻はライターの男に説明する。ほら、ごらんなさい、この人の指。見ると男の手の指が二、三本切断されて、ないのだ。男は狂ったギャンブラーで、車も賭けで手に入れたものなのだ。それが結末。賭けは中止だ。
が、今、ロールスから出て来た女は肩をすくめて呟《つぶや》くのだ。
「また悪い病気が始まったのね」
イサムは男の手を思わず見る。五本の指が両方ともそろっている。彼は自分がこの勝負に負けたことを感じる。
「さあ」
と男がうながすようにイサムを見る。女の視線もイサムの手元に注がれる。
イサムはライターをかまえる。十回目。最後の一発だ。ロールスか指か。
カチッ。あッ……。
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悪 友
「俺さ、色々あったけどさ」
とバーの止まり木で福田太郎がぽつりといった。
「カミさん、もらおうと思うんだ」
「ついにおまえも年貢を納めるってわけか」
悪友鈴木翔がニヤリと笑った。
「で、相手は誰?」
翔は誰が見たって二枚目で、男の福田の目にも惚《ほ》れぼれするようないい男だった。
もっとも手放しで惚れているわけでもない。胸の奥深くで、やっかみもある。同じ男に生まれるなら翔のような男に生まれれば人生、二倍三倍と楽しくかつ色濃く生きられるだろうと、翔を見る自分の目つきが羨望《せんぼう》の目になっていくのを、いなめない。
その上仕事が出来、エリートで毛並みも良く、夜の遊び人ときている。
「それがあまり若くないんだ」
と福田。
「幾つ?」
「三十三」
「贅沢《ぜいたく》いえないね。おまえ自分の年考えろ」
福田太郎は三十四歳。鈴木翔も同じ年。が、年は同じでも翔の方は好きで独身を通している。福田は嫌でも相手がいなかった。
「美人か」
「意外なことに、それが美人なんだ」
「そうか」
と翔がグラスの中身に視線を落とした。
「しかし嫁さんは顔じゃないからな」
「そりゃそうさ。だけど、どうせなら美人の方がいいよな」
「どうせならな」
翔はグラスを振って軽く氷の音をさせると、バーテンにおかわりを命じた。
「何している女?」
「仕事か? 今はちょっと訳があって休職中だけど、いずれは仕事は続けるつもりらしい」
「キャリア・ウーマンか」
「そんなところ」
「おまえはどうなんだ?」
「何が? カミさんが働くってことか? 別にいいんじゃないの? 俺だってだてに長いこと独身してたわけじゃないからさ、あんまりカユイところに手が届くようにめんどうみてもらうってのは性に合わんしな」
「だったら無理に女と一緒になることもないだろうに」
翔はダンヒルの煙草《たばこ》に火をつけた。
「おまえと同じに考えてもらっちゃ困るぜ。セックス・フレンドが十人もいるんなら、俺だって何もこの際一人にしぼることはないさ」
「もうそんなにカッカする年でもないだろう」
「十人もセックス・フレンドがいれば、カッカもしないだろうさ」
「セックス・フレンドはもういいよ。ところでそのミズ・キャリア・ウーマンは何している女?」
「ファッション雑誌編集者」
福田は自分のマイルドセブンにマッチで火をつけて答えた。
「雑誌の名は?」
「どうして? 誰か思い当たる女でもいるのか?」
「別にどうってこたあないけどね」
と翔は煙を吐きだしながら答えた。
「雑誌方面には顔が広いからさ、もしかしたら名前くらいは知ってる女かもしれないと思ったのさ」
「雑誌にかぎらずおまえは顔が広いよ」
と福田はいった。嫌みに響かないでもない口調だった。それからさりげなく雑誌の名を告げた。
「ついでに、彼女の名前は山口圭子っていうんだ」
一呼吸おいて福田が続けた。
「心当たりは?」
「ないね」
と即座に翔が答えた。
「なぜ訊《き》く?」
「他意はないよ」
男たちはそこで黙りこむ。
「休職してたといったな」
とやがて翔。
「誰が?」
「だから、その何とかいうおまえのカミさん候補」
「彼女か。ああいったよ。それがどうかしたか?」
「別にどうもせんさ。俺のカミさんになるわけじゃないんだし」
と翔は苦笑を滲《にじ》ませた。
「なんでまた休職を?」
「気になるか?」
「いちいちおまえからむな。ただ訊いてみただけさ。友人じゃないか。おまえと俺は。友人のカミさんになる女のことが全然気にならないといったら、そいつは嘘《うそ》だぜ」
「そんなもんかね」
福田は短くなった煙草をひねりつぶして呟《つぶや》いた。
「病気してたんだよ」
とぽつりと福田。
「誰が?」
「だから山口圭子」
「…………」
「病気といっても体の方じゃないんだ。精神状態がおかしくなってさ」
「そんな女とおまえ一緒になっていいのか?」
「そんな女に誰がしたんだ?」
「え?」
「ひとりごとさ。というわけで、彼女精神科の医者のところで何か月かセラピー受けていてさ、それでようやく立ち直りかけているところだ」
「立ち直りそうか?」
「惚《ほ》れてたからな、相当」
「なんのことだ?」
「だから前の男にさ」
「おまえにそういったのか?」
「惚れて惚れぬいて、あっというまに十年だとさ。あげくに捨てられた」
「男だけが悪者か?」
「自己弁護するな、今更」
再び先刻《さつき》より長い沈黙が訪れる。どちらも口をきかない。氷が溶けてグラスの中で軽やかな音をたてる。
「おまえにもらってくれと頼んだ覚えはないぞ」
翔が苦しそうに呟《つぶや》いた。
「俺も頼まれた覚えはないよ」
「惚れてるのか、彼女に?」
「惚れてる」
「同情じゃないな?」
「同情もしている」
「だったら止めとけ。同情だけで結婚するな」
「よくそんなことがいえるよな」
「おまえのためだけでいってるんじゃないよ。山口圭子のためでもあるさ。冷静になれよ」
「充分に冷静だよ。考えての末のことだ」
「だが、おまえの知らんこともある」
「そりゃあるだろうさ」
と福田はグラスを揺すった。
「大体、あんないい女が、どうして俺みたいな男と結婚する気になったかだって、いってみりゃな」
「その先はいうな」
と翔がさえぎった。
福田はかまわず続けた。
「いってみりゃ、俺って男がおまえの親友だからなのさ。俺を通して、それでもどうにかおまえにつながっていたいって女心からさ」
「それを知っていて、それでもいいのか?」
と翔が念を押した。
「ああ、それでもいい」
福田は呟《つぶや》いた。
「ばかだよ、おまえは」
翔はそういって、二人のグラスにボトルからウイスキーを注ぎ入れた。
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パーソン ツゥー パーソン コール
小宮山はこのところ面白くない。妻の公子が海外を旅行中なのだ。
「あたし、行くわよ」
といきなり言った。行ってもいい? でもなければ、一緒にどうかと伺いもたてず、さっさと飛行機とホテルの手配をしてしまった後での、事後承諾。というよりは、事後宣言なのだった。
「一人で行くわけじゃないんだろう」
と憮然《ぶぜん》として言ったら、ちとばかり早すぎるタイミングで、
「ばかねえ、男と二人で行くとでも思ってるの?」
と、こちらが全然思ってもみなかったことを口にして、わずかに陽気すぎる声で笑ってみせたのだった。
その陽気すぎる笑い方と、ちとばかり早すぎる反応のしかたとが、逆に小宮山の胸に疑惑を灯《とも》した。すると妻は夫の胸の内を読んだかのように、
「女同士の旅よ」
とすかさずつけ足した。
「女子大の時のクラスメート四人で行くのよ」
話を聞いてみれば、まるきり嘘《うそ》というわけでもなさそうだ。三年間、毎月少しずつ積み立てた費用が適当な額になったので、四泊五日のバリ島の旅ということになったのだという。
「それにしてもみんな亭主や子持ちの女だろうが」
と小宮山はまだ釈然としない声で言った。
「よくも亭主連中が許すよな」
「あのねえ、あなた」
と公子は噛《か》んで含めるような言い方をした。
「毎月海外旅行に出かけて行くってわけじゃないでしょ。年に一回でもないのよ。三年目にやっと実現よ。次はいつ行けるかわからない。もう一生だめかもしれない。亭主が許すも許さないもないものだわ」
ひどく憤慨した口調であった。
「それにみんな働いている女たちなのよ。何も亭主のお金を使って旅行しようっていうわけじゃないんだから」
と鼻息も相当荒かった。
子供でもいれば、小宮山はもう少し難くせをつけられたのだが、あいにく夫婦にはまだ子供がいない。そんなわけで、今週一杯、彼は一人暮らしの外食を強いられているというわけである。
公子はフリーのライターだ。従って定収入というわけではないが、そのかわり時間の方はかなり自由だ。一日中家にいて夕方から出かけて行くこともあれば、夜、自室で原稿をまとめていることもある。外へ出て行き、作家だとかタレントだとか、有名無名の人間に逢《あ》ってインタビューをとりつけることが仕事なのだ。
妻がバリ島へ発った翌日、前夜の飲み過ぎがたたって、つい寝ぼうをしてしまった。眼を覚ますと十時半を回っている。
目覚ましはかけておいたのだが、無意識に止めてしまったらしい。いつもは妻が起こしてくれるので、ついその習慣で油断してしまったのだ。
飛び起きて、まず社に遅れると電話を入れた。それからバファリンを二錠のみ下しておいて、歯を磨いた。ちょうど口をゆすいでいる時に、リヴィングの電話が鳴った。
奇妙なことに二つだけ呼び出しが鳴って、いったん切れ、十秒もしないうちにまた鳴りだした。
この時間には普段小宮山はいないわけだから、妻への電話だ。二つ鳴ってぷっつりと切れ、すぐにまた鳴りだすとは、何かの合図みたいだな、と、彼はズキズキ痛む頭の片隅でなんとなく考えた。その時は特に深い意味はなかった。受話器を外して耳にあてた。
小宮山が、もしもしと言いかけたとたん、相手が先に言った。
「あ、もしもし、ぼくだ」
はっとして小宮山は声を呑《の》みこんだ。
「もしもし……? 公子さん。もしもし?」
急に相手が用心して黙りこんだ。それから不意にプツリと電話が切れた。小宮山の心臓が泡立った。いきなり、|ぼくだ《ヽヽヽ》とかけてくる男の存在を考えた。それに二つ鳴って切れ、すぐにまた鳴った電話のこと。あれはやはり合図なのだ。今から|ぼく《ヽヽ》がかけるぞ、という。
妻が自分を裏切っている、という動かぬ証拠だ。普通、単なる仕事のつきあいの男は、いきなり他人の女房にむかって|ぼくだ《ヽヽヽ》とは言わない。
たった一度の電話で、妻の不倫の尻尾《しつぽ》をつかんだ。小宮山は一瞬勝ちほこったような気持ちになった。けれども勝ちほこるようなことではないと、すぐに気持ちが深閑と冷えた。それから二日ほどが悶々《もんもん》と過ぎたのだった。疑惑は疑惑を呼び、思い浮かべる妻の行動の全てが怪しいといえば怪し気なのだった。面白くなかった。
上野義一をつかまえようとこの二日会社に電話をしたが、いつも留守だった。ことづけたのに、上野は何も言ってこない。
退社まぎわに念のためにもう一度彼の社に電話を入れると、今度はつかまった。
「おまえの社の女の子は、だめだぞ。伝言をしないのか?」
といきなり親友に咬《か》みついた。
「悪い悪い。女の子のせいじゃない。そう怒るな」
いつもの寛《くつろ》いだ声で上野がなだめた。
「何をそうかっかしている?」
「今夜暇か?」
「まあね」
「よし飲もう」
「荒れてるな? 夫婦|喧嘩《げんか》か?」
「カミさんはバリ島へ行って留守だ」
「へぇ! それは豪勢だな」
「おかげでこっちはずっと外食だ」
「そうか」
と上野は考える風に言葉を切った。
「よかったら、俺のうちで飲まないか? お袋の手料理だけどさ」
「おまえのお袋さんには、学生の頃ずいぶんご馳走《ちそう》してもらったっけな」
上野はまだ独身なのだ。
「久しぶりで、お袋さんの顔でも拝むか」
そんなわけで、午後の八時過ぎには、上野の家で飲んでいた。十時になると大分アルコールが回っていた。
「ピッチが早いな」
と上野がわずかに眉《まゆ》を寄せた。
「面白くないんでね」
と小宮山。
「女なんて、これっぽっちも信用ならん動物だぞ」
「そうかね」
「そうだとも。だからな、上野、おまえ女と結婚するんじゃないぞ。いいか? わかったな」
とロレツが回らない。
「しかし男と結婚するわけにもいかんからね」
「あいつさ」
とついに小宮山はこらえ切れず言った。
「浮気してるのよ、うちの奴《やつ》」
上野の表情が変わった。
「で、相手は?」
「そいつはまだわからん」
と小宮山は、うめいた。奥の方で電話が鳴っていた。上野のお袋さんが出た。
「いますけど……。え? パーソン ツゥー パーソン? はいはい、少々お待ちになって」
受話器を置いて上野のお袋さんが顔を覗《のぞ》かせる。
「義一。あんたにバリ島から電話。パーソン ツゥー パーソンだってさ」
上野の視線が宙をさまよった。
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結婚の理由
残業を終えて眼を上げると、ビル街はネオンの洪水《こうずい》だ。
「よお、がんばってるな」
と、同じように仕事を終えて煙草《たばこ》に火をつけながら同僚の北方が言った。
「しかし無理するなよ。新婚の嫁さんがツノだすぞ」
北方は、必要以上にさりげなさを装いすぎる、と五郎は感じた。気を使っているのだ。
「仕事で帰りが遅くなるくらいで、かっかと来るような女じゃないよ」
五郎は机の上を整理しながらそう言った。北方は賢明にも相槌《あいづち》を打たずに、くわえ煙草のまま口の中で何やらあいまいな返事をしただけだった。
彼とは、いってみれば仕事上の相棒というより、女遊びの共犯だった。共に三十を幾つか越すまで独身で、共犯でありながらライヴァルのようなものだった。女の数や質で相手をリードしようと、それぞれひそかに闘志を燃やしていたのだった。
独身を通すつもりはないが、別に何の不自由もなく面白おかしくやれるうちは、一人暮らしは楽しかれこそすれ、少しも苦にならないのだった。
それに時世が時世で、結婚を前提としないつきあいを肯定する女がわんさと増え、一夜限りの情事をケロリとしてこなす若い女にも不自由しない。飢えた性をひきずった人妻までが先を争って不倫のなんとかに励んでいる。
そんなわけで北方も五郎も常時セックス・フレンドが五人や六人はいたのである。しかもヴァラエティーに富んでいた。五郎の例でいえば、二十代後半のコピーライターの女。十九歳の女子大生。三十六歳の人妻。その三人がレギュラーのセックス・パートナーで、あとはその時の気分や情況に応じて色々といったところ。
OLもいたし、新婚早々の若妻というのもいた。北方にはほんとうの年を教えなかったが四十八歳の女とも一夜を共にしたことがある。フランスの女優のアヌーク・エーメにちょっと似た感じの年増《としま》で、なかなか魅力と風情《ふぜい》があった。出来ることならまた逢《あ》いたいが、連絡は先方からするといって電話番号を教えてくれなかった。一年以上前の話で、それ以来、アヌーク・エーメからの連絡はない。
いずれにしろ現代は結構な時代である。エイズ騒ぎでかなりブレーキがきいたが(そしてもしかしたら、それが五郎の潜在意識のどこかにひっかかっていて、唐突なる結婚へと進んだのかもしれないのだが)、結構な時代であることには変わりない。とりわけ三十を幾つも過ぎて、ほどほどの月給を取っている都会の独身男にとっては。
一見世なれた遊び人ふうで、女には優しく、一流企業の人間で独身だといえば、とにかく驚くほどもてるのだ。しかも北方も五郎も、女好きのする風体《ふうてい》と容貌《ようぼう》である。もてない方が不思議だった。
しかし悲劇は突然やってくる。意外なことから、一気に人生がひっくりかえってしまうのだ。
「久しぶりに一杯やるか。つきあえよ」
と五郎は、くわえ煙草の北方に向かって言った。
「俺ならいつでもOKだ。なにしろ新婚のカミさんが首長くして待ってるわけじゃないからな」
「皮肉かい」
「いやいや。多少は羨《うらや》ましいんだ」
嘘《うそ》をつけ、と五郎は腹の中で呟《つぶや》いた。ユミコについて北方が最初なんて言ったか覚えている。
「ありゃだめだ。ぜんぜん美味《おい》しそうじゃないよ」
頭から問題外なのであった。女だけ三人連れでペチャクチャやっているのに眼をつけて、行動を開始しようかという直前の言葉である。
「あの色の白いのは、なかなかいい線いってるぞ。おまえどうだ?」
ということは北方は日焼けした田中裕子といった感じの残りの女に眼をつけたのだ。色白を五郎に押しつけようという魂胆だった。
魔が射したとしか言えないのだが、五郎は咄嗟《とつさ》に、
「俺はあの子の方がいいよ」
と北方が美味しそうじゃないと言ってのけた女を見ながらきっぱりと言った。押しつけられるのはごめんだった。
「案外あの手が淫乱《いんらん》なんだって」
そしてそれが五郎の独身生活の一巻の終わりとなる選択となったのである。
「なあ、俺今でも不思議でなんないんだけどさあ」
と、かなり酔いが回ったところで、ついに北方が本音を口にした。
「なんであの女をヨメさんになんてしたんだ?」
普通なら、たとえそれが事実でも、男としてはかっとくるものだ。しかし五郎はなぜかそこでかっとはしなかった。それよりも喉《のど》まで一杯につまっていた愚痴不満が、外へ出たくてせめぎあっているのを感じた。
「何もかもパンティーのせいなのさ」
と五郎が多少ロレツの回らない口調で言った。
「へぇ! パンティーねぇ」
北方が大袈裟《おおげさ》に片方の眉《まゆ》を上げた。
「そうなんだ。聞いてくれ」
いよいよ本番開始。事に及ぼうとする時だった。女がのろのろと服を脱ぎ始めた。
服の脱ぎ方を見れば、大体その女のことがわかるものだ。経験の有無、深さから、氏、育ち、性癖といったことまで知れる。
近頃の女の共通点は、潔《いさぎよ》いこと。それにとにかく裸になるまでのプロセスが早い。中にはGパンと一緒にパンティーストッキングとパンティーまでくるりと、脱ぎ棄てた若い女子大生もいた。
「それがさあ、妙に長々としてたんだよな、そのプロセスがさ」
と五郎はぼやいた。
「パッと脱いで足首にひっかけてポイと放りだすような女ばっかり見てきたもんだからさ。こっちは何をやって待ったらいいか、格好つかないんだよね。じっと見てるのも何だしさ、もう一度シャワー浴び直すのも変だし、ベッドの上で大の字になって待つのも白けるし」
ついに最後のものをスルリスルリと取り去った。
「そしたらさ、彼女そいつをていねいにていねいに畳み始めたんだよ。パンティー一枚畳むのにだよ、まるで一晩中かかりそうな気配でゆっくりていねいに畳むのさ。それを見ているうちに、俺もさ、なんとなく自分の脱ぎ棄てたものを拾い集めて畳まにゃならないみたいな、へんてこりんな気持ちになってさ」
それで彼女と並んでていねいにパンツを畳み始めたのだった。
「黙って手前ぇのパンツなんて畳んでいるのもバツ悪いからさ、何か言おうと思って、何言えばいいのかわからないものだから、つい『結婚しようか』」
「言ったのか? パンツ畳みながら?」
北方が眼を丸くした。
「事に及んでパンツなんて畳んでるとさ、なぜかそういう感じになるんだよな」
と五郎は杯を口に運び、深々と溜《た》め息《いき》をつくのだった。
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プラチナ
「ぼくたちの一年目のアニバーサリーを祝って」
と、和田はルイーズ・ポメリーのボトルから、シャンパンをグラスに注いだ。
ポメリーのしかも極上のシャンパンであった。口に含むと、シャープで粋な味わい。
「このシャンパンの味は、きみによく似ている」
と和田は乾杯の仕種《しぐさ》をくりかえしながら言った。
「華があって、どこか気まぐれで、大人の女……」
裕子は、さかんに泡立っている液体を眺めて微笑した。幸福だった。
白いリネンの張られたテーブルがあり、赤いキャンドルが燃えていて、銀器とクリスタルがきらめいていた。
本物のロシアの銀ねず色のキャビアが砕氷の上にディスプレーされ、フランス産の最高級のシャンパンがあった。
低くラフマニノフのピアノ曲が流れ、店内には他の客たちのひそやかな談笑の声がしていた。ウエーターはスノヴィッシュで、壁のミロは本物だった。そして裕子の前に坐《すわ》って彼女の眼の中を見つめている和田は、申し分のない紳士だった。
四十二歳で、洗練されていてダークスーツが似合った。彼といると、他の女たちの羨望《せんぼう》の眼《まな》ざしが、痛いほど裕子に突き刺さるのだ。落ち着いた優雅な物腰の反面、どこか年を喰《く》った少年といった面影もある。
「どうした? 溜《た》め息《いき》なんてついて」
和田が訊《き》いた。
「だってあまりにもラッキーだから」
と裕子は口ごもった。
「それは僕の科白《せりふ》だ」
彼女のグラスにシャンパンを注ぎ足しながら、そう彼は温かい声で言った。
彼の全てが好き。ほんの微かに濁りのある低い声も、髪にぽちぽち混じる白い毛の具合も、その寛《くつろ》いだ着こなしも、口元に刻まれた年輪のような深い皺《しわ》も。よく使いこんだなめし皮のような皮膚の感触も、ベッドの中でのことも。
ベッドの中で和田がいかに優しいか。そして同時にいかに荒々しいか。考えただけでも息苦しくなるのだった。裕子の眼のふちがぽっと桜色に染まった。
「きみと最初に結ばれた夜から、もう一年がたったんだね。楽しかった。あっという間に過ぎてしまったような気がする」
男と女とでは同じ一年でも過ぎ方が違うのだ。裕子の一年はただ面白おかしく過ぎたわけではなかった。愚痴を言うつもりはないが、そのことを言いたかった。
「お見合いの話を三つ振ったわ」
あてこするつもりはなかった。少し甘えてみたいだけだった。
「見合いしたら良かった」
和田は淡々と言った。
「わかってるわ。あなたが止めないことは知っていたわ」
でも躰《からだ》がそんなふうには欲しないのだ。気持ちではなく、あくまでも躰が。見合いの場所に躰を運ぶのさえ、おっくうなのだった。和田がいるから。彼で充実しているから。
「君の将来のことなんだ。その点では僕は手を貸すことはしたくても、できない。わかっていると思うが」
「一番最初にあなた、そう言ったわ」
僕は今でも女房を愛している、と彼ははっきりと言うのだ。女房を百パーセント愛している。けれども君のことも愛している。君のことも百パーセント愛している。
五十ずつ分けあうのではなく、百パーセントずつ愛しているのだといわれて、裕子はせつなかった。
「わかるかなあ、こんな言い方」
と和田が言いかけた。
「いずれ君を手放さなければならないことを思うと、僕は狂おしい気持ちになる」
男の声は快い音楽のように裕子の胸に滲《し》み通る。
「けれども、いつか君を失うかもしれないと思うからこそ、今の君がたまらなく愛《いと》しい」
ルイーズ・ポメリーの濃い暗緑色のボトルから、更にシャンパンが注がれる。キャビアを一口大の薄いトーストに、小さじに一杯ほどのせて、それを口へ運ぶ。ひとつぶひとつぶが宝石のようなキャビア。口の中に広がるえもいえぬ贅沢《ぜいたく》な味わい。海、潮、風、などの幻想が一瞬浮かぶ。そこへシャンパンを一口含む。絶妙な味のハーモニーなのであった。
本物のキャビアの味も、極上のシャンパンの味も、食事ごとの様々な地方のフランスワインの味も。それにターフェル・ムジークについても何もかも、贅沢を裕子に教えたのは和田だった。そしてそうした中で最高に美味の、不倫の恋の味。それも和田によって覚えさせられたのだ。
密会の味。嫉妬《しつと》や淋《さび》しさや将来への不安や、別れの予感をはらんだ不倫の味わい。それに比べたら若い男たちの恋愛の味気なさといったらない。
「僕は君に決して嘘《うそ》をつかないことで、辛うじて君に誠実であろうとしているんだよ」
「それはわかるけど」
と裕子は口ごもった。
「真実を受けとめるのは、いつだってとても痛いわ」
胸も痛いが肉体も痛いのだ。
「僕が女房を愛していないと嘘をつけば、今の君は安心するかもしれない。いずれ女房とは別れようと思っていると言えば、君がつかの間の期待を抱くかもしれない。でもそれは、現在の君を裏切っていることになるんだよ。こんなにも大事な今の君を。だから嘘をつかないということは、現在の君と、君との関係を裏切ってはいないということと同時に、将来の君を守ることにもなる。そして僕は今の君も大事だが、ずっと先僕を離れて行く時の君の幸福も、とても大事なんだ」
和田は静かに、説得力のある声で喋《しやべ》った。男の手がそっと彼女の右手の甲に置かれた。
大きくて力強くて温かい手だった。それは清潔で男らしい手だった。彼女は思わず左手でそれを押し戴《いただ》くようにつかむと、裏を返して、その男らしい掌に口を埋めた。
尊敬と愛と親しみと、そして欲望をこめて口づけをせずにはいられなかった。和田は手を裕子に与えたまま微笑した。
裕子は指に、小さくて冷たい金属の感触を覚えた。
指輪。結婚指輪であった。
プラチナの五ミリ幅の平打ちで、シンプルで嫌みのないデザインだった。いつも見ているものだった。
裕子は凝視した。何か白いものが付着していた。何かが彼女の内側で起こった。気持ちが急速に冷めていくのがわかるのだった。
結婚指輪が彼の妻の存在を彷彿《ほうふつ》とさせたからではなかった。平打ちの指輪と指の間のわずかな透き間に、白くつまっている石鹸《せつけん》のせいだった。
|指輪に石鹸のカスをつけている男に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|裕子は幻滅した《ヽヽヽヽヽヽヽ》。眼から鱗《うろこ》が落ちるみたいに、愛がはがれ落ちた。
彼女はそっと男の手を放した。
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メビウスの輪
巷《ちまた》に杉の花粉が舞い始めると、さすがの西田一徹もペースがダウンする。世の中に女房の他に怖いものなしだが、杉の花粉にだけは勝てない。彼はアレルギー性鼻炎なのである。
自社で創《つく》っている鼻炎用カプセルを一錠、午後三時にのんだせいか、帰りの電車の中で急に睡魔に襲われた。自社製品ではあるが、眠くなるだけで、たいしてきかない。
揺れる電車の音や、レールの継ぎ目のゴットンゴットンや、近くのオフィスガールのお喋《しやべ》りなどが、超現実的な近さで西田一徹の耳の周囲でぶんぶんとうなっているのは、眠りに陥る直前の徴候である。そしてそれらの雑音がいっせいに潮が退《ひ》くみたいに遠ざかり、忽然《こつぜん》と消えると、彼は束《つか》の間《ま》の眠りの深淵《しんえん》へと落ちこんでいった。
暗い海底から、泡がひとつ立ち昇るような具合に、西田はふっと目覚めた。もうどれくらい眠っていたのだろうか。ひどく長い時間がたってしまったような気分だ。
しまった、乗り越しかな、と慌てて車窓に眼を移した瞬間、電車が駅に滑りこんだ。なんだ、と彼は思った。たったの一駅だ。ずいぶん眠ったような気がしたが、ほんの二、三分のことだったのだ。
安心してもう一度眼を閉じた。ところが全然眠くないのだ。八時間も熟睡したみたいな充実感が躰中《からだじゆう》みなぎるのを感じた。鼻の奥の熱をもったような感じも消え、もやもやしていた頭の中もスッキリ。鼻炎の症状が嘘《うそ》みたいに消えている。
電車は相変わらず込んでいた。先刻のすぐ前の吊《つ》り革《かわ》にぶらさがっていたオフィスガールの姿は見えなかった。なんとなく変わった身なりの人々に囲まれているような気がしたが、西田はさほど気にもとめなかった。今日び、ファッションは多様である。ミニスカートが復活したことは喜ぶべき現象だ。
何気なく隣の男が読んでいる新聞に眼をやった。「エイズの特効薬、ついに発見」と大きな見出しが眼についた。へぇ! そうか、よかった、よかったと、西田は心からうれしくなった。
もう一度、隣の新聞へ眼が行く。
「地球人口の三分の一の命を奪ったエイズもついに撲滅」
地球の人間の三分の一? 西田はふと新聞の日づけを見た。2010年4月1日とある。
なんだこれは? と狐《きつね》につままれた思いでキョトンとしていると、次の駅で隣の男が立ち上がった。男は読み終わった新聞を無造作に網棚に残すと、そのまま降りた。
西田一徹は慌てて男の残していった新聞を広げた。他には現金輸送車強盗とか、有名人の脱税のスキャンダルとかの記事が並び、その下に死亡記事。
あれ? と思った。「西田製薬社長西田一徹氏(53)、愛人宅で腹上死」とある。同姓同名か、気の毒に。更に読み進む。
「アレルギー性鼻炎専門で、一代にして西田製薬を起こした立志伝中の人物、西田一徹氏は1957年静岡県伊東市の生まれ」
1957年? 冷たい汗が西田の背中を伝い落ちる。伊東市だと?
「愛人の中田タマミさん(23)の話だと昨夜九時頃……」
そして喪主は妻朝代さん(52)とある。
なんとそれは、彼自身の死亡記事ではないか。西田一徹は眼を剥《む》いた。何がなんだかわからないが、二十年後に俺は西田製薬とかいう会社を創《つく》って社長に納まっているらしい。そして二十三歳の愛人とアレをやっている最中に、五十三歳であの世行きらしい。
冗談じゃない。とんでもない悪ふざけだ、と思っているうちに降車駅。
飛び降りたとたんにクシャミが出た。鼻炎がぶりかえしたらしい。
バスに乗り継ぎ団地の前で降りた。クシャン。クシャン。鼻水は流れるし眼の中はかゆいし、頭がもったりと重い。うんざりだ、と西田は呟《つぶや》いた。いつかきっと特効薬を発見してみせるぞ。そしたら大儲《おおもう》けだ。それこそ西田製薬が実現する。西田一徹は苦笑した。
「コンバンハ。お帰りなさい」
と赤んぼうを抱いた女に声をかけられた。見ると同じ団地の隣人だ。
「あ、中田さん、どうも」
西田は軽く挨拶《あいさつ》した。
「散歩ですか」
なんとなく並んで歩く感じになった。母親の腕の中で女の子がバブバブいっている。
「何か月ですか?」
「七か月ですのよ」
「可愛《かわい》いさかりですね」
「まぁ」
と若い母親は腕に抱いた赤んぼうに話しかけた。
「可愛いですってよ、タマミちゃん、良かったね」
タマミ? 確か新聞に出ていた俺の愛人の名が中田タマミではなかったか。
「今のうちに、おじちゃまにヨロシクお願いしときましょうネ」
「ヨロシクって?」
ギョッとして西田が呟《つぶや》いた。
「大きな製薬会社にお勤めなんですもの」
「しかしボクは一介の薬剤師ですよ……」
「いいえェ」
と隣の女はいった。
「今や世の中コネの時代ですもの。娘の就職、今のうちからお願いしておかなくちゃ。ねェ、タマミちゃん」
赤んぼうがつぶらな瞳《ひとみ》で西田を見て、またバブバブといった。唾《つば》で濡《ぬ》れたもも色の唇がなんとも愛らしいのであった。
「しかし、ボクは……」
なにやらひどく後ろめたいような気がして、西田一徹は赤んぼうの愛らしい唇から眼を逸《そ》らせた。
自宅に戻ると、妻の朝代が水割りのグラスを片手に、夕刊など開《ひろ》げている。妻はキッチンドリンカーなのであった。
「おい、いいかげんにしろよ。アル中になるぞ」
と西田はおどかした。
「行く末は肝硬変だぞ」
「あるいはその前に」
と妻は夕刊の紙面を眺めながらいった。
「エイズにやられるかもね」
「ふん、おまえは大丈夫だよ」
と西田はいった。
「そうよね、そのうちにいい薬が発見されるわよね」
朝代はのんびりとそういって、ドッコイショと立ち上がった。
「ところがドッコイ」
と西田はいった。
「今後二十年は、発見されんよ」
「どうしてそんなことがわかるのよ?」
と朝代が口をとがらせた。
「それがわかるんだよ。おまえは五十二で未亡人だ」
「へんな人。頭おかしいんじゃないの?」
それともあれは夢だったのか? そうだ夢だ。ウトウトして電車の中で夢を見たんだ。何もかもいかにも奇妙で、夢らしいじゃないか。
着替えようとしてスプリングコートを脱いだ。その拍子にポケットに突っこんであった新聞が床に落ちた。西田一徹は拾い上げて、もう一度日づけを眺めた。やはり2010年となっている。彼はその新聞をどうしたものやらと、一瞬思案にくれた。
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アライア
津山乙彦は、高嶺《たかね》の花だ。若き日のタイロン・パワーを連想させる男なんて、そうざらにいるものではない。
しかも甘さなんて微塵《みじん》もない。年柄《ねんがら》年中|精悍《せいかん》に日焼けしている。その日焼けにはいかにもお金がかかっているというようなことが、一眼で見てとれる。
乙彦は、会社の女の子なんぞには眼もくれない。第一女のうちに入るとも思っていないみたいだ。いつだったか会社の人間が六本木で彼が女をエスコートするのを見かけた時、女はテンの毛皮を無造作に肩にはおっていたという。ミンクではなくテンである。
同僚は、彼が月給を幾ら取っているか知っているし、血筋家柄、遺産の類にも縁のない男であることもわかっている。それにしてもこの差。全ては若き日のタイロン・パワー的男前と、季節外れの日焼けのせいである。
葉子はかねてから、なんとかして乙彦の注意を自分に魅《ひ》きつけたい、とひそかに、しかし熱烈に思っていた。
けれども、廊下、オフィスの一隅ですれ違ったとしても、彼は葉子にただの一瞥《いちべつ》も与えることはない。グレーのお仕着せのユニフォームがいけないのだ、と葉子は著しくプライドを傷つけられて、そう思った。
おそらく彼は、葉子に会社以外のところで逢《あ》っても、彼女が同じオフィスで働いている女だとは、気づきもしないだろう。それほど乙彦は無関心なのである。
そのことにヒントを得て、葉子はある計画を実行に移した。
五月晴《さつきば》れの土曜と日曜の丸々二日かけて、バリ島帰りのように躰《からだ》を焼いたのである。ホテルのプールサイドでもない。小さなアパートの猫の額ほどのベランダに、座ぶとんを二枚敷いて、周囲を毛布やシーツで遮断《しやだん》すると、全身に日焼けオイルを塗りたくって、寝ころがった。
月曜日。
退社後、乙彦の後をつけ始めた。彼は地下鉄を乗りついで、ホテルオークラのバーへふらりと入って行く。カウンターのあいているストゥールに腰を下ろしたところを見ると、別に女と待ち合わせているようでもなさそうだ。
適当な間をもたせてから、葉子はさりげなく乙彦の横のストゥールに腰を滑りこませた。
「チンザノのソーダ割り」
とバーテンダーに小声で頼んだ。
「日焼けがとてもよく似合っているね」
と、すかさず横から乙彦が話しかけてきた。
「ありがとう」
出足は上々。
乙彦が今、わたしを見ている。そう思うとグラスを持つ手が震えだしそうだ。
「ドレスもとてもセクシーだ。アライア?」
「まあね」
ほんとうはジュンコ・シマダなのだが、そういうことにしておこう。
「アライアのドレスっていうのは、男が脱がせるためにあるんだってね」
乙彦は徹底的に気障《きざ》路線を突っ走る気でいるようだ。
「そんな光栄に浴してみたいね」
「そうやっていつも横に坐《すわ》った見知らぬ女を口説《くど》くの?」
「女にもよるけどね」
「成功率は?」
「悪くないよ」
乙彦はポケットからイギリス煙草《たばこ》を取りだし、自分が一本抜く前に、彼女にすすめた。葉子は首を振った。
「マカオのね、サンチアゴというホテルのプールで知りあった美しい女性が、やっぱりチンザノのソーダ割りを飲んでいた」
「マカオへは何時?」
「ゴールデン・ウイークの時。ブラックジャックで少しもうけたよ」
「もうけたってどれくらい?」
「ホテル代と飛行機のビジネスクラス程度のもうけ」
「そのホテルのプールサイドで知りあった女の人とはどうなったの? 素敵な恋の一夜を持った?」
「そうしなければ、彼女はボクを失礼な男だと思ったろうね」
「いつもそんなふうにスリルを求めているの?」
「たとえば今夜も」
「今夜? 何が起こるの?」
「素敵な恋の一夜」
男が躰《からだ》をひねったので、二人の肉体の一部が接触した。
「いい匂《にお》いだ。香水はディオール?」
「いいえ」
「でなければ、きみ自身の躰の匂いかな」
タイロン・パワーの黒ダイヤみたいな瞳《ひとみ》がみつめている。
「場所を変えないか?」
「どこへ?」
「ホテルルーム」
「少し急ぎすぎやしない?」
「きみとは初めて逢《あ》った女のような気がしないんだ」
「誰にでもそう言うんでしょう」
「信じなくてもかまわないよ」
乙彦はいっそうまじまじと葉子を眺める。
「きみはどこかミステリアスだね。レディーなんだけどベッドの中ではひどく乱れるタイプみたいに思えるけど」
「それは相手によるんじゃない?」
「乱してみたいな、きみを」
タイロン・パワーの瞳が、いまや欲望で輝いている。
一時間後。
二人はベッドルームに裸で横たわっている。本物のタイロン・パワーも、ベッドではあんなふうに一方的にすごく早く終わっちゃうのだろうか、と葉子は大いにしらけた気分で考えていた。
ワンナイト・スタンドの女しかつきあえないわけである。
下手《へた》に会社の女の子に手を出して、不名誉なレッテルを貼《は》られたくなかったわけである。
「きみがあまりにもセクシーなもんだからさ、待ち切れなくて爆発しちゃったよ」
とかなんとか言うけど、うそ寒いなあ。
あの|こと《ヽヽ》の前と後とでは、何もかもがすっかり違ってみえる。
「もう一度機会をくれたら、今度はきみを快楽で狂わしてあげるけどね」
でももう機会なんて二度とないのよ、と葉子はジュンコ・シマダの服に袖を通した。
火曜日。
乙彦と葉子は混みあうエレベーターの中で一緒になった。彼女は普段のグレーの制服に化粧も控えめだった。例によって乙彦は、グレーの制服の女など一瞥《いちべつ》もしない。
「葉子、どこで日に焼いたの?」
と同僚が横で訊《き》いた。
「マカオのサンチアゴってホテルのプールサイドで」
乙彦がチラと葉子に視線を走らせた。
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入国カード
タイ航空643便。
こぢんまりとしたホテルのロビーを思わせるビジネスクラス。
旅なれた堺俊介が、新婚旅行なら絶対タイ航空と、タイコ判を押した飛行機である。
なるほど彼の言う通りだ、と新妻の暢子《ようこ》はゆったりとした座席に、深々と躰《からだ》をあずけながら、贅沢《ぜいたく》な機内の様子に眼をやった。
エレガントなタイの衣装を着たスチュワーデスと、ハンサムなスチュワード。控えめではあるが溢《あふ》れるばかりの微笑で、下にも置かないサーヴィス。
披露宴の緊張と疲れがほぐれる思いで、暢子はコハク色のシャンパンをそっと口に含んだ。
幸福とはまさにこの瞬間だわ、と彼女は謙虚にそう自分に言いきかせた。これ以上は望めないような男をついに獲得したのだ。
ハンサムで、スポーツマンで、国立大学を出た秀才で、多彩な趣味を持ち、家柄も悪くない。見合い結婚だが、充分にデイトも重ね、お互いに恋愛感情を抱いている。
こんなに幸福でいいのかしら、と二口めのシャンパンを口に運びながら、暢子は自問した。堺俊介ほどあらゆる意味でバランスのとれた魅力的な男を、彼女は知らない。
「ウィリアム・フォークナーの言葉にね、こういうのがあるんだ」
などと実にさりげなく会話をすすめる。
「傷心と空虚のどちらかを選ばなければならないとしたら、どっちを選ぶのか、と彼が問いかける」
「ええ。それで?」
暢子がうっとりと瞳《ひとみ》を輝かせる。
「たとえば、キミならどっちを選ぶ?」
「私? そうねえ」
と暢子は考え込む。空虚なんて嫌だと思った。どんなに傷ついてもいいではないか。何も無い人生よりは。で彼女は答えた。
「私、傷心」
「ウィリアム・フォークナーも実はそうだった」
と俊介がクールに言った。
「だけどね」
と彼は素早く続けた。
「ジャン=リュック・ゴダールに言わせるとね。傷心てやつは妥協の産物なんだってさ」
「ふうん」
ゴダールって誰だろうと疑問に思ったが暢子は黙って、心から感心したものだった。
「ハンナとその姉妹」というニューヨークものの映画を観《み》に行った時も、俊介は実にリラックスした口調で、ウッディ・アレン論を語ったものだった。
「ウッディ自身が演じているドタバタしたドジな男。普通あれがウッディの分身だと思うよね?」
「違うの?」
と暢子。
「それが違う。ウッディはね、あの三姉妹の中に少しずつ自分を移しかえているんだ」
そんなものかと暢子はそこでもいたく感心した。テニスラケットを握らせればそこいらのコーチなど真っ青の腕前だし、車の運転もレーサー並み。一緒に劇場やレストランへ行けば、そのハンサムぶりのために女たちの羨望《せんぼう》の視線が痛いほど暢子に突き刺さる。
そんな男が、今や彼女の夫となり隣の席で寛《くつろ》いでいるのである。
「ねえ、バンコックってどんなところ?」
「そうだな」
と俊介はシャンパングラスの中から最後の一滴を飲みほしながら答えた。
「いい意味でアジアの混沌《こんとん》を象徴する都市かな」
なんだかわかったようなわからないような。
「僕たちが泊まるオリエンタルホテルは、世界のホテルランキングで毎年第一位に推される最高のホテルなんだよ」
そのホテルのライターズラウンジっていうのはね、世界中の有名な作家がね、と彼はゆったりと話を進める。
白い籐《とう》の椅子《いす》。むせかえるような南国の観葉植物。ホテルの前を流れる運河《クローン》。世界各国からのVIP。アラブの王様やエリザベス・テイラーや、イギリスのノーベル賞作家や、オランダの退役軍人や、貴族や成り金やありとあらゆる金持ちが訪れるホテル。オリエンタル。
タイ航空643便のビジネスクラスが、こぢんまりとしたホテルのロビーみたいに思えるのは、片側の窓をつぶして壁面にしているからだ。そして壁にはいかにもエキゾチックな壁画が描かれている。
暢子の思いは今やタイへ。バンコックへ。
「でも僕もいろいろな国の、いろいろなホテルに泊まったけど、僕個人としては、ホテルオークラをかなり高く評価するけどね」
そう言ってから俊介は、
「エクスキューズ・ミー」
とスチュワードを呼んで、飲みもののお替わりを注文した。英語も流暢《りゆうちよう》で洗練されている。暢子は改めて夫に惚《ほ》れ直す思いで、新しいシャンパングラスを受け取った。
スチュワーデスが入国カードを手に現れて、二人にそれぞれ一枚ずつ置いて行った。
俊介は胸のポケットからボールペンを取り出すと、おもむろに記入していく。
「英語で書いてあって、よくわからないわ」
と暢子はチラと夫の手元を眺めた。
「待っておいで。僕が全部記入したら、参考にすればいい」
やがてサインを終えた夫が暢子に入国カードを渡した。
「参考にすればいいのね」
と彼女もペンを取り上げた。
YOKOと上の段に大文字で入れた。下段にSAKAI。夫の姓を一字一字書きながら、彼女は結婚の実感をしみじみと噛《か》みしめていた。それから年齢。26歳。夫とは四歳違いである。
次に性別の欄。女だから |F《フイーメル》 と書く。これくらいはまずは常識。夫の入国カードをチラとみて、暢子は一瞬絶句。
|SEX《性別》とある下に、俊介は几帳面《きちようめん》な字体でFIVE TIMES A WEEKと記入している。週に五回。
「ヤダ」
と思わず暢子は口元に手をあてた。
「何が?」
俊介が顔を寄せた。
「だってここ」
と暢子は入国カードのSEXのところに指を置いた。
「ああそれ」
と俊介は余裕タップリにニヤリと笑った。
「つまり週休二日制さ」
「まさか、あなた」
と暢子は呆然《ぼうぜん》と言った。
「これ、セックスの回数のことだと思うの?」
「え? 違うの?」
一瞬俊介はキョトンと新妻の顔を見た。とたんに暢子はおかしくなって笑い転げた。腹をよじるくらい笑った後、なんとも奇妙な空しさが、彼女の胸をしめあげたのだった。
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タンパックス
面食《めんくい》で有名だった洋子が結婚した。相手は、誰もが予想した通り、水もしたたるいい男というわけではなかった。はっきりといって、アグリーの部類に属する男だった。口さがない女たちが、ミステリーを解明しようと、新婚まもない洋子のマンションに押しかけた。
ざっと見回したところ住まいはまあまあの線。従って玉の輿《こし》に乗ったというわけでもなさそうだった。
日頃何かというと「男は顔よ。次にお金」といっていた洋子の行動にあまりにもそぐわぬゆえ、女どもの好奇心はますますかきたてられた。
「ねぇ洋子」
と一人が待ち切れずに切りだした。
「何で二郎さんなのよ?」
「そうよ、M商事のオサムさんはどうしたの?」
別の女も身を乗りだした。
「それより大蔵省のハンサム・エリートのどこが気に入らなかったのよ?」
「それはね」
と洋子がみんなの前に真新しいコーヒー茶碗《ぢやわん》など並べながら、おもむろに答えた。
「タンパックスのせいよ」
え? え、え? と女たちは顔を見合わせた。
実はこういうことなの、と洋子は喋《しやべ》りだした。
大蔵省のハンサム・エリートとデイトをした日のことだった。末は大蔵大臣か日本のジョン・F・ケネディかと自他共に認めるところの男。官庁勤めとは思えぬスマートな身のこなし、女の扱い。フランス語、英語に堪能、家柄も良い洋子とは、まずは似合いのカップル。
「帝国ホテルの地下にあるブラッスリーに向かう途中だったのよ」
と洋子はいった。ウィンドウの中のセブ島の観光写真に見惚《みと》れていた。新婚旅行は絶対ここと心ひそかに思った矢先、向こうから来る人物にぶつかった。ハンドバッグが歩道に落ち、中身が散乱した。時々あるケースである。
未来の日本のジョン・F・ケネディが間髪を入れず腰をかがめて散乱した中身をかき集め、ひとつひとつ洋子のバッグに入れてくれた。まずは満点の紳士的行為。
ハンカチ、口紅、コンパクト、ストッキングのスペア、小銭入れ、財布、キーホルダー、そして……。洋子と大蔵省のエリートの眼が釘《くぎ》づけになった。タンパックスが二本。
ところがである。慌てず騒がず、さすがはケネディの再来。|大蔵省《ヽヽヽ》は胸のポケットからさっと大判の白きハンカチーフを取りだすと、ふわりとそれでそのゆゆしき物体をおおい、次におもむろにハンカチーフごと拾い上げて無事タンパックスは洋子のケースに収まったという次第。
「あらまあ、さすがスマートね」
と女たちはそれを聞いて溜《た》め息《いき》をついた。「臨機応変。未来の大物」というわけなのである。
「それをまたなぜ振ったのよ?」
というのが当然ながらの女たちの疑問。
「そのスマートさが災いしたのよ」
と洋子はいった。
「そのあまりの機転とソツのなさよ。そういう男って、結婚相手としてはかなりしんどいんじゃないかと、思ったわけよ」
「なるほどねぇ」
女たちはなんとなくわかったふうにまたまた溜め息。
「M商事のオサムさんの方は?」
「それなのよ、聞いてちょうだいよ、頭に来たんだから」
と洋子は思いだすのも腹立たしい口調で語った。
ある週末旅行で箱根に行った時のことだった。金曜の夜は湖の見えるベッドルームで楽しくもエキサイティングに過ぎたのだが、翌朝目覚めて……。
「あら、困った」
と洋子は呟《つぶや》いた。
「どうした?」
とオサム。
「あれになったみたい」
予定より一週間も早い。
「よし、わかった。そのまま待ってろよ、僕ちょっと下の売店まで行って買って来てやる」
そこまではよかったのだ。ありがたいことである。買いものをして戻って来たオサムから品物を受け取って、洋子は頭に来た。
「何よこれ!」
「だからタンパックス」
「それは見ればわかるわよ。これスーパーサイズじゃない」
つまり極太ということだ。普段は|スリム《ヽヽヽ》サイズで用を足している洋子は憮然《ぶぜん》とした。
「それで絶交よ」
と、洋子は女友だちに説明した。
「わかるわかる」
と女たち、異口同音にうなずいた。
「大体頼みもしないのに女の生理用品買いに走る男なんて、気持ち悪いわよねぇ」
と女たちは手厳しい。
さて、それでは二郎はいかにして洋子のお眼鏡にかなったのかという段になった。
「まさか、またタンパックスっていうんじゃないでしょうね」
と女の一人が笑った。
「それが、まあそんなようなものなのよ」
と洋子も苦笑した。
「私って元々|あれ《ヽヽ》が不順なのね。予想もつかないのよ。ある時仕事の打ち合わせで今の主人と会ったの」
別にデイトをしたいような相手ではなかった。洋子の勤めているPR会社に出入りしているSP関係の業者の二郎は営業だった。
打ち合わせを終わり、一緒に外に出て右と左に別れるはずだった。たまたま地下鉄が同じだったので、並んで歩くはめになった。
「|あれ《ヽヽ》が突然始まったのね?」
と女友だちが先手を打っていった。
「そうなの。もっとも|あれ《ヽヽ》っていつも突然始まるものじゃない」
洋子は答えた。
「うろたえたわよ。たまたま白いタイトスカートはいてた時なのね」
薬屋を探してあたりを見回した。どうしたのか、と二郎が訊《き》いた。
「薬屋はないかしら?」
「頭痛ですか?」
と二郎が胸のポケットを探した。
「サリドン持ってるけど」
「違うわよ」
洋子は困惑して顔をしかめた。
「急に|あれ《ヽヽ》になっちゃったのよ。薬屋探さなくては」
この際、二郎一人の前で恥をかく方が、白いスカートに赤い染みをつけるより良いと判断して洋子がいった。
大変だ、と二郎が青くなった。気の毒なくらいオロオロして、右や左を眺め、こっちへと先に立って歩きだした。額に汗など浮かべている。
信号を二つ通りすぎた右側に、薬屋のカンバン。右手をにゅっと突きだして、それを示すなり、
「失礼します。ご無事で!」
と、二郎ソソクサと左折して人混みに消えた。
「その時の彼のオロオロぶりがほほえましくて」
と洋子は回想の口調でいった。
「シャイで。でもちゃんと薬屋探してくれて……」
シャイで無骨な二郎に旗が上がったというわけなのだった。
その時玄関の鍵《かぎ》が回って二郎のご帰宅。その顔を見るなり女たち、思わずクスリと笑ったが、当の本人はなぜか知るよしもなく、顔など赤らめて、眼をしばたたいた。
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買われた男
何が屈辱って、男にとってこんな屈辱はないと、片山昌二はまたしても歯ぎしりした。歯ぎしりするのもくやしがるのも、今日はこれで七度目である。
忘れようとするのだが、そうは簡単に忘れられることではない。とにかく男と生まれて初めて味わった挫折《ざせつ》感、屈辱感なのである。
彼はしばらく立ち直れないだろうという気がした。あの女は男にとって一番大事なもの、プライドを致命的に傷つけて、風のように立ち去ってしまったのだ。
事の始まりはこういうことだ。巷《ちまた》によくある男と女の出逢《であ》いというやつだった。
片山が飲んでいたバーに、ふらりという感じでその女が現れたのだ。
一緒に飲んでいた悪友の柴田が、見ろよと片山を軽く肘《ひじ》で突いた。
年の頃三十三、四、もしかしたらもう少しいっているかもしれない。しかし三十六どまりだ。髪はカーリーで肩のあたりに波打っていた。ジョルジュ・アルマーニ風の地味だがとびきり高そうなスーツを、実にセクシーな感じに着こなしていた。
ウエストがきゅっとしぼられていて、男なら誰だってそのあたりから腰の丸みにかけて触れたくなるような風情《ふぜい》。スカート丈は膝《ひざ》すれすれ。九センチはありそうなハイヒールの足首がこれまた男の劣情を刺激するような代物《しろもの》で。
若い女の脚なんて、その女に比べたら大根もいいところ。すらりと伸びて、筋張ってはいてもつくべきところに適度な肉がついていて、ふるいつきたくなるような脚とはああいう脚である。膝の後ろのくぼみがまたなんともエロティックで。
女はさりげなく、二人の横のストゥールに腰を半分あずけるような具合に滑りこんだ。
「きれいな脚だね」
と片山がほれぼれと言った。誉《ほ》めずにはおられなかった。
「マルレーネ・ディートリヒを少し肉感的にしたようで、今までに見た最高」
「あら、ありがとう」
と女は素直に言った。
「でも一番の自慢は、脚じゃないのよ」
いけそうだ、とその瞬間片山はぴんときた。世の中には、たまにそういう女がいるものなのだ。一見冷ややかな淑女風にみえる淫乱《いんらん》な女というものが。
「ぜひともそれを拝見といきたいものだけどね」
「ここで?」
と女が探るような微笑を浮かべた。
「なんなら場所を変えて」
事実は小説より奇なりのたとえで、一時間後には片山昌二は悪友の柴田をまいてその女と二人きりでホテルルームにおり、女のいうところの一番の自慢のものとやらを、とくと念入りに拝見したのであった。
アルマーニのスーツは床に乱雑に脱ぎ捨てられ、フランス製とおぼしき絹の薄物はベッドの傍に投げだされていた。
女は微かな麝香《じやこう》の匂《にお》いを放ち、乳房は野生動物並みにたわわで重く、ウエストは男の両手で囲めるほど締まっていた。
そして腰は豊かで深々としており、例のマルレーネ・ディートリヒも一目置きそうな脚はといえば、男の腰を大蛇のような力で締めつけるのであった。
真紅《しんく》の唇が開き、その間からは世にも卑猥《ひわい》な言葉がたて続けにもれ、片山はかつて覚えたこともないような官能の歓《よろこ》びに、身も心もとろけ果てたのである。
事の終わった直後、文字通り彼は溶けたバターみたいな状態と精神で、満足きわまりない吐息をついた。まるで女に脅されたみたいな感じなのだった。自分が蹂躙《じゆうりん》され、もてあそばれ、喰《く》いつくされ骨抜きにされたみたいだ。けれどもそれが決して不快ではないのだ。
けだるい疲労感のなかで、いつのまにか眠ってしまったらしい。寒気と喉《のど》の乾きを覚えて、片山はふいに目覚めた。
ベッドルームの明かりはつけっ放しで、自分の着ていたものが床に散乱していた。女の姿がなかった。
「しまった」
と彼は飛び起きた。名前も住所も聞いていなかった。もう二度と会えないのか、と一瞬眼の底が暗くなる思いだった。
ふと見ると、ベッドサイドテーブルの上に空のグラスがあり、その下に何かがはさんである。まじまじと見るまでもなく、それが一万円札であることが見てとれた。
一万円札が一枚だった。
「なんなんだよ、これは!!」
と片山は思わず声に出して喚《わめ》いた。これはないぜ、冗談じゃない。俺は一万円で買われたってわけか? 俺の価値は一万円か?
怒りが疑惑に変わり、それから屈辱となり、屈辱はそれから二日たった今でも彼の中で激しくくすぶり続けていた。
とうてい飲まずにはおられぬ気分で、彼はふらりとバーへ足を運んだ。あの女に初めて出逢《であ》ったバーだった。しかし女の姿は、予想通りなかった。再び現れるとも思えなかった。ひたすら酔って潰《つぶ》れたかった。
ふと見ると悪友の柴田が先客でいた。その背中の感じから、かなりメートルが上がっているのがわかる。
「よお、どうした」
と片山は横に坐った。
「どうしたもこうしたも、まいったぜ俺」
と柴田がロレツの回らぬ舌で言った。
「こんなのは初めてだぜ。実際信じられんような話だ」
「だからどうした?」
「おまえなんかに信じられるかってんだ」
かなり泥酔している。
「信じるかどうか言ってみなけりゃわからんよ」
「よし、じゃ言うぞ。おまえ、あの女覚えてるか? 二日前の夜、ここで逢《あ》った女」
もちろんだ。覚えているとも。
「あの女とな、俺ゆうべまたパッタリさ。で、なんとなくそのような気分となり、ホテルへしけこんだ、と、ここまではいいな。すげえ女でさ、あんなのは初めてだが、それはまあいい。問題はだ、その女、黙って帰っちまった。後に何が残ってたと思う?」
「なんだ?」
片山の喉《のど》はカラカラだった。
「金、金だよ」
「い、いくら?」
「二万。金が二万だぜ。わかるか、この屈辱」
「たしかに二万だったのか?」
片山の声が悲鳴のように軋《きし》んだ。
「そ。俺は二万で買われて、捨てられちまった」
柴田がウイスキーをあおった。
「これが飲まずにいられるかっていうの」
「そうだよな。よし、飲むぞ、俺も」
片山は新たな屈辱の思いを口の中で大きなアメ玉のようにころがしながら、グラスをもち上げた。
柴田が二万で俺が一万。一万の差は何なのだ?
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ホテルルーム
ホテルルームの中で、ベッドがやけに大きく見える。もしかしたら本当に、部屋の大きさに比べて、ベッドのサイズが大きすぎるのかもしれないが、多分に心理的な眼の錯覚も考えられる。
きっと、その部屋を使う目的が、奈々子には後ろめたいのだ。男とあれをするための部屋だから。東京の住人にとって都会のホテルは、旅の疲れを休める一夜の宿にはなりえない。そこは快楽の部屋なのである。そしてベッドは快楽の舟。
奈々子が後ろめたいのは、結婚していて夫がいるからではない。不貞であっても夫を裏切っているという感じ方はしていない。夫を愛しているし、夫婦の交わりも存在する。不満を言いだせばきりはないが、平均以上、自分は満たされている方だ、と奈々子は思う。
男が彼女の肩からコートをそっと脱がせて、それをハンガーにかける。彼はそれ以上は望めない優しさで、奈々子をベッドへ誘導する。とても若い男。若いだけが取り柄で、あとは何もない。二人で一緒にいるところを誰かに目撃されたら、恥ずかしいような若さだ。つまらないことを喋《しやべ》り、どこか貧相で、男のくせに媚《こ》びるようなところもある。そんな男のどこがいいのかと訊《き》かれても答えられない。何かの拍子に二人の関係が世間や夫に知られ、彼女が失うかもしれないもののことを思うと、ぞっとする。現在の生活や、家族やこれまで築き上げて来たものと引きかえるだけの価値は、その男にはない。
けれども、男の滑らかな躰《からだ》が彼女の上をぴったりとおおい、わずかに汗の匂《にお》いのする髪が頬《ほお》に押しつけられると、奈々子の自信はぐらついてくる。
若い男は汗ばみ、次第に獰猛《どうもう》なイタチみたいになっていき、奈々子の白い肉に咬《か》みつき喰《く》い散らし、荒らしつくす。
自分が白い肉以外の何ものでもなくなるのは、何という歓《よろこ》びであることか。奈々子は震え、自分が嵩《かさ》を増し、無限に溢《あふ》れだしていくのを感じる。凌辱《りようじよく》の限りを男がつくすのを許し、それでも物足りなくて、ひもじくて、「それだけなの? それだけなの? もっとして、もっともっと」と男の下から煽《あお》りたてる。この瞬間なのだ、正に、彼女が何もかもとひきかえてしまっても良いと思うのは。彼こそ彼女の生きがいの全てであり、この淫《みだ》らな瞬間が存在しなかったら、もはや生きていく価値も気力もないだろうと思うのは。彼女の幸福、家庭、夫との性生活を支えるのは、これがあるからだと。このめくるめくような恥辱、この卑猥《ひわい》さ。この堕落。けれども、もっと堕《お》ちたい、堕ちるなら無限に。そして彼女にそう思わせるのは、つまらない若い男なのだ。奈々子は愛《いと》しさと区別がつかない憎しみの中で、ついに弓なりに痙攣《けいれん》する。
「あんたみたいに淫乱《いんらん》な女を他に知らないよ」
と男が彼女の上から滑りおり、キャスターを一本口の端にくわえながら呟《つぶや》く。
あなたが私を淫乱にするのよ、と奈々子は喉《のど》の奥で呟くが疲労のあまり声にはならない。あなたが私を一匹の雌にする。白い肉の動物に。躰《からだ》が急速に冷えていくのを感じながら奈々子は溜《た》め息《いき》をつく。髪の中で、腋《わき》の下で、そして下腹を覆う柔らかな繁みの中で、汗が冷えていく。寒い。
彼女は自宅で燃えているストーヴを思う。淡い色のカーテンの透き間から射しこむ日射しを考える。長い航海に出た後、久方ぶりにかいま見る懐かしい陸影を見る思いで。家がある。そこへ帰って行けるというのは、なんという慰めと寛《くつろ》ぎに満ちていることであろうか。この荒涼とした性愛の後では。彼女は無言で脱ぎ捨てたものを集めて身につけ始める。
「俺、あんたを知った後では、若い女がつまんなくなってさ」
と男が煙のむこう側から呟く。
「味わいが今いちでね」
男はもう、獰猛《どうもう》なイタチのようには奈々子の眼に写らない。胸板の薄さがひたすらわびしい。
「あなたの言う意味わかるわ」
と、ブラウスのボタンをとめながら奈々子が冷めた口調で言う。
「牛肉だって食べ頃まで何日も寝かせておくでしょう。あれと同じよ。腐りかけた寸前の肉が一番美味だって言うわ」
辛辣《しんらつ》に言って彼女はハンガーからコートをはずして肩にはおる。
男はまだ裸のまま、煙草《たばこ》を喫《す》っている。無防備で油断をしきった若い肉体がそこにある。あれだけ猛々《たけだけ》しかったものが、今では黒い陰毛の中でへたりこんでいる。哀れさと滑稽《こつけい》さが露呈してくる。
このようなものが、自分の家庭や、生きることや、夫との性生活を支えているのかと思うと、束《つか》の間《ま》奈々子は死にたいような気がした。
「また来週連絡するよ」
男は煙草を灰皿の中でもみ消しながら言った。
来週まで、自分がどうやって生きていけばいいのだろうかと奈々子は思った。来週と一口に言うが、七日もある。その間に百六十八時間もの時が横たわっている。
と同時に、もう充分だという気もしていた。こんなことは、どこかがひどくまちがっている、と。自分が薄汚れてしまったような気分がつきまとう。奈々子の感情が乱れて揺れる。来週まで放っておかれることは耐え難い。明日にだって逢《あ》いたいくらいだ。今すぐもう一度服を脱いで、何もかも最初からやり始めてもいい。でないと、私の幸福、私の家庭、夫との性生活が破綻《はたん》の危機に直面する。
奈々子はドアのところでじっと若い男を眺めた。彼はズボンに片足を突っこもうとしていた。
パンツのゴムがわずかにゆるく、長い使用に耐えた証拠に、それは白さを失い黄灰色じみていた。男は無意識に靴下を鼻にあて、匂《にお》いを嗅《か》いでから、それを足にはいた。
「来週は、逢えないと思うわ」
奈々子は言った。
「どうして? 都合がつかない?」
男が顔を上げて彼女を見た。
「じゃ、さ来週」
「さ来週も」
「どういうことだい?」
二人の視線が絡んだ。
「それだけよ」
先に相手から視線を逸《そ》らせながら奈々子が言った。
「来週もさ来週も、それからずっと、もう私たち逢わないってこと」
長い沈黙が流れた。どうか彼が否定しますように。そんなことはだめだ、と怒りだしますように。私をひきとめてくれますように。
けれども男は、単に肩をすくめただけだった。
「いいのね?」
奈々子の声に心細さが滲《にじ》んだ。
「そっちが言いだしたことだぜ」
ひややかに男が言った。
「じゃもう行くわ」
奈々子の手がドアのノブにかかった。男は引き止めなかった。
こんなにも呆気《あつけ》なく別れが訪れるとは思わなかった。自分から言いだしたのに、男から捨てられたような気がした。事実彼は抗議もせず引き止めもしないことで彼女を見捨てたのだ。なぜこんなことになってしまったのだろう。後悔のあまり体がぐらりと揺れた。何もなくなってしまったと思った。自分がこれから戻って行く家もあり、子供たちもおり、夫もいるのに、奈々子は自分が天涯孤独な孤児のような気がして、死にたいともう一度思った。
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アンケート
朝の満員電車に揺られる三十分の時間ほど、無為をもてあますものはない。文庫本を読もうにも新聞を開《ひろ》げようにも、そんなスペースとてない。とにかくぎゅうぎゅう詰めにされたままだから、動かせるのは眼の玉だけ。
いきおい車内吊《しやないづ》り広告だけが、唯一の気ばらし、暇つぶし。ふと見ると眼を引く見出し。
「もう一度生まれ直すとしたら、あなたは今の夫(妻)とまた結婚しますか?」
続いて女の流行作家の名があり「絶対ノー」。
太田敬介は、
「いったもんだね」
と内心溜《た》め息《いき》をついた。女流作家の亭主がその広告を見たら眼もあてられんだろうな、と人ごとながら見知らぬ他人に同情を禁じ得ない。
乗り換え駅でさっそくその週刊誌を買い、パラパラと件《くだん》のページを探して読んだ。なんだ、と思った。何のことはない。五十人ばかりの有名人のアンケートで、「絶対ノー」は質問に対する答えのひとつに過ぎない。気の毒にカモにされたんだと太田敬介は女流作家にほんの少し同情を覚えた。
いってみればフォーカス、フライデーその他の写真週刊誌の類がやっているのと同じようなものなのだ。
たとえば有名タレントの男女がいかにも親密そうに食事をしている光景がフォーカスされたとする。真相は他にマネジャーとディレクターが同席していたのにもかかわらず、その二人はカメラの視野から外される。撮られた写真はいかにも二人だけという寸法。有名税というわけなのだ。
ところで、太田敬介は改めてその質問を自分の胸に向けてみた。俺は今の女房ともう一度一緒になるのかどうか。
嫌だね、と彼は即座に胸の中で呟《つぶや》いた。この度の人生は何とかこのままやっていくのだろうが、生まれかわってまで同じ女と、そっくり同じ生活をやり直したいとは思わない。絶対に思わない。絶対にノーだ。
が、かといって今の女房に怨《うら》みがある訳でもない。好きで一緒になったのだし、現在でも別に嫌いではない。二人の子持ちにしてはまぁ身ぎれいだし、見てくれも悪くはない。点数をくれるなら、まぁ七十点というところ。離婚したいとも思わないし、再婚など考えただけでわずらわしい。この世はなんとか無事連れ添えればそれに越したことはないわけだ。
ただし、もう一度生まれかわったら、全然別のタイプの女がいい。もう少し刺激的でエキサイティングで、肌の感じも今のより柔らかい方がいい。乳房も上向きの心もち微妙にたれ気味の、いってみればシルビア・クリステルのような形。
声などもキンキンとしていず、しっとりとした低音で、こっちの神経や脳に響くのではなく、ハートと官能に訴えてくれるのが理想的だ。
チリチリパーマの短髪ではなく、ふんわりと肩のあたりで揺れる髪。絶対に来世ではシルビア・クリステルに乗りかえるぞ、と太田敬介は混み合う朝の地下鉄の中で、心ひそかに誓うのであった。
午後の美容院。太田春子はパーマ液を頭髪に滲《し》みこませた状態で、ビニールの袋などをすっぽりとかぶり、週刊誌を開《ひろ》げていた。
彼女もまた偶然に、有名人のアンケートを読んでいたのである。回答者のほとんどが同じ夫ないし妻と結婚するといっているのには、春子はへぇ! と思った。
あたしは絶対にノーだわ、と彼女は思った。
今度生まれ直してくるのなら、断然奥田瑛二みたいな人がいい。彼だったら毎日眺めていたって、うっとりとしてあきないだろう。その日にあった面白いことや、出逢《であ》ったエキサイティングな人たちのことなど、話題にも事欠かない。
彼となら、生まれてくる子供は将来美男子か美女になる可能性大で、世間ではあたしたちのことを美形家族と噂《うわさ》するのに違いない。クラス会に出るたびに、級友たちから羨《うらや》ましがられ、サインなど頼まれるかもしれない。
現在の夫に不満はないが、うっとりとみとれる顔には程遠いし、会話なんてほとんどが週刊誌の受け売りか上役同僚の悪口、愚痴の類。それに二人の子供たちは不運にも夫似で、とても美男美女とはいえないご面相。学業の成績も完全にあっちの系統で、中の下から一歩も上がらない。
いずれにしろ、この結婚を失敗であったとはいうつもりもないし、別の男と今更やり直したいとも考えない。
別の男と何かするのなら、浮気程度で充分である。幸い夫は何も気がついてはいないようだし。
大体男なんて、妻が髪形を変えようが新しいドレスを着ようが全然気にもしない。ダイエットして急に三キロも痩《や》せても気がつかない。
下着が派手になり、化粧が少し濃くなっても知らん顔。そこいら辺に置いてある見なれた家具を眺める以上の興味を持って、妻を見ようともしないのだ。
たとえ万が一気づいても、俺のために女房もがんばっている、と一人自惚《うぬぼ》れているが、結婚して十年もたつ夫のために薄物の絹のパンティーをはくなどと考えたら大まちがいだ。
誰が腹の出かかった中年の亭主のために、食べたいものも食べずに苦しいダイエットに精を出し、三キロも痩せますかというのだ。欲をいえばきりがないが、まずまずの夫がいて、長期ローンとはいえ自分たちの家があり、顔も出来も悪いがまずは健康な子供たちがおり、女友だちと月に一、二度フランス料理のランチが食べられて、女盛りの飢えを満たす程度の恋人のようなものさえいれば、今の人生に不満などはないのである。亭主には七十五点くらいあげてもいいし、と春子の思考はとめどなく広がる。
だけど来世があるとしたら、やっぱり奥田瑛二の方がいい。敬介とのつきあいはこの世のことだけに願いたい。
もっともどこかですれ違えば、
「あら元気? 幸せにやってる?」
くらいの声をかけ、肩でもポンと叩《たた》いてやるつもり。まがりなりにも前世では夫だった男だもの。
どんな女を連れて歩いているのか、見ものだわ。案外あたしに似てたりして。フフッ。春子はすっかり愉快になって週刊誌を閉じたのだった。
さてその夜、いつものように軽く酒気を帯びて帰って来た太田敬介。妻のチリチリパーマの頭に眼をやり、内心ひそかに肩で波打つ柔髪のシルビア・クリステルなどを思いつつ、ふと思いついて質問を放った。
「生まれかわったら、もう一度俺と結婚するかね?」
妻が答えるまで数秒を要した。
「うん。しょうがないんじゃないの」
諦《あきら》めのような同情のような照れた声で彼女が答えた。
「あなたはどうなのよ?」
敬介もまた数秒の間、心が揺れたが、
「そうだな、またよろしく頼みますよ」
と呟《つぶや》いた。
そして二人はなぜか安堵《あんど》と同じくらいの重荷をずっしりと肩のあたりに感じ、お互いの顔からそれとなく視線を背《そむ》けあったのであった。
一九八七年十月、朝日新聞社より単行本として刊行
角川文庫『クレオパトラの夢』平成2年9月25日初版発行
平成9年4月1日13版発行