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山田太郎ものがたり たのしいびんぼう
原作/森永あい 著/塚本裕美子
目 次
第一話 梅花《メイフア》、愛と別れ
第二話 美しきあるばいたー
第三話 さばいばる・いん・松茸山《まつたけやま》
第四話 煩悩《ボンノー》の春休み
[#改ページ]
第一話 梅花《メイフア》、愛と別れ
私立一ノ宮高校一年在学特待生。
成績優秀|眉目《びもく》秀麗明朗快活スポーツ万能少々間抜け。
この世に完璧《かんぺき》な高校生がいるとすれば、それは山田|太郎《たろう》、だったかも知れない。
しかし。
天は二物を与えず。
山田太郎には唯一にして重大な弱点が存在した。
その弱点とは。
山田太郎は強烈な貧乏だったのである。
貧乏。
今時、貧乏。
堂々と、貧乏。
さて、貧乏とはいったいどういうものであるか、実感している人は昨今少ないことと思う。
辞書を引いてみよう。
びんぼう[#「びんぼう」はゴシック体][貧乏]≪国≫〈名・自動サ変・形動〉おかねや財産が少ししかない事。貧しい事。
まずしい[#「まずしい」はゴシック体][貧しい]≪国≫〈形〉(1)生活に必要な品物やおかねが少ししかない。
すなわち。
どうやらまるっきりお金がないというのは、貧乏とはいわないようである。
確かに、山田太郎の家もそうである。
旅に出たまま音信不通の芸術家の父に代わり、一家を背負う長男山田太郎は、アルバイトの稼ぎで母と六人の弟妹《きようだい》の生活を賄っている。
全然お金がなかったら一家飢え死にだが、今のところ山田家は元気に日々を過ごしている。
けれども余裕があるわけでは、ない。
明日の給食費、来月の光熱費、ピンチは常に控えている。
それが正しい貧乏というものなのであろう。
そうである。
山田太郎の一家こそ、現代日本における貧乏の生きた見本なのである。
たまには誰か見学にでも来て、おおこれが正しく貧乏だ、とでも感心しておひねりの一つもくれると有り難いのだが、今の所まだそういう暇な人間がやって来たことはない。
来てもきっと山田太郎に会う事は出来ないだろう。会いたければバイト先を訪ねなければ。
貧乏は忙しいのである。
貧乏暇なし、と昔の人も言っていた。
こんなに忙しく働いているのにどうして貧乏、つまりお金が少ないままなのか。
稼ぐに追いつく貧乏なし、なんて言葉もあるが、大嘘である。
働けど働けど山田家の暮らし楽にならざりじっと手を見る、時間があったらバイトに励む山田太郎である。
毎日の暮らしは楽ではなかったが、家族はみんな明るく楽しくたくましく生きていた。
山田家にとって、貧乏は不幸ではなかった。
どんな暮らしでも、気の持ちよう一つでどうにでもなるものなのだ。
何とかなると思えば、何とかなるものである。
山田太郎は今日も頑張っている。
その日。
山田家長女、山田よし子(八歳)は、油断なく辺りを観察しつつ帰り道を歩いていた。
道にはきっと何かが落ちている。
それが、山田家の原則である。
そして落ちているものは拾う、それが、山田家の掟《おきて》なのだ。
本当に道にはいろんな物が落ちている。
現金、アクセサリー、野菜、菓子、文房具、衣類、電気製品、自転車。
まあ中には落ちているというより捨ててあるものも多いが。
だれかがいらないと思ったものでも、捨てる神あれば拾う神あり、山田家にとっては貴重な資源である場合が多い。
とくに、一円といえど現金を見逃すなどということは許されない。
地面から拾い上げるのに一円分以上のエネルギーを消費するといわれようと、現金は山田家にとって逃すべからざる獲物なのである。
太郎たちにとっては幸いなことに、こんなに激しい大不景気の真っ最中にもかかわらず、バブルに洗脳されて太っ腹になりっぱなしの現代人のみなさんの目には一円玉ごときその存在すら認めてもらえないので、有り難いことではある。
一円を笑う者は一円に泣く、なのだ。
今の日本、太郎ほどその言葉を実感出来る者がほかにいるだろうか。
注意一秒怪我一生、その一円が死を招く、あと一円、足らず払えず電気が止まる。
たかが一円。
されど、一円。
よし子にもそれはしっかりと叩《たた》き込まれていた。
さりげなく、しかし何物も見逃さない熟練のまなざしで、よし子は路面を確かめつつ歩いていた。
今日は今のところ何も落ちていない。
太郎のように、一キロ先からでもお金の落ちる音を聞きつけられるように、早くなりたい、とよし子は思う。
「一寸《ちよつと》前は白いお金も結構見つけられたのになあ」
よし子は溜め息をついた。
白いお金、つまり五十円、百円、五百円硬貨、ましてやお札の拾い物などもうずいぶん長いこと見ていない。
「どうしてみんなお金落とさなくなったんだろう」
門前の小僧習わぬ経を読む、本当に景気が悪いのだということを、山田家の子供はこんなところで実感するのであった。
「もし、お嬢さんや」
「え?」
いきなり前を遮られてよし子ははっと足を止め、顔を上げた。
「わ」
その鼻先へ変なものを突き付けられて、よし子は思わず後退《あとずさ》りする。
「ぶふふん」
変なものはよし子に向かって勢い良く鼻息らしきものを吹き掛けた。
「???」
色は、肌色がかった濃いグレイ。
その地色の上に黒い針金みたいな剛毛がいささか疎《まば》ら加減に一面に生えている。
大きさは、西瓜《すいか》位か?
そしてなんだか全体にしわしわである。
「???」
「ぶふふん」
よし子の顔の前のしわの間から、突き出した所に開いた二つの穴がぱふぱふと開閉して、また生暖かい空気を吹き付ける。
よし子はあんぐり開いた口を慌てて手でおさえ、背中をそらして気持ちそいつから遠ざかった。
気味の悪い、これは一体何だろう。
「ぶふん」
「鼻?」
よし子はようやっと瞬《まばた》きしてぴくぴく動く灰色のとんがったものを見つめた。
鼻。
ということは?
この変な色のしわしわのものは?
と、首を傾《かし》げる間もなく、その変なものはぐいとよし子の腕の中へと押し込まれた。
「ひえっ」
「すまぬがしばしの間、わしの可愛い『梅花《メイフア》』を預かってくれい。礼はするゆえ」
「へっ!?」
顔を上げた時には、もう声の主は後ろ姿になっていた。
白い長い頭髪がひらっとなびき、同じく白い長衣の裾《すそ》が翻る。
老人らしいにもかかわらず、異常な敏捷《びんしよう》さでたちまち白いものはよし子の視界から消え失《う》せた。
「……???」
本能的にしっかと両手で抱えた何かがもぞもぞと動いて、よし子ははっと我に返る。
ずっしりと重く、そしてほわんと暖かい。
「え……と……」
よし子は一寸うろたえて辺りを見回した。
ばたばたと慌ただしい気配がして、これまたよし子は反射的に側の植え込みに身を潜める。
「こっちだ!」
「逃がすな!」
数人の黒服の男が通り過ぎて行く。
「さっきの、おじいちゃんを?」
あっという間に消えた男達を見送ってから、そっと立ち上がったよし子はしばし立ち尽くした。
「ぶふん」
腕の中で灰色の塊が身をもがく。
「あ、預かってくれい……って?」
「ぶふん!」
よし子は呆然《ぼうぜん》としたまま、そいつを抱え直すと歩き出した。
「何を預かったんだって?」
太郎は鍋《なべ》をかき回しながら、玄関を入ってきたよし子の方をひょいと振り返った。
「何って言われると……あんちゃん、何だと思う?」
「どれどれ?」
よし子の腕の中を覗《のぞ》き込んだ太郎、一瞬絶句してしまう。
灰色のごわごわっぽいしわしわなものが、もぞもぞしながら眼光鋭く睨《にら》み付ける。
「…………なんだこいつは?」
「名前は『梅花』だって」
「『梅花』?」
「ぶひ」
返事をしたらしい。
太郎はよし子を見た。
「この、『梅花』を預かった?」
「うん」
よし子は元気に頷《うなず》く。
「誰に?」
「えっと、白いおじいちゃんみたいな人」
「どこで?」
「公園の前」
「うーむ」
太郎は唸《うな》った。
「しばしの間預かってくれいって。礼はするゆえ、って。それってお礼に何かくれるってことだよね? あんちゃん」
「それはそうだが……」
太郎、尚《なお》も首を傾げる。
これはいったい何だろう。
色といいしわといい、見たことのない生き物である。
しいていえば、鼻は豚っぽいが。
どうしてもたとえろといわれたら、SF特撮映画の悪いエイリアンのペット、という感じである。
「あんちゃんどうしたの?」
「わーっ、なんだこいつ!」
「変な顔ー」
弟妹《きようだい》たちが太郎とよし子を取り囲む。
「これ何、ねー何?」
「食べられるのー?」
「ぶひーっ!」
『梅花』は急に暴れてよし子の手から飛び出した。
「きゃーっ」
「ひーっ」
「わーっ」
「だーっ」
『梅花』は子供たちを蹴散《けち》らして狭い室内を走り回る。
べき。
『梅花』に体当たりされた襖《ふすま》が破れ、屑籠《くずかご》と金の招き猫がひっくり返る。
「あらあらあら」
ぐるぐるとちゃぶ台の周りを何周か走った『梅花』は、座っていた母、綾子《あやこ》の膝《ひざ》に飛びのって丸くなった。
「まあまあ、怖かったのね、可哀そうに」
ぷるぷる震える『梅花』の身体を綾子は優しく撫《な》でる。
「やれやれ」
太郎は溜め息をついた。
「見た目は凄《すご》いけど猛獣じゃなさそうだな。よし子、他に何かその人から聞いたことは?」
「ううん、それだけ。凄い速さで行っちゃったんだもん」
よし子は首を振った。
「あとはねえ、そのおじいちゃんの後を、怪しい感じのおじさんたちが追っかけてった」
「ええ!?」
太郎は綾子の膝の上で丸まっている『梅花』を見て眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「そういう危ない気配のある話には、あまり関わりたくないんだがな」
「でもさ、あんちゃん」
次男の山田|次郎《じろう》が目を輝かせて言った。
「すんげえ国際的陰謀、とかだったら、後でうんとお礼してもらえるんじゃないかな?」
「そうだよ、秘密を守り通せればさ!」
三男の山田|三郎《さぶろう》も同調する。
「うんとってどれくらい?」
次女山田|五子《いつこ》が尋ねる。
「うーん、給食費と移動教室の積立と新しいレインコートみんなに買って、あとかあちゃんにもお洋服買って……」
「そしたら、肉まん買えるかなあ」
三女山田|七生《ななみ》が、うっとりと言った。
「ううむ」
太郎は唸った。
とりあえず乗りかかった船ではある。
危ないことになったらさっさと関係ないといって『梅花』でもなんでも来た相手に渡してしまえばいいのだ。あわよくばそっちの相手と取引する手も。
「よし、とりあえずご飯にするぞ!」
「はーいっ」
弟妹たちは一斉にちゃぶ台に茶碗《ちやわん》や箸《はし》を並べ始めた。
太郎は母の膝の上にちらっと目を走らせた。
「むっ!」
「どうしたの、あんちゃん?」
「むふふふふ」
太郎はにやりと笑うと、よし子の耳に口を寄せた。
「いいことに気がついたぞ」
「いいこと?」
「あいつは偶蹄目《ぐうていもく》だ」
「ぐうてい?」
よし子は怪訝《けげん》そうに『梅花』を見る。
「蹄《ひづめ》がちょきの恰好《かつこう》だろ?」
「うん」
よし子はさりげなく視線を走らせうなずいた。
「あれはな、あいつが牛や羊や鹿や豚の仲間だって証拠だ」
「えっ、ほんと? あんちゃん」
太郎はうなずいた。
「じゃあ、『梅花』、美味《おい》しいんだね?」
よし子は目を輝かせた。
「きっとな。だからいざとなったら証拠を消すのは簡単……」
「わーいっ!」
じろり、と『梅花』の視線が二人をとらえ、太郎は慌ててよし子の口を押さえた。
名前なんかもついていなければより好都合だったのに、と太郎は思ったりもする。
疑わし気な『梅花』の視線をにこやかにそらしつつ、太郎はふつふつと煮えた大鍋をちゃぶ台の真ん中に運んだ。
「さあ、出来たぞ」
「わーいっ、今日のはご馳走《ちそう》だあ!」
湯気の中を覗《のぞ》き込んだ三郎が歓声を上げる。
「ほんとだ、お肉が一杯入ってる!」
四男山田|六生《むつみ》も嬉《うれ》しそうに叫んだ。
「今日のは松坂牛の切り落としだからな。パートのおばさんがこっそりくれたんだ。旨《うま》いぞ」
ほかほかのご飯をよそった茶碗がみんなの手に渡される。
「わーい、いっただきまーすっ!」
はぐはぐはぐ。
その時。
ぴくっと灰色の耳が、そして鼻が動いた。
「ぶふ」
「あっ」
『梅花』がいきなりがばっと身を起こした。
「ぶふんっ!」
短いががっしりした前足をそろえてちゃぶ台にかけるなり、『梅花』は更に身を乗り出して傍《かたわ》らの次郎の茶碗に鼻先を突っ込んだ。
「あっ!」
茶碗の中身は一瞬で消え、続いて向きを変えた『梅花』は反対側の三郎の茶碗の中身をも奪い取る。
「わあ」
「なにすんだよっ!」
『梅花』は止まらなかった。
「きゃっ」
ジャンプすると反対側のよし子、五子のご飯を一口にし、くるりと向きを変えて六生と七生を狙う。
「させるか!」
とっさに二人をかばった太郎の茶碗を『梅花』の鼻がかすめたと思った瞬間、ご飯は一粒残さず消え失《う》せていた。
「ちいっ」
「ぶふんっ」
乗り出して鍋《なべ》の中身を狙う『梅花』だが、そこは獣で熱いものには弱いらしく、鍋の中身には手、もとい口が出せない。
「ふんっ」
いらだった様子で『梅花』は鼻先を鍋の取っ手にひっ掛けようとした。
鍋をひっくり返して中身を冷まそうという作戦のようである。
「よせっ!」
一瞬早く太郎の手が鍋を『梅花』の前からかっさらう。
「ぶひんっ」
怒った『梅花』は畳の上で前足をかき、背中を丸めて勢いをつける。
「『梅花』」
『梅花』を見下ろし静かに低い声で太郎は言った。
「行儀が悪いな」
「…………」
二人の視線が火花を散らしてぶつかり合うのを、弟妹たち、それに綾子は息を呑《の》んで見つめた。
「こういう事は最初が肝心だからな、自分の立場をわきまえてもらおうか」
「ふん」
『梅花』は不敵な表情で太郎を見返した。
「…………」
じりっと二人はちゃぶ台を挟んで左右に回転した。
「あんちゃん」
七生が太郎の手元の鍋を心配そうに見つめながら囁《ささや》いた。
太郎は眉《まゆ》一つ動かさず、『梅花』を見つめている。
次の瞬間、『梅花』の身体がはじけ飛んだ。
「むん!」
ちゃぶ台を飛び越えて襲いかかった『梅花』に対し、横へ軽く身を躱《かわ》した太郎の右手が鍋の蓋《ふた》を取って表側を鼻《はな》っ面《つら》に叩《たた》き付ける。
「ひん」
悲鳴を上げつつ『梅花』は大したダメージを受けた様子もなく、着地するなりすぐさま反転して再び飛び掛かって来る。
「はっ」
今度は太郎の身体がふわっと空に浮いた。
だん!
ちゃぶ台に置かれた鍋を支点に半回転した太郎を『梅花』の目が追う。
その視線がそのまま天井近くへと吸い寄せられる。
いつの間に手に取ったのか、太郎の茶碗《ちやわん》が投げ上げられたのだ。
「!」
はっと目を戻す間もなく、電光石火、太郎のしゃもじの一撃が『梅花』の額を真正面から捕らえた。
ばきっ!
「ぴぎーっ!」
今度こそ大きく悲鳴を上げて、『梅花』の丸っこい身体が更に丸まって畳に転がる。
「ぴーっ」
ころころと転がった『梅花』は、畳から転げ落ちて三和土《たたき》の隅まで行くと、そこで丸くなって動きを止めた。
太郎はにっこり笑って『梅花』を見下ろした。
「わかったな。俺たちの飯が終わるまでそこで大人しくしていなさい」
茶碗をきっちり手にし、静かにいい渡すと、太郎はちゃぶ台についた。
「さあ、もう大丈夫だ。よし子、お代わり」
「はーい、あんちゃん」
「いっただっきまーす」
改めて、何ごともなかったかのように一家の夕食が再開された。
「あんちゃん、おいしーよ」
「一寸《ちよつと》冷めちまったかなー、せっかく熱々だったのになー」
「だいじょーぶ、あんちゃん、まだまだ温かいって」
「美味《おい》しいわよ、太郎」
「お代わりー」
「よーし、しっかり食べるんだぞ」
たちまちお釜《かま》も大鍋も綺麗《きれい》に空《から》になる。
兄弟揃って後片付けを終えると、太郎は三和土にうずくまった『梅花』を振り返った。
「…………」
まだぶたれた所が痛いらしく、一寸涙目で見上げる『梅花』に、太郎は屈託なく笑いかけた。
「おなか減ったろ?」
「ぶふ?」
『梅花』はしわに埋もれかけた小さな目を信じられないように瞬《しばたた》いて太郎を見た。
「ほら、ちゃんとお前の分もあるんだぞ」
太郎はそういいながら、流しの下から取り出したものを『梅花』の前に置いた。
葱《ねぎ》の皮、里芋の皮、椎茸《しいたけ》のいしづき、エノキ茸の根元である。
それから、太郎は一寸考えてから後一つ、干からびかけた大根の尻尾《しつぽ》を大事そうに取り出して、他のもののてっぺんに乗せた。
「ぶひ?」
太郎はいいんだと首を振って見せる。
「本当はこういうとこは漬物にすると旨《うま》いんだけどな、今日の所は譲ってやるよ」
「ぶひ」
『梅花』は嬉《うれ》しそうに一声鳴くと、野菜の皮にかぶりついた。
ばふばふばふ。
みるみるうちに野菜、の皮は消えていく。
見た目のかさはあってもそこはやっぱり皮だけなので量はない。
たちまちかけら一つ残さず食べ終わった『梅花』は、舌を伸ばして鼻先をぺろりとなめると、物足りなそうな表情で空を嗅《か》いだ。
「ぶひひん」
「もうおしまいだよー」
「うちにはもう食べる物ないもん」
「ぶひん」
疑わしそうな顔をした『梅花』は、ぐるりと頭を巡らせるや、ばっとダッシュして太郎の足元を駆け抜けた。
「あっ」
ちゃぶ台の下へ潜り込んだ『梅花』は、落ちていた葱のかけらを素早くなめ取ると、再び鼻を利かせた。
「ぶふ」
今度は押し入れに突進する。
「わーん、だめえっ!」
ぶち抜かれては大変と、あわてて五子が襖《ふすま》をあける。
押し入れに頭を突っ込んだ『梅花』は、横の土壁の割れ目に鼻を押し込んだ。
「『梅花』?」
太郎を始め一家が不審気に見る前で、一心不乱に壁をほじった『梅花』は、やがて何かの塊を引っ張り出すなり、ばりばりとかじりついた。
「なにあれ?」
「食べられるの?」
「なんだ……? あーっ!」
『梅花』がかじっているものを覗《のぞ》き込んだ太郎は思わず叫んだ。
「そ、それは! こらっ『梅花』っ、それを離せ! 食うんじゃないっ!」
「あ、あんちゃん?」
ばりばりばり。
太郎の叫びも空しく、『梅花』は見つけたものを綺麗に食べ尽くしてしまう。
「あーあ」
「あんちゃん? あれ、そんなに美味《おい》しいものだったの?」
悔しそうな顔で『梅花』を見下ろす太郎に次郎たちが尋ねる。
「いや……旨くは、ないと思う」
「? じゃなんなの?」
「値打ちもんだったんだ……あんなものがうちの中に生えてたとは」
太郎は無念の表情で押し入れの壁を見つめた。
「まさか、そんな所にサルノコシカケが生えていたなんて……考えてもみなかった……まだまだ俺も未熟だ……」
「サルノコシカケ?」
次郎たちは顔を見合わせた。
「漢方薬として使われる珍しい茸《きのこ》で、凄《すご》く高く売れるはずだったんだ」
「えーっ」
みんなの目が『梅花』に集中するが、『梅花』は涼しい顔である。
それどころか『梅花』はまだ物足りなそうな顔で辺りを見回した。
「『梅花』! まだあるのか!?」
目を輝かす太郎の前で『梅花』は空を嗅ぎ、ぴくっと鼻をうごめかした。
「!」
期待に燃える太郎たちを後ろに今度は『梅花』は三和土に降り、前足で戸をかいてあけろという素振りをする。
太郎は慌てて戸をあけて『梅花』を出してやる。
外へ出た『梅花』は玄関の横の地面を掘り出した。
「こんどこそサルノヒジカケ?」
「コシカケだろ」
「いや、サルノコシカケは地中にはないはずだが……」
見守る一同の前で、『梅花』は鼻を泥だらけにして掘り進み、やがて地中の何かをがっぷりくわえた。
「待てっ、食うなっ!」
「食うな!」
慌てて太郎次郎三郎が『梅花』の尻尾をつかんで引っ張り出す。
「ぶひんっ」
暴れる『梅花』から三人は掘り出されたものをなんとか半分奪い取った。
最初に口に入った半分を『梅花』はどうしても離さなかったのだ。
「あんちゃん、これは値打ちもん?」
「ううむ、これは……」
太郎は塊の泥を払ってうなった。
「これは、山芋だな」
「山芋!? あたし大好き!」
よし子が叫んだ。
「サルノオシカケじゃないの?」
「コシカケだよ」
「残念だが、普通の山芋だな。しかし」
太郎はもう半分の山芋を平らげて一応満足したらしい『梅花』を感心した顔で眺めた。
「こんな立派な食糧を見逃していたなんて、まさに灯台|下《もと》暗し、いや、精進が足らんということか……」
太郎は悔やんでも悔やみ切れない、という口調でつぶやいた。
「家の周りの食えるものはくまなく採取したつもりだったんだが」
太郎は『梅花』を見た。
「それをお前はここへ来るなり……」
「ぶふん」
『梅花』は一寸《ちよつと》得意気な目付きで太郎を見る。
「わかった」
太郎は頷《うなず》いた。
「『梅花』、お前の能力は認める。うちにいる間は互いに協力しあおうじゃないか」
「ぶひ?」
太郎は『梅花』に顔を近付けて言った。
「いいか、『梅花』。お前は食べるだけなら一人で生きて行けるかもしれないが、所詮《しよせん》は野良だ。野良だと自覚してるかどうかはともかく」
次郎たちは何のことかと顔を見合わせた。
「野良の生き物は日本では保健所に連れて行かれて処分されることになっている」
「ぶひ」
『梅花』は分かったような顔をして聞いている。
「つまり、殺されるっていうことだ」
「ぶひっ」
思わずぎょっとした顔になった後で『梅花』は、自分には関係ないというようなふてぶてしい表情を浮かべてみせる。
「ふふふ、そんなことはさせないと思っているな?」
太郎は『梅花』の顔の前で人差し指を左右に振って首を振った。
「甘いぞ、俺に勝てないお前がどうして保健所に立ち向かえる?」
「…………」
『梅花』はむっと黙り込んだ。
「うちにいれば安全だぞ。保健所でただ処分されるだけなんて勿体《もつたい》ないことをされるのは、お前だって神様に申し訳ないと思うだろ?」
「ぶ、ぶふ」
いささか納得はいかないが、という顔で『梅花』はうなった。
「よおし、取引は成立だな。お迎えが来るまでうちにいていいぞ。みんなも『梅花』と仲良くするように」
「はーい!」
弟妹たちは元気良く答えた。
「お迎えが来なくたっていいんだよね」
「ねっ、きっと美味しいよね」
『梅花』はぎろりと三郎を睨《にら》んだ。
「ねえねえあんちゃん、明日はとろろご飯食べられる?」
七生が山芋を見ていった。
「ああ、そうだな。でもこれじゃ少し足りないかな」
「そうだねー、半分じゃなくて全部あればみんなで食べられるくらいあったのになー」
「そうだな。それじゃあ『梅花』にもう半分、捜し出してもらおうか」
「ほんと?」
「『梅花』、出来る?」
「ぶひ」
出来るなんてなめたことを言ってもらっては困る、と言いたげに『梅花』は子供たちを睥睨《へいげい》した。
「よおし、でかけるぞ」
太郎はにっこり笑って立ち上がった。
翌日。
「あのう、山田くんいますか?」
昼休み、三人の女子生徒がおずおずと教室に顔をのぞかせた。
「いまちょっと外してるけど」
御村託也《みむらたくや》が立ち上がって言った。
「そうですか……じゃあ、これ渡しといてもらえますか?」
がっかりした顔をしつつも、少女たちは頭一つ高い御村をはにかんだように見上げてそう言うと、それぞれ可愛い柄のナプキンの包みを差し出した。
「ああ、いつものお弁当?」
「はい、お願いします」
「すぐ戻ると思うんだがな。どこへ……」
「あっ、B組の川本さん、C組の近藤《こんどう》さん、F組の駒崎《こまざき》さん?」
後ろから現われた太郎の声に、少女たちがぱっと明るい表情になって振り返るのを、御村は微笑ましく見る。
「よかった、あのお弁当、あんまり上手《うま》く出来なかったんだけど」
「ありがとう」
差し出された三つの包みを太郎はにっこり笑って受け取った。
「あ、あの、それじゃまた」
「また明日ね」
頬を赤らめぱたぱたと走り去って行く少女たちに太郎は朗らかに手を振る。
「良く続くもんだな」
御村が感心したように言った。
太郎ファンの女子生徒たちが、毎日交替で何個かの弁当を届けてくれるのはもう入学以来の習慣になっていた。
たまたま誰かの弁当を目にして美味《おい》しそうだなとつぶやいたのがきっかけだった。
入学当日から、その端整な容貌《ようぼう》と上品な物腰で注目を集めていた太郎に近付くきっかけを探していた女子生徒たちが、この願ってもないチャンスを逃す筈《はず》はなかった。
毎日、交替で二、三人が弁当を届けてくる。
誰にでも分け隔てなく接する太郎に倣って、少女たちは自然にそうするようになっていた。
学力レベル地域トップクラス、経済的にも裕福な家庭の子女が多く通う私立一ノ宮高校であればこその、おおらかなありようと言えよう。
そんな一ノ宮の生徒を代表する例として挙げるのに真実もっとも相応《ふさわ》しいのが、太郎の親友御村託也だろう。彼は由緒ある茶道の家元の御曹司《おんぞうし》で、当然成績は優秀、見目も麗しく運動神経、気配りに至るまで言うことなしの秀才である。
学内の人気を太郎と二分していると言われる御村は、何事にもおおらかすぎるほど素直に反応する太郎とは対照的に、何事にもクールに距離を置いた態度を保つため、やや近寄り難く見られている。
「山田くんってあんまり自分のこと、話さないけどほんとに良家のお坊ちゃまって感じよねえ」
「ちょっと浮き世離れした雰囲気あるもんね」
ささやき合うクラスの女子の声に、御村は口元をつい緩ませる。
太郎が貧乏だと知っているのは今のところ御村だけなのである。
ほとんどの者が太郎の家庭の事情を知らず、気付かないのが、御村には面白い。
太郎本人は誰にどう思われていようが、まったく気にかけもしない、というよりそんなことを考える暇などないというのが本当のところらしい。
そんな太郎から目が離せないうち、いつしか御村は誰よりも太郎を知る良き理解者、親友となっていたのである。
「これは?」
御村は太郎が、机の上に置いた本を見て言った。
「ああ、今図書館から借りて来た」
「動物図鑑?」
御村は表紙を見て首を傾《かし》げる。
「うん、一寸《ちよつと》調べたいことがあってさ」
「その程度の図鑑には、食えるか食えないかの区別は載ってないと思うが」
御村は平然といった。
「いや、食えそうなのは分かってるんだ」
太郎もごく当然という言い方で答える。
さすがは太郎を知り尽くした男である。
「さてと……」
太郎は弁当をしまうと座って図鑑を開いた。
「ええと……」
ぱらぱらと太郎はページをめくっていく。
やがて、その手が止まったと思った途端。
「ああーっ!」
「どうした山田」
興奮に頬を上気させて開いたページを見つめる太郎に、御村はあくまで冷静に声をかける。
「見てくれ御村」
「うん?」
覗《のぞ》き込んだ御村は、太郎が指差した写真を見て妙な顔をした。
「……これは、なんだ?」
ひだひだのまるで分厚いカーテンが床に積まれたような物体が、その隙間から目を光らせてページの中からこちらを見つめている。
「すごいだろ、世界最高級だぜ」
「なにが最高級だって?」
太郎は目をきらきらさせて御村を見上げた。
大抵の相手は太郎にこんな目をして見つめられるとすっかりほだされて参ってしまうのだが、そこは付き合いの長くも深い御村である。
太郎が何に感動してこんな目をするかを良く知っている御村は、このまなざしを好もしく思いこそすれ、無条件に同調したりはしない。
「梅山豚《メイシヤントン》。見掛けは特異な風貌《ふうぼう》だが、肉質及び食味は他の追随を許さない。食用豚に於《お》いては世界最高級とされ、生産量が少ない事から珍重されている」
「ふむ、これが豚か?」
御村は感心して写真を見直した。
「ずいぶんな御面相だな」
「いいんだ、豚は見た目じゃない」
太郎はにこにこしながらいった。
「豚の最大の値打ちは食えるってことなんだから。旨《うま》ければもっといいしな。うーん、やっぱりただものじゃあなかったってことかあ」
太郎はうっとりといった。
「それで、この豚がどうしたんだ? どっかで拾いでもしたのか?」
「よし子が預かってきたんだ」
話が正々堂々非現実的に展開するのも、太郎相手にはよくある事なので、御村はこの程度では驚かない。
「誰に?」
「白い髭《ひげ》のじいさんっていってたけどな。こんな珍しい種類の豚を持ってるなんて、普通の人じゃないよな」
太郎は首を傾げた。
「豚を連れ歩いてるだけで相当変わってると思うがな」
「御村、心当たりない?」
「うちには酪農関係者はいないからな。気には止めておくが、期待しないでくれ」
「うん、さんきゅ。そうかあ、ぐふふふふ、世界最高級かあ」
太郎がするっとよだれをすすったのを御村は見逃さない。
「預かりものならすぐ食わないほうがいいぞ。万一中国マフィアでも絡んでいたら面倒なことになる」
「分かってるよ。そのじいさん、追われてたみたいだってよし子がいってたし」
「ほんとか?」
御村は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「今のは冗談のつもりだったんだが、それじゃ洒落《しやれ》にならんな」
「なーに、大丈夫さ。いざとなったら証拠|湮滅《いんめつ》は簡単……」
「きーっ」
「ぴーっ」
「なんだ?」
何やら騒々しい騒ぎに二人は窓の方を振り返った。
どたんばたんと大騒ぎの気配が聞こえてくる。
「何ごとだ?」
「あっ」
窓へ駆け寄って下の校庭を見るなり太郎は踵《きびす》を返して教室を飛び出して行く。
「山田!?」
御村も慌ててその後を追った。
「こらーっ、やめろーっ」
校庭のど真ん中でもうもうと上がる土煙の中へ太郎が飛び込んで行く。
「ぶひーっ」
「止めろってば、痛たた」
「大丈夫か、山田」
「こらっ、かじるんじゃないっ」
太郎が何かをようやく抱え上げた。
大乱闘を繰り広げていたものが何かと見れば、地面の上で未《いま》だ身構えているのは二羽の兎である。
「うさ子、ぴょん吉!」
知らせを受けて、兎たちを可愛がっている調理部副顧問の鳥井《とりい》先生が走って来た。
鳥井先生に抱き上げられた兎たちはおびえた様子も見せず、太郎の腕の中で暴れている相手に向かって形相を変えて歯をむき出している。
「ど、どうしたの、うさ子、ぴょん吉」
尋常でないその様子に、鳥井先生は不安気な声を出す。
「すみません、鳥井先生」
太郎の声が聞こえた途端、兎たちの身がすくんだ。
兎たちはいつも自分たちを旨そうだと見ている太郎の肉食動物の目と、餌の人参《にんじん》をかっぱらわれた時のことを忘れてはいないらしい。
小動物を愛玩《あいがん》する鳥井先生は、太郎のそういう見方を以前から憂えていたのだが、その思いも今目の前に抱えられている『梅花』のあまりにも変てこな姿には一瞬どこかへいってしまう。
「山田くん、そ、その子は?」
「静かにしろってば、『梅花』」
鼻息も荒く尚《なお》も兎たちに襲いかかろうとしている『梅花』を抱いて、太郎は先生に愛想笑いをする。
「『梅花』?」
「そういう名前なんですよ、こいつ。梅山豚《メイシヤントン》っていう豚です」
「あら、か、可愛いわね……」
「美味《おい》しそうでしょう」
屈託なく言う太郎に、鳥井先生は我に返る。
「ぶふっ」
『梅花』が兎たちに向かって牙《きば》をむき出した。
負けずに兎たちもふーっと歯をむき出す。
「あ、あらどうしたのかしら、この子たち。兎がこんなに攻撃的になるなんて」
『梅花』の口に白と黒の兎の毛が束になってひっ掛かっているのを見た鳥井先生は、ぎょっとしてたじろぐ。
「い、いいえ、そんなはずはないわよね」
「え?」
太郎は何のことかと先生を見た。
「ぶ、豚は草食、ええと、雑食だったかしら、ああ、いや、そんなことって……」
「先生?」
「いやーっ!」
鳥井先生は堪えかねたように悲鳴を上げ、兎たちを抱えたまま走り去ってしまった。
呆然《ぼうぜん》と取り残される太郎と『梅花』。
「御村、鳥井先生はどうしたんだろう?」
太郎は傍《かたわ》らにたたずむ御村を振り返った。
「おそらく」
「?」
御村は言った。
「その豚が餌だけでなく兎も食おうとしたことに気付いたんだろう」
「こいつが?」
太郎は『梅花』を見下ろした。
『梅花』は知らぬ顔でそっぽを向く。
「兎を食おうなんてとんでもない奴だな」
太郎は言った。
「俺たちを差し置いてあんな旨《うま》いものを食うなんて十年早い」
「そういう問題とは違うと思うが」
御村は溜《た》め息をついて言った。
「まあいい、他ではともかく校内で弱肉強食は止めといたほうがいいだろう」
「うん、これなら十分外で獲物を取れるからな。今日からいろんなものが食べられそうだなあ」
太郎は嬉《うれ》しそうに言って『梅花』を抱き締めた。
『梅花』は迷惑そうにうなった。
「山田」
御村は感嘆の溜め息をもう一度ついてしまう。
「天晴《あつぱれ》な奴」
『梅花』は頭の良い豚だった。
『梅花』が頭が良かったのか、梅山豚という豚が頭の良い種類だったのかは定かではないが。
ともかく。
『梅花』はたちまち山田家の暮らしになじんだ。
もともとの食べる事に執心する持って生まれた性格からいえば、なじみ過ぎるほどになじんだと言っても過言ではない。
これがすなわち山田家の習性が、豚または梅山豚のそれに酷似している、とは大きな声では言わないことにして。
山田家の名誉のためにも誤解のないよう補足しておくと、そもそも豚というものは一般のイメージにあるのとは違って大変|綺麗好《きれいず》きで清潔な動物なのである。
泥だらけなのは皮膚を守り肌に巣くおうとする虫を排除するために泥のパックをしているだけで、泥そのものは決して汚いものではない。
綺麗な環境に住めれば綺麗に暮らせるのだが、大半の豚がなかなかそういう環境にはいられない、というのが実情なのである。
豚の事情も分かってやってほしい。
ついでにもう一つ、豚はぶくぶく太っていると思われがちだが、それも間違いである。
豚の身体は、確かに切り身で見れば脂身も多いが、決してたぷたぷぶくぶく柔らかくはないのである。豚はかっちり固太りなのだ。
したがって、ただ単に運動不足でぷくぷくしたお腹を抱えた人を、豚みたいに太っているというのは、豚に大変失礼な形容だということも、ここでご理解頂きたいと思う。
閑話休題。
そんなわけで『梅花』は、山田家の子供たちが学校から帰ると、毎日一緒に散歩兼食料調達に出かけるのが日課となっていた。
フランスに於《お》ける地中に埋まった茸《きのこ》、日本でいえば松茸《まつたけ》に相当する価値のあるトリュフを採取するのに、豚の嗅覚《きゆうかく》が利用されるが、山田家にとって『梅花』の鼻はまさにそれに匹敵、いやそれ以上の戦力となっていた。
まだ幼い太郎の弟妹《きようだい》たちは、太郎本人ほどには経験を積んでいないので、その辺に生えている植物のどれが食べられてどれが駄目かはあまり良くわかっていない。
バイトに追われる太郎はそういうことを教える時間がないのだ。
その他にも落ちているものが食べても大丈夫かどうかの判断には、経験と鋭い勘が要求される。なにしろいろいろと物騒な世の中であるからして。
そこに『梅花』の可食物選別能力がタイミングよく登場したというわけである。
まあ場合によっては少々腐りかけていたり固すぎたり正真正銘の残飯だったりして、人間が食べるには問題のあるレベルのものもありはしたが、そこはもともと食欲に限度のない『梅花』である。的確な判断のもと、電光石火平らげてしまう。
そういうものではない、ちゃんとした食料が都会にも意外に沢山あるということを、子供たちは『梅花』から学んでいった。
山芋、むかご、萱草《かんぞう》、のびる、スカンポ、タンポポなどの食べられる野草。
公園や街路の植え込み、一寸《ちよつと》した空き地、時には中央分離帯などに、誰かが捨てた生ごみから生えたサツマ芋だの、ジャガ芋だの。
真冬の最中にも、都会の土は凍ったりせず、植物も正しい季節ほどではなくてもそこそこに生長を続けていて、商品レベルには到達していないながらもちゃんと食べられるものがいろいろと採取された。
その他にも、誰かの買い物|籠《かご》からこぼれ落ちた大根だの、公園のベンチに置き忘れられたケーキの箱だの、獲物は多い。
『梅花』が誰より早く見つけ出したそれらの戦利品を、子供たちは『梅花』と壮絶な戦いを繰り広げつつたくましく手に入れるのである。それは、トリュフ豚とトリュフ採りの間に展開されるものにも似た、非情な戦いだった。
食べ物を見つければ一気に突進してかぶりつこうとする『梅花』。
『梅花』の引き綱を精一杯引っ張ってその鼻先から獲物をさらい取ろうとする次郎たち。
「ぶひ!」
「はなせーっ!」
お互い生きるためには手加減などしていられない。『梅花』の体重は日増しに増えて手強い相手となりつつあったが、子供たちの方もこれまでに犬猫烏等と戦って培ってきた技と知恵、それに食うための根性とで決して負けてはいなかった。
勝負は、互角。
今日も子供たちと一頭は、向かうところ敵なしの快進撃で街を行くのである。
「ただいまー」
「おかえり」
次郎たちの後ろから玄関の横幅一杯のでっかい身体が、軽やかな足取りで続く。
「かあちゃん、ほら見て、今日のはいい外っ葉でしょ」
両手一杯に抱えた青々したキャベツの外葉をみせて五子が嬉しそうに言う。
「あら、ほんとにおいしそうね」
綾子がにっこり笑い返す。
「『梅花』の奴、凄《すご》く食べたがってたからきっと無農薬の奴だぜ」
三郎が傷だらけの顔を袖《そで》でぐいとぬぐいながら、じろっと『梅花』を見る。
「ぶひ」
雑巾《ぞうきん》で蹄《ひづめ》を拭《ふ》きながら『梅花』がじろりと見返した。
「半分は食わしてやったじゃないか」
半分食われてしまったということである。
『梅花』は素知らぬ顔ですたすたと畳に上がると、綾子の元へとすり寄った。
「まあ、『梅花』えらかったわね」
綾子が優しく微笑みかけると、『梅花』はごろりとその膝《ひざ》の側に身を横たえた。たふり、と灰色の皮膚が畳に垂れる。
「ぶふん」
目を細めて『梅花』は背中を綾子の膝に擦り付け、かいてくれと催促する。
「あらあら、甘えん坊ね、はいはいこれね?」
綾子はヘアブラシを手に取ると、『梅花』の背骨の上をがしがしと力一杯かいてやる。
「ふんふんふん」
心地好さそうな鼻息と共に幾重《いくえ》にもたるんだ皮膚がゆさゆさと揺れる。
背中をかいてもらうのは『梅花』の大のお気に入りなのだ。
「『梅花』も、ずいぶん、大きく、なった、わ、ね」
綾子は額に汗を浮かべてかきつつ言った。
「ここら辺の、ロースの、辺りなんか、いい感じに……」
「かあちゃん、ロースってなあに?」
七生が首を傾《かし》げて聞いた。
綾子はにっこりわらって、ヘアブラシで背中の真ん中辺りをかいた。
「ロースって、いうのはね、ここ、背中の骨に、そった、真ん中のところの、両側のお肉」
ぎく、と『梅花』の筋肉が固まる。
「ここがねえ、一番いいところなのよ」
綾子は愛《いと》しげにその辺をブラシで優しく撫《な》でた。
「……おいしいところ?」
「そうよ」
「わあ」
七生が、そして次郎も三郎もよし子も五子も六生も、ごくりと唾《つば》を呑《の》む。
「ここが一番柔らかくて、しかも表面を覆っている脂肪が風味の決めてでねえ」
綾子はついと、指先を『梅花』の肩の方へ滑らせる。
「この一寸前の方が肩ロース」
「そこもおいしい?」
「もちろんよ」
綾子は頷《うなず》いた。
「味でいったらここが一番かしら。脂肪はロースより少なめだから、焼き過ぎないようにしないとね」
「うん!」
子供たちが頷く。
「後は、そうねえ」
綾子は『梅花』の身体を眺めて、後ろ足の付け根の上、お腹のやや上辺りの皮膚のひだが重なっているところをさわさわと撫でた。
「そこは? かあちゃん」
「ここがねえ……」
綾子はうっとりとなる。
子供たちも一緒にうっとりとなった。
一人、顔色のよくないのは『梅花』である。
「ここ、ここがヒレよ」
「ヒレ」
子供たちは固唾《かたず》を呑んで覗《のぞ》き込む。
「ほんの一寸しかとれないんだけど、ヒレは柔らかくてきめが細かくてねえ……」
「ロースとどっちがおいしいの?」
「そうねえ、ヒレは脂肪が少ないから、あなたたちにはロースの方がいいんじゃないかしら」
綾子は子供たちに微笑みかけた。
「かあちゃんはどっちが好き?」
「うーん、どっちも美味《おい》しいのよねえ」
「ただいま」
「あっ、あんちゃんお帰り」
太郎は『梅花』を取り囲んでいるみんなを見て目を瞬《しばたた》いた。
「なにやってるんだ? 弁当持って帰ったぞ」
「わーいっ、あのね、あんちゃん、今かあちゃんがお肉のこと教えてくれてたんだよ」
「ふうん」
見下ろした太郎を、『梅花』はおとなしく寝転んだままぎろりと不敵な目付きで睨《にら》み返した。
「どれどれ」
『梅花』の傍《かたわ》らにかがみ込むと太郎は、その身体にさっと手を走らせてにっこりした。
「うんうん」
険悪な表情を浮かべる『梅花』に向かって、にこやかに首を振ってみせる太郎だが、その口元が食べたそうに緩んでいるのは誰の目にも明らかである。
「…………」
警戒のしるしに耳を伏せる『梅花』に、唾をごくんと呑み込んだ太郎は真面目な顔になって改めて首を振る。
「心配するな、俺たち今お前を食うわけにはいかないんだからな。人様からの預かりものに手をだすのは人の道に外れる。まだまだ身体も育ち切ってないようだし」
「ぶひ!」
『梅花』と太郎は睨み合った。
「あっ、あんちゃん、雪が降って来たよー」
窓の外を伸び上がって見ていた六生が叫んだ。
「まあ、今年は暖かいから、雪なんて見られないと思ってたわ」
綾子はおっとりと言いながら外を見た。
曇ったガラス越しに微《かす》かに白く舞い散るものが見える。
「こんな夜だったわ……和夫《かずお》さんと二人で分けあった鍋焼《なべや》きうどん……あのとろけた海老天《えびてん》、美味しかったわ。ああ、和夫さん、こんな季節になったっていうのに、今頃どこにいるのかしら、おなか空いてないかしら……」
「か、かあちゃん……」
ぼうっと綾子は溜《た》め息をついた。
「かあちゃん、大丈夫だよ、とうちゃんきっともうすぐ帰って来るよ。熊かなんかつかまえてさ」
三郎が言った。
「……そうかしら……」
うっとりと綾子は窓の外を見つめてつぶやく。
「熊鍋もしばらく食べてないわねえ……」
がらがらと引き戸を開け、バケツを持った五子が入って来る。
五子は怪訝《けげん》そうに後ろを振り返った。
「どうした? 五子」
太郎がバケツを受け取って尋ねる。
「あんちゃん、あのね、なんか向こうの角のとこから誰かうちの方を見てるみたいなの」
「うちを?」
太郎はそっと玄関から首を出して辺りを窺《うかが》った。
薄闇に包まれかけた町並みの向こう、ちらりと黒い影が見えたような、見えなかったような。
「あんちゃん?」
五子を振り返って太郎は安心させるように微笑みかける。
「大丈夫、誰もいないよ。さあ、ご飯にしよう」
「うん!」
「ぶふ」
『梅花』が綾子の膝《ひざ》にくっつけた頭をもたげて太郎の方を見た。
「おなか空いたわね、『梅花』。うふふ、お前、暖かいわ」
綾子はそう言ってぎゅっと『梅花』を抱き締めた。
そうである。
今年山田家が例年になく温暖化しているのは『梅花』の存在によってだった。
温血動物は常に体表から熱を発散して生きている。それは人間も同様で、例年も狭いながらも楽しい我が家、たとえ隙間だらけの六畳一間でも、人口密度高く生活している山田家に於《お》いては、必要十分の暖房効果が上がっていた。
そこへ『梅花』の巨体が加わったのである。
発散される熱量は体表面積に比例して増大するため、『梅花』が成長するにつれ、寒さが厳しくなるのに追いついて暖かさは増したというわけだ。
夜、『梅花』の身体は巨大あんかと化して一家の役に立っていた。
豚とは、かくも無駄のない動物だったのだと、太郎は再確認させられていた。
「さすがは世界最高級の梅山豚だけのことはあるよなあ」
「豚の種類は関係ないように思うが」
嘆息する太郎に、御村は相変わらず冷静に答えた。
「ところで山田、その豚を預けたじいさんのことだが」
「何かわかったのか?」
太郎がどきっとした顔をするのを、御村は内心楽しみつつ素知らぬ顔で肩をすくめる。
「全然」
太郎はまだ固まったままだ。
「一応調べてはみたが該当する人物には誰も心当たりがない」
「それじゃしょうがないな」
ほっとすると同時に、太郎はいかにもわくわくと期待に満ちて笑みがこぼれるのを隠せないという表情になった。
「嬉《うれ》しそうだな、山田」
「えっ、わかる?」
わからいでか。
くすりと笑う御村を、太郎はきらきらする目で見る。
「世界最高級の肉質ってどんなのかと思ったら、もうどきどきしちゃって」
太郎はうっとりと言った。
「それも一頭丸々、あんなにたっぷりで、もうほんと、旨《うま》そうなんだよなあ、かあちゃんがマッサージしてるから霜もよく入ってると思うし」
かつて、山田家の主《あるじ》和夫がふらりと戻った時、担いできた猪はかなり固かったという話を御村は思い出した。
「預けたって言ったって、相手が分からなければ遺失物と同じだからな。保管義務期間の六カ月を過ぎれば、法的にも拾得者の物になる。うまいことに丁度その頃が一番の食べ頃になる筈《はず》だ」
太郎は確かめるように言った。
「その頃になれば、暖かくなって暖房もいらなくなる」
「なるほど」
誰よりよく山田家の事情を知る御村には、理路整然と納得がいく。
「でもなあ」
太郎は意外にもふと溜め息をついた。
「いろいろ問題もあるんだよなあ」
「問題?」
御村は興味津々で尋ねる。
「『梅花』が太ってくれるのは嬉しいんだけど、みんなの命には代えられないからなあ」
太郎は苦悩の表情を浮かべて言った。
「なにを大袈裟《おおげさ》な。そいつの寝相が悪くて押しつぶされそうとか、そういうことか?」
「いや、そうじゃなくて」
太郎は首を振る。
「家がちょっと危ないんだ」
木造平屋建て六畳一間流しつき一応トイレ付き風呂《ふろ》なし、はっきり言って今時珍しい安普請を体現した太郎の家を思い浮かべて、御村はなるほどと頷《うなず》いた。
確かに。
あれだけ大きくなった『梅花』が、どうして今まで床を踏み抜いたり、壁をぶち破ったりしなかったのか、考えてみれば不思議では、ある。
「かと言って、あいつをダイエットさせるだなんて。そんなこと、俺には出来ない!」
太郎は苦悩した。
「まあそれは人道、もとい豚道に反する行いだろうな」
「分かってるさ、御村」
太郎は決意を込めたまなざしで天を仰いだ。
「無理なダイエットなんて不健康な脂肪過多の身体を作るだけだ! 家は壊れたら直せる! せっかく俺たちのために美味《おい》しくなってくれた『梅花』の努力を俺は無駄にはしない!」
『梅花』が努力してああいう体格になったかどうかは定かではないが、と御村はこの際思うだけにしておく。
「家庭養豚も楽ではなさそうだな」
「そうなんだよな」
太郎は再び溜め息をついた。
「毎日旨そうな肉を目の前にして我慢しなきゃならないのが、こんなに辛《つら》いなんて。俺も修行が足らないよなあ」
「ははあ、そういうものか?」
「わかるだろ? 味見くらいしたって支障はないように見えるんだけどなあ……」
自分で言ってから、太郎ははっと目を見開いた。
「味見……」
「? 山田?」
「そうだ! その手があった!」
太郎はがばっと身を起こし、御村の手を取った。
「御村、出汁《だし》なら出るよな?」
「なんだって?」
御村は鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
「そうだよ、出汁ならあいつをちょっとだけ、煮出せば」
太郎は頷いて言った。
「よーく洗ってそうだな、盥《たらい》に入れて水はひたひた、六十度位までの加熱なら命には別条なく旨味《うまみ》と脂が」
「無理だろう」
御村はあっさり却下する。
「味が出るまであの、梅山豚とやらがじっと我慢してくれると思うか?」
「ううーむ」
太郎は腕を組んで考え込んだ。
「それなら!」
再び太郎は顔を上げる。
「あの手だ。ほら、四方に鏡を張り巡らし」
「?」
「下には金網を張ったところに『梅花』を入れる。するとあいつはおのが姿に驚いて、たらーりたらーりと脂汗を流す」
「それは、前は四本後ろは六本、って奴だな?」
御村は太郎の口調をまねていった。
「そうそう、そんじょそこらのガマとはちと違うよ、筑波《つくば》の山に住むガマは」
「山田」
御村は溜《た》め息をついて言った。
「お前の気持ちは良くわかるが」
太郎はすがるような目をして御村を見る。
そのまなざしは、御村の胸をちょっと締め付けたりも、する。
「豚とガマは違うぞ」
「駄目かなあ」
太郎は悲しそうに言った。
「無理だと思うがな」
「そうかあ」
がっかりした声で言うと、太郎は肩を落とした。
「しかし、たいした発想だな、山田」
そして実に太郎らしい、と御村は思いつつつぶやいた。
「だろ!? 画期的だと思ったんだけどなあ、やっぱり両生類相手の方法じゃあ駄目か」
そういう問題ではないような気もする御村であったが、追い討ちをかけるのはやめておくことにする。
「うんっ! それじゃしょうがない」
太郎はきっぱりと言って頷いた。
「とにかく保管義務期間が過ぎるまでしっかり肉を付けさせることに専念しよう。肉を食うなら骨までだ!」
「前向きなのはいいことだ」
御村は本心からそう思って言った。
「ただいまー、あれ?」
玄関を入った太郎はやけに広い六畳間を見渡して首を傾《かし》げた。
「? 『梅花』は?」
黙って内職の花作りをしていた次郎たちが、しゅんとした顔で太郎を見上げる。
「……あのねあんちゃん……」
「ただいまー」
太郎の後ろから脳天気な声をかけて入って来たのは母の綾子である。
「あら太郎お帰り」
にっこり笑いかける綾子が抱えているものに太郎の目が吸い寄せられる。
「かあちゃん、それ……?」
「ああこれ。今代えてきたのよ、コシヒカリよ。十キロもあるの」
「??」
面食らった表情の太郎に、立ち上がった次郎が口を開く。
「あんちゃん、さっきね、『梅花』、お迎えが来たんだ」
「お迎え?」
太郎の目がぎろりと光る。
「お礼にってお米券をおいてって下さったのよ」
「十キロ分?」
「ええ。よかったわね」
天真爛漫《てんしんらんまん》に答える母を前に、太郎は必死で怒りをこらえていた。
『梅花』の体重は優に百キロを超えていたはず。そこまで『梅花』を無事に成長させたのは山田家一同なのだから、せめてその体重分くらいはお返しを期待しても良いのではないか。
それがかなわないなら、せめて一口味見位しておくべきだった。
悔やんでも悔やみ切れない太郎である。
「『梅花』、凄《すご》く嫌がってたのに、無理やり引っ張って行かれたんだよ、あんちゃん」
三郎が言った。
「あのおじいちゃんのお使いだって言ってたけど、あのおじさんたちやっぱり怪しい」
「そうだよねっ」
よし子に向かって五子も七生、六生も大きく頷《うなず》いた。
「なんだって?」
「おい、山田」
いきなり玄関が開いて御村が顔を出す。
「向こうの公園でお前んちの豚らしいのが大立回りしてるぞ」
「何!?」
太郎は家を飛び出した。
子供たちも後を追い、御村が続く。
「ぶひんっ!」
「んぎゃっ」
「『梅花』!」
公園に飛び込んだ太郎の目に、黒いスーツの男たちを相手に、戦っている『梅花』の姿が映る。
「『梅花』!?」
「ぶひ!」
「わあ」
突進する『梅花』の頭突きをくらって、男の一人が宙にはじき飛ばされた。
勢いのまま向きを変えた『梅花』はもう一人の足元を掬《すく》い、更に向こうに転がった一人を蹄《ひづめ》で踏み付ける。
「ぎゃっ」
「加勢はいらんようだな」
呆気《あつけ》に取られて足を止めた山田太郎に、御村託也が言った。
一同が見守る中、六人の男たちはたちまち『梅花』に蹴散《けち》らされ、地面に転がる。
「ぶひ」
『梅花』は足を踏ん張って自慢気に太郎を振り返った。
「わあい、『梅花』、凄い!」
「良くやったねえ」
次郎たちが『梅花』に駆け寄ろうとした時だ。
ばさっと何かが『梅花』に投げ掛けられた。
「『梅花』!?」
はっとした子供たちの目の前で、『梅花』の大きな身体がネットに絡み付かれどさっと地面に転がる。
「ぶひっ!」
「やったぞ!」
「君たち、危ないからさがっていなさい!」
ネットを操りつつ現われたのは二人の白衣の男だ。
「『梅花』!」
「ぶひんっ!」
『梅花』はもがき、巨体を転がしてネットから逃れようとするが、なんで出来ているのかネットはほころびもしない。
「止めてくれ、『梅花』を放すんだ」
「離れて!」
白衣の男が叫ぶ。
「我々は保健所の者だ。凶暴な野獣が暴れているとの通報を受けたんだが……こんな化け物一体どこから現われたんだ」
「ぶひひんっ」
「こいつ、おとなしくしろ!」
「『梅花』は化け物なんかじゃないよ」
「『梅花』は凶暴じゃないもん!」
「『梅花』を放して」
「『梅花』、おうちに帰ろう」
子供たちが駆け寄ろうとするのを、白衣の男が遮る。
「いかん、危ないぞ、狂犬病の可能性もあるんだからな!」
「そんな筈《はず》は……」
太郎が白衣の男に詰め寄った。
「『梅花』は、そいつはうちでちゃんと面倒を見ているんです。凶暴なんかじゃ、決して……」
「ぶひーっ!」
ばりっと『梅花』の牙《きば》がネットを噛《か》み裂いた。
「うわっ、このどこが凶暴じゃないというんだ! それに君はちゃんとと言うが」
男はじろりと太郎を見た。
「首輪は? 鑑札は? 予防注射は? リードもついとらんじゃないか」
「そ、それは……」
太郎は詰まった。
「豚でも登録が必要とは知らなかったな」
御村が言った。
「当然だ。市民には市民生活の安全を守るための義務というものがあるのだ」
「ぶふんっ」
『梅花』がネットの破れ目を広げようと鼻を突っ込む。
「させるか!」
「おう!」
二人の保健所職員は絶妙のコンビネーションでネットを操り、『梅花』の足を搦《から》めとってたちまち動きを封じてしまう。
「ぶひんっ!」
怒りの声を上げて『梅花』は暴れるが、ネットは絡み付くばかりである。
「プロの技というわけか」
「御村のあんちゃん、感心してる場合じゃないよ」
次郎がおろおろと言う。
「待ってくれ、『梅花』を放すんだ!」
太郎は職員たちの前に立ちはだかった。
「邪魔をするな、近付くと怪我をするぞ」
「『梅花』は俺たちにそんなことはしない!」
言うなり太郎は『梅花』の身体からネットを外そうと手を伸ばした。
「よせ!」
「ぶひっ!」
「あっ」
大きく空を蹴った『梅花』の蹄が、ネット越しに手をかすめて、太郎は思わず身を引く。
「『梅花』!」
次郎たちの声も耳に入らぬ様子で、『梅花』は暴れ続けた。
「そら見ろ、こんな奴を野放しにはしておけん」
「ぶひひんっ!」
「『梅花』!」
「あんちゃん、大丈夫?」
次郎たちは太郎に駆け寄った。
「かすり傷だ」
「でも、『梅花』、あんちゃんを……」
不安気に次郎たちは『梅花』を振り返った。
「『梅花』は怖い目に遭《あ》わされて、気が動転してるんだ。落ち着けばいつものいい子に戻る」
太郎は静かに言った。
「観念しろ、もう抵抗しても無駄だぞ」
「ぶひっ」
引きずられながらも『梅花』は、牙をむき出してネットを噛み裂こうと首を振る。
「待ってくれ、『梅花』をどうするつもりなんだ!」
職員に太郎は追いすがった。
「野犬収容施設に収容する。七日後には処分する決まりだ」
邪険に太郎を振り払うと、職員は冷たく言った。
「そんな!」
「あんちゃん、処分って?」
「『梅花』が返ってこないってことだ」
太郎は低い声で言った。
「えーっ、どうして!?」
「そんなのやだ、『梅花』を返してよ!」
弟妹《きようだい》たちは口々に叫ぶが職員の手は止まらない。
「ぶひっ!」
『梅花』もまたますます激しく暴れている。
「収容された場合、七日以内に引取りに行けばいいんではなかったかな?」
御村が言った。
「通常はな」
職員は『梅花』の重量にはさすがにてこずる様子を見せながら、冷ややかに続ける。
「しかしこいつは市民に危害を与えているからな、一刻も早く処分しないと危険だと見なされるケースだ」
「何だって!?」
太郎は叫んだ。
「処分って……まさか、あんたたち『梅花』を独り占めしようと……」
「何を言ってるんだ? こんなにでかい図体を始末すんじゃ焼却炉に入れるのも一苦労だってのに」
「焼却炉?」
太郎は握った拳《こぶし》をふるふると震わせた。
「せ……せっかく食べられるために生まれて来たものを、誰の口にも入れないで葬り去るって言うのか!?」
太郎の瞳《ひとみ》に暗い炎がめらめらと燃え盛る。
この世で最も太郎が許し難く思っているのは、食べ物を粗末にすることに他ならない。
しかし、大抵の場合怒りをぶつけたところで覆水盆に返らず、ごみ箱に入れられてしまったピザはもう食べ物として復活は出来ないのだと、太郎は諦観《ていかん》しても、いた。
だが、今日の場合はまだ間に合う。
太郎は怒りの形相も凄《すさ》まじく、ずいと一歩前へ出た。
「待て山田」
慌てて御村は太郎の腕を掴《つか》む。
「止めるな御村。『梅花』は渡さん」
「官吏に逆らう気か、未成年」
「その肉は俺たちのものだ!」
太郎がまさに飛び掛かろうとした、その刹那《せつな》。
「待て、待ってくれい!」
ひらひらと白い衣を翻して、白い髭《ひげ》の老人が駆け込んで来た。
「あっ、あの時のおじいちゃん!」
よし子が叫ぶ。
「おお、『梅花』」
老人は『梅花』に駆け寄るとネットごと抱き締める。
「待たせてすまんかったのう、いやいやお前と一緒では肉料理は食いにくくてのう」
「ち、炒白菜《チヤオハクサイ》先生!」
黒服の男が老人に駆け寄る。
「先生、一体今までどこにおいででしたか!」
もう一人の男が職員に駆け寄って何ごとか耳打ちする。
職員は無念そうに舌打ちをすると、するりと『梅花』からネットを外した。
「外交関係だって言うんならやむを得ませんがね、これっきりにしてもらいたいですねまったく」
ぶつぶつ言いながら職員は去って行く。
「あのおじさんたち、『梅花』を助けてくれたの?」
よし子がきょとんとして言った。
「悪い人じゃなかったんだね!」
六生と七生が声をそろえる。
半信半疑ながらも、子供たちはほっとして『梅花』を見た。
「ぶひひん」
『梅花』は老人に鼻を擦り付けている。
「おお、おお、寂しかったか。いやいや、日本の旨《うま》いものもあらかた賞味させてもらったし、とっとと大陸に帰ろうかのう」
「ぶひぶひん」
「先生、勘弁して下さいよ、新種豚のお披露目に養豚学会に顔を出すだけってお約束でしたのに」
「何を言うとる、せっかく旨いもんの潤沢な時期に来たんじゃ、人生食える時に食えるだけ食っとかんとなあ。おお、『梅花』、よう太って立派に育ちおって。お前も旨いものをたんと食ったか?」
「ぶひんぶひん」
仲良く会話を交わしながら、老人と豚は去って行く。
ひゅるるるる。
木枯らしが吹き抜ける。
太郎は、以下|弟妹《きようだい》たちとともに呆然《ぼうぜん》と取り残された。
あんかが、毎日の食料調達名人が、そして最高級の豚肉料理いろいろが去って行ってしまった。
「『梅花』ー」
「食わせろー」
「恩知らずー」
呼び声は、遠く空しく夕焼けに吸い込まれて行くのであった。
数日後。
「山田」
御村は太郎に一枚の切抜きを差し出した。
「何だ御村?」
手に取った太郎の顔色が青ざめる。
「こ、これは……」
そこにあるのは忘れ様もない『梅花』の姿である。
「まあ読んでみろ」
「……中国養豚研究所の発表によれば、特異な風貌《ふうぼう》で知られる名豚、梅山豚の改良種『梅花豚』は、肉質食味成長率有効利用率に於《お》いて、かつてない効率の良さを実現したと報告されている。現在三世代目のこの品種は続く十世代で固定できると予測され、五年後には食肉として出荷される予定である。日本への輸出は当面計画はなく、今後の交渉が待たれるところである……」
「残念だったな、世界最高級を逃して」
「言わないでくれ、御村」
太郎は切抜きを返すと、ぐっと歯を食いしばった。
「さっさと食っちまっとけば、と思うと夜も眠れないよ。はやいとこ忘れなくちゃ」
「それは済まないことをしたな。ところで、昨日うちに牡蠣《かき》が山ほど届いたんだが、いるか?」
「いる!」
太郎は元気に頷《うなず》いた。
更に後日。
「山田さん、クール便でーす」
「はーい、ごくろうさまです。あんちゃん、何か来たよー」
「なんか? あっ!」
箱を受けとった太郎は差出人を見て声を上げた。
「どうしたの、あんちゃん?」
覗《のぞ》き込んだ次郎たちもあっと声を上げる。
「『梅花』からだ!」
発送地は中国、差出人のところには、『梅花』と記されている。
箱の中にはしっかりと包装されたロース、肩ロース、ヒレ、それに腿《もも》を丸ごと加工したハムが二本、ごろりと入っていた。
「わーっ、『梅花』だあ!」
次郎たちは嬉《うれ》しそうに叫ぶ。
太郎の手元に、ひらりと一枚写真がこぼれる。
「『梅花』?」
写っているのは白い髭の老人と親しげに肩を組んで、蹄《ひづめ》のVサインを出した『梅花』である。
二人の後ろに、ずらりと枝肉が並んでぶら下がっているのを見て、太郎は思わず苦笑してしまう。
「あれえ、じゃあこのお肉は『梅花』のじゃないの?」
よし子が覗き込んで言った。
「そうみたいだな」
「ふうん、でもいいや、『梅花』が送ってくれたんだから、『梅花』のお肉、だよね? あんちゃん」
「きっと旨いぞ」
よし子の頭をくしゃっと撫《な》でて、太郎はにっこりした。
今度会ったら、すかさず食ってやるからな。
写真に向かって太郎はそう誓っていた。
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第二話 美しきあるばいたー
時は春。
朝七時にはかたつむりが枝に這《は》い、神は空にしろしめす、春。
山田太郎は、神がいるなら空なんかでふらふらしてないで、福でも持って来てくれればいいのに、と思っていた。
山田家には相変わらず貧乏神が居座っていた。
一年の他のどの季節よりも、春は山田家にとって厳しい季節である。
高校奨学生である長男太郎を筆頭に全員が修学年齢の山田家に於《お》いて、新学期とは何かと臨時出費の発生する時期、すなわち常に危機的貧乏にさらされる季節なのだ。
朝の新聞配達、午後の家庭教師、夜のコンビニ、寸暇を縫っての内職と、日を夜についで働いても、稼ぐを追い越す貧乏ここにあり、である。
といってめげている太郎ではもちろんない。
今日も朝一番のバイトに向かうべく、玄関を開けた。
がらがらがら。
今時珍しい引き戸を開けた太郎の手が止まる。
「!?」
しんと静まり返った世界が、白い。
白い?
日の出前の薄明りに一面白く光っているもの、それは雪だった。
「雪?」
太郎は目を瞬《しばたた》いて辺りを見回した。
どうも昨夜から世間が静かだと思ったら、こういうことだったのか。
「あんちゃん?」
太郎の後ろから次郎が眠そうな声をかける。
「あっれーっ!」
「どうしたの、次郎ちゃん?」
わらわらわら。
三郎、よし子、五子、六生、七生、それに母の綾子が、玄関に押し寄せた。
「わーっ、雪だーっ!」
「すっごーい!」
「あらあらあら」
一同目を輝かせて二十センチは積もった雪を見つめる。
「今頃雪なんて珍しいわねえ」
綾子が言った。
「真っ白でとってもきれい……そう言えば……」
綾子はうっとりと続ける。
「……そうまだ太郎ちゃんが生まれる前だったかしら、やっぱりある朝目が覚めたらこんなふうに雪が積もっていて……」
「積もってて?」
よし子が頷《うなず》く。
「見た途端、和夫さんったら裸のまんま窓から飛び出していっちゃって」
綾子はくすりと思い出し笑いをした。
「……走り回ってる和夫さん、素敵だったわ……」
「裸で走り回るのってストリーキングって言うんだよね」
五子がささやいた。
「わたしも行きたかったけど、風邪をひくから待ってろって……それで雪うさぎを作って来てくれたの」
綾子ははにかんだ笑みを浮かべた。
「お砂糖をかけて一緒にお布団《ふとん》の中で食べたの、美味《おい》しかったわ……」
綾子はぽうっと頬を上気させる。
「……ああ……なのに……この次雪が積もったらこんどはわたしが大きな雪だるまを作って上げる、って約束してたのに……」
綾子は一転して声を震わせた。
「せっかく雪が積もったっていうのに、和夫さん、どうしてここにいないの? 今どこにいるのかしら、おなか空いてないかしら……うっうっう……」
「か、かあちゃん!」
三和土《たたき》に頽《くずお》れる綾子を、次郎たちはあわてて支えた。
「かあちゃん、大丈夫だよ、僕らのとうちゃんだもん、絶対ご飯見つけてるよ」
次郎の言葉に三郎たちも頷く。
「きっと、今頃かあちゃんのこと思い出しながら、裸で雪食べてるかも」
よし子も一生懸命いう。
「泣かないでかあちゃん」
「あっそうだ!」
六生がぱっと目を輝かせて叫んだ。
「今日はさ、僕たちみんなでとうちゃんの代わりに、うーんとおっきい雪だるま作ったげるから」
「そうだ、そいでお砂糖かけて一緒に食べようよ」
七生も言った。
「みんな……ありがとう」
綾子は涙を拭《ふ》いて微笑む。
「いいでしょ? あんちゃん」
太郎は次郎たちに笑って頷いた。
「けど、あんまりたくさん砂糖はかけるなよ。虫歯になるからな」
本音を言えば砂糖のストックがもう怪しいと言うのはあるのだが。
「はーい!」
元気一杯答える弟妹《きようだい》たちに見送られて、太郎は新聞配送所へと向かった。
ようやく陽が昇って来て辺りは眩《まぶ》しい白さに満たされる。
太郎は歩きながら目を細めて辺りを見渡した。
「これじゃまだ何もみつからないな」
この雪の下が宝の山であることを、太郎は知っている。
積もった雪の上では小銭の落ちる音は聞こえなくなってしまうが、雪の中に埋もれて落とし主がその場で取り戻すことが出来なくなるから、後で拾えて拾得できる確率は上がるのである。
問題は雪の溶け始めのタイミングを逃さないことだ。
太郎は気温の上がり具合と陽の当たり具合に注意しながら、さくさくと雪を踏んで行く。
後で次郎たちにも言っておかなければ。
配送所についた太郎は、雪で出て来られなくなったお年寄りの配達員の皆さんの分の配達を頼まれた。
ちょっと雪に感謝する太郎である。
空は雲ひとつなく、その青さもその下できらきら光る雪の表面も眩しい。
雪の明日は裸虫の洗濯、とは昔の人は上手《うま》いことを言うもんだな、と太郎は思った。
今は亡き商店街の八百屋のばあちゃんから教わった関東の諺《ことわざ》で、雪の翌日は必ず晴れる、つまり着たきり雀でもすぐ乾くと知っているから洗濯をするものだ、という意味だそうだ。
裸虫とは。
太郎はさっきの母の話の父を思い浮かべて、くすっと笑った。
配達を終え、太郎は学校に向かう。
私立一ノ宮高校は、この辺りでも屈指の秀才校で、父の出身校でもあるこの高校に、太郎は奨学生として通っているのだ。
ふと電柱の根元に目を吸い寄せられた太郎に、誰かが声をかける。
「おい、山田」
「…………」
一瞬太郎の意識は地面の何かに集中する。
「山田?」
「ああ! 違った」
太郎は大きく嘆息した。
「?」
「あれ、御村、おはよう」
「おはよう」
御村託也は太郎の屈託ない笑顔を見つめて、ほっと息をつく。
太郎の同級生である御村は、太郎の親友であり、またもっとも太郎を良く知る男であった。
しかし、そうはいってもまだまだ太郎の奥は深い。
御村は太郎が覗《のぞ》き込んでいた電柱の根元を覗き込んだ。
何か、白っぽい微《かす》かに光る丸いもの。
「あれがどうかしたのか?」
「いや」
太郎は頭をかいた。
「五百円玉かと思ったんだけどさ、違ってた。雪の後だとつい期待しちゃってさ」
「ははあ」
御村は微笑した。
小銭の落ちる音は一キロ先からでも聞きつける男、太郎が落ちている硬貨を決して見逃さないのは当然といえよう。
「ところで御村、どうしてこんなところにいるんだ?」
「ああ、ちょっとお前に用があってな」
「用?」
言って歩き出そうとする太郎の襟に、御村は指をひっ掛けてとめる。
「んっ?」
「待て、今日は全校休校だ」
「えっ!?」
太郎は御村を振り返った。
「この雪で交通機関は大混乱だ。山田には関係ないとは思うが」
有料の交通機関は原則として山田家では使用されないことを御村は知っている。
「早く知らせた方がいいと思ってな」
「うん、ありがとう御村。そうかあ……」
太郎はちょっと肩を落とす。
「それじゃ今日はお弁当なしだな……」
眉目《びもく》秀麗頭脳|明晰《めいせき》成績優秀明朗快活温厚篤実スポーツ万能、一見欠点らしい欠点も見いだせない太郎にあこがれる女子生徒は多い。彼女たちは毎日交替で、来るものは拒まない太郎に手作りのお弁当を届けてくれるのである。
彼女たちの誰も、実は太郎が究極の貧乏だということに気付いてはいない。女子生徒たちのほとんどは、こともあろうに太郎がどこかの財閥の御曹司《おんぞうし》か何かだと思い込んでいる。
明るく脳天気に貧乏と戦っている太郎の言動は時に浮き世離れして見え、それは確かに世間知らずのお坊ちゃまと通ずるところがないとは言えない。
自分が他人にどう思われようと一向に気にかけていない、というよりそんな暇がない太郎をいいことに、真実を隠し通そうとしているのは実は御村である。
ばれない方が見ていて面白い。
それだけの理由で、つい御村は太郎をフォローしてしまうのであった。
「あっ、でも大丈夫だ!」
太郎はぱっと明るい顔になって言った。
「杉浦《すぎうら》さんちに一番で入れば、期限ぎりぎりの弁当が貰《もら》えるんだ」
杉浦さんち、とはバイト先のスーパーのことで、そこのオーナーの息子は一ノ宮の三年生だ。
「その前に一仕事する気はないか?」
言われて太郎は思い出したように御村を見た。
「そうだった、御村、用って何だ?」
「うちの祖父《じい》さんが雪かきをしてほしいそうなんだが」
「いいよ」
太郎はあっさり頷《うなず》いた。
「御村んちのおじいさんにはお世話んなってるし、そのくらいお安いご用だ」
「いや、ちゃんとバイト代は払うからな。実は今日春の茶会を催すんだが、外の眺めが雪ではしつらえがちぐはぐになるんだ」
「なるほど」
太郎は頷いた。
「客の足元もあるし、是非山田に頼んでくれということでな」
「うん! すぐ行くよ」
太郎はにっこり笑って言った。
「あっ、でも弁当……」
御村はくすりと笑った。
「昼飯付きならいいか?」
「うんっ! 御村、さんきゅっ!」
言うなり太郎はぱっと御村を抱き締めた。
ぎゅうっ。
こういう時の太郎は子犬みたいだ、と御村は思う。
無邪気にじゃれかかる子犬に邪険に出来るものなどいるだろうか。御村はわき上がる楽しさをかみ締めて太郎の背中をぽんぽんと叩《たた》いた。
これだから太郎と付き合うのはやめられない。
「よおし、お茶会までに片付けよう。早く終わって杉浦さんとこにも早目に行ければ時給が稼げるし……恩に着るよ御村」
「礼なら祖父さんに言ってくれ」
御村はそう言って片目をつぶった。
御村家の庭は、広大である。
もちろん庭だけでなく檜造《ひのきづく》りの家も、広い。
太郎はその中庭でせっせと雪を運んでいた。
短く枯れた冬芝を傷つけないようにしながら、雪をかきとって猫車で裏庭に持って行く。
踏み固められた外の雪とは違って、手付かずの雪は柔らかく、スコップが簡単に入る。
一方、一杯に注ぐ暖かい春の陽射しの力は強く、雪は水気を含んで重くもあった。
それでも陽が低い中天にかかろうとする頃には、中庭はほぼ春の姿を取り戻していた。
「ふう……」
最後の雪を猫車に積み終えて、太郎は辺りを見回す。
枝振りよく手入れされた松の枝先には、緑の新芽が覗いている。泉水はまだ黒っぽい緑に澱《よど》み、ぼんやりと見える錦鯉の背もじっと動かない。
太郎は池の中に目を凝らした。
食べられなくはないが、どうせなら錦鯉より真っ黒の真鯉の方が美味《おい》しい。
池の水替えのバイトも頼んで貰えればな、と考える太郎であった。
ふと、太郎は視線を感じて顔を上げた。
太郎の目に、向こうの母屋の回り廊下を歩いて来る華やかな彩りの着物姿の客たちが映った。
「?」
視線はそこから届いたものなのだろうか。
判然とはしないまま、太郎はもう一度庭を確かめた。雪はもうかけらも残っていない。
「よしよし、間にあったな」
太郎はつぶやくと、猫車の持ち手を持ち上げた。
「まあまあご苦労様」
道具を片付けて台所へ行くと、御村の母が振り返った。
「おお、さすがにお若い方だと仕事も早い。わたしも昔は鳴らしたものでしたが……」
割烹着《かつぽうぎ》を身につけた白髪頭の老人がにこにこと太郎に話しかける。
「染谷《そめや》、お話はいいから山田さんにお食事を差し上げて」
御村の母は苦笑して言う。
「孫ができたらすっかり好々爺《こうこうや》が板についちゃって……以前はもうちょっときりっとしてたんですけどねえ」
「そんなことをおっしゃっても、奥様」
いいながらも染谷は手際よく膳《ぜん》を調え、太郎の前に出す。
太郎はこの染谷という御村の祖父付きの老人の代役のバイトをしたことがあるのだ。御村の策略に引っ掛かって女装する羽目になったのはちょっと前のことだ。
「わあ、おいしそうですね! いただきます!」
板の間に正座して太郎は両手を合わせた。
黒塗りの足付き膳の上には、竹の子ご飯、若竹煮、白魚の清汁《すましじる》、ふきのとうのてんぷら、こごみのごま和《あ》え、菜の花のお浸し、など春そのものの献立が並んでいた。
「ああ、う、うまい……」
食べ始めた太郎がとろけそうな顔をして言ったので、御村の母も染谷も顔をほころばす。
「お代わりして下さいね、食後には草もちと桜もちもありますからね」
「ありがとうございます」
太郎は幸せそうに茶碗《ちやわん》を空にした。
「あ、自分でよそいますから」
「山田、ちょっと来てくれ」
茶碗を手に立ち上がった太郎を、御村が呼び止める。
「なんだ? 御村。俺まだ昼飯が……」
紋付き袴《はかま》姿の御村は小さく肩をすくめると、重ねて手招きした。
「すぐ済むから」
「でも……」
太郎は未練げに竹の子御飯の入った半切りを見る。
「大丈夫だから。そうだ、染谷、山田に持ち帰りの分を用意しておいてくれないか。ここのうちは弟妹《きようだい》が多いからたっぷり目に」
「かしこまりました」
「さあ山田」
「うん」
途端に素直になる太郎である。
「なんか俺、まずいことしたか?」
長い廊下を御村に続きながら、太郎は言った。
「いや、そんなんじゃなくて、お前に用があるお客さんがいるんだ」
「お客さん?」
太郎は首を傾《かし》げた。
「全然心当たりないけどなあ」
御村はすいと腰を落として襖《ふすま》を開けた。
「まあっ、やっぱりわたくしの目には狂いはなかったわっ。ほーっほっほっほ」
いきなりどすの利いた高笑いが響き渡る。
「???」
太郎は目を瞬《しばたた》いた。
目の前には、牡丹《ぼたん》の花柄の振り袖《そで》を着た大柄な美女が、妖艶《ようえん》な笑みを浮かべて床の間を背に座っていた。
はっきりした目鼻立ちを倍くらいに強調した化粧の美女は、分厚い睫《まつげ》の下から大きな黒い瞳《ひとみ》で真《ま》っ直《す》ぐに太郎を見つめている。
御村に促されて太郎は座敷に入って美女の向かいに座った。
「素晴らしいわ、こんな逸材を隠していたなんて、お家元も油断がなりませんこと、ほほほほほ」
美女は真紅の上にたっぷりとグロスをかけた唇から、白い歯を覗《のぞ》かせて言った。
「隠してなどいませんよ、天王寺《てんのうじ》さま」
御村はにこやかに言った。
「彼は今日たまたま手伝いをしてくれていただけで、門下生ではありません」
「あら、それではどういう?」
天王寺は太郎から目を離さぬまま言った。
その視線は太郎を見通すように鋭い。
「同級生です」
「一ノ宮の?」
御村は頷《うなず》いた。
「山田太郎くんです。山田、こちらは天王寺|麗華《れいか》さん。うちの祖父《じい》さんの門下生に当たる」
「はじめまして山田くん、いいえ、太郎ちゃんと呼ばせて頂戴《ちようだい》」
美女は有無を言わせぬ口調でぐいと身を乗り出した。
「単刀直入に言うわ、うちの春のコレクションのショーに出て欲しいの」
「しょー?」
太郎は真剣に困った顔をした。
春のコレクションのショー。
ちょっとファッションに興味のある人なら何と言うこともない言葉だが、太郎には暗号である。
山田家の衣生活に於《お》いて、最も重要視されるのは丈夫さである。そもそも服は基本的に買うものではなく、作る貰《もら》う拾うのどれかによって手に入れるものとおよそ決まっていた。
流行などというものは耳に聞こえても脳には届かない、そんなものなのである。
故にこの言葉の中で即座に太郎が理解可能なのは、ショーという単語だけであった。
しかも、太郎にとってショーと言えば、時々バイトをしたりもする正義の味方と怪人ショーに町内会の演芸ショーといったところなのである。
「俺、猿も皿も回せないんですけど」
太郎は恐る恐る、言った。
「モデルがなんでそんなもの回さなくちゃいけないのよ」
天王寺は平然と言い返した。
「モデル……しかしそれは」
太郎は浮かない顔をしてつぶやいた。
「もちろん、ギャラははずむわ」
「うっ……」
最大の殺し文句に、太郎は苦悩の表情を浮かべた。
「脱ぐのは最後の手段だって思ってたんだけどなあ、こんなに早くその日が来るとは思わなかったなあ……」
「何だって?」
御村があきれた顔をする。
「誰がお前に脱げと言ったって?」
「美大のデッサンモデルは心を鬼にして断ったんだけど……今度ばかりはもう後がないし……」
太郎はぶつぶつつぶやき続けた。
さすがに天王寺も言葉を失っている。
「安心しろ、この場合のモデルは服を着るのが仕事だ」
御村は諭すように言った。
「ほんとか?」
太郎はぱっと明るい顔になった。
「ならいいや。で、なにをすればいいんですか?」
「ショーのモデルを」
天王寺が気を取り直して言う。
「それって……なにをすればいいんですか?」
「なにって言われてもねえ……」
天王寺はちょっと困った顔をして肩をすくめた。
「そんなに難しいことをしなくちゃならないってわけじゃないんだけど……基本的には歩くことかしら?」
「歩くだけでいいんですか?」
太郎は嬉《うれ》しそうに言った。
天王寺は苦笑する。
「そりゃ、ただ漫然と歩けばいいってものじゃあないわね。でも大丈夫、ちゃんとそのためのレッスンは受けてもらうから」
「レッスンって……俺そういうお金ないですから」
がっかりしたように言う太郎に向かって、天王寺は笑って首を振る。
「そんなもの払う必要はないわよ。わたくしはそれも含めて太郎ちゃん自身に投資するんだから。引き受けてくれるんだったら、任せときなさいって」
天王寺はどん、と帯を叩《たた》いた。
「頑張れよ、山田」
御村は面白そうに言った。
太郎もまた、ちょっぴり面白そうな気に、ついなった。
ベテランデザイナー笹小路《ささのこうじ》じゅんによるボーイズブランド『すたりおん』は、中高校生を中心に幅広い支持を得ている。その新作は年一回春のコレクションで発表され、毎回好評だ。
チーフアシスタント天王寺麗華のプロデュースによるショーもまた、選《え》り抜きのモデルたちで毎回沸かせるものだと言う。
翌週、早速太郎は授業が終わってから笹小路事務所のある青山へと出かけた。
渡された地図を頼りに事務所を目指す太郎は、すれ違う少女たちがみな振り返るのには気付かず、しかし広々とした歩道や最新のデザインで造られた建物などを眺めながらすたすたと歩き続ける。
たどり着いたのは、賑《にぎ》やかな表通りからは一本入った静かな道の四つ角に立つ大きなビルだった。
そして、そこで太郎を待ち受けていたのは、敵意に満ちた少年たちの視線だった。
一室に通された太郎を、ずらりとそろったいずれ劣らぬ美少年たちが見つめる。
「こんにちは」
朗らかに言っても挨拶《あいさつ》を返す者はいない。
ちょっと戸惑ったものの、太郎はたいして意に介さず、さてと室内を見回した。
空いている椅子を見つけると、太郎はすたすたと近付いて腰を下ろす。
少年たちは、壁によりかかったりテーブルに腰掛けたりしたまま、無言で太郎の行動を見守った。
太郎は鞄《かばん》の中から裁縫セットを取り出した。
「……??」
少年たちは怪訝《けげん》な顔をした。
針に白糸を通して糸きり歯で切り、くるくると指先に糸端を巻き付けて瘤《こぶ》を作る。それから両手の間に糸をぴんと張って二、三度はじいてよりをならす。
太郎はさらに白いシャツを取り出し、袖《そで》のところに出来た鉤裂《かぎざき》を手際よく繕いはじめた。
「???」
唖然《あぜん》として少年たちは凍り付いた。
「……なんだ、あいつ?」
ようやく誰かがささやくが、続く言葉はない。
しばしの間、室内は異様な静けさに包まれた。
後少しで縫い終えよう、というとき、太郎の手元を影が遮る。
「ん?」
顔を上げた太郎は、一人の少年が見下ろしているのに気付く。
薄く逆光になりつつもその少年の顔立ちが、一際整っていることが見て取れる。少年たちの中では背も高い方だろう。
冷ややかに太郎を見下ろしていた少年は、視線をそのままにすいと首を回して肩にかかった栗色の髪をさらりと払った。
「なにしに来たんだ?」
「ちょっと待ってくれるかな」
太郎はそういうとシャツに目を戻した。
そろった針目で綺麗《きれい》に繕いを終えると、糸を留める。もう一度口に糸をくわえて、太郎はひょいと少年を見上げた。
そのしぐさが妙に色っぽくて、少年はちょっとたじろぐ。
「ごめん、途中で止めると手が違っちゃうんだ。で、なんだっけ?」
言いながら太郎は針を収め、シャツをきちんと畳んで鞄にしまう。
少年は呑《の》まれたように太郎の手が止まるまで黙っている。
「……縫製部なら上のフロアだぜ」
ようやく気を取り直した少年が言った。
「縫製部?」
太郎はきょとんとして聞き返した。
少年はにやっと笑った。
「ところで、縫製スタッフの応募者は作品一点持参ってのが決まりなんだけど、どんなのを持って来たのさ。恰好《かつこう》よかったら、先生に推薦してやってもいいぜ」
「さっきのシャツじゃあ駄目だぜえ」
赤茶色のドレッドヘアの少年が進み出て言い、後ろの少年たちにくすくす笑いが走った。
「作品? 自分で縫ったものならいいのかな?」
太郎は着ている制服を見下ろしながら言った。善意に解釈してくれる人はオーダーメイドだと思ってくれる、この制服は太郎の、手縫いなのだ。
少年は太郎の言っていることがよくわからないらしく、綺麗なアーチを描いた眉《まゆ》をきゅっと顰《ひそ》めた。
「おい、あれ、一ノ宮の制服だろ?」
誰かが言った。
「そうだ、一ノ宮だ」
ひそひそとささやきが広がる。
「何で一ノ宮の奴がこんなとこに……」
美少年は苛立《いらだ》たしげに振り返った。
「一ノ宮だから何だって言うんだ?」
少年たちははっと口をつぐんだ。
「一ノ宮のエリートさんにだって職業選択の自由はあるんだぜ? 縫製は立派な仕事だ。差別はいけないな、君たち」
少年たちがどっと笑う。
美少年は満足げに笑むと、先ほどのドレッドヘアの少年に顎《あご》を振った。
「司郎《しろう》、案内してやれよ」
「えーぼくがすかあ?」
ドレッドヘアをばりばりとかき回しながら、司郎と呼ばれた少年は泳ぐような足取りで太郎に歩み寄った。
「しょーがないなあ、光波《こうは》さんのいいつけじゃあ嫌とはいえないしなあ」
光波、とは最初の少年の名らしい。
変わった名前だと太郎は思った。
司郎は太郎の後ろに立つと馴々《なれなれ》しげに肩に手を乗せた。
「はいはいではお立ち下さいエリートさん。ここはあなたさまのいるところではないもんだから、俺がご案内してやるってばさ」
「でも俺ここで待つように言われたんだよ」
太郎はくるっと椅子の上で向きを変えて言った。
「って、誰にさ?」
司郎はうっとうしそうに聞き返す。
「さっき受付で。あ、天王寺さんっていったっけ、あの綺麗なお姉さんに言われて」
「天王寺さん? って……それじゃ……」
司郎はぎょっとした顔になって光波を振り返った。光波の目付きが険しくなる。
「はん、それじゃ天王寺さんがスカウトして来た奴ってのはお前のことか」
光波は太郎を頭の天辺《てつぺん》から爪先《つまさき》まで値踏みするようにゆっくりと眺め回した。
「とうとう見つけた究極の『すたりおん』モデル、がこいつか?」
光波は冷ややかに言った。
「そいつの言うことがほんとなら、そうみたいっすね」
司郎が慎重な口振りで頷《うなず》く。
光波はふんと鼻を鳴らした。
「名前は?」
「山田太郎」
太郎はにこっと笑って答えた。
少年は、軽く肩をすくめる。
「俺は新藤《しんどう》光波だ」
「振動効果? 変わった名前だなー」
太郎は感心して言う。
「新藤、光波、だ」
光波はむっとして繰り返した。
「光波さんに失礼なこと言うんじゃねえよ、お前の名前がわかりやす過ぎるんじゃねえか」
「そんなことはどうでもいい」
光波は司郎をにらみ付けて黙らせてから、太郎に再び向き直った。
「山田くん? 他ではどこでやってた?」
「どこでって、何を?」
太郎は聞き返す。
「モデルのキャリアを聞いてるのさ」
「全然ない」
太郎はあっさり首を振った。
「ひえーないのかよ」
大仰に声を上げた司郎が、また光波ににらみ付けられて口を押さえる。
「何かそれじゃまずいのかなあ」
「誰だって最初は素人だからな。それはそれで構わないさ。だけどな」
光波は凄味《すごみ》のある目付きで太郎をにらんだ。
「見たところなかなかのルックスとプロポーションのようだが、それだけでモデルが務まると思って貰《もら》っちゃ困るんだぜ」
「うん、そう言われて来た」
太郎は素直に頷いた。
あらあらと司郎がずっこける。
光波はむっとした顔になって太郎の方へ身をかがめた。
「わかってるならさっさと帰んな」
「なんで?」
光波は苛立たしげに首を振る。
「これは素人には出来ない仕事なんだ」
「構わないんじゃなかったっけ?」
怪訝《けげん》そうに尋ねる太郎に、光波は苦虫をかみつぶしたような顔になった。
「他の仕事ならともかく、笹小路先生のコレクションに素人が出ようなんて、許されるわけがないだろ」
「と言われても」
太郎はちょっと困った顔になった。
「一度引き受けた仕事はちゃんとやり遂げるのが仁義だし、そんなことしたら次郎たちの修学旅行の積立が……」
「何をごちゃごちゃいってんだよ」
司郎が凄んだ。
「とっとと光波さんのアドバイスに従って帰れってば。その方が身のためだぜ」
「どう? 全員揃ったかしら?」
聞き覚えのある豊かな低音の声に、太郎と少年たちは一斉に振り返った。
真紅のシャネルスーツに包んだグラマラスな身体をちょっとかがめて頭をぶつけないようにしながら入ってきたのは、天王寺麗華その人である。
天王寺は太郎の顔を見てにっこり笑った。
「お待たせね、太郎ちゃん。君がいてくれれば百人力よ、頑張って頂戴《ちようだい》」
「あ、はい、頑張ります」
太郎はぺこっと頭をさげた。
光波は仏頂面で太郎をにらんでいる。
「天王寺さんが……」
「太郎ちゃん、だってさ」
ざわざわと少年たちの間に動揺が広がる。
「光波ちゃん? 何怖い顔してるの。リラックスして頂戴。あなたがみんなをリードしてくれなくちゃ。頼んだわよ」
「はい、天王寺さん」
光波は少し膨れっ面のまま頷いた。
天王寺は光波の様子には気付いてか気付かないでか、笑みを浮かべたままさっと鋭い視線を一同に投げた。
「オーケー、それじゃ、スタジオへ行きましょう。トレーナーの先生を紹介するわ」
一同は天王寺に続いて地下のスタジオへ移動した。
地下とは思えないほどそのスタジオは広大な造りだった。数メートルはあるかと思われる高い天井には照明機器が備えられ、三方の壁は鏡張り、レッスンバーや音響設備も整えられている。
隣のロッカールームにそれぞれのロッカーが用意してあることを伝えてから、天王寺は太郎たちをスタジオで待っていた人物に紹介した。
「こちらが当日まであなたたちの指導をして下さる永島《ながしま》めいる先生です」
これまた変わった名前である。
天王寺といい笹小路といい光波といい、ファッション業界って芸能界みたいだな、と太郎は思った。当たらずといえども遠からず、というところか。
「はーい、ボーイたち、よろしく」
永島は、黒い薄手のセーターとカルソンに包んだ、天王寺と並ぶとその半分くらいのかさにしか見えない小柄な身体を、バレエ風に優雅な動作で折って微笑んだ。
「ちえ、またあいつかよ、ったく名前の通りめいるったらねえぜ」
司郎のつぶやきが聞こえて、幾人かの少年がくつくつ喉《のど》の奥で笑い声を立てる。
「皆さんにひとつ言っておきますが、今回の笹小路じゅん『すたりおん』コレクションは今までのものとは違う、全く新しいものとなります」
天王寺は一同を見渡して言った。
「つまりあなた方も今までと同じことをしていては駄目、ということですからね。ここはひとつ気合いをいれて頑張って下さい。期待していますからね、ほほほほほ」
「はーい」
「まあ、いいお返事だこと」
天王寺はにっこり笑った。
「スケジュール表は帰りに受付で受け取ること。交通費、日当は毎週水曜日に支払いますので、経理部へ行って申告して下さい」
「えっ」
太郎は困惑した。
水曜日は明後日《あさつて》。後四回分の電車賃をどうするか。水曜日までなら、光熱費からしばし流用しても問題はあるまい。急いで計算する太郎である。
「それでは後は先生にお任せしますわ」
永島は天王寺ににんまりと微笑み返した。
「お引き受けしましたとも。本番までにはボーイたち、完璧《かんぺき》に仕上げて見せましょう」
「ほほほ、それでは楽しみにしていますわ」
天王寺が笑い声を響き渡らせつつ出て行ってしまうと、永島は太郎たちを見回した。
「ほほう、光波くんに司郎くん、円樹《えんじゆ》くん千之《せんし》くん、ふむふむだいたいはお馴染《なじ》みのメンバーのようですね。それなら私のやり方もおおよそわかっていることでしょう。皆さん、仲良く楽しくやりましょうね」
「楽しいのはあんただけだろーがー」
太郎の後ろで司郎がつぶやいた。
「またすんげえしごかれるのかなあ」
うんざりした声も聞こえてきて、太郎は一体何をやらされるのかとちょっと不安になった。
考える間もなく、永島の指示がすぐに与えられる。
「はーいそれじゃあまず足慣らしをしましょうか。全員広がって。間隔三メートル、前後にも余裕を持って」
さっとフロアに散る少年たちに混じって太郎も適当なところにポジションを得る。
永島は太郎に目を留めると、口元を緩めて首を傾《かし》げた。
「初めて見る顔ですね? 所属はどちら?」
太郎は首を振った。
「そいつ、素人なんすよ」
永島は司郎を振り返った。
「素人? まさか……そういえば天王寺さんがひとり凄《すご》い子を見つけて来たっていうのは、じゃあ彼のことですか?」
「そっすね。どうすげえのかしんないですけど」
司郎は太郎を横目で見ながら言った。
「ふーん」
永島は太郎を眺めた。太郎はなんとなく居心地の悪い思いになる。
「確かに、アドバンテージは高いけれど、それほどピカとは……」
永島はひょいと肩をすくめた。
「とにかく『すたりおん』に参加できるだけでも幸運ですからね、頑張ってもらいましょう」
と言われてもどうすればいいのか。
太郎は返事のしようがなくて、曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。
「さあさあ、いきますよ」
永島はぱんぱんと手を叩《たた》いた。
「その場でウォーキングから、はい、テンポはこんな感じで、いいですか、用意、ワントゥースリーフォー……」
五拍目から少年たちは一斉に動き始めた。
永島に合わせて前後左右にステップを踏んで行く。
「右に、右に、戻って戻って、前、前……」
テンポは結構速い。
ついて行けない速度ではないが、なにしろ太郎にとっては全く初めてのことなので、なかなかみんなにぴったり合わせることができない。
「……トゥ、スリー、フォー、ファイヴ、シックス……ワン、トゥ……」
全部の動きを呑《の》み込んでいないので、どうしても何分の一テンポかずれてしまう。
「……トゥ、スリー、はい、そこでターン」
「!」
くるっと回転しかけたところで足が滑り、太郎はあやうく転びかける。なんとかバランスを取り戻すが、その時には完全にステップがずれてしまっていた。
永島の目がじろりと太郎をにらむ。
「これだから素人さんはさあ」
司郎の声とくつくつ笑う声が後ろから聞こえた。
だが太郎はそんなことに構っている暇は、ない。
「はーい、ストップ。ちょっと休んで」
ほんの数分、前後左右にステップを踏んだだけなのに、少年たちは荒い息をついている。
太郎は、すうっと一つ深呼吸をするだけで息を戻すと、突っ立ったまま今のステップを反芻《はんすう》した。
そんなに難しいことでは、ない。
太郎は小さく頷いた。
永島はそんな太郎をじっと見ていたが、やがて他の少年たちの様子を確かめてから、再び手を打ち出した。
「それではもう一度行きましょう。はい、ワン、トゥ、スリー……」
ステップを再開して三十秒も経たないうちに、永島の表情は驚きから満足げな笑みに変わった。
「……!」
ステップを踏む少年たちがはっと息を呑む気配が伝わって来る。
太郎のステップはもう百分の一秒もずれてはいなかった。
もともと太郎の反射神経と運動神経は非常に優れている。運動会のどんな競技もこなす太郎である。ステップのようなものも一度基本をのみこんでしまえば、バリエーションをつけるのも、テンポを上げるのもわけはない。
太郎はいまでは余裕を持って動いていた。
すでにそれは今日初めてだとは到底思えない、滑らかな、そして優美ささえ感じさせる動きとなって他の者の目を奪っていた。
「いいですよ、その調子です」
リードを取りながら永島は太郎の前までやって来て微笑みかけた。
「なるほど天王寺さんの目は確か、としかいえませんでしたね」
太郎には自覚されない才能がいくつかある。
その一つがこの、まるでビデオカメラのような記憶力である。
もちろん勉強する時間が少ないにもかかわらず成績が優秀なのも、この能力のなせるところが大きいだろう。
記憶といっても太郎が異なっていたのは、普通人は目にしたものの中から主観的に見たいものだけを見たと認識して記憶するのに対し、太郎の場合はどうやら見たものを取りあえず全部記憶してしまうらしいことである。
拾えるものは一つたりと見逃さず、使えるものはとことん使い、自分の手で出来ることはなんでもやって家計の助けにする、生きて行くために太郎に与えられた天賦の才と言えよう。
ともあれ、何であれ、芸は身を助く。
これまた強力な応用力も後押しして、後のレッスンは太郎にとって何の苦にもならなかったのである。
「はーい、お疲れさまでした。みなさん、それではまた明日、ごきげんよう」
永島は上機嫌で去って行った。
太郎も、内心ほっと胸をなでおろしていた。
渡りに船のギャラにつられて引き受けた仕事だが、あまりにも予備知識がなかったため、太郎もさすがにちょっと不安ではあったのだ。
やっぱり使えないから金は出せない、などと言われたらどうしようなどと不吉な想像も頭をかすめたくらいである。
もっとも、為《な》せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり。
昔の人の言った通り、その気になれば何だって出来る。なんとかなる、なんとかするというのが信条の太郎である。
この世で太郎が出来ないことは、貧乏からの脱出だけかも知れない。
何ていうことを考えている暇は太郎には、ない。
永島の姿が消えるなり、太郎は時計を見てばっと鞄《かばん》に駆け寄った。
「よしっ、まだ杉浦さんちの遅番に間に合う! それじゃお先に失礼しまーす!」
風のように太郎は走りさった。
取り残された少年たちはしばし呆然《ぼうぜん》とする。
「何なんだ、あいつ?」
「…………」
太郎が何者なのか、答えられるものはここにはいない。
「……でも、あいつ、すげえんでやんの」
やがて少年の一人が溜《た》め息交じりにつぶやく。
「一回見たらマスターしちまうってか? そんなんありかよ」
もう一人が肩を竦《すく》めた。
「そうとしか言えないよね」
考え考え色白の少年が言った。
「あんな奴初めて見たぜ」
みんなが頷く。
「やだな、僕、あんなのと一緒にされるの」
「さっき休憩時間にあいつなんてったと思う?」
髪をブルーのメッシュにした少年が言った。
「こんな楽しいことしてお金が貰《もら》えるなんて、知らなかった、世の中って広いんだなあ、こんないい仕事をしてる人って幸せだろうなあ……だって」
「ひえー」
司郎が口笛を吹いた。
「俺たちってしあわせもんー?」
「何だって?」
それまで黙っていた光波が、眼光鋭くメッシュの少年を睨《にら》み付けた。少年は身を竦ませ慌てて首を振った。
「こ、光波さん、僕じゃないですよ、あいつ、山田太郎がそう言ってたんですってば」
「言ってくれるじゃないか」
光波は眉《まゆ》をきりりとつり上げた。
「そんなに楽しんでくれたとは嬉《うれ》しい限りだぜ」
少年たちは顔を見合わせた。
「あのルックスとプロポーションで、そういうこと言われたら、僕なんか立場ないよなあ」
別の少年が気弱そうに言った。
「オーディション一緒に受けるなんてパスしたいよ」
「何情けねえこといってんだお前」
司郎が言った。
「プロはってる奴がそんなだらしねえことでどうすんだ。もうちょっと気合い入れてけよ」
メッシュの少年が口をとがらせる。
「司郎とは傾向が違うからバッティングしないだろうけどさ、僕らは競合もろのタイプなんだぜ」
「それにしてもさー、あのすっぽんのめいるのレッスンが楽しいなんてさー、信じらんないよ。あーあ明日っから毎日毎日基礎ばっかしずーっとやらされるかと思うと、ほんと気がめいっちゃう」
「確かに仕事としてはやりがいもあるけど、いろいろ嫌なこともあるってのにな」
「ふん」
光波が鼻を鳴らしたので、少年たちは口をつぐむ。
「そんなに甘くて楽しいものかどうか、身にしませてやろうじゃないか」
少年たちは、凄味《すごみ》のある笑みを浮かべた光波を見つめた。
「光波さん?」
「あんな甘ちゃんが業界でやってこうなんて、プロとしてこの仕事をやってる俺たちのプライドにかけて、絶対に許せない。誰が何と言おうと俺は、許さないぜ」
「そ、そうですよね、光波さん」
真っ先に司郎が頷《うなず》いた。
「俺たちをなめてかかるとどういう目に遭《あ》うか、思い知らせてやる」
光波を囲んだ少年たち全員は力強く頷いた。
そんなこととは露知らず、太郎は翌日も青山にやって来た。
まずは着替えようとロッカーを開けた太郎目掛けていきなり何かが崩れ落ちて来る。
「うわっ」
どさどさどさ。
立ち昇る埃《ほこり》とともに足元を埋めたものを見て、太郎はぱっと目を輝かせた。
「これは!」
素知らぬ顔で様子を窺《うかが》っていた少年たちは、どうして太郎が困らないのかとそっと覗《のぞ》き込む。
太郎はぼろぼろの布のようなものを拾い上げ、嬉しそうに眺めている。
「こんなところでこれをみつけられるなんて!」
太郎は手にした布をそっと叩《たた》いて埃を落とし、丁寧に畳んだ。
「何なんだよ、それ」
好奇心をおさえ切れずに司郎が太郎に尋ねる。
「ああ、これ?」
太郎はにこにこしていった。
「これはね、紅絹《もみ》っていう絹の布さ」
「もみ?」
司郎は怪訝《けげん》な顔をして太郎の手元を覗き込んだ。
「昔は着物の裏なんかに使われてた絹を紅花で染めた布だよ。今では作れないから貴重なものなんだ。いい漆器の手入れにはこれしかないんだけど、なかなかみつからないっていって、和菓子屋のばあちゃんがいってたからね、あげたら喜ぶだろうなあ」
「へー」
司郎は他に何も言えなかった。
太郎は埃まみれのぼろとごみを手際よく片付け、ロッカーに雑巾掛《ぞうきんが》けしてから、さっさと着替えて出て行く。
「ちぇっ」
司郎がようやく舌打ちをした。
「なんなんだよ、あいつ」
「はーい、みなさん、今日は少しテンポを上げてみます」
レッスンが始まったが、太郎はもう誰にも引けは取らなかった。
誰よりもしなやかなその動きには、思わず見とれてしまうほどである。
「…………」
光波はそんな太郎を黙って見つめていた。
太郎の後ろには司郎がいる。
「ターン、戻って、ターン」
さっと回転しかけた太郎の軸足を何者かがすくう。
「!」
勢い余ってふわっと太郎の身体は宙に浮きかける。
そのまま床に叩き付けられるかと思った瞬間、太郎はくるっと身を縮めて床すれすれに一回転した。
「なにい!?」
司郎が目をむく。
全員ではなかったが、太郎の動きを見ていた大半の少年たちは驚いて一瞬動作が止まる。
「どうしました?」
自分も連続ターンをしてから振り返った永島の目には太郎のしたことは映らなかったらしく、怪訝な顔をして少年たちを見る。
「動きを止めない! そこ、そこも! そんなことでは本番をこなせませんよ!」
太郎は涼しい顔でステップを続けている。
光波はぎりっと歯がみした。
その日のレッスンが終わると、ロッカー室でまた司郎たちが太郎を見張る。
着替え終わり、太郎が靴を履こうとするのを、司郎たちはにやにやしながら見守る。
「あっ!」
やった、と司郎たちは目を輝かす。
しかし。
太郎は履きかけた靴を持ち上げると、掌《てのひら》にざらざらと画鋲《がびよう》を空けた。
古典的な嫌がらせにしては間抜けな量である。
「こんなに沢山!」
太郎は嬉しそうにいうと、画鋲を鞄《かばん》の中へしまった。
「おい、なんだよあれ」
司郎は一緒に覗いていた坊ちゃん刈りの少年の頭に拳《こぶし》をごりごりこすりつけた。
「痛いよ、司郎さん。一個じゃ不安だからもっと入れとけっていったの司郎さんじゃないか」
「うるせえ」
翌日は同じくレッスン後、太郎の鞄の中からゴキブリの死骸《しがい》と生きた蛙が出て来た。
太郎は動ずることもなくまずゴキブリを捨てると、蛙は摘《つま》み上げて肉付きを調べ始める。
「うーん、今いちかなあ、空揚げにすれば骨も食べられるけど、この程度だったら干して出汁《だし》にするべきかなあ」
周りで着替えていた少年たちはげっとなった。
「今日は交通費も貰《もら》えるし、ちょっとご馳走《ちそう》にしちゃおうかなあ。親水《しんすい》公園によってもう四、五匹取ってくれば……」
「ぐえ」
太郎は後ろの少年を振り返った。
「あれ、大丈夫? 気分でも悪いの?」
少年は恨めしげな目付きで太郎を見た。
次の日、太郎がスタジオへ入ろうとすると、ドアが中途半端に開いている。
「?」
ノブを握るがなんだか手応《てごた》えがおかしい。
「何やってんだ、早くはいれよ」
後ろから言われてノブを引いた瞬間。
「おーっとっと」
ドアの上に仕掛けたバケツが落下して来るのを、電光石火太郎は受け止めた。
飛沫《しぶき》が少しかかったが、バケツ一杯に満たされていた水は、ほとんどそのまま静かに床に下ろされた。
「水は大切にしなくちゃ」
太郎はバケツを置くと、スタジオに入って言った。
「なんなんだよ、あいつ?」
司郎は怒ったように言った。
「このままじゃすまさねえ」
言葉通り、レッスン中にも事は起こった。
いつの間にか太郎の足元にバナナの皮があったのである。
しかしそんなものを見逃す太郎ではない。
「あっ、これで靴を磨くといいんだよな」
司郎はそれを聞いて嫌な顔をした。
直接攻撃は無駄とわかってか、翌日から少年たちは作戦を変えて来た。
「今日はレッスンは休みだから、資料室でコレクションについて知っておけってさ」
その資料室だと言って少年たちは太郎にでたらめの場所を教えたのである。
「失礼します、あれ?」
ドアを開けた太郎は首を傾《かし》げた。
広い室内には、キャビネットではなく一面作業台やミシン、ボディに様々な色の布などがあふれかえっていた。その隙間に幾人かの人が見える。
「何かご用? 仮縫いは来週よ」
手首にピンクッションをつけ、首からメジャーをたらした眼鏡の女性が、陽気に声をかけてきた。
「ここは資料室じゃ」
「違う違う、縫製室。資料室は下よ」
「へえ、あっ、そこのいせ込みってそっち側からするといいんですか?」
太郎は台の上に広げられた縫いかけの服地をみて目を輝かす。
「あら、君わかるの?」
「見よう見まねで、ちょっと」
「ふうん、もしかしてその制服も自分で?」
女性スタッフは眼鏡をちょいとかけ直して太郎の制服に顔を近付ける。
「はい。プロに見られると恥ずかしいですけど」
「そんなことないわよ、その年でこれだけ出来たら大したもんだわ。ねえねえちょっと見てみてよ」
「なになに」
たちまちスタッフが太郎を取り囲む。
「へええ、いい腕してんじゃない」
「ここの始末がいまいち上手《うま》くできないんですけど」
「ああ、ここはね。こっちを基準にするんじゃなくて、逆に見えるけど、こっちを基準にするとぴったりになるのよ」
「ああ、なるほど」
太郎は感心する。
「天王寺さんが見つけて来たモデルってあなたでしょ?」
「はい。あっ、いけない、今日は資料室でコレクションについて調べておくようにって言われたんだ」
「そんなことならあたしたちが教えたげるわよ。資料なんか見るより実物を見た方がいいじゃない」
「それはそうですね」
太郎は頷《うなず》いた。
ここではいろんなことを教えてもらえそうだ。
これだけでも、このバイトを引き受けてよかったかも知れない。太郎はちょっと嬉《うれ》しくなった。
またある時は、休憩時間に太郎がトイレへゆくと、満室になって入れない。何度行っても満室で困っていた太郎を助けてくれたのは、いつも挨拶《あいさつ》を欠かさない掃除のおばさんだった。おばさんは次の休憩時間には清掃中の札を出して太郎だけを入れてくれたのである。
人生の先輩に礼を欠いてはいけない。
「おい、天王寺さんがここの掃除を頼むってさ」
別の日、司郎はそう言って太郎を奥まった一室へと連れていった。
太郎を部屋に押し込むと、司郎はドアをロックしてしまう。
「司郎くん?」
「そこでゆっくり頭でも冷やすんだな」
司郎が行ってしまうと辺りに人の気配はない。
騒いでも無駄だろうと思った太郎は、取りあえず室内を見回した。
どうやらそこは廃品倉庫らしい。
「あっ、こんなものが!」
太郎は早速丸めた模造紙の束を見つけた。百枚はあろうか、黄ばんではいるが十分に使える。切って綴《と》じればノートの出来上がりだ。
「もったいないなあ」
太郎は壊れた机や椅子、倒れたキャビネットをきちんと並べ直した。
調べてみると、机の引き出しやキャビネットの中からは、使い古しの文房具や新品のまま忘れられたらしい備品などが次々と見つかった。
「これ、貰《もら》ってってもいいかなあ。後で天王寺さんに聞いてみよう」
太郎はわくわくしながら倉庫の中を片付けた。
「あれ?」
キャビネットの陰に隠れてドアがある。
太郎はキャビネットを動かしてノブを回してみた。
かちゃり。
ドアが開いて太郎は廊下へ出る。
さっきの紙の束を持って、太郎は軽い足取りでスタジオへ向かった。
太郎が何ごともなかったかのように戻って来たので、司郎は仰天した。
「やあ、さっきはありがとう」
「????」
礼をいわれるいわれはない筈《はず》だと、司郎は薄気味悪そうに太郎を眺める。
太郎は一向にこたえた様子もない。
「なんなんだよ、あいつ」
「どうしたんだ」
「わ、光波さん!?」
司郎は跳び上がった。
「どうしてあいつ逃げ出さないんだ?」
光波は憎々しげに太郎の後ろ姿を見ながら言った。
「いろいろやってるんすけどね、あいつ、なんか変っすよ」
司郎は戸惑いがちに言った。
「変?」
光波は不機嫌そうに言う。
「そんなに変だったらなおさらいてもらっちゃ困るだろうが。もっと徹底してやるんだ」
「は、はい」
司郎はちょっと自信なげに頷いた。
次の日、太郎は過去最大のピンチを迎えた。
レッスンが終わって帰ろうとすると、なんと、靴が片方ないのである。
「あれ?」
辺りを見回しても見当たらない。
誰か知らないか、と声をかけたが誰も答えない。
ここは自力で何とかするしかない。
靴は高価なので山田家に於《お》いてはベストファイブに入るほどの貴重品なのだ、見つけ出さないわけにはいかない。
太郎は身体を低くしてその辺の空気を嗅《か》いだ。
くんくんくん。
「!?」
周りの少年たちはぎょっとして太郎に道を開ける。そちらには目もくれず、太郎は自分の靴の匂いをたどってロッカー室を横切って行った。
ふんふん?
懐かしい靴の匂いが、近付いて来る。
ふんふんふん。
少年たちは固まって太郎を見つめている。
「!」
見つけた。匂いはこの後ろからする。
太郎は一番端に置かれた掃除用具用のロッカーを動かして、その後ろから大切な愛靴を取り出した。
山田家の嗅覚《きゆうかく》を甘く見てはいけない。
「なんなんだ、あいつ」
一部始終を見ていた司郎は、溜《た》め息をついてつぶやいた。
デザイン合わせの日が、来た。
チーフアシスタントである天王寺によって、集められたモデルの少年たちに、既成の服を着せ、そのイメージを見てから当日着るデザインを割り当てるための作業である。
この日は少年たちの誰もが気合いを入れている。メインコンセプトの服や、トリを取れればモデルとしての評価も上がるのだ。
上階のこれまた広々としたデザインルームの一角に試着室が用意され、天王寺がひとりひとりに見立てた服を着て、デザイナーの前に出る。
「太郎ちゃんは、これなんかいいかしらねえ」
天王寺は迷うことなく、斜めにカットされた裾《すそ》が何枚も不規則に重なった、淡いパールブルーのスーツを太郎に差し出した。
「サイズは……光波ちゃんと同じくらいだから大丈夫だと思うわ」
「はい」
ハンガーにかかった服を受けとって太郎は物珍しげに眺める。
ちょっと見にはありあわせのはぎれをたまたま色が合ったから重ねて縫い上げたようにも見える服である。
しかも、良く見ると前の合わせが斜めで比翼仕立てになっているため、非常に高度な縫製技術が用いられていることがわかる。見た目以上に手がかかった凝ったデザインだと、太郎は感心した。
「おい、あれって去年光波さんがトリに着た奴……」
言いかけた少年に隣の少年が慌てて指を口元に立てる。
不機嫌な顔をした光波が、太郎を見つめていたのだ。
「光波ちゃん、あなたはこれを着てみて頂戴《ちようだい》」
天王寺に呼ばれて光波は表情をやわらげて振り向く。
「今年は全く新しい方向で行くんだからね、光波ちゃんも過去は捨てて欲しいのよ」
「わかってますよ、天王寺さん」
光波は自信に満ちた笑みを浮かべて、天王寺からハンガーを受けとった。
「はい、着替えた人から順にこちらへ。笹小路先生、お願いします」
「えー、それじゃひとつ行きましょうか。えー、みなさんこんにちは」
白髪交じりの髪を後ろに引っ詰め、生成りのくたくたに着込んだスーツの下には真っ白なTシャツ、足元はこれまたくたくたのデッキシューズを履いた小太りの男が、寄り掛かっていた壁からひょいと身を起こして言った。
何気ないものを何気なく着ているのだが、決まり過ぎず崩れ過ぎず、実にお洒落《しやれ》な雰囲気が漂っている。
さすがは人気ブランドのデザイナーといったところだろうか。
太郎はなるほどと納得すると同時に、どんな服でも組み合わせや身のこなしに気を配れば十分通用する、お金をかけなくても何とかなるのだ、と再確認した。
「ほほお」
笹小路は、いきなり太郎に歩み寄って言った。
「いいね彼」
「ほほほ」
振り返った笹小路に天王寺が頷《うなず》く。
「わたくしの目に狂いはありませんでしたでしょう?」
天王寺がにっこり頷いて言った。
「ああ、彼が麗華さんの見つけて来たっていう子なんだね?」
笹小路は頷いて言った。
「彼だけプロフィールも何にもよこさないんだから、すっかり忘れてたよ」
「あら、ひどいことをおっしゃるのね先生」
天王寺は笹小路を横目、ほとんど流し目も同然の目付きで睨《にら》んだ。
「太郎ちゃんはうちがデビューの秘密兵器だって申し上げたじゃありませんか」
「いやいやいや、さすがは麗華くんだ、素晴らしいじゃないか。これじゃ、彼に合わせて僕が服を作ったみたいだ」
笹小路は満足げなまなざしで太郎を眺めた。
太郎の身体に程よくなじんだ薄手の材質は、重ねることによって張りを持ち、複雑なカットが立体的に表現されていた。
見た目には複雑なその服が、着ていて非常に楽なことにも太郎は驚いていた。
これはぜひ、縫製スタッフに秘訣《ひけつ》を教えてもらわなくちゃ、とチェックする太郎である。
「えー、いいねいいね、僕、またインスピレーションが湧いて来ちゃったなあ」
笹小路はぶるっと身を震わせた。
「ぜひ、それを今度のショーに発表したいですわね、先生。スタッフ全員、どんな急なご注文でも本番には必ず間に合わせてみせましてよ」
「えー、それじゃあやっちゃおうかなあ」
笹小路は子供のように目を輝かせて言うと、とんとんとその場で軽く足踏みをし、それからドアへ移動した。
「後は麗華くんに任せるよ、じゃあねー」
「わかりました」
天王寺はにこやかに答えると、太郎たちを振り返った。
「はい、じゃ太郎ちゃんはあがって。光波ちゃん、出来てる?」
「はい」
光波は擦れ違いざまに太郎を凄《すさ》まじい目付きで睨みつけた。
「ああ、帰る前にこの用紙にサイズを申告して下さい」
着替えた太郎を眼鏡の女性が呼び止める。
「はい」
「ヌードサイズでね」
太郎は真面目な顔で相手を見た。
「脱がなきゃならないこともあるんですか?」
眼鏡の下の瞳《ひとみ》をいたずらっぽくくるくるさせると、縫製スタッフの女性は肩をすくめた。
「ラインが出るから下着はつけない、ってのはありうるけどね」
太郎は唾《つば》を呑《の》み込んで、差し出された用紙に記入した。
それを見ていた光波の目がきらりと光ったことなどまるで気づきもせずに。
さらに日は進み、仮縫いの日である。
自分が着る服を見るのはこれが初めてのこととなる。
同時にショーに於《お》ける自分の位置もはっきりするので、少年たちは緊張の面持ちだ。
仮縫いは一人ずつ、縫製室に呼ばれる。
「山田太郎くん、どうぞ」
太郎は司郎と入れ替わりに縫製室に入った。
「さあ、真打ち登場ってとこね」
あれから何度もここへ通っていろいろ教わるうちにすっかりお馴染《なじ》みとなった眼鏡の女性が期待に満ちた目で太郎を迎えた。
「先生すぐにデザインを上げてくれたから、余裕をもってやれたわ」
「先生も楽しみにしてらっしゃるのよ」
「私たちも、ね」
縫製スタッフは口々に言いながら、寄ってたかって手際よく仮縫いした衣装を太郎の身体にまとわせてゆく。
張りのある黒い生地に同じく黒の薄いジョーゼットのような生地を重ね、部分的にほとんど黒と見まがうダークグリーンが使われている服は、意外とゆったりした作りだった。
「あら?」
「?」
スタッフたちは顔を見合わせた。
「どうしたんですか?」
太郎は身体を動かさないよう気をつけながら首を回して尋ねた。仮縫い中はピンだらけなので下手に動くと刺さってしまう。
「……いくら仮縫いったって、こんなに合わないなんておかしいわ」
眼鏡の女性は言いながら、ピンを打ち直してゆく。
「裁断かしら、チャコかしら?」
「そんな筈《はず》はないんですけど」
スタッフの一人がファイルをめくって言った。
「どこもちゃんとチェックしてますし……」
「ちょっと貸して」
手を止めると眼鏡の女性はファイルを受けとって覗《のぞ》き込んだ。その眉《まゆ》が顰《ひそ》められる。
「合ってるわね……ということは……」
「あ、それ違ってます」
精一杯首を伸ばして見ていた太郎は言った。
申告したものとは違うサイズがそこには書き込まれていたのである。
「誰がこの数字を書いたわけ?」
眼鏡の女性はあきれたように言うと、すぐに首を振った。
「まあいいわ、今わかればいくらでも直せるから。まったく馬鹿馬鹿しい手間をかけさせてくれるわね」
「すみません」
太郎は首をすくめて言った。
眼鏡の女性は苦笑する。
「君が謝ることはないわよ。たまにあることだし。ショーが失敗したら全員が困ることになるっていうのにね」
「もし構わなかったら」
太郎は意を決したように口を開いた。
「俺、自分で直していいですか?」
スタッフ一同が目を丸くして太郎を見た。
「……そんなこと言うモデルって初めて見たわ」
眼鏡の女性は言ってからくすくす笑い出した。
「いいわ、君なら出来るでしょ。ついでにいくつかここの秘技も伝授したげる」
「わあ、ありがとうございます、あいててて……」
頭を下げようとした太郎は、ピンが刺さって思わず悲鳴を上げた。
「動かないで。ああそうそう、あの辺にまとめてある端布やボタンなんか、いるんだったら持ってっていいからね」
「えっ、ほんとに!? ありがとうござ……」
「動かないで!」
太郎は幸せな気持ちで直立不動の姿勢をとった。
一方最悪な気分でいるのは光波たちである。
「どうしてあいつにだけデザインが起こされるんだよ」
光波は怒りを抑え切れない様子でいった。
「そんなこと今まで一度もなかったっていうのに」
「光波さん」
司郎を始め他の少年たちはおろおろと光波を見るばかりだ。
「あんな、いい加減で変態で甘ちゃんのど素人なんかに、そんな資格があるもんか」
「そ、そうっすよ光波さん」
司郎が頷《うなず》いた。
「先生にあいつの本性を知らせてやる。業界の敷居を二度とまたげないようにしてやるぜ」
怖い顔で言う光波に、司郎たちは黙って頷いた。
「あいつが、先生の作品が好きでも何でもないってことを、いや先生のデザインはださいって言ってるって広めてやるんだ」
「それはいいっすね!」
司郎が言った。
「そんなこと言われたら、先生はあいつをたたき出すに違いねえっすよ」
光波はにやりと凄《すさ》まじい笑みを浮かべた。
ところが。
一日たち、二日たっても一向に太郎は馘首《くび》にならない。
首を捻《ひね》る光波たちを尻目《しりめ》に、太郎は順調にレッスンをこなし、せっせと縫製室へ通っていた。
「ここ、これでいいですか?」
太郎は自分の衣装の直しをほぼ終えていた。
「ああ、綺麗《きれい》に仕上がってるじゃない。後はあたしたちがやるから、これはもういいわよ」
「他に何かお手伝い出来ることありますか?」
「今日はもういいから、上がんなさい。バイトあるんでしょ?」
「ええ、でも深夜勤にして貰《もら》いましたから、まだ大丈夫です」
眼鏡の女性はちょっと眉を上げて太郎を見た。
「じゃあ手間賃出すからこれの始末してもらおうかな」
「はいっ!」
太郎は渡された衣装の裾《すそ》を、いそいそとまつりつけ始めた。
「あら、先生、こんな時間にどうなさったんです?」
声に顔を上げた太郎は、笹小路の姿に気付いた。相変わらずお洒落《しやれ》な雰囲気は変わらなかったが、その表情はどことなく暗い。
「ちょっと聞いてほしいんだけど」
笹小路は勧められた椅子に肩を落として座り込んだ。
「僕の感覚ってもう古いのかなあ」
「突然なにおっしゃってるんです?」
眼鏡の女性が驚いたように言った。
「いやそれがねえ……今度のコレクション、男の子たちに評判悪いらしくてねえ……」
どうやら光波たちの流した噂は、主語が抜けて一般論として伝わってしまったようである。
「誰がそんなことを?」
「噂なんだけどね、そんな噂が流れるってことはつまりそう思ってる人は結構多いってことじゃない?」
「噂なんて当てになりませんよ」
眼鏡の女性はきっぱり言うと太郎を振り返った。
「山田くん、そんな噂、聞いた?」
「いいえ、聞いてません」
太郎は立ち上がると笹小路の前へ行った。
「君は……」
笹小路は目を細めて太郎を見上げる。
「みんな先生のデザインは凄《すご》いっていってます。俺は、ここへ来るまで服のデザインのことなんか全然知らなかったけど、やっぱりみんなと同じです。俺は先生の服、好きですよ」
太郎は本音でそう言った。
「本当に……?」
笹小路は太郎を見上げてつぶやいた。
「ほんとです」
太郎は力強く頷いた。
「みんな先生の服を着られるのを楽しみに、誇りに思って頑張ってますよ」
「…………」
笹小路は太郎の手をとった。
その顔がくしゃっとゆがんで、それから一杯の笑顔になる。
「ありがとう、君……」
「山田太郎です」
太郎はにっこり笑って言った。
「えー、プロフィールを貰ってないもんだからね、でももう覚えたよ」
笹小路は太郎の手をぎゅっと握って立ち上がった。
そして、ショー当日。
会場のホールはぎっしり満員だった。
招待状を貰った綾子と次郎たちも、太郎の登場を今か今かと待ち構えている。
「照明さーん、三番の色順変更でーす」
「十二番の靴、交換して下さい」
「紙吹雪あがってますかあ?」
「プレスシートあと五席です」
「おい、俺のシャツ取ってくれよ」
「僕の靴下がない」
「靴これでよかったっけ?」
「ボタン取れちったぜえ」
「あ、俺つけてやるよ」
太郎は手早く針と糸を取り出し、司郎のシャツのボタンを着たままつけ直した。
「よし、これで大丈夫」
「さ、さんきゅ」
にっこり笑った太郎に、司郎はためらいつつも礼を言う。
「おい、どうしてあいつがここにいるんだ?」
光波が司郎にささやいた。
「ちゃんと時間と場所を教えたんだろうな」
「ちゃんと渡しましたよ、十八時、横浜って書きかえた奴。でも、今日ここへ来たらあいついたんっすよ」
「なんでだ」
「わかんないっすよ」
司郎は首を振った。
「でももう来てんだし、ショーに穴開かなくて良かったっていうかあ」
「誰がそんなことをさせるといった。穴なんか開けさせないぜ。この俺がいる限りはな」
光波は凄んだ。
実は前日いつものように縫製室へ行った太郎は、縫製スタッフにショーの前に昼食をご馳走《ちそう》してくれると言われて、そのまま縫製スタッフと一緒に会場にやってきていたのだった。
光波たちの作戦が通じないわけである。
「そう言えば、あいつ、縫製の人たちと一緒に来るのをみたよ」
後ろから少年の一人が言った。
「ちっ」
光波は舌打ちをした。
「どこまでも取り入るのが上手《うま》い奴だな」
「五分前でーす」
さっと少年たちに緊張が走る。
太郎もまた、身支度を整えて深呼吸をした。
「お前」
光波はステージの袖《そで》で、太郎にぴたりと身を寄せてささやいた。
「こうなったらミスは許さないぜ。やるからには覚悟を決めてけ。先生に恥をかかせたらこの俺が只《ただ》じゃおかないぞ」
太郎は光波を見ると、にこっと笑って頷《うなず》いた。
「ペナルティを取られてる余裕はないんだ」
光波は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて太郎を見た。
太郎の顔から笑みが消え、別人のように厳しい表情になる。
「この仕事は完璧《かんぺき》にこなさなきゃならない」
光波は息を呑《の》んで太郎を見つめた。
「三十秒前」
スタッフの声が響く。
「M入ります」
音楽が流れ始める。
ぱっと照明が落ちてあたりが暗くなった。
幕が上がり始めると同時に盛大な拍手が湧き、太郎と光波は肩をそろえてステージへと歩き出した。
そして。
前に倍する拍手と歓声の中、ゆっくりと幕が降りた。
「おめでとうございます」
「大成功でしたね」
「ありがとう、みんなのおかげだよ」
「先生、素晴らしかったですわ」
「これで来シーズンのトップブランドも、『すたりおん』に間違いなしですねえ」
客の捌《は》けたホールでは盛大な打ち上げパーティがはじまった。
「かあちゃん、これ美味《おい》しいよ!」
「まあ、本当に美味しいわねえ」
「あんちゃん、これなあに?」
「それはスモークコッド、燻製《くんせい》の鱈《たら》だな」
太郎はご馳走に夢中の弟妹《きようだい》たちを微笑ましげに見つめつつ、自分も皿に山盛り取り分ける。
「さっきのあんちゃんかっこ良かったねえ」
よし子がフォークをくわえたままうっとりと太郎を見上げて言った。
「あたし、最初あんちゃんだってわかんなかった」
「俺も」
次郎も頷く。
「ねえねえあんちゃん、僕もおっきくなったらあんちゃんみたいにかっこ良くなれる?」
たずねる六生の頭を太郎は優しくなでる。
「俺よりかっこ良くなれるかもな」
「ほんとう?」
「馬鹿言え、あんちゃんよりかっこいい奴なんているもんか」
次郎が口を挟む。
「あら、和夫さんを忘れないでちょうだいね」
綾子は焼き鳥の串《くし》を摘《つま》んで微笑した。
「とうちゃんを別にして、一番かっこいいのはあんちゃん!」
「山田太郎」
「うん?」
振り向いた太郎は、立っている光波ににこっと笑いかけた。
「お疲れさま」
「お疲れ」
ぶっきらぼうに言うと、光波はそっぽを向いて続けた。
「お前の根性は認めてやる」
太郎はなんのことかと鶏の空揚げの刺さったフォークを宙に浮かせて光波を見た。
「お前はまだまだ駆け出しの甘ちゃんだが、仕事はちゃんとしてた」
光波はちょっと頬を赤らめて向き直ると、太郎に手を差し出した。
「いいステージだったぜ」
「あんちゃんの次にかっこ良かったぜ、目付きの悪いあんちゃん」
次郎が光波の脇をつついて言った。
光波は一瞬むっとするが、太郎の手を握ると挑戦的な表情を浮かべる。
「お前のやり方は気に入らないが、取り入るのもこの業界でやって行くには一つの方法ではあるしな。しかし次はその手は俺には通じないぜ」
「次?」
太郎は首を傾《かし》げた。
「手応《てごた》えのある奴がいると俺も張り合いがあるってもんさ」
「ふうん」
太郎は興味がなさそうに言う。
「何をふぬけた返事をしてる。俺と張り合う気ならもうちょっと気合いを入れろよ」
「なんで」
「なんでじゃないぜ、これからはお互いライバルとして」
「悪いけど」
太郎はあっさり遮った。
「俺、もうモデルの仕事はしない」
「なんで」
光波は唖然《あぜん》とした表情で言った。
「なんでって、そりゃ楽しかったし、バイト代もたっぷり貰《もら》えたけど、なんか俺、物足りなくってさあ」
「へ?」
「新聞配達や杉浦さんちでバイトするほうがいろいろ勉強になるし、第一職場が遠いってのはマイナスだしね」
光波は憮然《ぶぜん》として太郎を見つめた。
「あんちゃん、そろそろ帰る?」
「うん、みんなおなか一杯食べたか?」
「うん!」
ご馳走《ちそう》を詰め込んだ風呂敷《ふろしき》を手にした次郎たちに、太郎はよしよしと頷き返した。
「それじゃ、失礼します」
太郎はぺこりと頭をさげる。
「ごちそうさまでしたー」
光波もまた、立ち尽くして太郎たちを見送るのであった。
世はすべて事もなし。
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第三話 さばいばる・いん・松茸山《まつたけやま》
「しかし最近獲物が減ったよなあ……」
「何か言ったか?」
教室の窓から空を見上げてぼんやりといった山田太郎に、御村託也が尋ねる。
「いや、ここんとこなかなか大物が捕まえられなくてさ、すずめなんかも今年は数が少ないような気がするんだ」
夏はとっくの昔に過ぎ、秋たけなわの今日この頃である。いうまでもなく秋といえば天は高く馬も人も冬に向かってひたすら肥える季節である。すなわち。山田家にとっては食欲が家計を脅かす恐怖の季節であり、また、来たるべき厳しい冬に向かって栄養と体力を蓄えねばならない大切な季節でもあるのであった。最近の地球温暖化によって、年々冬は暖かくなっているようなので環境的にはどうかと思われるが、しかし山田家にとってはありがたいことではある。とはいえ、まだまだ冬は山田家にとってひとつのハードルともいえる季節であることにかわりはない。なんにしても秋のうちにしっかり食べておかなければ、風邪だの体温低下だのにつけこまれてしまうのだから。家計を担う長男・太郎の苦労は増すのである。
捨てる神あれば拾う神ありというか、それを助けるのが秋という季節のもう一つの顔、実りの秋である。まったく禍福はあざなえる縄のごとし、まあそうでもなければ太郎の食らうストレスは一方的に計り知れないものになったに違いない。
もちろん山田家では近辺の収穫地点を把握していることは言うまでもない。ご町内の庭木から徒歩圏内に幾つかある公園の樹木は言うに及ばず、各自の通学路、友人宅、学校内まで、食べられるものがどこにあるのか、そしてその生育状況まで山田家の子供たちは知っているのである。
さらに収穫というものは、植物に限らない。動物たちが冬に備えて身体に脂肪を蓄えるのは、山田家にとっても幸いな自然現象であり、この時期には限らないながらも、すずめ、ねずみに始まり狸、アライグマ、イグアナにカミツキガメ、犬各種に鯉、フナ、ドジョウ、それに鴨やカモメなどに至るまでの手近に存在するほとんどすべての生き物が太郎たちによって獲物となっていた。もちろん首輪着用でリードにつながれている他人様《ひとさま》の所有物には手を出さないのが鉄則だが、ひとたび野良の状態と認められたが最後、山田家の手を逃れられるものはいない。
「都会ではカラスが増え過ぎていて、他の鳥が減っているというが」
御村は植え込みのてっぺんに止まっているカラスをちらりと横目で見て言った。
「そっかあ」
太郎は悔しそうな顔をした。
「うちもカラスにはやられてるもんなー。こないだも三郎が見つけた焼き芋をタッチの差で持ってかれたんだ。五子は豆腐屋の店先から油揚をかっさらってくのを見たっていうし」
「おまえんちにとっては強力なライバルってわけだな」
「ったって、カラスには道義ってものがないからさ、そのぶんかなり分が悪いよなー」
太郎は溜め息をついた。
「かといってあいつら、味はいまいちだし……」
「食ったのか?」
御村は小さい声で言った。
「うん」
太郎は頷く。
「見た目の割に肉付きがよくないんだ。運動量が多すぎるって感じかなー。雑食だから臭みもあるし、第一添加物の多い人間のものばっかり食ってるみたいだからさ、健康にもどうかと思って」
「お前でもそういうことを考えることがあるんだな」
御村は感心したように言った。
「そりゃあ、何たって健康が第一だよ。健康であったればこそどんな物でも栄養にできるってもんだろ?」
「ごもっともです」
御村は頭を下げてみせる。
「おーい、山田!」
そこへやってきたのは級友の松岡《まつおか》である。松岡は二人の元へ駆け寄ると、ちょっと息を切らせて太郎の顔をのぞき込んだ。
「あのさ、山田に頼みがあんだけど」
「?」
「来週の校外実習なんだけどさ」
「校外……?」
「逆波山《さかなみやま》にキャンプで二泊三日」
御村が補足して言う。
「そう、それそれ。実はさ俺家庭の事情で行けなくなっちゃってさ」
松岡は残念そうに肩をすくめた。
「大きい声じゃ言えないんだけど、小さい声では聞こえませんって奴? 親父のマブダチの政界の黒幕が死んじゃって俺も駆り出される羽目になっちゃったんだ」
「ふうん」
太郎はわかっているようないないような顔で、松岡が続けるのを見る。
「俺もう参加費払い込んでるから、代わりに山田に行ってもらえないかと思ったんだけど、どうかな?」
「来週末かあ、一応杉浦さんちでバイトの予定が入ってるんだけど……」
「そういえば……」
御村が思い出したようにつぶやく。
「逆波山方面といえば、確か松茸《まつたけ》の名産地として有名だったっけ」
「松茸!?」
太郎の目がきらりと光った。
「どう、行けそう?」
「うん、行く!」
太郎は力強く頷いた。
「ほんとに、いいの?」
「もちろん」
松岡はほっとしたように言うとちょっと嬉《うれ》しそうに太郎を見た。
「よかったあ、山田ってこういう行事めったに参加しないけど、俺たち来年は受験だろ? こういう機会に一度くらいみんなといっしょに行けるといいのになあって、思ってたんだ。まあ、俺自身は行けなくなっちゃったけどさ。御村は行くんだったよね?」
「ああ。証拠写真は撮って来よう」
「楽しみにしてるよ、じゃあ先生にはその旨連絡しとくから」
「ありがとう、松岡」
太郎は嬉しそうに頷いた。
「ところで、山田」
「なに? 御村」
太郎はわくわくしている、と言わんばかりの表情で御村を振り返った。
「松茸と聞いて途端に張り切ったようだったが?」
「そりゃあもう」
太郎はきっぱり言った。
「松茸なら高く売れるのは間違いなしだし、好きな人ならきっと物々交換もしてくれると思うからね」
「誰がそんなことを?」
「布団屋《ふとんや》のご隠居さんは松茸大好きだし、五色湯《ごしきゆ》のおじさんはすき焼きには松茸がなくちゃって言ってたし、乾物屋の若奥さんは一度インスタントでない松茸のお吸い物を飲んでみたいって言ってたし」
「地獄耳だな」
ちょっと身を引き加減で御村は言った。
「いっぱい採って来れば、冬の準備も万端ってとこかなー」
「ちょっと待った」
うっとりと夢見る太郎を御村が制する。
「俺は逆波山方面が松茸の産地とは言ったが、逆波山が松茸山だとはひとことも言っていないぞ」
「? でも、名産地の中の山なんだろ?」
「それはそうだが」
「だったらきっと松茸の胞子が飛んで来てるよ。そしたら赤松の根元を探せばそこにもここにも松茸が」
「待て待て」
再度御村が止める。
「山田ともあろう者がそんな初歩的なミスを犯してどうする。松茸は胞子ではなくて、菌糸で増える担子菌類の茸《きのこ》だぞ。胞子で増えれば人工繁殖ももっと簡単にできていたはずじゃないのか?」
「あっ、そうか」
太郎ははっとして頭を抱えたが、すぐに立ち直ってきっと顔を上げる。
「なーに、近くの山に生えるんなら自然条件だって似てるはず。逆波山にだってきっと松茸は生えているさ!」
自信をもって断定する太郎に、御村はやれやれと肩をすくめた。
「山田にそう言われると否定できなくなるな」
「そうか?」
太郎はにこっと笑った。
「それにさ」
太郎は嬉しそうに続けた。
「もし松茸がなくても、他にもいろいろ、しめじとか栗とかヤマメとか獲《と》って来られるだろうし。サルノコシカケでも見つければ、それこそ松茸以上の大収穫だろ」
「お前ほど思考がポジティブな人間はいないだろうな」
御村はぼそりと言った。
そして一週間後。
太郎と御村は他の級友たちとともに逆波山キャンプ場に到着していた。
「天気がよくてよかったねー」
池上隆子《いけがみたかこ》が空を見上げて言った。
「台風が接近してるって聞いた時はどうなるかと思ったけど」
隆子は言いながら隣に立って辺りを見回している太郎を見た。
「山田くん、その荷物……」
「うん?」
太郎は背負っていた背負《しよ》い籠《ご》をよいしょと地面に下ろしながら隆子を振り返る。籠《かご》の中はほとんど空っぽだ。隆子はあわてて首を振った。背負い籠は見たままの物だし、それ以上の何を聞くというのだ。
「ううん、なんでもない。それより山田くん、来られてよかったね」
「うん、松岡には感謝しなくちゃなー」
「そうだね、松岡君は残念だったけど」
一応そう思いはするものの、珍しく太郎が来たことが嬉しくて、他のことはほとんどどうでもいい隆子である。太郎が今回のような行事に参加するのは珍しいことなので、隆子は申し込んでおいて本当によかったと心から思った。
「あ、あの、山田くん」
「なに、池上さん?」
腰に手を当てて辺りを見回していた太郎は隆子を振り返る。
「何かいるものとかあったら言ってね。あたし結構いろいろと持たされて来たから」
隆子は膨らんだ自分のリュックを見下ろして言った。
「うちの親ってば、何があるかわかんないから持って行けって、非常用持出袋の中身全部入れてくれたみたいなんだ。あたしはこんなにいらないって言ったんだけど」
「準備がいいって大切なことだよ、特にこういう野外では」
真剣な顔で辺りを窺《うかが》いつつ、太郎が言った。
「必要な物がすぐに手に入るとは限らないし、何が起こるかも予測できないからね」
「そんな大袈裟《おおげさ》な……」
しかし太郎は遥《はる》かに山の稜線《りようせん》を眺めて、疑わしそうに目を細めた。
「備えあれば憂いなし、だよ。池上さん。俺は池上さんちのご両親の考え方は正しいと思うけど。そうだよなー、うちの親にもその位の心構えがあればなー」
言いながら太郎は自嘲《じちよう》するように溜め息をついた。
「ふ、ふうん……」
どう相槌《あいづち》を打っていいのか、隆子はあいまいに頷《うなず》いた。
キャンプ場は山の中腹に設けられていた。白樺《しらかば》の木立ちの間に幾棟かのバンガローとテント場、水場などが点在し、ほぼ中央にキャンプファイアを行える広場がある。今回ここを訪れているのは一ノ宮高校の生徒たちだけらしく、他の客の姿はない。生徒たちは割り当てられたバンガローに荷物を置き、それからそれぞれテントを張ったり食事の用意を始めたり、と活動を開始した。
真っ青に晴れ渡った空を幾筋かの筋雲が斜めに横切り、その下を黒い点のようにトンビが舞っている。陽射しは澄んだ空気を通して肌に熱く感じられるのに、鼻や喉《のど》を通る空気や、時々ざわざわと後ろの森を抜けて吹いて来る緑の匂いを含んだ風は、どちらもひんやりと冷たい。街中ではいつ聞こえたかも覚えていない虫の音が気がつくと耳に届き、甲高い鳥の声もたまに響いた。ふと立ち止まると急に静けさに包まれる気がする。耳を澄ませば辺りがしんと静まり返っているわけではないことはすぐにわかるのだが、それでもそんな風に感じるほど、普段とは取り囲む音のレベルが違うのだ。ゆっくりと巡る陽の動きでさえも、ここでは目でそれを追うことができるのであった。
「おーい、こっち手伝ってくれ」
「ペグが足らないんだけど」
「人参《にんじん》どこにあるのかなあ」
「この鍋《なべ》洗った?」
「テーブル幾つ組めばいいんだ?」
「椅子は五十あれば足りるよね」
「ご飯の水加減、誰かみてよ」
陽が傾くにつれて、生徒たちは賑《にぎ》やかになってきた。
「ちょっと、まだ火がおきてないの?」
鍋を抱えた女子生徒が、かまどの前に集まっている数人の男子生徒の間からのぞき込んで言った。
「そろそろ煮始めないと間に合わないんだけど」
「ったってさあ」
一人が振り返って口をとがらせる。
「難しいんだぜ、これがさあ」
「難しくたってとにかく早いとこなんとかしてくんなきゃ。晩ご飯、抜きになっちゃうわよ」
「参ったなー、そいつは勘弁だぜえ」
「だってしょうがないじゃない」
「わーったってば。火をおこせばいいんでしょ、はいはい今すぐやりますってえ」
「どうしたの?」
他の女子生徒もやって来てのぞき込む。
「あれー、まだ全然なのう?」
「役に立たないじゃん、男ども」
「うるせーなー」
いいながら男子生徒たちはマッチを擦り、着火装置から火花を散らすが、かまどの中は真っ暗なままである。
「山田くんならできるかも……」
その場をのぞき込んだ隆子は、辺りを見回した。夕焼けの茜色《あかねいろ》にうっすらと覆われ始めているキャンプ場はまだ人影を見分けるには十分だったが、太郎の姿はどこにもない。
「あれ? 山田くんどこいっちゃったんだろう。テント張りしてたのは見たんだけどなあ」
隆子はつぶやいた。
「どうしようか」
鍋を抱えた女子生徒が首を傾《かし》げる。
「このままじゃご飯の用意ができないわ」
「しょうがないから非常食で行く? レトルトとか」
「何いってんの、温めるには最低でもお湯がいるのよ。冷たいまんまでもたべられないことはないけど」
「えーっ、それはやだなー」
「レンジがあれば何とかなるのにねー」
「レンジが使えるくらいなら、湯沸かしポットのひとつくらいとっくに使ってるんじゃない?」
「じゃあご飯抜きー?」
誰かがげっそりした声を上げた時である。
「どうしたの?」
隆子の傍《かたわ》らから緊迫した声が聞こえた。振り返るとそこにはいつの間にか太郎が戻ってきている。
「あ、山田くん! どこ行ってたの?」
「ちょっとそこまで。それはともかくいったいどうしたんだ、池上さん?」
太郎は真剣な表情で続けた。
「何か不穏な言葉が聞こえたんだけど。ご飯抜き、とか」
「それが……」
隆子はかまどの前にしゃがみ込んでいる男子生徒たちを指した。
「ははあ」
太郎はなーんだというように頷くと、すたすたと前へ出て、男子生徒の一人の肩を叩《たた》いた。
「あ、山田」
「火がつかないんだって?」
「そうなんだよ」
「ちょっと俺にやらせてみて」
「頼むよー」
男子生徒は助かったとばかりに立ち上がる。わらわらとそこにいた男子生徒全員がかまどの前を太郎に明け渡した。
「どれどれ……ああ、これじゃあ無理だなー」
太郎は言いながらかまどから突っ込まれていた薪《まき》を全部引っ張り出した。中を空にすると出した薪の皮の部分を細かく割いてはぎ取り、それから用意してあった薪の中から細い物を数本選びだす。
「あとは……新聞紙、ないかな?」
「新聞紙?」
周りで見守っていた全員が顔を見合わせる。
「新聞紙なんて、持ってきてる?」
「紙だとティッシュか、紙ナプキンか、あとトイレットペーパーならあるけど……」
「そんな勿体《もつたい》ない!」
太郎は首を振った。
「あ、あたし持ってきてると思う」
隆子が叫んでぱっと身を翻した。バンガローからかけ戻って来た隆子は、太郎に朝刊一紙分ほどの新聞紙を手渡した。
「ありがとう、池上さん」
太郎は新聞から一枚外すと、それを四枚に切り分け、その一枚ずつをくしゃっと大まかに丸めた。
「隆子、よく新聞紙なんて持ってたね」
「親に持たされたの」
隆子はちょっと照れながら言った。
「ふうん、隆子の親って先見の明があるんだ」
「そんなんじゃないよ」
太郎は丸めた新聞紙の上に割いた木の皮を放射状に載せ、それからマッチを擦った。
「へえ……」
新聞紙が燃え出すとほとんど同時に、木の皮にも火が燃え移る。それから太郎は急がずしかし手際よく細い薪を燃えている炎の上に立体的に置いていった。少し待つと細い薪にも火が燃え移る。もう新聞紙は跡形もない。次に太郎はようやく太い薪を手に取った。慎重に炎の上にこれも重ならないよう、上手《うま》く組み立てて載せて行く。数本の薪がものの三分と経たないうちに勢いよく炎を上げ燃え始めた。
「これでよし、と」
太郎はにっこり笑って立ち上がった。
「あとは順次薪を足して行けば大丈夫。薪を入れるときは重ならないように、空気が通るように置けばよく燃えるよ」
「すっごーい!」
女子生徒たちが叫んだ。
「山田くんって何でもできるのねえ」
「かっこいい!」
「ありがとう、山田くん」
「いやー、毎日のようにやってることだからさ」
「は?」
「と、とにかくこれでもう大丈夫よね。早くご飯の支度しないと間に合わないよ。さささ、お鍋《なべ》火にかけて」
隆子はそう促しつつあわてて太郎を火の側から連れ出した。そう、隆子は太郎が超貧乏だということを知っている数少ない人間の一人であった。
そもそも隆子もまた、太郎ほどではないにしても、一ノ宮では大多数を占めるお金持ちいいとこの娘ではなかった。しかし。このチャンスを逃す手はない。隆子は在学中に玉の輿《こし》に乗る、という目標を立てたのである。だがいくら玉の輿とはいえ、自分の面食いという部分で譲ることのできなかった隆子がまず標的に選んだのが、こともあろうに山田太郎だったのが不運の始まりであった。知る人はとっくに知っている通り、山田家は赤貧洗うがごとし、超のつく貧乏だったのだから。見た目や物腰からは全く貧乏を感じさせない太郎を、校内のほとんどの人間はどこかの御曹司《おんぞうし》だと思い込んでいる。隆子もそう思っていたから真実を知ったときのショックは大きかった。全校女子生徒を敵に回してせっかく太郎と仲良くできても、隆子にとってそれは敗北に他ならなかったのである。貧乏は駄目、そう自分に言い聞かせつつもしかし隆子は今も太郎に引かれてしまう自分を止められないでいる。まあそれほど面食いだということかもしれないが。
太郎は自分の貧乏をことさら隠そうとはしていなかったのだが、思い込みというのは恐ろしいもので、何をやっても世間知らずの御曹司の社会勉強などとみんな善意に解釈して一向に貧乏に思い至ることがない。おまけにみんなが勘違いしているほうが面白いと考えた御村の策略でなおのこと真実は露《あらわ》にならないでいた。
隆子もまた、太郎が貧乏であることを知ってはいても、それを誰かに知らせなければならないなどとは一度も思ったことがなかった。貧乏なのは太郎のせいではないし、貧乏を除けば太郎は隆子にとって理想そのものだったからである。ある日突然太郎がお金持ちになってくれれば、と今日も夢見ずにいられない隆子であった。
閑話休題。
「どうした、山田?」
水場から隆子に引っ張ってこられる太郎に、なにごとかと御村が声をかける。
「かまどの火をおこしてたんだ」
「山田くん凄《すご》いんだよ、男の子たち全然手も足も出なかったのをあっという間に勢いよく燃えさせちゃって」
「それは見たかったな」
御村は面白そうな顔をして言った。
「でしょ? 凄かったんだから」
「別に、大したことないよ」
太郎は頭をかいて言った。
「いつもやってることだし。最近じゃ俺より次郎の方が上手いぐらいなんだ」
「山田のとこってガスはあったと思うが?」
「止められた時には外で七輪だからさ。あれ、池上さんどうしたの?」
太郎は耳を塞《ふさ》いで聞くまいとしている隆子を不思議そうに見た。
「き、気にしないで山田くん。これはあたしの主義だから……ああー、貧乏退散貧乏退散……」
「現実逃避か」
口の中でぶつぶつ言い続ける隆子を見て御村がぼそりとつぶやく。
「?」
怪訝《けげん》な顔をする太郎に御村はにこやかに笑って手を振る。
「なんでもないなんでもない。お前には関係ないことだから」
御村はくつくつ笑いを押し殺して横目で隆子を見ながら言った。
山で見る星空は見事だ。街中ではぽつぽつと数えても両手には足らない星が、ここでは幾百幾万の砂粒のように夜空にばら撒《ま》かれている。こんなに多いと紛れて見えなくなりそうに思える星座は、かえってそれぞれの主星が一際くっきりと強い光を放っているのがわかって見つけやすく、また沢山探し出すことができる。都会では夜空に反射するネオンや明りでまず見ることのできない天の川も、ぼうっと白っぽい帯となって姿を現わしていた。
キャンプ場の広場ではみんなが花火に興じている。
「きゃーっ」
ぱちぱちとはじけるネズミ花火が女子生徒たちの足元を跳ね回った。
こちらではドラゴン花火の七連発が火花の壁を作り、あちらからはロケット花火の甲高い発射音が空を裂く。
そんな中隆子は花火の袋を持って太郎の姿を探していた。
「どうしたの池上さん」
「あ、御村くん、山田くん見なかった?」
「ああ、さっきその辺にいたんだが」
御村はちょっと口を濁す。
「どこいっちゃったんだろうなー、一緒に花火やろうと思って持って来たんだけど」
「そのうち戻って来るだろうから、座って向こうの花火でも見物していたらいい」
「そうかな」
隆子は言われるままにバンガローの入り口の段に腰を下ろして、そこここできらきら輝く花火の火花に目をやった。木々の間から垣間見《かいまみ》える花火はときおり吹いてくる風に揺らめき、またふいと消えるとその辺りは真っ暗な闇に沈み、代わって別の場所の光が目を奪い、と、まるで全体が大きな仕掛け舞台のようにも見えてくる。
「お帰り」
御村の声に振り返った隆子は、あの背負《しよ》い籠《ご》を背に、懐中電灯を頭に縛り付け、手には泥だらけの軍手、足元は地下《じか》足袋《たび》の太郎に、ぎょっと目を見張った。
「ど、どうしたの山田くん、その恰好《かつこう》……」
「ちょっと一仕事してきたんだ」
太郎はにんまりと笑った。
「その様子だと成果はあったようだな」
「うん。あったどころか大漁!」
隆子は嫌な予感に襲われ、そろそろと立ち上がる。
「獲物はどうした?」
太郎が下ろした背負い籠をのぞきこんで御村が尋ねる。
「ああ、明後日《あさつて》まで生かしとかなきゃなんないからさ、網のまま沼に置いてきた。やっぱり人の手が入ってないと豊かだよなー。もうさ、掴《つか》み取り状態なんだ」
「それは凄い」
「それでその大きさときたらさ」
太郎は両の掌《てのひら》ですくうようにしてみせる。
「こんな……」
「あの、あたしもう寝るから」
「ああ、池上さんにも見せたかったなあ。見たこともないくらいでっかい……」
「そ、それじゃまた明日っ!」
「ウシガエルが沼一杯に……」
駆け出した隆子の耳に太郎の言葉の続きが届く。隆子は泣きそうになりながら、自分のテントまで全力疾走した。
キャンプ場の朝はおしなべて早い。ほとんど無理やり早いと言ってもいいだろう。なぜかというと、まず遮光性の低いテントだのバンガローだのといった宿舎に情け容赦なく日の出とともに朝日が襲いかかって来る。それからそれと同時に早起き鳥の皆さんが一斉に朝のコーラスを始め、嫌でも寝てはいられない。とはいえ、テレビだのゲームだのの夜更かしのねたもないため、自然に早起きできてしまうのも事実なのだが。一部の怪談話にふけっていた連中は別として。
二日目、生徒たちは揃って逆波山の山頂を目指した。意外にきつい山道を二時間余り登るとようやく山頂で、生徒たちはぐるりに広がる眺望を満喫した後、思い思いに散らばってお昼ご飯となった。一同は仲間の手作りのぶかっこうなおむすびを、空腹という名の魔法の調味料でおいしく頂く。
「あれ……」
手に付いたご飯粒を丁寧に一つ残さず口に運んだ太郎が、彼方《かなた》を見つめたまま眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「何、山田くん?」
隆子も太郎の見ているほうを見たが、連なる山並みの上にはうっすらとしたわたあめのような雲が僅《わず》かにかかっているばかりである。
「どうかしたの?」
重ねて聞く隆子に、太郎はちょっと首を傾《かし》げる。
「うーん、この辺りは初めてだからよくわからないんだけど……天気、崩れるかも知れない」
「えっ、天気予報は晴れ時々曇りっていってたけど」
「最近の天気予報はあまり信用できないからな」
御村が言った。
「ふうん、そうなのか?」
太郎がアルミホイルを畳みながら言った。
「うちにはテレビもないし、天気はほとんど勘と経験で予測してるからなー。でも最近は気象予報士がそれぞれ予報してるから、競争になって当たるようになってるんじゃないのか?」
「全然だよ」
隆子は思わず言った。
「全然に近く当たんない。とあたしは思う」
御村も頷《うなず》いた。
「確率は下がってるな」
「あたし思うんだけど」
隆子は考えながら言った。
「気象予報士っていう資格でお金|貰《もら》ってるんだったらもうちょっと予報に責任持ってもらいたいよね。外れてもめったに謝ったりしないし、じゃあ別の人に代わるかっていうとそれもないし。時々腹立っちゃう」
「確かに池上さんのいう通りだな」
御村が言った。
「何かペナルティを課した方が、大多数の人は納得できるだろう」
「そうそう、三回外れたら坊主にする、とか」
「女性の場合は?」
「水着なんかどうかな」
隆子が言って御村は小さく吹き出す。
「やっぱり資格だけ賃金に反映するんじゃなくて、能力差も反映しないと不公平になるだろうなー」
太郎は言いながら水筒のお茶をついだ。
「俺みたいな資格とは無関係な場合は、そういう風に反映してもらえると結構ありがたいんだけどなー」
「それで山田くん、お天気危ないの?」
「いや」
太郎はお茶を一口含んで目を細めた。
「大したことはないと思う。にわか雨かちょっとばかり雹《ひよう》が降るか、くらいかな」
「それって大したことありそうに聞こえるんだけど」
隆子はぎょっとして頭上を見上げたが、晴れ渡った空にはそんな気配は見当たらない。
「大丈夫、降るとしても夕方のことだから。ああ、だからキャンプファイアの準備は遅めに始めたほうがいいだろうなー」
「先生に伝えておこう」
御村が頷いた。
山頂から下山すると、太郎はまた背負い籠を背負ってキャンプ場を出て行く。
「山田くん、待って、どこ行くの?」
隆子は慌てて追いすがった。とりあえず太郎と二人きりになれるチャンスである。こういう時、いつも隆子の記憶細胞からは貧乏という単語が消滅しているのであった。
追いついた隆子に、太郎は足を止めて振り返った。
「いっしょに行ってもいい?」
一瞬渋い顔をしかけた太郎に、隆子は慌てて言葉を継ぐ。
「あっ、あの、あたしお手伝いするから。いろいろ大変だろうし……ううん、第一なんかあったら一人じゃ危ないでしょ。おうちの人たちも心配すると思うし」
隆子は一生懸命本気で言った。太郎はにこっと笑って頷くと先に立って歩き出す。隆子はほっとして遅れまいと太郎の後に続いた。
太郎は林の中の細い獣道をたどってずんずん進んで行く。林は次第に鬱蒼《うつそう》とした森になり、空気がしっとりと湿って来るのが隆子にも感じられた。
「どこまで行くんだろう?」
隆子は背負い籠を追いながら、時々辺りを見回して見る。もうどちらから来たのかも隆子にはわからなくなっていた。そして、太郎の行く手も茂った木々に遮られて一向に窺《うかが》えない。山を下っているのか登っているのかさえも、よくわからなかった。
「うーん、と」
太郎が立ち止まって辺りを見回した。その手に何か紙片があるのが見える。
「なにそれ?」
のぞき込んだ隆子の目に入って来たのは、地図のコピーである。
「これ……ここらへんの?」
「うん」
太郎は注意深く辺りを窺った。
「丁度ここいらが逆波山と隣の荒波山《あらなみやま》の境目なんだ」
地面に線が引いてあるわけでなし、どうしてそれがわかるのか隆子には見当もつかないが。
「荒波山はこの辺では最も有名な松茸山《まつたけやま》なんだよ」
「へえ」
隆子は太郎の向こう側の、こちら側とどう違うのかわからない森を伸び上がって眺めた。
「じゃあ、あっちに行けば松茸がいっぱいあるんだ」
「そういうこと」
「んで、これから松茸を採りに行くのね?」
太郎が首を振ったので隆子は怪訝《けげん》な顔になる。
「どうして?」
「許可なくよそ様の松茸山に入ったら、たとえ迷って入ったとしても、手足の一本くらい折られたって文句は言えない、そう言われてるんだよ」
「えーっ」
「松茸は高価な財産みたいなものだからね、それくらい価値があるってことなんだろうな。松茸泥棒は命懸けなんだそうだ」
「そ、そりゃあ、泥棒はいけないよね」
隆子は頷いた。それにしても物騒な話ではある。
「だからここから向こうへは絶対入らない。けど、こっち側なら大丈夫だから、探してみようと思ってるんだ」
「なるほどー、きのこなら胞子が飛んでるはずだもんね」
ぽんと手を打った隆子に太郎はまたもや首を振る。
「松茸は胞子じゃなくて菌糸類なんだって、池上さん。だからそう簡単には見つからないと思うよ」
「えーっ、そうなの?」
隆子はがっかりして言った。
「山田くんをもってしても手強いってことかあ、松茸」
「そういうことだね」
太郎はくすくす笑いながら、歩き出した。
「それでも松茸があるとしたら赤松の根元だから、まずそれを探そう。地面は砂地がいいんだけど、ちょっとこの辺りだと下はよくわからないなー」
「赤松ね?」
木を探す前に太郎を見失わないようにしなくては、と隆子は気をひき締める。うっかりはぐれて松茸山に入ってしまったら大変なことになるのだ。
足元がやや下りになったように隆子は感じた。じぐざぐに木々の間を抜けて行く太郎の後を、隆子は一生懸命に追った。
「あっ、あった」
「松茸?」
屈《かが》み込んだ太郎に隆子が駆け寄る。
太郎は木の根元から茶色っぽい縁の白い茸《きのこ》の大きな塊を取り上げて見せた。
「なーんだ、松茸じゃないのね」
「うん、でもこれはこれでおいしいんだよ。マイタケ」
「えーっ、あたしが知ってるマイタケと、これ、ずいぶん違うよ。毒茸じゃないのかなあ」
「スーパーなんかで売ってるマイタケは人工栽培物で種類もちょっと違うらしいからね。これは正真正銘天然物のマイタケだよ。大丈夫、毒はないし、ほんとに凄《すご》くうまいんだから」
「へええ……」
目を丸くする隆子に言うと、太郎は大切そうにマイタケを背負《しよ》い籠《ご》に入れた。
「幸先《さいさき》いいな、松茸がだめでもこれなら来た甲斐《かい》ありそうだ」
「よかったね、山田くん」
二人はそれまでにも増して熱心に辺りを探しながら森を進んで行った。
いくつかのマイタケやシメジを見つけながら歩いて行く内に、なんだか辺りが薄暗くなってくる。
「あれ、どうしたのかな?」
見上げても茂った木の枝で遮られて空は見えない。と、思う間もなくぱらぱらと水滴が落ちて来た。
「雨?」
「ああ、やっぱり降って来ちゃったな」
太郎はそういうと辺りを見回し、一際大きな木の下へと隆子を導いた。
「ここならそんなに濡《ぬ》れないで済みそうだな」
太郎はくんくんと空気の匂いを嗅《か》いだ。
「すぐにやみそうだし」
「匂いでわかるの? 山田くん」
隆子はびっくりして言った。自分でも辺りの匂いを嗅いでみるが、苔《こけ》のような森の匂いが感じられるばかりである。
「うーん、匂いっていっても湿気の状態を嗅ぎ取るというか……」
ばさり、と音がして隆子のすぐ脇に樹上から水の塊が降ってきた。驚いて身を引いた隆子は太郎にぴったり身を寄せる恰好《かつこう》になる。
「あ……」
太郎は一向に気にする様子はなく、見える範囲をぬかりなく観察しているようだ。隆子はこれ幸いと太郎に密着したままでいることにした。
まもなく、隆子にとっては残念なことに雨が止んだ。太郎と二人再び茸狩りが始まる。
しばらく行ったところで太郎がふと顔をしかめて足を止めた。
「どうしたの?」
「これは……」
太郎は一本の木の幹を見上げてつぶやいた。木の幹には丁度太郎の頭の辺りにひっかいたような傷が幾筋もついている。
「こんな情報はなかったんだけどなあ」
太郎は傷をなでて確かめながら言った。
「なあに、それ?」
尋ねる隆子に太郎は声を低めて言った。
「熊」
「えっ!?」
叫びかけた隆子の口を太郎の手が素早くふさぐ。
「静かに。この印はそんなに新しいものじゃないけど、用心するに越したことはない」
「く、熊?」
隆子は改めて辺りを見回し急に恐怖が沸き上がって来るのを感じた。
「熊がいるの? ほんとに? ねえ山田くん、帰ろう。みんなにも知らせなくちゃ」
太郎は黙って辺りの気配をうかがいながら、また空気の匂いを嗅ぐ。
「山田くん?」
「この熊の縄張りはこの山じゃないな」
隆子はきょとんとした。
「なんでそんなことがわかるの?」
太郎は森の一方を指した。
「今まで歩いて来たこっちにはこういう印はなかったんだ。ここで初めて見たわけなんだけど、でもあっちの森の中には同じような印がある」
「えっ、どこに?」
隆子は目を見張って太郎の指す方を見たが、森の木々が続くばかりで言われるようなものを捕らえることはできない。隆子は太郎の能力の凄さを改めて知った。
「あそこの木には熊の毛がついてるし、ああ、でもあっちに降りて来たのも久しぶりって感じかなー」
太郎は小手をかざして言った。
「山田くん」
「うん、結構茸も採れたし。松茸《まつたけ》が見つからなかったのは残念だけど、とりあえず今日のところは帰ろうか」
「うん」
隆子がほっとして頷《うなず》いた時である。
どこかで低いうなり声のようなものが、した。太郎の身体にはっと緊張が走る。
「いかん!」
ぱっと走り出した太郎の後を隆子はとっさに追った。その方角が熊の縄張りだとさっき太郎が言ったばかりの方だということに、走り出した隆子は気付いたがどうすることもできない。ここで太郎とはぐれれば確実に迷って、一人で熊と遭遇するか、松茸山の主《ぬし》に拷問されるか二つに一つである。隆子は必死に太郎を追って走った。足元でピシピシと小枝の折れる音がする。時々太い枝を踏んで転びそうになるが、置いて行かれるわけにはいかない。隆子は体勢を立て直しつつ走り続けた。
ぐおうっ!
ぴたりと太郎が止まり、その背中の背負い籠に隆子が激突したのと、物凄《ものすご》いうなり声が間近で聞こえたのとは同時だった。
「う、うわああ……」
「これ!」
誰かの押し殺した悲鳴と、太郎が背負い籠を隆子に押しつけたのも、同時だった。隆子は受け取った背負い籠を我が身をかばうようにしっかりと両手で抱え込んだ。
ふおっふおっふおっ。
「!」
太郎の気合いが空気を伝わって来る。ようやく隆子は何が起こっているのかを自分の目で確かめ、息を呑《の》んだ。
一頭の熊が木々の間の僅《わず》かな空間で立ち上がっている。熊の向こうには作業着にちゃんちゃんこを重ねた年配の男が尻餅《しりもち》をついて座り込んでおり、手にしたこぶこぶの竹の根か何かで作られている仙人|御用達《ごようたし》のような杖《つえ》をわけもなく振り上げたまま、後ずさろうともがいていた。派手なちゃんちゃんこの金糸の刺繍《ししゆう》が眩《まぶ》しく目を射る。
ふおうっ!
立ったまま熊は鼻息も荒くこちらを振り返った。
「ひえっ!」
悲鳴を呑み込んですくみ上がった隆子は、熊の足元から辺り一面になにやら散らばっているのに気付く。
「?」
熊は片足をゆっくりと踏み替え、太郎に向き直る。ぐしゃり、と音を立てて熊の足が大きな松茸を踏みつぶした。
「こらあっ! 高価な品物を粗末にするんじゃないっ!」
太郎が怒鳴って、熊ばかりか隆子と尻餅のお爺《じい》さんまでもがびくっとする。
ふ、ふおお。
熊は戸惑ったような唸《うな》りをもらしつつも、ぎろりと太郎をねめつけた。
見れば地面は松茸のじゅうたんのようだった。大きく切り裂かれた背負い籠が、木の根元に放り出されている。
ぐふおうっ!
やる気か? とでも言うように熊が吠《ほ》えた。
太郎の背中が僅かに緊張する。
――や、山田くん?
隆子は何か手助けはできないだろうかと、辺りを見回した。あいにく手元にもその辺にも棒きれ一つ見当たらない。抱えた背負《しよ》い籠《ご》の中は茸《きのこ》ばかりだし、肉か何かなら熊の気を引くこともできるかもしれないが、松茸を足蹴《あしげ》にするような相手には役にたたなそうだ。
本気で太郎は熊と戦うつもりなのだろうか。隆子は一歩も引かない太郎の背中を見つめた。
「!」
その後ろ姿から隆子は燃え上がる炎のような壮絶な気合いを感じとって、ぞっとした。ひしひしと、無言の内に伝わって来る、その気配は。
――食ってやる!
隆子は今にも自分が食われるような恐怖に戦慄《せんりつ》した。
熊もそれを感じとったのか、急にぶるっと身を震わせる。しかし、負けずに一段の眼光で太郎をにらみつけた。
「ふん、やる気だな?」
太郎は油断なく身構えたまま低くつぶやいた。
「だが、これ以上大事な松茸を駄目にするような真似をしたら勘弁ならんからな」
ぐふおうっ!
熊はぶるんと首を振って頭を下げる。
太郎の唇の間からしゅうっと息が漏れ、ふわりと身体が沈む。
――山田くん!
隆子は声にならない声援を送る。体格ではほぼ互角。しかし相手は熊だ。そして太郎は丸腰。一体どういう風に戦うつもりなのか。隆子は息を詰めてこの対決を見守った。
よくニュースで熊を投げ飛ばしたお爺さんの話を聞くが、果たしてそんなことができるのか、それで熊を倒すことができるのか。隆子は少しでも太郎に加勢しようと熊をにらみつけた。あくまで熊と視線が合わないように、だったが。
ふっふっふっ……。
上目遣いに太郎を見つめたまま、熊は相手のすきをうかがっているようだ。
「ふんっ!」
太郎がじりっと間合いを詰めた。
ふうっ……。
息を吐き切って太郎に正対した熊は地を這《は》うように身を低め、次の瞬間、がっと音がするほど地面を蹴《け》って目にも止まらぬ速さで太郎に襲いかかる。
「きゃっ」
背負い籠を抱いていた手にぎゅっと力が入り、隆子は思わずその陰に身を竦《すく》める。
「きゃーっ!」
顔を上げた隆子の目の前によろよろっとたたらを踏んだ熊が迫って来た。間近に熊と目を合わせた隆子はあられもなく悲鳴を上げ、必死で後ずさる。
ふお?
相手が違う、というように熊は隆子の顔を見て首を傾《かし》げると後ろを振り返った。
「こっちだ、くまさん!」
ぽんと手を打つ太郎に向かって再び熊は突進する。太郎は闘牛士のように直前まで熊と真っ向組み合う、と見せてひらりと身を躱《かわ》した。
どしゃっと音を立てて熊は藪《やぶ》に突っ込んだ。
踏みつぶされた松茸《まつたけ》の香りが辺り一面に立ち込める。
ぐふうっ!
怒りの唸りを上げて熊が向き直る。
ばあん、と地面を横殴りに叩《たた》いた熊は立ち上がって今度は太郎に上から飛び掛かろうとした。
「むんっ!」
「ああっ!」
隆子は思わず声を上げた。
飛び掛かって来る熊の前脚が太郎を叩き付けた、と思った瞬間、太郎の身体が熊の下に沈み込む。続いてふわり、と音もなく熊の身体が長くしなって宙を舞った。
ばきばきばき。
小枝を折って木々の間に黒い塊が転げ込む。
きゅうっ。
悲しそうな声を上げると、熊は立ち上がるや一目散に森の奥を目掛けて走りさった。
「あっ、待てっ、熊の胆《い》が……熊汁があ」
慌てて追いかける太郎だが、熊はたちまち視界から消えてしまう。太郎はがっくりと肩を落とした。
「ああ、大物だったのになあ。冬支度には捨てるところがない奴だったのに」
「や、山田くん、大丈夫?」
隆子ははっとして太郎に駆け寄った。
「あっ、駄目だ!」
言うなり太郎は大股《おおまた》に前へ出ると両手を差し伸べ、隆子の身体を抱き上げる。
「え? 山田くん?」
隆子は顔に血が上るのを感じてどぎまぎと目の前の太郎の顔を見る。
太郎は隆子の両脇を支えながら心配そうな顔で下を見て、ほーっと溜め息をついた。
「……ああ、これじゃあ佃煮《つくだに》にするしかないかなあ……」
「?」
怪訝《けげん》な顔をした隆子を太郎はそっと下ろした。足元を見回すと、砕けた松茸が二人を取り囲んでいる。
「もったいない……」
つぶやいてから太郎はお爺《じい》さんの方を振り返った。
「大丈夫ですか、怪我は?」
「いや、なんともないわい」
作業服にちゃんちゃんこのお爺さんは、よいしょと立ち上がるとお尻《しり》を払って言った。
「いやいや、助かった。ご先祖代々受け継いだこの山じゃが、今時あんなもんに出くわすとは思っとらんかった。君の方こそ怪我はないかね?」
「ああ、大丈夫です」
太郎はにっこり笑って頷《うなず》く。
「そうか、ならいいが。しかしこんなところへ君たちよく来れたな」
お爺さんは辺りを見回しながら言った。
「俺たち逆波山にキャンプに来てるんです。きのこを探してたらこっちから声がしたので」
「あっ、あのっ、あたしたち松茸泥棒じゃありませんから!」
隆子はあわてて言った。
「ほう?」
お爺さんはちょっと面白そうな顔になる。
「松茸山に入ったら拷問されても文句は言えないってこと、ちゃんと知ってます。山田君はこっちの、えーと、逆波山じゃないほうには一歩も入っていません」
「今は入っとるけどな」
「う……」
お爺さんが隆子に向かってにやりと笑って見せた口元からは、金歯に埋め込んだダイヤがきらりと光る。さすがは松茸山の主《ぬし》、キャラクターが強烈だ。隆子は答えに詰まって目を白黒させた。
「いやいや、それにしても、山に入ったら拷問されるっちゅう話は初めて聞いたな」
お爺さんはにやりと笑った。
「今後はそういう方針で行くというのも、また一興だがのう」
「え? だって……確か山田くんが」
「俺、拷問とは言ってないと思うよ」
太郎はきょとんとして言った。隆子は真っ赤になる。
「まあいいわい」
お爺さんは杖《つえ》をくるんくるんと回しながら、すたすたと太郎の背負《しよ》い籠《ご》に歩み寄って中をのぞいた。
「ほほう、マイタケにシメジ、サルノコシカケも見つけたか。若いの、なかなか目は確かなようじゃな」
「や、山田くんはこういうの得意だもんね?」
隆子は太郎の後ろから言った。
「みたところここいら一帯山はちっとも痩《や》せとらんのに、どうしてまた熊なんぞが降りて来たもんかのう」
お爺さんは首を傾げた。
「さあて、荒波山に熊が出たのは何年ぶりのことじゃったか。いやまったくたまげたわい」
「あの熊なんですけどね」
太郎が熊の逃げた方を見ながら言った。
「もうこの辺りには降りてこないんじゃないかと思いますよ」
「ほう。どうしてそう言えるかな?」
お爺さんは一寸《ちよつと》目を細める。
「結構びくびくしてましたし、確かに食べ物が足らないって様子でもありませんでしたからね。そういえば下の方にも縄張りがあったっけ、見に行こうかなー、そんなところじゃないかな」
「上手《うま》いことを言うのう」
お爺さんはにんまりと笑った。
「いやいや、わしの見たところでもそんなもんじゃなかろうかとは思ったがな。つい昔|操《と》った杵柄《きねづか》で相手してやるわい、なんぞと思っちまったもんじゃから、あいつも引っ込みがつかなくなったようでな。いやいや、年寄りの冷や水ちゅうもんじゃ、今後はそんなこと考えるのは止めにしとかんとな」
お爺さんはからからと大きく笑うと、真面目な顔になる。
「いやしかし、これからはもうちっと注意して山に入るようにせんといかんな。それにしても見事な背負い投げじゃったのう。わしももう十年若かったら食らわしとるところじゃったがな」
「えーっ、お爺さんも熊をなげとばしたこと、あるんですか?」
隆子はびっくりして言った。
「昔の話じゃがの」
お爺さんはいたずらっぽく隆子にウインクした。隆子はあきれ顔になる。
「いやいや、そんなに怖いもんでも見るような顔をせんでもいいわい、じょうちゃん。そっちの若いのも同類なんじゃしな。山でやってくならその位の気構えでないととてもとても」
そんなもんだろうか、と思う隆子である。
「ところで、せっかく助けてもらっておいて礼の一つもせんというのは仁義にもとるからのう。とりあえず今すぐなにかと言うんなら松茸《まつたけ》ということになるが、それでかまわんかね?」
「もちろん!」
太郎と隆子は声を揃えて頷いた。
「それじゃあついてきなさい」
「あっ、待って下さい」
行きかけるお爺さんを太郎が呼び止めた。
「ここにあるぶんも貰《もら》っていいですか?」
「ふん?」
お爺さんは怪訝な顔をした。
「そんなもんもう商品にもならんし。ほっときなさい、もっとちゃんとしたのを欲しいだけあげるから」
「駄目ですよ、そんなの!」
太郎はきっぱりと言った。
「どんな形だって貴重な松茸じゃないですか。このひとかけがなくて寂しい思いをしてるうちが絶対あるはずなんです! 松茸もかわいそうじゃないですか、生えてたのを抜かれて仕方ない後は食べられれば成仏する、って思ってたのにそれもかなわないなんて」
「…………」
目を丸くして太郎の言葉を聞いていたお爺さんは、やがてあきれたように肩をすくめた。
「今時なんちゅうことを言うもんかのう。まあいい、好きにしなさい」
「はいっ!」
太郎は嬉々《きき》として散らばった松茸の破片を拾い集め始めた。手伝う隆子は、立ち込める松茸の香りに頭がぼうっとしてくるのを感じた。
天高く馬も人も豊かに肥ゆる秋の空の下、松茸の香りは今日も流れる。
「あんちゃーん、おかわりっ!」
「松茸の佃煮、おいしいねーっ」
「いくらでもご飯食べられちゃうねーっ」
「ほんとにおいしいわねえ……」
母・綾子もにっこり笑って箸《はし》を動かす。
「でも……」
「なに、かあちゃん?」
しゃもじを持ってお釜《かま》をのぞいたまま太郎が言った。
「毎日だと、ちょっと他の物も食べたくなるでしょ?」
「え?」
太郎ははっとして綾子を振り返った。
綾子はにこにこしながら人差し指を唇に当てる。
「やっぱり秋の味覚といえば、あれしかないわよねえ」
「か、かあちゃん?」
「宅配便っすー」
がらりと玄関を開けて現われたのは、大きな発泡スチロールの箱を担いだにーちゃんである。
「はんこお願いしまっス」
「はーい」
綾子が判を押す後ろで早くも弟妹《きようだい》たちがスチロール箱を開けだす。
「わーっ、おっきなしゃけが入ってるー」
「これなーに?」
五子が瓶詰を取り出して言った。
「あらあらカタログで見たよりもずっとおいしそうね、こっちはいくらの醤油漬《しようゆづ》けで、この缶詰はウニでしょ。あとカニがあるはずなんだけど……」
「あっこれ、カニだよー」
「大きいでしょ、タラバガニっていうのよー」
「おいしそうだねー」
わいわい歓声があがるのを、太郎は呆然《ぼうぜん》と硬直して聞いていた。
「!」
はっとして押し入れに駆け寄った太郎は、壁の割れ目に隠しておいた封筒を取り出し、中をのぞいてがっくりと肩を落とす。封筒はぺらぺらの空っぽになっていた。
「……松茸、高く売れたのに……」
太郎は深く溜め息をついた。
「だったら一本くらい焼いて形のまま食べてみればよかったかなあ」
「山田?」
御村が玄関を開けて中の様子に目を瞬《しばたた》いた。
「なんだ? 賑《にぎ》やかだな」
「御村」
どんよりとした顔付きの太郎に、御村はちょっとぎょっとするが、海産物の山を囲んで喜んでいる山田家一同を見て、ははあという顔になった。
「これ、いるか?」
御村は竹で編んだ籠《かご》を持ち上げて言った。
「いるっ! こうなったら何でも貰うぞ」
「松茸だけど」
「……いる。焼いて食ってやる」
太郎は物凄《ものすご》い決意を込めて、握った拳《こぶし》をぷるぷる震わせながら言った。
御村はくすりと笑ってその頭をなでてやるのであった。
[#改ページ]
第四話 煩悩《ボンノー》の春休み
杉浦|圭一《けいいち》は悩んでいた。
なにに悩んでいたかというと、いうまでもなく、いつもの問題、すなわち山田太郎のことであった。
「うむむむむ、どうしたらいいんだ……」
春休みの一日、家業のスーパーの手伝いで魚の切り身のパック作業をさせられながら、杉浦はひたすら悩んでいた。
今回杉浦が恒常的ともいえる太郎に対する悩みの中でも今日はまたなにについて特に悩んでいたのか、説明しよう。
あれから一年、目まぐるしく日々は過ぎていった。この春、太郎は城南大学農学部にめでたく推薦で合格し、杉浦も一浪の果て不幸中の幸いというべきか、はたまた災い転じて福となすというべきか、同期の学生として同じく城南大学の同じ学部に合格したところであった。それに二人ともほぼ同時に車の免許を取得するという、まあめでたいことが重なっていた。
そこで。
杉浦はこれはチャンスとあることを思い付いたのだが。
「でもなー、いくら進学祝いだからっていきなり俺なんかがプレゼントするのも、唐突な感じだし……」
杉浦は鮭の切り身を二切れずつトレイに並べながら溜《た》め息をついた。
「せっかくだからなにかいい物選んであげたいんだけどなあ……あそこんち義妹《きようだい》多いから山田にだけっていうのもまずいかも知れないし……」
トレイにラップをかけ、秤《はかり》に載せて値段の記入されたシールを手際良く貼って行く。太郎がバイトに来るまではいやがってめったに店に出なかった杉浦だが、最近ではむしろ積極的に手伝うようになっていた。その理由はもちろん太郎に会いたい、太郎のそばにいたいからだ。杉浦は太郎に恋していたのである。
今だからこうして自分に正直に言えるが、杉浦と太郎の出会いはむしろ男と男の戦いで始まった。それは二年前のバレンタインデーのことだった。当時自分の美貌《びぼう》とステイタスに酔っていた杉浦が、バレンタインのチョコレートの数を張り合って、太郎を陥れようとつきまとっていたのを、クラスメートに恋愛感情の故と誤解されたのが始まりだった。その時はまだ自覚症状のなかった杉浦は、そういわれたことでかえって敵対心を増し、ついに太郎宛てのチョコレートを焼却炉に投じようという暴挙に出たのである。しかし。一年間の非常食料確保の使命に燃える太郎が間一髪チョコレートを救い、安堵《あんど》の余りついこぼした涙を見た杉浦は、なぜか胸のときめきを覚えてしまう。
そのときめきを否定し続ける杉浦。女の子にもてることを自分の存在価値の一つに感じていた自分が、なぜ男相手にそんな気持ちになったりするのか。杉浦は滝に打たれ足が外せなくなるまで瞑想《めいそう》しアライグマとも戦って修行して、人の道に外れた自らの煩悩を打ち消そうとした。しかし、杉浦は自分の本心、理屈では割り切れない本当の恋心を消すことは出来なかったのである。
自分ではそう思っていないが、感情の顔に出やすい杉浦の気持ちは、すぐに太郎以外の周囲の人々の知るところとなってしまう。自分の気持ちに正直に生きようと決意した杉浦だったが、その道は険しく困難な物だった。
まず太郎である。天真爛漫《てんしんらんまん》な太郎の愛は本来生きとし生けるものすべてに対して区別することなく与えられる性質のものだったのだが、現在の状況がそうもいってはいられないものだったのが杉浦の不幸だった。今の太郎にとって一番大切なのは家族と、家族を養うお金と食料、だったのだ。命もかかるこの状況に、太郎の関心がおなかも膨れない恋愛関係に向くはずもない。杉浦は常に食べ物に絡んだ形での太郎の愛を感じるだけで満足しなければならなかったのだ。
さらに、周囲の人間が杉浦に追い討ちをかけた。感情が顔に出やすい杉浦の気持ちはすぐに周囲の人間、ことにそれを知られたくない相手に限ってばれてしまうのである。幼い頃から一番いいところをさらってゆく杉浦の天敵、もとい妹のミカもその一人である。自分の魅力に自信のあるところは杉浦とよく似たミカは、太郎を奪い取ろうと画策し、杉浦をからかって面白がっている。また、御村の存在も杉浦に不安を募らせた。杉浦の目の前で太郎は御村に対して『愛してる』と言ったことすらあるのである。まあ、その時は御村が山田家に大量のお中元商品を譲ってくれたからだったのではあったが。
「なにげにあげるんだったらこの鮭一パックでも喜んでくれるってことはわかってるんだけどなあ……」
さすがに太郎のことを見つめて来ただけのことはある判断である。溜め息を重ねつつ杉浦はパック済みの切り身を番重《ばんじゆう》に並べ、専用のワゴンに積んだ。
その頃。
太郎は今日も杉浦家経営のスーパー・ニコニコマートに仕事をしにやってきた。
「あれ?」
従業員入り口のある店の裏へ回った太郎は、搬入車駐車場の向こうの路地の角に大きなセダンが曲がりかけたまま止まっているのに目を止めた。近付いて見ると、車はこの辺りでは見たこともないほどの大型の外国車だ。
「どうしましたか?」
太郎は運転席を覗《のぞ》き込んだ。左側のウィンドウが音もなく降りると、妖艶《ようえん》な、と表現するに相応《ふさわ》しい美貌《びぼう》の女性が困った顔を太郎に向けた。
「あら、あたくし、どうしたらいいかしら」
美女は、ふんわりとカールのかけられたつやつやと光る黒髪をゆらして軽く肩をすくめると、太郎に微笑みかけた。普通の人間、もとい男性だったらこれだけですっかり虜《とりこ》になってしまうところだが、そこは食べ物とお金以外には簡単に心を動かされない太郎、一向に動じる気配もなく、しかしにこやかに応じる。
「俺、誘導しましょうか?」
太郎は言いながら車の周囲を観察する。こういうところは誰にでも親切惜しみない母・綾子によく似ている太郎である。車は何度か切り返してみたらしく、ぎりぎりのところまで路地に入り込んでいるが、角度が悪くてこのままではまだ曲がり切れそうもない。
「そうしていただけるといいんだけど……」
美女はそう言うと、美しく整えられた眉《まゆ》をちょっとひそめた。
「上手《うま》く行くかどうか、あたくしもう自信がないわ」
「ママ、平気?」
見ると後部座席のチャイルド・シートから小さな女の子が身を乗り出している。まだ幼い小さな身体を精一杯伸ばして、艶《つや》やかな黒髪を長めのおかっぱに切りそろえた愛らしい女の子は、母親から太郎へ、少しグレイがかった瞳《ひとみ》を向け、ちょっと不安そうな顔になった。
「大丈夫だよ、俺、ママのお手伝いするからね」
太郎がそう言って優しく微笑むと、女の子ははにかんだような表情になった。太郎は車から少し離れると、状況を見ながら誘導を始める。
「ええと、一度右へ少し切って下がってください」
「右?」
美女ママは太郎の指示に従ってハンドルを切る。
「すこーしですよー、あっ、ストップ! はい、そこで今度は左に一杯に切って」
「左……」
美女ママはハンドルを切りかけて大きく息をついた。
「ああもう……ごめんなさいね、あたくしさっきからずうっとここでいろいろやってて、ちょっとなにがなんだか……」
悲しそうにハンドルを見つめる美女ママの横顔は、どこかはかなげで、でも芯《しん》が強そうな、そう母・綾子に少し似ている、と太郎はふと思う。
「あのー」
太郎はもう一度運転席のそばへ行くと、ハンドルに突っ伏しかけている美女ママに声をかけた。
「もしかまわなかったら、俺がやってみましょうか?」
「あら、ほんとに?」
美女ママはぱっと明るい顔になっていった。
「そうしていただけるとありがたいんだけど……いいのかしら」
「一応念を押しときますけど、俺で良ければ、です」
太郎はあわてて言った。手助けしたいと思ってつい言ってしまったものの、実のところ自信があった訳ではない。
「あら、どうして念を押したりするの?」
「そのー俺免許取り立てなもんですから」
「あらあら、そんなこと。気にしないで頂戴《ちようだい》」
美女ママは朗らかに言うと、さっさとシートベルトを外す。
「ほほほ、どうせこのままあたくしが動かしても、駄目な時は駄目なんだし。かまわなくてよ、車の一台くらいスクラップにしたって」
そんな大袈裟《おおげさ》な言い方をされるとかえって危機感が募る。おまけにその一言は太郎の貧乏根性を呼び覚ましてしまった。
「そんなもったいないこといっちゃだめです!」
「あら?」
「耐久消費財はちゃんと耐用年数使って、それにその年数だって実際にはもっと余裕が見てあるんですから倍は使えると思って大事にしなくちゃいけないんですよ。車なんてほんとに高いんだし」
「あらあら」
美女ママは唖然《あぜん》として太郎のいうのを聞いていたが、やがてぷっと小さく吹き出すと車のドアを開けた。すらりとした脚をそろえてくるりと車外に出し、滑らかな動作で外に降り立つ。
「はい、お願いするわ。もちろん、無事に回してくださいね」
「は、はい」
太郎はちょっと緊張して頷《うなず》くと、ぎくしゃくと運転席に身をいれた。
「うっ」
見れば見るほど高そうな車だった。太郎が運転の練習をした車も、いろいろあってなぜか高級車といわれるグレードの車だったが、そちらは中古だったしスポーツタイプだったから内装はそんなに凝ったものではなかった、のだ。この大型のセダンはそういう点で全然違っている。シートが革張りなのはあの車と同じだったが、その革自体がまず柔らかくて色も艶もしっとりとして美しい。内装全体がほんのりとしたベージュで統一され、ハンドル、この場合はステアリングというべきか、もシフトノブも同じ革で覆われている。ダッシュボードやドアの内張りはぴかぴかの木目で、どう見ても印刷物ではなく本物のオーク材かなにかのようだった。車の中にいるのに、大金持ちの応接室かどこかにいるような気がする、と太郎はパーツ一つ一つについている見えない値段シールに目がくらみそうになりながら思った。
しかし、なんのためにここに座ったのか。太郎は気を取り直してまずシートの位置を直す。電動シートは練習した車と同様だったのですぐに調整が出来る。それからシートベルトを締《し》め、バックミラーを直す。
「あれ?」
サイドミラーを調整しようとして電動スイッチのありかがわからず、太郎はちょっと戸惑った。
「おにいちゃん、そのミラーのスイッチはドアのところよ」
後ろの席から女の子が教えてくれる。
「ああ、ここか。ありがとう」
「どういたしまして」
女の子はおしゃまに言うとバックミラーの中でにこっと笑った。
「さてと」
エンジンはかかったままだったので、太郎はブレーキを踏み、ゆっくりとサイドブレーキを下ろした。ブレーキを踏んだまま太郎は前後左右の状況を確認すると、ごくごくそっとブレーキから脚を浮かせ始めた。オートマティック車なので、クリープ現象、アクセルを踏まなくてもそろそろと車が動きだす現象で日本語では『這《は》い出し現象』という、その度合いをまず確かめないと危険だからだ。このあたり、初心者とはいえ、太郎ほど慎重かつ安全に運転しようとするドライバーはいないだろう。なにしろすべてをお金に換算し、ひたすらリスクを避けたいという心理が強烈に発動しているのだから。
ゆっくりと車体は十数センチ前へ出、それからタイヤの向きを変えて今度は角すれすれにすうっと下がる。もう一度切り直してほんのちょっと前へ、そこで切り直して下がるともう車体は路地に真っ直ぐ入れるようになっていた。
「ふう……」
さすがに太郎もほっと息をつく。
「これでもう大丈夫ですよ」
サイドブレーキを引き、エンジンを切って車から降りた太郎に、美女ママは目を丸くして感心する。
「あらあら、まあ、凄《すご》いわ。まあまあどうもありがとう」
「おにいちゃんありがとう」
女の子もシートから尊敬のまなざしを向ける。
「助かったわ、お礼といっちゃなんだけど……」
美女ママは助手席に置いてあったバッグを取ると、その中からぽち袋を一つ出して太郎に差し出した。
「あ、いいです、俺そんなたいしたことしてないし」
いいながらも太郎の目はぽち袋に吸い付いて離れない。今にも中身を透視しそうな目付きに美女ママは気付いてか気付かないでか、にっこり笑って招き猫の柄のそれをさりげなく、しかし確実に太郎の手に滑り込ませた。
「ありがとう。取っといて頂戴ね。ほんとに助かったわ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
太郎はぱっと目を輝かせて頭を下げた。そんな太郎を美女ママは、にこにこしながら見た。その視線はしかし意外に鋭い光を放って太郎を上から下まで観察している。
「あなた、このへんに住んでるの?」
「いいえ、うちは隣町なんですけど、ここのお店でバイトしてるもんで」
「あらそうだったの。あたくし、先週この向こうに越して来たもんだから、道に慣れていなくて」
「ここはもう通らない方がいいかも知れませんね。この車には少し狭すぎますから」
「そうね」
美女ママはコケティッシュなしぐさで肩をすくめた。
「表の通りから一つ先の角を曲がれば、ほとんど違わない距離でもっと楽にお宅の方へ入れると思いますよ」
「わかったわ、ありがとうね」
頷くと美女ママはちょっと思案顔になった。
「あなた、運転|上手《うま》いわね」
「そうですか?」
「免許取りたてっていってたけど、ちっともそうは見えなくてよ」
「ほんとに取りたてなんです」
太郎は正直に言った。
「運転なんてセンスなんだから、取りたてだってなんだって上手い人は上手いし、下手な人はいつまで経っても下手なものよ」
「そんなもんかなあ」
「自分のやってることにちゃんと自覚と目標を持ってるか持っていないかってところが問題なんだとあたくしは思うんだけれどね」
「なるほど」
太郎は頷《うなず》いた。それをいえば、何事にも常に効率と経費削減とを考え続けている太郎などは、向上心の固まりといえよう。すなわち、美女ママのいう自覚の常にある人ということになる。
「あなた、ここのお仕事に満足していて?」
美女ママは太郎をふっさりと長くカールした睫《まつげ》の下から見上げていった。
「え? そりゃあもう、野菜とかいろいろ貰《もら》えるし良くしてもらってますから」
太郎は朗らかに答えた。
「そう。それはよかったわね」
美女ママは優しく微笑んだ。
「単刀直入にいって、もし不満があるんだったらお仕事お願いしようかと思ったんだけど、それじゃあ頼めないわね」
「えっ? 仕事?」
太郎ははっと美女ママを見返した。
「仕事、あるんですか?」
「お願いしたいことはあるんだけど?」
美女ママは首を傾《かし》げて見せる。
「あっ、あのー、もし出来ればやりたいんですけど、ただ、ここの仕事が終わった後か、ここが休みの日にしか……」
「義理堅いのね、そこがまたいいわ。ここの上がりは何時になるのかしら?」
「閉店が八時で終《しま》いの作業が三十分位です」
「あら、それなら大丈夫。その後で十分間に合うわよ」
「ほんとですか! ええと、じゃあ……」
ぱっと目を輝かせて、それから言いかける太郎を美女ママはやんわりと手で制した。
「ギャラは日当でお出しするけど、こんな物でよくて?」
美女ママは片手を開いて見せ、太郎は涎《よだれ》を垂らしそうな顔でうんうんと頷いた。
「ぜひ!」
「でも……あなたそんなに働いて大丈夫かしら?」
「大丈夫です! 今春休みだから今のうちに稼げるだけ稼いどかないと、やっぱり新学期は物入りだし。もし、仕事させて貰えるんだったらお願いしたいんですけど」
「あらまあ、そうなの? それじゃ、住所はここだからお店が終わったら来て頂戴《ちようだい》。基本的に車を回してくれればいいだけだから。どうぞよろしくね」
「はいっ!」
美女ママから住所のメモを受けとった太郎は、発進する車の後ろの窓から振り返る女の子に手を振った。
「ばいばい」
「あれ、山田?」
裏口から空のトロ箱を抱えて出て来た杉浦は、振り返った太郎が余りにも嬉《うれ》しそうに笑みこぼれているのを見て、またも胸の奥がきゅんと痛む。
「あ、杉浦先輩、遅くなってすいません」
「遅れてなんかいないよ。ど、どうしたんだ? なんか凄《すご》く嬉しそうだけど」
杉浦は胸の鼓動を気取《けど》られまいとしながら、何気なく尋ねた。
「そうですか? 実はねー、今新しい仕事が決まったもんですから」
「新しい仕事?」
「はい。よかったあ、休み中は頑張っとかなくちゃなんないですからねー」
「あっちょっと待てよ、仕事だったらもっとうちで……」
太郎の姿はすでに建物の中である。杉浦は慌ててトロ箱を置いて後を追いながら、あたりを素早く見回した。駐車場に車はなく、人影も見えない。
「??? 仕事って……?」
「それじゃ失礼しまーす」
閉店業務を終えるとすぐに店を出た太郎は、教えられた住所へと急いだ。
「えーと、三丁目二十二……あっここだ」
その家を探し当てると太郎は呼び鈴を押す。
「はーい、どなたですか?」
昼間の女の子の声が答える。
「えーと、あのー、今日お仕事いただいた者ですけど」
「あっ、あのおにいちゃん?」
女の子の声はぱっと明るくなった。
「今ママにいいますから、ロック外すから入ってください」
かちゃりと音がして、太郎は重い木製のドアをそっと押し開けた。
「まあ、良く来てくれたわね」
昼間の姿とは打って変わって、和服に身を包んだ美女ママが太郎を出迎える。長いウェーブヘアはふわっとアップにまとめられ、真っ白なうなじが色っぽい。
「じゃあ早速だけど時間だからお願いするわね。万凜《まりん》、いい子にしててね。九時になったらお休みなさいね」
「はーい」
頷く万凜の頭を優しくなでると、美女ママは太郎の先に立ってバッグとおそろいの草履を履き、外へ出た。
「出勤はこちらを使いますからね」
建物の半地下の駐車場に並んでいる二台のうち、昼間見たのとは違う方、ドイツ製の中型セダンを指すと、美女ママは太郎にキーを渡した。よく見るとその二台の奥にもう二台車があるのが見えた。
「これは預けておくから、今度から来たらもう出しといて頂戴」
「俺、毎日は来られないかもしれませんから」
「いいのよ、スペアがあるし、あたくし面倒なのは苦手なの。あなたなら任せられそうだし……あらあら、お名前まだ聞いてなかったわね?」
「山田太郎です。どうぞよろしくお願いします」
「あたくしは狭山《さやま》。狭山|馬里子《まりこ》よ。ママって呼んでくれればいいわ」
「はい」
車を道路に出してから、太郎は一旦《いつたん》降りてドアを開けた。美女ママはするりと後ろのシートに乗り込む。
「すまないわね、乗り降りの時はこれからもそうして欲しいんだけど」
「わかりました」
美女ママはちょっと溜《た》め息をついた。
「銀座の方へ向かって頂戴。いえね、あたくしほんとはそういうのが好きなわけじゃないのよ」
美女ママはルームミラー越しに太郎を見て続けた。
「言い訳がましく聞こえたら悪いんだけど、やっぱりこの世界やっとかないと恰好《かつこう》がつかないってことがあるもんですからね。他とのバランスってのも考えなきゃいけないし」
「あのう」
太郎は慎重に車を大通りに出しながら尋ねた。
「聞いてもいいですか?」
「なにかしら?」
「お仕事ってなんなんですか?」
「ほほほほ」
美女ママは朗らかに声をあげて笑った。
「ごめんなさいね、言うのすっかり忘れてたわね。あたくし、銀座でクラブの経営してるのよ」
「はあ」
太郎は曖昧《あいまい》な頷きで答えた。クラブといわれても、太郎には高級なお酒を飲むところ、位の認識しかない。
「そんなもんだから気にしないで頂戴《ちようだい》。山田くんは行き帰りの運転さえしてくれればいいんだから。あと、時々女の子たちを送ってってもらうことになると思うけど、その時は別に手当てを出しますからね」
「ほんとですか」
太郎はぱっと目を輝かせて言った。
「ありがとうございます、俺、すっごく助かります」
太郎の嬉しそうな顔を美女ママは微笑ましげに見守った。
こうして太郎の夜の仕事はスタートした。毎日ニコニコマートが閉店すると、太郎は美女ママのうちへ赴き、車を運転して銀座に向かう。太郎としてはこの仕事を誰に隠すつもりもなかったのだが、かといって話す理由も見当たらなかったので、杉浦たちはその事を知らないままであった。
しかし、美女ママのうちがご近所なことが災いしたか、ある夜銀座に向かった太郎の運転する車は、杉浦に見られてしまったのである。
「山田くーん、お客さんよ」
「はい?」
今日もニコニコマートで品出しをしていた太郎のもとへ、御村託也がやってきた。春休みになってから太郎はもっぱらバイトの毎日なので、普段学校で会う御村とはあまり会えなくなっていた。とはいえ、御村も同じ大学に行くことが決まっていたので、この先二人の関係はたいして違いはしないのであるが。
「あれ、どうしたんだ? 御村」
「いや、近くまで来たもんだから」
「ふうんそうか。今|美味《おい》しい一口|餃子《ぎようざ》の試食販売してるけど、食ってくか?」
「いや……」
いいながら御村は棚の陰から目から炎を吹き出させて見つめている杉浦を視界の端に捕らえた。杉浦が太郎に好意を抱いていて、御村に対抗心を持っていることは御村には自明の理である。御村はいつもの悪い癖でこの展開をもっと面白くしてしまおうと思いつく。
「……そうだな、ちょっと味見させてもらおうかな」
御村はさりげなく太郎の肩に手をかけて言った。
「うん、じゃあこっちだぜ。旨《うま》いんだ、これが」
嬉しそうに御村を伴ってゆく太郎の後ろ姿を杉浦は食い入るようなまなざしで見つめた。
「や、や〜ま〜だ〜」
杉浦は涙ながらに後を追った。御村と並んで一口餃子を試食している太郎を見ながら杉浦は苦悩の表情を浮かべる。
「山田……なんでそんな俺を傷つけるようなことばっかし……」
杉浦は恨みがましくエプロンを噛《か》んでつぶやいた。
「俺は見たぞ〜こないだの夜中に、和服の凄《すご》い美人と一緒にドライブしてたのは、じゃあ一体なんなんだ? 誰なんだ? その上、そんな姿を俺に見せつけるなんて……」
「杉浦さん?」
「わあっ!」
いきなり後ろから声をかけられて杉浦は飛び上がった。いつの間にか太郎と御村に後ろを取られていたのである。
「どうしたんですか? 杉浦さんも一口餃子食べました? 御村も旨いってお墨付きですよ?」
「あ、ああ、食べる食べるようん。絶対旨いよな、山田がいうんだからさ」
うろたえつつ早口になる杉浦を、御村は当たり障りのない笑顔で見つめる。
「あっそうだ、山田って食べ物の好き嫌いはないんだったよな?」
「はい、そんなこといったら食べ物の神様に申し訳ないですからね。それにおれ、何食ってもそれなりの味わいがあるって思うし」
「そ、そうだよな。じゃ、じゃあさ、他に好きなものとか欲しいものとかってあるのかなあ?」
杉浦は勢いで口走った。
「好きなものは……」
太郎はちょっと考えた。
「何でも好きだけどなあ……食べ物以外だとやっぱり実用品が一番かなあ。欲しいものっていうのも、一番は食べ物だし、そりゃお金は欲しいし……」
「食べ物がいちばんお金がにばん……」
杉浦はがっくりと肩を落としてつぶやいた。
「俺が山田にあげたいのはそういうもんじゃなくて……」
「それ以外だと仕事|貰《もら》うっていうのが一番ありがたいかなー、だから杉浦さんには感謝してますよ?」
「や、山田……」
そう言われれば嬉《うれ》しくないはずもない杉浦である。
そんなやりとりを見守っていた御村が、一人心の中で頷《うなず》いていたことなど、杉浦は知る由もない。御村は太郎の一挙手一投足に一喜一憂している杉浦を眺めながら何ごとか考えていたが、やがてそれまでにも増してにこやかな笑みを浮かべると、さり気なく太郎に身を寄せた。
「山田」
「うん?」
御村はぴたりと身体を太郎に密着させ、顔を寄せると耳元に唇を寄せてささやいた。
「さっきの一口餃子さ、うちの分買ったんだけど今夜はみんな出かけてたこと思い出した。全部おまえにやるよ」
「ほんとか!?」
嬉しそうに振り返りかける太郎の唇と御村の唇がコンマ数ミリの距離でニアミスする。
「……!!!!」
杉浦は瞬間脳が沸騰しそうになる。
「俺の山田になにをする!」
と言いたいところだが、杉浦の口はそれを言葉には出せず、埴輪《はにわ》のようになって固まることしか出来ない。
「じゃあ、帰りに持ってってくれ」
「うん。あっ俺今日もこの後仕事入ってるからなあ」
太郎は困った顔になった。その顔がまた杉浦の胸を締めつける。
「仕事?」
尋ねる御村に太郎が何か説明しているが、もうその声は杉浦の耳には届かない。杉浦は別の世界に遠くかすんだ太郎の姿だけを視界においたまま、呆然《ぼうぜん》と固まり続けた。
「それじゃ、これから帰りに届けといてやるから」
「そうか? 悪いな」
「別に、通り道だからな」
「じゃあ頼む。俺遅くなるからさ、餃子ならよし子が上手に焼けるから」
「ふうん、じゃあご馳走《ちそう》になっていこうかな」
「えっ?」
不安そうになる太郎を今度は御村は頭をなでてなだめ、ついでに腕を首にくるっと回した。
「自分の分は買い足して行くから」
「そっかー、それなら大丈夫だなー」
ほっとして御村に笑顔を向けた太郎の顔が、またしても御村と接近し、今度は頬と頬がくっつきあう。
「あうう……」
杉浦は固まったまま苦悩に悶《もだ》えた。御村に対する嫉妬《しつと》がむらむらと湧き、そしてそれは何もできない自分、自分がそんなことをしたら太郎に嫌われてしまうかもしれない、その不安で何もできないふがいない自分に対する怒りに置き変わる。
「じゃあな、山田。きれいなお姉さんによろしく」
「うん、またなー」
御村は笑顔で手を振ると、杉浦にも会釈して去っていった。杉浦は御村の最後の言葉に、また血が逆流していって、顔が青くなる。
「き、きれいなお姉さんって?」
ぜいぜい息を切らしながら、杉浦は太郎に尋ねる。
「え? ああ、夜のバイト先の人たちなんですけどね」
「夜のバイト?」
夜のバイトといえば、かつて一度ひょんなことから杉浦は太郎と一緒にコスプレパブで働く羽目になったことがあるのだ。それは杉浦にとって仕事の内容はともかく、たったひとつの太郎と秘密を共有した大切な思い出でもあった。その経験から、杉浦はそのような店で太郎が客にどんなにもてるか、どんな貞操の危機が襲うかをよく知っているつもりだった。あの時は自分が一緒にいたからよかったが、今度は自分の目の届かないところで太郎にそんな危険が迫っているのを知らなかったとは。杉浦は危機感にさらに全身の毛細血管から血が引いて行くのを感じた。
「や、山田、その仕事って大丈夫なのか?」
「? 大丈夫ですよ!」
「山田くーん、こっち手伝ってくれるかしら」
「はーい」
「ちょ、ちょっと山田……」
質問の答えは尻切《しりきれ》蜻蛉《とんぼ》のままになり、杉浦は欲求不満のまま取り残された。
杉浦の胃がきりきりと痛んだ。
春休みの日は過ぎて行き、太郎は昼間と夜とのバイトを順調にこなしていた。なぜか毎日のように御村が店に現われては、太郎にべたべたして杉浦の神経を逆撫《さかな》でする。
「な〜ぜ〜だ〜」
「圭ちゃん、この頃なんかこわーい」
ミカにまでそんなことを言われる杉浦である。せっかく毎日太郎に会えるというのに、これでは千年の恋も覚めてしまう。もともと恋しているのは杉浦の方だけだが。
おまけに杉浦にはもう一つ心にひっかかっている疑問があった。他でもない、先日見た高級車を運転する太郎、あんど和服の美人、である。せめてそちらの謎だけでも解明しないと身が持たない、と杉浦は思った。
そして。
作戦はその夜決行された。
ニコニコマートでの仕事を終えた太郎を、杉浦はこっそり車で尾行することにしたのである。車は父親のミニを借りるつもりだったが、免許を取って以来いまいち信用のない杉浦に父が貸すのを渋ったため、やむなく店で配達に使っている白い軽バンを使うこととなった。
「お疲れさまでしたー」
「お疲れさま」
太郎は足取りも軽く裏口から出て行く。最近御村が来て帰りに山田家によってくれるので、以前はよく手にしていた試食販売の残りや半端物などのお土産は太郎は持っていない。
「よーし……」
少し早く店を出て、駐車場の車の中で待ち構えていた杉浦は、太郎が角を曲がるのを見てから、エンジンをかけた。なるべく静かに発進させる。さいわいにも、オートマだったのでさして苦労もなく杉浦は太郎の後ろからそろそろとついて行く。
「?」
店を出てから五分と行かないうちに、太郎は一軒の立派な構えの家の駐車場のシャッターを開ける。その中から中型のドイツ車をだすと、太郎はその家のインターフォンを押した。
「???」
鼻が短い軽バンの利点を生かして、角から見守っていると、やがて中から見覚えのある美人が出て来る。
「あっ」
太郎がドアを開け美人が乗り込む。それから太郎は車を発進させたので、杉浦もあわててその後を追った。
ドイツ車は大通りに出ると真っ直ぐに都心に向かった。混雑する時間をもう外れていて、しかも逆方向なので道は空いている。
「こんなところ、走ったことないからなあ、夜で空いててよかったあ」
実のところ杉浦が一人でドライブするのはこれが初めてであった。しかし杉浦は走るうち、運転なんて意外に簡単だと思い始めた。
「なーんだ、どうってことないじゃん。だいいち俺、ちゃんと免許持ってるんだし。ふふふん、ふん……」
鼻歌まで出てしまう。
しかし、最後の最後で杉浦は運転を甘く見ていたと反省するはめになる。太郎と美人の車を追うのはそれほど難しいことではなかった。そして太郎たちの車は、どう見ても銀座、に入っていった。
「うわ」
杉浦とて銀座という街を知らないわけではない。しかし、杉浦の知っているそれは昼間のそれもほんのわずかの範囲のことで、夜の銀座が昼間とは全く異なっていることをこの夜杉浦は知って驚愕《きようがく》した。
「ど、どうしよう……」
銀座の裏通りに入っていった太郎の車の後に続いたのはいいが、そこは車で埋め尽くされた場所だった。道路というよりは駐車場といったほうがいいくらい、一方通行の両側にびっしりと車が駐停車している。その間を縫ってのろのろと流れて行く車の間を、綺麗《きれい》なお姉さんや、ごついスーツの男たちがいったり来たりしている。よほど気をつけないとなにかにぶつかってしまいそうだ。
「ひえー」
杉浦は悲鳴をあげながら、必死にハンドル、アクセル、ブレーキを操作した。オートマでなかったら、とっくにエンストしているところである。
「あっ」
杉浦が気付いた時にはもう遅く、軽バンは太郎の車の脇を通り過ぎかかっていた。はっとして思わずブレーキを踏む。
「わっ」
がつん、と衝撃があって何かが後ろからぶつかり、杉浦の頭の中は真っ白になった。
「おう、にーちゃん」
こんこんと窓を叩《たた》かれて杉浦ははっと我に返った。
「にーちゃんよ、この始末どうつけてくれんねん」
プロレスラーかと見まごうばかりに縦横どちらにもでっかくてがっしりした、その上顔を見ると傷だらけの不気味なご面相の男が杉浦を覗《のぞ》きこんですごんだ。
「あ、あのー」
「うちの車ごっつ傷ついてんねん。落とし前つけてもらわんとあかんで」
「で、でも、追突は大体の場合後ろの車が悪いっていいますけど……」
後の方は消え入りそうになりながら、それでも杉浦は一生懸命勇気を奮い起こして言った。
「あん?」
男はでっかい声で言うと、ずいと顔を杉浦に近付けた。
「なんかゆーたか? んで、どうしてくれるちゅうて?」
「け、警察を……」
「あーんっ?」
「ひえ〜」
その時である。
「ちょっと待ってください」
「あん? なんやタロちゃんやないか、どないしてん」
一瞬前とはうって変わった優しい態度で男は声の方を振り返った。
「その車なんですけど」
「なんや、タロちゃんの知り合いかいな」
男はあきれたように言うと、杉浦を振り返った。
「こら、おんし、タロちゃんの知り合いちゅうてほんこか? 嘘ついたら針千本飲ましたるで」
男は言った通りに絶対実行しそうな口調で尋ねる。
「や、山田……」
「ね? すいません、その人学校の先輩なんですよ。丸太さんの車|凄《すご》く壊れちゃいましたか?」
男は太郎に向かってにこっと笑うと、がりがりと坊主刈りの頭をかいた。
「タロちゃんの知り合いじゃあしょうがねえさ。大丈夫、こんなちんけな安車に当たったくらいで、天下のべんべーがへっこんだりするもんかい」
「そうですか、ああよかった」
太郎は本当にほっとした顔で笑顔になった。
「こんな高い車壊しちゃったら大変だもんなー」
「タロちゃん、普通は車って保険かかっとるけんなあ、それつかやあたいしたこたないんで」
「そうですかあ? でも丸太さんにかかったらそれだけじゃすみそうもないしなー」
「そんなにいうなやー、タロちゃん」
丸太は照れたように言いながら、杉浦に向かって手を振った。
「にーちゃん、もうえーからとっとといきな。そんなしろとさんがこんなとこうろうろしとったらあかんで」
「は、はい」
「杉浦さん」
太郎が杉浦の元へやってきて言う。
「帰れますか? この地域から出ちゃえば道は空いてますから、大丈夫だと思いますけど」
「山田、ここで一体何してるんだ?」
杉浦は震える手でキーを探りながらささやいた。
「俺ですか? バイトです」
太郎はにっこり笑って言うと、杉浦から離れ、後ろにできた車の列に向かってぺこりと頭を下げた。
「すいませーん、すぐでますからー」
「どうしたー、タロちゃん」
「なんかあったらわしに言え」
「大丈夫ですー。杉浦さん、じゃあ気をつけて」
「う、うん」
杉浦は今度こそことを起こすまいと慎重に軽バンを発進させた。
「こんばんは、お迎えにあがりました」
「はーい、ママ、山田のおにいちゃん来たよー」
「はぁい」
「ねえ、今日は山田のおにいちゃん、おうちにいてもらっちゃあ駄目?」
万凜は甘えた声で支度をして玄関に出て来た美女ママを見上げた。
「あらあら、じゃあママはどうやってお仕事に行くのかしら?」
「ママ自分で運転してけばいいじゃない」
「残念だけど」
美女ママは優しく、しかしきっぱりと万凜に向かって言った。
「今日のママ、見てごらんなさい。お着物でしょ? お着物で運転しちゃいけませんって、前にお巡りさんに叱られたの、覚えてるでしょ?」
「うん……」
万凜はがっかりしたようにうなだれた。
「今日は駄目だけど、明後日《あさつて》はじゃあママお洋服の日だから、山田くんには万凜といてもらおうかしら」
「ほんと? ママ」
「いいかしらね、山田くん?」
美女ママは太郎を振り返った。
「俺は構いませんよ」
「わあ、じゃあ明後日、約束ね!」
愛くるしい表情で言って、万凜が小さな小指を差し出したのへ、太郎も同じ指を絡めて約束する。
「じゃあママ、いってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
ドアを閉めると美女ママを乗せて太郎は車を発進させた。
「すまないわね、いろいろ頼んじゃって」
「いいえ、俺はどんな仕事でも出来ることならやりますから」
「山田くんってほんとにいい子ねえ」
美女ママは感に耐えないというように目を細めた。
「他のお店の人からもどこで見つけたんだって聞かれるし、女の子たちの評判もいいし」
美女ママは微笑みながら言った。
「このままあたくしんとこの専属で働いてもらいたいっていうのが本音なんだけど。万凜もあなたのこととても気に入ってるし……」
太郎は一瞬|躊躇《ちゆうちよ》する表情を浮かべた。
「でもね」
美女ママは続けて言った。
「あなたならあたくしたちの世界にいつ来てもやっていけると思うわ。ということは、まだ大学にいったりいろいろ可能性を探れるうちはこなくてもいい、こない方がいいってことなのよ」
「そうなんですか」
太郎はちらっとルームミラーで美女ママを見てから、ちょっぴり残念そうに言った。
「そりゃあ、山田くんがどうしてもやりたいっていうんなら、あたくしとしては大歓迎するところだけど?」
美女ママは悪戯《いたずら》っぽく笑いながらミラーの中を見返した。
「えーと、そういわれると、うーん……」
世の中にはやったことのない仕事が沢山あるし、と太郎は考えて口ごもった。
「でしょ」
美女ママはくすくす笑った。
「その年でもうやりたいことだのやれることだの全部見えてたら、人生もう終わったみたいなもんじゃないの」
「そういうもんですか?」
「そうよ」
少し真面目な顔になって美女ママは頷《うなず》いた。
「山田くんくらいの年のうちでなきゃできないことっていうのがうんとあるのよ。それをやっとかないと絶対後悔することになるわ。その上であたくしの業界でやりたいことができたっていうんなら、今度は間違いなくあたくしのところへいらっしゃい。他へいっちゃ駄目よ」
「はい」
「ただ……」
美女ママは少し逡巡《しゆんじゆん》してから言った。
「……これはあたくしのわがままなんだけど……」
「なんですか?」
「万凜のところには時々来てくれないかしら? もちろん日当は払うわよ」
最後のところはあわてて付け加えた美女ママに、太郎はにっこり笑って頷いた。
「伺わせていただきます。ありがたいです。俺も万凜ちゃんには会いたいし」
「よかったわ、そういってもらえて」
「はい、到着しました」
言うと太郎は車を降りて美女ママにドアを開けた。
春休み最後の日、いつものように太郎はニコニコマートへ出勤していた。
「いらっしゃいませー!」
元気な声が店内に響く。
「おはよう山田くん、今日は何が安いの?」
「はいっ、今日の特売はホウレン草とジャガ芋、挽《ひ》き肉もお安くなってますよ。野菜は産地直送で鮮度抜群ですからどれもおいしいですよ」
「あーら、それじゃいただこうかしら。献立はどんなのがいいと思う?」
「そうですねー、特売品全部組み合わせだったら、挽き肉のカレーなんていいんじゃないでしょうか?」
「ふーん、挽き肉のカレーねえ」
「ホウレン草を刻んでいれるとヘルシーですよ。茎と根っこも無駄なく食べられるし」
「なーるほどーっ、さすがは山田くんねーっ」
「ねえねえ、料理番組でエシャロットっていってたんだけど、どれかしら?」
「エシャロットですか? こっちです」
太郎目当てにやってくる老若男女のお客のみなさまを相手に大奮闘するのも太郎の大切な仕事の一つである。もともと主婦感覚あふれる太郎にとって、これはまさに天職といってもいい仕事だった。
「山田くん、そろそろお昼にしたら?」
杉浦の母が声をかけた。
「そんなに全力ださなくていいのよ。今日は売り出し初日だからお客さんちょっと焦ってるけど、働いてるあたしたちまであわてなくていいんだから」
「ええ、でも探してるお客さんほっとけないですから。時間もただじゃないですし」
「そうねー。山田くんのその言葉、うちの圭一に聞かせてやりたいわ。あの子がそのくらいの考え方しててくれれば、あたしたちももうちょっとは安心していられるのに」
杉浦の母は溜《た》め息をついた。
「そういえばあの子ったらどこいったのかしら、この忙しいのに」
その日杉浦の姿はまだ見えなかった。あの夜の翌日、杉浦は太郎に言葉少なに礼をいい、そのあとあまり太郎とは口をきかなくなっていたのであった。
太郎は、杉浦の母に手渡された巻ずしのパックを持って裏口から外へ出た。
搬入車駐車場には一台だけ車が残っていたが、後は広々としている。太郎は周りに植えられた桜の木の下へ腰を下ろした。桜の花は三分咲きといったところか、見上げれば花びらの間から薄青い春の空が垣間見《かいまみ》える。
「あっ、いけない、お茶……」
食べ始めようとしてから、あわてて立ち上がろうとした太郎の目の前に、すうっと缶のお茶が差し出された。
「あ、杉浦さん!」
嬉《うれ》しそうな顔で見上げた太郎を、杉浦は少し照れくさそうな顔で見下ろした。
「これ……?」
缶と杉浦の顔を見比べる太郎の手に、杉浦はぶっきらぼうにお茶の缶を押しつける。
「貰《もら》っちゃって……わっ、あちちち……」
受けとろうとした太郎は、悲鳴を上げて缶をお手玉した。
「あっ、熱かったか? ごっ、ごめん」
杉浦はあわてて言った。
「怪我してないか? 火傷《やけど》した?」
「大丈夫ですよ、そんなおおげさなことないですから」
太郎は缶を着ていたTシャツの裾《すそ》でつかんで傍《かたわ》らの地面に畳んであったエプロンの上に置いて言った。
「山田……」
杉浦はTシャツをちょっとまくった恰好《かつこう》の太郎に鼻血が出かかるのを必死にこらえる。
「杉浦さんもお昼ご飯ですか? 一緒に食べませんか」
「う、うん」
杉浦は太郎の隣に腰を下ろした。
太郎は早速自分のパックを開くと、さらに嬉しそうに割り箸《ばし》を割り、ささくれを取ってから太巻を一切れ取り上げた。
「杉浦さんちのお惣菜《そうざい》っておいしいですよね」
「そ、そうかなあ?」
「うん、ご飯がガス釜《がま》っていうのがまず勝因だと思いますよ」
太郎はぱくりと太巻を口にいれると幸せそうにもぐもぐやった。杉浦はその横顔に見とれてしまう。柔らかい春の陽射しは強い影を作らず、辺りは一面ほんのりとした暖かい色に見えている。太郎の髪も、太郎の肌も透き通るようなどこかはかなげな印象に今はなっていた。
「それじゃ遠慮なくいただきます」
幾切れかの巻ずしを気持ちよくぱくぱくと食べた太郎は、そう言ってからさっき杉浦に渡されたお茶の缶を開けて慎重に一口すすった。
「あーおいしい。やっぱり日本人はお茶ですよねー」
「そ、そうだな」
杉浦はただ見とれるのみである。
あっという間に綺麗《きれい》に巻ずしを食べ終えた太郎は、残りのお茶を味わうようにゆっくりと飲みながら、頭上の枝を見上げた。
と。一陣の風が辺りをさあっと払い、桜の枝を揺すって花びらを舞わせた。それはくるくると踊ってから下にいた太郎と杉浦に降りかかる。
太郎は目鼻に降りかかった花びらを、くしゃんと一つやった後、ぷるぷる首を振って振り払った。そのしぐさにも杉浦の目は引き寄せられて離れない。
「いい天気ですね、杉浦さん」
「あ、そ、そうだね」
杉浦は我に返って答えた。
「明日の入学式も天気がいいといいですね」
「そうだなー、予報だとこのままいいみたいだよ」
「じゃあよかった」
太郎はほっとしたように言った。
「うち、傘人数分ないですからねー、もうみんな学校だから、雨になると下校の時にも待ち合わせなきゃなんないし。まあ、誰かが送ってくれることも多いみたいだけど」
「そうか……」
杉浦はしばらくの間ぼうっとして太郎の顔を見つめていた。
「そろそろ戻らないと。杉浦さんも午後からですか?」
「あっ、そ、そうなんだけどさ」
杉浦は慌てて言った。
「ちょっと待ってくれ、山田」
「?」
きょとんとする太郎を照れを押さえようとするあまり不機嫌にも見える表情になりながら、杉浦は見つめた。
「杉浦さん?」
ちょっとおびえたように太郎が恐る恐る声をかける。杉浦は急いでにこやかな笑みを浮かべようとし、頬を引きつらせた。
「い、いや、別にたいしたことじゃないんだけどさ」
「?」
「実は、俺、山田に進学祝い……」
「すみませんっ!」
いきなり太郎が両手を合わせるや杉浦に向かってぺこっと頭を下げた。
「杉浦さんにはお礼しなくちゃってずっと思ってはいたんですけど……今年はホワイトデーもパスできちゃったからなんの用意もしてなくって」
例年太郎のバレンタインデーのお返しといえば、喫茶店の砂糖壺《さとうつぼ》から貰って来たざらめで作ったカルメ焼きなのである。三年になった今年の春は、ホワイトデーにはもう学校に行かないのでお返しの必要もなかったというわけだ。
「いいんだよ、山田がそんなこと。その気持ちだけでも俺、嬉しいからさ」
杉浦は一生懸命言った。
「そうですか?」
すがるような視線で見上げる太郎を、杉浦は可愛さのあまり抱き締めたくなってしまう。
「うんうん」
「そうですかーよかったあ」
太郎は本当にほっとしたように表情を和らげた。
「ええと、それで、なんだっけ? あっ、そうじゃなくて」
杉浦はあわてて続けた。こんどこそ言わねば。それに、何となればこの間助けてくれたお礼だといえば、太郎も受けとってくれるに違いない。
「俺が山田に進学祝いをあげたいっていいたくてさ」
「えっ!? 杉浦さんが俺に?」
太郎は驚いたように目を丸くして言った。
「うん。よかったら受けとってほしいんだけど」
「よかったらだなんて、俺、杉浦さんがくれるっていうんなら、何でも貰いますよ。凄《すご》く嬉しいです」
「そうかあ、喜んでもらえるかあ、やっ山田、俺もすっごく嬉しい。山田が喜んでくれるなんて、夢みたいだ……」
杉浦はうるうると嬉し泣きになる。
「よかった、生きて来て本当によかった……」
「あのー」
太郎は感激に浸っている杉浦に遠慮がちに声をかけた。
「それで……俺に何をくれるんですかあ?」
「ううう……」
感涙にむせんでいた杉浦は太郎のお預けを食らった子犬のような顔にはっと我に返る。
「あっ、ああ、ごめん、俺つい。そうだよな、あげるもんあげないで喜んでもらうったって……」
杉浦はポケットからリボンをかけた包みを取り出して太郎に差し出した。
「……その、進学おめでとう」
「ありがとうございます!」
太郎は大喜びで包みを受けとると、まずくんくん嗅《か》いだ。
「なんだろうなー? うーん、この匂いは牛かなー馬かなー」
「すっ、鋭い!」
太郎の嗅覚《きゆうかく》の鋭さに杉浦は恐怖、しかけた。
「でも、この匂いは食べられないかも……」
太郎はちょっと悲しそうな顔をした。
「開けていいですか? 杉浦さん」
「もちろん」
太郎は包みを開け、そして歓声を上げた。
「こっこれは! 財布ですね杉浦さん」
「う、うん。いろいろ考えたんだけど、こんなものしか思い付かなくて。あっでもそれ、開運財産財布っていって、お金がもうかる風水刻印入りで、色もお金のたまる黄色ってことで」
「えーっ、そうなんですか? いいなあ、御利益あると。それに財布、あるといいなあってずっと思ってたんですよ。でも中身を調達する方で精一杯で、なかなか財布なんて買えなくって」
太郎は嬉《うれ》しそうに言った。
「これで次郎たちにお使いにいってもらうときも小銭を落とさないよう念を押さなくても大丈夫になります。杉浦さん、さすがはおれんちのこと良く知ってるなー。ありがとうございます!」
杉浦は呆然《ぼうぜん》として太郎を見つめた。その目に涙が盛り上がり、太郎の姿がぼやける。
「そ、そんなに喜んでくれるなんて思わなかった……俺も嬉しいよ、山田……」
「山田?」
聞き慣れた声が杉浦の思いを破った。
「あ、御村、昨日はサンキュ」
「ちょっとは役に立ちそうか?」
桜の花陰に入って立っている御村の黒髪にひとひら花びらが重さもなくとまる。
「うん、俺はまだからっきしだけど、学校でやってるからって次郎たちが一生懸命なんかやってる」
「?」
杉浦は御村が太郎に何かあげたらしいことは察したものの、何のことかと首を傾《かし》げた。
「あ、今、杉浦さんからも進学祝い貰《もら》ったんだ。これ、いいだろ、開運財産財布」
御村は黄色い財布を見ると、穏やかに微笑んだ。
「よかったな、山田。いいもの貰って」
「うん! 御村にもパソコン貰っちゃったし、昨日はママさんからもお祝い貰ったんだ」
「ほう、ママさんから? 何貰ったんだ?」
「そうそう、御村に聞こうと思ってたんだけど、ママさんがこれならいざという時絶対役に立つからって」
太郎はジーパンのポケットから無造作に鈍い光沢を放つ時計を引っ張り出した。
「なんだ、ロレックスじゃないか」
「ろ、ろれっくす?」
杉浦はぎょっとして太郎の掌《てのひら》に載っているものを見直した。確かに、文字盤にはROLEXの文字が入っている。
「これからは何かと時計も必要になるだろうし、でもケースなんかに入ってるとおれが普段から使う気にはなれないだろうからって、これくれたんだ」
「ロ、ロレックス……」
「? ロレックスってなに?」
太郎は御村を見上げて無邪気に言った。
「一応時計の中では一流品といわれてるメーカーのものだ。ついでにいっとくと値段はおまえが聞かないほうがいいかもしれない」
「それって……高いってことか?」
「安くはないな」
御村はそう言って太郎の時計を見た。
「しかしそれは……」
「うん。俺が気をつかうといけないからって新品はやめておくっていってた。昔ママさんの知り合いが飲み代のかたにおいてった奴だって」
「ふうん、さすがだな」
御村は感心した表情で言った。
「せっかくだからこれから使おうかと思ってはいるんだけど……」
太郎は時計を持ち上げて眺めながら続ける。
「なんかしなれないからさあ、仕事中にしてると濡《ぬ》らしたりしそうだし」
「念のために教えてやるけど、こいつは防水もちゃんとしてるからちょっと位濡れたって大丈夫だ。ママさんの気持ちをいただいて使った方がいいと思うぞ」
「うん」
素直に頷《うなず》いて太郎は時計を左腕にはめた。
「あっ、いけない、戻って仕事しなくちゃ」
太郎は立ち上がるとパックと空き缶、それにエプロンをつかみ、店の方へ駆け出した。
そのポケットから鮮やかな黄色の財布が覗《のぞ》いている。
杉浦は、呆然と太郎が店の中に消えるのを見送った。花びらが杉浦に降りかかる。
みんなの太郎への贈物のうち、どれが一番太郎を喜ばせたのか。こんなことなら、残る物にこだわらずに、おいしいものでも作って食べさせた方が良かったかも知れない。呆然とそんなことを思いながら突っ立っている杉浦の傍《かたわ》らで、御村は笑いをこらえるのに苦労していた。
角川文庫『山田太郎ものがたり たのしいびんぼう』平成19年6月25日初版発行