森 瑤子
カサノバのためいき 世にも短い物語
目 次
ラヴホテル
九月八日
真夏の夜の……
チューインガム
秋
ティオペペ
夕空はれて秋風……
プレゼント
決 意
グルマン
やさしい女
モーニング・コール
赤プリ
友 情
トイレットペーパー Part 2
猫
ハンター
浮気のルール
ピアス
しょぱんのた
フルムーン
ステーション
ここだけの話
カルテット
クリスマス
悶《もん》 絶《ぜつ》
ラヴホテル
その夜にかぎり、営業第一課の若い部下が急ピッチに酔いが回って、飲み屋のカウンターに顔を伏せて寝込んでしまった。
「しょうがない奴《やつ》だな」
と直属の上司である宇佐美歳男が言った。
「彼、昨夜徹夜マージャンで、一睡もしてなかったのよ」
と、タイピストの園子が同情を声に滲《にじ》ませた。時間は十一時に近かった。
なんとなく残業でオフィスに居残った三人が、帰りがけにちょっと一杯やっていこうか、といった結果が、こうなのである。
どうしたものか、と宇佐美と園子は相談をした。タクシーに押しこみ、運転手に行き先を教えておいて送り出すという手もあるが、部下の住まいは鎌倉のあたりである。タクシー代もばかにならない。
「近くのホテルへ送りこんだ方がまだ安上がりだな」
と宇佐美が顎《あご》を撫《な》でた。
「近くのホテルといっても、ビジネスホテルはないですよ」
と園子。
「ラヴホテルでいいさ。その方が料金も安い」
というわけで、前後不覚に酔いつぶれている営業部員を、それぞれ両脇《りようわき》からかかえて、約二百メートル先のラヴホテルへ。
フロントで、三人の客はとらないと一悶着《ひともんちやく》あったが、泊まりは一人なのだと説得して、ようやく鍵《かぎ》を手に入れた。
何やら淫靡《いんび》というかチャチというか、やたらに手のこんだ部屋へ酔いつぶれている男を運びこみ、上着とズボンを脱がせ、とにかくふとんの中へと横たわらせた。
ほっと一息つき、お茶でもと園子がポットの湯を注《つ》ぐ間、沈黙が。なんとなくむずがゆいようなばつの悪さ。
「ひと仕事すんだわけだから、出ようや」
と、宇佐美がそわそわと腰を上げた。
ドアを開け、廊下に出たとたんに、向かい側の部屋から二人連れが出て来た。うしろ暗いことをしたわけでもないのになぜか瞬間にして眼を逸《そ》らせる。再びチラリ。その拍子にむこうの女と眼が合った。あっと二人は同時に息を呑《の》んだ。宇佐美の妻の姉で、保険の外交をしている貞子だった。
宇佐美は実に憂鬱《ゆううつ》な気分であった。どんな言い訳をしたところで、ラヴホテルから若い女と出て来たところを目撃されたからには、あきらめるしかないではないか。
それにしても、貞子もいい年をして不倫の情事なぞよくやるわ、とそのことも不愉快なのだった。ああいう自堕落な姉と同じ血が流れていると思うと、妻に対しても腹が立ってくる。
しかし、口が裂けても昨夜、貞子の不貞の現場をおさえたとは、妻には言えない。
その時机上の電話がリーンと鳴った。
「歳男さん?」
といきなり女の声。
「貞子です。昨夜は妙なところで、どうも」
と困惑を隠せぬ声。
「実はね、こんなこと今更言っても信じてもらえないと思うんだけど」
と貞子が口ごもった。
「昨夜一緒だった男の人とね、わたし、何にもないのよ」
「しかしお姉さん、それはいくらなんでもさ」
と宇佐美は言った。
「あんなところから二人で出て来て、それはないでしょう」
「最後まで聞いてちょうだいよ、歳男さん」
と貞子は言った。声に切羽《せつぱ》つまった感じがしていた。
「実はね、同僚の女性が泥酔しちゃってね、ニッチもサッチもいかないもんだから、近くのホテルまで運んでもらったの。顔も名前も知らない男性なのよ。たまたま隣で飲んでた人で、私がもてあましていたら、手を貸してくれたの。ほんとうに神かけてそれだけなのよ」
「ま、そういうことにしておきましょうか」
と宇佐美は皮肉の混じらぬでもない声でそう言った。頭から貞子の話は嘘《うそ》っぽかった。
ラヴホテルからあの時刻に男と女が出て来れば、そこで行われたことはただひとつしかないではないか。第一、あの時貞子の肩に滲《にじ》みでていた後ろめたさ――。
「でもまあ、たとえ信じてもらえなくても、この件はどうぞ内密にね」
と貞子は急に掌《てのひら》を返したように高飛車に言った。
「あなたも脛《すね》に傷もつ立場ですからね。妹は昔からすごい妬《や》きもちやきなのよ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
と宇佐美は言った。
「それはないよ。それじゃまるで脅迫じゃないですか。僕の件で、そちらと一緒にしてもらっちゃ困る。僕たちは無関係ですよ、無関係。全く何にもなかったんだから」
と言いかけて、宇佐美はハタと当惑した。無関係だと懸命に言えば言うほど、自分の耳にさえ白けた嘘《うそ》に聞こえるのだ。
「何よ、今更シラを切って」
と貞子が嫌な声で言った。
「ホテルから若い女とコソコソ出て来て、何もなかった、無関係はないじゃありませんか」
「し、しかし」
と宇佐美はあせった。
「お姉さんだって、言ったでしょう。酔いつぶれた同僚を送って行っただけだって――」
実は僕もそうだったのだと言いかけるのを、相手がさえぎった。
「そうよ。だけど、あなた、全然信じてもくれないじゃないの。それとも信じる?」
やはり信じられない。あの状態でそういうことはあり得ない。二人の間にはコトが起こったのだ。それは男のカンというものである。それとこっちとを一緒にされてはかなわない。プライドの問題だ。
「実は僕も直属の部下が酔いつぶれましてね、そいつをあの部屋で介抱していたんですがね」
「おやおや」
と貞子が鼻の先でせせら笑った。
「この期に及んで、そんな下手な言い訳およしなさいな。いさぎよくないことね」
と言うではないか。
「もしもし、信じないかもしれないが」――事実信じやしないよな、と宇佐美は次第に空しく腹立たしくなってきた。
「しかし、事実は事実なんですよ。あなたがどう思おうと、なかったことはなかったんだ」
意に反して、声が軋《きし》んだ悲鳴のように裏返った。ばかばかしいやら口惜《くや》しいやら腹立たしいやら、なんとも滑稽《こつけい》な感じがして、宇佐美は唐突に笑いだした。
「いずれにしろ」
と白けた声で貞子が最後に言った。
「そういうことですから」
と暗に内密にと仄《ほの》めかして電話が切れた。
嘘《うそ》つきめ、と口の中で呟《つぶや》き、それからハテナ? と思った。
しかしまさか。貞子の話はやっぱりウサンクサイゾと、宇佐美は顔をしかめた。
九月八日
何があったのか、夫の学がバラの花束などを抱えて帰って来た。
「何よコレ」
と妙子は顎《あご》の先で赤いバラを指して訊《き》いた。
「見りゃわかるだろう、バラだよ」
「だから何のバラよ」
「赤いバラ」
脱いだ靴下をバラバラに床の上に放りだしながら、学が憮然《ぶぜん》として言った。
「そんなこと訊いてんじゃないわよ」
と妙子のほうも素っ気なく、台所で夫の夜食の準備にとりかかる。
「一体どういう風の吹き回しなんでしょうね。心に後ろ暗いことでもあるんじゃないの?」
鶏《とり》のささみを手で裂きながら彼女はそれとなく言った。
「心に後ろ暗いこととはどういう意味だ?」
ランニングにクレープのステテコ姿のまま、ダイニングテーブルに坐《すわ》りながら、学が聞きとがめた。
「浮気したとか、どこかに愛人を隠しているとか」
「そんなもん、いるかい」
「あら、いないの? この頃の若い女って、モラルも倫理感も欠如してるから、ホテルのディナー程度で簡単に男と寝るって話じゃないの。あなたも甲斐性《かいしよう》がないのね。それともケチなのかしら」
と言って妙子はクスリと笑った。
「近頃じゃ女房が亭主に浮気をすすめるのが、流行《はや》ってるのか」
と学は嫌味を言った。
「花を買って来ても礼の一言もあるじゃなし」
「だって理由もなく花買って来られても、薄気味悪いだけよ」
「理由もなしかね?」
「何かあるの?」
シラスとわかめの酢のものを、もう一品作りながら、妙子が訊《き》いた。
「何かあるのときた」
冷蔵庫の中を覗《のぞ》きに立っていって、学はビールを一本取りだした。
「ふつうねえ、結婚記念日を忘れたと言って女房からガミガミ言われるのは亭主なんだぜ」
「結婚記念日って? 誰の?」
「隣の家のために、わざわざ花束買っちゃ帰らんよな」
「うちのは来月よ。何勘《かん》違いしてんの」
「来月? 来月の何日だ?」
「月末の二十九日」
「勘違いはそっちだぞ。十月でもなければ二十九日でもない。あれはまだ暑い頃だったから九月だ。九月の八日だ。八は末広がりで縁起《えんぎ》がいいと、おまえのお袋さんが喜んだじゃないか」
「全くもう、ボケちゃって。秋風が立ってたじゃないの。あれは十六年前の十月二十九日ですよ。絶対にまちがいないわ」
「十六年前だと? そらみろ、やっぱりそうだ。ボケてんのはおまえのほうだ。十六年じゃない。十五年前だよ。区切りがいいから、バラの花でも買って帰って、おまえのほころぶ顔でも見ようと思ったんじゃないか」
学はグラスに注《つ》いだビールの泡が、噴きこぼれそうになったので、慌てて半分ほど飲み干した。
「昭和四十六年だもの、十六年目よ」
「四十七年。なぜなら、俺《おれ》のお袋がその年、同じ四十七だったんだ。この分だと五十前におばあちゃんになると、お袋が言ったのを覚えている」
「これだ。自分の結婚記念日も忘れて、全然関係ない日に花束買って来て、喜べなんて言われても、はいそうですかなんて言えると思う? 第一、わたしたちが結婚した時に、お義母《かあ》さん四十七歳じゃなかったわよ。あの皺《しわ》の具合じゃ絶対に五十を過ぎてたわよ。髪は染めてたけど、皺はごまかせないもの」
「ところが、白髪《しらが》のないのがお袋の自慢だった。あの時は髪は染めちゃいなかったんだぞ」
「嫌だわ、お義母さんのことになるとすぐにムキになるんだから。あなたの年齢でマザコンていうのは、マザコンのハシリだわね」
妙子は夫の前の席に腰を下ろして、自分のグラスにもビールを注《つ》いだ。
「ま、どうでもいいじゃないの。九月の八日でも十月二十九日でも。十五年目でも十六年目でも、もうこうなってはたいした違いはないわよ。あなたが今日だっていうんなら、今日だということにしときましょうよ」
「おまえも素直じゃないねえ。だったら最初からそう認めればいいんだよ」
「別に認めたわけじゃないわよ。絶対に十月二十九日だったと思ってるもの」
「今思い出したが、おまえのオールドミスの姉さんが五年前にもらい手がついて結婚したのが、確か十月の終わりだったぞ」
「あなたの弟は、いつ結婚したんだっけ? テニスボールと女の尻《しり》ばっかり追っかけ回してた一番下のドラ息子よ。去年の九月じゃなかった?」
「もういいよ。おまえと話してると頭がおかしくなる。九月でも十月でもかまわん。とにかく乾杯して、この件は終わりだ」
夫婦はたいして面白くもなさそうにグラスのふちを軽く合わせた。
「子供たちのお誕生日を覚えるのがやっとだもの。結婚記念日がいつだったかなんて、いちいち覚えていられないわよ」
「まあな。俺《おれ》なんぞ子供たちの誕生日なんて、その日に教えられてやっと思い出すくらいだ」
「それにしては、九月八日が結婚記念日だなんて、よく覚えていたわね。それもこの十六年間ずっと忘れていた人が」
「ふっと記憶が立ち戻ったのさ」
「何かの記憶違いってことがあるわね」
「え?」
「誰かの誕生日と混同してしまったとか」
「誕生日って誰の?」
と学は眼を瞬いた。
「わたしに訊《き》かないでよ」
「じゃ誰に訊くんだよ?」
「彼女に訊いたら?」
「彼女?」
「顔色、変わったわよ」
「バカ言え。そんなもんいるわけないだろ。いないんだから、顔色だって変わるわけはない」
「だめよ。結婚十六年の古女房の眼はごまかせない」
「十五年だ。サバ読むな」
「勘やあてずっぽうで言ってるわけじゃないのよ。統計的事実で物を言ってるの。今日び結婚十六年にして妻以外に女が一人もいないなんて男がいたら、アチラの方が機能しないか、ホモだわね。あなただって日本中の男たちがしているようなことをしているだけなのよ。あなただけが例外ってわけじゃないし。わたしだってホモの妻とか機能しない男の妻とか後ろ指さされたくないわ」
「し、しかしね、違うんだよ。やっぱり」
と学は鼻の頭に汗を浮かべて言った。
「彼女の誕生日は九月八日じゃないんだよ。七月七日の七夕《たなばた》生まれなんだ」
「ひっかかったわね」
真夏の夜の……
このところ異常な熱帯夜が続いたせいか、テレビがついにダウンした。七年と四か月の寿命であった。
妻や子供たちは、この際ちょうどよい機会だから、衛星放送も受信できるような特殊アンテナつきの最新式受像機に買い替えようと、声をそろえて言ったが、山川修は反対した。
テレビというものが、どれだけ一家庭の家族同士のコミュニケーションを奪っているか、計り知れないものがあるというわけである。
「食卓からテレビを追放し、我が家に会話を復活させよう」
と山川は力強く宣言したが、それに同調する妻子の声はなく、白けた嫌な感じの沈黙が返ってくるだけであった。
さて、テレビなしの最初の夕食の夜のことである。山川は自分の左隣にいるむさくるしい男が、長男の一郎であると認識するのに数分かかった。
「おまえ、いつのまに声変わりしたんだ?」
ついこのあいだまで、ツバクロみたいにキーキーと黄色い声を張り上げて、妹の足|蹴《け》りから逃げ回っていたと思ったのに。
「お兄ィが声変わりしたのはね、たしかビートたけしが番組から降ろされたころよ。ショックのあまりお兄ィは声が変わっちゃったの」
と答えたのは、うら若き厚化粧の女。
山川はそのうら若き厚化粧の女が、娘の美似子《みいこ》とわかるのに更に数分を要した。
「おまえ今年で幾つになった?」
と山川は娘の顔をおそるおそる眺めながら訊《き》いた。
「十七歳。タレントの中山美穂と同じ年」
「このごろでは、十七歳で化粧をするのか?」
「してる子は十二歳でしてるわよ。でもあたしが始めたのは十四歳の時からよ」
山川の正面に、年の頃なら四十前後の、なんとも形容しがたいモノがいる。さっきからそのモノの存在が気にかかっていたのだが、なぜか正視に耐えぬというか、現実に直面するのを怖れてというか、そのモノを視界の外に置いてはみたのだが……。
もしもそのモノが山川修の妻、みどりであるとするなら、彼の記憶にあるころの妻よりもゆうに三倍は体重が増えている。おまけに赤茶けたチリチリパーマの髪が、四方八方へと飛び散っているヘアスタイル。
「どうもふに落ちないんだが、きみ、何時《いつ》ごろからそんなふうに太りだしたんだ?」
「NHKの朝のテレビ小説で『澪《みお》つくし』をやってたころからかしら。何しろ食べるシーンがやたら多いもんだから、ついつられて食べちゃうのよね」
「し、しかしその髪型には覚えがないぞ」
「三年前のドラマで岩下志麻がこういうのやってたのよ」
「岩下志麻ならともかく」
と山川は渋面を作り、言葉|尻《じり》を濁した。
「その前は、タマネギオバサン風だったのよね」
と美似子が横から言った。
「なんだ、そのタマネギというのは」
「黒柳徹子の髪型のことよ」
「ああそれで」
と山川は納得。妻がギャラギャラ声でたて板に水みたいにまくしたてる元祖は、そのオバサンなのだ。
ふと見ると、妻のみどりの横に、首から上だけチョコンと出している幼児の姿。妻があまりの巨体のために、危うく見過ごすところであった。
「その子は、どこの子だ?」
近所の子供でもあずかっているのだろうと、山川は訊《き》いた。
「どこの子って、うちの子ですよ」
いつもテレビが置いてあるあたりの、今は何もない白壁を、妻は落ち着かない様子でチラリチラリと眺めながら、憮然《ぶぜん》と言った。
「うちの子?」
山川は仰天して、その幼い子をみつめた。
「そのうちの子は、何時《いつ》生まれたんだっけかな」
と記憶をたぐり寄せるのだが、はっきりしない。
「おととしのオールスター戦の第二戦目の夜よ」
「へぇ。で、名前は?」
「二郎でしょ」
と妻はギロリと山川を睨《にら》んだ。
「何で俺《おれ》、気がつかなかったんだろう?」
と山川は暗澹《あんたん》とした気分で言った。
「だって、毎晩テレビにかじりついて、オールスター戦に夢中だったからよ」
食卓の風景は、山川が期待した一家|団欒《だんらん》の図とは、ほど遠い。まるで赤の他人と夕食を食べているような、そんな気がしないでもない。何やら薄ら寒いのだった。
それは他の家族のメンバーも同じ思いらしく、全員が黙々と箸《はし》を動かすのみであった。
山川はつくづくとテレビのおよぼした悪い結果を嘆いた。毎日毎晩テレビ画面だけ見ているうちに、娘は厚化粧の女に、長男はむさくるしい男に、妻は小錦の妹にと豹変《ひようへん》を遂げてしまったことに気づかなかったのだ。おまけにその間に次男など誕生したらしい。しかも、子供が生まれるような元を作るその原因については、この七、八年、まったく記憶の外の外だった。
いずれにしろ、これではいけない。とにかくテレビがなくなったことは、九死に一生を得たようなものだ。これでテレビにウツツをぬかして、ほとんど上の空のような実生活にもピリオドだ。
情けないことに、妻も長男も長女も次男も、元あったテレビの方へと、虚《うつ》ろな眼《まな》ざしを投げかけては溜《た》め息をついている。
「ごちそうさま」
と美似子が言った。
「まだ半分も食べていないじゃないか」
と山川が注意をした。
「だって味がわかんないんだもの、テレビがないと」
長男も途中で箸《はし》を置いた。
「そうだよ、食欲が全く湧《わ》かないよ」
「話題もないしね」
と妻までが言った。
「テレビがなくなったとたん、我が家から笑い声と会話が消えてしまったわ」
と溜め息。
「しかしおまえたち、それは違うんだ。絶対にまちがっているんだ。我々はテレビのおかげで何か大事なものを見失ってしまっているんだ。とんでもない過ちを犯すことになるんだ。
我々はこのことに今夜気がついた。これは実に幸運なことなんだ。しかし日本には、この恐ろしい過ちに気がついていない家庭が何千万所帯となくあるわけだ。我々はいってみれば選ばれたニューファミリーだ。手はじめに、我々自身のお互いの自己紹介からでも始めてコミュニケーションを図るとしようか」
では一家の主である自分からと、彼は言った。
「山川修。四十二歳。エンジニア。趣味はテレビのナイター、おっと失言」
「ちょっと待って」
と妻が言った。
「山川さんといったらお隣じゃないの」
チューインガム
唐松林に囲まれたカフェテラスで、迪子《みちこ》は所在なげに木《こ》もれ日を眺めている。
とっくに飲み終わったアイスコーヒーの底で、氷がひとりで溶けて涼しげな音をたてる。一陣の香しい冷えた風が、木もれ日のテラスの上を吹きぬける。灰皿の中のセイラムの喫《す》い殻は三本。時間は午後二時半。客は他にいない。
迪子はハンドバッグの中からコンパクトを取りだすと、ふたを開けて鏡を覗《のぞ》きこんだ。
ハンドバッグの底にあったチューインガムを一枚、紙をむいて口に放りこんだ。ガムを常備するようになったのは、好きな男ができたからだった。
初めてガムを噛《か》んだのは五歳の時だった。有名なゴルフ場を背後に持つ小さな漁村に、ある日ジープで乗りこんで来たアメリカのGIたちが、子供たちにガムやチョコレートを配った時、迪子もその中にいた。終戦直後の秋だった。
その時食べたハーシーチョコレートの味は、甘いものに飢えていた子供たちにとってこの世のものとはとうてい思えない、甘美で贅沢《ぜいたく》な味であった。ガムは緑色の紙に包まれていた。味がすっかりなくなっても噛《か》み続けた。口がかったるくなると、取っておいた銀紙に包んでおき、また思い出すと噛んだ。進駐軍のGIがくれたガムは長いことそうやってくりかえし噛むうちに、少しずつ量が減っていき、ついに最後には唾《つば》を飲みこんだ拍子に、胃の中へと落ちていった。
ガムを噛むと、いつも脳裏に浮かぶのは、あのセピア色を帯びた秋の日の光景なのだった。日本を負かしたアメリカの兵隊たちが、どうしてそんなに親切なのか、子供心にもわからなかった。ジープもGIたちの軍服も、あの日たちこめていた空気も、全《すべ》てセピア色。古い映画のひとこまのようだ。
迪子はチューインガムをゆっくりと噛みしめた。今は夏で、あれから四十年近い歳月が流れた。彼女は今、自分の女としての人生の盛りがまさに閉じようとしているのを、静かに感じている。
男はなかなか現れない。しかし、はっきりと時間をきめて待ち合わせたわけではない。昼下がりに、と彼は言った。避暑地には慌ただしく過ぎる時間はない。時はゆっくりと、ひたひたと近づいてきては過ぎていく。
迪子は自分が男を待っていることに、改めて驚くのだ。ごく普通の貞淑な妻であった二十四年間。
何も起こりはしない。何も変わりはしなかった。同じ安泰と波乱のない時間が脈々と流れ続ける他には。ただ流れる時の早さが、年々早くなっていったのだ。わきめもふらぬ急ぎ足で、駈《か》けぬけていくのだ。
死ぬ前に、老いて朽ちる前に、まだ薄暗闇《うすくらやみ》の中でなら辛うじて自分の裸体を男の前に投げだすことが出来るうちに、迪子にはしておかなければならないことが、あるような気がしていた。
口の中のチューインガムはとっくに甘さを失っていた。彼女はそれを紙にとると、アメ玉をくるむように、銀紙の両端をねじってテーブルの上に置いた。それからまた、無意識の動作で新しい一枚を口に入れた。
たったひとりの男しか知らないで、人生を終わるのが、切ないわけではなかった。ただひたすらに過ぎていく女の季節を、駈け足で過ぎていくのにまかせていることが、狂おしかった。
時を止めることも、流れに逆らって泳ぐこともできないのなら、自分に楔《くさび》を打ちこむしかないではないか。
おまえは率直なところ、本当に何がしたいのかと、迪子は自分の心に問いかけた。
尊敬されること、愛し慕われること、必要とされること、世の中に何か仕事を認めてもらうこと。そうではない。そんな抽象的なことではなかった。
彼女がやりたいのはただひとつのことだけ。セックスだった。セックスをやってやってやりまくりたい。それも反吐《へど》が出るほど。彼女が女の季節でやり残しているのは、まさにそのことであった。
残された時間はわずかだった。一年。もしかして二年。迪子は鏡の中で、首のたるみを耳の後ろのほうへ引っぱりながら何時《いつ》も思った。それが始まりだった。
彼女が直面しているのは老いであり、肉体の死であった。その厳然とした事実の前では、モラルも色|褪《あ》せる。
テーブルの上のチューインガムのアメ玉しぼりが三つに増えている。木もれ日が、透明な光り輝く雪片のように、唐松の間をたえまなく舞い降りてきている。
おまえは今幸せなのか? これがおまえのしたかったことなのか?
けれども以前よりも、今のほうがはるかにひもじい気がするのはなぜなのか。
「逃げて下さい、一緒に」
と彼女は男に言った。男との未来は、彼女が残していくものとは比較にならないほど、みすぼらしかった。男は夫より若いわけではなく、夫より見栄えが良いわけでも、夫よりセックスがいいわけでもなかった。
それでも迪子は逃げていかなければならないと思った。
男には捨てるべき家族はなかった。妻とは死別していた。彼は板前だった。
「逃げよう」
と男は同意した。
日時がきめられ場所の相談もまとまった。
軽井沢経由で松本へ。
深く考えたわけではない。どちらもたまたま開《ひろ》げた女の雑誌の旅の頁《ページ》に、特集された町だった。
迪子は自分の荷物の入ったハンドバッグを眺めた。歯ブラシが一本と、彼女名義の預金通帳が一冊。それだけだった。それから温めればすぐ食べられるようになっている今夜の家族たちのためのシチューのことを考えた。だが明日のことは考えまい。
待っている男のことが恋しかった。刻々と恋しさがつのった。自分が天涯孤独な孤児のような気がした。すがりつけるのは彼だけだった。それから男のどこか貧相な顔つきと、癇《かん》の強そうな口元を思った。気に入らないと卓袱台《ちやぶだい》を引っくりかえすような性格であることが容易に察せられた。迪子の夫は、妻子に手を上げたこともない。迪子の知るかぎり浮気もしていなかった。
にもかかわらず、男だけが全《すべ》てだった。彼が彼女の季節の終わりに、楔《くさび》を打ちこんだからだった。
いつのまにか、木もれ日が琥珀《こはく》色に染まっている。高原の空気に黄昏《たそがれ》の気配が混じり始める。ついに男は来なかった。死んでも必ず行くよと約束したのに。交通事故かもしれない、とふと思った。関越自動車道のアスファルトに叩《たた》きつけられた、昆虫のような男の姿が一瞬眼に浮かんだ。男の死を想像しても、悲しくはなかった。
迪子のイメージの中で男が死ぬと、彼女は立ち上がった。急げば家族の夕食に間にあうかもしれない、と思った。白いテーブルの上に、チューインガムのアメ玉が全部で五つ。
秋
空気に透明感が混じり始めた。夏は終わったのだ、と奈津世は溜《た》め息をついた。
夏の間だけ、と彼は一番最初に言った。家族が野尻湖《のじりこ》の別荘からすっかり引き揚げてくるまで、僕はきみのものだ、と。
その後は? と、奈津世は最初に訊《き》きそびれた。オードブルが出始めた時に、デザートは何かと気にするような感じがしたからだ。少なくともその時はそんなふうに思ったのだった。
けれども常に不安がつきまとわないわけではなかった。その後は私たちどうなるの、と最初に訊きそびれた真の理由は、そのあたりにあったのかもしれない。つまり、彼が正確な別れの日付を口に出して宣告するかもしれないという怖れであった。
一夏の情事。映画における永遠のテーマみたい。あるいは、恋愛小説の。そして地球上のいたるところで、この夏に始まって終わる数えきれないほどの束《つか》の間の恋と。
そして夏が終わった。それは突然に終わってしまった。あまりの呆気《あつけ》なさに、奈津世は茫然《ぼうぜん》としている。いきなり何かの刃物で切りつけられて、傷口がさっと開き、そこからまだ血が噴き出してくる寸前のような気分。はっと息を吸い込んだまま止まってしまっている状態。
やがて、彼女は世にも弱々しい吐息を長々と吐きだす。それが先刻《さつき》の溜《た》め息なのであった。
楽しい夏だったよ、と織田は先週、愛を交わした後の少し淋《さび》しいような寛《くつろ》ぎの中で、とても静かにそう言った。
その口調の静けさゆえに冷然とした事実が見えない壁のように、そこに突然出現した。二人の夏が終わったことを奈津世は知った。
ええ、と彼女は同じような静けさで呟《つぶや》き、頭ではなく彼女の肉体に納得させるように、その言葉を呑《の》み下した。ええ、私もとても楽しかったわ。
男の横顔に安堵《あんど》の色が滲《にじ》むのを、奈津世は認めた。
きみが好きだよ、と織田は温かく言った。さよならの別の言い方だった。
物わかりがいいから? 初めて言葉に棘《とげ》が含まれた。
今のは聞かなかったことにしよう。これまでのきみらしくない発言だ。
織田は穏やかにそう言って、彼女の顎《あご》に指をかけて口づけをした。再び唇を離した時、彼はもはや彼女の良く知っている男ではなくなっていた。薄いベールのようなものが表情をおおい、彼は少し遠くなり、見知らぬ人のようだった。
そのために、奈津世は喉《のど》まで出かかった夥《おびただ》しい言葉を呑《の》みこんでしまったのだった。
二週間がまたたくまに過ぎ去った。ぱっくりと切れた見えない傷口から、血がどくどくと流れ出ていくのが感じられた。奈津世はダイヤルを回した。
「今どこ?」
と織田が訊《き》いた。
「オフィスよ」
「じゃこちらからかけ直すよ。会議中なんだ」
「だめよ。かけ直すつもりもないくせに」
「わかっているなら率直に言うよ。話すことはもう何もない」
「私にはあるの」
「約束が違うね」
「約束なんてしていないわ。あなたが勝手にそう思っているだけよ」
「物のわかった大人の女性だと信じていたがね。僕の思い違いかな」
「いいえ、そんなことないわ。物のわかった大人の女のつもりよ。だから提案があるの」
「提案? だめだ。あのことは終わったんだ」
「そう。あれは終わったの。それは私も認めるわ。提案というのは別のことよ。新しく始めない? 秋からの関係というのを」
男が黙った。
「ひとつ訊《き》いてもいいかい」
「どうぞ」
「もしも、断ったらきみはどう出る?」
「家庭内のいざこざが起こるかもしれないわ」
「それじゃまるで脅迫だ」
「本意じゃないのよ。でもあなた次第よ」
再び男は黙りこんだ。
「夏の終わりまで、きみが好きだったのに」
と、織田は言った。
「残念だな」
奈津世の胸がチクリと痛んだ。プライドも。
「私もよ」
だが、体中の血が流れだしていくような気がしているのだ。
「まだしも捨てないでくれと泣きつく女の方が、今のきみのやり方よりは可愛《かわい》らしいよ。それに多分、ずっと効果的だったろうな」
「そうでしょうね。でもいずれにしろその時機は失ったわ」
奈津世の声に初めて哀《かな》しみが滲《にじ》んだ。
「で、具体的に僕はどうすればいいんだい」
と織田が訊《き》いた。
「逢《あ》ってくれればいいのよ。今まで通りに。さしあたっては今週の金曜日。七時半に例のバーで」
「ルームは僕が予約するのかい」
「それも今まで通りよ。支払いの方もね」
と彼女は冷たく言い添えた。
夏を無理やりに引き延ばして何になるのだろうか、と奈津世は待ち合わせのホテルのバーへ向かいながら、自問した。
でもあの人に逢いたい。あの人だけがぬくぬくと幸せなのが許せない。
あの人が好きだった。日焼けして精悍《せいかん》な風貌《ふうぼう》も、自信に満ちた寛《くつろ》いだ態度も、深みのある声も、それからベッドの中で彼女にするさまざまなことごとも。
バーには人気がなかった。ひとつだけ、観葉植物の陰に灰色の背中が見えていた。
灰色の背中が動いた。くすんだような灰色の横顔が見えた。
輝くばかりに日焼けした精悍な風貌は、どこにも残ってはいなかった。織田は、気後《きおく》れしたように眼をしばたたかせて、奈津世を見上げた。
彼女は無言で、男の前に腰を下ろした、それからもう一度、無意識に貧乏ゆすりをしている織田を眺めた。
「日焼け、残っていないのね」
「秋だからね」
「少し痩《や》せた?」
貧相に見える男の肩のあたりに眼をやりながら、彼女は言葉を重ねた。
「そんなことはないと思うけど」
織田は左手で耳の上の髪を掻《か》き上げた。薬指のゆるい結婚指輪が鈍く光った。
「また逢《あ》えて良かったわ」
と奈津世は唐突に言った。男がその言葉を誤解して不安そうな表情で彼女を見た。
「夏、ほんとうに終わったみたい」
せつないような寂寥感《せきりようかん》と同時に、安堵《あんど》の思いが、急激に奈津世を包みこんだ。
ティオペペ
オフィスを出たとたんパラパラときたので、小島麻子は歩みの速度を早めた。地下鉄の駅までなんとか逃げ切れると思ったが、ものの五百メートルもいかないうちに、本降りになってしまった。
慌てて飛びこんだのが、本屋の軒先。すでに同じような雨やどり組でたてこんでいる。いち早く店員が雑誌類の上に広げた透明ビニールの上にも、点々と雨垂れがついている。
雨宿りの男女の、濡《ぬ》れた衣服や髪の毛から、獣の匂《にお》いがたちのぼり、それが女たちの香水や男たちの整髪料の香りと混じって、ほとんど耐え難くなってくる。
麻子は首だけねじって後方の店内にまだ多少のスペースがあるのを認めると、人々を掻《か》きわけて奥へと進んだ。
文庫本のコーナーで立ち止まると、見るともなく背表紙のタイトルを眺めていった。背後ではまだ歩道に落ちる激しい雨の音がしている。
レジのそばの店主とおぼしき中年の男が、自分ばかりをチラチラと見ているような気がしたので、麻子は雨宿り代に三百八十円くらいを支払うのはやむをえないとあきらめ、適当な文庫本の背に手をかけた。まさにその時、
「その二つ隣のロアルド・ダール、最高に面白いよ」
という男の声が、麻子のすぐ耳の背後でした。あまりにも近いので、男の温かい息が皮膚に感じられるほどだった。
余計なお世話だと、チラっと横眼で見ると、あまりパっと見栄えのしない風采《ふうさい》。麻子は微《かす》かに肩をすくめるのにとどめた。
「良かったら、どこか感じのいいバーで、ティオペペでも飲みながら、ロアルド・ダールについて話しませんか」
ますますの囁《ささや》き声で、熱い息と共に、その男はそう麻子の耳の中へと吹きこんだ。
「私に言ってるの?」
麻子はその男の方は見もせず、高飛車に片方の眉《まゆ》だけを上げて、そう言った。
「僕のこと、なれなれしい男だと思っているんでしょう」
男はすこしもひるまずに、ニヤリと笑った。
「その通り」
と麻子は男から離れながら言った。
「誰にでも声をかけるような男だと、思っているんでしょう」
「違うの?」
「だとしたら、あなたは自分を低く考えすぎているな。そこら辺にいる女の子と同じように自分のこと思っているんですか?」
なかなかの科白《せりふ》だと思ったが、風態におよそ似合わない。男は顔とはいわないが、言っていい科白と悪いのとがある。滑稽感《こつけいかん》まで漂ってくる。
麻子はその点に同情を禁じ得なかったが、彼女にも趣味というものがある。
男は中肉中背。がっちりとしているがどこか鈍重。硬そうで多めの髪。多分フケ性なのに違いない。
「悪いけど、興味ないわ」
と麻子は、まるで顔の前をブンブン飛んでいる青蠅《あおばえ》でも追い払うような仕種《しぐさ》と共に、そう冷たく言った。
「し、しかし、ダールの作品は絶品なんだがなあ」
男は慌てて食い下がった。
「そうじゃなくて――」
「ティオペペが嫌いなら、何か別の飲みものを」
必死のあまり、唾液《だえき》を飛ばしながら言いつのる。
「あのね、興味がないのは、あなたなの」
麻子はとどめを刺すように、そう言った。
一瞬、男の表情がひどく驚いたようになった。次に、見開かれた両の目に痛みとも悲しみともいえない色が浮かんだ。
なんと大袈裟《おおげさ》なと内心思いつつも、麻子は急になんとも後ろめたいような気分に襲われた。男から滲《にじ》みだす幼児のような無防備さは彼女に嫌悪の情をもよおさせたが、同時に踵《きびす》を返して歩み去り難いような気持ちもした。男の両の目から今にも涙がこぼれ落ちそうだと思った。
彼女はうろたえて棚の上へ手を伸ばした。そして彼女の困惑した指がロアルド・ダールの短編集に触れた。
「どうせ何か一寸《ちよつと》買わなくちゃいけないんだから」
と麻子は自分とその奇妙な男にむかって、そうあいまいに呟《つぶや》いた。
レジに向かうと、男も黙ってついて来る。雨はだいぶ小降りになっていた。
五百円玉を出してお釣りをもらうと、麻子は通りに出た。本屋の軒下で雨宿りをしていた人々の数が減っていた。すぐ背後にまだ男がついて来るのがわかった。
「どこまでついて来るつもり?」
振りかえりもせずに麻子が訊《き》いた。
「その先に素敵なカフェバーがあるんだけど」
と男は麻子と肩を並べながらおずおずと言った。雨が再び少し強くなっていた。麻子は投げやりに肩をすくめた。
カフェバーは別に素敵でもなんでもなかった。湿った革とカビの匂《にお》いがしていた。
「何を飲む?」
男は気を遣いながら、まだ少しおずおずとそう訊いた。自分で誘っておきながら、麻子がその場にいるのが信じられないといったふうだった。奇妙なおかしさと、あきらめの感情がふつふつと湧《わ》き起こるのを感じながら、麻子が言った。
「そうね、じゃ、ティオペペを」
それを聞くと、男の顔がぱっと輝いた。
「ティオペペを二つね」
と彼はうれしそうな声でバーテンダーに注文した。
「さて、と」
男はもみ手をしながら、麻子の横顔をのぞきこんだ。
「だけどちょっと意外だな。あなたみたいな女性がどうして――」
「それよりロアルド・ダールのことを話してよ」
麻子は男の言葉を途中でさえぎって、そう言った。
「え?……ああ、そうね」
男は急にうろたえたように視線を宙に泳がせた。シェリーグラスに注《つ》がれた飲みものが二人の前に置かれた。
「じゃ、まず乾杯といきますか」
と男はグラスを持ち上げたが、麻子は相手とグラスを合わせず、それを口へ運んだ。男がチビチビとなめるようにシェリー酒を飲むのを尻目《しりめ》に、彼女はぐっと二口であけてしまうと、軽く音をさせてグラスを置いた。
「ダールなんて読んだこともないんでしょう。それにティオペペも初めてなんでしょう」
横で男が赤くなって視線を落とした。
「すいません」
なんだかおかしくなって、麻子は笑いだした。男もつられて笑った。ひと笑いすると、お腹の中がひえびえと寒かった。
夕空はれて秋風……
夕刊を前に寛《くつろ》いでいる友子の足元に、ドサリとボストンバッグが投げだされて来た。
「何よ、乱暴ね」
と、別にたいして気にもしない口調で、友子は夕刊の記事を眺めながら言った。
「洗濯もんだよ」
と夫。
「わかってるわよ。毎度のことじゃない」
友子はボストンバッグは無視して、新聞の三面記事にゆっくりと眼を通しながら言った。
「ほんとうに可愛気《かわいげ》ってもんがないんだから。そっちはゴルフで遊びほうけて来たんでしょ。少しくらい悪いとか何とか気を使うってことしてくれてもいいのにね。お土産がボストンバッグ一杯の汚れものじゃ、急いで開いてみる気にもならないわよ」
と友子はそこで大きな欠伸《あくび》をひとつ。
「何をゴチャゴチャ言ってんだよ」
と、夫の洋介は冷蔵庫の中を覗《のぞ》きこんで、缶ビールをひとつ取りだした。
「ゴルフで遊びほうけるどころか、こちとらクライアントのアテンドなんだ」
「会社のお金でゴルフ三昧《ざんまい》とは、いい身分よね」
ガサゴソと新聞を畳みながら友子が言った。
「ところが」
と洋介は即座に否定した。
「手前ェの金使うからゴルフは面白いんだよ。青空の彼方に飛んでいくボールに、快い重みを感じるのは、手前ェの金使って打つ時だけさ」
よいしょ、と友子はダイニングチェアから腰を上げた。それから足元に転がっている夫のボストンバッグを拾い上げると、洗濯機の方へと歩きだした。
「夕食どうするのよ。中途半端な時間に帰って来るから、何にもないわよ」
と彼女はバッグのジッパーを開きながら、居間の方へ大声で訊《き》いた。
「何もないんなら、夕食どうするかなんて訊く必要ないだろう」
妻が大ざっぱに畳んだ夕刊を広げ直しながら、洋介が答えた。
「念のために訊いたのよ、どうするの?」
汚れものがくちゃくちゃに突っこんである。汚れていないものも一緒くたになっている。
「ビニールの袋に汚れたもの、区別して来てよね」
と思わず友子は文句を言った。
「いつもそうしてるだろう」
缶のふちに口をつけてビールを二口三口飲みながら、洋介が言った。
「何時《いつ》もしてるんなら、どうして今回にかぎりビニール袋にちゃんと入れないのよ。本当にゴルフ行ったの?」
最後の一言に、他意はなかった。言葉のアヤというか、つまりよく夫婦の間に飛び交う一種のだじゃれのようなものである。
いつもなら、「ばかなこと言うな」とか、「冗談言うな」とか、たいした意味のない即答で反応してくるのだが、洋介は何も言わない。
それで、友子の胸に小さな「?」が点じたのだ。
彼女は洗濯機の横から、チラリと居間の夫の後ろ姿を見た。
「今の、聞こえたでしょ?」
と言うと、洋介は新聞から眼を上げずに、
「今のって?」
と半ば上の空を装った声で訊《き》き直した。
フンと友子は鼻を鳴らした。
「ちゃんと聞こえてたくせに、何トボケてんのよ」
夫の背中を見れば、そういうことはピンとわかるものなのだ。緊張は、耳にも表れる。都合の悪いことを聞いてしまった耳というものは、ちょっと普段と違うのだ。
「ビニール袋か? 切らしてたんだろうよ、ちょっと見ても見あたらなかったんだ。しかし、そんなことにいちいち目クジラ立てるなって」
「ビニール袋じゃないの。その後の一言」
「他にも何か言ったのかい」
テレビ欄を熱心に読むふりをしながら洋介は言った。
友子の「?」は、急速に大きなマークに変わった。何げない質問に気軽に答えられないということは、何かがある。怪しい。
そこで彼女はいったん洗濯機の中に放りこんだ汚れものを、ひとつひとつ取りだして調べ始めた。
まず鼻にあてる。微《かす》かな汗の匂《にお》い。もう少し強くてもいいと思うが、まあいいだろう、とポロシャツは一応放免。
さてズボン。裾《すそ》を見る。ゴルフならドロや草汁などの、特有の汚れがつく場所である。
一応それらしき汚れがついている。しかし胸に「?」の灯《とも》った友子は更に詳細を検討する。そして感じたことは、どうもウサンクサイ。ほんのわずかに作為的というか、人工的な汚れのような気がしないでもないのだ。つまり、わざと草汁をこすりつけて汚れを工作しなかったとはいえないような……。
しかし、そうしたという証拠はない。友子は広げた夫のゴルフズボンをじっと見た。
そして、あっと思いあたったのである。ポケット口である。そこはティーの出し入れが激しいから、ドロと手あかと汗で、ひどく汚れる場所なのだ。
友子は、ズボンの前ナナメに切れこんでいるポケットを観察し始めた。
汚れは、ない。まったくといっていいほど汚れていない。これぞ証拠。
勝ち誇ったような興奮にかられて、友子は夫をふり返って見た。
「あなたッ」
自分でも驚くくらい声に凄《すご》みと力が入った。
夫の後ろ姿が、はっとして、一瞬凍りつくのがわかった。その背中は、次にくる友子の言葉を待って緊張していた。
痛々しいばかりの緊張感が、夫の背中に漂いだすのを見て、友子は次の言葉を呑《の》みこんだ。洋介は息もせず、みじろぎもせず新聞の上にかがみこんでいた。
長い数秒が過ぎた。
「今度からは必ず、汚れものはビニール袋に入れてよね」
友子は力つきた声でそう言った。とたんに夫の背中にみるみる安堵《あんど》の表情が広がった。
友子は洗濯機の水を入れ、洗剤を計って落とした。ドジなひと。アリバイ工作の無器用なこと。
考えてみれば不自然なことばかりである。まず、いきなり洗濯物の入ったボストンバッグを、妻の足元に投げだしたあの一連の動作は、悪いことを堂々と隠そうという無意識の現れだ。普段はあんなふうにはしないのだ。
それに、帰宅してビールを飲みながらスコアカードをためつすがめつするのを、無上の楽しみとしているのに、今夜にかぎりスコアカードがない。
さてと、この仇《かたき》はどう討つか、と友子はやおら現実的な眼で、夫の背中を睨《にら》みつけた。
プレゼント
このところ職場の雰囲気が、どうも微妙に違うような感じが、みな子にはいなめないのだ。ちょっと席を外したりすると、複数の視線が背中に突き刺さるような気がするし、何をやってもどこにいても、たえず他人《ひと》の眼に監視されているというか。
どこかに出かけていてオフィスに戻って行くと、一か所に集まってお喋《しやべ》りをしていた女子社員が、急にいっせいに口をつぐんで不自然に黙ってしまったり、それを機にバラバラと解散してしまうということも、一度ならずあったのだ。
どうやら何かの噂になっているらしい、ということはみな子にもわかるのだが、具体的に何が問題なのかとんとわからない。
去年、彼女の作った広告が賞を取って以来、社の内外で何かと話題になることは多かった。喜んでくれたのはクライアントと社の上層部の連中だけで、同僚とその周辺は嫉妬《しつと》とねたみを隠そうともしなかった。
嫉妬というのは女の専売特許かというとそれは大まちがいで、男の嫉妬ねたみの陰険さに比べれば、女のそれはまだよほど可愛気《かわいげ》があるというものである。
少なくとも周りの女たちには彼女の足を引っぱるような、頭脳も才覚も欠けている。
そんなわけで、賞を取りたての一、二か月は、はっきり言って職場は針のむしろであった。
「偉くなると、嫁さんのもらい手がなくなるよ」
と、通りすがりに背中へそう浴びせかけられたりした。
「いいのよ、ムコさんもらうから」
そう言ったその日のうちから、みな子の姓の上にミズというのがついてしまった。
しかし人の噂《うわさ》も七十五日の例にもれず、やがて騒音も潮が退くように鎮まり、ただミズの二字だけが残った。
それが今度の奇妙な沈黙である。しかも前のよりずっとたちが悪く不気味だ。さしあたって特に何か身に覚えがあるわけでもない。もっとも二十九歳にもなれば、清廉潔白というわけにもいかない。たいていの二十九歳で独身の女なみに、叩《たた》けばホコリくらいは出る身である。
そんなことで少々気がめいっていると、机上の電話が鳴った。
「営業の佐竹ですよ」
と相手が言った。女子社員の間では評判の悪い既婚のプレイボーイだった。
「何か?」
「今夜つきあわない?」
「あなたとですか?」
みな子は見えない男にむかって軽蔑《けいべつ》するように片方の眉《まゆ》を上げた。
「夜ごと違う男を漁《あさ》っているっていうじゃないか」
「誰がそんなことを?」
「バラエティーがお好みならと立候補したんだがね」
「おあいにくさま。私にも趣味というものがありますから」
「僕は趣味じゃない?」
「全く問題外」
にべもなく、みな子はそう言った。
「おかしいな」
と相手が無防備に言った。
「平山君の言うことと違うな。ミズ山口は公衆便所だ、とかなり悪質な噂《うわさ》がとびかっているよ」
「平山さんが噂の出所ですか」
腹の底が怒りのあまりしんと冷えた。
「ま、いいじゃないか」
と相手はそそくさと受話器を置いた。
ホテルのバーはひっそりとしていた。外国人が数人、小声で商談をしているだけで、他には誰もいない。
「山口みな子さんからお誘いがかかるなんて光栄だな」
と平山がおもねるような声で言った。
「ずっと前にあなたに誘われた時、ご好意に応《こた》えられなかったから」
みな子は感情を隠して柔らかい声で言った。
「そうだよ。あの時はケンモホロロでさ。恨みましたよ」
スコッチの水割りをチビチビとなめながら、平山が言った。
「私って変な性格で、好意を持っている人に対して何故《なぜ》だかケンモホロロになっちゃうの。だから失恋ばかり」
「誤解しちゃうようなこと、言わないで下さいよ」
平山は興奮気味に言った。
「誤解してくださってもいいのよ」
平山はそれを聞くと、驚いたなあ、まいったなあを口の中でくりかえし、
「感激だなあ」
と茫然《ぼうぜん》とした体で言うのだった。
「夢かな。それともみな子さんにからかわれているのかな」
「まさか。私って好きでもない人とお酒飲んだり食事するくらいなら、ふとん被《かぶ》って眠ってしまう方がいいと思う口なの」
「そんなこというと信じちゃうよ、もう!」
「もっとはっきり言うとね、このひとと寝てもいいと思えないような男性とは、絶対に飲んだりお食事しない主義なの」
「じゃ!」
平山の細い眼が輝いた。
「ええ」
みな子はしおらしく視線を伏せて、自分の手を見つめた。
「だけどあの時のきみは、本当に冷たかったんだぜ」
とホテルルームの皺《しわ》になったシーツの上に身を横たえながら、平山が急にくだけた口調でそう言った。世の中には一度寝ただけでもう自分の女みたいに思いこんでしまう妙な男が、よくいるものだ。
「まだあの最初の時のことにこだわってるの?」
「忘れろったってさ。虫ケラみたいに扱われちゃさ、頭に来るよ」
「それで私のこと、あることないこと言いふらしたの?」
「え?」
皺くちゃのシーツの上で、平山は貧相な裸体をこわばらせた。
「虫ケラみたいに扱ったのはね」
と急にひややかな声でみな子が言った。
「事実、虫ケラみたいな男だと思ったからよ」
「……なに?」
素裸のまま男は気色《けしき》ばんだ。
「今でも虫ケラみたいだと思っているわ」
さっさと服を身につけながら、みな子がいっそう冷たく言い放った。彼女はバッグを取り上げ、ヒールに足を突っこんで、出口に向かった。
「たいした捨て科白《ぜりふ》だよな。けっこういい思いをしたくせに」
「だからというわけでもないけど、プレゼントをあげるわ」
ドアのノブに手をかけながら、みな子が言った。
「私、エイズなの」
とたんに男はベッドから跳ね起きて、シャワールームに飛びこんだ。みな子はニヤリと笑い、後ろ手にドアを閉めて歩み去った。
決 意
マンションのドアの前で、三郎は思わず回れ右をしたいような衝動にかられた。
気配を察したのか鈴木|徹《とおる》が三郎の背中をドンと叩《たた》いて言った。
「遠慮するなッ」
「遠慮じゃないさ」
気おくれだ。親友の家庭の中など、できることなら覗《のぞ》きたくないというのが正直な気持ちなのだ。
とくに鈴木徹の日頃の悪行の数々を目撃し、かつ場合によっては共犯ということもあったりするわけだから、どういう顔をして親友のカミさんと対面すればいいのか、と三郎はユーウツなのだった。
つい最近も鈴木は会社の若い女の子とスッタモンダやって、どうしても手を切りたいというので、本意ではないがその女の子を口説《くど》く役割を三郎は引きうけたばかりなのである。
どちらかというと三郎の方が男前なので、女たちはあっけなく乗りかえるのだ。鈴木徹との恋の痛手がいやされる頃を見計らって、三郎も上手に手を引くというやり方だ。
三郎という後ろ盾があるものだから、鈴木の女癖の悪さはなかなか修まらない。
鈴木のマンションのドアには、徹の名の横に美子《よしこ》という文字が並んでいる。ドアの向こうで物音がし、錠が外れた。
「お帰りなさい」
美子が弾んだ声で夫を迎えた。それから鈴木の背後でなんとなく落ち着かない表情の三郎を認め、
「あら」
と口元をおさえた。
「無理矢理に誘ったんだよ」
と鈴木は言った。
「こいつ、いつ誘ってもバカみたいに遠慮するのさ。だから今日は首に縄をつけて引っぱって来た。三郎、覚えてるよね?」
「ええ、披露宴の時に一度おめにかかっただけだけど」
と美子は、ようこそと頭を下げ、どうぞどうぞと三郎を招じ入れた。
「電話でそう言ってくれたらいいのに」
と、慌てて、居間のソファの上のクッションを置き直しながら、美子は甘い声で夫に文句を言った。
「いいんだよ。こいつはそんなことぜんぜん気にしないから。な?」
と鈴木は三郎を振り返った。
「ああ」
と三郎は少し早すぎるタイミングで相づちを打ったものの、室内の乱雑さにいささか度肚《どぎも》をぬかれた。
「でもご馳走《ちそう》くらい作れたのに」
と鈴木の妻はバタバタとキッチンへと急ぎながら言った。
「特別作らなくても、いつもの美子ちゃんの料理がいいの」
と鈴木は歯の浮くようなことを平気で言った。それにしても、二人とも仕事帰りに一杯やりながら腹ごしらえはして来ているのである。
「オイ、腹空いてないよ」
と三郎は小声で鈴木に言った。
「実は俺《おれ》もさ。しかし女房の手料理を拒絶しちゃいけないのさ」
なるほど、と、三郎は、最近とみに下腹の出て来た親友を眺めやった。
「ねえねえ、トオル聞いてよ」
とキッチンからフライパンでいためものをする音と共に、美子が声を張り上げた。
「わたしさあ、今日テニスのシングルスで、河井夫人に6―3と6―2で勝っちゃった」
「へえ! 勝ったの? あの河井夫人の鼻あかしたのか。気分いいだろう、美子ちゃん」
「もちろん、最高に気分いいわ」
いためものの匂《にお》いが室内に充満する。三郎は窓を開けたい衝動を覚えた。
「トオルは会社でどうだったの?」
冷蔵庫から氷を取り出している背中に美子が声をかけている。三郎はカーディガンやらエプロンやらトレーナーが無造作に脱ぎすててあるソファに、浅く腰をかけて、夫婦の会話を聞くともなく聞いていた。
「会議でさあ、十二月に北海道を集中的に回ることがきまってさあ」
「あら、北海道? 毛ガニが美味《おい》しいのよ」
「じゃがいももな。ウニとかイクラも」
「トオル、お昼何食べたの?」
「天丼《てんどん》」
「だめよ、炭水化物と脂肪ばかりとっちゃ。言ったでしょ。自分の体重もコントロールできないような人は、時代の先端を行けないのよ」
それから思いだしたように三郎を振り返って、
「三郎さんは、まだ独身だったわね?」
と訊《き》いた。
「相手がいないものでね」
と三郎は苦笑した。
「嘘《うそ》つけ」
と鈴木徹が水割りを作りながら言った。
「選《よ》りどりみどりで、掃いて捨てるほどいるくせに」
それから彼は妻の方に大きな声で、
「今日はね、こいつに結婚がいかにいいものかっていうことをさ、教えてやろうと思って呼んだんだよ」
と言った。
それから三郎にだけ聞こえる小声で、
「俺《おれ》さ、外では遊ぶけどさ、女房のことを愛してるからな」
と囁《ささや》いた。
「いいんじゃないの」
と三郎。
「結婚のいいところってね」
と、フライパン料理を皿に移して運んで来ながら、美子が言った。
「安心感だと思うわ。相手のことが全部わかっている安心感と、私のことを全部わかってもらっているっていう安心感ね」
「全部ね」
と思わず三郎は皮肉に呟《つぶや》いて、チラリと鈴木徹を見た。
「そのために、俺たちよく話しあうものな」
と鈴木はケロリとして言った。
「テニスも一緒にするしね」
美子は夫の手から彼女の分の水割りを受けとりながら言った。
夫婦の円滑なるお喋《しやべ》りが延々と続いていた。
「あ、ごめんごめん。ついおまえの存在を忘れた。で、どうだい、結婚っていいもんだろう?」
鈴木が五杯目の水割りを作りながらぬけぬけと訊《き》いた。
「うん。決心がついたよ。きみたちを見ていて、誰にするか、きめたよ」
一番無口な女にきめた。もうしゃべりたくないから、結婚するのじゃないか。
「良かった、良かった。じゃんじゃん飲もうぜ」
と三郎の胸の内を知るよしもない鈴木が愉快そうに笑った。
グルマン
女と待ち合わせるバーはホテルのバーにかぎるが、地上三十何階というところにない方が良いと、露木は信じて疑わない。
夜景などにたよるのは恋愛の達人とは言い難いではないか。きらびやかな夜景を話題にしなくとも、女の心をこちらへひきつけるのが、男の腕というものである。
で、彼は今宵、赤坂のホテルの一階にあるバー・ナポレオンで、すばらしい美人と向かいあっているというわけである。
キャンドルライトの仄暗《ほのぐら》い空間。革製の椅子《いす》が放つ古革の郷愁を帯びた匂《にお》い。そして露木はそのあたりを十分計算した上で、クリスチャン・ディオール社の男性用オードトワレなどをヒゲの剃《そ》りあとに滲《し》みこませてきたのだ。古革と苔《こけ》の匂い。そして彼の喫《す》うのは細口のシガー「シガリロ」。正に大人の男の世界であると、彼は自己満足の溜《た》め息をつくのだった。
「何を頂こうかしら」
と若い女は途方に暮れたようにメニューから顔を上げた。
「きみにぴったりの飲みものをアドバイスしてあげようか?」
「じゃ、お願いします」
素直に頭を下げるところがまた可愛《かわい》いのである。取引先の受付をしている女の子で、前々から眼をつけていたのだ。
「ではこの若いお嬢さんにミモザ・カクテル。ボクはティオペペね」
やがてシャンパンとオレンジジュースを合わせたカクテルが若い女の前へ。シェリーが露木の前に置かれた。
「きれいなカクテル」
と彼女は眼を輝かせた。
「きみのドレスの色に合わせたのだよ」
こんな純情な子をベッドへ連れこむのは、赤子の手をひねるよりやさしいだろうなといささか感傷的になりながら、露木は気障《きざ》な科白《せりふ》を口にした。
ここで感傷的になるのは彼のやさしさであり、センチメンタリズムでもある。
彼はセックスそのものをむろん嫌いではないが、どちらかというとそこへ至るまでのプロセスを楽しむタイプの男である。セックスそのものはスポーツだと割り切っている。汗みどろになって切磋琢磨《せつさたくま》するのはスポーツの特徴である。そして汗をかいてスポーツをした後、全《すべ》ての男たちが感じる爽快《そうかい》な疲労感と、一抹《いちまつ》の淋《さび》しさ。
そこで露木は、ある西洋の哲学者がいみじくも言った言葉を思い出すのだ。――全ての動物は性愛のあと哀《かな》しい――。
その通りだ、と彼は思う。そして眼の前でミモザ・カクテルを啜《すす》っている、青ざめた花のような美しく若い女を眺めた。こんな気持ちは女にはわかるまいな。
ホテルのバーのあと、彼らはイヴ・モンタンの出ているフランス映画を観て、それから今宵のメインコースともいうべきフランスレストランへ。
「イヴ・モンタンて、素敵なおじ様ね」
と言って上気している若い女の真向かいではなく、九十度の位置にさり気なく腰を下ろしながら露木は、
「その昔彼はそれは素敵な若者だったんだがね。しゃれ男でさ、気障で、唱《うた》が上手《うま》くて」
「あら、唱が上手いんですか?」
「うん。イヴ・モンタンて、シャンソン歌手なんだ。彼の唱った『枯葉』聴いたことない?」
女は肩をすくめた。真っ赤に口紅が塗られてはいるが、あどけないような唇を見ていると、彼が『恐怖の報酬』を撮った頃には、まだこの女性は生まれていなかったのだ、と確信せざるを得なかった。
「映画の中で『ラセール』というレストランが出て来たね。あれ本物の『ラセール』。ギャルソンもソムリエも本物だった」
「どうしてご存知なの?」
「実はパリの『ラセール』に何度か行ったことがあってね」
と語尾の濁しかたにも多少の洗練が必要である。
「何にしようかしら」
と彼女はレストランでもメニューを前に思案顔だ。
「鴨《かも》が好きなら、この店の鴨肉のコンフィーは絶対におすすめ」
とそれとなくアドバイスしておいて、露木自身はホロホロ鳥の煮込み料理などを、注文した。
食事は一生懸命に食べること、というのが露木の持論だ。おしゃべりをしているうちに料理が冷たくなってしまったというのは論外である。この段階では時々眼を合わせたり、さりげなく相手の手首に指を添えたりする程度にとどめた方が良い。
「デザートを選んで頂こうかしら」
と女が言いだせば、あとはもうこちらのものである。眼の前の若い女は、煮ようが焼こうがお好きなようにといわんばかりの風情《ふぜい》である。窓際の席なので、夜の青山通りに向いた窓から涼風が吹きこんできていた。風には秋の気配が濃かった。
露木は彼女のために、洋ナシのタルトとエスプレッソを、それにカルバドスをリキュールグラスに一杯ずつ注文した。
「あなたはデザート召し上がらないの?」
と女が首をかしげるようにして訊《き》いた。口元がほころび、白い歯がこぼれた。その口元と白い歯に接吻《せつぷん》したいものだ、と露木は感じた。
「ボクのデザートは少し後で」
と片目をつぶってみせた。
――つまりベッドの中できみを頂くよ、と何時《いつ》もの科白《せりふ》が続くはずなのだが、女が言葉と言葉の間に科白をすべりこませたのだ。
「ほんとうに素晴らしかったわ」
と彼女は甘い吐息と共に言った。
「何もかも美味《おい》しくて」
「でもね、今夜の一番のご馳走《ちそう》はね」
きみなんだよと言いかけるのを、女がまたしてもさえぎったのだ。
「今夜の一番のご馳走が何だかあててみましょうか?」
長い睫毛《まつげ》にふちどられた黒い瞳《ひとみ》の中にもキャンドルライトがきらめいていた。
「いいよ。あててごらん」
露木は余裕で言った。女が何と答えるのか、興味|津々《しんしん》でもあった。
「一番のご馳走はね、この窓から時に吹きこんで来た秋の夜風」
まいったな、と露木は胸の中で呟《つぶや》いた。秋の風がご馳走だなんて呟く女の子に、きみが食べたいなんてとても言えやしない。
「露木さんグルメでいらして、色々なこと教えて下さったけど、何よりもうれしかったのはこの素敵なレストランで、この一番いいコーナーをとって下さったことよ。どうもありがとう」
ムム? と露木は緊張した。レストランのどの位置が最上席かと見分けるのには熟練を要する。あちこちにかよい、投資しなければ絶対にわからないことである。それにグルメでいらっしゃるからという一言に、わずかにからかうような甘い棘《とげ》のような響きも含まれないでもなかった。
女っていうのは一筋縄ではいかないものだ、と彼は改めて思い、だから面白いのだと自分に言いきかせた。つまり今夜の勝杯は相手に差し上げるということにして……。
やさしい女
女の腕の内側に、黒子《ほくろ》が縦に三つある。白くてひんやりとしていて、女の腕の内側は大理石みたいだ、と前野は思った。
三つ並んだ黒子の完璧《かんぺき》な丸さとつややかな黒さが、妙に非現実的な感じだった。
「くすぐったいわよ、やめて」
と、女が彼を軽く押して、たくみに躰《からだ》をひねるとベッドから滑りでた。年齢のはっきりしない女であった。化粧が剥《は》げ落ちたせいで素顔が覗《のぞ》いているが、その素顔は十八歳にも三十歳にも見えた。
「幾つ?」
と、前野はベッドサイドのテーブルから煙草を取り上げながら訊《き》いた。
「あたしの歳?」
顔に落ちてくる長い髪の束を、ものうい手つきで掻《か》き上げながら女が言った。
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
そう、実にどうでもいいことであった。前野は煙草を一本ぬきとると口にくわえた。
「こんなこと、よくあるのかい?」
くわえ煙草のくぐもった声で、投げやりに訊いた。
「それもどうでもいいことじゃないの」
裸のまま、窓の方へと歩いて行きながら、若い女は答えた。腰が痛々しいほどくびれていて、肉の薄い尻《しり》がそれに続いていた。
「あたしがもし仮に、今夜が初めてなのよ、と言ったって、あんた信じないでしょ?」
「うん、まあね。信じないね」
前野はそう言って、カチリと百円ライターの火を煙草に移した。
「じゃ、なぜ訊くの? 最初から期待してもいないことをどうして質問するの? 男ってみんな同じね」
女は寒そうに胸の前で腕を交錯させた。
「みんな同じだと言える程度に、男たちと夜を過ごしたわけだ」
吐きだした煙が、ゆっくりと室内を流れていく。前野は片手でシーツをたぐり寄せて、自分の下半身をそれで覆った。
女の髪は清潔ではなかった。妙な青いマニキュアを塗っている爪《つめ》が、ところどころ剥《は》げていた。足の踝《くるぶし》も、中年女のように固くざらついていた。前野は熱いシャワーに打たれたいと強く思った。けれども彼は、枕《まくら》を二枚重ねて背にあてたまま、煙草を喫《す》い続けていた。
「男って、自分のことは棚に上げて、町で引っかけた女にも貞節を求めるのよ」
窓の外に広がる夜景を眺めながら、女が言った。
「貞節ってのは変だよ、この場合」
「でも、まあそんなようなもんじゃない?」
と、女は肩をすくめた。
「男がするようなことを、女もすると沽券《こけん》にかかわるの? 男にだけ欲望があって、女にはないと思うの?」
「そんなことは言っていないさ」
前野は煙の行方を眼で追いながら答えた。
「でも、あんたのやり方ってそんな感じよ」
「どんな感じだって?」
「だから、男にだけ切実に満たさなければならない欲望があって、女にはそんなものがないとでも思っているようなやり方よ。いつもそうなの?」
「そうって?」
度肝を抜かれて、前野は若い女の言葉をおうむ返しにくりかえした。
「自分だけ満足すれば、相手はどうでもいいわけ?」
そう言って若い女は肩越しにふりむいて前野をじっと見た。
「しかし、き、きみ」
長くなった煙草の灰が胸の上に落ちて、一瞬熱感をもった。あわててそれを指で払うと、
「きみだって、イッタじゃないか。躰《からだ》が反り返ったじゃないか」
と、軋《きし》んだ声で女に言った。
「あれは演技」
にべもなく女はそう言った。
「あ、こりゃだめだ、と思ったとたん、気分がさめちゃったのよ。あとは一刻も早くあんたに終わってもらうために、ああしただけ」
「そりゃないぜ」
前野は愕然《がくぜん》として女を眺めた。
「だって、あんたのテクニックじゃ、はっきり言って女はイカないよ」
「冗談じゃないよな」
前野は枕《まくら》からずり落ちた格好で天井をふり仰いだ。
こんな小娘に一体何がわかるのだと頭の中がかっと熱くなった。
「あんた奥さんいる?」
女は窓際から戻ってくると、そこここに脱ぎ捨ててあった着るものを、ひとつずつ拾い集めながら、そう訊《き》いた。
「いるさ。女房が一人、恋人が一人」
「で、どうなの?」
「どうって?」
「二人とも満足してると思う?」
「と思うね」
やけに力を入れて前野が言った。
「つまり、反り返ったりするから?」
女は皮肉な笑いをニヤリと浮かべると、手早く下着をつけ始めた。
「演技じゃないと、どうして言い切れる?」
「言い切れるさ」
「だって、現にあたしの演技が見ぬけなかったってのに?」
「君はだな、不感症だよ」
「あんたのプライドのために、そうだと言ってあげたいんだけどね、違うわよ。特別感度がずばぬけて良くもないけど、悪くもない。ま、平均的ってところかな。つまり、あんたの奥さんや恋人とさほど違わないってことよ」
女はすっかり着終わると、ストッキングに足を通し始めた。
「きみ、一体何者?」
呆気《あつけ》に取られて、前野が間のぬけた質問をした。
この場合、普通男は腹を立てるものなのだろうが、前野は別の感情を抱き始めていた。
「普通の女の子」
鏡の前でストッキングのねじれを点検しながら、女はケロリと答えた。
「とうてい普通の女の子って柄じゃないね」
「どうして? 本当のことをズバリ言ったげたから?」
最後に指輪や時計をはめながら女は言った。
「いつもあのときアクセサリーはずすのかい?」
と、前野が訊《き》いた。
「そうよ。男の人の体にひっかき傷をつけちゃ、わるいもの」
「やさしいんだな」
と、前野がつぶやいた。
「あんたのこと愛してないから本当のことが言えんのよ。明日になったらケロリと忘れちゃえるようなひとだから、事実を教えてあげたのよ」
女はハンドバッグをひょいと椅子《いす》の上からすくい上げると、ドアに向かって歩きだした。
「奥さんや恋人は、多分あんたのこと愛してるから、本当のことが言えなくて、反り返るのよ」
「ちょっと待てよ」
と、前野は女を引き止めた。
「すぐ仕度するからさ、帰りに一杯飲もうや」
奇妙なことに、彼はその女に、友情みたいなものを感じ始めているのだった。
モーニング・コール
暁の最初の仄白《ほのじろ》さが寝室に忍びこむと、麻衣子は苦しそうな溜《た》め息と共に目を覚ました。
まだ完全に目覚めきっていない彼女の頭は、その一日がどんな日なのかと、素早く思いをめぐらせる。
麻衣子の肉体は眠りの快さの延長の中で、まだ温かい。彼女の頭脳がその日がどんな日なのかをまだ探りあてていない束《つか》の間、麻衣子はぬくぬくと幸福なのだった。
そしてそれは突然に、しゃぼん玉のように弾《は》じけて霧散してしまう。その束の間のぬくぬくと温かい幸福の幻想は。
見捨てられているという思い、世界中で自分だけが天涯《てんがい》孤独な孤児であるかのような思いに、やがてからめとられていくのだ。男への恋心が爆風のようにつのり、麻衣子はせつなげにあえいだ。
こんなにも一人の男を思いつめたことなど、かつてなかった。こんなにも人を好きになるということは。
彼と何時《いつ》も一緒にいたい。だけど怖い。彼をみつめていたい。みつめられたい。抱きしめたい。体のすみずみまで愛されたい。だけど怖い。
この時刻、冬の暁の仄白《ほのじろ》さの中で、彼はまだ眠っているのだろうか。独りで? それとも誰かの白い腕の中で?
唐突に嫉妬《しつと》がつのり、麻衣子の喉《のど》はカラカラになる。他の女が彼を愛するなんて許せない。麻衣子から理性が剥《は》がれ落ち、彼女は少し汗ばんで、傍の受話器を取り上げる。
二度続けてダイヤルを回しまちがえ、三度目に呼び出し音が鳴った。
自分の耳にも、けたたましい悲鳴のように響く電話の呼び出し音。二度、三度。麻衣子は耐え難くなり、六度目で受話器を戻した。
冷静さが戻ると、ぞっとした。もしも三井達郎が出たら、自分は何を口走ったのだろう? 早朝の五時半に叩《たた》き起こしたことの言い訳を、どう言うつもりだったのか。
麻衣子はもう一度眠ろうとして、ベッドの上で何度か反転をくりかえした。
「どうしたの? 元気ないじゃない。このところ少し痩《や》せたんじゃない?」
同僚の紀子が心配そうに言う。
「ちょっとね。風邪《かぜ》みたい」
麻衣子は苦笑してごまかした。
「風邪だって?」
と背中あわせの席から、三井達郎の声がした。
「きみみたいな女でも、風邪ひくことあんの?」
とたんに麻衣子は内心手ひどく傷つく。
「それどういう意味よ? わたしみたいな女でもって」
心の動揺などみごとに隠して、麻衣子は突っけんどんな声で背中ごしに訊《き》き返した。
「あんまりお高くとまってるんでさ、男どもだけじゃなくウイルス菌もビビっちゃうんじゃないかと思ってさ」
三井は邪気のない声でそう言って、ハハハと笑った。
「何がハハハよ。男どもが寄りつかないなんて、勝手な想像しないでもらいたいわね」
麻衣子は椅子《いす》を引いて立ち上がりながら言った。
「あんまり寄りついてもらいたくない男の前では、お高くとまっているだけよ」
と彼女は捨て科白《ぜりふ》。同僚の紀子が向こう側の机から眉《まゆ》をひそめて麻衣子を眺め、
「あなたたちって、寄るとさわると喧嘩《けんか》なんだから」
と言った。
「ねえ、どうして?」
そう訊かれても麻衣子には答えようがない。麻衣子自身にだってわからない。顔で笑って心で泣いて。
「理由は簡単さ。仲が良いほど喧嘩するって言うじゃないか。案外お互いに愛しあっているのかもね」
再びハハハと笑いとばして、三井達郎は仕事にかかった。
ふと気がつくと、七時を回っている。社内にいるのは営業課の男たちが数人。
麻衣子の背後で三井達郎が大きく欠伸《あくび》をする気配。
「まだいたの?」
「いて悪かったね」
またしても背中ごしの何時《いつ》ものやりとりだ。
「どうしたのよ? 一日中欠伸ばっかりして」
すぐには返事がない。
「飲み過ぎ? それともお遊びが過ぎたの?」
「余計なお世話だよ」
三井達郎はポイとボールペンを投げだしながら言った。
「頭くるんだよな。朝早くよ、電話が鳴って叩《たた》き起こされてさ」
「へえ? 誰から?」
「わかんないよ。出ると切れてた」
「いたずら電話じゃないの? どこかであなたを思いつめた女がふっとダイヤルを回したりしたのよ」
「そんなもん、いるかよ」
椅子《いす》の背にかけたツイードのジャケットを肩にかけながら、三井達郎は椅子から腰を上げた。
「さてと、帰るか」
と、彼は室内を見回した。
「一杯やって帰りたい気分だけど、ロクな人間が残っていないな」
ふと彼の目が麻衣子の背中に止まった。
「どうせ断るんだろうけどさ、一杯、俺《おれ》とつきあう?」
心臓が喉《のど》から飛び出しそうだった。胸の鼓動を相手に聞かれまいと、麻衣子が反射的に言った。
「断られるとわかってるんなら、訊《き》かないことよ」
断腸の思いとはまさにこの思い。
「俺はお呼びではない、と。じゃな、お先に」
あっさりとそう言って、三井達郎は歩み去った。
室内から彼の姿が消えたとたん、それまで彼女を支えていたものが体から消え、麻衣子はがっくりと肩を落とした。好きよ、好き、好き、好きなのよ。
夜は長く、なかなか寝つかれない。麻衣子が空《むな》しく抱きしめつつ眠りにつくのは、彼の不在感だ。彼のいない人生。彼の温もりなしのベッド。時に自己|憐憫《れんびん》はほろ苦い媚薬《びやく》の役割を果たすものだ。麻衣子の一日はそうして失意の甘い涙で終わる。
再び、暁の仄白《ほのじろ》さが室内に忍びこむ時刻、麻衣子は暗い湖の底から浮かび上がってくる泡のように、ぽっかりと目覚めた。
束《つか》の間のまどろみの後、今日もまた苦しい恋の一日が始まったことを知るのだ。あの人が欲しい。あの人が恋しい。こんなにも思っているのに、三井達郎の冷たいこと。あの人が憎い。麻衣子は傍の受話器に飛びついて、闇雲《やみくも》にダイヤルを回し始める。何度も番号を回しまちがえて、ようやく彼の呼び出しがなる。三つ、四つ、五つ。悲鳴のように。
麻衣子の体がすっと冷たくなる。彼女はまたしてもそっと受話器を元に戻すのだった。
赤プリ
真由美。二十六歳、OL、独身。目下妊娠三か月目。
現在結婚を約束した婚約者がいるが、他にも会社の上役との不倫の関係を、進展させている。彼とは結婚後も縁を切らないで、秘《ひそ》かに関係を続けようと思っている。食事のメニューの選び方も、ワインの知識も、ベッドの中のことも、婚約者とはケタ違いに洗練されているからだった。秘密さえお互いに守れば、別に誰かに迷惑がかかるわけではなかった。人生、楽しく生きるのに越したことはない、と真由美は思っている。
婚約者の四郎は、真面目《まじめ》というよりはきまじめすぎるくらいの性格だが、結婚の相手にはその方がいい。将来夫の浮気で泣かされるのはたまらない、と真由美は自分のことなど棚に上げて、そう考えるのだった。
妊娠していることがわかると、どうしたものか、親友のケイ子に打ちあけた。
「どっちの子なの?」
と事情を知ったるケイ子が訊《き》いた。
「それがどっちでもないのよ」
たいして悪びれるでもなく真由美が答えた。
「ほら、こないだディスコで知りあった子覚えてる?」
「え? あの子? だって大学生じゃないの、彼」
「大学生だって男は男よ」
真由美はニヤリと笑った。
「へえ、あの後、あの子とホテルへ行ったの?」
「近頃の大学生ってすごいわね。驚いちゃった。ポルシェで赤プリなんかへ堂々と乗りつけるのよ」
「でもどうしてその子の子供だってわかるの?」
会社の近くのル・コントで、真由美のおごりのケーキをほおばりながら、ケイ子が眼を丸くした。
「たまたまその日が排卵日だったのよ」
「予防しなかったの?」
「だって、その夜赤プリでアレやることなんて考えなかったもの」
「そのポルシェの子から、たんまりふんだくることね」
「それがドジでさ、住所も電話も訊《き》いてないのよ」
「だったら、上役のおじ様に出させるしかないね」
「あたしもそう思う」
「でも四郎さんはどうするの?」
「彼にも話した方がいいかな?」
「そうよ。ついでに四郎さんからもお金取っちゃえばいいのよ」
二重取りまでは考えなかったが、お金をもらわないのでは、かえって疑われるかもしれない。ちょうどジュンコ・シマダのドレスがひとつ欲しかったところだし。
真由美は悪友ケイ子と顔を見合わせて、ペロリと赤い舌を出した。
イタリアンレストランで、オッソブッコとキャンティ・クラシコのワインで夕食が終わった後、頃合いを見計らって真由美が例の件を切りだした。
「実は、あたし産もうかどうしようかなと思って……」
世の中、全《すべ》てかけひきである。
「何をさ?」
寛《くつろ》いだ態度で篠山が訊《き》いた。
「猫の子産むわけじゃないのよ。人間の子」
「だれが?」
篠山はあくまでも落ちついている。
「あたし」
「そうか。君が子供を産むかどうか迷っているって言うんだね?」
「人ごとみたいに言うのね」
「で、相手は?」
まるでゲームかなにかのように会話を楽しんでいるみたい。さすが余裕だ。
「きまってるでしょ。今、眼の前でニヤニヤしている男性よ」
「ジョークがうまいね」
「ジョークなんかじゃないわよ。来週病院に行きますからね」
「病院はよく選んだ方がいいよ、大事な躰《からだ》なんだから」
「ご忠告通りにしますわ」
と右の掌《てのひら》を上に、ひょいと出した。
「じゃまあ、お大事に」
と篠山がそれを無視して椅子《いす》から腰を浮かせた。
「ま、待ってよ。どうしたのよ急に? ホテル行かなくていいの? それから手術のお金、出してくれるんでしょ?」
真由美は慌てて相手を引きとめた。
「その手には乗らんよ」
と篠山はいかにも楽しそうにニヤリと笑った。
「パイプカットしてること、言ってなかったよね」
シマッタと唖然《あぜん》としている真由美をその場に残して、篠山は笑い声を上げながらゆうゆうと歩み去ったのである。
何さ、ケチと、真由美は胸の中で悪態をついた。これで篠山との関係も一巻の終わりか、と事の成り行きの意外さにいささか落ち込んでしまったのである。
残る頼りは四郎だけ。この分ではジュンコ・シマダのドレスは諦《あきら》めるしかなさそうだった。レストランのレジの近くの電話から、さっそく婚約者の自宅へと電話を入れた。
「四郎さん? 急なんだけど大事な相談があるのよ。今から逢《あ》える?」
すると四郎の方もホッとした声で、
「実は僕も真由美に、前々から大事な話があったんだ。ちょうど良かったよ」
と、すぐに呼び出しに応じた。
渋谷の喫茶店で九時に待ち合わせた。とるものもとりあえずといった感じで、四郎がやって来た。そんな一生懸命なところが、悪いけど真由美に言わせるとどこかアカぬけないのだ。四郎の鼻の頭に浮かんでいる汗つぶを眺めていると、今更のように篠山との失敗が悔やまれる。
鼻の頭に汗をかくなんて、なんだか犬みたいだと思った。
そういえば真由美をみつめる四郎の眼も、飼い主を見上げる犬の熱いまなざしに似ている。このひと、あたしにメロメロなんだわ。結婚生活では、余計に相手に惚《ほ》れている方が、負けである。真由美は近い将来の自分の優位を思って、ひそかにほくそ笑んだ。
「四郎さん、あのね、落ち着いてよく聞いてね。あたし妊娠しちゃったみたいなのよ」
「え? ほ、ほんと?」
眼の玉が、今にもこぼれ落ちそうだった。
「何もそんなに驚くことないじゃない。オーバーねえ。あたしたち、赤ちゃんが出来るようなこと、してないわけじゃないんだから、ね?」
「しかし……」
と四郎は急に思いつめたように腕を組んだ。
「そんなに深刻にならないでよ。来週病院に行ってくる。ね? いいでしょ?」
しかし四郎はますます眉間《みけん》の皺《しわ》を深めるばかりだ。真面目《まじめ》人間はこれだから困る。
「それより、四郎さんの話って何よ? 大事なこと?」
真由美は話題を変えた。
「今となっては、すごく大事なことだよ」
何時《いつ》になく冷たい四郎の声。
「前々から君には言っておかなくちゃいけないと思いながら、つい言い出しかねてのびのびになっていたんだ。実は、俺《おれ》、子供の時にオタフク風邪《かぜ》やってさ――」
真由美。二十六歳。妊娠三か月。ごく普通のOL。
友 情
「何とかして離婚できないものかしらね」
と和歌子が溜《た》め息をついた。
とても結婚している女とは思えない白くてきれいな指に、平打ちのプラチナの結婚指輪がキラリと光った。
いろいろ和歌子から聞かされてきた親友の陽子には、しかし彼女が何がなんでも夫と別れたいという理由が、どうもいまひとつわからなかった。
「だって、どこもこれといって不満があるわけじゃないんでしょ?」
「そこのところなのよ、不満なのは」
と和歌子は憂鬱《ゆううつ》そうに眉《まゆ》を寄せた。
「ほど良い温度の温泉にずっとつかりっぱなしって感じで、結婚生活がふやけてるんだもの」
「何言ってるのよ。敬介さんみたいな男性、めったにいないわよ」
「そんなことわからないじゃないの」
と和歌子は遠い眼つきをした。
「私ね、いつもスカーレット・オハラみたいに波乱万丈の人生に憧《あこが》れてるのよ」
「あのね、スカーレット・オハラが波乱万丈の人生を送ったのには、南北戦争ってものがあったからでしょ」
「ううん、そうとばかりは言えないと思うのよ。たとえ南北戦争が起こらなくとも、彼女は自分の生き方は常に、熱く激しいものにしようとしたと思うのよ」
「そんなこと」
と陽子は肩をすくめた。
「『風と共に去りぬ』を書いた本人のマーガレット・ミッチェルに訊かなければわかるはずないでしょ」
「とにかく私、敬介とはこれ以上一日も暮らして行く気になれないのよ」
「贅沢《ぜいたく》言って。敬介さんみたいな人とだったら一緒に暮らしてみたいって女がわんさかいるのに」
「へえ? たとえば?」
「会社ではすごくもてるって話じゃない。でも、なぜよ? もう彼のこと愛してないの?」
「激しくはね」
「こんなこと訊きたくないけど、夫婦のコト、あるの?」
「ごく普通って感じね。結婚して四年目の子供のいない夫婦がコトを行う程度に、うちもあるんじゃないの」
「結婚して四年目で子供のいない夫婦って、実際、月に何度くらい?」
好奇心をおさえきれず、未《ま》だ独身の陽子が思わず訊き返した。
「数えるほどよ」
数えるほどというのが何回くらいのことを言うのか陽子にはわかりかねた。
その顔色を読んだのか、和歌子が苦笑して言った。
「四、五回ってとこよ」
「へぇ! 二十代の若さでそんなに少なかったら、彼の方で浮気しない?」
「むしろそれこそ願ったりよ。不貞を理由に離婚をせまれるもの。ところが、うちのひとは他の女になんて見向きもしないんだから」
「そんなに自信持っていいの? 誘惑しちゃおうかな」
「誰が? あなたが?」
「冗談よ、冗談」
と慌てて陽子は顔の前で手を振った。
「そんなに別れたいんなら、いっそのこと、あなたが不貞を働いたらいいじゃないの」
と陽子は入れ知恵をした。
「そんな相手が現実にいれば苦労しないわよ」
「実際にいなくても、いるように見せかけるって手があるでしょ」
「たとえば?」
「家のあちこちに、男の存在を匂《にお》わせるものを残しておくとか」
「だから、たとえば?」
「灰皿に吸い殻とか」
「私だって吸うのよ」
「違う銘柄の、たとえば、いかにも男っぽい煙草の吸い殻よ」
「たとえば?」
と和歌子はやけに熱心だ。
「ジタンとか」
「他にも何かない? 男の存在を匂わせるもの」
「あんまりこれみよがしじゃない方がいいのよね。過ぎたるは及ばざるが如しだから。そうだ、トイレに細工をするとか」
「どんな?」
「いかにも男が来ていて使用したっていう感じに、トイレの便座の方だけ、上げておくのよ」
「芸が細かいのねえ」
と和歌子はすっかり感心して言った。
「さりげないところがいいところなの。さりげなくて、ほんのちょっとの不注意みたいに見せかけるのがコツよ。さりげないほど、疑惑が深まるというのが、人間の心理なのよ」
「ひっかかるかしら、うちのひと」
「まずは、百発百中ね」
「彼、すごく嫉妬《しつと》深いのよ」
「ますますいいじゃない」
「トイレの便座が上がってるなんて、見つかったらぶっとばされるにきまってるわ」
「少しくらい痛い思いは、この際、めじゃないでしょ」
「撲《なぐ》られるのはいいけど……」
「がまんがまん。晴れて離婚が成立すれば、ばんばんざいじゃないの」
「そりゃ、そうだけど」
と和歌子は上眼遣いに親友を見た。
「あのひと、立ち直れるかな?」
「あれだけハンサムでエリートコースにいれば、女がほっとくわけがないでしょ。かわりはすぐに見つかるわよ」
「陽子ったら、なんだかうれしそうだわね」
「そんなことあるわけないでしょう」
「でも、やけに熱心にすすめるんだもの。まるで私たちの仲を裂こうとするみたいよ」
「今更何を言いだすのよ。別れたいと言いだしたのは、あなたの方よ」
「そうだけど。何がなんでも離婚させたがってるみたい。何か魂胆《こんたん》があるんじゃないの?」
「魂胆?」
「そう」
「どんな魂胆よ?」
「だから、あわよくば私の後釜《あとがま》に坐《すわ》ろうとか」
「私が?」
二人の女の視線が絡んだ。先に相手から眼を逸《そ》らせたのは陽子だった。先に眼を逸らせたことで、魂胆|云々《うんぬん》を暗黙のうちに認めるような感じになってしまったのだ。
「離婚した亭主が誰と一緒になろうといいじゃないの」
と陽子は少し冷たく言った。
「そりゃ、誰と一緒になろうといいのよ。離婚したならね。でも」
と和歌子も負けず劣らず冷ややかに言いかえした。
「当分、離婚するつもりなくなったから、そのつもりで」
女たちは仇敵《きゆうてき》のようにお互いを冷たく睨《にら》みあって、沈黙した。
トイレットペーパー Part 2
珍しくも林敬三から、日曜の朝突然の誘いが邦子にかかった。
家庭を犠牲にする意志のない男の常で、林は土、日のウイークエンドは妻や子供たちのためにあてていた。
事の当初からそういう暗黙の協定が結ばれていたので、邦子の方の生活のリズムもそれなりに、成立していたのである。
時々、淋《さび》しいと思わないわけではない。特にクリスマスや正月の頃、一人暮らしが身に滲《し》みる。男の方には一家|団欒《だんらん》があり、家族旅行などをしている時、邦子はロードショーの映画館でポツネンとロバート・レッドフォードなどを眺めていると、悲しい場面でもないのに涙がこぼれたりする。
しかし今は夏の初めで、ボーナスも出たばかりということもあり、邦子は上機嫌で林の呼び出しに応じたのだった。
さて、ランチをともにし、予定のコースとしては邦子の小さなマンションへという段になって、林が言った。
「僕の家へちょっと寄らないか。距離からいうとずっと近いから」
「え? だって」
と邦子は驚いた。
「別にどうっていうことはないんだ。女房と子供が静岡の実家の法事か何かで出かけてしまっているもんだからさ、夜まで帰らない。でも君が嫌ならいいんだ」
好きな男の家庭など、見たくもないという気持ちと同時に、どんなふうなのかちょっと覗《のぞ》いてみたいという気持ちがないでもない。邦子の女心が揺れた。
「よし、止《や》めよう。君の所にしよう」
こちらの顔色を読んで、林があっさりと前言を訂正した。それで邦子の気持ちが動いた。
「いいわよ。お宅で」
好奇心が自尊心を打ち負かした瞬間である。
自宅の前でタクシーを止め、ちょっとチロチロと周囲をうかがってから、林が邦子の背中を押すようにして、二人は家の中へ。
男の背中の押し方がいささかデリカシーに欠けた、と邦子はチラっと思いはしたが、人眼をはばかる気持ちもわからぬものでもないので、その件は忘れることにした。
家の中は意外にきちんと片づいている。家具やカーテンなどのセンスもまずまずである。男が台所で氷を取りだしている間に、クローゼットの中を覗いてみたが、驚くほどのこともない。普通の主婦のごく普通の服の質と量である。
ところがふっと片隅に置いてあるハンドバッグを見て、邦子の形相が変わった。
エルメスである。それもまだそれほど使っていない。しかも本物のエルメスである。
去年のクリスマス、林が邦子にプレゼントしてくれたのは、グッチの偽ものであった。最初から偽ものと知って買った代物であった。邦子の眼が一瞬血走った。背後で物音がしたので何|喰《く》わぬ顔をして、適当にウイスキーの水割りを飲み、酔いが回ったところで、男の手が邦子の膝《ひざ》の奥へと伸びてきた。
「ここで?」
と邦子はあたりを見回した。ソファは小さめだし、床に敷いたカーペットにはコーヒーやジュースの染《し》みがついている。
「でもまさか夫婦のベッドで、というわけにはいかないよ。僕はいいけど、君が嫌だろう」
それではまあしかたがないという訳で、小さなソファが快楽の舟に選ばれた。
さて、とどこおりなく事が済み、事後のコーヒーを飲み終わると、林がしきりに時計を気にする様子。邦子の口紅のついた煙草の喫《す》い殻を、ゴミバケツに捨てようとして、一瞬考えた末、彼はトイレへ駆けこみ水に流して出て来る。
「ずいぶん用心深いじゃないの」
と邦子はチクリと皮肉った。
「いつだったか女房の奴《やつ》が言ったんだよ。家の中に他の女が入ったら、必ずわかるって」
「あらそう? じゃ証拠|湮滅《いんめつ》のお手伝いしなくてはね」
と、邦子はソファの上から一、二本、自分の長い髪の毛をつまみ上げた。
「これ、どうする? 灰皿の中で焼きましょうか?」
「うん、でも変な匂《にお》いが残らないかな」
「変な匂い?」
カチンときて、邦子はつまみ上げた毛髪をトイレに運び、煙草の喫い殻と同じ運命に水に流した。
「他に何かない? 口紅のついたコーヒーカップも流す?」
自分の皮肉にますます煽《あお》られて、腹の中がむしゃくしゃする。自然の欲求をついでに満たしながら、ふっと彼女はトイレットペーパーに眼を止めた。
やがて、何喰《く》わぬ顔で、居間に戻った。
「ね、用心のために、そこいら辺の私の指紋も拭《ふ》いといた方がいいわよ」
と、捨て科白《ぜりふ》のようなものを吐くと、送るよ、という男を無視して、ヒールの音も高らかに外へと飛び出して行った。
男への思いが、これほど急激に冷めてしまうとは、数時間前には考えも及ばぬことであった。
翌朝の月曜日、会社の椅子《いす》に坐《すわ》って一息つくやいなや、邦子の机上の電話が鳴った。
「きみ、一体何をして帰ったんだ?」
と、いきなり林敬三のせっぱつまった怒り声。
「何をって? どうしたのよ、いきなり?」
と彼女は電話口でとぼけた。
「女房がかんかんで手もつけられなかったぞ」
「あら、どうしてかしら? あなた、ずいぶん気をつけて証拠の湮滅《いんめつ》に精出していたみたいだけど」
「完璧《かんぺき》だと思ったんだよ。ところが何だかわからないけど、トイレから飛び出して来るや、女が来たわね! ときた」
「おかしいわねぇ。私トイレの中には何も残さなかったけど」
「その点は、君が帰った後、僕ももう一度念入りに調べたんだ」
まさか、あの時、使用したあとのトイレットペーパーの角を三角に折っていたことまでは気がつかなかったとみえる。
たいてい男は自分が使用しないかぎりそんなところまで見もしないのだ。
「それで奥さん何だって?」
「今朝、子供を連れて実家へ逆戻りだ。あの勢いじゃ当分戻らんよ。ことによると……」
と林の声に不安が滲《にじ》んだ。
ちょっぴり気の毒な気もしないわけではなかったが、邦子はハンドバッグの一件を許すわけにはいかなかった。女房がエルメスで、私がなんでグッチの偽ものなのか。
林の女々しい泣き言を聞きながら、邦子は久々に勝利感を味わうのであった。
猫
若い夫は、朝食と昼食と夕食の時しか、コッテージから出ようとしなかった。八月のマレーシアは狂ったような酷暑に支配されていた。
個室以外の、食堂やロビーなど人の集まる建物は、簡単にいえば柱と屋根だけで作られているので、普段は南シナ海の海面で冷やされた、涼風とまではいかなくとも、まずは心地よい潮風が吹き抜けていくのだ。
けれども今は八月で、亜熱帯の空気はそよとも動かない。空には雲の片鱗《へんりん》すらなく、海は凪《な》いだ状態がもう四日続いている。そうなるとロビーや食堂に吹き込む涼風もないわけで、そこはプールの水やその周囲のぎらつくタイルや、海岸の白い砂の照り返しで、耐え難い熱気と湿度に包まれる。ロビーや、プールサイドのカウンターバーに、人気がないのには、実はそのような理由があったのである。
若い夫は、ベッドの上で少しでも冷えたシーツの表面を求めて、躰《からだ》を転々と動かしながら、飛行場で買い求めて来た男性専門誌のマリリン・モンロー特集の頁《ページ》をめくっている。
若い妻は、もう一方のベッドの窓際に膝《ひざ》を抱えて蹲《うずくま》り、激しい日射《ひざ》しの降り注ぐ芝生の密生した庭を所在なげに眺めている。
庭には丈の高いココ椰子《やし》の樹が無数に点在しており、それぞれの根元近くに、黒いくっきりとした影を落としている。新婚の妻が欠伸《あくび》をひとつして、チラリと夫の方を眺めた。
夫はマリリン・モンローの透きとおるような白い裸体に見入っている。
「彼女日本に来たことがあるのよ、知ってる?」
若い妻はずっと前にすでに亡くなった祖母の話を思いだして、そう話しかけた。
「いつさ」
雑誌から顔を上げずに夫が訊《き》いた。
「大昔よ。川奈ホテルに泊まったのよ。ジョー・ディマジオと新婚旅行だったの。二人がホテルの近くの漁村に散歩に立ち寄った時、私のおばあさんが見かけたんだって。ピンク色をしたふわふわのケーキみたいだったって言ってたわ」
「へえ。マリリン・モンロー知ってるなんて、すすんだおばあさんだな」
と若い夫は言った。
「違うわよ。おばあさんが知っていたのは、ジョー・ディマジオの方よ」
「ますます、すすんだばあさんだ」
夫は音をたてて頁《ページ》をめくった。妻は再び退屈のあまり欠伸をして、涙でかすんだ眼で庭を眺め始めた。
腰布を巻いただけのホテルの使用人が、籐《とう》のカゴを側に置いて、庭の雑草をひとつひとつ抜いている姿が見える。黄色い太陽の光が、槍《やり》のようにその褐色の背中に突き刺さっている。
その時若妻は、ヘミングウェイのとても短い物語を不意に思い起こした。『雨の中の猫』という、雨に閉じこめられた新婚旅行中の夫婦を描いた掌編小説だった。
なぜヘミングウェイのその特別に短い物語が、突然記憶の中から蘇《よみがえ》ったのか、と彼女は考えようとした。
腰布を巻いただけの褐色のマレーシア人の男が、どこか豹《ひよう》のような猫科の動物を思わせたからかもしれなかった。
小説の中の小猫は、雨にぬれそぼってその惨めな姿が、主人公の若妻の哀心を引いたのだ。主人公の女は、たまらなくその小猫が欲しくなる。
彼女はマリリン・モンローに夢中になっている夫に、ヘミングウェイのその掌編を読んだことがあるかと訊《き》いた。
「『老人と海』ならあるよ」
と夫はつまらなそうに答えた。
それから彼は急に興味をかられたように、
「マリリン・モンローはケネディの愛人だったなんて、知ってたかい?」
と訊いた。
「何かで読んだことがあるわ」
若い妻は、日射《ひざ》しに打ちひしがれているマレーシア人から視線を放さずにそう答えた。
「あの猫のことだけど、あれは倦怠《けんたい》の象徴だと思うわ」
「何の話だい?」
夫はあいかわらず雑誌を眺めたまま訊いた。
「ヘミングウェイよ。何日も雨に閉じこめられた新婚夫婦のやりきれないばかりの倦怠を描いた話よ」
「ふうん」
と夫は上の空の返事をした。
「でもさ、どうやってホワイトハウスに入りこむんだろうな」
「何の話?」
「モンローだよ。守衛の眼はともかくさ、カミさんのジャクリーヌ・ケネディの眼をどうごまかしたのかと思ってさ」
あのマレーシアの若い男は、どんなふうに女を扱うのだろうか、と新婚の妻は想像した。黒い豹《ひよう》みたいに獰猛《どうもう》に、女を引き裂くのかしら。彼女は亜熱帯の黒い濡《ぬ》れたような夜を思った。それから、夜露の芝生の上で、引き裂かれる自分の白い肉体を想像した。
「歩く性器と呼ばれた女優と、大統領の情事とは、いかにもアメリカ的だな」
若い夫は、モンローの半開きの真っ赤な唇を見つめながらそう言った。
若い妻は、あの黒い敏捷《びんしよう》な猫科の肉体が自分に喰《く》いつき、荒らしつくす様をありありと瞼《まぶた》に思い描き、冷房のきいた部屋の中で、うっすらと汗ばむのだった。
「このアーサー・ミラーっていう二度目の亭主は、どうしようもない感じだねえ」
と夫が溜《た》め息をついた。
ディマジオの肉体、アーサー・ミラーの知性、ケネディの権力、マリリン・モンローは全《すべ》てを手に入れたのに、なぜ死んだのだろうか。
「このミラーっていう作家だっけ? 女優の妻が、顔はあたし似で、頭があなたに似た子供が生まれるといいわね、と言った時、もしもその逆だったら悲劇だとか言ったの、彼だっけ?」
「違うわよ。バーナード・ショーが別の女優にいった言葉よ」
妻は、庭を眺めたまま答えた。夫は雑誌を足元に投げだすと、頭の後ろに手を組んで大|欠伸《あくび》をひとつして、眼を閉じた。
このあと彼は少し昼寝をして、懈《けだる》さの中で眼をさまし、妻を手招きし、朝から三度めのセックスをきっかり七分やって、シャワーを浴び、それから夕食前の一杯を飲みにプールサイドのバーへと足を運ぶだろう。清潔で無害なきっかり七分の夫婦の性愛。
若妻は、抱えていた膝《ひざ》を解くと、ベッドから下りたった。
「どこへ行くんだい」
と夫が眼を閉じたまま訊《き》いた。
妻は戸口でちょっと立ち止まった。
「猫を探しに行くわ」
「猫?」
夫は眠そうな声で言った。
「そんなもん、いるかよ」
「でも見たわ」
「この日射《ひざ》しの中でウロついてみろ、頭がくらくらするからな」
「くらくらしてみたいのよ」
次の瞬間、夫は眠りのふちに沈み、妻はドアの外へと滑り出て消えた。
ハンター
待ち合わせの本屋の先で、雑誌をパラパラとめくっていると、やっぱり同じように雑誌を手に取って所在なげにしていた男が、腕時計をチラリと見て眉《まゆ》を寄せた。
そうした動作が、隣に立っていて香織にはよくわかった。パラパラやっている雑誌よりも、男に興味を惹《ひ》かれたからだった。
大柄ではない。香織よりほんのわずか上背がある程度だ。しかし彼女は大男は好きではない。身長が一八〇センチ以上あると、どこか動作が鈍いような感じがいなめない。
男は眉が濃くて、ずっと前、NHKの3チャンネルでやっていた「終着駅」という昔の映画に出ていた男の俳優に、ちょっと似ている。あの俳優の名前、なんだったっけ、と香織は一瞬遠い目をした。
もう一度、腕時計に目を落とすと、その男は雑誌を元の位置に戻し、それから束《つか》の間途方にくれたような、放心したような表情を浮かべて周囲を眺め、香織の目と出逢《であ》い、男の視線の焦点が定まった。
「どうやら、待ちぼうけらしい」
と男は、軽い自嘲《じちよう》をこめて、香織にというよりは半分自分自身に向かって呟《つぶや》いた。
「不思議ね。わたしもそうみたい」
咄嗟《とつさ》に香織はそう答えた。
男が値ぶみするように、素早い一瞥《いちべつ》を彼女に投げた。ほんの一瞬だが、女にとっては屈辱的な時間だ。
そのように、男だけが女を値ぶみする。これまでに、何十回、何百回となく、全身に浴びせられた無遠慮な視線だった。
しかし判決は素早くなされ、男の口元に好意的な微笑が浮かんだ。
好意的ではあるが、どこか野卑で無責任な表情だ。つまり、狩りをしている時の男の顔というわけだった。
「一杯、飲もうか。待ちぼうけ同士で」
くだけた口調で男が誘った。
「そんなの嫌よ。ついでみたいなのは」
香織はあまりつっけんどんではない言い方で答えた。
「女を誘う言葉としては失礼よ」
男の寄せた眉《まゆ》の下の目が、意外にも笑っていた。
「確かにそうだった。謝ります」
驚くほどさっぱりと、男は前言を翻《ひるがえ》した。
「一杯飲みませんか。おわびにご馳走《ちそう》します」
「ということなら、いいわ」
香織は白い歯をみせて笑った。
「こんなことって初めてよ」
とバーの止まり木で香織が伏し目がちに言った。
「街で声をかけられた男性と気軽につきあうなんて。軽薄だと思うでしょう?」
「軽薄だとは思わないけど、君みたいな女が街で声をかけられないはずはないよ」
と片山と名乗った男は、改めて賛意をこめて香織の全身をゆっくりと眺めた。
「街で声をよくかけられることはかけられるわ。そのことは否定しないけど、でも、その場でつきあうかどうかは別よ」
「つきあってもらえて光栄ですよ」
片山は煙草を唇の端に押しこみながらそう言った。くわえ煙草が似合った。親指を下にして、人指し指との二本で煙草を喫《す》った。三口だけ喫って火を消した。そうした一連の動作がセクシーだった。
それから二時間後、ラヴホテルのベッドの中で、香織はやっぱり少し途方にくれたような感じで、
「こんなことって初めて」
と呟《つぶや》いた。
「初めて逢《あ》ったその日のうちに、こんなふうになるなんて……」
「男と女ってさ、こういうことになるかならないかの二種類しかないよな」
と片山は彼女の体に巻きつけていた腕を離しながら、少し遠のいた声で言った。
「でも、信じてないんでしょう? わたしのこと、いいかげんな女だと思ってるんでしょう?」
「いいかげんな女と、こんなふうなことになっても、つまらないよ」
脱ぎ散らした衣服を次々と身につけながら、片山はそう答えた。
ホテルを出た時には、十一時を回っていた。冬の厳しさを予感させる乾いた寒風が、小さく渦を巻きながら足元を吹きすぎて行った。
男と女は少しだけ一緒に歩いて握手をすると右と左に別れた。次の約束もなく、お互いの電話番号も知らせあわなかった。
冷たい雨の降る夜だった。雑誌のページをめくる香織の指先がかじかんでいた。
雨やどりの男や女が次々と駆けこんできて、香織は次第に奥の方へと押しやられて行った。
背中合わせに、男が週刊誌を立ち読みしていた。他人の背がやけに温かく感じられた。
通じあうものがあったのか、背中の男が向きを変えた。腕時計に目を落とし、軽く舌打ちをするのがわかった。
「待ちぼうけかな」
と男の声で独り言。
「わたしも、そうみたい……」
と言いながら香織は顔を上げて相手を見た。
「あ」
と双方が似たような驚きの声を発した。
「なんだ。また君か」
と片山が苦笑した。
「どうやら私たち、縁があるみたいね」
香織もつられて笑いながら言った。
「そうらしいね」
片山は寒そうにコートの衿《えり》をたてながら言った。
「再会を祝して一杯飲もうか」
「やめとくわ」
「どうしてさ」
「わかってるくせに」
共犯のどこか淋《さび》し気な微笑を浮かべながら、香織が答えた。二人の視線がぶつかって絡《から》んだ。
「そうだな」
と男がうなずいた。
「どう、その後?」
と片山が問うように眉《まゆ》を上げた。
「まあまあってところね。あなたは?」
「似たようなものさ」
雨が小降りになっていた。
「じゃ」
と片山が言った。
「俺《おれ》は河岸《かし》を変えるよ」
「悪いわね」
香織が答えた。
片山は手を上げ、そのまま歩み去った。
香織は再び雑誌の上に視線を落とした。そしてまさにその瞬間、片山と名乗った男が誰に似ているのかを思い出した。若き日のモンゴメリー・クリフト。でも、それがどうだというのだろうか?
香織はグラビアの表紙をめくっていった。
浮気のルール
表参道に面したガラス張りのレストランは、昼食時とあって一つの空席もなく、超満員である。
ざっと見渡すかぎり、客は女ばかりである。もっともランチコースが三千七百円もするわけだから、サラリーマンには、所詮《しよせん》縁のない場所である。
ところが真っ白いテーブルクロスを囲んでいる女たちの中には、なぜかサラリーマンの妻たちがいたりする。亭主はもしかしたらこの炎天下、マニラ封筒などを小脇《こわき》に、汗みずくですぐ下の表参道をテクテクと歩いているやもしれないのに、妻は涼しい顔で鴨《かも》の胸肉にフォークを突きたてている、などというケースもなきにしもあらず。
そして亭主殿がせいぜい七百円どまりの焼き肉定食などかきこんで、再び炎天下の営業でカロリーと肉体を消耗させるのに比べて、女房族は長々と二時間ほどを食事とお喋《しやべ》りに費やし、
「あら、食べすぎちゃったわ」
と、エアロビクスやヨガ教室で午後一杯ひたすら優雅にカロリーと贅肉《ぜいにく》の消費に励むというわけである。むろんエアロビクスもヨガも只《ただ》ではない。
ガラス張りのこのイタリアレストランに、男が一人もいないわけでもなく、チラホラと色を添えるというか、アクセントくらいにはなっている。男の職業は着ている服の感じからいかにも自由業であると知れる。三宅一生風である。
さもなければ、中年の紳士風。一眼で不倫の関係が露呈する鼻の下の長い種族である。
「いやだわね」
と、そりあとの青い中年男の顎《あご》のあたりに視線をチラリと流しながら、フサコが眉《まゆ》を寄せた。
「何もさ、こんなところで不倫を公表することないじゃないのさ」
「まあまあ、妬《や》かない妬かない」
と女友だちの美子《よしこ》がなだめた。
「妬いちゃいないわよ。粋《いき》じゃないってこと。不倫ってのはさ、コソコソやってこそ密会のえも言えぬ味わいが出るんじゃないの。ああ大っぴらに見せびらかしちゃ不倫の風下にもおけないわね」
はなはだ手厳しい。
「でもね、人にジロジロ見られるのもスリルがあって、捨てがたい味なのよ」
と美子は、前菜の海の幸のサラダの中から、甘えびを口に入れた。
「そういえばあなたの年下の彼氏とは、どう? 上手《うま》くいってる?」
「それが金|喰《く》い虫なのよ」
「いいじゃないの、多少は。それで中年女の性生活が豊かに満たされるんだから、文句言わないの」
「数が多ければいいってものでもないけどね」
紅い唇に、冷えた白ワインを運びながら、美子は苦笑した。
「あら、その彼、アレが上手じゃないの?」
フサコは興味しんしんと眼を光らせた。
「アレが上手な男に、これまで出逢《であ》ったことなんてないわね」
とやけにきっぱりと美子が言った。
「大体それぞれに、各自ワンパターンよ。カユイところに手が届いたなんていう男がいたら、是非ともお手合わせ願いたいわ」
「その点は同感ね」
とフサコも何度もうなずいた。
「そういえばさ、由美のことなんだけど」
「由美がどうかした?」
「ほら、あの人、超|真面目《まじめ》人種じゃない?」
「うん、まあネ。由美の前では亭主以外の男の話、ちょっと遠慮しなけりゃみたいなところあるからね」
「その彼女も、女盛りの欲求不満には勝てないみたいなのよ。こぼしてたわ」
「何て?」
と美子が顔を寄せた。
「アレの絶対数が足りないんだって」
「足りないって、どう?」
「月に一度あればいい方なんだってよ」
「由美のご亭主って、まだ四十になってないじゃないの。それはないわよ」
「三十七か八よ、まだ」
「由美が三十四よ。女盛りの真っ只《ただ》中で月に一回じゃ、そりゃ拷問《ごうもん》みたいなもんよ」
「一回あればいい方」
とフサコが相手を訂正した。
「なんとかしなくちゃ、可哀《かわい》そうよ、由美」
「なんとかって、私たちに何ができるっていうのよ」
それはそうだ、と二人は少しの間、前菜に集中した。
「由美に誰か相手を探そうか?」
「無理」
と言下にフサコが言った。
「あの堅物《かたぶつ》が、浮気なんてしますか」
「それもそうね。あのタイプだと、万が一味をしめたら、今度はそれこそ一目散《いちもくさん》にのめりこむからね。由美に男を紹介する線は止めておこう」
その点で二人の意見は完全に一致し、メインコースの鶏のレモンソースに取りくんだ。
「こういうアイデアはどうかしら?」
とややして、美子が言った。
「由美のご亭主の方に、浮気させるのよ」
「え?」
とフサコは度肝《どぎも》をぬかれてフォークを取り落としそうになった。
「いいから最後まで聞いて。男ってさ、外で浮気すると後ろめたいものだから、その夜は妻ともいたすって良く言うじゃない」
「あッ、なるほど」
と勘の良いフサコはハタと膝《ひざ》を打った。
「その線でいこう」
と二人はガッシリと握手。
「毒をもって毒を制すの精神よ。多少危険ではあるけれど、案外、由美夫婦の危機はこれでくぐりぬけるかもよ」
「相手の女なんだけどね、若い子はだめよ。やっぱり人妻が安全かもね」
「一人、ちょうどいいのを知ってるのよ」
とフサコはニヤリと笑った。それから二人はコーヒーとデザートを平らげ、意気揚々と別れたのであった。
三か月ばかりが過ぎた午前中、美子の自宅の電話がリーンと鳴った。
「きのう由美に逢《あ》ったのよ」
とフサコが切迫した声で言った。
「まさかご亭主の浮気がばれたんじゃないんでしょうね」
「それは今のところないみたいよ」
「嫌よ、由美のご亭主の浮気の糸をあやつってるのが私たちだなんてことが知れるのは」
「それもないわよ。浮気相手の彼女口が固いから。問題はね」
とフサコが声をひそめた。
「由美が深刻にこぼすのよ。あれから、ぜんぜん夜のお声がかからないんだって」
「アラァ!」
と美子が絶句した。
「由美が言うにはね、ご亭主は最近仕事がとみに忙しいのかすごく疲れて帰って来て、バタン・キューだって」
「あいつめ」
と美子は由美の亭主をののしった。
「浮気のルールも守れないなんて、男の風下にもおけぬ奴《やつ》」
ピアス
その女の第一印象は、危うげで、はかなげで、どこか揺れ動いているような感じだった。よく見ると、それは耳飾りのせいであるということがわかった。
耳飾りは、直径七ミリほどの真珠のピアスであった。問題はその位置である。普通女たちがよくやるように耳朶《みみたぶ》の中心に穴をあけず、やや下よりにあけてある。そのための効果として、真珠玉がいまにも耳朶からこぼれ落ちそうに不安定に見えるのだった。それが、その女に独特の風情《ふぜい》を及ぼしているのであった。
当然、話の糸口はそのあたりから始まった。
「微妙な位置に真珠が止まっていますね」
と仁科は話しかけた。
「気になります?」
女は二重構造の小さな窓から視線を仁科に移して、そう訊《き》いた。窓の外は乳色に白濁しているところを見ると、機体が雲の中に入ったらしい。成田から香港に向かう機内のビジネスクラスは、満席である。
「ええ、かなり気になりますね」
と仁科は答えた。
「今まで女性のピアスになど、ほとんど注意をしたことがなかったが。非常にいいですね」
もっと別の表現、別の言葉で誉《ほ》めたかったが、ぴったりした言葉がタイミングよく思い浮かばないのを、仁科は内心舌打ちしたいくらいだった。
女の耳は透明感のある微妙な薄桃色であった。それに続く項《うなじ》に、一筋の長い巻き毛が絡《から》みつくようなつかないような。女がそれを、マニキュアのしていない指先でそっとかき上げて髪の束の中にまぎれ込ませた。
「女の耳が特にお好きな場所なの?」
実にさりげなく、しかし、すくい上げるような訊《き》き方で、女が質問した。
「もちろん違います。女性の躰《からだ》で一番好きな場所は――」
「おっしゃらないでもよろしいわ」
女は仁科の語尾に言葉を重ねるようにして言い、顔を丸い窓の中へと背《そむ》けた。白い真珠との対照に於《お》いて、耳朶《みみたぶ》が血の色に充血して見えた。その色と、彼女のあの箇所の色とは、たった今、同じなのに違いないと、仁科は不意に思った。
「僕は痴漢ではないし、よく電話で妙なことを言う一種の変質者でもありませんが、そうお断りした上であえて言うと、僕のものは膨張《ぼうちよう》して爆発しそうです」
自分でも意外なくらい冷静な声で仁科は言った。
「私のせい?」
切れ長の眼の隅で、女は斜めに仁科を見ると、口元に微笑を滲《にじ》ませた。
「私のピアスが、あなたの劣情を刺激したの?」
熱い息が首筋にかかるほどの至近距離に唇を寄せて、女が囁《ささや》いた。
「そうだとしたら?」
仁科の声も熱を帯びて少しうるんだ。
「責任をとれと?」
女の眼がキラリと光った。
「是非とも」
少し開きかけて濡《ぬ》れている女の唇の内側に視線をあてたまま、仁科は囁いた。
「いいわ」
と、女は吐息《といき》のような声で言った。
「二分したら、トイレのドアを四つノックして」
|※[#目へん+旬]《めくばせ》のような一瞥《いちべつ》を仁科に与えると、女は不意に香水の匂《にお》いを放ちながら立ち上がった。
二分が二十分にも感じられた。仁科は腰を上げると、ファーストクラスとの境目のカーテンをくぐって女の後を追った。
使用中のトイレはひとつだけだった。その扉を、彼は四つノックした。
やや間を置いて、キイが外れた。仁科はドアを引き、そのわずかな透き間から内部へ滑りこんだ。中はほとんど暗闇《くらやみ》に近かった。後ろ手にドアを閉めてロックすると、同時に室内灯がついた。
後は無言だった。女がブラウスの前ボタンをはだけると、重たげな乳房が露出した。セミタイトのスカートのボタンは外さず、すそからくるくるとたくし上げられた。仁科はふたをした便器の上に両|膝《ひざ》をそろえて坐《すわ》ると、前を開いて、その上に女の腰を引き寄せた。女は彼にまたがるように立つと、ゆっくりと彼の上に腰を沈めて行った。
途中で隣のトイレに人の入る気配がした。二人はますます息を殺し、そのためにますます欲望をつのらせながら激しく揺れ続けた。今度は誰かが自分たちのドアをノックした。
「OCCUPIED」のサインが出ているのにもかかわらずノックをしてくるのは、日本人にきまっている。仁科は爪先《つまさき》で強く二度ドアを蹴《け》った。
女がクスクスと忍び声で笑った。笑いはすぐに激しいあえぎに変わった。女のむきだしの両肢が大蛇なみの力で、仁科の腰をしめ上げたかと思うと、女は腹から上を弓なりに反り返して痙攣《けいれん》して果てた。仁科は女の白い喉《のど》に顔を埋めて声を押し殺すと、自らを解き放った。
「二分したら出て来て。それから二度と私に話しかけないで」
身繕《みづくろ》いを手早くしながら、先刻《さつき》とは違う声で女が言った。
鏡に向かって化粧を直し、髪の乱れを整え終えると、女はもう一度だけ鏡の中で仁科と視線を合わせた。温か味のない締めだすような眼の色だった。
「せめて素敵だった、というくらいのことは言わせて欲しいな」
と仁科は穏やかに言った。
「別に大したことじゃないわ。お礼には及ばないわ」
女はドアの鍵《かぎ》に指をかけて言った。仁科は、掌《てのひら》を返したような女の態度を解《げ》し兼ねて、黙って肩をすくめた。女が鍵を外すと室内が暗くなり、続けて女はドアの外へと滑り出て消えた。仁科はドアを再び閉め、ロックをして灯をつけた。
手と顔をていねいに洗い、機内にそなえつけの男性用コロンの銘柄が、偶然普段つけているクリスチャン・ディオールの男性用オードトワレだったので、それを首筋と手首の内側にすりこんだ。誰かがドアをノックした。
たいして急ぎもせず、仁科はロックを外してトイレの外に出た。日本人の中年の女が入れかわりに、仁科を押しのけるようにして中へ入った。
ビジネスクラスの自分の席に戻ると、さっきまで女が坐《すわ》っていた所に、初老のビジネスマンがいる。番号を確かめようと上を見ると、その男が言った。
「あそこの女性が、替わってくれと言ったので席を替わりました。満席なので、ご主人と別々の席に坐らされたそうなんですよ」
仁科はさりげなく、初老の男の示す方角を見た。先刻の女が白い横顔を見せて、機内誌を眺めている。横には口をあけて寝ほうけている猪首《いくび》の夫らしい男がいた。
仁科は最後に女の耳飾りになごりの一瞥《いちべつ》を与えた。真珠はやっぱり耳朶《みみたぶ》から今にもこぼれ落ちそうだった。
女の耳朶は、もう微妙な薄桃色をしてはいなかった。
しょぱんのた
タエコはもうかなり前から、社長室付の田丘にひそかな恋心を抱いていた。
同僚は立場を鼻にかけて高ぶった男だと批判的だが、揉《も》み手の太鼓持ちよりよっぽどいいではないか。
冷たいほど整った容貌《ようぼう》。知的な声。夏は麻、冬はカシミヤ混紡のスーツしか着ないスノッブさ。当年三十四歳の東大出の独身貴族。
時々エレベーターの中で一緒になったりすると、眼が合えばうっすらと口元にニヒルな微笑など浮かべる。それがまたウーマンキラーの微笑で。タエコの思いはつのる一方であった。
「ああいうお高くとまった男はね、自分の方から簡単には弱味をさらさないものなのよ」
とは先輩格のミズ山野のアドバイス。
「待てば海路の日和はないの。絶対にあのタイプは、女の方からアプローチすべきよ」
「でもケンモホロロに振られたら?」
それこそ会社で二度と顔など合わせられないではないか。
「振られてもともと、と思えば?」
それもそうだと、タエコの心は少し動いた。
このまま何もなく、何も起こらず、片思いのまま終わるより、たとえ恥をかいても何かして後悔するほうがはるかにましだ。それでタエコの決心はついた。
考えぬいた末、最初のとっかかりに花を贈ることにした。日曜日の朝に配達されるように手配してカラーの花束を選んだ。
それも五本や十本の花ではない。三十本をまとめてドサリと送りつけるのだ。住所は総務課の後輩に調べてもらった。
さて月曜日。朝から落ち着かない気分で、仕事も上の空だ。田丘からどんな反応があるかと、気が気ではない。
そわそわした気分で午前中が過ぎた。しかし彼からはウンともスンとも言って来ない。次第に失望と恥辱感に包まれ、月曜日の午後はのろのろと過ぎていった。
五時二十分に、タエコのデスクの電話がリンと鳴った。
「企画課です」
期待半分で電話を取った。
「社長室の田丘です」
低くてりりしい声で田丘が名乗った。
「あ」
と小さくタエコは口の中で叫んだ。
「山田タエコさん?」
「ええ、そうですけど」
胸の鼓動が相手に聞こえてしまわないだろうか。タエコは無意識に胸をおさえて息を吸った。
「お花を、ありがとう」
「あら、いいえ。喜んで頂けて?」
できるかぎりクールを装ってタエコが訊《き》いた。
「白い花が好きなんですよ。とてもうれしかった」
「そうですか。よかった……」
声にうれしさが滲《にじ》みそうになった。ケンモホロロに袖《そで》にされなくて済んだのだ。
「でも驚いたけどね。花束なんてもらうの後にも先にも初めてだし、それに女の人からもらうなんて」
「嘘《うそ》がお上手ね」
「それは心外だ」
と田丘は柔らかい声で笑った。
「どう受けとめたらよいのかな、と一日中考えていたんだけどね」
「お好きなように」
タエコは声に甘さを含ませた。
「だけどあまり男を自惚《うぬぼ》れさせてはいけない」
あくまでもクールに田丘は言うのだった。
「ほんの遊び心よ。気になさらないで」
「つまり、花束を男に贈るのが、趣味ということ?」
誘導|訊問《じんもん》である。ここが勝負のしどころだ。
「それはノーコメント」
と逃げておいて、
「ところで田丘さん、音楽会なんてよくいらっしゃる?」
「音楽会にもよるけど」
「クラシック」
「いいね」
「実は切符が二枚あるの。金曜の夜、お暇?」
「金曜の夜はあいにく予定が入っていてね」
さりげなく田丘が答えた。タエコの胸が失望で沈んだ。一度にあせりすぎたのだった。
「それがね、ある女性に大きな花束をもらっちゃってね。お礼に夕食をご馳走《ちそう》しようと思っていたんだよ」
たちこめていた暗雲が急に切れ、雲間から太陽が顔をだしたみたいに、電話口でタエコの表情が輝いた。
「そのお食事っていうの、音楽会の後じゃいけない?」
「いいね。ついでにデザートの後にホテルでカルバドスを一杯やるっていうのはどう?」
「素敵だわ」
口ではさりげなく言ったがタエコの胸は喜びと期待で膨《ふく》らんだ。
「さっそく切符を一枚お届けするわ」
「ご本人自ら?」
「いいえ。郵送で」
金曜日。会社を別々に出た二人は音楽会のあるホールの近くのバーで待ち合わせることにしてあった。
タエコが薄暗いバーの深々としたカーペットを踏むと、カウンターのところですでに飲んでいた田丘が軽く手を挙げた。仕事場以外で見ると、ますますの男ぶり。それがじっとタエコの近づくのをみつめて、
「どうして今まで、君の存在に気づかなかったのかな」
などと言う。彼女を見る彼の眼に、心なしか軽い賞賛の色。
「今は気づいて下さったの?」
「もちろん」
そっと男の手が彼女の背に触れる。
「それどころか、ひどく後悔しているんだ。どうしてもっとずっと前に気づかなかったのかとね」
ミズ山野に乾杯、とタエコはひそかに先輩のアドバイスに感謝した。今日のこの喜びがあるのも、つい一週間前、彼女に背中を叩《たた》かれたからだった。
「ところで、今夜の音楽会のことだけどさ」
と急に思いだしたように、田丘が言った。
「あ、切符持ってらした?」
田丘は胸のポケットの上を叩いてみせた。
「でも一体どんな音楽会なのかな」
「ピアノコンサートよ」
「ふうん」
となんとなくふに落ちない様子。
「どうして?」
「妙なタイトルがついているから。しょぱんのたって何?」
「え」
とタエコは絶句した。
「シ・ョ・パ・ン・ノ・タッ」
と田丘がくりかえした。
呆気《あつけ》にとられていたタエコがいきなり腹をかかえて笑いだした。ショパンの夕《ゆうべ》をしょぱんのただなんて。ゲ・ン・メ・ツ……。
フルムーン
バリ・オベロイの吹きぬけのレストランに吹きこむのは、南太平洋の海で冷やされた涼しい風だ。
パティオに続いて見えるプールの表面に、さざ波がたっている。プールのぐるりに植えこまれた沙羅双樹《さらそうじゆ》が、白い花を咲かせている。夜目にも鮮《あざ》やかな仄白《ほのじろ》さが、その甘い香りと共に、いっそう南国の感を強めている。
由起子は夫とむかいあって、ただ板をくりぬいただけでガラスのはまっていない窓から、夜間照明を浴びて鮮やかなコバルトブルーに光るプールを眺めている。夫は反対方向の、レストランの中庭を見ている。
中庭には小さな池があり、料理用の魚が放ってある。その周囲にクジャク椰子《やし》やゴムの樹《き》や棕櫚《しゆろ》や、名も知れぬ羊歯《しだ》類の他に、ハイビスカスの赤い花が咲き乱れている。
ふと由起子の視界を男の姿が過《よ》ぎる。硬質の横顔を見せて。白いスラックスに紫のバティック模様のシャツが、焼けた肌によく似合う。シャツの胸が大きくはだけていて、金色の煙のような胸毛がのぞいている。男の姿が右手に消える。由起子は思わず溜《た》め息をついた。
もしも、この旅の相手があんな男だったらと思わずにはおれなかった。そしたら、この南国の夜露に濡《ぬ》れた光景は更になまめかしく色づいて眼に映ることだろう。
金茶色に焼けた男の肌のこげたような香りに包まれての、夜毎の情事。夜にかぎらず、プールサイドで日射《ひざ》しを浴びている時に欲情すれば、手に手を取りあって自分たちのコッテージへと馳《か》けこめばいい。朝は朝で、まだ完全に眼覚めていない重くて熱い肉体を、相手にゆだねる。
由起子の人生に決定的に欠けているのは、冒険とか未知との遭遇とか、危険とか密会、秘密の類《たぐい》なのだ。
それなのに、現実に眼の前にいるのは、同じようにバティック・シャツの胸をはだけてはいるが、こちらは見えるのは無毛の胸と、たるみかけた腹部なのだ。未知数など皆無で。
その男のことなら何でも知りつくしている。クセも体の細いところも性格も、月々のセックスの回数も、その手順も。無意識に鼻糞《はなくそ》をほじくる点も。多分もうすぐやり始めるだろう。
歯につまった肉を楊子《ようじ》でせせっている夫の顔からもう一度眼を背《そむ》けて、由起子はそびえ立つココ椰子《やし》の葉隠れに、南十字星を探し始める。
ホテルのすぐ眼の前の砂浜の上で、金色の煙のような胸毛を持つ見知らぬ男と愛を交わしながら見上げる南十字星は、どんなに美しくロマンティックだろうか、と考えずにはいられない。
でもどうして、この夢のようなバリ島の風景を味わうのに、夫ではない別の男の存在が必要なのだろうか。由起子は急に後ろめたい思いにとりつかれて、食後のコーヒーに視線を移した。
食事の間、夫婦が交わしたのは、ほんの二言三言の会話だけ。かといって、普段より少ないわけではない。夫婦の関係が冷え切っているというのでもないのだ。
案の定、夫は鼻の穴に指をねじこみ始める。
「あなた、やめて」
夫は、「ん?」と言い、「ああ、そうか」と指を見つめる。
あと三日。たったあと三日だけのこの世の楽園なのだ。もしかしたら、もう二度と南十字星をこの眼で見ることはないかもしれない。そうあと三日しか……。
けれども。三日なんて――。三日もまだあるなんて……。由起子は一瞬混乱する。金色の煙のような胸毛を持つ見知らぬ男との、めくるめくような三日なら、あっというまに過ぎてしまうのに違いないのだ。
だが、十五年も連れ添った夫と、あと三日も朝から寝るまでずっと一緒に過ごすなんて、長すぎるような気がした。
三日の間に、何が起こるというのだ? 未知なことのどのようなことが、夫との間に生まれるというのだ。冒険も、秘密も、危険もなく。
何も起こりはしない。眼を覚まして、着替えて朝食に行き、またコッテージに戻って水着に替えてプールサイドへ行く。そして日がな一日、沙羅双樹《さらそうじゆ》の樹陰《こかげ》で寝そべって過ごすのだ。時々、南国性の通り雨が降れば、そのことだけが唯一の事件であるような。
つまり、何も起こらないことが、問題だった。セックスは、ホテルに着いた最初の夜に、周囲の環境の物珍しさに刺激されてやってしまったから、多分、この旅の間にはもう何も起こらないだろう。あの見知らぬ男となら、朝も昼も、南十字星の下でも、夜中のベッドでも、予期せぬ歓《よろこ》びで満たされるのだろうに。
由起子は出かかる欠伸《あくび》を噛《か》み殺すために、口もとに手をあてた。
その時、夫が何かを見ているのに気がついた。夫の顔に浮かんでいる表情に、由起子は胸を突かれた。
夫は、諦《あきら》めの混じった哀《かな》しげな憧憬《どうけい》の表情を浮かべて、何かに気を奪われていた。
夫の視線をたどると、一人の美しい異国の女がそこにいた。
女は、髪を後頭部で小さくまとめ、耳にブーゲンビリアの赤い花をさしていた。日焼けした肌を惜しげもなく見せた白いドレス。ほっそりした首。豊かで動物並みに重い二つの乳房。しかしその下に続くウエストは、男の両手で楽につかめそうだ。
左右に広いというよりは、前後に厚い下腹部。円柱形の脚。ひきしまった足首。赤いペディキュアのしてある素足の華奢《きやしや》なサンダル。肉感的なオレンジ色の唇。燃えるような瞳《ひとみ》。
夫の考えていることが、由起子には痛いほどわかった。夫が今まさぐっている想像のすべてのシーンが、その願望と共に、由起子には見えるのだった。
そして現在、夫の顔に浮かんでいる諦めの混じった悲しみと憧憬の表情を、自分もまたつい今しがたまで、そっくりそのまま浮かべていたことを、思い知るのだった。
優しさと理解と、悲哀とで、由起子の胸が湿った。
それにしても歳月が、男と女の間にある一番大事なものを、すりへらしてしまったのだ。歳月が。
安泰であることと引き換えに、生温かい倦怠《けんたい》の罠《わな》の中で、身動きできなくなってしまったのだ。夫もまたその罠にはまりこんでしまった人間なのだ、と思うと、哀れみが由起子を満たした。
ふうっと夫が溜《た》め息をついた。
「どうかしたの?」
と由起子が語尾を上げない訊《き》き方で質問した。
「別に……」
それから夫は妻というよりは、妻を通過して何か後方のものを見つめながら、
「どうした?」
と同じように質問をした。
「別にどうもしないわ」
そうか、と呟《つぶや》いて、夫は欠伸《あくび》を噛《か》み殺した。そのために夫の眼に涙が滲《にじ》み、なんだか泣いているように見えた。
ステーション
バーのドアを押すと女は脇見《わきみ》もせず店内を横切り、セントラルホールを見下ろす位置に腰を下ろした。格別に急ぐ足どりでもなく、人と待ち合わせているようにも見えなかった。
ウイークエンド・バッグを足元に置いたが、その夜はウイークエンドではなかった。女は脚を組みながら、足元のバッグと対になっている小型のショルダーバッグの中から煙草をとりだし口にくわえた。
すべてが優雅で流れるような動作であったが、ほんのわずかに上の空といった感じが女から漂った。
煙草を唇の端にくわえたまま、無意識の仕種でバッグの中を探り、女はライターを探した。
カチンという音がして、ライターの火が横から差しだされた。
女は眼を上げずに、煙草の先にその火を移しとると、あいかわらず上の空の様子のまま口の中で小さく〈|ありがとう《サンクス》〉と呟《つぶや》いた。
ウエーターが来て、何を飲むのかと女に訊《き》いた。
「バーボン・ウイスキーをペリエで割って」
と女は、セントラルホールに散らばっているまばらな人々を見下ろしながら答えたが、すぐにそれを訂正して言った。
「バーボンはやめてシャンパンにするわ」
「ボトルで?」
ウエーターが眉《まゆ》を上げた。セントラル・ステーションのバーで、シャンパンはめったに注文されることはないのだ。
「いいえ。グラスで」
「シャンパンは、ボトル売りしかしませんよ」
とウエーターは横柄《おうへい》に言った。
「一人で一本は飲めないわ」
女の表情に困惑と苛立《いらだ》ちと微《かす》かな哀《かな》しみの色が浮かんだ。
「じゃ、他のものにして下さい」
ウエーターは好奇心を露《あらわ》にして女をじろじろと眺め下ろしながら言った。
埃《ほこり》っぽいようなステーションのバーにそぐわない上等な服装と、その服装と同じように上等な女だった。
しかも時間も時間だった。駅の中央の大きな丸時計が、もう数分で真夜中になることを示していた。
軽い咳払《せきばら》いに続いて、
「よかったら、ぼくが半分うけもちましょう」
と横から男の声がした。
つい先刻《さつき》ライターの火を貸した男だった。女はその時初めて、男を眺めた。
値ぶみするような、試すような、面白がっているような女の眼の色だった。二人の視線が長いこと絡んだ。
「オーケイ。ありがとう」
女がそう言ってうなずくと、それを合図にウエーターが下がり、男がさりげなくテーブルを移って来た。
「同じテーブルに招待した覚えはないけど」
と女が少し冷たく言った。
けれども男は怯《ひる》まず、彼女の真向かいではなく九十度の位置に椅子《いす》を引いて腰を下ろした。
男は三十になったかならないかで、女よりも五つ六つ若かった。やはり、深夜の駅のそんなバーの常連にはとうてい見えないのだった。
ジョルジュ・アルマーニの杉綾《すぎあや》のジャケットとタイが自然に身についた、現代的優雅さの典型といったタイプだった。
「何のお祝いです?」
気持ち良い率直な声で、男が訊《き》いた。
「お祝い?」
「そう。シャンパンを頼むからには何か良いことがあったんでしょう」
男は美しい歯並びを見せて笑った。
「あなたは? 何かお祝いするようなことがあったの?」
男の美しすぎる歯並びから眼を逸《そ》らせながら、女が質問に質問で答えた。
「まず、そちらからお先に」
と男がいっそう笑いを広げた。
ウエーターが氷のつまったアイスバケットごとシャンパンを運んで来て、用心しながら栓《せん》を抜き始めた。
「ここへはよく来るの?」
ホールを斜めに横切っていく犬を連れた浮浪者を眺め下ろしながら、女は話題を変えた。
「あなたは?」
今度は男の方が質問に質問で答えた。
「初めてというわけじゃないのよ」
「ぼくもだ」
男はそう言ってあきらかに好意のこもった眼差《まなざ》しで女を見つめた。
「人生には、節々があるでしょう。いいことや悪いことや。そんな時なぜかここへ来て、一杯しみじみと飲みたくなるんですよ」
「今夜はいいことなの?」
と女は眉《まゆ》を上げた。シャンパンのコルクが音をたてて斜めに飛んだ。
「まあ、そういうことになるでしょうね」
男は謎《なぞ》めかしてそう言い、ウエーターが満たしたシャンパングラスを女に手渡した。
「では、人生の節目に」
と彼は静かにグラスを上げた。
「あなたのいいことに」
女も男のグラスに自分のグラスのふちを合わせた。
二人は一杯を黙って飲み、二杯目も沈黙のうちに空になった。三杯目を注《つ》ぎながら、やがて男が言った。
「実はね、明日、結婚するんです」
女は少し驚き、無言で男を観察するように眺めて、囁《ささや》くように言った。
「それにしては、浮かない様子ね」
「当然でしょう。結婚するんですよ、このぼくが。ついに自由と訣別《けつべつ》なんだ」
「まるで、結婚がこの世の終わりみたいに言うのね」
女は姉のような口調でさとした。
「違いますか?」
おうむ返しに男が訊《き》いた。
女は男のその口調と、問いかけるような眼差《まなざ》しに一瞬|怯《ひる》んで黙りこんだ。
「ええ、そう。わたしが今夜逃げだそうとしているのは、まさにその結婚からなのよ」
足元のウイークエンド・バッグから眼を男の顔に移しながら、女がいっそう静かに答えた。二人の視線がもう一度深々と絡んだ。
「とにかく乾杯」
と男が言った。
「良きにつけ悪しきにつけ『結婚』に乾杯」
女の口元にその夜初めて薄く微笑が浮かんだ。
ここだけの話
フグでも食いましょう、という誘いにつられて仕事場を離れて来たのだが、風木享子は今ひとつ気分が冴《さ》えない。フグにつられて慌てて来てしまったのだが、昨日締め切りのはずの原稿をまだ書き始めてもいないのだ。
「どうしました? 冴えませんね」
ヒレ酒を二口三口、少しお腹の中が温まった頃、吉岡が訊《き》いた。五年ばかり前に彼のところの新聞小説を書いた時の担当が彼だった。
その後出世してデスクになったので、現在は一緒に仕事はしていない。どちらからともなく誘いあって酒を飲む仲だ。というより食事友だち。
全く色気ぬきの相手と食事をしても面白くもおかしくもないから、こうして続くところをみると、お互いまんざらでもないのだろう。少なくとも、ひょうひょうとした顔立ちの吉岡は、風木享子の男の好みの範疇《はんちゆう》には入る。
「スランプですか?」
と吉岡がからかうような口調で彼女を見た。
「わたしが?」
聞きようによっては、あるいは相手次第では、傲慢《ごうまん》に響くかもしれないが、やっぱりからかうような調子で言って、享子は軽く男を睨《にら》んだ。
「違うのよ。ネタ不足」
青磁の皿の菊の模様に貼《は》りつけられたフグのサシミに箸《はし》を伸ばしながら、享子は溜《た》め息をついた。その店のフグはかなり厚めで、普通の店の三倍くらいの厚さに包丁が入れてある。それだと、タレをつけた時の具合がまことに絶妙なのだ。
「そりゃ、深刻だ。机の前にばかり坐《すわ》っているからですよ」
「あなたからも、忘れた頃にしか誘いがかからないし」
「あれ、僕のせいですか」
「だって、この前にご一緒したのハモの季節だったわよ」
「他に誘いはいくらでもかかるでしょうが」
「ただ美味《おい》しいものを食べるだけならね」
「僕たちだってそんなようなものだ」
チラと享子の表情を見て、吉岡は語尾を濁した。
「まあね」
と享子も視線を落とした。沈黙が流れた。吉岡は言葉を探し、
「多分、僕は男らしくないのでしょう」
と低い声で呟《つぶや》いた。
「そんなことないわ。こればかりはタイミングの問題だから」
「そうですか」
「そうよ。二度か三度目のお食事のあとで自然にそのようにならなければ、男と女の関係は永久に生じないものよ」
「言い訳のようだけど」
と吉岡が口ごもった。
「当時、僕はあなたの担当をさせてもらっていましたからね。とても僕の方から一線を越せる立場ではなかった」
わかっているわ、というように享子は軽く肩をすくめた。かと言って女の自分の方から持ちだせることでもなかった。再び沈黙。しかしそれほど悪い沈黙ではない。吉岡が軽く咳払《せきばら》いをして言った。
「あなたの小説のネタになるかどうかわからないけど、こんな話がありますよ。知っている社にいるある女性のことだけどね」
うんうん、と享子は耳を傾ける姿勢になった。昨日締め切りの題材がまだみつかっていないのだ。自分でも現金だとは思うのだが、いいネタ話は喉《のど》から手が出るほど欲しい。
「妊娠したらしいんだな。それが十か月の臨月まで誰も知らなかった。急に二週間休暇を取ってね。再びケロリとして現れた。そうやって合計三人産んだらしいのだけど、一人として彼女の妊娠に気づくものさえいなかったんだな」
と、そこで吉岡は少し言葉を切った。
「未婚の母?」
「そんなところですよ。でね、これはオチなんだが、口の悪い奴《やつ》がいてね。妊娠に気づかなかっただけじゃなく、あの女なら、その存在にも誰も気づかなかったんじゃないのって、言うんですよ」
「酷《ひど》い話」
「だめですか。ネタにならないか」
「そんな個人を傷つけるような話は、いやよ」
「じゃ、こういうのはどうです。これも僕の知っているある男の話だけどね」
と吉岡はヒレ酒のせいでやや回りの良くなった舌で言った。
「そいつが女とホテルへ行ったんですよ。相手は若い美人だったんで見栄張ってね、一流ホテルと張りこんだ」
話の合間に吉岡はフグのサシミを箸《はし》に取り、口へ運んだ。実にきれいに物を食べる男で、その点享子はいつも惚《ほ》れ惚れするのだった。
「いざという段になって、その何です、危ないっていうことになってね」
「何が危ないの?」
「だから、ほら危険日があるでしょう」
「ああ、排卵日の前後ね」
と享子は即物的に言った。
「うん。そう。それでね」
と吉岡の方はそれほど即物的にはなれず、顎《あご》をさすった。
「探したんですよ、あちこち。ほらアレを。電気スタンドの横とか、引き出しの中とか。歯ブラシの隣とか、予備のトイレットペーパーの下とか」
「そんなところにあるわけないじゃないの」
と思わず享子は噴《ふ》きだした。
「そこで電話をね、したんですよ、フロントへ」
「誰が?」
「え? だ、だからその男がさ」
「アレ持って来いって?」
「まさか。いきなり一流ホテルのフロントに、そんなこと言えないよ、いくらなんでも」
「そりゃ、そうでしょう、あなた気が弱いところあるから」
「嫌だな。僕じゃないって言ったでしょう」
「わかってるわよ。その知ってる男がでしょう」
「そうですよ。それでね。フロントに電話して、ちょっとボーイを寄こしてくれと」
「来たの?」
「来た来た。で、そいつが、いきなりボーイにむかって、こう親指と人差し指で輪っか作って見せて、『これ、あるか?』って」
と吉岡はジェスチャーをまじえながら言った。
「そしたらさ、いきなりボーイがホールドアップしてね、『お、お客さん、よ、よして下さいよ』とあとずさったんですよ」
「ああ、指を丸めたら、お金だと思ったのね。それでどうしたの? 強盗にまちがえられて」
「誤解を解くのに手間どりましたけどね、ようやく相手に意味が通じましてね」
「そんなもの持って来てくれたの?」
「もって来ましたよ」
とニンマリ吉岡が笑った。
「ホールドアップした時のボーイの顔、あなたに見せたかったですね」
「ほら、やっぱり自分のことじゃないの」
と享子は尻尾《しつぽ》をつかんで片方の眉《まゆ》を上げた。ほんのわずかだが、複雑な感情がないわけではなかった。
カルテット
すべての男に浮気願望があるように、女にも不倫願望があるのである。由々しきことであるが、これは何も今日に始まったことではなく、歴史的な事実であった。ただ昔は不倫は命がけ、それこそ打ち首を覚悟で敢行したのだが、現在は罪が重くてせいぜい離縁、中には見て見ぬふりをする配偶者もいたりして、お灸《きゆう》ひとつすえられないケースも少なくない。
ほとんどの場合は、亭主の知らぬところでこっそりと始まり、知らぬまにひっそり終わってしまう妻の不倫が圧倒的に多い。
妻が夫の浮気に全く気がつかないということは、まず百パーセントありえない。それは妻の最大の職務のひとつであり、夫の浮気を監視することは、その職務に関してすべての女は、シャーロック・ホームズよりも優秀で狡猾《こうかつ》なのである。だから男は、浮気をしたら必ずバレると覚悟したほうがよい。
男の浮気がそんなにも呆気《あつけ》なく妻の知るところになるのは、妻というものが最初《はな》から夫を全く信用していないからである。男を疑ってかかるからである。
反対に妻の不倫がなかなか夫にバレないのは、世の夫たちがこぞって「うちの女房にかぎり」と、妻を信頼して安心しきっているからだ。
疑心暗鬼で相手を観察しているのと、全くの信頼の上にアグラをかいているのとの、それは差なのである。
あるありふれた朝のこと。朝刊を読みながらトーストを噛《か》じる夫と、色|褪《あ》せたガウン姿でコーヒーを飲む妻と。夫は楊子《ようじ》でときどき歯をせせり、妻の邦子は脇腹《わきばら》なぞをボリボリと掻《か》いて大|欠伸《あくび》。
「ドルがまた下がったな」
夫はそれとなく口に出して言う。
「今年の紅白、ちょっと変わってて面白そうね」
と邦子は窓の外を眺めながら答える。
「このところ忘年会が続くんで肝臓の調子がどうもおかしい」
と夫が呟《つぶや》けば、
「お隣の斉藤さんのところ、家を売りに出したみたい」
と妻が応じる。
「今週の土、日は今年最後のゴルフだ」
「そうだわ、西武デパートの商品券があったんだっけ。午後からでも行ってみようかしら」
「そのザンバラ髪で出かけるのか」
「悪い?」
「そのなりでデパートのなか歩き回ったら、そりゃ公害だ」
「ひとのことより、あなた自分のこと、もう少し気にしたほうがいいわよ」
とそこでもう一度|喉《のど》の奥の奥まで見えるような欠伸《あくび》をひとつして、妻は続けた。
「口、臭いわよ。彼女に嫌われるわよ」
「何?」
と夫は肩を強《こわ》ばらせる。
「そんなもん、いるかよ」
バサバサと必要以上に音をたてながら新聞をたたむと、彼は立ち上がった。
「あら、違うの? 変ねぇ。じゃ、こんどの土、日の相手は彼女じゃないの?」
「ゴルフだと言ったじゃないか。ゴルフ、ゴルフだよ」
「ま、そういうことにしときましょ」
「嘘《うそ》だと思うんなら、矢代に聞いてみろや」
「あんなひと、誰が信用するものですか。どうせ二人でアリバイ工作しあってるんじゃないの」
「バカヤロ。女房|妬《や》くほど亭主もてもせずだよ」
と夫はそそくさとその場を逃げ出して、出勤の支度にとりかかった。
「ねぇ」
とその昼下がり、ホテルのベッドの中で邦子が男の脇腹《わきばら》を軽く突いた。
「今朝、うちのひとにカマかけたら、思ったよりオタオタしてたけど、ほんとうに今度の土、日、あなたたちとゴルフなの?」
男は吐き出した煙草の青い煙の行方を目で追いながら、
「ほんとだよ。きみの亭主はともかく、ボクのことは信用してもらいたいね」
と言い、邦子の髪の中に接吻《せつぷん》をした。夫がさんざんザンバラ髪と言ったその髪に、別の男は愛をこめて口を埋めるのである。夫にぜひとも見せてやりたいが、こればかりは実現不可能だった。
「矢代さんはハンディいくつなの?」
「きみの亭主とどっこいどっこいさ」
「だけど、ただボール打つだけでしょ。あんなものどこが面白いんだろう。しかも、冬のこの季節によくやるわね。軽井沢って寒いんでしょう?」
「ん? うん」
矢代の視線が一瞬だけ宙に止まった。
「まあね、冷えこみは厳しいけど、あそこはホラ、冬でも雪はほとんど降らないからね」
「話は違うけど、矢代さん、奥さんのこと信用してる?」
「どういう意味?」
「不倫してない?」
「まさか、うちの女房にかぎりその心配はないね。なさすぎて味気ないくらいだ」
「ずいぶん自信あるのね」
「教育ママゴンだもの。趣味は息子の受験。髪ふりみだしてさ。きみの爪《つめ》のアカでも煎《せん》じて飲ましたいくらいだよ」
「もしかして、今度の土、日どっか行くとか言ってなかった?」
「ん?」
と矢代は遠い目をした。
「そういえば実家のお袋さんの具合が悪いとかで、金曜日から家をあけるって言ってたな」
「本当に実家に行くのかしら?」
「な、なんだよ。何が言いたいんだよ?」
「実家に行くと嘘《うそ》ついて出かけていく人妻と、ゴルフと偽って女と逢《あ》う亭主と」
「うちの女房と、きみの亭主が? バカ。冗談言うなよ」
「ゴルフなんて嘘でしょ」
「本当だよ」
「じゃ、どこでやるのよ?」
「だから軽井沢の晴山ゴルフ」
「嘘。ひっかかったわね。軽井沢っていうのは私の思いつきよ」
矢代はとたんにポカンと口をあけて、邦子を見つめた。
「本当はどこへ行くの、うちの亭主?」
「知らないよ、そこまでは」
しどろもどろになる矢代。
「だけどさ、うちの女房の話だけどさ、何か知ってんの、きみ?」
「別に」
と邦子は言った。
「なんとなく想像してみただけよ。自分で調べたら?」
「ふん、バカな」
と再び矢代は鼻先で笑った。
「あんなデブのオバンに、浮気ができるかって」
しかし、口先で言うほど表情は冴《さ》えないのであった。
クリスマス
落合蔵之介。またの名を落ち込みの蔵之介。仕事にいきづまるとか、失恋するとかいうのならわかるが、電話が話し中で通じないといっては落ち込み、廊下でスレ違った女の子がクスッと笑ったような気がすると、陰々滅々になる。
別に何もないような時は、ズボンの坐《すわ》り皺《じわ》が気になっていつまでもクヨクヨしている。
暮れも押しつまったある夜、周囲の人間が慌ただしく出たり入ったりしている編集部で、蔵之介は肩を落として背中を丸めている。
「蔵ちゃん、どうしたのよ? 原稿上がったの?」
と同僚の海野良子が通りすがりに肩を叩《たた》いた。
「ああ。もう整理に回っている」
と蔵之介、浮かぬ顔。
「突っかえして来たわけじゃないんでしょ? だったらさっさと帰ればいいじゃない」
「ん」
そのまま行き過ぎようとしたが、良子には気の優しいところがあって、
「何よ? めんどうみきれないんだから。クリスマスが近いってのに今度は何で落ち込んでるの?」
「それがさ、そのクリスマスだけど、よく考えてみたらプレゼントを買うような女もいないんだ。二十九にもなるっていうのに、女の一人もいないんだからさ、人生|虚《むな》しいよね、実に」
「女ならいくらでもいるじゃない。プレゼント買ってくれるんなら、喜んでもらったげるわよ」
「俺《おれ》がいうのはそういう女のことじゃないの」
「わかってるけどさ、蔵ちゃん、問題を一度に解決しようとするからいけないのよ」
良子は蔵之介の机の端に、大きなお尻《しり》を載せながら言った。
「クリスマスが近いのでプレゼントが買いたい、ということと、女がいないということを別々に分けてみたら?」
「それで?」
「ひとつずつ解決していくのよ。まずクリスマスのプレゼントを買う。ね? なんなら一緒に行ってみつくろってあげるわよ。それで問題の五十パーセントは解決するでしょ?」
「なるほどね。しかし」
と釈然とせず腕を組む蔵之介。
「しかし、女のほうは?」
「それよね、問題は。誰かいないの? 日頃これは、と思っているひと」
「いるけどさ。しかしねぇ」
「誰よ。私の知ってるひと?」
「うん。知ってると思うよ。黒木香」
「ばかね。もっと身近に手の届くところで誰かいないの?」
「身近にねぇ」
と蔵之介はすっかり考えこんだ。
「そんなの、いないなあ」
「うちの社の女の、どこが悪いのよォ?」
と良子はムッとして訊《き》いた。
「なまいき。突っ張り。男まさり。女の範疇《はんちゆう》に入らない」
そうまで言われては女がすたる。よしわかった。
「クリスマスの買い物につきあったげる」
良子は蔵之介を引きたてると、ネオン輝く巷《ちまた》へと飛び出して行った。
「蔵ちゃん、元気出しなさいよ。プレゼントを買ったんだし」
と、良子は言った。
「しかし、肝心の相手がいないんじゃなぁ」
と冬の寒風に首を縮める蔵之介。
「寒いなぁ」
「じゃ、熱燗《あつかん》で一杯飲んでく?」
「淋《さび》しいなぁ」
あたりは二人連ればかり。腕を組みぴったりと寄り添う男女の姿。
「なんかうんと温かいものがいいなぁ」
「鍋でも突っつく?」
「その程度じゃとうてい温まりそうもないよ」
途方に暮れた子供のように、蔵之介はそう言ってその場に立ち止まってしまった。
「もう! 蔵ちゃんたらッ。ひとの母性本能に訴えるんだから」
良子は少し考えて言った。
「この近くに、ヒレ酒飲まして、田舎のお袋の味食べさせる店があるのよ。そこへ行く?」
「ヒレ酒飲むと、俺《おれ》、女の胸に顔埋めてしみじみ泣きたくなる癖があってさ」
「そこのおばさん、バストDカップだから、埋めがいがあるわよ」
「おばさんていくつ?」
「うーん、そうねぇ、五十になるかならないかってところね」
「パス。女は二十五まで」
「ふんだ」
「きみいくつ?」
「二十六」
「違うよ、バストのサイズ」
「バストのサイズ訊《き》いてどうすんのよ? 変なこと考えないでよね。Cよ」
「Cってのは許せるなぁ。二十六というのもまあ妥協できる」
「さっきはうちの社に女はいないみたいなこと言ってたくせに、何よ」
「本人目の前に置いて、いい女だなんて言えないよ。俺ってさ、そういうの不器用でさ、思ったことも言えないんだ。こんなもの買っても――」
と蔵之介は、ケンゾーの三万八千円もした絹のスカーフの入った包みを揺すって続けた。
「もらってくれないよな」
「え? 誰? あたしに?」
「そんな。腰ぬかすことないじゃないか。傷つくよ。いいよ、取り消すよ」
「取り消すことないの」
と慌てて良子が手を伸ばして包みを取り上げた。
「取り消すことないのよ、うれしかったのよ」
と良子は語調も柔らかく言った。
冬の朝帰り。暁のひえびえとした人気のない通りを、猫が一匹過《よ》ぎって行く。蔵之介は自信に溢《あふ》れた足取りで歩きながら、煙草に火をつけた。
煙を冷えた早朝の空気の中にゆっくりと吐きだしながら、別れてきたばかりの良子の裸体を反芻《はんすう》していた。
編集部のお高く止まっている女どもを落とすのは、この手に限る、と満足の溜《た》め息。絶対にこちらから積極的に口説《くど》いてはならぬのだ。向こうをその気にさせる。それが成功の秘訣《ひけつ》である。
しかし、Cカップというのはサバ読んでたな。あれはどうみてもBカップだった。でも、良子のあの大きなお尻《しり》は安定感があって大変に結構であったな。蔵之介は快い疲労感の中でそう呟《つぶや》いた。
一方、良子はかねてから欲しかったケンゾーの絹のスカーフをしっかりとつかむと、家路を急いでいた。スカーフも欲しかったけど、蔵之介ともちょっと寝てみたかったのだ。格別に良くも悪くもなし。まあ平均点というところ。レパートリーのうちには、ちょっと入らないけど。
今度はあのひとどうかしら? レイアウトやってる高野さん。なんとなく好色な手をしてるけど。
悶《もん》 絶《ぜつ》
「鳴海さんて、シャイなのね」
と、佐和子が言った。
「それに割と人見知りでしょう?」
ドライマティーニで舌を湿らせていた鳴海は、こそばゆ気に苦笑して、
「おいおい、声を落としてくれよ。他人《ひと》が聞いたら馬鹿だと思うじゃないか。四十男をつかまえてシャイだの人見知りはないよ」
と、口ぶりほどにはまんざらでもない様子で若い女に言った。
「あら、心外。それは誤解ですよォ」
と、佐和子は赤く塗った唇をとがらせた。下唇の真ん中にいくつか縦皺《たてじわ》が刻まれた唇で、ベビーフェイスの中で、それだけがアンバランスに肉感的だった。
「誤解かね」
語尾をだらしなく長くひっぱる喋《しやべ》りかたに、いささかへきえきしながらも、鳴海は女の若さを楽しんでいた。その存在からくる軽い煽情感《せんじようかん》も、まあ、快《こころよ》かった。
「そう、誤解。熟年の男のヒトの、人見知りとかシャイっていうの、絶対にチャームポイントなのよ。誉《ほ》めたんだけどな、あたし」
熟年という言葉を、鳴海は好かなかった。中年でいいじゃないかと何時《いつ》も思う。最初にその言葉を使った人間を絞め殺してやりたいと、不意に思った。
「きみ、幾つ?」
なぜか残酷な気持ちにかられて、鳴海は唐突に女の年を訊《き》いた。
「まっ、女に年を訊くなんて失礼ね」
と、女は膨《ふく》れてみせる。
つまらん科白《せりふ》だと胸中で呟《つぶや》いた。急にプロセスを踏むことに興味を失って、鳴海は言った。
「寝よう」
「それ、命令?」
佐和子は眉《まゆ》を上げた。怒ったというよりは、面白がっているみたいだった。
「いや、提案」
「じゃ、イエスとかノーとか答えなきゃいけないんだ」
若い女は、じらすように、斜め下からの視線で鳴海を見上げた。切れ長の眼が濡《ぬ》れていて、下瞼《したまぶた》のふちがふっくらとして赤みがかっていた。
「つまり、不倫の提案ね? あたしって、なぜかこの手の提案をされるヒトなのよね」
鳴海は、不倫という言葉も嫌いだった。おぞましくて、虫酸《むしず》が走るような言葉だと思っている。
しかし、女の肌は白くて、日本人には珍しくミルクのような感じというか、皮膚の下に仄白《ほのじろ》い発光体を宿しているように見えた。
「僕は単に、きみとやりたいと言っているだけさ」
それは、正直にして率直な気持ちだった。
「ウッソでしょう。信じられないのよねェ、そういう発想」
女は体をくねらせた。女のウエストは、両手に入ってしまうくらいしかなさそうだった。
「きみ、まっすぐに足をそろえて立った時に、太腿《ふともも》の間に、透《す》き間がかなりあくだろう?」
女は一瞬キョトンとして、それから憤然として言った。
「なによ、それ?」
「怒ったところをみると、透き間があくタイプだな」
「だから、どうだっていうのォ?」
「それがいいんだよ、淫乱《いんらん》な感じで」
ベビーフェイスとの対比においての話である。
「あきれた。お下品ね、鳴海さんて」
「うん、下品だよ。ベッドの中ではさらに下品でね。きみは悶絶《もんぜつ》するよ」
「悶絶って?」
「あまりの快感にもだえて失神するっていう意味。それで大学出てるの?」
「ふんだ。大学ではそういう形而下《けいじか》のことは教えないのよ」
佐和子は耳朶《みみたぶ》に血の色が差している。
「悶絶したくないかい?」
マティーニを飲み干しながら鳴海は言った。
「鳴海さんて、いつもそんなふうに女を口説《くど》くの?」
「そんなふうって?」
「だから、そのものズバリ。下品で野卑で。最低」
「女によるのさ。お高くとまってるカマトトには下品で野卑で最低なのが効果ある」
「誰のことよ?」
「眼の前のベビーフェイスのことさ」
「あったまきちゃう」
佐和子は鳴海を睨《にら》みつけた。
「あたしね、言っとくけど、プロセスを重視するヒトなのよね」
「プロセスは、ベッドの中で楽しもうよ。そのほうがずっと面白いよ」
「そんなの、お断り」
「よし、わかった」
「え?」
「いいよ、だから」
「え? いいの?」
「無理することはないさ」
鳴海は実にクールに言った。
「そんなこと言ってないじゃない」
「じゃ、いいの? だったら出よう」
「だって、そんなに簡単にオーケーしたら、その手の安手の女に見られちゃう」
「時間かけてプロセス踏んでも、それは同じことなんじゃない」
「冗談きつい。わかった。あなたって、精神的なサドね。当たったでしょう?」
「いじめられて喜んでいるところをみると、きみにはマゾっ気があるね」
「なんだか、すごそうね」
「何が?」
「いやん、言わせないでよ」
「ベッドの中で?」
「知らない」
鳴海はタイミングを見計らって、伝票に手を伸ばした。
バスルームからはシャワーを使う音がさかんにしている。時々、それに混じって女の鼻唄《はなうた》の声が聞こえる。
鳴海はベッドサイド・テーブルからメモとボールペンを取り上げると、ちょっと考えて何事か書き出した。
書き終わると、バスルームの音に耳をすませ、受話器を取り上げた。
「もしもし。僕だ、鳴海。今からきみの部屋に行ってもいいかい?」
「あら、どういう風の吹きまわし?」
と、低く乾いたアルトの声で相手が答えた。
「ショートケーキってのは見るだけでいいのさ」
「年増《としま》女でもよろしいの?」
「老いた雌鶏《めんどり》からは極上のスープが出来るというからね」
「あいかわらずの毒舌ね。でも、いいわ。いらっしゃい」
ニヤリと笑って鳴海は電話を切ると、メモを読み直して、ベッドの上に置き、たいして急ぎもせず部屋から抜け出した。
――悶絶《もんぜつ》とは、怒り苦しんで気絶することも、言う――
メモにはそう書かれてあった。
一九八八年三月、朝日新聞社より単行本として刊行
角川文庫『カサノバのためいき』平成3年5月25日初版発行
平成8年4月30日7版発行