森 瑤子
アイランド
目 次
プロローグ
|執 事《バトラー》
伝 説
長 老
アイランド
再 会
プロローグ
深い静寂の中に、まったく変化のない闇空間が永遠の広がりを見せていた。銀河のもっとも遠い部分が、光の帯のように空を横切り、その濃い真珠色の光は、銀河の中心方向で少し広くなり、螺旋《らせん》状の暗黒星雲が左から右へとそれを横切って行った。
なんと遠くまで来てしまったことだろう。宇宙空間内を光速と同じ速さで、出発地点から刻々と遠ざかりながら、彼女の魂は孤独に震えた。彼女には質量も形もなく、震える魂だけの存在であった。
真空中を光が走る速さが、速さに関するかぎり絶対的な最高速度であるかぎり、彼女の放浪の旅はまだ永遠に終わりそうにもなかった。
更に、気の遠くなるほどの光の年月が過ぎて、彼女は眼下に青く輝く球体を発見する。それは水を深々とたたえた美しい惑星だった。そして突然に彼女は、自分の旅がついに終わりに近づいたことを感じた。
次に気がついた時は、彼女は宇宙の闇よりも更に深い、想像を絶する球形の闇の中で、羊水の海に浮かんでいた。そしてもはや魂だけの存在ではなく、質量と形を与えられ、しかも急速に自分が膨張するのを感じていた。
やがて球形の宇宙の闇いっぱいにまでそのカサが増した時、彼女は温い水と共に押し流された。眼もくらむような光の世界に迎えられると、周囲で声がした。
「女の赤ちゃんですよ」
その瞬間彼女は銀河の記憶を失った。そして新しい言語と、新しい運命とが与えられた。
|執 事《バトラー》
執事は、実に憂鬱《ゆううつ》な、そして実にメランコリックな表情で、建物の外に広がる|八ケ岳《やつがたけ》の山並みに、青い眼を注いでいた。
彼はもうかなり長いこと、重度の鬱状態をぬけだせないでいる。躁鬱《そううつ》症のロボットなんて前代未聞《ぜんだいみもん》だが、事実は事実なのだから受け入れるしかない。
|ご主人様《マスター》は、そんな高尚な病気になるのは、染色体の数が四六の生物だけだと、まるで彼が仮病《けびよう》でも使っていると言わんばかりだ。しかし人間と猿以外にだって、ノイローゼ気味の犬や猫はゴマンといる。第一動物園の野生動物は、誰れが見たって、かなり重度の精神病患者であることは、あきらかではないか。
動物園の野生動物の精神に異常をきたした原因は、冷暖房完備の一LDKの柵《さく》である。テレビジョンつきで、食事ボタンを鼻で押せば、いつでも新鮮な生肉がフードシュートから供給される。飽食と怠惰の結果として野生動物は少しずつ狂っていったのである。
彼の名はデヴィッド。れっきとしたロボットである。最新式のコンピューターを頭脳に内蔵した永久バッテリーつきの、家事ロボット。
同じ家事ロボットのなかでも、最高ランクの『執事《バトラー》』種。格も最上だが、値段も最高。つまり、人間の脳に無限に近いコンピューター脳をもっているということだ。そして彼は憂鬱なのだった。常に灰色の霧状のメランコリーがたちこめ、執事としての義務もほとんど果たし得ず、日がな一日、部屋の隅の暗いコーナーにたたずみ、八ケ岳の山並みに視線を注いでいるだけの人生。
ご主人様が彼を中古ロボットセンターへ売り払ってしまわないのは、別に親切だとか寛大だとかいうわけではなく、彼の見栄《みば》えが良く、単なる置き物としても充分に成立するからである。そのうち、執事の制服である燕尾《えんび》服を剥《は》ぎ取られて、ギリシャの彫像のように丸裸にされるのではないかと、デヴィッドは時々ひどく怯《おび》える。そんな辱《はずか》しめを受けるくらいなら、自殺した方がましである。
ところが悲劇的なことに、彼の体内には自滅予防装置が取りつけられている。最高ランクのロボットだけがそうなように。
というわけでバトラーは、一分間にかっきり六十回打ち続ける人工心臓の音に、再び耳をかたむけ、ご主人様が彼を本名のデヴィッドと決して呼ばずに、ただ「執事《バトラー》」としか呼ばないことを嘆いていた。そして彼の本当の悲劇は、灰色の霧状のメランコリーが一時的なものではなく、永久に続くのではないかという点にある。なぜなら執事のデヴィッドは、彼が望もうと望むまいと、永久に生き続ける運命だからだ。
なまあたたかい夜に続く暑い朝。ぎらぎらと輝く日中の日射し。地球は年々、少しずつ地表の温度を上げていく。
だが、ここには空調の快適なエアーがあり、この快適さは、彼デヴィッドの生命と同様、永遠に保障されているものである。
彼は永久になど生き続けたくはなかった。窓の外にある桜の老木が、六十回花を咲かせるのを見るだけで充分だった。あるいは山々が六十回新雪に覆われるのを見るだけで。
人は誰れでも死ななければならないのだ。生の終わりが生まれた時から約束されているからこそ、生きることに喜びがあるのだ。やがて老いにその肉体をむしばまれるということがわかっているから、青春期がめくるめくような感覚のうちに過ぎていくのだ。死が透けて見えるからこそ、人は生きていけるのだ。だが彼は人間ではない。
五月の気候のような快適さが永久に続く中では、彼はやがて発狂するだろう。神よ、我れに死を約束したまえ。でなければ冒険を。恐怖を。危機感を。デヴィッドはそう必死に祈った。
その時、奥の寝室から、ご主人様のなんとも陰鬱な溜息《ためいき》が聞こえてきた。ようやくお眼覚めというわけらしい。
星良雅也《せいらまさや》は、夜のうちにコンクリートを流しこまれたような頭と肉体をもてあまして、たて続けにうめき声をもらした。
つい眠りすぎたらしい。時計を見ると午後の二時である。昨夜ベッドに入ったのは何時頃だったのか。東の空が白みかけていたような微《かす》かな記憶がないでもない。
ウェイクアップ・システムが作動しなかったところをみると、無意識にスイッチをオフにしたのだろうか。確かめようとして頭を動かすと、こめかみのあたりにキリでもまれるような激痛が走った。
テキーラとラムの飲み過ぎだ。「ヘミングウェイ・クラブ」のスタンド・バーで、無口なバーテンダーを相手に何時間もねばったのが、いけなかったのだ。他に喋《しやべ》りたいような人間もいなかったし、第一、男たちは、それぞれ何かの事情で他人と口をききたくないから、あのバーに集まってくるわけなので、バーの中はいつものことながらひっそりとしたものだった。
起き出したいとは思うのだが、ちょっとでも動くと吐きそうな気分だし、頭は鋼《はがね》の輪で二重三重に締めつけられているようだ。こんなひどい二日酔いは、この十年来、皆無である。
二日酔いになるほど酒を飲まなくなったというわけではなく、二日酔い予防のあれやこれやの方法がゴマンと発達したからだ。
各種ピルもあるし、レム睡眠応用のウェイクアップ・システムで、普通程度のものなら快適な目覚めが得られる。ストレスコントロール・システムのイニシャライズキーに接続すれば、更に完璧《かんぺき》に予防できるというものだ。
もっとも、そのような現代医学やコンピューター装置に頼らなくとも、自己暗示法さえマスターしていればすむことである。脳細胞に「二日酔いになるなよ」と一言命令を下しておいて眠れば、それで解決である。潜在意識が働いて眠っている間に解決してくれるのだ。
問題は、現実に二日酔いに見舞われ、それもこの十年来で最大の二日酔いに見舞われ、身動きならぬ状態にいる、ということである。
もちろん、十メートルばかり歩けばバスルームの戸棚に即時性回復薬のピルはあるのだが、どうやってその十メートルを移動するか。
二〇〇三年の今日においては、二日酔いですら贅沢《ぜいたく》な状態といわねばなるまい。
灰色の鉛のペーストがべったりとたちこめている頭で、彼、星良雅也は、午前中に片づけなければならないはずだった四つの仕事と、午後にまわしたいくつかの予定とを思って、絶望的な気分になった。
おそらく書斎の、衛星通信にネットワークしているコンピューターは、狂ったように批難と詰問の文字を吐きだしていることだろう。星良は、ファックス・ターミナルから次々と吐きだされる情報で、書斎がくまなく埋まってしまうような妄想《もうそう》に、一瞬|怯《おび》えた。
星良は十四人の |S ・ E ・ W《スーパー・エキゼクティブ・ウーマン》 とファンド・マネージメントの契約をしており、それが彼のオンデイの正式な職業である。
オンデイは月・火・水・木の四日間である。もっとも株式市場にはオフデイはないのだから、その三日間の運営は信頼できるオフデイ証券マンに委託する。星良の委託しているオフデイ証券マンは鈴木《すずき》という男で、彼のオンデイにおける正職はリニア・モーターカーの備品を作る会社のセールスである。
そのように、一人の人間が、週のうちを四日と三日に分けて、二つの職業を持つようになったのは、この三、四年ばかりの間の著しい現象である。一九九五年に、週休三日制が世界のおもだった産業国の、主として首都圏で採用されるようになると、人々は三日の休日の使い方を重視するようになっていった。
休日にゴルフ三昧《ざんまい》の男たちの中で、次第に腕を上げていった者の中に、やがてインストラクターをやったり、更にはプロになったりする男たちが出現しはじめた。趣味や遊びで収入が得られるとなると、人々はオフデイの活用を真剣に考えるようになっていったのである。
現在のところ、オフデイの趣味が高じて仕事として通用するのは、全体の十六パーセントだが、この数字は年々急上昇をしつつある。
丸の内の商社に勤める男が、オフデイにはプロゴルファーとして、日本国内はもちろん、シンガポール、ソウル、オーストラリア、アメリカ、ヨーロッパへの遠征試合に出かけて行く。東南アジアの国々なら日帰りは可能だし、ヨーロッパでも、スーパージェットで片道三時間の飛行時間だから一泊で帰って来れる。
別のウイスキー会社に勤める男のオフデイの顔は、自動車のレーサーである。大学の教授と、リゾート地のオフデイ・レストラン経営をかねる者、新聞記者と陶芸家、と実に様々である。
目下趣味の範囲に甘んじているものも、この二、三年のうちにはプロの名乗りを上げようと頑張っている。そんなわけもあって、オフデイ産業とも言うべき、教養・技術講座が、いたるところで開かれ、どの講座も目白押しの盛況である。一九七〇年から八〇年いっぱいに流行した主婦のための文化講座の規模をずっと大きく、専門化したものと思えばよい。
さて、星良雅也のオフデイの顔は、ミュージカル作家である。作曲の方ではなく、ストーリーと歌詞を創る仕事だ。もともとは文学の方をやりたかったのだが、今や作家は掃いて捨てるほどおり、それに二十一世紀の初めは、一九九〇年代に引き続き、女流全盛で、スタンダールや、ヘミングウェイやトルーマン・カポーティーや、サルトルなどを凌《しの》ぐとも劣らない女流作家が世界的に次々と出現し、男の出る幕ではとうていなかった。
次に脚本家という線も考えるには考えた。何しろドラマばかりを二十四時間観せるテレビ局が九つもあるのだ。
ところが、女流作家の台頭で、はみ出したり、弾き飛ばされたりした男の小説家たちが、争って脚本家に転じ始めた。
そこで星良雅也は、比較的競争相手の少ないミュージカル作家を選んだのである。それに彼は音楽が好きだった。父親が若い頃ビートルズに深く傾倒していて、子供の頃から、よくビートルズの曲を聴かされていた。もっとも現代ではビートルズは完全に古典音楽である。
と、そこまで考えた時、星良は、「しまった!」とベッドから飛び起きた。とたんに、差し迫った吐き気に見舞われ、這《は》うようにして、バスルームへと急いだ。途中で部屋の隅に立てかけてあるとしか見えないロボットの『執事《バトラー》』と眼と眼があった。
「ありがとよ」
と呟《つぶや》いて、彼はバスルームのドアを押し、全身の力をふりしぼって立ち上がると、戸棚から「オールマイティ」の錠剤を取り出して、一つぶ、口の中へ放りこんだ。
三秒で吐き気が止まり、五秒で頭痛が消えた。
それからバスルームを出ると、もう一度『執事』に糞《くそ》の役にもたたずにありがたいことだ、と悪態をついた。「いいか、バトラー。そんな眼でもう一度|俺《おれ》を見てみろ。着ているものを剥《は》ぎとって、素裸にしてやるからな。前を隠すブドウの葉もやらんぞ」
最初は便利なものだと思ったのだ。キャッチフレーズの、「独身男《バチエラー》のための執事《バトラー》」という、ゴロ合わせが成功して、シングルライフをエンジョイする世の男たちの間でそのロボットは、ベストセラー商品となったのだ。
要するに一時流行した家事用ロボットの改良種であるが、どのように改良を加えようとロボットはロボットである。見栄えは画期的に良くなり、動きも滑らかになりはしたが、決定的な欠点は、想像力がない、ということである。これだけは、今後どんなにコンピューターが発達しようと、どうしようもない問題で、人間の頭にまさるコンピューターなど、作れるわけがない。
想像力に欠けるということは、気がきかない、応用がきかない、気働きがない、という意味だ。
『執事』に出来ることといえば、簡単な食事の仕度と後片づけ、各種カクテルの調合、パーティーにおけるあれこれといったところ。
食前にダイキリが飲みたければ、「ダイキリ」と、相手の眼を見てはっきりと発音してやればいいのだが、大体がいつだってデヴィッドはあらぬ方角を見ているものだから、ぐるりと回りこんでその水晶玉の青い瞳《ひとみ》をじっと覗《のぞ》きこんでやらないと、センサーが働かない。
おまけに、ちょっと張りこんで英国製のを買ってしまったのだ。『執事』はブリティッシュに限ると思ったからだった。そうしたら、昔の英国俳優、デヴィッド・ニーヴンの顔をした『執事』が届いた。それはまあ良いのだが、ダイキリと言ったって、ウンともスンとも言わない。ダイキリは日本語なので「ダッカリー」と発音しなければわからないのだ。RとLの発音の違いにも敏感で、RとLの入る飲みものにも敏感に反応しない。「ドライ・マティニー」だめ。「マルガリータ」もだめ。「ブランディ」だって待てど暮らせど出て来ない。応用もきかなければ、想像力もない。
他に出来ることはないのかとカタログを読んだら「埃り《ダスト》払い」というのがあった。「ダスト」とセンサーであるところの眼を見て命令すると、専用の布切れで部屋中の埃《ほこ》りを拭き取る。
ところが、星良の住まいには、リアルタイム・クリーニング・システムがすでに組みこまれており、ゴミやチリが発生すると自動的にこの装置が作動して、特定の排孔《はいこう》に吸い取られるようになっているのだ。
だから、「ダスト」と命じられたバトラーは布切れを手に埃《ほこ》りを求めてやたら室内を右往左往するのみで、ある時「ストップ」の命令を忘れてオフデイの取材でニューヨークまで行って帰って来たら、使用不能となってしまっていた。一応技師を呼んで状態をチェックさせたのだが、センサーが焼け切れたりしているわけでもなく、どこも異常がないという。
「多分、一種のノイローゼみたいなものじゃないですかね」
お手上げの技師は、そう皮肉を言って帰ってしまった。
それ以来、デヴィッドはずっと沈みこんだまま、実に憂鬱そうな表情で、部屋の隅の壁に、背をもたれかけ、日がな一日、ぼんやりとしているのである。
星良は居間に行くと、衛星中継による「インターネットサザビー・オークション」に参加するべく、コンピューターのボタンを押した。
これは世界的に有名なオークションの老舗、ロンドンのサザビー社が提供する会員制のプログラムで、一定額の銀行預金保証があれば誰れでも参加できる。
オークションには、比較的大衆的な「レギュラー」と、「ゴールド」の二種があり、年収に応じて決められる。星良はゴールド会員である。
すでにオークションは始まっており、後半に差しかかるところらしかった。あらかじめ届いていたサザビー社からのカタログ情報によると、今日の目玉はビートルズのファースト・アルバムの初版《マザー》盤である。父親の残してくれたコレクションに、ぜひとも加えたい一品だった。
スノッブなアクセントのイギリス人が、画面に向かって早口にまくしたてている。同時通訳装置が極限にまで発達しているので、耳には英語で聞こえているのだが、脳はそれを日本語で理解している。
「次に本日の特別提供品です。かつて一世をふうびしたビートルズのマザー・アルバムのオークションに入ります。五千ポンドから始めます」
アメリカの投資家が、いきなり倍額で入札した。いかにポンドレートが安いといっても星良には厳しい状況だ。
「一万一千ポンド」
と彼はキイを叩《たた》いた。
「一万五千」今度はオーストラリアから。
「一万八千」同じアメリカ人がつり上げる。
「一万九千」
星良としてもこのあたりがギリギリだ。仮りにそのレコードを手に入れることが出来たら、他のコレクションのうち、何かを手放さなければなるまい。祖父の残してくれたヤッシャ・ハイフェッツの「チゴイネルワイゼン」の入ったSP盤があるのだが……。
「二万」アメリカが更に上げる。
「他にありませんか?」
「二万一千」
星良の額に汗が浮かんだ。
「ニッポンのセイラ氏、二万一千ポンド。他には?」
「三万」
一気につり上げたのは韓国の崔《チエオ》氏。もはや星良の出る幕ではない。世界的に強いウォンの底力《そこぢから》を見せ、ついにビートルズのマザー・アルバムは、韓国の崔氏の手に。このところ、サザビーにおける韓国勢の力には、眼を見張るものがある。
ひどく失望して、星良は衛星放送を打ち切った。
それから彼はボディー・クリーナーを二分間セットし、大急ぎで入浴をすませた。
このボディー・クリーナーの発明をしたのは、星良の学生時代の友人で、ガソリンスタンドのアルバイトをしていた男だった。
ある時、彼はシャワーを浴びながら、ふとひらめいたのが、洗車の装置を人間に応用できないものかと考えたのだ。彼はものぐさで、風呂嫌《ふろぎら》いだった。
そこで考えたのが、シャワー室に黙って立つだけで、シャンプーからリンス、ボディー洗い、乾燥、おまけにボディーローション・クリームまでがセットになった、ボディー・クリーナー室。要するに洗車装置を人間サイズにしたものである。
さっそく特許を取り、これを大手のバスタブ産業に売りつけた。その後さまざまな改良が重ねられ、コンパクトなボディー・クリーナーは、世界中のほとんどの家庭、ホテル、マンションに必ずひとつは取りつけられているのだ。おかげで星良の友人は巨万の富を得、オーストラリアに、砂漠と湖つきの東京都ほどもある広大な土地を買った。そこに超近代的な館をかまえ、専用ジェット機で世界中にちらばっている別荘を泊り歩く身である。
星良はさっぱりとすると、清潔な綿ジャージーの上下に着替え、仕事部屋へと向かった。彼は背が高く、髪は黒く、ゆるやかに波打っていた。綿ジャージーには特殊な加工がしてあって、伸縮性に富みながら、膝などがぬけることがない。机に向かってする仕事にはうってつけの素材である。
彼は約一時間かけて、午前中に売り買い出来なかったクライアントの株の動きを調べ上げた。特に大損もなく、大きな利益もない。平均すると〇・七パーセントの伸び率。ややほっとして、窓の外に眼をやった。
紫色の輪郭を幾重にもつらねる八ケ岳の山々が眼下に広がっている。
彼の住まいは八ケ岳サンクチュアリ・パークに建つコンドミニアムのひとつで、都心まではリニア・モーターカーで三十分という距離。急がないときには、スピードは多少劣るが、カプセルトレインを利用する。これだと、書斎の延長のような個室になっており、行き先を指定すれば、目的地まで新聞や雑誌を読みながら、自動的に行けるのだ。作詞も出来るし、パソコン通信も可能。必要なデータは、カプセルトレイン内のコンピューターに入力することもできる。
もっとも星良の場合、在宅勤務であるから、リニア・モーターカーにしてもカプセルトレインにしても、日常的な移動には使わない。会員制のクラブや都心のシアター、国内旅行や取材に出かける時使用する。昨夜は、伊豆下田《いずしもだ》のウォーターフロントにある「ヘミングウェイ・クラブ」へ、出かけて行った。泥酔しても、自動走行装置で、安全に帰宅できるという寸法。
その時、三次元立体テレビ電話の呼び出しが、軽やかな音を立てて鳴った。
画面に等身大の女の姿が映った。ミュージック・エージェントの廻陽子《めぐりようこ》である。黒ぶちの眼鏡の中の瞳《ひとみ》が、星良の姿をとらえると、柔らかく笑った。あの眼鏡をとれば、かなりの美人なのに、と星良はいつも少しだけ残念に思うのだが、今のところ、彼女に眼鏡を外させるような状況に至っていない。
「一体どうしたの? 朝から何度も呼び出していたのよ」
廻陽子は、星良の背後を覗《のぞ》くような感じで訊《き》いた。まるでベッドルームに女でもいるのではないかという様子が露《あら》わだった。
「ミズ・廻《めぐり》」
と星良は批難の口調で言った。「俺《おれ》、自宅に女を連れこむ趣味はないんだ。ついでに言っとくけど、カーセックスも好きじゃない」
「じゃどこでするの?」
「ここでさ」
と、星良は自分のこめかみのあたりを指で突きながら言った。「最上のセックスは、想像の中で行なうセックス。限りなく卑猥《ひわい》になれるからね」
「ふん」
と彼女は鼻を鳴らした。「じゃ最後に本物の女を抱いたのは何時《いつ》なの?」
「それほど大昔というわけじゃないさ」
星良はテレスクリーンに向かってニヤリと笑ってみせた。するとその若々しい顔に、歯並びのよい白い歯が光った。たいていの女たちが、溶けかかったバターみたいになる得意の微笑だった。
「スポーツとしてのセックスなら、昨夜にやったよ」
「会員制のスポーツクラブで?」
「当たらずとも遠からず。『ヘミングウェイ・クラブ』のトイレの中でさ」
「レイディスなの? それともジェント?」
「ジェントの方。大を使うケースが少ないんでね」
「そういうのが好きなの?」
「そういうのって?」
「慌《あわ》ただしく、トイレの中でやるのがよ」
「そのどちらも違うね。俺が好きなのは、一種の危機感さ。何時誰れが来るとも知れないからね」
「さては、例によって人妻なのね、相手は」
廻陽子はいかにも軽蔑《けいべつ》したように、冷ややかにそう言ってから、話題を変えた。
「それにそのニヤニヤ笑いを止めなさい。他の女にはどうか知らないけど、私には効きめがないわ。第一ねあなた、自分でその笑顔の効用を熟知しているなんて、自意識過剰もいいところよ。いいこと、今電話をしているのはね、何もあなたのただれたセックスライフに関するインタビューじゃないのよ」
「おやそうなの? 俺はてっきりそうなのかと思ったがね」
「冗談言わないで。あなたのただれたセックスライフになんて、全然興味ないわ」
「ただれたはもういいよ。それで用件は?」
机のひきだしから煙草を取り上げながら、星良が訊《き》いた。
「まだその薄汚い習慣が止められないの?」
と、彼女は星良の手元を見て眉《まゆ》をひそめた。テレビ電話の欠点は、見えすぎることだ。
「止められるさ、いつだって。ただ止めようと思わないだけ」
「喫煙の悪習は十年前に一掃されたはずよ」
「禁を破るのが好きなだけさ」
「人妻とセックスするのも同じ理由ね。他にもどんな禁を破っているの?」
眼鏡の奥で、廻陽子の瞳が光った。
「今度いつか話すよ」
「いつかって?」
「そのうちさ。ベッドの中ででも」
「あら、トイレの中がお好みじゃなかったの?」
「あんたが試してみたいというなら、俺はトイレでもかまわんよ」
「お断わり」
「トイレはだめ?」
「トイレもあなたもよ」
「そいつは残念だな。俺とやった女は、必ず後を追いまわすようになるけどね」
「あなたって下劣だわ。それに救いようもないほど自惚《うぬぼ》れている。ねえ、私の話を聞くの、聞かないの? 仕事なのよ。仕事は欲しいんでしょう?」
「いい仕事ならね。ただしつまらない仕事だったら、あんたの方が欲しいな。今日のドレスはセクシーだよ。ちょっと眼鏡を外してみてくれないか」
廻陽子はついにかんかんに怒ると、電話を切ってしまったので、テレスクリーンから唐突に等身大の彼女の姿が消えた。
ちょっとやりすぎだぜ、と星良の中で良心の声が呟《つぶや》いた。何て言ったって彼女はミュージック・エージェントなんだからな。しかもインターナショナルの。世界のベスト・ハンドレッドに選ばれたスーパービジネス・ウーマンである。
心配することはないさ、と星良の中で別の声が言い返す。ミズ・廻《めぐり》はすぐにテレビ電話をかけ直してくるさ。なにせ彼女は俺に惚《ほ》れてるからな。もっとも本人はそのことに気づいちゃいないけど。
電話が再び鳴った。星良はわざと十回鳴らしておいて、おもむろに受話器を外した。テレスクリーンに廻陽子が映し出された。
「今度は無駄口は叩《たた》かないで、私の話だけ聞いてちょうだい。さもないと、二度とあなたにはチャンスをあげませんから」
「オーケイ、オーケイ」
星良は宣誓するかのように右手を上げた。
「話というのはこういうことよ。|ブリティッシュ《B》|・《・》|シネマ《C》から、ミュージカルのプレゼンテーションの依頼が来てるのよ」
「なるほど」
「もちろんプレゼンテーションの段階だから各国のミュージカル作家に、同じ話が行っているはずよ。この意味わかるわね?」
「イエス。ただ働きになる可能性ありということだろう?」
「あるいは、オーストラリアのゴールド・コーストに、豪勢な別荘が一軒買えるかね」
「ゴールド・コーストには魅力を感じないね。むしろ小さな島でも買いたい」
すると廻陽子は人差し指を左右に振ってニッコリと笑って言った。
「そうなのよ、島なのよ。そもそもこの話があなたのところへ行くことになった理由は、その島にあるのよ」
「ほう?」
「ほう、って何よ? いつだったかあなた、どこか南の島を舞台にしたミュージカルを書きたいって言っていたじゃないの。ほら、六十年前に作られた古き良きハリウッド時代の『南太平洋』みたいな――」
ハリウッドという言葉には、どこか郷愁を誘うものがある。古き良き時代の映画のメッカだった。だが現在では死語も同然だ。
「私、そのひとことをちゃんと覚えていて、あなたのコンピューターファイルにインプットしておいたのよ。感謝して欲しいものだわ」
「もちろん、感謝するよ。しかしまだ良くわからないね。島がどうしたって?」
「 |B《ブリテイツシユ・》 ・ |C《シネマ》 では、『島《アイランド》』というミュージカルを作りたいのよ」
「タイトルがきまっているの?」
「ええ、そう。『アイランド』よ」
「他にも何か条件がある?」
「ええあるわ」
と言って、彼女は上唇を舌で湿らせた。「伝説を蘇《よみがえ》らせる必要があるの。そのどこかの島にまつわる伝説を、現代流にアレンジしてもらいたいの」
「ふむ」
星良は深々と息を吸いこんで眼を閉じた。短い沈黙が流れた。少しして彼は再び眼を開くと、画面《スクリーン》の中の廻陽子の眼鏡の奥をひたと見すえて言った。
「やりましょう」
彼にしては神妙な声であった。それまで一貫して顔に刻まれていた茶化すような表情も、いつのまにか消えている。
「どうしたの? 急にやけに真面目《まじめ》くさったりして、あなたらしくないのね」
相手が不審がった。
「いや何ね、ふっと奇妙な気がしたんだよ。何ていうか――」
と彼は遠い眼をして言葉を探した。
「そう何て言ったらいいか。なんだかその仕事が俺《おれ》のところに来るのは必然というか、あるいは、もうかなり前から、そういうものを創るようになるんじゃないか、と漠然とわかっていたような――。とにかく変な気分なんだ」
そう言って、星良は戸惑《とまど》ったように、ミュージック・エージェントの顔を見つめた。
「それを聞いて、安心したわ。うちのエージェントもこの仕事に賭《か》けているのよ。何なりと要求を出してちょうだい。たいていのことはバックアップするつもり」
「ありがたいね。ではさっそく頼みがあるんだけどな」
「何なの? 言ってちょうだい。資料なら、今日中に届けるわ」
「資料は後でいいよ」
と彼は優しく言った。「それより、ちょっと眼鏡を外してくれない?」
それを聞くと陽子は何か言いかけるように口を開いたが、急に思い直して口元をひきしめた。それからゆっくりと左手を上げると眼鏡のふちにかけ、それを外し、柄の部分を軽く唇にはさんだ。
「ついでにもうひとつお願いがあるんだけど。髪をほどいてくれないか」
「図に乗らないでちょうだい」
本人は冷たく言ったつもりかもしれないが、その言い方はノーではなく、イエスに聞こえた。彼女は髪に右手をかけ、止めているピンを外した。肩まである髪がはらりと落ちて、どちらかというと意志的な輪郭の顔を、柔らかくふちどった。
「その方がずっといい」
と星良は低く口笛を吹いた。
「それくらい承知していてよ」
声までがハスキーに甘さを加えていた。
「じゃどうして、オールドミスみたいに装うんだい?」
「そうしないと、何をやっても色仕掛けみたいになるからよ」
再び眼鏡を顔に戻しながら、陽子が言った。
とたんにいつものミズ・廻の顔が戻った。
「いつか食事でもしようよ」
「ええ、いつかね」
「この仕事がプレゼンで通り、俺がやるってことにきまった時に、どうかな」
「いいわ。きまったらね」
一体この女の年齢は幾つくらいなのだろう、と星良は思い、傍のコンピューターで、メグリ・ヨウコのキイをはじいた。パラパラと緑色の文字が現れて、画面にいっぱいになった。彼は素早くそれに眼を通して失望した。年齢不詳とある。
「何しているの?」
と、テレスクリーンの中から批難するような声がした。
「いや別に。それよりさっそく資料のことだけど」
と彼は表情を引きしめた。
「南西諸島のどこかの島に、もしかして羽衣伝説が存在するかどうか調べてもらえないだろうか」
「南西諸島? もう南西諸島ってきめたの? 何か心あたりでもあるの? それに羽衣伝説って言ったけど――」
陽子の瞳《ひとみ》が猫の瞳孔《どうこう》のように狭《せば》まった。
「うん。外国人にもわかりやすい話だし、映像的だからね」
「それにしてはアイディアがひらめくの早いわね」
確かにそうだ。考えるというよりは、ふと口から滑り出たような感じだった。
「でも、羽衣伝説という線は悪くないわよ。悪くないどころか、使えそうよ」
スクリーンの中から、熱心に彼女がそう言った。
「ああ、そうね。使えるかもしれないね」
星良は急にあいまいに答えた。心の中で、自分が『アイランド』の舞台をなぜ、南西諸島のどこかに定めたのかと、しきりにいぶかりながら。一度もあの方面を訪ねたことはなかった。沖縄を除いては――。
しかし、沖縄ではない。沖縄ではないが、その近辺の島だ。彼の脳裏にエメラルドグリーンの珊瑚礁《さんごしよう》が浮かび、眼に痛いような純白の砂浜が弓なりの曲線を描いて横たわるのが一瞬ありありと見えた。
鼻の奥がにわかに熱くなり、そこに樟脳《しようのう》のような刺激性の匂《にお》いがたちこめた。懐かしさで、彼の胸はいっぱいになり、それからスクリーンから自分をじっと眺めているエージェントの女性の視線に気づいて、我れにかえって苦笑した。
「何を考えていたの?」
と相手が言った。
「いや、どうということはないんだ。いつだったか沖縄に行く途中、飛行機の窓から見えた島のことなんだけどね」
そうだった。思い出した。熱帯魚みたいな形をした小さな島だった。
そして更に星良は別のことを思いだした。その島の上空に差しかかった時のことだ。ちょうど今さっきのように、鼻の奥が熱く乾燥したようになり、樟脳の匂いがたちこめたことを思いだしたのだ。
あの時、はっきりとその気持を言葉に出したんだっけ――。それが何だったか、どうしても思いだせない。横にいた同行の女に、語りかけたのだが。あの時つきあっていた女が誰れだったかさえ、忘れてしまった。
「それは本土から見て沖縄の手前の島なの、それとも先の島だった?」
廻陽子が落ち着いた声で質問した。
「手前だよ、手前」
星良は興奮して言った。
「じゃ石垣じゃないわね。沖永良部島《おきのえらぶじま》かヨロン島かしら」
「ヨロン? 音は少し似ているけど――。熱帯魚の形をしているんだ、空から見ると――。ユンヌ……。そうだユンヌというのがその島の名前だよ」
「でもねえ」
とテレスクリーンの中で廻陽子が首をかしげた。「今、コンピューター画像に沖縄周辺の海図を出して見ているんだけど、ユンヌなんて名前の島はないわ。ちょっと待って。拡大してみるから」
彼女は数秒間眼の前のコンピューターに眼をこらしていたが、「あら」と小さく声を上げた。
「あったわよ。たしかにエンジェル・フィッシュの形をしている島が。やっぱりそうよ。ヨロン島よ」
「悪いけど、そのコンピューター画像をこっちに回してくれないか」
「オーケイ」
テレスクリーンの中から廻陽子が消え、かわりに航空写真に変わった。陽子のマニキュアを塗っていない指が、一点を指すと、その部分が二十倍に拡大された。熱帯魚の形そのままの島が画面いっぱいに広がった。
「そうだよ、この島だった」
その島を、過去に何度も見たことがあるような気がした。実際には、鹿児島経由で沖縄に飛んだときに一度だけしか見なかった。帰りは雲が厚くたれこめていて見えなかったからだ。星良は急に得体《えたい》の知れない疲労感を覚えて、眼がしらを押さえた。熱をもち、じんと痛みがしみた。
「じゃ、この島に焦点をあててみる?」
「いや、待ってくれ。まだそうきめたわけじゃない」
星良は慎重に自分の感情を押さえた。この電話の間中、彼を襲ったあわ立つような感情が、いったい何に根ざすのか、と怪しみながら、彼は言った。「少なくとも、これだけは頼むよ。その島に、羽衣伝説があるかどうか調べてもらえないかな」
「ロジャー」
相手は陽気に言った。「お安いご用だわ。今日中に調べて、文献がみつかったら物流パイプラインでそっちへ送るわ。今日は自宅にいる? それともまた『ヘミングウェイ・クラブ』で呑《の》んだくれて、どこかの人妻とトイレにしけこんで一戦交じえるつもり?」
「手厳しいね。今夜のことはわからない。だが七時までは仕事をしているよ」
「オーケイ。それまでに何か探しておくわ。期待してくれていいわ」
「チャオ」
テレビ電話が切れる直前、星良はあわてて言葉を滑りこませた。
「ありがとう」
彼は落ちつかない興奮状態が続く中で、さっきからリビングルームの中をぐるぐる回り続けていた。仕事のことで、これほど興奮をしたことはなかった。今までだって、結構大きなプレゼンテーションにかかわってきたこともあったし、彼が作ったニューオペラがニューヨークのメトロポリタンホールで上演される前日だって、これほどには胸があわ立ちはしなかった。
それにしてもおかしな会話だった。ふざけたり相手をからかっているうちに、自分がたいして意図もしないような言葉が、ぽろりととびだした。
第一この仕事、『アイランド』という名のミュージカルのことも、何かを新しく作るというよりは、すでにどこかで体験したことを再現するという感じによく似ている。もちろん、彼には島を舞台にしたミュージカルを書いた体験はないが……。
だが時々、ミュージックに詞をつけるときや、オペラの台本などを書いているとき、ある種の無我の境にさまよいこむことがよくある。ものすごく熱中して、集中しているうちに、耳が真っ赤に燃え上がるようになるのだ。すると、反対に、彼の精神は森閑と鎮まり、ある熱中のうちに手だけが動いていく。
ふと気がつくと、眼の前に完成した言葉が並んでいる。彼はそれを読み返し、愕然《がくぜん》とするのだ。なぜなら、たった今彼が書いたことを、彼は覚えていないばかりか、しばしば、彼が知らないこと、体験もしないことを、あたかも体験したかのように書いてあったりするからだ。
これは俺《おれ》の作品ではない、と、あきらかに自筆の書体を眺めながら、何度、そう呟《つぶや》いてきたことか。
やがて彼は、そのことを神の手の技と呼ぶようになり、それを受け入れるようになっていった。人間には、父親と母親の血が流れている。祖父母の血、そのまた祖父母の血を遡《さかのぼ》っていけば、何万、何十万という人間の血――すなわち体験と能力――を受けついでいるのだ。時々、彼の手を借りて、潜在意識の中からよみがえったそうした祖先の誰れかが、彼に書かせることがあるのだ。今、星良雅也の心臓をしめ上げている感情もまた、そうしたものの一種かもしれない。彼の血を、遠く遠く遡ったどこかから来る何かかもしれないのだ。もっとも、絵描きでも彫刻家でも音楽家でも、芸術にたずさわる人間は、この神の手の技をもっている。つまり、それが万能というものなのである。
ふと、執事のデヴィッドの眼と星良の眼が出会った。
「何だい? 何か言いたそうだな?」
珍しく彼はロボットに優しく話しかけた。
「おまえの眼は、時々|俺《おれ》を後ろめたい気持にさせるよ。口がきけない代わりに、おまえは眼で喋《しやべ》るんだな? どうだい気分は? あいかわらず陰々滅々なのかい?」
彼はそう言いながら、茶色い睫《まつげ》にふちどられた異様に蒼《あお》いロボットの眼の中を覗《のぞ》きこんだ。
「おまえの眼は実際不思議だな。海みたいだ。でなければ宇宙みたいだぜ」
それにしても長い睫だった。ガールフレンドのマリコが嫉妬したくらいだ。制作の過程で、ほどよい長さに切り忘れたのかもしれないと、星良は思った。
「さっきは悪かったな。素裸にするなんて言っておどかしてさ。そんな気はないから安心しろよ。男の裸を見たってつまらんからな」
星良はバーの中へ入り、自らウォッカのカクテルを作った。
「おまえの悩みは何だい? いつまでそうやっているつもりなんだ? いいかげんに飽きないのかね? ロボットがノイローゼだなんて話は前代未聞《ぜんだいみもん》だぜ。そりゃおまえにダストの命令を下したまま丸々二日間ニューヨークに行っちまったのは悪かった。そいつは認める。しかし、もういいかげんに、そのことは許してくれてもいいんじゃないのかねぇ。いいか、バトラー。人間が不幸なのはな、他人に期待をしすぎるってことだよ。期待をしなけりゃ、裏切られるということもないのさ。ね? 同様に、人を許せないってことは、そいつを愛しすぎるからなんだよ」
そこで星良は自分の言葉に苦笑した。
「まさかおまえ、俺《おれ》を愛しているんじゃないだろうねぇ。時々おまえの蒼《あお》い眼だけを見ていると妙な気分になるぜ。言っとくがね、ロボット。俺は男色の気はないんだ」
窓からは西日が射し込み始めていた。その金褐色の光の一端が、バトラーのなめし革のような顔の皮膚を、美しく染めていた。彼の顔は一瞬本物の人間みたいに血が通って見えた。
「可哀想《かわいそう》にな。おまえが人間なら、そんな病気は五秒で治っちまう特効薬があるのにな」
そう言って星良はバトラーの肩に片手を置いた。心なしか、あるいは光線のせいか、ロボットの瞳《ひとみ》が濡《ぬ》れて見えた。
「驚かすなよ、バトラー。泣く奴《やつ》があるかい。ロボットが泣くなんて話聞いたこともないぞ」
そう言って、星良は一喝するようにバトラーの背中を叩《たた》くと、頭を振りながらその場を離れた。仕事部屋からファックス・ターミナルの受信音が流れ始めたからだった。
ファックス・ターミナルから次々と五線譜が吐きだされてきている。ニューヨークの作曲家に依頼したものである。ジョニー・チャイコフスキーというふざけた名前の男で、自称チャイコフスキーの子孫だと吹聴《ふいちよう》しているが、真偽のほどはわからない。
もっとも調べようと思えば、世界《W・》情報《I・》通信社《S》でそのあたりのことは徹底的に洗い上げてくれるが、真相がわかったところでどうだというのか。ジョニーがチャイコフスキーの子孫であろうとなかろうと、重要なのは彼の才能である。そしてジョニーはこの二、三年のうちに、ヒットソングメーカーの十指のうちに入るようになることはまちがいない。なんといってもジョニーはまだ十一歳の少年なのだ。天才というのならモーツァルトに譲らねばならないが、早熟さにかけては、少年アマデウスの比ではない。なぜなら彼には二十七歳のれっきとした妻≠ェいるからだ。世の人々がすさまじいステージママだと思っている女性は、実はジョニーの愛妻<~セス・チャイコフスキーなのである。
星良はこの一年ばかり、早熟少年作曲家ジョニーと組んで曲を作っている。大ヒットはまだ出ていないが、そこそこのヒットなら数曲飛ばしている。星良が思うにジョニーの良さが大衆レベルに認められるのは、もう少し先のことなのである。つまり彼がもう少し大人になって、過剰なまでのストイシズムを中和させることができれば、ジョニーは大成するだろう。
星良は、ジョニー・チャイコフスキーあてに、受信完了と、サンクスの返信ファックスをしておいて、ワーキング・ターミナルの前に座った。
今日の予定をコンピューターで弾きだし、ちょっとうんざりしたように顔をしかめた。
いずれにしろ午前中の株の仕事はアウトである。四時からのサザビー・オークションには間にあったが結局ビートルズのマザー盤は韓国に持っていかれてしまった。その前の二時と三時のアポイントメントは両方とも無断キャンセルということになる。二時は顧問弁護士と契約問題の打ち合わせ、三時はセラピストとテレスクリーンによるカウンセリングの予約がしてあったのだ。現代人はもはやかかりつけの医者とセラピストと顧問弁護士なしには生きていけないようなシステムの中にくり入れられてしまっているのだ。そして福祉が発達し、いたれりつくせりの世の中になったとはいえ、家庭医とセラピストと弁護士に関しては保険はきかないのである。この三件に対する支払いは、総収入の十分の三にも上る。もっとも国選の医者およびセラピスト、弁護士もいるが、当然のことながら費用は問題にならないくらい安いかわりに、一人が日に四十人も五十人も受け持つわけだから、「親身」さに欠ける。この「親身」さこそが現代における最高の贅沢《ぜいたく》なのである。
星良雅也は溜息《ためいき》をついて、今日のスケジュールの先を急いだ。六時半に音楽雑誌のインタビューが一本入っている。編集者とカメラマンが、彼の仕事部屋の立体写真を撮りに来ていろいろと質問されるわけだ。秋に売り出す家庭用ビデオのミュージカル『新曲ロビンソン・クルーソー』のパブリシティーのためである。このところ、世界的に、なぜか原始的生活をテーマにした映画やドラマが人気を博している。ありとあらゆるダーティーワークから解放されてしまうと、人間は「不便さ」に憧《あこが》れるのだろう。そこには古典的なロマンが感じられるからだ。
インタビューの後は、例によって「ヘミングウェイ・クラブ」のプールで一時間みっちりと泳いで運動不足の解消にあてる。あとは、ラウンジで食前酒を飲みながら今夜の夕食の相手を探すことになるだろう。星良は、ちらりとマリコの存在を思って後ろめたさを覚えた。このところ彼女に逢っていない。
とくに昨夜の飲み過ぎがたたっている今日のような日に、彼女を誘い出すのは億劫《おつくう》だった。当然、彼女は夕食だけ期待してくるわけではないからだ。できることなら今夜は夕食のあとのことは敬遠したい気分だった。もっとも、ラウンジで気のあった別の女と、偶然そういうセクシーな気分になれば話は別だ。
それから星良は、まるで宇宙船のコックピットみたいに機械やらボタンやらが並んでいる仕事部屋《スタデイ》の前面ウィンドウに眼をやって、八ケ岳の山並みに今まさに沈もうとしている太陽を眺めた。このコンドミニアムを買ったのも、サンセットの雄大さに強く魅《ひ》かれてのことであった。
紫色の霧が樹木の上に濃くたなびき、山々は黒ずんだ輪郭をもつシャドウになりつつあった。そして果てしなく広がる空には雲ひとつなかった。
そのために、太陽は夕日の色を反映させるものがない空を、不思議な胸のあわ立つような空気の色に染め上げる。夕日色の空気の粒子が漂いながらお互いに衝突し、弾けたり合体したりしながら、刻々と色彩を変えていく。
やがて夜の黒い粒子がどこからともなく降りて来て、夕日色の粒子の中に散り始め混じっていく。少しずつ夜の粒子の数が増え始め、地上は夜の経帷子《きようかたびら》に覆われる。
だが空はインクのブルーを流したような透明度のある深いブルーに染まったままだ。パリやロンドンに似た夕空の色である。東京では決して見ることのできない色だ。
インクのブルーの中に、画鋲《がびよう》を止めたような星が三つ四つとまたたき始めると、空は下の方から闇《やみ》色に変わり始める。
星良は、刻々と色合いを変える日没から闇色に至るまでの八ケ岳の光景が、たまらなく好きなのであった。彼は日没にふさわしい酒が欲しくなり、ボタンを押して執事を呼んだ。
それから、あのロボットが今ストライキ中だということを思いだして溜息《ためいき》をついた。
飲みものは我慢することにして、星良は、株主《クライアント》たちに、今日の報告をするべく、リポートを作製し、それぞれ十四人にファックスで送った。
折り返しテレビ電話が鳴り、クライアントの一人、大阪でグラフィック・デザイン事務所をもつミズ・桑野の顔がスクリーンに大写しになった。
「今日の報告は気に食わないわね。なぜバイオ・インテリア産業の株を一部でも手放さなかったのか、教えてくれる?」
「そのことなら簡単ですよ、桑野さん」
星良は言い訳の言葉を考える時間をかせぐために、例の女殺しの微笑を浮かべた。すなわち前歯を全部見せると同時に、やや左斜めから、相手をすくい上げるように見るやり方である。案の定、桑野の瞳《ひとみ》の光がにわかに柔らかくなった。その間に右手でコンピューターをはじき、今日のバイオ・インテリア産業の株価の変化を画像に出して眺める。
「その答えはですね、まだまだ上がりそうだからですよ。一番上がったところで一挙に売る」
「でももし、もう上がらなかったら?」
「いずれにしろ、バイオ・インテリア産業の株は当分安定株ですからね。持っていても決して損はありません。僕はあなたの株の仲買人として申し上げますが、一部でも早まって手放さない方がいいと思いますよ」
「じゃ、最後に一つだけ質問していい?」
桑野女史の眼が細くなった。「なぜあなた、午前中一度も電話に出なかったの?」
「午前中って、何時です?」
「十時十分よ」
「あぁ、すいません、その時間に僕ちょっと別室で――」
「別室で?」
「トイレですよ」
「じゃ十時二十五分には?」
「え?」
「それから十一時ジャストと十二時ジャストと一時間おきにかけたけど。いずれもトイレ?」
「それがちょっと言いにくいんですがねぇ、昨夜クラブのレストランで食べたロブスターに、どうも当たったようなんですよ」
桑野は眼をぱちくりして、肩をすくめた。
「それじゃまあお大事に」
そして彼女がスクリーンから消えた。
六時半までまだ二十分ばかりあった。彼は大急ぎですでに作詞してあった二つの曲にもう一度眼を通し、少し修正してワードプロセッサーにかけ直した。それから、午前中かかって来た電話が、アンサービデオフォーンに入っている分を、スピード再生して、重要そうな部分だけチェックした。
桑野女史がたしかに六回。廻陽子が三回。他に広告代理店のCF制作室からコマーシャルソングの依頼と、航空宇宙局から宇宙船の中に組みこむ環境音楽に関する相談。釣り仲間のスコットランド人のニックから、今週末ブルーマーリンをバハマ沖に釣りに行くが同行しないか、という誘い。遊びごとの誘いになると、がぜん元気になって、星良は再生装置をもう一度聞いた。
「こちらニック。今タイのプーケットで、原稿を書いているんだ。三日後に仕上がるから気分転換に釣りに行こうと思っている。バハマ沖はどうだい? 船をチャーターしておくけど。返事はテレビ電話でなくファックスで頼む。なにしろ執筆中でね。邪魔されたくないんだ」
ニックがいう場合、釣りといえば、ブルーマーリンにきまっている。彼は星良と同様、ヘミングウェイに強い郷愁を抱いている男である。そしてヘミングウェイとそっくりな短編を書いている。ただし、当然のことながらまだどこの出版社からも本は出ていない。
続いて再生電話から女の声が「わたしよ」と響いて来た。わたしだけじゃわからない。もしもし、わたしよといってかかってくる女からの電話が日に四、五回ある。星良はテレスクリーンに映像を再生して見た。そして大急ぎでパチンと消した。昨夜クラブの男性用トイレで慌ただしく愛しあった人妻だ。名前は――、思いだせない。訊きもしなかったのかもしれない。
「昨夜みたいに興奮したのは初めてよ。またぜひお逢《あ》いしたいわ。さっそく今夜はどう? 七時頃から主人とクラブにいるわ。ラウンジにいなかったら、ブリッジルームを覗《のぞ》いてみて。愛してるわ。チャオ」
しかし星良には今夜もまた彼女の満たされぬ不幸な結婚生活に、救いの手を差しのべてやる気はなかった。気の毒だが。何が気の毒って、結婚して十年もたつ女ほど哀れな存在はない。彼女たちのひきずっている性的な飢餓のすさまじさ。彼の知るかぎり悪しき結婚はゴマンとあるが、良き結婚など皆無である。
「わたしなんて惨《みじ》めなものよ。最後に夫が私を抱いたのは去年の七月二十四日。もう一年以上も前よ」
トイレの便器の上で、最後の悦楽のうめき声をもらしたあと、昨夜彼女はそう言って顔をしかめた。
「他に男をつくればいいさ」と星良は言ってやった。「おたくはすごく魅力的だし、セクシーだもの」
「わたしにだって、男の好みがあるのよ。誰れでもいいってわけにはいかないわ」
それが悲劇というものなのだ。かなり美人で、教養も知性もあり、金持の男と結婚しているスノッブな人妻の、男の選り好みというのが。
「あなたがラヴァーになってくれるなら話は別だけど」
女はスカートのジッパーを上げながら、すくい上げるように、眼の隅から彼を見上げた。
「僕はあんたの求めるタイプじゃないよ。星でいえば恒星ではなく放浪惑星。つまりかなり自由でいたいんだ」
「でしょうね」
女は諦《あきら》めの混じった声で溜息《ためいき》をついた。
「また、偶然、どこかで逢って、お互いその気になったらということにしようよ」
そして多分、その偶然というのは二度ありえないだろう。二度同じことをくりかえすのでは、もう偶然とは言えないからだ。星良はプーケットのニックに、今週は残念ながら釣りに行けそうもないが、来週ならどこかで時間が作れそうだとファックスを流し、電話の再生録音装置のスイッチを切った。
玄関のチャイムが鳴り、訪問者の来訪を告げていた。と同時に物流パイプラインに小荷物が到着したことを知らせる、チリンという音がした。星良はパイプラインの受け口経由で玄関へ回るために腰を上げた。
驚いたことに、糞《くそ》の役にも立たない執事のロボットが玄関を開いて訪問者たちを請じ入れている図に出喰《でく》わした。あいかわらず沈痛な横顔ではあるが、むしろそのくらいのほうがデヴィッド・ニーヴンのにやけ顔をひきしめてよろしいくらいだ。星良はパイプラインの受け口を開いて、小包みを取り出しながらニヤリと笑った。いずれにしろ、執事が執事らしく仕事をしてくれるのに越したことはない。
小包みは二、三冊の書物らしい。星良は後で眼を通すつもりで、訪問者の方へ向かった。
彼らはロボットの先導で気持の良い居間コーナーに通され、コンピューター声で飲みものの注文を訊《き》かれている。声までも、往年のデヴィッド・ニーヴンを模しているが、いささか抑揚に欠け、金属的な響きがあるのは止むをえないのであろう。
編集者もカメラマンもその助手も全て男だった。最近の傾向として、編集者はほとんど男なのである。女流作家ばかりが華々しく誌面を飾る時代には、当然、男の編集者、それも見栄えのいい若い男が、採用されるのは当然の帰結なのだ。
「週刊ミュージカル」の編集者|青野竜介《あおのりゆうすけ》も例外ではない。それどころか、すこぶるいい男なのだ。執事のデヴィッドがじっと眼を離せないでいるくらいだから、かなりの線をいっているはずである。デヴィッドには多少男色の気があるのではないか、と、星良はひそかに疑っているのだが――。
やがて、インタビューが始まり、カメラマンが喋《しやべ》っている星良の顔写真を撮り、ひととおり、新発売の家庭用ビデオのミュージカルについてのPRをすますと、編集者が話題を変えた。
「星良さん。今後のお仕事の予定は?」
「うん。どこかの島を舞台にしたミュージカルの大きな仕事が一本入っている」
「島ですか? どんな?」
編集者は執事のデヴィッドの作って来た奇妙な飲みものを一口すすってから眼を輝かせた。
「まだきめていないけど」
と星良は口を濁した。
「日本の島ですか?」
「そうだよ」
「じゃヨロン島を舞台に書いて下さいよ」
いきなり編集者の口から、その島の名が出たので星良は唖然《あぜん》とした。
「なぜだい? どうしてきみ、ヨロン島だなんてだしぬけに言うんだい」
「実は僕、あの島の出身なんです」
「ほう」
星良は、実に男前の若い編集者の浅黒くひきしまった顔を見つめた。
「それはともかく、美しい島なんですよ。珊瑚礁《さんごしよう》もみごとだし。知ってますか、世界中の海が汚染されているのに、あそこの海だけがいまだに太古の透明さを保っている理由」
「いや。なぜ?」
「川というものが一本もないんですよ」
「ああ、そう。川がない」
その言葉を一語一語かみしめるように星良は呟《つぶや》いた。
「ですから、生活排水が、海に流れこまないんです」
星良は腕を組み眼を閉じた。
「きみ、もしかして、あの島の近くに、ユンヌという島を知らないかな? どうしてかわからないけど、その名がしきりと口をついて出てくるんだよ」
すると若い編集者はいきなり笑いだした。
「失礼。笑ったりしてすいません。ユンヌっていうのは、ヨロン島のことですよ。土地の言葉で、島の人間はそう呼ぶのです」
星良は、感嘆とも安堵《あんど》ともつかぬ溜息《ためいき》を吐き出した。それから、
「多分、そのユンヌという島を舞台に、台本を書くことになると思うよ」
と静かに言った。
雑誌のインタビューが終わって編集者とカメラマンが帰ってしまうと、星良雅也《せいらまさや》は、今夜の予定を変更して、「ヘミングウェイ・クラブ」には行かないことにし、その代わりに、ミュージック・エージェントから送られて来た二冊の参考資料に眼を通すことにきめた。たまに自宅の居間で夜を過ごすのも、まんざらではなかった。
「おいバトラー殿、俺《おれ》は今夜は出かけないからな」
再び落ち込み状態に戻って宙を見つめているロボットに声をかけておいて、星良は居間のふかふかのソファーに腰を沈めてしまう前に、冷蔵庫の中を覗《のぞ》きこんだ。
ロシア産のキャビアの瓶詰めと、トーストを薄く焼いて乾燥させたものと、カリフォルニア産の特上シャンパンとをかかえて居間に戻った。フランスのシャンパンが世界を制覇したのは、一昔前までのことだ。同様にノルウェイ産のスモークサーモンに代わって、今もてはやされているのは、パラオ諸島の近海でとれる極彩色の怪魚、パロットフィッシュの薫製《くんせい》である。もっとも星良は、その珍味をあまり好まない。
「できたらきみにシャンパンの栓を抜いてもらいたいんだがね」
と、星良は白大理石のコーヒーテーブルの上に、今宵を居心地良くするための数々の材料および小道具――キャビアと薄いトースト、煙草にライターと灰皿、シャンパンを冷やしておくための氷のつまったアンティークの銀製アイスバケット、水滴を拭《ぬぐ》うための小さなタオル、二冊の参考資料などを並べながら、デヴィッドに向かってぼやいた。
「しかしどうやら、栓を抜いてもらおうなんてのは、贅沢なのぞみのようですな」
ロボットの完全な無視に出逢《であ》って、星良は声に皮肉をこめた。「さっきのは気まぐれでしたか」
星良はシャンパンのコルクを注意深く親指で上へ押し上げながら嫌味《いやみ》を言い続けた。
「実際うちのロボットときたら変わってるんだからな。気まぐれ。憂鬱《ゆううつ》。泣きだす。そのうえ男色の気があるときた」
これもまたかなり古いバカラのアンティークもののシャンパングラスに、星良は勢いよくほとばしる液体を泡ごと注ぎ入れた。
「乾杯!」
と彼は、沈鬱なロボットの横顔に向けてグラスを上げ、その金色の冷たい飲みものを喉《のど》へ流しこんだ。そして彼は、『与論島の生活と伝承』という題の古い書物を取り上げ、まず最後のページを開いた。一九八四年の発行とある。次に最初の方に戻り目次に眼を通し始めた。そしてドキリとして一点に視線が釘づけになった。
『天《アマ》ヌ飛《トウ》ビ衣《ギヌ》ヌパナシ』
という項があった。天を飛ぶ衣、すなわち羽衣伝説のことではなかろうか。
次に『天《アマ》ヌ川《コホオ》ヌパナシ』とあるのは天の川の話だ。あの島にも羽衣伝説と天の川伝説が存在したのだ。彼は息をひそめて大急ぎでページをくっていった。
星良は一息に二つの昔話を読んだ。それからもう一度初めから読み返した。三度めは声に出して朗読した。
「ムカアシ、ムカアシ、ヌクトウ。ミカドウガ、馬乗ティ、島見ィ廻リシ、川原ヌ傍行ヂ、馬降リティ、水浴ビ、シチャン――」
なぜか星良の両の眼に涙が滲み、時々視界がぼやけた。
面白いことには、彼が知っていた『三保《みほ》の松原』のものより、内容が詳しく、イマージュも大きい。
電話の音で我れに返った。どれくらい長いことそうしていたのだろうか。アイスバケットの中で氷がほとんど溶けかけていた。星良は手を伸ばしてテーブルの傍に磁気でくっついている受話器を取り上げて耳にあてた。
「私よ、マリコ」
「ああきみか。どうしてる?」
四年前、危うくオフデイ・マリッジに同意しそうになった相手である。彼女との仲は、もうかれこれ七年になろうとしていた。
「例のコロンブス計画から、またアプローチをうけたわ。あの連中は私を永久に宇宙に追放したいらしいわ」
「きみの明晰な頭脳と、美貌と勇気が必要なんだよ」
「ほんとうは私の生殖能力なのよ、彼らが狙っているのは。生めよ増やせよがモットーだから」
「まさか『メイフラワー二世号』に乗りこむ気じゃないだろうね」
「じゃ私を引き止めてよ」
マリコは冗談とも真面目ともとれる表情でそう言った。
「その他のことはどうだい?」
と星良は話題を変えた。
「あいかわらずよ。退屈してるわ。それに何もかももて余してる。時間もお金も男も」
「俺《おれ》のせいかい」
星良はできるだけ優しく言った。以前だったらたちまち激しい口論になっているところだ。優しく物が言えるというのは、二人の間に距離ができたからだ。
「そうは言ってないわ。でも私のせいとばかりも言えないのよ。きっと、あなたと私のめぐりあわせが悪いのよ」
「今から来るかい?」
マリコが断ってくれることを半ば期待しながら星良が訊《き》いた。
「どっちでもいいわ」
「俺もどっちでもいい」
ふと沈黙が流れた。「きみの望みは何だい?」
「私の望みはひとつだけ。子供が欲しいの」
マリコの声が湿ってくる。
「そいつは残念だね。俺が今最も望まないのは子供なのさ」
星良は可能なかぎり穏やかに、感情を混じえないでそう言った。
「結婚したほうがいいよ、マリコ」
「誰れと?」
「誰れとでもさ。そして一ダースでも二ダースでも欲しいだけ子供を生めよ」
そして電話はすすり泣きの声にとってかわる。彼女が泣いている間、星良は黙ってその声を訊く。拷問に耐えるかのように。やがて彼女が言う。
「ごめんなさい。今の会話は全部忘れて」
「忘れたよ、もう」
「今から行ってもいい?」
「いいよ」
少しだけ早過ぎるタイミングで返事をしたために、彼がそれを望んでいないことが露呈するような感じだった。
「何も望まないから。ただ昔のように、あなたの腕に抱かれて眠りたいだけ」
「いいからおいで」
星良は受話器を置いて、顔を上げると、ロボットの執事に言いわけした。
「仕方ないのさ。そんな眼で俺を見るなよ」
ロボットがぎくしゃくと動いて、星良の前で身をかがめると、アイスバケットを持ち上げた。それから彼は片方の足をひきずるような格好でキチネットに行くと、製氷機の氷でバケットを一杯にして戻って来た。
「おまえ、いつから足をひきずるようになったんだ?」星良は怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》を寄せた。「次から次へと問題ばっかり起こしてくれる男だな、おまえも。次は何だい? 中風《ちゆうふう》でも患うつもりか?」
ロボットは冷ややかな面持《おももち》で星良の言葉を無視し、彼のグラスにシャンパンを満たしておいて引き下がった。いっそうひどく足をひきずりながら。
マリコが長野の山奥からリニア・モーターカーを飛ばしてやってくるのに十五分ばかりみることにした。もっとも、輸送時間より、身じたくのほうにずっと時間がかかる場合が多いから、十五分が三十分ということもありうる。
星良は落ち着かない気持で、スタジオに足を運び、テレビ電話で廻陽子《めぐりようこ》の自宅を呼び出した。スクリーンブロックのサインが出て、陽子の声だけがした。
「事情があってテレビはだめよ」
「男がいるの?」
「といっても、あの最中てわけでもないわ」
「じゃ裸だね? 俺の方は全然かまわないけどね」
「あたしがかまうの。で用事は何なの? こんな時間にプライベート・ライフに電話してくるからには、大事なことなんでしょうね」
「もちろん。実は例の参考書に眼を通したんだ。あったよ、探しているものが」
「それは良かったわ」
廻陽子の声に心からの感情が滲《にじ》んだ。
「明日、できるだけ早いうちに、ストーリーの大筋だけをぬきだして送るからさ、ちょっと検討してみてくれないか。それであんたがいいとなったら、俺としてはすぐにも仕事にかかりたい」
「わかったわ。でも良かったわね、そんなにも早く素材がみつかって」
「だから言ったろう? なんとなく予感がしてたって」
それから彼は「じゃ、おやすみ」
と言って相手が応《こた》えないうちに電話を切った。そして今夜の廻陽子の相手の男は誰れなのだろうかと考えて、無意識にデスクの足を力一杯蹴飛ばしたために、爪先《つまさき》をひどく痛めて顔をしかめた。そのとたんまたしてもテレビ電話が鳴った。青ランプが国際通話であることと、プーケットの文字が画面の下に点滅している。
取ると交換手の顔が出て、
「|電話料先方払い《コレクトコール》でプーケットからかかっていますが、お取りになりますか?」
と早口で訊《き》いた。
「とるよ」
ニックの奴《やつ》めと苦笑しながら、星良は了承した。
「やあ、マサヤ!」
酒焼けと日焼けでうれたトマトのような顔でニックがいきなり笑いかけて来た。右手にはテキーラのボトルが握られている。
「ニック。きみって男は世界中の海で魚を釣って遊び回る金はあっても、友だちに電話をかける金はないんだな」
「怒るなよ、ファックス読んだぜ。酷《ひど》いじゃないか、親友を振るなんて」
「悪いね。仕事になりそうなんだ」
「オフデイにかね?」
「俺はあんたと違って、オフデイに釣った魚で金儲《もう》ける趣味はないんでね。実はある島へ行かなくちゃならんかもしれん」
「島?」ニックは塩の入った小皿に指を突っこんで、それをなめ、今度はテキーラをボトルから直接口に含んだ。
「ああ」
「どの島?」
「沖縄の近くだ」
「魚が捕れるか?」
「あんたの狙《ねら》ってるようなのはどうかな?」
「魚なら我慢するよ」
「だったらいるだろうさ」
「じゃそっちへ合流するよ。バハマ沖のクルージングは次回にまわそう」
「来るって? まあいいさ。じゃ明日にでもファックスで地図と日時を送るよ」
「頼む。ところで、浮かない顔だぞ。さては女と何かあったな?」
「女と何かあるのはこの後さ」
マリコのことを思いだして、星良は溜息《ためいき》をついた。
「別れたいのか、その女と、マサヤ?」
「どうかな。自分でもよくわからないんだ」
「さっさと別れりゃいい」
「そうはいかないのさ。俺はどうも、自分の方から足高に歩み去るのは苦手なんだ」
「優しいな。そこがおまえさんのいいところだ」
「じゃ切るよ。何しろ料金はこっち払いだからな」
「あばよ、マサヤ」とニックはテキーラのボトルを振ってみせた。
「シーユー」
そしてプーケットからの国際電話が唐突に切れた。
ニックはいい奴《やつ》だが、あの分でいくと、アル中になるな、と星良は少し胸を痛めた。
マリコが到着したのは予想を大きく外れて真夜中の二時。蒼白《そうはく》な顔で足元をふらつかせながら入って来た。
星良は一晩中読み続けた本からゆっくりと眼を上げて、七年来の愛人を眺めた。
「言わないで、何にも。あんたの言いたいことくらいわかってるわ」
彼女は美しい卵形の顔の前でひらひらと手を振って言った。「そりゃ少しは酔ってるけど、飲み過ぎってわけじゃないわ。勇気と景気づけ程度よ」
「何のための勇気だい?」
腹の底にしんとした哀《かな》しみを感じながら、星良は穏やかに訊《き》いた。
「あんたに逢《あ》うための勇気。それにあたし昔から素面《しらふ》じゃあれが出来ないもの。知ってるでしょう」
「ああ知ってるよ。そして、きみも、俺が飲んだくれた女とセックスするのは好きじゃないことを、知ってるな?」
「歩み寄りの精神よ、どちらも」
マリコは白いカーペットにつまずきながら、室内を横切って来た。執事のデヴィッドの前で立ち止まり、
「ハイ」と手を上げた。「あんたって、相変わらずふるいつきたくなるほどハンサムね。ロボットなのが残念だわ」
そして最終的に星良に向き直ると、
「おねがいよ、そんな眼であたしを見ないで」と哀願するように言った。「あんたたちって、二人ともそっくり同じ眼をしているわ。あんたとロボット」
「同じ眼だって?」
「ええそう。哀れさを滲《にじ》ませた悲しい眼よ。私ってそんなに悲しい存在なの?」
星良は立ち上がって来て、マリコの肩に片腕を投げかけた。
「さあ、もういい。もう何も喋《しやべ》らなくていい」
そう言いながら、彼はゆっくりと彼女を寝室に導いて行った。欲望のかけらもなかった。
彼女はベッドに座って絹のタンクトップを脱ぎ、まるで一枚余分の皮膚でも剥《は》がすような感じで、するりとスラックスごと下着を脱いだ。そしてぼんやりと室内の薄明りの中で眼を見開いていた。その眼は彼女の胸の乳首と同じで、何も真には見てはいない。彼が着ている物を脱いでいる間に、彼女はベッドの上に仰向けに躰《からだ》を伸ばし両手を磔《はりつけ》の十字架のように左右に広げた。その姿を星良は黙って眺めていた。自分の眼が愛情とは無縁の平静な批判の眼になっているのが、彼には感じられた。そんな自分がたまらなく嫌だった。
すっかり裸になると、彼は彼女の上に身を投げだすようにして横たわった。そして彼の右手は彼女の肉体の全ての曲線に触れた。彼は思った。なんと彼女は別個のものに変わってしまったことか。彼の手が彼女の上に加えた夥《おびただ》しい愛撫《あいぶ》によって、この肉体は、もはや取り返しもつかないほど、違ってしまったのだ。相変わらず美しいことには変わりはないが。星良の脳裏に昨夜の人妻の、淫乱《いんらん》にして卑猥《ひわい》さを漂わせる成熟した肉体が浮かんだ。
彼はマリコの知りつくした肉体に対して、哀切な憐憫《れんびん》の情しか感じることができなかった。ふたりの間に、美しい夏のあのめくるめくような卑猥さの季節はもう決して戻ることはないのだ。彼はゆっくりと彼女を開き、適切な愛撫を与え、そして歓《よろこ》びを授けると、自分の方は未完のまま、そっと彼女の傍から躰を離した。
「いかないで」
と、マリコが囁《ささや》いた。
「すぐに戻る。喉《のど》が乾いて死にそうなんだ」
そう言って安心させ、シーツで躰を覆ってやると、星良は寝室を抜けだした。居間はいつのまにかきれいに片づき、デヴィッドが東寄りの窓に額を押しつけて夜空を見上げていた。
星良は冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出すと、瓶ごと口へ運びながら、ロボットの横に並んでたたずんだ。
「何を見ている?」
ロボットの視線を追いながら星良は訊いた。
「天の川かい」
そして彼は不意にロボットの肩に額を乗せてすすり泣いた。やがて顔を離し、少し濡《ぬ》らしてしまった執事の制服の肩口に手を置いて言った。後にも先にも星良が泣いたのは、これが初めてだった。
「俺とおまえ、似てるかもな」
二人はそうやって長いこと、東の上空にかかる乳状の星くずの川を、見上げていた。
伝 説
地上八十四階の超高層マンションの最上階、広々としたペントハウスのテラスで、廻陽子《めぐりようこ》はオフデイ第一日目の早朝の食事を楽しんでいた。
彼女の趣味で南国風にしつらえた屋上庭園には、シンガポールから取り寄せたくじゃく椰子《やし》が、美しい扇型の葉を繁らせている。ローマの中央広場にある泉をミニチュア化した黒大理石の泉には、噴水がたえず溢《あふ》れ、ボルネオ産の極彩色のオウムが、沙羅双樹の枝から己《おのれ》の姿を泉に映しだして、うっとりしている。
十五年前に東京湾を埋めたてたウォーターフロントに建っているこのマンションは、左手の房総半島と、右手の三浦半島に抱きかかえられるような位置にある。天気が良い日には大島がまるで手にとるように見えるのである。
この一等地の最高級マンションの、しかも誰れもが憧《あこが》れるペントハウスを手に入れるために、三人の男たちの財産と陽子自身が稼ぎだしたものが注ぎこまれた。すなわち陽子の祖父と父親と、若いうちに別れた夫からの慰謝料の総結集である。
そして今、男運の悪い(あるいは良いというべきか)三人の血続きの女たちは、天国に最も近い八十四階の楽園で、悠々自適の自由気ままな生活を送っているのである。
今週はそれに陽子の一人娘が、ミラノの音楽学校から夏休みのために帰国して加わっていた。廻家は完璧《かんぺき》なる母系家族なのだった。
陽子以外の女たちは、それぞれの寝室でまだ眠っていた。母は小学校のときのクラス会が三次会まであったとかで、帰宅は夜の十一時半。十九歳の娘の晶世《まさよ》は、軽井沢で行なわれたミッドサマー・コンサートのコーラスにかり出され、そっちに泊ると思ったら夜中過ぎにリニア・モーターカーの相乗りで帰って来た。おかしなことに今年八十六歳になる祖母だけがデイトで、行く先は知らないが、ほとんど午前さま。相手の男性は二十五も年下の大学教授で妻帯者である。したがって二人はアンモラルな関係にある。
それぞれ自分勝手な生き方をしているが、お互いのプライバシーを尊重し、あまり迷惑をかけあわないかぎり、家族というものは良いものだと思っている。
陽子は、早朝性の太陽光線が、急速に熱気と紫外線を強めてきたので、ぶどう棚のシェイドの下へ、椅子《いす》とテーブルとを後退させた。それから手を伸ばして手頃なぶどうの房をひとつもぎとって、朝食のデザートにした。
イギリス風の薄切りのトースト。スウェーデン産のバター。南アフリカのマーマレード。インドの紅茶。素朴にしてクラシックな朝食である。彼女は今流行の水耕栽培によるサラダとヨーグルトの朝食は敬遠する。母も娘も、大正生まれの祖母までも新野菜「ベジタα」に夢中になっているが、陽子はひとつの野菜にすべての味や栄養が含まれている、というのが許せないような気がするのだ。セロリの味ならセロリを食べればいいし、レタス風味ならレタスそのものを食すればよいのだ。母も祖母も、この十年来の生活環境の激変をいとも自然に受け入れ、そればかりか楽しみを享受しているのに比べ、陽子はどうも一拍呼吸が遅れがちだ。朝食が済むと、彼女は家事ロボットのメイドのシャーリーを専用ベルで呼びつけるかわりに、自ら立ち上がって朝食の後片づけを始めた。
陽子はどうせなら、『風と共に去りぬ』の中に出てくる黒人メイドのマミーのような、でっぷりと太った、皮肉だが愛情の濃い働きもののロボットが欲しくて、ずいぶんとカタログを取り寄せたり、世界中のロボットメーカーに問い合わせたのだが、人種差別問題に過敏な昨今、黒人ロボットは製造できないということなのであった。黒人以外なら良いのかというとそうでもなくて、インド人風とミクロネシア風、中国人、日本人サーヴァントといった各種のモデルも、真っ先に日本からクレームがついたりして、次々と製造が中止になっていった。そんな理由で、現在世界中の家事ロボットのモデルは|白 人《コーケイジヨン》と|機 械《マシーン》 顔《フエイス》の二種のみである。白人もアングロ・サクソンのみで、一、二年前一時流行したイタリア系およびスペイン系は、それぞれの国からやはりクレームが出て回収されてしまった。アングロ・サクソン人種はよほど大様で寛大な性格なのであろう。
そんなわけで、廻《めぐり》家で購入したメイドのロボットは、往年のハリウッド女優シャーリー・マックレーンに顔を似せたモデルで、いきなミニスカートに小さなレースのエプロン姿の働き者である。ただせわしなくせかせかと歩きまわるのが難で、時々、陽子の神経を逆なですることがある。おせっかい焼きで、そそっかしいので、かえってこっちの気分が落ち着かないのだ。
奇妙なことにはロボットも犬に似て、一家の本当の主人は誰れかということを感じていて、陽子に一目置いているようなところがある。二番目は年の順で祖母、そして陽子の母。娘の晶世に対しては、ほとんど妹か母親のような溺愛態度を示し、甘やかしすぎる傾向があるので、晶世からは敬遠されている。
シャーリーは、陽子がトレイに朝食済みの食器をつんで運んで来たのを見ると、眼をむいて、彼女の手からそれを奪い取った。
陽子は苦笑してあとはシャーリーにまかせることにし、再び朝日の下へ戻って行った。それからぶどう棚の下ではなく、噴水の横の樹影のデッキチェアに身を横たえ、背中のクッションの具合いを直すと、ようやく、昨日|星良雅也《せいらまさや》からファックスで送られて来た二つのヨロン伝説のコピーを膝《ひざ》の上に広げた。星良はできるかぎり早く読んで、意見をきかせて欲しいと言ったのだが、陽子の方にはその時間がなかった。何しろ彼女のミュージック・エージェンシーでは、世界中で七百八十六人の音楽関係のタレントをかかえていて、それら一人一人のスケジュールや仕事の配分、契約等、すべて把握していなければならない。昨日は、シドニーとオランダの新人二人のオーディションがあって、飛行機の手配やら、ホテルの予約、スタジオの用意などでてんてこ舞いだったのである。その間星良雅也から、午後三度ももう眼を通したかという催促の電話がかかり、三度目にはヒステリーを起こしてしまったほどだ。
「あんたのためだけに、世界が回ってるんじゃないのよ!」
そう怒鳴ってしまってから、陽子は後悔した。星良のいつになく真剣な眼の色に気づいていたからだった。
「わかった。とにかく、今夜中でも読んじまってくれないか」
「今夜は多分無理よ。コンサートがひとつと、打ち上げパーティーが入っているもの。外人タレントのアテンドもあるし」
陽子は少し声を柔らげた。「そのかわり、明朝一番で眼を通すわ。それから連絡する。そこに電話すればいい?」
「いや」
と星良は頭を振った。「俺、ヨロン島にいるよ、明日の昼には。こっちから連絡する」
「ヨロン島に? ずいぶんせっかちなのね」
陽子は眼を丸くして星良をテレスクリーンの中にみつめた。「どうかして? なぜそんなに急ぐの?」
「よくわからないんだ。ただ自然にそんな成り行きになっていくんだ。とにかく、明日、午前十一時に電話を入れる」
「じゃ私のペントハウスの方に頼むわ」
そんなやりとりを思いだしながら、陽子は星良から送られて来た、ミュージカルの原形になると思われる伝説の原稿に眼を通し始めた。
〈天《アマ》ヌ飛《トウ》ビ衣《ギヌ》ヌパナシ 羽衣《はごろも》伝説〉
まだ春には遠い季節であった。
ミカドは愛馬にまたがり、島の東海岸をひとり物思いにふけりながら散策していた。肌を刺すような潮の風が吹きすさぶ物悲しい黄昏刻《たそがれどき》のことであった。
浜井戸《パマゴー》のあたりに差しかかると、暮れなずんだ岩陰に人の気配がした。ミカドの胸はなぜか一瞬あやしくときめいた。
すでに日は沈みかけており、人馬は灰色の影となって松林の間を気づかれずに進むことができた。
岩陰の人の姿はまだ見えない。しかし近づくにつれて、水浴の音が聞こえてくる。ふと見ると一本の松の枝に、長い長い女の髪毛《シヌ》の束がかかっており、その傍の岩の上には、みごとな綾絹《あやぎぬ》の着物と下裳《シタムウ》とが、ふんわりと広げられている。
その衣からは、えもいえぬ高雅な香りが匂《にお》っていた。
ミカドはそこでこっそりと馬を降り、着物を手にとってつくづくと眺めた。真白い布地は羽根よりも軽く、それ自体が何かの発光体のように、夕闇《ゆうやみ》の中で仄白《ほのじろ》く輝いているのであった。
香りといい布といい織りといい、とうていこの世のものとは思えない。ミカドは足音を忍ばせて、岩の間を覗《のぞ》きこんだ。
海と接する岩間のあたりに湧《わ》き出す真水《まみず》で水浴みをしていたのは、美しい娘であった。たわわな重い果実のような二つの乳房。くびれた胴。丸みのある豊かな腰。ほっそりとかぼそげな手足。白い大理石のような肌。濡《ぬ》れた黒髪。どこか硬質な横顔。ミカドはしばし息をするのも忘れて、惚《ほ》れぼれと見とれるのだった。
ふと、娘の視線が動いた。ミカドは素早くとびすさり、片手で娘の着物と下裳を掴《つか》むとひらりと馬に跨《またが》った。
「何をなさいます? わたくしの着物をお返し下さいませ」
娘は青ざめて岩陰からミカドに嘆願した。
「おまえの名は何と申す? それにこのような肌寒い風の吹く夕暮れ刻《どき》に、なぜ水浴みなどしておるのだ? どこの娘か答えよ」
と馬上からミカドが威厳をもって訊《き》いた。
「わたくしの名はメサイ。この世の娘ではございません」
りんとした声で娘が答えた。「月経があるようになって、ここで水浴みをしておりました。さあ、あなたさまの問いにお答えしましたから、どうか、着物をお返し下さい」
「この世のものではないとすると、どこからまいったのだ?」
ますます怪しく胸を高鳴らせながら、ミカドは重ねて尋ねた。すると娘は天を指し、急に哀《かな》しげに身もだえた。
「暗闇《くらやみ》がこの地を覆いつくす前に、天に戻らなければなりませぬ。どうかその着物を――」
「天へはどのようにして戻るのだ?」
好奇心をおさえることができずにミカドが訊いた。
「それは羽衣《はごろも》と申します。それを身につけますと飛べるのでございます」
「なるほど……」
と呟《つぶや》きながら、ミカドは馬を更に少し退かせた。メサイと名のるその美しい天の女を、空に帰すつもりは毛頭なかった。ミカドは彼女を一眼見た時から気に入り、彼女が欲しかった。
「今宵はもう遅い。見るがいい。月が出はじめた」
ミカドはそう優しく天の娘に話しかけた。メサイは不安そうに東の低空を眺め、暗い水平線に顔を覗《のぞ》かせ始めた月を茫然《ぼうぜん》とみつめた。
「心配することはない。今夜はわたしの館に泊るがよい」
「わたくしの着物は、いつ返していただけるのでございましょう?」
「わたしと一緒にまいれば、いずれ着物は渡してあげよう」
ミカドはそう言って約束した。メサイは訝《いぶか》るように馬上の男を見上げた。たくましく日焼けしたミカドの顔が、月明りの中に浮かび上がった。メサイは、彼の男らしい顔の上に刻まれている微笑を好ましく思った。真珠のような白い歯が、宵闇《よいやみ》の中で光っていた。
「お供いたしましょう」
彼女はそう言って、静かに承諾した。
そこでミカドは、自分の着ている羽織を脱いで、娘の肩にかけ、馬に乗せると、自分はたづなを引いて、月明りの中を歩き始めた。
館に向かう道のりの間中、彼は馬上の美しい娘に、思いごとの愛を低い声で語り続けた。
その夜、館に帰りつくとミカドはメサイを寝室に誘《いざな》い、それ以上は望めないような優しさでもって夫婦の契りを交わした。
「どうぞ羽衣を、わたくしの眼のとどかない場所にお隠し下さいますよう。さもないとわたくしはそれを身につけて天に戻らなければなりません」
愛の交わりの後で、メサイはミカドにそう哀願した。その切れ長の眼からは、美しい涙がとめどもなく溢《あふ》れ出ていた。
「そうか。天には戻りたくないか」
安心したように、ミカドはメサイを抱き寄せた。
「そうではございません。天には戻りとうございます。けれどもあなたのお傍にも、いたいのでございます」
そう言うと、メサイはさめざめと泣いたのであった。
翌朝、まだメサイがぐっすりと眠っている間に起きだして、ミカドは羽衣を誰れにもみつからない場所に、秘かに隠したのであった。
七年と七か月という歳月が夢のように過ぎていった。二人の間には三人の子供が生まれていた。
ある日のこと、ミカドは狩りに出て家を留守《るす》にした。メサイは炊事場で働き女たちと昼の食事の用意をしていた。遊んでいる子供たちの陽気な声が、裏庭の方から聞こえていた。時々、赤んぼうが長男の背でぐずる泣き声も、それに混じった。日ごとにすくすくと育っていく子供たちに囲まれていると、メサイは幸福だった。
けれども、どれだけ幸福であろうとも、彼女は一瞬たりとも天の暮らしのことを忘れることはなかった。天のことを思うと、切なさと懐かしさとで、彼女の胸は痛んだ。幸福だったが、彼女は自分が真二つに引き裂かれるような思いから、一瞬たりとも解放されることはなかった。
天に帰りたい。だが帰れない。夫を愛しているし、子供たちは彼女の命だ。メサイはそこで世にも哀《かな》しげな溜息《ためいき》をついて、眼頭《めがしら》をそっと拭《ぬぐ》うのだった。
その時のことである。赤んぼうをしきりとあやす長男の子守唄が、炊事場の中まで聞こえてきた。
――泣くな 泣くなよ
ヒンヨォサァ イヨヨォサァ
おまえが泣かないで眠るならば
高倉の下のぬき木の下に隠してある
飛び衣 飛び下裳を
着せてあげますぞよ 授けてあげますぞよ
イヨヨォサァ ヒンヨォサァ――
その唄を耳にすると、メサイは顔色を変えて、裏庭へ走り出た。ガジュマルの樹の下で子守をしている長男をつかまえると、
「いい子だね。ほめてあげるから、もう一度今の唄を聞かせておくれ」
と、その胸を揺《ゆ》すった。
「だめだよ。お父さまに叱《しか》られます」
長男は母親のいつにない剣幕に驚いて首を振った。
「そんなことを言うでない。もう一度だけ、この母のために唄っておくれな。そうすれば、おまえたちも一緒に天へ連れて行ってあげるから」
「でもお父さまが――」
「お父さまがおまえを叱るわけがないではないか」
羽衣の隠し場所を知りたい一心で、メサイは言葉を尽くして長男をかき口説《くど》いた。
「ほんの少しだけ。四人で天に昇って、また日暮れまでに帰って来れば、お父さまには絶対に知れません」
「天には何があるの?」
息子は顔を輝かせた。
「おまえの心が望むことのすべてがあるのよ。そこでは時間がとてもゆっくりと流れるので、誰れも年を取らないの」
ついに子供は母の頼みに屈して、もう一度子守唄を口ずさんだ。
すっかり聞き終わると、メサイは庭の隅の高倉へ走り寄った。ぬき木の下を覗《のぞ》いてみると、きちんと畳んだ飛び衣と飛び下裳とが見つかった。
メサイは約束通り三人の子供を連れて、浜井戸へ急いだ。そして体《からだ》を浄《きよ》めるためのみそぎをしたうえで、長いこと袖《そで》を通していなかった羽衣を身につけた。
「お母さま、そのような美しいものを見るのは初めてです」
子供たちが口々に賞賛した。
「必ず一緒に連れて行って下さいますね?」
「もちろん連れて行きますとも。おまえたちを、どうして残してなど行けましょう」
そう言うと、メサイは長男を背に負い、真ん中の女の子を左|脇腹《わきばら》に、赤んぼうを右脇腹にしっかりと抱いた。
そうしておいて天に向かって飛び立つために、腰をかがめた。
けれども、いかにも子供たちが重すぎて何べん試みても飛ぶことができない。少し高い岩の上から飛んでみても地に落ちてしまう。まるで羽根をもがれた白い鶴のようであった。
更にもっと高い山の上から試みてみたが、飛んでも飛んでも地に落ちるばかり。何十回、何百回と、母は汗と涙のうちに同じことを試みて、ついに断腸の思いであきらめねばならなかった。
メサイは、かつてないほどさめざめと泣き、子供たちにこう申し渡した。
「一番年長のおまえは統治者《アジ》になるがいい。真ん中の子は女神官《ヌル》におなり。そして末の子はお父さまのミカドの言われるとおりにするのです」
そう言い聞かせると、頬《ほお》を涙で濡《ぬ》らしたまま、メサイは両手で大きく宙に弧を描いて飛び立っていった。まるで白い大きな鳥のように舞い上がり、みるまにその姿は雲の中に呑《の》まれて消えたのであった。
〈注〉以上はヨロン島に昔から語り継がれた羽衣伝説に、少し脚色したものである。メサイという天女の名は、僕が勝手につけたものです。
そこまで読み終わると陽子はベルを鳴らしてシャーリーを呼んだ。
「冷たいグレープフルーツのジュースをちょうだい。氷をタップリ入れてね」
シャーリーはうなずいて引き下がった。
家の中で誰れかが起き出したらしく、廊下を歩く足音が微《かす》かにしていた。背後の枝に止まっているオウムが欠伸《あくび》をし、羽根と片足を斜め後方に大きく、交互に伸ばした。
大型のタンカーが、相模《さがみ》湾に入って行くのが見え、江の島あたりまでの高速リニア・モーターロードが手にとるように見えていた。
なんて美しいストーリーだろうと、陽子は溜息《ためいき》をついた。一場面一場面が眼に見えるようだった。伝説の良いところは、それがどの国にも共通する要素があることだ。これを叩き台にして膨らませれば……。
「あら、ずいぶん早起きなのね」
祖母の麻子《あさこ》がぶどう棚のところまで顔を出して、陽子に声をかけた。八十六歳とはとても思えない顔のつや。姿勢の良さ。そして声の張り。五十代のボーイフレンドがいても不思議ではない、と陽子は自分の身内ながら惚《ほ》れぼれとするのだ。果たして自分が祖母と同じ年齢のとき、同じ肉体と心の若さが保てるかどうか、大いに疑問なのだった。
「昨夜は午前さまにもかかわらず、そちらこそお早いのね」
陽子は片眼をつぶってみせた。
「年をとるとね、うかうか眠っているのがもったいなくてね。明日には死ぬかもしれないじゃないの」
「まさか、そのお元気で」
「死ぬのが怖《こわ》いわけじゃないですよ。でもまだ現世に未練があってね」
祖母は少女のように頬を染めて微笑した。
「きっとおばあさまのボーイフレンドが素敵な方なのね」
「私たち、前世で夫婦だったんですよ」
祖母は遠い眼をして、水平線のあたりに浮かんでいる大島を眺めながら言った。
そこへ晶世が起きだして来て、会話に加わった。
「でも、どうしてそんなことがわかるんですか? ひいおばあちゃま」
麻子は輪廻転生《りんねてんしよう》を信じている人間の一人であった。
「どうして? そうね、なんて答えたらいいかしら? どうしようもなくわかってしまうのよ。出逢《であ》った瞬間に、ああこの人のことをとてもよく知っていると感じて、無限に優しくなれるの」
「相手の方も、わかっていらっしゃるの?」と晶世。
「あの人は輪廻を信じていないから、前世で係わりがあったというふうには考えていないみたい。ただ、非常に強く私にひきつけられることを、とても不思議に思っているみたいですね」
「前世でもおばあさまの方が年上だった?」今度は陽子が訊いた。
「いいえ。あの頃は、彼の方が七つ年上だったわ」
「あの頃? 七つ年上って、そんなことがどうしてわかるの? 家系図にでも出てるんですか?」
「その口調だと、あなたは何にも信じちゃいないのね。ま、いいわ。あの頃って言ったってとても昔のことよ。それに年齢のことは、そう私が感じるだけ。次に生まれ直したら、やっぱり私たちはどこかで出逢う運命だけど、どこでどんなふうに出逢うかは、私たちにはきめられないんですよ。私は彼の妹に生まれてくるかもしれないし、彼が今度は私の子供になって生まれてくるかもしれないでしょう。あるいは、私が彼の愛する飼い犬になる運命かもしれませんよ」
「ああ、でもひいおばあちゃま、おばあちゃまたちだけが例外ってわけではないでしょう? だったら私にも前世があったわけでしょう? でも私は、前世で係わりがあったかもしれない人になんて、出逢わなかったわ。それにもし出逢っていたとしても、どうやって見分けるんです?」晶世はそう言って不安そうに首をかしげた。
祖母は、泉のほとりにたたずんで、じっと噴き出す水を見守っていた。
「とてもたくさんの人が、そうとは知らずに生きていますよ。今あなたに係わりのある人やこれから係わっていく人たちは、いずれも前世のどこかで、因縁のあった人たちなのよ。ただ、それに気づこうとしないだけ」
「でも、次に何かに生まれ直すにしても、人間以外のものだったら困るわ。ムカデとかゲジゲジに生まれ変わったら、みじめだわ」陽子が顔をしかめた。
「それも運命よ」
と祖母はおかしそうに笑った。「そろそろ私は出かけますよ」
彼女は東洋医療チェーンの大手「誠友サロン」のひとつで、カウンセリングの仕事をしているのだ。一種の高齢者のための東洋医学をベースとしたハイテク技術――レーザー、核磁気共鳴CTスキャン、|SQUID《スクウイツド》磁気計といった最先端の技術器材のととのった施設である。そこには、温泉療法のための野天風呂があったり、囲碁、将棋などの古典的なクラブなども整い、その中のひとつとして、精神安定のためのセラピーやカウンセリングが行なわれる。廻麻子《めぐりあさこ》は、その昔早稲田大学で心理学を専攻した経歴を生かして、オフデイの三日間の午前中二時間ずつを、関東地区の「誠友サロン」チェーン三か所と、仕事契約を結んでいる。
仕事といっても、主としてもっぱらお年寄りの愚痴の聞き役である。しかしただのんべんだらりと聞くのでは、報酬をもらう価値はない。一生懸命に聞き、親身になって相づちを打ち、時にはもらい泣きし、共に笑い、はげましあう、という共有体験をしなければならないので、かなりの精神的エネルギーを消耗する。しかし麻子は、そのようにして少しでも人の生きがいに奉仕することで、自分の生きがいにしているのだ。そういう祖母を陽子は心から尊敬し、愛している。母の静江に比べたら、はるかに人生を積極的に生きていると思う。静江の生きがいは、五つも加入しているアカデミア・サロンに毎回顔を出すことくらいなのだが、やれ「某代議士夫人のサロン」だ、やれ「蘭サロン」だ、やれ「昔の食生活を見直す会」だ、「バロック音楽サロン」だとかけずり回っているが、祖母の麻子に言わせれば、かつての井戸端会議と根本的には違わないのだ、と手厳しい。
陽子も、自分の母がそんなサロンにあっちこち所属して、高いお金を出して買わされた得体《えたい》の知れない蘭の新種を、結局次から次へと枯らしてしまったり、突然台所に立って、昔の僧侶《そうりよ》が食べていたという麦めしの一汁一菜なるものを作って家族に食べさせたり、あれやこれやと浅く手を出すより、祖母のように何かひとつのことに集中したほうが、母のためにもずっと良いと思っている。
もっとも静江の年代の六十代前後の女たちは、みんな似たりよったりで、時代の便利さ豊かさ、技術などに翻弄《ほんろう》されてしまった、いわば二〇〇〇年代の犠牲者である。こちらのサロン、あちらのサロンと結構忙しく飛び回ってはいるが、結実するものは何もない。その空しさを埋めるために、ますます各アカデミア・サロンは増え続け大きくなっていく。
祖母がカウンセリングの仕事に出かけてしまい、晶世が自室に消えると、再び陽子は一人になって、星良雅也が送って来た資料の続きを読み始めた。
〈天《アマ》ヌ川《コホオ》ヌパナシ 天の川伝説〉
天女メサイは人間世界から、天の飛び衣《ギヌ》と天の飛び下裳《シタムウ》を着て、親神のいる天つ国へ飛び戻ってきたのであるが、ユンヌ島に残された夫のミカドは、どうしても妻が思い切れず、天つ国へ昇って来た。
天つ国の神は、ミカドを厳しく見とがめ、
「そなたは人間の分際でありながら、なんの権利があって天へなど昇ってくるのか」
と詰問した。娘を七年もの長い歳月にわたりかどわかしたことが、父親としては許しがたいのであった。
「それは、愛という名の権利にございます」とミカドは丁重に答えた。「わたしが愛しく慕っておりますメサイを、どうしても忘れることができません」
天つ国の神はますます立腹して、こう命じた。
「ならば、スブイ(冬瓜《とうがん》)を断ち割って、それで何ぞ美味《うま》いものを作ってみるがいい。めでたくわしの口に合えば、改めて娘をそちに嫁がせようぞ」
それは無理難題というものであった。煮ても焼いても食えない苦いスブイ。しかしメサイを取り戻す方法は他にないのだ。ミカドは刀をふりかざした。
傍で衣を織っていたメサイは、慌ててミカドを止めようとした。
「なりませぬ、あなた。スブイを断ち割ってはなりませぬ」
必死で止めたのも空しく、ミカドの刃はそのスブイを真二つに切り裂いた。
するとその中からすさまじい勢いで水がほとばしり出て来たと思ったら、みるみるうちに川となり、洪水となってミカドを押し流し始めた。
メサイは叫び声を上げて、織りかけの白い布を投げたが、とうていミカドのところまでは届かない。
やがてスブイから流れ出た水は、天の川原にかかる大河となって、メサイの投げた織り布を浮かべつつ、永遠に流れ続けることになったのである。
そして天の川の中を押し流されたミカドは彦星《ピクプシ》となり、川上に取り残された天女は津女星《チミボシ》となり、天つ国の神の慈悲により年に一度だけ、七月の中の七日の日に、夫婦となることを許されたという、これもヨロン島に古くから伝わる話である。
二つの伝説を読み終わって、廻陽子は眼を閉じた。ヨロン島に伝わる羽衣伝説にしろ天の川の話にしろ、子供の頃、母や祖母から聞いていた同様の伝説よりも、ずっと詳しく、イメージが豊かであることが、彼女には驚きであった。
その時ペントハウスの中で電話が鳴った。ほどなく、シャーリーが携帯用テレビ電話をさげて、陽子の方へやって来た。
シャーリーが形の良いお尻《しり》を振りながら行ってしまうのを待って、陽子は受話器を取り上げた。画像は小さいが性能の良い小型テレビに、星良雅也の上半身裸の姿が映し出された。
「まさか、下の方も裸じゃないんでしょうね」
と、さっそく彼女はからかって言った。
「お望みならそうしてもいいよ」
と星良はニヤリと笑った。どうやら彼は砂浜で太陽を浴びながら電話をしているらしい。日光のすさまじいまでの反射がまぶしいのか、しかめた表情がいつもと違って男らしく見えた。
「冗談はさておき、読んでくれた?」
急に真顔《まがお》になって、星良が訊《き》いた。
「ええ、たった今読み終わったところ」
廻陽子もまた、同じように表情をひきしめた。
「どう思う?」
期待をこめて星良が質問した。こんなに思いつめたような彼の顔を見るのは初めてだった。星良の背後にエメラルド色の珊瑚礁《さんごしよう》の一部が映っており、超高速スーパーボートの美しい船体が、音もなく右から左へと過《よ》ぎっていくのが見えた。
「使えると思うわ」
感情をできるだけ混じえないように、陽子はそう答えた。
「ずいぶん素っ気ないな。でもまあ、意見が一致してうれしいよ」
「問題は、あの二つの話をどう現代にアレンジするかよね。伝説はあくまでも伝説よ。あれをどう展開させるか、少しは考えがある?」
「あんたも、せっかちな女だねぇ」と星良は眼尻《めじり》に皺《しわ》を寄せて苦笑した。「どう展開させるか考えるよりも以前に、この二つの話でやるかどうか、あんたの意見を聞いているんだぜ」
「私の答えなら、きまったわ。GOよ」
「オーケイ。そうとなったらさっそく調査と取材を開始するよ」
「ところでそっちはどう? 思ったとおり美しい島なの?」
陽子は小型TVの画像に眼をこらしながら訊いた。「ちょっとカメラをあっちこっち向けて、あたりの風景を見せてよ」
「それより、こっちへ来れないかな?」
「だめよ。ミラノから娘が帰って来たばかりだから」
「娘ってあんたの?」
星良が眼を丸くした。「そいつは初耳だな。娘って幾つ?」
「私も初めてあなたに言ったのよ。十九歳よ」
「信じ難いね。とするとあんたの年齢が、推測できそうだな」
「なぜ私の年齢のことにこだわるのよ」
「それより、いっそのことその十九歳の娘を連れて来ちまったらどうかな?」
「十九歳がいいってわけね」
「いや、あんたの娘ってことに興味がある。ねえ、誘ってみてくれよ」
「多分無理よ。ママのアカデミア・サロンのひとつにかりだされて、アリアをいくつか歌うことになっているみたいだから」
「そんな有閑マダムばっかり相手にするより、海と砂浜と男たちの方が十九歳には魅力的だと思うけど」
「男たちって?」
「ニックが一緒なんだ」
「例のヘミングウェイの亡霊にとりつかれていた小説家の?」
「未だに深くとりつかれているよ。ところであんたの十九歳の娘ってのは、ミラノで何をしているんだい?」
「音楽学校で声楽を勉強しているのよ」
「へえ。そんなこと一言も言わないんだからな。あんたも人が悪い。俺はてっきり、オフ・マリッジ組だと思っていたけど」
「まさか処女だなんて考えなかったでしょうね。とにかく、うちの十九歳の娘のことは放っておいてちょうだい。第一あの子はクラシックを勉強しているのよ。あなたの作る安っぽいヒットソングみたいなのとは世界が違う子なの」
「その安っぽいヒットソングを売りだそうと、髪ふり乱しているお袋さんの方は、どうなんだい」
「そのお袋さんのことも放っておいてよ」
「どうしても、こっちへ来ない?」
星良はかなり残念そうにもう一度訊いた。
「ミュージック・エージェントとしては、『アイランド』に使う島くらい、事前に見ておくべきだと思うがね。ビジネスとしてさ」
「そうね。ビジネスとしてねぇ」
陽子は少し考えてから言った。「あなたはそっちに何時《いつ》までいる予定?」
「あんたが来るまで」
「わかったわ。今日は無理かもしれないけど、明日なら行ってもいいわ」
「それで結構。楽しみにしているよ」
「あくまでもビジネスよ。どこへ泊っているの?」
「『ブルーラグーン』。きれいなところだよ。きみの部屋を予約しておくよ。リーフが眼の前に広がっている特別に眺めのいい部屋だ」
「どうやってそっちへ行ったらいいの?」
「三通りある。スーパージェットなら、羽田から十五分。あるいは新東京港からジェットボートを利用すれば、三十分でこっちに着く」
「もうひとつは?」
「同じく新東京港から出ている超電導式潜水船で来る方法。これだと二時間かかるけど、海底の景色は最高」
「それで行くわ。そのかわり、あなたの方も、私が着くまでに、もう少しストーリーの方を進行させておいてくれる?」
「そのつもりだ」
陽子はニッコリ笑って電話を切った。それから予定外のヨロン島行きが入ってしまったために、変更しなければいけなくなった予定をチェックするために、腰を上げた。
「シャーリー」
と晶世は家事ロボットの名を呼んだ。「ママはどこ?」
シャーリーは陽子の相模湾に面した書斎を指差してニッコリ笑った。シャーリーはその後、晶世の寝乱れたベッドをきちんとするために彼女の部屋へ向かって歩きかけた。
「いいのよ、シャーリー。もうベッドは自分で作ったから」
晶世は優しくそう言って、母の書斎をノックした。
「オフデイだっていうのに仕事?」
「そのおかげであなたはミラノに留学できるのよ」
背中を向けたまま陽子はぶつぶつ言った。それから「昨夜はよく眠れたの?」
と少し母親らしい気づかいを見せて、改めて一人娘を振り向いて眺めた。
母娘《おやこ》に共通している卵型の顔。光沢のある黒い髪。黒眼がちの大きな瞳《ひとみ》。しかし肌は娘の方がはるかに白く滑らかだ。
「あまり熟睡できなかったの。夢ばかりみていたわ」
母親が無造作に置いた何かのプリントをつまみ上げて眺め、興味なさそうに元に戻しながら、晶世は冴《さ》えない調子で言った。
「時差の関係よ。いくら文明が発達しても地球の時差だけはどうしようもないから」
と陽子は娘を慰めた。
「夢ってどんな夢なの?」
「子供の時からよく見る夢よ」
「へえ、そうなの。怖い夢?」
「ううん、怖くはないの。でも、とても苦しいの」
晶世は顔をしかめた。「ねぇ、ママ、自分が何の形ももたないで漂っている感じってわかる?」
「さあねぇ、どんなかしら?」
陽子はメモ帳の上に視線を走らせながら、少し上の空で答えた。二つ三つ至急電話をしなければならないところがあるのだ。
「ただ漂っているのよ。チリみたいに」
「どこを?」
電話を取り上げながら、辛抱《しんぼう》強く陽子は言った。せっかく夏休みに帰ってきたばかりの娘を、あまり邪険にしたくはなかった。
「わからないわ。ただ暗いの。そして想像もできないくらい広いところ」
「宇宙みたいなところ?」
「もしかしたらそうね」
と晶世は途方にくれたように呟《つぶや》いた。
「永遠に続く闇《やみ》の中を、まるでチリみたいに、ふわふわ漂いながら、いつも少しずつ少しずつ落ちていく感じなのよ、ママ。でも自分がどこへ向かって落ちていくのかわからないし、自分がどのあたりにいるのかもわからないの。私には自分が見えないし、触ってみても形もないの。他には何もないの。いつ始まっていつ終わるとも知れない長い旅みたいな気がするの」
「さぁもういいから、ちょっと黙ってちょうだい」
と、ついに陽子は娘に言った。「二つ三つ大事な電話をしなくてはならないのよ。食事はすんだの? まだだったら、シャーリーに何か用意させたらいいわ」
「いいのよ、自分でやるから」
晶世はそう言って、戸口へ向かいかけた。
「でもシャーリーが気を悪くするわよ。あの子、あんたのことを妹分みたいに思っているから、いろいろめんどうみたいのよ」
「でも私、ロボットにいろいろめんどうみてもらうの好きじゃないの」
それからおばあちゃまやひいおばあちゃまにもね、と言いかけて、晶世は口をつぐんだ。彼女には母親の陽子に子供時代風呂に入れてもらった記憶ひとつなかった。陽子は晶世にとって母親というより世間でいう父親のようなものだった。温かい肌と肌との触れあいもなかった。現在でもそうだが、陽子が家庭の中でゆっくりと寛ぐということは、昔から皆無に等しかった。
「そんなこと、まちがってもシャーリーに言っちゃだめよ。さもないとあの子、胸が張りさけてゼンマイが飛び出しちゃうから」
「わかってるわよ、ママ」
晶世は母の背中を見ながら言った。ロボットの気持がそこまで汲めるのに、なぜママは、あたしのせつなさがわからないのだろう。
晶世はなんだか自分が役立たずの醜いアヒルの子のような気がして、気持が沈んだ。ママを見るといつもそんな気分になる。無能で無器用で、そのうえ魅力のないおずおずした女の子。
ママと離れているとそうでもないけど。ミラノの音楽学校の寄宿舎ではずっと生き生きとしていたし、声楽科ではテノールやバリトンの男子学生たちによくもてた。
けれども晶世の気持にぐっと入りこんでくるような男の子はまだいない。どこにいても、場違いな気がする。どこにいてもいつも少しだけ淋《さび》しい。
陽子は電話をかけ終わると、晶世をふり返って「あら、まだいたの」
と呟《つぶや》いた。別に他意はないのだろうが、晶世は傷ついたような気持になる。パパが他に女のひとをつくって出ていってしまった気持がなんとなくわかるような気がする。
「そうだわ、言っとくことがあったんだ」
と陽子は急に思いだしたように言葉を添えた。「私、明日とあさってここを留守にするけど、かまわない? おばあちゃまたちがいるから淋しくはないわよね? それとも、一緒に行く?」
「どこへ?」
「沖縄の近くの島よ。でも無理にとは言わないわ。それにママは仕事だし」
再び晶世は閉め出されたような気がした。
「仕事なら遠慮するわ」
母がもしももう少し強く誘ってくれたら一緒に行くのにと思いながら、晶世はあきらめの口調で言った。
「でもどんなお仕事なの?」
「ミュージカルよ。その島を舞台に作るかもしれないの。どんな島か見ておこうと思ってね」
「どんなミュージカル?」
「伝説をもとに星良雅也《せいらまさや》という人がストーリーを考えているところよ。興味があるんなら、そこにあるファックスの原稿を読んだらいいわ」
興味があるんならだって……! 晶世は胸の中で叫んだ。私はいつだってミュージカルに興味があったわ。ミラノの音楽学校で声楽を学んでいるのだって、いつかミュージカルを演じたいと思っているからだった。ミュージカル・スターになるのが、小さい頃からの夢だった。
それなのに、ママは何にも気づいてくれない。どんな夢を抱いているのか、なんてことは、一度も尋ねようともしない。いつだってママは自分のことでいっぱいなのだ。晶世は下唇をきつく噛《か》みしめた。
「別に興味ないわ」
心とは反対のことを呟《つぶや》いた。でもきっといつか、素敵なスターになるわ。躰《からだ》中に才能の星をちりばめた本物のスターに。ママの力なんて、これっぽっちも借りずに。そう決意すると、晶世は踵《きびす》を返して、唐突に母の書斎から歩み去った。
陽子は娘が反抗的な態度を隠そうともせず出ていった後、やれやれと溜息《ためいき》をついた。一体誰れに似てあんな消極的な子になったんだろうと思いながら。それに、頭からミュージカルをばかにして。
自分の職業が一番親しい身内の者に理解されないということが悲しかった。
でも今日に始まったことじゃないんだから、と陽子は自分を慰めた。あの子は昔から妙に私に対してよそよそしい子だった。
島へ一緒に行こうと誘っても、けんもほろろ。あの子だけが生きがいと働き続けてきたというのに……。陽子は急に虚《むな》しくなり、自分で自分を抱くように胸の前で腕を交差して、しばらくの間立ちすくんでいた。やがて、奥の晶世の部屋から、トスカの「歌に生き恋に生き」の歌声が聞こえ始めた。
陽子は娘の歌う声に身じろぎもせず聞き耳をたてた。
なんという哀《かな》しみにみちた声なのだろうか。深い魂の底の方から揺さぶられるような。言葉をもたない野生の動物の慟哭《どうこく》に似ている。
あの娘のどこに、そんな感情が秘められているのか。あるいはあの声は、単に技術的なものにすぎないのか。声もまた楽器のようなもので、訓練のたまものなのか。
陽子には、娘の歌に才能があるのかないのか、冷静な判断はできそうもなかった。あの子の声がこんなにも私の血を騒がせるのは、ただ二人が母娘であるというつながりのせいだけかもしれないのだ。
その頃|星良雅也《せいらまさや》は、ニックと共にコバルト・ブルーの海上にいた。ハイテクの粋を集めた小型クルーザーではなく、昔ながらにこの島に伝わるサバニというカヌーのような細長い舟の上で、太陽に焼かれているのだ。日よけもなければ、もちろんクーラーから吐き出される冷たい空気もない。人間生活工学的に作られたクッションの良い椅子《いす》もない。
「こいつは地獄だぜ」
とニックが汗をだらだら流しながらあえいだ。
「なんだってこんな古典的博物館行きみたいな前世紀の遺物に揺られてなくちゃいけないんだ?」
「おまえさんのヘミングウェイなら、涙を流して感激してるはずだぞ。いったん賛成しておきながら、今更泣きごとを言うなんて、男らしくないじゃないか」
星良は白いキャップを顔の方にいっそう引き下げながら、少しでも座り心地が良いように躰《からだ》を左右前後に動かした。
二人は砂浜を散策中、見知らぬ入り江で、マングローブのような樹木の陰に半分砂に埋もれるような具合に置き忘れられている、今ではもう使われていない昔の漁舟を発見したのである。
何十年、いやひょっとすると何百年もの間、そこにそうして捨ておかれたものかもしれなかった。素朴でありながら、どこか非常に優雅な形の、その細身のカヌーに魅せられて、二人は力を合わせてそれを砂中から引き出すと、海まで押して行き、海水でこびりついた砂や汚れを洗い流したのだった。
別に舟体や舟底に穴があいているわけでもなかった。棒切れの先を平べったくしたような艪《ろ》が一本、舟底に忘れられたように転がっていた。驚くべきシンプルさ。素朴さ。二人は顔を見合わせた。
「こんなカヌーで、昔は漁をしたんだな」
とニックが顎《あご》をしきりとこすりながら呟《つぶや》いた。
「昔の人間がやったことを、今の俺《おれ》たちが出来ないわけはないね」
と星良がそれに答えた。
「どういう意味だい?」
「ちょっと、昔の人間の真似ごとをしてみようじゃないか」
「正気かね」
ニックは不安そうな顔をして空を仰いだ。太陽がギラギラ照り輝いている。「エンジンもないし、もしも流されたら、俺たちは人間の干物になっちまうぜ」
「いざとなれば泳いで戻ればいいさ。それにこのカヌーは、今度のミュージカルの重要な小道具に使えそうだし」
星良はサバニという昔の舟を海中に押し出して飛び乗った。
「きみが嫌なら別にかまわんよ。俺はひとりでちょっとこのあたりをこぎまわることにする」
ニックが慌てて追ってくると、膝《ひざ》まで海水に浸りながらカヌーに飛び乗った。
「行くよ。きみ一人をサメの餌食《えじき》にするにはしのびない」
そして小一時間もたつと、ニックの全身は赤鬼みたいに日焼けして、湯気を立て始めていた。
「心配するなよ、ニック。ホテルに戻ったら、バイオ風呂《ぶろ》に飛びこめば、日焼けはすぐに治るからさ」
「一体いつまでこうやって揺られていりゃ気がすむんだ?」
「もう少しだ。もう少しでミュージカルの骨子になるところが浮かびそうなんだ」
と星良は言った。「もしもきみが十分おきにそこでブツブツ泣き言を言わないでくれれば、とっくに出来上がっていたはずなんだ。頼むからしばらく黙っていてくれ。でなけりゃここから泳いで帰ってくれ」
「泳いで帰るのは簡単さ。しかし俺がいなかったら、誰れが、思索中のおまえさんのめんどうをみるんだい。そこにそうして寝そべってミュージカルの構想を練っている間、舟が潮に流されないのは、いったい誰れのおかげだと思っているんだ?」
「わかったよ、ニック。感謝するよ、ほんとだよ」
そして星良は眼を閉じた。背中や腰に波の気配が柔らかく感じられた。まるで海の懐《ふところ》に優しく抱きかかえられているみたいだった。
彼はふと眼を上げて、海上から島の方を眺めた。大金久《おおがねく》海岸の真っ白い砂浜が眼に痛いようであった。珊瑚礁《さんごしよう》の中ほどに、かなり大きな範囲にわたって砂地が浮き出ていた。
「あれが星の砂で有名な百合《ゆり》ケ浜だよ」
と星良はニックに教えた。
とするとその左手の方に浜井戸《パマゴー》と呼ばれる場所があるはずであった。ミカドが初めて美しい天女を見かけたという所である。
「ニック。あそこのあたりに舟をつけてくれないか」と星良は、岩のくぼみに囲まれた小さな入り江を指して言った。
「ここなんだ。この岩陰で俺はメサイを初めて見かけたんだよ」
と翌日、星良はミュージック・エージェントの廻陽子《めぐりようこ》を大金久海岸の一角に案内して説明した。真夏のこととて、すべてがギラギラと照り輝いていたが、足の裏に当たる砂はひんやりとしていた。
「今、あなた何て言った?」
陽子が訊《き》きとがめた。
「だからさ、ここが例の羽衣伝説に出てくる浜井戸の場所なんだよ」
「ううんそうじゃなくて。あなた今、俺がメサイを見かけたって言わなかった?」
陽子はおかしそうに笑っていた。
「え? そう言った?」
星良は眼を瞬いた。「俺って、何かストーリーを書き始めるとさ、いつのまにか主人公に感情移入してしまって、つい自分を重ねて書くもんだから。言いまちがえたんだよ」
「それだけすばらしいものが書けそうね、期待しているわ」
「実はね。昨夜のうちに少し書いてみたんだ」
まるで打ち明け話でもするかのように、神妙な顔で星良が言った。「あっちこっち見た後で渡すから、読んでみてくれないか」
「でもこの島、素晴らしいじゃない? 大きさといい、海の色といい、理想的だわ。ブリティッシュ・シネマの連中に、プレゼンテーションと一緒にビデオを撮って送ることにするわ」
陽子はそう言って、持参した超小型ビデオカメラを回し始めた。
「娘さん連れてくるって言わなかった?」
と星良が訊いた。
「約束なんてしなかったわよ。だめなのよ、あの子。私と一緒に行動したがらないの」
ふと淋《さび》しそうなかげりが陽子の横顔をよぎった。
「そういう年頃なのさ。そのうち、友だちみたいになるよ」
星良はそう言って、年上の優秀なミュージック・エージェントを慰めた。
二人はあたりをゆっくりと散策して回った。砂浜がうっそうと繁る熱帯樹木に交わる地点で星良は足を止めた。
「昨日、島の古老に聞いた話なんだがね、実に不思議なんだ」
「何なの? 胸がドキドキするわ」
この島に足を踏み入れて以来、ずっと軽い興奮状態が続いている陽子は、星良をうながした。ここは空気も甘く、海の色ときたら彼女が日頃見なれている東京湾や太平洋とは全く違う。すべてが透明で浮きたつような感じだった。ここが日本に属する島とは、思えない。
「源《みなもとの》 為朝《ためとも》を知っているね?」
「ええ。日本史で習ったわ」
「為朝がこの島に流れついたという確かな印が、いくつか残されているんだよ」
「ほんと? でも為朝が流れついたっていう場所が他にもいくつかあるわね、伊豆七島にもそんな話があったような気がするわ」
「だが実に奇妙なのだが、このヨロン島に彼が流れついた浜の名が、百合ケ浜なんだ。ユリガハマ。鎌倉《かまくら》のユイガハマと、音が酷似していないか?」
「ユリガハマとユイガハマ……。なるほど、似てるわ」
陽子は何度もその二つの浜の名を口の中で転がした。
「もうひとつ。ユイガハマに続く町が鎌倉。そしてここユリガハマに続く地名に船倉というのがある。カマクラとフナクラ。これにも何か奇妙な一致があるような気がしない?」
「するわ。それにしてもこの島は不思議な島だわね。三保《みほ》の松原と同じ羽衣伝説があると思うと、鎌倉の源為朝の伝説がそっくりあるわけね」
「そこなんだ」
と、星良は、異様なほど根を地上に露出しているガジュマルの根元に背中をあずけながら、煙草を一本口の端に押しこんだ。けれどもそれには火をつけず、くわえ煙草のまま続けた。
「その話を島の古老の口から聞いたとき、俺の頭の中で、羽衣伝説のミカドと為朝がすうっと結びついたんだ。実は、今度のミュージカルに、為朝もぜひ入れたいんだよ」
「ずいぶん突飛なアイディアね。つまり、為朝はミカドの生まれ変わりだということ?」
「そう、つまるところそうなのさ」
「そりゃ、ミュージカルだもの。奇想天外に創り話は作れるわ。奇想天外にやるなら、ミカドそのものだって、宇宙人てことになるじゃない。なぜ人間であるミカドが、恋しい妻を追って天に昇って行けるかって厳密に考えたら、彼は何か宇宙船のようなものに乗って行ったのにきまっているもの」
「天女は異星の女ということになるね。それに為朝にしたって、あんたがさっき言ったように、八丈島や沖縄にも、彼が上陸したという伝説が残っているんだ。同一人物が同時期にそんなに多くの所へあの時代出没すること自体、奇態なことなんだ」
「ひょっとすると彼も宇宙人だったりしてね」
頭上の入り組んだ熱帯の植物の枝のどこかで、鳥たちが立ち騒いでいた。信じられないほど尾の長い鳥が、その長すぎる尾のために飛ぶというよりは、尾を引きずるように、おかしな飛び方をして、別の枝へ大きく飛躍するのが見えた。
あたりには、南国特有の花々が贅沢《ぜいたく》なほど咲き乱れ、名も知らないような熱帯の果実がたわわに繁っていた。その昔は、サトウキビ一色に塗りつぶされていたこの島が、十年前頃から見違えるような美しい熱帯性植物の自然公園となり、日本で最も美しいウォーターフロントの高級リゾート地として生まれ変わったのである。
そんなわけでヨロン島は、大自然の美しさと、世界のリゾートホテルの粋を集めたような、洗練と優雅さにおいては超一級のホテルやコンドミニアム、別荘などが、両立している土地柄なのだ。
しかもそうしたホテルやコンドミニアムの建物は、決して露出することなく、たくみにジャングル状の熱帯樹木の下に隠されていた。そのために、空や海からこの島に近づく時、まるで無人の島のような印象を受けるのだ。
しかし一歩ジャングルの中にさまよい入ると、いたる所に、最も新しく洗練の美をきわめた最新設備のホテルが、ひっそりと軒をかまえている。
「もしもミカドの生まれ変わりが為朝なら、その為朝の生まれ変わりもどこかにいるわけでしょう?」
陽子は、濃い樹木の香りを胸一杯吸いこみながら、なにげなくそう星良に質問をした。
「そうなんだ。為朝はどうしてももう一度生まれてこなくてはならなかったんだ」
星良の言葉の調子があまりにも確信に満ちているので、陽子は、
「それはなぜなの?」
と訊かずにはいられなかった。
「メサイに再会できなかったからさ。為朝の生きた時代に、メサイに逢えなかった。彼女はまだチリのように宇宙空間を漂っていたんだよ」
「チリのように宇宙空間を漂う? そう言った?」
陽子は胸騒ぎを覚えた。「確かそれと同じような言葉を最近聞いたわ」誰れだったかはすぐに思いだした。「娘の晶世がそれと似たような夢をくりかえしみるって言っていたような気がするのよ」
星良の瞳《ひとみ》が一瞬キラリと光った。彼が何か言いかけるよりも早く、陽子が先に口を開いた。
「それより、ストーリーの続きを一刻も早く読みたいわ。ホテルに戻りましょう」
彼女は星良の先に立って、勢いよく歩きだした。この島に来て以来、体内にエネルギーが充実し、溢れだすような気がするのだ。
星良と陽子は、二人乗りのミニ・リニア・モーターカーに乗りこんだ。どんな悪路でも揺れひとつなく進めるという、昔のジープ型の小型リニア・モーターカーである。
ホテルに帰りつくと、陽子は星良から、昨夜のうちに書いたという、彼自身創作の下書きを奪い取るようにして、自分のホテルルームにたてこもった。
〈星良雅也の創作による付加《ふか》的伝説〉
年に一度の逢瀬《おうせ》は、長く待ち遠しく、ミカドにとってもメサイにとっても、たいそう辛くせつないものであった。
ようやく逢《あ》えたと思えば、次の日からは再び離ればなれの時が、蜿々《えんえん》と続くのだ。そのようにして、気の遠くなるような長い長い年月が過ぎていった。
ついにある時、メサイは天つ国の父神にこう言って願い出た。
「どうぞお父さま。私たちをもう許して下さいませ。そしてまたあの方と一緒に暮らせるようにしていただきたいのでございます。私どもはもう充分すぎるほど罪に服したつもりです」
「この天つ国で、夫婦《めおと》として添えるなどと思うな。どうしてもと申すなら、おまえたちは永久に天の川から追放されることになるのじゃぞ」
と父神は答えた。
「けっこうでございます。ミカドと手に手を取りあって下界へ追放されることにいたしましょう」
「早まるな、娘」
と神は非情な声で申し渡した。
「手に手を取りあってなどというような甘い考えを起こすでない。二人はバラバラに下界へ追放されるのだ」
「それでは下界であの方にお逢いすることにいたします」
「そんなに簡単なわけにはいかぬのだ。二人がめぐり逢えるのは千年も万年も後のことになるであろう」
「たとえ万年待ちましょうとも、ミカドと再び添い続けることができるものなら、私は万年が千回くりかえそうとも、耐える覚悟でございます」
けなげにもメサイはそうきっぱりと言った。
「ただし」
と父神はいっそう無慈悲につけ足した。
「おまえたち二人はいずれ必ず出逢いはするが、おまえにはミカドがわからない。ミカドにもおまえがおまえとわからぬのだ。なぜならば、天の川からおまえたちが立ち退くとき、おまえたちは『記憶』というものを置いて行かねばならぬからだ。
それでもよいのか? 思い直す気はないか、天の娘よ。年に一度の逢瀬でなぜ我慢がならぬ?」
「年に一度きりでは、ひもじさのみがつのります。たった一日の歓《よろこ》びにひきくらべ、三百六十四日の苦しい地獄の日々――」
メサイは悲しげに頭をたれた。「けっこうでございます、お父さま。どうか私たちを天の川から追放して下さいませ。たとえお互い姿が変わっておりましょうとも、記憶を失《な》くしましょうとも、私には必ずやミカドが見分けられましょう。あの方も、必ず私がわかるはずでございます」
「なぜそのように確信がもてるのだ、娘?」
と父神は尋ねた。
「愛でございます。私たちの愛は永遠なのでございます。永遠の愛を宿命と申します。私とミカドの愛は宿命なのです」
メサイは静かに、だがきっぱりとそう言った。
「よろしい。それほどまでに申すのなら、そちの願いを聞きとどけることにいたそう」
父神はそう申し渡した。メサイは深々と頭を下げて父神に別れを告げた。
「天の愛しい娘よ。恨むでないぞ。天の掟《おきて》と地の掟とを破った者が受けねばならぬ当然のむくいなのだから」
と父神は、やや声音を柔らげた。
「少しも恨んでなどおりませぬ。むしろ願いを聞き届けて下さいましたこと、心より感謝しているのでございます。ひとつだけ心にのこることは――」
とメサイは父親の老いた顔を見上げた。「お父さまとお別れせねばならないことでございます」
「うむ」
と神はうなずいた。神もまた心を動かされたようであった。
「愛しい我が娘よ。おまえにひとつだけ教えておくことにしよう。おまえとミカドは、千年も万年も過ぎたある時、ある島で再会することになろう。世にも美しい島だ。だがその島には川というものが一本も流れていない。なぜならその昔、その島で実ったスブイを天つ国の川原で割ってしまったからだ。そのスブイには、島に流れるべき川の水がすべて含まれていたのじゃ」
「川のない美しい島ですね」
とメサイは念を押した。
「そうじゃ。川のない島じゃ。おまえとミカドとは、ある井戸で巡り逢《あ》う」
「井戸のあるところでございますね」
「そうじゃ。だが可哀想《かわいそう》な娘よ。その記憶もここを立ち去る時には、置いて行かねばならぬのだよ」
父神はそう言って、メサイの前から歩み去った。
やがて天の神は約束を守り、ミカドとメサイを天の川から追放した。二人は、天の川の川原を離れる直前に、申し合わせて川ぶちにいたヤドカリをそれぞれ一つずつ懐に隠した。いつか、出逢ったときに、それが前世で夫婦であった唯一の証拠になるだろうと考えたからだった。二人は、広大な宇宙の闇《やみ》に放り出されたとたんに、散りぢりばらばらとなり、宇宙の想像を絶する広がりの中でチリほどの光となって、漂い始めたのであった。そしてそれは孤独にしてあまりにも長い光の旅路であった。
長 老
「ぐいぐいひきつけられたわ。メサイのけなげさには、心を強く打つものがあった。でも、ひとつ訊《き》きたいんだけど、為朝はどう係わってくるのよ? 歴史上の実在人物をもってくるのは、ちょっとチグハグじゃない?」
夕食前のカクテルのとき、廻陽子はさっそく読み終えたストーリーについての感想を述べ始めた。
「しかし為朝は、歴史的事実として、いろいろな島に出没しているんだ。一体何のために? なぜ為朝があちこちの島に現れたかということだよ?」
「つまり、潜在意識が記憶していることを、確かめるためだっていうの? 無意識のうちにメサイを探すために、いろいろな島を巡り歩いたというの?」
「さすがだ。なかなかの想像力だな、あんたも。その通り。為朝はおそらく、自分でもそうとは気がつかずに、宿命の女、メサイを探して歩いていたんだよ。しかしメサイはついに見つからなかった。運命の機が熟していなかったのかもしれない。
やがて為朝には島を立ち去らねばならない日が近づいていた。だが、胸騒ぎがして、どうしても立ち去りかねるのだ。彼にはなぜそのような胸騒ぎがするのかは計りかねるのだが、とにかく何かが彼を引き止めた。
そこで為朝は、船倉《ふなくら》の小高い丘に、形ばかりの小さな神社を作って、心の平安を祈った」
「ちょっと待ってよ」
と陽子は星良の袖《そで》をひいたので、彼の手にしたオレンジ色のカクテルがこぼれた。「その話、本当なの? それともあなたの作り話?」
「もちろん俺《おれ》の創作」
「でも一体、いつ作ったの、その話」
「たった今さ。あんたに喋《しやべ》りながら――」
「へえ」
と陽子は感嘆のあまり溜息《ためいき》をついた。「いったい、どんな頭脳をしてるのか、ちょっとあなたの頭の断面図が見たいものだわね。でも先を続けて。なかなか面白いわ」
その時ニックが、おそろしく年をとった老人をともなって、バーのあるベランダの入口に姿を現すのが見えた。
「あの二百歳にも見えるお爺《じい》さんは、何者なの?」
と陽子は小声で訊いた。
「この村の長老。ありとあらゆる伝説を語ってきかせることのできる現存の唯一の語りべさ」
「あなたが呼んだの?」
「ああ。ニックに迎えに行ってもらった」
星良はニックに、そっちで待つように手で合図をしておいて、素早く話の続きを始めた。
「神社で祈っているうちに、為朝は何を思ったのか、懐にいつも隠し持っているお守りを、祈祷《きとう》台の上に、そなえた」
「お守り?」
「ヤドカリ」
そう言って、星良はニヤリと笑った。
「ヤドカリって、ミカドとメサイが天の川原で拾ったんじゃなかった?」
「そうさ。ミカドが拾ったヤドカリを、為朝が持っているってことは?」
「ああ、なるほどね。為朝はミカドの生まれ変わりだってことに、うまく通じるわけね」
「物心がついて以来、為朝はそのヤドカリを肌身離さず身につけていたんだ。理由もわからず。どうしてそんなものが身近にあったのかもわからなかったが、とにかく、身につけていた。それを祈祷台の上に置いた。そうせずにはおれなかった。だからそうした」
「ふうん。それで、どうなったの?」
と陽子は訊いた。
「わからない」
星良は顔をしかめた。「どうやら俺の想像力も創作力も、これまでのようだな。じゃニックと長老に合流しようか」
と彼は陽子をうながした。
ニックと長老は、この島に昔から伝わるという荒っぽい醸造酒を、水も薄めなければ氷も入れずに、飲んでいた。陽子もすすめられたが、強くてとうてい女の飲める代物《しろもの》ではなさそうだった。
「断っちゃいけない」
とニックが言った。「これはこの島に大昔から伝わる儀式でヨロン献奉という、神聖にして愛すべきしきたりなんだよ、ミズ」
そう言ってニックは、両手に余るような漆塗りのクラシックな杯に、その透明な液体をなみなみと注いで、陽子に押しつけた。
「あなたを心から歓迎するということですよ。それから、それを飲み干すことによって、あなたはもう見知らぬ他人ではなく、この島の親しい友人ということになる」
「それじゃいただかなくてはね。でもこれ、全部飲み干すの?」
「そう全部」
「無理よ。こんな強いお酒。ひっくり返っちゃう」
すると長老が静かに言った。
「残した酒は、あんたが身も心も捧《ささ》げる男が、代わりに飲めばよいのじゃ」
「まあ、困りましたね。そんな男性いるかしら」
陽子はチラと星良を横眼で見た。
「よし、俺《おれ》がひきうける」
「身も心もというわけにはいかないわよ」
「どっちでもあんたの都合のいい方をくれればいい」
陽子はくすりと笑って杯に口を近づけた。三分の一ほど飲んで、ふうと息をついた。
「もうだめよ。お願い」
星良が杯をひきついで、残りを一気にあけた。
かなりくせのある香りと味だ。胃がたちまち焼けて、かっと熱くなった。しかし悪い気分ではない。
「どうも長老。よく来て下さいました」
と改めて星良は、老人の皺《しわ》だらけの褐色の顔を見た。落ちくぼんだ眼。真っ白い眉《まゆ》。長いこと、人々の生きざまをじっとみつめてきた人間特有の静けさと威厳とが感じられた。
「それにニック。長老を迎えに行ってくれて、ありがとう」
「いやなに。光栄さ」
とニックは赤ら顔をつるりと大きな手で撫《な》で上げながら笑った。「途中、アジ神社というところに寄って、日頃の罪を潔《きよ》めて来たよ」
「へえ。珍しいことをするな。きみに信仰心があるなんてさ」
「なんでも、歴史上の人物にちなんだ神社だということだったよ。そうでしたね、長老?」
ニックはそう言って、長老を見た。
「源為朝のことです」
長老は答えた。星良と陽子は思わず顔を見合わせた。
「どこにあるんですか、そのアジ神社というのは?」
少し興奮しながら、星良が長老に質問した。
「船倉の近くの、小高い丘の上じゃがの」
陽子は息を呑《の》んで胸を押さえた。
「古井戸がありますか?」
いっそうせきこむように星良が訊いた。
「ある」
老人は何度もうなずいた。
「あなた、その神社、昨日のうちに見たんじゃないの?」
陽子は星良の脇腹《わきばら》を肘《ひじ》でついた。
「いや、見ていない。神かけて誓うよ。俺、今回は見てないんだ」
星良が首を振った。
「今回って? じゃ前回には見てるってこと? 前には、何時《いつ》ここへ来たのよ? 初めてじゃなかったの?」
「いやいや、そういう意味ではなくてさ」
なぜ自分が今回などという言い方をしたのか、星良はちょっと変な気がした。「さっきの神社とヤドカリの話は、まったくの口から出まかせさ」
すると、それまで黙ってやりとりを聞いていた長老が、ふっと表情を引きしめた。
「ヤドカリと言いなさったかね?」
「ええ、言いましたけど」
「アジ神社のお守りじゃよ」
「ヤドカリが?」
星良は思わず腰を浮かしかけた。「ほんとうですか?」
「わしは嘘《うそ》などつかん」
気を悪くしたのか、長老は眼と口を閉じた。
「そのアジ神社というのは、為朝が作ったものですか?」
「いやそうではない。為朝は、この島で子供をもうけた。その子供が後にここの統治者《アマジ》となり、父に敬意を表して作ったのじゃ。その昔、父の為朝が形ばかりの、今でいってみれば神社の屋台のようなものを作った後に、立派なものを作り直したのじゃよ」
「しかしヤドカリは……」と星良が口をはさんだ。
「二つのヤドカリが、アジ神社の生き神様じゃった」
静かに長老が呟《つぶや》いた。
「二つとおっしゃいましたか?」
星良は身を乗り出した。
「二つじゃ。夫婦のようにな。大きなヤドカリと、それよりひとまわり小さなヤドカリと二つじゃ」
「ああ」
と、星良は腹の底からしぼるような声を出すと、頭を抱えこんでしまった。「やっぱり。やっぱりメサイは来たんだ、後から。そして、ミカドが置いて行ったヤドカリを見て、自分もそこに並べたのだ」
ニックは何のことかわからずに、きょとんとしていた。
「そのヤドカリのことですが、もともとは、神社の屋台のようなもののところに奉納してあったんですね?」
「うん、そうじゃよ」
「やっぱり……」
星良は下唇を強く噛《か》んだ。
「最初は大きい方のが一つだけ奉納されたのではないでしょうか? 小さい方のヤドカリは、その後に、加えられたものでは?」
長老はその問いにすぐには答えずに、まず杯の酒を飲み干し、唇をこすってから言った。
「確かに最初は一つだけ奉納されておった。七月七日の宵じゃ。二つめが奉納されたのは、一年後の同じ七月七日のことであったな」
沈黙が流れた。
「一年違いか。たったの一年の違いか。千年も万年も待ったあげくに、一年なんて、ほんの瞬《またた》く間の違いではないか」
と星良は激しく身をよじった。その嘆きぶりがあまりにも真に迫っているので、陽子はなぜか、鳥肌が立つような気がした。彼女はニックと視線を合わせた。彼だけが事のなりゆきをつかめないとみえ、眼を丸くしていた。
「それで長老。そのヤドカリはどうなりましたの? その後も奉納されていますの?」
星良に代わって陽子が質問した。テラスには夕暮れ時の柔らかい潮風が吹きこんでいた。もう少しで太陽の姿が西の水平線に消えようとしていた。
「奉納されておったがのぉ」
と長老は悲しげに首を振った。「不思議なヤドカリでな、何百年も生き続けましてな。それがある時、盗まれたのですわ」
「え? 盗まれた?」
星良の顔色はますます青くなった。「いつ頃のことですか、それは?」
「忘れもしない、あれは一九八五年の初夏のことだった。東京から、島の開発に来ていた人々が神社にもうでてな――」
「誰れだかわからないのですか」
「いや、あとでわかったのじゃ。そのお人には悪気はなく、子供たちの土産《みやげ》に、と思ったらしい。ところがな、たいそう不思議なことが起こってな――」
「不思議なことといいますと?」
陽子は思わず生《なま》つばを呑《の》みこんだ。
「それが口を閉ざして、どうしても語ろうとなさらんということじゃったが、とにかく、何か想像を絶するような異様な体験をなさったのに相違ないのじゃ。何しろヤドカリにはアジ神社の霊がついとりますからのぅ」
「それで?」
「翌日、使いの者に持たせて、丁重に元に戻すようにと命じたということなのだが――それが」
と長老は視線を落とした。
「戻らなかったのですか?」
星良と陽子が同時に同じことを質問した。
「その使いの者が、自分では行かずに、ホテルまで来て、子供に小銭をやり、奉納するようにと渡したらしいのじゃ」
「…………」
「子供のことじゃ。玩具にして遊んどるうちに忘れたかどうかしたのじゃろう。それきり二度とヤドカリを見た者はおらんのじゃ」
「その子供たちに訊いてみなかったんですか?」
陽子が不服そうに抗議した。
「知らん、覚えとらんの一点張りで」
「その子供たちは今どこにいるんですか?」
「東京に出とりますよ、二人とも」
「連絡はとれますか? 名前とか?」
「調べればわかるでしょう」
「調べていただけますか?」
「誰れかにやらせよう」
長老はそう言ってうけおった。
「しかし、あんたはなんだって、そのヤドカリにそんなに執心するんですかな?」
「とても大事なことなのです、長老。僕にとって」
星良は最後の一言を囁《ささや》くように言って、急に口を閉ざした。
「でも、そのヤドカリがいなくなってから、何か変わったことでも起きましたの? たたりのようなものは?」
陽子が恐る恐る訊いた。太陽はとっくに沈み、あたりは紫色にかすんでいた。海の方に急に風が起こったのか、薄墨色をした海上に白波がチラホラ立ち始めている。
「たたりのようなものはありませんでしたな、幸い。むしろ、その頃からこの島にとってはいい人たちが訪れるようになりましたのじゃ。リゾート開発の話がどんどん進んで、島は経済的にもうるおうようになったし。
島の観光開発で、それまであったサトウキビを植林に変えたら、なんと不思議にも育つこと育つこと。沖縄あたりで同じものを植えても、成木になるのに十年はかかる木が、わずか十か月で成木になるといった具合でしたのじゃ。あっという間でしたな。殺伐たるサトウキビの島が、こんな熱帯樹木に覆われた美しい島に生まれ変わったのは……」
長老は昔を懐かしむように、細い眼をした。
「それに、島の人間が丈夫になりましたし、気のせいか年をとりません。わしなど、この二十年間、全く同じ状態で。このぶんではあと百年も二百年も生きられそうだと、笑っとりますよ。それはまあ冗談にしても、この十年くらい、この島の人間は病気ひとつしてませんよ。十年前に癌《がん》にかかって医者から見放された人間も、いつのまにやら治ってしまってなあ」
「まあ、どういうわけかしら?」
陽子は首をかしげた。
「水のせいだと、わしらは言っとります」
水? |π《パイ》ウォーターを使っているんですか?」
「πウォーター? それはなんのことかね?」
「ご存じない? 二十年ほど前に開発された時奇跡の水といわれたものですよ。その水を使って栽培すると、野菜の成長が早いです。その水で作った化粧水をつければ、肌がみずみずしく、老化しない。つまり水分に含まれるある種の成分のせいなのです。人工的に作った生命の水なのです」
星良がかわって説明してやった。
「私も使ってますのよ、ほら、これですわ」
と陽子はバッグの中から携帯用オーデコロンのスプレーを出して、長老に見せた。
「今化学者は水に注目しているんですよ、長老。原子力時代から、エネルギーは太陽光線そして水にと変わっていきつつあるんです。現在ではまだ開発の途中ですが、やがてミラクルウォーターというものが作られるようになれば、地球の歴史が変わるだろうと言われています」
「ミラクルウォーター?」
老人は震える声で訊いた。「それは一体何のことかね?」
「細胞の老化を止める水です。それを飲むなり、皮膚につけるなりすると、細胞は老化しないのですよ」
「よくわからんな」
と長老は首をかしげた。
「人間の肉体が老いるということは、細胞の老化が進むということです、長老。老化が止まるということは、人類は不老長寿を約束されたようなものなんです。それだけではありません、この理想の水が作られるようになれば、人類に計り知れない恩恵をもたらすのです。コンクリートに混ぜれば強度は信じられないほど増しますし、薬学に応用すれば、ほとんどすべての血液と皮膚および細胞に関係する病気の特効薬になるはずなのです」
そこで星良は一息つき、再び続けた。「話は違うけど長老、それに他の人たちも聞いて欲しいんだ。ノストラダムスの大予言というのを、知っているかい? その中に『大きなメシーの詩』というのがあるんだけど」
「どんな詩なの?」
「俺《おれ》も原詩を読んだわけじゃないからね。それに詳しくは憶えていないが、こんな内容だった。
――日の国と金星の法が競いあい
予言のエスプリをわがものとしながら
双方たがいに耳をかたむけないが
大きなメシーの法は日の国によって保たれるだろう――五島唯という人が翻訳した詩だよ」
「何のことかさっぱりわからないわ」
「大意はね、こういうことなんだ。日の国というのは、言わずとしれた日本だ。金星とはすなわちノストラダムス風解釈ではアメリカ。つまり、世界が日本とアメリカに分かれて科学や文化や宗教で競いあう。これも五島氏の解釈だがね。そしてついには、人類を戦争や汚染や大異変など近未来の破滅から救うようなものが出現する。つまり日本が発明する何かが、救世主《メシア》となる。そのものというのは、人間、生命、宇宙をつらぬく永遠の法則に関係ある。僕はこの本を一九八八年に初めて読んだんだけど、まだ十五のときだった。そのときには、まだこの詩の意味がわからなかったが、『大きなメシー』というのは、すなわちミラクルウォーターのことなのではないかと思うんだ」
「私はノストラダムスの信奉者じゃないから、その話はあまり信じないわね」
と陽子は懐疑的に言った。
「じゃこういう話ならどうだい? 一九八三年にNASAは観測ロケットを飛ばして、燃える放浪惑星を発見した。神話になぞらえて『1983TB=ファエトン』と名づけた。ファエトンというのはギリシャ神話の太陽神の子供の名だよ。火の車に乗って宇宙を暴走して、地球に墜落して大きな災害を起こす神だよ。
さて、この小惑星ファエトンの軌道とスピードから計算して、NASAは、地球との衝突を二〇一五年と割り出した」
「それが二〇一五年なのね?」
陽子が気味悪そうに夜空を仰いだ。すでに一番星、二番星がきらめいていた。そんな話とはおよそ無関係に見える泣きたいほど美しい夜空であった。
「そう。ノストラダムスを信じなくとも、NASAの発表は信じるだろう?」
「でもそれ一九八三年の発表でしょう? その後二十年たっているのよ。NASAは、ファエトンの軌道変化とか自然消滅の追加報告はしていないの?」
「していない。ファエトンは計算通り二〇一五年に地球に正面衝突する。もしも」
と言って星良は芝居気たっぷりに、全員を見まわした。「未知のエネルギーで、ファエトンの軌道コースを変えるとか、地球の重力を制御して激突のショックを吸収するとかできれば、被害は最小限にくいとめられるかもしれないね」
「間にあうかね。あと十二年しかないぜ」
とニックが言った。
「だから水エネルギーの開発の『世界ウォーターシステム社』が作られ、全世界が金をそれに注ぎこんでいるんだよ。水のエネルギーは、計り知れないんだ。今や人類はミラクルウォーター開発を急いで、奇跡の水を完成しなくてはならないところまで来ている。あるいはそういう水を発見するか。もう時間の問題なんだよ。二〇一五年といえば、十二年後なんだぜ」
「間に合えばいいけど」
陽子は、寒そうに自分の両腕をこすった。
「しかしまあ長老。あなたのお話を聞いているうちに、俺は当然、この島の植物の繁りかたから、ヨロン島も|π《パイ》ウォーターによる栽培が進められていると思ったんですがね」
星良は話を元にもどして、島の長老をみつめた。
「うちの島はそんなものなしに、立派にやっていけますのじゃ。ご覧の通りじゃ」
と彼は、夜の中にひっそりと息づくジャングル状の樹木を両手で誇らしげに示した。
「しかし、一九八八年代まで、サトウキビの畑しかなかったのでしょう? それが一九九〇年には、全島みちがえるような緑に覆われ、楽園のイメージに変わった。たった二年で島の様子が様変わりしている。わずか二年の間に、地下水の水質でも変わったのだろうか?」
星良は納得がいかないというように、何度も首をかしげていた。
「いずれにしろ、ここにいると心が安まるわ。ここはいい島よ。とても素晴らしいわ」
陽子はそう言って、水っぽくなったカクテルを飲みほした。
「今夜は楽しかったぜ」
とニックは、星良の肩を力いっぱい叩《たた》いた。「源為朝の話から、失われたヤドカリの話になり、なぜか未だ発見されぬミラクルウォーターに話題が移り、ノストラダムスの大予言とNASAの予言ファエトンの地球衝突にまで話題が広がった。こんなめちゃくちゃな夜は初めてだよ。頭がこんぐらかって、眠れそうにもないぜ、マサヤ。こうなったら、きみに是が非でもその奇跡の『ミラクルウォーター』とやらを発見してもらわなければな」
そう言って、ニックは飲みもののおかわりに席を立って行った。長老が持参した酒は空になっていた。
「源為朝より更に前があるのよ」
とニックの背中に向かって陽子が溜息《ためいき》をついた。
「話は天の川にまで遡っていくのよ。天の川や羽衣伝説から二〇一五年の小惑星衝突までの一大絵巻ミュージカルよ。あぁ私も頭が変になりそう」
「問題はただひとつ。ヤドカリのゆくえだよ」
星良はじっと空をみつめた。
「ねぇ、質問していい? それミュージカルの筋書きのこと? それとも現実のヤドカリのこと?」
「両方さ」
そう言って彼は水平線のあたりから上空へと視線を移していった。見るとそこにはいつのまにやら、ミルクを流したような天の川が、くっきりとかかり、その昔、メサイが投げた白い絹の布ぎれを思わせるような白い流れまでもが、よく見えるのだった。
「でも、今度のストーリー、なんだか気味悪いわ」
「どうしてさ?」
「だって伝説と、あなたの作り話と、それから歴史的事実と、未来の予言が全部偶然に一本の糸で結ばれているんですもの。まるで大昔に書かれた奇想天外なお話を、そのまま演じているような気がするわ。あなたを見ていると――」
「実は俺《おれ》もそんな気がしている。度々言うように、このストーリーにしろ、この島にしろ、初めてなのに、すでにとっくに知っているような感じが、実にしばしば起こるんだ。それに、俺が頭の中で空想したホラ話が、長老の話ですぐに現実になったりね」
ニックが四人分の飲みものをトレイにのせて持って来た。
「長老、これは僕からのおごり。『不老長寿《リブ・エバー》』という名のカクテルだそうです。これを一杯飲み終わったら、お宅まで送りますよ」
四人は改めて乾杯した。長い一日であった。
ニックが長老を送って行ってしまうと、星良と陽子は少しの間だけ二人っきりになった。
「質問したいことが山のようにあるんだけど、今日はもう疲れたから、ひとつだけにするわ。答えてくれる?」
と陽子は優しい眼をして訊いた。海の方から夜の砂浜を抜けて、潮風が吹いて来ていた。風が彼女のつややかな黒髪を後方になびかせ、その卵型の顔の美しい輪郭をあらわにしていた。
「為朝がミカドの生まれ変わりだとすると、その後はどうなるの? その二人の生まれ変わりはミュージカルに登場することになるの?」
「もちろんさ。ミュージカルのフィナーレは、ミカドとメサイの生まれ変わりが、この島のどこかの井戸のところで出逢《であ》うのさ」
「じゃ現代のミカドって誰れなの? メサイの生まれ変わりって、誰れ?」
「ミュージカルのうえでは、ミュージカル作家の天野誠っていう主役と、それからメサイの役を演じるミュージカル女優さ。二人はオーディションで偶然採用されるんだけど、そのミュージカルを演じていくうちに、自分たちが元なんであったか、少しずつ知っていくんだよ。偶然なんていうものは、この世の中にはありえないんだ。偶然というのはすべて必然であり宿命なんだよ。ついに、古井戸のところのシーンで、二人のミュージカル役者たちは――役柄のうえでだよ――、二人がミカドとメサイの生まれ変わりだということに気がつくんだ。それを証拠だてる何かをみつけだすんだ」
「とすると、それは当然、二つのヤドカリよね」
「そうだ! もちろんそうだ、ヤドカリだ。何で俺は今の今まで思いつかなかったんだろう。サンキュー廻《めぐり》女史。ヤドカリは古井戸の中に投げすてられたんだ。それを見て、二人は何もかも思いだすんだよ」
「それ、ミュージカルストーリーの話ね?」
「どういう意味?」
「現実にもヤドカリのゆくえを探しているんでしょう?」
「うん。現実にも、ヤドカリはどこかの井戸に、子供たちが投げ捨てた可能性が高いね」
「島中の井戸という井戸を探してみる?」
「必要とあればね」
「じゃ、明日、手始めに、アジ神社の古井戸を探ってみましょうか」
「やけに熱心だね」
「さっきから妙な感じがしているのよ」
なんとも変なセンセーショナルな感覚なのだ。
「天野誠って名前、例によって思いつきでつけたのかもしれないけど、マコトって、ミカドと音が似ているわよね」
「そう意識してつけたのさ」
「でも、その天野誠っていう架空のミュージカル作家ってのは、まるきりあんたの分身としか言いようがないわね」
「そりゃね。作家ってのは意識的にしろ無意識的にしろ自分のことを書きたがる動物だからさ」
「でも、天野誠と星良雅也は、まるきり同一人物としか、私には思えないわ。ということは、私が何を言おうとしているか、わかるわね?」
「いや」
星良は不思議そうに、じっと年上の美しいエージェントを眺めた。彼女には、いつも思うのだが、どこか激しく彼の気持をかき乱すところがあった。
「わからないの? 私が言おうとしていることはね、あなた、つまり星良雅也こそが、ミカドの生まれ変わりなのよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。あんたは、ミュージカルの筋書きと混同してるよ」
びっくりして星良は思わずそう叫んだ。
「いいえ、ちっとも混同していないわ。じゃどうして、あなたは、ヤドカリのことを知ってたの? どうしてアジ神社の前身の小さな神社のことを知ってたの? それに時々、あなたは妙な言いまちがえや、言葉を口走ったわ。あなたは自分の作ったミュージカルに近すぎて、本当に自分が見えていないのよ。でもこのところ二日間、あなたの書いたものを読み、今日一日あなたの傍にいて、私は絶対に確信したのよ。あなたこそ、ミカドの生まれ変わりよ」
「そんなバカなことがあるかい。三作目の天の川追放のストーリーは俺の空想の産物さ。それに、口語りにきみに語って聞かせた為朝伝説も、俺の口から出まかせ」
「でも長老の話と気味悪いくらい一致したわ」
「単なる偶然の一致さ」
「だって、たった今あなたは、偶然なんてことはない、すべては必然であり宿命なんだって、自分の口で言ったばかりじゃないの」
「うん、言ったけどさ」
と星良は頭を掻《か》いた。自分でもどこか混乱しているような表情だった。
「第一、空想にしろ、口から出まかせにしろ、そのストーリーがどこから来ると思うの? ここよ」
と陽子はコメカミのあたりを人さし指でキリキリと突いてみせた。
「ここに記憶としてあるのよ。太古の記憶が。何かの拍子で蘇《よみがえ》ったのよ。だからあなたは、第三の伝説を書いたのよ」
「それだけはありえないよ」
と、星良は急に血を吐くような声で言った。その調子がいつもの冷静な彼とはあまりにも違うので、陽子はぎょっとして青ざめたほどだった。
「俺《おれ》には、あんたの言う意味では第三の伝説など書けるわけがないんだ。なぜなら、俺はその頃のことを何も憶えていない。記憶というものを天つ国の川原に置いて来てしまったからだ」
自分のことばにはっとして星良は凍りついた。
「今、何て言った? 俺はって言わなかった? 俺は記憶を天の川原に置いて来た、とそうあなたははっきり言ったのよ」
沈黙が流れた。
「俺も自分の耳で俺がそう言うのを聞いたよ」
星良は打ちのめされた人のように、力尽きてそう呟《つぶや》いた。
「でもあなた、ほんとうは、この話を私があなたにしたときから、時々、今みたいに、何かを発信していたのよ。もっと早く気づくべきだったんだけど。あなたはまず、このミュージカルの仕事が自分に来ることを知っていたわ。それから、ほら、覚えている? ヨロン島という名前がわかる前に、あなた島の形をエンジェル・フィッシュみたいと言い当てたじゃないの。それにユンヌという昔の言葉でこの島のことを呼んだわ。その他にも、一、二度ミカドと言うべきところで、あなた、俺って言いまちがえた。その都度、私は妙な気がしたものよ」
「しかし、俺は今の今まで、ほんとうに何も意識していなかった。もしも自分でミカドの生まれ変わりだ、なんて妙な話を最初から信じていたら、このミュージカルのストーリーはこんなふうには出来なかったかもしれない。もっとも、今だって、自分で自分をミカドの生まれ変わりだなんて、これっぽっちも信じちゃいないがね。しかし、あんたが言うように、妙な符合については認めるよ」
夜がいっそうふけていった。過ぎていく時間が二人の肉体に、見えない刻印を刻んでいるような気がした。
「とすると、メサイも、現実に生きてどこかにいるんでしょうね? 一体どんな娘なのかしら。でもどうやってメサイの生まれ変わりを現実に探し出せる? 唯一の証拠のヤドカリを彼女はもう手放して持っていないんでしょう?」
「娘とは限らないさ。もしかしたら、あんたかもしれないじゃないか」
「私?」
陽子は一瞬眼を見張ったが次の瞬間笑いだした。「私がメサイの生まれ変わりであるわけがないじゃありませんか。十歳も年上なのよ」
「どんなふうに生まれ直してくるかなんてことは、誰れもきめられないんだ。俺は人間でなく犬に生まれてくるかもしれない。そして、運命の結びつきで彼女の愛犬として飼われるかもしれない。それはそれで幸福な再会と言わなければならないんだよ」
「愛犬と少女ならまだいいけど、ゲジゲジや海蛇に生まれ変わったらどうなるのよ?」
祖母と晶世との会話を思い出しながら、陽子は顔をしかめた。
「ゲジゲジより、あんたの方がよっぽどいいよ」
「ひどいわ」
「冗談だよ。実はね、時々あんたに対して、なんとも言えない気持を抱くことがあった。とても温かい、芯《しん》の安らぐ感情なんだ。あんたといるととてもリラックスする」
「あなたマザコンなんじゃないの? 私はあなたの母親じゃないんですからね」
それだけ言うと、陽子は大きく伸びをして、テラスの椅子《いす》から腰を上げた。
「そろそろ中に入って、ニックを待たない? 露が降りて来て躰《からだ》に悪いわ。それに私、すごくお腹《なか》が空《す》いちゃったわ」
それをしおに二人は、ホテル内のレストランに移るために歩きだした。
「いずれにしろ、私はあなたのメサイじゃないわ。第一、ぜんぜんドキドキしないもの」
「なぜ彼と逢《あ》うとドキドキしなければいけないかっていう記憶を、失っているのかもしれないぜ」
「いいえ。愛はすべてよ。愛は永遠よ。愛の記憶だけは必ず残るわ」
「わかったよ。あんたはメサイの生まれ変わりじゃないと。それでいいかい?」
「ええ、いいわ」
二人は陽気に笑いながらレストランの中へ入っていった。
アイランド
翌朝、星良雅也《せいらまさや》は雨の音で眼を覚ました。都市では想像もつかないような、滝のようなどしゃ降りの雨である。
彼は咄嗟《とつさ》に少年の頃読んだサマセット・モームの短編の中の雨のシーンを思い浮かべた。どこかの密林の中に降る雨の話だった。確かカビが生えるほど降り続く狂気じみた雨の話。
星良は窓ガラスに額を押しつけるようにして、ホテルの中庭の様子を眺めた。まるで窓ガラスの向こうに、もうひとつ、すりガラスの窓があるみたいだった。雨の半透明の灰色の部厚いカーテンを透かして、熱帯樹木をきれいに配したホテルの庭と、その背後の砂浜と、こんな天気なのにもかかわらず明るいトルコ・ブルーをしている珊瑚礁《さんごしよう》の海とが見えていた。
トルコ・ブルーは、珊瑚礁の終わるあたりで太陽のコロナのように見える白い波にふちどられている。その後ろには太平洋のうねりがある。太平洋の色は天気のせいで濃い灰色。
こんな雨が降り続いたら、この美しい島は砂糖菓子みたいに、海に溶けだしてしまうのではないか、と星良は一瞬そんな錯覚を覚えた。
長い間、忘れていた自然が、そこにはあるのだった。ジャングル状の熱帯樹林と豪雨。椰子《やし》の葉が、まるで天におじぎをしているかのように、上下に大きく揺れ動いている。
樹木の葉も、芝の緑も、ぬれぬれに輝き、鮮やかな色彩を放っている。
その時ベッドサイドの電話が鳴った。出るとニックだった。
「天気予報によると雨は一日中降るそうだ」
といきなり彼が言った。「女なしでホテルルームに閉じこもるのは愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》だから、俺《おれ》はフロリダへ飛ぶよ」
「別にそうしたいというのを引き止めはしないけどさ、ニック。こういう天候のときは観念して読書|三昧《ざんまい》にふければいいんだよ」
「俺が読みたいような本など一冊もないんでね」
「じゃ、自分が読みたくなるような本を、きみが書けばいいじゃないか」
「それにはまだ体験が不足なんだ」
「それ以上、何を体験すれば気がすむっていうんだい。月旅行も二度行ってるし、ユニ衛星都市での宇宙生活も、どこかのボーイスカウトと一緒に経験ずみなんだろう? 地球上できみが出かけていないところは、もうほとんどないんじゃないか?」
「おまえさんには、俺の高尚な悩みが、これっぽっちもわかっちゃいないんだよ」
「わかっているさ、ニック。きみは確かに冒険のうえではヘミングウェイをとっくにしのいでいるよ。問題はだな、それを小説のうえで立証できるかどうかだよ。そろそろ書いてみないか。まごまごしていると、一つもまともな作品を書かないうちに、死んじまうぞ。それでもいいのか?」
「俺たち二人とも、絶望の作家なんだ」
「誰れのこと?」
「アーネスト・ヘミングウェイさ。彼はすべてを書き切ってしまったゆえの虚脱から自殺した。俺は作品を生まずにいることの苦しさで、半分死にかけているが。世紀の便秘なんだ、俺のは。もう三十年も、たまりにたまって喉《のど》まできている。絶望的な糞《ふん》づまり状態さ」
「出しゃいいじゃないか」
「カッチンカッチンで出るものか」
「勝手にしろよ」
ついに星良は受話器に向かって怒鳴《どな》りつけた。
「あぁ、勝手にするさ。あばよ、兄弟。俺は昼にはもうフロリダだ。金髪のグラマーを眺めながら、ピナコラーダでもすすっているからな」
「わかったよ。金髪によろしくな」
「一緒に行かないか、マサヤ?」
ニックが少し口調を変えた。
「俺はまだこの島に用事が残っているんだ、ニック。それに金髪の大女は趣味に合わないんでね、遠慮するよ」
ニックの電話を切ると、星良は廻陽子《めぐりようこ》の部屋を呼び出した。
「俺だ、星良。よく眠れた?」
「ぐっすり。こんなによく眠れたのは、もう何十年ぶりっていう感じ。寝ざめもとてもすがすがしいわ。この雨も素敵じゃない?」
と陽子はたいへんなご機嫌なのだった。
「ニックはフロリダに逃げだすってさ」
「え? どうして?」
「雨が嫌いなのさ。世間のほとんどの人間と同様」
「でも天気の良い場所ばかりに移り住んでいたら、人間ってあきないのかしら。雨が降るからこそ、晴れると心が浮き立つのよ。それが自然の摂理なのよ。私、この島の雨、すごく好きよ」
「そう聞いて安心したよ。じゃ雨のドライヴとしゃれようか?」
「いいわね。でもその前に、朝ご飯をたっぷりいただきたいわ。お腹《なか》にずっしりとくるものがいいわ」
「つきあうよ」
星良は二十分後にホテルのブレックファスト・ルームで彼女と落ち合う約束をして、電話を切った。これまで、つきあいは長いが、こんなに感じの良い廻陽子の応対は初めてだった。
二十分後、ガラス張りの植物園のようなブレックファスト・ルームへ行くと、陽子はすでに先に来ていて、ハイビスカスの花を浮かせたフルーツジュースを口に運んでいた。
「何だか少し若返ったみたいだな」
と彼女の前に座りながら星良が言った。
「事実自分でもそんな気がしてるのよ」
「俺のせいで?」
「自惚《うぬぼ》れないの。違うわよ。水のせいよ。長老の言う通りだわ。この島の水は最高よ。顔を洗った? だったらわかるでしょう? しっとりして、あとでクリームも化粧水も必要ないくらいなのよ。私、ゆうべと今朝と二回お風呂《ふろ》を使ったのよ」
そう言って、陽子は惚《ほ》れぼれと自分の腕を眺め、それをそっと撫《な》でた。
「私、ほんとにこの島が気に入ったわ。ねぇ、どこかに別荘建てられないかしら? 小さくていいの。誰れかに訊《き》いてみてくれないかな?」
「あんたもせっかちだねえ。一日や二日いただけで」
星良が苦笑した。
「それで充分よ。こう見えたって私、いろいろな場所に旅行しているんですからね。こんなに気に入った土地は他にはなかったわ。この島に着いて、空気を吸いこんだとたん、ぴんと来たもの。この島には何か私をひどくひきつけるものがあるって……」
「それを聞いて、俺もなんだかうれしいよ」
「当然でしょう、ミカド様。ここはもともと、あなたの島なんだから」
「ミカド様は止めてくれないか。昨夜は俺たちどうかしてたんだよ。あんな話を大真面目《おおまじめ》にして。たしかにストーリーは自分で言うのもおかしいが、面白いよ。だけど、それがこの島の歴史的事実とところどころ一致するからって、ミカドの生まれ変わりと断定するのは滑稽《こつけい》だよ。第一、この俺がそんなふうに思っていないんだからさ。それにミカドは伝説上の人物なんだぜ」
「昨夜は信じかけていたくせに」
陽子は疑わしそうに、星良を下の方から見上げた。
「とにかく、ストーリーの大筋はきまった。八ケ岳に帰ったら、さっそくレジメを書くよ。それから『羽衣のアリア』だけでも詞と曲をつけて提出しようと思うんだ。その方がインパクトが大きいからね」
「ミュージカル『アイランド』のテーマ曲ね?」
「うんそうだ」
「作曲は誰れに頼むの?」
「もち、ジョニー・チャイコフスキー」
「あの天才的色魔のチビっ子のこと?」
「だったら形容詞の位置が違うよ。天才的は色魔の後にくる」
「いずれにしろまだきいきい声の子供じゃないの」
「しかし天才だぜ」
「三十近い年の奥さんがいるなんて、考えただけでも気持悪いわ」
「二十七歳だよ、正確には」
「似たようなものじゃないの。なぜ肩をもつのよ?」
「俺が肩を持っているのは、ジョニーなんだ。とにかく彼の年だとか、二十七の奥さんとか、そういうことはいっさい忘れて、音楽だけで判断してもらいたい。彼なら、すばらしい交響詩を書くよ」
「そんなもの必要ないわよ。芸術作品であることはないの。私たちはミュージカルを作るんだから。誰れにもわかりやすい、ヒット曲をふんだんに盛ったミュージカルよ」
「だったらなおのことジョニー・チャイコフスキーを俺は推薦する。はっきり言う、俺のミュージカル・レジメが採用されたら、俺は、ジョニー以外の作曲家と組んで仕事はしない。いいね?」
陽子はわかったというように、両手をホールドアップの形に広げた。
食卓には南国のフルーツの数々が山と盛られていた。そのひとつマンゴスチンを手に取って、彼女は器用にその固い皮を圧縮して割れ目を作り、次にそれを二つに分けた。中から真っ白い果肉が現れた。それは、ほどよい酸味と甘味のコントラストがパーフェクトな、世にも美味な果物だった。
陽子は一切れ切り取ると、星良の口の中に押しこんでやった。
「ね? こんな美味《おい》しいフルーツが毎日食べられるのよ。私、来月からでもこっちでオフデイを過ごすことにきめたわよ」
「わかったよ。ドライヴの途中で適当な出ものがあるかどうか、当たってみましょ」
星良はマンゴスチンを呑《の》みこみながら、そう答えた。
「今日は何をするの?」
「シナリオハンティング。特にヤドカリが投げこまれたことにする井戸を探しだす」
「ことにするって、どういう意味? ヤドカリは投げこまれたんでしょう? いつからあなたそんなに消極的になっちゃったの?」
陽子は失望したように星良を眺めた。
「別に現実にそういう井戸が見つからなくてもかまわないんだ。そういうことにして、ミュージカルを作ればいいんだから」
「でもその井戸が見つからないことには、あなたのメサイには、永久に逢《あ》えないわよ」
「もしも、俺が誰れかに出逢う運命にあるとしたら、それはなるべくしてそのようになっていくのであって、あんたのお節介のおかげじゃないんだ。これだけははっきり言っとくよ」
その言葉は、善良で人の良い陽子の心を傷つけるのに充分だった。
「わかったわ」と彼女は急に冷ややかに言った。「もうお節介は決して焼きませんから、安心していいわよ」
「喧嘩《けんか》するつもりはないんだ。仲良くやろうよ」星良は少し後悔し、おずおずと言った。
「私はずっとそのつもりでやってきたつもりよ」
陽子は、香りの良いコーヒーを注ぎながら、まだ少しそっけなくそう言った。
朝食が終わると、二人は、二人乗りのオープンのミニ・リニアカーに乗って、それを雨よけのカプセルですっぽりと覆った。するとたちどころに、その便利な小型の乗り物は、居心地の良い空間となって、雨の中を快適に走った。
彼らは午前中を地図に記入してある島の古井戸めぐりに費やした。井戸は全部で六つあった。
現在使用しているものはもちろんなくて、そのうち五つは単にかろうじて井戸の跡をとどめている程度のものであった。それらは、自然に土砂で埋まっていて、ほとんど消滅したも同然のありさまなのだ。
なんとか古井戸の様子を残しているのは、アジ神社の井戸だけだった。二人は期待をこめて、上の板を外して中を覗《のぞ》きこんだが、湿った土の匂《にお》いがするだけである。念のために小石を落としたが、水の音は返って来なかった。
「残念ね」
と陽子は失望したように呟《つぶや》いた。
「たいして深くはなさそうだな」
と星良は言って、もう一度奥を覗きこみ、スポットライトで中をくまなく照らしだした。七メートルばかり下に、土砂があり、こけ状のものが生えているだけだ。
「ヤドカリはいないみたいね」
「でも、外観的には、映画に使えるかな」
「映画に使うにしては、あんまりロマンティックな古井戸じゃないわ。お岩さんが身を投げる古井戸に使うならともかく、ミュージカルのラヴシーンには合わないわ。もっと南国らしく陽気に花が咲いている中に、セットを組んだ方がいいと思うけど」
「ロミオとジュリエットみたいにかい?」
「そうよ、悪い?」
ランチは赤崎海岸にある海中レストランに予約してあったので、二人はそっちへ向かった。星良は何事か考えているようで、言葉少なかった。
「どうしたの?」
と陽子が訊《き》いた。「何か気になることでも?」
「いや、別に。ただね、地図にない井戸が、まだどこかにあるんじゃないかという気がしただけさ」
「あなたがそう感じるのなら、きっとあるわよ。私は信じるわ」
「ありがとう」
しんみりと星良は呟いた。雨の勢いはいっこうにおとろえをみせず、相変わらずのザアザア降りだった。
それでなくとも暗いジャングルの中は、うっそうとしていちだんと暗かった。あちこちで熱帯植物の巨大な葉が、雨に打たれてペコペコおじぎをしていた。
「こんな話をするのには、いささかロマンティックな情景じゃないけど」
と、陽子が喋《しやべ》りだした。
「昨夜、私、あなたが私の部屋に来るかと思っていたのよ。これ自惚《うぬぼ》れかしら?」
「いや」
と言って、星良はどこか痛そうな表情をした。「俺も、あんたの部屋のドアを、何度もノックしに行こうかと思ったんだ」
海底レストランの看板が、椰子《やし》の根元に見えたので、その方に右折しながら、星良が言った。
「でも来なかった……」
「うん」
星良は、陽子がいつのまにか眼鏡を外しており、髪も首の後で結んでしまう代わりに、ふんわりと肩にかかっているのに、昨夕頃から気がついていたのだ。
「多分、昨夜が私たちにとっては最初にして最後のチャンスだったと思うわ」
何の感情も混じえない淡々とした声だった。
「俺もそう思ったよ」
星良は思わず片手を伸ばして、陽子の膝《ひざ》の上の手を握った。それは乾いて温かい手だった。
彼は長いこと、右手でハンドルを操作しながら、陽子の手を固く握りしめていた。彼はそこに謝罪と後悔と愛情と友情のすべてをこめたつもりだった。
「もう少しで過ちを犯すところだった」
星良は海底レストランの駐車場にミニ・リニアカーを駐車させながら呟《つぶや》いた。
「過ち?」
陽子が少し哀《かな》しそうに訊きとがめた。
「あんたのラヴァーになることによって、俺たちの友情をひきかえてしまうところだったという意味だよ」
「そういう意味ならわかるわ」
駐車場を、レストランのアプローチに向かって並んで歩きだしながら、陽子はうなずいた。
「で、あなたは友情の方を選んだわけね?」
「両方ってわけにはいかないのさ。男と女の間はね。どっちかを選べば、どちらか一方を放棄することになる」
「で、あなたは、賢明な選択をしたってわけなのね」
「なんだか奥歯に物のはさまったような言い方で、気になるね」
カマボコ型の透明な強化プラスティックのドームの外はすでに海底で、色とりどりの熱帯魚が泳いでいるのが、手にとるように見えた。海草が風にそよぐ樹木のように柔らかく揺れると、何万匹という小魚の魚影が、さっと現れては、またどこへともなく消えて行く。
「気にしないでちょうだい」
陽子はさっさと先に立って、プラスティック大ドームのレストランの中に入りながら、言った。
「そんな言い方をされたら、余計気になるじゃないか。一体何なの? 何か言いたいことがあるんだろう?」
後から陽子の腕をぐいと引き止めて、星良が問いただした。
「過ちを犯すって言ったわね。私と寝るのは過ちだって。だからそうしないって。じゃ訊くけど、『ヘミングウェイ・クラブ』のジェントルマンのトイレでセックスした人妻のことはどうなの? それから先週あなたがニューヨークでひっかけたミュージカル女優の卵のことはどうなの? それからその他の何十人ていうあなたを通り過ぎていった女たちのことはどうなの? 過ちじゃないっていうの?」
「いいや、全然。過ちじゃないね。あんなのはテニスのゲームと同じなんだ。時に違う相手と試合をする。それだけのことさ」
「じゃ過ちって、どういう意味なの? なぜ私だけが例外なの?」
二人は、レストラン内の人々の好奇の視線を浴びながら、立ったまま睨《にら》みあっていた。
「きみは、もっともっと大事なんだよ。わからないのかい。一夜の情事の相手で切り捨ててしまえるような女じゃないんだ」
「そりゃそうでしょうよ。なんて言ったって、私はあなたのミュージック・エージェントなんですからね」
陽子は意地悪く言った。
「そんなことじゃない」
「じゃなんなの? ぼうや」
「ぼうやなんて俺を呼ばないでくれ」
「でもぼうやはぼうやよ。年から言えば、あなたは私の息子のようなものよ。私よりうちの娘にふさわしいくらいよ」
「いいか、二度とぼうやなんて俺を呼んだら、それまでだ。もう二度ときみとは仕事はしないし、友情も何もかも終わりだ」
「わかったわ」
急に肩の力を落として、陽子が謝った。「もう二度と言わないわ」
「じゃ仲直りだ」
と星良はあっさりと右手を出して握手を求めた。
やがて奥まったコーナーに二人は通され、メニューを広げた。
「熱帯魚にジロジロ眺められながら、魚を食う気にはならんね」
と星良は苦笑して、チキンサラダとクラブサンドイッチを頼んだ。陽子は七面鳥のコールドミート。
「ここの海底レストランは、世界で一番見通しがきくそうだよ。なにしろこの島には川が一本もないだろう? だから海水が汚染されないんだ。多分、透明度でも世界一だと思うよ」
地上のスコールのような雨が、まるで嘘《うそ》みたいに平和で陽気な色とりどりの世界だった。じっと眺めていると、なんだか自分たちの方が魚から眺められているような気分がしてくる。眺めるつもりが魚に眺められる結果になるとは、皮肉であった。
たった今の言い争いが、悲しく陽子の胸を引き裂いていた。あんなことを自分の方から言い出さなければよかったのだと、彼女は心から後悔していた。と同時に自分の星良雅也に対する思いが想像以上に強いことに、彼女は打ちのめされたような気持だった。彼はなかなか素敵な青年だが、陽子の恋愛の対象にはなり得るわけもなかった。だが、なぜ? 世間には、十歳年上の女と結婚したり同棲《どうせい》したり、あるいはオフデイ・マリッジを楽しんだり、恋愛したりしている男はゴマンといる。
「さっきは感情的になっていて、うまく言えなかったけど」
と、チキンサラダをフォークで突っつきながら、星良が口ごもった。「俺の気持をもう少し正直に説明するとね。もしもあんたがこの先、ピンチに陥ったり、病気になったり、とにかく助けがいるとき、最初に駆けつけるのが俺だってこと。たとえ世界のどんな僻地《へきち》にいようと、月だろうと火星だろうと冥王星《めいおうせい》だろうとさ。もしもあんたが病気で、新鮮で丈夫な肝臓を是が非でも必要とすれば、俺は喜んで肝臓でも心臓でも胃袋でも、きみに提供するよ」
星良の言葉には、若々しい情熱と心情とが溢《あふ》れていた。陽子は眼頭《めがしら》が熱くなるのを感じた。
「ありがとう。もうそれ以上何も言わないで。私、泣けてくるから。でもね、腎臓はことによったらひとついただくかもしれないけど、あとは遠慮するわ。あなたから心臓をもらって生きのびても、あなたの方が死んじゃったら私には何の歓《よろこ》びもないもの」
そう言って、彼女はそっと眼のふちを指先で拭《ぬぐ》った。こんなに温かく愛情に溢れた思いにひたるのは、もうずいぶん長いことなかったような気がする。眼頭がうるんでくるような愛情を身内に覚えることは、娘の晶世が生まれて、初めて自分の腕に抱いて以来のことではないだろうか。
陽子は娘のことを思いだすと、現実感を取り戻した。
「そうだわ。一度娘の声を聞いてもらえないかしら? 親バカかもしれないけど、あの子には一種独特の才能があると思うのよ」
「もちろん喜んで。あんたがそういうんなら、事実才能があると俺は信じるよ。ソプラノ?」
「そこなのよ。問題は。あの子、音域がすごく広くて、低い方は限度があるんだけど、高音の方は無限に出せるのよ」
「無限にというのはおおげさだよ」
「と思うでしょう? でもあの子がドレミファを歌ってどんどん高くなっていって、あるところから私たち人間の耳には聞こえなくなるんだけど、犬にはちゃんと聞こえているのよ。耳をピンと張って緊張するの」
「へぇ、そいつは不思議だね」
「それにあの子の声ときたら、まるで天使みたいで――。もうやめるわ。親バカの見本みたいだから。とにかく近々、聞いてみてちょうだい。夏休みの間はずっといるはずだから」
「オーケイ、わかった。あっちへ帰ったら連絡するよ」
食後のコーヒーを口へ運びながら星良は言った。「あんたの娘、あんたくらい魅力的?」
その質問で、再び陽子は気分を害し、ぴしゃりと星良の手を打って言った。
「あなたって人は、愛の言葉を囁《ささや》きながら、相手の心臓にナイフを突き立てるタイプの男ね」
レストランの帰り道で、リアルエステイトのしゃれたサインを出している建物があったので、二人はそこに立ち寄ることにした。陽子がどうしてもこの島のどこかに別荘を欲しいと言い張ったからだ。彼女は東京湾の埋立て地にそびえ立った超高級マンションの自宅の他に、ハワイのマウイにコンドミニアムのセカンドハウスを持っていたが、娘の晶世が成長してミラノに留学する頃から、ほとんど使わなくなっていた。家族のそれぞれがオフデイの独自の計画を持つようになって、のんびりとマウイの休日を楽しんでいる暇がなくなったからである。陽子はマウイの方を手放して、その代わりにこの島に小さなセカンドハウスを建てるための土地だけでも、探しておきたいと思ったのだ。
陽子が大ざっぱな希望を述べると、若いリアルエステイトマンは、壁に張ってある大きな地図の前に二人を引っぱって行った。
「実に運がいいですね、先週一件だけ出物がありましてね。あなたのおっしゃる条件にぴったりなんですよ」
と彼は気持のよい笑顔を見せて、地図の東の一点を指で押さえた。
「この島は高級リゾート地として開発しつくしましたからね、この五年来、買いたいという人は多くても、売りが一件もなかったんです」
若い男は何度も運が良いということを言葉の端々にはさみこんだ。
「いずれにしろ、すぐに見てみたいわ、どんな所だか。話はそれからよ」
「それではミニ・ヘリでご案内しましょう。ほんのひとっ飛びです」
リアルエステイトの名前が機体に大きく描かれたスーパーヘリコプターの小型機に乗せられて、陽子と星良は島の東海岸へと飛んだ。ものの一分も飛ばないうちに、ミニ・ヘリは広々とした芝生の上に垂直着陸した。雨はまだ降り続いていたが、西の低空に雲の切れめがあった。夕方前にはやみそうな気配だった。
彼女はリアルエステイトの男が差しかけてくれる傘の下からあたりを見まわした。青々と繁る芝の先は砂浜になっていて、珊瑚礁《さんごしよう》の海に続いていた。建物は、おそろしく古典的な沖縄ガワラの八角形の屋根で、長年の風雨のせいで、かなり傷んでいるように見えた。三人は家の方へ進んだ。
建物のぐるりには、石のタイルが敷きつめてあって、雨戸を開ければ家と外とが渾然と一体になるようなデザインである。古き良きコロニアル風の様式もわずかに取り入れてあった。
「このガラクタは取りこわして、今流行の強化コンクリートとガラスの建物に作り直したら最高ですよ」
男はそう言って雨戸を開き始めた。
「どうして建て直す必要があるの?」
と陽子は逆に訊き返した。「このままでペンキを塗り直せば、充分に使えそうじゃないの」
「ご冗談でしょう」
とリアルエステイトマンは苦笑した。「屋根にはアモルファス太陽電池を取り入れてないし、自動クリーニングシステムも、物流パイプラインも引いていません。なにしろ前のオーナーが変人なものですから」
ごくシンプルな室内をざっと見まわして、陽子が質問した。
「どんな人なの?」
「女の作家ですよ」
キッチンを見ても、グルメパック社との契約もしていないらしく、超近代的システムとは無縁である。この時代にまだこんなキッチンで料理を作っている人がいたのか、と陽子は微笑を禁じ得ない。
「ずいぶん不便だったろうにね」
星良も室内を見まわして顔をしかめた。
「なにしろあなた、取れたての魚や野菜以外口にしないような人でね、冷凍ものもパック料理も敬遠していたそうですよ」
「でも人間、やろうと思えば、こういう場所でも暮らせるのよ。むしろ人間的に暮らせるんじゃないかしら」
陽子にはこの島を愛し、おそらくこの建物に強く愛着していたであろう女流作家の気持がわかるような気がした。愛着がなければこんな不便な家など、とっくに作り直しているはずである。古くはあるがよく磨きぬかれた木の床。スペイン風の壁。四方八方が見渡せる丸味のある窓。この家のほとんどの窓からは、それぞれ趣の異なる海が見えるのだ。
「それでこの持ち主は、どういう理由でここを売る気になったのかしら?」
まだ彼女の温もりが感じられるような、食堂の椅子《いす》に腰を下ろして、陽子が訊いた。
「何でも、カナダの方の島に引退するとかいうことでしたね」
と、リアルエステイトの男は答えた。「確かカナダへ行く前に、ご主人のヨットで世界一周の旅に出るとか、そんな記事を新聞で読みましたけど」
「へぇ。そのひと、今幾つなの?」
「六十をいくつか出てるでしょうね」
「それにしても、勇気があるわね」
「というより好奇心があるんだよ」
と星良が横から言った。「いくつになっても好奇心が旺盛《おうせい》な人間というのが、いるもんだよ。あんたなんかもそのうちの一人じゃないか」
そう星良に言われて、陽子はそうかもしれないと思った。たった今決意したのだが、この古い建物をこのまま使おうと思った。アモルファス太陽電池も取りつけるのはやめよう。テレビ電話もなし。立体テレビもなし。ここにある古いステレオセットで、カセット音楽があれば充分だ。そして、電子レンジにポンと入れればたちまちパリのレストランと同じものが出来るパック料理ではなく、眼の前の海から釣り上げた魚を庭のバーベキューストーブで焼くのだ。
東京の彼女のペントハウスに敷きつめてある植物カーペットなんてここではいらない。木肌や石の自然の感触を直接足の裏に感じるのだ。
南側に菜園らしきものがあって、果実もたわわに実っている。陽子はなんだか急にすべての細胞が生き生きと活気づくのを感じた。ここは、私の逃避所だわ、とそんなふうに心の中で呟いたのである。
それから彼女は、もとオーナーの女流作家が、そこの部屋で何冊も何冊も恋愛小説を書いたという書斎兼用のベッドルームも覗《のぞ》いてみた。彼女が使用していた机は南西の方向に面する窓に寄せられており、そこからの眺めは息を呑《の》むほど美しかった。雨に煙る水平線は、ほとんど円を描いて左右に伸びていた。小さなプライベートビーチを抱くように湾曲に広がる珊瑚礁《さんごしよう》。浜へ降りていく石段とデッキ。手前の手入れのいきとどいた前庭。飛び石。
こんなに美しい場所を去るのに、どんな悲しい思いをしたのだろうか。
陽子は一目でその土地も家も風景も気に入り、ただちに契約をしたい旨、リアルエステイトマンに伝えた。
奥の方のゲストルームを覗いていた星良がそこから出て来ると、片目をつぶって言った。
「俺《おれ》の寝る場所をきめたよ」
彼は、ヨットのキャビンを模してデザインしてあるゲストルームに陽子の背中を押しやった。「ミュージカル映画の撮影隊が便利なホテルで右往左往しているときに、俺はこの不便なゲストルームの窓から、星でも眺めるさ」
陽子はチラッと星良の横顔を見たが、何も言わなかった。
家と土地をゆっくりと見てまわった後、再びミニ・ヘリで事務所に戻り、仮契約をし、手付け金としてカードで売り値の百分の一の金額を払い、陽子はサインした。そしてホテルへ戻ると、そのままチェックアウトし、帰りは水中ジェット潜水船ではなく、星良と共に垂直離着陸スーパージェットで羽田に戻った。ヨロンの空港からわずか十五分の飛行時間である。そのようにして、星良雅也と廻陽子《めぐりようこ》のオフデイ旅行は終わった。星良はミュージカル『アイランド』のストーリーの大筋が出来上がったことに満足し、陽子もひょんなことから手に入ることになった女流作家の別荘の件で、大いに幸福だった。そして何よりも、二人はお互いの友情を確認しあえたことを喜んでいた。その意味だけでも旅行は成功であった。
翌月曜日、星良は正業の証券アナリストの仕事が始まる大分前にウェイクアップ・システムをセットして気持よく目覚めた。午前五時半。ちょうど東の山並みに朝日が顔を出す時間である。
そしてコンピューターやファックスやテレビ電話がいっせいに鳴りだして、一日の正業の始まる九時まで、たっぷり三時間をミュージカル『アイランド』のレジメの下書きにあてた。
その朝の三時間で、全体の三分の一にあたるレジメの下書きが書けたので、八時半に一段落つけると、それを手に朝食をとるために食堂へ行った。
執事のデヴィッドが溜息《ためいき》をつきつき用意したコンティネンタル・ブレックファストで簡単に朝食をとりながら、彼はたった今書いたものを読み返した。悪くない。それどころか、一刻も早く続きを書きたい気持だった。
しかし証券アナリストの仕事をおろそかにしたり、たとえ一時的にでも人まかせにするわけにはいかなかった。なんといったって、生活の基礎を支えるのは、十四人の契約者たちのために、株の売買を代行することによって得る手数料および契約料なのだ。
ミュージカルの仕事なんて、そうたびたびあるわけじゃない。作詞でなんとか食べられそうになったのは、わずかこの一、二年のことである。大ヒットとはいわないが、まあまあのヒット曲が出始めたのも、ジョニー・チャイコフスキーと組み始めた、ほんの六か月前からだ。音楽の仕事一筋にしぼるにはまだその時期ではなかった。いずれオンデイとオフデイの仕事が逆転して、音楽関係の方が正業となる可能性は大きいが、かといって証券アナリストの仕事はそれなりに魅力があった。いつか、証券取引場を舞台にしたコミカルなミュージカルを書きたいと思っているくらいである。それに、彼が契約している十四人の女性たちの生きざまや人間模様も、物書きの見地から見るとたいそう興味深いのだ。
レジメの続きは、アフターファイブに回すことにして、星良は一通り読み直して、二、三か所加筆や訂正の赤い文字を加えてから、コーヒーのおかわりをするために、デヴィッドを見た。
「君がそうやって溜息《ためいき》をついていた週末の間に、こっちはずいぶん収穫があったんだぞ。そろそろ心を入れかえて、君も人生を楽しんだ方がいいと思うよ。ところで、コーヒーのおかわりをもう一杯頼みたいんだがね」
デヴィッドは、染みひとつない、折り目のピチッとついたストライプのズボンの膝《ひざ》あたりに眼を落としたまま、星良のカップに香りの良いコーヒーを注いだ。
「そうそう、今週の土曜日にね、ご婦人二人を夕食に招待しているんだ。大事なお客だからね、きみにも張り切ってもらいたい」
ご婦人と言ったとたん、デヴィッドの青い瞳《ひとみ》に失望の色が浮かんだ。それを見て星良は、このところずいぶん様子が回復していたのに、これでまた元の木阿弥《もくあみ》か、とちょっと暗澹《あんたん》とした気分になった。家事ロボットにこんなにまで気を遣わなくてはならない自分の不運を呪《のろ》った。おそらくデヴィッドはどこかの回線がひとつ多いか、何かの突然変異で生まれたロボットの異種なのか、そのどちらかだ。
ところが人にむかって「うちのロボットはちょっと変わっていてね」などと口に出して言おうものなら、たちまちにして、またか、というような顔をされるのがオチなのだ。ちょうど、生まれたばかりの子供の写真を持ち歩いて、何かというとそれを見せ自慢めいた話をしたがる新米の父親のように、自分のうちのロボットが、いかにロボット放れしているかということを、一度や二度語ってみせない人間など、まずいないのである。
人が三人集まれば、まず天気の話かロボット自慢が始まる。
「うちの奴《やつ》はさ、俺《おれ》の言うことを誰れよりもよく聞くんだよ」とか、
「ロボットほど忠実な生きものは他にないね。世界中が敵に回ったって、僕のところのロボットだけは、僕を裏切らないと思うんだ」とか、
「こっちが思いをかけてやればそれだけなつくんだ。とてもただのロボットだなんて思えないよ。うちじゃれっきとした人間扱いをしている」とか、
「信じないかもしれないけど、うちの奴はさ、笑うんだぜ。ロボットにユーモアが通じるなんて、うちのロボットくらいのものだよな」
とか、そのうちに尻尾《しつぽ》をふったり、主人の顔をベロベロとなめだすんじゃないかと思うほどの親バカというかロボットバカぶりなのだ。
そういう手合いに日頃悩まされている星良としては、口が裂けてもデヴィッドのことを喋《しやべ》るわけにはいかない。それにしても、うちのロボットの奴が躁鬱《そううつ》症にかかるほどデリケートな作りだと言ったら、友だちはどんな顔をするだろうな、と、星良とて口がムズムズしてくる。デヴィッドほどロボット放れしたロボットが、この世に存在するとは思えないからだ。
九時一分前に、彼は、家の頭脳部とも言うべき、仕事部屋の機械の前に陣取った。九時きっかりにテレビ電話をオンにし、証券取引場を呼び出し、通信回線につないだ。画面一杯に取引場の活気に満ちた朝の風景が映り、星良は表情を引きしめた。
「世界ウォーターシステム」の株がまた二円六十銭上がっている。例のミラクルウォーターを開発研究している会社だ。このところ、じりじりと昇り坂を示している。この分だとまだ当分上昇を続けるだろう。
星良は十四人のクライアントの全員に、千株ずつ買い足すことにして、その代わりに自動翻訳機器メーカーの株を放出した。このところ製品が出まわりすぎて、市場における値崩れの兆候が見え始めているのだ。
大きな売りと買いは今日はそれくらいのものだろう。あとはテレビをつけっ放しにして、様子を見て、面白い変化が見えたら手を打てばよい。
その間星良は、十四人のクライアントに送りつける今日の報告書の作製にとりかかった。
十二時。取引所が一時間昼休みで閉鎖する間、彼は画面をテレビニュース番組に切りかえておいて、ジョニー・チャイコフスキーに国際電話を入れた。
「やあジョニー。元気かい?」
「マサヤ」
ジョニーは憂鬱そうに言った。「気分はひどく悪いよ」
たしかに顔色が冴《さ》えない。
「風邪《かぜ》でもひいた、それともミセスに逃げられた?」
冗談であてずっぽを言い、笑わせてやろうと、星良は軽くからかうようにテレビ電話に言った。
「あたり。どうしてわかるの?」
早熟少年には珍しく、心細げに星良をみつめた。
「どっちがあたりなんだい?」
「後の方。ミセスが弁護士を立てて離婚訴訟に出たんだ。マサヤ、どうしたらいいと思う?」
「だってきみたち、正式には結婚していないんだろう?」
「だけど公の席では夫婦として顔を出したし、少なくとも内縁の妻としての権利は主張できるみたいなんだ」
「原因は?」
「性的虐待と、性格の不一致」
「一体きみはミセスに何をしたんだい?」
星良はあきれて訊いた。ジョニー・チャイコフスキーのまだあどけなさの残る顔が歪《ゆが》んだ。
「それが何も。二週間何にもしなかったら、それがワイフからすると性的な虐待なんだって。ボクにはあんまりよくわかんないけど」
「いいんだ、あんまりわからなくとも。そのうち年をとればきみにもわかるようになるよ」
「しかもそんなわけのわからない汚名を着せられたうえに、慰謝料を支払えと言うんだ。いくらだと思う?」
美少年は半分泣き面で言った。
「いくらなんだい?」
できるだけ優しく、星良は訊いてやった。
「百万ドル!」
「へえ」
「百万ドルだよ。いくらなんだってそんなお金、あるわけないじゃない」
「今はね。しかし、そのうちきみは金の卵を生む億万長者になることを、ミセスはちゃんと察してるんだよ」
「分割払いでいいっていうけどさ、すごく利子を要求するんだよ。五年で倍だよ。だからボク、ほんとうに本気で稼がなくちゃならないんだ」
「気の毒に」
と星良は心から言った。「しかし、君も世間的にはかなり並みはずれたことをやってきたわけだからな。それだけツケは大きいのさ」
「でもボク、何にも悪いことしていないよ。エロイーズを愛しただけなのに。今だってまだとても愛しているのに、彼女はボクを捨ててどっかに姿をくらましてしまったんだ。ボクには百万ドルの請求書と愛の思い出だけが残った……」
ジョニーはそう言って、大つぶの涙を流し始めた。
「その愛の思い出を身にしみて憶えておけよ。そして二度と同じ過ちを犯さないように」
と星良は忠告した。
「過ちってどういう意味、マサヤ? 人を愛することがどうして過ちなんだい?」
「相手をまちがったってことさ。エロイーズはきみにはふさわしくはなかったかもしれないよ。きっとどこかに、きみのために生まれて来た女の子がいるはずだよ」
「その子はいつ現れるのさ。そしてどうしたらその女の子がボクのために生まれて来た子だってわかる?」
「そいつは出逢《であ》ったときに、両方でわかるのさ」
「でも、エロイーズがそうだと思ったけど……」
ジョニーはすすり泣きながら言った。
「でももし彼女がそうなら、弁護士をたてて、きみを訴えたり、百万ドルきみからふんだくるわけがないだろう?」
「あっそうか」
眼からウロコでも落ちたように、ジョニー・チャイコフスキーの顔が晴れた。「じゃ、ボクも彼女に百万ドルなんて、断じて払ってやらないぞ」
「それにはきみも弁護士を立てて法廷で闘う必要があるな。それくらいの金はどうにかなるだろう? もしもなんだったら、俺が立てかえてやってもいいぜ」
「ありがとう、マサヤ。でもなんとか自分で工面するよ。それよりテレビ電話の要件は何? 仕事のこと? だったらボク何でもやるよ。とにかく、お金稼がなくちゃ」
「実はね、ジョニー。こいつはちょっとでっかい仕事になりそうなんだ」
星良がそう言うと相手も緊張した。
「『アイランド』というミュージカルの話がきたんだがね。プレゼンテーションの段階なんだよ。でね、俺としては、自信があるんだ。そこできみに『羽衣のアリア』に曲をつけてもらえないかと思って――。ただし、あくまでもプレゼンだから、通らなければ、きみも俺もパーだ。一文にもならない。しかしプレゼンに通って、この脚本と作曲を俺のエージェントが取れば、話のもっていき方次第では、きみは元ミセスに慰謝料の全額が払えるよ。もしも映画の興行成績が良ければ、その上に印税が入るからね」
「乗った」
頭の回転が早いのがジョニーの良いところだ。
「その話に乗るよ。さっそくプレゼンテーション用のそのアリアの詞を送ってもらえる?」
さっきまでの泣き虫少年の面影は嘘《うそ》のように消え、きりっとした別人のような表情でジョニー・チャイコフスキーは言った。
「今週の土曜日の午前中に送るよ」
星良はスケジュールを思い浮かべながら言った。
「そんなに時間がかかるの?」
「慎重にやりたいんだ」
星良は、オンデイの仕事である証券アナリストのことは、ジョニーに伏せてある。ジョニーのような天才少年には二股《ふたまた》をかけるなんて、理解の外にあることだからだった。
「わかった。それじゃ詞を待ってるよ。それからマサヤ、いろいろ忠告してくれてありがとう。バイ」
そしてニューヨークとの国際テレビ電話が切れ、スクリーンから美少年ジョニー・チャイコフスキーの姿が消えた。
次に星良は、「ヘミングウェイ・クラブ」へFAXを打って夕食の予約を向こう一週間全部キャンセルしたい旨、連絡をした。あのクラブは男性専用クラブで、もちろん婦人同伴は許されるが、女はほんの添えもののようなもので、クラブはほとんど男性のための設備で充実している。
とりわけ、専用バーと、独身者用《バチエラー》レストランは、完全に女性の入室を禁止している。女性はだめだが犬は許されている。
その独身者用レストランのメニューが、星良をはじめ多くの独身男を引きつけて離さない。
たとえばこんな具合だ。「アイダホ風マッシュポテトに、カントリーチキンのバーベキュー。田舎《いなか》風パンプキン・パイ添え」あるいは「テキサス風ビーフステーキに揚げじゃがの熱々。照り焼きソースつき。デザートは野イチゴのシャンテリー」またあるいは「和風焼きとりディナー。ミソスープ添え。本場のタクワンつき。デザートは虎屋《とらや》のようかん」
挙げていくときりがないが、要するに独身者の胃袋と口と郷愁に強く訴えてくるようなメニューなのだ。
もちろんグルメに言わせれば、ひどい代物の一言で片づけられてしまう。洗練度においても、想像力、創作性においても、五ツ星レストランにはとうていかなうはずはない。
だが、グルメレストランで毎日夕食が食えるかといったら、三日続けられたら勲章ものだ。胃袋をやられるか人間フォアグラでダウンするかのどっちかである。
だから世の若い娘が、パリへ料理の勉強に行き、一週間フルコースでコルドンブルーの免状を取ってくるのはナンセンスなのである。
男は、絶対にコルドンブルーの料理では陥落しない。もしも、男に独身生活と別れさせたかったら、一週間、男装して「ヘミングウェイ・クラブ」の独身者用《バチエラー》レストランへ通ってみることだ。そうすれば、何が男にとって必要なのかがわかるだろう。
もっとも、そんなことを女どもが知ってしまうと、せっかくの独身生活が危機に陥るから、バチェラーレストランは、厳格に女人禁制なのである。たとえロボットでも、女のロボットは入れない。それくらい厳しいのである。
「ヘミングウェイ・クラブ」のレストランの予約を向こう一週間キャンセルしてしまうと、星良はデリバリー・キッチン社に連絡して、一週間分の独身者用メニューを作製してFAXで送るように頼んだ。とりわけ土曜の夜はディナーにお客が来るので、合計三人分のグルメメニューを念入りに作るよう依頼した。
十分後に、FAXが入り、メニュー案が打ち出された。イタリアン、和風、フレンチ、チャイニーズ、アメリカン、タイ風とバラエティに富んでおり、それぞれに前菜からメイン、デザートまで詳しく書きこんである。星良はタイ風のスープ・トムヤンクーをキャンセルして、代わりに野菜だけのシンプルなものに変えるよう指示した。トムヤンクーの辛さは、彼の胃には合わないのだ。
土曜日のメニューはローマの有名レストランに擬したもので、フランス料理のように凝ってはいないが、かなり洗練されている。アンティパストの中のしこいわしのトマト煮というのをキャンセルして、ナスの冷製に変え、デザートのごてごてしたパイをやめて、ただのメロンに変更。あとはオーケイのサインをして、返送。これで向こう一週間の彼の食生活は充実することになった。
一日中八ケ岳の仕事部屋に二十四時間体制で閉じこもってカンヅメ状の仕事をするときは、唯一の楽しみは食事なのである。
それだけのことをしてしまうと、星良はキッチンを覗《のぞ》き、ありあわせの材料でサンドイッチを作った。スモークサーモンとクリームチーズを、キャラウェイシード入りのパンではさむユダヤ風サンドイッチ。これには甘めのレモンティーが合う。そっちの方は執事のデヴィッドにまかせて、彼はサンドイッチの皿を手に、仕事部屋に戻った。一時に再開した証券取引は、三時にはその日の取引を全部終了して放送が中止になる。
午後の取引では、イギリスのスタッグ社の株価に興味深い変化が見られたが、今日のところは冷静に見守ることにして買いに出なかった。スタッグ社の扱う鹿肉は美味なうえに、カロリーが比較的低いので、女性の間で人気が上昇しつつある。
三時から五時の間に、十四人のクライアントに株式報告をFAXし、ようやく星良は一日の正業に終止符を打った。
頭の中から株や数字を追い出すために、彼は居間のスーパーハイファイ装置で、ヴィヴァルディの弦楽合奏をしばらく流した。デヴィッドにジントニックを頼もうとあたりを見まわしたが、どこへ姿をくらましたか見当たらない。あのロボットはバロック音楽が嫌いなのだ。モーツァルト、バッハ、コレルリなどがかかると消えて居なくなる。
六時にデリバリー・キッチン社から材料と料理人が到着。星良が味つけの項目の「家庭的な味」に〇印をつけたせいもあるのか、五十代の女性がキリッとしたエプロン姿で、キッチンに立った。
「パーティーでもないのに、デリバリー・キッチンに料理を頼むなんて、贅沢《ぜいたく》ですねぇ」
と、忙しく働きながら、デリバリー社の嘱託料理人がキッチンから星良に話しかけてきた。
「もちろん、普段はそんな贅沢は、いくらなんだってしませんよ」
と星良は女料理人の背中に向かって答えた。「今週はね、ちょっと緊張する仕事にかかっていてね、外出するわけにはいかないんだ。かといって、パック料理ばっかりじゃ、創作なんて出来ないからね」
「あなた、ガールフレンドいないの?」
野菜を千切りにして、盛大に炒《いた》めながら、料理人が訊《き》いた。今夜はハナから中華料理である。やがて牡蠣《かき》油のこげるいい匂《にお》いがキッチンの方からたちこめてきた。
「手料理のできるガールフレンドはいないね。あいにくみんなすご腕のワーキング・ウーマンでさ、むしろ手料理のできるボーイフレンドか亭主が欲しいくらいの女たちなんだよ」
それを聞くと、料理人は嘆いて言った。
「女の幸福っていうのはねえ、あなた、愛する男のために一心不乱で料理を作り、歓《よろこ》んでもらう。ここにあるんですよ。こんな楽しみを投げだしちまうなんて、あたしにはよくわからないわね」
「俺《おれ》も同感だよ」
六時半きっかりに、星良の食卓には中華風の惣菜《そうざい》が四品並んだ。シンプルな青野菜の一皿。完全栄養食品として再度の注目をあびているモヤシと牛肉の細切りが一皿。アワビとナマコとしいたけの一皿。えびの卵入りの豆腐のステーキ風。
「あとはいいよ。うちの執事のロボットが給仕と後片づけと皿洗いをしとくから」
星良はそう言って、料理人を帰すと、食事を始めた。さすがデリバリー社だけあって、なかなかの料理人を差し向けてくれたものである。味は一級。材料も悪くない。彼はゆっくりと食事をすすめた。
夕食の後少し休んで午前一時半まで、レジメのちょうど半分までを書き上げた。寝る前に身心をリラックスさせる必要を感じたので、彼はボディー・クリーナーの代わりにフローティングバスに高比重液体の湯を張って、緊張した裸体を横たえた。水面に躰《からだ》が浮かび、理想的なリラックス状態が得られるのだ。一時間半から二時間、そうやってフロートしていることが望ましく、そのために天井《てんじよう》にスクリーンが取りつけてあり、ビデオ映画が見えるように作ってある。だが星良はこの夜はフローティングのみ三十分で切り上げると、ベッドへもぐりこんだ。
翌日も似たような状態で過ぎていった。
三日目の九時には、六十ページに及ぶミュージカル『アイランド』のレジメの下書きが出来上がった。その夜、彼はそれを念入りに再度|推敲《すいこう》し、コピーを三部ずつ取って簡単に製本した。
木曜日の朝八時に、廻《めぐり》陽子の自宅に連絡を入れ、出勤直前の彼女をつかまえた。
「今からあんたのオフィスにレジメの原稿を送る。出社したら一番で眼を通してくれないか」
陽子は、一瞬ぽかんとして、画面の中から星良をみつめた。
「驚いたわね。わずか三日ばかりのうちに、あなた面変《おもが》わりしちゃったみたいよ」
「無精ヒゲのせいだよ。ヒゲそっている時間も惜しくてね。その他は結構いい具合に進んでいる」
「ちゃんと食べるもの食べてるの」
「それどころか、毎夕デリバリー・キッチン社から来てもらっている。食生活はかなり優雅だよ。俺痩《や》せたかね?」
「というより、しまった感じよ。デリバリー・キッチン社の請求書は、うちに回してちょうだい。プレゼンテーション用の経費で落とすから」
「いや、それはいいよ。俺のごく個人的なわがままでやっている贅沢だからな。それに自分の懐を痛めないと、いい仕事ってのは出来ないんだ」
「あなたらしい発想ね。とにかくこれから出社して、レジメを読むわ。すごく楽しみ」
「その感想は十二時過ぎに頼むよ」
「オーケイ。正業の時間に割りこまないようにするわ」
「じゃ、その時」
と電話を切りかけて星良は言った。「おっと待った。今週の土曜の夜、忘れないで。ディナーに招待したろう?」
「あらいけない。娘に言うの忘れていたわ」
陽子は口に手を当てて眉《まゆ》をしかめた。「今すぐ伝えるわ。じゃね。電話をありがとう」
バイタリティに溢《あふ》れた陽子の画像が消え、スクリーンがブランクになった。
陽子は出勤前の慌ただしい気持のまま、晶世の部屋のドアをノックした。てっきり眠っているものと思ったのだが、すでに起きていて机に向かっている。
「何してるの?」
と陽子は娘の背中にいきなり訊いた。
「手紙書いているの」
晶世は机に向かったまま答えた。「何かご用?」
「用があるから来たのよ」
「そうよね。ママは用でもないかぎり娘の部屋なんて覗《のぞ》きに来るわけないわよね」
陽子は娘のその言い方にかっとしたが、今朝は口論をしている時間がなかった。
「今度の土曜の夜、あけといてちょうだい。夕食に招《よ》ばれているのよ」
陽子は部屋の中をざっと見渡した。きちんと整頓《せいとん》されていて、ベッドもプロのメイドが直したみたいに作ってあった。まるでそこで眠って起きたという何の痕跡も残っていない。
娘のきれい好きは、陽子の遺伝ではない。整理整頓にかけての陽子の能力たるやひどいものだった。メイドのシャーリーがコマネズミみたいに一日中家の中を駆けまわって片づけてくれなければ、あっというまに、家の中はゴミ箱と化すだろう。
「夕食って、どこに?」
「ママのエージェントと契約している作詞家の八ケ岳の家でよ。星良雅也《せいらまさや》って人」
「あぁ、ママの若い恋人ね」
さもわかったような言い方をしたので、陽子は足を踏み鳴らした。
「勝手にそんなこときめつけないでよ」
「でもそうなんでしょ。そうやってすぐムキになるところを見ると。あたし、ご遠慮するわ。恋人同士のディナーに同席するなんてヤボな真似したくないもの」
「あんた、それで気をきかせているつもりなの?」
あきれ返って陽子はわめいた。「恋人だったらね、私の方でお断り。あんたに来てちょうだいなんて言うわけがないでしょ。あなたのためを思って、一度逢《あ》ってやって下さいと、星良雅也にママの方から頼んだの」
「でも何のため?」
澄んだ黒い瞳《ひとみ》がまっすぐに陽子をみつめた。この眼にみつめられると、いつも少しだけ陽子はうろたえるのだ。まるで自分が裏返しにされるような気がするからだった。
「何のためって、彼は優秀な人だし、音楽の世界にもコネクションがあるし、今度のミュージカルがうまくいけば――」
陽子に最後まで言わせずに、晶世が言った。
「いいの、ママ。あたし別にママに売りこんでもらわなくてもいいの」
「売りこむだなんて。あなたって少しくらい社交的にできないの?」
なぜいつも娘との会話がこう食い違ってしまうのかと、陽子は歯ぎしりする思いだった。
「ママの顔を立ててあげたいけど、今度の土曜日の夜はどうしてもだめ。札幌《さつぽろ》でサマーコンサートがあって、ガーシュインの曲を歌うことになっているの」
「ついこないだもサマーコンサートがあったばかりじゃないの」
「それは軽井沢でしょ。今度は札幌。来週も、さ来週も毎土曜日はどこかでコンサートが入っているわ」
「お忙しいことね」
「あたし、歌えればうれしいのよ。それだけでいいの。おねがいだから、ママの社交生活にあたしを引きこまないで」
「わかりましたよ」
陽子は悲しくなって、娘に背中を向けた。
「ママ……」
と晶世の声が彼女を引きとめた。「でもいつか、ママと二人で食事をしたいわ。よその誰れかが一緒じゃないときに」
娘の声には、どこかすがりつくような心情が滲《にじ》んでいたが、陽子は娘から傷つけられたような思いで自己|憐憫《れんびん》のとりこになっていたので、
「ええ、よござんすとも。あなたがサマーコンサートのない夜にでも、ご一緒いたしましょ」
と、まるで捨て科白《ぜりふ》のように言い置いて、娘の部屋から出て行った。
母が去ると、晶世はベッドに身を投げ出してすすり泣いた。自分がなぜ素直になれないのかと自問し、母も母で、勝手にディナーの約束を交わす前に、どうして娘の週末の予定をたしかめず、何でも独断でことをすすめるのか、といぶかった。彼女は昔からそうだった。こちらの気持などいっさいおかまいなしに、一方的に喋《しやべ》り、何かをきめ、晶世はそれに無防備に従ってきた。もうそういうのには、うんざりだった。いいかげんに、一人の女性としてみてほしかった。
けれども顔を合わせると、口論になりお互い傷つけあうばかり。晶世は思いきり泣いてしまうと身を起こして顔を洗った。鏡を見ると、瞼《まぶた》も鼻も赤く醜くふくらんでいる。
ドアにノックの音がして、シャーリーが顔を覗《のぞ》かせた。手にしたコードレスのテレビ電話をベッドの上に置くと、ウインクをして出て行った。
晶世はテレビ回線は入れずに、電話の方だけ取った。
「どなた?」
「青野竜介《あおのりゆうすけ》」
「なんだ、青野くんなの」
彼は、高校のときの二年先輩で、現在は音楽関係の雑誌社で編集をしていた。彼とは、コーラス部で一緒だったのだ。気を使う相手ではないのでテレビのスイッチを入れた。
「夏休みで帰っているって聞いたものだからさ」
それから、泣きふくれた晶世の顔に気がついて、
「どうしたの? 何かあったの?」
と声をひそめた。
「ママと一戦やりあったのよ」
「きみたち、まだそんなことしてるのかい」
「だってママったらぜんぜん成長しないんですもの」
「しかし、きみの方は成長したんだろう?」
「あたしもだめみたい。自信失っちゃった。一緒に暮らすからいけないのよ。出ようかしら、この家」
「出るって、どこへ?」
「そんなのまだ考えていないわよ。どうせ夏休みの間だけだもの、YWCAでも、ホテルでもどこでもいいわ」
YWCAは五年前頃から、各都市に超近代的な宿泊設備をもつ団体に急成長した。女性の一人旅が世界的に急増したからだ。一方、YMCAの方はやや衰退ぎみである。
青野竜介はちょっと考えてから言った。
「よかったら、僕のマンションに居候してもかまわないぜ」
「あなたの?」
「うん。妹が同居してるんだけど、彼女、大学の夏休みで島に帰省してるんだ。だから妹の部屋でいいんなら、八月いっぱい空いているよ。幸いうちにはピアノもあるしさ」
「島ってどこの島?」
「ヨロン島だよ。僕あそこの出身なんだ。知らなかった?」
「その島のことなら、いろいろ知っているけど……」
と晶世は呟《つぶや》いた。「つい先週ママがその島に行って来て、すごく気に入っちゃってね、別荘つきの土地を買っちゃったのよ」
「ほんと! それにしてもきみのお袋さん、どうしてあの島に行く気になったんだろう」
「ミュージカルの舞台に使うかもしれないんだって。そのロケハンみたいなものよ」
「ミュージカルだって? もしかしてその話に星良雅也って作詞家が組んでない?」
「ええ、そうよ。今日は彼の名前、これで二度も聞いたわ」
「先週インタビューしたばかりなんだよ。へぇ、奇遇だねえ、きみのママが一枚かんでるなんて」
「ねえ、星良雅也ってどんなひとなの?」
ふと真顔になって晶世が質問した。
「僕なんかから見ると、優雅なる独身主義者で、うらやましいような生活だよ。音に対するセンスが抜群で、目下音楽畑では一番注目されている若手の作家じゃないかな」
「そうなの」
晶世は肩をすくめた。「ハンサムなの?」
「いい男だよ。いわゆるマッチョマンではなくてさ、現代的優雅さのもっともいい典型だね」
「どうりで、ママが熱を上げるはずだわ」
晶世は冷たく呟いた。
「あなたの妹さんの部屋、夏休みの間借りようかな」
「うん、いいよ」
「ただし、変なこと考えないでよね。あたしたち、ただ同居するだけよ」
「わかってるって」
「あらそう?」
「きみに色気なんて感じてないよ。僕は昔から、ぽっちゃりしたタイプが好きなんだから」
「ぽっちゃりしてなくて悪かったわね」
「それで、いつから来るの?」
「今日からでもいい?」
「そいつはまた急だな。でもいいよ。メイドサーヴィスに電話して、妹の部屋のガラクタを片づけさせとくよ」
「ありがと」
竜介との電話を切ると、晶世は身のまわりのものと楽譜をスーツケースの中に突っこんでおいて、無線のカプセルタクシーを呼んだ。
廻陽子《めぐりようこ》は、ミュージック・エージェンシーのオフィスで、星良雅也から送られて来たミュージカル『アイランド』のレジメに、ていねいに眼を通した。
彼女はそれを二度最初から読み直し、きちんと机の上に載せて眼を閉じた。すぐに星良に電話を入れて、すばらしい作品になるだろうと言ってやりたかったが、興奮していて上手《うま》く言えそうにもなかった。それに星良からも十二時過ぎに電話をくれと言われている。いけるだろうという確信が彼女の中でつのった。ブリティッシュ・シネマのプロデューサーは、きっと星良のシナリオのレジメが気に入るに違いない。
陽子はエスプレッソ・マシーンから、香りの良いイタリアンローストを、デミタスではなくモーニングカップに、たっぷりと注いできた。ネスカフェ社が開発した瞬間エスプレッソ・マシーンで、「ネスプレッソU」という傑作なネーミングの小型のコーヒーマシーンだ。たいていのオフィスでそなえつけられ、最近は家庭用ネスプレッソも出まわり始めている。
コーヒーを飲みながら、今日一日のスケジュールに眼を通し、陽子は秘書のマイク内田を呼び入れた。マイクは日米の |混 血《ミツクス・ブラツド》 だが、イタリアとロシアの血も混じっている。五か国語に堪能《たんのう》なことと、音楽的プロデュースの才能があるので、陽子の片腕である。
「マイク、このレジメに眼を通し次第、あなたの感想を聞かせて。それからグァムのスタジオの録音には、私の代わりにあなたが立ち合ってちょうだい。いずれにしろコンピューター・ミュージックの連中の音楽は、私には理解の外なのよ」
「あれは広大な宇宙を表現する音楽なんですよ」
星良から届いたミュージック・レジメを受け取りながら、マイク内田が気持のよいバリトンで答えた。「グァムの録音は何時です?」
「一時から。三時には終わる予定よ」
「じゃ、四時には戻れますね? コマーシャルのオーディションがひとつあるんです」
マイクが下がると、陽子は机の上に山のようにたまっている作詞家たちの詞に眼を通し始めた。この中からいくつヒットが出るのか。彼女は詞の雰囲気にあう作曲家たちの作風をあれこれと思い浮かべた。アシスタントに、昼までテレビ電話をつながないよう伝えて仕事に熱中した。
気がつくと十二時半である。慌てて星良に連絡をとるために、〇一七の短縮ボタンを押した。ぱっと彼の日焼けした顔がスクリーンに映し出された。
「連絡が遅いんで、悪い予感がしていたんだ」
ほんとうに心配そうに星良が言った。彼がこんなに自信のなさそうな姿をみせたのは、初めてだ。
「それどころか、すばらしいわ」
「ほんとうにそう思う?」
「ええ。読んですぐ電話をしようと思ったくらい。ちょっと待って、ここにマイクの感想があるの」
と陽子は机の上のメモ用紙を取り上げて読み始めた。
「@ミカド→為朝→天野誠という輪廻《りんね》が作りごととは思えない。A今、ヨーロッパやアメリカでは輪廻転生《てんしよう》に関する本のブームだから、このテーマは当たると思う。Bそれから、ボクはこのレジメから、メサイの役に――」とそこまで読んで、陽子は眉《まゆ》をひそめた。「メサイの役に、廻晶世を連想しました。なぜかな?――マイクったら、公私混同してるわ」
陽子はメモ用紙を軽く放り投げながら言った。
「廻晶世は、あんたの娘だね? ますます土曜の夜が楽しみだな」
星良がスクリーンの中から期待をこめて言った。
「それが、だめなのよ。あの子、土曜日の夜は札幌でコンサートがあるんだって」
「へえ、それはとても残念だな」
星良は失望したように言った。「じゃまた、彼女のためには別の機会を作るさ。でもあんたは来てくれよ。グルメ・サーヴィスに予約しちゃってあるんだから」
「でも、あなたと二人だけ?」
と陽子はチラッと星良の顔に視線を走らせた。
「デヴィッドがいるよ」
「誰れよ、それ?」
「すごいハンサムなイギリス人だよ。あんた好みかもしれないな」
「ほんと! 楽しみだわ。それじゃ、さっそく、このレジメをうちの方で英訳して、ブリティッシュ・シネマに送るわ」
「ちょっと待って。前にも言った通り、『羽衣のアリア』だけでも、試作を添えたいんだ」
「そこまでプレゼンテーションでやる必要があるかしら?」
陽子は迷ったように髪を掻《か》き上げた。
「ないかもしれない。ただ俺《おれ》としては、ぜひともやってみたいんだ」
「それが上がるのは何時《いつ》?」
「俺の詞が金曜の午前中には上がる予定だから、土曜の朝にはニューヨークのジョニー・チャイコフスキーのところへ送れる。あいつはやる気満々だから、仕事を始めれば早いよ」
「始めればね」
遊び盛りの十一歳を、どうやってピアノの前に引っぱっていくかが問題なのだ。「で、ジョニーの出来上がり予定は?」
「最低一週間はみてやらないと。それでブリティッシュ・シネマの締切りに間にあう?」
「五日にして。ジョニーが五日でアリアを仕上げれば、レジメと一緒に送るわ。間にあわなければ、レジメだけ送る。いいわね」
「オーケイ、それでいいよ」
テレビ電話を切る前に、星良が言った。「じゃ、いいオフデイをね」
「ありがと。でも仕事なのよ。ロンドンのソーホーで、うちのタレントがリサイタルを三日間やることになっていて、私はそのつきそい。あなたの方はどうするの?」
「俺はだからさ、どこかでカンヅメになって『羽衣のアリア』の作詞に没頭するよ」
ふと陽子の表情が動いた。
「だったら、私のヨロンの買ったばかりの別荘を使わない?」
「そいつはありがたいな。願ってもないよ。『羽衣のアリア』の作詞をするにはもってこいの場所だ」
星良が眼を輝かせた。
「プレゼンテーションが通ったら、脚本もそこで書けばいいわ」
「うん。しかし、それは通ってからの話にしよう」
星良はそう言って機嫌よくテレビ電話の画面から消えた。
陽子は、星良の『アイランド』のレジメを、翻訳マシーンにかける代わりに、「ワールド・トランスレイション・システム」に依頼することにした。翻訳マシーンは、契約書や手紙、企画書の類はパーフェクトなのだが、微妙な文学的ニュアンスになると、まだ問題があるのだ。
作詞にしてもそうである。特に外国向けの曲の英詩やフランス語の詩は韻をふまなければいけないので、単純な機械による直訳では、ほとんど絶望的である。
「|ワールド《W》・|トランスレイション《T》・|システム《S》」に所属するプロの翻訳家は世界中にちらばっており、文学と作詞と企画物に分かれ、それぞれに三ランクの等級がある。たとえば文学部門の第一級翻訳士というのは、一流文学者たちの作品にたずさわる。
陽子は、星良のレジメをWTSの企画関係の第一級翻訳士に依頼し、イギリス人であることと、特に指定した。ブリティッシュ・シネマのプレゼンテーションであるから、アメリカ英語は避けたほうが賢明であると考えたのだ。
イギリスの企画物第一級翻訳士のギャランティーは一ページにつき一〇〇ポンド。かなりの高額であるがこの際やむをえない。大至急で一週間以内締切りの申し入れをすると、ギャランティーは更に一割増し。相互の条件が折り合ったところで、WTS側から原稿をセンターにいったん送るように指示があり、陽子は星良のレジメをFAXで送信した。あとは一週間、待つだけである。
少し遅めのアフタヌーンティーを飲んで一服していると、グァムのレコーディングから、マイク内田が戻って来た。やや興奮気味である。どうしても、短時間内に距離を移動して仕事をすると、精神が異常に高揚しやすいのである。人間の躰《からだ》がまだ一九〇〇年代のスピード感覚から抜け出していないのが、原因とされている。何しろ、成田とグァム間の飛行時間は、わずか三十五分である。
「グァム中が今、コンピューターロックで割れそうな騒ぎですよ」
と彼は、陽子のクッキーに手を伸ばしながら言った。
「レコーディングは上手《うま》くいったの?」
「まあまあですね。一週間見ていて下さい。コンピューターロックは世界中で流行《はや》りだしますよ」
陽子は立って行って、マイクのために熱いミルクティーを入れてやった。
「それはそうと、あなたが今朝メモして行った星良雅也の『アイランド』の感想のことだけど」
とふと思いついて陽子が言った。
「メサイ役に私の娘を連想したとあったけど、あなた、あの子とほんの一、二度しか顔を合わせていないじゃないの」
「そうですよ」
とマイクはケロリとして言った。「だから、無責任な連想ですよ。メサイとマサヨは似ていると思いませんか?」
「別に思わないわ」
「マサヨというのを、ちょっと英語式に発音するとメサヨとなる、あるいはマサイヤ。メサイもマサイヤも、なんとなくメサイアすなわち救世主を連想させる名前です。それから廻《めぐり》という名字《みようじ》は、輪廻《りんね》の廻です。生まれ変わったメサイすなわち廻晶世。一種のこじつけですよ」
陽子は何かを言おうとしてやめた。彼女の中で、何かがあわ立ち騒いでいた。湖の底からゆっくりとあぶくが上がってくる感じに似ていた。あぶくはなかなか表面に達しない。もどかしかった。
ジョニー・チャイコフスキーは、ニューヨークの国連ビルに近い彼のコンドミニアムで、コンピューター・オーケストラの音の調整にとりつかれていた。
星良雅也から今朝送られて来たミュージカル『アイランド』の大筋を読み、アリア「羽衣」の詞を読んだ後、この美しい物語の背景に流れるオーケストラの音は、優しい川のせせらぎのようでなければならない、と咄嗟《とつさ》に思ったのだ。
それから彼は、伝説の部分の、オーケストラの音全部に弱音器をかけることを思いついた。
それによって、遠い感じ、幻想的な感じが出せるし、現代と神話の時代が、音で区別できることにもなる。このアイディアは、星良のストーリーがプレゼンテーションを通ったら、彼に話してやろう。ジョニーは、自分のきらめく思いつきに大いに満足した。
まずは「羽衣のアリア」の音作りにとりかからねばならない。
ジョニーは、オーケストラの音の感じを、宇宙的柔らかさにするために、インプットしてある各楽器の演奏音をチェックしていった。最初は第一ヴァイオリンの音。これはヤッシャ・ハイフェッツを基音に、ベルリン・フィルとボストンとロンドン・フィルハーモニーオーケストラの各コンサートマスター三人のヴァイオリンの音の合成でできている。もっと細かくいうと、ヤッシャ・ハイフェッツが四、あと三人のコンサートマスターが二の割で第一ヴァイオリンの音が合成される。つい一か月前にジョニーが作曲した『超オーケストラのための黙示録』では、第一ヴァイオリンだけで百人。第二ヴァイオリン百人、ヴィオラ、チェロ、コントラバスで百人、木管が五十人、金管五十人という合計約四百人からなる超大なオーケストレイションであった。つまりそのときのオーケストラでは四十人のヤッシャ・ハイフェッツが第一ヴァイオリンで弾いていたということになる。これは、すごい迫力の音であった。
一度だけ、オーケストラの音を、各楽器とも一人の人間の音でコンピューター合成したことがあるが、あまりにも整いすぎて、巨大な単一音にしかならなかった。今のところ、ジョニーは、第一ヴァイオリンにだけ関していえば、四対二対二対二の音色に満足している。
だが星良雅也の「羽衣のアリア」では、全く別の音を作らねばならない。ジョニーは資料室へ行って、古今の女流演奏家のテープを探してみることにした。
彼は三時間を費やして、すべての弦楽器の音を、女流の奏者でそろえた。たとえば第一ヴァイオリンは、一九一九年生まれの薄命の天才と呼ばれたフランス人のジャネット・ヌボーの音を基調にした。ジョニーは、彼女の音色のもつ高雅な叙情が、「羽衣伝説」にぴったりだと思ったからだ。
そのようにして作り上げた『アイランド』のためのオーケストレイションに、ジョニーは、「弱音器」の指示をインプットした。そしてためしに、ドヴィッシーの交響詩を演奏させてみた。柔らかい叙情性に満ちた幻想シーンが、彷彿《ほうふつ》と彼の頭に浮かんだ。音色は完璧《かんぺき》だ。
そこまでの用意が整うと、彼は頭を休めるために、リビングルームへ行き、テレビをひねり、コミックブックを読み始めた。途中で立って行ってカセットを取ってくると、カントリーウエスタンのテープを入れて、イヤフォーンをセットした。
コミックの内容は、ほとんどが宇宙戦争物であった。テレビの画面が午後七時の宇宙ニュース・ネットワークに切り変わり、今日の世界ニュースを伝えていた。カントリーウエスタンも、庭に落ちたUFOの中から出て来た宇宙人の女とカウボーイの恋を歌っていた。
テレビの画面が何か強烈にきらめく宇宙の飛行物体を捉《とら》えて映像化している。ジョニーはカセットのイヤフォーンを外して、ニュースの音声に聞き耳をたてた。
「世界共同宇宙観測基地は、ついに本日未明、燃える小惑星1983TB=ファエトンの姿を、地上より捉えることに成功しました。今みなさんがご覧になっている中央の光り輝く太陽のようなものがそれです。
世界共同宇宙観測局の発表によりますと、この惑星は一九八三年十月に当時のNASAの観測ロケットにより発見された放浪惑星で、軌道コースの延長上に我が地球があります。
今日の観測により新たにわかった事実は、1983TB=ファエトンの直径は、これまで観測されたものよりははるかに大きく十一キロ。宇宙局の計算によりますと、この小惑星ファエトンと地球の超接近の時期は、当初の予想より早く、二〇一一年の七月の上旬になり、警戒が要求されます。それでは宇宙関係のニュースはこれで終わり、次に移ります」
ジョニーはじっと眉《まゆ》を寄せていたが、何を思ったか、宇宙船のプラモデルや、クマのぬいぐるみや、セキュリティー・ブランケットにまじって部屋の片すみに投げ出してあった計算器を拾ってくると、何やら夢中で計算を始めた。およそものの十分ほど、息もつかずに数字を叩《たた》きつづけ、時々それをメモに写し、また計算した。
「冗談じゃないや。何が警戒を要しますだ。地球最後の日じゃないか」
と愕然《がくぜん》として呟《つぶや》いた。何が超接近なものか。ファエトンは地球に激突するのだ。そしてその瞬間のショックは、ジョニーの単純な計算器でさえも、弾き出すことができるのだ。ファエトンの軌道要素と質量から計算すると、ICBMが千五百万発一度に爆発するのと同じ破壊力を持っているということなのである。
もちろん、テレビのニュースでそこまで詳細に発表するわけにはいかないことくらい、十一歳のジョニー・チャイコフスキーにだってわかる。世界中でパニックが起こるからだ。しかし、発表しようがしまいが、ジョニーのように想像力と好奇心の旺盛な人間が、少し精巧に出来ているコンピューター式電子計算器で弾き出せば、自らわかることである。
たった今のこの瞬間に、ボクのように怯《おび》えおののいている人間が、この地球上に一体何人くらいいるのだろうか、と彼は一瞬想像した。十人くらいか、あるいは百人か。一万人か。
そして彼らはどうするのだろう? パニックに陥って周囲の人々にふれまわるのだろうか。二〇一一年といえば、わずか八年後のことだ。ジョニーは自分がまだその時十九歳でしかないという事実に慄然《りつぜん》とした。薄命の天才少年ジョニー・チャイコフスキーの死の文字が頭に浮かんだが、すぐに苦笑した。だって、そんなテレビニュースを見る人間など、その時は一人もいないのである。
彼は、まるでそこに救いでもころがっているかのように、玩具《おもちや》で取りちらかった室内を眺めた。エロイーズが彼の生活の中から忽然《こつぜん》と消えてしまって以来、もう誰れ一人として口やかましく、部屋を片づけろとか、玩具を元のところにしまいなさいとか、ガミガミ言ってくれる者もいないのだ。彼はエロイーズのふんわりとした二つのクッションのような温かい乳房《ちぶさ》を思って、懐かしさのあまり少しだけ泣いた。あの二つの温かいクッションの間に頭を突っこんで眠った日々のことを考えた。あのエロイーズの乳房のおかげで、セキュリティー・ブランケットに永久の別れを告げたと思っていたのに、彼女が請求書をジョニーの鼻先につきつけたあげく足音を荒だてて、出て行ってしまうと、再びあの時代に逆戻り。セキュリティー・ブランケットを、こっそりベッドの下に押しこんでおいてよかった、とジョニー・チャイコフスキーは、泣きながらそう思った。
あのエロイーズも、八年後には、地球の爆発と同時に、チリとなり、宇宙にかえるのだ。あの巨大でたくましくも美しい肉体が、一瞬にして原始にかえることを思って、ジョニーは涙を新たにした。彼を裏切り捨てていったエロイーズをあれほど恨み、憎しみさえ感じたことが嘘《うそ》のようだった。残りの八年間を、彼女が幸福に生きられるのなら、百万ドルの慰謝料くらい喜んで払ってやろうと思った。そこで彼はさっそく自分の弁護士に電話をして、エロイーズ側と法廷で争うことはやめにし、相手の言い分を百パーセントきく用意があると申し入れるようにと命じた。
「一体なんでそんなバカなことを考えるんだい、ジョニー?」
と顧問弁護士がテレビ電話で眼を剥《む》いた。「こっちは法廷で徹底的に争って、むしろあっちから慰謝料をふんだくろうと計画を練っていたんだぜ」
「しかし、ミスター・ロウ。法廷の結着がつくまでどれくらいかかるんだい?」
とジョニーは冷静に訊《き》いた。
「そうだな。この種の争いは長びくのが普通だからな。最低七、八年。まあ十年もみればいいと思う」
すると、ジョニーは首を振って、
「そんなに待てないんだよ、ミスター・ロウ」
と視線をテレビの画面にあてながら、悲しそうに呟《つぶや》いた。テレビのニュースは続いていた。
「次に世界ウォーターシステム社の発表によりますと」
とアナウンサーが言っていた。「完全水あるいは極限の水ミラクルウォーターが万一作りだせるものであれば、その利用法は無限であることが、計算上立証されました。これによりますと、純度百パーセントのミラクルウォーターは、重力のない世界を実験的に作り出せるというものです。
しかし現在の段階では、まだほんのわずかのものしか作れません。これに必要な元素が地球上の岩盤にはほとんど含まれていないためです」
画面には、記者発表をする日本人の化学者の姿が映し出され、質問に答えている。
「ミラクルウォーターというのは、具体的にどのようなものなのですか?」
と、アメリカ人記者の質問。
「それは一言で言うと、生命活動をさまたげない世界が作れるということです。従って生命活動の老化を防ぐことができます。理論的には、植物や動物に永遠の命が可能になります」
「つまり、人間の老化をくいとめると?」
「いずれはそのようなことも可能になると思います」
「その奇跡の水を一口飲めば、人は死ななくなるんですか?」
会場が騒然とした。
「いや。一口飲むのではだめです。すべての我々の生活が、その水によって支えられ、うるおってからの話です」
「その奇跡の水は、現在どれくらい作られているのですか?」
「今は、まだわずかなものです。非常にわずかです」
と化学者は慎重に答えた。「現段階では、地球上には純度百パーセントのミラクルウォーターを作るのに必要な金属が非常に少ないのです。全くないわけではありませんが、とても少ない。現在私どもが作り出したわずか一リットルのミラクルウォーターを作るために、たとえばですが、オーストラリアの半分を掘り返さなければならないといった現状です」
「では、今現在そこにある一リットルの水のために、世界ウォーターシステム社はどこを掘り返したんですか?」
「それは言えません。実際にはオーストラリアの半分ほどの地面を掘って、資源を抽出するわけにもいきません。我々は、この特殊金属を一九八三年以来、二十年間にわたり、コツコツと集めてきたのです」
「二十年かかって、たった一リットルの奇跡の水ですか」
と誰れかが、からかうように言った。
「しかし、これが始まりです。この一リットルの水から、新しい地球の歴史が始まるのです。我々はこの水によって、まず重力の問題と取り組みたいと思っています。たとえば、毎日のように地球のどこかに落ちている小隕石《いんせき》のほとんどは無害ですが、時には大きな実害になるものもあります。こうした落下隕石の衝撃を緩和し、ゼロにすることにより、地球の被害を食い止めるだけではなく、落下隕石の燃焼を防ぐことができれば、大小の宇宙の物質をそっくりそのまま手に入れることができます。
たとえば、今我々の地球上にはない金属などが含まれる物質です。それは我が地球に計りしれないめぐみをもたらすでしょう」
日本人の化学者の顔がフェイドアウトされて、アナウンサーに変わった。
「もしも、この奇跡の水が本格的に大量生産になれば、我々の命と若さは、はたして永久に保証されるようになるのでしょうか。では今日のニュースはこれで終わります」
ジョニーは電話に飛びつくと、もう一度弁護士を呼び出した。
「さっきの話だけどね、ミスター・ロウ。やっぱり法廷での係争を続けてよ。考えが変わったんだ」
何か言い返そうとしている弁護士に有無を言わさずに、ジョニーはテレビ電話を切った。もしも今のミラクルウォーターなるものが大量に開発されれば、永久に生きられるのだ。そして永久に生きるとなれば、それだけ生活費が必要となる。エロイーズの毛皮や宝石よりも、まずはジョニー自身の日々の糧が問題になる。百万ドルは、何としても払わずにすませなければならない。
いや待てよ。しかし、さっきのファエトンの激突はどうなるのだ? いくら永遠の命が保証されても、ICBMが千五百万個も一度に爆発すれば、命なんて吹っとんでしまうぞ。
しかし、あの日本の化学者は、ミラクルウォーターは重力を緩和させ、衝撃をゼロにすると言ったではないか。彼は1983TB=ファエトンについては言及しなかったが、ファエトンだって言ってみれば巨大ではあるが隕石には変わりない。もしかしたらミラクルウォーターがこの激突のショックから、地球を救うことになるのではないだろうか。そうしたら、あの日本人の化学者はノーベル賞ものだ。それこそ現在の救世主である。
ジョニーはテレビを切って、再びコミックブックを眺め始めた。それはニッポンのコミックス社のマンガで、「宇宙戦艦ヤマト」の第千三十九巻であった。ヤマトが天の川を下っていくのが感動的に描かれていた。ジョニーは妻のエロイーズとの係争のことも、1983TB=ファエトンの一件も、奇跡の水のこともきれいさっぱりと忘れて、コミックの世界に没頭した。そこにあるのは、ごく普通の十一歳の男の子の顔であった。
「宇宙戦艦ヤマト」の千三十九巻を読み終わり、千四十巻目に手を伸ばしかけて、ジョニーは自制心を取りもどした。夜も大分ふけている。彼は作曲に取りかからねばならなかった。
時々彼は、ニューヨークのスタジオ兼用のこのアパートをたたんで、フロリダの両親の家へ帰ろうかという誘惑にかられて、居ても立ってもいられなくなることがあった。しかし、来る日も来る日も、何万羽というチキンが生む卵をベルトコンベアーで箱に詰めている両親のそばでは暮らせそうもなかった。あの何万羽というチキンに取り囲まれていると、夜中など、鶏たちのたてる何万という寝息のスヤスヤという音が、大合唱のように彼を取り囲むのだ。そして日中のあの耳をつんざくような、めんどりどものおしゃべりの音ときたら。ジョニー・チャイコフスキーのデリケートな耳には耐えられない騒音である。それにあのチキンどもの臭《にお》い。思い出すだけでも吐きけがする。彼の赤んぼう時代から幼少の頃にかけての孤独。何万羽というチキンに取り囲まれた少年の孤独。嫌だ。二度とあのチキンどもの世界へは戻りたくない。それでジョニーは望郷の念を断ち切り、スタジオのドアを押して中へ入って行った。
星良雅也《せいらまさや》と廻陽子は、イタリア料理のディナーを終わると、コーヒーをラウンジの方で飲むために、テーブルから腰を上げて移動した。
デヴィッドが用意した特別に上等なエスプレッソの香りがあたりに漂い、くつろいだいい雰囲気であった。
「何か聞きたい音楽でもある?」
と星良がやさしく訊《き》いた。
「いいえ。今夜くらい、音楽とは無縁でありたいわ」
と陽子も、柔らかい声で言って微笑した。今夜の彼女は躰《からだ》にぴったりと吸いつくようでいて、ふんわりと離れた微妙な美しさを見せるラインのドレスを着て、髪を下ろし、とても若く見えた。
「わかるよ」
と星良は友情以上の気持を抱いて、陽子の横にぴったりと座った。
「もう少し離れて座ってくれない?」
やさしいがぴしりと、陽子が言った。
「どうして?」
「デヴィッドが見てるじゃない」
「いくらでも見させておくさ。少なくともあいつだけは絶対にスキャンダルを口外することはないからね」
「おねがい」
温かく吐く息と共に、陽子はそう言って哀願した。「そんなにぴったりとくっついていられると、妙な気になるのよ」
「俺《おれ》もだよ」
囁《ささや》くように言って、星良は陽子の肩に手をかけ、自分の方に抱き寄せた。そしてまさにその時、玄関に来訪者を告げる音が響き渡った。
星良は眉《まゆ》を寄せて、しぶしぶと陽子の肩から腕を外した。
デヴィッドが玄関の扉を開き、突然の訪問客を招じ入れた。マリコだった。
マリコは一眼で室内の様子をのみこみ、デヴィッドを押しのけると、恐ろしい形相で室内を突進して来た。陽子のことは完全に無視して、いきなり星良の顔を平手で叩《たた》いた。
部屋の中にピシャリという音が響き、恐ろしいほどの沈黙が流れた。誰れもかれもが息を止め、唖然《あぜん》としていた。
中でも一番唖然としたのは、ロボットのデヴィッドであった。彼は、いかなる暴力行為も、見たことはなかった。しかも主人であるところの星良雅也が力いっぱい平手打ちを食ったのである。まるで自分の左頬《ほお》を殴《なぐ》られでもしたように、デヴィッドは頬を押さえて、よろめいた。
「私は、失礼したほうがいいみたいね」
と、陽子は冷静に立ち上がって言った。
「いや、帰らないで。そこにいて」
星良が引き止めた。「まだ話が残っている」
「でも私、あなたたちの争うのを見たくないし聞きたくないわ。あなたたちだって、私みたいな他人の前でやりあいたくないでしょう?」
と、なおも行きかける陽子の腕を、星良はつかんで、
「だったら、俺の寝室に入ってドアを閉めて待っててくれないか。すぐに終わるよ」
と彼女をベッドルームの方へと押した。
「デヴィッド。廻さんにブランディを差し上げて、少しお相手を頼むよ」
「ベッドルームで、デヴィッドはどんなお相手をしてくれるんでしょうね。楽しみだわ」
陽子は、ユーモアを失わず、ニヤリと笑って、言われる通り、星良のベッドルームに消えた。
彼女の姿が完全に扉の向こうに見えなくなると、星良はマリコに向き直った。そして、
「俺は今夜、きみを招待した覚えはないよ」
と、とても静かに言った。
「あなたに、他に女がいるらしいってことは、もうかなり前からわかっていたわ」
マリコは蒼《あお》ざめて言った。
「あのひとは、俺の女じゃない」
マリコは、ディナーが行なわれた後を示すテーブルを眺めてから、星良に視線を戻した。
「特別に大事な人しか、自宅のディナーに呼ばないんじゃなかったの?」
「それは事実だよ」
「あたしはもう、二年七か月も、ここへディナーに呼ばれていないわ」
デヴィッドが、足をひきずりながら、ブランディをトレイにのせて部屋を横切って行った。どうやら心に傷を負うと、あのロボットは足をひきずるらしい、と星良は心の片隅で考えていた。彼の心はマリコに対して、哀れみ以外に何も感じられなかった。眼の前の、大好きだったが今ではすり切れてしまったレコードみたいに感じられる彼女に対して、できることならこれ以上傷つけることなく、すべてを終わらせたかった。そして彼は、二人の関係がたった今、完全に終わってしまったことを感じていた。
「あなたが今何を考えているかわかっているわよ」
とマリコが美しい彫りの深い顔を歪《ゆが》めた。
「別れたいのね。あのひとのせいなの?」
「誰れのせいでもないのさ。もしも俺《おれ》ときみの間が終わるとしたら、それは他の誰れかのせいじゃなくて、俺ときみのせいなのさ」
穏やかに、星良は吐き出す息と共にそう言った。自分がこの女を切り捨てようとしているという感覚がどうしようもなく彼につきまとい、それが嫌であった。多分そのために、マリコとの別れが今まで引き延ばされてきたのかもしれない。彼の度の過ぎた優しさによって。
「いっそのこと、誰れか他の女のせいにしてもらったほうが救われるわ」
とマリコが両手で顔を押さえて言った。星良は彼女が泣きだしたのかと思ったが、そうではなかった。マリコは手で顔を覆ったまま、指の間から言った。
「私が何をしたっていうの? あなたの望むようにしてきたことと、あなたを愛してきただけなのに。私は何も望みはしなかったわ。あなたが私を望み続け、あなたを愛しつづけること以外は。――もう今では、あなたに愛されることさえ、諦《あきら》めているのよ」
マリコの苦しみを救うには、彼女の未練を断ち切ってやることしか、もはやないような気がした。おそらく、瞬間的には激痛をともなうだろうが、メスさえ入れてしまえば、彼女は、自分の肉体が壊疽《えそ》に冒されたように少しずつ朽ちていく痛みからは、無縁になるだろう。
「きみの望みはわかった。じゃ俺が望んでいることを言おうか――」
一瞬だけ星良は待った。マリコが指の間で息を殺す気配がした。「俺の望みは、きみから解放されることだ。きみの愛と、きみの肉体の両方から。もう充分に俺たちは愛しあい、それ以上に傷つけあったじゃないか」
永久とも思われる沈黙が続いたあとで、マリコは手を解いて言った。
「その言葉を、あなたは二年前に私に言うべきだったわ。そうすれば、愛の思い出だけが残ったのに」
死人のように青ざめたまま、マリコは躰の向きを変えて玄関の方へと歩きだした。
「ある意味で、あなたがいつそう言って私たちの関係を終わらせてくれるか、いつも待っていたような気がするわ。私は、自分の方から去っていくタイプの女じゃないの。そういう女もたくさんいるけど」
マリコはドアのところで首だけをねじむけて、じっと星良の顔をみつめた。その見おさめのマリコの顔を、彼は一生忘れないだろうと思った。彼女は疲れて傷つき不幸で、そして美しかった。「この二年間私がどんな気持で、女を演じてきたかわかる? あなたの眼に、自分がどんなふうに映っていたか、全部知っていたわ。少しずつ色あせていく自分をずっと見てきたわ。それが女にとって、どんなに残酷だか、あなたにわかるかしら」
星良は、よくわかるよと言ったが、喉《のど》がつまって声にならなかった。その代わりに彼は彼女に駆け寄り、ただ黙って両腕の中にマリコを抱きしめた。
別れの抱擁が解かれると、マリコは顎《あご》を上げ、精一杯のプライドを保って、さよならを言った。星良は彼女と玄関の外まで一緒に出て、スポーツタイプのリニア・モーターカーに乗り込むのを見守った。
「気をつけて」
と彼は言った。
「何のために? もう歓《よろこ》びなんて何にもないというのに」
とマリコは呟いて、車のドアをバタンと閉めた。最後の彼女の呟きは気にはなったが、女というものが別れ際にしばしばそのような口調で物を言うのを、彼はもうかなり若い頃から気がついていた。
彼はマリコを見送ると、重苦しい気分に包まれて家の中に戻った。陽子はすでに寝室から出て来ていて、デヴィッドを手伝いながら夕食の後片づけをしていた。
「そこはロボットにまかせて、こっちへ来てくれないか」
と星良が言った。
陽子はうなずいて、手をタオルで拭きふき星良の傍に行き、ソファーに腰を下ろした。マリコが飛びこんで来る直前と同じ位置だったが、あの時の続きをやるつもりは、二人とも毛頭なくなっていた。
陽子は、深傷《ふかで》を負った戦友を眺める兵士のような眼で、星良の横顔を見た。
「私に出来ることがある?」
と彼女はとても優しく訊いた。
「うん。祈ってくれ」
「何を祈るの?」
「俺とマリコの心の平安を」
陽子は手を差しのべて、星良の躰に腕をまわした。ごく自然な、姉のような動作だった。あるいは母のような。
「祈ってあげるわ」
男の重みを腕や肩や胸に感じながら、陽子は眼を閉じた。そうやって二人は長いこと、みじろぎもしなかった。
二十分ほどした時、星良は彼女の腕をほどいて立ち上がり、コードレスのテレビ電話を取り上げた。ダイヤルを回し、呼び出し音が十回鳴っても相手は出なかった。
「どこかへ寄ったのかもよ」
と陽子は横から慰めるように言った。星良はうなずき電話を置いた。
それから更に三十分後に、彼は再度マリコの電話番号を回した。やはり留守だった。星良は少し考えて、マリコのリニア・モーターカー専用電話につないでみた。通信不能を示すツーという無声音がするだけだった。マリコが電話回線をオフにしている可能性があった。
「何が心配なの?」
と陽子が訊いた。
「嫌な予感がするんだよ」
星良はモーターロードのセンターに電話を入れながら表情をしかめた。「もしもし。登録ナンバー品川Sの一三二一の現在位置を調べてもらえませんか」
「緊急を要することですね?」
と相手が念を押した。
「そうです」
「少しお待ち下さい。探してみます」
小さな携帯用テレスクリーンに日本全国のモーター道路が映し出され、コンピューターにマリコのスポーツカーのナンバーが打たれた。するとテレビ画面に赤い点が走り回り、中部地方の拡大図に変わった。
星良は仕事部屋へ飛んで行き、壁掛け式の大型スクリーンにチャンネルを切り替えた。八ケ岳モーターロードの拡大図が映り、赤い点が一か所で点滅を始めた。
「もしもし、ご覧になっていますか?」
と中央モーターロードセンターからの声がした。
「そちらから問い合わせの車の現在位置ですが、八ケ岳モーターロードから、なぜか外れています。正確には、八ケ岳の山麓のほぼ谷底に近い地点です。どうやら何かの理由で、故意に運転を誤ったものと思われますが」
憎らしいほど落ち着いた女の声であった。
星良は青ざめて、食い入るように赤いランプの点滅する一点を凝視した。陽子は躰《からだ》が震えだすのを感じた。
「事故と思われますので、モーターパトロールに報告します」
「すみませんが、僕のところにジェットヘリを一台回してもらえませんか」
「有料ですが」
「もちろん料金は払います」
「十五分後にそちらに着くよう手配します。失礼ですが、ご家族の方ですか?」
「結婚の約束をしていた女性です」
星良はどこかが激しく痛むかのように顔をしかめた。
「お気の毒です」
と、機械的な声に、わずかに同情がこめられた。「現場に万が一モーターパトロールより先に到着するような場合、決して何にも手を触れないように」
「わかっています」
テレビ電話が切れると、星良は陽子に向き直った。
「すべて俺のせいだ」
「自分を責めないでちょうだい。何にもならないわ」
そう言うのがやっとであった。
「俺は今から出かけるから、今夜は、これで帰ってくれないか。それとも、ここへ泊っていくかい?」
と星良がジャンパーに袖《そで》を通しながら訊いた。
「帰るわ」
「気をつけて」
「もちろん気をつけるわ」
そう言って、陽子は、たった数時間のうちに十歳も年を取ってしまったように見える星良雅也を痛々しそうにみつめた。自分を責めさいなんでいるのがわかった。
「私に何かできるといいんだけれど」
と彼女は彼をみつめたまま言った。
「いや。自分で起こしたことのあとしまつは、自分でやるしかないんだ」
星良はそう言って、ジェットヘリの到着を待つために、前庭の芝の上へと飛び出して行き、ヘリに位置がよくわかるように緊急着陸用のライトを四か所つけて回った。
やがて十分後に南西の方からジェット音が響いて来て、ジェットヘリが着陸した。星良は慌ただしくそれに乗りこんで飛び立った。
彼を見送った後、陽子はいったん家の中に戻り、バッグと上着を探した。そしてデヴィッドにおやすみを告げて、外へ出た。月のない夜だった。彼女は星良を見舞った試練の辛さを思って、心を痛めた。
それから、一人の男を死ぬほど愛したマリコという女のことを思った。そして自分にかつて、それほど執着した男がいたかどうか考えて淋《さび》しかった。
ある意味で、とことん一人の男を愛し続けた女の人生は、愛に関しては索漠《さくばく》とした砂漠のような人生より、はるかに満たされたものなのではないだろうか。陽子には、自分の命よりも大事な男など存在しなかったし、これからもそうだろう。
ふと娘のことを思った。するとつくづくとせつなかった。あの娘は今でも私の宝だ、と口に出して呟《つぶや》いた。晶世は簡単なメモ程度の置き手紙だけを書いて、さっさと友達のアパートに転がりこんでしまった。その友達が女なのか男なのかさえ、陽子は知らなかった。電話をして話しあってみようと思うが今夜は札幌でコンサートがあるはずだった。明日の日曜日にでも、どこかで逢《あ》って二人だけでランチでも食べようと、そう自分に言いきかせ、陽子はリニア・モーターカーを、自動運転にセットして、行き先を自宅に合わせると、スタートのボタンを押した。
ジェットヘリの照らし出す強力なヘッドライトの中に、赤い車体の一部が見えた。ドアのひとつらしい。近くに車輪も見える。星良は胃のあたりをしめつけられるような気分で、ジェットヘリから滑り降りた。
あたりには車の残骸《ざんがい》がバラバラに飛び散っているが、マリコの姿はない。その時後方二十メートルのあたりで人声がし、どうやら彼女が発見されたらしい。星良は車の様子からしても覚悟をきめて、その方向に走った。
モーターパトロールの救急班が、マリコを慎重に取り囲んでいた。驚いたことに彼女は奇跡的にも生きており、それもカスリ傷程度。オープンカーであったために、墜落の途中躰だけ投げ出されたのだ。彼女が落ちたのが大きな木の上だったために葉や枝がクッションになって助かったのである。
星良はマリコの髪から、小枝や葉っぱを取りのけてやりながら言った。
「ここへ駆けつける途中で、必死できみが助かるよう祈ったんだ。結婚しよう、マリコ。俺《おれ》、きみを助けてくれたらそうするって、神様と約束しちまったんだ。神様との約束、破るわけにいかないだろう?」
ショックで青ざめて眼を閉じていたマリコの口元に微笑が滲《にじ》んだ。
「あなたは動揺しているのよ。明日になったら今の言葉を後悔するわよ」
医者が彼女の脈を調べ、瞳孔《どうこう》の具合を調べ、精神安定剤の舌下錠を口の中にひとつぶ押しこんだ。
「ねぇ、このあいだの夜、電話でちょっと話したこと覚えている? コロンブス計画のこと?」
横たわったまま、夜空を見つめて彼女が言った。
「私、参加することにきめたわ」
遠い遠い感じの声だった。「一度死んだつもりになれば、宇宙船の旅なんて、もう怖くないわ」
星良は黙って彼女の手に触れた。銀河系内を、何世代もかけて探索する目的の、巨大な宇宙船の姿は、ひどく孤独な放浪惑星のように、星良には思われた。いつか、何百年も後、仮りに彼女の孫のまた孫の代にでも、理想的な星を発見して到着したとき、最初の五百人ずつの男女で始めた旅の終わりには、一体どれだけの人間が大宇宙空間の孤独な放浪に気も狂わずに生き残っているだろうか。あるいは最初の千人が一万人に増えているかもしれない。またあるいは、その小《ミニ》地球《・アース》とも呼ぶべき、完全自給自足の放浪惑星内に、戦争が起こらないともかぎらない。
「マリコ。きみを宇宙空間に放り出すわけにはいかないよ」
星良は彼女の冷たい手に顔を埋めた。
「でも、私、もうきめたの。放り出されるんじゃないのよ。私から地球を捨てるの。ここにはもう、私を引きとめるものが何もなくなってしまったわ」
「しかし、マリコ。コロンブスの時代とは違うんだ。宇宙は大西洋とは違う」
星良は空しく、彼女の気持をひるがえそうとした。
「いいえ。長い宇宙の時間的見地から見れば、銀河系内の旅なんて、大西洋はおろか東シナ海を渡るようなものよ」
白いユニフォームの救急要員が運んできた担架に、マリコの躰《からだ》が移された。一応精密検査のために、病院に運ばれるのだ。
「じゃね、あなた。病院から出しだい、私、コロンブス計画本部に、オーケイの返事をするわ。そして多分その後すぐに、訓練の合宿に参加するつもり」
マリコが担架で運ばれながら、星良の方にさよならの仕種《しぐさ》をした。
「多分、これでお別れね」
マリコの美しい眼が大きく見開かれた。
「きみの決意が病院にいる間に変わっていなければ、俺、きみの出発を見送りに行くよ」
マリコが担架ごと、救急ヘリコプターの中に引きこまれて消えた。
たとえ、彼女が自分の意思でコロンブス計画に参加するにしても、星良はやはり、自分が彼女を宇宙空間に追放するような気持がしていた。
やがて、マリコの乗った救急ヘリコプターが飛び立ち、あっというまに夜空の中で明るい一等星の大きさに遠ざかり、そして山あいに消えてしまった。
その瞬間、星良は、脳天を撲《なぐ》られたような気がした。リニア・モーターカーで一瞬のうちに自殺しそこねたマリコは、コロンブス計画に参加することで、長い自殺の旅に出るつもりなのだ。一人の女をそこまで追いつめてしまったことに対して今の彼には出来ることは実に何もないのだった。そこに、マリコの無意識の復讐《ふくしゆう》を感じた。
彼はレンタル・ジェットヘリに乗りこむと、八ケ岳のコンドミニアムに戻り、その夜は睡眠薬を飲んで眠った。
ニューヨークのジョニー・チャイコフスキーから、「羽衣のアリア」のデモテープと楽譜が届いたのは、その事故の日からちょうど五日目の朝であった。
星良はテープをカセットプレイヤーにかけ、さっそくジョニーの作曲を聴いた。
さらさらと川の流れるような不思議な前奏に続いて、メゾソプラノのアリアのメロディが流れ始めた。祈るような、すすり泣くようなピアニシモから始まって、愛を歌い上げる感動的なテーマのメロディに移り、やがて悲劇を予測させる無気味な沈黙。次に続く悲しみの情景。深い悲哀の描写に、先祖の大チャイコフスキーと同じ音色が流れているのに星良は気づいた。しかしジョニーは悲哀に神秘的な色合いをつけて、単なる悲劇に終わらせていない。どこかに救いがあり、温かさがあり、郷愁がある。すばらしい出来ばえだった。
星良は、ジョニーのテープでデュープを取り、楽譜と共に廻陽子あてに広帯域データ通信で送った。十五分後に彼女から連絡があり、たった今、ジョニー・チャイコフスキーの作曲したものを聴いたと、連絡が入った。
「メロディは最高よ。今度こそジョニーには脱帽するわ。ジョニーを発見したあなたにも改めて脱帽。問題はこの試作テープを、誰れに歌わせるかということね」
「本番じゃないんだから、あんまり神経質になることはないよ」
「それはそうよ。でも楽譜見たでしょう? メゾソプラノだけど音域がすごく広いのよ。ゆうに三オクターブはあるわ。あなたも知っていると思うけど、三オクターブの音域をもつ歌手そのものを見つけるのが大変なのよ」
「ニューヨークのオフブロードウェイで十二年間ロングランしていたミュージカル。あれで歌っていたディアトラ・ヒックスは確か三オクターブ出るはずだぜ。探し出せないかな」
「ディアトラはもう現役から引退したわよ」
「しかしまだ三十五、六歳のはずだよ」
「いいわ、当たってみるわ。たとえ試作のデモテープでも、最上級のものを作りたいのよ。あとで連絡する。ところで」
と陽子は口調を変えた。
「昨夜の七時の衛星世界ニュース見た? 例のコロンブス計画の参加者の名前が、国別に発表されたじゃない。あの中にこの間のマリコさんの名前があったけど、あなた、そのこと知ってた?」
遠慮がちな声だった。
「うん、彼女があの計画本部から、かなり前にアプローチをうけていたということは聞いていたからね」
星良はそれ以上そのことに触れたくなかった。陽子も敏感にそれを察して言った。
「ごめんなさい。余計なことを言っちゃったかしら?」
「いや、いいんだ。いずれにしろありがとう」
星良とのテレビ電話を切ると、廻陽子はマイク内田を呼んで、元ブロードウェイ歌手のディアトラ・ヒックスの所在をつきとめるよう頼んだ。マイクは、十分後に陽子のオフィスのドアをノックして、ヒックスが現在スイスの病院に入院中だというニュースを伝えた。
「喉《のど》に出来た悪性のポリープを取り除く手術だということですよ。再び声を出せる状態になるまで、三か月は無理だということだし、仮りに声が出せても、三オクターブの音域は戻らないかもしれないと、マネージメントをやっているエージェントの人が言っていました」
陽子は溜息《ためいき》をついてうなずいた。ディアトラの声が無事に戻ることを祈るにしても、他に当たらなければならない。
「マイク、大至急、三オクターブ出せる歌手を何人か探し出してみてよ。話はそれからだわ」
マイクがうなずいて出て行くと、机上の電話が鳴った。
「お嬢さんからですが、おつなぎしますか?」
秘書が訊いた。
「いいわ、つないでちょうだい。――もしもし」
「ママ? 電話くれた? 青野くんがびびってたわ。言っとくけど、彼が私を誘拐《ゆうかい》したわけじゃないんだから、誘拐犯人みたいな調子で扱うのやめてくれる?」
晶世の声が電話線を通して聞こえた。テレビ電話ではなく、どこかの簡易テレフォンボックスかららしい。
「今、ママ忙しくてあんたと喧嘩《けんか》しているひまないわ」
いつもの調子で陽子は素っ気なく言って、慌ててつけ足した。「何しろニューヨークの天才音楽少年が、とんでもない楽譜を送って来たものだから、歌える歌手探し出すのに、てんてこまいなのよ」
「何のことかわからないけど、大変そうね。じゃお邪魔しないわ」
「ちょっと待って。たまには家に帰って来て、おばあちゃんたちに顔を見せたほうがいいんじゃないの? 今度の金曜日あたり、一度戻ったら?」
「ママはどうなの? あたしの顔見たい?」
「あんたの顔なんて生まれたときからずっと見てるわよ。でも、そうね。素直に言うわ。ママもそうよ。あんたの顔をたまには見たいと思っているわ」
急にしんみりとなって、陽子は送話器の中にそう言った。テレビ電話だったら、おそらくこうはならないだろうと心のすみで考えながら。
「じゃ金曜日に帰ったげる。そのとき、その手に負えない楽譜のコピー見せてくれる?」
「見てどうするの?」
「歌える歌手がいそうにもないっていう曲がどんな曲なのか、ちょっと興味があるだけよ」
「まず無理ね」
と陽子は言った。「何しろ音域が三オクターブもあるのよ」
「それがどうしたの?」
と晶世がいとも簡単に訊いた。
「それがどうしたのですって? 世界中広しといえども、三オクターブの音域の出る歌い手を探し出すのは、至難の業《わざ》なのよ」
「身近に一人いるじゃないの。ママが今電話で話している相手がそうよ」
と晶世がおかしそうに笑った。
「世界中探しても誰れも見つからなかったら、あたしに言ってちょうだい。ママのために歌ってあげてもいいわよ。じゃ金曜日にね」
陽子が何か言おうと口を開きかけたすきに、晶世の電話が切れてしまった。
ドアにノックがして、マイク内田がメモを手に現れた。
「世界音楽家協会に登録しているソプラノ歌手で、三オクターブの音域をもつ者が三人いました」
と彼は事務的に言った。
「一人はさっきのディアトラ・ヒックス。もう一人はアンデス出身の異色の歌手でエマ・ロドリゲス。彼女は三・五オクターブまで出るんですが、楽譜が読めません。もう一人は、ギリシャ人のカンツォーネ歌手ですが、彼女の声は野太くて、完全にジョニーの曲想とはイメージが違います」
「それだけ?」
陽子は腕組みをした。「エマ・ロドリゲスの声を聞かせてもらえる?」
「とおっしゃるだろうと思って、テープをお持ちしました」
マイクはそう言いながら、ポケットから取り出したテープを再生装置にセットした。古いアンデス地方の民謡が、独特の張りのある声で流れだした。
「イメージが違うわね。土臭《つちくさ》すぎるわ」
「曲のせいもありますよ」
「でも高音部がトランペットみたいで、ジョニーの線じゃないわね。だめよ。エマは使えないわ」
「しかし、本番に出すわけじゃありませんよ。試作用テープの声なんだから」
「そうね、仕方がないかもしれないわね」
と陽子は指の爪《つめ》を噛《か》んだ。
「さっそく、ボク、アンデスへ飛んで、彼女の声を取って来ますよ。楽譜は読めないけど、エマは耳がいいから、ジョニーのテープを聞かせればメロディは一度で憶《おぼ》えます」
「わかったわ。そうしてちょうだい」
陽子は浮かない声でそう言った。ここまで来て、妥協するのは嫌だった。しかし、他に方法がなければ止むをえない。
「本番が思いやられるわね。一体どうやってメサイ役の女の子を探し出せるものやら」
「一般オーディションをするしかないですね」
「でなければジョニーに頼んで、全体に音域に少し手加減してもらうしかなさそうね」
喋《しやべ》りながら陽子は星良を電話で呼び出した。
「ジョニーに連絡つくかしら? ちょっと問題があるのよ。三オクターブの音域の歌手を探すことは探したんだけど、声の質が違うような気がするの。アンデスのエマ・ロドリゲス。知ってる?」
「ああ、聴いたことがある」
「どう思う?」
「確かに違うね。ちょっと健康的すぎるかな。ジョニーの音は、こう何ていうか曲全体に弱音器をつけたような繊細なところがあるから」
星良は、本業の株の仲買いの作業の手を止めて、そう言った。
「最悪の場合、ジョニーに頼んで、もう少し音域のせまいものに、至急書きなおしてもらうわけにはいかない?」
「それが無理なんだ」
と星良は言った。「ジョニーは、その作曲のあと目下行方不明。来週まで連絡はとれないよ」
「ということになると、マイクにアンデスまで飛んでもらうことになるわね」
「他には誰れもいない? ヒックスはどうだった?」
と星良が訊いた。
「彼女はスイスでポリープの手術を受けているわ。もう一人はギリシャ人のカンツォーネ歌手でいるにはいるけど、こっちの声はもっと野太くて荒々しいのよ。この子は最初から勘定に入らない。今のところ、その三人よ」
「じゃ、エマに期待をするしかないね。本番のときには、ジョニーに、音域のことを伝えるよ。でないと、歌手の問題だけで、この企画は流れてしまう」
しかし、ジョニーは妥協しないだろうと、星良は思っているような表情だった。第一、あの試作曲の宇宙的な美しさや神秘性を表現するには、普通の音域ではむりだった。そのことは星良にも陽子にもわかっていた。
「あんまりがっかりしないでも大丈夫よ」
と陽子は星良を慰めるように言った。「もう一人、あたってみてもいいと思う歌手がいるのよ」
「え? 誰れ?」
と星良が希望をこめて訊いた。
「ま、いいじゃない。あとでテープを聞かせるわ」
そう言って陽子は唐突に星良との会話を打ち切った。
「もう一人当たってみるって、誰れのことです?」
と、話の成り行きを傍で聞いていたマイクが不審そうに質問した。
「それはちょっとノーコメント。言いたくないわ。全くだめかもしれないしね。いずれにせよ、マイク。エマの所へ行って来てちょうだい。エマは何ていったってプロなんだから」
それで事はきまりというように、陽子は自分の仕事机に戻った。マイクは肩をすくめると、テープと楽譜を手に、彼女の部屋を辞した。
その日のうちにマイク内田はスーパージェットでアンデスに飛び、翌朝の一番には、エマの声をテープに入れて、銀座東六十四番街のオフィスに舞い戻っていた。
陽子はさっそくそのテープを聴いたが、失望を隠せなかった。ジョニーのオーケストラとダビングをしたのだが、音色がなんといっても異質なのである。
「むしろ、声を入れずにジョニーのオーケストラだけで提出したほうがいいわね」
と陽子は呟《つぶや》いた。
「ボクもそのほうが賢明だと思いますよ」
とマイクもそれを認めた。
「レジメがきちっとしていますから、テーマのアリアだけで、充分ですよ」
「いずれにしろ、ブリティッシュ・シネマのミスター・メイヤーとは月曜日に逢《あ》うことになっているの。私がロンドンへ行って、直接彼の手に、星良雅也のストーリーのレジメと、ジョニーのテーマ曲を手渡すつもり」
それから陽子は星良のところに、マイクが入れて来たエマ・ロドリゲスの声を、物流パイプラインで送っておいた。星良からの返事は、陽子たちと同じで、エマはジョニーの曲想には合わないということだった。
それに彼は歌なしの空オーケストラだけで、テーマ曲をブリティッシュ・シネマに渡すのは、あくまでも反対だと主張した。
「俺もあの作詞では、内臓を削るような思いで、ヨロン島でがんばったんだ。そしてジョニーだって、同じだよ。彼はこの作曲で神経をすりへらしちまって、どこかできっと死んだように眠り続けているはずなんだ。だから、あんたにも同じくらい努力してもらいたいね。もともとこれはあんたが持って来た仕事なんだぜ」
そう言われると、陽子も心穏やかではなかった。
「私たちが努力していないなんて思わないでちょうだいよ。マイクなんて、昨日から一睡もしていないわよ。私たちだって、地球の裏側まで手を尽くして飛び回っているのよ」
「じゃなんで、あんなテープを送りつけてくるんだい?」
星良の眼も血走っていた。
「わかったわ。必ず見つけてみせるわ。そしてあなたにそんな大きな口を二度と叩《たた》かせないようにしてやるわ」
陽子はそうきっぱりと言うと、テレビ電話を叩き切った。
「あのひとにあんな口のきき方をされる覚えはないと思うわ。そりゃあの人、マリコという女のことで、身も心も傷ついているのはわかるけど、だからって、あんな口のきき方ってないと思うのよ」
と彼女はマイクに向かってこぼした。
「でも一体、これからどうするんです? 誰れか心当たりが、本当にあるんですか?」
とマイクは初めて心配そうに陽子の顔をみつめた。
「ええ、ひとりだけね」
と陽子は慎重に答えた。「でも私、とても怖いのよ」
「なぜ?」
マイクが力づけるように陽子の腕に触れた。
「あなたに怖いものがあるなんて、初めて知りましたよ。どうしたんです? なぜ怖いんです?」
「実は私の娘なのよ」
陽子はきつく眉《まゆ》を寄せた。
「この話が具体的になる過程で、どういうわけか、実に度々晶世のことが私の脳裏を掠《かす》めたの。あなた覚えている? 輪廻《りんね》の廻《ね》が廻《めぐり》で、メサイはマサヨに通じるって言ったでしょう? それで今思い出したんだけど、ある日あの子が夢のことを私に話したことがあるの。それは、彼女が光るチリのように暗い宇宙空間を舞い降りていく夢らしいの。子供の頃から、よくくり返し見る夢だって言っていたわ。そのことで、あなた何かを連想しない?」
「ええ、しますよ。星良雅也の第三の伝説の中に出てくる、天の川からミカドとメサイが追放される最後のシーンです」
マイク内田が回想するかのように眼を細くした。
「そうよ。あなたもそう思う?」
「思いますとも。あの二人が、バラバラになって、宇宙の暗闇《くらやみ》の中を、無限に漂っていくシーンは、あの物語の中で、いちばん幻想的で美しく、しかも痛々しい場面で、ボクもとても感動したんです」
「単なる偶然にしても、不思議でしょう?」
「ええ、奇妙な偶然ですね」
「もっと不思議なことがあるのよ」
と陽子は秘密を打ち明けるように、声をひそめた。
「実は、あの子がミラノで歌を勉強しているのは、知ってるわね?」
「知っていますよ」
「あの子の音域がどれくらいあると思う?」
「まさか」
とマイクは息を呑《の》んだ。
「ええ、そうなの。三オクターブ」
そこで二人は深々とお互いの眼を覗《のぞ》きあった。二人ともすぐには口がきけなかった。
「まだこのことは星良雅也にも、うちの娘にも、何も話していないわ。あなたに話す気になったのは、輪廻《りんね》の廻《ね》と、メサイの話のせいよ。もしあなたが口から出まかせに、ひょい、とあんなことを言わなかったら、私はまだこの奇妙な話と娘を運命づけて考えるようになっていなかったと思うのよ」
「運命?」
「ねぇ、マイク。こうなったらもうひとつ打ち明けるけど、秘密守れる?」
「もちろんですよ。天と地と神と母の名にかけて誓います」
マイクはおそろしくまじめに、直立不動の姿勢を取った。
「じゃ言うわ。もしも晶世がメサイだとしたら、私ね、星良雅也は、ミカドだと思うわ。輪廻転生《りんねてんしよう》を信じるならあの二人は羽衣伝説の生まれ変わりよ」
そこで陽子はヨロン島で星良とロケハンのときに起こった数々の不思議な話をマイクに話して聞かせた。
「彼が書いたり、私に話して聞かせた作り話を、あとになって裏づけるようなことが、いっぱいあったのよ」
「二人はもうどこかで逢《あ》っているんですか?」
「いいえ、まだよ」
と陽子は首をふった。「何度か出逢うような機会があったんだけど、奇妙にも実現しなかったのよ」
「じゃさっそく二人を逢わせてみましょうか」
と、マイクは眼を輝かせた。
「きっとだめよ。無理にお膳《ぜん》だてしても、どちらかの都合で実現しないと思うわ。二人は機が熟して、逢うべくして逢うのよ」
「それは一体いつなんです?」
「星良のレジメ読んだでしょう? あの中にちゃんと書いてあるわ」
陽子は謎《なぞ》めいた微笑を浮かべた。
「あ、そうか。二人はヨロン島のどこかの井戸の傍で出逢うんだっけ」
そう言ってマイクは指を鳴らした。
「そうなの。そこで出逢わないかぎり、たとえ二人が別の場所で出逢っても、何も起こらないし、二人ともお互いのことがわからないんじゃないかと思うわ」
「じゃ、ボクたちはどうすればいいんです? あの二人のために何をしてあげたらいいんですか?」
マイク内田は興奮して訊いた。
「何にも。今の話はすっかり忘れたようにふるまってあげることよ。そして、自然になっていくように物事を進めることね」
陽子は自分でも意外なほど落ち着いてそう言うと、その件はそれで打ち切った。
翌朝、朝早く、陽子は電話の音で叩《たた》き起こされた。休みなので、ウェイクアップ・システムをオフにしておいたのだ。時計を見ると九時を過ぎている。
「ママ? あたし。まだ眠っていたの? 起こしてごめんなさい。もしかして、ママがオフデイ旅行に出てしまうかもしれないと思って、その前に連絡したかったの」
晶世の晴れやかな声が、陽子の眠けを払い落とした。
「オフデイ旅行なんて呑気《のんき》な時じゃないのよ。で、何なの?」
ピローに背をあずけ、一日の始まりを昔の英国式にミルクティーで始めるために、ボタンを押した。シャーリーが顔を出す。
「ママ、あたしたち、ヨロン島に急に行こうって話になったのよ」
と晶世が電話で言った。
「あたしたちって、誰れと誰れ?」
「だから、青野くんとあたし」
「ああ、あんたを誘惑したボーイフレンドね」
「ちがうって。彼はボーイフレンドなんかじゃなくて、たんなる親友」
「何で急にヨロンになんて興味を持ったの?」
陽子はできるだけさりげなく訊いた。
「別に興味を持ったわけじゃないの。青野くんの故郷なのよ。彼、お盆で三日か四日帰省するっていうから、あたしもついて行こうかな、ってただそれだけなの。それでね、もしもよかったら、ママとはあっちで逢えないかしら? ママもヨロン島に別荘を買ったんでしょう? ママが行くんなら、あたしもそっちに泊るから、そうしたら二人で一緒に二、三日暮らせるじゃない? だめかしら」
陽子は、晶世が転がりこんだ男友だちの郷里がヨロン島だという偶然の一致に、またしても意味があるような気がした。
「いいわ。ただし、今日一日ママはオフィスに出なくちゃいけないから、あなたは一足先に行っていてちょうだい。うちの別荘の鍵は、空港の別荘管理事務所にあずけてあるわ。ママが電話して、雨戸をあけておくように頼んでおくから、行けばすぐに使えるわ。ただし」
と陽子はおもむろに言った。「一九八〇年代に建てられた別荘で、その頃の状態のままになっているから、少し不便かもしれないわよ」
「キャンプにでも出かけるつもりで行くわ」
そう言って、楽しげに晶世は電話を切った。ちょうどその時、シャーリーが、熱いミルクティーと、カリカリに焼いたトーストと、マーマレードをのせたトレイを手に、寝室に顔を出した。
「ありがとう、シャーリー」
機嫌よくそう言って、陽子は、ピローをもう一つ背中に重ねた。シャーリーが彼女の前にベッド用の朝食台をセットして、そこにトレイをのせた。香ばしいトーストと、甘味を含んだティーの香りが、陽子を束《つか》の間《ま》幸福にした。
ふっと、星良雅也に声をかけてみようか、と思った。彼とは二、三日前に激しく口論して以来、口をきいていない。陽子は、たとえ彼が長年の女友だちのことで心に悩みをかかえていたとしても、あんなふうに陽子たちを非難する権利はないと思っている。それにちょっぴり本音をいえば、星良が一人の女のためにあんなに人が変わったようになるのを見ると、陽子はなんとなく淋《さび》しい気もした。
にもかかわらず、彼女は彼を許し、ヨロン島でオフデイを一緒に過ごさないかという提案をしようとしているのだ。
一体誰れのために? と考えて、陽子は急に恥ずかしくなった。輪廻《りんね》の話を心のどこかで信じていて、それでどういう成り行きになるのか見届けたいと思っているのだ。彼女は軽い自己嫌悪に陥り、朝食をすませた。
ボディー・クリーナーでの慌ただしい洗浄ではなく、ゆっくりと朝風呂《あさぶろ》につかり、このところの自分の行動について反省を加えた。忙しすぎるのだ。もっと余暇を楽しまなくては。さもないと祖母の麻子の年までとうてい生きられないだろう。
もっとも、と、陽子は、湯上がりの躰《からだ》をガウンに包みながら考えた。二〇一五年頃には、なんとかいう小さな惑星が、地球と正面衝突して、この世は終わりになるかもしれないから、もしそれが事実なら、どっちにしたって、麻子の年齢までは生きられない。彼女はそのために少し虚無的な思いにとらわれ、自分は地球最後の日をどこで誰れとどうやって過ごすのだろうかと考えた。一緒に過ごすような男など、いそうにもなかった。鏡に向かって、髪をブラシした。そして素顔の肌に、わずかながら年相応のおとろえを見つけて、ますます憂鬱《ゆううつ》になった。
じたばたしたってだめよ、と彼女は自分に言った。来年で二十歳になる娘がいるってことを、心身ともに認めなさい。そして年相応に大人《おとな》しくするのよ。ドン・キホーテみたいに、風を相手に闘ったってしようがないじゃないの。
それに、多分二〇一五年までには、誰れかが何かを発明するとか、新しいエネルギーが発見されて、小惑星との正面衝突は避けられるかもしれないし。そうよ、きっと避けられるわ。人類はバカじゃないんだもの。すでに共同開発で、そういう見通しがついているのかもしれない。でなければ、もうとっくに、他の星への移住計画がすすめられてもいいはずだもの。
そこまで考えて、陽子は表情を曇らせた。移住計画なら進んでいるではないか。コロンブス計画では、世界各国の男女千人が銀河系内の宇宙に送りこまれる。あれは、一種の二〇一五年にかけての、地球人の逃避の第一号船なのではないだろうか?
そういえば、中国でも独自に、巨大宇宙船を造船中だというニュースが、ささやかれている。噂《うわさ》によると、それは共同開発によるメイフラワー二世号の百倍の大きさの宇宙船で、許容人数は十万人。小さな都市がそのまま宇宙に飛びたつようなものだといわれている。中国の秘密主義は無気味で、世界の脅威ではあるが、この巨大宇宙船もまた、地球最後の日にそなえての脱出計画ではないのか、と、陽子の胸は再び不安で揺れた。
洗面所から憂鬱に包まれて出てみると、驚いたことに、星良雅也が、祖母の麻子を相手に、話をしているではないか。こんな朝の突然の訪問は彼らしくもない。陽子はガウンの下に何もつけていないことを急に強く意識しながら、しかしそんなことは、おくびにも出さずに、陽気に言った。
「表敬訪問にしては、突然ね」
星良は礼儀正しく立ち上がって、陽子を迎えた。
「ちょっと近くまで行く用事があったんで、失礼とは思いつつ立ち寄らせてもらったよ」
「星良さんと、東洋思想のお話をしていたのよ」
祖母はまだ話し足りなそうな顔で腰を上げながら言った。
「共通の興味があるみたいなの、わたしたち」
「東洋の神秘についてですよね」
と星良はやさしく言った。「またぜひお話を伺いたいですね」
「ほんとうに? ただ口先だけでそう言うんじゃなくて?」
「もちろん、ほんとうですよ」
星良はそう言って、麻子の手を軽く叩くようにして安心させた。
「じゃ、わたしは失礼しますよ。これからちょっとカウンセリングに出かけなくちゃいけないの」
星良と陽子はニコニコ笑いながら、麻子を見送り、それから改めてお互いの姿を眺めあった。
「それで、突然の訪問の目的はなに?」
ガウンの胸元を掻《か》き合わせながら、陽子が言った。自宅に男性の訪問を受けるのは久しくなかった。足の下の植物カーペットがまた少し伸びすぎていた。室内のあちこちに、この家の住人の女たちが置き忘れたものが、取り散らかっていた。母の老眼鏡とか、祖母の膝《ひざ》毛布とか、ファッション雑誌とか、絹の室内ばきなどだった。
そうした生活感のあるものを、星良に見られるのが、陽子はなぜかひどく恥ずかしかった。それに素肌に直《じか》にガウンをまとっただけの自分が、おそろしく無防備な存在に感じられた。
「この間のことを、ぜひ、直接あって、謝りたかった」
星良は誠実な声でそう言って、陽子をみつめた。
「あんなことは、言うべきではなかった。第一、俺《おれ》は、あんなふうにあんたのことを考えたことさえなかった。あんたが一生懸命に、常にベストを尽くす女だってことは、この俺が誰れよりも知っているくせに、今でも信じられないくらいだよ。ほんとうに悪かった。どうかしていたんだよ、俺」
陽子はじっと立ったままその言葉を聞いていた。星良が話し終わると、言った。
「コーヒーはいかが?」
星良はとまどい、「ありがとう、いただくよ」
と言った。
「じゃ、そこに座って、ちょっと待っていてちょうだい」
それだけ言うと、陽子はシャーリーにコーヒーを二人分頼んで、自分は着替えるために、いったん寝室に消えた。
二分後に、サマーニットのスーツに着替え、軽く頬紅《ほおべに》とマスカラだけで顔を整えた陽子が星良の前に姿を現した。コーヒーはすでに彼の前に置かれて湯気を立てていた。
「あんたのところの家事ロボットは愛敬《あいきよう》があるね」
と言って、星良はニヤリと笑った。
「よく出来ているでしょ? 思わず撫《な》でたくなるようなお尻《しり》していると思わない?」
「いや。尻を撫でられたのは俺の方」
そう言って星良はクスクスと笑いだした。
「ま、シャーリーったら」
さすがの陽子もあきれ果てて後が続かない。「躾《しつけ》がゆきとどきませんで、失礼いたしました」
「いやいや、楽しいよ。それに比べるとうちのデヴィッドは、こっちの気までめいらせるからね」
「あらそう? 私、デヴィッドって好きよ。典型的なお天気屋のイギリス人って感じで、面白いわ。よかったらシャーリーと取り替えてあげましょうか? そうしたら毎日彼女にお尻を撫でてもらえるじゃない?」
と陽子は星良をからかった。
「いい思いつきだが、やめておくよ」
「あらどうして?」
「実はね、うちのロボットの奴《やつ》、ちょっとホモっ気があるんだ。お宅は女ばかりの女所帯だろう?デヴィッドが喜ばないと思うんだ」
星良は、いい匂《にお》いのするコーヒーを一口すすり、それから改まって言った。
「さっきの件だけど、あんたの口からまだ、許してもらえるかどうか、返事を聞いていない」
「もうとっくに許してるわ」
陽子は星良の腕に軽く手を触れて言った。「あなたって、長くは憎めない相手なのよ。ところで今週末は、何してるの? よかったら私たちと一緒にヨロンで過ごさない? あの別荘、気に入ってるんでしょう?」
ごく自然に陽子は彼を誘った。
「せっかくだけど」
と星良は視線を落とした。「今週末は――」彼は陽子の瞳《ひとみ》の中を深々とみつめ直した。「実はね、これからマリコをパラオのコロンブス計画訓練基地まで送って行くつもりなんだ」
「そうだったの。やっぱり、彼女、あなたを見捨てて行っちゃうことにしたのね」
「その言い方はあんたらしいね。優しいんだな。でも本当のところは、俺が彼女を宇宙に追放してしまうような気がしているんだがね」
星良は肩を落とした。そのことが、このところ彼をひどく痛めつけている思いらしかった。
「そんなことないわ。もしかしたら、彼女は生き延び、私たち地球に残るものは、死に絶えるかもしれないのよ」
陽子はまたしても二〇一五年を思ってそう言った。
「だからあなたは、彼女の命を救って、銀河系の彼方《かなた》に解放してやったんだ、と思えばいいのよ」
星良は肩をすくめたきりだった。
「いずれにしろ、パラオの基地に送りこんだら、多分もう二度とマリコには逢《あ》えないだろうと思う。だから、送って行きたいんだ」
「もちろんよ、行ってらっしゃい」
陽子は元気づけるように、星良の腕を二つ三つ叩《たた》いた。またしても、メサイとミカドの再会は先に延ばされたわけだ、と心の片隅で考えながら。
再会
眼下にコバルト・ブルーの珊瑚礁《さんごしよう》に取り囲まれた熱帯魚の形をした島が小さく見えていた。スーパージェットはあっというまに、魚の尾ひれにあたる部分に位置する空港滑走路めがけて、鷺《さぎ》のように舞い降りた。直径三センチばかりだった熱帯魚の形が一瞬にして膨張し、実物大になると、ジェット機は滑走路に滑りこんでいた。
「僕の生まれ故郷にようこそ」
青野竜介は、そう言って廻晶世《めぐりまさよ》に笑いかけた。それから彼女の美しい顔の上に刻まれている表情に気がついて、
「どうかした?」
と訊《き》いた。
「ううん、どうもしないわ」
晶世はそう言って、棚から小さなスーツケースを降ろした。実際自分でも訳がわからないのだが、窓の下にチラリとエメラルド色の島影を見た一瞬、泣きたいような気分に襲われたのだった。
タラップを降り、空港に吹く風をまともに顔に受けた時、その泣きたい思いは更につのった。風の熱さ、湿気、柔らかさ、潮の匂《にお》い、花々と果実の甘い香り、そうしたものすべてが、いっせいに彼女の五感に強く働きかけた。
「ほんとうに、どうしたのさ?」
と竜介は途方にくれたように、傍で涙を浮かべ、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいる晶世の横顔を覗《のぞ》きこんだ。
「なんだか――」
この場所をよく知っているような気がするのよ、と言いかけて、晶世は口をつぐんだ。知っているわけはなかった。初めて土を踏む島なのだ。そこで代わりにこう言った。
「あまりにも美しいものを見ると、人間って、悲しくなるじゃない。そう思わない?」
「そうかなあ」
と竜介は首をかしげた。
「そうよ。悲しくなるのよ」
それから彼女は、わざと気持をひきたてるように、さっさと先に立って歩きだした。
空港の別荘管理事務所で、鍵と地図とを受け取ってから、二人はレンタル・スーパーバイクを一台ずつ借りた。
「いったんきみを別荘まで送るよ。それから僕は茶花《ちやばな》の家に帰って、親たちに顔を見せてくる。二時頃迎えに行く。あっちこっち島を案内してあげるからね」
晶世はうなずいてスーパーバイクのスターターを力一杯踏んで走りだした。
「待てよ。行く先の地図も見ないで走り出しちゃだめだよ」
と慌てて竜介がスーパーバイクをスタートさせた。
「どうしてそっちの方角だってわかるんだよ?」
スーパーバイクを並べて走りながら彼が訊いた。
「どうしてかしら? ただわかるのよ」
晶世はキラリと瞳を光らせてスピードを上げると、椰子とガジュマルの密集する美しい密林の中へ、吸いこまれるように滑りこんでいった。
重なり合った熱帯樹木の葉の間を、太陽の木漏れ日が、宝石のように輝きながら射しこんでいた。名も知れないような南国特有の色あざやかな鳥が、時おり驚いたような叫びを上げて、前方から飛び立つのが見えた。晶世の口元にようやく微笑が滲んだ。
「この先にアジの神社があるけど、ちょっと寄っていく?」
と竜介が後から訊いた。
「アジの神社?」
小高い丘の頂上あたりで、スーパーバイクをとめて、晶世が訊き返した。ガジュマルの露出した根の透きまから、潮が引いたために珊瑚礁の中に浮きだした白浜が見えていた。
「統治者のことを、ここではアジというんだ。昔、源為朝がこの島に流れつき、その子供が作った神社だよ」
晶世は純白に輝く浮き島から視線を剥がして、竜介をみつめた。
「あとでね。みそぎをしてから」
そう言って再びスーパーバイクをスタートさせた。なんとなく上の空の表情だった。
「みそぎとは、きみも古めかしい言葉を使うんだね」
苦笑して、竜介は後を追った。晶世は聞こえないのか、何も言わずに、熱帯樹木がトンネルのように形作っている小道にスーパーバイクを滑りこませていった。
更に三キロほど行くと、小さな入り江をひかえた場所に出た。
「きみのお母さんが買ったっていう別荘は、どこにあるの?」
「多分この入り江の上にあると思うわ」
晶世は右手を指した。
「船倉に近いね」
と竜介はあたりを見回した。
「船倉……?」
「うん。為朝が流れついたといわれる場所さ」
二人は入り江を回りこんで少し高台へ出た。晶世の予想通り、彼女の母が最近買った別荘の裏庭のあたりに出た。
竜介はあたりの様子を眺めて眼を細めた。
「懐かしいなあ。このあたりは僕が子供の頃は一面のサトウキビ畑でさ。この別荘はいつ頃建ったんだろう?」
と彼は古い建物を見上げた。赤い琉球ガワラの屋根を、回廊のように支えている外柱が特徴の、一見マレーシアの民家のような構《かま》えである。
「よくわからないけど、十五年くらいじゃないかな」
「じゃ知らないわけだよ。その頃から四年間、親父の仕事の関係で鹿児島に住んでたから」
竜介は建物を離れて家の周囲を歩き出した。晶世の方はドアの鍵をあけ、荷物だけ入れておいて竜介に続いた。八月といえば、東京はうだるような気候だが、四方を海で囲まれた島は、けっこう涼しい風が吹き、ずっとしのぎ良い。しかし太陽の日射しは強烈である。二人は前庭を歩きまわり、前庭がそのまま続いている岩場まで降りた。
風と潮とで風化した奇岩が左右に一キロほど広がっていて、すぐ右手に船倉の突端がひかえていた。
「このあたりに直径三十センチばかりの丸い穴がひとつあいてると思うんだけど」
と彼は奇岩の間を覗きこんだ。
「何なの、それ?」
晶世は竜介に近づきながら訊いた。
「自然に潮の関係でできたつぼみたいな小さな穴なんだけどさ。あ、あった、あった」
と彼は浜ぼうふうの繁みをかきわけながら微笑をもらした。
「これ、僕たち子供だけの秘密の眼の井戸なんだ」
「眼の井戸?」
「うん。ほら、覗いてごらん」
と、竜介は浜ぼうふうの繁みを更にかきわけて晶世に言った。彼女はそこにかがみこんで中を覗いた。
「暗くてよくわからないけど、水がみえるわ」
「指を入れてごらん。それからなめてみて」
言われるとおり、晶世は暗い穴に指を浸した。ひんやりとした感触が指を包みこんだ。口に含むと、微かに甘みを感じさせる真水である。
「ね?」
眼の井戸とは言い得て妙であった。まるで、地の底から、外の世界を覗き見しているような穴だった。
「どれくらい深いの?」
と晶世は中をもう一度覗いた。
「わからない。でもかなり深いと思う」
「調べたことあるの?」
「まあね」
と竜介は笑った。
「子供の時さ、この中にヤドカリを落したことがあったんだよ」
「ヤドカリ……?」
晶世はひどくびっくりしたように眼を見張った。
「うん、ヤドカリ。知ってるだろう? 細長い貝で中に変なカニみたいのが入ってるやつさ。それがさ、すごい大きなヤドカリでさ。二つ」
「二つの、ヤドカリ……?」
晶世は胸を押えた。なぜか心臓がドキドキするのだった。
「あんまり当時のこと詳しく覚えてないけどさ、東京から来たおじさんみたいな人がくれたんだよ。別にヤドカリなんて珍しくもなんともないからさ。僕と弟とで、この眼の井戸の中に一個ずつ落しちゃったんだけどね」
と言って竜介は当時を思いだすように言った。
「だけど後になって少し心配になったんだよ。というのは、その東京から来た人がヤドカリの他に当時のお金で千円くれてね、アジ神社に持って行ってくれとか言ったことが気になりだしたんだ」
そこで竜介は言葉を切り両手で水を汲み上げ、それを美味《うま》そうに喉へ流しこんだ。
「うまい」
そう言って、彼はもう一度両手で汲み上げると日にかざして見た。透明でキラキラ光る水が彼の掌に溜っていた。「柔らかくて、冷たい。飲んでごらんよ」
言われたとおり、晶世も両手ですくって飲み、余った分で顔を洗った。とても気持が良かった。それは単に冷たいとか、きれいな水だとかいうせいだけではない何か別のハッピーな感覚だった。
「それで、どうしたの?」
と晶世は、ハンカチーフで、濡れた顔を拭きながら質問した。
「アジの神さまのたたりがあるとヤバいと思ったからさ、弟とまたここへ引き返して来ていろいろやってみたんだけど、だめだった。四メートルの竹の先にアミをかけて探ったんだけど、まだまだ底に届かないんだよ」
「それじゃ、そのヤドカリは、まだそれっきり、この井戸の底にひとつずつ、沈んでいるわけね?」
「と、思うよ」
「それで、どうだったの? タタリの方はあったの?」
晶世は笑いながら、立ち上がった。
「別にこれといってなかったな。だもんだから、今日まであのヤドカリのことなんて、完全に忘れていたものね」
小さな穴の上に、再び浜ぼうふうの繁みを広げて目立たないようにしながら、竜介が答えた。
二人は家のところまで一緒に引き返し、二時に彼が迎えにくることを約束しあうと、いったんそこで別れた。
一人っきりになると、晶世は、またしても、胸をそっとしめつけられるような、淋しさを覚えた。それは、空気の中や、空気に含まれる匂いの中にある何かだった。その何かが彼女を、眼にみえない真綿のように、そっとくるんでせつなくしめあげるような気がしてならなかった。
コロンブス計画訓練基地への出入りには、厳格なチェックがあった。カメラやビデオカメラ、テープレコーダーの類は全て入口のところへあずけさせられ、念入りな身体検査の末、ようやく入場が許された。
マリコは胸に、名前と移住組であることを示すC印のついたバッジをつけ、星良の方は、ヴィジターのV印と名前をつけなければならなかった。
見送りは家族あるいはそれに相当する者のみに限られ、星良の場合は婚約者ということで、かなり押し問答があった末に、許されたのである。
「婚約者は認めない」
と、受付のソ連の役人が言ったのだ。
「僕は彼女とあくまでも結婚したいと思っているが、仕事の関係上、どうしても一緒に行けない。この計画が僕たちの関係を引き裂いたのだ。だから僕はあくまでも婚約したまま、彼女を待つつもりだ。この計画が途中で失敗するか中止になるか、どちらかであることを祈っている」
星良は通訳を通じて、表情も変えずにそう言った。それを聞いてアメリカの役人が、「まあいいじゃないか」と肩を持ってくれたのだ。
訓練場の中に通されると星良はマリコの腕を取って耳元で囁いた。
「今言ったこと、まんざら嘘じゃないよ。俺はあくまでもこの計画が中止になることを願っている」
するとマリコは悲しそうに表情を歪めた。
「中止になったらどうするの? また私たち、あの惨めな関係を続けるの?」
それに対して星良は返すべき言葉がなかった。
星良は、他の外部の関係者と一緒に、宇宙船メイフラワー二世号内部の見学を許された。それは流麗な姿をしていて、むだな線や余分な線は一本もなかった。彼は乗船する前に、船体を優しく指で撫でてみた。やがて彼らはゾロゾロとタラップを登り、巨大な円盤の底に口をあけている、出入口の中に吸いこまれるように入って行った。
「この中は一口で言うとハチの巣のような作りになっています。限られた空間を無駄なく利用するために、それぞれ目的に応じた大小の部屋が無数にあるわけです」
案内係の女性はイギリス人らしく、少し鼻にかかったスノッブな発音で説明した。
星良が質問した。
「人口が増加した場合の住宅空間はどうなるのですか?」
「二世代分の空間はあります。しかしいったん宇宙空間に出てしまえば、宇宙船の形は流線形である必要はありません。人口増加に応じて外へ建て増していけば良いのです」
見学者は三十人ずつのグループに分けられ、エレベーターに分乗して上へ上った。
人工太陽光線がさんさんと降り注ぐ広大な広場である。
「ここは、農耕専用地です。広さはおよそ六十エーカー。しかも三層に分けて使いますから、その三倍百八十エーカーになります。人工太陽があたらない下の二層は、πウォーターによる水栽培によって作物を作ります。この農作に従事するのは専用ロボット三十体。二十四時間体制で働きます。では次に、隊員たちのアパートの一部をご覧に入れましょう」
再びエレベーターで上昇。
星良たち見学者は、四人家族用のファミリータイプAというアパートと、単身者用のシングルBという部屋を見せられた。
とうてい広々としているとはいえないが、プリズムガラス使用のため、どの部屋からも外が見えるような設計になっている。テラスがあり、そこには植物が繁り、本物の小鳥が止っている。ペットの持ちこみは許されており、ほとんどの家族移住者は犬か猫を飼う予定であるという。
「メイフラワー二世号の乗組員の国籍についてよく訊かれますが、我々の国籍はひとつ、『地球人』です」
と案内係の説明が続いていた。星良が見たかぎりありとあらゆる国籍の顔があった。しかし乗組員の半数はアメリカ人とロシア人であることは、誰れの眼にも明らかだった。当然のことながら、中国籍の中国人は除外されている。彼らは彼らだけの宇宙船、というよりは、放浪する都市とも呼べる巨大なスペースを建設中であった。中国人による中国人のための宇宙計画というスローガンである。
独身者用の住居スペースは、少し大きめのホテルルームのような作りで、やはりベランダと小鳥つき。クローゼットがたっぷりと取ってあり、簡単な料理が作れるキチネットつきである。
「メイフラワー二世号の中には、レストランがいくつかあり、独身者だけではなく、ファミリーも利用できます。他にも映画、演劇、音楽会などが催されるシアターもあります。公共の設備としては他に水泳用のプールが三つ、テニスコートが十面、ミニゴルフ場などがあり――」
星良は、独身者のためのアパートを眺めまわし、この中にマリコが住み、少しずつ老い、やがて死んでいくことを想像した。
もちろん、マリコは一生独身で通す必要はないし、誰れかを好きになり結婚をすることもできる。そして子供が生まれ、ファミリータイプAという住いに住むようになるかもしれない。
シングルBタイプからファミリータイプAへの変身。それは距離にして数メートルの変化である。星良は息苦しくなり、人々の群れを離れようとした。
「ヴィジター番号二百六十一番の方、グループを離れないようお願い致します」
案内係が鋭く言った。V261は星良の胸についている番号だった。
「何しろ、迷路みたいに複雑に入り組んでいる小都市のようなものですからね。迷子になったら大変なのです」
案内係は少し口調を柔らげて言った。
「以上の説明のように、乗組員の日常は、おそらく、地球上での日常より多少の勤勉さを強いられるかもしれません。ほとんど全員が何らかの肉体及び精神労働者として、四交代で六時間ずつ働きます。単調になることを避けるために、学童を除くすべての乗組員は、二つの職業をもつことになります。すでに地球上で、その傾向が広がりつつありますが、メイフラワー二世号では、それを徹底させます。たとえばオンデイに外科医をしている人が、オフデイでパンを焼くとか、コンピューター関係の技師が、オフデイではテレビ局でドラマ制作のサブディレクターとして働くといった具合です」
星良は窓のひとつから下を見下ろした。ちょうど、高層ビルの四十階ほどの位置から見るような感じだった。人間も車も豆つぶのように見えていた。彼は視線を更に転じた。基地の向こうに、樹木が繁り、その先は海岸に通じている。レースのような波が砂浜を同じリズムで洗っている。水平線には、他の島影がうっすらと見える。この美しい地球を立ち去ることなんて、星良にはとうていできないと思った。この地球が終る時が来れば、それが自分の命の終りなのだ。それでいいではないか。
いずれにしろ、彼にはしなければならないことがあった。今はともかく、ミュージカル『アイランド』に賭けることだ。彼はミクロネシアの蒼《あお》い海に、あの美しいユンヌの島影を重ねて見ていた。
ちょうどその頃、廻陽子はヨロン島の古い別荘のパティオで、冷たいレモンティーを飲んでいた。彼女は少し前に東京から着いたばかりだが、晶世は入れ違いに泳ぎに出かけてしまっていて留守だった。
メモが残してあり、ランチまでには帰るということだった。陽子の頭上にはぶどう棚があり、青々とした葉を繁らせていた。海からの風で、ぶどうの葉が乾いた音をたてていた。昨夜はパーティーが二つあって、その両方に顔を出した後、誰れかが香港《ホンコン》の夜景を見ながらシャンパンが飲みたいと気まぐれに言いだしたことから、深夜近くに小型ジェット機を割り勘でチャーターして、香港へ飛んだのだ。そしてヴィクトリアピークの途中に作られた「ブレステイキング・ビュー・ホテル」という妙な名前の――はっと息を呑むほど美しい景観ホテルとでも翻訳するのか――ホテルのラウンジに席を取り、輝く夜景を眼下に眺めながらカリフォルニアの特上シャンパンを十人で四本空にしたのだった。
香港は一九九七年にイギリスから中国に返還されたが、中国政府の政策で、その後もひきつづき自由貿易港として、世界の外貨を吸収しつづけていた。
朝方、東の空が白みだす頃、ひとりふたりと欠伸《あくび》を始め、それでは帰って寝ましょうかと、再び超小型ジェット機で東京へ舞い戻ったのだ。そんなわけで陽子は昨夜から一睡もしていなかった。潮の匂いを含んだ亜熱帯の風と、頭上でカサコソと優しく揺れる葉っぱの音を聞いているうちに、うとうととしかけた。うたた寝するには、この島は絶好の島だわ、とすっかり良い気持で、長椅子《ながいす》に躰をあずけると、彼女は眼を閉じた。そしてほどなくスヤスヤと寝息をたて始めたので、昼少し過ぎて晶世が泳ぎから戻ったのに気がつかなかった。
晶世はパティオを覗《のぞ》き、母が眠っているのを見ると微笑した。それからシャワーを浴び、冷蔵庫をあけて、昨日発見した小さなくぼみから汲みとって空びんにつめておいた水をグラスに注いだ。その水を飲んでいらい、他の水は飲めなくなってしまった。クリスタルのような味わいの水であった。
母が自然に眼を覚ますまで待つつもりだった。ふと見ると、居間の椅子の上に、開きかけの陽子のワンナイト・バッグが見えた。音楽雑誌の最新号と楽譜のようなものが、もう少しでバッグから落ちそうになっている。晶世は歩いて行って、それを元に戻しておこうと取り上げた。
ふと雑誌の表紙を見て、彼女は興味を魅《ひ》かれた。彼女はその場に座りこんで頁をめくっていった。
それは青野竜介が編集している音楽雑誌の出たばかりの号であった。目次の中に星良雅也の名前をみつけて、晶世は頁を更に進めた。このところ、星良雅也という名を、いろいろなところで聞かされていた。どんな男性なのか、彼女は少なからず興味を抱いた。
『今月の人』というインタビューで、二頁にまたがるように、星良の顔写真が印刷されていた。うつむきかげんに笑っている歯がひどく印象的だった。彼女はじっとその写真の男の顔をみつめた。それから、インタビューを読み、もう一度写真をじっと見た。
なんだかよく知っている人のような気がしてならなかった。もっとも星良の話は、母の陽子からも聞かされていたし、竜介も彼のファンで、よく口にしていたから、知っているような気がするのはそのせいだろう。
晶世は音楽雑誌を閉じて、楽譜の上に置いた。それから、はっとして、もう一度雑誌を取りのけると楽譜に視線をこらした。
――ミュージカル『アイランド』のためのアリアという英語のタイトルがあり、右手に作曲者の名前及び作詞者の名が書いてある。作曲はJ・チャイコフスキー。作詞はマサヤ・セイラ。母が世界中手をつくして、三オクターブの声域をもつソプラノ歌手を探していたのは、どうやらこの曲らしいと、晶世は譜面を手に取った。
――わたしの心になぜか涙が降る――
という歌いだしで始まっていた。彼女は初見《しよけん》で、静かに歌ってみた。
――わたしの心になぜか涙が降る
いつの頃からか
このわびしさはどこからくるのだろう?
おお雨の音
しのび泣く
なんという雨の歌
今日も涙の雨は、私を孤独の中に閉じこめる。
そしてこの悲しみには理由がない。
背いたひとさえいないのに……。
愛もなく、憎しみもないのに、
心はこんなにもいたむのだ――
歌いながら、晶世は知らずに泣いていた。そのメロディも歌詞も、彼女の心情にぴったりとはまっていた。この島に足を踏み入れて以来、晶世が感じていたのは、このことだったのだ。心に雨が降る感じ。理由もない悲しみに心がしめつけられるような感じ。星良の歌詞はそれをぴたりと言いあてていた。
けれども、心の中に涙の雨が降るような感じは、ある意味で、晶世にもの心がつくかつかないうちからとりついていた感情でもあった。友だちは、彼女を単にセンチメンタルだと評したが……。心に降る涙の雨と晶世は、常に共存してきたような気がする。彼女はもう一度楽譜を取り上げると初めから歌い直した。
陽子は家の中から響いてくる不思議な歌声で眼を覚ました。一瞬自分がどこで眼覚めたのかわからなかった。頭の上にはぶどうの葉が繁り、その透きまから、青い高い空が見えていた。そしてあたりには潮を含んだ濃いオゾンがたちこめていた。
次の瞬間、記憶が戻った。今彼女はヨロン島の東海岸の別荘のパティオにいて、あの声は晶世が歌っている星良とJ・チャイコフスキーの『アイランド』のアリアなのだ。晶世に楽譜を見せるつもりで持って来ておいたのだ。
――おお雨の音
しのび泣く
なんという雨の歌――
魂を鷲《わし》づかみにされ、激しく揺さぶられる思いで、陽子は椅子から飛び上がった。それから足音を忍ばせて家に入ると、窓の近くに投げだしておいた小型のワンナイト・バッグの中から、超高性能カセットを取りだして、スイッチを入れた。
晶世は最後まで歌うとふりむいて母を見た。
二人は声もなくみつめあった。あんただったのね、やっぱり。陽子はそう胸の中で呟《つぶや》いた。
「ママ……。この歌、私……」
晶世は胸が一杯で言葉が意味をなさない。
「いいのよ、わかっているわ」
両手を娘に差しのべながら陽子は言い、晶世を胸にかき抱いた。
「ママには、何もかもわかっているのよ」
「何もかも?」
「ええ、そう。あんたは『アイランド』に出るのよ」
「ママもそう思う? あたしもよ。今の聴いたでしょう? あれを歌っていると、それがわかるの。あたし、『アイランド』で歌わなくてはいけないんだって気がするの。でもなぜだかわからない」
「それはね」
と抱擁を解きながら陽子が優しく言った。「いずれわかるわ。『アイランド』の脚本を読めば、あんたがなぜあのアリアを歌うような運命なのか、すべてがはっきりとわかるわ」
「その脚本は今どこにあるの?」
晶世は震える声で訊いた。
「星良雅也のここよ」
と、陽子は額を指で突いた。
「あるいはここかしら」
と今度は心臓のあたりをおさえた。
「でも、もうすぐに彼は書き始めるはずよ。この楽譜と、彼の書いたレジメと、もしあんたがこのアリアをテープに入れてくれたら、その三つをイギリスのブリティッシュ・シネマのプロデューサーのところへ持って行くつもりなの。ママの予感だけど、星良雅也の今度のミュージカルは、プレゼンテーションを文句なく通過するわ。まあ見ていなさい」
それから陽子は楽譜を娘にもう一度渡して言った。
「あんたの声をテープに入れて星良雅也にすぐにでも聴かせたいのよ。初めから歌ってくれる?」
「ここで?」
と晶世は首をふった。
「仮りにもプロが聴くんでしょう? 星良雅也にしたってブリティッシュ・シネマにしたって、プロなんでしょう? こんな雑音の入るところで、しかも無伴奏で歌うなんて、とんでもないわ、ママ」
「でも急ぐのよ」
「だったら東京に帰って、ママのところの録音スタジオできちっと入れましょうよ」
「わかったわ。とにかく星良雅也と連絡を取ってみるわ」
陽子は、部屋の片すみにある、おそろしく旧式の電話を取り上げた。こんな原始的な代物がまだ残っていること自体信じがたかった。使えないのではないかと一瞬不安が胸を掠《かす》めた。しかし受話器を外すとツーという通信音が耳に突き刺さるくらい響いた。
タッチ式ではなくダイヤルを回して、星良の自宅を呼びだした。アンサフォン装置が働くカチリという音がして、星良の声が答えた。
「こちらは星良雅也。私用で休暇を取っています。日曜日の夜まで戻りません。緊急の場合のみ、次のコードナンバーにおかけ下さい。CH001491264。くりかえします。緊急の番号は、CH001491264です」
陽子はメモを取りながら、
「緊急よこれは。だって日曜の夜を待ってから録音していたんじゃ、間に合わないもの」
と自分に言い聞かせた。
「彼は今どこなの?」
と晶世が訊いた。
「わからないわ。なんでもガールフレンドが宇宙旅行に出かけるんだそうよ。それでどこかの島にある基地に見送りに出かけているのよ」
陽子はそう言って、コードナンバーCH001を申しこむために、国際電話局に申しこんだ。何しろ古い機種なので、ABCのついたボタンがないのである。
やがて電話が相手につながった。
「コロンブス計画本部、外来者セクションです」
という機械的な声がした。
「ヴィジターのミスター・M・セイラをお願いします」
「国籍は?」
「日本です」
「どなたのヴィジターでしょうか?」
陽子はハタと困った。確かマリコとか言う女性だったが……。
「マリコ。それしかわかりません」
「その名の女性は二人います。 一人はアメリカ国籍、 もうひとりは日本人のマリコ・ヤマシタです」
「そう、マリコ・ヤマシタだと思います」
「お待ち下さい」
コンピューター回線を回るバチバチという音がして、別の声が出た。
「どなたをお呼びしましょう?」
「日本人のヴィジターでミスター・M・セイラをお願いします」
「少しお待ちを」
やがて電話の中に、マイクの音が聞こえて来た。
――ヴィジター番号二六一、ミスター・M・セイラ。日本から緊急電話がかかっています。すぐ最寄りのテレフォンをおとり下さい――
更に数十秒待った。
「もしもし、星良ですが」
といきなり声がした。
「あら、今日は。とても近くに聞こえるわ」
「やあ、今どこ?」
「例のヨロンの別荘から。せっかくの休暇中悪いと思ったのだけど、三オクターブの声がついにみつかったわ。本格的にオーケストラと合わせる前に、テープを聴いてもらいたいんだけど、そっちへ送れるかしら?」
「ちょっと待って、調べるから」
星良が電話の前を離れる気配がして、かなり待たされた。再び彼が戻って来て言った。「外部からの物流パイプラインも広帯域データ回線も使えないそうだ。郵便なら、マリコ・ヤマシタ気付で受けつけるというんだが――」
「そうなの。困ったわね。あなたはどうしても明日一杯そっちにいなければならないんでしょう?」
「そうしたいと思っている」
慎重に星良はそう言った。
「じゃ私の独断で、音入れするけどかまわない? 多分、このテープがブリティッシュ・シネマに渡ることになると思うけど」
「あんたにまかせる。あんたならまかせられるからね」
「じゃ、そっちから戻ったら、東京の方に電話をちょうだい。いずれにしろ録音テープはあなたが戻る前に八ケ岳の方へ送っておくわ。それから私は日曜日の夜のうちにそれを持ってロンドンに発つから、入れ違いになると思うわ」
「うんわかった。幸運を祈るよ」
「私もよ」
「それから――」
と星良は言った。「最後まで努力してくれて、うれしいよ。誰れだかは知らないけど、そのソプラノ歌手の声を聴くのを楽しみにしているよ」
「ええ、そうしてちょうだい」
陽子は、どうしてもそれが自分の娘だとは電話では言えなかった。自分の娘を使うなんて、あまりにも安易に思われるのに違いないからだった。まず星良に声を聴かせ、もし彼がとても気に入ってから正体を明らかにしたって、遅いことはない。その時こそ、大いばりで、「実はあたしの娘なのよ」と言えるではないか。
電話を切ると、陽子は晶世に言った。
「というわけよ。ランチを食べたら、Uターンで東京へ逆戻りよ」
「ママにはお気の毒ね。せっかく来たばかりなのに」
晶世はクラブサンドイッチをテーブルに並べながら言った。
「いいのよ。あなたと仕事が出来るようになるなんて、夢にも思わなかったけど」
「何か飲む?」
冷蔵庫を覗きながら晶世が訊いた。
「何があるの?」
「何でもあるわよ。マンゴ、パパイヤ、オレンジ、パイナップル」
「あんたは何を飲むの?」
「あたしは自然のミネラルウォーター」
「じゃママもそれでいいわ」
晶世は海岸の「井戸」から汲んで来てあった水を入れたフラスコを手に、テーブルに戻った。
「あんたの友だちはいいの?」
サンドイッチをほおばりながら陽子が訊いた。
「竜介くん? いいのよ。もう島中案内してもらったから」
「島中? じゃアジの神社も行ったの?」
「うん」
「どうしたの? 急に浮かない顔して」
「あらそう?」
フラスコから冷えた水をコップに注ぎながら、晶世は少し微笑した。
「そうよ。急に変よ。何かあったの?」
「そういう訳じゃないの。ただ――」
「ただ?」
陽子はできるだけ穏やかに、娘を問いつめた。
「なんとなく、落ち着かないような気分だったの」
「どうして?」
そこで晶世は笑いだした。
「何がおかしいの?」
と陽子が怪訝《けげん》そうに言った。
「ごめんなさい。ただ、昨日も竜介くんがまるっきりママと同じこと言ったから。あたしが浮かない顔しているって。なんだか落ち着かないみたいだけどって。何か探しているのかって、訊いたわ」
「何か探していたの?」
「いいえ。いえ、わからないわ。そんなふうに見えたらしいのよ、彼にも。あたしが何か探しているみたいな眼をしていたって、あとでもう一度言われたわ」
「ふうん」
と言って、陽子は探るように晶世をみつめた。
「もしかして、ヤドカリじゃないの? あんたが探してたのは?」
「ヤドカリ?」
晶世はひどく驚いて母をみつめかえした。
「どうしてそんなに驚くの?」
陽子は静かに訊いた。
「別に」
となぜかうろたえながら晶世が言った。「ママが急に突っ拍子もないことを言いだすからよ。ヤドカリなら井戸の中にいるわよ、二つ」
「え? 井戸? どこの井戸?」
今度は陽子がひどく驚く番だった。彼女は思わず中腰になって、娘を見た。
「どうしたの? ママ。何をそんなに慌《あわ》てているのよ?」
晶世は落ち着いて、フラスコの水を口に含んだ。
「すぐそこにある小さな湧き水の出る場所よ。竜介くんが教えてくれたの。この水がそうよ。そこから汲んで来たの。ちょっと飲んでみてよ、ママ。ものすごく美味《おい》しいから」
「だってヤドカリが放りこまれているんでしょ。気持悪いわ。生臭くない?」
陽子は恐るおそる鼻を近づけて臭いをかいでみた。
「ちっとも。クリスタルみたいに澄んでいて、そんな味がするわ。それにお腹の中がすっきりするの。ついでに顔も洗うといいわよ。ほら、こんなにツルツルになって」
と晶世は頬をなぜてみせた。
「この島の水が肌にいいっていうのは、前から知ってたけどね」
と疑い深そうに、陽子は一口、水を口に含んだ。
なるほど、微かなあるかないかの甘味が舌に感じられるだけで、ひやりと冷たい。
「でも、湧き水なんて、あんまり飲まない方がいいと思うわよ。何が含まれているかわからないもの。一応水質検査してもらってからにしましょう」
「ママはそうしたかったら、そうしなさい」
晶世はそう言ってサンドイッチを食べ始めた。
いつだったか、星良が水のことで何か言っていなかったろうか? 特別の水があるというようなことを? 陽子はグラスの中の水をじっとみつめた。奇跡の水のことを星良は予言しなかったろうか?
もしかして? この水が……。陽子は顔をしかめた。私もどうかしてしまったのかしら。いずれにしろ水質検査をしたほうがいい。
「ランチの後で、その水をもう少し汲んで来てくれる?」
「冷蔵庫の中にまだ何本もフラスコにつめて入っているわ。お好きなのをどうぞ」
陽子は立って行って、フラスコを一本抜きとると忘れない内に、バッグの中に入れておいた。あとで東京に戻ってから、水質検査に出すつもりだった。
「ねえ、晶世。あんた、ヤドカリって聞いて、何も感じない?」
「どういう意味、ママ?」
食卓の上を片づけながら晶世が訊き返した。
「たとえば、ずっと昔、大きな川のそばで、ヤドカリを拾ったとか、そんな記憶はない?」
「いいえ。何も思いだせないわ」
「そうでしょうね」
天の川原を立ちのく時に、天の神は記憶を奪ったのだから、何も思いだせなくて当然なのだわ、と陽子は自分に言いきかせた。
「妙なこと訊くけど、あんた、メサイという名に何か思いあたらない?」
「メサイですって?」
「何か思いあたるの?」
陽子は躰を乗りだした。
「だって、ミラノの大学では、みんなあたしをそう呼ぶわ」
「メサイって?」
「ええ」
晶世はニッコリと笑って母に説明した。
「マサヨって発音ができないのよ、みんな。MASAYOというのを、MESAIYAっていうふうに呼ぶの。正確にはマとメの間ね。メサイアとか、マサヤとかメサイとかね。いろいろ呼ばれているうちに、なんとなくメサイっていうのが通り名になっちゃったのよ。でもどうして?」
「星良雅也の『アイランド』に出てくる主人公の名前がメサイと言うのよ」
なぜかわからぬ理由で鳥肌がさざなみのようにたつのを感じながら、陽子はそう言った。
「あらそう? 偶然なのね」
晶世はたいして驚く様子もなく、汚れた食器とグラスを洗い始めた。
「そのメサイという娘は、実は天に住んでいたのよ。年頃になって生理が始まると、身を清めるために、地上に降りて水浴みをしたの」
「その話なら私も知ってるわ」
水道の水音の中から晶世が言った。
「え? 知ってる?」
「羽衣伝説でしょう? 誰れだって知っているわよ」
「ええ、確かにそうよ。星良雅也は羽衣伝説に題材を取ったのよ。でも、天女のメサイが降りて来て水浴みをしたのはユンヌという美しい島の、浜井戸というところだったの。そこでミカドに見初められてしまうのよ」
「羽衣を隠されてしまうのね?」
濡れた手を拭きながら、晶世が言った。
「そうなの。それでしかたなく地上にとどまって、ミカドとの間に子供を生むの」
「三人ね」
晶世は遠い眼をして呟いた。
「どうして知っているの?」
「誰れだって、子供の頃に絵本を読めば、知っていてよ」
と晶世は笑った。陽子は絵本に子供のことが出ていただろうかと思ったが、自信がないので黙っていた。
「ある時長男が不思議な子守唄を唄うのよ。ヒンヨォサァ、イヨヨォサァって。それで、羽衣の隠し場所がわかってしまうの」
「それで天女は天へ帰ってしまうんでしょう?」
「ええそうよ。けれどもミカドはどうしても思いきれなくて、追いかけて行くのよ」
「普通の人が、どうやって天に昇れるの?」
「ママに聞かないでちょうだい。星良雅也だってわからないと思うわ。何しろ伝説なんだから、そういう理屈はなしなの」
陽子はバッグの中身をつめ直し、帰る仕度をしながら話を続けた。
「でも天の神はミカドが気に入らないの。それで無理難題をもちかけて、冬瓜《とうがん》を割らせてしまうの」
「川になるんでしょう? それが天の川なのね」
「よく知ってるわね」
「天の川の伝説読んだことあるもの。大好きなお話なので、暗記するくらいくりかえし読んだわ」
「それでミカドは川に流され、メサイとバラバラになってしまうのよ。一年に一度だけ、二人は七夕の夜に夫婦として逢うことが出来るだけなのよ」
「ママ、その話はもっと続くの? だったら帰りの飛行機の中で続きを聞くわ」
晶世はそう言って、自分の部屋に行くと、ウィークエンド用に持って来た荷物を、小型スーツケースにつめこみ始めた。
「というわけでね。二人は一年に一度の逢瀬《おうせ》にたえられなくなったの」
と、陽子は、東京に向かうスーパージェットの座席に落ち着くなり言った。
「そこで、メサイは父神にお願いすることにしたの。天から追放されてもいいから、もう一度ミカドと添わせて下さいって」
「それは何の伝説? 続きがあるなんて知らなかったわ」
あっという間に豆つぶのように小さくなったエメラルドグリーンの島影を眼で追いながら、晶世が訊いた。
「星良雅也伝説よ。このあとは、彼の創作なの。でも、ここからがすばらしいのよ。そしてとっても美しいの」
陽子はそう言って、娘の膝《ひざ》に置かれた手をそっと握りしめた。
「神さまは娘の願いをききとどけることにしたの。
その時、神様は、二人から記憶を取ってしまうのよ。だからいつか、何世紀もかかって地上に生まれ変わったとしても、二人はお互いが誰れだかわからない。出逢っても、相手がわからない。それでもいいのかって、神が訊くわ。メサイはいいですって答えるのよ」
「きっとわかるからよ。何か印があるはずよ。二人がその昔夫婦であったことを証明するような印が、きっとあるはずよ」
晶世は声をひそめてそう言った。
「まあいいから聞きなさい。二人が天の川からいよいよ追放される時になって、父神さまは娘が急にふびんになったのよ。そこでいくつか教えてやるのよ。いいこと、晶世。ここのところをよく訊くのよ。神さまは言うの。おまえたちは、ある美しい島で出逢うって」
「でも美しい島なんて、世界中に何万もあるわ」
晶世は思わず悲しそうな声で言った。
「でもね、川の一本も流れていない島というのは、そうめったにあるものじゃないわよ」
「川が一本もない島ですって?」
晶世が手をきつく握りしめた。「たしかヨロン島には川が一本もないはずよ。竜介くんがそう言ったわ」
それから、パッと晶世は表情を輝かせた。「わかったわ、それでヨロン島を舞台に使うのね。もともとヨロンを映画の舞台に使うために、星良雅也が考えだしたことだったのよね。あたしったら、頭がこんぐらかっちゃって……」
「どうこんぐらかったの?」
「ミカドに出逢えるのは、ヨロン島なのか、と」
「でもそうなのよ。ヨロン島で二人は再会するのよ」
「ええ、わかっているわ。星良さんの創った作り話のことでしょう?」
「そうよ。でも、他に何か思い当ることでもある?」
「そういうわけじゃないのよ」
晶世は沈んだ声でそう言った。
「でも、そんなこと教えられても、メサイもミカドも、記憶を奪われるんでしょう? 結局何も覚えていないんでしょう」
「ええそうよ。お話の中ではね。でもあんたは、覚えていられるでしょう?」
陽子は謎のように言って、口をつぐんだ。
「それから、二人は天の川から追放されるのよ。そして、チリのように小さな光となって、宇宙空間を気の遠くなるような長い歳月、漂い続けるの。再び地上にたどりつくまでね」
陽子はじっと晶世の横顔を眺めた。
「その話のそこのところ、ママが星良さんに入れ智恵したんでしょう?」
「どうして?」
「だって、あたしそういう夢をよく見るもの。ママにも、その話をしたはずよ」
「でもね」
と陽子はわざと一呼吸置いて言った。
「星良雅也は、そのストーリーを、あんたの夢の話をママが訊く前に作ったのよ」
二人は急に黙りこくった。
「とても暗いのよ。そして孤独なの。いつまでたっても自分以外に何もないの。自分さえもないの。チリみたいな小さな光でしかないの。それにママ、想像を絶するような長い歳月なのよ。あたしがくりかえし見る夢は――」
「その通りのことを、星良雅也はレジメに書いているわ」
「でも――」
と晶世の横顔が不安そうに曇った。
「どうして、彼は、そのことを知っているのだろう……」
「どうしてかしらね」
と言って陽子はずっと握っていた娘の手を離した。
彼女はあえてヤドカリの件は話さなかった。それと、二人が井戸のそばで出逢うというところも、言わなかった。なぜその二つのことを省略したのか、陽子は自分でもわからなかった。あえて理屈をつけるのなら、何かの眼に見えない力が、彼女にそれを言わせないよう作用したのかもしれない。
「ママ」
と横で晶世が言った。
「あたし、そのメサイという役が、なんだか私の役のような気がするの。もしもオーディションがあるのなら、是非受けてみたいわ」
「オーディションがあったら、教えるわよ」
陽子は安心させるようにそう答えた。
「きっとよ、ママ。あたし一生懸命やってみるわ。でもお願いがあるの。あたしが廻陽子の娘だっていうことは、オーディションの結果が出るまで伏せておいて欲しいのよ」
「ママの娘だからって、特別に点が甘くなるとは思えないけど」
「わかってるわ。でもその逆はあるかもよ。関係者の子供だっていうんで、点が辛くなるかもしれないじゃないの」
「そうね。星良雅也にはその恐れがあるかもしれないわね」
だから、陽子自身も晶世のことは今まで伏せていたのだ。
「いいわ、そうするわ。あんたが誰れかってことは、当分、誰れにも言わないわ。ただM・Mっていうだけにしましょう」
スーパージェット機の窓から、羽田空港の滑走路がもう見え始めていた。二人は羽田からまっすぐ銀座東六十四番街の陽子のオフィスに向かい、録音室で『アイランド』のテーマ曲を録音すると、テープを三つ取り、そのひとつを星良雅也あてに物流パイプラインで流しておいた。ひとつは日曜日の夕方、陽子がロンドンにもって行く分で、マザーテープは、オフィスの彼女の机の引きだしに、いったんしまわれた。
晶世は、陽子と東京湾の埋立て地に立つコンドミニアムには帰らず、とんぼ返りで再びヨロン島に向かった。竜介に何も言わずに出て来てしまったことと、まだ休暇が明日一杯あるからだった。
「すっかりあの島が気に入ったようね」
と陽子は別れ際に言った。
「ええ、とても好きよ。とりわけママが買った古くさい別荘が気に入ったのよ。あそこにピアノを入れてもいい?」
「それはいいけど、あのままじゃ潮風と湿気でピアノ線がすぐにだめになるわ。少し家の修理をして、湿気対策をした後にしたほうがいいと思うわ」
「そうね、そうするわ」
「ああそうだ、もう少しで忘れるところだったわ」
と、陽子は電話を取り上げて、マイク内田の自宅を呼びだした。
「よかったわ、つかまって」
テレビ電話を見ながら、陽子はホッとして言った。
「今さっき、スポーツクラブから帰って来たところですよ」
オフデイのマイクは、千葉県のスポーツクラブで、水上スキーとウィンド・サーフィンのインストラクターをしているのである。
「実は私もヨロン島から戻って来たばかりなの」
そう言って陽子はバッグの中から、フラスコを取りだした。
「何ですか、それは?」
とマイクが画面の中から訊いた。
「水よ。ヨロンの水」
陽子はそれをちょっとふってみせた。
「ところで、マイク。あなたの兄さんだか弟だか、どっちか忘れたけど、世界ウォーターシステム社の日本支社に勤めていた人がいなかった?」
「いますよ。でも従兄ですが」
「やっぱりそうだった? よかったわ。ひとつお願いがあるのよ。この水を調べてもらいたいの」
「何ですか? どんな水なんです?」
「ヤドカリが入っている井戸の水なのよ」
「ヤドカリですって? じゃ、みつかったんですか、例の井戸?」
「それはまた別の時に話すわ。とにかく、大急ぎで水質と成分だけでも、その従兄って人に調べてもらいたいのよ」
「なぜまたそんなに急ぐんです?」
「うちの娘が、飲み水に使っているからよ。躰に毒になるものでも入っていたら大変でしょう?」
「だとしたら、もう遅いんじゃないですか?」
「バカなこと言ってふざけていないでちょうだい。お願いできる?」
「何とかしましょう。いったんボクの家にその水を送って下さい。従兄を探して、わかりしだいお知らせしますよ。要するに飲料水に適しているかどうかだけでもわかればいいんですね?」
「そのひと、つかまる?」
「多分ね。あいつはオフデイにチャーターヘリのパイロットをしてますからね、空のどこかにいるでしょう。しかし、研究所へ行くのは、明日の朝になりますよ。もっとも日曜の朝、あいつを研究所へ差しむけることが出来ればの話ですがね」
「なんとか頼んでみてちょうだい。結果がわかり次第、午後の二時までだったら私のところに、それ以後はヨロンの娘の所に、直接知らせてあげて。私は二時過ぎにロンドンへ出発するから」
「いよいよですね。例の歌、お嬢さん、どうでした? 使えそうですか」
「そのことだけど、マイク。彼女の声で吹きこんだわ。興味があるならマザーテープは私の引き出しの中よ」
「もちろん、興味があるにきまっていますよ。何しろ僕は三オクターブの声を求めてアンデスの山奥から、ローマまで飛び回ったんですからね。灯台|下《もと》暗しとはこのことですよ。明日、スポーツクラブに行く前に、そこへ寄って聞かせてもらいますよ」
「そうしたら、一言、私のところに感想を聞かせてもらえる?」
「オーケイ。必ず電話します」
「ありがとう。なんだか、自分のことみたいにドキドキしてるわ。ああそれからマイク。この件だけど、星良雅也には、誰れが歌っているかってこと、しばらく伏せておいてほしいの。自分の娘に歌わしたなんて、安易に思われたくないのよ」
「しかし、アンデスの歌姫より、ギリシャのカンツォーネ歌手より、冷静に聴いて、いいんでしょうね」
「ええ。冷静に聴いて、いいと思うわ」
「じゃ、何を恥じることがあるんです? ボクはあなたの耳を信じますよ。いずれにしろ、あなたからオーケイが出るまで、おっしゃる通りにしますよ」
電話を切ると、廻陽子はフラスコを、密封容器に入れ直して、アドレスを書き、物流パイプラインに放りこんだ。木更津《きさらづ》の彼の家まで、十五分で到着するはずである。
「ママ、ひとつ頼みがあるんだけど」
と晶世が背後から言った。
「ママがロンドンに持っていくレジメのコピーはない?」
「あるわよ。英文と日本文と両方」
「じゃ日本語のほうを一部貸してくれる? 読みたいんだけど」
「もちろんよ」
陽子は机の引きだしから、『アイランド』の日本語のレジメのコピーを一部取り出して来てから、娘に渡した。
「本当はもう少し後でと思ったんだけど――」
「どうして?」
「だって、この話がプレゼンテーションで受かるかどうか、今の段階じゃわからないのよ。だめになるかもしれない」
「そうね。でもたとえ、プレゼンテーションに通らなくても、読んでみたいの」
「あなたがそう言いだしたことに、意味があるんでしょうよ」
「ありがとう。明日、むこうでゆっくり読むことにするわ」
晶世はそう言って、レジメをバッグの中に大切そうにしまいこんだ。
「今のマイクとの話聞いてたでしょう? もしも水に何か問題があれば、彼からヨロンに連絡が行くと思うから」
「ええ、わかっているわ。でもママ、あの水のことは心配することはないわよ。マイクの言うのが正しいわ。躰に悪いものが入っていれば、今頃あたしお腹を悪くして、寝こんでいるはずよ」
それどころか、はつらつとした表情で晶世は出口に向かって歩きだした。
水面に浮かぶマッシュルーム形をした小島に、特殊なスポットライトが当っていた。パラオ諸島にはそうした大小の小島が全部で二百余りもある。
「私の願いを聞いてくれる?」
とマリコが言った。ゲスト用のレストランの中は、大半の人がすでに夕食を終えてしまったので、がらんとしていた。キャンドルライトも、燃えつきていた。
「願いにもよるね」
窓の外の満月を眺めながら、星良が答えた。銀色の月影が、海面を左右まっぷたつに二分していた。椰子《やし》は黒々としたシルエットを見せている。
「一緒に銀河系の旅に出ろというのなら、俺の答えはノーだよ」
冗談のつもりだったが、口に出してみるとユーモアのかけらもないことに気づいた。星良は自分の言葉を反省し、謝るような眼でマリコを見た。
「もちろんよ。そんなことしたら、あたし、あなたから逃げだすことにはならないもの」
重苦しい沈黙が流れた。
「で、きみの願いって何なの?」
星良がようやく、沈黙を破って訊いた。
「今夜、泊らないで帰ってもらいたいの」
海面を二分する銀色の月の影に眼をやりながら、マリコがひっそりと言った。
「最後の夜なんだよ」
驚いて星良が言った。
「ええ。だからこそなの。最後の夜を意識したくないの。最後の夜。最後のセックス。最後のキス。最後の夜明け――。あなたと、最後の何か、っていうのを一緒にしたくないの。この意味、わかってもらえる?」
静かな声だった。決意が滲《にじ》んでいた。
「いつから、そんなことを考えていたの?」
と星良が訊いた。
「たった今よ。夕食が終わった後……。でも夕食が終わっていてよかったわ。あなたとする最後の夕食だなんて思ったら、きっとあたし一口も食べられなかったわ。きっと泣きだしていたと思うわ」
マリコの大きな眼に、キラリと涙が光った。
「帰ってくれる?」
「今すぐにかい?」
「そう。今すぐによ。あたしが泣きだす前に」
彼女が涙をけんめいにこらえているのがわかった。
「きみがしてほしいようにするよ。もしもそれがきみのほんとうの気持なら――」
「ほんとうの気持よ」
星良から顔を背《そむ》けながら、マリコが立ち上がった。
「俺の気持は違うんだよ。俺の気持だけを言えば、今夜はきみを胸に抱いて、朝まで、きみを愛し続けたい」
「もう止めて。それ以上何も言わないで」
「わかった」
星良も椅子を引いて立ち上がった。
「あたしはもう少しここにいるわ。あなただけ、出て行って。あなたが出て行く後ろ姿を見送りたいの」
「きみがそうしろというのなら――」
星良はお別れをしようと、両腕にマリコを抱きかけた。彼女は鋭い悲鳴のような声を小さく上げると、後退《あとじさ》った。
「お別れなんていや。さあ行ってちょうだい」
星良は空しく両手を降ろすと、マリコに最後の一瞥《いちべつ》を与えた。
「さあ、行って」
踵《きびす》を返して、テーブルの間を出口に向かった。感情が激してきて耐えがたかった。彼女が何と言おうとも、今夜はここに止《とど》まるべきではないか。彼は激しく迷った。
「ふりむかないで」
マリコの声が背中に、シャープなナイフのように切りつけてきた。
「おねがいよ。ふりむかないで。そのまま歩み去って」
その声の哀切さに、星良の足がすくんだ。
「立ち止まらないで。あたしが可哀想だと思うんなら、早くして。こんな辛い場面を長引かさないで」
とぎれとぎれの悲しみに溢れた声だった。星良はよろめくように先に進んだ。ふりかえりたかった。これほど、後ろをふりむきたいという衝動にかられたことはなかった。けれどもふりむいてしまったら、マリコのところまで一気に逆戻りだろう。星良は歯を喰いしばり自動扉《オート・ドア》の外へ出た。背後に扉の閉まる音がした。とたんに彼はふりむいた。ぴったりと閉ざしたスチールの扉の、灰色の無表情な顔があるだけだった。
自分から歩み出て来たのにもかかわらず、彼は閉めだされ、追放されたような気がしていた。同情すべくは、マリコなのに、自分こそ、天涯孤独な孤児のような気がした。彼は八ケ岳の家を思った。彼を待つものとて、ロボット一体しかいない、あのガランとした美しい家を思った。
彼はエレベーターで受付にむかい飛行場までのタクシーを頼んだ。係員が彼の顔をみないようにしていたが、その理由が彼にはわからなかった。星良は自分が涙を流していることにさえ、気がつかないほど、悲しみに打ちのめされてしまっていた。
彼はやって来たタクシーに乗り、誘導されるまま飛行機に乗り、三時間後に東京国際空港に降り立っていた。それからリニア・モーターカーの行き先を家に合わせ、自動運転にセットすると眼を閉じた。数時間前に、南太平洋で見た満月は、今や西の空に沈みかけていた。
玄関を入ると、ロボットがひっそりと星良を迎え入れた。その青ざめたロボットの頬を見ると、星良はこう言ってやらずにはおれなかった。
「またおまえと二人きりの人生だよ。よろしくな」
星良はそう言って、デヴィッドの肩に手をおいた。青いガラス玉の瞳が場違いなほど、美しく輝いていた。
「今夜は疲れてるんだ。話し相手になれなくて悪いけど、すぐに眠るよ」
パイプラインの受け口にある小さな郵便物を取り上げながら彼は呟いた。郵便物は、どうやら廻陽子からの例のテープらしい。明日の朝、と彼は思った。この、なんともいえない淋しさから逃れるのには、眠りしかなさそうだった。
彼は脳波トリートメント装置をセットした。一分もたたないうちに、星良の頭の中は灰色の霧でもうろうとなった。そしてその三十秒後には彼は眠っていた。
翌日、星良が眼を覚ましたのは、十二時を少し回った時刻だった。猛烈な頭痛がして、頭がわれそうだった。
頭痛薬を水なしで噛《か》みくだいた。三十秒で頭痛は直ったが、頭のしんに重さが残っていた。彼はコーヒーをたて続けに三杯飲み、胃が痛み始めたので、今度は胃薬を呑み下した。酒と薬の日々かと自嘲しつつ、昨夜放りだしてあった、廻陽子からのカセットテープを仕事部屋へ持ちこんだ。機械類やコンピューターを見ると、わずかに吐き気を覚えた。彼は、マリコを思い、南の島と海を思った。
テープから歌が聞こえ始めると、神経をそちらに集中した。彼は頭を垂れて聴いた。歌が終わると巻き直してもう一度聴いた。四度聴き直してから、陽子に電話を入れた。
旅仕度をととのえた服装で、陽子がテレビ電話に出た。
「あら、帰っていたの?」
驚いたように彼女が眼を見開いた。
「どうしたの、その顔。一年近く牢屋に入っていた男みたいにやつれてるわよ」
「その通り、正にそんな気分だよ」
「いつ帰ったの?」
「昨夜。というより今朝かな。それで、今、例の歌、聴いたよ」
「どうだった?」
陽子が息をつめるようにして訊いた。
「何ていうか……」
と星良は言葉を探すように宙を見た。
「四回聴いたよ」
「で、どう思ったの? 急いで聞かせてよ。あと一、二分でロンドンへ行かなくちゃいけないのよ。良かったの、悪かったの? 私、このカセットをロンドンに持って行っていいの?」
星良の反応がにぶいのに苛立《いらだ》って、陽子がまくしたてた。
「ロンドンへ、持って行ってもらって、結構だよ」
「あらまあ」
と拍子ぬけしたように陽子が呟いた。
「それだけなの? 感想はないの?」
「感想は山ほどある。どこから始めていいか、わからないだけだよ」
「良かったのね?」
じれったそうに陽子が念を押した。
「うん、良かった。ここまでとは予想してもいなかった。彼女に逢いたい」
「え?」
「あれを歌った女性に逢いたいと言ったんだ」
「今すぐに?」
「いけないかい」
陽子は眉を寄せた。
「今、東京にはいないわ」
「どこへでも行くよ。彼女に逢わなくちゃならないんだ」
「なぜ?」
「なぜだって?」
星良は眼を瞬いた。「なぜでもだよ。なぜって、あの声は、俺が頭の中で想像していた声そのものなんだ」
「悪いけど、星良、私もう出かけなくちゃ。飛行機に乗り遅れちゃうわ。これ以上話はできないの。向こうに着いたらすぐに電話をするわ」
「もしもし、せめて、歌手の名前ぐらい――」
そこで画面が白濁して陽子の姿が消えた。
ガジュマルの古木の背後に夕陽が沈みかけていた。島は、茜《あかね》色とバラ色に包まれ、珊瑚礁の中は湖のように静かだった。
ココ椰子は、めくるめくような夕陽色の中で次第に黒いシルエットに変わりつつあった。あたりには潮の香りが一段と濃くたちこめていた。
晶世は、『アイランド』のレジメの最後の行から眼を上げて、黒いシルエットの背後に、まさに沈もうとする、太陽の最後の金色の一滴をじっとみつめた。
彼女がくりかえしくりかえしみる夢の意味が、そこに明らかに書かれていた。何故、自分が闇の中をチリのような光となって漂う夢をくりかえしみるのか、その答えがそこにはあった。私はメサイの生まれかわりで、そしてこの美しい物語を作った人が、ミカドの生まれかわりなのだ。なぜなら、ミカドの記憶なしに、この物語は生まれ得ないからだった。
あるいはすべてが、ただの偶然かもしれない。たとえそうでも、このミュージカルのメサイ役を演じるのは、私しかいない。自惚《うぬぼ》れかもしれないけど……。晶世はそう思った。
その時家の中でけたたましく電話の鳴り響く音がしたので、晶世は長い思索から我れにかえった。
「マイクです。マイク内田。あなたのお母さんのアシスタントをしている者ですよ」
なんだかひどく慌《あわ》てているような声で、電話の相手が言った。
「はい、存じてます。母がいつもご迷惑をかけます」
晶世は礼儀正しく言った。
「でも、母はこちらにはおりませんが」
「知ってます。実は水のことなんです」
「水?」
晶世には、何のことかすぐにはわからなかった。
「フラスコの水ですよ。そちらの井戸から汲み上げたという水の件です」
「ああ、思い出しました」
陽子が水質検査に出した湧き水のことである。
「ごめんなさい。実は私、『アイランド』の筋書きをたった今読み終わったばかりで、少し頭がぼうっとしているんです」
「そうですか。読みましたか」
とマイクは少しだけ沈黙した。
「その件はまた後で話しましょう。水が先です。実はボクの従兄に水質検査を頼んだところ、意外な結果が出たんです」
再びマイク内田は興奮した声で言った。
「詳しいことはボクにもわからないし、あなたに電話で説明のしようもないから、月曜日の朝一番――つまり明朝ですが、従兄とボクとウォーターシステムの主任研究員とで、そっちへ伺います」
「何か、大変なことなんでしょうか? あの水、いけないものでも含んでいたんでしょうか?」
不安になって晶世が質問した。
「躰に害になるかどうかという意味だったら、今の段階ではNOです。ご安心下さい。いずれにしろ、明日の朝、そちらでお目にかかりましょう」
マイク内田はそう言って電話を切った。
あの湧き水に何が含まれているのだろうか? と晶世は思った。水の専門家が、なぜわざわざ東京から飛んでくるのだろう?
世界ウォーターシステム日本支社の一室は、異様な興奮に包まれていた。主任研究員と、マイクの従兄のサム内田、それに支社長とがフラスコを囲んでいた。
「とにかく、この件が外部にもれないよう。調査が完全に終わるまで、我々三人のスタッフとマイクだけに、とどめてもらいたい」
支社長が緊張した面持ちで言った。
「そもそも、純度百パーセントの完全水っていうのは何なんですか」
とマイクはその道の素人なので、素直に疑問を口にした。
「いわゆるミラクルウォーターです。その水は重力波を制御することができるんですよ。また、生命活動の阻害要因をとり除くことができるんです」
白衣の主任研究員がかわって説明した。
「人間にも応用できるのですか?」
マイクが訊いた。
「老化しないということになりますな」
「ということは、人間は死ななくなる? つまり不老長寿の薬ってわけですか」
マイクは眼を丸くして、廻陽子のフラスコをしげしげと見た。
「あくまでも理論的にはそうなります。しかしそれは我々の専門用語でいうところの完全水のもつ可能性のほんの一部にしかすぎんのですよ」
と支社長は言った。
「エネルギーに対する考えが根本的に変わってきます」
「どういう成分なんです? その魔法の水は?」
とマイクは更に質問した。
「簡単にわかりやすくいうと、ある特殊な元素に誘導された水なんです。動物や植物の体内にある生命状態の水分は全て、この水に帰結します。けれども、我々の化学の力では、この宇宙的根元の水を、作りだすことはできなかった。これまで一番近い形でπウォーターは作れたが純度百パーセントの完全水なるものは、現段階の我々の化学技術では、まだ十年から二十年先でないと、作ることは不可能だったのです」
「で、この中の水が、そうだというんですね?」
ますます感心したように、マイクが言った。
研究所のスタッフがうなずいた。
「これが自然の湧き水だということになると、その井戸に、何か重大な秘密があるのに違いないのだ」
「秘密?」
「つまり岩盤とか、土質とか、その井戸に沈んでいる石とか、何か、この地球上ではまだ発見されていない物質があるはずなんだ」
「ああ、そうか!」
とマイク内田は膝を叩いた。確か廻陽子がヤドカリが放りこまれた井戸の水だと言っていたっけ。
「ヤドカリだ」
それを聞くと、スタッフは、マイクが気でも狂ったのではないかと、ぎょっとしたように、彼を見た。
「ヤドカリ?」
マイクの従兄が最初に沈黙を破った。
「いや、いいんだ」
とマイクは慌てて首をふった。説明したって、誰れも信じないだろう。星良雅也の作り話によると、そのヤドカリなるものは天の川の川原から、メサイとミカドがひとつずつもって降りて来たものである。
おそらくそれは、宇宙のかなたの物質で作られた、不思議な力をもつヤドカリなのであろう。雅也の話では、ミカドの生まれ変わりである為朝がヨロンの神社に奉納したことになっている。それをある時、東京から来た土地開発の偉い人が、ひょいと持ち帰ったところ、何となく気味が悪くなり、翌日人を使ってヨロンへ持ち帰らせたところ、その人物は、自分では神社まで行かずに、二人の子供に持たせた、ということになっている。
その二人の子供が遊んでいるうちに、ヤドカリを失くしてしまった。星良雅也のストーリーは、そのような話になっていた。
だから――とマイクは掌に汗が吹きだすような気がした。廻陽子がなにげなく言っていた湧き水の中に沈んでいるヤドカリというのは、その二人の子供たちが昔、遊んでいて失くしてしまった為朝の、ひいてはミカドとメサイのヤドカリなのに違いないのだ。
だとすれば、ミラクルウォーターとかいう奇跡の水の湧く理由も明らかではないか。
しかし、とマイクはそこで腕を組んでしまった。あれは星良雅也が、昔話から想像を広げた作り話なのだぞ。マイクは、すっかり混乱してしまった。
「いずれにしろ、明日現地に行けば、何もかも明らかになるでしょう」
とマイクの従兄が希望的に言った。
「もしも、この秘密が明らかになれば、それはコペルニクス以来の大発見だよ」
支社長が、腕組みを解きながら言った。
「東京から誰れが来るって?」
と青野竜介が怪訝そうな顔をした。
「水質検査に、ウォーターシステム社の人たちよ。おかげであたし、足止めをくっちゃったわ」
「何の水質?」
「ほら、例のあなたが子供の頃ヤドカリを放りこんだという井戸の水よ。ママがフラスコに入れて、東京に持ち帰ったの」
「一体きみのママは、何だってそんなことを思いついたんだい?」
竜介は溜息をついた。
「知らないわ」
夕食のあとを片づけながら、晶世が言った。
「でも僕は予定通り、今夜の最終で東京に帰るよ。悪いけど、明日、ローマで取材があるからね」
竜介は皿洗いを手伝いながらそう言った。この古い家には、自動皿洗い機がついていないのだ。けれども、晶世はそんなことには全く無頓着に、汚れた皿やフォークを洗った。
「私ね、例の星良雅也ってひとが書き上げたミュージカルの筋書きを読んだわ」
ふと手を休めて、彼女が呟いた。
「『アイランド』のプレゼンテーションのこと?」
「ええ、そう。その件で、ママが今ロンドンで人に逢っているわ」
「うん、知ってる。で、どうだった? きみの感想を聞かせてくれないか」
二人はキッチンの仕事を終えて、そのままパティオから、夜露に濡れている芝生の上へと出て行った。竜介の東京行きの最終時間は二十時五十分なので、まだ少し時間の余裕があった。
彼らは、デッキチェアを楽な姿勢にして、それぞれ、腰と背中とをそれに埋め、自然に夜空を眺める具合に横になった。真上に、白い絹のベールみたいに、天の川がかかっていた。
「信じないかもしれないけど、あの中にあなたが出てくるのよ」
天の川はゆるやかな弧を描いて、夜空の端から端を流れていた。晶世の声が震えていた。露に濡れた芝生の匂いが密《ひそ》やかにたちこめていた。
「僕が出てくるって、どういう意味?」
「子供時代のあなたよ。つまりね、星良雅也のストーリーの中に、あなたと弟さんと覚しき二人の少年が登場してくるの」
「どうして、僕たち兄弟とわかるんだい?」
「だって、その子たち、ストーリーの中でも、ヤドカリと遊んでいて、どこかへ失くしてしまうのよ。あなたが私に話してくれたのと、そっくりのことが、彼のストーリーにそのまま書いてあるの」
「しかし、僕はその話を誰れにもしていないぜ。きみが初めてなんだ。事実、あの井戸のところへ行くまでもう十年以上すっかり忘れ果てていた出来ごとなんだから」
「わかってるわ」
と静かに晶世が言った。
「しかし、どうして星良雅也はあの井戸のことを知っているんだろう?」
不思議そうに、竜介が呟いた。
「あのひと、いろいろなことを知っているのよ。あの人が実際には見てもいないようなことまで、知っているみたいなの」
かみしめるように、晶世が言った。
「でもね、筋書きの感じだと、彼はまだ、あの井戸がどこにある井戸なのかは知らないみたいなの。なぜかっていうと、ストーリーに書かれている井戸は、まるで、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の時代に出てくるみたいな、ツタのからんだような、ロマンティックな井戸で、アジ神社の後ろにあるみたいな描写になっているのよ。だから、これは私の想像だけど、彼、まだ井戸を発見していないんだと思うわ」
島特有の柔らかい潮風が、夜気を払いながら吹いてきていた。近くで、波の寄せる優しい音がしている。
「この音――風や、波の音だけど、文明や文化がどんなにめまぐるしく変わっていっても、太古の昔から、ずっと変わっていないのよ」
二人は、自然の音にしばらく耳を澄ませた。天の川は先刻より低い位置に移り、乳色のもやのように、東から西へとゆっくりと流れている。
「その井戸ってのは、ストーリーの中で何か大事な小道具になるのかい?」
「ええ。そこで、二人は再会するのよ」
「二人って?」
「ミカドとメサイの二人よ。メサイは羽衣伝説と天の川伝説に出てくる天女なの。そしてミカドは、彼女の夫なの。父神の怒りに触れて、ミカドが天の川に流され、二人は別れてしまうのよ。でも一年に一度だけ、逢うことができたの」
「七月七日の夜だね」
「ええ、そう。でもね、二人は切なかったの。一年にたった一度だけなんて、気が狂いそうだったの。それで父神にいつかどこかで生まれかわって、夫婦にして下さいと頼んだの。
神は承諾するんだけど、二人から記憶を奪ってしまうの。だから、二人がいつかどこかで出逢っても、昔のことは何も覚えていないのよ。
そこで二人は、こっそりと天の川原にいたヤドカリをひとつずつ持って逃げたの」
「そうか……。ヤドカリってきみがさっきから騒いでいたのは、そういうわけだったのか」
「神さまは、ひとつだけ教えて下さったの。いつか二人が生まれ変わって出逢うことがあるとすれば、それは川の一本も流れていない島の、ある井戸のふちで出逢うんですって……」
「ふうん、なるほどね」
「ただね、私たち、前にもこの島へ来ているのよ。ただ、すれ違ってしまったの」
「私たちって?」
「ううん、つまり、ミカドとメサイのこと。つい言いまちがえたのよ。星良雅也のストーリーではミカドは、一度為朝に生まれ変わって、この島にたどりついたことがあるの。彼はそう書いているのよ。そして、懐から、ヤドカリを出して、小さな神社に奉納するの。それから少し後に、ヤドカリがいつのまにか二つになっていたの」
「ちょっと待った」
と急に竜介が表情を変えた。
「それ、アジ神社の守り神のヤドカリのことかい?」
「ええ、歴史的には、アジ神社は為朝の子供が、作ったことになっているけど、為朝自身がヤドカリを奉納した神社のあとに作り直した、と星良雅也は書いているわ」
「そのヤドカリのことなら、僕、知っているよ。おじいさんがよく話してくれたから。
そうだよ、あのヤドカリは為朝の時代からずっとあそこに二つある夫婦のヤドカリで、アジ神社の守護神だった。ところがある時、忽然と姿を消したんだ。そうだったのか! 僕が東京から来た人からあずかったヤドカリっていうのは、元々あのアジ神社のヤドカリだったのか」
「そうよ。だから私たちは、アジ神社ではなく、ヤドカリが今ある場所で逢うのよ。つまりあの井戸のところで。それでストーリーのつじつまがぴったりとあうのよ」
「ミカドとメサイのことだろう?」
「ええ、そう」
「きみまた、言いまちがえたよ」
「ほんとね。星良雅也のストーリーをあんまり何度もくり返し読んだから、なんだかメサイがのりうつっちゃって、自分のことみたいな気がしてきたのよ」
と言って、晶世はなんとなくごまかした。
「大変だ。もうこんな時間?」
腕時計を見て竜介が飛び上がった。
「じゃ僕は一足先に帰るからね」
晶世がうなずいた。
「でもきみ、一人で大丈夫? 淋しくない?」
「いいえ」
と彼女は微笑した。あのひとがもうじきここへ来るんですもの、淋しくなんてない。
竜介は慌てて踵を返すと、「東京で」と言い置いて、帰って行った。
あのひとが、もうじきここへやってくる、と、もう一度晶世は胸の中で呟いた。それが彼女にはわかるのだった。彼女は頭上に広々と横たわるミルクを流したような天の川を見上げた。
「お父さま、ついに、私たちは出逢うことになりました」
そう星良雅也のストーリーの中に出てくるメサイの科白《せりふ》を口に出して、言ってみた。すると胸が燃え上がるようなときめきを覚えた。その夜、彼女は、島にかかるほど低くたちこめた天の川の下流で、まんじりともせず、一夜を明かした。
星良雅也も八ケ岳の自分の家の窓から、一晩中、星を眺めて明かした。彼は自分が何かをひたすら待っているのを感じていた。それはまず廻陽子からの電話であったが、もっと別の、もっと大事なことを、待っているような気がした。彼の耳の底には、『アイランド』の「羽衣のアリア」の歌声が焼きついてしまっていた。星良は一晩中、その声に耳を傾けていた。
いつのまにか眠ってしまったのに違いない。彼が最後に見たのは、白々と明けていく暁の山々の輪郭であった。
肩を揺すられて眼覚めると、執事のデヴィッドの青い眼が自分を覗きこんでいた。デヴィッドは無言で、コードレスのテレビ電話を差し出した。時計を見ると、まだ朝の七時である。
「もしもし」
と廻陽子の声が響いて来た。「起こしちゃったみたいね。でもそっちはもう朝なんでしょう?」
「寝入りばなだよ」
と星良はのびてしまった髭をこすりながら言った。
「お気の毒に。あたしはこれから寝るところよ」
彼女がひどくご機嫌なのは一目でわかった。「でもその前に、ニュースをあなたに伝えておこうと思って。さもないと、このニュースは八時間も後になって、私が眼を覚まさないと、知らせてあげられないからよ」
「どうやらいいニュースらしいね」
熱をもったように感じられる額のあたりに、手をおいて星良は言った。
「どうしてわかるのよ?」
「顔に描いてあるよ」
「これでも、クールにふるまっているつもりなのよ」
「で、どんな感触?」
星良は感情を極力おさえて訊いた。
「グッドよ。ヴェリ・グッド。B・Cのアンダーソン会長も一緒に会ってくれてね、例のジョニーとあなたのテーマ曲を聴いてくれたわ。
聴き終わると、あっちサイドの人たちが、ひそかに眼配せを交わして、しんとしてしまったの。私がその時どんな気分だったか、わかる?」
「わかるよ」
やさしく星良が電話に言った。
「生きた心地もしなかったのよ。ほんとうよ、もう少しで倒れてしまうか、叫び出しそうだったのよ」
「それを聞いて安心したよ。あんたが人並みの感情をもっているってことがわかってさ」
小さな画像の中で、陽子が星良をにらみつけた。
「とにかくね。三十分だけ別室で待って欲しいって、言われたのよ。三十分も一人で、どうやって待ったらいいのかわからなかったわ。とにかく、待ったわ。というより私、ほとんど気絶していたんだと思う」
星良は出来るだけ、しんぼう強く、待った。
「で、再び会議室に通されたの。とても丁寧だったわ。エクサレント! そう言ったわ。会長が。ディレクターは微笑していたわ。
すぐに契約したいって。聞いてるの? うちのエージェントにきまったのよ! あなたのミュージカルが、採用されるのよ」
「聞いてるよ」
静かに星良が言った。
「でも、それにしちゃ様子が沈んでるじゃない。そういう時、人って普通、もっとうれしそうな顔するものじゃないの?」
「多分、俺も半分気絶してしまってるのさ」
「とにかくね、あなたのストーリーも、ジョニーの曲も、すばらしいって、べた誉めよ。それからこれを歌っている歌手は誰れなのかって聞いたわ。それで私、ドギマギしちゃって、『ほんの間にあわせの、プレゼンテーション用の無名の新人です』って答えたの。『本番の時には、もっと本格的で名前の知れた人を使いましょう』って。そうしたら、何て答えたと思う。『有名で本格的な人なんて必要ない』って。この子がいいって。この子じゃなくてはいけないって。『だってこの子はだめですよ』って私、言ったのよ」
「どうしてだめなんだ?」
と星良が訊いた。
「B・Cの連中も異口同音に同じことを言ったわよ」
と陽子はおかしそうに言った。「でね、仕方なく、実は私の娘なんだって白状したの」
沈黙が流れた。二人はテレビごしにお互いをみつめあった。
「ねえ、ミズ廻」
と言って、星良が微笑した。「俺たち、ヨロン島の最初の夜、寝なくてよかったね。俺もう少しで、あんたの部屋のドアをノックするところだったんだぜ。前にも言ったと思うけど」
陽子の瞳がぬれてくるのがわかった。
「虫が知らせたのよ、きっと」
「それで、彼女は今どこにいる?」
「それをあなたに知らせようと、電話しているのよ。あの子はヨロンのうちの別荘にいるわ」
星良がゆっくりとうなずいた。
「すぐにあの島へ行って、あの子にこのニュースを伝えてやってくれる?」
「すぐに出発するよ」
「そうしてちょうだい。じゃ私は今から眠るわ。くたくたなのよ。こんなに疲れたことは私の人生で初めてよ。じゃお休み」
「お休み。ゆっくりと眠って、また電話をくれるね?」
そして星良は受話器を置いた。
島では、いつもと変わらぬ平和な朝が始まっていた。熱帯樹木の中では小鳥たちがさえずり、太陽の日射しは、たちまちにして朝露の最後の一滴をも、乾かしてしまっていた。
ただ島の東端の一角でだけ、異変が起きていた。数人の緊張した面持ちの男たちが、岩場のくぼみの中を覗きこんでいた。
「こんなところに、こんな湧き水があるなんて、よくあなたにわかりましたね」
とマイクが、働いている人々を眺めながら、傍の晶世に言った。
「この井戸のことを教えてくれたのは、実は世界音楽社の編集やっている人で、青野竜介なの」
「ああ、あの若者なら、よく知っていますよ」
マイクは気持よさそうに、南国の太陽の下で伸びをしながら言った。
「でもなぜ、彼が?」
「あのひと、私の高校の先輩で、この島の出身なの。子供の頃、よくこのあたりで遊んだんですって」
背後で水質調査をしていた男たちの声がした。
「だめだ。この井戸は小さいが、恐ろしく深い」
「どれくらいです?」
「それを今調べているんだがね、現在のところ、二千二百三十四メートルを記録している。しかし、まだまだ深そうだ」
それを聞くと、晶世の表情が曇った。
「じゃ、ヤドカリはとうてい取り出せないわね」
調査団は、おびただしい数の大小のフラスコに、井戸水を汲み上げては、次々と満たし始めた。一方では、実験用のコーナーがあり、別の技師が水に含まれる成分を調べていた。
「いずれにしろ、豊富な湧き水だよ。汲んでも汲んでも、すぐに、ふちのところまでいっぱいになる」
マイクの従兄が言った。
「この島に降りた時、何か感じなかったかい?」技師が言った。
「何かって?」
「主として植物だけどね。それからこの島を包む水蒸気のようなものとか、島の人々の様子とかさ」
「植物がどうしたって?」
とマイクは、従兄の顔を見た。
「ここの植物の葉がね、他の土地のものより、何割がたか大きいんだよ。それに色も濃く、生き生きとしている。生命力が強いんだ」
マイクの従兄は、そのあたりの樹木の葉を、指で撫でながらそう言った。
「それに、島の人たちの顔色とか様子にも気がつかなかったかい? やっぱり同じように生き生きとした生命感に溢れていると思わないか?」
そう言われれば、空港でみかけた島の人々は、よく日に焼けていて、きびきびとした身のこなしをしていた。そして娘たちの肌は、つややかできめがこまかかった。
「僕が思うに、この島の土壌が、違うんだ。これは想像だけど、この井戸水に関係があるんじゃないかと思う。この地下水が、島の土壌全体に湿り気を与えていて、作物に作用したり、水道の水に作用しているんじゃないだろうか。もしもこの水が完全水だということになれば、この島には奇跡が起こっているんだよ」
三人はそこで顔を見合わせた。
「竜介くんの話だと、島の様子が変わり始めたのは、十四、五年前からだと言うのよ」
「変わったってどういうふうに?」
「急に植物が勢いよく生え始めて、島がみるみる面変わりしたそうよ」
「まてよ。それは、彼が例のヤドカリをこの井戸に投げこんだ後のことかい?」
「ええ、そう。後のことよ」
「じゃ、やっぱり、そのヤドカリに秘密があるんだよ」
マイクは人々の肩ごしに小さな井戸を覗きこんだ。
「今現在水深三千三百二十メートルですが、まだ深そうです」
「底なしだな」
その時、水質を調べていた研究員の一人が立ち上がって来た。
「主任。わかりました。やっぱりそうです。純度百パーセントの完全水です。ミラクルウォーターの泉です」
研究員の手が細かく震えていた。無理もなかった。彼は今や、コぺルニクス以来の大発見の歴史的な現場にいるのである。もしも、この水が無尽蔵なら、世界のエネルギー文化、化学、食生活などが、この水によって大きく変わっていくことになるのである。πウォーターの理論は、既に二十年前から、わかっていたのである。ただ、純度百パーセントの完全水だけを、作り出すことが不可能だったのだ。それを作り出す物質が、地球にはないのである。ないというより非常に少ないのである。
そして今、眼の前の小さな穴の中から、こんこんと湧きだしている水は、まさに、金額でいえば一リットル数千万円に値するような、高価な水なのである。人々の表情が緊張するのも無理はなかった。あたりは急に緊迫した空気に包まれた。
星良雅也は、タクシーを降りると、廻陽子の別荘の扉をノックした。しかしいくら待っても、誰れも顔を出さない。彼は顔をしかめた。アプローチのところに、車が数台止っているのも、妙である。
ドアを押すと、鍵はかかっていない。彼は中に入った。家の中は無人だった。彼は念のために陽子の寝室と客室をノックして覗いてみたが人影はなかった。
ふと見ると、パティオの先の庭に人の気配があった。四、五人の男たちが家の方へと引き上げてくるのが見えた。その中にただ一人、顔を知っている男がいた。
「マイク!」と星良はパティオに足を踏み入れながら叫んだ。
「ついに来ましたね」
とマイクは微笑した。星良の姿を認めてもたいして驚かない様子だった。
「これで、物語がめでたく完結する」
「でも一体?」
と星良はマイク内田に訊いた。
「それに、きみはなんだってこんな所に?」
「歴史的シーンに立ち合うためですよ」
とマイクは感情をおさえた声で言った。
「歴史的シーン? それは何のことだい? この人たちは、ここで何をしているんだ?」
「世界ウォーターシステム社の人たちです。廻女史が東京にこの井戸水を持ち帰りましてね、ボクの従兄に水質調査を依頼したんですよ」
「水だって? 井戸だって?」
星良が急に青ざめた。
「ミラクルウォーターであることがわかったんですよ。この井戸の湧き水が。星良さんは、純度百パーセントの完全水について、何か読んだことがありますか?」
「それどころか、俺は誰れよりもその水ができることを望んでいた人間の一人なんだよ。しかし、それよりも、君は、井戸と言ったね」
星良は男たちが引き上げてきた方向に眼をやりながら言った。
「そうですよ、あそこに井戸があるんですよ。そして、すでにご存知だとは思いますが、あの井戸の底には、ヤドカリが二つ沈んでいますよ」
「どうしてそれを?」
ますます青ざめながら、星良はその方向に思わず歩きだそうとした。
「どうして? それはすでにあなたの『アイランド』のレジメに書かれているじゃありませんか」
「しかし、あれは……創作なんだ」
星良は息を呑んだ。そして彼は、マイクをその場に残して歩きだした。井戸らしきものなどみつからなかった。星良は狐につままれたような面持ちであたりを見渡した。
「何か探していらっしゃるの?」
という若々しい女の声が背後でした。星良はその声の主を見ようとふりむいた。彼はそこに一人の娘を見た。娘はほっそりとして肌はミルクのように白かった。そして大きく見開かれた二つの瞳は、湖のような静けさをたたえていた。彼女も彼を見つめた。
彼女には、もうわからなかった。彼がそうなのか。
彼にも、もうわからなかった。果して彼女がそうなのか。
しかしたとえ、彼がそうであろうとなかろうと、そんなことはもうどうでもいい気がした。晶世は、今眼の前に現れた初めて見る男に、一瞬にして心を奪われてしまっていた。人々がよく言う一目惚れに似ていた。
星良もまたそうだった。彼は、不思議な力を借りて書きあげた自分の伝説を一瞬にして忘れた。彼は、眼の前に忽然と現れた一人の娘に、たちまちにして恋をしていた。
たとえ、二人が出逢うのが、この島でなくとも、このヤドカリが沈んでいる井戸のふちでなくとも、二人がもし出逢っていたならば、たちまちにして恋におちただろうと、彼は思った。
「いや、もういいんだ」
と星良は囁くように言った。
「探していたものは、みつかったよ」
二人はお互いに手を伸ばせば触れられる位置でみじろぎもしなかった。二人の足元で奇跡の泉がこんこんと湧き出ていた。
「きみに伝えることがあるんだよ」
と星良は、彼女と並んで冷たい湧き水の中を覗きこみながら言った。
「きみのママから電話があってね。僕たちのミュージカルが通ったそうだよ」
「僕たちの?」
と晶世は立ち止まって星良を見上げた。
「そう。きみと僕と――」
そこで彼は絶句した。感情が激してきてどうしようもなかった。この清純な天女のような娘に出逢うために、俺はあのストーリーを書いたのか。ここでこの星のような眼をした娘と出逢うために、たとえば、マリコをあのような形で犠牲にしたのか。急に彼は眼の前の美しい若い女にくらべて自分は俗っぽく、汚れているような気がした。俺はこの娘にふさわしい男ではないかもしれない。星良は恐れた。生まれて初めて、何かを恐れた。「うまく言えないんだ」と彼は喉のあたりをおさえて呟いた。晶世の手がふっと動き、喉もとの星良の手の甲に触れた。すると、そのあたりにつかえていたものがすっと消え、呼吸が楽になるのを星良は感じた。「何もおっしゃらなくてもいいのよ」と、彼女はひっそりとした声で囁いた。「おっしゃらなくとも、わかるのです」晶世の手が触れていると、星良にも、彼女の心の中が見えるような気がした。
彼は彼女の心臓の優しく打つ音を聞き、少しずつ精神がしずまるのを感じた。
「話したいことが山ほどあるんだけど――」
と彼は呟いた。「でも何から話していいかわからないんだ」
「急がないで」と晶世が言った。「こんなに長いこと待ったんですもの。急ぐことはないわ」
今こそ、眼の前にいる、このどこか見えないところで血を流しているような、心に傷を負った青年のために、自分は生まれて来たのだと、晶世は確信しながらそう言った。
「うん、そうだね」と星良は言った。「では手はじめに、ニューヨークのジョニーに電話をして、僕たちのミュージカルが採用されることになったというニュースを伝えることから始めようか?」
晶世がニッコリとうなずいた。
彼は彼女の手を取ると家の方へ走りだした。
二人は家の中に飛びこんで、電話を取り上げニューヨークへ国際電話を申しこんだ。
「ジョニー? 僕だ。星良だ。いいニュースだよ。僕らのミュージカルが、プレゼンを通ったそうだ。つまり採用だ。そうだよ、GOだよ」
星良の手は、いつのまにか晶世の背中にあてられていた。
「それからジョニー、俺は、俺たちのミュージカルの主役の娘をみつけたよ」
「メサイをかい? 一体どこで彼女をみつけたんだい?」
「きまっているじゃないか。きみに送ったレジメを読まなかったのかい?」
「いや。きみは今、ヨロン島にいるの? そこに井戸があるの?」
「そう、井戸のところに、彼女はいたよ、確かに」
「そいつはすげえや」
と電話の中で、ジョニーは甲高い声を上げた。
「それにもうひとついいニュースだ。あの井戸の水は奇跡の水だぜ、ジョニー。きみはもう、二〇一五年の地球最後の日を恐れる必要はないんだ」
「ほんとかい?」
「ああたった今、水質調査団がそれを証明したよ」
「世界は救われるんだね、マサヤ!」
「どうやらそういうことになりそうだな。じゃ電話を切るよ。することがたくさんあるんでね。また、連絡する。ああそうそう、フロリダのママのところはどうだった?」
「ファイン。ジャスト・ファイン」
ジョニーはそう言って、照れ臭そうに電話を切った。
星良はニヤリと笑って、受話器を置いた。それから彼は改めて、傍にぴったりと寄りそうように立っている、ほっそりとした娘を両手の中に抱き寄せた。
一九八八年七月、小社より単行本として刊行
角川文庫『アイランド』平成3年7月25日初版発行
平成9年12月5日3版発行