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精神分析殺人事件
他四篇
森村誠一
目 次
精神分析殺人事件
催眠術殺人事件
精神分裂殺人事件
麻薬分析殺人事件
児童心理殺人事件
[#改ページ]
精神分析殺人事件
1
その少年は常に孤独だった。家にいても学校へ行っても、いつも親や友だちから離れてポツンとしていた。
しかし彼は別にそれを寂しいとも思っていないようだった。おとなたちは少年が、群れ遊ぶ友だちから離れてひとりでいる時、彼がいつも一つの儀式≠ノ熱中しているのを知っていた。
それは手当たりしだいにバッタやカマキリやキリギリスなどのミドリ色の昆虫《こんちゆう》を捕えてきては、モグラの穴に石板と小石でつくった小さな食肉処理場で、まず羽を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ、次にとがった石で頭をちょん切り、最後にバラバラになった哀れな犠牲者≠フ死体を穴の中に埋めてしまう、という遊びであった。
少年はその遊びをまるで儀式のように、同じ順序で飽きもせずにいつまでもつづけた。
少年の家は田舎《いなか》にあって、遊びの素材の昆虫にこと欠かなかったので、彼は虫の出る季節になると、友だちから離れて執拗《しつよう》にこの奇妙な儀式をつづけていた。
子供が虫を殺したり、カエルやトカゲを解剖したりするサド的な遊びに興味を持つことはある。しかしこの遊び以外の子供らしい遊びに、まったく興味を示さないとなると、異常であった。
しかも少年の対象は、青やミドリ色の昆虫だけにかぎられていて、セミ、トンボ、コオロギ、あるいはトカゲや蛇《へび》などの小|爬虫《はちゆう》類は、まったく見向きもしなかった。
おとなたちが少年の残虐な遊びを嫌《きら》って強く叱《しか》ると、少年の姿は、いつもの屠殺場から消えた。しかし間《ま》もなく、また別につくった新たな屠殺場で、儀式のように例の遊びをつづけている姿を見つけるのである。
美しい夕焼けのひろがる夏の夕方、草原を駆けめぐって遊ぶ他の子供たちに比べて、草原の一角にひっそりとうずくまって虫を殺しつづけている少年の姿は、周囲に、おおらかで健康な子供たちが群れ遊んでいるだけに、陰惨で不健全に見えた。
2
「きみは宿題をまたやってこなかったのね。夏休みの前にあれほど言っておいたのに、どうしてやってこなかったの!?」
三年四組の教室で、若い女教師|中原《なかはら》の声が鋭くひびいた。腕白盛りの少年少女を五十人あまり集めた教室は、水を打ったようにしいんと静まりかえった。
彼らはこれから何が起きるか知っているのである。
「さあ、言ってごらんなさい。なぜ、宿題をやらなかったの!?」
中原は、最前列にいる頬《ほお》のうすい、目ばかりぎょろぎょろ光らせた生徒の前に立った。なんとなく消化不良のような顔色の悪い生徒であったが、服装などは特に粗末というほどではない。
だいたいこの地方は、県北部の穀倉地帯として裕福な農家が多かった。
「また、だんまりをきめこむつもりなのね。先生を馬鹿にしているわ。いいわ、わけを言うまでは立っていなさい」
中原は声を険しくした。大学を出たばかりでこの学校に赴任して来て、まだ数年にしかならない中原は、小学校の教師とはとうてい思えないような肉感的なプロポーションと、花やかな面立ちをもっている。外見だけでなく、することもなかなか意欲的で、カラーダイナミックスだとか言って、従来の壁の色を変えたり、生徒の家庭をひんぱんに訪問したり、熱意のあるところを見せた。
同僚の若い男性教師はもちろん、付近の若い男たちが、もう一度小学校へ戻りたいと騒ぐほどの美人教師が、いま本気で怒っていた。
中原の前にいる生徒は、どうしたわけか、彼女がクラスの担任になったときから反抗的で、宿題を一度もやってきたことがなかった。
テストの成績は特に悪いというほどではなかったが、宿題はぜったいにやってこない。宿題だけでなく、教室で中原が「なになにをしてはいけない」と生徒一同に訓示すると、故意にそれをした。
いままではしなかったのに、中原が注意したので、かえって犯すような、まるで反逆のために反逆しているようなところがあった。
中原も、その生徒のそういう性格をよくのみこんでいたから、夏休みの前に職員室へ呼んで、二人だけで話し合い、必ず宿題をやってくるという約束を交したのである。
それがまた何もやってこなかった。わけを聞いても、口をへの字にひきしめたまま、底光りのする目で中原を見上げるだけで、何も答えない。
中原が怒るのも、無理はなかった。他の生徒はよくなついてくれたのに、この生徒だけが、執拗《しつよう》に反抗している。前の担任の先生から引き継ぐときも、その生徒に関して特に注意を受けていない。
ということは、自分だけに示している反感なのか。彼女はその生徒ひとりに引きずりまわされているように感じた。カッとなったあまり、おもわず生徒の頬を叩《たた》いたこともある。
すべすべした少年の頬に吸いこまれた掌は、自分でもびっくりするほど大きな音をたてた。
だがその生徒は少しもたじろがずに、むしろ燃えるような挑戦《ちようせん》的な目で、中原を見すえていた。
むしろ教師の彼女のほうがたじたじとなるような強い視線だった。彼女は少年の射すくめるような視線をはねかえすために、つづけて頬を打った。
「これでもか、これでもか」と唇《くちびる》をかみしめながら打ちつづけているうちに、自分の心の奥に潜在している暗い残忍な欲望が、しだいに醒《さ》めてくるように感じた。
ハッとして気がついたときは、クラス全体が、気を呑《の》まれたように彼女の折檻《せつかん》を見守っていた。
少年がさらに反抗的になったのは、それ以来である。中原のほうも容赦なく折檻を加えた。折檻に反抗が比例して、一種の悪循環のようになっていた。
「中原先生は、少しあの生徒に神経質になりすぎているんじゃないか」
最近では同僚の教師にささやかれるほどに、彼女とその生徒との険悪な関係≠ヘ評判になっていた。
さいわいにまだ父兄には知られていないらしいが、もし彼らが知ったら、たとえ非は生徒のほうにあっても、教師の暴行≠ニして問題にされるかもしれない。
PTAからも圧力をかけられるおそれがある。
中原は、生徒のことで問題を起こしたくなかった。そのための保身の意味もあって、夏休み前に生徒とよく話し合い、必ず宿題をやってくる、という約束を取りつけたのである。
ところが、それをものの見事にすっぽかした。
生徒の全然反省の色を見せないふてぶてしい態度が、彼女の怒りを煽《あお》った。
「大沢《おおさわ》君」
生徒を立たせた中原は、学級委員の名前を呼んだ。彼女に最も忠実な生徒だった。
「お掃除のバケツに、水をいっぱい汲《く》んできてちょうだい」
中原は命じた。学級委員がけげんそうな顔をしながら水を汲んでくると、立たせた生徒に向かって、
「宿題を忘れたわけが言えるまで、このバケツを下げて立っていなさい。言えるまでどんなに疲れても、床へ置いてはいけません」
水を八分目ほど入れたバケツは、6キロほどの重さがある。これを下げて立っているのは、おとなでもかなり苦しい仕事だった。生徒はこのシゴキにすぐまいるだろうと、中原は思った。
ところが生徒は、唇をかみしめて、バケツをもちつづけたのである。疲れると、手を換える。
こうなると中原も意地だった。生徒の苦役≠無視して授業を進めた。時間が経《た》つほどに、生徒の手を換える間隔が忙《せわ》しくなってきた。
生徒はついに授業の終わりのベルが鳴るまで、音《ね》をあげなかった。
「もういいわ、あなたの強情には驚いたわ。でも許したわけじゃないのよ」
中原は、屈服せざるを得なかった。理由はどうあれ、年はもいかない少年に、いつまでも残酷なシゴキを課しておくわけにはいかなかった。
少年の底光りのする目で見上げられたとき、中原は突然、敗北感とともに殺意のような衝動をおぼえたのである。
3
埼玉県北部のK市の南の郊外に、八反田《はつたんだ》という村がある。K市は江戸時代に、中仙道《なかせんどう》の重要な宿場町として栄え、また古くから製糸と織物の町として知られており、現在県北の中心都市である。戦後は、同市を通る高崎《たかさき》線の電化によって東京方面への通勤者が非常に増加して、東京化≠フ傾向がいちじるしい。
ゆるやかな段丘と桑畑のひろがる、牧歌的な八反田にも、都会化の波はひたひたと押し寄せ、最近ではあちらの松林のかげ、こちらの田圃《たんぼ》のまん中に、アラビアンナイトに登場するようなモーテルが建てられてきた。
しかし、裸の土を見つけることが至難になってきている都会に比べれば、まだまだ武蔵野のおもかげをじゅうぶんに伝える野のひろがりがあり、土の香りが残っている。
八反田小学校の教諭、中原みどりが、学校の近くの桑畑のはずれで下腹部を鋭利な刃物のようなもので刺されて死んでいるのを発見されたのは、夏休みが終わったばかりの九月の始めの朝のことだった。
発見したのは近所の農夫で、急報によって駆けつけた村の駐在所の巡査は、一目で他殺の疑い濃厚と見て、現場保存をはかると同時にK署に連絡した。
やがて到着したK署の捜査一係の刑事と検死官は、駐在巡査から発見時の概要をひととおり聴き終わると、死体と現場の観察をはじめた。
現場は小学校から県道のほうへ向かう桑畑の中の細道であり、村の中心部から学校への近道になっているために、学童たちが登下校によく利用していた。しかし最近、K市から流れてきたらしい変質がかった若者が、桑の葉に隠されて見通しがきかないのをいいことに、通学の女生徒にいたずらをしかけた事件があいついだので、学校側では生徒たちにその道の通行を禁止したばかりだった。
死体は、桑畑の中に頭を突っこむようにして、あおむけに倒れていた。傷は腹部に二ヵ所、いずれも鋭利な切出しナイフのようなもので形成《つく》られた刺創である。傷口からかなりの量の血液が流れたようであるが、乾いた地面に吸収されてそれほど目立たない。
苦悶《くもん》するひまもないうちに死んでしまったのか、表情にゆがみはない。殺された人間の顔としては不思議なくらいに穏やかであった。笑っているようにすら見えぬこともなかった。このあたりでは「おや」と思うほどの花やかな面立ちで、肢体《したい》もなかなか肉感的である。
当然、痴漢の仕業を思わせたが、花もようのワンピースの裾《すそ》は乱れておらず、外表観察におけるかぎり、乱暴された痕《あと》は認められない。持ちものは教科書と参考書を数冊入れた手さげかばんとハンドバッグだが、ハンドバッグの中に入れてあった八千円弱入りの財布がそのままになっているところをみると、ものとりの犯行でもなさそうである。
ここ数日、好天がつづいたために、道は乾ききっており、足跡はまったく採取できない。
捜査員全員が手分けして、現場および周辺を綿密に検索したが、凶器および犯人のものらしい遺留品は発見されなかった。
「顔みしりの者の犯行か?」
K署の捜査一係、魚住《うおずみ》刑事は首をかしげた。腹部の傷は、向かい合って話しているところを、すきをねらっていきなり凶器を振《ふる》ったらしく、抵抗したあとはまったくない。掌や手指の内側にも、いわゆる防御損傷と呼ばれる傷は全然認められない。
身体の他の部位に創傷はないので、腹部の傷が致命傷となったのであろう。これだけの傷をまったく抵抗を受けずに与えたことが、魚住刑事に犯人は「カン」のある者という推論を導かせた。それも被害者に「濃鑑」がある者と考えてよいのではないか。ナガシのすれちがいざまの犯行ということも一応考えられないではないが、人通りのない畑の中の一本道で、若い女が腹部にすんなりと致命傷になるような深傷を二撃も送りこまれるほど無防備に歩くものであろうか?
見知らぬ人間と寂しい野道ですれちがうときは、若い女はそれ相応の身がまえをするはずである。そしてその場合は、犯人の害意を感じて、逃げ出すか、抵抗するかしたであろうから、傷口の部位は一定しなくなる。受傷情況から、被害者および犯人の姿勢が容易に判断されるが、本件の場合、犯人に敷鑑、つまり被害者との間に何らかのつながりがあったのではないかという強い疑いを生じさせるのである。
ひととおり検証がすむと、死体は署のうら庭に運ばれて、その日のうちに警察嘱託医の執刀で解剖された。
その結果、致命傷は腹部刺創による上腸間膜動脈損傷による腹腔《ふくこう》内出血、凶器は刃渡り十二、三センチ程度の尖鋭《せんえい》な切出しナイフのようなものを、被害者の正面に立って突き刺したもの。死亡推定時間は前日、すなわち九月四日の午後八時から一時間とされた。
なお死体に暴行の痕《あと》はなかった。K署に捜査本部が開設された。
現場を中心に八反田の村一帯に、精力的な聞き込みがはじめられた。平野の中の、人の動きの少ない部落におきた殺人事件であるから、犯人の敷鑑の有無にかかわらず、挙動不審のものがいれば、必ずや目撃者がいるにちがいないと捜査陣は楽観していた。
しかし当初の本部の楽観は、しだいに崩れていった。いくら村人に執拗に聞き込みをかけても、怪しい者は浮かび上がらなかったのである。
当初の意気ごみが激しかっただけに、本部の焦燥と疲労も大きかった。
被害者の足どりは次のようなものである。九月四日、生徒が提出した夏休みの宿題の採点で遅くなった中原みどりは、八時ごろ用務員に挨拶《あいさつ》して下校したが、そのまま本村の下宿に帰らなかったことだけがわかった。下宿のほうでも学校へ宿直することがよくあるので、たいして心配しなかったそうである。
本村への近道をとったのがあだとなって、その帰途、何者かに襲われたらしい。
いっこうにはかばかしく進展しない捜査に、本部はしだいに焦ってきた。最初の意気ごみが大きかっただけに、焦りと挫折《ざせつ》感も早く現われる。
現場周辺の聞き込みと並行して、被害者の身辺調査が進められていった。
中原みどりは、埼玉県の出身であるが、東京の女子短大を卒業すると同時に八反田小学校に赴任して来たのである。
子供にやや依怙《えこ》ひいきするきらいはあったが、まず熱心な教師で、同僚や子供たちの評判もよかった。
これは教師としての評判とは異質のものであるが、被害者の美貌《びぼう》は村の青年たちの胸をときめかせ、「もう一度小学校へ行きたい」と真剣に言う者までいたそうである。
とにかく、男たちの目を惹《ひ》く美貌の持ち主であったから、まず動機が痴情に絞られたのは当然である。しかし衣服(裾《すそ》)の具合や、被害者の体内から精液が検出されなかったことなどから、犯人は女という可能性もあった。
恋人を被害者に奪われての犯行ということも、じゅうぶん考えられるからである。
しかし動機捜査を担当した魚住刑事らの努力にもかかわらず、そのすじからも怪しい人物は浮かび上がらなかった。
みどりは、村の農家の離れを借りて住んでいたが、子供たちが時折り遊びに来るほか、異性の訪問はないということだった。
「教師という職業がら、かまえて自重していたのか、それともよほどうまくやっていたんだな」
みどりの下宿をあたった魚住刑事は、その帰り、山下刑事に言った。
「わたしはうまくやっていたんだと思いますね。あのグラマー先生に、男が全然いなかったとは信じられません」
最近、外勤巡査から刑事になったばかりの、若い山下は、猟犬のように目を光らせた。老巧の魚住に配するに気鋭の山下のコンビは、なかなかに呼吸《いき》の合ったチームワークを展開する。
「うん」
魚住は山下の言葉にうなずいたが、自分の意思の表明は抑えた。
たしかに山下の言うとおり、中原みどりは教師には似合わしからぬ性的なムードを周辺にいっぱい漂わせている。それだけにそこに具体的な男の姿がとらえられないということがかえって不自然なのである。
「とにかく、もっと慎重に探ってみよう」
魚住はそう言う以外になかった。
4
被害者の職場と住宅関係を一応洗い終わった捜査員は、彼女の旧《ふる》い同僚や知己に、捜査の手をのばして行った。
翌日の日曜日、二人の刑事は井川英一《いがわえいいち》という短大講師を八反田村の自宅に訪ねた。井川はもと八反田小学校の教諭を勤めていたのだが、自分が担当するクラスの児童心理を一年間観察した結果をまとめて発表したところ、それが非常な反響を呼び、大手出版社がついて、本にしてくれたものが、またまた大ベストセラーとなって、一躍有名人≠ノなった人物である。
現在では都内の短大にスカウトされて、心理学を講義しながら、流行作家なみの執筆をつづけている。マスコミの力は恐ろしいもので、たいした学者でもなかった彼が、催眠術入門とか、心理学入門という一般うけする形で出した本のおかげで、今ではその方面の大権威のようになっていた。
井川を訪ねたのは、みどりの旧い同僚として、現在の職場からは得られない情報が取れるかもしれないと思ったからである。井川以外にも、所在がわかっているかぎりの、みどりの旧い知己には会っている。
しかし今までには大した収穫はなかった。だから今日の訪問にも最初から大して期待をしていなかった。乗りかかった船式の、一種の義務感からである。
八反田村に住んでいる井川が比較的あとまわしになったのは、彼が日曜日以外は、家にいることがなく、なかなかつかまえられないからであった。
井川の家は村では今まで貧しいほうだったが、出版のおかげで急に羽ぶりがよくなり、印税で改築したというよりは新築した、採光と機能性をじゅうぶんに考慮したスマートな家に住んでいた。鉄骨プレハブ造りの家は、クリーム色の壁に、草色の屋根を乗せて、見る目にもいかにも文化人≠フ家のような印象をあたえた。
井川はその家に両親と一緒に住んでいた。先祖伝来の猫《ねこ》の額《ひたい》ほどの土地を守ってきた、いわゆる一反《いつたん》百姓≠フ両親は、息子が農業を嫌《きら》って大学へ苦学して進み、生まれた土地へ小学校の教師として戻って来てくれたのは嬉《うれ》しかったが、そのうちになんだか得体《えたい》のしれない本を書いて、一躍有名人となってしまったのについていけないようであった。
井川が、やめてくれと頼んでいるにもかかわらず、いまだに一反ばかりの畑へ出て、せっせと野良仕事に励んでいる。
井川はまだ独身であった。そう言われてみればまだ三十前だった。名前だけが先行してしまった感じである。現在、東京のある大学教授の娘と縁談が進行中だという話を、小学校の聞き込みに行って以前の同僚教師から聞いていた。
「大学時代はなかなかの発展家だったそうです」とその情報を教えてくれた同僚は、いくぶんうらやましそうにつけ加えたが、もとの仲間の異例の出世に、たぶんの妬《ねた》ましさを覚えているのかもしれない。
しかし、みどりと井川の間には、特に怪しい点はなかった。
要するに、ごく普通の同僚としてつき合っていたようである。
井川英一は、いかにも時流に巧みに乗ったタレントらしい如才ない男だった。しかし如才がないだけで、かんじんの聞き込みに関しては、なんの収穫も得られなかった。
井川は、中原みどりについては以前同じ学校にいたというだけで、ほとんど何も知らなかったのである。
「すみませんね、何もお役に立たないで」
井川は刑事らの無駄《むだ》足に、すまなさそうな顔をした。
「とんでもありません。お忙しいところをおじゃまして」
無駄足には馴《な》れている。井川の恐縮に、かえって刑事たちが恐縮した形になって、二人はいとまを告げた。
「そこまでお送りいたしましょう」
井川は魚住らと一緒に玄関へ出て来た。
「いや、私も散歩したいと思っていたところなのです。田舎に住んでいながら、週のほとんどは、東京の短大をあっちこっちかけもちしてますので、田園の風景に餓えてるのですよ。仕事は都内のホテルに閉じこもってやりますから、日曜日はゆっくり静養することにしております」
井川は気軽にサンダルをつっかけ、刑事たちと肩を並べて歩き出した。
井川の家は村の中央から少し離れた段丘の麓《ふもと》にある。前面にはもう都会ではぜったいに見られないゆったりした草原がひろがり、子供たちが野球をしたり、虫を追っかけたりしている。
「田舎の子供はうらやましいですな」
K市の官舎に住んでいる魚住は、学校の校庭以外に遊び場を持たない自分の子供と比べて心から思った。
「この空地も、すでに買い占められているのですよ。モーテルでも建てられたら目もあてられない。この調子でいったら、いまに日本に田舎がなくなってしまうんじゃないかと、時折りそら恐ろしくなることがあります」
井川は、外人がよくやるように肩をすくめた。そんなしぐさが、割合サマになっているのは、彼自身、その都会化の波に、どっぷりと浸りきっているせいかもしれない。
草原を走りまわっていた子供たちの何人かが、井川の姿を認めておじぎをした。
「僕の以前の教え子なんですよ」
井川は鷹揚《おうよう》にうなずきかえしながら、満足そうに笑った。バス停のある県道へ通ずる道は草原の中央を走っている。刑事らの今日のこれからの予定は、ひとまず駐在所へ寄ったあとで、もう一ヵ所聞き込みにまわることになっていた。
「あの子供は何をしてるんですか?」
魚住がふと草原の一角を指して言った。見ると十歳前後の一人の少年が、三人が歩いて行く道のかたわらの草原のはしにすわりこんで、何か熱心にいじっているようである。
草原いっぱいに散って、野原せましとばかりに駆けまわっている子供たちの中で、一ヵ所にじっとうずくまったまま、何かもちゃもちゃいじくっている少年の姿は異様に映った。
「ああ、またたかし[#「たかし」に傍点]だな、困ったもんだな」
井川は困惑したように眉《まゆ》をしかめた。
「あの子がどうかしたんですか?」
魚住が好奇心をむきだしにして聞いた。
「ま、そばへ行けばわかりますがね」
井川は、いわくありそうな顔で言葉をにごした。
どうやら事情があると見た刑事らの足は早くなった。
井川がたかしと呼んだ少年のそばへ立った刑事たちは、さすがに彼の奇妙な儀式≠ノ、しばらくの間|呆気《あつけ》にとられていた。
草原でつかまえてきたバッタやキリギリスを、モグラの穴らしい上に、石の板を渡してつくった小さな屠殺場《とさつじよう》で、まず羽を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ、次にとがった石で頭を切り、胴を取り、ばらばらに分解した虫の死骸《しがい》を穴の中に埋めていく。少年はその順序を儀式のように忠実に守りながら、ふしぎな忍耐強さであきもせずにつづけていた。
穴の外に散らばった哀れな犠牲者の羽や脚などの残骸の多さから、かなり前からその儀式≠つづけていたようであったが、井川家を訪ねた時は、別の道からやって来たために、刑事たちの目にいま初めて触れたわけである。
「きみ、それ、なんの遊びなの?」
魚住が話しかけても、少年はまるで耳がないかのように虫の羽を※[#「てへん+宛」、unicode6365]ぎつづけている。
「だめですよ。いま、何を話しかけても聞こえないのです。遊びの中に完全に吸収されております」
「遊び? これが遊びですか? いったい、なんの意味があるのです」
魚住がたずねた。
「この子供は宮本高《みやもとたかし》といいまして、前の私の教え子の一人なんです。いまは殺された中原先生のクラスなんですが、去年の夏ごろから、この奇妙な遊びをするようになったのです。人間の行動には一見無意味に見えるようなものの中にも、何かしら精神的原因があるものなんですが、この少年の場合は精神の深部になんらかの葛藤《かつとう》があって、それを解消するための代償として、ああいう遊びに表出されたのではないかと思うのです。私の研究課題でもありますので、いずれこの子の精神分析をして、心の中にあるしこり[#「しこり」に傍点]の正体を見きわめてやりたいと思っています。なぜ、虫の頭や羽をちょん切るのか、どうしてバッタやキリギリスなどのミドリ色の虫だけを対象にするのか、これを突きつめることは、深層心理学的にも非常に興味があるのですよ」
井川は痛々しそうに少年を見ながら、むしろひとりごとのようにつぶやいた。小学三、四年か、顔色は悪いが、稚《おさな》さの残るおもだちである。
それが無心に虫をひきちぎっているだけに、見る者の目に静かな残酷感を訴えてきた。
けっきょく、その日の聞き込みで得たものは何もなかった。刑事らは疲れた足を引きずって、K市行のバスに乗った。通勤の流れとは逆方向なので、バスはがらがらだった。
長い夏の日もようやく昏《く》れかけて、残照に花やかに彩られた空の下を、気の早い赤とんぼが翔《と》んでいる。
――間もなくこのあたりでも、トンボの姿をまったく見られなくなるだろう――
なにげない視線を、夕焼けの空に送っていた魚住の耳に、たったいま会ってきた井川の言葉がよみがえった。
「一見無意味に見える人間の行動の中にも、何かしら精神的原因がある。それを解消するための代償として、ああいう遊びに表出されたのではないか」
〈どうしてバッタやキリギリスなどのミドリ色の虫ばかりを対象にするのか?〉
「ミドリ色の虫」
魚住は愕然《がくぜん》として思わず座席から腰を浮かしかけた。
「どうかしましたか?」
山下が驚いた表情で彼を見上げた。
「山下君、ガイシャの名前は、中原みどりだったな」
「そうですが、それがどうかしましたか?」
「あの、なんとかたかしという少年は、ガイシャが受持ちのクラスだったそうだな」
「井川氏はそう言ってましたが」
「少年の心にあったしこりというのは、中原みどり[#「みどり」に傍点]に関係ないだろうか」
「虫のミドリ[#「ミドリ」に傍点]と中原みどり[#「みどり」に傍点]というわけですか?」
「少し強引なようだが、人間の連想なんて元来そういうもんじゃないか」
「とすると少年は、中原みどりに憎しみを持っていたことになりますね」
心のしこりの解消を、虫を解体することによってはかっていた少年は、しこりの原因によほど強い憎悪を抱いていたことになる。
「少年は中原先生を憎んでいた……」
その連想が行き当たった一つの想像に、二人の刑事はハッと顔を見合わせた。
あのあどけない少年が、まさかと打ち消すそばから、恐ろしい想像は凄《すさま》じい速さで発達をつづけた。
先日の聞き込みで得た「中原は熱心な教師だったが、依怙《えこ》ひいきするきらいがある」という情報が同時に思い出された。
「山下君、もう一度引き返そう。おれたちの想像を井川氏に鑑定してもらうんだ。彼は精神分析の大家だから、彼がそういうこともあると学問的なうらづけをしてくれたら、一つの情況証拠になる。そして少年とガイシャの関係を徹底的に洗ってみるんだ。少年でもナイフを握らせれば立派に殺人ができる。ましてガイシャは女なんだから、生徒だと思って油断しているところを狙《ねら》ってやられれば、ひとたまりもないだろう」
周囲の乗客を意識して、魚住は声を抑えたが、しゃべっている間にだんだん興奮してくるのがわかった。
二人は次の停留所で降りた。乗車してからまだいくらも走っていないから、歩いて行ったところで大したことはないと思った。
5
ちょうど夕食を取っていた井川は、ふたたび舞い戻って来た刑事の姿に、少し驚いたようであったが、それでも迷惑そうな表情も見せずに迎え入れてくれた。
よかったら一緒に食事をしないかと言ってくれたが、これは刑事のほうで固くことわった。
やがて食事を終えて出て来た井川に、魚住は、自分らの連想が無理でないかどうかたずねた。魚住の話を聴いていた井川は、しだいに反応を表情に表わしてきた。
「いや、無理どころか、大いにあり得ることですよ。ミドリ色の虫と、中原みどりか……私もそこまでは気がつきませんでした。そう言われてみれば、フルールノアという学者の精神分析の実例に同じようなケースがありました。失礼ながら、その方面には素人《しろうと》の刑事さんにすっかり教えられてしまいましたね」
「すると、あの少年のしこりになっているものに、中原先生が関係する可能性はありますね?」
「大いにあります。中原先生に関する何かが、少年の無意識の中に、発散されない内部の傾向または緊張になって、それがああいう遊びにゆがめられて表出されているのです」
「その内部の傾向とか緊張を、憎悪と考えてよろしいでしょうか?」
「残念ながらそう考える以外にないですな。虫をばらばらにひきちぎって埋めるくらいですから、相当に激しい憎しみですね。殺意の代償と言ってもよいくらいです」
と言いかけて井川はハッと口をつぐんだ。学問的な解説を加えていたつもりが、そのまま宮本少年を追いつめることになるのに気がついたようである。
「しかし、ミドリの虫が必ずしも中原先生のみどりにつながるとはかぎりません。何か他のものから連想されているのかもしれませんから」
彼はあわてて言いなおした。
「わかりました。なにぶん相手は未成年者ですから、その点はじゅうぶん慎重に行動いたします。いずれ正式に少年の精神分析を依頼することになると思います。その時はよろしく。今日は二回もおじゃましまして」
「どういたしまして。私にできることなら、なんなりとお役に立ちたいと思います。私も非常に勉強になることですので、個人的にも分析してみたいと思います」
井川家を辞した刑事には確信のようなものがわいていた。今日は日曜日で学校には用務員以外はだれもいないだろうし、それに時間も遅いので、明日から、被害者と宮本少年の関係を洗うのだ。
まさか犯人が九歳の少年とは思わなかったところに、捜査の盲点があった。執拗《しつよう》にかけた聞き込みにも、目撃者が出なかったのはそのためだった。
グラマーな美人教師と少年を結びつけて考える者はいない。今日、本部に帰ったら早速、宮本少年の家の捜査令状を取ろうと魚住は思った。
その時、猛烈な空腹感が彼を襲った。井川家で夕食を誘われた時、なぜことわったのかと意地汚なく悔やまれるほどの飢餓感である。魚住にしてそうだから、若い山下刑事は、きっと馬でも食えそうに腹をへらしているにちがいない。
宮本少年との関係に焦点を絞って再度聞き込みをかけた結果、被害者はどういうわけか、宮本少年をマークして強く叱責《しつせき》することが多かったことがわかった。
他の少年ならば笑って許すいたずらや、宿題の怠慢なども激しく叱《しか》り、時には叩《たた》いたことすらあった。特に中原の殺された日、少年が宿題をやってこなかったので水をたたえたバケツを持たせて立たせたことがわかった。全クラスの友だちが見ている前でバケツを持たされたことは、宮本少年の心を、深い屈辱でえぐったにちがいない。
もともと中原先生は教育熱心だが、依怙ひいきが強い。お気に入りの生徒は自分の下宿に招いたり、一緒にハイキングに行ったりするほど可愛がったが、気に食わない生徒は徹底的につまはじきしたそうである。
「それにしても、中原先生は宮本君を強く意識しすぎていたようですね。両親がおとなしかったからよかったものの、普通だったら抗議を受けかねないほどに、叱っていました。われわれもはらはらしたもんですよ」
何人かの同僚の先生が証言するにおよんで、宮本少年への容疑は固まっていった。さらに決定的な物証があがった。
令状にもとづいて少年の家を捜索した結果、少年の部屋の縁の下から、古い血がこびりついた工作用の小刀が出てきたのである。その血は被害者の血液型と一致し、刀身は傷口や創管の長さと符合した。
本人も少年の両親も、小刀は少年のものではないと言い張ったが、その抗弁は通らなかった。ただちに家庭裁判所に通告がなされると同時に、少年はK署に引致されて取り調べられた。しかし少年は頑強《がんきよう》に犯行を否定した。両親も犯行時間には少年は家にいたとアリバイを主張した。
少年は事件否認のまま、地検を経由してK家裁に送致された。
農夫である父親は、息子のために、内向的な性格であるが、人を殺すような恐ろしい子供ではないと必死に訴えた。カエルやトカゲの腹を裂いたり、虫を殺したりすることは、子供のころだれでもやることであって、それだけで子供が人殺しをするような残酷な性格だと決めつけるのは、それこそ残酷であり、あまりにも早計な判断であるというようなことを、単調な野良仕事の明け暮れで重くなった口を、懸命に動かして弁護した。
彼の親としての気持ちはわかるが、別に虫を殺したことだけで少年を犯人と見ているわけではなかった。それは捜査のほんの端緒になったにすぎない。アリバイも両親以外の第三者によって証明することができなかった。
情況といい、凶器があがったことといい、すべては少年のクロを指していた。
「なぜミドリ色の虫を殺したのか」という疑問だけが、解決されないままに残った。
事件の送致を受けた家裁は、調査官に命じて調査をはじめさせた。これと並行して捜査本部ではうらづけ捜査を行なった。しかし本部では、情況と物証から、少年の犯行にまちがいないものと見ていた。
「しかし、わずか九歳そこそこの少年が、先生に叱られたのをうらんで、ブスリと刺し殺してしまうとは、恐ろしい世の中になったもんだな」
本部解散の近いK署の中で、捜査員らは寒気《そうけ》だった表情をした。
6
うらづけ捜査において、被害者の中原みどりの周辺の捜査を担当した魚住刑事は、どうも気に入らないことが一つ、心にひっかかってきた。
それは中原みどりの八反田における生活環境の中に、まったく人間、特に若い女としての体臭≠ェ感じられないことである。
生きているかぎり、人間には必ず生活の体臭があるはずである。それは若ければ若いほど旺盛《おうせい》なはずだ。それにもかかわらず、それがないということは、本人がよほど淡白な人間か、あるいは故意にそれを隠している場合である。
中原みどりは若くグラマラスな女性である。見るからに悩殺的な肢体は、村の若者たちの憧《あこが》れの的になっていた。
だから彼女の周辺に生活の体臭がなかったということは、教師という職業がら故意にそれを隠していたことが考えられるのである。
しかし体臭≠ェ旺盛であればあるほど、隠し通せるものではない。どこかで必ず発散させていたはずである。
それは八反田以外のどこかだ。それはどこか?
魚住は、少年の審判が下る前に、みどりが体臭≠発散させた場所を探ってみたいと思った。
「おれはね、あのグラマーな美人教師が、草深い田舎で尼僧のように行ないすましていたのが、どうも気に入らないんだ。どうもそこに、作為があるような気がしてなあ」
魚住は、自分の心にわだかまるものを、若い同僚に話した。
「しかし、それは教師という職業がら、当たり前なことじゃありませんか」
山下は、魚住の疑問のほうがおかしい、という顔をした。
「いや、それにしても、中原みどりの周辺はあまりにも淡白すぎる。若い女のまわりというものは、あんなものじゃないだろう。淡白すぎるということは、淡白じゃないってことにならないか。中原には男がいたような気がしてならない」
「八反田では行ないすまして、どこかよその巣で忍び逢《あ》っていたんでしょうか」
「そこだよ」
魚住は、我が意を得たりという声を出した。
「八反田が仮の居場所で、彼女の本当の巣がどこかよそにあるのなら、そこを覗《のぞ》いてみたいのだ。少なくとも職場のある場所には、普通の人間ならば、かなりの生活のウエイトをかけているはずだ。それにもかかわらず、八反田で行ないすましていたのはなぜか? 男がいたところで、まじめな恋愛ならひとに知られても大してさしつかえないだろう。それをひた隠しにしたのは、知られてはまずい何かの事情があったからだ。おれはその事情を知りたいのだよ」
「なるほど。しかしその事情と、宮本少年と関係がありますか?」
「関係はないかもしれない。だが、あるかもしれない」
「もしガイシャに巣≠フようなものがあるとすれば、とりあえず考えられるのは、K市ですね」
山下はいくらか興味を惹《ひ》かれた表情になった。
「ひとつ洗ってみますか」
若いだけに行動へ移るのが早い。二人は、八反田の中原の下宿を、調査の起点にして、彼女の巣≠ヨ遡行《そこう》してみるつもりだった。
刑事の着眼はよかったが、その遡行は徒労に帰した。下宿をあたって一ヵ月に二度くらいの割りでどこかへ出かけて行くという証言に勇み立ったものの、K市内および近郊の旅館を洗っても、みどりらしい女性が投宿、あるいは休憩≠オた形跡はまったく発見されなかった。
「もしかしたら、東京でしょうか?」
「東京だとなると、ちょっと探しようがないな」
中原みどりの巣が、旅館≠ノあるとは断定できないが、教師のように私生活も常に鎧《よろい》で身を固めていなければならない職業を持った若い女が、恋に自分の全体を解放する場所として、もっとも安直に飛びこむのは、その種の旅館≠セと思った。
情事だけを目的にして建てられたその種の旅館は、およそ情事のためのあらゆる趣向と設備を備え、プライバシーを保証してくれる。
K市およびその近郊の旅館ならば、最近モーテルが増えたとはいえ、捜査が可能である。しかし、東京となると、いちばん新しい調査で三千五百軒もある。
一軒平均の保有部屋数が十室だから、全部で三万五千室、この部屋の回転が、宿泊と休憩を一回と数えて、一日二回転、一回転に二人はいるから、一日四人、これの三万五千室だから、実に一日に十四万人という、地方都市の人口なみの男女が、この種の旅館の密室で、抱き合い、からみ合い、肉の悦《よろこ》びのうめき声をあげているのである。
しかもその回転数は、最近ますます速まる傾向にあるという。この膨大な旅館群から、たった一人の女を探し出すのは、それこそ海に落ちたミクロの虫を探すようなものであろう。
それを探し当てられたところで、事件と直接の関係があるかどうかわからないのである。
二人の刑事は疲労感だけを得て、捜査を打ち切らざるを得なかった。
7
翌日、魚住より一足先に署を退《ひ》けた山下は、帰途、行きつけの本屋で、一冊の本を買った。山下は推理小説のファンで、時折り、本屋をあさっては、目についたものを買っていた。
現職の警察官には、推理小説は嘘っこと[#「嘘っこと」に傍点]ばかりだと言って嫌《きら》う者が多い。たしかに小説だから、嘘《うそ》の多いのは事実である。現実にはとてもこんなにうまくいくはずのないことが、平然と書かれてある。
しかし推理小説にある、論理的な分析手法は、物証オンリーで論理的思考を欠落しがちな警察官が大いに学ぶべきであると、山下は信じている。
それには論理的な謎《なぞ》解きを主幹とする本格推理がよいのだが、最近はむやみやたらと、現実重視の推理小説が多くなってしまって、自分が読みたいと願う、徹底的な論理の積み重ねをする推理が、きわめて少なくなってしまった。
彼はリアリティにはもうあきあきしていた。自分が毎日職業としている現実を、捜査報告書を読まされるように、これでもか、これでもかと書きこまれても、あまり頭脳の刺激にはならない。
現実を忘れ、現実からは得られない知恵が得たいから推理小説を読むのである。だから彼はなるべく刑事の登場しないオールドファッションのものを好んだ。
だが推理作家におよぼされたリアリズムの影響は大きく、最近では、なかなかそのような作品にお目にかかれない。
もっともその日、彼が書店に立ち寄ったのは、推理小説を買うためではなかった。
山下が買い求めたのは、精神分析の入門書である。
今度の事件で、ちょっと興味を持ったのだ。少年が中原みどりへの憎しみを虫に転位した心の屈折に、人間心理の深層に渦巻《うずま》くどすぐろい流れを見せつけられたように感じ、それを自分なりに、この際研究してみようと思ったのである。その本は入門書ながら権威のあるものだった。
久しぶりに早目に帰って来た自分の部屋での、ひとりだけになれた貴重な時間は、好きなフレンチサウンドを聴いて過ごしたいところだったが、魚住刑事が依然として抱きつづけているらしいこの事件に対するふっ切れない思いが、山下にも移ったようである。
何枚かページを繰るうちに、どこかで聞いたような名前を見出した。
「フルールノアによる例……はて?」
山下は首をかしげると、すぐにそれが先日、井川が挙げた学者の名前であったことを思い出した。
たしかにそこには井川が言ったとおり、宮本少年と同様の、虫を殺す少年の例が紹介されてあった。
――少年の九歳の夏休みの経験である。そのとき彼は田舎にいた。彼はおかしな遊びを発明した。モグラの穴に石板と小板で小さな屠殺場をつくり、そこへバッタやカマキリなどのミドリ色の虫をつかまえてきては、とがった石でその頭をちょん切った。それから虫の体をしゃぶり、ときには食べてしまい、残骸《ざんがい》を穴の中に埋めた。少年はこの手順を儀式のようにかたくなに守って、何時間でもひとりで遊んだ――
読み進むうちに、山下はその記述と宮本少年のケースとの類似性に驚いた。場所といい、手順といい、そっくりである。ただちがうところは、宮本少年が虫を食った様子のないことである。もっともそれも一時的に見ただけだから、はっきりしたことは言えない。もっと長い時間にわたって観察すれば、あるいはまったく同じケースが見られたかもしれないのである。
本はさらに説明している。
――バッタやカマキリはミドリ色を連想させた。少年はおとなになってから『トンボやコオロギを殺そうとはぜったいに思わなかった。犠牲にする昆虫《こんちゆう》や動物は、ミドリ色でなければならなかった』と語っている。
どうしてミドリ色に反感を持ったのかというと、ミドリ色は、ただちに学校のある先生を連想させた。少年はその先生が大嫌いだった。『しかしどうしてその先生がミドリ色なのか、ぼくにはわからなかった』と少年は言った――
フルールノアの分析も、ミドリと先生との関係を明らかにしていなかった。しかし彼は次のような解釈をつけ加えている。
――少年は、強い人間を演じたかったのかもしれない。少年は軍人とか、英雄とか、架空のスーパーマンとかの強い人間に憧れ、自分が理想とする人物と自分を同一視≠キるために、虫を殺して、自分が強くなったと感じていたのであろう――
しかし、その奇妙な遊びは、なぜ夏休みにだけ現われたのか?
――少年の告白によると、彼は極端な母親っ子≠ナ、長い期間にわたって学校が休みで、母親と一緒にいられる夏休みが大好きだった。この母親とのあいだに割り込んで来るのが父親だった。しかし父親は仕事に出ていてほとんどの時間、家にいないので、少年は母親と二人だけの時間を楽しむことができた。
ところが、ある夏休みに父親が重病になった。数週間のあいだ、母親は父親のそばにつきっきりで看病した。いままで自分ひとりだけのものだった母親は、父親に完全に奪われて、少年はかえりみられなかった。少年は父親を憎んだ。いままで母親との甘く楽しい時間を奪う者は、学校の先生だった。だが、いまは父親が母を奪った。
先生への憎しみが、父親に転位されて、父親なんか死んでしまえばよいと思った。虫殺しの遊びがはじまったのは、そのころからであった――
本の著者は、さらに解説した。
『母親から自分を遠ざけたのは、ミドリの虫である。それは学期中は先生であり、夏休み中は父親だった。母親を奪った憎いテキを殺して(虫を殺すという形で)抑圧された憎しみの解消をはかり、父親や先生以上に自分が強くなったように感じるところに、この遊びの意味はあった。
父や先生への憎悪が意識されるあいだはまだよい。それが無意識(意識の深層)に閉じこめられ、発散されない感情の緊張となり、奇妙なくせや遊びの動機となる。憎い相手を殺してしまえば緊張は解消してしまうが、先生を殺したい気持ちが抑圧されて、小動物やイヌやネコや虫を殺す。これは欲求の目標を他のものに転じてしまう代償行為≠ナある。イヌや虫を殺すことも、けっして楽しいことではないが、人間を殺すというひどく不快な行為が、軽い不快なものに置きかえられている。代償ではあっても、緊張が発散して、心のしこりがきれいになる』
ここまでなにげなく読み進んできた山下は、ある一事に思い当たって、ハッと目を上げた。
「もしかすると、とんでもない見当ちがいをしていたかもしれない」
山下はひとりつぶやいた。のどがからからにかわいていた。妻がいれば、熱い茶を淹《い》れてくれるところだろう。
山下は年齢の割りに茶にうるさく、乏しい月給を割《さ》いて、良い茶ばかりを集めていた。茶器にも金《かね》をかけたものを使っている。
しかしいまは、自分でいれるのが面倒だった。流しへ立つと、水道の蛇口《じやぐち》へ直接口をつけて水を流しこんだ。
なんとも原始的な渇の癒《いや》しかたである。小さいながら冷蔵庫の中には冷えたビールかコーラがはいっているはずだったが、いまは栓《せん》を開ける手間も面倒だった。
とりあえずのどを湿した山下は、自分ひとりの思いの中に沈みこんでいった。
〈宮本少年が虫を殺したのは、先生を殺す代わりだった。もし彼が犯人ならば、本来の欲求が満たされたのだから虫を殺す必要はない。ところが少年は虫を殺していた。中原みどりが殺害された後に[#「後に」に傍点]!〉
――これはいったい何を意味するものだろうか? すなわち彼が犯人ではないということではないか。しかし少年の行為を代償だと言ったのは誰《だれ》だったか?――
〈それは井川英一だった。多分にマスコミにまつり上げられた虚名の権威くさかったが、とにかく心理学の権威である。その彼が、素人の自分ですら気がついた幼稚なことに、どうして気がつかなかったのだろう?〉
――そういえば井川がフルールノアの例との類似を言い出したのも、ずいぶん遅かった。専門書の最初のほうに出てくるくらいだから、かなり有名な例なのだろう。それなのに……。井川はとっくに二つの例の類似と、虫のミドリが、被害者の名前を連想させることに気がついたのではないだろうか?――
〈先日、井川を初めて訪れたとき、わざわざ送って来たのもわざとらしい。あれはわれわれを宮本少年のそばへそれとなく誘導するためだったのではないか?〉
――なんのために?……もちろん、宮本少年の遊びから、被害者の名前をわれわれに連想させるためだ。そういえばあのとき、井川はしきりに「ミドリ色の虫」という言葉を口に出した。あれはおれたちに連想のきっかけを与えたのだ。なぜか? いうまでもなく少年を犯人と見せるためだ。ということは少年は犯人ではないということにならないか。もし少年を告発したければ、あんなまわりくどい方法をとらずとも、はっきり名前を挙げればよいのだ。それをしなかったということは、それをしては不都合な何かの事情が井川にあるということだ。彼が、二度めに訪問した時、「殺意の代償[#「代償」に傍点]」と言いかけてハッと口をつぐんだのは、少年のためを思ってのことではなく、代償という言葉から、われわれが、少年の遊び≠フ矛盾に気がつかないかということを悟ったためではなかったか。あれは井川にとって失言だったのだ! もし井川と中原みどりとの間に関係があったと仮定すれば、井川は動機を持つことになる。無名時代、ほんの遊び半分に関係した女が、有名人になってから、やいのやいのと結婚を迫ったとしたら。まして今、井川には大学教授の娘との縁談が起きている。中原に結婚してくれなければ今までの関係をバラすと脅迫されて、せっぱつまったあまりに?……――
〈それに必ずしも、ミドリが中原みどりを象徴するとはかぎらない。フルールノアの例でも、少年は父親と先生への憎悪をミドリの虫に転位したのだ。最初の憎しみの対象は、先生だった。夏休みにはいって、父親が病気になって母親を奪《と》られてから、今度は父親がミドリの虫になった。ということは、宮本少年が殺したミドリの虫は、必ずしも中原みどりの代償ということにはならない。宮本少年とミドリの虫の関連を、もっと追及する必要があるぞ〉
思考を追っているあいだに、山下はだんだん興奮してきた。彼はいま眼前に巨大なミドリ色の虫を見ていた。
太い触角を振り立て、硬玉のような三個の単眼が、彼をじっとにらんでいた。どこに焦点を結んでいるのかわからない、動かない視線が、まぎれもなく彼のほうへ向けられ、そしてその突き刺すような先端には明らかな憎悪がこめられていた。
山下の着眼は、その夜のうちに捜査本部へ報告され、翌日、東京T大文学部の異常心理学の権威、宮沢則正教授の意見が聴かれた。そして教授の答えは、まさに山下が気がついたとおりだったのである。
宮本少年の奇異な行為が、被害者の死後もつづけられた事実は、そのまま少年が犯人でないことを示すものであると、権威者からうらづけられたのである。
宮本少年に虫を殺させた内面のしこりは、何か別のものであった。何かのショックによって、虫の屠殺《とさつ》¢O後における少年の記憶がほとんど失われているので、彼の心の傾向を知るためには、精神分析にかける以外になかった。捜査本部からの報告を受けた家裁では、宮沢教授もしくは、教授の推薦するそのすじの権威者に依頼して、近く少年を精神分析にかけることにした。
家裁としては、権威者によって少年のシロが学問的に証明された形になっても、それはやはり一種の情況証拠(潔白の)であって、かんじんの内面のしこりが明らかにされないことには軽々に審判を下せなかった。
しかし少年の精神分析には、かなりの難航が予想された。少年がまったく拒否的で、連想を拒否するからであった。
「自由連想」は今日の精神分析の最も重要な方法になっている。それには被分析者が、緊張をなくして意志的批判や判断をする態度を捨て、なんでも受け容れるような柔軟な状態にならなければならない。これは催眠状態とも異なる。
もし被分析者が最初から拒否的で非協力的だと、どんな権威がやって来ても、正確な分析はむずかしくなるということである。
ともあれ少年の精神分析は家裁のほうへ任せることにして、捜査本部では、ひそかに井川の身辺の捜査をはじめた。
本部では井川と被害者との間に、必ずや関係があったにちがいないとにらんだ。
「今までの捜査で浮かび上がらなかったのは、よほどうまくやっていたからか、それとも、捜査のどこかに盲点があったにちがいない」
捜査会議で係長は断言した。
「しかし、どんなにうまくやったとしても、あんな小さな村で関係をつづけていれば、必ず村人のうわさにのぼったはずです」
山下は反駁《はんばく》した。魚住刑事とともに中原みどりの巣≠、八反田やK市内で徹底的に探した人間の反駁だけに根拠がある。
「東京で関係を持ったとしたらどうだな?」
捜査係長は、山下の気負いを、軽くいなすように言った。しかし東京という推測はすでに持たれており、捜査範囲があまりにも広範にすぎるために、ひとまず打ち切られていたのである。
「東京の連れこみ旅館をしらみ潰《つぶ》しに当たることは無理だが、井川の線から追ってみたらどうだろう。今まで井川には特に怪しい節はなかったので、やつの東京での足跡は追っていない。井川の足跡だけなら、どんなに東京が広くとも追っていける。何か新しい事実が浮かび上がるかもしれんぞ」
係長の示唆が新しい視野をもたらした。
K市から東京まで汽車で一時間ちょっとだが、国電が乗り入れていないので、かなり距離感はある。
だが井川にしてみれば、東京は仕事場で、八反田は週末に帰る休養の場にすぎない。生活の本拠としてかなりの足跡が東京には残っているはずである。彼が新たな容疑者として浮かび上がってみれば、その足跡に、中原みどりの足跡がからんでいる可能性は大いにある。
「しかし、井川は有名になってから八反田小学校をやめて、東京へ出るようになったのです。無名のころに関係した女が、有名になって、社会的な名聞や、有利な縁談のために邪魔になって殺されたというなら話はわかるのですが、東京で逢ったということになると、有名になってから関係をつけたように考えられませんか」
別の捜査員が疑問を出した。
「無名時代、一度や二度、こっちで関係があったのかもしれない。しかしそれはうまいこと隠しおおせた。そのくらいの回数なら隠せるだろう。そのうち有名になり、女から関係の持続を強要される。やむなく仕事場の東京で逢《あ》った――と見られないかな」
係長の言葉にその捜査員は、いちおう納得した。
しかし、せっかくの着眼にもかかわらず、井川の東京での常宿や、立ちまわり先を洗っても、中原みどりは浮かび上がらなかった。
彼女の足跡は、まったく井川の周辺に現われないのである。中原の線から追うことはまったく不可能であった。月に一、二度上京していた形跡はあるのだが、いったい、東京のどこへ行っていたのか、まったくつかめない。
母校の短大や、同学の友人たちにはすでにあたっていたが、卒業後、まったく接触した様子はなかった。
捜査はここで完全に頓挫《とんざ》したのである。
8
ヒントは一冊の週刊誌によってもたらされた。
そのあまり上品ではない風俗週刊誌は、デスクに無造作にポンと放り出されてあった。署員のだれかが食事をしながら拾い読みをしていたものか、ページにそばの汁のようなしみがついている。
――だらしがない――
退勤前にふと目にとめた潔癖な魚住が、つまみ捨てようとしたとき、開かれたページの、裸の男女が抱き合ったどぎつい写真とともに、見出しの活字が目に飛びこんできた。
――喫茶店の新手《あらて》、SMスナック――
とその見出しは読めた。風紀係ではない魚住は、最近はやりのそのSMという言葉を知らなかった。
刑事は博学というより雑学≠ナなければならない。どんな知識の断片でも、それの有無によって捜査の進展に大きく影響することがある。
だから刑事はみな一様に、知識欲や好奇心が旺盛《おうせい》である。魚住が、捨てようとした週刊誌にふと目を止めたのは、煽情《せんじよう》的な写真よりも、彼の知らない新語があったからである。
読み進むうちに、SMが、サドとマゾであるということがわかってきた。
週刊誌の記事によると、最近若い男女のあいだに、マンネリ気味のセックスの定型にあき足らず、異性のからだを残酷に痛めつけたり、あるいは異性から激しい仕打ちを加えられることによって性的快感を得るSM性愛者が、非常な勢いで増えている。
これに目をつけた業者が、早速、東京|原宿《はらじゆく》にオープンしたのが、このSMスナック『飼育人間ヘテロ』という奇妙な店である。
――どんな店かって、まあ聞く前に一度行ってごらんなさい。どうせ行くなら土曜日がいい。週《ウイーク》| 日《デー》には、男女のSM俳優が、フロアで、両手両足を紐《ひも》でくくり、むち打ったり、咬《か》んだり、髪を引っぱったり、踏んだり、のけぞったり、のたうったりしてオーバーな演技をくり広げているが、土曜日には本物のSM客が群れ集まり、俳優の演技に刺激されて飛び入り出演をする。
何十組というSM男女が、だんだんエスカレートしてくると、ズボンのベルトを外してむち打ったり、熱い蒸しタオルを乳房やわき腹に押し当てたりで、けだし壮観である。
だいたい男は女の美しいからだを苛《さいな》み傷つけたいという残酷なオスの獣性を内在しており、女は好きな男から犯され、いじめられたいという本能的欲望を抱いているから、男はSであり、女はMが多い。
しかし中には、これが逆なアベックもいる。つまり二重の性的倒錯である。これら変態《ヘテロ》が、土曜の夜には、ヘテロに群れ集まり、本物のSMショーをくり広げるのである。――
とこんな調子で紹介してあり、パンツ一枚になった男たちが、むちを持った女に踏みにじられている写真が、数枚つづいていた。
そろそろ停年の近い魚住は、その記事と写真を見て、「世の中も末だ」という感じを持った。
だいたい彼には、異性に残忍な行為を加えなければ、性的に興奮しない異常性愛が、まったく理解できなかった。
サドとかマゾという変態人種がいることは知っていたが、それが喫茶店の経営を可能にするだけでなく、繁栄させるほど存在するという事実に、全身|寒気《そうけ》立つような無気味な思いに駆られた。
SMのような異常性愛は、麻薬のように慢性化するはずである。もともと正常なセックスに飽きた連中が、より強い刺激を求めて発明≠オた色情倒錯である。
最初は強く感じられた刺激も、回を重ねるほどに麻痺《まひ》してくる。
頬を張ったり、咬んだりするくらいで満足していたのが、だんだん進行して、ついには絞めたり、焼け火箸《ひばし》をあてたり、突き刺したりしなければ感じないようになってくる。それがついには殺人に発展する危険性もじゅうぶんにある。
現に魚住の扱った事件の中にも、そのような残忍性異常性愛≠フ結果の犯行があった。その温床が、営業として成り立っている。
そこに彼は脅威を覚えたのである。
「ウオさんも、そんな雑誌を読むんですか。なかなか隅《すみ》におけないなあ」
そのとき若い署員がはいって来て、ひやかした。
「馬鹿いえ!」
苦笑しながら、雑誌を片づけようとした魚住は、ふと目を宙に据《す》えた。
「もしかしたら……」
魚住は口の中でつぶやいた。彼は、殺された中原みどりが、宮本少年をよく折檻《せつかん》したということを思い出したのである。
それは教師が生徒を矯《なお》すための折檻の範囲を越えるものであったという。
――もしかしたら、中原は女のサドではなかったろうか?――
という疑いが、チラリと魚住の胸をかすめたのであった。少年は異性と見るには、あまりにも稚《おさな》かった。しかし性的交渉の相手としては稚すぎても、虐待する異性≠ニしてはじゅうぶんに役に立ったかもしれない。
〈もし中原がサドであれば、この店に姿を現わしたかもしれない。いや必ず現わしたはずだ。SMのたまり場として公然と看板をかかげたのは、この店が一軒だけだ。SにしてもMにしても、相手がいなければ成り立たない。相手を求めて、ヘテロに姿を現わしているはずだ〉
「魚さん、いったいどうしたんです?」
目を宙に据えたまま、ぶつぶつつぶやきだした魚住に、若い署員はあきれ顔でたずねた。
9
「中原みどりは、残忍性色欲異常症《アルゴラグニー》、すなわち、サドかマゾではなかったか?」
という、ちょっと突拍子もない魚住刑事の着想≠ェ、捜査に一つの転回を与えた。
たしかに彼女が宮本少年に加えたシゴキは、異常であった。SMかどうかはっきりしないまでも、教師が生徒に加える愛のむち≠フ範囲を越えるものであることは、それを目撃したすべての者が証言するところであった。
「もし中原が、変態性愛者であれば、必ず、『ヘテロ』に姿を現わしているはずだ」
というのが魚住の主張である。本部は彼の主張を容《い》れ、次の土曜日に彼と山下の二人を東京へ出張させた。
土曜日には、都内や近郊のSM愛好者≠ェヘテロに群れ集まってくるというから、聞き込みには都合がよい。
高崎線で赤羽《あかばね》まで行き、そこから国電赤羽線に乗りかえる。池袋《いけぶくろ》でさらに山手の内まわりに乗り換えて、ヘテロのある原宿へ着いた。すっかり夜になっていた。
こちらへ着くころ、夜になるように、出発時間を調整したのである。
「もう来ているでしょうか?」
「土曜日だからな」
二人は、まるで敵地へおもむくような緊張を覚えながら、話し合った。SMなどという色情倒錯の世界は、およそ二人には理解の外である。いうならば、現代という巨大な機械文明が、人間の心理をはるか後方へ置きざりにしたために生じた狂人《きちがい》≠ナあろう。
そのきちがいのたまり場へこれから行くのである。東京の衛星都市として近年いちじるしい発達をして凶悪犯罪も増えているK市であるが、このような化け物¢且閧ノ繁盛している店はない。
その意味では、K市はまだまだ田舎であり、かつ正常であった。
二人の刑事は、凶悪犯人の逮捕に向かうよりも緊張していたかもしれなかった。
ホテルのようなデラックスなマンションの地下に、『飼育人間ヘテロ』があった。
入口で千円ずつ要求されたので、身分を明らかにして中へ入れてもらう。受付から、真っ暗でくねくねにうねった細い通路をしばらく辿《たど》る。
途中ところどころ、裸電球が吊《つ》るされて、壁面に貼《は》られた、裸の女を鎖で巻いたり焼け火箸を押し当てたりしている写真が、ほのかに浮かび上がった。漏水によるものか、壁に浮き出ている黒いしみが、女の血のように見えて、陰惨な効果をだしていた。
やがて廊下が尽きて、扉《とびら》を開けると、タバコのけむりとひといきれのたちこめる穴のような部屋に出た。
部屋の中央にしつらえられたステージには、国籍不明の人間の混成バンドが演奏しており、ボリュームの豊かな黒人女性歌手が、ものがなしいフィーリングで歌っている。
その前のフロアでは、何組かのアベックが踊っていたが、みなぴったりと密着しあったままで、かすかに腰のまわりを揺すっているだけで、同じ場所を動かない。
壁のほうにたむろしているのが、お客らしいが、いずれも刑事の目にはチンドン屋≠フような風態の連中ばかりだった。背広にネクタイのまともな格好の刑事たちが、ここでは明らかに異質《ヘテロ》だった。
しかし彼らは、別に二人に注目しない。みな一様に他人のことには無関心な目をしている。
「これがSMスナックか」
二人はいささか拍子ぬけしたような気がした。たしかに入口から部屋へ通るまでの通路や、集まっている連中は、まともではなかったが、雰囲気《ふんいき》は、テレビでよく見かけるスナック喫茶と大して変わりはない。
かろうじてSMの匂《にお》いを感じさせるものは、ステージの隣りにさらしものになっている鉄の貞操帯をかけられた裸女のマネキン人形だけである。
魚住は、注文を聞きに来た、パンティがまる見えになるようなミニを穿《は》いたウエートレスに名刺を渡して、経営者を呼んでくれと言った。
「ママはいま、いません」
ウエートレスは、迷惑顔を隠さずに言った。
「ママが経営者なのかね。それじゃ、だれか責任者がいるだろう」
「マスターを呼ぶわ」
ウエートレスは、ルージュを塗りたくった唇《くちびる》をとがらせて言うと、奥へひっこみ、待つ間もなく蝶《ちよう》タイの黒い背広をまとった三十前後の男を連れて来た。
「マスターの青木ですが、何か……」
青木と名乗った男は、鋭い目に警戒の色を浮かべて言った。
このように法すれすれのところでやっている風俗営業の人間は、警察関係者には、本能的な警戒心を持っている。態度は丁寧だが、どんな攻撃にも耐えられるように警戒の鎧《よろい》で一分《いちぶ》の隙《すき》もなく武装してしまうのだ。
土曜の夜というかき入れどきに、突然訪れた二人の刑事に、青木は全身針ねずみのようになってしまった。
「実は、この二人の男女なんですがね、おたくの店のお客の中にいませんでしたか?」
魚住は、相手の警戒を解くように柔らかく言うと、中原みどりと井川英一の写真を差し出した。中原の写真は小学校から、井川のものは出版社から借りだしたものである。
青木は、二葉の写真にじっと目を注いでいたが、やがて顔を振った。
「どうも僕には見覚えがありませんね。実は、僕は最近ここへはいったばかりですから」
「だれか古い従業員はいませんか」
「それが、いまここにいる者は、みな僕より新しい人間ばかりです」
「ママという方はどうですか」
しだいに心の中で容積を大きくしてくる失望感に耐えながら、魚住は必死に食いさがった。
「ママに会ってもむだですよ。彼女も僕より新しいのですから」
「しかし経営者でしょ」
「経営者は別にいます。もっとも店にはめったに来ませんがね。僕もママも雇われなんとかっていうやつですよ」
青木はうすく笑った。笑うと、右の頬にひきつれのようなものができて、もともと無表情の彼の顔をいっそう酷薄なものに仕立て上げる。彼自身の身分を自嘲《じちよう》したらしいのだが、刑事には、自分たちの徒労を嗤《わら》われたように思えた。
歌手が退場し、激しいロックジャズの演奏に変わった。壁側でごそごそうごめいていたのが、待ちかねていたようにフロアへ飛び出して行って、手振り、足振りの猿《さる》踊り≠ノ加わった。
「そうだ!」
青木が、ロックジャズに醒《さ》まされたように指をパチッとならした。
「だれかいますか」
刑事は救われたような声をだした。
「この店がオープンのころからの、常連なんですがね、彼女なら知っているかもしれない」
「その客はいま、いますか」
山下が気負いこんだ。青木は腕時計を覗《のぞ》いて、
「あと三十分もすると来ますよ。土曜の晩、いつもフロアショーがはじまるころ来るんです。ミチという女ですがね、本当の名前は知りません。でも刑事さん、まさかショーを取り締まるんじゃないでしょうね。土曜日はお客の飛び入りがあって、かなり激しい[#「激しい」に傍点]ものになるんですが、所轄署では大目に見てくれているんです」
青木は急に心配そうな顔つきになった。彼はどうやら二人を風紀係と混同しているようであった。
三十分すると、ステージからバンドが退き、もともと暗い照明がグンと絞られた。これを風紀係が見たら、やはり文句を言うかもしれない。
やがて二組の男女がステージに現われた。女のほうがむちを持っていた。男はブリーフ一枚の裸でストッキングの覆面をしている。女のほうはシースルーのネグリジェを着ている。
男が、ステージに寝そべった。女が男のからだを踏みつけた。踏みつけながら、むちでピシピシと打つ。
男の白い肌にみるみるみみず脹《ば》れができる。演技だということはわかっていたが、初めて見る刑事たちには、かなり迫力があった。
「刑事さん、ミチが来ましたよ」
いつの間にそばに来たのか、青木がそっと耳打ちした。青木の視線の先を追うと、流行の房かざりをつけた真紅《しんく》の上衣にジーパンを穿《は》いた、やせた若い女が、ショーに目をじっと固定させていた。
二人の刑事は、青木にうなずくと、ミチのそばへそっと移動した。
「きみがミチか」
ミッちゃんとも言えないので、魚住は、相手を刺激しないようにつとめて柔らかく声をかけた。ミチはびくっとしたように目を上げた。胸が病的にうすい。
「この写真の人間を知らないかな」
魚住は、相手に不審の念をおこす隙《すき》も与えずにさっと写真をミチの前に差しだした。ミチは気をのまれたように写真を手に取った。
固唾《かたず》をのむようにして見守る二人の前で、ミチはすぐに反応を示した。
「何だ、ドボ[#「ドボ」に傍点]じゃないか。彼女しばらく見えないけど、このごろどうしてるの?」
「ドボ?」
「仲間内でドボで通っていたんだよ。あ、この男は、ドボとよく、一緒に来たギギ[#「ギギ」に傍点]だ。ここへ来るときはいつも、色のはいっためがねをかけていたけど、ギギにちがいないよ。そういえばギギもしばらく来ないなあ」
「そのドボとギギはいつごろ来たのだ?」
「いつも一緒に来たのか?」
二人は急《せ》きこんでたずねた。
「そんなにいっぺんに聞かれたって答えられないよ」
「いやあ、すまないすまない。この二人のことを詳しく話してくれないか」
「あんたたちポリかい?」
ミチがキラッと目を光らせた。
「まあ、そんなもんだよ」
魚住はやむをえず言った。警察と聞くと、牡蠣《かき》のように口を緘《とざ》してしまう者があるが、うすうすこちらの正体を悟った相手に、下手な隠しだてをしないほうがよいと考えたのである。
「ドボとギギが何かやったの?」
しかしミチは単純な好奇心から聞いたらしい。
「いや、大したことじゃないんだが、この店に二人が来ていたかどうかということが、ある事件のちょっとした参考になるんだ」
「ふうん、まあいいや。ポリは好きでも嫌《きら》いでもないから」
ミチは鼻の頭に皺《しわ》を寄せて、はすっぱに笑うと、ドボとギギが一年ぐらい前までは、土曜の夜必ず連れだってヘテロに現われたと話した。
「二人ともかなり進んだSMでねえ、ショーがはじまると飛び入りして、俳優顔負けに、叩いたり、つねったり、オシッコを飲み合ったり、凄《すご》かったよ。このごろは、みんなお上品ぶっちゃって、ああいう本物のSMは来ないよ。たまにいても、たいていは、流行を追っかけて、まねをしているだけさ。あとは見物に来るだけだよ。ドボとギギが来なくなってから、この店の顔ぶれは変わったよ」
ミチが言ったとき、周囲からワッと喚声《かんせい》が湧《わ》いた。男女の客が、ショーに刺激されて、着衣を脱ぎはじめたのである。
「ふん、あれもインチキさ。みんなの目を集めたいだけなんだ」
ミチは唇をゆがめて笑った。
ミチの証言≠ゥら、井川英一と中原みどりの二人は、SM仲間でも有名な、強度のSMであったことがわかった。しかもみどりのほうは、単なるマゾではなく、サドにも感じる二重の倒錯者であったことも判明した。
10
井川と中原はつながった。それも単なる男女関係ではなく、残忍性異常色欲によって結ばれた、ゆがんだ関係であった。
社会的な知名度が上がり、大学教授令嬢との縁談が発生した井川が、自分の忌むべき異常性愛の相手が邪魔になって、その抹殺《まつさつ》をはかった情況は濃くなったが、決め手がつかめていないために、重要参考人として出頭を求めて取り調べることになった。
井川の在宅をたしかめたうえで、魚住と山下が出頭要求(事実は連行に近い)に八反田におもむいたのは、十月の末の日曜日の早朝であった。本部からジープを出してくれた。
ジープを降りて県道から井川家へ向かう小道へはいった。草原の中央を横切る道である。そこは刑事らに見おぼえのある道だった。
「このへんだったな」
途中で魚住が言った。山下がうなずく。そこは宮本少年が虫をちぎっていたあたりだった。あれからすでに二ヵ月、あのころ青々と草いきれの盛んだった草原には、麦わら色に枯れたススキが朝の風にそよいでいる。
井川家が見えてきた。背後に背負った段丘の雑木も黄葉している。紅葉のような花やかさはないが、朝の光を吸っていかにも暖かそうであった。
井川家の草色の屋根が、黄色の段丘の前の鮮やかな点景となって浮き上がって見える。それはいかにも日曜日の朝らしい穏やかな眺《なが》めだった。
「おい!」
魚住は突然、棒立ちになって山下の腕をつかんだ。
「どうかしましたか?」
「あの屋根を見ろよ」
魚住は井川家の屋根を指した。
「あの屋根がどうかしましたか?」
「草色じゃないか。モダンな言い方をすればライトグリーンというやつじゃないか」
魚住はもどかしそうに言った。
「あ!」
ようやく山下も魚住の言う意味がわかったらしい。
「宮本少年がバッタやキリギリスを殺したのは、中原みどりへ向けた憎悪の代償ではなく、井川の家の屋根を象徴していたのではないだろうか」
「すると宮本少年は井川を憎んでいた」
「そうだ。今まで野原や山の緑に吸収されて、屋根の草色が目立たなかったが、今こうやって秋の景色の中で見ると、あの色は冷たそうにきわ立って見えるじゃないか」
そう言われてみれば、暖色の黄葉の中で、屋根のライトグリーンは、いかにも冷たそうに沈んで見える。
「なぜ井川を憎んでいたのでしょう」
「それはこれからわかる」
重要参考人としてK署へ呼ばれた井川は、峻烈《しゆんれつ》な取調べの前に、ついに犯行を自供した。
最初は根も葉もないことばかりだと頑強《がんきよう》に突っぱねていた井川も、ヘテロのミチの証言の具体性と、山下が発見して宮沢教授にうらづけられた宮本少年の精神分析的解釈の矛盾を指摘されて、ついに屈服したのである。
井川の自供によると、中原みどりとは三年ほど前の初夏、まだ彼が八反田小学校に奉職中、残務で遅くなったとき、どちらからともなく関係を持ってしまった。
関係を持ってから、おたがいにSMの気があることを発見した。
「最初はだらだらした関係にアクセントをつけるつもりで、みどりの乳房に咬《か》みついたところ異常な反応を示したので、それから徐々にエスカレートしていった」
ということだった。
閉鎖的な村では、村人の目がうるさく、おたがいに異常性愛は高まるばかりなので、そのころから、ぼつぼつ本が売れ出してきた井川は、東京の出版社へ時折り出かける用事に結びつけて、東京のホテルで中原と関係をつづけた。
ここまではどちらも納得ずくの情事だったが、やがて井川の本が記録的なベストセラーとなり、一躍有名人となった彼に、大学教授令嬢との縁談が生まれると、急に中原みどりが結婚を迫りだしたのである。
もともとみどりとの関係は、その場かぎりの出来心であって、結婚の意思など露ほどもない井川は、言を左右にしてずるずるに引きのばしていた。
そのうちにみどりは妊娠したと言い、井川がこれ以上誠意ある態度を示さないかぎり、教授の家に乗りこんで、いっさいを公表してやると脅《おど》かしたのである。
「そんなことをされたら、せっかく微笑《ほほえ》みかけたチャンスをめちゃめちゃに踏みにじられてしまいます。
考えてもください。結婚前に女関係のあったことがバレるだけでなく、異性の虐待によって暗い興奮を覚える変態性欲者であるということがわかったら、縁談がこわれるだけではありません。せっかく築き上げた名声にもヒビがはいるでしょう。ヘテロへ行ったのは、まだ私があまり売りださないころでしたが、いま考えても、どうしてあんな場所に足を踏み入れたのか、悔やまれてなりません。
さいわいにあのころのSM仲間は、私が書くような本は読まないことと、現在私が多少髪型などを変えているので、気がつかないらしいのですが、つくづく軽率なことをしたと後悔しております。
本が売れるようになってから、私は、ヘテロからきっぱりと遠ざかりました。ヘテロから遠ざかるということは、中原みどりと別れる下準備でもありました。しかしみどりには先天的にSMの素地《したじ》があったのか、最初は面白半分にはじめたSMに、骨の髄までどっぷりと浸《つか》っておりました。いつの間にか正常なセックスでは感じないようになっていたのです。サドでもマゾでもよい、とにかく残忍性の伴わないセックスに、まったく悦《よろこ》びを覚えない障害者になっていたのです。
そんなみどりにとって、私はぜったいに手放せない性の伴侶《はんりよ》でした。
みどりにとっては生憎《あいにく》なことに、私にはまだ正常な性が残されてあり、野心もじゅうぶんにありました。ようやく芽が出かけた矢先に、平凡な田舎女教師の、変態性欲の相手を、いつまでもつとめるつもりは毛頭ありません。
しかしみどりは、私の縁談を知ると、半狂乱になりました。私を失えば、彼女には相手がいなくなるのです。ヘテロの常連もすべてパートナーは決まっていました。こうしてみどりと私とのあいだは、決定的な破局に向かって傾いていくしかなかったのです。
あの日暗くなってから、最後の話し合いをしようと言って、あらかじめ下見をして場所を決めておいた桑畑に誘い出し、隙《すき》を見て用意していった工作用切出しで、下腹部を突き刺しました。
その瞬間、彼女はなんと、恍惚《こうこつ》としていたのです。腹から背へ突き抜けるほどに深く突き刺されながら、みどりは、私たちが何度となく行なったSMプレーのとき見せた恍惚たる表情をしながら、「抱いて、抱いて!」とせがんだのです。恐くなった私は、さらにもう一刺ししました。
異性から殺されるのは、SMの極致なのでしょうか。みどりが倒れたとき、とんでもないことをしでかしたことに気がつきました。しかし、気がつくのが遅すぎたのです。
私は、もはやあと戻りできませんでした。もう逃げる以外にありません。
宮本少年の特異な遊びを知っていた私は、最初から少年に罪を着せるつもりで、少年の身長から無理のない部位を刺していました。
犯行後、足跡を残さないように注意しながら、夜陰にまぎれて現場から逃げた私は、宮本家の縁の下に切出しを投げこんで何食わぬ顔をしていました。
いずれは刑事さんが、聞き込みに来るとは思いましたが、その前に刑事さんが宮本少年の奇妙な遊びに気がついて、中原みどりと結びつけて考えてくれれば、私が誘導する必要はなくなって助かると思いました。しかし気がつかれる前に聞き込みに見えましたので、散歩を装って見送りがてら、宮本少年の遊びの場所へ刑事さんたちを誘導したのです。
私は犯行前、少年のミドリの虫へ向けた憎悪は、中原みどりへの憎しみが転位したものとばかり思っていました。それが代償行為であれば、少年は犯人になれないという矛盾に気がついたのは、刑事さんが私のかけた暗示にかかって二度めにお見えになられたときです。
私は殺意の代償≠ニいう言葉を使って少年の行為を説明しようとしたとき、自分自身が陥《お》ちこんだおとし穴の深さに気がつきました。
私は自分の専門領域のことでありながら、中原みどりを抹殺《まつさつ》することに夢中になったあまり、人間心理のこんな初歩的なことを見過ごしてしまったのです。
私は絶望しました。せっかくつかみかけた成功も根本からくつがえされる。あれから毎日、私は一瞬たりとも生きた心地はしませんでした。いつまた刑事さんが、今度は手錠を持ってやってくるかと、毎日その思いだけに脅《おびや》かされて暮らしました。何度も自殺しようかとも思いました。
それをしなかったのは、捜査陣が特殊な専門分野にかかる矛盾に気がつかないのではないかという期待があったからです。少年の精神分析の鑑定依頼が自分に下される望みもありました。もしそうとなれば自分のチャンスは大きくなります。そのときこそ権威の名にかけて、シロをクロと言いくるめ、私のミスを糊塗《こと》することができます。
しかし鑑定は宮沢教授に依頼されました。今日まで頑張《がんば》ったのは、宮本少年がなぜ虫を殺したのかわからなかったからです。少年が私を憎んでいたとは、刑事さんから教えられるまで知りませんでした。私の家の屋根の色から、私への憎悪をミドリの虫へ転位したのですね。
でもどうして宮本少年は私を憎んだのでしょうか? 私は特に少年に憎まれるようなことをしたおぼえはないのです」
井川はがっくりとうなだれながらも、訝《いぶか》しそうな表情を残した。
井川に対して、その日のうちに殺人容疑による逮捕状が執行された。
井川が容疑者として浮かび上がってから、少年は、宮沢教授によって行なわれた精神分析に協力的となった。
宮沢教授は、少年を静かな部屋の中のベッドに寝かせて、目を閉じさせ、心を落ち着かせて、頭に浮かぶことを次々に言わせていく自由連想法≠ノよる精神分析を試みた。
人間はぼんやりしているときに→山→海→空→ジェット機→外国というふうに連想していくが、このような自由連想を追っていくと、心のしこりとなっているコンプレックスに到達するというものである。
この方法については、学説が岐《わか》れ、ブロンデルは自由連想法によって心のしこりを発見することに否定的である。彼の説によれば、それは散歩と同様で、一定の方向をもたず、右の道が悪ければ左を取り、左に柄の悪そうな道路工夫がいれば右へ行くというように、気まぐれで信頼できないと主張する。
これに対して分析学派は、散歩においても足はひとりでに美しい景色の方向へ向かうように、連想も一定の方向へおもむく傾向があり、連想が進むほどに、しこりとなっている一定傾向が現われると唱えていた。
ともあれ、宮沢教授は少年に、この自由連想法を試みたのである。
まず教授は少年に、『虫』という言葉に注意を集中させた。
少年がすぐに連想したものは『原っぱ』である。
次に連想したものが、『井川先生』だった。教授は、『原っぱ』と『井川』がどう結びつくのか、不思議に思った。
第三連想は、いきなり『ミドリの虫』になった。
「ミドリ色の大きな虫が、中原先生を食べている」
宮本少年は目をつむったまま答えた。ここで連想に飛躍があった。教授にはどうして『井川先生』から『ミドリの虫』につづいたのかわからなかったので、もう一度『井川先生』から再出発させることにした。
次に導きだされた連想は『檻《おり》』だった。
「井川先生は僕たちをオリに入れた」
と少年は言った。
「どんなオリだったの?」
教授は優しく訊《き》いた。
「ミドリのオリだ。そうだ、教室だ!」
ここで少年の記憶がいっぺんによみがえった。
「教室の壁はミドリだった。井川先生は、僕をその教室に入れて、毎日、虫のように僕を見ては、ノートブックに何か書きつけていた。僕は虫のように見られるのが、すごくいやだった」
「二年生になって、中原先生が担任になった。中原先生は壁の色を変えた。中原先生は僕を虫のように見なかった。中原先生に代わってから学校へ行くのが楽しくなった。先生は僕を叱《しか》ったけれど、けっして虫のように見なかった。僕は叱られれば叱られるほど先生が好きになった。先生に叱られたくて、わざと宿題を忘れたり、いたずらをしたりした。あの日――」
そこでまた連想がとぎれた。
「あの日、どうしたの?」
「あの日、野原で中原先生を見た」
「――――」
「中原先生がミドリの虫に食べられていた。中原先生は苦しがって、泣いたり、うなったりしていた。そのうちに中原先生もミドリの虫になって、相手の虫と共食いをはじめた」
「共食いをしたのかい?」
「うん、まるで大きなキリギリスがおたがいに食べっこをしているみたいだった。恐かった」
そこで少年は目を大きく見開いた。
「相手のミドリの虫は井川先生だった!」
11
宮本少年は両親につき添われて村へ帰って行った。刑事たちが、バス停まで見送っていたが、少年の顔は能面のように硬かった。それは生きいきとした少年の表情ではなかった。両親のほうが嬉《うれ》しそうな顔をしていた。
バスが濃い排気煙を出してよたよた走り去って行った方角にあたって、秋の美しい夕焼けがひろがっていた。夏のような花やかさはないが、澄んだ水のようにすき透《とお》った大気にはんらんする茜《あかね》色は、美しい金色《こんじき》の粒子のように硬く密《こまか》い。
「あの少年が、少年らしい心を取り戻すまで、だいぶ時間がかかるでしょうね」
山下刑事がポツンと言った。
「うん、宮本少年にとって中原みどりは、偶像だったんだな。それが井川に苛められている[#「苛められている」に傍点]現場をたまたま目撃してひどいショックを受けた。もともと少年は、井川の研究材料にされて彼を憎んでいたから、その事件によって井川への憎悪は助長された。ミドリは井川の家の屋根からの連想ではなく、井川そのものの象徴だったんだよ。草原の中で中原とからみ合っていたそのときの井川は、少年の目にミドリ色に見えたんだ。少年の遊びを、中原みどりに結びつけて考えたのが、井川のミスだった。名前には色はないんだ。精神分析の大家が、人間の最も基本的な心理の屈折に気がつかなかったんだから皮肉なものさ。けっきょく、井川は精神分析で世に出て、精神分析で破滅した」
魚住は少年の去った方角の空を見た。そこは夕焼けが最も濃く花やかなあたりだった。彼はそのなみなみとした反映に染まりながら、井川が中原先生を苛《いじ》めていた意味を少年が知ったときのショックができるだけ少ないように祈った。
人影のない草原の中で、巨大なミドリの虫に蝕《むしば》まれながら、中原先生があげた泣き声やうめき声の真の意味を知ったときに、少年の別の人生がはじまる。天使が天使でなかったと知ったときの衝撃に耐えられたときこそ、社会人の仲間入りができるのである。
――と刑事は思いながら、あの美しい夕焼けの色が、少年の傷ついた心に浸透して、けっして小さくはない傷の裂け口を、一日も早くふさいでくれればよいと願った。
[#改ページ]
催眠術殺人事件
1
「また逢《あ》ってくださる?」
「そんな言い方をしないで欲しい。ぼくたち、逢うことだけが生きがいじゃないか。きみに逢えなくなったら、ぼくは気が狂ってしまうにちがいない」
「私もよ。あなたに逢えない生活なんて考えられないわ」
かぎられた時間の中で、慌《あわただ》しい出逢いをした二人が、性急に抱き合い、とりあえず肌の渇きを癒《いや》したあとは、すでに別れなければならない時間が迫っていた。
男は、勤務時間を盗んでの、女は、夫の外出時を狙《ねら》って家を抜けだしたあいだの、ほんの短いデートである。世間的には不倫であっても、二人の恋愛は真剣だった。
だから、動物的な餓《う》えを充《み》たすだけのかぎられた時間のデートに悲壮感が伴った。別れるときに、肉の渇きを癒したあとの爽快《そうかい》感がない。
「いま別れたら、もう二度と逢えないのではないか?」
という不確定な未来に向けた不安があった。それが二人の出逢いを、いつも余裕のないものとした。
約束の場所におもむくときも、逢う喜びに打ち震える前に、別れるときの辛《つら》さを考えてしまう。出逢うことが苦しみそのものであるような恋愛、それでも逢わずにはいられない。そんな関係に二人はいた。
男は、女を助手台に乗せてモーテルを出た。途中で女だけ降ろして、タクシーへ乗り換えさせなければならない。
どんなに愛し合っていても、そのままの形で彼らの住む町へはいって行けないところに、社会の制約と、彼らの当面の保身がある。
東名高速を東京から約一時間飛ばすと、山峡の道が急に開けて、別天地≠ェ展開する。まるで降って湧《わ》いたような幻想の世界、アラビアンナイトふうの建物が、その奇抜な構造の意匠を競《きそ》い、夜ともなれば、ネオンの渦《うず》となる。
これが通称モーテル銀座≠ニ言われる御殿場《ごてんば》インターチェンジ付近の新しい風景である。
だいたいモーテルは、その発祥の地アメリカでは、自動車旅行者の利便のために生まれた。
モーテルがアメリカのホテル産業のなかに占める地位は、その数と売上げにおいて約四十パーセントである。
アメリカでホテルを論ずる場合、モーテルを抜きにすることはできない。もちろんこの場合の「ホテル」は、情事を目的にしない、まともなホテルである。
日本でも自動車とハイウエーの普及発達に伴って、モーテルの増加は当然予想された。
ところが最初の予想と異なり、日本ではモーテルは予想をしなかった形の発展を遂げた。本来モーテルとは、自動車と表裏一体のもののはずであるが、自動車から遊離して、セックスと結びついてしまったのである。
自動車旅行者が休泊するための施設は、ドライブの若者たちのたまり場となり、これが拡大して、情事専用の連れ込みホテルに転化して行った。
車を持たない者も、タクシーで乗りつける。バスや自転車で来る者もあれば、歩いて来る者もいるそうである。いまや単独のオーナードライバーは、完全にモーテルから閉め出されている。
かつてのセックス産業の王座を占めた、温泉旅館は、その位置をモーテルに譲り渡してしまった。
そういう形の発展は、世界でも珍しいそうである。もちろんアメリカでも情事に利用されるが、日本のようにモーテルが情事専用の施設になっているのは例がない。
モーテルはさらに地方の性風俗を根本的に変えた。地方都市や田舎《いなか》は閉鎖社会である。男女の交際が、大都会のように自由に行なえない。まして人妻や妻子ある男との情事など、もってのほかのことである。
狭い地域社会《コミユニテイ》のなかであるから、すぐにひとの噂《うわさ》にのぼり、好奇心と非難の的とされる。大都会のように密会≠フ場所もない。彼らのセックスは、常にひとの目を怖《おそ》れ、抑圧されていた。
それがモーテルの出現によって一気に解放された。モーテルはだいたいハイウエーに沿ってできる。それは例外なしに都会から離れたところである。都心や都会の近くでは、ホテルや旅館がいくらでもあり、わざわざモーテルを建てる意味がない。
もともと、車の機動性に密着してつくられた施設だから、地の利はいい。車のまま出入りできるから人目につかない。ホテルのように予約の必要もない。空室か、満室か、表示ランプによって一目でわかるようになっている。
赤外線装置によって、モーテル側に客の出入りがわかるようになっているから、従業員と顔を合わせることもない。まことに忍び逢いのための理想的な環境になっていた。
ここに地方の封建性と閉鎖性に抑圧された男女が目をつけた。ちょっと買物や外出をするふりをして、彼らも手軽に、しかも安全に情事を愉《たの》しめるようになった。
つまり、モーテルが地方の性《セツクス》を解放したのである。
全国に新しいハイウエー風物としてむらがり現われたモーテルの中でも、御殿場のモーテルは、銀座≠ニ言われるだけあって、その規模や設備において群を抜いている。
標示ランプによって、適当な空部屋の中にはいれば、押ボタン式の電動シャッターによって完全密室になる。料金はシューターで、事務所へ自動的に送られるようになっている。
ベッドルームの設備は至れり尽くせりで、回転震動ベッドからはじまって、鏡の間や、女体観賞用の浴室、ブルーフィルム、ピンクテープ、お客自身が主役になれるビデオ撮り装置まで備えているといった具合に、およそセックスを刺激するための、ありとあらゆる設備がそろっている。
ここの利用者は、昼の間は、近郊諸都市の人間が圧倒的に多い。
いま出て来た二人の男女も、神奈川県下のA市からやって来た。東名高速で三十分ほどの距離である。
2
九月二十一日午後十一時ごろ、神奈川県A市内で殺人(または傷害致死)事件が発生した。
A市は神奈川県中央部の都市で、私鉄で新宿《しんじゆく》から一時間ほどの距離にある。県央《けんおう》の農林産物の集散地であったところが、最近、団地の造成や、工業都市計画が進められるようになってから、首都圏を形成する重要な衛星都市になった。
被害者は市内の家具商で、自宅で就寝中を妻に刺されたものである。
石倉野枝《いしくらのえ》は、奥の主人夫婦の居間のほうにあたって「ギャッ」という悲鳴を聞いたような気がした。
蒲団《ふとん》にはいって、うとうとしかけたときなので、わざわざ起きて行くのも億劫《おつくう》だった。
「飼い猫《ねこ》がけんかでもしたのだろう」
とふたたび枕《まくら》に頭をつけたとき、奥のほうで何か物が倒れるような気配がして、人の走り出る足音がした。
なんとなく慌《あわただ》しい、いつもとちがう気配である。奥には主人夫婦しかいないはずである。それにしても、こんな時間に騒々しい。何かあったのかしら? 野枝は時計をチラと覗《のぞ》いた。十一時を少しまわっている。
野枝は気がかりになって、せっかく体が居心地よく、なじみかけた蒲団を脱け出た。まだ冷えるという季節ではないが、人の少ない家の中は、冷えびえとしたものを感じさせる。
野枝は、寝衣の襟《えり》をかき合わせながら廊下へ出た。
廊下の奥に主人夫婦の寝室がある。その途中に電話機がある。そこに佇《たたず》んでいる人影があった。
一瞬ドキリとして立ち止まった野枝の耳に、何かつぶやいている女の声と、ダイヤルをする音が届いた。
「まあ、奥さま」
電話をかけている女を、この家の主人の妻|佐久間晴美《さくまはるみ》と知って、野枝は安心した。
野枝が声をかけると同時に、晴美は最後の数字をダイヤルした。
「あらっ」
驚いたような声をあげたのは、晴美のほうである。声とともに電話を切った。カラリと何かが廊下へ落ちた音がした。晴美の手から落ちたのだ。
「まあ!」
次に愕然《がくぜん》とした声をだしたのは、野枝だった。落ちた物体が、なんであるか知ったからである。そのときはじめて、晴美の異様な風体に気がついた。うすいピンクの花模様の寝衣の前が、無惨にはだけている。模様の一部分かと思っていた、寝衣の上に点々と飛散した赤い花びらは、血のしぶいたものらしい。廊下の乏しい光量の下で、いままで気がつかなかった晴美のただごとでない様子は、彼女が手から落とした血まみれのナイフと結びついて、寝室で何が起こったかを容易に想像させた。
「キャッ」
野枝は正真正銘の悲鳴をあげた。そして表のほうへ向かって、凄《すさま》じい勢いで逃げだした。
「たすけて! だれか。奥さんが大変です」
野枝の悲鳴を他人事《ひとごと》のように聞きながら、
「私、いったい何をしたのかしら?」
晴美は呆然《ぼうぜん》とその場に立ちつくしていた。
3
急報によって駆けつけた所轄のA市署の係官は、被害者が胸部をナイフで刺されて虫の息になっているのを発見した。
ただちに救急車で最寄りの病院へ運んだが、出血多量のため、輸血も効なく一時間ほどのちに死んだ。
現場は、市内|旭《あさひ》町の佐久間家具センターの奥の、家人の居住区で、経営者夫妻が寝室にしている八畳の日本間である。刺されたのは、同店経営者の佐久間|宗一《そういち》、刺したのはその妻晴美である。
二十一日夜十一時ごろ、同家のお手伝い石倉野枝が、夫婦の寝室のほうに悲鳴のようなものを聞いて見に行ったところ、晴美が廊下の電話機のそばに血まみれのナイフを握って立っているのを発見した。
びっくりした同女が表へ飛び出して、近所の人間に知らせて、警察を呼んでもらったというものである。
被害者の傷口とナイフは一致した。刃に付着していた血液と、佐久間晴美の寝衣に飛んでいた血しぶきは、被害者のものであると鑑定された。
被害者は、ほとんど全裸で、麻ひもで足と手を後背部でいっしょに海老縛《えびしば》り≠ノ縛られていた。この異様な状態が、外部から侵入した者の犯行を推測させたが、屋内の戸じまりは完全になっていて、押し破られた形跡はどこにもない。賊が動転している晴美に凶器を握らせて逃走したと考えるには無理があった。
当夜同家には、佐久間夫婦と、石倉野枝の三人しかいなかった。
野枝が物音を聞いて駆けつけたときに、逃げだした者をだれも見ていないのだ。
それに晴美の寝衣に飛んだ血しぶきは、まさに加害者が浴びた血としての形状を示していた。佐久間晴美はその場で、傷害(のちに傷害致死)の現行犯として逮捕された。
この場合問題となるのは、晴美に殺意があったかということである。夫を殺そうとして彼の胸にナイフを突き立てた。そのときは力足らずして絶命させることはできなかったが、病院に運ばれてから、その傷が原因で死んだということになれば、実行行為と被害者の死とのあいだに刑法でいうところの因果関係≠ェ存在するから、殺人罪を構成する。
しかしもし晴美が、夫を傷つけるつもりでナイフを振《ふる》っての傷が因《もと》であれば、傷害致死となる。
殺人と傷害致死では、量刑に大きな差が出てくる。
警察では最初、被害者をだれが縛ったかということを問題とした。せいぜい固く縛ってあったが、結び目がいかにも素人《しろうと》くさい、稚拙な縛り方であったところから、晴美が縛ったのであろうと推測した。
「推測」というのは、彼女が何も語らないからである。被害者が易々《いい》として縛らせているところから見て、これは夫婦の寝室でのお遊び≠ナあろうということになった。
「異常性愛の夫婦が、痛めつけたり、痛めつけられたりして愉《たの》しんでいるあいだに、つい度がすぎて、傷害致死事件に発展してしまった」というのが、警察の一致した見方であった。
佐久間晴美は後妻である。宗一と結婚したのは、一年半ほど前である。当時妻を亡くして鰥《やもめ》暮らしをしていた彼のもとへ嫁《とつ》いで来た。
宗一は現在四十二歳、晴美は二十四歳、齢《とし》の開きが少し気になった。それに晴美は、目鼻立ちの整ったなかなかの美人である。
事件の背後に、若妻をめぐる三角関係を疑いたいところであった。それはこれからの捜査でおいおい明らかになることであろう。いちおう殺人の疑いがあるので、A署内に捜査本部が開設された。
晴美の取調べにあたった捜査本部の腰原《こしはら》警部は、べつの疑問を持った。
晴美の態度が、わりあい取調べに協力的なのにもかかわらず、事件について何も語らないのだ。
それも黙秘するのではない。本人は一所懸命に話そうとするのだが、事件に関する記憶が何一つない様子なのである。彼女は夫を刺したことすら覚えていないのだ。
腰原は、最初、晴美がとぼけていると思った。
しかしそうでもないらしかった。凶行に関しては否認をしないのである。
「驚いたね、するとあんたは、ご主人を刺したことをまったく覚えていないのかね」
「はい」
腰原が面喰《めんくら》うほどに悪びれずにうなずく。
「すると、だれがご主人を刺したと言うのかね?」
「私だと思います。私がナイフを持ってそばにいたのですから」
「だれがご主人を縛ったのだ?」
「それも私だと思います。でも覚えておりません」
「あんたとご主人のあいだでは、前からこんな遊びをする習慣があったのかね? 縛ったり、縛られたり、今様《いまよう》の言葉で言えばSMごっこというような」
「さあ、よく覚えておりません」
「なんにも覚えていないんだな」
腰原はサジを投げたような顔をした。実行行為の記憶がまったくないのだから、その故意の範囲を訊《き》いても、わかるはずがない。腰原はそのとき、ふと思い出したことがあった。
発見者の石倉野枝の言葉によると、晴美は夫を刺したあと、電話のダイヤルを回していたということだった。
夫を刺したあと、いったいだれに電話をしたというのか? セックスプレーに興が乗ったあまり、夫を傷つけて、救急車を呼んだのでもないことはわかっていた。当夜、救急車にそんな出動要請はなかったからである。
彼は早速その疑問を問い糺《ただ》した。
「電話のそばにいたことは、覚えておりますが、だれにかけようとしたのか記憶はありません」
「番号を覚えていないのか?」
晴美は額《ひたい》に手を当てて、一心に考えこむジェスチャーをした。だがやはり首を振った。
「だめですわ、どうしても思い出せません」
腰原は、がっかりしながら、一つの不思議な事実に気がついた。
「あなたは電話機のそばにいたことは、覚えているんだね。そのことは覚えていて、そのすぐ前のご主人を刺したことは覚えていない。時間的には、いくらも差がないだろう。おかしいじゃないか」
「そう言われてみれば、そうですわね」
晴美自身、不思議そうな顔をした。
「自分で不思議がっていては困るね、とにかくあんたは電話をかける以前のことは、すべて忘れている。これはどういうわけなんだ?」
「わかりません」
晴美は弱々しく首を振った。彼女自身その理由がわからなくて、困惑しきっているといった様子である。腰原は、こんなに手応《てごた》えのない取調べは初めてだと思った。
自供するにしても、否認するにしても、あるいは嘘《うそ》をつくにしても、取調べを受ける人間には、自衛のための姿勢があるものである。
それがこの被取調人にはまったく自衛の姿勢がない。犯行については否認をせず、その具体的な内容には、まったく記憶がないという。罪をのがれるためにそらとぼけるのであれば、否認をしないのがおかしい。
「私がやったのかもしれない。どうにでもしてくれ」と言われても、犯行の詳細がまったくわからないことには、調書のつくりようもなかった。
腰原は、長い警察官生活の中で初めて出会った「へんな犯人」に、当惑してしまった。
4
まず佐久間宗一の女関係が調べられた。夫に新しい女ができたための妻の犯行は、三角関係の典型である。
A市はもともと芸者の多い土地柄である。市内の大店《おおだな》の主《あるじ》ということもあって、佐久間には、交渉のあった玄人《くろうと》すじの女性が何人かいた。
しかしいずれも、その場かぎりの関係であって、妻と悶着《もんちやく》をおこすほど、特定の女と持続していない。
佐久間の女関係と並行して晴美の男関係の捜査がすすめられた。ただこちらのほうは、直接の動機を形成しにくいところがある。
晴美が密通した場合、被害者となるのは、夫の佐久間のほうである。むしろ佐久間が晴美に何かをしかけるべきところであった。
それが逆になっている。男にそそのかされたということも考えられる。それにしては、あまりにもオープンに犯行をしているが、ともあれ、彼女の男関係は、無視できない線であった。
夫との年齢差といい、佐久間が変態がかっていたことといい、晴美の背後には、いかにも男がいそうな感じである。それに晴美には、人妻としての怠惰な落ち着きよりも、不倫の緊張による美しさのようなものが感じられるのである。
美しい人妻というものは、こういう場合損であった。そのため、晴美の周囲から、怪しそうな男が浮かび上がってこないにもかかわらず、警察は、影の男≠フ存在の疑いを容易に捨てなかった。
影の男≠フ存在の有無にかかわらず、晴美が夫を殺した?(故意の範囲の認定ができないので、それすらも定かではない)動機がわからないことは、捜査陣を悩ませた。彼女が佐久間を殺してどんな利益があるか? 佐久間はA市内に本店を持ち県下に十数店の支店を持っている。その他不動産もかなり持っている。その資産と信用は県内でも屈指とされている。
佐久間と前妻とのあいだに子供がないので、彼が死ねば、その財産はすべて妻の晴美が相続することになる。
相続人が財産目的に被相続人を殺すことはよくあるケースである。しかしその場合、犯人は自分の犯行をぜったいに隠しとおさなければならない。自分が犯人だとわかっては、相続権を失って、被相続人を殺した意味がなくなる。
だが晴美は、その点、まったく犯行の隠蔽《いんぺい》工作を行なっていない。現行犯であっさり捕まっているのだから、相続財産目的ではなさそうである。
となると、夫婦双方に特定の異性関係が浮かんでいないので、まったく動機の見当がつかない。そこへもってきて、晴美が完全な記憶喪失の状態になっている。まんざらとぼけている様子もないし、とぼけることによって得る利益は何もないのである。
腰原は、お手上げといった感じであった。
「晴美は犯行後どこへ電話をかけようとしたのか?」
「いやそれよりも、どうして電話なんかかけようとしたのだろうか?」
この疑問が腰原の頭に執拗《しつよう》にこびりついていた。
この場合、最も考えられるのは、救急車である。しかしそれでないことはわかっている。次に医者だ。が、それもかかりつけの医師や市内の医院にあたって、当夜晴美からそんな電話を受けていないことを確かめてある。
腰原には、彼女が、影の男≠呼んだような気がしてならなかった。
血を見て動転し、救いを求めてか、あるいは犯行の完了を報告するためか、いずれにしてもこのような場合、女が最も先にダイヤルする相手は、情《じよう》を通じた男のような気がする。
生まれて初めての殺人(と晴美は信じていたかもしれない)を犯して、動転していた女が最も切実に求めるものは、愛する男の力強い庇護《ひご》の胸であり、優しい励ましにちがいない。
「しかしその番号を忘れるということは、どういうわけだ?」
腰原は頭をかかえてしまった。
「そうだ。もう一度、なんとか野枝とかいった女中≠ノ訊《き》いてみよう」
腰原は思いたった。事件の第一発見者であるお手伝いは、佐久間晴美が血だらけになって電話のそばにいたのを見ている。とすれば、彼女は、晴美と電話の相手とのやりとりを聞いた可能性がある。
腰原は早速石倉野枝を署に呼んだ。警察署というところへ初めて呼ばれたらしい野枝は、おどおどしていた。
腰原は努めて相手の気分をリラックスさせてから、
「あなたが奥さんの姿を見つけたとき、電話をかけていたそうだが、相手の名前か何かを言わなかったかね?」
普通、電話に相手が出たとき「もしもし、誰《だれ》それさんですか?」というふうな確認をする。
「いいえ、私が廊下へ出て行ったとき奥さんは電話番号を回していました。でも、回し終わると同時に電話を切ってしまったんです」
「何も言わないうちにかね?」
「ええ」
野枝はうなずいた。
「きみに見られたからじゃないのかね」
「そうじゃありません、奥さんはそのとき私が廊下にいるのを知らないようでしたから」
番号をダイヤルして、何も言わないうちに切るのは、「お話し中」の場合である。だがそのときは多少の時間、耳に受話器を押し当てて、話し中のブザーを確かめる。野枝は、ダイヤルし終わると同時に切ったと言っているのである。
「それじゃけっきょく、電話では何も話さなかったのかね?」
「それが、おかしいんです」
「おかしい? 何が」
腰原の目が光った。野枝はおびえたような顔をした。腰原はあわてて表情を弛《ゆる》めた。つい緊張したり、興奮すると警察官の顔になってしまう。
「どんなことがあったのかね?」
腰原は語調を和らげた。
「奥さんは、番号を回しながら『幸福』だと言ったんです」
「幸福?」
腰原には殺人と幸福がどう結びつくのかわからなかった。野枝にも二つの組合わせが奇異に思われたのであろう。
「本当に幸福だと言ったのかね?」
「はい、たしかにそう言ってました」
「それはダイヤルしながらだったんだね」
「そうです」
「すると、ひとり言だったのかな」
「そうでもないようなのです」
「それじゃあ、きみに向かって言ったのか」
「ちがいます。奥さんは私のほうを見ていませんでした」
「するとおかしなことになるじゃないか、ダイヤルを回している最中には、まだ相手は電話に出ていない。相手にもなにもダイヤルしただけで、すぐ切ってしまったんだ。きみに向かって言ったのでもない。ひとり言でもない。それじゃあ、いったい、だれに向かって言ったんだね?」
「でも本当にそうだったんです。奥さんはだれかに話しかけるように言ったんです」
野枝は、どういう言葉で言ったら、わかってもらえるか、途方に暮れたような顔をした。
もともと、話をしたり、ものを書いたりするのは、大の苦手なのだ。
最近A市にもたくさんの工場ができて、そちらで働いたほうが高い給料をもらえるのだが、大勢の人間の中で働くのが煩わしくて、お手伝いをつづけている。
お手伝いならば、人と口をきくこともあまりない。野枝は、自分に与えられた仕事を、黙って、ひとりでしているのが好きだった。
野枝を帰したあと、腰原はふたたび晴美を取り調べた。
「あんたは、電話をかけたとき幸福だと言ったそうだが、本当かね?」
「さあ」
晴美の態度はあい変わらず要領を得ない。
「そんなことを言ったのかね?」
「言ったかもしれないし、言わなかったかもしれません」
腰原は、ふと思いついたことがあった。
「ところで、あんたはいま幸福かね?」
ずいぶん意地の悪い質問である。自分の夫を殺して、警察へ留置されている身では、幸福のはずがない。もしそれが幸福だというのであれば、精神異常である。
しかし殺す意志で犯行し、けっきょくその意志を実現したのであれば、幸福とはいえないまでも、それなりの満足感は得たのではあるまいか。満足したのであれば、晴美は殺意を持っていたことになる。
「そうですね、幸福かと言われれば、そんな気もしますわ」
彼女はそう言って、陶然としたような目つきになった。
〈まるで夢でも見ているような目つきをしてやがる〉
腰原は内心につぶやいた。つぶやき捨てたものが、潜在意識の中にわだかまっていた澱《おり》にぶつかって、意識の表面に思わぬ波紋をつくった。
――もしかしたら、晴美は催眠術にかけられているんじゃないだろうか?――
波紋は広がって、想像を誘導した。
〈催眠術を利用して殺人が果たして可能なものかどうかは知らない。だが優れた催眠者の手にかかると、その意のままに操られるそうだ。動作はもちろんのこと、意志までも完全に支配されるという。もしかしたら……?〉
腰原は、自分の想像に、しだいに興奮してきた。もし晴美が催眠術をかけられ、催眠中に夫を襲ったのであれば、彼女の背後に真犯人がいるはずである。
そのすじでは「鬼腰」といわれるほどの、ベテランこわもての彼だったが、今まで扱った事件で、催眠術を利用したものはない。
いかにも突飛な想像だが、晴美の背後に催眠者の存在を考えると、説明がつきそうなのだ。
犯行の記憶は完全に喪失しておりながら、否認はしないという矛盾も、催眠者にとって都合のよい設定である。彼はその道の専門家のたすけを借りることにした。
5
捜査本部から依頼を受けたのは、神奈川医大の精神医学の権威、宮川清之《みやがわきよゆき》教授である。
宮川教授は、佐久間晴美に面接して、
「これは催眠中に、自分の行なったことのすべてを忘れるという強い暗示をかけられたものにちがいない」
と判断した。
「記憶を呼び戻すには、どうしたらよいのですか?」
腰原は、自分の想像が当たったことを喜んでよいものかどうか迷いながらたずねた。
「犯人はよほど催眠技術に長《た》けている人間にちがいありません。そうでなければ、これだけ完全に記憶の抑圧は行なえません。まあ何回も催眠面接を重ねて、少しずつ記憶を取り戻していく以外にありませんね」
「しかし、先生、催眠術で殺人までさせることができるのですか?」
腰原は、恐ろしいことだと思った。催眠術にはごく普通の人間がかかるという。むしろ馬鹿や気ちがいのほうが、かかりにくいのだそうだ。しかもかけられた当人に暗示をかけて、催眠中の記憶を忘れさせてしまえば、本人は催眠にかけられたことすら気がつかない。
そういうことが事実、可能であれば、催眠者は、忠実な道具である被催眠者の背後に隠れて、どんな悪事でもすることができる。責任はすべて被催眠者が背負ってくれる。しかも被催眠者は、自分の意志でやったと思いこんでいるのだ。
こういう使い方をされると、催眠術はまさに現代の妖術《ようじゆつ》である。
「普通、催眠は、かけられた人物が本人の道徳規範やタブーに反することを命ぜられると、醒《さ》めてしまいます。しかし優秀な催眠者になると、それを乗り越えることができます。この被験者の場合、その場で殺してはいないのですから、なにかそのへんにトリックが使われているかもしれませんね」
宮川教授による佐久間晴美の催眠面接がはじまった。教授は彼女の背後に必ず催眠者がいるとにらんだ。そしてその人物はたぶん男だろうと推測した。
催眠は同性どうしでもかけられるが、これだけ強い記憶の抑圧が行なわれるためには、術者と被験者のあいだに相当強い「ラポール」と呼ばれる親密な心のつながりができていなければならない。
それは同性どうしよりも異性のほうに形成されやすいからである。
最初のあいだは、晴美は男の名前も場所も顔形も思い出さず、教授は手こずった。根気よく催眠面接をつづけるうちに、「円い部屋」という言葉を思い出した。
一つの単語が浮かぶと、それがきっかけになって、次々に単語が浮かんできた。
この方法は、忘れてしまった知人の名前などを思い出そうとするとき行なう連想にもとづいている。電話帳を繰ったり、五十音を最初からつぶやいたりして、最初の頭文字を手がかりにして、全体の記憶を引き出す方法である。精神分析の分野では自由連想≠ニ呼ばれるものである。
宮川教授が行なったのは、催眠分析≠ニ呼ばれるもので、やり方は自由連想と同じであるが、相手を催眠状態に導く点が異なっている。記憶の抑圧が強い場合は、この方法に頼らないと、抑圧をはずして記憶を呼び戻すことはできない。
晴美は、教授の催眠分析によって、
@車
Aアラビアンナイト
B回転
C鏡
という言葉を思い出した。ここで教授が相手の《たぶん》男の名前を訊くと、彼女は苦しそうな顔をしかめて、催眠状態から醒《さ》めてしまうのである。
これだけの手がかりを与えられた腰原は、ハイウエーや国道沿いのモーテルをあたった。すでにA市周辺の連れ込み旅館やモーテルは探査ずみであったのを、対象をさらに拡大したのである。
腰原は「円い部屋」を晴美が男と逢《あ》った場所だと考えた。そんな部屋を持っているところは、珍奇な趣向で客を呼ぶモーテルかアベック旅館以外にない。
彼の推測を、「車」と「アラビアンナイト」が確定させた。ハイウエー沿いのアラビアンナイトふうのモーテルが晴美と男の忍び逢いの場所だったのである。その部屋は円く、回転式ベッドと鏡があったのであろう。
ハイウエー沿いに散った刑事らは、御殿場付近の、通称モーテル銀座内のモーテル『ロイヤルパレス』で、晴美が一ヵ月二回ぐらいの割合で、男と忍び逢っていた事実を突きとめた。
男は三十歳前後のスポーツマンタイプというだけで、はっきりした特徴はわからなかったが、モーテルの従業員が、男の車の登録番号標を覚えていた。
男は車、女はタクシーと、いつも別々にやって来る彼らに、従業員が好奇心を持ったのだ。
刑事たちは勇躍した。ついに晴美の背後に隠れていた男の正体を捉《とら》えたのである。
ナンバーから、男はA市の隣りのS市に住むN車系の自動車セールスマン、小堀達男《こぼりたつお》とわかった。晴美が思い浮かべた「車」という言葉は、モーテルに関連してではなく、男の職業からの連想であったのかもしれない。
セールスマンという職業も、催眠術との関係を容易に推測させた。広告や販売技術に催眠術を応用すると効果がきわめて高いそうである。
全然興味を持っていないのに、興味を湧かせて、欲しいという気持ちにさせてしまうセールスの技術は、まさに催眠術にあい通ずるものがある。
時をおかず、小堀に重要参考人として出頭が求められた。
参考人ではあるが、まるで被疑者を連行するようなものものしい様子で刑事がエスコートして来た。
催眠術の名人と聞いて、術をかけられて逃げられてしまうかもしれないと思ったようである。催眠術には妖術のような無気味さと現代的な科学性が同居している。それだけに取調べ側にも、普通の参考人に対するのとは異なった構えがあった。
6
A市署の取調室で腰原が小堀に対《むか》った。小堀は年齢二十九歳、筋骨型のひきしまった肢体《したい》の持ち主で、眉《まゆ》と唇《くちびる》の豊かな、意志の強そうなしっかりした印象の顔をしている。
〈なるほど、晴美がまいったのも無理はないな〉
しかし、腰原は、もっと神経質なタイプを予想していたのである。女に催眠をかけて殺人を犯させた男として、目と唇のうすい、瞳《ひとみ》にいつも計算された冷徹な光を浮かべた人間をえがいていた。
目の前に現われた小堀には、そのような陰険なデリカシーと深刻さは感じられない。
だが顔の印象だけで、相手の性格は決められない。
小堀は、意外にあっさりと、佐久間晴美との関係を認めた。
「最初は、車のセールスのために訪問しました。ご主人が留守だったので、奥さんと会って話をしました。脈がありそうだったので、何度か通って勧誘しているあいだに、おたがいに好意を持つようになったのです。
はじめのうちは軽い気持ちだったのですが、いつの間にか、二人とも真剣になってしまいました。私たちは結婚を考えました。しかし、晴美さんのご主人がとうてい離婚に応じてくれそうにないので、忍び逢いをつづけていたのです。
二人の仲がご主人に知られれば、その日から私たちは逢えなくなります。いま無理やりに仲を引き裂かれれば、私たち二人とも気が狂ってしまうと思いました。
先行きの見込みはなくとも、いま逢えるという刹那《せつな》の喜びを維持するために、私たちは関係を隠していたのです。しがない車のセールスマンにすぎない私には、豊かな環境に生まれ育った晴美さんに、物質的に満たされた生活を保証できませんでした。そのために現状維持のずるずるの関係を、やむを得ずつづけていたのです」
「その現状を破るために、晴美をそそのかして、亭主《ていしゆ》を殺させたというわけか」
腰原が、狙《ねら》いすました一撃を送りこむように言った。
「私が、晴美さんをそそのかしたんですって!?」
小堀は、言われた言葉の意味を咀嚼《そしやく》するようにくりかえした。
「ば、馬鹿な!」
次に顔に血の色をのぼらせて、舌をもつれさせた。
「晴美が、犯行時に催眠術をかけられていたことが鑑定されたのだ。かけたのはおまえだろう」
「ぼくが……晴美に……?」
小堀は口をあんぐりと開いた。あまり驚いたので、いままでつけていた敬称も忘れたといった様子である。
そこに演技はないかと、腰原は冷酷に視線をこらす。
「ぼくが催眠術? 何か勘ちがいしているんじゃありませんか」
小堀は、むしろ途方に暮れた表情をしていた。その表情に関するかぎり、演技か、あるいは素顔の真情なのか区別はつかない。最近はテレビの影響で、素人《しろうと》でも芝居が上手になっている。泣いたり、笑ったり、澄ましたりが、俳優はだしで板につき、演じている自分自身が、本当なのか演技なのかわからなくなってしまう。
警察官にとっては、テレビがまさかこんな形で、犯行の隠蔽《いんぺい》を助けようとは、思ってもいないことだった。
腰原ほどのベテランも、小堀の表情の真偽の見分けがつかない。だが腰原はそのとき、ここぞと思って打ちこんだ釘《くぎ》が、全然効かなかったときのようなもどかしさと、自信の崩壊を感じた。
「催眠術で、人が殺せるんですか?」
小堀はまた言った。自分が被疑者扱いを受けているにもかかわらず、そんな方法があるのなら、ぜひ教えてもらいたいというような好奇心が覗《のぞ》きはじめている。その表情は素直だった。
――この男、シロだな――。
腰原は、そのとき、そんなカンがした。彼はそれを自分で「負《ふ》のカン」と呼んでいる。
これが犯人にちがいないとにらんで、まさしくそれがあたったときは、「勝のカン」が働いたことになるが、刑事としての年功を積み重ねると、負のカンも強くなる。
刑事にとってあまり有難くないカンであるが、いまその負のカンがしきりに腰原に訴えかけていた。しかし、もしかしたら、それも相手の催眠術によるものかもしれない。
「あんた、催眠術の達人じゃないのかね?」
「催眠術なんて、まったく縁がありませんね。テレビで一度実演しているのを見たことがありますが、インチキくさかったですね。かけられた人間も、サクラですよ。あんなことで人が殺せるなんて、警察は本気で信じているんですか?」
小堀は、軽蔑《けいべつ》したような顔をした。腰原はさらに取調べをつづけたが、決め手はつかめなかった。
逮捕状は出ないので、その日はひとまず帰した。腰原の負のカンだけに頼ることはできない。小堀の勤め先や取引先関係をひきつづいて洗った。職業がら、小堀が事実催眠術の心得があるなら、商売に必ず利用しているはずだとにらんだのである。
だが、彼にそんな心得があるという情報は、どのすじからも得られなかった。要するに小堀達男と催眠術は、まったく無縁なのである。
ここにおいて、せっかく浮かび上がった唯一の怪しい人物も、見込みちがいの様相をしだいに濃くしてきた。
7
宮川教授による佐久間晴美の催眠面接がつづいていた。
――円い部屋、車、アラビアンナイト――などの一連の記憶が指し示した小堀達男が、しだいにシロくなってきた現在、晴美に催眠をかけた、さらにべつの人間の存在が推測された。しかし彼女から新しい記憶を引き出すことはできなかった。
教授は、ほとほと手を焼いたといった様子で、
「小堀に関する記憶だけがよみがえったのは、小堀と晴美のラポールよりも、別にいる催眠者と晴美のあいだのラポールのほうが強いからです。晴美が小堀の名前を言わなかったのは、催眠によって記憶が抑圧されたものではなく、秘密の情事を隠し通さなければならないという自衛本能が働いたものだと思います。とにかく晴美を操っている催眠者は、相当高級な技術の持ち主です。おそらく催眠中にすべての出来事を忘れてしまうような後催眠暗示をかけておいたものにちがいありません」
「後催眠暗示とは、どういうことですか?」
新しい専門用語の意味を腰原が問うと、
「催眠中に与えておいた暗示が、本人が醒《さ》めたあとになって実現することを後催眠現象と呼んでいますが、そのための暗示が後催眠暗示です。たとえばある人間を催眠状態に導いて、『あなたは目が醒めてから、私が鼻の頭に指を当てると同時に、テレビの×チャンネルをつけるでしょう。私があなたに言った言葉は、忘れてしまいますが、あなたは必ず私が言ったとおりに行動します』と暗示をかけておくと、覚醒《かくせい》後、私が鼻に指を当てると、暗示のとおりにします。そんなとき、なぜ×チャンネルに入れたのかと質問すると、野球が見たいからとか、ニュースを知りたいからとか、きわめて自然に答えます。本人は暗示をかけられたことを少しも気づかずに、自分の意志で行動したと信じこんでいるのですね」
「恐ろしいものですね。もし犯罪を後催眠暗示によってそそのかしたらどういうことになりますか? その場合、外観はまったく正気と変わりないから、警察は本人が暗示を与えられたということすらわからない」
腰原は、実際に背すじに寒気を覚えていた。催眠術がこのような形に悪用されたら、警察はお手上げだと思った。
催眠者の意志(暗示)によって行動しながら、本人は自分の意志で行なっていると信じ、外観も完全に正気であるとしたら。
犯罪を構成する主観的要素である故意(殺意)の認定も、他人の意志を自由に玩《もてあそ》ぶ催眠術によって、まったく不可能になってしまう。となれば刑法そのものが無価値になってしまうのではないか?
腰原は、そのとき刑法全体が危機に晒《さら》されているような恐怖感を覚えた。
「いや、その心配はないと考えてよいでしょう。後催眠暗示は、催眠中の暗示感受性と異なって、覚醒後に実現するものですから、暗示が常識に反する場合は、拒否されるか、あるいは形を変えて実現されます」
「なるほど。すると先生、犯人は晴美に、覚醒後、すべてを忘れるような後催眠暗示を与えたというわけですか」
「そうとしか考えられませんね」
「それは具体的にどんな暗示ですか」
「ごく簡単な合言葉や鍵数字《キーナンバー》だと思います。それさえわかれば、あとは芋づる式に、たぐりだせると思うのですが」
「合言葉? その合言葉を言うと、すべての記憶を忘れてしまうのですか?」
腰原は、やや早口に教授に訊《き》きなおした。
「あらかじめ、そのように仕向けておくのですね。たとえば、『この合言葉がおまえの記憶の限界だ。おまえがこれを無理に越えて過去を思い出そうとすると、おまえは必ず死んでしまうぞ』というふうに。この種の暗示が与えられると、被暗示者の意識下に強い恐怖心を植えつけて、記憶を完全に封じこめてしまうのですよ」
「しかし先生、そのためには、相手が醒《さ》めたときに、必ずその合言葉が、相手の目か耳にはいるように仕向けなければなりませんね」
「そうです。ですから、被暗示者が毎日つけている日記に書いておくとか、愛読書の中の座右銘にするとか、とにかく必ず相手に認識されるようにしておくわけです」
「すると、日記帳とか、愛読書類を調べれば……」
「その種のものは、全部調べました。しかし合言葉らしきものは、発見できませんでした」
さすがの宮川教授も、お手上げといった表情である。
「合言葉か……」
腰原はもう一度なにげなくつぶやいた。その瞬間、何かが目の前にひらめいたような気がした。彼は、その瞬間の閃光《せんこう》をみつめた。
――晴美の記憶は、何をさかいに喪《うしな》われたか?――
〈そうだ! 犯行後電話をかけたときだ。彼女はダイヤルしながら『幸福』だと言った。電話というものは、ダイヤルを回し終わってから、相手方に信号音が届いて、相手が送受器をフックから取り上げてはじめて通じるものだ。だから晴美がダイヤルしながらつぶやいたこの言葉は、電話の相手に話しかけたものではない。事件の発見者のお手伝いに向けたものでもない。ひとり言でもなかったそうだ。それでは、いったい何か? とにかく晴美は、この言葉をさかいに、記憶を喪失している〉
――もしかしたら!――
〈これが合言葉か?〉
――しかし、もしそうだとすれば、犯人はいったいどのようにして、彼女に犯行後必ずこの言葉をつぶやかせるようにしたのだろうか?――
〈晴美はダイヤルしながら『幸福』と言った。ひょっとすると、この言葉は電話番号に関係あるものかもしれないぞ〉
――犯人は犯行後、晴美に電話をかけるように暗示する。その番号が、記憶を消すための鍵数字《キーナンバー》となっているとする。『幸福』は、その数字を連想させる言葉かもしれない――
「先生、その合言葉とか、キーナンバーとやらは、ごく簡単なものなのですね?」
自問自答から覚めた腰原は訊いた。
「そうです。あまり複雑なものですと、合言葉の役目を果たしません。目や耳にはいると同時に反応をおこさせるためには、簡単なほどよいのです」
教授の答えに腰原は、「幸福」が合言葉そのものか、あるいは鍵数字を連想させるほかの役目をつとめているにちがいないと思った。
「幸福」を合言葉そのものとすると、電話をかけた意味がわからなくなる。それに犯行後、必ずこの言葉を晴美に言わせるように仕向けた方法は?
やはり「幸福」は、合言葉そのものではなく、鍵数字を連想させる何かだ。
「幸福と電話、幸福とキーナンバー、幸福とダイヤルナンバー……」
ここまで口の中でぶつぶつつぶやいていた腰原は、ハッと目を宙に据《す》えた。披はふと思いついたことがあったのである。
腰原は、最寄りの電話にとびついた。ダイヤルしてやがて応《こた》えた相手に、
「石倉野枝さんを願います。ああ、あなたですか。よかった。捜査本部の腰原です。先日はご苦労さま。ところでまた一つ教えてもらいたいんだが、あなたが晴美、いや奥さんを見つけたとき、『幸福』だと言ってたそうだね。そこで思い出してもらいたいんだが、もしかしたら『シアワセ』だと言ったんじゃなかったかね」
電話の向こうでやや考えこむ気配があって、やがて緊張した腰原の顔が弛《ゆる》んだ。予想したとおりの答えを得たらしい。
彼は早速部下を呼んだ。
「市内の4887番の電話の所有者名を大至急調べてくれ。市内局番は21と22とあるから、二人いるはずだ」
腰原の声は弾んでいた。
腰原は、幸福に別の言い方があることに気がついたのである。女は幸福という言葉が好きだ。その場合、「シアワセ」と発音されたほうが、女らしい。
それを動転していた石倉野枝は、「幸福」と聞きちがえたのである。
いや正確には聞きちがえたのではなく、聞いた言葉を一時的に忘れて、同じような意味を持つ別の言葉として思い出したのだ。
いったんそう思いこむと、記憶は誤ったまま固定する。野枝は、晴美の言葉を、音標としてではなく、表意文字として記憶していたのである。
「シアワセ」は「シハハセ」とも書ける。そんな書き方をしなくとも、発音だけで、4887を連想させる。セは文字形から七を、発音も英語のセブンから容易に7を思いおこさせる。
晴美が、ダイヤルしながら「幸福《しあわせ》」と言った理由がこれでわかった。彼女はこの言葉によって電話番号を覚えこまされた。そしてそれがそのまま、すべての記憶を消す鍵数字となっていたのだ。
局番は、同じ市内に住む者として、すでに覚えている。したがって局番を覚えこます必要はなかったのだ。
犯人は、晴美に、犯行後電話をせよと暗示する。電話番号に鍵数字をしかける。それを連想させるものとして「幸福《しあわせ》」という言葉を与える。これは晴美に鍵数字を強く印象づける効果と同時に、第三者に鍵数字であることを糊塗《こと》する効果を持っている。
そこに石倉野枝の記憶ちがいが重なって、その効果をさらに高めてしまった。
電話番号に鍵数字をしかけたメリットは、もう一つある。犯人は、あらかじめ暗示しておいた犯行時間に電話機のそばで待っている。
暗示どおり、その時間に電話のベルが鳴る。犯人が送受器を耳に押し当てると同時に、相手からの|呼び出し《コール》は切れる。
これによって犯人は、晴美が暗示どおり犯行を終え、後催眠暗示がかかって、すべての記憶を抑圧されたことを知る。もし記憶の抑圧が不十分な場合は、電話を通して改めて暗示を与えればよい。
実に万全の構えが施されていたのだ。
間もなく部下が電話の所有者を突き止めてきた。それは――
21―4887の所有者は、市内栄町の開業医、立川力松《たちかわりきまつ》、22―4887は、市内富士見町の金物商、石田安次郎の二人である。佐久間家の局番は21だから、当面立川のほうが怪しい。
「この石田と立川の二人と、佐久間宗一の関係を徹底的に洗ってみてくれ。どんな小さなつながりでもかまわない。もちろん晴美との関係もな」
〈もしかしたらこの二人のどちらかが、佐久間殺しの本ボシかもしれない〉
腰原の部下に命ずる声は、久しぶりに張りきっていた。あとのほうの言葉を喉《のど》の奥にのみこんだのは、彼らと、佐久間とのあいだにつながりが発見されても、さらに鍵数字を手がかりにして晴美の記憶を掘りおこさなければならない難作業がひかえていたからである。
事前に部下たちに変な先入観は与えたくなかった。
8
物語は四年前の五月にさかのぼる。木村のぶ子は、夕食の買物に出た。
「おねえたんと、おちゃんぽにいくの」
彼女が出かける姿を目敏《めざと》く見つけて、早速はじめ[#「はじめ」に傍点]があとを尾《つ》いて来た。のぶ子にすっかりなついてしまって、どこへ行くにもあとを慕うのである。
のぶ子のほうも、ようやく舌がまわりかけたはじめ[#「はじめ」に傍点]を、まるで自分の子供のように可愛がっている。
「おちゃんぽじゃないのよ、買物へ行くの」
「ぼくもいく」
はじめ[#「はじめ」に傍点]は頑張《がんば》った。途中で疲れると遠慮会釈もなく道のまん中へすわりこんで「アッコ(抱《だ》っこ)」とせがまれるのはわかりきっている。
両手が買物でいっぱいのときは、困ってしまうのだが、可愛いものだから、断固として拒絶できない。
「いいこと、途中で疲れてもひとりでアンヨするんですよ。アッコはしてあげませんからね」
「うん」
幼い者との約束が、あてにならないことを承知しながら、のぶ子はついうなずいてしまった。
木村のぶ子は、半年ほど前に市内栄町に内科小児科を開業している立川力松の家へお手伝いとして来た、十九歳の近郊の農家の娘である。
最初は「お手伝い」というイメージの悪さに抵抗を覚えたものだが、立川家の待遇もいいし、仕事も楽なので気にならなくなった。勤め先は探せばいくらでもあったが、他所《よそ》へ行く気はまったくなくなってしまった。
その最大の誘因は、待遇や仕事よりも、実は別にあった。それがはじめ[#「はじめ」に傍点]である。
立川夫婦が結婚して十数年めにようやく得たこの一粒種は、両親よりも、むしろのぶ子になついてしまって、彼女がそばにいないとご機嫌《きげん》が悪い。よくまわらぬ舌で「おねえたん、おねえたん」といつもあとを尾《つ》いてくるゴムまりのように健康で、目のくりくりした幼児に、のぶ子はすっかりまいってしまった。
「まるで私よりも、あなたのほうが母親みたいね」
と母親が苦笑したが、その中にはかなりの実感と多少の嫉妬《しつと》がこめられていた。
二人が出て行ったあと、はじめ[#「はじめ」に傍点]の父親、立川力松はちょっと患者の列が途切れたので、奥の居間へ憩《やす》みに来た。妻が入れてくれた茶をすすりながら、
「はじめ[#「はじめ」に傍点]は?」
と習慣のように聞く。
「のぶ子ちゃんに尾《つ》いて出て行きましたわ」
妻はこともなげに言った。
「尾いて? 散歩か」
「いいえ、買物よ、お夕食の」
「買物? 大丈夫かな」
立川の語尾に不安があった。
「大丈夫って、どういう意味ですの?」
「買物をするのなら、当然はじめ[#「はじめ」に傍点]だけに注意をしていられないだろう」
「まあ」妻は驚いたように言ってから、おほほと笑って、
「のぶ子ちゃんは、私たちよりもはじめ[#「はじめ」に傍点]の扱いには馴《な》れてますわ。あなたも苦労性ねえ」
妻に笑われても、立川はすっきりしない顔だった。結婚後十数年、すっかりあきらめていたところに恵まれた文字どおりの一粒種は、彼にとって目にいれても痛くない存在であり、生き甲斐《がい》そのものなのである。
いくらなついているとはいっても、お手伝いはやはり他人である。妻のように安心してまかせる気にはとてもなれない。
〈女は、男よりも図太《ずぶと》いな〉
と思ったとき、表の待合室にあたって患者のはいってくる気配がした。
「あらっ、おのぶじゃない」
いったんすれちがった相手にいきなり呼び止められたのぶ子は、そこに中学時代の仲好《なかよ》しの同級生だった中岡幸子《なかおかさちこ》の姿を見つけた。背も少し伸びていたし、服装や化粧もすっかり都会的になっていたので、わからなかったのである。
「まあ、サッチンじゃない」
学生時代の愛称でおたがいを呼び合った二人は、思わず通りのまん中で手を取り合った。歩道橋の畔《たもと》で人通りはわりあい多い。
「いまどこへお勤め?」
「その後お元気?」
二人はおたがいの近況をたずね合った。卒業以来数年ぶりの再会である。
幸子は、東京のかなり名の通った電機会社へ勤めていた。今日はA市にある会社の取引先に用事があって久しぶりにやって来たそうである。
「ここから通勤しているんじゃないの?」
幸子の生家は、A市の外れにあったはずである。
「ううん、東京の寮にはいっているのよ。用事が早く終わったので、これから家のほうへ行ってくるつもりなの」
通りでの立ち話はつづいた。
「それよりのぶ子は、いまどんなお仕事をしてるの?」
今度は幸子がのぶ子の仕事を訊く番になった。相手が一流会社のOLであるのに比べて、のぶ子はお手伝いをしているということを話すのが、なんとなく気恥ずかしかった。そのかすかなためらいが、彼女にはじめ[#「はじめ」に傍点]の姿がいつの間にか消えていることに気づかせた。
「あら大変!」
「どうしたのよ?」
急にきょろきょろしはじめたのぶ子の姿に、幸子は怪訝《けげん》そうな顔をした。
「どこかへ行っちゃったのよ、はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃんが。どうしよう?」
「はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃんって、だれなの?」
説明しているひまはなかった。ガードレールの向こうは、車の往来しきりな車道である。三歳の子供ならば、ガードレールの下を容易にくぐり抜けられる。
「はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃあん!」
のぶ子は恥ずかしさも忘れて、大きな声をあげて呼んだ。通りすがりの人が何人か振り向く。歩道にははじめ[#「はじめ」に傍点]の姿は見えない。
〈まさか車道へ飛びだしたのでは!〉
のぶ子の心に不吉な連想が発達した。
「はじめ[#「はじめ」に傍点]ちゃあん!」
彼女はもう一度呼んだ。そのとき彼女の視野のはしに見馴れた可愛い姿がはいった。はじめ[#「はじめ」に傍点]は、彼女が旧友とめぐりあって立ち話をしているあいだに、ひとりで歩道橋を渡って、通りの反対側へ行っていたのである。
「おねえたん」
はじめ[#「はじめ」に傍点]はゴムまりのような体をはずませて、駆けだした。
「あっ、だめよ、そこで待っていなさい!」
のぶ子は愕然《がくぜん》として蒼白《そうはく》になった。のぶ子に呼ばれたと勘ちがいした幼児は、小さな体をガードレールの下へくぐらせた。
「だめったら! そこに止まっていなさい。だめ! 出てはだめ!!」
彼女の悲鳴のような声は、幼児にかえって逆の効果を与えた。はじめ[#「はじめ」に傍点]は車道へ飛びだした。
その直前に黒い凶器のような高速の物体が、なんの緩衝もおかずに襲いかかった。
「ああ」
のぶ子が思わず絶望の目を閉じた中へ、彼女の内臓をかきむしるようなブレーキの軋《きし》りと、鋼鉄と柔らかい肉体のぶつかり合ういやな音が届いた。
「大変だ!」
「子供がハネられた」
人の叫び声と、わらわらと駆け寄る気配がした。
幼児のまだ骨の固まりきらない柔らかい体は、折りから直進して来た車のボンネットの上にすくい上げられ、アスファルトの上に叩《たた》きつけられていた。
ただちに病院へ運ばれたが、頭の骨を折っていてたすからなかった。両親が駆けつける前にすでに死んでいた。ハネたのは、同じ市内で手広く家具商を営んでいる佐久間宗一である。
佐久間は制限速度を守っており、歩道橋のそばでもあったので、死亡事故までおこしながら、その責任は軽いものとされた。
被害者は、立川力松が結婚十数年めに、ほとんどあきらめかけていたときに生まれた、文字どおりの一粒種である。その目に入れても痛くないばかりの可愛がりようは、はたの者がむしろ閉口するほどであった。
それだけに立川夫妻の悲嘆は、見るに耐えないほど痛ましいものがあった。
佐久間が焼香に来たとき、「殺してやる」と叫んで、跳びかかろうとしたところを、周囲に居合わせた人間に辛うじて抱き止められた。佐久間より、むしろ子供から目を離したお手伝いの責任のほうが重いところだが、子供を殺された親にしてみれば、轢《ひ》いた当の相手に憎悪が集まるのである。
立川家に不幸はつづいた。子供の四十九日がすんで間もなく、立川が往診から帰宅すると、妻の姿が見えない。木村のぶ子もいたたまれなくなって、ひまを取ってしまった。
ガランとした家の中を、「買い物にでも出かけたのかな」と思いながら、居間へはいると、食卓に食事の用意がしてあった。
これは妻が比較的長い時間留守をするときの習慣である。今日は彼女から時間のかかる外出をするということは聞いていない。
食卓から被《おお》いを取ると、彼の好物ばかりが並べられてあった。胸の芯《しん》をズンと断ち割るような不安が湧いた。
彼は、狼狽《ろうばい》して二階へ駆けのぼった。そして夫婦の寝室の中にすでに冷たくなっている妻の体を発見したのである。どんな手当てを施しても、すでに無駄《むだ》であることが、彼が医者であるがゆえに、無惨なまでにはっきりとわかった。
9
この事件から二年のち、佐久間の妻が病死した。半年ほどして新しい妻が来た。輪郭のくっきりした美しい女だった。取引先の問屋の娘であるが、初婚の相手が精神病質であることがわかって、結婚一ヵ月で離婚して実家に戻っていた不運な女性である。
佐久間は前妻とのあいだに子供がなかった。彼はこの若い妻が気に入り、耽溺《たんでき》した。商売も順調で、支店も三ヵ所ほど増えた。仕事と家庭に恵まれた彼の胸の中には二年半前の、痛ましい交通事故のことなど、かけらも残っていなかった。もともと彼にはあまり責任のないことである。
「どうなさいました?」
立川力松は、その患者に向かって習慣的に訊いた。二十四、五歳の女の新患≠ナある。
「このごろ頭が痛くてなりませんの。いつも夕方ごろから痛みはじめて、夜遅くまでつづくのです。そのため、夜もよく眠れなくて」
患者の訴えを聞きながら、カルテに目を落とす。
――佐久間晴美――
立川の目は、その患者の名前の上に固定した。住所も市内になっている。
「佐久間さんとおっしゃると、あの佐久間家具センターの……?」
「はい」
患者は素直にうなずく。
目鼻だちのはっきりした顔で、特に目が美しい。二重まぶた――おそらく天然の――の下に黒目との調和がよくとれていて、情熱の豊かさを示すようにうるおっている。白目が少し充血しているのは、頭痛による不眠のためであろうか。
ひきしまった輪郭でありながら、口元が甘く優しい。
「佐久間宗一さんの……」
「家内でございます」
患者は軽い笑みを含んで頭を下げた。
――そうか、この女が、佐久間の後妻だったのか。その後、若い後妻をもらったと聞いていたが、こんな若い美しい女と再婚して、幸福な家庭≠営んでいたのか――
あの事故以来、いっときも忘れたことのない佐久間に向ける憎しみが、改めて燃えさかってきた。
晴美の美しさが、立川の胸の中に固定化した憎悪を攪拌《かくはん》し、沸騰させたのである。
〈おれがただひとりの子供を奪われ、妻に自殺されてなんの喜びもない毎日を送っているのに、佐久間は、こんな美しい後妻を迎えて人生を愉しんでいるのだ〉
そのとき立川は、佐久間に向けた感情が、まぎれもなく殺意というものであることを悟った。
佐久間晴美の症状は、大したことはなかった。女性の慢性の頭痛は、だいたい生理的不調を原因とすることが多いので、立川は、彼女の体を精密に検《しら》べた。
しかし特に生理的な原因は発見されなかった。立川は心理的な症状と診断した。放っておいても癒《なお》るたぐいのものである。
しかし立川は適当な口実をつけて当分通わせることにした。
彼は晴美を媒体にして、佐久間になんらかの復讐《ふくしゆう》ができないものかと考えたのである。
晴美にはもとよりなんの怨《うら》みもない。彼女は例の交通事故のあとに佐久間と結婚したのである。だから彼女の夫が、立川の子供を轢《ひ》いたことを知らないはずである。
もし知っていたら、わざわざ立川のところへ診察を求めに来なかったであろう。
「奥さん、あなたの症状は神経性のものです。何か感情のもつれか精神的な負担があるために、症状がおこっているのです。長期戦になりますよ。まあ気長にやりましょう。こういう症例には焦《あせ》るのがいちばんよくないのです」
立川がいったとき、佐久間晴美は、一瞬ギョッとなったような顔をした。立川は彼女の頭に症状を顕《あら》わしている精神の緊張《しこり》に興味を持った。恵まれた中流の美しい人妻の心に、どんなしこりがあるというのか?
立川は、自分の専門分野のほかに、催眠法を適用した精神治療に大きな関心を持っていた。自分でもこつこつと研究をすすめ、彼の患者を対象にして、一般臨床的にもかなりの成果を上げている。
いままでの臨床例をもとにして、近く学会に報告してみようかと思っている。
立川は、最初なにげなく、晴美に他の一般患者と同様に催眠療法を試みた。
催眠は、被験者がバカであったり、最初から拒否的であると、かかりにくい。しかし患者というものは、医師に本質的な信頼をおいている。
自分の病気を早く癒してもらいたいから、医師の言葉を素直に聞き容れる。その意味で初めから最も催眠にかかりやすい状態になっている。
催眠は、初めての人間にはかけがたい。しかし晴美の場合は、立川の優秀な誘導と、医者と患者という関係から、最初から軽い夢中遊行《トランス》状態に導くことができた。
一度かかると、催眠者(暗示者)と被催眠者(被暗示者)のあいだに「ラポール」と呼ばれる親密な一種の心の橋ができて、次からかかりやすくなる。立川は何度か催眠療法を試みているあいだに、佐久間晴美が、高度の感受性をもつ被暗示者であることに気がついた。
そのうちに、立川の一言の暗示や、ちょっとしたジェスチャーで、きわめて深い夢中遊行《トランス》状態に簡単に導けるようになった。
立川はその間に、晴美の症状の原因である心のしこりを探りだしていた。
立川が、晴美を催眠術にかけて探りだしたところによると、彼女は結婚後、その男に会い、激しく愛し合うようになった。
どんなに激しく愛し合っても、それは世の中に受け容れられない、不倫の関係である。男との仲がのっぴきならないものになるにつれて、彼女の結婚生活がゆがみはじめた。さらに佐久間に、マゾの傾向のあることがわかり、それが、彼女の夫からの離反にいっそう拍車をかけていた。もはや彼女は男と別れることはけっしてできない。しかし、現在の安定した主婦の座も失いたくない。そこで葛藤《かつとう》がおきて、症状を顕《あら》わしたのである。
だが、晴美は、相手の男の名前を明かさなかった。立川が問いつめると、そこで催眠から醒めてしまうのである。男の名前を、公《おおやけ》にすることは、彼女の生活が根本から破壊されることを意味する。
そこに彼女の自衛本能が働いて、醒めてしまうらしい。立川はこの美しい人妻を盗んでいる男に、男共通の嫉妬《しつと》と関心を持ったが、強《し》いてこだわらなかった。
晴美が、夫と、男との板ばさみになって悩んでいることを知っただけでも大きな収穫である。佐久間の妻の美しい体を盗んだ男は、佐久間を殺したいほど憎んでいる立川にとって、不愉快な存在ではなかった。
――待てよ――
立川はそのときふと思ったことがある。自分が佐久間を殺したいと思っているのと同様に、晴美も夫がいなくなればと願っているのではなかろうか?
夫さえいなくなれば、彼の莫大《ばくだい》な財産を配偶者として相続し、しかるべき期間をおいたうえで好きな男と一緒になれる。そうすればもはやこんな相剋《そうこく》に苦しめられることもない。
安定した生活も維持できるし、好きな男と別れる必要もない。
要するに佐久間さえいなくなってくれれば、彼女にとってすべてがうまくいくのだ。自分が彼を憎む動機とは種類が異なっても、佐久間を消したいとする傾きは同じである。
もし佐久間が死ねば――それも他から強制された形で――晴美の不倫の関係は当然|公《おおやけ》にされ、彼女は厳しく処分されるだろう。
そして彼女が佐久間の死に原因を与えたものだとわかれば、その責任はぜったいに免れられない。彼女には動機があるのだ!
立川は自分の導きだした考えに、しだいに興奮してきた。
彼は、晴美を使って、佐久間に復讐することを考えたのである。彼女に催眠術をかけて、佐久間を殺すように暗示を与える。立川の催眠術にかけられ、トランス状態に陥った晴美は、自分の殺意を具体化するものと信じて佐久間を殺す。
彼女の背後に立川がいることは、だれにも気がつかれない。晴美には佐久間を殺す動機があり、自分自身の意志で犯行したことをかたく信じている。
犯行後、立川に暗示をかけられたことを、忘れるような暗示をかけておけば、もはやたぐりようがあるまい。
「彼女が犯行する時間に、自分は現場から遠く離れた場所でアリバイをつくっておけばよいのだ。文字どおり完全犯罪ではないか」
立川は、自分の考えに酔った。
「どうしていままでこんな素晴らしい方法に気がつかなかったのだろう?」
だがすぐ次の瞬間、そこに大きな障害があることに気がついたのである。
催眠トランス状態に陥っていても、暗示者から、人間として、してはならないようなことを命じられると、心の中に抗争がおきて醒めてしまうのである。
もし被暗示者がいとも簡単にそのような反社会的な暗示に従ったとすれば、それは彼あるいは彼女が生来的に犯罪者の性格を持っているか、精神病者の場合である。
晴美がそのような性格や病質でないことは、今までの催眠誘導の結果からわかっている。
彼女は、不倫の相手の名を聞くだけで、醒めてしまった。殺人という最も凶悪な犯罪を命じても、従わないことはわかっていた。
しかしまったく方法がないわけでもない。
辛抱強く何度も何度も、暗示と感情への訴えをくりかえして、徐々に犯罪暗示を受け容れる素地《したじ》をつくっていくのである。
いきなり、ナイフやピストルを握らせて、だれそれを殺せと命じても、従わないが、少しずつ憎しみの感情を植えつけておけば、心の中の道徳規範やタブーに対する抵抗力がかなり弱まってくる。
とくに晴美の場合、夫に不倫を隠していることによって、心の中に封じこめた抑圧が大きい。何かのきっかけでこの抑圧が破れたときに、容易に衝動的行動に走るのである。これは一種の犯罪者としての素地である。
晴美のような人間には、根気のよい催眠暗示によって、意識の障壁を取り除き、抑圧された欲望を噴火させることができる。
これの典型的な実例に「ハイデルベルヒ事件」といわれる催眠術を犯罪に利用したケースがある。
ドイツのフランツ・ワルターという男が、E夫人をハイデルベルヒのある家で深々度催眠に導いて、夫を殺すように暗示した。最初、夫人は抵抗したが、夫が他に女をつくったという嘘《うそ》の暗示を与えて、夫人が彼を憎むように仕向けていった。そして何度もくりかえしたあげく、夫人の意識の抑制を取りはずして、ついに彼女に夫の殺人行為を実行させた――というものである。
さらにこの犯行は、夫人に一定の合言葉を与えておいて、彼女がこの文字を読むと、すべての記憶を忘れてしまうという後催眠暗示を与えておいたことがわかった。
犯人は、催眠術を徹底的に利用して、被暗示者を、自己の意のままに動く完全な道具に仕立て上げてしまったのである。
しかし、それには時間がかかる。佐久間晴美をそういつまでも通わせることはできない。
晴美の背後に立川がいるということは極力伏せなければならないことなので、彼女に接触する回数もできるだけ制限しなければならない。
佐久間は妻が立川のところへ通院していると知っただけで、それを止《や》めさせるだろう。
急がなければならなかった。
10
立川は文献を漁《あさ》って、一つのトリックを考えだした。そのトリックは、腕の立つ催眠暗示者ならば、さしてむずかしいことではない。
今までは病気の治療のために催眠を利用していた立川にとっては、人を殺すための催眠は初めての経験であるが、自信があった。立川は、その目的のために、一般の診療が終わった土曜日の午後に、晴美を呼び寄せた。
「だいぶよくなりましたね」
立川は、内心の危険な意図を、患者を迎える医師の愛情に満ちた微笑で隠した。
「おかげさまで」
「まだこれからもときどき痛むことがあるかもしれませんが、あまり心配することはありませんよ。頭が痛くなったら、すぐご自分に言い聞かせるのです。『私の頭はすぐに軽くなる。余分な血は頭から出て行く。頭に血が上りすぎるのが頭痛の原因なのだから、余分な血が体のほうへ戻れば痛みも消える』と何回も言い聞かせるのです。わかりますね」
立川の言葉に、晴美は小学生のように素直にうなずく。すでに彼の催眠誘導ははじまっていた。
「それでは奥さん、目を閉じてください。私の言うことに心を集めてください。あなたはだんだんいい気持ちになります。あなたは何も考えない。何も聞こえない。私の話す言葉のほかは何も聞こえない。とても体が楽になりましたね。まるで雲に乗っているようです。もっともっと楽に、気持ちがよくなる。もう私以外の言葉は、まったく何も聞こえない、体中の力が抜けていきます」
これだけの誘導で晴美は早くも軽いトランス状態にはいってしまった。
すでに今まで何回も重ねた催眠誘導で立川と晴美のあいだにはラポールが完成されている。つまり催眠のためのレールが敷かれているから、きわめてスムーズに深いトランス状態へ導かれて行く。
「さあ雲の上で呼吸をしましょう。深く吸って吐いて、もう一度。眠くなってきました。ゆったりと気持ちのよい眠りです。眠りはどんどん深くなります。一から十まで数えますよ。それとともにあなたの眠りはますます深くなります。あなたはもう目を開けることができなくなりました。あなたの目蓋《まぶた》はしっかりと合わさっている。どんなに開けようとしても、私がいいと言うまでは開くことができません。これから私があなたの目を開くように言います。しかし、あなたの目は開かない。私の許可するまでぜったいに開きません。さあ言いますよ。目を開けなさい!」
立川に命じられても、晴美は顔のすじ一つ動かさなかった。これはすでに暗示者の言葉を全幅に信じ、彼の意見にコントロールされることを歓迎している証拠である。この場合、暗示者の意志に逆らって、目を開こうと努めることが、彼女にとっては苦痛なのである。
このような被暗示者は、暗示者にとって、容易に深い催眠へ導くことができるタイプである。
間もなく晴美は、深いトランス状態に落ちた。
「あなたの頭の痛みは、あなたの、日常ご主人に抱いている憤懣《ふんまん》や憎しみが、心の奥深く閉じこめられていることを原因にしているようですね」
「はい、そう思います」
「どうしてご主人を憎んでいるのですか?」
「主人は、私に人格を認めません」
「しかしご主人は、あなたを愛しておられる」
「人形のように可愛がっているだけです」
「たとえば?」
「なるべく家の中に閉じこめておいて、私を外へ出したがりません。夜の生活もいつも一方的で、私に動物のような姿勢を求めます」
「それはあなたを愛しているからじゃありませんか?」
「ちがいます。もし主人が愛しているとすれば、私の体だけですわ。私は主人との性生活で一度も満足を受けたことがありません」
「その不満が、外へ向けられたのですか?」
「あのひとにめぐり逢《あ》って、私にべつの人生が開けました。でも主人がいるかぎり、あのひとと一緒になることはできません」
ここであのひと[#「あのひと」に傍点]の名前を聞くと、催眠が醒《さ》めてしまうのだ。立川はべつの質問をした。
「どうしてご主人と別れないのですか?」
「主人はぜったいに離婚に応じないことがわかっております」
「ご主人がいなくなったら、というようなことを考えたことがありますか?」
「ああ、何度考えたことか。でもそんなことぜったいにあるはずがありません。主人はまだ男盛りで、健康そのものですもの」
「しかしこんな世の中だから、交通事故に遭《あ》うということもあるだろうし、不慮の災厄《さいやく》に巻きこまれることだって考えられるでしょう」
「そんなこと宝くじのような確率ですわ。もともと主人はとても用心深いたちですから」
「その宝くじの確率に、ご主人があたったら、あなたはとても嬉《うれ》しいですか?」
「それはとっても……」
「その確率を、もっと確実なものにしたいと思いませんか?」
「それ、どういうことですの?」
「つまり、ご主人の死ぬ確率を多くするのですよ」
「そんな方法がありますの?」
ここで殺人を暗示すると、催眠から醒めるおそれがある。
立川は、晴美の意識下の理性を迂回《うかい》した。
「ご主人は、あなたに動物的な体位を要求するということですが、具体的にどんな体位なのですか?」
「それは……」
なめらかに答えていた晴美が、ふっとためらった。トランス状態の中でも、羞恥《しゆうち》心がかすかに働いたのである。
「恥ずかしがってはいけません。もう一度、目を閉じましょう。私が一から十まで数えます。十を数え終わったら、目を開けてください。目を開けると目の前に大きな鏡がかかっています。そこにあなたとご主人の寝室での姿が映っております。そこにどんな姿が映っているか、正確に詳しく話してください。鏡はあなただけにしか見えません。あなたが忘れたいと願っているどんないやな場面も正確に話してください。どんなにいやなことでも話してしまえば、あなたの心はすっきりして、べつの人間のように楽な気分になれます。もう思い出しても、不愉快になることはありません。それでは数えます。一、二、三……さあ目を開けてください。鏡が見えますね、何が映っていますか?」
「裸の主人と裸の私がいます。主人は私に犬のような姿勢を取らせています。私はとてもいやなのですが、主人が無理じいをしています。主人はときどき、私に主人の体を噛《か》むように要求します。私が遠慮して噛むと、もっと強く噛むように言います。歯形がつくほどに、痣《あざ》が残るほどに、血が出るほどに、噛めば噛むほど、主人は動物のようなうめき声を出して悦《よろこ》びます」
ここで晴美は、ふたたび言いよどんだ。
「さあ、つづけて。鏡に何が見えますか? 話すと、楽になりますよ」
「主人は、私に笞《むち》を渡してそれで叩《たた》くように命じています。私がためらっていると、今度は綱で、縛るようにと言います。私が動かないと、熱い蒸しタオルを私に持たせて、体を押しつけてくるのです。火傷《やけど》ができるほど、熱ければ熱いほど悦びます」
佐久間にはマゾヒズムの傾向があることはわかっていた。それが晴美に催眠をかけるつど、エスカレートしている様子がわかった。立川は、佐久間の異常性愛を利用しようと考えたのである。
「主人は、私の……ああ言えないわ」
「さあ、ためらわないで。話せばすっきりしますよ」
「主人は私の××××を飲みたがるのです。主人は私の×××を体に塗りたがっています。そんな汚ならしい、そんな恥ずかしいこと、私にはとてもできません。主人は狂っています。変態性欲者なのです。私は主人とのセックスを考えると、肌が粟《あわ》だちます」
「ご主人は、あなたに苛《いじ》められるのを、悦んでいるのです。マゾヒズムと言って、異常性愛の一種なのですよ。普通の性的刺激には不感症となっていて、異性の意志に無条件に従い、その支配を受け、圧迫され、暴行を加えられることによって性的満足を得る色情倒錯なのです。だからご主人は、あなたがひどいことをすればするほど幸福を感じるのです」
「私はいやです」
「ご主人を悦ばせてあげなさい。それがあなたの幸せにつながるのです。ご主人はあなたからひどくされればされるほど悦びます。それはご主人の意志でもあります。今度ご主人と営みを持つとき、このナイフを秘《ひそ》かに持っていくのです。ご主人が撲《なぐ》れと言ったら撲りなさい。笞で打てと言ったら打ちなさい。最後に紐《ひも》で縛り上げて、動けないようにしておいてから、このナイフで、ご主人のこのあたりを突き刺してあげるのです」
立川は自分の心臓の上あたりを指し示した。
「ご主人は、そうされることを望んでおります。これは少しも悪いことではありません。夫婦の当然の営みなのです。そうすることによってご主人は最高のエクスタシーを味わい、あなたは、恋人と一緒になることができます」
「私にはできません」
晴美は激しく首を振った。このまま誘導をつづけると、醒めてしまうおそれがある。
「さあ、落ち着いて、ナイフをしまいましょう。もう一度、目を閉じましょう。静かに眠るのです。今度目を醒ましたときは、あなたはいま話したことを、全部忘れております」
立川は、晴美の額から目蓋《まぶた》にかけて静かに何回か撫《な》でおろした。彼は、あとわずかな誘導によって、晴美の意識下の障壁を取り除けられる自信を持った。
11
「ご主人は、あなたに傷つけられることを強く望んでおります」
立川は二日後の月曜日、一般診療を早目に終えてから、晴美の催眠誘導にとりかかった。間隔を短くして誘導するほど、ラポールは強くなる。立川にはすでに晴美の肉体を支配できる自信があった。
しかしこれほどのラポールができてもなお、情をかわした男の名前を言わない彼女に、その気持ちの傾きがなみなみならないものを感じた。
だがそれも、時間の問題と言ってよい。催眠者と被催眠者が、性が異なる場合は、その間のラポールは、容易に恋愛感情に転化するのである。それも被催眠者から催眠者への一方的な傾きとしてである。
トランス状態に導かれた人間は、うっとりとした気分になって、催眠者の言うがままになる。言うがままになることに快感を覚えるのである。これは恋愛感情そのものと言ってもよいくらいだ。
彼女が男の名前を明かさないのは、立川とのあいだのラポールよりも、その男との恋愛が強いことを示すものである。これに人妻としての自衛本能が加算されている。立川が思いきって彼女を犯さないのは(色情的な欲望によるよりも、いったん女は犯してしまえば、ラポールがいちだんと強化されて、催眠をかけやすくなる)、正体不明の男に晴美が逢ったとき、男との強い恋愛感情(これもラポールの一種)が、立川と彼女とのラポールに打ち勝つことを怖れたからである。
犯したあと、後催眠暗示によってその記憶を消しておいても、男とのラポールが思い出させないともかぎらない。
恋愛は、一種の強力な催眠現象である。自分の催眠力と、謎《なぞ》の男が晴美にかけた恋愛という催眠力のどちらが強いか、いまのところ立川にもわからなかった。
しかし、もう少し晴美に催眠誘導を反復して、ラポールを強化すれば、自分の催眠力のほうが強くなる自信があった。
「だから、ご主人を傷つけなさい。深く傷つければ傷つけるほどよいのです。よろしいですか。今度寝室にはいるときは、このナイフを持っていくのです。しかし、使用するときまでは、ご主人に見つけられてはなりません」
マゾヒズムが極端にエスカレートすると、自己保存に反することになるので、サディズムにおいて見られるような凶殺行為や、いちじるしい損傷は、例が少ない。
マゾヒストは、異性に傷つけられることによって性的快感を得るが、同時に、それが極端に高進した場合の不安と恐怖も持っている。
晴美がナイフを持ちこんだということを、佐久間が知れば、やはり警戒するにちがいない。だからその異常なプレーの最初の段階において、それを発見されてはまずかった。
「あなたはけっして悪いことをしているのではありません。ご主人に性のエクスタシーを与え、あなた自身を解放するために、ナイフをご主人に突き立てるのです。さあ、思いきってやってみましょう。できますね」
「わかりません」
「できる。あなたは必ずできる。自分で自分に言い聞かせてごらんなさい。『できる、できる。必ずできる』と」
「できる、できる」
「そうその調子、必ずできる」
「必ずできる」
「そのとおりです。もうあなたにはなんの障害もありません。いったん心を決めてしまったら、非常にすっきりしたでしょう。それはあなたが、妻としてごくあたりまえのことをしようとしているからです。さあ、このナイフを握ってごらんなさい。右手にしっかりと。握れますね」
「握れます」
「よく光っているでしょう。きれいな刃ですね、ご主人がこの色をとても好きなのですよ」
「はい」
「あなたはこのナイフを秘《ひそ》かに隠し持って寝室へはいります。ご主人を最初に固く縛り上げます。ぜったいに自分で解けないようにしっかりと縛ります。ご主人はあなたに、できるだけひどいことをするように命じるでしょう。そうしたらこのナイフを出して刺してあげなさい。ためらってはいけませんよ。刃を胸のここに向けてまっすぐに突きだすのです。さあ、やってごらんなさい。そう、まっすぐに勢いよく」
「主人は死なないでしょうか?」
「そんなことは問題ではありません。それはあなたの責任ではないのです。あなたはどの夫婦でも、寝室でやっていることを行なうのにすぎません。ご主人を刺すと、あなた自身も幸福になれます。私の言うことを信じるのです。信じられますね」
「信じます」
「よろしい。ご主人を刺したあと、私の家にすぐ電話をかけるのです。番号は覚えておりますね。21の4887です。シアワセと覚えなさい。あなたはこの番号をダイヤルすると同時にすべてを忘れてしまいます。私に会ったことも、私から教えられたことも、私の顔も。そしてあなたは幸せになれます。町で出会っても、もう私たちは見知らぬ他人です。あなたは私のたすけを必要としなくなっているのです。あなたはご主人とのセックスをいやがっておられた。しかしそれもおしまいです。あなたは、あなたの愛するひとと、素晴らしいセックスをすることができる。あのひとは今ここにいます。あのひとは私です。私があのひとなのです。あのひとはあなたに逢ったとき、いちばん最初に何をしましたか?」
「髪を優しく撫《な》でて、それから接吻《せつぷん》をしました」
「深い接吻ですか? 浅い接吻ですか」
「最初は浅く、次に深く……」
「そう、そのとおりです。私はいま彼です。彼はあなたの髪を優しく撫でます。唇に軽く接吻します。次に深く……」
晴美は、唇の中に立川の舌をねじこまれかけたとき、ちょっと体を硬くしたが、彼に背中を優しく撫でられると、ぐったりと力を抜いた。
「あなたは、あのひととセックスするとき、いつもリラックスする。なんの緊張もない。素晴らしい、なんて素晴らしいのだ。あのひとの手が、あなたの体に触れただけで、あなたは悦《よろこ》びに打ち震える」
立川は、晴美の唇を盗んだあと、ソフトに囁《ささや》きつづけながら、彼女を診療室の隅《すみ》のベッドへ誘導した。
「周囲にはだれもいない。あなたとあのひとの二人だけ。これから二人で心ゆくまでセックスを愉しむのです。静かにベッドに横たわり、おたがいに剥《は》ぎ合う。ああ久しぶりだ。愛し合う同士の抱擁はなんと素晴らしいのだ」
立川は、ゆっくりと晴美を剥いでいった。衣服の上から想像した以上に、彼女のプロポーションは見事であった。およそ弛緩《しかん》というものが見あたらない緻密《ちみつ》な肌《はだ》に、うすい脂がいきわたって、ぬめりを帯びた光沢を放っている。子供を産んでいない女の、張り切った肢体に、人妻としての豊潤と、不倫による緊張が巧みに配合されて、美しい錯覚のような造型を創りだしていた。
妻を失ってから、女の肌から遠ざかっていた立川に、男の餓えが、噴きださんばかりによみがえった。
彼が「素晴らしい」を連発し、「久しぶりだ」と言ったのは、彼自身の実感が多分にこめられていたのである。
「あなたはもうじゅうぶんに溢《あふ》れている。いつでもあのひとを迎え入れる準備ができている。あなたはもうほとんど待ちきれない。あのひとに『早く』とせがむ」
「早く、早くう」
ベッドの上に、ほとんど全裸に近い形に剥がれた晴美は、立川の方へ両手をさしだして、あえいだ。
「彼があなたに近づく。彼の指があなたを静かに愛撫《あいぶ》しつづける。あなたはもう少しもがまんできない。あなたは彼に、『入れて』と言う」
「入れて」
晴美は早くも眉間《みけん》にたてじわを寄せ、鼻の頭に汗を浮かべていた。立川は思いきって直截《ちよくせつ》的な言葉を彼女に言わせた。それはすでに彼女のトランスを深めるためではない。ふだんは慎みの矜持《きようじ》にキリッと身を鎧《よろ》っているこの美しい人妻に、あられもない、そしてどんな女でも、導入のときには言うであろう言葉を言わせることに、サディスティックな悦びを覚えていたのである。
12
四年前の五月、佐久間宗一が立川力松の三歳になったばかりのひとり息子を轢過《れきか》した事実が浮かび上がった。付き添いの若いお手伝いが目を離した隙《すき》に車道に飛び出して、そこへ直進して来た佐久間の車に轢《ひ》かれたものである。
運転者側にあまり責任のない事故だったが、ひとり息子を殺された立川夫婦の悲嘆は、救いがたいものがあった。立川の妻は、この事件を苦にして、それから間もなく服毒自殺をしてしまった。立川は子供と妻を一度に奪われて、その家庭を破壊されたのである。
さらに佐久間晴美が最近、立川力松の診察を受けていた事実もわかった。立川が「精神治療」とか称して、催眠術を治療にとり入れていたことも明らかにされた。
いっぽう、もう一人の電話の所有者、石田安次郎は、佐久間夫婦とまったくなんの関係もなかった。
「立川が、妻子の復讐《ふくしゆう》のために、晴美を催眠術で操って、佐久間を殺させたのだろう」
というのが、捜査本部の意見の大勢になった。
「しかし佐久間は故意に轢《ひ》いたのではない。いきなり車道へ飛びだされて、だれが通りかかっても、ほとんど避けられなかった事故だと認定されたものを、怨《うら》むのは、いささかおかどちがいじゃないか」
という、しごくオーソドックスな反論が出されたが、ひとり息子を殺された親の心を考えた場合、じゅうぶん殺人の動機を形成すると一蹴《いつしゆう》された。
いっぽう、「21―4887」を鍵数字《キーナンバー》として、宮川教授による佐久間晴美の催眠分析はつづけられた。
それは人間の意識下に潜むものの帰趨《きすう》をめぐっての凄絶《せいぜつ》な格闘であった。犯人が高級な催眠技術を駆使して封じこめた記憶を、宮川教授は同じ催眠技術に頼って必死に呼び戻そうとしていた。
教授は、
「人間のいったん経験したことは、けっして忘れきれない。その経験は、無意識の中に保存されている」という心理学の法則を信じた。
無意識の中の記憶をたぐりだすために、教授は、晴美を深い催眠状態に導き、事件と関係ありそうな観念を与えては、連想の糸を引いた。
さいわいに鍵数字らしいものが発見され、晴美の背後の催眠者の正体を、ある程度予測できるようになったので、連想のための観念が与えやすい。
晴美はまず教授に与えられた「病気」という観念から「頭痛」を思い出した。つづいて、
@白衣―診察室
A栄町
B医院―眠い―快い
Cナイフ―夫―悦び
と次々に記憶をよみがえらせてきた。
――催眠者は白衣を着て、診察室の中にすわっている。その医院は栄町にある。そこへ行くと眠く、快くなる。やがて白衣の人間からナイフを与えられた。それで佐久間を突き刺しても殺人ではなく、相手に悦びを与えることになる。――
催眠者が与えた暗示が、ほぼ忠実に再生されて、催眠者の正体がほとんど正確に浮かび上がった。
催眠者は、まず立川力松にまちがいない。栄町には立川以外に開業医はいないのである。
だが教授は、催眠者の名前を正確に引きだそうとした。
「いまあなたは、21の4887に電話をかけました。そしてあなたはすべてを思い出しました。あなたは、それを越えていろいろ思い出しても、けっして死ぬことはありません。ほら、現になんともないじゃありませんか。あなたはピンピンしている。だからまだまだ思い出せる。その診察室の中の白衣を着たひとは、あなたに何を命じたのですか?」
「主人が悦ぶから、ナイフで胸を突くようにと」
「それから」
「主人を突いたあと、21の4887、シワ[#「ワ」に傍点]ワセへ電話するようにと」
「そのほかにその白衣のひとは、あなたに何かしましたか?」
「それから急に白衣の先生は、小堀さんになりました。小堀さんは、いつものように私に優しい接吻をくりかえしたのち、私の体の中へ静かにはいってきました。あのひととのセックスは、とても恥ずかしいけれど、最高でしたわ」
「あのひととのセックスが終わったあと、小堀さんと白衣のひとはまた別のひとになりましたか?」
「よくわかりません。霧のようにぼやけてしまって」
晴美は頼りなさそうに首を振った。
「さあ、よく思い出して。あなたはいま素晴らしい映画の試写会を一人で観《み》ております。映画の主演スターはあなたです。目の前にはシネマスコープのスクリーンが広がっています。さあいよいよ映画のラストシーンです。あなたは恋人と深い抱擁をかわしたのち、別れを告げようとしている。ところが、あなたが恋人だと思って抱いていたひとは、まったくべつの白衣を着たひとだった。いやこのひとこそ、あなたの本当の恋人でした。あなたはそのひとをあまり深く愛していたために、かえって名前を思い出せなかった。でも今はっきりとスクリーンに彼の顔が映っている。そのスクリーンはあなたにしか見えない。だれですか、そのひとは……?」
「ああ」と晴美はかすかなうめき声をもらしてから、
「立川先生」と言った。
13
ただちに逮捕状が請求された。この場合、逮捕状を発する要件に微妙なものがあった。請求の理由としての「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」としては、動機があり、催眠分析による数々のデータがある。
しかし、意識下の、なんとなくおどろおどろしたものを、これまた催眠術などという妖術《ようじゆつ》めいたもので引っ張りだしてきても、客観的な資料と、条文の四角四面な解釈だけを重んじる裁判官が納得するか、はなはだ怪しかった。
それに逮捕の必要性となるべき、被疑者の逃亡と、罪証|湮滅《いんめつ》のおそれがない場合は、逮捕の理由があると認められても、逮捕状の請求を却下されてしまう。
立川の場合、市内に住居を構えてそこに住んでいる。医師としての地盤も築いている。逃亡のおそれはまずなかった。残るは「犯罪の様態に照らして逮捕の必要がある」と押す以外にない。
ともあれ裁判官は、宮川教授の権威をかけた催眠分析の結果と、捜査本部が主張した逮捕の必要性を認めた。勇躍した捜査官たちは、翌早朝、立川力松の栄町の自宅に、その寝込みを襲ったのである。
午前五時、警察ジープに乗った数名の刑事は、立川医院の玄関と裏口から、いっせいに踏みこんだ。
表通りに面して患者待合室や薬局や診察室、裏手が居住区になっていて、全体にうなぎの寝床のような細長い建物になっている。
表からはいった刑事たちは、いくら扉《とびら》を叩《たた》いても、中から返事がないので、用意した道具で鍵《かぎ》を壊して押し入った。
裏手へまわった一隊は、通用口の鍵が壊れていて、そのまま放置してあったので、難なく中へはいれた。こちらのほうもいくら呼んでも返事がない。
「まだ眠りこけてやがるんだろう。踏みこもう」
はやりたった刑事が戸口に手をかけて、鍵が壊れていることをはじめて発見した。
「呑気《のんき》なやつだな。開けっぱなしで寝てやがる」
「細君に先だたれてからずっと鰥《やもめ》暮らしをつづけていたそうだからな」
刑事はささやきかわしながら中へはいった。台所と居間、寝室は二階らしい。刑事の一人が階段の上を指した。
まさか凶器を構えて待ち伏せているとは思わないが、最高に緊張する一瞬である。
二階へ踏みこんだ刑事たちによって、立川力松はベッドの中に発見された。発見されたというのは、せっかくたずさえた令状をすでに執行できない状態になっていたからである。
立川力松は、自宅のベッドの中で心臓を鋭利な刃物で一突きにされて死んでいた。犯人の遺留品もなく、とくに盗まれたようなものもない。急報によって駆けつけた鑑識係が、犯行時間は午前二時前後と推定した。死体がまだなまなましいので、この推定は解剖してもあまり動かないはずだと、鑑識係は自信を見せた。
14
捜査本部は、とほうもない事件の展開に、誇張ではなく青天の霹靂《へきれき》のような衝撃を受けた。
長い捜査と催眠分析の結果、ようやく浮かび上がらせた唯一の容疑者を、逮捕寸前に何者かに殺されてしまったのである。
最初のショックがおさまると、次に怒りがこみあげてきた。
いったいだれが、立川を殺したというのか?
解剖の結果、犯行時間は、鑑識の第一所見と一致した。犯人を推定させる新しい資料は見つからない。ちょうど眠りの最も深い時間なので、目撃者もなかった。立川に動機を持つような人間も浮かんでこない。
「あの裏口の鍵は、犯人が壊したものだったんだな」
逮捕におもむいた刑事がくやしそうに言った。腰原は、その刑事の言葉に、ふと触発されたことがある。
「立川を殺したやつはナガシではない。動機を持っていそうな人間も見当たらない。とすると立川はなぜ殺されたのか?」
腰原は、そのつぶやきを捜査部員に対する問いかけにした。だれも答えない。何も答えは期待していなかったように言葉をつづける。
「立川は、佐久間殺しと関連して殺されたと考えたらどうか?」
何人かがウッとうめいたような声をあげた。佐久間殺しとの関連といえば、まだあの事件に関係している者がいることになる。
しかしまず犯人として被害者の妻の晴美があがり、次いで催眠分析の結果、彼女の背後に立川の存在が明らかにされた。もしまだ立川の後ろにだれかいるとすれば、これは二重三重構造の犯罪ということになる。
「いまのところ立川の周辺に、動機を持ちそうな人物は浮かんでいない。もし立川が、佐久間殺しに関連して殺されたとすれば、彼に生きていられては都合の悪い人物がいたことになる。なぜ都合が悪いか。いうまでもなくそいつが真犯人だからだ」
「しかしそれは係長、考えすぎじゃないですか? 小説ならばそういうことがあるかもしれないけれど」
部下の一人が反駁《はんばく》した。かりに立川の後ろにだれかがいるとしても、彼(あるいは彼女)はいったい、事件にどんな役をつとめたというのか?
「そうだ、これはたしかに小説的な考え方だ。しかし立川に生きていられては都合が悪いという事情は、必ずしもそいつが佐久間殺しの真犯人である場合とはかぎらない」
「というと?」
「つまりだな、何かの不利益がある場合だな。女がからむとか、金の分け前をめぐってとか」
「女……?」
部下の何人かがハッとした表情をした。
「立川に怨《うら》みを含むやつは佐久間殺しに関連しても考えられるんだよ。おれたちは今まで立川殺しの動機と、佐久間殺しを別々に考えていた。佐久間殺しに関連するといっても、必ずしも立川の背後に、別の犯人がいるってことじゃないんだ」
「するとそいつは!」
「すぐに小堀達男の行方を探してくれ。とっつかまえたら、昨夜のアリバイを洗うんだ」
直ちに小堀の勤め先とアパートに刑事が飛んだ。しかしその時遅く、刑事たちは手を空《むな》しくして帰って来た。
すでに彼の行方は、昨夜から不明になっていたのである。
「もっと早く気がつけば」
腰原は歯ぎしりをしてくやしがった。小堀は最初、晴美の情人であった。それが彼女が立川の患者となってから、催眠の力によって急速に立川のほうへ傾いてしまった。
催眠は、かければかけるほど、かけられればかけられるほど、かけやすくかけられやすくなるものである。
もとより立川は晴美を復讐の媒体≠ニして利用したにすぎない。しかし媒体であればこそ、両者のあいだに強いラポール(心のつながり)が必要だった。
晴美と小堀のラポールよりも、いつの間にか、立川とのあいだのラポールが強くなってしまった。晴美の小堀に関する記憶が先によみがえったのが、その何よりの証拠である。弱いラポールから先に抑制がはずれたのである。小堀は、人妻ながら、晴美との結婚を真剣に考えていた。それを立川に奪われたのだから殺したいほど憎んだのにちがいない。そしてそれがついに殺人の実行に高められたのだ。
15
小堀はひょっとすると自殺するおそれがあった。しかしそれにしても彼は、いったいどこへ行ったのか? 早速参考人として立ちまわり先や近隣署に手配を依頼したが、まだ網にひっかかった様子はない。
もともと参考人の手配は、大ざっぱなものだから、網をくぐろうと思えば、いくらでもくぐり抜けられる。
刑事の一人が「思い出の場所」へ行ったのではないかと言った言葉が、ヒントになった。女を奪われ、奪った相手を殺した男が、自殺するために最も行きそうなのは、女とデートをした場所ではないだろうかというわけである。
男よりも、むしろ女の心理にありそうなことだったが、男でもそういう気持ちになるかもしれない。
ただちに所轄署に連絡すると同時に、ジープに分乗して、御殿場のモーテルへ急行した。
一行がモーテルへ到着したとき、すでに救急車が来ていた。所轄署員が駆けつけたときは、すでに小堀は睡眠薬を大量に服《の》んで昏睡《こんすい》状態に陥っていた。
発見がわりあい早かったので、最寄りの病院へかつぎこんで手当てを加えた結果、きわどいところで、命を取りとめた。
いったん危機を脱すると、若いだけに回復が早い。二日後にはすでに取調べに応じられるようになった。
小堀は、最初から従順だった。腰原の訊問《じんもん》に対して、犯行の動機と状況を素直に自供した。
――ご心配をおかけして申しわけありませんでした。前にもお話しいたしましたように、私は佐久間晴美と深く愛し合っておりました。しかし、私たちのあいだに結婚の可能性は、ぜったいにありませんでした。彼女の夫が離婚に応じないことがわかっていたからです。晴美はあるとき、冗談とも真面目《まじめ》ともつかない口調で、「佐久間が死んでくれれば、私たちは結婚できるのに」と嘆いたことがあります。彼女はそのとき自分で言っておきながら、自分のなにげない発想にひどく愕《おどろ》いたような顔をしました。あのときから、彼女の夫に対する殺意は、徐々に固まっていったようです。しかし、彼女が夫を殺すことはできません。そんなことをすれば、彼女は殺人犯として捕まり、私たちの結婚の可能性は、ますますなくなってしまいます。
ところがある日、晴美は途方もない考えを抱きました。
「佐久間に、子供を轢《ひ》かれた医者が市内に住んでいる。彼はきっと佐久間を殺したいほど憎んでいるにちがいない」と言うのです。最初は何を言っているのか、意味がわかりませんでした。
ところが話を聞いているうちに、晴美が「その医者は催眠術の名人らしい。彼にいかにも催眠術をかけられたふりをして、佐久間を殺してしまえば、催眠中の行為だから、心神喪失≠ニして罰せられずにすむだろう」と考えていることがわかりました。「もともと医者には、佐久間を怨む理由があるのだから、自分は疑われずに、医者が罪をかぶってくれる。そうすれば佐久間の財産を無傷で相続できる」とも言いました。
私はそのときなんとなくいやな予感を覚えました。だいたい催眠術などという、なんだか得体のしれないものを利用して、そんなにコトがうまくいくはずがないと思いました。それに晴美自身の手が血で汚されることは同じです。
私はそんな凶悪なことを彼女にさせたくありませんでした。ところが晴美は、「これ以外に自分たちが一緒になれる方法はない」と言いました。私はけっきょくその言葉に押しきられてしまったのです。
晴美は計画どおり、夫を殺しました。しかしそのころから彼女の人格に変化がおこっていました。晴美は、催眠術を利用しようとして、実はそれに逆に利用されてしまったのです。医者に操られる意志のふりをして、医者に罪を着せるために、自分の意志で夫を殺そうとしたところが、完全に医者に意志を支配されてしまったのでした。彼女は催眠術をみくびっていたのです。
最初刑事さんから取調べを受けたとき、立川の存在を黙秘したのは、晴美の殺意を隠すためでした。しかし、そのときは手遅れで、私を愛するあまり、恐ろしい殺人までした佐久間晴美の人格は、完全に崩壊して、催眠術者に心身を支配された人形になっていたのです。いや、人形ならばあきらめもつきます。彼女は何度も立川から催眠をかけられているあいだに、しだいに彼を全身で愛するようになったのです。彼女はもはや私に、物を見るような目すら投げなくなりました。
晴美は、犯行後だれかに電話をかけて「幸福」だと言ったそうですが、それはまさしく立川に呼びかけたものであり、彼女の心は、まさに幸福そのものであったにちがいありません。
晴美の心の中は、立川だけで占められておりました。私のための余地など、まったくありません。彼女の胸から立川を駆逐して、ふたたび私のためのスペースを取り戻すためには立川の催眠から醒《さ》ます以外にありません。そしてそのためには、彼を殺す以外にないと考えたのです。
立川の家の裏口は、鍵がチャチだったので侵入は簡単でした。立川は、まことにあっけなく死んでくれました。彼が死んだあと、晴美と私との仲が永久に終わったことに気がつきました。本当にとんでもないことをしたと後悔しております。――
16
宮川教授の鑑定によって、佐久間晴美は、犯行時、深い夢中遊行《トランス》状態にあったことがわかった。
しかしたとえそうであったにせよ、催眠術を利用して夫を殺そうと決意したときは正気である。彼女は、あくまで自分の意志で立川に近づいていったのだ。
これは罪をのがれるために、犯罪を実行する前に酒を飲んだりして、一時的な心神喪失状態をつくりだすのと同じである。
酒を飲むときは、正気なのだから、けっきょく責任があることになる。刑法ではこれを「原因において自由な行為」として刑罰を科するに適当としている。
佐久間晴美の場合は、これに別の人間の殺意が加わった。それも晴美の意志を微塵《みじん》に打ち砕いて、原形を残さぬまでにしたあとに、催眠という現代の妖術《ようじゆつ》をもって、他人の人格の根底に、どっしりと自己の殺意を据《す》えたのである。
この場合でも、原因において自由な行為として罰せられるであろうか?
酒を飲んで酔っぱらったうえでの殺人でも、それは、あくまでも本人の意志の変形したものである。しかし晴美の場合、本人の意志によってはじめたことではあっても、途中で完全に崩壊して、原体《オリジナル》はまったく残っていないのだ。
裁判所も軽々《けいけい》に判断を下せないであろう。
宮川教授は、鑑定のあと、憮然《ぶぜん》としたおももちでつけ加えた。
「佐久間晴美の法律的な責任の有無およびその程度の判断は、専門家に任せる。しかしこの事件には三つの殺人があったことを忘れてはならない。
一つは佐久間宗一、二つめは立川力松、そして三つめは佐久間晴美の人格に対する殺人である、佐久間晴美はもともと犯罪者的素地を持っていたところに、反復継続的に暗示を与えられて、しだいにその人格を破壊されていったのだ。彼女はもはや佐久間晴美ではない。立川力松の人格が変換したものである」
晴美は法律の判断が下される前に、精神病院へ送られた。ちょうど二十五歳の誕生日を迎えた日である。
病院行きの車に乗せられたとき、彼女はにっこりと嬉《うれ》しそうに笑って、
「幸福《しあわせ》だわ」とつぶやいた。
[#改ページ]
精神分裂殺人事件
1
「あら! 私、瞬間湯沸器の点火栓《スイツチ》を、消してきたかしら?」
バス停のすぐそばまで来て、妻の志保子《しほこ》はふと思い出したようにつぶやいた。
「おい、冗談じゃないぞ」
彼女の前を一、二歩あるいていた大原《おおはら》は、耳敏《みみざと》くそのつぶやきを聞きとがめ、顔色を変えて振り向いた。それを見て「しまった!」というような表情をした志保子は、
「大丈夫よ、たしかに消したわ。私、なにかと勘ちがいしたのよ」
「なんと勘ちがいしたんだ?」
「なんでもないわよ、さ、もうバスが来るわ」
「もう一度見なおしたほうが、いいんじゃないのか」
「なに言ってんのよ。もう時間がないわ」
志保子は腕時計を覗《のぞ》いた。
「きみ、ここで待っていてくれ。ちょいと行って見てくる」
「あなた、遅れるったら!」
妻があわてて呼びとめたときは、大原はいま出て来たばかりの自宅へ向かって駆けだしていた。
大原|昇《のぼる》には、幼いときから、精神分裂病的な強迫症状があった。自分が決めた一定の順序やルールを大人が無意識に破ると、猛烈に怒り狂う。オモチャの置場所がわずか違ってもいけない。登校前の洗面や食事の手順が少しでも狂うと、もう一度寝巻きに着なおして起床からやりなおす。
大学へ通うようになって、下宿すると、下宿を出るときには電気ストーブの点火栓《スイツチ》をつけたり消したりしたあげく、どうしても、完全に消した確信が得られずに、そのそばにすわりこんでしまうことが何度もあった。
それでもけっきょく、下宿から出るが、今度は出先で、たしかに消したはずのストーブを、消さなかったような気がしてきて、下宿に電話をかける。大家《おおや》に知られると、追い出される口実にされるので、隣室に下宿している同じ大学の同年の友人、木村民男《きむらたみお》に見てもらう。
木村が「たしかに消えてる」と答えると、
「おまえは本当に見てくれたのか?」と疑う。
少しするとまた木村を呼びだして、
「だれかほかのやつがいたずらをして、消したスイッチをつけたような気がするから、もう一度見てくれ」と頼む。
そんなことが三回も四回も繰り返されるので、さすがに温厚な木村も、
「いいかげんにしろ」と怒ってしまう。
新聞で、電車の吊《つ》り皮とか、デパートのエスカレーターの手摺《てすり》などは黴菌《ばいきん》の巣窟《そうくつ》だという記事を読んでから、不潔ノイローゼ≠ノなった。周囲のものことごとくが汚なく見えてしかたがない。手を洗っても洗っても、黴菌が落ちないような気がする。
ともかくいちおう満足して、水道の栓《コツク》を止めると、今度はその栓に黴菌がついているような気がして、また洗う。タオルで手を拭《ふ》く。タオルが汚れているように思えてまた洗いなおす。こうして一時間でも二時間でも手を洗いつづけて、しまいには手の皮が白くふやけてしまうのである。
大原自身が馬鹿らしいことだと気づいていながら、本人にもどうにもならないのだ。
大原の生家が埼玉県T市の旧家で、両親が非常に厳格にしつけたために、分裂病の病前性格ともいうべき、劣等感の強い内閉的な性格が形成された。
大原の父親自身が、現実への柔軟な適応を欠いた、偏狭で杓子定規《しやくしじようぎ》的な、分裂性性格の人間であったのである。
しかし大学を出て、就職すると、大原の症状も急速に軽快した。
病的に几帳面《きちようめん》な性格は、成績には有利に働いて、就職にあたっては一流会社へはいれた。これによって、彼に多少の自信がついて、症状の軽減に役立ったようである.
彼は勤め先で、宗田《むねだ》志保子を知った。目が少し吊り気味で、下顎《したあご》が張って気の強そうな顔だったが、頭は抜群によかった。仕事はばりばりやって、部内では「女史」と呼ばれている。
こういうといかにもごつごつした女を感じさせるが、体の線に甘くふくよかなふくらみがある。また気の強そうな顔も、ヘアスタイルの工夫で、むしろ凜々《りり》しい面立《おもだ》ちになった。
女子高校を出て、すぐに入社した志保子は、大原よりも一歳年下であったが、社歴は三年先輩だった。
二人の仕事が密接していたので、大原は志保子から当面の実務をいろいろと教わることになった。
志保子は、大原を手取り足取るようにして教えてくれた。
「なんだ、女史はこのごろすっかり大原君の世話女房みたいになってしまったじゃないか」
と部内からひやかされるほどに志保子は、大原の面倒をみてくれた。
彼の感謝の念は、すみやかに、女へ向ける男の感情に転化した。もともと大原には、厳格な家庭に育って、母親の愛情に餓《う》えていたようなところがある。また志保子は、大勢の弟妹を持つ長女として生まれた関係から、男を弟のようにリードして世話をするのが好きだった。大原は一つ年長だが、彼女にしてみれば、年下のような気がした。
彼らがすみやかに接近したのは、それだけの性格や環境の素地《したじ》があったわけである。
2
新婚旅行の初夜から、大原は志保子にイニシアチヴを取られっぱなしだった。
童貞だった大原は、およそ見当ちがいの動作を、法律的に自分のものとした女体に加えた。
「ちがうわ、そこじゃないわよ」
志保子は痛そうに眉《まゆ》をしかめて、大原に聞こえないように、「下手《へた》な人」とつぶやいた。
今まで彼女が秘密に交渉をもった何人かの男たちは、けっしてこんな稚拙な動きをしなかった。
まあ、これはこれで、夫となった男の純真さを示すもので、微笑《ほほえ》ましいことだったが、それにしてもなんとまあ!
けっきょく、志保子が、手を添えてやって、ようやく第一回の導入を果たしたのである。
甘えん坊の夫と、男まさりの妻。これはうまくいくように見えたが、事実は逆になった。
志保子は、主婦の座につくと姉《あね》さん女房ぶり≠発揮して、ことごとに大原を支配しようとした。食事も志保子の好みに統一され、テレビの選局権まで、彼女に奪われた。
大原の趣味は少ないが、わりあいハイブラウである。音楽もクラシックファンだ。ところが志保子は「女史」の体裁に似合わず、歌謡曲や演歌が好きである。
したがって、海外からめったに聴くチャンスのない名演奏家やオーケストラが来て、テレビ出演するときも、お涙ちょうだいの演歌を聴かされることになる。
そのくせときたま、お休み前のナイトショーや、艶笑《えんしよう》落語を愉《たの》しんでいると、
「あなたの趣味って、下劣なのね」
と言われた。
入社早々、職場の先輩として、親切に指導してくれた志保子は、妻となると、内助の功どころか、何かにつけて夫と競争して、彼を打ちひしぎ、男としての夫の面目を失わせるようなことばかりした。
「あなたって、だめねえ」
というのが、いつの間にか、志保子の口ぐせになっていた。彼女にしてみれば、悪気《わるぎ》で言っているわけではない。弱気の夫を発奮させるための気合≠フようなつもりなのだが、これがますます大原のコンプレックスを深めていることに気がつかない。
彼らは結婚と同時に、都心から一時間ほどの神奈川県下の団地に入居した。
「私、結婚と同時に家に閉じこもるなんて、いやよ」
と志保子が主張したので、経済的な必要はなかったが、当分|共稼《ともかせ》ぎをすることになった。会社だけはいちおう別のところに変わった。
内にとどまって家庭を支えるべき妻が外に出ているのだから、当然家庭は荒廃する。それは彼女の給料ではぜったいに償えない欠損である。
また大原が子供を欲しがっても、
「子供に隷属して女の最も実り多い時期を過ごすのは、まっぴらだわ。当分子供は産みたくないの」
と頑《がん》として、大原の要求を拒《は》ねつけた。避妊処置も神経質なほどに何重にも施した。
体温とオギノ式計算によって、安全期間≠割りだしたうえに、錠剤とゴムで、二重三重の構えをとる。
一度、安全期間に大原が避妊具をつけずに交接したところ、終わったあと猛烈な勢いで大原の体を押しのけて、浴室へとびこみ、シャワーで洗滌《せんじよう》したものである。
彼は、その音を侘《わび》しく聞きながら、自分がいま交渉した女は、妻なのか、娼婦《しようふ》なのかと疑ったほどであった。
このころから、大原に例の強迫症状がよみがえってきた。
今日、久しぶりの休日に、あるデパートでやっているヨーロッパから来た名画展を見に行こうとしたところ、志保子が、なに思ったのか、一緒に行きたいと言いだした。
断わるべき適当な口実もないので、大原はふしょうぶしょうにうなずいたのだが、バス停まで来て、ふと彼女がつぶやいた言葉は、たちまち大原の強迫観念を誘発した。
いま出て来たばかりの我が家へ戻って、湯沸器を見ると、点火栓《スイツチ》は閉まっていた。
だが大原は、それをいったん点火にしてから、改めて閉じたのである。
「ガスは元栓《もとせん》を閉めただろうか?」
玄関を出かかると、次の疑惑が頭をもたげた。こうなると、もういけない。
「勝手口の鍵《かぎ》はかけたか?」
「テレビは消したろうか?」
「風呂《ふろ》場の水道は止めてあるか?」
次々に心配になってきて、もう一度改めて点検しなければ、気がすまなくなった。
おかげで名画展に遅れて、入場するのにえらく骨を折ってしまった。せっかく入場してからも、志保子がうるさくまつわりついて、ゆっくり鑑賞できなかった。
その夜大原は、志保子に挑《いど》まれた。名画展の雑踏にもみしだかれて、彼は疲労|困憊《こんぱい》していた。とてもそんな気になれなかったが、挑まれて応じられないとなると、ますます妻の軽蔑《けいべつ》をかいそうになるので、無理をして自分を奮い立たせた。
その夜彼女は、何に興奮したのか、いつもとは異なった体位を求めた。もともと気の進まなかった大原は、無理な姿勢に耐えられずにみるみる萎《な》えた。
志保子は、いろいろと工夫して、彼をもう一度可能な状態に戻そうとしたが、彼女の工夫が大原のいや気をますます誘って、ついによみがえらずに終わった。
「あなたって、なにをさせても、だめなのねえ」
志保子は欲求不満を剥《む》き出しにして言った。今まで彼女は、閨房《けいぼう》の中では、その言葉を言わなかった。それが男を本当にだめにする禁句であることを知っていたからである。
それが体に点火されたまま、不完全燃焼の状態で放り出された不満から、ついこの禁句を吐いてしまったのである。
以来、大原は性交不能に陥ってしまった。
3
志保子という女は心から意地の悪い女だった。
大原の唯一の趣味である名画見学も、彼の強迫観念を知っていて故意に彼女が誘発して遅らせたのである。
たとえばこんなことがあった。大原はゴキブリが大きらいである。あの長い触角を振り立てた茶羽色の虫体を見ると、嫌悪《けんお》のあまり貧血するくらいだ。
それがある日、彼のベッドのそばに五、六匹かたまってうごめいていた。
彼が殺されかかったような悲鳴をあげて、妻を呼ぶと、
「なによう、男のくせにだらしないわね。新製品のゴキブリトラップを買って来たのよ。よくかかるわね」
と嘲笑《あざわら》うように言って、ゴキブリのはいった虫カゴのようなものを持ち去っていった。彼女は、大原のゴキブリぎらいを知っていながら、ゴキブリ取りを彼の寝床の近くに仕掛けたのである。
意地悪は彼一人に対してだけではない。お菓子を買って来て、近所の子供たちを呼んで分けてやる。そこまではよい。だが最後に一人分だけ、故意に不足するように分けるのだ。
「ごめんね、あなたの分はなくなっちゃったのよ」
とうす笑いしながら、一人だけもらい損ねた子供の顔を覗《のぞ》きこむ。彼女は子供の心を傷つけて愉しんでいるのだった。
もともと潜在していた底意地の悪さが、性的な欲求不満を償うために、表面に押し出されてきたのである。
だが志保子は離婚を申し出なかった。
「おれは、もう男として役立たずになっちゃったんだから、離婚してやりなおしたら。きみはまだじゅうぶん若いんだ」
と大原が言っても、
「なに言ってんのよ。あなたの不能は一時的なものよ。焦らずにゆっくりやれば必ず癒《なお》るわ。気にしない、気にしない」
と受けつけなかった。志保子の魂胆は見え透いている。彼女が大原を愛していて、離婚に応じないのではないことは、明らかであった。
彼女は、大原の財産を狙《ねら》っているのである。彼の生家は、T市の郊外に広大な山林と土地を所有している。従来は大した地価ではなかったが、首都圏のベッドタウンとして市周辺が脚光を浴びてから、数十倍に値上がりした。
生家の保有する不動産評価額は、少なめに見積もっても、十億円近くとされている。
大原は、この家の次男坊だった。生家は長男が継いで資産を管理している。彼には多少の土地が分けてもらえるはずであった。
ところが事情が変わった。長男がガンになって急死したのである。他に兄弟はない。長男に子供もない。彼はこの莫大《ばくだい》な財産を、兄嫁の取り分を除いて三分の一を相続することになったのである。兄嫁に三分の二も取られたのは残念だったが、三分の一でも三億円以上である。
それが、いま離婚すれば、雀《すずめ》の涙の慰謝料でごまかされてしまう。三億円の資産家の妻という地位は、めったなことでは捨てられるものではない。夫の代わりはいくらでもあっても、三億円の代わりはないのである。
大原は、志保子の魂胆が見え透いているだけに、ますます彼女がきらいになった。
「おれが不能になったのは、あいつのせいだ。他の女ならば可能かもしれない」
と思って志保子に内緒で、何度か浮気を試みた。しかしいつも肝心なときになると、妻の「あんたってだめねえ」という言葉が、耳によみがえってきて、本当に不能《だめ》になってしまうのである。
「あいつと離婚しないかぎり、おれの不能は癒《なお》らない」
と大原は思うにいたった。それに、愛情の一片もない、財産目当ての妻に、先祖が残してくれた貴い遺産を分けてはならない。そのためにも離婚しなければならない。
しかし志保子に現在不貞を働いている様子はない。
彼女のほうから離婚を請求していないのだから、当面の口実もない。
大原は思いあまって弁護士に相談した。
「そうですな」
弁護士は、首をかしげて、
「奥さんが、離婚に合意しないかぎり、あなたの場合はむずかしいですな」
「性交不能ということは、結婚生活を継続しがたい重大な理由ということになりませんか?」
「法律でいう性交不能というのは、男性の性的無能力や巨根、女性の膣《ちつ》欠損症などの先天的性器障害、その他一方的な異常性愛の強要、つまり、相手の合意を得ないサド、マゾ行為ですな。まあこういうことが性交不能として、『重大な理由』にあげられるのですが……」
「それでは、私はあてはまるわけですね」
「まあこれは医者の分野にはいることですが、あなたの性交不能というのは、後天的なもので、精神的原因による一時的な症状のようです。治療が可能な場合は、離婚は認められませんね」
「しかし妻は私に愛情をまったく持っておりません。私の相続財産だけが目当てなのです」
「愛情は二人だけの問題で、法律は立ち入れませんからね、あなたは愛していないと言い張っても、奥さんが愛しているんだと言えば、それを信ずる以外にありませんよ。だいたい日本の民法は、離婚に消極的で、いったん結婚した男女は、なかなか別れさせないようにしておりますのでね」
けっきょく、志保子のほうから離婚を合意か請求しないかぎり、彼女が不貞でも働かなければ、大原の側からは離婚できないということがわかった。弁護士は最後に医者に診てもらうようにとすすめた。
三億円の財産をかかえた男の妻として、志保子が離婚に同意するはずがない。
残る唯一の頼みは、彼女の浮気の現場をつかむことである。配偶者の現在の不貞は、裁判上の離婚の原因になる。彼女は、大原の不能によって、性的にはかなり餓えているはずだった。
しかし、志保子は、三億円を前にして、そんなボロを出すような女ではなかった。いちじ興信所を使って行動調査をさせたが、怪しい点は少しもなかった。
大原は乗り物に乗ることに強い恐怖を覚えるようになった。
駅へ来る。乗るべき電車がホームにはいって来る。突然彼はその電車が、脱線したり衝突するのではないかという強い恐怖感を覚えるのである。
大原は、目をつむるようにして、とにかく電車へ乗りこんだ。乗ったときすでに百パーセント近かった乗車効率は、都心のターミナルへ近づくにつれて、定員の三倍以上もつめこまれて、「立錐《りつすい》の余地もない」といった状態になる。
しかしべつに珍しくもない、いつもながらの通勤電車内の現象であった。それだけの混雑の中にありながら、車内は静かだった。いずれも身動きできない満員すし詰めの走る密室の中で、じっとこの苦役≠ノ耐えている。
耐えているというよりは、あきらめきっていると言ったほうが正確かもしれない。どんなに文句を言っても、あがいても、電車が終点に着かないことにはどうにもならない。
乗客は、そういうあきらめの姿勢が、今日一日の労働のためのエネルギーを最も失わないということを知っているようであった。
彼らに周囲をぎっしりと囲まれて電車の動揺に身を任せていると、急に、いいしれぬ恐怖が大原に衝《つ》き上げてきた。
――こいつら、人間ではない!――
能面をつけたロボットが、まわりから彼の一挙手一投足をじっとにらんでいた。
「たすけてくれ!」
大原はいきなり叫んだ。
「どうしたのよ」
そばにいた志保子が愕《おどろ》いて聞いた。頬《ほお》が少し紅潮しているのは、自分の連れが、急に気ちがいじみた叫び声をあげたので、恥ずかしかったのである。
「みんながおれをにらんでいる。こいつら気ちがいだ。おれを殺そうとしている」
大原は叫びつづけた。「立錐の余地もなかった」はずの車内が、大原を中心にして半径一メートルほどの空間をあけた。
「なんだ、どうしたんだ?」
「気がおかしくなったらしい」
静かだった乗客のあいだにざわめきがおきた。「あなた、おねがい! みっともないから静かにしてよ」
大原と一緒に円の中心に残された志保子は、彼の身を案ずるよりも、恥ずかしさに身を竦《すく》めて、彼に訴えた。
「おい、降ろしてくれ、おれをこの電車から出してくれ! さもないとおれはこいつらに殺されてしまう」
大原はわめきつづけた。
4
医師から、軽い不安神経症と診断された大原は、一週間の静養を言いわたされた。
電車に乗りさえしなければ、彼の症状は出なかったのだから、会社ノイローゼ≠フ一種にはちがいない。
大原のようなタイプの症状が、サラリーマンのあいだに激増しているために、医者は、大原の分裂病の症状を軽く見過ごしてしまったのである。
ほぼ時を同じくして、大原の憔悴《しようすい》が激しくなった。まず食欲がなくなり、何をするにも気だるい全身の倦怠《けんたい》感を覚えるようになった。
最初のあいだは、大原も「不安神経症」によるものと考えていた。ところがそのうちに胃のあたりに激痛を覚えるようになった。食後一、二時間すると、錐《きり》をもみこまれるような鋭い痛みが起きる。
その他強いむねやけや、酸っぱいおくびがしきりにあった。ときたま食欲のおきることもあったが、食後の痛みを考えると、つい食事の量をひかえてしまうので、痛みはますます激しくなった。
もはや妻とのセックスは、精神的だけでなく、肉体的にも不能になりつつあった。
「あなたって、いつもどこかが具合が悪いのね」
志保子は鼻の頭にしわを寄せて嘲笑《あざわら》った。例の事件があって以来、彼女は大原とぜったいに一緒に外出しなくなった。
「もしかしたら、ガンかもしれない」
「まさか!」
志保子は、頭から取り合わない態度を示したが、もしそうであったらありがたいといった表情がチラリと走ったのを、大原は見のがさなかった。
すでに相続は開始している。いま大原が死ねば、彼が相続した三億円の資産は、そっくり志保子のものになる。彼女が言った「まさか」には、否定ではなく、確率のうすい可能性に向けた願望がこめられていたのだ。
「いや、この痛みは、まさにガンの痛みだ」
大原は、志保子の表情をうかがいながら、言った。
「あなた、ガンの痛み知ってるの?」
「いや、人から聞いたんだ」
「だったらそんなこと、わかるわけないじゃない」
「うちの家系にガンは多いんだ。現に親父も兄貴もガンで死んでいる」
「ガンは遺伝しないっていうわ」
「ガンそのものは遺伝しなくとも、ガン体質は遺伝するそうだよ」
「それなら、素人《しろうと》考えで、ひとり心配しているより、ちゃんとした医者に診てもらえばいいじゃないの」
志保子は急に真剣な顔つきになった。彼女にとってもこの診断は、非常に重大な結果をもたらすことに気がついたのである。
そう言われてみれば、ここのところの大原の憔悴ぶりは、異常である。単に気のせいではかたづけられないほどに肉が落ちてきた。
大原が本当にガンになってくれたら、どんなに嬉《うれ》しいことか。三億円を手にして、天下晴れて、好きな男をより取り見取りできる。
大原の不能によって、志保子の性的欲求不満は堆積《たいせき》されている。しかしこの大切な時期に浮気をして、離婚原因をつくれば、せっかく目前にした三億円が、ふい[#「ふい」に傍点]になる。
だから歯を食いしばるようにして、かたく身を律してきた。
彼さえ死んでくれたら、この尼僧のような生活ともおさらばだ。
「とにかく、ひとりでくよくよ心配していてもはじまらないわ。一日も早く医者に診てもらわなければだめよ。私、いい医者を知ってるわ」
「うん、そのうちに行ってみよう」
大原はなま返事をした。彼は実は医者へ行くのが恐《こわ》いのである。ガンを宣告されたときの自分を想像するだけで、体が竦《すく》んだ。
だがそのうちに苦痛が、恐怖に先行するようになった。胃部に感じる痛みは、医者へ行くのが恐いなどと言っていられないほど、増大してきたのである。
「志保子、おまえ、いい医者を知っていると言ったな」
大原は、ついに苦痛に耐えかねて、志保子に言った。
「ええ、女学校時代のお友だちのご主人で、消化器病の専門医よ」
「その人を紹介してくれないか」
「やっと診てもらう気になったのね」
志保子はうすく笑った。夫の苦痛を愉しんでいるような笑いであった。
できることなら志保子の紹介する医者などにはかかりたくない。だがとりあえず知り合いの医者はいない。友人にたずねるのも億劫《おつくう》なほど、痛みは急迫している。
医者がフリーの患者よりも、しっかりした紹介のある患者のほうをよく診てくれるのは常識になっている。
大原が志保子に紹介を頼んだのは、それだけ彼の症状が、切羽つまったことを示していた。
志保子が紹介してくれた野田《のだ》胃腸病院は、彼らが住む同じ神奈川県K市の郊外にあった。多摩《たま》川をへだてて東京に隣接するこの区域は、すべてが東京に傾斜していて、住人の大半も東京に職を持つサラリーマンである。
地元に対する愛着などは、ひとかけらもない。住所は寝るだけの場所にすぎず、生活の拠点は東京にある。したがって買物や用事がある場合は、すべて東京で用を足す。
そういう環境の中で野田胃腸病院は、住人を吸収するだけでなく、逆に都内から患者を引きつけていた。
腕と評判にそれだけのものがあったのである。小田急線M遊園駅で降りて、西部劇の書割りのようなチャチな駅前通りを抜け、高台のほうへ向かう。
東京方面の展望の開けた多摩丘陵の中腹に、野田胃腸病院の建物はあった。四階建てのかなり大きなビルで、まさに大病院の風格がある。
小さな個人病院を想像してきた大原は、病院の入口で足を少しためらわせた。立派さに気押《けお》されたのではなく、大病院にありがちな煩雑な手つづきを惧《おそ》れたのである。
大原は、ガンを恐れながらも、まさか自分がガンだとは思っていなかった。だからあまり大げさなことは、してもらいたくない。
とにかく中へはいると、今度は待っている患者の数に驚いた。かなり広い待合室にはいりきれず、椅子《いす》にアブレた患者は、立って自分の順番を待っている。
「これは待たされるぞ」
彼はそれだけで憂鬱《ゆううつ》が増した。しかし受付に名前を通すと、ほとんど待つ間もなく診察室へ通された。やはり志保子の紹介がきいたらしい。
「院長が直接診察いたします」
診察室の手前の小部屋で、まず看護婦が大原の訴えを要領よく聞く。カルテと一緒に送られた診察室の中で野田院長は待っていた。
やせて彫りの深いなかなかのハンサムである。院長というからもっと年輩の人間を予想していた大原は、相手の若さに驚いた。
大原とほぼ同年輩か、あるいは、もっと若いかもしれない。もっとも志保子の友人の亭主《ていしゆ》だというから、大原と同じ年格好でも不思議はない。
「大原昇さんですね」
野田はカルテから目を上げた。目と眉《まゆ》の間のせまった、いかにも鋭そうなマスクである。
野田はカルテにもとづいてさらに詳しい問診をしたのち、大原に上半身裸になるように命じて慎重に触診した。
「先生、いかがでしょう?」
ひととおり診おわった野田に、大原はおずおずとたずねた。
「そうですな」
野田は言葉を選んでいるようである。その気配だけで、大原の心配は爆発しそうになった。なんでもなければ、言葉を選ぶ必要はないはずである。
「胃のあたりに何かあるようですが、外から触《さわ》っただけですから、はっきりわかりません」
「な、何かあるというと、シコリのようなものでしょうか?」
大原は絶望のあまり視野が暗くなった。
「はっきりわからないと申し上げたでしょう。まあこれからカメラを入れたり、組織の検査をしてみないことには、結論は出せませんね。明日エックス線や尿の検査をいたしますから、これから看護婦の説明する注意を守るように」
野田は次の患者を呼び入れるように看護婦に命じた。大原は打ちのめされたまま、診察室を出なければならなかった。
これ以上いくら野田に食いさがっても、明言はしてくれないだろう。精密検査をしないかぎり、彼自身にも明言できないことかもしれない。しかし、彼が言った胃のあたりにある「何か」とは何か?
その正体がはっきりされるまで、患者の置かれる宙ぶらりんの苦しみは、まさに地獄そのものである。
「もしかしたら、おれはもう手遅れじゃないだろうか?」
ガンが外から見えたり、手で触れられるようになったら、すでに手遅れだという話を聞いたことがあったのを思い出した。
「野田が触れた何かは、ガンのしこりにちがいない。とするとおれは……」
病院からの帰途、大原はどこをどう歩いて駅まで来たか、まったく覚えがなかった。行く先もたしかめずに、来た電車に乗りこんだ。
中途半端な時間だったので、車内は空《す》いていた。
「野田が触ったところは、どのあたりだろうか? このへんか? いやもっとこっちだったようだ」
電車の中で大原は人目もかまわずシャツとズボンの合わせ目から手をさし入れて、腹のあたりをさぐった。
とくにしこりのようなものは、感じられない。しかし専門医の指には、異状の触感が伝わるのであろう。
目を宙にすえて、何かぶつぶつつぶやきながら下腹をなでさすっている大原に、近くにすわっていた乗客は気味悪くなったらしく、そっと席を移した。
「どうだったの?」
死人のような顔をして帰宅した大原に、彼の答えを予測したような表情で志保子がたずねた。
「何か腹のあたりにあるそうだ」
「あら大変!」
と言ってから、志保子はあわてて心配そうな顔つきをして、
「でもまだ、決まったわけじゃないんでしょう?」
「決まる? 何が」
「そのう、診断のことよ」
「それはこれからレントゲンだのなんだのと精密検査をしたうえでないと、はっきり診断はおりない」
「だったら、そんなに心配することはないわよ、きっと軽い胃潰瘍《いかいよう》よ。あなたは神経質すぎるのよ」
「これが心配せずにいられるか。おまえはおれが死んだらさぞせいせいするだろうがね」
「馬鹿なこと言わないで! 怒るわよ」
志保子は本当に顔色を変えた。大原はそれを本心を見通されたためだと解釈した。
数日間、精密検査に野田胃腸病院へ通ったのち、診断がくだった。
その日彼は一人で行く勇気がなかった。志保子に一緒に行ってくれと頼むと、
「まるで子供みたいね」
と笑ったが、それでもついてきてくれた。まったく信頼も愛情もない妻だが、このような場合、とりあえず頼れる身近な存在は、妻以外にはない。
病院へ向かう途中、大原はすでにガンを宣告された人間のような顔をしていた。
病院へ着くと、すぐに診察室へ通された。
「やっと結果が出ましたよ」
野田はにこにこして大原を迎えた。
「軽い胃潰瘍をおこしかけてますね。切る必要はないでしょう。内科的治療でじゅうぶんに癒《なお》ります」
「胃潰瘍ですって」
大原は暗黒の視野に日の光が射しこんできたように感じた。
「組織検査をしてもガン細胞は発見されません。しかしこれに安心して暴飲暴食はいけませんよ。潰瘍をおこしかけていることは、まちがいないのですから。おどかすわけじゃありませんが、慢性潰瘍からガンに変性するケースは多いのです。精神の緊張をなるべく避けて、感情のもつれなどは、努めて無いようにすることです」
「先生、本当に有難うございました。これにこりて、今後は諸事節制するつもりです」
大原は、喜びのあまり診察室から出るとき、足が地につかない。死刑を言い渡された囚人が、突然無罪放免になったような気分であろう。
「お薬をお渡ししますから、お連れの方をよこしてください」
看護婦がつけ加えた言葉すら、大原はよく聞いていなかった。
5
きっかけというのは、おもしろいもので、ガンの恐怖から解放された大原は、胃の苦痛もなくなり、長いあいだの不能からも、立ちなおった。
その夜、彼は寝室の中で突然可能な状態になった。自分自身もその変異≠信じられない気持ちで、志保子に挑《いど》んだ。
「まあ、あなたったら、いったいどうしたの?」
志保子も驚きながらも、絶えて久しぶりのことに、おっかなびっくりに体を開いた。今までもどうかしたはずみに、多少可能へ近い状態を呈することはあった。しかし導入の構えをとっているあいだに萎《な》えてしまった。
このような場合、男にとって焦りと、前と同じようにまただめになるのではないかという不安が、最大の敵となる。
だが、今夜の大原には、ガンの恐怖から解放された喜びがあった。その喜びが、精神的な不能の原因を取り除いた。
「まあ、あなたったら、まあ」
少しも硬直の度合いをゆるめずに侵入して来た夫の体に、志保子は喜悦の声をあげた。
侵《はい》り終わってから大原は、自分が不能から完全に脱していることを悟った。今までの不能による断絶を取り戻すような勢いで、彼は久しぶりの妻の体を責め苛《さいな》んだ。
「志保子、わかったか!」
「わかったわ」
大原の蹂躙《じゆうりん》に任せながら、今夜の志保子も、長かった餓《う》えを存分に充《み》たしていた。
その夜から、彼らのあいだに夫婦関係が復活した。肉体的なつながりが精神のつながりをもよみがえらせるのか、志保子の大原に対する態度が優しくなった。
今まで常に大原を見下していたようなところがなくなって、何かにつけて彼を立てるようになった。
そのためにかえって彼のほうが、めんくらうことがある。
たとえば、テレビ欄を見ていて、大原の好みそうな番組があると、
「あら今夜九時から×チャンネルで世界のオーケストラ≠やってるわ。今夜はフランスの××オーケストラよ」
と自分からすすめる。
「ちょうどその時間は、きみのすきな○○チャンネルの歌謡番組がはじまるんじやないのか」
「あら私なんかいいのよ。歌謡番組はいつでも聴けるけど、フランスのオーケストラは、このチャンスを逃がしたらなかなか聴けないもの」
「すまんなあ」
「何いってんのよ、あなたは私の大切な旦那《だんな》さまですもの。旦那さまの好みは妻の好みでもあるのよ」
また食事の献立てなども、極力、大原の好みに合わせて用意する。
「今夜はあなたの好きな水たきにするわ」
「しかしきみは、トリはきらいだったんだろう」
「このごろ好きになったのよ」
と、こういう調子である。
「あいつも、おれがガンになったかもしれないとおどかされて、急に亭主の価値を見なおしたのかもしれない」
大原は一人で悦にいった。
「志保子、おれ会社をやめようと思うんだが」
ガン騒動∴ネ来、会社は出たり、欠《やす》んだりである。三億の資産を持っているのだから、勤めをつづける必要はない。T市の生家からも、会社をやめて家へ帰るようにうるさく言ってきている。
ガン騒動の前には、持病の分裂病的ノイローゼで、かなりルーズな勤め方をしている。寛大な会社ではあるが、ようやく居辛《いづら》くなってきていた。
今までも何度かやめようとしたのだが、そのつど、志保子の猛烈な反対にあっていつも途中で沙汰《さた》やみになってしまった。
「今になって、田舎《いなか》へ行くなんて、ぜったいにいやよ。私、田舎のべたべたした人間関係は大きらい。一家|眷族《けんぞく》とのややこしいつき合いを考えるだけで、寒気がするわ」
と取りつくしまもなかった。
だが最近とみに態度を軟らかくしてきた志保子に、大原は沙汰|止《や》みにしていた話を恐る恐るむしかえした。
「それもいいわねえ」
志保子は拍子抜けするほどあっさりとうなずいた。会社をやめるということは、大原の生家に帰るということを意味しているのだ。
「きみ、本当にいいのか?」
大原はすぐには信じられなかった。
「いいも悪いもないわ。あなたがそうしたいなら、私はとめないわよ。考えてみれば繰り返しのきかない[#「繰り返しのきかない」に傍点]人生を、ままならない宮仕えで縛られることはないわね。私、賛成よ」
志保子は繰り返しがきかないという言葉を、なぜか強調して言った。
大原の胸にどすぐろい疑惑がわいたのは、そのときからである。
「このごろきみは、ちっともぼくの言うことに反対しないね」
「あら、そうかしら? 私、前そんなに反対した?」
「うん、いやそういうわけじゃないが、なんでもぼくの言うことを聞いてくれるので……」
「気味が悪いのね。じゃあ白状しちゃおうか」
「白状?」
「私、反省したのよ」
「反省、何を?」
「正直いって、私、今まであまりいい奥さんじゃなかったわ。あなたに病気の心配がおきて、初めてあなたの大切なことに気がついたのよ。あなたのいない私なんて考えられない。以前の私は、あまりにも自分のことばかり考えていたわ。だから私、あなたの病気がなんでもないとわかったとき決心したの。これからはあなたを中心にして生きようと。前の私はまちがっていたわ。今の私が本当なのよ」
「本当か」
「本当よ、信じて」
「よし信じる。だからきみもおれに本当のことを言ってくれ」
「これ以上の何を言えばいいの?」
「おれの病気は、本当に胃潰瘍だったのか? 実はガンじゃなかったのか?」
「まあ、あなたったら!」
「どうもおまえのこのごろの様子は、まるで客に接しているようだ」
「あなた!」
「ちょっとのあいだ滞在してすぐ帰って行ってしまう客をもてなすように、おれをチヤホヤしている。どうせ限られた寿命なのだから、好きなことをさせるようにと医者から言われたんじゃないのか」
「ひどい思い過ごしよ」
「そういえば、医者が診断を下したとき、あとでおまえだけが、薬が出るからという理由で診察室へ呼び戻されたな。そのときおれが、ガンだと告げられたんだろう」
「あなたって、いつの間にそんなに想像力がたくましくなったの? サラリーマンになるより、小説家になったほうがよかったみたい」
「話をちゃかさないでくれ。志保子、おねがいだ。本当のことを教えてくれ」
大原は妻の手をおさえて、上半身を揺すった。
「本当にも何も、あなたは胃潰瘍よ。それ以外のなんでもないわ」
「おれは本当のことを打ち明けられても、けっしてうろたえたりなどしない。だから教えてくれ。いつまでの命なんだ?」
「そんなに私の言うことが信じられないんだったら、ほかの医者に診てもらったら」
「どの医者に診せたって、患者に本当のことは教えないよ。だが真実を知りたいんだ」
「あなたは胃潰瘍よ。それも少し治療すれば癒る程度のもの」
「おまえにも医者にも、患者に真実を告げないということが、どんなに残酷なことかわかっていない。ガンならガンと言ってもらったほうがすっきりする。ガンかもしれないという恐怖に打ち震えながら、死期がいつ来るかいつ来るかと毎日を過ごしている患者の身にもなってくれ」
「そんなにガンになりたければ、ガンということにしたらどうなの。胃潰瘍も前ガン状態の一種にはちがいないそうだから」
それ以上大原がいくら問い詰めても、志保子から新しい情報を引きだすことはできなかった。
その夜から彼は、また不能に陥ってしまった。そればかりでなく胃部に痛みを覚えるようになった。それはガン細胞が全身に転移増殖するように、すみやかに広範な部分にひろがっていくようであった。
同時にしばらく鳴りをひそめていた感じの分裂病的症状が、また顕《あら》われてきた。夜よく眠れなくなり、体の部分に感電したような感覚を覚えることがある。
食事のときなど、必ず志保子に先に食べさせた。
「あなた、いったいどういうつもりなのよ!?」
ここのところ素直だった志保子が、腹にすえかねたように言うと、
「念のためさ」
「念のためって、どういうこと?」
「念のためは、念のためだ」
「私が毒でも入れたと思ってんのね」
「そう思いたければ思ってもいい」
そうかと思うと、二時間でも三時間でも鏡を見ているので、どうしたのかと聞くと、
「おれの鼻、おかしくはないか?」
「べつにどうもしてないわよ」
「少しずつ大きくなってくるような気がするんだ」
「まさか」
志保子が笑って相手にしないでいると、剃刀《かみそり》を持ち出してきて鼻の頭に押しあてようとした。
「危ないわ! いったいなんのつもりなの?」
「鼻が大きくなりすぎて、目のじゃまになるから、そぎ落とすんだ」
「あなた正気なの?」
志保子は、化け物でも見るような目をした。これはすでに単なるノイローゼ状態を越えていることを、ようやく悟ったのである。
だが、いつもこんな状態ばかりではなかった。
あい変わらずガンにおびえて、本当のことを打ち明けろと、志保子に迫る目の色は、真剣だった。
6
大原の体の症状は、ますます悪くなった。一時よくなったように見えた症状がぶりかえして、痛みや、時には便に血が混じることがあった。
食欲は完全に失われ、胃のあたりを押えると、何か全体にかたい感じがする。
彼は本屋から胃ガンに関する本を買ってきて、こっそりと読んだ。そこに記述されている胃ガンの症状には、あてはまるところもあり、あてはまらないものもあった。
が、とにかく胃ガンの症状に似たところがあるということは、大原に致命的なショックを与えた。
「おれはもうだめだ」
彼は簡単に結論を下した。もう会社どころではない。退職届は出していなかったが、もうやめたのも、同じことであった。
志保子も近いうちに退職する予定になっていたが、引き継ぎ事務があるとかでまだ出社している。
妻が出勤して留守のあいだ、大原はふと思いついたことがあった。彼は時計を眺《なが》めて、彼女が帰宅するまでまだ数時間あることを確かめた。
大原は、志保子の私物を入れてある箪笥《たんす》に近づいた。彼は、妻の私物の徹底的な検査をはじめたのである。
彼が探すものは、簡単に見つかった。上から二段めの小|抽斗《ひきだし》の中にネックレスやイアリングなどの装身具と一緒に、それはいとも無造作に入れてあった。
見つかるまでは、彼女が結婚と同時に持ってきた箪笥や戸棚《とだな》や小物入れのすべてをひっくりかえしてみるつもりだった大原は、求めるものがすぐ見つかったので、ちょっと拍子抜けがした。
それは日記帳であった。志保子には日記をつける習慣がある。日記は人に読まれることを意識してつけない。日記ならば彼女の本当の気持ちを偽りなく書きしるしてあるにちがいない。――と大原は思いついたのである。
当然そこには夫の病気に関する彼女の感情や、悲嘆あるいは喜び? などが書かれてあるはずであった。
黒いレザー表紙の、ポケット版の日記帳を手にした大原は、すぐにはそのページを開けることができなかった。
そこに自分の運命を宣告する言葉が、書きとめられてあるかもしれないのである。
思いきって当てずっぽうにページを開いた。
――×月×日、このごろ大原の憔悴《しようすい》が目だつ。どこか体のぐあいが悪いのか? そういえば食欲もめっきり減退してきた。一度医者にみせたほうが、いいのではないか――
問題の個所より少し前のページを繰ってしまったようである。さらに少し後方を開く。
――×月×日、大原はガンではないかなどと言いだした。ノイローゼもきわまった感がある。しかし現実に胃のあたりに痛みを覚えるらしいので、近いうちに野田先生のところへ診察に行かせよう。これ以上悪いところができては、困るから――
いよいよ問題のページに近づいてきたようである。彼は今度は目を閉じて、さらに後方のページを開いた。手探りだが、まずこのあたりに医者の(志保子に言った真実の)言葉が、書かれてあるはずである。
大原はなかなか目を開くことができなかった。しかし開かないことには、事態は一歩も進展しない。
彼は思いきって目を開いた。
――×月××日。私は今日ペンを取るのが辛《つら》い――
その文字が、まず凶器のように大原の目を突き刺した。なぜペンを持つのが辛いのか? その理由を大原が読みすすむのは、志保子がペンを取ったときの苦痛よりももっと辛かった。
だが彼は真実を知るためにはその先を読まなければならなかった。
――野田先生に精密検査の結果を聞いた大原は、晴ればれとした顔つきで診察室から出て来た。やはりなんでもなかったのだ。私も緊張から解放されて表情が弛《ゆる》むのを覚えた。
だがその直後に私だけ診察室へ呼ばれたとき、いやな予感がした。
野田先生は、そこに厳しい表情をして待っていた。
「奥さん、気をしっかり持ってくださいよ」
と言われたとき、「ああやっぱり」と、私は目の前がまっ暗になるのを感じた。大原は、悪性のガン細胞がすでに肺に転移していて手遅れだということである。
「せいぜい保《も》って七、八ヵ月」という野田先生の言葉だけが、いつまでもガァーンと私の耳の底に反響している。
「奥さん、しっかりしてください。ご主人には何も言ってない。あなたがそんな顔つきをしていたら、すぐに気取《けど》られてしまう。辛いことでしょうが、いつもと変わらない態度で接するのです。どうせあといくらもない寿命ですから、好きなことをさせてあげなさい」
呆然《ぼうぜん》自失している私を、野田先生は励ましてくれた。私はこれから、夫の残されたわずかな人生のために、必死の演技をつづけなければならないのだ――
まだ文章は纏綿《てんめん》とつづいていたが、大原はそれから先へ読みすすむ気力を失ってしまった。立っていられなくなって、その場にうずくまった。絶望のあまり視野が暗黒になったが、それもガンによる貧血が助長したような気がした。
「おれはやはりガンなんだ」
大原は目を虚《うつ》ろにみひらいてつぶやいた。彼の耳は、自身のつぶやきすら聞こえなかったのである。
7
「あまり馬鹿なことを考えるもんじゃない」
木村民男は笑った。笑いながらも、久しぶりに会った友人の、異常なばかりの憔悴ぶりに、一瞬ギョッとなったものである。
大学時代、同じ下宿に隣り合わせに住み、大原の分裂的性格にはずいぶん悩まされたものだが、いま会う彼は、その異常性格のせいだけではない、明らかな肉体的トラブルによるもののような憔悴が目だった。
「おれはガンなんだ」
といきなり言いだされても、木村がすぐに打ち消してやれなかったのは、そのためである。
「気休めは言わないでくれ。とにかくおれはあと何ヵ月も生きられない。女房は、表面は殊勝に振舞っているが、内心はおれの死ぬのを待っているんだ」
「まさか」
「ほんとだ。あいつおれの財産を狙《ねら》ってるんだよ。おれがもし死ななければ、毒を盛りかねない」
「おいおい、被害|妄想《もうそう》も度が過ぎるぜ」
木村は、旧友の分裂がかったところも、肉体の憔悴と比例して進行していることを認めないわけにはいかなくなった。
痩《や》せて頬骨《ほおぼね》の突き出た、骸骨《がいこつ》のような顔の中央でぎらぎら光っている大原の目は、どう見ても平常ではないような気がしてくる。
「いや妄想じゃない、あいつならやりかねない。いや必ずやる。おれには、夫婦として一緒に暮らしただけに、あいつの心の中が見えるんだ」
「そんな話だったら、おれはもう行くぞ」
木村は立ち上がるジェスチャーをした。ここは、地検の近くの喫茶店である。
木村は卒業と時を同じくして司法試験を通り、各地の地検を動いたのち、このK市の地検に来ていた。
どこでどう知ったのか、卒業以来会っていなかった大原が、突然訪ねて来て、彼もこの市に住んでいると言う。
木村は奇遇を喜んだが、考えてみれば、東京のベッドタウンとしてのK市に同学の友人が二人や三人いても、不思議はない。木村も、東京入りのレールとしてこの地検へ来たのである。
「ま、待ってくれ」
大原は慌てて引きとめた。
「今日ここへ来たのは、ちょっときみに相談したいことがあったんだ」
「法律問題か」
「まあそんなところだよ」
「言ってみたまえ」
同学の友も、長い断絶の時間をおいてから現われるのは、たいてい久闊《きゆうかつ》を叙すのが目的ではない。木村の場合、その職業がら、法律相談が多かった。
「もし、今ぼくが……」
大原は、そこで言いよどんだ。ここまで来ながら言っていいものかどうか、ためらっている様子である。そんなところも法律相談に現われる友人に共通している態度である。
「いったいなんだね?」
木村は大原に悟られないように、ティーテーブルの下で腕時計を覗《のぞ》いた。まだ多少の時間のゆとりはある。
「もしぼくが、女房をいま殺したら、正当防衛にならないだろうか?」
「な、なんだって!?」
木村は、底のほうに少し残っている冷えたコーヒーをすすろうとして、取り上げたカップを危うく落としそうになった。
「女房がぼくを殺したがっていることは明らかなんだ。だから殺《や》られる前に殺《や》っつける。これは正当防衛にならないかね?」
どうやら大原は大まじめで言っているようである。
「きみ、あまり馬鹿なことを言っちゃいかんよ。正当防衛というのは、そんなものじゃない。そんなことをすれば、殺人になる」
「殺人? しかし女房はぼくを殺そうとしてるんだぜ」
「そのはっきりした証拠でもあるのか?」
「証拠はあるよ。それはぼくさ。夫婦としてぼくには、あいつの殺意がよくわかるんだ」
「そんなもの、証拠にはならんよ。正当防衛というのは、急迫の、つまり現在のさしせまった違法の侵害に対してのみ成立するものだ。過去や将来予測できる侵害に対する正当防衛はあり得ない。しかもきみの言う奥さんの殺意というのは、きみの被害妄想なんじゃないのか」
「妄想じゃないったら!」
大原はじれったそうに言った。木村はまた時計を覗いた。そろそろ戻らなければならない時間になっている。
「まあ、あまりつまらないことを考えるんじゃない。また時々、遊びに来たまえ。今日はこれからちょっと用事があるので失礼する」
木村は伝票を取って立ち上がった。彼はあとになってから、このときもっと詳しく大原の話を聞いてやればよかったと、痛切に悔やむことになったのである。
8
大原は、ほとんどベッドから出なくなった。志保子も退職して、彼のそばに付き添った。彼は志保子の目をかすめて、夜になってから、家を飛び出すことがある。朝になって死人のように疲れきって帰って来る。終夜町中をうろつきまわっていたらしい。
「おれは早く死にたい。世の中は終わりだ」
会う人ごとに彼は言った。ガン症状よりも分裂症状のほうが進んでいるようであった。
ある夜、志保子が居間でテレビを見ていると、いきなり部屋へはいって来て、スイッチを切った。ちょうどドラマが佳境へはいったところだったので、志保子がムッとして詰《なじ》ると、傍《そば》にあった花瓶《かびん》をいきなりブラウン管へ叩《たた》きつけたのである。
ブラウン管と花瓶が破裂して、室内に破片が飛んだ。
「気ちがい!」
志保子は、ついに感情を爆発させた。
「おれはどうせ気ちがいだ」
大原は喚《わめ》いて、部屋の中のものを手当たりしだいに投げ飛ばしはじめた。身に危険を感じた志保子が、一一〇番して、駆けつけた警官によってようやく取り押えることができた。
このころから大原の分裂症状は、いっそう、ひどくなったようである。
自分の家のテレビを壊しただけでは満足できず、近所のラジオ、テレビが、自分の悪口を言っていると主張して、耳に栓《せん》をする。隣家の風鈴《ふうりん》の音が気になるといって、オモチャのパチンコを買って来て、狙い撃ちする。医者に診せようとしても、いっさい受けつけない。
「もし医者を呼べば、おれはその場で自殺をする」とまったく手がつけられない。
悲劇はこのような素地《したじ》のもとに発生した。
その日の午後、野田医師が近くに急患が出て、往診のついでに、大原の容態をみに立ち寄ってくれた。そのときはおとなしく野田に診察させた。医者が帰ったあと、彼は志保子を呼んだ。
「おまえ、おれを騙《だま》したな」
目が凶暴な光を浮かべて、ぎらぎら燃えていた。
「騙したって何を?」
「騙して医者を呼んだ。おれを入院させて、留守のあいだに好き勝手なことをやるつもりなんだろう」
「ずいぶん想像がたくましいのね。野田先生は、往診のついでに寄ってくださったのよ」
「おまえとあの医者はグルなんだ」
「グルって、なんのために?」
「おれを殺すためにだ」
「まあ、ひどいことを」
「だがな、おれはそうは簡単に殺されないぞ」
大原はニヤリと笑った。義眼が光ったような、いやな笑い方である。志保子が本能的に危険を感じて、身を退《ひ》こうとしたときは、遅かった。
ベッドに横になっていた大原は、信じられないような素早さで跳びおきて、志保子におどりかかってきた。
「なにをするの!?」
と叫んだ彼女の声は、途中で消された。いつの間に用意していたのか、手の中に隠し持っていた細ひもを、志保子の首にひとまわりさせて、グッと絞めあげたのである。
なんの警戒もしていなかったために、彼女はこの突然の攻撃に対してまったく抵抗する余裕がなかった。大原の最近の状態から、凶暴性を感じ取っても、憔悴した病人に何ができるというみくびりが心の底にあった。
大原は病人とはとうてい思えない力で志保子の首を絞めた。ひもは女の喉《のど》に食いこみ、軟骨を砕いたのか、ググッといやな音をたてた。
必死の抵抗を試みた彼女の手は、背後から襲った大原に届かず、空《むな》しく宙をかきむしった。鬱血《うつけつ》によって紅潮した顔面がみるみる紫に変色していく。
口から泡《あわ》を噴きだした。後ろから絞めていたので、志保子の凄《すさま》じい形相《ぎようそう》は、大原にはわからない。もしそれを見たら、彼の手の力もゆるんだかもしれない。
彼はただひたすら手の先に、力学的な力を加えていればよかった。
やがて、志保子の体から力が抜けた。なんとか不意に加えられた生命の桎梏《しつこく》からのがれようとしてあがいていた女の体が、激しく痙攣《けいれん》したのち、一個の物体となって全重量を預けてきた。
念のために、さらにもう一絞め強く絞めて、大原の殺人行為は完了したのである。
9
大原はその足で、近くの派出所へ「妻を殺してきた」と自首した。駆けつけた警官によって、大原志保子が完全に絶命していることが、たしかめられた。
大原昇は、そのまま所轄署に留置されて、取調べを受けた。取り調べるうちに大原は狂乱状態となって、調べをつづけることができなくなった。体の憔悴《しようすい》も激しいようである。
やむなく最寄りの病院へ入れて、比較的平静に戻ったときをねらって取調べを続行した。
大原は、担当の取調官に対して頑《がん》として、「正当防衛だ」と主張するのである。もちろん法律的に正当防衛の成立する情況はない。
ただ担当官は、調べるうちに、大原の精神状態が普通ではなさそうなのに気がついた。
被疑者の中には、犯罪の責任をのがれるために精神異常を偽装する者が、ままある。また犯行が精神の重圧となって、一時的な神経衰弱状態を呈する者がある。
だがこのような場合には、その人間にある種の真剣さが感じられるものである。
大原の場合には、まったくの無関心であり、いくら取調べ側が感情的接近を試みても、全然反応を示さない。
どんな凶悪な犯人でも、時間をかけると、担当取調官とのあいだに人間的な感情が生まれるものである。それは親しみの場合もあれば、反感のこともある。
いくら狂人を装っても、時間をかけた接近《アプローチ》の前にたいてい崩れてしまう。
ところが大原の場合、まったく反応を示さない。これは明らかに人間的な情感を欠いている証拠だった。
取調官は起訴前の精神鑑定を検事にはかった。その検事が大原の旧友木村民男である。精神鑑定は、被疑者の責任能力の関係で重要な問題を生ずる。
木村は、事件の少し前に大原の個人的来訪を受けて、大原の犯行の素地≠ニもいうべき事情を知っている。そればかりでなく、学生時代に下宿を共にして、彼の異常ぶりは、目《ま》のあたりにしている。
起訴したあとになってから、心神喪失ということになって、責任能力なしとされたら、検事の立場がない。
それに、木村としては、やはりこの旧友のことが、気にかかったのである。
大原の精神鑑定を依頼されたのは神奈川医大の精神医学の権威、宮川清之《みやがわきよゆき》教授である。
教授は綿密な鑑定の結果、
「大原には多分に精神分裂性性格を認めるも、犯行当時、自己の行為の是非を識別できないほどの精神|障礙《しようがい》に陥っていたとは認められない」
と鑑定した。教授はそのあとで、ただしと断わって、
「大原の現在の症状は、精神分裂性の混合的症状を呈しており、いちじるしい病状の進行を見ないので、神経症との鑑別が困難である。またこの状態が、分裂病による情意(人間らしい感情)の原発的障礙の現われであるか、または分裂性性格者(病者ではない)における環境への反応として、このような内閉的な病像が生まれたものであるか、簡単に断定できない。したがって鑑定人によっては、私とはちがう意見を出す者があるかもしれない」
とつけ加えた。
木村は、宮川教授の言葉をじゅうぶん考慮したうえで起訴に踏みきった。
彼は、大原の異常性格を認めながらも、それに藉口《しやこう》した計画的な犯行を感じ取っていたのである。
「分裂性性格ではあっても、分裂病者ではない。少なくとも、犯行当時彼は理非を弁別するじゅうぶんな認識力を持っていた」
と木村は確信していた。犯行前に木村を訪ねて正当防衛に関する質問をしたが、あれは自分の異常性格を木村に強く印象づけるための工作にちがいない。
今となって木村に対する大原の工作は、逆効果となってひどく不自然に映るのである。
被告の責任能力が争われる場合は、公判は長引くのが普通である。人間の精神の深層を、事件からだいぶ時間が経過したあとに、あちこち掘りおこして、刑法的責任の有無を考えるのであるから、普通の現行犯のようなわけにはいかない。
責任能力の有無――つまり刑罰を課するに適当な能力があるかどうかの決定は、もちろん法律的な見地からなされるものである。しかしこの問題くらい、法律学と医学が密接な関係を持つ領域も少ないだろう。
実際には、精神医学、性格学、心理学等の助けを受けないことには、法律は手も足も出ないと言ってよい。
裁判所は、大原の精神鑑定に際して、数人の学識経験者に鑑定を依頼した。その結果、宮川教授と同じ意見を出した鑑定人は、一人であり、他はすべて「犯行当時、行為が違法であることの認識ができない程度の精神障礙に陥っていた」と鑑定したのである。
裁判所はこの鑑定意見を基礎にして、大原昇に対して無罪の言い渡しをした。
木村は控訴の提起をしなかった。控訴するためには、原判決の瑕疵《かし》を指摘しなければならないが、大原の精神障害が偽装であるというのは、単なる木村の心証であり、証拠がない。
それもまったくの偽装であれば、看破するてだてもあろうが、大原の症例は、宮川教授も断定できなかったほどの、分裂病と分裂性性格とのボーダーラインにあった。
専門医すら断定できなかった責任の有無の微妙な境界における行為を、検事の心証だけで、有罪に持ちこむ自信はなかった。
上訴期間は経過し、大原の判決は確定した。
10
それから一ヵ月ほどのち、木村は一通の分厚い封書をもらった。差出人は大原昇とある。予感のような胸騒ぎを覚えながら、木村は封を開いた。
――前略、今度の事件では、どうやらきみだけが、私の精神障害の偽装を見破っていたらしい。そのとおり、私は精神障害ではなかった。私が分裂性性格であることは、きみも認めると思う。しかし、行為の是非判断をする能力はじゅうぶん持っていた。
だからこそ、殺人の刑罰からのがれるための偽装をしたのだ。
私は、自分の胃症状に胃ガンを疑って、女房の友人の亭主だというK市の野田胃腸病院へ女房の紹介で診てもらいに行った。精密検査の結果、軽い胃潰瘍《いかいよう》と診断されたが、そのあと女房だけが診察室に呼ばれた。
そのときは、無罪放免された喜びで気がつかなかったが、その日以来女房の態度がコロリと変わった。今まで女の同居人≠ノすぎなかった女房が、まるで私をお客のように大切にしだしたのだ。それも滞在期間の短い客のようにチヤホヤする。私が欲しいもの、やりたいことは、なんでも好き勝手にさせてくれる。
私は、彼女の豹変《ひようへん》に不自然なものを感じた。もしかしたら、あいつはおれがガンなので好きにさせているのではないか? こういう疑問がいったん萌《きざ》すと、もうとめどがない。疑惑は不安となり、ただちに確定的な絶望へとエスカレートした。
しかし、絶望するにしても、私はその決定的な証拠をつかみたかった。そして、女房の留守に、日記を盗み読んで、ついに絶望の確認をしたのだ。私はガンだと、日記にはっきり書いてあった。
そのときの心理をくどくど説明することは省こう。
とにかく私はガンだということを知った。だがそのうちにその診断を下したのは、野田一人だということに気がついた。誤診ということもあるかもしれない。
私はそこに一縷《いちる》の希望を見いだした。しかし私が他の医者に診てもらって、ガンだと確定しても、その医者も私に真実を告げないだろう。そこで一策を案じた。診察を受けに行くとき、髭《ひげ》や鬘《かつら》をつけて変装したのだ。
結果を聞きに行くときは、本来の姿に戻り、家族ということにした。本人は恐《こわ》がりで、とても自分自身では聞きにこられないので、代わりに来たというと、医者は少しも怪しまなかった。
私はガンではなかった。何人かの信頼できる医者に、その伝《でん》で診てもらったが、ガンはなかった。食餌《しよくじ》療法でじゅうぶんなおる程度の軽い胃潰瘍になりかかっていただけだった。その限りにおいては、野田と同じ診《み》たてだった。
だが野田は、診察後、女房一人を診察室へ呼び戻すというトリックを弄《ろう》した。女房も日記帳に嘘《うそ》を書いた。
私が二人のあいだの関係を疑ったのは、そのときからだった。彼らは、たしかに口では、ガンだということを言っていない。だが暗示的な態度で示し、私に盗み読まれることを意識して日記を書いた。
いま考えれば、日記帳が簡単に発見できたこともおかしい。夫のガンを告げられた妻の文章としては、あまりにも整然と読みやすく書かれてあった。誤字もほとんどなかったようだ。日記というものは、自分だけわかればよいのだから、精神的なショックを受けたときなどは、支離滅裂な文章になるものだ。
だがなぜそんなことをしたのだろうか? 私の分裂性の被害|妄想《もうそう》意識を利用して、私にガンだと信じこませ、絶望のあまり本当に発狂させるためだ。
私を禁治産《きんちさん》者として精神病院へ送りこめば、私の財産を自由にできると計算したのだ。そうはさせないと私は、自分に誓った。親からもらった貴重な財産を、夫の性格を計算して気ちがいに仕立てあげようとしている冷酷な女に、鐚《びた》一文やるわけにはいかない。
私は興信所を使って、野田と女房のあいだに過去肉体関係があったことを突き止めた。前に調べたときわからなかったのは、短い時点だけに絞って探ったからだ。彼らが私を抹殺《まつさつ》するために共謀していることは、これで明らかになった。
私は彼らの計画を逆手に取って、逆襲してやろうと思った。自分で言うのもおかしいが、私にはもともと異常の素地があったから、気ちがいの真似《まね》はうまい。ときどき自分自身、本当に発狂したのではないかと思うこともあるくらいだ。
気ちがいのふりをして女房を殺しても、罪にはなるまい。離婚原因の不貞は、現在のものでなければならない。過去の男との性的交渉は、不貞にすらならない。だから離婚はできない。それにもはや離婚したくらいでは、胸がおさまらなくなっている。
精神分裂病の鑑定が、困難であることは、前から知っていた。気ちがいが人を殺しても、無罪だ。万一、私の偽装がバレたところで、ガンを宣告されて、女房と無理心中をはかったと言えば、かなり情状 酌量《しやくりよう》されるだろう。
管轄地検にきみがいることを、卒業生名簿で知った私は、自分の異常性をきみに再確認させておくために、会いに行ったのだ。検事が私の精神異常を疑っていたら、起訴するにしても、求刑するにしても、その鉾先《ほこさき》が鈍るだろうと思ったからだよ。きみが担当しないまでも、きみの言葉は、かなり担当検事に影響すると読んだ。
そして私は、明らかな殺意をもって妻を殺した。結果はご承知のとおりだ。私は、財産だけを狙う冷血の妻を除いて、見事に無罪へと逃げこんだ。
判決は確定して、私がこの手紙をきみに出しても、もはや一事不再理というやつで、どうにもならないだろう。だが私は、いま自分の勝利を誇るために、きみに手紙を出したのではない。勝利感どころか、私はいま、どうにもならない敗北感、いやもっと惨《みじ》めな救いようのない気持ちに打ちのめされている。
刑務所からのがれて、私が自らの意志ではいりこんだ県下のY精神病院は、生きながらの地獄だった。
刑務所は刑期が終われば出所できる。
あとで調べて知ったのだが、殺人罪は、死刑から懲役三年までと幅広い。しかも心神|耗弱《こうじやく》などの法律上の減刑理由があれば、その刑は二分の一、そのうえ情状酌量の余地があればさらに二分の一、私はその二つとも備えていたのだ。
最低限は九ヵ月、執行猶予の対象にもなる。日本の殺人罪は、世界でも最も軽いそうだね。私がもっと早くこのことを知っていたら、つまらない作為などしなかった。実刑を食ったところで大したものじゃなかったはずだ。
いま私が閉じこめられた場所には、刑期≠ヘない。少しでも医者や看護人に抵抗すれば、「凶暴性あり、回復の兆《きざし》なし」と診断されて刑期≠ヘ延長されるばかりだ。
私の場合、強制入院であるから、精神鑑定医二人の意見が一致しないかぎり退院できない。しかし病院長が、鑑定医をかねているので、彼一人の胸三寸で決まる。
患者の数が多いほど、国から入院治療費がころがりこむ。したがって病院では、患者のことを不動産≠ニ呼んで手放したがらない。私がここへ入院してから、病院の扱いに耐えられず逃亡をはかって見つかった患者がいた。彼は看護人から袋叩きのリンチにあって死亡した。ただし死亡診断書は心不全≠ニされて納棺された。
患者に脱院されると、病院の経営に大きくひびくので、看護人は減俸、休日返上等の処罰を受ける。そこで看護人は暴力で患者を管理しようとするのだ。
儲《もう》けるために、定員の二倍以上も詰めこむ。看護人の手不足と、経費節減のために患者を看護人代わりに使う。作業療法の名目のもとに病院施設の修理などの重労働で酷使する。刑務所内の労働には賃金が出るが、ここではもちろんただ働きだ。
反抗の気配だけでも示そうものなら、どんな目にあわされるかわからない。面会の前などには呂律《ろれつ》のまわらなくなる痺《しび》れ薬を服《の》まされたり、ひどいときには一時的に狂乱状態になる興奮剤を服まされたりする。
せっかく面会に来てくれた家族や友人も、呆《あき》れて帰ってしまう。
外部への手紙も、すべて医者の検閲を受けることになっている。病院にとって都合の悪いことが一言でも書かれてあれば、破棄されたうえに、書いた患者はひどいリンチを加えられる。
この手紙も、隠し持ちこんだ金で看護人を買収して、ようやく投函《とうかん》してもらったものだ。もしこれがきみの手にはいる前に、病院側に押えられれば、私は回復の見込みのまったくない重症患者として、ここで檻《おり》≠ニ呼ばれている特別|病棟《びようとう》に入れられるだろう。
私はいま、自分の犯した罪と、その誤算の愚かさを骨のずいまでかみしめている。ここは人間のいる場所ではない。患者は牛か豚なみだ。精神のない人間は、人間の形をした獣と同じだという観念が支配している畜舎≠ネのだ。
木村、たすけてくれ! 私をこの畜舎から、人間のいる刑務所へ移してくれ。一事不再理ということだったら、なんでもいい、おれを他の罪名で刑務所へ移してくれ。おれは野田医師も殺すつもりだった。彼に対する殺人未遂ということにはならないだろうか。頼む。私をたすけてくれ。――
数日後、木村は大原が入院させられたY病院を訪れた。多摩丘陵の谷地《やち》の凹《くぼ》みに、病院は世の中から隔絶されたようにあった。
受付で大原昇に面会を求めると、なんと彼は二日前の夜、急に発作をおこして、鉄格子《てつごうし》に頭を打ちつけて自殺をはかったということであった。
木村が驚いて遺体を見せてくれと言うと、家族との対面が昨日すんだので、すでに火葬場へ送ったという。
「もう今ごろは、きれいに骨になったことでしょう。精神分裂には自殺は少ないのですが、大原は被害妄想意識の強い男でした。治療のための注射なども、毒を打たれるとか言って拒否するのです。一昨夜急に暴れだしましてな、鉄格子に頭を打ちつけたので、あわてて止めたのですが、すでに頭の骨を折っていて手遅れでした」
事務長と称する男は、顔をつるりと撫《な》でた。
木村は黙って、彼の前に大原からの最後の手紙≠さし出した。
「なんですかな、これは?」
読めばわかるというように顎《あご》をしゃくった木村に押されて事務長は読みはじめたが、途中で、
「ふん、馬鹿ばかしい。これをお信じになるのですか? だいたい、刑務所へ行くかわりに精神病院へ送りこまれて来た人間が、看護人を買収する金を持ちこめるはずがないじゃありませんか。検事さんご自身がそんなことはいちばんよく知っているはずじゃないんですか。要するに気ちがいの手紙です。何の信憑《しんぴよう》性もありません。私どもでは、患者の手紙類の検閲は、いっさいしておりません。だからああいう被害妄想をたくましくした手紙を外部へ出せるのです。こういう手紙を出せたということ自体が、うちの病院の明朗な証拠ですわ、はは」
事務長の笑いには、自信たっぷりの余裕があった。
大原の死亡診断書には「頭部自傷による頭蓋骨《ずがいこつ》骨折」とあったそうである。
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麻薬分析殺人事件
1
昭和四十×年三月下旬より六月下旬にかけて、千葉、茨城、栃木、群馬、埼玉の県境が、たがいにあい接している利根《とね》川中流の一帯に、連続|強姦《ごうかん》殺人事件が発生した。
この事件の特徴は、犯人が車を使って犯行を重ねたために、足取りがなかなかつかめなかったことと、犯人の異常性格に振りまわされて、自供に追い込むまでしばしば相手のペースに乗せられて、空振りの捜索を演じたことである。
捜査本部でもようやく、犯人の性格を考えない盲目的な調べの欠陥を悟って、専門家に心理分析を依頼したのである。
分析を依頼されたのは、栃木医大の精神神経科、佐伯保馬《さえきやすま》教授である。佐伯教授は依頼に応じて、犯人の性格を分析した。その結果、彼が分裂性の性格異常者と境を接している病者であり、犯行後、ヒステリー性と従来考えられている「ガンゼル状態」になっていることがわかった。
――ガンゼル状態の特徴は、簡単な問いに対するわざとらしいでたらめな答え、たとえば、馬の足は六本、指は四本、というような(当意即答という)、あるいは三と二で七という答え方、それと「知らない」と言って答えをさける子供らしい、ないしは痴呆《ちほう》患者のような精神的態度にある。この状態はとくに未決勾留中に発現するので、一八九七年にガンゼルが「特異なヒステリー状態」として発表して以来、破局的な状況から病気に逃避するヒステリーの一種として理解されてきた。一般にヒステリーは痙攣《けいれん》とか麻痺《まひ》という身体症状を示すが、ここでは痴呆や意識混濁などの精神病的な症状を現わすのが特異である。それは責任を回避する無意識的願望の所産と解することもできる。〈ガンゼル状態を呈した殺人犯の精神鑑定例―塩入円祐氏〉――
ガンゼル状態については、今日でもまだ、これがヒステリーなのか、精神病的なものなのか、学者の意見が分かれている。佐伯教授としては、これを責任回避を目的とした疾病《しつぺい》逃避の心理的メカニズムによって生ずるものと考えていた。
とにかく犯人は、最初から徹底的に拒否的であり、訊問《じんもん》に対してふざけていた。ときたま素直になったと思うと、小児のように無責任な答えしかしない。
犯人の心理分析を怠った捜査本部は、犯人のガンゼル状態に徹底的に翻弄《ほんろう》されたのである。
佐伯教授は、犯人のガンゼル状態を意識的な詐病《さびよう》と早急に断定できないまでも、取調官の前での演技であるという見方を捨てていなかった。
教授は、この犯人に対して、精神分析のあらゆる手法を用いながら、執拗《しつよう》に自供へと追いつめて行ったのであった。
以下はその事件の要約と、犯人の自供後、教授が学会に報告したものを、セミ・ドキュメンタリータッチに書きなおしたものである。
一、件名 強姦殺人、殺人未遂
二、被告人 三谷順平《みたにじゆんぺい》(三六)
三、犯罪経過一覧
三月五日、三谷、婦女暴行致傷罪で服役していた府中刑務所を仮出所。
三月二十六日、栃木県A市立女子高校生、間島信子《まじまのぶこ》さん(一八)、国鉄東北線A駅付近から消息を断つ。
四月十一日、千葉県K市内の少女A子さん(一七)をドライヴに誘って暴行、後日再逮捕の容疑となる。
四月二十日、埼玉県H市市役所の職員、大井君子《おおいきみこ》さん(一七)が、退庁後行方不明。
五月三日、茨城県S市の家事手伝い、吉野明美《よしのあけみ》さん(一九)が友人の家に遊びに行くと言って家を出たまま消息を断つ。
五月二十一日、千葉県K市の無職|野本《のもと》ミチ子《こ》さん(二三)が、駅前の喫茶店Sへ行くと言って家を出たまま帰らず。なお当日Sには行っていない。
六月三十日、群馬県T市の会社員|大石恵美子《おおいしえみこ》さん(一九)が、買物のため自転車で家を出たまま消息不明。
七月一日早朝、同市内で恵美子さんの兄が、恵美子さんが乗って出た自転車を発見すると同時に、そのそばにいた挙動不審の男が乗った車を発見、車のナンバーをひかえて、T署に届け出る。
七月二日、T署署員、手配の車を発見、三谷を、恵美子さんの営利|誘拐《ゆうかい》容疑で逮捕。
七月十三日、間島信子さんが栃木県O市郊外の茨城県境に近い雑木林の土中より、扼殺《やくさつ》死体となって発見される。その際、身につけていたはずの三千円弱入りのがま口が紛失していたので、犯人が殺害後強奪したものとみられる。
七月十四日、O署内に「女子高校生殺人事件捜査本部」が開設される。行方不明の若い女性四名も三谷の犯行によるものと推定して公開捜査に踏み切る。
四、犯行時の状況
三谷は間島信子さん殺しは認めたものの、その後の行方不明女性については、のらりくらりと言いのがれをつづけているので、はっきりしたことはわからない。
信子さん殺しについては、三月二十六日午後三時ごろ、A市駅前付近で、下校して来た信子さんに道をたずねるふりをして近づき、ドライヴに誘いだした。カーステレオを聴きながら、文学や音楽の話をしてかなり意気投合する。
途中、同県内F市の喫茶店とS市のバーに寄って雑談したのち、O市郊外の雑木林に来て、情交をもとめたところ、激しい抵抗を受けたので、首を絞めて殺害、死体に乱暴したのち、ガマ口を奪ってから雑木林の中へ埋めて逃走した。――というものである。
2
佐伯教授が捜査本部から三谷の心理分析の依頼を受けたのは、信子さん殺しを自供したあとである。
三谷は、この事件の自供のあと、急に頑《かたく》なになり、
「おれは警察に騙《だま》された」とか、
「これは警察との戦争だ。おれはぜったいに負けないぞ」などとうそぶいて、いわゆるガンゼル状態を呈してきたのである。
佐伯教授は、O署内の取調室ではじめて三谷順平に面接した。教授の三谷から受けた最初の印象は、やや気むずかしいが、おとなしそうで、とても若い女性を殺害したうえに凌《りよう》 辱《じよく》した凶悪な人間には見えなかった。
三谷の遺伝関係は、父親系に精神病質と思われる者が一人、精神薄弱と考えられる人間が一人いる以外に、精神病の負因はない。
家庭環境は、両親と兄および二人の妹の六人家族で、家庭内に三谷をとくに異常に駆り立てるような不和や葛藤《かつとう》はなかった。
父親は同県U市内の商店に長く勤め、内気で実直な働き者である。子供の教育は母親まかせだったが、子供とはよく遊んでやっていた。
母親はどちらかといえば内気で、非社交的だった。とはいえ、とくに近所づきあいが悪かったということはない。夫に言わせれば、頭が悪くて、ぐずだということだが、佐伯教授があとで面接したところ、そんなことはなかった。
兄妹との仲は、べつによくも悪くもなかったが、中学へはいるころから、順平だけ家族から離れるようになり、内向性が増してきた。
学校においても友だちができず、いつも自分の部屋に閉じこもって、本を読んだり、音楽を聴いていた。とくに音楽はポピュラーを好み、本はフランス文学やドイツ文学を愛読した。語学が好きで、英語とフランス語の片言を話せる。大学へ行くようにと勧める父親に背《そむ》いて、U市の高校を中退して東京都内のある自動車部品会社に勤める。自動車の運転はこのころに覚える。
勤めて一年後に上役とけんかをして退社、以後U市の生家に帰って、ぶらぶらしているうちに、三十二年六月U市内の女子高校生を強姦未遂、懲役一年六ヵ月、執行猶予三年となる。
三十三年七月茨城県Y市で女工員を強姦致傷、懲役一年の実刑に処せられる。
四十二年四月栃木県T市で女子高校生を強姦致傷、懲役三年六ヵ月、府中刑務所服役、四十×年三月仮釈放となる。
だいたい性犯罪、とくに婦女暴行というものは、最も再犯率が低いとされている。現行刑法では強姦罪を一回犯すと、二年以上の懲役を科せられる。犯人にしてみれば衝動に駆られてのただ一回の行動、それもほとんどは不完全な性行為で二年以上も食らいこむのは、まことに割の悪い犯罪であるからである。
これを何度も累《かさ》ねれば、相対的に罪は加重される。よほどの異常性格か、変質者でなければ、強姦事件は繰り返さない。
それを三谷は、すでに三犯も累ねたうえに、出所後わずか四ヵ月のうちに、最悪の場合は五人の女性を強姦して殺したことになる。
三谷の犯行の手口は、これはと目をつけた若い女性に、父親から買ってもらったブルーバードに乗って近づき、道を訊《き》くふりをしてさりげなくドライヴに誘う。
女性がそれに乗ってくると、車内に備えつけてあるカーステレオからムード音楽を効果的に流して、文学や音楽の話をしながら、巧みに相手の心をつかんでしまう。
やがて人気のない畑の中や山林に車を駐《と》めて情交を迫る。この際激しく抵抗した者を絞め殺したとみられる。
佐伯教授は三谷の問診をはじめた。
@「あなたは三谷順平君だね」
「たぶん、そうでしょう」
A「年はいくつ?」
「さあ、いくつに見えますか?」
B「生年月日は?」
「昭和二十年一月一日」
現在三十六歳の三谷が、昭和二十年生まれのはずがない。このときから教授は、ガンゼル状態の疑いをかすかに持った。それまでの調書によって、その症状は推定できた。しかし三谷は家庭生活のあいだに精神分裂病の症状をいちじるしく発現して(家族は気がつかない)いる。分裂病者がガンゼル状態を呈することは、非常に稀《まれ》なケースであったために、問診するまでは、診断を下せなかったのである。
C「えっ、何日だって? ちょっと聞きそびれたから、もう一度言ってごらん」
「昭和十八年十二月八日です」
「前に言ったこととちがうようだね」
「あれっ、そうですか」
D「あなたの家はどこ?」
「さあ……」
E「栃木県のU市じゃないの」
「そうでしたかな?」
Fここはどこだかわかる?」
「警察ですか?」
三谷はここではじめてまともな答えをした。
G「どうしてここにいるかわかる?」
「いいえ」
H「何か悪いことをしたのかい?」
「知りません」
I「大井君子さんって知っている?」
「さあね」ここで三谷はニヤリと笑った。
J「吉野明美さんは?」
「知りませんねえ」
K「大石恵美子さんは?」
「どこの人だったかな」
L「野本ミチ子さんは?」
「知らないですねえ」
まったく反応がないので、教授は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。
M「一日は何時間ある?」
「十時間くらいかな」
N「一週間は何日かね?」
「十日くらい」あいも変わらぬガンゼル状態である。
O「一年には何ヵ月ある?」
「十ヵ月ぐらいだな」三谷の言葉遣いがこのころから乱暴になってきた。
P「女は好きか?」
「好きだよ」
Q「女のどの部分が好きか?」
「そうだな、オッパイと脚だな。××××がもちろんいちばん好《い》い」
三谷は下卑《げび》た笑いをもらした。
R「どんな女が好みかね?」
「グラマーがいいね。痩《や》せてる女は、濡《ぬ》れた猫《ねこ》みたいでミリキないな」
S「顔は?」
「弘田三枝子《ひろたみえこ》みたいに、ふっくらしているのがグンバツだね」
※[#丸付き数字「21」]「髪は?」
「黒くて長いのがいい」
※[#丸付き数字「22」]「年は?」
「そりゃもちろん若いのさ。処女にかぎるね。この女が生まれてきて、おれが最初にヤルんだと思うと、嬉《うれ》しくてぞくぞくする」
女性に関する問診には、いささか下品な表現はあっても、すべてまともな答えがかえってきた。
教授はこれによって、ガンゼル状態が三谷の責任回避のための演技ではないかと疑いだした。殺された間島信子さんはじめ、行方不明になった女性の大部分は、三谷の好みの女だったのである。
ただ、自己防衛のための演技であれば、女性に関する部分こそ、偽りの答えをすべきだったが、教授はこれを、三谷の女性に対する異常な関心から、つい本音が出てしまったのだと解釈した。
教授の問診は三谷の趣味へと進んだ。
※[#丸付き数字「23」]「音楽が好きだそうだね」
「さあね」
※[#丸付き数字「24」]「どんなのが好きなの? クラシック、ポピュラー?」
「よくわからないな」
※[#丸付き数字「25」]「カーステレオを備えてるそうじゃないか」
「最初から車についていたんだよ」
これは、三谷があとから買い求めたことがわかっている。
※[#丸付き数字「26」]「本はどんなのを読むの?」
「マンガだな」
※[#丸付き数字「27」]「ゲーテやヘッセが好きだそうじゃないか」
「へーっ、そうだったかな」
※[#丸付き数字「28」]「ジャン・クリストフの著者を知ってるかい?」
「トルストイだろう」
これは全然でたらめである。
※[#丸付き数字「29」]「フランス語で今日は≠チてなんて言うの?」
「グッド・モーニング」
※[#丸付き数字「30」]「あなたは自分のことを病気だと思うか?」
「そうだなあ、腹がよくへるから、虫でもいるんじゃねえかな」
※[#丸付き数字「31」]「いままで大きな病気をしたことがあるかね?」
「五年前に流産したことがあるね」
※[#丸付き数字「32」]「五と五を足すといくつ」
「十三」
※[#丸付き数字「33」]「十から二を引くと?」
「五だな」
※[#丸付き数字「34」]「人を殺すのと、ものを盗むのはどっちが悪いことかね?」
「ものを盗むことだ」
※[#丸付き数字「35」]「人を殺すのと怪我をさせるのは?」
「怪我させるほうさ」
※[#丸付き数字「36」]「強姦するのと、殺すのとでは?」
「どっちも悪いことじゃないさ」
※[#丸付き数字「37」]「それはまたどういうわけで」
「戦争ではみな平気で人を殺したり、女をやっつけたりしている。うんとやっつけたやつのほうが偉いのさ」
佐伯教授はここで第一回の問診を打ち切った。応答の内容は、非常にふざけたでたらめなものであり、痴呆《ちほう》的なものが大部分であった。
とくに道徳観念については、人を殺しても悪くないと本気で思いこんでいるらしい。
これはその人間が原始的な心性にあるもので、とくに作為している様子はない。
佐伯教授は、それぞれの設問に、通しナンバーを振って、その中でまともな回答と考えられるものだけを抽出《ピツクアツプ》してみた。
それらは、
F警察、P女、Q女の部分、R好みの女、S好みの顔、※[#丸付き数字「21」]好みのヘアスタイル、※[#丸付き数字「22」]好みの女の年齢等の設問に対してである。
佐伯教授は、さらに、
※[#丸付き数字「34」]殺人と窃盗の罪質の比較、※[#丸付き数字「35」]殺人と傷害の比較、※[#丸付き数字「36」]殺人と強姦の比較、※※[#丸付き数字「37」]以上前三問の比較判断の理由について注目した。
これらの問診に対する答えは、いずれもまともではない。そのかぎりにおいて、他のガンゼル状態的な回答と同じである。だが教授は、これをガンゼル的に答えられたものとは考えなかった。
三谷は、捜査陣を愚弄《ぐろう》するためにこういう答えをしたのではない。三谷にしてみれば、これはまともに答えているつもりなのである。
つまり彼にとっては、殺人よりも、窃盗や傷害のほうが悪いことなのだ。
とくに※[#丸付き数字「37」]には、三谷の価値判断の基準が明瞭《めいりよう》に表わされていた。
したがって教授は、前群のまともな回答に、いささかニュアンスは違うが、後群の回答を加えた。
3
佐伯教授は、三谷順平個人の素質や性格等にわたってさらに詳細に調べた。
父親の職業は、すでにわかっているとおりU市内の個人商店に勤めているが、家計はとくに豊かではないにしても、子供たちに貧しい思いをさせるほどではなかった。とくに三谷の思春期には、父親は店の支配人格になっていたので、経済的に困るというようなことはない。それは順平に車を買って与えてやれる程度の余裕のあるものであった。
学校時代の成績は、中の下程度。四歳のとき階段から落ちて頭を強打し、病院にかつぎこまれたが、精密検査の結果、後遺症となるような損傷もなくすぐに退院した。これ以外に著患はない。
小学校時代から無口で人みしりが強く、友だちがなかった。とくに体育の時間をきらい、体育がある日は登校を拒否した。成績があまりよくなかったのは、そのようにして欠席が多かったせいもある。
旧制中学一年のとき、「生きているのがいやになった」とノートに走り書きして、硫黄《いおう》の粉末を水に溶かして飲んだが、失敗する。
当時戦争直後の混乱期で、近くにある旧軍需工場へ、悪友に誘われて軍需物資を盗みにはいり、警察に捕まる。そのときは軽い説諭だけで帰されたが、このときの経験が三谷にひどい屈辱を与えたらしい。
高校へはいるころから彼の自閉的傾向はいちじるしくなってきた。自室に閉じこもったまま、家族ともほとんど口をきかず、食事にも出て来ないようになった。
父親や兄が、無理に部屋から引っ張り出そうとすると、怒って荒れ狂い、手当たりしだいにものを投げつけて、手がつけられない。
母親が心配して、食物を部屋へ持っていくと、食器ごと、窓から投げ捨ててしまった。
自室には、「順平以外入室厳禁」と大|貼《は》り紙《がみ》をした。
一度順平が便所に行ったすきに、少し開いていた扉《とびら》の隙間《すきま》から飼い猫が彼の部屋の中へまぎれこんだ。
これを見つけた順平は、猫を捉《とら》えてぐるぐる巻きにして、焚火《たきび》で生きながらバーベキューにしてしまったのである。これら一連の無為、自閉、奇矯《ききよう》な行動は、分裂病の破瓜《はか》型に典型的に見られる例である。
これにはさすがに温厚な父親も怒り、彼に強い折檻《せつかん》を加えた。これにすねた順平は、家出をし、都内の盛り場をうろついているあいだに、警察官に不審訊問を受けて、一晩、保護という形で留置された。
この留置≠ヘ一晩だけで、釈放された。教授はこの一晩の留置に目をつけた。つまり、警察官の目によっても精神異常は発見されなかったのである。
これは彼が正常に見えたからであり、同時に分裂病者であるからこそ、取調べになんの反応もなく異常を感ぜられずにすんだのかもしれない。
ここで分裂病について簡単な説明を加えると――
その多くは、青年期になんらの外因なく発病して、多くは特有の人格欠陥状態に陥るとある。
その症状は知能の低下よりも、情意(人間らしい感情)の障害のほうが主であり、|人 格《パーソナリテイ》の統一を失う。幻聴、幻覚、妄想《もうそう》などがおこってくる。
この病型には三類型があるが、破瓜型というのは、多くは二十歳前後に発病して、しだいに情意が鈍化してくるのが特徴である。幻聴や妄想もおきるが、それらはいちじるしく表には顕《あら》われない。慢性的進行の経過をとり、回復しがたい。
なお分裂病の症状には、一期から三期まで経過によってわかれるが、これはこの物語に直接の関係がないので省略する。
この事件のあと、高校を中退し、都内のT自動車部品会社へ、父親の伝《つて》ではいった。ここでも協調性がなく、いつも仲間たちから孤立していたそうである。
時間の観念と責任感がなく、遅刻は常習、顧客に商品を配達に行ったまま、映画や野球を見物したりする。
途中で何度も解雇されそうになったが、それでも一年もったのは、その会社にちょうどその時期、運転免許を持っている者が少なかったためである。
一年後、とうとう上役と衝突して、馘《くび》になった。いったん自宅に帰り、しばらくぶらぶらしていたが、間もなく職安の世話で市内のある工場に勤めた。これは一週間でやめて、それから、十ヵ所あまりの地元の工場や事業所を転々とした。いずれも、給料が安いとか、環境が悪いとか、それなりの理由をつけていたが、要するに彼の自閉的性格から同僚たちと打ちとけられず、組織の協調を乱す人間として、やめざるを得なくなったのである。
このころから、自閉的性格はますますひどくなって、雨戸を閉めきった部屋の中で、終日万年床に横たわり、ついには便所へ行くのすら億劫《おつくう》がって、窓から小便をするようになった。
心配した父親が、少しでも彼を外へ引き出そうとして、車を買い与えてやった。これによって多少、外へ出るようになったので、家族もホッとしていると、三十二年、最初の婦女暴行事件を惹《ひ》き起こしたのである。
教授が注目したことは、三谷順平の分裂病的症状が、家族の目には怠惰や無気力と映って、彼を責めたり、諫《いさ》めたりすることと前後して、犯行の下準備とも見られる窃盗事件を起こし、その症状の一つの極点において、最初の婦女暴行が行なわれたことであった。
三谷には働きたいという意欲はあった。それは彼の十回以上に上る就職を見てもわかる。しかし生来の内向的な感受性の強い性格が、就職先を失敗するつど、劣等感を深めて、さらに次の就職を破綻《はたん》へ導く。こうして失望と無気力は増悪《ぞうあく》されて、分裂病を進行させる。
これがだれの目にも明らかに異常者とわかるように発現すれば、対処の方法もあるが、自分を理解しない家族や世間に対する復讐《ふくしゆう》の代理として、一連の強姦殺人事件へと発展したと解釈できなくもない。
もし三谷の犯行が、精神分裂病に罹患《りかん》中のものであれば、法的な責任を問われぬことになる。しかしこのような機会《ケース》は分裂病者に特有なものではなく、精神病質者にも、正常者にもあり得る。
さらに三谷は間島信子さん殺しにおいては、金銭までも奪っている。このように金銭の強奪と殺人が同時に行なわれることは、分裂病者では珍しいケースである。分裂病者は、この二つの異質の犯罪を同時に犯し得るほど、一般に犯罪的ではないとされているからだ。
分裂病者の犯罪は、計画的ではなく、衝動的であるのが通例である。
ところが三谷の犯行を検討すると、車にカーステレオを備えつけ、喫茶店やバーをハシゴ≠オて、かなり計画性が感じられる。間島信子さん以外の、一連の行方不明女性については、三谷の犯行によるものかどうか、断定されていないが、被害者の年齢、肢体《したい》、容貌《ようぼう》等の共通性から、まず彼の犯行の疑いが強い。
その中には、行方不明になる以前にすでに何度か、三谷とデートしていた情況があるのである。とすると、分裂病に特有な、衝動的犯罪とはみなしがたい。
佐伯教授は、三谷順平の生い立ちや性格から容易に分裂病者の特徴を抽《ひ》き出し得るのだが、犯行の情況をつぶさに検討すると、責任をのがれるための詐病を意識的に演技しているような印象を拭《ぬぐ》いきれないのであった。
三谷の容疑は、連続強姦殺人なので、その性的態度《イタ・セクスアリス》を調べると、多くの分裂病者同様に、十四歳ごろより手淫《しゆいん》をはじめたが、女友だちや女遊びはなかった。ガールフレンドは欲しい。しかし、商売女を買いに行く度胸も金もない。性欲は大いにあるが、その処理の方法がわからない。
家族はすべて敵視している。ホモの傾向はない。性的にはむしろ未熟なほうであった。
佐伯教授は思案したすえに、捜査官に未決勾留中に家族にあてた手紙のようなものはないかと訊《き》いた。
さいわいに、差し入れの希望について母親に出した簡単な葉書があった。未決勾留者の外部への通信は、すべてコピーしてある。
教授は、三谷に自宅あてに何か書くように命じて、短い文章を書かせた。この二つの文章を比べた教授は、後者のほうに、はなはだしい異常を見た。前の葉書もあまりうまい文章ではないが、まずは書いた人間の意思を疎通できる正常者の文章である。
ところがあとのものは、文字もでたらめで、判読不能、住所とあて名は架空であった。これは自発的な必要に迫られて書いたものではないので、ガンゼル状態が文章に現われたと考えてよかった。
4
「どうでしょう? 三谷は精神異常ですか、それとも詐病ですか?」
第一段階の分析のすんだところで、捜査の直接指揮を担当する栃木県警の原田《はらだ》警部が訊いた。
「それがまだはっきりわからないのですよ」
教授の言葉は歯切れが悪かった。
「そんなにややこしいのですか?」
大学のオーソリティが見れば、仮病などすぐ見破れると簡単に考えていたらしい原田は、声に少し不満を盛った。
「それがね、精神異常のようにも見えるし、仮病らしい節《ふし》もあるのですよ」
教授の口調は慎重である。
「なんとか、仮病だという決め手はつかめませんかね」
第一線の捜査指揮者としては、犯罪史上にも稀有《けう》な凶悪犯罪の被疑者を、精神異常による責任無能力者などにはぜったいにしたくない。
「被疑者に精神分裂的な傾向があることは確かです。分裂病者でないにしても、それとボーダーラインにあることはまちがいありません。しかし分裂病者がガンゼル状態を呈することは非常に稀《まれ》なのです」
教授はここで、ガンゼル状態について簡単な説明をした。
「すると、どういうことになるのですか?」
「もし三谷が分裂病者だとすれば、責任無能力者ということになります。ガンゼル状態は、ガンゼルという学者が特異なヒステリー朦朧《もうろう》状態≠ニして従来の詐病という考えを排すると主張したのがはじめなのです。しかしこのヒステリー性の状態が分裂病に現われるのは、きわめて稀なのです。
ここに三谷の分裂的傾向と、ガンゼル状態のあいだの無関連が予想されます。さらにこの状態は、とくに未決囚に典型的に見られます。ガンゼル状態についての最大の問題点は、これが今日においてもヒステリーなのか、精神病的発現と見るべきなのか、学説がわかれていることです」
「ヒステリーということになると、責任があることになりますね」
原田も、ヒステリーが身体的なトラブルなどを装っての、現実からの逃避であることは知っている。
「そういうことです」
「するとヒステリーだという決め手をつかめればよいわけですか」
「問題は、それほど簡単にはいきませんね。まず、三谷の精神鑑定をもっと精密に行なう必要があります。だいたい三谷の異常が浮かんできたのは、ガンゼル状態になってからです。つまりガンゼル状態においての精神鑑定で、分裂病の疑いが出てきたのです。私が今までに調べたかぎりでは、思考障害や、妄想への埋没もないようです。三谷のガンゼル状態は、はなはだしく痴呆《ちほう》的小児的状態を呈するかと思えば、正常に戻ることもあります。それは器質的な脳障害を疑わせると同時に、それとは明らかに異なる責任回避のポーズが見られます」
「要するに、精神異常か、仮病か、はっきりしないということなのですな」
原田は面倒くさくなった。学者の説明は、どうしてこんなにややこしく長たらしいのだろう。同時に佐伯教授は、警察官という人種は、どうしてこうも単純な精神構造なのだろうかと思った。
世の中には、AかBかの二者|択一《たくいつ》で決められないものが多いのである。Aでもない、Bでもない、そのあいだの無限のニュアンスを微妙にゆれ動くものの正体を見きわめるのが、学者の仕事なのだ。警察官の言うように簡単に割り切れるものではない。
「ま、そういうことですな」
教授は苦笑した。
「何か決め手をつかむ方法はありませんか?」
「まだいろいろと打つ手はありますよ。知能検査、性格検査、ロールシャッハ・テスト、皮膚電気反射、つまり嘘《うそ》発見器ですね、こういった方法を駆使して分析してみるつもりです。それから、もう一つ……」
教授はふと言い淀《よど》んだ。
「それからなんですか?」
「これはあまりやりたくない方法なのですが、麻薬を注射して調べてみようかとも思っております」
「麻薬を? どんな効果があるのですか?」
「麻薬といっても、睡眠薬ですがね、これを注射して調べると、被検者の心理的抑圧が緩和されて、かなり正直な答えをすることが多いのです」
「ほう、そんな便利な方法があったのですか。その答えをテープにでも録《と》っておけば、うむを言わせぬ証拠となる。先生、それでぜひやってくれませんか」
原田は急に身を乗りだした。
「これは一種の拷問ですからね、なるべくやりたくないのです。相手の意志の抵抗を薬の力で排除して、自供を誘うのですから」
「しかし、本人の生地《きじ》の心は出るのでしょう。それを証拠とするかしないかはべつにして、捜査の参考になります。先生、ぜひお願いします。これはふつうの事件《やま》とはちがいます。まだ発見されない娘さんたちのためにも、ぜひ麻薬を使ってください。責任は、われわれが取ります。私も、この事件《やま》に自分の職を賭《と》しております」
原田警部は、教授の足元に頭をこすりつけんばかりにして頼んだ。佐伯は原田の気魄《きはく》に打たれた。
それに三谷が自供しないかぎり、四人の哀れな犠牲者は、いつまでも土中に埋められたままになるかもしれないのである。多少行き過ぎはあっても、佐伯教授はいずれ、麻薬による三谷の精神分析を行なうつもりであった。
ただその時期が、多少早められることになるだけである。
5
三谷順平に対する麻薬分析はそれから三日のちに行なわれた。身柄はO署から、O市民病院へ移された。
睡眠薬の一種のアミタール(学名、イソアミルエチルバルビタール酸ソーダ)が三谷の静《じよう》 脈《みやく》に注射された。
薬の効果はいちじるしく、拒絶的だった表情や態度が協力的になってきた。口のきき方までが、別人のようにしっかりしてきた。
佐伯教授は、まず第一回の問診のときと同じ質問をした。
@「あなたの名前は?」
「三谷です」
「下の名前は?」
「順平」
「どういう字を書くの?」
「三つの谷と、順番の順、平家の平です」
A「年齢は?」
「三十六歳」
B「生年月日は?」
「昭和十年二月十八日です」
以下こんな調子で、注射前の答えと同人のものとは信じられないくらいに、はっきりしている。
問診は順調に進んで、Iへ来た。
I「大井君子さんを知っているね」
三谷の瞳《ひとみ》の色が動いた。しかし答えない。
「知っているんだね?」
教授は声に力をこめた。答えないということは、第一回に比べると、一種の顕著な反応である。
J「吉野明美さんは?」
教授はIを保留して次へ進んだ。三谷の面《おもて》に困惑の表情が浮かんだ。
K「大石恵美子さんも知っているんだろう」
三谷は唇のはしをひくひく震わせた。内心の葛藤《かつとう》に必死に耐えている様子である。
「知っているなら、正直に知っていると言いたまえ。気持ちが楽になるよ」
「…………」
L「野本ミチ子さんも知っているんだね」
「その女《ひと》、だれですか?」
三谷が、しばらくの沈黙を破った。教授は「おや?」と思った。これは反応にはちがいないが、他の不明者に関する反応とは、異なる反応である。注射前の問診時にも知らないと答えたのであるから、これは「無反応」とも考えられる。
「野本ミチ子さんを知らないのか?」
「知りません」
「嘘を言ってはいかんよ」
「嘘じゃありません、本当に知らないのです」
教授は最初、薬効が切れてガンゼル状態に逆戻りしたのかと思った。しかし声も顔つきもしっかりしている。
「それじゃあ、大石恵美子さんは知っているのかね?」
「そ、それは……」
三谷の表情に狼狽《ろうばい》が走った。
「吉野明美さんも知っているね」
「とにかく、ぼくは野本ミチ子なんて女は知りませんよ」
三谷は質問を別の答えにすり替えた。
「終戦記念日、いつだか知ってる?」
「八月十五日でしょ」
「原爆が最初に落とされたところは?」
「ヒロシマ……それともナガサキかな?」
「日本の人口は?」
「一億人」
「野本ミチ子は、どこに住んでいたか知っているかね?」
「知りません」
三谷がガンゼル状態でないことは、その答えを聞くまでもなく、表情や目の色、声の調子などからわかった。
概して反応は、注射したあとのほうが大きく現われるのに対して、「野本ミチ子」に関してのみ、注射前と大差ない。
これは不思議な現象であった。麻薬《アミタール》が「野本ミチ子」に対して効かないとすれば、他の同列の被害者に対しても、同様に無効であってよいはずである。
ところが、野本ミチ子だけが無反応[#「無反応」に傍点]ということは、とりもなおさず、彼女だけに反応したということになる。
教授はこの事実を心に留めたうえで、先の問診へと進んだ。
※[#丸付き数字「34」]の殺人と盗みの比較について、三谷は盗みのほうが悪いと答えたのである。
盗みは破廉恥であるが、殺人は、人を殺しても自分が生きたいという意志があるから、罪ではないと主張したのだ。
これは、ガンゼル状態における虚言ではなく、三谷の考え方になっているらしい。ただそうだとすると、納得のいかない点が出てくる。
それは間島信子殺しの際に、ガマ口が奪われていることである。この点について質問すると、三谷は、はっきりと自分が奪ったとは明言しなかったが、ちょっとおもしろい意見を述べた。
すなわち盗むために殺すのはいけないが、殺してから奪ってもかまわないというのである。
「死んでしまえば、所有の意志がなくなる。通りかかった人間が、死体についている物を奪うかもしれない。死んだ人間のものを取るのは、奪《と》るのではなく、拾うのと同じことだ」
と手前勝手な理屈をこねた。教授は、さらに問診を進めて、信子さん殺しの手口から、その他の行方不明女性のことにまで、詳しい自供へと導こうとした。
しかしこのころから、アミタールの効果で眠気をもよおしてきたらしく、質問に対する反応が鈍化してきた。
その日の問診はそれで打ち切り、第二回めのアミタール分析は、翌日ほぼ同じ時間に同じ場所で行なわれた。
佐伯教授は今度は、信子さん殺しに質問を絞った。
「どうして殺したのか?」
「情交《セツクス》を迫ったら、激しく抵抗したからです」
「殺すことはなかったろう」
「親戚《しんせき》に警察官や弁護士がいるというので、あとになって話されるとまずいと思ったからです」
「おまえはまだ嘘をつくのか。信子さんの親戚には、警察官や弁護士はいないぞ」
「でも本当です」
こう答えた三谷の表情は真剣であった。このあと教授は、殺害前後のもようを問診した。その回答は陰惨、残酷であり、物語に直接関係がないので省略する。
「ところできみはいったい、何人殺したのだね?」
教授は質問の範囲を広げた。このあたりについては捜査陣が最もてこずらされたところである。昨日の第一回のアミタール分析においても、三谷は反応は示したものの、明確な返答は避けていた。
「さあ、よくわかりません」
案の定、三谷の答えは歯切れが悪くなった。しかし注射前の当意即妙のでたらめの答えではない。保身のために、ぎりぎりのところで踏みとどまっているという様子である。
「それは、二人以上は殺したということなのかね?」
「さあ」
「十プラス十はいくつ」
「二十です」
「三かける七は?」
「二十一」
「よろしい。それできみが殺したのは、間島信子さんだけかね?」
「…………」
三谷は返事をせずにうつむいた。心の中の葛藤に耐えているのである。
「大井君子さんを知っているね」
三谷はかすかに首を振ったが、態度に弱々しいものがある。
「H市の市役所に勤めていた娘さんだ。四月二十日に行方をくらましたまま、まだわからない。きみは本当に知らないのか?」
「知っていると言えば死刑になるんでしょう?」
三谷がはじめて大きな反応を示した。教授は弾みかかる胸を抑えて、
「そんなことは今わからない。だれにもわからないことだ。しかし裁判にも情状|酌《しやく》 量《りよう》ということがある」
「まだ言いたくない」
「知っているんだね」
「わかりません」
これは否認よりも肯定に近い答えである。
「吉野明美さんも知っているね」
「…………」
「親の気持ちにもなってやったらどうかね。可愛い娘さんが急にいなくなって、どんなに心配していることか。もしきみが行方を知っているなら、早く帰してあげたらどうかね」
三谷のうつむきかげんは、しだいに深くなった。肩がかすかに震えている。教授は自信を持った。三谷が陥《お》ちるのは時間の問題だと思った。
佐伯教授は、切り札を出すようなつもりでLの質問をした。
「野本ミチ子さんを誘拐《ゆうかい》したのもきみだね」
「ちがいます!」
三谷はうつむいていた面をあげて、激しく横に振った。
「嘘をつくな。いまさら隠しだてをするときみのためにならないぞ」
「嘘じゃありません、野本なんて女は知りません」
三谷は頑《かたく》なに言い張った。
三谷順平が、他の行方不明女性についての犯行を次々に自供したのは、その翌日からである。自供は、アミタール面接中に行なわれた。
三谷の自供に従って、遺体捜索を行なった捜査本部は、まず茨城県S市郊外の造成中の工業団地から、吉野明美さんと大石恵美子さんの死体を、二日のち埼玉県H市郊外の雑木林から大井君子さんの死体を、あいついで発見した。
最後に残された野本ミチ子さんも、三谷の犯行と推定した捜査本部は、厳しく追及したが、これだけはアミタール面接にかけても、頑なに否認しつづけるのである。
本部や教授にとっても、三谷がここまで追いつめられて、なぜ自供しないのか、判断に苦しんだ。アミタール面接に対する批判も、部外におきていた。
事件解決の一歩手前まで来て、デッドロックに乗りあげた形であった。
そんな焦りと疲労の中で、捜査員の一人がふとつぶやいた。
「三谷は茨城の工業団地に二人の死体を埋めた。三人めも同じ場所に埋めないとはかぎらないぞ」
捜査本部は、その着眼を入れて、ふたたびS市郊外の工業団地の大捜索を行なった。しかし死体は発見されなかった。
「同じことが、他の二つの遺体発見現場にも言えるじゃないか」
最初の着眼はべつの可能性を導き出した。
そしてついに、第一の犠牲者の間島信子さんの遺体が埋められてあった栃木県O市の外《はず》れの雑木林から、野本ミチ子さんの遺体が発見されたのである。
遺体はかなり傷《いた》んでいたが、遺族によって本人であることが確認された。
遺体はただちに栃木歯科医大法医学教室山中教授の執刀によって解剖され、前に発見された四体同様、死因は絞殺であることがわかった。
ここに五県を股《また》にかけて発生した、犯罪史上稀有な連続強姦殺人事件は、いちおうのピリオドを打たれたのである。
しかしすべての遺体は発見されたものの、三谷は、野本ミチ子に対する犯行を頑強《がんきよう》に否認しつづけていた。
それが、ガンゼル状態による責任回避のポーズでないことはわかった。
アミタール面接によっても、彼の自供を誘うことはできなかった。
6
この事件の最初の犠牲者が行方不明になる一ヵ月前の二月の末のことである。
「弓子《ゆみこ》、久しぶり」
駅から出たところで、田原《たわら》弓子はだれかに後ろから肩を叩《たた》かれた。
「まあ、ミチ子さん」
ふりかえった弓子は、そこに中学で同級だった野本ミチ子の姿を認めた。髪はまっ赤に染め、今はやりのホットパンツを穿《は》いている。もともと痩形《やせがた》の体が、荒れた生活をつづけているせいか、さらに細くとがったようである。
流れ人夫と土地の酌婦《しやくふ》のあいだに生まれた子で、中学時代から登校せずに町の盛り場をうろついては、補導されていた、とかくの風評のある女だった。
同級生とはいえ、弓子は彼女とほとんど話をしたことはない。町の素封《そほう》家の娘である弓子は、両親からミチ子のようないかがわしい子と交際することをかたく禁じられていた。
ミチ子のほうも弓子には最初から構えて近寄らなかった。町の貧しい階級の子供たちを集めて、それの女番長《すけばん》になっていた。男生徒顔負けの腕力を持ち、大勢の子分≠常に従えて、気に入らない生徒や、少々お高くとまっている女生徒たちを見ると、
「ちょっと顔貸しな」とばかり、もの陰に引っ張りこんでリンチを加える。
被害にあった生徒たちも、後難をおそれて黙っているから、ミチ子は、女番長《すけばん》として勢力を振るった。
そんなミチ子も、弓子だけには手を出さなかった。翳《かげ》のある美貌《びぼう》と、ずばぬけた成績の弓子は、全クラスというより、全校の憬《あこが》れの的だった。さすがのミチ子も、まるで人種のちがうような弓子に手が出せなかったのであろう。
中学三年のはじめのころ、ミチ子はついに駅前で他校の中学生を恐喝《きようかつ》して、停学処分に付された。その事件以後、彼女の姿は町から消えた。東京でバーのホステスになったとか、ソープランドで働いているとかいう噂《うわさ》が、その後何度かささやかれただけで、すみやかにこの不良少女の記憶は町の人々から忘れ去られた。
いないほうが望ましい人間の忘却には、なんの妨げもなかったのである。
その後、田原弓子は高校、東京の女子大と進学した。弓子の生まれた町は、千葉県北西部のK市である。田園のまん中の小さな町が、いくつか合併して、数年前に市制を敷いたばかりだ。
それが東京を中心としたドウナッツ現象によって、最近、新興の住宅都市として急激に発展した。「都心まで一時間」のコマーシャルに惹《ひ》かれて、東京からはみだした人口が、逆流して来る。マンモス団地が次々に造成される。
国鉄が電化されると、東京までの距離はさらに短縮された。静かだった田園都市は、いまや東京の住宅衛星都市として、まったく新しい意匠をまとったのである。
田原弓子が自宅から東京の大学へ進学しているあいだに、K駅の利用客は三倍ぐらいにはね上がっていた。
弓子が野本ミチ子から肩を叩かれたのは、大学生活もいよいよ残り少なくなった二月の末である。卒業試験の最後の課目も終わり、ホッとしたところを、同じK市から通学している親友の坂村静江《さかむらしずえ》から、映画に誘われた。その映画はかねて観たいと思っていた音楽映画だった。
試験が終わった解放感から、弓子と静江は映画を観た。映画が終わってから、一緒に帰って来ると思っていた静江が、親戚の家に用事を思い出したとかで、途中で別れた。K市最大のデパートを経営している商家の娘で、弓子とは小学校から同級である。
成績もよく、弓子と同じクラスになったときは、弓子が級長で、静江がいつも副級長になった。
「ミチ子さんなんて他人行儀よ、幼なじみの同級でしょ、ミチって呼んで」
ミチ子は懐かしそうににこにこ笑いながら言った。
「いつこちらに帰っていらしたの?」
同級のころは、不良少女として敬遠していたが、何年も経ってから、昔の学友に出逢《であ》うのは懐かしい。弓子の心に警戒心はなかった。
「つい最近よ、それよりおめでとう」
「なんのこと?」
「あらとぼけないでよ。君原《きみはら》さんと婚約したんでしょ。卒業と同時に挙式だとか」
「まあ、よくご存じね」
弓子は頬をうすく染めた。ミチ子が言った君原とは、同じ小学校と中学の先輩で、東京T大医学部を卒《お》えたのち、同大医局へはいり、現在、講師をつとめている男である。
彼の若さで、講師になったことは、ばかばかしいまでの年功と序列が重んじられる同大医局では、驚嘆すべきスピードであった。
だが君原が、驚嘆されたのは、そのスピードのせいではなかった。
彼が講師のかたわら、病理学教室で一人こつこつ進めていた研究を、学会に発表したところ、これが、世界的な注目を集めたのである。
「もしかすると、ノーベル賞の候補にあげられるかもしれない」
とささやく者もあるほどであった。
東京に近い土地がらのために、個性が少なく、人材の出にくいK市が産んだ最大の逸材であった。地元の小学校、中学校、高校を通して、彼の成績はずば抜けていた。いっぽう、学年はちがったが、弓子は町の最高の才媛としていつも君原と並び称されていた。
この二人のあいだに婚約が整ったのは、つい最近のことである。両家はこの上ない縁談と喜び町の人々は、これ以上の組み合わせはないと称《たた》え羨《うらや》んだ。
しかし彼ら二人は、親のすすめによって婚約したのではない。二人のあいだには、かなり以前から特別の感情が交流していたのだ。
彼らは通勤通学の電車の中でよく同じ車両に乗り合わせた。小さな町の住人でおたがいに身元はよく知っている。ことあるごとに並べられて噂される彼らには、最初から特別な感情が通い合う素地があった。
だから表向きは、普通の見合い結婚の形をとっていても、彼らのあいだに、プラトニックながら恋愛感情があったのである。
弓子の紅潮は、それだけ婚約者への傾斜を示すものだった。
「静江が教えてくれたのよ」
「まあ、静江ったらおしゃべりねえ」
と眉《まゆ》を寄せながらも、弓子は悪い気持ちはしていない。
「ねえ、こんなところで立ち話もなんだから、ちょっとそのへんでお茶でも喫《の》まない?」
「そうねえ……」
「いいじゃないの、久しぶりに会ったんだもの」
すでに日はすっかり昏《く》れていたが、もう家までわずかの距離であるし、いかがわしい相手とはいえ、懐かしさの勝る旧《ふる》い同窓の友だったところから、弓子は警戒の鎧《よろい》を脱いだ。
これがもし異性の同窓生だったら、こうも簡単にあとを従《つ》いて行かなかったはずである。
「あらっ、車?」
すぐ近所の店へはいるものとばかり思っていた弓子は、ミチ子が駅の脇《わき》の広場に駐《と》めてあった赤いクーペのほうへ歩み寄ったので、ちょっと怪訝《けげん》な顔をした。
「うん、友だちからセコハンを安く譲ってもらったんだ。ちょっとおもしろい店があるのよ。車で二、三分よ。さあ乗った乗った。私の名ドライバーぶりを見せたげるわ」
ちょっと車のそばでためらった弓子を、ミチ子は車内へ押しこんだ。ミチ子は馴れた手つきで、車を発進させた。ハンドルさばきもなかなか鮮やかである。
小さな町をたちまち抜けて、車は田圃《たんぼ》の中へ出た。急に闇《やみ》が黒々と窓へ迫ってきた。
「ねえ、どこへ行くの?」
弓子は急に不安になった。
「もうすぐよ。とてもおもしろいところなんだから驚かないで」
ミチ子は、弓子の不安顔を笑いながら、ハンドルを操った。車はかなりのスピードで走っていた。
生まれ育った町だが、どのへんを走っているのかよくわからない。車窓に点々と映る人家の灯は、ますます疎《まば》らになるようである。
「ねえ、私もう帰りたいわ。引きかえして」
たまりかねて、弓子は言った。そのときミチ子の背中がかすかに反応した。前を向いたままうすく笑ったようである。
車が減速した。弓子はややホッとした。ミチ子が弓子の頼みをききいれて、車をUターンさせると思ったからである。
しかし車は、そのまま停まってしまった。
「さあ、着いたよ」
ミチ子の声が急に乱暴になった。
「あら、ここが? どこにお店があるの?」
片側に雑木林が迫り、反対側には黒々とした野面が広がっている。突然ミチ子がけたたましく笑いだした。
「はは、うまいことひっかかりやがって! ざまあみやがれってんだ」
「ミチ子さん!」
気が狂ったように笑いながら、ヤクザめいた暴言を吐き散らしはじめたミチ子を、弓子は呆気《あつけ》にとられてみつめた。
「あたしはね、あんたのそのお高くすました面《つら》が、前から気に食わなかったんだ。ミチ子さんなんて気取って呼ばれると背すじが寒くなるね。でもがまんした。最初からあたしとは人種がちがうと思ったから、手を出さなかったんだ。それを裏切りやがって!」
弓子はなんのことだかわからなかった。呆然《ぼうぜん》としている弓子に、ミチ子はますます怒りを煽《あお》られたらしい。
「なんだよ、その面《つら》は。いまその上品面をひっぺがしてやる。みんな出ておいで。カモを連れて来たよ」
ミチ子は窓を開けて闇の中へどなった。同時に数人の若い男が、ぞろぞろと出て来た。
「こいつは凄《すげ》え」
「本当にいいのかい、こんな上玉を」
「もったいなくて、セガレがおじぎをしそうだぜ」
男たちは、勝手なことを言いながら、窓から覗《のぞ》きこんだ。いずれも欲望だけが脹《ふく》れあがった動物的な男たちばかりである。
「あなたたちはだれ!?」
弓子はギョッとしながらも弱味を見せまいとして、強い口調で咎《とが》めた。
「だれだって? 見りゃわかるじゃねえか」
「ねえちゃんよ、そんなところにちぢこまっていねえで出ておいで」
「いいこと教えてやるからよう」
男たちは、ドアを開けて、弓子をシートから引きずり出そうとした。弓子は必死に抗《あらが》いながら、
「ミチ子さん、この人たちは何? たすけて、たすけてえ!」
と必死に運転席のミチ子に救いを求めた。
「弓子、あんたも往生ぎわが悪いねえ。あっさりとあきらめて、あんたの婚約者のためのきれいな体とやらをこいつらに振舞ってやんな」
「ミチ子、冗談でしょ。お願い、冗談はやめさせて」
「冗談じゃないよ!」
ミチ子のうすら笑いが、酷薄な表情にひきしめられた。弓子は、ようやく自分が罠《わな》にかけられたことを悟った。
「どうして? どうしてなの!?」
弓子はなぜ自分がこんな目にあうのか、わからなかった。
「ふん、とぼけやがって!」
「どうしてなの?」
「おまえが警察《サツ》に密告《タレコ》んだんだ。中学のときあたしが恐喝《カツアゲ》したってよ、同級生のくせに裏切りやがって、だから今おかえしをしてやるんだ」
「私が? ちがうわ、私そんなことしないわよ」
弓子にとってはまったく身に覚えのないことだった。
「だめだよ、いまさらとぼけたって。あたしはね、今日までチャンスを狙《ねら》っていたのさ。あんたを徹底的に痛めつけるためのごきげんなチャンスをね。長かったよ。でもとうとうそれがきた。ノーベル賞候補の君原と結婚するばかりになって、あんたが、いちばん幸福な今を狙って、あんたの体を狼《おおかみ》にめちゃめちゃに食わせてやる」
「ミチ子、許して、誤解だわ。私は何もしていないわ。ねえ、私を家に帰して、お願い」
「ふふ、用がすめばすぐに帰してやるよ。おまえら、何をぐずぐずしてんだよ。人が来たら危《ヤバ》いじゃないのさ。早いとこ、輪姦《まわ》しちまいな」
ミチ子に叱咤《しつた》された男たちは、弓子をたちまち車から引きずり出した。弓子の必死の抵抗など、数人の屈強な男たちの前には、なんの役にも立たなかった。
男たちの中央に放り出された弓子は、餓《う》えた獣のまん中に引きすえられた美味な獲物《えもの》のように、寄ってたかって剥《は》ぎ取られ、そして貪《むさぼ》られた。処女の硬い体は、獣たちによって引き裂かれて、血まみれになった。
それでも獣たちは容赦せずに貪りつづけた。長い飢餓のあとに与えられた餌《えさ》を貪るように、これからもまた長くつづくであろう餌のない期間に備えて、食い蓄えようとでもするかのように、徹底的に貪り、蹂躙《じゆうりん》した。
弓子が、男たちに次々に犯されてゆくのを、ミチ子はかたわらに立ちつくして、傍観者の冷えた目でじっとみつめていた。
数日後、田原家の朝食の時間に、父親の田原|和之《かずゆき》は、食卓に姿を見せない娘の姿に、
「弓子はどうしたのだ?」
と妻に訊《き》いた。和之が本業の医業のほかに、医師会の幹事役や市の名誉職をいくつも兼ねていて、夕食を家族と一緒にする機会が少ないので、朝食は家族そろってとるのが、いつの間にか一家の習慣となっていた。
「今日は学校はないはずだろう」
卒業試験も終わり、あとは卒業式まで登校する必要はないと聞いている。嫁ぐ日を間近にひかえて、もう娘と一緒に食事をとる日も残り少ない。
その貴重な機会を、父親にしてみれば、娘の朝寝坊のために一回でも無駄《むだ》にしたくなかった。
「起こして来なさい。もう睡眠はじゅうぶんに取れている」
和之は妻に命じた。妻に弓子を呼びにやらせてから、彼はふと、ここ数日弓子が元気のなかったことを思い出した。和之は、それを嫁ぐ日をひかえた処女の感傷だと思って、強《し》いて訊き出そうともしなかった。
娘はいつまでも親のもとにとどまれない。だれでもその別離に耐えてきているのだ。むしろ親のほうが、別離の悲しみは大きい。
――それにしても、ここ数日、ちょっと沈みすぎていたようだな――
〈まさか、それが今朝の朝寝坊に関係があるわけでもあるまい〉
ふと不吉な連想が、田原の胸をよぎったとき、奥の弓子の部屋から、妻が蒼白《そうはく》になって駆けこんで来た。
「あなた、大変、弓子が……」
あとは口をぱくぱくするだけで言葉にならない。
押取《おつと》り刀で、弓子の居室へ駆けこんだ田原は、すでに娘がベッドの中で昏睡《こんすい》していることを知った。枕元《まくらもと》に睡眠薬の空びんが転がっている。
救命のためのあらゆる処置が取られたが、すでに手遅れであった。
「あなた、こんなものが」
妻が、弓子の枕の下から一通の封書を見つけた。あて名はべつにない。
封を開けて文面を読み下した田原の表情は、しだいに怒りのために紅潮してきた。
7
佐伯教授は、三谷の知能検査、性格検査、ロールシャッハ・テストなどを重ねて行ない、アミタール面接と比較した。
その結果、知能テストはウェクス・ベルビュー改訂法ではIQ三十六と出た。これをアミタール面接時に行なうと、九十と出て、ほぼ正常値を示した。
性格検査は、慶大式で、分裂、神経質、ヒステリーで、アミタール注射後も同様。心情質検査は総括して自閉的で、爆発的傾向を持つ異常性格と判定された。
次にロールシャッハ・テストを行なったが、注射前は精神障害的であり、注射後は準秩序的で正常人に近くなった。
佐伯教授は以上の諸テストを終わったのち、ガンゼル状態のときには反応がないか、あるいは普通であって、注射後、反応があるか、さらに大きくなった刺激語とその反応語を仔細《しさい》に検討した。
すでに教授は注目していたことであるが、野本ミチ子に関してのみ、アミタール注射前後の反応に変化がない。
他の犠牲者については、注射後いちじるしい反応を示しているのに、野本については、終始「不知」を主張している。
教授はこの理由は何かと考えた。
その他、警察、好みの女性、価値観念等については、注射前後を通して反応が同じである。
これは、三谷の考え方がガンゼル状態の中で、つい顕《あら》われてしまったものと思われる。ということは、野本ミチ子に関しても、彼の本音が顕われたのか?
「女の好み!」
佐伯教授は、ふと目を光らせた。彼は自分の思いつきを確認するために、犠牲者の特徴を一表にまとめた。
間島信子(一八)丸顔、色白、髪は長く自然のままにしている。体格よし、身長一六三センチ。
大井君子(一七)丸顔、色白、髪は長くポニーテールにしている。グラマータイプ、身長一六五センチ。
吉野明美(一九)下ぶくれ型、色白、髪は長く肩から背にたらしている。ふくよかな感じ、身長一六三センチ。
野本ミチ子(二三)瓜実《うりざね》型の細面、色は浅黒い。やせ型、長髪で赤く染めている。身長一五八センチ。
大石恵美子(一九)丸顔、色白、あたたかくふくよかな感じ。長髪をアップにまとめている。身長一六六センチ。
さらに佐伯教授は、三谷に乱暴されただけで、殺害をまぬかれた千葉県K市の少女A子さんと前科の婦女暴行致傷の被害者たちの身体特徴を調べた。
その結果、彼女らがいずれも、丸顔、色白、長髪、グラマータイプであることがわかった。この特徴は、野本ミチ子を除く他の四人の犠牲者の共通項でもある。これはそのまま三谷の好みになっている。
しかも年齢が二十歳を越えていて、身長が一六〇未満、髪を赤く染めているのは、九人の犠牲者(A子と前科の被害者も加えて)の中で野本ミチ子一人である。
つまり、野本は三谷の好みの女ではないのだ。
ここにおいて佐伯教授は、野本ミチ子は、この連続強姦殺人事件とは無関係と断定した。
たまたま同じ時期に行方不明になり、三谷の毒牙《どくが》にかけられた犠牲者の一人が埋められていた同じ場所から遺体が発見されたために、三谷事件の犠牲者と錯覚してしまったのだ。
捜査本部は、佐伯教授の着眼に愕然《がくぜん》となった。
たしかに身体特徴といい、アミタール面接にかけても頑《がん》としてつっぱねる三谷の態度といい、別件と考えたほうが妥当のようである。
しかしそうだとすれば、だれが彼女を殺したのか? 剖検によって死因は扼殺《やくさつ》と鑑定されている。
あらためて、野本ミチ子の周辺が丹念に洗いなおされた。
調べるうちに野本が、中学時代から、不純異性交遊や、シンナー遊び等に耽《ふけ》って、とかく問題をおこしていた事実が浮かんできた。中学を卒業してから、しばらく東京へ出て、トルコ風呂やバーなどで働いていたらしい。殺される一年ほど前に、K市へ舞い戻って、市内の盛り場に地元の不良グループとたむろしていたという。
三谷事件の犠牲者がすべて、まじめな女子高校生や、OLだったことに比べて、野本ミチ子は、この点においても明らかに異質であった。
当然捜査陣の目は、野本が殺される直前つきあっていたK市のチンピラグループに向けられた。
彼らはK署へ呼ばれて厳しく追及された。
しかし彼らは文字どおりのチンピラで、せいぜい学生やアベック相手の恐喝《きようかつ》を働く程度である。とても殺人を犯すほどの悪《わる》はいそうになかった。
むしろ野本ミチ子の子分として、彼女の命令のままに嬉々《きき》として動きまわっていたのである。
仲間内で女王蜂《じよおうばち》≠フミチ子を争い、その軋轢《あつれき》が高じて、彼女を殺したと考えるには、無理が多かった。
しかし、捜査本部は彼らへの疑いを捨てなかった。他にミチ子に動機を持つような人間は浮かび上がらない。ナガシの線も薄い。
男がその気になれば、女ボスを殺すのはわけがない。
刑事の厳しい追及に音《ね》をあげた彼らの一人が、
「強姦はしたが、殺しなどしない」と言った。
「強姦? 野本ミチ子をやったのか?」
取調べにあたっていた刑事は、それに食いついた。
「ちがいます。あねごじゃない。堅気の娘です」
「どこの娘だ? いつどこでやったんだ」
「田原医院の娘です。二月ごろです。あねごが美味《うま》いものをご馳走《ちそう》してやるからと言うので町はずれの畑の中で待っていると、その娘を車へ乗せて連れて来たのです。あねごはその娘に何か怨《うら》みがあったようで、おれたちに輪姦《まわ》させたのです」
「田原の娘といえば、たしか半年前に自殺をしたな」
取調べにあたったのが地元刑事だったので、すぐにその事件を思い出した。市内で最も大きい田原医院の娘が、結婚直前に原因不明の自殺をとげた事件は、まだ記憶に残っている。
失恋か何かの原因があったらしいが、家族がかたく伏せてしまったので、警察も深く立ち入れなかった。
その娘を、彼らが輪姦《りんかん》したという。時期も一致している。娘は輪姦されて間もなく死んでいるのだ。
「きさまたちがやったんだな」
刑事の声は激しい怒りを帯びた。結婚をひかえた若い娘が、町の不良に、あろうことか輪姦された。そのショックは回復しがたいものであったにちがいない。普通《なみ》の不祥事ではない。うす汚れた不良たちに、徹底的に弄《もてあそ》ばれ、汚されつくした。
親には言えない、婚約者には申しわけない。良家の箱入りだっただけに、耐性もない。
彼女は簡単に自らの命を摘み取ってしまったのだ。遺書はあったかもしれない。あるいはなかったかもしれない。いずれにしても、家族は娘の自殺の理由をうすうす悟ったはずだ。そして、名門の家名を重んずる彼らは、娘の死を悲しむ前に、その原因をかたく秘匿《ひとく》したのである。
良家の子女が、地まわりの不良に輪姦された。あり得べからざることだ。刑事はあらためてそのときの田原家の拒絶的な態度に思いあたった。
「きさまらが殺したのも同じことだぞ!」
刑事の怒りは本物だった。
「すみません」
「何人でやったんだ」
「ここにいる連中全部です」
「馬鹿!」
刑事はついにどなりつけた。彼らの興味本位な獣欲と衝動によって、あたら開花寸前の美しい花を、根本から折ってしまったことにたまらなく腹が立ったのである。
しかし、そのチンピラの供述に嘘《うそ》はなさそうだった。
野本ミチ子がどうしてそんな悪質な教唆をしたのかわからない。しかし適齢まで育てた娘を、むざむざ自殺に追いやられた親にしてみれば、泣いても泣ききれない思いだったにちがいない。
「田原家の復讐《ふくしゆう》ではないだろうか?」
という線が捜査本部に打ち出された。娘が自殺をしたとき、その原因を伏せたのは、家名のためではなく、後日の復讐に備えてであったかもしれない。
原因を公表しておけば、野本ミチ子が変死したときにすぐにたぐられてしまう。
田原家の拒否的だった態度は、将来の予防工作としても理解できるのである。
あらためて、田原家に事情が聴かれた。まだ参考人の段階であるが、背後に殺人の容疑がからんでいるので、事情聴取といっても、取調べに近い。
自殺した田原弓子の父親、田原和之は、遺書があったことを認めた。そしてその中で野本ミチ子の名前が挙げられ、自殺に追いつめられた原因がかなり詳しく述べられていたことを語った。
彼は、捜査本部が抱いている疑いを敏感に悟ったらしく、
「しかし、私は野本ミチ子をどうこうしようという気持ちはありませんでした。それはそのときは殺してやりたいくらいくやしく思ったことは事実です。けれどもその気持ちを実行に移すということは、べつのことです。私には、自分で言うのもおこがましいのですが、この土地に長くつづいた家系と、営々として築き上げた医者の地盤があります。それをすでに死んでしまった家族の一人のために失うことはできません。私には、親としての悲しみよりも、田原家代々の当主の一人としての責任のほうが大きいのです」
こう語った田原和之の面《おもて》にはお家≠フためには、何ものも犠牲にして悔いない封建的な人間の、愚かで滑稽《こつけい》な全体主義が、臆面《おくめん》もなく顕《あら》われていた。
刑事は呆《あき》れた。呆れながらも、この男は犯人になれないと思った。やはり彼は、家名のために弓子の自殺の原因を伏せたのである。
「今でもその遺書は保存してありますか?」
「いいえ、やってしまいました」
「やった? だれに」
遺書をもらいたがるような酔狂な人間がいようとは思えなかった。
「弓子の婚約者ですがね、自殺をしなければ、二ヵ月後には結婚することになっていたのです。ひどく悲しみましてね、娘の形見にくれというのでやりました。もともとその婚約者にあてたような遺書でしたがね」
「婚約者……」
そうだ、婚約者がいたのを忘れていた。弓子の死をひどく悲しんだということは、それだけ、彼の傾斜が深かったことを示す。
結婚寸前に、愛していた婚約者を殺されたその男の心は、犯人に対する憎悪でふくれあがったにちがいない。ここにもう一人、野本ミチ子に動機を持ち得る人間が存在した。
「だれですか、その婚約者だった人は?」
刑事は意気ごんだ。
「君原一郎ですよ。ご存じでしょう、ノーベル賞候補にあげられるかもしれないと言われている……」
「ああ君原さん」
刑事は、K市が産んだ最大の逸材として、その名前を知っていた。
あの君原が、田原弓子の婚約者だったのか。しかしどんなに逸材であろうと、殺人の動機を持っているということになれば、調べなければならない。
こうして捜査本部の厳しい視線は、君原一郎に注がれていったのである。
8
君原は、最近、市内の富有な商家の娘と結婚して、東京の練馬区のほうに移り住んでいた。その家も、妻の実家でたててやったものらしい。
田原和之の取調べにひきつづいて、君原の取調べも、地元署の内藤《ないとう》刑事が担当することになった。若い相棒の柳《やなぎ》刑事が同行した。
相手に備えを立てさせないために、二人は予告をせずに訪ねて行った。T大の研究室へ行ったところ、一足ちがいで帰宅したところだったので、練馬の自宅のほうへ後を追った。
池袋から私線で数駅、奥へはいり、十分ほど歩く。びっしりと埋まっていた家並みが粗くなって、ところどころに武蔵野の裸の土が散見するようになったあたりに、君原の新居はあった。
小ぢんまりとした、若夫婦向きのいかにも住み心地のよさそうな家である。玄関に立ってブザーを押すと、主婦というより、まだ娘々した女が出て来た。君原の新妻であろう。
こんな初々《ういうい》しい妻を娶《めと》り、安定した家庭を営んでいる男が、復讐のための殺人をしたとは、どうも思えなくなってきた。しかし要するにそれは相手がまとう付属物≠ノすぎない。直接本人にあたるまでは、弱気になるべきではなかった。
弱気になりかかる心を励まして刑事は、君原に面会を求めた。
「あの、どちらさまでしょうか?」
どうやら君原は在宅らしい。
「K市の内藤だとお伝えください」
内藤は故意に自分たちの身分を隠した。君原の反応を見たかったからである。細君は素直に奥へ取次ぎに引っこんだ。
「おい、あの細君、どこかで見たような気がするんだが」
内藤は待つあいだ、柳刑事に小声で言った。
「いやぼくもさっきから、そう思っていたんですよ」
「もしかすると町のどこかで会ったことがあるのかもしれんな」
最近、東京からの人口逆流で、にわかにふくれあがってきたが、もともと田園の中の田舎《いなか》町である。同じ町の人間ならば、名前を知らなくとも、顔をなんとなく覚えているということもある。
柳がうなずいて、何か言おうとしたとき、君原が出て来た。額《ひたい》が広く、頬《ほお》がうすく目の鋭い、いかにも俊敏な感じである。
「はじめまして。こういうものですが」
内藤と柳は相手の表情に注意しながら、名刺を差し出した。名刺を覗《のぞ》きこんだ君原は、あっと叫んで、その場に棒立ちになった。顔色が変わり、名刺を持った手が震えている。
むしろ刑事たちが驚いたほどの、あまりにもいちじるしい反応だった。内藤たちは、実はもっと海千山千の相手を予期していたのである。
この若さでノーベル賞|云々《うんぬん》をささやかれるほどの人物である。容易なことではシッポを出すまい。持久戦の構えでやって来たのだが、無防備に近い相手の狼狽《ろうばい》ぶりに、かえって驚いてしまった。
「実は、野本さんのことでちょっとおうかがいしたいことがありまして」
内藤は残酷なとどめを刺すように言った。
「の、野本ミチ子が……どうかしたのですか?」
かすれたとぎれ声でくりかえした君原は、重大な失言をした。内藤は「ミチ子」という名前は告げなかった。野本姓の人間はいくらでもいる。それにもかかわらず、君原はただちにミチ子を連想した。
内藤は、君原が正常な殺人者≠ナあることを直感した。殺人とは、異常な人間が犯すものである。しかしときには正常な人間も犯すことがある。
やむを得ず殺人を犯した場合、法律も、その事情を認めて、罰しないようにしている。その典型例が正当防衛である。だが法律が責任を負わせないようにしている場合はあまりにも少ない。罰せられない殺人がたくさんあっては困りものだが、同時に、罰するにはあまりにも気の毒な、法的に有責な殺人も多い。
子や親を殺された者の復讐殺人なども、その一例だ。このような犯人は、犯人としての悪性も、悪知恵も持ち合わせていない。したがって司直に追及された場合、最も脆《もろ》い。
――君原は、その種の犯人だ――
二人の刑事は確信した。
「よくミチ子さんであることがわかりましたね」
柳が追い打ちをかけると、君原の手の震えが全身に伝わって、その場に立っていられないほどになった。
「せっかくお帰りになったばかりのところを、申しわけありませんが、ちょっと最寄りの署までご同行いただけませんか」
内藤がつけ加えたとき、君原はすでに意志を失った人形のようになっていた。その様子を、彼の初々しい細君が、いまにも泣きだしそうな顔をしてみつめていた。
9
君原の自供によると、
――田原弓子の遺書を読んだとき、野本ミチ子に対して激しい憎悪を覚えた。野本は以前から私にモーションをかけていた。自分が取り合わなかったので、自分と婚約した弓子に嫉妬《しつと》して、あんな卑劣なことをしたのだろう。
私は、どうしても野本ミチ子に会って、その卑劣さを詰《なじ》ってやらなければ気がすまなくなった。殺すつもりは全然なかった。
五月二十一日の夕方、ミチ子が巣にしている駅前の喫茶店S付近に網を張っていて、彼女をつかまえた。ドライヴに誘うと、喜んで尾《つ》いて来た。
弓子を犯させた町はずれの畑(遺書に書いてあった)に連れて来て、激しく詰ると、ミチ子はせせら笑って、
「死んだ女をいつまでも追いかけていないで、生きている女を抱いたらどう? カーセックスも悪くないわよ」と私にむしゃぶりついてきた。
激しくもみ合っているうちに、急にミチ子がぐったりしてしまった。夢中になってもみ合っているあいだに、いつの間にか彼女の喉《のど》を絞めてしまったのだ。
愕然《がくぜん》として人工呼吸などを試みたが、ミチ子は蘇生《そせい》しなかった。いま逮《つか》まれば、だれもこれを過失だとは見てくれないだろう。婚約者の弓子をミチ子によって間接的に殺された私には復讐の動機がある。現場は人影のない町はずれの寂しい畑の中だ。過失だと言い張っても通らない。私にはし残した研究がある。殺人犯の不名誉よりも、研究のできなくなるのが、こわかった。研究はどうしても完成させなければならない。
私は動転の中で、自己防衛を考えた。
とにかく死体は、いったんその近くの畑の中に埋めた。あとで人里離れたところを探して埋めなおすつもりだった。
そのうちに三谷事件がおきて、犠牲者の死体が次々に発見された。そのときふと、それらの現場の一つに、ミチ子の死体を移して、埋めなおせば、三谷が殺《や》ったことに仕立てあげられるかもしれないと思いついた。三谷は精薄者のようだし、ミチ子の死因は、三谷の犠牲者同様絞殺だ。
自分にはまだしなければならない研究がある。自分がなしとげなければ、他にだれもする者はいない。この研究が完成すれば、世界の医学界と無数の病める人に確実な福音《ふくいん》をもたらす。
三谷はどうせ死刑だ。四人殺すも五人殺すも、刑は同じである。自分は世界に必要とされている人間だ。四人殺した凶悪な精薄者が、もう一人の殺人の罪を引き受けてくれてもよいだろう。うまくいけば三谷は責任無能力者として罰せられないかもしれない。まして自分が殺した人間は、生きていても世の中に害悪以外の何ものももたらさないフーテン女なのだ。
ミチ子の死体は、最初に埋めた土地に腐敗を妨げる何かの要素があったのか、たいして傷んでいなかったので、移動はわりあい簡単にできた。間島信子さんの遺体発見現場まで、車で三十分ほどの距離だった。途中で検問のないような小道を通っても、たいして所要時間は伸びない。間島さんのところを選んだのは、距離が近いことと、いちばん最初に発見された場所なので、人の目が少なかったからだ。
死体を移動した直後にいまの家内と結婚した。過去をすっかり忘れて、新しい生活をはじめようと思った。でもいつか刑事が訪ねて来ないかと、毎日、薄氷を踏むような生活だった。――
10
君原が自供したころとほぼ時を同じくして、佐伯教授は、三谷順平の精神鑑定の意見を出した。
それによると――
三谷は、多少精神病質的なところを認めるも、じゅうぶんに責任能力を有する。彼のガンゼル状態は、精神病的な欠陥とは明らかに異なる責任回避のポーズである。――
君原一郎は殺人(殺意はなかったという主張は通らなかった)と死体遺棄で起訴された。
ほぼ同じ時刻、東京練馬の君原の留守宅で妻の静江が自殺をはかった。たまたま御用聞きに来た出入りの食料品屋が、ガス臭を嗅《か》ぎつけて、救い出すのが早く、危ういところで生命を取りとめた。
君原の妻は、田原弓子の元親友の坂村静江である。病院のベッドで譫言《うわごと》のように、
「ミチの恐喝を警察に密告したのは私よ、そして弓子が密告したとミチに告げ口したのも、私。私は君原が欲しかった。でも君原の心は私にはないの」
つぶやきつづける言葉の意味のわかった者はいない。だれも彼女の言葉に耳を傾けようとした者もいない。一酸化炭素中毒の後遺症で頭がおかしくなったと思ったのである。
三谷順平は数ヵ月後、無罪を言い渡された。その理由は、
――裁判所が審理した結果によると、被告人が各公訴事実記載のとおりの犯行をなしたことは、いちおうこれを認めることができる。
とはいえ、被告人が精神分裂病に罹患《りかん》し、犯行当時、病勢増悪の時期にあったことは明らかである。佐伯教授による鑑定意見は、傾聴するに値すれども、学問的にまだ定立されておらず、経験則に照らしても妥当とは言えない。
よって被告人を無罪とする。――
事件がいちおうの落着をみたとき、内藤刑事は、憮然《ぶぜん》として柳刑事に言った。
「婚約者の復讐のために、性悪《しようわる》女を殺した日本の偉大な頭脳が訴追され、罪もない処女を四人も殺した凶悪犯が無罪とはな、これが法律というものかね」
「情状酌量はあるでしょうが、君原の有罪は動きません。法律の番人のようなわれわれでも、今度ばかりは、法律というものの鉄のような非情性がいやになりました」
柳もやりきれないといった表情で答えた。
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この作品の執筆にあたり、主たる資料として塩入円祐氏『ガンゼル状態を呈した殺人犯の精神鑑定例』を参考にしました。銘記して謝します。
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児童心理殺人事件
「殺意の虚像」改題
1
災難というものは、いつ起きるかわからないものである。この事件は相手の子供にとっても災難であったが、中原桂司《なかはらけいじ》にとっても災難としか言いようのないものであった。
中原は私立女子高校の数学の教師をしている。公立校の教師とちがって身分的保証はなにもないが、給料がいいので、その学校へ来てからもう三年になる。
経営者の校長に「きみ辞めたまえ」と言われればそれまでの、まことに不安定な職場だったが、校風が明るく、生徒も裕福な家庭の子女が多いので、万事|鷹揚《おうよう》であることも、彼の気に入っていた。
その事件が起きたときは、夏休みの初めであった。中原は妻子を田舎《いなか》へ帰して、自分だけ団地の中の自室に閉じこもり、副業に最近はじめた受験用参考書の執筆に専念していた。
この参考書ができあがれば、多少まとまった金がはいる。彼はその金で、かねて計画を立てているヨーロッパ旅行に出かけるつもりである。
中原の住んでいるところは、都心から国電と私鉄を乗り継いで、一時間半ほどの距離にある、M市郊外の新興の団地である。約一千世帯四千人、3DKを中心にした、団地としては規模の小さいほうである。
中原一家も、いままで住んでいた民営アパートから、ようやくくじにあたって、最近移り住んで来たばかりであった。
勤め先から少し遠くなったが、周囲には緑が多く、親子三人の家族には3DKはじゅうぶんの広さであり、文句は言えなかった。新興団地だから、住人同士も四方八方から寄り集まって来たばかりで、まだおたがいに馴染《なじ》みがない。
だが集中的に仕事をするためには、むしろそのほうが都合がよかった。妻子を郷里へ帰したのも、仕事に没頭するためである。
その日は朝から蒸し暑い日であった。風はまったくない。うすい雲に被《おお》われた白ちゃけた空から、濁ったような日光が、ただ不快指数を上げるためだけに、うすく射してきた。
蝉《せみ》の啼《な》き声がその暑さを強調している。
中原はパンツ一枚という凄《すさ》まじいスタイルで、朝から机に向かっていた。仕事はようやく調子が出て、筆の滑りがよくなってきたところである。
――この分なら、予定より早く仕上がるかもしれないな――
中原が暑さにもめげず、机に向かっていられたのは、調子が出てきたからである。妻がいないので、食事も腹がすいたときに店屋《てんや》物を取って間に合わせる。面倒臭いので抜いてしまうこともある。
今日も朝から机に向かいっぱなしで、朝食も昼食もまだ取っていない。午後二時ごろになると、さすがに空腹と疲労で、机にしがみついているのが、苦痛になった。
そのとき部屋の下のほうから、子供たちのにぎやかな声が聞こえてきた。彼の部屋は二階にある。子供たちは、ベランダの下の芝生の共用地に集まって、しきりにわいわいがやがや騒いでいる。中原はペンを止めて、聞くともなく、彼らのさえずりに耳をすませた。
「あ、あんなところに止まったぞ」
「ちょっと登ればつかまえられるよ」
「でも危ないよ」
「なんだ弱虫! よし、ぼくがつかまえてやる」
「よしなよ」
「大丈夫だったら」
子供たちは彼の家のベランダを見上げて、しきりに騒いでいるらしい。そのうちベランダの方角にあたって、油蝉《あぶらぜみ》がかしましく啼きだした。子供たちが追って来た蝉が、中原家のベランダに止まったのである。
それを勇敢な子供が、二階まで登って来て取ろうとしており、止めようとしている子供と言い争っているのだ。そのうち、子供たちの騒ぎがピタリとおさまった。蝉の声がその不意の静けさを強調している。
どうやら勇敢な子供が、ベランダへ登りだしたのを、他の子供たちが固唾《かたず》をのんで見守っている気配である。
――危ないな――
中原は思った。ベランダは各戸独立のコーナー式のもので、床と側壁がコンクリート、手摺《てすり》が鉄製である。一階の天井が二階の床と共用になっている。ベランダ伝いに二階へ登るためには、一階の手摺の上に立って、二階の床にしがみつき、懸垂の要領で体重をずり上げる以外にない。
小さな子供の腕力には無理であるし、それにそんな冒険をしている間に、蝉は逃げてしまう。
中原は、ペンを置いて立ち上がった。子供の冒険を諫《と》めようと思ったのだ。彼が仕事部屋にしている部屋は、ベランダに面している。ガラス戸は開いているので、ほんの数歩あるくだけで、ベランダに出られる。
彼は蝉を逃がさないように足音を忍ばせて、ベランダへ出ようとした。ちょうどそのとき蝉は啼き終わった。同時に胴体を少し震わせるようにして、小便をすると、さっと逃げて行ってしまった。
「ああ、あ」
下のほうで子供たちのがっかりした吐息がもれた。蝉が逃げたのは中原の気配を悟ったからではなく、ちょうどその時期になっていたのである。
蝉が逃げてしまったので、彼も忍び足をやめて、ベランダへ出た。一人の子供が、一階から、二階の床に向かって、体をずり上げようとしたときである。
中原が手摺から、ヌッと顔を出したのに驚いたのか、子供は一瞬早く、あっと声をあげて、懸垂の手の力をゆるめた。いったんゆるんだ腕力は、子供の体重を支える力に欠けて、彼はそのままベランダの下の芝生に仰向けになって落ちた。
見守っていた子供たちが、悲鳴をあげた。
「大変だ!」
中原は愕然《がくぜん》として顔色を変えた。子供たちのただならぬ悲鳴に、あちこちの窓から住人が顔を覗《のぞ》かせる。中原はいったん家の中に引っ込み、階段を伝って、子供の落ちた場所へ駆けつけた。中原の下の家では留守なのか、厚い黒地のカーテンが引かれたままである。それがひどく拒絶的に見えた。
不幸中の幸いにも、落ちたところは柔らかい芝生の上である。だが子供は驚いたのか、それとも打ち所が悪かったのか、気を失っている。
頭に外傷はなく、口や鼻から出血している様子はない。幼稚園か小学校一年といった年ごろの男の子である。
「坊やたち、この坊やどこの子だい?」
中原は動転しながら聞いた。
「すぐそこの家のシンちゃんだよ」
一緒にいた子供の一人が教えた。その子の指さすほうを見ると、すぐ真向かいの棟《むね》である。騒ぎを目撃したり、聞きつけたおとなたちが、集まって来た。
「すみません、どなたか救急車を呼んでくれませんか。頭を打って気を失っています」
中原は集まって来た見知らぬ隣人たち≠ノ頼んだ。何人かが電話へ走った。
「まあ、シンちゃんたら、シンちゃん、いったいどうしたのよう」
だれかが報《し》らせたのか、向かいの棟から三十前後の女が飛び出して来て、気絶している子供の体に半狂乱で取りすがった。
「頭を打った様子ですから、動かさないほうがいい。すぐに救急車が来ます」
中原は子供の体をゆすろうとした母親を制《と》めた。
「どうしてこんなことになったのですか?」
彼女は周囲に集まった人々に詰問するように訊《き》いた。
「あのベランダから落ちたんだよ」
子供の一人が中原の家のベランダを指さした。
「蝉を取りに登ったんだ」
またべつの子が言った。
「そしたら、このおじさんがベランダに出て来てね」
「コラッて怒ったから、シンちゃん驚いて落ちたんだよ」
子供の一人がとんでもないことを言いだした。
「ち、ちがう。そんなことは言いません」
中原は狼狽《ろうばい》して、子供たちと、集まって来たおとなたちの顔を交互に見渡した。
「言ったよ。ぼくおじさんがどなったの、確かに聞いたもん」
子供はあどけない顔をして主張した。その子自身、嘘《うそ》をついている意識は少しもなく、本当にそう思い込んでいる様子である。
「ぼくも聞いたよ」
「ぼくも」
「おじさんすごく怒ったじゃないか」
「だから、シンちゃん驚いて落ちたんだ」
困ったことに同調者が次々に現われた。こうなると、中原が否定すればするほどに不利になる。とにかく相手は無心で純真な℃q供たちなのだ。
おとなたちは非難の視線を、中原に集中した。彼はその視線の中央に引き据《す》えられて、なにも言えなくなってしまった。
「ひどいー、ひどい人だわ、なにも子供がベランダへ登ったくらいで、そんなにどなることないじゃないの!」
子供の母親は、いまにも中原につかみかからんばかりにした。ちょうどそのとき救急車のホイッスルが近づいて来た。
「とにかく事情はあとで詳しく聞くとして、いまはお子さんの手当が先決です」
分別のありそうな住人の一人が中にはいってくれた。
2
ベランダから落ちた子供は、隣りの204号棟の22号室に住む、会社員|山田隆《やまだたかし》の一人息子で、慎一《しんいち》という今年七歳の小学校一年生である。
救急車で病院に運ばれて、精密検査を受けたが、とくに障害は発見されなかった。慎一は病院に着いてから意識を回復した。記憶の障害もない模様である。
しかし一時的にも意識を失ったということは、慎一の頭部に受けたエネルギーが、かなり強力であったことを示すものだ。
頭の怪我《けが》は、いったん意識がはっきりしても、あとになって、症状の悪変することがある。頭蓋《ずがい》内の出血が徐々に血腫《けつしゆ》や浮腫《ふしゆ》をつくり、脳幹を圧迫して、ついには死に至らしめる。
怪我をしてから三週間以上も経《た》って意識障害を起こすこともある。幸いにかつぎ込まれた救急病院に優れた脳外科医がいたので、適切な検査と手当をしてくれた。
慎一は一週間後に退院して来た。いままでの検査によって、受傷後二十日以上も経ってから症状を現わす慢性頭蓋内血腫のおそれは、まずないだろうという診断であった。
慎一の入院中は、中原は毎日病院に通った。もし子供に万一のことでもあれば、彼の責任ということにされてしまう。慎一と一緒にいた子供たちの証言は、彼に決定的に不利であった。
中原に抗弁のしようはないのである。慎一が落ちたとき、中原がベランダに出ていたことは、事実である。その姿を、近所の住人たちにも目撃されている。
中原にしてみれば、子供が勝手に登って来て、勝手に落ちたようなものであるが、まことに奇妙な成り行きから、彼が加害者のような立場になってしまった。
おかげで彼の仕事は頓挫《とんざ》し、慎一が退院して来てからも、前のピッチを取り戻せなくなった。海外旅行どころか、この分では出版社から責任を追及されそうな雲行きになった。
ともかく慎一が無事に退院して来たので、事件はいちおう落着したと見られた。
だが慎一が退院するころから奇妙な噂《うわさ》が団地に流れはじめた。だれが言いだしたのか、彼がベランダから落ちたとき、中原の家から若い女がこっそりと忍び出て来る姿を見たというのである。
「きっと奥さんが里帰りした留守を狙《ねら》って、若い女を引っ張り込んでいたのよ」
「自分の家へ連れ込むなんていい度胸ねえ」
「中原さんって、学校の先生でしょ」
「なんでも女子高校の先生だそうよ」
「とんだ桃色教師だわねえ」
「もしかしたら……」
「なによ、気をもたせないでおっしゃいよ」
「その女は、自分の生徒じゃないかしら?」
「その可能性はおおいにあるわよ。最近の子は発育がいいから、高校生だったら立派な女だわ」
「きっとその現場をシンちゃんに覗かれたので、怒ったのね」
「ひどい人ねえ」
噂はたちまち尾ひれをつけて、途方もない形に拡大され、団地中にビールスのように蔓延《まんえん》した。中原は憤《おこ》るよりも、むしろ呆《あき》れた。いったいどこからこのような噂が出るのか、理解に苦しむと同時に、噂の原型が人の口から口へ伝播《でんぱ》していくほどに、まったく予測もつかぬ奇怪な形に歪《ゆが》められながら拡大していくことに、言いしれぬ恐怖を覚えた。
こう燃えひろがってしまっては、もはや消すことはできない。自然に消えるのを待つほかはなかった。
だがそれはいっこうに鎮まる気配はない。ますますその火勢を強めて、無関心だった人間までも侵した。こうなると無関心族どころか、団地全体が好奇心のモンスターと化したようであった。
中原は、妻の久子《ひさこ》が帰って来た日のことを考えた。まさか彼女の里まで告げ口に行く人間はいないだろうが、彼女が帰宅すれば、当然噂はその耳にはいるだろう。
中原の妻は、夫につくすのを生き甲斐《がい》にしているような、なかなかよくできた女である。結婚前は幼稚園の保母をしていて、児童心理の勉強をしていた。彼も、自分にはすぎた妻だと思っている。それだけに、変な噂で悩ませたくなかった。
いくら彼が否定したところで、団地全体に燃えひろがった噂の炎に焙《あぶ》られれば、猜疑《さいぎ》の延焼をうけるだろう。この噂が学校に届けば、職を失うかもしれない。
悪いことに退院して来た子供が、ひどく怯《おび》えつづけていた。以前は何事につけ積極的な子で、一日中家に寄りつかないほど元気に外を遊びまわっていたのが、天気のいい日でも、家の中にちぢこまっているようになった。
家にいてもテレビを見るでも、本を読むでもない。部屋の隅《すみ》や押入れの中にはいり込んで、枕を抱いて、カバーを噛《か》み破り、押入れの中をもみがらだらけにしてしまう。眠っているときも何かにうなされることがある。
母親が外で遊べと無理やりに追い出すと、すぐに姿が見えなくなってしまう。心配になって探すと、たいていダストシュートの貯塵箱《ちよじんばこ》の中にごみにまみれて潜んでいた。
一度、追い出された子供は団地の前の草原へ出た。以前、慎一がよく遊んだ場所で、そこならば車もはいりこまず、親は安心していられる。
ところが子供が出て行って間もなく、そちらのほうが騒がしくなった。母親がなにげなく窓から覗くと、近所の主婦が、
「奥さん、大変よ、シンちゃんが気を失っちゃったの」
と叫んだ。
愕然《がくぜん》として駆けつけると、慎一がぐったりとなって近くの男の人の背に負われて帰って来た。救急車を呼ぶまでもなく、すぐに意識を取り戻したが、一緒にいた友だちの話を聞くと、カマキリの共食いを見てびっくりしたという。
カマキリの共食いを見たのは、なにも今がはじめてではない。虫の好きな子で、よくカマキリやバッタや、なんだか正体のわからない無気味な幼虫などを捕えてきては、母親に悲鳴をあげさせたものである。
以前の元気な慎一からは考えられないことであった。あまりにも異常なので、やはり落下時に頭を打った後障害が現われたのかと、医者に診せたが、臨床的な異常は何もないということである。
医者は、落下時に受けた精神的なショックが、少年の心を萎縮《いしゆく》させているのかもしれないから、親や周囲が気長に励ましてやるのがいいと言った。
「これも中原が、自分の情事の現場を見られた腹いせに、子供をどなりつけたりしたからいけないのだ」
けっきょく、母親は子供の異常の責任を、中原へ向けてきた。しかし、どんなに母親に怨《うら》まれ詰《なじ》られても、医者にもどうにもならないことを、中原に解決できるものではない。
中原にとっては、この事件はまったく災難としか言いようがなかった。
――それにしても、妻に隠れての情事を、子供に覗かれたから怒ったとは、想像がたくましい――
中原は、なんとも馬鹿らしい災難の中に引きずり込まれてしまった自分の不運を嘆きながらも、憤懣《ふんまん》やるかたなかった。
〈子供はベランダの床に両手をかけたところで、部屋の中を覗きこめるはずがないではないか〉
子供は一階の手摺の上に立って、二階の中原のベランダにぶら下がった形になっていたのである。そこへ中原が出て行ったものだから、驚いて手を離したのだ。
「待てよ」
自問自答してきた中原は、ふと視線を宙の一点に据《す》えた。絞った焦点の中に何かがチラリと見えたような気がした。
――はたしておれが出て行ったのに驚いて、手を離したのだろうか?――
中原の目がぎらぎらしてきた。あのときのことをよく思いなおしてみると、子供が手を離したのは、中原が顔を出したときより一瞬早かったような気がする。
〈そうだ、確かに少し早かった。子供はおれが顔を出すほんの直前に手を離していた。それをおれも、見ていた子供たちも、同時だと錯覚したのだ〉
――だがもしあの子が、おれが出るよりも前に手を離したとすると……?――
ここで新しい視野が、中原の前に開いた。子供は中原に驚いたのではなかったのである。何かべつのものに驚いて、落ちたのだ。
〈するといったい何に驚いたのか?〉
子供はあのとき、二階のテラスにぶら下がっていたのである。ということは、彼は一階にいた[#「彼は一階にいた」に傍点]。一階にいた子供には、一階しか見えない。
子供は、一階で何かを見たのである。そこで見た何かに驚いて、子供は手を離したのだ。
一階、すなわち、中原家の下にはだれが住んでいるか?
「わかったぞ!」
中原は思わず声をあげた。彼にはようやく、巻き込まれた災難の、真の構造がわかった。
一階の住人、すなわち205号棟12号室は、都心の商事会社に勤める砂岡《すなおか》とかいう若い独身の男が住んでいる。近く結婚するという話を、妻からチラリと聞いたことがある。
――女はその部屋に来たのだ――
中原はついに、いわれもない噂の源を突き止めたと思った。女を自室へ引っ張り込んだのは、その独身の商社マンだったのだ。子供は彼らのもつれ合っている姿をなにげなくベランダの手摺の上から覗いて、びっくりして落ちたのである。
この団地の建物は、一棟に三〜四の階段があり、各階段ごとの縦割構造になっている。砂岡と中原の家は共通の階段を使っている。女は砂岡の家から出て来たのだ。昼下がりの情事≠だれ憚《はばか》ることなく愉《たの》しんでいたところ、急に外のほうがやかましくなった。
情事を中断して外の気配をうかがうと、どうやら子供が、自分の家のベランダから落ちたらしい。
女を引っ張り込んだところを、近所の人間に見られると、格好の噂のたねにされる。女を説いて、騒ぎに紛れて逃げ出させた。その姿が、住人のだれかの目にとまったのだ。
中原家と砂岡家の階段は共通なので、そこからそっと忍び出て行った女の姿に、目撃者はてっきり、中原の家から出て来たと思い込んでしまった。
――だが、どうやってそれを証明できるか?――
落ちた子供は、中原の姿に驚いたと言っている。仲間たちがそう証言したので、自分でもそのように思い込んでしまったのだ。子供の固定した記憶を覆すのはむずかしい。
砂岡をいまごろになって問い詰めたところで、本当のことを言うはずがない。女を逃がしたのは、一緒にいるところを見られては都合が悪かったからである。あるいは女自身の意志で逃げ出したのかもしれない。
いずれにせよ、そこにいたことを、知られたくない人間が、あっさり白状するはずはない。それを認めれば、子供が落ちた責任までも着せられてしまう。子供はその後、医者にもわからない後遺症をしめしている。
そんなわけのわからないことの責任を追及されたら、うるさいことになるのはわかっている。中原が噂のぬれ衣を着せられているのを知りながら、とぼけているのが、かかり合いたくないことをしめす、何よりの意思表示ではないか。
中原はようやく、子供の墜落と、噂の原因を突き止めながら、どうすることもできなかった。
「やはり災難だったんだ」
と自分につぶやいて、諦《あきら》めざるを得ないようである。そんなとき妻から電話があって、四、五日中に帰ると言ってきた。中原はいよいよ首の座に直るような気がした。
3
団地の裏はやや低地の雑木林になっている。小さな沼もあって、ときどき犬や猫《ねこ》の死体が浮いている。危険でもあり不衛生でもあったので、地元の役所では、近くその埋立てを考えていた。子供たちにも立入り禁止地域になっている。
しかし雑木の中にクヌギの木が混じり、夏季にはそこに、カブトムシやクワガタがとまっていることがあるので、子供たちはときどき、禁を破って、林の中に侵《はい》り込む。
夏休みも終盤にはいったころ、その林の中に、子供たちの一隊がもぐり込んで来た。みな手に捕虫網や胴乱《どうらん》を持っている。
夏休みの最後の昆虫採集に、ラストスパートをかけるべく禁断の林≠ノ侵《はい》り込んで来た団地の子供たちらしい。
「あっ、いたぞ!」
「クワガタだ」
「ノコギリクワガタだ」
「でもメスだね」
「あ、あすこにカブトがいる」
「凄《すげ》え」
子供たちの歓声が緑陰にこだまする。さすがに禁猟区≠セけあって、獲物《えもの》は多いし、そのスケールが大きい。
カブトやクワガタのほかにも珍しい昆虫《こんちゆう》がたくさんいた。子供たちの胴乱は、たちまち豊かになっていく。
子供たちは獲物に誘われて、林の奥のほうへ侵り込んで行った。大都市の近郊では、すでに珍しいほどの、深い林である。昨日降った夕立ちのために、林の中はじめじめしている。少年たちのズボンも泥だらけである。
「ねえ、もうそろそろ帰ろうよ」
子供の一人が、ようやくタブーを犯していることに気がついたように足を止めた。
「まだ大丈夫だよ。奥にはもっといるよ」
べつの子供が言った。
「でもここへ来ちゃいけないって言われてるだろ」
「なんだ、恐《こわ》いのか、それじゃおまえだけ先に帰れよ」
リーダー株の勇敢なのが口をとがらし、肩をそびやかした。
「恐くなんかないさ」
「それじゃあ行こうぜ」
けっきょく、強気なのに引きずられて、さらに林の奥へ向かいかけた。すると突然、彼らより数メートル先の、ひときわ繁茂した木の根本からばさばさと音がして、黒い塊が飛び立った。
「わっ」と悲鳴をあげかけた子供たちは、その黒い塊が数羽のカラスであることを悟って悲鳴の末尾のほうを喉《のど》の奥に抑えた。
「こんなところにカラスの巣があるのかな?」
勇敢なのが、旺盛《おうせい》な好奇心を顔に表わした。
「ねえ、だれかカラスの巣って、見たことある?」
リーダー株の子供が、あとに尾《つ》いて来た子分たちの顔を見渡した。だれもが首を振った。
「カラスの卵があるかもしれない」
リーダーが言うと、子供たちはすでに抑えようのない好奇心の虜《とりこ》にされてしまった。
「まだ留守番がいるかもしれないよ。そーっといこう」
子供たちは足音を殺して、カラスの飛び立ったあたりの繁《しげ》みに近づいた。
「このへんだったぞ」
「気をつけろ」
「なんだか臭いなあ」
何かが腐ったようなにおいには少し前から気がついていたが、なによりも強い好奇心に圧倒されていた。
彼らは捕虫網を逆に構えて武器にしながら、繁みのほうへ恐る恐る近づいた。リーダーが、捕虫網の柄で繁みを分ける。子供たちの顔がそこを覗き込む。繁みの中に閉じ込められていた形の猛烈な腐臭が、彼らの面を直撃したのは、そのときである。
そして彼らはそこに信じられないようなものを見た。彼らは今度こそ悲鳴を抑えることなく、まるで蟻塚《ありづか》をこわされた蟻のように、てんでに逃げ出した。いちばん勇敢だったリーダーは、先頭に立っていた位置が、逃げるときにハンディとなって、最後尾になってしまった。
来るときの勇敢さとは打って変わって、彼は泣きながら逃げていた。幸いにも仲間たちは、それぞれ自分が逃げるのに精いっぱいで、彼が泣いていることに気がつかなかった。
東京都北多摩地区M市の外れの山林で、女の変死体発見の報は、近くの団地内にある派出所から所轄署を経由して、本庁へもたらされた。
発見者は、昆虫採集に来た団地の子供たちである。
最初に現場へ到着した所轄署員は、死体の外景を観察して、他殺の疑いが濃厚と本庁へ連絡してきた。
被害者は二十歳前後の若い女で、露出度の大きいサッシュブラウスと、膝上《ひざうえ》二十センチぐらいの赤いミニスカートを着けていた。喉《のど》に死因になったらしい紐《ひも》で絞めた痕《あと》が残っているが、使用された紐のようなものは、発見されなかった。
土中に埋められていたものが、埋め方が浅いところに雨水に洗われて、体の一部が地上に露《あら》われたのである。腐敗が進行しているうえに、犬や烏《からす》に突っつかれたために、損傷がひどい。現場および周辺に、身元を推定または特定させるようなものは何も残されていなかったが、地元署の刑事の中にその女を知っている者がいた。
被害者は三、四ヵ月前、新宿方面から流れて来たフーテンで、私鉄のM駅前の喫茶店にたむろしていた女であった。仲間からは『ボンコ』と呼ばれていた。早速、係官の一人がM駅前に飛んで数人のフーテンを連れてきて確認させたところ、ボンコにまちがいないことがわかった。名前は荒井汎子《あらいひろこ》といい、凡という字に似ているところからボンコと呼ばれていた。
出身地は関西のほうらしいのだが、詳しいことはだれも知らない。新宿に、吹きだまりに集まるゴミのようになんとなく寄り集まり、最近にわかに厳しくなったフーテン取締まりや、脱都会現象に追われて、居心地のよい場所を求めながら、荻窪、吉祥寺と転々として、四ヵ月ほど前にM駅前へ移って来たらしい。
いつもは駅前の喫茶店にたむろしているが、金に詰まると、家政婦やホテルのメードの臨時働きに出たり、あるいは売春婦まがいのことをやっていた様子である。
死体は司法解剖に付された。その結果、死後経過時間は二十日ないし一ヵ月、死因は絞頸《こうけい》による窒息と鑑定された。情交の痕跡《こんせき》は認められたが、腹部が地上に露出していて腐敗がひどく、血液型の判定ができなかった。あるいは犯人が非分泌型で型物質を出さないという場合も考えられた。
フーテン殺人事件の捜査本部が、M市署内に設けられた。
だが捜査陣の精力的な捜査にもかかわらず、網にひっかかってくるものは何もなかった。とにかく被害者が男関係のルーズなフーテンで、売春婦まがいのことをやっていたので、捜査は困難をきわめた。
犯人は、いちおう被害者の身元を隠すような工作を施しているので、計画的な犯行と見られた。犯人の逮捕を、最初時間の問題とみていた捜査本部は、被害者の周囲に次々と浮かぶ男の数の多さに驚き、洗っていくうちにそれらが一人一人消えていくのに、焦燥の色を濃くしてきた。
痴情|怨恨《えんこん》が殺人に発展する場合の異性関係は、たいてい数がかぎられるものである。異性関係のかなり花やかな人間でも、事件が発生した時点のいわゆる現役≠フ関係者は、限定される。
ところが、荒井汎子の場合は、まったくきりがないのである。M駅前に居ついたフーテングループのほとんどすべての男と関係があり、その他行き当たりばったりに声をかけたり、かけられたりした男たちとその場かぎりの交渉をもっていた。
最初はセックスプレーのつもりで遊んでいたらしいのだが、男たちのだれかから金をもらったのに味をしめて、最近では売春もやっていた様子である。刑事たちの内偵《ないてい》では、団地の住人の中にも、どうも彼女と交渉をもった男が何人かいるらしいことがわかった。
団地の住人の大部分は、都心に勤めを持つサラリーマンである。したがって最寄りのM駅を利用している。
汎子は、この駅前に網を張って、客を拾っていたのだ。この情報を漏れ聞いた団地の奥さま族は、恐慌状態を呈した。
もしかすると、自分の夫が、汎子の顧客だったかもしれない。しかしそれ以上に恐慌をきたしたのは、脛《すね》に傷持つ亭主《ていしゆ》族である。彼らの中には、相手が汎子かどうか知らず、行きずりの情事を愉《たの》しんだ者もいる。妻に隠れて秘《ひそ》かに浮気をしている者もある。それが思わぬ事件によって、急に妻の監視が厳しくなった。彼らにしてみれば、とんだとばっちりであった。
4
中原桂司を取り巻く噂《うわさ》が、途方もない形に発展したのは、警察が被害者の男関係を丹念《たんねん》に追及しているころである。
――殺された女は、あの日、中原さんの部屋から忍び出て行った女だ――
だれかがまことしやかに言うと、噂はたちまち枯草の野に点じられた火のように広がった。炎はさらに最悪の形に発達した。
「中原さんがあの女を殺したのかもしれない」
「そうだわ、きっとそうよ。そうでなければ、シンちゃんがあんなに驚くはずないもの」
「可哀想にシンちゃんは、人殺しの現場を見せられたから、あんなにいつまでも怯《おび》えてるのね」
「私、恐いわ」
「人殺しの犯人と同じ棟《むね》に住んでるなんて、いやだわ」
「そう言えば、中原さんて、ちょっと変なところがあるわよ」
「奥さんを田舎へ帰して、一人で何をやってたのかしら?」
「きっと大久保清みたいな人なのよ」
噂はまったくとめどがなかった。中原は最初、女の変死体が発見されたという話を聞いたとき、いやな予感がした。噂がこんなふうに歪曲《わいきよく》されなければよいがと、内心おおいに心配していた。
それがまさに懸念《けねん》のとおりになったのである。しかし今度は災難だと諦めてはいられない。前の噂とは質がちがう。解剖による死亡推定期間も、ちょうど子供がベランダから落ちたころに符合する。下手をすると、人殺しの犯人にされてしまう。
当然のことながら、噂は帰宅して来た妻の久子の耳にはいった。
さすがの彼女も顔色を変えた。
「あなた、いったいこれはどういうことなの?」
久子は当然、彼を詰問した。
「馬鹿! おまえまでが疑ってるのか。これはまったく災難なんだよ。子供が落ちたのはおれのせいじゃない。下の砂岡の部屋を覗《のぞ》いたからなんだ」
中原は無実を証明するために、自分が追った推理を話した。それを聞いているうちに、久子もようやく納得してきた。彼女も最終的には夫を信じていたのである。しかし噂があまりにも途方もないことだったので、夫に確かめずにはいられなかったのだ。
「砂岡さんの部屋を覗いたというのね。きっとそうかもしれない。でも、砂岡さんのところに女がいたという確かな証拠があるの?」
久子は中原の言葉を聞いているうちに冷静になった。同時に自分の夫が直面した局面の重大さがよくわかってきた。
「証拠なんかないよ。しかしそれ以外に考えられないだろう」
「そうだけど、それはあなただけが主張することよ。砂岡さんにそんなこと知らないと突っぱねられれば、それまでだわ」
「どうしたらいいだろう」
中原は途方に暮れた表情で、妻の顔を見た。いまは久子だけが唯一の味方である。
「よく考えるのよ。砂岡さんの名前もうっかり出せないわよ。とにかく殺人事件なんですもの、当てずっぽうでものは言えないわ」
「ぼくの推理がまちがっているというのか?」
「そうじゃないわよ。推理だけでは、いくら理屈に合っていてもだめってことなのよ。何か証拠がなくちゃあ」
「証拠か……」
夫婦は暗然とした表情を見合わせた。もともと噂そのものがどこから発したのかよくわからないのである。噂とは、本来そういう性質を持っているものだが、中原のベランダから子供が落ちた(これも正確には中原のベランダの基底部と、砂岡のベランダの手摺《てすり》の間から)という事実があり、それを「純真な子供たち」が証言しているので、中原に不利であった。
このさい、中原を救うものは、あの日、砂岡の家から確かに女が――荒井汎子が出て行ったという証明である。
しかし「噂の女」が、汎子であったかどうかも不明であるうえに、本当にそんな女が存在したのかまったく曖昧《あいまい》なのであるから、証明のしようがなかった。
中原と汎子の間には全然関係はない。あの日、いかなる女も彼の部屋を出入りしていない。だから、たとえ警察が噂を聞きつけて疑いをかけたとしても、いずれそれは晴れるであろう。
しかし彼のような教職にある身には、そんな嫌疑《けんぎ》をかけられるだけでも致命的であった。いかに鷹揚《おうよう》な校長でも、殺人の疑いをかけられた教師をそのままにしてはおくまい。この団地にも住んではいられなくなるだろう。
彼らは職と、せっかく見つけた住居をいっぺんに失おうとしていた。二人はいまさらながら、はまりこんだ落とし穴の深さを思い知った。
「そうだわ」
窮地に追いつめられて、久子は一つの小さな突破口を見つけた。
「何かいい考えでも思いついたのか?」
夫がわらにもすがりつくような目を向ける。
「どうして、いままで思いつかなかったのかしら? シンちゃんに訊いてみるのよ」
「シンちゃんに?」
「あの子は何かに驚いて、ベランダから落ちた。あなたの推理によれば、砂岡さんの家の中の何かを見て驚いたということね。それ以来、シンちゃんは様子がおかしくなったんだわ。そのときのショックが子供の心に緊張をあたえて、それがあの子の表に顕《あら》われた行動を異常にしているのよ。だからその緊張を解きほぐしてやればいいんだわ。そうすればきっと心の中に閉じ込められたものが浮かび上がってくるわよ」
久子は、以前の職業的知識と経験から、子供の心の中に何かのしこりがあることを悟った。そのしこりを解くことが先決であると思った。
「でもどうやってやる? 近所の目が光っているよ」
「光ってたってかまわないわ。何もしないで人殺しの疑いをかけられるのよりも、ましよ。私、シンちゃんの両親にかけ合ってみる」
久子はいまや必死であった。それ以外に夫を守る方法はないのである。彼を守ることは子供を守り、家庭を守り、自分自身を守ることにつながる。
中原は、結婚してそろそろ十年になる妻の、いままで知らなかった強靭《きようじん》な一面を、はじめて発見したような気がした。それは女としての強さであったかもしれない。
5
久子が山田家に交渉して、ようやく慎一に直接質問する機会をあたえられた。山田夫婦は最初、とんでもないことだと、にべもなく突っぱねたが、久子の熱心な粘りに負けて、短い時間ならという条件で許してくれた。
場所は山田家で、時間は夕食前の、慎一の好きな子供向けテレビ番組の終わったときが選ばれた。
好きなテレビを見て、機嫌《きげん》のいいときのほうが、素直に質問に答えるだろうという山田夫婦の配慮である。
最初は渋っていた両親も、久子の熱意に負けて、積極的に協力してくれるようになった。もっとも、だいぶ好奇心も手伝ったことは確かである。
子供を怯《おび》えさせないように質問は、子供を扱い馴《な》れた久子がすることになった。山田夫婦がその場に立ち会った。中原は襖《ふすま》一枚へだてた隣室に身を潜めて、その場のやりとりを傍聴した。
「ねえシンちゃん、テレビおもしろかった?」
久子はおもむろに切り出した。
「シンちゃんはどのテレビが好きなの?」
「ウルトラマン、それから仮面ライダーだ」
「そう、よかったわね。シンちゃんもウルトラマンみたいに空を飛べたらいいと思う?」
「うん」
子供はうなずいて目を輝かした。
「ウルトラマンが助けに来てくれたら、シンちゃんもいつかのようにベランダから落ちなかったのにね」
久子は子供の表情に注意しながら、そろそろと本題にはいっていった。襖の向こうでは、夫が固唾《かたず》をのんでいる。久子の誘導が巧みだったのか、子供の機嫌がよかったからか、その面《おもて》にとくに怯えは見られない。
子供に怯えられて、親からストップをかけられるのがいちばん恐い。久子はさらに一歩進んだ。
「シンちゃん、どうしてベランダなんかに登ったの?」
「蝉《せみ》がいたんだ」
「ベランダのどのへんにいたの?」
「二階だよ。二階のどこかだよ」
「見えた?」
「啼《な》く声がよく聞こえたよ」
「啼き声で二階にいるとわかったのね」
「うん」
「シンちゃんどのへんまで登ったの?」
「二階だよ」
「でも二階までいったら、蝉が見えたんじゃない?」
「二階のベランダのすぐ下のところだよ」
「蝉はずーっと啼いていた? それとも、途中からシンちゃんに気がついて逃げちゃった?」
「ずーっと啼いていたよ。ぼく気がつかれないように登ったもん」
子供は得意そうに胸を反《そ》らした。
「そう、えらいわねえ、シンちゃん木登りもうまいんでしょ」
「うん」
子供はますます得意そうな顔になった。
「でもシンちゃんどうして手を離しちゃったの? 危ないじゃない」
久子はせっかく高揚した子供の自尊心を傷つけないように、やんわりと訊いた。ようやく質問の核心にはいったのである。さりげなく訊いているが、久子は緊張で喉がカラカラになっていた。
「二階のおじさんがコラッて怒ったからだよ」
子供は抗議するように言った。自分が落ちたのは、自分の腕≠ェ悪かったからではなく、おとなの邪魔がはいったからだと訴えているわけである。
「でも蝉はずーっと啼いていたんでしょう。おじさんがコラッて言えば、そのとき逃げちゃうんじゃない?」
子供は困ったようにちょっと下を向いた。ちょうど啼き終わったときにどなられたと言い抜ける知恵は、まだその年齢の子供にはない。
久子はすかさず追い打ちをかけた。
「ねえシンちゃん、おばさんはねえ、シンちゃんが、おじさんからどなられたぐらいで驚くような子じゃないと思ってんのよ。何かほかのことにびっくりしたんじゃない?」
山田夫婦がすこし身じろぎをしたが、何も言わなかった。
「そのときシンちゃんは二階のベランダの下にぶら下がっていたんでしょ」
子供がうなずく。
「すると二階の下の一階のお家の中が見えなかった?」
「うん、見えたみたい」
はじめて子供に、中原夫婦の望む反応が現われた。
「何が見えたの?」
「カーテンが閉まってた。でも、まん中が少し開《あ》いてた」
「うん、その間から何が見えた?」
「ぼく恐い!」
子供の顔が恐怖に引き攣《つ》った。子供はついに「本当に見たこと」を思い出したのである。山田夫婦もことの意外な成り行きに身を乗り出した。
「さあ慎一、恐いことなんかないぞ。パパもママもついている。おまえは強い子なんだ。カーテンの間から何が見えたか言ってごらん」
父親がそばから言葉を添えた。それは子供にとっても、久子にとっても、何よりの援護射撃≠ノなった。
子供は父親の励ましに勇気づけられたらしく、面を上げた。必死に何か言おうとするのだが、どうしても思い出せない様子である。受けたショックが大きいために、記憶を意識の深層に閉じこめているのである。
久子はふと思いついたことがあった。
「ねえ、シンちゃん、お部屋の中にいたのは……いいこと、シンちゃん強いんだから恐くなんかないわよねえ、おばさん思いきって言ってみるわ。おばさんも恐くないわよ、だからシンちゃんも恐くないわね」
「ぼく、恐くなんかない」
久子の巧みな誘導に乗せられて、子供は胸を張った。
「お部屋の中にいたのは、カマキリじゃなかったの?」
ハッと子供の顔に怯えが走った。そういう反応があったということは、久子の誘導が正しい方向へ進んでいる証拠である。
「カマキリなんか、恐くないわよねえ、カマキリ、何をしてたの?」
「大きなカマキリが、食べっこをしていたんだよ。お家の中で」
「どんなカマキリだったの?」
「黒いカマキリが、白いカマキリのお腹《なか》を食べていたの」
子供の心理に抑圧されていたものが、ついに解き放された。
おとなのセックスのからみ合いが、子供の目にカマキリの共食いに映ったのであろう。
「慎一、それは一階のお部屋だったのか?」
「一階だったよ」
子供は、はっきりとうなずいた。いったんしこりが解かれると、記憶はますます正確に引き出される。だが階層の確認はとくに必要ではない。中原の家がカーテンを閉めていなかったことは、大勢の人間に目撃されていたからである。
ここに子供の墜落の原因は中原ではなく、一階の砂岡の家の中にあったことがわかった。しかもそれは驚くべき原因である。
「中原さん、これはえらいことになりました」
山田夫婦は驚きながらも、いままで中原に、いわれもない責任を追及してきたことを詫《わ》びた。
「いやいやとんでもない。私も無実であったことがわかってもらえて嬉《うれ》しいです。ご協力を感謝します」
中原もやっと長い間頭上を被《おお》っていた暗雲が晴れたような気がした。
「このことは早速、警察に届けたほうがいいと思いますね。とにかく人が殺されてるんだから。われわれも証人になりますよ」
山田は好意的に言ってくれた。警察がどの程度、小学校一年生の子供の言葉を受け入れてくれるかわからなかったが、中原は自衛のために、警察に届けることにした。
警察は非常な興味をもって、中原の話を聞いてくれた。彼らはとうに団地に流れる噂を聞き込んでいた。しかしまだ中原のところに事情を聴きに来なかったのは、はたしてその女が中原の家から出たのか、そして彼女が荒井汎子であったのかどうかの確認が取れなかったからである。
警察は、中原の職業を考慮していた。たとえ任意の事情聴取であっても、聴かれる側の職業や身分によっては大きな迷惑をかけることがある。
子供の転落と幻の女≠安易に結びつけるわけにはいかなかった。それに内偵を進めても、中原桂司と荒井汎子の間がつながらなかったのである。
ここに、中原や山田夫婦の届け出を聞いた捜査本部では、砂岡を呼んでいちおう事情を聴くことにした。
砂岡の容疑のほうが、最初中原にかけられたものよりも、やや濃いと言えた。とにかく子供は、砂岡の家の中に、男と女のからみ合う姿を見て、落ちたのだ。
はじめに子供が仲間たちの証言に釣《つ》られて主張したことの中でも、コラッという声を「聞いた」ことになっていたが、何を「見た」とも言っていない。
聞くよりも見るほうが強いというわけである。
ところが捜査本部に呼ばれた砂岡は、カンカンに怒った。それは作為の怒りではなく、本当の怒りであった。
「おれがカーテンを閉めて何をしていようと、おれの勝手だよ。あのときはちょっと体の具合が悪くて、会社を欠《やす》んでいたんだ。そしたら行きつけのバーの女の子が果物を持って見舞いに来てくれたんだ。婚約者があるのにホステスが入り込んでいるのを近所に見られたら具合が悪いんで、カーテンを閉めて話をしてたんだよ。すると表のほうが急にうるさくなったんで、何が起きたのかと気配をうかがうと、おれのところのすぐ上のベランダから子供が落ちたという。人が大勢集まって来る前に、女の子には帰ってもらった。変な疑いをかけないでもらいたいね。うちの会社は社員の私生活にあまりうるさくないとはいうものの、結婚をひかえて大切な時期なんだ。なんだったら、そのホステスに証明させてもいいぞ」
と凄《すさ》まじい見幕で捜査官にかみついた。捜査官はそれをなだめて、ホステスの名前と勤めている店を訊き出した。そして彼女を当たったところ、砂岡の言葉は裏づけられたのである。
「刑事さんたらエッチねえ、わかってるくせにそんなことを訊いて。男と女が真っ昼間からカーテンを引いてしていることっていえば、決まってるじゃないの」
二流のバーのホステスはしな[#「しな」に傍点]をつくって笑った。ホステスが砂岡のために偽証している様子はなかった。それに彼らの関係は、軽い浮気程度で、そんな重大なことをする義理合いはない。
子供はカーテンの隙間《すきま》から、砂岡とホステスの情事を覗いて、びっくりして落ちたのである。砂岡たちはこの事件に無関係だということがわかった。
同時に中原のぬれ衣《ぎぬ》も晴れた。げんきんなもので、あれほど轟々《ごうごう》たる非難を俗びせていた住人たちが、一転して、
「私、最初から中原さんはそんな人じゃないと思っていたのよ」
「でもさすがに学校の先生だけあってえらいわね。噂を冷静に分析して、疑いを晴らしたんだから」
「なんでも普通の先生とちがって、本を書いているえらい先生なんですって」
「うちの子にも数学を教えてもらおうかしら」
という調子の賛辞に変わり、教育ママたちが続々と子供を連れて、課外の勉強の面倒をみてくれと頼み込んで来た。そのため中原は今度はそれを断わるのに苦労をすることになった。
疑いは晴れたものの、中原はどうもすっきりしなかった。子供は本当に砂岡の情事を覗いてびっくりしたのであろうか? どこかがちがうような気がした。だがどこがちがうのかわからない。
釈然としないまま、夏休みは終わりに近づいた。変な災難に巻き込まれたために、仕事のほうはいっこうにはかどっていない。
ある日の夕方、彼は都心へ参考資料を買いに出て、夜八時ごろ帰って来た。八月の末近くともなると、日もだいぶ短くなって、団地の窓に灯がきれいである。
規格的な窓だが、各戸ともカーテンにいろいろと工夫をこらしている。明るく和やかな光が漏れて来る中で、一戸だけ暗渠《あんきよ》のように暗く、閉ざされている窓があった。
砂岡の家である。黒地の厚ぼったいカーテンがピタリと窓を塞《ふさ》いで、中が暗い。その家の主はまだ帰宅していないらしい。彼はいつも帰りが遅いのである。
――嫁さんが来れば、あの窓も明るく暖かい光に満たされるだろう。それも、もうすぐに――
なにげなく思ったとき、中原は暗い窓に視線を固定させたまま、その場に硬直した。彼の視野を厚地の光や空気を通しにくそうなカーテンが塞いでいる。
そのカーテンは、一枚の布地でつくられた一枚引きのものであった。両開きのドアのように窓の両側から引かれて中央で合わせる引分けではなく、窓の片側からもう一方の窓枠《まどわく》へ天井に取りつけた一本のカーテンレールに吊《つ》られて、一枚の連続した布地を引いてしまう、一本引きのドアのような一枚引きのものである。
だが子供は「カーテンの真ん中に隙間があった」と言ったのである。
一枚引きのカーテンが、真ん中に隙間を生じるはずがない。
カーテンが完全に引かれておらず、窓枠とカーテンの端の間から、室内を覗いたということも考えられるが、中原は、子供が落ちる前にベランダにぶら下がっていた位置を覚えていた。
子供はちょうど窓ガラスの中央にあたる位置にいたのである。一枚引きのカーテンの隙間から室内を覗いたとすれば、カーテンは半分ぐらいしか閉まっていなかったことになる。
表沙汰《おもてざた》にしたくない女と情事に耽《ふけ》っていた砂岡が、そんな不完全なカーテンの引き方をするであろうか?
――いやあのとき、砂岡家のカーテンは完全に閉まっていた――
中原は当時の様子を思い出した。子供が落ちて、慌てふためいて、その現場へ飛び出していった中原の目の前に、砂岡家の窓は、厚いカーテンによって拒絶的に閉ざされていたのだ。
カーテンに隙間なんかなかった。それにもかかわらず子供は、その隙間から、男が女を苛《いじ》めている図を覗いたのである。
――子供の錯覚だろうか?――
〈ちがう――、錯覚であんなにいつまでも怯《おび》えているはずがない〉
中原はどこかに自分の見落としているものがあると思った。
6
その事件が起きたのは、八月の末の残暑の盛んな日であった。M市の外れにある総合レジャーランドのプールは、夏休みの最後を、心残りのないように楽しんでおこうとする河童《かつぱ》連で大賑《おおにぎ》わいであった。
とくにレジャーランドの呼び物であるマンモスプールには、さまざまなコースがあって、家族連れにもアベックにも、また子供だけで来ても泳げるようになっているので人気がある。プールサイドには夕方になるとバンドがはいって、ハワイアンの生演奏を聞かせたりして、雰囲気《ふんいき》を煽《あお》る。
週日の昼間には子供用の割引きがあるので、団地の子供たちも、グループでよく泳ぎに来る。そんなグループの一つが騒ぎだした。
「シンちゃんがいないよ」
「どこへ行ったんだろう」
「おーい、シンちゃん。そろそろ帰ろうよ」
子供たちが、プールサイドをしきりに探しまわっている。マンモスプールではあるが、子供たちのコースはかぎられている。誘い合わせて泳ぎに来た子供たちの一人が、帰る時間になっていなくなってしまったのである。
「深いほうへ行っちゃったのかな?」
「まさか。シンちゃんはそんなに泳げないよ」
子供たちが、不安な面を見合わせたとき、上級者向けのコースのほうで、
「おい、だれかプールの底に沈んでいるぞ」
とどなった者がある。立ち泳ぎをしていて足に触ったらしい。
水深二メートル足らずの、背の高いおとなならば背が届くところだが、子供たちは近づかない。
早速、底から抱き上げてみると、小学校一、二年の子供である。皮膚の色が青白く、すでに呼吸が停止している。大騒ぎになった。
早速、プールサイドに寝かせて人工呼吸が試みられた。同時に心臓のマッサージが行なわれる。発見が早かったことと、人工呼吸が適切であったので、少しすると、子供は小さなため息をつき、蘇生《そせい》のきざしが見られた。
これに元気づけられて、なおも必死の蘇生術をつづけると、やや深く長い呼吸に戻った。青白かった皮膚にも赤味がさしてきた。
子供は間一髪のところで、救われたのである。
「よかった、よかった」
周囲に集まった人々がホッと安堵《あんど》の息をもらすと、溺《おぼ》れかけた子と一緒に来ていた子供たちが泣きだした。緊張が弛《ゆる》んだせいであろう。
「きみたち、友だちかい?」
人工呼吸を施したプールの管理人が、子供たちに訊いた。子供たちは泣きじゃくりながらうなずいた。いずれも小学校三年どまりの子供ばかりである。
「きみたち、どこから来たの?」
管理人は、こんな小さな子供だけでプールへ来させる親にも注意しなければならないと思った。もっとも、地元の子供たちは、夏になると毎日のようにやって来るので、親も馴れてしまっていちいち付き添って来ない。
管理人に叱《しか》られたと思った子供たちは、ベソをかきながら、周囲の人垣《ひとがき》に救いを求めるような目を投げた。
「あ、おじさん!」
彼らの一人が人垣の中に知った顔を見つけたらしい。その顔は人垣の背後に、いままさに隠れようとしていた。子供は立ち去ろうとする人に向かって、すがりつくように必死に呼びかけた。
「おじさん、シンちゃんちのお隣りのおじさん」
「もしもし、どなたかこの子を知ってる人がいるのですか?」
管理人に呼びかけられて、人垣の後ろから三十前後の男が間の悪そうな顔をして出て来た。
「この子をご存じですか?」
「ええ、同じ団地に住んでいる人のお子さんですよ」
「知ってる方がいてくれてよかった。親ごさんの住所と名前を、教えてください。本当に危ないところだったんですよ」
騒ぎを聞きつけて、レジャーランドの管理事務所のほうからも人がやって来た。
溺れかけた子供は、山田隆の子の慎一であった。久子の心理分析によって心のしこりを取り除かれたのか、最近後遺症がおさまり、近所の友だちとプールへ遊びに行っての事故である。
地元でもあるし、以前にも何度も行ったことがあるので、親は安心していた。人工呼吸が、一歩遅れれば、取り返しのつかないことになるところであった。親は慄然《りつぜん》とし、近所の人々は「シンちゃん、ツイていないわね」とささやき合った。
「どうして、おとなのほうのプールへ行ったの?」
と山田夫婦は慎一が常態に復したときに訊いた。以前の慎一ならばとにかく、例の転落事件以来、諸事ひかえ目になって、そんな冒険はしろと言われてもしないようになっていたからである。
それが突如として、上級者用のコースへはまり込んで死にかけた。親としては、なんとしても解《げ》せない思いがあった。
最初は怯えて、ただ「知らない、わからない」と答えていた子供も、親の根気をかけた追及に、ついにポツリポツリとそのときの事情を話しはじめた。
だがそれは親を仰天させる内容を持っていた。つまり慎一はだれかに足をつかまれて、深みへ引きずり込まれたのである。
「まさか!?」
山田夫婦はすぐには信じられなかった。いたずらにしては悪質である。
「本当だよ。ぼくがいやがるのに足を引っ張って、ぐんぐん深いほうへ引っ張っていったんだ。浮かび上がろうともがいたんだけど、凄《すご》い力で沈められちゃったんだよ」
「だれがそんなことをしたのか、覚えている?」
「ううん、夢中だったもの。でもおとなだったみたい」
「おとな」
夫婦は顔を見合わせた。もし本当におとながそれをしたのであれば、単純ないたずらではない。故意にやったのだ。これは確かにおとなの仕業であるかもしれない。小学校一年の子供とはいえ、死にもの狂いにもがきまわるのを抑えて、人目の多いプールで、深みに引きずり込むのは、相当の膂力《りよりよく》を要するであろう。
しかしもしおとながやったとすれば、だれがなぜそんなことをしたのか? いたずらでなければ、殺意を含んでいたことになる。どうしてこんないたいけな子供を殺そうとしたのか? 思案にあまった山田夫婦は、警察へ届け出ることにした。
この話が、中原の耳にはいった。最初は彼も、近所の人々同様に、子供が「ツイていない」と思った。だが子供が溺れかけたとき、山田家と同じ棟に住む、しかも同じ棟の一戸おいて隣りの細川正敏《ほそかわまさとし》が、その現場に居合わせたことに、ひっかかった。
細川は自動車のセールスマンをやっているとかで、中原も団地の中で二、三度すれちがったことがある。どことなく崩れたところのある男であった。
入居当時は、細君がいたらしいのだが、最近はずっと一人暮らしをしている。近所の人間の噂《うわさ》では、どうやら細君に逃げられたということである。
出勤も常ならず、何日も帰らない日がつづくかと思うと、ずーっと家にごろごろしていることがある。
その細川が、慎一が溺れかけたとき、現場に居合わせたという。プールは地元にあるから、彼が行っていても不思議はないのだが、彼は子供たちとはべつに泳ぎに行って、たまたまそこで事件に遭遇したというのだ。
どうも釈然としないものが心の底に澱《おり》のように残るので、中原は一緒に行った子供たちに、それとなくそのときの様子をたずねた。
「坊やのほうが、細川のおじさんを見つけたの? それともその反対かい?」
「ぼくがおじさんを見つけたんだよ」
子供の一人が得意そうに答えた。
「坊やは目が早いんだね」
「うん、ぼくが呼ばなかったら、おじさん、行ってしまうところだったよ」
「な、なんだって」
中原は愕然《がくぜん》として、
「行ってしまうって、おじさん、気がつかなかったのかい?」
「ううん、みんなと一緒に見てたよ。ぼくが呼んだので、仕方なく出て来たみたいだった」
「仕方なくかい」
中原はこれは容易ならないことだと思った。しかしそこから先へは一歩も行けなかった。
隣人の子が水死しかけたのにかかり合って、せっかくのレジャーを、台なしにしたくないという意識が働いたのかもしれない。
都会的な無関心は、道義的に責められることはあっても法的な責任を追及できない。細川が子供の足を引っ張ったという証拠もなければ、そんなことをする理由も見当たらないのである。
中原は不本意ながら、そこまでで立ち停まらざるを得なかった。
7
夏休みは終わり、学校がはじまった。生徒の新鮮な顔に再会した中原は、夏休みの事件を忘れるともなく忘れていった。フーテン殺人事件の捜査は、迷宮入りになる様相が濃いという。
しかし、中原には関係のないことであった。殺人事件の捜査は、彼の義務ではない。いったんはとんでもないデマのおかげで、ぬれ衣を着せかけられたが、それも晴れてみれば、もともと無関係のことであった。
生徒はなついているし、仕事には生き甲斐《がい》がある。妻は優しく子供は健康で、家庭は幸福だ。いまの日本のどこにも見うけられるささやかな幸せであったが、中原はそれを慈《いつく》しんだ。
だが幸福というものには、本質的につきまとっている残酷性がある。その幸せがささやかであるほどに、それを維持することに忙しくて、他人のことに考えが及ばなくなる。
中原が、心にかけながらも、記憶の意識下に事件を押し込めていったのは、その残酷な性質が多分に作用していた。
九月下旬の日曜日の朝のことである。その朝ちょっとした事件が中原家に起きた。彼らの一人っ子である今年幼稚園にはいったばかりの勝《まさる》が、誤って母親の三面鏡を割ってしまったのだ。
今日は親子三人でデパートに買物に行く予定になっていた。いたずらでやったのではないので、子供を叱るわけにはいかない。しかし当面の化粧に困った。
顔はコンパクトの鏡で間に合うが、妻にしてみると、今日は新しいスーツを着たので、姿を映してみたいところである。
「そうだわ、いい考えがある」
久子は言って、ベランダに面したガラス戸のカーテンを引いた。家の中がうす暗くなった。
「おいおい、何をする気だい?」
中原が驚いてたずねると、
「外が明るいから、こうすると、じゅうぶんに姿見の代わりになるのよ」
妻に言われて、中原もベランダに立ってカーテンの引かれた窓ガラスを見た。外光がカーテンによって遮断《しやだん》されて、ガラスの上に映像をつくっている。立派に姿見の代用になっていた。
彼はそこに映し出された自分自身の姿にしばらく見いっていたが、突然、大きな声を上げた。
「おい、久子、わかったぞ!」
「ああびっくりした。いったいどうしたのよ」
久子が驚いて、たずねたのには答えず、
「ちょっと下の砂岡さんのところへ行ってくる。今日は日曜だから、家にいるだろう」
履物《はきもの》をはくのももどかしげに、外へ出て行った。
8
中原の着眼を聞いた捜査本部では、あらためて細川正敏と荒井汎子の関係を徹底的に洗った。その結果、彼らの間にかなり以前から交渉があったことを突き止めたので、いちおう任意の形で本部へ呼んで事情を聴いた。
同時に本部は捜索許可状を取って、細川の家を捜索した。捜索許可状は、逮捕状と異なって簡単に下りる。その結果、彼の寝具の中に荒井汎子の毛髪および体毛と、彼のズボンの裾《すそ》の折り返しの中に、重大なものを発見したのである。
これらの証拠品と、中原の着眼を同時に突きつけられた細川は、ついに犯行を自供した。それによると、彼は被害者と新宿のスナックで知り合って交渉を持った。その場かぎりの浮気だったが、女が脱都会化ブームに乗ってM駅付近に移動して来てから、交渉が復活した。
あの日、細川は会社をサボり、被害者を呼んで、昼間から痴戯《ちぎ》に耽《ふけ》っていたという。最近女はSMプレーを覚えて、彼らはセックスの刺激を強めるために、おもしろがってSMごっこをやっていた。
殺すつもりはなかった。女の言うなりに首を絞めていたが、いつの間にかぐったりしてしまったので、聞きかじりの人工呼吸などを施したのだが、いっこうに生き返らない。
見つかれば殺人罪になるかもしれない。思案にあまった彼は死体を捨てることを考えたのである。幸いに、女を部屋に連れ込むところは、だれにも見られていない。こうして夜更けになるのを待って、団地の裏の雑木林の奥へ運び込んで、埋めてしまったというわけである。
彼のズボンの折り返しの中から、ノコギリクワガタのメスの死骸《しがい》が現われた。これのメスは小ぶりなので、そんなところに潜まれるとちょっとわからない。虫の死骸と同時に、腐葉の切れはしや土壌《どじよう》の微粒が発見された。それらはすべて雑木林へ行かなければ、付着しないものである。
中原は、細川が自供したと聞いたとき、妻に自分の着眼を説明してやった。
「シンちゃんは砂岡さんのカーテンを引かれた窓ガラスに映った、細川が荒井汎子を殺す場面を見て、驚いたんだよ。ちょうど砂岡さんのところは、細川の家の裏窓の真向かいにある。細川はカーテンを閉めたつもりで、中央が少し開いていたのさ。裏窓ってやつは覗きにはよく利用するが、覗かれるとは思わない。昼間から灯をつけておおっぴらにしていた情事が、砂岡さんの家のカーテンを引いた窓ガラスにくっきりと映し出されていたとは知らなかっただろう。ましてやそこへ蝉取りに登って来た子供に覗かれるなどとはね。おまえ、前は、子供のおかしな遊びや癖は、心の内部にあって発散されない感情の緊張が原因になって表出されたものだと言ったことがあったな。シンちゃんが、ダストシュートの集積所の中へもぐり込んだり、枕を噛《か》み破ったりしたのは、砂岡さんのカーテンに映った細川の家の中の様子が、そのまま子供の心の中に取り込まれたからじゃないだろうか。カーテンに映った向かいの家の中って、ダストシュートの中を覗き込んだときになんとなく似てるじゃないか」
「まあ、ダストシュートなんてひどいわよ」
久子は言ったが、その発想をおもしろいと思った。まして子供の心は柔軟であるから、どんな連想をするかわからない。子供は怪物のように大きなカマキリの共食い≠見て、恐怖のあまり手を離して転落した。だがそれが子供心の中に、深い屈辱を抉《えぐ》った。
それが無意識の中にカマキリがいたと同じような場所へ自分を運んで、カマキリに挑戦《ちようせん》し、不名誉を回復しようとしていたのかもしれない。枕を噛み破ったのは、カマキリを食べたつもりであったのだ。中原は妻に向かって語りつづけた。
「細川は途中から、砂岡さんの家の窓ガラスが、鏡になることに気がついた。シンちゃんが落ちたのと思い合わせて、子供に自分の犯行を覗かれたことを悟ったんだ。最初の殺人はハプニングだったかもしれないが、自衛のために、子供を殺そうとしたのは許せない。だからぼくは警察に届けたんだよ。まだシンちゃんを殺そうとしたことは自供していないそうだが、それも時間の問題だろう。思えば今度の事件で、本当に災難だったのは、シンちゃんだったな。これがあの子の将来に暗い影を残さなければいいが」
「大丈夫よ、子供の心って弾力に富んでいるから」
「まあ、昼間からカーテンを引くようなことをやらないことだ」
「まあ、あなたっていやな人」
久子は頬をうすく染めて、中原を軽くにらんだ。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『精神分析殺人事件』昭和52年11月10日初版発行
昭和60年8月30日16版発行