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山田太郎ものがたり たたかう青少年
原作/森永あい 著/塚本裕美子
目 次
第一話 いらっしゃいませ電脳
第二話 真夏のでりしゃす・しーさいど
第三話 雪山温泉異常あり
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第一話 いらっしゃいませ電脳
春はあけぼのようよう白くなりゆく山際、はいいとして、春といえばなんといっても新学期である。
新学期といえば。
なんといっても主役は新入生だ。
ぴかぴかの一年生、桜の咲く頃一年生、元気一杯一年生、期待と不安の一年生、まだまだ青いぞ一年生。新たなる世界に挑《いど》もうと希望に燃えてやって来る一年生以上に、待ち受ける在校生の方も、燃えていた。ぼうぼうと燃え盛っていた。
「いいっ、今年こそは体育会系の連中の鼻をあかしてやるのよっ!」
「あいや待たれい、文化部系の本流といえば我ら時代劇研究部! 西洋かぶれの演劇などとたわけたことをぬかすでないぞ」
「なーにをいってんのよ、廃部寸前の弱小部がっ! わたしたち伝統ある演劇部に何か言おうなんて、十年早いわよっ!」
「ちょっと待ちなさいよ、演劇部さん。伝統と実績といったら映画研究部を忘れてもらっちゃ困るってものじゃなくて」
「あんたらさあ、文化部なんてもう古いってことなんだからさあ、いい加減でしゃばんのはやめておとなしく下がってた方がいいんじゃないの?」
「なんですって? そういうあんたは身体だけは立派っていうレスリング部!」
「だけはってのは心外だよなあ、マットの上の高等戦術士ってのが、レスリングなんだぜ」
「あーら、後頭部が危ないの間違いじゃないの? なんならうちで毛根検査のサービスしたげましょうか?」
「な、なにをっ、貴様、生物部だなっ!」
「現代社会を生き抜くにはこれからはバイオの技術が物をいうのよ。目に見えるものだけに向かってゆくなんて精々猿のすることでしょ」
「いえてるな」
「なんだおまえ、女どもの味方をする気か?」
「別にそういうつもりはないが、ぼく自身はフェミニストだからね、議論をしようというなら受けて立とう」
「先輩、まずいっすよ、こいつら弁論部です」
「けっ、あの口先だけの軟弱もんどもか」
「ふふん、身体だけでも頭だけでも人間は不完全な物さ」
「なんだ君は偉そうに」
「明らかに君たちよりも上の立場にいるんだから、少々偉そうにしてもいいと思うけどね」
「あーら、ずいぶん言ってくれるじゃない、フェンシング部さん」
「ぼくらは紳士としての素養から磨いて活動しているんだからね、その辺の汗をかくだけの運動部とは一緒にしないでくれるかい?」
「剣を持ったら日本一のっ! 日本男児たるもの、伝統武術に身を投じんでどうする! いざ鎌倉の覚悟はあるかっ!」
「なーにを時代錯誤なことを。だいたい君たちはね、人生を楽しむってことを知らないんだから、困ったものだ」
「おぬしらにそんなことを言われたくはないな、コントラクトブリッジ研究会」
「ははん、将来的な展望のあると言ったら、そちらよりもうちでしょう。知ってます? 最も数学的に優れているゲームは囲碁だってことを」
「あなたたちねえ、これからは生活する上での実際のことが大事になってくんのよ。とにかく実践あるのみ! 将来|濡《ぬ》れ落ち葉にならず惚《ぼ》けず長生きするためには自分のことは自分でする、家事に精通することが第一なんだから!」
「あたしお掃除なんて自分でしたくなあい」
「誰っ」
「お掃除なんてするより、可愛い縫いぐるみとか作ってた方がずうっと楽しいじゃなあい」
「そうだよ、ほこりで死んだ人はいないっていうじゃん、やりたい人はやればいいけどさ、ね、家庭科部さん」
「でしょう? やっぱ女の子の上品な趣味は手芸よねえ」
「でもさ、同じクリエイティブな作業だったら、ちまちまやってないで大胆にいった方がもっと創造的だと思うんだ」
「おまえらが作ってるオブジェときたら何の役にもたたないどころか邪魔で目障りってもっぱらの評判だぜ、彫刻部さんよ」
「芸術はいつもその時代に評価されることはまれなんだ、後になって自分の節穴ぶりを後悔することになるわよ。なによ、空手部の破壊パフォーマンスなんて資源の無駄で野蛮」
「たーしーかーにー、無駄はいけませんねえ無駄は」
「あんたたちの省資源はやり過ぎで嫌味なんだよ、リサイクル研究会」
「あっ、あたしもそう思います。特にごみ集積所で分別チェックするのと資源探しに人のところのごみをかき回すのはプライバシーの侵害だと思います。わたしたち日本舞踊部のごみなんてなんで開けなきゃいけないんですか」
「あのさあ、どうでもいいけど入部勧誘届けの受付ってちゃんと進んでんの? もう結構待ってんだけどさあ」
「順番にやってますっ! だから列を乱さないでって言ってるのに。はい、次は? 天文部さん?」
「あ、はーいお願いしまーす」
まだ風も冷たい春の午後、中庭に面した生徒会室の窓際に設けられた受付の前に集まった生徒たちは、数日後に行われる入学式から始まる入部勧誘の戦いに早くも突入していた。
クラブ活動というものは、初動がすべてといっても過言ではないのである。卒業までその部に所属した部員の大半は入学時に入部した生徒だし、また中途で退部した生徒が改めて別のクラブに加入する確率は極めて低い。たいていそのタイプは残りの在学中を帰宅部で過ごすか、あるいは新たに同好会などを起こすかに大別される。
すなわち。
部員を確保するならまず新学期をおいてほかにはない、ということなのである。
さらにいうなら、部員数は予算確保において重要なファクターの一つとなるため、ここで遅れを取るわけにはいかないのであった。まあ、予算についてだけをいうなら、ここ一ノ宮高校の生徒の家庭レベルからいうとそれほど問題にはならないのではあるが。
ともかく、新学期最初の朝礼が終わった直後から、生徒たちは戦いの火蓋《ひぶた》を切ったのである。
「おい、山田《やまだ》」
「なんだ? 御村《みむら》」
教室の窓から中庭を見下ろしていた山田|太郎《たろう》に御村|託也《たくや》が声をかけた。
「なに見てるんだ? ああ、恒例の入部勧誘の受付か。おまえ、なにか関係あるのか?」
「別にないけど、あれだけ人が集まってるんだから、なにか落ちてないかと思ってさ」
「なるほどな」
御村は静かに納得して、太郎と同じように外を見下ろした。開け放った窓からゆったりと吹き込んでくる風は、新芽の青っぽい匂いを一杯に含んでいる。ぼうっとするにはもってこいの気温加減の中、下の喧騒《けんそう》もどこか遠く感じられる気がする。しかし、あの中の誰かが十円玉一枚でも落とせば、太郎の耳はそれを聞き逃すことなどないと、御村は知っていた。それがどんなに太郎の、眉目《びもく》秀麗端正上品立てば芍薬《しやくやく》座れば牡丹《ぼたん》歩く姿は百合《ゆり》の花、なみかけ[#「みかけ」に傍点]とかけ離れていようとも。
「今年もなかなか盛況だな」
「御村んとこはなにもしなくていいのか?」
「いや」
御村はちょっとだけうんざりした表情を浮かべた。
「あとで狩り出されることになってる。一応副部長としての立場もあるからな」
「なにか手伝おうか? 俺一応おまえんとこの部員なんだし」
太郎は御村の所属する茶道部に籍だけはおいている幽霊部員なのである。授業が終われば即座に下校してバイトに精を出す太郎には、クラブ活動にさく時間などない。とはいえどんなことにも興味を示し、知ってて悪いことはない、いざという時なにが役に立つかわからないという信念の太郎である。たまたまお菓子が食べられるというのに釣られて稽古《けいこ》に参加したのが縁で入部届けを書いたというのが真相なのだが、茶道の心得はすでに役立ったこともあるので、あながち見込み違いとは言い切れない。太郎には他にも助《すけ》っ人《と》として出没するクラブがいくつかあったが、それは当然のようにどれも食べ物絡みのクラブであることはいうまでもないだろう。
「第一うちは部員にはバイト料は払わんぞ」
「ああっ、そうか!」
太郎は悲痛な表情で叫びつつも、冷や汗を浮かべて続けた。
「いっ、いや、でもいつも世話になってるし、たまには恩返しするべきかなあ……なんちゃって」
「無理するな山田」
御村は、引きつった愛想《あいそ》笑いを張り付けた太郎の顔を、笑いをこらえて見返した。
「心にもないことをいうとストレスがたまるぞ」
「心にもないことってわけじゃないんだけどなあ」
「心だけありがたく頂いておくよ」
「そうか?」
太郎はぱっと明るい顔になる。
御村はにやっと笑うと、ふいと太郎の肩越しに視線を投げた。
「それより向こうでお待ちかねのみなさんが」
「へっ?」
「山田さーんっ!」
振り返ったところへタイミング良く黄色い歓声が飛んだ。教室の入り口にどっとばかりに女子生徒の大群が押し合いへし合いながら詰め掛けている。
「山田さんっ!」
「山田さんっ、ぜひお願いしたいことが!」
「うちが一番ですっ!」
「あたしたちの方が先よ、山田さんどうか頼まれて欲しいんですけど」
「山田くん、同期の頼みを断ったりはしないわよね」
かき分けて室内に入ってこようとする一人を、何本もの手が引き戻す。
「ちゃんと並んでください、上級生だからって割り込みはだめです」
「なによ生意気ね、おしりが青い一年坊主のくせして一人前の口利くんじゃないわよ」
「一年じゃありません、今日から二年です」
きょとんとしてつったっている太郎の肩を、御村はぽんと叩《たた》いた。
「ほら早く行かないと」
「う、うん」
太郎は頷《うなず》くとすたすたと彼女たちの前まで行き、にっこり笑って一同を見渡した。
「俺になにか用?」
「はいっ!」
女子生徒たちは一斉に頷いた。
「山田さんに、ぜひ、手伝っていただきたいんです!」
ソプラノのユニゾンがこだまする。
「はい?」
笑顔のまま首を傾げる太郎に、更なる女声コーラスがおそいかかる。
「わたしたち華道部の」
「わたしたち美術部の」
「わたしたち剣道部の」
「わたしたち書道部の」
「わたしたち化学部の」
「わたしたち合唱部の」
「わたしたち応援団の」
「わたしたち数理研究部の」
「わたしたち英語研究会の」
「わたしたちブラスバンド部の」
「わたしたち漫画研究会の」
「わたしたちアニメ同好会の」
「わたしたち合気道愛好会の」
「わたしたちロック研の」
「わたしたち弓道部の」
「わたしたち園芸愛好会の」
「わたしたちバレー部の」
「わたしたち卓球部の」
「わたしたち水泳部の」
「わたしたちスケート愛好会の」
「わたしたちアンティーク研究会の」
「わたしたち経済研究会の」
一度に七人の訴えを聞き分けたという聖徳太子《しようとくたいし》でも、何がなんだかわかるまいという、多重音声である。いくらお金の音に敏感な太郎といえど、こういう内容は担当分野ではないのでもちろん聞き分けられるはずもない。太郎はとりあえず笑顔のまま一時停止した。
「新入生勧誘を」
ソプラノ、メゾソプラノ、アルトの多重合唱は最後のところで見事に重なって響き渡った。
「は?」
太郎は表情一時停止状態のまま、首を傾げた。そこへ怒濤《どとう》のように女の子たちが押し寄せる。
「ぜひお願いします! 山田さんが来てくれれば百人力です!」
「ちょっとだけでいいんです、なんなら写真だけでも使わせてください」
「条件があれば言ってください、とにかくまずうちの部室でご相談を」
「その前にうちでゆっくりお茶でも飲みながら」
「忙しい山田さんになんてこというの! 面倒はいいませんわ、今うんと言ってくだされば」
「あのー、引き受けて頂けるんなら、うちはちゃんとお礼の方も……」
「えっ!?」
素早く反応した太郎の目がきらりと輝いた。
「それ、ほんとですか?」
「写真部は嘘はもうしません」
太郎はものすごく嬉《うれ》しそうな顔になった。
女の子たちはざわめいてひそひそとささやきあう。
「山田さんっておぼっちゃまなんでしょ? どうしてあんな条件に反応すんの?」
「あたし聞いたことある。すっごくシャイだから、つい俗っぽいポーズとっちゃうんだって」
「あのうわさほんとだったんだー、かっわいいー」
「それならそうでご期待にこたえちゃおっと。山田さーん、うちは言い値で構いませーん」
「あっ、ちょっと抜け駆けする気?」
女子生徒たちはすわと殺気立つ。
「待ってください、それをいうならエスペラント研修会ももちろん」
「それならうちだって」
「そうよそうよ、忙しい山田さんの時間を割いてもらうんですもの、お礼くらい当然ですよねー」
取り囲んで口々に叫ぶ女の子たちを、太郎は嬉しさに上気した顔で見回した。
「ほんとに? でも俺、なにをすればいいのかなあ」
「わたしたちと一緒にいてくださるだけでいいんですっ」
最前列にいた生徒が叫んだ。
「それだけで?」
太郎にまっすぐ見つめられて、叫んだ生徒は真っ赤になった。他の生徒たちも、思わずほおっと溜《た》め息をついてしまう。
「おい、山田ちょっと」
「えっ、なに? 御村」
太郎は女の子たちをおいて、御村のそばに戻った。
「おまえまさか、あそこにいる全部のクラブを引き受けようなんて思ってるんじゃあるまいな」
「うーんそれは確かにちょっと無理かなあ」
太郎は空をにらんでうなった。
御村は肩をすくめる。
「二兎《にと》を追う者は一兎をも得ずだぞ。山っけだしていつもの仕事に支障が出たらまずいんじゃないのか?」
「そうかなあ」
「あれを引き受けたら最後、時間外拘束は回避不能の確率が高いと見たぞ」
御村は脅すような声色でささやく。
「うーん、それだと杉浦《すぎうら》さんちの仕事に遅れる可能性も出てくるってことかあ」
太郎はちょっと眉根《まゆね》を寄せて考えると、飢えた狼のように牽制《けんせい》し合っている女の子たちをくるりと振り返った。先程よりもどうやら増えていることは間違いない。押し寄せる人数の生徒たちは即座に子羊のようなすがる視線にスイッチを切り替える。
「せっかくの稼ぎ時なんだけどなあ」
未練がましくつぶやく太郎の目には、その生徒たちの顔がそれぞれ白く輝く五百円玉にでも見えているに違いない、と御村は思った。
「ついでに忠告しておくと」
溜め息をつきかける太郎に、後ろから御村は続けて警告の耳打ちをする。
「選択肢としては全部断るか、全部引き受けるか、だな。さもないと血の雨が降る方に千点」
御村は視界の端っこに、顔は子羊のまま互いに足を踏んだり肘《ひじ》で小突いたりして威嚇しあう女の子たちをさりげく捉《とら》えていった。
「うーん……校内であんまりあからさまにバイトっていうのもまずいかもしれないし……やっぱり、学校は勉強するところだもんな」
「おまえもそう思っていたとはな」
御村はぼそりとつぶやいた。
実際のところ、予備のトイレット・ペーパーを持ち帰ったり、動物小屋から人参《にんじん》をかすめ取ったりと、太郎にとって学校はまるで松茸山《まつたけやま》かなにかのようにもみえたのだが。
「うん、今回は残念だけどあきらめよう。明日は杉浦さんちのバイト代が出るし、ここのとこかあちゃんは蟻の観察に凝ってて無駄遣いしそうにないしな」
「おまえのうちって本当にいつも大変そうだな」
社交辞令とは思えない口調で御村がしみじみいう。
太郎は一歩踏み出すといきなり九十度ぺこりとおじぎをした。
「ごめんなさい!」
はっと女の子たちは息を呑《の》む。
「すまないけど、今回の件はどちら様もお手伝い出来ません。申し訳ないけどお引き取りください」
「えーっ」
悲鳴に近い声が上がった。
「どうしてですかあ」
「そんなあ」
口々に言いながらも、女の子たちは太郎の本当に済まなそうな、残念でならないといった表情にほだされたらしく、強くは反論しようとはしない。
「失礼します……」
しおしおと引き上げて行く後ろ姿を、太郎は潤んだ目でじっと見送った。
「…………」
未練気にいつまでも見送る太郎を、御村は笑いをこらえて見つめていた。
「あんちゃんお帰り!」
「お帰りっ!」
「お帰りなさい、太郎」
「ただいま」
木造平屋建て築三十年越しの、狭いながらも狭い、それでもやっぱり楽しい我が家へ戻った太郎を母と弟妹《きようだい》たちが迎える。
「遅くなってすまなかったな、晩飯のしたくはすぐに……」
割烹着《かつぽうぎ》に手を伸ばす太郎を、六生《むつみ》と七生《ななみ》、二人が駆け寄って押さえる。
「あのね、あのね、今日は僕たちがご飯作ったんだよ!」
小さな身体に大きすぎるエプロンを巻き付けた六生は誇らしげに太郎を見上げて言った。
「そうか、助かるなあ楽しみだなあ」
太郎はにこにこして二人の頭をくしゃくしゃっと荒っぽくなでた。
「ほらほらじゃあ早くお膳《ぜん》の用意しなくちゃ。お鍋《なべ》は重いからあんちゃんに運んでもらお」
二人の後ろからよし子が声をかける。
「はーいっ」
箸《はし》や茶碗《ちやわん》が並べられる間に、太郎は着替えると焜炉《こんろ》にかかっていた、山田家唯一の飯炊き以外用アルマイト大鍋を、よいこらしょとちゃぶ台に運んだ。蓋《ふた》の隙間からは湯気が立ち、何ともいえないいい匂いがしている。
太郎はくんくんと鼻を利かせた。
「この匂いは……何だろうなあ、おでんとは違うし……」
「あんちゃん、当てられる?」
三郎《さぶろう》がにやりと笑って言った。
「うーん、出汁《だし》は動物性と植物性の複合出汁だろう? それと鳥肉の匂いとゴボウの匂いがするんだけどなあ」
「あらまあ、当たってるわね」
母・綾子《あやこ》が手を叩《たた》いた。
「しかし……」
太郎は難しい顔になって唸《うな》った。
「あとがどうもわかんないんだよなー、今の二つは主材料じゃなさそうなんだけど……その組み合わせから推理できる料理といえば……」
太郎はさっと流しの方を振り返った。
流しは野菜くず一つなくぴかぴかになっていて、手掛かりになりそうなものは何一つ残っていない。
「ううーむ」
品数がなく鍋一つというのが問題をかえって難しくしていたのは間違いない。なんとなれば煮込み料理、鍋料理のバリエーションは無限だからだ。
「さあさあ冷めちゃう前にいただきましょ」
「そうだよあんちゃん、食べようよ」
ちゃぶ台を囲んだ子供たちが、ご飯をよそった茶碗と箸を構えて待っているのに気付いた太郎は、あわてて頷《うなず》いた。
「そうだったな、みんなすまん。じゃあよそうからなー」
「わーいっ!」
一斉に声が上がるのと同時に鍋の蓋が開かれる。ふわっと湯気が辺りに広がり、ちゃぶ台のまわりを包み込む。
「うまそうだなー。うん全体の雰囲気はどっちかというと中華だな」
太郎はほんわりと湯気の立ちのぼる鍋の中から、みんなの茶碗にロールキャベツ、のようなものを配った。とろみのついたスープが煮込まれた固まりにからみついてふるふると震える。
「わーっ、おいしそう!」
ちゃぶ台のまわりから歓声が上がった。
「じょうずにできたねえ、六生七生」
「うん! よし子ねえちゃんたちが教えてくれたから」
双子《ふたご》は嬉《うれ》しそうに言った。
「いい匂いねえ……」
綾子もうっとりして言った。
「さあ、全員いったか? じゃあ、いただきます!」
「いっただっきまーすっ!」
「熱いから気をつけるんだぞ」
「あちちちち……」
「ふうっふうっ……」
しばしの沈黙が辺りを支配する。
「むむむ、これは!」
太郎ががばっと顔をあげて唸った。
「見た目はロールキャベツっぽいが実はキャベツにあらず!」
「はずれ、あんちゃん」
「何っ!?」
太郎ははっと手元の茶碗を覗《のぞ》き込んだ。
「キャベツも使ってるんだ。二枚目の葉っぱを良くみてよ」
「二枚目? ああっ」
太郎は驚愕《きようがく》の表情になった。
ロールキャベツと見えたその巻き物は、キャベツと白菜の葉を交互に重ねて巻き上げたものだったのだ。おそらく全部キャベツで作るにはキャベツが足らなかったと推測できるが、これが歯触りと味わいに奥行きを与えている。中身は太郎の最初の推測どおり鳥肉とゴボウの叩いたもののようである。
「それじゃあ、この出汁は?」
太郎はあつあつのとろみのついた煮汁をすうっとすすって首を傾げた。
「実はねー」
よし子以下子供たちはにんまりと顔を見合わせる。
「前に『梅花』からプレゼントもらったでしょ?」
「ああ、でももうとっくに食っちまったんじゃなかったっけ?」
「ちっちっち」
三郎がもっともらしく指を振って見せた。
「あの中に入ってたちらしにね、『金華ハムは寝かせるとさらに味に深みが増す』って書いてあったんだ」
「ったって、あの時はまずかたまりのままスープを取ってから……」
太郎はきょとんとして言った。
「その時にねえ、三郎あんちゃんがひときれ取っといて……」
「干し直して軒下の見えないとこにつるしといたんだよー」
「怒んないでよあんちゃん」
三郎が慌てて言った。
「だって俺、どうしてもさらに深みが増した味、っていうの、食べてみたかったんだよ」
「そうかー」
太郎はうっとりと茶碗の中身を味わいながら頷いた。
「確かに、一度出汁を取ってからでさえこれだけの味がでるってことは、ううむ、中国三千年おそるべしだなー」
「あんちゃん、四千年じゃなかったっけ?」
「諸説あるからなー、まあどっちでもかまわないけど」
「あんちゃん、おかわり!」
「あ、あたしがやる」
よし子が五子《いつこ》の茶碗を受けとった。
「そいでねえあんちゃん」
「うふふふ」
六生と七生は意味ありげに目配せをしあった。
「?」
「もっと寝かすともっとおいしくなるはずだから、ちゃんとまた干してあるんだよ」
窓の外をちらっと見た二人に太郎は笑って頷いた。
「そうか楽しみだなあ、カラスなんかに取られないよう気をつけるんだぞ」
「もっちろんさあんちゃん。ちゃんと拾ってきた有刺鉄線洗ったやつで巻いてあるもん。そのうちまた俺たちがあんちゃんに特製料理を作ったげるからさ」
「三郎あんちゃん、作ったの僕たちだよ!」
「俺だって手伝ったじゃないか」
「だって……」
「こらこら、けんかするようなことじゃないだろ。六生も七生も三郎もみんなありがとうな」
「うん」
「おかわり!」
一家は旨味《うまみ》たっぷりの鍋を心行くまで食べ続けたのであった。
「ふうん」
御村は太郎の話を聞いてわかったようなわからないような顔をした。
「おまえの話を聞いてると、その『金華ハム』っていうのは食っても減らない魔法の食べ物って感じだな」
「いや、かさはわかんないんだけど、最初に使った時よりも昨日の方が確かに味わいは深くなってたんだよなー」
「そういうこともあるのかねえ」
御村は誰にともなくつぶやいた。
「御村、コンピューターって使えるか?」
何の前置きもなく唐突に太郎が言った。
「使ってはいるが」
御村はしかし、なれたもので即座に返事を返す。
「やっぱり使えた方がいいんだよなあ」
太郎はちょっと困ったように言った。
「必要とあれば使えるに越したことはないと思うが、急にどうしたんだ?」
「いや、今すぐどうってことはないんだけどさ、次郎《じろう》たちは授業で使ってるっていうし、最近の求人広告見ると結構パソコン使えると時給いいみたいだし」
「ああいう場合のコンピューターの使い方はおまえには向いてないと思うがな」
「って?」
「その求人って、第一、事務職だろ? 単調な入力作業なんかだし、いくら時給がいいったって、おまえがいつもやってる肉体労働系の方が絶対払いはいいはずだぞ」
「そうかなあ、まあ俺も身体を動かしてる方が性にはあってると思うんだけどさ」
「だろ?」
御村はにやっと笑った。
「どうしても知りたいっていうんならうちに来れば教えてやるよ。しかし、大学に行けばどのみち使うことにはなるから別にあわててやる必要もないと思うんだがな」
「大学かー……鳥居《とりい》先生は学費なら何とかなる方法があるから絶対行くべきだって言ってくれるんだけどさ」
太郎は気のなさそうな溜《た》め息をついて言った。
「俺、そんなにどうしても行きたいって方でもないし」
「最初からそんなものがある奴の方が珍しいぞ」
「とにかく今の俺は目の前の問題を解決するのが先決なんだ!」
「目の前の問題って?」
「今月末までに払わなきゃならない次郎たちの教材費」
「おまえ、大丈夫だって言ってなかったか?」
「それが……」
太郎は苦悩に満ちた表情でがっくりと頭を落とした。
「かあちゃんが……」
「お袋さんが?」
「お使いに出てお金を落としたっていう子供に会っちゃってさ」
「おまえのお袋さん、そういうのに無条件に弱いからなあ」
「そうなんだよー」
「それでまた危機を迎えてるってわけか」
御村は笑いをこらえながら言った。
「昨日の話、断らなきゃよかったなあ」
「全部引き受けたら生活|破綻《はたん》するって言ったろ? かといって今更何件かだけ受けたりしたらまたまずいことになるだろうな」
「わかってるよ。まあいいや、また夜間工事の仕事にいくとするかあ」
「うちの方でもなんかあったら言うから」
「サンキュ、御村」
太郎は茶道部に向かう御村と教室の前で別れ、足早に廊下をぬけて外へと向かう。
「あっ」
建物から出たところで太郎は何かに思いっきりぶつかった。いつもならどうということもなく身をかわしているところだが、今日の太郎はやはり少し精神的に動揺していたようである。太郎は少しよろめいただけだったが、ぶつかった相手の方は後ろへはね飛ばされて尻餅《しりもち》をついていた。その周りにはバッグやノート等が散乱している。
「すっ、すいません、大丈夫ですか?」
尻餅をついたまま、少女はきっちり編みこんだ二本のお下げをくるっと振ると、眩《まぶ》しそうに目を細めたまま、辺りを手探りした。
「あっあの、怪我は?」
慌てて傍らに膝をついた太郎に、お下げの少女はあいまいな視線を向けた。空を探った手が太郎のさらさらの髪に触れる。
「あ」
少女は小さく叫んで手をひっ込めた。
「どこか痛い?」
太郎はびっくりしてその手を掴《つか》んだ。
ひきよせられる恰好《かつこう》になった少女は太郎の顔を間近にして、驚いたように目を瞬《しばたた》いた。
「い、いいえ……」
少女は顔を真っ赤にすると蚊の鳴くような声で言って、手を振りほどこうとする。
「あ、ごめん」
太郎は手を放すと慌ててこんどは辺りに散らばったものを集め始めた。
「これで全部かな、本当に大丈夫?」
少女は地面に座り込んだまま周辺を手探りしている。建物のそばに転がった銀色のワイヤーフレームの眼鏡に気付いて太郎はそれを手渡した。
「……ありがとう」
少女は眼鏡をかけるとほっとした表情になって太郎を見上げ、そして改めて顔を赤くした。
「足らないものはない?」
「大丈夫です……」
少女は真っ赤な顔のまま太郎から荷物を受けとると、立ち上がった。
「ごめんね、俺ちょっと急いでて」
「……いいえ、あたしも気をつけてなかったから……」
口ごもりながらそこまで言った少女は、意を決したように顔を上げるとにこっと微笑んだ。眼鏡越しにくっきりとみえる瞳《ひとみ》が、くるっとカールした長いまつげに縁取られているのがはっきりと見て取れる。
「大丈夫です、この位で怪我するほどあたしやわじゃありませんから」
少女は微《かす》かなためらいを残しながらも、朗らかにはっきりと言った。
「そう? じゃあよかった」
太郎が微笑み返すのへ、少女はまた頬を赤らめながら、続ける。
「あたし……御堂清美《ごどうきよみ》っていいます。三年一組の山田さんですよね?」
「さん、あそうか今度からは三年だったっけ、うんそうだけど」
清美ははにかみながら白い歯を見せる。
「あたし、山田さんのことずうっと遠くから見てるだけだったんですけど……」
「はい?」
「こうしてお話しする機会があったら、はきはきちゃんとお話ししようって決めてたんです」
清美は一生懸命、しかし太郎の胸元に視線を落として言った。
「あたし、あんまり大きい声とか出せないし、考えるのに時間がかかっちゃってとろいし、でもいつまでもこんなじゃ駄目だって、自分でも嫌だなって思ってたから、何かきっかけがあれば絶対ちゃんと話せるようになるんだって、決めてたんです」
清美は一気にそこまで言うと息をついて、向かい合って立っている太郎を見上げた。
「山田さんは人気あるし、あたしなんかがお話しするチャンスなんてないと思ってたんですけど。ないと思ってたから、山田さんとお話しする機会があったらそうしようって、ちょっと卑怯《ひきよう》なこと考えてたんですけど」
清美は手元に抱えたバッグを見下ろした。
「あたしの計算だと山田さんと話せる確率は十七万分の一、ミニロトくじの一等|当選《とうせん》の確率と同じだったのに」
ミニロトとはご存じ一から三十一までの数字の中から五つの数字を選んで当選番号に的中させるというタイプの宝くじ、公営ギャンブルの一つである。
「そんなに確率低いの? 同じ校内にいて学年は……」
「あたし、三年四組です」
「学年も一緒なのに?」
太郎は首を傾げた。
「計算するとそうなるんです」
「それって、パソコンで?」
「はい」
清美は頷《うなず》いた。
「ほんとに偶然に出会うっていうことだとそんな数字ですね。……ただ、あたし、山田さんと会ったら本当にちゃんと話せるか自信なかったんで、実際にはどっちかっていうと逃げようとしてたかも……そうするともっと確率低くなってたはず……」
「ふうん」
太郎はわかったようなわからないような顔をした。
「他にパソコンって何に使うと役にたつのかなあ?」
「……そうですね……教科書と参考書をリンクさせてデータベース化するとか、辞書ソフトを読み込ませといて使うとか、試験に出そうな問題を過去の問題から予想するとか」
清美はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「インターネット回線を使うともっといろいろおもしろいことできますけど。こんど入ってくる新入生はどんな子たちだろうなあ、とか」
「?」
太郎は首を傾げた。清美は表情はそのままにちょっと辺りに目をやってから掌《てのひら》を裏返して口元に当て、声を低めた。
「うちの高校のシステムって意外とザルなんですよ。まあ大事なところはそれなりのセキュリティかかってますけど、全体としては大雑把ですね」
「新入生の? ということは」
太郎はぱっとひらめいて言った。
「もしかしてそのデータを持ってれば、部員勧誘なんてお茶の子さいさい……っと」
「まあそうでしょうね」
「ああ、でもコンピューター研究会とかあったよなあ、とっくにそんなことやってるんだろうなあ」
清美はちょっと自慢気な表情になって、眼鏡を持ち上げた。
「できるわけないじゃないですか」
「えっ、どうして?」
「あそこはハード面では資金力にものをいわせてすごいの一杯持ってますけど、弘法《こうぼう》も筆を選ぶというか、なんとかに小判というか、使う方が全然ついてってないんですよ」
「君は部員じゃないの?」
「一応所属してますけど……」
清美はくすっと笑った。
「あそこって研究課題とか持ってる人いないですからね、ほんとに宝の持ち腐れです。使わせてもらっといて悪いけど、でも、何に使おうっていうビジョンがないんだもん。やってることといえばゲームだけ。だからゲームは達人が何人もいます」
「へええ……」
太郎は目を瞬《しばたた》かせるばかりである。
「それよりさっきの部員勧誘の話、面白そうですけど……」
清美は考えながら言った。
「それやってみたいな……そういう思い付きを実用化するのって、あたし興味あるんです。臨機応変にその場で対処するっていうのも実習できそうだし」
清美は目を輝かせて太郎を見た。
「山田さんさえよかったら、やらせて貰《もら》えませんか? あたし、全面的にバックアップしますから」
「いや、でも、それだったら君がやればいいんじゃないかな……」
「アイデアは山田さんじゃないですか」
清美は眼鏡の上に眉《まゆ》をちょっと上げてみせて言った。
「山田さんがシャイだっていう話、あたし聞いてます。優しいから誰かのためになることはしてあげたいんだけど、すごく照れちゃうからビジネスっぽくした方が気が楽なんだ、って」
清美はわかっているというように言った。いつからそういうことになったのかは太郎の知らないところではあるが、有り難い誤解であることは確かだ。実際のところ、稼げるものなら何をしてでも稼ぎたいし、そのことに堂々としていられないなどということは決してない太郎なのだが。
「ええと……だから今回の計画としては、一人当たりの単価決めて、各クラブに請求するっていうのはどうでしょう?」
「えっ!?」
太郎はぱっと明るい顔になった。
「その仕事はもうあきらめたところだったのに……よかった、これで当座のしのぎはなんとかなる!」
しかもそのやり方なら御村が懸念した各クラブ間の軋轢《あつれき》などは回避できる。拘束されることもない。
「?」
何をいっているのかと怪訝《けげん》そうになる清美に、太郎は感謝のこもったまなざしを向けた。
「ありがとう、助かったよ」
太郎は清美の手を両手で力強く握った。清美はぽっと頬を赤らめつつ何度も頷く。
「やっぱり山田さんってすごい人なんですね! こんな鋭いアイデアを簡単に思いついちゃうなんて。あたし、頑張ります」
「うん、頑張ろう!」
善意の誤解を一層深めつつ、二人のエールは春霞《はるがすみ》の空にこだましていった。
翌日。
太郎は清美と昼休みに図書館で待ち合わせていた。新学期が始まったばかりの図書館はまだ人影も少ない。窓際の自習席の一つにお下げを見つけた太郎は、その隣にさりげなく腰を下ろす。
「やま」
「かわ」
二人はこっそりと目配せを交わしあった。
清美いわく、おおっぴらにやると何かと横槍《よこやり》が入るに違いないので、当日までは隠密行動したほうがいいというのである。太郎もその辺は御村に意見を聞くまでもなく、稼げる話が駄目になるのは極力避けたい一心で、清美にしたがったのだ。
「勧誘届けはださなくていいと思うんですよ」
机の上に広げたパソコンのモニターをにらんだまま、ひそひそと清美がささやいた。
「あたしたちのやり方なら、勧誘っていうよりは適性審査みたいな感じになりますから」
「適性審査?」
太郎は鞄《かばん》の中からワイシャツを取り出し、ソーイングセットを開けて、繕い始めながら短く聞き返す。
「そうです。ええと、まず新入生の足を山田さんが止める」
「はい?」
太郎はちらっと清美を見た。
「止めるってどうやればいいのかな」
「いつもの感じで立っててくださればいいと思います」
「立ってるだけでいいの?」
「大丈夫です。みなさん、ようこそいらっしゃいって感じでいてくだされば」
清美はくつくつ笑いをこらえながら太郎を横目で見た。
「はあ」
太郎はちくちく縫い続けた。
「足止めしたところを順次あたしが適性と実績を見てお勧めのクラブに入るべく斡旋《あつせん》して行く、と。簡単ですね」
「簡単だね」
太郎は玉止めを作って糸切り歯で糸を切った。
「データの方は明日までにはこっちの機械にダウンロードしときますから」
「すまないね、何から何まで」
「それはいわない約束ですよ、おとっつぁん」
二人は共犯者の顔をしてにやりとすると、こっそり頷《うなず》きあった。
そんな二人を書架の間から見ていたものがいる。
「山田くん?」
太郎の同級生、池上隆子《いけがみたかこ》である。隆子は怪訝な表情を浮かべて太郎と清美を見比べた。
「だれ? その子……何の話をしてるのかなあ」
一ノ宮高校はレベルの高さでも有名だったが、それ以上に通っている子女の家庭が裕福もしくはハイソなことでも知られていた。そんな中で隆子は少数派に当たるごく普通の家庭の娘なのである。そのことを強く自覚している隆子の目標は、玉の輿《こし》に乗ることなのだ。そして最初にターゲットにしたのが、太郎だったのだが、隆子はふとした弾みに、お坊ちゃまだと思っていた太郎が超貧乏だと知ってしまったのである。玉の輿を狙うなら太郎は問題外。しかし隆子は、一度燃え上がった太郎への気持ちを捨て切れずに、ジレンマに陥る日々を送っているのであった。そして今日も隆子の目はいつしか太郎を追っていたのだが。
「山田くん、なんなの? なんで他のクラスの知らない子とそんなに仲良さそうに話してるの?」
隆子はもんもんとしながら二人を見つめた。
「じゃあ後はまた明日ということで」
「了解」
太郎は手を止めないまま清美に向かって小さく頷いた。清美も視線だけを返して、手元のキーボードを叩《たた》く。
「ああもう、聞こえないよお。山田くん、そんなに嬉《うれ》しそうな顔をするなんて、何かもらったのかなあ」
さすがは隆子、太郎の真の姿を知っているだけのことはある推理の仕方だ。
「あれって、パソコンだよね? 山田くんパソコンに興味あるのかなあ」
隆子は指をくわえて二人を見つめる。やがて太郎は繕い物を終えると手早く片付けて立ち上がった。
「あっ」
慌てて隆子は図書館の出口に走った。
「ちょっとあなた、お静かに」
「はいっすみませんっ!」
叱られたのへつい大声で言い返して、隆子は丁度外へ出たところの太郎に追いついた。
「山田くん!」
「あれ、池上さん?」
「や、山田くん、珍しいね、図書館に来るなんて」
隆子は息を切らせながらようやく言った。
「珍しいかあ、そうだねなかなかそんな暇ないからなー」
「何か調べに来たの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
太郎はちょっと言葉を濁した。隆子はますますあやしいと表情を硬くする。
「パソコンのこととか?」
「!」
太郎はぎくっとした顔になった。図星のようだと隆子は確信する。
「あっ、あの、あたしもパソコンにはちょっと興味あるんだけど」
隆子は急いで言い足した。
「山田くん、詳しいんだったら教えてもらえるといいなあ」
「……いやその、俺もパソコン自体はからっきしだからさ」
太郎は頭を掻《か》いて言った。
「そっか! それであの人に話を聞いてたの?」
「い、いや、そうじゃなくて」
せっかくの稼ぎ話がばれてしまってはたいへんと太郎はいいわけを探す。
「いやまあ、それもあるかもしれないけど……」
「ふうん」
隆子は不審気に太郎を見たが、それ以上追及するのはとりあえず止めておくことにした。
「ところで山田くん、部員勧誘のバイト、全部断っちゃったんだって?」
「うん。全部引き受けるなんて無理だって御村にいわれてさ。かといって幾つか選ぶなんてことしたら、却《かえ》って問題になるって」
「そっか、それ、御村くんのいう通りだとあたしも思う」
隆子は頷いた。太郎の人気は全校的なものなので、そのそばにいざるを得ない同級生でさえ、ちょっとしたきっかけで嫉妬《しつと》の的になる危険性が常にあるのだ。ましてや、そんな太郎の方から相手を選ぶようなことをすれば、選ばれた者がどんな目にあうかは、隆子などは身に染みて知っている。
「そうかあ、池上もそう思うんじゃ仕方ないよな。ちょっと断ったの後悔してたんだけど、やっぱりそうして良かったんだな」
「うん、絶対そうだよ」
言いながら隆子は、そのバイトにかこつけて各クラブの女子生徒陣が太郎に接近しようとしていたのは、火を見るよりも明らかだと確信していた。まあ、同時に太郎に誘われれば新入生の女子はまず断らないだろうし、男子だって大半が従うのは目に見えてもいるのだが。どっちにしろこれ以上太郎を目立たせて、男女問わず崇拝者、すなわちライバルを増やすなどということをするのは、隆子にとって全く本意ではなかったのである。
「あれ? あたし、山田くんはあきらめたんじゃなかったっけ?」
隆子はふとひとりごちた。
「あたしが狙ってるのは玉の輿なんだもん、貧乏は駄目、駄目なんだから!」
「なんかいったか? 池上」
「うっ、ううん、何でもないよ山田くん」
隆子はあわてて身振りで繕うと、太郎と並んで校門に向かう。
「で、山田くん、パソコンやるの?」
隆子は何気なく話を戻す。
「いや、資格とか何かの足しになるんならって思ったんだけど、当面元手がかかりそうだしさ。時間もね。大学行けばいやでも使うっていうし……」
「山田くん、大学決めたの!?」
隆子は驚いた声を上げた。
「どこに?」
「決めてなんかないよ」
太郎はあっさり否定する。
「俺、大学は行かないと思うんだ」
「どうして? 山田くんなら国立だってどこだって一発なのに」
言ってから隆子は太郎の現状を思い起こす。
「……そっか、おうちのこと……」
「そんな顔するなよ」
太郎はにこっと笑って隆子の頭をくしゃっとなでた。
「行きたいのに行かないわけじゃないんだからさ。池上がそんな顔することはないんだぜ」
「えっ……でも……」
隆子は太郎の大きな手の感触と間近に見る優しい微笑にうっとりしつつ、背中につき刺さる何本もの視線の矢を感じた。
恐る恐る肩越しにちらっと見るとそこには、固まってこちらをにらんでいる何人もの女子生徒の姿がある。隆子は次々と襲い来る視線の矢と、背筋に感じる寒気を気丈に振り払って太郎を見上げた。
「あたし、出来ることなんでもするから、山田くん、困った時は言ってね」
「うん、ありがとう。それじゃ俺これからバイトがあるから」
「うん」
隆子は走り去って行く太郎に手を振った。後ろから刺さる視線にぐさぐさと刺されながらも、隆子はもう振り返らずに太郎の小さくなって行く後ろ姿を見えなくなるまで見送った。
入学式が迫るにつれ、校内の状況は緊迫の度合いを強めていた。
「当日の配置ってくじ引きで決めるって言ってたわよね」
いましも生徒会室の前で体格のいい女子生徒数人がなにやら詰め寄っている。
「そうですけど」
中から眼鏡をかけた女子役員が答える。
「くじ引く順番の方はどうなってんのよ」
「くじなんですから、引く順番は関係ないはずですけど」
「そうでもないんじゃない?」
ひときわ大きな身体の生徒がずいと前に出た。
「やっぱ最初に引くほうが選択肢が多いんだし、そこら辺も考えて欲しいわけよ。たとえばさあ、現在の部員数が多いところを先にするとかさあ」
「それも関係ないと思いますけど」
「あんたはそうかもしんないけどさあ、そう思ってる人もいるってことは、じゃあ考えないってわけ?」
「なにやってんだい? 女子相撲部」
そこへやってきた男子生徒たちが嫌みっぽい声をかける。
「何ですって!? 失礼な、うちにそんな部はないってのは知ってるはずよね。それともあたしたちを護身術研究会と知った上でそういう暴言を吐くわけ?」
「いんやー、そんな、暴言なんて」
「俺たちディベート研鑽《けんさん》会ですよ? そんな紳士的でないこと、するわけないでしょうが」
「ふん」
体格のいい生徒は鼻で笑った。
「口先ばっかし部のみなさんが」
「これからの世界は肉体じゃなくて頭脳でしょう、やっぱり」
「あのう……」
眼鏡の役員がそおっと双方を見る。
「そういうお話はどっかよそでやっていただけません? ここをふさがれると出入りも出来ないんですけど」
「そういうことじゃないでしょ」
護身術研究会の部員がすごんだ。
「あたしたちはあんたたちにいいたいことがあって来たんだからね」
「ああ、こんな理論的でない人たちは後にしちゃってくださいよ。それより俺たちの活動なんですけど……」
「ディベート部さんですね?」
役員は顔をしかめた。
「音響機器の使用は原則として認められませんと言ったはずですけど」
「ロック研と民謡研、それにブラスバンド部とオーケストラ同好会には認めてるじゃないですか」
「あと、テクノ愛好会にアニメ研究会などですね、もともと使用が前提の活動をしてますからね。それに校門前での使用はどっちみち許可してませんよ。使っていいのは部室とプレゼンテーションに使用する小講堂のみです」
「あんたたちねえ」
先頭に立っていた護身術研究会の部員が、太い腕を組んで言った。
「そんな他力本願でうまいことやろうなんていうその根性が駄目なんじゃん。あたしらがうまいこと叩《たた》き直してあげようか?」
「なにいってるんだ、暴力はいけないんだぞ」
「なーにびびってんのさ、暴力なんかじゃないってば。あたしらのは、護身術」
「何もしない相手に対してどう護身するっていうんだ」
「言葉の暴力ってのはないっていうわけ?」
「あ、ちょっとすいません」
一触即発の現場に横からそろりと入り込んだのは太郎である。太郎はにらみ合う護身術研究会とディベート研鑽会の後ろをすり抜けてドアにたどり着いた。
「は? なんでしょう?」
生徒会役員の女子生徒は、あわてて眼鏡をかけ直して太郎を見た。
「あ、山田さんじゃないですか、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと聞きたいことがあったんだけど……取り込み中なら出直すから」
優しく微笑む太郎に、役員の生徒はたちまち頬を真っ赤にして首を振った。
「い、いいえ、大丈夫です。じゃあ、こんなとこじゃあれですから、中へどうぞ」
「それじゃ、失礼します」
この間、ドアの前でにらみ合っていた一同は太郎の登場以来固まっていたが、太郎に軽く会釈されると全員はっと息を呑《の》んだ。
太郎の姿がドアの中へと消えると、誰からともなく溜《た》め息がもれた。
「あっれー、山田、どうしたんだ? こんなとこに来るなんて珍しいなー」
室内でまず太郎を出迎えたのはクラスメートの松岡《まつおか》だった。小柄だがバランスのとれた身体に小さな顔、という芸能人っぽい容姿の上に育ちもいい松岡は、人当たりが良く如才ないが、やや飽きっぽいといったところか。面倒なことは嫌いと明言していて、委員と名の付くものには絶対になろうとはしないのだが、なぜ生徒会室にいるのだろう。
「あれ、ここにいたのか松岡」
太郎は室内を見回して言った。壁をほとんどふさいで並べられたガラス戸つきのキャビネットはファイルや書類袋で一杯で、それらに囲まれてせせこましくおかれているテーブルの上も紙切れやお菓子の袋などで山になっている。
「うん、ちょっと野暮用でさ」
松岡は屈託なく言った。
「保健委員が健康診断のアンケート用紙渡したいって探してたぜ」
「あ、そうかあ、でも急いでないんだろ?」
「提出は来週だってさ」
「ならいいや、明日にでも貰《もら》っとこ」
松岡はお気楽に言うと、座っていたパイプ椅子の背に顎《あご》を乗せた。
「で、山田は何の用なのさ。まさか俺を探しにわざわざ来たなんてこたないよな?」
「ああ、俺は……」
言って太郎は辺りを見回す。
「誰に用?」
「ええと、新入生勧誘の係って……」
「へえっ、山田どっかの勧誘手伝おうっての?」
松岡はびっくりした声を上げた。
「こないだからさんざん来てたもんなー、山田んとこ。みんな山田がいれば人寄せ出来るって思ってんだよなー。パンダじゃあるまいしさー。でもさあ、山田、本気でやんの? それってすげえやばそうな気、しない?」
冗談ではなく心配そうな顔をして松岡は言った。
「御村にも言われてるよ」
太郎はちょっと苦笑した。
「全部引き受けるか全部断るかしないと大変なことになるって」
「そりゃそうだよなー」
松岡は真剣な顔で頷《うなず》いた。
「山田が入ってんのって確か、御村んとこ、茶道部だっけ? そこだけってんならまあいいかもしんないけど」
「入ってるったって、俺、幽霊部員だからなあ」
なぜ太郎が茶道部に入ったかというと、お菓子が食べられると誘われたから、というそれだけだったのだが。
「幽霊でもなんでも、一応届けが出てるってのが大事なんじゃない? それだったら誰も文句言えない訳だし」
「そうかもしれないんだけどさ」
太郎は首を振った。
「まあ瓜畑に靴を直さずというか、李下《りか》に冠を正さずというか、今回はどこの依頼も引き受けないことにしたんだ。……ほんっとに残念なんだけどなあ……」
太郎は本当に残念そうに言ったので、松岡は気の毒そうな顔をした。
「山田って義侠心《ぎきようしん》厚いもんなあ。俺なんか絶対そこまでやってやろうなんて思わないのにさ」
太郎とて払いがなければそこまで惜しかったとは思わないところではあるが。
「じゃあなんで勧誘の?」
「うん、ちょっとさ、各部とは関係なくやってみたいことがあって、一応」
「へえ」
松岡は何のことかと目を瞬《しばたた》いたが、そのまま伸び上がると間仕切りになっているキャビネットの向こうを覗《のぞ》き込んだ。
「佐々木《ささき》さん、用があるって」
「はーいー」
のんびりした返事がかえって、それから一人の女子生徒が顔を出す。
「なんでしょうー?」
顔だけ出して覗き込んだ佐々木は太郎の顔を見て、一重のぽっちゃりしたまぶたをはたはたと瞬いた。
「? 山田さん、ですよね? あー、えーと、何のご用でしょうー?」
「そんなとこで突っ立ってないで、こっちに来なよ」
松岡が言って、佐々木は何冊かのファイルを抱えたままこちらにやってくる。
「山田、なんなんだ?」
松岡が佐々木に代わって尋ねた。
「新入生の勧誘って各クラブでしかしちゃいけないってことはないんですよね?」
「は?」
何を聞かれたのかと佐々木は首を傾げる。
「ええとー、入学式から一週間の間、決められた場所での勧誘活動は許可が必要ってことになってますけど、えーと、クラブでしかしちゃいけないとは、うーん、決められてないですねー」
佐々木は考え考え言った。
「じゃあ、別にそのクラブに所属していなくても、勧誘するのは自由ってことですよね?」
「そういうことに……なりますねー」
佐々木は太郎の言葉に頷いた。
「わかりました。俺、勧誘届け、出したいんですけど」
「はい……」
佐々木が用紙を出しに行くと、松岡は感心したように太郎を見た。
「山田ってすごいよなー」
「なにが?」
「頼まれれば嫌とはいえないっていうかさ、偉いよなー、俺なんかそんなの面倒くさくって」
「そうかなあ」
太郎はきょとんとして首を傾げた。
「山田さん、じゃこの用紙に名前と活動日時をかいてください。あのうー」
佐々木は心配そうに太郎を見た。
「山田さんは、どこのクラブの勧誘をするつもりなんですか?」
「まだわかんないんだけど」
「はあ、そうですかー」
佐々木はわかったようなわからないような顔をしたが、すぐにひとつ頷く。
「それじゃ他のところは白紙で結構です。とりあえず手続きはこれで完了ですから、届け日時で活動を行ってください」
「ありがとう」
太郎は佐々木に感謝を込めて笑いかけた。佐々木の頬がぽっと赤くなる。
「い、いいえそんなこと……頑張ってください」
「うん、じゃあな、松岡」
足取りも軽く去って行く太郎を、松岡と佐々木はやや呆然《ぼうぜん》として見送った。
「そうですか、それじゃそっちは大丈夫ですね」
図書館の自習室で太郎と並んだ清美はキーボードを叩《たた》きながらさりげなくささやいた。
「日時はどう届けました?」
太郎は靴下の穴を繕いつつ、届け用紙の控えを清美に渡す。
「一応取れるだけ届けたんだけど」
太郎はちょっと済まなそうに言った。
「その時間全部は、俺、いられないと思うんだ」
「大丈夫です」
清美は自信ありげに頷いた。
「何といっても山田さんがきっかけを作るってことが最重要ポイントですからね。一度網にかかってしまえば後は煮ようと焼こうとこちらの思うがまま、と……」
煮ると焼く、ふたつの味覚に触れる単語が太郎の唾液腺《だえきせん》を刺激する。太郎はずるっと涎《よだれ》をすすった。
「でも、きっちり追い込むまでは山田さん、手を抜かないでがっちりつかまえてくださいね」
「うん。その点は頑張るから」
「ええと、後は」
清美は手元のキーボードを叩いた。
「一人当たりの単価なんですけど」
「うん」
太郎はさりげなく視線を清美の前の液晶モニターに向ける。
「いくつかのクラブに打診してみたんですが、そのうち最高がこれで、最低がこっち」
「ははあ……」
太郎はもうちょっと身体を傾けて画面の数値を読み取った。太郎の頭の中で素早く必要な金額との換算が行われる。
「……ええと、もし安い方だとすると最低何人つかまえれば……」
「あたしとしては、上の数値で押したいと思うんですよ」
清美はモニターを見つめたまま言った。
「それで文句をいうところはないと思いますし、あたし、山田さんを安売りなんてしたくありません。山田さんだってせっかくみんなのために働くなら、それなりの評価を受けるべきじゃないですか」
「うーん」
太郎はちょっと考え込んだ。
「単価は高いに越したことはないんだけど、薄利多売って言葉もあるし、この場合どっちがいいんだろうなー」
お金の計算には人一倍シビアなはずの太郎だが、自分で値付けをするというのはめったにないことだけにどうも理性がなくなりがちのようである。太郎は悩んだ。
「? どうしましたか?」
怪訝《けげん》そうな清美に、太郎はぶつぶつ言っていたのを慌てて止め、にっこり笑顔を返す。
「その辺は君にまかしとけばいいかな?」
「もちろんですよ」
清美は頼もしく胸を叩いた。
「後は、絶対取りっぱぐれたりしないようにするってことですけど……」
「えっ!?」
太郎の顔色がさっと青ざめる。取りっぱぐれるなんてことがあれば、目標修正しなければならない。
「大丈夫ですよ」
清美は自信ありげにウインクした。
「うちの生徒で山田さん相手にそんなまねできる者なんかいません。いたりしたらあたしが只《ただ》じゃおきませんから」
太郎は悲しそうな顔をした。
「只じゃおかないって、なんか高い金を取るってことみたいに聞こえるよなあ、それってひとごとでも、耳に聞くだけでも嫌だなあ……」
うじうじしている太郎を尻目《しりめ》に、清美はてきぱきとキーを叩く。
「そうだ、せっかくだから聞いとこう。パソコンっていくらくらいするの?」
太郎は手を休めずにそっと尋ねた。
「ピンキリですけど……下は中古なら二、三万、物によってはただ同然から、上は百万以上いくらでもの世界ですね」
「げっ」
太郎はせき込みかけて清美をみた。
「ひゃくまんえん?」
「あ、いえ、そんなにするのは普通の人は使いませんよ」
清美も慌てて答える。
「一般的なマシンというと……そうですねー、二十万前後じゃないかな」
「はあ」
二十万円あれば、米が何キロ買えて、味噌《みそ》が買えて、卵にジャガイモに葱《ねぎ》に……。太郎の頭の中でいろんな物がぐるぐる回りだす。意識を失いそうになるのを、しかし太郎は『知ってて困ることはない』の貧乏精神を発動させて持ちこたえた。
「それで、その値段のを買えばなんでもできるんだ?」
「なんでもっていうと語弊がありますね」
清美はキーを叩いて画面を一つ閉じる。
「パソコンを知らない人って、何でもできるっていうイメージを持ってる人が多いんですけど、でも、そのなんでもって何かっていうと、具体的なイメージない人がほとんどなんですね」
「具体的なイメージかあ」
「山田さんはパソコン使って何をやりたいって思います?」
「なにってやっぱり」
お金を稼ぐこと、である。しかし、と太郎は頭をひねった。どうやって?
「うーん、どうやればいいのかなあ」
太郎の躊躇《ちゆうちよ》を清美は善意に解釈してくれる。
「でしょ? 大体の人がそうなんです。メールやりたいとかインターネットしたいなんていうのはいい方なんですよ。そうじゃない人はイメージ持ってるとすれば、今度は何だってできるってオーバーなイメージ持ってることが多いんですよね」
「っていうと?」
もともとイメージ皆無の太郎は、素直に疑問を呈する。
「そうですねー、例えば、どんな面倒臭い書類も簡単に出来ちゃうとか、いつでも何をしているときでも計算は自動的にやってくれるとか。実際に税金の計算とか形式が決まってる書類は確かに簡単に記入できて、計算もしてくれるソフトがあるんですけど、企画書とかプレゼンの資料とか、形式が決まってなかったり、画像をいれたりするのは結構大変なんです」
「あのさ」
太郎は改めて聞く。
「パソコンって買ってくればすぐ使えるんだよね?」
「使えはしますけど」
清美は自分の手元を覗《のぞ》き込んでいる太郎の真剣なまなざしに、ちょっと微笑むと太郎の言わんとしていることをちゃんと飲み込んで言葉を継いだ。
「もともとパソコン本体が空っぽだってことはご存じですよね?」
「うん、それは一応」
太郎は頷《うなず》いた。
「ただ、最初からそれじゃ使いにくいんで、一般的なパソコンはいくつかの標準的なソフトをセットにして売ってるわけです」
清美はキーを叩いていくつかの画面を続けてモニターに表示させて見せた。
「最初のが表計算ソフト、次のが文書作成ソフト、それと編集用のとか画像処理ソフト、インターネットなんかに必要な通信ソフト。それと、これらのソフトをちゃんと動かすためのOSっていうシステムソフトが入ってないと駄目なんです」
「ふーん」
「今時のパソコンはたいてい最初から文書と簡単な計算、それにインターネットくらいは出来るようになってますから、まあ普通の人がしたいことはだいたいできるんです。それ以上のことをしようとすると、専用に作られたソフトを買わなきゃならない」
「基本的なソフトで何とかするっていうのは、無理なのかなあ」
「無理じゃありませんけど、凄《すご》く面倒臭いか、専門知識が必要になるかのどっちかですね。常識的に考えたら、その時間と手間の代わりにさっさと使いやすいソフト買った方がましだと思いますけど」
清美は意味ありげな笑みを漏らす。
「まあ、ソフトは個人で使うくらいだったらお試しって感じで誰かに借りて使ってみるっていうのも多いですからね。ほんとは版権上いけないんですけど、バージョンがアップしたら自分で買うっていうことにでもして」
「ふうん、そんな手もあるのか」
「山田さんがパソコン導入したら、あたしいろいろお貸ししますよ。同じ目的のソフトでも物によって使い勝手が違いますから」
「うん、ありがとう」
太郎は頷いたが、ほっと一息|溜《た》め息をつく。
「でも、当分できそうもないなー」
そんな予算はないし、第一清美のいう通り、具体的なビジョンがあるわけでもない。一台あれば弟たちの勉強の役には立つかも知れないが。
「そうですか……」
清美はちょっと残念そうに太郎を見たが、ふと思い直して首を振る。
「でも確かに山田さんみたいな人望のある人はパソコンなんていらない、ううん、使っちゃいけないかも知れないですね」
「使っちゃいけない?」
太郎はびっくりして清美を見た。
「はい」
清美は力強く頷いた。
「あたし思うんですけど、山田さんをみてて確信するようになったんですけど、世の中にはパソコンとかそういう小手先の技術にかかわってはいけない人がいるんだって」
「は?」
太郎は首を傾げた。
「パソコンってデジタルですよね、デジタルは0か1か、オンかオフか、白か黒かって感じにどんなことでも二択で決めなきゃいけないんです。それは人間でも機械でもできることですよね。でも、それだけじゃない、それじゃ決められないアナログな問題が実際には一杯あるし、大事なのは大体こっちの方なんですよ。そういうことを考えられる人の、その才能はとっても大事なんだから、そういう人に誰でもできるデジタルなことなんかさせちゃいけないんです」
清美はぽんとキーを叩《たた》いて、画面を元に戻した。
「パソコンが何でもできるなんて大嘘。パソコンを道具だと思って割り切って使えるんならいいけど、山田さんみたいに今いろんな人といいコミュニケーションとれてて、想像力や判断力があって臨機応変になんでもできちゃう人には、どうしても必要でない限りお勧めしない、したくないです。そういうどうでもいいことは、あたしなんかがフォローすればいいことですから」
「でも、パソコンを扱えるってやっぱり才能だと思うけど」
清美ははにかんだ笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。山田さんにそう言われるとちょっとは嬉《うれ》しいかな? でもあたしが今言ったことほんとです。山田さんにとって、パソコンなんて時間の無駄ですから、自分からやろうなんて考えなくていいですよ」
「時間の無駄かあ」
太郎を説得するのに二番目に有効な単語『無駄』を、当の本人は噛《か》み締めるように繰り返した。因《ちな》みに一番有効な単語は、『もったいない』である。
「そんな暇があったら仕事一つ増やした方が早そうだもんなあ、ご飯食べるのに田植えからやってても飢え死にするほうが先だもんなあ」
太郎はぶつぶつと口の中でつぶやいた。
「ええと、それじゃ一応各部宛ての承諾書を用意しときますね。文書にしとけば絶対大丈夫ですから。これを部員引き渡しの時にサインして貰《もら》う、と。でも、繰り返すようですけど、山田さんを相手にしてそんな極道な真似できる人間、いないと思いますよ」
「えっ、そっそうかなあ」
太郎は慌てて相槌《あいづち》を打った。清美はさらにいくつか手早くキーを打ち込むと、ぱたんとパソコンを閉じる。
「それじゃ後は明後日《あさつて》、当日を待つだけですね」
清美は横目で太郎を見るとにこっと笑った。
「楽しみですね」
「うん!」
太郎は希望に満ちて頷き返した。
「おい、山田」
御村が呼んだ。
「あ、いつもどうもありがとう。美味《おい》しくいただいてます」
「えーっ、うれしい!」
「どういたしまして」
「それじゃまた明日。失礼しまーす」
新学期が始まって、太郎のもとにも恒例のお弁当が届き始めていた。太郎は満面の笑みを浮かべると、パステルカラーの花柄のナプキンに包まれたお弁当箱三個を大事そうにささげてくんくんと匂いを嗅《か》ぎながら、自分の席まで戻り、そうっと机の上に置き、それからやっと御村の方を振り返った。
「なんだ、御村?」
「…………」
春の陽射しを背に、太郎の軽やかな笑顔がまぶしく、御村はちょっと言葉を失うとそのままじっと相手を見つめてしまう。
「?」
太郎の顔がきょとんとした表情を浮かべる。それでいてまだ嬉しさの余韻が消えず、口元には和やかな笑みが残ったままだ。
御村はやがてくすりと笑いをもらした。
「? なんだよ?」
太郎は怪訝《けげん》な顔になると御村の方へ軽く顎《あご》を上げて見せた。
「いや……楽しそうだな、と思って」
「うん!」
太郎はぱっと表情を明るく戻して言った。
「ありがたいよなー、休み中はフルタイムで仕事ができんのはいいんだけどさ、俺も弟たちも現物入手がやや難しくなるもんだからさ」
「ほう」
「この川崎さんの筑前煮《ちくぜんだき》、おいしいんだよなあ。でもさ」
太郎が目を輝かせて言ったので、御村は何事かと続きを待った。
「もうすぐ新入生が入って来るだろ? そしたらまた何か違う料理が食べられるかも知れない、ってそう思うとほんとに新学期って期待が持てて前向きな季節だよなー」
「なるほど」
太郎にとってはそういうものかと、御村は再認識した。
「ところで御村、何か用だったんじゃないのか?」
「いや、たいしたことじゃないんだが、明日入学式だろ? その後どうなったかと思って」
「ああ、そのことかあ」
太郎は自信ありげに御村を見た。
「準備万端怠りなし」
「ふうん」
御村は気のないまなざしで太郎を見返す。
そして。
その日がやって来た。
「おはようございます!」
「おはよう」
「あっそこ、テーブルもうちょっと前に出しといて」
「器材は下のテープより内側に設置してくださーい」
「部室の方は準備いいの?」
「名簿用紙、足りるかな?」
早朝から校門の前はにぎわっていた。ずらりと両側に並べられた事務テーブルには、各部の名前や勧誘の言葉が書かれた横断幕が連なり、その周りには様々な恰好《かつこう》の生徒たちが集まっている。柔道部は柔道着、コーラス部は白のブラウスに黒のロングスカート、チアガール部は真っ赤なミニワンピース、応援団はボンタンだし、ヘビメタ研は隈取《くまど》りにとさか頭、家庭科部は割烹着《かつぽうぎ》姿、なぎなた愛好会は袴《はかま》に鉢巻き、鉄道研究会は駅員姿、ワンダーフォーゲル部はもちろん登山服でピッケルを持っているし、アニメ同好会はドラえもんにお茶の水博士にセーラームーンとコスプレ姿。かといって制服姿の各部勢力も負けてはいない。制服対衣装、現場はほぼ互角の様相を呈していた。
「山田さん、準備はいいですか?」
植え込みをかき分けて清美が顔を出した。そこは勧誘のテーブルが作る長い花道の突き当たりに当たる場所である。その植え込みを背にして、画板を首から提げて立っていた太郎は振り返ると頷《うなず》いた。
「準備はいいけど、大丈夫かなあ、こんなところで」
「大丈夫です」
清美は力強く言った。
「勝負が決まるのは入学式が終わった後です。ただし」
清美は釘《くぎ》をさした。
「我々の作戦では、今から三十分が大事ですからね、言っといたように、いいですね、山田さん、スマイルスマイル」
「うん、こんな感じでいいかなあ?」
太郎はにっこり笑った。朝日に照らされて髪が金色に透け、見る者にどこか神々しささえ感じさせるような無垢《むく》な笑顔に、清美は思わず絶句する。
「……山田さん……」
清美は一瞬|呆然《ぼうぜん》となった。太郎は笑みを浮べたまま、清美を見つめる。
「うっ」
物凄《ものすご》い視線の刃に貫かれて清美ははっと我に返った。青ざめた顔でそおっと太郎の肩越しに視線を移すと、ずらりと並んだテーブルの花道からぐさぐさと鋭い視線がつき刺さって来る。
清美は急いで後ろに下がった。
「あれ、何かまずかった?」
「いっ、いえそれでOKです。そんな感じでここを通る新入生に印象づけてください」
わざわざいうまでもなく、太郎に微笑みかけられて虜《とりこ》にならないものがいるとしたら、それは地球外生物かさもなければ、ただの石かどっちかだろう。問題があるとすれば、それを独占したいとも、思ってしまうことだろうか。
「山田くん……」
こちらはその様子を校舎の陰から窺《うかが》っている隆子である。隆子は一ノ宮高校内で二十パーセントを占めるといわれる帰宅部である。体育会系に行くほどの根性はなく、かといって文化部系はもっと性に合わず、やってみたいと好奇心はあってもいかにもハイソそうなアーチェリーだのフェンシングだのに手を出す勇気もお金もなし、というわけで当たらず触らずの高校生活をおくっているのだ。それもまたお気楽で楽しい高校生活ではある。したがって、他の二十パーセントの生徒と同様、入学式の喧騒《けんそう》とは無縁でいられる立場なのだが。
「山田くんったら、何であんなこと……」
隆子は太郎から目を離さないようにしながら気をもんでいた。図書館の密会以来、隆子はついつい太郎の動向に注目してしまう。そのたび、隆子ははっとしては首を振るのだが。
「駄目よ、駄目。貧乏は駄目だってわかってるでしょ、隆子。あたしの目指してるのは玉の輿《こし》なんだから」
今も隆子は我と我が頭をぽかぽかとなぐって戒めようとしていた。
「山田くんのことなんて、いっくら気にかけたって将来にはつながらないんだから。短い青春、そんな実のないことなんかしてる暇があるの? ないでしょ隆子」
しかし、隆子の目は立ち売りの駅弁屋のごとく画板をかけて立っている太郎から離れられない。太郎は手持ちぶさたそうにぼうっとした表情で空を見上げている。
春のそよ風が音もなく辺りを渡り、太郎の髪をふわりと吹き上げる。眩《まぶ》しそうに陽射しに手をかざした太郎は、くしゅっと一つくしゃみをした。その表情が子供のようで、隆子の胸はきゅっと痛む。
「やだもう。あたしってば」
隆子は両手で自分の頬をぱんと挟んだ。
「あたしには関係ないじゃない。いつまでも見てたって……」
「あれ、池上さん?」
タイミング良く、というべきか、太郎は目敏《めざと》く隆子を見つけると声をかけた。太郎の視力はいい。三十メートルはなれたところに落ちている十円玉を一瞬のうちに判別できる能力があるのだ。十円玉はその色のために地面等と溶け込んでしまうため、通常では近距離でも発見は難しいのだ。
「何してるの? こっちの方が暖かいよ」
「う、うん」
ひなたぼっこをしていたわけではなかったのだが、取り敢《あ》えず呼ばれたということで、隆子はそろそろと太郎のそばへ行った。
「うっ」
早くも『あの子なによ』の視線が全身につき刺さる。
「池上さんは、クラブ勧誘しないの?」
太郎は何気なく尋ねる。
「う、ううん、あたしはクラブ入ってないから」
隆子はちょっと後ろめたい思いで太郎から目を反らした。
「へえ、そうだったんだ」
「山田くんは茶道部の勧誘?」
「いや、そういうんじゃないんだけど」
太郎は頭をかいた。
「やっぱりクラブも入るんだったらその人にあったところに入った方がいいって、池上さんも思うよね?」
「う、うん」
「だったらそれをいろんなデータや何かからちゃんと見つけ出してあげれば、喜ばれるよね?」
太郎は一生懸命言った。太郎にとって喜ばれるイコール、客が集まるということになるのである。
「山田くんが人のために?」
一方隆子は一瞬自分の知っている貧乏暇無しの太郎を忘れて、善意の誤解に走る。太郎への思いが断ち切れない今、少しでもマイナス材料は忘れたいという深層心理によるものか。
「山田くんでもそういうことするんだ」
隆子は自分を納得させるようにつぶやいた。
「山田くん、少しは貧乏じゃなくなったのかもしれない。もしかして宝くじが当たるとか、一億円拾って三割くらい貰《もら》うとか、埋蔵金掘り当てるとか……」
「?」
ぶつぶつつぶやき続ける隆子を太郎はちょっと心配そうな顔になって見た。
「何か俺、まずいこと言ったかな? なにか問題ある?」
営業的に問題があっては困る太郎である。
「ううん、そんなことない!」
隆子はきっぱり言った。
「山田くんのいう通りだと、あたし思う。やりたいことをやるのも大事だけど、その人にあってないってわかったら、時間の無駄だったって後できっと後悔するもん」
「そうだよな! さすがは池上さん、わかってるよなー」
太郎は嬉《うれ》しそうに大きく頷《うなず》いた。
「やっぱりこの世で一番いけないのは時間を無駄にすることだよな。時間だけじゃなくて無駄は出来るだけなくさなくちゃ、お天道《てんと》様に申し訳ない」
「は、はあ」
話がいきなり大きくずれていってしまったのはわかったものの、もちろんついて行けない隆子は、生返事をするしかない。こういう時、太郎が貧乏だという以上に、太郎の考え方には無理してついて行かない方がいいのかもしれない、とふと思う隆子であった。
「ようし、無駄と無理をなくして、明るく楽しく学校生活を送れるよう、頑張るぞ!」
直訳して見よう。無駄な労力と無理な行動は避けて、たくさん稼いで明るい気分で楽しく学校に来ることが出来るように頑張ろう。
この場合、結果的には客である新入生の幸せも確保されるのだから、一石二鳥といってもいいかもしれないが。
「山田さん、そろそろ新入生が登校してきますから……」
植え込みの間から顔をだした清美は、太郎の隣に立っている隆子を見て、おやという表情をした。
「あっ、あのあたし、山田くんの同級生で……」
あわてた隆子はついしなくてもいい言い訳じみた物言いになってしまう。
「はあ」
眼鏡を直した清美の眼光に、隆子は身をすくめる。
「えっと、あの……そうだ、あたしにもお手伝いさせてください」
「えっ、池上さんいいの?」
太郎はぱっと明るい顔になった後で、切れた電球のようにまた表情を暗くした。
「あ……でも、バイト代は……」
「い、いいんです、あたし、山田くんのお手伝いができれば」
「そうですかあ?」
清美はうさん臭そうに隆子を見たが、今の一言でまた笑顔を取り戻した太郎を見ると、仕方なさそうに頷いた。
「わかりました。じゃあ、ええと、池上さん?は校門から入ってくる新入生をさりげなく山田さんの方へ誘導してください」
「さりげなく……」
「無理に引っ張って来るとかしなくていいですから……」
清美はちょっと思案顔になったあとで、ぱっと何かを思いついた表情になる。
「……そうだ、あれを使いましょう」
「あれ?」
首を傾げる隆子を引き寄せると、清美は何やら耳打ちした。
「ようこそ一ノ宮へ!」
「おめでとう!」
「これからは一緒に仲良くやっていきましょう!」
「いらっしゃーい」
最初に現われた新入生は、校門のところで立ち止まってしまった。目の前には百人を遥《はる》かに超える在校生が、一斉に満面の笑みと身振り手振りで出迎えているのだ。びびらないほうがどうかしている。
しかし、やがて後から次々にやってくる者たちに押されるように、新入生は構内へ足を踏みいれた。
「入学式は講堂で行われますので、中庭をお通りください。受付は講堂前にありますので、そこで記帳をお願いします」
アナウンスの流れる中、人波が校門から中庭へと続く。
「バスケット部へどうぞ!」
「フォークダンス部はあなたをお待ちしています」
「青春をかけるなら空手部」
「英語検定とって、将来に役立てよう! 英語研究会でーす!」
「楽しく過ごせるフレンドリーなドイツ語講読会」
「やっぱこれでしょう、サッカー同好会」
「テニス部で頑張ろう!」
「頭脳を重んじる君、囲碁部に来たれ!」
「これからのグローバルな趣味はなんといってもコントラクトブリッジ!」
「男子部員大歓迎、クラシック・バレエ愛好会へ来てね」
「一緒に甲子園を目指そう!」
「文化祭の主役は君だ! マジック研究会は待っている」
「体操部は新しい力を待っています」
「創造力は爆発だ! 美術部ではばたけ!」
「手作りクッキーのプレゼントもあります。家庭科部へいらしてください」
「そこに山があるから! 山岳部でロマンを語ろう」
「エアプレーン愛好会では、明日のパイロットを求めています」
「アウトドア同好会で自然に親しもう!」
「水泳部でーす。うちは温水プールだよーん。ジャグジーもあるよーん」
「応援団へ来れっ!」
「剣道部へどうぞー」
「ただ今全国三位、かるた部でーす」
「卓球部では次の高校生チャンプを育てます」
「漫画研究会では作品募集中」
「文芸部誌『いちのみやん』三十五号、発売中。部員も募集中」
「鍛えれば憂いなし、ボディビル研究会では小講堂でデモンストレーションを開催中」
「箏曲《そうきよく》部の演奏も是非聴いてってください」
呼び込みと様々な小楽器の音とが、賑《にぎ》やかに辺りを満たしている。
最初は驚いた様子だった新入生とその保護者たちは、校門から中庭へと進む間に次第に表情がほぐれて楽しそうになって行く。
「はい、新入生の皆さん、こちらでーす」
生徒会役員が先導している。
「各クラブの申込みは入学式終了後となっていますので、立ち止まらずにお進みくださーい」
ざわめきながら人波はゆっくりと中庭に向かって進んで行く。
「んしょ、よいしょ」
喧騒《けんそう》を傍らに校舎の陰を戻って来たのは隆子である。隆子はアルミホイルを張り付けた大きな、新聞紙位の大きさの板を重そうに担いでようやく植え込みの辺りまでたどりつくと、ぜいぜいと息をついた。人波はすぐ目の前までやってきている。
「……大変、急がなくちゃ」
隆子は息を整える間ももどかしく、銀色の板を掲げて太郎の斜め正面へと走った。
「んしょっと、こんな感じかな?」
ぎらりと銀板が陽を跳ね返して輝く。隆子はよろよろしながら、反射した光を太郎に向けた。太郎が眩《まぶ》しそうに目を細める。
隆子は片手を上げてOKサインを出して見せた。
太郎からOKサインがかえる。
植え込みから覗《のぞ》いた清美の眼鏡の反射がまるで反撃するかのように隆子の目を直撃し、隆子は思わず目をつぶった。
「ひえー」
しかし、効果は絶大だった。
「あれ?」
「なあに?」
スポットライトに照らされたように緑の植え込みの前に浮き上がる長身の太郎に、辺りの人の目がそろって引き寄せられる。しかもタイミング良く風が吹いて、その髪をなびかせ、眩しそうな顔の太郎をタレントのビデオクリップのように演出してくれる。
「あの人、誰?」
「素敵……」
「まあ、まあまあまあ」
まず新入生の方から一斉にどよめきが起こって、次にその全体が保護者込みでほうっと大きく溜《た》め息をついた。
「山田さん……」
在校生の中からも惚《ほう》けたような声が聞こえる。そののち辺りは一瞬しんと静まり返った。
「おはようございまーすっ!」
静けさを破り、太郎の元気な声が響き渡る。
ますます太郎への注目は集まり、そしてどよめきが広がった。
「あれって先輩?」
「あんな人がいるなんて……」
「一ノ宮に入ってよかった」
「まー、えらいまた美形な高校生やねえ」
「ねえねえあの人ってテレビとかでてるのかなあ?」
「かっこいいー」
新入生ばかりか保護者たちまでも、みんなして勝手なことを言いながら太郎を注目している。
「山田さん、今よ」
植え込みから飛び出すと、清美はメガホンを掴《つか》んで叫んだ。
「新入生の皆さん、ようこそ一ノ宮へ」
太郎の笑顔が隆子の手作りレフ板によって、神々しく浮かび上がる。
「皆さんはこれからの学生生活をどう過ごそうと考えてますか? 楽しく充実した青春を送るためには、あなたの適性にあった部活動を選ばねばなりません! 今日はこの山田さんを始めとする特別チームが、新入生の皆さんに的確なアドバイスをして差し上げたいと思います。ご希望の方は、入学式後山田さん、三年生のこの山田さんのところまでお集まりください」
「あの人山田さんっていうんだあ!」
誰かが叫んだ。
「素敵!」
「あたし、いこうっと」
「あたしも」
「ぼ、ぼくも」
どっとばかりに人波が動きだす。
「はい、入学式は中庭を通って講堂に向かってくださーい。入部案内は式のあとでーす」
「まもなく入学式が始まります。新入生と保護者の皆様、関係各位は至急講堂にお入りください」
タイミングよく、清美の後にアナウンスが流れる。校門から続く人波は、再び動きだした。太郎はにこにこしながら傍らを歩いて行く新入生たちを眺めている。まだ子供っぽい雰囲気を残した新入生たちは、いずれもあこがれのまなざしで太郎を見つめては、ぽっと頬を染めてそばを通り過ぎて行く。
「…………」
そよ風を受けて泳ぎかけるレフ板を必死に支えながら太郎に光を当てていた隆子は、ちょっと複雑な心境でいた。
「山田くん……」
どっちにしろ校内で一度太郎を見てしまえば、たちどころにファンになってしまうのは間違いのないところである。それをちょっとばかり早くする手助けを、隆子はしたというだけだ。隆子だってもともとは太郎に好意は十分に持っていたのだから、こうして太郎の人気を目の当たりにするのは決して悪い気分ではない。真剣に考えればライバルが一気に増大するのだから、歓迎せざる事態でもありはするだろうが、今の隆子はその点では平常心でいられる。はずなのだが。
「貧乏はだめなんだから」
隆子は蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「あのー、後で来ればいいんですか? それとも……」
「どうすればいいんですか?」
何人もの新入生が太郎のところで足を止め、取り囲んでいた。太郎はにこにこして応対している。
「はい、後でここに名前を書いてくれれば、すぐにご案内しますから」
「は、はい……」
「あたしあとで絶対来ます!」
太郎に優しく微笑みかけられて、尋ねた者だけでなく周りの新入生たちまで一斉にぽおっとなる。
隆子は胸中複雑なまま、汗をかきかきレフ板を支え続けた。
「でも……」
太郎がどう見ても貧乏に見えないところが問題なのである。隆子は苦悶《くもん》した。
「今は貧乏だけど、将来お金持ちになるって可能性も……」
なくはない。太郎の優秀な成績をもってすればむしろそうなって当然ともいえる。しかし。隆子は太郎の顔に我知らず見とれながら思った。今太郎が大貧乏なのは事実なのだ。そして、今日明日にそれは変わりそうもない。
「でもそれじゃ糟糠《そうこう》の妻とか辛苦を共にしとかそういうのになっちゃう。玉の輿《こし》とはいえないじゃない」
隆子は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。実は今の隆子は他に何の条件もつけないなら、『玉の輿』がそんなに難しいものではないことを知っていた。極端な年の差、とか顔の美醜は問わない、とかその程度譲歩すれば不可能ではないと、以前呼ばれたパーティで体験してしまったのである。だったらそれでいい、と割り切れないのが自分の弱さだ、と隆子は太郎を見る度に思うのである。
「まだまだ未熟なんだわ……」
「なにが? 池上さん」
「わあっ」
いきなり太郎の顔が迫って、隆子は飛びのいた。
「それ重かっただろ、もう下ろしていいと思うから」
太郎は言いながら隆子の手からレフ板を受けとって目を輝かせた。
「すごいなあ、これ、池上さん作ったの?」
「う、うん、家庭科室のアルミホイルもらっちゃった」
隆子はささいなことでも太郎に喜ばれたのが嬉《うれ》しくなる。
「こんなもんでいいのかなって思ったんだけど、でも上手《うま》くいったみたいだね」
隆子は手作りレフ板の跡が赤くついた手をひらひらさせながら言った。レフ板は、同じく家庭科室に置いてあったホワイトボードにアルミホイルを巻き付けて作ったため、結構な重さがあったのだ。
「大丈夫?」
太郎はひょいと隆子の手を取ると、赤くなったところにふうふうと息を吹き掛けた。
「山田くん」
隆子は真っ赤になる。
と、同時にまたしても『なによあの子』の視線の矢だの槍《やり》だのが、ぐさぐさと隆子の全身を刺し貫いた。
「このアルミホイル貰《もら》ってってもいいかなあ」
太郎は片手で持っていたレフ板を涎《よだれ》をたらしそうな目で見て言った。この隙のない貧乏根性は、余りにも善意と堂々たる態度に貫かれているため、多くの人の目に貧乏を感じさせない。隆子にもそれは同じで、そのために隆子はこうしてことあるごとに現実と理想の間で悩む羽目になるのである。
「何につかうの? 山田くん」
「いろいろ使えるんだ。今の季節だとやっぱり山菜系かなー。これで包んでちょっと日本酒か白ワインたらして七輪で包み焼き」
「わあ、おいしそう」
「他の材料、魚でも肉でも、味噌《みそ》でからめてから包んで焼くと網に味噌がくっついたりしなくていいんだ」
「ふうん、山田くん、料理上手いもんね」
隆子は感心して言った。太郎の料理の腕は、どらやきカルメラから謎の煮込み鍋《なべ》まで幅広いレパートリーを誇るのである。
「鍋に敷いて魚を焼くと焦げ付かないからクレンザーなんかが節約できるし、窓ガラスに貼り付ければ断熱効果もあるし」
太郎は嬉しそうに続けた。
「使い終わったら洗ってもう二、三回は使えるし、包丁やはさみで切れば刃の切れ味が簡単に戻るし、破けちゃったら、後は丸めてたわしの代わりに使えば、ゴボウの皮をこそげるのも鍋の焦げをとるのもあっという間なんだ」
「山田さん?」
植え込みから出て来た清美はアルミホイルを巻き取っている太郎と手伝っている隆子を見て目を丸くした。
「なにやってんの?」
見てのとおりである。
清美はしばし目を瞬《しばたた》いていたが、すぐに気を取り直して手にした端末のモニターを太郎に向けた。
「百三十三人まで確認できました」
「へえ、写真まであったんだ」
太郎は覗《のぞ》き込んでいった。画面には新入生のプロフィールが写真入りで示され、チェックされている。
「あたしの目で見てのことですからいまいち正確じゃないとは思うんですけど、出来る範囲でチェックしときましたから、後で実際に来た時多少早く対応できると思います」
「……すっごーい」
隆子がつぶやく。成績を始めすべてに人並みの隆子にとって、こういう最新兵器は未知との遭遇のようなものだ。
「このくらいは誰でも、といいたいところですけど」
清美はちょっと自慢気に隆子を見る。
「それよりツーレベルくらい上の話ですね。まあたいしたことはありませんけど」
「…………」
隆子は黙るしかない。
「それで」
アルミホイルを巻き取り終えて満足気な顔になった太郎は言った。
「この後はどうすればいい?」
清美はにっこり笑って頷《うなず》いた。
「もうレフとか使って無理に目立たなくても、客は向こうから来ますから。山田さんはそこに名前を書いて貰って順次あたしの方へ回してください」
清美はてきぱきと言うと太郎の肩越しに、ざわめきながらこちらを窺《うかが》っている各部の勧誘班を見やってにんまりとつぶやく。
「大丈夫、あたしたちにまかせとけば問題なし」
「え?」
「なんでもないなんでもない」
清美は怪訝《けげん》な顔をした隆子に向かってにやっと笑った。
「ところで池上さん、でしたっけ? この後もお手伝いいただけるんですか?」
「う、うん、山田くんがかまわないんなら……」
隆子は頷いた。取り敢《あ》えず、太郎の力になれるのだったらそうしたいとはいつも思っているのである。
「それじゃ、人数が増えたらこっちへ並ぶように誘導してもらえますか?」
「うん、わかった」
隆子は制服の袖《そで》をぐいとまくった。
そして、日が暮れた。
中庭の植え込みの陰では、太郎、隆子、それに清美が座り込んでいた。隆子と清美はさすがに疲れた顔をしていた。
「上手くいってよかったねえ」
太郎は疲れも見せず二人に機嫌の良い笑顔を向ける。
入学式が終わってからすぐに、太郎のもとには長い行列が出来た。新入生の何人に一人がそこにいたのか、とにかく相当の数の、太郎たちにとっては『お客さん』が押し寄せ、清美の電脳技術を駆使した素早い対応でも最後の一人の処理を終えるまでには、ついさっき、日が傾くまでかかったというわけだった。
「あーすごかった。どのくらい来たのかなあ?」
隆子は足を芝生に投げ出して溜《た》め息をつく。
「二百三十六人」
清美が即答した。
「ひえー、そんなに?」
「まあいい線だわね」
「でも新入生全部ってわけじゃないよね?」
「そうね」
清美はキーを叩《たた》いた。
「約三十パーセント弱ってとこかしら」
「ふうん。もっと来てたかと思ってたけど」
隆子はちょっと残念そうにいった。
「実際に並んでたのはもう少し多かったと思われるけど、まあ、立つ待つ並ぶが嫌いな人間もいるわけだし、こんなもんじゃない?」
清美は冷静な口調で言った。
「あたしたちの処理能力限界丁度ってとこだったし。もっといたらいくらなんでももうさばき切れなかったと思うわ」
言われてみればその通りである。隆子は納得して頷いた。
「じゃあ、明日はどうするの?」
「届け出は明日も出してあるけど……」
清美は太郎をみた。
「どうします? 山田さん」
太郎は一時空を見上げて何か考えていたかと思うと、清美に向かってにこっと笑い返した。
「俺はもう十分だけど」
清美はほっとした顔になった。隆子もやはり少しほっとする。このハードワークが二日続くのはいささかこたえる。
「そうですね」
モニターを眺めながら清美は頷いた。
「それじゃあ、山田さん、各部への請求書ですけど」
清美はキーを叩いて言う。
「あたしの方から出しておきますから、受けとってください。後でリストをお渡しします。山田さん相手に不義理を働く人間なんて校内にはいないと思いますけど、万が一、支払いにこないところがあったら知らせてください。しかるべき処置を取りますから」
「しかるべき処置って?」
思わず尋ねた隆子に、清美は黙って不気味な笑みを浮かべて見せた。あれだけの数の新入生の情報をいつの間にか入手している清美である。他のどんな秘密を知っているのか、聞いてしまうとかえって恐ろしいような気がして、隆子は重ねて尋ねるのをやめる。
「それじゃ、山田さん、どうもお疲れ様でした」
清美はスカートの草を払って立ち上がった。太郎と隆子も立ち上がる。
「うん、どうもありがとう」
太郎は清美に言うと、その手を握《にぎ》った。
「ほんとに助かったよ、パソコンって役に立つってこともわかったし」
清美はちょっと顔を赤らめて首を振った。
「そんなの……ただの機械ですから、使い方次第ってことです」
「俺にもそういう才能があったらなあ」
太郎は羨《うらや》ましそうに言った。
「そんなのいらないですよ」
清美がきっぱりと否定する。
「山田さんの才能はもっといろいろ凄《すご》いんですから、前にも言ったと思うけど、こんなつまんないことに消費するべきじゃありません」
太郎の凄い才能、を隆子は知ってはいたが、それはどうやら清美の知っているものとは違っているようである。調べられないことはないと見えた清美が、太郎が貧乏だということをどうやら知らないらしいのに気付いて、隆子はやはり太郎の才能はだれよりも凄いと密《ひそ》かに感心した。隠そうとしているわけではないのに、みんな善意の解釈をしてくれるため決して貧乏がばれない。これも一つの才能というべきであろう。
「それじゃ、失礼します。山田さん、あたしのわがまま聞いてくださって、本当にありがとうございました。すっごく楽しくて、勉強になりました。……池上さんも手伝ってくれてありがとう」
「い、いいえ、あたしなんか……」
清美はぺこっと頭を下げると植え込みの向こうへ消えた。
太郎と隆子はしばし呆然《ぼうぜん》とそのあとを見送った。
「はあ、御堂さんってすごいねえ」
「ほんとだよなー、俺も尊敬しちゃうよ」
やがてどちらからともなく、感嘆の声が漏れる。素直に感心する太郎を横目に、隆子は自分にもなにか太郎の役に立つ才能の一つもないものか、と改めて溜め息をつくのであった。
空は柔らかい青に抜け、桜の花びらが何処からか一片二片舞い落ちて来る。陽射しはうららかで、風も暖かい。
「おい、山田」
「……うん?」
御村は机に突っ伏してたった今まで眠っていた太郎に声をかけると、怪訝《けげん》そうな顔をした。
「どうしたんだ? やけに眠そうだが」
「うん……それがさあ」
太郎はあくびまじりに答えた。
「今、夜の土木作業もやってるもんだから」
「おまえ、こないだの新入生入部勧誘のギャラが入るから緊急出費の分は大丈夫だって言ってなかったか?」
「それが……」
太郎はどんよりと顔を曇らせた。
「かあちゃんが……」
「またお袋さんが?」
「うちの前で転んだばあちゃんを送ってくって、タクシー呼んじゃったんだ」
「そのタクシー代にギャラが化けたっていうのか?」
御村は怪訝な顔をした。
「その位どうってことないだろう?」
「それが……」
太郎は暗い顔で言いよどむ。
「ばあちゃんち、浜松でさ。かあちゃん、おみやげだってウナギの蒲焼《かばや》き買って来るし」
「そいつはご愁傷さま」
御村は笑いをこらえながら言った。
「あああああ」
太郎はがっくりと机に突っ伏した。
二時限目のチャイムが鳴る。御村は太郎の背中をぽんと叩《たた》いた。
「あとであんぱんおごってやるよ」
「ほんと!?」
太郎はがばっと起き上がると目を輝かせて御村を見つめた。
「ほんとだ。へそに桜の塩漬けの入ってるやつ」
御村はまた笑いをこらえて太郎の頭をくしゃっとかき回した。
[#改ページ]
第二話 真夏のでりしゃす・しーさいど
海は広いな美味《おい》しいな。
山田太郎は機嫌よく、焼けてきたたこやきをひっくり返した。
ここは、湘南《しようなん》のとある海岸。
おりしも海水浴シーズン真《ま》っ直中《ただなか》の砂浜は、今日も景気良く一杯の人出だ。その端っこに位置する海の家、屋根にでっかくペンキで磯《いそ》の屋と書きなぐったバラックの店先で、太郎は額に浮かぶ汗も清々《すがすが》しく働いていた。
「はい、いらっしゃーいっ! 焼きたてですよー!」
ねじり鉢巻きにランニングシャツ、父のお古の腹巻きに楊柳《ようりゆう》のパッチというテキヤの基本を押さえたスタイルも、容姿端麗|明眸皓歯《めいぼうこうし》頭脳|明晰《めいせき》な太郎にかかってはニューファッションとしかいいようのないさわやかなものに見えてしまう。
「きゃー、ひとつくださーい」
「あたし、ふたつ!」
「こっちは三人前ちょうだい」
店の前に人垣をつくって太郎の手元、いや顔を一心に見つめていた女の子たちがわれ先にと声を上げる。
「はいはい、まずひとつ、次がふたつ、それから三人前っと」
太郎は手際良くたこやきをスチロールの皿に並べ、にっこり微笑みとともに手渡す。
「まいど!」
笑顔を真っ直ぐに向けられて、受けとる少女たちは一様に頬を染め、目を潤ませて太郎を見る。太郎はと言えば、営業スマイルは欠かさないものの、最大の注意は代金をちゃんと貰《もら》うことと、おつりを間違えないこと、お金にのみ注がれている。
盛大な商売繁盛とあっては笑いも止まらない、というところである。これで売上があがるならスマイル0円の大サービスくらい何ということはない。太郎は笑みを絶やさず目にも留まらぬ速さで鉄板に油を敷き、生地を流し込んだ。
じゅうううう。
しゃりしゃりしゃり。
店の反対側では涼しげな音が響く。
「かき氷もありますよー。いちごにレモンにメロンにみぞれ、ミルクとアイスクリームのオプションもありまーす。豪華宇治金時も美味しいですよー」
太郎に同じくねじり鉢巻きをして一生懸命叫んでいるのはすぐ下の弟、次郎である。
「浮輪にパラソル、デッキチェアは早い者勝ちー」
店の横に並べて積み上げた色とりどりの浮輪の前で、三郎、よし子、五子、そして六生に七生も声を張り上げる。
まだここへ来て数日だというのに、弟妹《きようだい》たちはもうすっかり小麦色に日焼けしていた。
海の家ひと夏住込み管理経営。
このバイトを紹介してくれたのは、いつもながら顔の広い親友御村託也である。
いつもの夏休みだと、太郎は朝から晩までバイトに忙しく、また当然のようにお金もないので弟妹たちをどこかにつれて行くことなど思いもよらない。ところがこのバイトなら一石二鳥。バイト料が貰えるのはもちろん、宿泊料もただだし、岩場に行けば海苔《のり》だの蟹《かに》だの小魚が取れるし、近くの漁港へ行けば漁師さんたちから新鮮な魚は貰えるし、それをみんな夏休みの絵日記に描けるし。喜ぶ次郎たちを見て、太郎は心から御村に感謝していた。
地理的には不利なこの海の家も、太郎の存在によってまず女の子たちが集まり、また女の子目当ての男の子、おじさんまでもがやってくることにより、みるみる売上が伸びていった。人が集まっていればそれだけでやってくるおばさんも押し寄せ、今では浜一番の繁盛店となっていた。
これならボーナスも期待できるのでは。太郎は密《ひそ》かに期待したりも、する。ついでに新聞配達のバイトも、この地区の配送所を紹介してもらって確保してある。太郎に、ぬかりはない。
ところで。
残る山田家の一員、母・綾子はどこにいるのかというと。
ざわつき汗ばみココナッツオイルの香りもべたつく夏の海水浴場の雰囲気を、そこだけ違った空間にして、その人は、いた。
にぎわう磯の屋から少し離れた砂浜の外れに立てたパラソルの下に、優雅に腰を下ろして物思いにふける、その人こそ綾子である。
ベージュの砂に直に座り、ときおり軽くはためくシンプルな白い綿モスリンのワンピースの裾《すそ》から白い素足をのぞかせ、潮風に緩くウェーブした髪を揺らせて、綾子は遠いまなざしを水平線辺りに向けている。
「あのう、お一人ですか?」
「あら?」
はっと振り返った綾子に、おずおずと声をかけた中年の男は柄にもなくといった表情でちょっと頬を赤らめた。
「あの、何か飲み物でもいかがですか? オレンジジュースとか、あっ、何がお好きかなあ……」
チェックの海水パンツの上にちょっぴり出てきたおなかを乗せ、まだ全然日焼けしていない体に白いパイル地のパーカーを羽織って青いゴム草履を履いた男に向かって、綾子はにっこり微笑んだ。
「わたし、インド人が、好き」
「は? イ、インド人、ですか?」
男は目を白黒させた。
「あらごめんなさい」
綾子は長いまつげを瞬《しばたた》いて、にっこり首を傾げて見せた。
「わたし、ちょっとインドのことを考えていたものだから。芸術を究める旅に出るとしたら、インドってとってもふさわしいと思いません?」
「えっ? ええ、そ、そうですね」
男はとりあえず頷《うなず》く。
「ね?」
我が意を得たりと頷く綾子の目の前に、ラムネの瓶が差し出される。
「どうぞ、あなたのお好きな良く冷えたラムネですよ」
口髭《くちひげ》を生やしたやせた中年男性が、パーカーのおじさんをじろりとねめつける。
「まあ、ありがとう」
綾子は水滴に覆われた瓶を受けとりながら、口髭の男に念を押す。
「ちゃんとそこのお店で買って来て下さった?」
「もちろんですとも」
口髭の男は、女の子の群がっている太郎の店を振り返って額の汗をぬぐった。
「あなたのおっしゃるとおりなんとかあそこで」
「あっ、じゃあわたしは何か食べるものでも買ってきましょうか」
パーカーの男はあわてて言った。
「君はこの方の知り合いかね?」
口髭の男は怒ったように言った。
「い、いえ、そういうわけでは……たまたま通りかかったらこの人がひとりぼっちでいたから……」
「ふん、ただの通りすがりか」
男は口髭をひねって言った。
「あっ、お嬢さん、たこやきやっと買えましたよっ」
こんどはバーコード頭のおじさんがやってくる。
「まあ、ごちそうさま」
「おっと、熱いから気をつけて……」
綾子の隣に膝《ひざ》をついてたこやきの皿をささげ持つおじさんを、先のおじさん二人がむっとした顔で見つめる。
「ちょっと、君」
「いちごミルクでよろしかったですね」
別のおじさんが山盛りの氷いちごミルクを抱えて小走りにやってくる。
「えっ、宇治金時も好きだっちゅうたやないですか」
鶴みたいな骨と皮のおじさんがすっとんきょうな声を上げる。
「おねーさん、ほら」
ぶっきらぼうに言ってウーロン茶を差し出したのは、高校生くらいの少年だ。
おじさんたちと少年はにらみ合う。
そんな様子には頓着《とんちやく》せず、綾子はほうっと溜め息をついて視線を水平線にさまよわせる。
「和夫《かずお》さん……あなたも海が大好きだったわね……こうしていると昔みたいに和夫さんが海の向こうから泳いで来るような気がするわ……」
綾子は涙ぐんで膝においた巻き貝の殻を取り上げ、耳に当てる。
「……わたしの耳は貝の殻、海の響きを懐かしむ……和夫さん、わたしに声だけでも聞かせてちょうだい……」
ひとり浸り切る綾子の姿に、おじさんたちはうっとりと見とれた。
ともかく。
山田家は海で幸せに暮らしていた。
恵みの海とはまさにこのことである。
「こんちわーっ、焼きそばちょうだいっ!」
「とうもろこし下さーい」
太郎の前へ駆け込んで来るや、先を争って一際目立つ二人の少女が叫んだ。
ひとりはこんがり日焼けしためりはりのきいたボディを蛍光色のマイクロ・ビキニに包んだ、というか辛うじて覆うべきところは覆った、派手な目鼻立ちの少女。
かたや、色白の肌に濃いブルーのマーブル染めのワンピースをまとった和風美人といった風情の少女。
「はい、まいど」
太郎は二人に向かってにっこり笑いかけた。
「あっ、太っ腹なねーちゃんたちだ」
次郎たちは二人を横目で見てささやき合う。
太郎たちがここで働き始めて以来、毎日のように現われては、豪快な買いっぷりを披露しているのが、彼女たちである。そのお目当てが太郎であることは、露骨に明らかであったが、もちろん太郎にとっては有り難いお客さん以外の何者でも、ない。
「あたしが先だわよ」
ビキニの少女が今気がついたといわんばかりの態度で、ワンピースの少女を見下ろした。
「とうもろこし、焼けてます?」
知らん顔でワンピースの少女は太郎を見つめた。
「とうもろこしはもうちょっとですね」
忙しく手を動かしながら太郎はにこやかに答えた。ワンピースの少女ははにかんだように頷《うなず》く。
「待ってます、わたし」
「ちょっと、なに気取ってんのよナミ」
ビキニの少女がふんと鼻を鳴らしてワンピースの少女をつつく。
「なれないしゃべり方すると舌|噛《か》むわよ」
「余計なお世話だかんね、加奈子《かなこ》」
ナミはじろりと横目で相手をにらむと、低い声で言い返した。
「あっと、あんたの名前、フルネームで呼んだげた方がよかったっけ?」
にやっと笑って声を大きくするナミの肩を、加奈子は後ろからぐいとつかんだ。
「いったあい」
「もう一回言ってごらん、ただじゃおかないから」
「ただ?」
太郎の目がきらっと光って加奈子たちを捉《とら》える。
あわてて笑顔を繕うと、加奈子はナミの耳に口を寄せてささやいた。
「あんたこそ余計なお世話はやめとくのね。ふん、恰好《かつこう》つけたってすぐに化けの皮なんかはがれるんだかんね」
「ふふん、それは加奈子の方でしょ」
「あたしのどこが皮かぶってるっていうのよ」
加奈子は肩をすくめて言った。
「全身ー」
ナミはべろっと加奈子にだけ見えるように舌を出した。
「もう三枚くらい脱皮したんじゃない?」
「ふんっ、二枚舌!」
二人の言い合いをよそに、仕事に心を戻した太郎は、たこやきの傍ら焼きそばを作り、返す手で反対側のグリルに並べたとうもろこしをひっくり返す。
「よしよし」
軍手をはめた手でとうもろこしを三本まとめて持つと、太郎はしょうゆだれの入ったほうろう容器にどっぷりつけてから火の上に戻す。
しゅうううう。たれが火に落ちて香ばしいかおりが辺りに漂った。太郎は大きなへらを両手に持つと、焼きそばの山をよいしょとひっくり返した。
「はい、焼きそば上がりますよ、おいくつですか?」
「あっ、はいっ、十人前っ」
ぱっと笑顔を向けて加奈子は言った。
「あたしはとうもろこし二十本だかんね」
間髪を入れずナミも注文する。
「すいませーん、ラムネ下さー……」
脇から声をかけた別の少女を、加奈子とナミはにらみ付けて黙らせた。
「はいっ、ラムネですねっ」
元気良く応じて次郎が栓を抜いたラムネの瓶を差し出す。
「焼きそば十人前、はい、熱いですから気をつけてくださいね」
太郎は十枚のスチロールトレイに盛り付けた焼きそばを器用に重ねて加奈子に手渡す。
「うん、大丈夫。さんきゅっ」
重ねたスチロールトレイを両手一杯に抱え、加奈子は太郎に色っぽくウインクした。
「まいどありがとうございます」
心からの営業スマイルを返しつつも、太郎の視線は加奈子のウインクに留まることなく、早くも次の作業に向かって行く。
「とうもろこし、二十本ですね」
焼きたてのとうもろこしに刷毛《はけ》でさらりとたれを塗り、一本ずつ入れるためのポリ袋を手にして太郎はちょっと首を傾げる。
「これじゃ、まずいな」
太郎はつぶやくと、次郎に大きめの手提げぶくろを広げさせ、そこにスチロールトレイを並べるとその上にとうもろこしを並べて入れた。二十本入れたところで、重さを見てもう一枚袋を重ねると、太郎は袋の口を閉じないようにしながら注意してナミに手渡した。
「ちょっと重いですから気をつけて。香ばしさがなくなっちゃいますからね、湯気をこもらせないようにして、なるべく早く食べて下さい」
「はーい、わかりました」
ナミはしっかり太郎と目を合わせて微笑み返した。
「まいどありがとうございます。はい、お次は? 焼きいか? 出来てますよ」
てきぱきと応対を続ける太郎に、加奈子とナミは品物を抱えたままじっと見つめる。
しかし押し寄せる人波は容赦がない。
「ちょっとあんたたち、用が済んだらとっととどきなさいよ」
どすの利いた声とともに、ぐいと太い腕が加奈子たちを押し退けた。
大仏パーマのおばさんが、鼻からずり落ちかけたサングラスのフレームの上から、不機嫌そうな目付きで加奈子たちをにらみ付けて、太郎の前へずいとのし出て行く。
「あたし、焼きいかと焼きそば、あとおでんもちょうだい」
おばさんは太郎に向かうなり、いきなり半オクターブくらい高い声を出して言った。
「その次あたしねー」
別のおばさんが間をおかず続けて言う。
「えーっと、なんにしよーかなー、焼きそばもおいしそーだけど、とうもろこしは歯にちょっとねー、ビールとー、あーらおにーさん、いい男じゃないのー、えーと、そこの袋に入ってるさきいかとポップコーンと、あとフランクフルトソーセージなんかももらっちゃおうかなーどうしようかなー」
加奈子とナミはおばさんの幅広の背中をうんざりした顔で眺め、それから太郎の顔を見てほっと溜め息をついた。
「あったしにも、フランクフルトソーセージ、ちょーだいっ」
更に加奈子たちを野太い声が押し退ける。
抜群のプロポーションにやたらと高い身長は、一瞬モデルかと思わされる。ところが、真っ赤なハイビスカス柄のパレオつき水着に身を包んだその人物は、髭剃《ひげそ》り跡も青々としている。
「はい、フランク、何本ですか?」
「……一本」
がっしりした肩をくねらせ、栗色に染めたウェーブヘアを揺らして、その、元というか今もというか、男性は熱いまなざしで太郎を見つめながら、頬を赤らめて小さな声で言った。太郎は相変わらずの営業スマイルでソーセージを渡すと、焼きいかと焼きそばを手にしたおばさんに愛想《あいそ》良く声をかける。
「おでんはなににしますか?」
「そうねえ、こんにゃくに大根、ごぼう巻きと……」
「たこやき下さい」
「氷いちご」
客はとぎれもせず、加奈子とナミは仕方なくその場から一時退却した。
人だかりを抜けて二人は太郎を振り返る。
「山田くんって、ほんとーに素敵」
ちょっと背伸びして太郎を見つめながら、ナミは溜め息をついた。
「あんたなんかに言われなくたって、誰が見たって山田くんはぴかいちだわよ。他のとこのバイト連中なんて目じゃないわね」
当然、といった口調で言いながら、加奈子は浜に並んだ他の海の家にちらりと視線を投げ掛けた。どこも夏休みのせいか高校生くらいのバイトが店先に立っている。人出が多いので、どこもそれなりに客はいるが、太郎のところほど繁盛している店はない。
「ただのこ汚いガキだもんねーあんなの。山田くんと比べるなんて冗談も休み休みは日曜日、ってとこかなー」
ナミはうっとりと言った。
「噂には聞いてたけど、やっぱ一ノ宮の、それも特待生ってほんとにレベルが違うんだー」
「当然でしょ」
加奈子は素っ気なく言った。
「育ちが違うってやつ? きっとどっかの御曹司《おんぞうし》とかだよ。玉の輿《こし》とかって言うけど、あんたなんかじゃレベル違い過ぎて話にもなりゃしないわね」
「そういう加奈子は、自分なら釣り合うって言いたいわけ?」
ナミは険悪な表情になって言った。
「加奈子んちみたいなお庶民そのものって商売のうちの、どこが山田くんと釣り合うって言うのよ?」
「お庶民そのものだからこそ、玉の輿が成り立つんじゃない。お庶民にも程度ってもんがあるでしょうが。あんたんちと一緒にはしないで欲しいわね」
「うちこそ一緒にされたくなんかないかんね」
ナミは加奈子をにらみ付けた。
「だいたい加奈子んちなんて年がら年中いつが正月だかわかんないようなぱっぱらな生活でしょ、ちゃんとしたおうちっていうのは伝統行事を大事にするもんだかんね。釣り合うどころの話じゃないって」
「あんたんちなんて夜の商売じゃない」
「昼間もちゃんと営業してるもん。これからのサービス産業は二十四時間営業が基本なんだかんね」
「だらだらやってればいいってもんじゃないでしょ」
「まあ加奈子んちはど派手な看板に二十四時間働いてもらってるらしいけどねー」
加奈子はナミをにらみ返した。
「うちは正々堂々昼間の商売だからね、あんたんとこみたいに薄暗いとこが得意の商売よりはずーっと健全だわよ」
「ギャンブルのどこが正々堂々なのよ、知ってる? 加奈子んちの業種って脱税率ベストスリーに入るんだよ」
「よそがどうかは知らないけどね、うちは毎年ちゃんと申告してて優良企業の表彰だって……」
「ねーちゃん」
いつの間にやって来たのか、次郎が二人を見上げている。加奈子とナミはきょとんとして次郎を見下ろした。
「焼きそば、こぼしたら勿体《もつたい》ないぜ」
次郎は加奈子が抱えた焼きそばの山を指差した。重ねたトレイの端からはみ出した焼きそばが、こぼれ落ちそうになっている。
「はいこれに入れて、ねーちゃん」
次郎はナミのとうもろこしが入っているのと同じ大きさの手提げ袋の口を広げて加奈子に差し出した。
「こんなことじゃないかと思ってたんだ」
次郎は加奈子の手から慎重にトレイを一つずつ取っては袋に入れながら言った。
「食べ物は大切にしないといけないって、あんちゃんいつも言ってるからさ。これでもう大丈夫だよ」
「あ、ありがとう」
加奈子はずっしりと重い大量の焼きそばの詰まった手提げ袋を受け取って言った。
「ねーちゃん、こんなに沢山あんちゃん特製焼きそばが食べられて、いいなあ」
よだれを垂らさんばかりに焼きそばを見つめる次郎の横顔を見て、加奈子とナミは顔を見合わせる。
「ねえ、きみって山田くんの弟?」
「うん」
頷《うなず》いて二人を見上げる次郎の顔立ちは、太郎に良く似て目もとが涼しい。
「向こうの子たちもみんな弟妹《きようだい》?」
「うん。みんなであんちゃんのお手伝いしてるんだ」
次郎は胸を張って言った。
「ふうん」
「加奈子」
ナミが加奈子の脇腹をつついた。
「山田くん攻略のチャンスだよ」
「そっか」
加奈子も頷く。
なにしろさっきからとぎれる事のない人だかりを見てもわかるとおり、太郎を巡るライバルの数は老若男女、合わせれば浜辺の砂より少し少ないだけである。少しでもリードするためには手段を選んではいられない。
別にこの場合|悪辣《あくらつ》な方法を取ろうというのではないのだが、まあ加奈子たちにしてみれば逃すべからざる絶好の機会と言うわけである。
加奈子はにんまり笑うと、次郎に話しかけた。
「次郎くん?」
「なに? ねーちゃん」
次郎はずるっとよだれをすすって加奈子を見た。
「あたしたち、次郎くんに教えてもらいたいことがあるんだけどなあ」
「?」
次郎はちらちらと加奈子の手元の焼きそばを見ながら首を傾げた。
「ただでなんて言わないかんね、このとうもろこし、半分上げちゃう」
「ほんと?」
次郎は目を輝かせて素早く振り返り、今度はナミの手元の袋を穴が開くほど見つめた。
「ちょっとナミ、せこいんじゃない? どうせなら全部上げなさいよ」
「加奈子こそあたしにだけ取引させといて情報横取りなんて、せこいの極致だよ。それにね、あたしは山田くんの焼いて手渡してくれたとうもろこし、ちゃんと食べるんだかんねー」
加奈子はかっとした表情でナミに詰め寄った。
「なにいってんのよ、あたしが言おうとしたこと、あんたが先取りしただけじゃない。あたしだってちゃんと焼きそば半分上げるっていうつもり……」
「ほんと? ねーちゃん」
次郎は喜びに目を潤ませて加奈子とナミを交互に見た。
「ほ、ほんとよ」
加奈子たちは気圧《けお》されてちょっと引いてしまう。
「ねえ、御曹司の弟妹《きようだい》ってことは、この子も御曹司なわけでしょ? どうして焼きそばくらいでこんなに感動してんの?」
加奈子がナミにささやく。
「そんなんあたしにわかるわけないかんね。あっ、そうだ、さっき食べ物は大切に、とかなんとか言ってたよ。やんごとないおうちほどそういう事を大雑把にしないって、この間テレビで言ってた」
「本当?」
加奈子は疑わしそうに次郎から人だかりの向こうの太郎に目をやる。
「こんなぼろ屋でバイトしてるのも……?」
「社会勉強のため、とか」
「そんなもんかなあ」
いいながらも加奈子は太郎の顔を見るなり深く考えるのをやめたらしい。
「ねえねえねーちゃん、何を教えればとうもろこしと焼きそば、貰《もら》えるの?」
「簡単よ」
加奈子は言った。
「山田くん、きみのお兄さんがどんなタイプの女の子が好みか知りたいの」
「どんなタイプの?」
次郎はきょとんとして首を傾げた。
「そう。女優さんだと誰みたいな、とか」
次郎は更に首を傾げた。
「女優さん?」
「わかんないかなあ」
こんどはナミが首を傾げる番だ。
「例えば、今トレンドの山淵智子《やまぶちともこ》、なんかどう?」
「山淵智子……って?」
「知ってるでしょ、チョコレートのコマーシャルとか一杯出てるじゃない」
「ごめんねーちゃん、俺んちテレビってあんまり見ないんだ。電気勿体ないし」
「?」
加奈子とナミは何の事かと顔を見合わせた。
「わかった」
ナミがささやいた。
「やんごとないおうちでは、テレビなんて俗っぽいもんは見ないんだって、こないだテレビで言ってた」
「あーそお」
加奈子はやれやれと首を振った。
「んじゃそういうのはなしにして、山田くんの好みとしては、見たとこ可愛いタイプかな、それとも美人タイプかな?」
「えーとねえ」
次郎はお預けを食らった犬のようによだれをたらしながら、一生懸命考えた。
「あんちゃんは人は見かけじゃないっていつも言ってるよ」
「外見にはこだわらない、ってことね」
加奈子たちは頷いた。
「じゃあ性格的にはどんなのがいいのかなあ」
「えーと、世の中悪い人はいないって」
「性格にもこだわらない、と。山田くんって心が広いんだー」
ナミは嬉《うれ》しそうに言った。
「だからって誰でもいいって訳じゃないでしょ? 山田くんが好きな人のポイントはどんなところ?」
「うーん……」
次郎は腕を組んで、うなった。
加奈子とナミもつい一緒に力が入る。
「どんなー?」
「……あっ、親切な人は好きだよ」
「親切な、人」
「それとねえ……」
焼きそばにちらりと向けた次郎の瞳《ひとみ》が、きらりと光った。
「そうだ、あんちゃんが絶対に好きな人ってねえ」
「うんうんうん」
「美味《おい》しそうな人!」
次郎は天を指して自信たっぷりに宣言した。
「…………」
言われた意味がとっさにはわからず加奈子たちは目を瞬《しばたた》いた。
「美味しそうな、人?」
「うん!」
次郎は力強く頷いた。
「ねえねえねーちゃん、教えたんだからこれ貰《もら》ってもいい?」
「う、うん、いいわよ……」
「わーいっ」
次郎は大喜びで二つの袋の中身を半分ずつ入れ替えて、片方を抱き締めた。
「ありがとう、ねーちゃんたち」
「いーえ、どういたしまして」
加奈子たちは声をそろえて言った。
次郎は感動の面持ちでよだれを拭《ふ》き拭き加奈子たちを見上げる。
「ねーちゃんたちって本当に太っ腹なんだね。あんちゃんもいいお客さんだっていつも喜んでるよ」
「本当?」
加奈子とナミは嬉しそうに声をそろえた。
「うん、毎日来てくれて一杯買ってくれて有り難いって」
「わー、作戦成功だったんだ、ばっちり印象つけられたってことね」
ナミは手を叩《たた》いて言った。
「俺たちもみんな、ねーちゃんたちのこと、太っ腹なねーちゃんたちっていつも言ってるんだ」
「あははは、加奈子はただの出っ腹なだけだけどね」
「なによ、どこが出てるっていうのよ、みてみなさいよ!」
加奈子はビキニのお腹をナミに向かってぐいっと突き出した。
「そういうあんたこそ、隠してるけど実はぷよぷよの幼児体型のくせに」
「言うだけ言ってればいいんだもんねー。ほんとのことは、あたし山田くんだけに知ってもらえればいいんだもーん」
「なーにいー?」
状況を必要以上に想像したらしく、加奈子は真っ赤になってうなった。
「それじゃあね、どうもごちそうさまでした。明日もまた来てね、太っ腹なねーちゃんたち。ばいばーいっ」
「ばいばーい」
大きな袋をしっかり抱えてかけ戻って行く次郎を見送って手を振ってから、二人は顔を見合わせた。
「美味しそうな、人?」
「美味しそうな?」
「人?」
繰り返して二人は首を傾げた。
「美味しそうな人?」
「……って、どういうこと?」
「さあ……」
顔を見合わせたまま二人は、はっとお互いの立場に気付いて表情をひき締めた。
「ちょっと待ってよ、なんであたしがあんたの質問に答えなくちゃならないわけ?」
加奈子が言った。
「誰も加奈子に聞いてなんかいないかんね」
ナミは加奈子をにらみ返した。
「加奈子こそ、あたしに教えてほしいっていうんじゃないの? どうしても、って言うんなら考えてあげてもいいけど?」
「へーえ、じゃああんたは美味しそうな人ってのがどういうのかわかってるってことね」
加奈子はそんなわけがないと確信したような言い方でナミをにらみ付けた。
「そんな事くらいわかんないなんて、ほんとに加奈子ったら名前通りのお利口さん」
「言ったわね」
加奈子はぎりっと歯がみした。
「わかった振りでも何でもしてるといいわよ。あんたこそ後で泣きついて来たって教えてなんてあげないからねっ」
「ふん、望むところよっ」
翌日。
朝のひんやりした空気が、みるみるうちに昇って行く太陽に灼《や》かれて、かっと肌を叩き付け始める頃。
すでに砂浜を八分ほど埋めた人の間を、白く輝く一つの影が歩いて来る。
誰もが振り返るその姿は。
ナミである。
ナミの白い肌が惜し気もなく日に晒《さら》され、辺りの注目を集めているのだ。
昨日の清楚《せいそ》なお嬢さんファッションから想像も出来ないほどに過激な、露出度の高い黒のレース製の水着は、ナミの真っ白な肌を妖艶《ようえん》にひき立たせていた。長くたらした黒髪が半ば背中を覆うことによって、ともすれば何もつけていないのではないかと錯覚しそうな分量の布の存在が、辛うじて支えられている。黒いサングラスでその表情がうかがえないのも、また見るものの想像力をかき立てるようで、一度向けられた視線はナミから離れようとはしない。
作戦通りである。
ナミは自分の解釈が正しかったと確信して、内心大きく頷《うなず》いた。これなら絶対太郎の求めるタイプそのものだ。
美味しそうな人、とは。
色気たっぷりで押し倒したくなるようなタイプの、人。
スポーツ新聞で、よく女の人のことを美味しそう、と形容している。辞書を引いたら味がよい、と出ていたが、考えてみれば人食い人種でもない限り、実際に人間の味見をするわけにはいかないのだから、言葉通りに取ったら大変なことになる。
となれば。
スポーツ新聞を読み込んだナミは、結果美味しそうな人、すなわち色っぽい人、との結論に達した。あとは実践あるのみである。
過激な水着を着た時には相当恥ずかしかったが、サングラスをしてしまうとそれは半減し、更にこうして注目を集めてみると、もはや快感とさえ思えてしまう。
調子に乗って、ナミはひょいと腰を振り、モンローウォークで歩いてみる。黒のサンダルのピンヒールが砂に刺さって歩きにくいので、ナミは慎重にバランスを取りつつ、真っ直ぐに磯の屋に針路を取った。
磯の屋の前にはもう人が並んでいる。
その向こうにかいまみえる白いねじり鉢巻きを見て、ナミはくっきりルージュで色どった口元を微笑させた。
一方、加奈子も負けてはいなかった。
人は見かけではない、という太郎の言葉をヒントに、まず見た目のことを言っているのではない、と判断。ストレートに美味《おい》しそうなというのは、言葉通り食べて美味しいもののことだ、と解釈したのである。なかなかいい勘である。
しかし、幾ら太郎にあこがれているとはいえ、実際に自分の身体を食べられるのはちょっと痛そうだ。麻酔をかけてもらう手も考えたが、ウエストや足の脂肪は取ってもらいたいところだが、胸はこれ以上減ってほしくないし、傷跡が残るのも嫌だ。第一、それでは太郎は人食い人種ではないか。現代日本に人食い人種の御曹司《おんぞうし》、というのもいないと加奈子は思う。
行き詰まった加奈子は暫《しばら》く悩んだ末に、はたと膝《ひざ》を打った。
本人が美味しい訳ではなくても、美味しいものを連想させるような人であればいいのではないだろうか。そうだ、それに違いない。
自分自身が太郎に美味しいものを想像してもらえる人になるためには。
あんぱんだの、食パンだののコスプレを考えたが、それでは美味しそうなものそのものに自分がなってしまう。加奈子はこの案を却下した。
たっぷり太って美味しそうな豚さんだの牛さんだのを想像させる、というのも考えてはみたが、いくら太郎が見た目にはこだわらないといっていても、こちらは加奈子のプライドが許しそうもない。それに今から太るのでは時間がかかり過ぎる。
加奈子はじっくりと考えた。考えに考え、そしてまた考えた。一生のうち考える時間はすべて使い切ったのではないかと思えるほど、加奈子は考えた気がしたが、まだいい考えは浮かばない。
すると。
どこからかカレーの匂いが漂って来た。
そう言えば、少しお腹も空《す》いてきたし、美味しそうな……と、思った瞬間加奈子はひらめいたのである。
これだ! と加奈子は長袖《ながそで》のシャツをひっかけると外へ飛び出した。
「はい、いらっしゃい」
額にうっすら汗を浮かべて次の客を見た太郎は、おや、と目を見開いた。
「もしかして、いつもの?」
「うふん、ナミでえす」
くにゃり、と腰をくねらせてナミはサングラスを外し、太郎にウインクした。
「ああ、いつもと違うから見間違えたかと思いましたよ、まいどどうも」
太郎はにこっと笑って言った。
「今日は何にします?」
「ええっと……ねえん」
色っぽく色っぽくと念を押すようにナミは身体をくねらせて乗り出し、太郎に身をよせようとした。
「あっ、危ないですよ、そこに触ると火傷《やけど》します」
太郎は鉄板の縁《へり》を指して言った。
「なにに、しようかしらん」
真っ赤なルージュをマリリン・モンロー張りに半開きにして、ナミは太郎を流し目で見る。昨夜、レンタルビデオで特訓した成果である。
しかし、いつの間にかナミの周りにはぽっかりと空間が出来ていた。完全に自分の世界に入っているナミには、さすがのおばさん軍団も太郎ファンの女の子たちもそしておじさんたちですら引いてしまったようである。もちろん、ナミはそんなことには気付いてもいない。
ひとり、一向に動じていないのが、誰あろう太郎である。
「たこやきもとうもろこしも焼きいかもおでんもそろってますよ。あっそうだ、今日からおでんの具にちくわぶが入ったんです。やっぱりおでんにはちくわぶがなくちゃいけないですよねっ」
「あらん、じゃあ、それ、いただこうかしらん」
「はいっ、おいくつ?」
「そうねえん、ラッキーセブンで、七つ」
「はい、ちくわぶ七つ」
太郎はパックにお玉でちくわぶをすくい上げた。
「あとは?」
「なにがいいかしらん、あなたの、おすすめわん?」
「そうですねー、大根はもうちょっと煮た方がいいかも……はんぺんに昆布巻き、バクダンにつみれ、たこも美味しいですよ」
「美味しい?」
ナミは精一杯の色気を込めて、太郎にしぱしぱと瞬《まばた》きを送った。
「あれ? 目にごみでも入ったんですか?」
言うなり太郎は身を乗り出してナミの顔を覗《のぞ》き込む。
目の前に太郎の顔が迫り、息がかかるのを感じてナミの鼓動は高まった。
「ああ、これかなー」
太郎は言うと、ひょいと指先を伸ばしてナミの目元から何かを摘《つま》み上げた。
「まつげ一本、入ってました。もう大丈夫ですよ」
「あ、ありがとう」
ナミは呆然《ぼうぜん》と答えた。せっかく太郎と接近できたというのに、なにか違う気がする。
「おでんはちくわぶだけですか?」
「え、ええ……」
いつもならおばさんにせかされるところだが、今日ばかりはしんとしている。ナミはなんとなく居心地の悪い思いでちょっと焦った。
「さ、さっきのおすすめ、全部五個ずつ。それと焼きそばと焼きいかも五つずつ下さい」
「はいっ、全部五個ずつですね、まいどっ」
太郎は威勢よく言っててきぱきと品物を整えた。
「ありがとうございます! お次の方、なんにしますか?」
ずっしりと重い袋を両手に提げ、ナミは疲れた表情で立ち尽くした。
「あのねえ、あたしもちくわぶ貰《もら》おうかなあ」
いつしかナミの気迫は消滅していた。と同時におばさんたちがいつもの調子で前へ出る。
何か間違っていたのだろうか。
ナミはひとまず退却することにして、太郎の前を離れると、自問した。
美味しそうな人そのものの自分を、太郎が熱いまなざしで見つめないのはなぜか。
それは太郎が仕事中だったからだ、とナミは思った。
御曹司たるもの、ビジネスとプライベートの区別はきちんとつけなければいけないに決まっている。そんなことにも気付かなかったなんて、とナミはちょっと反省した。
勝負はアフターファイブに決まる筈《はず》だ。
それまで美味しそうな人によりなりきる努力をしなければ、と決意したナミは太郎の見えるところを選んで腰を下ろした。
「!」
そのナミの目に、加奈子の姿が映る。
加奈子がジーンズに長袖《ながそで》の綿シャツを羽織っただけなのを見て、ナミはひそかにほくそ笑んだ。あの恰好《かつこう》のどこが太郎のタイプだと言うのだろう。勝つのは自分だ、とナミが確信した時。
「あっ」
店先にたどり着いた加奈子を、なぜか周りの人々が避けるように遠巻きにした。その加奈子を、これまたなぜか太郎が嬉《うれ》しそうな笑みを浮かべて店内へ手招きしている。
「なんで?」
ナミは立ち上がる事も出来ずに、呆然とつぶやいた。
「ちょっとそこで待っててね」
店の奥の小上がりを指すと、太郎は忙《せわ》し気に店頭に戻って行く。
「は、はい」
加奈子は緊張のあまりちょっと声を震わせて答えると、着替えや休憩をしている客の間を抜けて、言われた場所へ上がった。三畳位の広さしかないそこに置かれたちゃぶ台の前に、とりあえず座る。
頑張って研究した甲斐《かい》があったというものである。こんなにすぐに太郎に誘ってもらえるなんて。加奈子は胸をどきどきさせながら、客をさばく太郎の後ろ姿を振り返った。
「あっれーっ、おねーちゃん、いい匂ーい」
「ほんとだー、いい匂いだねー」
少し栗色がかったさらさらの髪が太郎にそっくりな、愛らしい顔立ちの二人の子供、六生と七生が加奈子のそばへやって来て鼻をくんくんさせた。
「そ、そう? そんなにいい匂い?」
加奈子は自分の匂いをくんくん嗅《か》いでみた。
今朝からずっとこの匂いを全身にまとっているので、すっかり鼻が慣れてしまい、自分の匂いを感知する事が出来ないのだ。
「うん!」
二人は声をそろえて頷《うなず》いた。
「太っ腹なおねーちゃんが、こんなに素敵だなんて、あたし今まで全然気がつかなかった」
「僕も」
六生と七生はよだれをすすりながら、加奈子を見つめて言った。
「あんちゃんが今まで気がつかなかったなんて、信じらんないね」
「うん。もっと早く気がついてくれればよかったのに」
加奈子は感動に胸が熱くなった。太郎に認められたのも嬉しい上に、こうして弟妹《きようだい》たちまで応援してくれるとなれば鬼に金棒、まぐろにわさび、自動車にはABS、てなものである。これでもう玉の輿《こし》は目前だ。
「わあ、ねーちゃんいい匂いだなー」
古びた電気|釜《がま》を抱えて次郎と三郎がやって来た。
「ほんと。たまんないねー」
箸《はし》と茶碗《ちやわん》を持ったよし子と五子もやって来てよだれをたらしつつ、加奈子に鼻を近付けた。
「あんちゃんが、先に始めてていいって」
「そうか。じゃあ、ねーちゃん、頼んだぜ」
「?」
加奈子が首を傾げる間もなく、次郎はご飯をよそった茶碗と箸を持って構えた子供たちに配る。加奈子には、ない。
「え? あたしの分は……?」
戸惑って太郎を振り返ろうとした加奈子は、次の瞬間恐怖に青ざめた。
ばくばくばくばく。
はぐはぐはぐはぐ。
次郎以下六人の子供たちが、一斉に加奈子の方へ乗り出し、凄《すご》い勢いでご飯を食べ始めたのだ。
「なっ、なんなの? これ」
「旨《うま》いぜ、ねーちゃん」
「このたれは、海岸通りの稲毛《いなげ》屋だね」
「な、なんでわかるのよ?」
加奈子は戦慄《せんりつ》した。
美味《おい》しそうな人と言われるためには、美味しそうな匂いを身につけるのが早道、と加奈子は美味しい匂いとしては最も人口に膾炙《かいしや》している鰻《うなぎ》を焼く匂いを体に染みつける作戦に出たのだ。そのために半日、鰻屋の前に居座ってしっかり香ばしいかおりを染み込ませて来たのだが。そのまさに居座った店こそ、三郎の言ったとおり海岸通りの稲毛屋だったのである。
三郎は美味しそうにばくばくご飯をたべながら、にやりと笑った。
「あんちゃんがそう言ってたんだ。俺もそうだと思ってたけど」
「あっ、あたしも!」
五子が言った。
「お代わり」
次郎がよそっている間にも、五子はうっとりとした表情で加奈子に顔を寄せる。
「脂ののり方がこの辺じゃ一番だよね」
「白蒸しで脂を落とし過ぎないのがポイントじゃないかなー」
よし子が言った。
「ねーちゃんも目が高いよな」
「うんうん」
加奈子は感心しつつも呆然《ぼうぜん》と、よだれをたらして鰻の匂いを味わいつつご飯をたべる次郎たちを見た。
「一緒にご飯でも、ってそういうことだったの?」
加奈子は太郎を振り返ってつぶやいた。
「あっ、次郎が終わったら代わるから。もうちょっと待っててね」
振り返った太郎の口元によだれの気配が光るのを認めながらも、その笑顔は加奈子の胸をときめかせた。たとえおかずとしてでも太郎の役に立つならそれでもいい、と加奈子は思わされてしまう。
はぐはぐはぐはぐ。
しかし、玉の輿への道がこんなに険しいものだとは。御曹司《おんぞうし》の世界を庶民が理解するのは難しい。
加奈子はうっすらと涙ぐんで、ご飯をかき込む子供たちに嗅がれ続けた。
日が落ちると浜辺に人影は見えなくなる。
海の家もみな店仕舞いして従業員も帰って行き、賑《にぎ》やかなのは磯の屋だけになった。
「浮輪の数は?」
「異常なし」
「パラソル異常なし」
「デッキチェア、異常……一台異常あり」
「えっ」
片付けをしていた次郎たちは一斉に六生のところへ集まった。
デッキチェアの一台の足が折れている。
「あーあ、返してもらった時に気がつかなかったのか?」
「うん、ごめんなさい、次郎あんちゃん」
六生は悲しそうに言った。
「きっとあのお相撲さんみたいな人だよ。あたし、危ないと思ってたんだ」
五子が言った。
壊れたところを調べていた次郎は、六生に向かってにこっと笑いかけた。
「この位だったら、あんちゃんに直してもらえるからな、大丈夫だ、泣くな六生」
「うん」
「あっ、あんちゃんだ」
七生が店先へ駆け出して行く。
「お帰りなさい、あんちゃん」
「ただいま」
「あんちゃん、どうしたの? その人」
入って来た太郎の背中に誰かが背負われているのを見て、次郎が尋ねる。
太郎はほっそりした白い身体をそっと椅子に下ろすと、その足元にかがみ込んだ。
「そんなに腫《は》れてはいないな。念のため湿布しておこう。次郎、救急箱」
「はい、あんちゃん」
ナミは、てきぱきと動く太郎たちを見ながらまずは成功とほくそ笑んだ。
昼間仕事中の太郎にアタックするのは不可と察したナミは、日が落ちるのを待っていたのだ。日中加奈子が太郎に誘われて店に入っていったときはどうなるかと思ったが、暫《しばら》くして出て来た加奈子がげっそりした表情をしていたところからすると、先を越された訳ではないらしい。それならと、ナミはこうして新たなる作戦を開始したのである。
太郎が毎日夕刊配達のバイトをしていることは調査済みだったので、ナミはその帰りを狙《ねら》い足をくじいたふりをしたのだ。
太郎はすぐにこうしてナミをつれ帰り、手当てをしようとしてくれている。
「すみません、ご迷惑かけて」
ナミはしおらしく言いながら、くじいたと言ったほうの足をかばうふりをして、スカートの裾《すそ》をさりげなくたくしあげた。
「気にしなくていいんですよ」
太郎は言いながらボウルにいれた小麦粉に救急箱から取り出したびんから白い粉を加え、水でこねた。怪訝《けげん》な顔で見ているナミに、太郎はにっこり微笑みかけた。
「小麦粉と硼酸《ほうさん》で湿布すれば、すぐ治るからね」
「あ、ありがとう」
真っ直ぐに向けられた笑顔が眩《まぶ》しくて、ナミは我知らず頬が熱くなるのを感じた。
太郎はこねたものを布に塗り広げ、ナミの足首に張り付けた。包帯を巻く太郎の髪が裸電球に天使の輪を描くのに見とれながらも、ナミはさりげなく際どい所までスカートを上げて太ももの内側を覗《のぞ》かせる。
「これでよし、と」
鮮やかな手つきであっという間に包帯を巻き終わると、太郎はナミを見上げた。いきなり目の前に太郎の顔があって、ナミはどぎまぎしてしまう。
「痛む?」
「う、ううん」
ナミは慌てて首を振った。もとよりちっとも痛くなどはないのが、太郎にそう言われると痛いような気さえしてくるから不思議である。
「なら良かった。でも無理はしない方がいいな。送って行くけど、もう少し後でもいい?」
太郎は遠巻きにしている次郎たちを見て、申し訳なさそうに言った。
「先に弟たちに晩めしを食わせてやりたいんだけど」
「あの、あたし待ってますから。いえその、一人で帰れるし」
「その足じゃ無理だよ。良かったら一緒に食べて行きなよ」
「本当?」
ナミは有頂天になりかかるのを必死に抑えて、色っぽい、筈《はず》の流し目で太郎を見つめた。
「うん。今日はたくさん貰《もら》えたし、少しだけどいかも売れ残ってるから」
「わー、あんちゃん、今日は豪華版だね?」
次郎たちは手を叩《たた》いて叫んだ。
「じゃあ、俺は火をおこすから、みんなは魚を海草で包むんだ」
「はーいっ」
何が始まるのかと、ナミは興味津々で太郎たちを見守った。
砂浜に出た太郎は、集めてあったらしい流木を積んで焚《た》き火を始めた。一方次郎たちは、バケツの中から取り出した大小様々の魚を、色とりどりの海草で包んでいる。
「あんちゃん、出来たよー」
いくつもの包みを抱えて次郎たちが太郎に駆け寄って行く。
「うん、上手に出来たな」
太郎は、焚き火をそっくり横へずらすと、今まで焚き火がたかれていたところの砂を掘り、出来た穴の中へ魚の包みを並べた。それから太郎は次郎たちにも手伝わせて穴を埋め、もう一度その上に焚き火を戻した。
「これでよし。しばらく待つんだぞ」
「はーい、あんちゃん」
一斉に答える次郎たちの顔を、焚き火の炎があかあかと照らしだした。微笑んで見守る太郎に、ナミはほうっと溜め息をつく。
「そういえば、かあちゃんは?」
太郎は辺りを見回して言った。
「なんか、別荘にご招待されたから行って来るって」
六生が言った。
「お土産ちゃんと貰ってくるからね、って言ってたよ」
七生が嬉《うれ》しそうに続ける。太郎はちょっと苦笑して頷《うなず》いた。
「わかった。みんな、ご飯の前にシャワーを浴びておいで」
「はーい」
子供たちは再び一斉に元気良く答えると、シャワー室へ走る。
「ああ、こっちにいた方がいいな」
言うなり太郎はナミの後ろへ回ってするりと両脇に手を伸ばした。そのまま抱き締められたら、とナミの鼓動が大きく打つのと同時に、太郎は後ろから椅子ごとナミを軽々と持ち上げて、焚き火の前へ運び出した。
「もう少しだからね」
炎に照らされた太郎の端整な美貌《びぼう》が間近に迫って、ナミは言葉を失ってしまう。
しかしナミの気持ちなど一向に気付く様子もなく、太郎は向きを変えてすたすたと歩み去りながらTシャツをくるりと脱いだ。
「う……」
意外に逞《たくま》しい太郎の背中に、ナミは息を呑《の》む。
「こら、遊んでないでちゃんと洗いなさい! 次郎、耳の後ろが暗黒地帯になってるぞ。六生、シャワーを人に向けない!」
「はーい、あんちゃん」
「あっ、七生、石鹸《せつけん》落としたー」
「あんちゃん、背中がかゆいー」
賑《にぎ》やかな兄弟たちの声を聞きながら、ナミはぼうっとしている場合ではないと、色っぽく見える姿勢を研究する。レースのキャミソールワンピースの大きく開いた胸元を、もうちょっと引っ張って見たりも、した。
「さて、もう出来たと思うけど」
やがてみんなと一緒に太郎が戻って来た。
太郎は濡《ぬ》れた髪をタオルで拭《ふ》きながら、焚き火の加減を覗き込む。水滴の一つ一つに炎が踊って、この世の物とも思えない妖《あや》しい美しさを描きだし、ナミはまたしても言葉を失う。
「うん、よし」
太郎は頷くと、先ほどと同様に焚き火を移した。黒く焦げた砂を丁寧によけてゆくと、やがて湯気の立つ海草の包みが顔を現わす。
「熱いからな、気をつけるんだぞ」
太郎は次郎たちが持った皿の上に、一つずつ包みを載せてやる。
「お代わりあるから、あわてないでゆっくり食べるように。火傷《やけど》するなよ」
「はーいっ」
太郎は中くらいの包みを一つ載せた皿を、ナミにも差し出した。
「おひとつどうぞ」
「あ、ありがとう」
受けとってナミは、ふわりと立ち上る潮の香りに目を見張った。湯気を上げる深緑色の海草を、そっと開くと中からはふくふくと身がはじけた鰺《あじ》が現われる。箸《はし》もフォークも貰っていなかったので、そっと指先で触って見ると、魚の身は火傷するほど熱くはない。
見回せば、子供たちも太郎も、指先を器用に使って身を口へ運んでいる。ナミもそれに倣って一切れ摘《つま》み上げて口にいれた。
「美味《おい》しい!」
「でしょ」
太郎が顔を上げてにこっと笑いかけた。
「何にも味付けなんかしてなかったのに、どうしてこんなに美味しいの?」
手を止められずに食べ続けながらナミはそうつぶやいてしまう。
「海草の塩分とミネラル、それになんといっても素材の新鮮さが物を言うんだと思う」
ばくばくと大口を開いて頭から魚を食べながら、太郎が言った。
「さっき漁港に帰って来た漁師さんから貰ったばっかの魚だからね」
それにしても、とナミは嘆息した。
「魚なんて毎日食べてたけど、こんなお料理の方法があるなんて、全然知らなかった。凄《すご》い、おしゃれだなー」
やはり、やんごとなかったりおハイソだったりする人のやることは違う、と感心しつつ更なる誤解を深めるナミである。
「あんちゃん、お代わり」
「お、はやいなよし子。よし、今度はいかにするか?」
太郎に取ってもらう間、ナミの方を眺めていたよし子は、皿を受け取るとつと近付いてナミの頭を覗《のぞ》き込んだ。
「?」
「おねーちゃん、その髪飾り本物の貝?」
「ああ、これ?」
ナミは頭に手をやって貝殻のついたピンを抜いた。
「本物の貝よ」
差し出されたピンを手にとって、よし子は目を輝かす。
「わあ、やっぱり」
「何がやっぱりなの?」
よし子はきらきらした瞳《ひとみ》でナミを見た。
「人魚姫の髪飾りだ、これ」
「えっ」
ナミは一瞬ぎくりとした。隠し通すつもりの秘密がばれたのかと内心うろたえる。
「ど、どうしてわかるの?」
「あのね、本で読んだの」
よし子はうっとりと貝殻を見つめて言った。
「読書感想文の宿題で読んだアンデルセン童話の挿絵のとおんなじ」
「あ、ああ、そうなの」
ナミは冷や汗をぬぐう。
「ばれてるのかと、思った」
「え? なんか言った、おねーちゃん」
「ううん、何でもない。人魚姫かあ」
改めて貝殻を見たナミは、ちらりと太郎に視線を投げてからほうっと溜め息をついた。
「人魚姫ってかなわぬ恋に命をかけちゃうんだったわよね。なんか今のあたしとシンクロしちゃうなー」
よし子は目を瞬《しばたた》いてナミを見る。
「おねーちゃん、もしかして人魚姫なの?」
「ほとんどそんなようなもんだかんねえ」
報われない恋に身を焦がす、と言う点では同じだと、ナミは切ない目でいつの間にか姿の見えなくなっている太郎を探した。
「やっぱりそうなんだあ」
よし子が言うのと同時に、次郎たちの視線が一斉にナミに集中する。しかも、下半身に。
「あ、あらどうしたの?」
色っぽくし過ぎて子供たちには刺激が強かったかと、ナミはあわてた。
次郎たちは貪欲《どんよく》な目付きで魚を持ったままじわり、とナミを取り囲み一斉に舌なめずりをした。
「?」
「人魚姫ってさ」
次郎が言った。
「半分魚なんだから、美味しい筈《はず》だよね」
「どの辺まで魚なのかなあ」
五子が言った。
「どんな味がするのかなあ?」
「いわし? あじ? さんま?」
「それとも、さばかなあ、ツナかなあ」
「美味しそうだねえ」
子供たちは指でナミの足をつついて目を輝かす。ナミはぞっと青ざめた。
潮風がさあっと吹きわたり、そしてずるずるという不気味な音が聞こえて来て、ナミの恐怖を更にあおる。
と。
「あっ、あんちゃん!」
食べかけの魚を握り締めたまま振り返った次郎たちの前に現われたのは、大汗をかいて巨大なゾウガメを引きずった太郎である。
「わーっ、それ、どうしたの?」
焚《た》き火のそばまで引っ張ってこられたゾウガメに、たちまち子供たちが群がる。六生などは早くもその小山のような背中によじ登った。
「なんか気配がしたからいってみたらこいつがいたんだ」
太郎はにこにこしてゾウガメを見た。
「ねえねえあんちゃん、この亀美味しいの?」
「この辺りなんか肉付きが良くて食べでがありそうだねえ」
よし子がゾウガメの太い足をなで回しながら言った。ゾウガメはぎくっとして身をこわ張らせた。
「そうだな、海亀のスープは天下一品だって聞いたことがある」
「ほんと!?」
次郎たちは一斉によだれをすすった。
「あっ、でもねあんちゃん」
六生が叫んだ。
「亀を助けると竜宮城へ連れてってもらえるんだよ、そいで竜宮城では鯛《たい》やひらめが食べ放題なんだって」
「食べ放題?」
次郎たちのよだれはとどまるところを知らず、ナイアガラの滝のごとくどうどうと流れ続けた。
ゾウガメはおびえた表情で後ずさるが、太郎に後ろを押さえられて逃げられない。
「赤海亀よりも青海亀の方が旨《うま》いと聞いたけどなあ」
太郎はゾウガメをしげしげと眺めた。
「てんかいっぴんのスープと、鯛やひらめの食べ放題と、どっちがいいかなー」
次郎たちは魚を食べつつ、ゾウガメを見つめて真剣に悩んでいる。どちらも同じくらい食べでがありそうだと、ついナミも思ってしまう。
「そろそろ送って行こうか」
太郎に言われて、ナミはあわてて頷《うなず》いた。
月明りが行く手を明るく照らしている。
太郎の背中に頬を押しつけてナミはにんまりとほくそ笑んだ。ほんのりお日様の匂いがする洗い晒《ざら》しの白いTシャツに、ナミはぴったりと身体を、特に胸の辺りをさりげなく密着させてみたりもするのだが、先方は何も感じた様子もなく、辺りをきょろきょろ見回している。
「あそこのよろず屋さん、よくまけてくれるんだ。野菜は新鮮だし、肉もいいとこの切り落としを置いてるし」
「あそこの親戚《しんせき》は肉の卸屋だからね」
「へえ、そうだったのかあ。どうりで牛脂なんか気前良くくれるわけだ」
「それって、すき焼きの時に使う白い塊の脂?」
「そう。炒《いた》めものの時、ちょっと混ぜてやると味に深みが出るんだ」
太郎は言いながら、道の端に向かって進んで行く。
「あっ、ここにこんなにのびるが生えてるじゃないか。甘草もあるなあ。これ、つぼみをてんぷらにすると旨いんだよなあ」
太郎がよだれをすする気配がする。
ナミは半ば呆気《あつけ》に取られながらも、このチャンスを逃すまいと気合いをいれ直した。
やがて二人の前方にピンクの吹き付け塗装の大きな建物が見えて来た。角の向こうにちらりとピンクのネオンがかいまみえるが、ナミは慎重に計算して太郎を導き、建物の裏口へと向かわせる。
「へえ、君んちって大きな家なんだね」
太郎はビルを見上げて言った。
「う、ううん、たいしたことないよ、こんなぼろホテ……」
ナミはあわてて言葉を飲み込んだ。
「どうしようか、部屋まで連れてったほうがいい?」
振り返って尋ねる太郎のどアップにナミの心拍数は跳ね上がる。
「う、うんっ、お願い」
太郎は優しく微笑むとドアを開け、ナミの言うままにダークレッドの絨毯《じゆうたん》敷きの廊下を歩き始めた。
「ええと、その先の、三つ目の部屋」
ナミはドアの上の赤いランプが消えているのをこっそり確かめて、言った。
「ここ?」
「うん」
太郎は何のためらいもなくドアを開けると、ナミを背負ったまま室内に足を踏みいれた。
「へえ、凄《すご》い部屋だね」
太郎は感心したように見回して言った。
「そ、そうかな……」
薄暗い照明に浮かび上がっているのは、まず部屋の真ん中にどーんと置かれた巨大な円形のベッドである。ベッドにはダークレッドのビロードのカバーがかけられ、真っ白なカバーのかかった二つの枕が妙に眩《まぶ》しい。壁紙は赤とピンクの縦ストライプで、天井にはシャンデリア、マホガニーのローテーブルと革張りのソファが置かれ、その隣にはやはり木目調の冷蔵庫とカラオケセットが並んでいる。
「なんでもあるんだね、あっお風呂《ふろ》までついてる!」
太郎は入ってすぐ横にあった、黒い大理石張りのバスルームを覗《のぞ》き込んで羨《うらや》ましそうに叫んだ。バスタブはハート型でジェットバスである。
ナミは胸をどきどきさせながら、次の瞬間を待った。
一わたり室内を見回した太郎は、ベッドに背を向けてナミをそっと下ろそうとする。
すかさずナミは太郎の胸に手を回してそのままベッドに引き倒した。
「わ」
「…………!」
ふわん、と柔らかいベッドに二人の身体が折り重なって沈み込む。思わず目をつぶったナミは、闇雲に太郎の身体にしがみついた。
二人の動きが止まる。目を開いたナミは真上から見下ろす太郎の優しい表情に胸が一杯になって、もう一度静かに目を閉じた。
が。
何も起こる気配は、ない。
そうっと目を開けたナミは、太郎が今度は心配そうな顔をしているのに気が付いた。
「大丈夫? 足、痛いの?」
太郎は身を起こしてナミの足首を確かめる。
「そんなに腫《は》れてはいないようだけど、骨に異常があるといけないから、お医者さんに行ったほうがいいかもしれないな」
そうじゃなくて、とナミは身を起こすと太郎の腕をつかんだ。訴えかけるように太郎を見つめる。そして。
そして、どうしたらいいのか。
ナミは自らの経験不足を痛烈に自覚した。
どうすることも出来ないでいるナミを、太郎はきょとんとして見返している。
「お、ここだここだ、さあ今日はゆーっくり……」
いきなりドアが開くと同時にがらがら声が響き渡った。
ナミは飛び起きると大慌てで太郎の手を引っ張って部屋の外へと飛び出す。
「うわっ、なっ、なんなんだ?」
「きゃあ」
小太りのはげたおじさんと、茶髪の縦ロールヘアのお姉さんとが、びっくりして飛びのくのを尻目《しりめ》に、ナミは全速力で走った。
「どうもありがと、それじゃっ」
なんとかそれだけ言うと、ナミは太郎を裏口から押し出した。
「うん、お大事にね」
太郎の他意のない言葉が胸にしみる。ナミは何も言えずに、ドアを閉めた。
「おはよう、山田」
翌朝、紹介したバイトの様子をみるべく、というのは口実でまた太郎が何か面白い事態に陥っているのではないかと期待して御村がやって来た。
「なんだこれは」
御村は入ってくるなり、柱につながれているゾウガメを見て首を傾げた。
「おっ、おはよう御村。よく来たな」
太郎は笑顔で御村を迎えた。
「旨そうだろ、昨日見つけて来たんだ。大丈夫、情が移るといけないからちゃんと名前はつけてないし」
何がちゃんとだ、と御村は呆《あき》れる。
「すごいだろ、スープだけじゃ勿体《もつたい》ないから鍋《なべ》にしようと思うんだ。甲羅を鍋として使えばだしも良く出そうだし、御村、せっかく来たんだから一緒に食べて行けよな」
太郎は気前良く言った。
「なるほどな」
御村はゾウガメのおびえた表情をみながら、もっともらしく頷《うなず》いた。
「鍋にするのもいいが、亀の甲羅は土産物屋あたりに高く売れるんじゃないかな。タイマイの甲羅なんかは鼈甲《べつこう》といって高級品だ」
御村はゾウガメににやっと笑いかけた。
「しかし、亀はワシントン条約で保護されてるからな。それをやると密漁者として捕まる恐れがある」
ゾウガメは御村を見つめた。
「それより、こんな大きな亀なら生きたままでペットショップか水族館がいい値段で引き取る筈《はず》だ。最近ペットとして亀はちょっとしたブームだというし」
「へえ、そうなのか?」
食べられるものを食べないなんて信じられない、と太郎は言わんばかりである。
「ねえねえ、御村のあんちゃん」
六生がやって来て御村を見上げた。
「この亀、竜宮城に連れてってくれる?」
「竜宮城ねえ」
御村が言いかけた時だ。
「おはよーございまーすっ!」
息を切らして飛び込んで来たのは、加奈子である。
「おはようございます。すみません、焼きそばはまだなんですが。とうもろこしなら、後五分くらいで」
「あっはい、じゃあとりあえず五本、じゃなくて」
愛想《あいそ》良く言った太郎に答えかけて加奈子はあわてて首を振った。
「じゃなくて、ええとそれはもちろん貰《もら》ってきますけど、そうじゃなくて、山田くんに知らせたいことが……!」
言いかけて加奈子は息を呑《の》んだ。
「かっ、亀蔵っ!」
ゾウガメは涙目で加奈子を見上げた。
「あれ、この亀、君の?」
太郎は無念そうに言った。
「う、うん、竜宮城から逃げ出した亀を見つけてくれた人にはお礼をするって、ここでみんなに知らせてもらおうと思って来たんだけど……」
「なあんだ」
次郎も残念そうにつぶやいた。
「食べられないのかあ」
「え?」
怪訝《けげん》な顔になる加奈子を、六生が見上げた。
「それじゃあねーちゃん、この亀本当に竜宮城から来たんだね?」
「えっ、いや、その……」
加奈子は口ごもった。
と、その時。
「本当のことを言えばいいじゃない! 加奈子んちは竜宮城だって」
叫んだのはやって来たナミである。
「えーっ、ほんと!?」
「すごーいっ!」
次郎たちは歓声を上げると、期待に輝く瞳《ひとみ》で加奈子を見つめた。
「そういうことなら、喜んでこの亀返すから、鯛《たい》やひらめの食べ放題、にご招待してね」
「鯛やひらめの……う……」
ナミはにやりと笑みを浮かべた。
「いくら最近の景品がバラエティに富んでるっていったって、まさか加奈子んちに生簀《いけす》まではないわよね」
「パチンコ屋にそんなもんがあるわけないでしょうがっ」
叫んでしまってから加奈子ははっと口を押さえた。
「し、しまった」
「ふふん、自分で掘った墓穴にはまったわね」
加奈子は悔しそうにナミをにらんだ。
「かき氷、いかがっすかあ」
「あ、じゃいちごを一つ」
すかさず声をかけてきた次郎に、ナミは反射的に注文を返す。
「だいたいそのでっかい亀をパチンコ竜宮城の看板動物にしてるのなんて、はまり過ぎだかんね」
「ふん、悔しかったらあんたこそ足に魚の尻尾《しつぽ》でもはめてロビーの水槽にでも潜ってれば。ホテル人魚姫の看板人魚です、って。お客さんは逃げちゃうと思うけどね」
「なによっ、あ、ありがと」
ナミは氷いちごを受けとって加奈子をにらんだ。
「あたしには、氷レモン。いい、亀蔵はね、あたしのばーちゃん大場亀《おおばかめ》の代からずうっと大場家の守り神として生きてきた歴史の生き証人、生き証亀なんだからね。ナミんちみたいな昨日や今日改装して表面を取り繕っただけのとことは根本的に違うんだから」
「古いからって有り難いと思ったら大間違いってもんだかんね。うちは改装じゃなくて全面的に改築したんだよーだ。改装に明け暮れてんのは加奈子んちの方じゃない。そのたんびに開店イベント、なんていっちゃって」
「うるさいわね、電子機器のライフサイクルは年々短くなってるんだからね。顧客のニーズに応《こた》えてこその商売なんだから」
「うん、それは言えてる」
太郎がぽつりとつぶやいた。
「ふ、ふん、名前通りのお馬鹿の癖に一人前のこと言うじゃない、大場、加奈子ちゃん」
加奈子は更に凄《すご》い目付きでナミをにらみ返した。
「あんたのパパは確か茅朗《かやろう》って名前だったよね」
「だからどうだって言うのよ」
「三代目の加奈子が一番お馬鹿なのは、当然ってことかもね」
唇をかむ加奈子を前に、ナミは高笑いした。
「御村のあんちゃん、何か面白いの?」
次郎が御村に尋ねた。
「大場さんの名前が、かめ、かやろう、かなこさんとは、出来過ぎだな」
御村はつぶやいたが詳しくは語らない。
「本人の責任じゃないからな」
「いい加減にしなさいよ、あんたなんかに名前にけちつけられる謂《いわ》れはないわよ。そういうあんただってたかが海の波、じゃない。とっとと砕けて散ったらどうなのよっ」
海野《うみの》ナミ。フルネームに一瞬引きつるナミである。
「やっぱりおねーちゃんは、人魚姫だったんだあ」
よし子は目を輝かせて言った。
「じゃあ、おねーちゃん海の泡になっちゃうんだね。もったいないなあ、そうなる前に魚のとこ、切り身で取っとかせて欲しいなあ」
次郎たちも頷く。ナミが嫌な顔をしてちょっと後ずさったのを見て、加奈子はなんのことかと首を傾げる。
「ねーちゃん、氷レモン上がり」
「あ、さんきゅ」
「三百円です」
加奈子はお金を払った。
「トウモロコシも焼けてきましたけど、どうします」
太郎が愛想良く言った。加奈子たちが言い合っている間に、開店準備はすっかり調っていた。太郎たちは時間を無駄にはしないのである。
「買うわ。ええと……」
加奈子は見回すとそこにいる全員の数だけとうもろこしを注文した。
「んで、みんなで食べましょ。どうぞ」
トウモロコシを手渡されて、次郎たちは感激する。
「ねーちゃんありがとう」
加奈子はにやりとしてナミを見た。
「あんたが何を言ったって構わないわよ。あたしはね、山田くんの役に立てればそれでいいの。亀蔵も見つけてくれたんだし、そのくらいのことなんでもないわ」
「あたしが加奈子だけにいい恰好《かつこう》をさせとくと思ってんの?」
店先に集まり始めた客を振り返ってナミはいった。
「ここにいる人と、それからそこにいる人全部にも、とうもろこしおごっちゃうかんね。それと、おでんも好きなのを食べて」
「わーい、おねーちゃんって太っ腹ー」
またも歓声が上がる。
「はい、順番に渡しますからね、こっちを受けとったらおでんを選んで下さい。よし子、数は間違えないようちゃんと数えるんだぞ」
「はいっ、あんちゃん」
「手伝おう」
御村は五子からエプロンを借りると、おでんの鍋《なべ》の前に行った。
「今日からこの店、あたしが借り切らせてもらうわ」
「そうはさせないわ、借り切るのはあたしよ」
二人はしばしにらみ合った後、おもむろに太郎を振り返る。
「それならあたしはデザートに行くわよ、かき氷お好みでどうぞっ!」
「その前にまだメインディッシュでしょっ、焼きそばちょうだいっ」
「なんなんだ? あの二人は」
御村はもくもくとおでんを配りながらつぶやいた。
「いいお客さんだよ」
太郎がにこにこしながらいうのを、御村は確かにその通りだと頷《うなず》くしかない。
「焼きいか二十杯!」
「ラムネ十五本!」
「氷メロン五人前!」
「こっちは宇治金時!」
二人の注文が白熱するにつれ、初めは喜んでいた一般の客たちは気味が悪くなったらしく、次第に遠巻きにするようになってきた。次郎たちが品物を持っていってももう十分だと断られたり、逃げられたりして、加奈子たちの注文した食べ物がたまって行く。
「ちょっと、水ちょうだい……」
「あたしにも……」
ぜいぜい息を切らせながら言った加奈子たちを次郎は不思議そうに見る。
「ねーちゃんたち、そこにいっぱい氷とかあるんだから、それ食べれば?」
「えっ? あっ、そ、そうね」
ふたりは手近なところからラムネを取り上げると一気のみした。炭酸がやや抜けかけていてかえってするりと喉《のど》を通る。
一息入れて周りを見た二人は、自分たちが焼きそば以下あらゆる磯の屋商品の山に取り囲まれていることに気付いた。
「あと何かありますか?」
にこやかに太郎が振り返る。
「!!!」
それまでひたすら営業スマイルに徹していた太郎の表情が、さっと変わった。加奈子とナミはぎくりと身をこわ張らせる。
「そこっ!」
太郎は山の一隅を指して叫んだ。そこにはスチロールカップに盛られた氷いちご氷レモン氷メロン氷宇治金時氷ミルク氷いちごミルク氷レモンミルク氷メロンミルク氷宇治金時ミルク氷いちごクリーム氷レモンクリーム氷メロンクリーム氷宇治金時クリームなどなどの何十人前ものかき氷の姿があった。そして、それらは皆、溶けかけていた。
「駄目だ、そんなことしちゃあ!」
太郎は素早く駆け寄ると、ほとんどいちご水と化した一皿を取り上げた。
「可愛そうに、せっかく食べ物としてこの世に現われたのに食べてもらえなかったら成仏できないよな。食べ物を粗末にすると、罰が当たるんだぞ」
太郎は言うなりみぞれ混じりのいちご水をぐいと飲み干した。
きーん。
脳天に響く冷気を噛《か》み締め、しかし太郎はすぐに立ち直ると次郎たちを見回した。
「みんな、溶ける前に食べて上げるんだ!」
「わかった、あんちゃん」
次郎たちは一斉にかき氷の器を取り上げた。
加奈子とナミも思わずそれに従う。
きーん。
全員の脳天が、冷たさにきりきりした。
「山田くんの食べ物への愛、あたしは確かに見たわ」
加奈子が言った。
「山田くん、あたしの愛を、見て!」
言うなり加奈子は焼きそばの皿を取って一気にかき込んだ。
「あたしだって」
ナミもまた焼きいかにかじりついた。
「加奈子なんかに負けない。山田くん、あたしの愛の方が底無しだってこと、証明してみせるかんね!」
たちまち山の一角が二人の胃の中に消え失《う》せる。そんな様子をみた太郎はそれでいいんだと満足気に頷いた。
「こんなんじゃまだまだだわよ。焼きそばお代わり!」
焼きそば五皿を片付けて加奈子が叫んだ。
「まによ、わたひだってもっとらべられるもんれ、ほーもろろしふいか!」
ナミは最後の焼きいかをばっくりかじったところで、必死に叫んだ。
「はいっ、焼きそばに焼きいかですね」
太郎は手際良く焼きそばを返しながら言った。
加奈子とナミは食べ続け、海の家は大食い大会の様相を呈して来た。集まって来た見物人の注文もあって店先は繁盛し、太郎以下山田家の兄弟たち、それに御村は目も回りそうな忙しさになった。
「あんちゃん、氷がなくなりそうだよ」
「氷屋に電話するんだ」
「俺がかけよう。番号は?」
御村が携帯電話を取り出して言った。
「すまん、御村。よし子、よろず屋さんへ行ってねぎと青海苔《あおのり》買ってきてくれ」
「了解、あんちゃん」
加奈子とナミはひたすら食べ続けていた。
愛の力か、女の意地か、それとも驚異の胃拡張か。最初はよもやと思われた食べ物の山も、次々に追加された物も含めていつしかすっかり姿を消していった。
永久に続くかと思われた大食い対決に終結を告げたのは、他でもない太郎だった。
「ラ、ラムネ一本……」
ふうふう言いながら手を伸ばした加奈子に、ラムネの瓶を手渡しながら、太郎は残念そうに首を振った。
「すみません、これで最後になります」
「えっ」
加奈子とナミは心なしかほっとした表情で顔を見合わせた。
「仕入れ先もガスのボンベも終わっちゃって。もうお出しするものがないんですよ。どうもありがとうございました」
「そう……」
加奈子とナミはその場にへたりこんだ。
しばし息を整え、最後の一瓶のラムネを分けあって飲み干すと、頷きあった二人は太郎に向き直った。
「あたしたち全力は尽くしたわ。どっちかを選ぶのは山田くん、あなたよ」
加奈子は息を切らしてついに告白した。
「あたしも」
辛うじてナミも頷く。
「どっちかを選ぶ?」
太郎はきょとんとして二人を見た。
「どっちも俺にとっては大切なお客さんだし……選ぶなんてそんなこと出来ませんよ」
「ここまでやったんだから、選んでもらわなくちゃ困るんだけどな」
加奈子は顔をしかめて言った。
「それとも、山田くん」
ナミがぱんぱんになったお腹をそおっと押さえて言った。
「他に山田くんの心を捉《とら》えてるだれかが、いるって言うの?」
「俺の心は……」
太郎はふと真剣な顔を背けてつぶやいた。
御村は太郎が何を言うかとわくわくしながら見守った。
「俺は……」
太郎は意を決したように顔を上げ、きゅっと拳《こぶし》を握った。
「今の俺には、この磯の屋をひと夏、つつがなく繁盛させることしか考えられない!」
加奈子とナミは呆然《ぼうぜん》と太郎を見つめた後、そろってがっくりと肩を落とした。
御村は笑いをこらえて肩を震わせた。
「わかったわ」
加奈子が静かにげっそりした顔を上げて言った。
「夏が終われば決着はつくのね」
太郎はにっこり頷《うなず》いた。ひと夏繁盛させれば、ボーナスも貰《もら》えて弟妹たちの給食費と修学旅行の積立て、それにそろそろ駄目になってきたみんなの靴も新調出来るだろう。
太郎の答えにそんな意味があるとは、加奈子たちに想像出来るはずもない。
「じゃあ、また明日、来るわね」
「あたしも」
二人はよろめきながら立ち上がると、支えあって歩み去って行く。
「まいどありがとうございました」
次郎たちも声をそろえた。
よろめく二つの影の後ろを追って行く大きな海亀を、次郎たちはちょっぴり心残りな表情で指をくわえて見送った。
かくして。
この浜辺では夏中加奈子とナミの仁義なき戦いが繰り広げられ、山田家の住み込んだ海の家、磯の屋は前代未聞の売上を記録することとなった。太郎が約束の給料の他にボーナスも弾んでもらったのは言うまでもない。
夏が終わって太郎の心を占めているのは、やはり自分たちではないらしいと悟った二人の少女にとって、太郎に出会い大食いの才能の開花した夏が、青春の大切な思い出となったのもまた、言うまでもないだろう。
そして。
素晴らしい夏を終えた山田一家、いや、太郎を待っていたのは。
「か、かあちゃん、その変な貝は?」
太郎は綾子が抱えているものを見て、嫌な予感に襲われた。
巨大なほら貝。
「あらこれ?」
綾子はにっこり笑ってほら貝を耳に当てた、というより見たところは貝に頭が入りそう、ではあるが。
「こうして耳に当てると、波の声が聞こえるのよ。昔、和夫さんと海に行った時、教えてもらったの」
「どっから拾って来たんです、そんな大きなもの」
太郎は尚《なお》も消えない予感をなんとか打ち消せれば、と祈るような気分で綾子に尋ねる。
「あら、拾ったんじゃないのよ。海でお友達になった方が、おうちの秘宝だけどって譲って下さったの。遠慮なさったんだけど、ちゃんとお礼は差し上げたから心配しないでね」
「か、かあちゃん……」
太郎は血圧がすうっと下がって行くのを感じつつ、震える声で続けた。
「そのお礼って……」
綾子は朗らかに微笑んだ。
「帰る日に荷物を片付けてたら、封筒があったから、それをお渡ししたんだけど?」
がああん!
太郎を痛恨の一撃が、襲った。
「ううう、か、かあちゃん……」
な、なぜだ、なぜなのだ。
太郎を絶望が襲う。
どうして必ず、綾子は現金を見つけ出してしまうのか。
その特異な才能に、太郎は常に先手を取られているのであった。
太郎の心を、秋の風が冷たく吹き過ぎていった。
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第三話 雪山温泉異常あり
木枯らし舞う季節になった。
すきま風吹き抜ける山田家は今日も一家そろって元気である。日頃から鍛えていれば人間しっかりたくましくなるという見本のようなものであろう。
もしくは、独占欲の強い貧乏神が玄関に立ちはだかっていては、風邪のウイルスも侵入不可能というべきかも知れないが。
かくして今どきの都会っ子にはめったに該当しない「子供は風の子」のキャッチフレーズそのものの山田家兄弟姉妹は、本日も明るく雄々しく貧乏と戦っている。
「あんちゃーん、さっき今日発売の週刊誌拾ったから、駅裏の貸本屋に持ってったら十円で買ってくれたよー!」
「あんちゃん! 柿|貰《もら》ったよー、篠崎《しのざき》くんちの庭になったんだって」
「ただし渋柿だって言われたんだけどさー」
「でも大丈夫だよねー、ぼくたち知ってるもん、渋柿は皮をむいて吊《つる》して干しとけば、甘くなるんだよねー」
「早く吊して甘くしようよー」
「ねえねえ、八百屋さんから大根の葉っぱ貰ってきたよー」
「こんだけあればおひたしとお漬物と醤油炒《しようゆいた》めと、炊き込みご飯も出来るね!」
「こないだ御村のあんちゃんちで教わった中華風あんかけもいいと思うなー」
「よおし、良くやったぞ、次郎、六生、七生、三郎、五子、よし子!」
継ぎはぎだらけの割烹着《かつぽうぎ》に身を包み、てぬぐいを姉さんかぶりにした長兄・山田太郎は流しからふり返ると、にっこり笑って駆け込んで来た弟妹《きようだい》たちを見渡した。
「今日のメニューはおでんだからなー。よし、その葉っぱも入れような」
「わーいっ、あんちゃんちくわぶも入ってる?」
「もちろんだぞ、三丁目の練り物屋さんがたっぷりおまけしてくれたからなー、なんと! 今日はバクダンも人数分あるぞ」
「わーっあんちゃん豪勢だねーっ」
次郎たちは歓声を上げた。
念の為説明しておくと、バクダンとは茹《ゆ》で卵を魚のすり身で包んで揚げたおでん種の王様とも言える豪華な一品である。卵はウズラ卵の場合もあるが、こちらは小さくなる分上品にはなるものの豪華さにはやや欠ける難点がある。今回の山田家の特大アルマイト鍋《なべ》に入っているのはもちろんこぶしほどもある大型の正しいバクダン様である。
次郎たちはうっとりと太郎の背後で湯気を上げている大鍋に見とれた。
ぐつぐつぐつ。
いろんな種のだしが溶け合って立ち上る美味《おい》しそうな匂いが辺りに立ち込める。
「練り物屋さん、明日から温泉旅行だからって、のこってた種全部まとめて大サービスしてくれたんだ。いいタイミングだったなー」
太郎はにんまりと笑みを浮かべた。
「あんちゃん、神様っているかもねー」
五子が嬉《うれ》しそうに言った。
確かに神様はいるかもしれない。特に貧乏神が間近にいるのは山田家の場合ほぼ間違いのないところだが。
「さあ、みんなご飯にするぞー」
「はーい!」
次郎たちは各自ちゃぶ台を拭《ふ》いたり、茶碗《ちやわん》や箸《はし》を並べたり、手早く食卓の支度をする。
「熱いから気をつけるんだぞー」
言いながら太郎は鍋をちゃぶ台の中央に移動させる。
「あらあら、おいしそうね」
母・綾子もちゃぶ台を覗《のぞ》き込んだ。
「それじゃあはじめよう。いいか、バクダンは一人いっこずつだからな」
「はーい、あんちゃん!」
「いっただきまーす」
声をそろえた後は一同無言になる。
はぐはぐはぐはぐ。
大根、こんにゃく、厚揚げ、ちくわぶ、ごぼう巻き、いか巻き、ボール、がんもどき、薩摩揚《さつまあ》げ、いかてん、はんぺん、結び昆布、五目揚げ、餃子《ギヨーザ》巻き、たこてん、福袋、そして、本日の目玉バクダンが、次々と鍋から取り出され、湯気を上げつつみんなの口の中へと消えてゆく。鍋があらかた空になった頃、さすがの山田家の子供たちも満腹した表情で箸を置いた。
「ごちそうさまー」
「あんちゃん、おいしかったー」
「あったまったわねえ」
幸せが山田家を満たした瞬間であった。
「あっそうだ、あんちゃん、あのね、来週までに移動教室の積立おさめて下さいって」
太郎はぎょっとして六生を見た。
「移動教室?」
「うん。あんちゃん?」
「い、いや、大丈夫、来週までにはちゃんとわたすから……」
太郎は引きつりかける顔に必死の笑みを浮かべながら六生にいった。
「移動教室の積立……」
太郎は茶碗を流しに運びつつ、呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
六生が支払わねばならない積立なら、当然のように双子の妹七生の分も必要ということになる。しかし、すでに今月の予算にその隙間は、ない。
――どうしよう。
太郎はスポンジに石鹸《せつけん》をこすりつけながら考えた。
――新聞代はもう二か月しらばっくれてるし、電気代は明日にも払わないと止められるし、ガスも今週一杯が引き伸ばす限度だし、給食費はもうみんなに渡しちゃったし……。
太郎は頭痛に襲われたかのように顔をしかめた。
――へそくりもまたやられたし。
ふり向かなくても太郎には、狭い三和土《たたき》の半分を占めてでんと据えられている陶器製の象の置物の姿をありありと眼前に浮かべる事が出来た。母の無邪気さが今日も恨めしい。どこに隠しても家内のお金を見つけ出してしまう母の才能が、外でも発揮されてくれれば、と太郎は何度考えたかわからない願望を今日もまた繰り返すのだった。
まあそれにしても積立二人分とくれば、あのへそくりでは足らなかったのも事実なのだが。
手際良く食器を洗い上げながら、太郎の頭の中はあらゆる要素を計算する。
世の中稼ぐに追いつく貧乏なしなどと言った人もいるらしいが、まったく他人の言うことほど当てにならないものはない。しみじみ実感する太郎である。いや、しみじみしている場合ではない。といっても、どうすればいいのか。
まもなく冬休みだから、休みに入ったらバイトも増やせるのだが、今はどうするにも動きがとれない。
悩んでいても時間は過ぎるので、太郎はとりあえず制服を着ると家を出た。
「どうした? いつにも増して不景気な顔をして」
「ああ、おはよう御村」
太郎はどんよりと御村託也をふり返った。
並んで歩くといずれがあやめかかきつばた、といったところだが、茶道家元の跡継ぎである御村は太郎とは違って正真正銘のおぼっちゃまである。御村は太郎の憂い顔を面白そうに見た。
「また、お袋さんに大事なものをやられたのか?」
「あたり」
太郎は溜め息をついた。
「まあ、どのみちやられてなくてもアウトだったんだけどさ。さて、どうしたもんかなー、あの象が返品できれば……」
「象?」
「象」
太郎はもういちど大きく息をつく。
「過去の経験から言って、出来ないだろうとはわかってるんだけど」
「お袋さんの審美眼は確かだとは思うがな」
「お褒めに与《あずか》って嬉しいよ」
太郎は素直に言ったが、しかし困った顔はそのままに天を見上げた。
「ところで山田、お前冬休みの予定はどうなってる?」
「バイトのつもりだけど……」
「また休みなしか?」
「うーん、そんな感じになりそうなんだよなー」
太郎はちょっと額にしわを寄せて言った。
「新聞配達と杉浦さんちはそのまま続けるとして、他はちょっとでも日当のいいバイトを探さないと……」
太郎はぶつぶつとつぶやいた。顔色がなんとなく悪くなってゆく。
「またなんかあったのか?」
「えっ???」
太郎ははっとうろたえて御村を見た。
「わっ、わかる?」
太郎がいたずらを見つかった子犬のような目をして見上げるのを、御村は笑いをこらえて見つめた。
なんといっても御村と太郎の付き合いは長いのである。おまけに太郎はポーカーフェイスの上手なたちではない。さらに、山田家において今太郎が陥っているらしい緊急事態、すなわち急遽《きゆうきよ》予算に大幅な不足が発生する、簡単に言えばいきなりお金がないなどということはしょっちゅうだからだ。
その原因の大半はどうやら太郎の母・綾子によって作られているらしいということも御村は知っているのだが、それにしてもお嬢様育ちの綾子が無邪気に、しかも大抵は誰かのためを思って起こした行動が元であることが多いため、太郎といえど責められるものではないのである。
で、どうやら今回も太郎が深刻な財政危機に陥っているのは間違いないようだ。
「大丈夫なのか?」
「うん、大丈夫だよ」
明るく答える太郎だが、御村の目はその表情に残る一抹の不安を見逃さない。
「そういえば、じいさんがまた茶会の手伝いを……」
御村が言いかけた時、二人は後ろから何やら物凄《ものすご》い気配が突進して来るのを感じた。
「!」
はっと振り返った太郎と御村のまさに鼻先に突き当たらんばかりにして、明るい茶色の髪が急停止した。
「ままま、待て待ってくれ……」
「杉浦さん?」
太郎は相手の顔を見て目を瞬《しばたた》いた。
「……ぜいぜいぜい……」
最初の台詞《せりふ》を言うなり杉浦|圭一《けいいち》は青い顔になってひたすら呼吸を整えようとする。
「??? 大丈夫ですか?」
「……ぜいぜいぜい……」
杉浦は荒い息をつきながら、うんうんとなんとか頷《うなず》いた。心配そうに見つめる太郎と目を合わせると、杉浦の青ざめた顔にぽっと赤みがさす。杉浦は太郎と御村の通う私立一ノ宮高校の一年先輩にあたり、今は浪人中の人物である。太郎は杉浦の実家の経営しているスーパーでバイトもしており、また、一緒にコスプレパブでバイトをしたこともあるという、いろいろ縁の深い関係ではある。太郎とかかわるたびに杉浦はなぜか困難に直面する傾向があるのだが、決してそれを嫌がってはいない杉浦なのであった。
「や…山田……」
まだ整えきらない息の下から、杉浦はようやく言葉をしぼりだした。
「はい?」
にっこり笑いかえす太郎に、杉浦はまた頬を赤らめた。
「え……えっとその」
ようやく息が戻って杉浦は軽く咳払《せきばら》いした。
「その……山田の冬休みのことでちょっと聞きたいんだけど……」
杉浦は太郎からちょっと視線をそらしてぼそぼそと言いながら、代わりに目を合わせることになった御村からもあわてて視線を外した。御村の口元からくすりと笑みが漏れる。
「冬休み?」
太郎はきょとんと杉浦を見た。
「杉浦さんちで働く予定ですけど……ま、まさか!?」
太郎は顔を引きつらせた。
「人員削減とか!?」
「いや、そんなんじゃなくて……」
「そんな事言わないで働かせて下さい! 俺、一生懸命働きますから! 杉浦さんちの仕事がなくなったらどうしていいか……野菜も肉もお惣菜《そうざい》も試食販売品もうちの生命線なんですから……」
太郎は杉浦の襟元をつかむと力一杯振り回して必死の形相で訴えた。
「や……やまだ……」
杉浦は口から泡を噴きつつ唸《うな》った。
「お願いです!」
「や、やま……だから……ちがう……って……」
「違うんですか?」
太郎は明るい顔になってぱっと手を離した。
勢いで杉浦の身体は後ろにひっくり返り、後頭部がアスファルトの地面に激突する。
「がっ……」
杉浦は声にならない悲鳴を上げて白目をむいた。
「すっ杉浦さん大丈夫ですか?」
慌てて太郎が傍らに膝《ひざ》をつく。
「だ……だいじょう……」
起き上がるのに手を貸そうとした太郎と間近に顔を見合わせた杉浦は、今度は鼻血を噴き出した。
「杉浦さん!」
「らら、らいりょうふ……」
だらだらと流れる鼻血を手で押さえ、顔をも真っ赤にした杉浦はなんとか立ち上がるとあお向いて口で息をついた。
呆然《ぼうぜん》と見ていた御村はことここに至ってまた笑いをこらえるのに一苦労する。
「あっ、杉浦さん首の後ろを叩《たた》いちゃ駄目です。上を向くと血液が気管に入って危険ですから、ええと、血の出てる方の鼻の穴を押さえてやや下を向いてじっとしてれば止まりますから」
そこは弟妹《きようだい》の多い太郎、保育士並みの保健衛生知識を持っている太郎である。
「ん……んが……」
言われた通りにした杉浦は情けなさそうにちょっと涙目になって太郎を見た。
「……ほれれ、らいとのへんなんらへろ……」
「バイトの件って……」
太郎はまたさっと緊張した。
「リストラじゃないとすると……まさか賃金カット?」
太郎は再び杉浦をひっつかんだ。
「景気が悪いのは俺も良くわかってます! でも、そこをなんとか助けると思ってベースアップとは言いませんからせめて現状維持と言うことで、でないと生活が……」
「んががが……」
杉浦は力なくもがいた。
「お願いです……」
「やまだ……」
ようやく杉浦は太郎の手を押さえて口を開いた。
「ひんぎんはっと……賃金カットなんて俺がさせるもんか」
たらりと垂れかかる鼻血を手の甲でせき止めると杉浦は続けた。
「たとえ赤字になったって、山田の給料はちゃんと払わせる」
「ありがとう、杉浦さん!」
太郎は感激の面持ちで杉浦の手を握り締めた。
「う……」
杉浦の顔がまた赤くなり、鼻血がぽたりと地面に滴った。
「よかったー、もうほんとにどうしようかと思った」
「よかったな、山田」
御村がくすくす笑いながら言った。
「バイトの紹介はしなくて良さそうだな」
「あっでも、時間が合えばバイトは増やしたいんだけどさ」
太郎が言うのへ、杉浦が急いで割って入った。
「その、バイトの件なんだけど」
「なんですか?」
太郎はまた少々不安を浮かべて杉浦を見た。
「いや、うちのバイトはもちろん続けてもらいたいんだけど、ちょっと休み中だけ親戚《しんせき》の方で手が足りないっていうもんだから……」
「?」
杉浦は一生懸命続けた。
「いやいつもどおりうちの店でやってくれれば俺もお袋に話してボーナスくらいは出すように言うつもりなんだ。ただそっちは緊急だからギャラはうんとはずむっていってて……」
「ほんとですか?」
太郎は目を輝かせて言った。
「ほんとだよ」
杉浦が頷く。
「あと、三食温泉付き、空いた時間にはスキー滑り放題。交通費支給」
その言葉に太郎の目がきらりと光った。
「俺やりますその仕事」
太郎は嬉《うれ》しそうに、言った。
三日後。
トンネルを抜けたら、やっぱり雪国だった。
小雪の舞い散るホームに降り立った太郎はそう思った。太郎は新幹線も止まるその駅に鈍行列車乗り継ぎでやって来たのである。特急券、指定席券分は六生たちの積立に化けていたためだが、たとえそれがなくてもその分を太郎が節約したに違いないことはいうまでもないだろう。そこからバスに三十分揺られた先に太郎のバイト先があった。
一面の銀世界のまさにど真ん中である。その名もシルバーバレースキー場の第一ゲレンデの上にそれはあった。どんと重厚な、ある意味では多少場違いな貫禄《かんろく》を見せて建っている大旅館・銀雪館《ぎんせつかん》である。瓦葺《かわらぶ》きの大屋根に白壁、太い梁《はり》と一見したところは一般的な和風の建物なのだが、一度建物に入ると中は快適さを追求した近代的な設備に整えられていることがわかるという代物である。建物はすべての部屋から上下に広がるゲレンデを見渡せるように横に長く作られており、また一部はゲレンデの片側の端に沿って階段状に建てられてもいる。全体のたたずまいは和風なので、白いゲレンデの真ん中を遮って置かれてもあまり大きくは見えないのだが、実際には近隣のどのホテルにも勝るとも劣らぬ規模の宿であることは周知の事実だということであった。
「こんにちはー」
ふもとのリフト券売り場でたずねてただでリフトに乗せて貰《もら》った太郎が、少し湿った雪を踏んで銀雪館の玄開にたどり着いたのは、昼過ぎのことだった。
「はーい、いらっしゃいませー」
元気な声が答えて小走りに紫色のお仕着せを着た仲居が現われる。仲居はにこにこしながら太郎の正面で滑らかに九十度のお辞儀をした。
「銀雪館へようこそー。お疲れ様でしたー」
「こちらで働かせて貰うことになってる山田です」
「あらまー、お客様でなかったのー、山田さんー?」
仲居は真ん丸な顔に目を丸くして太郎を見た。
「はい。杉浦さんから紹介して頂いて来たんですが」
「あーおかみさんの方のねー、っていうとー、あらー、男の子だわねー」
「は?」
太郎は怪訝《けげん》な顔になる。
「まーともかく、いまおかみさん呼ぶから、上がって頂戴《ちようだい》。あ、いーのよ、ここ土足で。ホテル形式ってやつなんだわー」
言いながら仲居は太郎をつるりと眺めわたしてけらけらと笑った。
「あのう、男子じゃなにか間違いが?」
「気にしない気にしない。人手があればいーんだから。それにあんたくらいかーいければお座敷に出したって誰も文句はいわないさー」
「???」
困惑する太郎である。旅館の手伝いまでは聞いていたが、仕事の内容はそれ以上聞いていないのである。杉浦も知らなかったらしいが、何か手違いがあるような気がしないでもない。それでも、交通費ももう貰ってしまったのだし、はずんでくれるというギャラのためにもやり遂げないで帰るわけにはいかない。太郎は改めて覚悟しつつ仲居にしたがった。
「おかみさーん、杉浦さんの紹介の人が来ましたんですけどー」
「はーい、待ってたのよ。あら?」
事務所に入って行った太郎をまたしてもびっくりした顔が迎えた。今度は薄いピンクの地に蝶《ちよう》をあしらったつけ下げを身につけ、一筋の乱れもなく髪をアップにまとめた細面の女性である。おかみはさりげない視線で太郎をひとわたりチェックすると、華やかな笑《え》みを浮かべた。
「あたしも男の子とは聞いてなかったんですけどねー」
小太りの仲居がまるで自分のせいでもあるかのように済まなそうに言った。
「すみません、募集に条件があるなんて知らなかったもんですから」
太郎はぺこっと頭を下げた。
「ああ、それねえ」
おかみは軽く首を傾げた。
「わたくし、わかってると思って言わなかった気がするのよねえ」
「あっらー、それじゃおかみさん、こっちのミスってやつじゃあありませんかー」
小太りの仲居は大仰に肩をすくめた。
「まあそういう事になるのよねえ、ごめんなさいねえ」
「あのう、それじゃ仕事は……」
太郎は顔を曇らせた。おかみは笑顔で手をひらひらと振った。
「ああ、大丈夫大丈夫。心配はいらないわ。わざわざここまで来てもらったんだもの、もともと頼んだのはこっちなんだし、どっちみち人手は足りちゃいないんだから是非働いて欲しいんだけど?」
「そうですか! あーよかった」
太郎はほっとして胸をなで下ろしつつ、すばやくおかみに寄ると真剣な表情でひそひそと耳打ちした。
「あのう、時給の方も当初のお話どおりに?」
「もちろんよ。はずむわよ」
おかみは妖艶《ようえん》な笑みを浮かべると太郎の耳に息を吹き掛けるようにしてささやいた。太郎の顔がぱっと明るくなるが、もちろんその耳に届いたのはギャラの話のみでおかみの色気には気付こうはずもないのは言うまでもないだろう。
「それじゃよろしくお願いします! で、何をすればいいんですか?」
「あらあらやっぱり男の子は元気がよくていいわねえ。とりあえずお部屋に案内したげて頂戴。一休みしてもらって、そうね今日は厨房《ちゆうぼう》を手伝ってもらおうかしら。千代《ちよ》さん、そっちもどこだか教えたげといて頂戴ねえ」
「はいー」
頷《うなず》いた千代に続いて太郎は事務所を出た。
絨毯《じゆうたん》敷きの廊下に面した窓からは早くも暮れかけた色の光が注ぎ、積もった雪がオレンジ色に染まっている。きらきらと空中に光って見えるのは細かい雪が風に舞っているのだろう。家族みんなで来られたらいいんだけどな、と太郎はその時思った。
銀雪館は大繁盛していた。その割りに人手不足だというのは本当で、太郎は初日からてんてこ舞いすることになった。
外見からはまずわからないのだが、銀雪館の実際の規模は相当なもので、最大宿泊人数は三百を超える。太郎が到着したのは金曜の午後で客室はほとんどフル稼働の上、団体が三つも入っているという凄《すさ》まじい状況だった。まず太郎が行くことになった厨房ではまさしく目が回るような忙しさに突入していた。
「松の間、舟盛り十個でます!」
「鶴の間、おちょうし二十追加。ビールも六本追加」
「笹の間、蕗《ふき》の間、コース後半、焼き物から順に出ます」
「月の間から海王の間まで、デザートでます」
「夜食の追加が十二です。貼っときますー」
「特別料理の鹿鍋《しかなべ》運んでくれ!」
「はーいっ!」
宴会場三つ、客室五十を仲居たちが駆け回る。
「太郎っ、松の間お運び手伝ってやってくれっ」
「はいっ」
千代たち仲居に混じって厨房用の白衣を着た太郎も大きな舟盛りを運ぶ。両手でかかえるのがやっとの木製の舟形の容器にこれまた刺身があふれんばかりに盛られていて、生半可の重さではない。しかし仲居たちはそれを慣れた様子で次々と運んで行く。もちろん太郎も負けてはいられない。
「ここでいいですか?」
「はいよっ」
宴会場の入り口で舟盛りをパスし、また厨房に取って返す。
「そっちはもういいから食洗機かけてくれ」
「はいっ」
今度は下げられて来た食器を食器洗い機のバスケットに効率良く並べてコンベアに載せる。舟盛りの容器やてんぷらの籠《かご》、塗物の一部は食洗機にはかけられないのでよけておいて後で手洗いしなければならない。
太郎は手際良くいわれた作業をこなしていった。
「山田さーん」
「はい?」
あらかた食器がバスケットに収まったところで、太郎は厨房の外から呼ばれた。
「悪いけど、お布団敷き手伝って欲しいんだけど」
ひょろりと背の高い仲居が言った。
「おかみさんには了解取ってあるから。すまないね、調理長さん」
「こっちはもう一山越えてっからいいさ。太郎っしっかりやんなっ」
厨房を仕切っている恩田《おんだ》が叫んだ。職人|気質《かたぎ》の恩田は、最初は見た目から太郎のことを今時の軟弱な若者と決めて掛かって叩《たた》き直すつもりでいたらしい。しかしひとたび手を動かし始めた太郎の手際のよさと一生懸命働く姿を見た恩田は、太郎を見直し、さらにすっかり気にいってしまったのである。
「ほんとに人手、足りないんですね」
太郎は仲居と一緒に布団を並べながら言った。
「まあね」
理江《りえ》という仲居は軽く肩をすくめて頷《うなず》いた。
「足んない時は足んないんだけどさ、いっつもってわけじゃあないってとこがさ」
「というと?」
太郎はカバーシーツを布団にかぶせながら首を傾げた。
「結局は景気が悪いってことなんだと思うんだけどさ。今日みたいなシーズンで団体さんが目一杯入ってりゃ、そりゃあ忙しいけどさ」
理江は電光石火の早業でカバーをかけた枕を次々に所定の位置に投げ落としながら続ける。
「オフになったらこんなことにはなりゃしないさ」
太郎はふかふかの軽い羽根布団を広げた。
「閑古鳥が鳴くって言うけど、閑古鳥の気配もないって日んなっちゃうんだからさ」
「へえ」
太郎はちょっと信じられない思いで室内を見渡した。
「こんなに立派なお宿なら、いつでも来たいって思うと思うんだけどなあ」
理江はにやっと笑った。
「あたしだってそりゃいい宿だとは思うさ。でもね、今の人たちは宿があるってだけじゃこないもんさ。シーズン中はスキーが出来るから来る気になるってもんさ」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんそんなもん。はい、次行くよ」
「はいっ」
太郎は急いで理江の後に続いた。
やっと一段落ついたのは夜も十二時を回った頃だった。夕食は忙しい合間にかき込むような有様だったが、仕事が収まってからみんなに夜食がふるまわれる。
「いっただっきまーすっ!」
まぐろに鯛《たい》、いかにあなごにたこしゃこぶり海老《えび》、形は揃っていないがたっぷりと盛り付けられたちらしずしを前に太郎は幸せそうな顔で箸《はし》を取った。
「どーだ、旨《うま》いか太郎」
「おいしいですっ恩田さんっ」
「そうだろそうだろ」
恩田は脇目もふらず夢中で食べる太郎を微笑ましげに見守った。
「銀雪館じゃあ材料を惜しんだりしねえからな。調味料だってどこよりかいいもん揃えてんだからよ」
「ほんとだよねー」
千代が言った。
「夏んなるとまた地のもんでうめえもんがたっぷりとあんだけどよ」
恩田は残念そうに言った。
「夏はまた客が少ねえからな、仕入れも大して出来ゃしねえ」
「しょうがないじゃないのさ、ここってばほんとにスキーぐらいしか売りがないんだからさ」
「ったってなあ、眺めも悪くねえし温泉だってほんもんが湧いてるってのによ」
「ねー、今時沸かしだなんだってにせものも多いのにねー」
「スタンダード過ぎんのさ」
「へー、理江さんそういうもんなのー?」
「温泉だけでも栄えてるとこはあるってえのになあ」
「弾みがありゃなんとかなるかもしれないけどさ」
「弾みって、なんか話題んなることかなんかあればってこと? えーと、大雪崩とか?」
「なにいってんのさ、そんなマイナスな話題じゃかえって客足遠のいちゃうじゃないさ」
「そうだな、もっとポジティブな話題ってえやつが必要ってえことかな」
「わあ、恩田さん難しい言葉知ってるー」
「どう思う? 太郎」
「そうですねえ」
太郎は空の丼を名残惜しそうに眺めながらいった。
「恩田さんのいうとおりかもしれませんね。ここはほんとにいいところだし、知られていないだけだと思いますから」
「この辺りじゃ知らないもんはいないって言ったって、きっとほんとここだけの話なんだろうからさ」
理江の言葉に一同は神妙に頷いた。
こんなに立派な旅館でも内情は景気の影響などをうけていろいろ大変なのである。
ましてや貧乏街道一直線の我が身、我が家である。太郎はこういう時こそ一層身をひき締めて頑張らねば、と内心|密《ひそ》かに決意を新たにした。
凄《すさ》まじい忙しさは日曜の昼前まで続き、そしてぱったりと楽になった。とはいっても客足が途絶えた訳ではない。一応冬休みに入ったのもあってカレンダー上では平日でも、五割以上の客室が稼働していた。ただ、最初にあの週末の凄まじさを体験してしまうと、後は何が来てもおそるるに足らずという心境にもなろうというものだ。
短期でギャラがいいと聞いた時からきついのは覚悟して来た太郎だったが、仕事はそれほど大変ではなかった。仕事の内容自体はどれも慣れないものではなかったし、ピーク時でも今までに経験した他の屋外での仕事に比べたら、まだ楽なものである。
「太郎ちゃん、もう休んでいいわよ」
月曜日の昼過ぎ、おかみがそう言ってくれた。
「来てからずうっと休みなしだったでしょ。今日は夕食の時間までいいから、スキーでもしてらっしゃいな」
「はい、でも俺道具持ってないんです」
持っていないだけではなく、スキーをしたこともなかったのだが。
「あら、そんなこと。うちのレンタルを自由に使って構わないのよ。ウェアもあるから使って頂戴《ちようだい》。それと、リフトとゴンドラはうちの名前を言えばただで乗れるから。怪我だけはしないようにね」
「はい、ありがとうございます」
おかみにぺこっと頭をさげると、太郎は早速レンタルのコーナーへ行って言われた通りウェアとスキー道具一式を借り出した。
「さて、と」
ウェアに着替え、スキーブーツも一応履き、板とストックを持って太郎はゲレンデへ出た。
出たものの。
これからどうするか。
「さて」
太郎は辺りを見回してつぶやいた。
薄曇りといったところか、風もなく穏やかな天気である。平日のせいか人影は少なく、リフト乗り場にも列は出来ていない。昨日ちらっと見た時には砂糖にたかったありのごとく黒くざわざわしていたゲレンデも、今日は清々《すがすが》しく白い。
スキーの練習には最適の環境といえよう。
しかし、日常生活にかかわることならどんな些細《ささい》なことでも知らずにでも身に付けている太郎だが、この場合のごとく生きて行く上でべつだんなくてもいい事柄に関しては常識度が極端に低下する。太郎は見栄っ張りや知ったかぶりという言葉からはもっとも遠いところにいるので、知らないことは知っている人に教えてもらえばいいとストレートに思っているからそのような場合にも困ったままということはまずない。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、と言うが、そもそも太郎にとって聞くのは恥でもなんでもないので精神的にも苦労はない。人間素直がお得ということだろうか。
で、とりあえずお手本を求めて辺りを見回したのだが、空《す》いているのも善し悪しで近くに人の姿が見当たらない。仕方なく太郎は両手に板とストックをもったまま、ずるずるとリフト乗り場の方へと歩き出した。
スキーブーツはプラスチックのシェルと内側の柔らかいインナーブーツとで構成されており、スキー板に身体を固定する必要上足首がほとんど曲がらないように出来ているので、それだけで歩くにはまったく向いていないものなのである。
「なんか……歩きにくいなあ」
それにしても歩きにくそうに足を引きずって、太郎はなんとかリフト乗り場のそばまでやって来た。太郎は次々と滑って来る人やリフト待ちで立っている人を観察し、スキーを履く。ブーツと板を留める金具の仕組みはシンプルなもので、太郎はすぐに板を履くことができた。次にストックをこれは落とさないようハンドルについている革の輪に手を通して支度は完了である。
「よーし、行くぞ」
太郎は慎重に最初の一歩を踏み出した。つるり、といくかと思いきや意外に板はしっかり雪面を捉《とら》えてくれる。二、三歩行くうちに太郎は早くも歩き方のこつをつかみ、尻餅《しりもち》をつくこともなくリフトの列に並んだ。
「お客さん、リフト券は?」
箒《ほうき》を持ったおじさんがリフトのシートの雪を手早く掃き落としながら声をかける。
「銀雪館で働いてるんですけど」
おじさんは太郎の顔を見てにやっと笑った。
「あーそうか。おめえがあれか、噂は聞いてんぞ。何かテレビにでるよーな男前が来たってな。確かにいい男だが、俺にいわせりゃもちっと身体ん方がたんねえぜ」
「はあ、そうですか」
「まいーから、ほれ行け」
おじさんはがっはっはと笑うと箒で次のリフトを指した。
前の人がやったようにリフトの来る進路で待ち構えるようにしてシートに腰を下ろす。ぐん、とリフトが勢い良く前進して太郎はあわててリフトの手摺《てすり》につかまる。
「わあ」
発進してしまうとリフトはとても静かだった。見ていたときはわからなかったが、乗ってみると高さも意外にあって眺めはいい。眼下にゲレンデが広がり、滑って行く人がおもちゃのような大きさだ。曇っているので一面の銀世界は眩《まぶ》しいほどの白さではない。かえって雪面の起伏が見て取れ、太郎は思ったよりゲレンデというものが平らではないことに驚いていた。小さな瘤《こぶ》や窪《くぼ》み、そしてコースの端は一段高くなっていてどうやら積もったままの雪らしい。いましもそこへ赤いウェアのスキーヤーが突っ込んで雪煙が上がる。
太郎は呑気《のんき》に辺りを見回しながら上へと登っていった。
リフトで難しいのは乗るときより降りる時なのだが、持ち前の運動能力が発揮され太郎はこれもなんなくクリア、一見したところではベテランの風情でゲレンデ上に降り立った。リフトからの眺めがいいのに気を良くした太郎はすぐそばに見える次のリフトへと乗り継ぎ、また乗り継いでとうとう頂上までやって来てしまった。
「わあ」
リフトから降りた太郎は、ぐるりを見回して嘆声を上げた。さすがに頂上からの眺めともなると一段と素晴らしい。スキー場のさなかにいると一面銀世界のような気がするものだが、頂上から見渡すと白く雪だけに覆われているのはゲレンデだけだということがわかる。ゲレンデの周りから始まった林は、細かい枝を幾重にも重ならせて次第に黒々とした森と化し、幾つもの山の連なりへと続いて行く。山の連なりは薄曇りの今日は二重三重辺りまでしか見えず、その向こうのはるかな山脈がある辺りには薄い青みがかったグレイの雲が垂れこめていた。冷ややかな色合いの風景の中、西と思われる方位の空だけが、他と異なる橙色《だいだいいろ》を帯びて広がっている。
風が心持ち強く太郎の髪をなぶる。気温も下のリフト乗り場の辺りよりは低いようだ。
ふと気が付くと辺りに人影がない。先ほどから太郎の前後に数人登って来た人たちはすでに斜面に滑り出して行ってしまい、微《かす》かなきしみをたてて後ろから次々に登って来るリフトには今は人の姿は見えない。あたりはしんと静まり返っている。
リフトの機械室の中には人影があり、太郎はちょっとほっとした。ここはスキー場の中で、遭難したりするはずはないのである。
「よーし」
いよいよ初滑り、と太郎は身構えた。ここまで来る間にリフトの下の人々を観察した成果を実践に生かす時が来たのだ。スポーツではイメージトレーニングが重要とよく言われているが、特に太郎のようにもともと運動神経が良く、また見たものをほとんど完璧《かんぺき》に記憶・再現できるようなタイプには特に有効なのである。
足とブーツと板にそれぞれなんとなく違和感を覚えてはいたが、初めてのせいだろうと考えて太郎はそろそろと揃えた板の先端を、崖《がけ》のごとく切れ落ちた斜面に向けた。
「…………」
太郎はごくりと唾《つば》を飲み込んだ。
もともとスキーを履いていなくても、人間が斜面の上に立つと自分の身長が高さに加わって実際以上に急角度に見えるものなのであるが、この場合さらに実際の角度も生半可なものではなかったのが不運だった。一般的な山の姿を想像してもらえばわかると思うが、斜面の角度は山の上へ行くほど急になるものである。したがって初心者は下の方の緩やかなところで練習し、上級者になるとより技術と筋力を必要とする急斜面を求めて頂上近くへ登って行くのだ。
確かに太郎の運動能力は普通人を凌駕《りようが》しているとはいえ、初めてでしかも一人で頂上へ登ってしまったのは軽率のそしりを免れないだろう。
なんてことはしかし太郎が知る由もない。
スキーが前に向かって滑って行く物なのはわかっていたが、どうやって曲がるのかそして止まるのかがわかっていない今、さすがに真っ直ぐ下に向かって進もうとするのは無謀だと太郎は判断した。そのままだと下に向かって滑り降りるというよりも、まっさかさまに飛び下りると言った方が適切な表現としか思えない。太郎は、スキーを斜面に平行にして、斜面を横断する恰好《かつこう》で進んでみることにした。これなら進行方向の斜度はずっと浅くなる。
ずずずずず。
左右段違いの足元に全神経を集中して、太郎は斜面を進み始めた。板の中心に重心を置けば安定すると本能的に悟った辺りはさすがは山田太郎というべきだろう。しかし、前途はやはり多難で、足の裏から斜面がごつごつとしていて平らでも柔らかくもないことが感じ取れる。
ずずっと板がずれ、谷側にしていた右足が下へ落ちかける。左足を踏ん張って右足を引き戻そうとした次の瞬間、板はぱっと前へ滑り出した。
「うわっ」
板のスピードに身体がついて行かない。たちまち身体が後方へ置いて行かれ、ついで足元がばらけて何がどうなったと思うより早く太郎の身体は雪面に叩《たた》き付けられた。続けて考える間もなく太郎は斜面を転がり落ちて行った。
「わあ……」
ざしゅ、がしゅと雪を何かが削る音がし、耳元で風が鳴った。下がどっちなのかわからない。最初身体を丸めようとしたが足についている板が邪魔で出来なかった。時々空にふり出される足に板の重さと遠心力がかかって、身体がさらに振り回される気がした。転がり続けると落下に加速が加わるだけだと気付いた太郎はなんとかして斜面のどこかにつかまって止まらなければと思った。手足をのばして雪面から離さないようにし、足が下になった時に板を雪にひっかけて落ちるスピードを殺す。やがて太郎はうつぶせに大の字の恰好でようやく停止した。
「ふう……」
そっと顔をあげると上の方|遥《はる》かに、さっき踏み出した斜面の頂上が見える。下から見上げても絶壁というしかないような斜面だ。そろそろと身を起こした太郎は、ストックも板も全部身についたままなのにほっとした。ストックは手革を手首に通しておいたためだが、板が外れなかったのは運がよかったとしか言いようがない。痛みはなく、怪我もしていないようだ。太郎は雪まみれの頭をぶるっとふって、また転げ落ちないよう慎重に斜面に座り直した。ウェアの雪を払いながら見ると、丁度そこは斜面の真ん中辺りである。いっそ下まで落ちておけば手間が省けたかも知れない。太郎はそんな事もちらっと思いながら今後の方針を練った。下まで降りるにはまた斜面をそろそろと往復して降りるのにチャレンジするか、それともこのまま座った姿勢でずるずる真下へずり降りて行く方が賢明か。
と、太郎は視界が妙に狭まっているのに気付いた。辺りが白い。いつの間にか不透明な真っ白いもやが押し寄せてきているのだ。頭上は先ほどまで見えていた灰色の雲さえもなく、すでに空ではない白いものですっかり覆われているし、下を見てもさっきまで見えていた雑木の影がもうない。ぐるりが白くなってしまうと方向の感覚が全くなくなってしまうことに太郎は驚いた。唯一明らかな方向は下である。太郎はともかくそちらへ向かってずるずると移動し始めた。気温が急に下がって来たようである。このままじっとしていてもいつこの霧が晴れるかわからない。急速に押し寄せて来る霧の中を泳ぐようにして、太郎はまた転げ落ちないように慎重に動いた。腕を動かすとねっとりした白い渦をつかめそうにも思える。ゆっくりと降りて行きながら、太郎はしかし下という感覚すらこの霧の中ではなくなってしまいそうな予感がしていた。
「?」
霧の向こうに何かが見えた気がして、太郎は顔を上げた。めまいがするような白さの中に、何か異質な白さが感じられる。
「?」
太郎は目を細めてそちらを窺《うかが》った。
音もなく、すうっと白いものが近付いて一瞬ののちには実体化した。
「!?」
白い着物をまとった女がいきなり目の前に現われて太郎を見下ろしている。霧よりもくっきりと白い着物の上に乗ったその顔もまた生きているものとは思えないような白さである。だが、その表情は白さの非現実味を打ち消してなおあまりあるほど、人間的な表情にあふれていた。
「ばっかじゃないの」
白い女はほとんど白と見まがうくらい薄い紅を引いた唇を開いて言った。
「あなたみたいなのを歩く迷惑って言うのよ」
白い女はいかにも軽蔑《けいべつ》したような目付きで太郎を見下ろした。
「っていうか、歩いてもいないんだけどね。転げる迷惑。もしくはくたばる迷惑」
「まだくたばっちゃいないんだけどな」
太郎はようやく言い返した。いくらなんでもそこまで言いっ放しにされるいわれはない。
「放っときゃくたばるでしょ。それともくたばりたいわけ?」
「くたばりたかないですよ」
「ふーん、見た目よりは根性ありそうね」
女は口元に笑みを浮かべた。
「それにしても、よくまあそんな恰好で上まで来たもんだわよ。誰も止めなかったってのがまず問題な気もするけど」
「俺、一人で来たもんだから」
女は眉《まゆ》をひそめた。
「ついでに聞くけど、まさかスキーは初めて、とか?」
「うん」
女は大きく溜め息をついた。
「じゃないかと思ったわ。それなら情状酌量の余地もなくはないわね。ったってひど過ぎるけど」
「あのう、何がそんなにひどいんですか?」
「ふん、謙虚になったわね。いいわ、教えたげる。ああもう、あたし本来の役目からどんどん離れてくじゃない。やんなっちゃうわもお」
女はがしがしと頭をかきむしってから太郎をきっとにらんだ。
「あなたね、そもそもそのブーツが左右反対。ビンディングもちゃんと入ってない。ストックを放さなかったのはまあいいけど、ここまで上がってくるんなら帽子とサングラスかゴーグルくらいつけてくるべきよ。手袋が軍手ってのもいただけないわね」
「なーんだ、そうだったんだー」
ぽんと手を打って太郎が言ったので、女は気味悪そうにちょっと身を引いた。
「どうも歩きにくいなあって思ってたんだ。でもなにしろ初めてだからこんなもんかなあって思ってたし、それなりにちゃんと歩いたり出来たもんだから」
スキーブーツの左右は本当にわかりにくいものである。また間違って履いても履けてしまうというのがもっとも問題なところであろう。インナーブーツとシェルの泣き別れというのもある話で、リフト乗り場まで来て板を履こうとしたらシェルをどっかに落っことしてきてインナーブーツしか履いていなかったなどという実話も存在する。くれぐれも初心者は注意が必要である。
「あなたね」
女は呆《あき》れたようにいった。
「よくまあそんなざまで、人の頭の上に板落っことさなかったもんだわね。だれもチェック入れなかったなんて、そっちもほとんど奇跡だし」
「いやーでも教えてくれて助かりました」
太郎は脳天気な笑顔でいうと、いそいそとブーツを履き直し始めた。
「あたしが推理するに」
女は太郎の横顔を眺めながらつぶやいた。
「下の連中はこの子の顔にでも見とれて、足元なんかさっぱり見てなかったってのが真相じゃないかしらん」
「え?」
太郎はブーツのバックルを左右交互に締めながら女を見上げる。
「ああ、気にしない気にしない。そうそうバックルは最初は緩めにしといて、順次締めてくのよ。インナーの中で足が泳がないようにね」
「はーい。うん、さっきと全然違う」
太郎は軽く足踏みして嬉《うれ》しそうにいった。
「これならもっとうまく行きそうだなー」
「初めてっていってたけど、滑り方なんてのの予備知識もまるっきり?」
「ええ」
「にしちゃ、最初の恰好《かつこう》は様になってたけど」
女は太郎が二枚の板の片側のエッジを雪面に打ち込むようにして並べるのを見守りながら言った。
「参考までに言っとくけど、ここのコースはエキスパート・グレート・スピード・テクニカル・コースっていって、かなりのベテランでも滑るには覚悟がいるっていわれてるとこなのよ」
「へえ」
「平均斜度は四十度。っていっても実感ないだろうけど」
「実感はできましたけど」
身体で実感しているといえよう。
太郎は板に取り付けられたビンディングに片足ずつブーツを乗せて、板が動かないように慎重に踏み込んだ。がちゃっとかみ込んだ音がして板が装着される。
「下にあるコース図に注意書きもあったはずだけど、ま、見ちゃいないんでしょ?」
「はい、後でちゃんと見ときます」
「後悔先に立たずとはいうけどね。いいわ、それより今のところは下まで生きて着くのが先決だわよ。みたとこ運動神経皆無って感じじゃなさそうだわね」
女は今度こそきちんと板を履いてぱんぱんと足踏みしている太郎を見ていった。
「これでいいですか? ああ、これならなんかやれそうな気がするなあ。これにくらべるとさっきまでのは」
「さっきまでのは?」
「拷問道具かなー」
女はぷっと噴き出した。
「ま、そんなとこでしょ。さてと、暗くなってきたわ。さっさと帰った方が身のためよ。いい? ちゃんと滑るためには、これはわかってるようだけど板の中心に自分の重心を置くこと。それから身体はつねに行きたい方向に向けること。スピードを落としたり向きを変えたいときは谷側の膝《ひざ》で山側の膝を押すようにすること。うまく曲がれなかったら山側に身体を倒してさっさと転ぶこと。以上よ、わかった?」
「ええと……」
太郎は言われたことを口の中で復唱すると、にっこり笑って頷《うなず》いた。
「やってみます、ほんとに助かりました。ありがとうございます」
太郎はぺこっと頭を下げた。
「お礼には及ばないわよ。とっとと行きなさい」
女は素っ気なく手を振った。
「俺、山田太郎といいます。冬休みの間銀雪館で働いてるんです。あなたは?」
「ふーん、銀雪館でね」
女はちょっと凄味《すごみ》のある笑みを浮かべた。
「あたしはね」
「はい?」
「あたしは、雪女よ」
「え?」
さあっと冷たい風が太郎の頬を打った。しかし厚く垂れこめた霧は吹き払われずに目の前に立っている女に白い渦となって巻き付いて行く。女はそれまでとは打って変わった凍り付いたような表情で太郎を見つめた。
「雪……女?」
女は口角だけを僅《わず》かに持ち上げた。
「あたしに会ったことを誰かに話してはいけない。あたしのいる場所に誰も来てはいけない。この向こうはあたしの場所。入る者はみんな恐ろしい目に遭う」
「ま、待って……」
「ふふふ」
微《かす》かな笑い声を残し、すうっとさがって遠ざかる女を白い霧がかき消す。呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす太郎の頭上に、やがてきれた雲の合間から茜色《あかねいろ》の空が覗《のぞ》いた。
その夜。
客が少なかったので早く仕事の終わった太郎は、大浴場の外に設けられた露天の岩風呂《いわぶろ》にとっぷりと浸《つ》かって夜空を見上げていた。
山頂を満たしていた霧は下って来ると気配すらなかった。今も頭上には一面にちりばめられた星空が広がっている。天を横切って白く天の川も見えている。
視界の下の方で乳白色の水面からたちのぼって来た湯気が、切れ切れになっては見えなくなって行く。天を仰いだまま太郎は両腕を広げて岩にもたせかけた。きんと冷えきった空気が、暖まった肩や胸元に心地|好《よ》く触れる。
辺りはしんと静まり返り、太郎はほうっと大きく息をついた。
と、からりと引き戸を開ける音がする。
「あら、お先?」
声の方を見た太郎は、あわてて目をそらしくるりと後ろを向くと顎《あご》まで湯に浸かり直した。
「ちょいと失礼」
いうなりタオルで身体の前だけをさりげなく隠したおかみはするりと湯船に滑り込んだ。
「あっ、あの俺もう出ますから」
「気を遣わなくてもいいのよ」
おかみは太郎の後ろ姿に向かっていった。
「ゆっくり浸かって身体をやすめなくちゃ。ああ、いいお湯だこと」
「あのー」
太郎はそろりと半分振り返りながらいった。
薄い湯気を通しておかみの白い顔が見える。視力には自信がある太郎の目に、その頬にかかる後れ毛とふっくらした白い肩が映る。
「俺、何か間違いました?」
「なにが?」
おかみはきょとんとしてからくすくす笑い出した。
「女湯と間違ったかってこと? 大丈夫よ、この時間はここは従業員用にしてあるの」
おかみはさらに面白そうに続ける。
「ただ、女性が先ってことには一応なってるんだけど」
「すっ、すみません」
太郎はあわてていった。
「今すぐ出ます、俺、その……」
頭に乗せていたタオルを腰に巻き付けながら、そろそろと内湯との境の方へ中腰で水中を進みかけた太郎は、更なる人の気配にぎょっとして動きを止める。
「おかみさんもう入ってるわよー」
「走るとこけるわよ。また裸で運ぶのなんてごめんだかんね」
「へーきへーき、早くあったまろー」
あっという間に境の引き戸が開いて、どっと仲居たちが入って来た。
「あらー、山田くんもいたんだねー」
千代はあっけらかんというと、申し訳程度にタオルを身体に当てたまま、ぼちゃんと湯に飛び込んだ。
「またあんたはもう!」
しぶきを避けながら理江が続く。
「ちっとは静かに入ったらどうなのさ」
「おんやー、なんか今日は珍しいお仲間がいるねえ」
「あー、遠慮せんで。ゆっくり暖まり」
細いの太いのでっかいの小柄なの、いずれもなかなか色白の裸体仲居軍団が押し寄せて来た。太郎の姿を見ても動ずるものは誰もいない。それぞれ湯船に入ってくる様子はいつもと変わりないという感じである。
ひとり退路を断たれた恰好《かつこう》で湯中に立ち往生した太郎は仲居たちに包囲された。
「山田くんって意外と着痩《きや》せするんだねー」
千代が太郎をまじまじと見て言った。
「都会のもんにしちゃいい身体してるさ」
「はやりのドングロなんちゅうのとは違ってるがねえ」
「里《さと》さん、それをいうならガングロでしょ」
「良く働く上にこんなに男前だもん、都会のもんもなかなか侮れないねえ」
「八重《やえ》さんとこの婿にどうかね」
「あんたそんなこと本人の承諾もなしに決めたらだめだよ」
「あたしをお嫁さんにするってのはどうかなー」
「なーに馬鹿いってんだか。千代みたいの嫁にしたら一生の不作だ。山田くんに申しわけないったら」
「まったくだよ」
あっはっはと仲居たちは豪快に笑った。
つられて太郎もくすっと笑ってしまう。
「あーそうやって笑うと、いやー山田くんてばほんっとに男前ー」
「目の保養目の保養」
「ありがたやありがたや」
「そんな、拝んだりしないで下さい。俺まだ仏さんになってないですから」
「あっりゃあ、そうだったわな」
「あはははは」
露天風呂は和気|藹々《あいあい》と盛り上がった。
「そういえば……」
太郎はふと思い出したように言った。
「この辺には雪女の話なんてあるんですか?」
「雪女?」
おかみが眉《まゆ》をひそめ、仲居たちははっと視線を交わした。
「?」
太郎が重ねて尋ねようとした時、からりとまた引き戸の音がした。
「!?」
ふり返った太郎が見たのは、驚愕《きようがく》に引きつった杉浦の顔だった。
「う、うわあああ!」
太郎と視線を合わせる間もあればこそ、杉浦は悲鳴とともにくるっと向きを変えようとして足を滑らせ、あお向けにひっくり返った。がつんと固い音がする。
「杉浦さん!?」
太郎と仲居たちはあわてて倒れた杉浦に駆け寄った。脳振盪《のうしんとう》でも起こしたらしく杉浦は白目を剥《む》いて動かない。かろうじてタオルが杉浦の最後の名誉を守っていたのが不幸中の幸いといえようか。
「杉浦さん?」
うっすらと目を開いた杉浦に、太郎はほっと笑顔になった。
「大丈夫ですか? 怪我はしてないようでしたけど、どこか痛いですか?」
「いや……山田……?」
杉浦はぼんやりした表情で太郎に向かって手を伸ばした。
「はい?」
太郎は何気なくその手を取る。途端に杉浦の顔が真っ赤になった。
「い、いやっ、そのっ、えーと、おっ、俺は……うわあっ」
気を失う前の出来事を思い出したらしく、杉浦は大声で叫ぶとがばっと起き上がった。
「ふ、風呂場に一杯、は、裸の、裸の……」
つうっと鼻血がたれる。
「杉浦さん?」
太郎はあわててティッシュを差し出した。
「す、すまん山田……」
鼻を押さえて気を落ち着けようとする杉浦だが、今度は浴衣《ゆかた》の下に何も着ていないことに気付いて再び顔に血が上る。
「そっ、その、山田」
「なんですか、杉浦さん?」
太郎はにこやかに杉浦の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「お、俺をここまで運んでくれたのは……」
「俺ですけど」
いきなり鼻血が噴出する。
「すっ杉浦さんっ大丈夫ですかっ」
「ら……らいりょうふ……」
それはつまり自分のすべてを太郎に見られたということに他ならない。杉浦はもう一度失神しそうになりながら、必死に逃げ道を探した。
「……しかし、見られたといっても男同士だし、別に恥ずかしいということなんか……いややっぱりこんなシチュエーションでなんて、それも山田に……いや山田になら見られたっていいじゃないか、いやいや山田だからこそ見られるのはちょっと……いやいやいや山田に見られたんなら他の奴よりは……いやいやいやいややっぱり山田といえどちゃんと手順を踏んだ上で……」
「杉浦さん?」
「あらー、気が付いたのねー。あんたおかみさんの親戚《しんせき》だっていうけど、来た早々災難だったわねー」
布巾《ふきん》を掛けた盆とポットを持って千代が入って来た。
「怪我がなくてなによりだわー、まあゆっくり休んで行きなさいなー」
千代は持ってきたものを枕元に置くと杉浦に向かってにこっと笑いかけた。杉浦は顔を赤らめたまま小さく頭を下げた。
「ああそうそう」
千代はちょっと声をひそめて太郎に言った。
「さっきの話なんだけどねー」
千代は杉浦の方をちらっと見ながらためらいがちに続ける。
「雪女の話ねー、実は最近出るとかいう噂があるのよー」
「最近、ですか?」
千代はうんうんと頷《うなず》いた。
「噂だからねー、あんまりしゃべるなっておかみさんにも言われてるんだけどねー、なんか見たって人が結構いるらしくてねー」
「見た人が?」
太郎は実は自分もと言うべきかどうかちょっとためらう。
「あくまで噂なんだけどねー、気味悪いわよー。変な噂がたったんじゃ商売にもかかわるしねー、まー、物好きはかえって見に来るなんて恩田さんなんかはいうんだけどねー」
「それはあるかもしれませんねー」
太郎はぽんと膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「ネス湖の怪獣もヒマラヤの雪男も屈斜路《くつしやろ》湖のクッシー、それからつちのこに河童《かつぱ》、どれも重要な観光資源になってますよね」
「へーっ、そうなんだー、山田くんよく知ってるねー」
千代は目を丸くして言った。
「でも雪女は見た人取り殺すっていうもんだからねー、命あってのものだねだものー、あたしは会いたくなんかないわよー」
「その、見た人がいるっていう雪女も、そういうタイプだったんですか?」
「えーとねー、うん、確か二度目に会う時は命がないぞとか、恐ろしい目にあうぞとかってー」
「ふうん」
「なんだ? それ」
ようやく止まった鼻血を拭《ふ》いて杉浦が太郎を見る。
「あ、噂ですから気にしないで下さいなー。こんな田舎ですからねー、迷信もまだまだ生きてるっていうかー」
千代は笑って言った。
「まー、山の向こっ側に行くなんて地元のもんでもそうはしないことですからねー、第一用もないし来るなと言われれば、はあそうかというようなもんだしー」
「ははあ」
太郎は頷いた。
「まー、へんなもんにははなから近付かないのが世渡り上手ってもんだしねー」
「それは言えてますねー」
太郎は大きく頷いて言った。と言いながらも太郎の人生は避けたい事態になぜか突入を余儀なくされるというシチュエーションが多いような気もするのだが。
「それじゃあごゆっくりー」
「なんなんだ? 山田はなんか知ってるのか?」
杉浦は妙に真剣な表情の太郎に、怪訝《けげん》な顔をした。
「ああ杉浦さん、おにぎり食べます?」
太郎は我に返ると、盆にかかった布巾を取って急須《きゆうす》を取り上げた。
「い、いや」
真っ直ぐに向けられた視線に、また頬に血の上る杉浦である。室内に二人っきりというのがまた杉浦の緊張を増していた。
「いらないんですか? じゃあ俺食べてもいいかなー」
太郎はじゅるっとよだれをすすって言った。
「いいよ、食いなよ」
「わーい、いっただきまーす!」
太郎は嬉《うれ》しそうにおにぎりにかぶりついた。
「おいしいなあ、やっぱり米が旨《うま》いからだよなー、いや、水もいいし」
豪快に大口をあけておにぎりをぱくつく太郎を、杉浦は幸せな面持ちで見つめた。太郎の喜びは杉浦の喜びである。
「なんたってかまどで炊いてるってのが決めてだろうなー。あっ、葉唐辛子の佃煮《つくだに》が入ってる。ねっ、杉浦さん」
「はっ、はいっ」
いきなり振り向かれて杉浦はうろたえる。
「これってこのぴりっとしたところが旨いんですよね、ほんのちょっとで飯が食えるし、お茶漬けにしてもいいし」
目を輝かせて話す太郎の口元についているご飯粒に杉浦の視線が吸い寄せられる。餅肌《もちはだ》と形容したらいいのか、滑らかな肌の上にぽんと乗っかった艶《つや》の良いご飯粒が、太郎の形のいい唇が動くたびにきらきらと光る。杉浦は太郎の口元が視界一杯になって迫って来るように感じた。
「……い、いかん……」
「どうしたんですか?」
言われてはっと気を取り直す杉浦である。
「あ、あの、山田」
「はい?」
太郎は指についたご飯粒をぺろりと口にいれながら杉浦を見る。
今なら、と杉浦は思った。ご飯粒を取るくらいなら別に変なことではない。あんなに小さい粒を取るためには太郎の頬に触れるのは必至だ。自分はそんなつもりはないのだが、たまたま触ってしまわざるを得ないのだから、この場合太郎に触れるのは必然ということで……。葛藤《かつとう》の揚げ句そろそろと手を差し延べようとした杉浦だが。
「あー旨かった」
おにぎりをきれいに食べ終えた太郎は、ぺろっと舌を出して頬にくっついていたご飯粒をさらい取った。
「お米は一粒でも大事にしないとお百姓さんに申し訳ないからなー。あれ、杉浦さんどうしたんですか?」
太郎は片手を伸ばして布団に突っ伏した杉浦を見て首を傾げた。
翌日からも太郎は忙しく働いた。銀雪館のような和風の宿も、設備の近代化と温泉の魅力があいまって若い層にもなかなかの人気となっており、クリスマス・イブのお泊まりの予約も結構入ったりしているのである。もちろん旧来の年配客、家族連れ、お馴染《なじ》みさんによる年越し予約はすでに一杯で、日ごとに太郎の忙しさは増していった。
太郎の様子を見にやって来ただけのつもりだった杉浦も、一応ギャラは出すからとおかみに押し切られバイトの一員に加わっていた。杉浦にしてみれば嬉しくない訳ではなかったのだが、せっかく太郎と一緒にいられるとはいえ、忙しいのとあまりにも気のおけない仲居のおねえさん軍団の中では、思い描いていたようないい雰囲気で過ごすことなど出来るはずもない。杉浦はそれでも普段よりは邪魔、すなわち太郎をアタックせんと狙っている女子生徒がいないだけいいと思うことにして、せっせと太郎のサポートに回ったのである。
「圭一ちゃんも良く働くわねえ」
おかみは上機嫌だ。
「それになんといっても太郎ちゃんはお年寄りにも若い人にも受けがよくって。みなさん、絶対また来るからって言って下さってね。そうそうもう来年の予約をしてったお客様がこんなに。二人とも次のお休みも是非来て頂戴《ちようだい》ね」
「そんなの無理だよおばさん」
杉浦はむっとして言った。正確にはおかみは杉浦の母の従姉妹《いとこ》に当たるので叔母《おば》ではないのだが。
「俺も山田も年が明けたら受験なんだし、先のことなんて約束できませんよ」
「あら、また浪人だったら出来るでしょ」
「そんなのまだわかりません」
杉浦は内心どきっとして言った。この自信のなさが自ら不運を招いているのかもしれない。いや、今年太郎と同期になれたと思えば、去年のことも災い転じて福となす、ラッキーの尻尾《しつぽ》をつかむ前兆なのだ、と自分に言い聞かす杉浦である。
そんな中今度こそ隙間なく働いていた太郎たちに、大《おお》晦日《みそか》の午後、すっぽりと空いた時間が出来た。
「山田、スキー教えてやろうか?」
今がチャンスと杉浦は太郎を誘って、ゲレンデへと出かけた。
大晦日ともなると面倒な正月支度を逃れた人々で各地の宿泊施設は満室になる。ために今日のゲレンデは結構混んでいた。銀雪館の周りは子供連れや初心者スキーヤーで一杯だった。
「これじゃあ危ないな。少し上がろうか」
「はい」
太郎は杉浦についていそいそとリフトに乗る。がらがらだったこの前とは違ってリフトも全線フル稼働し、シングルリフトだけでなくペアリフトとトリプルリフトも今日は動いている。杉浦はペアリフトに向かった。
「よお、銀雪館さん」
「あ、こんにちは、こないだはどうも」
乗り場のおっちゃんと太郎は挨拶《あいさつ》を交わす。
「おやあ、見ない顔だがそっちも銀雪館さんかい?」
「はい、一緒に働いてるんです」
「ははあ、ご繁盛でいいこった。さ、乗ってきな」
「はい、ありがとうございます」
「どうも」
杉浦もぺこっと頭を下げ、ふたりは並んでリフトに腰を下ろした。ついと空中に昇器が出ると、ひんやりとした空気と真っ青な空とが二人をひろびろと包む。
「…………」
杉浦は初めて太郎とふたりっきりになれたと思った。すぐ横に肩を触れ合って太郎が座っている。そっと窺《うかが》うと太郎は楽しそうにゲレンデを見回していた。少し細面の、だが骨格のしっかりした顔立ちの横顔は鼻筋が見事に通って端整だ。さらさらの髪に微《かす》かな風に含まれて飛んで来た氷のかけらが幾つも止まり、透明な陽射しに輝いている。杉浦は我知らず胸の鼓動が高まるのを感じた。
「杉浦さん」
「わっ、は、はいっ」
太郎が予告もなくふり向いたので杉浦は一人勝手に狼狽《ろうばい》した。
「うわっ、とっとっ」
がばっと身を引いたために昇器が揺れ、杉浦はバランスを崩して手摺《てすり》にしがみついた。
「あっ、杉浦さんあわてないで」
太郎が手を伸ばして杉浦の身体を引き戻す。杉浦は力強いその腕についうっかりうっとりと身をゆだねてしまう。
「あ、ありがとう」
「いいえ、大丈夫ですか?」
青空を背景にした太郎の顔が光に縁取られ、まるで宗教画のようにも見えた気がして杉浦は絶句した。
「杉浦さん?」
「……あ、だ、大丈夫」
「もうすぐ降り場ですよ、板の先を上げないと」
「うん」
幸福は一瞬の間だった。言われる端《はな》から杉浦は板の先端を降り場の前の雪の壁に突き刺し、リフトを止める騒ぎを起こしたのだった。
「すまん山田」
「気にしないで下さい、怪我もなかったんだし」
太郎は朗らかに言った。
「どうします? もう少し上まで行きましょうか」
「そうだな、この辺も人が多いみたいだし」
言いながらふたりは次第にリフトを乗り継いで昇って行き、結局またしても頂上にたどり着いてしまった。
「ちょっと昇りすぎたかなあ」
いくらかは滑れる分、状況も理解できる杉浦は、足元の斜面を見下ろして及び腰に言った。風で表面の雪が飛ばされた斜面は、その角度以上に急峻《きゆうしゆん》に見える。実際に滑る場合にもアイスバーン、すなわち表面が氷状に近くなっているため板のサイドエッジが利かず止まるのも曲がるのも大変困難になるのだ。ここのように陽の当たりにくい北斜面で青光りして見えるような状態になっている時には、エッジを利かそうとすると火花が散ることさえある。同時にまた転んだりすると、絶対と言っていいほど止まれないのでどういう方法にしろ降りるのは至難の業《わざ》である。
「ええと、重心は板の重心に置いて、身体は常に行きたい方を向く、と」
太郎は先日習ったポイントを反芻《はんすう》しながら、ブーツのバックルを締め直し、板をきちんと履くと、斜面にほぼ平行に足を置いて、下から斜面のサイドの方へと視線を移した。
「曲がりたい時は谷側の膝《ひざ》で山側の膝を押すようにする」
杉浦はごくんと唾《つば》を飲み込んで太郎のすることを見守った。
「それから……曲がれないと思ったときは山側に身体を倒してさっさと転ぶ、ですよね?」
太郎は杉浦を見て言った。
「え? あ、ああ、その通りかも……」
杉浦は頷《うなず》いた。だれに習ったのか太郎の言っていることはもっとも基本をついている。おまけに今杉浦が見ている太郎は、ここへ来てまだ一度しかスキーをしたことがないと言っていたのに、立っている姿がすでに完璧《かんぺき》なスキーヤーのそれとなっている。スキーはそもそも立っているだけで技術の程が知れると言われているのだ。杉浦は落ち着かない視線で辺りを見回した。リフトから降りて来る人影はない。斜面を見下ろしても、誰も見えずまた誰かが滑った跡も見いだせない。
杉浦はつのる不安を押し隠しながら、自分もバックルを締め直してみた。
「さてと、空《す》いてて良かったですね、杉浦さん」
太郎がふり返って言った。
「どうします? 杉浦さんにお手本見せてもらうか、それとも俺が先に滑って見てもらった方がいいかな?」
「ど、どっちでもいいけど……」
杉浦は口ごもった。
「うーん、じゃあ俺先に行きますから、後ろから見てて下さい」
「あ、ああ気をつけてな」
自分は卑怯者《ひきようもの》だったろうかと杉浦は後になっても何度か思ったものだった。結末がどっちにしろ同じだったにしても、自分より経験のない太郎を先に行かせるべきではなかったのではないかと。
太郎はひらりと身を翻して斜面に躍り込んでいった。杉浦はあわてて身を乗り出して覗《のぞ》き込む。
しゃっという鋭い音をたてて太郎のスキーは瞬く間に斜面を横切り、端のまだ積もった雪が残っている辺りまで行くと、くるりとターンした。
「うまい!」
杉浦は思わずつぶやく。やや半径は大きいものの、太郎は見事に反転し再び斜面を斜め下に向けて横切って行く。そして再びターン。
杉浦が息を詰めて見守る中、太郎は根気良くターンを繰り返していつしか斜面を半分ほども下ることに成功していた。
「あっ」
真っ直ぐに進んでいた太郎の足元が瘤《こぶ》に跳ねあげられる。しかし太郎は一瞬のうちに後傾しかけた体勢をぐいと引き戻して重心を取り戻すと、何ごともなかったかのようにまた前進を続けた。杉浦はほっと胸をなで下ろす。
やがて太郎は無事斜面を降り切ると、杉浦の方をふり仰いで手を振った。
「杉浦さーん、どうでしたかあ?」
杉浦は思わず嬉《うれ》しくなって手を振り返した。
「山田ー、完璧だぜー。すげーうまいじゃないかー」
「ほんとですかー、良かったあ、杉浦さんに褒めてもらえて」
かなり離れてはいたが、太郎の笑顔がはっきりと見てとれて、杉浦は自分のことのように嬉しくなった。
「杉浦さんも早く来てくださいよー」
「いま行くよ」
機嫌良く手を振ってから、ストックをにぎり直し、杉浦ははたと現実に立ち返った。
「…………」
足元から切れ落ちる急斜面を改めて見下ろし、杉浦はぶるっと身震いした。じっと目を凝らせば、瘤はそんなに多くはなく意外に斜面自体は平滑なようである。経験のない角度だが、太郎のような方法でなら杉浦にもなんとか降りられないこともないだろう。
「杉浦さーん」
「うん」
杉浦はストックをついていかにも斜面を窺《うかが》っているという恰好《かつこう》で頷いた。こうしていると大抵の人がかなりスキーがうまい、ように見えるものなのである。これを『上手《うま》そう』のポーズという。
しかし。
このままポーズを取りっ放しでは、それこそ冷凍保存状態になってしまう。杉浦は男らしく覚悟を決めた。
「……よし、行くぞ」
そうつぶやいてからさらに十数秒後、杉浦は未体験ゾーン・アイスバーンの斜面に足を踏みいれた。
「!」
直後。杉浦は後悔した。後悔先に立たず。時はすでに遅かった。
予想以上に雪面は堅く凍り付き、スケートリンクよりも滑りやすく、しかもその表面にある細かいでこぼこのために接地面積が少なくなって、あたかも飛ぶようにとしかいいようのない状態で杉浦の板は突っ走っていった。
最初の横切りはそれでもなんとか持ちこたえた。端の雪に板が突っ込むとスピードが落ちて杉浦は息をつく。仕方がないのでいったん板を止め、これは習った事のあるキックターンで百八十度向きを変えた。これは立ったまま片足ずつ、板を回して向きを変えるやり方で、スキー教室等に行くと必ず教わる初歩の技術である。ただし、これを裏返しにやろうとすると大変難しく大抵の人は足が絡んで転ぶことになる。
「杉浦さん、その技は?」
太郎の声が聞こえて杉浦はちょっと赤面した。
「技っていうほどのものじゃないよ」
「さすがは杉浦さんですねー」
太郎は感心したように言った。杉浦は嬉しかったが、先を思うと心は重い。太郎のいるところは遥《はる》か下だ。
「くっそー」
ここでくじけてもどうにもならない。杉浦は意を決して再スタートを切った。
がりがりがり。
いやな音をたてる板から振動が足に伝わって来る。杉浦は必死に体勢を保とうと踏ん張った。がしかし。
「あっ」
谷側の板がいきなり下へ大きくはじかれた。踏ん張ろうとした足は空を踏み、杉浦はそのまま頭から谷に向かって空中で半回転していった。
「わああああ」
がつん、と頭か肩かが何か固い物にぶつかり、身体全体が叩《たた》き付けられた感覚の後にまた杉浦は自分が宙を舞うのを感じた。
そしてそのまま何もわからなくなった。
「杉浦先輩!?」
杉浦が足を踏み滑らすのと同時に太郎は叫んだ。しかし、いくら太郎でも斜面の遥か上ではどうすることも出来ない。為《な》す術《すべ》もなく見守るうちに杉浦は空中を何回転かし、板とストックを四方にばらまきながら斜面を滑り落ちて来た。
「杉浦さん!」
大きな瘤のところで杉浦の身体が再び跳ね上がる。人形のように力ない手足を見つめて太郎はおろおろと身をもんだ。
と。
斜面の脇の林の中から物凄《ものすご》いスピードで飛び出して来た者がある。白いウェアは真っ直ぐに斜面を横切り、杉浦の落ちる直下に滑り込むと身体ごとぶつけるようにして落下を止めた。
「凄い……」
太郎は息を呑《の》んだ。
杉浦を肩に乗せた白い人影はそのまま安定したフォームで一気に太郎のところまで滑り降りて来る。
「あっ、あなたは」
「大馬鹿その二。それとも転がる馬鹿ナンバーツー?」
白いウェアの女は杉浦を下ろすと大仰に溜め息をついてみせて、いった。
「ありがとうございます」
「まったく手間をかけさせてくれるわね。これだから都会もんはいやなのよ」
女はこの間とはうって変わった最新デザインのスキーウェアを身にまとっている。長い黒髪に白いファーのヘアバンドが今日は兎を思わせた。
「こっちには来るなっていったのに」
「下は混んでたんですよ」
太郎は杉浦をそっと抱き起こしながらいった。杉浦は意識を失っていたが、大きな怪我はないようである。
「それだけの理由で命を落とすなんて馬鹿らしいと思わない?」
「少なくとも俺は仏さんになるつもりはありませんけど」
「地元の年寄りみたいな言い方をするわね」
女は呆《あき》れたように言った。
「まあいいわ、とにかくこのとんちきをさっさと連れて帰ってもうここらには来ないことね」
「それは雪女の命令ですか?」
いたずらっぽくいった太郎に、女はにやっと笑いかけた。
「噂を聞いたのね? だったらそういうことにしといてもいいわよ」
「じゃあそうしますよ。あなたにはあなたなりの何か理由があるみたいだし」
女はちょっと驚いたように太郎を見た。
「あなた、ただ者じゃないわね」
「ただのアルバイトですよ」
太郎は真面目な顔をして言った。女は警戒するような目付きになって太郎を見返した。
「それで、この山で何が取れるんですか?」
「へ?」
太郎は口元にたまるよだれをすすって女を見つめた。
「何を知っているっていうわけ?」
女は怖い顔になった。
「知らないから教えて貰《もら》おうと思ったのに」
太郎は子供のように指をくわえていった。
「熊? 鹿? それとも兎かなぁ、リスじゃあ小さすぎて分け前ってわけにもいかないですよね。あっ、もしかして、キジですかあ?」
「はあ?」
女は混乱した様子で首をひねる。
「キジはおとしてもすぐには食べられませんからねえ。屋外で一週間くらいは熟成させないと」
「いいとこ三日でしょ。そんなに古くしちゃ臭っちゃうわよ」
思わずといった体《てい》で女が答える。
「それがいいんですよ!」
太郎は目を輝かせていった。
「一日一日、食べ頃になってゆくキジを眺めて、もうちょっとだなあって楽しみにして。それで、臭いが獣臭いのからだんだんこうとろけそうな感じになってくると、ああ、これを料理したら旨《うま》そうだなーって」
太郎は恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべた。
「……あなた」
我に返った女は冷たい視線を太郎に投げた。
「確かにただ者じゃないのはようくわかったわ」
「そんなことはどうでもいいんですけど」
太郎はよだれたらたらの顔でうっとりと女をみつめる。
「で、やっぱりおいしいのはキジなんですね?」
「そ、そんなとこかしら」
女は気圧《けお》されたように頷《うなず》く。
「でもね」
目を輝かせて乗り出す太郎を女はあわててさえぎった。
「ここんとこ全然なのよ。それでわたしが人払いをして、山にキジが戻って来るようにしてるってことなの」
「そうだったんですか!」
太郎は感動した表情でいった。
「じゃあ、旨いキジが食べられるようになったら俺にもわけてもらえますか?」
「……なったらね」
「やった!」
太郎は嬉《うれ》しそうに叫んだ。
「あなた、本当にただ者じゃないわね。こないだの今日でここに降りきれる、なんてのからしても」
「それは」
太郎はにっこりと笑った。
「教わった通りにしたらちゃんと出来たってそれだけですよ」
「へえ」
「立ったまんまで向きを変えるってのは杉浦さんに教えてもらいますから」
「……ってキックターンのこと?」
女はまた呆《あき》れた顔をする。
「そういう名前の技なのかあ、あれもかっこいいですよね」
「恰好《かつこう》いいかどうかは人それぞれだけど、まあ出来て損はないわね。ひとりで降りられる?」
女は気遣うふうでもなくいった。
「大丈夫です。電気製品を拾って来るのに比べたら人一人くらい軽いもんですよ」
「はあ?」
怪訝《けげん》な顔をする女を尻目《しりめ》に太郎は杉浦を軽々と背負った。
「あ、スキー道具……」
「放っといていいわよ。銀雪館でしょ、今日の内に持ってったげるから。これで二つ、恩を着せていいわね」
「お言葉に甘えます」
太郎は女に向かってぺこりと頭を下げた。
学校の休みで一番短い冬休みはたちまち終わり、またいつもの日常が太郎たちに訪れた。
「おはよう山田」
「おはよう御村」
「どうした山田、温泉旅館のバイトはどうだったんだ?」
「いや、いい仕事だったよ」
太郎はいいながら浮かない顔である。
「なんかあったのか? そういえば」
御村はくすりと思い出し笑いをした。
「バイトを紹介してくれた杉浦先輩、大怪我して帰ってきたんだって?」
「いや、怪我は大したことなかったんだ。むち打ちと捻挫《ねんざ》ぐらいでさ」
「じゃあギャラに問題でも?」
太郎は首を振った。
「はずんでくれたよ。だけどキジを食いそびれちゃってさ」
「キジ?」
御村は怪訝な顔をした。
「ああ、そう言えば、今朝の新聞におまえのバイトにいってた温泉地で戦国武将の埋蔵金が発見されたとかって話が載ってたぞ」
「へ?」
ぽかんと口を開けて太郎は御村を見た。
「まい、ぞう、きん?………なんだそれ? 今朝は新聞まだ読んでないんだ」
「朝日輝く夕日差し込む木の下の、とかいう古文書《こもんじよ》を解読して見つけた、お家再興のために隠してあった総額五百億円分の金」
「ごひゃくおく? きん?」
太郎はだらんと顎《あご》をたらした。
「きん? 金? じ、じゃああの雪女は……」
太郎は何事かに気付いたように宙をにらんだ。
「雪女?」
「やられた……この俺がキジでごまかされたとは……」
太郎は悔しそうに拳《こぶし》を握りしめた。
「そのキジも食わないまま帰って来てしまったなんて、俺は馬鹿だった……」
「どういうことなんだ?」
なんのことかと尋ねる御村に、太郎は力なく答えた。
「雪女に口止めされたんだ、人を近付けるなって」
「ははあ」
御村はおおよその見当がついて頷《うなず》いた。
太郎はがっくりと肩を落とす。
「そんな話なら混ぜてもらえばよかった……せっかくのもうけ話に気づかなかったなんて、ああっ、俺の馬鹿馬鹿馬鹿……せめてキジの現物くらい確保しておけば」
「しかしな山田」
御村は慰めるようにいった。
「金ったって、たしかあれは笹の形の金が百万枚って話だからな。いくらお前が金に耳ざとくても、流通してない金の音まで聞き取るのは無理だと思うぞ」
御村は冷静な口調でいった。
「おかげで発掘現場が名所になって、冬場以外はさっぱりだった客も春以降の予約が殺到してるっていうから、まあよかったんじゃないか」
「それはそうだけど……」
太郎は尚《なお》も未練そうにつぶやく。
「要求すればちゃんと口止め料払ってもらえたかも。キジだけじゃなくて」
「そういうのはお前に向いてないだろう。第一そんな方法で手に入れた金なんて、あっという間にお袋さんの餌食《えじき》になるのが落ちだと思うが」
太郎は泣きそうな顔で頷いた。
「キジだけでも良かったのになー……いやそんな方法で手に入れた金じゃなくてもさ」
「え?」
「バイト代ももうかあちゃんの手に……」
御村は噴き出しそうになるのをこらえつつ、太郎の肩を元気づけるように軽く叩《たた》いた。
「あすはうちに飯でも食いにこい」
「うん!」
一瞬で立ち直り、教室に向かって駆け出した太郎の後ろ姿を御村は苦笑しながら見送った。
角川文庫『山田太郎ものがたり たたかう青少年』平成19年6月25日初版発行