[#表紙(表紙.jpg)]
虚無の道標
森村誠一
目 次
前編(企業編)
現代の実力
不満な要職
金の梯子
強者の尖兵
生殺与奪権者のプロポーズ
閉めた扉
初夜の誓い
悪妻談議
美しい獲物
華やかな孤独
蹂躙の商法
敗者の譫言
蝕まれていた花
虚無への環状線
堕ちた経営者
閉ざされた壮観
後編(山岳編)
過去への巡礼
復讐の舞台
植民地支配権
単独登山者《ローンワンダラー》
獣の営み
我、何を為すべきか?
天の道標
贖罪の遺贈
男の業
山小屋日記
雲表の駆け落ち
南極帰り
幻の山小屋
山男の形見
悪女の誤算
山岳部拒否宣言
消された新道
山小屋戦争
アルパイン三角関係《トライアングル》
妻の呼ぶ道
豊富な情熱
[#改ページ]
前編(企業編)
現代の実力
1
謹啓 早春の候益々ご清栄のこととお慶《よろこ》び申し上げます
さて このたび古川正造殿ご夫妻のご媒妁《ばいしやく》により文蔵次男俊二と忠左衛門長女百合子との婚約が整い 左記により結婚式を挙げることになりました
つきましては幾久しくご愛情を賜わりたくご披露かたがた粗餐《そさん》を差し上げたいと存じますのでご多忙のところまことに恐縮でございますが ご光臨の栄を賜わりたくご案内申し上げます
[#地付き]敬具
記
一、日時 四月十×日午後一時
一、会場 ホテル大東京 紫雲の間
昭和××年三月吉日
[#地付き]松 波 文 蔵
[#地付き]駒井忠左衛門
有馬正一様
「やったな!」
有馬正一は、彼の帰宅を待っていた一通の結婚披露宴への案内状の文面に思わず呻《うめ》いた。
案内状にある松波俊二とは、一年前に卒業した大学の同期生であり、有馬が入っていた「部員が二人だけの」地蔵菩薩《じぞうぼさつ》研究部という奇妙な部《クラブ》の、パートナーだった。
その部は彼らの卒業と同時に、部員が一人も居なくなったために廃部されてしまったのである。つまり二人は「最後の部員」であり、互いにただ一人の仲間というわけであった。
有馬が呻いたのは、結婚の通知に対してではない、その相手方にである。いや正確には、相手の娘の父親に対してであった。
駒井忠左衛門――この人こそ誰あろう、日本六大市中銀行の中でも預金量第二位を誇る菱井銀行の頭取であり、日本最大の企業集団、菱井グループの総帥である。
その一人娘百合子と北陸の漁師の次男坊が結婚したのであるから、有馬が呻いたのも無理はなかった。
もっともこの縁談≠ヘ今が初耳でなく、在学中からすでに進行していたことではあった。松波俊二と駒井百合子はたまたま同じ大学の同級《クラスメート》であった。学校という所は有難い所で、実社会では足許にも寄れぬ雲の上の住人と文字通りの友達づき合いが出来る。松波はこの恵まれた環境をフルに利用して駒井百合子に取り入ったのである。
百合子を射止めてからもかなりの紆余曲折《うよきよくせつ》はあった。何しろ天文学的に身分違いの恋?≠ネのであるから。それを松波は生来のアクの強さとねばりにものをいわせて、遂にこの案内状にまで漕ぎつけてしまった。
有馬は、本当に偉いと思った。世間はとかく女のコネにすがって出世栄達を図る男を、男の風上にも置けぬ奴と軽蔑《けいべつ》するものである。だが、天下の駒忠≠フ娘に目をつけ、彼女と同級という千載一遇の環境と条件を最高に活《い》かして遂に自分のものにしたのは、他ならぬ彼の実力≠ナあろう。現代の実力とはまさにそのようなものである、「女のコネ」と蔑《さげす》むことこそ、自分にそれだけの魅力も、ねばりも、そして実力もない手合の妬《ねた》みである。
有馬はそのような感慨をもって松波からの案内状を読んだのであった。彼にはそれが松波の成功へのパスポートのように輝かしく映った。と同時に、この友に負けてはならぬという決心を新たにしたのである。何故なら彼も松波と同様の環境と条件にあったからであった。
2
有馬正一は東都大学を卒業すると同時に、都《みやこ》屋百貨店へ入社した。都屋は寛文《かんぶん》元年創業以来三百年の歴史と伝統を誇る我が国最古のデパートである。その間数十度の火災や戦災、世の中の激動と曲折によく耐えて、京橋の本店をはじめとして都内主要地と全国主要都市に支店分店十数店を擁するまでに成長し、規模売上げにおいても業界第二位を占めている。
有馬が都屋へ入社したのは、そこの次期社長最有力候補である専務、三神陽一郎の娘、梢のコネによるものだった。有馬は梢と同級だったのである。
駒井忠左衛門には劣るものの、三神陽一郎といえばやはり日本実業界の一方の旗頭であった。これに渡りをつける[#「渡りをつける」に傍点]ことは、必ずや自分の将来に利ありと素早く計算した有馬は、梢にアプローチした。彼の在学中のすべての努力は、梢の歓心をかうために傾けられたと言ってもよかった。
努力≠フ甲斐《かい》あって、この頃ではようやく梢から唇を許されるまでに辿《たど》り着いたが、松波に比べると気の遠くなるような差をつけられてしまった。
案内状を前にして、彼が松波の実力と進度に、畏敬《いけい》の念と焦燥感を併《あわ》せ持ったのは、このような事情があったからである。
しかしそれも比較の対象を松波に置くからであって、その他大勢の一般《どんぐり》社員と比べれば、かなりいいセンを行っていた。
入社半年ほどにして社内で、エリートの巣≠ニ呼ばれる営業企画室付を命ぜられた上に、そこでも最も重要な部類の仕事に属する「オリジナル商品」の開発を担当させられたからである。
営業企画は、都屋のトップマネージメントに直属する参謀部門であり、長期経営分析に基づく経営計画の作成や、トップの意志決定に際しての助言勧告を行なうことを職務としている部所である。
百貨店の大型化は、必然的に各店の個性を喪《うしな》わせてしまった。この没個性の壁を打ち破るのが「オリジナル商品」の開発である。
オリジナル商品とはその店独自の商品のことである。他店では売っていない、その店だけの品、これには三つのスタイルがあり、商品そのものに関するものと、メーカー、問屋と共同開発する仕入ルートに関するもの、及び|品揃え《アソート》に関する独創性《オリジナリテイ》がある。
都屋の取扱い品目は約三十万|品目《アイテム》である。売っていないものは女と麻薬《ヤク》と棺桶だけ(棺桶は最近売り出した)と豪語するだけあって、日本最大の規模である。従って品揃えの豊富さは都屋が最も強く打ち出したオリジナル商品であり、セールスポイントであった。
だが、それは規模に頼る強味だけであり、頭脳的なオリジナリティとは程遠いものだった。ここにこの巨大規模の中の個々の商品にオリジナリティを与えるべく設けられたのが、営業企画なのである。
特に都屋においては、これは現場への直接的な指揮命令権を与えていたので、本来のスタッフ部門と異なり、著しく権限が強化されていた。
それだけに営業企画には、社の精鋭が集められている。営業企画入りは、まずエリートコースに乗ったものと思ってまちがいなかった。
トップの血縁か、よほどのコネがないかぎり、このセクションへ入るには、長い時間をかけての血の滲《にじ》むような努力のつみ重ねと、才能の閃《ひらめ》きを示さなければならない。
それほどの部所へわずか入社半年も経たぬうちに配されたのであるから、いかに「梢とのコネ」がものを言ったかが分る。
しかしそれは単純なコネの力によるものだけではなかった。彼が梢にアプローチしていたからといっても、ただそれだけでは、競争の激しいエリートの巣の中に今日まで生き残ることは出来なかったであろう。
彼が梢に対して発揮した「実力」は、仕事面にも十二分に通用したのである。この頃は三神の覚えもよく、休日には私邸に遊びに来いと言われるまでになっていた。
だがさすが厚顔の有馬も、ただそれだけの社交辞令でのこのこと出かけて行くことは出来なかった。もちろん学生時代に梢の学友という身分を利用して三神の邸を二、三度訪れたことはある。だがその時の招待主《ホステス》はあくまでも梢であり、「本能寺の敵」である陽一郎の顔もおがめなかった。
梢という橋《ブリツジ》のおかげでどうにか営業企画へもぐりこめたものの、本来、三神陽一郎は有馬にとっては足許にも近寄れぬ雲上人≠ネのである。
「だが待っていろ。そのうちに俺《おれ》自身その雲上人の一人になって、雲上そのものを俺が支配してやる」
有馬はうつ勃《ぼつ》たる野心を秘めて、都屋に、いや三神陽一郎に忠勤を励んでいた。
彼が松波から結婚披露宴の案内をもらったのは、そのような時であった。
不満な要職
1
松波俊二と駒井百合子の結婚披露宴は四月の吉日を選んでホテル大東京において華やかに開かれた。
招待客数約一千名、駒井家の威勢を示す如く、招待客の中には政財界の要人の殆《ほとん》どすべてが顔をつらねていた。ただし、出席者の大半は駒井家側の者であり、新郎の松波家のものはわずか三十名足らずであった。
これをみても両家の家柄が桁外《けたはず》れにちがう結婚であることが分ったが、それにしても、新郎が実に堂々としていた。
目と眉《まゆ》の間の狭過ぎるのが、やや卑しそうな印象を与えぬこともなかったが、濃い眉と熱っぽい光をたたえた若々しい目、意志的な口元など、まずは天晴れな武者ぶりである。
普通ならば一介の青年が足許にも近寄れぬ日本の大物達から次々に洪水のように祝辞を浴びせられながらも、新郎は全くものおじする気配もなく、薄い微笑すらたたえて聞いている。かえって大物であるはずの話者《スピーカー》の方が、豪奢《ごうしや》な舞台装置と、招待者の数に上がり気味だった。
そんな彼らには、新郎の微笑が太々しい薄笑いに見えた。
(さすがに駒忠、骨のありそうな婿を選んだ)内心思った者は決して少ない数ではなかった。
それに配する新婦の百合子は、名前の通り白百合の匂《にお》うような臈《ろう》たけた美しさであった。やや細面に凜《りん》と張られた明眸《めいぼう》は、いつの時代、どこの国にも通用する美人の条件である。
誰が見ても似合いの夫婦だった。ただ、もし招待客の間に心理学者が居たら、痩身《そうしん》型の新郎に配するに、やはり痩身型の花嫁の体型に、気質上の不一致を心配したかも知れない。
しかし、それこそ取り越し苦労というものであったろう。
媒妁人は菱銀の融資先であり、結婚後、松波がそこの社員になって働くことになっている日本観光の社長、古川正造であった。
日本観光は傘下に電鉄やバスも経営する旅行《トラベル》斡旋業《エイジエント》であり、業界では日本旅行公社(通称JTA)に次ぐ、日本第二の大手旅行社である。
松波はその本社において国内旅行事業部の課長をつとめることになっていた。普通なら高卒で十五―二十年、大卒でも十―十五年の経歴を積まないと就けないポストであった。
さすが菱銀の総裁、駒井忠左衛門の直接のお声がかりのことはある。一応、課長という下士官クラスの管理職であったが、これは他の一般社員の手前であり、将来へのステッピングボードにすぎなかった。
しかし、それでも松波にしてみれば不満なポストなのである。
とにかく今は、天下の駒忠を岳父にした身なのだ、どんな重職を与えられてもおかしくはない。それを羨《うらや》む奴は、自分もそのような銀のさじをくわえた娘を娶《めと》ればよいではないか。
それが課長とは何事か!
彼は露骨に自分の不満を駒井に訴えた。駒井はそんな彼を目を細めて眺めながら「ま、焦《あ》せるな、お前には菱銀がついておるでな」と言ってくれた。
駒井は松波のむき出しの野心が好きだった。一握りの平安を求めて、自ら好んで青春の可能性を大組織の中に埋没したがる現代青年達の中に、松波の脂切った生臭さは、無数の歯車人間のチームワークが尊重されるようになった現代企業から敬遠される危険性はあったが、同時に、駒井のように立志伝中の人物にとっては、自分の若い頃の分身を見る思いがしたのである。
松波もそのことをよく心得た上で、生来の生臭さに加えて演技したことは否めない。
とにかくガメツク徹すれば徹するほど今の駒井の目には好ましく映る。それでなくとも彼の最愛の一人娘の運命は自分の掌中に握ってしまったのだ。
最初はどこの馬の骨とも分らぬ漁師の伜《せがれ》に娘を奪われて烈火のように怒った駒井だったが、もはや男が娘の躰《からだ》に烙印《らくいん》を捺《お》し、百合子自身が結婚を許さなければ死んでしまいそうな逆上《のぼせ》ぶりについに押し切られた形となってしまった。
ところが女婿候補として松波に止むを得ず何度か接するうちに、自分との多くの共通項を見出して次第に好感を覚えてきたのである。
反情が好感に変われば、状況は一挙に好転する。駒井はまず自分自身が松波と同じ様な身分であったのを思い出した。
2
駒井は北上《きたがみ》山地の寒村から単身上京して、日本最大の菱井財閥の総帥、菱井鉦三郎《ひしいしようざぶろう》の家へ書生として住みこんでいる間に鉦三郎の一人娘、千春の心をつかみ、強引に結婚してしまったのである。
それが駒井の開運の初まりであった。千春の心を経て菱井鉦三郎にとり入った彼は、遂に鉦三郎の後を継ぎ、巨大銀行、菱銀の頭取の座に坐った。
ということは、日本最大の企業集団《コンツエルン》、菱井グループを資本の結合を通して支配する帝王の座についたことを示す。
この異数の出世に、自分を太閤《たいこう》になぞらえる忠左衛門が、松波の中に自分と同じ血を持つ動物≠フ匂いを嗅《か》ぎ取ったとしても不思議はない。
ともあれ、駒井は天上へ跳躍するための一個のステッピングボードとして松波を融資系列下の日観≠フ課長に据え、松波もそのことをよく知るが故に、平均的サラリーマンならば気も転倒せんばかりの要職《ポスト》に、露骨な不満を現わしたのである。
金の梯子《はしご》
1
自分の出世を促す人間とだけつきあうことを心がけている有馬にとって、およそ相応《ふさわ》しくない交際相手が一人だけいた。
それは塩見五八という老人で、入社早々配属された売場の係長である。
都屋の職制が丁稚《でつち》手代時代、尋常小学校を出ると同時に都屋へ見習い丁稚として入店した。以来四十年近く、デパート屋一筋に勤め上げてきた生粋のデパートマンである。
たたき上げにとかく多い職人肌の頑迷や、学卒新人への反感がなく、ただひたすら都屋《おいえ》のためをはかる、まこと模範的な「ああ、忠臣サラリーマン」である。
待遇も四十年余の忠勤に決して相応したものではない。売場長であるから精々、準手代といったところだ。一般企業では係長クラスである。事実、係長とも呼ばれる。
有馬は定年近くになっても未だ売場長あたりをうろうろしている塩見を内心ひそかに軽蔑《けいべつ》していた。最初はそれが無能によるものと思っていたが、売場で日々顔を接し、彼の年季の入った販売技術や、洗練された接客の態度を見るにつけ、一体何が彼の昇進を遅らせたのか、疑問になってきた。
それほど塩見は、有馬の見るかぎり有能なデパートマンであった。
この塩見がことのほか有馬を可愛がってくれ、「デパート学」のABCを手足を取るようにして教えこんでくれたのである。
サラリーマンの運命は直近上司のよしあしで決まることが多い。その意味で有馬のサラリーマン生活のスタートは幸運であったと言うべきであろう。
有馬が営業企画へ栄転した時も塩見は我がことのように喜んでくれて、彼の行きつけの巣≠ナ祝宴≠張ってくれたほどである。
有馬の処世からいけば、たとえどんなに世話になった男ではあっても、出世コースから完全に外されたロートルの塩見などは、いつまでもつきあうべき相手ではなかった。
だが有馬は彼だけを例外として今でも交際し、しかもそれを楽しみにすらしていた。有馬にしてみれば、常に極端な緊張を強いられるエリートコースの競争の中で、塩見だけが気を抜いて話せる貴重な友人であった。それだけに塩見との交際は、何の打算も混えぬ純粋な人間としてのつながりであったと言えよう。
「どうだな今夜あたり、久しぶりに一杯?」
塩見から一か月振りの誘いがかかったのは、松波の結婚披露の翌日であった。常ならば待ちかねていたように応ずるはずの心が、何となく重かったのは、昨日の盛大な披露宴に、松波からつけられた差をいやというほど思い知らされ、焦燥感をかきたてられていたからである。
いったん断わりかけた有馬だったが、このような時こそ、およそ生臭い人間の営みから縁遠そうな塩見と酒を酌み交しながら語り合った方が、心のあせりを鎮めてくれるだろうと思い直して誘いを受けたのであった。
塩見は世田谷《せたがや》の外れの公団住宅に老妻と二人だけで住んでいる。娘が一人居るそうだが、これは関西のある女子大に在学しているために、彼らとは離れて暮らしている。有馬はどんな娘かと興味を持っていたが、まだ一度も顔をあわせたことはなかった。
何十年とつれ添った塩見の老妻は、よい妻ではあったが、話題が違うので話相手にはならない。塩見の唯一にして最大の楽しみは場末にある彼の巣で安酒を酌みながら有馬と語り合うことであった。
とはいえ、二人の間に別に面白い話題があったわけではない。
「どうすれば、より多くの客を惹《ひ》くことが出来るか?」
「どうすれば彼らの財布のひもを、よりゆるめることが出来るか?」
このデパートの虫のような男は、場末の安酒場で盃《さかずき》をちびちび舐《な》めながら、そんなことばかりあきもせずに言っている。
それに対して、
「そんなに会社のおんために寝ても覚めても想っていても、会社は一体、何をしてくれたか?」
と問うほど、有馬はサラリーマン生活に毒されていなかった。それどころか、実社会のスタートを切ったばかりの彼は、男の職業に対する態度は、まさにそのようであらねばならないと信じていた。
ただ、塩見の場合は、企業の利益に対してばかり熱心で、自己の利益については至極、恬淡《てんたん》としていた。
これからの企業人《サラリーマン》は、企業の利益を想うことは塩見同様、いや以上に熱心であらねばならないが、同時に、その結果に対する相応の評価と報償を企業に認めさせることにも同じ位に熱くならなければならない。
プロとは自分の提供したものに絶対の自信を持てる人間のことだ。プロは絶対に只で自分のもの(サービスや品物)を給付しない。それ故にプロと呼ばれる。
塩見の滅私奉公に見られる熱は、男の自己の職業に対する姿勢として共感しても、その行為の無償性において、プロ意識の欠如を感じさせたのである。
だから有馬は、塩見と話していても、心の隅に「俺《おれ》が彼の年齢になったら」という気負いをひそかに抱いていた。
その気負いが、自分の野心から見ればおはなしにならない底辺≠ノ、何十年にわたる滅私奉公の後も依然として蹲《うずくま》っている塩見に、一種の憐憫《れんびん》と心の安らぎを覚えたのかもしれなかった。
2
国電神田の駅裏に塩見の巣があった。焼き鳥と二級酒で二人がかなりいい気持になっても千円札一枚で賄《まかな》える気安さが、安サラリーマンにうけて、いつ行っても席がないほどの繁盛ぶりであった。
有馬ははじめて塩見にこの巣に案内された時、塩見の全く新しい面を見たような気がした。
壁に背をもたせかけ、二級酒でほんのりと頬《ほお》を染めて彼一流のデパート論をぶつ時、一つの道一筋に歩いて来た男の、風霜に磨かれた年輪が感じられた。
都屋の現役重役も、デパート界の名のある大物も彼の酒談の中に「貴様、俺」の仲で登場した。しかし、彼らの出世に比較して余りにも惨めな自分の現状に少しも僻《ひが》んだところがない。
負け惜しみでも強がりでもなく、どういう風にやってみても、結局そのようにしかならなかった人間の哲学が感じられるのである。
「彼らは一応世間的には成功した。六十近くにもなって未だ一介の売場長にすぎない俺は、世間的には人生の落伍者だろう。しかしな、人生なんぞ、所詮個人の価値観によってきまる。乞食をやろうとその日暮しをやろうと、てめえさえ自分の一生に満足出来ればいいんだ。俺はいつ死んでも、マア完全とはいえぬまでも、大体、やりたいようにやってきたと言える。何一つ、生きていた証拠として残すものはないが、只一つ、自信をもって言えることは、俺は俺なりにいつも精一杯やってきたことだ」
そんなことを二級酒の酔いの中で有馬に語りかける時など、塩見は本当に楽しそうだった。だが、有馬は塩見のこの「楽しさ」が彼をして「世間的に落伍させた」のだと思った。
上半期のボーナスをあてこんだデパート群の商戦がまさに火を吹かんとする寸前にあったので、それに備えて鋭気を養おうという口実で塩見は誘った。
もうそんな口実は必要ないほどの飲み仲間≠ノなっているはずなのに、一々もっともらしい口実をつけなければ気がすまないところに、塩見の律義な性格が感じられた。
「何故、デパートでは無料配達をするんでしょうね?」
その夜、適当にアルコールが回ったところで有馬が口火を切った。
「何故って、君、それはもう決まっているサービスだろう」
塩見は半眼に閉じていた眼を開いた。太陽が東から上るのがおかしいと言われた時のような表情であった。
「さあ、そこですよ」
有馬は盃を置いて身体を心もち乗り出した。
「サービスというと何でも、無料《コンブリメンタリ》という考え方が、日本人の間では支配的ですが、もしそうだとすればサービス業は成り立たない。元来サービスは金をもらって売る商品です。サービスと一口に言っても有料と無料との二種類があるはずです。そして、無料のサービスは有料のものに比してごく微《わず》かしかない」
「百貨店はサービス業だが、主たる商品は形のある物で、それを買ってくれたお礼に景品《おまけ》≠ニして無料配達するだけだ」
「そこが私は気にかかってならないのです。景品だったら何故、すべてのお客に対して無料にしないか? 配達を希望したお客に対してだけ無料で届けてやるのは不公平じゃないでしょうか?」
「まさか、売場から持ち帰るというお客に配達を押しつけるわけにもいくまい」
「それなんです、お客には配達を希望する方も居るし、持ち帰る方も居る。配達希望者は非常な勢いで増えているとはいえ、やはり持ち帰りの方が圧倒的に多い。地方配達も有料です。要するに、無料配達はごく一部の客の利益にしかなっていない。もしこれをお客への景品であるとするならば、何故、持ち帰りや、有料配達にはその分だけ商品を値引きしてやらないのでしょうか」
「有馬君、馬鹿なことを言っちゃいけない。お客が商品そのものを買うのであれば、町の小売屋やセルフサービスのスーパーでこと足りる。何もわざわざデパートまで出て来なくとも、全く同じ商品を何処《どこ》でも売っているのだ。それにもかかわらず、彼らは何故デパートへやって来るか? 言うまでもなく、彼らは商品そのもの、つまりだな、裸の商品だけでなく、どんな商品を買えばよいかという助言《アドバイス》や、商品に関する知識、豊富な商品の中から選択出来る喜びと、選び取った商品への自信、欲しいものが同じ場所で一遍に買える便利さなども併せて買っているのだ。だからこそ全く同じ商品であっても、デパートで買ったものは町物よりもいくらか高くなっている。客もそれに対して苦情を言わない」
「とすると、客は配達サービスも商品と一緒に購入しているわけですか?」
「そうさ、だから無料配達を止めるわけにはいかない」
「とすると、お客は無料配達に対しても支払っている[#「無料配達に対しても支払っている」に傍点]わけですね」
「うん」
「とすると、無料じゃありませんね」
塩見は自分の論理の矛盾をつかれて思わず言葉をつまらせた。有馬は得たりとばかりに畳みかけた。二級酒が彼の舌を滑かにしていた。
「世の中には無料サービスと信じられているもので、実は有料のものが実に多いと思うんです。売場長《キヤプテン》は今、デパートの商品は町物よりも割高だと仰有った。もしその割高の部分に無料配達のコストが盛り込まれてあったとしたら、持帰りや地方配達のお客は、一部の無料配達のお客のために当然、払わなくてもよい金を払わされていると思うんです。これは不公平《アンフエア》じゃないでしょうかね」
「しかし、そうは言ってもね、無料配達のコストが盛り込まれているとは限らないよ」
「キャプテンは今、無料配達にも支払っていると言われたばかりじゃありませんか」
「あれは言葉のはずみだ。又、そうだとしても、業界ですでに確立した慣習となっているものを、うちだけが止めるわけにはいかない」
「……でしょうか? 我々は客が一体、何と何に対してだけ[#「だけ」に傍点]、金を払ったのか明確にすべきだと思うんです。そして支払った部分はすべての客に対して公平に分けるべきだと思います。その境界が曖昧《あいまい》だからこそ、無料のものが有料だったり、元来、代金を請求出来るサービスまでが無料《サービス》にしろと言われたりする。形のある商品ならば只《サービス》にしろという人は居ませんが、|形のない商品《サービス》となると金を払いたがらない人が多いのは、ひとえに、この有料と無料の境界がはっきりしないところにあると思うんですがね」
塩見は今|迄《まで》ちびちび舐《な》めていた盃をぐっと呷《あお》った。
有馬の理詰めの畳みかけに返す言葉を失ったからだ。
だが、有馬の言葉が彼にかなりの影響(感動と呼んでもよいかも知れない)を与えたらしいとは、雰囲気で分った。
二人はそのまま黙りこんで酒を飲み、ヤキ鳥をかじった。気まずい沈黙ではなかった。毛細血管の隅々にまで亘《わた》るような酔いの快さの中で、三十も齢の違う二人は、何ものとも表現の出来ない共感に浸っていた。
実は有馬の言ったことは、常々、塩見も朧《おぼろ》げに感じていたことであった。
それを、有馬は若い柔軟な頭脳で端的に表現してくれた。
もとより、理論だけでは割り切れぬ現実である。有馬の主張の中に実務に馴染《なじ》まぬものが多分にあるのを、塩見は半生の体験から知っていた。
だが、基本的には間違っていない。
(この若僧が言うわ)と塩見は内心苦笑しながらも、自分が四十年近く費してもなお完全に掴《つか》み得なかったサービスの当為といおうか、極意といおうか、とにかくそのようなものをわずか一年そこそこの馳《か》け出しのうちに明快に掴みとり、理論的に表現出来る有馬に、いわゆる(心にっくき奴)というような感情を覚えたものである。
「有馬君」
何本目かの徳利をさかさに振って、空になったのを確かめた塩見は、長い間考えあぐねた末言い出したようにふと沈黙を破った。
「儂《わし》の娘をもらってくれないか?」
突然、今迄の話題と全く異なることを言い出されて、有馬はまごついた。
「儂に来年の春、大学を卒《お》える娘がいることは知っているだろう。親の身から言うのも、おこがましいが、我が娘ながらよくできた子だよ。頭も器量もまず十人並だし、気だてもいい。親の儂が無学だったから、女にしては人並み以上のことは身につけさせた。帝国ホテルのコックとまではいかなくとも、料理もうまい。どうだろうな君の嫁に」
塩見の声は途切れがちだった。自分の感情をめったに表白《あらわ》したことのない彼が、何と驚いたことに初恋を打ち明ける少年のように声をかすれさせている。
有馬は内心困ったことになったと思った。入社以来、塩見が自分にことのほか好意を寄せてくれているのはよく分ってはいたが、まさかその好意がこのような形に発展しようとは思ってもいなかった。
自分が妻として狙《ねら》いをつけている女は三神梢である。もとより恋とか愛などというふにゃけた感情によるものではなく、雲上へ上る金の梯子《はしご》≠ニしてである。
実力主義の、能力本位のといったところで結局人間同士を最も強く結びつけるものは、血のつながりである。そして何のコネもないサラリーマンが最も手取り早く確実に出世するには上役の娘と結婚することだ。
閥とか門地とか、本人の直接的属性《じつりよく》に関係のないものによって人間を登用することが、企業を毒することはよく分っていても、企業というものは財産的利益と権力を産むものである。そしてそうであるかぎり、他人が入って来るのを好まない閉鎖性をもっている。こういう中で上役の縁につながることは、サラリーマンがドングリの背比べから浮かび上がる千載一遇のチャンスである。
しかも都屋においては次期最高首脳として権勢並ぶ者のない最高級の上役、三神陽一郎の娘を今まさに射落とそうとしている間際に、万年冷や飯喰いの塩見づれの娘に乗り換えることは、気でも狂わなければ出来ない芸当であった。
(何が打算のない人間的なつきあいか。塩見の方では俺《おれ》を成長株と見越して、親切ごかしに近づいていやがったのだ)
有馬はいっそ腹立たしくなった。だがかりそめにも前の上司である。それにエリートコースのランナーとしては、敵はつくらないに越したことはない。
瞬間の思惑を巧みに隠して、有馬はこの場合に最も妥当な言葉でその場をつくろった。
「僕のような人間をそれほどまでに見込んで下さって有難う。でも僕はまだお嬢さんに、一度も会ってないんですよ」
考えてみれば、一度も引き合わせたこともない娘をもらってくれと頼む塩見も相当に乱暴であった。
「まだ会ってなかったのか?」
塩見は愕《おどろ》いた表情をした。どうやら過去何回か有馬を私宅に招いた折りに、すでに紹介ずみと錯覚していたようである。しかし紹介されていたとしても、有馬の心が変わるはずはなかった。いずれにせよ、これで多少の時間は稼げる。断わり文句は引き合わされた上で考えればよい。
「いや、これはとんだお先走りをしたな、だが、君のような男はそうざらに転っているもんじゃない。よそに奪《と》られんうちに予約≠セけしとこうと思ったもんだからね、今度の夏休みに帰省して来るから、とっくりと観た上で一つ考えてくれんか」
塩見は恐縮しながらも、自信ありそうに言った。どうやら、彼は親馬鹿の部類に入る娘自慢の父親らしい。
「ねえさん、勘定」
そんな有馬の屈託などおかまいなしに塩見は至極機嫌のよい声で店の者を呼んだ。塩見は、この縁談≠ェすでに成立したように思っているのだろう。
3
七月末日の日曜日の夕方、店内に閉店時間を報《し》らせる螢《ほたる》の光が流れはじめた時、三神専務から有馬に電話が入った。
何事かと緊《かた》くなって送受器を取り上げた有馬に、三神独得のさびのある声が、今夜彼の私邸にめしを喰いに来ないかと誘ったのである。
今までも度々遊びに来いとは言われていたが、このような具体的な誘いをかけられたのは初めてであった。それはそのまま二人の距離が接近したことを示すものである。
「では、六時半ジャストに重役専用口へ下りて来たまえ」
有馬が承諾の返事もしないうちに三神はずしりとつけ加えた。それは招待というよりは、命令に近いものであった。しかしそれにしても何と有難い命令であろう。
娘が夏休みで帰省したから引き合わせたいという名目で、塩見家から同じその夜招かれていたことを思い出したのは、最敬礼と共に送受器を置いた後だった。
一瞬、「しまった」と思ったが、今更、取り消せる相手ではない。よしんば電話を切る前に思い出したとしても、結果は同じだったであろう。
三神と塩見からの招待、――それは天上と地上からの招待であり、およそ比較にかけられるものではなかった。
有馬は塩見の招きを躊躇《ためらい》なく断わることにした。もちろん急用という口実にして三神から招かれたことは隠した。
「それは残念だな」
塩見は失望の色をあらわに出して言ったが、思いなおしたように、
「それじゃあ、明日来ないか、ちょうど公休日でもあるし」
大して気は向かなかったが、翌日とりたてて何の予定もなかったのと、それに何よりも、折角の招きを断った時の塩見のあまりにも気落ちした様子に気が咎《とが》めて、有馬は受けた。
三神の邸は目黒区緑が丘の高台にある。東横線と大井町線の交叉《こうさ》する自由が丘に隣接する地区で、一種、北欧風のムードが漂う高級住宅街である。
七月の黄昏《たそがれ》は長い。明るい水のような光が、昼間の酷暑を償うようになみなみと漂う、一日で最も爽《さわや》かな美しい時刻を、三神と有馬を乗せた都屋の重役専用の外車は音もなく坂を登って来た。
外車は山手郊外の華やかな静けさ≠フ中をゆるやかに進み、庭を広々と取ったいかにも住み心地よさそうな邸の前にとまった。
家そのものは、周囲に妍《けん》を競う高級邸宅群に比べれば邸とは呼べぬほどの外観であったが、ビロード芝を敷きつめた広々とした庭をめぐらせ、思い切り大きな窓をふんだんに取った二階建てのコンクリートブロック造りのその家は、住人の合理性を偲《しの》ばせるような機能本位の設計と見えた。
そこが三神陽一郎の私邸であった。
車が止まると殆《ほとん》ど同時に今まで鳴っていたピアノの音が止んだ。三神と有馬が玄関の扉を押す前に、それは内側から勢いよく開かれ、
「お父様、お帰りなさい」
と若い女の弾んだ声が飛んできた。
「ただいま」
応じる三神の声が、オフィスとは全く別人のもののような和やかさに満ちて、表情からも鋭角的な線が消えている。
「梢、有馬君を連れて来てやったぞ、お前があんまりせがむからな」
三神の言葉に有馬は失望と喜びを半々に味わわなければならなかった。それは今宵の招待が三神自身の発意によるものではないことと同時に、梢の有馬への傾斜度を示すものであったからだ。
学校を卒えると、学生時代のように頻繁《ひんぱん》には逢《あ》えない。それに何よりも身分の違い≠ェある。梢を出世の媒体≠ニ考えている有馬にとっては大きな打撃だったが、父を通して自宅へまで招き寄せようとする彼女の熱意は、それを補って余りあるものであった。だが同時に三神陽一郎を本命の狙いとする有馬には、三神の引き立てが娘に甘い親馬鹿によるものだけとあってははなはだ面白くないのである。
野心と自負の強い青年が陥り易い心理の矛盾に、有馬もはまりこんでいた。
二人を迎えた梢は、陳腐な形容だが、大輪のダリアのような女だった。発達の極みに達した胸も腰も背たけも、日本人離れしたボリュウムに弾み、女にしては彫りの深い顔とあいまって、まともにみつめても、みつめられても眩《まぶ》しいような華やかさであった。
学生時代から女王のような存在だったが、この頃は女としての脂が乗ってますます華やかになってきたようだ。
だが有馬の本心としては、このような異性《タイプ》は彼の好みではなかった。遊びの相手としてはまことに格好な女かもしれないが、一生の伴侶《はんりよ》として自分を補佐してくれる異性としては、もっと地味で、内面の優しさが滲《にじ》み出て来るような女性が望ましかった。
だから彼は梢を妻候補として見ていなかった。あくまでも、出世の媒体であり、自分を雲の上へ導いてくれる金の梯子《はしご》としての効用だけをみていた。
そうとして眺めれば梢は素晴しい女だった。それにバックに背負う富や権勢を除いて裸にしても、彼女は十分に男を惹《ひ》くだけの魅力を備えていた。
「いやだわ、お父様ったら、せがんだなんて」
梢は大仰に父を打つふりをしながら、有馬の方へ向かってチロと舌を出して見せた。それにどう応じていいのか分らず、有馬は少し狼狽《ろうばい》した。三神の前であまり親しそうな態度を見せるわけにもいかない。さりとて、学友ということが分っているのだから全く他人行儀にするのも不自然である。
「まあまあ、そんな所へお客様を立たせたままで、梢さん何です、さ、早くお通しして」
奥の方からしっとりした声が湧《わ》き、いかにもその声の持主に相応《ふさわ》しい落ち着いた中年の婦人が現われた。梢のように大柄ではないにしても、彼女によく似たくっきりした目鼻立ちと名流夫人としての洗練された物腰から彼女の母親であり、三神の妻であることはすぐに分った。有馬は彼女とも初対面であった。前に来た時は留守で、お手伝いに軽くあしらわれたのである。
「ようこそいらっしゃいました。三神がいつもお世話になっております、さ、お入りになって」
夫人はにこやかにすすめた。
玄関から上がった十畳敷ぐらいのカーペットを敷きつめた洋間が、食堂をかねた居間である。私宅への訪問客は一般にビジネスではなく、家族ぐるみの交際を望んでいる場合が多いところから、おそらく家族全員の集まるこの居間が、三神家の客間を兼ねているのであろう。
案の定、有馬が通されたのはその部屋だった。部屋の中央には大きなテーブルがしつらえられ、すでに食事の用意が調っている。
玄関からの動線を考慮して設計されたものであろう、居間の奥はキッチンらしく、寝室はその奥か、二階に置かれてあるらしい。
テラスに面した大きな窓からは、庭の緑を集めた青い風が絶えず流れ込んでくる。クーラーもあったが、そんな必要は全然ない爽快《そうかい》な涼しさであった。
外観だけでなく、内部も実に快適なつくりになっている。
「どうだ、ざっとシャワーでも浴びないか」
手早く和服に着替えた三神は、借りて来た猫のようにかしこまっている有馬の気持をもみほぐすように言った。
彼の好意は有難かったが、この上|殆《ほとん》ど未知の家で、しかも重役の家の中で裸にさせられるのはかなわない。第一、冷房の中での勤務と、冷房車での退社で汗をかいていない。
「それじゃあ、めしにするかな」
有馬がコチコチになったまま一向に動かないので、三神は仕方なさそうに妻へ言った。
食事は美味《うま》かった。材料もよかったが、何よりも家庭料理としての真心と暖かみがこもっていた。社員食堂のアラカルトと、下宿の賄《まかない》ばかり喰わされている有馬にとっては、胃に沁《し》み入るような味であった。
もっとも料理の味が分ったのは、食事に梢が加わり、くったくなく話しかけてくれたからである。
三神家の家族はその他に今年大学へ入ったばかりの伸一郎という息子が一人居る。あとは山出しの若いお手伝いが一人だけだ。
都屋の重鎮としては、思いのほかつつましい生活をしている様子であった。
食卓は三神家の家族と、有馬を加えた五人が囲んだが、梢のおかげで賑《にぎ》やかな楽しい食事になった。弟の伸一郎も活発に話した。
年齢の接近している姉弟の会話の中に導き入れられた有馬は、重役の前に居ることをいつの間にか忘れてしまった。
三神は終始にこやかな笑みをたたえて若い会話に音楽でも聴き入る風情で耳を傾けていた。
黒地のうすものを着流してくつろいだ姿は、むしろ茶か俳諧《はいかい》の宗匠といったおもむきで、百貨店業界の鬼と謳《うた》われる酷《きび》しさなど到底、感じられない。
稀《まれ》に途切れる会話のつなぎ役は、夫人がつとめた。もっとも、夫人もその役をほとんどつとめる必要がないほどに話題は若い三人の間にはずんだ。
「どうだな、口にあったかな」
食後の緑茶をゆっくりとすすりながら、三神は目を細めた。
「はい、とにかくもう」
「とにかくもう何だな?」
「こんなに美味《おい》しい物喰ったことはありません」
そんなことを言うと、いかにも自分の生まれの貧しさを自ら暴露するようなので、一寸《ちよつと》、口ごもったのであるが、たたみかけるように訊《き》かれてつい本音を吐いてしまったのである。
「ははは、君はお世辞がうまいな、これは全部梢の手づくりだよ、ま、我々は親兄弟だからがまんして喰っているが、とても客の前に出せるもんじゃない」
「ま、お父様ったらひどいわ、いつもお美味《い》しいお美味しいとおっしゃって召し上がっていらっしゃるくせに」
梢は又、大仰に睨《にら》んだ。
「あれが本当のお世辞というものだよ、な、伸一郎」
「ひどいわ、ひどいわ」
親子の楽しいやりとりを聞きながら、有馬は一寸気にかかることがあった。
それは三神が今言った「客の前に出せるものじゃない」という言葉である。それが有馬が客ではないことを物語るものであろうか。それは客としての他人行儀ではなく、親身を遇する親近感を示すものか、あるいは客として接遇しない軽視を意味するものであろうか、それとも、それほど深く考える必要のない単なる言葉のあやと聞き流してよいものだろうか?
有馬としては第一の解釈をとりたかった。とにかく、ピラミッドの頂に居る三神が、梢の意志が介入したとはいえ、底辺の有馬を私的に招いてくれたのは事実だ。しかも家族の晩餐《ばんさん》へ。――そこに彼の有馬に向けた並々ならぬ厚意を認めてもさしつかえないだろう。
「明日は公休日だ、ゆっくりして行きたまえ」
と引きとめる三神の言葉に甘えて、有馬はつい長居をしてしまった。
だが、三神をはじめ一家の者は、少しも迷惑そうな表情を見せなかった。帰りしなに、
「又、来たまえ」
とかけてくれた三神の声はまんざら社交辞令ではなさそうだった。
4
翌日の午後、有馬は世田谷《せたがや》の奥にある塩見の家を訪れた。
塩見家は多摩川に近い狛江《こまえ》町のはずれにある公団住宅であった。
新宿から小田急線に三十分ほど揺られて、川一つ越せば神奈川県に入る和泉《いずみ》多摩川で降りる。徒歩で約十分、漸く目指す団地に辿《たど》り着いた時は、有馬はその日の暑さのせいもあって腹立たしくなるほど疲れていた。こんな辺鄙《へんぴ》な所から毎日通勤してくる塩見に、サラリーマンの根気を見たような気がした。よく考えてみればここは世田谷の奥ではなく、それを越えた狛江の隅である。
団地に住んでいる人間を初めて訪れるのは、かなり根気のいる仕事である。どちらを向いても同じ様な建物ばかり並んでいるところに、ものを尋ねても別棟の住人となると、まるで別世界のことのように知らない。よしんば知っていたとしても、隣人への無関心が、あたかも近代的都会人の資格でもあるかのように、尋ねられた以上のことは教えてくれない。
有馬はすでに二、三度訪れたからよかったが、それでも方向音痴≠フ彼のことなので、日没の後だったら、砂漠に置き去りにされたような気がしただろう。
ともあれ、ようやく塩見家にたどり着いた時は、有馬は汗で全身、水をかぶったようになっていた。
「やあ、さぞ暑かったろう」
出迎えた塩見は、久しぶりに帰省した息子を見るような目をした。
「まあまあ、よくいらっしゃいました」
すでに顔なじみの塩見の妻も、いそいそと立って来た。
居間にしている表の六畳にひとまず落ち着くと、丸顔のふっくらした娘がおしぼりを持って来た。
「いらっしゃいませ」
彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、しとやかに挨拶《あいさつ》した。
「有馬君。これが娘の静子だ、こちらがよく噂《うわさ》をする有馬君だよ」
塩見が二人を引き合わせた。有馬はその瞬間、体の芯《しん》に慄《ふる》えのようなものを覚えた。
優しいふっくらとした面立、柔らかい暖かそうな躰《からだ》、しっとりと濡《ぬ》れたような音声、何気ない動作の一つ一つにまで女らしさが匂《にお》うようである。それこそ有馬が女に求めていた内から滲み出るような優しさであった。
その瞬間、有馬には慄えの正体が何であるか分らなかった。いやそんなものを見極めるだけの心の余裕がなかった。後になって思い起こせば、自分が多年探しあぐねたものに遂にめぐり逢《あ》った心の慄えであり、俗に言う「一目|惚《ぼ》れ」の昂《たか》ぶりであったと分るのだが、その時は、塩見らに慄えを気取られぬための努力で精一杯であった。
「汗をかいたろ、まず一風呂浴びないか」
そんな有馬の屈託を知ってか知らずか、塩見は救いの言葉をかけてくれた。ざっと汗を流し、静子が出しておいてくれたゆかたに着替えると、有馬はいくらか落ち着きを取り戻した。
塩見家は3DKである。それは昨夜招かれた三神家の家族間のプライバシーすら尊重して設計された間取りに比べて何ともお粗末なものだったが、有馬にはこの上もなく居心地のよい空間に感じられた。
それは心の隅々まで和められるようなムードなのである。それが静子から醸《かも》し出されていることが今ははっきりと分った。
「ま、一杯どうだな」
塩見がビールを抜いた。食卓の上にはすでに食事の用意が調っている。
それは昨日という一日の殆《ほとん》どすべてを費《ついや》して有馬のために静子が用意した昨夜の料理を、彼の突然のキャンセルにあってすべて無駄にした後、再び今日という一日、同じ労力と時間と心をこめて用意されたものであった。
「ここは何の取得もないが、景色だけは自慢出来る」
塩見はグラスを空けながら、すでに有馬が何度か聞いているせりふを言った。四階の一番端にある塩見の室からは、多摩川を隔てて登戸《のぼりと》方面が一望に見渡せる。
ちょうど、夏の陽が西の地平に湧いた雲の影に入ったところで、金色に縁取られた雲と、茜《あかね》色に染まった空と川原の大きな風景が展《ひら》いていた。
座は静かに弾んだ[#「静かに弾んだ」に傍点]。三神家におけるような賑《にぎ》やかな弾み方ではない。静子は梢のようによくしゃべらない。かといって話題が貧弱なのではなかった。男たちの会話ににこやかに聴き入りながら、話題が途切れそうになると、控えめにセンスのある話題を投げこんで客を飽かせないすべを知っている。
有馬はそんな彼女にぐいぐいと惹《ひ》かれていく自分を感じた。
静子の穏やかな暖かいもの腰と、明るく澄んだ瞳《ひとみ》の色は、そのままこの娘の優しい性格と聡明《そうめい》さを示すものであり、彼女と共に築いていく家庭の平和と幸福が目に浮かぶようであった。
(いけない! 俺《おれ》はもう静子との将来を考えはじめている)
有馬はそんな自分を厳しく戒めた。いやしくもエリートとしての嶮《けわ》しい道を選んだからには、自分の好みで妻を選んではならないのである。
妻とはその一生を面倒をみてやる代りに男の費用と労力を償うに足りる銀の匙《さじ》≠くわえてこなければならない。
愛により結婚するのは、マイホーム主義によって男の可能性を去勢された男共だけでよい。優しい妻と健やかな子供に囲まれた団地の2DK、適当な疲労と適当な収入をもたらす、規則正しい仕事、土曜の午後と日曜は家族と共に買物やピクニックやテレビに過ごす。幸福な生活とはまさにそのようなものではあるまいか。
しかし、野心多き男に幸福はいらない。彼は常に人間の生臭い欲望のるつぼの中でなければ生きられない。片隅の幸福などというものからはおよそ縁遠い、生き馬の目を抜く張りつめた世界で、自分の利益は他人の不利益となり、他人の利益は自分の不利益となる脂ぎった利害の対立関係に身を置き、自分の利益を断固、擁護し、それを少しでも拡張するために権謀術数の限りを尽くす。
ぼんやりしていれば瞬く間に蹴落《けお》とされてしまうが、泳ぎ方によっては、無限の可能性のある世界こそ、いつの世においても男の身を置く場所ではないか。そういう男にとっては、結婚も、野心を伸ばすための手段とならなければならない。
有馬は三神梢を想うことによって、静子に傾きかかる姿勢を必死にたて直そうとした。同じ女性でありながら、静子と梢は何と大きな違いであろうか。およそ二人は何から何まで対照的であった。静と動、内に秘めた優しさと、目にもあやな華やかさ、片や処女の気品が高く薫れば、片や男に揉《も》みしだかれるためにのみ成熟したような量感に充ちた肢体を誇る。
そして自分はためらいなく後者――梢を選ばなければならないのだ。
有馬は別に梢と将来を約束したわけでもなければ、三神から何の言葉ももらっていない。単なる学友の一人として遇されているだけである。
だが彼は今、すべての価値を梢中心に考えようと努めた。そうすることによってのみ静子からの危険な吸引≠ノ耐えられるのだ。
「学校はいつからはじまるのですか?」
「九月五日からですわ、でも、有馬さんたらへんなの、さっきから同じことばかり何回も訊《き》いてらっしゃるわ」
静子に笑われて、有馬はハッとなった。いつの間にか言葉を空《うつ》ろに回しながら、静子と梢を秤《はかり》にかけていたのである。本来、比較するべきでない二人を比較している。彼はそこに大きな危険を感じた。
(この家へ来るのも、これを最後にしなければならない。エリートの道は長く嶮しく、地上の女≠ネどにかまっているひまはない。
たとえ静子が、男として一度は試みてみたい「幸福への可能性」を蔵していたとしても、それは所詮《しよせん》、地上の「片隅の幸福」にすぎず、天上を志す男達を引き留めるだけの力をもたない)と有馬は強いて自分を納得させた。
5
有馬が腰を上げたのは九時ちょっと過ぎだった。引き留める塩見家の者に、明日の勤めがあるからと強引に振り切って辞した形であった。
三神家に十一時過ぎまで居坐ったことと比べても、彼がその夜いかに静子に危険を意識したかを物語る。
「駅までお送りいたしますわ」
静子が極めて自然に言った。
「いやけっこうですよ、かえって送りかえさなければならなくなりますから」
暗い夜道を肩を並べて歩いたのでは、心に逆らって早く帰る意味がなくなる。
「馴《な》れた道ですし、それほど寂しい場所もありませんから」
静子はいささか強引について来た。
夏の夜は涼しく、夕涼みの人々がそぞろ歩きを楽しんでいる。多摩川が近いせいか、空気も冷たい。東京の空とは思えぬほどに星がよく見えた。
「大阪へいらっしゃるようなことはございません?」
静子がふと言った。肩を並べて歩いていると、彼女の横顔の柔らかな線が更に優しく強調される。
「今のところは別に。でも、むこうの支店に出張することはありますよ」
と答えて有馬は、静子が大阪の女子大に現在籍を置いていて、来春卒業の予定であったことを思い出した。
「もうすぐご卒業ですね、あちらでは寮にでも入っているのですか?」
「いえ、吹田《すいた》に伯父《おじ》がおりまして、そこに寄宿しておりますの」
「どうして大阪で進学なさったのですか? 東京に大学がないわけじゃなし」
「あら、ご存じなかったんですか? 父は大阪支店に少しいたことがありますの。私が入学した年に本店勤務になって、私だけが残ったんです」
そう言えば、そんなことをいつか塩見から聞いたことがある。
「ご卒業されたらどうします。就職? それとも」
結婚かと尋ねようとして、有馬はその言葉をかみころした。静子も今夜の見合い≠フことは、塩見から聞かされているのであろう。彼女も自分に好感を抱いたことはそれとなく態度で分る。しかし自分の方に可能性がない以上、余計なことを言って気を持たせない方がよい。
「社会を観るために、出来れば就職したいと思っていますの、でもそれまでに縁談が決まれば相手の方次第ですわ」
静子はほのかに頬《ほお》を染めた。街灯の下にそれはほのぼのとけむるように美しかった。
駅の灯が二人の前に展《ひら》いてきた。いよいよ別れなければならない改札口の前に立っても、有馬はもっとずっと静子と一緒に居たい気持に駆られていた。
「卒業までに関西の方へお越しになられるようでしたら、ご案内いたしますわ」
別れ難い気持に仕切りをつけるように静子が言った。その時不覚にも有馬は、静子に寄り添われて古都をさまよい歩く自分の姿を想ったのである。
強者の尖兵
1
営業企画に移ってから早くも一年余がすぎた。この間有馬は、百貨店というものの魔性を、肌にじかに触れて知った。
もっとも彼が知ったことは、そのほんの一端にすぎず、真の魔性はもっと大きなスケールでもっと深部に隠されているにちがいなかったが、営業企画という都屋の内臓のような部所は、一売場の一売子とは比較にならない企業への展望を与えてくれた。
そこから眺めたデパートという企業はまさしく現代のモンスターであった。
百貨店――その名の通り、あらゆる種類の商品を同一の店舗内で各独立のカウンターによって小売販売(むしろ量売=jする、集中的大規模経営の小売商であり、およそ衣食住に関するすべての必需品はここで手に入れることが出来る。
単に商品が豊富なだけではない。巨額の固定経費をかけての設備は、壮麗な建物、冷暖房、エスカレーター、エレベーター、空気清浄装置、店内装飾など、町の小売商など足許にも近寄れぬデラックスであり、これが客を集める大きな原動力になっている。
そのほか、日本の百貨店の特徴である各種催物や展覧会、屋上遊園地、休憩室、医務室、託児所、進物相談所など、一応無料と銘打たれた諸サービスは、買物目的以外の客を吸収し、百貨店そのものの多色さを楽しませている間に、買うつもりのなかった商品にも衝動的に購買意欲をそそらせ、つい財布のひもを弛《ゆる》めさせてしまう。これがいわゆる「|衝動買い《インパクトシヨツピング》」であり、デパートへ落ちる金の大半は、これによると言われる。
一つ買わせればしめたもので、「一か所で用が足せる」機能性と、商品の多彩さは、客に忘れていた買物や「将来の必要品」までをも思い出させてこの機会に買わせてしまう。
もともと、大資本の運営にかかる百貨店は、一般小売店よりも安く売ることが出来るが、これら巨大な固定設備や諸無料サービス(実は無料ではない)が一つ一つの商品にまんべんなく負わされているので、町の小売商よりも高値になっている。
それにもかかわらず、百貨店が中小小売商を経営危機に陥れるほど圧迫しているのは、以上述べた大資本にものを言わせた機能性と多色性があるからだ。
だがこれらはむしろ彼らの表向きの、客に見せた特性とでも言うべきもので、百貨店の真の魔性は問屋や小売商に対する面に剥《む》き出される。
2
たとえば問屋に対しては、不当返品や手伝い店員の強要がある。これに少しでも渋い顔を見せようものなら口座(これを持たないと商品の納入が出来ない)からおろすと脅かす。
とにかく一流百貨店に品物を納めているという一事だけで問屋の格が上がるのであるから、口座のある問屋はそれを維持するために、それのない問屋は、何とか出入りさせてもらおうと、百貨店のかなり不当な要求も呑《の》んでしまうことになる。
彼らの中には他の大百貨店とも取引きしている大問屋もあったが、問屋の殆《ほとん》どは、都屋に生殺与奪の権を握られている。都屋からほされることは、彼らの死を意味していた。
この中で、特に衣料品や食料品などの百貨店の主要商品は、数店の問屋に競合させていたから、彼らの生存の条件は更に酷《きび》しかった。
こうした優位に加えて、更に大量仕入れによる値叩《ねたた》きがある。対立する小売商をしめ上げるために百貨店がよく使う手である。特売≠ヘ、実にこの大量仕入れにより徹底的に値を叩いた品である。
見るに見かねた公取委がようやく昭和二十九年に不当返品と共に手伝い店員の使用を禁じたが、例外規定の抜け道があるのであまり効果が上がっていない。
有馬はこのような持てる者の優位性を見るにつけ、つくづく資本主義という経済機構が、強者のために都合のよい、と言うよりは強者たることがそこに生きるための資格として要求されるシステムであると思い知らされた。
弱者は強者のおこぼれにあずかるか、あるいは強者が見向きもしない手工業的分野の片すみに辛うじて生き残ることを許されている。しかし、――やり切れない――と思うことはなかった。
何故なら、彼自身、強者に属する者との自負があったからである。
都屋という現代の一大強者の尖兵《せんぺい》として、今は弱肉を食《は》むことだけを考えていればよい。出来るだけ多くの弱肉を都屋にもたらし、そして彼を更に強く大きく太らせることだけが自分を強く太らせることにつながるのだ。
生まれながらにして強者の栄養たるべく運命づけられた弱者を哀《あわ》れむ必要は、毫《ごう》もない。現代の悪はむしろ弱いことにあり、強さはあらゆる徳目に優先するものではないか。
有馬は「営業企画」という強者の中枢にあって自分自身、強者になり切ったような錯覚に陥った。そして事実、彼がたて続けに打ち出した企画はすべて当たり、その勢いあたるべからざるものがあった。
特に、デパートの高級化イメージづくりと並行して、彼が展開した「ちびっ子作戦」は当たりに当たり、秋のシルバーウィークに屋上で開いた「生きた動物大売り出し」は歳末に近い売上げを記録したのである。
生殺与奪権者のプロポーズ
1
「今度は実によくやった。君の企画のおかげで今年は業界第一位の売上高を記録するかもしれないよ」
「本当ですか!」
「まだ歳末商戦の結果を見なければ何とも言えんが、この調子で伸びていってくれれば十分可能性がある」
「僕は別に大したこととは思っていなかったのですが」
「謙遜《けんそん》することはない、ちびっ子作戦とか、生きた動物のバーゲンなどは、若い柔軟な頭脳でないと考えつかぬことだよ。業界に『ちびっ子を狙《ねら》え』という合言葉まで生まれたほどだ。これからもその頭でどしどしよい企画を打ち出してくれたまえ」
「専務、そんなに仰有《おつしや》られては恥ずかしいです」
「恥ずかしい? 君のような図々しい男が何を言うか」
三神陽一郎は上機嫌で笑った。動物バーゲンセールが大成功|裡《り》に一段落した日、都屋専務室に三神と有馬は向かい合っていた。
「儂《わし》はな……」
三神は機嫌のよい言葉を続けた。
「君には入社した時から目をつけていた」
「入社時から?」
「そうだ、梢の口添えがあったからじゃないぞ、儂はそういうことには私情をさしはさまない主義でな、いくら愛娘《まなむすめ》の頼みでもだめな奴にははなもひっかけん。君はな……まず入社試験の成績が最低だった」
「さいてい?」
「そうだ、それも桁外《けたはず》れに悪かった。本来ならそこで文句なく振り落とされるところだった。ところが一つだけ面白いと思ったものがあったんだ。それは論文だよ、『デパートのサービスについて』とかいうテーマについて、君は確か、無料配達制度を撤廃せよと制限字数を越えて書いておった。論旨は実用には向かないが、儂は閃《ひらめ》きを感じたのだ。試験官の大半は反対したが、儂は強引に押し切った。それに試験の成績は、実戦に殆ど関係ない。成績がいいというだけでどいつを見てもみな同じ歯車人間ばかりだ。たまには規格外の人間を採るのもひょうたんから駒ということになるかもしれんと思ってな」
「ひょうたんですか?」
「怒るな、君は立派に自分の力を実証したのだ。儂は嬉《うれ》しいんだよ、儂の目に狂いのなかったことが分ってな」
三神は目を細めた。それは愛《いと》し子を見る目といってもよい目つきであった。有馬の胸にも突き上げるような喜びが湧《わ》いた。
「ひょうたんから駒」とは気に入らない表現であったが、今日まで何となく心の負い目であった「梢のコネ」が、今の三神の言葉によって吹きはらわれた思いであった。
ただ三神のあまりの讃《ほ》めように、峻厳な彼を見つけている有馬は少々薄気味悪かった。
大物の讃辞はとかくあてにならないものである。
「恐縮です」
有馬はますますかたくなった。
「ところで……」
三神はふと語調を変えた。
「は?」と振り上げた有馬の面に、三神のいつもながらの厳しい眼光が注がれていた。
「君には恋人とか、婚約者のような人がいるかね?」
だが言った言葉の内容は、ビジネスに関するものではなかった。質問の意図をいぶかりながら、有馬が別にそういった人間はいないと答えると、
「そうか……よかった」
三神はまるで安堵《あんど》の吐息をつくように言った。と同時に彼の眼光はみるみる和んでいったのである。日頃の意志的な無表情に比して、別人のようなあわただしい表情の変化である。
「それが何か?」
有馬は恐る恐る尋ねた。おそらく縁談でも進めるつもりなのであろう。専務の目に自分づれの末輩がとまった嬉しさと、半面どのような女を進められても専務直々の口利きとあっては、断われなくなる不安が、有馬の胸にないまざった。
「君に特に思い定めた女《ひと》がいないのならば、どうかね……」
三神はちょっと言葉を切ってから、何でもないことをつけ加えるように、
「梢をもらってくれんか?」
「梢さん?」
有馬はその時不覚にも三神の言う梢が誰を意味するのか分らなかった。梢こそ有馬の狙《ねら》う女である、それを得るために今日までおびただしい努力を重ねてきた。しかもその努力にもかかわらず、未だに自分のものに出来るかどうか見当もついていない。
その後、三神の私邸に数回招かれ、一家との距離は狭まっていることは確かだが、こと結婚となると、桁外れの身分違いで、悲観的に考えざるを得ない。
かんじんの梢に強引に男のスタンプを捺《お》してしまえばよいのだが、彼女がまた今にも陥ちそうでいて、唇以上は決して許そうとしない。第一、三神が怖しくて、そんな手荒な真似など到底出来なかった。
それを今、先方から急に「もらってくれ」と言い出された。人間は自分が強く欲し、それを得るために多くの障害があると考えているものを、簡単に与えられると、かえってその事実を信じられない。
だが有馬の場合は、梢が誰を意味するのか分らなかったのであるから、更にそれ以前の状態であった。
彼の言った梢が三神の娘であり、自分が狙っている当の相手であると悟ったのは、三神にはっきりと、
「儂の娘の梢だよ」と言われてからである。
「お嬢さんを!?」
有馬は我ながら情ないような声を出した。
「そうだ……どうだ、不服かな?」
――からかわれている――
有馬は最初思った。夢に見るまで願っていたことを現実に告げられているにもかかわらず、三神梢と自分をどうしても結びつけられなかった。何としてもまだ時期が早過ぎるようである。
だが、それはからかいではなかった。三神の表情は和やかではあったが、娘の幸福をこの一瞬に賭《か》ける父親の真摯《しんし》な情があふれていた。
「どうだな?」
呆然《ぼうぜん》としておし黙ってしまった有馬を、三神は促した。そこにはすでに上役の権威を捨てた、売り手としての阿《おもね》りすらあった。
「ま、まさか」
有馬はようやく声を出した。
「まさかではない、本気だ」
「しかし、私のような地位も家柄もない者をえりにえって」
「地位や家柄か、そんなものは精々二代限りだよ、家柄がいいの、毛並みがいいのといったところで二代も溯《さかのぼ》れば皆地方出だ、現に儂がそうだ、儂の親父は見習い丁稚《でつち》から始めて、番頭心得の四人組本格にまで上がったが、じい様は若狭《わかさ》の山の中の一反百姓だった。かえって家柄がいいといわれている家系ほど、排他的《ケチ》な根性から近親結婚を重ねて素質が悪くなっている。たまたまある家から成功者が出ればその家柄が上がるのはナンセンスだよ、本当に家柄を上げるものは結婚による血液の改良だ。優秀な血と混ることによってのみ、よりよい子孫が生まれ、家柄が上がってくるのだ。悪いと思ったが、君の田舎の家を調べさせてもらったよ、どうしてなかなかたいしたものじゃないか。財産や家格などは結婚では問題にならない、儂が欲しいのは君の優秀な血液だ。有馬君、たのむ、梢をもらってくれ」
三神陽一郎は有馬に本当に頭を下げていた。なるほど結婚の主たる目的は、確かに彼の言う通りよい子孫を残すにある。その目的のためには優生学的に良質な血液だけを求めればよかった。
だが、それは理屈というものである。人は本来血液とは何の関係もないはずの社会的地位や家柄を重視し、それらがよければ血筋もよいものと決めて結婚する。
特に大物にとっては、結婚は絶対に当人同士のものではなく、自分の勢力を拡大するための絶好のチャンスであった。他の大勢力と結婚を媒介にして結べば、自分の勢力範囲は拡大される。当人たちの幸福は二の次である。
たとえどんなに優れた血液であっても、勢力や財力を伴わぬ裸のままであったら、何の魅力もない。
それをあえて有馬を選んだのであるから、いかに三神が彼をかい、そして梢の幸福を念じているかが分る。
それだけに有馬は即答出来なかった。
梢ほどの上物≠、三神ほどの大物が、自分ごとき小物《チンピラ》にくれようとしている。およそ男|冥利《みようり》、サラリーマン冥利に尽きる話を断わるはずがない。又、有馬は断わるほどの馬鹿でもなかった。
それを受けることは、単に梢という素晴しい異性を手に入れるだけにとどまらず、将来を確約されることになる、野心も情欲も人一倍強い有馬が、何故即答しなかったか? 返事を長引かせることによって重味をもたせようとしたのか? そうではなかった。そんなチャチなかけひきが出来るほど有馬には心の余裕がなかった。
彼はこの期《ご》になって臆《おく》したのである。果たして自分が、三神のそれほどの期待に応えられるか、その自信がなかったのだ。
多少無理をして買い求めた商品が、期待外れと判った時ほど腹立たしいことはない。彼は三神の期待に応えられなかった時の反動が怖かったのである。
何をするにしても自信満々の有馬にしては珍しい現象だったが、それほどにこの縁談は、桁外れであった。それに彼がひそかに心積った時期よりはるかに早く切り出されたのである。
「ま、君の一生を決める問題だ、よく考えてくれ、だが、答えはなるべく早く、そして儂を喜ばせるものをくれたまえ」
三神の声にはすでに先刻感じられた阿《おもね》りのかげすらなく、ノーのはずがない答えを確信した、専務三神陽一郎としての自信が溢《あふ》れていた。
2
三神梢から電話が入ったのは翌日の午後のことである。
「有馬さん、電話です」
若い課員が意味ありそうな笑いを浮かべて渡した受話器を耳にあてると同時に、若い女の華やかな声が流れてきた。
「有馬さん、私よふふ、分る?」
「え!?」
「あらわからないの? やんなっちゃうなあ、梢よ」
「ああ」
「ああじゃないわよ、父から聞いたでしょ、そのことでぜひお話ししたいことがあるの、今夜六時に東都ホテルへいらしてくれない? 来られるわね」
梢は一方的に話し、有馬が何も答えぬうちに一方的に電話を切った。そこには親の威光をかさに着た娘の驕慢《きようまん》な態度が感じられたが、有馬は決して不愉快には思わなかった。
最近の梢の自分に向ける言動から、かなりいいセンを行っているとは自負していたが、昨日三神から切り出されるまでは、まさかそこまで具体化していようとは思っていなかった。
三神のめがねにかなったのは分ったが、よく考えてみれば、それは必ずしも梢の意志を忠実に現わしたものとは限らない。もっとも親の都合だけで本人の意志を問題にしないというのは政略結婚の場合である。有馬を相手としての話は、どうみても梢の意志と幸福を最大限に尊重したものとしか考えられないが、それにしても、唇以上は頑として許そうとしない梢の本心は確かめる必要がある。
たとえどんなに三神が有馬をかってくれても、かんじんのご本人が首をたてに振らない限り、この縁談は成立しない種類のものなのだ。気軽に呼び出せる相手ではなくとも、是非共会って当人の気持を確かめねばと思っていた矢先の誘いである。
多少高飛車ではあっても、その甘く華やかな口調と、「ぜひ話したいことがある」という話の内容に胸が弾んできた。
「有馬さん、何だかえらく嬉《うれ》しそうですね」
先刻電話を取り次いでくれた若い課員がニヤニヤした。
3
都屋デパートの閉店時間は六時である。だが六時まで居なければならないのは売場のことで、管理部門は仕事さえ片づけば多少の早帰りは大目に見られている。
その日は、――有馬は無理に仕事を終わらせて五時には店を飛び出していた。
東都ホテルは日比谷にある。京橋から車で飛ばせば精々十分の距離だったが、梢とのデートに気もそぞろで、仕事にならなかった。
「お客さん、本館ですか、それとも別館につけますか?」
車はいつの間にか、ホテルの構内へ入っていた。今|迄《まで》遠くからばかり見ていたホテルの建物が、文字通り天を摩すばかりの量感で聳《そび》え立っている。
「あの建物へたのむ」
有馬は摩天楼≠フ方を指さした。
「別館ですね」
別館の正面玄関へ下り立った有馬は、不覚にも脚が震えた。都屋の建物も豪華だったが、これは、また桁外《けたはず》れの量感に満ちた豪華さなのである。
そしてその場所へ次々に乗りつけて来る男女のきらびやかな衣装と、晴れやかな表情は、庶民臭の強い都屋の客層を見馴《みな》れている有馬の目にはまるで別世界の住人のように映った。
そして又、次々に自動扉の奥へ吸いこまれて行く彼らの何と落ち着いた、もの馴れた態度であることか。
(だらしがない、たかがホテルではないか)
有馬は日頃に似合わぬ自分を叱《しか》りつけたが、自動扉を入って行く自分が、固く身構えているのを意識しないわけにいかなかった。
中へ入ったものの、今度は何処《どこ》で待ってよいのかも分らない。
どうにか、ロビーの片隅に腰を下ろしたものの果たして、ここで待っていてよいものかどうか迷う。
梢は東都ホテルと言っただけで、別館と指定したわけではない。仮に別館であったとしても、ここ以外にも待ち合わせ場所はいくらでもある。
六時までの小一時間はまたたく間に過ぎた。六時が迫るにつれて有馬はますます落ち着かなくなった。立ったり坐《すわ》ったり、ロビーからフロント周辺をうろつき回ったりしながら、そうすることが何の意味もなく、かえってホテル側の目に奇異に映るのがよく分っているにもかかわらずじっとしていなかった。
とにかく六時十分までここで待って、梢が見えなかったら本館へ行ってみよう。いくらわがまま娘であっても、十分ぐらいは待っていてくれるだろう。――が案ずるまでもなく、梢は六時|きっかり《シヤープ》に彼の前へ姿を現わした。
「あらっ、待たされるものとばかり思っていたのに、あなたの方が早かったのね」
梢はケロリとした表情で言った。有馬が当然そこで待っているものと決めている顔である。
マロンカラーのスーツに身を固めたエキゾチックな梢の美貌《びぼう》は、憎いほど周囲の雰囲気と環境にマッチしていた。何気ない言葉やみぶりの一つ一つが場馴れしているのである。育ちとはこんなところでものをいうのか?
梢が誘った所は、別館の最上階にある食堂であった。黒服のウェイターに傅《かしず》かれて窓際のテーブルに席を占めた有馬は、窓外に広がった大展望も目に入らなかった。彼にはもう一つ大問題が残されていたからである。それは傍にひかえているウェイターに自分の注文《オーダー》を与えることである。
過去このような場所へ来たことのない有馬は、一体こういう食堂ではどのような食物が出《サーブ》されるのか皆目見当がつかない。まさか、カレーライスやカツ丼を頼むわけにもいくまい、こうと知ったら、あらかじめこのような場所へ出入りして予行演習≠しておけばよかったと悔やんでも、それは後の祭りというものであった。今までの梢とのデートにはこのような場所を利用したことはない。そこにも彼女の、いつもとは違う意向があるように思われた。
ウェイターは二人に恭《うやうや》しくメニューを差し出した。有馬にはおよそ得体の知れぬ品目ばかりであった。
「オードヴルはカナペ|取り合わせ《バリエ》、スープはコンソメ、魚はいらないわ、肉料理《アントレ》はサーロインステーキ、ウエルダンにして、赤ワインもね、それからパンをつけて」
「デザートは何になさいますか?」
「そうねえ、プディングをちょうだい、それからコーヒー、デミタッセ」
ウェイターにオーダーする梢は、生まれながらにして備えつけているようなきらびやかな貫禄≠ェあった。
「そちら様もご注文をどうぞ」
続いてウェイターに促された有馬は、反射的に、
「何が美味いの?」と言ってしまったが、幸運にもそれが、その場に一番適した言葉らしかった。
「|今夜の《ツーナイト》|お奨め品《スペシヤル》はいかがでしょう……」
ウェイターは料理内容を説明しはじめたが、よく聞かぬうちに、有馬はそれを頼んだ。どうせ聞いたところでよく分らないのだ。
「ここは都内で最高[#「最高」に傍点]なのよ」
「そうでしょうね」
「東京タワーの展望台よりも高いんですって」
てっきり値段のことを言っているとばかり思った有馬は、それが地上からの高距を意味すると知って頓馬《とんま》な答えをしなかったかと肝《きも》が縮んだ。
料理が次々に運ばれて来た。見様見真似で口に入れたものの、全く味は分らない、窓外に広がる百万ドルの夜景も目に入らなかった。その夜の有馬は、料理と環境と格闘≠キるだけで精一杯だった。
幸い、梢は彼の苦闘≠ノ全く気づかぬようにおおらかに食べ、そして語った。
話題はとりとめもないことばかりである。というよりは、彼は梢が何を話したのか、デザートコースに入るまでは、殆《ほとん》ど何も覚えていなかった。彼はそれまで馬鹿みたいに「はあ」とか「ええ」とかくりかえしていたにちがいない。
「お式はいつ頃にしましょうか?」
梢はプディングを口に運びながら何気ないように言った。
「え?」
と面を上げた有馬に梢はからかうような笑みを粘っこく絡みつけながら、
「いやあねえ、私たちの結婚式よ、私は早い方がいいなあ」
「そ、それではあなたは!」
自分を伴侶《はんりよ》として選び取ってくれたのかと、後の言葉を続ける前に突き上げるような喜びがきた。
三神のめがねにかない、今当人の口からその意志を明らかに聞いた。これで成功へのパスポートに、ビザが下りたようなものだ。
「いやだわ、そんな大きな声を出して、人が見てるわよ」
「すまない、でもあまり急に言われたものだから」
「あらっ、父から何も聞かなかったの?」
「昨日正式に告げられたけれど、僕としては君の口から直接確かめたかったんだ」
「何よ今更、私の気持ははっきり分っているじゃないの」
梢ははすっぱに笑った。二十三歳という年齢にしては少々気になる笑いであったが、男心をくすぐる艶っぽさがあった。そこには自分の美しさと、持参金≠ノ対する絶対の自信が覗《のぞ》いていた。
(この女と結婚したら、一生|尻《しり》に敷かれるな)と有馬は内心認めざるを得なかった。ふとその一瞬、彼の脳裡《のうり》をかすめさった優しくふくよかな一つの面影があった。彼はそれを危険標識でも認めたように強いて意識から外《そ》らした。
(明朝出勤したら、いの一番に専務に承諾の意志表示をしよう)
考えてみれば、三神にはまだ正式に承諾の意志を伝えてない。目の前の梢はそんなことを聞く必要もないと言わんばかりの自信に溢《あふ》れている、彼女の意志はそのまま有馬の意志でもあるかのように。――
そして確かにその通り、野心と健康に恵まれた若い男にして彼女の意志に逆える者はないはずだった。
有馬は咲き誇るような梢の肢体を、眩《まぶ》しいものでもみつめるように見ていた。彼女の背後には大東京の夜の光が、あたかも彼女自身から発したもののように多彩に燦《きらめ》いていた。
閉めた扉
1
翌朝定刻に出勤すると課長代理が待ちかねていて、すぐこれから大阪へ発《た》ってくれと言った。
「神戸店の用地買収にあたって、法外な値段を吹っかけている奴が二、三いる。そいつらのおかげで折角、買収に応じた連中までがごね得を狙《ねら》って契約を取り消しそうな雲行きなんだ。武井課長もすでに昨夜のうちにJALで発たれた。君のアパートにも何度も連絡したんだ、一体、夕べはどこへ泊まったんだい? とにかくこの難物を説得し、既得地を確保するためにすぐ現地へ飛んで欲しい。十一時のこだまの切符を手配しておいたから、仕度をして東京駅へ行ってくれ。大林先生も同行してくれる」
足許から鳥が飛び立つような慌しさであった。大林というのは都屋の顧問弁護士である。神戸進出はかねてから企画されていたもので、用地買収もほぼ九分通り進んでいた。全用地買収も時間の問題と考えられていたのだが、最後の一部の土地権利者が買収価格で折り合いがつかず、ごね出したものであろう。
とすれば、買収に応じた者の中にも所有権移転登記のすんでいない者が、更に値が釣り上げられるのを見込んで、登記に協力をしなかったり、契約の解除を申し出てくる虞《おそ》れが多分にあった。
そんなことになったら、折角、これまで進めた進出計画そのものがおじゃんになる。おそらく昨夜、有馬が退社した後、現地から緊急の連絡が入ったものであろう。武井課長が昨夜のうちに発ったのは、そのまま事態の切迫を物語るものである。
昨夜、梢と別れてから、うらぶれた下宿の万年床へ帰るのがいやになったのと、場馴れするために(有馬流に言えば、実力をつけるために)東都ホテルへ泊まってしまったのだ。
いつもならばこのような社命に勇躍して飛び出して行く有馬だったが、その朝は妙に出渋った。三神に例の意志を表示してから行きたかったからである。
だが、彼の出勤して来るのは、大抵十一時前後である。
その時々の交通事情にもよるが、東京駅まで十五分はみたい。彼はギリギリまで社にしがみついた。だが三神は現われなかった。
彼は止むを得ず車に乗った。別に改めて意志を伝えずとも、昨夜のデートにおいて態度で示した有馬の意志は、梢から詳細に三神の耳に入っているだろう。それに自分が出張したことは、すぐ三神にも伝えられる、神戸から電話してもよいし、出張から帰ってから言ってもよいことだ。
――それにもかかわらず有馬は、折角、自分に微笑《ほほえ》みかけた大きな幸運に対して、最終の確認を欠いたようで何となく心もとなかったのである。
大林弁護士と武井課長とのトリオの緩急自在の攻めで、どうにか頑強な土地権利者を説得した有馬は、大任を果たした後の快い弛緩《しかん》の中で、塩見静子を思い出した。
たしか彼女は大阪の女子大に在学していた。今は学期中だから特別な用事で帰省していないかぎりこちらにいるはずである。吹田《すいた》辺の伯父《おじ》の家に寄宿していると言っていたが、大学へ問い合わせれば分るだろう。
そう思うと有馬は静子にむしょうに逢《あ》いたくなった。あのふっくらとした穏やかな面影と、あたたかそうな躰《からだ》。緊張に疲れた心身にとって、矢もたてもたまらずに恋しいものがそれであった。
私用があるからと一日ひまをもらった有馬は、午後遅い列車で帰京する大林らを見送った後、ひとまず新大阪ホテルへ宿を取った。
ホテルの部屋から大学へ問い合わせて得た静子の寄宿先の電話番号をダイアルする時、甘く心がときめくのをどう抑えようもなかった。
本来なら一刻も早く帰京したいはずである。少なくとも、数日前、東京を発つ時には急な社命が恨めしかった彼である。それが今は、梢のコの字も思い出さぬばかりか、静子へのどう抑えようもない心の傾きを覚えている。思えば勝手な男心であるが、男とはその時々の環境と状態によって求める女が違ってくるものなのだ。
「はい、塩見ですが」
コールサインに応えて出た声は、若い女の甘いふくらみを帯びたものだった。寄宿先の伯父の家もどうやら同姓らしい。だが彼にはその声が静子本人のような気がした。胸をときめかせながらたずねると、案の定、
「はい、私ですが、あなた様は?」
「有馬です……東京の」
「有馬さん!」
送受器の彼方で愕《おどろ》いた気配がしたが、すぐ弾んだ声で、
「余り突然なので愕きましたわ、それで今どちらから?」
「大阪です、新大阪ホテルに泊まってます。四、五日前から社用でこちらへ来ているのです」
「まあ、ちっとも存じ上げませんでしたわ、お報らせして下されば、大阪駅へお迎えに上がったのに」
心なし、声に怨《うら》みを含んだようである。
「すみません、何しろ急に決まった出張だったものですから、ところで静子さん、久し振りにお逢いしたいのですが」
「私も是非お目にかかりたいわ」
静子の声はますます弾んできたようである。
「今からいらっしゃいませんか? ホテルのロビーでお待ちしてますから」
窓外はすでに昏《く》れていたがそれほど遅い時間ではない。
彼女の声の弾みに甘えて、有馬はすらすらと誘いの言葉を口にした。東京の塩見家で一度引き合わされただけでまだ親しい口をききあえる仲ではない。夜のホテルへの――たとえそれが一流の、ベッドを目的にしたものではなくとも、――かなりためらわれてよいはずの誘いの言葉が、何の抵抗もなく吐けたのは、電話線を通して手に取るように感じられる彼女の心の弾みに、よもや断わるはずがないという、男の自信があったからである。
「これからですか?」
ところが案に相違して、静子の声にためらいがあった。二つ返事に飛んで来るものとばかり思っていた有馬は、出鼻を挫《くじ》かれたように、
「いいでしょう、まだそれほど遅くはないし、そんなに手間は取らせませんよ」
「でも……」
「吹田からだったら往復いくらもかからないでしょう?」
「ええ」
「なら、いいじゃないですか?」
「はあ」
「それとも伯父さんの家にまずいことでもありますか?」
「別にそんなことはありませんけど」
一向に煮え切らない彼女の返事に、有馬は次第に焦《じ》れてきた。そうとなると余計逢いたくなるのが人情である。
有馬は強引に誘った。
「わたくし」
ややあって静子は語調をひきしめて、
「やはり、今夜は止めておきますわ、折角、お誘いいただいて悪いんですけど、伯父の家にお世話になっている身ですし、あまり勝手なことをしたくないの、ごめんなさいね、その代わり、明日お逢い出来ないかしら? 有馬さんのご都合がよろしければ、私、一日学校を休みます。こちらの勝手ばかり言って本当に悪いんですけど」
いかにも申訳なさそうに言ったが、声には男につけ入る隙《すき》を見せぬ凜《りん》としたものが溢《あふ》れている。
有馬は諦《あきら》めざるを得なかった。結局、明朝九時、梅田で逢うことにして電話を切った。
送受器を置いてからふと思った。
(これが梢だったらどうだろう? おそらく二つ返事で飛んで来るだろう。別にそれがふしだらであるとか、ズベがかっているというのではなく、男の誘いをスマートに受け、それを巧みに消化《こな》す天性のものをもっている。
静子としても、別に自分を警戒したわけではあるまい、そのことは電話を通した雰囲気からよく分る。ただ彼女にすれば、夜の時間に、ホテルのような場所で――たとえロビーや食堂であっても、――男と二人だけで逢うことにおのずからなる抵抗があるだけなのだ。静子はそのように生まれ、育ってきた)別にどちらが悪いということではなかったが、これから只《ただ》一人で過ごさなければならない明朝までの十数時間が、有馬には途方もない長さに思われた。
2
朝の通勤ラッシュがひとまずおさまった阪急梅田駅の指定の場所に、静子はすでに待っていた。
「お久しぶりです」
爽《さわや》かな微笑で挨拶《あいさつ》された有馬は、昨夜来の何となく充たされぬ思いが一気に解消《とけ》るような気がした。
「昨日はごめんなさいね」
「いやいや、こちらこそ突然のことで、悪いことをしたと後悔してたんですよ」
「本当は私も来たくてたまらなかったんです、でも」
「いいですよ、もう、……それより何処《どこ》へ行きましょうか?」
「おまかせしますわ」
「……といわれても大阪は知らないし」
有馬は静子とのデートの約束が決まっても、別に何処へ行こうという当てはなかった。どのみち、関西は不案内であるし、静子にまかせた方がよいと思ったからである。だから静子からまかせると言われても、すぐには答えられなかった。
有馬のちょっと窮した様子に、静子は助け船を出すように、
「京都へまいりません?」
「京都?」
有馬はやや臆《おく》したような声を出した。
彼は内心、行先が定まらなければ、自分の泊まっているホテルへ伴《つ》れて来て食事でもしながらゆっくり話したかった。その方が不案内な土地を引張り回されるよりも、落ち着いて久しぶりの静子との出逢いを楽しめる。それに、場所柄、アバンチュールのチャンスなきにしもあらずだ。
だが静子の言葉は、有馬の下心を砕くものであった。
「嵐山《あらしやま》の紅葉が見頃だそうですの、私、前から行ってみたいと思っていたのよ」
語尾にやや甘えを含ませて静子は言った。ややおでこでふっくらした丸顔は、美人の範疇《はんちゆう》に入るものではなかったが、穏やかな瞳《ひとみ》の色とあいまって何とも優しそうである。
有馬はふと、この、女の優しさのすべてを備えたような静子を、秋色の嵐山に立たせてみたくなった。
近代式ホテルの鋭角的なきらびやかさよりも、くすんだ古都の秋の中の方が、静子に添《たぐ》うような気がした。
「行ってみましょう」
有馬は急に乗気になった声で言った。阪急電車で約一時間、嵐山に降り立った時は、空模様が少しあやしくなっていた。
「大阪ではあんなに晴れていたのに、やはり、女心と秋の空だな」
「あえて否定はしませんわ」
やや静子らしからぬ答えに、面を上げると、彼女は渡月橋の向こうの何やらモヤめいた山のほうへ視線を泳がせながら、
「ちょっと紅葉には早かったようね」
とはぐらかすように言った。雲が低く下がり、その下端がモヤとなって山肌をくすませている。それが夏の緑の名残りを蚕食した紅葉の本来鮮やかであるべき色彩を、パステルカラーの沈んだ色調に統一して、いかにも古都の秋といった趣きに仕立てていた。
静子はそちらへ茫漠とした瞳を投げている。
二人は足の向くままに歩き出した。渡月橋を渡らずに山へ背を向けて歩き出したのは、何となくそちらの方が若い二人の散策に向いた静かな径《みち》が多いような気がしたからである。
二人の見込んだ通り、観光客相手の茶店や土産品屋の家並みはすぐに切れて、竹藪《たけやぶ》や崩れた土塀の断続する小径へ出た。昨夜雨があったのか、径の諸所に水たまりがあり、紅葉する前に落ちてしまった運の悪い桜や楓《かえで》の葉が浮いていた。土塀のくずれめに咲いている秋草の花の名前を、静子は一つ一つ丹念に教えてくれたが、有馬は頷《うなず》くだけで心にとめようとはしなかった。ただ楽しかった。他に人影もない径を、静子と寄り添ってあてどもなく歩いて行くと、身体の芯《しん》からのびのびするようで、今までただ目的だけを忙しく追い求めてひた走って来たのが、何か別の世界のことのように思われた。
それは彼がかつて味わったことのない感慨であった。
時折り径の傍らから木犀《もくせい》の薫《こうば》しい香りが漂ってきた。
「雨の近い時は、木犀の香りがことに強いのよ」
静子がそんなことを言った。見上げるとうす雲の中の太陽が暈《かさ》をかぶっている。薄明るいのは天心だけで、四周の雲はだんだん濃く重くなっていた。
径は黄ばんだ雑木林を分け、竹林へ入った。急に視界が水底のように青くけむった。枯れかけた林の中を辿《たど》って来た後だけに、ことさら竹林の緑が強調されたのである。空気までが急に重く澱《よど》んだようであった。
その気配に圧《お》されてか、二人の間に言葉が途切れた。二人の足音を除いては周囲に何の物音もない。耳の痛むような静寂が、彼らの辿《たど》る径に屯《たむろ》した。
歩くほどに二人の肩や手が触れ合った。今までさほど意識していなかった接触が、有馬に急に生々しく迫ってきた。甘いふくよかな女の躰《からだ》が、すぐ傍に彼の抱擁に揉《も》みしだかれるのを待つばかりに呼吸を弾ませている。周囲には誰もいない。何も見えない。男と女がひっそりと身を寄せ合って歩いているのに何事も起こらないのは、ひどく不合理に思えた。
若い男女二人が、愛を囁《ささや》くか、愛の行為をするに絶好の環境におりながら、何事もなく時間が流れて行く。この大いなる無為が有馬は次第にたまらなくなった。そのストレスが極限に達した時、竹林が切れた。前方にかなり大きな沼が広がっていた。同時に雨が来た。上方からまっすぐ落ちる強い雨粒を避けようともせずに静子は、
「広沢《ひろさわ》の池よ」
と救われたような声を出した。その時有馬は、先刻女心を秋の空になぞらえた時、「あえて否定はしない」と答えた静子の、茫漠たる瞳の底に沈んでいたものが何であったろうかと思いをあらためて凝らしたのである。
3
池の面を白くけむらせて雨は来た。池ばかりでなく周囲の森や家や畑も一様に白く烟《けむ》っていた。水面に無数に広がる波紋は雨脚のかなり強いことを語っていたが、不思議にモヤめいた白く明るい雨だった。
水底のような青暗い竹藪をくぐり抜けてきたせいか、それとも天の上方が薄日がもれんばかりに明るいせいか、身体は確実に雨しぶきに叩《たた》かれているのに、何か霧の中を泳いでいるような感じだった。
「あそこで少し雨やどりしましょう」
こんな池畔《ちはん》でも行楽客が来るのか、休日だけ店開きするらしい無人の茶店小屋へ二人は走りこんだ。
「どうせ通り雨ですよ、何しろ……」
「女心と秋の空だからでしょう」
静子は八重歯をチラと覗《のぞ》かせてニッと笑った。頭髪を濡《しめ》らせた雨滴が頬《ほお》から頤《あご》に流れ、それが見る目に泪《なみだ》のように映った。泣きながら無理に笑っているような不思議な哀愁をもった艶《なまめ》かしさ。
静子は有馬の熱っぽい視線に気づいて頬を染めた。
「あらあら、こんなに濡《ぬ》れてしまって」
彼女は自分の羞恥《しゆうち》を隠すように懐からハンカチを取り出すと、有馬の濡れた肩や胸を拭《ぬぐ》いはじめた。
それはごく自然な接触だった。だが、女として中背の静子が、やや背丈の高い有馬の肩のあたりを拭おうとしたために、上体が幾分反りかげんになった。何の他意もないのだが、自分の顔のやや斜め右前に立って一心に雨滴をはらってくれている静子の面は、その小さな作業に没頭して仄々《ほのぼの》と染まり、形のいい小さな唇は開きかけた花弁のように薄く開いている。
それらが有馬の眼前数センチの所に全く無防備に、そして比類なく誘惑的に置かれていた。若い女の甘酸っぱい呼吸すら彼の面にふりかかる。
有馬は抵抗し難い力に誘われて、自分の唇を静子のそれに触れさせた。それは衝動的なもので大した意味はなかった。意味が出たのは女の冷たい唇の感触にハッと我に帰り、慌てて唇を離した有馬が、その時はじめて自分の取った行為の意味を知ったからである。接触はほんの一、二秒に過ぎなかった。だがそれは誤りなく男女の間の接吻《せつぷん》と呼ばれる行為であった。
今時の男女の間で接吻など朝の挨拶ほどの意味も持たない。だが、男と女の種類によっては、それは重大な意味を持つ。
くちづけた間は何気なく、唇を離してから、彼らは今自分たちの間に行なわれた肉体の部分の接触に当惑を覚えたのである。
触れ合ったことによって離れたような二人は、じっと互いの目に見入っていたが、今度こそ互いの意志で犇《ひし》と抱き合い、ひたと唇を重ね合わせた。
有馬はたしかに目をつむっていたはずであった。だが、不思議にその時の白くモヤめいた四囲の風景が、印画紙に定着した映像のように網膜に焼きついて消えないのである。静子のえりあしの小さなつむじまでが後になってもはっきりと思い出せるのだ。
そして幸福というものが彼にもあったとすれば、その時こそ間違いなく幸福といえる状態であった。
4
その日の午後の遅い特急で大阪を発《た》った有馬は、八時過ぎには八重洲《やえす》口の人波の中に居た。
静子に見送られて大阪を発ったのがつい先刻のことであるのに、もう彼女との間には五百キロの距離が置かれている。特急くらいで驚いていてはジェット機の海外旅行は出来ないが、学生時代、石仏を求めて行脚《あんぎや》≠ホかりしていた有馬は、いつになっても、高速度交通機関による時間と空間の開きがピンとこない。
八重洲側の改札を出ると、彼がまっすぐ歩み寄った所は公衆電話のセンサーだった。無数の旅行者がそれぞれの相手方とそれぞれの人生を語っている間に割りこんで、有馬は一つの番号をダイヤルした。
出た相手は中年の女の声だった。彼は丁寧に自分の名前を告げ、電話口に出て欲しい相手の名前を言った。待つほどもなく、若い華やかな女の声が、彼の耳膜を擽《くすぐ》るように流れてきた。
「あら、有馬さん、いつお帰りになったの?」
「たった今です。今、お忙しいですか?」
梢の口調はすでにフィアンセに対する甘くくだけたものになっている。それに反して有馬の言葉は他人行儀となった。自分の妻となるべき女と思っても、口約束だけで具体的なものは何一つ与えられていない不安が、知らず知らずのうちに女主人に対する下僕のような言葉づかいに仕立ててしまう。
「ううん、テレビを見ていたのよ、お逢《あ》いしたいわ」
「僕もです、どうでしょう、ちょっとだけ逢ってもらえませんか?」
有馬は恐る恐る言った。むろん相手は梢である。時間的には静子を誘った時よりも遅い。
「いいわ、どこにする?」
多分大丈夫と踏んでかけた誘いであった。
「東都ホテルはどうでしょう?」
咄嗟《とつさ》に言った場所は、あらかじめ考えておいたものではあったが、それ以外に適当な場所を知らなかったからでもある。
「いいわ、二十分で行く、必ず待ってて」
電話を切る前に彼の耳に残した梢の含み笑いは、すでに躰を許し合った者同士のような馴れ馴れしさがあった。
有馬は別にどうしても梢と今夜逢いたかったわけではない。だが、明朝出社して三神陽一郎に会う前に、是非共、梢と逢って確かめておかなければならないことがあった。
東都ホテルでは先日のように脚が震えるようなことはなかった。ここ数日の間にすっかり場馴れしたのである。
ロビーへまっすぐ通る。梢はまだ来ていない。緑が丘からではまだ十分はかかるだろう。女の化粧を加算すればもっと待たされることを覚悟しなければならない。
だが梢は約束通り二十分ちょっとで姿を現わした。シルバーグレーのカクテル用アンサンブルをシャープに着こなした梢は、照明の暗いホテルのロビーの中におのずから光を放つように際立って見えた。思わず振りかえって行く外人客もある。
「お帰りなさい」
梢は優雅な笑いを送った。その時、有馬は数時間前別れて来たばかりの塩見静子がどんな服装をしていたのか殆《ほとん》ど覚えていないのに気づいた。
忘れたというのではない。最初から全く意識していなかったのだ。どうやら和服だったらしいのだが、柄となると全くはっきりしない。派手は派手なりに、つつましければつつましいなりに、何か心にひっかかっているはずなのに、全く何も残っていない。
それにひきかえ、梢の場合は本人よりも服装の方が先に目立つ。それだけ豪華で洗練されていた証拠かも知れないが、本人以上に服装が目にとまるというのはどういうことであろう?
夏空の積雲と、水面に映る草の影。どちらもよく調和しておりながら、前者は環境の中に強烈に自己を主張し、後者はそこへひっそりと己を沈める。
今、梢はホテルの近代的な豪華さの中を、生まれながらにしてそこへ置かれたようなものなれた物腰で歩きながら、四囲を圧するような自己主張の強い美しさを発揮し、静子は古都の啾々《しゆうしゆう》たる雨の中へ自らを溶けこませるように深く沈んだ美しさを見せてくれた。
どちらがより美しいか? ということではない、どちらの美しさが自分によりよく親しむものなのか? それをはっきりと見極めるために、有馬は静子の印象が生々しいうちに梢を呼び出したのである。
「何をぼんやりしているのよ?」
梢に言われて、有馬はもの想いから覚めた。いやに近くで彼女の声がしたように思ったが、それも道理、梢がふれ合うほどに顔を近づけて囁《ささや》いていたのだ。静子には到底出来ない芸当であろう。どうしてこうも対照的な二人なのか?
「お食事、まだでしょう?」
「ええ、でもあなたは」
「すんだけれどいいわ」
何がいいのかと思いながらも心得顔に行く梢の後を尾いて行くと、ロイヤルダイニングとサインのある食堂へ入った。入口に立っていたタキシードに身をかためた貫禄のある中年男が最敬礼をして二人を迎え入れた。それが食堂長らしい。
梢は鷹揚《おうよう》に頷《うなず》くと、
「二人、どこか眺めのよいお席をとって頂戴」
と下僕に命ずるように言った。ここでは顔らしい。それを見て有馬はまだまだ自分のつけ焼刃では到底彼女に太刀打ち出来ないと悟った。
ホテル自慢の日本庭園を一望にする特等席へ食堂長に自ら案内させた梢は、メニューも見ずにツーナイトスペシャルを二人前注文した。ホテルの奨《すす》めるものを信用したのであろうか、それにしても、自分の好みを全く無視した、いかにも金持ちの娘らしい一方的なやり口に有馬は少し気分を害した。
しかし、そんな様子を|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》にも見せてはならない。
「ここはこのホテルの主食堂《メンダイ》なのよ」
ウェイターが去ると、梢はあたかも自分の持物を誇示するように言った。
「ここへはよくいらっしゃるのですか」
「月に四、五回かしら、料理より雰囲気が好きなのよ」
おそらく一人では来まい、誰と来るのか? と口まで出かかった問を有馬は抑えた。まだそこまで聞く権利はない。それにしても、それは大変な資力を要する、彼の月給は、それだけで吹っ飛んでしまうだろう。
有馬の思惑をよそに、梢は屈託ない調子で続けた。
「もうすぐピアノソロがはじまるわ、時間が遅くなるとバンドも入るのよ、どう? 感じいいでしょ」
見ると食堂中央のやや小高くなったフロアにグランドピアノが置かれてある。その周囲に客席がないのは、客の興おもむくままに軽いステップが踏めるようになっているのであろう。
食堂は七分の入りであった。客のついたテーブルにはキャンドルライトが灯され、間接照明の薄闇《うすやみ》の中に、点々と浮き上がるローソクの炎は、客の面を仄紅《ほのあか》く染めていた。頬を寄せ合うようにして語り合っている男女もあれば、食後酒《アフターデイナーリキユール》を掌で暖めながらゆったりと寛《くつろ》いでいる者もある。皆それぞれの形で豪華な食事を楽しんでいる風情であるが、共通していえることは、この世の富に恵まれた者の、充ち足りた姿であった。
一人一人になれば、それぞれの不満や苦しみもあるのであろうが、このような場所で食事をとれる資力が、その人間の外見を豪勢に仕立て上げるのである。又、そのためにこそ、彼らはたかが一夕の食事に庶民の半月分ほどの費用を惜しげもなくかけられるのだ。
それに比して自分は、梢の注文した料理の代価にびくびくしている。先夜は梢がもってくれたから、今夜は是が非でも自分が払わなければなるまい。出張費がまだ大分余っているから恥をかくようなことはあるまいが、それにしても勘定書《ビル》の数字が気になってならぬ。
これが貧乏人根性というものであろうか。せめてめし位は、懐を心配せずに、あいつらと同じ様に大きく構えて楽しみたいものだ。金さえあればおのずからあのような大人《たいじん》の風格と貫禄がつくのである。
(金があるということは素晴しいことだ)
有馬はつくづく思った。
スープが運ばれて来た。腹も減っていたせいもあったが、大分雰囲気に慣れたために、舌に沁《し》みるように味が分った。
――美味《うま》かった。続いて犢《こうし》のカツレツが来た。
有馬は文字通り、舌つづみを打って喰った。あらかた平げた時、梢が料理に殆ど手をつけていないのを知った。
「召し上がらないのですか?」
有馬は呆気《あつけ》に取られたように言った。こんな美味い物に殆ど口をつけない梢に、何か次元の違う世界に住む生物のように見えた。
「お腹いっぱいなのよ」
梢は少し面倒臭そうに言った。そうだ、彼女はすでに夕食をすましていたのだ。しかしそれならば、何か軽い一品《アラカルト》でも注文すればよかろうに。有馬は食いもしないめし代まで払わされるのかと思うと腹が立ってきた。
自分が将来どんなに収入の多い身分になったとしても、そのような金の費《つか》い方は絶対にしないし、家族にも許さない。金というものはどんなにたくさん入っても、多ければ多いなりに汗と脂が沁《し》みこんでいるのだ。
もし、梢が自分と結婚するつもりであれば、このことははっきりさせておかなければならない。
自分の汗で金を得たことのない人間に、金を取って飯を喰うということがどんなに大変なことかよく教えこまなければならない。
だがそれをどういう風に教えてやったならばよいのか? まだ彼女は有馬の妻になったわけではない、彼女の父に対しては自分の意志すら表明していない。うっかりしたことを言って、この女王のご機嫌を損じようものなら折角の玉の輿《こし》≠ふいにもしかねない。現在の段階ではめったなことは言えない。有馬はのどまで出かかった言葉を怺《こら》えた。
「そうだわ、ねえ」
梢は急に何か思いついたように、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべて、
「シャンパンを空けないこと?」
「何かお祝い事でもあるのですか?」
女の手持|無沙汰《ぶさた》をつくろうために高価なシャンパンを抜かれたのではたまらない。
「そうよ、今夜は私たちにとって記念すべき夜よ」
梢はウィンクした。バケツのようなアイスペイルに入れられてシャンパンが運ばれて来た。もちろん本場物である。ウェイターが景気のいい音を立てて、栓を抜いた。
二分の一注いだシャンパングラスを目八分にささげて梢は、
「私たちの将来のために」
と言った。有馬はつられたように乾杯した。
輝やかしい泡立を楽しむゆとりもなく、彼はやけ酒を呷《あお》るような気持ちで白く甘い液体《リキユール》をのどに流し込んだ。本場物のシャンパンが極端に高いことは彼も知っている。この小ビン一本で数千円、いや、もしかしたら一万円近くは吹飛んだことになる、彼は思いがけない予算外の出費に出張費の残りを胸算用した。
彼はその時、郷愁のような懐しさで今日別れてきたばかりの塩見静子の面影を思い出したのである。
別れしなに少々時間が余ったので、ホテルへ食事に誘うと、静子は「そういう晴れがましい場所には馴《な》れていないし、好きでもないから」と控え目に断わった。
現代の女子大生がホテルぐらいの場所を晴れがましいもないが、静子は生来、そのような所を好まないのであろう。ああいう女こそどんなに貧しい家計にも耐えて、よく夫を扶《たす》け、家と子供を守ってくれるだろう。
彼らは大阪駅構内のグリルで簡単な食事を共にして別れた。
絶えず旅行者が出入する慌しいグリルの中の、粗末なアラカルト。それがこの豪華なダイニングルームの豪勢な料理と比べて少しも見劣りしないように感じられたのは何故か?
これが生まれついての貧乏性というものであろうか? 東北の片隅の地方都市の貧しい家庭に生まれ育った二十年近い歳月と、アルバイトに明け暮れた学生時代は、自分の心身に拭《ぬぐ》っても拭っても落ちぬしみのように沁みついてしまったのか? そんなことでどうする! これからこの銀の匙《さじ》を咥《くわ》えた梢という女を足がかりに雲の上へ昇って行こうという矢先に、今迄嫌悪しぬいた地上を懐しがるとは何事か。なるほど静子は穏やかで優しく、男が女に求めているすべてのものをまさに持ち合わせているような女だ。だが彼女は天女≠ナはない。あくまでも地上の女だ。たとえどのような美徳に恵まれている女であっても、地上に属する女に目を向けてはならない。梢こそ、天の女であり、自分を天へ招く羽衣の持ち主なのだ……それにしても、
「ねえ、踊らない?」
梢が耳許で囁《ささや》きかけた。いつの間にかバンドが入り、官能を擽《くすぐ》るように甘いダンス音楽を奏していた。すでにステップを踏んでいるカップルが幾組かあった。そう言えばピアノソロも聞いたように思ったが、いつの間にか終わってしまったのであろう。
キャンドルライト越しの梢は、シャンパンの酔いに染まってほのぼのと匂《にお》うようであった。ムードとしては最高である。梢もすっかり気分を出しているらしい。
だが有馬はそれを壊さなければならなかった。
「すみません、僕は踊れないんです」
彼は屈辱に首まで|※[#「赤+暇のつくり」、unicode8d6e]《あか》くなった。この絶好の舞台とムードを利用出来ないとは、何とぶざまであろう。彼はその時、自分の大きな手ぬかりを悟った。少なくとも現代のトップレディを攻略しようとするからには、ダンスの技術ぐらいは身につけておくべきであった。
クラスメートとして手軽に逢《あ》えるところから、男女交際の初歩的な備えすら怠っていたのである。今となってみれば、梢の歓心を得るためにあらゆるものにさきがけて重ねた努力が全くすきだらけであったのがよく分る。
こんなことでよく梢の心を捉えることが出来たものだ――有馬は次にうそ寒くなった。
「あらっ、踊れないの?」
梢は信じられないような顔をした。おそらく彼女の周囲で、今まで踊れない人間など一人もいなかったのだろう。
「仕方ないわ。でも、これから早く覚えて。大丈夫、教習所へ一か月も通えばすぐ踊れるようになるわ、結婚したら、いろいろなパーティに招かれるわよ」
「そうします、今迄そんなひまがなかったものですから」
「父も仕事の鬼だけど、ダンスは凄《すご》くうまいのよ、あれでも若い時は何かのダンス大会で、タンゴの部で優勝したことがあるわ。ダンスばかりじゃない、ゴルフはハンディ12、ヨット、スキーから、日本舞踊、華道《おはな》までやるのよ、特にお花は草月流の師範で、雪峯という号まで持ってるわ」
「本当ですか!?」
「本当よ、あれでも往年のプレイボーイだったのよ」
有馬は愕《おどろ》いた。あのひたすら、仕事一筋のような三神陽一郎にこのような隠された面、それも驚くべき多面≠ェあろうとは全く知らなかった。
彼は愕くと同時に梢に近寄り難い劣等感《コンプレツクス》を覚えたのである。
バンドが一段落すると又、ピアノソロに替った。
金と銀のらめ[#「らめ」に傍点]の入った黒いサテンのイヴニングドレスを着た若い女のピアニストが、思い入れよろしく弾きはじめた。
有馬には曲の名前が分らない。梢には分っているのだろう。彼は次第に自分がこの場に最も馴れ染まない異分子のように思えてきた。
そんな彼の気持を察したのか、それともコースが丁度終ったからか、梢がタイミングよく「出ましょうか」と言った。
有馬は救われたように席を立った。
食堂長が飛んできた。
「お帰りでございますか」
「ええ、いつものようにつけといてね」
「かしこまりました」
有馬が口をはさむ隙《すき》もなかった。
おかげで、もしかすれば恥をかくことになったかも知れぬ危機を救われたわけだが、彼はかえってコンプレックスを深めてしまった。梢の後に悄然《しようぜん》と従って行く自分の姿は、第三者の目には奴僕のように見えるだろう。――
フロントロビーへ出ると、丁度、外人観光団《インバウンドツアー》が着いたところと見えて、中年ぶとりした外人男女が群がっていた。
「アメリカのお上りさんよ」
梢は悪びれずに外人団体の真中を突っ切り、フロントへ歩み寄った。そのまままっすぐ正面玄関へ向かうものと思っていた有馬は、彼女の意図が分らぬまま、引かれるように後を追った。
「ねえ、突然で悪いけれど、デラックスツイン一部屋何とか都合してもらえないかしら?」
梢に声をかけられたフロントクラークは、彼女を認めて慌てて愛想笑いを浮かべた。梢はここでも顔らしい。
「あ、三神様、いらっしゃいませ。まことに生憎《あいにく》ですが、今夜団体が多うございまして|お二人部屋《ツイン・ダブル》が全然空いてないのです。|豪華揃い部屋《スイート》ならば一室あるのですが……」
クラークは恐縮した口ぶりで言った。
「いくら?」
「それが……五万円なのですが」
クラークは言い難《にく》そうに言った。いくら何でも、フリの泊まりに一泊五万もする部屋を提供するのが心苦しいのであろう。まして相手が顧客となればなお更のことである。
「いいわ」
だが、梢はこともなげに言った。
「ここへ泊まられるんですか?」
狐につままれたような顔をして問いかける有馬を、梢は目顔で制した。
「鍵《キイ》だけもらえば、案内はいらないわ」
「申し訳ございません」
クラークは最敬礼してキイを差し出した。梢は記帳《レジスター》もせずにフロントから離れると、エレベーターホールへ向かった。
「どういうつもりなんです?」
「いいから一緒に来て」
梢の口調はすでに命令であった。提供《アサイン》された部屋は三十三階にあった。三十四階は食堂や展望台になっているから、ここが客室部門の最高階であろう。エレベーターから降り立ったのは、彼ら二人だけである。全室スイートの貴賓室ばかりが集められていると見えて、廊下の広さや、絨毯《じゆうたん》の厚みまで他階と違う。
各部屋の扉には金泥がまぶされてある。その中の一室の前へ立ち止まった梢は、くるりと有馬の方を向いてニンマリと笑った。それは微妙な翳《かげ》りを含んだ笑いであった。彼の心の中で梢がフロントで部屋をリクエストした頃から、まさかと思っていた男の期待が急速に脹《むく》れ上がった。期待は梢の次の言葉で裏づけられた。
「今夜は私たちの初めての夜よ」
有馬は生つばをのみこんだ。ずい分長い間|焦《じ》らされたが、梢は遂に最後のものを与えようとしている。だが本当にもらってよいのか? 思わずためらった有馬を、
「何してるのよう」と先に部屋へ入った梢が中から促した。中は外以上に豪華であった。入った部屋は応接室となっている。黒檀の円卓を囲んで深々としたソファーが四つ、靴の埋まるような臙脂《えんじ》の段通と、緞帳《どんちよう》のようなカーテンに仕切られた空間は、仄々《ほのぼの》とした間接照明の中に、およそ人間が生活する空間としては最高の金がかけられている濃密な雰囲気を醸《かも》し出していた。
奥まった所に入口扉と同じ様な金泥にまぶされた扉があるのは、寝室か浴室との境であろう。
傀儡《でく》のように部屋へ誘い入れられた有馬に梢がいきなりしがみついてきた。
「好きよ」
あとは熟れた果実のような唇がからみついてきた。今まで梢のペースに引張り回されてきた有馬は、ようやく本来の男の欲望を目覚めさせて、先方から落ちて来た果実を、逞《たくま》しく受け止め、思うさま貪《むさぼ》った。
唇と唇が強い力で合わされ、肉の割れ目で歯がカチカチと鳴った。
重ねた唇を捻《ひね》り合わせる間隙に、梢は熱に浮かされたような呻《うめ》き声をあげた。熱い息が二人の顔の間で行き場を失って渦を巻いた。有馬は立っていられないくらいに欲望が躰《からだ》の中で脹れ上がって来るのを感じた。
……その時梢は、ダンスでリードするように徐々に後ずさりをはじめた。唇をひたと男のそれに重ね、目を閉じながらも、寝室とのコネクテングドアへ向かって正確に有馬を導いて行く。
それと知った有馬の押す力と合わさって、梢の背は扉に押しつけられた。有馬は女の背を抱いた手の一方を離してノッブを回した。
カチリという静かな音と共に金の扉は開かれた。応接間から流れる淡い光線の中に金色のベッドカバーに被われた豪華なダブルベッドが浮き上がった。
女を押す男の力は、更に強められ、女の躰はベッドの上に押し倒された。女を組み敷いた男の手が性急に女を剥《は》ぎにかかった時、
「待って」
と梢が意外に落ち着いた声で制した。
「私、脱ぐわ」
梢は妙にのろのろしたしぐさで自分自身を剥いだ。それは場なれした態度と見えないこともなかった。
有馬は、梢の脱ぎ終るのが待ち切れぬように、躍りかかった。彼女は一瞬「あ」と小さく叫んだが、自らの意志を加えてベッドに倒れ、進んで躰を開いた。
獣が獲物を自分の巣の中へ引きずりこんだ時のように、有馬はもはや無抵抗になった美肉へ猛然とかぶりついていた。
「痛いわ」
男の余りに粗暴な行動に女は眉《まゆ》をしかめた。演技ではなく本当に痛かったらしい。男はその猛々しい勢いに似ず、このような行為に馴れていない。
女は男の体の下で身をよじり、彼を迎え入れるべくひかえめながら精一杯の工夫をした。だが女の協力にもかかわらず、馴れぬ男のエゴイズムは、ただ焦せるばかりの見当外れの動きで女の躰を痛めつけた。
女は眉をしかめながらも耐えていたが、遂にたまらなくなったと見えて、男の躰に手を添えて導いた。
それは男と女の行為に慣れ切った者のしぐさであった。
彼はその時、躰の中に不思議な震えを覚えた。それは美しい獲物を前にした男の震えではなく、何か互いに馴染まない意志と欲望の相克による震えのようであった。
それが今一歩の所で有馬の躰に制動をかけた。(俺《おれ》は遂に手に入れた。成功へのパスポートともいうべき女の躰に確認《コンフアーム》のスタンプを濃く強く捺《お》そうとしている。それなのに、このためらいは何だろう?)
彼の目の下には行為の期待にばら色に上気した女の柔らかい肩から項《うなじ》にかけての曲線があり、黒い髪の豊かな乱れがあった。
カーテンを開放した広い窓には、比類ない蕩尽《とうじん》を思わせる大都会の夜景が燦《きらめ》いている。
およそ人間が生活する場所としては、最高の場所で、無数の野心ある男共の憧憬《どうけい》の的であり、高嶺《たかね》の花である女の豊かな躰と肌を思う様押し開き貪《むさぼ》ろうとしている。その一事だけでも若い男にとっては卒倒せんばかりの男|冥利《みようり》であるのに、更にその代償として、三神陽一郎の縁につながる者としての資格を得るのである。
その証拠にみよ、女は今、輝くばかりのプロポーションを目を見張るばかりのしどけなさと気前のよさで有馬|只《ただ》一人の前に投げ出しているではないか。
今、この瞬間こそ、骨にまで沁《し》みつく貧しさに歯を喰いしばって耐えながら夢見てきたことである。
地方出身者には立身出世主義者が多いという。有馬は確かにその通りだと思い、自分自身もその一人だと認めている。
だが猫の額のような暗い貧しい土地に閉じ込められて「今に今に」と他の地平線に憧《あこが》れ続けてきた人間の、故郷への憎しみと、立身出世の栄光によって故郷へ錦を飾ろうとする執念のような欲望は、都から隔たった山間|僻地《へきち》の貧苦と寂しさにどっぷりと浸った人間でなければ分らない。
自分はとうとう天の下端へ辿《たど》り着いたのだ。これからは天の上の輝やかしい道が待っている。彼に今、只一つ残されている仕事≠ヘ、眼前に供えられた熟れ切った果肉に歯をがっぷりと突きたてるだけだった。
それだけのことで、彼は天の住人としての資格を手に入れる。ところが……
「ねえ、何をしてるのよう」
有馬の下で梢が身もだえしながら焦れったそうに鼻をならした。熟れた果肉は彼の躰を吸引した。それは凄《すさま》じい吸引力だった。どっぷりとその中に浸りたい男の欲望。ほんの微《かす》かな力を加えるだけで、その美しい果物は割れ、彼を柔らかく包みこみ、めくるめく官能のるつぼへ導くだろう。
それは有馬にとって美しい未知の邦《くに》であった。彼はそれが見たかった。扉はすでに開かれている。只一歩踏み出すだけでよい、それだけの手間で未知の邦は彼のものとなる。
だがその簡単な一歩が彼には踏み出せなかった。本能の凄じい激流にかかる制動、男としてそれを強く望みながら、人間としてそれを許さない意志の力、若い男にとってこれほど不自然な力はなかった。急制動をかけた車が凄じい軋《きし》りを上げるように、有馬の全身は熱病にかかったように震え、面は苦悶に歪《ゆが》んだ。
梢はそれを行為に慣れぬ男が、身体を結合しないうちに沸騰点に近づいたものと合点して猛烈な勢いでしがみついてきた。
そしてそれはまさにその通りとなった。有馬が梢の躰の中へ吸いこまれようとした寸前、彼の体の先端はおびただしい量の体液を吐き出していた。それは梢の躰を濡《ぬ》らし、肌を伝わり、ベッドの上へ流れ落ちた。
瘧《おこり》が落ちたように有馬の躰から炎が去り、波が退くように急速に萎《な》えていった。取り残された梢は、未練たらしくそれをしっかりかかえこみ執拗《しつよう》なうねりを繰りかえしていた。
有馬は急に虚《むな》しくなった。それは男ならば誰でも感ずる生理的な虚脱感ではなく、精神の深所を抉《えぐ》り取られたような虚しさであった。
「いいのよ、そんなにがっかりなさらなくとも」
ようやくうねりを止めた梢は、有馬の虚脱感を勘ちがいして慰めるように言った。
「誰でも馴れないうちはそうなのよ、すぐに又、出来るようになるわ」
言ってしまってから、梢はしまったという表情をした。つい言わずもがなの告白をしてしまったのである。だが彼女は少しも悪びれずに、
「バレちゃったか」と悪戯《いたずら》っぽく首をすくめて、
「でも今、私が愛しているのはあなただけなの、これから先も、ずっとよ、だから、許して下さるわね」
「許す?」
何を許せというのかと問い返そうとした有馬は、彼女の言葉の意味にはた[#「はた」に傍点]と思い当たった。
もっとも彼女の体は十分に男を知りつくしたものであった。到底、隠しおおせないと観念して最初から打ち明けるつもりだった。
生活に不自由のない女の常で、梢は処女などというものは、女が一度は通らなければならない通過点くらいにしか考えていなかった、処女を虎の子のように慈《いつくし》むのは、それ以外に男へ贈るべき何物も持たぬ貧しい娘のことである。
有馬に今日まで許さなかったのは、彼だけに、取り巻きの遊び仲間とは異質のものを女の敏感さで感じ取ったからである。
有馬は童貞《クリーンハンド》であった。単に童貞であるばかりでなく、対象の異性を梢だけに限っていた。そこに打算はあっても、潔癖であることに変わりはなかった。
女というよりは、セックスに対する燃えるような憧憬はあった。躰の芯から沸騰する若い欲望に耐え切れず、女を買おうとしたこともある。だがついに、それに耐えさせたのは、彼の野心であった。
己の野心を一日も早く達成するためには、つまらない女の尻《しり》を追っかけ回すひまなどない。それに都屋の新入社員の給料は女を買えるほどの余裕はなかった。営業企画へ移ってからいくらか経済的余裕は出来たものの、今度は気持のゆとりがなくなった。――
彼はつまらない浮気で梢を失うのが恐ろしくなったのである。少なくとも梢を失う危険性のあることはどんな小さなことでもおかす勇気がなかった。
だが、どのような種類の勇気であっても、それを欠くということは、若い男にとって耐え難い。
その耐え難さを、有馬はストイックな青春の潔癖にむりやりにすり替えてごまかしていたのではないだろうか?
未知なる美しい獲物を、こともなげに捉え、貪り喰らう同年輩の若者に、炎のような羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》を覚えたのもそのせいではなかったか。彼らは自分が知らぬ世界を知り、自分が知らぬ美食を味わっている。
若い男には、女を求める前に自己に蓄積すべきものが山ほどある。――というのは「酸っぱいぶどう」と同じの青春の欺瞞《ぎまん》である。
有馬のセックスへの潔癖《ストイシズム》は、異性への燃える憧憬の裏返しであった。せめてそれを鎮めてくれたものは、自分の相手となるべき異性《こずえ》も、自分と結ばれる日のために、その欲望に耐えているにちがいないと信ずることであった。
梢も自分と同様の苦しみを耐えていると思えばこそ、意味のないような抑制に、救いが感じられた。
ところが、梢は自ら告白[#「告白」に傍点]した。自分が性の衝動につかれながらもじっと耐えている時に、彼女は平然と禁断のリンゴを飽食していた。それはそのまま自分の抑制が全く無意味であったことを示すものであり、リンゴの甘さを物語るものであった。
自分が知らぬ味を、自分の妻となるべき女はとうに知っていた。――愛情を云々《うんぬん》する前に、有馬はその一事だけでがまんならなかった。それは貧困に育った者特有の嫉妬深さと呼んでもよいだろう。
童貞の無知で今まで気がつかなかったが、今にして思えば、処女にしては何とも大胆過ぎる梢の言動であった。
ホテルにおける彼女の顔≠ヘ、そのまま彼女の過去の盛大さを物語るものである。
有馬は先刻、梢に手を添えられて導き入れられようとした時の彼女の躰の感触を思い出した。あれはまるで熟れ切った果実のようであった。処女の躰がどのようなものであるか知らないが、医学書や友人の話から聞きかじった生硬な肌の抵抗感≠ネど全くなかったではないか。
沸々たる怒りが有馬の胸に湧《わ》いてきた。
「ねえ」
梢が猫のようにのどをならして、又、放恣《ほうし》に肌を絡めてきた。告白してしまったので、装う必要がなくなったのであろう。深窓の令嬢の仮面をかなぐり捨てた大胆な体位で有馬を挑発してきた。
たとえ梢がどのような過去を持とうと、彼女の持参金≠サのものには何の影響もない。むしろ、女の過去は持参金の額を高めるかもしれない。
所詮《しよせん》、梢は天上へ昇る梯子《はしご》に過ぎない。女への感傷と、男の野心を混同してはならない。――と有馬は強いて自分に言い聞かせながら梢との営みの中に溺《おぼ》れようとした。
だが欲望とはうらはらに、心が冷えていくのをどうすることも出来なかった。
打算として女の躰を玩《もてあそ》ぶべきであると知りながらも、有馬は萎えたまま甦《よみがえ》らなかった。
ホテルに泊まれと勧める梢を振りきるようにして深夜|出発《チエツクアウト》した有馬は、梢の躰の上へ[#「上へ」に傍点]自分の欲望を洩《も》らして以来、執拗《しつよう》に続いている虚脱感が、京都の名も忘れた古い池畔《ちはん》で静子と唇を重ねた深く静かな一時に由来しているのを知った。
幸福というものは男には要らぬ。彼らが生きていく上に必要とするものは、そんな現状に甘ったれた状態ではない。常に精神の深所が張りつめている状態。職場にあっても、家庭にあっても、女と抱き合っていても、それ以外のいかなる時間と場所にあっても、常に何かに飢え渇いている。飽くということを知らず、足りるということを覚えず、常に前を志し、前へ進むエネルギーが失われた時ですら前を向いている姿勢。
有馬はまさにそのような姿勢で今まで歩いて来た。不確定な将来の、より大きな可能性のために、現在(たとえ充ち足りていたとしても)のすべてを犠牲にして憚《はば》からなかった。
だが可能性といえば聞こえはよい。意義だの、前向きの姿勢だのといったところで、所詮将来のより大きな利益のために(それも多分に商人的な)ソロバンをはじいているだけではないか。
そんな疑いが萌《きざ》したのが、池畔の静子とのたまゆらの抱擁の時からなのである。あれはまさしく幸福といえる状態であった。彼が日頃|軽蔑《けいべつ》する現状に甘ったれた姿≠ナあった。だがあすこには紛《まぎ》れもなき真実があった。少なくとも野心のための抑制や、自己を枉《ま》げたものはなかった。
二人は心からそれを欲して互いの唇を重ね合わせた。白い雨の中に、雨滴にまみれたままの姿で犇《ひし》と抱き合い、唇をねぶり合ったあの一瞬は、そのまま目的そのものであり、有馬の心から一切の計算が消えていた。
それは手段として梢を抱いたことと何と大きな違いであろう。人間の心や躰《からだ》までも手段にして、得る将来とは果たしてどんなものか? どんな意味があるのか?
野心と打算で現在を手段化していくことは、かけ替えのない人生を欺瞞《ぎまん》のうちに過ごすことにならないだろうか?
(俺《おれ》はきっと打算で自分を欺いていることにいや気がさしてしまったのだ。いや一々そんな四角張った理論づけをする必要はない。俺は静子が好きなのだ[#「俺は静子が好きなのだ」に傍点]、その気持に無理に目を瞑《つむ》って梢を抱いたからあんなに虚しかったのだ。明日は専務に告げよう。俺には本当に愛する女がいるということを。たかが一人の女のために、もしかすると職を振ることになるかもしれない。それでもよいではないか、男と生まれてこの途方もない贅沢《ぜいたく》を思う様味わって見よう。俺は余りにも貧しさに耐えてきたのだ)
そうと心に決めた時、憑《つ》き物が落ちたように有馬は清々しさを覚えた。
「駐《と》めてくれ」
彼は運転手に命じた。まだアパートまで大分距離があったが、彼は歩いて帰りたくなったのである。
新しい力が胸の奥から湧き上がってきた。
(やっぱり俺は地上の道を歩くべく定められていた。天の道へ上り損ったが、これからはこの地の道を一歩一歩着実に踏みしめて行こう)
車から降り立った有馬は、深夜の路上へその第一歩を踏み出すように歩み出した。
5
翌朝、三神陽一郎が出勤すると同時に、待ち構えていたように、有馬が面会を申し入れてきた。
「早いじゃないか」
早速迎え入れた三神の目は、すでに自分の娘婿を見る砕けた柔らかさを湛《たた》えていた。彼には有馬の用事は分っていた。
「ま、かけたまえ」
来客用のソファーを指し示してから、デスクの上からシガーを一本取った。ゆっくり時間をかけて火を点ける。これは彼が何か重要な商談などに臨む前によく使う手である。こちらの心を落ち着かせると同時に、気負い立ったテキの気勢を削《そ》ぐ効果がある。
本来ならば三神にとって有馬如きは、そんな手は全く必要のないチンピラである。だがあえて彼が今それをしたのは、テキ、それも大敵に見《まみ》える時のような心の動揺を覚えたからだった。
シッポを振ってくればとて、万に一つも断わられることはあるまいとたかをくくったものの、愛娘《まなむすめ》の運命が賭《か》けられる返事を、今この青年から聞かされるのだと思うと、年功も地位の格差もなく、心が試験の結果を発表される時のように揺れ騒ぐ。
「どうも遅くなりまして」
有馬は進められたソファーに坐《すわ》りもせず、三神の前へ深々と頭を下げた。
「急な出張でご苦労だった。大活躍だったそうだな、儂《わし》からも改めて礼を言う……それで?」
三神は有馬の面に視線を集めた。
「はい」
三神の視線に射竦《いすく》められたように面を伏せていた有馬が目を上げた。
「専務」有馬は思いつめた声を出した。
「専務のこの度のご厚意は、我が身に過ぎることと深く心に刻んで有難く思っております。それほどまでに私ごとき人間を認めて下さり、本当に……」
「いいから結論を聞かせてくれたまえ」
「折角のご厚情を裏切るようでまことに心苦しいのですが、この度のお話はなかったことにしていただきたいのですが」
「ほほう」
三神はのどの奥から声を出した。失望の声ではなく、むしろ愕《おどろ》きがあった。よもやこれほどの玉の輿《こし》を振ろうとは思ってもいなかったからである。
「理由《わけ》をきこうか」
一時《いつとき》の愕きから醒《さ》めると三神は言った。もちろん一介のサラリーマンがこれだけ有利な縁談を断わるからにはそれ相応のわけがあるはずである。
「実はもう約束した相手がございますので」
「何だ、相手がもう決まっていたのか!」
今度こそあからさまな失望が三神の声に盛られた。同時にそこには人騒がせなと言わんばかりの不満もこめられていた。言い交した相手がいるならば、三神が切り出した時にはっきりそれと表明すればよいのである。
いくら身分の隔《へだ》たりがあるとはいえ、封建の君主命ではあるまいに、婚約の定まった部下に別の縁談を押しつけるような横暴の通るはずがない。
三神はその不満をすぐに口に出した。
口調がつい激しくなったのは止むをえない。三神にしてみれば欺かれた思いであった。
「はっ、何とも申し訳ありません」
有馬は深く頭を下げた。だが再び上げた面には悪びれた色はなかった。彼はなおも何か言いたそうであった。
――言ってみろ――と言うように三神は頤《あご》をしゃくった。今更、逃げた魚の言い訳を聞いたところでどうということはないが、娘の婿とまで見込んだ男がどんな弁明をするか、ちょっと興味をそそられた。
いやしくも都屋の首脳としての自分の申出を断わったのである。サラリーマンとして相当の覚悟をしているだろう。三神は一寸の虫の(反逆ともいえる)覚悟のほどに興味を持った。
「正直に申し上げますと、最初、専務からお嬢様のお話しを持ちかけられた時、自分のサラリーマンとしての先き行きに明るい光が射し込んだように感じました。もちろん、個人的な縁談と一社の人事とは全く異質のものですが、一介のサラリーマンにとって専務からこれほどまでに見込まれることは、将来を約束されたのと同じことなのです。私はその一瞬、自分に約束した相手が居たことを全く忘れました。約束したとはいえ、別に深い仲ではなく、暗黙の了解に過ぎなかったので、私は突然降って湧いた玉の輿に有頂天となりました。
否も応もなかったのです。その時点においてはお嬢様を断わるなどということは考えられませんでした。すぐその場でお返事をさし上げなかったのは、それほどのご期待に果たして副《そ》うことが出来るか自信がなかったからです。一晩考えた後、翌朝お受けするべく心を決めて出社いたしますと、突然、出張を命ぜられました」
ここまで言って有馬は言葉を切り、気配をうかがうように三神を見た。三神はシガーを吹かしながら、そのことは知っていると頷《うなず》き、先を促した。
「出張中も決心は変りませんでした。お嬢様のことで頭がいっぱいで、一刻も早く帰京して、はっきりした自分の意志を伝えたくてたまりませんでした。そのことがかえって励みになり、仕事の方は大体うまくいきました。自分の心の内奥《ないおう》を深く見つめたのは、帰京してお嬢様に逢《あ》ってからのことです」
「梢に逢ったのか?」
「はい、そしてその時初めて、私が本当に求めているものはお嬢様ではなく、専務とのコネであったと知ったのです、サラリーマンとしてこれほど有利な縁談にある程度の打算が働くのは止むを得ないでしょう。ところが、私の場合は、打算だけだったのです。お嬢様と語らいながらも、心の中に弾くのは、お嬢様を媒体とした場合の……こんな言い方を許して下さい、何もかも正直に申し上げたいのです。……媒体として得られる利益のソロバンだけでした。そしてその利益によって築き上げるであろう巣≠フ中へ置いた女性が、お嬢様ではないことに気がついて愕然《がくぜん》としたのです。
私は激しく迷いました。婚前の一時の心の傾きなど、結婚後、二人が共にすべき長い将来に比べれば、ものの数ではない。自分の感慨は若い一時の感傷にすぎない、このまま心に頬《ほお》かむりをしてお嬢様と結婚してしまえば、やがてお互い以外の別の相手は考えられないような結びつきとなるだろう、夫婦とはそんなものではないか、深く考えることはない、打算でも計算でも構わない、とにかくこれほどのチャンスを逃がすという手はない。私は自分の心に言い聞かせて、揺るぎかけた決意を無理に落ち着けようとしました。
しかし、一つの別の考えが執拗《しつよう》に私の心を揺さぶり続けたのです。家庭とはそのようなものなのだろうか? 夫婦とは、結婚とは、そのような打算で結びついてよいものだろうか? 男にとって仕事は生き甲斐《がい》です、仕事のために家庭を犠牲にする者は多い。私も将来家庭を持った場合に、ためらわずにそれを犠牲にするでしょう。
でも世の中の最小単位である家庭を築くにあたって、私は打算や欺瞞《ぎまん》でスタートしたくなかったのです。取るに足らない感傷かもしれませんが、生きるに酷《きび》しく、人を信じ難いこの社会で、せめて家庭という名前の、人間の最小のグループは、信じ合える人間同士でつくりたいと思います。それがあればこそ、男共は酷しい生存競争に耐えていけるのではないでしょうか? 人間同士の結びつきですから、家庭における相互信頼も永遠の保証は出来ません、でも私はそれでもよいと思いました。せめてそのスタートにおいて信じ合える人間でありさえすれば……お嬢様を信じられないというのではありません、私がお嬢様を欺くのに耐えられないのです」
「もういい、分った」
三神は手をあげて制した。有馬の言葉をどのように受けとめたのか、彼の経営者としての無表情からは何もうかがい知ることは出来なかった。
ただ有馬には、語り終らぬうちに自分の口を封じた三神が、常の感情でいようとは思えなかった。それが証拠に先刻義父としての柔らか味をたたえた目が表情を失っている。無理もない、取るに足らぬ平社員が首脳の申出を振ったのだ。三神の面目はまるつぶれである。たとえそれが業務上の命令ではなかったとしても、有馬の都屋における将来は諦《あきら》めなければならなかった。
「失礼しました」
有馬は一礼すると三神の前を去りかけた。
「待ちたまえ」
三神は無表情のまま呼び止めた。まだ何か? と振り向くと、
「君の約束した女《ひと》というのは誰かね、さしつかえなかったら教えてくれ」
「は」有馬は思いがけぬ問にふと口ごもったが、
「塩見売場長のお嬢さんで、静子さんと申します」
「何、塩見君の!?」
三神の目に微妙な翳《かげ》が走ったが、すぐと本来の無表情へ戻ると、
「行きたまえ」とあたかも追いはらうように手を振った。専務室の扉を閉じた時、有馬は、将来への扉を自らの手で閉めたと思った。
初夜の誓い
1
有馬正一と塩見静子の結婚式は静子の大学の卒業式が済んだ直後の三月下旬に行なわれた。場所は新宿のある会館、参席者も両家のみよりとごく親しい友人だけを招いてひっそりと行なった。
職場では彼が結婚したことすら知らない者も大勢いたほどである。会場も料理も質素というよりは、粗末といった方がよい中で、只一つ豪華なものがあった。それは参席者の中に三神陽一郎がいたことである。それも単なる招待客としてではない、彼は媒妁《ばいしやく》としてその場に立会ったのである。
「本日は快男子、有馬正一君の結婚の日に相応《ふさわ》しく、天気晴朗なれども風強し……」
と媒妁の挨拶《あいさつ》を始めた三神の表情は、義理の頼まれ仲人には見られない、若い二人のスタートを心から言祝《ことほ》いでいる真情に溢《あふ》れていた。
実際、三神が自分から媒妁をかって出た時は、有馬は面喰った。梢との経緯《いきさつ》もあり、かなりのいや味を聞かされるものと覚悟していただけに、彼の好意を額面通りにとっていいものかどうかずいぶん迷ったものである。
が、断わる理由はどこにもない。――どころか、三神に媒妁してもらえば、外見どんな簡素な結婚式であっても、サラリーマンとしては光り輝く祝宴となる。
挨拶状に媒妁人として三神陽一郎の名前を印刷するだけでも、都屋の社員のあげるいかなる結婚式も及ばない豪華なものとなる。そればかりでなく、次期社長最有力候補の息のかかる者として、有馬の都屋における格も大きく上がるであろう。
三神の真意は図りかねながらも、どうやらその好意が作為したものでないことは、式次第が進むにつれて分ってきた。花嫁衣装にしめつけられた新婦への三神夫妻の心づかいなど親身も及ばぬほどであった。
ようやく披露宴がお開きとなり、新夫婦が新婚旅行へ発《た》つ時になって、三神は、
「余さずに費《つか》ってくるんだぞ」
有馬の耳許で囁《ささや》き、周囲の人々に気づかれぬようにポケットの中へ分厚い封筒を滑り込ませた。見送りの人々の手前、その内容を確かめないまま、彼は車へ乗りこんだ。
車が会館を出てから、有馬は封筒を取り出した。
「なあにそれ?」
静子がすでに妻となった甘い声で言った。
「専務が下さったんだ、何かな?」
特殊な糊《のり》を使ってあるらしく、封はなかなか開かなかった。漸く封を切って取り出した内容物に、
「これは!」と有馬は思わず目を見張った。
「まあ、大変なお金」
静子も息をのんだ。そこには手の切れそうな一万円札が十枚入っていた。三神が封筒を渡しなに「余さず費って来い」といった声が有馬の耳に甦《よみがえ》った。その時は、式次第を滞りなく終えた安堵《あんど》と興奮で深くも耳にとめなかったが、今にして思えば暖かみに溢れた声であった。
あの瞬間、経営者ではなく、人間としての三神陽一郎があったのだ。十万円という金額の大きさもさることながら、我が娘を振った相手の男の結婚に媒妁を買って出たばかりか、有馬如きの結婚の祝儀としてこれだけの金額を張りこんでくれたところに、三神の並み並みならぬ厚意を見たように思った。
有馬は車の振動と共に妻となった女のふくよかな躰《からだ》の震えを感じながら、自分が最も欲しがっていた二つのものを同時に手に入れたように思った。
2
山々が蒼茫《そうぼう》と昏《く》れかけると、天心に残った残照を映して湖面が小豆《あずき》色に染まった。陽の落ちた山の方角がすでに黄昏《たそがれ》の色濃いのに、東の空の方に立った雲の峯が赫《あか》く染まっている。それは早春にしては珍しい積雲の頭であった。
「静かね」
湖面と共に夕暮の色に染まりながら静子が言った。春浅い湖畔には小鳥の囀《さえず》りもない。麦わら色に枯れた林の奥には残雪のブロックさえ見えた。それでいて総体的にエネルギッシュな薄青さがあるのは、芽吹く寸前の木々のエネルギーが春の息吹となって林の中にこもっているからであろう。
「風が冷たくなった、そろそろ宿へ帰ろう」
有馬は新妻を誘った。日が落ちると同時に急に空気が冷えた。夕食前の一時、宿の周囲をほんの少々ぶらつこうと大した身支度もせずに出て来たのだが、湖水と山の暮色に惹《ひ》かれてつい足をのばしてしまった身には、鳥肌たつほどに寒かった。
湖畔の小径《こみち》を宿へ向かう間も湖面は微妙な色調の変化を続けていた。
「五色どころか、十色ぐらいに変るようね」
「五色沼というのは、一つの沼の色が変化するという意味ではないんだよ。この辺の沼の総称で、それらの一つ一つが火山噴出物の鉱石の作用によって朱や緑やコバルトブルーの色彩を帯びているのでこの名があるんだそうだ、この沼の色は夕焼けのせいだよ」
「そうだったの、でも凄《すご》い色ね」
「主《ぬし》でも棲《す》んでいそうだな」
夕映えのすっかり色褪《いろあ》せた湖面は、硬い蒼味《あおみ》を帯びて、凄絶《せいぜつ》ともいえる色調に沈んでいた。
「私たちが初めて……あの広沢《ひろさわ》の池も水の色は違っていたけれど、何か棲んでいそうな感じだったわね」
「初めて何をしたんだっけ?」
「意地悪!」
静子はいきなり躰をぶつけて来た。それをしっかり受け止めて、有馬は妻の唇を吸った。そのまま何もかも凍りついたような時間が流れた。
「幸わせだわ」
唇を離した後も静子は陶然となっていた。
宿へ帰りつくと、宿の者が、
「お風呂を先になさいますか、それともお食事を?」
「そうだな」
有馬は妻を振りかえり、
「腹も減ったが、身体も冷えた、どう、先に風呂にしないか」
「いいわよ」
静子はいく分、躰を硬くして答えた。きっと家族風呂だと思ったのであろう。だが風呂は湖に面して男女別々にあった。湖面はすっかり昏れてきた。薄い板仕切りを境いに女湯の気配がする。入っているのは静子一人であろう。ほどよい湯に首まで浸りながら、有馬は今宵自分の妻となる静子の白い裸身を画いていた。
初夜をこの湖面に過ごし、明日から数日間東北地方を回るのが、ハネムーンのスケジュールである。その中に一泊、有馬の実家への訪問が含まれている。
静子とてごく普通に育てられた平凡な娘であったが、あくまでも都会育ちである。これから自分の妻として一つの新しい家庭を築き上げていくためには、夫がどのような環境と風土に生まれ育ってきたか、見届けてもらわなければならない。それがたとえどのように貧しい環境であろうと、どのように暗い風土であろうと、いや、暗く貧しくあればこそ、しっかりと見届けてもらわなければならないのだ。
そうしてもらわなければ、これからの己の半身として長く辛い道を共に手を携えて辿《たど》ることは出来ない。
隣りで湯の音がした。そろそろ上がる気配である。急に空《す》き腹が痛いばかりに意識された。
「今夜の泊まり客は私たちだけかしら」
「多分ね」
小さく声を殺したつもりの会話が驚くほど大きく響く静けさである。
食事が終わり、夜具をのべた宿の者が退《さが》ると、宿全体が彼ら以外は全く無人のような静寂に沈んだ。
灯を消した一瞬は、くろぐろとした闇《やみ》が落ちたように感じられたが、目が慣れてくると、窓から水のような薄明りが流れ入って来るのが分った。
月は見えない。満天の凍《い》てついた星の光が湖を蒼氷のように光らせ、その反射がここまでさしのべられて来るのか。
「もっとこっちへ寄らないか」
有馬はすぐ傍に棒のように硬直した躰を横たえている静子に囁《ささや》いた。彼女の緊張を解きほぐそうと精々さりげない調子で呼びかけたつもりだったが、声がかすれかかるのをどうすることも出来なかった。
有馬は片手を静子のふくよかな胸に回して静かに引き寄せた。そっと唇を重ねてから徐々に固い抱擁へ移っていく。二人だけの儀式は始まったのだ。
すべての所作《てつづき》が終わり、儀式の最も重要な部分を残すのみとなった時、有馬はふいと抱擁を解き、むくと夜具の上に起き上がった。余りに唐突な中断であったために、静子は彼が何かの理由で機嫌を損じたのかと狼狽《ろうばい》したほどである。
だがそれは中断ではなく、彼にとって儀式の重要な行事の一つであった。
「静子」
彼はその時はじめて妻の名を呼びすてにした。
夫としての威厳がこもった声であった。
「はい」
静子も急に改まった夫の態度に、乱れた寝衣を調えて、床の上に坐った。二人は新褥《にいどこ》の上に重要な商談でもするような形で対《むか》い合った。
「私たちはいよいよこれから本当の意味での夫婦となる」
有馬はおもむろに言った。
静子は神妙に頷《うなず》いた。
「その前によく話し合っておきたいことがあるんだ。古臭い言葉だが、夫婦は二世と言われる、とにかくこの無数の男女の中から夫婦として組合わせられるのは並大抵の縁ではないと思う。俺《おれ》たちはこれから夫婦となり家庭を創る、子供も生まれてくるだろう。夫婦が社会の人間関係の最小単位であり、世の中の基礎となる。だから、せめて二人の間だけは堅い信頼が必要だと思うんだ」
分るわと言うように静子が大きく頷いた。
「だから、せめて夫婦の間にはどんな小さな秘密も持ちたくないのだ。俺たちはこれから新しい生活をはじめる。そのスタートを欺瞞《ぎまん》によって切りたくない。過去は咎《とが》めないことにしよう、だがもし過去に秘密があるなら、スタートを切る前に、お互いに公けにしておきたいんだよ」
有馬は過去は咎めないと言った。だがそれはうそだった。梢に対してすら過去に寛容になれなかったのに、妻となるべき女にもし過去があるとすれば、絶対にがまんならぬことであった。
だがあえて許すと言ったのは、そうでもして誘わなければ、口を割らないであろうし、それに何よりも、静子ならばまかり間違ってもそのような忌まわしいものを持っていようはずがないと、確信に近いものがあったからである。
彼はまず自分の、梢に誘われて臨んだ危険な淵《ふち》から告白した。
「こんな間違いをして君には本当にすまないと思う。でもこの間違いによって、俺が本当に愛しているのは君だと判ったんだ。そのミスが俺たちを結びつけてくれたと言ってもよい。だから許して欲しい、今後は君一人を守りよい夫になる、今ここで誓っておく」
湖水からの薄明りであるが、窓に背を向けて坐っている静子の面は逆光となって、表情をはっきりと読み取れない。
キチッと揃《そろ》えた両膝《りようひざ》に両手を置いて、やや俯《うつむ》きかげんに有馬の話を聞いている彼女の姿には、夫の言葉を素直に受け入れている若妻の殊勝さがあった。
「これで僕の秘密と呼べるものは洗いざらい話してしまった。今度は君の番だ、もしそのようなものがあるならば、この際に全部話して欲しい」
有馬は促した。静子はその時面を上げた。いく分、きっとなったような上げ方だった。
「私にそんなものがあるとお思いになって?」
だが、声には哀調があった、そんなことを疑われて哀《かな》しいと言わんばかりの。――
「なければいいんだよ」
「それだけは信じて[#「それだけは信じて」に傍点]」
思いつめたような口調になった。
「信じるとも、こんなことを聞いてごめんね、ただ確かめておきたかっただけなんだ」
「分るわ、でも本当によく耐えて下さったわね。心からお礼を言うわ」
「ただ君だけのためにね」
「嬉《うれ》しい」
有馬の口を静子のそれが柔らかく塞《ふさ》いだ。
そのままもつれるように倒れた二人は、褥《しとね》の中で男と女の絡み合いに移って行った。
彼の躰《からだ》を迎え入れようとする静子の動きが梢と比べて何ともぎこちなく、躰の、意志に反して容易に有馬を受け容《い》れぬ硬さが、秘密はないと言い切った彼女の言葉を実証しているもののようであった。
3
「馬鹿な奴だ」
松波俊二は帰りの車の中で思わず吐き捨てるように呟《つぶや》いてしまった。
「何か仰有《おつしや》いましたか?」
運転手が自分に言われたものと勘ちがいして、バックミラーを通してたずねかけた。この三年の間に彼はコネと持ち前のアクの強さをフルに活《い》かして専用車をつけられる身分にのし上がっていた。
「いや、こちらのことだ」
松波は軽く手を振ると、今、招かれて来たばかりの有馬正一の結婚披露宴の模様に思いをめぐらし続けた。
いや、それは松波の常識では、到底結婚披露の宴などとは呼べぬ何ともお粗末なものだった。
隣室とカーテン一枚で仕切った会場は、隣りのスピーチでこちらの客が笑い出すような凄《すさま》じいものだ。料理は辛うじてコースの形を調えていたが、美食に馴れた松波ののどには到底通らないしろものだった。宴がお開きになっても来賓に引出物すらない。
よくもあんな粗宴≠結婚披露宴と銘打って人を招《よ》べたものだ、――松波は粗宴に驚くよりは、有馬の大胆ともいうべき図々しさに呆《あき》れるのだ。
――それにしても、有馬のやに下がっただらしない顔はどうだ。まるで世の中の幸福を独り占めにしたような顔だった。なるほど花嫁はふっくらと暖かそうで、一応まとまって[#「まとまって」に傍点]いた。だがあの程度のならいくらでもいる。世の幸福を独占したような顔をするほどのことではない。
奴の壮大な野心は何処《どこ》へ行ってしまったのだ? たかが一人の貧乏人の小娘にひっかかって、奴は青春の無限の可能性を売り渡した。聞くところによれば、奴は三神陽一郎の娘を振ってまで、あの塩見とかいう万年腰弁サラリーマンの娘に乗りかえたそうだ。俺はその話を聞いた時、呆れてものも言えなかったほどだ。
学生時代語り合った青春の野望を、奴は女への愛などというふにゃけたしろものによって去勢してしまった。女を利用するのも実力の一部だとうそぶいたあの生臭さは何処へ行ってしまったのだ。
奴のこれからの将来は目に見えるようだ。団地の片隅のマイホーム、女房と子供を蝸牛《かたつむり》のからのように後生大事にかかえこみ、あたら男子の一生を、猫の額のような家庭の平安を維持するために費《つか》い果たす。――
どうせ人間の一生とは個人の価値観によって定まるものだから、どんな費い方をしようとそれぞれの勝手だが、松波にしてみれば青春の、虹のような野望を分け合った仲間が、たかが一人の女のために、すり切れた世俗のサラリーマンに堕ちて行くのを見るのは、やはり寂しかった。
その寂しさが運転手に聞きとがめられるほどの罵《ののし》りとなって、松波の口から飛び出したのである。
悪妻談議
1
有馬正一と静子は、同僚が探してくれた中野の奥の小さなアパートで新生活を始めた。
木造の古いアパートの二階で、六畳一間六千円、お世辞にも上等とはいえない新居≠ナあったが、地下鉄の駅に近いのと、一畳程度の板の間に流しのついていることが二人の気に入った。
「普通のアパートでは、六畳の中に流しが組みこまれているのよ、これならお勝手がやりいいわ、正確には七畳で六千円、安いわよ」
特に静子がそのアパートに女らしい気に入り方をして、結局そこに落ち着くことになったのである。
当分は共稼ぎをすることになった。静子は英字新聞の広告で見つけた都心のある外国商社へ応募し、かなり難しい入社試験を突破した。
採用が決定した時、静子は目を輝かせて帰って来た。
「ねえ、あなた、凄《すご》いのよ、初任給二万六千円、通勤費は全額支給、ボーナスは年四回ですって」
「そりゃ凄い!」
有馬もびっくりした。有馬が都屋で営々三年勤め上げてやっと辿《たど》り着いた現在の給料と大差ないのである。しかも週五日制の実働七時間という労働時間などを考慮すると、むしろ彼の方が実質において低賃金となる。
有馬は嬉しいと同時に男としての複雑なコンプレックスを覚えた。
「ねえ、こうしないこと?」
「どうするんだ?」
「私のお給料だけは、毎月そっくり貯金してしまうの、二年間で百万円貯めるのよ」
「そんなに貯まるかな?」
「ボーナスもあるんだから、その位充分貯まるわよ、そして土地を買って、私たちの家を建てるの」静子は新婚の共稼ぎで誰でも描く夢をすぐにも実現可能のように語った。
「いいね」
「だめ! そんな気のない返事じゃあ、絶対貯めるのよ。私たちのお城のために二年間はがん張りましょう、子供も旅行もそれまでお預けよ」
「ひどいことになったなあ」
有馬は苦笑したが、同時に妻のガメツさが嬉しくもあった。彼女の就職先は有馬も名前を知っている一流外国商社である。応募資格に大学卒女子に限ると謳《うた》ってあったのだから、さぞや才媛《さいえん》が集まったであろうに、軽く合格し、それが当然であるかのような顔で、未来の収入をあてにして生活設計をえがいている静子には逞《たくま》しささえあった。
だが、生活を実際にスタートしてみると、彼女の立てた生活設計は文字通り「猟《と》らぬ狸の皮算用」であることが判った。
「共稼ぎがこんなにかかるとは知らなかったわ」
二、三か月もしないうちに静子はため息をついた。
貯金どころか、ひどい時は二人の給料を合わせても赤字になる月があった。
「これではいけない」と最初に気がついたのは静子であった。
「私、これからお弁当を作るわ」
彼女は結婚四か月目に宣言した。
「社員食堂は百円もあれば腹一杯喰える、弁当なんか、かえって高くつくよ」
有馬は反対した。彼は費用よりも弁当=腰弁と結ぶ安っぽいイメージを嫌ったのだ。
「何言ってんのよ、百円かけたら凄いお弁当が出来るわ、それに費用のことだけでなく、外食主義追放の手初めの意味もあるのよ、まあ、期待していてちょうだい、素晴しいお弁当を毎日作って上げるから」
静子は頑強に主張した。有馬は渋々屈服せざるをえなかった。なるほど彼女が大きく宣言しただけあって弁当の内容は、社食とは比べものにならなかった。内容だけではなかった。
昼食時にオフィスで、一人弁当箱を開く何となく不景気なさまにいささか憂うつになっていた有馬の気持を察してか、それは弁当のイメージからは程遠い、豪華な重詰め≠ノ近かった。彼女は毎朝そのために今までよりも一時間も早く起きるのである。しかもそれから勤めに出る。並大抵のことではない。
有馬はそこに妻の心≠見た思いだった。
「凄いボリュームだねえ、さては奥さん、今夜の大サービスを狙《ねら》っているな」
「いやいや、昨夜の大サービスのお礼とおつかれなおしのためだろう」
同僚たちは、彼の弁当の凄い内容≠見て一様にニヤニヤした。だが彼らの目は皆羨ましそうであった。
有馬は最初の間は何となく気おくれした昼休みが、待ち遠しくなった。もちろん食欲だけのためではない。弁当に詰められた妻の心が誇らしく、そんな妻に恵まれた自分が得意であったのだ。
彼が得意なことはもう一つあった。それは妻の躰《からだ》が驚くべき速やかさで熟《う》れてきたことである。肌が硬かったのは精々新婚旅行の間だけのことである。すでに旅行の終わり頃から躰は女の悦びを覚えるようになっていた。果実は急速に熟れて甘味を増した。
二人の躰がしっくりと合っていくのと正比例して心も通い合っていった。
静子の打ち出した弁当《ひきしめ》主義≠フおかげで、有馬家の財政は徐々に立ち直っていった。夜もなるべく早めに帰り、家庭で二人だけの団欒《だんらん》を楽しむ。
ある夜、夕食後ゆったりと寛《くつろ》いだ時に、静子は頬《ほお》を薄く染めてこんなことを言った。
「私って少し異常なのかしら?」
「異常って、何が?」
有馬は茶を啜《すす》りながら聞いた。
「私この頃、時と場所の見境いもなくあなたが恋しくなって困るのよ」
「けっこうなことじゃないか」
「それが躰の方がへんになっちゃって、ああ私恥ずかしいわ」
「オフィスでハンサムな青年でも見てもよおすんだろう」
「まあエッチね! 女って、男の人のように誰とでもいいというわけにはいかないのよ、愛している人でなければだめなの」
「それじゃあ、何で思い出すんだ?」
「それがタイプを打っている時とか、電話をかけている時とか、お仕事に没頭している時にふいと思い出すの、あのこととは何の関係もないことをしている時に、夜のことを思い出すのよ、そうするともうだめ、動けなくなっちゃうほど」
「それだけ君の躰が優秀な証拠だよ、しかし言っておくが、どんなに優秀でも、僕だけだぞ、何しろ君は僕の只一台の専用車≠セからな」
「そのことは信じて。でもこの頃私つくづく思うのよ、プラトニックラブというものがどんなに稚《おさな》いものかって。セックスが夫婦の間ですべてではないにしても、大きな比重を持っていることを否定出来ない。それが結婚してよく判ったわ。
神様は男と女が長い一生を共にしていくためにこんなにも素晴しいものを用意しておいてくれたのね。そして夫婦って一見、偶然で結ばれるようだけど、夫婦となる男と女の躰は、精巧な鍵と鍵穴のように生まれながらにして組合わせが定まっているような気がするの、私たちはきっと生まれながらの組み合わせなのよ……だからこんなに」
と言って静子は、甘くうるんだような瞳をした。
有馬には彼女が何を意欲しているか分った。
二人の間で前戯はすでにはじまっていたのである。
2
「お前のワイフは悪妻だよ」
「どうして悪妻なんだ!?」
有馬は思わず気色ばんだ。誰だって恋女房をいきなり悪妻呼ばわりされたらおもしろくない。
「聞かなければ分らないか?」
相手は憫《あわれ》むような目をした。
「分らないな」
「お前もそれだけふにゃけたわけだ、以前のお前ならこんなこと聞かなくとも分ったろうに」
「わけを言えよ」
「じゃあ言ってやろう」
結婚後六か月ほど経った時、有馬は外商の商談で大手町のある商社へ出かけた。商談が思いのほか早くすみ、商社を出た有馬はすぐ近くに松波の社があるのを思い出した。
車で何気なく通り過ぎようとしたビルの、青い硬質ガラスで外壁を鎧《よろ》った近代的美しさに目をとめて、それが松波のいる日観ビルと知って、急に旧《ふる》い友人に会いたくなったと言った方がよいだろう。
通された部屋はそのビルの奥深く、社長、専務室の次に居心地のよいスペースを取った常務室であった。
「奴さん、いつ常務になったのか?」
有馬は静子との片隅の幸福≠フ中に忘れかけていた以前のサラリーマン的野心をちょっぴり甦《よみがえ》らせて羨しかった。応接室でなく、自室へ直接通したのも、旧友への好意の現われではなく、自分が辿り着いた地位を誇示するためではないかと勘ぐったほどである。
「やあ、久しぶりだな」
迎えた松波は、ゆったりと笑った。頬に肉がついたので学生時代の鋭角的な感じはいくらか薄れたが、それだけ重味が加わった。眉《まゆ》の真下に落ちくぼんだ目はよく光り、鋭さと同時にビジネスに敏感に反応するシャープな商人のガメツさを示している。それはこの少壮経営者が妻の縁だけに縋《すが》って現在の地位を獲得したものではないことを物語っていた。
「どうだ、新婚の感想は?」
向かい合って坐ると、松波はごくありきたりの質問をした。
「まあまあだな」
「まあまあか、幸せそうだな」
「まずね」
「これは驚いた、手放しとはお前のことだぞ、人づてにいきさつを聞いたが、なるほど大したもんだ」
松波は揶揄《やゆ》するように笑った。
「誰がそんなことを話したんだ?」
「誰でもいいじゃないか、三神専務が見事ふられたと口惜しがっているそうだぞ」
「三神専務には悪いことをしたと思っている。しかし、これは俺《おれ》にしてみれば一生の問題だからな」
「一生の問題?」
松波の胸に何かひっかかったらしく目をギョロリと剥《む》いた時、秘書がコーヒーを運んで来た。
「お砂糖は?」
「一つ、ミルクをたっぷりと入れてやってくれ」
若い美人秘書がまず有馬へ問うのを、松波が代わって答えた。
「お前、俺の好みを覚えていてくれたのか」
「はは、地蔵菩薩《じぞうぼさつ》研究部、最後に残った二人だけの部員だからな」
その瞬間の微笑にだけ、商人の打算が消えた。
だが秘書が去ると松波は本来の表情に戻っていた。
「お前、本当に一生の問題だと思うのか?」
松波はゆっくりとコーヒーを啜《すす》った。
「あたり前じゃないか」
どうしてそんな分り切ったことを聞くのかとむしろ呆《あき》れ顔で答えた有馬は、何となく会話がしっくり転《まわ》らないことに気がついた。
コーヒーの好みを覚えていてくれたのは、ちょっと嬉《うれ》しかったが、松波にしてみればそれは旧い友情を甦らせたわけではなく、相手の些細《ささい》な嗜好《しこう》を覚えておくことにより商談を有利に運ぼうとする、彼得意のビジネスのテクニックを応用したに過ぎないらしい。
彼にはそんな特異な才能があった。誕生日や個人的好みを丹念に覚えておき、それを資料に臨機応変に攻撃してモノにした女子学生が何人かあったのを有馬は知っている。
仲がよければよかったほど出来た溝はどんな小さなものでもすぐに判る。そんなトリックでは埋めようもないほどに二人の心には間隙が空いてしまった。
それが言葉だけを儀礼的に滑らせていく。勝手なことをお互いが言い合っているだけで、少しも話題がかみ合わない、歯車がかみ合わないまま無理に機械を動かしているような、空疎な軋《きし》りが感じられるのだ。
卒業後、互いに別の世界で暮らしてきたのだからある程度の違和感は止むを得ないとしても、学生時代は、部室《ぶしつ》に黙って坐っていただけで心が通じ合ったものなのに。――今は全く歩み寄りようがないほどに互いの心はかけ離れてしまった。その原因がそれぞれの心にあるとすれば人間の心とは何と変りやすいものであり、それが二人の棲《す》んだ社会にあるとすれば、社会とは何と酷《きび》しい場所であろう。
有馬が憮然《ぶぜん》となった時、
「確かにその通りかもしれん、だがそうであればなお更、慎重に選ぶべきだったな」
と松波は言った。
「俺の結婚が慎重ではないというのか?」
「はっきり言わせてもらえばな」
「何故だ?」
「お前のワイフは悪妻だよ」
「どうして……?」
有馬は思わず気色ばんだ。
「お前、学生時代、俺たちがよく語り合ったことを覚えているか?」
「覚えているとも」
「語り合ったことの内容もか」
「大体な」
「ふん、覚えちゃおらんさ、もし覚えていればお前はそんな骨抜きにはならなかった。お前は俺の百合子との結婚をほめて、大物の娘にほれられるのも男の実力の一部だと言った」
「…………」
「そして、お前自身もそのようなコネを見つけて追っかけてくると約束した。三神の娘をひっかけたのは、まさにその意味で上出来だった。だがその後がいけない、塩見静子という安サラリーマンの娘……この際、歯に衣を着せずに言わせてもらおう、安サラリーマンの娘にほれて折角の黄金のチャンスを自ら握りつぶしてしまった。
一人の女のためにお前は男の野心を捨てたのだ」
「しかし、ほれた女を妻にするのと、野心のためにほれた女を犠牲にするのと、どっちが人間らしい生き方だと思う?」
「そこだよ、一昔前のお前ならためらわずに自分の野心を選んだろう。人間性だの、人生の意義だのという難しい理屈は俺には分らん、だが少なくとも俺が知っているお前は、生臭くてぎたぎたと脂切っていた。寂れた街道に石仏を殊勝に探しながらも、それがお前の青春のはち切れそうな野望の反動であることはよく分っていた。俺自身そういう人間だったからな。だがお前は現在の女房にめぐり逢《あ》うと同時に、あの脂切った野望をきれいさっぱり捨ててしまった。一人の女との片隅の幸福にお前は雲を抜くような壮大な野望を捨てたのだ。ほれた女に殉じるのが人間らしい生き方だというロマンチックな大義名分をかかげてな。それもいいだろう、どっちがいいかは本人の問題で、誰にも決められないことだ。
だがお前が俺と同じ様に男の野望に胸を熱くしていたことは紛れもない事実だった。そして今は何物にもまして奥さんに価値を見出していることも事実だ。つまり、価値観《ものさし》が変ったんだよ、そしてそれを変えさせた元凶≠ェ誰でもない、お前の奥さんだよ、男の可能性と片隅の平安《マイホーム》を交換させたのだ。俺の目から見ればこんな割の悪い交換はない、その意味で悪妻と言ったんだ」
「お前は自分のものさしで他人を測っているんだよ」
「その通り、だが俺のものさしはお前のものさしでもあったんだぜ」
「どちらがいいか誰にも決められないと今言ったばかりじゃないか」
「結局、そこへ落ち着くな、だが俺は自分のものさしを絶対と信じ、過去も今も、そして将来もそれを変えるようなことはしない、変えない人間が、変えた人間を蔑《さげす》むのは当然だろう」
「蔑む?」
「それはちょっと言い過ぎかな、憫《あわれ》むと訂正しよう、とにかく俺はお前が可哀相でならない。ワイフとの新婚の夢が醒《さ》めたら、又昔のお前に戻ってくれ、男に絶対の価値があるのは仕事だけだよ、仕事の中での意志と闘争、そして勝敗、これだけが男の価値を決めるのだ。マイホームの微温湯《ぬるまゆ》の中でワイフや子供といちゃついている奴は男じゃない、落伍者だ」
「別に俺はマイホーム主義者じゃないぞ」
「さあどうかな? 俺が言っているのは単なる仕事への熱意や興味のことではない、そんなことは兵隊に任せておけばよい。姿勢だよ、精神の姿勢のことだ。常に上へ昇ろうとする姿勢、お前にはすでにそれがない、精神が幸福という現在の快い状態の中で去勢《ふやけ》てしまったのさ」
松波の言葉は鋭かった。有馬は反論出来ぬこともなかったが、あえて彼と討論して自分の真意を理解させようとするだけの熱意はなかった。そのこと自体が松波に言わせれば精神の去勢かもしれない。ただ有馬は未だに生臭い野望のために人間らしいすべての徳目を捨てて悔いない松波のひたすらな生き方に、一種の羨望《せんぼう》と同時に、憫みを覚えた。その意味で二人は互いに憫み合っていたのである。
「男として」という言葉を松波はよく使った。だがそれは果たして「人間として」どんな意味があるのか?
〈男として〉の問題と、〈人間として〉の問題は互いにあい馴染《なじ》まぬ異質のものなのか?
有馬は何か索莫《さくばく》とした気持で松波の許を去った。旧友が久し振りに再会したというのに、後味の悪い別れであった。
今日の再会で有馬が得た只一つの結論は、「会わなければよかった」ということだった。
美しい獲物
1
その日、松波が社に帰り着くと同時に秘書が訪問客のあることを伝えた。
部屋へ入ると小柄の童顔の男が立ち上がった。
「やあ、待たせたかね?」
「はい、二十分程」
童顔の男は、その二十分が勿体《もつたい》なくてたまらないと言わんばかりの表情をした。
「約束に遅れてすまなかったな、つまらない用事にひっかかってね」
時間にうるさい山路を知っている松波は素直に詫《わ》びた。
このちょっと見は二十代で通る童顔の男が、井口証券の名株式部長、山路紫郎である。相場に対する天才的な嗅覚《きゆうかく》があり、朝鮮特需以降の数々の相場を当て続け、数年前、井口証券株式部長のポストに就くや、同社の強大な販売力を背景にして一躍|兜町《かぶとちよう》のスター的存在にのし上がった男である。
それも単に相場を張るだけでなく、株式会社の経営に一定見を持ち、営業成績が悪かったり、経営者間に内紛がある会社は乗取屋《スポンサー》を見つけて容赦なく買い占めてしまうところから、乗取部長≠フ異名さえある。
常に悪戯《いたずら》を企んでいるような丸く小さなよく光る目、鼻筋の全くない団子鼻、いつも汗をかいている鼻の下、そっくりかえった唇などは腕白小僧そのままであり、到底巨額の相場を張る天才相場師とは見えない。
だが松波は知っていた。そのよく光る目が常に大儲《おおもう》けを狙《ねら》うシャープな商人の目であり、その鼻が金の匂《にお》いを敏感に嗅《か》ぎつける動物的嗅覚に恵まれた鼻であり、鼻の下の汗が、エネルギッシュな犬の濡《ぬ》れた鼻のように、彼の旺盛《おうせい》なエネルギーを示すものであるのを。――現に、大阪の大手家電メーカー協和電機に付いて、名古屋の小粒ながら優秀な技術を持つ星電研の乗取り買占めに示した凄腕《すごうで》は、人々の耳目に新しい。
井口証券は日本観光の幹事証券である。
「どうだ、どの位集まった?」
松波は山路と向かい合って坐ると同時に尋ねた。
「昨日の後場《ごば》までに約四千万株です」
「四千万株か、25パーセントまであと一息だな、それでテキさんにまだ気取られないか?」
「まだです、はは、私がお引き受けしたからには、最低25パーセントの少数株主権を確保するまでは、気取られるようなヘマはしませんよ。利食い目的の仕込みに見せかけて、買っては相場を冷やし、又買うという操作をやってますからね」
「そうだったな、今いくら位に行ってる?」
「今日の引け値が百九十円です、百六円から始めたのですから、約一・八倍です。呆《あき》れたことに重役連の中には値上がりに気をよくして、その原因も知らず、持ち株を手放して儲けた奴もいます。こういう馬鹿な連中が、大きな顔をして経営者の看板をかかげているのですから乗取屋に狙われるのも当然です」
「乗取屋とは人聞きの悪いことを言うな」
松波は山路のずけずけしたもの言いに苦笑した。
「いいじゃないですか。株式会社の経営者たる者は、女を愛するように自分の社を愛さなければなりません。そうであってこそ、株式の貴重な資本を信託されて会社を経営する資格があるのです。社の利潤の追求のためには手段を問わぬ鉄の心と、そして得た利潤はあらゆるものに先がけて株主と会社に還元する公正無私の者にしてはじめて、無数の人間の生活がかかる株式会社を任せられる。それを何か? いくらか株価が上がったからと、僅《わず》かな利ザヤのために手持ちの自社株を売り渡す。その無節操と無定見、愛社精神の欠除を何に譬《たと》えよう。まるで売春婦と同じです。腹が減ったからと自分の子供を喰う駄獣と何ら変りない。常務、私が単に相場を張るだけでなく、乗取部長と悪口を言われるほどに弱体《ボロ》会社の買占め乗取りに異常な興味を示すのも、そんな連中に会社を任せているのがしんそこ腹が立つからなのですよ、私は乗取屋ではない、相場師です。だが、乗取屋必ずしも経済ギャングとは思わない。なるほど商法の盲点をついて、他人が長い年月手塩にかけて育ててきた会社を乗取る行為は許せない。だが、株式を公開した以上、その社はすでに経営者の私物ではありません。株主の信託に応えられぬような経営者は潔《いさぎよ》くお引き取り願った方が、社会的利益にも合う。そうと信ずればこそ、この度の葉急買占めにも進んでご協力申し上げているのです」
松波は山路が熱っぽい口調でまくし立てるのを内心苦笑しながら聞いていた。すでに何度か聞かされた、そして業界でも有名な、山路理論≠ナある。
しかし、彼が何と言おうと、乗取りが、他人の営々と築き上げたものを奪取することに何の変りもない。強い者が弱い者を喰う、この資本主義社会当然のルールを実行するのに、一々そのような理屈をつけなければ行動出来ない山路とは、案外ロマンチストなのかもしれない。そのことは、彼の唯一の趣味が山登りだということからも窺《うかが》い知れる。松波自身も、学生時代、石仏を求めてうらぶれた街道をさまよい歩いたものだが、卒業後、何故あんなつまらぬ石ころ≠相手に貴重な学生時代を浪費したのかと悔やみこそすれ、懐しむことはないのに反して、山路は今でもひまさえあれば山へ行っているそうである。
彼が登山という無償の行為に命を賭《か》けている間は、彼がどんなに腕ききの相場師であり、乗取り部長であっても、松波は心から信頼しないつもりであった。
だが、そんな彼を可愛いいとは思っていた。ビジネスはビジネス、趣味は趣味と、はっきり割り切り、自分の趣味を商談の間に(たとえ余談としてであっても)仄《ほのめか》されようものなら、あたかも、自分の恥部に触られでもした如く、慌てふためいて話題を転じようとする山路に、弱味を握られた極悪非道の商人を見るような可愛いさ(?)を覚えた。
その山路は松波より二十歳も年長なのである。松波自身、生来の素質もあったろうが、この数年の間に天晴れ商人に成長したと言うべきであった。
「君の協力は感謝している。もともとこのオペレーションは君の協力なくしては出来ぬ業だ。金は菱銀からいくらでも出る、いずれは気がつかれるのだから25パーセントを確保したら、コストには構わず正面から買い集めて欲しい」
発行済株式総数の25パーセント以上を確保すると、少数株主を保護する権利として、取締役の選任にあたって累積投票請求権が行使出来るようになる。
これは株式会社経営において多数派の横暴を抑え、少数株主の意見をも経営に反映させるために議決権個数に応じてその代表者を取締役会に送りこめるようにした比例代表制度の一種である。
この権利が25パーセント以上を保有した時から発生するのだ。即ち、商法上の「少数の最下限」というわけである。従って25パーセント以下では、何も持っていないのと大して変りはない。
少数株主を保護する権利としては3パーセント以上、及び10パーセント以上の保有にも取締役解任請求権や、会社業務財産状況検査権などが与えられるが、乗取りを狙った場合、会社の腹中深く取締役を送りこみ、経営そのものを握れる累積投票請求権に比べれば、竹槍《たけやり》とミサイルほどの違いがある。
25パーセントの確保が乗取りにおいてとにもかくにも辿《たど》り着かなければならない第一|橋頭堡《きようとうほ》とされるのはそのためである。
「かしこまりました」
山路はニンマリと笑った。
2
「ところで大川の動きはどうかな?」
「大川|威《たける》ですね、この頃はすっかり老い耄《ぼ》れて往年の元気はありません。ナワバリもあらかた子分共に譲り渡し、この頃は隠居ですよ」
「葉急の経営陣があれほど無能にもかかわらず、職業買占め屋や乗取り屋に今まで狙われなかったのは、大川が顧問としてにらみをきかせていたせいが多分にある。だがいかに威力があるとはいえ、一総会屋の手で企業経営権が左右される時代は去った。あんたの言う通り、経営者の資格のない人間には潔くお引取り願うのだ」
「しかし、大川の力を余りみくびってはいけません」
「あんたらしくもないことを言うね。株の過半数を握ったら一総会屋が何をぬかそうとどういうことはない」
「何株持っていようと、総会における発言権は同じです。そこでものを言うのは、株式保有数よりは、プロ株主としての弁舌とかけひきなのです」
山路はだから素人は困ると言うような顔をした。
大川威というのは超A級の総会屋で、業界では「大御所」と呼ばれる最長老格である。持ってうまれた図太さと弁護士はだしの法律知識にものを言わせて、これはと目をつけた会社にはスッポンのように喰いついて放さない執拗《しつよう》な攻撃で売り出し、晩年は手の裏をかえすように企業防衛屋に落ち着いてしまった。
財界のダニなどと蔑《さげす》まれながらも、利害関係の対立する株式会社において経営を決定する株主総会の運営は、守るも攻めるも、総会屋と呼ばれるプロ株主の手を必要とする。
ましてこれが大企業の乗取りという、現代の城をめぐる攻防戦となると、攻城側も籠城《ろうじよう》側も、平和時の総会とは比較にならぬプロフェッショナルな技術を要する。
金と商法とかけひきにものをいわせた攻防に最後の判定を下すものは、総会屋の質量であることが多いのだ。
「だからあんたを頼んだんだよ、金はこちらが引き受ける。株集めと、総会工作はあんたに任せる」
「私は総会屋じゃありません、だがいったん請負ったことには責任を持ちます。総会屋も大川と並ぶ大物をすでに確保してあります」
松波はそれが誰であるかあえて訊《き》かなかった。誰であろうと、山路が請負ったからには信頼のおける人間にちがいない。山路とはそういう男なのである。
松波が葉急、即ち、京葉急行に目をつけてから久しい。京葉間を中心に水郷一帯にネットを持つこの電鉄は、地の利の割に営業成績が伸びず、特にここ一、二年の業績低下は目を被うものがある。
自動車の著しい進出に市場を蚕食されたのが最大の原因とされているが、経営陣の内部に派閥争いがあり、沿線開発や他観光事業の多角経営など、何ら積極的な手を打たなかったのが真因のようである。
主として東京西部地区に路線を持つ日本観光にとって葉急は垂涎《すいぜん》の的であり、全東京を支配するための目の上のたんこぶでもあった。
松波は結婚の仲人までしてくれた古川社長を無能として追い落とすと、専務の水上を自分の意のままに操れるロボット社長に据えて日本観光の実権を握るや、菱銀の資力を背景に、徐々に宿望の美しい獲物≠ノ牙《きば》を伸ばし始めたのである。だが獲物はそれだけではなかった。
「葉急、――こいつを手中に納めれば、更にもう一つの美味《うま》そうな獲物が、喰ってくれと言わんばかりに待っている。ふふ楽しいな」
「もう一つの美味そうな獲物、ははああれですな」
「そう、あれだ」
二人の男は瞳を合わせて楽しそうに笑った。
華やかな孤独
その夜、松波が三鷹の下連雀《しもれんじやく》の自邸に帰り着いた時は、すでに十時をまわっていた。この高級住宅街の一角でも、庭を広々と取った彼の邸は、威圧的な石垣と豊かな緑に囲まれて一際広壮であった。結婚と同時に駒井忠左衛門が建ててくれたものである。
送って来た運転手の最敬礼に大様に応えた松波は、冷え冷えとした玄関へ入った。玄関ばかりでなくこの家のものはすべて冷え冷えとしていた。門も庭も、茶の間も寝室も、家具の一つ一つまでが彼を冷ややかに見下し、彼の存在を拒否しているように見える。
最初のうちは松波もそれを自分の貧乏育ちの僻《ひが》みのせいかと考えていた。だが日が経つにつれてそうではないことがはっきりと判ってきた。
その家の主人は松波ではなく、百合子であった。松波は女主人の許しによって辛うじてその一隅に身を置くことを許されている存在に過ぎなかった。
事実、彼が結婚と同時にその家に持ち込んできた物は、数着の洋服と、小さな本箱を辛うじて満たした本だけだった。
「お帰りなさいませ」
玄関の敷台には、これも彼の存在を拒否している中年の女中が、比類ない丁重さと冷ややかさで彼を迎えた。
「百合子は?」
「奥様は地の塩会≠フ皆様と帝劇へ観劇に行かれまして、今夜は遅くなられるそうでございます」
地の塩会とはこの近所の有閑マダム連で結成している親睦《しんぼく》の集まりである。キリストの「汝らは地の塩なり」の言葉を取って、もてあました閑《ひま》を社会福祉のために役立てようという趣旨で発足したのだが、それはあくまでも表向きの名目で、実は閑と金のあるマダム連が寄り集まって面白おかしく遊ぶためのグループであった。
それでも最初のうちは、殊勝にも施設の慰問などをして社会福祉の真似事をしていたらしいのだが、すぐにメッキが剥《は》げて、物見遊山の旅行や、観劇、買物と連日浮かれ遊ぶようになった。
最近では社会探訪と称してゲイバーなどにも足を踏み入れ、よからぬ遊びにふけっているらしい。
松波は、地の塩会[#「地の塩会」に傍点]が男の血潮[#「血潮」に傍点]を吸って生きている女たちの集まりのような気がした。
どうせ家つきのわがまま娘共が、婿として来た夫共が何も言わないのをいいことにしたい放題にふるまっているのだろう。
(やらせておくさ)と松波はそんな妻の姿に心の中でうそぶくのだ。彼女らは知らない。おとなしい夫共が、彼女らを自分が太り成長するための栄養としているに過ぎないことを。
それ故にこそ、彼女らの目にあまる行動も薄笑いして見過ごせるのだ。やがて男たちが栄養としての妻を必要としないまでの力を蓄えた時、その時こそ彼らは生来の冷酷さと積年の怨《うら》みをいかんなく発揮して、彼女らを絞りつくしたチューブのように投げ捨ててしまうだろう。
その日の大きな喜びのために、男たちは男として到底、耐え忍べないような屈辱にもじっと耐えている。
「お食事は?」
女中が尋ねた。
「済んだ」
「お風呂はいかがいたしますか?」
「入ろう」
風呂から上がると、直ぐに寝室へ入った。妻の居ない寝室は、荒涼たるものである。ましてダブルベッドへ一人で寝るのは、独身者の一人寝よりも侘《わび》しいものである。
(どうせ今夜は帰っては来まい)
この頃百合子はよく外泊するようになった。十時を過ぎても帰宅しない時は、まず諦《あきら》めた方がよいことを彼は知っていた。帰って来ないとなると、ダブルベッドの広さが急に身に迫った。手段としての妻ではあっても、女としての効用は高い。松波も百合子の躰《からだ》は愛していた。
どこかの豪華なホテルで金で買った「コールボーイ」と肌を絡めている百合子の白い躰が、瞼《まぶた》に浮かび上がった。彼女は別に松波を愛していないわけではない。ただ刺激が欲しいだけなのだ。
大半の妻はその刺激を夫への従属の中で耐えて、精々テレビのよろめきドラマの中でごまかす。だが百合子は夫の寛容をよいことに、思う様刺激を追っている。
その証拠にプロから仕入れてきたヨガもどきの体位や巧緻《こうち》なテクニックを松波に応用して悶絶するまで楽しんでいる。
松波はコールボーイ相手にくり広げているであろう妻の夜のしぐさの一つ一つを詳細に思いおこした。妻への憎しみと同時に、どう抑えようもない欲望が脹《ふく》れ上がってきた。
彼はつとベッドから起き上がると、ワードローブの奥から片掌に握りこめる長さ二十センチ程度の小さな筒を取り出した。
それは奇妙な筒だった。筒といっても内部はガラン胴ではなく、ゴムのようなぐにゃぐにゃした物体で充たされ、一方のみに開口した穴の入口を中心に、さしわたし十センチほどの毛皮がついている。
彼はそれを手に再びベッドへもぐりこんだ。ベッドの中で松波は奇妙な動きをはじめた。彼の躰の形をそのまま浮かび上がらせかけた布は、規則正しい上下運動をくりかえし、彼の呼吸は次第に忙しくなっていった。
上下運動と呼吸が最高に極まった一瞬、松波は周囲に誰もいない気安さから、かなり露骨な叫び声を上げ、そして急に虚脱したようになった。ややあってベッドから、
「さすがはわざわざトルコから直輸入しただけある、本物と大して変わらない」
と満足した一人言が洩《も》れた。
それは妻の帰らぬ夜の、彼のひそやかな悦楽であった。その筒だけがこの広い邸の中で彼を拒否しない唯一の味方であるように思えた。
立派な妻(肉体的な意味で)を持つ身でありながら自慰に耽《ふけ》る。しかも妻が他の男と寝ている時に、妻の体臭が残る夫婦の寝室で。――
妻の不倫に対抗して浮気をするつもりならいくらでも出来る資力を持ちながら、ひたすら一穴を守って自らを慰めているこの言い表わしようのない節操と、不甲斐《ふがい》なさ。
だが松波にしてみれば、それは決して節操でも不甲斐なさでもない。それらはあくまでも彼の野望を達成するための手段に過ぎなかった。
百合子がどんなに乱倫を極めようと、いや、そうであればあるほど、自分は堅く身を持していなければならぬ。そうであって初めて、駒井忠左衛門に対して優位に立てるのだ。百合子の乱行は、すでに忠左衛門の耳に入っているほどである。それにもかかわらず、ひたすら百合子一人をまもっている松波に、忠左衛門は製造元《メーカー》≠ニしての責任を感じているらしく、公私共に松波に対してますます肩入れを強くしてくれるのである。それは婿としての愛情よりは、娘の不行跡の補償の意味が強いのであろう。
だが松波にとってはどちらでもよかった。要するに駒忠の強固なバックアップさえ得られれば――そのためにはどんな屈辱も、屈辱ですらない。むしろ男として忍び甲斐のある忍耐ではないか。
松波はこの頃、むしろ豪華な気分でトルコ直輸入の性具に見《まみ》えるようになっていた。確かに妻の体液が沁《し》みついたベッドで一人自慰に耽るのは、花やかなる孤独と言えぬこともなかった。
蹂躙の商法
1
有馬が結婚して二年経った。百万円にはならなかったが、ややそれに近い金額が貯まった。彼らはそれを頭金にして千葉県のN市に出来た住宅公社の長期分譲住宅を買った。
通勤にはやや不便になったが、広々とした田園の中の3DKは、今まで借りていた民営アパートの非人間的空間に比べれば天国だった。
「森も川もあるわ、私たちの子供もあすこでトンボを追っかけたり、水遊びをしたりするんでしょうね」静子は妊娠《みごも》っていた。そして腹の中の児がその野川を元気に遊び回っている姿を思い画《えが》いているのである。
百万円貯めたらという約束を、有馬が一方的に破ったわけではない。健康な男女が結婚すれば家族計画などというものは、厳密に守れるものではない。
百万円貯まらなかったのも、実はそのせいだった。
もっと勤めると言い張る静子を、腹のせせり出た女房を働かしては、亭主の不甲斐なさを広告するようなものだと有馬が無理に止めさせたのである。
当然、生活が苦しくなるところだったが、ちょうどタイミングよく、彼が係長へ昇進した。おかげでかなり大幅な昇給をみたので、生活危機に落ち入ることもなく、分譲住宅の頭金まで払えたのである。
昇進した時は有頂天で気がつかなかったが、後で武井課長から、三神専務の特別の内意があったことを聞かされた。
個人的なひきに頼らなくとも、有馬にはそれだけの働きをしている自信があったが、それにしても梢を振ってから相当にらまれるものと覚悟していただけに、結婚の媒妁《ばいしやく》といい、この度の内意といい、三神の厚意には一種の薄気味悪さと同時に、体の芯《しん》から湧《わ》くような喜びを覚えた。
「専務は俺《おれ》を個人的にかってくれている、その信任は愛娘《まなむすめ》を振られても覆らぬほどに厚いのだ」
そう思うと有馬は、静子を選んだ時に殆《ほとん》ど諦めた都屋における自分の将来に、再び明るい光明を見出したのである。
そのことは彼の仕事ぶりに以前に倍する自信を与えた。
三神の社長就任はもう確定的である。彼の信任――それも並々ならぬ――を得ているとなれば、最高のエリートとみてよい。
家庭へ帰れば優しい妻が待っている。生活は安定している。職場と家庭に恵まれ、まずはサラリーマンとしてこれ以上の幸福は考えられない。
有馬は幸福だった。松波によれば幸福とは「現在の快い状態の中で精神がふやけた」のであり、有馬自身も以前は同じ様に考えていた。
だが現実にそれを手に入れてみれば、何ものにもまして貴重なものであり、それを維持するためにはいかなる手段も辞さないほどに愛《いと》しいものだった。
それに幸福と野心は決して矛盾するものではない。むしろ現在の幸福が、より大きな幸福を求める野心(野心とはまさにそのようなものではないか)を誘発する。
幸福とは決して「精神がふやけた状態」ではない。片隅の幸福などという言葉は、将来を諦めた人間が、せめて現在の状態だけは失うまいと、それに必死にしがみついている姿ではないか。
有馬は幸福をえて、以前の脂切った野望を取り戻した。一つの事件が起きなければ、彼はその野望を見事達成したかも知れない。彼はそのことにより、ようやく築き上げた家庭の幸福も、仕事の自信も、その価値観すらも根本から崩されてしまうのである。
2
「葉急沿線はほぼ終わりました」
「ほぼ?」
「はい、残るのはF市だけです」
「依然としてF市か」
「あすこの商店連合会が予想以上に結束が堅くて。しかし、もうそれも時間の問題となりました。今は断末魔のあがきとみてよいでしょう」
「断末魔か、ふふ、うまいことを言うな、それでどういう風になっているのだ?」
都屋の専務室で二人の男が密談している。一人は言うまでもなくその部屋の主、三神陽一郎、もう一人は有馬正一であった。
葉急、すなわち、京葉急行電鉄は都屋とは資本連係会社であり、互いに株を持ち合い、大株主となっている。葉急が京橋の都屋本店の地下を基点としていることも、両社の密接な関係を示すものである。
元来、百貨店は広範囲の地域から客を集めなければ、その経営は成り立たない。電鉄会社にとっても沿線やターミナルに百貨店の有無は、利用客数に大きく影響する。電鉄会社が本業以上に百貨店経営に熱くなるのは、そういう事情があるからである。
その意味で都屋と葉急は互いに持ちつ持たれつの仲であり、役員の交換や、人事の交流も行なわれている。
両社は五分と五分の関係であるが、一般は、都屋を葉急系列の企業とみている。
この度チェーンストアの形でまず葉急沿線に都屋が進出を企てたのも、このような両社の密接な関係があったからである。
しかしチェーンストア造りに乗り出してから数か月後、都屋にとって甚だ憂慮すべき事態が葉急に発生した。それは葉急が日本観光の資本系列に組入れられたことである。
日本観光は最近弱小資本を次々に吸収しては事業を拡張していくので悪名を上げた企業である。
葉急がこの日観の傘下に入ったとなれば、都屋と葉急との間に慣習的に結ばれていた相互不可侵条約≠ヘ破棄されたものとみなければならなかった。それだけではない。葉急を手中に納めた日観が、葉急と相互持株の都屋に対してガメツイ食指を伸ばさぬはずがない。都屋も今までのように紳士会社葉急の防波堤の下にのんびり構えているわけにはいかなくなったのである。
ところが都屋の身構えに対して日観は張合いのないほど鷹揚《おうよう》なものであった。
系列に組入れたとは言っても、重役陣は殆ど元のまま残して、葉急の自主性を尊重していたため、都屋との関係は実質的に殆ど変わりなかった。
それが日観の世を欺く常套《じようとう》手段であることは分っていたが、都屋としては、葉急の従前通りの協力は、ミヤコチェーンの形成のために切実に必要なものであり、そして何よりも有難いものだった。
こうして都屋は目先の利益のために、あんぐり口を開いた餓狼の前に折角張りつめた警戒心を次第に解いていった。日観が外部では相も変わらぬ貪欲《どんよく》な侵略を続けていることも、自分に対しては至極おとなしいのに油断して、対岸の火事としてしか見なかったのである。
ともあれ、都屋は葉急の協力の下に沿線諸都市にミヤコストアという三十六店からなる大チェーンストアをほぼ一年で創り上げた。首都圏とはいえ、千葉県に入ると地方色が濃い。排他的、閉鎖的で地元商店会の結束も固い。このような地域《コミユニテイ》への進出は並大抵でない苦労が伴った。
それらの困難や抵抗を、あるいは札束で頬《ほお》を叩《たた》き、あるいは暴力団まがいに脅かしたりして一つ一つ取り除き、遂に全沿線に都屋の支配を確立したのがわずか一年の芸当であるから、これは大したことであった。
このオペレーションの推進力となったのが営業企画である。その中でも阿修羅《あしゆら》のような働きを示したのが、有馬であった。
彼の度胸と、潜在していたあくの強さが、並みのサラリーマンには到底出来ないような思い切った手を次々に打たせた。
たとえば、現金問屋の利用がある。デパートと問屋は車の両輪のようなもので持ちつ持たれつである。百貨店の資本力にものをいわせての横暴はあっても、系列問屋網の固定した支持がないことにはデパート商売は成り立たない。
これを有馬はミヤコストアが別会社であるというところから、従来の系列問屋をスパッと外し、集客用の目玉商品を現金問屋から大量に仕入れたのである。
今日明日の手形を落とすことに命がかかっている問屋は現金に弱い。
メーカーからの仕入れ値で、あるいはそれを割ってまでも、彼らは資金繰りのために商品《ぶつ》を流した。倒産した問屋から流れた商品もあれば、臟品《ぞうひん》まがいのものもある。それを札束をちらつかせて買い叩くのである。
これはすでに慣習化された百貨店の、手形による委託販売仕入方式を打ち破るものであった。
現金による完全買取りが、仕入単価を大幅に下げ、思い切った安売りを可能としたのは当然である。
系列問屋との密接な関係上、従来の百貨店には出来なかった芸当を、別会社という名目の下に、彼は見事にやってのけた。
しかしミヤコストアが都屋の完全子会社であるのは明らかである。これに対する系列問屋の不満がようやく表面化しようとした時、有馬はミヤコストアの本拠地と予定したF市への進出作戦に、彼らの不満のエネルギーを巧みに転用することにより、問屋側の不満を躱《かわ》すという見事な一石二鳥を演じた。
見方によってはミヤコストアの進出と確立は彼が中心力であったと言えぬこともなかった。
それにもかかわらず、F市は陥ちなかった。頑として都屋の進出を拒み、商店が結束して対抗している。
F市は京葉間のほぼ中心にあり、京葉コンビナートや大団地をバックにひかえて急激に発展した都市である。が、もともとは近郊にある成田不動尊参拝客の宿泊でにぎわった宿場町で、街道に沿って帯状に発達した商店街が町の中心となっている。
こんな土地柄であるから、排他性の強いのは当然であった。都屋側もある程度覚悟を決めてことにのぞんだ。
ところが、その抵抗が尋常ではなく、交渉を始めてすでに半年近くになるのに、依然として同市の三分の一の小売店は都屋を拒んでいるのである。
拒むも何もない、強引に進出して商売を始めてしまえばよいのであるが、店舗予定地で数店が頑強に用地買収に応じない。
農家と異なり、商店の場合はどんなに頑強に抵抗しても、土地そのものへの愛着が少ないから、所詮《しよせん》は金に転ぶ。それに百貨店の進出はあながちマイナス点ばかりではない。そのブロックへ広範囲から客を集めるから、かえって地元商店はおこぼれでけっこううるおうことがある。
進出にあたって地元にも賛成派がかなり出るのはそのためである。F市の場合もその点例外ではなかった。反対派も有馬らの大資本にものを言わせた工作で櫛《くし》の歯がかけるように脱落していた。
だが問題は残った反対派の異常な固さである。この買収が成功しないことには、膨大な金を注ぎこんで買いしめた既得用地が無駄になってしまう。
葉急沿線への進出にあたって、各進出地毎に店舗を新築したり、用地を買っていたのでは、どんな豊富な資金があっても足りなくなるので、葉急の関連会社である葉急不動産から店舗設備を|賃借り《リース》している。
しかしF市が京葉間の中心地であり、都心まで三十分の衛星都市として人口二十三万、葉急全線で千葉に次ぎ乗降客の多い土地柄に着目した都屋は、この地を全チェーンの本店とする計画ですべての店舗設備をリースに頼らず、自分で賄《まかな》うことにしていた。
是が非でも手中におさめなければならない重要拠点だったのである。
「市に働きかけての圧力、札束攻勢、直接の説得、親戚《しんせき》や友人達を使っての説得、女房、息子などへの働きかけ、すべてだめでした」
「お前がそれだけやってだめとなると、よほど頑固なんだな」
「頑固というよりは意地になっているのです。しかし、それにしてもそうそうは長く続くはずはない、それなのに続いている、これはおかしいと思って探ってみたのです」
「探った?」
「用地の買占めに応じないのは、栄屋家具店とみどりや食料品店と、春山商店という呉服店三店です。いずれもF市では上位にランクする小売店です。だが、上位といっても田舎町の小売屋、たかが知れている、それなのにこちら側の示すかなり有利な買い上げ条件に応じない、経営状態もさしてよくない。不思議に思って探ってみたところ、思わぬ事実が判ったのです」
「それは?」
「N市の商店会がこの三店に金を出していたのですよ」
「何! N市がか?」
聞き手の頬がピクリとした。
「そうなのです。これには我々も気がつきませんでした。迂闊《うかつ》でしたよ。百貨店が進出すると、それを中心にして地元全体が栄えるというのは、我々が地元を説得する常套《じようとう》ですが、それがあてはまるのは、精々、ワンブロックです。そこからちょっと離れた商店街は、客を根こそぎ奪われ、百貨店ブロックの繁栄と逆比例してさびれてしまうのが通例です。
F市に当社が進出した場合、打撃を受けるのは、F市の商店街ではなく、隣接するN市だったのです。我々はF市に働きかけるより、むしろN市に働きかけるべきだったのです。こんな百貨店商法の初歩すら気がつかずに恥ずかしく思っております」
ここまで言って有馬は慚愧《ざんき》に耐えないといった風にちょっと面を伏せた。
「それでどういう手を打ったのだ?」
三神は話手の感傷などには関係ないと言うように感情のない口調で先を促した。
「はい、近日中にF市で大がかりな出張販売をやるつもりでおります」
3
その翌日、都屋に出入りしている問屋たちで結成されているミヤコ会のメンバーの中、衣料品、食料品、身の回り品、家庭用品、家具などを納入している問屋約二百社が、都屋本店に非常呼集≠かけられた。
すわ、お家の大事と、押っ取り刀で駆けつけて来た各社代表者二百名の前に立ったのは、有馬である。都屋の一挙手一投足に自分の運命がかけられている彼らにしてみれば、都屋はまさしく彼らのお家≠ナある。その意向や命令は何物にもまして優先されなければならなかった。
したがって、集まった人間の殆《ほとん》どすべては、問屋の社長であり、そうでないところでも代表権のある専務クラスであった。
大半は腹がでっぷりとせり出した、それら一国一城の主を前に、有馬は少しも悪びれずに話し出した。
それに対して内心はいざ知らず、少なくとも表面は、主君の前にかしこまる家臣のようにこれら一くせも二くせもある男達が神妙に聞き入っているのであるから、有馬が背負った都屋の権力の強大さがよく分る。
「今日は皆さんに非常によいお知らせがあります」
一瞬、波のようなざわめきが、それら一国一城の主≠フ上に広がった。有馬がこのような冒頭句《イントロダクシヨン》で話をはじめる時は、ろくなことではないのを知っていたからである。
有馬はざわめきを捻《ね》じ伏せるように話し続けた。
「皆さんはすでに当社の連係会社、ミヤコストアのことはよくご存じだと思います。したがって詳しい説明は省きますが、今F市とN市において地元の抵抗をうけて店舗用地の買収が思うにまかせません。そこで地元の反対商店を排除するために出張販売を計画いたしました」
有馬はここでいったん言葉を切って、ここまで言えば後は分るだろうと言わんばかりに二百人の顔を見渡した。考えた上での演出である。再びざわめきが起きた。
それが末広がりに消えるのを待って、
「つきましてはこの際、ミヤコ会の皆さんのご協力を是非とも仰がなければなりません。いや協力というよりは、皆さんが主力となってやっていただきたいのです。と申しますのは……」
ここで有馬はF市の商店に対するN市商店会の肩入れを話した。そしてF市へ進出するためにはまず、N市の有力商店群を叩《たた》き潰《つぶ》さねばならぬことを熱っぽい言葉で説明した。
口調そのものは冷ややかであったが、極度に冷たいものに触れると冷感だか、熱感だか区別がつかなくなるように、聞き手は冷酷の底に燃えるある熱さを感じ取ったのである。
「衛星デパートの商品構成は、母店《マザーストア》と異なり、回転の早い生活必需品が主力となります。ミヤコストアが進出して最も痛手を被るのは、言うまでもなく、衣料品、家庭用品、食品などの小売商です。従ってF市へ肩入れしているN市商店群の主体は、やはりそれらの小売商です。我々はまず彼らを叩き潰すために、F市の既得用地においてこれら商品を主とした出張販売を大がかりに行ないます。
そこで皆さんにお願いすることは、第一に取扱全商品を下代《げだい》で販売していただくことです。第二に、この出張販売は表向きは都屋の名の下に行ないますが、実際には皆さん方にイニシャティヴを取っていただきます」
会場はにわかにざわついてきた。そのざわつきを代表するかのように最前列にいた問屋の一人が立った。いかにも大問屋の風格を備えた恰幅《かつぷく》のいい男である。
「と仰有《おつしや》いますと、我々が店員を派遣してですか?」
「そうです」
有馬は残酷なほどはっきりと言った。
「そんな馬鹿な!」
「無茶だ!」
「ちっともいい知らせじゃないじゃないか」
などと悲鳴にちかい言葉が会場のあちこちに迸《ほとばし》った。
下代とは都屋の符丁で、問屋のメーカーからの仕入れ値をいう。これに対して上代《じようだい》が小売価格、中代《なかだい》が問屋から小売店への卸値のことである。大体百貨店の|あら利益《グロスマージン》は全国平均21パーセントである。
これがいわゆる中代であるが、都屋の場合は更にガメツく買い叩き、28パーセントのマージンを確保していた。
従って都屋出入りの問屋の中代は、他店系よりも更に低いわけである。だから彼らのマージンはそのやせ細った中代の中にある。
ところが有馬は下代で売れというのである。つまり、マージンを捨てろと言っているのであった。
戦後の問屋は戦前に比較して極度に資金力が貧弱となり、メーカーと小売商に対する発言力が殆どなくなってしまった。
現今の問屋は、メーカーと小売商を結ぶコンベアベルトに過ぎないと言っても過言ではない。とにかく買ってくれる小売商があればすぐにでも商品を流したい。少なくとも、商品が自分の所を経由して流れているかぎり、企業としての息はあるわけである。
有馬はそんな問屋の足もとを見すかして、マージンを捨て、メーカーからの引き渡し値で売れと要求したのだ。
しかも、販売のイニシャティヴは問屋が取れと言う。イニシャティヴと言えば聞こえはよいが、販売に要する人件費や経費はすべて問屋もちである。売れば売るだけ赤字になる出血販売、彼らが馬鹿なと叫び、無茶だと悲鳴を上げたのは当然であった。
「何が馬鹿ですか? 何が無茶ですか!?」
それに対して有馬は少しも動ぜずに言った。全く感情を喪失したようなポーカーフェースで問屋の動揺を受け止めている、問屋の子供ぐらいの年齢差のある有馬に、それが彼に託された都屋の権力のなせる業であることはよく分っていながら、問屋連は何か、個人的な威圧感を覚えたものである。
「こんなことは今更言うまでもなく、都屋あっての皆さんです。その都屋が地方進出にあたって苦戦している。我々からの要請がなくとも、皆さんの方から自発的に協力を申し出られるべきじゃないですか」
「それにしても、メーカー仕入れ値で、我々の直売とは」
「いやな方はおりられてけっこうです」
問屋の二、三人が上げた必死の抗弁に容赦ない終止符を打つように、
「現在までに葉急沿線に設立されたミヤコストアは三十五店です。F市の本店ができ上がれば、一応、葉急沿線下のミヤコストアチェーンは完結したと言えます。我々はこれを足がかりに更に近県に、将来においては全国にミヤコチェーンを拡張するつもりです。
従って、その本拠地たるべくF市に進出できるか否か、ミヤコストア成否の鍵となります。このような際、ミヤコ会としてはぜひ共……我々の要請によってではなく……皆さん方の自発的な意志としてこの計画に加わっていただきたい。
皆さん方は都屋の出入り商人ではない。都屋の身内だと思って下さい。但し、思うだけではだめです、証拠を見せてもらいたい。多少の出血サービスにすぐ悲鳴を上げるような手合を、我々は身内とみとめません。
それは彼らが部外者である証拠です。ミヤコストアが一応の完結を見た場合、そこの出入りは莫大《ばくだい》な利権となります。意のあるところを示してくれた方々が、その利権享受にあたって優先されることはもちろんです。私が最初よい知らせがあると申し上げたのは、そのためです。反対に我々が誠意なしと判定した店に対しては現在の口座も保証いたしかねます」
悲鳴やざわめきはいつの間にか油のような重い静けさに淘汰《とうた》されていった。しかしそれは諦《あきら》めの上に成った静寂であった。
有馬はさらに追い打ちをかけるように、
「なお、念のために申し添えておきますが、私共は必ずしもあなた方のご協力を必要としておりません」
最初はぜひともと強制しながら、今となって必ずしも必要でないと言い出した有馬の矛盾に問屋連は狐につままれたような顔になった。彼はそんな一同の表情を楽しそうに見まわして、
「それは、何もあなた方に頼まなくとも、現金問屋を使っても一向にさしつかえないからです」
問屋側は完全に敗北した。有馬が今までの進攻作戦においても、現金問屋をガメツく使ったことはよく承知していたからである。彼らならば金欲しさのあまり下代以下で喜んで売る。
それが今度のF市の攻略に限ってミヤコ会へ呼びかけたのは、おそらく現金問屋だけでは賄い切れない大規模な出張販売を行なうつもりだからであろう。ということはそれだけF市商店群の反対が凄《すさま》じく、マージンなしでどの位の期間、どの位の商品を、問屋側の負担で売るのか見当がつかないことを意味する。
都屋では中央《セントラル》仕入《バイイング》という仕入れ形態《システム》を採っている。これは仕入れを各店毎に行なわず、中央に集中して行なうもので、大量購入による値下げ、人件費の削減、二重仕入防止、値段統一などに大きな効力を発揮している。
28パーセントという高マージンもこの仕入機構によるものであった。口座からおろされるのはこのシステムからしめ出されることである。
彼らにとってミヤコストアへの出入などどうでもよい。中央仕入機構から外されるのが怖いのだ。それは都屋から完全にしめ出されることなのである。都屋だけに寄り縋《すが》って生きてきた者が、それから見放されたらどうなるか? 現実の利益以外に信ずるものがない。それを維持するためには、どんなことも耐え忍ばなければならない。
それが大企業の横暴と、政府の圧力に痛めつけられた中小企業の姿なのである。
「分りました。そうと分れば、我々も進んでご協力……いやそのう、主力となって出張販売をいたしましょう。ところでどの位の期間、どの程度の量を販売すればよろしいのですか?」
先刻の問屋が有馬の顔色をうかがいながら言った。おそらく自社に帰れば百を超える人間を使っている男であろう。声や態度は聞くからに見るからに重味があったが、その重味の底におもねりがある。
そして、彼自身、有馬づれの青二才におもねらなければならない身分を少しも恥ずかしく思っていないらしい。それはやはり中小企業の辛酸の中に生きてきた男の貫禄と言えぬこともなかった。
「期限は無期限、要するにテキが音を上げるまでです。販売量と派遣店員数は各店の月間納入量に相応して決めます……他に何か、ご質問は?……ありませんね、それでは販売に関する詳細は仕入部より各店別に連絡します。本日はご苦労様でした」
有馬はこの時はじめて、問屋たちに少々頭を下げた。頭を下げたというよりは、目礼に近いものだったが、それでも彼にしては精一杯の礼を示したつもりであった。
ようやく解放された問屋たちが今まで仰えられていた不満を、囁《ささや》き声にブツブツこめて、思い思いの姿で動きかけた時、急激に温度が下がった時のように緊張が全員の間を走った。
三神陽一郎がいかにも偶然立ち寄ったという様子で会議場の中へ入って来たのである。
「ああ、皆さん、そのままそのまま」
三神は緊張した問屋連を鷹揚《おうよう》に手で制しながら有馬の傍に歩み寄り、
「ま、何分若くてハッスルしておるので、いろいろと無理な注文もあるでしょうが、一つよろしくお願いします、皆さんあっての都屋だ、共に大きく栄えようじゃありませんか、ははは」
よく通る声でゆったりと笑った。問屋の中には三神の笑いに迎合した者もあったが、彼らはそれが自分の顔面を引き攣《つ》らせただけで笑いにならないことを知っていた。
言い難《にく》いことは若い有馬に言わせて、最後にダメ押しをした三神の狡猾《こうかつ》さか、それとも、言いたい放題のことを言った後、自分の言葉に重味を持たせるために三神の登場を工作した有馬の商法か、いずれにしても集まった二百人の男達は、自分たちと従業員、その家族を含めて何万という人間の生活が、今この瞬間三神と有馬のたった二人の男に握られていることを痛いほど感じたのである。
4
都屋百貨店のF市出張販売は六月の初日から華々しく行なわれた。
それに先立ち都屋では、大手三紙の千葉県版に三日間続けて三段抜きの広告を行なった。
そればかりではなかった。N市の商店会が目をみはるような大がかりな作戦《オペレーシヨン》を都屋は展開したのである。
五月三十一日土曜日午後、週末の華やいだ寛《くつろ》ぎに浸っていたN市一帯の住宅街は、殆《ほとん》ど一斉に奇妙な戸別訪問を受けた。選挙運動や百科事典のセールスマンによるものではない。
彼らは一様にF市までの葉急の往復乗車券家族相当数と都屋のマーク入りのタオルや、大箱マッチを置いていった。言うまでもなく、都屋がくり広げた人海戦術である。葉急とタイアップしてN市民を根こそぎ出張販売場へ運ぶために有馬が考え出した手であった。
出張販売へ来ても来なくても構わない、販売期間中はN市―F市間の足代を無料にするという大企業ならではの物量にものを言わせた策は、N市商店会に大きな衝撃を与えた。
それに追い打ちをかけるような商品のダンピングである。町外れで切符の配給≠ノあずからなかった市民までがF市へ足をのばした。
とにかく、ミヤコ会の粒よりの問屋が、メーカーからの引き渡し値で直売しているのである。地方都市の小売商がさか立ちしても勝てるわけがなかった。
「都屋何するものぞ」
「業界の狼、都屋を追い出せ」
「打倒、都屋!」
などのスローガンの下に結束を新たにして、徹底抗戦≠フ意気を示したFN両市地元商店会も、都屋側が無限の物量で連日くり広げるダンピングに息切れしてきた。
それに何より消費者が都屋側についた。どんな抵抗も結束も、所詮《しよせん》消費者という王≠フ絶大な支持の下には紛砕された。
こうなってくるとN市でもF市商店の援助どころではなくなる。特に出張販売の中心となっている衣料品や家庭用品の小売商の打撃は大きく、一円の売上げもないこともあった。
F市の場合はもっとひどかった。百貨店を中心とするブロックが共栄するのは、販売価格に大差ない時だけである。ダンピング、それも資本力に裏づけられた大量長期ダンピングをやられては、まず距離的に近い所から客を奪われていく。
一か月後ようやく事態を重視したF市商店会は寄り集まって対策を協議した。
「出張販売は百貨店法違反だから公取委に訴えたらどうだろう?」
「訴えが取り上げられるまで、こちらの息が続かないよ。第一、そんな訴えが取り上げられたためしがない」
「じゃあどうしたらいいんだ!?」
「わたしが聞きたいよ」
そして結局は弱った弱ったをくり返すのみで一向に結論が出ない。
確かに百貨店法は大資本の百貨店から圧迫されやすい中小小売商を保護するために制定されたものであるが、規定内容が生ぬるくこれがかえって百貨店同士の競争を抑え、彼らを保護する結果となる悪法であるとそしられている。
出張販売などが、中小商業に重大な影響を与える場合は、通産大臣がそれらの中止を百貨店に勧告出来るにもかかわらず、その発動が一度も行なわれていない事実などから見ても、悪法とそしられても仕方のないなまぬるさを持っている。
そんななまぬるい法律に頼っている間に、こちらの息の根が止まってしまう。F市商店会にとっては、今日明日の命が保証出来ないほどの都屋の猛攻なのだ。
「どうだろう、この際、栄屋さんらには泣いてもらって、都屋へダンピングの中止を頼んでみては」
長い協議の末、商店会の会長が言い難《にく》そうに出した案が、ほぼ全会員の一致した意見となった。それは誰もが最初から胸に含んでいた案であったが、仲間を売るようでなかなか言い出せなかったのである。会長が言い出して一座にホッとした空気が流れた。ほぼというのは、頑強に抵抗していた栄屋とみどり屋の二店が折れたからである。
一応、表面は大勢に押されてしぶしぶ納得した形をとっていたが、彼らも実はN市商店会からの援助をとうに打ち切られ、さりとて今まで頑《かたく》なに頑張っていただけに簡単に旗を巻くこともならず、引っ込みがつかなくなっていたところなのである。会長の提案は、実は彼ら二店にとって渡りに船だった。
都屋では特に三店を打ちのめすために彼らの専門商品のダンピング率を大きくしていたので、このまま抵抗を続ければ一家心中をしかねないところまで追いつめられていた。
「同じ降伏するにしても、味方は多いほど講和条件が有利になるだろう」という意見が出て、N市へ話しをかけたところ、先方でも願ったりとばかり乗って来たので、ここにFN両市商店会連合で都屋へ和議申し込みをすることとなった。
だが残った春山商店一店のみが依然として妥協を示さなかった。
「ごね得を狙《ねら》ってるんじゃない、私は先祖代々の家業と土地をこんなことで失いたくないのだ」
店主の春山為吉が言い張った。いわゆるご先祖様に申し訳ないというわけである。いかにも古風《アナクロ》な感覚であったが、それだけにテコでも動かぬ頑なさがあった。
とりあえず、折れた二店舗を買収契約に応じさせて都屋の猛攻の手を緩めさせたFN連合商店会は、力を合わせて春山商店の説得にあたった。
たとえ一家心中をしてもと抵抗の気構えを見せていた春山商店も、地元からの圧力には屈せざるを得なくなった。
こうして、八月十日、春山商店の奥座敷で春山商店から都屋への店舗並びに敷地の譲渡についての両社の話合いが行なわれた。
これが都屋側との最後の話合いとあって、地元から立会人としてFN市商店会長と副会長の四人が座に加わっていた。都屋側は武井と有馬の二人だけである。
一座には先刻から険悪な空気が張りつめていた。それもそのはず、都屋側が提示した買収値が今までの補償よりも著しく安いのだ。
「この値段は何だ? 何も売りたくって売るんじゃないぞ、せめて他店なみの補償をしてもらわんことには話にならん」
顔面をひき攣《つら》せて言ったのは春山商店の店主、春山為吉である。
「お話しにならないのはそちらじゃありませんかね」
今まで黙って商店側の言い分を聞いていた有馬が口を開いた。立会人とはいえ、両商店正副会長も市側の人間であるから、自分の方から和睦《わぼく》を求めたくせに五対二と衆を頼んでいささか高圧的だった小売商店側は、若そうなみかけにかかわらず、どっしりと胸にこたえる口調で話す有馬にちょっと鼻白んだ。
「商品というものは、あまり欲しがっていない者の方が値段をつけるものです」
「欲しがっていないだって!? 最初、売ってくれと言ってきたのはそちらじゃないか!」
春山はとうとう怒鳴り出した。
「最初はね。しかし今は事情が変わりました。今、買ってくれと言っているのはあんた方の方だ。つまり立場が逆になったんですよ」
「き、貴様は!」
「口のきき方に注意してもらいたいですな、我々は今商談をやっているのです。やくざのけんかじゃあない。それにこの商談がまとまらぬ場合、困るのはどちらですかね」
「まま、春山さん」
F市会長は間に入って春山をなだめた。さすがに彼は、都屋側を怒らせた場合の不利益をよく計算していた。この場合はどんなことがあっても契約をまとめなければならない。
もし春山がどうしても都屋の出した値段に不承知とあらば、不足分はF市商店会が共同して出してもよい。N市に呼びかければ、彼らも出資してくれるだろう。
その方が、またぞろ都屋を怒らせてダンピングをされるよりもはるかに上策だ。それに一店あたりに割りふれば大した負担にはならない。
素早く胸算用したF市会長は、
「ちょっ、ちょっと春山さん、それから皆さん」と武井と有馬に軽い会釈をして、地元の四人を別室に引張って行った。
後に残された武井は、彼らの足音が遠ざかったのを確かめてから、
「有馬君、あれまでしなくてもいいんじゃないかね、社からは十分の補償費が出てるんだよ」
武井自身、営業企画の長を勤めるだけあって、かなり企業的な非情さを身につけている。その彼にして有馬をたしなめるような言葉の響きがあったのは、少しでも安く買い叩《たた》いて、首脳陣の覚えをめでたくしようとしている彼の若い功名心が苦々しかったからである、――同時に、有馬の余りにえげつないやり方に、切れ過ぎる部下を持った上司共通の不気味さを覚えたからかもしれない。
「課長、かまやしませんよ。欲をかいてごね得を狙ったばつです。奴らが欲張ったおかげで我々も出張販売でかなりの出血をしております。この際、少しでも安く叩いてその損失《ロス》を償うべきです。それに二度と我々に歯向かうことのないよう、田舎者連中に我々の怖ろしさを思い知らせておく必要があります」
「しかし折角ここまで漕ぎつけた話しが、僅《わず》かな金のことでこわれては……」
「はは絶対大丈夫ですよ。今の地元商店会の連中の顔をごらんになったでしょう、話しがこわれて困るのは奴らなんですよ、今頃、べつの部屋で春山を脅したり、すかしたりしてます、ふふ、いくら春山が頑固でも地元のおえら方の圧力にはかなわんですよ。我々に抗《さから》うことは出来ても、地元に抗ってはもうその土地で商売どころか、暮らしていけませんからね。ま、課長は高みの見物をしていて下さい、あんな田舎っぺは私一人で充分ですわ」
有馬は白い清潔な歯を見せて楽しそうに笑った。まるで、同志《グループ》旅行の下相談でもしているような、屈託のない明るい笑顔に、武井は大資本の怖ろしさよりは、有馬という男の、底知れぬ不気味さを見せつけられたような気がした。
契約は成立した。都屋の、というより、有馬の出した条件を春山が全面的にのんだのである。
翌日の早朝から用地に作業員とブルドーザーが入り、三店の取り壊し作業が始められた。F市商店会ではいずれもベストテンに入っていた三店は、わずか一日のうちに後かたもなく取りこわされ、八月のギラギラした光をミヤコストアF市店工事にとりかかり始めた人蟻と、建設機械群のたてる濛々《もうもう》たる土ほこりがかげらせていた。
敗者の譫言
1
F市の攻略が終わると共に、ミヤコストアチェーンは一応完結した。有馬はこの度の戦功≠賞されて課長補佐昇進の内意を受けた。まだ正式に発令されないが、年度末の異動と共に辞令が下りるとのことである。
入社後僅か数年にして、早くも勤続四十数年の塩見を追い抜いてしまったのである。しかもただの補佐≠ナはない、エリートの巣、営業企画の課長のだ。いかに有馬の功績と実力が高く評価されたとしても、これは年功序列の厳しい都屋では稀有《けう》の事例だった。
当然社内にはこの異数の抜擢《ばつてき》に対する反感も湧《わ》いた。しかし、ミヤコストアの進出において示した有馬の凄腕《すごうで》と、それに何よりも、三神のそれと明らかに知れるバックアップがあらゆる反感や抵抗を沈黙させた。
今や有馬はエリートコースを独走する感があった。そんなある日の朝一通の手紙がオフィスで彼の出勤を待っていた。
それは分厚い書留で、差出人は「春山きく」となっていた。どこかで聞いたような名前だが思い出せない。
記憶をまさぐるよりは、内容を読んだ方が手取り早いと、有馬は性急に封を開いた。
前略、初めてお便りいたします。初めてではあっても、私の姓はまだあなたのご記憶に生々しいと思います。それともあなたのような情知らずの人非人は、今頃はもう私達一家の名前などきれいさっぱり忘れて、新しい犠牲者を探しているかしら。
私の名前は春山きく、あなたに祖先伝来の家と土地と家業を奪われた春山為吉の妻です。これまで申し上げれば、いかに冷酷なあなたでも、思い出したでしょう。
私たち一家はあなたに滅されたのです。あなたはきっと会社の命令でやったことだと抗弁するでしょうね。でも私は聞いてしまったのです。地元の人たちと主人が内相談するために座を外した時の、あなたと課長さんとのお話しを。
私がそれを主人に伝えた時は、主人はもうすっかり闘う気力を喪《うしな》っていました。会長さんたちにいろいろ言いくるめられて、もうどうでもよいような気になっていたのです。もっとも、あなた方の内証話を主人が知ったところでどうにもなるものではありませんでした。
でも私はあなたが憎い。殺してやりたいほど憎いのです。
会社のためにと言えば、大層聞こえはよいけれど、あなたの行為は決してそんな大きな目的のためではなかった。あなたは自分の功名心だけに駆られて、私たちにとっては何物にも替え難い財産というよりは、生活の基盤を、まるで屑《くず》でも買い叩くように、二束三文で強奪したのです。
会社が折角、出そうとしていた補償、会社にとってはゴミのような些《わず》かなお金、でも私たち一家にとっては生き死に関わる大切なお金を、そして当然私たちのものになるはずだったお金を、あなたは自分の功名心を満足させるためだけに私たちの手から奪い取ったのです。
あの日、地元の利害を考えた会長さんたちは、あなたに買い叩かれた不足分は、商店会で出すからと言って主人を納得させたのですが、それは主人に契約書へ印をつかせるための方便でした。いったん契約がまとまってしまえば、そんなお金一銭も出るはずがありません。
都屋がよこした雀の涙の補償金など、出張販売に対抗して無理に無理を重ねた後では焼石に水でした。夫はあの日を境いに人が変わったように気力を喪ってしまいました。
どこか新しい土地で、再起するには、すでに齢を取り過ぎ、そして余りにもこの仕事に馴染《なじ》み、この土地に長く住み過ぎたのです。この土地とこの家業以外に私たちを受け容《い》れ、私たちに出来ることはありません。
住む土地も、仕事も、そしてお金もない――そんな私たちに出来る只一つのことは、自分の手で一家のしめくくりをつけることだけです。
主人から心中の話しを持ちかけられた時は、死ぬほどの気になれば何でも出来るのではないかと思いました。でも今の世の中は、死んだ気になったところで、どうにもならぬものは、所詮どうにもならないと悟るまでに大して時間はかかりませんでした。
結局、私も主人と一緒に死ぬことに同意しました。幸い子供も孫もなく、使用人もすべてひまを取らせた後なので、後腐れはありません。
でも、どうせ死ぬと決めたからには、一言だけあなたに言い遺《のこ》しておきたいことがあります。
それはこのようにして私達一家を滅しても、それがあなたにとって果たして何になったかということです。なるほど都屋は用地を得、あなたは手柄をたてて上役からほめられたでしょう。しかしそういうことが、あなたという人間にとって一体、何になるのでしょうか?
会社のために、そして自分の小さな出世欲のために、人を不幸に陥れていったところで、所詮、空《むな》しい営みに過ぎない。あなたの悪鬼のような働きに対して、会社があなたに酬《むく》いるものはたかの知れたものなのです。
あなただっていつかは齢を取ります。その時になってあなたは自分のなさったことの空しさに気がつくでしょう。
私達の生活と幸福はまさしくあなたの空しい出世欲によって奪われました。もしあなたに人間としての良心がかけらでも残っていれば、これから死ぬまで寝覚めの悪い思いをなさるようにとこれを書き遺しておきます。
この手紙があなたの目に触れる頃は、私達はもうこの世の者ではありますまい。化けて出るなどという時代遅れのことは申しません。でも、一人の人間のこざかしい功名心が、他の人間の命取りになることをあなたに思い知らせるために、出来るだけ無惨な死にざまをしようと考えております。
春山きく
有馬正一様
2
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
読み終わった有馬は吐き捨てるように呟《つぶや》いた。それは虚勢ではなく、彼にしてみれば相手の全く筋ちがいの怒りにばかばかしくて腹も立たないというところだった。
戦いに敗れた奴が何を譫言《たわごと》をぬかしやがる。貴様らがどんな死にざまをしようと俺《おれ》の知ったことか。そんなことで俺の寝覚めが悪くなるだろうと思うような甘さが、結局、お前たちを破滅させたのだ。
最初から敗けると判っている戦いを、下手に手向かうからいけないのだ。怨《うら》むなら、自分の非力を怨め。――
有馬はせせら笑った。彼にとっては、春山きくが憎しみをこめて綴《つづ》った手紙も、何か現代離れのした滑稽《こつけい》さだけを訴えるようであった。だから、文面で自殺を告げていても、少しも実感となって迫らない。
「どうせいやがらせの脅かしさ」
有馬は破きもせずに、デスクの傍にあった屑箱《トラツシユ》へ抛《ほう》りこんだ。彼の前には一日の仕事が山積していた。彼は春山きくからの手紙によって新たなファイトを喚《よ》び覚まされたように、猛然と仕事の山へ取り組んでいった。
今日も確実に遅くなるはずである。――
蝕まれていた花
1
有馬は仕事で遅くなった夜よく塩見家へ泊まる。距離的にはN市の自宅と大差ないのだが、自宅の方は夜十時を過ぎるとバスがなくなってしまう。
駅から歩くにしては少々距離がありすぎるのでタクシーをつかまえることになるのだが、利用客数に比較して絶対数が足りないために、それこそ長蛇の列に並ばなければならない。
その点、狛江《こまえ》の静子の実家は、駅から歩いて行けるので、時間を気にせずに残業が出来る。それに彼は妻の実家の雰囲気が好きだった。
今は舅《しゆうと》となった塩見五八は相も変わらぬ仏像的無表情で彼を迎えたが、その底には息子≠見るあたたかいまなざしがあった。静子の母、つまり五八の妻の貞代も、有馬の訪れを楽しみにしている。
貞代は五八とは対照的に明るい性格で、話し好きだった。話し好きといっても饒舌《じようぜつ》なのではない。饒舌な女によくあるように、他人の悪口《あげつらい》を絶対にしない。団地の入口の覗《のぞ》き窓用のマジックミラーは訪問者を身構えさせる、マジックカーテンはないかしらんとか、お風呂の水を植木にやったら成長《のび》が早い、汗や垢《あか》がいいこやしになるんだろうとか、こんな他愛もない話題を、聞いているのかいないのか分らない五八に、委細かまわぬマイペースで話し続けるのである。
いつでも貞代が一方的な話し手で五八が聞き役と相場がきまっていて、到底会話などと呼べるものではなかったが、五八はそれをこよなき情報源にしているらしい。有馬はそんな二人を見るにつけ、長年つれ添った夫婦のしみじみとした対話があるように思った。
「さあ、寝るかな」
聞くだけ聞くと、五八はボソッと呟いて寝間へ立つ。
「全くお父さんったら、何を話しても、手応えがないったらありゃしない」
と貞代はぶつくさ言いながらも、五八が去った後の話相手を有馬に求めてくる。実は有馬は貞代の話相手になるのが好きだった。他愛もないような彼女の話題の中には、夫を扶《たす》けて人生の荒波をくぐり抜けて来た女の智恵があった。
田舎にいる頃、青春期によくあるように母との対話を意識して避けていた有馬は、貞代と話し合うようになってから、ベテラン主婦の表面平凡な話題の中に、ハッと啓発させられるような生活の智恵が潜んでいるのを発見した。
特に有馬のように、常に大衆が真に欲している商品の開発を職業としている身には、貞代から教えられるところが多かった。
その日も、終バスを乗り過ごしてしまった有馬は、塩見家へやって来た。五八も寝室へ引き取り、茶の間にした六畳には貞代と有馬だけが残った。
そろそろ明日のために眠らなければならない時間なのだが、ベッドへ入るには一寸《ちよつと》心残りな、そんな中途半端な気分になっていた。
「静子もあれで学生時代はずい分もてたでしょうね」
有馬は何気なく言った、切れた話題をつなぐだけの、眠る前の一時の意味のない会話として、本当に何気なく言ったのである。しかし、それはそんな時には格好の話題だった。
妻の過去の知られざる部分は、夫にとって常に興味ある問題である。静子は結婚に際して自分のすべてを有馬に語った。しかし正確な意味では決して「すべて」ではないだろう。
致命的な過去はないにしても、稚《おさな》い初恋の記憶もあろうし、他の男性から心を傾けられたこともあるだろう。そういう過去≠、妻は決して自分からは打ち明けないものである。だが貞代ならば知っている。二十数年間、有馬の許へ嫁がせるまでは彼女が慈《いつくし》み育てたのだ。それは有馬が静子と共に生活した時間よりもはるかに長い。有馬が知らぬ静子の部分を貞代は知っている、少なくとも知っている可能性がある。
男とは身勝手なもので、妻の過去≠極度に嫌うくせに、それが又、全然なくとも物足らない。もっともこれは女とて同じことだろうが、自分が妻とした女性を愛した、他の男がいたという事実は、競争心と嫉妬《しつと》心を煽《あお》り、たまらない刺激となるのだ。
絶対的に自分のものと信じていた所有権≠ェ、ライバルとの競争に晒《さら》されることによって(実は自分で意識して晒すのだが)揺らぐからである。
だが刺激も程度を越えると、どすぐろい憎悪や瞋恚《しんい》にすり替えられる。
有馬の何気ない問いに対して、貞代の答えは、思いもかけない重大な意味を持っていた。
「ええ、正一さんももう知っていると思いますけど、あの行方不明になった時はずい分心配したわ」
――行方不明!?――
有馬はおうむ返しにしようとした言葉を咄嗟《とつさ》の勘でのどの奥にのみこんだ。これは初耳だった。若い娘の行方不明、これは重大な意味を持っている。
――それは一体いつのことなのか? どの位の期間なのか? 何故今まで隠していたのか? 一人でか? それとも伴《つ》れがいたのか? いたとすれば女か? それとも……?――
黒雲のような不安が胸の中に急速に広がった。貞代は心安だてにうっかり口を滑らしたのであろう。有馬がそれらを知らないと気づけば、堅く口を閉ざしてしまう。どこに娘の不利益になることをべらべら喋《しやべ》る親があるものか。
だが有馬は何としても貞代からすべてを聞き出さなければ気が鎮まらない。人の善い彼女には気の毒だが、ここは出来るだけ誘導して探り得る限りのことは引張り出してやろう。
「私も最初は驚きましたよ、まさか静子があんな大胆な真似をしようとは思ってもいませんでしたからね」
「本当に、吹田《すいた》の家から連絡があって初めて知った時は、どうしていいか途方に暮れたものだったわ」
案の定、貞代は誘導に乗ってきた。
「でも又、どうしてそんなに思いつめたんですかね?」
有馬は相手[#「相手」に傍点]がいたものとやまをかけて更に探りを入れた。
「何しろ年齢が違い過ぎるし、それに二人共に[#「二人共に」に傍点]学生の身分でしょう、私たちが反対したものだから、つい娘心の見境いのないままにあんな思い切った真似をしたんでしょうね」
やはり相手はいた。しかも男だった。有馬は声が慄《ふる》えかかるのを意志の力で抑えて、
「又、なんだってそんなに年を食っちゃったんでしょうねえ」
「変わった人で、T大の英文科を卒業してから、更にもう一度医科をやりなおしたそうなのよ、とにかく十も齢が違うんですからねえ」
これで相手が静子より十歳年上であることは判った。
「しかし、よくまあ無事≠ナ帰って来られましたね」
有馬は無事という言葉に祈りをこめるように言った。話しの様子では静子はそのT大生と駆け落ち≠したらしい。それがどの位の期間か分らないが、若い男女が駆け落ちまでして何もなかったとは、考える方が無理である。
それにもかかわらず、無事を祈った≠フは、
「静子にかぎって」という信頼と、貞代を更に誘導に乗りやすくさせるための計算が働いたからである。
「あとから手紙がきたのよ、ホッとしたわ」
「手紙って、誰から?」
「相手の人からよ、大切なお嬢様を誘い出してまことに申し訳ない、疚《やま》しいことは絶対にしていないから静子を叱《しか》らないで欲しいって」
「ずいぶん、図々しい男ですね」
有馬は心の芯《しん》が煮え沸《たぎ》ってくるような気がした。他人の娘を連れ出して駆け落ちまでしながら、何もしなかったから許して欲しいで通ると思っているのか? 吹田の寄宿先から連絡があって初めて知ったというほどだから、すでに何泊か泊まりを重ねた後であろう。もし男の手紙が真実を告げているとしたら彼は不能者であったに違いない。静子の方にそのような障害のないことは、有馬自身がよく知っている。
「本当に、その手紙をもらった時は、静子にかぎってという自信を裏づけられた思いで嬉《うれ》しかったわ、静子はたとえどんな思い切った行動をしても、守るべき一線は弁《わきま》えているはずです」
貞代は本当に何もなかったと信じているらしい。親馬鹿からではなく、彼女にはそのような人の善さがあるのである。だが有馬にしても、それを信じたい強い気持があった。「静子にかぎって」そんなことをするはずがないのだ。自分のお人善しを嗤《わら》いながらも、「もしかしたら」と手紙に一縷《いちる》の希望を寄せていたのである。有馬は更に追及したかった。
「自分には夫として知る権利がある」と開き直って告白を強制することも出来るが、どうせこの追及は静子へ筒ぬけとなり、貞代の知らない静子の秘密の部分を闇《やみ》の底へ封じこめてしまう。
静子が蝕《むしば》まれているとしても、その正確な範囲を有馬は確かめたかった。
だが彼はそれ以上の誘導は諦《あきら》めた。あまり性急に追及して貞代を警戒させてはならない。
とにかく静子を問いつめて、真実を引き出すまでは慎重に構えなければならないのである。
「そんなことをして何になるのか?」
ふとその時、今朝受け取った春山きくの手紙の中の一文が脳裡《のうり》に甦《よみがえ》った。それはすでに忘れていたはずのものだった。そのことに彼は不吉な予感を覚えた。
2
翌日有馬は早退した。昨夜貞代から得た情報≠ェ心にひっかかって、おちおち仕事が出来なかったのである。
「有馬さん、どうしたのですか、顔色が悪いようですが」
部下に言われてハッと我に帰るような放心状態に、仕事の最中何度か落ち入った。洗面所で鏡を見るとまるで別人のように憔悴《しようすい》した顔があった。
「だらしがない、たかが妻の過去への疑惑位で仕事が手につかないようでは、エリートの名が泣く」と我と我が身を叱るのだが、ただそのことにのみ思いが集まっていくのをどうすることも出来ない。とにかく静子を問い詰めて確かめないことには、何も手につかない。それが思い過ごしであるにせよ、あるいは不幸にして事実であったにせよ、どちらかにきっぱりと確定しないことにはいわゆる蛇の生殺しというやつである。
有馬はその日の午後頭痛がするからと断わって早退した。これは入社以来初めてのことだった。もともと頑健な彼が身体の故障で欠《やす》んだり、早退したようなことはない。
「鬼の霍乱《かくらん》ですね」
部下たちは笑った。
ラッシュを外れたガランとした電車に揺られて、自宅へ一人帰る有馬の胸はいいようもなく荒涼としていた。
サラリーマンらしい姿は一人も見えない、彼は何か自分だけが世の中から取り残されたような気分になった。
通勤ラッシュにもまれても、サラリーマンはその比類なく規則正しい生活のリズムに乗っている時が一番幸福なのだということをつくづく思い知った。
静子にかぎって……そんなはずはない――彼は何度も何度も否定しながらも、男と共に行方不明《かけおち》をした現実の前には、祈りにも似た希望が、大波の前の砂山のように崩されてしまうのである。
確かめる必要もないほどに明らかな妻の不貞を、仕事を放擲《ほうてき》してまで確かめに帰るサラリーマン、おそらく今の俺《おれ》の姿ほど滑稽《こつけい》で惨めなものはあるまい――有馬は周囲の乗客がすべて彼を嘲笑《あざわら》っているように見えた。
だが、――と彼は考える。
その明らかな不貞も、こちらの確かめ方いかんではとぼけられてしまう虞《おそ》れがある。不貞があった事実はもう止むを得ないこととしよう。だがその不貞すらもなかったととぼけられたら、それ以上の道化た夫《コキユ》はあるまい。
不貞を妻の口から告白させ、そしてその範囲(有馬にとっては損害の範囲)を確認する。そのためには相応のテクニックが要る。
有馬家には幸いまだ電話は入ってない。だから彼が帰り着くまでに貞代から静子へ連絡し、これ以上の誘導にひっかからないように二人で共同戦線を張ることは出来ない。第一、貞代はまだ有馬の誘導に乗せられて、娘の不利益を喋った事実にすら気づいていないだろう。有馬が帰宅する前に貞代が静子の許へ直接出向くことはまず考えられない。
家に帰ったら、さりげなく話をその方へ持っていく。貞代から何もかも聞いたのだとかまをかけ、昨夜貞代から聞き出せなかったことと、貞代自身が知らなかった部分まで洗いざらい静子から吐き出させなければならない。
そして……その後をどうするか? 今の有馬はそこまでは考える余裕がなかった。
3
「あら、今日は早かったのね」
家に帰り着くと、静子が目を円《まる》くし、次に心配そうな顔つきになった。今までにこんなことがなかったので、何か有馬が体に故障を起こしたのかと案じたのである。
事実、彼の気分は勝《すぐ》れなかったが、それを隠して、
「今日は久しぶりに仕事が早く片づいてね」
と妻に軽く接吻《せつぷん》した。とにかく、全部白状≠ウせるまでは彼女を警戒させてはならない。
「まあ嬉《うれ》しい」
静子は大仰にはしゃいだ。結婚して三、四年にもなるのに、こんなところは新婚当初と少しも変わりない。
晴れやかな表情、曇りのない目、夫を信じ二人で築き上げた現在の幸福の中にのびのびとした妻の姿。この何処《どこ》に夫を偽り、夫からひた隠しにしている秘密があるというのか。
だがそれはあくまでも、皮相の観察に過ぎない。皮の下の肉の中にはどのような膿《うみ》が隠されているか分らないのだ。少なくとも疑いがあるかぎり、皮を剥《は》ぎ、肉を割って確かめてみなければならない。
そんなことをして何になる? というのか。そこに自分の価値の基準があり、幸福の礎《いしずえ》があるのだ。もしその基準が誤りであり、礎が偽物であるならば、出来るだけ速やかに別の基準を見つける必要がある。そんな偽りの幸福は根本から突き崩してしまった方がよい。
夫婦は茶の間にしているテラスの前の六畳に対《むか》い合った。
「母たちは元気だった?」
静子は有馬のためにいそいそと茶を淹《い》れながら言った。茶にうるさい有馬の好みを知っていて、水はわざわざ近隣の農家の井戸水を汲み、よく出るように必ず第二|煎《せん》を注いでくれる。ふだんは有難いと思う静子の心づくしも、今日は、そんなことでは欺《だま》されないと取った身構えのせいか、何となく空々しく映るのである。当然、折角の茶も味などなかった。
「みんな元気だったよ、今が一番大切な時期だから、当分出歩かないようにとおふくろさんが言ってたぞ」
だが彼は身構えを気取られないようにさりげなく答えた。
「大丈夫よ、私一人の躰《からだ》ではないんだもの、精一杯大切にするわ」
静子は下腹をちょっとさすった。
「君一人の躰ではないって?」
「そうよ、私と、生まれて来る子供と、そして何よりもあなたのもの」
「そうか、僕は又、誰か僕の知らない第三者のものという意味かと思った」
有馬はこの時初めて最初の針を刺したつもりだった。だが、静子はこともなげに笑い飛ばして、
「いやあねえ、そんなことあるはずないじゃない、私はあなただけのものよ」
本当にそうなのか? なるほど現在は一応その言葉を信じてもよさそうだ。だがお前の過去も俺だけのために用意されてあったと言えるか?
「でも、――」静子は有馬の揺れさわぐ内面も知らず、屈託なさそうに笑って、
「この子が生まれて来るとその権利がちょっぴり奪われるけれども」
「ちょっぴりですむかな? 女は子供が生まれると、亭主は邪魔者以外のなにものでもなくなるというからな」
「よその女の人はそうだっていうわね、でも私にかぎって絶対に大丈夫、子供よりもあなたの方が大切よ」
「あまり大見得を切ると、子供が生まれてから困るぞ」
「大丈夫だったら大丈夫よ、信じて」
その信じろという言葉に、どれほど多くの善良な夫たちが欺されてきたことか、有馬の胸が徐々に煮えてきた。
「それじゃあ聞くが、あのT大生はどういうことなんだ?」
有馬は遂に第一矢を放った。
「それ何のこと?」
案の定、彼女は何を言われたのか分らないような顔をした。その限りでは、表情に変化といえるほどのものは走らない。それも有馬の予想した通りの妻の反応であった。
過去を貞淑な妻の仮面の下に隠して無垢《むく》の男性と結婚をするからには、あらかじめ、今のような場面を想定し、表情の崩れなどからまかりまちがっても露顕することのないようにくりかえしくりかえし練習していたにちがいない。
「君が一緒に旅行したという人だよ、大学時代二人きりでね」
口調は依然としてさりげなかったが、彼の目は妻のどんな表情のかげりも見逃すまいと、その面を凝視していた。
「ああ、あのこと[#「あのこと」に傍点]ね、何言ってんのよ、馬鹿馬鹿しい」
静子は薄く笑った。いかにも馬鹿馬鹿しくてお話しにならないといった表情であった。
「馬鹿馬鹿しいことはないだろう、未婚の女性が若い男と二人きりで一週間[#「一週間」に傍点]も旅行したのだ。誰だって疑うよ」
有馬は言葉にやや力をこめた。貞代を誘導して、妻がどうやら自分以外の男と、自分の知らない時間を過ごしたらしいことは嗅《か》ぎ取った。それがどの位の長さにわたるものかまだ彼は知らなかった。
一週間というのは、貞代の言葉から類推しての誘導《かま》である。
「ちがうわ、あれはグループで行ったのよ」ところが静子は人数を否定した。だがそれはグループの中に異性が混じっていたことを否定したことにはならない。
「何人で?」有馬は更に追及した。
「三人よ」
「誰と?」
「……大崎さんよ」
「大崎何というんだ?」
「大崎……竹子さんよ」たたみこまれて静子はちょっとたじろいだようである。
「女だな」
「ええ」
「その人は今、何処にいる?」
「問い合わせて確かめるのね」
「そうだ」
「疑ってるの?」
「あたり前だ、その人が架空の人間ならば、君は僕以外の男と|二人だけ《アべツク》で旅行したことになるんだからな、それに三人でもグループにはちがいないが少なすぎるね、男一人に女二人、グループというよりは両手に花と言った方がいい」
「かなしいわ」
静子は心もち肩を落とした。それは潔白の身を疑われて悲しいとも、過去が露われて悲しいとも、両様いずれにもとれた。
「何処にいるのだ?」
有馬は追及の手をゆるめなかった。語調は完全に訊問《じんもん》調になっていた。
「忘れたわ、大分前のことなので。卒業してから全然おつき合いしてないのよ」
「帰省先はどこだ?」
「たしか徳島の方の人だったわ」
「思い出せなければ、お前はどこの馬の骨とも分らぬ男とアベック旅行をしたことになる」
「ひどいわ、ねえ、私を信じて。決してやましいことはしていないわ」
「信じたいよ、だが信じられない理由があるんだ」
「理由?」
静子の表情に初めて変化らしいものが走った。
胸を刃物の先で軽く突かれたような表情のゆがみといってもよい。
「君の言ってることと、おふくろさんの話はまるっきりちがうんだ。ということは、どちらかがうそをついていることになるな」
有馬はついに切札を投げた。
静子は有馬が貞代を誘導訊問して駆け落ちを探り出したことを知らない。ということは、その知識の範囲も知らないことになる。これを利用して、「何もかも知っている」風を装い、洗いざらい静子の暗い恥部を剥《む》き出してしまうつもりだった。
「おふくろさんの話では二人だけで旅行したということだったよ、娘にとって不利なことをわざわざうそをついてまで言うはずがないじゃないか」
「母がそんなことを言うはずはないわ」
「おふくろさんがちょっとしたはずみに口を滑らせたのを手がかりに、誘導訊問して全部聞き出してしまったのさ」
「まあ!」
有馬がそう言った瞬間、妻の顔から血の気が退《ひ》いた。そしてその様子に有馬の疑惑は殆《ほとん》ど確定的なものになったのである。
「君は男と一緒に一週間ほど行方不明になった。まるで駆け落ちでもしたようにな。駆け落ちが終わった後に男からおふくろさん宛に『ご令嬢を黙って伴れ出して申しわけない。しかし、誓ってやましいことはしていないから、どうか静子さんを叱《しか》らないで欲しい』という趣旨の手紙が来たそうだ。若い娘を引張り出して何泊もしながら、何も悪いことをしなかったと言い張る図々しさもさることながら、もしその駆け落ち≠ノ第三者が同行したとすれば、彼にとってそんな有利な証人の存在を全く言わなかったというのは、おかしいじゃないか」
有馬は静子に立ち直る隙《すき》を与えぬようにたたみかけた。静子は完全に黙ってしまった。
「どうなんだ!」
彼はとどめを刺すように言った。瞬間、静子の身体がグラリと揺れたように見えた。
「……すみません」
事実、彼女は崩れ落ちた。かすれ声でそれだけ言うと、あとは全身の力が脱けたようにうなだれて嗚咽《おえつ》した。
「じゃあやっぱり」
有馬は声をのんだ。貞代の言葉から疑惑が墨汁のように胸の中に広がり、今、静子を問いつめている間に次第に確定的なものへと凝固して行く過程においても、静子にかぎってという祈りにも似た願いを捨て切れなかった。
それがついに確定した。彼女自身の口から有馬の前にその事実があったことを認めたのである。
不思議にその瞬間は裏切られた怒りは、湧《わ》いてこなかった。ただ自分が絶対と信じていたものが音をたてて崩壊していく轟音《ごうおん》と、その後に生じつつある言いようもない大きい空洞の虚《むな》しさがあるばかりであった。
――静子に過去があった。俺《おれ》の、俺だけの妻であるはずの静子に、俺以外の男がいた。しかも俺より前に!――
この信じ難い事実をどう説明したならばよいのか? なるほど有馬は静子にとって理想的な夫ではなかったかもしれない。仕事仕事で家に帰らなかった夜も数え切れないほどである。仕事熱心のあまり家庭をかえりみなかったとそしられても仕方がない。
しかし、男とは本来そのような動物ではないか。男にとって女への愛などほんの一部分に過ぎない。
だからと言って、そのような男が女を愛していないわけではない。むしろ、男臭い男ほど、自分のほんの一部分にしかすぎないと思い込んでいる女への愛の上に、自分の大部分を築き上げているものである。だから基礎の部分が崩れれば、その上にどんなに壮大な巨構が聳《そび》えていても、根元から倒れてしまう。
静子は有馬にとって絶対の基盤であった。そうと信じたればこそ、銀の匙《さじ》をくわえた梢を捨て、彼女を選んだのである。
一介のサラリーマンにすぎないくせに、サラリーマン的野心に溢《あふ》れている自分が、都屋きっての権勢家、三神陽一郎と結ぶ絶好唯一のチャンスを蹴《け》ってまで、一生うだつの上がらない貧乏サラリーマンの娘を娶《めと》ったのは、その娘本人に何物にも替えがたい価値を見出したからにほかならない。それが今すべて否定されてしまった。それは残酷な否定であった。
「男の名は? 俺にはそれを訊《き》く権利がある」
ギクとして上げた静子の目にしまったという表情が走った。ようやく、有馬があまり事実を知っていないことに気がついたのだ。しかし、気がついた時は遅過ぎた。いったん認めてしまった過去は、もはや否定しようがない。誘導に乗せられて一生かけても償いようもない隠れたる大罪を告白した罪人のように、彼女の表情をよぎったものは、罪に対する悔恨ではなく、自ら口を開かなければ隠し通せたかも知れぬ罪を、うかうかとしゃべってしまった迂闊《うかつ》さに対する口惜しさであった。
それが有馬の心に火を点じた。火はたちまち凄《すさま》じい勢いとなって胸の中を吹き荒れた。
「言え! 言えないのか」
火は言葉に燃え移り、面もあげられぬほどの烈《はげ》しさとなって静子を打った。
「そんなことを聞いてどうするの? 私自身もうとうに忘れていたことなのよ、お互いに傷つくだけだわ、ねえお願い、許して! 私が悪かったわ。旧《ふる》い傷を突っつくのは止めて」
「甘ったれんなよ、俺はお前を俺のためだけに用意された新品≠セと確《かた》く信じて今日まで生きてきたんだ。それが新品どころか、心と躰の最も美しい部分をすっかり蝕《むしば》まれていた。この悲しさと口惜しさが分るか、分るまい、お前には分らないよ。俺は知りたい。蝕まれた部分の正確な範囲をな。一体、どの程度を相手の男に喰い荒らされ、一体お前の何パーセントが本当に俺のために残されているのか、俺ははっきりと見極めたいのだ」
「もう遠い過去のことなのよ、私のすべてはあなたのものよ、ねえ、信じて!」
「ふん、口は調法なもんだ、過ぎたことだの、遠い昔だのとね、しかし、過去の事実はたとえどんなに時間が経っても消えはしないぞ、さあ言え! お前の喰い荒らされた正確な範囲を」
うっかり誘導に乗って過去≠掴《つか》まれた静子は、もはや、有馬の火のような追及を振り切ることが出来なかった。
だが、剥き出された蚕食《さんしよく》≠フ部分は、彼が考えていたよりもはるかに大きかったのである。
静子が告白したところによると……相手の男の名は大島清、――
彼女が大学二年の春休み、当時T大生であった大島が都屋の、社員診療所にアルバイトにやって来た。
目から鼻へ抜けるようなスマートさと如才なさ、筆もたてば、詩もいっぱしのものを書く小器用さが、塩見のえらく気に入るところとなり、時折り自宅に招いて、学生下宿暮らしの彼に家庭料理を振舞ってやるまでになった。
そしてたまたま大阪から帰省していた静子と知り合ったのである。
世なれた大島が、世間知らずのおぼこの心を捉えるまでに大した手間ひまはかからなかった。知り合って一週間も経たぬうちに二人だけでデートをするようになり、一か月後には結婚を前提として肌を許してしまった。
もとより名うてのプレイボーイである大島に結婚の意志など毛頭ない。小便くさい小娘の、それ故に護符のように抱えこんでいる虎の子≠巻き上げるための方便に過ぎなかった。
夏休みに入って寄宿先の伯父《おじ》の家を帰省の口実で出た静子は、そのまま中板橋とか、下板橋とかにあった大島の下宿へ直行して、同棲《どうせい》≠オてしまったのである。
一方、大阪の寄宿先から帰省の連絡があったにもかかわらず、いっかな帰って来ない静子に、ようやく騒ぎ出した狛江《こまえ》の実家では、彼女の立ち回りそうな場所を八方手分けして探した結果、ようやく大島の下宿にいることをつき止めて、貞代の手で連れ戻したのが十日も後であった。
もし、伯父から塩見家へ連絡がなければ、そのままずるずるの同棲がどれ位長く続いたか分らない。
しかし処女を喪《うしな》ったのは、その同棲によってではなく、それより二か月も前である。大島の実家が大阪にあった関係で、彼が帰省する都度二人は逢《あ》った。
最初の関係を結んだのは、京都嵐山へアベックハイキングを試みた時であった。男に導かれるまま、山中に踏み入った彼女は、そこで、有馬だけに捧《ささ》げるはずの貴重なものを、至極気前よく他の男に与えてしまったのである。
同棲の後も、奈良、生駒《いこま》山、山崎などで出逢っては互いの躰《からだ》を確かめ合った。
静子はそれらの過去を、自らの患部にメスを当てるように告白していった。今更下手に隠し立てをするよりは、大手術をして膿《うみ》を一気に出してしまうように、すべてを打ち明けて、許しを乞うた方が後くされがなくてよいと考えたからであろう。
静子の気分はそれですっきりとするかもしれない。だがそれを聞かされる有馬はたまらなかった。たとえどんなに夫から責めたてられ、追及されようと、妻は自分の過去を出来得る限り隠すべきであった。夫に知られたとしても、その範囲は最小限に留めるべきで、間違っても自分から、相手の知らないことまで打ち明けてはならない。
夫婦の幸福というものは、無知の功徳(知らぬが仏)の上に成り立つものである。
有馬は静子の告白を聞きながら、二人の肌をからめた模様をまざまざと目に浮かべた。
有馬家の寝室における静子の一挙一動は、すべて大島との間に行なわれたことのくりかえしにすぎなかつた。夜毎、有馬に為したように、行為のさなか、大島の背肉に爪を立て、脚と脚をからめ、汗にまみれた肌と肌をこれ以上の近さは考えられないほどに密着させて、激しく腰を回したに違いない。
そして遂に至ったその瞬間、肉の悦楽に呻《うめ》きながら、大島の躰から放射された無数の精子を、自分の胎内に出来るだけ深所で出来るだけ多く受け止めるために躰を痙攣《けいれん》させていたにちがいない。
有馬の体の芯から憤りが込み上げてきた。だがその怒りは静子への憎悪につながらないのだ。
絶対に自分だけのものであると信じていた存在が、実は他人の|食べ残し《レフトオーバー》≠ナあったと悟った時の反動で、喪われたものの自分の中に占めていたスペースの大きさを思い知らされたのである。
――妻の過去――現代の性のモラルから見れば何でもないことが、有馬にそのような過去がないだけにがまんならないのだ。
彼のビジネスにおけるガメツさ、えげつなさも、実は極端な潔癖に裏打ちされた一途さの現われであった。
今となっては生憎《あいにく》なことに、静子は、
(男は愛情がなくともそういうことが出来るけれども、女はそれがなくてはだめなのよ)と口ぐせのように言っていたのである。有馬への愛情の効果を高めるためのせりふだったが今ではそれがかえって彼女をしめつける枷《かせ》となってしまった。静子と大島との行為を説明するものとして、愛情でもなければ、淫乱《いんらん》な性格(あるいは体質)にもよらない何かが存在すれば、有馬も何とか救われるのであるが、そんなものがあろうはずがなかった。
強いて言うならば、二十歳そこそこのおぼこ娘の無知によるものと言えよう。喪ってみてその貴重さに気がついたというよりは、有馬の怒りと衝撃の大きさに初めて自分の犯した過失の重大さを知ったと言う方が正しいだろう。
結婚当初はそれでも、有馬が自分に寄せるひたむきな愛情に、後ろめたい思いをしたものだったが、平穏無事な主婦の座に安住してしまうと、いつしか大島との過去も時間のヴェール越しに青春の甘い記憶となって朧《おぼ》ろにかすむようになった今日この頃であった。
それはまさに長い時間の工《たく》みの為した背信の風化であり、夫の愛情への甘えであった。
それ故に静子は、不倫と罵《ののし》られようと、背信ときめつけられても返す言葉がなかったのである。
虚無への環状線
1
翌朝、有馬は入社後初めての遅刻をした。電車の遅れなどによる不可抗力ではなく、自分の責に帰すべき遅刻であった。
現代に生きる人間は、公私の区別を厳しくしなければならない。――常日頃、そう確《かた》く信じて部下に厳しく要求すると同時に、自らも厳しく律していた有馬が、初めて有責の遅刻≠したのである。
このことは、彼がいかに静子の過去から大きな衝撃を受けたかを物語るものであった。
店には十一時頃に着いた。営業企画のオフィスへ一歩入ると同時に、常とは異なるものものしい雰囲気に気がついた。いつもは軽口を叩《たた》き合う仲間たちの有馬に当てた視線が硬い。それは彼の遅刻よりも、もっと大きな「何か」を責めているようであった。
――おい、一体、どうしたのだ?――
手近の課員へ尋ねかけようとした有馬を武井が呼んだ。
「有馬君、今、君の家へ電報を打ったところだ。君はえらいことをしてくれたな、だから僕が言わんこっちゃない、とにかくすぐ専務室へ行ってくれたまえ」
「えらいこと? 一体何ですか?」
「えっ、知らんのか!? こりゃ驚いた、とにかく行けば分る、朝から専務がお待ちかねなんだ」
もともと余裕のない武井の声が、周囲の埃《ほこり》を浮き立たせんばかりに急《せ》き立てた。
「何をしとったんだ、かんじんの時に」
秘書室を抜けて三神の室の扉を押すと同時に雷が落ちた。
「はっ、申し訳ありません」
「まあいい、ここへ来い」
とにかく、遅刻など責めているひまはないと言うように、彼は頤《あご》をしゃくった。
デスクの前に立つと、彼は腰を下せとも言わずに、
「ニュースは聞いたか?」
「ニュース? 何のですか?」
「まだだろうな、知っておったらそんなのんびりした顔はしておれないはずだ」
三神は唇の端で冷たく笑った。それはいつも有馬に向けてくれる好意的な表情とは、全く別人のもののようであった。
「これを見ろ」
スポンサーの豹変《ひようへん》を訝《いぶか》るひまも与えず、三神は今|迄《まで》読んでいたらしい分厚い新聞の束を有馬の前にドサッと投げた。
「これは!?」
「字は読めるんだろう」
とりつくしまもなかった。投げ出された紙面に、視線を向けた有馬は、その社会面のトップに踊る活字にいきなり撲《なぐ》りつけられたような衝撃を覚えた。そこには、――
大資本の侵奪に死の抗議、都《みやこ》屋屋上から跳びおり自殺。
許せぬ企業悪、小売商を殺した都屋デパート。
墜ちてきた人間、通行人一人を巻き添え。
などの大見出しで春山商店一家の自殺を報じていた。事件は昨日有馬が早退した後閉店間際に起きたらしい。屋上のフェンスを乗り越えた春山為吉ときくは、制止しようと駆けつけた保安要員を尻目《しりめ》に、抱き合うようにして地上十三階、軒高数十メートルの空間へ身を躍らせたのである。思い切って前方へ跳躍した二人の体は屋上から地上まで途中何の緩衝もおかずに墜ちたために、原形を留めぬまでに損傷した。
特に直接着地したきくの体の傷みかたは凄《すさま》じく、頭蓋《ずがい》は偏平に潰《つぶ》され、脳と両眼球はショックで何処かへ飛び出して消失しており、全く人間の面影を留めていなかった。
二人が跳び下りた側は、折りから勤め帰りの人々で賑《にぎ》わう銀座通りに面した歩道であったところから、為吉の方は、丁度真下を通り合せた通行人に激突して、哀《あわ》れな巻添えにしてしまった。
一日の勤めの後の銀ブラを楽しんでいた人々は、突然眼前に降って湧《わ》いた凄惨《せいさん》な事故に暫くは化石したようになってしまった。
事故の酸鼻さと、現場が銀座の目抜き通りであったこと、それに遺書によって心中者が、跳びおりの舞台に選んだ百貨店を怨《うら》んでの死の抗議と判った上に、通行人までが巻添えにされたので、ニュースに飢えていたマスコミは、いずれも社会面トップの扱いで、この心中を報じていた。
有馬の前に投げ出されたのは大手の数紙だけだったが、テレビやラジオなどもさぞやセンセーショナルに報道していることだろう。
いずれの記事にも、春山きくの遺書の全文が載せてあった。
文面は有馬と都屋への怨みつらみを書き立てたもので、有馬への手紙と大体同じ内容であったが、全国紙の社会面に、インクの匂いも生々しい活字で全文が掲載されてみると、彼宛ての手紙とは比較にならない呪咀《じゆそ》と憎悪と、そして第三者に対する説得力をもって迫ってきた。
有馬はもはや、せせら笑えなかった。せせら笑うどころか、春山きくのあまりにも凄じい反撃にものも言えないほどに打ちのめされていた。
「どうだ」
三神が厳しい視線を注いだ。全く妥協の余地のない目であった。
「はあ」と言ったきり、有馬に後の言葉が続かない。
「百貨店という商売が信用でもっていることは知っているだろうな」
有馬には三神のその後に続くべき言葉がおおよそ分っていた。だが三神は次の言葉を続ける前に、デスクの上から常用のはまきをつまみ上げた。有馬がおずおずとライターを差し出すと、三神はそれに軽蔑《けいべつ》したような目を注ぎ、はまき用の太幹のマッチを擦《す》った。ゆっくり時間をかけて火をつけている彼には、捉えた獲物をいたぶっている獣のような残忍ささえ感じられた。
ようやくはまきに火をつけ終わった三神は、強い匂いの煙をゆっくり有馬に向かって吹きつけながら、
「ここまでえげつなくやる必要はなかったんだ。補償費は充分に出してあったのだぞ」
しかし――なるべく安く買い上げろと命じたのは三神自身ではなかったかと反駁《はんばく》しようとして辛うじて面を上げかけた有馬も、三神の専務としての威厳に充ちた眼光に遭《あ》うと何も言えなくなってしまった。
それに三神の命令はそのような場合としては常識的なもので、相手を自殺させるまで買い叩けとは言葉に表わしては言っていない。武井課長もいったんは諌《と》めている。有馬の若い功名心により先走りと責められても仕方がなかった。
「この汚名を挽回《ばんかい》するのに、どれくらい金がかかると思う?」
三神はソファーの中から刺すような視線を投げかけてきた。
「それは君ごときに分るまい、君が一生かかって働いても弁償出来る額じゃない」
「申し訳ありません」
有馬は深々と頭を下げた。その場合、それ以外にどうすることも出来なかった。
「とにかく、困ったことをしてくれた」
三神は溜息《ためいき》と共に紫煙を吐いた。その時彼の表情はいく分|弛《ゆる》められたようであった。
有馬はそこにつけこんだ。
「専務、どうしたらよろしいでしょう?」
その声には多分に、スポンサーへの甘えがあった。自分の行為によって、社名とその信用を失墜したことは分る。だがもとはといえば、社の利益を図ってやったことだ。
店を買い占められたくらいで死ぬ方がどうかしている。たまたまこういう結果になったから、マスコミの袋叩きにあったが、最初から敗者の行末をあれこれと心配していたら、資本主義は成り立たない。現にミヤコストアチェーンの完成によって都屋ははかり知れない利益を得ているではないか。それに比べれば、こんな損害はすぐに取り返せるだろう。三神とて本心で怒っているわけではあるまい。
最初のショックから醒《さ》めた有馬に、三神への甘えが湧いてきても不思議はなかった。
「どうするだと? うん」
三神は一人合点をして、
「それを言おうと思って呼んだのだ。これだけ派手に書きたてられては、本店へ置いておくわけにはいかん、当分、ミヤコストアのS店付きになってもらおう、あすこなら君の家から通勤も便利だ」
S店は、京葉間の幹線から外れた農産都市S市にあり、ミヤコストアの中でも最も小粒なものである。売場面積も精々五、六百平方メートルあるかないかの、いわゆるマーケットに毛が生えた程度のものであった。
そこへ本店の、しかも営業企画からの異動であるから、左遷も左遷、実に馘首《かくしゆ》に等しい左遷であった。それを三神は何でもないことのように言った。
愕然《がくぜん》として面を上げた有馬へ、口を開く隙《すき》も与えず、
「君も大分働いたから、当分Sでのんびりしてこい、正式な辞令は四、五日中に出す。それまでは出勤しなくともよろしい。新聞記者などにつかまって余計なことを喋《しやべ》らんようにな、これ以上、店の名誉を傷つけぬようにすることだ。今日はもう帰ってよろしい」
三神はそれだけ一気に言うと、目障りのものを追いはらおうとするかのように手を振った。
それは企業の非情性を代表するような完璧《かんぺき》な拒絶の姿であった。
2
専務室を出ると、とたんに社員の眼が突き刺さった。昨日までのエリートコースのランナーに向ける羨望《せんぼう》と嫉視《しつし》は、今や完全に脱落者への冷笑と憐憫《れんびん》にすり替えられていた。
三神からは帰ってもよいと言われたが、有馬は強いてそれを「専務室から帰ってもよい」と言われたものと解釈して退社時間までオフィスに居坐った。
今、言われた通りに早びけるのは、そのまま自分の敗北を認めることだ。彼はむしろ常よりも熱心に仕事をした。しかしそれも精々今日一日のことである。
定刻の退社時間になって、一歩社屋を出ると同時に、それが負け犬の虚勢であったことを思い知らされた。オフィスにはいても、それは単にそこにいた≠ニいうだけであって仕事の主たる流れから外されていたのである。
有馬の馘首的左遷の報はまだ社内に流れていないはずであったが、彼にはすでに全社員がそれを知っているように感じられた。そして事実彼らは勘づいていた。サラリーマンにはサラリーマン的|嗅覚《きゆうかく》ともいうべき感覚があって、利害対立関係にある人間の情報を動物的に嗅《か》ぎ取ってしまうのである。ましてこれだけの騒ぎを起こした張本人が、エリートの座にぬくぬくと坐っていられるはずがないことはサラリーマンなら誰にも分る。それがいち早く仕事の上に現われたのである。
武井などは有馬と視線が合うのさえ怖れていた。有馬と一定の距離を構えることによって我が身の安全がはかられると信じている者のようすであった。
「まるで伝染病だな」有馬は苦笑したつもりだが、顔の筋肉は弛まない。
考えて見ればサラリーマンという身分ぐらい不安定なものはない。特にエリートを自負する者は、常に凄《すさま》じい競争の、束の間のバランスの上に立っているのである。一度そのバランスが崩れれば、もはや再び元のバランスへは戻らない。
有馬は自分のバランスが喪《うしな》われたのを知った。
彼は、一日の勤めを終えて家路を急ぐ無数のサラリーマンの中の一点として歩みながら、いいようのない荒廃感に陥っていた。
いつもならば一日を力いっぱい働いた者の充実感と、快い疲れを抱いて辿《たど》る黄昏《たそがれ》の浮き立つような華やかな街路が、地の果てのように荒涼と映り、周囲を流れる人波が幽鬼の群のように見えたのである。
一体彼らは何処《どこ》へ向かって急いでいるのか? 一日の労働を終わり、ラッシュにもまれて帰りを急ぐ先は朝出て来たばかりの団地か借間であり、そこには見ばえのしない妻や子が待っている。
夕食のメニューも隣近所と似たりよったりのものである。そして風呂へ入り、同じ様なテレビ番組を見てほぼ同じ時刻にベッドへ入る。もしたまたまその夜が土曜であれば、いずれも互いに貞節で善良な夫婦が規則正しい営みをくりかえす。
昨日と同じ様な今日、今日と同じ様な明日、そして明日と同じ様な未来。いつ頃何が起こり、どの位先に我が身と家族がどうなるかほぼ正確に読み取れるサラリーマンの未来、比類なく正確なリズムと高度な画一化、受動的な仕事に受動的な娯楽、ベルトコンベアの上の人生、そんな人生でも生きていると言えるのであろうか?――
今まで思ってもみなかった疑問が次から次へと有馬の胸に湧いてきた。
今まで俺《おれ》のやってきたことは果たして何だったのだろうか? 都屋を構成する社員の一人として俺はいつも力一杯やってきた。サラリーマンとはそういうものだと信じて疑わなかった。
だが、――今にして思う。そういう俺の若さのすべてを傾けつくしての働きが、果たして何であったか?
ビジネスというものが常に結果だけを尊重するということは分っていたつもりだったが、まさかこれほど徹底したものとは思わなかった。まさに手の裏をかえすとはこのことである。昨日までは、ミヤコストア形成の第一の功績者としてチヤホヤしていたのが、今日は社の名誉を傷つけた者として辺地≠ヨ追放である。過程における労苦や努力は一切かえりみられない。終わり良ければすべて良し、悪ければすべて悪しの冷酷無比な結果論が、有馬のすべての功績を帳消しにしてしまった。時間だけが無意味に流れて、人間がその分だけ年を取っただけだ。要するに、何もならなかったのである。彼は企業というものの正体を初めて見届けた思いであった。
有馬は急に家に帰るのが馬鹿らしくなった。この荒廃した心身を一時間以上のラッシュに揉《も》まれることにも耐えられなかったが、そのようにして帰ったところで、そこに待っている者は喪われた妻≠セけだ。そんな所へ帰って何になる?――
3
「あはは」
その時、後ろの方で高笑いした者がある。ギクとしてふり向くと、打ち連れて帰る若いサラリーマンの一団が歩きながら談笑しているのだった。だが有馬は自分が嗤《わら》われたような気がした。
――やっぱり、何にもならなかったわね、私が言った通りだ、はは、いい気味――
サラリーマンの笑いが消えた後も、一つの声が有馬の耳膜に聞こえていた。春山きくの声だった。それは彼が初めて聞くきくの声であったが、紛れもなく彼女のものであることが分った。
――ははは、いい気味、はは――
きくの高笑いはいつまでも続いた。
有馬は高笑いから耳を塞《ふさ》ぐようにして歩いたが、それはどこまでも執拗《しつよう》に追ってきた。
通い馴れた駅を目の端にやり過ごして、有馬は脚の向くままに町をさまよった。
「お兄さん」
ふと誰かに声をかけられたような気がしたのは、脚にかなり疲れを覚えた頃である。面を向けるのも面倒でそのまま通り過ぎようとした彼に、
「お兄さん、ちょっと待ってよ」
具体的な意味を伴った声が追った。春山きくのものではない。それよりもはるかに若く、そして甘みを帯びた声である。
有馬はいつの間にか見知らぬ風景の中に立っている自分に気がついた。
今の自分の思いのようにとりとめもなく足を運んでいるうちに、こんな方角へさまよい込んでしまったらしい。
声は見なれぬ町の光の届かぬ闇《やみ》のたまりの中から湧《わ》いてきていた。
――何!?――ギョッとして振り向いた有馬に白い顔が笑いかけた。
「お兄さん、お花買って?」
花売り娘だった。それにしては何故そんな闇の中にひっそりと佇《たたず》んでいたのか? 有馬がいらないと答えると、娘は悪びれずに、
「じゃあ、マッチ一本百円でどう?」
と誘った。
「マッチ一本、百円?」
有馬にはその意味が分らなかった。
「あらお兄さん、知らないの」
娘は目を見張り、そしてかん高く笑った。
「私のあすこ[#「あすこ」に傍点]、見せて上げるのよ、マッチ一本が燃え尽きる間だけ」
そうか、そんな哀《かな》しい第二の商品≠ェ用意されてあったのか、有馬は初めて娘が光の届かぬ闇の中で客を待っていたことと、手にかかえている花が少な過ぎるのに頷《うなず》いた。
有馬が買うとも買わぬとも言わずにうっそりと立ち続けていると娘は、
「マッチだけでもの足らなければ、本物[#「本物」に傍点]を売って上げてもいいのよ」
と心もち躰をくねらせた。何と彼女は第三の商品≠ワで用意していた。花やマッチは
| (お)囮《とり》商品で、案外三番目が主たる商品であるかもしれない。
ただ有馬を誘うつもりの身のこなしが、その種の女にしてはひどくぎこちないように感じられ、そしてそれ故に常ならば一顧だにしない女に興味をそそられたのである。
静子も汚れていたのであれば、自分もそれ以上に汚れればいいではないか。汚れ多き女の体の中に自分の身をどっぷりと浸せば、毒が毒を制する理屈であるいはこの荒廃感から立ち直れるかもしれぬ――有馬はその時初めて胸に廃虚のように開いた空洞が、三神に抉《えぐ》られた傷のせいではなく、静子に由来していることを知ったのである。
「いくら?」
「そうねえ」女はいたずらっぽく首をかしげて、
「二千円……もし泊まりならば五千円、ただし、ホテル代はそちら負担《もち》よ」
「いいだろう」
契約は成立した。有馬はその場で金を出した。
「あら、今くれるの、かたいのねえ、ホテルへ入ってからでもいいのに」
「早い方がいいだろ」
「そりゃあ、でもこのまま逃げてしまうかもしれなくってよ」
「君を信用するよ」
「嬉《うれ》しいこと言ってくれるわね」
女は気をよくしたらしい。女が導いた旅館はこぢんまりとして割合清潔だった。顔なじみと見えて女の顔を見ると旅館の者は心得顔に部屋へ案内してくれた。必要以上のことは話さない。他の客の姿が見えないのは、おそらく出口と入口が別々になっているからだろう。
部屋は六畳だった。すでに夜具が一組のべられていて、客がすぐに寝られるようになっていた。バスもトイレもついていない。ただ一組の夜具だけがのべられてある密室。だが、有馬にはそれが殺風景には見えなかった。むしろ男と女のためには非常に機能的≠ネものに映った。
枕元には水差しとピンクのシェードをつけた小さなスタンド。それからピーナッツの自動販売機。かけ布団はすぐ身体をすべり込ませられるように枕寄り半分が三角にはぐってある。そしてまっ白なシーツの上に二枚のゆかた、もっと薄汚れた場所を想像していた彼は、いわゆる温泉マークなるものの意外な清潔さに感心した。
「ここへはよく来るの?」
「ヤボなこと聞かないでよ、お兄さん、こういう所へ来たの初めてでしょ」
その種の旅館に相応《ふさわ》しく、室内の照明は薄暗かったが、女の表情を読むにはこと欠かなかった。こういう稼業の女だから、かなりすれていると思ったが、案外ぷっくりと下脹《しもぶく》れのあどけない顔をしている。化粧もそんなにどぎつくない。年も精々二十歳前後であろう。明るい陽の下で逢《あ》えば普通のOLで通るかもしれなかった。
「ちょっと、あちらを向いてて」
女は有馬に言って、手早くゆかたに着替えた。それは必ずしも羞恥《しゆうち》のためではなく、客をそそるためのテクニックの一つであることは彼にも分った。だが彼は正直に後ろを向いた。視野の外れにチラとかすめた娼婦の意外にむっちりと弾んだ肌の白さに、彼はときめきすら覚えた。
「あなたも着替えなさいよ、ゆったりするわよ」
と女は言ってから、
「お風呂へ入る? それとも先にする?」
とちょうど旅館の従業員が到着客へ食事を先にするか、それとも風呂かと尋ねかけるような無造作な調子で訊《き》いた。未知の男と風呂へも入らぬうちに躰《からだ》を合わせようとする感覚はやはり娼婦のものだった。風呂は別室に共用《バブリツク》のものがあるのだろう。
「そうだな、風呂へ入ろう」
「そう、一緒に入ってもいいわよ」
「いや、君、先へ入れよ」
さすがに有馬は、たった今知り合ったばかりの娼婦と混浴する気にはなれなかった。
有馬が風呂から上がると、女はすでに夜具の中へ入っていた。天井の螢光灯は消され、枕元のピンクのシェードのスタンドが、女の面とその周辺を淡く朧《おぼ》ろに浮き上がらせている。
「いらっしゃいよ」
少し離れた所で突っ立ってもじもじしている有馬を女が艶っぽい声で誘った。彼がおずおずと女の傍に身体を滑りこませると、女はくるりと腹這《はらば》いになり、ピーナッツの販売機にコインを入れた。|引き金《トリツガー》を引くと受け皿に出てきたものは、ピーナッツではなかった。
「何だい、それは?」
「あなた本当に何も知らないのねえ」
女はむしろ呆《あき》れたように言った。
「こういう所へ来たのも初めてだものな」
「奥さん、いらっしゃるの?」
「どう見える?」
「さあ、いるようにも見えるし、いないようにも見えるし、止めましょう、そんなこと、私には関係ないもん、時間が勿体《もつたい》ないわよ、もしいないんだったら今夜だけ私があんたの奥さんになったげるわ、あんたは何となく感じいいもんね」
それから女はテレ臭そうにクスッと笑ってから、自動販売機が吐き出したもの[#「もの」に傍点]を有馬に示して、「これ使う?」と訊いた。それは衛生サックだった。ピーナッツの自動販売機ではなかったのである。一回分≠フ紙《ペーパー》と衛生具をワンセットにして吐き出すこの機械は、本来買い難い品である上に、常に用意しているものではないだけに、この種の旅館を利用する客にはまことに便利なものに違いない。
有馬はこういう種類の自動販売機があることを初めて知った。
「何をぼんやりしているの? 使うんでしょ、早くつけて」
女は急《せ》かした。どうやら女の方がその気になっているらしい。
「いいよ、そんなもの」
「あら、病気恐くないの? もっとも私、そんなもん持っていないけど」
「信用するよ」有馬は又、先刻と同じせりふを言った。別に女を信用したわけではなかった。そんなことはどうでもよかったのである。病気を伝染《うつ》されたら、うつされたっていい。そんなデスペレートな気持から言ったまでだ。だがこの言葉は女をひどく感激させた。
「嬉しいわ、本当はお客さんが使わないと言っても使ってもらうんだけど、いいわ、私もあんたを信用する。お互いになま身でしようよ」
ずい分露骨な言葉だったが、有馬には何となく女の誠意のようなものが感じられた。娼婦を買ったのは初めての経験だが、これは掘出物≠ナあったかもしれない。
「ねえ」
女はのどの奥の方をならすと、脚を絡めてきた。二人が男と女の、互いを貪《むさぼ》る構えを取り終わった時、有馬が一拍《いつぱく》遅れて尋ねた。
「君、まさか処女じゃないだろうね?」
「え?」
女は目をパチクリさせた、意味が分らなかったのである。当然である。娼婦にこんな馬鹿なことを聞く客はいない。しかも導入寸前の構えを取りながら……。有馬はもう一度同じ問いを重ねなければならなかった。きょとんとした女が弾かれたように笑い出した。
「私が処女かって? はは、あんまり笑わせないでよ、折角の気分が外《そ》らされちゃうじゃないの、あはは、ああおかしい」
女は目に涙をため、躰をよじって笑った。
「いや処女でなければいいんだ」
有馬は女のあまりのおかしがりようにやや当惑を覚えた。
女は一通り笑い終わると、ややキッとなった表情で、
「どうしてそんなへんなことを聞くのよ? 私を馬鹿にするの」
「決してそんなつもりはない、処女でさえなければいいんだ」
「へんな人ね、私が処女のはずがないじゃないの、そんなもの、いつのことだか思い出せないほど遠い昔に捨てちゃったわ」
女は自分の荒れた過去を思い出したのか、表情を暗くした。
有馬の問わずもがなの問いで、折角発酵しかけていたムードはすっかり冷えた。営みは淡くそして味気なかった。
4
枕元に漂う白々とした気配で有馬は目覚めた。目覚めたとはいっても意識の底では覚め続けていたような、どんよりした物足りない目覚めだった。枕元には消し忘れたピンクのスタンドが淡い光を投げかけている。女はまだよく眠っていた。だが雨戸の微《かす》かな合わせ目からは白い光が洩《も》れ入ってきている。この種の旅館の気密性のおかげで、外の気配はよく分らないが、戸外は朝になっているらしい。
腕時計を覗《のぞ》くと六時を少し過ぎていた。ここから出社しても、まだ一時間は眠れる余裕があったが、有馬は床を脱け出した。
女を起こさぬようにそっと寝床から滑り抜け、ひそかに身支度をする。部屋を出しなに彼はそっと女の顔を覗いて見た。小説などでは娼婦の寝くたれた顔は見られたものではないことになっているが、有馬の見るかぎり女はむしろ可愛いらしい顔をして眠っていた。
下脹れのふっくらした顔、閉じられたせいかやや下がり目の瞼《まぶた》があどけない。軽く開いた唇から歯が微かに覗いている。かけ布団からやや乗り出すようにして寝入っている女の胸元は、ゆかたがはだけて右の乳房が露《あら》われていた。
有馬は布団をかけ直してやろうと手を出しかけたが、目を覚まされるとまずいと思い直して止めた。
支払い≠ヘすんでいたが、ポケットから千円札を更に二枚取り出すと、枕元へ置いて立ち上がった。「さようなら」は口の中で呟《つぶや》いた。
外へ出ると、似たような旅館ばかりが周囲に立ち並んでいた。通勤ラッシュには早いせいか、それとも、付近にサラリーマンの住宅がないのか、人影は殆《ほとん》どなかった。ものの一ブロックも歩かぬうちに、有馬は自分がどの旅館から出て来たのか分らなくなった。
やや大きな通りへ出て、ようやく増してきた人影の歩いて行く方角に尾き従って行くと、更に繁華な通りへ出て、その先に国電の駅があった。東京に長いこと住みながら始めて利用する駅だった。昨夜、会社からこんな方まで歩いて来たのである。
自動販売機で何となく切符を買い、何となくホームへ上がり、そこに最初に入線して来た電車へ乗った。それが彼の行くべき都心とは逆方向へ向かう山手線内回りだと気がついたのは、電車が三つか四つ目の駅へ入った時である。と同時に彼は出勤する必要がないことを思い出した。
そうと知っても、有馬には下車しようとする気が湧《わ》かなかった。もとより自宅へ帰る気など更にない。そうとすればこの環状線はまことにかっこうの場所ではないか。車庫に戻るまでは、忠実に同じ場所を循環する。移動の中の停滞、絶対に目的地に着かない旅行。行き場所のない人間にこんな理想的な身の置き場所があろうか。
大都会に環状的乗物が多いのは、交通の便を図るためではなく、疎外された人間の救済のためではなかろうか。
有馬は目覚めたばかりであろうに、一日の重労働の後のように疲れ切った表情をしている乗客が、皆|行先《あてど》のない自分の同類のように見えた。
堕ちた経営者
1
有馬は三日ぶりに我が家へ帰って来た。二日目の夜は都心のホテルへ一人で泊まった。昼の間は盛り場を何となくぶらぶらして過ごした。今まで責任ある仕事と規則正しい生活で律していた身には僅《わず》かな日数であっても、たとえようもなく荒《すさ》んだものだった。
それも無理はなかった。仕事と家庭という、男にとって二つの心身の拠点を彼は同時に喪《うしな》ってしまったのである。
彼はまず、絶対と信じていた妻に裏切られた。そして、その翌日、職場のスポンサーから古草履のように捨てられるという強烈なダブルパンチを喰《くら》ったのだ。
それは彼の価値観の覆滅と社会的地位の喪失を意味していた。
とりあえず、売春婦を抱き、妻と同様の過失≠自分の躰《からだ》に刻みこむことによって、妻と同位に立とうとしたのだが、少しも気持は救われなかった。むしろ胸の中の荒廃感はますます増悪《ぞうあく》してきたようである。
同じ金を取るならばらくをして取った方がよい、三神の支持を信じて当分(ホトボリの冷めるまで)S支店でのんびりしようと思い直しても、あの三神の様子からそのような楽観をすることは到底無理であった。本店のエリートコースから、子会社のその又支店詰めが、どんなに悲惨なものか、それはもう組織から完全にしめ出されたのと同じことである。
「俺《おれ》はもうだめだ」
暗然と呟いた時、有馬の目に団地の窓群の灯が入ってきた。見馴れた光景がひどく奇異なものに映る。僅か、中二日おいただけであるのに、自分の生活がそこの住民のそれとはひどくかけ離れてしまったように感じられた。
それぞれの窓の灯は一日の勤めを終えて帰宅した主人を迎えて、楽しい夕餉《ゆうげ》の円《まど》いを示すものだ。各戸の窓から、テレビの音楽や、楽しそうなざわめきが聞こえて来る。
あの家々の住人にしても、静子と同様の過失をおかした人々もあろう。自分よりもはるかな冷遇に甘んじている人々もいよう。だが寛容と忘却の上にあのような平安と幸福を楽しんでいる。
俺はもっと寛容にならなければならない――寛容の上にすべての健康な美徳は生きるのだ。
階段を一歩一歩登りながら、全く自分の家へ帰って行く気がしない。娼婦を抱いた後、まる二日あてどなく町を彷徨《さまよ》い歩いた空虚《むなし》さは、まるで病気にでもなったような不健康な疲労を体の芯に澱《よど》ませている。
ブザーに応えて出て来た静子は、別人のように憔悴《しようすい》した夫の姿を見出すと、
「まっ!」と叫んで、全身を有馬の胸に投げかけて来た。
「心配したわ……一体……どうなさったの? どこへ行ってらしたの?」
泣きじゃくりながら静子は途切れ途切れに怨《うら》んだ。
「とにかく中へ入れてくれ」
有馬はじゃけんに妻の躰を外した。
「会社から何か連絡があったか?」
家の中へ入りながらまず社のことを尋ねたのは、やはりサラリーマンの習性である。
「あったどころじゃないわよ、昨日、至急店の方へ連絡せよという電報が来たのよ」
「電報だって?」
「あなたの連絡先が分らないので、私が電話をしたら、とにかく帰宅次第大至急出社するようにって、何かよほど重大なお話しらしいわよ」
「出社せよか、どういうことだろう?」
有馬は首をかしげた。
三日前に三神から当分出て来なくてもよいと言い渡されたばかりである。それがこうも早く逆の命令を出すのはどういうことか?
だが今の有馬にはわざわざ電話ボックスまで出かけてその理由を確かめようとする熱意はなかった。
どうせ明日行ってみれば分ることだ。用があるのは先方だ。放っておけ。わずか三日のことで彼はサラリーマンの奴隷的従順を喪っていた。
「大変だったでしょうね、こちらにも、新聞記者が大勢押しかけて来て大騒ぎだったわよ」
妻の言葉に、有馬も初めて彼女がさぞ「大変な目」にあったであろうことに気がついた。新聞記者や週刊誌のトップ屋に追いまわされた上に、うるさい団地の中でさぞや肩身の狭い思いをしたことだろう。
だが彼は故意にそれを無視して、
「少しは心配したか?」
と皮肉をこめて言った。
「ええ」静子はそれを素直にとって、
「初めての無断外泊だから、眠れないほど心配したけれど、私のあのことと、あの事件が重なったでしょ、だから二、三日もすればきっと帰ってらっしゃると思っていたわ、本当によく帰って下さったわね、よかったあ」
静子は心の底から湧き上がって来る喜びに耐えられぬように全身ではしゃいでいた。最初訴えた怨みはその喜びの中に吸い取られてしまったらしい。
大した自信だ――と有馬は思った。事件が重なったにしても、夫の蒸発≠ノ対して、そのように冷静に振舞える妻の自信を支えるものは何だろう?
むしろそれは自信というようなものではなく、たかをくくっていたのではあるまいか。折角、鎖から解き放してやっても必ず手許へ帰って来る飼犬のように、たかの知れた夫の行動半径と見くびっていたのではないだろうか。
いや、やはり俺はどうかしている、どうして妻の愛を素直に信ずることが出来ないのか。有馬はここ二、三日の間に自分の心がひどく歪《ゆが》んでしまったのを感じた。
静子はそんな彼を全身でいたわっているようであった。
「お風呂になさる、それとも先にご飯?」
彼女から訊《き》かれた時、一昨夜抱いた名も知らぬ娼婦の顔が瞼に浮き上がった。あの娼婦も同じ様なことを尋ねた。自分にはもう妻を責める資格はないのだ。だが、同じ過失を自分の躰に刻み込んでも、少しも救われぬこの心をどう説明しよう?
その夜静子は激しく燃えてきた。有馬の外泊に妻としての自信が薄らぎ、その反動として強く求めてきたのであろう。
「もう何処《どこ》へも行かないで、お願い」
静子は全身の力で有馬に縋《すが》りつきながら、官能の渦に揉《も》まれて歔欷《すすりな》いた。二人は共に手を携えて一歩一歩頂へ登りつめて行った。
これ以上の近さは考えられない近さで有馬の躰にしがみつき、開けるだけ躰を開いて凄《すさま》じい蕩揺《ゆりかえし》に耐えていた静子は、遂に耐え切れなくなって、
「ああ、もうだめだわ」と呻《うめ》いた。常ならばこれをサインに、二人は手を取り合って波頭を崩れ落ちるのである。
だが、その夜、思いもかけぬ異変が起きた。
――静子はあの男を抱いた時も、今と同じ様に躰を開き、今と同じ様な呻き声を上げたのだ――
おそらくは……今俺と交わりながらも、あの男の顔を俺の顔に重ねているにちがいない。
躰の芯に燃える官能の炎は憎悪に置き換えられた。熱い炎が黝《どすぐろ》い炎に蚕食されていくのに比例して、有馬は萎《な》えていった。
「ああ!」
波頭直下まで登りつめていた静子は、もどかしげに躰を縒《よ》った。だがどんなに彼女が躰を縒っても、有馬は自分を甦《よみがえ》らせようとはしなかった。
(ざまあ見ろ)
もう少しのところで欲望を充たされ損い、行き場を失ったエネルギーをもてあましている妻を、有馬は胸の中で嗤《わら》った。
翌朝、有馬が家を出ようとする間際になってから静子は思い出したように言った。
「私、悪いことしたわ、新聞記者騒ぎですっかり忘れていたことがあるの」
「何だ?」
「一昨日、松波さんがいらっしゃったのよ」
「松波が?……ここへか」
「ええ、あなたが帰ったので嬉しくてすっかり忘れていたわ」
「何の用で?」
「訊いたんだけど、いずれ会った時に話すからって仰有《おつしや》らなかったわ、こみ入ったお話しらしかったわ、ごめんなさいね」
「松波が一体、何の用だろう?」
有馬は釈然としないまま靴を履いた。松波にはこちらが会わねばならぬ用事はあっても、先方には何の用もないはずだ。ところが先方からわざわざ自宅へ訪ねて来たのは余程、さし迫った用事があったからなのだろう。
彼が今度の事件の見舞に駆けつけて来るような人間でないことは、自分が一番よく知っている。
とにかくそれも出社すれば分る。それだけの興味でも、この去勢されたような身体をどうにか都心へ運んで行ってくれるだけのエネルギーにはなるだろう。
「早く帰ってね」と呼びかける妻の声を背に聞き流して、有馬はのろのろと階段を下りた。
2
社へ出ると、わずか数日のブランクで、全く別の社へ来たような気がした。サラリーマンの生活というものは、絶対に間《ま》をおかない不断の精勤と忠節の上に成り立つことを、有馬はその時ほど思い知らされたことはなかった。
仕事は完全に彼を除外して動いていた。組織の一コマとして動いている時は、自分がいなければ仕事にならないのだとうぬぼれていたが、さて自分が欠けてみても、何の支障もなく動いている組織に、サラリーマンは初めて自分が、いくらでも代替えのきく歯車の一個にすぎなかったと悟るのである。
有馬はそのような疎外感を痛切に味わった。だが社員の、彼を見る目には数日前とは何か異なったものが感じられた。三神からS行きを宣告された直後は、社内には冷笑と憐憫《れんびん》があった。それが今はない。
仲間としての親しい目は喪われたままであったが、エリートとしての自分に向けられた熱いまなざしが、社員たちの間に甦《よみがえ》っているように感じられてならないのである。
そのことは、古巣の営業企画のオフィスへ入ると更にはっきりとした。
武井課長のごときはわざわざ立ち上がって彼を迎えた。
「三神専務がお待ちかねだ。早速ですまないが、すぐ行ってくれないかね」
武井は造り笑いをした。
――何かが起きた――
有馬ははっきりと自覚した。
専務室へ入ると、三神がいかにも待ちかねていたように腰を浮かしかけたが、すぐにそれが一社員を迎える専務の態度ではないと気づいたらしく、ソファーに身を沈めた。だが彼の表情には以前のスポンサーとしての親しさが甦っていた。
「ま、かけたまえ」
まず椅子《いす》を進めてくれたのも、彼の軟化を示すものとみてよいだろう。ただ何となく態度に落着きがなかった。一応ソファーにゆったりと構えてはいても、三神本来の重味に欠けている。
有馬がデスクの前のストールに腰を下すと同時に、
「やられたよ」
と三神は口惜しそうに言って、有馬の前に一通の内容配達証明郵便を置いた。
「これは?」
「まあ中身を読んでみてくれ」
三神は頤《あご》をしゃくった。
――株式会社都屋百貨店第×××回定時株主総会第三号議案、取締役四名任期満了につき改選ならびに、三名増員選任の件に関し、異積投票することを請求いたします。
なお、当方にてあげる取締役候補者は次の通り。
氏 名
一、陣屋右三郎 東京都杉並区天沼一の四三
二、藤倉 明彦 東京都豊島区要町四五
三、宮川 信市 東京都目黒区中央町三
四、吉山 久二 神奈川県川崎市生田四八四
主たる職業
一、金融業
二、農 業
三、不動産売買斡旋業
四、アパート、旅館経営
所有する貴社株式の額面無額面の別、種類及び数、
一、額面普通株式 五百二十六万八千二百株
二、右同 株式 三百八十六万四千株
三、右同 株式 三百四十三万七千二百株
四、右同 株式 三百五十五万八千株
貴社との利害関係
一、二、三、四共になし。
右請求代表人
[#地付き]宮川信市……
「これは!」手紙の文言の最後まで目を通さないうちに有馬の唇から呻き声が洩《も》れた。間もなく開かれる都屋の八月期定時株主総会に全く外部の第三者からの、取締役の選任は累積投票による旨の請求である。
候補者として挙げられた四名はいずれも有馬が初めて目にする名前であったが、彼らの保有株数を合わせれば、発行済み株式総数の四分の一に達する。都屋においては職業乗取屋の参入を防ぐために定款により累積投票は排除してあったが、その障壁もテキが四分の一の株を集めてしまっては無力となる。
彼らはいずれも都屋とは利害関係はないと表明しているが、おそらく彼らの背後には都屋の経営支配権を狙《ねら》うプロの乗取師が控えているのであろう。
それにしても四分の一も買い集められるまで都屋のトップは気がつかなかったのであろうか?
「やられたよ」
三神は有馬の詰問するような視線を眩《まぶ》しそうに受けて同じせりふをくりかえした。
「今年の初め頃からうちの株がじりじり上がっていたことは事実だ。本店の売場面積五万平方メートルへの拡張と、仙台店の新設が一時的な人気を集めているとみていた。二月期決算で名義書き換えが行なわれた時も、まさかこの四人がつながっているとは思わなかったので、特別注意をはらわなかったのがぬかった」
三神は歯を喰いしばるように唇を結んだ。
たしかにそれは三神の言う通りであった。普通、経営支配目的にせよ、利ザヤ稼ぎにせよ、株の買い集めが行なわれる場合は、株価はかなり急ピッチな上昇を示すものである。二月の二百十六円が現在二百九十五円で、この数か月間の間に約八十円の値上がりは、かなりの騰勢といえぬこともなかったが、買い集め時に見られるダイナミックな動きからは遠い。
「株価があまり飛ばなかったのは、奴らが浮動玉でなく、大株主から買っていたせいもある。もともとうちに浮動玉は品薄だから少しの買いが入っても値を飛ばすのだが、奴らは大物の固定玉を狙ったのだ。固定玉、ちっとも固定していなかった。多年の平穏無事に狎《な》れて株主の安定工作を怠っていたのにまんまとつけ入られた」
「一体、誰が売ったんですか?」
「京葉銀行の岩佐軍四郎だ」
「えっ、あのつい最近亡くなった岩佐頭取が!?」
京葉銀行は都屋の主力銀行の一つであり、岩佐軍四郎はこの一月病死するまでその頭取であった。彼は同時に都屋で四、五位に位する個人大株主である。その岩佐が都屋株を手放したとなると穏やかではない。
「いや、頭取本人ではない」
「では一体?」
「頭取の遺産を相続した長男の東平だ」
「長男が!」
「そうだよ、岩佐家は代々、都屋とはゆかりが深い家柄だ、現に三男の良造にはうちの社長の娘が嫁いでいる、まさか岩佐家が都屋を裏切るはずがないと太平楽をきめこんでいたのが、見事にやられたわけだ。この調子だと、今のところ表面化していないが、他の大株主もかなり喰い荒らされているかもしれん」
三神は口をへの字に結んだ。たとえテキがどんな巧妙な手段によって買い進んできたにせよ、一社の首脳ともあろう身が、その四分の一を買い集められるまで気がつかなかった事実は、いかなる弁明も許されぬ重大な失策である。
ましてデパートの鬼とも呼ばれる三神にしてみれば、これは首にかかる過失にちがいない。
有馬には彼の無念な内心が手に取るように読めた。
(しかし、そんなことを何故この俺《おれ》に?)
たしかに自分の会社がどこの馬の骨とも分らぬ人間に乗取られることは、サラリーマンにとって一大恐慌には違いないが、それは一社員がジタバタ騒ぎ立ててもどうなるものでもない。
自社株がプロの乗取屋に買い占められていた事実を社員として知らなかった迂闊《うかつ》さは責められるべきであるが、それにしてもそれは、三神すら気がつかなかったことである。
一平社員風情に責任は殆《ほとん》どないと言ってもいいだろう。まして今の自分はそのポストすら奪われ、子会社のその又支店に放逐された身分なのだ。都屋が誰に乗取られようと知ったことではない。要するにそれは都屋の雲の上における戦いなのである。
その天上の戦いを三神は何故有馬づれの下人≠ノ愚痴っぽく語るのか?
「今のところ表面に出ているのはこの四人だけだが、いずれも初めて耳にする名前だから、職業買占屋や乗取屋ではない、どうせ黒幕の大物に操られている傀儡《ダミー》株主に決まっとる」
「その黒幕とは一体誰ですか?」
大した興味はなかったが、有馬は一応|訊《き》いてみた。
「だから君を呼んだのだよ」
三神は硬い表情のまま言った。
「日本観光の松波俊二という男な、あれは君の同窓だったな」
「そうですが」
いきなり旧友の名前を出されて、有馬はそれが今迄の話題にどのような関連があるのかと思った。
「若いがなかなかのやり手で、菱銀の駒井頭取の信任を一身に集めているとか、葉急乗取りの黒幕だという専らの噂《うわさ》だ」
「松波がどうかしましたか?」
「お前には匂《にお》わんかな?」
「は?」
「臭いのだよ、奴が」
「まさか!?」
「まさかではない、葉急を乗取られた時から注意はしておった、もし奴が今度の買い占めの黒幕となると、相当にうるさいことになるぞ、何しろ奴の背後には駒忠がついておるからな」
「彼だという証拠でもあるのですか?」
「証拠はない、匂いだけだ。だが日観が葉急を吸収した時に菱銀から金が出たことは公知の事実だよ、あの時の凄絶《せいぜつ》な買占め合戦は今でも語り草だ。だが菱銀をバックにしている日観が相手では、所詮《しよせん》葉急に勝目はなかった。当時日観傘下の大都電鉄に最も競合していたのが葉急だった。至る所で路線がぶつかり、互いに蚕食し合っていた。これは当時の日観にとって東京東部地区へ進出するための障害としてよりは、日観そのものを脅かす存在だった。葉急を追い落とさないことには、日観のジリ貧は免かれない、こうして葉急の強引な買占めははじまったのだ。そして葉急買占め後の日観の伸張は目ざましいものがあった。まず東京北部郊外にネットを持つ都北電鉄の吸収、その子会社、東都高速バスの支配権奪取、そして現在は那須《なす》登山鉄道を攻略中で、総株数のほぼ四割を集めたという情報だ。日観がこのような貪欲《どんよく》な帝国主義≠打ち出したのは、ここ五、六年の間なのだ、それは駒忠の女婿となった松波が入社した頃とほぼ一致する。松波の入社後二年足らずのうちに前社長古川が追い落とされ、専務水上が社長に就任した。古川も水上も、どちらにしても似たり寄ったりの財界サラブレッドのおっとり型で、経営革新のための人事とはどうしても思えない、ところがこの政権交代≠ノより、日観は凄《すさま》じいばかりの変貌《へんぼう》をとげた。それまではどちらかというと既得の営業範囲《ナワバリ》を手がたく守って、徒らに規模の大を追わない穏健な社風が、ガラリと一変して、飽くことなき物欲の権化と化して怒濤《どとう》のような侵略を始めたのだ。この主幹となったのが松波俊二だ。財界で全く相手にされない二十代の若さをロボット社長水上によって補い、日観帝国主義の影の主謀者として冷酷非情な侵略を進めているのは彼だ――と世間では観ていた。だが儂《わし》は、彼自身ももっとはるかに大きな黒幕に操られる傀儡《かいらい》だと思っている」
「誰ですか? それは」
「分らんか?」
三神はこの時初めてうっそりと笑った。それはそのまま有馬の鈍さに向けた嗤《わら》いのようであった。
「松波は誰の娘を女房にしてるか知らんお前じゃなかろうが」
「それでは駒井が」
「そうさ、駒井忠左衛門、彼こそが日観の凄じい侵略の大黒幕なのだ。預金量、日本第二位を誇る菱銀の頭取ともあろう身が、まさか正面切って他人の会社を乗取る経済ギャングの真似は出来ないからな。もともと菱銀を首長とする菱井|企業集体《グループ》は、第三次産業、特に観光産業の資本展開が遅れていた。遅れていたというよりは、企業的妙味が薄いものとして余り力を入れなかったのだ、ところが戦後のレジャーブームによる観光産業の著しい台頭は、企業的に無視出来なくなった。そこで目をつけたのが日観だ。大都電鉄を中核に、東京西郊から神奈川県下、箱根にかけてネットを持ち、旅行|斡旋《あつせん》、登山バス、ハイヤー、遊園地、不動産、レジャーランドなどを擁する総合レジャー産業としての日観は、菱井グループの観光部門進出への絶好の足がかりだった。当時、古川の消極経営がたたって、資金繰りが悪化していた時を狙って|融資パイプ《コネ》をつけておき、猪武者松波を送りこんだ。駒忠の娘をもらった松波は、猛烈にハッスルして駒井の意志を忠実に実現していった」
「駒井の意志」
「そうだ、葉急といい、東都高速バスといい、過少資本ではない、ことに葉急などは私鉄の大手で、当時資本金九十億の大企業だった。これの買占め、乗取りを賄《まかな》う資金量と意志は並大抵のものではない、駒井にしたところで何でそんな尨大《ぼうだい》な資金を、単に娘婿というつながりだけで融通するものか、みな駒井自身の意欲なのだ。日本観光を主幹とした旅行斡旋、電鉄、バス、レジャーランドなどをすべて傘下におさめる一大観光コンツェルンを菱井グループに加えることがな、そして駒忠め、とうとう百貨店にまで触手を伸ばしてきおった」
ここまで語って三神はふうーっと大きな吐息をついた。その一瞬、空間の一点に据えられていた眸《ひとみ》が放心し、大きな疲れをたたえたように見えた。彼はすぐ語り継いだが、それから後はあたかも自分自身に語りかけるもののような愚痴っぽい口調となった。
「葉急とうちとでは多年の持ちつ持たれつの関係で相互不可侵条約≠フようなものが出来上がっていた。しかし、百貨店が電鉄を欲しがる以上に、電鉄は百貨店を欲しがっている。もともと昨今の私鉄の経営状態は、自動車の進出に押されて悪化している。これを挽回《ばんかい》するために打ち出されたのが、沿線の多角経営化で、沿線住民の生活のすべてを電鉄資本が面倒見ようとした。特に住民の買物を自分の資本で賄《まかな》うのは、彼らの生活を支配するための絶対の条件だ。電鉄資本のターミナル地区への凄じい百貨店建設競争が、この事実をよく物語っている。
うちは百貨店の純血を伝えるレッキとした呉服店系だが、葉急にしてみればのどから手が出るほど欲しいターミナル百貨店だったろう。何しろ葉急の起点なのだからな、だが葉急は紳士協定を守った。もっともそんなのんびりした社風だから日観に喰われたのかもしれんがの、が、とにかく葉急の支配者は、温容慈顔の紳士から、飢えた狼に代わった。狼が羊の美肉のようなうちを見逃すはずがないと儂は思った。だが割合安んじていたのは、うちが代々の安定株主ばかりで浮動株が少なく、いくら狼が腹をへらしていても、つけこむ隙《すき》はないとたかをくくっていたからだった、それが、相続時を狙《ねら》うとは、儂としたことが、迂闊だった、迂闊だったよ」
三神は話している間に次第に興奮してきたと見え、思わず髪に手をやり、かき|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》ろうとしたが、そこに有馬のいることに気がつき、ハッと表情をひきしめて(多分にばつが悪そうに)、
「そこでだ」と言った。
「まずダミーの黒幕は十中八九松波だと思えるが、確たる証拠はない。万一幸いにも、利ザヤ稼ぎのいやがらせであれば金でカタがつくのだが、事前に何の高値売り付けの交渉もなく、いきなり累積投票の請求だから、まず、経営参加か奪取目的とみてよい。いずれにせよ、テキの正体をはっきりと掴《つか》まんことには、こちらでも適切な対策が立てられない。当然、浮動玉の買い集めも進めているだろうから、株屋を通して調べさせるが、君の方でも一つ松波にあたってみてくれないか」
三神は長い前置きの末、ようやく有馬への依頼を言った。いやそれは依頼と言うよりは、命令と呼ぶべき種類のものであった。
「うまいこと探り出せたら、君の異動の件を再考慮しよう」
最後につけ加えた条件によって三神は命令にしたつもりであろう。
そうか、そういう裏があって、いったん消耗品のように投げ捨てた自分を再び呼び出したのか。捨てた草履でも、まだ効用があると分れば再びゴミ箱から拾い上げて使おうとするガメツさ、――草履にも意地がある、そうそう相手の思い通りにはならないぞ。
ここ数日の間に会社の非情さを見に沁《し》みて味わわされた有馬は、サラリーマンという身分に対する考え方を根本から改めていた。だから三神が投げたつもりの大きな餌《えさ》も、今の有馬を少しも惹《ひ》かなくなっていた。
「私などがアプローチしても、口を割るような松波ではありません」
有馬は多分に意地の悪い口調で言った。数日前には到底考えられぬ大それたものいいである。
「そこがお前の腕ではないか!」
突然、三神は吠《ほ》えた。
「最初からそんな気弱なことでどうする!? もし、ダミーの背後に松波がいれば、更にその背後には駒忠がいるのだ。都屋が生きるか死ぬかの瀬戸際なんだぞ、松波と刺し違える覚悟で探り出して来い。今日まで特に目をかけてやったのを何と思っておるか! 月給もらって、めし喰ってフンするだけの人間ならば、別にお前でなくともよかったのだ。行け! すぐとりかかれ!」
今までのへり下った態度をかなぐり捨て、憎むべき乗取りの当の本人が有馬でもあるかのような憎悪に三神は満面を歪《ゆが》めていた。折角与えてやった再起の機会に少しも興味を示さぬばかりか、有馬の人が変わったような不遜《ふそん》な言動は、三神のプライドをいたく傷つけたのである。同じ餌がいつも効果があると信じこんでいる。そこに有馬は三神の鈍さを感じた。だが今はそれを教えてやろうとする熱意すらない。彼は三神の怒号を黙礼で躱《かわ》すと、専務室を出た。
都屋が乗取られるのか、それもいいだろう。誰が経営者になろうと、子会社の支店詰めの人間には関わりないことだ。飼い主が誰になろうと、飼い犬は餌さえ同じにもらえれば一向に差しつかえない。
それに飼い犬であることさえ止めようとしている自分にはなお更知ったことではない。有馬は今の三神の、社を救うための熱っぽい怒号とはおよそうらはらの虚《むな》しく荒《すさ》んだ気持で階段を下りた。もうこの社屋の中には彼のための空間はないはずであったが、とりあえず足の向く所は古巣の営業企画室であった。
だが部屋へ入ると同時に課の女の子が、彼に訪問客のあることを告げた。名前は会えば分ると言って言わないそうである。
この俺《おれ》に一体誰が? と首を傾げながら応接間へ入った有馬は、そこに思わざる旧友の姿を見出した。
「松波!」
「すまんな、朝っぱらから」
「家にも来てくれたそうだな」
「うん。至急会わなければならぬ用事ができてな、今、名乗らなかったのは、お前にいらざる迷惑をかけるといけないと思ったからさ」
「迷惑? どうしてだ」
「もう知ってるだろ」
松波は有馬の目を覗《のぞ》き込むようにしてニッと笑った。
「それじゃあ、やっぱり」
「はは、そうだよ、俺がやってるんだ」
松波はいとも無造作に言ってのけた。今迄覆面をかむっていた彼が、たとえ旧友の前とはいえ、当の敵の本城に乗り込み、買占めの張本人であることを自らこうも明からさまに表明したのであるから、すでにかなりの株を集めてしまったのにちがいない。
普通、一社の株を買占める場合は、目的が何であれ、極秘のうちに買い進んでいくのが常道である。まだ充分買い集めないうちに計画が洩《も》れてしまえば、会社側が守りをかためてしまうし、便乗して儲《もう》けようとする第三者がチョウチンをつけるので、コストが高くついて資金計画に破綻《はたん》をきたすからである。
「相当に集めたな」有馬が言うと、松波は少しも悪びれずに「まあな」とニヤリと笑い、
「ちょっと出られないか」
「ここではまずいのか?」
「うん、話し難《にく》い内容なんだ、手間は取らせない」
「いいだろう」
二人は都屋の並びのビルの地下にある喫茶店に入った。松波は朝食を喰っていないのか、コーヒーについたモーニングサービスのトーストを美味《うま》そうに頬張《ほおば》った。
「それで?」
有馬は松波が飢え≠応急に充たすのを待って促した。
「もう俺はな……都屋がじたばたあがいてもどうにもならないだけ集めたよ」
松波はパン片をコーヒーで嚥《の》み下しながら言った。
「そうだろう」
そうでなければ、いくら昔の仲間とはいえ、これほどの重大事を軽々しく打ち明けるはずがない。
「とりあえず、ダミーの四人を表に立てたが、すでに経営権を支配するだけの株主権は確保している」
(そんなことを俺に話してどうなる?)
有馬は不審の目を松波にあてた。
「すでに都屋の主は替っているのだ。ところが、困ったことには、何せ創業三百年の老舗《しにせ》だけあって忠臣が多すぎる。餌さえ同じに、いや旧主以上に与えられれば、誰に飼われようと大して変わりはないだろうに、旧主に忠義だてをして労組が就労を拒否する虞《おそ》れがある。経営支配はしても、従業員が動いてくれないことには、こちらも動きがつかない。それにな……この度の吸収は大資本が小資本を制圧したものだ、資本主義社会必然の弱肉強食のルールが打ち出されたにすぎないのだが、他社の乗取りとなると社会的非難も大きい。特に菱銀をバックにしているだけに、世論を刺激しないようなるべく穏便な形にもっていきたいのだ。実質的には乗取り吸収であっても、表向きは、都屋側の自主性を尊重した経営参加という形にな。それには都屋側の労使共に顔のきく実力者を抱え込みたい」
「三神専務を狙っているな」
「そこまで察してくれれば話しがしやすい。三神陽一郎は生粋のデパートマンだ。業界にも通じ労組にも絶大の人望がある。何としても彼が欲しい。有馬、お前は一度は三神から娘婿にと望まれた人間だ、そいつを惜しげもなく蹴《け》っ飛ばしたことから益々彼に気に入られたそうじゃないか、どうだ一つ、口をきいてくれないか。橋渡しだけでいいのだ。もし彼が我々についてくれれば、現在のポストは保証してやる。何、彼とてサラリーマンから営々として今日を築き上げた人間だ、いくら城代家老≠気取っていても、現在の地位を失いたくないに違いない」
「何故、お前直接にアプローチしないのだ? 俺にとっては三神専務は雲の上の人間だぜ、そう気軽に話しの出来る人でもないし、第一、都屋の社員として味方の大将に裏切りなど奨《すす》められるものか」
「お前もサラリーマン根性が沁みついたな、今の都屋の大将はこの俺だぜ、三神などもはや俺に生殺与奪の権を握られている一個の傀儡《でく》にすぎない、奴なんかにもうビクビクする必要はないのだ」
「ビクビクなんかしていないよ、お前が直接話しをもっていった方が、分りが早いだろうというんだ」
「三神の性格では、俺が直接ぶつかったのではまとまる話もまとまらなくなる。考えてもみろ、奴が敵将の前で潔く兜《かぶと》を脱ぐ男かどうか、そのことはお前の方がよく知っているはずだ、この際、奴の自尊心を傷つけぬように緩衝《マフラー》をおいて、一つの取引き≠ニいう形で話を進めたいんだよ」
「俺にその緩衝になれというのか?」
「そういったわけだ」
「…………」
「どうだ、友達|甲斐《がい》にやってくれぬか」
松波は都合のいい時だけ〈友達〉を出した。ビジネスに友情はタブーだと口ぐせのように言っている彼が、自分のビジネスにとって必要とあれば何の臆面《おくめん》もなく旧《ふる》い友情を振りかざすところに、彼一流のガメツイ処世があった。
「どうだろう?」
黙りこんでしまった有馬を、松波は重ねて促した。だが有馬の答えに対して少しも悲観的な様子はない、すでに有馬に対しても、旧友としてよりは新しい主人の大様な構えが松波にはあった。
だから有馬が断わると言った時、松波は一瞬、信じられぬような顔をした。よく考えた方がよくはないか、〈新都屋〉と改まった時の支配者はこの自分だぞと脅迫に近い言葉を残して帰って行った松波は、すでに〈地蔵菩薩《じぞうぼさつ》研究部〉の只一人の仲間ではなく、大資本を自由に操り、巨大企業を玩《もてあそ》ぶ巨魁《きよかい》であった。
3
それから三日後、有馬は三神から呼ばれた。
「どうだ、判ったか?」
三神は有馬が部屋へ入るなり、性急に訊《き》いた。どうやら幹事証券会社を通しての探索ははかばかしく進まないらしい。もともと今度の買い占めが、大株主を主として狙《ねら》っている上に、証券会社としても買占め屋の手先となっていることが判っては信用を喪《うしな》うので、直接表に立つことはめったにない。この筋から糸をたぐるのは極めて難しいのである。
「はい」
「えっ、判ったのか!?」
大した期待もかけずに訊いたところが、思いがけぬ反応があったので、三神は声を弾ませた。
「買占めの張本人は確かに松波俊二、即ち、菱銀から金が出ています」
有馬は一語一語区切るようにはっきりと言った。それは会社側の肩替りを狙う買占めを願っていた三神にとっては、残酷なほど明確な口調であった。
「やはりそうだったか」
一瞬|蒼白《そうはく》となった三神は唇をかみしめて呻《うめ》いた。
「どうやって探り出した?」
ややあって彼は訊いた。救いようのない絶望感の中で、有馬の言葉を疑うことに一縷《いちる》の望みをかけた様子である。
「松波本人の口から聞き出しました」
「えっ、直接本人にか、よく口を割ったな」
「すでに覆面を脱いでも充分なだけ集めたということです」
有馬は止《とど》めを刺すように言った。三神は虚脱したようになった。目の前に有馬がいるにもかかわらず、眼は焦点を失い、唇はダランと開いて口角から涎《よだれ》をたらさんばかりであった。
常に鎧《よろい》に身を固め、人に隙《すき》を見せたことのない三神が、今、完全に打ちひしがれて無防備になっている。
相手を到底防戦の施しようのない菱銀と知って、蛇に魅込まれた蛙のように竦《すく》んでしまったのであろう。おそらく彼はどうしようもない絶望感の中で、営々として築き上げた自分の地位が、ガラガラと崩れ落ちていく音を聞いているにちがいない。地位や権力や名声が、その他もろもろの半生に亘《わた》る血と汗の結晶が、ある日突然現われたギャング≠ノよって根こそぎ奪われてしまう。それに対して法の保護を求めることも出来なければ、自分で救済も出来ない。
ただ黙ってこの合法的な侵奪を見送っていなければならないのだ。
あまりにも三神の打ちのめされた様子に、有馬は自分の胸に畳んでおこうと思っていた松波の依頼をつい口に出してしまった。慰めのためではない。それが三神をして、持ち前のファイトを甦《よみがえ》らせるよすがともなればと願ってのことである。
「何、松波が儂《わし》に会いたいと?」
案の定、放心していた三神が光を甦らせた目をぎょろりと剥《む》いた。
「何故だ?」
有馬は松波の意向を正確に伝えた。話し途中で怒り出すかと思われた三神は、有馬が語り終わるまで熱心に耳を傾けていた。
「確かに現在の儂の地位は保証すると言ったのか?」
有馬が口をつぐむと同時に三神が尋ねた。
「は?」
三神の口からそんな問いを予想していなかった有馬は、一瞬、その意向を把《つか》みかねた。
「どうだろう、儂を松波氏に会わせてくれぬか、日時と場所は先方に任せる」
きょとんとしたまま立ちつくしている有馬に三神は畳みかけた。今まで呼び捨てにしていた松波にいつの間にか敬称をつけている。ようやくその意味を悟った有馬にいいようのない嫌悪感がこみ上げてきた。
そうか、これが都屋の大黒柱、デパートの鬼、三神陽一郎の正体だったのか。たとえ、敵がどのように強大であろうと、都屋を守るために己の力を尽くして戦うであろう、龍車に歯向かう蟷螂《とうろう》の斧《おの》であろうと、斧が手にあるかぎり、斧が折れれば歯をつかい、爪を立てて命あるかぎり立ち向かうであろう、それが都屋の首脳としての勤めであり、都屋に生まれ、育ってきた三神陽一郎の責務ではないか。今ほど彼の存在が必要とされ、全都屋の支えとなることはない。都屋全社員が、そして有馬自身がそう確く信じていた。
ところが、――三神はものの見事に化けの皮を現わした。今、有馬の目の前にいる男は、己の保身ばかりに汲々《きゆうきゆう》とした、サラリーマン根性を剥《む》き出しにした薄汚れた中老人にしかすぎない。
一般社員ならばそれでもいいだろう。もともとサラリーマンは雇われ者であり、主人に雇うだけの力がなくなれば、雇う力のある主人に鞍替《くらが》えするのは当然である。
だが三神陽一郎は、都屋の首脳であり、城代家老なのである。バーの雇われマダムとはわけが違う。労組すらがその忠心故に松波に恐れられているのに、トップの身がひそかに敵将に近づき、裏切りを少しでも高く売りつけようとしている。
「このことは儂と君の間だけの秘密だよ、頼む、悪いようにはせんからな」
意を受けて専務室を辞そうとした有馬にかけた三神の声には、すでに阿《おもね》りすらあった。
閉ざされた壮観
1
「有馬さん、この頃荒れてるのね」
みどりは愁《うれ》わしそうに眉《まゆ》をひそめて言った。心から案じてくれていることはその表情からよく分る。
「君も何か飲めよ」
「そんなに飲んだら体によくないわよ」
「君もずい分商売に不熱心だねえ、俺《おれ》のような客はいいカモじゃねえのか」
「カモだなんて、私、本当に心配してるのよ」
「分った分った、君の親切は肝に銘じているよ、だからこうやって毎晩通って来るんだ、ヘイ、バーテンさん、みどりちゃんにお化け≠一杯!」
有馬はカウンターへ怒鳴った。お化けとはホステス用の飲み物で、カクテルを装って、出されるが、正体はアルコール分が一滴もない清涼飲料水である。ただし料金はカクテル並みにつくところからお化けの名前がある。
ここは銀座のバー・エリカ、有馬がこのような隠語を知ったのは、数え切れぬほどにそこへ通った賜《たまもの》である。
当初は燃えるような熱感しか与えなかった洋酒に、胃と食道もこの頃どうにか耐えられるようになった。飲むほどに苦味は増すばかりの酒の味であったが、体はそれに馴れてきた。この頃ではそれがないと時間を過ごせないほどである。
妻と仕事だけをこよなく愛していた有馬は、今や、世をすねた飲んだくれに堕ちてしまったのである。
彼のS支店行きはいつの間にか沙汰止《さたや》みになっていた。松波への橋渡しの功を買われたというよりは、それどころではなかったのであろう。実際、都屋そのものが創業以来|未曾有《みぞう》の嵐に巻き込まれている時に、一社員の人事どころではなかった。
有馬自身も殆《ほとん》ど出社しなくなった。サラリーマン生活に全く興味を喪《うしな》っていた。
彼は酒と同時に女も覚えた。バーのホステスと寝ることもあれば、行きあたりばったりに街娼を拾うこともあった。
だが酒や女は彼の荒廃を促しても、癒《い》やすことはなかった。彼はそのことをよく知りながらも、渇いた者が束の間の渇を癒やすために海水を飲むようなデスペレートな気持で酒と女へのめっていった。
それは一種の強迫観念といってもよいだろう。自分自身、それが全く無価値というよりはマイナスであることをよく知りながら、より深く自分を傷つけることを止めることが出来ない。抑える力が強ければ強いほど、反動加速して自分を苛《さいな》み虐《しいた》げる。そんな有馬を静子は、深く哀《かな》しい目をしてみつめていた。彼女には夫の苦しみの原因がよく分るだけに、その哀しみもひとしおであり、あらゆる手段をつくしても彼の傷が一向に塞《ふさ》がらないばかりか、益々|増悪《ぞうあく》する様子にただ途方に暮れてしまうのである。
有馬はN市の自宅へは数えるほどしか帰って来なかった。どこでどう夜を過ごすのか、稀《まれ》に帰る彼は、あたかも野良犬のように見るも無惨に汚れ、そして疲れ切っていた。
彼が家へ帰って来るのは金の補給と衣服を替えるためだった。
(あなた!)
あの優しい私の夫は何処《どこ》へ行ってしまったの? 稀に帰る夫へ万感の想いをこめて囁《ささや》きかけても、有馬の自分に向けられた品物を見るような視線に、静子は囁き続ける勇気を失ってしまうのだ。
誰でもない。彼をそのようにしたのはこの自分だ。有馬の荒廃はそのまま自分への傾きの深さを示すものである。彼の愛は、寛容の余裕のないほどに烈しく深く、そしてひたむきだったのだ。
静子はもはや時間というものの作用に縋《すが》るしかないとおもった。愛も憎しみも、山や土地や岩すらも忘却の中に風化してくれる時間の流れを待つ以外にない。しかしそれは又、何とゆるやかな流れであり、残酷なまでに遅い速度であることか。
だがそれ以外に方法がないとなれば、――
しかし有馬はもっと辛かった。静子の哀しみはそのまま彼の哀しみであり、彼女の寂しさは、そのまま彼の虚《むな》しさとなって深く心を抉《えぐ》るのだ。
それから逃れるためには、ただ一言「許す」と言って彼女を優しく抱きしめてやるだけでよい。ただそれだけの手間で救われる煉獄《れんごく》の炎に、好きこのんで灼《や》かれている自分は、なんと救いようもない愚かで偏狭な男であろう。
それはよく分っている。よく分っているのだが、どうしても彼女の躰《からだ》から、あの男の忌まわしい刻印を拭《ぬぐ》い去ることが出来ない。
荒れ果てた幾夜かを過ごした後、帰って来た静子の許は、ただ静子が傍にいるというだけで心身が和み、洗い清められるようだ。だがそれだからこそ、あの男の刻印が大きな忌まわしい影を落とすのである。
2
有馬の荒廃と比例して松波の都屋作戦≠ヘ着々と進展していった。後期の定時株主総会は、両派が送り込んだ総会屋やプロ株主の立ち会うものものしい雰囲気の中で始められた。
両派虚々実々の激しいかけひきの後に、このままでは到底収拾がつかないから、両派並びに中立派からなる議事進行委員会を設けてはどうかという三神の提案が通った。これは実はあらかじめ松波との間に打ち合わせられていた通りの筋書であった。
三派からそれぞれ四名、十二名から成る委員会により、引き続き、総会の運営方法並びに調停案が討議された。そして三神の巧みな誘導により、都屋は日観の系列に入るも役員の派遣ですまし、会社の自主性を尊重して、現経営陣は殆どそのまま残すことに両派の調停が成立した。
こうして日観の都屋系列化は成ったのである。すでに都屋株の四割近くを集めてしまった松波は、累積投票にかけて都屋経営陣を根本から揺さぶることが出来たが、それでは銀行資本をバックにした乗取りが正面に打ち出され、世評上芳しくないのでこのように穏やかな(?)方法を取ったのである。種明かしをすれば、実は中立派も松波派であったのだ。
世人は、表面都屋側を装う三神の操る委員会による両派同数、中立派の意見までも加えての調停にまんまと欺かれた。他人が営々として築き上げた事業の乗取りは、経営刷新のための話し合いによる系列化と仕立て上げられたのである。
こうして都屋の外堀≠うまうまと埋めた松波は、あとは時間をかけて旧役員を一人一人排除していくつもりであった。
「草は一遍に引き抜こうとしても抜けない。どんなに頑強に根張っていても、一本一本引き抜いていけば、抜けるものだ」
と松波はほくそ笑んだが、その草の一本に三神が入っていることは、松波以外に知る者がなかった。
「きっと会社があんなことになったので、面白くないんだわ」
みどりは同情した。彼女は「エリカ」のホステスである。有馬がこの店にはじめて姿を見せた頃とほぼ時を同じくして入った。
好んで頽《くず》れた女ばかりを誘い、非処女であることを確かめた上でなければベッドを共にしないという有馬に、みどりは特別な興味をそそられていた。
みどりは一度ふざけて有馬を誘ってみたことがある。彼はみどりの顔を穴のあくほどにみつめた上に、
「君はだめだ」とにべもなく言ったものである。
「どうして私はだめなの?」
と彼女が抗議すると、
「顔つきが気に入らん」と女を侮辱するに最大の言葉を平然と吐いた。思わずムッとして席を立とうとしたみどりに、彼は押しかぶせるように、
「どうも顔つきが清潔すぎる、処女くさい、俺は処女は嫌いなんだ」と言った。
「だめよ、みどりちゃん、アリちゃんはね、たとえ処女でなくとも、処女の匂いのする女性は嫌いなんだってさ、私のようにご不潔な女がお気に入りというわけ」
京子という、すでにこの店では古株の頽れたグラマーホステスが、先輩顔で説明してくれた。彼女も有馬にかんばん後気に入られた[#「気に入られた」に傍点]一人なのである。
「何故処女を嫌うのか?」
男なら例外なく貴重品扱いをする女の初物を、嫌悪に近い表情を浮かべて忌避する有馬に、みどりは客とホステスという身分を超えた興味をもった。
「何かがあの人の心を蝕《むしば》んでいる、私の力でそれを癒《い》やしてやれたら」
それはもうすでにホステスの商算を超えた、心の傾斜であることに、この道に入って日の浅いみどりは気がつかない。
有馬の荒廃の底に沈む哀しみに、彼女は、多分にロマンチックな母性本能を擽《くすぐ》られたのかもしれない。それはそのまま、彼女が世の中の酷風にそれほど荒らされていない証拠だった。
「あんたが処女でなかったらなあ」
ある夜、久しぶりに酒気が余り入っていない目で、みどりを見ながら、有馬はしみじみとした口調で言った。
「お馬鹿さんねえ、こんな商売していてそんなはずがないじゃないの、あなたが一人で勝手に決めているのよ」
「本当かい?」
有馬は疑い深そうな顔をした。エリカの客を惹《ひ》く商法の一つであろう。みどりは「永遠の処女」ということになっており、それを面白がった常連の間で「みどりの処女を護《まも》る会」というグループが出来ていた。もっともそれは「……やぶる会」と、訂正した方が妥当なグループではあった。
有馬はそれを額面通りに受け取っていたらしい。そんな彼にみどりは荒廃の底にある純粋なものを感じたのである。
「本当よ、でもそうだったらどうなの?」
「好きだよ」
「私が処女でなければ好きだと仰有《おつしや》るの?」
「そうだ」
「まあ嬉《うれ》しい、それではうんと好いてちょうだい、私も有馬さんのこと大好き」
「信じてもいいんだな」
有馬の目は真剣な光を浮かべていた。口は客とホステスのざれ言だったが、二人の表情は相思相愛の男女のものだった。
数時間後、彼らは場末の小さなホテルの一室で向かい合っていた。ベッドの中で生まれたままの姿に還り、躰《からだ》をかたく結び合わせていた。激しい律動をすでに数十回、アルコールが殆ど入っていなかったせいか、それとも興奮が大きかったせいか、有馬はすでに波頭の直下まで登りつめていた。
いままさにそれを乗り越えようとした瞬間、彼は女の顔が苦痛に引き攣《つ》っているのを見た。全身の苦痛を男のために呻《うめ》き声一つ洩《も》らさず必死に耐えている表情、今まで自分の快楽を追うのに忙しく気がつかなかったが、それはまさしく初めてか、それに近い女の表情であった。同時に有馬は女の躰の未熟な硬さを感覚した。
――しまった!――
本能に急制動をかけた時はすでに遅い。躰の先端まで来ていた体液は、堤の一角を破って奔流のように溢《あふ》れ始めていた。均衡を保っていた水の表面張力がいったん破れると、水位が下がるまでいかなる力をもっても溢れ落ちる力を妨げることが出来ないように、それは意志の力を超えて奔騰した。
有馬は遅過ぎたと悟ると、抑止するかわりに溢れるに任せた。ただ意志の力の辛うじて及ぶ躰を不自然に動かした[#「不自然に動かした」に傍点]だけである。その動きが間に合ったかどうかは、有馬自身にも分らない。みどりの体内から不自然な力で引き抜かれた有馬の躰がおびただしい量の体液を吐き出したのは、二人の体が離れたか離れないかの間だった。あるいは体液の一部分はみどりの躰内に残されたかもしれない。彼女の下腹部を濡《ぬ》らしたものが、外から吹きつけられたものか、内から溢れ出たものかは判らない。
有馬はみどりの胯間《こかん》に踞《うずくま》って詰《なじ》った。
「君は処女だ!」確かにそうだと信じて詰ったわけではない。女の様子と躰から推定しただけのことである。
「ごめんなさい」
みどりは妙な詫《わ》びを入れた。だがその詫びは男の推定を肯定するものだった。処女であることが判明《バレ》て謝る奇妙さには二人は気がつかない。
「ねえ、どうしてそんなに処女を嫌うの?」
みどりは女として最大の侮辱に耐えて言った。それに耐えられたのは、有馬の目に、拭《ぬぐ》いようのない哀《かな》しみの色を見たからである。
「処女というものは、自分の夫だけに捧《ささ》げるものなんだよ」
有馬は固い物を噛《か》み砕くように言った。
「俺は残念ながらもう妻がある、どんなに君を好もしく想っても、君と結婚することは出来ない」
「それでは私が処女でなければ抱いて下さるの?」
「うん」
「処女は夫だけに捧げるものなの?」
「そうだ」
「それではあなたは人妻か、未亡人だけを抱くわけなのね?」
有馬は詰まった。みどりに思わざる論理の矛盾を衝《つ》かれた形であった。
「愛し合う同士が結婚することは理想よ、でもどんなに愛し合っていても結婚出来るとは限らないわ、むしろ出来ない場合の方が多いのよ。結婚出来ないから許さないなんて、それはもう愛ではなくて打算よ、男と女が本当に愛し合える人とめぐり逢《あ》うことと、結婚することは別だわ」
「愛と結婚は別だというのか?」
「同じであるべきだと思うけど、実際はそうではないわ。女はこれはと思った人に捧げるのが一番自分に正直なのよ」
「その後で夫になる人にめぐり逢ったなら、君はその人に捧げるべき何物も持たないことになるぞ」
「どの人が自分の夫になるか分らないじゃないの。女は初めて捧げる人に、夫を感じるものよ、その人と結婚出来なくても、それは女のせいじゃないわ。結婚式まで絶対許さないなんていうのは、慎重だからではなくて、そういう保証≠ェなくては許せない男性不信の現われよ、私のような女はまともな結婚なんて望んでないわよ、有馬さんが好き、ただそれだけで充分なの、誰も結婚してなんて言ってやしないわ、ねえ、どうしてそんなに処女を嫌うの?」
「…………」
「私が人並の結婚をして、処女を夫に捧げた後ならば、私を抱いて下さると言うの? その方がよっぽど悪質な行為じゃなくって?」
みどりに問い詰められて有馬は黙してしまった。答えられなかったからでなく、答えてもどうせ分ってもらえないと思ったからである。
みどりはまともな結婚など望んでいないと言った。しかし、彼女とて、まともな結婚をする可能性は充分にある。それがある限りは夫となる男へ、処女を贈る可能性[#「処女を贈る可能性」に傍点](夫にめぐり逢う日まで処女を保つ可能性)もあるのだ。
愛と結婚が別物であるとしても、両者が一致することもある。たとえ、みどりが心を傾けて自分のそれを[#「それを」に傍点]を贈ってくれたとしても、自分以上に心を傾けられると同時に、彼女の夫たるべき男がこれから現われる可能性はいくらでもある。
その時になって自分へ傾けた愛が錯覚であったと悟り、夫だけに贈るべき貴重なものを喪《うしな》ったことをいくら悔やんでも追いつかぬ。
(もし彼女の夫が、俺《おれ》が静子を信じたように、みどりを信じたとすれば、今の俺のような哀《あわ》れで滑稽《こつけい》な男をこの世の中へ又一人作り出すことになる。
そんなことをしてはならない。俺のような男は一人でたくさんだ)
――処女はその夫たるべき男にのみ与えるべきである。女が欲しければ、処女でもなく、さりとて人妻でも未亡人でもない、不特定多数の男たちに荒らされた無節操な女共がいくらでもいるのだ。彼女らを相手にしているかぎり、誰も傷つけることはない。――
みどりとてそのような無節操な女の一人と信じたからこそ誘ったのだ。彼女に傾いたように思った心はそのまま錯覚であり、単に躰《からだ》の欲望をそそられたにすぎない。
「もっと自分を大切にしなければいけないよ」有馬は泣きじゃくりはじめたみどりを残して一人ホテルを出た。
外へ出ると、夜の更けた空に星が重なって燦《きらめ》いていた。彼は急に静子が恋しくなった。彼女は今夜も帰らぬ夫を待って、団地の階段に響く、夜遅く帰る住人の足音に耳を欹《そばだ》てては、期待と失望を繰りかえしていることだろう。そろそろ臨月に入った身重の体でさぞ心細い夜を過ごしているにちがいない。
久し振りに有馬の目に暖かい光が宿った。それはみどりに接して覚まされた郷愁と言ってもよかった。
終電はすでにない。通りかかったタクシーを止めて、有馬はホテルの払いをすまして心細くなった懐中ともよく相談しないうちに、
「N市へ」と命じていた。
3
N市の団地へは一時間ほどで着いた。団地の窓に灯は一点も見られなかった。深夜のことでもあり、朝の早い勤め人が住人の大部分なのだから、皆寝静まっていて何の不思議もないのだが、有馬は自分の室の窓が暗渠《あんきよ》のような闇《やみ》をたたえているのに言い知れぬ不安を覚えた。
(もう眠っているのだ、こんな時間に起きているはずがない)
有金を叩《はた》いてタクシーの払いをすませた彼は、階段を登りながら自分に言い聞かせた。自分の部屋の前に立った時、不安は最高に極まった。玄関に灯が見られなかったからである。
今までならば、どんなに遅くとも、階段を登る有馬の足音に目を覚まし、彼が扉の前へ立つまでに灯をつけ、鍵を外しておく静子だったからである。
しんと閉ざされた扉の内側に人の気配はない。そっとノッブを回してみると案の定ロックされたままであった。
きっと寝入りばななのだ、有馬は強いて自分を納得させながら、ブザーを軽く押した。だが依然として人の気配はない。彼は遂に手持ちのキイを出した。キイはあっても、妻に迎え入れられなければ、自分の家へ帰って来た気がしない。
善良な夫の帰宅時間から大きくずれてはいたが、それだけに妻に優しく迎え入れてもらいたかった。
充たされぬ気持で扉を開き、室内へ入った有馬を空家のような澱《よど》んだ空気が包んだ。
「静子!」
有馬は三和土《たたき》に立ったまま二、三度呼んだ。重苦しい空気が攪拌《かくはん》され、埃《ほこり》っぽい臭いが鼻腔《びこう》を刺した。彼は靴を蹴飛《けと》ばすように脱ぎ捨て室内に入った。
妻はどこにもいなかった。室内はキチンと整頓されていたが、すでにその空間が無人になってから大分長い時間を経過しているらしいことは、澱んだ空気の重さから判った。
茶の間にしている六畳の間へ通り、灯を点けると、いつも帰るとまっ先に坐るちゃぶ台の上に茶道具がいつでも淹《い》れられるように調えられており、その傍に一枚の白封筒が置かれてあった。
「書き置き!」
不安が彼の胸をズンと断ち割った。取る手ももどかしく封を開けると、そこには静子の手蹟《て》で、
――身体の具合が少々おかしいので、市民病院へ入院いたします。病院の方は完全看護の上、狛江《こまえ》の母が来てくれておりますので、大丈夫です。大したことはないと思いますが、臨月なので大事をとりました。どうぞご心配なさらないで下さい。留守中何かとご不便をかけてすみませんが、すぐに退院いたしますから、どうぞご辛抱下さいませ。静子――
としたためてあった。日付は一昨日のものとなっている、字がいつになく乱れているのは、それだけ苦痛が激しかったからであろうか。身体の具合が悪いとは一体どのように悪いのか?
「静子」
有馬は荒涼とした部屋の中に立ちつくしたまま妻の名を呼んだ。優しい返事が返って来る代わりに、表の方で扉がバタンと閉じる音がした。開け放したまま入って来た扉が、風を受けて閉まったのである。
今迄、手狭に感じられていた3DKが、今程、救いようのない広さに見えたことはなかった。
彼はN市の市民病院が町のどの辺にあるのか知らない。団地の住人によくあるような、生活の本拠は都心にあり、団地のある町は単なるベッドタウンとして寝に帰って来るだけだから、まるで旅人の行きずりの町のように馴染《なじ》みがない。
生憎《あいにく》、電話が入っていないので、相手方を呼び出して所在地を確かめることも出来なかった。が、このまま家にいることは出来ない。団地はN市の郊外にある。市民病院というからには、少なくとも、団地よりは町の中心に近い所にあるのだろう。深夜だが町の中心へ行けばまだ起きている人がいるかも知れない。彼らに聞けば市民病院の場所は分る。とにかく町へ出ることだ。面会出来るか出来ないかは行った上のことだ。行けば少なくとも様子だけは分る。
有馬は咄嗟《とつさ》に判断して帰って来たばかりの家を飛び出した。
N市の中心地までは歩いて三十分ほどかかる。彼は車を帰してしまったことを痛切に悔やんだ。
暗い夜の道を歩き出そうとした彼の目に、淡い街灯の下に浮き上がった公衆電話のボックスが入った。
(やはりどうかしている、家に電話はなくとも、公衆電話があった)
備えつけの電話帳から得た病院の電話番号は、コールサインを十何回か繰り返させた後、漸く眠そうな男の声が出て来た。
彼は静子が入院している事実を確かめた。
「それでどんな様子なのですか? 病名は何です!?」
と急《せ》き込んで尋ねかけた有馬に、
「そういうことは電話では申し上げられませんなあ、明朝にでも来院して係の先生から聞いて下さい」と男はぶっきらぼうに答えて一方的に電話を切った。
「ちくしょう!」
有馬は対話者を失った回路に毒づき、送受器を置いた。同時に、男から病院の所在を聞き洩《も》らしたことに気がついた。
「そうだ、電話帳だ」
彼がようやく目指す病院へ辿《たど》り着いたのは、それから小一時間後だった。病院が団地と全く逆方向の町外れにあったのと、彼の不案内が重なって時間を喰われたのである。
急患用のブザーを押すと、眼鏡をかけた中年の貧相な男が、眠そうに眼をしばたたきながら出て来た。先刻電話に出た男であろう。
有馬は患者との続柄を告げ、係の当直看護婦に取り次いでもらえまいかと頼んだ。面会は無理だろうが、せめて病状だけでも看護婦から聞いておきたかった。
「明日の朝にしてもらえんですかな? 患者が危険な状態ならばこちらからご連絡します」
快いうたたねを叩《たた》き起こされて、いいかげん不機嫌になっていた受付けの男は、ますます仏頂面になった。
「様子をうかがうだけでもいいのです、何とか」
必死に頼みこむ有馬の、テコでも動かない様子に、男は根負けしたように奥へ引っこんだ。
やがて通されたのは、産婦人科病棟の中央診察室である。婦長らしい中年の看護婦がカルテを前に有馬を待っていた。
「有馬静子さんのご主人ですね」
婦長は確かめるような目をした。
「そうです」
「奥様は今日の夕方、早産なさいました」
「早産! それで母児《おやこ》共無事ですか?」
「母体は大丈夫です。ですが……」
婦長が言いよどんだ。
「子供は……だめだったのですか?」
有馬は思わず急きこんだ。
「まだ何とも申せません。何分体重が二千グラムそこそこなので、現在保育器を使用中です、もう少し時間をかけないことには」
「どうしてそんなことになったのでしょう?」
有馬は絶望感にくらくらしながら質問を重ねた。
「いろいろの原因が重なっています。奥様の場合、最も大きな原因と考えられるものは、子宮|頸管弛緩《けいかんしかん》症による習慣性早産です」
「習慣性!?」
有馬は脳髄に痛打をくったような気がした。
「そうです、奥様は数年前にも流産した形跡がありますね、それに精神的な負担が加わって……」
有馬は婦長の言葉を最後まで聞いていなかった。婦長は習慣性と言った、数年前に流産した形跡があるとも言った。
そんな馬鹿なことが! しかしそれは厳然とカルテに記入されていることであり、医学的な事実である。現にその結果として彼女は早産をし、彼らの子は保育器の中で生死の境を彷徨《さまよ》っている。
たとえ早産を直接誘発したものが、有馬が加えた心理的負担であるとしても、すでに彼女自身の過失による下地≠ェ出来ていたのである。
有馬が知った妻の過去はほんの氷山の一角にすぎなかった。彼女の過去を誘導と脅迫にかけて一つ一つたぐり出していった時は、次々に露わにされる凄《すさま》じい断面に言うべき言葉を失ったものだが、そんなものは深層に潜む真に凄じい断面を包む表皮にすぎなかった。
ただ夫のために生まれ、夫のベターハーフとなるために婚前の二十数年を生き、己の最も清らかで美しい部分を夫に捧《ささ》げるべく、夫たる男にめぐり逢《あ》う日までひたすらそれを慈み育ててきたはずの女が、みるも無惨に蚕食されていたのみならず、あろうことか、他の男の子を孕《はら》み、流産していたとは!
習慣性流産――妻を確く信じた夫が第一子の出産において告げられるべき、これほど残酷な病名[#「病名」に傍点]があろうか。
――大島清――
その時この呪《のろ》うべき名前が、どす黒い炎に包まれて有馬の脳裡《のうり》に明滅した。
そうだ、奴だ。ある日突然、現われて我が家の平和を根本から覆し、夫婦の信頼を破壊し、愛を蝕《むしば》み、生きていく上の基本的価値観を復元の可能性が全くないまでに粉砕したのは奴だ。
彼は今、何拠《どこ》でどんな生活をしているか分らない。おそらくは自分の若い日の軽い恋愛ごっこが、一家を滅すような重大な結果を招いているとは知るまい。酒席の座興に若き日の収穫≠ニして披露する位が関の山であろう。いや、そんなことがあったことすら忘れて、よき夫、よき父として、どこかの空の下に幸福な家庭を営んでいるにちがいない。
大島清に対する殺意が炎のように燃え上がったのはその時である。
「お会いになりますか? 麻酔でよく眠ってはおられますが」
「いやけっこうです」
「お子さんには?」
「けっこうです」
有馬は言ってから、もし児がそのまま死ねば永久に我が子を見るチャンスを失うことに気がついて、
「ちょっとだけ顔を見せてもらえますか?」
と言いなおした。婦長は未熟児室のサインボードのある部屋へ導いてくれた。内部にはコットやガラス張りの保育器が十数台並べられ、生きているのか死んでいるのか分らない未熟児が容《い》れられていた。
婦長は室内のほぼ中央に置かれてある保育器の傍へ歩み寄り無言で指し示した。保育器には有馬ベビーと名札がついている。
「これが!?」
愕然《がくぜん》と目を上げた有馬に婦長が黙って頷《うなず》いた。
それは奇怪な生き物だった。頭が大きく、胸が小さいので腹が脹《ふく》れ上がってみえる。赤味を帯びた皮膚は、老人のようにしわだらけである。植物のツルのように細い手足は、ピクリとも動かない。まるで死んでいるようであった。
危うく(生きているのですか?)と尋ねかけようとした有馬は、やせた胸が不規則に動いているのを認めて言葉をのみ込んだ。
自分の子供というよりは、人間の子供という感じが全くしなかった。
「この二週間がやまでしょう」
声を抑えて囁《ささや》いた婦長の言葉には、希望的な響きが全くなかった。
暗然として婦長の許を辞した有馬は、朝までのあてもない時間をすごすために深夜の町へ出た。星はすっかり消えて、暗い空が寝静まった町をすっぽり包んでいた。
彼が子供の死んだ通知を病院から受け取ったのは、翌日の夜だった。その時彼の胸に一つの意志[#「一つの意志」に傍点]が定まった。
4
翌朝久しぶりに社へ出た有馬は、まっすぐ専務室へ行った。
日観側から派遣された役員を迎え、ようやく新体制の下に営業活動が落ち着きを取り戻しかけていた。
三神はすでに出社していた。もっとも新体制になってから、旧役員は申し合わせたように一般社員よりも早く出社するようになっていた。少しでも社から離れていれば、ポストを取り上げられるような不安でおちおちしていられないのである。すでに外堀を埋められた城の重臣の哀《あわ》れさが、都屋のトップによく現われていた。
「一体どうしていたのだ? 心配していたぞ」
三神は愛想よく有馬を迎えた。すでに有馬にとって三神は雲の上の人間ではなかった。日観の系列化に際して、有馬が口をきいてやったればこそ三神はそのポストを維持出来たのである。
なるほど二人の間は無数ともいえる職制が隔てている。だが辛うじて我が首をつないでくれた敵将、これからの生殺与奪の権を握っている松波は、有馬の親友なのである。現在はむしろ、有馬の方が雲の上にいるのかもしれなかった。
「お早うございます」
有馬は最敬礼をすると、三神の前へ歩み寄り、昨夜から用意してきたものを彼の目の前のデスクに恭《うやうや》しく置いた。
「何だね、これは?」
「は、辞表でございます」
「辞表!?」
三神はのどが攣《つ》ったような声を出した。そのまま有馬の顔を呆《あき》れたようにみつめていたが、ややあって、
「一体、どういうことなんだね」
「ちょっと一身上の都合がありまして」
「しかしね、又、どうして急に。君の籍はまだ営業企画にあるのだ、松波専務とも特別なつながりがあることだし、今、辞めることは君にとって非常に損だよ」
三神は未だに有馬がS行きのことでへそを曲げていると思っているらしい。
「それはよく分っているのですが、一身上の都合で」
「その一身上の都合というやつを、具体的に話してもらえまいか」
「…………」
「話せないのかね」
「どうか何もお訊《き》きにならないでいただきたいのです、本来ならば人事の方へ提出すべきなのですが……」
「君のことは松波専務からもくれぐれも頼まれているんだ、儂《わし》の一存では受け取れないね」
「松波には僕の方から言っておきます」
「考えなおす余地はないのか」
「はい、よく考えた上でのことです」
「辞めて一体、何をするつもりなのかね?」
「それも……ちょっと」
「それも話せないのか」
「申し訳ありません」
「とにかくこれは儂が一時預かっておく。早まったことをしないようにな」
三神はデスクの上の封筒を、まるで危険物でも扱うような手つきで抽《ひ》き出しの奥深くへしまいこんだ。
三神の許を辞した有馬は一つの重荷を外したような気がした。
それから三十分もしないうちに松波から電話が入った。いち早く三神が連絡したものらしい。
「おい、一体どうしたと言うんだ!?」
彼は電話線の向こうで吠《ほ》えていた。
「三神氏から聞いたな?」
「冗談なんだろう、これからお前の力が必要という時に……」
「本気だよ」
「本気!?……ま、とにかく、電話じゃ何だから、昼めしでも一緒に喰いながら話そう、そうだな、呉服橋のグリルマロニエ、知ってるだろ、あすこだったらお互いに近い。正午にそこで落ち合おう、いいな」
松波は早口にまくし立てると、こちらの返事も確かめぬうちに送受器をおいた。大企業の首脳として無数の人間を頤《あご》で使う立場にいると、いつの間にか他人の意志など斟酌《しんしやく》しない習性が沁《し》みついてしまうものらしい。
有馬は別に松波と会食することに何の興味もなかったが、これが彼に会う最後の機会になるかも知れぬことに思い至り、行ってみる気になった。
二人はほぼ同時にマロニエへ着いた。窓際のテーブルに向かい合った彼らは、どちらからともなくニヤッと照れ笑いを交した。
ボーイがオーダーをとりに来た。ボーイが立ち去るのを待ちかねたように松波が言った。
「さっきの話、ありゃ一体どういうことなんだ?」
「どうもこうもない、ただ辞めたいんだよ」
「本気なのか?」
「本気だ」
「理由は?」
「一身上の都合」
「おい、俺《おれ》は三神とは違うぞ、本当のことを言ってくれてもいいだろう」
「それが本当の理由なんだよ、他に何もない、ただむしょうに辞めたくなったんだ、それ以外に表現のしようがあるか」
「おい、飯場をやめるのと違うぞ、エリートコースに乗った中堅社員が、ただ辞めたくなったから辞めるじゃ通らない、それにお前さんには奥さんもいるし、もうじきおやじになる身分じゃないか、生活はどうするんだ? そんな無責任は通らんぜ」
スープがきた。松波はそれに目もくれず、
「ここだけの話だが、実は三神の後がまにお前を考えていたんだ。旧都屋系の役員は目立ぬように一人一人排除していく。系列化が成った今、あいつらは邪魔物以外の何ものでもない。都屋の体質を完全に新しくしてしまうのだ。そのためにはお前の力が是非とも必要だ、これからという時にそんな世をはかなんだようなことは言わんでくれよ」
有馬はゆっくりとスープを啜《すす》った。こういう美味《うま》いスープを吸うことはもう二度とあるまいと思うとさすがに感慨が胸に溢《あふ》れた。
「松波」有馬は言った。
(俺が辞めたいからといって、世をはかなんだりなどしていない。はかなむどころか、お前の企業的野心よりもはるかにどろどろと煮え沸った黒い意志をかかえているんだ)
と続けようとしたが、それではその黒い意志とは何か? と突っ込まれそうな気がしたので、
「人間の行動は何から何まで理屈づけられるものではない、理由も目的もない、ただむしょうにそれをしたいことがあるのだ、だからお前に訊かれてもただそうしたいからと答える以外にないんだよ」
「女学生のような青臭いことを言うな、現代が霞《かすみ》を吸って生きて行ける世の中ならそういうロマンチシズムもいいだろう。今の世の中は、そんな贅沢《ぜいたく》なことをやっている余裕などない、一体、俺の知ってるお前は何処《どこ》へ行ってしまったんだ。有馬正一は、もっと現世的な野心に脂ぎった男だったはずだ。どうだ、俺と組んで都屋を自在に操ってみる気持はないか」
「俺のような人間を三神専務の後がまに考えてくれるお前の友情は有難いが、俺にはとてもその資格も力もない。お前の買いかぶりだよ、俺はロマンチストなんだ。幸い、二年ぐらいは無収入でも何とか喰いつなげるだけの蓄えがある。その間、本当に自分がやってみたいことをやってみたい」
「本当にやってみたいことって何だ?」
「まだよく分らん、とにかく今は、サラリーマンを辞めるのが本当にやりたいことだ」
「二年経ったらどうする?」
「それから先のことは考えていない、当分の間はヘッセの詩にあるように目的のない旅≠してみたい」
ステーキにナイフを入れながら、松波は別の星の生物を見るような目をした。有馬はその目を受け止めながら、そのように見られても仕方がないと思った。
これからは決して「目的のない旅」ではない。だがその目的は松波のそれとはかけ離れたものなのだ。
「どうやら本気らしいな」
松波が言った。むしろ憫《あわれ》みをこめた口調であった。
「すまない」
「止むを得ないな、しかし、都屋は辞めても、俺たちが友達であることを止めたわけではない、困ったことがあったら遠慮なく言ってきてくれ」
「有難う」
有馬はコーヒーを喫《の》みながら頭を下げた。そういうことはあるまいと思ったが、松波の言葉は嬉《うれ》しかった。
――ただ目的だけを忙しく探し求める目には
さすらいの甘さは遂に味わわれない
森も流れも
あらゆる途上で待っている一切の壮観も
閉ざされたままだ。――
有馬の胸に、学生時代松波と共に古仏を求めての旅の途上、好んで口ずさんだヘッセの詩の一節が、郷愁のように切なく甦《よみがえ》ってきた。
さすらいの甘さを味わえる日はいつのことか? 松波は自分をロマンチストと呼んだが、本当にそうであって都屋を去るのであればどんなに嬉しいだろう。
これからは「一切の壮観にも目を閉ざして」ある暗い目的一途に孤独な道を辿《たど》らなければならない。
そうと悲しく思い定めた時、食事のコースは終わった。
[#改ページ]
後編(山岳編)
過去への巡礼
1
有馬は一つの計画を立てた。
まず手近な所から板橋の方にあるという翠山荘を訪れてみるつもりだった。そここそ静子が大島と同棲《どうせい》≠オた場所である。自分だけに捧《ささ》げるべき最も美しい部分を、彼女がどんな場所で他の男に捧げたのか、しかとこの目で確かめておきたかった。
次に初めて唇を許したという京都山崎、生駒《いこま》山、奈良、そして嵐山《あらしやま》……妻の過去≠一つ一つ溯って行くのだ。
「嵐山!」
静子を追及して探り出した地名を一つ一つ数え上げていた有馬は、一つの符合に思い至った。
彼は静子と嵐山で初めて唇を交した。あの時、彼女との結婚を決意したのだ。その同じ場所で彼女は処女を他の男に捧げた。しかも野天で。
何故そのことに今迄《いままで》気がつかなかったのであろう? 今、あの時の模様を思い起こしてみれば、嵐山へ誘ったのは静子だった。有馬は本当はどこか静かな場所で彼女と一緒にゆっくりと食事を楽しみたかったのだ。
だが、嵐山の紅葉が見頃だとしきりに誘う静子に、古都の秋色の中に彼女を立たせてみるのも悪くなかろうと思って、のこのこと後をついて行った。木犀《もくせい》の香り薫《かぐわ》しい雑木林から、青い竹林へと分け入り、何といったか、名も忘れた池畔へ出た時に白い雨が来た。雨にまみれて初めて静子の柔らかい唇を吸った時、有馬は彼女の愛をかたく信じて疑わなかった。
だが、彼女は有馬の唇を受けながら、もう一人の別の男のことを想《おも》っていたのだ。おそらくは、あの日有馬が辿《たど》った径《みち》のどこかに、静子とあの男が初めて躰《からだ》を結び合わせた場所があったにちがいない。それは木犀の雑木林か、竹林の青いほの暗さの中か、それとも、白い雨の池畔か?
「迂闊《うかつ》だった!」
有馬は血の出るほどに唇を噛《か》みしめた。そのような迂闊《おめでたさ》であればこそ、芯《しん》まで蝕《むしば》まれた妻の蚕食に気がつかなかったのだ。
彼は自分のどすぐろい意志がますます強固なものと定まっていくのを感じた。だが今まで善良な小市民として生きてきた人間が、いかに憎悪が強くとも、反社会的な意志を短時日の間に凝固させるのは難しい、彼はそのために、妻の過去の巡礼をしようと思い立ったのである。
過去への巡礼≠続ける間に、健全な社会人の習性を完全に振り落とせる。いわば有馬正一という人間のすべてを捨てて、暗い目的一途の執念の鬼となれる。
当の大島の所在は、その後から探してもよい――かく有馬は計画したのである。
2
静子の語ったところによると、大島のいたアパート翠山荘は板橋の方にあり、池袋から電車で五つか六つ先の、やはり何とか板橋という名のついた駅で降りたそうである。
電話帳で調べると、翠山荘という名前のアパートは豊島《としま》区に二つ、板橋区に一つあった。この中、上板橋駅の近くには、それに該《あた》るようなものはなかった。
電話を有《も》たぬアパートかもしれなかったし、何年も前のことであるから、名前を変えたか、あるいは区画整理か何かでアパートそのものがすでに取り壊されていることも考えられた。
有馬はとりあえず電話帳をたよりに、三つの翠山荘を次々に呼び出した。しかしそのいずれからも求める答えは得られなかった。ただ豊島区の二つは建てられてからまだ二年も経っていないことが判り、容疑≠ゥら外すことが出来た。
残る板橋区の翠山荘は所在地も双葉町一四番地とあり、中板橋駅に近い。電話に出た管理人は覚えがないと言ったが、有馬はまずこのアパートからあたってみることにした。
彼は三神に辞表を提出してから三日目の日曜日にそこを訪ねて行った。都屋には事務引き継ぎと残務整理のため、あと二週間ほどは出社しなければならない。
駅から歩いて十分程、その翠山荘はごみごみした住宅街の中にあった。
まん中に土間の通路があり、自転車やら三輪車やら、物干竿《ものほしざお》などの室内に収容し切れない家財(?)が乱雑に置かれている。どうみても近代的なアパートではない。住人も都心に勤めを持つサラリーマンではなく、付近の町工場などに働く職工とその家庭が主体であろう。
新築間もないものよりは、古いアパートの方が可能性が強いわけだが、それにしてもこのアパートは古ぼけすぎていた。
案の定、出て来た管理人は、首を傾げて、
「大島清ね、ああ、あんたが先日電話した方かね、折角、足を運んでもらって生憎《あいにく》だが、そういう人がここにいた覚えはないね。儂《わし》あ、このアパートができてからずうっと管理人をやってるが、大島さんという人は一度も入ったことはないよ。ほんとだ、他の人にも聞いてみな、ここに住んでる連中はみんな古いから」
「ここにはどんな方が住んでるんですか?」
「たいげえ、勤め人さ、もっともセビロは着ないがね、え? 独身者? ああ、それはいねえな、みんな所帯持ちばかりさ。家賃が安いのと、ここじゃあ子供が生まれても大家が文句を言わないから、一度|棲《す》みついたらなかなか出て行かないよ」
管理人の自信たっぷりの口調に、有馬は見切りをつけた。彼の言葉がなくとも、近所づき合いや子供の泣き声のやかましそうなそのアパートが、学生の下宿に結びつかなかった。
彼は再び駅へ戻り、下り電車に乗った。乗るとすぐ上板橋へ着いた。着いたものの、今度ははっきりした当てがない。彼は交番か、駅前にあるかもしれぬ町内案内図を頼りに探してみるつもりであった。
それにしても翠山荘という名前だけで、町名も番地も分らないのだから、探し当てる見込は極めて薄い。
駅前へ出ると、不動産の周旋屋の看板が目についた。
(そうだ、周旋屋に聞くという手があった。アパートだから、もしかすると貸間依頼を出しているかもしれない)
彼は貸間広告がべたべたと貼《は》られているガラス戸を開けて店内へ入った。
「あ、翠山荘、今ちょうどよい空室が出てますよ、四畳半、GWつき五千円、敷金二つに権利金が……」
いかにも不動産屋らしい、敏捷《びんしよう》な目つきをした男が、有馬を客と間違えてベラベラとまくしたてた。
「いえ、部屋が欲しいんじゃないんです、そのアパートはどの辺にあるんですか?」
不動産屋は露骨に失望の色を見せながらも、それでも、所在地を教えてくれた。
有馬はその建物を目にした時、予感のようなものがあった。建てられてから七、八年位か、モルタル作りの二階建てのアパートは、いかにも安手だが、学生やバーの女給が好みそうな独立性と隣人への無関心がありそうに見えた。
管理人はいなかった。別にそういう人間は置いていないらしい。日曜日でたまたま在室していたサラリーマン風態《ふうてい》の住人にたずねると、自分も最近、移って来たばかりだから古いことは何も分らないが、大家の家がすぐ近所にあるから尋ねたらどうかと言ってくれた。
幸いに家主は在宅していた。
「大島さんねえ、何分、下宿人はしょっちゅう替るからねえ」
と大分、薄くなった頭をかしげて、
「おい、古い家賃の台帳を持って来てくれ」
と奥へ怒鳴った。妻か家婢か見分けのつかない老女が運んで来た分厚い帳簿をドサッと膝《ひざ》の上に置いて大家は、
「ところで、あんたはその人とどんなご関係かね?」
と急に目を光らした。今頃になって有馬の身分に不審を持ち始めた様子である。
「私が以前、非常にお世話になった方で、現在消息不明になっているのです。学校でこの住所を聞いたものですから」
「学校? 学生だったのかい」
「はい、当時、T大の医学部に籍を置いていたはずです」
「医学部?」
大家の目にチラリと動いた影があった。
「お心当たりがございますか?」
「いや、はっきりではないがね、医者の卵だという学生を大分前に置いたことがあったんでね」
「多分それですよ」有馬は気負い込んだ。
「学校では帰省先は教えてくれなかったのかい?」
「もちろん、教えてもらいましたよ、しかしここへ住む以前にとっくに引きはらっているのです」
「ふうん、どれどれ」
大家は帳簿をゆっくりと繰り始めた。余程手持|不沙汰《ぶさた》だったのか、それとも親切なのか、大家は有馬が恐縮するほど丹念に調べてくれた。
大島が住んでいたと目される時期を中心に調べたが、出入りの激しいアパートで、なかなか目指す名前は見つからなかった。
「もしかすると、同居人かもしれんな」
大家は独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。
「同居人というと?」
「貧乏学生が家賃の負担《わり》を軽くするために同居人を置いたんだ、わり勘で払うから一人の持ち分は半分ですむ、部屋は荒れるし、騒々しいので、この頃では同居させる時は割り増しを取るがね」
二人が同棲《どうせい》したのは夏休み中のことである。静子を抱いたのは友人《ルームメイト》が帰省して留守だった時であろう。
そうだ、それにちがいない。彼ははやる気持を抑えて質問を重ねた。
「同居人は帳簿に載っていないのですか?」
「載せないね、ああそうだ、郵便用の住人名簿があったっけ、あれには同居人も載せたはずだ」
「それ今ありますか」有馬は思わず声を弾ませた。
「多分、あるだろう、おい、婆さん」
老女はやはり大家の妻だったらしい。
「あった! やっぱり同居人だった。大島清、借間人 中川透、ああ思い出した思い出したよ、女の子をとっかえひっかえ、よう伴《つ》れ込んだ学生だった、うちは旅館と違うと儂は何度も文句を言ったもんだよ」
「そんなにふしだらだったのですか?」
「うん、特に大島という学生がたちが悪かったな、真っ昼間から学校へも行かずに、バーの女とじゃらじゃらしていたかと思うと、夜は又、別の女子《おなご》を伴れこむ。全く見境いがなかったわい、大していい男でもないのに、どうしてああも次々と女子《おなご》を誑《たぶら》かせるのかと、感心したもんだ、へへえ、あの人があんたの面倒を見たんかね、あの人にもそんな面があったのかねえ、人は見かけによらないもんだな」
「いつ頃、出たんですか?」
有馬は次第に煮えてくる心を抑えて訊《き》いた。
「借間人の中川が三十×年に出ているから、おそらくその時一緒に出たんだろう」
「移転先は分りますか?」
「分らないね、うちは先方が言い残さないかぎり余計なことは訊かないことにしているんだ。プライベット[#「プライベット」に傍点]を尊重しているからな」
大家は心持ち胸を反らした。プライバシーのことを言っているらしい。
「その部屋は今空いておりますか?」
「六号室だな、ちょうど前の人が出たばかりだよ」
「まことに厚かましいのですが、ちょっと見せていただけませんか?」
「お前さん、借りたいのかね?」
「いえ、そうではないのですが、昔の恩人がどんな所に住んでいたか、ちょっと覗《のぞ》いてみたいのです」
「今時、奇特な人がいるもんだ、婆さん、鍵《かぎ》を出してやんな」大家は無造作に言った。
その部屋は二階の一番奥にあった。入口の半畳ほどの板の間がそのままGWとなっている。四畳半に二本引きのガラス窓、組込みになっている半|間《げん》そこそこの押し入れ、畳は赤くやけていた。
ちょうど、西に面したガラス窓からつるべ落しの秋の夕陽がなみなみと射《さ》し入って来た。夏はさぞ暑い部屋だろう。
「この部屋だ」
有馬は部屋の中央に立って呻《うめ》くように言った。この部屋で静子は自分以外の男と一緒に夫婦気取りの生活をしたのだ。とうとうそこへ辿《たど》り着いた。
彼は赤茶けた畳の上に、折り重なってもつれ合っている妻と男の裸身をまざまざと見た。その呻き声と肉の軋《きし》りをはっきりと聞き、生臭い体液の臭いを明らかに嗅《か》ぎ取った。
折りからの夏の日を、人目を避けてぴったりと閉ざした蒸《む》れるようなこの同じ部屋の中で、汗と脂に濡《ぬ》れ光りながら獣の抱擁を飽くことなく繰り返したにちがいない。
何代も何人も入れ替った部屋の住人たちの生活の営みの痕《あと》であろう赤茶けた畳も、彼ら二人の体液が沁《し》みついたもののように感じられた。
突然、部屋の中が一様に蒼《あお》ざめた。陽が家並の陰に隠れたのである。
「あの男は殺さなければならぬ」
それまで執拗《しつよう》に揺れ続けていた妻を蝕《むしば》んだ男≠ヨの殺意が、その時初めて有馬の胸の中に固定したのである。
3
後任者への事務引継ぎが終わり、社規による退職予告期間が明けると同時に、有馬は旅へ出た。過去への巡礼を続けるためである。静子はいずれは離婚するつもりだったが、とりあえず狛江《こまえ》の実家に預けた。
自らの意志で行なったこととはいえ、これで都屋における自分の籍とN市に営んだ些《わず》かな家庭は、完全に消滅したと思うとさすがに寂しかった。
朝の早い列車で東京駅を発《た》つ時、折りからのラッシュで勤勉なサラリーマン族が、続々と出勤して来る姿に、不覚にも目がうるんできた。
サラリーマンの身分にある時は、その比類ない単調さに疑問や、いや気をもったこともあったが、今それを喪《うしな》ってみてはじめて、そういう単調性こそいかなるものにもまして平和であり、安定していたことを思い知らされたのである。
次々に滑り入る国電の中から吐き出される無量の規格化された働き蟻≠ェ、ホームに溢《あふ》れ、階段を下り、改札口へ向かって行く滔々《とうとう》たる流れには大河のような力動感すらあった。
「もうあの流れに再び乗ることもあるまい」
有馬が自嘲《じちよう》の呟きを洩《も》らした時、列車が動きはじめた。
透明な秋の大和路《やまとじ》から京都へと、彼はどすぐろい憎悪と、全身の精気が抜けたような空しさの、およそ相反する二つの気持を同居させて彷徨《さまよ》い歩いた。
生駒山――奈良――山崎――嵐山
経巡《へめぐ》るほどに、翠山荘で確定した殺意は、油を注がれたように燃え盛った。そのことだけでもその旅は大きな意義があったといえよう。
だが殺意は殺意としても、同じ比率で精神の深所を蝕まれていくような救い難い虚無感が育っていった。だんだんと「人間」から遠ざかっていくような寂しさ。そしてそのように自分を仕立てたのは他ならぬあの男だと思うことにより、更に増悪する殺意。この悪循環の中で、有馬は、傷ついた獣のように凶暴になっていった。
[#改ページ]
復讐の舞台
1
巡礼を終わった有馬は、いよいよ相手の男を探しはじめた。京都から大阪へ出た有馬は、静子から聞いていた住吉《すみよし》公園にあるという大島の実家をたずねて行った。もとより、町名番地すら分っていない。しかし今度は上板橋で使った手は通じなかった。
大島などというありふれた姓は無数にあり、駅前の派出所や商店でも相手にされなかった。
思いついて住吉の区役所を訪れてみたが、大島清を戸籍筆頭とする家は、住吉区だけでも二十数戸もあった。
その中、住吉公園の近くに住む同名者六名をあたってみたが、いずれも別人と判った。
電話帳からも探ってみたが、結果は同じであった。それに同名者の中には医者は一人もいなかったのである。
おそらく住吉にあるのは、彼の生家であろうが、とすれば彼の名前が筆頭のはずはない。
しかし大島姓だけで彼の生家を探し出すことは、いわゆるわらの中の針≠セった。
生家の方から手繰り出すのを諦《あきら》めた有馬は、いったん帰京して彼の母校であるT大をあたってみようと考えた。
静子と交渉を持った頃、二年であったというから留年したとしても、三十×年頃の卒業になるはずである。その頃の卒業生名簿を調べれば、目指す人間に辿りつけるであろう。
有馬は失意と希望(そのような感情を希望と呼べるならば)相半ばして帰って来た。
ひとまずN市の団地へ帰ったが、ここは遠からず引きはらうつもりであった。妻が去り、荒涼とした家ではあっても、暖かく平和だった家庭の匂《にお》いは残っている。
こんな所にいては、復讐《ふくしゆう》の意志は鈍《なま》ることはあっても、よい影響はない。
有馬は暗い室内で一人パンをかじりながら思った。
佗《わび》しい夕食をすませればもう何もすることはない。長旅でかなり体はすすぼけていたが、風呂《ふろ》をわかす元気もない。テレビを観ようという気も起こらなかった。
所在ないままに、玄関に山のようにたまっていた新聞に、読むともなしにぼんやりと目を注いでみた。半月ほど留守にしていたのでおびただしい量である。
焦点の定まらない視線が急に光を帯びてきたのは、十日ほど前のある記事だった。
――全国山岳協会、ヒンズークシュ遠征隊長に大島清氏――「今日の人」というコラムである。
有馬は思わず息を詰めて、もう一度その名前を見なおした。間違いない。あの男と同姓同名である。だが、区役所でも、電話帳でも、星の数ほどもあった名前である。
(どうせ又、同姓同名の別人さ)とたかをくくって記事を読み出した有馬の表情は次第に緊張してきた。
――昭和三十×年T大医学部卒業、同大学英文学部修了後医学部へ転じた変り種、山をやるようになったのは医学部二年の頃だというからかなり遅型である。ただし、その後の山歴は素晴しく日本の名だたる岩壁の殆《ほとん》どすべては攀《よ》じている。鹿島槍《かしまやり》北壁中央ルンゼ、穂高《ほたか》岳奥壁右ルンゼを積雪期初|登攀《とうはん》、医局へ無給研究員として残ったのも、母校の山岳部へ残るのが主目的だったと言われている。そのためか、未《いま》だに学位を取っていない。現在、全国山岳協会副会長、大島外科病院経営、現住所、横浜市磯子区森町一八五×、家庭には頼子夫人と一男二女、趣味は女性と酒、斗酒なお辞せぬそうな。大阪出身。三十七歳。――
「奴《やつ》だ!」
有馬は新聞から目を離して空間の一点に目を据えた。
年齢といい、履歴といい、まさしく彼に符合する。山登りをするというのは初耳だったが、それも大学二年からだというから、静子との交渉があった直後にはじめたものにちがいない。
「趣味は女か!」
有馬は記事に囲まれたかた太りの中年の男の写真を睨《にら》んだ。角型のいかにも精力的な顔である。山で鍛え上げたらしいがっしりとした身体に支えられた大島の顔は、ふてぶてしい笑いを浮かべ、いかにも人生に自信と余裕を持っているように感じられた。それがそのまま「趣味は女だ」などと不遜《ふそん》な言葉を吐かせたのであろう。
「だが、その趣味の犠牲になった家庭もあるのだ」
有馬は新聞をずたずたに破り捨てようとした。だが彼の手はまさにその力を加えようとした寸前に止まり、小物入れから探し出してきた鋏《はさみ》で、写真の部分をきれいに切り取った。
男の顔を覚えこむためには、この写真は貴重なのだ。機会ある毎にこれを眺め、その顔を脳裡《のうり》に刻み込まなければならない。いずれ近いうちに全国山岳協会と彼の自宅へ出かけて行き、詳しい資料を蒐《あつ》めるにしても、それまでは彼に関する唯一の資料は、この記事だけなのだから大切にしなければならなかった。
有馬は写真は、すでに不用になった定期入れに挾み、記事はアルバムに貼《は》りつけた。そのアルバムには、静子との結婚式から新婚旅行のスナップ、新婚生活の一コマ一コマまでが、大切に留《とど》められている。それは二人の愛の記録といってもよかった。だが今は形見としての価値しかない。崩れ去った幸福の形骸《むくろ》を飾るに、大島の資料ほど相応《ふさわ》しいものはあるまい。
このアルバムが奴の資料で一杯になった時、奴が消えるのだ。
有馬はうそ寒い笑いを口辺に刻んだ。
2
全国山岳協会は日本各地の地方山岳会の全国組織としてつくられた登山団体である。
一人でこつこつと山登りを楽しんでいる人間や、いずれの山岳会にも所属しない、一匹狼を除いて、ともかくいずれかの地方山岳会に所属している登山者は、十万とも二十万とも推定されている。
元来登山は個人的スポーツであり、個人の遊びであるといわれていた。しかしたった一人の山≠謔閧ヘ、パーティで登った方が安全性は高い。一人では登れない高所や悪場も可能性が得られるところから各種各様の山岳会が雨後のタケノコのように結成された。
これら地方の山岳会が各地方の岳連に集まり、それらを一本にまとめて発足したものが全山協≠ナある。当然協会の傾向として、「山岳会は個人に優先する」の全体主義的性格が強く打ち出されている。
この種の中央集権的組織のご多分にもれず、全山協も平会員から頂点の会長までの序列は厳しい。組織の上部には一昔前の海外登山で名を確定した元老級、初登攀やルートの開拓でスターとなった若手クライマー、あるいは山へは殆ど登らないにもかかわらず持ち前の政治力で協会の運営に活躍する大ボス小ボスなどが、おのずから定まったカーストの中に君臨している。
大島清は全山協の中でも、尖鋭的《せんえいてき》な山歴と持って生まれた政治力によって大ボス的存在となっていた。
「俺《おれ》が俺が」の我の強いアルピニストが犇《ひしめ》く全山協の中で、海外遠征登山隊のメンバーに選ばれるのは最高の栄誉であり、自己の存在を主張する絶好のチャンスであった。全山協が海外に送るものとしては戦後最大の規模であると言われるヒンズークシュ遠征隊の隊長に大島が選ばれたことは、とりもなおさず彼の協会内における強大な発言力を物語るものであった。
四、五十歳の年齢では全く鼻たれ小僧扱いされる全山協において、四十前の若さで大島清はトップグループに属しており、それはそのまま日本登山界の名士でもあった。少しでも山をやる人間で彼の名を知らぬ者はいないとも言ってよい位だった。
それほどの彼を今まで有馬が見つけ出せなかったのは、全く山というものに興味を持っていなかったからである。
都屋にも山岳部はある。ひまさえあれば山に入り浸っている山狂≠ニも呼ぶべき男たちを有馬も数人知っていた。休暇が明けると山の陽と激労|作《さ》に赤黒く憔悴《しようすい》して売場に立つ男たちを見るにつけ、何と酔狂な人間共だろうと思ったことである。
余暇は何に費そうと本人の自由であるが、よりによって山登りという、およそレクリエーションとは程遠い重労働中の重労働へ、無償どころか、かえって生命の危険を賭《か》けてのめっていく人間の気が知れなかった。
彼らが目を輝かせて、より困難なルートに追求していく人間の可能性の限界や、遂に悪場を突破して頂に立った歓喜を語っても、有馬には理解出来なかった。
可能性の追求とか、より苛酷《かこく》な環境の中へ進んで身を挺《てい》するとかいったところで、所詮《しよせん》、遊びにすぎない。大体、山なんかに登って自分の体を苛《いじ》める連中にかぎって、ビジネスの現場では責任感が薄く、ろくな仕事をしない。何かといえば「俺たちは町には住めないからに」式のおよそ滑稽《こつけい》なエリート意識を振りかざす。実社会の仕事によってめしを喰《く》っているくせに、そこを下界≠ニ見下す。あらゆるものに山を優先して、そしてそれが、山という「白き神々の座」の前には当然であるが如くに信じている。
山は地表の突起にすぎない。頂の展望はロープウェイで登ろうと、ヘリで翔《と》ぼうと同じである。
人間の可能性の追求は、そんな山の壁にへばりつかなくとも、実社会でいくらでも出来る。いや実社会における方が生活がかかっているだけにはるかに切実で苛酷である。
要するに、実社会でろくな働きの出来ない手合や、生活能力のない連中が、山へ逃避し、一般の人間の登れない、というよりは馬鹿馬鹿しくて行かないような岩壁やルンゼを攀《よ》じて自己満足をしているのである。幼稚なヒロイズムであり、精神の自慰《マスターベーシヨン》にすぎない。――と有馬は信じていた。
そんな彼にとって全山協のような全国的な山登りの組織があり、しかもこの世界にもボスとか名士とかいうものがいるのを知った時は一つの驚きですらあった。
「山登りにもボスがいる!」しかも、大島はその大ボスの一人なのだ。
大島を山で殺したらという漠然とした考えは、新聞記事の中に初めて彼の名前を発見した時すでに頭に萌《きざ》していたのかもしれない。だが彼に関する資料を蒐《あつ》めている間に次第に具体的な形へと凝固していったのである。
著名なアルピニストが山で死ぬ。思えば、これほど無理のない死はない。山へ登ったのは、高尾山――それもケーブルカーで、――くらいしかない有馬でも、大島が志す高山が、雪崩《なだれ》や落石、風雪や滑落などによる事故の多い場所であることは知っている。つまり、殺人者にとっては理想的な危険≠ェ充満している空間なのである。そのような所で、何か適当な事故と大島を結びつければ誰がこれを疑おう。
憎悪の極まれる余り、最初のうちは、有馬は復讐《ふくしゆう》を大島と刺し違える形にしか考えていなかった。だがそのうちに、刺し違えでは真の意味の復讐にならないのに気がついた。
相手が罪の応報として苦しみのたうつのを、涼しく冷酷に観察してこそ復讐は成り立つのだ。それにはどうしたらよいか? この法治社会では他人の心身を傷つけ、滅すことは、余程巧みにやらないかぎり、自分自身の損傷と滅亡につながる。
相手をやっつけ、自分だけ無傷のまま生き残る。――その方法の案出に思いを集めながら大島の資料を蒐めている間、必然的に有馬の目は山へ向けられていった。
「大島を山で殺す」遂に有馬の心が定まった時、同時に彼が山ではめったに遭難しない〈山登りの名人〉であることに思い至った。
確かに山は理想的危険に充《み》ちた場所である。だが、大島は岳界の大ボスであり、ヒンズークシュ遠征隊長に選ばれたほどのプロの登山家である。対するこちらは山に関してはずぶの素人だ。山のプロとアマが山で対決すれば勝負は目に見えている。
だが有馬は復讐の舞台として、どうしても山を振り捨てることが出来なかった。たとえ相手が山の大ベテランであろうと、山の危険性に変わりはない。それにベテランであればあるほど危険の多い場所に身を挺する率が高いだろう。それだけ乗ずる隙も多くなるというものである。
だが果たして自分がプロのアルピニストの後を追って氷壁や雪の尾根を攀《よ》じることが出来るだろうか?
(自分も今から山の技術を習えばよいではないか)有馬は偶然思い至った考えに執着した。幸い、自分は若い。体力もある。石仏を求めてほっつき歩いたおかげで脚力も人並以上に強い。どこかの優秀な山岳会に入会して登山技術を基礎からみっちりと叩《たた》き込んだならば、かなりの所まで行けるのではあるまいか。大島が帰国して来るまでに約八か月、この二百四十日間をフルに登山技術の習得に注ぎ込めば、日本の山は一応こなせる腕になれるかもしれない。
そうと思い立った有馬は早速山岳会探しをはじめた。まず登山雑誌を手当たり次第に買ってきて、新会員を募集している山岳会を探した。そこでまず驚いたことは、実に多くの山岳会が会員を募集している事実であった。丹念に調べれば、一冊の雑誌につき少なくとも五十以上の山岳会が会員募集広告を載せていた。
だが彼の目指す山岳会は、指導標とガイドブックに忠実に従い、安全な一般ルートを登り、頂上で記念写真を撮って下りて来るおとなしい登山者≠フ同好会ではない。好んでより困難なルートを求める尖鋭的な山岳会であると同時に、新人指導のための登山学校的性格を持ったものでもなければならない。
彼は山岳雑誌の中でも最も権威のありそうな雑誌から、雪嶺とか、岩峯などという勇ましい名前ばかりついている山岳会を五つほど候補に選んだ。山彦、かもしか、白樺などという優しい名前を冠した山岳会は除外した。後になってからその選定基準が誤っていなかったことが判ったが、その時は何となく優しい名前の山岳会は、そのままおとなしい山岳会に通ずるような気がしたからである。
雑誌社に問い合わせて更にその中から候補を次の三つに絞った。
東京アルパインクラブ、
城東岩峯会、
雪稜《せつりよう》登高会、
この中で特に東京アルパインクラブ、通称TACは会員も三百人を越える大山岳会であり、メンバーはいずれも東京在住の錚々《そうそう》たるアルピニストばかりであった。それだけに入会資格も厳しい。入会して一年間は準会員とされ、正会員十人より成る評議員会に認められた者のみ正会員へ昇格出来る仕組になっていた。
有馬は最初、この厳しい資格制限に魅せられて大分TACに傾いたが、人数が多過ぎてみっちりした登山技術の習得は難しいと考えなおして候補から外した。
残る二つの山岳会の中、まず雪稜登高会から当たってみることにした。この方は、会員五十人足らずのこぢんまりしたものだが、雑誌社から聞いたところによると、会の業績はなかなか大したもので、北アルプス後立山《うしろたてやま》連峰の鹿島槍岳を中心とした山域の殆《ほとん》どすべては、この会の手によって開拓されたということである。
日本登山界の中でもいずれも屈指の尖鋭クライマーをメンバーに抱えながら、その野党的性格から全山協に属さず、会独自の足跡をこつこつと刻んでいるということも、有馬の気に入った。とりあえず先方の要求する書類と写真を送って、有馬は指定日に新宿東口にある『クーロワール』という喫茶店へ出かけて行った。そこが雪稜登高会の事務所になっていた。
さぞや山の写真や道具などでインテリアーをごてごて飾り立てているものとばかり思っていた有馬は、そこがごく普通の明るい店で、客も登山とは縁遠い優雅なアベックが大半であるのに面喰《めんくら》った。
最初は場所を間違えたのかと思ったが、入口に掲げられた氷雪に刻まれた岩壁の写真に、そこが目指す場所であるのを知った。後で知ったことだが、その写真の岩壁にある溝をクーロワールと呼ぶのだそうである。店で山に関するものといってはその写真だけであった。
しゃれたユニフォームを着たウェイトレスがオーダーを聞きに来た。
「コーヒー、ホットを」
有馬は言葉少なに注文した。コーヒーはなかなかいけた。もしこの店の経営者が山男であるなら、コーヒーの味といい、しゃれたインテリアデザインといい、なかなかの都会人だと思った。有馬はアルピニストの大半がダンディな都会人によって占められていることを知らなかったのである。いわゆる山男は、地元のガイドや|荷上げ人夫《ボツカ》を指しており、アルピニストとは区別されている。
コーヒーをゆっくり喫《の》み終わった彼は、カップを下げに来たウェイトレスに、
「雪稜登高会の事務所はここにあるの?」
と尋ねた。
「あら雪稜会へいらしったのですか」
ウェイトレスは心もち目を見開くようにして、
「そんならお二階ですわ、入口が別なんですよ」気の毒そうに言った。
有馬が入口を間違えたばかりに、さして欲しくもないコーヒーを喫ませてしまったと勘ぐったのであろう。
伝票を払って表へ出ると、クーロワールの入口の右脇に狭く急な階段がある。その入口によくよく注意してみなければ見落としてしまいそうな木札がかけられ、雪稜登高会とぼけた墨字でかかれてあった。
頭を何度かぶっつけそうになりながら階段を登り、つきあたりの扉をノックすると、中から「おう」と吠《ほ》えるような声があった。
おそるおそる扉を開けてみると、これは又階下の喫茶店とはおそろしく対照的な薄汚い部屋で、四、五人の精悍《せいかん》な顔つきをした男たちが有馬の方へ視線を集めた。
室内は十坪ほどの板の間であった。窓を残した壁面という壁面は、山の写真で貼《は》り埋められている。わずかな隙間にはピッケルやザイルやその他、有馬にとっては全く得体の知れない山の道具らしいものがごてごてと釣り下げられている。思わず臆《おく》したように立ちつくした彼に、
「応募の方ですか?」
と男たちの中でもひときわ精悍な風貌《ふうぼう》と、いかつい身体を持った男が言葉をかけてきた。
「はあ」有馬がどっちつかずの返事をすると、
「ま、おかけ下さい」
男は愛想よく有馬に椅子《いす》を進めた。
「さ、どうぞどうぞ」
他の男たちも一斉に言った。顔つきに似合わず皆、気さくな気のいい男たちのようであった。
有馬が椅子にかけると間もなく下からコーヒーが運ばれてきた。クーロワールから持ってこさせたものであろう。
「どうぞ召し上がって下さい」
「いやあ、これはどうも」
もしかしたら応募者をクーロワールに誘い込み、コーヒー代をふんだくるために故意に小さな表札≠かかげたのではないかと勘ぐっていた彼は、この歓待≠ノすっかり恐縮してしまった。
有馬がしるしばかりにカップに口をつけたのを見届けてから、男は、
「私が雪稜会の副会長をつとめている大木信伍です、こちらが会長の戸波さん、この店の経営者《マスター》でもあります」
と、そこに居合わせた男たちを次々に紹介した。有馬はその時は知らなかったが、彼らはいずれも、雪稜会の幹部であり、その尖鋭的なクライミングで岳界では名の通った男たちばかりであった。
「申し遅れまして、私は有馬正一です。雪稜登高会に入会させていただきたく、本日参上いたしました」
「ああ、あなたが有馬さんですか、早速応募して下さって有難う。ところであなたの経歴書を拝見いたしますと、山は全くの初めてということですが」
大木は幾分、不審をこめた目を上げた。雪稜会のように尖鋭的な山岳会に彼のようなずぶの素人が入会希望したのは初めてだったからである。
「はあ、応募資格に経験者にかぎるというような条件がなかったものですから、厚かましいと思ったのですが、思い切って応募してみたのです」
「山は本当に全然やったことはないんですか?」
「はい、山と名のつくものは中学の遠足で高尾山へ登ったくらいです」
「タカオザン、ああ、高尾山ですね」
大木をはじめ、皆の顔に苦笑が湧《わ》いた。それは徐々に失望の色に変わっていった。せっかくのカモがどうにもならぬ駄鳥と判ったからであろう。
「しかし、経験者という限定こそしませんでしたが、私共のグループは山岳会仲間でもアクロバチックな登攀《とうはん》でかなり名が売れております。ですから応募資格を明示しなくとも、応募者は相当高度の登攀をやった者に限られているのですが」
大木は半分|嘲《あざけ》けるように、半分気の毒そうに言った。
「私がお門違いであることはよく判っています。私のようなずぶの素人はむしろハイキングクラブのようなところから始めるのが妥当でしょう、しかし山へ登るからには、本格的な登山がしてみたい。それに、気取ったハイカーやワンダーフォーゲルと、絶えずより難しいルートを求めてやまない本格的登山者を、山岳会と称する限り一緒くたに包含した全山協などでは、本当の登山が出来るはずがありません。第一、これは個人的な感情なのですが、日本の山はすべて自分のもののような顔をしている全山協のチャンチャラおかしいエリート意識が、どうしても好きになれないのです」
有馬は大木らの顔色に注意しながら食い下がった。別にこの会へ入らなくとも、いくらでも入会出来る所はあったが、尖鋭登山団体の事務所に相応《ふさわ》しい山の匂《にお》いと、いずれも筋金入りの雪稜会のメンバーの面々に接しているうちに、是非共入会したい熱意が有馬に生じた。
全山協に対立して結成された雪稜会の野党精神を擽《くすぐ》るような言葉を並べ立てて相手の気をひこうとしたのもそのためである。あらかじめ蓄えておいた予備知識が大きく役立ったわけであった。
「その点、雪稜会は、登山を個人の力によるスポーツと考え、常に技術と孤独な足跡を尊重すると聞きました。私は本当の山登りをやってみたいのです。しかし本当の山登りをするための技術は、いくら登山が個人の力によるスポーツであるといっても独力では学び取れるものではありません。幸い、体力には恵まれています、私のような新人がまことに図々しいかぎりですが、どうかご考慮願えませんでしょうか」
「あなたは、どういう登山を本当の山登りと考えますか?」
今迄《いままで》口を噤《つぐ》んでいた戸波が言った。一見、四十歳前後、一座の者の中では最も年がいっているようだったが、体つきは華奢《きやしや》で、到底激しい登山をやる人間には見えなかった。しかしこの男が天賦のバランスに恵まれて日本登山史上にいくつかの輝かしい記録を残していたのである。目が鋭く神経質な光をたたえている。
「よくは分りませんが、本当の山登りというものは、出来るだけ高い所へ、より難しいルートを通って達することじゃあないでしょうか」
有馬は慎重に言葉を選んだ。
「それは逆ではありませんか、未登の山をアタックする時、まず最も安全なルートからというのが常道ですよ」
戸波は目の光を強めた。
「それは初めてだからじゃないですか、初登が成功すれば、次にはもっと難しいルートから頂上を狙《ねら》う、常により難しいルートと、より危険な環境に自分の身を進めて、自分の可能性を追求するのが、本当の山登りであり、真の意味の登山家であると思うのです」
有馬は以前、都屋の山岳部員から聞いたことを受け売りした。有馬の答えは戸波の気に入ったらしい。彼の神経質らしい表情がいくらか和んできた。
「それではもう一つうかがいますが、経歴書を拝見しますと、あなたは都屋百貨店で相当の地位を得られた方です、それほどの地位を棒に振ってまで、何故突然、山登りなどしようという気になったのですか?」
「別に大した動機はありません、ただこのままサラリーマン生活を続けていると、だんだん、自分を見失っていくような気がしたからです。常に打算だけで動くサラリーマン、自分が本当にしたいことは何か? ということを深く考えず、鼻の差を争う競争と、小さな保身にあくせくしている間に、自分のかけがえのない人生を浪費していくのがたまらなく虚《むな》しくなったとでも申しましょうか。幸い多少の蓄えもありますので、自分が本当に為《な》すべきものを探し出すために、登山という打算のない行為を思い立ったのです」
自分でもそれが満足すべき答えになっていないのは分っていた。だが他に言いようはなかった。たかが山岳会に入会するのに、そんなに深刻な動機は必要ないと思っていたのである。
「しかし、サラリーマンをしながら山へ登っている人はいくらでもいますよ」
「私の場合、スタートが遅いので、なまじっかなことでは本格的登山は出来ないと思います、それに……」
「それに?」
「サラリーマン登山家には悪いのですが、勤めの合間の登山では、どうしてもレクリエーション的になり易いし、計画にも無理が生じる。会社もキチンと勤めて、山登りもやる、それは大いに結構なことですが、少なくとも本格登山という厳しい行為においては、そんな二股《ふたまた》こうやくではだめだと思うんです、どうせやるなら、私は徹底的にやってみたいのです」
雪稜登高会は、一応名の通った山岳会とはいえ、要するに「町の山岳会」である。大体この種の山岳会で尖鋭《せんえい》なものほど、山に熱くなり過ぎたあまり、実社会の方を喰《く》いつめてしまった人間が多い。
全国登山人口の中にサラリーマンが占める率は圧倒的である。彼らは会社の仕事をまじめに果たし、休暇に山を楽しむスタイルの、仕事と山を割り切ったまことに健全な登山家である。だが、山は休暇だけでは到底満足出来ない麻薬のような魅力を持っている。これにとり憑《つ》かれた山男たちは、何もかも投げ捨てて山へのめりこむ。会社は山へ行く費用を稼ぎ出すためにだけ勤めているようなものだから、いずれはクビになる。金が続くかぎり山へ入り浸り、金が切れた時だけ臨時雇いのようなことをして働く。山だけのために生きている人間が、これら町の山岳会へ集まって来るのである。
その中で雪稜登高会は、特にこの種の喰いつめ者が多いと知って有馬はハッタリをかけたのであった。
喫茶店を経営しているおかげで一応人間らしい生活をしているのは戸波だけのような一座の者は有馬の言葉に一様に、満更でもなさそうな表情をした。戸波ですら、余り熱心な経営者ではなさそうである。
戸波は周囲の男たちと目顔で何か頷《うなず》き合ったが、ややあって、
「よろしいでしょう、あなたの熱意のほどはよく分りましたから一応会員候補にさせていただきます」
「会員候補と申しますと」
「私共のグループは先にも申し上げましたように相当高度の登攀を目標としております。ですから折角入会してもらっても、それだけの体力がないと尾《つ》いて来られなくなる場合が多いのです。そのようなことのないように、候補者はすべて体力テストを受けることになっています」
「体力テスト? それはいつ行なうのですか?」
「今月の末に冬期合宿の偵察に穂高へ入ります。候補者は全員これに参加してもらいます。テストはその時に行ないます。不参加の場合は入会を取消したとみなしますから、是非参加して下さい。テスト山行の装備は当会で貸与《たいよ》しますが、入会が許された時は、当会指定の登山装備を自費で揃《そろ》えていただくことになります。会則書を一部差し上げますからよく読んでおいて下さい、なお、準備会の日時を追ってご連絡します。必ず出席して下さい」
戸波は軽く頭を下げた。それで最初の面接は終わった。面接によってざっと大篩《おおぶるい》にかけ、残った候補者に体力テストなるものを課して新会員をえり出す。なかなか慎重な選考というべきである。
有馬はまずは第一の関門を突破したのであった。五人の選考員に頭を下げて立ち上がった有馬は、いつの間に来たのか自分の背後に並んで順番を待っている応募者らしい数人の男たちの姿に気がついた。どうやら彼は一番乗りだったらしい。
指定時刻よりやや早目に来て本当によかったと思った。応募者はいずれもかなり山ずれ≠オた面だましいをしている。彼らの後では、面接で篩い落とされたかもしれない。
3
あまりに激しい疲労で朦朧《もうろう》とした視膜に、初めて接する穂高連峰は美しい錯覚のように映った。とうとう峠の頂に達したのである。だがその実感がしみじみと胸に迫ったのは、眼前に打ち開けた穂高の大展望のせいではなく、リーダーの「休め」の号令のおかげだった。
とにもかくにも最も近い地面に倒れてから、身体を万力《まんりき》のように締めつける六十キロ近い大荷物を背から外すまでには、しばし山道に死んだようにのびていなければならなかった。
思えばよくもここまで担ぎ上げられたものである。新宿の基地を発《た》つ時、リーダーから割りふられた荷物の巨大な重量は、背に担ぐことすら難しいと思われた。それを夜行列車で殆《ほとん》ど眠っていない身体で、上高地へ入る古典的ルートである徳本《とくごう》峠の、名にしおう長く単調な登高に耐えて、遂にここまで担ぎ上げた。
荷の内容は米、野菜、油等の食糧を中心に、テントの付属品と若干の登山用具である。計量すると五十キロを越えていた。荷は峠の中腹で雨にあったため、水を吸って更に重くなっていた。その上に落伍者《らくごしや》が出たので、その荷物が新人たちに割り振られてきた。
この偵察行は冬期合宿に備えての|荷上げ《ボツカ》も兼ねていたので、荷物の量は本番の合宿時よりも多い。徳本峠の長い登りを五十キロの重量を担ぎ上げた者にのみ、入会を許可する。これが雪稜会の「体力テスト」だった。新人の体力テストを兼ねて冬期合宿の荷上げをする。地元のボッカ(荷上人夫)に頼んだら莫大《ばくだい》な費用がかかるところを、全く無料で行なった上に優秀な新人を選り分ける、極めて能率のいい一石二鳥であった。
暫《しばら》くの休息でようやく人心地のついた有馬は、汗でぐっしょり湿った荷に凭《もた》れながら穂高の雄大な姿に目を投げた。初めて三千メートルの高山に接する有馬は、まずその圧倒的な量感に息をのんだ。
「目の前のひときわ鋭い岩峯が前穂、あの雲のあたりに見え隠れするのが奥穂高だ」
古参の会員が、新人たちのためにそんな説明をしてくれていたようであるが、有馬は何よりも、傾きかけた西陽をうけ、躍動せんばかりに輝く山体に圧倒されていた。
すでに何度か訪れたらしい雪は頂稜から山腹をびっしりと埋め、夕日に染められて桜色に輝いている。その尖峯の鋭さといい、山腹を鎧《よろ》う岩壁の荒ら荒らしさといい、峨々《がが》たる頂稜が背負う紺碧《こんぺき》の空といい、いずれも初めて接するものばかりだった。
「これが山なのか」
有馬は思わず一人|呟《つぶや》いた。
「そうさ、これが山さ」
誰も聞いているまいと思った彼の呟きを捉《とら》えた者があった。大木だった。彼はあたかも自分の素晴しい財産を誇示するような表情をしていた。
「穂高だ、これこそ本当の山だ、あんたらは運がいい、初めての徳本で穂高がこれほど気前よくストリップになることはめったにない。よく見ておくんだな」
いくぶん嫉妬《しつと》のこもった声で言うと、つと立ち上がり、
「でっぱあつ」と怒鳴った。
会長の戸波は合宿に備えてこの山行には参加していない。大木がチーフリーダーであった。
もうここまで来ればテストは合格したようなものである。梓《あずさ》川の白い河原は、眼下の手の届くような近さを蛇行している。たとえそれが目に見える感じよりも遥《はる》かに遠い距離にあるとしても、島々《しましま》から峠までの呪《のろ》われたる距離≠ノ比較すべくもない。それに下りである。
有馬は峠を越えると同時に自信のようなものが湧《わ》いてきた。峠へ着くまでの樹林の中の喘登《せんと》では、何度か黄色い水を吐き、ぶっ倒れそうになった。もうだめだと投げ出しそうになった都度、辛うじて彼を支えたものは「大島もこの苦しみに耐えたのだ」という意識である。
何人もの新人が途中で動けなくなった。その都度、背の重量は増えた。だが不思議なことに、重量に比例して自分でも説明のつかない体力が湧いてくるようであった。
自分よりもはるかにいかつい体格の男がへばり、彼の荷が振り分けられてくると、彼の力までが自分の中へ乗り移ってきたような感じがした。
だがさすがに岩魚《いわな》止めと呼ばれる滝のあたりから一気に強まった傾斜の、峠までの急登には、体力の悉《ことごと》くを振り絞らなければならなかった。峠に立った時は、視覚ばかりでなく意識までも朦朧としていたようである。
だが梓川畔への九十九《つづら》折を下りながら、有馬の胸には、「俺《おれ》は徳本を越えたのだ」という誇りが溢《あふ》れていた。少なくとも穂高を見る以前の彼ならば、そのような感情を青臭いロマンチシズムだと嗤《わら》ったであろう。何かが彼の中で変わっていた。
4
キャンプサイトの梓川畔へ下り立った時は、すでに日が落ちていた。
「有馬、吉住、青木、佐野の四人は食当、他の新人はテントの設営にかかれ」
大木が命令した。休む間もなかった。いずれも社会人ばかりで構成されている山岳会であるから、学生山岳部のような無茶苦茶なシゴキはなかったが、それだけに古参と新人の序列は厳しい。曖昧《あいまい》な気持は許されなかった。
「ちえっ、食当か、ついてねえ」
山にはかなり年期を入れているらしい青木が言った。ある電機会社の職工で会社の山岳部に飽き足らなくなって雪稜会へ入会希望した男である。
「ぼやきなさんな、どうやら食当に回されたのは、入会を許可されたしるしらしいですよ」
吉住がテント設営を命ぜられた新人たちを指した。見ればテントに取りかかっている者の殆どが、徳本であごを出した連中である。
「そうとばかりも決められないが、食当が元気な人間ばかり選ばれたんだからまず有望ですね」
佐野が嬉《うれ》しそうに言った。彼が候補者の中では最年少である。高校時代山岳部長をやっていたという彼は、就職すると同時に会社の山岳部などには目もくれず、伝統ある雪稜会を志したのである。それだけに、彼にとっては入会を許されることは、就職が決まったのと同じくらいの喜びであるらしい。
河原に流れついた流木と固型燃料で火をおこし、大鍋をかける。米をといだのは有馬である。彼はこの時初めて梓川の、手を切るばかりに冷たい水を経験した。濡《ぬ》れた流木で火をおこすのがいかに難しいかも知った。
一時間ばかり後、曲がりなりにも出来上がったカレーライスを、焚火《たきび》を囲んで円陣をつくりながら頬張《ほおば》った時、有馬は都屋における過去数年の間、ついぞ味わったことのない清冽《せいれつ》な喜びに胸が浸されるのを感じた。
カレーは決してよい出来ではない。めしもいくらか芯《しん》があるようだ。晩秋の上高地の夜はひどく冷えこみ、到底、キャンプファイアを楽しむゆとりはない。本来ならテントの中でとるべき夕食を、その夜珍しく天候が穏やかであったのと、テントが参加者全員を容れるには狭過ぎたために外に集まったのである。
河原の両岸にはカラマツやトウヒの木立が整然と振り分けられ、その上に銀色めいた靄《もや》に包まれた高峯群が聳《そび》えている。やせた梓川の微《かす》かなせせらぎが四周から迫り、耳を圧する静寂を強調する。そして頭上にはもの凄《すご》いばかりに研ぎすまされた星々の燦《きらめ》き、それも都会の夜空のように天末からかすんで、天心のあたりに辛うじて瞬く貧弱な星空ではない。頭上から視野のかぎりの空に同じ密度で振り撒《ま》かれ、埋めつくした星屑《ほしくず》である。
大鍋のカレーがあらかた平げられた頃大木が立ち上がった。
「明朝の起床は四時、出発は五時とする。雪のしまっている間に涸沢《からさわ》ヒュッテへ着かなければならない。行動は各テント毎に五班編成とし、指揮はサブリーダーが取る。明日は涸沢までの荷上げと新人の雪上訓練を行なう。これより各自のテントナンバーとサブリーダーを読み上げる。明日の行動の詳細は各テント内でサブリーダーから説明される、なお新人で体調の異常な者は、今夜のうちにサブリーダーへ申し出ておくように」
大木は心もち上半身をそらせて星空を見上げるようにした。クーロワールの二階で初めて逢《あ》った時は、目つきの悪い、何か薄汚い感じだったが、こうして星空と高山を背負って立つ彼の姿には、水を得た魚のような生々としたものが感じられた。いかにも場所を得たという様子である。だがそれは彼だけではなかった。古参会員のすべてが、自分に最も相応しい場所へ帰って来たように見えた。
連休前夜などに新宿や上野で見かけた薄汚い登山者の行列に眉《まゆ》をしかめた有馬だったが、今、初めて彼らの「町には住めない」意識が朧《おぼろ》げながら理解出来たように思った。同時にこの壮麗な自然を、復讐《ふくしゆう》の舞台に選ばなければならなかった自分の執念が悲しくもあった。
だがそれはどうしてもやり遂げねばならぬ業《ごう》のようなものである。
焚火の炎に見入り、梓川のせせらぎに耳をすましながら、彼はその業をもっともっと発酵させなければならないと思った。突然その時、彼の躰《からだ》に一つの情念が衝《つ》き上げてきた。それは吹きつけるように激しい性の衝動だった。
三神梢や、エリカのみどりや、そして場末の曖昧宿《あいまいやど》で抱いた名も知らぬ娼婦《しようふ》の白い下半身が、頭の中に交錯し、ぐるぐると渦を巻いた。ある躰はふくよかに肌を寄せ、ある躰は妖《あや》しくうねり、更にある躰は放恣《ほうし》に開いていた。燦く星々の下、凍りついた深山の夜に有馬はかつて抱いた、あるいは抱きかけた女たちの躰を切実に想《おも》っていた。
これは一体どうしたことだろう? この何もかも透明に氷結して行くような清浄な天然の舞台装置の中で、どろどろした肉欲に躰を焙《あぶ》られている。未《いま》だかつてこれほど激しく、これほど切実に女の躰を欲したことはなかった。
――女ならば誰でもよい、来てくれ――
焚火の炎の妖しいゆらめきの中に、かつて抱いた女たちの桜色の裸身をオーバーラップさせた時、それらいくつかの裸身の中から、ひときわ画然とした輪郭に縁取られた一人の女の裸身が浮き上がった。
「静子!」
見開いた有馬の視野に、流木の薪が燃え崩れ、おびただしい火の粉を撒いた。幸い彼の口からもれた言葉は、薪の崩れる音に消されて周囲の人間に聞き咎《とが》められなかった。
燃え盛る炎の中心に見たものは、紛れもない妻の躰だった。過去の女達の裸身は、静子への思慕の抑制が産み出した虚像にすぎなかった。
(静子は今、どうしているか?)普通の夫婦ならば何の妨げもなくあい想えるものを、このような抑制の虚像に惑わされた後でなければ辿《たど》り着けないもどかしさは、愛の深さによるものであろうか、それとも憎しみのなせる業か?
流木の山は熾《はげ》しい炎に侵蝕《しんしよく》されて大分平べったくなってきたが、火勢は依然として強い。舞い上がる火の粉が、星の重なりの中に消えて行くのを追いながら、有馬は火勢と同じ位の熾しさで妻を恋《おも》っていた。
5
五時ジャスト、一行は行動を開始した。天気は昨日にひきつづいて上々である。
「ついてるな」
大木が言った。
「出る時に降られたのが、よかったですね」
サブの橋本が言った。有馬は食当を命ぜられた佐野と共にチーフリーダー大木が指揮を取る第一班へ入れられた。青木と吉住は第二班である。
昨夜テントへ引き揚げてから、大木は天気図の作成を実演してくれた。ラジオの気象通報に合わせて天気図用紙に天気、風向、風力、気圧などの気象要素を器用に記入していく大木の指先が、魔術師のように見えた。
最後に等圧線をひいて完成した天気図を注意深く読んで、今日の少なくとも午前中の快晴を予言した大木は、いっぱしの気象官であった。有馬は天気図を読むどころか、気象要素の記号すら知らない。たかが山登りと侮っていた彼は、自分とほぼ同じ年齢の大木の、ひきしまった身体との間に近寄り難い距離があるように思った。その彼方に大島が「来れるものなら来てみろ」と嗤《わら》っていた。
一行は梓川の河原から、上高地より徳沢方面へ向かう林道へ戻った。樹林の下の小径はまだ濃い闇《やみ》が屯《たむろ》している。梢越しに暁の星が明滅していた。身のひきしまるような寒気である。三十人ほどの男たちは凍った闇の中を黙々と歩いた。
上高地から梓川の左岸に沿って槍ケ岳へ、あるいは横尾から左へ折れて涸沢経由穂高岳へ向かう径は、北アルプスの王道《ロイヤルルート》と称され、無数のアルピニストが岳への想いに胸を熱くして辿った道である。木の下闇の凍った山道には、それら男たちの夢や執念がそのまま凍りついているのかもしれなかった。
有馬は昨日と同じ重量を背負いながら、自分の執念が、彼らの執念と全く異質のものであることを認めないわけにはいかなかった。
一時間ほど森林の下を進むと仄明《ほのあか》るくなってきた。やがて小さな沢を渡ると、急に樹林が開いてニレの大木が点々と残る雪原に出る。徳沢園である。雪を刻んだ前穂高東面と奥又白の谷が凄絶《せいぜつ》な形相を露《あら》わした。小屋があり、番人がいた。そこで小休止した後、再び森林帯に入って北上、樹林を点綴《てんてつ》していた白樺の姿が減り、代わってシラビソやトウヒが増えてきた。黒沢の手前に一か所岩壁のへずりがある穂刈新道は、新人が多いところから敬遠して、左岸の夏道を忠実に辿る。長塀山の雨裂から生じた押出しのガレを過ぎると、谷は急に狭まり、径は高巻きに移る。径が下ると再び谷は開け、左手に屏風岩《びようぶいわ》が険悪な東面を剥《む》き出してきた。その奥に見える空母のように大きな山は南岳であろう。夜はすっかり明けはなれていた。
「ピーカンだな」
「今度の新人はみな心がけがよいと見える」
潤沢な陽光が谷の中へ射し入って来ると、一行はにわかに饒舌《じようぜつ》になった。陽の光が、樹林帯の中の長い登高に重苦しくなっていた一行の心を明るく解きほぐしたのである。
横尾山荘を右手に見送りながら丸木橋を梓川の右岸に渡る。いよいよ「穂高への道」に入ったのだ。屏風岩がますますその悪相をせせり出してきた。まるで、手がかり一つないようなテラテラ光るスラブの垂壁、一片の雪も受けつけぬ岩の急傾斜は、朝陽に映える白銀の群峰の中で、只一つの異分子のように黒い魁偉《かいい》な姿を傲然《ごうぜん》とそそり立てていた。見るからに悪絶な岩相である。
突然先頭を行く大木の足が停った。すぐ後を続いていた佐野が危うく大木にぶつかりそうになった。
一瞬、休憩かと思って表情を弛《ゆる》めかけた佐野は、岩壁を喰《く》い入るようにみつめている大木の視線の険しさに、折角の期待を取り下げなければならなかった。
「どうかしましたか?」
しんがりの橋本が声をかけた。
「いや何でもない」
大木はすぐに平静な表情に戻ると、前と同じ歩度で歩き出した。だがその一瞬、岩壁に投げた大木の目の中には抑えようもない憎しみの炎がめらと燃え上がっていたのを、有馬は見逃さなかった。
「そうか、あいつには借りがあるからな」
有馬のすぐ後を追う古参の藤堂が一人|頷《うなず》いた。
「借りとは何ですか?」
有馬は歩度を緩めずに訊《き》いた。
「死んだんだよ、彼の山仲間《クライミングメート》がな」
藤堂はこともなげに言った。
「死んだ、あの岩壁で?」
「そうだよ、三年前の冬だった、あの中央の壁の積雪期初|登攀《とうはん》を狙《ねら》って、彼と尾島といううちの会のクライマーが組んでな」
藤堂はここまで言ってふと口ごもった。悲惨な事故が胸に甦《よみがえ》って言葉を途切らせたのかと思ったが、そうではなかった。登りながら話したので息が切れただけである。
藤堂は一息つくと、感情を抜いた声で、
「登攀終了点へあと二十メートルというフェースで、尾島が脚を挫《くじ》いて動けなくなった。彼を伴《つ》れては登ることも下ることも出来なかった。尾島をザイルで岩壁に固定して大木さんだけが下った、救援隊をつれて現場に戻った時は……」
藤堂は再び口ごもった。今度は感情がこみ上げたらしい。有馬が無表情に後を引き継いだ。
「死んだんですね、その尾島さんって人は」
「そうだ、腕のいいクライマーだった、あの屏風岩の野郎!」
藤堂は先刻の大木と同じ様な目つきをして岩壁を睨《にら》んだ。別に山が殺人をしたわけではなく、人間が山へ勝手にやって来て、勝手に死んだのにすぎないのだが、山男という人種は何かそこに山の意志が働いたかのように考えて山への憎悪を燃やすらしい。だから山で起きる事故は、すべて山のせいにされてしまう。反社会的な行為を行なうにはまことに格好な環境である。有馬は復讐《ふくしゆう》の舞台として山を選んだことに改めて自信を深めた。
岩小屋の前で、やや長い休止、チョコレートの小片とビタミンの錠剤が全員に配られた。
横尾尾根のガリーを渡り屏風岩を回る。雪がだんだん深くなってきた。うっかり吹きだまりにはまると脱け出すのにえらい苦労をする。一本橋で夏道に別れ、雪溪に下り立った。ここで一行はアイゼンをつけた。有馬は古参の指示に従って靴に着けた鉄の草鞋《わらじ》≠フようなものが、意外にしっかりと体重を雪の上に固定してくれるのに驚いた。
横尾谷と別れて急登すると傾斜が弱まり、視野が急激に展《ひら》けた。光度を強めた陽が雪に乱反射して目を眩《くら》ます。正面に本谷がキレットへ直上し、広い圏谷《カール》を抉《えぐ》っている。奥穂高が重量感|溢《あふ》るる姿を現わし、続いて前穂北尾根の鋸歯《きよし》が視野に入った。やがて旗を立てた雪の丘が見えてきた。「見えた」誰かが言った。それが目指す涸沢ヒュッテだった。ヒュッテの傍に黄と赤のテントが二張り張ってあるのが小さく見える。だがそれからが長かった。登れども登れども旗は一向に近づいて来ない。昨日の徳本越でアゴを出した連中はいくらか荷を軽減してあったが、それでも歩度が鈍い。
「ファイト! ファイト!!」「それでも金玉持ってんのかあ」などの叱咤《しつた》が古参から浴せられる。声だけ聞いていると凄《すさま》じかったが、学生山岳部と違ってピッケルや鉄《てつーけん》が飛ぶということはない。それはシゴキという形のスパルタ式鍛え方ではなく、雪稜《せつりよう》会の会風≠ニもいえる個人の意見を尊重した励ましであった。
雰囲気は悪くなかったが、雪溪の登高《アルバイト》は苦しかった。あご出しの組の荷を割り増した背の重量は容赦なく身体を締めつけ、拭《ぬぐ》う余裕もない額の汗は目に流れ落ちてしみた。だが徳本を越えた自信は今日も大きく作用して、有馬の足取りは確かだった。
旗が見えてから約二時間、一行はようやく涸沢ヒュッテへ辿《たど》り着いた。正午ちょっと前である。行動を始めてから七時間かかっている。
「まあまあだな」大木が言った。ヒュッテに先着している他のパーティが出て来て一行を迎えた。小屋の番人はいなかった。
「やあ、おたくも下見ですか?」
先方のリーダーらしい男が人なつっこそうに笑いかけた。すでに数日前に入山したのであろう。赤黒く陽灼《ひや》けしている顔に白い歯が対照的だった。どうやら大木らと顔馴染《かおなじ》みらしい。
「ええ、ボッカと新人訓練を兼ねましてね」
大木は手短かに答えると、有馬の知らない山岳用語を使って山の様子を尋ねた。
「今年は雪が早い、上の方はかなり危《やば》いですよ」
大木と男が話している間に後続の各班が到着した。
有馬は腹も空《す》いていたが、何よりも圏谷の周囲にそそり立つ尖峯《せんぽう》群に息をのんだ。稜線からいくらか雲が押し出されているが、圏谷を囲んで北穂東尾根から涸沢岳、奥穂高、前穂北尾根等のいずれも日本の名だたる高峯が、光の充《み》ちた空に雪化粧して妍《けん》を競っている。それは壮大な美のコンテストであり、比類なく荒ら荒らしいスカイラインであった。
「これくらいで驚いていちゃあ、稜線には立てないよ」
藤堂が有馬の肩を叩《たた》いて笑った。昨日からの連続アルバイトで全員かなり疲労していたので、昼食のあと大休止し、午後はピッケルやアイゼンワークを中心とした雪上訓練を行なうことになった。
古参会員の話しによると涸沢でこんなことをして遊べる≠フもここ四、五日ということである。
大木は訓練区域を、ヒュッテ側面の雪面に厳重に限った。新人が少しでも指定雪面から離れると神経質なくらいに注意した。訓練は主としてピッケルによる滑落止めが行なわれた。雪の傾斜面を故意にスリップして直ちに頭を上にして腹這《はらば》いとなり、全体重をかけるようにしてピッケルのピックの方を雪面に突き刺す。暫《しばら》くそのまま滑り落ちるが間もなく止まる。最初のうちは転倒したはずみにピッケルがはね飛んだり、ピッケルを掴《つか》んだ両腕を伸ばしすぎて体重がうまくかからなかったりする。ピッケルを放したが最後、墜《お》ちる所まで墜ちてしまうが、今は練習なので、三十メートルほど下にロープを張って古参会員が万一に備えていた。失敗してもロープに止められると分ってはいても、三十メートルほど先からすっと切れ落ちてその先はどうなっているか分らない目の眩《くら》むような雪の急斜面を、故意にスリップするのは、相当に勇気を要することだった。それに下手をするとピッケルの刃で体を傷つけかねない。事実この種の負傷は雪溪上で最も多いのである。
「どうした、どうしたあ!」
「本番じゃあ、止めてくれねえんだぞ」
古参の叱咤は容赦なく飛んだ。スリップしては止め、雪面を登る。そして又、スリップ、この作業を数回くりかえすうちに有馬は全身汗みどろになった。
「何が遊びだ」
古参に聞こえないようにぼやく新人もいた。だが何十回かくりかえすうちに、ピッケルの動きが確実になり、体重がうまくかかるようになった。スリップしても反射的に腹這いになれるようになると、有馬は面白くなると同時に少々馬鹿らしくなった。馴《な》れれば大して難しい技術ではないのだ。
彼の驕《おご》りが動作に正直に反映して、身のこなしがやや横着になった時、大木がそれを見透かしたように、
「今度は荷物を背負ってやれ」と命じた。
キスリングを背負って立ち上がった時、心に萌《きざ》し始めていた驕りが叩きのめされた。今迄の練習は空身でやっていたのである。山を空身で行動することはまずない、まして冬山ではほぼ体重に近い重装備を強いられる。滑落した時は、その重装備をも併せて止めなければならない。彼は背中から締めつける重量に抗してスリップした瞬間、腹這いの確保姿勢にもっていくのがどんなに難しいか思い知らされた。
滑落止め訓練の後、有馬ら三、四人の特に経験の浅い新人だけを集めて、橋本がコンロの使用法とテントの張り方を教えてくれた。
「もう半月もすれば、この辺にテントを張るのは本気の沙汰ではなくなる」
橋本が言った。
「どうしてですか?」
有馬が質問すると、
「どうしてって、あんた」
橋本はやや呆《あき》れたような目をして、
「ここは見るようにすり鉢の底のようだろ。冬は雪崩《なだれ》の巣になるんだ、それもなま易しい雪崩じゃない。斜面の片側に発生したやつが、このすり鉢を横切って向かい側の斜面に乗り上げるようなもの凄《すご》い雪崩だ」
「雪崩のるつぼなんですね」
本格的な冬山は未経験の佐野が言った。
「るつぼか、うまいことを言うな。まさにるつぼだよ。雪崩銀座という奴《やつ》もいるくらいだ。だから正月から三月末にかけて北穂や奥穂へ登るには、横尾尾根から稜線伝いに行くのが常識になっているんだ」
と橋本に言われても、雪崩の恐ろしさを知らぬ有馬にはピンとこなかった。だが、まだ十分陽は高いのに、穂高小屋をすぐ目の先にして、午後の行動を中止したことや、訓練雪面を大木がやかましく限定した理由が分ったような気がした。
雪稜会の合宿目標は奥穂小屋をベースに穂高連峰の登攀《とうはん》にあった。その中、新人は奥穂や北穂への一般ルートの登高により冬山に親しませ、最強パーティは、険絶をもって鳴る飛側滝谷の諸尾根を登攀する予定になっていた。
今までのテストに合格した者にのみ明日は奥穂まで、合宿には滝谷登攀隊のサポートに北穂高の頂上まで連れて行ってもらえることになっていた。圏谷の上空に突き刺さるようにそそり立つ尖峰に、自分のこの脚で現実に立てるのかと思うと、有馬の胸は異様な興奮に震えた。
本当にあすこへ行けるのだろうか? 徳本でものも言えぬほどに圧倒された、それら巨大な峯を自分の脚がふまえるということにどうしても現実感が湧《わ》かないのだ。それらは余りにも巨大で、神々しかった。だが現実に彼らは手を伸ばせば届くばかりの近さに屹立《きつりつ》している。そこまでの実際の距離がかなりあるとしても、徳本峠から上高地溪谷を隔てて望んだ時のような救い難い距離感はない。少なくとも、それら白き巨神へ到達可能な距離に迫ったことが、有馬にとって新鮮な驚きであり、喜びであった。
植民地支配権
1
「お父様、お電話よ」
久しぶりに早目に退社し、風呂《ふろ》と夕食をすませて茶の間で寛《くつろ》いだ気分になっていた三神陽一郎に、娘の梢が電話を取り次いで来た。
「電話、誰から?」
三神は気分を損われたようにやや眉《まゆ》をしかめた。
「松波専務よ」
「ど、どうしてそれを先に言わん!」
三神は慌てたあまり吃《ども》った。そのことによって余計腹立たしくなっていたが、応《こた》えた送受器にはおくびにも出さず、
「どうもお待たせしまして」と見えもせぬ相手に丁重に頭を下げた。もう数か月ほど前ならば、こんな時間に電話をした相手をさんざん絞り上げる彼だったのだが。
「三神さん、早速だが、陽和不動産をやってもらえませんか?」
三神の耳に松波の性急な声が飛びこんできた。
「ようわ不動産?」
松波の言葉の意味を把《つか》めなかった三神は、相手の言葉をくりかえした。
「うちの系列に陽和不動産という多摩地方から埼玉県南部にかけての開発をやっている会社があるのをご存じでしょう。あれですよ」
確かにそういう会社が日観の系列下にあることは朧《おぼろ》げながら知っていた。だが都屋自体が日観に系列化されて日が浅い現在、そんな末端の子会社の事業内容まで三神が詳しく知るはずがなかった。
「実はね、これが埼玉県|比企《ひき》地方に造成した二万坪の宅地の売行きが悪くて困っているんですわ。ここでぜひ三神さんに乗出していただき、多年デパート界で鍛えた腕をふるって欲しいのですよ、どうでしょう、都屋を含めた日観グループ[#「都屋を含めた日観グループ」に傍点]の繁栄のために一つご協力願えませんか」
送受器を握る三神の手が不覚にも震えてきた。松波は容易ならぬことを喋《しやべ》っている。
陽和不動産という正体不明の会社へ、都屋のぬしのような三神を、夜中電話一本で移そうとしているのだ。しかも相手はそれを出来る権力を持っている。口では協力と言っていても、それは否も応もない命令であった。都屋を含めた日観という言葉の中に、松波が背負った親会社の強大な権力がひしひしと感じ取れた。
「どうです、行ってくれますね?」
三神の沈黙を自分の都合のいい方へ解釈したらしい松波はだめ押しをした。その言葉を聞いた時、三神は結局そのようになるだろうという哀《かな》しい諦念《ていねん》を感じた。
「ちょっと待って下さい、私は不動産業には全く素人ですよ」
三神の必死の抵抗を松波はせせら笑うように、
「デパートで売らないものは、女と棺桶《かんおけ》とヒロポンだけじゃなかったのですか。最近じゃ棺桶も売ってるそうだ。三神さんらしくもないことを仰有《おつしや》いますね」
「しかし、相手の会社に関しても全く無知ですよ」
「ははは、そんなことは調べればすぐ分りますよ。パイオニアは未知の分野に乗りこんで行くからこそパイオニアなのです。困りますなあ、三神さんからしてそんな弱気じゃあ。それでは恐縮ですが、明朝九時、本社へお越し下さい。詳細はその時に、それじゃあ」
「あ、もしもし」慌てて三神が相手を呼び止めようとした時、送受器をかける音がたとえようもない冷酷さで耳膜に終止符を打った。
「ちくしょう!」
すでに相手の声を失い、無機的な機械と化した電話に三神は思わず憎悪の呻《うめ》き声を浴びせた。
いずれこんなことになるのではないかという予感がないでもなかった。だがそれにしてもこうも早く具体化しようとは思わなかった。
松波という人間の凄《すご》さ≠知るに従い、三神は自分一個の小さな保身のために都屋を売ったことを悔みはじめていた。要するに松波は彼を都屋という美しい大魚≠獲《と》るための餌《えさ》に使ったのにすぎない。獲物をとった後に餌が無用になるのは当然である。
だが三神とて権謀術数の世界に生きてここまでのし上がって来た人間である。松波の正体を見抜くや、早晩おはらい箱になる自分の運命を悟って、いつ追われてもいいように準備を始めていた。
「だが、それにしても、このように早く」
三神は松波の正体を見抜いたつもりでいながら、内心その若さを見くびっていたのだ。少なくとも任期中は安全と楽観していたのが失敗だった。会社と取締役の関係は委任関係だから好きな時に辞任出来るし、総会の特別決議でいつでも解任出来る。そんな面倒なことをせずとも、系列下のボロ会社再建のための本人の意志による出向という形に仕立て上げられる。もともと三神一人が欠けても、都屋の取締役は法定員数に十分なのだ。乗取って間もない現在、労組に人気があり、実務に明るい三神はまだ当分安泰だとたかをくくっていたのが甘かった。
松波が自分を排除しようとしたからには、もはや労組もがっちりと握り、実務も何の支障もないように固めてしまったのに違いない。三神の力で都屋を乗取っておきながら、世間態を欺くために当初は役員の派遣ですまし、世間の耳目が離れた頃を狙《ねら》って、最もうるさ型の三神を抜く。それから徐々に雑草を刈り取って行く。これが奴の手だったのだ。そんなことは分っていた。分っていながら……
「ちくしょう!」
三神は再び呻《うめ》いた。
「お父様、お茶が入ったわよ」
茶の間の方で梢が呼んでいたが、三神の耳には入らなかった。
三神への電話を切った松波は、腹心の葉村営業部長兼取締役と目を合わせてニッと笑った。
「古だぬきめ、今頃地団太踏んでいるだろう」
「はは、全く、しかし、陽和不動産とはうまい所を考えましたね」
葉村は追従笑いをした。
「グループの中でもどうにも救いようのないボロ会社だからな、もともと親会社の定年退職者や無能力者のおばすて山用に作った会社だが、それにしても奴《やつこ》さん、行ってからあまりのボロに目を回すぜ」
「しかし、何せ三神のことですから、あの宅地、売り捌《さば》くかもしれませんよ」
「それならばそれで一石二鳥さ、潰《つぶ》したところで痛くもかゆくもない会社だが、ひょっとしたら今までの累積赤字も一掃してくれるかもしれない」
「その心づもりも大いにあるのでしょう?」
葉村は上目づかいに松波を見た。
「はは、デパートの鬼と言われたほどの男だ、それくらいの赤字会社でないと、都屋をクビにする正当な理由にならないよ」
「しかし、労組の方は大丈夫ですか? まだ何分日が浅い」
「心配するな、うるさいのには皆適当にアメをなめさせてある。後は雑魚《ざこ》ばかりだよ、騒いだところでどうということはない、ごまめの歯ぎしりさ」
「実務面は?」
「この方はちょっと目算が狂ってな、俺の旧《ふる》い友達に一人優秀なのがいたんだが逃がしてしまったよ」
松波はこの時だけちょっと残念そうに顔をしかめた。
「それでは……」
葉村が心配そうに身を乗り出すのへ、
「だがそれももう解決した。市松屋と大友デパートから二人、腕っこきのデパートマンを引っこぬいた。特に市松屋から来る男は、四十年間、仕入れ、開発、販売とデパートのすべてを経験したマネージャーだ」
「市松屋が知ったら怒るでしょうな」
「怒るどころか、大恐慌を起こすだろう。市松の問屋会からは帝王と言われているほどの男だからな、とにかく中央仕入機構の中核に坐《すわ》り、市松本支店のすべての仕入を握っていた奴《やつ》だから強い。彼と共に市松の優秀な問屋もみんな|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》り取ってやる」
「それほどの男をよくスカウト出来ましたね、おそらく生粋の市松マンだったでしょうに」
「案外、譜代の旗本には会社《おいえ》に対して不満を抱いている奴が多いのさ。会社は自分の忠勤に対して十分報いてくれないという意識がある。会社の方も身内意識が強いから、つい外様《とざま》の方を優先して、身内はがまんしろということになる。旗本はいつの時代でもひや飯を喰《く》わされやすいんだよ」
「そこをうまくついたわけですな、しかし、いつもながら、専務の情報網は大したものですねえ」
葉村は本心から感嘆している様子であった。
「これからの社会でものを言うのは情報だよ、より大きな情報を得る者が権力を握る。地位が上がるということは、それだけ多くの情報が入るということだ、我々のすべての行動は情報を得るためといってもよいだろう」
「なるほど、他社を吸収すれば、それだけ視野も広がり、情報網も大きくなりますからね」
「その通り、そして異分子は情報網のネックになる。三神という大ネックを取り除いたら、早速小ネックの掃除にとりかかるか」
「楽しいですな」
二人の男は顔を見合わせて声を出さずに笑った。専務室の窓から望める隣接ビルの窓群は殆《ほとん》ど灯を消していた。
2
三神陽一郎が陽和不動産社長へ栄転(?)して一か月程後、都屋社長、門脇恭平は人事担当重役、高木善一、経理担当重役八十島織衛と共に日観本社へ呼び出された。
何事かと押っ取り刀で駆けつけた都屋首脳陣を待っていたのは、日観社長、水上英太郎と専務の松波俊二である。
都屋の前身、江戸屋呉服店を創業した門脇家につながる縁だけで社長になれた門脇恭平は、懐刀の三神を失って、今や全くサラブレッドだけが取柄の、傀儡《でく》社長となっていた。彼の命は偏《ひと》えに水上や松波のお情けによって生き長らえている。そのことをよく知る門脇にとっては、日観本社首脳陣の鼻息をうかがうことがあらゆる社長業務に優先する最も重要な仕事であった。
おそるおそる伺候した荘重な社長室に、これも松波のロボットにすぎない水上英太郎がそれでも格好だけは尊大に社長専用のソファに広がっていた。
「これはこれは早朝からお呼びたてしまして、さ、どうぞこちらへ」
傍らの椅子《いす》から松波が立ち上がって、これはまた水上とは対照的な腰の低さで門脇らに椅子をすすめた。門脇は今迄《いままで》の経験からその低姿勢が曲者であることを知っていた。
出社して早々の呼び出しに、どうせろくな用ではあるまいと暗い予感はしていたが、水上の尊大な構えと、松波の低姿勢の、いかにも作為的なコントラストに門脇はますます気が滅入ってきた。彼は敵地に一人取り残されたような心細さを覚えた。そういえば一緒について来た二人の重役も、日観本社から派遣された重役である。敵地にあって敵に四方を囲まれているのだ。門脇はその不安だけで持病の心臓が痛み出すような気がした。
――こんな時三神がいてくれたら――
門脇は痛切に思ったが、それはかえらぬ繰り言というものであった。毛並みだけが取柄の坊っちゃん社長の門脇は、股肱《ここう》と頼んだ三神が都屋を売った張本人であることに、今もって気がつかぬおめでたさである。もっともそのおめでたさ故に、今日までの命をながらえたのであるが。――
「本日お出願ったのは他でもありません」
門脇らが席に着くと同時に、松波が口を開いた。予想通り、水上の名を藉《か》りて門脇らを呼び出したのは松波であるらしい。
「都屋が日観グループに参加して早くも六か月、業務の方もどうにか以前の調子を取り戻したようですな、非常に結構です」
いきなり本題へ入るものと緊《かた》くなっていた門脇は、松波の|お世辞《コンプリメンツ》をどう解釈してよいものかとまどうような目をして、
「おかげをもちまして、従業員も落着きを取り戻し、業務も常態に復しました。客足も順調です」
門脇はとりあえず、当たらずさわらずの言《こと》を答えた。
「大いにけっこうなことです」
松波はべっとりとからみつく視線を投げて、
「しかし我々は、業務が常態に復しただけでは満足いたしません」
ピシリといきなり平手打を喰わせるような語調で言った。事実、門脇は頬《ほお》に痛みを覚えたほどである。
「都屋は今や、日観グループを構成する最も重要な分子の一つとなっております。我が日観は永久の繁栄的存続を社是とし、グループのポリシイともしております。もっともこんなことはいやしくも企業を標榜《ひようぼう》する者のすべてに与えられた命題ではありますが、我々はことさらにこれを強調することにより、営利企業体としての酷《きび》しい生存条件の認識を日々新たにしているわけです。従って日観においては、現状維持などという生ぬるいことは敗北を意味します。今日は昨日より常に前進していなければならず、明日は常に今日よりも進歩していなければなりません」
松波の使用する言葉はだんだん熱っぽくなってきた。だが反比例して冷たく沈んでくる語調は、門脇らに不気味な緊張を強いた。
実業界では鼻たれ小僧扱いされる若さの松波から、いずれも彼の親のような年かさで、しかも日本の一流企業の首脳たる男たちが、経営学の基礎知識のような講義≠受けて、憤然とするどころか緊張している。
大して興味なさそうな顔をしているのは水上社長だけだが、それも彼の講義を軽蔑《けいべつ》してではなく、そのようなことはすべて松波に任せきりにしているロボットだからであった。
「都屋が比較的速やかにもとの調子を取り戻したのは喜ばしいことですが、今度はより以上の調子を出してもらわなければなりません。我々が常態に復しただけでは満足しない意味がお分りいただけますか。今日お集まりいただいたのは、都屋をいかにしてより繁栄させるかの具体案を忌憚《きたん》なく話し合おうと思ったからなのです。そこで……まず高木取締にお尋ねしますが」
松波は彼自身が都屋へ派遣した高木へ他人行儀な目を向けた。
「この厚生課とは具体的にどういうことをやるのか説明して下さい」
「はっ、それは読んで字の如く社員の厚生に関する一切を司り、社内預金、社員旅行、社員寮、社員食堂等の管理や、社員用土地住宅の確保|斡旋《あつせん》、レクリエーションの指導などをやっております」
「何人いますか?」
「課長一、係長二、課員十六、計十九名でございます」
「十九名!」松波はことさらに大仰な声を上げて、
「どうも業務内容は総務の仕事と似ているようですね。どうです、思い切って総務と合体して、浮いた人間は営業関係へ回しては?」
「はあ……」高木がどっちつかずに答えると、
「厚生課以外にも、商品開発部と営業企画、資金課と財務課、人事課と労務など統合出来そうな部所が多い。これらを統合すると、かなりの人件費が浮くと思いますがね」
「お言葉ですが」
門脇はようやく口をはさんだ。
「これらの部所は都屋の長い歴史が作り上げたもので、いずれも必要のあるものばかりです。それに、ようやく社員が落着きを取り戻してきた現在、組織の改変を行なうことは、徒《いたず》らに彼らを動揺させ、士気《モラール》を低下させるものと考えますが」
「……でしょうか?」
門脇がおずおずと出した反論を、松波はせせら笑って、
「これをちょっとごらん下さい」
門脇の前に一連の書類を押しやった。
「これは!」
「都屋の決算用の化粧≠すっかり落とした財務諸表です。これによると従業員一人当たりの売上と利益は業界最低です。売場面積一坪あたりの売上げに至ってはお話にならない。どうして都屋の社員はこんなに稼がなくなったのか? 売上げが総体的に落ちていることも事実です。しかし何よりも人間が多過ぎる。売場さえ広げれば売上げは増えるとばかり、増築に増築を重ねたが、客の足がついてこなかった。これは消費景気にうかれて科学的な長期経営分析を怠ったあなた方の責任でもありますよ」
松波はギロリと目を剥《む》いた。そんなことだから乗取られるのだと言わんばかりの口調である。あなた方とは言ったものの、高木らはもともと日観から派遣された人間であるから、門脇一人を責めているのと同じである。門脇は顔も上げられなくなった。
「しかも管理部門の人間が異常に多い。今はマスセールの時代です。そういう時にあって直接販売に貢献しない管理部門の人間を多数かかえていることは、それだけ営業関係の人間の負担を重くし、コストばかりが高くなる。馬鹿でもクズでも商売をやれば儲《もうか》った高度成長時代から、真に優秀なものだけが生き残る質的な生存競争に移った今は、どんな小さなロスも許されません。合理性に徹して経営した者にのみ産業界に生き残る資格が与えられるのです。
大体、デパート商売などというものは、商品開発と、営業の腕さえしっかりしていればやっていけるものです。たかだか従業員五、六千の会社ならば、人事と経理に二、三十人の人間がいれば充分です。後はすべて売場《カウンター》や外商へ回しなさい」
「しかし今まで事務|一本槍《いつぽんやり》で来た人間をいきなり営業へ回しても、売上げが伸びるわけではなし、第一そんなことをしては徒らに社員の反感をそそるだけです」
「反感? 馬鹿な」
松波は小馬鹿にしたように笑った。
「大体、日本のサラリーマンには、なるべくらくで綺麗《きれい》な仕事をして月給をもらおうとする月給泥棒≠ェ多過ぎる。何をやりたいのだと聞けば事務と答えるような腑《ふ》ぬけが堂々と入社して来る。現場で油にまみれて機械をいじったり、飛び込み戸別訪問のセールスなどは大嫌い、空調《エアコン》完備の近代的オフィスで帳簿つけやスクラップ作りが大好きなのです。しかも一人で充分に出来ることを四人も五人もが仲良く分け合ってやっている。だが我がグループ内ではこのような寄生虫的社員≠ヘ徹底的に排除します。企業は社員に絶対に只金《ただがね》を払わない。曖昧《あいまい》な愛社精神などではなく、彼らが為した具体的な仕事のみが評価されるのです」
「営業関係の人間を増やすことが、そのまま売上げ伸張につながるとは限りませんよ」
「それはそうでしょう。だが管理関係の人間は利益責任の意識が薄い、大した働きをしなくとも、とりあえず背広とネクタイに身をかためて会社にいれば月給はもらえると考えているスーダラが多い。こいつらに利益《ノルマ》を上げなければめしは喰《く》えないという切実な観念を叩《たた》き込むのです。この利益責任の意識が我がグループの隅々にまで行き渡っております。都屋も我がグループの重要な一環になった以上、この意識に徹していただきます。
まず営業強化的な組織の簡素化が、コストを抑え、売上げを伸ばす最も手取り早い方法だと考えます。もしそのことによって人間が浮くようであれば、それこそ一石二鳥、グループ内の人手不足部門へ回してもよいし、無能力者にはお引取りいただいてよろしい」
それはまことに残忍な脅迫というべきであった。引き取ってもらうのはお前さんになるかもしれないと言わんばかりの表情でいたぶられて、門脇は反す言葉を失ってしまった。
これはもう話し合いなどというものではなく、征服者から被征服者への一方的な申し渡しである。
3
「それでは、組織の改正[#「改正」に傍点]についてはこの位にして、八十島取締」
松波はもう一人の派遣役員の方へ視線を転じた。
「このバランスシートによると売上高は二百十六億円、売上利益率〇・五パーセントとは一体どういうことなのですか?」
「はっ、それはそのう、経費が大きかったものですから」
「その内訳は?」
「つまり売上原価や販売費の上昇が利益を圧迫したのです。それに売場拡張の投資による支払い金利が経常利益に喰い込んでおります」
「それでは具体的にどうしたらいいのですか?」
松波に促されて八十島は門脇の顔色をうかがうようにチラと横目を走らせたが、
「原材料費や金利は動かせません。最も手取り早いものは経費の節減です」
「例えば?」
「例えば現在当社では社員全員に通勤費全額を支給しておりますが、通勤圏の拡大に伴い、巨大な数字となっております。その他部長以上の管理者は自動車による送迎を行なっていますが……」
「分りました。通勤費負担は実費支給、但し上限は千円位に限定してはいかがですか、役職の自動車送迎は即時撤廃する、どうでしょう」
松波は門脇を全く無視して言った。どうでしょうと相手の意見を問う形をしながら、それは否も応もない断定であった。その時になって門脇はようやく、彼らが馴《な》れ合い万歳をしていることに気がついた。高木と八十島は事前にあらゆる資料を松波の許《もと》へ提供しておき、打ち合わせた筋書を門脇に押しつけているのだ。屈辱の憤りがぐっとこみ上げてきたが、彼は危ういところでそれをこらえた。
「社員は本給によってのみ支払われるべきです。本来ならば家族手当や通勤費などの余恵的なものは一切支払う必要はないのですが、それでは日本の労働者感情に余りにも反するので、止むを得ず支給しているのです。だが会社が自分の所有物に対して厳しくするのは、決して吝嗇《けち》ではありません。社員が社物を私用に供し、それをサラリーマンの当然のよろくとする意識は断固|払拭《ふつしよく》しなければなりません。大体経費などというものは、販売費だの交際費だのといかにも社用に費《つか》われたかのように粧《よそ》われていますが、大部分は私用です。社員の私費が会社の利益を喰う、こんな馬鹿な話はありません。今後は曖昧な交際費は一切禁止、受取りは公給領収書だけを有効として下さい。接待はすべて事前承諾による予算制、私用電話も禁止、直通電話はすべて交換台経由に変えましょう。無断欠勤、あるいは私用の遅刻、早退は必ず給料から差し引く」
「そ、そんなに厳しくしめては社員が働かなくなります」門脇は悲鳴に近い声をあげた。
「大丈夫です、利益責任主義を強く打ち出して、よい成績を上げた者はそれ相当に報いてやります。やればやっただけ報われることが社員の間に徹底すれば、月給以外の余恵を会社からかすめ取ろうとする小ずるいサラリーマン根性はおのずから淘汰《とうた》されますよ」
「しかし、それにしても」
「一つお委《まか》せいただきましょう」
門脇が必死に抗弁しようとする出鼻へ、松波が断固たる終止符を打った。追い詰められた鼠のように門脇は水上社長や高木らの顔に縋《すが》りつくような視線を投げた。それに対して彼らは同情の表情を浮かべてはくれたが、具体的には何も言ってくれなかった。松波に見こまれてはもはや手の打ちようがないと言わんばかりの諦《あきら》めがあった。
門脇はどうあらがっても無駄なことを悟った。この上は出来るだけ忠実に松波の意志に沿って行動することだ。それだけが自分の延命を保証する。彼は我と我が身を悲しく納得させて頭を下げた。この際、日観に系列化されて以来六か月の屈辱に馴《な》れかけていた心身が怪我《けが》の功名の救いになった。
「松波君、少ししめすぎやせんだろうか?」
門脇らが引き取ってから、水上はためらいがちに言った。社長の身でありながら、若い専務の松波に言葉を選びながら口をきかねばならないロボットの身分は気にならない。
「はは、ご心配なく、労組のうるさ型はがっちりと握っておりますし、雑魚《ざこ》が騒いだところでどうということはありません。世間態を慮《おもんぱか》って我々は今迄穏やかすぎたくらいです。この辺で日観色を強く打ち出して支配権を明らかにする必要があります。植民地≠ヘ甘やかすとすぐ増長しますからね」
松波は水上の言葉を一笑に付した。その冷酷なせせら笑いを聞きながら水上はふと、――植民地は甘やかすと増長する――と言った彼の言葉が自分に向けられたものではないかと思った。悪寒のようなものが水上の体の芯《しん》から湧《わ》き上がったのはその時である。
単独登山者《ローンワンダラー》
1
落石の音が遠い沈黙《しじま》の奥へ去ると、圏谷の上空に黄昏《たそがれ》が濃くなった。前穂北尾根の空にはすでに気の早い星がまたたきはじめている。夕映えの空を鋭く刻む前穂―奥穂―北穂の岩峰群は、刻一刻その陰影を濃くして、圏谷に屯《たむろ》す夕闇《ゆうやみ》を深めていた。
それらの岩峰や岩壁に青春の祭典をくり広げた若者たちは、今、殆《ほとん》ど圏谷のベースキャンプに帰り着き、充《み》ち足りた一日の登攀《とうはん》をしみじみと反芻《はんすう》している。諸所に張られた天幕に揺れるみかん色の灯《ラテルネ》、キャンプファイアを囲んだ若い唄声《うたごえ》。有馬正一は涸沢の天幕場から少し離れた雪溪の中の、かなり大きな露岩《スラブ》に坐りこんで圏谷をめぐる高峯群の、遠く昏《く》れていく前の僅《わず》かな時間に覗《のぞ》かせる奇妙に優しい表情にみとれていた。
奇妙に優しい表情、――それは盛夏の烈日に燃える猛々《たけだけ》しい岩壁や、それらがもう少し時間が経って、夕闇の中に夕闇よりも黒々と聳立《しようりつ》する陰惨な重量感とはおよそかけ離れた、残照と夕闇のないまざる遠く古びた色調の中に鋭さを失った山々の一瞬の表情であった。
あるいはそれは夕暮れの甘さに酔わされたアルピニストの錯覚であったかもしれない。
「カチッ」と岩角の鳴った音に有馬は放心から醒《さ》めた。それは穂高の方から降りて来た登山者が鋲靴《びようか》を砕石にかけた音だった。岩肌の魅力に誘われるまま、滝谷の飛尾根あたりまでザイルをのばしたパーティであろう。疲れて下る足取りには、アルピニストだけに分る充ち足りた想《おも》いがあった。
「俺には分る、彼らがどのような想いに胸を熱くして岩を攀《よ》じ、どんな悦《よろこ》びに震えて尖峯《せんぽう》の上でザイルを解いたか」
有馬には、あたかもそれらが自分の身におこったことのようにはっきりと分るのだ。それはそのまま、彼がこの八か月ほどの間に積み重ねた山歴≠物語るものだった。
八か月――といってもその間まるまる入山していたわけではないから、なおのことであるが――くらいの山歴は、どうということはない。しかも冬山体験はたった一冬にすぎないのだ。
だが有馬はこの八か月をそれこそ狂気のように山へ登った。山狂いの多い雪稜《せつりよう》会の中でも、他の会員が呆《あき》れるほどに山へ入り浸った。冬春夏の合宿、合宿のための偵察山行、休日の山行と会の活動としての山行には、許されるかぎり参加し、それ以外に時間が余れば個人山行として山へ入っていた。
彼がこの二百日そこそこの間に、登山のABCから、高度の氷雪技術とロッククライミングの技術までをも詰めこむことが出来たのは、雪稜会の山狂≠スちすら驚かせた彼の山狂ぶりのおかげだった。もちろん単なる山狂ではこれだけの短期間に山に熟達することは無理である。
有馬には生まれながらの山の才能≠ェあった。初めて北尾根の岩場《ゲレンデ》に先輩に伴われた時、有馬の天賦のバランスは、先輩たちの舌を巻かせたものである。岩を観る適確な目と敏捷《びんしよう》な身のこなしは、すでに二百時間以上岩場経験を経た古参メンバーに比べて決して遜色《そんしよく》がなかった。
足下を目が眩《くら》むように抉《えぐ》る急峻《きゆうしゆん》な涸沢の雪溪を見下しても脚が竦《すく》むこともなく、かえって高度感が爽快《そうかい》に感じられた。ホールド、ステップも手足に吸いついて来るようで実に快適だった。有馬自身、今まで気がつかなかった自分の隠れたる才能に驚いた。加えて山の基礎である彼の馬力が才能に更に磨きをかけた。
雪稜会の幹部連は、この思わざる掘出し物を喜び、特に彼には目をかけて指導した。彼が僅《わず》かな期間に、錚々《そうそう》たるクライマーが揃《そろ》う雪稜会の中でも、有力な中堅会員になれたのは、そのような努力と幸運が幾重にも積み重なったからである。
吊尾根《つりおね》から張り出した積雲の頭が茜色《あかねいろ》に輝いた。すでに圏谷の底は暗いのに、空の上方に尖峯群よりも高く積み重なったまばゆい雲の頭は、ひたひたと押し寄せる闇に、昼が最後の光を結集して必死にあらがっているかのように見えた。
あの夜も吊尾根に積雲の頭が立ち、月光に染められていた。初冬の、しかも深夜、青白い月光に染め上げられた積雲は、有馬の目に奇怪な天象として映った。あれは積雲ではなく、季節風が運んだ雪雲であったかもしれない。事実、あの夜を境いに、穂高連峰は完全な冬山へと変貌《へんぼう》したのである。
そして有馬自身の中でも、あの夜と共に何かが変わったのだ。それが何かは未《いま》だにはっきりと見定めることが出来ない。自分の中にあるものを薄いヴェール一枚を隔てたまま容易に見極めることの出来ないもどかしさを抱いて、有馬はアルピニストとして成長していったのである。
あの夜――冬期合宿偵察行の最後の夜、連日のボッカと偵察|登攀《とうはん》に疲れ果てて泥の眠りに落ちていた雪稜会へ、遭難の救助が求められたのは十一時頃であったろうか。全身擦過傷でボロのように叩きのめされた一人の若い登山者が涸沢ヒュッテに転り込んで来た。
疲労と気の弛《ゆる》みから昏倒《こんとう》しそうになるのを必死に耐えて登山者は、北尾根第二峰のピーク直下で落石にあい、伴《つ》れが一人動けなくなっていることを告げた。彼らは第六ピークから前穂頂上へと北尾根の縦走を志して、今朝ヒュッテを出発したのである。彼らの完全装備と、相当の岩場経験を思わせる落着いたもの腰から、夜になっても帰らない彼らを、おそらくは縦走を終えて奥穂小屋泊まりと推して大して心配もしていなかったところへこの遭難の報だった。
第二峰は北尾根の中で最も痩《や》せて、岩が悪い所である。これから直ちに救援に赴くか、それとも朝を待つか? 戸外へ出て観天望気をした大木は、救援決行と決断を下した。
もちろん有馬ら新人が救援隊に加えられるはずがない。傷ついた男を一刻も早く救出するべく、自分自身の生命の危険を賭《と》して深夜の高峯へ発《た》って行く男たちを見送るためにヒュッテの外へ出た時、彼は月光に映える積雲を見たのである。圏谷の中天にかかった研ぎすまされた月、吊尾根に積み重なった妖《あや》しい雲の堤、雲の動きは激しく、一瞬の間に月を呑みこんでしまったが、月光に染められて躍動する巨大な雲塊は、アルプスの夜空に踊り狂うもののけ[#「もののけ」に傍点]のように、今でも有馬の網膜にはっきりと印象されていた。
彼は恐怖と寒気に身を竦めながら、言い知れぬ感動に浸されていた。
遭難者は只《ただ》一夜、同じ山小屋に泊まり合わせたにすぎない赤の他人である。その赤の他人を救うために、泥のように疲れた身体に鞭打《むちう》ち、二重遭難の罠《わな》が至る所に張りめぐらされた夜の深山へ身を挺《てい》して行く。この大いなる無償の行為の底にあるものは何だろう?
有馬は山を知る前にそれを山という壮大な舞台装置が産んだ幼稚なヒロイズムであり、安っぽいヒューマニズムであると思っていた。だが現実に、見ず知らずの人間を救うために生命を張る男たちを目のあたりにして、余りにもスケールの大きい無償の行為に圧倒されてしまった。そして自分に彼らに尾いて行くだけの技術がないことを痛切に悔やんだのだ。もし自分に北尾根第二峰とやらへ行ける山の技倆《ぎりよう》があったならばためらわずに救援に参加しただろう。彼はその時、自分が一体何の目的のために山を学んでいるのかも忘れて、圏谷の闇の中へ遠ざかって行く男たちを見送っていた。
あれからすでに八か月経つ。その間二度程、遭難の救援に加わった。
一度は北穂高キレット南面を転落した即死体、全身打撲|頭蓋《ずがい》粉砕、何とも凄惨《せいさん》な死体だった。
もう一度は奥穂―西穂間の縦走路、天狗《てんぐ》のコル付近で疲労のため動けなくなった登山者の救出、いずれの場合も我が身の危険もかえりみず、現場へ急いだ。今にして言いきれる。あれは壮麗な舞台装置に酔わされた幼稚なヒロイズムではなかった。遭難者の無事をひたすらに祈ったあの心には、安っぽいヒューマニズムなどの入りこむ余地はなかった。さりとてそれほど高尚な動機が働いたわけでもない。もっと動物的で熱っぽいものが、他人の危難を救うために、自分自身を何のためらいもなく危険に晒《さら》させたのだ。
大木も藤堂も、あの夜、悪天の兆をおして前穂二峰へ攀《よ》じたのは、動物的な熱っぽさが作用したからであろう。あの熱っぽさこそ人間として本源的なものではあるまいか?……
「おうい、いつまでそんな所でトカゲをきめこんでるんだ、めしが出来たぞ」
雪溪の外れから吉住が呼んだ。有馬と同時に入会し、雪稜会の酷しいシゴキに耐えて今日までよく生き残った只一人の同期の仲間《さくら》である。
吊尾根に張り出した積雲の頭はいつの間にか色褪《いろあ》せていた。常念山脈の上は完全に夜の闇にのまれている。急に寒さが身に迫った。夏とはいえ、陽がかげった雪溪上の露岩に今までうずくまって大した寒気を覚えなかったのは、動物的な熱っぽさ≠反芻していたからであろうか。
今宵《こよい》は、夏の合宿最後の夜である。明日は山を下る。有馬はまだ誰にも打ち明けていなかったが、この山行を最後に雪稜会を辞めるつもりであった。僅かな期間だったが、大木をはじめ、メンバーは実によく自分を指導してくれた。この短期間に高級《ハイグレード》の岩壁を攀じられるようになったのも、これら日本岳界の錚々《そうそう》たるメンバーが本格的な登山技術を叩《たた》きこんでくれたからだ。山に関してはまだまだ学ぶべきことは多い。山歴ももっと積み重ねなければならない。しかし有馬にはもうそんなことをして遊んでいる♂ノがなくなったのである。学力≠ヘまだ十分ではなかったが、彼には学校≠去らなければならない事情が迫っていた。大島清がヒンズークシュから還《かえ》って来るのだ。
大島清、――彼こそ有馬が動物的な熱っぽさで取り組まなければならぬ対象であった。そして遭難者の救援に命を賭《か》けて赴いた熱っぽさも、大島への復讐《ふくしゆう》にかけた熱っぽさも質こそ変われ、その熱の熾《はげ》しさにおいて少しも差はなかった。
人間の善意の熱さは、悪意の熱さに少しも影響を与えないのである。――どちらも俺《おれ》という人間にとって本源的なものだ――有馬は改めて確認した。
「すぐ行く」
吉住に応えてから、有馬はゆっくりと立ち上がり圏谷の空を仰いだ。北尾根―前穂―奥穂―涸沢―槍―北穂、空を黒々と限る巨大な岩襖《いわぶすま》は、闇の中に更に高度と鋭さを増したようである。
短い期間だったが、穂高連峰はこよなき道場となってくれた。雪稜会のメンバーと共に山の壮大な美しさと、その怒れる時の凄《すさま》じさ、さらに、山にあることの悦びや、精神を抉《えぐ》り取られるような寂寥《せきりよう》のすべても教えてくれた。再び山へ来ることはあるにしても、もうこのように山そのものを対象にした、透明な心で訪れることはあるまい。
有馬は圏谷の底に湧《わ》いた霧のような感慨を噛《か》みしめながら、仲間が待つラテルネの揺れる天幕の方へ下りはじめた。
2
エアインデア102便、ボーイング707は羽田空港A滑走路へ折りからの夏の午後の熾《はげ》しい光を受けて、美しい巨大な金属のとりのように燦《きら》めきながら進入して来た。車輪が滑走路に触れるや、速度を殺す逆噴射音が|送迎デッキ《フインガー》に群れた送迎人の耳を聾《ろう》した。
「とうとう来た」
それら送迎人の群の一人としてフィンガーの上に立ちながら、有馬は胸に戦慄《せんりつ》のような震えを覚えた。それは他の群衆の、異邦へ旅発つ人やそこから帰る人々を送迎するのに覚える興奮とは全く異質の興奮であった。
それは静子の過去が露《あら》われて以来、胸の中で発酵し続けてきた憎悪の相手方に初めて見《まみ》える心の震えである、今日は大島がヒンズークシュの遠征から帰って来る日であった。フィンガーには各報道関係者、全山協のおえら方、各山岳団体関係者の姿も見える。空港ビル一階にある国際線乗客到着口には更に大勢の出迎人が群れているだろう。
特に今回の遠征は戦後最大の規模である上に、中部ヒンズークシュのまだ地図らしいものも出来ていないムンジャン谷とアンジュマン谷の間と、クワジャムハメッド山群を踏査して学術的にも貴重な資料を得たところから、マスコミ関係の出迎えは華やかであった。
機はすでに空港ビル前に誘導され、タラップがかけられていた。エンジンが完全に停止した。前後二か所の扉が開き、乗客が次々に降りて来た。フィンガーの上では親しい人々の姿を認めてどっと騒《ざわ》めく出迎人もいるが、有馬には写真だけで知っている大島の顔をフィンガーから読み取ることは出来ない。
出迎人が空港ビル一階ロビーへ移動しはじめた。乗客たちはこれからCIQ(税関、入国管理、検疫)を経てそこへベルトコンベアに乗せられたように押し出されて来るはずである。
一階ロビーにはすでに大勢の出迎人が詰めかけていた。ロビーとCIQの間は、厚い一枚ガラスで仕切られ、その中に世界各国の人種が、水族館の熱帯魚のように遊弋《ゆうよく》している。出口はロビーの中央よりに一か所、改札口《ゲート》のように開いていて、出迎人はその両側に帯のように立ち並んで待っている。CIQの済んだ旅客は出迎人の列の間を閲兵するような形で歩いて、ようやく目指す日本へ到着ということになる。出迎人の間には旅行代理店《エージエント》の者であろう、客の名前を大書した紙を胸にぶら下げている者もいた。このようにして互いに未知の乗客と出迎人が|出会う《コンタクト》のである。
CIQが済んだとみえて、旅客たちの姿が続々とゲートへ現われて来た。出迎えの群衆の間に熱っぽいどよめきが起きた。
「ウエルカム ツウ ジャパン」
「お帰りなさい」
などというグリーティングがあちこちで起きる。出迎えの多い者もあれば、全くない者もある。いかにも外国から帰りましたといわんばかりに土産物で重装備した者もあれば、まるで隣りの家を訪れるように身軽に下り立って来る者もいる。ヒンズークシュ遠征隊はなかなか姿を現わさなかった。団体なので一番最後にまわされたのであろう。
「出た!」新聞記者らしい一人が、幽霊でも見つけたような声を出すと同時に、カメラのフラッシュがあちこちから閃《ひらめ》いた。揃《そろ》いのダーク・スーツに身をかためた一団がゲートに姿を現わした。荷物や装備はカーゴウ便で別送したのであろう。シャープなスーツに身をかためた一同は到底ゴツイ登山隊には見えない。ただ並外れて日灼《ひや》けした一同の顔が、一般旅客の中の異色≠ナあった。
最初の間は一同に無差別に浴びせられていたように見えたフラッシュが、次第に彼らの中の一人の人物に集められていくのに気がついた時、有馬はそこに目指す相手を見つけた。肩幅の広いがっしりした体躯《たいく》に、逞《たくま》しく日灼けした角ばった顔が笑っている。夢にまで見た、静子の過去の男だった。かつてあの厚ぼったい唇は静子の唇をねぶり、ピッケル胼胝《だこ》の出ていそうないかつい掌は静子の躰《からだ》を弄《もてあそ》び、あの精力的な躰全体で静子の躰を思うさま貪《むさぼ》ったのだ。
カメラマンのリクエストに応《こた》えて、心持ち上体を反らせるようにポーズした大島を、有馬はまばたきもせずにみつめた。彼の視膜はいかなるカメラよりも、いかなる高感度のフィルムよりも鮮明に大島の姿を定着するはずである。
「六千メートル級の未登峯に初登頂されたそうですが、名前をつけましたか?」
「ピークXにおいてI国の登山隊とかち合ったそうですが、別にトラブルはありませんでしたか?」
「現地の対日感情は?」
記者会見が始まった。新聞記者を前にてきぱきと答えている大島に最後の一瞥《いちべつ》を投げた有馬はロビーを出た。全山協に対立する雪稜会メンバーの姿は見えなかったが、岳界関係者の中には、あるいはこの八か月間の有馬の山歴の中で顔馴染みになった者がいるかもしれない。なるべくならば誰にも見咎《みとが》められずに大島を確認したかった。彼は、面をうつむけて空港ビルを出た。
3
「あら!」
静子は朝刊に思いがけない人物の写真を発見して思わず息を詰めた。
――ヒンズークシュ遠征隊帰る。
――貴重な学術資料を携え、
――六千メートル級の無名峰数座初登頂、大島隊長の命名により……
などの見出しが麗々しく一面のトップを飾り、その傍にあの時[#「あの時」に傍点]以来、忘れようとしても忘れられない大島の顔写真が笑っていた。あの時とは、あの忌まわしい過去の一時ではない。大島との過ちを有馬に知られた時のことである。
それまでは、そのような過去があったことすら忘れてひたすら有馬を愛し続けてきた。ただ彼だけを愛し、これからも愛し続けるであろう女のひたむきな確信は、大島との過去が自分の躰が犯した否定し得ない事実であるにもかかわらず、全く別の人間が、別の世界で犯した過ちであるかのように錯覚させていた。いや錯覚という、対象が歪《ゆが》められながらも知覚されているものでもない。そんな過去があったことすら忘れ果てていたのである。
現在の幸福に不利益をもたらす過去を隔絶してしまおうとする、女の自衛的なエゴイズムが働いたことも否めない。だが静子の場合はもっとはるかにスケールの大きな有馬への愛であった。それに比べれば、大島に傾けた心など全く傾けなかったのと同じである。しかし精神の傾斜を伴わぬまま、女の最も重要な部分をうかうかと与えてしまったことも事実であるだけに、いくら悔やんでも悔やみきれない過失であった。
だが静子はその過失の重大性すら、有馬へのひたむきな想いの中に忘れていた。それをゆくりなくも思い出させたのが、あの日あの時であった。
有馬の誘導と追及にあって、洗いざらい自分の過去を告白して以来、彼は急速に自分の許から離れて行った。心が離れたわけでは決してない。彼の自分への愛の深さはよく分る。愛が深ければ深いほど彼は自分を許せないのだ。互いに強く求めあいながら、磁石と磁石の間を断ち切る非磁性物体のように、大島との過去が、あの日突如|甦《よみがえ》り、愛する二人の間を断絶した。過去そのものは遠く淡く、到底セックスなどとは呼べぬ稚《おさな》い交わりであったが、有馬の純愛≠ノとって断固たる終止符を打つ肉の交わりであったことも事実であった。
それだけに女として心も躰も未熟であった自分を、当時三十歳前後の手練手くだで誑《たぶら》かして純潔を奪った大島が憎かった。その当の男がどのような顔をしていたか、それすら定かではない遠い記憶の中で、自分の、いや有馬と築き上げたささやかな家庭をめちゃめちゃに破壊し、その上、自分の胎内に芽生えかけたおさない命までも奪った元凶として憎んでいた。
その大島清が、今、新聞紙上で笑っている。そういえばこんな顔をしていたと、見出しにあった名前から写真へと導かれ、忌まわしい過去の男の顔の輪郭をようやく甦らせたのだ。
女にとって初めての男は忘れられぬものとされている通念は、静子の場合、一面真理であり、一面|嘘《うそ》であった。忘れられぬのは憎悪においてである。
「静子、何をしているの? 遅れるわよ」
貞代が気が気でなさそうに促した。有馬がN市の家を出て行方不明になってから、静子は狛江の実家に帰っていた。退院した当座は、いつ帰るかもしれぬ有馬を待ってN市の団地にいたのだが、一向に帰る様子のない彼に、彼との思い出が詰まっているその家の一人暮らしに耐え切れなくなって実家に身を寄せていたのである。
都屋も辞め、蒸発≠オた形になっていた有馬から一度、
「当分帰るつもりはないが、元気にしているから心配するな」という簡単な文面の絵葉書が来ただけだった。発信地は〈松本〉となっていて、雪をいただいた高山の写真が裏にあった。
(きっと傷ついた心を抱いたまま、あてどなく旅をしているのだろう)静子は夫からの唯一の音信と言うべき絵葉書を、肌身離さず持ち歩き、一人それを打ち眺めては涙ぐんだ。もうこの頃ではあまり何度も取り出すものだから、摺《す》り切れて、字句が読めないほどに掠《かす》れてきている。
たかが、妻の遠い過去のために、家庭を去り、職まで捨てた有馬を、静子は偏狭ともアブノーマルともおもわない。夫が自分から去って行ったことは悲しいことではあるけれども、その異常なまでに深い愛情がよく分るだけにいっそ切なく、あさはかだった自分が忌まわしくなる。
ただ家にいても気が滅入《めい》るばかりなので、静子は一か月ほど前から新聞広告で見つけた都心の、ある外資系の商社に勤めはじめていた。
共稼ぎ中に身につけた英会話とタイプが思いのほか役立って、勤め先では可愛《かわい》がられた。戸籍上はまだ純然たる有馬の妻である。彼の方から離婚を申し渡されないかぎり永久にそのつもりでいる彼女は、ミセスということで就職したのだが、社内の外人でミセス・アリマと呼ぶ者はいなかった。もともと、ふっくらしたおとなしい面立ちは静子を若々しく見せる。
だが彼女は「ミス・アリマ」と呼ばれる都度胸の奥に鋭い痛みを覚えた。ミセスとは履歴書において申告しただけであり、彼らは知らずに静子の外見からそう呼んでいるだけなのであるから、強いて訂正はしなかったが、「ミス」と呼ばれる都度、どこか遠い空の下を彷徨《さまよ》い歩いているにちがいない夫が偲《しの》ばれ、胸が疼《うず》くのだ。
晴れた日は晴れたで虚《むな》しい空の明るさに、曇れば暗うつな空の色に夫の心を忖度《そんたく》して胸を痛める。
(あなた、どこにいらっしゃるの? 還《かえ》って来て、私の許《もと》に還って来て!)
常に心の中で遠い夫へ呼びかけながら、段々|沈鬱《ちんうつ》になって来る静子に、両親は、
「もういいかげんあんな男のことは忘れたほうがいい」と暗に再婚を勧めた。
配偶者の生死が三年以上不明にならなければ裁判上の離婚原因とはならないが、両親はそんな法律的な制約は知らず、有馬の異常な潔癖感に、みすみす不幸になっていく娘を見過ごせなくなったのである。
まだ十分に若く美しい静子である。その気になればいくらでも相手は見つかる。両親は有馬の潔癖の犠牲にしたくないと単純に思っただけである。
彼らの親としての情はよく分りながらも、それは今の静子の心情にはおよそ反するものであった。
(この家も近々出た方がよいかもしれない)そしてN市の団地の近くにアパートでも借りて彼の帰りを待つのだ。彼女は最近そのことを強く思うようになった。だが思うだけでなかなか実行に移さなかったのは、また、たった一人で有馬の追憶に浸りながら、ひたすら彼の帰りだけを待つ孤独な時間に耐えられる自信がなかったからである。「待つ」という時間は孤独の時に最も緩やかに流れるものだ。
その朝、新聞のおかげで朝食を食べ損い、静子はラッシュの通勤電車に乗り込んだ。だが空腹感は一向になかった。新聞記事が重く心にのしかかり、胃液の分泌を止めてしまったらしい。
しかし一体何がこんなに心にかかるのだろう?
大島の記事と写真を新聞に見出したのは、抉《えぐ》られた傷に塩水をかけるようなショックには違いなかったが、心に長くわだかまることではない。要するに過去の男の近況が判っただけのことで、いまの自分には関係ない。
「関係ない」ふとその言葉を唇から洩《も》らした静子は、今迄《いままで》重くのしかかっていた心の負担の原因にはたと思い当たり、その先にあるものの重大な意味に身体を硬直させたのである。
「ご気分が悪いようですが」
静子の前に坐っていた乗客が、只《ただ》ならぬ彼女の様子を読み取って、親切にも席を立ってくれた。恐縮しながらも、彼女は席を譲ってもらった。この恐ろしい推理を追いながらラッシュに揉《も》まれるのはたまらなかった。
(思い過ごしだわ)静子は席に坐ると、先刻|閃《ひらめ》いた恐ろしい想像を否定した。しかし、否定すればするほど、想像は具体的な形をとって脳裡《のうり》に凝固してくる。
記事は静子の目に止まったくらいであるから、有馬にも確実に読まれているだろう。もともと彼は新聞には丹念に目を通すほうであった。
大島の記事が有馬の目に触れた場合、彼の心はどのように反応するか? 愛する妻を捨て、家を去り、子供を殺され(たとえ直接の手は下さずとも)、職までも失った有馬が、それらの不幸をもたらした元凶である大島の近況を知ったならどうなるか? 果たして「関係ない情報《ニユース》」として読み捨てるだろうか。静子は有馬の内部に燃え上がる憎悪の炎を目のあたりにする思いだった。炎の燃えさかるまま、どのような危害を大島へ加えようと思いたつか分らない。もしも、その危害≠フ責任を追及されることになったら、それこそ自分たちの愛に可能性はなくなる。有馬の行為は、彼の純粋さから生じた一途《いちず》な心の|迸り《ほとばし》なのだが、社会的には、要するに嫉妬《しつと》に狂う偏執狂的な男の凶行にすぎない。
妻なればこそ読み取れる有馬の心の動きであり、その臨んでいる危険な崖《がけ》の縁であった。
「何としても止めなければならないわ、それには……」
大島に会って警告するか?
「私の夫があなたに危害を加えようとしているので、身辺にご注意下さい」
そんなこと言えるはずがない。それはおよそ人間が人間を怨《うら》む理由にはならない。大島と静子との交渉は、有馬が彼女の前に現われる以前のことなのである。それは不貞でも姦通《かんつう》でもない。文字通りの大過去≠ネのだ。まして性のモラルが低下した今日、有馬の潔癖は理解の域を超える。
悪くすればたちの悪い脅迫ととられかねない。自分が大島を忘れていた以上に、彼の記憶には自分の片鱗《へんりん》も留められていないだろう。そんな大昔の女≠ゥら、社会的に全く根拠のない警告を与えられて、相手はどうおもうか?
「気は確かですか?」とせせら笑う大島の厚ぼったい顔がまざまざと目に浮かぶようであった。
「それでは一体、どうしたら?」
自問自答に適当な答えの出ないまま、電車は新宿駅構内へ進入していた。
4
とにもかくにも正一の一途な心情の迸りを止めるには彼を捉《つかま》えねばならない。とはいえ、彼の所在が全く判らない現在、そのたち回る最も可能性の強い場所は、大島の身辺である。
今となっては、大島だけが、自分と正一を再会させる媒体なのだ。とにかく大島に会わねばならない。会ってどうするかは、会った上の智恵《ちえ》に任せよう。――とようやく心を決めて静子が電話帳で調べた横浜の大島家の電話番号をダイアルしたのは、大島が帰国してから三日目の夜であった。ずい分長い時間を迷ったが、理由はどうあれ、夫の不明中に昔の男と会うことに大きな抵抗を覚えたからである。しかもそれは露出した傷口を土足で踏み蹂《にじ》られるような再会≠ノなるに違いなかった。しかし他によい方策がないとなれば止むを得ない。
受話器に中年の女のものらしいかん高い声が出た。静子は言葉を選びながら大島が在宅かどうか尋ねた。相手はいるともいないとも、答えぬまま引っこむと、やがて男の野太い声が受話器に流れた。
「もしもし大島さんですか?」
再確認した静子に、
「そうですが、あなたはどなた?」
と逆に尋ねかえした相手の言葉に警戒があった。「先生」と呼ばれつけている彼を、そのような呼び方をする女性は、あまりいないのであろう。
「静子です、塩見静子、もうお忘れでしょうか?」
旧姓のみ通じる、相手方の特別な意味に、静子は胸のあたりに鋭い痛みを覚えた。
「塩見静子さん……」
相手が記憶をまさぐる気配が明らかに伝わり、ややあって、
「ああ、あなたか!」と一瞬、驚愕《きようがく》と当惑をないまぜたような呻《うめ》きが押し出された。どんなに遠い記憶であろうと、どんなに豊富な女歴であろうと、男にとって処女の獲物は忘れられるものではない。
驚愕は長い断絶《ブランク》の後に唐突にもたらされた過去の女からの連絡のためである。当惑は、その断絶は他ならぬ自分が作為したことを思い出したからだ。
懐しさと、焼残木再燃《やけぼつくいにひ》%Iな野心は、女のアプローチの目的が、自分の家庭を脅かすものでないと判った後でなければ湧《わ》いて来ない。
「どうもご無沙汰《ぶさた》しておりまして……その後お変わりございませんか?」
昔、その肌を貪《むさぼ》った女との再会の辞が、何ともぎこちなく、他人行儀となったのは、家族の耳を意識してではなく、彼女の意図が判らなかったからである。
「一度ぜひお会いしてご相談したいことがありますの、お忙しいお身体でしょうが、近いうちにほんのちょっとお時間を割いていただけませんかしら」
静子はおずおずと言った。彼女にしてみればおずおずであったが、一切の挨拶《あいさつ》を省いていきなり本題に入った静子の、しかも何気なく使った、捨てられた女が男を脅かす常套《じようとう》の文句が、大島の心に有無を言わせぬ圧力を加えた。
過去の女からの「相談」にろくな話があるはずはない。
「また、いやに突然なお話しで面くらいますね、何ですか? その相談とは?」
「ちょっとお電話では申し上げ難《にく》いことなのです」
彼女にしてみればまことに正直に言っているつもりなのだが、それがますます相手を脅かしたらしい。「会えない」と突っぱねて突っぱねられないことはなかったが、大島は過去に堆積《たいせき》した経験≠ゥら、まずは会ってやるほうが無難なことを知っていた。まず会ってやって女が欲しているものの具体的な形を知る。そのほうが外科的な治療≠ェ出来る。ただ徒《いたず》らに逃げ回っていると、最初は小さな傷も増悪して手に負えなくなる。
彼は女に対しても、いかにも外科医らしい処世を持っていた。帰国後の歓迎会も岳界への報告も一段落したところである。医院はどうせ大学病院の医局員のアルバイトに任せっきりで、彼がいなくともどうということはない。
大島は素早く胸算用すると、日時と場所を指定した。不安の種はなるべく早く取り除いたほうがよいと思った。……
5
ホテル大東京の最上階にある回転展望台、ブルースカイサロンに客の姿は疎《まばら》だった。まことに青空のサロン≠ノ相応《ふさわ》しく、周囲には積雲の林立する眩《まぶ》しい空と、燃える盛夏の大東京の街衢《がいく》が視野の限りに広がり、一時間一回転の速度でゆっくりと回っていた。
夕涼み客で夕方から夜にかけては超満員になるこのサロンも、今は暑い盛りの、しかも平日の昼下がりとあって、はるか眼下のプールの賑《にぎ》わいとは対照的な静けさであった。
ちらりほらりの客も、どこへ行くあてもない無聊《むりよう》をもてあました宿泊客らしい。皆一様に眠そうな目を、見るともなしに大展望へ投げかけていた。
午後二時丁度、有馬静子はこのサロンで、すでに先着していた大島清の席の前に立った。
「お待たせしたかしら?」
最初に発した第一声に久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》する言葉を入れなかったのは、このインタビューを昔を懐しむ≠スめと誤解されたくなかったからである。
大島は眩しそうな目を上げて、
「いや、私も今来たばかりです」
と言って席から立ち上がった。
「お久しぶりです」
再び席に着いて向かい合い、大島の改めての挨拶に静子が言葉少なに頷《うなず》くと、そのまま会話は滞り、手もち無沙汰な時間が流れた。
「いらっしゃいませ」注文を聞きに来たボーイが、その場の空白を一時的に救ってくれた。とりあえず運ばせたソフトドリンクに唇をしめしながら、周囲をめぐる展望に二人は焦点のない視線を投げた。展望に惹《ひ》かれたのではない。そうすることによって互いに視線が合うのを避けたのである。もちろん静子は意志的に、そして大島はこの数年のブランクが生んだとりあえずの気まずさを救うために。
昔の女に再会する男の誰もが経験するように、大島もとりあえずの気まずささえなくなれば、すぐにかつての日の男と女の仲に戻れるという心の驕《おご》りがあった。たとえ二人の間を隔てた空白がどんなに長いものであっても、躰《からだ》の記憶が薄れることはない。まして女にとっては、初めての男は忘れようとしても忘れられるものではない。心が忘れても、肌が覚えているものなのだ。
男女の仲は推理小説を読むのに等しいと奇しくも言い当てた人がいる。結末が分っている推理小説を最初から読みなおす者はいない。すでに究極の関係に入ってしまった男女は、たとえ彼らの間にどんなに大きな隔離の時間が横たわろうと、再びめぐり逢《あ》った時、男女関係のABCから再スタートする必要はないのである。
大島は静子から視線を外した風を装いながら目の端で、旧《ふる》い女の躰を捉《とら》え、静子が遠い日に与えてくれたもの[#「もの」に傍点]を反芻《はんすう》していた。静子の目的がしかとは分らぬながらも、のこのこと誘いに乗って出て来たのは、溯る必要のないかつて読んだ推理小説の(彼の記憶に誤りがなければ極めて優秀だった)結末の部分を、もう一度味わえるかも知れぬという男の虫のいい驕りもあったからである。
(結婚したと風の便りに聞いていたが、あの頃[#「あの頃」に傍点]よりはるかにふくよかになったな。亭主に耕されて熟れきった感じだ。どうやらあまり幸福ではなさそうだ、どんな亭主か知らんが、こんないい女を勿体《もつたい》ない話だ。しかし、幸福ではないとすると、目的は何だろう? 金か? それとも、夫に冷たくされて、昔の男が恋しくなったか? とすれば……)
大島は多少は不安のあった静子との出逢いが、彼女の愁《うれ》いを含んだもの静かな様子から自分への怨みや害意がないことを敏感に悟ると、相手の目的を自分の都合のいい方へと忖度《そんたく》した。今更ながら自ら捨てた宝石の価値が痛いほど悔やまれてきた。
「ご結婚なさったそうですね、風の便りに聞きました。ご住所が分らなかったものですから、お祝いも申し上げることが出来ずすみません」
「いいえ」
「よく私の住所《ところ》が分りましたね」
「はい、新聞で拝見したものですから……」
「今度の探険では大分苦労しましたよ、何しろ世界地図の全く空白の部分ですからね、ま、しかし苦労したおかげで、予想以上の成果を挙げました」
大島はやや胸を張った。男にとって昔の女に自分の社会的成功や地位を誇示するのは常に楽しいことである。女は男の業績と力に対して、賞讃《しようさん》の目を送り、そのような力ある男に躰を与えた自分の先見の明≠改めて認め、再燃しやすいからだ。
「そうですか」
だが静子の答えはまことに素気ないものだった。大島はやや気勢を殺《そ》がれた形で、
「ところで、今、どちらにお住まいですか?」
「千葉の方におります」
「お子さんは?」
「はい……いいえ」
「まだなのですか?」
「はい」
何を聞いても、イエスかノーの一点ばりで一向に会話は進展しない。これでは、再燃≠キるどころか、間をもてあましてしまう。大島は次第に焦《じ》れてきた。
「早いものですね、あれから[#「あれから」に傍点]もう何年になるかな?」
大島はあれからという言葉に特別な力をこめて、かなり露骨な視線を静子の目にからめた。女にどうやら害意がないと判った今、やわかこのままで帰すものか、再会の場所をホテルに選んだのもそのような下心があったからだ。彼女のほうでも単に昔話をするためにだけ、夫ある身でありながら昔の男に逢いに来たわけではあるまい。大島は焦燥と同時に次第に大胆になってきた。
「確かに何年という月日は経ったが、あなたとのことは今でも昨日のことのように鮮やかに覚えています」
静子の身体が古傷にでも触られたように一瞬ビクッと震えた。
「あれから一度も行ってないが、翠山荘は今でもあるかな?」
真正面からひたと重ねられた大島の視線を受け切れず静子は俯《うつむ》いた。項《うなじ》から頬《ほお》にかけて血が上り、彼女が大島によって甦《よみがえ》らされた羞恥《しゆうち》の記憶に必死で耐えているのが分った。大島はもう一押しだと思った。
「あなたと一緒に行った嵐山はよかった、特にあの辺[#「あの辺」に傍点]の紅葉」
「止めて!」静子が面を上げて大島を遮った。その時初めて彼は静子の面を染めた朱が、羞恥によるものではなく、怒りのためであるのに気がついた。彼女は大島が無残にも暴きたてた旧い過失に対する悔恨と怒りに必死に耐えていたのである。
「私、そのようなお話しをするためにここへ参ったのではございません」
「静子さん!」
大島の、好色の視線をまっこうから受け止めて、静子は妥協のない態度で続けた。大島の残酷な懐古談≠ヘ、話そうか話すまいか今迄迷い続けていた彼女の心に一つのきっかけを与えたのである。
「この写真の人を、見かけたことがございますか?」
「誰ですか? この人は」
大島は静子が切り札を出すように自分の前へ差し出した手札判の、一人の男の正座上半身の写真をみつめた。
(私の夫ですの)のどまで出かかった言葉を危うく抑えて、
「私の従兄《いとこ》です」とさりげなく言った。夫であることを告げてへんに警戒させないほうがよいと判断したからである。それに男は、自分の過去の女を妻にした男を一段と下に見たがるものである。大島にそのような目で正一を見られるのは、静子にとって耐え難いことだった。
「あなたの従兄?……さあ、知りませんね、今まで会ったこともない」
大島は訝《いぶか》しそうに額にしわを寄せて、
「それでこの人が私に何か?」
「ひどく山に凝って、家族もかえりみず山にばかり入り浸っていたのですが、最近、山で知り合った女の人に熱くなって家に寄りつかないのです。その女の人の住所も分らないので、消息がさっぱり掴《つか》めずに困っているのですが、大島さんを尊敬しておりましたので、もしかしたらあなた様の所へ立ち回りはしないかと思いまして」
「来ませんねえ、こういう人は。僕は大抵の山岳関係者ならば知っているつもりですが、この方はどこかの山岳会へ入っていますか?」
「多分どこへも入っていないと思います」
「好きで一人コツコツ登っている単独登山者《ローンワンダラー》ですね、それでは分らないはずだ」
彼はやや嘲笑《ちようしよう》的に言った。山といえば、指導標と地図に忠実に従い、一般ルートを往復するだけの観光客《ハイカー》≠焉A自分のような本格的アルピニストで登山界の大名士をも一緒くたに考える静子の素人考えを嗤《わら》ったのである。
どうせこの男も山の味を覚えたばかりの名もないハイカーの一人であろう。初心《うぶ》な奴《やつ》に限ってそういう熱っぽいのめり方をするものだ。放っておいても、大した所へ行けぬうちに自然に療《なお》る。プロ登山家としての倨傲《きよごう》から、彼は冷たく突き放していた。
「もしこの人を見かけましたら、ぜひ私共にご一報いただきたいのです」
(何だ、そんなことか)と言わんばかりの表情を大島はした。そんなつまらない相談のためにこの多忙な身体をわざわざ呼び出したのか。何が「電話では話し難い相談」だ。静子が言外にこめた意味を読み取れぬ彼は急に腹立たしさを覚えた。それは彼女の相談≠ェ、他愛ない(事実は重大だったのだが)ものであることを確認した安堵感《あんどかん》から生じた。
「ご面倒でしょうが、くれぐれもよろしくお願いします」
静子は自分の用件を伝えられる限りの言葉で言うと立ち上がった。たとえ、有馬を危険な崖際《がけぎわ》から引き戻すためであっても、夫の消息不明中に過去の男と逢っていることに良心の鋭い痛みを覚えていた。彼女は、結婚前、有馬から大阪のホテルで食事に誘われた時ですら、そのような豪華な場所は好まないからと断わっている。それが今は、より豪華なホテルで大島と向かい合っている。こんなところを有馬に見られたら、全く言い開きは出来ない。
「静子さん!」
大島は慌てて静子を呼び止めた。今、逃げられては[#「逃げられては」に傍点]、今日という貴重な一日と、予約したダブルベッドが全く無駄となる。まだ充分に心残れる美しい過去の女にホテルで再会した千載一遇のチャンスを逃がすことになる。このチャンスを逃がすようであれば、男であることを辞めたほうがよい。
彼はその切実な気持と、多分に過去への甘え≠ゥら女の手を取り、強く引いた。静子は再び席へ引き戻された。男の手の力に負けたからではない。大島が手を引くと同時に、
「それに僕は、まだこの人の名前もあなたの連絡先も聞いていない」と言った言葉に捉《とら》えられたからだ。偽名というものは咄嗟《とつさ》に思い浮かばないものである。
夫の本名を告げるべきか、あるいは偽名にすべきか? 偽名としたらどんな名を?……瞬間の静子のためらいを、大島は巧みに捉えたのだ。
だがそれを、第三者の目から眺めれば、男の言葉巧みな誘惑に、遂に女が屈したと見えぬこともなかった。そしてまさにそのような目で観ていた第三者≠ェあった。彼は二人よりも回転方向と逆に十ボックスほど後の席に一人うずくまり、彼らの仲睦《なかむつま》じそうに話しこんでいる(その場からはそのように見えた)様子を科学者のような冷徹な目で観つづけていた。
二人の会話の内容が彼の耳へ届かないだけに、額を寄せ合って何事かひそと語り合う彼らの様子は、彼の目に一層親密に映ったものである。
獣の営み
1
有馬は彼らが行き着く先を確かめる気力を喪《うしな》っていた。確かめるまでもなく、それは明らかであった。
大島が帰国して以来、絶えずその身辺に目を注ぎ、今日、珍しく遅い時間に自宅を出た彼をここまで尾けて来た有馬は、そこに思いもかけぬ妻の姿を見出して息が詰まるほどに驚いた。一瞬の驚愕《きようがく》が去ると、胸を突き破るような憤怒がきた。
(そうか、あの女は、俺《おれ》が家を出たのをよいことに早速、昔の男とよりを戻したというわけか。しかも都心の一流ホテルで恥ずかしげもなく、真っ昼間から忍び逢っている。俺がホテルの食事へ誘った時ですら初心ぶって断わりゃがったくせに、あのカマトトの売女《ばいた》め!)
有馬は心の中で知る限りの雑言を静子へ浴びせかけた。彼らからやや離れたボックスに、顔を見られないようにうずくまると、余計自分が惨めに思えた。そのことによって、更に心が煮え沸《たぎ》った。
真夏の白昼の、光のみなぎる展望台で妻が過去の男と忍び逢っている姿を、身体をじっと竦《すく》めて見守っている男。眩《まぶ》しい雲、余りに明る過ぎて白濁した空、それを鋭角的に刻む近代的高層ビル群、ダイナミックな展望に包まれた救いようのない暗い心。その対照が鮮やかであればあるほど、有馬の救いようのない今の心のありかたであった。
静子の背後に坐《すわ》っているので、彼女の表情は見えないが、肩越しに覗《のぞ》ける大島の何と楽しそうな表情、それを受ける彼女の面もそれに相応する親愛の情≠現わしているにちがいない。
何事を語るか声は届かないが、届かないだけに、頬を触れ合わんばかりにして語り合う彼らは、誰が見ても、大人の恋≠楽しむ風情に見えた。その会話は二人の前戯であろう。おそらく階下にある客室には二人がこれから肌を合わせるための豪華なベッドが用意されてあるはずである。
最初有馬は、彼らが客室にもつれこむところまで見届けるつもりであった。だが二人の親密な態度を見せつけられては、そんな確認が全く不要であるのを悟らされた。同時に妻の背信の具体的な姿をこうまでまざまざと目にした後では、それ以上の行為まで追及していく気力を失ってしまった。
静子がつと立ち上がり、大島に手を取られ、思わせぶりな姿勢《しな》をつくって再びもとの席へよろけこんだのを見た時、有馬は立ち上がった。それ以上、妻の浅ましい姿に耐えられなくなったのである。
ノンストップのエレベーターに乗り込み、一階まで一気に運ばれて行く時、有馬はそのまま心身共に奈落の底へ墜《お》ちこんで行くように感じた。だが機が停止して、扉が開けば、着飾った各国人種が深海魚のように華やかに遊弋《ゆうよく》するロビーであった。
フロントカウンターの前を横切り、表へ出ようとした有馬は、ふと思いつくことがあってカウンターの前へ立ち止まった。
「今日の予約を確認《コンフアーム》したいのですが」
「はい、お名前は?」
「大島清という名義でツインかダブルを一つ予約してあるはずですが」
「少々お待ち下さいませ」
いったん奥へ引っ込んだクラークは待つほどもなく、又現われて、
「大島清様、確かに七千円のダブルをご用意してございます」
無残なほど明確なクラークの言葉に、有馬は礼を言うのも忘れてカウンターを離れた。
2
打ちのめされて町を彷徨《さまよ》い歩くうちにさしも長い夏の日も昏《く》れた。有馬はいつしか毒々しいネオンの中へ歩み入っていた。
行き当たりばったりのバーへ何軒か入り、ウイスキーを流し込んだ。アルコールの力でも借りなければどうにも救いようのない心のありようであった。それも救われるためではなく、酔いの中に麻痺《まひ》させるためである。山を学ぶためにかまえて遠ざかっていた久しぶりの酒は、身体にてきめんに効いた。しかも朝から殆《ほとん》ど食物らしい食物を容れていない胃の腑《ふ》に、ストレートに流し込んだかなりの量のウイスキーは、何軒目かの店を出た時には、殆ど立っていられないくらいに回っていた。そのくせ意識は研ぎ澄まされたように明瞭《めいりよう》になって来る。
「お兄さん、ご機嫌ねえ」
光の届かぬとある露路に立ち止まり、思うさま放尿した有馬が、再び千鳥足を踏み始めようとした時、背後から声をかけた女の声があった。はすっぱな言葉ながらソフトな声調に一脈、静子の声に似通ったものがあった。
「パンスケに用はねえよ」
有馬は振り向きもせずに後ろへ声を投げた。彼はその言葉を自分の妻へ投げつけるつもりで言ったのである。
「あんた、ちょっと待ちな!」
女の声がたちまち尖《とが》った。それは静子の声ではなかった。同時にやくざっぽい男の声がからんだ。
「おい、パンスケたあ何だ! こちらはレッキとした花売り娘だ、人をなめやがって。相当の挨拶《おとしまえ》はつけてもらうぜ」
どうやらヒモがついていたらしい。有馬はこれは面倒なことになると思ったが、今更、妻へ投げた一人言だと言い開きしても通るものではない。どうにでもなれというデスペレートな気分のまま構わずに歩き始めた。
「野郎、他人の女《スケ》をパンスケ呼ばわりして、そのまま逃《ふ》けるつもりかよ」
凄味《すごみ》を帯びた声が彼の進路に立ち塞《ふさ》がった。やくざっぽい男の影が、花を抱えた女をエスコートするように立っていたが、有馬の焦点の定まらない目はその表情どころか、輪郭までも水面に落ちた映像のように揺らめかせている。こんな状態で攻撃されたら一たまりもなく叩《たた》きのめされてしまう。意識は本格的に危険を訴えていたが、彼はますます自棄になっていた。
「うるせえな、じゃあどうすればいいんだよ」
「この野郎! きいた風な啖呵《たんか》切りやがって、今、どうしたらいいか分らせてやる」
チンピラが有馬の胸ぐらを掴み、殆ど無抵抗の彼の身体を痛めつける構えを取った時、
「待って!」
と女の声が起きた。
「まあ、姉さん、任しといて下さいよ」
「違うのよ、この人は私の知ってる人だわ、止めてよ」
「何だ、お馴染《なじ》みさんですかい」
チンピラは気勢を殺《そ》がれたような声で呟《つぶや》くと構えを解いた。
「悪いけど、これでがまんしといて」
花売りはチンピラの手に何か掴ませた。
「ヘッヘッヘッ、姉さん、いつも悪いですねえ」
チンピラは急に卑屈な笑いをもらすと、花売りの傍から闇の中へ消えた。どうやら彼は、花売りのヒモではなく、彼女らの私設ボディガードらしい。
「あんた、一体どうしたのよ? こんなに悪酔いして。私だったからよかったものの、このあたりであんな大見得切ったら、袋叩きにされてまっ裸に剥《む》かれちゃうわよ」
花売りは初めて有馬に妻以外の女体を教えてくれたあの娼婦《しようふ》だった。
「何だ、君か」
さすがに彼も、当面の危難を救われてホッとした。それにこのように荒《すさ》んだ気分に落とされている時、娼婦とはいえ、金で購《あがな》ったとは思えぬ優しい一夜の記憶を残していってくれた彼女にめぐり逢えたのが嬉《うれ》しかった。
「君かもないもんよ、あんたもあれから大分すれたようね」
女は有馬の酔態にやや呆《あき》れ声で言った。
「どこでもいい、君が知っている旅館へ連れてってくれ」
「そんなに酔ってちゃ、できやしないわよ」
「やってみなけりゃ分らねえだろ」
「しようがないわねえ、でもできなくても規定料金≠ヘちゃんともらうわよ」
「分った分った。何だったら前払いしてやろうか」
「いいわよ、信用するわ」
女は白い歯を見せて笑った。そういえばあの時も俺たちは互いに信用し合ったようだ。有馬は酔いの中に記憶をまさぐりながら、今の自分がこの名も知らぬ売春婦に、妻よりもはるかに大きな信頼を寄せていることを知った。
「ねえ」
有馬に肩を貸して歩いていた女がふと思い出したように言った。
「私の友達に悪い病気が骨にからんで働けなくなった可哀想《かわいそう》な子がいるんだけど、どうせしないんだったら一緒に呼んでくれないかしら、安くしとくからさあ」
「何人でも呼べよ、あんたにはさっきのガードマンのおとしまえも立て替えてもらったんだからな」
「あの子喜ぶわ、一年ほど前までは銀座の一流バーにいたんだけどさ、悪い男に欺《だま》されておきまり通りに捨てられてねえ、純情だったもんだから自暴自棄《やけくそ》になってこんなところまで自分から堕《お》ちちゃったのよ、それにこのほうじゃしろうとでね、馬鹿正直になま身[#「なま身」に傍点]で働いていたもんだから悪い病気移されちゃってさあ、凄《すご》い美《はく》い顔してるのに働けないのよ、ま、働いて働けないことないんだけど、お客に移しちゃ悪いって、ご飯も食べられないほど困っているくせに完全に癒るまでは働かないって頑張っているのよ」
「気に入ったぞ、呼んで来いよ、規定料金を払ってやるよ」
「いいわよ、そんなに気を労《つか》わなくても、じゃ、ちょっと電話かけてくるわ」
女が導いた旅館にその女は先着して待っていた。
「みさおさん、すみません」
どうやら花売りの名前は操というらしい。売春婦の名が操とは、大層な不釣合だが、今の有馬にはその皮肉さえも分らなかった。
「私にいうならこちらのお客さんに言ってよ」
「どうも今夜は有難うございます」
その種の女には見えない、地味なワンピースのおとなしそうな女が有馬の方へ頭を下げた。
「有馬さん!」
面を上げて初めて有馬の顔を見た女の口から愕《おどろ》きの叫びが洩《も》れた。朦朧《もうろう》とした彼の目に一つの見覚えのある顔が次第にはっきりとした輪郭をとった。
「みどりちゃん!」
「あら、お二人共お馴染みだったの、お安くないわね」
呆然《ぼうぜん》と立ち尽くして互いの顔を見合った二人に、操が揶揄《やゆ》するような声をかけた。女は銀座のバー「エリカ」のかつてのホステス、みどりだった。そのみどりがまたどうしてこんな所へ? という疑問を追及するには、今の有馬は余りにもアルコールが入り、心が荒みすぎていた。
「かえって悪かったかなあ」
どうやら曰《いわ》くありそうな二人に、操がやや躇《ためら》うと、有馬が、
「何が悪いもんか、さ、今夜は三人で大オンパレだ。景気よく行こうぜ」
と先頭に立って旅館の玄関へよろけ込んだ。
のどに焼けつくような渇きを覚えて彼は目を覚ました。一筋の光もない暗闇《くらやみ》の中で彼は枕元《まくらもと》に手を伸ばした。だが手の先に触れたものはスタンドでも水差しでもなく、弾力のある女の肌だった。それが女の躰《からだ》のどの部分であるかは分らなかったが、暖かくふくよかな弾みはまさしく女体の一部分であることを教えてくれた。
「起きてるの?」
肌の持ち主の声が、驚くほど近くで囁《ささや》いた。操だった。
「ああ、水はないか、のどがからからだ」
有馬がなおも枕元をさぐろうとすると、
「灯《あかり》はつけないほうがいいわよ、水ならこちらにあるわ、はい」
水差しとコップの触れ合う音がして、彼の口元に水をたたえたコップが差し出された。息もつかずにそれを飲み干し、続いて二杯めをお代わりしてようやく一息ついた有馬は、
「今、何時頃かな?」
「そうね、三時頃かしら」
「みどりちゃんは?」
「そちら側でよく眠ってるわよ」
「両手に花で眠っていたわけか」
「そうね、勿体《もつたい》ない話、ふふ」
操は挑発するような含み笑いをした。別に挑発したわけではあるまいが、その笑いは、一眠りして体力を回復した男を十分にそそるものだった。特にその時の有馬の姿勢がいけなかった。水を呑《の》むために腹這《はらば》いになった姿勢は、男の欲望を最も点火しやすいものであり、男女の抱擁《ほうよう》に移行しやすいスタイルである。
下腹部に熱を感じた有馬は、自分が今、その熱を最も具体的な形で放散出来る恵まれた環境≠ノ置かれていることに気がついた。しかも、客として、その環境をどのように利用しようと自由なのだ。
彼は欲望をこめた手を操の躰に伸ばした。
「みどりちゃんに気づかれるわよ」
操が有馬の耳に口をつけて囁いた。
「気がつかれたって構うもんか」
彼は容赦のない力で女体をまさぐり始めた。いついかなる時にも臨戦態勢≠ノあるのがプロとしての心構えなのか、彼女は下穿《したば》きを着けていなかった。
「痛いわ、そんなにきつく」
口では抗《さから》いながらも、躰のほうは優秀な速度で湿っていく。濡《ぬ》れた指の始末に困るほどのぬめりをもった躰をうねらせて、操の吐息は忙しくなった。
「ねえ」切なげに誘った女の言葉をきっかけに彼は女体を荒ら荒らしく割った。彼がピタリと侵《はい》り終わった時、女の唇を洩れた小さな叫びは、娼婦のテクニックの一つか、女体が訴えた真の悦《よろこ》びかは分らない。闇がおどろおどろと粘り、二人は互いの躰を刻む律動の快さの中に、同じ密室の中にいる第三者≠忘れてしまった。むしろ第三者を意識して興奮したのかもしれない。
緩急の律動が、次第に激しいリズムに偏《かたよ》ってきた時、からみ合う二つの躰からやや離れた闇の中で切なそうな吐息が洩れた。それまで堪《こら》えに堪えていたものが遂に堰《せき》を切ったような吐息は、微《かす》かではあったが、確実に有馬の耳に届いた。彼は吐息の源を確かめるや、律動を続けながら闇に馴《な》れた手でスタンドの引きひもを引いた。
「あっ」という叫びが二人の女の口から同時に迸《ほとばし》った。みかん色の光線が一瞬に室内の闇を駆逐して、動物的な姿態で絡み合う男と女を、無残なほど鮮明に浮き上がらせた。馴れてみればさしたる光度ではないのだが、闇からワンタッチで切り換えられた光は眩しいばかりに明るい。視角の関係で本人同士にはさほどに思えぬ男女の営みを第三者≠フ目には、およそ人間の行為とは思えぬグロテスクな体位とからみ合いに浮き彫りした。
「いやっ」さすがの操もこのような経験は初めてらしく、一瞬躰を硬直させた。いきなり闇の中から皓々《こうこう》たる光の下に晒《さら》け出された自分の無防備の姿態を恥じたのではなく、二人だけの淫靡《いんび》な、セックスというプライバシーを、第三者の目の前に何の遮蔽《しやへい》もなく抛《ほう》り出されたことに愕《おどろ》いたのである。
だが愕いたのは、操よりも第三者であるみどりだった。
明らかにそれと分る男女の喘《あえ》ぎに、ふと目覚めて、いつの間にかプロとして熟していた躰を熱くしていた。喘ぎの源の妖《あや》しい闇に、はしたないとは恥じながらも、目を馴らそうとしていた矢先、全く何の予告もなく、闇に朧《おぼ》ろに浮きあがった妖しい蠢《うごめ》きを、縮んだ瞳孔《どうこう》に入り切らぬ位のおびただしい光量と共に、網膜に叩きつけられたのだ。
みどりは呻《うめ》きわななきながらも、眼前にくり広げられた獣の構図から目を外らすことが出来なかった。
一瞬、たじろいだかに見えた操も異常な環境に興奮したらしく、更に放恣《ほうし》に躰を開き、肉のうねりを大胆に高めていった。うねりの頭《かしら》へ乗り上げようとした寸前、有馬は傍からまじろぎもせずにみつめているみどりに対しても、権利≠持っていることに気がついた。
(そうだ、みどりはもう処女ではない)
彼は波頭の寸前で危うく堪えると、癒着した肉を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぐように、操の躰から離れてみどりへ躍りかかった。
「あっ、何をするの!?」
あまりのことに、思わず竦《すく》めたみどりの躰を容赦なく、押し開き、
「君にも規定料金を払ってあるんだ」
とすでに躰の先端まできていた欲望を、今までの観戦≠ナ充分過ぎるほどに用意の調ったみどりの躰に叩き込んだ。
「だめ、私は病気なのよ」
みどりが必死に遮った時は、すでに男の躰は、彼女の体内深くしっかりとおさまっていた。
「だめ! だめよ!」
言葉だけは抵抗を続けながらも、久しい飢えの後に充《み》たされる欲望の悦びの中に、抵抗を続けなければならない体を、男の行為を扶《たす》けるためにより具体的に動かし、より積極的に開いていった。
有馬はみどりに促されて次第に高まっていく感覚の中で、今まさに行なっている獣の行為こそ、自分の心の虚《むな》しいありようをハイファイに現わしたものであり、みどりの躰を苛《さいな》めば苛むほど妻に効果的な復讐《ふくしゆう》となることを知っていた。病毒に伝染《うつ》るならうつってもよい。それを静子にうつし、彼女の躰を媒体として更に大島へと敷衍《ふえん》していく。自分の被害を補償するものとしては程遠くとも、当座のうっぷん晴らしとはなろう。
有馬は律動と共に、自分が次第に人間から遠ざかっていくように思った。
我、何を為すべきか?
1
「奥さん、有馬さんの奥さんじゃありませんか?」
静子は夕方の通勤電車の中でいきなり声をかけられた。朝ほどのことはないが、午後七時ごろの小田急は一日の勤めを終えたサラリーマンやOLで、かなりのラッシュであった。夏が過ぎ、九月の中頃のことである。
ほんの際どいところで空席にありつけて、ホッと一息ついた時、目の前の吊皮《つりかわ》にぶら下がった男から声をかけられた。
「まあ、小野寺さん」
小野寺は有馬が都屋時代、営業企画で彼の直属の部下だった男である。今は、有馬が辞めたおかげでところてん式にかなりいいポストへ上ったと聞いている。
「これは又、奇遇が続きますねえ、一昨日はご主人、今日は奥さん」
小野寺は人なつっこい笑みを浮かべて何気なく言った。だがそれは静子には聞き捨てならない言葉だった。
「主人にお会いになったのですか?」
「あれっ」小野寺は訝《いぶか》しそうに表情を改めて、
「奥さんご存じなかったのですか?」
「ちょっと私、身体をこわしまして、ここのところ実家へ帰っておりますの」
有馬が家を出ていることを知らないらしい小野寺の手前をさりげなくとりつくろうと、
「それでいつどこで主人に会ったのですか?」
静子はいつの間にか席を立ち上がっていた。
「そうですか、しかし、奥さんにも内緒で山へ行くなんていかにも有馬さんらしいなあ」
小野寺は大げさな口調で、
「いえね、一昨日のちょうど今頃です、この新宿の地下連絡通路でね、登山姿の有馬さんにばったり出逢《であ》ったんですよ。大きなリュックを担いでいました」
「どこへ行くとも言ってませんでしたか?」
「それが聞いたんですがね、よく覚えてないんですよ、僕はあまり山には興味はないし、それに人が出逢った時によくやる挨拶《あいさつ》のように何気なく聞いたもんですからね、たしか、何とかタイラとか言ってたようなんだが……だめだ、どうしても思い出せない」
「タイラですか?」
「ええ、でもそれもはっきりしないんですよ、奥さんがご存じないならよく聞いておけばよかった」
「伴れはおりました?」
「いえ、私の見たところ一人でしたよ」
小野寺は静子の異常な熱心さを訝るようであった。それ以上、彼から何も引き出せないと知った静子は、彼の不審を解くために話題を他愛ない世間話へ誘導していった。小野寺が経堂で下車すると、彼女は自分一人の思いの中へ沈んだ。
(彼は何故、一人で山へなど行ったのだろう? 家を出てから山登りに熱中しているということは人の噂《うわさ》で耳にしたけれど、どうして、山へ登るようになったのかしら?)
誰かに答えを求めるようにふと面を上げた彼女の目に、「国際会議から孤独《おひとり》のおくつろぎまで」というキャッチフレーズの、ホテル大東京の中吊り広告が入った。それは先日会った大島を思い出させた。彼女にしてみれば、止むを得ぬ会見であったが、男というものの、躰を知った女に対する図々しさと、心の驕《おご》りをまざまざと見せつけられた嘔気《はきけ》がするほどにいやな再会だった。しつこく絡む大島をようやく振り切ってホテルを出た時は、実際に不倫を犯したような嫌悪と悔いを身と心に覚えたものである。
(私はどうして大島などに会ったのかしら?)
(単に昔の傷口に汚い爪《つめ》を突き立てられるために……)
(でも、有馬に復讐を思い止まらせるためには仕方がなかったんだわ)
復讐――大島――山! そして有馬は山を学び、山へ出かけた。そうだ、彼は大島に復讐するために山を学び、山へ行ったのだ。どうして今迄《いままで》この共通項に気がつかなかったのだろう? 彼が山へ行ったということは、大島も山へ行ったことを意味している。
「確かめなければ!」
ここまで思いを追ってきた静子は、折から電車が滑り入ったホームへ駅名も確かめずに降り立った。駅前の売店に公衆電話を見出した彼女は、手帳に控えた大島家の番号を申し込んだ。差し出された送受器に出た大島の細君らしい女の声に、
「もしもし、こちら全山協の事務所ですけど、この度の先生の山行計画が事務所の方へ届けられておりませんので、念のためにおうかがいしておきたいのですけれど」
自分でも感心するほど、その場に合った虚言《うそ》がすらすらと出た。〈何を仰有《おつしや》います、主人は今家におりますし、当分山へ出かける予定はございません〉という答えを期待したのだが、
「あら、個人山行も一々計画書を出さなくてはいけませんの?」
とやや硬い声がはね返ってきた。
「いえ、個人的な場合は任意でよいのですけれど、大島先生は会のチーフリーダーの一人ですので、参考のために」
チーフリーダーと言ったのが相手の心証をよくしたらしく、相手はやや機嫌を直した声で、
「そうですか、それでは申し上げます。ちょっとお待ちになって」
いったん奥へ引っ込んでから、
「よろしいですか、十二日、つまり一昨日ですね、『穂高号』にて新宿発、十三日烏帽子岳、十四日ミツマタレンゲ小屋、十五、十六、十七日がクモノタイラ」
「もしもしクモの何ですか?」
静子は聞きかえした。
「雲の平ですよ」
「そ、それはどの辺にあるのですか?」
「あらっ、あなたは全山協の人なのに、そんなことも知らないの?」
相手の声は急に警戒色を帯びた。全山協の人間としては幼稚なことを言ってしまったらしい。
「いえ、あの。私はただ事務だけをやっている者ですので……」
「ああそう」相手は深くも咎《とが》めず、計画表の内容を続けた。
2
(小野寺が言った……「平」の前には「雲の」が入るに違いない、そしてそここそあの人が行った所だわ、何のために……ああそれは)
静子はその先へ思いを進めるのが怖かった。
「もしもし、通話が終わったんだったら早くかわって下さいよ」
電話の前で考えこんでしまった静子を、番を待っていた男が不機嫌そうに促した。
「あっすみません」
慌てて彼女が離れると、
「これだから女はいやになる」
と聞こえよがしに呟《つぶや》いて、わざと乱暴にダイヤルし始めた。静子は男の意地の悪そうな視線も気にせず、やや少し離れた所に立ちつくして考え続けた。
「ヒンズークシュの荒れた山ばかり登って来たので、優しい高原へ行きたくなったらしいのよ、今度の目的地は雲の平だと言ってたわ、だからそこへ三日も居続けるのよ」
と大島の妻は言っていた。もしあの計画通りに行動したとすれば、彼は今夜はミツマタレンゲの小屋とかへ着いているはずだ。そして有馬もピッタリとそれに追尾していることだろう。
彼がどの辺で、復讐≠するつもりか分らないが、大島が三日滞在するという雲の平が、最もその目的に適しているように思える。小野寺に行先を問われて雲の平と答えたのも、彼が予定した舞台≠無意識に洩《も》らしたと考えられないか。大島の計画表は静子がしたと類似の方法で家族から聞き出したに違いない。
――何としても事前[#「事前」に傍点]に止めなければ――
もう遅過ぎるかもしれない。でも、有馬が選んだ舞台が確かに雲の平であり、そこへ三泊という計画に変更がなければ、今から発てば、今日から三日後の十七日、即ち、彼らにとっては雲の平に過ごす最後の夜に追いつけることになる。三日間の中の最後の夜、すでにことは終わっている率の方が高い。だがチャンスは全くなくなったわけではないのだ。そしてどんな微《かす》かなチャンスであっても、それが残されているかぎり試みる価値がある。いや必ず試みなければならない。今はそれだけが夫を救う僅《わず》かな可能性なのだ。
「でも私は、雲の平が何処にあるかすらも知らない。それに……」
その時静子は重大な誤算に気がついた。雲の平で三日後に追いつけるという計算は、あくまでも、大島の立てた計画に忠実に沿う行動力があって初めて成立つのである。
全山協のトップグループであり、聞こえたアルピニストである彼の立てた日程を、雲の平の所在すら知らぬ、山に全く未知の自分が到底|消化《こな》せるはずがない。
「やっぱりだめだわ」
だがその絶望を何かの権威に確かめぬことには、絶望にすら身を委ねることの出来ない不安感が、彼女を駅前の書店へ飛びこませた。かなり大きな書店だったのが、彼女に幸いした(実際には不幸であった)といえよう。旅行案内のコーナーで、「アルプスの秘境、雲の平」というガイドブックをさほど手間をかけずに探し出すことが出来た。
「アルプスの秘境!」
ますます絶望感が固定してくるのに抗《さから》って静子は本を開いた。
――雲上の高原、北アルプスの最奥、長野、岐阜、富山三県の境をなす三俣蓮華《みつまたれんげ》岳(二八四一メートル)の北方に黒部源流と岩苔小谷《いわこけこたに》の深淵《しんえん》に周囲を刻まれたテーブル状の広大な溶岩台地がある。それこそ、その位置と高度と広さにおいて雲上の楽園と呼ばれる雲の平である――
と、まず巻頭の、雲の平のあらましを語る言葉が目に入った。彼女は更に読み進み、そこが、三県のいずれから入っても、最も近い山麓《さんろく》から三日以上の行程にある文字通りの秘境であることを知った。
「到底、私の脚では無理だわ」
諦《あきら》めてページを閉じた時、本を閉じしなによくあるように、目の片隅にチラリと残った文字があった。それは確かに「裏銀座コース」と読めた。
「銀座? アルプスにも銀座があるのかしら?」
静子はあわてて失ったページを探した。やがて探しあてた個所に彼女は確かに「銀座」の文字を認めた。彼女は一段と熱い目をその文字の前後の文言に注いだ。そして雲の平が槍ケ岳―烏帽子岳を結ぶアルプスの裏銀座と呼ばれるコースの、ほぼ中間に位置していることを知った。
「銀座というからには、人も大勢行き、道もいいのに違いない。地理的には奥まった所でも、そこへ至るコースは易しい[#「易しい」に傍点]んだわ」
静子は至極都会人らしい感覚でアルプスの銀座を想像してしまった。同時に大島の妻が言った「優しい」高原を、「易しい」と自分勝手に解釈した。こうなると、「一般コース」とか、「道はしっかりしていて迷うことはない」などというガイド文がやたらと目についてくる。
だが、それが彼女にとってどんなに大きな間違いであるか現場へ行ってみるまでは分らないのである。
しかも、なお悪いことにガイドブックのコースタイムは、大島が立てた計画が決してベテラン用の強行軍ではなく、途中の宿泊を適当に塩梅《あんばい》すれば、かなりらくな<vランであることを教えた。「私にも行けるわ」
行けるとなれば、今夜中に発たなければならない。今夜発たなければ雲の平で追いつける可能性は全くなくなる。静子はガイドブックと共に、汽車の時刻表を買い、松本行最終の急行「穂高」が新宿を午後十一時に出ることを確かめた。今、八時ちょっと過ぎだからそれまで三時間ほどある。これからいったん家に帰り、服装を替え、ガイドブックの指示に従って装備や食料を買いととのえるとなると相当に忙しい。だが、やって出来ないことではなかった。
幸いに、まだ九月の中旬であるから、山小屋も開いている。登山者もないわけではない。烏帽子岳から三俣小屋経由雲の平までは整備された一本道である。天候が急変しないかぎり、女一人でも何とか行けるだろう。
静子はそこから車をつかまえて家に帰ると、学生時代のスキー服に着替え、リュックにとりあえず雨具やセーターを詰めた。驚き呆《あき》れる母親にちょっと旅行して来るから心配しないようにと言い捨てて、再び家を出た。
新宿へ舞い戻ったのは九時半である。駅の近くのスポーツ用品店でキャラバンシューズや厚いウールのストッキングをはじめ、足りない装備を補充し、インスタント食品を主とした食料を買いととのえれば準備完了、彼女は急に空腹を覚えた。
考えてみればまだ夕食をとっていなかったのである。汽車の時間までまだ多少の余裕があったので、目についたレストランへ入った。
オーダーが来るまでの空白の時間、今迄の忙しさに紛れて忘れていた不安が大きく甦《よみがえ》ってきた。
未知のアルプスの山道、本当に他にも登山者はいるのかしら? 熊は出ないだろうか? 道に迷ったらどうしよう、天候が崩れたら……彼女の不安は際限もなく脹《ふく》れていった。
3
三俣小屋から約二十分も下ると、黒部源流の湿地帯へ出た。もう少し季節が早ければ高山植物が豊かに咲き揃《そろ》う所である。北アルプスの大動脈、黒部溪谷の深淵《しんえん》を末にえぐる源流も、ここでは石を跳び跳び渡れるほんの一|跨《また》ぎの流れにすぎない。
源流を横切ると、径《みち》は電光形に祖父《じい》岳の南肩へ登りにかかる。雲の平への径である。登るに従い、今下って来たばかりの三俣小屋のある鷲羽《わしば》乗越の平が源流をはさんで眼前に対立する。やがて小屋の赤い屋根の左手に槍ケ岳の尖峯《せんぽう》が覗《のぞ》いてきた。抜けるように晴れ上がった初秋の空の下、残雪を殆《ほとん》ど失って銀鼠色の荒々しい岩肌を露出した岩峯が、鷲羽乗越のみどりの緩やかな起伏の上に頭を擡《もた》げてくる。
こちらが高度を上げるのに反比例して鷲羽乗越が沈み、槍から穂高へ続く巨大な岩襖《いわぶすま》が恐龍の背骨のようにせり上がってくるのだ。
有馬は時折り自分の暗い目的も忘れて、徐々に打ち開けてくる大展望に目を奪われた。
大島はすでに雲の平の玄関≠ヨ入ったのか、有馬の視野から外れている。大島の家人から彼の雲の平行を聞き出してより、有馬は彼からつかず離れず、遂に今、この雲の平まで追い詰めて来たのである。
もっとも、大島にしてみれば、有馬の存在などは知らず、夏のラッシュが去った雲上の楽園の散歩とシャレこんだつもりであった。ラッシュは去ったとはいえ、九月中旬のアルプス銀座のコースには、チラリホラリながら縦走者の姿が絶えなかった。それ故に今迄《いままで》、大島に手を出せなかったと同時に、尾行を悟られることもなかったのである。
妻から大島へ自分の人相特徴が伝えられているかもしれないと思い、有馬は念のために、ヘアスタイルを変えた。ひげをはやし、めがねもかけた。それだけで別人のように様子が変わったところへ、思い切って汚い登山姿をしたからまずは見破られまいという自信があった。
高度が上がり、雲の平の入口が近づくほどに有馬の心は高鳴ってきた。展望が大きくなったからではない。そここそ彼が大島をやっつける舞台として選んだ場所だったからである。
烏帽子《えぼし》岳―三俣蓮華間は、実際に現地を見るまでもなく、かなりの人通り≠予想して最初から外していた。たとえ人通りの絶えた折りを狙ったとしても、その痕跡《こんせき》≠容易に発見されやすい。
だが、雲の平となれば、縦走路からも外れ、人も殆ど入りこまない。しかもこの高原はいたる所、深い藪《やぶ》やハイマツに被《おお》われ、周囲は黒部溪谷をへだてたアルプスの高山によって下界≠ゥら完全に遮断されている。内部の詳細を語る写真も資料もない。この付近で遭難したら、殆ど死体は出てこない。有馬の目的にとってはまず理想的な環境であった。
有馬は大島から一定の距離を保ちながら、秋風の立つ、この上もなく荒れて虚《むな》しい三千メートルの稜線《りようせん》を、それ以上に荒れて虚しい心をかかえてここまで辿《たど》って来た。
ここ数日定まった天候は、山々をことさらに遠く透き通らせ、風の音だけが砂礫《されき》の尾根に鳴っていた。
三俣小屋の右上に穂高の岩塊がせり上がった。槍と穂高を振り分けにした地点にポツンと映える小屋の赤い屋根は、人里から遠く離れたアルプスの深奥《しんおう》に、人間を感じさせるこの上ない点景となった。だが、今の有馬にとってはそれが彼の行動を見張るための監視所のように思えてならなかった。
一刻も早く、雲の平へ入り、監視所≠フ視域から外れないことには、気が落ち着かなかった。
やがて傾斜が弱まり、径はハイマツ帯の切り分けをまわるようになった。ここが雲の平の玄関と称される所である。大島の姿はハイマツ帯を越えた広い溶岩の石だたみの中の一点としてあった。もう少し早い時期ならば雪田に被われる個所である。ここまで来ればもう見失うことはない。おそらく今夜は雲の平の中心部にあるギリシャ庭園あたりにテントを張り、明日からのんびりと雲表のパラダイスの探勝としゃれるつもりだろう。ここの滞在予定は三日間、彼のテントの近くへこちらも腰を据え、山の隣人≠ニしてアプローチした上でゆっくりと料理にかかればよい。裏銀座のコースを外れてから、彼ら以外に全く人影が絶えたことに有馬は満足した。
石だたみを過ぎると、日本庭園へ出た。点在する池塘《ちとう》とハイマツの間を過ぎ、岩石まじりの砂地を越えると初めて眼前に雲の平の全域が展開した。この高所の紅葉は今が盛んであった。
見渡すかぎり池塘とハイマツの草原の果を限るものは、三俣蓮華岳から、太郎、薬師岳を通って剣《つるぎ》立山に至る長大な連峰である。そこまでここから地続き≠フように見えるが、実は草原の末と連峰の間には黒部溪谷が深く抉《えぐ》られているのである。
日本アルプスは北、南、中央の三つに大別されている。その中、北アルプスと通称されている飛山脈は、北は白馬から南は穂高|乗鞍《のりくら》まで延々百キロに近い大山系であり、山域の大部分は中部山岳国立公園に指定されている。その峻嶮《しゆんけん》な山勢と壮大な岩壁、大雪溪、カール、高山植物は豊かで、森林は深く、高原池沼に富む地勢の多彩さは、登山者の圧倒的な人気を集めている。
この北アルプスの主稜が、雲の平を囲むようにして、南に槍穂高連峰、北方東側に黒部溪谷をはさんで白馬連峰、西側に立山連峰が走っている。雲の平を囲むすべての山々が日本の名だたる高峯なのである。
「いよいよだな」
有馬は眼前にくり広げられた大展望に目を細めて改めて息を大きく吸った。
大島の姿はその展望の中のどこかの起伏のかげに歩み入ったらしい。
4
烏帽子小屋を出る頃から何となく怪しかった空模様が、本格的に崩れてきたのは、赤岳の登りにかかる頃である。
久しく日本全域を蓋《おお》っていた移動性高気圧がようやく東方海上に去り、黄海方面に生まれた低気圧が中心気圧を深め発達しながら猛スピードで日本海へ入って来たのである。白山の方角に姿を見せていた絹のような薄雲が、野口五郎岳付近から次第に厚味を加え、真砂岳の下りにかかる頃は今迄薄ら日を送ってきた太陽も完全に姿を隠した。
陽がかげると山は急に陰惨になった。砂礫《されき》の坦々《たんたん》とした尾根径や、径の傍の小さな岩角の一つ一つまでが静子を拒絶し、牙《きば》を剥《む》き出すように感じられた。赤岳の登りにかかると尾根はだんだんと痩《や》せ細り、岩が脆《もろ》くなった。南寄りの風が強まり、西の空に黒灰色のレンズ雲が団々と現われた。遠くの山はすでに黒い雲に隠れている。日本海へ入った低気圧がますますスピードを増してきた証拠である。
「まあ、今日いっぺえは保《も》つずら」と言って送り出してくれた烏帽子小屋の番人も、異常に速い低気圧の速度まで予想することが出来なかったのだ。
悪いことにこのあたりは裏銀座縦走路中の唯一の悪場であり、いったん悪天に見舞われれば、アルプスでも最も風の強い所であった。
烏帽子小屋を出る頃には同方向へ向かう登山者が何人かあったが、いつの間にか脚の遅い静子だけが取り残されて、視野には赤茶けた山肌と黒い雲があるばかりであった。だがそれも間もなくガスに隠されてしまった。ガスは二、三回、凄《すさま》じい速度で眼前をよぎったかと思うと、たちまち視界をゼロにした。乳白のガスと風の唸《うな》りに身辺を取り囲まれて急に心細さが迫った。
「どうしよう?」
だが焦れば焦るほど、脚がもつれた。径はガラガラの岩石の積み重なりの間を果てしもなく絡んでいく。両側は深く切れこんでいるらしいのだが、霧の海に充たされて高度感はなかった。それだけが不幸中の幸いとでもいえようか、尾根の両側が霧に埋められていなければ体力がなくなる前に脚が竦《すく》んで動けなくなったかもしれない。
静子は波浪に洗われる岩礁にすがりついているような気がした。時折りザラッと滑る足もとを霧の波が舐《な》めた。
雨が来た。みぞれまじりの氷雨だった。それは風と共に静子の体内に残るエネルギーを急速に奪っていった。だがまだ彼女は歩き続けている。
何としても目的地≠ワで辿り着かなければならない。幸い、径は迷っていない。どんなに天候が悪化しようと、正しい径の上を蟻のように進んで行けば、必ず雲の平へ行き着き、有馬に会える。ただし、その蟻の歩みは一日たりとも休めない。その日その日の歩程を計画表《アイテナラリイ》に沿って忠実にこなしてこそ、雲の平で彼に追い着くことが可能なのだ。
ガスとみぞれが強風に攪拌《かくはん》される尾根に、縦走路だけが異様な鮮明さで浮き上がっていた。
「待っていて!」彼女の叫びを強風がさらっていった。
5
「ひどい天気になりましたなあ」
大島は今にも引きちぎられそうにはためく天幕を見上げた。岩かげの比較的風当たりの少ない場所に張ったにもかかわらず、これだけの風圧を受けるのであるから、風当たりの強い所では立っていられないほどだろう。
「排水溝を深く掘っておいてよかったですね」
「このテントはヒンズークシュへ不時露営用に持って行ったものですから、相当の嵐《あらし》にも耐えられるはずです」
「いやあ、大島さんが傍にいてくれて助かりました」
「どういたしまして、助かったのはこちらです。嵐の夜の単独《ひとり》オカンはどんなに馴れていても気持のいいもんじゃありませんからね」
「今年の天気はどうも分らない。台風が八月にどかどかと集中したかと思うと、秋霖《しゆうりん》(夏の後の雨期)は一、二回|時雨《しぐ》れただけで終わり、もう周期的に変わる秋の天気になっている。少しずれています」
ギリシャ庭園の中ほどの、とある岩石のかげに張られた小さなテントの中で話し合っているのは、有馬と大島である。
雲の平へ入った初日にわざと大島のテントの近くへ自分のテントを張った有馬は、二日目の夜は彼のテントへ招待≠ウれるほどに親しくなっていた。
もっとも他に登山者がいないのであるから、いやでも顔が合い、言葉を交さなければならなかった。有馬はいかにも偶然を装って、大島の歩く先へ先へと回り、新密度を増すように努めた。
二日目の午後から崩れた天候は、夜に入るとますます悪化し、有馬のツエルトでは到底しのげなくなった。だから大島から招待されたといっても、それは彼のアプローチが成功したためではなく、止むを得ない山の仁義かもしれなかった。
ともあれ、有馬は目指す相手にアルプスの深奥《しんおう》の嵐の夜に、小さなテントの中に身を寄せ合うまでに肉迫したのである。
――今夜だ――
これほどのチャンスは今夜をおいてない。目撃者は只の一人もない。復讐の痕《あと》は風雨がきれいに洗い流してくれる。
アルプスの最奥で強風雨下の死、思えばこれほど無理のない死はない。少々身体に損傷があっても、その辺にゴロゴロしている岩角が、加害者≠ノなってくれるだろう。有馬は意気揚々として遭難者発見の第一報を三俣小屋へもたらす自分の姿を想像した。その時こそ、妻を蝕《むしば》み、自分の価値観を根底から破壊した憎むべき男は、その返礼をたっぷりと受けたのだ。
彼にとって残念なことは、大島をその愛する山で眠らせてやることだった。奴《やつ》などにこの清浄な天地に眠る資格はない。だが完全復讐≠ニして自分が無傷で生き残るためには止むを得なかった。
いずれにせよ、その時間[#「その時間」に傍点]はもうすぐそこまで迫っている。有馬は大島と一緒にとった夕食にある作為《しかけ》≠していた。その結果は間もなく発現するはずである。体力や条件によって多少は異なっても、いずれにせよ、必ず現われる。今はただそれをじっと待っていればよいのだ。
彼は捉《とら》えた鼠をいたぶる猫のように、残忍な喜びを覚えていた。
「この嵐じゃ、なかなか寝つかれそうもない、聞くところによると、大島さんは女のほうもなかなかの腕だそうですね、確か新聞にご趣味は女と書かれてあったのを覚えています、睡眠薬代わりに一つその戦果を話してくれませんか?」
と誘い水を向けたのも、静子の告白のうらを取るためばかりではなく、残忍な喜びを深く味わうためであった。
「ああ、新聞記事ですがね、趣味と言ったのはまずかったと後悔しているんですよ」
大島は心なし肩を窄《すぼ》めるようにした。
「ご趣味ではないのですか?」
「趣味と言われても仕方がないほど、遊びましたがね、寝た女も数えきれないくらいいます。しかし、それが自分にとって一体何だったのかと最近思うようになりましてね」
「と仰有《おつしや》いますと……」
「私はずいぶん、いわゆる女遊びというやつをやりました。しかし、私にとっては決して遊びではなかった」
「遊びではない?」
「私にとって女は山と同じでした。山と同じ位に切実で、そして命賭《いのちが》けだった。そう、私はどの女も、止むに止まれぬ気持で追い求めた。その時々においては、皆それぞれに命賭けといってよいくらいにひたむきなものがあった」
大島は自分自身の思いを追うように話し続けた。それは自分に語りかけているような口調であった。
嵐の夜が彼を感傷的にしたようである。
「私は思うのです、これだけ大勢の男と女がいる中で、それが愛と呼べるかどうかは別として、特定の男女が肌を合わせる因縁は並々ならぬものだとね、だから私は次々に女を漁《あさ》りながらも、自分の足跡を残すようなつもりで、ひたむきに求めた」
「未登のルートを拓《ひら》くように、記録のためですか?」
有馬は皮肉っぽく言った。内心はいい気なものだと腹立たしくなっていた。何がひたむき、何が足跡か、足跡を残す方はいいが、残された方は一生苦しまなければならない。自分の妻は自分だけのものとして大切に囲っておいて、他の花園≠荒らし回る、いわゆる蕩児《とうじ》のエゴにすぎないではないか。
「そうではないのです。もっともっと切実なものです。言うなれば山でも充たせないものを女が充たしてくれて、女が充たしてくれないものを山が充たしてくれたとでも言いましょうか、私の場合、女と山はどちらも私にとっては生きていく上に必要なものでした。互いに補償作用を営むものだったのです、特に女がいなかったら、私は自殺していたでしょうな」
「でもさっきのお話しでは、女に疑いを抱かれたようですが」
「ええ、ちょっとしたことがありましてね」
彼はふと口ごもり、風雨に耳を澄ました。それが有馬にとっては気をもたせているように感じられた。彼には出来るだけ速く喋《しやべ》らせなければならないのだ。
「ちょっとしたことと言うと?」
有馬に促されて、彼は太い息を吐き、
「実はね、ヒンズークシュから帰って三日ほど後、ある女に逢《あ》ったのです。私が学生時代、最も熱くのめっていた女です」
有馬の身体に緊張の震えが走った。その女こそ静子にちがいない。大島は有馬の心のありようなどには気がつかぬもののごとく淡々と続けた。
「どういう経緯《いきさつ》でその女と別れてしまったのか、自分でも思い出せない、ただ覚えているのは、短い間ながら我々が深く愛し合った事実です。それぞれにかけがえのない多くの女達とめぐり逢いの中で、その女とのことは、私の青春、といっても、当時三十歳でしたが、その中の最も貴重な一コマを占めるものでした。そしてその女にとっても。――その女が何年ぶりかで私に逢いたいと言ってきたのです。私は最初ちょっと不安に思いましたが、昔の――充分に未練の残る、愛していると言ってもよい女に久しぶりに逢える喜びにむしろ浮き浮きとしました。逢いさえすれば、昔の思い出に訴えてもう一度青春の夢を見なおしてやろうと、私は虫のいい下心を抱いて女に逢った。ところが――」
「ところが?」
有馬はポーズするのも忘れて先を促した。話の重大な内容と、持時間≠フ少なくなっていることが彼を焦らせた。大島の瞳《ひとみ》は次第にうるんだようになっていた。
「ところが、女に逢って私の甘い自惚《うぬぼ》れはものの見事に粉砕されました。女の心には、私との過去などは影も残っていなかった。自分の用事だけ頼みこむと女はさっさと帰ってしまった。これは私にとってショックだった。愛情と、躰《からだ》の交渉は別のこととしても、娼婦《しようふ》でもない女が男に躰を許すのは相当の心の傾斜があってよいはずだ。更に一歩譲って心の傾きがないとしても、無数の男女の中で特定の二人が肌を合わせた事実は、やわか並大抵の因縁ではない。だが、そのようなことが女に全く何も残さないというのは、忘却というものの働きがそれほど完ぺきなのか、それとも女とは最初からそのように出来ているのだろうか?」
大島は意外なことを言い出した。彼の言葉を信ずれば、あの日、静子はホテル大東京で彼と寝ていない。うそだ! 予約してあったダブルは何のためだ? しかし、大島は有馬を知らないはずである。ならば彼にうそを言う必要はない。うそをつくならば、むしろ寝ないのを寝たと言った方が、嵐の夜の不安を紛らす格好の話題となる。
静子はあの日、きれいなまま[#「きれいなまま」に傍点]帰ったとみてもよさそうだ。それならば一体、何の用で、ホテルなどへ昔の男を誘い出したのだろう?
「その女の用事とは、一体何だったのですか?」有馬はさりげなく訊《き》いた。
「それがね」
大島は苦笑して、
「よく覚えていないんですよ、女に逢った喜びで夢中になって、何を頼まれたんだか、よく覚えていない、何か尋ね人を頼まれたようでした」
「尋ね人?」
「たしか、弟とか従兄《いとこ》とかがいなくなって探してくれと言ってたようだ。そうだ、写真を預かってたっけ」彼は何でもないことのように言った。だがその言葉は有馬を愕然《がくぜん》とさせた。
――その写真こそ自分のものに違いない、静子はやはり大島へ自分のことを伝えに行ったのだ。大島は俺《おれ》を知っている! とすれば夕食のしかけも見抜いているにちがいない。しまった! 罠《わな》にかけられていたのはこちらだ――
有馬は思わず身構えた。だが大島の表情には何の変化も見られない。有馬の身構えすら気がつかぬようである。
〈そう言えば、静子は「弟」とか「従兄」を探してくれと頼んだそうだ。もしかしたら、彼女は大島の所へ俺が立ち回るとみて俺の身分を隠したまま、依頼したのかもしれない。それに、〉有馬はようやく自分が変装していることを思い出した。この変装はそう簡単に見破られるはずがない。しかも大島が見たと思われる有馬は写真だけである。実物は知らないはずだ。
「その写真、今でもお持ちですか?」
有馬は緊張を弛《ゆる》めずに尋ねた。
「それがあまり気がなかったもんだから、何処かへしまいなくしちゃったんですよ」
「どんな顔形《かおかたち》か覚えてますか?」
「全然」
彼は無造作に首を振った。目の光はますますうるんできた。有馬はようやく体から緊張を抜いた。
「女は人妻ですか?」
有馬はなおもとぼけて訊いた。大島が頷《うなず》くのを確かめて、
「だったら現在の夫に義理立てして早々に帰ったんでしょう」
「義理立てかどうか表情を見れば分ります。彼女はまるで荷物を見るような目で私を見ていた」
「しかし、あなたにしても、彼女へ求めたものは、焼け木杭《ぼつくい》に火のような、昔の女の躰だけじゃなかったんですか?」
「形としては、一応そういうことになります、でもそれだけではなかった、決してそれだけではなかった。自分たちが共通に持った過去が確かにあったということさえ分ればよかったのだ。女とはみんなあんなものか? それともあのこと自体にそれほど大した意味がないのか? 私がロマンチックすぎるのだろうか? これでは私がひたむきに女を求めてきた意味がない」
「過去は過去、女たちには現在の生活がありますよ、人間誰しも過去より現在の方が大切です、現にあなただって、現在の家庭を何よりも大切にしているでしょう」
「現在を慈むのと、過去を切り放すのは別のことだと思う。私は自分がひたむきに女たちの中へ残してきたつもりの足跡が、全く残っていないのが悲しいんだ。現に俺の中を通り過ぎて行った女たちの足跡は、俺が生きているかぎり消えない、それなのにあいつらはきれいに消してしまいやがった」
大島の言葉使いは次第に乱暴となり、呼吸が乱れてきた。テントの床《フロア》が湿っぽくなっている。かなり深く掘ったつもりの排水溝も、流れこむ雨水を消化し切れなくなったらしい。テントがひときわ強くはためいた。
「あんたはセンチメンタルなエゴだ」
「エゴ?」
「そうじゃないか、山には特定の持主はいない、だが女たちは結婚すれば夫がいる。いつまでも過去の男の足跡を心と躰に残していては、現在の亭主に申し訳ないだろう」
「亭主に申し訳ないと思っても、過去はいつまでも残る、人間の心とはそういうものだ、テレビを切りかえるようにかえられないはずだ」
「それじゃああんた、もしあんたの奥さんに過去があって、今でもそれを忘れられないとしたらどうする? いい気持じゃないだろう」
「俺が言ってるのはそのことじゃない、現在のためには、どんな過去も切り放せる女の心の中の機械のようなスイッチが味気ないと言ったんだ」
「あんたは自分のワイフには精巧な切り換えスイッチを求めて、他の昔の女には、余韻たっぷりの深情《ふかなさけ》を欲しがっているんだ、図々しいよ」
「図々しいかね、ああ、もうこんな話は止そう、何だか眠くなった、こんなことで議論してもつまらん」
大島は大あくびをした。うるんだ目が大分とろんとしている。もうすぐだと有馬は思った。あれ[#「あれ」に傍点]がようやく効いてきたのである。効果が現われるのは遅いが、いったん効きはじめればめったに醒《さ》める気遣いのないアロバルビタール系の睡眠剤を、夕食にしかけておいたのだ。
昼間の疲れとクスリの作用でぐっすり眠りこんだところを、この風雨の中へ抛《ほう》り出してやる。秋から冬にかけて道路のドブなどで酔っぱらいが凍死するように、クスリの作用でいい具合に皮膚血管が拡張し、ホカホカと至極いい気持で眠っている間に、体熱はどんどん放出され、遂に凍死の昏睡《こんすい》へと移行してくれる。それでなくともアルプスの高所での九月の雨である。雨というよりはすでに風雪だ。山はクスリの睡眠作用に完璧の加工≠施してくれるだろう。だからクスリを故意に致死量より少なくした。胃の内容物からクスリが万一、検知されたとしても、登山者がクスリを嚥《の》むことは、寝つきをよくするためによくある例である。寝こんだあとに強風がテントを吹き攫《さら》ったと考えても、少しも不思議はない。
有馬は心の中でニンマリと笑いながら、薬効が徐々に現われて来る大島をモルモットのように観ていた。クスリが効いた時は、貴様が大切にしている女たちの足跡とやらもきれいに消えてしまう時だ。
6
「誰か来る!」
いったん寝入ったかと思われた大島が突然目を開いた。
「馬鹿な! こんな嵐の夜更に誰が来るもんか」
有馬は否定したが、ふとこれもクスリの作用の一つかもしれないと思った。大島はすでに幻聴を聞いているのだ。この次には静子の幻でも見るか。
「いや、耳のせいじゃない、確かに人の声がする」
だが大島は、言いつのった。すっかり見開いた彼の目はクスリのせいでややすわってはいたが、正常な光があった。
有馬はついそれにつられて半信半疑ながら耳を澄ました。聞こえるものは強い風雨の音と、天幕のはためきだけである。もっとも事実人声があったとしても、山全体が唸《うな》るような風雨の音に吸われて聞き分けられるはずがなかった。
(やはり幻聴だ)有馬は思った。クスリの効き目が遅いのですこしいらいらしかけていたが、いったん効きはじめれば優秀である。とすれば、下手に逆らうより、同調して睡眠効果を高めたほうがよい。
「確かに何か声がしますね」
と頷きかけた時、有馬はハッとなった。風の継ぎめのほんの瞬間であったが、彼も人の声を聞いたように思ったのである。
そんなはずはない。自分も幻聴を聞いたのだ。大島の言葉が暗示となって風雨の音を人声と錯覚したのだ。彼の言葉につられて耳を澄ましたりしたのがいけなかった。そのつもりになって聞けば、嵐の荒れ狂う音は人の唸るのに似ている。
有馬が強く頭を振った時、風がはたと途切れ、その合間に「おうい」と呼ぶような人の声があった。幻聴ではない。それは確かに彼の耳許へ届いた。誰かがこの嵐の中で呼んでいる。それが救けを求めるものか、彼らを探しているものかは分らない。だが彼ら以外の第三者がこのテントの付近にいれば、有馬の計画は延期しなければならない。
「間違いない、誰かが呼んでいる」
大島は立ち上がった。クスリが回る寸前に体を動かし、冷たい雨に叩《たた》かれればそのまま醒めてしまうかもしれない。
「僕が見てきましょう」
有馬は彼を留めてテントを出た。雪を混えた強風が体を横なぐりに叩いた。風速は三十メートルを越えていよう。寝袋《シユラーフ》の中で辛うじて保たれていた体温が急速に奪われていく。ハイマツの枝や石つぶてが風に乗り、身体を容赦なく叩く。黒い闇《やみ》の中で山全体が咆哮《ほうこう》していた。だがそれほどの強風にも継ぎ目がある。人声はその継ぎ目を縫って確実に送られてきた。しかも先ほどよりは大分近い。
「おうい。誰かいるのかあ」
有馬は黒い風雪に向かって叫んだ。答えが来る代わりに闇の中に一点の灯火が生まれ、人の動きを伝えるように揺れた。有馬もライトをつけてその方角に向かって大きく円をえがいた。先方も明らかにこちらを認めたらしい。灯火が意志的に揺れた。
「おうい! 大島先生かあ」
闇の中の声が初めて一つの意味を伝えてきた。それは遭難者でも、偶然付近を通りかかった登山者でもなかった。声の主は大島を探して悪天を冒してやって来たのだ。有馬は今迄の緊張が空気が抜ける風船のように萎《しぼ》んでいくのを感じた。何のために声の主がやって来たのか分らないが、ともかく計画は延期しなければならない。今夜のようなチャンスはもう二度と持てないだろう。延期は放棄につながるかもしれなかった。緊張の弛緩《しかん》は失望に変わり、それは更に声の主への怒りに変わった。
「一体、何の用だあ」
有馬は灯火に向かって怒鳴りかえした。彼としては怒声を浴びせかけたつもりであったが、先方は風雪をはねかえすためととったらしい。
やがて防風衣に身を固めた男がゆらりと有馬の前に現われた。
「大島先生ですか?」
有馬は黙ってテントの方を顎《あご》で指した。
「ああよかった、多分ここずらと見当つけて来ただ」
男はホッと息を吐いた。頭巾《フツド》はつけていたが、顔は雪にまみれている。アルプスの夜の、これだけの風雪を冒してやって来ただけあってライトに浮き上がった顔はいかにも精悍《せいかん》であり、それを支える身体は屈強であった。
有馬はその男に見覚えがあるような気がした。
「一体どうしたんだい?」
大島がテントの入口から顔を出した。
「ああ先生、三俣小屋の善助じゃが、遭難者が出てね、俺たちの手にはおえねえだ。先生が雲の平へ入ったのを思い出して走って来たんでさあ、一つ救けてやってくれまっしょ」男は一息にまくしたてた。大島が医者であり、同時にその男が一昨日泊った三俣小屋の管理人だったことを有馬は思い出した。
「遭難者!? 一体どんな状態なんだ」
「へえ、若い女せ、ワリモ[#「ワリモ」に傍点]の鞍部《あんぶ》でへばっていたのをうちの小屋のもんが見つけて、小屋へ担ぎこんだだ、大分雨に叩かれたもんだでうんと弱っていたが、夜になってから急に塩梅《あんばい》が悪くなって、このままじゃ危ねえと思った時、先生を思い出しただ。先生この天気ん中すまねえが、人助けだ、一つ頼まれてくんねえか」
「分った、すぐ支度をするから、この岩かげでちょっと待っててくれ」
大島は言い捨てると首をひっこめた。テントの中から、
「山村さん、テントや荷物はこのままにしときますから、すまんが明日までキープしといて下さい」
と有馬に呼びかけた。その声はすでにクスリから醒《さ》めたものだった。山村とは大島の手前の有馬の偽名である。
「いえ、私も一緒に行きましょう、遭難者と聞いては何かお手伝いしたい」
と有馬は言ったが、実はクスリの効果を見届けたかったのである。遭難者救助に向かう医者としての緊張と、風雪の作用で、そのまま醒めてしまうか、あるいは薬効と悪環境が、有馬が望む以上の相乗効果≠もたらすか、それは有馬にも分らなかった。
「それじゃあ、テントはこのままにしておこう」
大島は別に反対しなかった。人手は多い方がよいと判断したからであろうか。
とりあえず救急医療具をザックに詰め、アノラックに身をかためて大島はテントを出た。そのとたん岩角につまずいたようにグラッと体が傾いた。
「先生!」
善助が素早く彼を支えた。
「足許に注意してくれましょ」
だがそれが岩につまずいたのでも、足が滑ったのでもないことを有馬は知っていた。
――クスリは確かに効いている――彼は善助によって中断された実験を、異なる環境の下に続けられる科学者の喜びに近いものを覚えた。
さすが雲の平の主《ぬし》のような善助の先導は確かだった。足捌《あしさば》きも適確に、有馬には自分の足許だけを照らすのに精一杯のライトを、余裕|綽々《しやくしやく》と大島や彼の足許《あしもと》に投げかけてくれる。ハイマツ帯のどこにどう目印があるのか、一般ルートが風当たりの強い高地へかかるとみるや、低地のハイマツの切れ目を巧みに回りこんで着実に距離を稼ぐ。
高台で吹きつける風雪は、低地にかかるとみぞれになった。行動の自由を妨げぬほどに厚着をしてきたのでさほど寒さは感じないが、気温は相当に低《さが》っている。
下界では残暑すら錯覚させることのある初秋の爽《さわや》かな天気に欺《だま》されて、銀ブラでもするようなつもりで、アルプスの三千メートルの稜線《りようせん》へフラフラ浮かれ出て来た女が、この悪天に叩かれてどんなに手痛くやられたかおおよその見当はつく。冬から春に向かう時に比べて、夏の酷暑から秋冷へ向かう時は温度の体感が全く異なるのである。
それも単なる低温にとどまらず、人間の体熱の悉《ことごと》くを驚くべき速さで奪う強風が伴う。有馬はおそらく、その女[#「その女」に傍点]は保《も》つまいと思った。第一、大島が果たして女の許へ辿《たど》り着けるかどうかすら分らないのだ。
「ここから径《みち》が悪くなるずら、足許に気をつけておくんなせ」
どこをどう歩いたのか暗黒の中を三十分程進んだ所で善助が注意した。第二雪田のあたりであろうか、大小の岩石が転る河原のような所である。
ハイマツ帯から流れ落ちる水が、足をすくうほどの勢いで流れていた。そのあたりから大島の歩度が目に見えて鈍くなった。何でもない岩につまずいてよく転ぶ。
「先生、大丈夫か?」
善助が心配そうにライトを投げかけた。
「大丈夫だ、昼間ちょっと歩き過ぎたんでね」
その声が酒を飲み過ごした時のように、少し呂律《ろれつ》がおかしくなっているのを、有馬の耳は敏感に聞き分けた。
善助をトップに、大島をはさんだ形で行く有馬には、彼の体力の衰えがよく分る。吐く息が荒い。体の動きが鈍っている。よく転ぶのは、反射神経がすでに眠りはじめているのだ。
昼ならば亀甲砂礫《きつこうされき》の見られる付近で、大島は手痛く転倒した。ライトが落ち、レンズが岩角にあたって割れた。レンズを失った豆電球が雨の中にチリチリと震えているのが、不吉な印象を与えた。
善助はようやく大島の異常に気がついたようである。
「先生、どうなさった」
「いや、大丈夫だ、ちょっと風邪気味で、消耗してるんだ」
慌てて抱えおこした善助の、ヘッドランプの光輪に、大島は無理につくった笑いを浮かべた。
「大丈夫だ」
大島はもう一度言って立ち上がろうとしたが、今度は膝《ひざ》からガクッと崩れて、地に鼻面をこすりつけた。彼は昏倒《こんとう》したのである。
「こりゃ、いかん」
善助は、咄嗟《とつさ》に大島の瞳《ひとみ》にライトを当て、それが未だ散大していないのを確かめると、
「先生! 大島先生!」
と彼の頬《ほお》に強烈なビンタを喰らわせた。それが効いたのか、大島は薄目を開いた。
「しっかりしなせえ、小屋はすぐせ、ここで先生に眠られちゃ、元も子もねえ」
善助は大島の耳に口をつけるようにして怒鳴った。大島は意志のない人形のように首をゆらゆらと振りながら、善助に扶《たす》けられて立ち上がった。だが到底一人で動ける状態ではない。立っているのがやっとという様子である。アロバルビタールは冷雨に冷やされた極めてクスリの回り難い身体にもかかわらず、ようやくその強烈な効果を顕《あら》わしはじめたのだ。
だがそれに歯を喰い縛って耐えている大島の意志の力はどうだろう。有馬は事実彼の歯ぎしりを聞いた。そして一歩、又一歩と三俣小屋の方へ足をよろめき動かしたのは何故か? 九月の風雨に叩かれて自分自身の危険を危惧《きぐ》してのことだったら、ここから幕営地へ帰った方がはるかに近く、安全である。
三俣小屋に待つ者は、縁もゆかりもない未知の遭難者である。是が非でも診なければならぬ義理もなければ、ましてや自分の生命のリスクを冒してまで駆けつけなければならぬ義務は全くない。
たとえ医者であっても、自分自身の生命を護る権利はある。それが同一の条件に置かれた場合は、他人の生命より優先してもさしつかえない。医師とて、医師である前にただ一個の生命を与えられている人間なのだ。
だが現実に大島は、昏倒の一歩手前を前進し続けようとしている。このまま風雨に晒《さら》されれば、生命の保証がない危険の中を、未知の人間を救うために進もうとしている。それはヒューマニズムというよりは、医者の業《ごう》のようなものだった。
降りしきる霙《みぞれ》の中を、他人の生命を救うために、強烈な薬効に抗らい、微《かす》かに覚めている体力を結集している男、――それは壮烈でさえあった。
瞼《まぶた》が重くたれ下がり、すでに口さえ痺《しび》れかけている大島は、おそらく鉛をかぶせられたような意識を奮い立て、他人のもののような脚を三俣小屋の方角へ向かって動かそうとしているのだ。
有馬は無意識のうちに、善助と共に大島の身体を支えていた。
「とにかく、行きましょ」
善助が判断を下した。大島の異常の原因を知らぬ彼にしてみれば、大島ほどのベテランが、九月の霙と風雪に叩かれたくらいでまいるはずがないという楽観があった。それに、自分の家の庭のような雲の平で、小屋とテントどちらへ向かうにしても大差なかったからである。小屋には風呂もあれば、豊富な火もある。有馬の仕掛けを知らぬ善助としては適確な判断といえた。
雲の平の入口から黒部源流への下り道は川の流れのようになっていた。滑りやすく不安定である。
「僕が背負いましょう」
足許の定まらない大島の体を善助が背負おうとする前に、有馬が背負った。七十キロを越える重量が不安定な足場と共に有馬の重心を狂わせ、身体の各部分に働く重力の合力は常に彼を転倒させようと狙った。しかもその上に急傾斜を凄《すさま》じい勢いで流れ落ちる水が下り径に集まり、足許を攫《さら》おうとした。
善助が彼の両手を支えて重心の崩れを妨ぎ、ヘッドランプで足許を照らしてくれるのが、何よりの助けになった。
「今度は儂《わし》が代わるじい」
途中で善助が申し出たが、
「いやあんたは道案内だけしてくれ」
と有馬は斥《しりぞ》けた。彼は自分でも説明のつかない熱につつまれていた。それは一種の感動といってもよかった。人間が人間の命を救うために力を合わせて自然の猛威と闘っている。これをヒューマニズムと呼ぶのだろうか? いやそういう言葉では到底表現しつくせない、もっと人間として本源的な力に動かされているような気がした。
別に救けようとしている相手は、どこの誰とも知らぬ女である。その女には面識もなければ、ましてや愛情などあるはずがない。おそらく大都会の路傍で死にかけていれば、眉《まゆ》を顰《ひそ》めて通り過ぎるだけかもしれない。それが山で死にかけているが故に、その命を救うために赤の他人である自分がかくも熱っぽく駆り立てられている。
しかも、女を救けるために、自分がこの世の中で最も憎むべき人間を、――つい一、二時間ほど前までは、殺そうとしていた男を全力をつくして救おうとしている。今の時間が過ぎ去り、将来、それもごく近い将来、明日か明後日あたりに、|冷やされた頭《クールヘツド》でこの熱っぽい時間をふりかえってみれば、何とまあ、安っぽいヒューマニズムかと自身に嫌悪感さえ抱くほど悔いることは、よく分っていながら、そういう冷静な分析では割り切れない不可解な心理が、生き甲斐《がい》とまでした復讐を、いとも簡単に忘れさせ、その代替としておよそ割に合わない無償で危険な行為に身を挺《てい》させている。
有馬には分らなかった。分らないながらも只《ただ》一つ確実なのは、自分の全体が何のためらいもなく大島を三俣小屋へ運ぶことに一致し、足が抗《さか》らいがたい力で前へ前へと進んで行くことであった。
そのことに彼は感動を覚えていた。それがひとりよがりの感動でもよいと思った。
彼は以前にも一度似たような感動を覚えたことを思い出した。そうだ。あれは雪稜会の連中と冬期合宿のボッカのために初めて穂高へ入った時だ。
下山前夜、前穂北尾根第二峰に遭難が発生し、会の最強メンバーが深夜の救出に出発した時である。圏谷の中央にかかった月光を浴びて遭難現場へ急ぐ男たちに有馬は今と同様の感動を覚えた。
しかし、あの時の感動はあくまでも、傍観者としてのものであった。どんなにそれが大きくとも、要するに彼は感動の主役ではなかった。それが今は、かつてあの男たちが演じた役割と殆ど同じ役を自分が演《や》っている。
舞台も同じアルプスであれば時刻もほぼ同じである。他人の生命を救うために自分の生命のリスクを賭《か》ける条件も同じである。
この感動こそ、無償の行為を大きく償う報償ではあるまいか?
「源流が渡れるかな?」
下るほどに暗黒の奈落の方から吹き上がって来る水音の激しさに不安を覚えた。降雨《みぞれ》で、来る時は飛び石伝いに渡れた源流が、周囲の山腹や乗越から注ぎこむ水を集めて大きく脹《ふく》れ上がっているにちがいない。水勢が激しく徒渉出来ないことになれば……有馬の熱っぽい心身に初めて慄《ふる》えがきた。
「大丈夫せ、この位の雨ならどうってことねえ、儂が渡してみせる」
善助が有馬の不安を吹き飛ばしてくれた。地元の人間にして初めて請負える、――儂が渡してみせる――という自信には盤石の頼もしさがあった。
だが善助とて、動けぬ大島という悪条件を加えられて確信があったわけではない。ただ何としても、大島と有馬は渡さなければならぬという熱に浮かされていたのだ。それは別に有馬から伝染《うつ》った熱ではない。二人で協力してこの難作業≠ノ挑んでいる間に、血が通い合うような連帯感を覚えていたのである。
連帯感は二人だけではなかった。大島もその仲間に加わっていた。動けぬながら医者として進もうとする彼の意志が、有馬と善助を動かし、とにかく三俣小屋へ志す一つの共通目標の下に三人を結んでいた。善助はともかく、それは有馬にとっては奇妙な連帯感であった。
源流の湿地帯は夜目にもそれと分る激流に変身していた。白い牙《きば》のような飛沫《ひまつ》の下には鋭い岩角が隠されている。もし足を滑らせれば、名にしおう黒部峡谷八十五キロの激流にもみしだかれ、死体はモミガラのように砕かれる。いやそれどころか、上廊下や下廊下の深淵《しんえん》に沈めば死体すら上がらないだろう。
「来た!」
善助が怒鳴った。怒鳴らなければ聞き取れないほどの水声である。いよいよ徒渉地点へ下り着いたのだ。
「僕はもう歩ける」
突然背中の大島がはっきりした声を出した。
「そんなはずがない」
有馬は思わずおうむ返しに言った。言ってからしまったと思った。
いったん効きはじめた睡眠剤がこうも簡単に醒《さ》めてしまうとは予期していなかっただけに、この失言となったわけだが、大島も善助も別にそれをへんに釈《と》った様子はなかった。
考えてみれば、強風と冷雨に晒《さら》されて最もクスリが醒めやすい環境にあったといえる。
「この流れでは背負っては渡れない、僕も歩くよ」
大島はさらにはっきりした声で言った。呂律《ろれつ》は完全に常態に復している。
「大丈夫だか?」
善助がなおも心配そうに尋ねた。
「大丈夫さ」
大島は言いつつ、すでに有馬の背から下りていた。下り立った足もとはかなりしっかりしている。大島の回復にまだ多少の不安は残ったが、彼が曲がりなりにも自力で動けるようになったのは大助かりである。
ただでさえもバランスを失いやすい、増水した流れの徒渉において、最も重心が安定しない人を背負った姿勢で水に入るのは、危険この上ない。大島もそれをよく承知しているので、クスリの作用から完全に逃れ切らない体を無理に動かしたのであろう。
「ほんじゃあ、儂がまず渡ってザイルを確保するじ」
善助もホッとした面もちで徒渉地点を探しはじめた。谷幅が広く流れが浅いような場合は、どこを渡っても特に危険はないが、少しでも増水すると川底の地形はすぐに変わる。特に夜間の徒渉はたとえ水が澄んでいても川底の様子が分らず極めて危険である。
昼間、徒渉地点であった跳び石は、今はすっかり水の下に隠されていた。有馬にはそれがどの辺であったのか見当もつかない。見当がついたとしても、増水前の徒渉点がそのまま通用することはまずない。徒渉点のハントには多年の知識とカンが要求される所以《ゆえん》である。
だが善助は、まことに無造作に水の中へ入って行った。一見無造作ではあっても、彼が選んだ地点は、徒渉点としてはまことに理想的な所であった。
夜目ながら、あらかじめ実測しておいたのではないかと思われる程に、水深は彼の股《また》付近でピタリと止まっている。股を越えると体重が水勢に抗し切れなくなるのである。
流れに向かって腰を落としかげんにして、流れの底をずり身で、斜め上流の対岸へ一気に渡って行く身のこなしはさすが山のプロフェッショナルであった。対岸の安全地点に達した善助は、ザイルを抛《ほう》れと怒鳴った。
ザイルが善助との間に確保されると、有馬と大島が渡る番である。
「あまりザイルに頼らんと、自分の力で渡るようにしましょ」
善助が対岸から注意した。それは有馬よりは大島へ向けられたものだった。ザイルに体重を預けすぎると、脚を攫《さら》われ、かえって危険を招くからである。ふだんならば大島のような登山界の大物に登山の基礎的な注意をする必要はなかったが、今は事情が違う。注意する方もされる方も何の抵抗も感じなかった。
「行くぞう」
「ようし」
両岸で互いに確認し合ってから二人は水へ入った。大島にかかる水圧を少しでも弱めるために有馬は先に進んだ。流速はかなり速い。ザイルを掴《つか》む手と、川底に踏みつけた脚の二か所へ体重が逃げて、手薄になった胴体を攫おうと水流は一気に殺到する。
有馬はなるべくザイルに体重をかけないようにした。
徒渉は一種の気合である。途中で水流に少しでもためらいを見せるとバランスを崩されてしまう。渡りはじめたら一気に渡り、水の抵抗を運動の中へ逃がしてしまうのだ。流れに斜めに抗らって速く移動すればするほど、抵抗も少ない。それに水中でぐずついていると、凍えてしまう。低温で身体の動きが鈍らないうちに安全地点に到達しなければならない。
「止まるな!」
有馬は大島を叱咤《しつた》した。下半身が痺《しび》れ、飛沫で視野がくもる。
「頑張れ! もう少しだじ」
善助が対岸から励ました。有馬は身の危険も忘れて大島の徒渉を扶《たす》けた。一人ならばとうに渡っている流れを、未《いま》だに苦闘していることが、大島を扶けるために彼の払った犠牲の大きさを示していた。
7
三俣小屋では、小屋の者全員が眠らずに待っていた。善助が途中からかけたヤッホーが小屋に届いて、若い者が三人迎えに下りて来た。
「女は?」
大島の問いに若者は暗い顔をして、
「眠ったきりです、呼吸《いき》はまだあるようだが、ピクリともしねえ」と言った。
小屋の土間のストーヴの傍に、その女はシュラーフに包まれて横たわっていた。白っぽい面に髪が乱れて、いきなり小屋へ入った者には、死体が置かれているように見えた。
大島は徒渉してから急速に回復していた。流れの身を切るように冷たい水が、クスリの残存効果を一気に駆逐してしまったのであろう。
彼は手早くザックの中から救急医療具の入ったゴム袋を取り出すと、女の傍へ歩み寄った。濡《ぬ》れた衣服も替えずに、患者≠診ようとする医者の根性に小屋の者は皆打たれたようである。
有馬は手当の邪魔にならぬようにシュラーフから少し離れた所へたたずんでそのさまを見守っていた。
「担ぎこむなり、すぐ微温湯《ぬるまゆ》の風呂へ入れ、湯タンポを入れたり、皆でマッサージなどして暖ためてるんですが、一向に……」小屋の者の一人が首を振りながら女を入れたシュラーフのチャックを下した。金属の滑る音と共に、人垣の間から女のロウのような肌が覗《のぞ》いた。
凍死寸前であるから、当然の処置であろうが、有馬は果物のように剥《む》かれて、男たちの目の前に横たえられている女が、無残な晒し物のように思えた。
大島は注射器を構えて女に向かった。
彼の表情が硬ばり、小さな呻《うめ》き声を洩《も》らしたのはその一瞬である。
「先生、どうした?」
善助が耳敏《みみざと》く大島の呻き声をとらえた。
「いや、何でもない」
彼は咄嗟《とつさ》に無表情を装ったが、注射器を持つ手は、有馬の距離から見ても明らかに分るほど震えていた。
もしかしたらあの女、大島の知合いかな? そんな思いが有馬の脳裡《のうり》をかすめたのはその時である。彼は今迄《いままで》遠慮して近寄らなかった女の傍へ歩み寄った。
一瞬の動揺を隠してとりあえず応急の強心剤を打った大島は、瞳孔《どうこう》の対光反射や、筋肉の触診を始めたらしい。女にかぶさった形で処置をしている大島の上体越しに、女の、形のよい乳房が覗いていた。
有馬の好きな茶碗型の、やや上に反った、形のよい乳房である。触診につられて、それ自体が一つの生物のように震えている。
突然大島が上体を起こしたために胸部が隠され、代わって女の顔が有馬の視野に入った。瞬間彼は、呼吸が止まるほどの大きな驚愕《きようがく》に貫かれた。
ふっくらした丸顔、目を閉じると更にその長さが強調される睫《まつげ》、小さな中高の唇、いつもはアップにキリッとまとめあげているロングヘアが乱れかかっているせいか、ふくよかな面立ちがいくらか窶《やつ》れて見えるのが哀れである。その女こそ、彼の妻であった。
「静子!」
有馬は悲鳴に近い声を上げて、妻の裸身にしがみついた。その場に居合わせた者は、その瞬間彼が発狂したと思った。
「あなたの知合いか?」
愕《おどろ》いた表情で問いかける大島を無視して、有馬は静子の体を揺すった。彼には妻が何故この場にいるのか分らなかった。
「一体どうしてこんなことになったんだ?」
後になって考えると、そんなことを口走りながら、静子の置き物のように反応のない身体をゆすり続けていたような気がする。
ようやく一座の者は、有馬と遭難者が特別な関係にあることを認めた。呆然《ぼうぜん》としていた一座の中で最も早く正気にかえったのは大島である。
「山村さん、とにかくそこをどいてくれないか、そうしがみついていられては手当が出来ない」
「見込みはあるのか? 何としても救けてやってくれ!」
「やるだけやってみよう、しかし、筋硬直が解けているからなあ」筋硬直が去り、筋肉が軟らかくなっていると、いくら暖めても殆《ほとん》ど救かる見込はない。
「だめなのか?」
有馬は大島の方へ向き直り、かみつきそうに言った。
「出来るだけ手をつくしてみる」
大島は答えたものの、その表情と口調は絶望的であった。
「一体、この人はあんたとどういう関係にあるんだ?」大島が訊いた。
「ワイフなんだ、俺《おれ》の女房なんだよ」
「奥さん!?」
大島の目が飛び出るほどに見開かれた。彼の愕きは、有馬が妻を認めた時以上に大きかったであろう。同じテントで嵐をしのぎ、善助と共に風雨をついてこの場所まで自分を送り届けてくれた親切な山の隣人が、現に遭難者として自分に手当されている過去の女の夫であると言うのであるから。二人の中のどちらか一人に逢《あ》ったとしてもそれは大きな奇遇である。その両者に同時に、しかもアルプスの強風雨の夜という異常な環境下にめぐり逢ったのである。大島はこれにどう応接すべきか知らなかった。
ただ、――入山して以来、いつとはなく自分にまつわりついていた山村と名乗る得体の知れぬ男が、過去自分が交渉を持った女の夫だといきなり表明して、しかもそれが嘘《うそ》ではないらしいことが分るだけである。
もし彼が真実、静子の夫であるならば、先刻自分が初めて彼女を見て示した愕きを、彼に訝《いぶか》しがられなかったかという不安が湧《わ》いたのはずっと後のことであった。
アルプスの深夜、瀕死《ひんし》の昔の女との再会、更に追い打ちをかけるように正体を露《あら》わしたその夫、大島がこの奇遇のダブルパンチ≠ノ辛うじて耐えられたのは、医師としての務めが残っていたからである。それも耐えられたのではなく、静子の手当のなかに自分の動揺を隠したと言った方がよかった。
「もう一度マッサージだ」
静子の全身がシュラーフから剥き出され、小屋の者が総がかりでマッサージをはじめた。大島が口うつしに人工呼吸を加える。静子の生命を救けるための必死のてだてということは分っていても、一糸も纏《まと》わぬ女の裸身にいかつい山男共が群れてこね回している姿は、凄惨《せいさん》であった。特に、人工呼吸のためとはいえ、大島が全裸の静子におおいかぶさって唇を吸っている姿は、有馬にとって残酷すぎる見世物≠セった。
いったん赤味がかったかに見えた静子の肌がみるみる蒼白《あおじろ》くなってきたのが、自分をいじる[#「いじる」に傍点]男共に対する彼女の無言の抗議のようにとれる。
大島はふと唇を離し、蒼味を加えた静子の肌を観て首を傾けたが、すぐと忙《せわ》しない手つきでザックから体温計を取り出した。彼がそれを彼女の身体のどの部分にさしはさもうとしているのか知った時、有馬の忍耐は限界にきた。
「何をするんだ!」
有馬は小屋の者全員がビクッとするほどの凄《すさま》じい罵声《ばせい》を上げると、大島の手から体温計を叩《たた》き落とした。体温計は土間に落ちて骨が砕けるようないやな音をたてて割れた。
「体温が異常に下がっている。検温を何故止める」大島も少し気色ばんだ。
「何故そんなところへ入れようとするんだ!?」
「直腸内温度を計りたいのだ、三十度以下に低下《さが》ると危険なんだぞ」
「もう止めてくれ! 皆で静子を嬲《なぶ》るのは止めてくれ!」
「嬲る?」
今度は小屋の若い者が色をなした。
「待て」
それを押し止《とど》めたのは大島である。彼は有馬の方へ詰め寄ろうとした小屋の者をなだめると、有馬に向かって、
「確かに悪かった、検温は口中でも出来ないことはなかった。奥さんはあなたに任せよう」
「先生!」
面を上げた善助に「いいんだ」と首を微《かす》かに振って力なく奥の部屋へ去った。大島のわけありそうな様子にそれとなく事情を察した小屋の者もそれぞれ別の部屋へ引き取った。
ストーヴの傍に残されたのは有馬と静子だけである。急に静かになった土間にストーヴの炎だけが勢いよく燃えた。
「静子」
有馬はようやく自分一人のものとなった妻の上へかがみこんだ。それはすでに死体に近い妻であった。またそうであればこそ、大島が彼に任せてくれたのであろう。
体表面はますます蒼味を加え、口唇は紫色を呈している。血管が麻痺《まひ》状態に陥り、末梢《まつしよう》血管は拡張、鬱血《うつけつ》、内臓に貧血を起こしているのであろう。しろうと目にも彼女が危険な状態にあることは分った。
だが有馬には再び大島らを呼び戻し、あの残酷な手当≠頼む気にはなれなかった。
それに大島があっさり手を引いたのは、有馬の干渉≠ノ気を悪くしたからではなく、すでにどのような手当も効《かい》がないと診た様子である。
だが有馬にはもう一つ、消えていこうとする妻の生命の灯を少しでも長引かせるための絶望的な手段が残されていた。
「静子、さぞ寒かったろう、待ってろ、今俺が暖めてやる」
彼は意識ある者に語る如く、一個の物体のようになった妻へ優しく語りかけると、衣服を自ら剥《は》いで、妻と同様の姿となった。そして静子の傍へひざまずくと、シュラーフの中へ身体を滑りこませた。
二人の成人の男女を容《い》れたシュラーフは、チャックをしめると殆《ほとん》ど余裕がなくなった。有馬は妻の裸身をひしと抱きしめた。彼は自分の肌で妻を暖めようとしたのである。ストーヴの傍、湯タンポやマッサージなどによって暖められたはずにもかかわらず、彼女の体と密着した有馬の肌には氷のような冷たさが伝えられてきた。しかもその冷えた裸身は急坂を下るように加速的に体温を下げていくようである。
呼吸が忙《せわ》しなく、短くなってきた。
「静子、静子!」
有馬は彼女の生命の灯をかき立てるように必死に呼んだ。その声が届いたのか、一瞬、彼女の唇が震えたように見えた。
「静子、俺だ、正一だ、分るか!」
有馬は必死に呼び続けた。再び静子の唇が震えた。今度はその震えを有馬の目はしっかりととらえた。
「あなた、お願い……」
唇はそう呟《つぶや》いたように聞こえた。それは何の意味もない譫言《うわごと》であったかもしれない。だが有馬はそれを執拗《しつよう》に追及した。夫婦がこの悲しいめぐり逢い≠して以来、妻が初めて夫に語りかけた言葉であった。
「願いって何だ? 何でも聞いてやるよ、静子、しっかりしろ!」
彼は妻の躰《からだ》を揺すった。閉じられた瞳が微かに開かれた。両瞼の僅《わず》かな隙間《すきま》から覗いた静子の目は焦点を失い白濁していた。有馬はそれを妻が甦《よみがえ》った徴《しるし》と錯覚して狂喜した。
「私が悪かったわ、許して……」
静子ははっきりした言葉を伝えてきた。だがそれは今ここにいる[#「今ここにいる」に傍点]有馬に向かって語りかけられたものではなかった。すでに混濁した意識の底で彼の幻に向かって語りかけていたのである。
「……私、幸せだったわ」
幻視の中で幸せな日々を夢見たのか、静子はふと微笑《ほほえ》んだ。
「何を言う! これからもっともっと幸せになれるじゃないか」
有馬は彼女が「過去形」で幸せと言ったのが気に入らなかった。
「幸せだったわ」
彼女は同じ言葉をくりかえした。
「お願い……どうか止めて」
「止める? 何を止めるんだ?」
妻の譫言(有馬は譫言とは気がつかない)の中に加えられた新しい言葉の意味が彼には分らなかった。
「止めて、お願いだから……復讐《ふくしゆう》など止めて」
熱に浮かされたような途切れ途切れの言葉の中で、その言葉だけが、ひときわ強い光を放つようにはっきりと聞き取れた。彼女は最後の力を集めて有馬の暗い目的を思い止まらせようとしているのだ。
ようやくその意味を悟った彼は、答えるべき言葉を失って息を詰めた。
「……あなたには……そんなことより……他にしなければならないことがあるわ……お願い、止めて」
一瞬、甦ったかのように思えた声は、再び途切れがちとなり、急速に弱くなっていく。肌を接した胸に伝わる彼女の鼓動が弱まり、呼吸が遅くなってきた。瞼は再び閉じ合わされていた。
「静子! どうした、しっかりしろ、おい、死ぬなよ」
有馬は妻の耳へ口をつけて呼んだ。微かな震えが唇におこり、聞こえるか聞こえないかの声で、
「あなた……好きだわ」
そして体の芯《しん》の方に僅かに残っていた体温が急速に失われ、今度こそ物体の冷たさとなって有馬の肌に伝わってきた。
今迄の言葉は死の寸前の命の灯の最後のまたたきであったか、それとも、寒気に中枢神経がおかされたために生じた一時的な神経症状であったかは分らない。ただ彼に分ることは、自分の胸の中で妻が急速に一個の物体に還元しつつあるという事実であった。
だが有馬は強いてその事実に目を瞑《つむ》った。今、自分の胸の中にいる静子は、平常《いつも》の優しい妻である。自分の激しい愛撫《あいぶ》に、それ以上の激しさで応《こた》えた後の快い眠りに浸っているのにすぎない。
誰もいない二人だけの密室、戸外の風雨から柔らかく隔絶された二人だけの空間で、裸の肌を絡め合わせている。ストーヴが送る快い温度とほの明るさ。――
有馬はそこをN市の団地にある自分たちの閨《ねや》のように錯覚した。彼らは団地の気密性をよいことに、冬の夜、石油ストーヴに暖められたほどよい温度の室内で、思うさま放恣《ほうし》な姿態で夫婦の営みを楽しんだものだ。厚い鉄筋コンクリートの壁に鳴る木枯しは、汗ばむほどの室内で絡み合う夫婦に、ことさらに世の中から遠く隔てられたような錯覚を抱かせた。一つの導入は次の導入を誘う。若さに任せて躰をぶっつけ合う。夫婦であるが故《ゆえ》に許される淫靡《いんび》なそして獣の構えを、二人で次々に試み発明≠オていったものである。
あの時ほど愛と肉の一致を強く感じたことはなかった。そして……あの時が今だ。
――一瞬、静子の全身が痙攣《けいれん》し、心臓の鼓動が止まった。彼女は遂に逝ったのだ。
彼はそのまま朝まで妻の躰を抱き続けた。ストーヴの火が尽きかけると、小屋の者が舞台の黒衣《くろこ》のようにどこからともなく姿を現わし、燃料《まき》を加えるとまた闇《やみ》の中へ音もなく消えた。
8
北アルプスにて日本登山界の巨星|墜《お》つ。
(豊科《とよしな》=長野県)一日午後一時二十分頃、北アルプス燕《つばくろ》岳北燕沢の雪溪で大島清氏(三十九)横浜市磯子区森町一八五四大島外科病院経営、が足を踏み滑らし、一千メートル滑落して死んだ。
大島清氏はT大山岳部時代より主として北アルプスに尖鋭的《せんえいてき》な足跡を残しており、昨年七月にはヒンズークシュ遠征隊長を務めて帰国したばかりである。現在全国山岳協会の副会長をつとめ、日本登山界の指導者的存在である。
大島氏は正月休暇を利用して、単独で燕岳登山中この奇禍にあったものだが、現場は特に危険な場所ではなく、同氏の遭難時正月登山中の一般登山者も多数現場付近に居合わせてこの事故を目撃していた。
同氏がピッケルを持たずに雪溪に踏みこみ、誤って転倒したのが事故の原因と推定されている。――
有馬がそのニュースを読んだのは、一月三日であった。静子の納骨も終わり、N市の団地で、全く無為に時間を過ごしていた有馬が、なにげなく開いた新聞の社会面に、その記事はでかでかと載っていた。
常の正月ならば、賀状を出さなかった人からもらった賀状への返事書きに忙殺されている時間である。都屋の現役中には途方に暮れるほど舞い込んだ賀状も、今は数えるほどである。社会や友人が自分から遠く去ってしまった寂寥感《せきりようかん》があった。しかも、団地の一人住いほど味気ないものはない。
早晩引き払うつもりの部屋だったが、静子の死に臨んでの諌止《かんし》で、大島への復讐心が空気の抜けた風船玉のようにしぼんでしまうと、今迄《いままで》自分を支えていたすべての気力が同時に喪《う》せて、何をするのも面倒臭くなってしまった。反社会的なものであっても、大島への復讐は、有馬の生き甲斐《がい》になっていたのである。
静子との想い出が充満するこの団地にいては、妻への恋しさと寂しさで気が狂いそうになるのだが、さりとて、移転先探しや、荷造りなどの煩わしさを思うとつい億劫《おつくう》になってしまう。
もうそろそろ起きなければと気ばかり焦りながら床の中でいつまでもぐずついている時のように、彼は何とも怠惰な荒廃感に蝕《むしば》まれていた。
その当面の無為を埋めるために何気なく流した目に、記事は何の予告もなく飛びこんできた。最初は何気なく読み過ごした。似たような名前もあるものだと思った。だが、似たような経歴、似たような職業、似たような住所と、類似点が次々に重なるうちに、彼は遭難者が大島清その人であることを知った。間違いなかった。
――大島が死んだ。
これをどう解釈すべきか? 有馬が彼に抱いていた憎悪から推せば、この事故はむしろ喜ぶべきことであろう。
有馬の最愛の妻を、彼よりはるか以前に犯し、玩《もてあそ》んだ憎むべき男が死んだのだ。新聞によれば一千メートルの雪溪を滑落し、全身打撲で死んだそうである。死体は見られたザマではなかったろう。
有馬は雪溪の諸所に牙《きば》を剥《む》く鋭利な岩角に切り刻まれながら、一個の物体のように一千メートルの奈落へと墜ちて行く大島の姿を瞼にまざまざと見た。
おろし金にかけられたような死体、雪溪にひかれた鮮やかな血潮の帯。
「ざまあ見ろ!」
有馬は口に出して言った。だが不思議にそれは実感となって胸に迫らない。
かといってもちろん彼の死に哀《かな》しみを覚えることもない。アルプスの深奥《しんおう》まで、追いつめて行った炎のような殺意は一体どこへ行ったのか?
静子がみんな持って行ってしまったのだ。愛憎も情熱も悪意も、自分の人間としてのエネルギーのすべてを、静子はあの三俣小屋の夜、みんな自分から抜き取ってしまった。ここにあるのはただ妻への想い出だけに浸っている去勢された男にすぎない。
「俺《おれ》はこれからどうしたらいいのだ?」
妻を喪《うしな》い、今また、大島という、情熱の源泉であり対象であった人間を喪って、自分はこれから何を支えに、何を目的に生きていったならばよいのか?
今考えてみれば、静子の過去を知り、大島を探して過去への巡礼≠辿《たど》り、山を学び、雲の平まで彼を追って行った時は、暗澹《あんたん》とした心ではあってもまさしく生きている♀エじがしていた。それが今はどうだ? これは決して生きているのではない。単にここにいるだけだ。寝て起きてめしを喰い、排泄《はいせつ》してまた眠る。単に動物的にここにいる≠セけにすぎない。
このままの生活というよりは、生存を続けていけば、早晩、人間としてのあらゆる知的な思考や判断力を失い、更に動物としての有機的な営みすら忘れて、一個の無機質のようになってしまうのではないか。
自分は一体どうしたらいいのだ?
〈あなたには他にしなければならないことがあるわ〉
有馬の耳朶《じだ》に静子が死に臨んで残した言葉が甦った。
「その為《な》すべきこととは何だ?」
〈そんなことより……あなたには他にしなければならないことがあるわ〉
「だからそれは一体何なのだ? 静子、教えてくれ! 教えてくれよう!」
だが妻の声は二度と答えなかった。有馬の声のみが白い壁につき当たり、虚《むな》しく反響した。
「お前はそれを教えずに逝ってしまったのか、一人だけ先に」
有馬の虚脱した表情を、新聞に載った大島の顔写真の笑顔が楽しそうに眺めていた。今頃はあの世で静子と一緒に旧《ふる》きよき過去《むかし》≠語り合っているのだろうか? だがそのような思いに対してすら、怒りも悔《くや》しさも湧《わ》いてこない。
このままでは俺はだめになる。有馬は白い壁の中を、檻《おり》の中の動物のように動きはじめた。
天の道標
1
松波俊二が有馬の訪問を受けたのは四日の午下《ひるさ》がりである。今日は顔合わせだけで仕事はない。午前中、社長の社員一同への年頭の挨拶《あいさつ》にちょっと顔を出し、後は幹部連で冷酒を酌み合った。それで今日の行事は終わりであった。
昼食は秘書が運んで来た幕の内弁当で軽くすました。会社に来ていた自分あての年賀状に目を通している時、彼は旧友の訪問を秘書から取り次がれた。
「いかがいたしましょう?」
彼に午後の予定≠ェあるのを知っていた秘書は、おそるおそるうかがいをたてた。
「そうだな?」
松波は少しの間|躇《ためら》いを示したが、すぐと、
「通してくれ」と命じた。
正月早々の、何となく伸びやかな気分になっている時に、旧い友に会うのも悪くない。それにこの友は、自分が提供した金の椅子≠蹴とばして辞めてしまった、現代の価値観ではおし測《はか》れない珍友≠ナある。どうせろくな用事ではあるまいが、正月の慰みにこういう素頓狂な人物に会ってみるのも一興だろう。
松波は見世物を楽しむようなつもりで有馬を通させた。
「やあ久しぶりだな」
松波は約一年ぶりの有馬を愛想よく迎えたが、内心、友の別人のような変貌《へんぼう》に愕《おどろ》いていた。
豊かだった頬《ほお》がげそっと削《そ》げ落ち、柔和ながらいつも熱っぽい光をたたえていた目が、腐った魚のそれのようによどんでいる。皮膚もカサカサに乾いて艶《つや》がない。
服装にはかなりやかましかった彼が、一応背広にネクタイはつけているものの、ネクタイは使いすぎたために結び目が細くなり、ズボンはプレスの筋が完全に消えて膝《ひざ》が円く出ている。
それは別に経済的に窮したためではないだろう。松波は二、三年は無収入でも喰《く》っていけると言った有馬の言葉を覚えていた。一定の仕事を持たぬ男の、精神の張りを失った姿なのである。
「その後どうしている」
松波は何気なく聞いた。
「いや、実は、……ワイフが死んでね」
「えっ、奥さんが!?」
そうか、そうだったのか。彼の虚脱した様子は、きわめつけの愛妻家が恋女房を喪った症状だったのか。……とすればまた何とだらしない。たかが一人の女房[#「一人の女房」に傍点]が死んだくらいでこの世の終わりのような顔をしてやがる。
それにひきかえ、この俺は――
松波は今日の午後の愉《たの》しい予定を想った。そうだ、有馬も一緒に伴れてってやろう。世の中にはワイフの死など吹飛ばすような大きな愉しみが充ちていることを教えてやれ。
「今日は忙しいのか?」
忙しいはずがないと思いながらも、松波は一応|訊《き》いた。
「いいや」
案の定、無気力な返事がかえってきた。
「別に何の用もない、ここへ寄ったのも、何となく近所を通りかかったからさ」
有馬は自嘲《じちよう》するように唇の端を歪めた。
「ならちょうどいい、俺はちょっとこれから行く所がある、一緒に来ないか?」
「いいのか?」
「構わないよ、お前にも見せたいんだ」
「見せたい?」
「ま、いいから来い」
来れば分ると言うように松波はニヤニヤしながら立ち上がった。
正面玄関から重役専用のクライスラーへ乗りこんだ松波は、有馬の知らない行先を告げた。車は竹橋から千鳥ケ淵の方へ抜けて行く。まだ正月気分の抜け切らぬ町は、歩行者の姿に比べて車量は少ない。うらうらした冬陽射しを浴びてクライスラーは、アスファルトを噛《か》むタイヤの小気味よい音を残しながら、快適な速度で進んだ。
「一体どこへ行くんだ?」
「もうすぐだよ」
松波はニヤニヤ笑うばかりである。やがて車は英国大使館の裏あたりの、とある小さなビルの前に駐《と》まった。
「ここだ」
松波は頤《あご》で示した。ビルの入口には「日本企業経営研究所」という金文字が麗々しく入っている。尾をピンと張った外車がそのビルの前にすでに何台か駐まっていた。ビルの何となくみすぼらしい外観に比してかなり繁盛≠オている様子である。
運転手に恭《うやうや》しく扉を開けられて、松波は鷹揚《おうよう》に車外へ降り立った。
「二時間ほどかかるだろう、めしでも喰って待っててくれ」
松波は最敬礼する運転手の手に二、三枚の札を掴《つか》ませた。入口に受付があり、目つきの鋭い守衛が立っている。松波はすでに顔馴染《かおなじ》みらしくものなれた様子で中へ入った。有馬が続こうとすると、守衛が、
「もしもしあなた様は?」
と咎《とが》めるような口調で訊いた。
「あ、いいんだ。僕の伴《つ》れだ」
「これは大変失礼しました」
守衛は恐縮したように頭を下げたが、目の鋭さは消さなかった。おそらくそれが生来のものなのか、やくざのような感じのする男である。
「何だかずいぶんうるさそうだな」
自動式エレベーターの中で有馬が少々|呆《あき》れ顔で言うと、松波はフッと薄笑いしただけで何も答えなかった。
エレベーターが最上階《ルーフ》を示すRで止まると、松波は心得た態度で降りた。エレベーターのすぐ手前に受付と大きくサインボードを出した机が置かれ、先刻の守衛同様目つきのよくない男がシャープなダークブラウンの背広に身をかためて控えていた。
松波は胸の内ポケットから何やら身分証らしいものを男に呈示して、
「松波、こちらは僕の伴れだ」とだけ低く呟《つぶや》いた。
「どうぞ」
男は椅子から立ち上がり、恭しく頭を下げながら背後の室の扉を指し示した。扉には「経営相談室」と大きなサインボードがかかっている。
何やら秘密《アングラ》めいた様子に、有馬はブルーフィルムの鑑賞か、それに類したものだろうと推した。そんな子供|欺《だま》しの集まりに先刻から大げさな資格審査≠ニ、松波の緊張した表情がひどく幼稚に見えた。
ありふれた秘密ショーにことさら犯罪めいたムードを出しているのも、会員《かも》たちから高い会費をカモるためのトリックであろう。
有馬は馬鹿馬鹿しくなってきた。今日松波を訪れたのは、常に脂切った野心を沸《たぎ》らせている松波に会えば、あるいは自分の無為の解決とまではいかなくとも、ヒントぐらいは得られるかもしれないと思ったからである。
しかし、こんな秘密ショーは無為をますます大きくするだけだ。やはり来るのではなかった。彼が為すべきことは他人に教えられるものではなく、自分一人で探し出すべきものだった。――
有馬は悔やんだ。だが、その時はすでに彼の体は「経営相談室」の中へ入っていた。入った所はアパートの入口のように平土間となっていて、そこにまた一人の男が立っていた。しかし、今度は資格審査ではなく、彼らにあるもの[#「あるもの」に傍点]を手渡すためだった。それはマスクだった。会員はすべてそれを着けなければ奥へは入れないことになっているらしい。
それは会員同士が互いに知られぬための自衛であると同時に、アングラムードを盛り立てるための小道具にちがいない。有馬も仕方なくそれを着けた。
二人がマスクを着け終わると、男は土間と奥の仕切戸を開けてくれた。中は二十畳ぐらいの緋《ひ》の段通を敷きつめた洋室だった。ブラインドがおろされ、ピンク色の淡い照明が室内をほのかに浮き上がらせている。同様のマスクを着けた会員が、十人ほど先着し、思い思いの姿でうずくまっていた。
会員の中には女性も何人かいた。よく見ると男女の数はほぼ同数のようである。それぞれ手持|無沙汰《ぶさた》に、しかし、これから何がはじまるのかという熱っぽい期待で息をひそめている様子がよく分る。同様のマスクを着けているが主催者側らしい男が、会員にウイスキーやジュースを配っていた。
だが室内には映写幕《スクリーン》の用意もなければ、演技用の舞台≠烽オつらえられていなかった。男女――それも明らかに上流階級《ハイソサエテイ》の会員が、緋の段通の上、ピンクの照明の下にお互いに黙りこくってウイスキーやジュースを舐《な》めているだけである。
(この連中が乱交パーティでも始めるのかな?)しかしそれにしては乱交に誘うための道具立てが不足していた。
「フリーセックスなどというつまらないもんじゃないぞ」
彼の思惑を見透かしたように松波が囁《ささや》いた。彼らの後に更に三人ほどの会員が入って来るとそれで出席予定者は全員|揃《そろ》ったらしい。室内の期待と緊張が最高に高まってきた。何も道具立てがないだけに無気味な緊張である。
緊張が耐え切れぬまでに極まった時、マスクに黒ガウンを纏《まと》った二人の男女が入って来た。二人は部屋の中央へ悪びれずに進むと、会員たちに軽く頭を下げ、ガウンを脱いだ。下には何も着けていない。二人共にごく普通の躰《からだ》、どちらかといえば貧弱な部類に属する躰をしていた。
(ふっ、ありふれたシロクロじゃないか!)
異様なムードにいくらか興味を覚えはじめていた有馬は、いっぺんに失望した。演技者たちの貧弱な体躯《たいく》がよけいに興味を失わせた。
二人は型通りに絡み合った。別にどうということのない姿勢で、しかし長い時間をかけて互いに揉《も》み合っている。松波の手前、席を立つわけにもいかない。別に他に何もすることがないので、何の興味もない視線を演技者たちの拙劣な演技《シヨー》≠ノ向けていた有馬は、途中で「あんなことなら俺にも出来る」と奇妙な優越感を覚えてきた。観客はプロのシロクロの演技にかなり強烈なものを期待して来る。だがそれが自分たちが家庭で営んでいるものと同じ様なごくありきたりの演技であると、失望と同時に、自分のセックスが人並みであることの安心感と、自分たちよりもむしろ拙劣に見えるプロの演技に、有馬が覚えたと同様の優越感を覚えるのかもしれない。
会員たちにこのような演技に見かけられる脂切った騒《ざわ》めきが感じられなかったのは、そのせいであろう。かといって退屈している気配はない。いずれもゆったりと一歩上に構えてショーを楽しんでいる風情であった。
やがて男が、女の躰の上にぐったりと崩折れた。やや暫《しばら》く男の躰の下で躰を休めていた女は、静かに立ち上がり、
「どなたか、どうぞ」と余裕をもって言った。
有馬にはその意味が分らなかった。男の会員の間に瞬間|躇《ためら》いと騒めきが起きたが、その中からすぐにやや小太りの浴衣《ゆかた》がけの男が立ち上がった。
「頑張れ!」
男会員の中から奇妙な声援が送られた。奇妙だと思ったのは、有馬に声援の意味が分らなかったからである。
小太りの男はもの馴《な》れた態度で中央へ歩み寄ると、誘った女へ挑んだ。男は浴衣《ゆかた》の下に何も着けていなかった。今度は男の一方的なペースで行為が進められた。二回目であまり元気のない女を容赦ない激しさで揉みしだき、やがて女が精魂尽き果てたようにのびてしまうと、男は勝ち誇った様子で立ち上がり、
「どなたか?」
と婦人会員のあたりを見回した。最初のうちは適当にいり混じっていた男女会員がいつの間にか二つのグループに別れている。有馬はようやくこの時になって、これが破廉恥なタイトルマッチであることを知った。マスクは顔を隠すためではなく羞恥心《しゆうちしん》を麻痺《まひ》させるためのものであった。
最初はプロによって導入された試合に、クライマックスに至るのをより長く耐えた者が勝ちとなって次の挑戦者を迎える。男女双方同時に崩れた場合は、女が辞退しないかぎり、生理的な理由から男を敗れたものとする。――という試合ルールも、|取組み《カード》≠ェ進むうちに分ってきた。
第一試合にわざと貧弱な躰の演技者を選び、拙劣な演技をさせたのも、会員を試合に導入しやすいようにした主催者の演出であろう。取組みの間にも試合が活発になるようにプロのサクラが適当に混じっているようであった。
「おい」
あまりにも恥知らずの企画に唖然《あぜん》としていた有馬の横腹を松波がつついた。
「お前も出ろ」
「冗談じゃない」
「それじゃ今度、俺が出るぞ」
部屋の中央ではマスク越しにも、くっきりした目鼻立ちが目立つ、若い人妻風の女が一人抜いた≠ニころである。
「おい、馬鹿な真似《まね》はよせ」
「いやなら先へ帰ってもいいんだぜ」
松波はせせら笑い、女が「どなたか」と言うと同時に挑戦の印にサッと立ち上がった。
「どうだ、面白かったか?」
それから一時間ほど後、帰りの車の中で松波は得意そうに言った。彼は二人勝ち抜いた[#「勝ち抜いた」に傍点]ので至極上機嫌である。
「よくもまあ、あんな恥知らずな真似が出来たもんだ」
「恥知らずな真似?」
松波は無表情に受けると「ふふ」と薄く笑って、
「何が恥知らずなもんか、お前、俺が挑戦した女、一体誰だと思う?」
と意味ありげに言った。
「誰だと? どうせ主催者が、雇ったコールガールだろう」
「ところがどういたしまして、あれはな、百合子さ、俺のワイフだよ」
「ワイ……お、奥さんだって!?」
意外な言葉に有馬は舌が縺《もつ》れた。
「そうさ、あんなマスク着けてたって自分の女房ぐらい分る、まして抱いてみればな。夫婦は俺だけじゃない、あすこへ来た連中はみんな夫婦なんだ、最初に出たプロも夫婦だよ」
「何だって!?」
「態のいい夫婦《ワイフ》交換《スワツピング》の会なんだ、あれは。みんな身許《みもと》の確かな連中ばかりだよ」
「よく奥さんが承知したな」
「ワイフの方が話を持ちかけてきたんだ。俺《おれ》たちはな、家では燃えない夫婦なんだが、不思議にあの集まりに出ると、よく燃える。あの連中がみんなそうだ。夫婦とは名ばかりで離婚寸前にきている奴《やつ》ばかりだからな。それがあのタイトルマッチのおかげで夫婦仲が続くばかりか、甦《よみがえ》ったカップルもある。もっとも、完全に仲が直った夫婦は試合に出なくなるがね」
「子供でも出来たらどうするつもりだ?」
有馬は男たちがそれらしい用意を施していなかったことを思い出した。
「排卵期にかかる女性メンバーは出場しないことになっている、それに万一妊娠しても全員の連帯責任で万全の処置をするようになっているから心配ない」
松波は思い出し笑いをして、
「レクリエーションとはまさにかくあるべきだな、現に手に持っているものにちょっと工夫を加えるだけで素晴しい刺激と悦楽が得られる。誰に迷惑をかけるわけでもなければ、悪いことをするわけでもない、カビの生えた道徳家は多少|眉《まゆ》を顰《ひそ》めても、不潔な情事に比べればずっと衛生的だ。金も手間もかからん、夫婦仲はよくなるし、お互いの浮気封じにはなる。一体、一石何鳥になるだろう?」
有馬はもう何も言えなくなった。
「ところでお前、今日これからどうする?」
自分一人の愉《たの》しみを反芻《はんすう》していた松波は、ようやく有馬へ友人としての目を向けた。
「どこでもいい、最寄りの国電の駅へつけてくれ」
「どこかで一緒にめしでも喰《く》わんか、久しぶりだ」
「また次の機会にしてくれ、ちょっと思い出した用事があるんだ」
「それじゃあしょうがないな」
松波も強く誘わなかった。彼には旧《ふる》いしおたれた友と食事を共にするよりは、はるかに充実した時間の過ごし方がいくらでもあった。
「お前、都屋へ戻るつもりはないか?」
「今のところはないが、そのうちに頼むようになるかもしれん」
「その時は遠慮せずに来いよ、お前のための相当なポストはいつでも用意するからな」
別れしなにかけてくれた声はそれでも友としての情が残っていた。だが有馬を降して車をスタートさせると同時に、松波の頭は明日からの経営戦略に占められた。
さっきのレクリエーション≠焉A有馬と久し振りに語ったことも、彼のスタミナの肥料≠ノすぎなかった。
2
「一体、俺は何を為《な》すべきか?」
その問いに対するヒントでも得られればと松波に会いに行ったのが間違いであった。この無為感はますます大きくなり、精神の深部をさらに深く抉《えぐ》っていくようである。
白昼からビルの密室で夫婦交換に耽《ふけ》っている恥知らずの男女の群、しかもそれが人間最高の悦楽であるかのように錯覚し、充実感すら持っていた松波。
人間の営みとはあんなにも浅ましいものなのか? 夫婦のつながりとはああまでしなければ維持出来ないものか? そんなはずはない。あれは夫婦、いやすでに人間としての情を失った者たちが、動物的な行為の中に悦《よろこ》びを覚え、そこに人間としては見られなかった別の魅力を見出しただけである。
もし夫婦仲があのような行為によって甦ったとすれば、人間としての夫婦の尊厳を自ら冒涜《ぼうとく》し、汚穢《おわい》の中に今度は、オスとメスとして再会したからだ。
一体あの行為のどこに人間らしいところがあったか? しかも彼らはそれを虚《むな》しいとすら思わない。ならば一体、充実したもの、意義あるものとはどういうことなのか?
しみじみ生きていてよかったといえるような悦びで身と心を充《み》たしてくれる対象に、人間はめったにめぐり逢《あ》えるものではない。そうであればこそ人間は、大して意義もないことを容易に意義あるものと錯覚して働きかけられるのではないか。
だから今日の松波のように、人間であることを止めたような行為の中に、愉しみと充実感! すら見出せるのだ。
人間のやることには何一つとしてろくなことはない。政治だの経済だの経営だのといったところで、煎《せん》じつめれば小さな自己保存、利己心から発したものにすぎない。
有馬はますますニヒルに堕《お》ちていく自分を悟った。――人間のやることには何一つとしてろくなことはない――というニヒリステックな考えを、そんなことはないと強く否定するのだが、それでは何をすれば意義があるのか? の問いに対して答えられぬもどかしさが、彼をますますデスペレートな虚無に堕としこむようであった。
車内は正月の晴れ着に着飾った男女や家族|伴《づ》れでかなり混雑している。いずれも健康な表情である。
だが、どれも画一的な乗客の表情を見ていると、「人間は何を為すべきか?」という問いに答えてくれる者がこの世に一人もいないような絶望感を覚えてくる。
現代の人間にはそんなものは全然必要ないのだ。とりあえず、自分と身の周りの者たちの幸福(画一的な)さえ確保されれば、そんな面倒なことを考える必要はない。どだい今の人間を取り囲む環境が、一人一人の人間に意義あることを為せるように出来ていない。人間は社会をつくる極微粒子として細分化、単純化、規格化されたことをやっていれば(それも受動的に)よい。
為すべきことを持たないのは、何も俺一人じゃない、みんなそうなんだ。他にすることが何もないので止むを得ず、どいつもこいつも同じようなことを、「為すべきこと」としてやっているにすぎない。
有馬は強いて自分を納得させようとした。
だが、そう努めれば努めるほど周囲に群れる乗客がすべてロボットのように感じられ、自分一人が人間と機械のどちらでもない駄獣に変身していくような気がした。
3
「どこから入っても二日はかかる」
ふとそんな会話が耳に入ったのは、電車がF市のプラットホームへ滑り入った時である。途中駅から乗りこんだ高校生の一団だった。彼らは近々出かけるスキーツアーの話をしているらしかった。
聞くともなく彼らの若々しい会話を聞いていた有馬の耳に、その言葉だけが妙に強調されて飛びこんできた。今迄《いままで》ロボットの会話として聞き流していた言葉の中に、人間の言葉がいきなり飛び込んできたような気がした。
――どこから入っても二日はかかる――一体どこの話をしているのだろう? 交通機関の発達した今時、そんな辺鄙《へんぴ》な場所はそうざらにあるものではない。
有馬が興味をそそられて耳を欹《そばだ》てた時、ドアが開き、高校生のグループは降りて行った。取り残された形の有馬は一人で言葉の先を追った。
(しかし、俺はどうしてあの言葉に興味をそそられたのだろう?)何故あの言葉だけが、人間の言葉として自分の耳に残ったのか? 彼はまずそのことが不思議でならなかった。
すべてに興味を失った今の虚脱状態で一つのことにこうまで心を残すというのはおかしい。
あの言葉にはどんな意味があるのか?
二日間……二日間……どこから入っても二日間、たしか雲の平もどこから入っても二日かかった。
「そうだ! 雲の平だ」彼は思わず声を出して言った。いきなり一人言をいった有馬に、周囲の乗客が気味悪そうな視線を集めた。だが彼は一向に頓着《とんちやく》せず自分の思いを追い続けた。
学生の言葉が心にひっかかったのは、それが彼らの目的地Xと、雲の平の共通項だったからだ。しかし要するにそれだけのことにどうしてああも興味を惹《ひ》かれたか?
「二日」が雲の平との共通項であるのは分ったが、依然としてその言葉が鍵《かぎ》となって記憶の抑圧が行なわれているもどかしさがあった。
そうだ、すべては「二日」が鍵になっている。松波に会いに行ったのも、人間不信の虚無感に陥ったのも、為すべきことは何かの答えを抑圧しているものもすべてこの「二日」に原因がある。何で二日なのだ、何故? 何故?
「どうして一日では行けないのだ?」何気なく日数を短縮して呟《つぶや》いた時、一切の抑圧がはらりと取り払われた。
そうだ、一日だ……
……もし一日で行けたら?
「静子は死なずにすんだ!」
今度は周囲の者がびっくりするほど大きな声だった。
――静子は俺たちより二日遅れて後を追って来た。大島の予定によれば、雲の平での三日目ぎりぎりに俺たちに追いつくはずだった。だから一日でも歩程が遅れればもう追いつけなくなってしまう。だがもし雲の平へ一日で入れる近道があったならどうだろう。俺たちが予定通り裏銀座のコースをやって来るのを、一日天候待ちしても、近道を通れば追い着けたのだ。
有馬は静子が死んだ翌朝の憎いばかりに晴れ上がった空の色を思い出した。一日だけ天候待ちすれば彼女は死なずにすんだ。そして雲の平へ一日で入れる道があれば、妻は天候待ち出来た。
即ち、雲の平へ一日で入れる道があれば――静子は死なずにすんだのである。
有馬の虚無感が霧が霽《は》れるように失せたのはその瞬間だった。
(俺は何をすべきか?)
――雲の平へ一日で入れる道を拓《ひら》く――
そのためにどのようなもろもろの困難が横たわっているか、具体的には何も分らない。ただ雲の平への一条の道が瞼《まぶた》にくっきりと浮き上がっていた。その道は、車窓に映る硬い冬の蒼空《あおぞら》とオーバーラップして、あたかも天へ至る道のように見えた。そのはるか上方に静子の面影が、「天へ至る道標《みちしるべ》」のように微笑《ほほえ》んでいた。
電車は彼の下車駅をとっくに通り過ぎていた。
贖罪の遺贈
1
「お父《とう》、東京からお客さんせ」
藤井善助が娘の千恵から取り次がれたのは、正月《とそ》酒の酔いが快く残る体を囲炉裏端でうつらうつらさせている時だった。
正月登山客の遭難事故もなく、久しぶりに山麓《さんろく》O町郊外にある自宅で、学校のある間は親せきに預けておく小学生の娘と一緒に正月を迎えていたのである。
「東京から?」
善助は半分眠っていたような目を開けた。今頃訪ねて来るとすれば登山者以外には考えられない。彼らは入山前に山の様子を聞いたり、小屋使用の許可をもらうためによく善助の家へ立ち寄るのである。
藤井善助、通称三俣の善さんといえば多少なりとも山をやる者で知らぬ者はないくらいの、雲の平をめぐるアルプス中枢山域の主《ぬし》のような存在である。
だが登山者だとすれば必ず事前に連絡があるはずだった。善助に全く心当たりがないところをみると山を下りて来た連中が立ち寄ったものか?
彼は千恵に頤《あご》で「通せ」と言った。やがて東京からの客≠ェ導かれて来た。彼はその客の顔に見覚えがあった。だが、顔と記憶の名前が結びつかない。
客に気まずい思いをさせる前に相手の方から名乗ってくれた。
「あ、あんたはあの時の」
「あの節は大変お世話になりました。おかげで現地で荼毘《だび》に付すことが出来まして」
「いや、世話になったのは、こっちの方じゃ。それにしても、あんたも奥さんをなくしてさぞ大変ずら」
善助の脳裡《のうり》にあの事件が鮮やかに甦《よみが》った。ことの成行きに愕《おどろ》きながらも、何やら曰《いわ》くありげな彼らの様子に深く詮索《せんさく》せず、地元警察への連絡から検屍《けんし》の依頼、死体の荼毘まで一切彼が面倒みてやったのである。
しかし今になってみるとその面倒よりは、嵐《あらし》の中を大島を運ぶために力を惜しまず協力してくれた感謝の方が先に立つ。あの夜の連帯感が、善助の胸に甦った。その中の一人はもういないのだ。
「大島さんも気の毒なことをしたせ、あれほどの人が、燕《つばくろ》なんかでよう」
善助は言ってから慌てて口を噤《つぐ》んだ。
二人の間に何となくモヤモヤしたものがあったのを思い出したからである。
だが有馬の表情は平静であった。
「本当に惜しいことをしましたね、日本の登山界は優秀な登山家を一人喪ったことになる」彼らの間に複雑な感情が絡んでいたと見たのは思い過ごしかと善助は思ったほどである。
一通りの挨拶《あいさつ》がすむと、善助は、
「ところで、今日は山登りでもなさそうだが」と有馬の軽装に初めて訪意を問う目をした。
「また何ぞ、O町に用でも?」
彼は有馬が何かO町付近に所用があったついでに寄ってくれたものと解釈したのである。
「いえ、実は藤井さんに折入ってお願いしたいことがありまして」
「儂《わし》に?」
善助は目をしばたたいた。そのためにわざわざ東京からO町くんだりまでこの季節外れにやって来たとなると、かなり重要な用事にちがいない。
「一体、何だい? 儂に出来ることならいいがな」
善助は少し言葉を選ぶようにして言った。
「はあ」
有馬はこの期《ご》になって躇《ためら》っていた。雲の平への道はこの地域に精通している善助の協力なくしては出来ない。だが経験の浅い有馬すら考えつくことを、三俣小屋を経営する善助が考えつかぬはずがない。一日で入れる新道は、誰よりも善助が切実に要求しているはずである。それにもかかわらず、まだ新道が出来ていないということは、それが物理的にも不可能≠セからではあるまいか?
こんな簡単なことが、熱にうかされたような状態の中では思いつかなかったのである。一昨日、松波と別れてからの電車の中で、新道開発こそ自分の為すべきことと思い至り、昨日いっぱいそのことを熱っぽく思いつめた。ようやく、善助の存在を思い出し、矢もたてもたまらず昨夜最終の列車で東京を発って来たのだ。
それが今、当の善助を目の前にして、自分の衝動的な思いつきの不備な点が一遍に醒《さ》めて、火照《ほて》った心に急制動をかけたのである。
「どうしたい、言ってみましょ」
善助に促されて有馬は心を決めた。今更|躇《ためら》ったとてどうなるものでもない。これはどうしてもやらねばならぬことである。
有馬を促しながらも、善助は実は彼の言葉を聞くのが怖いような気持になっていた。それは動物的な直感であったかもしれない。有馬が言おうとしていることが、これからの自分の運命に重大な影響を与えるような予感がしたのである。
このまま何も聞かずに別れた方がお互いに平穏無事な人生を送れるような気がする。
善助は山をやる人間によくあるように多分に運命論者であった。――自分がこうなることは前世から定まっていたことである。どうあがこうと自分のその運命から逃れることは出来ない。
――だから、彼は内心では有馬の言葉を聞くのを怖れながら、それを聞くことが必然の成行として定まっているように思った。
後にしておもえば、善助のこの傾向が両人にとって不幸であったとも言える。
2
「えっ、雲の平へ一日で入れる道を作りたいだと!?」
善助は眠っているところを突然のどをしめられたような声を出した。言ってしまった有馬は、平静な表情で、善助の風雪と酒に灼《や》けた面に現われる反応をじっと窺《うかが》っている。だが内心は必死であった。善助に拒《こと》わられれば新道の開発は事実上不可能となる。彼の内心は瞳《ひとみ》に集められた熱い光がよく示していた。
「そりゃ、無理だ」
善助は有馬の内心などは忖度《そんたく》せずにべもなく言った。
「どうしてですか?」
有馬は平然と質問を重ねた。雲の平の主であり、最高オーソリティの善助が無理だと言っていることを、「そんなことはない」と言わんばかりにまっこうから否定している。
「どうしてって、あんた」
善助は思わず舌を縺《もつ》れさせた。
自分の山域《なわばり》に関しては絶対の自信と権威を持つ善助は、常ならばとうに怒り出しているところである。それが今は有馬ごときよそ者の山の青二才に権威を否定されてしどろもどろになっている。
それはあながち、有馬に運命的な圧力を受けた所為《せい》ばかりではなかった。もう一つの理由があったのである。
実は彼は虚をつかれた形だった。雲の平への新道開発は、彼自身の見果てぬ夢であった。
現在雲の平へ入るには、烏帽子岳や槍ケ岳から長く危険な稜線《りようせん》を縦走しなければならない。三俣付近で少々天候が荒れれば、全く逃げ道はない。下界への交通は遮断され、連絡の方法すらなかった。
遭難者や病人が出ても下界への道が遠すぎるためにみすみす救けられる者を、救えなくなる。
特に物資の運搬は困難を極め、これが山小屋の経営を物理的にも、経済的にも危機に陥れる。山麓から一日で到達出来る山小屋と二日圏の山小屋では困難さが十倍も違うばかりか、時には経営そのものが不可能になることもある。
たとえば十人の|荷上げ《ボツカ》に槍ケ岳経由で物資を運搬させるとする。そして槍ケ岳山荘で悪天に見舞われ、そこから動けなくなったとする。当然ボッカ十人分の食糧と日当まで面倒見なければならない。悪天が長く続けば、やがて彼らが請負い仕事として運ぶべき食糧まで喰《く》い潰《つぶ》していく。食糧が底をつけば、今度は先行十人のボッカを養うために二十人のボッカを動員しなければならない。後続ボッカの食糧も同時に用意しなければならないからである。
ボッカのためのボッカ、このような馬鹿らしいことが奥地の山小屋の経営には起きる。そして最悪の場合は、何十人ものボッカを動かしても、目的の小屋へ到達した時は物資は何も届かず(ボッカの目的が食糧のみの場合は)、ただ徒《いたず》らに人間が移動しただけという下界の常識ではおよそ考えられない事態が起きるのである。
こうして小屋の経営者は莫大《ばくだい》な金と時間を失っただけで自分が欲する物は何一つ得ないこともある。だが登山者は無情である。三俣小屋が置かれた地理的ハンディなど一切|斟酌《しんしやく》せず、一日圏の山小屋と全く同じ比較にかけて設備やサービスを云々《うんぬん》する。この苦衷は、北アルプス山域の他の殆《ほとん》どすべての山小屋が一日圏になっている現在、他の山小屋の経営者にも理解してもらえない、孤独な苦衷であった。
もし新道が開発されれば、これらの問題は一挙に解決される。自分が愛してやまない雲の平をより広く世間に紹介し、より多くの登山者が雲の平を訪れるようになるだろう。
善助は雲の平の魅力と山小屋経営者としての計算から、そのルートの発見に努めていた。彼が狙ったルートは、三俣小屋の前から鷲羽岳の中腹を横巻きながら湯俣川の上流へ出て、そこから川沿いに湯俣温泉へ出るものであった。しかし、谷の様相が極めて悪く、途中黒部よりも急な流れの徒渉を何十回となく強いられた。道を拓《ひら》くには最悪の環境であった。
とはいえ他の尾根通しのルートでは、距離があり過ぎて新道としての意味がなくなってしまう。
距離的には小屋から湯俣川ぞい湯俣温泉へ至るコースが最も理想的なのだが、地勢が嶮《けわ》しすぎた。
だが善助はどうしても靡《なび》こうとしない女を思い切れない男のように、新道開発に熱い未練を残していた。そこを有馬に衝《つ》かれたのだ。
一瞬の愕《おどろ》きが醒《さ》めると、怒りのようなものが善助の胸にこみ上げた。
十六、七の頃初めて荷上げ人夫として山へ入って以来、雲の平周辺の山域を一人の女を愛し続けるように愛してきた善助にとって、昨日今日山を知ったばかりの都会の旅行者《ストレンジヤー》から新道開発の計画を打ち明けられたことは、自分が最も慈んでいる花園に土足で踏み込まれたような気がした。しかも新道は雲の平の主のような自分にすら靡かぬ気位の高い女である。そこへ同じ様に熱っぽい目をして言い寄った有馬は、善助の言わば恋い敵≠ナあった。
「とにかく、無理なこった」
善助は怒鳴った。話の途中から急に怒り出した彼を、有馬は珍獣でも眺めるような目をして、
「どうして無理だと分るんです?」
「どうしてだって!?」
善助は目を据えて、
「人里から山[#「山」に傍点]へ一日で入るにゃあ、湯俣川沿い以外にゃあねえ、俺《おれ》は何回もあすこを登ったが、とても人間の通れるところじゃあねえだじ」
「しかし、善さんはそこを登ったんでしょう?」
「そりゃ、おめえ」
彼は据えた目を剥《む》いた。
「俺だから登れたんじゃ」
それならば同じ人間に登れぬはずはないと言わんばかりの顔をして黙った有馬が、彼は気に入らなかった。山に生まれ、山に育った人間が長い年月と血の滲《にじ》むような努力を重ねて体に刻みこんだ技術と力を、指導標の完備した一般ルート(それも自分たちが拓いた)を忠実に上下する観光客≠ニ一緒にされてはたまらない。自分が登れたからといっても、観光客には一歩も近づけない場所なのだ。善助はプライドをいたく傷つけられたような気がした。
「とにかくこれはとんでもねえ話せ、新道なんてちょっとした思いつきで出来るもんでねえ」
彼はそう言うと口をへの字に曲げた。
3
「おとう、またあの人、来てるよ」
「何度来ても会わねえ、追い返せや」
善助は千恵に命じながらも、内心|辟易《へきえき》していた。
有馬が最初訪れて来た時は、どうせ町場者≠フ一時の思いつきにすぎないと高をくくっていたが、あれから一か月もたつのに毎日、一日もかかさず押しかけて来ては口説くのである。この頃では門前払いを喰わせているが、それでも懲りずに日参している。
千恵も有馬に同情して、それとなく口をそえたり、善助の留守などは、家の中に上げている様子であったが、彼は見て見ぬ振りをしていた。
O町辺の旅館に泊まりこんで通って来るのだろうが、根《こん》がつきる前に金が尽きると思ったのと、一時の嫉妬心《しつとしん》が去ってみると、自分が愛するものへ同様の熱意を示す有馬に一種の連帯感を覚えたために、最初ほど彼の押しかける訪問が不愉快ではなくなったからである。
だが依然として彼を拒《は》ねつけているのは、一種のてれ臭さもあったからだ。
「たまには、会ってやんなすったら? 有馬さん、O町に部屋さ借りたんだってさ」
「何、部屋さ借りただと!?」
善助は娘に目を向けた。旅館住いをしているとばかり思っていたが、部屋を借りたとなると、相手は相当に腰を据えている。これは一時の思いつきなどではなさそうだ。
善助はようやく、有馬が新道開発に傾ける情熱の理由をまだ聞いていなかったことに気がついた。
よそ者がこれだけの熱っぽさをたかが山道の開発に示すのは尋常ではない。その理由を聞いた上で断わっても決して遅くはない。――と判断した彼は、
「通しな」と娘に命じた。
「それじゃ会うのね?」
千恵の目が明るくなった。足繁く通って来る有馬に彼女はいつの間にかなついてこの頃ではすっかり彼の味方である。善助は苦笑しながら有馬を迎え入れた。
「なるほどね、そんな切ない理由《わけ》がありなすったか」
善助はふと目をしばたたいた。
「ですから、私としては新道は岐阜、富山側からではなく、ぜひとも長野県側からつけたいのです。長野側から一日で入れる道があれば妻は死なずにすんだのですから」
「あんたの切ないわけは分るがの、道はそんな個人的理由からじゃ作れねえぞい」
「それは分ってます、でも僕の個人的理由がなくとも、新道は長野側以外に可能性はないのとちがいますか?」
「うん、富山側は黒部が間に落ちているからだめずら。飛側も距離が長すぎて近い新道にはならねえ」
「だったら私の個人的理由が地理的な理由と合うわけだ」
「だがなあ、最初にも言ったように、湯俣川は人の入れる所じゃねえだ」
「鷲羽やワリモ、あるいは双六の方からのルートは考えられませんか?」
「えれえ大回りになるね、飛側からへえるのと大して変わりなくなるじ」
「善さん、どうですか、湯俣川は全く可能性ありませんか? 本当に鳥にでもならなければ行けない場所か、それともある程度加工≠キれば見込みがあるか、一つ正直に教えてくれませんか」
有馬は錐《きり》をもみこむように視線を重ねた。
「そりゃあ……」
善助はふと口ごもったが、
「金をかけりゃあね」と、有馬の気迫に押されたように言ってしまった。有馬はすかさずその言葉にしがみついてきた。
「かね? それじゃあ金さえかければ可能性はあるのですか?」
彼の声は弾んだ。その金がどの位要るのかも知らず、物理的な可能性だけはあったことを知った喜びが声を弾ませた。
「そりゃまあ、そうだが」
善助は引っ込みがつかなくなった形であった。
「それでどの位かかりますか?」
有馬は一時の弾みが静まると、現実的な質問をした。今度は善助が今の失言≠挽回《ばんかい》するチャンスだった。
「さあ、見当もつかねえな、人夫も大勢要るし、岩壁をけずるダイナマイトも要る、吊り橋もうんと架けなきゃいけんずら」
金の無い人間にとって、金の要る仕事は物理的に不可能と同じである。善助は今の言葉でさっきの失言を十分に償ったと思った。だがテキは少しも挫《くじ》けなかった。
「しかし、それにしてもトンネルをぶち抜いたり、ダムを築くのではない、要するに山道です、工事の主力は人力でしょう」
「だから金がかかるずら、ブルやパアーシャベルが使えれば工期も短く、工費も結局は安上がりせ、人夫を使うとなると、時間はかかる、日当は嵩《かさ》む、めしも喰《く》わせなければいけんし」
「人力なら自分も持ってます。日当が払えなくなったら一人でやったっていい、たとえどんなに時間がかかっても、倦《う》まずコツコツとやっていればいつかは出来上がるでしょう」
「そりゃおめえ!」
善助は相手に言いくるめられた時の口ぐせを出しながら、相手の途方もない気の長さに呆《あき》れた。たしか坊さんが一人で何十年がかりで洞門をくり抜いた話が九州の方にあったのを思い出した。何かで読んだのか、それとも人伝えに聞いたのか忘れたが、いずれにせよ「架空《すらつべえ》」のことだと思っていた。ところがそれをやり通せるかどうかは未《いま》だ未知数としても、似たようなことをやろうと言う人間が現われたことが、善助を愕かせた。
これは尋常一様ののぼせ方ではない。何とか今のうちに冷やさなければと、善助は冷水をかけ続けた。
「そこだが、金だけじゃねえだよ、あすこはあんたも知っての通り、国立公園の中だもんだで、勝手に手はつけられねえ」
「そのことでしたら、よく調べておきました」
ところが相手は余裕|綽々《しやくしやく》であった。
「湯俣温泉から湯俣川沿いに三俣小屋のある鷲羽乗越付近にかけては、自然公園法の特別地域に指定されていて、その中で工作物を新築したり、木竹の伐採や土石を採取するなどの行為は厚生大臣の許可を得なければなりません。特に鷲羽乗越から雲の平周辺は、特別保護地区に指定されているので、これからの行為の許可申請はかなり厳重に審議されます」
善助はホウと言って目を見開いた。有馬の声音は自信に充《み》ちていた。それは善助が土地者と年功のおかげで何となく蓄えた知識よりも、はるかに体系化された、権威に裏づけられたものであることを示していた。
戦後の国民生活の安定向上と共に、国土の優れた自然景観を国際観光資源として保護し、効果的に活用しようという世論が活発になり、旧来の国立公園法に代わって自然公園法が公布され、国立公園、国定公園、都道府県立公園三位一体の画期的な自然公園行政体系が確立されたのは一九五七年である。
そして国立国定公園域内の自然景観の保護上、特別保護地域、特別地域、普通地域の三つに大別し、特別保護地域においては自然の原始性保護を最も徹底し、特別地域においてはそれに準じて各種の制限禁止を厳しくしている。
新道の可能地域と考えられる湯俣川水域の一部が特別保護地域、その大部分が特別地域にかかるのである。特に特別保護地域の場合は、社会的に妥当な理由がない限りなかなか許可にならない。
新道開発の申請理由として考えられる当面のものは、「一般登山者の利便をはかり、雲の平を広く世に紹介するため」が最も妥当であろう。しかしこれは今までの新登山道の開発申請において当事者たちが、カビが生えるほど使い古した理由であった。
従来の登山道の開発というものが、山小屋の経営者の手によって進められた関係上、それが特定の山小屋の利益と結びついたのは当然のことである。国立公園法時代は規制も比較的緩やかでそれでも通っていた。
それが法の改正と共ににわかに厳しくなり、なまなかの理由では申請が許可されなくなった。特に今度の新道は、客観的には三俣小屋への最も近い道を作るにすぎない。「一般登山客の利便をはかるため」という申請理由が、すんなり通るはずがない。
有馬はそのことを言っているのである。
「ところがね、抜け道があるんですよ」
彼はこの時初めて少々おどけたように片目をつむってみせた。
「抜け道?」
有馬はそれを法的な意味にひっかけて言ったつもりだったが、善助は、地理的なものと釈《と》ったらしかった。
「幸いにも、この法律は施行されてから日が浅い。善さんは旧法の頃から山へ入っていたでしょう」
「難しいことは知んねえが、十六の時からだ」
「湯俣川へはいつ頃から入りました?」
「戦前からせ」
「それだったら、問題はない、道はもうできてますよ」
「道ができてるっせ!?」
善助はますます目をむいた。
「そうですよ、藤井さんが湯俣川流域に入りこんでいることは地元の人はみんな知っている。だから地元の造林署に働きかけるんです」
「…………?」
「国立公園内の工事は、厚生省の管轄ですが、国有林は地元造林署が管轄しております。この地域はO町造林署のなわばりだ。だからあすこに働きかけて了解を取るのです。
北アルプス地域の国立公園管理人は、上高地、平湯《ひらゆ》、室堂《むろどう》の三か所に三月末から十一月末まで常駐しておりますが、白馬―烏帽子―三俣蓮華地域はそれらいずれの管理人からも担当区域外になっています。従って造林署や県などの地元官庁の意見が特に尊重されます。だからこの辺では中央への申請は造林署を経由するのが慣習となっているほどです。造林署の了解さえ取れば、厚生省は大目に見てくれます。造林署にしてみれば湯俣川流域に道が開かれれば、国有林の巡視に大助かりだからきっと了解してくれますよ、少なくとも中央官庁の許可よりは容易に取れます」
「有馬さん、あんたは?」
善助は少なからず驚いた。いつの間にそんな知識を仕入れたのか、善助は地元の人間としてうかつにもそんな慣習があったことすら知らなかった。少なくとも事務的な知識に関するかぎり、有馬の方がはるかに進んでいるのを認めざるを得なかった。
もともと造林署は地元の人間にとっては代官のように怖い存在であったが、反面、国有林の経営を担当する造林署としては、現地に詳しいというよりはオーソリティである山小屋の主の協力なくしては十分な働きが出来ない。当然両者はかなり密接な関係にあった。
造林署の了解となれば中央官庁よりはるかに容易に取れる所以《ゆえん》である。
生き馬の目を抜く都屋において抜群の切れ味を示した有馬にしてみれば、この位の抜け道≠発見するのは何でもないことであった。だが一年の大半を深山の中で暮らしている善助には、彼が稀代《きたい》の魔術師のように見えてきたものである。
町場者は山は大したことはないが、こういう世間のからくり[#「世間のからくり」に傍点]になると強いわいと善助は内心舌を巻いた。
「そいだが、やっぱあ、金がねえぞ」
善助は釣り上げられた未練たらしい魚のようにまだあがいていた。
新道が開発されれば最も利益を得るのは善助である。今までは裏銀座コース中の一宿駅≠ニしてしか認められていなかった三俣小屋が、雲の平探勝の拠点として、また剣―穂高間のダイヤモンドコース≠ニ後立山連峰から裏銀座へ至る夢の縦走路≠フ交差点として北アルプスの大十字路≠ノなるのである。
更に新道経由で資材の運搬が可能となる。今まで文字通りの高嶺《たかね》の花でしかなかった雲の平へ山小屋を建設することも出来る。そして野口五郎岳へ、黒部五郎岳へと次々に山小屋を建設し、北アルプスの心臓部を自分が一手に握れる。
現在の三俣小屋などは槍や白馬などの山小屋に比べれば、バラックに等しいものである。もとよりはるばるこんな奥までやって来る登山者も少ない。小屋を開く期間も夏期であるから収入はたかが知れたものだった。
槍穂高や、白馬立山方面の山小屋の繁栄は知ってはいたが、それら北アルプスのスターとも言える山々の山小屋は登山者も多く、大企業的な経営形態すら取っている。シーズン中は毎日、札束をキスリングに詰めて護衛つきで山麓《さんろく》の銀行へ運ぶという噂《うわさ》も満更デマではない。松本や富山でそれら山小屋の主というよりは大企業の社長§Aが豪遊している場面を、善助自身一度ならず目にしていた。
別にそんな豪遊をしたいとは思わなかったが、山小屋を経営するからには、自分の小屋へ登山者を殺到させ、自分が愛してやまない雲の平や、周辺の三俣蓮華、黒部五郎、水晶岳などの山群を、白馬や槍穂高のようなアルプスのスターにしたかった。
彼らが決してそれらスターたちに負けないどころか、文字通りアルプス最奥《さいおう》の高原としての、それを囲繞《いによう》する高峯群との優美と鋭角との対照の妙、黒部源流の神秘性、規模と高度、展望の大きさ、生息する動物の多彩さ、池塘《ちとう》に鏤《ちりば》められた高山植物の豊麗さなどにおいて比類ない自信が、そこに生まれ育った善助にはあった。ただ地の利が悪いという理由だけで、アルプス山域で最も敬遠されているのである。
それら不遇の山々を三俣小屋と共にいつの日か自分の手でアルプスのスターにしてみせる。それが善助の夢だった。
それを今日まで抑えていたものは、地勢的な理由と共に資金難と事務手続上の煩わしさであった。それが今、有馬によって事務上のネックが取り払われてみれば、残る最大の障害として立ち妨《ふさ》がったのは資金面である。
有馬の言うような気の長い方法でやっていたのでは、自分が生きているうちに新道の完成は見られない。資金がないということは、新道に立ち妨がる登攀《とうはん》不可能の絶壁であった。
やっぱあ夢だ――善助は一時の有馬の魔術から醒《さ》めると、どうにもならない現実にがっくりと肩を落とした。
それに彼は現在ある理由からその日の生活にもこと欠くほど窮迫していたのだ。
「金なら私が何とかしますよ」
ところが有馬はこともなげに言った。
「何とかするって、有馬さん」善助はあんぐり口を開いた。
「とりあえずどの位用意すればいいですか?」
だが有馬は大真面目である。
「とりあえず、五百万も要るかの」
善助は計算して言ったわけではない。易しい尾根に作るのと異なり、切り立った溪谷に道をつけるのであるから、どの位かかるか見当もつかない。だが作業はオフシーズンに遊んでいるボッカを安く使えるし、人力が主であるから、有馬と善助がフルに働けばかなりカバー出来るだろう。有馬の馬力はすでに実証ずみである。
問題は岩壁のハッパに必要とされるダイナマイトの量である。湯俣から赤沢付近まで両岸は切りたった断崖の連続であるから、そこに道を刻むためには一体どの位の岩量を削り取らねばならないのかおよそ見当もつかない。
善助はとりあえずと言ってから少な過ぎたかなと少々後悔した。
五百万、――有馬は聞いてから頭の中で素早くソロバンを弾いた。N市の分譲住宅の権利を売って約百万、家財を売り払って五十万、親せき知人から八所借りして百万、二百五十万は自力で何とか作れる、問題は残りの二百五十万だ。この金額がどこからかひねり出せれば天の道≠ヘ出来るのだ。
4
「――門脇恭平殿、私は今日このような形であなたにお別れの言葉を申し上げようとは夢にも思っていませんでした。
人間、明日のことは分らないとよく申しますが、つい先日まで元気に大《だい》都屋を背負い、我々と共にその洋々たる将来をはかっておられたあなたが、今日はもの言わぬ人となり、幽明境を異にするとは、定めなき人の世の習いとは申せ、悲しみと愕《おどろ》きに悼《いた》むべき言葉もありません。
あなたは先代都屋社長門脇恭太郎氏のご長男として生まれ、帝都大学経済学科に学ばれ、更に米国加州大学にて米国経営学を修め、帰朝すると同時に株式会社都屋取締役に就任いたしました。
あなたは恵まれた経済環境に加うるに稀《まれ》に見る才能と英知の三拍子を揃《そろ》え、近代的経営者としての高度な知性的錬磨を達成されました。その若々しい現代感覚と、温容な人柄、新時代に即応した経営方針は、若くして都屋次期社長としての信望を社員から集めておりました。
その後欧米を視察すること十数度、先進諸国の業界を研究して常に斬新《ざんしん》な販売技術とオリジナル商品の導入開発に努力してまいりました。
昭和二十×年、都屋第十九代社長に就任されるや、ご父君恭太郎氏の発展させた都屋に冷酷なほどの鋭い批判と反省を加え、時勢の移り変わりを見抜き時代に即応した経営方針の採択、有能な人材の登用など、思い切った経営と企業体質の革新に成功されました。
特に父祖直系の幹部の多い都屋において断固近代化を行なったことは、あなたが稀にみる知性と、洞察力の持ち主であることを物語るものであります。こうしてあなたは父祖が確立したリーダーシップを見事に自分の手中に握るや、更に神戸、高松、仙台と社業を発展させ、昭和三十×年には日本最大のスーパーチェーン、ミヤコストアを完成いたしました。
特にあなたが旧来の伝統的な小売方式にセルフサービス方式という画期的な異種販売技術を導入し、デパートとスーパーの両極作戦≠展開させたことは、時代を見抜くにまことに明にして敏、今日の大量生産《マスプロ》に見合う大量販売《マスセール》という流通革命の導火線に火を点じたのです。
なお業界においても日本百貨店協会の理事として横の連絡を密にし、業界全体の発展を図られたことは周知の事実でございます。
近年に至り純然たるスーパー資本、月賦販売、協同組合等の台頭著しく、一人百貨店のみ小売業の王座に安閑と坐《すわ》っていることが許されなくなりました。この業界のただならぬ戦雲に労使一体となって当たり、社業の一層の発展を図ろうとする矢先にあなたを喪ったことは、都屋ならびに日観グループのみならず、日本実業界にとっても甚大な損害であります。
一つの偉大な人材を喪って我々はただただ……」
松波は日観グループ代表の葬儀副委員長として門脇恭平の弔辞を読み上げながら、今にも吹き出したい衝動を怺《こら》えるのに必死であった。
昨年末頃から前胸部の痛みを訴えていたのが、最近急激に悪化、つい先日心筋|梗《こう》そくの発作をおこして急逝したのである。担当医が病室へ駆けつけるのが間に合わないほどのあっけない死であった。
日観に併呑《へいどん》されて以来の心労が、もともと弱かった心臓の負担を増して寿命を縮めたのだ。
だが彼の死は日観にとってはまことに好都合であり、タイムリー≠ナあった。都屋を系列化した当初は世論を刺戟《しげき》するのを惧《おそ》れて社長の座に据えておいたのだが、もはや忘れやすい世間を気にする必要もなくなり、ようやくサラブレッドだけが取得の無能さが目に余ってきた門脇は、早晩切除しなければならない贅肉《ぜいにく》であった。
特に流通機構のイニシャティヴを狙《ねら》い、デパート以外の資本が台頭して激烈なつばぜり合いをくり広げている現今、門脇のようなお坊ちゃん社長には、都屋の大屋台を切り回していくことは到底無理であった。
それが自発的に[#「自発的に」に傍点]お引き取りいただいたのだから、こんな有難い話はない。
だが本人自身は無能ではあっても、さすが名門に相応《ふさわ》しく、築地本願寺において営まれた告別式は、政財界をはじめ各界の名士の焼香がひきもきらず、松波に改めてけなみというものの底力≠教えた。
彼らは門脇恭平本人へではなく、天下の名門、門脇家へ焼香に来たのである。もちろんそれも現在の威光の所為ではなく、すでに過去のものとなった名家の余韻に惹《ひ》かれたものといってよいだろう。
だがこの酷《きび》しい功利の世の中でたかが余韻が、これだけの人間を動員≠オた事実に松波は感心した。
しかし、副葬儀委員長として弔辞を読み上げながら吹き出しそうになったのは、いかに死者の名誉が重んじられなければならぬものとしても、どうして人間こうも見事なうそをつけるものかと感嘆したからである。
もちろんこの文を起草した者は松波本人ではない。松波から命ぜられて止むなく四苦八苦しながらデッチ上げた秘書は、この弔辞がまことにデッチ上げ以外の何物でもないことをよく知っているはずだ。
並みいる会葬者、焼香客にしてもしかつめらしい顔をして聞き入っているが、この文言を信じている者は故人に最も遠い人間だけであろう。それが冠婚葬祭のエチケットであるとしても、人間とは何と虚飾多き動物であることよ――
松波は内心で、弔辞を次の様に読みかえて、辛うじて今にも吹き出しそうな衝動に耐えたのである。
――門脇恭平殿、私は今日このような形であなたにお別れできることを心から嬉《うれ》しく思っております。
人間、明日のことは分らないとよく申しますが、人間とは本来そのような存在であります。特に資本競争に酷しい現代ビジネスマンとして生きている我々は、その日その日の戦いの結果によってのみ辛うじてその日を生きることを許される者であります。
このような酷しい環境と条件の現代、特に日本資本主義の一環を担う大企業の首長としてのあなたは、日々激烈な商戦に晒《さら》されるにはあまりにも温室育ちで、我々としては見るに痛々しいものがありました。
辛うじてあなたが父祖の興した都屋を今日まで支えてこられたのは、父祖直系の忠臣の補佐があったからに他なりません。
あなたが社長就任時に行なった経営革新なるものも、徒《いたず》らに新しきに走り、奇を衒《てら》い、あたら父祖の残した優れた人材を放逐しただけでした。そしてあなたは遂に江戸屋呉服店以来三百年連綿と続いた都屋を、あなたの代に至って我が日観に売り渡してしまいました。これは偏《ひとえ》にあなたの経営無能力と、情況判断力の甘さによるものであります。
今日までよく社長の座を維持してこられたのは、あなた自身の力によるものではなく、父祖の|栄光の余韻《ななひかり》と、我々の情によるものであります。
しかし、企業はもはや個人の私有物《もちもの》ではありません。その存続に何千の社員、何万の家族の生活がかけられ、営利活動を通して社会に貢献するものであります。
特に商況|頓《とみ》に酷しい今日における経営者たる者は、経営者としての責任を厳しく自覚し、常に創造力と合理思考に貫かれた積極的経営を展開する者でなければなりません。
残念ながらあなたにその才はなかった。名門に育《はぐ》くまれた教養と品位は、社交サロンにおける有閑夫人のお相手としてはまことに理想的なものでありましたが、多くの人間の生活と幸福を託された大企業の首長としては、あなたはその器ではなかった。
いずれ、あなたをその酷なポストから外しゆっくり休養してもらわねばと考えていた矢先、あなたは私共の意図、いや好意を見通したかのように自ら忽然《こつぜん》とポストを下りてくださった。ただ徒らに虚名のみにこだわり、実力も才もないくせにポストに必死にしがみつく徒輩が多い中で、あなたの死は、まことに老兵の黙然として消えいくに似た、一種の爽快感《そうかいかん》を残すものであります――
5
告別式から社へ帰ると、一人の客が松波を待ち受けていた。
「よう、有馬」
松波は愛想よく旧友を迎えた。都屋から、門脇一族を完全に放逐したので機嫌がよかった。有馬とは正月のパーティ∴ネ来である。
「その後どうしてる?」
松波は最近|喫《す》いはじめたシガーにゆっくり時間をかけて火を点《つ》けながら言った。有馬が煙草を喫わないのを知っているのであえて勧めない。
「ちょっと信州の方へ行ってたんだ」
「信州?」
松波はおうむ返しに言って、改めて有馬の顔を見直した。昔からこの友が時々突拍子もないことをやるくせがあるのを知っていた松波は、信州という辺鄙な土地[#「辺鄙な土地」に傍点](松波にとっては、自分のビジネスに関係ない土地はすべて辺鄙《へんぴ》なのである)で、又この旧《ふる》い友が昔のくせを出したのかと思った。
「何の用で行ったのだ?」
「道を作るんだ」
「道?」
松波はこの時初めて有馬の表情が正月の時と大分違っているのを悟った。今までこの前以上にしおたれた服装に欺かれて気がつかなかったが、目に活《い》き活《い》きとした光が甦《よみがえ》っている。
それは男が何か目的をもった時の、張りのある目であった。
――やっこさん、何か見つけたな――
「道を作るんだよ、アルプスにな」
「詳しく話してみろ」
松波は体を乗り出した。どんな話からもその気になって聞けばビジネスの種を拾い出せるものである。特に彼のように企業集団《グループ》のトップに列する身には、時折り全く別の世界に生きる人間の話を聞くことが、一種のレクリエーションを兼ねるブレーンストーミングとなった。
有馬は事柄《ストーリイ》の要点を要領よく話した。さすが一度はエリートコースに乗っただけあって、要点をシャープに伝える話術は相当なものであった。だが話のテーマそのものは少しも松波の興味を惹《ひ》かなかった。
資本金億を超える大企業を十数社経営する身には、アルプスの山中に道といってもたかが糸のような歩道をコツコツと刻むことが、およそ現代離れした悠長なことに思えたのである。
どだいそんなものを作って一体何になるのだ? 現代は歩いて山へ登る時代ではない。自動車、ロープウェイ、ケーブルカーは言うにおよばず、ヘリでどんな嶮《けわ》しい山頂にもいとも簡単に辿《たど》りつける。ヒマラヤの頂でも機械力で行こうと思えば可能なのだ。
氷壁に一歩一歩足場を刻みながら登った者も、ヘリで浴衣《ゆかた》がけで登った(?)者も、山はまことに公平に山頂の景観を与えてくれる。
安全で楽でしかも安価に行ける手段がある時代に、何を好きこのんで、より危険でより困難でしかも費用のかかる方法で登らなければならないのか?
松波が一度は乗り出した身体を、あくびをかみ殺す努力へ切り換えた時、有馬は結論を出した。
「それで二百五十万どうしても足らないのだが、貸してもらえないだろうか?」
松波は貸してもよいと思った。今の彼はその位の金は自由に操れる身分にあった。もちろん社金を操作することも出来たが、自分のポケットマネーで充分に賄える。
「何か担保は?」
だが彼は冷酷に訊《き》いた。有馬が何ら担保物件を持たぬことを充分承知してである。それは旧《ふる》い友にもあるまじき意地の悪い問いだった。
「弱ったな、担保となるようなものは何もないんだ、友達甲斐に俺《おれ》を信じて貸してくれないか?」
案の定、有馬は弱り切った表情をした。
「担保がないんじゃお話しにならんね」
「おい、水臭いことを言うなよ」
「水臭い? 冗談じゃない、今時、二百五十万なんて大金を無担保で貸すやつがどこにあるもんか。有馬、ビジネスと友情を混同してもらっては困るぜ、金というやつは仕事師にとっちゃ血液と同じなんだ、血を喪《うしな》えばこっちが死ぬ、それを無担保で借りようとは、お前、サラリーマンを辞めてっからどうかしたんじゃないか」
「非常識はよく承知してるが、二、三百万位の金はお前にとってどうということないだろう。今、俺にとってその金がないと生きる目的がなくなってしまうんだ。血液だって、生命の危険がある人間には無償で輸血することがあるじゃないか。頼む、貸してくれ、俺を救けるために貸してくれ」
「有馬、悪いが俺はそんな甘ちゃんじゃない。お前と学生時代、地蔵仏を求めてほっつき歩いていた頃はいくらか甘ちゃんだったかもしれんが、今の俺はあの頃とは全く別の人間なのだ」
「松波、この通りだ、頼む!」
有馬はカーペットの上にひざまずいた。
「おい、そんなことされちゃ困る。どんなに頼まれてもだめなものはだめだ。金はな、俺たちにとっちゃあ血のようなもんだが、現物の血と違って、ほんの少々足りない時でも死ぬことがある。だから血のようにたやすく輸血≠ヘ出来ねえんだよ」
「松波、結論だけ聞かせてくれ、どうしてもだめか?」
有馬はすがりつくような目をした。松波は一瞬|躇《ためら》いを見せたが、自ら躇いを振り落とすようにきっぱりと、
「だめだ」と言った。
「そうか」有馬は立ち上がった。
別に気を悪くした様子は見えない。ただ目から光が消えていた。
6
有馬は打ちのめされて都屋を出た。最大のスポンサーから拒《は》ねつけられたことは、有馬の仕事を事実上不可能とするものだった。松波の友情を大して信頼していたわけではないが、青春の仲間が、よもやあれほどの仕事師に変身していようとは思っていなかった。
「都屋へ帰る気があれば、いつでも相当のポストを用意する」と言ってくれたのを友情による好意とばかり思ったのが、甘かった。
あれは自分というものの才能に価値を認めたからにすぎない。こちらが提供すべきものを持っていたから、報酬を出そうとしただけであって、あくまでも取引きにすぎなかった。
自分自身、現役の頃はそのような精神に徹していたつもりだったが、今、昔の友と頼み、誰よりも容易に、そして気前よく申込に応じてくれると信じていた松波からこうも明からさまに断わられると、さすがにショックは大きい。
ショックは旧い友から背を向かれたことよりも、旧い友なるが故《ゆえ》に寄せた自分の期待の甘さから発していた。
人間はそれぞれ自分一人が生きるのに精一杯なのだ。他人の扶《たす》けを借りようとしたこと自体が間違っていた――とはよく分るのだが、金策がつかないことには、彼の仕事は一歩もスタートしないのである。
善助を一か月がかりで口説き落とした有馬は、今、資金調達というどうにも手のつけようのない障壁に直面した。それに親せきを駆けめぐっても百万という金がかき集められるかどうかあやしくなっていた。
とにかく明日は団地の売買を委任した不動産屋へ行ってみよう。集められるだけ集めるのが、今の自分の為《な》すべきことだ。
N市の分譲住宅へ帰って来た彼は、郵便受けの中に久し振りに一通のはがきを見出した。
最近、人から手紙をもらったことのない彼は、珍しいものでも手にするように取り上げた。
それは郵便局からの「不在中配達通知書」で、彼に書留が来ていることを告げていた。すでにオフィスアワーを過ぎていたので、有馬は翌朝一番に市内の本局へ出かけた。
身分証と印鑑とひきかえに一通の封書が手渡された。配達証明付きであった。
差出人は「高山法律事務所」となっている。弁護士に知己はないし、最近法律問題を委任した覚えもない。首をかしげながら有馬は封を開いた。
――あなたは故大島清氏より民法九百六十四条による特定遺贈の受遺者に指定されました。遺贈の内容は次の通りです。
一、現金百万円
一、横浜市磯子区岡村町三六番地先の空地九十坪
つきましては右遺贈を承認いたしますか、それとも放棄いたしますか、おうかがいいたします。なおきたる四月三十日までに何らの意志表示もない場合は右遺贈を承認したものとみなします。
通知人
遺贈義務者 大島頼子
横浜市磯子区森町一八五四
右 代 理 人 高山省造
東京都港区芝田村町三の一
被通知人、
受 遺 者 有馬正一殿
千葉県N市T台三の四の一四一
目に飛びこんできた硬い法律文言がよく理解出来ず、有馬は何回か読みなおした。数度目にやっと自分が大島から遺言によって金と土地を贈られたことを知った。手紙は彼の妻からその遺贈を受け取るかどうか尋ねてきたものだった。
何故大島がよりによって自分へ財産を、それも莫大《ばくだい》な額を贈ったのか? という疑問が湧《わ》いたのは後のことである。彼は文言の意味を理解すると同時に、目の前に立ち妨《ふさ》がっていた障壁が音をたてて崩れていくのをまざまざと見た。
相続税を差引かれて結局有馬の手には三百万ほどの金額が入った。彼にとってそれは生まれて初めての大金であると同時に、天へ導いてくれる金でもあった。
彼は不覚にも大島に感謝している自分を知った。一時は殺意にまで高まった憎悪が憑《つ》き物が落ちたようにうせてしまった。別に金をもらったからではなく、心の構造が変わったかのようである。
これっぽっちのはした金でだらしがないと、我と我が心を叱《しか》った時、ふと、大島は自殺したのではなかろうかという考えが頭をかすめた。大島が遭難した現場は特に危険な場所ではなかった。まして彼ほどのベテランにおいてをやである。だがそれだけにアルピニストとしての倨傲《きよごう》がなかったか? ピッケルも持たずに雪溪に踏み入ったということも、外国山系《ヒンズークシユ》体験者のみくびりではなかったろうか?
しかしそれでは彼の遺言をどう解釈したらよいのか? 遺言とは人が生きている間の最終の意志を、死後実現させようとするものである。最終の意志であるから、殆《ほとん》どの場合死期を悟った人間によってなされるものだ。
大島はまだそんな年齢ではなかった。それにもかかわらず遺言をしたのは、確実に自分の死を予知していたからではないか?
それにしても自殺の理由は? またよりによって、何故有馬へ彼の財産の大きな部分を遺贈したのか?
有馬はおよそ世の中に怖いもののないような自信たっぷりの大島の風貌《ふうぼう》を思い出した。あれは人生に積極的に働きかけている男に共通の風貌であり、態度である。立派な職業、確定した社会的地位、健全な家庭、どこにも自殺する理由などなかった。
それなのに彼は死んだ。日本登山界の一方の旗頭ともあろう山のベテランが、観光客≠フ群れる何の変哲もない雪溪でスリップして死んだ。それは名のあるアルピニストとしては最も不様な死方であろう。
――自分がひたむきに女たちの中へ残してきたつもりの足跡が全く残っていないということが悲しいのだ――
雲の平の嵐《あらし》の夜大島が言った時の情景が、つい少し前の記憶のように鮮やかに甦《よみがえ》った。あの時の彼は日頃の大風《おおふう》な彼とは全く別人のように消沈していた。
あれは深山の嵐の夜という一時的な感傷と思っていたが、今にして思えば、男が絶対と信じていた価値観(?)が崩れた時の姿と釈《と》れぬこともない。あのようなことを果たして価値観と呼べるかどうか分らぬが、あの夜大島の面に貼《は》りついた失意の色は、絶望そのもののような救い難い暗さがあった。
たかが女一人のことでと蔑《さげす》むことは出来まい。有馬自身もたかが女一人のために生きる道を変えたのである。――人それぞれに価値観も異なる。大島のように切実《ひたむき》に女を漁ってきた人間が、ある日突然、女共の中に何物も残していなかったことを悟って、すべての情熱を喪《うしな》うということは考えられないか?
いややはりそう考えるのは無理だ。どんなにうまい言葉で言っても、所詮《しよせん》遊びである。
ひたむきに求めるの、切実に欲するのと言ったところで、結局は男の獣欲を美化しようとしているにすぎないではないか。男と女がひたむきに求められるのは相互に一人ずつだけである。複数の求め合いは、いかに言葉を選んでもスキャンダル以外の何物でもない。
スキャンダルに命を張るということが有馬には理解出来なかった。
それとも彼の遺贈は贖罪《しよくざい》の意味か? 過去自分が玩《もてあそ》んだ女の夫に、せめてもの償いに遺産を分けてくれたのか? そうするとまた自殺かという疑問につき当たるが、それを暫《しばら》くおいても、大島ほどのプレイボーイがそのような形の贖罪をするとしたら、いくら遺産があっても足りまい。
彼の財産がどの位あったか知らないが、その社会的地位から判断しても、有馬への遺贈分は大きな部分と考えてよいだろう。法定遺留分を差引けば、静子以外の女にも贖罪≠ェ行なわれたとは思えない。大勢の中から只《ただ》一人の女に自分の妻が選ばれたのは?……それだけ大島が静子へ心を傾けていた証拠か?
以前ならばこのようなことを考えるだけで胸が沸《たぎ》ってきたのに、有馬は他人の心を測るように自分の疑問を冷静に分析していけた。
だが、静子も大島もすでにこの世にいない現在、所詮《しよせん》その疑問に根本的に答えてくれるものはなかった。
新たな疑問が更に続いて起こった。金を手にした有馬がO町への出発準備をしている時、善助から電報がきた。それは、金ができたからすぐ連絡しろという内容だった。
勇躍してO町へ駆けつけた有馬は、大島の遺贈が善助に対しても行なわれたことを知った。有価証券と土地で時価は有馬に贈られたものよりも、やや大きかった。
「全く思い当たることがない」と狐につままれたような顔をしている善助に、有馬は、あの風雨の強い夜、昏倒《こんとう》した大島を扶《たす》けて三俣小屋へ運んだ礼だろうとしか言うことが出来なかった。
自分でも納得のいく説明でないのは分っていた。もともと大島は、静子を救うために善助から要請されて動いたのだ。
だが納得いこうがいくまいが、大島が死に、彼の財産の一部が善助と有馬に遺贈された事実が目の前にあった。
そしてこの事実を最高に活《い》かしていくことが、これからの自分の務めだと有馬は思った。
男の業
1
三俣蓮華岳は長野、富山、岐阜三県の境界に跨《またが》るが、三俣小屋は富山県地籍に入る。新道を拓《ひら》く可能地域と目される、小屋のある鷲羽乗越から湯俣川沿い湯俣へ至る地域は長野県に入る。地籍がはっきりと分る場合は問題ないが、境界線上にあって定め難い時は、水の流れがどの県へ向かうかによって決めるのである。
従って新道の大部分は長野県に入ることになる。
五月の初め、有馬と善助は連れだって担当官庁たる地元O町の造林署へおもむいた。もちろん、有馬の作戦≠ノ基づいて新道開発にあたっての造林署の了解≠取っておくためである。
「えっ、そんな所へ道が出来るのけ!?」
最初に受け付けた地元の人間らしい署員は目を円くしたが、自分の権限に余ることと判断したらしく、上役へ相談するために奥へ引っ込んだ。
やがて出て来た男は五十年輩の、頭の上の方が尖《とが》り、頬《ほお》が脹《ふく》れた握り飯のような顔をした男だった。善助とはすでに顔見知りらしい。彼が署長だった。
「何だ、善さんか、三俣への新道を作りたいというのは」
彼は地方官庁の役人にしては割合、愛想のよい口調で言った。前歯の間隔がひどくすけているのが、表情全体を何となくおどけたものにしている。
「そりゃ我々も三俣へ一日で入れる道が出来りゃ大助かりですがの」
彼は疑わしそうな顔をした。彼も地元の人間なのか、それとも長野県下の役人によくあるように、山好きで自らO町赴任をかって出たのか、この付近の地勢に精通しているようであった。
「これからいろいろとルートさ研究しますが、湯俣から湯俣川沿いに十分可能性があるんせ」
「ま、三俣の善さんが言うからには間違いないでしょう、しかしこれは大変な仕事になる」
「覚悟してますだ、たとえ何年かかっても」
「けっこうです、道が完成すれば、我々も大いに使わせてもらわにゃならんのですから。官庁関係の手続きは我々に一切任せといて下さい。ただし、経済的な応援は出来ませんよ、表面は造林署が認めても、実質的にはあくまでも藤井さんの私道≠セ。工事及び関連費用の一切は藤井さんの方で賄って下さいね」
「もとよりそのつもりです。ただ私共は造林署の了解をいただこうと思いまして」
有馬が言葉をはさむと、
「了解も何も、我々は大歓迎ですよ、ま、物質的な援助は出来んが、かげながらご成功を祈ってます」
署長は彼らの申出がよほど気に入ったらしく、細かいとりきめなど一切せずに、積極的に了解[#「積極的に了解」に傍点]してくれたのである。
「まず第一の関所はパスしましたね」
「あんなにうまく行くとは思わなかったじ」
「そりゃあ新道が出来て一番助かるのは造林署でしょうからね、しかし造林署もガメツイな、道を作るのは大いにけっこう、開通したら我々も大いに利用させてもらう、ただし、金は一銭も出さない、――だからな」
「向うも予算でやってせ」
「むしろ出してもらわない方がすっきりしていいですよ、完成すれば完全な我々の私道≠ニなりますからね」
二人は造林署からの帰途、最初の関所を意外に容易に通れたことから、むしろ浮き浮きとして語り合った。
厚生省の許可よりは取りやすいとは思っていたものの、申出がこれほど積極的に了解されようとは予想していなかった。
もともと造林署は農林省に属し、農林省所管の国有林のほか、公有林の造林及び経営を担当する実行官庁である。業務内容は造林事業から伐採加工及び販売までの木材の全生産過程の経営を行なう。従って担当官は常に現地に入りこんでいる。時には生命の危険をおかしてまでも奥地へ入りこまなければならぬ彼らにとって、巡視歩道の開発は林業行政上、又生命の安全上、欠くべからざるものであった。これを民間人が自分らの危険と負担においてしようと申し出たのであるから歓迎するのが当然である。
特に長野県下には長野造林局の下に二十七の造林署があり、全国造林署の約一割が集まっているところからみても、国公有林がいかに多いかが分る。地元造林署の発言力は強く、造林署の治山治水に関係あるものとすれば、厚生省は殆《ほとん》ど文句を言ってこない。
「しかし、これからが大変せ」
「お互いに頑張りましょう」
二人はガシッと手を握り合い、五月の陽光に輝く、まだ冬姿のままの奥山の方へ目を向けた。田畑には陽炎《かげろう》が揺れているが、針木蓮華から北葛《きたくず》不動、烏帽子と続く連峰は、まだびっしりと雪をいただき、霞《かすみ》に烟《けむ》る空をダイナミックに限っていた。
新道の至る三俣蓮華、鷲羽岳などは更にその奥の奥へ隠されている。雪に斑《はだれ》た前山越しに隠見する高峯群を、二人は夢にとり憑《つ》かれた男の目でじっとみつめていた。
2
雪崩が一応落ちつくした五月末から二人は行動を開始した。まず当面の大問題はルートの選定である。
どのようなルートをとるにしても、始点は湯俣付近、終点は三俣小屋である。これだけの長さの道を拓くに、途中で行きづまってのやりなおしはきかない。あらかじめ予定地域の完全な測量が必要であったが、山勢が非常に複雑で見通しがきかないために、測量に代わってすべての谷すじ、尾根、沢、ガレ、絶壁、森林を歩きつくして記憶しなければならなかった。
彼らはまず烏帽子岳から三俣小屋へ入り、上から下へルートハントをすることにした。五月末とはいえ山の上は冬と同じ状態である。下から見た場合、山肌が黒く見えても、木の下はびっしりと雪に埋まっている。
「ルートとしてとりあえず考えられるのに四つあるだ、一つは鷲羽の池を通って……」ワリモ沢出合に出るもの、
二は鷲羽とワリモの鞍部《あんぶ》(二つの峯を結んだ稜線上の凹所)からワリモ沢を下るもの、
三は小屋の前から鷲羽の中腹をからんで湯俣川へ出、湯俣川沿いに下るもの、
四は双六《すごろく》岳方面から湯俣川へ下るもの、――
居住区の雪をかき出して応急に寝られるようにした三俣小屋で善助は説明した。
この中最も可能性の強いのは三のコースであるが、ここは善助がすでに何度か入りこみ地勢の峻嶮《しゆんけん》なことはよく判っていたので、とりあえず、一、二、四のコースを踏査して本命の第三のコースと比較することになった。
翌日から二人のルートハントは始まった。まず最初に第一のルートを試みたが、これは尾根があまりにも荒削りで、一般登山客には適さないことが判って候補から外した。
次に試みた第四のコースは比較的悪場の少ない平易なルートであったが、距離的に雲の平から遠ざかり、新道の妙味が薄れるので外した。
第二コースのワリモと鷲羽の鞍部から下るものは、距離的には雲の平へ最も近いものであったが、付近に小屋がなく、遭難救援に殆ど意味がなかった。
結局残されたコースは、善助が三番目に挙げた湯俣川沿いに下降するものだけとなった。このルートハントの間に二年は経った。もしこのコースも不可能となれば、新道は諦《あきら》めなければならない。
二人は眥《まなじり》を決して湯俣川へ入った。善助はすでに何度か通っていたが、有馬には初めてのコースだった。善助も今迄《いままで》通った時と異なり、一般登山者も通れるルートハントが目的であるから、初めて入るもののように緊張していた。
谷は有馬が想像した以上に凄《すさま》じい様相を呈していた。両崖から赤錆《あかさ》びた岩壁が迫り、その中を白濁した激流が奔《はし》っている。水勢は黒部よりも急に見えた。河原のいたる所から亜硫酸ガスや熱湯が噴出して、兎や鳥の死骸なども見られる。
「まるで賽《さい》の河原だな」
徒渉と岩壁のへずりをくり返しながら、余りの悪場の連続に絶望にのめりこもうとする心をどうすることも出来なかった。
この辺一帯の主のような善助と共に下っても、湯俣へ辿《たど》り着くまでに五十回以上の徒渉を重ねなければならない悪絶の谷へ、どうして一般登山者が通れるような新道を拓くことが出来ようか?
だがこの谷すじ以外に可能性がないとなれば、是が非でもそれにしがみつかなければならない。二人は執念に取り憑《つ》かれたもののように湯俣川に執着した。二人を支えているものは、もはや執念そのものといってもよかった。
春遅く遠い谷に雪崩の音を聞く時、残雪の象眼豊かな夏に登山者で祭りのように華やぐ稜線《りようせん》上の気配を感じる時、そして秋が来て、紅葉が山頂から徐々に高度を下げ、雪が来るぎりぎりまで谷にへばりついてルートハントをしている時、ともすれば心に霧のように湧《わ》くものは、「こんなことをしていてよいのか?」という迷いと疑いであった。
もう明日にも雪がやって来るという頃の、秋深い山は、木の葉が落ちつくして見通しがきき、ルートハンテングには都合がよかったが、樹林の梢越しに覗《のぞ》く抜けるような蒼空《あおぞら》が心に寂寥《せきりよう》を吹きつけてきた。空の上方を飛行機雲を残してジェット機が快適な速度で横切る時、この暗い谷間に閉じこもって、コツコツと一筋の糸の道を刻んでいる自分たちが――いや自分たちだけが世の中から取り残されていくような、何とも名状しがたい心細さを覚えた。
しかも糸の道は刻みつける段階にすらたどりつかず、未《いま》だにルートを決めかねている状態なのだ。焦燥がじりじりと心身を灼《や》くようであった。最大の困難は悪場や経済問題ではなく、自分自身にあることを彼らは思い知らされた。
そしてこの危険を乗り越えさせたものが、彼らの偏執狂的な執念であった。これがあったので、幾度も萌《きざ》した迷いや疑いにも打ち克《か》てたのである。もう止めようかと、心が今にも崩れ落ちそうにぐらぐら揺れながらも、新道を完成しないことには絶対に鎮《しず》められない埋み火のようなものが、心の底の方で執念深く燃えていた。
この執念の炎は、彼らが危機に打ち克つために自衛上燃やした本能的な炎であったかもしれない。
そして三年目、それもすでに何度か雪が来て、今度降れば根雪となるという秋遅く、二人は湯俣から溯《のぼ》った。あらゆるコースを歩きつくして、最後に残された赤沢付近のルートを決めるためであった。特に迷ったのは、谷のどちら側を通るか? そして岩壁を高巻くかあるいはへずるかの問題だった。この部分のルートのつけ方いかんで全面的にコースを変えなければならなくなる最も重要で難しい地点である。
ちょうど鷲羽岳の尾根が凄《すさま》じい岩場《ガレ》となって切れ込む地点で、脆《もろ》い岩質は落石を産みやすく、水勢は激しく最悪の地点であった。彼らもこの周辺は特に念入りに歩き研究したが、未だにルートは見つからなかった。
ここにルートが見つからなければ、今迄の苦労はすべて水の泡である。しかももう時間がない。今度失敗すれば、又来年の初夏までじりじりしながらただじっと待っていなければならぬ。
彼らには焦燥と疲労の色が濃かった。
「浮き石が多いだ」
赤沢の登りで善助が注意した。それが有馬の耳に届くか届かないかに、彼の足が乗った断崖《だんがい》の端の岩が突然、動き出した。
「危ねえ!」
善助が絶叫して手を伸ばした。瞬間、滑る岩の上から山側へ跳躍した有馬は、さし伸べられた善助の手に必死にしがみついた。岩は有馬の身体を善助の手に残して断崖を凄じい勢いでなだれ落ちた。あたりの空気に岩石と土砂が擦《こす》れ合ったきな臭い匂《にお》いが充満した。
「正さん、大丈夫か?」
山側に倒れたまま立ち上がらぬ有馬に善助は愕然《がくぜん》とした。
「大丈夫だ」
と言って無理に笑った唇が切れて血を噴いている。
「危ねえ、無理しなさんな」
立ち上がろうとした有馬がぐらりと傾いたのを見て、善助は、離しかけた手を慌てて添えた。
「ちくしょう! 膝《ひざ》を強く打ったらしい」
有馬は呻《うめ》いた。右脚にちょっと力を入れようものなら脳に突き上げるような激痛が走る。到底、歩ける状態ではなかった。折あしく夜が迫っていた。
日があるうちならば善助が背負って下ることも出来るが、夜が落ちてしまっては無理であった。今まで何度となく夜間の行動はしていたので、日が落ちるぎりぎりまで仕事をしていたのがいけなかった。どちらか一人が事故を起こすと動きがつかないのである。
「今夜はここへ露営《オカン》するだ、なあに、一晩のことせ、大したことはねえ」
善助はしきりにすまながる有馬にこともなげに言った。なまじ付近の地勢に通じており、夜になっても小屋へ帰れるという自信があっただけにオカンの用意もしていない。着のみ着のままでお互いの体温だけを頼りに、岩かげに身を寄せ合い、朝までの長い時間をじっと待たなければならないのだ。もちろん食物もなかった。
夜が落ちると共に雨が降り出した。秋の冷雨は容赦なく空腹の身体に沁《し》み通り、寄せ合った二人の体から僅《わず》かに残る体温を奪っていった。流れの水嵩が増したらしい。夜目に荒々しく飛沫《ひまつ》が飛び、岩と岩がぶつかり合うのであろう、時々、水中に火花が散った。
遠い闇《やみ》の奥からおどろおどろした地ひびきが伝わってきた。どこかで山ぬけ(山崩れ)がしているのであろう。脚はますます疼《うず》いた。
「善さん」
有馬は痛みに耐えかねたように善助を呼んだ。彼は起きている証拠に「う」と呻き声のような声で答えて身体を微《かす》かに動かした。
「善さん、今まで聞いたことなかったが、あんたの奥さんは何処にいるんだ?」
「女房?」
闇の中で明らかに彼の表情がひき攣《つ》れたのが分った。それが時折漂ってくる亜硫酸ガスの臭いに鼻を刺されたせいかどうかは分らない。
「女房はとっくに逃げてしまった」
「逃げた、またどうして?」
善助の山男らしい無表情が、女の匂いを全く感じさせなかったために、今まで私生活に関して一度も聞いたことがなかったが、小学生の娘があるにもかかわらず、母親らしい姿が一向に見当たらないのに、ようやく不審の念を抱きはじめていたのである。家の中にそれらしい位牌《いはい》もない。もうそれを聞いてもいいほどに二人は接近していた。
「俺《おれ》が山ばっかり入っているもんだで、他に男を作って逃げちまっただ。もっとも生まれついての男好きの女だったせ」
表情はよく読み取れないが、口調は心なし寂しそうだった。有馬は余計なことを聞いたと後悔した。
「女子《おなご》ってやつは、男の夢が分らねえんね」
だが善助は、最初ちょっと口をもらしたのが、口火になったらしく語り続けた。
「二言目には、山とあたし[#「あたし」に傍点]とどちらが大切なんだとぬかしやがる。そんなもの比べられるはずがねえんね、なあ正さん、俺たちが吹雪の山を登ったり、一銭にもならねえ遭難者の救助をしたり、今このように空《す》き腹をかかえて雨に打たれているんも、男の業《ごう》≠ンてえなもんせ。そりゃあな、俺だって女房や子供に囲まれて、暖かいめしさ喰《く》ったり、ふっくらした布団に眠りてえさ。しかし、男ってえものはそれだけじゃあ生きられねえんね。そこのところがどうしても女子にゃ分ってもらえねえんね。おなごってえ生き物はとりあえず自分の身の周りと目先きのことが居心地よけりゃあ、それでいいらしい。男は居心地がいいに越したこたあねえが、それ以上に、何つうか、そのう生きている感じせ、俺は生きているんだとしみじみ言えるような感じがなきゃあ、面白くねえ。正さん、恥ずかしいこったが、俺は女房に二人逃げられちまったんだ。二人共同じ様なことを言ってせ、あんたはやくたいもねえ[#「やくたいもねえ」に傍点]ロマンチックだとね」
「ロマンチックねえ、うまいことを言うねえ」
「正さん、あんた感心ばかりしてなさるが、俺よりあんたの方がよっぽどロマンチックつうもんずら」
「俺がかい?」
「そうだ、まだ三十そこそこの若さでよう、よくもまあこんな山ん中ばかりほっつき歩いていられると、俺あほとほと感心しているせ。どっちかといやあ、今度の新道作りはよそ者《もん》のおめえさんに引きずられている形だいね。俺にとっちゃあ新道は是非共必要だが、あんたにはもともとどうでもいいもんせ。どうせ二、三か月で熱が醒《さ》めるものと高をくくっていたんだが、どうやらあんたのロマンチックは本物せ」
「新道が俺の生き甲斐《がい》なのさ、あんたの言った俺の業なんだよ、男は幸福がなくとも生きていける、だが生き甲斐がなければ生きられない」
「俺たちの業が一致したってわけせ」
「しかし、それにしても千恵ちゃんは可哀想《かわいそう》だな」
「なに、あの子は馴《な》れてるだ。学校さある間はO町の親せきに預けられるが、休みになればいつも俺と一緒だでよ。母親があんなもんだで、生まれ落ちた時から俺の手一つで育て上げただ。おかげで町場よりも山ん中にいる方が好きせ」
「それにしても母親が恋しい時もあるだろうに、ここのところルートにかかりっきりでほったらかしだからな」
「千恵は分ってくれるずら。あの子は母親に似ず、優しい賢い子だ」
さすが善助は少々シュンとなったが、すぐ思い直したように、
「そのうち女房も帰って来るずら、いずれ男に捨てられてな」
「今までにもそんなことがあったのかい?」
「ああ、夏場の山小屋の収益《あがり》をかっさらってね、実は正さんから新道の話を持ち込まれた時も、その年のシーズンのアガリをごっそりいかれた後だっただ、若いボッカと駆け落ちしやがってね、あの時は痛かった、三俣小屋の増築費にと伝来の山林を売っ払った金まで根こそぎ持っていかれたからなあ」
そうだったのかと有馬は思った。初めて善助をO町の家へ訪ねた時、あまりにも貧しい暮らしぶりに首をかしげたものである。上高地や槍穂高の山小屋とまではいかぬまでも、いやしくも北アルプスの山小屋の経営者として、世間並み以上の生活が出来るはずなのにと納得のいかぬ思いであったが、そんな家庭の事情≠ェあったのか。
高山の中で人の世の俗事から超越して暮らしているように見えた善助も、尻軽《しりがる》の妻に悩まされていたのである。有馬は急に仙人面≠している善助に、俗臭|芬々《ふんぷん》たる親しみを覚えた。
「でもよ、そのうちにまたきっと帰って来るずら。いい年だでよ、金が切れれば、男も切れる」
善助は自ら確かめるように、同じことを繰り返した。
「あんたはそれを黙って迎えるのか?」
善助の寛大さに有馬は愕《おどろ》いた。それは妻の過失が許せなかったばかりに、このような道≠ノのめりこんだ有馬には、到底理解の域を越えていた。
「ああ、千恵が喜ぶでな」
善助はこともなげに言った。
谷全体が崩れ落ちるような轟音《ごうおん》がとどろいたのはその時である。山崩れがすぐ前方の山腹に発生したのだ。上方に発生した落石が雨でゆるんだ土砂を誘い、更に大きな岩にあたって、山腹の急傾斜を何物も妨げることの出来ない凄《すさま》じい勢いで谷底へ落ちていく。岩と岩とが噛《か》み合い、煙硝のような臭いが周囲にたちこめた。山崩れは前方の谷に起きていたが、彼ら自身がその真只中《まつただなか》におかれたかのように轟音が聴覚を奪った。生きた心地がしなかった。
彼らは震えることすらも忘れて互いに抱き合ったまま、自然の凄じい憤怒がおさまるのを待っていた。後で判ったことだが、この時の山崩れはかなり大規模なもので、このため下流の様相が大分変わったのである。
やがて轟音が、散発的な落石音と代わった。それも激流の音に吸いこまれてから大分経った時、二人はようやく自分たちが無事であることを知った。
「正さん」
「俺は大丈夫だ、善さんは?」
「何ともねえ、何とも凄じい山抜けだったな」
「もうちょっと先へ行ってたら危《やば》かったな」
「うん」
善助は何気なく頷《うなず》いてから「おい!」と急に目を光らした。
「ルートが判った、ここから向こう側の尾根へ逃げて高巻くんだ」
善助の意図するところをたちまち読み取った有馬は、あれほどの山崩れにも小石一つ動かさなかった硫黄《いおう》沢寄りの尾根を見た。昼ならば、真っ赤に錆《さ》びた谷底を流れる硫黄水と、水蒸気の噴出するかなたの尾根越しにそそり立つ硫黄岳の鋸歯状《きよしじよう》の稜線《りようせん》が望めるはずであるが、今はただ闇《やみ》の中に、黒々とした一塊の隆起となってわだかまっているだけである。
だが有馬も善助も、その隆起を絡み、尾根の上を果てしもなく天の上方へと伸びていく一筋の糸道をまざまざと見た。
山小屋日記
昭和三十×年五月二十九日、晴、作業開始、まず三俣小屋より赤沢へ下るルートの開拓にかかる。昨年のうちにつけた目印に沿って樹林を伐採、ずくずくの汗、全山の雪が五月晴れの空に映える。
六月三日、雨、雨の中を伐採作業続く。樹林の中は冬山と同じ状態のため、休むと寒気が迫る。善助と共にただ黙々と伐採。
六月十日、曇後雨、伐採、伐採。ハイマツの間にしかけた罠《わな》にウサギがかかっていて、夜はウサギ汁、美味《うま》い。
六月十三日、終日雨、伐採、ただ樹林との闘い、言葉を忘れたような日が続く。
六月十六日、曇後雨、午後から雨がひどくなったために小屋へ引き返す。待望のボッカ到着、久し振りに届いた酒を酌み、新聞を読む。下界がまるで異次元の世界のように感じられる。小屋開きに備えてボッカ続々到着。
六月二十五日、晴後曇、久しぶりに晴れ上がる。雪が大分やせてきた。そろそろ一般登山者の姿も見えはじめる頃である。スコップ、ツルハシで伐採のすんだ所へ道を刻みはじめる。善助、小屋の修理。
六月二十八日、雨、風雨強く行動不可能、終日小屋の修理。折角、ボッカ用に雪溪に道をつけたのに雨に流されて残念。
六月三十日、晴後曇、午前中のわずかな晴れ間を利用してふとんを干す。伐採と一寸のばしの道刻み。
七月二日、晴、夏山いよいよ開花、初めての登山者来たる。善助、小屋の経営に忙しくなる。
七月二十四日、晴、夏休みに入った千恵が、遠縁にあたるボッカの修三に伴われて登って来る。しばらく見ぬうちにすっかり娘らしくなった。母親似なのか、色白でぷっくりとした可愛《かわい》らしい面立ちである。年ごろになるときっと若者に騒がれるだろう。ほんの小娘のご入来だが、小屋の中がにわかに華やかになる。
八月二十日、晴、登山者の波はあっという間にひき、山はすでに秋。善助作業に戻り、ピッチ快調。千恵、山を下る。
九月二十日、霧雨、尾根すじ紅葉、手の空いたボッカが作業に加わり、ピッチ快調、この分なら雪の来る前に何とか尾根すじの道はつきそうである。
昭和三十×年六月十日、風雨強く小屋に停滞、今年は天候不順で昨年のように工事はかどらず。焦燥しきりなり。ボッカも下り、善助と二人きり。彼とはもう肉親のような間柄となっているが、こうやって奥山に二人だけで閉じこめられていると、理由もない憎しみが湧《わ》くことがある。新鮮な顔に対する飢えの反動か? 彼も同じ心理とみえて終日口もきき合わず。それぞれ勝手なことをして過ごす。下界が恋しい、女が欲しい、美味い物を喰いたい。
七月二十八日、強風雨、三時烏帽子より登山客二人着く。いずれも凍死寸前、ワリモの鞍部《あんぶ》にまだ二人残っていると聞き、後を善助にまかせて、ボッカ二人を伴い急行。鷲羽の尾根風強く歩行困難、這《は》いながら登る。縦走路からちょっと外れたところに二人発見、一人は完全に絶命、他の一人もすでに瞳孔《どうこう》散大している。とりあえず息のある方を岩かげに運び、マッサージと人工呼吸。手当及ばず三十分後絶命。風雨依然として強く遺体搬出困難のため、とりあえず岩かげに仮安置してビニールをかける。七時半小屋へ戻ると先着の二人は善助の手当が間に合い、すでに蘇生《そせい》していた。仲間の絶望を伝えても大して驚いた風もない。どういう神経であろうか?
八月五日、風雨、天候不順のため遭難者続出。烏帽子方面より悪天をおかして裏銀コースの縦走を志した者が、最もへばり易い地点はワリモと鷲羽の鞍部である。このあたりは北アでも名うての強風地帯、「銀座」の名前に欺かれて軽装で浮かれ出て来た者がここで風雨に叩《たた》かれたらひとたまりもない。静子もここでやられたのだ。一日も早く新道を完成し、資材を荷上げしてこのあたりに小屋をつくらねばならぬ。
凍死しかけた者は、筋肉が硬直している間ならば、四十度前後の湯に浸《つ》けるのが一番よい。回復すればけろりとして、「ちょっと寒かっただけだ」などと、かえって大騒ぎされては迷惑顔をする。当人にはさほど深刻に迫らないのが疲労凍死しかけた遭難者共通の徴候である。
八月十日、晴、連日登山客にて小屋超満員、物資のボッカ困難なのも知らず、他の一日圏の山小屋と比較されるのには閉口する。まして現在の小屋の経営と新道開発の二本立ての苦衷などは到底分ってもらえない。午後三時、全山協の役員でヒマラヤへ行ったことのある某到着。「俺《おれ》は全山協の××だ」と怒鳴り散らして鼻もちならぬ。一般登山客よりも、かえってどこかのルートの初登攀か、外国山系の遠征をして一応の登山家を自認する連中の方に質《たち》の悪いのが多い。そんなことでいっぱしの名士《エリート》(?)になったつもりなのか、社会的な常識もない山猿がとチャンチャラおかしくて仕方がない。善助と共にひそかに苦笑する。
エリート意識を振りかざすだけならばまだよいが、一般登山客より特別の待遇を暗に強要されるのには困る。かといってむげ[#「むげ」に傍点]に突っぱねれば、登山関係のマスコミに小屋の悪評を書きたてられるので、小屋の経営上苦しいところである。
九月十五日、初雪、来年よりいよいよ湯俣付近の岩壁のけずりにかかるため、ダイナマイト工事人を溪谷へ案内する。爆破除去すべき岩量によって工事費用が見積られる。見積り概算、三百五十万円と出る。もちろん工事人や人夫の食費は別である。当初用意した五百万は、ボッカや工具の購入に大分食われたので心細い。最近、身体がだるい。溪谷に雪|霏々《ひひ》、この上もなく佗《わび》しい。
昭和三十×年四月十日、晴、人夫、工事材料湯俣に続々集結する。いよいよ今年こそ工事が山場にかかることを肌に犇々《ひしひし》と感じる。工事の基地《ベース》とするため、湯俣へ小屋の建設許可を造林署へ申請。
四月十八日、晴、湯俣小屋建設許可される。溪谷の奥に雪崩《なだれ》の音を聞きながら、小屋の建設をはじめる。
五月十二日、霧後雨、小屋完成、人夫十六人の炊事を賄うため、O町より若い炊事婦二人上って来る。人夫歓声をあげる。荒らくれ男ばかりの中に紅二点=B雨の溪谷にぱっと花が咲いたようだ。
五月十三日、曇、ハッパ工事開始、景気のいいハッパ音と共に巨大な岩壁の中腹が小気味よく抉《えぐ》られていく。続いて足場がつけられ、棧道がくくりつけられる。なまの人力に比して、科学力の偉大さをつくづく思い知らされる。
五月二十日、晴、ピッチ快調、ただし金も湯水のように出ていく。ダイナマイト工事は請け負いだが、食費思いのほかかさみ、不時の出費も多い。山奥の工事では食べることだけが楽しみだから止むを得ないと思うが、それにしても人夫共のよく喰《く》うのには呆《あき》れる。
六月二日、数日来悪天つづき、湯俣川増水して工事不能なり。小屋に閉じ込められた人夫の気持がだんだん荒《すさ》んでくる。大体、町から来た人夫ほど根性がない。地元の人夫はもともと山が生活の場であるから、何日滞山しても別にどうということはないが、町の娯楽と刺戟《しげき》に馴《な》れた人夫は、社会から全く隔絶された生活を続けていると精神的にまいってしまう。地勢の関係でテレビだめ、若い血の気は囲碁や将棋ではとうていごまかし切れない。炊事婦を見る目が次第に血走ってきたので、早急に何とかしなければならないと思う。ボッカを食わせるために更にボッカを雇う。七倉までトラック、次に林鉄へ引継ぎ、第五発電所からボッカの背に負われて湯俣へ、距離が開くほどに費用は幾何級数的に増大。身体が熱っぽい。悪天に焦燥のみ。
六月六日、天候が一向に回復しないため、人夫を一時おろすことにする。善助も彼らと共に山を下る、にわかに寂しくなった山小屋で夜をもてあます。十時頃の寝入りばなを表戸をはげしく叩く音に起こされる。あまりに激しい叩き様にむかっ腹をたてて誰何《すいか》したが返答なし、身構えながら近づくと凄《すさま》じい鼻息が聞こえた。熊!? と一瞬緊張したが、ノック(?)はそれだけにとどまり、誰か[#「誰か」に傍点]が重量感のある足音を残して去って行った。
いつ舞い戻って戸を叩き破られないかと、一晩中緊張のし通し。翌朝、小屋の周りを調べると巨大な熊の足跡が一面についていた。この足跡から判断すると、かなり大物≠ナあろう。今迄|賑《にぎ》やかだったのが、急に静かになったので食物をあさりに浮かれ出て来たのであろう。善助の帰り待たれることしきりなり。
雲表の駆け落ち
1
六月八日、雨
善助帰る。思いがけない人物を伴って来た。――藤井久代――と善助から紹介されて、初めて彼の妻であることを知った。なるほどそう言われてみれば千恵によく似ている。たしか三十を出ているはずだが、若づくりなのと生来の派手な顔だちのため二十代に見えぬこともない。むくつけき善助の妻とは、どう見ても受け取れない。
感情をめったに表わさぬ善助の顔が、微《かす》かに紅潮しているのは、やはり嬉しいからであろう。若い男と何年も行方不明になっておきながら久代には全く悪びれた様子もない。それをいそいそと迎える夫、どんな因縁で結びついた二人か知らないが、不思議な夫婦もあるものである。
夫婦が同居するのは当然のことであるが、新道の行く末に不吉な予感あり。
2
目の底に沁《し》みるような白々とした光に有馬は目覚めた。溪谷の底に陽の光が落ちて来るまでには大分時間はかかるが、この季節の夜明けは早い。窓の外に小鳥の囀《さえず》りが賑やかである。どうやら久しぶりに晴れ上がったらしい。
だが爽《さわ》かな戸外に反して、有馬の目覚めはどんよりとしていた。頭の芯《しん》がずきずきと痛み、体も何となく熱っぽい。ねむ気が充分に残っていながら、あの床を離れる間際の快いまどろみがない。背骨に鉄の棒を入れられたような体の重さなのである。
有馬は最初、それが昨夜の拷問≠ノよる睡眠不足かと思った。
山小屋の中の何の仕切りもない同じ部屋に寝ながら、久代は有馬に気がねする善助に執拗《しつよう》に挑んだ。長い間、女断ちをしていた善助は、その挑発を拒《は》ねかえすことが出来なかった。いったん誘いを受け容れれば、後は山男の逞《たくま》しさと溜《た》められていたエネルギーが一気に爆発した。
男と女の生臭いからみ合いは何の遮蔽《しやへい》もなく、有馬に伝えられてきた。灯はなくとも、魔性のいきもののように蠢《うごめ》く白い曲線と、黒い鋭角の侵し合いは闇の中に妖《あや》しい渦を巻く。背を向け、布団の中に身を竦《すく》めても気配は耳許《みみもと》に迫る。
それは善助よりも若く、善助よりも長い間女体から離れている有馬にとっては、残酷な拷問だった。その拷問が久代が帰って来てから工事人がまだ上がって来ていないのをよいことに毎夜のように続いている。朝毎に善助は眩《まぶ》しそうな表情でそれとなく有馬に詫《わ》びるが、夜になると久代の白い肌の誘惑に負けてしまうのだ。
有馬が最初、体の変調を拷問のせいだと思ったのも無理はない。だがそれはそんな生易しいものではなかった。もっと身体の深部から発していたものなのである。
「そうか、お前だったのか、お前がまた、やって来たのか、やはり最初の治療を疎《おろそ》かにしたのがいけなかったんだ」
ようやく変調の原因に思い当たった有馬は、昨夜の疲れでまだ眠っているらしい二人に聞こえぬように呟《つぶや》いた。
むしろ遅過ぎるくらいだった。これまでにもそれらしい徴候はあるにはあった。だが間もなくおさまってしまったので、いつとはなく忘れてしまった。わがままを言うようだが、どうせこんなに遅れたのならもうちょっと遅れて欲しかった。せめて一年、いや半年あれば、ダイナマイト工事の目鼻はつくのだ。――
だが、――と有馬はすぐに思い直した。潜伏性の症状が一時的に発現したのかもしれない。今まで保《も》ったのだから、専門医の治療を受ければ、もう少し保《も》たせられるだろう。今はよいクスリもたくさんあるそうだから、――
「クスリ」
有馬はふと呟いた自分の言葉に、万一の用心に救急箱の中にペニシリンのアンプルと注射器を忍ばせてあったのを思い出した。注射の要領は、最初の症状が顕《あら》われた時自分で打ったことがあるのでよく覚えている。とりあえず六十万単位を何本か打てば急迫の症状はおさまるだろう。
「何してるの?」
久代から声をかけられたのは、左腕にペニシリンを打ち終わった時であった。有馬の気配に目を覚ましたらしい。慌ててアンプルと注射器を救急箱の中へ隠した有馬は、
「ちょっと頭がずきずきするものだから」
「あら、風邪でも引いたのかしら、今の風邪は悪いっていうから気をつけなくちゃ」
そう言いつつ久代は寝床から滑り出た。男と何度も都会で同棲《どうせい》≠オているので完全な標準語を使う。はだけた胸元をろくろくなおしもせずに久代は有馬の前へ歩み寄り、額に手を当てた。豊満な胸が触れんばかりに迫る。
「これじゃあよく分らないわ」
いったん手を離した久代は、いきなり有馬の頬《ほお》を両手で支え、額と額を重ねた。彼が身を引くひまもなかった。鼻と鼻が触れ合い、二人の呼吸が重なり合った。眼前で久代の目が挑むような笑みを浮かべている。その気になればそのまま、最も無理なく接吻《せつぷん》に移れる姿勢であった。
「まあひどい熱!」
だがその時の久代の行動は別に他意はなかったらしく、すぐに額を離した。あるいはかなり熱っぽい彼の額に何らかの他意が愕《おどろ》きにすりかえられたのかもしれない。
「あなた、ちょっと起きて、有馬さんが大変なのよ」
有馬が止める間もなく、久代は善助をゆり起こした。寝起きの悪い善助もさすがにはね起きた。
「どうしなすった?」
「いや大したことはない、寝冷えでもしたんだろう、今、熱さましを服《の》んだからすぐにおさまるよ、あまり心配しないでくれ」
「本当に大丈夫かい? あまり悪いようだったらO町から医者を呼ぶだ」
「とんでもない、そんな大げさなことはしないでくれ。少し寝てればなおる。悪いが善助さん二人で先へ行ってくれないか」
山開きが迫っていたので今日は三人で三俣小屋へ登ることになっていたのである。
「少し寝ていればなおるから」と言い張る有馬に、久代を押しつけるように残して、善助だけ先へ行くことに決まった。山開きも近く、仕事は一日も休むわけにはいかなかった。
「それじゃあ行って来るが明日は下りて来るで。留守のことは久代によく言いつけてあるから、遠慮なく使ってくれましょ、久代、頼むよ」
「大丈夫よ、あなたの大切なお仲間ですもの、しっかり看病するわ」
それでも善助は心残りの様子で小屋を出て行った。
善助が出た後、久代はまるで人が変わったように甲斐甲斐《かいがい》しく有馬の世話をした。
熱のある時は下しやすいからと、たまご粥《がゆ》に、岩魚《いわな》の塩焼き、山菜のおひたしと茶碗蒸しなどと、少しでも彼の食欲をそそりそうなものをせっせとつくってはすすめた。
「イワナという魚はとても食いしん坊で、ヘビまで食べちゃうんですって。陸の上のヘビを水の中に引きずりこんで食べるなんて凄《すご》いじゃない。だからこれを食べると凄く精がつくのよ、大抵の風邪なんかイワナを食べれば癒《なお》っちゃうわ」
そんな風に言って、あまり食欲のない有馬に食物をすすめる久代は、夫を捨てて若い男と次々に駆け落ちした不貞の女には到底見えなかった。
ペニシリンが効いてきたのか、昼近くになって頭痛がとれた。溪谷の昼はこの上もなく静かである。久代は、外で洗濯物を干しているらしい。久しぶりに晴れた初夏の陽差しを寝床の中で浴びながら、有馬はいつの間にかうとうとと微睡《まどろ》んでいた。
胸のあたりに重苦しさを覚えて目覚めたのは、それからどれ位後のことだったろうか。
誰かが自分の躰《からだ》の上にのしかかっている。暖かく柔らかい体重である。体重だけではない。口元のあたりにぬめぬめと熱い感触が吸いついていた。
半覚半睡の意識が、自分を折り敷くように抱きついている久代を認めるまでに多少の時間がかかった。
「久代さん、止めろ!」
と言ったつもりが、彼女の唇にひたと塞《ふさ》がれて声にならない。その間、女の舌と唇にねぶられるままになった。数年ぶりに味わう女の唇に、有馬が全く応じなかったと言えば、うそになる。
だが意識がはきと戻った時に、彼の脳裡《のうり》を貫いたのは、「久代は人妻である」という自戒だった。
人の妻を汚すことは、静子を許せなかった自分の倫理を根本から否定することである。しかも久代は尋常《ただ》の人妻ではない。天の道を拓《ひら》く只一人の仲間、善助の妻なのだ。彼女を抱くことは、たとえ相手から挑まれたものであるにせよ、自分の生き甲斐を捨てることである。その時天の上方へ向かってどこまでも伸びる白い道が瞼《まぶた》をよぎった。
有馬は全身の力で久代の体重を拒《は》ねのけた。
「有馬さん、そんなにてれなくともいいのよ」
久代はさすがにばつの悪そうな顔をした。しかしそれで諦《あきら》めたわけではなかった。
「あの人の帰って来るのを虞《おそ》れているんだったら大丈夫よ、今夜は三俣泊まりよ。有馬さんだって知っているでしょう」
久代は網にかかった獲物が悪あがきするのを見物するような自信たっぷりの目をして有馬を見た。いわゆる場馴《ばな》れした目である。過去幾度も、このような目をして男《えもの》をみつめ、そして確実に自分のモノにしてきたことであろう。
――さあ下手に抗《さか》らわないで、あなただって欲しいんでしょ、私の柔らかくお美味《い》しい肉が、それをたっぷりと味わわせてあげようというのよ――その目は言っていた。
「ふふ、有馬さんて、案外|初心《うぶ》なのね」
全身を硬直させて耐えている有馬に、勘ちがいしたらしい久代は、これ見よがしに衣服を脱ぎはじめた。初夏の昼間のこととて、大して着けてもいない衣服をゆっくり時間をかけて脱ぎ、スリップからブラジャーまで除《と》った久代は、「どう?」と悪女めいた笑いを浮かべながら挑発的な姿態でパンティを脱いだ。すべてその効果を計算してのスタイルである。
「有馬さん」
生まれたままの姿に還《かえ》った久代は、軟体動物のように有馬へからみついてきた。
「寄るな、寄らないでくれ」
「いいのよ、そんなにやせがまんを張らなくとも」
久代は往生際の悪い獲物をせせら笑った。実際それは凄《すさま》じい吸引力だった。有馬の若さと、長い間の禁欲の反動が一体になって、病蝕《びようしよく》も倫理観も吹き飛ばさんばかりに久代の裸身に引きつけられていく。
ええもうどうにでもなれ! この眼前の美肉に誰がよく耐えられよう。彼は何度も、本能のデスペレートな力に崩れそうになった。だがその都度、危い所でそれを支えたものは、天の道の映像だった。現にこうしている間も、善助は一人でそれを切り拓いている。その孤独な後姿は無言で有馬を責めていた。
「止めろ!」
突然、怒号と共に、彼は久代の頬を力まかせに叩《たた》いた。それは全く無防備の彼女にかなりの打撃であったらしく、蛙が叩きつけられたような何とも不様な格好で床の上に倒れた。
しかし頬の痛みそのものよりは、そのような行為の最中に、暴力で全く妥協の余地のない拒絶をうけたことが大きなショックであったらしい。それは久代の今までの経験に無いことであった。男と女の行為に暴力の伴うことはあっても、それは行為の悦《よろこ》びを高めるための刺戟《しげき》であり、演出であった。
久代は暫《しばら》く唖然《あぜん》として、有馬の前に不様な姿態を晒《さら》していたが、ようやく自分の置かれた屈辱的な場面を悟ると、
「よくもひどい恥をかかせたわね、このお礼はきっとするわ」
と凄じい目つきで、有馬を睨《にら》みつけ、脱ぎ散らした衣服を小脇に抱えこむや、裸のまま外へ飛び出してしまった。
3
千恵が一人でやって来たのは、それから一時間ほど後である。日曜日と開校記念日が続いて、連休となったので、久しぶりに両親に会いに来たのであった。もう一時間早く来られたら、久代とのトラブルを見られたところであった。有馬としては別に何の疚《やま》しいこともなかったが、出来得るなら千恵の澄んだ目に男女の醜いいざこざは見せたくなかった。
「まあ、千恵」
気まずそうに裏の方で何かごとごとやっていた久代も、久しぶりに接する娘に、母性本能を覚まされたらしく、機嫌を直して千恵にまつわりついていた。
自分に罪はないが、あんなことのあった後の時間だけに、善助が帰るまで久代と二人だけで過ごすのにやり切れない思いを抱いていた有馬にも、千恵の訪れは大きな救いであった。
「おじさん、病気なんだって? おじさんの好きなO町のくるみもちを買って来たよ。早く元気になってね」
ペットを可愛《かわい》がるように久しぶりの娘にべたついて来る久代の手を逃れて、千恵は有馬の枕元へやって来た。母親に似ぬ優しい心根で、有馬の好物まで覚えていてくれたのが嬉《うれ》しかった。物心ついてより善助の手で育てられ、男漁りの合間にちょっと帰って来ては、まるで犬や猫を可愛がるように子供をおもちゃにする久代に、千恵は少しも母親を感じないらしい。
久代としては久しぶりの我が子に精一杯の愛情を表現しているつもりなのであろうが、千恵には煩わしいだけなのだ。じゃれつきの相手をしているのも、母親に対する義務感からだけである。千恵が高瀬川の長い溪谷を溯ってはるばるここまでやって来たのも、善助に会いたいがためである。そして二番目は久代よりは自分に会うためと言っても、あながち自惚《うぬぼ》れではないのを有馬は知っていた。
「よく来られたね、一人で」
「濁《にごり》から一本道だものね、今に新道が出来たら、雲の平までも一人で行くよ」
「はは、凄いな、しかしその頃は一人では行きたくなくなるよ」
「どうして?」
「どうしてって、その頃は千恵ちゃん、お嫁に行ってるだろう、旦那さんと一緒でなければいやだとさ」
「あらヤンだ、お嫁なんて、でも新道ってそんなに長くかかるの?」
「大丈夫だよ、千恵ちゃんに一人で登ってもらうために、もっと早くつくるよ」
「頼りにしてるよ」
「生意気言うな」
千恵と話している間に、心のしこりが柔らかく解きほぐされてくるような気がした。
「千恵千恵」
裏の方で久代の険のある声が聞こえた。有馬とばかり語り合っているのが気に入らないらしい。
「なあに、おっかあ」
「おっかあとは何です、ママと言いなさい、ママと」久代の声はますます尖《とが》った。
彼女はこの「おっかあ」と呼ばれるのが何より嫌いなのだ。善助のことも「パパ」と呼ばせようとしたのだが、これは大抵のことには黙っている彼が頑として反対したので、止むなく、彼だけは「お父《とう》」となっている。
「冗談じゃねえ、山小屋のおやじが、娘にパパなんて呼ばれてみろ、マンガせ」
いつか善助が憮然《ぶぜん》として言ったのを、有馬は思い出した。
「おっかあの機嫌は猫の目のように変わるだ。また来《く》っかんね」
千恵は久代に聞こえぬように囁《ささや》くと、チロと舌を出して立ち上がった。
千恵を送りがてらO町の病院で診てもらった有馬は、精密検査の結果が出るまで千恵の寄宿先に泊めてもらい、三日目の夕方湯俣へ帰って来た。髄液検査、心臓、大動脈のエックス線診断、心電図の調査などを注意深く行なった医者は、この際徹底的な治療を施さないと命取りになると宣告した。だがその口ぶりから今日明日の切迫した症状ではないのを察した有馬は、ペニシリンを山のように買いこんで帰って来たのである。
小屋の中へ一歩入ると同時に、有馬は善助の変化を悟った。医者のみたてはどうだったと当然尋ねるべき問いもせずに、硬い表情で、有馬の「只今《ただいま》」にちょっと首を動かしただけである。
きっと久代が例の事件を自分の都合のいいように粉飾して善助に告げたのであろう。誤解は早いうちに解いておいた方がよい。有馬はかなりの疲労を覚えていたが、善助に事情を話そうと思った。
ハッとしたのはそのときである。よく考えてみれば、不倫の情事があったという証拠もない代わりに、それがなかったという証拠もないのだ。
あの日小屋に居残ったのは、久代と有馬の二人だけである。久代が有馬に暴力によって犯されたと言い張っても、それをはね返す確証は何もない。そして善助の険悪な表情から、久代はまさにそのような告口をしたのであろう。彼女ならばやりかねないことである。有馬は「礼は必ずする」と言った時の久代の凄じい形相を思い出した。
今、自分の潔白を申し立てても、水かけ論になるばかりだ。むしろあの日に限って、発熱して小屋に居残った自分の方が悪い。このような事態となってみると、あれも仮病と釈《と》られているに違いない。
有馬は罠《わな》にはめられたような気がした。
――彼は自分自身の迂闊《うかつ》さが口惜しかった。あの場合、どんなにしても善助に一緒にいてもらうべきであった。久代の異常なまでの男好きは、善助から聞かされた知識によるばかりでなく、共同生活をしている間にいやというほど見せつけられている。
珍しもの好き≠フ彼女が、善助よりも若い自分に目をつけぬはずがない。そんなことは充分分っていたつもりなのに、どうして久代と二人だけで小屋へ残るなどという幼稚なミスを犯したのか、それとも意識の深層で彼女の誘いをひそかに待ち受けていたのか?
とすれば、躰《からだ》の不倫は犯さずとも、心でそれを犯していたことになる。善助に強いて身の潔白を主張しようとする気持は萎《な》えてしまった。
ただ口惜しさは残った。これから善助との水も洩《も》らさぬ協力が最も必要とされる時期に、己の迂闊さから相手の心に猜疑《さいぎ》を植えつけたことが、有馬はたまらなく口惜しかった。
4
善助とは気まずいまま、梅雨は明け、夏山のシーズンに入った。これははからずも有馬にとって救いとなった。善助は三俣小屋にこもって小屋の経営にあたり、有馬は湯俣で新道工事を担当することになったからである。もちろん、久代も善助と共に小屋へ上って行った。
女がからんだ猜疑は焦ったところでどうにもならない。有馬は急いで身の潔白を主張しようとせず、時間の解決に任せることにした。真実久代とは何もなかったのだから、いずれは善助も分ってくれるだろう、と有馬は楽観していた。
その夏は梅雨が長かった代償のように天候が安定して、登山客が多かった。中にはどこで聞き込んだのか、新道工事を、新道が開通したと錯覚して湯俣へ迷い込んで来る慌て者もあった。
ここから槍ケ岳や燕岳へ登れぬこともなかったが、一般向きではない。一々わけを話して烏帽子岳への登口の濁小屋まで引き返してもらったが、有馬は申し訳ない思いで一杯だった。まだ未完成の殆《ほとん》ど人に知られていない新道を、長く退屈な高瀬川の溪谷を溯行して訪ねて来てくれた登山客の熱意に対しても、彼は一日も早くそれを開通しなければならないと思った。
「開通したら必ずお知らせするから、ぜひ又、足を運んでくれ」と彼らの住所氏名までも書き留めておくほどの気を配ったのである。
事件はそのような矢先に起こった。
もともと湯俣小屋は作業員の飯場として建設されたものだから、客を泊める設備はない。しかし迷い込んで来る登山客が湯俣に着くのは殆ど午後の遅い時間であり、頼まれればむげに断わることも出来なかった。
従ってシーズンには必ず何人かの登山客が宿泊していた。事件はそのような登山客と荷上人の間に起こった。
その日、O町からボッカが上って来る予定であったのでそれに立ち会うために、有馬は一人湯俣へ下りて来た。このような早い時間に湯俣へ下ったのは久しぶりだった。
小屋には人の気配がなかった。もうとうに着いてるはずのボッカもいない。留守番に残しておいた小才の利く臨時雇《アルバイト》の姿も見えない。
「おかしいな?」
明るい戸外から小屋の中に入った有馬は、ちょっとの間、縮み切った瞳孔《どうこう》が中の暗さに馴《な》れるまで待たねばならなかった。
ようやく内部の暗さに馴れた彼の目はボッカが上げたらしい食糧や、女持ちらしい原色のリュックなどが土間に転っているのを認めた。
ボッカは着いているのだ。それにリュックは、一般登山客、それもおそらく女性だけのパーティが来ていることを物語る。この時間では多分泊まることになるだろう。今夜はきっと賑《にぎ》やかになるな、それにしても、彼らは一体、何処へ行ったのか?
有馬が訝《いぶか》しそうに眉《まゆ》をしかめた時、突然、女の悲鳴が昼下がりの溪谷の静寂を破った。
ハッと耳を澄ました有馬に、今度はその声が「たすけて!」と切迫した意味をはっきりと伝えてきた。
口を塞《ふさ》がれたのだろう、悲鳴と声はそれだけだったが、何か急迫の事態が女の身に起こりつつあることは確かだった。
有馬は小屋を飛び出した。悲鳴は、確か川向こうから来たのを彼の敏《さと》い耳は捉《とら》えていた。
川向こうには人夫が掘った露天風呂がある。遠目なのではっきり分らないが、そのあたりに数人の人間の争っている気配があった。
女性登山客とボッカ。――
有馬の胸に不吉な予感が走った。土地のボッカは皆質朴な人間で信頼出来るが、最近では、人手不足につけこんで都会を食い詰めたあぶれ者がアルバイトで入り込んでいる。こういう人間は人目がなければ何をするか分らない。有馬は直ちに行動を起こした。
「止めろ!」
走りながら怒鳴った。
「危《やば》い、誰か来るぞ」
川の向う岸で誰かが狼狽《ろうばい》した声を出した。
「橋を外せ、流れがきついから渡れやしない」
意外に冷静な声が指図口調で言った。有馬はその声が留守番に残した大倉という若いアルバイトのものであるのを悟った。両岸の間には粗末な丸木橋が架けられ、小屋と野天風呂を連絡している。向う岸を人影が二つわらわらと橋に向けて走った。彼らと有馬の、橋までの距離はほぼ同じである。
事件は野天風呂の傍の灌木《かんぼく》のしげみに隠されてはっきりとは見届けられないが、どのような種類の行為が進められているかおおよその察しはつく。
「おい、馬鹿な真似《まね》は止めろ!」
それ故《ゆえ》に有馬は声の牽制《けんせい》を必死に送った。丸木橋へは有馬の方がやや早く着いた。三分の二ほど渡ったところで二人が橋の向う端へ達した。若い二人のボッカの力は有馬の体重を乗せたまま丸木橋を持ち上げた。だがその時有馬の身体は走る加速度に乗って宙を跳んだ。
丸木橋が水流に落とされた時、有馬の体は、凄《すさま》じい飛沫《ひまつ》をあげて浅瀬の中へ跳び下りていた。
「野郎!」
罵声《ばせい》と共に掴《つか》みかかって来たボッカをひっぱずし、有馬は野天風呂へ向かって駆けた。
彼が浅瀬へ跳び下りた時の態勢がまことによく、二人のボッカの迎撃をうまく躱《かわ》せたのである。
有馬が駆けつけたおかげで、野天風呂の傍の行為はきわどいところで中断された。
灌木の繁みの現場≠ノはまだ二人の男が残っていた。一人は大倉であり、もう一方は今日O町から上って来たボッカの一人である。被害者は二人、入浴中を襲われたものとみえて、何一つ身につけていない。ショックで羞恥心《しゆうちしん》が麻痺《まひ》したのか、全裸の躰《からだ》を隠そうともせず、射竦《いすく》められたように震えていた。
最初の防衛線≠ェ破られたのを知った大倉らは、有馬を迎え撃つためにひとまず女の躰から離れた。
「君たち、どういうつもりなんだ、馬鹿なことは止せ!」
「へっ、何を言やがる。いい若いもんが女の裸をチラチラされて黙っていられるか、文句があるなら女に言え」
ボッカが怒鳴った。町から流れこんだあぶれ者らしく陰惨な凶悪さが表情に滲《にじ》み出ている。
「余計な邪魔しやがって、それともてめえが代わりの女を世話してくれるのかよ」
後から二人のボッカが駆けつけて来た。
「ぐずぐず言わさずにやっちまえ!」
「今更止めたってどうってこたあねえ」
もはや彼らは衝動を中断された動物の怒りに狂っていた。話して理屈の通じる状態ではなかった。
とっさに判断した有馬はいきなり前面に立ちはだかっていたボッカの胯間《こかん》をけり上げると、それがどの程度の打撃を与えたか確かめもせぬうちに、後背に迫った二人のボッカに躍りかかっていた。
「あっ」
「野郎! やる気か」
思いがけぬ先制攻撃に三人はひるんだ。
「お客さん、逃げるんだ!」
有馬は竦み上がっている女に怒鳴った。だがその声は、有馬の攻撃にややひるんだ三人に猛然たる憤怒を甦《よみがえ》らせてしまった。
「くそっ」
「よくもやりやがったな」
三人は体勢を立て直すと一斉に有馬へ躍りかかって来た。そうなるとただでさえも腕力の強いボッカ三人を相手に、有馬に到底勝目はない。袋叩きとはこういうことをいうのであろう。鼻血や唇が切れた血で彼の顔面は、凄《すさま》じい形相に変わった。
「おい、もういいだろう」
あまりにもの凄《すご》い彼の形相に、かえってボッカの方が臆《おく》したらしい。その間、大倉は終始無言のままそこに立ちつくして傍観していた。
有馬を袋叩きにしたものの、ボッカらは女に対する欲望もすっかり喪《うしな》ってしまったらしい。有馬の抵抗が薄れると同時に、彼らに理性らしきものが甦ってきた。
その時、大倉は何思ったのか、裸のまま震え続けている二人の被害者に、衣服を持ってきてやったのである。ボッカの戦意≠フ喪失を敏感に酌み取って、有馬側へ付いたつもりなのであろうか。
女がのろのろと衣服を着けはじめたのを目にしても、ボッカは何も言わなかった。
「おい、逃《ずら》かろう」
彼らの首領株らしい一人が言った。
「|荷上げ《ボツカ》代は?」
「馬鹿野郎! とっ捕まってもいいのか」
三人は急に臆病風に吹かれてこそこそと立ち去った。
「お客さんが風呂《ふろ》へ行った後、急にボッカの姿が見えなくなったので、おかしいと思って野天風呂へ来てみると、あの有様だったんです、何しろ、三対一だったもんですから、どうにもならなくて」
後になって大倉はしゃあしゃあと言った。
「何故、俺《おれ》が三人と格闘していた時に、応援しなかったのだ!?」
と有馬に問い詰められても、少しも悪びれずに、
「竦んじゃったんですよ、あんまりもの凄いので、僕は生まれつき気が弱くて、小さい時からけんかなんか見るだけで縮み上がってしまうんです」
だが有馬はあの時「橋を外せ」とボッカに命じた冷静な声が、確かに大倉のものだったのを覚えている。女登山客が風呂へ行ったのを見届けた後で、おそらく彼がボッカを使嗾《しそう》したのであろう。女は二人だし、自分一人だけでやる勇気もない。ボッカをうまいことそそのかして、自分も便乗≠オようとしたのだ。あの時の大倉の冷静な声は、そのまま彼の狡猾《こうかつ》さを示すものである。首謀者はおそらく彼だ。
しかし、有馬はあえてそのことを追及しなかった。追及したとて声をテープに取っておいたわけではなし、大倉がそんなことを言った覚えはないと否定すれば、水かけ論になってしまう。
被害者に聞いても、大倉は一番後からやって来て、何にも手出しはしなかったそうだ。それは便乗の順番≠待っていたとも言えるし、彼の主張通り、三対一の劣勢に竦み上がったとも釈《と》れるのである。
大倉も、ロマンチストがかった山好きの青年によくあるように、山を何物よりも優先するために、まともな仕事に就《つ》くことが出来ない男であった。下界≠軽蔑《けいべつ》し、山に入り浸っていることに幼稚なヒロイズムを感ずる、いわゆる、山ヨタ≠フ一人である。
数年前から雲の平周辺の山域に入り浸り、善助と知り合った。ここのところ湯俣や、三俣小屋で走り使い的なアルバイトをやっていた。
東京の中流家庭の息子で大学も中退しているいっぱしのインテリで、なかなか小才が利くので今まで善助も有馬も、かなり重宝がっていたのである。
二人の被害者は名古屋からやって来たOLだった。有馬が駆けつけたおかげで最悪の被害は免れた。
善助も報《し》らせを受けて下りて来たが、こんなことで三俣小屋の経営や、新道工事に支障を来たしては一大事なので、被害者にひたすら謝った。
幸い、加害者が流れのボッカであったのと、小屋の人間である有馬が救っていたことから、被害者の小屋側へ対する心証は悪くなかった。
だが何分、若い娘なのでどう気持が変わるかも分らない。彼女らにしてみれば、清浄な山で、純真潔癖であるはずの山男≠ゥら犯されかかったのである。この衝撃は簡単に癒《なお》らなかった。
有馬は彼女らの傷つけられた心を癒やしてやるために、忙しい中を割いて、自ら数日、雲の平とその周辺を案内してやった。このことによって被害者の機嫌はかなり直った。
5
有馬の誠意と努力が被害者に通じて、事件は示談となった。ボッカに袋叩きにあいながらも、被害者を救った有馬に、善助は多少、心のしこりを解いたようだった。
事件首謀者と目される大倉を、このまま湯俣へ留めておいたのでは、いつまた同じような不祥事を繰り返すか分らないので、三俣小屋で働かせることにした。ここならば人目も多く、勝手な真似は出来ないだろうと善助が判断したからだった。有馬はくびにすることを強く主張したが、それだけの証拠もない上に猫の手も借りたいシーズンに、腕のいい大倉を失うことに善助は耐えられなかったのである。
だがこのことが後でほぞをかむ結果となった。三俣小屋に移された大倉は、当分神妙に働いていた。
もともと山が好きでぐれ出した大倉を、湯俣から三俣へ移したことは成功だった。大学中退のインテリだけに山の知識も下手なガイドよりよっぽど深い。登山客にもけっこう人気があった。当初は警戒していた善助も、いつか大倉の才走った小器用を重宝がっていた。そこに善助の油断があった。
山小屋の朝は午前三時頃から始まる。四時にはすでに早発《はやだ》ちの縦走者が出発する。五時にはご来迎を拝もうと殆《ほとん》どの登山客が起き出し、七時にはどんな寝坊の登山者も小屋を出ている。出発前の戦場のような騒ぎは精々二、三時間で、後はうそのような、しかしそれが本来の静けさの中に山小屋は取り残される。
小屋の従業員だけの朝食をすまして掃除がすむのが九時頃、それから早着の登山客がぼつぼつ姿を現わす二時頃までが、山小屋の一番のんびりする時間帯である。
特に三俣小屋は烏帽子方面から長い稜線《りようせん》を縦走して来る登山客が圧倒的に多いために、大部分は午後の到着となって、縦走者の休憩は他の山小屋に比較して少ない。専ら宿泊に利用される裏銀座縦走コース中の重要な宿駅≠ナあった。
その日、自分の担当部屋の整備を終えた大倉は、小屋のある台地から南の沢へ向かって少し下ったお花畠《はなばたけ》に寝そべってうとうとしていた。小屋の人間は皆このようにして、睡眠不足を補うのである。他の者も思い思いの場所で休んでいるのであろう。これはむしろ昼寝というよりは、山小屋の人間が朝早く夜遅い(遅着の登山客や遭難事故のために)勤務のために発明した分割睡眠法≠ナあった。
だがその日の大倉は睡眠不足を補わなければならない別の理由があった。チングルマが微《かす》かに頬《ほお》に揺れている。陽光と微風が適度にミックスして薄いシャツ一枚の肌に快い。
大倉はその快さの中に微睡《まどろ》みながら、昨夜思いがけなく味わった若い女登山客の躰《からだ》を反芻《はんすう》していた。あれは関西方面からやって来た若い女三人グループだった。いずれも金にゆとりのある中流家庭の娘なのだろうか、山は六甲山ぐらいしか登ったことがないくせにアルプスの名に惹《ひ》かれ、途中で知り合った鼻の下の長い山男たちに護衛《エスコート》されて、三俣小屋まで女王気取りでやって来たものだった。
いずれも頭は大してよさそうではなかったが、化粧がうまい(女登山客は山でも化粧する)せいか面は他の女客よりも格段に人目を惹いた。その中の特に頭と情緒《ムード》に弱そうな一人にちょいと周囲の山や高山植物の名前を教えてやってコネをつけた大倉は、「アルプスの星空を見せてあげましょう」と夜のデートを約束したのである。女の客は山小屋の人間を特に信頼する。壮麗な大自然の舞台装置と、山男《アルピニスト》のイメージから男の中に潜む狼を忘れてしまう。彼女らは下界から隔絶された山男の方が女に飢えていることを知らない。大倉はそんな心理を巧妙に計算して誘ったのだ。
(ちょうどこのあたりだったな。アルプスの星月夜があんなにも青白く光るということを、俺も昨夜まで知らなかった)
大倉は露を含んだチングルマの上に折り敷いた女の、青く妖《あや》しい裸身を瞼《まぶた》に浮かべていた。彼が躰に手をかけると、むしろ待ちかねていたように崩れ、積極的に躰を開いてきた。女の躰は若い割にかなり遊んでいることを物語っていた。
降りこぼれるような星屑《ほしくず》の下で獣のように女とからみ合っている間に、大倉は自分の方が獲物にされたような気がした。それほど女の応じ方は積極的であり、場馴《ばな》れしたものだった。
(どうも俺の腕のせいじゃなかったようだな、それにしても美味《うま》かった。名前と住所ぐらい聞いておけばよかった)
「何よ、思い出し笑いなんかして」
いきなり耳許《みみもと》へ擽《くすぐ》るような声をかけられて、淫《みだ》らな追想を破られたのはその時である。
「あ、奥さん!」いつの間にか久代が傍に坐《すわ》って大倉の顔をにんまりと見下していた。
大倉は今の夢の内容を見透かされたような気がして柄にもなく少々|狼狽《ろうばい》した。
「さぞいい夢を見ていたんでしょうね」
久代はそんな大倉に、充分効果を意識した流し目を送った。
「いい夢なんて、疲れていたんですよ、何しろ、あの小屋は人使いが荒いからなあ」
「あら、悪かったわね、でもあながち小屋のせいばかりじゃないわよ、大倉さんて、女の客には特別に親切だから、頼まれないのにガイドなんかしてやったりしてね」
大倉はそう言われてドキッとした。久代に昨夜のデートを見られたのかと思ったのだ。
「でも今時の若い女は、高山植物ぐらいじゃだめよ」
と彼女が蓮っ葉に笑ったところを見ると、どうやら気の回しすぎだったらしい。
「ここは気持がいいわね、私もいていいかしら?」
大分|喋《しやべ》った後で久代はこと改めて聞いた。
もとより大倉に否やのあろうはずがない。もともと充分に色香が残る久代にかなりの関心をもっていた彼である。さすがに雇主の細君として迂闊《うかつ》に手出しはしなかったが、先方からアプローチして来るのまで断わる理由はない。
一通りの話題が尽きると、二人の間に静寂が落ちた。縦走路から外れているので登山者の気配もない。そろそろ正午に近くなった太陽の下で、槍ケ岳の鋭角が夏の空にかすんでいる。眠気を誘う静けさであった。だが大倉から眠気は完全に去っていた。眠気どころか、ある予感≠伴った緊張で躰が痛いほど硬くなっていた。男が年上の女と二人だけでいる時の予感は殆ど誤りのないものである。大倉は久代が傍に来た時からその予感を抱いていた。彼は故意に沈黙を守って予感を暖め育てていた。
「大倉さん」
ややあって久代が静寂を破った。その声はかすかに上ずり、大倉の予感を裏書きするものであった。
「あなた、どうしてあんなことなさったの?」
それではやはり昨夜のことをと、不意打ちを喰《く》わされたように上げた彼の目に、久代は妖《あや》しい笑いを重ねて、
「いやがる女に無理にナニしなくとも、馬鹿ねえ」
「…………?」
「今度からがまん出来なくなった時は私に言いなさいよ」
「え? それでは……」大倉は思わず生つばをのみこんだ。
「あなたって、案外にぶいのねえ」
「今、ここで?」
「ふふ、馬鹿」
「でも……旦那が……」
「今日は朝から雲の平の方へパトロールに出かけたわよ」
言うと同時に、重く厚ぼったい久代の躰が、大倉にかぶさって来た。夏の白昼の光の下、高峯群の屏風《びようぶ》に囲まれて、雄と雌が狂った。チングルマやイワカガミが二匹の獣のからみ合いのために無惨に蹂躙《じゆうりん》された。
雄は次第に前夜の延長のような錯覚に襲われ、雌は有馬に斥《しりぞ》けられて以来、躰の芯《し》でくすぶり続けていた炎が完全に燃え盛り、燃え尽きるのを全身で愉《たのし》んでいた。
6
そのシーズンの小屋の売上げは予想外に伸び、八月末には約三百万ほどの金が蓄《たま》った。人件費や小屋の経費を差引いても、百万程の利益が残るはずである。
「これで当分、工事費用は賄えるずら」
善助が例の能面づらを久しぶりに綻《ほころば》せた。大島からの遺贈がそろそろ心細くなっていた矢先なので、この予想外の成績は二人にとって何よりの福音であった。それは単なる売上増に留《とどま》らず、雲の平周辺がようやく世間に知られてきたことも示していた。実はその方が彼らを喜ばせたのである。
九月に入って数日後、有馬が数人の作業員と共にカラ谷の渡《わたし》付近で工事をしていると、上流の方から善助が下りて来た。つい二、三日前有馬は用事があって小屋へ登ったので、二人は会ったばかりである。その時には善助は近いうちに山を下りるとは言っていなかった。
「何かあったのかあ?」
声が届くあたりに近づいた時、有馬は呼びかけた。
「久代と大倉が下りて来なかったかあ?」
善助の切迫した声が返ってきた。有馬が下りて来ないと答えると、遠目ながら善助の表情が一瞬ひき攣《つ》ったように見えた。近づくほどに彼のただならぬ様子が分った。目は血走り、顔面はそうけ立ったようになっている。そのくせ、小屋から走りづめに飛ばして来たのであろう、全身汗まみれであった。
「一体、何が起きたんだい?」
やや呆気《あつけ》に取られたように尋ねかけた有馬に、
「何もこうもねえ」と言って、作業員の一人が差し出した番茶入りの水筒を口づけで飲むと、
「逃げたんだよ、久代と大倉の野郎が」
「えっ! また駆け落ちか」
「それが金も持って行きやがった」
「か、かねを!」
駆け落ちには大して驚かなかった有馬も、金を拐帯されたと聞いて愕然《がくぜん》とした。只《ただ》の金ではない。新道工事に重大な影響を持つ金なのである。
「それでどの位?」
とりあえずの驚愕《きようがく》を鎮《しず》めて有馬は聞いた。
「それが全部なんだ、昨日までの売上げをすっかりいかれた」
「えっ。三百万全部か!」
さすがの有馬も暫《しばら》くは次の言葉を失った。小屋で購入した食糧も資材もまだ精算はすんでいないはずだ。従業員の給料も未払分が残っている。三百万全額持ち逃げされては、単に利益が吹飛ぶだけでなく、小屋の経営そのものが危うくなってくる。到底新道工事どころではない。
「すまねえ、前にも同じ様なことをやられていながら、俺《おれ》が油断してたばかりに」
善助はがっくりとうなだれた。頬《ほお》に水玉が数滴光っている。おそらく汗ではあるまい。
「とにかく歩きながら詳しい事情を聞こうか」
二人がこのルートを取ったとすれば一刻の猶予も出来ないので、有馬は下りながら話を聞くことにした。工事人には急用が出来たからと断わって善助と有馬は湯俣へ下りはじめた。
善助の話によると、二人のいないのに気がついたのは今朝七時頃だったそうだ。おおかたの登山者が発《た》ってホッとした時、ボッカの一人が大倉がいないと言い出したのである。同時に善助は妻の姿も見えぬことに気がついた。前科≠ェあるだけに不吉な予感を覚えた。予感は的中して二人の目ぼしい持物は殆《ほとん》ど残されていないことが分った。
もしやと思って、昨日までの売上げを入れておいた小金庫を調べたところ、中身は一円も残さずに蒸発していたのである。近日中にO町の銀行から山小屋専門の集金人が取りに来ることになっていたので、持ち運びよいように各札束に分けてくくっておいたのだ。鍵《かぎ》は一応かけておいたものの、管理はルーズだった。少なくとも小屋主の妻たる久代が開けようと思えば開けられぬことはなかった。都会と異なり、山の中にいるとどうしてもその方面の警戒心が薄れてしまうのである。
昨夜、小屋の者が寝る頃までは、二人の姿は確かに見えた。久代が傍の寝床に入ったのを善助は覚えている。
昼の疲れで小屋の人間が前後不覚に眠り込んだ頃を見計らって、二人はかねて目をつけておいた金庫から金をかっさらい、手に手を取って駆け落ちしたのだ。逃げ道としては、まず未開通の新道伝いに湯俣からO町方面へ出るもの、第二に烏帽子方面、第三に槍ケ岳方面、第四に黒部五郎岳を経由して富山方面へ向かうものが考えられる。
この中第二、三、四のルートはいずれも長大な尾根を行くため、女|伴《づ》れでは途中で追手に捕る惧《おそ》れがあった。最も可能性の強いのが新道経由である。途中未開通の部分は、一般人には通行不能だが、工事に直接携わった大倉がついているから、全く通れないことはないだろう。昨夜は遭難事故や遅着もなく、九時には皆寝静まったから、遅くも十二時前には小屋を出ているだろう。とすれば最大の関門たる湯俣の、有馬らが起き出す前にそこを通過することが出来る。
それに万一、未開通の個所の通過に手間取って有馬らと顔を合わせたとしても、三俣―湯俣間には脚以外に連絡方法がないのであるから、事情を知らぬ有馬らは何とでも言いくるめられる。
湯俣の関所さえ通過すれば、後は高瀬川沿いに一瀉《いつしや》千里、朝になって善助らが血相変えて湯俣へ駆け下りて来た頃は、鉄道でどこの大都会へも出られるO町に着いている。
二人が考えたであろうと同じことを考えた善助は、もう遅過ぎると絶望感に押しひしがれながらも、最も可能性の強いルートを追って来た。念のために他の三つのルートにもボッカや小屋の人間を走らせておいた。
「とにかくO町まで行ってみよう」
とりあえずそれ以上の知恵は出なかった。O町へ久代らが逃げた形跡はなかった。小さな田舎《いなか》町だから事実そちらへ立ち回っていれば彼らの姿を見かけた者が全くないということは考えられない。
「とすると、どこか他のルートを逃げたのだろうか?」
彼らは徒労の足を引きずりながら、三俣小屋まで引き返して来た。他の三つのルートを行かせた追手から何らかの消息がもたらされるかもしれないと思ったからである。烏帽子と黒部五郎のルートを追った者はすでに帰って来ていた。彼らの報告はいずれも、その方面に形跡なしであった。
槍ケ岳方面の追手として出した修三が未だ還《かえ》って来ていなかった。焦燥のうちに時間が流れた。その日遅くなって修三が帰って来た。
「どうした? 足取りが分ったか」
色めき立って迎えた善助らに、彼は二人が双六小屋から小池新道を下って飛側へ下ったらしい形跡があることを伝えた。
「新穂高温泉で大倉を見かけたボッカがいたじ」
「久代は一緒にいたのか?」
善助は急《せ》きこんだ。
「女もいたようだったけどよ、一番か二番の下りバスに乗り込もうとしていた後ろ姿だったもんだで、誰だかよく分らなかったそうずら」
「奴《やつ》らせ、奴らにきまってる。時間も合う。新穂高まで下りだもんだで、女伴れでもとばせたずら、久代は足は強いんせ! 畜生飛へ出やがったか!」
善助は絶望を確認するように呻《うめ》いた。おそらく彼らは新穂高温泉からバスで高山へ出、更にそこから東京か大阪方面へ向かったのであろう。有馬はあの日からみついてきた久代の貪欲《どんよく》な肌が、どこかの大都会のホテルの一室で、充分に男の脂を吸っている生臭い様子を想像した。
三百万は確実に奪われた。それは当分の間(どのくらいの期間に亙《わた》るか分らない)新道工事が中断されることを意味していた。単独で続けたくとも、もはや人力で開発出来る範囲を越えていたのである。
とりあえず従業員やボッカの日当と、資材の買掛を払わなければならなかった。善助はO町の自宅と所有の僅《わず》かな山林を売り払うことにした。
「善さん、それじゃあ、山から下りた時に居場所がないぞ」
有馬はさすがに驚いた。三俣小屋にいるのは精々六月から十月初めまでの四か月である。交通が完全に杜絶《とぜつ》するアルプス最奥《さいおう》の地で到底越冬することは出来ない。
「なあに知合の家へ居候するだ、来年のシーズンになれば、又、小屋が稼いでくれるずら。このままだと三俣小屋まで差し押えられるでな。正さんにゃあ悪いが、ひとまず東京へ帰ってくれねえかな」
善助が言い難《にく》そうに言った。来シーズンと言うが、工事は事実上、翌々年まで中断されることになる。小屋が本格的に稼ぎ出すのは七月の半ば頃からだからだ。しかもシーズンの終わりにならなければ、まとまった額とはならない。ようやくダイナマイト工事が軌道に乗りかかったところで、この予測しなかった事故のために新道を中断しなければならないのは何としても残念だった。
だが今は、小屋を守るためにはそれ以外に方法がなかった。小屋さえ持っていれば、登山ブームの折りから、何とか工事は再開出来るであろう。だがそれを待つ辛さは、まだ少しもその待ち時間を消化していない今からよく分る。
「善さん、残念だな」
有馬の頬にいつの間にか涙が流れていた。
「うん残念だ」善助の頬も濡《ぬ》れていた。
善助の家と土地は百八十万ほどで売れた。不動産屋の手数料を払うと手許《てもと》に百六十万ほどしか残らなかった。これに有馬が持ってきた大島の遺贈の残りを注ぎこんで、どうにか三俣小屋の負債は完済することが出来た。
例年よりやや早目の九月末に小屋を閉めて彼らは山を下りた。当分、工事が続けられる可能性はないので、湯俣小屋も閉め、資材もすべてO町へ下した。
すべての後片づけを終えた十一月の初め、有馬は午後の遅い列車でO町を発った。どんよりと雪模様の暗い寒い日だった。
駅には善助と千恵と、ボッカの修三の三人が見送りに来てくれた。列車が動き出す間際、善助が長い間ためらっていた言葉を思い切って吐き出すようにして、
「正さん、俺はあんたに本当にすまんことをしてた」
「もういいよ、そんなこと、来年になれば又、金も出来る、俺も東京で及ばずながら金策をしてみるよ」
久代の拐帯を又むしかえしたと思った有馬が遮ると、善助は困惑した表情で、
「それもあるが……」
と彼らしくもなく、歯切れ悪く言葉をにごした。
「何か他にあるのかい? 善さん」
有馬が問い返した時、発車ベルが鳴りはじめた。それが善助にふんぎりをつけさせた。
「あのなあ、久代のことで疑ったりしてすまなかったじ、千恵からみんな聞いた。千恵はあの時見てたんだ。本当にすまんかった。この通りせ、許してくれましょ」
善助は深々と頭を下げた。人目がなかったなら土下座しかねない様子だった。
「おじさん、ごめんね、まさかお父がそんなこと疑ってるなんて思ってもみなかったんで、今まで黙っていて、私《あたい》、あの日、おっ母のあんまり醜いかっこう見たもんで、よう小屋ん中へ入れなかったんよ、ごめんね」
千恵が傍からペコンと頭を下げた。
そうか、そうだったのか、千恵が見ていてくれたのか。有馬は胸の奥にあったしこりが急にほぐれたような気がした。暗い事件ばかりが続いた後でこれは一つの救いであった。
「何だ、そんなことか、いずれ分ってもらえると思ってたことだよ、あまり気にしなさんなよ、善さん、それより来年また頑張ろう。雪が消えたらすぐに飛んで来るからな」
(その間、俺も持病≠ゆっくりと治療しておく)
だがそれは善助らには言えぬことだった。
「それじゃあ来年の春まで、お互いに元気でな」
有馬は爽《さわや》かに笑って、窓から手を差し伸べた。それを善助がガシッと握った。二人の男の間に完全な相互信頼が甦《よみがえ》った。汽笛と共に列車が動きはじめた。
「おじさん、さよなら」
「さよなら、千恵ちゃん、いい年を迎えるんだよ、修三、いろいろ有難う、来年また頼むぞ」
「さよなら」
「さよなら」
列車はスピードを増し、田舎町の小さなプラットホームはあっという間に切れた。代わりに視野に入ってきたものは低い疎《まば》らな家並越しの、雪雲に隠された山々の裾野だった。大体の目見当で確かめた暗い空の奥に、湯俣があり、三俣があり、そして「天の道」があるはずであった。
「待ってろよ、又、来年|還《かえ》って来るまで」
有馬は車窓を走り去る雪煙を吹き上げる連峰に呼びかけた。
南極帰り
1
三俣小屋が地元の山案内人《ガイド》組合から村八分≠ノあったのはその翌年である。久代の拐帯によるロスを取り返すべく小屋が最も稼がなければならない年に、この思いもかけぬ伏兵の攻撃は、善助と有馬にとって手痛い打撃であった。
当時、中部山岳帯には富山、長野、岐阜三県の主要登山口毎に山案内人組合があり、登山客の依頼によって山案内にあたっていたが、登山ブームが口火を切った折りから、案内人《ドガイ》による山小屋への送客率はかなり大きかった。夏山登山客でもガイドをつける者が割合多かったので、いずれのガイド組合も、シーズンには依頼に応じきれないほどに繁盛していた。当然、ガイドの中には相当インチキな者も混じりこんだ。
ガイドと肩書はついても、スイスやフランスのような厳しい規制による権威あるものではなく、組合長の推薦があれば簡単に認可されるもので、折りからのガイド不足に乗じてオフシーズンには炭焼や、土木作業をやっているような連中が、夏場の高収入を目当てに組合にもぐり込んでいた。
こういった連中にかぎって、山の技術も知識も大してないくせに、山小屋には大きく構えがちであった。中には送客権をかさに、不当な要求をする者も出てくる。
善助の説によれば、ガイドとしての最低資格は、
一、冬山案内の出来ること
一、岩場案内の出来ること
一、学術的知識のあること(植物、気象学等の)
一、未開拓のルート案内が出来ること
であり、もしこのような資格を備えずに、登山客の無知に乗じたガイド(?)を続けていれば、ガイド組合は自滅するしかないと主張していた。
特に指導標や山小屋施設が完備している北アルプス一帯の、夏の一般ルートでは、ガイドは全く無用だとさえ言った。しかし、現実に小屋の、彼らへの依存度が大きいのであるから、言いたいことも怺《こら》えなければならなかった。
当時の組合長の中には、
「自信のない地域へ出たら、絶対に先頭を歩くな」という命令を出した者すらいる。
高山植物の名前を尋ねられ、チングルマをおばけ草だと答えて登山客の失笑をかったガイドもいた。
2
「俺《おれ》は南極の岡本だ。何だ、この待遇は! 北アルプスで最低の山小屋だな」
「でも他のお客さんもがまんしているんですから、何しろ見る通りの満員で」
「お前じゃ分らねえ、管理人を出しなよ、ここはたしか藤井だろ」
二階の方で若いアルバイトに向かって居丈高に怒鳴っている声が聞こえた。
「また南極だな」
善助が眉《まゆ》をしかめた。岡本はもともとO町のボッカであったが、数年前、馬力をかわれて南極へ連れて行かれてから、いっぱしの名士になったつもりで事々に「俺は南極の」をふりかざすものだから、どこの山小屋からも南極≠ニいうあだ名で嫌われている男である。
とはいえ、父親が地元のガイド組合長を勤めているので、特に三俣小屋としては粗略に扱えない相手であった。善助も内心、癪《しやく》にさわってはいても、彼がやって来ると特別待遇をしていた。
ところがその日に限って、たまたま岡本の顔を知らなかった新人のアルバイトが、他の一般登山客と同様の扱いをしたのが気に入らなかったらしい。
まして客の手前、いいところを見せようと意気ごんで来たところを、十把《じつぱ》一からげに扱われたので引っ込みがつかなくなったのであろう。
夏の北アルプスの山小屋の混雑は、知らない人間には到底想像出来ないほど凄《すさま》じいものである。とにかく下界のホテルのように満員札止めは出来ない。断われば人命に関わるのだから、やって来た人間はいくらでも収容する。
身体を横に出来ればいい方で、時には座禅のまま夜を明かすこともある。こういう状態の中で特別待遇のための空間を作り出すのは容易ではないが、相手がうるさ型のガイドとなると後が恐いので、小屋の方では何とか無理算段をするのである。
だがそんな事情は、数日前にやって来たばかりのアルバイトが知るはずはない。岡本の横柄な態度にアルバイトの声もだんだん感情的になってきた。
「こりゃいかん、おい修三、行って止めてくれ、俺もすぐ行くで」
生憎《あいにく》、団体が到着して手が離せなかった善助は、修三へ命じた。
だが修三が駆けつける前に、事態は最悪となってしまった。
「南極へ行ったことが、どんな関係があるんです」
「何だとこの野郎、客に向かって生意気な」
「生意気なのはそっちじゃないですか。山ではみんな平等だ。自分だけ待遇よくしろなんて非常識じゃないですか」
若い純真な学生アルバイトだけに負けていなかった。悪いことに一般客がアルバイトを応援した。
北アルプス登山客の大半は大都会からやって来ているので、南極など少しも珍しがらない。先刻から岡本が南極を振り回すのを苦々しく思っていたらしい一般客が、アルバイトに応援して彼をたしなめたのである。
「山猿が、南極へ行ったくらいで威張るな」と怒鳴りつけた客すらいた。
「岡本さん、私たちはここでけっこうですよ」岡本の客の方が閉口して彼の袖《そで》を引張った。彼の面目はまる潰《つぶ》れだった。
後から善助が詫《わ》びたが、彼の硬い表情は解けなかった。
「これは面倒なことになる」善助は案じた。
善助の危惧《きぐ》の通り、ガイド組合から送客は極端に減った。烏帽子方面から縦走して来た場合の泊まりは、殆《ほとん》ど三俣小屋と相場が決まっている。大体この長大な尾根は、たっぷり一日分の旅程である上に、途中に小屋がないので、三俣小屋へ着いた客は長い緊張から解放されて、一遍に疲労を発するのが常である。
ところがガイドがエスコートしていると、三俣へ泊まりたそうにしている客を引きずらんばかりにして、次の双六小屋へ引張って行ってしまうのである。
彼らが泊まるのは、余程の悪天でこれ以上の行動が不可能な場合とか、雲の平方面へ回る場合だけに限られた。
三俣小屋の売上げは目立って減った。こうして新道工事は資金面から更に大きなハンディをつけられたのである。
幻の山小屋
昭和四十×年の夏は梅雨明けが遅れて、遭難事故があい次いで発生した。三俣小屋周辺の山は、剣、穂高地区と異なり、クライマーを誘う岩壁がないので、遭難の殆どすべては疲労凍死である。
特に小屋の立地点が烏帽子より槍に至る長大な裏銀座コースの途中にあるため、烏帽子方面より悪天を冒して縦走して来た者が遭難を起こしやすい。烏帽子岳より野口五郎岳、鷲羽岳などを経て三俣蓮華小屋へ至る稜線《りようせん》はアルプスでも有数の強風帯である。健脚者でも八時間―九時間という歩程は、途中に山小屋がないので、いったん悪天に見舞われると逃げ場がない。
強風雨をついて烏帽子方面から行動して来る登山者が、三俣小屋へ辿《たど》り着いた時は疲労凍死寸前の状態に陥っていることが多いのもこの事実を物語るものである。特に鷲羽岳とワリモ岳の鞍部《あんぶ》において遭難が多発する。
有馬と善助は連日のように発生する遭難の救助活動できりきり舞いをしながら、
「水晶の肩に応急の避難小屋を建てなければならない」ということに意見が一致した。水晶の肩はワリモ岳の手前であり、赤岳の痩《や》せ尾根を登り切った登山者にどっと疲れが出るところだ。
幸い、新道がかなり伸びて、赤沢付近の一部不通区域の通行さえ何とかなれば、資材のボッカが可能となっていた。
「善さん、赤沢を何とか通れないかな?」
「荷物をバラシて、えり抜きのボッカにやらせれば何とかなるずら」
「とにかく、避難小屋を一日も早く建てないことには、犠牲者が増えるばかりだ」
「たしか、あんたの奥さんもあの辺でやられただ、小屋が出来れば何よりの供養になるずら」
こうしてえり抜きのボッカにより、資材は続々と三俣小屋へ集結をはじめた。
山小屋の建築費は信じられないくらい多額なものである。特に奥地の山小屋はボッカ費用が幾何級数的に増大する。原価四百円足らずのセメント一|袋《たい》が、一万円位になる。すべての資材がこの調子で値上がるのだ。それほどまでにして建設しても、台風などによって倒壊する危険性がある。事情を知らぬ第三者はそんなチャチなものを建てるから悪いなどと無責任なことを言うが、想像を越える自然の破壊力に晒《さら》される環境に、すべて人力に頼って資材を運ばなければならない苦労は分ってもらえない。
高度三千の稜線の気圧は低く、気流が乱れていて空輸を請負ってくれる者はいなかった。
新道開発に全力を注がねばならない時に、避難小屋建設に、血の出るような費用と労力を割くのは辛かったが、新道経由のボッカが可能となれば、避難小屋の建設はあらゆるものに優先しなければならなかった。新道の主たる目的もそこにあったからである。
幸い、三俣小屋が好調で、その方の収益をいくらか回すことが出来た。もっとも山小屋といっても、あくまでも不時の避難用で、本格的なものではない。とりあえずの風雨がしのげる程度の、小さな石室である。しかしこれが出来ることにより、どれだけ多くの人命が救われるか分らない。
資材と人手は殆ど三俣小屋に集結した。後は天候の安定を待って現地まで一気にボッカし、小屋の建設にかかる段取りになっていた。
その日午後五時頃小屋の扉が激しく叩《たた》かれた。
「我々はC医大の一行で雲の平でキャンプ中ですが、仲間の一人が肺炎になって呼吸困難に陥っています。救援をお願いします」
すわ!――とばかり、善助はとりあえずボッカ三人を現場へ急行させた。やがて深夜に至ってボッカに背負われて担ぎこまれて来た病人は呼吸が浅く、皮膚に暗青色《チアノーゼ》が現われ、素人目にも事態が切迫しているのが判った。
「肺炎をおこしています。一昨日雨に叩かれて行動したのがいけなかったのでしょう。とりあえず救急薬品を与えておきましたが、抗生物質が足りません、小屋に何かないでしょうか」
不幸中の幸いにも一行は医学部のパーティなので、応急の処置は出来た。有馬手持のペニシリンを打ち、室内の保温につとめるなど打てるべき手はすべて打った。
しかし病人の容態はますます悪化する一方であった。
「こりゃいかん、酸素吸入が必要だ」
学生の一人が言った。だがそんな設備のあろうはずがなかった。
「酸素ボンベと抗生物質がないと救からない」
「湯俣小屋に今年から無線電話が入ったからそこまで下りればO町の病院へ救援を依頼出来る」
だがまだ開通していない新道を、夜間[#「夜間」に傍点]下るのは難しかった。
「何とかなりませんか!?」
学生たちの面にはわらにもすがりつくようなひたむきな色があった。ボッカたちが顔を見合わせた。皆地元えり抜きのボッカだが、まだ道の開通していない湯俣溪谷を深夜下降する自信はない。
「救けて下さい」
学生は泣き声になった。朝を待ってから下りたのでは間に合わなくなるかもしれない。
「俺《おれ》が行こう」
有馬が立ち上がった。
「正さん!」
「何、大丈夫、自分で作った道だ。夜でも大して変わりないよ、それより、O町からボンベが運ばれて来るまで何とか病人を保《も》たせて下さいよ」
後の方の言葉は学生たちに向けて、有馬は小屋の外へ出ていた。
その夜、湯俣小屋から電話でO町病院や医者のいる槍ケ岳山荘へ救援依頼の連絡がなされた。たまたまその報が、槍ケ岳山荘に居合わせた新聞記者の耳に触れ、「三俣小屋に瀕死《ひんし》の病人」のニュースは全国に流れた。
折りから登山ブームでもあり、アルプス最奥《さいおう》の山小屋に酸素ボンベと医薬品の到着を待って瀕死の重病人が喘《あえ》いでいるニュースは、救援が間に合うかどうかのスリルを世人に与え、マスコミの目は三俣小屋に集まった。
午後三時、O町観光協会の者と有馬によって酸素ボンベがもたらされた。槍ケ岳からも医者が到着して、病人はきわどいところで最悪の危機を切り抜けることが出来た。
「危なかった、ボンベの到着がもう二、三十分遅ければ助からなかった」
医者は安堵《あんど》の吐息をつきながら言った。だがすぐに表情をひきしめて、
「だがこのままではじり貧だ。山から下ろさないかぎり病状はよくならない」
「しかし先生、まだ動かしては危険です」
学生はさすが医学生だけに当を得た抗弁をした。危機は一応切り抜けたとはいうものの、意識は依然として不明であり、心臓血管系の衰弱が著しい。
絶対安静を保たねばならない。しかし山から下ろさないことにはなおらないという相反が起きるのが、高山で発現した肺炎の特徴である。
「それだ」
医者も頭をかかえてしまった。
「ヘリコプターは使えませんか?」
泊まり合わせていた登山客が提案した。
「ヘリ?」
医者の目がキラッとして、
「そうだ、それ以外にないな、小屋の方、このあたりはヘリの離着陸は可能ですか?」
と有馬の方を向いた。
「前例はありません、だがそれ以外に方法がないとなれば、やってみましょう」
二、三年前に穂高岳の涸沢《かれさわ》で遭難者の救出のためにヘリコプターが出動した例はあったが、その場合も空気密度が薄く、あらゆる機材を下ろして、パイロットと遭難者二人だけの重量にしてようやく運ぶことが出来たということを有馬は聞いていた。
涸沢の標高は二千四百、三俣小屋は二千六百、気流の状態も極度に悪い。
だがこと人命にかかわるとなれば、物資のボッカとはわけが違ってくる。
有馬は直ちにボッカの一人を湯俣小屋へ連絡に下した。三俣小屋からヘリコプター出動の要請をうけた長野県警では、長野市内と松本市内の民間ヘリコプター会社に協力を要請したが、いずれも農薬|撒布《さんぷ》用の小型ヘリのため、到底、アルプスへの飛行は無理ということが判った。
八方、手をつくした結果、千葉県|館山《たてやま》の航空自衛隊に最も強力なヘリがあることが判った。
長野県警より出動の要請を受けた館山自衛隊第二十一航空群では早速現地へ気象状況を問い合わせた。
折りから梅雨末期の前線は小笠原《おがさわら》高気圧のエネルギーを吸って、本土の上を南北に振動しており、到底、飛行可能な気象状況ではなかった。特に三俣付近は気圧の谷に入り、空気密度が極めて薄くなっていた。
唯一の頼みの綱であったヘリコプターがだめとなって、結局人力による救出以外にはなくなった。
その間報道陣は続々と湯俣に駆けつけて、成行きいかんと固唾《かたず》をのんで見守っていた。
ヘリコプターによる救出が絶望に傾きかけている頃、三俣小屋では善助と有馬の間で真剣な討議が交わされていた。
「ヘリがだめとなれば、ボッカを使わなければならなくなるな」
「だがよ、ボッカを降ろしたら来年まで、いや当分、ワリモに小屋は建たねえずら」
「止むを得ないだろう、将来の遭難者の命より、現に危機に晒《さら》されている命を救う方が先決だ」
湯俣からヘリ出動不可能の報が届けられた。
「こうなったら早速降ろしましょう」
有馬は医者に言った。ところが医者は、
「心臓が極端に衰弱している。今動かしては危険だ」
と頑として止めた。しかし、湯俣につめかけた報道関係者には三俣―湯俣間に電話がないので、上の事情が分らない。
「病人が死にかけているのに何故降ろさないのか!?」と騒ぎ出した。
これに事情を知らぬ弥次馬が付和雷同して、
「あれは小屋の藤井と有馬がボッカの手を取られるのでしぶっているのだ」
などと言い出した。下界の不穏な形勢は湯俣からボッカによってもたらされた。
「あなた方は辛いだろうが、何よりも病人の命が一番大切だ。怺《こら》えて下さい」
医者は気の毒そうに、しかし妥協のない口調で言った。
幸いにも病人は手当の甲斐《かい》があって徐々に快方へ向かっていた。それと共に天候も回復しかけていたが、いつ病人を動かせるようになるか分らないので、避難小屋の建設に取りかかることが出来なかった。
「病人はまだ当分動けねえずら、今のうちに土台だけでも運んでおきまっしょ」
「土台さえ運んでおけば、後は順調にいくせ」
「今、やり損ったら、また来年まで小屋は建たんせ、すればまた遭難者がうんと出る」
「やらせて下せえ」
ここ数日病人に備えて小屋に待機させられていたボッカが口々に言った。有馬の心は大きく揺れた。
このボッカたちも血の出るような金で集めたのだ。奥地の建築工事は、精密機械の組立に似ている。一つの資材は他の資材に関連し、他の資材は更に多くの資材に関連していく。資材が欠けたからといって、町での工事のように不足物資の調達が容易には出来ない。
このことは人間に関しても言え、大工や石工やボッカとの有機的協力の下に工事が初めて可能となる。人と物との水も洩《も》らさぬ有機的連係の下に初めて可能となる山小屋の建設は、僅《わず》かな番狂わせが、工事全体を不可能なものとすることがある。
綿密な計算と予定の下に進めてきたこの度のオペレーションにおいて、主役ともいうべきボッカを病人搬出のために下界へ降ろしてしまうのは、事実上、小屋の建築を放棄することであった。
有馬は心から口惜しかった。もうこのようなチャンスは二度とないかもしれない。金もない。これだけの金を再び貯めるためには更に二、三年待たねばならない。よしんば金が出来たとしても、これだけ優秀なボッカは二度と揃えられないだろう。ようやく定まりかけた天候もすぐに台風シーズンに入ってしまう。
善助も口にこそ出さないが、思いは同じであった。
――今を外したら、チャンスは二度とない。土台さえ運べば、後はボッカがいなくとも何とかなる。ボッカはやらせてくれとせがんでいる。天候は回復した。病人はまだ二、三日動かせそうもない、やるなら今だ――
有馬の心はぐらぐらと揺れた。だがもし、病人を動かせるようになった時、ボッカがいないことは致命的である。しかも不通区間の赤沢付近を病人をかかえて通行することは、並みのボッカには出来ない芸当なのである。
有馬は自分の立場と、山小屋の責任者の一人としての相剋に揉《も》まれた。だがその相剋《そうこく》に終止符を打った者は善助であった。
「ならねえ、病人がいるかぎりは小屋で待機するんだ」
善助の言葉には、やはり何十年アルプスに生きてきた男の、鉄の信念があった。
その頃|下界《した》では、しびれを切らした報道関係者が様々な臆測を記事に流しはじめていた。
――山小屋経営のひずみか? 瀕死の重病人をかん詰め――
――えり抜きのボッカを抱えながら平然、管理人の非情――
――人間の生命か? 小屋の経営か?――
などの見出しで三俣の遭難事件を書き立てた。もっとも、その記事が有馬らの目に触れたのは大分後のことである。
その頃、湯俣につめていた修三がボッカに手紙をもたせてよこした。
「下では大変評判が悪い、何故病人を早く降ろさないのですか? いずれ事情があることと思いますが、新聞記者の中には医者が止めているということを信じないで、あれは山の遭難ではなく、山小屋の遭難だなどと言う者もいます。悪いことにO町病院の院長が、酸素ボンベと大量の抗生物質で叩《たた》けば、そろそろ動かせないことはないはずだと言ったのが、記者団に洩れて、形勢は一層悪くなっています。この際、小屋の名誉のためにも一刻も早く病人を降ろされることを望みます」
その手紙が善助の手許《てもと》に渡った時、病人は意識を回復していた。
「よかった、この分ならそろそろ動かせるでしょう」
医者もホッとしたように言った。高所の病人は下界での医学的推定からはるかにかけ離れるものである、かなりベテランの医者でも病人を実際に診なければ分らない。マスコミの険悪な雲行きに、小屋の人間と医師としての立場の板ばさみになっていた彼は、病人の回復に別の意味の安堵《あんど》も覚えたのである。
医者の許可が下りたので病人はその日のうちに下界へ降ろされた。ボッカたちに護《まも》られて山を下って行く病人を見送りながら、有馬は瞼《まぶた》にえがいた妻の霊をまつる山小屋が幻のように消えていくのを見た。
不覚にも目頭を熱くした時、肩をそっと叩いた者がある。善助だった。
「正さん、あまり気を落としなさんな、人間の命が一人救われたんせ。なに、新道さえ開通すれば、避難小屋なんかじゃねえ、本物の山小屋がいくらでも建つずら」
その言葉によって有馬は救われた気持になった。水晶小屋は幻と消えたが、一人の人間の生命は救われた。
しかも彼を救った医薬品の殆《ほとん》どは、未開通の新道を経由して運ばれてきたものである。いわば新道が初めて人の命を救ったと言える。
それこそ何よりも静子の霊を鎮《しず》めるものであり、自分たちの長く報われることのなかった苦労を顕彰するものではないか。
一行の姿が見えなくなる新道の曲がり角で一行が一斉に手を振った。見ればボッカに背負われた病人も、弱々しくはあったが、微《かす》かに手を振っているではないか。
「元気になったら又、来いよ、今度は新道を登ってな」
有馬は聞こえぬと分っていながら大声で叫んだ。
山男の形見
1
七月二十八日、晴、病人を降ろし、遭難事件は幕を閉じた。報道関係も鳴りをひそめた。小憎らしいほどに晴れ上がった空の下に、徒《いたず》らにストックされた資材が恨めしそうである。
八月二日、晴後曇、病人を降ろしたボッカ六人の中三人が足を挫《くじ》き、これで微《かす》かに残していた小屋建設の希望が完全にとどめを刺された。こうなるとかえって接近中の台風のニュースが諦《あきら》めを定めてくれる。
赤道前線上に発生した台風が、沖繩東沖で進路を北東に転向し、次第に速力を速めながら本土に接近していた。気象庁が発表した台風情報によれば中心付近の気圧は九百六十ミリバール、中心より半径三百キロメートル以内が暴風域となっており、現在の気圧配置から近畿四国方面に上陸する危険性が強いということであった。
台風進路としては最悪のもので、もし予報通り近畿地方に上陸すれば、北アルプス一帯は、台風の進行方向の右側に当たる危険半円に入り、最も猛烈な暴風雨に見舞われることになる。
三俣小屋付近においても気圧降下が著しい。山は朝から驟雨《しゆうう》性の強雨が断続していた。風も刻々と烈《はげ》しくなってきていた。進路にあたる各地は軒なみに暴風雨、波浪、洪水警報が発令され、厳戒体制に入った。
善助と有馬は小屋の補強工作をする一方、待避して来る登山客の収容にてんてこまいをしていた。
「この塩梅《あんべい》だと凄え台風になりそうだの」
「遭難が出なけりゃいいがな」
夕方になって山は完全な悪天の中に入った。着くべき登山客は着いて、皆は小屋全体が吹き飛ばされそうな気配の中で不安そうにじっと身体を竦《すく》めていた。
その時突然小屋の戸を叩く者があった。こんな時駆け込んで来る者は大抵遭難救助の要請である。緊張して戸を開いた善助と有馬の前に修三がぬれねずみで転り込んで来た。
「どうした、修三!」
二人は異口同音に叫んだ。修三は一昨日、役所関係の手続きがあってO町へ降ろしたばかりである。
「大変だ、千恵さんが!」
修三は言ったきり後が言えなくなった。疲労が緊張の弛緩《しかん》と共に一遍に発したのだ。下から強風雨をおかして未通の新道を一気に駆け登って来たのであろう。いや、彼はおそらくO町から飛ばしづめに来たのだ。ローソクのように白茶けた頬や唇は、彼が体力の殆どすべてを使い果たしていることを示していた。一般登山者ならば途中で疲労凍死しかねない危険な状態である。それほどまでにしてもたらそうとした情報が気になったが、まず火の傍に連れて行き、濡《ぬ》れた衣服を脱がせた。
有馬が差し出した熱い番茶を飲んで、やっと口をきくだけの元気を回復した修三は、今度はその情報の重大さに表情を硬くして、
「大変だ、千恵さんが交通事故に遭った」
「えっ、それで生命は?」
善助がよろめいた。有馬も顔面を強打されたように歪《ゆが》めた。
「分らねえ、今朝方学校へ行く途中トラックにはねられて、市民病院に入った。今日明日がヤマだそうです」
修三はO町へ出ると、いつも千恵の寄宿先へ泊めてもらう。その家は修三の遠い親戚《しんせき》にもあたるということなのだが、実は、女学校へ入ってからすっかり娘らしくなった千恵に会うのがお目当てらしかった。善助もそんな修三の胸のうちをちゃんと見透かして、O町に修三でも足りる用事があると、きまって彼を行かせるようにしていた。年齢《とし》も大して離れておらず、気だてもよい修三を、千恵の将来の相手と考えていたのかもしれない。
その日のうちに役所の用事をすませた修三は、今朝、小屋へ帰るために、登校する千恵と共に寄宿先を出た。共にと言っても、一緒に歩ける道は僅かで、大通りへ出ると千恵は横断歩道を渡り、修三はそのまま、まっすぐ町外れに向かって進まなければならない。修三はいつもその別れ道で、そのまま千恵と一緒に横断歩道を横切り、女学校までついて行きたい誘惑に駆られたが、あまりしつこくして、感じ易い年頃の千恵に嫌われたくないという見栄《みえ》からやせがまんを張るのであった。
その朝も心残りをさりげない別れの言葉で隠して、横断歩道を渡る千恵を見送った。横断歩道といってもシグナルがあるわけではない。黄色い小旗を持ちながら車列の切れた隙を狙《ねら》って渡るのである。
田舎町とはいえ、朝の大通りはかなりの交通量である。車列はなかなか切れなかった。やがてフェミニストらしいダンプの運転手が、車を停めてフロントウインドウ越しに早く渡れと手を振ってくれた。そしてその親切がかえって千恵のために仇《あだ》となったのである。
親切な運転手に会釈をして、ダンプの前を小走りに通り抜けようとした千恵は、ダンプの陰からいきなり飛び出した乗用車のボンネットにはね上げられ、車道に叩きつけられたのであった。
それはあっという間の出来事だった。今の今まで元気に自分の前を走って行った千恵が、分秒の後には血まみれになって車道に転っていた。
救急車で病院へ収容されたのを見届けた修三は、何はともあれこの事故を善助に伝えるべく、嵐《あらし》模様の山道をO町から一気に飛ばして来たのである。
「これからO町へ行かざあ」
修三の報告を聞き終わった善助は立ち上がった。
「O町へだって!? と、とんでもない」
有馬は思わず撲《なぐ》られたような声を出した。いくら善助でもそれは無茶であった。その後の台風情報によれば、台風は今夜半には紀伊半島へ上陸の公算が強くなっていた。戸外はすでに強雨の渦となっている。まして沢ぞいの新道は増水し、至る所で崖くずれが起きているだろう。
「いや、まだ今のうちなら大丈夫せ。俺《おれ》は行かざあなんねえ」
善助は頑として言い張った。こんな悪天候に無理をして行動しようとする登山者があれば強制的にも止める善助が、親としての情から、自ら山男のタブーを破ろうとしている。
どう説得しても、もはや止められないと悟った有馬は、
「それじゃあ、俺も一緒に行こう」
「ならねえ、あんたは小屋をみていてくれ。いつ遭難者が出るかも分らねえ」
「俺が行くよ」
修三が言った。
「馬鹿言うな。おめえは疲れてる、かえって手足まといせ。なあに子供の頃から歩いてる所せ。庭みてえなもんせ、あまり心配しねえで待っていてくれや、俺の心配より小屋の方を頼むじ」
善助の決意を変えることは出来なかった。行くとなれば、一刻も早い方がよい。有馬は心ならずも善助の身支度を手伝った。
2
台風はその日の夜半、四国東部に上陸、神戸付近を通って日本海へ入った。更に翌日北海道に再上陸して北太平洋へ抜けた。そのためほぼ日本全土にわたって暴風雨圏に入り各地に被害が続出した。特に台風の右側にあたった中部山岳地帯は凄《すさま》じい暴風雨に襲われた。裏銀座コースの尾根における瞬間最大風速は八十メートルを越えたものと思われた。三俣小屋付近の最大日降雨量は四百ミリ近くと推定された。豪雨は三日間続き、尾根上の三俣小屋すらも流されそうな雨勢だった。遠く近く山くずれの音が小屋をゆすぶり続けた。
善助の身が心配であったが、こんな事情で小屋から一歩も離れられなかった。台風が最も猛威を振った午前三時頃までにバス終点の七倉付近に辿《たど》り着いていればよいが、そうでないと、高瀬川が至る所で氾濫《はんらん》して立往生してしまう。最悪の場合は生命の危険すらある。特に湯俣までの未開通の新道で崖くずれや、鉄砲水に襲われればいかに善助でも、身の安全は予断を許さない。
四日目の朝になってようやく晴れ間が出たので有馬はえり抜きのボッカと共に山を下りることにした。
赤沢までの尾根道は倒木が多く、台風の猛威を如実に物語っていた。
岩壁をからみはじめると、足下の川の流れは恐ろしいまでに荒れ狂っている。巨大な岩がぶつかり合いながら流されて行くのがはっきりと見える。夜ならば火花が見えるはずである。
両岸の斜面で地盤の柔らかい個所は、いたる所、巨大な爪《つめ》でかき|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》られたように崩れ、道が流失していた。中にはまだザラザラと崩れ続けている個所もある。
新道はずたずたに寸断されていた。
その都度ザイルで確保しながら慎重に渡らなければならなかった。道が消えているので命賭《いのちが》けの徒渉も何回か強いられた。
「善さん、このあたりが崩れる前に通過してるといいがな」
有馬は誰にともなく言ったが、それに対して伴《つ》れの誰一人として確とした返事をしなかった。もし彼の通過前に崖崩れが起きていれば、到底一人で突破することは出来ない。ということは、あれから四日後の今日になっても小屋へ還《かえ》って来ていないのだから、絶望≠意味するものである。誰もそれが怖くて返事が出来ないのだ。
一の沢付近で下方から登って来た湯俣小屋詰めの人夫たちと出会った。
「やあ、ひでえ嵐《あらし》だったな、上はどうだったい?」
人夫頭の信平という男が早速声をかけてきた。有馬はそのことには答えず、
「善さんが寄らなんだか?」
「善さん?」信平はギョロッと目を剥《む》き、
「善さんどころか、あの嵐せ、よそから来たもんは誰もねえよ」
と何をとぼけたことを聞くと言わんばかりの顔をした。
「何だって、寄らないだと」
一瞬|蒼《あお》ざめた有馬の顔に、只《ただ》ならぬ気配を感じ取った信平は、やや表情を改めて、
「一体、善さんがどうしたずら」
「娘さんが交通事故に遭ってな、十×日の夕方、新道を下りたんだ」
「えっ、そりゃあえれえこった!」
さすがにのんびりと構えていた信平はじめ湯俣小屋の人夫も、ただならぬ事態に騒然となった。
新道を無事下り終わったら湯俣小屋へ必ず寄って行くと言い置いて行った善助が、小屋へ寄っていない。ということは彼が新道を下り終わっていない[#「下り終わっていない」に傍点]ことを意味していた。新道の途中で彼の身に何か≠ェ起きたのだ。
「あんたたち下を探してくれ、俺たちはもう一度赤沢までひきかえしてみる」
有馬は人手を二手に分けると、今下って来たばかりの上流へ余裕のない足を運びながら、
「善さん、死ぬなよ、生きていてくれ」
と何ものかに必死に祈り続けていた。
3
O町の市民病院に善助は着いていなかった。三俣小屋と湯俣小屋の人手を総動員しての捜索も空しく、善助の死体は見つからなかった。
千恵は手当が早く適切であったために危機を脱していたが、善助の行方不明は症状にどんな影響を与えるか分らないので伏せておいた。
彼の死体が発見されたのは、台風が去ってから一週間ほど後である。場所は第五発電所の近くの河原が広がった地点である。見つけたのは発電所の従業員だった。死体の損傷度はやはり彼が新道下降中に遭難したことを裏書きしていた。山崩れにでも巻き込まれたらしく、全身打撲が激しい。その上巨大なミキサーのような湯俣川の増水した急流に揉《も》みしごかれたために、右腕が|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取られ、面貌《めんぼう》などは殆ど識別できないほどに傷んでいた。
ここに有馬は天の道を拓く最も頼もしい、そして只一人の仲間を喪《うしな》ってしまったのである。
「あの時、どんなことをしても諌《と》めるべきだった。善助を殺したのは、誰でもない、この俺なのだ」
有馬は変わり果てた善助と対面しながら、激しい自責と後悔にものも言えぬほど打ちひしがれていた。
そんな彼に代わって、検屍《けんし》の手続きや遺体の処置などを修三がすべて済ませてくれた。最も有馬が立ち働かねばならない時に、彼は虚脱したようになってただ徒《いたず》らに自責と善助の追憶の中に溺《おぼ》れ切っていた。
修三の活躍のおかげで荼毘《だび》もすみ、小さな骨つぼに納まった善助が有馬の胸に抱かれてひとまず三俣小屋へ還って来たのは、九月の半ばであった。もう小屋を閉めるまでいく日もなかったが、せめてそれまで善助がこよなく愛した三俣に彼の骨を置いてやるつもりであった。
九月に入ると山は急に寂しくなる。九月十月の総登山客数が、七月下旬から八月上旬にかけての一日分にも足らないほどのさびれようなのである。十月ともなれば、小屋へ一人の登山者も訪れない日もあった。そんな日が数日続いていよいよ山を下りるという日の朝、有馬は骨つぼを抱えて小屋の外へ出た。秋晴れの美しい朝だった。
「何処へ行くずら?」
修三が妙な顔をして訊《き》いた。荷物も持たず、骨つぼだけをかかえたのが訝《いぶか》しかったのであろう。
「ちょっと三俣蓮華へ登って来る」
「そのつぼは?」案の定、修三は訊いた。
「お前も来ないか」
説明する代わりに有馬は誘った。三俣蓮華岳は小屋のすぐ裏である。二人の足で三十分も登ればもう頂上であった。標高二八四一メートル、北アルプスの中心に位する山頂は、この日二人だけのために、その壮大な展望を惜しみなくくり広げてくれた。夏の晴天と異なり、空気が澄んでいるので槍穂高や、立山などの遠い連峰の残雪を喪った山襞《やまひだ》の細部までがくっきりと読み取れた。
雲の平は黒部源流越しに手の届くような近さに牧歌的な広がりを見せている。
「善さんはこの山がアルプスのどの山よりも好きだと言っていた」
一息入れてから有馬は言った。
「だからここに墓をつくってやろうと思ってね」
ようやく有馬の意図をくみ取った修三は大きく頷《うなず》いた。頂上から少し外れた台地の、雲の平を一望におさめる一角に、有馬はつぼから取り出した数個の骨片を埋め、その上に二人は長い時間をかけて大きなケルンを築いた。
「また来年やって来る。それまで寂しいだろうが待っていてくれ」
墓≠つくり終わった二人はその前に長い間立ちつくしていた。
心に棲《す》んだ夢の形見と
アルピニストは常に残した。
長い道のりのその極み
風の吹き分れる天辺《てんぺん》に
岩片は小さく堆《うずたか》く
風化に耐えて生き残った。
崩れては積まれ、また、崩れては
アルピニストの想《おも》いをこめて
天の道標《みちしるべ》は築かれていった。
突然何の連絡もなく、どこかで読み、いつしか忘れていた、誰がつくったのかも知らぬ詩片が有馬の心に浮かんだ。
そうだ。このケルンにこそ善助の想いがこめられている。天の道が開通される前に不慮の遭難で死んだ彼の無念の思いが。――
(善さん、あんたの想いは必ず俺が果たしてやるよ)ケルンに誓いながら有馬は、自分自身の責務と生き甲斐《がい》としてきた新道の開発に、友に対する約束が加わったのを知った。今度の台風のおかげで、新道は最初からやり直さなければならない。だがどんなに苦しくともこれからは善助が静子と共に自分の意志を支えてくれるだろう。
「そろそろ行きましょ」修三が言った。
悪女の誤算
1
湯俣へ下ると、そこに思いがけない訪問者が待っていた。久代であった。大倉と駆け落ちして以来三年ぶりである。もうそろそろ四十近いはずだったが、相も変わらぬ若づくりと豊満な色っぽさであった。
善助の遭難を伝えたくも、彼女の消息が全く掴《つか》めず困っていた矢先だっただけに、最初の驚きから醒《さ》めると、有馬はむしろ彼女を歓迎する気になった。久代が善助の死を遅蒔《おそまき》ながら知って駆けつけて来たと思ったからである。そこに有馬は夫婦の絆《きずな》と久代の善意を感じた。
「有馬さん、善助が死んだんですって。今朝O町で聞いて驚いて飛んで来たのよ」
「O町で? それじゃあO町へ着くまで知らなかったんですか?」
「そうよ、千恵が交通事故に遭ったこともO町で知ったばかりよ」
「千恵さんに会ったんですか?」
「まだよ、別に生命が危険な状態じゃないそうだから」久代はしゃあしゃあと言った。
「それじゃあ何のためにO町へ来たのです?」
「あらっご挨拶《あいさつ》ねえ、O町は私の故郷よ、帰って来て何故悪いの、そりゃあお金を持ち出したのは悪かったけど、それにしても亭主の金よ、私にも権利があるはずだわ」
有馬はそろそろ久代の真意を疑いかけていた。O町へ舞い戻ったのは、千恵を見舞うためでも、夫の死を悼《いた》むためでもなかった。それが、夫と娘の身に起きた異変をO町で同時に知り、娘を見舞う前にまず湯俣へ駆けつけて来た。有馬が今日山を下りなければ上まで登って来たであろう。
美しい夫婦愛といえぬこともないが、子を持つ女の母性からはどうも無理がある。善助はすでに死んでから一か月余りも経っている。ほんのついでに立ち寄れる病院にまず娘を見舞うのが誰しも当然であり、母親としては必然の情であろう。まして不倫の駆け落ちまでした久代が、娘の見舞を後まわしにしてまで、亭主の骨の傍へ駆けつけて来た動機を素直に信じられないのも無理はなかった。
「これが善さんの遺骨です」
三俣蓮華へ分骨′縺A墓所へ納骨するために下して来た骨つぼを示すと、
「そう」と久代は興味なさそうな顔で頷《うなず》き、それでも形ばかりに手を合わせた。
何となくもじもじしている久代に、気をきかせた有馬は、修三らにちょっと席を外させると、
「奥さん、何かお話しがあるようですね」
「そうなのよ、有馬さん、実はね……」
久代は待ち構えていたように口を開いた。彼女の話の内容は有馬に致命的な衝撃を与えるものだった。
つまり、善助が亡い今、三俣小屋と湯俣小屋の権利は妻の自分が相続すると主張したのである。他の男と通じた上に、金を拐帯しておきながらよくもこう図々しいことが言い出せたものと、有馬は怒るよりも先に呆《あき》れ果てた。
やはり、善助の死を悼むために来たのではなかった。おそらくは金が切れ、男に捨てられてしょうことなしに、又、寛大な善助にすがるつもりで帰って来たのであろう。
それが善助の死を奇貨として欲心を起こしたのだ。だが考えてみれば、久代の主張は法的には適《かな》っている。
まず第一に妻が夫の金を盗んでも罪にはならない。仮に大倉にそそのかされたとしても何年も前のことを立証するのは殆《ほとん》ど不可能である。第三に、善助は離婚手続きを取った様子もない。とすれば三俣小屋などの権利は当然、久代に継がれるはずである。
だが今、彼女に三俣小屋を奪われる≠アとは、新道工事の永久的な中止を意味する。それは善助の意にも明らかに反する。何とかしてこの奇襲≠逃れる方法はあるまいかと、必死に思いめぐらした有馬は、
「しかし、千恵さんにも相続権はありますよ」
「ほほほ」有馬の必死の逆襲を久代はおかしくてたまらないと言わんばかりに笑い躪《にじ》った。
「ほほほ、それがだめなのよ」
「何がだめなんですか!?」
「ああおかしい」
久代は眼尻に涙をためて笑い転げていたが、ようやく笑いをおさめると、
「だって、千恵は善助の子じゃないもの」
「何だって!?」有馬から藤井夫人に対するものとしての丁寧な言動を続ける余裕は失せた。
「そ、それを善さんは知っていたのか」
「ほほ、私が浮気者だから、善助に内証で他の男の子供を産んだとでも思ってるんでしょう。それだったら、善助の子でなくともあの人は自分の子と信じているから相続権があるわ、ところがお生憎様《あいにくさま》、千恵は私の連れ子です。善助もそれを承知で一緒になったのよ」
「結婚と同時に、善さんと千恵さんは養子縁組をしなかったのか?」
「そんな面倒なことはしなかったわ」
縁組をしていなければ、夫と妻の連れ子の間に親子関係は生じない。ということは、他にみよりのない善助の財産はすべて久代のものになるのである。
この時ほど有馬は法律というものの非情性を痛感したことはない。善助が自分の生命を賭《と》してまで駆けつけようとした千恵が、ただ一枚の用紙の届出がなかったばかりに赤の他人となり、拐帯者であると同時に不貞の妻が、法律に堅く護《まも》られている。
「千恵の父親が誰だか教えたげましょうか」
有馬に致命傷を与えたと確信した久代は止《とど》めを刺すように言った。そのいたずらっぽい口調に、有馬はその相手が自分の知っている人間のような気がした。
「大島よ、燕岳で死んだ。あの有名な登山家、大島清が千恵の父親よ」
それは有馬にとって余りにも意外な名前だった。静子を滅し、自分をこのような狂熱にのめらせた元凶が、千恵の父親だったとは、この符合を何と呼ぶべきか。――
「大島がT大の山岳部時代に毎年のようにO町へやって来て、知り合ったのよ。私が初めて知った男だったわ。憎いけれども忘れられない」久代は遠い目をした。この女は、夫の遺骨の前で処女を捧《ささ》げた男を懐しがっているのだ。
大島の善助に対する遺贈もこれで説明がつく。善助を受遺者としたのも、せめてもの贖罪《しよくざい》のつもりだったのであろう。
「善さんはそれを知っていたのか?」
「さあ、多分知らなかったでしょう、別に聞きもしなかったから。ああいう人を本当に寛大な人と言うんでしょうね。相手の男が誰かも聞かず、自分の娘のように可愛《かわい》がっていたわ」
そのことは有馬自身がその目で知っていた。妻が他の男との不倫の悦楽に酔い痴《し》れている時に、善助は他の男が妻に産ませた娘の危難を救うために命を喪《うしな》ったのだ。一体、このような男の寛容をどう解釈したらよいのか? それに反してこの女は、娘を見舞う前に死者の財産を狙《ねら》ってやって来た。禿鷹《はげたか》のような女とは久代のことを言うのだろう。
「千恵さんはそのことを知っているのか?」
「あの子は善助を実の父親と信じているわ、私があまり世話をしなかったもんだから、私よりなついているのよ、ふふ、馬鹿な娘《こ》」
「それだったら、どうか黙っててやってくれ、父親と信じきっている娘の夢をこわすことはない」
有馬はこみ上げて来る怒りを抑えて頼んだ。まだ完全に回復しきらない千恵に、この秘密を知らせたなら、単なる精神的なショックに止まらず、どんな危険な状態を惹き起こすか分らない。絶対に知らせてはならないのだ。
「黙っていてもいいわよ、但し、条件があるわ」
久代はへんなことを言い出した。娘の幸福を留保するような条件をつける母もいたのである。
「有馬さんが千恵の面倒みて下さればね、私、大倉と別れたわけじゃないのよ。別れたどころか、私、本気なの。善助も死んだことだし、今度は本式に世帯を持てるわ。今度帰って来たのも、実は善助と正式に別れるためなの。だから千恵は連れて行けないのよ」
もともと世間の常識の通じる女とは思っていなかったが、これほど倫理に欠けた女だとは知らなかった。密通した男と晴れて添うために亭主へ別れ話しにやって来て、たまたま亭主が死んだことを知るや、妻の座≠ノ居直って相続を主張する。夫の死と財産を一石二鳥的に利用して不倫の相手と新世帯≠張ろうとする知恵は、まさに悪女の知恵と言えた。しかもそのためには、実の娘が邪魔になると何の臆面《おくめん》もなく言うのである。
「もしあなたが、千恵を引き取ってくれるなら、このことは黙っててあげるわ」
話せば実の娘の不幸になることをタネに、久代は有馬を脅迫していた。この女、人間ではない。――
「何を恐い目をしてるの、ご心配なく、養育費は、相続する財産から充分に分けたげるわよ」
有馬の目を自分同様、物欲に駆られた者の目と錯覚した久代は、宥《なだ》めるようにつけ加えた。
「とにかくこのことだけをはっきりさせるために、今日はこんな山の中までやって来たのよ。本当は私の一存でも出来ることだけど、今までの管理者だった有馬さんに一応話は通しておいた方がいいと思ったからなの、だって礼儀知らずと言われるのいやだもん、手続きがすむまで当分O町ホテルへ泊まっているから、何かあったらそこへ連絡してちょうだい」
湯俣へ一泊した久代は、翌朝、そう言い残すと、勝ち誇ったように帰って行った。
2
「おかしいなあ」
修三は首をかしげた。翌日、湯俣小屋をたたんでO町へ下る途中でのことである。有馬が三俣小屋の経営者が久代になるかもしれないと話した時、修三が不審そうに言った。
「何がおかしいのだ?」
「いえね、この前、善さんの死亡届を役所に出した時、ついでに戸籍簿を見せてもらったんですが、たしか久代さんは除籍されていたじ」
「何だって!」
修三は思いがけないことを言い出した。もしそれが事実なら、久代の主張は根本から覆される。
「それは本当か?」有馬は思わず修三に詰め寄った。
「この目で確かめたばかりだから間違いねえです。日ははっきり覚えていねえが、久代さんは二年ほど前に善さんから縁を切られているだじ。それより……」
修三は断定的に言ったが、ふと語尾を曖昧《あいまい》に途切らせた。有馬はその先が気になった。
「それより何だ?」有馬に促されて彼は思い切ったように、
「千恵さんは善さんの実の娘じゃなかったんですね」
「お前、どうしてそれを知ってるんだ!?」
「久代さんを縁切る少し前に、善さんは千恵さんを養子にしてるんですよ。本当に驚いたなあ、あの時は。有馬さんは知ってますか? こりゃ一体どういうわけだか」
修三は実は千恵の身分関係に興味を持って帳簿を覗《のぞ》いたのであろう。彼のその時の驚きが容易に想像出来る。
しかしもっと驚いたのは有馬の方である。相続権を主張した妻がいつの間にか離婚されており、千恵が善助と養子縁組をしている。その間の複雑な法律的関係や手続きは一体どうなっているのだろう? 善助の死亡届など一切修三に代行させたのでさっぱりわけが分らない。とにかく重荷に喘《あえ》ぎながらの道中では思考を集中することが出来ない。すべてはO町へ着いてからだ。有馬は荷をゆすって再び歩き出した。
O町の町役場で戸籍簿を閲覧した有馬は、修三の言葉が事実であったことを確かめた。
即ち善助は昭和三十×年十一月十六日に千恵と養子縁組をしている。更にそれから十日後の十一月二十六日、長野家裁に対して、久代の不貞行為ならびに悪意の遺棄《いき》(正当の理由がないのに、夫婦の同居協力義務を怠る)を理由に離婚の訴えを起こし、翌年二月十二日に同家裁より離婚判決が下っている。二週間後判決は確定し、同時に千恵の親権者は善助と定められていた。
この日付から判断すると、善助はあの年、久代が大倉と共に山小屋の売上げを拐帯駆け落ちした時に、離婚を決意し、O町駅で有馬を見送った後、法的な手続きに取りかかったものであろう。同時に千恵の将来を思ってその身分を確定してやったのだ。
最初に離婚手続きを行なうと、千恵は当然久代の戸籍に入り、手続きが何かと面倒になるところからまず千恵と縁組を先にした知恵は見事であった。
戸籍吏から聞いたところによると、養子になる者が十五歳未満の時は法定代理人が代わって承諾(千恵の場合は久代の同意)することによって養子縁組が出来るが、十五歳に達すると、本人の同意だけで縁組が成立する。もっともこの場合を含めて広く未成年者を養子とするには家庭裁判所の許可が必要となってくるが、これも夫婦の一方が他の一方の子を養子とする場合は、その限りではないそうである。
有馬は届出がなされた日に注目した。昭和三十×年十一月十六日、もし彼の記憶に誤りがなければそれは千恵の十五、六回目の誕生日の翌日である。
ということは千恵の同意だけで、善助との間に親子関係を成立させられることを意味していた。千恵は善助が養親であることを知っていたのである。知らされた時のショックはさぞ大きかったであろうが、その後有馬が見聞《みきき》するかぎり、善助との間には実の親子以上の情愛が感じられた。
二人の間に培われたものは、法律的な擬制など必要としないほど強かったのである。だがそれはあくまでも二人の間だけのことであり、第三者、特に久代に対抗するためには法的手続きが必要となる。
ともあれ、こうして善助は養子縁組を先行した。その後に、久代を不貞などの理由で裁判離婚すれば、彼女の消息が不明のことでもあり、子供の幸福のために最善の処置をなすのをモットーとする裁判所が、善助を千恵の親権者と定めるのは必然である。
夫婦を中心とする家庭の平和のために、妻の連れ子や夫の子と後妻の間の養子手続きを簡略化した法律の配慮が、久代の貪欲《どんよく》を挫《くじ》き、千恵の幸福を守ったのだ。昨日は非情の権化のように見えた法律に今は頭を下げたい思いであった。いずれ弁護士から得た知恵であろうが、あれほど寛大であった善助がこれだけの処置をしておいたことは、そのまま彼の千恵に対する愛情と、不貞の妻に向けた怒りを物語るものであった。
有馬に相談しなかったのは、他人を私的な愛憎関係に巻き込みたくなかったからであろう。有馬は戸籍吏から補足された知識によって更に自分の考えを追っていたが、ふと一つの疑問につきあたった。
「夫婦が別れて、父母の一方が親権者となった場合ですが、もしその親権者が死亡したような時は、他方の親が当然に親権者となるのですか?」
有馬は戸籍吏に訊《き》いた。これは重大な問題であった。千恵の相続権には変わりはないものの、まだ未成年の彼女に久代のような女が親権者となれば善助の折角の配慮も水の泡となる。まして善助の財産を狙《ねら》っている久代が、親権をよいことに、千恵に残された三俣小屋をいいように喰《く》い潰《つぶ》してしまうのは火を見るよりも明らかであった。
「なかなか難しい問題ですね」
有馬の質問はかなり専門的に高度なものだったのだろう。戸籍吏はやや改まった顔をして、
「この問題はね、明文がないので学説が分れているのですよ。親権者がないものとして後見人が選任されて後見が開始されるという説と、一方の親が親権者となるという説とにね」
「どちらの説が有力なんですか?」
「後見が開始するという説が多数説ですが、片親親権者説もかなり有力です、こういう家庭問題はなかなか微妙ですから学説で割切るわけにはいかんでしょうな。ま、ケースバイケースというところじゃないですかな」
人の善さそうな戸籍吏は、自分がそのような弁護士はだしの知識を持っているのが得意らしく丁寧に説明してくれた。おかげで有馬にはよく分った。
久代はまだ戸籍上の身分関係の異動を知らない。大体彼女の居直り≠ェ、善助の死を奇貨とした衝動的なものだけに、もはや何の効力もない妻の座≠ノ大あぐらをかいて、役所の戸籍簿すら閲覧した模様がない。
有馬は念のために久代の特徴を話して、そんな女が昨日から今日にかけて彼が来るまでに、帳簿の閲覧を求めたかと尋ねたが、戸籍吏は首を振った。
「大丈夫だ、善助から離婚されたことも知らぬ久代が、学説すら分れている高度な法律関係を知っているはずがない」
ようやく自信を取り戻した有馬は、藤井家の戸籍謄本一部の交付を請求した。
3
「負けたわ」
久代はソファに埋まったまま、頬を歪《ゆが》めるようにして笑った。有馬が差し出した謄本の内容を理解したのである。悪知恵に長《た》けているだけにその方の頭のまわり方も早い。
「あのボンクラの善助がこれだけの処置をしておくなんて、今度だけは完全にしてやられたわ」
「三俣小屋は今後一切千恵さんのものになるが、文句はないね」有馬はだめ押しのつもりで言った。
「文句を言いたくてもどうにもならないんでしょう、何かいい文句があったら教えてよ」
久代は捨てばちに言った。そこはO町ホテルの一室である。この町の代表的な、そして唯一の洋式ホテルであるが、室内の調度は田舎ホテルにしてはなかなかデラックスであった。もっとも、久代が善助の遺産をあてにして最上の部屋を取ったのかもしれない。
有馬は戸籍謄本が取れると、直ちにホテルへ久代を訪ねて来たのである。最初は意気揚々として彼を引見≠オた久代だったが、差し出された謄本の内容を読み進むにつれて次第に水が切れた花のようになった。
久代を完全に打ちのめしたのを見届けた有馬は、立ち上がった。もはやこの女と再び会うこともあるまい、会いたくない相手であった。
「帰るの?」
無言で扉の方へ歩みかけた有馬へ久代は懶《ものう》げな声をかけた。
「千恵に会ったら伝えてちょうだい。近いうちに見舞に行くからって、自分で一人占めにしないで、母さんに少し分けてくれてもばちはあたらないだろうって私が言ってたってね」
その言葉に有馬は衝撃を受けた。久代は何気なく言ったつもりだろうが、それはふと彼にある不安を思いつかさせたのである。
千恵にはまだ善助の死は伏せられてあった。その後の回復は順調であったが、頭部を強打しているので多少なりとも心にショックを与えるようなことは一切避けられていたのである。
久代が行けば善助の死は当然千恵の耳に入るだろう。実の親よりも慕っていた善助が死んだと知ったなら、ただでさえも多感な少女の、回復期のデリケートな容態にどんな危険な影響を与えるか分らない。
一昨日は千恵が久代の連れ子であることを知らないと思っていたばかりに、それに気を取られて、それよりもっと重要な、善助の死が伏せられていた事実を忘れていた。
久代にはどうしても口を噤《つぐ》んでもらわなければならない。有馬はノブにのばしかけた手を戻すと室内へ向きなおった。
「そうなの、あの子はまだ知らなかったの」
久代は有馬の依頼を聞くと、暫《しばら》くソファの中で頬《ほお》を埋めるようにしていたが、ややあって面を上げると、口の一方の端を少し曲げるようにして笑った。
それは彼女が心の中に何かを含んでいる時の笑いであった。案の定、久代は、
「黙ってあげてもいいわよ、ただし」
「条件があると言うんでしょう」
「ご名察」
「あんたって女は何て人だ。娘の生命にかかることじゃないか、あんたそれでも人間なのか、人の親なのか!」
さすがに有馬は憤然とした。今までも、虫酸《むしず》が走るような思いを怺《こら》えて向かい合っていたのだ。
「そんなにギャンギャン喚《わめ》かれるほどの条件じゃないわよう」
久代は有馬の憤りを揶揄《やゆ》するように言った。
「言って下さい」
千恵のために有馬は怒りを抑えた。
「あなただったら簡単に出来ることよ」
久代はソファからすっと立ち上がると、有馬の前へ歩みより、彼の顔をすくい上げるように見た。妖《あや》しい目の光が彼にひたと注がれていた。
「有馬さん、あなた、前に私に恥をかかせたことがあったわねえ、私って執念深い女なの、受けた恥は忘れないわ、その恥を今、雪《そそ》がせてちょうだい」
「それが条件ですか」
「それが条件よ」
「どうすればいいんです?」
「それを一々口に出して言わなければ分らないほど、あなたは鈍感じゃなかったはずよ」
「分った」
有馬は頷《うなず》くと同時に久代の躰《からだ》に躍りかかった。ベッドがすぐ傍らにあるにもかかわらず、女の躰を床の上に押し倒すと、引き裂くような勢いで衣服を剥《は》いでいった。
女が薄着であったせいもあったが、驚くべき速さで女を剥ぎ終わった彼は、自分自身の衣服を|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》り取ると、一切の手続きを省略して女の躰の上に押し重なった。
およそ男女の行為としては粗暴過ぎる男の所作であったが、女の躰は充分にそれに応《こた》え得る状態になっていた。
男は欲望の代わりに憤怒を女の躰に叩き込んでいた。だが女の貪婪《どんらん》さは憤怒でも情欲でも、要するにより大きな男のエネルギーでありさえすればよかった。
そして有馬が迸《ほとばし》らせた憤激は、まさに久代を悦《よろこ》ばせる種類のものだった。カーペットの上に組伏せられ、身悶《みもだ》えしながら、彼女は何度となく殺されそうな呻《うめ》き声を出した。呻き声だけでなく、その種の快感を訴える言葉としては凄じすぎる言葉を叫んだ。
男はそのような叫びや呻きに少しも臆せず、女の躰を裂き、開き、苛《さいな》みながら、女と自らの躰を沸騰点に導いていった。そして遂に至った極点で男はおびただしい体液を吐き出した。女は快感の極みに震えながら、それを一滴も逃すまいとして破廉恥な密着の姿勢を強めた。だが女は知らなかった。彼女が貪《むさぼ》り吸った快感の中に無数の怖しい螺旋《らせん》が、豊満な美肉の深奥《しんおう》に向かってその獰猛《ねいもう》な体形をこおどりさせながら侵入して行ったことを。その螺旋の名は、「スピロヘータ・パリダ」。
4
善助の親族の請求により、有馬は三俣小屋の事実上の管理人として長野家裁より千恵の後見人に選定された。有馬の人柄は善助の親族の認めるところとなって、ここに有馬は三俣小屋の経営を千恵になり代わって管理することとなった。
ただ小屋の売上げを新道工事に注ぎこむことが、千恵の利益に反しないかという疑問を有馬は出したが、善助が新道に傾けた情熱は普《あまね》く知られていることであり、工事の継続は故人の遺志にも沿い、三俣小屋の繁栄にもつながることであるから、利益相反行為にならないという意見が支配的であった。
千恵自身も新道開発の継続を強く望んだ。ここに有馬は三俣小屋の経営者として、晴れて新道を開発出来るようになったのである。
山岳部拒否宣言
1
湯俣小屋が登山者の火の不始末のために焼失したのは、その年の十二月の初めである。
昭和四十×年十二月十日、東京B大山岳部一行七名と大阪N大ワンダーフォーゲル部学生六名は、天上沢より水俣乗越を経て槍ケ岳に向かうために湯俣小屋に無断で泊まった。
両パーティは翌日午前六時頃にはあいついで小屋を出発、天上沢を溯《のぼ》っていた。午前十時頃に湯俣小屋付近より盛んな煙りが吹き上がっているのを認めたが、引き返しもせずにそのまま行動を続けた。地元の猟師が現場付近を通りかかったのは、正午近くである。その頃には、小屋は殆ど全焼していた。
報《しら》せは直ちにO町にいた有馬の許《もと》にもたらされた。翌年から本格化するダイナマイト工事に備えて工事人と折衝していた有馬は、とるものもとりあえず湯俣へ駆けつけた。
彼がそこに見たものは、むごたらしく焼け崩れた小屋の残骸《ざんがい》であった。小屋の中には来年の工事に備えてかなりの資材や寝具、食料等が蓄えられてあったが、それらすべてが焼失していた。有馬は焼け跡に立ったまま暫《しばら》くは声もなく呆然《ぼうぜん》としていた。
最初の愕《おどろ》きが醒《さ》めると、次に沸いてきたのは抑えようもない憤りである。これで来年度の工事は重大な支障を来たす。建物その他の損害は三百万円以上と見積られたが、工事のベースたる湯俣小屋が失われては、工事そのものが不可能になるおそれもあった。
地元の人間の証言で、小屋が焼ける前日同地域へ入山、同小屋に宿泊した者は、B大とN大のパーティであることが分った。
有馬は直ちに両大学の担当責任者へ厳重な抗議をした。それに対して彼らの最初の回答は、当の一行が現地から戻らないので何とも言えないというものであった。
「奴《やつ》ら小屋を燃やしておきながら、のんびり山遊びを楽しんでやがるのか」
有馬は腹の底が煮えたぎる思いであった。
最近登山人口の増加と共に登山者の質が落ち、シーズンの初めに小屋開きをする時の小屋の荒れようは凄《すさま》じいものがあった。ストックの食料や燃料の無断無料使用はあたり前で、薪がなくなれば、羽目板を剥がして焚《た》いたりする者さえいる。
それが遂に山小屋の焼失という最悪の形として現われるようになったのである。同様の不祥事はこれが初めてではない。戦後では槍沢ヒュッテが登山者の不注意のため焼失していた。
度重なる有馬の抗議に、彼らから第二回目の回答が寄せられてきた。
それによると一行は登山先からそのまま帰省したので、冬期休暇が明けるまでは連絡がつかないというものであった。
有馬は彼らの無責任に腹が立つよりは、唖然《あぜん》とした。山小屋という単なる私物に止《とど》まらぬ公共的施設を焼失する重過失をおかしながら、連絡がつかないとはどういうことか。帰省したのなら帰省先へ連絡すればよいではないか。
有馬はこのやりとりの間に、到底これら無責任な連中からは損害を償ってもらえないと思った。だが泣寝入りするつもりはなかった。このような無責任な行動を許すのは、エリート意識だけが強い似非《えせ》アルピニストをますます増長させ、山小屋などというものは駅前のマーケットのように簡単に建てられるという間違った観念を一般に植えつけることになる。
登山の大衆化で今まで山登りなどしたことのなかった大衆がアルプスへ訪れるようになったが、彼らは夏の一時期に一遍に押し寄せるので、山小屋の想像を絶した混雑ぶりと、値段の高さに反する凄じいサービス内容に山小屋に対して反感を抱きやすい。有馬自身もかつてその一人であった。山麓《さんろく》からのボッカ代や、宿泊を求めた人間は無制限に収容しなければならない事情は理解出来ない。町の旅館代相当の小屋代を払って荷物同様の扱いを受けた怨《うら》みだけを覚えている。
特に北アルプスの山小屋ほど営業期間が短く、天候に影響される営業はない。大体山小屋の開いている期間は、七月の初めから八月末―九月初めということになっているが、北アルプスでの実際の最盛期は、七月二十日頃から八月十日頃までの精々二十日間である。この間に全国の登山者の大半が北アルプスへ押しかけるから、初めて訪れた人間には山小屋が暴利を貪《むさぼ》っているように映ってしまうのだ。
従って山小屋が焼けても、「たかが山小屋が」とか、「いい気味だ」ぐらいにしか思わない者が多い。
客用の山小屋にしてこうなのだから、工事用の湯俣小屋などは、全くバラックが燃えたぐらいにしかとられないだろう。ましてそこが新道工事の重要な拠点であることなど到底理解してもらえない。
そうこうしているうちに地元警察と消防署の調査によって、小屋を最後に出たのがB大山岳部であり、一行の残り火の不始末が失火の原因という結論が出された。
このことが全国紙に大々的に載り、無責任登山者のモラル低下が厳しく糾弾《きゆうだん》された。
2
この記事が報道されてから二日目の朝、二人の男がO町へ有馬を訪ねて来た。
差し出された名刺には、東京B大学司法研究室主任、同大山岳部顧問、寄《やどろぎ》直行、と同大山岳部主将、柴野英雄とあった。
例の事件が大々的に報じられたために、頬かむりが出来なくなって早速駆けつけて来たものと見えた。
お互いに硬《こわ》ばった初対面の挨拶《あいさつ》がすむと寄が切り出した。
「この度は湯俣小屋の事件でさぞお忙しいことと存じます。同じ山を愛する人間として心からご同情申し上げます」
迷惑をかけてすまないと謝罪めいた言葉を一言も言わぬ寄に、有馬は黙然と硬い視線を当てていると、
「実はあの事件では我々も大いに迷惑を被っているのです」
「迷惑?」有馬の目に鋭い光が走った。
「ほう、あなた方にも迷惑なことがあったのですか」
「詳しいことはこの柴野から申し上げますが、あの件に関しては我々に全く責任はないのです」
「責任がないと!?」
有馬が相手のあまりにもぬけぬけとした態度に、続けるべき言葉に吃《ども》っている間に柴野が、
「私は事件当時、B大山岳部一行のチーフリーダーとして入山していた者です。実は私たちもあの火災は全く不思議としか言いようがないのです。あの日、私たちとN大パーティが小屋に泊まったのは事実ですが、私たちは出発前に火の始末は完全にしましたし、登山者としての義務は何一つ怠らなかったと確信を持って言えるのです」
「だが現実に火は出ている」
「新聞によりますと、あの日、最後に小屋を出たのは私たち一行のように書かれてありますが、これはとんでもない間違いで、N大パーティの方が私たちよりも三十分以上も遅れて出ているのです。ですから一方的に私たちの過失ときめつけられるのは、全く了解に苦しむところで迷惑に思っています」
柴野が意外なことを言い出した。B大が後発したことは、火災を発見した猟師が九時前後に天上沢で両パーティとすれちがっていて、両パーティの距離から推定されたものであるが、その時間と距離から後発隊が先発を追い越したものでないことは明らかであった。
証人は山の経験も深く、信頼すべき人柄であった。その他にも一般登山者で同様証言をする者が何人かあったところから、B大後発はまず間違いないものとされていた。
それを柴野は全面的に否定したのである。
「三十分以上も先発しながら、地元の発見者が天上沢であなた方とすれ違った時、N大パーティよりも三十分相当距離が遅れていたのはどういうわけですか?」
「実は部員に調子の出ない者があって途中で休んだものですから」
「ほう、すると発見者があなた方とすれ違ったのは午前九時頃だから、あなた方は出発して三時間ほどの間に、先発の三十分とN大に追い抜かれた分の三十分、合計して一時間もの大休憩をしたわけですか。尖鋭《せんえい》をもって鳴る天下のB大山岳部の行動としては解せませんね。第一そんなに休んでいては、すれ違い地点にまで行けるはずがないんですがね」
有馬に鋭く詰め寄られて柴野はたじたじとなった。今まで黙っていた寄が身を乗り出した。
「九時というのは推定でしょう、火災発見者は時計を持っていなかったそうですから」
「しかし、山の人間は太陽の位置や、体調などからかなり正確に時間を割り出せるものです。あの日は晴れていましたからまず間違いないはずです」
「そんな曖昧《あいまい》な申し立てに証拠価値はありませんよ。こちらも時計を見なかったので、時間がはっきりしていませんが、発見者が柴野君らとすれ違った地点は、千天出合(天上沢と千丈沢の合流点)を通り過ぎた、天上沢へかなり入った所ですから、九時より遅い時間だと思います。このことはその人が小屋の消失を発見したのが十二時近くということとも符合します。もし事実九時にすれ違ったのであれば、彼の足で、それに下りでもある湯俣小屋にはもっと早く到着したはずだからです。更にB大パーティはN大に比較してはるかに重装備でしたから、これに体調の悪い者のブレーキが加われば、あながち一時間という開きも考えられないことではありません」
「湯俣小屋付近から相当量の煙りが吹き上がっていたのにあなた方は気がつかなかったのですか? 天上沢は崖《がけ》が切り立ってますが、上の方なら見えないこともないでしょう。当時周辺にいた殆《ほとん》どすべての人間が、それを見ているのですよ」
「それらしきもの[#「それらしきもの」に傍点]は確かに見ました。だが我々としては、それがまさか我々の出て来た湯俣小屋が燃えているものとは思わなかったのです。大分、上の方へ来てからのことです。我々の火の始末は完全であったし、後発のN大パーティにも火のことだけは呉々《くれぐれ》も頼んできましたから」
今度は柴野が答えた。あらかじめ打ち合わせでもしておいたのか、見事な呼吸のバトンタッチである。続いて再び、寄が、
「そのような事情ですから、今度のように山小屋の焼失という重大な責任を私たちの申し立ても聞かず、たかが一猟師の言葉だけで一方的に帰せられては、迷惑という以外にないのですよ」
法律の専門家だけあってねちねちと理屈っぽい抗弁をしてきた。だが有馬の耳には詭弁《きべん》としか響かない。おそらくは彼も大学の虚名を守るために非を理と言いくるめるつもりで柴野に伴《つ》いて来たのだろう。
「一方的と仰有《おつしや》るが、私の抗議に対してあなた方は、やれ当事者が帰省中だの、休暇中だのと逃げ回っていたんじゃないですか」
「別に逃げ回っていたわけではありません。私共としては覚えがないことなので、当惑していただけです」
「それがマスコミに大々的に報じられたために、とぼけきれなくなって重い腰を上げて来た」
「失敬な! もともと、失火は、重大な過失があった場合を除いては責任はないのだが、私共としては当時の事情から、重過失どころか、小屋利用者としての義務は何一つ怠ったとは思えない。このような薄弱な情況だけから、いかにも私共を山小屋を焼失した当事者、いや犯人の如く推断したのは、山岳部のみならず、我がB大の名誉を著しく毀損《きそん》するものです。場合によっては名誉毀損罪を構成する疑いもありますよ」
「他人の山小屋を焼いておいて名誉毀損ですか。それではうかがいますが、他人の山小屋を無断で使用したのはどういうことですか、それでも登山者の義務は何一つ怠っていないと言えますか?」
これは相手にとってかなり痛い所であるはずだったが、寄は自分らの弱点をよく知り、あらかじめ、備えを立てておいたと見えて少しもひるまずに、
「その点に関しては、我々も率直に非を認めます。しかし閉山後の山小屋を利用する者は、気象情況や不時の行動のため、どの山小屋を利用することになるか分らないため、下山してから、利用代金を小屋主に届けるのが半ば慣習化されております。湯俣小屋の場合は一般の登山小屋ではなかったために、小屋主の名前すら分らなかった。今度の事件で初めて有馬さんが管理人であることを知ったほどですから、無断利用と言っても決して悪意でやったわけではありません」
彼らが湯俣小屋が三俣小屋と同じ経営にかかるのを知らないはずはないが、知っていたという確証もない。事実冬期山小屋の無断借用はよくあることである。まして小屋を焼いた彼らの重過失の立証となると、もはや有馬の手に余ることであった。
彼らの言葉に従えば後発(?)のN大パーティの失火か、自然発火ということになる。要するにどちらにも確証はないのだから、どこまで言い合っても水かけ論であった。
言い合っている間に、有馬の憤りは次第に馬鹿らしさにすり替ってきた。登山の指導者的立場にある大学山岳部の厚顔無恥と、何が何でも責任を逃れようとして、果ては名誉毀損罪の反撃で脅かそうとする浅ましい態度に、むしろ哀れみを覚え、そんな連中と結論の出るはずのない言い合いを続けている自分が虚《むな》しくなった。
結局、その日の会談≠ヘもの別れとなった。寄らが帰った翌日、有馬へN大のワンゲル部から一通の手紙が届いた。
内容は事件当日先発したのは、天地神明に誓って[#「天地神明に誓って」に傍点]自分らであり、火の後始末も完全に施し、失火責任が自分らにないことをくどくどと書きたてていた。
有馬は手紙を読み終わると、むしろ滑稽味《こつけいみ》を覚えた。
どちらに罪があるにしても、同一コースを志す山岳部とワンゲル部が狭い山小屋に泊まり合わせて、互いにつまらない競争意識に駆り立てられたことは事実だろう。
山岳部にしてみれば、ハイキングに毛が生えた程度のワンゲル部に対する軽視があっただろう。ワンゲル部にしても最近|頓《とみ》に尖鋭化している折り、山岳部に負けぬという気負いがあった。それがまず先発競争となって現われ、重装の山岳部が一歩|後《おく》れをとった。
ワンゲル如きに後れてなるものかと、大慌ての出発が、残火の不始末となったのであろう。どちらの残火が原因となったとしても、罪のなすり合いの泥試合である。
こんな連中がアルピニズムのイニシャティヴを握ったつもりで、「可能性の追求」をするなどとは笑止である。
だが彼らを軽蔑《けいべつ》することは出来ても、湯俣小屋の損害は誰からも償われなかった。ダイナマイト工事は一年の延期を余儀なくされた。
有馬はこの連中に一矢報いるために、翌年夏のシーズンに先立ち、B大山岳部とN大ワンゲル部に対して「宿泊拒否声明」を出した。
これは山小屋という性格上、未《いま》だかつて登山者を閉め出したことがなかっただけに岳界に大きなセンセーションを起こした。
同じ様な苦い経験を味わわされていた槍穂高の山小屋が続いて同調した。これが契機になって北アルプスの全山小屋がこの拒否声明に参加した。
従来、北アルプスの山小屋はそれぞれが一国一城の主《あるじ》で、横のつながりがなかったのが、この不祥事をきっかけに一本にまとまった感があった。
それだけが有馬のせめてもの救いとなった。
消された新道
1
昭和四十×年五月八日、晴、今年こそは新道を開通せんとの意気に燃えて入山、湯俣小屋と資材を焼失し、前年度の工事があまりはかばかしく進まなかったので今シーズンにかける期待は大きい。幸い前シーズンの三俣小屋の成績が予想外に好調だったので、昨年のうちに四十坪ほどの小屋を湯俣へ再建することが出来た。
資材が続々と集結。なお今年から女学校を卒業した千恵が、加わり、食事洗濯などの裏方の仕事の面倒をみてくれることになった。修三も嬉《うれ》しそうだ。
五月十六日、晴、人夫到着、久方ぶりに溪谷にハッパ音が轟《とどろ》き活気みなぎる。美味《うま》い物と家族に囲まれて、たっぷり休養を取った彼らの能率には目を見張る。この分なら本年中の開通も充分見込あり。
六月二十二日、晴、荒らくれ男に囲まれて、懸念していた千恵が案外やる。むくつけきボッカや工事人が、千恵の前では借りてきた猫のようになるのもおかしい。もっとも今年は「大倉事件」に懲りて、町場者≠ヘ使わないようにしたので、外見《みてくれ》はゴツイが、皆、根は気の善い山男ばかりである。例年にない好天気の持続とあいまって千恵の明るい笑い声が、工事の進捗《しんちよく》に一役買っている。
修三も、善助亡き後をよく補佐してくれる。工事に全力を傾けられるのも、修三に安んじて小屋の経営を任せられるからである。千恵とは似合である。善助の意向をはっきりと聞いたわけではないが、生前のそれとない言動から、将来は二人を一緒にする心づもりだったことが分る。
かんじんの千恵の気持がはっきり確かめられないが、これはまだそのようなことに興味を持つ年齢に達していないせいだろう。少なくとも修三を嫌っていないのは確かだ。いずれ彼女が成年に達してから、自分が仲人に立って二人を結婚させてやるつもりである。それまでにぜひ共新道を完成させたい。
そうなれば自分は三俣小屋を本来の所有者の手に還《かえ》して、安んじてこの地を去れる。
七月十一日、霧雨、自分はこの日を一生涯忘れられないだろう。最後の難所である赤沢とワリモ沢出合の間の岩壁をハッパした時、今まで岩のでっぱりが隠していた向こう側の新しい視界≠ノ、一本の白い糸筋を見つけたのだ。
糸筋はまぎれもなく、三俣小屋から赤沢出合へかけて尾根を巻いて降りて来る新道の一端だった。今までに幾度となく見た幻影ではない。確かに本物の天の道がすぐ目の先の尾根まで伸びて来ていた。三俣と湯俣と両方から刻んだ道が遂に互いの両端が見えるまでに接近したのである。
工事人の間に歓声が起こる。霧雨が濃くなり、視界が奪われたが、その向こうには明るい光がみなぎっているように感じる。
2
九月十日、晴、新道の上下が互いに見えるようになったので、人夫たちの能率も上がる。案じていた秋霖《しゆうりん》(秋の雨期)も短く、工事が捗《はかど》る。
九月二十日、晴、この日北アルプスの地史に新しいページが書き加えられた。午後二時二十五分、最後のハッパにより上下を隔てていた小さな岩が排除されると同時に、新道の上下が結ばれた。ハッパの煙りがおさまると、湯俣側から千恵が善助の位牌《いはい》を抱いて現われた。続いて修三が顔をくしゃくしゃにして続き、上下の人間が入り混じった。歓声が上がった。
遂に新道はルートハントを開始してから十年目に開通したのである。快晴、尾根すじの紅葉盛ん。――
――馬藤《まとう》新道開通――
北アルプスの楽園、雲の平へ一日の道、
O町の有馬氏と故藤井氏が十年がかりで
以上のような大見出しでまず信濃毎朝新聞にでかでかと報道されるや、湯俣にはわっと報道陣が群れ集まって来た。新聞記者はもちろん、週刊誌ルポライターや、ラジオテレビ関係の報道記者などで、クマやカモシカの別天地、湯俣は時ならぬ賑《にぎ》わいを呈した。「馬藤」とはマスコミが二人の名前を組み合わせて命名したものである。
翌日から馬藤新道の名前は全国に喧伝《けんでん》された。二人の友人や知己などもわざわざ湯俣まで祝いに来てくれたり、あるいは祝電を送ってくれた。
山のシーズンはそろそろ終わりに近かったが、珍しもの好きの登山者が押しかけ、開通当初は新道に行列が出来るほどの賑わいようであった。
だが有馬らの仕事は終わったわけではない。いやむしろこれからであった。新道は開通したものの、途中五か所に架けられた橋は、すべて丸木橋である。ちょっと雨が降っても流されてしまうので、登山者がある間は常にパトロールしてその保守につとめなければならなかった。
来年度のシーズンにはかなりの登山者が予想されるので、三俣小屋の増築と湯俣小屋の設備を客用に模様がえしなければならない。
更に、官庁関係、岳界、著名登山家、同業山小屋関係者などへの挨拶《あいさつ》、依然として殺到するマスコミの応接等々……仕事は山積していた。
新道の保守は修三が、対外的な渉外は有馬が担当して、二人は有機的な連係の下に仕事を片づけていった。
このような多忙の中で特に有馬を喜ばせたことは、開通直後の新道を雪稜《せつりよう》登高会のメンバーが登りに来てくれたことである。
戸波会長は「馬藤新道は雲の平へ登る最も安全で近い道であり、山をよく知りつくした人にして初めて拓《ひら》くことの出来たものである」と激賞してくれた。
有馬はその言葉に多年の苦労が一遍に償われた気がした。
報道陣の第一波がようやく退《ひ》いた開通後二週間ほど経った時、一人の男が有馬に会いに湯俣へやって来た。
「厚生省国立公園部管理課、中部山岳国立公園北部地域管理人、原田康正」と彼が差し出した名刺には刷ってあった。この地域は中部山岳国立公園の管理人のいずれの担当区域からも外れていたため、彼が管理人の訪問を受けたのは初めてであった。
何事かとやや緊張して出迎えた有馬に原田は、肩書のいかめしさに似ぬ柔和な態度と口調で、
「この度はおめでとうございます。かねてこの地域で新道の開発が行なわれていることは聞いておりましたが、これほどの素晴しいものとは知りませんでした。全くよくやりとげられましたね」
彼は心から感嘆している風であった。
「いや、どうも恐縮です」
有馬はその讃辞《さんじ》を素直に受け取っていいものかどうか迷った。
「ところで本日おうかがいしましたのは」
原田管理人はとりあえず初対面の挨拶が終わると、やや表情をひきしめて、
「馬藤新道の件は、O町造林署より巡視歩道の補修≠ニいう形で何となく聞いておりましたが、別に何の届も出されておりませんでした。我々の方もそれで構わなかったのですが、これだけことが大きく報道されてしまいますと、本省の方でも無届では片づけられなくなったのです。ご承知かと思いますが、昭和三十二年に自然公園法が施行されて以来、国立公園内の工事がやかましくなりましてね」
ここまで言って原田はちょっと口ごもった。それは何か言い難《にく》いことが後につかえた様子であった。だがすぐに、
「馬藤新道が作られた地区は厚生省が指定した特別地域に入ります。三俣小屋の付近は特に規制の厳しい特別保護地域にかかります。この地域内において工作物の新改築や木竹の伐採、土石の採取、又は土地を開墾したり、土地の形状を変更する行為は、厚生大臣の許可を得なければなりません。ただし当該地域が指定あるいは拡張された際、すでに着手していた行為はこの限りではありませんが、馬藤新道の地域は工事着手前に特別地域に指定されていました。これが関係者だけの内々の新道の開発であれば、造林署に任せておいてよろしいのですが、これだけ大々的に宣伝されては、我々としても法的に所定の手続きを踏んでもらわなければなりません」
「一体どうしたらよろしいのですか?」
有馬は思わず固唾《かたず》をのんだ。管理人の口調はあくまで柔和そのものであったが、「法的所定の手続き」という言葉が、新道そのものを抹殺されかねないような妥協のない硬い言葉としてひびいたのである。
「なに大したことではありません」
原田は彼の危惧《きぐ》を救うように穏やかに笑った。
「一応、許可申請を出して下さい」
「許可申請を?」
「形式だけのものです。馬藤新道は自然公園法第十七条三項一号の『工作物の新築』、ならびに同項七号の『土地の形状の変更』に該《あた》るものと解釈されます。従って、これらの行為は厚生大臣の許可を受けなければなりません。本来は行為の前に許可申請をしなければならないのですが、新道はすでに開通しておりますので、事後申請でけっこうですからこれから出していただけませんか。造林署にはそれに同調してもらう形になります」
「申請が拒《は》ねられるというようなことはないでしょうか?」
「その心配は絶対にありません、さっきも申し上げたように形式だけのものです。何を今更とお思いでしょうが、官庁という所は形式が重んじられるのです、それに他の申請者の手前もありましてね、一つお願いします。必ず許可になります。これだけの素晴しい道が中部山岳国立公園に出来た事実は、いかなる力をもってしても消すことは出来ません、実は私は立山の方から縦走して新道を下りて来たのですが、あの地勢によくもこれだけの道を拓《ひら》いたものと、ほとほと感心いたしました。一口に十年といいますが、その間の努力と忍耐は並大抵のものではありません、管理人としてだけではなく、一私人としても私はあなた方の意志と努力に心から脱帽するものですよ」
原田は好意的な微笑を表情に含ませた。原田の突然の訪意が判って、有馬はホッとすると同時に、この管理人が新道に寄せてくれた並々ならぬ好意が嬉《うれ》しくなった。その時彼は原田の、立山から長い山脈を縦走して来た、汗と埃《ほこり》にまみれた山旅姿に初めて気がついたのである。
「いまにこの湯俣は北ア中心部探勝のベースとして一大温泉地になりますよ」
原田は湯俣小屋へ一泊した後、そんな励ましの言葉を残して去って行った。有馬は人夫と共に、河原に掘った野天風呂に浸《つか》りながら、近代建築の旅館やホテルが軒を接する「湯俣温泉」の未来図を画《えが》いた。
それは当然、美しい自然の俗化を招くことになるが、その憂いは、自分たちの努力により、今まで一部登山者だけにしか知られていなかった大自然の奥座敷へ、すべての人々を平等に招ける大きな喜びの前に屈服した。
3
原田管理人が去った翌日、O町造林署からの呼び出しがボッカによってもたらされた。造林署からは何ら物質的な援助は与えられなかったが、工事前に積極的な了解≠得ているので、何はともあれ、有馬は修三を伴い出頭した。
だが、彼らを待っていたものは意外に冷たい空気であった。署長はじめ署員はあの当時とはおおかたかわっていたが、積極的な了解は受け継がれているはずである。それが証拠には、工事中造林署から何の横やりも出されなかった。現に開通した時も署長名で祝辞が寄せられたほどである。
冷たい空気は署の建物へ入ると同時に分った。もともと老朽木造の薄暗い建物であったが、冷たさは建物のせいではなかった。
「有馬ですが、ただ今まいりました」
有馬が受付けに告げると、受付けだけでなく、その声を聞きつけた事務所の中の者の表情が一斉に硬《こわ》ばったのを、二人は確かに感じ取った。瞬間、署員たちの間におこった騒《ざわ》めきは、殺気に近いものといっても言い過ぎではないだろう。
奥まった一室へ案内されて行く間も、彼らは自分たちに注がれる署員一同の白眼を痛いほどに感じた。
(これは一体どうしたわけか? つい一週間ほど前、開通の挨拶に来た時は、全署をあげて喜んでくれたのにこの変わりようは……?)
有馬には全くわけが分らなかった。うらうらと穏やかに晴れていた春の山が、一夜にして氷雪にかたく鎧《よろ》われた冬山へ変貌《へんぼう》してしまったような、変わりぶりなのだ。
通された一室には署長、副署長はじめ、造林署の幹部連が四、五人待ち構えていた。それは全く待ち構える≠ニいう形容にぴったりの彼らの態度である。
二人が部屋へ入ると同時に、時松という新署長(といっても赴任して二年ほどになるが)が獲物に跳びかかるように立ち上がった。
「き、きみらはえらいことをしてくれたな!」
彼が浴びせた第一声はそれであった。有馬も修三もその意味が分らずキョトンとしているのがますます癇《かん》にさわったらしい。
「とにかく大変なことをしでかしてくれた」
と喚《わめ》き続けた。
「大変なことって一体、何ですか?」
有馬はようやく口をはさむ機会を捉《とら》えた。
「馬藤新道とは一体どういうつもりなんだ? え!? あすこはな、国立公園の特別地域だぞ、あれじゃあ、全く私道じゃないか」
今度は副署長の村松という男がかみつかんばかりの剣幕で言った。
「こちらは毛頭、私道などとは思っていません、あれはマスコミが勝手に命名したものです」
「しかしね、君! 厚生省へは馬藤新道で届けを出すんだろう!?」
「もちろんそのつもりです。担当官からその名前で事後申請を出すようにと言われましたから」
「それでは困る!」
署長が金切り声を上げた。
「どうしてですか?」
「あれはね、我々の方では造林署の巡視歩道ということになっているのだ、それを今更、馬藤新道などという名前で届けられては、我々の立場がない」
「しかし工事前に先代署長へ了解を求めに来た時はそんなことは仰有《おつしや》いませんでしたよ、第一、開通の挨拶《あいさつ》に来た時は、あなた方も認めて下さり、一緒に喜んでくれたではありませんか」
「事情が変わったのだよ、事情が!」
村松は机を叩《たた》いた。
「どう変わったのですか?」
「それは……」
複雑な事情があるらしい。思わず絶句したのへ追い打ちをかけるように、
「それによしんば巡視歩道となっておっても、あくまでも厚生省の手前でしょう、本元の厚生省が馬藤新道を認めてくれているのだから問題ないじゃありませんか」
有馬の理詰めに署長らはたじろいだ。何か彼らに特別な事情が発生したらしいのは読めるが、それが何かということは分らない。彼らにしてもはっきりと理由を明かせない事情らしい。そこに有馬は彼らの弱点を感じた。当方にしても私道のつもりはないとはいうものの、十年の歳月に亙《わた》る労苦と莫大《ばくだい》な費用を注ぎ込み、生命を張ってまでようやく開通した新道を、工事中全くかえりみなかった造林署が、開通した後になってからのこのこと出て来て、あれは造林署の「巡視歩道」だなどと言っても、おとなしく引き下がれるものではない。あの道には善助と有馬はじめ大勢の人間の血と汗が沁《し》みついているのだ。
まして担当官庁たる厚生省の方では好意的なのである。地元造林署に抗《さから》うのは山で働く人間にとって不利なことは分っていたが、有馬はこの件に関しては一歩も譲るまいと思った。
「ま、お互いにそういきり立っては分る話も分らなくなる」
署長が思いなおしたように猫なで声を出した。有馬を怒らせては不利なことがあるのであろう。
「いきり立っておられるのはあなた方じゃありませんか」
「まあまあ」署長は手を上げて制すると、
「どうですか、一つここのところは我々の顔をたてて、厚生省への申請は止めてもらえませんか? その代わりといっては何だが、湯俣小屋の客向き増改築は、私の方でよろしく取り計らって上げますよ」
「どうもよく分りませんね、厚生省の方で出せと言ってきたものを、何故あなた方は止めるのです?」
「だからそのう、我々の立場が」
「しかし厚生省が認めれば、巡視歩道でなくともあなた方の立場には影響ないでしょう?」
「事情があるんですよ」
署長の作為した柔らかい表情が再び硬《こわ》ばってきた。
「どんな事情ですか?」
「署の内部事情ですからね」
「わけは話せぬ、申請は止めろというわけですね?」
「…………」
「我々はあの道に十年の血の滲《にじ》むような努力をはらったのですよ、わけぐらい訊《き》く権利はあると思いますがね」
「…………」
「もしお断わりしたら……?」
「いいかげんにしたまえ!」
頬《ほお》をひくひく震わせながら耐えていた村松が、咽頭《いんとう》が見えるほど大きく口を開いて怒鳴った。有馬がどうしても取引に応じないと見て、再び官僚特有の威圧的な態度をとりはじめたのである。まさに、恫《おーど》したり懐柔《すか》したりであった。
「民間人に一々署の内部事情を話せると思うかね、君らがそのように非協力的であればよろしい。今後、三俣小屋の経営などに関して地元官庁の積極的な援助は一切得られないものと思いたまえ」
「それは脅迫ですか」
「単なる申し渡しさ、君らが非協力的なのだから仕方がないよ。我々としては非協力的なものに積極的に協力する義務はないからな。覚えておきたまえ、地元官庁は造林署だけじゃないよ」
「けっこうでしょう。私共もしいて抗うつもりはありませんが、わけの分らない申出はお断わりする以外にありません」
交渉≠ヘ決裂した。しかしそれはへんな交渉だった。造林署が何故そのような要求をしてきたのか一切分らないのである。
その意味で、もともと交渉などと呼べるものではなかった。有馬にしてみれば断わる以外にない申出である。その結果として造林署の心証を害したとなると、これは不可抗力による災難といってもよかった。
「しかしこれは大変なことになるな」
帰途、有馬がため息と共に呟《つぶや》いた。修三が暗然と頷《うなず》いた。湯俣小屋の増築願いが造林署に出されている折りから、握りつぶされる危険性が多分にある。厚生省への申請は法律的には直接申請も可能なのだが、実際は行為地の地元造林署を経由するのが慣行となっている。
そればかりではない。登山客に飲食物を提供する山小屋となれば保健所の管理も受けなければならない。町役場への様々な届出や申請も多い。大都会の官庁と異なり、これら地方の小さな町の公務所は横のつながりが密接で、一つの役所ににらまれると、すべての役所から村八分≠ノされやすいのである。
二人が「大変なことになる」と暗い顔をしたのは、そのような事情があったからだ。
「しかし、おかしい」
有馬は道の真中に立ち止まって首を傾げた。
「修三、奴《やつ》らの狼狽《ろうばい》ぶりを見たろ」
「ええ」
「ありゃあ只事《ただごと》じゃなかったぜ、何かが起こったんだよ、俺《おれ》たちに馬藤新道≠ニして申請されては都合が悪い何か≠ェな」
「そいつは何でしょう?」
「それが分らない、署長名で祝辞を寄せ、挨拶に行った時は全署あげて歓迎してくれたのが、僅《わず》か一週間でコロッと変わってしまった。どう考えてもこれはへんだよ」
「原田さんに関係ねえかな?」
「はらだ……」
何気なく呟いた修三の言葉を一語一語|反芻《はんすう》するように発音した有馬の目が急に光ってきた。
「そうだ! 原田氏が火つけ役かもしれんぞ」
「そいだが、あの人はずい分親切だったじ」
「おそらくあの人に悪気はないだろう、ただ湯俣からの帰りに造林署へ寄ったんだ。その折りに奴らに新道の申請の件を話したのにちがいない、それがあの大恐慌の原因さ」
「でも、どうして申請をそんなにいやがるんですかね、厚生省が認めてくれたんだから、造林署としては巡視歩道でも、馬藤新道でも構わねえはずずら」
「そこのところになると、堂々めぐりだな、何かあるんだ、でも探りようがない」
4
翌日から山は移動性低気圧の圏内に入り、雨が降りつづいた。上の方は雪になった。四日目、ようやく雲に切れ間がのぞきはじめた夕方、ボッカが新聞を届けてくれた。
久しぶりに接する活字にちょっとした興奮を覚えながら開いた社会面から、愕《おどろ》くべき記事が有馬の目に飛び込んできた。
――馬藤新道は存在しない――
の見出しと共にその記事は社会面のトップ五段抜きぐらいに扱われていた。地方新聞だけに地元の話題として大きくスペースを割いたのであろう。
記事の内容はさらにえげつなかった[#「えげつなかった」に傍点]。
――最近、三俣小屋のAなる男が、三俣小屋、湯俣間を湯俣溪谷に沿って新道を開いたと盛んに宣伝しているが、地元造林署にはそのような届けが出された記録はない。同地域は中部山岳国立公園の特別地域に指定されており、そのような新道が無許可で開発出来るものではない。まして一私人の私道のごとき命名をするのはもってのほかである。おそらくはAが自分の小屋の経営政策上行なった、デモンストレーションであり、道そのものは造林署の巡視歩道や獣道を勝手に結び合わせて一寸手を加えた程度のものであろう。地元の人間や、山なれた者ならばとにかく、およそ一般登山客には通行不能である。当該地域は北アルプスでも有数な山勢の嶮《けわ》しい地区である。多少なりとも山を知る者であれば、そのような場所に道を拓くことが全く不可能であるのを知っている。
最近登山人口の増加に伴い、山小屋の経営者が自分の山小屋へより多くの登山者を呼び集めるために新道開発が盛んであるが、地元担当官庁としては、国家の貴重な観光資源が、このような形で荒らされることを非常に憂うものである。より厳重な法的規制を望むゆえんである。
なお馬藤新道なるものは存在せず、一般登山者は山小屋の誇大宣伝に踊らされて遭難事故などおこさぬよう、くれぐれも注意されることを望む。
O町造林署長
時松愛三氏談――
「ちくしょう!」
記事を読み進む途中から顔色が変わってきた有馬に、修三が、
「どうなさった」
「ひでえことを書きやがる、修三、これを読んでくれ、奴らのいやがらせがはじまったよ」
有馬は腹の芯《しん》から怒りが煮え沸《たぎ》ってくるのをおぼえた。一体何故こんな目にあわなければならんのだ!? 自分たちが命をかけ、血の汗を流して開発した新道が、どうしてこのような凄《すさま》じい冒涜《ぼうとく》を受けなければならないのか? なるほど新道の開通によって三俣小屋は利益を受ける。
しかしそれ以上の利便を与えられるのは登山者である。
今まで遠い高原でしかなかった雲の平、アルプスの秘奥《ひおう》が一日圏に入ったのだ。更に新道経由で大量の資材をボッカして、今まで遭難が頻発した危険地帯へ山小屋の建設が可能となった。遭難事故も激減し、貴重な人命が数多く救われるようになるだろう。
道は原田管理人や、数多くの登山家によって折紙をつけられたものである。それが単なる誹謗《ひぼう》に止《とど》まらず、新道にとっては致命的な要件である安定性までも疑うような発言をしている。
工事中全くかえりみなかった彼らが、今になってどうしてこのような悪質な中傷をしてくるのか? 理由が分らないだけに、有馬の憤りは救いようがなかった。
「何てこった!」
修三が満面を朱に染めて立ち上がった。日頃おとなしい修三だけに、彼の内面に屈折する怒りの大きさが推し測れた。
「修三、釣橋だ」
「う」修三は獣のように吠《ほ》えた。
「このような悪質なデマに対抗するには、何が何でも新道に完璧《かんぺき》な安全性をつける以外にない。誰が何といおうと雲の平への最も安全で、近い道、それには現在の丸木橋ではだめだ。一寸雨が降れば流されてしまう丸木橋では登山客は安心して入れない。一般の通行に適さないと言われても文句を言えない。釣橋をかけるんだ、どんなに山が荒れてもビクともしない釣橋をな」
「そうか、釣橋か」
憤りに燃えていた修三の目に違う光りが生まれた。
「来年のシーズンには全部釣橋を架けよう。全部架け替えるまでは、馬藤新道は完成したことにはならない、それまでは天気との追っかけっこだ」
だが有馬にはもう一つ競争しなければならないものがあった。
「ようし、こうなったら意地だ、言いたければ何とでも言うがいいだ」
「一橋約五十万として、五橋二百五十万円ほど予算外費用が要《い》るが、金はあるかな」
有馬は現実的な問題に戻った。
「なに来年から、三俣と湯俣の二本立で稼げるから何とかなるずら、それより有馬さん、この頃いやに窶《やつ》れたようだが、どこぞ悪いんと違いますか?」
修三はこの頃とみに窶れの目立つようになった有馬に心配そうな目を向けた。
「はは、何でもないよ、この通りピンピンしてる」
有馬は内心ぎくとしながらも、
「まだ登山者があるかもしれない、これから早速パトロールに行くか」
と新聞記事に挑戦するように立ち上がった。だがそれは記事への挑戦ではなく、ひそかに体内に進んだ病蝕《びようしよく》を、修三の目からごまかすためであった。それは確実に大変な戦いになるはずであった。組織と権力を持つ相手は、更に全国紙からあらゆるマスコミ関係へと働きかけるであろう。
それに対抗して真に頼れる味方は修三一人、しかも当分の間は天候と追いつ追われつの、丸木橋との格闘以外に対抗手段はないのだ。
小屋を出た二人に雨上がりの山峡の空が、雲に夕映を滲《にじ》ませて迫った。
「上は雪ずら」修三が白い息を吐いた。
山小屋戦争
1
翌年、梅雨が明けると登山者は続々と新道へ詰めかけて来た。造林署の妨害やいやがらせにもかかわらず、山を愛する人々は、馬藤新道を認めてくれたのである。
有馬は涙が出るほど嬉《うれ》しかった。人々は湯俣小屋に一泊すると、元気に新道を登って行った。有馬は二つの小屋を管理しながら、ボッカを督励して新道の保守に全力をつくした。どのようなことがあっても登山者を失望させたり、足留めするようなことがあってはならないのだ。
登って来る者も縦走路から下りて来る者も、新道の素晴しさを口々に讃《ほ》め称《たた》えた。二つの小屋の売上げは上がったが、経費も嵩《かさ》み釣橋の費用を賄うには到底足りなかった。
それにしても、湯俣小屋増築の許可がなかなか下りなかった。河原の至る所に温泉が湧出《ゆうしゆつ》しているのに引湯の許可すら下りない。もともと新道工事の人夫小屋として建てられたものであるから、設備その他は都会からの登山客を満足させられるものではない。それにシーズンの最盛期に入れば現在の規模では、到底殺到する登山客を収容しきれない。二人はこんなことで新道の評判を落としたくなかったが、かんじんの造林署が一向に煮えきらないのだ。
小屋は許可が下りると同時に組み立てられるように、木組みを調え、建築諸材料も揃《そろ》っていた。
有馬は忙しい中を算段して造林署へ通った。そんなある日、又かと言わんばかりの面倒くさそうな顔をして出て来た署員がとんでもないことを言い出した。
「あの小屋はもともと物置として許可したものだから、増改築の必要を認めません」
有馬は愕然《がくぜん》とした。
「そんなはずはありません。あれは新道工事人夫の基地《ベース》として申請したものです、何だったら申請書をもう一度見て下さい」
「そんなひまはありませんね、古い申請書は倉庫の中です。申請はあなた方ばかりじゃない、一々そんなことにかかずらっていては我々の仕事は渋滞してしまいますよ」
「とにかく何かの間違いだと思います。あれはあくまでも人間のための小屋なのですから、増改築を許可して下さい」
「困りましたね、署の方ではあくまでも[#「あくまでも」に傍点]物置となっています。もしどうしてもというなら改めて新築願を出したらいいでしょう」
「それでは今年のシーズンに間に合わない、もうすでに木組みも済んで組み立てるばかりになっているのです。今年許可にならなければ折角の材料が腐ってしまう」
「そんなことこちらには関係ありませんね」
署員はせせら笑った。
「しかし保健所の方からは飲食物営業の許可が下りているのですよ、もし物置だとしたらおかしいじゃありませんか」
有馬は別の角度から攻めることにした。だが署員はこともなげに、
「保健所は保健所、こちらはこちらです」
「せめて温泉だけでも引かせてくれませんか?」
いくら話してものれんに腕押しなので、有馬は小屋への引湯だけでも認めてもらおうと思った。現状では野天風呂のため、折角の豊富な温泉をかかえながら女性登山客は風呂を使うことが出来ない。特に長い縦走を終えて、湯俣の温泉を楽しみに新道を下って来る女性登山客には気の毒でならなかった。
「それはうちの所管じゃない、保健所ですよ」だが、署員はにべもなく答えた。
ところが保健所へ回ると、それは造林署の担当であるというのである。有馬は最初、これも造林署からの差し金かと思ったが、調べてみるとそうではなく、その件は県から造林署が委任されている模様であった。
法律に拠《よ》って徹底的に主張すれば、いずれは許可になることなのだが、その間も登山客は登って来る。一雨降ればたちまち丸木橋は流れてしまうので、登山者の世話と新道の保守で、到底造林署とのかけ合いだけにかかりきることは出来ない。
特に新道が通行不能になることは、有馬の敗北を意味するものである。あらゆるものにまして新道は保守しなければならなかった。とりあえず最も丸木橋が流失しやすい個所へ釣橋を架け、後の四か所の丸木橋の保守に全力が傾けられた。
丸木橋一本架けるといっても命賭《いのちが》けである。橋が流された後は例外なく増水している。だが登山者は雨が止みさえすれば待ったなしに登って来る。水が減るまで登山者を待たせられない。増水した急流に一歩足を踏み滑らせばまず救からない。それでも橋は架けなければならないのだ。
天気がぐずついて道の状態が不明な時は、必ず小屋の者を客につけた。
2
丸木橋との格闘に明け暮れるある日、湯俣小屋の対岸に時ならぬ槌《つち》の音が起きた。何事かと小屋から飛び出した有馬の目に信じられぬ光景が映った。
そこにはプレハブの、湯俣小屋よりも一回りも二回りも大きな建物が忽然《こつぜん》と出現していたのである。それは明らかに人夫小屋や物置ではない。人間、それも客を泊めるための施設であった。
そういえば一週間ぐらい前から何やら資材のボッカが対岸に行なわれているのは知っていたが、発電所の工事ぐらいに思って大して気にも留めていなかった。だが、よもや、同業者≠フ進出とは夢にも思わなかった。
別に湯俣の所有権がこちらにあるわけではなく、誰が進出して来ても悪い道理はないが、ここを拓《ひら》いたのは善助と自分だという自負がある。馬藤新道の開発により、以前は誰も名前すら知らなかった湯俣を、その豊富な観光資源と共にあまねく天下に紹介したのは自分たちである。パイオニアたる自分たちに少なくとも挨拶《あいさつ》ぐらいしてもよかろう。それも当方を全く無視して、川を挾んだ真向かいに、しかも温泉源《ゆもと》にずっと近い場所へ堂々と建築している。
有馬はむかっ腹を立てて、建築現場へ近づいた。
「やあ、有馬さん、今度家内がここで旅館≠はじめることになりましてね、隣組として一つよろしくお願いしますわ」
しゃあしゃあとして声をかけたのは、何と、O町造林署副署長の村松ではないか! 有馬は意外な顔に暫《しばら》く声を出せなかった。
彼の話の内容から、彼がこの地へ山荘の経営に乗り出したことが明らかになった。村松は署長の時松よりも古手の、O町造林署切っての古だぬきであり、発言力も大きかった。署内だけでなくO町内でも妻名義でいくつかの料亭や飲食店を経営している町の有力者の一人でもある。
村松はしきりに「家内」と「旅館」を連発した。おそらくは妻名義だから、職員が営利を目的とする私企業を営むのを制限する地方公務員法の規制にひっかからないことと、有馬らの経営する物置≠ニは根本的に異なることを訴えたつもりであろう。
癪《しやく》に障《さわ》ったがどうすることも出来なかった。山荘はあっという間に出来上がり、一週間ほど後には堂々と営業をはじめた。もちろん設備も優れ、それに温泉が引いてあった。
山小屋経営は事業と呼ぶには余りにも短期間ではかないが、営利事業であることに変わりはない。その公共的な性格から、他の一般営利事業とは趣を異にしても、利益を上げぬことには成り立って行かない鉄則は同じである。
特に北アルプスは精々、夏の二十日間が勝負である。
一年の生活がこの間の売上げにかけられる。
夏の北アルプス一般登山者の大半は、尾根の縦走を志す。その代表的コースは、燕―槍の「表銀座」、烏帽子―槍の「裏銀座」、槍―穂高、白馬―針木の「夢の縦走路」、剣―薬師―三俣蓮華の「ダイヤモンドコース」等である。
これら各|尾根上《コース》にある山小屋は、縦走客の宿駅≠るいは休茶屋≠ニなる。縦走客の一日歩程は大体定まっていて、これに従って縦走路上の各小屋もおのずから宿駅と休茶屋に色分けされている。裏銀座を例にとれば、第一日目烏帽子、二日目三俣、三日目槍、四日目上高地あるいは穂高が宿駅であり、その間の山小屋が休茶屋か足弱の者の二次的な宿駅となる。
これらの山小屋は比較的、利害の対立が少ないが、同じ宿駅に二つ以上の山小屋が競合すると、激烈な客の奪い合いに発展しやすい。
特に高山の山小屋は、勝負の期間が短いから、下界の企業そこのけの競争を展開する。
たとえば北アルプス南部においてくり広げられた値下げ競争、客を惹《ひ》くアトラクションとしてのロッククライミングの実演サービス、北アルプス北部における産業スパイ顔負けの同業者調査、小屋ケ岳≠フ異名を取った八ケ岳N峠付近の客引き合戦、あるいは立看板競争などは聖域≠予想して来た登山者を驚かせたり、幻滅させたりした。
しかし、人間の営みは標高によって影響を受けない。受けると思うのは、たまに低い所から高い所へ登って来た人間の一時の錯覚か感傷である。少なくとも、多数の人間が入り込むかぎり、そこには事業≠ェ成り立つ。その基本的性格は山でも都会でも変わりないのである。
これら宿駅同士の競争に決定的な判定を下すものが設備である。都会からの登山客(登山客の圧倒的大多数は都会人である)は、山に清浄な天地を求めるくせに、山小屋には近代的な設備を要求する。
ことごとに俗化したと苦情を言う人間が、さて自分が寝泊まりする段になると、清潔でゆったりしたベッドとバスや水洗トイレを欲しがるのだ。
湯俣の場合は、新道の開通により雲の平周辺探勝のベースとして重要な宿駅となった。今迄《いままで》は湯俣小屋がその利権を独占した形になっていたが、ここに競争相手が現われたとなると、内湯の有無は、絶対的な差をつけるものであった。当然、湯俣小屋の利用客は激減した。特に女性登山客は殆《ほとん》どすべて対岸≠ノ取られた。
これは、小屋の収益によって釣橋架設費を賄う心づもりをしていた有馬にとって大きな打撃であった。村松の山荘が出来たので造林署による馬藤新道へのいやがらせは少なくなったが、今度は新道を上下する登山客の殆どすべてが村松山荘に取られた。営利のために新道を拓いたのではないが、十年の苦労と現在の命賭けの保守によって訪れ来る登山客の殆どすべてが、妨害以外の何ものもしなかった造林署の人間が経営する山荘を利用するのは、有馬にとってがまんならないことであった。
妻名義とはいえ、山荘が村松の経営にかかることはあきらかである。が、とにかく相手は組織と権力を背負っている。有馬がどんなにじたばたしても所詮《しよせん》かなわぬ相手であった。
八月に入って、――ある日、河原の野天風呂に入りに行った登山客がかんかんになって帰って来た。
「ここでは野天風呂まで金を取るのか!?」
そんなはずはないと言う有馬に、彼は現に入湯料として二十円取られたと言い張った。まさかとは思ったものの、登山客の様子が真剣なので、有馬は一応対岸の野天風呂を検《み》に行った。そこで彼は登山客の申し立てがうそではなかったのを知った。
何と驚くべきことに昨日まで立ち入り自由であった野天風呂の周囲に柵が張りめぐらされ、入口に村松山荘の者が出張っている。柵の傍には木の看板が立てかけられ、村松山荘宿泊客以外は入湯料大人二十円、小人十円と皮肉なほど大きな字で書かれてあった。
若者は有馬の姿をみとめると、怯《おび》えたように身体を竦《すく》めた。
「おい、君、これは一体何の真似《まね》だ!?」
有馬が詰《なじ》ると、彼はますます身を縮めて、
「僕はただ言いつかっただけです。山荘に親父さんが来てますから、そちらへ言って下さい」
言葉つきからバイトの学生らしい。彼を問詰してもらちがあかないと悟った有馬は山荘へ入った。すぐ真向かいにありながら中へ入るのは今が初めてである。内部の騒《ざわ》めきから予想以上に繁盛していることが判った。
有馬の来訪をあらかじめ予期していたように村松は玄関の上がり框《がまち》ににやにやと立っていた。
「村松さん、あの野天風呂はどういうわけですか!?」
「どういうわけとは?」
村松は空とぼけるように故意にゆっくりと繰りかえした。
「とぼけないで下さい。どうして野天風呂を有料にしたのですか!? あれはもともと新道の工事人が自分たちが入るために掘ったものです」
「ほう」
村松は初めて聞いたもののように驚いた顔をして見せた。
「知らないとは言わせませんよ、あの野天風呂は誰のものでもない。強いて言うならば皆の共有だ。それを私有物のようにして入湯料を取るとはもってのほかです」
「ほう」
村松ははぐらかすように再び同じ声を出した。
「村松さん、早速あの柵と看板を撤去して下さい、地元の恥ですよ」
「有馬さん」
村松は笑いをひきしめた。開き直った様子だった。
「あなた、あの風呂は誰のものでもないと言ったね、ということは時効で権利を取得した者もいないわけだ。あの風呂の土地は山荘の敷地と一緒に家内が造林署から借りうけたもんです。もちろん只《ただ》じゃない、ちゃんと地代を払ってます。地代を払って営業しているんだから入湯料をもらうのは当然だと思いますがね。それともあんたん所じゃ湯俣小屋へ只で泊めてるのかね?」
村松は勝ち誇ったように嗤《わら》った。二人のやりとりを登山客が好奇の目を光らせて見物しはじめていた。
争って争えぬことはなかったが、折角、俗塵《ぞくじん》を逃れて山を楽しみに来た登山客の前で、俗世間的な利権争い(彼らの目にはそう見える)をくりひろげることに有馬は耐えられなかった。
ただ、善助と共に心血を注いで開発した馬藤新道が公権力によってじりじりと蝕《むしば》まれていく感をどう抑えようもなかった。
アルパイン三角関係《トライアングル》
1
「有馬さん、えらい記事が載ってるぞい」
そのボッカは三俣小屋へ入ると同時に新聞を差し出した。小屋に必要な物資は週に一度O町から荷上げされる。その時一週間分の新聞もまとめて届けられた。
ボッカが差し出した新聞は一昨日のものである。ということはO町からここまで湯俣(山麓)経由で二日がかりであるから、三俣にいる人間にとっては最新のニュースということになる。
ボッカはえらい記事の載っている部分を開いて有馬に示した。それは社会面のトップを五段ほど割いていた。
――内妻を殺して自首――の大見出しがまず有馬の目に飛び込んできた。
「善さんの奥さんが殺されたじ」
同時にボッカが上ずった声でつけ加えた。
記事の内容は東京世田谷のあるアパートで藤井久代が大倉に刺殺された事件を詳細に伝えるものだった。
――〈東京〉十×日午後十一時頃、東京北沢署に一一〇番で、「内縁の妻を殺した。場所は代田二丁目十×番地の星風荘というアパートだ。今、アパートの傍の公衆電話からかけている」と連絡があった。同署員と警視庁機動隊員が現場に急行、同アパート内に藤井久代さんの死体を見つけた。
付近の電話ボックスにいた、無職、大倉弘を殺人の疑いで逮捕した。同署の取調べに大倉は「妻に裏切られたので無理心中しようと思った」と次のように自供した。
最近、身体の具合がおかしいので医者に診てもらったところ悪性の性病にかかっていることが分った。自分に心当たりがないので久代さんを問いつめているうちに口論となり、ついカッとなって傍にあった果物ナイフで久代さんの胸を刺してしまった。久代さんが死んでいるのに驚いて、自分もカミソリで首を切りつけたが死に切れず、警察に電話した。――
いずれは何らかの形で現われるだろうとは思っていたものの、これは有馬が期待していたよりもはるかに強烈なものだった。
O町ホテルで久代から迫られた時、悪女を懲罰するような気持から彼女の躰《からだ》の中に怒りを叩《たた》きつけたのであるが、それがよもや、このような形で爆発しようとは思ってもいなかった。
実質的には有馬のまいたタネ≠ェ千恵の母を殺したことになる。
「因果応報さね、善さんも胸が霽《は》れたずら」
ボッカや小屋の従業員らが語り合っているのを有馬は憮然《ぶぜん》たる気持で聞いていた。
2
だがこの事件はその後思いもかけぬ形に進展した。
釣橋工事が本格化したので、有馬は小屋の経営を修三にまかせて、工事現場につききりとなった。目下カラ谷の渡《わたし》付近を連絡する第三の釣橋の架設に全力が傾けられていた。ここはワリモ沢が湯俣川に合流する地点で、増水時には、ついたて岩付近の第一の丸木橋と共に最も流失し易い個所である。台風期が近づいているので急がなければならなかった。すでに両岸にアンカー部分が取りつけられ、主ケーブルを張るばかりとなっていた。
溪谷の夕暮れは早い。稜線《りようせん》になみなみとした夕陽があたっていても、すぐに夕闇《ゆうやみ》が濃度を増して澱《よど》んでくる。
修三が三俣小屋から下りて来たのは、そろそろその日の仕事をしまおうかとしている時であった。
「有馬さん、週刊誌が大変なことを書きたてているじ」
息を切らしながら彼が差し出したのは、ある大手週刊誌である。小屋が最も忙しくなる時間帯に抜けて来たのだから、よほどさし迫った内容が載っているのであろう。
「お客が残して行ったもんせ、まあ読んでみてくれましょ、ここせ」
――元山荘マダム殺人事件、
山男たちの愛欲の葛藤《かつとう》――
その見出しは夕映の空の下で毒々しく浮き上がって見えた。
「そろそろ下りていて下さい」
仕事を仕舞った工事人を先に下ろした有馬は、そこに立ちつくしたまま記事の先を追った。
「どうです、ひどいもんせ」
一通り読み終わった有馬に修三が憤りに耐えぬような口調で言った。
「そうだな」有馬はそれにどっちつかずに答えると、読んだ内容を頭の中でゆっくりと整理した。もう一度読みなおすには、文字が追えぬほどに夕闇が濃くなっていた。
記事は特集物の一つで、久代が殺された事件をフィクション風にまとめ上げたものである。要するにこの殺人事件は山荘経営者の美しい未亡人をめぐる二人の山男の三角関係がもたらした惨劇であると謳《うた》い、自然を愛する純朴なはずの山男と、未亡人との愛欲のコントラストを、いかにも週刊誌らしい手馴《てな》れた筆で世間受けするように書き立てていた。
登場人物の名前は一応変えられてあったが、知る人が読めば、未亡人が久代、二人の山男が有馬と大倉を指すことは明らかだった。だからこそ修三が血相変えて報《し》らせてくれたのである。
記事はどこから取材したものか、久代と有馬の仲を大倉が嫉妬《しつと》しての凶行であるとして、フィクションに藉口《しやこう》して、興味本位の描写の中に有馬の人物像が大きく歪《ゆが》められて伝えられていた。
それによると、――
有馬は何をやらせても中途半端な人間で、純真な山男ではない。久代を誘惑したのも、有馬の方からであり、実は久代が継いだ三俣山荘が目当だった。
有馬は前にも一度結婚に失敗した男である。彼の「山」も、最近熱を上げている「新道」の開発も、実は自分を美化するためのメッキであって、山荘の売上げをごまかすための手段にすぎない。そこへ現われたのが大倉で……
不思議に有馬の胸に憤りは湧《わ》いてこなかった。ただこの記事が、あと一歩のところで完成に迫っている新道の工事にどんな影響を与えるか、それが心配だった。
自分は千恵の後見人である。それがこのようなスキャンダルの中心人物になれば、その身分を解かれるのは必至であろう。もしそうなれば新道は誰が完成するか?
釣橋をあと三か所架ければ、新道は終わるのだ。後一歩、本当に一歩の所で、このようなスキャンダルの種にされたのが残念でならなかった。
この週刊誌は発行部数においても一、二を争う大手であり、企画の斬新《ざんしん》さと、正確綿密な取材で定評があった。登山人口の激増している折りでもあり、記事の影響は大きい。
出版社を名誉|毀損《きそん》で訴えたところで、相手はあくまでも「フィクション」として言い逃れるであろう。第一そんな裁判に費す時間と体力[#「体力」に傍点]は自分にはない。
「静子、どうしたらいいのだ? 教えてくれ」
有馬は微《かす》かな夕焼けの名残《なご》りが漂っている稜線の方に焦点の定まらない視線を投げた。
事態は更に悪化した。女性週刊誌や月刊誌が続いてこの事件を特集物として取り上げたのである。山男と愛欲の殺人事件の組合せがニュースバリュウを高めるのか、内容は最初の週刊誌より更に俗悪に、煽情的《せんじようてき》になっていた。そして有馬の憂えた通りの事態が生じた。
有馬を千恵の後見人に推した親族たちが、彼を不適任であるとしてその解任を求めたのである。
家裁もそれを入れて、有馬はその身分を解かれ、新たに善助の義兄が代わった。同時に三俣小屋の管理人は修三に替えられた。
ただ新道工事は故人の遺志でもあるところから、一応有馬は、湯俣小屋の責任者として工事の監督だけを続いて任せられることとなった。ただし、金銭|出納《すいとう》の一切は、新後見人の管理するところとなり、工事は著しくやり難《にく》くなった。
「おじさん、ごめんなさいね」
千恵は泣き声で謝ったが、まだ未成年者の彼女にはどうすることも出来なかった。
「いやいいんだよ、いずれは分ってもらえることだ」
有馬は何でもないことのように言ったが、マスコミの威力は強大で、三俣小屋や湯俣を訪れる殆《ほとん》どすべての登山客が、山小屋としてよりは、話題のスキャンダルの舞台として興味の色めがねで見ていた。有馬がいる湯俣小屋の売上げは目に見えて減った。
村松はここぞとばかり、湯俣小屋の客を奪った。
内湯がない上に、このスキャンダルは致命的であった。
それだけではない。工事人やボッカの中には、スキャンダルを信じて有馬に白い目を向ける者も出てきた。純朴だけにそういうことに対しては容赦がない。
「仲間の女房を寝取った奴《やつ》の命令なんか受けられねえ」
中には有馬に聞こえよがしにうそぶいて工事をサボる者もいた。工事の能率は目に見えて落ちた。
「出版社を訴えたら」
有馬に心服している修三が我が事のように憤慨した。
「今更そんなことをしてもどうにもならないよ」
たとえ長い時間と手間をかけて勝訴したところで、精々一、二行の訂正広告でごまかされてしまうことを、有馬は知っていた。それに動機は何であれ、久代と肉体関係を持ったことは事実なのだ。その事実だけでどんなスキャンダルを書き立てられても抗弁出来ない。
今は一日も早く新道を完成することが、ただそれだけが善助の霊を慰めるものであり、久代と通じたことへの贖罪《しよくざい》になる。
だが有馬の工事人や従業員に対する発言力は地に落ちた。有馬の人柄を信じている数人を除いては、彼が何を命令してもせせら笑って聞こえないふりをしていた。
有馬は焦った。このまま台風期を迎えればまだ工事半ばの第一と第三の釣橋が流される虞《おそ》れがある。だが彼一人が焦ってもどうにもなるものでもなかった。
妻の呼ぶ道
1
そんな矢先、所用でO町へ出かけた千恵が泣きながら湯俣小屋へ帰って来た。今まで怺えていたものが、有馬の顔を見ると同時にせきを切ったような泣き方だった。
「千恵さん、どうした!?」
ちょうど小屋に居合わせた有馬が驚いて迎えると、
「有馬のおじさん、私、くやしいわ」
と泣きじゃくりながら一枚の新聞を差し出した。
「おや、また新聞かい」
マスコミの攻撃にはいささか不感症化した有馬が苦笑すると、
「おじさん、ここ読んで」
それは全国紙の一つで、千恵が指した個所は、
「読者の視角《アングル》」としてある。読者の捉《とら》えたスナップを載せるスペースらしい。どの新聞にも似たり寄ったりの欄はある。
有馬が「おや」と瞳《ひとみ》をこらしたのは、そこに見覚えのある釣橋が載っていたからである。
「これは第三の釣橋じゃないか」
紛れもない、ほぼ完成に近づいているカラ谷の渡《わたし》に架けた第三の釣橋である。
――山の人災――の見出しと、
「針金が切れ、釘《くぎ》が抜けている、下は湯俣川の急流」の写真説明があって、
――山での事故は必ずしも天候などの自然の力によるだけではない。この写真の橋のように施設不十分による事故も少なくない。天下の北アルプスにこんな不完全な橋が放置されているのは困ったものである――
としてあり、寄稿者は東京都品川区豊町、河原秀男とあった。
「おじさん、この人、山を知らない人なのね」
千恵が口惜しそうに言った。
「そうでなければ、この人に山へ登る資格なんかない。きっとこの人は山の道は山の起源と一緒にそこにつけられているものと思っているんだわ。何もないところにルートを選び、初めて道をつけていった人々のはかり知れない苦難と、不屈の意志なんかちっとも分っていないのよ、町の有料道路かなんかのように、誰かが管理して修理するもんだと思っているのね。山の道は人間の財産で、自分たちみんなで守り育てていくもの……」
「もういいよ、千恵さん」
有馬は遮った。善助や有馬の新道に傾けた苦労を目のあたりに見ているだけに、若い純真な千恵は無責任な読者に憤ったのであろうが、いやしくも「馬藤新道」の名前を冠したからには、その道を保守する責任がある。
「千恵さん、待っててくれ、もう少しでこんな記事を書かれないようにするからな」
「おじさん、私もうすぐ二十歳になるのよ、そうしたら又、三俣小屋をおじさんにやってもらうからね」
「有難う」
だが新道さえ完成すれば、有馬は山を降りるつもりだった。新道の完成は自分自身への義務であり、善助に対する約束であった。
それを果たしさえすれば、自分の人生に一つの区切点は打たれる。それから先のことはその時になってから考えればよい。
有馬は急に、彼のためにこの記事を憤りながら長い溪谷沿いの道を辿《たど》って来た千恵に、肉身のような愛《いと》しさを覚えた。
2
障害は更に重なった。この頃から有馬の身体が明らかにそれと分るほどに異常を呈してきたのである。まず不定の頭痛を覚えるようになり、馬力が自慢だった心臓が、ちょっとした坂で息切れをするようになった。時折り、耳鳴りがして相手の言葉がよく聞こえないこともあった。ペニシリンで辛うじて抑えていた例の病原体が無理が重なって再び活動をはじめたのである。いやペニシリンではもはや抑え切れないほど病蝕は進行したのだ。
簡単な計算などもまちがえて、修三や千恵に笑われた。だが一緒にパトロールをして極端に疲れ易くなった有馬に、修三たちは笑えなくなった。
「有馬さん、どこか悪いんじゃねえか? 少し町へ降りて休むといい」
修三は強く勧めたが、
「新道に釣橋が架かり終わるまでは、休んでも休みにならねえことぐらい知ってるだろう」
と有馬に言われると何も言えなくなってしまうのである。
そんなある日、東京から一通の手紙が有馬の許《もと》にもたらされた。差出人は松波俊二。――
彼には金策を断わられて以来、一度も会っていない。すでに十年を超える歳月が流れているが、あの時の失望は今でも昨日のことのように思い起こすことが出来る。
だがここ十年来、町といえばO町以外に出たことのない有馬にとって、松波からの久しぶりの便りは、まさしく都会からの音信であり、旧《ふる》き青春の日の友としての懐しさを甦《よみがえ》らせるものであった。
――有馬、馬藤新道開通おめでとう。旧い友として誰よりも早く祝辞を送らなければならない立場にある自分が、今頃になってしまってすまない。だが知らなかったんだ。馬藤新道という道が北アルプスに作られたことは何となく知っていたが、よもや君が開発したとは思っていなかった。それが先日、うちの社員に馬藤新道経由雲の平へ登って来た者がいて、初めて君だということが判った。
懐しさに駆られて早速手紙を書いているが、俺《おれ》の方もそのうちに何とかひまを見つけて、行ってみたいと思っている。新道を登った社員の宣伝も効いているが、何よりも君が十年の情熱をこめて開いた道を自分の足で登り、自分の目で確かめてみたい。
大きな組織の長として大勢の人間の生活を預けられている身には、自分が本当に為《な》したいことは何かなどと考える余裕はない。
君には一つの対象に向かって自己の悉《ことごと》くを傾けた壮烈ささえ感じる。それにひきかえこの俺は……いやそんな愚痴は止めよう。とにかく君に会いたい、遅くも雲の平行は、今年中に山が開いている間に実現したいと思っている。そして君に案内してもらって馬藤新道を登るのだ。考えるだけでも楽しいな。それではその日まで――
有馬は久しぶりの友からの便りを目を熱くして読んだ。少なくともその文言の中には、松波の仕事師としてのガメツさが出ていなかった。彼にしては珍しく人間臭い文章であったが、それが年輪によるものか、それとも過去の友を懐しむようになった心境の変化によるものかは分らない。
ただ彼が自分に寄せてくれた素直な讃辞《さんじ》と羨望《せんぼう》が嬉しかった。以前は、宇宙時代に入ろうという時にそんな馬鹿なことはよせと嘲笑《あざわら》った友が、わざわざ新道を登りに来るというのである。旧い友、たった一人の昔の仲間があの道を認めてくれたのだ。有馬は今までの誰に認められたのよりも嬉《うれ》しかった。特にスキャンダルや、持病の進行で心身共に痛めつけられていた時だけに友の手紙が有難かった。
――君からの頼[#「頼」に傍点]り、心から嬉しかった。君の来る日が待ち通[#「通」に傍点]しい。九月の中旬から屋[#「屋」に傍点]根すじに雪がくるが、上の方の紅葉は九月末頃が盛んだ。
有馬は早速友への返事をしたためはじめた。だが二、三行も書かぬうちに彼のペン先は凍りついた。何とたったそれだけの文言の中に、中学生でもしないような初歩的な誤字を三つも重ねていたからである。
(確かにおかしい)
今まで強いて自分の身体の異変に目を瞑《つむ》っていた彼も、じりじりと自分の身体を穿《うが》った病蝕の大きさを認めないわけにはいかなかった。
とにかくこのシーズンが終わるまで、せめて松波が来る日までは頑張らなければ、――
有馬は病蝕に挑戦するようにペンを再び動かしはじめた。
3
造林署の若い署員が珍しく湯俣小屋へ泊まったのは、登山客のラッシュがぐんと退《ひ》いた八月の末である。かなり大型の台風が沖繩付近で進路を北東に変えて接近中のため溪谷の上空も雲行きが怪しかった。
「今度の台風は危いな」
平岡というその若い署員はそう言いながらてれ臭そうに入って来た。造林署の人間は村松山荘に泊まるのが当然のことのようになっているが、中には平岡のように古手の横暴を苦々しく思っている若手が、時折り湯俣小屋の戸を叩《たた》くことがあった。
立場上、表面立って応援は出来ないが、心の中では有馬らに好意を寄せてくれる人間も造林署の中にいないことはなかったのだ。平岡もその一人であった。
有馬は心から歓待した。
(確かにこの台風は危いな)
有馬は囲炉裏にソダをくべながら思った。トランジスターラジオから刻々と入る気象通報は台風が近畿地方へ上陸しそうな気配を伝えていた。中心示度も記録的に深いそうである。
小屋を揺る風も尋常ではなかった。
「上の方はさぞ大変だろうな」
有馬は三俣小屋の修三と千恵の身を想《おも》った。湯俣でこれほどだから、上の方はひどいことになっているにちがいない。
新道から上げた資材で頑強な補強を施しておいたから、万に一つの心配もあるまいが、名にしおう強風帯の三俣小屋で、最悪の台風圏に置かれるのは、かなりの緊張を強いられることである。
「なあ有馬さん」
平岡が耳につく風音を紛らせるように話しかけた。
「造林署と仲良くやってもらえんかな」
「そりゃ、どういうことです?」
有馬の目が光った。こちらは仲良くしたくとも、先方からわけの分らぬけんかを吹っかけているのではないかと言いたかったが、好意的な平岡が相手ではさし控えなければならない。
「いつまでいがみ合っていてもお互えに損するばかりずら」
「お互いに? 造林署も損することがあるのですか?」
有馬は心外だった。こちらだけが一方的に痛めつけられているのだ。造林署側に不利益なことなどあろうはずはない。村松のごときは、人の新道《ふんどし》で利益を得ているではないか!
「そりゃあね、何しろ二百七十万も予算を取っちゃったもんだで、造林署も動きがつかんのですよ」
平岡は本当に何気なく言った。だが有馬の耳はそれを聞き逃さなかった。
「予算、二百七十万?」
彼の目はぎらぎらと燃えてきた。目の前を遮っていた幕が一気に取りはらわれた思いだった。
「平岡さん、それは一体、どういうことですか?」
有馬の異常な反応に、ようやく自分が重大な機密を洩《も》らしたことに気づいた平岡は慌てて打ち消した。
「いや何でもない、何でもないんですよ」
だが彼が狼狽《ろうばい》すればするほど、今の失言≠ェ事実であるのを告げていた。久しぶりに有馬の頭が鋭く回転をはじめた。あるいは病蝕に崩れ落ちる前の、最後の冴《さ》えであったか。
「平岡さん、ごまかさないで下さい。予算とは本省から取ったものでしょう、あるいは県から何らかの名目をつけてね」
「ち、ちがいますよ」
「その予算の要求名目は巡視歩道の補修でしょう、そして巡視歩道は馬藤新道だ!」
「ちがう!」平岡は悲鳴のような声を上げた。
「そうか、それで判りましたよ。馬藤新道という名前で申請されては都合の悪いわけがね、O町造林署は巡視歩道の補修という名目で二百七十万円の予算を県かあるいは本省から取った。だがその道の補修は俺たちが自弁でやった。宙に浮いた二百七十万円は造林署が着服した」
平岡はついに何も言えなくなり、ただ唇をひくひくと震わせているだけになった。彼に罪がないのは分っていたが、この際一挙にからくりの裏づけを取るべく有馬は強引に喰《く》い下がった。平岡が否定しないのは、それが事実である証拠である。
「なるほど実に見事なカラクリだ。予算はちゃんと取りながら、工事と工費は一切民間まかせ、完成した暁の権利はすべて自分のものにしてしまう。それに抗《あらが》おうものなら、権力にかけてあらゆる圧力をかけてくる。もっとも馬藤新道を抹殺しないかぎり、彼らの不正がバレてしまいますからね。予算を取った歩道が、民間名で申請されてはえらいことになる。湯俣小屋の許可という交換条件《とりひき》に応じないと見るや、マスコミや権限にものをいわせての圧力をかける。官庁とはこんなものなんですかね……仲良くしたいわけがよく判りましたよ」
「…………」
「二百七十万は何に使ったか知らんが、これは背任横領ですよ」
「ちがう」平岡の額にびっしりと脂汗が浮いていた。
「どうちがうのだ!?」
「これだけは信じて下さい。あの金は役所の累積欠損の穴埋めに使ったのです。決して個人が着服したものではない」
平岡の言葉は、今までの有馬の推理をすべて肯定するものであった。
「予算の不正流用にはちがいない。平岡さん、私はあなたに含むところは全くない。署に帰ったら署長に伝えて下さい。私は今更、役所の古傷を暴くつもりもなければ、そんな正義感も持ち合わせていない。ただし馬藤新道に関する中傷は一切止める、湯俣小屋の増改築と引湯の申請は直ちに許可するようにと」
戸外には嵐《あらし》が吹き荒れていた。台風はいよいよ接近したらしい。だが有馬の耳には小屋全体を揺する風音も入らなかった。ただ判るのは造林署の首根をがっちりと押えた勝利感である。
明日は平岡の報によって造林署は確実にパニック状態に陥るであろう。証拠も何も、馬藤新道という現実があるかぎり農林省へ訴え出れば、幻の巡視歩道予算の不正は容赦なく明るみに出される。
じりじりと蝕まれていた馬藤新道が、ようやく自分たちの手に還《かえ》ってきた感があった。
4
幸い台風は四国地方に上陸後、急激に勢力が衰え、熱帯性低気圧となったので、中部山岳帯もその直撃から免れたが、百ミリ近い集中豪雨のため、山はかなり荒らされていた。第一の釣橋は辛うじて残ったが、第三の釣橋とすべての丸木橋は流出した。
「こりゃあもう一、二日待たねえと、丸木橋は架けられんぞい」
ボッカが増水した湯俣川を眺めて言った。
「客が来るんだ、そんなに待てない」
「客が!? この荒れた中を?」
ボッカが愕《おどろ》いた声で言った。
「何としても今日中に復《なお》すんだ」
「そりゃ無理せ」
「やってみなけりゃ分らん」
有馬は強引に立ち上がった。立った瞬間、目が眩み、体勢が崩れた。
「危ねえ」
ボッカの一人があわてて支えた。
「有馬さん、どっか具合が悪いんとちがうか?」
「顔色がひどく悪い」
「道の方は俺たちが何とかするだでよ、今日はゆっくり休みましょ」
ボッカたちは口々に言った。彼らは小屋つきのボッカで、新道工事の頃からの古い者ばかりなので、ことさら有馬の異常が目についたのである。
「それではそうさせてもらおうか」
有馬は案外あっさりとボッカの申し出を受けた。
「ありゃあ自分《てめえ》がサボるためのお芝居だったかもしれねえな」
後で人夫がかげ口をきいたほど、最初の意気込みに比べてあっけない折れ方であった。だが有馬は本当に具合が悪いらしく、台風の後片づけに皆が忙しく立ち働いているのを尻目《しりめ》に二日間小屋の中でごろごろしていた。寝るでも起きるでもなく、小屋の隅にただ呆《ぼう》とうずくまっている。誰かが話しかけても返事をしない。たまに顔を向けても目はどこを見ているのか分らない。
そんな有馬を見たことのない小屋の者が、
「有馬さん、本当におかしいんと違うか」
ひそひそ囁《ささや》きはじめた矢先、彼は実に突飛なことをしでかした。
三日目の夕方、薄暗くなってから有馬は、
「ちょっと一|風呂《ふろ》浴びて来る」
と言い置いてふらふらと小屋を歩み出した。その何となく頼りない足取りに、小屋の者が不安を覚えて後を尾《つ》けた。露天風呂への丸木橋はその日の午後、架け復《なお》したばかりだが、下を奔《はし》る水勢は相も変わらず激しい。
その上を小屋の者をはらはらさせるような危なっかしい足取りで渡った有馬は、露天風呂へ歩み寄った。平岡へ言い渡したのが効いたのか、入湯料うんぬんの看板は外されている。
有馬は一直線に風呂へ歩み寄ると、歩度を少しも緩めずに湯泉の中へじゃぶじゃぶと入って行った。風呂の真ん中まで歩いて行った彼は、衣服をつけたままザブリと首まで浸《つか》って、さも気持よさそうに目を細めたのである。
「有馬さん!」
見え隠れに後をつけて来た小屋の者は、常軌を逸した彼の行動に愕いて走り寄った。
声を聞きつけた有馬は、ゆっくりとその方角に顔を向けて、ニヤリと笑った。
空の上の方から落ちて来る残照と、湯気の入り混じるあたりに浮かんだ有馬の頭は、霧の中に浮く生首のように見えた。
「あんたも入らんかい」生首が誘った。
瞬間、小屋の者は、全身総毛立つように感じて一目散に逃げ出した。その後をどこまでもケラケラと笑い声が追って来た。それは日頃耳に覚えた有馬の笑い声ではなかった。走りながら小屋の者は、何度も悲鳴を上げかけた。
「野天風呂事件」以来、日を追うごとに有馬の様子はおかしくなってきた。
まず表情が別人のように弛《ゆる》み、初対面の人間には痴呆《ちほう》のように映った。表情ばかりでなく、知能も急に低下したようである。小屋の者や人夫が何か指示を仰いでも、以前のようにシャープな判断を下せず、小屋の経営や工事に障害を与えるようになった。
言葉も失ったように無口となり、話しかけても、通じたのか通じないのか一向に反応がない。時折り、口のまわりや手足にわけの分らぬ震えを起こすこともあった。
小屋の者も気味悪がり、有馬の傍に寄りつかないようになった。
生憎《あいにく》、新道の復旧工事が進まず、修三と千恵は三俣へ上がったまままだ下りていなかった。そんなある日、有馬はまたへんなことをしでかした。
この頃有馬を外して仕事をしている工事人たちが湯俣小屋へ下りて来ると、久しぶりに有馬が表情の甦《よみがえ》った笑顔で出迎え、めしの用意が出来てると言った。
炊事婦は別に置いているので、不思議に思った工事人らが小屋の中へ一歩入るや「あっ」と叫んだ。そこにはなべかま洗面器はじめ、ありとあらゆる容器となるものに、インスタントラーメンが溶いてあったのである。炊事婦が河原へ野菜洗いにでも行った隙《すき》の仕事であろう。
もともとラーメンは間食用に用意しておいたものだが、その軽便さにかなり多量、ボッカしておいたものを殆《ほとん》どすべて、おそらくは数百人分を溶いてしまったのである。
小屋の中はラーメンの匂《にお》いでむせかえらんばかりであった。有馬はその匂いの真ん中に瞼《まぶた》の垂れ下がった目でニタリニタリと笑っていた。
工事人らは、もはや有馬をただ薄気味悪がっているだけではすまないことを知った。
5
O町病院に収容された有馬に、更に病変が進行した。
手足のしびれや、腰の痛みなどに加わり、視力の障害も起きてきた。急を聞いて駆けつけて来た千恵や修三すら、よく見分けられないようであった。彼らが何を問いかけても、焦点の散大した瞳《ひとみ》をあらぬ方向に投げかけて、時折り何やら思い出したように呟《つぶや》くだけだった。
「おそらく自分が何処に置かれているのかも分らないだろう。すでに意識の障害も起こしている。シンドウがどうのこうのと言ってるらしいが、一体、何のことかね」
担当医師が何気なく言った言葉が、二人の耳に突き刺さった。
「新道!」
千恵が有馬の傍へ寄ろうとした。
「あまり近寄らないように。感染のおそれがありますから」
「感染? 一体、何の病気ですか?」
「潜伏性の梅毒スピロヘータが、脊髄《せきずい》や脳へ上がったんだ。梅毒に感染した時に充分の治療を行なわなかったのが、長い潜伏の後にようやく症状を顕《あら》わしたんだな」
医師は二人へ無感動に告げた。
「それで療《なお》る見込はありますか?」
「さあ何とも言えないね、十年以上潜伏した古い病原体が、脳と脊髄に病変を合併して起こしている上に、ペニシリンの素人療法を不規則に行なったために、病原体が筋金入りになっているからね、ま、出来るだけの手は尽してみよう」
医師の口調には全く希望的な響きがなかった。
有馬の重大な症状よりも、医師の告げた凄《すさま》じい病名の方が千恵にショックを与えた。彼女もすでに成人近く、その病気がどのような種類のものかおぼろげに知っていた。
「バイドク? 有馬のおじさんが梅毒ですって!?」
彼女は殆ど泣き声を上げた。それは亡き父と共に、新道開発の執念に燃えていた有馬とは、全く相親しまぬ病気だった。
「汚い! 大人って凄《すご》く汚い」
千恵は愕《おどろ》く修三を残して一人病院を飛び出した。有馬の別人のように弛んだ顔に嘔吐感《おうとかん》すら覚え、それ以上そこにいるのに耐えられなくなったのだ。
今まで山の中ばかりで過ごして、世間というものの醜さを知らなかっただけに、彼女の受けた衝撃は強かった。善助亡き後は父とも兄とも信じていた有馬のおじさんが、こともあろうに、大人からも忌み嫌われる梅毒《かさつかき》だなんて! ああいう病気は、よっぽど不潔な女に触れなければなるものではないと、いつかボッカが話していたのを盗み聴いたことがある。おじさんがそんな女に、とても信じられない。いつか母さんが誘惑した時もはねつけたおじさんが……
「母さんが!」
ふと千恵の頭に甦った記憶があった。それは例のスキャンダルの記事だった。もしかしたら母さんがおじさんに移したのかもしれない……それともおじさんが? どちらにしてもそうだとすればあのスキャンダルは本当にあったことなのだ。
「あんまりだ、あんまりだわ」
千恵は道行く人の目も構わずに泣いていた。その泪《なみだ》は、彼女の偶像が崩れ落ちたことを示していた。それは同時に少女への訣別《けつべつ》でもあった。
有馬を医師に任せて、千恵たちがひとまず湯俣へ引きあげた後、思いもかけぬ事件が発生した。有馬がその日の夕方、病院から姿を晦《くら》ましたのである。午後の投薬と夕食の時間の間に、有馬のベッドは空になっていた。
すでに運動|麻痺《まひ》が起こり、歩行障害をおこしている身体で、それほど遠くへ行けるはずがないのに、病院が八方手分けして探しても行方がつかめなかった。
千恵と修三の許《もと》へ知らせがもたらされたのは、その翌日の午後であった。
「新道だわ」
「新道だ」
二人は知らせを聞くと同時に、異口同音に叫んだ。有馬が人間の機能を殆ど喪《うしな》った病蝕の体をひきずって行く先は、そこ以外にない。
病院からのメッセンジャーが高瀬溪谷の途中で有馬に追いつかなかったのは、彼が夜通し歩きづめて、夜のうちに新道へ入ってしまったからであろう。もしそうとすれば、
「まだ丸木橋は架け終わっておらんし、台風で崩れた痕《あと》の修復も出来てない」
そこへ、スピロヘータによって意識も、視力も、脚もぼろぼろに喰《く》い荒らされた人間が入って行ったことになる。生憎《あいにく》、前夜雨が降り、溪谷は増水していた。
「危いわ!」千恵の頬《ほお》から血の色が去り、唇まで白茶けた。
「まだ間に合うかもしれん」
修三は小屋に居合わせた者に総動員をかけた。
「私は行かないわ」
ところが、唇まで蒼《あお》ざめさせた千恵が、小屋に残ると言い出した。
「おじさんなんか、勝手に死んじまえばいいんだわ」
千恵は胸の中の何物かと必死に闘うように言った。
一刻を争う時なので修三は千恵を置いたまま、小屋を出た。微妙な乙女心を忖度《そんたく》しているひまはなかった。
6
有馬は後の方で「いたぞう」と誰かの怒鳴る声を聞いたように思った。だが誰がいたのか分らない。いやその言葉の意味自体が分らなかった。単なる音波として耳へ届いただけである。
そこは湯俣川流域の中でも両岸が迫り、勾配《こうばい》がきついために最も水勢の激しい個所であった。そのために丸木橋も流されたまま未《いま》だに架けられていない。
「早くここへ架けんことには、修三たち、何をしてるんだ」
有馬は一人言のように呟いて水の中へ入って行った。身を切るように冷たいはずが何も感じない。
「松波がやって来る、早く架けなければ間に合わないぞ」
有馬は水流の中央へそろそろと進んで行った。
「おうい、戻れ! 引き返せ」
「有馬さん、引き返せ」
修三やボッカの声を遠く聞いたような気がした。だがそれは遠いテレビやラジオから響いて来るような現実感を伴わない声であった。
「馬藤新道は完成[#「完成」に傍点]した。雲の平への道はいつでも開いている」
善助の声が聞こえた。姿は見えないが、向こう岸の何処からか、有馬に呼びかけていた。有馬はそこへ向かって吸い寄せられるように歩み続けた。
一歩進む毎に水は有馬めがけて集中攻撃をかけて来た。今まで何物も妨げることのなかった水流に突如立ち塞《ふさが》った不届きな人間に向かって、敵意を剥《む》き出しにして襲いかかって来る。水勢のあらゆるエネルギーを結集して、流れの中に引きずり倒すべく、これでもかこれでもかと噛《か》みついてきた。
「おうい、戻れ、戻ってくれ」
岸で呼ぶ声が哀願に変わった。
「おい、ザイルを貸せ!」
修三の声が言った。
水深はすでに有馬の股《また》を越えていた。もはや体重では支え切れない深さである。それでもまだ流れの中央に達していない。
「おい、何人か下へ回れ、早く」
ザイルを着けた修三が、間に合わぬと見るや、その場に即した命令を出した。バラバラと下流へ向かって走り出す気配がした。
岸の騒ぎを別世界のことのように有馬は、妙に虚《むな》しい静けさの中を無心に歩いていた。
身体の周りに泡をかむ水の唸《うな》りも、川底から|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ離そうとする流速の抵抗も感じなかった。
溪谷の上空の狭い空が、井戸の底から見上げたように頭上を蓋《おお》っていた。透明な蒼さが、その末を切り落とされたためにことさらに強調されて、まるで暗渠《あんきよ》のような蒼暗い光沢を帯びている。
そこへ松波の幻影が現われた。彼は言った。
「俺《おれ》のためにあまり無理してくれるな」
「お前のためじゃない、俺自身のためだ」
有馬が答えると、彼の顔が見知らぬ女の顔に|すげ替えら《スーパーインポーズ》れて、
「ごめんなさい、私の病気を移しちゃって」
女は泣きじゃくりながらしきりに詫《わ》びていた。よく見ると、その顔は彼の記憶に微《かす》かに残っていた。
「みどり」
有馬は幻影の方角へ向かって手を伸ばした。みどりは寂しそうに笑った。
(そうだ、この身体の異常は、あの夜お前からもらったものだったな。あの時、ホテル大東京で語り合う妻と大島の姿を誤解して、そのうっぷん晴らしをみどりに求めた。「病気」だからと必死に抗《あらが》うみどりを男の力で押し開いた時、病毒は俺の体内に深く沈着した)
恐ろしい病名が微かに残る有馬の正常な意識に甦《よみがえ》った。とすれば、みどりは今頃?
(俺はまちがっていたのではあるまいか?)
瞬間、有馬はなぐられたような気がした。事実すでに知覚のないはずの身体の一部に痛みを覚えた。
(俺は何故、みどりの処女を素直に受けなかったのだろう? 女が初めての、その最も美しい部分も必死に捧《ささ》げてくれるのは、やわかなまやさしい決心ではない。彼女が恐ろしい病毒を背負いこんだのは、その決心を俺に踏み躪《にじ》られたからだ。いずれは他の男の妻になるべき女、夫以前にその女を抱けば、又、俺と同じ様に、妻に裏切られた哀れな夫を生むことを惧《おそ》れて、俺はみどりを拒《こば》んだ。
だが拒んで防げる利益よりも、拒まれて生ずる損害の方が大きい場合だってある。それに人間には互いに「寛《ゆる》す」という美徳がある。この美徳があればこそ、不完全な人間同士が寄りそって生きていけるのだ。俺にはそれがなかった。寛そうとする努力すらしなかった。俺は忘れていた。男たち、――いや人間には寛容があることを、彼らは妻の過失を、人間の過失を寛すことが出来る。それは鈍感ではない。人間関係をスムーズにするためのこよなき潤滑油なのだ。俺にはそれが欠けていた。欠けていたからこそ、一人の女性、みどりを不幸に陥れ、……そして、妻をまで死なして、いや、殺してしまった。俺は大きな間違いを犯した!)
(でもあなたは素晴しいことをなさったわ)
透明な声が有馬の耳にはっきりと届いた。それは聞き覚えのある懐しい声だった。
「静子!」
みどりの顔は消え、その後にはるかにくっきりと静子の顔が浮いた。ふくよかな暖かそうな笑顔、久しぶりに見る妻の面影であった。彼女の背後には雨に洗われて生き生きと甦った紅葉の尾根と、それを果てしもなく絡んで行く一筋の糸の道が見えた。それは幻影ではなかった。
妻の幻影と、馬藤新道の実景が、有馬の狂いかかった意識の中でオーバーラップしていた。
「様子がおかしいぜ」
「こりゃあ、いかん!」
岸では、修三はじめ、ボッカたちが、目を宙に据え、何事かぶつぶつ譫言《うわごと》めいたことを呟《つぶや》きだした有馬に騒然となった。
(いらっしゃい)
(私の傍へ、あなたが拓《ひら》いた天の道を通って)
静子が有馬の視野の中で手招きした。
「今行くぞ」
その声は激しい水声にもかかわらず、確かに岸の者へ届いた。それが有馬の姿を見た最後だった。ふと流れの中央に立ち止まるかに見えた彼の姿は、たちまち水圧をもろに受けて、白い泡を吹く流れの中に呑《の》みこまれた。
「やったあっ」岸に絶叫が起こった。
「下を見張れ」
「よく見張れよ!」
続いて怒号が交錯して、流速と競争するように人影が下流へ走った。
豊富な情熱
1
「そうか、有馬の奴《やつ》、死んだか」
副社長の今橋の報告を聞きながら、松波は無感動に言った。
「社長がお越しになられるものと信じて、丸木橋の修復中に事故に遭ったそうです」
「そんな無理をせんでもよいのに、馬鹿な奴が」
松波の声に全く感情はなかった。
とにかく十年もかけて山の中へせっせと道をつくった人間だ。きっとあのひたむきな熱っぽい目をして嵐《あらし》の後の道を復《なお》していたにちがいない。
突発の用事が起きて行けなくなってしまったが、それまでにして自分を迎える準備をしてくれていたのかと思うと、何か彼の死に責任があるような負担を感じる。
とりあえず代理に行かせた今橋から、友の事故死を聞いたのだが、哀《かな》しみなどよりは、その負担のためにむしろ腹立たしさが先に立った。何故そんな無理をしなければならなかったのだ。水が退《ひ》くのを待ってから架けても、充分間に合ったろうに。お前のそんなひたむきな友情≠ニいうやつが、どうも重苦しくてかなわん。そんなにまでしてくれても結局俺は行けなかった。恨むなよ、俺を、――
松波の無表情はむしろ腹立たしさを抑えるためのものだった。
大企業の長として権謀術数に明け暮れている間に、彼は芯《しん》から冷酷な人間になってしまったらしい。
「それで君の観《み》たところどうだ。モノになりそうか?」
松波はビジネスライクに促した。
「はっ、現地を直接観まして、お目の高いのには恐れ入りました」
「世辞などどうでもいい、モノになりそうかと訊《き》いている」
「絶対に大丈夫です。写真やガイドブックである程度予備知識を蓄えていったつもりですが、よもやあれほど素晴しいモノとは思いませんでした」
「そんなにいいのか?」
「規模といい、景観といい、観光資源の無限ともいえる豊富さといい、日本一の高原、いや、世界でも有数の高原でしょう」
「世界有数とは大きく出たな」
「いえ、これは私だけでなく、視察団全員の感想です。さすが有馬氏と藤井氏が十年がかりで拓《ひら》いただけはありますよ、あの高原にはそれだけの情熱をそそる魅力がある」
「それではかなり設備投資をしても見合うな、ふふ、思った通りだったよ」
「まったく現地に一歩も足を踏まずに雲の平の優秀な観光資源を見抜いたご眼力には恐れ入りました」
「大したことではない、有馬が馬藤新道を開通させた時に、日本中のマスコミが紹介してくれたじゃないか」
「それにしても……」
「そんなことより資料は充分に持ち帰ったろうな、折角この忙しい中を君らに視察してもらったのだから」
「はっ、それはもう、今日の午後には写真がすべて仕上がるでしょう、映写室の方の用意はもう調っております。視察員全員の総報告書は明朝までに調いますが、とりあえず分っている数字を申し上げますと、夏の最盛期に馬藤新道を利用する者は、一日平均上下共約四百人、雲の平への入山者はその中の約五割です」
「とすると、雲の平へは一日二百人か、少ないな、しかも夏だけのことだから、これだけでは合わない」
「他のコースから入る者もありますので、一日平均三百人はありましょう、もしここに機動力がつけば、集客力は……」
「それはもう大体判っている、問題は厚生省だよ」
「それにもう一つ、重大な障害があります」
「何だ、それは?」
松波の顔に初めて表情が現われた。
「社長が架設予定地と一応考えられております湯俣川の奥に硫黄沢という亜硫酸ガスを噴出する沢が派生しております」
「何! 亜硫酸ガスだと」
この時はじめて自信満々の青年社長の態度に崩れが見えた。
(ちくしょう! 何てことだ、亜硫酸ガスが出ていては、鉄鋼材が腐蝕《ふしよく》してしまうではないか。ちょっと注意して地図か資料を見れば分ることを、何故、今まで気がつかなかった? やはりまだ若いな)
松波は思念に築き上げたアルプス中心部の一大観光地帯が、幻のように消えていくのを目のあたりに見た。
「しかし、技師団は可能性はあるといっております。ルートの定め方いかんによっては、地形的にガスの影響を避けることが出来そうだと」
「本当か?」
松波の表情が救われたように輝いた。
「山田、岡倉の両技師が現地に残って調査を続行しておりますから、いずれ朗報が入るでしょう」
「何故それを早く言わない。すぐえり抜きの技師を四、五人応援に送ってやれ、二人では手不足だ。西武の軽井沢、東急の伊豆のように、北アルプスは日観のものにしてしまうんだ。是非共、架設ルートを見つけろ。東急はすでに白馬へ進出している、ぼやぼやしていられないぞ」
松波はすでに少壮気鋭の青年社長の自信を取り戻して、自分の親ほどの年輩の今橋へ命じた。
2
一か月後、日本観光の百パーセント出資で「日本アルプス開発」が設立された。社長は日観副社長、今橋義助が就任した。その主たる事業は、高瀬溪谷湯俣付近を起点として赤沢の上流、鷲羽岳の肩まで二区間のロープウェイの架設であった。第一区間は、ワリモ沢出合まで斜長約三千百メートル、第二区間は、赤沢上部の山頂駅まで二千六百メートル、標高差、約千三百メートル、毎時六百人を運ぶ通年運行東洋一の規模のものである。これと併行してO町より湯俣まで登山電鉄が敷かれ、ロープウェイと併せて工期三十か月というものである。
このロープウェイの架設により、従来、アルプスの秘奥《ひおう》とされていた雲の平へ一般人でも容易に入れるようになる。三千メートル級の高峯群によってかたく護《まも》られていた秘境が、日光や箱根のような行楽地≠ニなる可能性があった。
当然、自然保護の観点から猛烈な反対運動が展開された。
自然保護協会、地元旅館組合、山小屋組合、各種山岳団体、日本学術会、無数の文化人、有識人などが一丸となって、国土の自然を破壊するものであるとして世論に訴え、関係官庁に陳情した。
それに対して日観は、
「自然物としての山は、一部登山者だけのものではなく、等しく国民全体の財産である。なるほど近代的機動力を自然の中に持ちこむことが、多少自然美の障害となることは否めない。だがその不利益とひきかえに、一般大衆を今まで近寄れもしなかった大自然に等しく親しませる利益は図り知れない。
体力と登山技術に恵まれた者だけが山を楽しみ自然保護を云々《うんぬん》するのは、当を得ない。それは排気ガスが大気を汚染するという理由で自動車数を制限するのと同じ理である。大衆が山へ入るようになれば、それだけ自然が汚れる危険性は生ずる。だからといって、一部登山者だけが山へ居残り、大衆をしめ出す権限はどこにもない。もしそのように自然保護をやかましく言うのであれば、人間は一人も自然へ入れぬようにするべきである。
自然から人間をしめ出すか、あるいはすべての人間に等しく自然を享受させるべきである。すべての人間が平等に自然を享受し、そのことによって生じるおそれのある自然俗化を最小限に抑えるのが人間の知恵というものであろう。
ちなみに現在の登山人口は一千万と推定され、戦後二十四、五年頃の百倍ほどの人間が山に入っている勘定になるが、それでは現在山が当時の百倍も汚れているかというと決してそんなことはない。
要するに自然の俗化問題は、人間の数によるものではなく、社会のあり方にある。当社は自然と人為の調和に最大の努力をつくすものである」
かなりの強弁であるが、日観はこれで押し通した。そして、
「歩かずにアルプスの秘境へ」と、「通年運行」のコマーシャルで完成前から、遮二無二大衆にアピールして行った。
3
三年後の初夏、「雲の平ロープウェイ」は完成した。開通式は日観と日ア開発両社の首脳陣、政財界有力者、地元有力者、建設関係者などを集めて華々しく催された。
東洋一のロープウェイの店開きとあってマスコミ関係者や弥次馬も数多く集まり、起点の湯俣は銀座並みの賑《にぎ》わいを呈した。それは数年前、馬藤新道が開通した時の比ではなかった。
各車《ゴンドラ》の定員は、乗務員を含めて十名である。第一号車には両社社長の、松波と今橋両夫妻が乗った。
定刻、一号車は盛んな歓声とブラスバンドの中を動きはじめた。一分間隔で後続車が追う。全山緑の中を果てもなく高みへ延びる鋼索に導かれて、するすると上って行く一連の紅色の車体は、緑の山腹を移動する万灯の行列のように見えた。
登るほどに新緑に包まれた溪谷は深く遠ざかり、展望が大きくなった。山腹には樹林はますます濃く豊かに、行く手には残雪をいただいた鋭い山稜《さんりよう》が現われた。
「皆様、進行方向斜め右をごらん下さいませ、雪をいただいたひときわ雄大な山が現われてまいりました。鷲の羽を広げたような形をしているところから鷲羽岳……」
一号車のために特に選ばれたガイド嬢が、得意の美声を張り上げての謳《うた》うような説明も気もそぞろに、一行は名にしおう中部山岳の岩と雪と緑の壮大な錯綜に目を奪われていた。
「あら、あれ何かしら?」
突然、小さな叫び声をもらしたのは百合子夫人である。彼女が指さすはるか下方をつられて見おろした一行は、山腹の樹林の切れ目を縫う一条の白糸のような線を見た。
「けもの道かしら?」
百合子が独り言のように呟《つぶや》いたのへ、ガイド嬢が、
「あれはけもの道ではございません、有馬正一と藤井善助という人が十年がかりで開いた馬藤新道でございます」
「まあ十年もかかって!」
百合子は途方もない気の長さに驚嘆したようである。
「なるほどあれが馬藤新道か」
松波は初めて見る旧友の形見≠ノ瞳《ひとみ》をこらした。
「こうやって上から見下ろすと、つくづく人間というものの偉大さが分りますな」
今橋の言葉がロープウェイではなく、眼下の溪谷をへずり、樹林帯をくぐり、尾根をからみ、視野のかぎりうねうねと続く馬藤新道を称《たた》えたのは明らかであった。
松波は黙然として見おろしていた。暫《しばら》くはワイヤロープを軋《きし》る音だけがゴンドラの中を支配した。
「しかし、その十年を我々は僅《わず》か三十分で登ります。世の中にはずい分人生を無駄費《むだづか》いする人間もいるものですなあ」
松波の沈黙が自分の失言≠フせいではと気をまわした今橋がおもねるように言った。
だが松波はそれも聞こえないように眼下の展望に見入っていた。
実はその時彼は圧倒されていたのである。風景の美しさにでも、大きさにでもない、この壮大な展望からはみ出るばかりに、どこまでも延びて行く馬藤新道に圧倒されていたのだ。
これは事実、人間によって創《つく》られたものなのだろうか? 今登って来たばかりの緑の深い溪谷の奥から発してロープウェイの下を執拗《しつよう》に這《は》い続け、見上げれば、ワイヤロープの延びる彼方よりも遥《はる》かに上方へ向かって延々と延びている。宙に吊られたゴンドラから見おろしているだけに、その長大さは見る者の目に迫る。道の長さはそのままそれを拓《ひら》いた人間の不屈の意志を物語るものであり、道が延びて行く果ての高みの遠さは、そのまま彼らの情熱の無量さを示すものである。
しかし、本当にこれは人間がつくったものなのか? もしそうだとすれば、それは何と途方もない意志と情熱であろうか。
松波自身の計算で架けたロープウェイも、決してそれに劣らぬどころか、それより桁外《けたはず》れに大きな、人間の科学と現代的な知恵が大自然を加工≠オたものと言える。
それでいて彼が新道から圧倒的な威圧感を受けたのは、これだけの巨費と機械力と人力を結集して架けたロープウェイが、登れども登れども振り切ることの出来ない長大な道を、素朴な人力だけを頼りに切り拓いた事実に打たれたからであった。途中幾多の困難が立ち妨《ふさ》がったことであろう。それらを一つ一つ克服して、天の上方へ向かってこつこつ道を刻んでいった人間の無量の執念は、松波が企業的な野心から架けた東洋一のロープウェイすらせせら笑っているようであった。
ゴンドラが登るにつれて、松波が受けた威圧感は敗北感に変わっていった。
展望はますます大きくなってきた。諸々の山腹が雪溪に刻まれ、幾重にもたたなわる尾根越しに槍ケ岳の尖峯《せんぽう》がせり上がってきた。
樹林に途切れがちだった新道は、樹林帯を振り切ってますます明瞭《めいりよう》に山腹を攀《よ》じ始めた。
「有馬」
同乗の今橋や妻に聞こえぬように、松波は車窓に顔をつけたまま呟いた。
「お前は、――」後に続けるべき適当な言葉に思い当らない。どんな言葉も、この場合、小さすぎるように思えたのだ。
その時後続の四号車か五号車あたりから何かが落とされた。目をこらして見るとそれは花束のようであった。ここからは何の花かは分らない。遠目ながら紅色の花びらがつやつやと光った。
4
四号車から花束を投じたのは、千恵であった。傍らにはつい数日前に自分の夫となったばかりの修三がいる。三俣小屋の経営者として開通式に招かれた彼らは、投げおろした石楠花《しやくなげ》の花束が、幾分頼りなさそうに宙にふわふわと翻《ひるがえ》りながら、遠ざかって行くのをじっと見送っていた。そしてその行方には紛れもなく、新道の糸筋が待っていた。
「何にもならなかったんだわ」
千恵が車窓に顔をつけたまま、同乗の夫に聞こえないように呟いた。
「有馬さんやお父が命を賭《か》けてつくった道も、結局、何にもならなかったのね。もうあの道を通る人もいない、もうすぐあの道は本当の獣道《けものみち》になってしまうんだわ」
涙が一|雫《しずく》ずつ両の目尻から溢《あふ》れて、頬を伝った。
「泣いているんか?」
修三が目敏《めざと》く見つけた。
「泣くことはないよ。親父さんも、きっと俺たちの結婚を喜んでくれているずら」
修三は今、千恵が投げた花束が善助だけに捧《ささ》げられたものと信じているらしい。
(そうでないと言ったら、この人への背信になるかしら? 私はあの石楠花の花をお父と、そして、有馬のおじさんの二人に捧げたのよ。いえお父には悪いけど、おじさんだけに捧げたと言ってもよいかもしれない。私はおじさんを父や兄の代わり身と思っていた。でもそうではなかった。そうでなかったことが、修三と結婚して女になってから痛いように分るわ。だからおじさんの忌まわしい病気をどうしても許せなかった。そして今でも許せないんだわ)
「これからは、ロープウェイのおかげで三俣小屋は今までより段違いに繁栄するずらよ、将来は大きなホテルにしよう。雲表のホテルせ。そして雲の平にも、水晶にも、黒部五郎にも山小屋を建てるんだ。そうなれば親父さんも有馬さんも喜んでくれるずら」
修三は新妻の肩に手をかけて目をキラキラさせた。それは修三の野心でもあったが、父の形見の新道を見おろして、感傷をこみ上げさせたらしい千恵を慰める意味もあった。
千恵はそんな夫の優しい心づかいが嬉《うれ》しかった。だが彼女が涙をこぼしたのはそんなことからではなかった。
(有馬さんもお父も、そんなことのために新道をつくったんじゃない。ただ雲の平へ一日で入るためだけに道をつくったのでもない。あの二人はどうしてもそれをつくらなければならなかった。天の上の上の方へ向かって道を刻んでいくことの中に、自分の生きている意味を確かめたかったんだわ。ロープウェイが出来て、やがて新道は荒れ、そして消えてしまう。でも、二人が一度はそれをつくったという事実は消えはしないわ。私たちがそれを覚え、そしてあの道を上下した無数の人々とあの道のおかげで命を救われた多くの人々が、それを覚えていてくれるわ。もっともあの二人にとっては、そんなこと忘れられても少しも構わないのかもしれない。有馬さんもお父も、本当に自分の為《な》したいことを為したのだから)
つやつやしい長い葉につつまれた石楠花の花束は、新道の近くの樹林帯に落ちた。それが落ちた付近にも同じ花が咲いているかもしれない。
視野から花束が消えた時、千恵はそれが、有馬の腕[#「有馬の腕」に傍点]にしかと受け取られたと思った。
――我らはこの世に何物ももたらさず、
何物も遺《のこ》すことなく去って行く――
新約聖書
テモテへの第一の手紙、第六章の七
作品中に登場する「馬藤新道」は、昭和三十一年伊藤正一氏が北アルプスに開発した「伊藤新道」をモデルとしておりますが、登場人物、団体、事件等はすべて作者の創作です。[#「作品中に登場する「馬藤新道」は、昭和三十一年伊藤正一氏が北アルプスに開発した「伊藤新道」をモデルとしておりますが、登場人物、団体、事件等はすべて作者の創作です。」はゴシック体]
[#地付き]――作者――
角川文庫『虚無の道標』昭和50年3月1日初版発行
平成7年3月20日改版初版発行