[#表紙(表紙.jpg)]
黒い墜落機
森村誠一
目 次
消えた流星
凶悪なサルビヤ
虫の警報
蟷螂《かまきり》の抵抗
焼け爛《ただ》れた花
骨肉の手紙
攻防の谷
欺瞞《ぎまん》の愛
人非人《にんぴにん》の廃物利用
屈辱の代読
酸鼻《さんび》なる墓標
苛酷《かこく》なる別離
最後の客
[#改ページ]
消えた流星
1
昭和五十×年二月十×日午後、航空自衛隊中部航空方面隊司令部の置かれている埼玉県|入間《いるま》基地は、異常な緊張の中に置かれていた。
今日午後四時ごろ、茨城県百里基地より緊急発進《スクランブル》した第七航空団所属のF−4FJ主力戦闘機が、交信を絶ってすでに三十分を経過している。F−4FJファントムは、F−104Jや、F−86Fの減耗あるいは老朽化にともない「新次防」に盛り込まれて装備された、最新鋭ジェット戦闘機である。
F−4FJは、全装備重量二十六・八トン、航続距離三千八百キロ、重装備の場合でも、一千キロをカバーする。複座で搭乗員二名、実用上昇限度二万二千メートル、最大上昇限度三万メートル、武装は、対地爆撃用に七トンの爆弾を積載し、空対地ミサイル「スカイシャーク」(核弾頭装着可能)四発を備える。
また空中戦用にレーダーホーミング・ミサイル「サンダーシュート」四発、「ドラゴンU型」四発を有し、どんな悪天候下においても出撃できる。高々度で、マッハ二・四のスピードを維持する抜群の性能を誇る新鋭機である。
航空自衛隊が、防空戦闘機的色彩の強いF−104Jからこの多用途型戦術戦闘爆撃機のファントムに徐々に切り替えを図っているのは、「その作戦構想を防空から戦術攻撃へ転換させたことをしめす明白な指標である」と警戒している軍事評論家もあるほどである。
ともかくこのF−4FJの装備によって、航空自衛隊の戦力≠ヘいっきょに増強されたことは事実である。
この虎《とら》の子戦闘機が一機、スクランブルで基地を出たまま消息を絶ってしまったのだ。行方不明機は417号機、搭乗員は、第七航空団百里派遣隊第1001飛行隊長|大山弘《おおやまひろし》二等空佐および沼田和市《ぬまたかずいち》一等空尉の二人である。
いっしょに発進した僚機の416号機は、すでに百里基地に帰還している。同機の搭乗員|大野芳雄《おおのよしお》一等空尉と平川正巳《ひらかわまさみ》三等空尉は、
「山梨県|甲府《こうふ》市から長野県|伊那《いな》市方面へ向かって、赤石《あかいし》山脈|仙丈《せんじよう》岳上空を高度八千八百五十メートルで編隊を組んで飛行中、積乱雲形の雲堤の中に突入して、激しい雷光に包まれた。必死に機を操り、伊那市上空へ抜けたときは、すでに417号機は見えなかった。雷雲の中ではぐれたとおもい、一万三千メートルに上昇してしばらく旋回したが、417号機は現われなかった。この間無線にも応答しない。無線機の故障ということも考えられるので、僚機を見失ったことを基地に報告して帰還した」
と語った。
だが基地には、417号機はまだ帰還していなかった。F−4FJの航続距離は三千八百キロだから、まだ搭載燃料は十分残っている。しかし、全国二十四か所のレーダーサイトを結んで構成されている自動警戒管制組織《バツジ・システム》のいずこにも足跡を残さず、主力戦闘機が三十分以上も行方《ゆくえ》を晦《くら》ましていることは考えられない。
司令部を被《おお》った憂色は、しだいに絶望によって上塗りされていく。もはや、大山、沼田機の遭難は、確定的といってよかった。
バッジ・システムの各レーダー基地は、コンピューターによって直結され、迎撃機と対空ミサイル網をコントロールしている。各レーダー基地は、一年中、昼夜のべつなく対空警戒を行ない、日本領空に接近する国籍不明機や未確認飛行物体を探知すると、各サイトの追尾計算機がこれを追うと同時に、ADDC(防空指令所)に連絡する。ADDCでは、中央迎撃計算機が一瞬のうちに敵か味方かを識別して、高度、速度、方向の計算をし、迎撃機か対空ミサイルのいずれを使うか兵器の選択を行ない、航空基地に出動を指令し、発進した迎撃機を目標物まで誘導、交戦、帰還まで自動的に管制処理する。
レーダー基地の表示機《コンソール》の前に坐《すわ》って、ボタンを押すだけで、これらの解答がシンボルカラーによってしめされる。まさにボタン戦争を表象する恐るべきコンピューターである。
さらに新次防によって増強された三次元レーダーは、方位、距離、高度を一基で測定し、コンピューターと連動して数秒で機位を割り出してしまう。
バッジ・システムに連なる各基地は符合伝送装置《データリンク》によって連結され、すべての情報は、上級司令部の設置してある三沢《みさわ》、春日《かすが》、入間のADCC(防空管制所)および、府中のCOC(戦闘指揮所)に瞬時に集約される。
これまでの手動式管制では、一人の管制官が二機しか管制できなかったのが、バッジ・システムにおいては、同時管制可能機数は、いっきょに十倍となった。また、侵入飛行物体を発見してから迎撃までの所要時間は手動式の十分の一に短縮され、迎撃の精度と誘導処理能力が大幅に向上したのである。
バッジの覆域《カバレツジ》は南朝鮮、沿海州、サハリン、南千島まで及んでいる。
一方、航空機がバッジ・システムと連動するためには、機上にデータリンク装置を搭載しなければならないが、F−4FJには初めから組み込まれている。これによって地上の迎撃計算機が、迎撃機に、最適迎撃姿勢を取るための速度、方位、進行方向を教える。
機上レーダーが敵影をキャッチすれば、あとはコンピューターが飛行コース、射撃時期を割り出してくれる。作戦を終了した味方機を基地まで誘導するのも、バッジ・システムである。つまり、バッジ・システムと連動する航空機は、釈迦《しやか》の掌の上で暴れる孫悟空《そんごくう》のようなものだ。地上管制網のバックがなければ、いかに新鋭の戦闘機でも盲同然となる。
これが突如として、バッジの網の目からどこかへこぼれ落ちてしまったのである。
2
見坊利道《みぼうとしみち》と水橋真紀子《みずはしまきこ》との結婚は、明らかに失敗であった。真紀子は、この人とはうまくいきそうにないということを、新婚旅行の宿で漠然《ばくぜん》と悟った。二人の新生活のスタートを記念すべき大事な夜というのに、利道は宿の部屋から母親に長々と電話をかけた。母親と話をしていないと、心細くてしかたがないらしいのである。
見坊家の一人息子として、また将来、見坊商事の大屋台を背負って立つ御曹司《おんぞうし》として、腫《は》れ物にさわるように育てられたため、すっかりスポイルされてしまったのだ。
そんな相手と今日まで数年間、夫婦として暮らしてきたのは、新婚旅行中に、長男の利也《としや》を孕《はら》んでしまったことと、夫婦生活というものがよくわかっていなかったからである。
あの忌《い》まわしい事件がなく、真紀子が反町重介《そりまちじゆうすけ》にめぐり会わなければ、見坊利道の妻として耐え、当主夫人の座と、それに相当する財産を手に入れたかもしれない。
見坊利道と水橋真紀子の結婚は親同士がお膳立《ぜんだ》てした見合いによるものであった。見坊商事はソックス業界の老舗《しにせ》で、最大手のメーカーである。婦人もの下着を中心に、最近では外衣や不動産業にまで手を広げてきた。
一方、水橋家は、箱根《はこね》で古いホテルを経営している。そこへ利道の父、利平《りへい》が外人バイヤーの接待ゴルフをして宿泊した折り、たまたまホテルに来合わせていた真紀子を見そめた。
当人よりも、まず父親のほうが熱心になってしまい、ぜひ息子の嫁にと懇望《こんもう》して、見合いにまで強引に引っ張った。
水橋家としても、財界の実力者、見坊利平に娘の真紀子をそれほどまでに見込まれて悪い気はしなかった。地方の素封家《そほうか》にすぎない水橋家にとっては、考えられる最高級の縁談であった。
ちょうど真紀子が女子大を出たばかりのときだった。最近は、女子大生の常軌を逸《いつ》した乱行や発展ぶりが、あまり珍しくもない世相になったが、真紀子は、まことに真面目《まじめ》一方の学生生活をすごした。周囲に男性のいなかったせいもあるが、旧家の奥深くに育てられて、あまり異性に興味をもっていなかった。
映画や小説に登場する燃えるような恋は、あくまでも架空の絵空事《えそらごと》で、自分には縁のない世界だと思っていた。
だから、いきなり見合いだの、結婚だのと言われても、ピンとこない。周囲で両親や親戚《しんせき》の者が騒いでいるうちに、見合いの席上に引っ張り出された。外見、特に相手に欠点も見つからないので、両親にまかせると答えると、バタバタと婚約がまとまって、あっという間に結婚させられてしまった[#「させられてしまった」に傍点]というのが実情である。
たった一度の見合いで、これまで二十年以上も、人生のべつの軌道を歩いて来た二人が、わかり合えるものではない。だいいち真紀子は、相手の顔もろくに見なかった。言葉もほとんど交わさなかったようである。この場合、見合いは相手の一方的意志によってすすめられた。
利道は、真紀子の深窓の中で培《つちか》われた臈《ろう》たけた美貌《びぼう》に、一目で虜《とりこ》にされてしまった。後で聞いたことだが、見合いの後、もし真紀子が承諾してくれなければ、死んでしまうと言って周囲を困らせたほどの執心ぶりであったそうだ。
それに対して真紀子は、特に断わるべき理由をもたなかった。――というより、よくわからなかったのだ。ちょっと見ただけであったが、相手はいっしょにいて不愉快になるようなマスクでもなかった。両親がすすめてくれた縁談だからまちがいないだろうという気持ちから、安易に承諾した。
自分の結婚に対する他力本願《たりきほんがん》の姿勢が、長く悲惨な夫婦生活を強《し》いられることになったのである。
真紀子は結婚して初めて、人間となった。その意志に忠実に従って自由に動くようになるまで、まだだいぶ時間の経過を待たなければならなかったが、とにかく人間として自らを意識したことは事実だった。
それまでの彼女は、水橋家の奥深くで、人生から遮断《しやだん》されて育てられた人形であった。恵まれた環境で過保護の垣《かき》に閉じこめられていたから、人生の荒海を自分の力で泳ぐ必要がまったくなかった。泳がないまでも、その波《なみ》飛沫《しぶき》や風にも当たらないようにして、育てられていた。人間として生を享《う》けながら、人生からまったく遊離していたのである。
見坊家へ嫁《とつ》いでから、彼女の女の人生ははじまった。それは小波《さざなみ》一つたたぬ温水プールから寒流の渦巻《うずま》く暗い海に叩《たた》き込まれたようであった。極端から極端への移動であり、過保護の垣を完全に取りはらわれて、自分の力で泳がなければならない人生の海に置かれたのだ。彼女の人生航海への船出が、そのような寒流に向かってスタートを切ったのは、不幸であった。
真紀子が人生の寒流の中に放り込まれたのを悟っても、ただちにそこから、脱け出すための努力をしたわけではない。冷たいと知覚しただけで、数年は、そこに漂流をつづけなければならなかった。
二十年を超える人形としての生活が、惰性になってかなり影響したのである。これではいけないとわかっていながらも、これまでつづいてきた軌道の方向を簡単に修正もできなければ、べつの軌道に乗り換えることもできない。
また結婚の初期は、利道の異常もあまり目立たなかった。男というものは、自分の父や兄弟しか見ていなかった真紀子は、利道に多少の異常性を意識しても、そんなものかと考えていた。
結婚して最初にびっくりしたことは、利道が、子供のころ遊んだ玩具《おもちや》を大切に保存していることであった。しかしこれは、まったくないことではない。幼年期の玩具を成長の過程の記念として、また過去を振り返るよすがに、おとなになってからも、とっておくケースは、あり得る。だが利道の場合、遊んだ玩具のほとんどすべてを集めているのではないかとおもわれるほど、膨大《ぼうだい》な量なのである。それを宝物のように保存している。
利道は時折り、独《ひと》りで自室に長い時間閉じこもることがあった。その間、だれも近づけない。結婚してからも、宏壮《こうそう》な見坊邸の一角に舅《しゆうと》夫婦と同居の新婚生活だったので、古い召使いも数人いる。彼女らは、利道が閉じこもると、またはじまったというような顔を見合わせて、意味ありげに笑う。
召使いに聞いても、笑いにまぎらせるだけでおしえてくれない。いったい独りで部屋の中に閉じこもって何をしているのか? 時折り部室の中から、獣のうなり声や、子供の悲鳴に似た奇声が漏れてくる。
真紀子は気味が悪くなった。自分の夫がなにやら怪しげな奇病に取り憑《つ》かれたような気がした。
真紀子は意を決して、利道が閉じこもったとき、盗み見ることにした。同じ家の中なので、庭から近づけば、窓から覗《のぞ》ける。卑《いや》しい行為だとおもったが、夫の奇病≠フ正体を突き止めたい好奇心が勝った。
ある土曜日の午後、利道は部屋に閉じこもった。だいたいいつもこの時間に、それ[#「それ」に傍点]ははじまるので、真紀子のほうも準備していた。庭の一角に、覗き≠フための場所も用意してあった。視野に入った室内に進行していたシーンは、彼女をあきれさせた。利道は室内いっぱいに玩具をひろげていた。部屋の広さだけ玩具のレールをつなぎ、その上に模型の列車を走らせていた。列車といっしょに室内を走りまわりながら、子供のように、手を叩いたり、奇声をあげたりしている。
次に、怪獣のプラモデルをつぎつぎに引っ張り出して、両手につかんで、決闘≠はじめさせた。両手でつかんだ怪獣をもみ合わせながら、気に入ったほうを勝たせるのである。それはさながら五、六歳の幼児そのままであった。
怪獣遊びに飽きると、すべての玩具を自分の前に整列させて、閲兵《えつぺい》をする将軍のようなしぐさをした。彼は、事実いま閲兵をしていた。玩具は、彼の臣民であり、その部屋は、彼の王国であった。
玩具の閲兵≠ェ、利道の楽しみであった。
真紀子は見つからないうちにと、その場を離れた。利道は、まだ子供≠抜けきっていないのだ。だから、玩具に囲まれていると、安心するのだろう。子供のころ遊んだ玩具もあれば、その後、買い足したものもある。玩具が、彼がいちばん信頼できる部下なのだ。
――可哀想《かわいそう》な人――。
とつぶやくだけの余裕が、そのときの真紀子にはあった。夫が、玩具エージ≠ゥら抜け出していないのなら、そこから抜け出させるのが、自分の務めだとおもった。
夫が玩具と遊んでいるのは、自分が妻として、夫を惹《ひ》きつけるだけの魅力に足りないからではないか。妻に傾きつくしてしまえば、玩具と遊ぶ余裕などなくなるはずだ――と真紀子はおもって、努力をした。
利道は、妻に興味をしめさなかったわけではない。興味がないどころか、新婚当初は、昼夜のべつなく挑《いど》みかかられて、真紀子は人の手前、ずいぶん恥ずかしいおもいをした。しかし新婚の夫婦というものは、どこも似たりよったりなのか、他人のほうから気をきかしたり、遠慮したりして、彼らを二人だけにするようにしてくれた。また昼間から夫に挑まれても、異常だとはおもわなかった。真紀子も、その程度の予備知識は備えていた。
だが、真紀子が夫を独占≠キるために、いかに努めても彼の玩具遊びは矯《なお》らなかった。それは、どうも夫婦生活とはべつの次元にあるらしいことに、真紀子はようやく気づいた。
利道は、妻に不満があって、稚《おさな》い玩具を引っ張り出していたのではなかった。それは彼にとって必要な要素だったのである。成長した後も、彼の稚い部分が、原型のまま取り残されていたのだ。
「でも、子供が生まれれば、そんな遊びもやっていられなくなるわ。だって、玩具をみんな私たちの子供に取り上げられてしまうんですもの」
胎内《たいない》に日々進行している幼い生命が、彼女に自信と余裕をあたえていた。いかに利道が母親コンプレックスで、小児的であっても、自分自身が父親になれば、その自覚と責任から、多少はしっかりしてくれるだろう。
――してもらわなければ、困るわ――。
真紀子は独りつぶやいた。自分の力でなったのではないにしても、現在、見坊商事の専務取締役として、いずれはその大屋台を引き継ぐ身分にある者が、いまだに母親の桎梏《しつこく》から離れられず玩具の閲兵≠して悦に入っているようでは先がおもいやられる。
たとえ、自分の足で登った山ではなくとも、山の上で生まれた者には、生まれながらにして、山頂の酷烈さに耐え、広大な裾野《すその》を一望の下に納めるだけの器量を要求されるのである。
やがて月満ちて、男の子が生まれた。利也《としや》と名づけた母親似の、いかにも賢そうな子供だった。利道は、自分のおもかげをまだあまり強く打ち出していない利也に、少し不満げであった。
父親よりも、祖父母のほうが喜んだ。
「これで見坊家の跡継ぎができた」
財界では強持《こわも》ての利平が相好《そうごう》を崩して喜んだ。ところが利道は、それがおもしろくない様子なのである。見坊家の御曹司の位置を、わが子に奪われてしまったような気がしているらしい。
よく、子供が、弟や妹が生まれて、両親の関心が、そちらのほうへ移ったとき見せる嫉妬《しつと》と、ほとんど同じような感情の動きを、利道はわが子の誕生においてしめしたのである。
――あきれたわ、この人、自分の子供にやきもちをやいている――。
真紀子は、そのとき、利道の本質の一端に初めて触れたとおもった。稚い部分が、おとなになっても残っていたのではなく、彼のすべてが稚いのかもしれない。幼稚な本質を、形だけおとなの体形と表皮で包んでいるだけなのでは?……
わが子の誕生と同時に、そんな疑惑を抱いたのは、不幸であった。
利也が、生まれても、利道の玩具遊びは、いっこうになおらなかった。なおるどころか、ある日、真紀子を唖然《あぜん》とさせるような事件が起きた。
そろそろ一歳の誕生が近くなって、利也は家の中を所かまわず這《は》いずりまわった。体重の軽い子ならば、よちよち歩きをはじめるころであるが、標準より重い利也は、立ち上がる気配をしめしても、自らの体重を支え切れず、よたよたと坐り込み、そのままの姿勢で家じゅう、幼い侵略を企《くわだ》てる。
彼の行動範囲に、危険な場所はないようにしてあったが、それでも、真紀子は目を離せなかった。実際、子供は、いつどこでどんな危険に触れるかわからない。手当たりしだいに口に入れるので、手の届く所から小物は遠ざけ、刃物類はすべて隔離≠オた。
それがあるとき、利也は部屋の片隅《かたすみ》にうずくまって、しきりになにかモチャモチャしているので、近寄ってみると、どこで拾ってきたのか、ヘアピンを家電器具の差込み口《コンセント》に突き込もうとしている。慄然《りつぜん》として、ヘアピンを取り上げたが、気がつくのが遅ければ、感電したかもしれない。
利道の部屋には、例の玩具がいっぱい保存してある。真紀子は利也のためにその玩具を放出≠オてくれるように頼んだが、利道は、「こんな中古の玩具をあたえてはいけない。衛生的にも悪い。子供には新しいものを買ってやれ」と言った。
その言葉は、いちおうもっともなので、利道の玩具には手をつけなかった。
だが、子供は、親があたえた玩具よりも、自分が見つけたものをおもしろがる傾向がある。人工的なものよりも、道端に転がっている石ころや棒きれに興味をしめす。特に他の子供のもっている玩具を欲しがる。
利也には、この傾向が強かった。真紀子が買いあたえてやった玩具には、ほとんど興味を見せないのだ。
「憎らしい子ったらありゃしない」
と言いながらも、真紀子はそんなわが子が可愛くてならなかった。その利也がある日、真紀子がちょっと目を離した隙《すき》に、夫の部屋へ侵《はい》り込んだ。そこへは利也を入れることもかたく禁じられていた。
だが子供には、そんな禁止は通用しない。たまたまドアがうすく開いていたのに乗じて、父親の私室へ侵り込み、そして例の玩具の蒐集《しゆうしゆう》を見つけたのだ。利也は探鉱師が金鉱を見つけたような気がしたことであろう。彼は父親の秘蔵の玩具を盛大に打《ぶ》ち撒《ま》けて、その真ん中で上機嫌《じようきげん》で遊んでいた。
そこへ折り悪《あ》しく利道が帰宅して来た。彼は自分の王国が可愛い侵入者によってさんざんに踏み荒らされているのを知った。普通の父親ならば、その侵犯を喜んだはずである。だが、利道は留守中、自分の王国に進行した侵略を見て蒼白《そうはく》になった。次の瞬間、彼は、父親の玩具を従えて上機嫌にはしゃいでいるわが子に向かって突進した。
突然、上がったけたたましい利也の泣き声に、真紀子はびっくりして飛んで来た。彼女はそこに信じられない光景を見た。
「返せ! それを返すんだ」
利道は、わが子が泣き叫びながら必死につかんでいる怪獣をもぎ取ろうとしていた。
「あなた! 坊やがそんなに欲しがっているんですから、一つぐらいあげてもいいでしょ」
真紀子が驚いてたしなめると、利道は凄《すさ》まじい形相《ぎようそう》で彼女をにらみつけながら、
「うるさい! あれほどおれの部屋にはだれも入れるなと言っておいたのに、このザマは何だ。たとえ利也だろうが、おまえだろうが、この部屋へ入ることは許さん」
とどなった。そして利也の紅葉《もみじ》のような手から怪獣のプラモデルを奪い取ると、その小さな身体を、毬《まり》でも蹴《け》るように足蹴《あしげ》にした。
利也はいっそう激しく泣きだした。
「まあ、あなた! なんていうことを」
つづけるべき言葉を失って、真紀子が立ちすくんでいると、利道は、
「出て行け! このうるさいガキを連れて出て行け」
と憎しみを剥《む》き出しにして叫んだ。
真紀子は、そのときはっきりと夫の異常を悟っていた。が、妻として認めたくなかったのである。だが、わが子に玩具箱を荒らされて激怒している夫に、どう避け得ようもない現実として、彼の異常を確認したのである。
3
この日を境に、利道の異常は、はっきりと打ち出されてきた。
彼は、このころから妄想《もうそう》癖が強くなった。食器の置き方一つにしても、被害妄想を抱く。たとえば熱い茶を入れた湯のみを、いつもの場所よりも彼の身体に近い所へ置くと、ここで茶碗《ちやわん》が倒れれば、自分は火傷《やけど》をする。
「おまえはおれが傷つくのを望んでいるな。いや、おれの死を祈っているんだろう」
とからむ。
出勤前に、お手伝いの靴《くつ》の揃《そろ》え方が気に入らないと言って、何度も何度も揃えなおさせて、彼女を泣かせてしまったこともある。
朝夕は、送迎の専用車が来る。いつもの通勤コースが、水道管工事で通行止めになっていたことがあり、縁起が悪いと言って、その日重要な会議があるにもかかわらず、家へ帰って来てしまった。
出勤前や、旅行前に、衣服のボタンが落ちたり、食器類を割ったり、ひもが切れたりすると、大変である。なんでもないことでも自分に関係づけて、妄想に陥る。
そのうちに今度は、強迫行動が現われてきた。不潔なものに対する恐怖が極端に強まって、手を何度も洗う。水道で入念に洗っても、水を停めるためにコックを締めると、そのコックに黴菌《ばいきん》が付いていたような気がして、また洗いなおす。コックを水洗してようやく手洗いに満足したが、タオルで手を拭《ふ》くと今度はタオルが汚れていたようにおもえて、またぞろ洗いなおしである。
したがって外出時は夏でも手袋を着用する。その手袋も、黴菌が浸透しないように二重三重に施《ほどこ》すのだ。
休日に書斎に終日閉じこもって一心になにか書いていることがある。書斎はオフリミットではなかった(書斎で勉強するなどということはめったになかった)ので、後でそれとなく探ってみると、なんと彼は算用数字を1から順次、無限に書きつづけていたのだ。
これらの異常は、いっぺんに現われたわけではない。時間をかけてゆっくりと発現してきたのである。そのために、においに鼻が麻痺《まひ》するように、真紀子も夫の異常に対して鈍麻《どんま》していたと言える。
またこれらの強迫行動や症状は、一般の人間でも程度の差はあれ、経験することがある。戸締まりやガスの元栓《もとせん》、電気のスイッチなど何度点検しても安心できないときがある。これも強迫体験である。強迫体験とは、正常と精神病のボーダーラインを揺れ動く精神状態の表現されたものである。
強迫体験と同時に利道は病的に嫉妬深くなった。彼にはもともと嫉妬深い性質が内蔵されていた。わが子を嫉妬したのも、その発現の一変形である。それが強迫体験にうながされて増幅されてきたようなのである。
常に妻を疑惑の目で見るようになった。夫婦生活の険悪化に反比例して、真紀子は成熟した女の美しさを打ち出した。夫よりもその父親が最初にホレこんだ天性の優《すぐ》れた素質が、夫婦生活によって磨《みが》きをかけられて、艶《つや》をましたのである。
夫婦の間に愛が存在しなくとも、男女の営みが、真紀子の女としての魅力を増したのは、皮肉であった。彼女の未熟な青い莟《つぼみ》を育て絢爛《けんらん》と開花させた者は、利道であった。利道は、スターを育て上げたマネジャーのような気になっていた。そのスターは、マネジャーの許《もと》から逃げ出したがっている。
利道は、自分が手塩にかけて開かせた美しい花が、いまにも他の男に手折《たお》られそうな不安をおぼえた。いや手折られないまでも、自分の知らないところで、その濃密な花蘂《はなしべ》を分けて甘美な蜜《みつ》を吸い盗《と》られているかもしれない。彼は、妻のなにげない言動まで疑った。ご用聞きとの、二言三言の会話にも、事務的な用事の電話一本にも、猜疑《さいぎ》の目を光らせた。
「おまえ、なにもご用聞き相手に笑うことはないだろう。あの笑い方には特別な含みがあった。あのご用聞きとおまえはデキているんだろう」
「いまの電話は何だ? せいぜいそっけなく声を造っていたが、二人だけにわかる暗号があるんじゃないのか」
とこんな調子で、いじいじといびる。そのうちに、三十分おきぐらいに会社から電話をかけるようになって、少しでも居所が不明になっていると、徹底的に追求する。小さな買い物に出かけても、外で男と逢《あ》ったのではないかと疑う。
「そんなに疑うのなら、いっしょにいらっしたら?」
と真紀子がたまりかねて言うと、いきなり身体を押し倒した。そして裾《すそ》に手をのばした。
「何をなさるの?」
とびっくりして、かたくした体を、男の腕力で無理矢理に押し開き、「おまえが本当に浮気してこなかったかどうか、身体検査をしてやる」
と下着を毟《むし》り取ろうとした。抵抗すれば、ますます疑いをまねくので、体の力を抜くと、利道は、犬のように彼女の身体を嗅《か》ぎまわった。
愛し合う夫婦であれば、これも一種の刺激《しげき》になって、二人の性の喜悦を高めるであろう。だが、もともと愛が存在しないままスタートして、年月の経過とともに溝《みぞ》が深くなっている夫婦の間では、嫌悪《けんお》感をそそられるばかりである。
これをきっかけにして、利道は、帰宅するつど、妻の身体検査≠するようになった。また、行く先のはっきりした外出から彼女が帰宅したときも、検《しら》べた。真紀子はあきれはてて、拒絶する気も起きなくなった。それで夫が満足してくれるならば、多少の不愉快と恥ずかしさを忍んでも、ねちねちと長い時間をかけて痛くもない腹を探られるのよりも、ましだと考えたのである。
それでも結婚後七年も耐えたのは、夫婦生活の惰性であろう。それは家庭の惰性といってもよいものである。とりあえず家庭は、社会の雨風を防いでくれる。ぬるい風呂《ふろ》に入っているようで、心身がふやけたようになって、外へ飛び出すのが億劫《おつくう》になってしまう。その惰性の中心に利也がいた。夫婦生活の破綻《はたん》は、確実に子供の不幸につながる。
まして女親にとっては、子供の存在は、女の自由にかける絶対の重しとなる。夫を愛せなくなっても、子供が彼女を家庭につなぎとめる鎖となる。
このままではいけないと自分に言いきかせながらも、真紀子はずるずると居坐っていた。そのうち、利也が小学校へ上がった。ここで彼女は反町重介に会ったのである。反町は、利也の担任教師として、真紀子の前に現われた。
二十六歳の独身教師の反町は、現代ふうのカッコイイ若者ではなく、いかにも真面目一方の野暮《やぼ》ったい雰囲気《ふんいき》をまとっていたが、言動のはしはしに、教育に対する情熱と誠実味があふれていて、真紀子は、安心した。どこの親でも初めて子供を託す小学校の先生は、関心の的である。最初に当たる先生によって、その子の運命が決定されるかのように大げさに考えている。事実、最初の先生が、子供にあたえる影響は大きい。
真紀子は、夫との仲が冷えきっていた(最初から愛情の暖かみはなかった)ので、利也にすべての愛情を注いだ。そのため、一般に父兄が敬遠したがるPTAや学内のさまざまな役員を率先して引き受けた。
子供の教育のために、彼女が夢中になることには、さすがに利道も文句を言わなかった。PTAや学校の用事で外出したときは、身体検査も行なわなかった。「学校」ということが彼を安心させたらしい。
真紀子が担当した「学年委員」は、授業参観、運動会、懇談会など、父兄と学校をつなぐ行事から生ずるさまざまな雑務を引き受けるので、担任の教師と最も密接なつながりをもつ。ここで真紀子は、反町と頻繁《ひんぱん》に接触するようになり、その誠実な人柄にいっそう傾斜していった。
だが、あくまでも教師と、学童の母親としての立場をわきまえていたつもりだった。
ここに一つの事件が起きた。秋の遠足に近郊の丘陵《きゆうりよう》へ行ったとき、利也が数人の腕白《わんぱく》どもと共に、先生と父兄の目を盗んで小さな冒険に出た。そして利也が足を踏みすべらせて古沼にはまったのである。幼い友達というものは、当てにならない。突然の事故にびっくりした友達は、だれ一人、救《たす》けようとせず、逃げてしまった。子供の様子がおかしいので問い糺《ただ》した反町は、事件を知って、現場へ駆けつけ、利也を危いところで救った。
これはむしろ引率の教師の監督不行届きから生じた事故であったが、真紀子には反町によってわが子の生命を救われたという意識が強く残った。
この事故が彼女の反町に向ける傾斜をさらに強める。このころから二人の仲が、噂《うわさ》されるようになった。噂はたちまち尾鰭《おひれ》をつけて、すでに彼らが道ならぬ関係に入っているかのように取り沙汰《ざた》された。ある者は、二人がモーテルから出て来た姿を見かけたといい、ある者は、放課後、校舎のかげで接吻《せつぷん》しているところを目撃したと話した。美しい人妻と青年教師の不倫の恋。それは、安穏な家庭生活に退屈した有閑《ゆうかん》PTAマダムにとって好個の話題である。
噂は枯れ野につけられた火のように広がった。もはやだれにも消すことはできなかった。利道の耳に入らないのが、奇蹟《きせき》的であった。しかしそれも時間の問題だった。人々は、固唾《かたず》をのむようにして、燃え広がる噂の行方を見まもっていた。
自分が傷つかなければ、火事は大きいほどおもしろい。火の手が誘発する爆発は、盛大なほどいいのだ。
噂は、校長の耳にも入った。校長は、若く一途《いちず》な反町に、好感をもっていなかった。自分が教育の全部を背負って立っているような顔をして、ことごとに学校の方針に楯《たて》つく。
若い者にありがちな反体制の姿勢は、やむを得ないにしても、まだ学校を出て何年も経っていない青二才のくせに、日本には、自分一人しか教育に真の情熱を燃やしている者がいないような態度が癪《しやく》に障《さわ》る。
とにかく扱い難《にく》い部下である。それが、とんでもない噂の主になった。教師と教え子の母との不倫、これが事実なら、きわめつけのスキャンダルだ。
もしマスコミにでも漏れたら、自分のポストにも影響してくる。さいわい、噂はまだ部内≠ノ留まっているらしい。この範囲を越えさせてはならない。
校長は、反町を呼んだ。校長は、すでに不倫が犯されたという先入観で反町を見ていた。反町は憤然として否定した。だが自分の潔白を証明すべき証拠がない。
「火のない所に煙は立たないというからね」
反町がむきになるほど、校長は疑惑の目で見た。
「たとえ、きみが潔白であったとしても、そんな噂を立てられたからには、下敷きとなる要素があったんだろう。特定の母親に近づきすぎないということは、教育者たるべき者の基本的心構えだ。それを忘れたからこんな噂を立てられたんだ。それだけで、教師失格だな」
校長は、これを口実に反町を追放してしまおうという肚《はら》があった。彼のような教師を自分の下に置いておくのは、爆弾をかかえているようなものだ。教え子の母親とのスキャンダルは、追放の絶好の口実になる。
海千山千《うみせんやません》の校長は、ねちねちと反町を責めて、彼が腹を切らざるを得ないように仕向けていった。
一方、時を同じくして、真紀子の側にも決定的な事件が起きた。
それは、ある日曜日の午後、利道が自ら車を運転して出先から帰って来たとき、家の前で遊んでいた利也を誤って轢《ひ》いてしまったのである。
車庫に入れるために、後方をよく確認せずにバックしたところ、地面にうずくまって虫を観《み》ていた利也を車輪にかけた。不幸中のさいわいにも、スピードがなく、利也の骨格もおおかた固まっていたので、怪我《けが》は大したことはなかったが、そのときの恐怖が、幼い心によほど強く刻まれたらしく、神経が極端に過敏になってしまった。特に聴覚が異常に敏感になって、それこそ遠方で針一本が落ちた音も聞き分けるほどになった。
時には、まったくないような音まで聞く。周囲の者が幻聴だとおもっていると、すこし後のニュースが、遠い所での爆発事故や災害を報ずる。単なる聴覚過敏ではなく、精神が危険に感応するようになったらしい。
恐怖の体験が、このような感覚異常を導き出したのであろう。深夜、闇《やみ》の中に目を覚まして、遠方の音にじっと聞き入っている利也を見ると、真紀子の胸は潰《つぶ》れるほど痛んだ。
他人の反町が、利也の生命を救ってくれたのに、実の父親が、その子の生命を脅《おびや》かし、痛ましい後遺症≠ワで植えつけた。この事実が、真紀子の反町に対する傾斜を決定的なものにしていた。利也も、父親よりも、反町に強い親近感をしめしていた。
特に、事故以来、利道に激しい恐怖を見せて、彼の姿を見ただけで顔色を変え、すくんでしまう。
利道が利也を轢いた日は、女に逢って帰って来た後だったことがわかった。
わが子を轢いて動転した利道が、おもわず口走ってしまったのである。彼は最近、密《ひそ》かに女を囲っていた。ホステス上がりと契約≠オたらしいのだが、妻を身体検査するほどに束縛しながら、自分はかげで好き勝手な真似《まね》をしていたのである。
自分が不倫を犯していたので、妻に対しても同様の疑いを抱いたのかもしれない。しかも、利也を轢いた後も、女との関係をつづけていた。
――もうがまんがならない――。
真紀子は、心をかためた。自分はこれまで利道の玩具の一つにすぎなかった。もうこれ以上、彼の玩具になるのは、ごめんだ。人間として、一個の人格をもった女として、行動しよう。
真紀子は、利道との離婚を考えた。夫の不貞は離婚理由となる。だが彼女が離婚を申し出ると、利道は火のように怒った。真紀子の言葉に耳をかさず、いきなり暴力を振るってきた。
「男ができたんだろう、この売女《ばいた》め!」
と口汚なく罵《ののし》りながら、髪を引っ張り、所かまわず拳《こぶし》を振るった。話し合いの余地はまったくなかった。身の危険をおぼえた真紀子は、夢中で逃げ出した。このままいると殺されそうな恐怖をおぼえた。
家を出た真紀子は、ためらわずに反町の許へ行った。学校の近くのアパートに一人で下宿していた反町は、びっくりして彼女を迎えた。
「いったいどうしたんです?」
と問いかける彼に、真紀子は全身ですがりついた。これまでに暗黙の好意の了解があった。噂が、素地を十分につくっていた。言葉は、もはや不要だった。熟《う》れた熱い女体を、いきなり胸の中に放り込まれて、反町は、教師から一個の若い男に還元した。そのとき真紀子も、母親である前に、一個の恋する女になりきっていた。
教師と教え子の母親という垣根《かきね》が取りはらわれた。一番《ひとつがい》のオスとメスとして、熱い坩堝《るつぼ》の中に欲望が溶解した。終わった後、真紀子は反町の耳に火のように熱い言葉をささやいた。
「先生、私をどこへでも好きな所へ連れてって」
4
その村は、三方を南アルプスの高い峰に囲まれていた。わずかに西側だけが伊那方面へ抜ける河童《かつぱ》沢の流れによって、窓のように開いている。この村へ入るためには、伊那から南アルプス北部山域で最奥の村の札掛《ふだかけ》まで、バスに二時間半ほど揺られた後、熊木川を遡《さかのぼ》り、さらに支流の河童沢に沿って二時間ほど歩かなければならない。その一本の世間との連絡道も、冬は閉ざされてしまう。
その集落の名は、「風巣《ふうす》」といい、平家の落人《おちゆうど》部落の伝説がある。十年ほど前までは、五十戸ほどの家が斜面にへばりつくようにしてあったのが、年々離村者が増えて、現在残っているのは十戸だけになってしまった。
それも老人ばかりで、廃村の一歩手前まできている。杉皮やわら葺《ぶ》き屋根の家が、村のあちこちで朽《く》ちて、どの家に人が住んでいるのかほとんど見分けがつかないくらいだ。すでに土台石だけを残して、昔そこに家があったことを、わずかに物語っている所もある。
それは離村者が取り壊したのではなく、残留者が燃料にしてしまったのである。したがって、まだ残骸《ざんがい》を留めている家は、無住になってから比較的新しいことをしめす。
斜面には段々畑があり、その大半は荒れ果てている。居残った老人が、自分の口を養うために野菜、いもなどをわずかな耕地を拓《ひら》いてつくっている。米は取れない。
自力で食物をつくる老人は、まだ幸せである。神経痛や中風《ちゆうふう》で、半身不随や寝たきりになっている老人は悲惨であった。都会の孤独な老人には民生委員やホームヘルパーが訪ねて来てくれるが、こんな山奥の廃村(同様)までやって来て、半分死にかけているような老人の面倒《めんどう》を見てくれる篤志家《とくしか》はいない。
所管の福祉事務所が、見るに見かねて、特に惨《みじ》めな老人を老人ホームに収容保護しようとしたが、当人たちが拒否した。老人ホームに対する偏見もあったが、いまさら先祖伝来の土地を離れたくないというのである。
「老人ホームへ行ったところで、これから生きられる時間は、たかが知れている。いまさら肩身をすくめてそんな所へ行くくらいなら、生まれ育った土地で死にたい」
と言い張った。
いやだというものを無理に引っ張って行けない。それに老人ホームは、自力で身動きできるうちでないと入れないのである。
ここに残った老人は、大半が「取り残された者」たちである。まだ十年前は、炭や薪《まき》の需要があった。それが燃料革命によって、細々と残っていた現金収入の道を完全に断たれた。痩《や》せた畑地の収穫は、村人の口すら満足に養えない。
貧寒な土地に見切りをつけて、村人たちはつぎつぎに村を捨てて行った。まだ働ける力を残している人々は、安定した職業を求めて、挙家離村した。その人たちは、これまで生活してきた村に多少の愛着を残していたが、若者たちは唾《つば》を吐きかけるようにして出て行った。
「こんな所にいつまでいたって、嫁こは来ねえ。チビた畑にしがみついて、イモ食って死ぬのはごめんだね。おれだって町さ出れば、いくらでも女をせしめてやる。金も儲《もう》けてやる」
彼らは大都会に、女と成功の機会を求めて出て行き、二度と帰って来なかった。村の若者たちにとって、嫁のなり手がないということは致命的であった。夏には南アプルスへ登る都会の若者がときどき村を通過する。彼らが撒《ま》き散らす華やかな都会の風俗と雰囲気《ふんいき》は、いやがうえにも若者を浮足だたせた。
櫛《くし》の歯が欠けるように、つぎつぎに離村していった後に、残されたのは、身寄りのない老人か、一家の足手まといにならないために自ら残った老人である。
「身の落ち着き所が決まったら、必ず迎えに来るから」
と涙ながらに村人たちは去っていったが、その後、残した老人を迎えに来た者は一人もいない。
彼らは、人間らしい生活を求めて、貧しい郷里を捨てたのだが、過疎の裏面にある過密の都会へ出て行っても、人間の多い分だけ競争も酷《きび》しく、悪化した生活環境の中で、苦闘しているにちがいない。
それはよくわかっていながら、残された者は、去って行った者によい感情をもてなかった。彼らは故郷を離れ、親を捨て、肉親を置き去りにしたのである。
残った者にも意地があった。最後までこの大地に居坐《いすわ》ってやる。この一村の滅亡をしかとこの目で見届けてやるのだ。
そんな彼らにとって、老人ホームへ入ることは敗北の印であった。だからかたくなに拒否した。残った者に連帯が生じた。多少の時期のずれはあっても、いずれもこの地の土になる者ばかりである。どうせ沈むとわかっている難破船に乗り合わせた者のような連帯感であった。
残された老人は、十三人いた。うち、夫婦そろっているのは、三組で、あとの七人が独《ひと》りだった。いちおう健康なのは二人だけで、他の十一人は高血圧、中風、神経痛や、胃腸、心臓、肝臓等の疾患《しつかん》をかかえていた。まったく寝たきりの者が二人いた。
多少とも身動きのできる者が、寝たきりの者を世話し、まだ働ける余力のある者が耕作、山仕事、また近くで行なわれるダム工事などで働いて、みなを養っていた。
それは、死ぬのを待つばかりとなった老人たちが、身を寄せ合って、忍び寄る死神に向かって無駄《むだ》な抵抗をしているように見えた。
だが、死神は彼らの笑止な抵抗をせせら笑って、確実に近づいて来る。老人たちは、限界を感じていた。働ける者が少なくなっていた。日雇い仕事も、能率の悪い老人を使いたがらない。畑の作物は全員を養うにはとても足りない。いよいよ難破船の沈むときが近づいたようだった。次の冬には一村心中≠しなければならないほどに追いつめられていた。
だが、ここに村にとって救いの神が現われたのである。
5
「風巣」に着いたとき、二人は、死の村≠ノ歩み入ったかとおもった。蒼《あお》ざめた夕景の中に動くものの影はなに一つない。家は、すべて傾きかかり、柱は曲がっている。壁ははげ落ちて、洞窟《どうくつ》のような内部を覗《のぞ》かせている。壁の残っている家はよいほうで、古い木組みだけが、骸骨《がいこつ》のように無気味なシルエットを刻んでいる。
道も荒れ放題で、石や倒木がごろごろ転がっている。棚田《たなだ》の石垣《いしがき》は崩れている。水路には泥《どろ》が詰まっている。農道橋はこわれたまま放置され、流れを渡るのに、流れの幅の狭い箇所を探して遠まわりをしなければならない。
「少し雪が積もったら、ひとたまりもないみたい」
真紀子は、死の村の荒涼たる形相《ぎようそう》に度肝《どぎも》を抜かれたようである。
「雪が来る前に、台風に叩《たた》かれたら、こんな家、吹っ飛んでしまいますよ」
反町も、あまりの荒廃ぶりに、べつの村へ迷い込んだような気がしていた。これでは、とりあえず今宵《こよい》の宿にもこと欠きそうである。自分一人ならば、廃屋《はいおく》の中へでも潜り込めるが、真紀子がいる。
「人は全然いないらしいわね」
最初の愕《おどろ》きから、醒《さ》めた真紀子が、心細そうに周囲を見まわした。
「いや、そんなはずはありません。数年前に来たときは、大勢の人が住んでいたし、民宿もありました」
と言いながらも、反町は不安を隠せなかった。五、六年前、彼がまだ学生のころ、南アルプスの仙丈《せんじよう》岳へ登っての帰途、この村に立ち寄ったとき、大勢の村人が住んでいた。そのとき、山旅に疲れた身を優《やさ》しくもてなしてくれた民宿の主人夫婦の親切と、周囲を南アルプスの連山に閉塞《へいそく》されて、この世から柔らかく切り放されていたような村の風物が、反町の心に強く印象づけられた。
教育に向ける情熱だけでは教師はつとまらない。教師間の人間関係や派閥、教育方針の対立、教育委員会やPTAからの圧力やさまざまの雑音、それらに耐えるしぶとさとずうずうしさを具《そな》えていなければならない。
若く一途な反町は、それらの耐性ができていなかった。特に現場の教師を無視したような教科書中心主義の現行の体制には、真っ向から反対だった。
だがこれらのことは、職業上生ずる軋轢《あつれき》である。彼に決定的な打撃をあたえたのは、見坊真紀子とのあらぬ噂であった。たしかに彼女とは親しくしていた。だが、教え子の母と教師としての立場は、踏みはずしていなかった。それが、利也を救ってから、あたかも二人が道ならぬ関係に入っているかのように取り沙汰《ざた》されるようになった。
そのスキャンダラスな中傷に耐えて居坐るだけのずぶとさは、反町にはなかった。そして校長に指摘されたように、スキャンダルの下敷きとなるべきものは、たしかに在《あ》ったのである。反町が真紀子に対して、他の母親よりも親しみを寄せていたことは事実であった。二人はたがいの間に通い合う好意を意識していた。
教師と教え子の母としての身分差≠ェ、その好意に抑制をかけていたが、それがなければ、愛と言ってもよい、相互の傾斜があった。それが他人の目に不倫の仲に映ったのだ。
利也が父親の車に轢かれたショックから真紀子が反町の胸に飛び込んで来て、ついに、噂を裏書きしてしまった。二人の間の抑制ははずされた。あとは、愛し合う男女の激しさとなって燃える一方だった。
反町は、学校を辞める決意をしていた。真紀子も、もはや家に戻《もど》れない。愛の一片もない夫であったが、形式的には夫婦である。その形式を涜《けが》したのだ。戻る気もなかった。あそこへ戻るくらいなら、どんな所へ行っても耐えられそうな気がした。追いつめられた恋愛は、二人を悲劇中の人物のような感傷に追い込んで、彼らをいっそうかたく結びつけた。ただ一つ気がかりなのは、利也だが、いずれ正式に離婚手続きを取った後で、親権者を決めることになるだろう。
父親の利道はとにかく、舅《しゆうと》夫婦が目に入れても痛くないほど可愛がっているから、母親が急にいなくなった当座の寂しささえ切り抜ければなんとかやっていけるかもしれないと、強《し》いて楽観して、真紀子は反町と手を携《たずさ》えて駆け落ち≠オたのである。
「どこかへ連れて行って」
と真紀子に訴えられても、反町には行くべき場所の当てはなかった。郷里の家は、すでに両親が隠居して長兄夫婦が継いでいる。兄は、反町が大学に進むにあたって、「おまえを進学させるために、家では大きな犠牲を払っている。それがおまえの相続分だとおもえ、卒業した後、おまえの取り分はないのだぞ」と言って、相続の放棄をさせた。このようにして長兄は、きょうだいたちにつぎつぎに相続放棄をさせて、親の財産を独占相続した。貪欲《どんよく》で冷酷な兄であった。学生時代、休暇で帰省しても、邪魔者扱いをしたくらいである。そんな所へ人妻と駆け落ちしていけるものではない。
当座の生活を賄《まかな》う金はあった。真紀子も多少の金をもってきていた。
ここで、学生時代南アルプスに登山した折りに、一夜の宿を求めた「風巣」の記憶がよみがえった。いまでもあの里の想い出は、この世から隔離された桃源郷《とうげんきよう》のように記憶の奥に烟《けむ》っている。
この世のスキャンダルによって追われた二人が、とりあえず身を寄せるにまずは格好の土地ではないか。あすこなら世俗の軋轢に痛めつけられた二人を優しく迎え、負った傷の手当てをしてくれるだろう。まず二人がひっそりと身を寄せあえるこの世の片隅《かたすみ》を探すことが先決だった。それから先の生活の方途《ほうと》は、傷の応急手当てを施してから見つければよい。
こうしてやって来た風巣だが、この数年の間に、反町の青春の記憶として烟る美しい里は、見るも無惨に荒廃していた。
過疎化の渦潮《うずしお》は、俗世から切り放されたような桃源郷をも吸い込んでいたのだ。いや、反町が初めて村を訪《おとず》れたころから、過疎化の現象ははじまっていたのである。通過する旅人にすぎなかった彼には、村の美しい風物や人情だけが印象されて、その深部を抉《えぐ》りつつあった滅亡への爪《つめ》あとが見えなかっただけだ。
「まるで幽霊の村だわ」
夕暮れが迫って冷気をました風の中で、真紀子が寒そうに体をすくめた。腹も空《す》いていた。民宿があるとおもって来たので、食物も用意していない。空に遠く夕映えを残して、地面《じづら》にはうすい墨のような夕闇《ゆうやみ》がたむろしてきたが、廃屋の中に灯のともる気配はなかった。
反町はおぼろな記憶を必死に掘り起こしていた。この数年の間に村の様子がすっかり変わってしまったので、以前立ち寄った民宿の所在がつかめなかったのである。その民宿にたどりつけば、たとえいまは廃業していても、なんとか一夜の宿は得られそうにおもった。もっとも、そこに人が住んでいればの話であるが。
「あら、あの家から煙が出ているわ」
真紀子が、前方にうずくまる一軒の家を指さした。
他の家よりも、やや大きな造りで、荒廃もそれほどひどく進んでいない。わら葺《ぶ》き屋根から、うす青い煙が立ちのぼっている。嬉《うれ》しいことに、屋内にチラチラ灯影の揺れるのが見える。
――たすかった――。おもわず反町の口から安堵《あんど》の吐息がもれた。同時に、その家が民宿であったことをおもい出した。重厚なわら屋根の形にかすかな記憶があった。
突然、訪ねて来た二人に、宿の主人夫婦は信じられないものでも見るような目つきをした。反町が、数年前泊めてもらったときの款待《かんたい》が忘れられずに、また訪ねて来たというと、老夫婦は、嬉しさと当惑を混《ま》じえた表情で、「それはそれは、はるばるこんな所までようこそお出《いで》なんしょ。でもなあ、いま村は見るとおり、人がみんな出て行ってしもうて、残っているのは、身寄りのない年寄りばかりですだ。わしらも民宿を二年前にやめましてなあ、ときどきあなたさんのように昔をおぼえていて、ひょこっと訪ねてくださる客人がおられるが、いまでは食い物もろくにのうなって、せっかく遠い所を来てもろうても、なんにも、もてなすことができませんでなあ」
「まさか村がこんなになってるとは知りませんでした。突然来た私たちが悪いのです。今夜一晩ご厄介《やつかい》になれればよろしいのです」
「それが……」
老夫婦は当惑の色をはっきりと現わして、
「なにせ、村がこんな有様なもんだで、お口に合うような食べ物もありませんじゃ」
「贅沢《ぜいたく》は言いませんよ」
真紀子が気になったが、ここで断わられたら、野宿をしなければならない。
「口に合うどころか、いもと稗《ひえ》の雑炊《ぞうすい》ぐらいしかできんぞよ」
「それでけっこうです」
とにかく飢えて野宿するより、ましであった。
その夜、民宿の主人、佐原隆造《さはらりゆうぞう》から聞いた、村がその後たどった運命は、悲惨であった。現在は、まったく身動きできない二人に加えて、一人が白内障《はくないしよう》でほとんど失明し、一人がリューマチが高進して高度の歩行障害を起こしている。
他の者も寝たり起きたりで、辛《かろ》うじて元気な佐原夫妻のつくる作物と、時折り所管の福祉事務所や赤十字から送られてくる救援食糧が、残留住人を餓死から救っているという状態であった。この冬の雪害で電線が切れたまま、電気なしの生活がつづいている。
「次の冬は、越せるかどうかわかりません。こうして死ぬのを待ってるだけですだ。長生きしすぎましたなあ」
佐原隆造は、暗い目を獣の油を燃やしているらしい灯に据《す》えた。精も根も尽き果てたといった表情であった。それに対して反町と真紀子は答えるべき言葉がなかった。
自分たちは、都会から追われてこの地まで逃げて来た。それも終《つい》の逃げ場所としてではなく、当座の応急手当てをするためである。手当てがすめば生きる方途を探して、べつの場所へ行くつもりだった。
だがこの老人たちは、ここ以外に行き場所をもたない。文字どおり「終《つい》の栖《すみか》」で、身動きできなくなった身体が死ぬのをじっと待っている。
この悲惨に対しては、どんな慰めの言葉も空転する。今宵突然訪れた二人の食した夕食は、老人の何食分かを奪ったものであった。現代の姨捨《うばすて》山を吹き荒《すさ》ぶ風の冷たさに、二人の恋の燃焼も醒《さ》まされるおもいだった。
「ちょっくら見まわりして来ますだ」
佐原は立ち上がった。身動きできない老人たちを見に行くのであろう。彼の背後に老妻が影のように貼《は》りついている。どちらも老いたうすい影であった。隙間風《すきまかぜ》に灯が揺れた。隙間風のせいばかりではなく、反町と真紀子は心の底まで寒々としていた。
翌朝、二人はこの死の村を脱け出るべく、早くから身支度をした。ここでは、申しわけなくて食事ものどを通らない。佐原が押しつけるようにして出した里《さと》いもの煮ころがしを二つ三つのみ込んで、彼らは早々に出立《しゆつたつ》した。
戸外は、朝の新鮮な光が見事に荒廃感を払拭《ふつしよく》していた。よみがえったばかりの陽光が樹葉をもれ、山肌《やまはだ》に弾み、流れに砕けて、ダイナミックに躍動している。昨日は蒼《あお》ざめた斜光の中にくすんでいた南アルプスが、今朝は微塵《みじん》いっさいを拭《ぬぐ》い取った硬質ガラスのような大気の中に、眉《まゆ》を圧する近さで聳《そび》えている。山腹に残る雪、山体の上限が刻み取る鋭いスカイライン、山麓《さんろく》を被《おお》う瑞々《みずみず》しい樹林帯、山鳥が枝から枝を伝って、勢いよく囀《さえず》る。
どの一つを取っても生命感にあふれ、どの一角を切り取っても、ため息の出るような自然の豊かな恵沢があった。骸《むくろ》のように見えた廃屋すら、朝の光の下では、住み古した風趣がある。
「美しい村なのね」
真紀子が嘆声を発した。
「昨日とは、まるでべつの所みたい」
「きっと昨日は、ぼくらが疲れていたせいかもしれません。これなんですよ、私があなたを連れて来たかった風巣という里は」
「ありがとう。やっぱり来てよかったわ。私、生まれてから、こんな美しい里を見たことがないわ」
真紀子は、移動する斜光の中に、荒々しい立体感を刻んで聳立《しようりつ》する甲斐駒《かいこま》ガ岳や仙丈岳に、遠い視線を向けた。影の中に死んでいた山体は、光を受けていまよみがえったばかりの巨大な恐竜の骨格のように躍動している。その荒れた厳しさが、村をめぐる山麓の優美な樹海によってほどよく中和されている。
「こんな美しい村をどうして捨てて行ったのかしら?」
「人間は、美しい自然だけでは生きていけないんですよ」
安定した職業、成功の機会、都会の強烈な刺激などの誘引が自然の恵みよりも大きいことは、生まれてから貧乏というものの味を知らない真紀子には、なかなか理解できないだろう。
――特に若い男にとっては、女がいないということが致命的なのだ――それはなおさら彼女にはわかるまい。
「私、ここに住みたくなっちゃったわ」
真紀子はなにげなくつぶやいた。本気で言ったわけではない。眼前に展《ひら》いた美しい風景に欺《あざむ》かれて、その風光の底に封じ込められている悲惨を一時的に忘れたにすぎない。多分にムードにつられた言葉であった。
だが、反町はその言葉をとらえた。
「おもいきってここに住んでみませんか?」
「え?」
真紀子は、山から男のほうへ視線を転じた。
「この村は、滅ぼすに忍びない。これだけ豊富な観光資源の揃《そろ》っている場所は、そんなにありませんよ。廃屋もざっと見渡したところ、ちょっと手を加えれば住めそうな家が何軒もあります。我々が手を貸して、民宿を再開して宣伝すれば、この村は生き返るかもしれない」
「…………」
「あなたと私の金を合わせれば、当座の生活には間に合います。佐原さん夫婦はもともと民宿をやっていたのだから、我々が手伝えば再開できるでしょう。やる気を失っているだけなのですよ。ここを私たちの第二の故郷にしませんか」
聞いているうちに、真紀子の目が熱っぽくなってきた。大変なことだとおもうが、やってやれないことはないような気がした。彼女はなによりも、この美しい廃村に、反町といっしょに自分たちの第二の故郷をつくるというビジョンに感動していた。
「故郷だけじゃないでしょ、私たちのスイートホームにするのよ」
「じゃあ、協力してくれますね」
反町は面を輝かせた。
「するもしないもないわ、私たち、もう一心同体ですもの」
真紀子はその表現にふと恥ずかしい連想をして頬《ほお》を染めた。その紅潮を朝陽が隠してくれた。
6
416号機と417号機を追っていた航空自衛隊のレーダーサイトでは、午後四時十二分長野県|高遠《たかとお》町上空付近での416号機の機影をとらえると同時に、中部航空警戒管制団|峰岡山分屯《みねおかやまぶんとん》基地に417号機不明の緊急連絡が入った。この緊急連絡は、第三航空団|小牧《こまき》基地のレーダーも傍受した。
だがまだこの段階では、417号機の遭難が確定したわけではない。しかし、416号機が基地に帰還して三十分しても、依然として417号機との通信連絡ができない。レーダーにもとらえられない。417号機に不測の事故が発生したことは、もはや確定的になった。
遭難地域として最も可能性が強いのは、僚機が417号機を見失った赤石山脈仙丈岳山域である。ここは、山梨県と長野県の境にあたり、南アルプス北部山域の核心である。現在は厳冬期にあたり、深い雪に閉ざされている。
すでに百里基地と、小松基地から捜索機が密かに[#「密かに」に傍点]飛び立っていた。だが現在、遭難推定地域は気圧の谷に入り、濃密な雲に被《おお》われて、捜索は難航していた。時刻が遅くなるにつれて、捜索は困難になった。
まだいずれの場所からも、それらしき物体≠フ墜落は報じられていない。全装備重量二十七トンのジェット戦闘機が市街地もしくは人里に墜落すれば大惨事になるはずである。それにもかかわらず、一片の通報も来ないということは、墜《お》ちた場所を人里離れた山岳地帯か海上に限定するものである。
ここで当然、航空救難の発令が考えられた。もちろん遭難推定地域を管轄《かんかつ》する東京警察管区本部にも連絡して、機動隊の出動を要請すべきであった。だが、中部航空方面隊司令部ではそれをしなかった。時間の経過とともに417号機の遭難が確定すると、関係者にかたく箝口令《かんこうれい》を布《し》いて、内密に捜索をつづけた。
417号機の不明は、膝元《ひざもと》の百里基地においてすら限られた人間しか知らなかった。
もともと新たに配備された最新鋭機F−4FJによって編制された1001飛行隊なるものがまったく覆面の飛行機で、主たる任務がはっきりわからない。隊員の居住区すら、一般隊員から隔離されており、いずれも一くせありそうな隊員たちが、目的不明の飛行訓練をやっていたのである。その覆面飛行隊の中の一機が不明になっても、一般隊員は完全なツンボ桟敷《さじき》に置かれていた。
その日、敏感な者は基地の上層部になにやら慌《あわ》ただしい気配を感じ取ったが、それもさらに上のほうから来た意志によって鎮められ、基地はいつもと同じような夜を迎えたのである。
だが一見、平穏無事の隠れ蓑《みの》の下で、自衛隊の存否をかけた作戦が、密かに進められていた。
7
廃村、風巣の再建は、はじまった。民宿を再開して村を建て直そうという反町重介の提案に、最初、佐原隆造はあまり乗り気ではなかった。この村に生まれ育った身でありながら、彼もすでにこの地を見かぎっていたのである。沈み行く船は、もはやどのように手をつくしても救うことはできない。
たまたま旅行者として訪れた他郷の者が、この地の美しさに惹《ひ》かれても、風景の美しさでは餓《う》えや病衰は救えない。旅行者の無責任な感傷に動かされるには、佐原はあまりにも痛めつけられていた。
しかし、反町は熱心に説いた。
「このまま手を拱《こまね》いてなにもしなければ、この里は確実に滅びてしまう。どうせ滅びるとわかっているなら、滅亡に無条件降伏しないで、なにかやってみるべきではないか」
という彼の意見に対して、佐原は、
「わしがもう少し若ければそれをやった。けれど、もう齢《とし》を取り過ぎた。いまさら都会《まち》から客を呼んで、神経を遣《つか》いたくない。これから生きたところで長くない。細々とこの命の火が燃えつきるのを待つつもりだ」
と答えた。
それでも反町は執拗《しつよう》に説きつづけた。ついに佐原も、
「それでは、あなたの好きなようにやってみなさるがいい。あんたたちの家がべつに欲しかったら、持ち主が捨てたものだから、どれでも気に入ったのを使うがいい」
と折れてくれた。
もともと佐原家は民宿を営んでいたから、多少の手入れをするだけで、すぐに再開できる。役所関係の事務的な手続きはまだ廃業届けを出していないから、以前のものがそのまま生きている。それに無認可で営業したところで、もともと世の中から見捨てられた廃村同様の場所だから、役所もあまりうるさいことは言うまい。
問題は、外部へのPRであった。いくら営業を再開して、受入れ態勢を整《ととの》えても、客が来てくれなくては、どうにもならない。
反町と真紀子は、民宿再開にあたって、村の周辺を改めて探った。そして、自信を新たにした。村を貫く河童沢の上流には、ヤマメやイワナが言葉どおりうようよという感じで泳いでいる。
浅瀬の岩の下には沢ガニがひしめいている。季節はちょうど、春と夏の境の、山の最も美しい時期にかかっていた。村をめぐる濃厚な原生林は、新緑を重ねて、黒々と繁茂している。まさに緑の海が視野を埋めつくす。村は針葉樹と広葉樹の交代するあたりで、村の上方にはモミ、ツガ、ダケモミなどの針葉|喬木《きようぼく》が目立つ。村の周辺から下方にかけては、ブナ、クルミなどの広葉樹、サクラ、シデ、ニレなどの落葉樹の樹林帯となる。樹林は、山鳥の宝庫で、コマドリ、キビタキ、ヤマガラ、シジュウカラ、キジバトや、河童沢上流の原始林では、夜間にコノハズクの鳴き声も聞こえる。また、山の幸も豊かである。森林のいたる所にタラの芽、山ウド、コゴミ、アケビ、山シイタケなど、取る人もないまま豊富に目につく。
風巣の老人たちは、すでにこれらの山の幸を集める体力も失ってしまったのである。
「これは、開発のしようによっては、上高地《かみこうち》並みになるかもしれない」
反町は、樹海のはるか上方に連なる駒ガ岳−仙丈岳の稜線《りようせん》を仰ぎながら、新たな夢が、徐々に形成してくるのを感じた。駒−仙丈は南アルプスの中でも最もポピュラーな山域である。豪快で男性的な山容の駒ガ岳に配するに、豊富な高山植物の群落で化粧した、その優美な容姿をもって「アルプスの女王」と呼ばれる仙丈岳、この剛と柔、鋭角と穏和の対照の妙は、北アルプスの燕《つばくろ》岳−槍《やり》ガ岳の「アルプス銀座コース」や、白馬《しろうま》岳−鹿島《かしま》槍ガ岳の「夢の縦走路」にも匹敵し、多くの登山者を集めている。
だが登山口が、おおむね中央線の走る山梨県側になっており、長野県側はもっぱら下山路に利用されていて、観光的にはほとんど忘れられている。その下山者も、北沢峠から戸台川に沿って下りるために、戸台川と並行する熊木川およびその上流の河童沢沿いの下山道は、ほとんど利用されていない。
だが距離的にも地勢的にも、河童沢を経由しても大して変わらないのである。それにもかかわらず、下山者がまったく風巣に立ち寄らないのは、PRの不足と、廃村寸前のこの里に、登山の疲れを癒《いや》す設備がまったくなくなってしまったからである。河童沢沿いの道も、ほとんど廃道と化している。
反町は、夏のシーズン到来の前に民宿設備と登山道を整備し、風巣民宿の再開を広くPRするために忙しく動きはじめた。
真紀子が実家に働きかけて、かなりの資金を引っ張り出して来た。彼女は実家の父に会い、見坊利道との離婚の決意を表明した。このころには、父も利道の異常性を悟り、真紀子の結婚を後悔していたので、彼女の意志に反対しなかった。むしろ、娘に不幸な結婚をさせたのは、親の目の至らぬせいだったという意識から、一種の補償をするようなつもりで、真紀子がおずおずと切り出した金額をさらに上乗せして気前よく出してくれた。そして「これからも必要なときは、いつでも言ってくるように」と暖かい言葉を添えてくれた。
この際、水橋家(真紀子の実家《さと》)の援助を得られたのは、風巣の再建にとって心強いかぎりだった。
潤沢な資金のおかげで、資材と人手を集められるようになった。死に絶えたような村に、久しぶりに外部から人が入り込んで来た。人間といっしょに食糧や生活用具や機械が来た。
工事用飯場も仮設され、村には絶えて久しい活気があふれた。民宿は改築され、河童沢から風巣を経て、駒−仙丈の稜線へ出る安全で能率的な新道も開発された。
民宿と山道の整備と並行して、反町はPR工作を進めていた。さいわいに学生時代の友人に、山岳関係の専門書や雑誌を出している出版社で、かなりいいポストを占めている男がいた。彼が、自社の雑誌の記事《パブリシテイ》として、新生風巣の紹介をしてくれたうえに、横のつながりのある旅行雑誌などにも、南アルプスの「隠れ里」や「秘境」という形で、記事を載《の》せさせた。これが「秘境」に飢えていたジャーナリズムにおもしろがられて、あちこちで取り上げてくれるようになった。これで、風巣の再生は、その方面にはいちおう流した。
おかげで、その夏からはポツポツ登山客が立ち寄るようになってくれた。せいぜい一日に数人程度で、一日に千人以上も収容する北アルプスの山小屋に比べれば、ままごとのような民宿で、利益を出すには遠かった。しかし、これまで外界からまったく孤絶していたような村人にとって、世間のにおいをふんだんに背負って訪れて来る登山者は、なにがしかの希望となったようである。
廃屋の中でじっとうずくまり、死の訪れを待っていた老人たちが、そろそろ這《は》い出して来た。自分で働ける者は、民宿を手伝う姿勢を見せ、身動きできない者すら、動こうとする気配をしめした。
沈没寸前の難船に乗り合わせた者が、民宿再開によって、少しでも自力で泳ごうとする意欲をもちはじめた様子である。
「これだけでも、私たちがこの村に来た甲斐《かい》があったわね」
真紀子は、老人たちに自分の肉親を見るような目を向けて言った。彼女はいまや風巣にとってなくてはならない存在になっていた。反町の片腕になって、村の再生につくしただけでなく、動けない老人たちの面倒《めんどう》まで親身になってみた。
彼女によって、老人たちがふたたび生きる希望をかき立てられたと言ってもよい。
時折り、真紀子は遠方を見るような目をした。そんなとき反町は、彼女の心がどこへ行っているのか知っていた。見坊家に残してきた利也の身を想っているのである。
すべてを捨てて、反町との恋に殉《じゆん》じてくれたはずの彼女が、そんな目をするときは、母親に戻って、遠くへ残してきたわが子の許へ心を飛ばしている。
それは反町も支配できない真紀子の中の神聖な領域であった。彼に対する愛とは、べつの要素のものだった。反町に見られているのに気がつくと、彼女はふっとてれくさそうに笑って、彼の許へ帰って来る。遠方のわが子へ寄せた心を呼び戻して、ひたすらに反町を愛し、信じているいつもの真紀子に還るのだ。
だが、ときどき、反町は不安になる。真紀子が彼に全身的な愛を寄せているのも、わが子への思慕や懸念《けねん》を忘れようとするためではないのか。村の老人たちの世話を親身になってやくのも、他人への奉仕の中に、わが子につくしてやりたい気持ちをまぎらせようとしているのではないだろうか。
――彼女が母親である以上、それはやむを得ない。母親の彼女を、その子から奪ったのは自分なのだ。時折り、子を想うぐらいのことには、耐えなければならない――。
と自分自身に言い聞かせるのだが、愛する女の中に、自分の絶対に侵《はい》り込めない場所が残っていることは、反町の感情を騒がせる。
愛する(異性を)ということは、相手のまったき独占である。自分も独占されるかわりに、相手も独占する。それは対象の限定だけでなく、愛とべつの要素の介入や同居も許さない。多面多色の人間を、愛だけで満たし、塗りつぶさなければおもしろくない。
愛にべつの要素の介入を許すのは、その愛が初期の熾《はげ》しい燃焼を終えて、多少の落ち着きを取り戻したときである。いまは、落ち着きどころではない。たがいが珍しくて、未知の部分の開拓に忙しい時期であった。髪の毛から足の指の先までが新鮮で、相互の貪《むさぼ》り合いの対象になる。
その中に、絶対不可侵の母親の部分が、固い鉄柵《てつさく》をめぐらして残っている。恋愛の熾しい燃焼をもってしても、その鉄柵を取り除くことができない。
真紀子の母親としての部分が、反町との間に生まれた子どものためにあるなら、耐えられる。しかし、彼女が嫌悪《けんお》し、その許《もと》から飛び出して来た男との間で生殖した者のために、愛に殉じた後も依然として、恋愛とは異質の要素を残している。
母親の領域を充たすべき子供が遠方に別れているだけに、その空虚に風が通る。母親がわが子を案じ、恋しがってしのび泣いているのだ。彼女の母親としての空洞《くうどう》は、反町の愛をもってしても充たしてやることがでない。そのことがまた、彼を不安にするのである。
いまのところ、自分の愛の引力によって子どもから引き離している。だが、いつの日か、子の母を呼ぶ力のほうが、反町の愛の引力を上まわるような不安を振り切れない。
「彼女を永久に自分の許に繋《つな》ぎ停めておくためには、利也をここへ連れて来る以外にない」
と反町は考えるようになった。しかし、いまはなによりも、風巣の再建が先決であった。風巣を生き返らせて、そこに生活の根を下ろせば、利也も連れて来られる。
反町と真紀子の奮闘で、風巣は立ち直った。数は少ないが、登山者が立ち寄るようになった。
PRのおかげで、夏期には登山者以外の秘境探訪≠フ観光客も来た。電気の間に合わなかったのが、怪我《けが》の功名となって、ランプ生活を彼らは大いに気に入ってくれた。
多少の現金収入が入るようになった。近く電話も入る予定になった。電話が通じれば、予約がぐんと増える。まだ利益を上げるにはほど遠いが、この村に外界から金が入って来たという事実が村人を大きく励ました。
夏はまたたく間に過ぎた。
短い秋から冬にかけての駆け足は、まるで急斜面を駆け下りるようであった。九月の初めごろから峰にはじまった紅葉は、日ごとに山麓《さんろく》へ下りて来る。霙《みぞれ》まじりの寒い夜が、快晴に明けた朝、樹林帯の上の峰に新雪が来ている。
あまりに深く澄みすぎて、むしろ黒々と感じられる青空の端末を、鋭い刃物で切り刻んだような白いスカイライン、その青と白の鋭角的な対照のさらに下方を、紅葉、黄葉に彩《いろど》られて熾しい火炎のように燃え上がる大樹林帯、まさに絢爛豪華《けんらんごうか》な大自然の三段染め≠ェ見る人もないままに惜しみない蕩尽《とうじん》をして、冬の純白の衣装の下に凍結されていくのである。
新生したばかりの風巣にとって、この冬をいかに切り抜けるかが、最大の課題であった。風巣への交通路は、雪に遮断《しやだん》された。夏期には熊木沢と河童沢の出合い地点まで入ったバスも、札掛どまりになった。
だが驚いたことに、冬期になっても、ポツリポツリと風巣を訪ねて来る人がいた。ある旅行雑誌にまちがって「通年営業」と載っていたらしい。反町はあえて訂正しなかった。また駒−仙丈を目指す冬山登山者が風巣を基地とするようになった。
その年は、二月に入っても比較的雪が少なかった。バスは来なくなったが、反町が開発した風巣への新道は通行可能であった。新道は、尾根筋を選んでつけたので、従来の谷筋の旧道がほんの少々の降雪で通行不能になるのに比べて、雪崩《なだれ》に強く、冬期の利用価値が高い。また、風巣を基地にすれば、冬の駒−仙丈にいっそう肉迫できる。天候に恵まれれば、ここからいずれかの峰に、一日で往復も可能となったのである。
8
417号機の行方は不明のまま、夜になった。捜索は、いったん打ち切られた。だがその夜自衛隊の首脳は、ほとんど一睡もしなかった。
417号機の行方は、自衛隊の部内(それもごく限られた)のみで、捜索しなければならなかった。それも、その発見は、どの手よりも早くしなければならない。417号機が民間人や一般報道機関にでも発見されたら、一大事である。そのためには、自衛隊の総力を挙げても捜索したい。だがそれができないところに首脳部の苦悩があり、焦燥があった。
翌|早暁《そうぎよう》から捜索は再開された。行方不明機と行動を共にしていた416号機も捜索に加わり、417号機が消息を絶った南アルプス北部山域を探した。幸いにしてこの日は気圧の谷も去り、山は西のほうから張り出して来た高気圧の支配下に入って、執拗《しつよう》にまといついていた雲をきれいに払拭《ふつしよく》していた。
午前七時五十分ごろ、入間基地から飛び立った救難|捜索機《メンター》が、赤石山脈北部の仙丈岳西北の原始林に散開している金属片を発見した。さらに高度を下げて接近し、F−4FJの残骸であることを確認した。
現場は、針葉樹と広葉樹の混生する南アルプス特有の濃密な樹海である。その部分だけ巨大なシャベルでむしり取られたように山肌《やまはだ》があらわれ、散乱した金属片が、樹海に突き立てられた凶器のように、朝の光を受けてキラキラと光っていた。
周囲約三十メートルにわたって、樹林は完全になぎ倒されている。破断した銀色の翼に日の丸が認められた。「417号機発見」の第一報は、ただちに入間基地と百里基地にもたらされた。
遭難の原因は、まだよくわからないが、積乱雲の中に突入して、乱気流に巻き込まれ、機のコントロールを失ったものというのが、おおかたの見方であった。
ただちに救助部隊を派遣しなければならなかった。現場は、人里から離れた南アルプス山中で、一般航空路からもはずれていたために、まだこの自衛隊機の遭難を、部外者は知らない様子である。それを知らせてはならないのだ。
だれにも知られぬように、遭難機の残骸を撤収し、現場をなるべく原状に近い状態に戻さなければならなかった。そのためには大量の人力と機械力を要する。しかし、大がかりな救助部隊は動かせなかった。あくまでも秘密裡《ひみつり》に、行なわなければならない。
現場のより精密な偵察《ていさつ》がつづけられた。第二報がきた。それは首脳部を絶望の底に叩《たた》き込む報《しら》せであった。
それは、遭難機の墜落した近くに、小さな集落があり、その住人が墜落現場に駆けつけているという報告である。
絶対に秘密にしておかなければならなかった遭難が、一般の知るところとなってしまったのだ。首脳部は、報告をうけてしばらくの間、茫然《ぼうぜん》として為《な》すところを知らなかった。絶望と当惑が、彼らの何事にも動じないはずの判断を、麻痺《まひ》させたのである。
山里の住人に知られてしまったのでは、いくら救助部隊を秘密裡に動かしても、意味はない。すでに通報は、マスコミのネットの末端から中央に集まっているだろう。取材記者が懸命に雪を分けて現場へ急行しているころかもしれない。
「しかし、これまでにまったくマスコミや警察関係から問い合わせがないというのは、おかしい」
ようやく我に返った首脳の一人が気がついた。もしマスコミが事件を嗅《か》ぎつければ、真っ先に自衛隊に照会してくるはずである。いったんあらわれれば、とうてい隠しきれる事故ではなかった。
「もしかすると、まだ、知られていないのではないか」
「村人に発見されているのに、まだマスコミになんの動きもないのは、たしかにおかしいな」
絶望の底からよろよろ立ち直りかけると、すぐに楽観の安易な姿勢に傾きたがる。
「とにかく、その村の正式な名前と位置を調べろ」
ただちに発せられるべき命令が、一拍遅れて出た。集落の名は「風巣」、行政上は、長野県上伊那郡|長谷《はせ》村に所属する。本村村役場に問い合わせたところ、風巣は過疎化がいちじるしく、現在の戸籍上の人口は、十三名、いずれも老人ばかりであり、廃村の一歩手前ということであった。なお、風巣に電話はなく、冬期は、郵便配達が唯一の連絡手段であるという。
その郵便も、ここ数日つづいた悪天候で、道が雪に閉塞《へいそく》されているために、届けられずにいる状態だと、長谷村役場はのんびりした口調で答えた。そこには、自衛隊機の墜落を推測させるような騒々しい雰囲気は、みじんも感じられなかった。
「大丈夫だ、まだ知られていないんだ」
首脳部の楽観は、急速に自信によって裏づけられてきた。しかしまだ完全に安心はできない。首脳部はさらに、この地域最大の都市伊那市と、風巣のもよりの町高遠にそれとなく探りを入れた。しかし、返答にはなんの異変の兆《きざ》しも感じられなかった。
中央のマスコミ関係にも、それらしき動きは見られない。
「しかし、いずれ風巣の住人が知らせるぞ」
「風巣は、いま雪に閉じこめられているそうだ。交通が再開する前に、撤収してしまえばいい」
「そんな簡単にはいかない。417号機が墜《お》ちたことは、絶対に伏せなければならんのだ。風巣の村人は、知ってしまったんだぞ。彼らが話せば、いずれわかってしまう」
「村人の口どめはできないか?」
「そんなことをすれば、よけいに疑惑をそそる」
「他にいい案でもあるのか」
「ない。しかし、風巣の人間の口は、絶対に封じなければならない」
「死にでもしなければ、完全に口どめできないよ」
「死ぬだと?」
会議を主宰していた統幄《とうあく》議長の目がギラリと光った。
「風巣の住人は、みんな老人ばかりだったそうだな」
彼は隣席の団指令の空将補を見た。
「そうです」
空将補は、統幄議長の真意を測るようなうなずき方をした。
「人口、十三名、廃村寸前の過疎の村に、放っておいてもいずれ死んでしまう年寄りが十三人か」
この謎《なぞ》がわかるかというように、彼は、一座の将星を見わたした。彼は典型的な軍人サラブレッド≠ナある。父親は旧陸軍の中将であり、祖父は会津《あいづ》藩士であった。一族にも、旧軍の将校や、現在自衛隊や警察の大幹部になっている者が多い。その中でも彼が出世頭《しゆつせがしら》である。陸大出身の終戦時、陸軍中佐、五十一年に追放解除になると同時に幹部として入隊した。父祖三代にわたって培《つちか》われた軍人精神と、豊富な作戦統率の知識経験によって、エリートコースをとんとん拍子に昇って来た。
軍隊社会のメカニズムは、すでに父祖から遺伝的に相続し、軍人になる前から家庭において軍人たるべく厳しく躾《しつ》けられた。彼は軍人以外のなにものにもなれなかっただろうし、なる意志もなかった。
軍人を自己の天職として、なんのためらいもなく選び、そこに誇りと生き甲斐をもっている人間である。軍人は、封建の武士のように、自らはなんの生産もせず、農、工、商の労働に寄生している存在にすぎないくせに、軍人が社会の最上層に位置するエリートであるという愚かしい錯覚を固く信じている。
まして現在の日本の自衛隊は、国民的合意を得ていない。憲法の無理な解釈の上に居坐った居候《いそうろう》軍隊≠ナある。この軍隊に属する軍人≠フエリート意識など、まさに笑止であるが、居候ながら、国民の知らぬ所で巨大化した軍隊を指揮統率できる権力と、それに伴うさまざまな実質的裏づけを得ている。空将クラスになれば、一流会社の社長と変わりない俸給を得る。しかも隊内部における威信は、株主や労組に突き上げられる民間会社の社長の比ではない。
このけっこうなポストに到達するには、自身を最も速く、完全に軍人の鋳型《いがた》に嵌《は》め込まなければならない。分刻みの日課、プライバシーのまったくない団体生活、命令の忠実な履行と、報告、あてがわれた教育と思想を忠実に信奉する。これらの軍紀という名の人間規格化に露ほどの疑念も抱いてはならない。
まともな市民感覚をもった民間人ならば、とうてい耐えられないような人間の規格化が、軍人の鋳型に完全に嵌め込まれると、やがて快くなってくる。
なぜなら、鋳型に嵌まってさえいれば、自己の判断は不要だからである。なにを為すべきか、すべて軍紀と命令によって定められている。
軍人は、定められたことを儀式のように反復していれば、立派な軍人になれる。個性を鋳型に嵌め込むときの苦痛さえ忍べば、後はこんな楽なことはない。不況もなければ、首切りもない。その日その日の稼《かせ》ぎが本人の才能や計算による、一般社会の生存競争はない。
要するに定められたとおりにやっていれば、衣食住と、昇進が約束される。言わば「人間の自動操縦」の行なわれる所が軍隊なのである。
彼は、軍隊に入る前から、その自動操縦の訓練を受けていた。武士の血を受け、生まれたときから軍人たるべく躾けられてきた。彼にとっては、軍人だけが人間であり、軍人以外は、人間ではなかった。
太平洋戦争で、いったんアメリカに負けたが、あれは日本の軍人が敗れたのではなく、アメリカの物量に負けたのだと、いまだにかたくなに信じている。部内では、彼に密《ひそ》かに「軍神」というあだ名がつけられている。その神には、「神がかり」の意味が引っかけられていた。
その軍神が、重大な暗示を言葉に含ませて一同の顔を見まわした。
「生きていたとて、どうせ長くはない年寄りが、たった十三人だぞ」
無言の一同をうながすように彼はまた言った。
「しかし、現に生きているのですから」
隣席の空将補がおずおずと口を開いた。
「だから、その寿命を少し切り詰めてもらったらどうかと言うんだ」
「まさか!」
暗示の意図するところを正確にしめされて、一同は顔色を変えた。
「この際、皆によく考えてもらいたい。417号機の遭難が明るみに出たら、自衛隊の存否に関わる。それが老い先短い十三人の老人にかかっているのだ」
「だからといって、そのお考えはあまりにも乱暴です」
空将補は、諫《いさ》めた。
「それではきみに聞こう、他にいい策があるかね?」
「それは……」
「だれか、これに代わる案をもっている者がいるか?」
軍神は、一座の者に一人一人視線を配った。まさに軍隊そのものを具象化したような、狂信的な視線に射すくめられて、みなが面を伏せた。その視線に耐えて面を上げていたとしても、披瀝《ひれき》すべきよい案はなかった。
そこに居合わせた幹部の九割が、旧軍将校だったのが、不幸であった。軍神ほどではないまでも、いずれも軍人の鋳型に嵌め込まれた人間ばかりである。彼らには一般の市民感覚や価値観は通用しない。そういうものを徹底的に打破する教育を、思想のよく固まらない青年期から受けてきている。
彼らにとって、軍隊ほど居心地のよい場所はなかった。鋳型のとおりに行動していれば、軍人のかがみとされ、上流の生活と栄誉と威信と権力が保証されるのだ。自動操縦≠ナこれだけ多くのけっこうなものを保証してくれる所が、社会のどこにあろうか。
だから、敗戦によって軍人を失業した彼らが、自衛隊が創設されると、渡りに船とばかりに、ほとんどが横すべりして来た。自衛隊が解体されれば、これらプロ軍人は居心地のよい職場を失うだけでなく、人間の自動操縦を解除されるから、どう生きるべきか途方に暮れてしまう。多年、自動操縦に馴《な》れた身は、自分自身の判断と計算で世の荒海を航海できなくなっている。彼らが自衛隊を失うことは、生活の基盤を失うに等しかった。
「これに代わるいい案があったら、言ってみろ」
軍神が再三うながした。
「しかし、これらの老人に少し寿命を切り詰めてもらうと仮定しても、いったいだれにその切り詰め役をつとめてもらいますか?」
副司令の一佐がたずねた。それはすでに軍神の示唆《しさ》の上に立っての発言である。
「こんなときのためにレインジャーがいるじゃないか」
監察官の空将補が言った。
「しかし、レインジャーだからといって、口がかたいとはかぎりません」
「口のかたいのを選ぶんだ」
軍神が言った。
「そんな時間がありますか」
「時間がかかっても、それ以外に方法がない。普通の救助隊は、絶対に送れないのだ。隊の内部にも、反戦派はいるのだからな」
「それでは人選をして早く呼び集めなければ。これは時間との競争になります」
いつの間にか、会議の大勢は決まっていた。自衛隊の存続を脅《おびや》かすものは、いかなる犠牲をはらっても排除しなければならない。それが絶対の命題であった。
さっそく、全国のレインジャーから人選が行なわれた。「レインジャー」と呼ばれる特殊部隊は、米軍の「グリーンベレー」に則《のつと》って誕生したもので、山岳戦やゲリラ戦を目的に、体力、戦技にすぐれた鍛え抜かれた隊員によって構成されている。隊員は、全国自衛隊員の志願者の中から体力テストによって選ばれ、四月から十一月まで一期九週間のレインジャー教育を受ける。
この間、基礎体力の錬成、地図の判読、格闘技、爆破技術、生存教育、飢餓耐性訓練、山地および海上潜入など、挺身《ていしん》襲撃のためのありとあらゆる訓練を受ける。この訓練を首尾よく終了した者に、栄えある「レインジャーマーク」が授与され、レインジャー隊員になれるのである。
このレインジャーが全国各師団に約二十人ずつ、配属されている。この中でも特に精鋭なのが、千葉県|習志野《ならしの》に駐屯《ちゆうとん》する第一|空挺団《くうていだん》である。全隊員がレインジャーマークの所有者であるうえに、空挺作戦のための特殊訓練をうけている。
空挺部隊にとって本来の任務は、パラシュート降下後の地上戦闘である。そのための山岳|登攀《とうはん》、渡河《とか》、偵察、奇襲、暗殺、脱出などの訓練で鍛え抜かれている。つまり、一人一人がプロの殺し屋として凶暴な技と実力をたくわえている精強(凶悪とも言える)無比の部隊であった。
417号機の撤収作戦には、絶好の部隊である。首脳部は、空挺隊員を主体に、遭難現場に近い東部方面隊と中部方面隊の第一、第十二、第十師団からこの作戦に適した隊員を選んで、救助隊を編制することにした。
417号機撤収作戦は「サルビヤ作戦」と命名され、救助隊は「サルビヤ隊」と呼ばれることになった。隊は任務によって二つに分かれ、機体の撤収を目的にするものが「サルビヤA」、風巣の抹消《まつしよう》を担当するのが「サルビヤB」とされた。
選抜の基準は、隊員の実力のほかに、自衛隊に対する忠誠度が重視された。
「暴力主義的革命勢力」の構成分子、その同調者、容疑者、サークル活動関係者、あるいは縁故者、友人、知己にそれらの者を有する者などが特定隊員≠ニされて、隊内において厳しく監視されているが、この特定隊員(その危険度によってA−DおよびX種の五種ある)と親しい者、あるいは接触のある者は、はずされた。
要するに、自衛隊の存続にとって有害な、反戦的傾向や疑惑の言動がある者は、すべて除外されたのである。もともとレインジャーマークを取るほどの者は、旺盛《おうせい》な忠誠心の持ち主が多い。だが、一般隊員の中には反戦分子や危険思想(隊にとって)者が潜入している。これらの危険分子と、いつどこで接触して、感化されているかわからない。
サルビヤ部隊の編制は、一刻を争う急務でありながら、慎重を期さなければならない難しい作業となった。一人でも危険分子が入り込んでいれば、サルビヤ作戦は失敗する。そして絶対に失敗させてはならない作戦であった。
隊の情報機能が総動員された。候補としてピックアップされた隊員の身許《みもと》が、警務隊(旧軍の憲兵に当たる)によって徹底的に洗われ、忠誠で安全と折り紙をつけられた者が最終的に、サルビヤA隊として四十名、B隊として八名選抜された。
うち、A隊は二十四名、B隊は五名が空挺団員で、残りの十九名が各師団から呼び集められた者である。この選抜が二時間で行なわれた。
その日のうちに彼らは、習志野に集結して、輸送用ヘリコプター、V−107二機に乗せられて、遭難地域へと飛び立った。
[#改ページ]
凶悪なサルビヤ
1
二月十×日、風巣の里は雪の中に完全に孤立していた。今年は例年になく雪が少ないとおもっていたところが、二月中旬に至って優勢な低気圧が太平洋岸を通過したために、南アルプスや内陸の山岳帯はいっきょに大雪に見舞われた。低気圧の通過とともに、冬型気圧配置となって、強い季節風が吹き出した。
反町が風巣再建のためにせっかく開通した新道も、雪に埋められて、役に立たなくなってしまった。冬ごもりに備えて反町は、約二十人、二十日分の食料と燃料を備蓄していたから、雪に数日間閉じこめられたところで、ただちに困ることはなかったが、たまたまそのとき、五人の客が民宿に泊まり合わせていた。
この客たちを、長く閉じこめておくことはできない。この季節にこんな山奥まで訪ねて来る客だから、いずれも一くせありそうな人間ばかりである。一般の観光客とは異なった「旅なれた」雰囲気《ふんいき》をまとった客であった。
低気圧が通過した後も、これに誘われて高気圧が大陸方面から強い季節風を伴って張り出して来た。山は吹雪《ふぶき》と強風がつづいて、身動きできない。
ちょうど山岳帯が低気圧の支配下に入り、悪天のど真ん中に捉《とら》えられたとき、ドンと風巣全村が落雷の直撃をうけたかのような轟音《ごうおん》がとどろいた。一拍遅れて、強い風圧と地ひびきによる衝撃をうけた。ある家では、建て付けの甘い雨戸を飛ばされ、ある家ではガラスが割れ、棚《たな》のものが落ちた。
風巣の住人と民宿の客はびっくりした。
「いったい何だ?」
「地震か?」
「雷ずら」
「いや、雪崩《なだれ》らしいだ」
「これまでこんな凄《すご》い雪崩はなかったじ」
村に居合わせた人間は、みないっせいに外へ飛び出して来た。身動きできない者も、不安に駆られて、寝床から這《は》い出そうとした。
しかし轟音と衝撃の大げさだったにもかかわらず、どこにも雪崩の起きた気配は感じられない。多年この村に住んだ村人は、例年雪崩の発生する場所を知っている。
山の方角は、濃密な雪雲に閉ざされている。雪が強風に乗って激しく舞っていた。時折り、強風が雲を切り、山の方角を覗《のぞ》かせる。開いた視野のかなたが、さらに濃密な雲によって閉ざされている、暗澹《あんたん》たる天候だが、一瞬確保された遠方の視程に黒煙が入った。
「あれは何だ?」
客の一人が目ざとく見つけた。一同が客の指さした方角に視線を集めたときは、より濃密な雲によって視野が塞《ふさ》がれていた。
「黒い煙が出ていたみたいだったな」
「おれも見たぞ」
「仙丈《せんじよう》の方角だったじ」
何人かが、客の発見した黒煙を確かめていた。
「雷が落ちて、山火事になっただべか」
「この季節に雷が落ちるかよ」
「冬でも、雷は落ちるだ」
「もしかしたら、飛行機が墜落したんじゃないかな?」
べつの客が新たな意見を出した。
「飛行機だと?」
みなの注意が集まった。
「落雷の直撃ならとにかく、離れた場所に落ちたのに、雨戸が吹っ飛んだり、ガラスが割れたりするだろうか? 先刻のショックは、ただごとじゃない。あれはなにかが空から墜《お》ちて来たのにちがいない」
「飛行機が墜ちたとしたら、えらいことだ」
民宿の主人、佐原隆造が表情を引きしめた。
「様子を見に行ったほうがいいんじゃないか」
飛行機墜落説を唱《とな》えた客が言った。
「待ってください」
押しとどめたのは、反町である。
「まだ、場所さえはっきり突き止めていないのに、この悪天候の下を動くのは、危険です。それに飛行機が墜ちたのかどうかも確かめられていません。飛行機の墜落でなくて、雪崩だったら、二次三次の雪崩を誘発する危険があります。天候が回復するまで待ちましょう」
「しかし、放っておいていいのか? もし飛行機だったら、生存者がいるかもしれないよ」
「やむを得ません。見られるとおり、ここにいるのは、ぼくたちを除いて年寄りばかりです。とても救助に出かけるほどの力はありません。また土地不案内のお客様に、そんな危険な役目はさせられませんからね」
「せめて、警察へ連絡はできないのかね?」
「残念ながら、まだ電話がきてないのですよ。通信は、郵便配達に頼るしかありません。それもこの雪で、ここのところ杜絶《とぜつ》しています」
「我々は、大変な所に来てしまったわけだな」
客たちは、改めてびっくりした表情を見合わせた。轟音は一度だけで終わったが、山の方角に、なにやら怪しげな気配は残った。
一同は長く戸外にいられなかった。募《つの》る風雪に、家の中へ追い込まれた。懸念《けねん》を轟音と風圧の発生地に残して、客や反町の間で、その正体をめぐってさらにさまざまな臆測《おくそく》がたてられた。ある者は、いまハヤリのUFO(空飛ぶ円盤)ではないかと言い、またある者は、隕石《いんせき》が落ちたのだろうと臆測をたくましくした。
風雪は、夜通し荒れ狂った。
「この調子では、天候が回復しても、当分の間、下界《した》と連絡がつかないな」
反町は案じた。もしあの轟音が、客の推測したとおり飛行機の墜落によるものであったら、天候が回復しても、連絡の手段がない。現在の村の人手では救難作業などとてもおぼつかない。生存者がいたとしても、見殺しにせざるを得なくなるかもしれない。反町の危惧《きぐ》をよそに、夜は風雪の中に更《ふ》けていった。
翌朝、低気圧が通過して天候回復の兆《きざ》しが見えた。反町はこの機会をとらえて、昨日の轟音と黒煙の正体を見届けるために行動をおこした。
地勢に通じた佐原隆造が案内に立ち、元気な客が三人、行動を共にすることになった。飛行機遭難の場合は、確実に人手が必要になるので、反町は客の協力を断わらなかった。
すでに、黒煙は上っていなかった。佐原隆造は、昨日|瞥見《べつけん》した方角と距離感から、おおよその見当をつけていた。
「たぶん水入《みずい》らず沢ずらよ」
水入らず沢は、風巣から仙丈岳の方角へ二十分ほど上った樹林帯の中の沢筋である。名前に反して、夏期には豊かな水が流れている。昔、ここに駆け落ちして来た男女が小屋をつくって住んだのが、その名の起源だそうであるが、小屋跡らしいものはない。谷が浅いので雪崩のおそれのない沢である。
だが、悪天つづきで、沢は深雪に埋もれていた。
常ならば二十分ほどで行き着ける場所に、四十分近くかかってようやく辿《たど》り着いた一同は、そこに展開されていた惨状にしばらく茫然《ぼうぜん》とした。
モミ、ツガなどの針葉|喬木《きようぽく》が完全になぎ倒されている。密度の濃い樹林が、そこだけ悪魔の爪《つめ》にかきむしられたように、ざっくりと、無惨な山肌《やまはだ》を露出している。強い生木のにおいのこもる中に、金属が散乱していた。引き裂かれた木の肌が、焼け焦げている。
惨状の中心に、ぽっかりと深い穴が抉《えぐ》られ、そこに細長い胴体がめり込んでいた。そこからまだ異臭が鼻をつく油性の黒煙が少し立ち昇っている。乗員がいるとすれば、その奥にほとんど炭化しているにちがいない。
少し離れて、日の丸を描いた主翼の一端らしい金属板が、樹林をなぎ倒してできた雪原に横たわっていた。
「やっぱり飛行機が墜ちただ」
ようやく我に返った隆造がうめいた。
「これは自衛隊のジェット機らしい」
反町は翼の形と大きさから判断した。昨日の悪天候に巻き込まれて、操縦コントロールを失ったのであろう。生存者はなかった。乗員は、墜落と同時に即死したのであろう。
「見ろ! ヘリが来るぞ」
客の一人が指さした。一機のヘリコプターが山間《やまあい》を縫うようにしてこちらへ近づいて来た。見ると上空にも、偵察機《ていさつき》らしい飛行機が飛んでいる。いずれも軍用機≠ナあるのがわかった。すでに救難作業がはじまっていたのだ。
「おおい!」
客が、ヘリの方角に手を振って、いっせいに呼んだ。ヘリは彼らの姿を認めたらしく、一直線にこちらの方角へ翔《と》んで来た。
ヘリは現場の上空に着くと、何度も旋回した。遭難機発見の報告を基地へ送っているのか、さらにその上空を偵察機が旋回している。
「下りてくるかもしれない」
一同は期待したが、ヘリは頭上を旋回するばかりで、いっこうに地表に近づいて来ない。少し離れた箇所に、ヘリの着地に適当な樹林の切れた平坦な場所があるのである。
一同に空しく手を振らせただけで、やがてヘリと偵察機は遠ざかって行った。
「きっと後から本格的な救助隊が来るのだろう」
「生存者がいないのを確かめたものだから、雪が消えるまで来ないのかもしれないよ」
「まさか。遺体をこのまま放っておかないでしょう」
客の推測に、反町が答えると、
「とにかくこれで、下界《した》まで雪を分けて報《しら》せに行かずにすんだじ」
隆造がホッとしたように言った。
「しかし、これから村は騒がしくなりますよ。救助隊が来れば、風巣は基地にされる」
反町の言葉に、客が、
「村の孤立は救われたわけだね、死んだパイロットには気の毒だが、これが怪我《けが》の功名ってやつだ」
と、災難が自分のものではない無責任から笑った。
2
「サルビヤ部隊」の隊長に選ばれたのは、レインジャーの産みの親の一人であるレインジャー教育班、甲府学校主任教官の塚本浩次《つかもとこうじ》二佐である。
特にこの任務のために、軍神が指名した。陸士の五十五期、太平洋戦争中、パレンバン挺進《ていしん》攻撃に第一挺進団、陸軍挺進第二連隊の小隊長として参加し、その後、南方各戦域を転戦して、終戦をビルマで、大尉で迎えた歴戦の勇士である。
終戦後、追放にあってしばらく郷里で百姓をしていたが、昭和二十六年追放解除とともに自衛隊に復帰した。パレンバンの挺身襲撃の経験をかわれて、三十一年米陸軍歩兵学校に留学し、レインジャー課程をマスターして自衛隊のレインジャー教育班を創設した。
現在、七百人を超えるレインジャー隊員と、全国各連隊に配置された教官は、ほとんど彼が手塩にかけて育成した者である。この塚本二佐と軍神は、陸士で先輩後輩の間柄で「肝胆《かんたん》あい照らし合った」仲であった。
塚本の訓練の厳しさは、隊員たちから「鬼塚」と呼ばれるほどに定評があった。豊富な実戦体験と知識に加えて、きたえぬいた抜群の体力は、いまだに二十代の隊員を率先して引っ張って行く。
すでに同期の出世頭は、将クラスに昇進しているのに、昇進を望まず、精強無比なレインジャーの育成に情熱を燃やしている変わり種であった。
軍神は下命にあたって、塚本一人を密《ひそ》かに呼び寄せた。そして彼だけに命令の内容を正確に伝えた。
「これで、いかに重要な作戦かわかったろう。自衛隊の存否は、きみの肩にかかっているんだ」
「よくわかりました。それで始末の方法は、私にまかせてもらえるのですな」
塚本は、感情のまったく死んだような目を軍神に据《す》えて言った。
「まかせる。とりあえず、どんな方法をとるつもりかね」
「我々の手が加わったことは、絶対に伏せなければならないのですから、難しいご命令ですね。たとえば雪崩に巻き込まれるなどという手は、いかがでしょう」
「雪崩か。悪くないな。しかし、そんな簡単に雪崩をおこせるか?」
「現場を見たうえでないと、はっきりしたことは申し上げられませんが、山奥の交通と通信の杜絶《とぜつ》した寒村ですから、破壊工作班がいかようにも腕を振るえるでしょう」
「とにかくうまいことやってくれ。村民は、一人も生かしてはならん。彼らの見たこと、聞いたこと、すべてを雪の下に封じ込めるんだ」
「隊員には、いずれ知らせなければなりませんが」
「やむを得まい。いずれも警務隊の厳重な調査をパスした人間だから、まず大丈夫だとおもうが、秘密は最小限の範囲に抑えるようにやってくれ」
「ますますもって難しいご注文ですね」
「だからこそきみを選んだのだ」
「光栄と言いましょうか、悪女の深情けと申しましょうか」
塚本は、ニコリともせずに言った。
「悪女の深情けとは、ひどいことを言うねえ」
軍神は苦笑しながらも、この旧軍時代からの忠実な部下が、自分の命令を正確に履行してくれることを信じていた。
風巣の民宿には五人の客が泊まり合わせていた。記帳によると、
秋本照治《あきもとてるじ》 東京 医師
福島仁平《ふくしまにへい》 埼玉 公務員
小暮利吉《こぐれりきち》 長野 技師
野崎《のざき》 弘《ひろし》新潟 会社員
佐倉《さくら》まゆみ 神奈川 OL
となっている。彼らは、ガイドブックや、口コミで風巣の存在を知り、休暇を利用してやって来た様子であった。それがはからずも、大雪に閉じこめられて、身動きできなくなり、自衛隊機の墜落に遭遇したものである。
この季節はずれに五人もの客を迎えることは珍しい。年末年始の正月登山客の賑《にぎ》わい以来であった。
この中で、佐倉まゆみは野崎弘と列車の中で知り合い、野崎に勧誘されて尾《つ》いて来たということであった。二十二、三の翳《かげ》を沈めた美貌《びぼう》の女である。野崎もその美貌に惹《ひ》かれて、たまたま席が隣り合ったところから、声をかけると、意外にも素直に尾いて来たので、少なからずびっくりしたと後で話していた。
五人の泊まり客に共通する奇妙なことがあった、いずれも短い休暇を利用してやって来たはずでありながら、悪天に閉じこめられて、交通を遮断《しやだん》されたのにもかかわらず、いらだつ気配が見えない。
普通ならば、休暇の日限を気にしながら、なんとか脱出の道を講ずるはずであった。それがいずれも悠々《ゆうゆう》と構えて、道が開くまで待とうという籠城《ろうじよう》の姿勢である。
それに悪天に見舞われれば、いつ孤立するかわからないこんな辺鄙《へんぴ》な場所は敬遠するはずである。
――おかしなお客たちだ――。
と反町は彼らを迎えたときにおもった。しかも誘い合って来たわけではない。彼らは偶然、この風巣に来合わせたのである。
午前中、小康状態を見せた天候は、午後にまわって、また荒れ模様を呈しはじめた。低気圧が通過した後の一時的な疑似《ぎじ》好天であり、いよいよ高気圧の張り出しに伴う季節風が吹き出したのである。
山には、ふたたび強風が吹き荒れ、地吹雪《じふぶき》が山の姿を隠した。
天候が本格的に悪化する前に、ヘリコプターが数機飛来して、多数の人間と、なにやら複雑な機材を下ろした。風巣周辺は、にわかに騒然たる気配につつまれた。それは嵐《あらし》の気配とは異質の騒がしさである。
「救助部隊がようやく動きだした模様だな」
秋本が気配をうかがいながら言った。五十年輩の押し出しのなかなか立派な男である。
「水入らず沢のほうに、自衛隊が大勢下りたじ」
様子を見て来た隆造が帰って来た。
「大勢ってどのくらいの数だね?」
福島がたずねた。右耳が悪いらしく、眼帯ならぬ耳帯≠かけている。三十前後の、目の光が敏捷《びんしよう》な男である。
「そうさね、あれで四、五十人はいたずらか。それになんだかわけのわからねえ機械をいっぺえ下ろしてたな」
「飛行機の残骸《ざんがい》を撤収する機械でしょう。この雪の中を自衛隊も大変だね」
小暮の口調には、同情のひびきがある。彼は二十代後半と見えるが、眉《まゆ》、目、鼻、口が平べったい顔に福笑いのように散らばっている感じで、なんとなく剽軽《ひようきん》な表情になっている。
「私、恐いわ」
急に、真紀子が身体を竦《すく》めた。
「なにも恐いことないじゃないか」
反町が笑った。
「いいえ、恐いのよ、昨日、飛行機が墜落したときから、恐い感じがつづいているの。だんだんその恐い気持ちが強くなってくるのよ。なにか悪いことが起きるような気がして」
「なにを言ってるんだ。自衛隊機が墜ちたことは、ぼくらには関係ないことじゃないか。そんなこと言ってると、お客さんに笑われるよ」
反町は、妻の背中をさすらんばかりにして、そのいわれもない恐怖感をなだめようとした。まだ正式に籍を入れていないが、すでに妻の意識であった。
「奥さんのおっしゃってること、本当だとおもいます」
佐倉まゆみが、突然、口を開いた。みなの視線が、まゆみの蒼味《あおみ》を帯びた表情に集まった。肌が透けて、静脈が見えるほどに深く蒼い。
「私も、昨日から恐くてしかたがなかったんです。気のせいかとおもいました。でも、いま奥さんのお話を聞いて、そうではないことがわかりました」
「まあ、お客さんもですの?」
真紀子が目を見ひらいた。
「これはまたとんだところで意見が一致したものですね。しかし、気のせいでなければなんだというのですか。お客さんも、真紀子も少し神経が昂《たかぶ》っているんだ。自衛隊機の遭難は、我々にはまったく関係ないことです」
反町は、佐倉まゆみと妻の顔を半々に眺《なが》めながら、閉口したように言った。
「いや、案外、関係ないことではないかもしれない」
反町に水を注《さ》すように言ったのは、これまで沈黙を守っていた野崎である。三十前後の、スポーツか武術できたえたようなたくましい身体の持ち主であった。表情に乏しいポーカーフェースの内面でなにを考えているのかわからない男である。
「それはどういう意味ですか?」
反町は、野崎に視線を向けた。
「四、五十人もの屈強な男たちが、この閉ざされた山の中に入り込んで来たのです。佐倉さんのような美しいお嬢さんもいるし、奥さんも若くて魅力的だ」
「しかし、まさか自衛隊が!」
反町は、野崎の突飛な想像を笑った。
「自衛隊だって生身の体です。若く、健康で、女禁制の隊舎の中で長い禁欲生活を強《し》いられている男たちばかりです。それが通信も交通も遮断《しやだん》されたこの山中に五十人近くも舞い込んで来たのですよ。女性の姿を見れば、飢えた隊員たちの中には不心得を起こす者がいるかもしれない」
「自衛隊は痴漢じゃありませんよ。厳しい隊規と軍律に律せられた折り目正しい人間ばかりです」
「隊規と軍律ですか」
野崎の無表情にふっと嘲笑《ちようしよう》めいた皮膚の動きが揺れた。それも束《つか》の間、
「私は万一をおもって言っているだけです。いずれ彼らはここへ来るでしょうから、佐倉さんや奥さんは、あまり姿を見せないほうが無難でしょうね」
ともとの無表情に返った。
3
仙丈岳西方標高千三百メートル付近のモミ、ツガ、ダケモミ等の針葉|喬木帯《きようぼくたい》の通称「水入らず沢」の一角に、ヘリ降着可能の平坦地を見つけたサルビヤ隊は、まず先遣隊《せんけんたい》から下り立った。
オーケーサインが出はじめて、レインジャー本隊が下りて来る。人員といっしょに、発煙機、通信機、掘削機《くつさくき》、クレーンなどの各種機材が下ろされる。
ほとんど無言のまま、作業は能率的に進められた。きたえぬかれた手練が、機械のように精密に各作業単位を消化している。
B隊が、風巣の偵察に出かけて行った。間もなくトランシーバーに偵察隊から報告が入った。
「村には十三人の老人の他に、民宿に五人の客がいます。どうぞ」
その報告に、塚本二佐は愕然《がくぜん》となった。これは予想もしていなかったことである。
「民宿の客だと、本当か?」
めったに動じない彼が、声を高くして聞き返した。
「はい、中に若い女性が一名入っています。なお、その他に民宿の経営を主人からまかせられた若い管理人夫婦がいます」
「すると、住人の他に、七人の男女がいるわけだな」
「そうです」
「彼らはいったい、この季節はずれに何しにこんな辺鄙《へんぴ》な場所へ来てるんだ。ここにはスキー場も温泉もない」
「秘境というコマーシャルに魅せられてやって来て、雪に閉じこめられたそうです」
塚本はうなった。どう対処してよいかわからなかった。とにかく独断で決められることではない。
「その連中の身許をできるだけ詳しく探ってくれ。それも可及的すみやかにやれ」
塚本は、驚愕《きようがく》から素早く立ち直ると、新たに命じた。風巣の住人だけでなく、他所者《よそもの》がいるとなると、作戦計画は根本から狂ってくる。ともかく闖入《ちんにゆう》して来たかたちの(塚本にとって)七人の身許を調べて、首脳部の判断を仰がなければならない。
風巣に最初の接触≠試みたのは、第一空挺団、大屋登《おおやのぼる》二尉をリーダーとする三名の偵察隊であった。異形《いぎよう》の隊員が大挙して押しかけて、村人を驚かせないようにと、まず三名の前哨《ぜんしよう》を出したのである。
三名が佐原隆造の家に入って行ったとき、中にいた者の表情に、警戒と怯《おび》えの色が走った。それを大屋二尉は、自分らの行動服に身をかためた異形の風体のせいだとおもった。
入って行ったとき、たしかに視野の端に認めた若い女性の姿は、奥へ隠れたまま出て来ない。よほど、自分らの格好が、驚かせた様子である。
「我々は、孤立したみなさんの救援に派遣されて来ました。食料、救急医薬品も運んできました。村の中に病人がいましたら、すぐ申し出てください」
大屋は、あらかじめ塚本二佐から命じられていたせりふを言った。民宿の主人らしい老人の表情が、ホッと弛《ゆる》んだ。
「それでは墜落した飛行機を引き上げに来たのではなかったのかね?」
と聞いたのは、佐原隆造である。
「ジェット機の救助は、我々の任務ではありません。たまたま墜落事故と重なりましたが、私たちの本務はあなた方の救助です」
「そうでしたか、それはまあご苦労さまで。わしらは、雪に閉じこめられるのは馴《な》れていましてなあ、多少の食い物は用意してあります。村は病人だらけですが、べつにいま病気になったわけじゃあありません。自衛隊が助けに来てくれたのは、初めてですなあ」
人の善《よ》い隆造は、単純に喜んでいた。
「墜落機の救助のついでにここへ来たのではないのですか?」
隆造のかたわらから硬《かた》い声で聞いた者がある。野崎弘だった。このとき大屋二尉は、これまでの災害救助にはなかった違和感をおぼえた。被災地に初めて足を踏み入れたとき、自衛隊は、土地の人から神様扱いをうけるものである。それがいまはまったく逆の、出て行けがしの拒絶が感じられる。
国民のための自衛隊として、PRにつとめ、災害救助、土木工事、通信工事、輸送、防疫《ぼうえき》、危険物処理、青少年指導など、さまざまな活動を通じて、親しまれる自衛隊のイメージづくりをしているが、まだ「憲法の鬼子《おにこ》」として、日本の再軍国主義化を警戒するむきが多い。旧軍隊の再来として絶対に受け容《い》れない者も少なくない。
大屋は、その種の拒絶反応かとおもった。
それまで彼は、そこにいた人々を村の住人かとおもっていた。だが違和感によって改めて見なおしてみると、服装、顔つき、態度からして明らかに都会的であった。
大屋があたえられた知識では、村には十三人の老人しかいないということであった。隊の情報に誤りがあったのだ。大屋はそこで初めて、彼らが民宿の客であることを知った。
――こんな廃村同様の村に民宿があった――。
それ自体が驚くべきことであるのに、さらにそこに、季節はずれの客がいたのである。交通と通信の杜絶した村だったので、探りようがなかったにしても、「十三人の老人」と大きな開きがありすぎる。
大屋は、まだサルビヤ作戦について正確に知らされていなかったが、この人数と人間の種類のちがいが作戦に決定的な齟齬《そご》をきたすことはわかった。
サルビヤ作戦は、極秘のうちに終わらせなければならないものである。そこへ土着の老人たちだけならとにかく、数名(まだ人数すら正確に把握していない)の都会者がいた。
大屋は、ことの重大さを悟った。
「どうなんです? 我々の救援なんて、つけたりで、本当は墜落機の救助に来たんでしょう」
野崎が追いすがってきた。
「ちがいます。我々は墜落機の救助隊とは、あくまでも別行動です。所属部隊からしてちがいます」
「あなた方はレインジャーですね」
野崎は、大屋のレインジャーマークを指さした。彼はダイヤモンドと月桂樹《げつけいじゆ》を組み合わせたこのマークを知っているのだ。
「僻地《へきち》の災害救助には、レインジャーが出動しても不自然ではありません」
大屋二尉は、つい釈明調になってしまった。
「だれも不自然だなんて言ってやしませんよ。ただ自衛隊機の墜落と、我々の救援がいっしょになったのが、うまくできすぎているような気がしましてね」
「野崎さん、せっかくわしらを救けに来てくださったのに、そんな言い方をするもんじゃねえせ。まあ、よう来てくださった。とにかく中へ入ってくれましょ。熱い茶を淹《い》れますだ」
隆造が、とりなした。野崎の態度は、少なくとも、救助隊に対するものではない。
「まず本隊に孤立した人数と名前を連絡しなければなりません。村の住人の他に民宿に泊まっておられる方は何人ですか?」
大屋は、一刻も早く連絡をしたい焦燥《しようそう》を抑えて聞いた。奥に隠れていた二人の女性もようやく姿を現わした。どうやら大屋を救助隊と信じたらしい。
ともかく大屋は、第一報を送った。彼の報告に、沈着そのものの塚本の動揺が、トランシーバーに伝わってきた。塚本二佐は、さらに五名の客と管理人夫婦の身許や、職業について、できるだけ詳しく探り出せと命じてきた。
4
大屋二尉からの第二報によって、「十三人の老人プラスアルファ」である民宿の七人の名前と、記帳された職業が送られてきた。
ともあれ、塚本は、この予期せざる事態の発生を上層部に連絡してその指示を仰ぐことにした。
まず、交信中継用に頭上を翔《と》んでいるメンターにVHF(超短波)一二〇・〇、一二一・〇、一二二・〇メガサイクルと、順次周波数を変えながら交信した。この周波数を使っている者はほとんどなく、盗聴される危険性が少ない。それでも同一周波数をあまり長時間にわたって使用すると、そのおそれも生じてくるので、ときどき変えたうえに、暗号を使う。
上層部でも予期せざるハプニングに即答ができなかった。だが時間をかけて討議している閑《ひま》はなかった。三十分後、命令がきた。
すなわち、「十三人の住人ともども民宿の七名も抹消《まつしよう》せよ」と。ここに、十三人プラス七人の運命は定まった。それ以後の彼らの戦いは、運命を変えるための戦いとなった。
塚本二佐は、彼らの抹消の方法として、風巣全体の抹消を考えた。廃村寸前の過疎村がこの地上から消えたところで、だれも気にする者はあるまい。もともと人間の住むべき土地ではないから、人間は去っていった。自然のものは、自然に還《かえ》すべきである。
山奥の一村の抹消としていちばん無難な方法は、雪崩である。塚本は、サルビヤ作戦Bを実行するにあたって、この作戦部隊の副隊長の日野一尉に、風巣に地形上雪崩の発生する可能性があるかどうか相談した。
日野一尉は名門私大を卒業してから、改めて防大に入学して来た変わり種である。私大時代、山岳部に入部し、リーダーとなった。山岳部現役中に同大山岳会が派遣したカラコルム山群の遠征隊にも参加し、未踏峰二座を登攀《とうはん》隊長として自ら初登攀した山男としても輝かしい経歴の持ち主である。
日野一尉は「塚本学校」と称される、レインジャー教育班創設のころの卒業生であり、塚本が最も信頼している愛弟子《まなでし》≠フ一人であった。
B隊の指揮は、山に詳しい日野が事実上取っている。
「現在までの偵察によりますと、風巣の位置は、水入らず沢の下方約一キロの台地にあります。台地とはいうものの、仙丈岳西面|河童《かつぱ》沢の右岸にあります。河童沢は風巣付近で広くなり、河原状を呈しています。左岸が切り立っているのに対して、右岸の傾斜が緩《ゆる》くなっているために台地のように見えますが、本来は谷の一部です。雪崩は左岸に発生しやすく、私の観測では、右岸基部にようやく届く程度で、右岸中腹の風巣まで到達しません。だからこそ、ここに集落がつくられたのでしょう」
「風巣が雪崩で埋まるということはあり得ないだろうか?」
「長谷村役場に照会したところによると、風巣の歴史は、かなり古そうです。平家の落人《おちゆうど》部落という言い伝えもあるそうですが、それは確かめられていません。ともかく歴史が長いだけ村の位置は安全だったことになります」
「数百年の歴史のある村が、災害で潰滅《かいめつ》した例もある。風巣が一瞬の間に消えてしまうような大雪崩の発生し得る可能性は、地形上無理か? 無理ならば早急に他の手を考えなければならんが」
「左岸の傾斜度と、積雪の状態、および風巣の位置などから見て、自然発生の雪崩では無理ですね」
「それでは人工的な雪崩ならば可能か?」
「右岸上方には樹林がびっしり埋まっていますので、雪崩の発生する素地はまったくありませんが、水入らず沢下方から、風巣の対岸にかけて樹林が少なく、雪崩は容易に起こり得ますし、現にここへ来てから小規模の雪崩が何度か発生したのを目撃しました。現在の積雪は、八十センチから百センチ、吹きだまりで二メートルないし三メートルあります。左岸の平均斜度は四十度前後、数日来の悪天で新雪が積もっており、乾燥雪崩を発生しやすい状態となっています。雪の量は十分でしょう。問題は、左岸に発生させた雪崩を右岸の風巣までもってくるには、どの程度のエネルギーを発生点の雪にあたえればよいかということになりますね」
「するとエネルギーしだいでは、左岸の雪崩を右岸の風巣までもってこられるというのか?」
「可能性はあるとおもいます。ただし……」
「ただし、何だ?」
「それだけ巨大なエネルギーを使用すると、予測しない所にも雪崩が誘発されて、我々にも危険が及ぶかもしれません」
「我々は、その前に安全地帯へ避難していればよい」
「雪崩の誘発とサルビヤA作戦は並行してすすめられます。B作戦の遂行がA作戦に影響をあたえるおそれがあります」
「それはまずいな。よし、A作戦が一段落するまで、Bの遂行は待とう。だがその間に、いつでもBに取りかかれるように準備しておくんだ」
日野一尉をリーダーとする工作班が、風巣対岸をさらに綿密に偵察した。その結果、左岸には、かなり多量の積雪が見られるものの、斜面にわりあい落ち着いていて、大雪崩を発生させるほどのストレスを孕《はら》んでいないことがわかった。人工的なエネルギーを加えても、地形的にとても風巣まで引っ張ってこられないという。ときたま小さな雪崩が発生しているが、五十度以上の急斜面に発生するちり雪崩で、破壊力はほとんどない。
「雪崩は使えないな」
日野一尉の報告を聞いた塚本は、ご苦労とも言わずに次善? の方策をすでに考えていた。谷の偵察の間、A作戦は順調に進んでいた。破断された機体はつぎつぎに掘り起こされ、引き揚げられ、回収へリコプターによっていずこかへ運び去られていく。大きな破断部分は、その場でヘリに積みよいように原型写真を撮った後、さらに細かく分解される。
機体、翼、エンジン部分がこのようにしてつぎつぎに回収されていった。この場合、不思議だったのは、パイロットの遺体よりも機体の回収が優先されたことである。だが作戦に参加した隊員には、ごくわずかな例外を除いて、そのことに疑問をもった者はいなかった。
「まだ、あきらめるべきではないとおもいますが」
全身を雪まみれにして引き返して来た日野一尉が言った。
「まだなにか方法が残っているのか?」
塚本が目を据えた。
「雪崩については、無数の意見があります。最もそれの発生しやすい地形とか気象、季節、時間というものが、定説のように語られていながら、まったく予期していない場所に、とんでもない時期に起こるものです。つまり雪崩は、いつどこで、発生するかわかりません」
――それで?――とうながすように塚本は日野の顔をじっと見た。
「まず風巣の対岸は、平凡な面的な傾斜になっていて、たとえ雪崩が発生しても、崩落雪《デブリ》が横に広がってしまいます。つまり発散型の雪崩になってしまうために、末端においてあまり大きなエネルギーが得られません。これで雪崩のためにV字形の細い通路を作ってやれば、雪崩のエネルギーは集中して、巨大な破壊力を蓄えるとおもいます。つまり発散型の雪崩を人工的に集中型に変えてしまうのです」
塚本にも、日野の言わんとするところがわかってきた。
「雪の通路をつくるのに、どのくらい時間がかかる?」
「通路のつくり方にもよりますが、隊で使っているブルと掘削機を当てれば、まず四時間から五時間、通路ができれば、ちょっと刺激を加えるだけで、風巣はあっという間に雪に呑《の》み込まれてしまうでしょう」
「A作戦は、間もなく一段落する。機械だけでなく人間もまわせるだろう、ただし夜間の作業になるな」
「B隊のエネルギーは、まだほとんど消耗していません。それにレインジャーは鍛えられていますから、一晩や二晩の徹夜で音をあげるようなやつはいませんよ」
「そうだったな」
すでに夜が落ちていた。悪天に闇《やみ》が加わって、作業の難度は倍加した。だが条件が難しくなるほどに、それは国民の目を被《おお》うスクリーンとなってくれる。レインジャーの伎倆《ぎりよう》と体力は、むしろ悪条件を喜んでいるようであった。
[#改ページ]
虫の警報
1
この間、風巣に最初に接触した大屋二尉ら三名の先鋒《せんぽう》は、そのままそこに留まるように命じられた。村人と民宿の七名を見張り、その勝手な動きを封じるためである。
夜になると、対岸にあたって妙な音がするようになった。なにか巨大なモーターがうなっているような音が、風の呼吸の切れ間に届けられる。大屋二尉はそれを雪崩の誘導路をつくるためにブルドーザーの動いている音と知っているが、佐原隆造夫婦や民宿の七名は不安な顔を見合わせた。
「雪崩かしら?」
真紀子が不安を抑えられないように、反町のほうを見た。
「この辺で夜、雪崩が発生するのは、珍しいんだがな」
反町も自信がなさそうであった。
「いんや、あれは雪崩じゃねえだ。雪崩の音はもっと陰にこもっている。最初にドーンとなにか爆発したような音がして、少し後ボコボコと湯が吹きこぼれるような音がつづく。雪崩の種類によって音も変わってくるが、とにかく音に節《ふし》があるだ。あの音は節がねえ、なんかの機械でも動いてるようだな」
「ちょっと様子を見てきましょうか」
反町が立ち上がりかけると、大屋がその前に立ち塞《ふさ》がって、
「機体の完全撤収がすむまで、危険なので家から出ないようにという本部からの指示です。連絡がくるまで、恐れ入りますが、屋外へ出ないでください」
と制止した。
言葉は丁寧であったが、断固たる態度であった。二名の屈強な部下も、大屋の命令一下いかなる動きもできるように身構えているのがわかる。
「しかし、飛行機が墜落したのは、ここから一キロも上手《かみて》の水入らず沢ですよ。音が来るのはすぐ対岸からです」
「風向きでそのように聞こえるのです。とにかく我々の義務は皆さんの安全を守ることです。どうか協力してください」
大屋には妥協の余地がなかった。「風巣側」にまだその時点で疑念は湧《わ》かなかった。大屋二尉は、ときどき戸外へ出ていく。外の小高い場所で、本隊と連絡を取るためらしい。
後には二名の隊員が一同を見張るかたちで残っている。焚火《たきび》の薪《まき》がガサリと崩れた。
「さあ、そろそろ眠《ね》るべか」
佐原が眠そうな声をだした。外は相変わらずの荒れ模様である。夜になれば、眠る以外にすることがない。
「兵隊さん[#「兵隊さん」に傍点]たちは、どうするね?」
佐原が残った二名にたずねた。
「我々は、ここでけっこうです。どうか我々にかまわずお寝《やす》みください」
二曹《にそう》が答えた。
「夜は冷えるだ。布団をもってきましょ」
「とんでもない! 我々は野天に寝るのに馴《な》れています。屋根の下で火があるだけでも御殿にいるようなもんです」
佐原と二曹がやりとりしているとき、真紀子が反町のかたわらへ来た。なにか用事があるのを気配で悟った彼が、いっしょに別間へ行くと、
「あなた、やっぱり向こう岸の気配がおかしいわよ。ときどき灯《あかり》がチラチラして、なにかが動いているようだわ」
「なに、灯が見えるって?」
いったん抑えられた反町の不審が、よみがえった。対岸に灯が見えるはずがないのである。
「いま、裏の布団部屋の窓から対岸をなにげなく覗《のぞ》いたら、木の間ごしにチラチラと見えたのよ。自衛隊が向こう岸でなにかやっているんじゃないかしら?」
「自衛隊が何をやっているというんだい?」
「私は知らないわ。とにかく、あなたの目で確かめてみて」
真紀子は反町を布団部屋へ引っ張っていった。各部屋に押入れがないので、ここに布団を集めておく。明かり取り用の小窓が対岸を向いている。
「ねえ、ほら見えるでしょ」
真紀子に指さされるまでもなく、闇の中に光の筋が見えた。それもかなり強烈な光が闇の中にいくすじも交叉《こうさ》している。光の中にチラチラと動く黒い機械や人の影も見える。遠いので服装まで識別できないが、どうも自衛隊員らしい。もっともこの時間に、あの地帯に入りこんでいる者は、彼ら以外に考えられなかった。モーターの唸《うな》るような音が、風の切れ間にまた届いた。
「あんな所で、いったい何をやっているんだろう?」
反町は首をひねった。
「それより、いま家に来ている中尉[#「中尉」に傍点]は、どうして風の方向のせいだなんて言ったんでしょうね?」
「そうだ。音の正体を確かめようとしたおれたちを、危険だからと押しとどめた」
「あそこで、私たちに知られては都合の悪いなにかの仕事をやっているのかしら?」
「都合の悪い仕事か?」
「ねえ、私、恐い!」
真紀子が唇《くちびる》を震わせて、反町に抱きついてきた。大屋二尉がやって来る前にも彼女は不安を訴えたのだ。そのときは気のせいだとなだめたのだが、あるいは女の自衛本能が危険を予知しているのかもしれない。弱い者ほど、身を衛《まも》る本能は発達している。忍び寄るまがまがしい足音を彼女は逸早《いちはや》く悟ったのかもしれないのだ。そう言えば、客の佐倉まゆみも同じ不安を訴えていた。
「真紀子、このことはしばらくきみの胸の中に伏せておいて、だれにも話してはいけないよ」
「どうしていけないの?」
「他の者の不安を煽《あお》るといけないからさ」
「でも、なんでもないことだったら、だれの不安を煽ることもないでしょ」
「本当になんでもないことならいいんだけど、さっきの二尉の態度がどうもひっかかるんだ。ぼくが表へ出て行こうとしたら、慌《あわ》ててとめただろう。それでも出て行こうとしたら、腕ずくでもとめかねない勢いだった」
「それじゃあ、あなたもおかしいとおもったのね」
「きみに言われて、ちょっといやな感じがしたんだよ。ぼくたちのおもいすごしかもしれない。いや、きっとそうだ。だから、はっきりするまで、このことは二人の胸の中にしまっておくんだ」
「もしかしたら、あの人たち、私たちを見張っているんじゃないかしら?」
「何のために見張るんだ?」
「私たちに、余計なものを見せないために」
「どんな作業をこの山の中にしに来たとしても、国民の生命を守る自衛隊が、ぼくたちに危害を加えるはずがないよ」
「でもこんな山の中に閉じこめられていては、あの人たちが何をしても、世間にはわからないわ。たとえ、自衛隊の任務と反対の行動に出ても」
「それこそ考えすぎというものだよ」
反町は妻≠フ不安を吸収するように柔らかく抱いた。そのたおやかな身体が、反町の腕の中で小きざみに震えていた。
「ヘリコプターが一晩じゅう翔《と》んでいるな」
「一機じゃないな、何機も翔んでいる気配だ」
「この悪天候をついて徹夜の救援とはご苦労なことですね」
「それにしても、どうせ生存者はいない。明日天候が回復してから、作業をはじめてもよいのに」
「いったい自衛隊の連中は、どうしてあんなに急いでいるんでしょうね?」
「そう言えば、我々を救出に来たと言いながら、先鋒の三人が来ただけで、本隊はいっこうに姿を現わさないが」
寝室に引き取った四人の客は、寝床に横たわって話し合った。まだ部屋はあるのだが、オフシーズンでもあり、人手が足らないので一室に合流したのである。佐倉まゆみだけが別室に寝んでいる。
「さっき、ちょっと気がついたことがあるんですがね」
野崎弘が、布団からかめ[#「かめ」に傍点]のように首を突き出して言った。みなも同じような格好で眠る前の一時を話し合っていた。一同の視線が彼のほうに集まった。
「ときどき、向こう岸のほうからモーターの唸り声のようなものが聞こえてくるでしょう」
「大屋とかいう二尉が、風向きの関係で、救出作業の音があちらから聞こえると言っていたな」
福島が相槌《あいづち》を打った。
「しかし、風向きはまったく逆なのです。だいたい、冬のこの地域では風は西から吹きます。遭難現場は、ここから東へ約一キロ上った所です。旋回するヘリの爆音ならとにかく、地上の機械の音が風上のこちらへ届くというのはおかしい」
「すると、音はやはり対岸からきているわけか」
秋本が目を光らせた。
「対岸からくる音を、あの二尉はなぜ隠したのでしょう?」
「さあ」
だれにも答えられなかった。
「ひとつ偵察に行ってみましょうか」
野崎が、精悍《せいかん》な目を上げた。
「偵察に?」
「これからですか」
「大屋二尉にまた制止《とめ》られますよ」
他の三人がびっくりした目を寄せる。
「大丈夫ですよ。彼らに見つからないように裏手から出て行きます。まさかこの夜中に、そんな弥次馬《やじうま》が行くとはおもっていないでしょう」
野崎はまるで対岸の火事でも見に行くように立ち上がった。
野崎が出て行ってから一時間経過した。
「少し長すぎるんじゃないかな」
最初に不安を口に出したのは、秋本である。野崎が出て行ってから、だれも眠っていない。
「そうですね、大した距離ではないし、どんなにかかったところで、三十分もあれば帰って来られるはずだ」
福島も時計をにらんだ。
「やっぱりなにかあったんでしょうか」
小暮も不安を隠さない顔を向けた。偶然、この民宿でいっしょになっただけの間柄にすぎないが、ここ数日、吹雪に閉じこめられて共にすごしている間に、たがいにかなり打ち解けていた。
「しかし、途中に遭難するような場所があったろうか?」
「吹雪だと、小屋のすぐ前で凍死しているような場合もありますよ」
「それにしても、この距離なら、灯が見えますよ。雪も昼間より少なくなってきているようだし」
三人で不安を語り合っている間に、さらに三十分が経過した。
「これは反町さんに話したほうがいいかもしれないな」
秋本が言った。
「そうですね、たしかにおかしい」
「私が行ってきましょう」
三人の中でいちばん若手の小暮が、立ち上がりかけた福島を抑えて、寝床から抜け出た。いつの間にか身支度をしている。
小暮が管理人室のほうへ行きかけたとき、表のほうから騒がしい気配が伝わってきた。大屋二尉と反町の興奮した声が聞こえる。
「なにかあったらしいな」
三人は、顔を見合わせた。
「とにかく行ってみましょう」
小暮の後から、福島と秋本がつづいた。
ストーヴのある表の土間には、大屋をはさむようにして、反町と佐原が立っている。二人の顔色が変わっている。
「いったいどうしたんです?」
小暮が問うと、
「大変です。野崎さんが遭難したのです」
反町が答えた。
「野崎さんが、遭難? またどこで、どうしてですか」
「いま,大屋二尉が教えてくれたのです。対岸へ行こうとして、河原で雪崩に遭《あ》ったらしいのです。これから救出に行きます」
「雪崩に? ほ、ほんとうですか?」
三人は愕然《がくぜん》とした。
「本当です。だから外へ出ないようにと警告していたのです。なぜあんな場所へ行ったのかわからないが、たまたま木下二曹が現場近くで本隊と連絡を取り合っていて、野崎さんが雪崩に巻き込まれるところを目撃しました。いま木下二曹と山根三曹が現場に残って捜索にあたっています。私がとりあえず連絡に来ました。本隊が来るまで人手が足りません。みなさんも手伝ってください」
「とにかくわしらもこれから行きますだ」
反町と佐原は、身仕度《みじたく》をしていた。同宿の客が遭難したと聞いては、他の三人も放っておけなかった。それに野崎は三人を代表するかたちで偵察に行ったのである。
三人の客を加えた六人の捜索隊は、現場へ向かった。風はだいぶ静かになっていたが、雪は依然として降りつづいていた。雪の粒が大きく粗《あら》くなっている。寒気が屋内の暖かい温度で弛緩《しかん》した身体に、牙《きば》を剥《む》き出して殺到した。雪雲が厚くたれこめているのか、空に一点の星も見えないが、雪明かりで地上はほの明るい。だが対岸に灯はなく、静まり返っている。先刻、真紀子といっしょに見た灯や動くものの影は、まったく認められない。モーターのような唸りも聞こえてこない。
――あれは、目と耳の錯覚だったのか?――。
深い雪に何度も足を取られそうになりながら、反町はおもった。しかしあの音を聞いたのは、反町だけではなかった。大屋以外のここにいるすべての者が怪音≠対岸の方角に聞いた。そしていま野崎が、対岸の基部にあたる河原で雪崩に埋められたという。
――怪音と雪崩に、なにかの因果関係があるのだろうか?――。
反町の中で、しだいに不吉な想像が脹《ふく》れ上がってきた。
2
動員できる機械力と人力を、すべて投入して、雪崩の誘導路≠ェ完成したのは、午後十一時ごろであった。風巣を望む河童沢左岸にV字形の溝《みぞ》がつけられて、その尖《とが》った先端は、凶器のように風巣の方角へ向けられていた。それはまさに巨大な凶器だった。
日野一尉から作戦準備♀ョ了の報告をうけた塚本は、ただちに作戦開始の命を下した。夜のうちに風巣を雪の下に埋めてしまえば、人工の誘導路も消えてしまう。うるさい村人たちの口も永久に封じられる。言葉どおり、すべては闇の中に葬られるのだ。
「私に考えがあるのですが」
命令をうけた日野が申し出た。
「どんな考えだ」
塚本が顎《あご》をしゃくった。
「誘導路を伝う人工雪崩は、おそらく風巣全体をのみ込むに十分なエネルギーをもっているとおもいます。しかし実験をするわけにはいきません。民宿は風巣の中でも、比較的高台に位置しています。万一、雪崩が民宿に届かないと、民宿の客と人間が生き残る可能性があります」
「それで……」
「風巣の住人はよいよいの老人ばかりで、生き残ったところで、心配はありませんが、民宿の連中は、都会者なので、面倒《めんどう》をおこすかもしれません。いま警務隊が彼らの身許を調べているそうですが、大屋二尉の報告によると、いずれもひとくせありそうな面がまえをしているそうです」
「その連中を絶対に生き残らせないよい方法があるか?」
「彼らだけ、誘導路の下の河原に誘い出せればいいのですが」
「なるほど。誘導路の下へ来ていれば、絶対に助からないな。それでどうやって誘い出す? もうみんな寝床の中だろう」
「大屋二尉に、村は危険だからと、誘導路の下へ連れ出させます」
「しかし地元の人間は、村が安全なのを知っているだろう」
「手はいくらでもありますよ。飛行機が墜落して、危険な爆発物が村の中に飛び散ったおそれがあるので緊急避難をするようにとか」
「危険な爆発物か、それにはちがいないな」
塚本は、唇の端でうすく笑った。そんなとき、彼の酷薄な無表情は、ますます強調される。
「よし、きみの好きなようにやってみろ」
とうなずいたとき、新たな報告がきた。
「なに、民宿の客が一人、誘導路の下へ偵察に来ただと」
塚本は、細い目を光らせた。
「はい、ブルや掘削機の音に不審をもった様子です」
「ちょうどいいじゃないか」
塚本がまたうすく笑った。
「は?」
日野一尉がその顔を覗き込むと、
「連中をおびき出す餌《えさ》にちょうどいいと言ったんだ。いまごろになって危険な爆発物を持ち出すより、民宿の客が一人雪崩に埋まったから、その救援作業に協力してくれと頼む。もともと連中の仲間だから、いやも応もあるまい。女が残っても、どうにでも料理できる。爆発物だったら、村全体を避難させないと怪しまれるしな」
「なるほど、いいお考えですな」
「さっそく、実行してくれ。A作戦は、ほぼ終わった。後はB作戦だけだ。夜の明ける前にすべてを終わらせたい」
「承知しました」
日野一尉は挙手の礼をした。
雪は上方から垂直にこやみなく降り落ちてきた。時折り風が白い渦《うず》を巻く。立ち枯れた樹林が雪の花を咲かせて野面にまばらに立つ。それは無気味な卒塔婆《そとば》のように見える。樹林帯は、木の墓場だ。
「どのあたりで、雪崩に巻き込まれたのかね?」
佐原が、案内役の大屋二尉に聞いた。
「あのあたりです。ちょうど対岸の真下です。落ちてきた雪のブロックが見えるでしょう」
大屋の指さす先を追った一行は、河原に転がる大量の雪塊を認めた。それは誘導路をつくるために、機械が削り取った雪のブロックであったが、一見、雪崩の崩落雪《デブリ》との区別がつかない。
「この雪崩で、雪のストレスがなくなったので、二次雪崩の危険性はないようです。雪面もよくしまっています」
野崎の安否を気遣《きづか》う一同は、大屋の言葉を信じて、現場へ直行した。
「こりゃあ凄《すご》い雪崩だ。もう六十年もここに住んでいるが、ここにこんな大きな雪崩が出たのは初めてだじ」
佐原は驚愕を剥《む》きだしにした。一行は現場へ到着した。そばへ来ると、さらに凄《すさ》まじい雪のブロックが押し出され、河原を埋めていた。雪といっしょに削り取られた樹枝や土が惨状を強めている。河童沢の細い流れは、その下に凍結している。山腹に雪崩がこすったらしい爪跡《つめあと》が、巨大なVの字の形に残っている。彼らはそれが恐ろしい誘導路であることに気がつかない。
「みなさんはこの付近を探してください。我々は、もっと上のほうを探してみます」
V字の誘導路の直下に一行を導いた大屋は、Vの外側を上方へ登って行った。雪崩遭難者は、デブリの末端に最も多く埋まっているものだが、時には雪崩の進行中にその通路の外へ弾《はじ》き飛ばされることもあるので、大屋の行動は、その時点ではべつに不自然には見えなかった。
「だがよう、これほどの雪崩が起きたというのに、どうして気配もしなかっただべか?」
佐原が首をひねった。
「やっぱりあのモーターのような音が、そうだったのではないかな?」
秋本が示唆《しさ》した。
「この近場《ちかば》にこんなでっかい雪崩が起きたらよ、家が揺れるはずだ。倒れる家もあったはずだし、どうも合点がいかねえな」
佐原はしきりに首をひねった。
「それより、いまは早く野崎さんを探し出すことです。みなさん、手分けして、このあたりに野崎さんが身に付けていたものが落ちていないか、探してください」
雪に金棒《ゾンデ》を突き立てての本格的な捜索は、その後である。それは夜の明けないうちは無理である。いまはとりあえず生死を確かめるだけだ。声を合わせて、連呼もした。しかし応答はない。彼らは、その呼び声が自分たちの位置を、狙《ねら》いすました凶器に正確に教えていることを知らない。凶器の引き金に指がかけられ、まさに引かれるばかりになっていた。
真紀子は、先刻から衝《つ》き上げるような不安にしきりに耐えていた。それが故もない神経の不安なのだと、何度抑えつけても、腹の底のほうから執拗《しつよう》に頭をもたげてくる。
体の芯《しん》にあるものが危険を告げているのだ。それは、自分自身の危険ではない。反町の危険なのである。具体的にどんな危険が迫っているのかわからない。だが漠然たる不安が、確実に近づいている。危険の正体は、霧の中に烟《けむ》っているが、その足音がたしかに聞こえる。
彼女はとうとう家の中に留まっていられなくなった。反町は、先刻、野崎の救出に他の男たちといっしょに出て行った。帰って来てすぐ風呂《ふろ》に入れるように、その用意もし、炊《た》き出しもしておかなければならない。だが不安が先行して、なにも手につかないのである。
「私、みんなの様子を見て来ます」
騒々しい気配に起きてきた佐倉まゆみに、真紀子は言った。
「なんだかよくないことが起こりそうな気がするんです。私、行ってみんなを連れ戻《もど》して来ますわ」
「まあ、奥さんも!」
まゆみは目をまるくして、実は自分もさっきから同じ不安にしめつけられていたのだと言った。
「私もいっしょに行きます」
まゆみは同行を申し出た。
「すみません、助かります」
一人よりも、二人のほうが説得力がある。二人の女は、雪面に残されている男たちの足跡を追った。誘導路の下端で捜索をしている男たちの姿が視野に入った。
「みなさあん! あなたあ、引き返してください。危険です」
「早く引き返して、危ないわ、お願い」
女たちは切り立った左岸に刻まれたVの字を見た。Vの先端は、まさしく男たちのいる方角を突き刺すように指していた。彼女らは本能的に危険の来る方向を悟った。
「早く! 上流のほうへ逃げて。二度目の雪崩が来るわよ」
「早く! 早くう」
二人の女の声は、雪に被《おお》われた夜の静寂の中によく通った。そのとき男たちはためらわなかった。突然降って湧《わ》いた女たちの声が、天の啓示のように聞こえた。
女たちが本能的に危険を悟って発した警告を、男たちも本能的に信じたのである。
彼らは捜索を中断して、上流のほうへ走った。無我夢中で走った。一拍遅れて、誘導路の上部に爆発音が起きた。人工的に蓄えられていたストレスが割れて、落下する巨大な雪の量となった。雪は誘導路に導かれて、圧縮され、V字の先端において、高圧水力を堰《せ》き止めた水門のように大きなエネルギーを孕《はら》んで迸《ほとばし》った。上流に走った彼らは、きわどいところで雪崩の触手を躱《かわ》した。Vの先端から迸った雪崩は、彼らに躱されたことによって怒りをかきたてられたかのように、奔騰《ほんとう》しながら、川を渡り風巣の台地へ迫った。
台地の下端にあった家屋が、あっという間に沸騰する雪の中にのみこまれた。雪にむしり取られた樹木と石が、大きくバウンドしながらその後につづく。雪崩によって、落石も誘発されている。それらの地獄絵を、一瞬の間に雪煙がおおい隠した。
ようやく雪崩の届かない上流の台地に達した彼らは、茫然として、第一次雪崩よりもはるかにスケールの大きい、二次雪崩の行方を見まもっていた。夜目のうえに、雪煙がおさまらないので、正確な被害のほどはわからない。
だが、一瞬、真紀子とまゆみの呼びかけが遅れれば、彼らはまちがいなく雪崩の餌食《えじき》になっていた。危険を逃れてから、自分らがその淵《ふち》にのぞんだ危険の恐ろしさを認識した。いまになってから悪寒《おかん》が背筋をしきりに走った。
ようやく雪煙がおさまって、雪崩に叩《たた》きのめされた村が見えてきた。
「作爺《さくじい》とお松っつぁんの所がやられた」
佐原が叫んだ。押し出したデブリの下端が、そこについ先刻まで建っていた二軒の家を、あとかたもなく吹き飛ばしていた。吹き飛ばされた材木の断片らしきものがわずかに数片、雪の間に覗いているのが、そこに家があったかすかな痕跡《こんせき》であった。
青白い雪明かりの中に惨状が定着されて、いま襲った雪崩が夢ではないことを物語っている。それでいながら、一同は悪い夢でも見ているような気がした。倒壊した家屋には、どちらにも身動きのできない老人がいた。作爺は、リューマチで半身不随、お松っつぁんは中風でほとんど寝たきりである。
彼らは、倒壊した家の所へ駆けつけた。大量の雪が集中して落下してきたために、デブリが深く、とても彼らの力では掘り出せないことがわかった。デブリの最も深い所は、五メートル以上ある。雪崩にむしり取られてきた樹木の大きさを見ても、その破壊エネルギーの凄まじさがわかる。これほどの雪崩の直撃を食った二人の老人は、即死に近い状態で圧死したにちがいない。不幸中の幸いにも、雪崩は風巣の二軒を捉《とら》えただけで終わった。これは、まことに地形が産んだ好運だった。雪崩の主流は、二軒を叩いた後、台地の人家のない方向へそれてしまったのである。もし主流がまともに風巣を襲っていたら、全村がその餌食になったところであった。
雪崩の轟音に驚いて、生き残った家から、住人たちが出て来た。彼らが出て来たところで救援作業には役に立たない。自衛隊の救援を待つ以外になかった。だが、彼らはどこへ行ってしまったのか、いっこうに姿を現わさない。
「いまの雪崩にやられたんじゃないだろうか」
「いや、雪崩の通路の外を上って行く大屋二尉の姿を見たぞ」
「あとの二人の兵隊[#「兵隊」に傍点]は、どこへ行ったんだ?」
「それより、本隊は何をしているんだ? いまの雪崩の気配は、とっくに悟っているはずだ」
「水入らず沢まで、救援を呼びに行こう」
動転した人々が、勝手な動きをしかけたとき、
「みなさん、ちょっと待ってください」
と制したのは、反町である。
「何を待つんだ。この雪の下には人間が埋められているんだぞ」
福島が耳帯を抑えながら抗議した。寒気で耳が痛むらしい。
「我々の手で、この雪を掘りおこすのは、不可能です」
「だから、自衛隊を呼びに行こうというんだ」
「自衛隊の救けを求めるのは、ちょっと待ったほうがいいとおもいます」
「なぜだね?」
「とにかくみなさん、いったん家の中に引き取ってください。朝にならなければどうにもなりません。ここでは凍えてしまう。もう雪崩の心配はありません。落ちるべき雪は落ちつくしました。対岸に雪はもうほとんどないでしょう」
心細げに立っている老人たちを説得して、家の中に引き取らせた。民宿の一行も、寒気に追い立てられて、ひとまず宿へ帰った。
「自衛隊への救援要請を待てというのは、どういうことかね?」
ストーヴで冷えきった体を暖めると、福島がみなの疑問を代弁した。いままで寒気で口も痺《しび》れたようになっていた。
「その前に、ちょっと外の様子を見ましょう。大屋二尉が戻って来るかもしれない」
反町は、出入口から外をうかがった。雪はほとんど止んでいた。白々とした雪景色の中に動くものの影はない。
「大屋二尉が戻って来ると、都合が悪いのですか?」
小暮の問いに直接答えず、
「みなさんは、いまの雪崩をどうおもいます?」
と反町は一座の者の顔を見わたした。
「どうおもうって、要するに規模の大きい雪崩がおきただけだろう」
秋本が言った。
「佐原さん、これまでに風巣が雪崩にやられた記録がありますか?」
反町は佐原のほうを向いた。
「わしがここに生まれ育って六十年にもなるが、雪崩がここまで来たためしはねえだ」
「佐原さん以前の代には?」
「風巣ができてから三百年以上になるっつうが、それが災害のなかった証拠だじ。先祖代々ここに住みつづけてきて、こんな恐ろしい目にあったのは、初めてだ。雪に埋まった作爺なんか、九十を超えてるが、生まれてからあそこにずっと住んでいたせ」
「それが突然、今夜雪崩に襲われた。自衛隊が初めてこの村に現われた夜に」
「反町さんは、あの雪崩と自衛隊となにか関係があると考えているのですか?」
小暮が聞いた。
「断定しませんが、どうも胡散臭《うさんくさ》いのです。雪崩の発生した直下に私たちは怪しまずに行きましたね。大屋二尉が導いたからです。それなのに、大屋二尉は私たちと同じ場所にいなかったでしょう」
「すると、大屋二尉は、雪崩が起きることをあらかじめ知っていて、自分だけ安全圏へ逃げだしたというのですか?」
みなの表情がひきしまった。雪崩の発生を予知していたということは、雪崩の直撃箇所に一同を連れ出した大屋に故意があったことにつながる。
「だいたい、あの箇所に大規模な雪崩が発生したことはなかった。大屋二尉はそこへ、第二次雪崩のおそれはないと言って我々を導いた。彼の言葉を信じた我々も迂闊《うかつ》だったが、私の観測でも雪面はよくしまっていた。もし彼が二次雪崩を予知していたとすれば、彼は嘘《うそ》をついて私たちを誘導したことになります」
「なぜそんなことをするのだろう?」
福島がじっと宙を見つめた。
「それは、我々がここにいては、自衛隊にとってなにか都合の悪いことがあるからかもしれません」
「都合が悪いというと……」
「自衛隊機が墜《お》ちて、その救出作業のために大勢の自衛隊がやって来た。大屋二尉は、墜落機と孤立化した我々の救助が重なったと言っていましたが、本隊がいっこうに現われないところを見ても、彼らが墜落機のために来たことは明らかです。大屋らは我々の見張りに派遣されたのです。とすれば、彼らにとって都合の悪いこととは、自衛隊機がここに墜落したのを我々が知っている事実です。彼らはそれを伏せておきたいのですよ」
「しかし、飛行機が墜ちたのを伏せきれないだろう」
秋本が思慮深げな口調で言った。
「みなさんはこれまで、マスコミ関係者が、一人も姿を現わさないことをどう考えます?」
反町は反問した。一同は、盲点を指摘されたような気がした。
「ラジオにも、いままでのところいっさい報道されていません。つまり、まだマスコミは気がついていないのです。日本のだれも知らない一角に、自衛隊機が墜落して、彼らはそれを隠したがっている。それを知っているのは私たちだけだとしたら……」
地形の関係でテレビはうつらない。雑音の多いラジオだけが外界からの消息を伝える唯一の手段である。
一同には反町の示唆する恐ろしい推測の輪郭が、しだいにはっきりと見えてきた。
「すると、野崎さんが遭難したというのも……」
「私の推測に誤りがなければ、野崎さんは、自衛隊にとって都合の悪いものを見た。そのために……」
反町は、その先の言葉を抑えた。言わなくとも、野崎を道具にして、雪崩の罠《わな》の中央へ誘い出された事実があった。野崎が抹消されたという想像は、そのままこの村にいる人間全員に延長できるのである。
「まさか自衛隊が、そんな非道な真似《まね》を……」
佐原が声を震わせた。
「彼らは本質的には軍隊ですよ。過去、日本の軍隊がやったことと同じことをする危険性をいつでも内包しているのです」
「自衛隊と軍隊はちがいますよ」
小暮が反駁《はんばく》した。
「まあ用心したほうがいいでしょう。私は彼らを信用しない」
「反町さんは、自衛隊に怨《うら》みでもあるみたいですね」
「べつに怨みはありません。ただ信用しないだけです。彼らが国民の知らないところでどんな恐ろしい力を蓄えているか、本当の姿を国民は知らない」
「しかし、もともと日本を護るためにつくられたのでしょう」
「国民によって認められないうちにつくられたのです。どこの国の軍隊とも自衛隊が根本的にちがうのは、この点です」
「しかし国を護るためにあることには変わりないでしょう」
「国を護るということと、国民によって認められていないということはべつですよ。その誕生において国民的合意を得ていない自衛隊が、日本の防衛をうんぬんする資格はありません。国防のために必要な存在だから、国民の合意を得なくともよいということにはならないのです。合意を得ないうちに自衛隊は、巨大化した。ここで自衛隊を認めない政党が、政権を握った場合、自衛隊がおとなしく解散するか、大いに疑問ですね、彼らは、自分らの武力をもってクーデターの挙に出る可能性が十分にある。そのときこそ、国民の意思に反して武力を行使するものの正体がはっきりするのです。そして正体がわかったときは遅すぎるのだ」
「そんなに神経質に考えることもないとおもいますがね」
「いま自衛隊の存否をめぐって、ディスカッションしても仕方がない。それより……」
反町は、佐原隆造のほうへ視線を転じて、
「佐原さん、この村がここにできてから雪崩はなかったんでしょう。それが自衛隊が来た日に初めて起きたんだ。この事実を忘れちゃいけない。地元の人間のあなたが、二次雪崩の危険もほとんど考えず、現場へ探しに行ったのは、雪崩があそこにあったことが信じられなかったせいもあるんでしょう」
「いまの雪崩は、自衛隊が人工的に起こしたというのですか?」
一同は対岸の方角から来た怪音と考え合わせて、不吉な想像を募らせた。
「そう考えていけない理由はないとおもいます。佐倉さんや、家内が呼びに来てくれなければ、我々はいまごろ確実に雪の下です。あなたたちはどうして危険を予知したんです?」
反町は、佐倉まゆみと真紀子の顔を半々に見た。
「どうしてと言われても、ただ、みなさんが出て行ってから、居ても立ってもいられないような不安を覚えて、夢中で飛び出していたのです。あれが虫のしらせとでもいうんでしょうか?」
真紀子がいまだに血の気の失せた表情のまま答えた。
「佐倉さんも、虫がしらせたのですか?」
「ええ、なにか胸を締めつけられるような不安で、たまらなくなったのです」
「昨日も、自衛隊がやって来る前に、二人とも同じような不安を訴えていましたね」
「ええ、なにかよくないことが、起こりそうな気がして」
二人は同時にうなずいた。
「そしてよくないことは、現実に起きた」
反町が結論のように言った。しばらく重苦しい静寂が落ちた。だれも進んでその静寂を破ろうとしなかった。
反町の指摘するように、たしかに胡散臭い情況は多い。しかし、想像にあまりにも飛躍があるような気がする。「まさか自衛隊が」というおもいが、一同の胸の根底にある。
自衛隊の出現と、雪崩の発生は、偶然の符合であったかもしれない。過去一度も災害をうけたことのない村が、初めて被災したとしても不思議はない。初めての経験というものは、そのようにしてつくられるのである。
真紀子と佐倉まゆみの「虫のしらせ」に至っては、それこそなんの根拠もない。一同の胸に不安は確実に脹《ふく》れていたが、反町の想像に、すぐには同調できなかった。
それは虫のしらせをうけた二人の女すらただちに受け容れられない想像であった。
静寂の中に出入口に迫る気配があった。数人の足音である。足音が立ちどまった。出入口の戸が繰《く》られた。雪まみれの大屋二尉と二人の部下が入って来た。家の中にいた者は、息が詰まるほどの激しい緊張の中に硬直した。
大屋二尉らは、無事だった。反町たちが危うく雪崩に全員とらえられかけたのに、大屋ら三名は、どのようにあの危地を潜り抜けたのか、かすり傷も負った様子がない。彼らは、やはり雪崩の発生を予知していたのか。
「やあ、みなさんご無事でしたか。私の観測が甘かったばかりに、危険なめ[#「め」に傍点]にあわせてしまいました。でも、無事で本当によかった。みなさんてっきり雪崩にやられたとおもいまして、いままで現場を捜索していたのです。しかし遺体が見つからないので、報告のために来たのです。いやあホッとしました。みなさんにもしものことでもあれば、私の責任ですからね」
大屋二尉は、入口で身体から雪を叩《たた》き落としながら、いかにもホッとしたような表情を見せた。
「大屋さん、あなた方は雪崩のときにどこにいたのですか?」
反町は、疑惑を抑えてさりげない口調でたずねた。
「さいわいにも雪崩の通路から少しはずれた所にいましてね。でも小さな流れに巻き込まれて、体を半分埋められました。木下二曹と山根三曹が駆けつけてくれたので、ようやく脱出できたのです。みなさんはお怪我はありませんか」
さりげなく見まわした目が観察しているように見える。
「私たちは無事でしたが、下のほうの二軒がやられました。おそらく遺体は家といっしょに雪に埋まっているとおもいます。救助をお願いします」
「ここへ来る途中、我々も見ました。今夜はどうにもならないので、明日の朝から本格的な救助作業を開始します。いやもうすでに明日になっているか。今夜は我々が警戒しますから、みなさんはもう寝《やす》んでください」
大屋は、腕時計を覗《のぞ》いて言った。
「大屋さん!」
小暮が硬い声をだした。
「何ですか?」
大屋が声のほうを向いた。
「小暮さん」
反町が慌《あわ》てて、小暮を目顔で制した。彼が胸に萌《きざ》した疑惑を糺《ただ》そうとした気配を悟ったからである。もし自衛隊の意図が、反町の推測したとおりであったら、反町らがそれを悟ったことを、彼らに知られるのは、非常に危険である。
完全武装の鍛えぬかれた精兵(反町らにはその正確な数すらわかっていない)に対するに、こちらは十一人(すでに二人死んだ)の老いさらばえた老人と、裸同然の六人の男女(野崎が行方不明《ゆくえふめい》)である。
いつでも牙《きば》を剥《む》き出せる猛獣の前に置かれた赤ん坊のようなものだ。その猛獣がいま餓《う》えているかどうかわからないが、凶暴な危険性を内蔵している事実は動かない。
「いや、なんでもありません」
小暮も、反町の制止の意味を悟ったらしく、言葉半ばにして口を噤《つぐ》んだ。
3
雪崩作業失敗の報告を水入らず沢に設営した本部テントの中でうけた塚本二佐は、さすがに表情を動かした。大がかりな機械力と人力を動かして、綿密に計画準備した作戦がなぜ失敗したのか、すぐには信じられない顔色である。
「おもわぬところに意外な邪魔が入ったそうです」
「どんな邪魔だ?」
「管理人の細君と、女客の一人が、雪崩を起こす直前に危険を報《しら》せたというのです」
「その女たちは、どうして危険を察知できたんだ?」
「それがわかりません。おそらく虫が知らせたとでもいうんですか」
日野一尉の推測が、結局いちばん正しかったのだが、塚本には、信じられない。
「あれだけの手間と時間をかけて、身動きできない年寄りがたった二人か」
「申しわけありません。私の目算がはずれまして」
「きみがあやまったところで、どうにもならない。それで連中に、我々の意図を悟られなかったろうな」
「それは大丈夫のようです」
「その点は、大屋二尉によく見張らせておけ。悟られると、工作をしにくくなる」
「次善にどのような手を打ちますか」
「雪崩がだめとなると、ちょっと面倒《めんどう》になったな」
「死体の処理さえ完璧《かんぺき》にできれば、どんな方法でやってもかまわないとおもいますが」
「できれば、部下に殺人の意識をもたせずにやりたいのだ。絞《し》めたり、刺したりしては、いかに命令されたことでも、寝覚めが悪いだろうからな。それに土壇場《どたんば》にきてから、命令に従わない者が出るかもしれない」
「昔とちがって、やり難《にく》くなったもんですな」
日野は防大出身の戦後派だが、職業軍隊の創設を望む意識の中で旧軍を模範としている。
「次の手は考えてある。天候もそろそろ回復に向かっている。いつまでも風巣と外界との連絡を阻《はば》めない。もうあまり時間は残されていないぞ」
A作戦は、そのころにはほぼ終了していた。機体の撤収はほとんど終わり、あとは現場をできるだけ原状に近い姿に復する作業が残っているだけである。機体の残骸《ざんがい》だけでなく、この場に自衛隊機が墜落したいっさいの痕跡《こんせき》を抹消してしまわなければならない。つまり、墜落した事実そのものを、なかったことにしなければならないのである。
現場を原状に回復できても、事件を目撃した人間がいてはなんにもならない。これらすべての作業をだれにも知られぬように完了しなければならない。持ち時間はきわめて少ない。ここにこの作戦の難しさがあった。
同じころ、警務隊の活躍によって、民宿の七名の身許が徹底的に洗い出された。管理人夫婦の経歴が確認され、三名の宿泊客の名前と住所が記帳どおりであったこともわかった。野崎弘と小暮利吉の二人は虚偽記帳をしたのか、まずその住所地からして存在しなかった。
4
風巣の民宿では、反町夫婦、佐原隆造の妻、および四名の宿泊客がひそかにいちばん奥まった部屋に集まっていた。佐原一人が、表の広間《ロビー》にいる大屋ら三人の動きをものかげから見張っている。
「反町さんは、自衛隊が我々に対してなにかを企《たくら》んでいると考えますか」
秋本が確かめるように聞いた。すでに客としての言葉遣いを改めていた。それだけ彼が危険を実感している証拠だった。この危険の中で頼るとすれば、反町になる。
「大屋ら三人が、あの雪崩《なだれ》の中を無事に生き残ったのです。これを僥倖《ぎようこう》と考えますか」
「考えたいが、考えられなくなった」
「そうでしょう。すると彼らの第一次の仕掛けは失敗したことになる。第二次の仕掛けがいずれはじめられるとみなければなりません」
「また仕掛けてくるというのですか」
一同はおびえた顔を見合わせた。
「当然でしょう。彼らは人工的に雪崩を誘発して、私たちを抹殺《まつさつ》しようとした。これだけ大がかりの手を弄《ろう》しても、私たちを抹殺しなければならない理由があるのです。そして失敗した。彼らはまだ目的を達していない。当然第二の仕掛けがくるとみなければなりませんね」
「この次は、どんな手でくるでしょうか?」
小暮が剽軽《ひようきん》な顔を精いっぱいおびえさせて聞いた。顔の造作自体がなんとなく滑稽《こつけい》なので、本人はおびえているつもりなのだろうが、あまり実感が出ない。
「わかりません。しかし仕掛けてくるのは、たしかですね」
「反町さん、あなたはどうしたらいいとおもいますか?」
福島が口をはさんだ。これまで反町の推測に懐疑的であった彼だが、ようやく事態の深刻なのを悟ったらしい。
「とにかく下界との連絡をつけられるまで、私たちで自分自身を守る以外にありません」
「しかし、相手は完全武装したレインジャーですよ。一人でも私たちではかなわない」
「そうです。彼らがなりふりかまわずに仕掛けてくれば、レインジャー一人でも、我々を抹殺するに十分でしょう。だがそれをせずに、面倒な雪崩の工作などをやったのは、我々に変死≠フ痕跡をつけたくないからでしょう。つまり、山でごく自然に死んだように見せかけたいからだ。そこにこちらの付けめがあります。時間を稼《かせ》げます。できるだけ時間を稼いで、下界《した》との連絡をはかるのです」
「下界とどうやって連絡を取るのです? 電話は通じないし、ここへだれも上って来ない」
「天候が回復すれば、郵便配達が来ます。もし自衛隊が彼も抑留してしまえば、下から当然捜索に来ますよ」
「それまで我々が保《も》ちこたえられるか、どうかだな」
秋本が腕組みした。
「とにかく雪崩工作に失敗した彼らは、すぐには次の仕掛けに出られないでしょう。なにかするにしても明日ですよ。今夜は寝んで、明日に備えましょう。まさか寝首をかくような真似はしないでしょう」
反町の言葉が、その夜の討議の結論となった。不安は大きかったが、身体が疲労に圧倒されて、いうことをきかなくなっていた。眠っている間に二度めの襲撃をうけたらひとたまりもなかったが、そのときはそのときで、しかたがないという自棄的な気分になっていた。
それに、言いだした反町自身の中に、自衛隊側の意図に半信半疑のところが残っていたのである。
朝がきた。雪も風もおさまっていた。天候はまだ完全に回復したわけではないが、西のほうの雲が切れて、うす明るい。天候は徐々に好転している。朝の明るさの中に昨夜の雪崩がむごたらしい爪跡《つめあと》を晒《さら》していた。対岸上部に発生した雪崩は、V字形に集中して、河原を渡り、反対側にある風巣の台地まで殺到して来たのである。
雪崩の通過した後は、樹木が折られ、裸の土が現われている。一見したところ、自衛隊が作為した痕跡は見つけられない。大屋二尉らの目が光っているので、雪崩発生点に近づいてつぶさに観察するわけにはいかない。こちらが疑いはじめたことを彼らに悟らせてはならないのである。
午前七時ごろ、大屋二尉がスノーボートに物品を満載して来た。二名の部下の他に数名の新手が加わっている。
「いよいよ本格的な救出作業をはじめます。その前に食糧と医薬品をもってきましたから、腹ごしらえをしてください。体の具合の悪い人や怪我をしている人は、申し出てください」
「食べ物なら、まだ不足していませんよ」
「せっかく救援食糧を運んできたのですから食べてくださいよ。嗜好品《しこうひん》も多少あります」
大屋は、部下に命じてスノーボートから物品を下ろさせた。食糧はすぐに食べられるように「メンコ」と呼ばれるアルミの食器に入っている。飯、シチュー、牛肉の大和煮《やまとに》などがある。
「よかったら、コーヒーもあります」
大屋は愛想よく言った。
「えっ、コーヒーもあるのか」
福島が嬉《うれ》しそうに面を輝かせた。コーヒー好きらしい。食べ物も、まだ暖かかった。
「ここへ来てから、コーヒーを喫《の》んでいなかったからなあ」
小暮も、細い目をますます細くした。
食べ物が家の中へ運び込まれた。大屋はさらに他の老人の家にも食べ物を配らせている。
「それではせっかく持ってきてくださったんだから、いただきましょうか」
秋本も、昨夜からの疑惑を忘れたように、食器《メンコ》に手を出した。山宿の食事はどうしても蛋白質《たんぱくしつ》が不足しやすい。牛肉の大和煮や、肉をたっぷり入れたシチューに、腹の虫がないた。反町もいったん遠慮したものの、久しぶりに「都会的な食べ物」の差入れが嬉しかった。それに食料の備蓄は決して豊かではない。村人を一冬養うほか、不特定の民宿の客にも備えておかなければならない。悪天で交通が杜絶《とぜつ》すれば、すぐに蓄えが底をついてしまう。
まさか食べ物の中に毒を仕込むようなことはしないだろうとおもった。
「我々は、これから救出作業に取りかかります」
食物と医薬品を家の中に運び込んだ大屋二尉は挙手の礼をして出て行こうとした。
「私たちも行きます」
反町は、その背中に声をかけた。彼らに怪しまれずに雪崩発生の原因を探る絶好のチャンスだった。
「いえ、三次雪崩の危険がありますから、捜索は我々にまかせてください」
昨夜、もっと危険な状況下で反町らの協力を求めた大屋が、きっぱりと断わった。
「しかし、雪はもう落ちつくしましたよ。昨夜より安全でしょう」
「人手は十分あります。民間人に介入されますと、かえって能率が落ちますので」
「足手まといというわけですか?」
反町が精いっぱいの皮肉を盛って言うと、
「まあ、ゆっくり食事をしていてください。みなさんもお腹が空いているご様子ですから」
大屋は軽くいなして出て行った。空腹が一同の疑惑を一時的に脇《わき》に押しのけていた。
「このシチュー、味がおかしいわ」
食事をはじめてから間もなく、真紀子が言いだした。
「おかしいって、どんなふうに?」
反町が驚いて聞き返した。
「口では言えないんだけど、とにかくおかしいのよ」
「ぼくには、ふつうのシチューの味だけど」
反町は、一同の顔を見まわした。
「私にもわかりません」
これまで真紀子と意見≠ェ合っていた佐倉まゆみも、怪訝《けげん》な顔をしている。
「べつになにもおかしな味はしないがなあ」
みんなも顔を見合わせた。
「でも私にはわかるんです。このシチューには、なにか変なものが入っています。みなさんどうか召し上がらないでください」
「変なものって、毒が入っているということか?」
反町が顔色を変えた。みなも愕然《がくぜん》とした。すでに多少の量を胃の中におさめてしまった後である。毒が仕込んであれば、間に合わない。
「毒かどうかわかりません。でも異質のものが入っていることはたしかです」
真紀子の表情は真剣であった。昨夜彼女とまゆみの予感によって救われているだけに、説得力があった。
「みなさん、家内がああ言ってますので、救援食糧には口をつけないほうがいいでしょう」
「コーヒーもおかしいのかな」
福島が未練の残る声で言った。
「彼らの持ってきたものは、いっさい口をつけないほうが無難です。ただ彼らに不審を抱かせないために、食器は空にしてください」
「村の人も食べてるぞ」
小暮の言葉に、反町がハッとなった。
「そうだ。大屋は村の人たちにも配っていた。止めさせなければ」
「手分けして、行きましょうか」
小暮が反町の顔をうかがった。
「いや、みんなで動いたら、大屋に怪しまれます。家内と私が茶を配る振りをして連絡しましょう。救えるだけ救います。これまでに食べた方は、できるだけ吐き出してください。さ、早く」
反町にうながされて、楽しい食事は一変して修羅場《しゆらば》になった。
連絡が早かったために、ほとんど食事をはじめたばかりのところでストップをかけることができた。ただ、民宿から最も離れていた二軒の老人は、すでに半分ほど食していた。
[#改ページ]
蟷螂《かまきり》の抵抗
1
大屋二尉から、村人たちにいっこうに症状≠ェ顕《あら》われないという報告がきた。
「食事をあたえてから、すでに一時間経過している。これはいったいどういうことなんだ」
塚本二佐は、日野一尉に聞いた。
「わかりません。あれを食っていれば、症状が発現しないはずはないのです。ということは彼らが、あれを食わなかったことになりますな」
「食わなかった? なぜだ?」
「クスリが仕込まれていたのを見破ったからでしょう」
「どうして見破ったんだ。味はまったく変わっていないはずだぞ」
「わかりません。しかし彼らがクスリの仕込みに気づいたとしたら、面倒ですね」
「やつら悟ったかな」
「そう見なければなりますまい。悟らなければ、素直に食ったはずです」
「大屋がなにかヘマをやったんだろう」
「いや、あの男がそんなヘマをするはずがありません。もしかすると彼らは、昨夜の雪崩作戦のときから、こちらの意図を悟っていたかもしれません。そうでなければ、罠の下へ誘い出されて逃げられるはずがないのです」
「すると、やつら……」
「我々の意図に気づきながら、なにも知らない振りをして時間を稼いでいるのです」
「簡単にやっつけられるとおもっていたが、ちょっと面倒になってきたな」
「村の老人たちに、そんな知恵がまわるはずがありません。民宿の連中が知恵をつけているのでしょう。どうもあの連中、ただのねずみではなさそうです」
「これ以上、彼らに時間を稼がせては、まずい。天候も回復してきたし、麓《ふもと》と連絡がついたら、万事休すだ」
「いかがいたしましょう?」
「ふむ」
日野一尉に顔を覗き込まれても、塚本は、すぐには判断を下せない。ちょうどそのとき周辺に立たせた歩哨《ほしよう》から連絡がきた。
歩哨の連絡をうけた日野一尉の顔が引きしまった。日野は、歩哨を待たせたまま塚本の所へ来た。
「何かあったのか?」
塚本がうながした。
「哨戒線《しようかいせん》に郵便配達が近づいているそうです」
風巣を中心に二キロ四方に、外界の者が近づかないように歩哨を立たせているが、そこに下のほうから郵便配達が近づいているという連絡であった。一週間に一度ぐらいの間隔で来る郵便配達が、天候の小康状態を狙《ねら》って上って来たのである。
「まずいな」
塚本は眉《まゆ》をしかめた。
「いかがいたしましょう?」
日野が指示をあおいだ。
「きみならどうする?」
塚本は反問した。
「とにかく、村へ入れてはまずいとおもいます」
「下手な追い返し方をすると、怪しまれるしな」
「いっそのこと……」
日野の目が酷薄に光った。
「馬鹿言え! そんなことをしたら、捜索隊を呼び寄せるようなもんだ」
「では、いかがしたら?」
「歩哨に、これから先の道は雪崩で通れないと言わせろ」
「隊の歩哨と見破られないでしょうか?」
自衛隊がこの山域に入り込んでいることを、民間に知られてはまずいのである。
「そのために一般登山者に変装させているんだろう。いいか、くれぐれも、隊員だと悟られないように振舞わせろ」
「かしこまりました」
ただちに哨戒に命令が飛んだ。
「郵便配達は、納得して引き返しはじめたそうです」
間もなく哨戒からきた報告に、塚本はとりあえず胸を撫《な》で下ろした。
2
医者の秋本がいたおかげで、多少の食物を腹に入れた者も、適切な処置をうけることができた。一・二パーセントの食塩をまぜた湯で胃洗浄《いせんじよう》をされたので、とりあえずの危険は去った。
だが、民宿から最も離れた家に住む老人二人が、間に合わなかった。
胃洗浄は、あまり時間が経ってからでは意味がない。秋本は民宿に有り合わせたヒマシ油をのませて、体内に侵《はい》ったかもしれない毒物の希釈排泄《きしやくはいせつ》を試みた。大屋らの目を潜ってすることなので、おもいきって動けない。だが手当てがいちおう功を奏したらしく、老人に薬物中毒らしき症状は現われない。秋本はいったん民宿へ引き返した。
「これはどうやら考えすぎだったようだな」
福島が、飲みそこなったコーヒーを惜しむように言ったとき、反町が、間に合わなかった二人の老人が鼾《いびき》をかいて眠りはじめたと報《しら》せてきた。
「鼾をかいて?」
秋本の目が光った。
「そうです。それも、揺すっても叩いても起きないくらいぐっすり眠っています」
「大屋二尉は、いまどこにいる?」
「表へ出て行きました。本隊と連絡を取るためでしょう」
「もう一度行ってみよう」
「ぼくも行きましょう。なにか手伝えるかもしれない」小暮が随《つ》いて来た。
三人は裏口から脱け出した。福島は見張りとして残した。数歩、歩きだしたところで後ろから呼ばれた。
「どこへ行かれるのですか?」
ぎょっとして振り向くと、そこに本隊へ連絡を取りに行ったはずの大屋が、山根三曹を従えて立っていた。
「住人に具合の悪くなった人がいるのです」
咄嗟《とつさ》に反町が答えた。
「どう具合が悪いのですか?」
「それは……」
「どうも卒中らしいですな。齢《とし》ですからね」
愕《おどろ》きから立ち直った秋本が引き取った。
「卒中、私も行ってみましょう。なにかお手伝いできるかもしれない。山根三曹、きみは木下二曹といっしょに民宿に残っていてくれ」
大屋は、部下に命じると、反町らの意思も聞かずにさっさと尾《つ》いて来た。
鼾をかいて熟睡しているのは、佐原もよ[#「もよ」に傍点]という七十八歳の老女と、内山仙吉という七十一歳の老人である。どちらも配偶者を数年前に失って、独り暮らしだった。もよ[#「もよ」に傍点]のほうは神経痛でほとんど寝たきりの生活である。
いまにも崩れ落ちそうな軒下をくぐって中へ入ると、目が屋内の暗さに馴《な》れるまではなにも見えない。秋本と反町と大屋が入口でまごまごしている間に、小暮は勝手知った我が家へ通るように部屋へ上がってしまった。
ようやく三人も目が馴れて、土間から座敷へ上がる。足の裏にじとじとまつわりつくような畳は、筵《むしろ》のようにすり切れている。壁はいまにも崩れ落ちそうに、剥《は》げて、粗壁《あらかべ》の中に木舞竹《こまいだけ》が骨のように覗いている。茶碗《ちやわん》、皿《さら》、鍋《なべ》、やかん、こんろ、ボロ布、古新聞、風呂敷《ふろしき》包みなどが、廃品回収業の店先のように乱雑に置かれている真ん中に、綿のはみ出た布団が敷かれ、髑髏《どくろ》が寝ていた。
髑髏と見えたのがもよ[#「もよ」に傍点]女だった。肉が完全に削《そ》げ落ち、歯のない口を開けて眠っている姿は、まさに髑髏に見える。
それが骨格だけでない証拠に、歯のない洞《うろ》のような口から寝息が聞こえる。
「鼾はおさまったらしいな」
秋本はつぶやいて、口の中を覗き込んだり鼻を寄せてにおいを嗅《か》いだりした。次いで、脈搏《みやくはく》と体温を計った。
「やっぱり卒中ですか?」
大屋が訊《たず》ねた。
「齢《とし》だからね」
秋本はどっちつかずの答えをして、もう一人の発症者内山仙吉の家へ向かうべく立ち上がった。内山の症状も同様だった。ただこちらのほうが鼾が高い。
「当分、動かさずに寝かせておく以外にないな」
秋本は独《ひと》り言のようにつぶやいた。
「こちらも卒中ですか?」
大屋が呆《あき》れたように聞いた。
「うん」と秋本はうなずいて、「とにかく絶対安静だ」と断定的に言った。
大屋二尉は、半信半疑の表情だったが、一歩先に内山の家から出た。本隊に連絡して指示をあおぐためだろう。
大屋が立ち去ったのを確かめてから、反町が、
「秋本さん、本当に卒中ですか」
と確かめた。秋本の態度に一枚底があるように感じたからである。
「ちがうな」
と秋本はいとも無造作に首を振った。
「それじゃあやはり毒が……」
「睡眠薬だ」
「睡眠薬?」
「どんな睡眠薬を使ったのかわからないが、あれだけ胃を洗っても、作用が現われたんだから、かなり強いクスリだろう」
「睡眠薬をのませてどうするつもりだったんでしょう?」
「引っ叩かれても目をさまさないほどぐっすり眠らせてしまえば、なんだってできる」
「あいつら……」
反町は、大屋の去った方角をにらんでうめいた。
これで、彼らがなにか企《たくら》んでいることがはっきりした。彼らは食い物にクスリを仕掛けたのである。
「秋本さん、我々がそれを見破ったことを、彼らが知ったら、どうするでしょう?」
「もっと直截《ちよくせつ》的な行動に出てくるだろうな」
「直截的というと?」
「クスリで眠らせるというワンクッションなどおかずに、直接、眠らせようとするだろう」
「なぜそんなことを?」
「それは反町さん、あなたがすでに示唆《しさ》したことじゃないか。自衛隊機が墜落した事実を隠すためだろう」
「なぜ隠さなければならないのでしょう? 航空機に事故はつきものです。まして自衛隊機となれば、民間機より事故が多くても、不思議はない」
「さあ、それは私にはわからないことだ」
秋本は肩をすくめた。
「秋本さん!」
反町が突然、高い声を出した。
「どうかしたかね?」
秋本が少しびっくりした目を向けた。
「墜落機が世間に知られては都合の悪いようなものを積んでいたとしたら、どうでしょう?」
「都合の悪いもの? そんなものがあるのかね」
「たとえば、核兵器ですよ」
「核兵器? 自衛隊機が核兵器! そんな馬鹿な」
「たとえばの話です」
「たとえばにしても、そんなことはあり得ないね、だいいち日本には核兵器がないじゃないか」
「日本固有の核兵器はなくても、在日米軍がもっているかもしれない」
「米軍の核兵器をどうやって自衛隊機が積めるのかね? 管理もまったくべつだろうが」
「管理の機構はぼくにはわかりません。しかし自衛隊と米軍の協力関係から考えても、まったくあり得ないことじゃないとおもいます」
「……しかし、もしそんなことが事実あったとしたら、大変なことだぞ」
「そうおもうでしょう。自衛隊機が核兵器を搭載していたことが明らかにされたら、それこそ自衛隊の死活に関わります。搭載機が事故で墜落すれば、自衛隊としては、あらゆる手段を弄《ろう》して闇《やみ》から闇に葬ろうとするでしょう」
「……信じられない」
「人工の疑いのある雪崩に我々を巻き込もうとしたり、いま食糧の中に睡眠薬を仕掛けたことなどを見ても、彼らが我々の目や口を封じようとしている気配がわかります。交通と通信が杜絶したこの村をどう料理しようと、世間にはわかりません。彼らが、たかが一機の救出にこれだけ隠密裡《おんみつり》に行動し、秘密保守を徹底させるからには、よほど都合の悪いものを積んでいたとしか考えられない。そして致命的に都合の悪いものは、核兵器以外にないでしょう。いかに憲法を拡大解釈しても、現行の憲法は核兵器の保有を認めていませんからね」
「きみの想像が当たっているとすれば、我々はどうなるんだ?」
秋本のものに動じない表情が変わっている。
「このまま麓《ふもと》と連絡がつかないと、私たちは風巣といっしょに消されてしまうかもしれませんよ」
「まさか……」
「現に抹消工作は二度も行なわれたのです」
「反町さん、なにか逃れる手はないか?」
「まず麓と連絡を取るのが、最も有効ですね、しかし彼らとしても、外界に事件が漏れたら万事休すですから、虫一匹出入りできない包囲網を敷いているでしょう」
「抜け道はないの?」
「旧道がありますが、いまは雪崩の巣になっていて、通行は困難です」
「なんとか方法はないのかね?」
「まず彼らの意図を確認してみましょう。もう確かめるまでもないとおもいますが、もしかすると、私のおもいすごしかもしれない。麓に用事があるので、私が下りると言ってみます。それを阻止すれば、彼らの意図は確かめられたことになります」
「危険はないだろうか?」
「危険はすでに来ていますよ」
反町はふてくされたように笑った。
「いけません、山道はいま非常に危険な状態です」
反町が麓へ下りたいと言うと、大屋二尉は言下に諌止《かんし》した。
「なにが危険なのですか、あの道は私がつくったのです。隅々《すみずみ》まで自分の掌のように知っていますよ」
と反駁《はんばく》されて大屋は少したじろいだが、
「何のために下りるのです? 我々が救援に来たのです。危険を冒して下りる必要は、まったくないじゃありませんか」
「救援とおっしゃるが、私たちは孤立したわけじゃありません。電話や電気はもともとなかったし、食糧はあります。定期の郵便配達が少し遅れているだけです。自衛隊に救援してもらう必要はありませんよ」
「なにを言うんです。昨夜の雪崩で村人が二人生き埋めになっています。病人も出ているじゃありませんか」
「しかし実際にあなた方は何をやってくれているのですか? 遺体はまだ見つからないのに、捜索を中断している。だからこれらの事情を下の警察に報《しら》せに行きます」
「第一次の捜索が終わって発見できないので、今度はどの方面を探すか、いま協議しているのです。警察には我々が連絡ずみですから、もう間もなく上って来るでしょう」
「それなら途中まで迎えに出ます」
「だめだ」
大屋は、反町の前に立ちふさがった。
「どうしてだめなんだ?」
「上官からそのように命令をうけています。危険だからなんぴとも絶対に通してはいけないと」
彼らの意図は確かめられた。これ以上押すと、反町らが疑いはじめたことを敵に悟られる。反町は、秋本と目交《めま》ぜをして、
「それほど言うなら止めましょう。しかし下から……」
と言いかけて、口をつぐんだ。そろそろ定期の郵便配達が上って来るはずだと言いかけたのである。彼らは郵便配達を抑留≠ナきない。そんなことをすれば、下から捜索隊を招き寄せるようなものである。とにかく下と連絡がつきさえすれば、この窮地から救われる。事前に彼らが郵便配達の来ることを知れば、どんな妨害をするかわからない。
「下から、どうかしたのですか?」
大屋が耳敏《みみざと》く聞き咎《とが》めた。
「いやなんでもありません」
反町がはぐらかすと、
「下からもだれも上って来られませんよ、道が雪崩で塞《ふさ》がっているんだから」
大屋はなにかを含んだような笑い方をした。その笑いを見て、反町はハッとした。
――もしかしたら、彼らは郵便配達を巧みに追い返してしまったのかもしれない――。
外界と連絡がついたら、すべての工作が水の泡《あわ》となるのだから、彼らがこの村を封鎖しないはずがない。風巣の周囲には、鉄桶《てつとう》のような警戒陣が張りめぐらされているにちがいない。
ともかくこれで、彼らが風巣と外界の連絡を遮断《しやだん》していることが確認された。
警務隊が身許《みもと》の割れた三人の宿泊客の住所地を当たり、彼らが現在旅行中であることを確かめた。人相特徴も、符合している。行き先は留守家族も知らない。いずれもフラリと旅立った様子だった。三人の身許は確認された。だが、残る野崎弘と小暮利吉の二人は依然としてわからない。もはや矢は弦《つる》を放れていた。二人の身許が確かめられるまで、作戦を延期するわけにはいかなかった。これは時間との競争でもある。身許を偽《いつわ》ったということは、彼らがここへ来たことを知られたくないからだろう。それは彼らがここへ来ていることをだれも知らないという事実を意味すると、強引に自己を納得させて、遮二無二《しやにむに》、作戦を強行することになった。
3
野崎弘は、長い時間寒気に晒《さら》されて、全身が麻痺《まひ》しかけていた。このまま感覚が去っていけば、凍死に導かれるかもしれない。凍死するならしてもかまわない。もうどうにでもなれという、投げやりの気持ちになっていた。
そういう自棄の意識が、寒気に心身を冒されている証拠だった。
まだ、眠けの来ないのが、寒気に全面降状していないことをしめしている。それもこれまでの成り行きを想い起こすことによって、忍び寄る眠けに逆らっている。眠ったら最後だということを、自衛本能が教えてくれている。
対岸の怪音の正体を探りに来た野崎は、そこにブルドーザーや掘削機《くつさくき》が動いているのを見た。彼らは対岸の急傾斜にV字形のバリケードのようなものを築いていた。いったい何のためにそんなことをしているのか?
もっとよく探るために近づいて行くと、いきなり後頭部に激しい衝撃を感じて、そのまま意識を失った。気がついたときは、樹林の幹に厳重に縛りつけられていた。樹林の間から、雪中行動服を着けた隊員がチラチラ動いているのがうかがわれるが、見張りは付けられていないらしい。
――おれはやつらの捕虜になったってわけか――。
身じろぎをしたときに後頭部が疼《うず》いた。その痛みが、彼らの抱いている凶悪な意図を悟らせた。彼らが何の作業をしていたのか、見届けそこなったが、普通の作業≠ネらば、それを見に来た民間人≠このような目にあわせるはずがなかった。
「あいつら、いったいどういうつもりだろう?」
彼らが一般市民に暴行を加えた事実が明らかにされたら、穏やかにはすまされなくなる。そしてそれは、遠からず野崎の口から明らかにされることであった。
それを知らぬ彼らではない。それにもかかわらずこの暴挙に出たのは、彼らの進めていた作業が、よほど人目に触れては都合の悪いものだったからだろう。
「やつら、相当の覚悟をしている」
とおもったとき、寒気とはべつの慄《ふる》えが、背筋を走った。野崎にどんな暴行を加えても、いっこうにさしつかえない場合があったのだ。後で野崎の口さえ封じてしまえば、なにをしようと世間にはわからない。彼らにそれだけの覚悟があったから、あんな乱暴な振舞いに及んだのだろう。
「まだ、おれの正体を知ったわけではあるまい」
もし知ったら、彼らはこおどりするにちがいない。野放しにしておけば、決して為にならない裏切り者≠ェ、自ら罠《わな》の中へ飛び込んで来たのだ。たとえ彼らに覚悟≠ェ定まっていない場合でも、無事には解放するまい。ましてここは世間から隔絶された深山の中である。
野崎は、正体を悟られる前になんとか逃げ出そうとした。だがプロが縛っただけに、もがけばもがくほどに桎梏《しつこく》は固くなるばかりであった。
縄目と格闘していたので、寒気をまぎらすことができた。それにも限界があった。体力が衰えると、寒気は牙《きば》を剥き出して襲って来た。
それを拒《は》ね返すために野崎は、風巣へ逃げ込むまでの経緯を想いだした。
野崎は、静浜の第十一飛行教育団基地業務群用度隊にいた。自衛隊の表面のかっこよさだけに欺《あざむ》かれて、十五歳のとき少年自衛隊に入隊した。一般、軍事、内務で成績は常にトップクラスを維持し、戦技訓練や体操は優秀で、毎年一回開かれる自衛隊中央パレードには連続三回出場したほどである。射撃も群対抗で、優勝した腕の持ち主だった。
当時は、好戦的な右翼で、読書傾向もそちらに偏《かたよ》っていたが、十八歳のとき上官と意見が食いちがってから、自衛隊に疑問を抱きはじめた。
このころより、読書傾向が百八十度変わって、左翼系の本を耽読《たんどく》した。読書傾向の転換と同時に反軍的≠ネ言動が目立つようになって、自衛隊員の基本的人権≠フために隊内で闘うことを決意した。
結局、その闘いは、隊内に共鳴者を得られないまま、踏みにじられてしまった。
――あの孤独な戦いが何になったか?――。
なんにもならなかったのだ。隊に籍を置きながら、反軍的な活動をする彼に、隊員は白い目を向けた。
「あんたが反《アンチ》自衛隊活動をするのは自由だが、やるなら、隊をやめてやれ。自衛隊の飯を食いながら、それをやっても説得力がない」
「隊員に自由がないわけじゃない。いやなら隊をやめる自由がある。自分の意思で入隊したからには、隊のルールを守る義務がある。入隊したのは、そのルールを守るという約束をしたのと同じだ。そんな基本的な義務も守れないで、なにが、基本的人権か!」
そんな声が、野崎の耳によみがえった。しかし基本的人権は、隊のルールに優先するものではないのか。隊員が反軍的思想をもつのも思想の自由であり、隊をやめなければならない理由にはならない。
こうして野崎は隊に居坐《いすわ》って♀動をつづけた。四十×年五月、同群が所属隊員に実施している「非常警備訓練」に反対して、隊内にビラを貼付《てんぷ》し、あるいは新聞に折り込んで、隊員に配付しようとした。だがこれは事前に上官に発見され、隊員の目に触れる前に回収されて、焼却された。
これにめげず、野崎はさらにつぎつぎにビラを作製し、隊内だけにとどまらず、駐屯地《ちゆうとんち》の街頭や、民家の塀《へい》にまで貼付したので、ついに警務隊に連行されて取り調べられた。取調べの後、自衛隊法六十四条(怠業の扇動禁止)違反で逮捕された。彼はそのままパトカーに乗せられて、名古屋刑務所の独房に拘置《こうち》された。
拘置した後で裁判所から判事が来て、「証拠隠滅と逃亡のおそれ」ありとして勾留状《こうりゆうじよう》を発した。十日後さらに勾留が延長された。
勾留期間満了前に検察は、野崎を自衛隊法違反で起訴した。その後、五年間にわたる前後三十回の公判が開かれた。裁判所が自衛隊の実態を調べるために防衛文書の提出を命じたが、防衛庁が「国家機密」を理由に、提出を拒否したために審理が打ち切られてしまった。
野崎の肚《はら》としては、非常警備訓練を「国民に銃口を向ける対内的治安訓練」として告発し、それを拒否した隊員の表現、思想、政治活動の自由等の基本的人権を問い、一気に自衛隊および自衛隊法の違憲性を展開するつもりであった。
この裁判は、これまでの「恵庭」「長沼」「百里」の自衛隊裁判が、自衛隊基地のもたらす公害裁判であったのに対して、隊内部から自衛隊を告発したものとして注目された。
しかし防衛庁側が、国家機密を理由に防衛文書提出命令を拒否したために、自衛隊の存在に関する違憲審査にまでは発展せずに終わった。
裁判所は、「国が文書を提出しない以上審理はできず、被告に有罪を言い渡す可能性も少ない」として審理を打ち切り、検察はこれに不満を表わし、論告、求刑を放棄したのであった。
いずれ無罪か公訴棄却が言い渡されるとみられているが、どちらにしても、野崎の目的は達せられないことになる。
――基地における孤独な戦い、そしてその後につづく五年にわたる法廷闘争が、なんにもならなかったのだ。なんにも――。
所詮《しよせん》、一匹の虫のむなしいあがきにすぎなかった。国家という巨怪に踏みつぶされて、あがきの痕《あと》は、初めから何事もなかったかのように輾圧《てんあつ》された。自分の行動は、水面に投じた波紋ですらなかったのだ。
「しかし、おれはなぜあんな虚《むな》しい戦いに、情熱を燃やしたのか?」
野崎は、自分でもよくわからない怒りに衝《つ》き上げられて、戦った過去を改めて見つめなおした。
自衛隊に入ったのは、他に適当な職業がなかったからだ。一流会社のエリートコースが初めから約束されていれば、だれが自衛隊などに行くものか。
プライバシーのまったくない兵舎の中の団体生活、分刻みのスケジュール、命令と規則ずくめの階級組織《ヒエラルキー》=A人間の思想を同一のカラーに染め上げる徹底した鋳型《いがた》教育、同じものを食い、同じものを着て、各隊員の人生の目的がすべて統一される。おそらく隊員の排泄物《はいせつぶつ》すら、同じ色をし、同じ形状をして、同じ臭いを発しているだろう。そんな生活をどうして好んで志望するものか。
他に行き場がなかったから、行っただけだ。金もない。人より特に優《すぐ》れた才も能もない。貧寒な郷里には、身を置くべき場所もない。要するに人並みの体以外はなにももたない若者に「祖国防衛」の美名で誘いをかける。命令と規律を忠実に守る他律的生活≠つづけていれば、自動的に出世する。衣食住つきでしかも技術が学べる。
貧困と疎外から脱出するためのこんなすばらしい橋はない。いまに佐官や将になって自分に冷たくした連中を見返してやる――。
こうおもって入隊したのではなかったのか。だがそれは結局自分を体制に売り渡すことでしかなかった。権力の走狗《そうく》として、いつの間にか、人民からかけ離れている。
それに気づいたとき野崎は、かぎりない虚しさと衝き上げる怒りをおぼえたのだ。
自分は権力の忠実な番兵として、共通の行き先を表示した切符を、自分の人生の目的として後生大事にかかえこみ、無味乾燥の平原を一直線に走る体制列車に乗せられて、その他大勢の番兵といっしょに、同じ行き先に向かって突っ走っている。
全方向どちらへも行ける人生の旅の門出にあたって、なぜ体制が仕立てた最もつまらない団体列車≠ノ乗ったのか? 他の列車がすべて満員であったとしても、辛抱強く待っていれば、もっとましな方向へ向かう列車に乗れたかもしれない。
突きつめてみれば野崎の怒りは、始発駅で乗るべき列車をまちがえたところから発していた。
いまからでも遅くはない。自分の新たな目的に向かって走る列車に乗り換えるのだ。その列車を探すために旅へ出て、こんな山中に迷い込み、実りない戦いの相手に捕えられてしまった。
もし彼らが野崎の正体を知ったら……。裏切り者≠ノおもい知らせる絶好の機会としてこおどりするだろう。そうでなくとも、生かしておいては、とるに足らない虫であっても、これからこうるさい動きをすることがわかっている。一匹の虫も、大きな獣の目をさますおそれがある。
それがアルプス山中の雪の中で遭難してくれたら、こんな都合のいいことはない。
――その前になんとしても、逃げ出さなければ。これまでの戦いを無意味にしないためにも、自衛隊の違憲を訴えつづけるのだ――。
野崎は、ふたたび絶望的なもがきを繰り返した。
4
デブリの下から圧《お》し潰《つぶ》された二人の老人が掘り出された。死んだのは、内山松と佐原作右衛門という七十二と九十一歳の老人である。巨大な雪の重量に潰《つぶ》されて遺体は人間の形をしていなかった。
隊員の一人が不用意に「ダンプと正面衝突したほうがまだましだ」とつぶやいたが、もし雪崩が方向を変えなかったら、風巣に居合わせた全員が、同じ運命をたどるところだったのである。
隊員は、むごたらしい遺体から目を背《そむ》けながら、自分たちが犠牲者に凶手を振り下ろしたことを忘れていた。
反町たちは、自衛隊の凶暴な企みを察知している。手を拱《こまぬ》いて待っていれば、彼らの凶手は自分たちに迫ってくる。いや現に、迫りつつある。一撃、二撃は、身をひねってどうにか躱《かわ》したが、躱しきれなくなるのはわかっている。
彼らがその気になれば、一人の隊員でも風巣の全員を殲滅《せんめつ》できるのだ。
作右衛門と松を掘り出して、自衛隊の行動は一休止した。野崎は依然として行方不明であった。
大屋二尉ら前哨《ぜんしよう》の三名も、どこかへ行っていた。本部から新たな指示をうけているのだろう。嵐の前の無気味な真空が、風巣を押し包んでいた。
「どうも気になるな」
反町が独《ひと》り言のようにつぶやいて、首をひねった。
「何が気になるんですか?」
小暮が耳敏くとらえた。
「野崎さんの行方がまだわからないのに、彼らがあまり熱心に探さないことですよ」
「やはり、彼らが野崎さんをどうかしたのでしょうか?」
「本当にどうかしたのであれば、お松つぁんや作爺さんといっしょに、野崎さんも現われたはずです。雪崩でやられたことにしてしまえば、人間の作為の痕跡《こんせき》を消せますからね。彼らはこの絶好の機会を見送った」
「ということは……?」
全員が反町のまわりに集まっていた。
「私には、野崎さんがまだ生きているような気がします」
「生きている」
「そうです。きっと彼らの手に捉《とら》えられているのでしょう」
「やつら野崎さんをどうするつもりなんだろう?」
「野崎さんは、彼らにとって都合の悪いものを見た。おそらくそれは昨夜の雪崩に関係あるものでしょう。だから、野崎さんは捕まったんです」
「我々のほうから野崎さんを探しに行きましょうか?」
小暮がいたずらっぽい目を光らせた。
「我々が?」
反町がびっくりしたような顔をした。
「そうですよ。あいつらの手に捕まっていたらなにをされるかわからない。もし野崎さんが無事なら取り返してしまうんです」
「それは危険だな」
秋本が口をはさんだ。
「ここにいても危険は同じですよ」
「いや、野崎さんを取り戻《もど》すために冒す危険のことじゃない。彼らが野崎さんを押えているのは、都合の悪いものを見られたか、知られたかしたからだ。それを取り返したら、一休止している彼らが、一気になにか仕掛けてくるかもしれない」
「するとこのままなにもしないで待っているのですか?」
小暮が不満げに頬《ほお》を脹《ふく》らませた。
「しかたがないだろう。この風巣に来合わせたのが、私たちの不運だ」
秋本が肩を落とした。全員が暗い顔を見合わせた。完全武装の自衛隊レインジャーに対するに、自力で満足に動けない老人と裸同然の民宿の客である。彼らの凶暴な牙の前にせいぜい体をすくませているだけであった。
「私たちも力を合わせて戦ってみませんか」
ふと反町が目を上げた。おもいつめた表情が浮かんでいる。
「戦うって彼らを相手に?」
驚いた声が、同時に何人かの口から発せられた。
「そうです。ただこうやってすくんでいて、彼らの意のままになるより、精いっぱい戦ってみるのです」
「勝てるはずがないじゃないか」
「相手は戦争のプロだよ、こっちは武器もないし、あったところで、使い方も知らない」
「ぼくは、臆病《おくびよう》で虫一匹容易に殺せないんですよ」
秋本と福島と小暮が、諌《いさ》めるような口調でつぎつぎに言った。
「戦うといっても、彼らを相手に戦争をするわけじゃありません。なんとかここから脱出する手だてを考えるのです」
「脱出するといっても、単独で動けない老人が何人もいる」
と秋本。
「全員脱出する必要はありません。一人だけでも、外と連絡できれば、彼らは我々に手出しできなくなります」
「しかし外との通路は遮断されているんだろう」
「地の理は私のほうが詳しいから、見張りの目さえそらせば、脱け出せるとおもいます」
「どうやってそらす?」
「それは、私が現場へ行ってから考えます。それより、まず大屋二尉らの目をどう欺くかですよ」
「いま大屋二尉はいませんよ」
小暮が表の気配をうかがった。
「いずれ帰って来ます。そのとき私の姿が消えていたら、すぐに追って来るでしょう。なんとか彼らを食いとめることはできませんか?」
「大屋の食いとめ役を我々がするわけだな」
福島仁平が居ずまいをなおした。
「とにかく私は、いまのうちに出かけます。大屋が戻って来たら、この場を出られなくなりますからね、みなさんは少しでも時間を稼《かせ》いでください」
いまおもいついたことだが、反町の行動は速かった。
ウインドヤッケとオーバーズボンに身をかためて、スキーと輪かんじきを背負い、ピッケルをもつ。空には雲がまだわだかまっているが、雪は止んでいた。
「あなた、気をつけて」
真紀子としては、行かせたくない。山の危険だけが待ち構えているのではなかった。だが民宿のホストとしてやらなければならないことだった。
「ぼくのことは大丈夫。それより留守を頼むよ、すぐに救援隊を連れて戻るからね」
反町は、不安と心細さに押し潰されそうな真紀子の背をやさしく撫《な》でた。そのさまを佐倉まゆみが羨《うらや》ましげに見まもっている。
「それでは行ってきます」
反町は、妻≠フ食い入るような視線から|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取るように顔を背《そむ》けると、裏口から外へ出た。尾根に出るまでは、スキーは履《は》けなかった。
5
後に残された一同は、当惑した。なんとか時間を稼げと反町に言われても、彼の姿が欠けていることは一目でわかる。ごまかしようがなかった。
「大屋が帰って来ます」
外の様子をうかがっていた小暮が言った。
「弱ったな、まだなんの引止め策も考えていない」
福島が途方に暮れた声をだした。だが、途方に暮れているのは、彼だけではない。
「また三人かね?」
秋本が聞いた。
「今度は一人です?」
「一人……」
「部下は本隊に残してきたようです」
「一人なら、なんとかなるかもしれないな」
秋本が目を光らせた。
「なんとかするって、相手は一人でもレインジャーですよ」
福島が言った。反町か野崎でもいればとにかく、ここに残った者は、どう見ても腕力が強そうには見えない。
「いや、やつらが使った手を逆用してやるのさ」
「やつらの手の逆用?」
「詳しく説明している暇はないが、大屋に催眠術をかけられるかもしれない」
「催眠術?」
その場の者は、一様にびっくりした目を向けた。この窮地に追いつめられて、秋本が気がおかしくなったのかとおもったのである。
「そんな魔術師でも見るような目をしないで欲しいな、催眠療法というのは医学の中にある。私は医者だ」
「しかし、そんなに簡単に、催眠術をかけられるのですか?」
福島が半信半疑といった風情で聞いた。
「さあそれが問題なんだ。催眠をかけるには、相手を暗示を受け入れやすい状態に置かなければならない。大屋二尉が暗示を受け入れやすい状態とはおもえないからな」
「もうそこまで来ています」
小暮が注意をうながした。
「よし、一《いち》か八《ばち》かやってみよう。奥さん、彼が入って来たら、余裕をあたえずにお茶をすすめてください。私の手もちの睡眠薬を、その茶の中に仕込みます。さあ早く、これを茶の中に入れて」
秋本がかばんに入れて常時持ち歩いているらしい医薬品の中から、一包みの粉薬を取り出して、真紀子に渡した。きわどいところで大屋が入って来た。
「お二人の遺体は、検死が終わってから、荼毘《だび》に付します。それまで私たちがお預かりいたします」
大屋は、足に付いた雪を叩きながら言った。
「ごくろうさまです。熱いお茶を淹《い》れましたから、どうぞ」
「やあ、奥さん、私もいただきたいな」
大屋の気を引くように、秋本が言った。
「ええどうぞ、みなさんもどうぞ」
真紀子がきわめて自然にまゆみや福島にも進めた。雪の戸外にいて冷えきった身体に、熱い茶の誘惑は大きかった。外から入って来ると同時にすすめられたので、警戒心もうすれた。
「いやあ、これはありがたいですな」
大屋は、頬をゆるめて、危険なクスリが仕込んであるとも知らずに茶をうまそうにすすった。熱い茶に仕込んだから、効きめも早いだろう。これで身体を暖めさせてやれば、さらに効果がうながされる。
「冷えたでしょう。火のそばへ寄って暖まってください」
秋本がストーヴのそばに場所を空けた。
「反町さんがいないようですね」
茶を喫《の》み終わった大屋が、本務の見張りの目にかえって室内を見まわした。
「いま村を回っているんです」
秋本がさりげなく答えた。
「私がここへ来る途中、見かけませんでしたが」
「どこかの家に入っているのです。それより、野崎さんはまだ見つかりませんか」
「我々も手分けして谷すじや雪崩の痕《あと》を探しているのですが、いまだに見つけられません」
「あなた方が野崎さんの姿を最後に見かけたのは、どの辺だったのですか?」
「ですから、ちょうど対岸の真下です。第一次と第二次の雪崩が重なったので、よほど深く埋められたとみえます」
「絶望なら、遺族へ早く連絡を取らなければ」
「もちろん、それもやっています。しかし、野崎さんは記帳の住所にいないのです」
「いない?」
「つまり記帳がでたらめなんです。まず住所からして該当《がいとう》する場所が存在しません」
「…………」
「だから、遺族に連絡したくても、その方法がないのですよ」
「それでは、野崎さんの身許はわからないのですか」
なにげなく質《たず》ねながらも、秋本の目は、大屋の表情を鋭く観察している。まだ薬効の徴候は見えない。
クスリはバルビツール酸系の誘導体として用いられるアミタールである。自供促進剤≠ニも称され、麻薬催眠にも用いられるクスリである。速効性の就眠剤であり、少量で、睡眠に導き、後は本来の生理的睡眠を引き出す。その物理化学的性質は、そのまま脳細胞に作用するようになっている。
最近不眠がつづいていたので、粉薬と注射薬の両方をもってきたのが、おもわぬところで役に立った。
だが、大屋の場合、眠られては困るのである。暗示を受け入れやすい状態にまで、精神の抵抗を取り除いてくれればよい。量が多すぎれば、眠ってしまうし、少なければ、心の抵抗が残って暗示を受け入れない。
まして秋本は大屋の体質をまったく知らない。またそのときの体調によっても、薬効が変わってくる。このさじかげんはきわめて難しかった。
秋本は、大屋の目の奥を覗《のぞ》き込みながら、祈るような気持ちになっていた。
「まったくわかっていません。ところで、反町さんは少し長いようですね」
「見回らなければならない老人が、九人いますからね」
「全員身動きできないわけじゃないでしょう」
「それはそうですが、老人はこう寒いと、飲まず食わずで寝ているのです。だれか食事をもっていってやらなければ、餓死するまで寝ているでしょう」
「食事は先刻、配ったはずですよ」
「老人の体には濃厚すぎましてね、べつに雑炊《ぞうすい》をつくってあるのです」
「私も見てきましょう」
大屋は、秋本の説明に満足せずに立ち上がりかけた。
「ちょっと待って」
秋本が手を上げて制した。
「どうしたのです?」
「静かに。なにか聞こえます」
不審げに見た大屋を秋本の目が捕捉《ほそく》した。一瞬、大屋はその目の中に吸い込まれるような感覚をもった。秋本の制止で、静寂が落ちた。鼓膜《こまく》が押されるような静けさである。ストーヴの燃焼音が、びっくりするほど大きくひびいた。
「雪の音が聞こえる。いや雲の中をなにかが歩いている音だ。美しい音だ。自然の音楽かもしれない」
「自然の音楽……?」
大屋が首を振って、また立ち上がりかけた。
「まあ落ち着いて。もっとくつろぐのです。これは本隊からの命令ですよ。くつろげと言ってます。くつろいで、自然の音に耳を澄ませと」
秋本は大屋の目を見つめたまま言った。
大屋の面からみるみる緊張の弛《ゆる》んでいくのが読み取れた。暗示をうけ入れはじめたのである。薬効、体調、室温、環境など催眠に誘導するためのいくつかの要素がうまい具合に相乗して、有効に作用している。だが「命令」という暗示が最も効いたらしい。
秋本の巧みな誘導に、大屋だけでなく、クスリを飲んでいない周囲の者たちまで、催眠に入りかけている。
「さあ、頭の中がしだいに空っぽになってきたでしょう。あなたはくつろいでいる。まだまだくつろぎを深められます。もっと深く、もーっと深く。心だけでなく体もゆっくりとくつろぎます。目を軽く閉じる。瞼《まぶた》が重くなった。開けようとしても開けられない。とてもいい気持ちだ。いままでこんなに快《い》い気持ちになったことはない。体の筋肉がどんどん解《ほぐ》れていく。脚《あし》の先から軽くなっていく。
脚の先がちょうど快《よ》い温度のお湯の中へ浸っていくと想像してください。膝《ひざ》も股《もも》も、腰も浸りました。胸から肩、両腕から指の先もはいりました。豊かなお湯が顎《あご》まできています。さあこれで全身の筋肉がほぐれました。あなたの身も心もすっかりくつろぎました。全身からいっさいの緊張が去ったのです」
大屋の顔面筋肉が完全に弛緩《しかん》して、顔がのっぺりと無表情になった。
これは、「トランス」と呼ばれる夢中遊行状態である。そろそろ筋肉運動を支配できる第一期催眠状態に入っている。
「あなたの頭の中は完全に空っぽになりました。聞こえるのは、私の声だけです。私の声は、本隊からの命令です。あなたは優秀な士官です。私の命令にはなんでも従います。私の言葉に従い、私の質問に忠実に答えることが、あなたが優秀な士官である証拠なのです。さあ、それではそろそろはじめましょう。あなたはいったい何をするためにこの風巣へ来たのですか?」
弛緩していた大屋の表情が少し引きしまって苦しそうに歪《ゆが》んだ。職業軍人≠ニして徹底的に叩き込まれた鋳型教育が、秋本のかけた暗示の前に立ちふさがったのである。秋本の質問に答えることは、大屋の道徳規範に背《そむ》くことになる。
秋本の質問に答えることも、催眠によって義務づけられている。このまま質問を無理押しすると、二つの義務が衝突して、せっかく空白にした心に緊迫した葛藤《かつとう》を起こして、催眠から醒《さ》ましてしまう。
「いまあなたの心に他からの命令が入りました。その命令と闘う必要はありません。それが話すなと命ずるなら話さなくともよいのです。さあくつろぎましょう」
秋本はさらに催眠を深めるために誘導をつづけた。
「あなたはいま長い階段を下りています。一歩下りるごとに、より深いくつろぎの中へ入っていきます。深く、もっと深あく。あなたの心から葛藤がなくなっていきます。さあ、もっと下へ下りよう。もう葛藤がなくなった。すっかりなくなった。あなたの頭は空っぽになってしまった。なにもおぼえていない。すっかり忘れてしまった。あなたは命令を忘れた。それをおもいだしなさい。これは命令だ。本隊の命令をおもいだし、正確に復誦《ふくしよう》せよ」
大屋の無表情がまた引き攣《つ》った。秋本は内心舌を巻いた。大屋が叩き込まれた教育は、麻薬の力をかりた催眠までも拒《は》ね返している。秋本は青年の心を鋳型に嵌《は》める教育が、いかに強固にその人格を支配するかをおもい知らされた。彼の人格は鋳型にがっちりと固定されて、トランス状態においてすら、本来の命令に反する暗示に抵抗しているのである。
これは催眠と、大屋を固定した鋳型との戦いであった。大屋のうけた教育も一種の催眠である。一般の市民感覚や価値観念のすべてを破壊し、軍人の鋳型に嵌めるための暗示を繰り返しあたえる。そのために命令と規律という形の暗示は、大屋の心の中に定着して、これに反するいっさいの命令や指示を受け入れないように精神を鎧《よろ》ってしまったのである。
この鎧《よろい》を取り除くためには、より深い催眠に導いて、さあ今度はこちらの命令をきくのだと抵抗を排除する以外にない。
「さあ、もっとくつろいで。おもい出せないものは無理におもい出す必要はありません。あなたの目は開かない。開けようとしても開けられない。左腕も動かない、曲げようとしても、私がいいと言うまで曲げられない。左腕がすっかり突っ張ってしまった。さあ、左腕の力を抜いて。また元の状態に戻《もど》りました。曲げようとおもえば曲げられます。ほら、曲げられます。今度は右腕が動かなくなります。動かない。全身の筋肉も動かなくなった。全部動かない。それはあなたの体がなくなったのと同じです。体が羽のように軽くなってしまった。だから、動かそうとしても動かない。そこから立とうとしても立てない。私が立てと言っても立てない。私がいいと言うまで立てない。さあ立ちなさい。立つんです。立てませんね」
大屋の催眠深度はかなり深まっていた。すでに筋肉の支配から進行して感覚の支配まで可能な状態である。
「あなたはいまストーヴのそばにいます。ストーヴの火熱が異常に高まってきている。熱い。このままでいると火傷をしてしまう。しかし立てない。私がいいと言うまで立てない」
大屋は熱そうに身をよじった。額《ひたい》に汗を浮かべている。本当に熱気を感じているのである。
「あなたは命令を復誦するように命じられている。しかし言えない。私が許可するまで、言えない。私が復誦するように命じても、私の許可がなければ、口をきけない。よろしい、復誦してもよい。私が許します。命令を復誦しなさい」
「風巣の様子を偵察《ていさつ》し、報告すること」
大屋がついに口を割りはじめた。
「何のために偵察するのですか?」
「風巣を殲滅《せんめつ》するために」
「なぜ殲滅しなければならないのですか?」
「…………」
「なぜですか?」
「詳しいことは、我々も知らされていません」
「あなたたちは、何のためにこんな山の中へ出動して来たのですか?」
「墜落機を回収するためです」
「それなのにどうして風巣を殲滅するのですか」
「風巣の村人が、なにか我々にとって非常に都合の悪いものを見たからだとおもいます」
「都合の悪いものとは何ですか?」
「…………」
「あなたは答えてもいいのです。私が許可します」
「私も知らないのです」
「あなたは本当に知らないのでしょう。しかし、あなたは優秀な将校です。おおよその目星《めぼし》をつけているはずだ。私がヒントをあげよう。その墜落機が自衛隊にとって非常に重大なものを搭載していた。だから機が墜《お》ちた事実をだれにも知られたくなかった」
大屋がうなずいた。
「だれにも知られないように回収しようとしてあなたたちは来た。だが風巣に居合わせた人間がそれを知った。さいわい風巣は雪で交通も通信も杜絶《とぜつ》している。そこで墜落機を闇《やみ》から闇に葬り去るために風巣をこの地上から抹消《まつしよう》しようとした」
「たぶん……そうだとおもいます」
「その墜落機が積んでいた重大なものとは、何ですか?」
「知りません」
「それはたとえば、核兵器のようなものだとおもいますか?」
「そうおもいます」
何人かの口からため息がもれた。ここに反町の推測がほぼ的中したのである。
「野崎さんは本当に雪崩にやられたのですか?」
「…………」
「彼はまだ生きているのでしょう」
「はい」
「なぜ帰って来ないのです?」
「我々の作業を見たからです」
「あの雪崩は、あなたたちが工作したものだったのですね?」
「はい」
「その作業を見た野崎さんをあなたたちは捕えた」
「はい」
「彼はいまどこにいますか?」
「水入《みずい》らず沢の本隊の設営地に拘束しています」
「今朝の食事には何を入れたのですか?」
問いかけたとき、
「大変です。部下の二人が帰って来ます」
見張りに立っていた小暮が告げた。
秋本は、まだ聞きたいことがあったが、大屋を急ぎ催眠から覚醒《かくせい》させなければならなかった。すでに麻酔薬の効果は切れている時間であった。クスリは催眠導入剤の役目を果たして、後は、秋本の暗示にしたがってトランス状態に入っていたのである。
「私がこれから三つ手を叩《たた》くと、あなたは目が覚めます。覚めた後はとても爽快《そうかい》な気分で、いまあなたと私の間で話したことはすべて忘れてしまいます」
「すぐそこまで来ています」
小暮の声が切迫した。
「あなたは、目が覚めた後でも、私が顎《あご》を撫《な》でると、いまと同じような状態に入ります。これから後、私の命令があなたに対する至上の命令となります。それに従わないと、あなたは破滅します」
表に二人の足音が迫って来た。
「それではこれから手を叩きます。一つ、少し覚めました。二《ふた》あつ、だいぶ覚めました。三つ、さあすっかり覚めました。なんと爽《さわ》やかな気分でしょう」
三回めの拍手をして、覚醒の暗示をあたえ終わったとき、木下二曹と山根三曹が家の中に入って来た。大屋は目を開いて、周囲を見まわした。催眠前と表情はまったく変わっていない。そこに居た者は、まさに現代の妖術《ようじゆつ》を見たおもいだった。
催眠術というと、魔術か、なにかの霊《れい》の力のようにおどろおどろしい術として誤解されやすいが、被催眠者を放心状態に導き、自らの判断力を失わせたところで、暗示によって、相手の行動や知覚、感情までも支配する術である。睡眠中や、失神と異なり、意識は暗示に感応する程度に不完全ながら残っている。うつらうつらとまどろんでいるのに似た、意識の活動が鈍った半睡半醒《はんすいはんせい》の状態である。相手が協力的であれば、ただ一言の暗示で容易に催眠をかけられる。だが大屋は、催眠術をかけられると知れば、最も強く抵抗する相手である。そのために小量の麻酔薬をあたえて、導入時の抵抗を取り除いたのであった。
催眠によって数々の症例が取り除かれることは、すでに多くの臨床例によって明らかである。催眠による無痛|分娩《ぶんべん》の実例もあるように、一種の麻酔剤の役目をする。催眠の原理からすれば、補助療法として広い範囲の病気に活用できる。
催眠は内科的な病気の治療に活用される場合が多いが、イボ、円形脱毛症、皮膚疾患などに対しても効果があるので、秋本もそれを補助的な治療手段として採り入れていたのである。また催眠術は、一度かけると、二度目からは非常にかけやすくなるという性質がある。施術者と被術者の間の心の連絡が、催眠の回数を重ねるほどに強くなる。これは医者と患者の間の、まことに望ましい信頼関係である。
秋本が覚醒させる前にあたえた「顎を撫でる」暗示は、覚醒後も大屋に命令を実行させるための「後催眠暗示」である。これによって、大屋は催眠から醒めた後も、秋本が顎を撫でれば、彼の忠実な傀儡《かいらい》になるはずであった。
[#改ページ]
焼け爛《ただ》れた花
1
秋本は、自分を破滅させた麻薬≠ェ、このようなかたちで役に立とうとは予期していなかった。あの患者の苦痛≠ヘ、本人と臨床した医師以外にはわからないだろう。
彼女は、生きていても意味がないと言った。彼女の心身の苦痛とともに、その意味が、彼にはよくわかった。夕陽美帆《ゆうひみほ》は、すでに死んだのである。あの、おぞましい物体≠ェ、美帆のはずがなかった。
「死なせて。この化け物のような姿をさらしてこれから生きていくくらいなら、死んだほうがましだわ。お願い、先生、死なせて」
と訴えた美帆の切ない声が、いまでも耳に生々《なまなま》しく残っていた。
「もし先生が死なせてくれないなら、私、必ず自殺します。私にとってこんな姿で生きながらえるのは、毎日、なぶり殺しに殺されていくより辛《つら》いことなのです」
秋本にじっと据《す》えた美帆の目は、言いようもない悲しみの色に塗りこめられていた。
――いま、彼女の願いをきいてやらなければ、自分はきっと死んだ後々まで、彼女から怨《うら》まれるにちがいない――ということが、秋本にはよくわかった。
だが、秋本は、それを恐れたのではなかった。彼自身、美帆をそのおぞましい姿で生かしておくことに耐えられなかったのである。
清純派のスターとして、全国の男たちのアイドルだった夕陽美帆が、秋本の勤務していた病院にかつぎこまれたのは、二年前の冬であった。美帆の住んでいた新宿区のマンションから火災が発生し、逃げ遅れた彼女は、焼死寸前に消防士によって救《たす》け出されたのである。
第三度から第四度に及ぶ熱傷を体表面の十パーセント以上に受けていて、秋本の病院にかつぎ込まれたときは、血行障害によるショックをおこしていた。特に頭部と顔面部をひどく焼かれていて、救急車で運び込まれたときは、悪臭《あくしゆう》を発する焼け爛《ただ》れた肉の塊《かたま》りであった。
火傷の専門病院として定評のあるその病院のベテラン医師として、多数の症例に接してきた秋本も、最初美帆が運び込まれたとき、救急隊員が混乱して、焼死体を運んで来たとおもったほどに、むごたらしい火傷を負っていた。その日が折り悪しく日曜日で、秋本の所へ来るまでにいくつかの医院をたらいまわしされたことも、熱の作用時間を長引かせて、症状を悪化させていた。
たとえ医院に医師がいても、この火傷を見て、尻《しり》ごみしたのであろう。
だがともかく、秋本はこれまで蓄えた医術と腕のかぎりを振るって美帆の生命だけは救った。一時はいちじるしい全身症状を発して絶望かと危ぶまれたが、秋本の必死の手当ての甲斐《かい》あって、どうやら持ち直したのである。
だが生命の危機は切り抜けたものの、夕陽美帆は二目と見られぬ顔になってしまった。受傷部が頭部から額にかかっていたうえに、手当てをうけるまでに時間がかかったために、患部が化膿《かのう》した。顔にはケロイド状の瘢痕《はんこん》が残り、頭部は毛髪の一本もない禿《はげ》になってしまった。鼻はつぶれ、唇《くちびる》は崩れ、どくろのように鼻孔の下に歯ぐきがつづいている。
火傷面積が広いので、植皮植毛手術は不可能であった。頭の部分は鬘《かつら》を使うことができたとしても、桃色にてらてら光った額と鬘の境界がはっきりと現われてしまう。形のよい鬘の下に直接あらわれる桃色の瘢痕は、まさにグロテスクという以外になかった。
秋本は、なんとか植皮術を施《ほどこ》すべく手をつくした。自分だけでなく、友人や先輩の医師にも診《み》せて、美帆再生の可能性を探した。しかし結局、現代の医学では不可能であった。
植皮の場合、血液のように他人からもらえない。自分の体のどこかの部分の皮膚を取る以外にないのである。また自分の体の皮膚であっても、べつの部分のものは、色や肌理《きめ》がまったく異なるので、使えない。そのときはきれいに植皮できたように見えても、後になって、色素が沈着したり、皮膚が縮んだりして、むしろ、手術前の傷痕のほうがましだったというケースになることが多い。
もはや、夕陽美帆を昔の姿に返すのが不可能と確定したとき、秋本は、医者として、彼女の生命を救ったことが果たしてよかったのかと、悩んだ。
「純情の天使」や「純白のアイドル」あるいは「夕陽の精」などの愛称をもって、全国に幅広いファンをもっていた夕陽美帆は、一目見ただけで、だれでもギョッとして目を背けるような化け物≠ニ化したのである。素直で豊かな黒髪、ややおでこの聡明《そうめい》さを現わす額、謎《なぞ》を秘めた大きな愁いがちの目、よく通った鼻すじは、決して高すぎず、日本人的な円《まる》みを帯びている。中高の豊かな唇は、ふだんはうすく開いて、その間から白い健康な歯並みがチラとこぼれる。おもながな面立ちは輪郭がはっきりしていて、現代的である。
これらのすべてが一時の火魔によって、無惨に変形≠オてしまったのだ。最初から醜女であれば、「べつの種類の醜《みにく》さ」に変わったとあきらめられるかもしれない。だが、夕陽美帆はスターだった。全国数千万のファンに支えられた、女神であり、すでに神格化された存在であった。全国各地区に「夕陽美帆の処女を守る会」の結成が本気で叫ばれるほどのアイドルが、火事で異星の怪物《べム》のようになってしまったのである。美帆の火難の報を聞いて、全国から膨大な見舞いの手紙や品が送られてきている。手紙や見舞品を送っただけでは満足できないファンは、美帆の症状いかにと病院に押しかけて来た。
美帆の担当医師になった秋本は、彼女を一般病棟から離れた特別治療室に入れ、部屋の前にガードマンを置いて、厳しく病室の出入りをチェックさせた。同じ病院の看護婦でも、担当以外は近づけず、担当看護婦には美帆の症状については厳重な箝口令《かんこうれい》を布《し》いた。
病院からシャットアウトを食った熱烈なファンは、病院の周囲に交代で張り込み、美帆の症状の経過を心配していた。
病院側の厳重な警戒から、美帆の症状を深刻と見た芸能ジャーナリズムの記者連中は、見舞客や出入り業者を装って、美帆の病室へ近づこうと試みた。いずれも失敗して、看護婦詰所やガードマンに撃退されると、今度は深夜、空巣もどきに忍び込んで来た。
彼らに美帆の症状を知らせてはならなかった。だが、相手は彼らだけではなかった。だれよりも当の美帆自身に知らせてはならなかったのである。秋本は、美帆の病室から鏡、銀器、その他、ものを反映するようなものいっさいを遠ざけた。窓には艶《つや》を消したプラスチックのシャッターを取り付けさせた。だがいつまでも隠しおおせるものではなかった。
「先生、私の顔どうなったのでしょう」
いちおうの治療が終わって、包帯をとれる日が近づくと、美帆はしつこく聞いた。最も知らせたくない当人が、最も知りたがっている。包帯は、すでにその時[#「その時」に傍点]を少しでも遅らせるためのカバーであった。だがいずれは知らせなければならないことだった。
秋本は、美帆が変わり果てた第二の自分≠ノ対面したときのさまを忘れることができない。そしてあのときほど、自分が修め、積み重ねてきた医術の無力をおもい知らされたことはなかった。ショックをできるだけ小さくするためにと、コンパクトの鏡をあたえた。心理的なショックが、身体的症状を誘引する場合に備えて、秋本が付き添った。最初それを恐る恐る覗いた彼女は、信じられないように、
「これ、だれの顔なの?」
と聞いた。秋本が黙っていると、
「まさか、私じゃないでしょうね?」
とすがりつくように秋本を見た。
――そうだ、きみではない。夕陽美帆はあの夜の火事で死んだのだ――と言おうとして、秋本は危うくのど元でこらえた。その言葉のほうがもっと残酷であることに気がついたのである。
「先生、この恐ろしい顔が、まさか私じゃないでしょうね」
美帆は、秋本のほうを見て声を震わせた。彼はそのとき、コンパクトを美帆にあたえたことを痛切に後悔していた。あの狭い鏡面に他人の顔のうつる余地はない。もっと大きな手鏡をあたえていれば、他人の顔がうつっていると一拍の自己欺瞞《じこぎまん》ができたであろう。
一拍でも二拍でも、美帆がそれを知る残酷な時間を延引してやりたかった。
「先生、どうして黙っていらっしゃるの?」
いっしょにいた担当看護婦が耐えきれなくなって、隣りの控えの間へそっと退《しりぞ》いた。
「いやだあ!」
美帆は、いきなりコンパクトを床へ投げ出すと、激しい悲鳴をあげた。美帆は全身を瘧《おこり》にかかったかのように痙攣《けいれん》させながら、その後しばらく声を出せない。
秋本が、案じていた身体症状を発したのかと、慌《あわ》てて駆け寄ろうとしたとき、彼女は身をよじりながら激しく泣きだした。
「死にたい! 死んだほうがよかった」
美帆はベッドを叩きながら慟哭《どうこく》した。
「さあ、落ち着いて。まだ希望がないわけじゃない」
秋本はベッドサイドへ寄って、美帆の背を撫でてやりながら、それが言葉どおりの気休めにすぎないことを痛感していた。
「私、先生を怨みます。どうして死なせてくれなかったんですか」
こみあげる慟哭を意志の力で抑えて、美帆は詰《なじ》った。秋本自身も、美帆から怨みの言葉を浴びせられながら、医者として彼女を死なせるべきではなかったかと考えていた。
現代の医学では、もはや美帆を元の姿に戻すことは絶対に不可能である。無惨に焼け爛れたとき、美帆の女の生命は終わったのだ。このような変わり果てた醜悪《しゆうあく》な姿にしてまで、その生理的な生活機能を活かしておくのは、医学に名をかりた残酷ではあるまいか。
「先生、お願い、私を殺して」
美帆は訴えた。
「なにを言うんだ。世の中にはもっともっと不幸な人がいる。決して絶望してはいけない。きみの美しさは少しも損なわれていないのだ。どんな激しい火も、きみの心まで焼くことはできなかったんだ」
と慰めながらも、秋本はその虚《むな》しい響きに自分自身やりきれなくなっていた。
人間は、単に物理的生理的に生きている存在ではない。人間として値するだけの生き方をしてはじめて「生きた」と言える。
美帆にとって、その美しかった顔に換《か》えて、醜悪な面をつけてこれから生きていくことは、毎日が死にまさる苦しみにちがいない。ファンの心の祭壇にまつり上げられているだけに、それを焼け崩れた妖怪《ようかい》の面で汚すことができない。伝説の中の美女と、直視できない凄惨《せいさん》な醜顔を同一の肉体の上に重ね焼きして生かしておくのは、彼女を全国のさらしものの刑に処するのと同じであった。
それが医学の名の下に行なわれている。それはどんな残酷な拷問《ごうもん》よりも残酷であり、いかなる極刑よりも非人道的ではあるまいか。
――自分にそんな刑を人に科す資格があるのか?――
――ない。だれにもないはずだ――。
と秋本は自問自答しながらも、ひも、タオル類はもとより、食器、ペン、照明器具に至るまで、少しでも凶器になるおそれのあるものは、看護婦に命じて、美帆の身辺から遠ざけさせたのである。
だが美帆は、頭を病室の壁に打ちつけて、自殺をはかった。次には、体温計を噛《か》み砕いてのみ込もうとした。いずれも発見が早かったので、ことなきを得たが、本人がその気になれば、自殺の方法はいくらでも見つけられる。
ついには、看護婦が一人、いつもベッドサイドに付き添うようになった。
最初は、足繁《あししげ》く見舞いに来た両親や、身寄りの者も、美帆が生まれもつかぬ化け物となったのを知ると、寄りつかなくなった。彼らにとって美帆は、一家に富と名誉をもたらす、福神であり、一族のホープであった。彼女のおかげで一家眷属《いつかけんぞく》の鼻が高かった。その郷里が産んだ最大の名士であり、郷土の名を全国に高めた功労者であった。
それが一夜にして化け物に変わった。美が彼女の栄光と恵沢《けいたく》の根源であっただけに、反転した醜は罪悪であり、恥辱《ちじよく》であったのだ。
親族からすら捨てられた彼女を、いま護ってやる者は、医者しかいなかった。だが医者の庇護《ひご》には限界があった。彼女の体表面の傷すら癒《いや》してやれない者が、その心を深く抉《えぐ》った傷をどうして治《なお》せるだろう。
美帆は、監視の目が常に自分の身辺に光っていると悟ると、いっさいの飲食物を摂取しないようになった。餓死によって自殺の目的を達しようとしたのだ。これには病院側も狼狽《ろうばい》した。本人が食物を受けつけない以上、どうすることもできない。
「さあ食べるんだ。きみはまだ若い。これからどのような生き方でもできるんだよ。こんなことでめげてどうするんだ」
秋本は叱咤《しつた》して食物を取らせようとしたが、頑《がん》として受けつけなかった。美帆はたちまち衰弱していった。たとえ飲食物を受けつけなくなっても、点滴や、栄養物の注射で延命はできる。本人の協力が得られなければ、睡眠薬で眠らせてもよい。だが、秋本はそれをしなかった。それまでして、美帆の延命をはかることに疑惑を感じはじめていた。
「先生おねがい」
美帆は、秋本に手を合わせた。これ以上、美帆を本人の意志に逆らってまでなぜ生かさなければならないのか? 人間の生命は本人でも左右できない。生命の尊厳は、個人の処分に委《ゆだ》ねられない。たとえ、本人の同意または嘱託《しよくたく》をうけて殺しても「自殺関与」の罪に問われる。現代医学が不治と認める疾病《しつぺい》に対しても、患者の生命を可能なかぎり延ばすことが、医者の使命として医師法で定められている。
だがその生命が、人間としてのしあわせを失った、生きることが当人にとって恥辱と悲惨を上積みしていくだけにすぎない永遠の拷問であったとしても、「生かさなければならない生命」と言えるのか?
「私、生きていることを呪《のろ》います。こんな姿になって、どうして生きていかなければならないのですか? 私、一分一秒でも生きているのが恥ずかしい。先生に人間としての情があるなら、このまま死なせてください」
美帆は訴えつづけた。秋本は、ついに心を決めた。彼は、目の奥でうなずいた。そして彼女の死期を早めるための麻薬を、その枕頭《ちんとう》に残したのである。
2
夕陽美帆は、秋本のあたえたモルヒネを服《の》んで死んだ。これまでの断食《だんじき》で身体が衰弱していたので、服用後間もなく酩酊《めいてい》状態に陥り、昏睡《こんすい》から呼吸|麻痺《まひ》を起こして死亡した。
秋本は、自分がモルヒネをあたえた事実を隠さなかった。ただその服用を相手の自由意志に委ねたので、殺人の罪に問われることはまぬがれた。
彼の場合、医者として、患者の苦痛[#「苦痛」に傍点]を見るに見かねて、モルヒネをあたえた状況が見られたので、これが違法性を排除する「安楽死」の要件を充たすかどうかが論ぜられた。
裁判所は、現代医学上、不治と解せられる病気に罹患《りかん》していたとは言えないとした。火傷による危険期間はすでに脱しており、肉体的に恢復《かいふく》の途上にあった。本人が自殺の意志をもって飲食物の摂取を拒否していたとしても、被告人の医学的知識と技術をもって、栄養物の補給は可能であって、死に直面していたとは言い難い。
また被害者は、死にもまさる激烈な肉体的苦痛があったとは認め難く、被害者の本件犯行当時の苦痛が精神的なものであることは、火傷により、旧前の容貌に戻る望みを絶たれて、失望落胆し、自殺を決意し、いっさいの飲食物を拒否して、併《あわ》せて被告人に死を嘱託するに至った事実により明らかである。このような精神的苦悩がいかに激烈であっても、疾病による肉体的苦痛が死にまさる耐え難いものでないかぎり、精神的苦痛を取り除くため死を惹起《じやつき》する行為があっても、これを正当行為とすることはできない――とされて刑法第二百二条自殺関与罪および医師法違反の責任を問われて、懲役一年の刑を言い渡され、その執行を二年|猶予《ゆうよ》された。秋本は一審の判決に服して控訴しなかった。同時に医師法第四条、および第七条により、医師の免許を取り消された。
秋本は医師の免許を取り消された。もう医療行為はできない身分になった。二年の執行猶予期間は明けたが、とりあえずなにもすることがなかった。風のそよぎにも息をひそめるようにして暮らしたこの二年間であった。初めは実刑の執行を猶予してくれた裁判官の温情を感謝したが、それは刑務所に入れられないというだけで、一般の市民生活から画然たる枠《わく》によって隔てられていた。
普通の人間ならなんでもないようなけんか口論でも、執行猶予を取り消されるおそれがある。猶予期間の保護観察中に禁錮《きんこ》以上の刑に処せられる罪を犯せば、猶予は確実に取り消された。たとえチンピラからけんかを吹っかけられても、正当防衛は通らない。要するに執行猶予期間中は、自宅で刑に服しているとおもっていればまちがいない。
刑務所に一般市民的な人権がないように、猶予期間は人権停止期間≠ネのである。
だがともかく、微風にも逆らわないようにしてすごしたおかげで、無事に期間を終えた。
ふたたび得た自由を満喫《まんえつ》するために、旅へ出るようにと妻が勧めてくれた。
旅など、この二年間考えたこともなかった。小さな買い物にちょっと外へ出るのも恐ろしかった。勤めていた病院はやめ、先輩が紹介してくれたべつの病院で医療事務を手伝いながら、細々と生活をしてきた。この間医療行為こそやらなかったが、医者であることを忘れたわけではない。
改悛《かいしゆん》の情が顕著と認められたときは、医道審議会にかけられて、再免許をあたえられる可能性がある。秋本はその日のために自分の医術に錆《さび》がつかないようにひっそりと勉強をしていた。学会へも出られない。もちろん患者も診《み》られない。せめて医薬のにおいのする所に身を置いて、ひたすら身を慎んでいた。
しかし自由の身となったところで、医師の免許がなければなんにもならない。患者をみられない医者などは、そこに存在しないのと同じである。
再免許が下りないかぎり、秋本にとって本当の意味での自由を回復したことにならないのだが、妻があまりやかましくすすめるので、むしろ妻の顔を立てるような気持ちから、ぶらりと旅に出たのである。だがどこにも行く当てがあるわけではない。旅はおのれをしみじみと見つめさせる。ただ独《ひと》りで、行く当てもなくさまよっていると、心はめいるばかりである。もう再免許は永久に下りないような気がしてきた。
孤独が絶望をさそって、どちらの方角を見ても希望に通ずる色は見えないようである。
そのとき、行き先をまさぐるようにして開いた、駅のキオスクで買った旅行雑誌の中に、風巣のランプ生活の記事が載っていた。民宿もあり、通年営業とある。
秋本には、その記事が迷える者にしめされた聖書の一節のようにおもえた。こうして彼は、この風巣へ迷い込んで来たのである。
「まさかここで、またあの呪わしい麻薬を、このようなかたちで使う羽目になろうとはおもわなかった」
秋本は、自嘲《じちよう》的につぶやいた。だが使わなければ、こちらが一方的にやられるばかりである。
[#改ページ]
骨肉の手紙
1
後方本部から、サルビヤ作戦の強行をうながしてきた。
その方法は、塚本に一任するということである。塚本は当惑した。一任すると言われても、そう次から次によい方法を案出できるものではない。犯罪の痕跡《こんせき》は絶対に残せないのである。雪崩《なだれ》作戦は失敗し、睡眠薬作戦もどうやら見破られたらしい。すると、後にはいかなる手が残されているか? さすがの塚本も頭をかかえた。
機体は九十九パーセント回収され、残りの一パーセントの破片を求めて隊の総力が傾けられていた。
塚本は日野に相談した。だが日野にもすぐによい知恵は浮かばない。焦燥《しようそう》の色がようやく濃くなった。
「燃やしてしまうというのはどうでしょう」
日野がなにかおもいついた顔を上げると、おもいきった提案をした。
「燃やす? 火事にするのか?」
塚本の顔色が少し動いた。
「そうです。後腐れがなくていいでしょう」
日野がなんでもないことのように言った。
「すると、風巣《ふうす》全村を燃やしてしまわないことには意味がないな」
「もちろんです」
「後腐れがないどころか大ありだよ。民宿だけならばとにかく、風巣全村が火事になったとしたら当然疑われる。それに火事で全員逃げ遅れるというのもおかしい」
「そうですな」
日野は自分で言いだしたことながら、すぐにその提案の乱暴なことを認めた。
「しかし、邪魔なのは、民宿の連中だけだ。あいつらさえかたづければ、後はよぼよぼの年寄りばかりだからどうにでもなる。民宿だけ燃やしてしまうというのも悪くないな」
塚本は、いったん日野の提案を否定したものの、捨てがたいとおもった様子である。
「いや、この手はやはり使えませんよ。全員逃げ遅れたというのは、不自然です」
立場が逆転して、日野が自らの案を打ち消すかたちになった。
「燃やすのは、やはり無理か」
塚本の口調には未練があった。
「しかし、他にはもう方法がありませんね」
「うん。山の中だから、手はいくらでもあるとおもったが、意外に難しいな」
殺人のための凶器は豊富にかかえていた。彼らのかかえている武器を能率的に使えば、地方都市の一つぐらいは殲滅《せんめつ》できる。だがその武器は封じられていた。
「臭《くさ》いな」
塚本が急に鼻をうごめかした。
本隊の司令部にはテントが張られて、携帯用コンロが置かれていた。分解すれば、片手の上に乗ってしまう程度の小型だが、それでけっこう寒気を防げる。そのコンロの燃料が残り少なくなってきたらしい。
「燃料を追加しましょう」
「外にいる連中に悪いな」
サルビヤ隊は、いまだに雪面に散開して、機体の最後の一片までも追い求めている。できるだけ完全に近い形で、破断した機体を復元しなければならない。
それはほとんど不可能事であったが、この山域に自衛隊機が墜落した痕跡を払拭《ふつしよく》するためには、どんな微細な断片も残したくない。したがってサルビヤ作戦は、時間をかければかけるほど完璧《かんぺき》に近くなる。
機体の墜落によって折られた樹林や焼け焦げた樹枝は、片端から根本から切り取られて焼却されてしまう。墜落ショックで抉《えぐ》り取られた地面は、ブルドーザーによって運ばれた土で埋められ、その上に新たな雪がかけられた。
子細に検《しら》べられれば、そこに何事か起きたことがわかるが、事情を知らない者が一見しただけでは、見過ごしてしまう程度に、自然の亀裂《きれつ》を縫合した。
「いや、彼らは寒気など感じませんよ」
「おれも齢《とし》かな」
塚本は消えかけたコンロを見ながら自嘲的につぶやいた。寒気を感じるようになったのも、年齢のせいか。それを日野に意地悪く暗示されたような気がした。日野のやり方は徹底している。自分の育てた忠実な部下ながら、塚本はときどき、ついていけなくなることがある。それが最近は、どうも老化による体力と気力の衰えのような気がしてきた。
――このコンロのように、おれも人生の最も熱い燃焼期が終えかけているのかな――。
塚本は憮然《ぶぜん》となった。コンロの燃料はいよいよ底をついて、不完全燃焼の異臭《いしゆう》がテントの中にこもった。
「だれか来てくれ」
日野がテントの出入口から首を出してどなった。そのとき塚本は、ふと一つのアイデアにおもい当たった。ひょっとすると可能性があるかもしれない。
「風巣では何を燃料に使っているか、すぐ大屋二尉に問い合わさせてくれ」
塚本はもちまえの厳しい無表情にかえって日野に命じた。
2
高戸弥平《たかとやへい》は、登山者から雪崩のために風巣への道が完全に杜絶《とぜつ》していると教えられて、いったん引き返しかけた。とにかくこの数日つづいた悪天候である。雪に強いはずの新道が閉塞《へいそく》されても不思議はなかった。
風巣宛の郵便は一通しかない。その一通も実に久しぶりのものだった。どんな離島|僻村《へきそん》であろうと、郵便物があれば配達しなければならない。風巣地区の郵便物をこの二十年間担当しているのが弥平であった。
風巣にまだ大勢の村人がいたころ、郵便物も毎日あった。彼は、毎日郵便|行嚢《こうのう》を背負って往復二十キロの山道を通ったものである。
あるときは幸福のメッセンジャーであり、またあるときは悲報の使者となった。だが村の子供たちは弥平の通って来る山道の峠路に立って、彼の来るのを待っていた。定期刊行の少年雑誌を取っている者もあれば、遠く離れたペンパルからの手紙を待ちわびている者もあった。
まったく手紙を期待していない者も、彼の訪《おとず》れを待っていた。弥平だけが、風巣の「外界へ開く窓」であったのだ。子供たちは、弥平が郵便物を各戸に配達する間、彼の後をついてまわり、外界のいろいろな情報を聞くのである。
少年たちが峠のかなたの未知の遠い諸国へ寄せた憧憬《どうけい》は、弥平を起点《ターミナル》にしていた。郵便物を出す者は弥平に託す。集配を終えて、峠を下って行く弥平を少年たちは、姿が見えなくなるまで見送った。弥平の背中には彼らの無限の夢が託されていた。弥平は少年の夢を背負って、夕映えの峠路から、毎日、世界に通ずる道に旅立っていったのである。
風巣からあの少年たちの姿が消えてどれくらいになるだろうか? 少年たちがいなくなると同時に、風巣は速やかに活気を失い、生きる者の気配の絶えた過疎村と化した。郵便物も少なくなった。毎日あったものが、三日に一度、一週に一度となり、ついに数か月に一通もこないという状態がきた。
弥平も、少年がいなくなってから、風巣へ行く張り合いがなくなった。たまに来る風巣|宛《あて》の郵便物も、役所関係の通達書や、つまらないDMである。つまらないからといって、配達しないわけにはいかない。
もう郵便物をもっていっても、彼の下界≠フ話を目を輝かして聞いてくれる子供たちはいない。少年たちから夢を託されることもなくなった。子供が去ってから、弥平は急速に老いをおぼえた。以前はなんでもなかった二十キロの山道がひどくきつくなった。
――この仕事も今年あたりが最後だな――。
弥平は引退≠考えていた。しかし自分が引退したら、だれが自分の代わりに風巣を担当してくれるだろうか?
二十キロの山道を、たった一通のDM(それも宛名人《あてなにん》から少しも待ち望まれていない)を届けるために往復するのは、どう考えても、馬鹿馬鹿しい。
――もし自分が引退したら、風巣は、本当に孤立化するのではあるまいか。
家族からも置き去りにされた十三人の老人のために、外界との交信機の役をつとめているのが、自分だ。手紙があろうとなかろうと、自分が現役として留まっているかぎり、ただ一台の交信機は健在である――。
そのためにもやめられない。その使命感に支えられて、今日まで頑張《がんばつ》ってきた。
頑張ったおかげで、風巣は民宿村として再生しかけている。死を待っていたような老人たちも、どうやら、また生きる希望を取り戻した様子であった。郵便物も徐々に増えてきた。頑張って本当によかったとおもった。民宿には東京から若い夫婦の管理人が来たから、賑《にぎ》やかな子供の声が聞けるのも、もう間もなくであろう。
冬期になると、風巣への郵便物もばったりと絶えた。ここ一か月くらいDM一通こなかった。配達郵便物はなくとも、発信物がたまっているかもしれない。それらを取り集めがてら、様子を見にいこうとおもっていた矢先に、風巣宛の一通の手紙がきた。
宛名人は見坊真紀子、差出人は、見坊利也となっている。
小学生の書いたようなたどたどしい筆蹟《ひつせき》であった。タイムリーにきた手紙を配達しようとしたとき、全国的な悪天候に見舞われて、風巣への交通が杜絶した。
ようやく天候が小康を得たときを狙《ねら》って、行動を起こした。雪を分けて風巣まで後二キロの地点まで迫ったとき、突然、数名の登山者が現われて、この先が雪崩のために通行不能であると告げた。雪のストレスがまだ残っていて、第二次雪崩発生のおそれがあるから、近づかないほうがいいと忠告してくれた。
いずれも一くせも二くせもありそうな面がまえをした屈強な登山者であった。
南アルプスの核心部をやってきた本格派の山屋と見た弥平は、素直にその忠告に従っていったん踵《きびす》を返した。ここまで来て、惜しい気もしたが、雪崩の危険があっては近づけない。
民宿の管理人が開発した雪に強い新道だったが、やはりここ数日降りつづいたドカ雪を支えきれなかったらしい。だが引き返しかけたものの、弥平の心に引っかかるものがあった。登山者たちは、背後から弥平を見送っていた。その視線を背中に痛いように感じた。
「あの人たちは、これからどうするつもりなのか?」
風巣への道が閉ざされたのだから、下山する以外にないだろう。ならば、なぜすぐ下山しないで、あんな場所に滞留していたのか? それとも下山途中に雪崩に見舞われて、後続隊が、山中に取り残されてしまったのだろうか? 彼らはあそこで第二次雪崩の危険のなくなるまで待っているつもりか?
なんとなく釈然としないまま往路を引き返して来た弥平は、注意力がうすれて、雪の吹きだまりの中に落ちこんだ。そのはずみにサングラスを落とした。それを拾い上げようとして、ふと気がついたことがあった。
彼らが、弥平と同じ道を登って来たのでないことは、足跡がなかったところを見ても明らかであった。下からあの場所へ来るには、弥平が伝って来た新道しかない。
とすると、彼らは上から下って来た。そこから上は、風巣を経由して駒《こま》ガ岳―仙丈《せんじよう》岳の稜線《りようせん》へ出る。彼らは南アルプスの主稜から下って来たのだ。この場所まで達するには、厳しい冬山との戦いがあったことであろう。
ところが彼らは、服装こそ冬山らしく装っていたが、一人もピッケルをもっていなかった。ピッケルの代わりに、なにやら銃らしいものが立ち木のかげに立てかけてあったようである。登山者が猟銃を携《たずさ》えることはあるまい。荷物はほとんどなかった。風雪用の眼鏡《ゴツグル》だけフッドの上に白々しくかけていた。
たとえ連日、悪天候が重なっても、山中滞在が数日つづくと、雪を透過した強烈な紫外線と雪の照り返しで、肌《はだ》が灼《や》ける。特に冬山の日灼けは夏とちがって青黒くなる。ゴッグルをかけると、目の部分だけが白く残って、めがね猿《ざる》のようになってしまう。ところがいまの連中はゴッグルをもっていながら、めがね猿が一人もいなかった。日灼けもほとんどしていない。まるで今日入山したばかりのように、いずれも白茶けた顔をしていた。
「そうだ。ひげがほとんどのびていなかったぞ!」
弥平は、先刻から心にわだかまっていたものの正体を、ついに突き止めた。「日灼け」は、山に入ると同時に吹雪《ふぶ》かれて、テントの中に閉じこもっていたと言い抜けることもできる。
しかし、ひげは必ずのびる。全員がまだ入山して間もなくのように、うすく影ができた程度であった。山中滞在が数日つづいたなら、あんなものではない。みんな山賊のようになっているはずだ。下山に備えてひげを剃《そ》ったということもあるだろう。だが全員が同時に剃ったとは考えられない。長い間、風巣を担当したので、弥平は、南アルプスを志す登山者の風俗をよく知っている。
南アルプスは、山が深く、地形が複雑である。稜線近くを除いて、山域の大部分は濃密な森林帯によって被われている。北アルプスのような多色な華麗さはないかわりに、宗教的な静けさがある。
そのために登山者にも求道者《ぐどうしや》的な雰囲気《ふんいき》が強い。北アルプスに殺到する観光的な登山客はほとんどなく、北アルプスその他の山の一般ルートを卒業した者や、人間|嫌《ぎら》いの少し屈折した登山者がやって来る。
南アルプスの登山者は、やどかりのように大きな荷物を背負い、蟻《あり》のように地道に歩く。ダンディな北アルプスの登山者に比べて、服装も粗末で野暮《やぼ》ったい。それだけに本物の山屋の体臭《たいしゆう》が濃厚である。
だが、彼らがまったく服装に無頓着《むとんちやく》かというと決してそうではない。かつての旧制の高校生の弊衣破帽《へいいはぼう》が、そのエリートたる身分を誇示するためのファッションであったように、南アルプスの登山者の服装は、粗末で野暮ったいところが、本格的な山屋であることをしめすダンディズムであった。
彼らは山から下って来るときは、山上でいかに苛酷《かこく》な自然との戦いを克《か》ち取ってきたかをしめすために、汚れた身体や、破れた衣服を強調する。歴戦の勇士が傷痕《きずあと》を自慢する意識と似ている。だから下山にあたってひげを剃るような真似《まね》はまちがってもしない。中には、山へ入る前からひげをのばしている者すらいる。特に、南アルプスの登山者には、その種の伊達《ダンデイ》が多かった。少なくとも、弥平の知るかぎり、下山前にひげを剃っていた登山者を見たことがなかった。それがいま会った連中は、全員ひげがなかった。しかも、彼らは上のほうから下りて来た[#「上のほうから下りて来た」に傍点]のだ。
「いまの連中は、おかしい」
弥平の疑惑はかたまった。弥平は再度方向転換した。登山者は、まだ同じ場所にたむろしていた。べつに後続の隊を探しに行くでもなく、ただそこにいることだけが目的のように同じ場所をじっと動かない。
彼らは戻って来た弥平に表情を引きしめた。
「爺《じい》さん、なにか忘れ物ですか?」
一行のリーダー格が、鋭い目を据《す》えて問いかけてきた。
「いや、忘れ物じゃねえ。あんた方は、どこから来なすったのかね?」
「我々は上から下りて来て、この先の山腹を通過したところで雪崩にあったんですよ。もう少し遅ければ、巻き込まれるところだった」
「上のほうって、仙丈のほうかね?」
「そうです」
「後から来る人はいないのかね?」
「後から来る人? そんな者はいませんよ」
「すると、あんたたち、ピッケルももたねえで、上のほうへ行ったんか?」
「ピッケル?」
「そうだ。この季節にピッケルももたずに、仙丈や駒へ登るのは、無理だべ。それにアイゼンもワカンもつけてねえようだ」
弥平は、彼らの足ごしらえを見た。凍った急斜面の稜線を下りて来るのに、アイゼンなしでは不可能である。取りはずしている様子もない。リーダーの表情に狼狽《ろうばい》の色が走った。
「そ、それは、さっきの雪崩ではね飛ばされてしまったんです」
「全員《みんな》がかね?」
「そうです。ピッケルが身代わりになってくれたようなもんです」
リーダーの言葉を聞いて、弥平の疑いは、深まった。ピッケルがはね飛ばされるのは、滑落《かつらく》したときである。転倒したはずみや、滑落を食い止めようとして、雪面に突き立てたときにはね飛ばされやすい。ピッケルを失ったときは、その所有者もたすからないことが多い。
それが全員|揃《そろ》ってピッケルを失い、しかも全員無事とは? 改めて彼らの顔を観察すると、どう見ても、山中滞在数日を経た顔ではない。せいぜい、一、二日である。それとなく立ち木の背後をうかがうと、先刻あった銃器らしいものは見えなくなっている。
「どこへ行くのですか?」
上方へ向かって歩きだした弥平を、リーダーがびっくりして呼びとめた。
「どこへって風巣へ行くだ」
「だから、風巣は雪崩で道が通れないと」
「雪崩の現場まで行ってみるよ。どの程度の雪崩か見てえし、通れる所があるかもしれねえ」
「危険ですよ。第二次雪崩がいつ発生するかもわからない」
「だったら、あんたたちもこんな所にぐずぐずしていないで早く下りたらどうだ」
「ぼくらは荷物を流されたので、雪崩の危険のおさまるのを待って、拾いに行くつもりです」
「荷物? 何を流されたのかね?」
「それがピッケルとか、その他いろいろな装備です」
「装備だけ雪崩にやられて、体だけたすかったとは、ずいぶん運がよかったな。とにかくおれは行ける所まで行ってみるだ」
「やめなさい!」
「おれは地元の人間だよ。あんたたちよりもこの辺の地理にはずっとくわしいだ」
「悪いことは言わない。本当に危険なんだ」
「おれは郵便配達だ。雪崩の現場も見ないで引き返しては、手紙を待っている人に申し開きが立たねえからな」
「我々の言葉を信用してくれないのですか?」
「どうしてそんなにむきになって止めるのかね? なんだか、この先へ行かれては都合の悪いことがあるような感じだな」
なにげなく言った弥平の言葉に、登山者がザワッと反応したようにおもえた。それは殺気のように弥平の身体に突き刺さってきた。むしろ、言った当人の弥平のほうが、意外な相手の反応にびっくりした。反応したということは、彼の言葉が真実を言い当てたことになる。
「あんたたち、本当に上のほうから下りて来たのかね?」
弥平は、さらに突っ込んだ。一行が沈黙した。どうするというように、一行がリーダーの顔色をうかがっている気配がわかった。叩《たた》けば割れそうな緊張が、周囲にみなぎった。弥平は、その緊張からはじき出されたように、風巣の方向へ足を進めた。進路はこれから樹林を抜けて、峠にかかる手前の権《ごん》右衛門山《えもんやま》の中腹を巻く箇所がある。そこが新道の唯一の雪崩要注意地区であった。そこを通過してしまえば、危険な箇所はない。
「爺さん」
リーダーが、また呼び止めた。
声に決意がこめられていた。彼にはもう本隊の指示をあおいでいる余裕がなかった。
「何だね?」
弥平は振り返りもせずに言った。
「爺さんは、我々の言葉を信用できないのか」
「ああ、信用ならねえな」
弥平ははっきりと言った。
「あんたの危険をおもって言ってるんだぞ」
「親切はありがとうよ。だがなあ、わしの目で確かめたいんだ」
「どうしても行くというなら、実力をもって阻止する」
「実力?」
弥平は、びっくりした顔をした。そのとき初めて疑惑に代わって、恐怖が湧《わ》いてきた。彼らに登山者としてはどうも怪しい節が目立ったので、引き返して来たのだが、危険は感じていなかった。だが、いま初めてただの登山者ではないのを悟った。
――山賊かもしれねえ――。
山賊とは、また大時代だが、弥平は本当にそうおもった。奪われるような金品はなにも身に付けていない。だが恐怖は速やかに脹《ふく》れ上がって、いまにも殺されそうな気がしてきた。
弥平は、自衛本能から駆けだした。逃げるなら、下方へ行けば問題なかった。ところが、下方は山賊≠ノよって塞《ふさ》がれている。逃げ道は上方しかなかった。
急に逃げだした弥平を見て、レインジャーの歩哨《ほしよう》は慌《あわ》てた。彼を風巣へ入れたら、コトだ。
「あっ、待て!」
制止の声が、弥平の恐怖をますます煽《あお》った。
「停まれ。停まらぬと射つぞ」
隊員の一人がついに不用意に言った威嚇《いかく》の言葉が、弥平に山賊の襲撃と完全におもい込ませてしまった。こうなると、本人が停まろうとしても、足のほうが勝手に動いてしまう。
折りから道は、つるつるに凍った痩《や》せ尾根の上に出た。片側がカール状に抉《えぐ》り取られている。権右衛門山のカールである。恐怖のあまり、注意力のうすれた弥平の足が、常ならばなんでもない雪道でスリップした。転倒した身体が、カール側の傾斜に放り出された。
通いなれた道なので、ピッケルやストックのような身体を支えるものをなに一つもっていなかった。普通の状態で転倒したのであれば、立ち上がれたはずであった。「山賊に追われて」慌てふためいていた弥平は、転倒したことで一層に動転した。足許《あしもと》もよく確かめないまま起き上がろうとして、さらに不幸なスリップを繰り返した。それは立ち直りのきかない絶望的な体勢のまま、権右衛門山のカールの急傾斜に弥平の身体を引っ張り込んだ。
悲鳴の尾を長く引いて、弥平はたちまち雪に埋められた谷底へ消えてしまった。
リーダーと隊員は、しばらくの間|茫然《ぼうぜん》として、弥平が落ちた谷底のほうを見ていた。
「大変だ! すぐ救出しろ」
さすがにリーダーが最も早く我に返った。
「彼を死なせたら、大変なことになるぞ」
言われなくとも隊員には、ことの重大性がわかっていた。郵便配達が帰らなければ、麓《ふもと》から捜索隊が来る。
だが、いまは郵便配達に疑惑を抱かせてしまった。無事に帰しても、麓に報告される。帰さなければ、捜索隊を呼び寄せる。いま彼らはジレンマに陥った。だが当面の急務は、郵便配達を死なせないことであった。
リーダーと隊員は、雪の斜面を弥平の滑落した痕《トレース》を追ってそろそろと下降をはじめた。
3
そのころ、反町は新道を避けて、権右衛門カールの下方を慎重にトラバースしていた。風巣への唯一の安全な出入口は、当然見張りのいることが予想された。となると、旧道のあった谷筋を行く以外にない。
特に権右衛門カールは樹林が少なく、傾斜が強いので、雪崩の危険地帯であった。
雪は湿気を含んでいて、ラッセルが重い。雪の深さは股のあたりまで達するので、遅々として進まない。灌木《かんぼく》がところどころ雪の上にあらわれている。少し下るとブナの林があるはずであった。そこへ逃げ込めば一安心できる。
夏道は深雪に完全に消され、地形もだいぶ変わっているので、見当がつけ難い。上方の疎林《そりん》を風が鳴らし、人声を聞いたように錯覚して何度もハッとする。
いよいよ権右衛門カールの横断にかかったとき、いきなり上方に気配があって、黒い物体が雪煙をあげながら滑落してきた。
この上方は唐檜《とうひ》の疎林が自生する尾根で、反町の開発した新道がある。反町は落ちて来る物体の正体を見届けるよりも、自分の身の危険を悟った。
落下物が、雪崩を誘発する危険を考えたのである。彼は落下物のちょうど真下にいた。付近に身を寄せるべき樹林も岩かげもない。ここで雪崩にさらされたら、絶対にたすかるチャンスはない。
立ちすくんでしまった反町のほうに向かって、雪煙を巻き上げ、途中で何度かバウンドしながら物体は一直線に滑落して来た。その後を追うようにして小さな雪のブロックが落ちてくる。物体は、反町の近くへ来て、傾斜が緩《ゆる》まったために、ようやく停止した。
雪まみれになっているが、それはまぎれもなく人間であった。停止したあたりの雪面が赤く染まっていくのがわかる。滑落の途中、岩にぶつかり、雪にこすられて、かなりひどい状態になっているにちがいない。
後からちり雪崩が追いかけて来たが、すぐに停まった。さいわい雪崩は誘発されなかった。だが、いまの滑落で、新たにどんな危険なエネルギーが雪に蓄えられたかわからない。
眼前に落ちて来た人間を見捨てて逃げ出すわけにはいかなかった。それにその人の身許も確かめたかった。
「おい、しっかりしろ」
滑落者のかたわらへ寄って抱き起こしかけた反町は、相手の顔を覗いて驚いた。それは反町もよく知っている郵便配達の高戸弥平だった。
彼ならばこの辺の地理や地勢は職場≠ニして知悉《ちしつ》しているはずである。それがどうして、滑落などしたのか?
「弥平さん、しっかりしろ!」
反町は、弥平を膝《ひざ》の上にかかえて名を呼んだ。弥平はかすかにうめいた。意識は残っているらしい。顔面が擦過傷《さつかしよう》を負い、右の口唇が切れて血を吹き出している。前歯も折れた様子だ。目をよく開けない。その他全身に打撲傷を負い、足も骨折しているらしい。両膝と、両掌からも激しく出血していた。だが、この場では応急手当てもできなかった。
「気をしっかりもつんだ。すぐ手当てしてやる」
反町は、とにかく彼をこの危険地帯から雪崩のおそれのない樹林帯へ移そうとした。
「こ、これを…………」
弥平が、血まみれの手になにかをつかんで反町のほうへ差し出した。一通の手紙である。
「これを届けてくれというんだな。大丈夫だ。責任をもって届けてやるよ。それよりあんたの手当てのほうが先決だ」
反町が弥平の身体を移動しかけようとしたとき、また上方にものの気配が起きた。
「この下だ」
「早く捕えないとまずいぞ」
「急げ!」
そんな声が交錯して、数人が斜面を駆け下りて来る気配が届いた。何者かが弥平の滑落の跡を追って来たらしい。雪崩の巣のような斜面を、なんの警戒も施さずに、ただ弥平の行方を探している様子だった。
――あいつらだ!――。
反町は嗟嗟《とつさ》に追跡者の正体を悟った。彼らは、弥平を「救う」と言わず、「捕える」と言ったのである。やつら[#「やつら」に傍点]が追って来たのだ。まだ、彼らの姿は、地形の死角に入っていて、ここからは見えない。
「に、逃げろ」
そのとき、弥平が口角から血を吹き出しながら言った。
「やつら山賊だ」
弥平は、消えかかる意識を必死にふるいおこしているらしい。彼は、山賊とまちがえたのだ。たしかに山賊の一種にはちがいなかった。隊の秘密を守るために、一村の抹殺《まつさつ》を図っている彼らは、最も凶悪でスケールの大きい山賊であろう。
「しかし弥平さんを残していけないよ」
「おれは、どうせだめだ……あいつらに捕まったら、あんたもなにをされるかわからねえ……逃げろ、おれにかまわず逃げるんだ」
弥平は、血まみれの口を必死に動かしながら、きれぎれの声で訴えた。言葉を押し出すつど、血がゴボゴボと吹き出た。
どういう経緯があったのか反町にはわからないが、弥平は彼らの警戒線に引っかかった。そこで彼らの阻止を振り切って押し通ろうとして足元を誤ったのか、あるいは彼らに突き落とされたのか、権右衛門のカールに落ち込んでしまったのだ。
「手紙を頼むぞ、あんたの奥さん宛だ。きっと渡してくんろ」
弥平は、最後の意識で訴えた。もう目も見えないらしい。
「真紀子宛だって!」
反町は、改めて、弥平から託された手紙を見た。
一通の封書の宛名書きに、たどたどしい筆蹟《ひつせき》で「見坊真紀子」と書かれてある。裏を返して、反町は息を詰めた。差出人は彼女の子供だった。子が母に宛てた手紙だった。封筒には、弥平の体から出た血が付いて、文字が読みにくくなっていたが、まちがいなかった。
自衛隊の気配は、ますます切迫していた。それ以上|逡巡《しゆんじゆん》していると、反町が発見されてしまう。
「弥平さん。かんべんしてくれ」
反町は、すでに意識が朦朧《もうろう》としている弥平を、せめて風当たりの少なそうな岩のくぼみに引きずり込んで、その場を去りかけた。山麓《さんろく》のほうへ向かうべきか、いまやって来た方角へ引き返すべきか、一瞬ためらいが揺れた。
全村を救うためには山麓へ向かうべきであった。だがここに、弥平から一命をかけて託された手紙があった。子から母に宛てた手紙である。
だが彼には悪い予感もあった。この手紙を真紀子に渡せば、せっかく自分の妻≠ノなっている彼女が動揺して、子の許《もと》へ帰りたがるのではなかろうか。
「おおい、まだ見つからないか」
「こっちじゃなさそうだ。そっちの方角をさがせ」
隊員の呼び交わす声がおどろくほど近くに聞こえた。声は進路の方角から来た。すでに山麓への脱出路は塞《ふさ》がれていたのである。来たルートを引き返す以外に方法がなかった。
反町は踵を返した。ラッセルがしてあるので、来たときよりは楽である。だが、彼らにラッセルの跡を見つけられれば、村の住人の中に、秘《ひそ》かに山麓へ脱出しようとした者があったことを見破られてしまう。
そのときはそのときのことと、焦眉《しようび》の急に迫った追跡者の気配から逃れるために、反町はピッチを上げた。
「おおい、いたぞう」
背後で声があった。見つけられたかとヒヤリとしたが、弥平を発見したらしい。
「死にかけている」
「もう手遅れだ、意識がない」
「どうする?」
そんな声が背後から追いかけてくる。弥平に気を取られて、まだ反町の足跡には気がつかないらしい。この間にできるだけ距離を稼《かせ》いでしまうのだ。
ようやく彼らの気配が消えた。途中からわずかに水が流れている沢の上を伝う。雪崩の危険地帯を通過して、村が視野に入った。反町はホッとすると同時に、弥平から託された手紙を手にもったままでいたのに気がついた。
糊代《のりしろ》に付いた雪が解けて、封が開きかけていた。中身の便箋《びんせん》が少し覗いている。反町はそれを覗いてみたい誘惑に克てなかった。
便箋にはたどたどしい字で次のように書いてあった。
――まま、どうしてぼくをおいていっちゃったの、ぼくさびしくてたまらないよ、さびしくてさびしくてこまるので、ままのえをかいてお平家[#「平家」に傍点]のかべにはってるんだよ、でもえはいくらはなしてもこたえてくれないよ、ぼくをだいてもくれないよ、夜、まくらにはなしかけると、ままの声がきこえるような木[#「木」に傍点]がするんだ、だからこのごろよくまくらとはなしするよ。先じつままじいがきて十所[#「十所」に傍点]をおしえてくれたので手がみをかくよ、この手がみ呼[#「呼」に傍点]んだら、すぐかえってきてよ、ぼくいつももんの前でまってるからさ――。
長い時間をかけて一生懸命書いたらしい。手でこすった鉛筆の文字が黒くにじんでいる。誤字だらけの稚《おさな》い文字だけに、訴える力がある。きっと離婚手続きのために訪ねて行った真紀子の父から、この住所を聞き出したものであろう。
「これを真紀子が読んだら……!」
結果は明らかである。いったんは反町との愛に殉《じゆん》じた彼女だが、わが子の呼ぶ声に母性を呼びさまされるだろう。手紙がきていないときですら、遠いわが子の呼び声に耳をすまして、反町の前から心を飛ばしてしまう真紀子であった。こんな手紙を読ませられたら、なにもかも放擲《ほうてき》してわが子の許へ帰ろうとするだろう。
――これを真紀子に見せてはならない――。
だが、この手紙は弥平が命と引き換えにして反町に託したものであった。その信託を裏切ってよいものか?
反町の心は揺れた。手紙を風巣へもって帰れば、真紀子へ見せざるを得ない。握りつぶすなら、いまのうちであった。
「おれには真紀子が必要だ。いまさら子供の所へ易々《やすやす》と引き返させるわけにはいかない」
反町が動揺しかかる心にピリオドを打とうとしたとき、下流の権右衛門沢のほうから、
「いたぞう」
という声が湧いた。
ハッとして下方を見ると、雪中行動服をまとっているので見分けにくいが、数個の点がチラチラと動いている。隊員たちが反町の足跡に不審をもって追いかけて来たのだ。
「おおい、待てえ」
彼らが叫んだ。
反町はすでに行動をおこしていた。
「待たないと射つぞ」
彼らが威嚇《いかく》した。反町は停まらない。まさか本当に射つとはおもっていない。隊員たちは雪崩の危険地帯にいるのだ。そんな所で発砲したらきわどいバランスで保たれている雪のストレスを崩し、雪崩を誘い出す。
「待て! 待たないか」
沢に出た反町と、まだ雪の中にいる彼らでは、行動力に差がある。彼らはもどかしがった。一人が銃を構えた。本当に射った。
もちろん威嚇射撃であったが、銃声は切り立った谷に反響して、長く尾を引いた。彼らも、弥平に死なれて、動転していた様子であった。
それは銃声が消えた後に来た。それは最初谷の上方のわずかな雪のくずれにはじまった。ズルッとくずれた雪のブロックは、さらに大きな雪量の落下を誘った。ティンパニーを叩いたような音がつづいた。次の瞬間、雪の中にたくわえられていた巨大なエネルギーが、雪煙をかきたてながら急斜面にほとばしった。煮え湯の吹きこぼれるような音がしばらくつづいた。
反町は、自分の身が安全圏に在《あ》ることがわかっていながら、眼前に落下する巨大な雪のブロックに圧倒されて立ちすくんでしまった。恐怖にとらえられる前に、茫然となった。
[#改ページ]
攻防の谷
1
同じころ、民宿では一同が銃声とそれにつづく雪崩《なだれ》の音を聞いていた。
最初の銃声がとどろいたとき、大屋と二名の部下は、ハッと目を見合わせた。銃声が大屋を完全に覚醒《かくせい》させる役を務めた。もちろん催眠中のことは覚えていない。
「あれは何だ?」
「いまのはたしか……」
と言いかけたときに、さらに大きな破裂音が届いた。つづいて熱湯の吹きこぼれるような音。
「雪崩だ!」
秋本が言った。
「権右衛門沢の方角だじ」
佐原隆造がつけ加えた。
「すると、あの人が……」
と言いかけて真紀子は口をつぐんだ。だが表情から血の気が完全に退《ひ》いている。反町が山を下ったということは、大屋らに悟られてはならない。もし反町が下った方角に雪崩が発生しても、救援に行けないのである。
「最初の音は、銃声だった」
木下|二曹《にそう》が銃声にこだわった。
「だれが銃なんか射つだかね。雪崩の初めの音はあんなふうに聞こえるもんだ」
隆造に言われると、木下も自信のない顔つきになった。
「とにかく様子を見に行ってみよう」
福島が立ち上がりかけたのを、大屋が手をあげて制した。
「様子は我々が見に行きます。あなた方はここを動かないでください」
「しかし、だれかが雪崩に巻き込まれたかもしれない」
「だれが巻き込まれるというんです? 村の人はみなここにいるし、この悪天候下を、登って来る人もいないでしょう」
「いや、下からだれか様子を見に来たかもしれない」
「それは我々にまかせてください」
大屋は、秋本の催眠術の傀儡《かいらい》になっていたときとは別人のように、厳しい表情になって外へ出て行った。そのために、反町の不在をそれ以上追及されずにすんだ。
大屋らが出て行って間もなく、反町が雪まみれになって帰って来た。
「まあ、あなたご無事で」
真紀子がみなの目もかまわず抱きついた。
「心配をかけてすまなかった」
反町は真紀子の背中をやさしく撫《な》でてから、一同に向かって、
「やっぱり、やつらの見張りがいました。やつら新道を来た郵便屋の高戸さんを阻止して、谷へ突き落としたのです」
「え、弥平さんが!」
隆造が目を剥《む》いて、
「それで弥平さんはどうなった?」
「お気の毒ですが助からないでしょう。私も見張りに見つかって、一人で逃げて来るのが精いっぱいでした。やつら血迷って、権右衛門沢で私に発砲したのです」
「やっぱり最初のは、鉄砲の音だったか」
隆造がため息をついた。
「そのために雪崩を誘発してしまったのです。私はきわどいところで助かりましたが、谷にいた自衛隊の見張りは全滅した模様です」
「自業自得ずら」
「しかし弥平さんもいっしょに埋められた」
「まあ!」
二人の女性が同時に悲嘆の声を発した。
「真紀子」反町は妻≠ノ向かって、
「これは弥平さんが命をかけて届けてくれた手紙だよ」
と例の手紙を差し出した。
「私に、いったいだれからかしら?」
「差出人の名前をごらんよ」
手紙の裏を見た真紀子の表情が変わった。
「まあ利也!」
真紀子は反町が貼《は》りなおしておいた封を開く手ももどかしく、便箋を開いた。
「利也、なんてことを、枕《まくら》といつも話をするんですって、可哀想《かわいそう》な利也」
読み終わった真紀子は、便箋をひしと胸に抱きしめて、遠い目をした。そのとき彼女は、自分たちの陥っている深刻な状態を忘れていた。いや、すべてを忘れていた。いま彼女の目にあるのは遠方のわが子のおもかげだけであった。
「私、行かなければ……」
焦点のない目を遠方に泳がせながら、彼女はつぶやいて、ふらりと立ち上がった。
「真紀子!」
と呼びかけた反町の声も耳に入らない様子であった。手紙だけ同じ形で胸に抱きしめている。
「あの子が呼んでいるわ。早く行ってやらなければ」
「真紀子、なにを言ってるんだ。しっかりしろ!」
反町が耳元で声を励ましたので、彼女は我に返り、
「取り乱してごめんなさい。でも、私、利也の所へ行かなければならないわ。利也を連れて必ずここへ戻《もど》って来るから、行かせて」
「なにを馬鹿なことを言ってるんだ。すんなり行けるくらいなら苦労はしない。いま我々がどんな立場にあるのかわかっているのか」
「私、どうしても行かなければならないのよ」
真剣におもいつめているだけに、説得のしようがなかった。反町は、手紙を渡した結果が、まさに自分の恐れていたとおりになったのを悟った。
「おまえの望むようにしてやるから、もう少し待ってくれ。いま、谷は雪崩で塞がれてしまったし、連絡の絶えた見張りに本隊が様子を見にいっているだろう。いまから出るにしても時間が遅いから、明日のチャンスを待つんだ」
すでに夕方が近づいていた。いったん小康状態になった天候は、ふたたび雲を厚くしている。秋本は、反町に、大屋に催眠術を施して探り出したことを語った。
「やっぱりそうでしたか。すると、事情を知った我々は、まずたすけてもらえないな」
「たすけてもらえないというと、どうなるんですか?」
小暮が不安に耐えて聞いた。
「認めたくありませんが、風巣とともに消されるでしょう」
「そんな馬鹿な!」
小暮が悲鳴に近い声をあげた。
「大屋二尉が自分の口から言ったでしょう」
「あれは催眠術にかけられていたからだ」
「だからこそ本当のことを言ったのです。みなさん!」
反町は眉宇《びう》を引きしめて、一同の顔を見渡した。
「先刻、私は力を合わせて戦おうと言いました」
一同が反町の言葉の奥にあるものを探っている。
「しかし、それは積極的な戦いの意味ではなく、脱出する手だてを考えようということでした。しかしこうなったからには方針を変えなければなりません」
「レインジャーを相手に戦争をするのかね?」
秋本が、むしろ皮肉っぽい口調で言った。
「そうです」
「しかしどうやって?」
「秋本さんの催眠術で、大屋をどうやら我々の傀儡にしました。彼を使って本隊を誘導できないでしょうか?」
「誘導? どこへ誘導するのかね?」
「権右衛門沢ですよ、あそこにはまだまだ雪のエネルギーがあります。本隊をあそこへ誘い出して谷の上方に刺激を加えれば、昨夜彼らが私たちにしたことをそっくりそのまま返せます」
「多少は救助隊が行くだろうが、本隊を全員誘い出すのは、難しいな」
「それをなんとかしてください。大屋を使って」
「大屋一人を押えたところで、どうにもならないよ」
「それより他に方法がないのです」
「もし、仮にその作戦が成功しても、本隊に生存者がいれば、我々はみな殺しにされるぞ」
「なにもせずにいても、どうせ殺されるんです。たとえ我々が蟷螂《かまきり》でも、精いっぱいの抵抗をしてみようじゃありませんか」
「うまく本隊を権右衛門沢に誘い出せたとしても、二次雪崩をおこす刺激はどうやってあたえるんだ? 我々には銃や火薬はないし、あっても使い方がわからない」
福島が質《たず》ねた。
「権右衛門沢に彼らを誘い出しさえすれば、私にいい考えがあります」
反町は、自信がありそうであった。
2
権右衛門山に配置した四名の見張りが、雪崩に巻き込まれて全滅したらしいという連絡をうけた塚本二佐は、束《つか》の間《ま》、言葉を失った。それも突然見張りからの連絡が絶えたのを怪しんで、様子を見に行かせた偵察《ていさつ》が報《しら》せてきたものである。
報告によれば、雪崩は権右衛門沢のカールの中腹から底のほうにかけて発生している。見張りの正位置にいれば、雪崩に巻き込まれるはずはなかった。それが全員やられてしまった。見張り全員が、雪崩の発生した時期に危険地帯に移動していたことになる。彼らはなぜそこへ移動したのか? 偵察にも答えられなかった。
さらに十名ほど、本隊から割いて現場へ救援に向かわせたが、雪のストレスがだいぶ残っており、第二次雪崩発生のおそれもあるうえに、時間が遅くなって捜索が困難になった。さすが、レインジャー部隊の猛者連《もされん》も、昨日からの昼夜をおかぬ連続の作業に、疲労が目立ってきた。
しかもまだ機体破片の回収と現場の原状回復は、完璧《かんぺき》とは言えない。風巣の住人と民宿客は、ほとんど無傷のまま残っている。サルビヤB作戦は手つかずと言ってよかった。
「死んだ隊員には気の毒ですが、まず生きている隊員の休息を考えるべきでしょう。危険を冒して、死体を探すことはありません」
日野一尉が、はなはだ冷酷なサジェスチョンをした。冷酷だが、最も適切な意見であった。
「よし、今夜は交代に、休息を取らせよう。風巣は今夜のうちに目処《めど》をつけたい」
「それでは、例の作戦を実行しますか」
日野が光る目で塚本の表情をうかがった。
「うん、今度こそ決着をつけられるだろう」
「今度は私に指揮を取らせてくれませんか」
「いいだろう」
塚本はうなずいた。
3
山はふたたび風雪模様のうちに暮れかけていた。雪崩に埋められた隊員の捜索は、明日に繰り越された様子であった。大屋ら三名の姿も、本隊へ帰ったのか見えなくなった。
「今夜無事に切り抜けられれば、明日はこちらから反撃を仕掛けられます」
反町は、尾根を渡る風雪の音を聞きながら言った。だが、その今夜が最も危険なのである。時間が経過するほどに、相手にとって不利となる。今夜のうちに必ずなにか仕掛けてくるにちがいない。だがそれを言うと、徒《いたず》らに不安を煽るだけであった。
「いまのうちに交代で眠りましょう。明日はみなさんに精いっぱい動いてもらわなければならない。私が最初起きています。二時間ごとに代わってください」
反町はとにかく休息を取ることを提案した。敵がなにか仕掛けてくるにしても、もっと遅くなってからであろう。
「反町さん、ぼくを偵察に行かせてくれませんか?」
小暮が突然言った。
「偵察?」
「向こうの様子を探りたいのです。できたら野崎さんの消息も確かめたい」
「しかし、あなたはこの辺の地理に不案内でしょう」
反町が一同を残して出て行くわけにはいかなかった。
「不案内なのは敵も同じですよ。水入らず沢には昨日行ったので、だいたいの道筋はおぼえています。それに私には強い武器があるのです」
「武器?」
「私はね、わりあい夜目がきくのです、猫《ねこ》のように闇《やみ》の中でもよく目が見えます」
「本当ですか?」
「本当です。遺伝体質だとおもうのですが、おふくろも夜目がききました。猫の目のように瞳孔《どうこう》がとても感受性に富んでいるのです。だから懐中電灯をもったことがないし、車もライトをつけずに闇夜の運転ができます」
「それはこの際、素晴《すば》らしい武器だ」
「偵察に行っていいですね?」
「くれぐれも慎重に行動してください。あなたは私の大切なお客であるうえに、この際一人一人が貴重な戦力なのですから。行動は、一時間としてください。一時間以内に、どんなことがあっても帰って来てください」
「わかりました」
「その荷物はおいていったらどうですか?」
反町から道筋を改めて詳しく教えてもらった小暮が、自分のもってきたリュックを背負ったので、反町がいぶかしげに言った。いま気がついたことだが、小暮はここへ来て以来、そのリュックを片時たりとも身辺から離さなかったようである。
「いや、こういう非常時ですから、自分のものは、自分でもっています。彼らがぼくのいない間、襲って来るかもわかりませんからね」
そう言われてみればそのとおりなので、反町は小暮の好きなようにさせた。しかし、この期《ご》に及んで片時も身辺から離さずにおくものとは、どんなものなのかと興味をそそられた。
小暮は、一時間経っても、帰って来なかった。反町はさらに一時間待った。彼は小暮の身になにかが起きたと判断した。彼は隆造を起こして相談した。隆造は朝まで待ったほうがいいと言った。
「しかし、もし道に迷ったとすれば、朝まで放っておくとたすからない」
それに対しては隆造も答えられなかった。
「まだ足跡が残っているかもしれないから、いまのうちに探してきます。あとを頼みます」
結局、隆造に後を託して、反町は出発した。
真紀子におしえると、いらざる心配をするので黙っていた。
そのころ小暮は、得意の夜目をきかして、水入らず沢の本隊の夜営地の近くまで忍び寄っていた。さすがのレインジャーも疲れたらしく、テントの中でぐっすりと眠り込んでいる様子だった。歩哨《ほしよう》が要所要所に配されているが、小暮の夜目≠ヘ、その位置を先取りしていた。
小暮は、自分の特技≠ェこんな場所で、このようなかたちで役に立とうとはおもわなかった。
4
「泥《どろ》のように」という形容そのままに、夢も見ずに眠った。眠りの底に疲労が沈澱《ちんでん》して上のほうが少しずつ漂白してきた。その上澄みのかなたから、呼びかけてくる声があった。たしかに聞きおぼえのあるあの声である。
「ママ! 早く帰って来て」
その声は遠方から切なげに呼んでいた。
「利也!」
真紀子は愕然《がくぜん》とした。それはまぎれもなくわが子の声であった。遠方から利也が、母を求めて呼んでいる。意識の上層に霧が流れていた。移動する霧の濃淡のあわいに、ふと利也の体の輪郭が浮かびかけては、また消えてしまう。わが子の方角に行こうとしても、身体が麻痺《まひ》していて動けない。
「利也! 待っていて、すぐ行くわよ」
叫んだ自分の声で、真紀子は目を覚ました。夢だった。夢の中でわが子が呼びかけてきたのだ。だが、夢から醒《さ》めても、身体が依然として動かない。動こうとする意志はあるのだが、それが動作に結びつかないのである。
真紀子は、以前なにかの小さな手術をうけて局所麻酔されたときのことをおもいだした。意志があっても、身体のその部分が動かなかった。あのときの感覚になにやら似ている。頭が割れるように痛い。彼女は眠っていた間になにかの異変が身体に進行したのを悟った。
――佐倉さん――と呼びかけたつもりが、はっきりした言葉にならない。声帯も痺《しび》れかけている。まゆみは、ぐっすり眠ったままである。並べて敷いた彼女の床の胸のあたりが忙《せわ》しなく上下している。
「佐倉さん、起きて! なんだかおかしいのよ」
真紀子は痺れた口を必死に動かしてまゆみを呼んだ。
しかし返答はなかった。真紀子は、まゆみの眠りも普通ではないのを悟った。手をのばして揺り起こそうとしたが、その手も動かない。麻痺≠ヘ全身に進行している模様だった。
まゆみもそのとき夢を見ていた。夢の上のほうで、だれかの呼ぶ声がしきりにしていたが、身体が暗い虚空《こくう》の中を垂直に落ちていく。墜落を食い止めるべく必死に手探りするのだが、なにも手がかりになるものがない。
全身が冷えていた。高所から底知れない奈落《ならく》を見下ろしたような、いやな冷感であった。もうだいぶ長い時間墜落をつづけているような気がした。それでもまだ底へ行き着かないのだから、ずいぶん高い所から落ちたらしい。
自分に呼びかける声が上方へ遠ざかっていく。私を停めて。私の墜落を停めて。――と上方へ向かって叫んだつもりなのだが、唇《くちびる》が痺れて、声が出ない。後頭部に脳みそを絞られるようないやな痛みがある。
真紀子は、まゆみを起こすのをあきらめた。空気が異様に重い。油のようにトロリと沈澱して、その濃度をますます強めている。
「空気が変なんだわ!」
異変の元凶が、呼吸している空気にあることをようやく悟った。一息吸うごとに確実に身体から力が脱けていく。遠方でシュウシュウと空気の漏れるような音がしていた。目覚めたときから聞こえていた音なのだが、いまになって気がついたのである。
――ガスが漏れてる!――。
真紀子は、慄然《りつぜん》とした。一酸化炭素中毒の恐ろしさはよく聞いている。全身の行動能力を奪われて死に至る。たとえたすかったとしても、恐ろしい後遺症が残る。
――でもここにガスはない。燃料は薪《まき》と炭だけだわ、それなのに……?――。
「あいつらだわ!」
身に迫った危険そのものよりも、おもい当たった悪意の主に、真紀子は絶望した。彼らが仕掛けてきたのであれば、もうたすからない。他の部屋にいるはずの反町や客たちはどうしたのか? 反町が危険を察知すれば、逸早《いちはや》く報せて避難させるだろう。それをしないということは、彼がすでに……?
不吉な想像が走った。――ママ! 遠方からまた利也の声が呼びかけてきた。
「あの子が呼んでいる。いまここで私があきらめたら」
わが子の声が、彼女に必死の力を奮い起こさせた。まず窓を開けなければならない。新鮮な外気をたっぷり取り入れれば、身体の麻痺も解けるかもしれない。
わが子の声に応《こた》えようとする母性本能が、麻痺した身体に信じられないような力を起こさせた。全身の力で這《は》いながら、ようやく寝床を脱け出した。窓辺まで、虫のようにじりじりと這う。動いたので、呼吸が激しくなり、より多くの毒を含んだ空気を吸い込んだ。
身体の麻痺はさらに進行した。〈もうだめ〉とあきらめかけるつど、利也が呼んできた。
ようやく窓際に、にじり寄った。鍵《かぎ》は取り付けられていない。片手で繰《く》れるガラス窓が、石のように重い。ようやく腕が入る程度にこじ開けた隙間《すきま》に、頭を突っ込み、体重をかけて、いっぱいに開いた。冷えきった外気が一斉《いつせい》になだれ込んできた。朦朧《もうろう》としかけた意識が急速に覚めて、新鮮な酸素を補給された細胞がよみがえる。冷気に晒《さら》された身体にも感覚が還《かえ》ってくる。
しばらく窓から外気を呼吸していた真紀子は、いくらか身体を動かせるようになった。彼女はまず反町の安否を確かめようとした。
反町は、表のストーヴのある部屋にいるはずであった。反町さえ無事なら、あとはなんとか引き受けてくれる。だが表の部屋に反町の姿はなく、隆造一人が眠っていた。他の者はそれぞれの部屋に眠っているらしい。ストーヴは消えていた。
「隆造さん、起きて! 大変よ」
真紀子の呼び声に隆造が目を開いた。表の部屋は、出入口に面しており、隙間が多かったので、隆造の状態はそれほど深刻ではなかった。彼の場合は疲労から眠り込んでいた様子である。
「大変、ガスよ! 他の人が危ないわ」
そこまでが、真紀子の体力の限界であった。彼女の意識はふたたびかすんで、猛烈な睡魔に引きずりこまれていた。
5
本隊のテントからやや離れて、一つだけ灯のついている小テントがあった。哨戒線を巧みに潜《くぐ》り抜けて、その小テントを覗《のぞ》き込んだ小暮は、おもわず声を出しかけて、危うくのど元で抑えた。テントの中には野崎が手足を縛られて芋虫《いもむし》のように転がされていた。
そばに携帯用の石油コンロがあって、見張りが一人眠りこけている。一瞬、見張りに気づかれたかと、身体を退いたが、いつまで待っても気配が生じない。再度、中の様子を覗いて、見張りが眠っているのを確かめた。野崎も死んだように動かない。
小暮は、見張りの眠りこけている様子に増長して、おもいきった冒険をこころみた。改めて周囲の気配をうかがってから、テントの中へ忍び込む。身体の自由を奪われている野崎のそばへ、密《ひそ》かに這い寄った。見張りはまったく気がつかない。
「野崎さん」
彼は野崎の体に手をかけてそっと揺すった。野崎の神経は覚めていたとみえて、すぐに目を開いた。
「あ、きみは!」
「静かに」
小暮は野崎の口を抑えて、
「こんな所におられたのですか? いったいこれはどうしたのです?」
と言いながら、野崎の手足の拘束を手ぎわよく解いていった。熟練したプロの手先だった。
「いいところへ来てくれました。こいつら、風巣をこの地上から消してしまうつもりだ」
「やっぱりね」
「知っていたのですか?」
「秋本さんが、偵察隊の隊長に催眠術をかけて聞き出したのです。とにかくここから逃げ出しましょう」
言い終わったときは、野崎の拘束は完全に解かれていた。
「逃げる、どこへ?」
野崎がいぶかしげに聞いた。
「もちろん、風巣へですよ、みんなの所へ戻るんです」
「やつら、私が逃げたのを知れば、すぐ追いかけて来ます。みんなに迷惑をかける」
「どちらにしても、大して変わりありません。どうせやられるにしても、みんないっしょにいたほうがいい。今夜一晩もちこたえれば、明日は反町さんがなにか反撃の方法を考えているそうです」
「反撃? こいつらを何者だとおもっているんです?」
「知っていますよ。しかしみんなで協力すればなにかできるかもしれない」
そのとき、見張りが一声うめいて、体を動かした。
「さあ早く! 逃げるならいまのうちだ」
二人は見張りの寝息をうかがいながら、テントから脱け出した。哨戒線を潜り抜けて、風巣が視野に入る地点まで下って来たとき、下方から小暮を探しに来た反町と出会った。反町は二人が無事なのを喜んだ。
「あなたが逃げたのを知って、敵は最後の判断を迫られるでしょう。野崎さんから聞いて当然我々は彼らの悪意を知る。彼らの化けの皮は剥《は》がれたのだ」
「一気に襲いかかって来るでしょうか?」
小暮が不安を正直に面《おもて》に浮かべた。
「来るとすれば今夜のうちに来るでしょう」
野崎が言った。
「ともかく村へ帰って、全員で対策を考えましょう」
「だれか来る!」
そのとき小暮が闇のかなたへ目を凝《こ》らした。
「来る? いったいだれが」
「私にはなにも見えないが」
反町と野崎が、小暮の視線の先を追った。
「いや、たしかにだれかがこちらへやって来ます。五、六人か、いやもっといるかもしれない」
小暮は、闇の奥を凝視しつづけながら言い張った。空は厚い雲に塗りこめられ、風巣をめぐる雪の斜面には動くものの気配はない。背後の樹林帯には濃い闇がたむろしている。
「樹林の中をやって来ます。やつらだ! この方角を進むと鉢合《はちあ》わせする。こっちへ来て。急いで!」
小暮の声が切迫した。
ようやく野崎と反町にも接近する者の気配が届いた。樹林帯の闇の中を跳梁《ちようりよう》するもののけのように近づいて来る。三人は樹林の下に身を伏せて、近づく者をやりすごそうとした。
それはレインジャーだった。数えると、六名いた。彼らは三人が潜《ひそ》んでいるとも知らず、一陣の黒い風のように通り過ぎて行った。通過した後に血腥《ちなまぐさ》いにおいが漂っているように感じられる。
「あいつら、どこから来たんだろう?」
「村のほうから来たが」
「まさか、村の人たちを?」
三人は顔を見合わせた。
「いまのやつらの様子は只事《ただごと》じゃなかったな」
野崎が村のほうをすかし見た。
「村が危ない?」
反町は、まず風巣に残した妻の身を想った。
真紀子が気がついたおかげで、民宿の一同はきわどいところで救われた。かなり濃密な有毒ガスを送り込まれたらしいのだが、家の造りが不完全で、隙間が多かったのが、怪我《けが》の功名となって、ガスが逃げ、いずれも致命的効果をうけるのをまぬかれた。
窓を開放して新鮮な外気を呼吸しているうちに、みな自力で歩ける程度に回復した。秋本が適切な治療を素早く施したことも回復をうながした。さいわいに後遺症はないようである。
隆造の妻だけが老齢の上に、最も奥まった部屋に寝ていたために回復が遅れた。しかしこれも生命の危険はなかった。
「一酸化炭素を、ボンベにでも詰めて運んできて、家の中に吹き込んだらしい」
と秋本は推測した。
一同が気がついたときは、すでに犯人≠フ影は見えなかったが、これも彼らの仕掛けてきたことにちがいなかった。
「すまねえ、おれが見張りをしていながら」
隆造が面目なげに言った。
「おやじさんのせいじゃないよ。ガスを送り込まれたので、眠ってしまったんだ」
福島が慰めた。ちょうどそこへ反町、小暮、野崎の三人が帰って来た。彼らはそれぞれに起きたことを話し合った。
「また奥さんに救われましたな」
「いや、それよりも、ガスを送り込むとは、彼らもおもいきった手を打ってきたものです。一酸化炭素中毒ならば、炭火からも発生する。それが失敗したと知って、このままおとなしく引きさがるでしょうか?」
それが反町の心配だった。ましていまは、野崎を救い出してきている。焦《あせ》った彼らが、いっきょに凶暴な牙《きば》を剥き出して襲いかかって来るかもしれない。
「これまでは、いちおう表立って仕掛けては来なかった。なんらかのカモフラージュを施《ほどこ》してやってきた。やつらがなりふりかまわずやって来るときが恐いな」
秋本は言ったが、それが今度来るときかもしれないのである。
「来るとすれば、今夜がいちばん危ない」
野崎が一同の不安を代弁した。敵にもチャンスが少なくなりつつあった。悪天候は永久につづかない。もうそろそろ好天の周期に入るころである。高戸弥平の捜索もはじまるだろう。風巣の孤立が解ければ、もはや敵にチャンスはない。
「しかし、防ぐ手だてはない」
一同は暗澹《あんたん》たる顔を見合わせた。反町の企《たくら》んでいる反撃も、夜が明けなければできない。
「通信機さえ奪えれば、こっちのものなんだが……」
反町がふともらしたつぶやきを、野崎が聞きとめた。
「通信機か……」
「心当たりがありますか?」
反町が野崎のほうを見ると、
「水入らず沢にヘリが降りていたはずだ」
「ヘリ……?」
「ヘリの中には無線の設備がある。うまくヘリの中に潜《もぐ》り込めれば、外界と通信できるかもしれない」
「こんな山の中から無線が届きますか?」
「飛べば届きますよ」
「飛ぶ? 空をですか?」
「もちろんです」
「だれが操縦するんです?」
「私ですよ。私はもと航空自衛隊にいて、一時はパイロットを志望した者なのです。だからヘリの操縦ができる」
「あなたが!」
一同がびっくりした目を野崎に集めた。
「そんな回し者を見るような目で見ないでください。いまは隊とはなんの関係もありません。むしろ反戦運動をして彼らから敵視されています」
「いえ、だれも回し者だなんておもっちゃいません。ちょっと驚いただけです。しかし、ヘリコプターをそんなに簡単に奪えますか?」
「やってやれないことはないとおもいます。やつら、まさかこちらに、ヘリを操縦できる人間がいるとはおもっていないだろうから、それほど警戒していないとおもいます。もしうまく奪えば、そのまま外へ飛んで行ってもいい。ただ一つ心配なのは……」
ここで野崎はちょっと言いよどんだ。ヘリコプターを奪うとは、風巣側にとっては、まさに起死回生の妙手だった。
「何かあるのですか?」
せっかくの妙手を阻《はば》むネックがありそうな野崎の口ぶりに、反町はおずおずと聞いた。
「うまくヘリに乗り込めたとしても、この低温です。うまくエンジンがかかるかどうかわからない」
「エンジンのかかるチャンスはどうですか?」
「なんとも言えませんね、ヘリコプターの機種やエンジンの種類にもよるし、降着地点の環境にも影響される」
「機種は確かめてないのですか?」
「輸送用のV−107が飛んでいたとおもうのですが、よく確認できませんでした。他にも小型機種が飛んでいたようです。それらの中のどれが降りているかわかりません」
「エンジンがかからなかったら、いやかかる前に逮《つか》まったら、どうなります?」
「今度こそ、年貢《ねんぐ》の納めどきというやつでしょうね」
「危険が大きすぎる」
「いまのところ、それしか方法はありません」
「野崎さんにはご苦労だが、もう一働きしてもらおうか」
口をはさんだのは、秋本だった。
「朝になれば、ヘリコプターを奪うチャンスはなくなる。夜のうちだけだ。ヘリを奪われたというだけで、彼らにとってはショックだろう。うまく外界と連絡をつけられれば、もう勝負はついた」
「しかし、エンジンがかかったとしても、夜間の飛行ができますか? 天候は悪いし、このあたりは南アルプスの山勢の最も複雑な地域です」
「一《いち》か八《ばち》か、盲飛行をやってみますよ。地上の灯の見える方角へ飛んで行けばなんとかなるでしょう」
「夜間飛行の経験は?」
「そんなものありゃしません。操縦のメカニズムを知っているだけです」
反町は野崎案に消極的であった。野崎は彼の客≠ナある。客にあたえる危険が大きすぎた。しかし、このまま手をつかねていれば全員が抹殺《まつさつ》されてしまう。そこに反町の苦悩があった。
「また、ぼくがいっしょに行きましょう」
小暮が出てきた。
「夜目のきくぼくがいれば、多少は夜間飛行の助けになるとおもいますが」
「あなたが来てくれれば、大助かりだ。少なくとも、盲飛行ではなくなる」
すでに小暮の異能≠知っている野崎が喜色を目に浮かべた。衆議一決した。ここに追いつめられた風巣は、窮鼠《きゆうそ》の反撃に出たのである。
塚本二佐は、あいつぐ失敗にくさっていた。せっかくの毒ガス作戦≠焉A敏感な住人に逸早く悟られて失敗した。
ボンベに詰めたガスを、風巣の民宿が寝静まった時間を狙《ねら》って放出させたのだが、もう一歩の所で悟られてしまった。
そこへ野崎が逃げたという報告がきた。
「逃げた? どうやって」
塚本は、その報《しら》せが信じられなかった。手足を縛ったうえに、見張りを付けていたのである。
「見張りが眠っている間に、縄を解いて逃げた模様です」
「そんなやわ[#「やわ」に傍点]な結び方をしていたのか」
「いや、絶対に解けないように頑丈《がんじよう》に結んでいたはずなのですが」
「しかし現実に逃げ出している。まさか彼が縄ぬけの術を心得ていたわけではあるまい」
「それが、縄ぬけの術を知っていたとしかおもえないような見事な解き方をしているのです」
報告にきた下士が、心から感心したように言った。
「感心している場合じゃない。彼に風巣へ逃げ帰られたら、まずい。すぐ追うんだ」
「それにはおよばないでしょう」
ととめたのは、日野一尉であった。
「なぜだ?」
と向きなおった塚本に
「毒ガス作戦に失敗したときから、彼らは我々の意図に気がついています。いまさら野崎が逃げ帰っても、どうということはないでしょう」
「ますます彼らを追いつめないか? 我々の意図はもうとうに感づいているはずだ」
「もうこれ以上|猶予《ゆうよ》すべきではないとおもいますね。ガス作戦が失敗したときに、いっきょに殲滅《せんめつ》しようとおもったのですが、いったん帰れというご命令だったので、戻って来たのです。時間が経つほどに我々に不利になります」
日野は、呼び戻されたのが、不満のようであった。
「殲滅するといっても、我々の手が加えられたことは、絶対に悟られてはならないのだ。ガス中毒死させて、死体のそばに炭団《たどん》か煉炭《れんたん》でも転がしておけば、燃料の不完全燃焼によって大量の一酸化炭素を発生して、死んだとおもわれる。次の手を考え出すまでは、迂闊《うかつ》に手を出せない」
「しかし、我々の意図を悟られた以上、彼らを生かしておけないこともたしかです」
「わかっている」
風巣同様、塚本らも追いつめられていた。ジェット機が墜落した時点では、風巣の人間は、自衛隊側の悪意を知らなかった。だがいまはちがう。彼らはそれを知った。もし外界と連絡がとれれば、彼らはそれを当然訴える。国民の生命を守るべき自衛隊が、なぜ手をかえ品をかえて、風巣を攻撃してきたのか?
「国民を攻撃」したという一事がわかっただけで致命的である。その事実を隠すためには、彼らを一人たりとも生かしておけない。
だが、その抹殺に、自衛隊の足跡を残せないのである。どんな微小な痕跡《こんせき》も、こちらの命取りになってしまう。
塚本は、もはや引き返せない所まで来ていた。しかし無理押しもできない。いわゆる、にっちもさっちもいかない状態に陥ってしまった。
「この季節に山火事というのは、無理かな?」
「絶対にないとは言いきれませんが、雪がありますからね」
「大きな山火事に巻き込まれれば、一村全滅してもおかしくないんだが」
すでに火事を起こすという手口は、一度検討されて、打ち消された後であったが、塚本は「雪」や「クスリ」や「ガス」を使った手がいずれも失敗したので、もう一度「火」に未練をもったのである。
「火をおこす手段ならいくらでもありますよ」
日野が、目に残酷な光をたたえて言った。彼らは、一大都市を焼きはらえるだけの火力≠もっている。
「化学的な火災を起こして、それを自然発生的な火事に偽装できないか?」
「山や空気が乾燥している秋口ならばできないことはないとおもいますが、いまは難しいでしょうね」
「すると、もう使える手はないな」
さすがの塚本も進退きわまったかたちであった。
「そうだ」
そのとき日野がなにかにおもい当たった表情をした。
「なにかいい手だてがあるのか」
塚本がすがりつくように見た。
「これまでの手を、それぞれに分けて使ったら、どうでしょうか?」
「それぞれに分けて?」
「そうです。同じ手口で全員を抹殺しようとするから骨が折れるのです。一部は、雪で埋め、一部は火事で燃やし、残ったのは、クスリでもガスでも使って適当に処分してしまう」
日野が品物でもかたづけるように言った。
「しかし、それができないから、苦労してるんじゃないのか」
「村の連中は、我々の意図を知りました。もう遠慮することはない。彼らを捕え、その自由を拘束して、少しずつかたづけていくのです」
「なるほど、それ以外に方法がなさそうだな」
塚本が、日野の悪魔的な考えに同調しかけた。村人や民宿の客を分散して処分するのはたしかによい考えである。少なくとも全員が同種の死≠遂げる不自然は糊塗《こと》できる。それに、なりふりかまわなければ、どんな死でも強制できるようになる。
「ところで、どのように分けるつもりだ?」
塚本も品物を仕分けするような気持ちになっていた。
「民宿の連中は、ガス中毒がいいでしょう。年寄り連中は雪に埋めましょう」
「身動きできない年寄りは?」
「身動きできない年寄りはうまいぐあいに対岸に近い家にいます。彼らは家ごと雪で押しつぶし、残った連中は避難して逃げる途中やられたかたちにしたらどうでしょう」
「もう一度人工雪崩を起こすのか?」
「その必要はないとおもいます。さいわいに昨夜の雪崩の痕《あと》が残っています。方向がそれましたが、あれが村を直撃したように見せかけるのは、ちょっと加工するだけで十分可能です」
「だったら、全員を民宿に集めて、雪崩に埋めたらどうだ」
「全村の人間が民宿に集まるというのは、不自然でしょう」
「ちっとも不自然ではないさ。村が孤立したので、最も建物がしっかりしていて、食物もある民宿に集まったんだ」
「しかし大勢になればなるほど、全滅するのは不自然になります」
「だから、ガスと併用するのさ」
「併用?」
「きみは手口を分けて使うと言ったが、なにも分ける必要はない。ガスを吸わせて眠らせた後、雪崩に埋めてしまえばよい」
「なるほど、実に名案ですな」
日野は感嘆した。救援隊が雪崩の中から遭難者を掘り出しても、ガス中毒にやられて行動能力を奪われ、逃げ出せなかったと解釈してくれるだろう。
「きみがヒントをくれたんだよ」
「さっそくやりましょう。夜の明けないうちに決着をつけたい」
「ご苦労だが、またきみに実行の指揮を取ってもらうぞ」
「ぜひ、私にやらせてください」
ここに風巣の運命は定まった。
6
そのころ、野崎と小暮は風巣の運命を託されて、決死の反撃に出ていた。小暮という、夜目のきく盲導人≠ェいたので、行動が速かった。レインジャー側が再度の攻撃隊の編制をしているころ、二人は早くも、水入らず沢の台地に降着しているヘリコプターに近づいていた。前後にローターが二つある輸送用大型機である。
案の定、ヘリには見張りが付いていない。
「これはうまいぞ」
ヘリを見て、野崎がうなずいた。
「何がうまいのですか?」
「あのヘリの機種だと、ジェットエンジンなので、すぐにかかる。乗り込めさえすれば、すぐに飛び立てるぞ」
「すると、外と連絡がつきますね」
「うまく飛び上がれさえすればね」
「野崎さんは操縦ができるんでしょう」
「操縦の方法《メカニズム》は知っているが、飛んだことはないんだ」
「えっ、本当ですか!」
小暮はびっくりした顔をした。まさか一度も飛んだことがないとは知らなかった。
「恐かったら、来なくともいいんだぜ」
「行きますよ、ここに残っても、どうせレインジャーの餌食《えじき》にされてしまうんだ。それにぼくの目がないと困るんでしょう」
「そりゃあ、きみがいっしょにいてくれたら、心強い」
「よし、決まった、行きましょう」
二人は足音を殺して、機体の中に忍び込んだ。
突然、湧《わ》いたヘリコプターの回転翼《ローター》の音に、塚本は驚いた。
「だれだ! いまごろヘリを動かしているのは」
とたずねても、だれにも答えられない。まさか風巣にヘリを操れる者がいようとは夢にもおもっていないから、ヘリのパイロットが寝ぼけて動かしたぐらいにしか考えていない。
「様子を見て来い、そして、あの寝ぼけ野郎をここへ引っ張って来るんだ」
日野が命じた。彼もパイロットが寝ぼけたとおもったらしい。だが様子を見に行く必要はなかった。当のパイロットが血相変えて飛んで来たからである。
「いったい私以外のだれにヘリを飛ばせと命令したのですか!?」
めったにものに動じない塚本も、仰天《ぎようてん》した。
「おれはだれにも命令しないぞ」
「では、だれが動かしているのです?」
「そんなこと、おれが知るか!」
そうこうしている間に、雪煙を蹴立《けた》ててヘリは舞い上がった。ひょろひょろと、いまにも落ちそうな頼りない飛び方である。ようやく地上から離れたものの、どちらへ行こうかとためらっているように、数メートル上空をフラフラと停止飛行《ホバリング》している。
「ヘリの操縦ができるやつが、他にいるのか?」
「扱い方ぐらいは知っている者がいるかもしれませんが、まさかこんないたずらを」
日野も判断にあまっている様子である。この期に至っても、風巣側の人間にヘリを奪われたという発想は出てこない。
「あっ、飛んで行くぞ」
機体は、ホバリングから、ようやく意志を定めたように一つの方向に機首を向けて飛びだした。あいかわらず頼りない操縦ぶりである。
「早く停めさせろ!」
塚本が叫んだが、すでに空中に在るものを連れ戻せない。ようやく一人が通信機に駆けつけた。
「777機、だれが操縦しているか?」
「777機、応答せよ」
「777機、ただちに降着せよ、夜間の操縦は危険だ」
必死に呼びかけたが、依然として応答はない。
「あの操縦ぶりは、素人《しろうと》です」
パイロットが、フラフラと遠ざかりつつある機をにらんで言った。このときになって、ようやく塚本は、一つの可能性を考えた。
「しかし、まさか……」
あまり突飛《とつぴ》な可能性に、自ら考えたことだが、すぐには信じられない。しかしそれ以外に可能性はない。
――もし風巣の中にヘリを操れる人間がいて、奪っていったとしたら?――
塚本は、自分の想像に慄然となった。まさに全身が総毛立《そうけだ》つおもいだった。
「あのヘリを停めろ、早く停めるんだ」
と命じられても、部下の行動が従《つ》いてこない。空中を飛翔《ひしよう》するものを停めろという、命令の意味がわからないのである。
「あのヘリには風巣の人間が乗ってるかもしれんのだ」
「本当ですか!」
今度は日野も仰天する番だった。彼もコトの重大さを悟ったのである。
「停めろ! 撃ち墜《お》としてもかまわん」
そう言われても、部下の者たちは味方機に銃を構えられない。まさかこんな事態になるとは予想もしていなかったから、対空火器はもってきていないし、銃に実弾をこめていない。だいいち、いくら命令されても、味方機を撃つということが、ピンとこないのである。
彼らは命令によって連れて来られた兵≠ナあるから、塚本や日野のようにヘリが外界へ逃げた場合の深刻さがわかっていない。
塚本らが地団太《じだんだ》踏んでいるのを尻目《しりめ》にかけるように、ヘリはヨタヨタと空中を横這いながら、しだいに遠ざかりつつあった。
「やった! やった! ざまあ見やがれ」
操縦席では、どうにか空中に浮かび上がった機体に、小暮が大はしゃぎにはしゃいでいた。
「喜ぶのはまだ早い、高度をもっとあげないことには、外と交信できない」
野崎は、操縦桿《そうじゆうかん》、ピッチレバー、踏み棒などと格闘しながら言った。操縦感覚がないので、ほんのわずか加えたつもりの操縦装置に対する力が、機体の動きに大きく影響する。メカニズムの知識だけで、いきなり単独飛行をしたのであるから、まことに乱暴であった。
無線機はあるが、機体を操るのに精いっぱいで、とても交信をする余裕はない。無線の交信範囲は、見通し距離に相応する。高く上がれば上がるほどに交信の範囲は広くなる。
だから少しでも高度を上げたいのだが、機体をおもうように操れないのである。
それでも小暮は、機体が地上を離れたというだけで大満悦であった。
「はは、ざまあ見ろ! レインジャーなんて威張っていても、ここまで追って来られねえだろう。ああいい気分だ。野崎さん、爆弾でも積んでいたら、落としてやりたいな」
「馬鹿なことを言ってないで、よく見張っていてくれ。おれは盲同然なんだ。どうだ、こちらの方向に岩や山はそびえていないか」
野崎は、額に脂汗《あぶらあせ》を浮かべて前方を注視した。雲が厚く、暗いので視界がよくきかない。
「大丈夫ですよ。前方に障害物なし。このまま進んでオーライだ」
小暮は、闇の底に遠ざかりつつある風巣に密《ひそ》かに別れを告げた。彼にとっては風巣に残された人間がこの後どうなろうと知ったことではなかった。
野崎に従いて来たのは、一縷《いちる》の脱出のチャンスがあったからである。しばし浮世のホトボリを冷ますために山奥の人外境に逃れたつもりが、とんでもない事件に巻き込まれた。
――よほど、自分は運のない男だ――と嘆いたものだが、やはり運はまだ尽きていなかった。
あとはヘリが下界に着いたときに、うまく逃げ出すだけだ。そしてそれは風巣からの脱出に比べれば、はるかに易しい。
小暮はほくそ笑んだ。
7
小暮が片時たりとも離さなかったリュックサックの中には、約八千万円の現金が入っている。これは彼が半年がかりで狙っていた都下N市最大のデパート『丸美屋』の、二月の建国記念日と日曜の二日連休の売り上げである。
同店の売り上げは、毎日閉店後、収納課に集められ、翌日集計されて、午後一時ごろ集金に来る三立銀行N支店の集金係に渡すことになっている。
この際、銀行の集金係は「袋集金」といって、明細書の入った現金入り袋をもっていくだけで、いちいち金額を調べない。受取証としては、丸美屋の現金出納控えノートに集金人のサインをするだけである。
数千万円の受け渡しに、信じられないような集金方法であるが、集金人はだいたいデパートの収納係と顔なじみであるうえに、銀行の制服を着ているので、べつに不安をもったことはない。またこの集金方式で開業以来、事故の起きたことがなかったのである。
小暮は、たまたま三立銀行の退職者からこの話を聞いて、目をつけた。それまで生来の夜目がきくのを利用して、コソ泥をやっていたが、危険ばかり大きくて、獲物が少なかった。この辺で大きく儲《もう》けて、地道な商売に就こうとおもった。その日暮らしのコソ泥には、ほとほと嫌気《いやけ》がさしていた。コソ泥でも天下を盗む大泥棒でも、風の音にも気をくばる精神の緊張は同じだった。
小暮は、こうして丸美屋に照準を据《す》えた。彼は丸美屋に自分の人生を賭《か》けたつもりであった。成功すれば、人生に勝ったのであり、失敗すれば、負けたのである。
目立たぬように、買い物客を装って、偵察をつづけた。ガードマンの注意を引かないために、要《い》りもしない買い物までした。
こうして、集金方式が現在でもほとんど変わっていないことを探り出した。収納課から他の売場に配転になったレジスターの女の子に近づき、彼女の歓心をかうために、プレゼントやあまり楽しくないデートまでした。小暮としては、かなり投資もしたのである。
三立銀行のユニフォームもつくった。もっとも苦労したのは、行員バッジだった。たまたま銀行の近くの喫茶店へ行ったとき、女子行員が休憩に来ていて、|事務用上っぱり《スモツク》を脱いで席においたままトイレットへ行った。小暮はその胸についていたバッジを盗んだ。間もなく彼女はトイレから戻って来たが、スモックを手にかかえて、出て行った。彼女は銀行へ帰るまでバッジを盗《と》られたことに気がつかなかったにちがいない。バッジが失《な》くなっているのに気がついたとしても、盗まれたのではなく、どこかに落としたとおもっただろう。そんな悪心をもってバッジを盗む者があろうなどとは、おもいもおよばないはずである。
バッジが手に入って、計画はいよいよ最終段階に入った。手なずけたレジスターから聞きだしたところによると、平日の平均売上げは(中元、歳暮どきを除いて)約二千万、祝日や日曜が二千五百万から三千万ということだった。
どうせ危ない橋を渡るのなら、売り上げの多いときを狙ったほうがよい。それも連休の後がよい。その理由は、休祝日には集金に来ないので、その分だけ売り上げがストックされるからである。今年は二月十日が日曜で、月曜は建国記念日であった。ということは、九日土曜日の売り上げと合わせて、三日分の売り上げがストックされて、十二日に集金されることになる。
こんな機会はめったになかった。十二日の午後一時少し前、小暮は三立銀行の制服にバッジを着けて、丸美屋デパートの収納課へ入って行った。だれも咎《とが》める者はいない。
だれもが彼をいつも来る三立銀行の集金人とおもっているらしい。集金人はだいたい決まっているが、月に二、三度はべつの者が行くこともあることを探り出してある。
収納課は八階の大食堂の裏にある。デパートの事務室は、だいたい屋上近くにある。彼はまっすぐ収納係の前に行った。
「三立銀行ですが、集金にまいりました」
何度も練習したので、声は震えなかったが、脇《わき》の下にじっとりと汗がわいている。よく太った血色のよい収納係の女の子が、帳簿から目を上げた。ここが正念場《しようねんば》だと、小暮は意志の力で支えた目礼を送った。
「あら、今日は中沢さんじゃないのね」
ドキリと胸をつかれたが、さりげなく、
「はい、今日は私がまいりました」
当たらずさわらずに答えると、
「今日は多いわよ、三日分だから。一人で大丈夫かしら」
べつに疑いをもつ様子もなく、デスクの後ろにある金庫を開けて郵便|行嚢《こうのう》のような布袋を、数個、無造作につかみ出した。
「大丈夫です。大金は運びなれていますから」
「それもそうね、これくらいのお金で驚いてちゃ、銀行員はつとまらないわね、それじゃあ、こちらにサインをちょうだい」
収納係は開いた帳簿の一か所を指さした。かなり大きな数字が書き込まれているが、それを確かめる余裕がない。落ち着いているつもりだったが、目がかすんでいる。
サインをしようと、胸のポケットに手をやってハッとした。なんと、サインをすべきペンを忘れてきてしまったのだ。完璧《かんぺき》を期したつもりの計画に、こんな幼稚な手ぬかりがあったのである。
「どうしたの? 早くサインをちょうだいよ」
収納係が立ちすくんでいる小暮をうながした。
「それが……」
額《ひたい》の汗が目に入りかけている。
「どうしたの? あらペンもっていないの、しかたないわねえ、このペン貸したげるわ」
女の子がスモックの胸からペンを引き抜いて、小暮に渡した。
ようやくサインをすませて立ち去ろうとすると、
「あら、ちょっと待って」
と呼びとめた。
ギクリとして立ちどまると、
「今日は釣銭《つりせん》をもってきてくれなかったの?」
「釣銭?」
小暮がキョトンとすると、
「いつも釣銭用に小銭をもってきてくれるじゃないの」
「それが……」
温度が高くもないのに、全身から汗が噴き出している。釣銭のことは知らなかった。完璧どころか、穴だらけの計画だった。
「どうしたの? 連休でほとんど出しちゃったから、小銭がないと困るのよ」
出納係は容赦《ようしや》なく問いつめてくる。
「それが、今日は量が多いので、後からべつの者がもって来ます」
咄嗟《とつさ》に口から出まかせを言った。
「そんならいいわ。なるべく早くもって来させてね、現場のほうから、そろそろ催促されてるのよ」
小暮の苦しまぎれの答えが最も適切だったらしい。その後どのようにしてデパートの建物から出て来たのか、よくおぼえていない。
流しのタクシーを拾って、運転手に行き先を聞かれるまでは茫然《ぼうぜん》としていたらしい。
後になって振りかえると、よく逃げおおせたものと、背すじが寒くなるおもいがしたが、そのときは幸福な要因が積み重なって逃走をたすけたのであろう。
奪った金は、八千万を少し越えていた。いずれも古札ばかりの、すぐ使える金であった。生まれて初めて手に入れた大金だった。自分の一生でこれだけの大金を手に入れることは、もう二度とない。それだけに大切にしなければならないとおもった。
「この金で、おれのこれからの人生を購《か》うのだ」
だが、そのためには、追っ手を完全に撒《ま》かなければならない。追っ手の気配が背後にある間は、この「|危険な金《ホツトマネー》」の熱さは少しも冷めないのである。
小暮は、金を奪ったその足で、風巣へ来た。風巣の名は、なにかの雑誌で知った。「アルプスの奥の隠れ里」という惹《ひ》き文句が気に入って、心の奥にたくわえられていたらしい。
「八千万の現ナマを握って、アルプスの隠れ里でその遣《つか》い道をゆっくり考えるのも、悪くないな」
と小暮は考えた。
追っ手は、まさかそんな辺鄙《へんぴ》な過疎村に逃げ込んだとはおもうまい。こうして雪をかき分けてやって来た風巣で、とんでもない事件に巻き込まれてしまった。まさか自衛隊機が墜落しようなどとは、予想の埒外《らちがい》にあった。
飛行機が墜落したときは、困ったことになったとおもった。救援隊が来る。ジャーナリズムの目も集まるだろう。人目から隠れるためにやって来たところに、人目が集まる。
だが、やがて来たレインジャーは、極秘裡《ごくひり》に機体の撤収作業をはじめた。極秘にやることは、小暮にとって大いにけっこうだったが、墜落した飛行機が途方もないものをかかえこんでいたために、レインジャーの鉾先《ほこさき》は、村人と、村に居合わせた民宿の客に向けられてきた。
墜落した痕跡の完璧な抹消《まつしよう》は、当然、村人たちも含んでいた。せっかくつかんだ八千万の大金とともに、この人里離れた山中に抹消されなければならないのかと、ほぼあきらめかけたとき、最後のチャンスが訪《おとず》れたのだ。
――やっぱり、神はおれを見捨てていなかった――。
この際、どんな神でもよかった。ヘリコプターは、ヨタヨタと頼りなく翔んでいたが、小暮には、レインジャーの手の届かない空中にあるというだけで、このうえなくたのもしい乗り物に感じられた。
突然、機体が激しく揺れた。小暮は座席から危うく放り出されそうになって、甘い陶酔から醒《さ》めた。機体の震動がとまらない。
「どうしたんです?」
夜目にも高度が少し落ちたのがわかる。地上が近づいている。小暮は、ようやく不安になった。
「気流の状態が悪い。しっかりつかまっていろ!」
野崎は機体の安定を回復しようとして、必死に操縦桿を操っている。だが、高度は下がる一方だ。機体の揺れはいっこうにおさまらない。
「野崎さん、危ない! このまま行くと、尾根にぶつかるぞ」
眼前に黒々とした尾根が立ちはだかって、みるみる近づいてくる。
「出力《パワー》が上がらないんだ」
野崎がどなった。
「方向を変えろ!」
小暮が悲鳴をあげた。だが機体は野崎の操作を離れて、それ自体が一個の意志をもった生物のように、一直線に尾根に向かって近づいて行った。
「ぶつかる!」
小暮が手を顔の前に上げた。
「どうしたらいい」
野崎が聞いた。
「方向を変えるんだ」
「コントロールが効かないんだ」
動転した野崎は、機をコントロールする操縦桿とピッチレバーと踏み棒の機能が錯綜して、それぞれの使い分け方を忘れてしまった。体で覚えていないので、動転は混乱をうながすばかりだった。
尾根がグーッと前面に迫った。小暮の夜目≠ェなくとも、はっきりと読み取れた。次の瞬間、機体は吸い込まれるように尾根の中腹に激突した。
雪煙が上がり、閃光《せんこう》が闇を引き裂いた。つづいて、轟音《ごうおん》が山の静寂を震わせた。雪煙がおさまると、破断した機体から炎が吹き上がっていた。
8
ヘリコプターが山腹に激突した衝撃は、風巣全体を震わせた。改築したばかりの民宿の建物が、いまにも倒壊せんばかりに揺れた。他の古い建物は、いまのショックで倒れたかもしれない。
「何だ?」
「また雪崩か」
「いや地震だろう」
民宿に残っていた者は、顔を見合わせた。
その時点でヘリが墜ちたとおもった者はいなかった。だが、雪崩や地震ならば、後に気配や揺れがつづくはずである。なにかが爆発したようなショックは一度だけで終わった。
「権右衛門山のほうだ」
「ヘリが翔んで行った方角だったな」
「まさか」
ここで一同にようやくべつの不安が湧いた。どうやら、ヘリ奪取に成功した気配の後につづいた爆発音と震動である。
「権右衛門山のほうが明るいわ」
窓を開いた佐倉まゆみが言った。樹林越しに空がほの紅《あか》く染まっている。
「燃えている!」
「やはりヘリが墜ちたんだ」
「すると野崎さんと小暮さんは」
不吉な連想が、一同の胸を走りぬけた。
「様子を見に行ってみよう」
福島が立ち上がりかけて、グラリとよろめいた。まだガス中毒の影響から完全に脱け切っていないのである。
「いま動かないほうがいいでしょう」
と反町が抱き止めた。
「なぜ?」
「まだ身体がすっかり回復していないし、いま我々が下手に動くと、彼らを刺激します。ヘリを奪《と》られて、彼らはいま大騒ぎしているはずです。自衛隊機が墜落した痕跡を消すために彼らは来たのです。そこへヘリがまた墜ちたのですから、全力を挙げて、その機体を回収しようとするでしょう」
「そうか、ヘリが墜ちたことも伏せなければならないわけだな」
「でももし二人が生きていたら?」
佐倉まゆみが、いますぐ救援に行くべきだとほのめかした。
「仮に生きていても、これだけの人数ではどうにもならない。秋本さんと福島さんはまだガス中毒から完全に回復していません。いまはじっとして体を休ませながら、相手の動きを見ていたほうが得策です。間もなく夜が明けます。悪天候の周期もそろそろ終わります。そうすればこちらにもチャンスが回ってきます」
「反町さんの言うとおりだ。いま下手に動けば、気の立っている彼らに何をされるかわからない。この際、ここにじっとしているのがいちばん安全だとおもうな」
秋本が同調した。
「やつらはヘリを奪られたのを怒って、報復して来ないでしょうか?」
福島が秋本の意見を聞くように、その顔を見た。
「おそらくヘリの回収作業を優先させるんじゃないかな。そちらのほうで手一杯になるだろう」
「私もそうおもいます。とにかくこれで少し時間が稼《かせ》げるでしょう」
今度は反町が意見を合わせた。
「大屋が様子を見に来ないだろうか?」
「その可能性はあります。彼らとしても、ヘリを奪った犯人を突き止めたいでしょうから」
「大屋が来れば……」
「こちらにも乗ずるチャンスがつかめるかもしれない」
「さあ、そううまくいけばよいが」
反町と福島の会話を、秋本が自信のない表情で引き取った。大屋にかけた後催眠暗示がはたして生きているかどうか、はなはだ自信がなさそうであった。
催眠術というものは、頻繁《ひんぱん》にかけるほど、施術者と被術者の間の「心のつながり《ラポール》」が強くなる。だが大屋に対しては、ただ一度かけただけである。それも麻薬の力をかりて催眠に誘導して、心の抵抗を取り除くのにひどく骨を折った。それが今度は麻薬の助けもない。ただ一片の後催眠暗示にすがって、こちらのダミーにしなければならないのである。うまく独りになってくれるかどうかもわからない。部下がそばにいてはきわめて術をかけ難くなる。
「傀儡《ダミー》をもう少し増やせませんか?」
反町が、秋本の心を読んだように聞いた。
「大屋の部下にも催眠術をかけるということかね?」
「そうです」
「個人差があるから、三人いっしょにかけるというのは無理かもしれないが、クスリを使って、ダミーの大屋の命令に抵抗しないようにすることぐらいなら、できるかもしれないな」
「それで十分ですよ、ぜひやってください」
「もっと大勢の部下を連れて来たら?」
「そのときは、そのときのことです」
「大屋が偵察に来るのではなく、報復に来るとしたら……?」
福島が言いよどんだ。その言葉の先は言わずともわかった。
「いきなり報復するということはないでしょう。ヘリをかたづけないことには、我々に報復してもなんにもならない。それは大屋が来てからの話です。とにかく大屋が戻って来たときに備えて、麻薬を用意しておいてくれませんか」
反町にうながされて、秋本はふたたびアミタールを茶の中に仕掛けた。
表に足音が近づいたのは、それから間もなくである。反町が応える前に、表戸が破られるばかりに強く叩かれた。
「開けろ!」
どなっている声は、大屋のものだった。形ばかりの桟《さん》をはずすと、外から荒々しく繰られて、大屋のこわばった顔が入って来た。後ろから二人の部下がつづいて来る。やはり予想したように大屋は来た。雰囲気《ふんいき》がかなり切迫していた。土間に突っ立った大屋は、
「みんないるか!」
と見まわした。言葉遣いが変わっている。三人が入って来ると同時に、屋内に殺気のようなものがたちこめた。
「いったいどうしたんです、血相変えて」
反町がやんわりと聞き返した。大屋の逆上している理由はわかっているが、とぼけられるだけとぼけるつもりである。だが神経は張りつめた糸のように緊張している。大屋らは偵察ではなく、報復に来たのかもしれないのである。
「全員、ここに集めろ」
「そんな乱暴な! あなたにそんな命令を……」
「つべこべ言わずに、全員をここに集めるんだ」
「ここにみんないますよ」
「三人足りないぞ」
「佐原さんの奥さんは、奥の部屋で寝ています」
「あとの二人は?」
「それは……」
「あとの二人は、どこへ行った?」
大屋の追及は容赦がなかった。背後で二人の部下がジリッと動いた。殺気がザワッと揺れたようだった。反町の返答しだいによっては、容赦しないという姿勢が感じられた。
そのとき、秋本の手がさりげなく上がった。静かに顎《あご》にかかった。顎を撫《な》でながら、「大屋さん」と呼びかけた。大屋が声のほうに面を向けた。彼の視線が、秋本の目に捉《とら》えられた。秋本の手が顎を撫でつづけている。表面上、大屋の様子に変化は見えない。だが眼光から険《けわ》しさが消えたようである。
「あの二人は、帰りました」
秋本は言った。
「帰った? どこへ」
大屋がたずねた。
「もちろん家にですよ。休暇が切れたそうです」
「昨日はまだいたでしょう。この夜中にどうやって帰ったんです」
「そんなことは知りません、とにかく帰ったんです」
「そうですか」
大屋の口調が軟化した。後催眠暗示は生きていたらしい。
「いったい何があったのですか、話してください」
秋本は質《たず》ねた。大屋と会話を転がすことによって、後催眠暗示の効果を高めているのである。
「ヘリコプターを奪った者がいます。それが、近くの山に墜落しました」
「だれが奪ったかわかっているのですか?」
「わかりません。それで調べに来たのです」
「ここにヘリコプターを操縦できる者がいるはずはありません」
「素人のような危なっかしい操縦ぶりでした」
「墜ちたヘリを調べれば、犯人はすぐわかるでしょう」
「いま捜索隊が行ってます。間もなくわかるはずです」
「どうして我々を疑ったのです」
「隊の員数は欠けていません。すると、泥棒はここから来る以外にないでしょう」
「ヘリコプターの泥棒か。そんなテクニカルな泥棒がここにいたのかな」
「帰ったという二人はだれですか?」
「野崎さんと小暮さんです。二人とも忙しい職業の方らしい」
「大屋二尉殿、すぐ追わなければ」
部下の二人の曹が、急に態度が軟らかくなった大屋を、いぶかしがりながら促した。
「まあまあ、追うって、いったいなぜ追うんです?」
秋本はわざとのんびりした口調でとめた。
「やつらはヘリを盗んだんだ」
「もしあの人たちがヘリコプター泥棒なら、いまから追って行ったって意味ありませんよ、ヘリといっしょに墜落したんでしょう」
理詰めにされて、二人の曹は咄嗟に返す言葉を失った。そのタイミングを捉えて、
「まあ、とにかくお茶でも喫《の》んで、体を暖めてください」
大屋の瞳《ひとみ》にじっと見入りながら、秋本は勧《すす》めた。後催眠の暗示が効きはじめている。顎を撫でると、大屋は忠実なダミーになるのだ。大屋は、無意識のうちに、秋本の命令に逆らえなくなっている。
「さあ、部下の方にも勧めてください」
「おまえたちも、喫め」
「しかし……」
部下はためらった。のんきに茶など喫んでいる場合ではないのだ。
「いいから喫めよ。体が暖まるぞ」
大屋は、早くも茶碗《ちやわん》を吹いていた。木下も山根も、突風のように押しかけて来たときの大屋の態度とは、別人のような軟化ぶりに、面喰《めんく》らっていた。
「いくらレインジャーでも、そう緊張していると、体が保《も》ちませんよ。上官がいいと言ってるんだから、遠慮せずにお喫みなさい」
と言われて、アミタールをたっぷり仕込まれた茶を受け取った。熱い茶が体に沁《し》みるように美味《うま》い。
「もう一杯いかがです」
喫《きつ》し終わると、二杯目が差し出されている。二杯目には、ほとんど抵抗がない。
「どうです、だいぶ暖まったでしょう。全身がくつろいで、とても気持ちがいい。体がだんだん軽くなってくる。もっともっとくつろいできた証拠です。まるで故郷へ帰って来たようだ。いや実際にあなたたちは故郷へ帰って来たのです。囲炉裏《いろり》を囲んでみんなが集まっている」
秋本は、そろそろ誘導の触手をのばしはじめた。
9
ヘリコプターを奪われたのみならず、そのヘリが墜落したという報告に、さすがの塚本も青くなった。そんな報告をうけるまでもなく、全山を揺するような震動と炸裂音《さくれつおん》が、ヘリの墜ちたことを教えた。
サルビアA作戦が、昼夜兼行の作業でようやく終わりかけているときに、また「第二の墜落」が起きたのである。第一の墜落の痕を完全に抹消するためには、第二のほうも完全に消さなければならない。
さしも長くつづいた悪天の周期も、よくやく終わりかけている。塚本らの持ち時間は少なくなっていた。
「どのへんに墜ちたんだ?」
「権右衛門山です」
「ゴンエモン?」
「歩哨を出しておいたあたりです」
「全員をその現場へ向けろ。ヘリを破片一つ残さずに回収するんだ」
「村の連中はどうします」
「ヘリが先だ。村には大屋二尉たちをやっておけばいい」
塚本の命令一下、サルビアAB両隊は合流して権右衛門山へ移動した。入山してから二昼夜になろうとしている。ようやく仮眠に就いたところを、ヘリコプター騒動で叩き起こされた隊員たちには、疲労が重くよどんでいた。その意味からも、作戦を急がなければならなかった。
[#改ページ]
欺瞞《ぎまん》の愛
1
佐倉まゆみは、秋本の催眠誘導の暗示を聞きながら、いつしか自分が故郷の囲炉裏ばたに帰っているような気がした。彼女自身が秋本の催眠術にかかってしまったらしい。
父や母がいた。幼い弟妹もいる。祖父母の丸めた背中も見える。飼い猫《ねこ》までが、人並みに場所を占めていた。彼女の生家に囲炉裏はなく、祖父母はすでに亡くなっているのだから、これが夢か錯覚であることはわかるのだが、不思議に現実感をもって迫ってくる。
もう自分はあの故郷に受け入れられない体になってしまった。両親の反対を押し切って恋愛に殉《じゆん》じた成れの果てが、この姿なのだ。だれを怨《うら》むでもない。みな自分の愚かさとあさはかさから発したことなのである。
まゆみは、恋にやぶれた身を捨てるために、この雪深い山奥へやって来たのであった。生きていてもしかたのない体だった。だれにも知られず、恋に裏切られた女の残骸《ざんがい》を葬《ほうむ》る場所を探してやって来た。
佐倉まゆみの生家は、長野県O市で代々医院を経営している旧家である。数代前の先祖は藩《はん》の御典医《ごてんい》だった。代々名医の誉《ほま》れ高く、市で最も繁《さか》っている医院であった。家業は長兄が継ぐことになっているが、父は利発なまゆみも女医にしたかったらしい。
しかし彼女は医学を嫌《きら》って、文学を志した。人間の体の生理を学ぶよりも、文学の香気に惹《ひ》かれたのである。彼女はべつに作家になろうという意志はなかったが、祖父や父、また兄の生き方を見ているうちに、ひどく退屈なものを感じたのだ。
彼らは、文学などというものから、ほど遠かった。家には医学書をはじめ、心理学や社会学、法律学などのかたい本はたくさんあったが、小説本は一冊もなかった。虚構を玩《もてあそ》ぶものとして小説を軽蔑《けいべつ》していた。
したがって彼らの人生観は、常に顕微鏡で分析したように明確であった。科学的事実だけを信じ、情緒は皆無《かいむ》である。月や星や花や、自然の四季折り折りの美しさも、彼らには天文学的、植物学的、自然科学的な事実としてしか映らず、それらに託して歌を詠んだり、もののあわれを感ずるような心情を「稚《おさな》い」として蔑《さげす》んだ。
彼らにとって人生とは、数学的に矛盾なく割りきれるものでなければならなかった。ルールを守り、いっさいの曖昧《あいまい》、不明、矛盾なものを許さないのが人生であった。
そういう家庭に生まれ育っても、彼女はべつに息苦しさを感じていなかった。家庭とは、家族とはこういうものだと教え込まれていたからである。だが、楽しいとか、おもしろいとおもったこともなかった。
そこには家族の暖かさはなかった。家長の父の意志は絶対であり、母も子もその前に、主君に対する家来のようにひれ伏していた。
食事の席の位置、入浴の順序、口のきき方までが、長幼に従って定められている。親しき中における礼儀があまりに厳格に守られたために、家庭の暖かさが冷やされ、家族間の対話が失われた。
父は威厳がありすぎて、ものも言えなかった。母はおどおどして、父の顔色ばかりをうかがっていた。
「人に安易に相談する前に、まず自分でよく考えろ」
という父の信条が浸透して、家族はそれぞれの殻《から》の中に閉じこもった。
彼女はもの心ついて以来、きょうだいたちと胸を開いて語り合った記憶がない。兄や姉と話しても、かみ合う話題がべつになかったし、弟や妹を相手にするのは退屈であった。
家族が一堂に顔を合わせるのは、食事時だけだったが、それも、ものを食べながら話をするのは行儀が悪い、という父の申し渡しで、黙々と食って、食い終わった者から自室へ引き取るのである。定められた食事時間に遅れた者は食事を抜かされる。
物質的にはなに一つ不足のない環境であり、節度と規律正しい家庭だったが、人間的になにか重要なものが欠落していた。
だが、だれも欠落していることに気がつかなかった。その家風にすっかりなれていたからである。一朝一夕《いつちよういつせき》にして培《つちか》われた家風ではない。数代を重ねた歴史が沁《し》みついている。家族のだれもが、それを佐倉家の栄誉ある家風として誇りにおもいこそすれ、疑いをもったことはない。いまだかつてその家風に反逆を試みた者はいなかった。
まゆみも反逆しようなどとは、おもってもいなかった。ただ単純に世襲の医業とその勉強に退屈をおぼえただけであった。家に沁みついた薬のにおいと、氾濫《はんらん》する医書に辟易《へきえき》したと言ってもよい。
佐倉家には珍しく、まゆみは文学少女で、小さいころから、友達から小説本を借りてきては親(特に父)の目を盗んでそっと読み耽《ふけ》っていた。
佐倉家では、女でも大学へ行かせる。資力があったからでもあるが、「佐倉家の人間」にふさわしい教養をつけさせるためであった。進学にあたって、まゆみは「文学部」の志望を明らかにした。ここではじめて父と対立した。父は医学部か少なくとも「薬学」方面へ行けと言った。だがまゆみは、文学でなければ、進学しないと言い張った。文学など学ぶ価値のない似非《えせ》学問だと父は怒った。
だがまゆみは自分の意志を枉《ま》げなかった。
佐倉家において、父に逆らったのは、まゆみが初めてであった。それだけに彼女の意志は固かった。
結局父が折れた。佐倉家の一員である以上、「高卒」ということは許されない。最低、短大は出ていなければならない。すでに長兄が後継者として確定しており、まゆみが女だったので、父は彼女の意志に譲歩したらしい。父としても初めての譲歩だったであろう。
彼女は上京して、東京のある一流私大の英文学部に入った。ここで彼女は、世の中にまったくべつの人生のあることを知ったのである。そこは青春の花園であった。色とりどりの花が、それぞれのおもうがままの形で、人生の最も楽しい一時を咲き簇《むらが》っていた。
これまで規律と躾《しつけ》の美名の下に圧殺されていた生家での生活は、これに比べたら人間の生活ではなかった。家族は、父という絶対君主に仕える終身|奴僕《どぼく》であり、きょうだいも、人生の同居人にすぎない。
「お風呂《ふろ》やトイレットの中ですら、自由のなかったあんな生活に、よくがまんできたものだわ」
まゆみは我ながら感心すると同時に、せっかく許された青春の遊学を最大限に愉《たの》しむために、いくつかのクラブ活動に参加した。
仕送りは潤沢にあった。父は家庭では厳しいわりに、親許《おやもと》を離れた娘に不自由をさせまいと、十分すぎるほど金を送ってくれた。居所も、高級ホテル並みの女子学生専用マンションを借りてくれた。物質的に恵まれた環境で保護≠オてさえいれば、安全と考えているらしかった。
いかにも父らしい愛情の表現であった。
2
まゆみが所属したクラブの一つに『英研』があった。これは、英文科の学生が中心となってつくった英語研究会で、会員同士の英語会話力の磨《みが》きをかけることを目的にしていた。
運動部並みに、夏冬の合宿もやり、学校祭には英語劇や、英語スピーチコンテストを催したりする。
部員は、英文科の女子学生が過半数を占めていたが、法科や経済学科、あるいは理科系からも英語の好きな学生が参加していた。男子部員の中には、女子学生がお目当てで入部して来た者も多い。実際、英研は他のクラブに比べて女子学生が圧倒的に多かった。それも美女ぞろいである。
学校祭における英研の出し物は、華やかで規模の大きいことで、学内はもとより、他校の間でも評判になっていた。
この英研の中で、まゆみはプリンセス扱いをされた。目鼻立ちのくっきりした現代的な面立《おもだ》ちの中に、地方の旧家で多年にわたって培われた気品が沈んでいる。
まゆみは、いまにして生家での生活を息がつまるように感じるのだが、そこで心身に捺《お》しつけられた厳しい規律と躾は、完全に彼女と一体化して、どんなに奔放《ほんぽう》に振舞ったつもりでも、育ちのよさが立ち居振舞いに表われてしまうのである。
それは現代の女性から失われつつある美徳であった。彼女の美しさには、うわべだけのものではない深化したものがあった。それは彼女が生家の家風に反発して、振り捨てようとしても振り捨てられるものではなかった。
まゆみは、自分が望んだわけでもないのに、いつの間にか英研の王女にまつりあげられたが、王女≠ノふさわしい気品と優雅さを生来的に備えていたのである。
二年生になったとき、彼女は恋をした。各クラブには、顧問として教授や助教授がつくことになっていた。それまでの顧問だった教授が、停年退職したために、新たに顧問になったのが、帆刈貞雄《ほかりさだお》だった。帆刈は同学英文科の先輩でもある。助教授のころ米音声学を専攻するために、大学からアメリカへ派遣され、三年の留学の後、帰国すると同時に、教授となった少壮学者である。
その甘いソフトな二枚目的|風貌《ふうぼう》と、国際感覚豊かな洗練された身のこなしは、女子学生の圧倒的な人気を集めていた。
帆刈は、特にまゆみを可愛がり、部の用事にかこつけては二人で会う機会が多かった。帆刈のような男は、これまで彼女の身辺にいなかった。父や兄弟たちは、女の心などまったく理解しない。女の屈折した心情を測るに、四角四面のルールしか持ち合わせていない彼らは、骨肉でありながら、異星の生物のように遠い。
同級や同じクラブの男の学生たちは、青春の熱感が溢《あふ》れるばかりであるが、その未熟な青さと、若さだけを売り物にした粗野が目立った。いっしょにいると、楽しくはあったが、恋の対象にはなり得なかった。
そこに現われたのが、帆刈だった。彼には、学生たちには決してない教養と、相当の人生体験に裏打ちされた自信と、中年の渋味があった。会話の一つ一つが歯車のように噛《か》み合い、言葉のはしはしが心の琴線《きんせん》に触れる。目を見合わせただけで、帆刈は彼女の考えていることを読み取った。それは恐ろしいくらいだった。帆刈と会っていると、心の隅々《すみずみ》まで、暖かい液体が浸透してくるような快さをおぼえた。
まゆみは、たちまち帆刈に傾いていった。帆刈には妻子がいた。三十代後半の教授に妻子がいるのは当然である。所詮《しよせん》、どんなに心を傾けても可能性のない相手だった。
それを承知でまゆみは帆刈との距離を縮めていった。
「いけない。きみはこれ以上ぼくに近づいてはいけない」
と帆刈は中年の分別で警告をした。警告しながら、自分から遠ざかろうとはしなかった。ここに巧妙な欺瞞があった。
引き返せなくなった場合、責任を転嫁《てんか》するか、あるいは相殺《そうさい》するための備えである。だが、警告したときは、すでにたがいに引き返せない所へ来ていた。警告自体に欺瞞があったのである。
滝の落ち口に近づきすぎた小舟のように、滝壺《たきつぼ》に吸い込まれるのはわかっていながら、水流に引かれて逃れることができない。彼女はよく、全身を冷たい水圧に包まれて、底知れぬ滝壺へ向かって一直線に落ちていく夢を見た。夢からさめた後も全身に冷感が残った。
このまま、帆刈との恋に溺《おぼ》れれば、不幸になるのはわかっていた。帆刈には、まゆみとの恋のために、家庭を犠牲にする意志はない。
たまたま網にかかった新鮮な獲物に舌つづみを打っているだけにすぎない。これほどの獲物は、彼の熟練した網にもめったにかからないことを知っているから、美肉の最後の一片まで味わいつくすまで、獲物を逃がすまいと熱心になっているのである。
だが恋に盲になっている女には、そんなことはわからない。もともと世間知らずのおぼこ娘が、深窓から飛び出した大都会で、国際的なプレイボーイに引っかかったのである。
彼女は、恋の一時の燃焼のために、自分の一生をかけてもよい気持ちになった。その恋のために、自分がどんなに傷つき、長い不幸を引きずらなければならないかは、そのときには気がつかない。不安はもっても、強《し》いて目を背《そむ》けてしまう。
厳しい家庭に育っただけに、奔放な恋に向ける反動が強く、男に対する耐性がなかった。
まゆみが初期の燃焼を終えて、ようやく帆刈の態度に疑惑をもちはじめたときは、女の体がすでに十分に開発されて、帆刈なしではいられないようになっていた。
このままでは帆刈に玩ばれるだけだということがわかっていながら、彼に逢《あ》わずにはいられない。彼女の体内に棲《す》んでいた女の魔性に火をつけられたのである。
こうして師弟の間の不倫の恋はひそかに、しかし着実に進行した。それが現われると、どちらにとっても都合が悪い。帆刈は、せっかくの居心地よい社会的地位と家庭を同時に失うかもしれない。まゆみは、即刻、家に連れ戻《もど》されるだろう。
彼女は、あの規律ずくめの生家に帰ることをおもうとゾッとした。都会の自由な生活を知った後では、とても耐えられない。彼女は卒業しても、東京に就職して郷里には帰らないつもりだった。
父母や兄から多少の抵抗はあるだろうが、居坐《いすわ》って動かなければよい。
だが卒業の年になって、まゆみの恋はついに父の知るところとなった。学会が東京で開かれて、上京した父は、突然まゆみの居所へ立ち寄った。ちょうど、帆刈が帰った直後だった。情事直後の無防備のところを、いきなり父に訪ねられて、情事の生々しい痕跡《こんせき》を隠すひまがなかった。
父は、当然のことながら火のように怒った。即刻連れ戻そうとしたが、あとわずかで卒業なので、結局それまで待つことにした。父の追及に対して、まゆみは恋の相手を隠し通した。言えば騒ぎは、もっと大きくなる。
だが、そのときすでにまゆみは妊娠していたのである。彼女は父が帰ってからその徴候に気がついた。医者にみせると、二か月の終わりにかかっているということだった。
帆刈に相談すると、言下に堕胎《だたい》しろと言った。少しの逡巡《しゆんじゆん》も見せなかった。
「私たちの愛の結晶を、どうしてそんなに簡単に堕《おろ》せなんて言えるの?」
とまゆみが詰《なじ》ると、
「きみはわからないか。子供が生まれたら、ぼくたちは破滅するんだよ。教え子を妊娠させたことがわかっては、ぼくは大学にいられなくなる。きみだって、まともな所に嫁に行けなくなる。いまのうちに人知れず堕してしまえば、だれも傷つかない。だれもぼくたちのことは知らない。ぼくたちの恋は、青春の美しい想い出になる。なに、設備のととのった所で、腕のしっかりした医者にやってもらえば、一度や二度の中絶手術はまったく体に影響ないそうだよ。ぼくの友人に医者がいるから、さっそく専門医を紹介してもらおう。早ければ早いほど手術は軽くすむよ」
自衛のために必死に中絶をすすめる帆刈に、まゆみは男の正体を見せつけられたおもいだった。いや、自分の恋の正体を見せつけられたのだ。
自分のこれからの一生をかけてもよいとおもい、父や母、肉親、社会のルールのすべてに背いて情熱を傾けつくした恋の正体が、これだったのだ。
口惜《くや》しいよりも情けなかった。帆刈はまゆみが黙ってしまったのを承諾したとおもったらしい。
「それでは、これからすぐに連絡を取ってみる。すぐにすむよ。費用はぼくがなんとかするから、心配しなくてもいい」
と立ち上がった。
まゆみは、その夜だれにも告げずに旅へ出た。あまりにもひどい裏切られ方に、立ち直る力が失われていた。
まゆみが妊娠したことを知らない間は、帆刈はまだ食べ終えない食卓にしがみつくように、彼女を巧言をもって手許に引きつけていたのが、それを知ると同時に、おもいがけなく(当然予想される結果であるが)背負い込んだ荷物を振り捨てようとする気配を露骨に見せた。
旅へ出たものの、もちろん生家へは帰れない。妊娠して男に捨てられて帰って来たと知れば、父は家へ寄せつけないであろう。だがともかく信州へ向かう列車に乗ったのは、それ以外のどこにも行ったことがなかったからである。
若いだけに、おもいつめるとすぐに死を考えた。恋にやぶれた自分のむくろを、人目に触れない所に葬りたいとおもった。信濃には山が多い。山の奥深く分け入れば、だれにも見つかることなく静かに朽ち果てていけるだろう。――とおもって身を預けた列車に偶然隣り合わせたのが、野崎弘だった。
彼に風巣へ誘われたので、格好の場所と考えて従《つ》いて来た。そこでおもいもかけない事件に巻き込まれたのである。
死ぬ気で来たつもりが、本能的に危険を悟って、自分だけでなく同宿の人間を救ったのは、皮肉な成り行きだった。
[#改ページ]
人非人《にんぴにん》の廃物利用
1
墜落ヘリコプターの回収作業にとりかかったころ、夜は明けた。雪は止んで、空が明るくなっている。ようやく好天の周期に入ったらしい。夜明けとともに連絡用のヘリが飛んで来た。
塚本は無線を通じて、新事態の発生を報告した。報告は、軍神をはじめ、上層部に衝撃をあたえた。
「まさか、彼らにヘリを操れる者がいるとはおもわなかったものですから」
「言いわけはよろしい。それでいまヘリの回収をやっているのか?」
ヘリを中継した軍神の口調には余裕がなかった。
「そうです」
「ヘリの完全回収にどれほど時間がかかる?」
「全員を当てて約五時間とみます」
「遅いな、もっと早くやれないか」
「無理です。これが精いっぱいです。みな、入山以来、休息をほとんどとっていないので、疲れきっています」
「レインジャーだろう」
「レインジャーだから、ここまでやれたのです。もっとも、新手の応援がくればもっと早くできますが」
「応援は出せない。目立ってしまう。この作戦は部内でも極秘なんだ。きみもそのことはわかっているだろう」
「わかっているからこそ、持ちゴマだけで頑張《がんば》っているんですよ」
「村の連中は、まだほとんど手つかずなんだろう」
「これがおもったより難物で、これまで、雪崩《なだれ》、クスリ、ガスとやったのですが、いずれも事前に気づかれてしまいました。どうも彼らには危険に対する予知能力があるようです」
塚本の口調も面目《めんぼく》なげになった。
「予知能力だと? きさまのやり方がまずかったから勘づかれたんだよ、彼らに悟られたとなると、まずいな」
「ヘリを回収したら、さっそく手を打ちます」
「塚本、きさまも齢《とし》だな、そんな手ぬるいことでどうする」
「手ぬるい? しかし、ヘリを先に回収しないことには」
「ヘリはしゃべらないよ。村人は口がある。彼らは我々の害意を知った。だからヘリを盗んだりして反撃してきたんだ。村の連中と、外と連絡がついてみろ、すべての作戦は水の泡《あわ》になるぞ」
「わかってます、しかし……」
「なにかいい方法はないのか?」
軍神も焦《あせ》っていた。
「我々の作為の痕《あと》を残さずに十八人もの人間を葬るよいてだては、そんなにありません」
「墜落したヘリは使えないか」
「は?」
「ヘリを村に墜落したことにはできないか」
「そんなことをすれば、大きな痕跡が残ります」
塚本は呆《あき》れた。それを消すために苦労をしているのである。
「だから、他の場所へ落とすんだよ」
「他の場所に?」
「風巣以外の場所ならどこへ落っこったってかまわない。村の連中をヘリへ乗っけて落っことすんだ」
「そんな無茶な! だいいちヘリをどこからもってきたことにするんですか。我々のヘリだということがわかってはまずいし、落ちるヘリをだれに操縦させるんです?」
「パイロットだけたすかる手段はある。問題は村の連中を隊のヘリに乗せ、それを落とす口実だな。なにかありそうな気がするが」
「村人をヘリに乗せるのは簡単ですが、パイロットだけたすけることはできません。墜落したヘリの中にパイロットがいなかったら、おかしいですからね」
「ネックはパイロットか」
「それからヘリです」
「少し考えてみる。きみは回収作業をつづけてくれ」
軍神との交信は切れた。塚本は当面、ヘリの回収に全力を傾けることにした。
ヘリの墜落した場所は、権右衛門山の中腹で、ちょうど見張りが屯《たむろ》していた尾根の少し上方であった。その地点にレインジャーが集合して回収作業に躍起となっている。
反町が考えた反撃をするためには、大量の雪と、ある仕掛けが必要であった。ところが墜落現場にはその両方がない。そこに集まったレインジャーの主力をなんとか沢のほうへ移動させなければならなかった。
夜明けとともにレインジャーの動きを偵察《ていさつ》した反町は、彼らが仲間の救出よりも、ヘリの回収を優先させたことを確かめた。
反町は、秋本に諮《はか》った。
「なんとか、彼らを権右衛門沢のほうへ誘導できないでしょうか」
「それは難しいな」
秋本は、額《ひたい》にしわを寄せた。
「彼らがあそこで回収作業をやっているかぎり、新道を通って脱出できません」
「権右衛門沢に彼らを誘い込んだ隙《すき》に、脱出をはかるわけだね」
「そうです……そうだ、大屋らを使って誘導できないでしょうか?」
「彼らは我々の見張りにすぎないだろう。本隊を誘導する手先にはなるまい」
「仲間の救出よりもヘリの回収を先行させていることに、疑問と反発を感じさせて、彼らに直接、本隊へ呼びかけさせられませんか」
「とにかくやってみよう」
秋本は、ダミーにした大屋ら三人に新たな誘導をかけるべく行動をはじめた。
一方、権右衛門沢のヘリ墜落現場では、機体の回収作業が遅々としてはかどらなかった。墜落のショックで雪崩を誘発したために、破砕した機体は雪崩に巻き込まれて広範囲に散っていた。エンジンと前部搭乗席は雪面に深い穴を抉《えぐ》って潜《もぐ》り込んでいたが、機体後部とローターは約二百メートル四方にわたって散乱していた。しかもデブリの下に巻き込まれている。雪の落下する圧力におしかためられて、デブリはコンクリートブロックのように固くなっている。これらをいちいち断ち割って機体の破片を回収することは至難であった。しかしそれをやらなければならなかった。
前部搭乗席から二人の男の圧死体が発見された。いずれもレインジャーではない。その中の一人に隊員は見おぼえがあった。
「あっ、この男は……」
「逃げ出したやつじゃないか」
「いや、そうじゃないんだ。おれは昨夜はよく見なかったが、この顔は以前どこかで見たような気がするんだ」
「民宿に泊まっていた客だぞ」
「いや、他のどこかで見たことがある、それもそんなに前ではない」
「似たような人間はいるもんだよ、死体は損傷して、もとの人相とはだいぶちがっているはずだ」
「だからおもいだしたのかもしれない。そうだ、こいつは野崎とかいう、静浜の反戦野郎じゃなかったか?」
「静浜の反戦野郎……?」
「いまは、審理が打ち切られて、裁判所の出方を待っているはずだ」
「そいつがどうしてこんな所にいるんだ?」
「わからん。だが野崎なら、元航空自衛官だから、ヘリぐらい操れるだろう」
その他の隊員にも野崎の顔を知っている者が現われた。
昨夜、野崎が捕えられたときは、隊員全員が野崎を見たわけではなかった。加えて、野崎は努めて顔を背けて特徴を消していた。
野崎が民宿にも同名で記帳していることがわかっている。この発見はただちに塚本を経由して、後方へ報告された。
その報告後間もなく後方から、新たな指令がきた。いま進めている回収作業をただちに中止して、ヘリが墜落したときの原状に回復せよという命令であった。
塚本は怒った。寝食を省いてやってきた作業をご破算にして、元のとおりにしろというのであるから、たとえ命令でも納得できない。いかに忠実な隊員でも反発するだろう。
「まあ、そう怒るな」
軍神は、塚本をなだめて、
「おもしろい考えがあるんだよ」
「おもしろい?」
「いま、野崎の元上官を確認に行かせた。間もなくそちらへ着くだろう。おそらくまちがいあるまい。そちらでも何人かが野崎と認めたんだろう」
「野崎が反戦自衛官であろうとなかろうと、なんの関係もないでしょう」
「それが大いに関係あるんだ」
「どういうことですか?」
塚本はようやく軍神の含みを悟った。
「野崎がヘリを盗んだことにするんだ」
「事実盗んでいます」
「サルビヤ隊のじゃない、こちらのだよ」
「こちらの?」
「野崎がこちらの基地からヘリを盗んだことにするんだ。もともと自衛官でありながら反戦運動をしていた人間だから、隊から疎外されていた。その腹いせに基地からヘリを盗んでも、さして不自然ではあるまい」
「酔って飛行機を盗んだアメリカ兵がいましたな。しかし、仮にそうだとしても、風巣となんの関係もないでしょう」
「塚本、きさまもボケたな。盗んだヘリを操って、風巣へ迷い込んだ。そこで孤立した村人を救おうとして、ヘリに乗せて運ぶ途中、操縦の未熟から墜落したことにする」
「まっ、待ってください。墜落したのは二人だけです」
「だから、ボケたと言っておるのだ。人間は後から何人でも落っことせるだろう」
「まさか……」
塚本はようやく、軍神の示唆《しさ》する意味を悟った。それはまさに悪魔的な発想だった。
「まさかではない。我々の死活がかかっているんだぞ、これなら新たにヘリを手当てする必要もなければ、パイロットも不要だ。墜落したヘリと、野崎をそのまま使えるからな。すばらしい廃物利用じゃないか」
軍神は自らのおもいつきに酔っているようであった。
「どうだ、これで原状を回復しろと言った意味がわかったか」
つまり軍神は、風巣の人間をヘリに強制的に乗せて、墜落現場の上から突き落とせ、とほのめかしている。
「しかしヘリで墜落したのと、後からべつべつに突き落としたのとでは、死体の状況がちがうでしょう」
「なにどちらも墜落したことに変わりはない。大してちがいはしないよ、落ちた後、雪崩に巻き込まれたことにすれば、どうにでも加工できるだろう」
「生きた人間を突き落とすんですよ」
「いままで使った手口と、どんなちがいがあるというのかね。生きている人間の口を封じるんだ。どんな手口でやろうと、残酷の本質は同じだよ。感傷的になっちゃいかんぞ」
「わかりました。しかし風巣に落としたのでは、やはりまずいでしょう」
「やむを得ないんだ。もう一機ヘリを手当てできない。それに新たに落とすとなると、パイロットの問題も出てくるし、落とすべき適当な場所も探さなければならん。時間がかかりすぎる。それに、二機の墜落の痕跡を完全に消すのは、大変だ。ヘリの墜落のほうを現わしてしまえば、まさかその近くにもう一機ジェット機が落ちたとはだれもおもうまい。F―4FJのほうは完璧《かんぺき》に隠して、注意をヘリのほうに吸い寄せてしまうんだ。野崎によるヘリの盗難や、彼が風巣方面へ飛んで行った状況は、こちらがうまくセットしておく。きみは風巣の連中をなにか口実をつけてヘリに乗せろ。つべこべ言ったら、実力をもってしても乗せるんだ。ヘリと野崎の確認者はこれからすぐにおくる」
間もなく、新たなシコルスキーが来た。それに乗って来た野崎の顔を知っている元上司が、野崎の死体であることを確認した。ここに風巣は、その最後の残酷な運命に向かって絶対に後戻りのきかないベルトに乗せられたのである。
「権右衛門沢には、あなた方の仲間が数人雪の下に埋められている。それにもかかわらず、本隊は墜落したヘリの回収を優先している。ヘリには生存者はいないそうじゃないか。雪崩にやられた仲間たちは、まだ生きているかもしれない。少なくとも半数は割《さ》いて捜索すべきだ。放っておけば救える者も救えなくなる。可哀想《かわいそう》だとはおもわないのか」
秋本は大屋を必死に誘導していた。
「しかし命令です」
大屋はすでに秋本の忠実なダミーになっているが、本隊からの命令には秋本の暗示の枠外《わくがい》で従っている。また大屋をいっきに本隊から離反させて、本隊に疑いを抱かせてはならない。あくまでもその命令に従わせながら、巧妙に本隊を誘導させなければならないのである。
「人道的にまちがった命令でも従わなければならないのか?」
「それが命令というものです。命令に従うのが、我々の義務です」
「仲間が埋められているんだぞ。その救援を先行させるべきだ。よく耳を澄ますんだ。そう、周囲の音が静まり、遠方の気配が聞こえてくる。ほうら、聞こえるだろう。よく聞こえる。だれかが救いを求めている。たすけてくれと言っている。雪の下で冷たいと訴えている。仲間が呼んでいるんだ。可哀想だとはおもわないか」
秋本は顎《あご》を撫《な》でながら、相手の目に見入った。後催眠暗示の効果が強制される。
「可哀想だとおもっても、我々にはどうにもなりません」
「隊員にきみが直接訴えかけたらどうだ」
「隊員は塚本二佐の命令だけで動きます」
「塚本二佐の命令を偽装することはできないか?」
「無理です」
秋本と大屋のやりとりをかたわらで聞いていた反町は、ふと一つの発想に打たれた。あまりに突飛なので、強い光に目を灼《や》かれたように、自分でもその考えを見つめつづけられない。だが、最初の閃光《せんこう》が去った後、残像がしだいにはっきりしたアウトラインを取って脳裡《のうり》に灼きついた。
「秋本さん、ちょっと」
反町は秋本を脇《わき》へ呼んだ。
「塚本二佐は、いま水入らず沢で指揮を取っているのでしょう?」
「大屋はそう言っているが」
「とすれば、本隊の主力はいま権右衛門山のほうへ行っていて手薄でしょうね」
「たぶんね」
「塚本のいる本部の兵力を、大屋に確かめてくれませんか」
「確かめてどうするつもりだね?」
「もし塚本の身辺が手薄なら、彼を捕虜にできないでしょうか?」
「塚本を捕虜に?」
秋本が目を剥《む》いた。
「大屋らを使えば、できるかもしれない」
「そりゃ無理だよ、いくら催眠術をかけてダミーにしていても、上官に反抗させるのは」
秋本は最初の驚きから立ち直ると、言下に否定した。
「そうでしょうか? あのパリパリの職業軍人の大屋を意のままにしたのです。上官に反抗するという意識を巧みに取り除けばいいのではありませんか」
「しかしねえ、塚本の命令を取り除くのにもあんなに苦労したんだから」
「とにかくやってみてくれませんか。塚本さえ捕虜にすれば、どんな命令でも出せる。どんなにレインジャーが精強無比でも、リーダーを抑えられたら、手も足も出ないでしょう」
「いちおう本部の兵力を確かめてみようか」
秋本も、突飛《とつぴ》だとはおもったものの、試みる価値はあると考えたらしい。大屋の所へ戻ってふたたび誘導をつづけた。
「塚本二佐は、いまどこにいるのか?」
「水入らず沢です」
「どうして本隊主力とともに行動しないのだ?」
「現場の原状回復がまだ完全にすまないからです」
「すると水入らず沢には撤収部隊が残っているんだな」
「はい」
「何名くらいだ?」
「五、六名です、主要部分はすでに撤収しましたから」
「幹部は他にいるのかね?」
「日野一尉がいましたが、いまはヘリの撤収を現場で指揮しています」
「すると、塚本の身辺にはいまだれがいるのだ?」
「おそらく通信係が一名いるだけだとおもいます」
「塚本二佐を捕虜にできないか?」
秋本はいきなり切り出した。このような誘導の飛躍は、相手の催眠を覚醒《かくせい》させる危険もあったが、何度も催眠をかけて、ラポールが強くなっている場合は、ダミーを混乱させ、判断力を失わせる効果がある。
「塚本二佐を捕虜に!?」
従順に答えていた大屋がびっくりした目を上げた。だが催眠から醒《さ》めた気配はない。彼はただ混乱しているのである。
「塚本二佐の身辺は、裸同然だ。そこをきみら三人で衝《つ》けば、難なく捕虜にできるだろう」
「そんなことは不可能です。理由なく上司に反抗はできません」
大屋は必死に抵抗した。
「立派な理由がある。人命救助のためにやむを得ず塚本二佐を拘束《こうそく》するんだ。他でもない、きみらの仲間を救うんだぞ。あの悲痛な声が聞こえないのか。耳を澄ましてみろ」
秋本は顎《あご》を撫《な》でた。
「聞こえます」
「何と言ってる?」
「たすけてくれと言ってます」
「少しずつ死にかけていると言ってるだろう」
「言ってます」
「あの中にきみらの肉親が入っているぞ」
「…………」
「あれはきみの弟だ。きみの兄さんもいる」
秋本は、木下と山根に向かって顎を撫でた。
兄弟が実際にいようといまいと、秋本のダミーになった彼らはその言葉を信じるのみである。
「兄弟が苦しがっている。血を分けた骨肉があんなに苦しんでいるのを、放っておくのか。救ってやれるのは、きみらだけだぞ。塚本二佐に命令を変更させろ」
秋本自身が自己暗示によって、自分の骨肉が雪崩に埋められたような気がしてきた。
2
塚本は、作戦部隊からさらに、的場三尉他二名の曹を割《さ》いて、風巣へまわすことにした。軍神からの命令を遂行するにあたって、大屋ら三名では手薄と見たからである。もし風巣の連中がヘリに乗るのを拒めば、強制しても乗せなければならない。
まさか軍神の悪魔的な発想は悟られはしないだろうが、万一抵抗された場合、数が多いだけに面倒《めんどう》である。彼らの体に墜落の衝撃による以外の傷があっては、まずいのである。
大屋二尉には、単に「風巣係」を三名増員するとだけ伝えた。命令の詳細は、権右衛門山の現場が原状に戻ってから伝えるつもりであった。
その時点では大屋らを疑っていたわけではないが、あまりに非人間的な命令内容なので、抵抗を覚える者が出るのを惧《おそ》れたからである。極秘の命令は、遂行直前に出して、遂行者に考える余裕をあたえないほうがよい。
「新手が三人やって来ます」
トランシーバーで連絡をうけた大屋は、秋本に告げた。新手が来れば、もはや大屋らを使って塚本を捕虜にするチャンスはなくなる。
「よし、すぐ出発しよう。新手が来たら、きみらの兄弟を救えなくなるぞ」
秋本は、自分たちの都合を、巧みに大屋らに押しつけた。新手と途中で鉢合《はちあ》わせしてはまずいので、樹林帯の中のけもの道をたどることにした。
大屋らとともに秋本、福島、反町の三人が行くことにした。
「新手が来て、あなたたちがいないことに気がついたら、どうすればいいの?」
取り残される真紀子が心細そうに聞いた。
「おれたちが権右衛門沢の旧道経由で脱出を図ったので、大屋二尉らが追って行ったと言えばいいだろう」
反町が時を得た考えを出した。彼らが権右衛門沢へ逃げ出したと聞けば、塚本はレインジャーをそちらへ回すかもしれない。それはこちらのおもう壺《つぼ》であった。
「そんな出まかせを新手が簡単に信用するかしら?」
真紀子の不安は拭《ぬぐ》えないようである。ダミーにしたとは言え、大屋らはまだ信用しきれない。いつ夢≠ゥら醒めるかもわからない。そんな危険なダミーを唯一の手勢にして、敵の本陣へ斬り込みをかけようとしている反町らがひどく無謀に見えてならない。
「大丈夫だよ、すぐに塚本を捕虜にする。敵の大将さえ捕虜にしてしまえば、もうこちらのものだ」
「危ない真似《まね》はしないでね」
危険を冒さずに、この反撃のできないことはわかっているが、真紀子はそう言わざるを得なかった。
反町らが、塚本二佐の本陣の斬り込みに出かけたころ、権右衛門山の現場から、野崎の死体確認の報告がきた。確認者を乗せて新たに飛来した輸送用ヘリも、権右衛門山へ回した。
塚本はその連絡をうけるとただちに作戦≠フ実行を命じた。指揮は日野一尉が直接とることになった。この残酷作戦≠フ遂行に、まさにうってつけのリーダーである。
「風巣には、的場三曹ら三名を増員した。そろそろ風巣に着いて大屋二尉と合流したころだ。彼らを指揮して、風巣の人間を全員ヘリに乗せてくれ」
「承知しました」
「乗せるときよりも突き落とすときに多少の抵抗があるかもしれんぞ」
「抵抗があったところで、たかが知れていますよ」
「乗せる口実はわかってるな」
「はい」
「うまくやってくれよ」
ヘリは、日野を乗せて、空中に舞い上がった。一拍遅れて、風巣へ着いた的場隊から、はなはだ憂慮すべき報告がきた。
「なに! 民宿の男が三人脱出を図り、大屋二尉が追って行っただと?」
塚本はおもわず声を高めた。村の人間が全員|揃《そろ》っていなければ、この作戦は意味がなくなる。
「大屋二尉からそんな連絡はこなかったぞ」
「追跡に忙しくて、連絡するひまがなかったのだとおもいます」
「足跡はどうなっている?」
「林の周辺の雪は踏み荒らされていて、どの足跡かわかりません」
「三人も逃げる間、大屋はいったい何をしていたのだ?」
塚本はどなったが、それは的場にも答えられない。塚本はただちに通信係に命じて、大屋を呼ばせたが、応答がない。まさか、彼らが塚本を捕虜にすべくこちらへ向かっているとは知らないから、きっと電波の届かない山かげにでも入っているのだろうと考えた。
塚本はただちに風巣の上空で、着地態勢をとっていたヘリ上の日野一尉を呼んだ。
「民宿の三人が逃げた。反町という管理人と秋本と福島という客だ。権右衛門沢のほうへ向かったらしい。いま、大屋二尉らが追跡している。きみも空から探してくれ。逃げ切れるとはおもえないが、やつらを一人でも逃がせば、我々は終わりだ」
塚本の声は切迫していた。
このころ反町らは水入らず沢へ向かう樹林帯の中にいた。的場隊との鉢合わせを避け、上空からの捜索を撒《ま》くために、樹林の奥へ入ったので、かなり迂回《うかい》を強いられていた。一刻も早く、塚本を捕えないと風巣が危ない。しかし、敵の目に発見されたら、こちらの最後の望みは絶たれる。疲労が蓄積されたうえにガス中毒から完全に回復していない身体には苦しい作業《アルバイト》だったが、クスリの作用で大屋らの動きが緩慢《かんまん》になっていたので、体力的にバランスがとれていた。
焦燥《しようそう》を抑えながら、樹林の中の深雪を遅々と辿《たど》っていた。何度か上空に彼らを捜しているらしいヘリが飛んで来たが、深い樹林の中に隠れた彼らを見つけられなかった。
「こちら日野一尉。大屋二尉、感度あれば応答せよ」
ヘリから日野が呼びかけてきたが、秋本は応《こた》えさせなかった。こちらの位置を悟られると、塚本に警戒させてしまう。
大屋との連絡をあきらめた日野は、塚本を呼んだ。
「こちら日野ですが、彼らを発見できません。大屋二尉も応答しません」
「らしいな」
「大屋二尉はなぜ応答しないのでしょう?」
「電波の届かない死角に入っているんだろう」
「しかしヘリの爆音を聞けば、必ず出て来るはずです」
「おかしいな」
塚本もようやく疑いだした様子だった。そのやりとりを明瞭《めいりよう》に傍受できる。
「まさかとはおもうのですが……」
日野の声がためらった。
「まさか何だ?」
「大屋二尉ら三名は、彼らに捕えられたのではないでしょうか?」
「ふっ、馬鹿な! 大屋はレインジャーの中でも特に優秀なやつだぞ。それが年寄りと一般市民の寄り集まりの捕虜になるはずがない」
塚本は一笑に付した。
「しかし、野崎のようなプロがいたではありませんか」
「するときみは、まだやつらの中にプロがいるというのか?」
塚本の口調が少し改まった。
「絶対にいないとは言いきれないとおもいます」
「土着の老人を除けば、民宿の管理人夫婦と五人の客だけだ。そのうち、野崎ともう一人の男の客はヘリとともに墜落して死んだ」
「残ったのは、男三人、女二人、そのうち男三人が揃って逃げ出したというのが気になります」
「仮にこの三人の中にプロがいたところで、大屋らがやられるはずがない」
「そうは言いきれないとおもいます。不意を衝かれれば、どんな猛者《もさ》でも陥れられますよ」
日野一尉の推理は、次第に事実へ近づいてくる。
反町と秋本は、トランシーバーのボリュームを下げて、この交信を大屋らに聞かせないようにした。
「仮にそうだとしても、女と老人を残していったいどこへ行ってしまったのだ?」
「わかりません、しかしなにか企《たくら》んでいる気配ですね」
「よし、村の連中をヘリにみんな積み込め」
「え? 男たち三人を残したままですか?」
「やむを得ない。女老人どもを人質にとって空から呼びかけるんだ。出て来るかもしれない。そんなに簡単に脱出できるはずがないからな」
「出て来なかったときは?」
「とにかくやってみろ」
塚本と日野の交信は終わった。事態はいよいよ切迫してきた。彼らは風巣に残した人々を人質に取るつもりらしい。その前にこちらが塚本を人質にしてしまわなければならない。
だが反町らは、いまモミ、ツガなどの濃密な樹林帯の中に迷いこんでいた。雪は深く斜面は急だった。気が焦《あせ》るばかりで、ピッチはいっこうにはかどらない。
「ここらでダミーのラポールを強めておいたほうがよいかもしれない」
秋本が言った。
「どうするんです?」
反町が聞いた。
「少量の麻薬を注射しておくんだよ。クスリの力をかりていないと、催眠が醒《さ》めてしまうおそれがある」
「こんな所で注射して、眠ってしまいませんか」
「量をかげんするから大丈夫だ。多少運動に影響するかもしれないが、この際やむを得ない」
秋本は携えてきた薄いかばんの中から、注射器と麻薬のアンプルを取り出した。
「さあ、腕を出して。力のつくクスリを注射してやるぞ」
と暗示をかけると、三人のダミーは素直に腕をさしのべた。
「先生、そのかばんは私のザックに入れてあげましょう。荷物になります」
注射がすむと、反町が申し出た。
「そうだな、ありがとう」
秋本は、その申し出に従った。ハンドバッグのような小さいかばんだったが、荷物になっていた。
「さあ、水入らず沢まであと少しだ。頑張《がんば》ろう」
反町はザックを背負いなおすと、一同を励ました。
新手の見張りが来てから間もなく、大型ヘリが風巣の台地へ降着した。朦々《もうもう》たる雪煙がおさまると、数人の厳しい表情をしたレインジャーが降りて来た。
その中のリーダー格らしい、目に冷たい光沢を帯びた一尉が、全員をヘリで山麓《さんろく》へ運ぶから急いで支度をするようにと命じた。まことに唐突《とうとつ》な命令であった。
「どうして、山麓へ行かなければならないのですか?」
反町から留守を預かった真紀子は聞いた。
「この村は孤立してからすでに数日経過しています。本部からの命令によって、天候が小康状態を保っている間に、あなた方を山麓へ避難させることになったのです」
「でも、私たち避難する必要なんかありません」
「あなた方は孤立しているんですよ。我々はあなた方の救出のために派遣されたのです」
「孤立したと言いますけど、食べ物は十分にありますし、ふだんと同じ状態です」
「いまはいいかもしれない。しかしまた天候が悪化して、下と連絡がつかなくなってからでは遅いのです。連絡を絶たれてから、食糧がなくなったら、どうするのです?」
「一冬越せるだけの食べ物はストックしてあります」
「だったら、どうしてあなた方の三人は脱出を図ったのですか?」
「そ、それは、あなたたちが変なことをするからです」
「変なこと? いったい我々が何をしたというのです?」
と問われて、真紀子は、風巣を連続して襲った事件が、たしかにレインジャーの手によるという証拠を突きつけられないことに気づいた。
大屋二尉に催眠術をかけて引っ張り出した事実は、伏せておかなければならない。大屋ら三名がこちらのダミーになっていることを、彼らに悟らせてはならない。大屋らはいま風巣側の唯一の手勢≠ネのである。
そうなると、雪崩《なだれ》にしても、クスリやガスにしても、レインジャーの仕掛けだという決め手はなくなる。
真紀子とまゆみが本能的に危険を悟っただけである。唯一の証人である野崎は、ヘリとともに墜落してしまったらしい。
それに、決め手や証人があったとしても、それを彼らに突きつけるのは、はなはだ危険であった。いまのところ彼らは、害意を紳士の仮面で被《おお》っている。下手に相手を追いつめると、仮面を脱いでなりふりかまわず襲いかかって来るかもしれない。
一尉は、真紀子が言葉につまったので、さらに押しかぶせた。
「急病人が出たらどうするつもりです? この村には高齢の老人が多い。雪に閉ざされた山奥で、もし急に悪くなったら、たすけようがありませんよ」
一尉に問いつめられて、真紀子は言葉を失った。老人たちは、頼るべき身寄りのない者か、家族の足手まといにならないために、自らの意志でこの村に残った者ばかりである。高齢に伴う各種の疾患や症状は、雪に閉鎖される前からかかえていた。
しかし、真紀子の口から、せっかく救援を申し出てきた自衛隊を拒むことはできなかった。老人たちの症状が急変しないという保証はないのである。
真紀子の沈黙につけこんだ一尉は、
「村にいる者全員をヘリに乗せろ。急げ!」
と命じた。すでに先着していた新手の三人および、ヘリから降り立った五、六人のレインジャーは、八方へ散った。
身動きできない老人たちも、寝床からうむを言わさず引きずり出されて、荷物のようにヘリに積み込まれる。身の回りの品ももたせられない。
「奥さんたちも早く乗ってください。天候が悪化すれば、飛べなくなります」
一尉は、真紀子やまゆみを急《せ》き立てた。
空には、雲が切れて久しぶりに太陽が覗きかけている。曇天に馴《な》れた目に光のはずむ雪原が眩《まぶ》しい。しかし冬の天候は当てにならないので、一尉の言うように、またいつ崩れるかわからない。
「二人のお客さんと主人は、残して行ってしまうのですか?」
「間もなく大屋二尉が保護≠キるでしょう。さあ早く」
真紀子は、まさか彼らが、空中から自分たちを突き落とそうとしているとはおもわなかった。あまりにも非人道的で、おもいつかなかったのである。
しかし、ヘリに乗ることに漠然《ばくぜん》たる不安を感じていた。彼らはなにか企んでいるようである。ヘリに無理矢理に乗せて、どこかへ運んでいったうえで、なにかするつもりにちがいない。
――乗ったら最後だ――とおもった。しかし屈強なレインジャー十名近くが、いやおうもなく村人をヘリに乗せている。
そのとき佐倉まゆみがすっとかたわらへ寄って来た。
「奥さん、乗ったらいけないわ」
彼女は震え声で真紀子の耳にささやいた。顔面から血の気が退《ひ》いて、異常にこわばっている。
「どうして?」
「あの人たち、私たちを突き落とすつもりなんです」
「突き落とす? ヘリコプターから?」
真紀子は信じられなかった。
「そうよ」
「まさか」
「本当よ、私にはわかるのよ、お腹の下あたりがすっと冷える感じなの。ちょうど高い所から下を見おろしたときの感じと同じなの」
まゆみは、もしかすると胎内《たいない》に育つ幼い生命がそれを教えたのかもしれないとおもった。味覚や嗅覚《きゆうかく》は以前と変わらないのだが、漠然たる不安にひどく敏感になっていたのである。ことに、ヘリが飛んで来て、避難を強制してから、下腹部から全身に冷感がひろがっていく。なにかがある。そうだ、これは夢の中で滝壺へ向かって墜落している感覚とそっくりだったと気づいたとき、レインジャーの凶悪な意図をはっきりと悟ったのである。
「信じられないわ」
「奥さん、本当なのよ、私、妊娠しています。お胎《なか》の赤ちゃんが教えるんです」
真紀子は、まゆみの表情を見て、ようやく信じる気になった。
「逃げましょう」
真紀子はささやいた。
「でもどこへ?」
まゆみは危険を予知したものの、自分らの置かれた絶望的情況に途方に暮れていた。
「民宿の台所の床下《ゆかした》に、食糧貯蔵用の室《むろ》があるのよ。そこに隠れていれば、気づかれないとおもうわ」
「でもお年寄りたちは?」
「私たちがいなくなれば、ヘリコプターはすぐに飛び立たないとおもうの。私たちを探している間に反町がなにか手を打つわ。とにかくいまは時間を稼《かせ》ぐことよ」
老人たちを機内に乗せた一尉は、真紀子たちのほうへ近づいて来た。
「さあ、何をしているのです。早くお二人も乗ってください」
「すみません、ちょっと忘れ物をしましたので」
「私も……」
二人は家の中に引き返そうとした。
「すぐ戻《もど》れるのですよ。荷物をもっていく必要はありません」
一尉が立ちふさがるようにした。
「女には、男の人にはわからない身の回りの品があるのです」
そう言われて、一尉は仕方なさそうに道をあけた。真紀子とまゆみは家の中に入った。
3
反町ら六名は、ようやく水入らず沢に達した。沢の墜落箇所に数名の隊員が散開して、復旧作業をつづけているのが見える。焼け焦げ引きちぎられた樹林は、根こそぎ掘り返されて、上に土を均《な》らし、雪を盛られている。機体の破片はほぼ完璧《かんぺき》に近い形で回収されていた。
現在の作業は、撤収の網の目を漏れているかもしれない微細な破片を、拾い集めるためである。機械力と人力をふんだんに投入してジェット機墜落の痕跡は、見た目には完全に拭い取られていた。
「塚本二佐はどこにいる?」
「沢の上の台地のテントの中にいるはずです。そこから各所に指令を発しているのです」
大屋の指さしたあたりに、テントが数張り認められた。
「あそこにいるのは、たしかに塚本二佐と通信係だけか?」
「そのはずです。塚本二佐はあの場所を離れられません。各所に命令を発すると同時に、いつ、後方から新たな指令がくるかわかりませんから」
「よし、これから、塚本二佐を我々の支配下におこう。そして権右衛門沢に埋められている兄弟を救うのだ」
大屋ら三名は、いま権右衛門沢に彼らの兄弟が埋められていると、本気で信じていた。
「私はこれから、別動して権右衛門沢へ行きます。塚本二佐を捕えて、うまくレインジャーを沢の下へ誘導するまで、現場で待機します」
反町は案内役を果たしたので、かねての打ち合わせのとおり一同と別れた。
「トランシーバーを傍受しています。たがいに好運を祈って」
大屋のトランシーバーをもらった反町は、秋本と福島と手を握り合った。もしかすると、これが最後の別れになるかもしれない。三人とも、いまだに自分たちの巻き込まれた異常な事件が信じられなかった。
だが、自衛のためにレインジャーを相手どって、途方もない戦いを挑《いど》もうとしている現実があった。
塚本二佐は、いっこうに行動を起こす気配のない日野一尉に、業《ごう》を煮やして呼びかけた。
「何をぐずぐずしてるんだ。早く人質を抑えて、逃げた三人に呼びかけろ」
「それが……」
いつになく日野の声が逡巡《しゆんじゆん》している。
「どうした?」
「女二人がいなくなってしまったんです」
「いなくなった?」
「管理人の細君と、佐倉まゆみという女客です」
「逃げたのか?」
「それが逃げた気配もないのです。家の中に身の回り品を取りに行ったまま出て来ないので、探したのですが、どこにも姿が見えません」
「そんなはずはない、どこかに隠れているんだ」
「家の中は全部探したのですが」
「探し方が足らんのだ。どこかに隠れているはずだ。早く探し出せ」
日野を督促《とくそく》してから、
――まったく女二人に何を手間取っているんだ――とつぶやいたとき、テントの出入口から大屋二尉ら三名がのっそりと入って来た。彼らとの連絡はいままで絶えていたのである。
「いったいどこにいたのだ? なぜ応答しなかった? ここへ戻って来いという命令は出してないはずだぞ」
塚本は、勝手な動きをしていた部下の面を見て、これまで怺《こら》えていた憤りを一度に叩《たた》きつけた。それに、なんの言葉もかけずに本部のテントへ入って来るとは、言語道断である。
「管理人と民宿の客はどうしたんだ。きみらが付いていながら、なぜ逃がした」
「…………」
「なぜ黙っているか? 返事をしろ」
のっそりと、塚本の前に立ちつづけている三人に、塚本は、ますます憤りをそそられた。
「命令を変更していただきたいのです」
大屋がボソリと言った。
「命令を変更だと?」
塚本は、言われたことの意味がわからない。それは旧軍時代を通じて、部下の口から初めて聞く言葉であった。
「それはどういう意味だ?」
塚本は憤りを不審に変えて、聞いた。
「ヘリの撤収作業を行なっている人員を、ただちに権右衛門沢の仲間が遭難した地点に送っていただきたいのです」
塚本は顔色を変えた。
「きさまら正気か?」
「本気です」
正気とは答えないところに、塚本はうそ寒いものを感じた。入って来たときから、どうもいつもの彼らと様子がちがっていた。どこがどうちがうのかわからないのだが、精神の実質を何ものかに乗っ取られたような感じなのである。
しかし、心身ともに鍛え抜かれた空挺《くうてい》隊員が、正体不明のおどろおどろしい化け物に魅入《みい》られたというのも、塚本らしからぬ印象であった。だが事実彼はそのように感じた。そしてその印象は当たっていたのだ。
「きさまら、何を寝ぼけているか。早く風巣へ戻って、日野一尉と合流しろ」
塚本は、自分の曖昧《あいまい》な印象を振り捨てるためにどなりつけた。
「命令を変更していただかないと、残念ながらあなたの身体を拘束しなければなりません」
大屋は、表情を変えずに言った。彼の背後に従う二人の曹も、同様の無表情をしている。
「塚本さん、この三人は本気です。言われたとおりにしたほうが、身のためだとおもいますがね」
テントの出入口から、五十年輩の見なれぬ男が、顎を撫でながら入って来た。その後ろから耳帯をかけた中年の男がつづいて来た。
「きみらはだれだ?」
「風巣の民宿の客で、秋本と申します。こちらが福島さんです」
「そのきみらがどうしてここへ?」
「そのわけは、大屋二尉から聞いてください。とにかく大屋二尉ら三名は、あなたの命令より私の命令を聞くようになっています。私が命ずれば、あなたの生命だって保証されませんよ」
「あなたも正気ではないようだな。いま兵隊ごっこをしているのではない。あなたたちは早く民宿へ帰りなさい」
彼らがここへ来た事実に、事態の深刻な気配を感じ取れるのだが、いまもって、大屋らが民宿の客の意のままに動かされているとは信じられない。百歩譲って仮にそうだとしても、そのようになった過程が信じられない。軍人の鋳型《いがた》教育がそんなに簡単に壊れるはずがないのである。
塚本も、彼らが現代の妖術《ようじゆつ》、催眠術の虜《とりこ》にされたとは、おもい及ばなかった。
「塚本さん、あなた方の計画は、すべて大屋二尉から聞きました。もうとぼける必要はありません。私たちも命をかけています。決して兵隊ごっこじゃありません。私があなたを殺せと命じれば、この三人は躊躇《ちゆうちよ》なくあなたを殺しますよ」
塚本は秋本や大屋らの表情を見て、それが嘘《うそ》ではないのを悟った。大屋ら三名は完全武装をしている。一人一人が数百人を殺せる火力を帯びている。それに対してこちらはナイフ一丁も身に帯びていない。通信係も同様だった。
まさか風巣側からこのような反撃を喰うとは夢にもおもっていなかったので、備えはまったく施《ほどこ》していない。全身を爪《つめ》と牙《きば》で武装した狼《おおかみ》の集団が裸の羊を襲うのである。反撃を予想するほうがおかしい。
「さあ、ご自分の置かれている立場がわかったら、早く言われたとおりにするんです」
秋本がうながした。
4
「外へ逃げた様子はない。必ず家の中に潜んでいる、探せ! 探すんだ」
日野は命じながらも、自分が先頭に立って屋内を捜索した。しかし、二人の女の姿はどこにも見当たらない。
「一尉殿、どこにもいません。我々の知らない抜け道から、外へ逃げ出したのでは……」
「そんなはずはない。絶対にこの民宿の中にいる。どこかに探し残した場所があるんだ。もう一度よく探してみろ」
日野は部下といっしょになって、天井裏から床下までも探した。天井板は剥《は》がされ、畳は上げられて、民宿は惨澹《さんたん》たる状態になった。だが依然として、彼女たちを探し出せない。時刻が移るほどに、日野側に不利となる。
「女たちだけ残して行きましょうか?」
的場二尉が意見を出した。
「だめだ。それではなんにもならない。一人たりとも残したら、意味がないのだ」
日野が首を振った。
「しかし、これ以上、探す場所がありません」
それは日野自身がよくわかっていた。
「よし、やむを得ないな」
日野が意を決したように言った。的場が自分の意見を日野が採《と》ったとおもいかけたとき、
「この家に火をかけろ」
と命じられた。
「火を!」
的場は一瞬、命令の内容がよく理解できなかった。
「そうだ。火をかけるんだ」
「つまり、燃やしてしまうのですか?」
「そのとおり、どこへ隠れていても、火を放《つ》けられたら出て来るだろう」
「し、しかし、それは……」
的場がびっくりして言葉をのどにつまらせた。
「なにをもたもたしている。早く火をかけるんだ。ぐずついている閑《ひま》はないぞ」
「そんなことをしたら、後で厄介《やつかい》なことになります」
「なにが厄介だ? 山小屋の焼失はべつに珍しいことじゃない。登山者の残り火の不始末でもよいし、住人の不注意でもよい。適当な理由をつけてくれるさ」
もともと「火」は、日野のアイデアだった。全村燃やすことに難点があって、実行されなかったが、一戸だけならどうということはない。まして民宿の火事となれば、原因はいくらでも考えられる。
「後で放火を疑われないように、油は使うな」
こうして、真紀子とまゆみのいぶり出し作戦ははじめられた。
火はまず民宿のロビーにある囲炉裏《いろり》のある広間につけられた。ここが火元として最も自然である。
長い期間雪に閉じこめられて、家の材木が十分湿っていたので、火はなかなか回らなかった。油を使えないことが、火の手の回りをさらに遅くした。だが火は少しずつ燃料を摂取して、確実に成長していった。
日野は、自分の悪魔的な判断を、塚本の指示を仰がずに独断で進めていた。老人と民宿客と侮《あなど》っていたのが、意外に手古《てこ》ずるので、日野は焦《あせ》っていた。焦燥《しようそう》というより、彼は腹を立てていた。
自分たちが日ごろ生命を削るようにして鍛えられたのは、こんなものを相手にするためではない。第一空挺団といえば、日本自衛隊という隠れ蓑《みの》をまとった軍隊の最精強の部隊である。隊員はいずれも一騎当千である。それがこんな老人と民宿客だけの過疎村相手の作戦に引っ張り出された。
なにも、自衛隊の最精鋭を駆り出さなくとも、停年退職直前の老兵≠ナ十分用は足りるだろうにと、大いに不満だったのが、いまだにラチ[#「ラチ」に傍点]があかない。日野は自分に対しても腹を立てていた。
一方、室《むろ》に潜んでいた真紀子とまゆみは、逸早《いちはや》く身に迫る危険を悟った。今度も、異常に研《と》ぎすまされた予知本能が危難を教えてくれたのである。
最初にそれを悟ったのは、真紀子であった。
「ねえ、佐倉さん、におわない?」
「におう? 何が?」
「空気がきな臭いのよ、何か燃えてるみたい」
「私は何も感じないけれど」
「たしかに何か燃えているわ、まさか……」
「まさかどうしたの?」
「まさかあの人たち、火を放《つ》けたのでは……?」
「火を! 私たちをいぶし出すために?」
「きっとそうだわ」
「本当だわ。私にも、におってきたわ」
二人は途方に暮れた顔を見合わせた。
「このまま、ここにいたら、焼け死ぬし、出て行ったら殺されるわ」
まさに絶体絶命の窮地に追いつめられていた。
「佐倉さん、出ましょう。きっと煙を見て、主人が救けに来てくれるわ」
真紀子はついに意を決した。わずかの隙間《すきま》から侵入して来る煙は、刻々と濃度を強めている。いまは、一時逃れにしても、延命をはからなければならなかった。
――あなた来て! 私を救けて――。
真紀子は、漂い来る煙に、必死のおもいを託した。
[#改ページ]
屈辱の代読
1
「なぜ命令を変更させようとするのか?」
塚本は聞いた。それはすでに自分の立場を認めた証拠でもあった。
「遭難した隊員の救出を優先させるのは、当然でしょう」
「それをきみらが指図する必要はないだろう。きみらにとっては関係ないことだ」
「人道的な立場からです」
「人道的な立場からなら、ヘリにも二人乗っている。彼らはきみたちの仲間だ。ヘリの救出を先行させていることを、むしろ喜ぶべきじゃないか」
「ヘリに乗っていた人間は、もう死んでいます。それは確認したはずです。死んだ人間や墜落したヘリよりも、雪崩にやられた人間の救出を優先すべきです。生存者がいるかもしれない」
「それにしても、きみらが口をさしはさむべき問題ではない。人道的立場というまことに抽象的な理由にしては、少し熱心すぎるようだな」
「つべこべ言わずに早く命令しろ」
秋本は焦った。いつ新手の部下がやって来るかわからないのである。
「なにか裏がありそうだな」
塚本はニヤリと笑って、
「命令は変更しない。生命など保証されなくともいっこうにかまわん。やれるならやってみることだな。こんなことを本気でつづけられるとおもってるのか」
塚本の面にテコでも動かされないふてぶてしさが浮かんだ。こうなると、何度も修羅場《しゆらば》をくぐって来た者の貫禄《かんろく》が、圧倒してくる。大屋二尉の表情にためらいが揺れた。貫禄のちがいが、秋本との間に架けられた心の橋《ラポール》を揺すっているのだ。
もし、塚本の貫禄の重みが、ラポールの橋脚を壊せば、立場はたちまち逆転してしまう。
「どうあっても変更しないか」
「しない。さあ早く風巣へ帰れ」
「やむを得ない。大屋二尉、見たか、これが、きみらの上官の正体なのだ。きみらの骨肉を見殺しにして、落ちたヘリを先にかたづけさせている。身体を拘束しろ」
大屋がためらった。
「ためらうことはない。きみは私の命令に従わざるを得ない。ほら、耳を澄ませ。あの悲痛な声が聞こえないのか。あんなに苦しがっている。救いを求める声がだいぶ弱くなっている。急がないと間に合わなくなるぞ。きみはあれを見殺しにする気じゃないだろうな」
秋本は大屋の瞳《ひとみ》を見つめながら、顎《あご》を撫《な》でた。ぐらつきかけたラポールがたちまち強くなる。
「この通信係も縛り上げろ」
秋本は、同様にして山根と木下のラポールを強めながら、命じた。彼らは用意してきたロープで塚本と通信係を拘束した。猿轡《さるぐつわ》もかませた。
しかし、それ以上のことはできなかった。
生命は保証しないと脅かすことはできても、脅迫を実行できない。人を殺したり拷問《ごうもん》することに馴《な》れていない。となると、いかに相手の自由を束縛しても、その意志を従わせるための方法をもっていないことになる。
見事に塚本は捕えても、捕えたことにならない。塚本自身、自分が捕えられたとは少しもおもっていない。
そろそろ反町が打ち合わせた待機の場所に着くころであった。時間の経過は確実に秋本たちにとって不利となる。塚本のそばにいてはダミーとのラポールも心もとない。
秋本はこのへんでもう一度、ダミーに麻薬をあたえて、ラポールを架ける素地を強化しておいたほうがよいと判断した。クスリと注射器を取り出そうとして、秋本は顔色を変えた。
「どうしたんです?」
ただならぬ気配を悟って、福島がたずねた。
「さっき途中で注射したとき、クスリと注射器を反町さんに預けたままだった」
「そうでしたね」
福島もおもいだした。秋本の医療器具と薬品を、反町がザックに入れて背負ってくれたのである。それを返してもらうのを忘れていた。反町が、秋本の身体を庇《かば》ってしてくれたことが、あだになってしまった。
「顎を撫でる後催眠暗示では、無理でしょうか?」
「わからない。しかし、ここにいては塚本二佐の影響力が強いので、ラポールは弱まる一方だろう」
「どうしたらいいでしょう?」
「一刻も早く、命令を変更させてこの場を立ち去るのがいちばんいいんだが」
「反町さんをトランシーバーで呼び戻《もど》したら」
「時間がかかりすぎるよ。それまでラポールが保つかどうかわからないし、だいいちトランシーバーを使ったら、我々がここにいることを教えるようなもんだ」
そのときトランシーバーにコールサインが入って、日野一尉の声が呼びかけてきた。
「こちら、日野、ようやく女二人を発見しました。台所の床下に掘ってあった室《むろ》の中に隠れていたのです。いかがいたしましょう?」
秋本と福島は、ギョッとして顔を見合わせた。
応答しなければ、怪しまれる。二人は進退に窮した。
「もしもし、こちら日野、聞こえますか、感度ありましたら応答してください」
日野が再度呼びかけてきた。これ以上沈黙をつづけていると、日野に怪しまれる。なにか言わなければならなかった。
秋本は、大屋になにかしゃべらせようとした。大屋が本部にいるはずはないのだが、とりあえずこの急場を逃れなければならない。秋本が命令を出そうとしたとき、福島が意を決したようにトランシーバーに対《むか》った。
驚いた秋本が、どうするつもりだと問いかける前に、福島は口を開いていた。
「どうした?」
「ああ、お返事がないので、どうかされたのかとおもいました。二人の女を見つけましたが、いかがいたしましょう?」
日野一尉は、福島の応答を怪しみもせずに指示を求めてきた。しかしそれを求められても、答えようがない。福島らは、後方からきた「突き落とし命令」を知らない。
「その場で監視していろ」
福島は、手探りするように言った。
「えっ、するとヘリには乗せないのですか?」
日野がやや不審げにたずね返してきた。福島は、日野の応答によって、彼らが男たちの留守中、村へヘリで降り立ち、女たちをどこかへ連れて行く様子だったのを悟った。
どこへ何のために連れて行くのか聞き出したいが、それはできなかった。相手がまだ気取らないのが、不思議であった。
「その場で指示するまで監視していろ」
福島は、繰り返した。
「大屋二尉と連絡がつきましたか?」
「まだだ」
「おかしいですね、やはりなにかあったのでしょうか?」
「大屋二尉のことだ。あまり心配することはないだろう。それより女どもを頼む。以上」
福島はできるだけ言葉を節約して交信を終わった。いつもの福島の口調ではなかった。短い会話だったが、どこかで聞いたような話しぶりである。秋本はハッとして福島を見た。
「福島さん、あなたは……」
秋本はようやくおもい当たったのである。
「私の隠し芸ですよ、こんな所で役に立ったとは皮肉だ」
福島は、ちょっとはにかんだような表情をした。
「あなたにそんな芸があったとは知らなかったな」
「ほんのわずかしか、塚本の話しぶりを聞いていないので、特徴をつかむのに苦労しました。十分に模写できないので、あまり長くしゃべれないんです」
「私にはそっくりに聞こえたがね」
「完全に模写するには、相手の人物になりきらなければなりません。それには時間が不足しすぎています」
「それだけ塚本の口調を真似《まね》られれば、どんな命令でも出せるぞ」
秋本は目を光らせた。
2
福島は、自分の特技≠ノ屈辱感をもっていた。小さいころから、他人の真似をするのが上手だった。両親きょうだいから友達など、身の近くにいる人間からはじめて、父の来客の口ぶりまで、わずかな時間にその特徴をとらえて真似た。
それは一つの才能といってもよかった。母親は、「この子はその方面で身を立てるかもしれない」と言った。事実、福島はその方面[#「その方面」に傍点]に行けば、ひとかどの人間になれたかもしれない。だが、人のもの真似をして身を立てる気はしなかった。やはり男として生まれた以上、自分の原形質《オリジナル》で勝負したかった。自分にもオリジナルはある。たまたま他人の真似がうまいという余技があるだけで、それはオリジナルには少しも関係ない。
福島は、余技を本業にしたくなかった。地方のある私大を出て、その県の上級職員採用試験に合格し、県庁に就職した。まず衛生部医務課に配属されて有能ぶりを発揮した。
医務課は、県の医務行政を司《つかさど》る部署で、県の医師会と密接な関係にある。医師会は県に対して影響力大きい圧力団体である。うるさがたぞろいの医師連の頭を撫でながら、福島は常に行政サイドへ引っ張って来てしまう。
医師会に花をもたせたように見えながら、結局、県側のペースにはまっている。医師会は、福島にしてやられながら、少しも負けた気がしない。このあたりが実に巧妙であった。
両者の橋渡しとして、彼の余技≠ェ大いに役に立った。仕事に余技を使いたくなかったが、彼の余技は宴席で大モテだった。所望されると、断わりきれない。
福島を特に医師会長が可愛がってくれた。会長は知事に「おもしろい男がいるから、面倒《めんどう》みてやってくれ」と口をきいてくれた。
知事と県医師会長の関係は密着している。知事としても、医師会長の言葉となると、むげにも断わりきれない。選挙のとき医師会のバックの有無は、当落に大きく影響する。それに、話を聞いてみると、事実おもしろそうな人間であった。
今度は県知事が人事部に口をきいて、秘書課に抜擢《ばつてき》した。庁内で秘書課、人事課、企画課などはエリートコースである。よほどいいバックの根回しがないと、なかなかこの方面には回されない。
福島もこの時点では、医師会長に感謝した。これで課長、部長のポストも射程内に入ったとおもった。
だが医師会長は、彼を推輓《すいばん》するにあたって、あまりにもその余技のほうを吹聴した。知事は福島のオリジナルよりも、余技のほうに初めから興味をもっていた。
就任の挨拶《あいさつ》に行った福島をつかまえて、自分の声色を使ってみろと命じた。福島がためらっていると、
「きみは、その場で特徴をつかんで、うまく真似するそうじゃないか。医師会長から聞いたぞ」
と言った。知事はそれを楽しみにして待っていた様子であった。福島は断わりきれなくなった。抜擢されたのは嬉《うれ》しいが、自分そのものではなく、余技のほうを求められているようで、複雑な気持ちであった。
ともあれ、望まれるままに、知事の声色を使ってみた。その場かぎりの即興であったが、これが本人そのもののようにうまくできた。知事は感心するより、びっくりした。
その噂《うわさ》が、たちまち庁内に広まった。これまでも噂のないことはなかった。だが、それはあくまでも衛生部の内にとどめられていた。
噂を聞いて副知事や出納長なども、余技を披露《ひろう》しろと言ってきた。福島がしぶると、知事には見せて、自分には見せないのかと嫌味《いやみ》を言った。彼らは知事とともに、庁内の三役≠ナある。
福島は、やむを得ず、また余技を披露する羽目になった。そしてふたたびやんやの喝采《かつさい》をあびた。次いで部課長連がやって来た。もはや彼の余技は、庁内に知らぬ者はなかった。
その日、――知事が、ある社会事業団体のパーティに招かれて、出席する子定になっていた。ところが直前になってよんどころない急用ができて、欠席のやむなきに至った。知事との個人的つながりの深い団体なので、副知事をわずらわすほどのパーティではない。秘書課長が代理に出席して、知事のメッセージを読み上げることになった。
このとき、知事がおもしろいアイデアをおもいついた。
「どうせ代読させるなら、福島に私の声色で読ませたらどうか」
言いだすと同時に、知事は自分のアイデアにすっかり酔ってしまった。
「これはきっとうけるぞ。ぜひ福島にやらせろ」
鶴の一声であった。福島はいやいやパーティで知事のメッセージを代読した。これが大評判になった。
「見ろ。わしのアイデアは当たっただろう」
知事はご満悦であった。これに味をしめて、知事はそれ以後、メッセージの代読はすべて福島にやらせるようになった。
知事はきわめて多忙である。出席しなければならない行事や、会合が多い。このようなときに、福島のようなタレント≠フ存在は便利であった。
特に、会合に私的な色彩の強い場合、知事そっくりの口調で、メッセージを代読されると、人々は知事が実際に出席してくれたかのような錯覚をもった。そしてそれが錯覚であったことを悟ると、非常にしゃれた余興に感じられた。どこへ行っても、福島は大喝采をもって迎えられた。
そのうちに副知事、出納長、部長クラスからも頼まれるようになった。知事から「他の仕事はしなくともいいから、代読に専従しろ」と言われた。余技が、とうとう本職になってしまったのである。
いつの間にか彼は、庁内で『代読屋』と呼ばれるようになった。
そのうちに知事がかわった。彼はいい機会だとおもって、本来の仕事へ戻してくれるように頼んだ。だが新知事も、彼の余技のほうに興味をもった。
こうして何代かの知事に仕えるうちに、福島の代読屋としての職能は定まった。本来の仕事は、代読以外になくなってしまった。福島もしだいにそれに馴れてきた。代読屋にあまり抵抗を感じなくなったのである。
ここに一つの事件が起きた。県下のS市にある県立老人ホームから火災が発生した。火の回りが早く、寝たままの老人二名とそれを救けようとしたホームの職員一名と消防士一名が焼死した。
老朽化した木造平屋建てで、関係者から県に対してすでに何度も施設改善の陳情が出されていた。防火設備はほとんどなく、定員百名のところへ、二倍近い百八十名が入っていた。もちろん看護人も不足していて、十分目が届かない。火事の原因は、残り火の不始末とも漏電とも見られていたが、いったん火を発すると、まるでベニヤ板でも燃えるように火の手がひろがった。
当夜は百八十人の老人に、宿直員はたったの二名であった。宿直員は必死に老人の避難誘導にあたったが、一人当たり九十人の老人の誘導は無理であった。火に立ち向かうべき消火器も満足になかった。消防が駆けつけて来たときは、火の手はすでに手のつけられないほど広がっていた。
それでも職員と消防士は逃げ遅れた老人の救出にあたったのである。その結果、二人を殉職《じゆんしよく》させてしまった。
その犠牲者の合同葬儀がS市で営まれることになった。知事も出席することになっていた。だが知事としては、度々施設改善の陳情をうけていただけに、なんとも具合の悪いものとなった。彼が早く陳情を聞き入れていれば、惨事は未然に防げたかもしれないのである。
できることなら代理を送ってすましたかった。そして彼は結局代理に押しつけたのである。当然、福島にその役がまわってきた。福島は、いつもそのように軽い気持ちで引き受けた。合同葬儀の会場で、福島はおごそかに知事の弔辞を読みはじめた。会葬者も神妙に聞き入っていた。もうこのごろは馴れたもので、態度やものごしまで、知事そっくりになっている。会葬者のほとんどは、知事本人が来たとおもっていたらしい。
弔辞を読み了《おわ》りかけたとき、急に慌《あわ》ただしい気配が目の前に動いた。弔辞台紙から目を上げると、十三、四歳と見える詰め襟《えり》の中学生が近づいて来た。
「帰れ!」
少年は、福島の前に仁王立《におうだ》ちになって叫んだ。福島はあっけにとられて少年を見た。少年がひどく興奮している様子は見て取れるのだが、なぜなのかわからない。少年は茫然《ぼうぜん》としている福島の前で叫びつづけた。
「ここは代理などの来る場所じゃない。なぜ知事本人が来ないんだ。ぼくのおやじは殉職した。老人ホームの職員の一人や二人が死んだくらいでは、知事は来られないというのか。帰れ! 代理の弔辞なんか聞きたくない。帰って知事に言え、おやじを殺したのは知事だ。早く施設を改善してくれたら、おやじは死なずにすんだんだ。帰れ!」
会葬者がざわめいたが、だれも少年をとめようとしなかった。みんなが少年に同調しているのがわかった。
少年は手にもっていたものを構えた。福島は本能的に危険を悟って身をひねった。白い泡状《あわじよう》の液体が少年の手先から凄《すさ》まじい勢いで噴きつけてきた。少年が構えたものは消火器だった。そのノズルを福島に向けて、消火剤を福島に浴びせかけてきたのである。
「これは県の見舞金で買った消火器だ。県は予算不足を理由に消火器すら買ってくれなかった。こんな見舞金なんかいらない。おやじを返せ!」
少年は叫んでいるうちに、感情が沸騰して泣きだした。泣きながら福島に消火剤を浴びせつづけた。彼の喪服が泡だらけになった。
泡だらけになって逃げ出した福島の姿に、会葬者がどっと笑った。だがその笑声も、彼の耳によく届いていなかった。危険を悟って身をひねったところへ高圧の消火剤を浴びせられて、右の鼓膜《こまく》を突き破られていたからである。刺激の強い消火剤を耳の奥へ入れられて、福島は中耳炎になった。右耳の聴力はついに戻らなかった。季候が変わるたびに、耳の奥が疼《うず》いた。
この事件によって、福島は県庁をやめた。不況でなかなかよい職は得られなかった。生活は窮迫した。結婚二年の妻がいたが、お先真っ暗の浪人生活にいや気がさして去って行った。彼はとめなかった。歴史の浅い夫婦では、経済生活の破綻《はたん》は、致命的であった。夫婦の間に子供のないことも、他人への還元をうながした。
福島は妻に渡した残りの金をかき集めて、行き場のない自分の人生を手探りするように旅へ出、風巣へ迷い込んだのである。
3
「その声帯模写で、彼らを権右衛門沢へ誘導してくれないか」
秋本が言った。
「ちょっと自信がありませんが、やってみましょう」
塚本が拒む以上、それ以外に方法がなかった。だが、ヘリ回収に行っている主力部隊の呼出し方がわからない。コールサインでも決まっていれば、どんなに上手に模写しても露《あら》われてしまう。
「さっき日野一尉が呼びかけてきたとき、特に呼び出しのサインはなかったようだよ。ツーツーとコールの信号を送ってきただけで、いきなり呼んできた」
「ぶっつけでやってみましょう」
福島は、トランシーバーの送話レバーを押して、
「こちら塚本、ヘリの回収隊、応答せよ」
と呼びかけた。ただちに応答が入った。
「こちらサルビヤB、酒井二尉です」
これで、ヘリ回収に向かった主力をサルビヤBと呼ぶことを、福島と秋本は悟った。酒井二尉がそちらの指揮を取っている様子である。いまの呼びかけを怪しんだ気配はない。
「酒井二尉か。ただちに全員を権右衛門沢のほうへ移動させろ。雪崩に埋まった遭難者の救出にあたれ」
「まだ、原状の回復が終わっていませんが」
酒井二尉の声がとまどっていた。再三の命令変更に面喰《めんく》らっているらしい。
「仲間の救出を先行する。ただちに全員を移動させろ。移動が終わりしだい連絡しろ」
「かしこまりました」
福島の声を塚本のものと信じきって、酒井は承服した。日野一尉がいまの交信を傍受して、なにか質《たず》ねてくるかと身構えていたが、なにも言ってこない。後は、移動完了の連絡を待つばかりである。
「あとはどうしましょう?」
福島は、秋本の顔を見た。
「日野一尉も、権右衛門沢へ移動させよう」
「しかし、反町さんの奥さんや佐倉さんを押えているらしい。もし彼女たちをいっしょに権右衛門沢に連れていったら……?」
「日野一尉だけ行かせるわけにはいかないかな」
「塚本が風巣の人たちを押えるように指示を出した様子です。それを理由もなく変更したら疑われるおそれがあります」
「そうだな」
どちらにも、すぐには名案が浮かばなかった。いずれにしてもこの場に長く留まっているのは、危険であった。塚本の部下がいつ、司令所テントへやって来るかもわからないし、大屋らの催眠も醒《さ》めるかもしれない。
「この作戦が成功しても、彼らを全部やっつけられない。塚本と、本部の近くに留まっている部下、それから風巣へ行っている日野一尉らは残る。彼らが怒って、なりふりかまわずやって来たら、ひとたまりもないな」
「それでもいいじゃないですか。最初から、せめて一矢《いつし》報いられればよいとおもってはじめたことです。我々丸腰の民間人が一騎当千のレインジャーを向こうにまわして、それだけ噛《か》みつけたら、十分ですよ」
「どうせやられるにしても、最後まで望みを捨てないことだ。天候は確実に回復に向かっている。いったん外と連絡がつけば、彼らはどんなに怒っても、勝手な真似ができなくなる。まだ我々にチャンスはあるよ」
そのころ反町は、権右衛門沢の上部で待機していた。トランシーバーを傍受して、命令をこちらの意図する方向に変えさせたことを知った。新たな指示を出した塚本の声が、福島の模写とは知らない反町は、うまく本部を制圧したと信じた。
「塚本」の命令によって、レインジャーの主力が権右衛門沢に移動してきた。サルビヤA隊の一部が加わっているので、総勢二十名ほどはいる。残りは、本部周辺にいる撤収部隊と、日野一尉のパーティに、分れているらしい。
彼らは、デブリの斜面に散開して遭難者の捜索をはじめた。その動きは鈍い。さしものレインジャーも、疲労の色が濃かった。いまや大多数が、ただ機械的に命令に従っているだけにすぎなかった。
反町は、機会を狙《ねら》った。彼らが最も密集したときがチャンスである。隊員はリーダーの命令に従って、一列横隊に並んで、スコップで雪面を掘り起こしながら捜索を行なっている。雪崩捜索用の鉄棒《ゾンデ》をもってきていないので、能率が上がらない。デブリは、コンクリートブロックのように固まっていて、スコップを受けつけない。天候は回復した。果物の皮を剥《む》くように、雲を剥《は》がされた青空から漏れ落ちた陽光が、雪面に乱反射して、レインジャーの目を灼《や》いた。横隊の歩みは遅々としてはかどらなかった。
「こちら酒井二尉、聞こえますか?」
捜索隊のリーダーが呼びかけてきた。
「塚本だ」
やむを得ず、福島が答える。
「全員の疲労がいちじるしく、雪のブロックが固いために能率が上がりません。掘削機《くつさくき》を回してください」
掘削機は、本部のほうに残っていたのだ。福島は咄嗟《とつさ》の返答につまった。
「もしもし、雪が固くてスコップを受けつけません。掘削機を回してください」
酒井二尉が重ねてうながした。
「わかった。すぐにまわす」
福島はとりあえずそう答えざるを得なかった。掘削機は風巣の雪崩工作をした後、水入らず沢へ帰って、原状回復の仕上げ作業に従っていた。本部テントのすぐそばで働いている気配が聞こえる。
命令は口頭で伝えるしかない。福島の特技は役に立たなくなった。この際、権右衛門沢にできるだけ大勢集結させるのは、大いに歓迎すべきことだが、こちらの顔を見せずに、掘削機オペレーターに命令できない。
大屋二尉は、本部にいないはずなので、使えない。福島と秋本が窮して顔を見合わせたとき、コールサインが鳴って、日野の声が呼びかけてきた。
「掘削機をさし向けるのは危険です。権右衛門沢にはまだ大量の雪が残っています。機械を動かすと、第二次雪崩を誘発するおそれがあります」
内部からおもいがけないたすけ船が入った。ホッとしかけるのも束《つか》の間《ま》、酒井二尉から、「これ以上、人力での捜索は無理です。隊員の体力は限界にきています」
と訴えられた。
「弱音を吐くな、それが空挺隊員の言葉か」
日野が直接酒井を叱《しか》った。
「私のことではありません。部下の身を考えているのです」
「同じことだ。リーダーが弱気だから、部下に伝染するのだ」
「ゾンデもなしに捜索は無理です」
「我々に無理とか、不可能という言葉はないはずだ」
「そんな神がかりの特攻精神は、旧軍の遺物です」
本部との交信がいつの間にか、日野と酒井の口論にすり替わった。おかげで福島はその背後に隠れることができた。だがそのやりとりを聞いていた大屋が、突然トランシーバーに呼びかけた。止める間がなかった。
「酒井二尉、一晩や二晩寝ないのがどうした! レインジャーマークをよくつけていられるな。そこにはおれの弟が埋まっているんだ。早く捜せ! 捜すんだ」
いきなり大屋に言葉を叩《たた》きつけられて、トランシーバーのかなたで日野と酒井が沈黙した。
「その声は、大屋二尉だな。いまどこにいるんだ?」
一瞬の驚きから醒めた日野が問いかけてきた。
「塚本だ。捜索作業を続行せよ」
慌てて、大屋を押しのけた福島が送話口を塞《ふさ》いだ。予期しないハプニングに動転したまましゃべったので、塚本を模写した声が崩れた。
「いま大屋二尉の声が聞こえましたが、そちらにも届きましたか」
日野が問いかけてきた。彼はまだ、大屋が本部にいるとはおもっていない様子である。
「聞こえた」
「弟が埋められているとか言いましたが、何のことでしょう?」
「さあ」
「早く救え! たすけるんだ!」
トランシーバーの前から押しのけられた大屋が、また叫んだ。秋本のかけた暗示が裏目に出たのである。
「大屋はそこにいるのですか?」
日野が勘を働かせた。
「いや、いない。どこから呼んでいるんだろう」
塚本の声色がますます崩れた。
「その声は、どうしました」
「どうもしない」
「その声は、塚本二佐ではないな。きさまいったい何者だ!」
ついに化けの皮が現われた。
「塚本二佐殿はどうした? きさまそこで何をしている!」
日野は急追してきた。福島はもはや模写をつづけられなくなった。顔面の筋肉が硬直して、口がおもうように動かないのである。
[#改ページ]
酸鼻《さんび》なる墓標
1
そのおもいがけない局面の推移を、反町は権右衛門沢の上部で傍受していた。
「酒井二尉、聞いたか。塚本二佐殿の様子がおかしい。何者かが二佐殿の声色を使って偽の命令を出した様子だ。これはなにかの罠《わな》かもしれない。きさまはすぐそこから本部のほうへ移動してくれ。おれもヘリで行ってみる」
「承知しました」
二人は、口論を中止して新たな行動へ移ろうとした。獲物を最短距離に引き寄せるために満を持していた反町は、それ以上待てなくなった。せっかく近づいた獲物がまた遠ざかりつつある。
反町が待機していた沢の上部には、民宿建設のための貯木場がある。営林署の許可を得て伐採《ばつさい》した原木が、斜面にロープと楔《くさび》で固定されていた。必要のつど、楔をはずして沢へ落とし、村へ運べば運搬の手間を省ける。
反町は、いままさに楔をはずそうとして、伸ばした手をためらわせた。下方の雪の谷には、レインジャーが黒蟻《くろあり》のように群れている。いまこの楔をはずせば、彼らは一瞬の中に、雪の下に埋没されるだろう。大勢の生命が、自分の指先にかかっている。
照準に入った多数の敵勢を前に、機関銃の引き金にかけた指をためらわせるように、反町は、いま初めての大量殺人の機会にまみえて迷っていた。
――本当にこれ以外に方法がないのか?――
彼らをやらなければ、自分たちがやられる。しかしやったところで、どうせやられる。無駄《むだ》な報復ではないのか?
揺れかけたためらいの下で、せっかく密集した黒蟻の群が、また散開しかけている。招き寄せた絶好のチャンスが逃げつつあった。
――真紀子、どうしよう?――
妻≠ノ問うように風巣の方角へ向けた彼の目に、一条の煙が映った。それはまさに風巣の方角に立ち昇っていた。束の間、風が絶えた中を、その煙は、何かの意志をしめすように、空の上方へ垂直に高く昇っていた。
反町の心は、不吉な予感に真っ黒に塗りつぶされた。あれは風巣の民宿の方角ではないか。何かよくないことが風巣に起きた。あそこに妻がいる。あれは、彼女が何かを夫に伝えるために打ち上げた狼煙《サイン》ではないだろうか。
揺れていた反町の心が定まった。狼煙が、ゴーサインになったのである。
反町は、原木の楔をはずした。ナイフでロープを切断した。傾斜にたくわえられていた数十本の原木は、いまその桎梏《しつこく》を解かれていっせいに動きはじめた。原木は急|勾配《こうばい》にしたがって、落下する間に速やかに加速度をつけ、斜面に積もった雪を道連れにした。雪は連鎖反応的に下方の雪を次々に呼び寄せて、たちまち落下する巨大な白い容積となった。
レインジャーは、突如上方に発生した轟音《ごうおん》と雪煙に一瞬、立ちすくんだ。本能的に、逃げても間に合わないと悟った。いちおう二次雪崩の危険はないと判断して沢へ入ったのであるが、その危険が最も少ないとおもわれたあたりから、雪崩は発していた。安心していただけに近寄りすぎていたのである。
自衛本能に醒めた彼らは、おもいおもいの方角に向かって、蟻塚を壊したように逃げだした。その上方に白魔の触手は、こおどりするように襲いかかった。
雪煙の中に人影が巻き込まれ、呑《の》み込まれた。貪欲《どんよく》な白い舌は、逃げまどう人影を、最後の一つまで頬張《ほおば》り、まだ食い足りぬように谷の反対側の斜面までもねぶった。
仕掛けを放った反町すらびっくりするような、大きな雪崩が誘発された。おそらく第一次の雪崩が中途半端だったために、雪のストレスが谷のいたる所にばら撒《ま》かれたせいだろう。雪煙がおさまると、谷を被っていた雪のほとんどが剥落《はくらく》して、黒い地肌《じはだ》が覗《のぞ》いていた。谷は大小のデブリが散乱して、その間に原木が覗いている。雪崩に巻き込まれて落ちる途中、へし折られ、ひきちぎられて、もとの形を留めているものはほとんどない。その中には斜面から新たにむしり取られた樹木もあった。
デブリの末端から数個の人影がよろよろと立ち上がった。辛《かろ》うじて雪崩の触手から逃れた者や、巻き込まれながらも、停止時に運よく雪面に浮かんで自力で脱出できた者である。
生き残った者にも、無傷な者はいない。鍛えぬかれた猛者《もさ》も、雪崩に叩かれて完全に戦意を喪失していた。反町の反撃は、レインジャーの主力を見事に叩き伏せたのである。
一方、水入らず沢の本部では、声帯模写を日野に見破られて、窮地に追いつめられていた。大屋ら三名のダミーも、そろそろクスリの切れるころである。日野が酒井に移動を指示した直後、酒井からの連絡が切れた。
「酒井二尉どうした。聞こえるか? 応答しろ」
日野が緊迫した口調で呼びかけた。なにやら、異常な気配であった。福島と秋本は顔を見合わせた。反町の反撃が成功したのを悟ったのである。反町に呼びかけたくとも、それは、日野にこちらの正体を教えることになる。これは大量の殺人だった。
この山中に、レインジャー以外にいる者は風巣の人間だけであるが、こちらから犯人として名乗ることはない。レインジャー側には、まだ無傷のまま残っている者がいる。彼らが怒りを剥き出して襲いかかって来るのが目に見える。反撃の成功は、風巣の運命に終止符が打たれたことをしめす。
「ここにいては危険だ」
秋本が言った。いまにも日野がヘリコプターで飛んで来そうな気配であった。
「もうどこにいても同じでしょう」
「あきらめてはいけない。とにかく風巣へ戻ろう」
「塚本二佐と、大屋二尉らはどうします?」
福島は彼らのほうを目で指した。
「もう連れて行っても仕方があるまい」
「催眠から醒めたら、追って来ますよ」
「だから、その前にできるだけ距離を稼《かせ》いでおくんだ」
二人は、本部から逃げ出した。本部周辺に散開して、撤収作業の仕上げを急いでいる隊員は、まだこちらに気づいていない。彼らがトランシーバーをもっていなかったので、日野は異変≠連絡できなかったのだろう。
日野一尉は、風巣の村人と、ようやくいぶし出した真紀子とまゆみを、強制的にヘリに乗せて舞い上がった。
権右衛門沢になにかが起きた。本部の塚本二佐の身も案じられる。民宿の管理人および二人の男客がなにか仕掛けたにちがいない。
まず距離の近い権右衛門沢の上空へ飛んで行った日野は、機上で唖然《あぜん》となった。沢すじにデブリが累々《るいるい》と転がり、その末端にわずかな生存者が茫然自失《ぼうぜんじしつ》している。山腹の急斜面は黒い地肌が露《あら》われ、へし折られた樹木が、死んだ動物の骨のように突出している。大規模な雪崩が発生したことは一目瞭然《いちもくりようぜん》であった。
「まさか……」
と日野は口の中でうめいた。
ここへ主力を誘導したのが罠らしいと悟って、ただちに移動するように酒井二尉に命じたのだが、その直後に雪崩は発生したのだ。
まさかこの雪崩が、風巣側の工作したものとはおもえない。しかし、日野らも風巣に対して同じ手を使った。それをそのまま返上してきたのか。
それにしても、機械力と大量の人力を投入した作戦と同じ仕掛けを、わずかな人数の彼らが素朴な人力だけで、どのようにして施せたのか? だが自然発生の雪崩にしては、あまりにもタイミングがよすぎる。
「これは、やつらを侮《あなど》りすぎたな」
本部の様子も気にかかった。塚本二佐との連絡は絶えたままである。彼は機首をめぐらせて、水入らず沢へ向かった。
2
作戦が見事図に当たって、レインジャーの主力を雪崩で叩き伏せた。これが正当防衛になるか? 彼らの黒い意図は、再三の工作と、大屋二尉を催眠誘導しての自供によって明らかである。だが彼らの工作については確たる証拠がない。大屋二尉は催眠から醒めれば自供を翻《ひるがえ》すだろう。秋本の後催眠暗示がいつまで効くか、保証はない。頼みとするところは、民宿の客の証言だけであった。
それが得られなければ、反町は、大量殺人の犯人にされてしまう。だが秋本と福島は、その後どうなったかわからない。トランシーバーでの交信は、敵に傍受されるのでできない。
風巣に残した妻や老人たちの身も案じられたが、いまは脱出を図るのが先決であった。いったん風巣の方角に上った煙は、うすくなっている。主力を権右衛門沢へ誘導したので、新道の見張りは手薄になっているだろう。いたとしても、主力の救出に向かっているだろう。脱出のチャンスは、いまをおいてない。日野は、雪崩が風巣側の工作と疑いかけている様子だが、反町は姿を見られていない。ともかくいまは外界と連絡することが、全員を救う唯一の道であった。
反町は、権右衛門沢の上部を横断して、新道へ出た。だが新道を直接に伝えない。いつレインジャーの哨戒線《しようかいせん》に引っかかるかわからないので、樹林帯を新道に沿って這《は》うように行くのであった。
化学物質が燃えたような異臭が、風に乗って漂ってきた。ヘリコプターの墜落現場に近づいたのである。ここが最も危険な関所であった。主力の一部が、見張りと撤収の続行を兼ねて残っている危険性があった。
秋本と福島が去った後、塚本は大屋二尉に身体の拘束《こうそく》を解くように命じた。彼は塚本の命令に従った。秋本が去って、まるで夢から醒めたような表情をしていた。
ようやく身体の自由を取り戻したとき、爆音が近づいて、ヘリコプターが雪煙をかきたてながら、本部テントのそばへ舞い降りた。
回転翼が回っているうちに、日野が飛び下りて来た。
「ご無事でしたか?」
日野は塚本の顔を見てホッとした表情をしたが、
「いったい何が起きたのですか? いまトランシーバーで話していたのは何者ですか?」と問いかけた。
「いやおれにもよくわからんのだ。民宿の客が、二名、この大屋二尉らといきなり入って来て、主力を権右衛門沢へ移動させろと要求した。もちろん拒《は》ねつけると、大屋二尉に命じて、おれの体を縛り、客の一人がおれの声色《こわいろ》を使って偽の命令を出したんだ」
「私も最初は気がつきませんでしたよ。見事な声色だった。しかし、大屋二尉、きさまどうしてそんなことをしたんだ?」
「私にもわかりません」
「わからない? 自分のしたことだぞ? きさまは、自分の犯した重大な行為をおぼえていないというのか」
「なんとなく夢を見ていたようなので」
「きさまらも大屋二尉の命令をおかしいとはおもわなかったのか?」
日野は、大屋の命令を実行した二人の曹を詰《なじ》った。
「その詮索《せんさく》は後でいい。権右衛門沢で何かあったのか?」
大屋の行動は不可解だが、声色を使って出した偽の命令の行方が気になった。
「大変です。雪崩にやられました」
日野は、塚本の安否が気になって忘れていた、重大な事件《アクシデント》を報告した。
「すると、きさまはその雪崩が、彼らの仕掛けたものだというんだな」
「そうでなければ、なぜ二佐殿の声色を使ってまで、主力を権右衛門沢へ移動させたのですか?」
「たしかにタイミングがよすぎる。とにかく逃げた二人をつかまえろ」
「二人? 三人ではないのですか?」
「二人だったよ」
「あとの一人はどこへ行ったんだ?」
「途中から管理人が別れてどこかへ行きました」
大屋が答えた。
「そいつが権右衛門沢へ行ったんだ。そうか、やつら、主力を沢へ移動させて雪崩で叩いた隙《すき》に乗じて、脱出を図っているんだ」
日野が愕然《がくぜん》とした。
「新道に哨戒は残しているのか?」
塚本が聞いた。
「わかりません。二佐殿の偽命令で、全員移ってしまったかもしれません」
「偽命令偽命令と怨《うら》みがましげに言うな。すぐ新道を封鎖しよう」
「どうやって? 主力の生存者はもうそんな戦意はないし、ここから行ったのでは、間に合いません」
「ヘリで行け。きさまらも行くんだ」
塚本は、大屋らに顎をしゃくると、倉皇《そうこう》としてテントから出た。
秋本と福島は、間もなく水入らず沢下方で捕えられた。
ヘリ墜落現場付近に人影はまったく見られなかった。樹木はへし折られ、雪は無惨に抉《えぐ》られて裸土を露わしている。雪原のあちこちに機体の破片が散乱している。反町はこれが墜落時の原状に回復されたものだとは知らない。野崎と小暮の死体の行方が気遣《きづか》われたが、いまはそれを捜している余裕はない。
哨戒線さえ突破すれば、脱出は成ったも同様である。反町は唐檜《とうひ》の樹林帯を縫ってピッチをあげた。
墜落現場をかなり離れたとおもったとき、後方からヘリコプターのローター回転音が迫り、トランシーバーが呼びかけてきた。
「反町、聞いているか。きみがそのあたりにいることはわかっている」
それはすでに聞きおぼえのある日野一尉の声だった。
「聞こえていたら応答せよ。きみの奥さんもここにいる。風巣の村人全員もヘリに乗っている。秋本も福島も捕えた。権右衛門沢の雪崩がきみの仕業だということはわかっている。おとなしく出て来い」
反町は、樹林の下に身体を隠した。彼らに捕えられていないのは、反町一人になってしまったらしい。とすると、風巣の望みは、彼一人に託されたことになる。これはなんとしても脱出しなければならなかった。反町が捕えられないかぎり、彼らは風巣の人間に手出しできないはずだ。
「出て来ないか。きみがトランシーバーを聞いていることはわかっている。きみを捕えないかぎり、我々がなにもできないとおもっているなら、大まちがいだぞ。我々は多数の仲間を殺されて怒っている。きみが出て来なければ……」
反町の心を読んだように、日野は言葉をつづけた。
「きみが出て来なければ、風巣の人間を一人ずつヘリから突き落とす。もちろん生きたままだ。まずきみの奥さんから突き落とそうか」
反町は、立ちすくんだ。まさかそんなひどいことを日野がするとは信じられなかった。
「おれができないとでもおもっているのか。きみはそのためのいい地ならしをしてくれた。権右衛門沢の雪崩のあとに突き落とせば、雪崩でやられたようになる。ヘリの墜落した所へ落としてもいい。どっちにしても生きてはいられないだろうな」
反町は、日野の切迫した語調から、彼が本気にやる気なのを悟った。彼らはいま、仲間を大量に殺されて怒り狂っている。正常な神経状態ではない。もともと戦技という名目の殺人方法を叩き込まれた、殺人ブロフェッショナルの集団である。
反町の脱出を阻止するために、彼らの手段を選ばない気魄《きはく》が、殺気のように迫った。それはまさに殺気そのものといってよかった。
「一分だけ猶予《ゆうよ》をあたえる。それでも出て来ないときは、まず奥さんを突き落とす」
日野は秒読みをはじめた。
「待て! 待ってくれ」
三十まで数えたところで、反町は屈服した。
「よし、いまどこにいる!」
「ヘリ墜落場所より約五百メートル西の尾根上の樹林帯にいる」
「近くに樹林の切れた台地がある。そこへ出て来い」
反町が命じられたとおりに台地の上へ出ると、待つ間もなくヘリコプターが飛んで来た。
風巣に居合わせた全員が捕えられた。ヘリの中に、彼らは荷物のように積み込まれていた。窓を塞《ふさ》がれているので、外の様子はわからない。
「いったいどうするつもりだろう?」
秋本が不安をあらわにして言った。反町を捕えてから、日野は一言も雪崩について追及しなかった。
「まさか、さっき言ったことを実行するつもりじゃないだろうな」
反町のつぶやきを、福島が耳にとめた。
「さっき言ったこととは?」
「私が出て来ないと、一人ずつヘリから突き落とすと言ったんですよ」
反町は、老人や女たちに聞こえないように、捕えられる直前の日野とのやりとりを話した。
「まさか」
「私もまさかとはおもいます。しかし先刻から同じ所を旋回してるじゃありませんか」
「降りる場所を探してるんだろう」
「こんな所に降りてどうするんです?」
不安が確実に膨張してきた。何度めかの旋回にかかったとき、日野がやって来た。
「こっちへ来い!」
彼は反町を前部の操縦室へ引っ張っていった。窓から外が見えた。切り立った谷が迫っている。
「ここがどこだかわかるだろう」
「権右衛門沢!」
「そうだ。きさまの墓場になる所さ」
「なんだと!」
「自力で動ける人間は、ここへ落とす」
「そんな馬鹿な!」
「なにが馬鹿なものか。きさまが細工をしておこした雪崩に、きさまが埋められることになるんだ。ちょうどいいじゃないか」
「雪崩は自然に発生したものだ」
「とぼけたって無駄だよ。きさまの仕業だってことはわかってる」
「それならおれだけ落とせばいいだろう。動ける人間を全員突き落とすとはどういうことだ?」
「動ける者が、動けない老人を見捨てて、自力で脱出を図って、ここで雪崩にやられたことにするんだよ。落とした後から墓石代りに雪をかけてやるよ。目には目をだ」
「老人たちはどうするつもりだ?」
「きさまたちを始末した後、ヘリの落ちた所にゆっくりとばら撒《ま》くよ。野崎は元自衛隊の反戦野郎で義侠心《ぎきようしん》を起こして運ぶ途中、操縦が未熟で墜落したことになる」
「そんなにうまくいくものか。権右衛門沢の雪の中には、あんたの仲間が大勢埋められているんだ。そこにおれたちがいっしょにいたらまずいだろう。雪崩に埋められた人間は、そうは簡単に見つからないぞ」
「語るに落ちたな。どうして大勢ということを知っているんだ?」
「そ、それはトランシーバーを傍受していたんだ」
誘導に乗せられかけて、反町は言葉が少し動揺した。
「まあいい。ヘリを盗まれて、おれたちは追って来た。そこできさまらの雪崩遭難に出くわす。救出作業をしている間に、二次雪崩にやられたことになる。どちらが先にやられたか、後になってみてもわからないよ。墓標がわりにきさまらを突き落とした後で、盛大な雪崩をおこしてやる。まったくきさまはうまいとき雪崩をおこしてくれたよ。仲間たちを大勢やられたが、おれたちがここにいてもおかしくない口実をつくってくれた。これで死んだ仲間も浮かばれるだろう。国民の命を守るおれたちが、雪崩に巻き込まれた国民を救おうとして、自ら犠牲になった。美しい話じゃないか。墜落現場に、おれたちの足跡が残っていても、もう怪しまれない。彼らの死は、犬死にではなかった」
「あんたは、狂っている」
「なんとでも言え。きさまらの口はなんとしても塞がなければならんのだ。特にきさまは、死んだ仲間のためにも生かしておけない」
「そんなことをしても、いずれはわかってしまうさ」
「おれは命令されたとおりに実行するだけだ。説明してやったのが、せめてもの情けだとおもえ。さあ、話がわかったら、きさまから飛び降りてもらおうか。自分から飛び降りるなら、おれたちは手を出さないよ。後がつかえているから、手早くやってくれ」
日野は反町の腕をつかんで、ドアの所へ引きずって行った。逃れようのない強い腕力であった。下方には権右衛門沢が、雪崩の後の凶相を剥き出して待ちかまえている。ここから飛び降りたら、万に一つのたすかる可能性もない。反町は、絶体絶命の窮地に追いつめられた。
3
搭乗員室の出入口が開かれた。冷えた風がキャビンの中に凄《すさ》まじい風圧をかける。
「さあ早く飛び下りろ。こちらまでが冷凍人間になってしまう」
日野が言った。反町がすくんでいると、
「自力で飛び下りられないのなら、突き落としてやるぞ。きさまにはそれくらいの度胸はありそうだとおもったから、手出しをするのは、ひかえたんだが」
日野が陰惨な笑いを頬《ほお》にきざんだ。そのとき無線機から塚本の声が呼びかけてきた。
「日野一尉、聞こえるか」
「聞こえます」
「作戦は中止だ」
「何ですって!?」
「中止だ。いま後方から命令があった」
「しかし……」
「内部から漏れたらしい、これまでだよ」
「そんなことを急に言われても、この連中をこのままにしておいたら……」
「命令だ」
「それでは、我々の部下はいったい何のために死んだのですか?」
「それも祖国のためだよ。日本の防衛のためにしたことだ。いずれ堂々とそれをもてる日がくる。いま過渡期なんだ。死んだ者もわかってくれるはずだ」
「私はいやです」
「何だと?」
「たとえ命令でも聞けませんね、それでは死んだ部下があまりに可哀想《かわいそう》だ」
「おい、きさま正気なのか」
塚本は突然、反抗の気配を見せた日野に、驚くよりは、その精神状態がおかしくなったのかと心配した。もともと自衛隊の自衛≠フためにはじめた作戦である。作戦が外へ漏れた以上、その続行は自滅行為に等しい。
「正気も正気、大正気ですよ、ですから、これからは私が単独で作戦を続行します」
「そんなことをすれば、いったいどうなるかわかってるんだろうな」
「わかっています。しかし、ここらで我々の力を国民に知らせてやるべきです。祖国を防衛するために集まった我々が、どうしてこうも国民の前に低姿勢でいなければならないのですか。世界のどこにこれほど権威のない軍隊がありますか。我々はもっと毅然《きぜん》とすべきです。我々は国家の居候《いそうろう》じゃない。我々自体が独立した存在です。国を守るために核兵器をもってどこが悪いか。また核兵器をもたない軍隊など、張り子の虎《とら》と同じです。核兵器をもたずに何がアジア第一級の軍事力か。
軍事力のない国家は、他国から馬鹿にされる。ソ連漁船が日本沿岸まで近づいて、根こそぎ魚を取っていく現実をどう見ているのです。そのくせ他国の領海に少しでも迷い込めば、容赦なく拿捕《だほ》されたり、莫大《ばくだい》な罰金を科せられたり、最悪の場合は射殺される。情けないとはおもいませんか。
軍備の裏づけのない経済力なんて、ふくらんだシャボン玉のようなものです。アメリカ製の憲法を後生大事にかかえこんでいる国民は、国が滅んだら、憲法もへちまもないということに気がつかない。いったいどこに、自国の防衛を他国まかせにしている国があるか。軍事力というものは、襲われてから増強しようとしても遅いのです。襲われる前に、どんな敵に襲われても撃退できるだけの軍事力を蓄えておかなければ意味がない。軍事力は常に世界で第一級であらねばならないのです。それを国民に知らせるべきです。それにはいまが絶好のチャンスだ。作戦を続行して、国民に我々の恐ろしさと実力を教えてやるのです」
「そんなことをいま言ってもなんにもならない。いまの我々の存在は、議会に拠《よ》っているんだ。ここで国民を怒らせたり、恐れさせたりしたら、自衛隊の死活に関わる。我々は国民の合意を得ていない。よその国の軍隊とは事情がちがう。感情に溺《おぼ》れてはいけない」
「国民の合意などというものは、つくり上げるものです。もともとその合意は、アメリカから押しつけられた舶来憲法によって強制されたものです。他国に襲われてから、初めて我々の存在価値がわかるのです。それからでは遅い。文官どもに政治をまかせておくから手ぬるくなる。なにかをする前にいちいち国民におうかがいをたてていたら、なにもできはしない。力で押しきれば、国民はついて来る。国民とはそうしたものです。いまこそ国民的自衛隊にするチャンスです」
「待て。早まってはいけない。いま軽挙妄動《けいきよもうどう》すれば、政府や官僚たちの介入に耐えて、せっかくこれまでに築き上げてきた自衛隊が、国民全体から背《そむ》かれてしまう。もういまは帝国軍隊の時代とちがう。武力で国民を支配することはできない」
「塚本さん、あなたは敗兵だ。負けた闘犬と同じでなにも言う資格はない。新しい軍隊の建設は我々にまかせるべきだ。だいたい、自衛隊が帝国軍人の亡霊に牛耳《ぎゆうじ》られている間はだめだ。自衛隊はおれたちが握る。もう軍神やあんたの命令はうけない。おれが起《た》てば、防大の同期生グループが呼応して起つ。もう話は通じてあるんだ。この際、一気に我々の存在を国民に認めさせ、職業軍人としての地位と名誉を獲得するんだ」
「きさま狂ったな」
塚本はうめいた。自衛隊を独立した(国民から)職業軍隊として国家権力の核心に据《す》えることは、制服組の共通した願いである。「建軍」という合言葉の下に、どんな屈辱にも耐えてきた。だが防大出を中心とする若手戦後派将校団の過激グループは、現自衛隊がひたすら国民と政府に阿《おもね》り、軍人としての地位や名誉を得るどころか、社会の余計者扱いをされているのに甘んじている状態に対して忿懣《ふんまん》を鬱積《うつせき》させ、危険な内圧を孕《はら》んでいた。
その一端が、突然の本部からの命令変更によって、ほとばしり出たのである。過激派が全国に散在しているだけに、本格的クーデターの起爆剤になるおそれが十分にある。
彼らの不満は、自分たちが祖国防衛の防人《さきもり》だという誇りとエリート意識、それにもかかわらず国家社会に認められていないという矛盾に根ざしている。だれよりも憂国の情にあふれておりながら、その国から疎外されている。丸腰の国民など一指を動かすだけで葬り去れる強大な武器を握っていながら、ひたすら、国民の前に身を屈している無念、外敵に向かって蓄えられたまま、封じ込められた武力は、これらの不満と結びついて、彼らを国民の番犬(鑑札のない)としてつないでいる憲法の鎖を断ち切るクーデターに、暴発するかもしれない。
防大出身者は、まったく市民生活の体験も実戦の経験もない。エリート意識と不満と武器だけがポンとあたえられた。彼らの意識はあくまで「国の防人」であって、「国民の防人」ではない。
だが、軍隊が自衛隊と呼称を改めても、その基本的な体質は少しも変わっていない。「一朝ことあるとき」彼らは国民を救うためには、指一本上げないことも、旧軍と同様である。職業軍人はその名のしめすとおり、生活の方途として軍隊に入った。欲しいものは、月給と軍人という特権階級の名誉だけである。国民の運命などには、拾《ひろ》うほどの関心もない。
――軍隊の本質は、二つの視点から解明されなければならないだろう。第一はその内的本質である。自衛隊においては、その内部生活に一かけらの民主主義もない。そして隊内民主主義なくして、国民に奉仕する軍隊とはなりえないのだ。国民のために自衛隊があるのではなく、自衛隊のために、その人的、物的資源の供給装置として国民があるという倒錯の上に成立しているのが、現実である。このような軍隊は、必然的に「国内の敵」にその銃口を向けることになる。さらに人民抑圧のための暴力装置としての軍隊は、独占資本主義のもとでは、かならず他民族抑圧のための侵略軍隊となっていく。国民との間に民主主義的関係をもたない軍隊、国民に銃口を向ける軍隊は、なおさら簡単に他民族の人権を蹂躙《じゆうりん》するのである。そして他民族を抑圧する民族は、ますます自由たりえなくなる。
第二に、自衛隊をとりまく外的条件である。まずアメリカとの安保体制が、自衛隊の侵略性と反人民性を倍加していることを指摘すべきであろう。つぎに軍需産業の拡大と産軍複合体の形成が、軍備の自己増殖に拍車をかけている。さらに政治体制の反動化が、自衛隊の私兵化傾向と社会全体の軍国主義的傾斜をつよめている。――(『自衛隊のクーデター戦略』= 藤井治夫氏著)
また、彼らは憲法をまったく認めていない。それは自らの存在を否定するアメリカ製の屈辱憲法≠ナしかない。その恐ろしさが、いま如実に現われていた。いや、すでに現われていたものが、命令の反抗となって、さらに大きな暴走をはじめたのである。
「もはや問答無用です。これからサルビヤ作戦は私が指揮を取ります」
日野一尉は一方的に無線を切った。
4
日野と塚本が交信している間、反町は手を拱《こまぬ》いて待っていたわけではなかった。その間必死に自衛の策を考えていた。ヘリには日野の他に大屋と七名の曹とパイロットがいる。大屋ら三名は、いまは醒めているとはいえ、秋本の傀儡《ダミー》である。パイロットは操縦に手を取られて戦力にならない。日野一人を制圧すれば、なんとかたすかる。だが、相手はレインジャーの猛者で、武器ももっている。こちらは寸鉄も身に帯びていない。まともに闘ったのでは、勝負にならない。交信に気を取られている間に、日野をヘリから突き落とすことはできないか。反町はドアと日野の距離を目で測った。交信のために操縦席のすぐそばにいるので、ドアまで押し出そうとする間に、こちらが逆に突き落とされてしまうだろう。
なにか武器でもあれば……そのときふと、「寸鉄」という言葉に引っかかった。本当に寸鉄も身に帯びていないだろうか? そうだ、注射器をもっていた。秋本から注射器と麻薬を預かっている。先刻、ヘリに乗せられる前に、なにかの役に立てばとわらにもすがるようなおもいで、注射器と麻薬のアンプルをポケットに移しておいた。これを、日野の体に注射できれば、こちらにもチャンスが生まれるかもしれない。速効性の催眠剤アミタールを彼の体内に送り込めれば、たとえ眠り込まないまでも、秋本の催眠術の被術体になり得る。だがどうやって、それを日野に注射するか。ともかく、注射筒の中に薬液を仕込んでおくことが先決問題であった。幸いに日野は、塚本との交信に夢中になって、反町に対する注意が散漫になっていた。
ポケットの中でアンプルを切り、体のかげで、薬液を注射筒に吸入することができた。あとは注射するばかりであった。だが日野は行動服にヘルメットをかぶり、顔面以外に皮膚を露出した箇所はない。
格闘技の達人である日野に、うっかり、注射器を構えて近づこうものなら、叩き落とされてしまう。チャンスは一度だけだ。失敗は許されない。この一本の注射器に「風巣」の運命がかかっていた。
だが、さすがに日野には隙がなかった。
――やはり、だめか――反町はあきらめかけたとき、絶望の奈落《ならく》を一瞬照射した光を見た。
――チャンスはまだあった――。
しかもそのチャンスは距離的にも近い。反町は、チャンスの方角に向かって、そろそろ身体を移動した。それは危険な賭《か》けだったが、賭けなければ、確実に死が待っている。日野が交信を終わる直前、反町は跳躍した。操縦に気を取られていたパイロットの操縦桿《そうじゆうかん》にかかった腕にシャツの上から注射針が突き立てられた。パイロットは悲鳴をあげたが、手を操縦桿から放せない。ピストンがグッと押された。薬液が一滴も余さずパイロットの腕に送り込まれた。
「きさま、何をしたんだ?」
そのとき交信を終わった日野が、凶暴性を剥《む》き出した表情で反町に向きなおった。
「よく聞け。いまパイロットの腕に麻薬を注射した。速効性の催眠剤だ。一分もしないうちに効いてくる。その前にヘリを下ろさないと、全員墜落するぞ」
「きさま」
日野がうめいた。
「パイロットよく聞け。クスリが効いてきてからでは遅いんだ。そうすればあんたも死ぬんだぞ、死にたくなかったら、早くヘリを下ろせ。日野一尉はもともと命令違反をしているんだ。あんたまでが従うことはない」
パイロットの顔に恐怖の色が走った。
「だまれ! その前にきさまを突き落としてやる」
日野が反町に躍りかかった。反町も身構えていた。突き落とされるにしても、精いっぱい抵抗してからだ。生死をかけての抵抗が、反町に常以上の力をあたえた。格闘技のベテランも、なかなか反町の抵抗を抑圧できない。しかし、結局レインジャーの敵ではなかった。手をねじり上げられて、ドアのそばへいままさに突き落とされようという態勢に追い込まれたとき、両人の口から同時に、や? という驚愕《きようがく》の叫びが漏れた。彼らが格闘している間に、機体はいつの間にか高度を下げ、飛び下りられるほど、地上に接近していたのである。
「だれが下りろと言ったか! 高度を上げろ」
日野は、パイロットにどなった。
「一尉殿、これまでです。我々もヘリといっしょに心中したくありません」
いつの間にか背後に、大屋二尉と二人の曹が立っていた。彼らは秋本のラポールに動かされているのではなかった。返答しだいによっては、実力に訴える意志を、身構えの中に見せていた。彼らは飛び道具すらもっている。日野は自分の敗北を悟った。
[#改ページ]
苛酷《かこく》なる別離
1
どんな組織にも派閥はある。今回のサルビヤ作戦に関しては、軍神を中心とする旧軍の将校を中心に進められた。主として終戦時の佐官クラスに大尉、中尉クラスが少し加わった。作戦の性質上、部内においても、ごく限られた人数にとどめざるを得なかったのである。
だが、自衛隊将校団における旧軍将校も、次第に数が少なくなっていた。代わりに台頭してきたのが、防大出身者を中心とする戦後派の青年将校である。彼らは、旧軍出身者に対して劣等感と優越感を同居させている。劣等感はなんといっても、実戦体験のないことである。命令一つにしても、実戦体験者のものは、迫力がある。また同時に、ひと昔前の戦術や、戦場の手柄話を後生大事にかかえこんでいる旧軍出身者に対して、大久保彦左衛門《おおくぼひこざえもん》のようなアナクロニズムをおぼえる。
彼らが旧軍出身者を「キ印」とか「単細胞」あるいは「ご隠居」と呼ぶのも、そのような内なる蔑視《べつし》の表われである。「軍神」というあだ名も、戦後派将校がたてまつったものだった。
戦後派にとって、旧軍出身者が頭の上にいるかぎり、イニシアチヴは握れない。軍人|勅諭《ちよくゆ》と忠君愛国精神で育ってきた彼らは帝国軍隊≠フ再建を夢見て馳《は》せ参じて来た者が多い。
だが、戦後派には旧軍を再建する意志はない。旧軍は、敗れた軍隊なのだ。旧軍人には、いかに戦争体験や統率知識が豊かであろうと、拭《ぬぐ》い難い敗戦コンプレックスがある。
それが行政官僚や世論に妥協して、自衛隊の軍隊化をもたつかせているのである。
戦後派がつくりたいのは、そんな弱腰の、国民に阿《おもね》った旧軍の幽霊ではない。世界第一級の軍隊としての新国軍である。そのためには、旧軍人にはなるべく早くお引き取りねがいたいところであった。旧軍人は、敗戦した責任上、政治家や行政官僚に対して強いことを言えない。文官に対して強くならないかぎり、軍人の社会的地位の向上はあり得ない。
いま自衛隊の最高ポストは、陸大、海大の出身者が占めている。それも終戦時の少佐、大尉クラスが多い。この後につづくのが、旧軍の中尉、少尉クラスの初級将校である。彼らは旧軍の高級将校とちがって、敗戦の責任感がない。敗けたのは、自分たちのせいではないと信じている。そこに、防大出身の戦後派と一脈あい通ずるものがある。
目下、自衛隊の世代交代は急速に進みつつある。旧軍出身者は年々減少し、現在|統幄《とうあく》議長の下に約千七百人しかいない。これは、自衛隊の将校のわずか四パーセントにすぎない。
これに対して、防大、一般大学出身の戦後派¢煦が反比例して増え、一般大卒は八千人、防大出身者も六千人が幹部になり、隊の中枢に食い込みつつある。
七十年代後半には、旧軍佐官クラスはほとんど去り、八十年代半ばには旧軍出身者は完全に姿を消す見通しである。
この防大出の最先鋒《さいせんぼう》が、軍神をめぐる首脳陣の中にわずかながらいた。彼らは新国軍の建設を目指していたが、日野一尉のように過激なグループには属していなかった。
彼らは時間が経過するほどに不安になってきた。墜落した417号機は、たしかに自衛隊にとって致命的なものを搭載していた。しかし、それが墜落したことが、即自衛隊にとって致命傷になるであろうか? 軍神のかけた集団催眠術がしだいに醒《さ》めてくるにしたがって、彼らは不安に駆られてきた。どう考えてもサルビヤ作戦は乱暴であった。本当に他に方法はなかったのか?
「風巣の殲滅《せんめつ》をはかるよりも、墜落機の完全な撤収をするほうが、安全なのではないか」
「おれもそうおもうよ。いくら外界から切り放された過疎村とはいえ、そこの村人全員の口を封じるというのは、狂気の沙汰《さた》としか考えられない」
「村人だけではなく、民宿にも客がいたそうじゃないか」
「とうてい隠しおおせないぞ」
「我々が国民を殺したことが現われたら……」
「それこそ、417号機の搭載物が明らかにされた以上の大騒ぎになる」
「417号機さえ完全に撤収してしまえば、証拠はなくなるのだ。村人がなんと言おうと、証拠を消してしまえば、恐れることはない」
「軍神はじめ首脳の連中は、正気ではない」
「彼らは実戦と混同している」
「このまま放っておくと、本当に隊の死活にかかわる」
「おれたちで、まず軍神を諌《いさ》めよう」
「諌めて聴き入れなかったら?」
「聴き入れるさ。おれたちが外部へ公表すると言えば、中止せざるを得なくなる」
戦後派の青年将校が集まって、軍神に諌言《かんげん》をした。彼らにしてみれば、軍神はすでに登りつめた人間である。あとは下りるだけだ。
だが青年将校にしてみれば、隊はこれから登っていかなければならない大切な山である。すでにそれぞれが千人近い部下をもつ、一国一城の主である。部下の数と地位は、これからますます上昇するばかりである。
もはや市民社会へなんかおかしくて帰れない。市民社会のどこで、これだけの威信や名誉や権力をあたえてくれる所があろう。給与も社長重役並みで、不況知らずである。
こんな居心地のよい山を、すでに登りつめた人間によって崩されてはたまらない。隊は軍神一人のものではない。いや自分たちの現在と将来、約二十六万人の隊員の生活がかかっているのである。
風巣側のおもわぬ反撃によって、サルビヤ作戦が手間取っていたとき、内部から出された作戦中止勧告は、事実上、作戦の続行を不可能にした。もし中止しなければ、外部に公表するという強い姿勢に、軍神もこれまでと悟った。それは同時に、自分の軍人生活に終止符が打たれたのを認めたことでもあった。
彼は、自分が登りつめた人間であることをよく知っていた。登りつめた者には、もはや下りる以外に道はない。すぐ次にいる者が、自分の下りるのを、いまや遅しと待ち構えている。軍神も、自分の出した命令が乱暴なことはよく承知していた。しかし、彼は、自分の生涯をあずけた軍≠ニいう山を下りるにあたって、自分の権力を確かめてみたかったのである。
旧軍時代は、自分の命令によって数千の兵士が戦い、命を捨てた。敗戦によって、すべての威信と権力を失った。それが自衛隊の創設によって、またカムバックすることができた。警察予備隊として発足した自衛隊は、着実に軍隊として戦力をたくわえていった。それに相応して、彼の威信と権力も回復してきた。自衛隊は、旧軍同様に居心地のよい城になったのである。
だがそれはあくまでも、表面だけのことであった。自衛隊は、いまやアジア第一級の戦力を有する軍隊に成長したが、貞操帯をかけられた婦人のように、その機能に蓋《ふた》をされていた。旧軍の数百数千倍の火力をたくわえていながら、ただの一発も射つことができない。
いま自衛隊の最高ポストに返り咲いているが、「敗将」の刻印は消えない。そのために文官ずれの頤使《いし》に甘んじているのだ。
本質的には軍隊でありながら、戦いのために一兵たりとも動かせない隊の最高幹部にすぎない。自分の意志で兵を動かすことができないダミーの将軍なのである。
自分が現役にいる間、一度でいいから昔のように実戦≠フ指揮を取りたい。しかしいまの情勢では、現役にいる間、日本が戦争をする可能性はまずない。
――自分の軍人としての生命は、旧軍とともに終わった――と悲しくあきらめかけたとき、おもいがけない機会がめぐってきた。
それが417号機の墜落であった。これが公《おおやけ》になれば、自衛隊の死活にかかわる。彼は隊を守るための戦いをはじめた。
だがそれは表向きの旗印であった。実際は自分の威信を確かめるための戦いであったのである。自分は、はたして張り子の虎《とら》なのか。それとも依然として「三軍を叱咤《しつた》する」実権をもっているのか。
それを確かめるための、これはまたとない機会であった。登りつめ、下りるばかりになった山が、下りた後どうなろうと、関心はない。
それならば、山の頂上にいる間に、したいことをしておこう。今度下りたら、二度と登って来られない場所であった。
軍神はこうして無謀な戦いをはじめた。幸いに身辺には、旧軍時代からの忠実な部下が多い。「三軍」の要所も、旧軍の生き残りがまだ占めている。そのほとんどが旧軍時代、軍神の部下か後輩にあたる。
衰退しつつあったが、自衛隊の三軍は軍神一家≠ェ握っていた。総辞職前の内閣のように、命運は尽きかけていたが、辛《かろ》うじて政権≠握っていたのだ。コトは一家≠フ内部で密《ひそ》かに進められた。この件に関しては長官も完全につんぼ桟敷《さじき》におかれた。
もし長官が知れば、絶対に許されない作戦であった。だいたい長官などという存在を、制服組は、自分たちの首長として認めていない。長官にしても文民政府の命によって派遣された一官僚であり、彼にしてみれば、それは通過する一ポストでしかない。
軍神を中核とする旧軍派は、文民政府の指揮下にある軍隊を、本当の軍隊ではないとおもっている。軍隊はそれ自体が権力の中心にあるもので、政府の雇兵ではない。憲法を欺瞞《ぎまん》して創設された弱味があるだけに、いまは政府の干渉に耐えているが、政府や国民から独立した、その独自の意志で動ける軍隊の建設が、彼らの狙《ねら》いである。その意味で現在の自衛隊は、軍隊として奇型か、邪道である。
長官として三軍を統率する最高ポストに坐っても、実戦の体験もなければ、専門の軍事技術者でもない。そんな人間はせいぜい記念式典に観閲台《かんえつだい》に上って閲兵するだけでよい。戦争と軍隊のことをなに一つ知らない文民長官の指揮監督権は、急速に形式化しつつあり、三軍の実権は、それぞれの幕僚《ばくりよう》幹部が握っているのである。
この実権を利用して、軍神は最後の戦いを挑《いど》んでみた。この作戦に関して、自衛隊を軍神一家が完全に壟断《ろうだん》した。また417号機が搭載していたものは、解体直前の一家を結束させるだけの威力をもっていた。
国民と政府から切り放した職業軍隊の建設を急いでいた幹部は、二次防から整備を進めたF―104J戦闘機に、小型原爆携行装置取付けのための改造を考えていた。
三次防から国産をはじめたF―4FJファントムは、母国の米国で核・非核攻撃両用の戦闘爆撃機として開発されたものである。
このF―4FJを主力戦闘機に採用するにあたって、核攻撃機種として国会で論議の焦点にされたが、爆撃関連装置を取りはずした迎撃戦闘機の能力に性能を制限すると弁明して、追及を躱《かわ》してしまった。しかし、爆撃関連装置の再取付けは、部分的改造だけで可能であり、核攻撃機への復原は容易である。
ファントムの全備重量は二十六・八トン、F―104Jの二・五倍、対地爆撃用には総計七トン、三百四十キロ爆弾は十八発、ナパーム弾十一発、空対地ミサイル「スカイシャーク」なら四発搭載可能である。これは射程一〇・五キロで核弾頭の装置可能である。
新三次防で追加調達したF―4FJ二十機に、空幕幹部は、密かに核爆撃装置ラヴスコンピューターを取り付けさせた。正確にはラヴスコンピューターを装置したまま届けられた新製機から、それを取りはずさなかったのである。論議が出てから取りはずしても遅くはないという肚《はら》があった。またそのときは爆撃装置抜きで発注したのだが、届けられた製品にそれが取り付けられていたと言い逃れるつもりであった。だが、どこからも論議は出されなかった。空幕幹部の間で密かに進められたことで、部外者はだれも知らなかった。
自衛隊を「独立の軍隊」にするためには、核兵器の導入は、いつかは渡らなければならない橋であった。
政府にも、将来は米軍基地を自衛隊が管理し、核兵器を、日米両軍の共同管理に移そうという構想がある。
だが、当事者としてはそんな迂遠《うえん》な構想を待っていられない。軍というものは、常に優位を保たなければならないし、構想だけでは有事の際に間に合わないのである。
航空自衛隊は、常時臨戦体制にあって、スクランブルの回数は、増える一方である。といっても、それが実際の領空侵犯に対応しているわけではなく、一方的に緊張を強めているだけである。
軍隊というものは、実績を示さなければ社会的な地位を強くできない。平和時の軍隊は、社会の居候《いそうろう》であり、無用の長物である。それは江戸時代、火事のない火消しが、ドブさらいと嘲《あざけ》られたのに似ている。
そのため、平和時にあっては、自分たちの存在価値を社会に認めさせるために、仮想敵国を設定し、緊張を一方的に作為する。「侵略に対する抑止力として有効な防衛力」の名目で蓄える戦力は、敵に対してでなく、自分を存続維持するために、せっせと増強しているのである。戦力自体が自衛隊を支える威信となる。その絶対的戦力が、核兵器である。「核ぬき」の戦力など、軍事専門家から見れば、空気銃≠フようなものである。
核爆撃装置を取り付けたファントムが届けられたことは、核兵器使用に対する貞操帯≠はずされたようなものだった。
ここに米軍の支援の下に、核爆撃訓練が、そのために編制された覆面隊1001飛行隊によって極秘裡《ごくひり》に進められていた。
二月十×日、百里基地から飛び立った二機のF―4FJには、核模擬弾頭を装着した「スカイシャーク」を搭載していたのである。その中の一機が風巣に墜落した。
だがこの訓練は、当事者間のみの了解による非公式、極秘の訓練であった。墜落機の救出のために米軍は表立って動けない。
自衛隊は、単独で墜落機の捜索救出をしなければならなくなった。たとえ模擬弾でも、専門家が見れば、核兵器を模したことがすぐにわかる。それに墜落機には核爆撃装置が取り付けられてあるのだから、調査されれば、言い逃れはきかない。
たとえ過疎村の住人には、ジェット機の搭載物の正体がわからなくとも、自衛隊機が墜落したとなれば、世間の耳目が集中する。この機に関するかぎり、墜落したことすら漏らしてはならなかったのである。
ここに、軍神はサルビヤ作戦を実施し、レインジャーを派遣した。レインジャーは陸上自衛隊であったが、三十一型国産ロケットにおいて、核模擬砲弾を使っての核砲撃の準備を密かに進めていた矢先だったので、対岸の火事視していられなかった。
1001飛行隊の訓練の目的が明るみに出れば、自分たちの核砲撃訓練もできなくなる。それどころか、全自衛隊の死活問題である。
「陸上」の幹部に軍神一家がいたことが、協力を容易にした。加うるにレインジャーの指揮官は、軍神の子飼いの部下、塚本二佐であった。
新たにヘリで降着した新手部隊は、機械力と人海作戦にものをいわせて、たちまち権右衛門沢に埋められていたレインジャーをすべて掘り出して収容した。
彼らは収容作業が終わると、波が退くように、去って行った。
2
嵐は去った。昼夜、もののけのように風巣に跳梁《ちようりよう》したレインジャーは、来たとき同様、ヘリコプターに乗って風のように空のかなたへ去って行った。後には風巣の住人と民宿の客が残された。そのうち、二人の住人と二人の客が死んでいた。彼らは、レインジャーが来なければ死なずにすんだはずである。
「このままでは、すまさない」
すましてたまるかと、反町はおもった。犠牲者は、風巣に居合わせた者以外にもいた。郵便配達の高戸弥平もあのとき風巣へ来なかったら、死ななかったはずである。権右衛門沢で死んだレインジャーたちも、犠牲者である。
あるいは最大の犠牲者は彼らだったかもしれない。命令至上主義の檻《おり》の中で、体制護持の親衛隊として徹底的に教育され、鍛えられた彼らは、精強な命令遂行機械≠ニ化した。彼らは、どんなナンセンスな命令であろうとそれが命令であるかぎり、忠実に従い、そして死んでいく。そこには人間的な思考判断や疑惑はまったくない。
自衛隊にとっては、彼らの死は、人間の死ではなく、機械のそれであったかもしれない。だが、権右衛門沢に埋められていたのは、まぎれもなく人間の死体であった。死によって、機械から人間に還元したとは、なんと哀《かな》しい人生であろう。
自衛のためとはいえ、彼らをそこに埋めたのは、反町である。そのことに対して、彼は自らを呵責《かしやく》していた。レインジャーが何人|雪崩《なだれ》で死んだか知らないが、彼らに直接手を下したのは、自分である。
「反町さん、あなたのせいじゃない。やらなければ、私たちがやられたんだ」
秋本と福島が慰めてくれた。
「しかし、私が手を下した事実に変わりありません」
「彼らはおそらく、レインジャーの雪崩遭難についてなにも文句を言えないはずだ。言えば、自分の首をしめるようなもんだからな」
「しかし、私は黙っていませんよ」
「なにか言ったところで、仕方がないだろう」
「秋本さん!」
反町はびっくりして相手の顔を見た。
「いまさらなにを言ったところで、泥試合《どろじあい》になるだけだ。あなたが言えば、向こうも切り返してくる。なにも見なかった、聞かなかったことにしておいたほうが無難だとおもうが」
福島も秋本の意見に同調した。
「お二人がそんな弱気とはおもいませんでしたね」
反町は失望の色をあらわに浮かべて、
「よろしいですか、我々は危うく全村|抹殺《まつさつ》されそうになったのですよ、現に少なくない犠牲者を出している。これを黙っていろというのですか。国民の知らない所で巨大化した彼らの恐るべき正体を暴露してやるんです。自衛隊は国民のための軍隊でもなければ、祖国のための軍隊でもありません。自衛隊は彼ら自身のために存在する軍隊です。そのことが今度の事件でよくわかったはずじゃありませんか。その事実を国民に知らせてやるのです。そうでなければ、犠牲になった人々は、犬死にだ」
「レインジャーが来て何をしたというんだね? 死んだ人たちが彼らにやられたという証拠はあるのかね?」
「証拠ですって?」
反町は、呆《あき》れかえった表情になって、
「証拠は我々じゃないですか。これだけ大勢の人間の見聞きしたことが証拠にならないとでもいうんですか」
「私は、証人として引っ張り出されるのは、煩《わずら》わしい。そういう世間的な煩わしいこといっさいから逃れるために、ここへ来たんでね」
「福島さんはいかがです?」
反町は、もう一人の客のほうを向いた。
「私も、引っ張り出されるのはごめんこうむりたいな。私はここへ休養に来た。人生に疲れて休養に来たんだ。いまさら社会正義の味方になって、自衛隊を告発するつもりはない」
「佐倉さん、あなたはどうです?」
反町は、最後の望みを託すように、まゆみを見た。
「わたし、私、よくわかりませんわ」
まゆみは、困ったようにうつむいた。
反町は途方に暮れたおもいだった。レインジャーを相手に共に戦ってきた彼らが、危うく命を奪われかけたのにもかかわらず、こうも簡単に怒りや怨《うら》みを漂白してしまったのが信じられない。
「反町さん、いまさら我々が騒いだところでどうにもならないだろう」
秋本が自らを慰めるように言った。
「それはどういう意味ですか?」
「我々が訴え出たところで、自衛隊はそらとぼけるだろう。夢でも見ていたんじゃないかとね」
「しかし、現に大勢の人間が死んで、ジェット機やヘリも墜落しているんですよ」
「ジェット機はすでに撤収してしまったし、ヘリに乗っていたのは、野崎さんと小暮さんだ」
「大屋二尉の言葉は、どうなります?」
「催眠誘導して引き出した言葉は、証拠価値なんかないね、証拠能力すらないかもしれない」
「彼らは、雪崩をおこし、クスリを仕掛け、ガスを送り込んで、再三にわたって我々を殺そうとしたんですよ」
「過ぎたことだよ、それに私はこうやって無事に生きている。これ以上煩わしいことに巻き込まれたくない。自衛隊を告発したいならあなただけでやってもらいたい。私は疲れた」
「彼らが核兵器を積んでいた事実を見逃すのですか?」
「本当に核兵器かどうかわからない。大屋二尉もはっきり断言したわけじゃない。それにたとえ核兵器だったとしても、私の生活には関係ないよ。自衛隊がそれを装備したければするがいい。もう私が自衛隊を相手に戦争をすることはないだろうからな」
「隆造さんはどうおもってますか。このまま黙って引きさがるつもりですか?」
反町は、先刻から沈黙を守っている隆造に問いかけた。
「わしは難しいことはわかんねえが、レインジャーも帰ったことだし、これ以上突っつかねほうがええずらよ」
「隆造さん!」
「あなた」
真紀子が呼びかけた。
「みなさんのおっしゃるとおりだとおもいますわ。嵐《あらし》は過ぎたんです。なにも嵐の後を追いかけていくことはないわ」
「真紀子、おまえまでが!」
反町は孤立した。どうしてみなが危うく生命を奪われかけた恐怖と怒りを、こうもあっさりと中和してしまったのかわからない。しかも自分たちを抹殺しようとしたのは、体制の親衛隊なのである。体制の秘密を守るために、国民の生命を闇《やみ》から闇へ葬ろうとした。
それに対して腹は立たないのだろうか? 秋本や福島らの協力が得られないとなると、残るは村人たちの証言だけに頼らなければならないが、彼らは何が起きたのかすら知っていなかった。
ただ村の周囲がなんとなく騒がしいのを、老耄《ろうもう》した感覚で漠然《ばくぜん》と感じ取っただけである。中にはまったくなにも感じなかった者もいる。過疎の村に、身寄りからも捨てられて、じっと死ぬのを待っていた老人たちに、抹殺の害意が迫ったとしても、感覚されなかった。日野一尉に強制されてヘリコプターに乗せられたのも、救出に来てくれたと信じ込んでいるのである。
彼らが村人たちをヘリから突き落とすつもりだったと言っても、だれも本気にしてくれまい。
――こんなことが!――
反町は、天に向かって叫びたい衝動に駆られた。反町は、この事件が起きる前は、自衛隊に対して白紙であった。実質的に軍隊と変わらない彼らを信用はしていなかったが、憲法を楯《たて》にその存在を真っ向から反対しようとするほどの熱意はなかった。だが、風巣にジェット機が墜落して、彼らは正体を現わした。それは国民のための自衛隊でもなければ、祖国防衛のための軍隊でもなかった。
それは文民政府から独立した、職業的軍事力を権力の手段とした権力そのものであった。それは軍隊のための軍隊、体制護持のための体制、権力のための権力である。
反町は、風巣に居合わせた人々の協力が得られなければ、独力でも戦おうと決意した。「風巣の戦い」は終わったが、彼の戦いは、これからはじまるのだとおもった。レインジャーが去ってから天候は本格的に回復した。麓《ふもと》のほうから風巣の様子と、帰って来ない高戸弥平を案じて救援隊が上って来た。
彼らは、反町の話を半信半疑で聞いた。
「本当ですか?」
彼らは、秋本たちに確かめた。
「嘘《うそ》ではない。しかし、私は家に帰りたい。証言したことで面倒《めんどう》なことになりそうだったら、証言をすぐ取り消す」
と言ったので、あまり迫力がなかった。福島も佐倉まゆみも、同じ態度をしめした。
だが、自衛隊ヘリの残骸《ざんがい》が権右衛門山に発見されたので、自衛隊にも連絡がいった。それに対して自衛隊側では、反戦自衛官が入間基地より盗み出したヘリコプターで、その行方を探していたものであると、かねてより用意しておいた声明を発表した。
盗難ヘリコプターの中には、野崎とともに風巣の客で、銀行詐欺を働いて、全国指名手配されていた小暮利吉の死体が発見された。そのことについて自衛隊側は、野崎がなぜ小暮を乗せたのかはわからないと言った。
核兵器を搭載したジェット機が墜落して、その秘密を守るために、風巣の抹殺をはかったという反町の訴えを裏づけるものは、発見されなかった。他の証人はあまり語りたがらないし、反町一人の訴えで判断するには、コトはあまりにも重大であった。
民宿に居合わせた客たちの曖昧《あいまい》な態度から、敏感な新聞記者が疑惑を感じて少し動いたが、結局、はっきりしたものはなにもつかめなかった。
自衛隊側では、
「自衛隊機が核兵器を搭載するなどということは絶対にあり得ない。だいいちわが国には核兵器は存在しない。また自衛隊機には核爆撃装置がない。装置のない自衛隊機が、存在しない核兵器をいかにして搭載できるのか? 風巣の民宿の管理人は、白昼夢でも見たのであろう」
と見解を発表した。
だが、その上層部で密かな人事の更迭《こうてつ》があったことはかたく伏せられていた。
3
自衛隊レインジャーを相手に生死をかけた戦いをした人々は、ようやく連絡のついた山麓《さんろく》へ向かって発《た》って行った。
「とんだ休暇になったけど、いまになってみればいいおもいでになりましたよ」
彼らは、救援隊に伴われて、山麓へ下る日に、反町夫婦に別れを告げた。
「これに懲《こ》りず、雪が消えたらまた来てください。それまでには設備も、もっとよくしておきますよ」
「ありがとう。必ずまた来ます」
と彼らは反町と別れの握手を交わしたが、心の中ではたがいにもう再会の機会はないだろうことを知っていた。
だが、彼らにはここへ来たときとは明らかに変わったことがあった。彼らが風巣へ来たときは、そこから先に行く所がなかった。風巣から先は、どこへ行くべきか知らなかった。
いまは、はっきりした行き先をもった。彼らは死にかけた命を、危うく拾った。ふたたび「生きる目的」をもったというほど大げさではないが、拾った命をもう少し生きてみようかというぐらいの気持ちになった。
秋本は、医者として再起してみようとおもった。ようやく執行猶予期間の明けた身である。医道審議会に願い出て、なんとか再免許をもらおう。この際、いっさいのトラブルは避けるべきだ。ひたすら身を慎み、改悛《かいしゆん》の情を表わすことである。そのために、反町の要請を断わったのだ。反町は、自衛のためとはいえ、多数の自衛官を殺してしまった。自分はそれに間接的に協力している。自衛隊の秘密を暴《あば》けば、当然そのことも明るみに出る。いずれ正当防衛が成立するだろうが、それまで行くのにかなりの曲折があるだろう。
医道審議会はそれまで待ってくれない。とにかくもう自衛隊との戦いはたくさんである。再免許を得て、自分の本来の道へ戻《もど》るのだ。家で待っている妻子のおもかげがしきりに瞼《まぶた》にちらついた。
福島は、声帯模写を本職にしようと決心していた。自分の半生の失敗は、本業たるべきものを、余技にしていたことである。だから、代読屋≠ネどと蔑《さげす》まれた。これからはこれを本業として堂々と世渡りをしよう。自分の技≠フおかげで、一騎当千のレインジャー連をキリキリ舞いさせ、死地をきり抜けた。自分の技に自信と誇りをもつべきだった。この技ならどこへ出しても恥ずかしくない。
まゆみは、ともかく胎《はら》の中に芽生えた生命を育ててみようとおもった。憎い男の落とし物ではあるが、自分の子であることも確かである。自分の力で生み、育てられるだけ育ててみよう。自分はまだ若いのだ。その気になればこれからいくらでも人生を挽回《ばんかい》できる。胎盤《たいばん》に必死にしがみつきながら母親に何度も危機を予告してくれた生命が、彼女はいまたまらなく愛《いと》しかった。抱けるものなら抱いてやりたい。これからも人生を相手に苛酷《かこく》な戦いがつづくだろうが、この子が強力な味方になって自分を扶《たす》けてくれるような気がした。
この愛しい者を親の一方的な都合で摘《つ》み取ってはならない。死に場所を求めて風巣へ来たまゆみだったが、彼女はいま生きる場所を探して風巣を出て行こうとしていた。
――それでは――。
「さようなら」
別れを告げると、三人の人生の休暇は終わった。とても休暇とは呼べない苛酷な数日だったが、生きているかぎり、生きざまにちがいはあっても、苛酷であるという点では共通している日々が、これからもつづくはずであった。
[#改ページ]
最後の客
1
たった三日のことだったが、ひどく長く感じられた。この三日の間に自分の人生の大半が濃縮して詰められたようにおもえた。
人が去り、風巣は元の静けさを取り戻した。雪に閉じこめられ、外界との交通は絶えた。もう雪を分けて民宿へ訪ねて来る人々はなかった。日野一尉の放った火で半焼させられた民宿は、いちおう住めるように応急の修理を施《ほどこ》した。春を待って、本格的に修理するつもりだった。
だが、山の春は、まだだいぶ先であった。
ある朝、真紀子は裏の物置へ燃料を取りに出て、雪にすべって転倒した。中途半端に体を庇《かば》った姿勢で倒れたために、脇腹《わきばら》をしたたかに打って、息がつまった。しばらくは口もきけないような痛みだった。ようやく最初の痛みが去って、立ち上がろうとした真紀子は、足元を見てギョッとなった。
足元の雪が真っ赤なのである。一瞬、彼女は、何が雪を染めたのかわからなかった。立ち上がろうとして、下腹部にキリキリと扶《えぐ》るような痛みを感じ、雪の染色の正体を悟った。
雪を染めたものは、自分の下腹部からしたたっていた。痛みそのものよりも、出血と知ったショックから、真紀子は立ち上がれなくなった。
「あなた!」
彼女は、屋内にいる夫に救いを求めた。
「どうした?」
妻のただならぬ気配に、家の中から飛び出して来た反町は、そこに進行している異変を見て立ちすくんだ。真紀子の足元から雪の染色はみるみるその面積を広げている。
「大変だ!」
反町は、ただちに我に返ると、真紀子の体を両腕に抱き取って、屋内に運び込んだ。
「大丈夫よ、じっと寝《やす》んでいれば、止まるとおもうわ」
反町を心配させまいとして、真紀子は痛みに耐えながら、強いてなんでもないことのように言った。
「なんでもないって、おまえ、この血は……」
反町は、初めての経験だったので、動転していた。彼は妻が出血のために死につつあるような恐怖に震えた。だが医者は、いちばん近い所でも二十キロは離れている。
電話はない。往復歩いて行く以外に方法がない。その間、妻がこの状態の出血をつづければ絶望的であった。反町の瞼《まぶた》には、雪を切り取った赤い彩色が鮮烈に焼きつけられている。
真紀子は、切迫流産を起こしていたのである。ここのところ生理が遅れ、食べ物の嗜好《しこう》が変わっていたので、もしやとおもっていたが、今朝の出血ではっきりとそれを悟った。味覚|嗅覚《きゆうかく》が異常に亢進《こうしん》したのもそのためであった。
――やはり妊娠していたんだわ――。
それは当然、反町の子である。だが彼にそれを告げる時機が、その流産と重なったのは、不幸としか言いようがない。レインジャーの襲撃にあって、徴候を感じ取る余裕がなかった。いま考えてみれば、何度か危機を救ってくれた、常よりも鋭敏になっていた感覚が、その徴候であったかもしれない。
胎児が、母親を守るために危険信号を打ち上げてくれたのだろう。さいわいに出血は、一時間ほど安静を保っている間に少なくなった。最初の出血時に、胎児の実質の大部分は流れ出てしまったようであった。
いちおう小康状態を得たところで、反町は町まで専門医を迎えに行った。専門医は事後の手当てをしながら、胎児が完全に流れ出てしまったことを告げた。まだ三か月の初期なので、母体のほうは一週間ほど静かにしていれば、元へ戻るということだった。
「あなた、ごめんなさい。あなたの最初の赤ちゃんを、私の不注意から死なせてしまって」
真紀子は、泣いて詫《わ》びた。
「きみのせいじゃない。あの子の運命だったんだよ。ぼくたちはまだ若い。これからも生めるじゃないか」
反町は、妻を慰めた。
「私ね、あの子が私たちを救うために、生命を費い果たしてしまったような気がしてならないのよ」
「おれたちを救うために?」
「あなたが雪崩に襲われそうになったときも、クスリをシチューに仕込まれたときも、また寝込みにガスを吹き込まれたときも、私、事前に悟ったでしょう。あれはお胎《なか》の中の子が教えてくれたような気がするのよ。私たちに危険を報《しら》せようとしてあの子は必死に……」
語尾は嗚咽《おえつ》に消えた。そうか、そうだったのかと、反町は、自分の胸にうなずいた。彼は知らないうちにわが子に救われていたのだ。胎児は、運命によるものではなく、親を救うために自らの命を縮めたのだ。反町の胸にも熱湯のように熱いものが衝《つ》き上げてきた。
2
数日して真紀子は回復した。出血もすっかり停まり、血色もよくなった。だがまた以前のように遠方に視線を泳がせるようになった。反町を見ても、その目は反町を越えて遠くのほうを見ている。それは反町との愛によっても満たせないべつの要素から生ずる、空虚と寂寥《せきりよう》の翳《かげ》を浮かべている。
「もうあの子のことは忘れるんだ」
そんな妻を、現実に引き戻すために、反町は叱《しか》った。これから二人して将来を築かなければならない。初めての子を失ったのは、悲しいことではあるけれども、いくら悲しんだところで、死んだ子が戻って来るわけではない。
「ごめんなさい」
真紀子は素直に詫びたが、またすぐに遠方へ心を吸われてしまう。反町は時間の解決にまかせる以外にないとおもった。
山にも遠い春の足音がしだいに迫ってきた。雪と氷に閉ざされた谷間の沢も、少しずつ水量をまし、長い冬ごもりから目ざめた小動物が水辺に餌《えさ》をあさりに姿を現わす。サル、ウサギ、クマ、カモシカなどもしだいに活動が激しくなる。雪の下からフキのトウが頭をもたげる。
山がまとった冬の衣装はまだ厚いが、その内側で秘《ひそ》かに濃い緑と多彩な花を蓄えている。日射しは日ましに強くなり、谷のおちこちに遠雷のように旧雪雪崩《なで》の轟音《ごうおん》がこだまする。時折り、雪が舞い、冬に逆戻りすることもあるが、それは冬の断末魔《だんまつま》のあがきにも似て、厳冬時のような迫力はない。
間もなく雪の中に初めてウグイスが啼《な》く。つづいてホトトギスと郭公《かつこう》が来る。高所に残雪の象眼《ぞうがん》がきらめくようになると、風巣は完全な春になる。
その日、新道の整備作業から帰って来た反町は、真紀子の姿が見えないので、隆造にたずねると、
「あれ、あんたんとこへ行ったんでねえのか」
と目をまるくした。隆造の話によると、彼女は反町に弁当を届けるといって、午前中に山のほうへ出かけて行ったそうである。
「いや、ぼくの所には全然姿を見せませんでしたよ」
反町は、いやな予感がした。彼は、朝、真紀子のつくってくれた弁当をもって出かけたのである。反町は、彼らの私室へ駆け込んだ。妻の私物はキチンとかたづけられていた。衣服もそのまま残されている。彼女は着の身着のままで出かけたのだ。
――いったいどこへ行ったのか?――。
脹《ふく》れ上がる不安に耐えて物色すると、妻が化粧台がわりに使っていた整理箱の上に、一通の封書が載っているのが目にとまった。封を切る手ももどかしく、中身を取り出す。それは案《あん》の定《じよう》、置き手紙だった。そこには見おぼえのある真紀子の繊細な筆蹟《ひつせき》で次のようにしたためられてあった。
――突然こんな形であなたの許《もと》から去って行く私を、どうぞ許してください。私、お胎の子供を失ってから、自分でどうにもならなくなったのです。私、毎日、あの子の呼び声を聞くのです。その声は、利也の声と合体し、一つになって、ママ帰って来て、と日夜訴えます。起きていても眠っていても、私を呼びつづけるのです。その声はしだいに大きくなって、このごろは身について離れなくなりました。
あなた、本当にごめんなさい。あなたは、私なしでも生きていけますけれど、あの子は、私がいないと生きていけないのです。私、やっぱり、あの子の許へ帰ることにしました。
私は、女である前に母でした。私、あなたを愛しています。あなたなしの私の人生を考えると、発狂しそうな気がします。事実、私は発狂するかもしれません。けれどあなたとの愛によって、私の母としての部分をどうしても償《つぐな》えないのです。もっと早く気がつくべきでした。でも、結局、ここまで来なければ、気がつくことができなかったのかもしれません。私はあなたとの愛を殺し、一個の母親に戻ります。女としての、あなたの妻としての私は自殺をしたのです。短い間でしたが、あなたの妻としての日々は、私にとって「永遠」でした。
はなはだ勝手な申し分ですが、どうか私のあとを追わないでください。あなたは、私がいなくとも、きっと幸せになれる方だと信じています。――
読み終わって反町は茫然《ぼうぜん》とした。真紀子はわが子の許へ還《かえ》ったのだ。やはり、自分の愛よりも、子供の引力のほうが強かった。
――そうだ、あの手紙だ――。
反町はうめいた。真紀子を反町から奪い取ったのは、彼が危惧《きぐ》したとおり、高戸弥平が一命と引きかえにして届けてくれた一通の手紙だった。
「あの手紙は、やはり真紀子に見せるべきではなかった」
後悔しても遅かった。
――真紀子は麓へ下ったとすると、いったいどの道を通ったのだろう?――
反町は次に走った恐ろしい想像に、唇《くちびる》まで白くなった。彼は新道の整備をしていた。真紀子がそこを通れば、当然彼と鉢合《はちあ》わせをするはずであった。だが真紀子は来なかった。
ということは……権右衛門沢を通ったのだ。またそのとき落雷のような音につづいて、湯の沸騰するような音が、遠方から届いた。権右衛門沢の方角である。
この季節の権右衛門沢は、強まる日射しを浴びて、雪の支持力が弱まり、雪崩の巣となっている。反町は時計を見た。真紀子が出発したと推測されるときから四時間も経っていた。
「もう間に合わないかもしれない」
反町は絶望的につぶやいた。
3
同じころ、見坊利也は、自分の家の庭にしゃがみこんで虫を見ていた。ここ数日、春の雨がつづいて、庭の緑は急に濃くなったようである。
草の間に、アリが早くも活動している。利也は、アリを何時間見てもあきない。きっと母のいない寂しさを、虫を見ることによってまぎらしているのかもしれなかった。
ただ見るだけでなく、彼はときどきチョッカイを出す。アリの通路に一センチほどのセロテープをおく。アリは突然コースを遮《さえぎ》って出現した奇妙な川≠ノ面喰《めんく》らって、立ち止まり右往左往したり、引き返したりする。そのうち、ついに勇気ある一匹が、セロテープの川を渡りはじめて、粘着面にとらえられる。最初の一匹が、セロテープの泥濘《でいねい》に足を取られて悪戦苦闘しているのに、次から次に渡河《とか》≠はじめて、セロテープは、ハエを引っかけた蠅取り紙のような状態になる。
アリの戦争もおもしろい。干からびたなにかの虫の死骸《しがい》をめぐって、二種のアリ軍が大戦争を展開する。組んずほぐれつの大乱戦の末、一方のアリ軍の死骸が累々《るいるい》と横たわる。これで勝負がついたかなとおもっていると、敗色濃いアリ軍に、兵隊アリが援軍に駆けつけた。働きアリの体の十倍もありそうな、この戦争プロフェッショナルの兵隊アリは、たちまち敗勢を挽回して、一気に勝敗を決してしまう。
あまりの強さに癪《しやく》に障《さわ》って利也が石で叩《たた》き潰《つぶ》す。こうなると戦場は大混乱である。彼らは、ガリバーに襲われた小人国《リリパツト》の住人のように、もはや戦争どころではなく、算《さん》を乱して逃げまどう。
利也は、いまオールマイティのガリバーになったつもりで、殺戮《さつりく》の斧《おの》を振るおうとしていた。石を振り上げたとき、遠方から呼びかけるかすかな声が届いた。かすかな音声であったが、忘れるはずのない声であった。
「ママだ!」
利也は石を捨てて立ち上がった。アリのことは、すでに意識から押しのけられていた。
「ママが呼んでいる。ママが帰って来るんだ」
少年は目を輝かして、声の来た方角へ走りだした。少年の異常に研《と》ぎすまされた聴覚は、音波探知機のように声の来る方角を正確にとらえていた。門から表へ出る。閑静な屋敷町に人影はない。裏通りから横町を伝って、表の大通りへ飛び出した。
母の声は、駅の方角からくる。駅までの道筋は知っていた。母の声に集中して他の注意がその分だけうすくなっていた。
十字路へ出た。横断歩道はスクランブル方式になっていたために、車道と信号の間に一拍のずれがあった。利也は対面の車道用の信号を見ていた。それが青になると同時に飛び出して斜めに渡りはじめた。前方から大型乗用車が凄《すさ》まじいスピードで迫ってきた。どちらも自分が信号にしたがって動いていると信じているので、スピードを緩《ゆる》めない。
車の運転者が、利也の錯覚に気がついたときは、遅かった。
4
翌年の秋、風巣を一人の老人が訪れた。年齢は七十代とも八十代とも見える。眼光は鋭かったが、その奥にどこか虚《うつ》ろな表情があった。
いままで第一線で働いていたのが、現役を退《しりぞ》いてから、急にふけこんでしまったという様子である。
風巣は、二十か月の間に完全に廃村の様相を呈していた。反町夫婦≠ノよって一時建て直されたかと見えた村も、真紀子が雪崩に埋められ、反町がすべての気力を喪失して村を去ってから、速《すみ》やかに廃《すた》れていった。半焼した民宿もついに修復されなかった。あれからさらに四人の老人が死んだ。現在、村の人口は、佐原隆造夫妻を含めて、七人である。
反町が開発した新道も荒れた。橋はこの夏の台風で流されたまま、新たに架けようとする者がなかった。家も三軒が倒壊した。その住人は隆造の家に身を寄せている。その家も半焼したままである。
もちろん食べ物も十分にない。七人の老人はいよいよ沈む時期の迫った難船の舷《ふなばた》に身を寄せ合って、最後のときを迎えようとしているのであった。この冬には、本村から強制立退きを迫られている。そこへ客が来たものだから、佐原夫婦はびっくりした。
「民宿があると聞いて来たのですが」
旅行者も村のたたずまいに驚いた様子であった。
「去年の春ごろまではありましたがな、いまは見られるとおりだじ」
隆造は、年老いた旅行者の疲れた様子に気の毒げに言った。
「いや、このほうが私に向いている。少し置いてくれませんかな」
旅行者は気を取り直して言った。
「置いてくれってあなた、食い物もろくにねえだじ」
「みなさんと同じものでけっこうです。こんな村を、私は探していたのですよ」
旅行者はすがるように言った。
「まあ、それはそちらさんさえよろしければ、わしらは賑《にぎ》やかになっていいくれえのもんだが……」
「どうもありがとう。これで安心しましたよ」
旅行者はホッとしたように笑った。
「お客さんはどこでこの村の民宿のことを聞きなさっただかね?」
隆造は、炉端《ろばた》に旅行者を誘いながら聞いた。
「ちょっとした関係でね……」
旅行者は言葉をにごした。
――このほとんど死にかけた村を地上から抹消《まつしよう》しようとして、かえっておれが抹消されてしまったのだな――。
と胸の中でつぶやいた言葉は、隆造の耳に届かない。かつて軍神と呼ばれて「三軍を叱咤《しつた》した」男と、彼が地位を賭《と》して殲滅《せんめつ》しようとした村の生き残りの隆造が、老いてともにひとまわり小さくなった身体を、同じ榾火《ほたび》に当てていた。
「お客さんが、この民宿の、いやこの村の最後の客になるずらよ」
隆造の語尾を、遠い谷を渡る冬を運ぶ風が吹き消した
角川文庫『黒い墜落機』昭和53年9月10日初版発行
平成7年3月20日改版初版発行