森村誠一
異型の街角
目 次
第一章
「後方」の屈辱《くつじよく》
パスされた苦情
感染した犯行
第二章
影《かげ》の公僕《こうぼく》
芥溜《ごみため》の女神
最後の残渣《ざんさ》
女神の遺志
廃棄《はいき》された神棚《かみだな》
第三章
幸福の破片
初恋供養《はつこいくよう》
夢《ゆめ》の架橋人《かけはしにん》
殺意の源流
初恋代理人
拾い上げた因縁《いんねん》
第四章
エゴイズムとの接触《せつしよく》
末端《まつたん》の提供者《サブライアー》
拾得された復讐《ふくしゆう》
リクエストされた犯人
第五章
垂直の清掃人《せいそうにん》
社用《ハウスユース》の情事
管理社会の中毒患者《ジヤンキー》
第一章
「後方」の屈辱《くつじよく》
なにかが倒《たお》れた音と共に、盛大《せいだい》な悲鳴が店内を引き裂《さ》いた。何事かと人々の集中する視線の中央で、女の罵声《ばせい》が湧《わ》いた。
「いったいどうしてくれるのよ。こんな所にだれが水撒《ま》いたのよ。痛いよ、腰《こし》の骨を折ったみたいだよ。たすけてえ、早く医者を呼んでおくれよ」
中年の女が床《ゆか》にしりもちをついて精一杯《いつぱい》の声を張り上げて叫《さけ》んでいる。傍《かたわ》らに店備えつけのバスケットが転がり、卵のパックや野菜が散乱していた。
近くに居合わせた店員が驚《おどろ》いて駆《か》け寄って来た。
「お客様、いかがなさいました」
店員も女の大仰《おおぎよう》な悲鳴にうろたえている。
「どうしたもこうしたもないわよ。見ればわかるだろう。こんな所に水を撒《ま》いておくから滑《すべ》ったんじゃないの。ああ痛いよう」
「それは申しわけございません。大丈夫《だいじようぶ》ですか」
「大丈夫じゃないからこんなに痛がってるんじゃないか。早くなんとかしておくれよ。死んじゃうかもしれないよ」
女の大袈裟《おおげさ》な訴《うつた》えに、若い店員はますます動転してかかえおこそうとした。
「痛たたた……あんた私を殺すつもりかい、腰の骨がどうかなったみたいだよ。あんたじゃだめだ、店長を呼びな」
ちょうど午後のラッシュ時であった。事件が発生した場所はこの地域の大手スーパー角正《かくまさ》の食品売場である。客の一人が濡《ぬ》れた床に足を滑らせて転んだのである。
騒《さわ》ぎを聞きつけて出て来た「後方担当課長」の川地平男《かわじひらお》はわめいている客の顔を見たとき、「ああ、またあの苦情おばさんか」と眉《まゆ》をしかめた。と同時に心の中でホッとした。この種の常連≠フ苦情は解決が易しいからである。
若い店員は入社後日が浅いのでまだ知らないが、やれ野菜の鮮度《せんど》が悪いの、やれ従業員の接客態度がなっていないのと、ことある毎《ごと》にクレームをつけるところから、読んで字の如《ごと》き仇名《あだな》をつけられている札つきの苦情屋≠ナある。そして川地は「後方担当」と呼ばれる苦情処理専門係である。
「奥《おく》さん、大変なお怪我《けが》のようですな。すぐ救急車を呼びますから」
川地の顔を見たとたん、それまで気勢を上げていた女の態度が急に萎縮《いしゆく》した。
「救急車を呼ぶほどのことはないわよ」
「しかし、腰《こし》の骨を折ったんでしょう。早く手術をしないと、下半身|不随《ふずい》になってしまうかもしれませんよ」
「あんまり痛かったのでそうおもっただけだわ。こんな所に水撒《ま》いたのは、店の責任でしょう」
見ると床《ゆか》がほんの少し濡《ぬ》れている。そんな所にどうして水がこぼれ落ちたのかわからないが、「撒いた」というほどの量ではない。しかし店側の手落ちにはちがいなかった。
「まことに申しわけございません。しかしここに倒《たお》れていられてはお手当もできません。とにかく事務室の方へ移れませんか。自力で動けないようであれば、直ちに救急車を呼びましょう」
「移りますよ、移りますよ。まったくもう、オーバーなんだから」
自分の「オーバー」は棚《たな》に上げて、苦情屋は頬《ほお》を脹《ふく》らませながら、精々《せいぜい》痛そうに身体《からだ》を動かした。
結局、なにがしかの見舞《みまい》金を包んで示談≠ェ成った。もともと見舞金目当ての苦情であったから金額に折合いがつけば解決は早い。常連の苦情屋は、金額も安くてすむ。
川地平男はある大手銀行を支店長付き(代理ではない)で定年退職してから、角正の苦情処理専門係として再就職した。銀行で鍛《きた》えられた人当たりの柔《やわ》らかさを買われたのであるが、銀行とスーパーでは、求められる「柔らかさ」の質がちがった。
銀行では、どんなに柔らかくとも、金を握《にぎ》っている者の強さがあった。預金者には柔らかく、そして融資を求める者に対しては、必ず床柱《とこばしら》を背にして坐《すわ》れるような絶対的な優位があった。つまり、相手によってへり下ったとしても、必ず強く出られる相手をもっていた。預金者といえどもいつ借りる側に回るかわからない。相互の立場がいつ逆転するかわからない力関係であり、絶対的な優位性を最後には強大な資本力によって保証されている銀行員の柔らかさには、常に床柱を背にして礼をするような慇懃《いんぎん》無礼さがあるのである。
それに反してスーパーの苦情処理係には背負うべき床柱はない。強く出られる相手はいないのである。保安係が苦情処理の仕事を兼ねるスーパーで、精々万引きを諭《さと》す程度であるが、これも床柱を背負った強さとは意味が異なる。
苦情おばさんを帰してホッとする間もなく、「賞味保証期限」を過ぎた野菜ジュースを売られたという苦情の電話が入った。聞いてみると、まだパックを開ける前であった。これは新しい完全な商品と交換《こうかん》することでおおむね解決する。
食料品が主たる商品であるスーパーでは、この種の食品の「質」に関する苦情が圧倒《あつとう》的に多い。まだ当の食品を食べる前であれば完全な商品と取り替えるだけで(謝意を表明するために取替《とりか》え商品に多少色をつける)おおむね解決するが、客が食べてしまった場合は難しくなる。その食品によって客の体の具合いがおかしくなりでもしたら一大事である。
最近、一年も前に製造された「砂糖グルミ」が商品管理の手ちがいから売られてしまい、客が腹をこわした事件があった。幸いに客が獣医師《じゆういし》で自分で適切な手当を施したので軽症《けいしよう》のうちに食いとめたが、食品を扱《あつか》う者としての社会的責任を強く問われた。
客にゴテ得を狙《ねら》う意志がなかったので、平謝りに謝ってことなきを得たが、相手にこれを奇貨《きか》として金品をせしめようとする魂胆《こんたん》があると、ややこしいことになる。
また相手が有名人やマスコミ関係者であるときは、その対応に十分気をつけなければならない。一つ対応を誤ると、些細《ささい》なきっかけから店全体の信用を失う破目になるからである。これに加えて、要注意の相手はヤクザである。ヤクザに足許《あしもと》を見られると、それこそ徹底《てつてい》的に吸われる。ヤクザの苦情の場合は、銀行員上がりでは歯が立たず、むしろ警官出身の保安係などが担当する。以上三種の客が三大|鬼門《きもん》≠ナある。
苦情の種類は、一、商品に関するもの。二、従業員のサービスに関するもの。三、店内設備に関するものに大別される。
いまの「苦情おばさん」のケースは三に属するものといえよう。これに従業員の対応の不手際が加わると、二、三の複合となる。
川地が経験したトラブルに、包装《ほうそう》ひものカッターで子供が小指を切り落とした事件があった。この事件以後、カッターをカウンターにおかないようにした。
カッターをオモチャにする子供を放任していた親のほうが悪いのであるが、反論はできない。
一の部類の苦情でひどいのになると、一年も前に買った衣料品をもってきてミシン目がほつれたなどという者がいる。このような場合でもとりあえず預って、自店の商品であることが確認できれば同額の他の商品を提供するか、代金を返却《へんきやく》することになる。ゴテ得の常習手口とわかっていてもうるさい客にいつまでもつき合っていられないので、それを許してしまう。
さらに悪質なのになると、レジ台で出しもしない高額|紙幣《しへい》を出したと言いつのって釣銭《つりせん》≠強取しようとする。このような被害《ひがい》を防ぐためにチェッカーは必ず「〇〇円お預りいたします」と声を出すことにしているのであるが、それでも前後に客のいないときなど、証人がいないのをいいことに、「たしかに一万円預けた」とわめきだす者がいる。
たまたま保安係がモニターTVで見ていたので撃退《げきたい》したが、証拠《しようこ》や証人がないと、水掛論《みずかけろん》となって結局相手の不当な言い分を認めてしまうことになる。
どのような種類の苦情であっても、苦情を言う客は「お得意様」として店にとってプラスの要因になると考えるようにしている。なにかトラブルがあっても黙《だま》っている客は、そのまま二度と店に来なくなるかもしれないし、店の悪評を他の客に広めるかもしれないのである。苦情客の九割が主婦であり、年齢《ねんれい》は三十代後半から始まり四十代以上が圧倒《あつとう》的に多い。
川地が経験で体得した苦情処理のコツは、時間、人、場所の三要素を変えることである。苦情を申し立てる客は、逆上していることが多いので、少し時間をおいて頭を冷やさせてから応対する。食品以外の苦情は、二、三日後に詫《わ》びに行くと、もういいというケースが多い。ただしこれは相手次第であり、三大|鬼門《きもん》の場合は、可及《かきゆう》的速《すみ》やかに手当《アテンド》しなければならない。
第二要素の「人」については、たがいの申し分が対立しているとき従業員も感情的になっているので担当者を変えてしまう。また「場所」の変更《へんこう》は苦情発生場所である店の現場から、事務所へ客を移したり、あるいは、客の家へ謝りに行くことである。居丈高《いたけだか》になっていた客が別の場所へ移されると、人が変ったようにシュンとなることもある。
どのようなケースの苦情であれ、「後方担当」は、他人のやったことの尻拭《しりぬぐ》いである。川地はだからこそ「後方」だと自嘲《じちよう》している。自分はなんの責任も過失もないことに対してただひたすら頭を下げて詫《わ》びて回らなければならない。辛《つら》く屈辱《くつじよく》の多い仕事であった。しかし学歴のない、銀行の支店長付きの骨を拾ってくれる所はないのである。後方であろうと側方であろうと、再就職口にありつけただけ幸せであった。
まだ子供は親がかりである。銀行を定年退職すると同時に社宅からも追い出された。悠々《ゆうゆう》自適の余生など望むべくもなく、おそらく死ぬまで働かなければならないだろう。
「苦情おばさん」の転倒《てんとう》事件の翌日、大事件が起きた。午後四時|頃《ごろ》、レジ台の前に長い列ができた。この時間帯は夕食の仕込《しこ》みの主婦や下校|途上《とじよう》の学生などが一斉《いつせい》にやって来るのでラッシュになる。十二台あるレジ台を全部開いても、行列ができてしまう。三番レジ台に並《なら》んでいた、男子高校生があった。十六、七|歳《さい》のニキビが一杯《いつぱい》に浮き出た童顔の高校生である。彼は店備え付けのバスケットをもたず、右手に数袋のスナック菓子とジュースのパックをもっていた。左手には紙袋《かみぶくろ》を下げていた。
やがて高校生の番が来た。彼はチェッカーのカウンターにスナックとジュースのパックをおいた。若いチェッカーは機械的にレジスターを叩《たた》き、代金を告げた。高校生は代金を払《はら》った。
チェッカーの背後にはサッカーが控《ひか》えていて、買上げ商品を袋の中に詰《つ》める。サッカーが高校生の買った商品を袋に入れ、シールをしようとしたとき、彼の左手に下げた紙袋に目を向けて、
「ちょっとあんた、それもうちの品じゃないの」
と咎《とが》めた。紙袋の中には、明らかに角正の商品とわかるハトムギの袋が入っているのが見えた。
「あ、いけね。もちきれなかったんでこっちの紙袋に入れておいたんです」
高校生は頭をかいてハトムギの袋を取り出した。ハトムギはニキビに効くとかでこの年代の若者がよく買っていくのである。
「いつもそう言うんだからね。あんたどこの学校だい」
中年女のサッカーが鬼《おに》の首でも取ったように詰《なじ》った。行列している客の視線が高校生に集まった。高校生は面を真《ま》っ赤《か》にしながら、
「ぼくはちゃんと金を払《はら》うつもりだったんです。右手にもちきれなかったので、この紙袋に一時入れておいただけです。本当です」
と震《ふる》える口調で訴《うつた》えた。
「ふん、わかるもんかね。私が言わなかったらこのまま店を出て行ってしまうつもりだったんだろ。本当にいまの若い子は油断も隙《すき》もあったもんじゃないんだから」
サッカーは決めつけた。
高校生は、学生服をきちんと着て、いかにも真面目《まじめ》そうであった。育ちのよさそうなノーブルでどこかおっとりとした表情をしている。問題になっているハトムギなど五百円足らずの品である。そんなものだけ、万引きするはずがなかった。
こんなあらぬ嫌疑《けんぎ》をかけられたのは初めてらしく、彼は怒《いか》りと屈辱《くつじよく》で抗弁《こうべん》の言葉に詰まった。サッカーは嵩《かさ》にかかって、
「どんなものでも盗《ぬす》めば泥棒《どろぼう》だよ。あんたの名前と学校の名前を言いなさい」
「か、金を払えばいいんだろう」
狼狽《ろうばい》した高校生は、無実の罪を認めてしまうような言葉を言ってしまった。
「まあ、なんて図々《ずうずう》しいのよ。お金を払えば泥棒の罪が消えるとおもっているの? あんたみたいな子を盗っ人猛々《たけだけ》しいと言うのよ」
衆目の集まる中だけにサッカーも後へ退《ひ》けなくなっている。
「ちょっとあなた、まだお店から外へ出たわけでもないのに泥棒《どろぼう》呼ばわりをするなんて行き過ぎじゃないの」
高校生の後方に並んでいた主婦が見かねたように口をはさんだ。
「いいえ、行き過ぎなんかじゃありません。最近こういう子が多くなっているんです。自分が悪いことをしているくせに咎《とが》められると開き直るんです。おとなが甘《あま》やかすからいけないんです」
サッカーは一歩も退かなかった。
「とにかく早くしてちょうだい。こんなに並《なら》んでいるんだから」
せっかく高校生にたすけ船を出した主婦もサッカーの強硬《きようこう》な態度にたじろいだ。ともかくその場は高校生の名前と住所を聞いただけで、後日に委ねることにした。サッカーもたかがハトムギのことなので、後々まで追及する気はなかった。行きがかり上、名前と住所を聞いただけであった。
だが事件は大きく後を引いた。一時間後、激怒《げきど》した父親が店にどなり込んできたのである。ただの父親ではなかった。彼《かれ》は近くに住む有名な映画俳優であった。昨年、国際的な権威《けんい》のあるC映画祭において主演男優賞を獲得《かくとく》した世界的なスターである。彼は息子《むすこ》を満座の中で泥棒呼ばわりされて激昂《げつこう》していた。非は明らかに角正側にあった。
法律的にもまだ店内にいる間であり、レジ台を通過していないので、既遂《きすい》ではない。現行犯はだれでも捕《つか》まえることができるが、それには実行行為が完了《かんりよう》していなければならない。
しかも、諸般《しよはん》の情況《じようきよう》から推測しても、少年に犯意があったとは認め難い。他の品の代金は支払《しはら》いながら、五百円足らずの最も安いハトムギだけ万引きしようとしたとは考えられない。
目撃《もくげき》者も大勢いた。サッカーが少年の弁明に耳をかさず、彼を万引きと決めつけたというのが一致した証言であった。問題を起こしたサッカーは、パートの主婦であった。形勢利あらずと見た彼女は、さっさと止《や》めてしまった。事件は川地に回されてきた。事件の性質が性質だけに、今度は簡単に解決がつきそうもない。
難しいトラブルも最後は金がものを言うのだが、今度の相手は金に困っていないだけに始末が悪い。相手が悪かった。
「息子《むすこ》を泥棒《どろばう》呼ばわりした当の店員を連れて来て謝罪させないかぎり許さない」
大スターは言った。川地は止めたサッカーの許《もと》へ行って頼《たの》んだ。
「冗談《じようだん》じゃないわよ。どうして私が謝んなきゃいけないのよ。あの子は絶対万引きするつもりだったのよ。国際スターの子だって? ふん、そんなこと関係ないわよ。相手がどんな大物でも悪いことは悪いことよ」
元サッカーはうそぶいた。
「しかし、盗《ぬす》んだという証拠《しようこ》はないんだからね。スーパーやデパートでは店を出るまでは既遂《きすい》とはみなさない」
「たとえそうだとしても、私にはもうなんの関係もないわ。もう止めちゃったんですからね。一時間、五百円ぐらいの安いパートで、止めた後まで責任負えないわよ」
彼女は梃子《てこ》でも動きそうになかった。スターはサッカーに謝罪させないかぎり、名誉|毀損《きそん》で本人に告訴《こくそ》させるといきまいていた。
告訴でもされたら、国際的スターがからんでいるだけにマスコミの好個の餌食《えじき》にされる。被害《ひがい》者は未成年者でもあり、角正が袋叩《ふくろだた》きにされるのは目に見えている。後方担当課長としてはそれはどんなことをしても防がなければならない。
もしそれを防ぎきれなければ、後方課長の器に非ずとされて職を失うことになるだろう。この年になっての再就職は絶望的である。角正の名誉《めいよ》を守るためではなく、家族を路頭に迷わさないために、この絶体絶命の窮地《きゆうち》を躱《かわ》さなければならなかった。
川地平男は進退|谷《きわ》まった。彼はおもい余った末、妻に相談した。
「え、どうして私が謝らなければならないのよ」
妻がびっくりした目を向けた。
「この際、おまえがスターの息子《むすこ》を万引き扱いしたパートということにして謝ってくれないか。そうでもしないと納まりがつかなくなっているんだよ」
「そんなことをしても先方にすぐわかっちゃうわよ。別の人間が謝りに行ってもなんにもならないわ」
「大体年格好は同じだし、先方もよく憶《おぼ》えてはいないよ。おまえだということにして平謝りに謝れば、先方も納得するかもしれない。本人のいないときを狙《ねら》って行けばわかりゃしないよ。もし替《かえ》え玉とバレたときは、またそのとき算段する」
それは窮余の一策であった。結局川地に押しきられて、妻は渋々了承《しぶしぶりようかい》した。川地は妻を帯同してスターの家を訪れた。高級住宅街の一画全部を占めている豪邸《ごうてい》である。鉄の門扉《もんぴ》のかたわらに通用門があり、どちらも固く閉ざされている。邸内には庭樹《にわき》がうっそうと繁《しげ》り、森林を形成している。邸《やしき》の屋根が庭樹越《ご》しにわずかに覗《のぞ》き見られる豪壮《ごうそう》な邸《やしき》と敷地《しきち》であった。いかにも猛犬《もうけん》が数匹《ひき》放し飼《が》いにされているような威圧《いあつ》感に充《み》ちている。そこに招かれて行くのではなく、謝罪に行くのである。重い足が震《ふる》えた。
通用門の傍《かたわ》らのブザーを押したが、邸内は静まり返ったままなんの気配もない。まるで無人のように静かであった。再度ブザーに手を伸ばしかけたとき、通用門の覗《のぞ》き窓がカタと鳴って老女の顔が覗いた。
川地が来意を伝えると、通用門が重い音を伴って開かれた。庭石を伝って玄関《げんかん》へ辿《たど》り着くまでだいぶ歩かされる。こんな大家の御曹司《おんぞうし》を泥棒呼ばわりしたことがいかに凄《すさ》まじい侮辱《ぶじよく》であり、見当ちがいも甚《はなはだ》しいかということが、夥《おびただ》しい富の集積である豪邸《ごうてい》を目《ま》のあたりにして実感をもって理解できた。
川地夫婦は応接間へ通された。ゆったりしたスペースに青地に花模様を織った中国段通が敷《し》きつめられ、総皮張りのソファが数脚《すうきやく》配されている。天井《てんじよう》は吹《ふ》き抜《ぬ》けになっており、高窓から自然光を採り入れる設計になっている。
マントルピースのある壁《かべ》付き暖炉《だんろ》は疑似ではない証拠《しようこ》にほどよく煤《すす》ぼけている。空気調節設備は全邸に行きわたっているはずでありながら、吹き抜け構造による暖房効果の悪さを、暖炉で補っているのであろう。
壁面《へきめん》には洋画が、マントルピースの上には皿《さら》や壺《つぼ》が飾《かざ》られている。どれ一つをとっても文化財レベルの名品であろう。あるいは重要文化財の指定をうけたものがあるかもしれない。――客をしてそんな気持にさせるような荘重《そうちよう》な設計と家具、什器《じゆうき》、装飾《そうしよく》品の布置であった。
川地夫婦は、雰囲気《ふんいき》に圧倒《あつとう》されて、ますます消沈《しようちん》した。二人はソファの傍《かたわ》らに佇立《ちよりつ》したまま待った。かなり長い間待たされたようにおもえたが、時間にして二、三分後、ドアが開いて、スクリーンで馴染《なじ》んでいるスターが大柄《おおがら》の身体に和服を着流して出て来た。
川地は、妻をうながして、平身低頭した。
「この人かね」
スターは特徴のある鋭《するど》い目でギロリと川地の妻をにらんだ。
「まことにこの度は、この者がお宅のご子息様に失礼な振舞《ふるまい》をいたしまして、なんともお詫《わ》びの申し上げようもございません」
川地はすでに何度となく繰《く》り返している言葉をなぞった。妻が川地に倣《なら》って深々と頭を下げた。
「まあ起きてしまったことは仕方がないが、どうして本人が詫《わ》びに来るのがこんなに遅《おく》れたのかね」
スターはニコリともせずに言った。
「まことにはやなんとも。それが申し上げましたようにこの者がパートでございまして、住所をよく聞いておかなかったものでございますから探し出すのに手間どったのでございます。きみもよくお詫び申し上げるんだ」
川地は全身に冷や汗《あせ》をじっとりとかきながら、妻の身体を突《つ》っついた。
「本当にお坊《ぼ》っちゃまに対し奉《たてまつ》り、失礼をば仕《つかまつ》りました。今後このようなことを絶対に繰り返さないように十分注意いたしますので、どうぞお許しくださいまし」
スターは川地の妻のオーバーな謝辞に苦笑しながらも、
「今後|息子《むすこ》にもスーパーなどへ行って買い食いなんかしないようによく言い聞かせておくが、前途《ぜんと》のある若者をよく調べもせずに万引き呼ばわりは絶対にしないようにしてもらいたいね」
「以後きっと注意いたしますでございます。お坊っちゃまに呉々《くれぐれ》もよろしくお取りなしくださいませ」
川地が言葉を添《そ》えて何度目かの最敬礼をすると、スターは、
「ちょうど息子が家にいるからここへ呼ぼう」
と言った。平日の午後の早い時間なので、多分本人はいないだろうと楽観していた川地夫婦はギョッとなった。間もなく父親に呼ばれて息子が応接室に入って来た。
「この間のスーパーの人がこのように詫びに来てくれたから、おまえもこの辺で許してあげなさい」
父親に言われて、息子はニキビの一杯《いつぱい》に浮かんだ面を向けた。トラブルの原因となったハトムギはいっこうに効果を現わしていないようである。川地の妻に視線を向けた息子の表情に不審《ふしん》の色が浮かんだ。
「この人ちがうよ。全然ちがう人だよ」
息子は言った。
「なんだって?」
スターが息子の顔を振《ふ》り返った。
「まちがいないよ。ぼくを泥棒《どろぼう》呼ばわりした人はこの人じゃない。もっと太っていて、目が細くて色の黒い人だったよ。口惜《くや》しかったのでよく憶《おぼ》えているんだ」
「きみたちどういうつもりかね」
スターが一直線に川地夫婦を見つめて詰問《きつもん》した。国際スターの貫禄《かんろく》が、演技力ぬきで迫《せま》ってきた。いい加減な言い抜けでは通らないことがわかっていた。あらゆる意味で、役者≠ェちがっていた。
「申しわけありませんでした」
川地がスターの前に土下座した。
「何の真似《まね》だね、それは」
スターは一歩も追及を緩《ゆる》めない。
「この者は私の家内でございます」
「きみの奥《おく》さんがなぜ代わりに謝りに来たのかね」
「こうでもしないかぎりお詫《わ》びする方法がなかったのでございます」
川地は、妻を身代わりに連れて来た経緯《いきさつ》を正直に告げて許しを乞《こ》うた。聞いているうちにスターの表情から険悪な気配が除《と》れてきた。
「そういうことだったのか。きみも仕事とはいえ、大変なんだな」
聞き終ったスターの口調にはねぎらいといたわりが感じられた。
川地の捨身の謝罪で、ようやく一件は解決した。さすがに国際スターだけあって、妻を身代り謝罪させなければならない川地の苦しい立場を理解してくれたのである。
川地はこの一件によって「後方担当」という職性の酷《きび》しさとみじめさを痛感した。「後方」とは、自分にまったく責任のない他人の過失の尻拭《しりぬぐ》いである。どんなに「汚れた尻」であっても、自分の仕事とおもえば辛抱《しんぼう》できる。
だが後方とは、自分一人でできる仕事ではなかった。その職性の酷しさとみじめさを家族にも共有させなければならない。共有させなければその職を維持《いじ》できない。
国際スターのおかげで、川地は初めて自分の職性を本当に理解したのである。
パスされた苦情
一件の苦情が後方担当課へ回されてきた。最近は売場レベルで解決できるようなトラブルでもすべて後方へ回してくるのでひどく忙《いそが》しい。
その日、買いもしない商品が、まぎれ込んでいた、どうしてくれるという主婦からの苦情をよくよく事情を聞いてみると、カウンターで袋《ふくろ》に詰《つ》めている間、他の客が買った商品を自分がまちがえてもってきたということがわかった。
ようやくその苦情を解決してホッとする間もなく、次の苦情が電話で寄せられてきた。その電話をうけた瞬間、川地は難件≠セなと直感した。経験を堆《つ》んだおかげで、最初の感触《かんしよく》で苦情の難易がわかるようになっている。
「いったいどうしてくれるのよ。私の可愛《かわい》い三太が死んじゃったじゃないの」
受けた電話機にいきなり年輩《ねんぱい》らしい女の声が噛《か》みつくと、絶句したまま、むせび泣きを始めた。
「奥《おく》さん、落ち着いてください。どういうことかご説明ください」
相手は逆上していた。まず逆上の原因を突《つ》き止めることから後方の仕事は始まる。
「落ち着けですって。よくもまあそんなことがぬけぬけと言えたもんだわね。人殺しのくせに」
川地の言葉が相手をさらに激昂《げつこう》させたようである。
「お気に障《さわ》ったら謝ります。どういうことなのかまずご説明いただきたいのです」
人殺しとは穏《おだ》やかではなかった。川地は、店の売った食品にでも当たって死んだのかとおもった。そうだとすれば、これは大事《おおごと》になる。これまで賞味期限の切れた食品についての苦情はあったが、食中毒で死んだという事件はない。
たとえ、メーカー側の責任であっても、それを販売《はんばい》したスーパーの責任ということになる。このような場合、マスコミで最大の悪玉にされるのは、常にスーパーなのである。まして商品管理に手落ちでもあれば、逃《のが》れようはない。
「あんたんとこで売りつけたドッグフードを食べて三太が死んだのよ。三太を返してちょうだい。三太を返せ!」
相手は川地の質問には答えず、泣訴《きゆうそ》した。
「ドッグフードですって? その三太さんというのは人間ではないのですか」
川地は愕然《がくぜん》として聞き返した。
「人間と同じよ。私の子供なのよ。あなたたち、犬だとおもって、悪い食べ物を売りつけたんでしょ。許さないわ。私にとって三太は家族以上なのよ」
相手の言葉を聞いているうちに、川地は心の中で救われたおもいがするのを禁じ得なかった。「人殺し!」と罵《ののし》られたので、てっきり「人間」かとおもっていたが、「三太」はどうやら犬のようである。相手にとって家族同然に可愛《かわい》がっていたペットであっても、やはり犬と人間ではちがう。
「私共のドッグフードを食べてお宅の犬が死んだので?」
川地は確認した。
「なによ、その言い方。犬じゃないわよ、家族よ」
「あ、申しわけございません。その、ご家族同様のお犬様が私共のドッグフードを召し上がってお亡《な》くなりになったのですか」
川地は最丁寧《さいていねい》語を用いた。これを滑稽《こつけい》とおもうようでは後方担当はつとまらないのである。
「そうよ、三太を返してちょうだい。いますぐ。さもないと殺してやる! 私の三太を殺した者は絶対に許さない」
「ドッグフードはまだ残っていますか」
「あるわよ」
「どうかそれをお手許に保存しておいてください」
「そんなものとっておいてどうするのよ」
「私共で分析《ぶんせき》いたしまして、どんな毒物があるかを……」
「いまさらそんなことをしても遅《おそ》いわよ。三太が生き返るとでも言うの」
「私共としましては最善の手を尽《つ》くしますでございます。これからおうかがいいたしますのでお名前とご住所をお聞かせください」
「三太を返してくれるのね」
逆上している相手をどうにかなだめて、ようやく名前と住所を聞きだした。川地は相手の住所にふと不審《ふしん》をもった。それは彼《かれ》の店からかなり離《はな》れている地域だったからである。
デパートや高級専門店と異なって、スーパーの客は、おおむね自分の住居の近くの店を利用する傾向《けいこう》がある。食料品を中心とした日用品が多いので、生活の本拠《ほんきよ》の近くの店で買う。
距離《きより》が開いているだけでなく、方角も異なる。もよりの交通機関やスーパーを中心に生活圏《けん》が形成されるものであるが、その客の住居は別の生活圏に属していたのである。だが散歩や所用の途上《とじよう》ふらりと立ち寄る場合もある。
川地はそんなケースであろうとおもった。
声の様子からして二十代後半か精々三十代初めの女のようである。「家族以上」と言っていたところから推測すると、犬と二人? 暮《ぐ》らしの家のようである。犬や猫《ねこ》を家族のようにして一緒《いつしよ》に生活している者は、ハイミスから中年以上の独り暮らしの女性が多い。そのペットに死なれたとなると、ちょっと厄介《やつかい》である。川地は難航する気配を感じた。
家族同様、いや以上の存在をスーパーの不良品によって失ったとなれば、示談にこぎつけたとしても、人間並みの慰謝料《いしやりよう》を吹《ふ》っかけられるだろう。もとより、犬に人間並《な》みの慰謝料は支払《しはらい》えないし、ドッグフードが原因で死んだとは限らない。
包装《ほうそう》の完全なドッグフードが原因で犬が死ぬなどということは考えられないし、これまでにもそのような事故は起きていない。おそらくよそでなにか悪いものを食べてそれを店のせいにしようとしているのであろうが、いまの電話での半狂乱《きようらん》ぶりから察するに、店のドッグフードのせいだと確《かた》く信じ込《こ》んでいるようである。
こうなると、商品を売っている側が責任を免《まぬが》れるためには、たしかにその商品が原因ではなかったという証明をしなければならなくなり、面倒《めんどう》なこととなる。
すでに犬が死んでしまっている以上、まず問題のドッグフードを回収して分析《ぶんせき》しなければならない。しかし、ドッグフードの中に毒物が証明されなかったとしても、無罪|放免《ほうめん》というわけにはいかない。たまたま犬が食べた分に毒物があったかもしれないからである。
犬を解剖《かいぼう》して検《しら》べるというわけにもいくまい。結局は後方担当の腕《うで》がものをいうことになる。
川地は、とりあえず苦情発生の際の一般的|見舞《みまい》品である果物籠《くだものかご》を用意して、相手の家に赴《おもむ》いた。相手の名前は「八文字貞子《はちもんじさだこ》」という。名前からして難物を予想させる。
川地は相手の素姓《すじよう》を臆測《おくそく》した。結局行き着く所は金の話になるであろうが、彼女が水商売関係の女であるなら、かなり高いことを吹っかけられるだろう。水商売の女性は、最後に自分を護《まも》ってくれる武器は金であることを知っているからである。
だが角正では、商品に関するトラブルでは原則として金を出さないことにしている。不良食品を食って客が腹痛などを起こした場合でも、精々|治療《ちりよう》実費を負担する程度である。犬が死んだ程度では、どう転んでも金は出ない。川地は仕事とはいえ、憂鬱《ゆううつ》になってきた。
八文字貞子の住居は、古ぼけた小型のマンションであった。横丁の四階建の建物で、エレベーターはない。細い急勾配《きゆうこうばい》の階段を上って行くと、一フロアに三室ぐらいの構成であり、各ドアの前に古新聞の束《たば》や店屋物の食器などが出されている。それらの食品は洗われておらず、食物の残りが汚《きた》ならしくこびりついていた。
これらの食物|残渣《ざんさ》をペットや野良犬《のらいぬ》、猫《ねこ》が漁《あさ》るかもしれない。現に動物が食い漁ったような痕跡《こんせき》が見られた。
これはこちらにとって有利な情況《じようきよう》といえる。
八文字貞子の部屋は、二階の奥《おく》にあった。川地はそのドアの前に立つと、一呼吸してからブザーを押《お》した。室内に人の動く気配は生じない。川地はしばらく待って再度ブザーを押した。だが依然《いぜん》として気配はなかった。
これから行くことを電話で伝えてあり、彼女《かのじよ》の了承《りようしよう》を得ている。留守のはずはなかった。
川地は首を傾《かし》げながら、今度はドアをノックした。まったく無反応であった。人を呼びつけておいて、外出してしまったのか。川地は腹立たしくなって、ドアの取手《とつて》に手をかけた。先方が礼儀を無視しているのであるから、こちらも少々の無作法を犯してもよいだろうと理由づけた。
カチリと鳴ってドアが開いた。ドアはロックされていなかったのである。ドアは、それ自体の反発力で細目に開いた。川地は隙間《すきま》から首をさし入れて「八文字さん」と呼んだ。
応答はなかったが、彼の目が室内に横たわっている女の姿を捉《とら》えた。女の顔は川地の方を向いていた。彼は八文字貞子に会うのは初めてであったが、彼女が当の本人であることを直感した。川地は噴出《ふんしゆつ》しかかった悲鳴を危うくのど元に抑《おさ》えた。貞子の顔は明らかに生きている人間のものではなかったのである。
麻布《あざぶ》署の刑事藤岡啓三《けいじふじおかけいぞう》は、六本木《ろつぽんぎ》の交叉点《こうさてん》にある喫茶店《きつさてん》「アマリリス」の店内を何者かが狙撃《そげき》した事件(「異型の深夜」収載《しゆうさい》)を追っていた。犯人は高速道路を走る車からアマリリスに向けて銃《じゆう》を射かけたものと推測された。弾丸《だんがん》は高速道路と並行《へいこう》するアマリリス三階の窓ガラスを貫通《かんつう》して、壁《かべ》に食い込《こ》んでいた。弾丸は三〇−〇六スプリングフィールドと呼ばれる弾種で、三十口径、一九〇六年米国スプリングフィールド兵器廠《へいきしよう》で開発された実包である。我が国に最も普及《ふきゆう》した弾種であり、国内のすべての獣《けもの》の狩猟に用いられている。
これが高速道路上の車から単なるいたずらで射ち込まれたものか、それとも居合わせたアマリリス店内のだれかを狙《ねら》ったものかわからなかった。
藤岡は、だれかを狙撃したのであれば、高速道路上の車からでは目的を達せられないと考えた。だが犯人に殺意がなく、アマリリス店内のだれかを脅《おど》すためであれば、その意図は十分に果たされたであろう。
当時アマリリス三階には十六名の客がいた。内、女性は十名である。また従業員も除外できないのでこれを加えると、男七名、女十二名の計十九名となる。
なお高速道路から二階と一階を狙うことは不可能であったので、そちらの人間は除外してよいだろう。
三階に居合わせたすべての人間に事情を聴《き》いてみたが、特にだれかに狙われるべき心当たりがあると申し出た人間はいなかった。そうなると、最も狙われそうな人間は、弾丸を射込まれた窓の最も近くにいた者ということになる。
弾の射入口の最も近くには、人気絶頂のタレント歌手|海晴彦《うみはるひこ》と、流行作家|坂田蓑吉《さかたみのきち》が向かい合って坐《すわ》っていた。弾《たま》が自分に射かけられたと錯覚《さつかく》した海が、動転の余り過去に犯した轢《ひ》き逃《に》げに関する坂田の記憶《きおく》を引きずり出すという予期せぬ副産物を産んだが、それも猟銃《りようじゆう》発射事件とはなんの関係もないことがわかった。
ここで藤岡は発想を転換《てんかん》した。銃《じゆう》は果たして高速道路から発射されたものなのか? 発想を変えることによって別の視野が開いた。銃の射程の中であれば、高速道路からだけでなく、アマリリスの周辺からでも発射できる。
だが捜査《そうさ》員はだれもあまり乗気ではなかった。被害《ひがい》者がいないのに、犯人≠探す情熱が湧《わ》かないのである。
藤岡は窓際の射入口と、弾丸のめり込んだ壁《かべ》の位置を検討した。それを結んで延長された弾丸曲線を溯行《そこう》して、新たな発射場所を探した。問題の弾丸《だんがん》は厚い窓ガラスを貫通《かんつう》し、コンクリートの壁に三センチも食い込《こ》んでいた。大口径ライフルの最大射程は三、四キロとされており、殺傷力を留《とど》めている有効射程は一キロ前後とされる。三〇−〇六の貫通力は、射撃距離《しやげききより》六百ヤード(約五百五十メートル)で最大になるといわれている。
厚い窓ガラスを破り、コンクリートの壁に三センチもめり込んだ弾丸の勢いからみても、それほど遠方から射たれたとはおもえない。
高速道路をはさんでアマリリスの建物と対《むか》い合うようにビルが連なっている。いずれも三〜五階建のアマリリスと同規模の建物である。推定弾道を溯《さかのぼ》ると、アマリリスと向かい合っている三階建のビルの屋上に行き着いた。一階が書店になっており、二階以上が貸オフィスである。その三階屋上からアマリリス三階を狙《ねら》えば、窓ガラスと壁《かべ》の同じ部位に弾丸を射ち込めそうであった。二階以下は低すぎ、一階は高速道路に阻《はば》まれる。
藤岡は早速、向かいのビルへ行ってみた。ビルの名は書店の名を取り、「立志堂ビル」となっている。一階は書店の売場が占《し》めている。だが脇《わき》に二階以上の貸オフィスへ上る階段があり、出入り自由である。つまりだれでもオフィスへ行くような顔をしてビルへ出入りできるのである。藤岡は狭《せま》い階段を伝って屋上へ出た。
三階の屋上はなにもなく、ビルの居住者が外気を吸いに来る以外には利用されていないようである。高速道路|越《ご》しにアマリリスの方角を見た藤岡は、自分の着想が誤っていない自信を得た。
屋上の安全フェンス越しにアマリリスの三階の窓がほぼ目の高さに位置している。フェンスに据銃《きよじゆう》すれば、アマリリスは格好の的《ターゲツト》となる。高速道路を行き交う車の列が弾道《だんどう》を阻む障害物であるが、車の切れ目は必ずある。
この距離から望むと、アマリリス店内の客の表情まで読み取れる。ファッションの最先端《さいせんたん》を行く六本木らしく、店内にはナウな服装《ふくそう》に身を固めた男女が楽しげに語り合っている。
犯人は、この屋上のフェンスからアマリリス店内のだれかを狙《ねら》ったにちがいない。――
その光景を眺《なが》めているうちに、最初の臆測《おくそく》が心の中に固定しかける。犯人はあのとき店内に居合わせた十九人の男女のだれを狙ったのか。そしてその動機は?
犯人が高速道路上の車からいたずらに銃《じゆう》を射ったのでなければ、犯人には必ず目的と理由があるはずである、藤岡はそれを知りたかった。
屋上を丹念《たんねん》に検索《けんさく》していると、射撃位置と推測されるフェンスの下に小さなブラシが落ちていた。取り上げてみると、植えつけられたブタ毛の間に白い綿毛のようなものが数本からみついている。なにかの動物の毛のようであった。
これが犯人の遺留品であるかどうかわからない。だが、藤岡には決して無視できない資料であった。
だが藤岡の捜査《そうさ》もここまでであった。それも仮定に基いて辿《たど》り着いた臆測《おくそく》の射撃位置にすぎない。犯人はアマリリスに居合わせただれかに対して果たして殺意を抱《いだ》いていたのか。あるいは単に脅《おど》かすだけだったのか。殺意の有無いずれにしても、あるいは脅迫《きようはく》にしても、銃《じゆう》を射った意図は何か? 一切わかっていない。
だが藤岡には密《ひそ》かな予感が働いていた。犯人が犯行に失敗したのであれば、必ず再度|襲撃《しゆうげき》するだろう。そのときに被害《ひがい》者が確定することになる。犯人が再度行動を起こすまで藤岡一人で十九名の身辺を見張ることは不可能であった。しかも犯罪は必ず実行されるかどうかまったく予測がつかない。ただ藤岡に暗い予感が危険な気配をしきりに訴《うつた》えかけるのであった。
110番経由によって港《みなと》区南青山《みなみあおやま》三丁目のマンションの一室で女が殺されているという通報をうけた藤岡は、所轄《しよかつ》署のパトカーで現場へ向かいながら、現場の住所に薄い記憶《きおく》があるような気がした。
現場は青山通りから少し入った狭い路地の中の小型マンションである。
建設当初は、都心の一等地を踏《ふ》まえたモダンな建物であったにちがいないが、人気衰《おとろ》えた往年のスターの成れの果てのように、次々に新設される瀟洒《しようしや》なマンションの群の中にあって、一際老朽《ひときわろうきゆう》化が目立つ。
それでもこの地に住んでいられることをステイタスシンボルとして住人が必死に土地にしがみついているような雰囲気《ふんいき》の建物であった。
マンションの名は、「グリーンヒルコープス」。現場は、その二階の204号室である。玄関《げんかん》ドアに「八文字」という表札が出されていた。藤岡はその個性的な居住者の名前を見た瞬間《しゆんかん》、記憶がよみがえった。
港区南青山三丁目三の十×番地、八文字貞子二十四歳、職業ホステス――その名前と住所こそ、アマリリス十九名のリストの中に含《ふく》まれていたものではないか。
(とうとうやりやがった!)
藤岡は直感した。これはアマリリスを狙撃《そげき》した犯人が、遂に目的を達したのだ。「アマリリス銃撃《じゆうげき》事件」の被害《ひがい》者がここに初めて確定したのである。
現場にはすでにもよりの派出所から駆《か》けつけた巡査《じゆんさ》が現場保存に当たっていた。発見者はスーパーの苦情処理専門係で、八文字貞子から買上げ商品についての苦情をうけたので謝罪するために訪れたところ、彼女の死体にぶつかったというものである。
204号室は東向きの二DKで、死体は玄関《げんかん》の上がり口に面したダイニングキチンの床《ゆか》の上に倒《たお》れていた。首に腰《こし》ひもが巻きつけられ、水平に一周して頸部《けいぶ》後方中央辺で強く結ばれていた。いわゆる「こま結び」と呼ばれる解き難い結び方である。被害者はおそらく、流しで洗い物でもしているところを背後から首にひもをかけられて絞《し》められたらしい。ひもに指をかけ必死に逃《のが》れようとして却《かえ》って自ら首を絞める力を促《うなが》した形となり、遂に力|尽《つ》きて床に倒れたといった状況《じようきよう》であった。
死体は右|頬《ほお》を床にこすりつけるようにして腹這《はらば》いになって倒れている。抵抗はほんの短い時間で止んだらしく、服装《ふくそう》はあまり乱れていない。室内にも格闘《かくとう》の痕跡《こんせき》はなかった。被害《ひがい》者の顔は暗紫《あんし》色に脹《は》れ上がり、口角にうすい血を混えた泡《あわ》がたまって、被害者の断末|魔《ま》の苦悶《くもん》を訴《うつた》えていた。この形相が玄関の方角を向いてにらんでいたのである。眼瞼《がんけん》や眼球|結膜《けつまく》には絞殺《こうさつ》の特徴《とくちよう》である著しい溢血点《いつけつてん》が認められた。
殺人事件と確認されて本庁の捜査一課や鑑識《かんしき》課員が臨場し、本格的な捜査《そうさ》が始められた。
着衣はスリップの上にガウンを羽織っており、前が少しはだけているが、苦悶のために乱れたようである。下着類に乱れた様子はない。
ドアがロックされておらず、被害者が犯人をすんなり室内に入れている様子から、犯人は顔見知りの者の模様である。死体現象はまだほとんど進行していない。
死体の第一所見によって犯行は発見前一〜二時間の間に実行されたと推測された。
ここで発見者の証言が重要性を帯びてくる。彼《かれ》が被害者の苦情を電話でうけたのが午後二時ごろである。そして被害者の住居へ訪ねて来るまでに約二時間経過している。
発見者は二時間前、たしかに被害者と言葉を交しているのである。すると午後二時から四時までの間に八文字貞子は殺害されたことになる。都心のマンションの白昼の犯行である。必ず目撃者か、犯行の気配を聞きつけた者がいるはずである。
グリーンヒルコープスは、レンタルマンションであり、居住者は、おおむね銀座《ぎんざ》、赤坂《あかさか》辺のクラブ、バーに勤める女性である。二DK十六室によって構成されており、十二室入居している。家賃は一律十二万円であり、この土地|柄《がら》においては格安ということである。コープスとはどういうつもりで名づけたのかわからないが、「死体」という意味があることを、藤岡はおもいだした。
現場を検索《けんさく》中、テラスに面した洋室の一隅《ひとすみ》に設けられた木箱製室内犬舎の中に一匹《いつぴき》の犬の死体が発見された。テリア種の長い毛足をもつ室内|愛玩犬《あいがんけん》である。犬舎に「サンタの家」と小さな表札が貼《は》られている。
これが発見者が供述していた「三太」であろう。被害《ひがい》者は、発見者の店で買ったドッグフードを食べてサンタが死んだという苦情を寄せてきた。
犬舎の中は居心地よさそうに管理されており、被害者がサンタを家族同様に可愛《かわい》がっていた様子がわかる。だが犬舎の中には犬の吐《は》いたものが少量残っていた。
丹念な検索がつづけられたが、犯人の遺留品や、指紋《しもん》は発見されなかった。衝動《しようどう》的な犯行としては、痕跡《こんせき》をきれいに拭《ふ》き取っている。
一方近所周辺の聞込み班にもめぼしい情報は引っかかってこなかった。犯行時間帯の午後二時〜四時は夜の仕事の居住者たちがようやく起き出して来る時間であった。彼女らはまだ眠《ねむ》けの残るどんよりした意識のまま、遅《おそ》い朝食を摂《と》ったり、テレビを見たりしていた。
この業界の女性は、同業者に対する奇妙《きみよう》な反発がある。そのくせ同業者が一つ屋根の下に集まって生活をしている。同業者による一種の租界《そかい》≠形成しながら、その内部においては相互《そうご》の交際はほとんどない。
この反発意識に妨《さまた》げられて、聞込みの網《あみ》になにも引っかかってこないのである。
被害者の隣《とな》りに住むホステスが、午後三時ごろ、女の悲鳴を聞いたような気がしたが、どこかのテレビの音だろうぐらいにおもっていたと話したのが、唯一《ゆいいつ》の収穫《しゆうかく》といえば、いえた。
発見者として事情|聴取《ちようしゆ》のために残されていたスーパーの後方担当課長が、藤岡に質《たず》ねた。
「現場にドッグフードは残っていなかったでしょうか」
「ドッグフードなんか残っていなかったな」
「八文字さんはそれを食べて犬が死んだとおっしゃっていたのです」
「それでは犬がみんな食べてしまったんでしょう」
「そんなはずはありません。八文字さんは犬が食べ残した分が残っているとおっしゃってました。たしかに私共の商品に毒物が入っていたかどうか分析《ぶんせき》するために、それを保存しておくように頼《たの》んでおいたのです」
「ドッグフードは、残っていませんでした。綿密に検索《けんさく》しましたから、その点はたしかですよ」
「すると、八文字さんが嘘《うそ》を言ったのでしょうか」
「彼女がそんな嘘を言うメリットがありますか」
「お客様の中にはゴテ得を狙《ねら》って一々店の商品やサービスに対して苦情をつける人もいますが、お犬様、いえ、犬が実際に死んでいるのですから、そんな嘘を言ったとは考えられません。ただ犬が死んだ原因が、私共のドッグフードにあるとはまだ確かめられておりませんが」
「彼女はドッグフードが原因だと信じ込《こ》んでいたので、苦情を言ってきたのでしょう」
「そうおもいます」
「すると、ドッグフードの存在自体には嘘はないことになる」
藤岡はそのことの意味を考えた。現場に残っていなければならないはずの物質が失われていれば、だれかが持ち去ったのである。だれがなぜその物質を持ち去ったのか?
後方課長が午後二時、被害者から電話をうけたときは、その物質は存在していた。被害《ひがい》者としても苦情の原因であり、証拠《しようこ》物件でもある物質を捨てるはずがない。ところが二時間後後方課長が到着《とうちやく》して、被害者の死体を発見、警察の管理下に入ったときは、すでに物質は現場にはなかった。持ち去るとすれば午後二時から二時間のあいだである。物質を持ち去った最も疑いの強いのは犯人である。犯行前であれば、被害者が苦情の証拠物件を手放さないであろうし、犯行後、犯人以外の者が持ち去ったと仮定すれば、その時点で死体は発見されたはずである。
犯人はなぜそれを持ち去ったのか? それが現場に残されていると、犯人にとって都合の悪い事情があったのではないのか。つまりその物質が犯人を推定あるいは特定させるというような事情が……
「お宅のお店は、被害者の住居からだいぶ離《はな》れておりますが、そのドッグフードはお宅しか売っていない特殊《とくしゆ》な品なのですか」
藤岡は後方課長に質ねた。
「いいえ、私共ではそのような特殊な品を扱《あつか》ってはおりません。どこの店にでもあるような普及《ふきゆう》品です」
「そんなありふれた品をなぜ距離《きより》もあれば、方角も見当ちがいの感のあるお宅の店まで買いに行ったのでしょうか」
「その点私も変におもっていたのです。ふつう、スーパーのお客様はご自宅の近くの店をご利用するケースが多いのです」
「なにかの所用のついでに立ち寄ったというケースはありますか」
「それは十分ございます。前にあった苦情ですが、よその地域から来られたお客様が私共の商品を近くに住む方にお土産《みやげ》≠ノしましてね。たまたまその商品が賞味期限を過ぎておりまして苦情を寄せられました」
後方課長は、「砂糖グルミ事件」(「異型の深夜」収載《しゆうさい》)のことを言っていた。スーパーの砂糖グルミから殺人事件が解明した特異なケースであり、藤岡もそのアウトラインは知っていたのだが、後方課長が言及《げんきゆう》したケースが、まさかその事件だとは気がつかなかった。
藤岡は、後方課長の言葉によって、まったく別の連想を追っていたのである。
「その逆のケースもありますね。お宅の近くに住む人が、お宅で買った品を、別の地域に住む人にお土産にするという場合です」
「それはケースとしては少ないでしょうけれど考えられます。スーパーなんてどこにでもありますから、わざわざ家の近くで買って遠い所まで運んでいくという気にはならないでしょう」
「ドッグフードのように軽くて嵩《かさ》ばらないものならどうでしょう」
「するとだれか別の人が店で買って八文字さんの犬にあたえたと……」
後方課長は、ようやく藤岡の言葉の含《ふく》みを悟《さと》った様子である。
藤岡はそれだなとおもった。犯人は「角正」の固定客なのであろう。だからこそ角正の商品を犯行現場に残したくなかったのだ。
「いかがでしょう。ドッグフードを買うお客は多いですか」
「最近はかなり多くなっていますね」
「ドッグフードにはいろいろな種類がありますか」
「犬のサイズと種類によって栄養の質量が変ります。例えば猟犬《りようけん》や番犬のような大型の活動犬と小型の室内|愛玩《あいがん》犬では要求するエネルギーと栄養が変ってきますからね。しかし栄養素に変りありません。犬は元来肉食動物ですから、必要栄養素は肉類、魚のアラ、鳥のモツのような動物質と、米、麦、野菜等の植物質、脂肪《しぼう》、カルシウム、少量の無機塩類、各種ビタミンです。ドッグフードはこれらの栄養素が適当に混合してあります。形状別では、かん詰《づ》めと|半生ま《セミ・モイスト・タイプ》、乾燥食《ドライ・タイプ》があります。かん詰めは開いてそのままか、あるいはご飯に混ぜてあたえます。乾燥食は、牛乳などをかけてやるとよく食べるようです。この他、生まれたばかりの幼犬用と、離乳《りにゆう》食があります」
「八文字さんはどんなドッグフードだったか言いませんでしたか」
「聞き漏《も》らしました」
「お宅の固定客でよくドッグフードを買う客のリストはつくれませんか」藤岡の質問は犯人自身が犬を飼《か》っている場合を示唆《しさ》している。
「そうですね、かなり難しいとおもいますが、チェッカーに頼《たの》んでやってみましょうか」
「ぜひおねがいします」
「刑事《けいじ》さんは、手前共のドッグフードを買われるお客の中に犯人がいるとお考えですか」
「断定はできません。可能性だけです」
感染した犯行
川地は、さすが刑事だけあってよいところに目を着けるとおもった。自分が不審《ふしん》をもった「距離《きより》と方角ちがい」に逸速《いちはや》く着眼して、容疑者の生活圏≠絞った。
早速チェッカーたちにリストの作成を依頼《いらい》すると、ドッグフードを買う客は、豊かな人が多く、顔はたいてい憶《おぼ》えているが、有名人以外は、名前や住所まで知らないということであった。
刑事に安請《やすう》け合いしたものの、意外な困難が立ちはだかった。ドッグフードを買う客を一人一人尾行したり、住所氏名を聞いたりすることはできない。
川地は思案した。刑事に示唆《しさ》されて、川地も犯人は「ドッグフードの固定客」の中にいるにちがいないとおもうようになった。そうでなければ、食べかけのドッグフードなどを持ち去るはずがない。
川地は犯人の心理になって考えてみた。衝動《しようどう》的にか、あるいは計画的にか殺人を犯した犯人は、死体を目の前にしてまず逃《に》げることを考えたであろう。それは動物的な自衛本能である。
逃げ出しかけて、犬が食べ残したドッグフードが目に触《ふ》れる。それは自分が土産《みやげ》≠ノ買って来てあたえたものである。ドッグフードに角正のラベルが貼《は》ってある。そんなものが現場に残されていれば、たちまち角正に捜査《そうさ》の手が伸びる。犯人は角正でよくドッグフードを買っているのであろう。犯人自身が犬を飼《か》っていれば、ドッグフードを土産にもっていく気になったのかもしれない。
犯人はまさか被害《ひがい》者が殺される前に角正へ苦情の電話をしていたとは知らなかったのであろう。知っていれば、ドッグフードを持ち去ったりしなかったはずである。犯行そのものを中止していたかもしれない。計画的犯行であれば被害者の苦情電話は犯人の計算にないことであった。
犯人がこれほど「角正の商品」に神経質になったということは、犯人が角正の近く、その商|圏内《けんない》に住んでいることを暗示するものであろう。とにかく犯人にとって角正は鬼門《きもん》≠ネのである。
ここまで思案を追ってきた川地は、脳裡《のうり》に火花が走ったのを覚えた。思考のエネルギーが蓄積《ちくせき》されて、着想が閃《ひらめ》いたときに発する火花である。
――犯人にとって角正が避《さ》けたい鬼門であるなら、当分近寄らないはずだ――
川地は早速チェッカーたちに依頼《いらい》した。
「これまで定期的にドッグフードを買っていた固定客の中で最近急に姿を見せなくなった客がいたら教えてもらいたい」
一方、八文字貞子の死体は司法|解剖《かいぼう》に付せられ、検視の結果が裏づけられた。死因は腰《こし》ひもを首にかけての絞頸《こうけい》による窒息《ちつそく》、犯行推定時間は午後二時から三時の間、なお死体に生前の情交、死後|姦淫《かんいん》の痕跡《こんせき》はない――というものである。
さらに現場で死んでいた犬については意外なことが発見された。犬の死体を検《けん》するに、死因は伝染病の疑いが強くなった。その伝染病が食物によって運ばれたものか、あるいは他の感染経路によるものか、確認できないが、口腔粘膜《こうこうねんまく》が出血しており、黄疸症状《おうだんしようじよう》を発している。
犬の伝染病で最もよく知られているのはジステンパーである。ビールスによって幼犬が感染しやすい。人間のはしかのように幼若期に罹患《りかん》すると終生|免疫《めんえき》となる。
この病気には呼吸器型、神経型、消化器型の三種があるが、貞子の飼《か》い犬は第三タイプの消化器型に症状が似ていた。だが検体は成犬である。ジステンパーは成犬がかかるケースは少ない。それに最近はたいていの飼い主が幼犬のうちに予防ワクチンを接種させている。犬を家族同様に可愛《かわい》がっていた八文字貞子が予防接種を怠《おこた》っていたとは考えられない。
犬の飼い主は、狂犬《きようけん》病予防法により、毎年一回犬の登録を申請《しんせい》し、六か月|毎《ごと》に狂犬病の予防注射をうけさせることを義務づけられている。飼い犬は生後九十日以上、あるいは入手後三十日以内に保健所へ犬の名前、生年月日、種類、毛色、性別、体格、飼い主の名前を登録して登録証と鑑札《かんさつ》をうけることになっているが、この際ジステンパーの予防接種をうけさせる飼い主が多い。
検体の死因がジステンパーでなければ、他の伝染病が考えられた。次に疑われるのは「ワイル病」である。これはレプトスピラという黄疸出血性スピロヘータが病原体である。この病気は人間にも伝染する。ネズミが媒体《ばいたい》となりやすく、ネズミの食べた物や排泄物《はいせつぶつ》によって感染するケースが多い。
人間の場合、ネズミの排泄物に接触《せつしよく》する機会の多い農夫、漁夫などに多いとされる。
検体の死因がワイル病であれば、どこかでネズミの食べ残したものを食べたか排泄物に触《ふ》れたか、あるいは同じ病犬に接触して感染したと考えられる。
ともあれ、犬の死因は角正のドッグフードにはないことがほぼ確かとなった。完全に包装《ほうそう》あるいはかんの中に密封《みつぺい》されたドッグフードが伝染病の病原体をかかえているはずがない。唯一《ゆいいつ》の可能性は食べ残したドッグフードを病鼠《びようそ》が食べた場合である。だがその場合は角正に責任はない。その無実の証拠《しようこ》となるものが、残されているはずのドッグフードであった。
チェッカーが広げた網《あみ》にも怪《あや》しい者は引っかからなかった。急に姿を消したドッグフードの固定客はいなかったのである。となると、犯人は固定客ではなかったことが考えられる。被害《ひがい》者に頼《たの》まれて、一時的にそれを買ったのか、あるいは犯人としての心理を逆手に取ってなに食わぬ顔をして姿を現わしているのかもしれない。
ここで川地は重大な早とちりをしていたことに気づいた。スーパーへ買物に来る客は圧倒《あつとう》的に主婦が多い。八文字貞子を殺した犯人の動機はとりあえず、情痴怨恨《じようちえんこん》等の異性関係が考えられるが、その場合犯人は男の公算が大きい。
男に妻がいれば、本人がスーパーへ来る機会は少ないだろう。妻に頼まれて来る場合があっても、それはあくまでも臨時的であろう。
妻に買わせたドッグフードを土産《みやげ》にもって来た可能性もある。その場合でも犯人としては角正に目を着けられるのは好ましくなかった。角正の商圏《しようけん》に捜査《そうさ》の触手が伸びることは、それだけ犯人を取り巻く捜査の環《わ》が縮められることになるからである。
しかし犯人の妻が代りに買っているとすれば、ドッグフードから追うのはほとんど難しくなる。
取りあえず捜査方針は、被害者の異性関係に重点がおかれた。被害者は銀座六丁目のバー「エスメラルダ」のホステスであり、やや薹《とう》が立ったとはいうものの、客あしらいが上手《じようず》でなかなか人気があった。異性関係の方もかなり派手で、直ちに数名の特定の関係にあった男が浮かび上がった。だが彼《かれ》らはいずれもエスメラルダの客であり、たがいに「遊び」と割り切っての関係であったことが判明した。彼らは貞子の死をよい遊び友達《プレイメイト》を失ったと惜《お》しんでいた。簡単に浮かび上がったような関係であったから、特に隠《かく》していたわけでもない。彼女との仲を表沙汰《おもてざた》にされたことによって家庭が破壊《はかい》されたり、仕事に影響《えいきよう》をうけるような不都合もなかった。
要するに表に現われた彼女《かのじよ》の男友達には彼女を殺さなければならない動機は見出せなかったのである。
「角正」の筋からも、容疑者は浮かび上がらない。捜査は早くも膠着《こうちやく》した。
捜査が壁《かべ》に打ち当たって、藤岡は捜査の過程を振《ふ》り返ってみた。八文字貞子はアマリリス狙撃《そげき》事件が発生したとき、現場に居合わせた一人である。そのことから、犯人は狙撃犯人と同一人物と疑ったのである。
犯人はアマリリスで失敗して、後日|遂《つい》に目的を達したと考えた。
だがアマリリスで犯行に成功するのはかなり難しいことであった。まず被害者がその時間にアマリリスにいることを知っていなければならない。次に射撃地点を確保しなければならない。そこは人に見咎《みとが》められず、自由に出入りができ、犯行後無事に脱出《だつしゆつ》できる場所でなければならない。いまの東京の都心にライフルを安全に(犯人にとって)確実に発砲《はつぽう》できる地点を探すのは困難である。
このようにして探し出した射撃地点であったが、アマリリスの店内に無関係の不特定多数の客がおり、彼らにそば杖《づえ》を食わす危険がある。無関係な第三者にそば杖こそ食わさなかったが(別件の発覚という副産物はあったが)、現に犯行は失敗した。
だが犯人は再度|被害《ひがい》者を襲《おそ》い、次にはいとも簡単に成功した。犯人は被害者の家へ入り込《こ》み(迎《むか》え入れられた情況《じようきよう》で)、易々と目的を達せられたのに、なぜ前回成功率のおぼつかない極めて危険かつ困難な犯行方法を選んだのか? 藤岡の胸に疑問が台頭してきた。
アマリリス狙撃《そげき》犯人と八文字貞子を殺害した犯人を同一人物とすると、どうにも説明のつかない矛盾《むじゆん》に突《つ》き当たるのである。考えてみれば貞子はアマリリスに居合わせた「十九人の中の一人」にすぎない。たまたま彼女があまり間をおかず殺されたものだから、アマリリス狙撃事件と結びつけてしまったが、他の十八人の中に狙撃された者がいても少しもさしつかえないのである。あるいは大勢意見のようにいたずらにすぎなかったのか。
アマリリス狙撃事件と無関係となれば、犯人はどこから来たのか。捜査の行方《ゆくえ》は混沌《こんとん》としかけていた。
角正の商圏《しようけん》にも容疑者は浮かび上がらなかった。最近は周辺に他のスーパーが開店したために客が分散しており、また車に乗って遠方まで買いに行くようになったので、「犯人角正商圏説」もだいぶ動揺《どうよう》してきている。もともとその説は、ドッグフードが消え去っていたところから発したもので、かなり脆弱《ぜいじやく》なものであった。
「後方」の仕事で意外な事件に巻き込まれたが、その事件のおかげで苦情は横から刈《か》り取られた形になった。事件が発生していなければ、ややこしいことになったにちがいない。スーパーでは犬の死体の医学的検査までできないので、結局ドッグフードが原因ということにされてしまったであろう。
相変らず苦情は毎日発生していた。スターの息子《むすこ》のハトムギ事件や、ドッグフード事件のような大事件はなく、商品に関する小さな苦情が圧倒《あつとう》的に多い。後方担当としては楽であるが、腕《うで》の振いようがない。
屈辱《くつじよく》の多い仕事であるが、苦情をうまく解決した場合は、生き甲斐《がい》を感ずる。そしてそれ以後苦情を寄せた客がなんとなく川地に親しみを寄せてくれるようになるのは不思議な現象であった。
ハトムギ事件以来、これまでスーパーへ直接買物に来ることなどついぞなかったスターがふらりと姿を現わすようになり、川地を見かけると声をかけてくれた。わざわざサイン入りの色紙などももってきてくれた。「苦情おばさん」も川地の固定客≠ナあり、彼が姿を見せると、ホッとしたようになって従順になる。川地の存在そのものが彼女《かのじよ》に安心感をあたえるようである。
彼《かれ》らは川地の一種の人的財産といってよかった。他人の過失や責任の尻拭《しりぬぐ》いであっても、成果は確実に彼のものになった。反面、処理を誤ると命取りになりかねない。常に危険と同居している仕事である。
ドッグフード事件から一か月ほど後、売場の商品検査をしていた川地は背後から肩《かた》を叩《たた》かれた。苦情のないときは売場へ出て、商品賞味期限や陳列《ちんれつ》方法などをみて回っている。
振《ふ》り返った彼は、そこに見憶《みおぼ》えのある顔を見出した。
「あ、先生」
「散歩に来たのでね、ちょっと寄ってみたんだ」
軽快なトレーニングウエア姿で湊獣医師《みなとじゆういし》が立っていた。
「いつぞやは大変失礼いたしました」
「いやいや、きみの所の砂糖グルミのおかげで殺人事件の犯人が捕《つか》まったのだから、本当に怪我《けが》の功名だったよ」
食品を取り扱う者の社会的責任を厳しく詰《なじ》った湊が磊落《らいらく》に笑った。彼も川地の固定客≠ノなっている。
「あれからまた別の殺人事件に巻き込《こ》まれましてね」
「殺人事件だって?」
湊の表情に好奇《こうき》の色が刷《は》かれた。川地は湊が獣医師だったことをおもいだして、ドッグフードの苦情から端《たん》を発した事件のあらましを話した。
「ほう、すると、被害者の飼犬《かいいぬ》が伝染病に罹《かか》っていたというのかね」
「手前共の商品が原因ではなかったことがわかってホッとしたのですが、なんでもワイルド病とかいう病気だそうです。そんな犬の病気があるのですか」
「ワイル病だろう。ネズミが媒介《ばいかい》する。人間にも移る恐《おそ》ろしい病気だよ」
「ああそんなことを刑事《けいじ》が言ってました」
「ワイル病の犬なら、うちにもいま入院しているよ。もうほとんどよくなったが、一時はかなり危なかった」
「えっ、先生の所にワイル病の犬が入っているのですか」
「最近はめったに発生しない伝染病なのでね、飼い主も移されて、いま、感染源を調べているんだ」
「先生、その飼い主はだれですか」
川地はにわかに姿勢を変えた。
「そんなことを聞いてどうするんだね」
「感染源は、殺されたホステスの飼い犬ではないかとおもいましてね」
「な、なんだって?」
「申し上げたでしょう。残っているはずのドッグフードが失われていたと……」
「するときみは、犬から飼い主が移されたのではなく、その逆だというのか」
「飼い主が犯人であれば、犯行時に被害《ひがい》者の飼い犬から病気を移された可能性があります」
「そいつは大変な推測だぞ」
湊の顔色も改まっていた。
スーパーの後方担当課長の通報によって獣医師が当たられ、ワイル病で入院している犬の飼い主が判明した。飼い主は、角正の近くに居住している飯塚章《いいづかあきら》三十三で、都内のある大手市中銀行の青山支店に勤務していた。
飯塚は二週間ほど前に発病して、新宿《しんじゆく》区にあるN医大の付属病院に入院していた。藤岡が同病院に赴《おもむ》くと、ようやく病勢|盛《さか》んな時期を通過して回復期に入っていたが、とても取調べに応じられる状態ではなかった。
病名は学術的な正式名称が黄疸《おうだん》出血性レプトスピラ病で、いわゆるワイル病であった。
この病原体は「レプトスピラ・イクテロヘモラギアエ」と称される。発病したのが×月×日でこの病気の潜伏《せんぷく》期が四〜十日とされるので、感染日は犯行日前後と符合《ふごう》する。
飯塚が退院したのは、さらに二週間後であった。それまでに飯塚の身辺と八文字貞子との関係が洗い出されていた。捜査《そうさ》本部は、飯塚クロの心証を固めて、まず彼の自宅において任意取調べを行なうことにした。
ようやく退院したとはいうものの、痛々しいほどに憔悴《しようすい》し、貧血|症状《しようじよう》に黄疸色を伴《ともな》った顔色が彼の通り抜《ぬ》けた病いが並々《なみなみ》ならないものであったことを示していた。
病後の気力体力の衰《おとろ》えもあってか、飯塚は捜査員の前で抵抗《ていこう》の姿勢を失っていた。彼は素直に犯行を自供した。それによると、
「八文字貞子とは預金の勧誘《かんゆう》に行って知り合い、関係が生じた。最近競馬、競輪に凝《こ》って金に詰《つ》まり、貞子から金を借りた。それでも足りずに銀行の金に手をつけてしまった。損失を取り返そうと焦《あせ》って買った馬券、車券は悉《ことごと》く裏目に出て、金が穴場に吸い取られていった。貞子は怒《おこ》って、金を返さなければ、銀行の金に手をつけたことをバラすと言った。
×月×日午後なんとかもう少し待ってくれと説得に行った。貞子は耳を貸さなかった。
時期も悪かった。ちょうど私が行く少し前に子供のように可愛《かわい》がっていた犬が死んだので、彼女は取り乱していた。以前に私がもっていったドッグフードを食べて死んだので、犬も私が殺したと罵《ののし》った。そして貸した金をいますぐ耳を揃《そろ》えて返さなければ銀行に電話すると脅《おど》した。単なる脅しでないことがわかった。私は彼女の口を塞《ふさ》ぐためには殺す以外に方法がないとおもい、彼女が私に背を向けたときを狙《ねら》って傍《かたわ》らにあった腰ひもで首を絞《し》めた。
殺してから逃げ出す段になって残っていたドッグフードが目についた。私の飼《か》い犬にあたえている品で、よく食べるので貞子に分けたものだった。それを残していくと手がかりになるような気がしたので持ち返ってきた。午後のマンションはみんな昼寝しているように人気《ひとけ》がなく、脱出《だつしゆつ》にはなんの苦労もなかった」
飯塚の自供によって、事件は一挙に解決した。発覚の端緒《たんしよ》が、飼い犬の伝染病であったとはまさに「天網《てんもう》」を感じさせる。飯塚はなんの遺留品も残さなかった代わりに、「レプトスピラ・イクテロヘモラギアエ」という恐ろしい病原体を拾ってきてしまったのである。
八文字貞子殺しの犯人は自供し、アマリリス狙撃《そげき》事件とは無関係と判明した。すると後者の犯人はだれなのか。藤岡は、事件は解決したものの、なんとなく釈然としないおもいが心に残っていた。
飯塚が殺人で起訴《きそ》されたことが報道された日、憔悴《しようすい》した表情のサラリーマン風の中年男が麻布署へやって来た。なにかに怯《おび》えているように落着きがない。居合わせて応対した藤岡に、彼は「押田利勝《おしだとしまさ》」と名乗り、いつ殺されるかわからないので保護して欲しいと訴《うつた》えた。
殺されるとは穏《おだや》かではないので、藤岡は事情を詳しく話すように求めた。押田の話によると、彼は文京《ぶんきよう》区の印刷会社に勤めているが、×月×日管内の路上を車で通行中、いきなり飛び出して来た猫《ねこ》と接触《せつしよく》してしまった。
彼の方に非はなかったが、飼《か》い主が我が子同様に可愛《かわい》がっていた猫だったので、ひどく怨《うら》まれ、それ以後つきまとわれ、猫を返さなければ殺すと脅《おど》かされた。
×月××日の夜十一時アマリリスに話し合いをするために飼い主に呼び出された。
「そのとき窓際の十二番の席に坐《すわ》って待っているようにと指示されたのです。私はそのときなんとなくいやな予感がしたので、その指示を無視して別の席に坐っていました。そして十二番の席の窓ガラスに銃弾《じゆうだん》が射ち込まれたのです。あれは飼い主の仕業にちがいありません。彼女は猫を殺されて狂《くる》っているのです。人間と猫の命の見さかいがつかなくなっているのです。いつまた私に銃を射かけるかわかりません。どうか飼い主を捕《つか》まえてください」
押田の訴えによって、猫の飼い主に事情が聴《き》かれた。飼い主は港区六本木五丁目に住む松沢容子《まつざわようこ》三十六|歳《さい》OLである。松沢容子は取調べに対して次のように供述した。
「押田は私のアローを殺した憎《にく》いやつです。目撃《もくげき》者がいたので渋々《しぶしぶ》認めましたが、だれも見ていた者がいなければ逃《に》げてしまったにちがいありません。アローを轢《ひ》き殺しておきながら、そんなに大切な猫ならなぜ金庫に入れて鍵《かぎ》をかけておかなかったかと開き直ったのです。私は押田を絶対許せないとおもいました。アローが轢《ひ》き殺される前の日に、アローはどこからかピストルを咥《くわ》えてきました。私はそれをアローが仇《かたき》を討ってもらいたくて残していったようにおもえました。そこで私は×月××日の夜アマリリスへ押田を呼び出して、真向かいのビルの屋上から狙《ねら》ったのですが、いざ引き金を引こうとする直前に、アマリリスの店の中の様子がおかしくなりました。後で高速道路の車からいたずらに銃を射かけたと聞きましたが、そのときは車の音にまぎれて銃声も聞こえず、私がピストルで狙っているのを気づかれたかとおもって逃げ出したのです。一度チャンスを逃がすと気合いが抜けたようになって、ピストルは捨ててしまいました。押田が憎《にく》いことには変りがありませんが、あれから間もなく知り合いから子猫をもらいましたので気がだいぶまぎれてきました。もう押田を殺そうなんて気持はありません、本当です。そんなことをして私が捕《つか》まってしまえば二代目アローが野良猫になってしまいます」
松沢容子の申し立てに嘘《うそ》はなさそうであった。猫が咥えてきた拳銃《けんじゆう》というのが気になったが、彼女が捨てたという場所からすでに失われていた。猫がどこから咥えてきたのか、またその拳銃に装弾《そうだん》されていたかどうかも不明である。だが彼女の供述によってそれがオモチャではなさそうなこと、およびアマリリスを狙撃《そげき》した銃とは口径がちがうことがわかった。
結局、アマリリス狙撃事件は最初の見立て通り高速道路上の車からのいたずらということになった。
第二章
影の公僕《こうぼく》
出かけるときはよく晴れていたが、途中から空模様が怪《あや》しくなって、作業中に雨が降ってきた。通り雨とたかをくくって作業をつづけていたが、雨脚《あまあし》は強くなる一方である。雨煙りが視野を白く烟《けむ》らせて、作業服に雨水が容赦《ようしや》なく沁《し》み込む。雨具は用意していない。
「こいつはたまらんな」
作業パートナーの堀越《ほりこし》が悲鳴をあげた。
「しばらく雨宿りしよう」
運転手の宮前《みやまえ》が叫《さけ》んだ。狭《せま》い運転台に三人入り込《こ》むよりはと、堀越と平川《ひらかわ》は作業をしていた集積所の近くの民家の軒下《のきした》へ駆《か》け込《こ》んだ。吹《ふ》き降りで狭い軒下に佇《たたず》んでいる二人に雨水は吹きつけて来る。
「まいったなあ、こりゃあ」
堀越は怨《うら》めしげに空を見上げた。雲の動きが激《はげ》しく、所々、明るい個所が見えるが、雨脚は一向に衰《おとろ》えない。
「これではどうせ作業はできないよ。空が明るいから間もなく雨は上がるだろう」
平川はしきりにボヤく堀越をなだめた。しかし雨は無情に降りつづいた。作業はまだ担当区域の三分の一が残っている。
「ちょっとオジさんたち、いつまで人の家の軒下に突《つ》っ立ってるのさ」
いきなり頭の上から険しい声が降ってきた。顔を向けると、軒下の窓から二十代半ばと見える主婦らしい女が顔を覗《のぞ》かせてにらんでいる。
「急に雨が降ってきたもんだから、ちょっと雨宿りさせてもらっています」
平川が慌《あわ》てて挨拶《あいさつ》すると、主婦は尖《とが》った声で、
「ゴミ屋さんにいつまでも家の前に立たれては目障《めざわ》りだわよ。早くどいてちょうだい」と言った。
気の短い堀越が気色《けしき》ばむのを抑《おさ》えて、
「これはどうも失礼しました」
と低姿勢に詫《わ》びて、平川は堀越の腕《うで》を引っ張りながら雨の中へ出た。
「ちくしょう、ひどいことを言やがる。おれたちを一体なんだとおもってやがるんだ」
堀越が口惜《くや》しがった。
「怺《こら》えるんだよ。都民と喧嘩《けんか》して役所に通報されれば結局、おれたちが悪者になってしまう」
「おれたちどうしてそんなに……いやそんなこと言ったって仕方がないな」
堀越は苦笑いして、忿懣《ふんまん》を抑えた。
「これでもよくなったほうだよ。以前第二デパート=i屎尿《しによう》処理車)で働いていたころは、汲取《くみと》り料をザルに入れてくれたもんだよ。釣銭《つりせん》をそのまま洗えるという意味からね」
平川はまだ経験の浅い堀越を慰《なぐさ》めた。堀越は以前高所作業員、いわゆる鳶職《とびしよく》だったが、メニエール氏病という内耳の自律神経の異常によるめまいをおぼえるようになり、最近この仕事に移ってきた。
仲間内で「デパート」とこの仕事を自称するのは、すべてのゴミを扱《あつか》うところから発している。第一デパートがゴミ処理班である。
平川も十五年ほど前は名前の通っている自動車|販売《はんばい》会社に勤めていたが、実績だけがすべての索漠《さくばく》たる社風にいやけがさして、三十六|歳《さい》のとき脱サラし、場末の私鉄駅付近に小さな喫茶店《きつさてん》を始めた。ここで五年ほど頑張《がんば》ったが、過当競争で遂《つい》に刀折れ矢|尽《つ》きて、十年前にいまの仕事に就いたのである。
平川|幸司《こうじ》はいま主婦に罵《ののし》られたように「ゴミ屋」である。正式な身分は「東京都|清掃《せいそう》局清掃課主事補」である。しかし一々この呼称は使えないので、一般的には作業員と称《よ》ばれている。れっきとした都職員であり、地方公務員であるが、被差別《ひさべつ》意識は強い。
もちろん彼《かれ》らの仕事の社会的重要性は十分認識している。彼らがいなければ、世間はゴミに埋《う》もれてしまう。連休が少しつづいただけで市街にゴミが溢《あふ》れるのをみても、いかに彼らの仕事が社会の清潔と衛生を支えているかわかるというものである。
しかし、仕事の重要性と、仕事自体のもつイメージは別である。清掃作業員には自分の職業を胸を張って言える者は少ない。たとえいたとしても家族は隠《かく》したがる。
役所自体が彼らの仕事イメージの芳《かんば》しからざるを認めており、住所地に勤務させないように配慮《はいりよ》している。近所の人間に仕事を知らせないようにしているのであろうが、イメージが悪くなければ、こんな配慮は不要のはずである。
ある日、平川は勤務中、街で偶然《ぐうぜん》高校生の娘に出遇《であ》ったことがある。だが娘は目を背《そむ》けるようにして逃《に》げて行った。
平川は帰宅してから娘を詰《なじ》った。
「だれでも、きれいで格好よい、社会の尊敬を集めるような仕事に就きたいとおもっているだろう。しかし、みんながそんな仕事ばかりやっていたらどうなる。社会は、むしろ、汚《きた》なくて、目立たない縁《えん》の下の力持ちのような仕事をする人によって支えられているのだ。おまえは、お父さんの仕事を恥《は》ずかしがってはいけない。お父さんの仕事を恥ずかしがるおまえの心こそ恥ずべきだ」
「私、お父さんが恥ずかしかったんじゃないわ」
娘は反駁《はんぱく》した。
「じゃあどうして逃げたんだ」
「私、お父さんが可哀想《かわいそう》で見ていられなかったのよ。汚ない作業服を着て、清掃車の後ろに乗っているお父さんが……私たちのために他人の出したゴミや汚物《おぶつ》を拾い集めているお父さんが可哀想で、目を向けていられなかったの。だから……」
「お父さんは少しも可哀想ではない。お父さんはいまの仕事に誇《ほこ》りと責任をもっている」
「それはよくわかっているわ。でも実際にお父さんが街でゴミを収集している姿を見るのはたまらないのよ」
平川は、それ以上娘と討論するのを止めた。
責任感があるのは確かである。だがこの仕事に本当に誇りをもっているかとなると、かなり疑問である。
初めからこの仕事を志望して選んだ者は少ない。好きでやっている者はいないのである。ほとんどすべての者が他によい仕事がないので仕方なく入って来たのである。
清掃《せいそう》作業員には学歴はいらない。中卒で賃金に差別がない仕事は少ない。若い人間は少なく、三十代後半以上の人が多いのも、初めはなにか別の職業に従事した後、それぞれなんらかの事情があってこの仕事に転職してきたことを物語るものである。
平川は二流ではあるが、ある私大を出ている。だが自分の学歴はかたく秘匿《ひとく》している。他にも高卒や大卒者がいるかもしれないが、みんな中卒ということになっている。この仕事においては、学歴は邪魔《じやま》なのである。
平川は十年前、商売に失敗して、都清掃局職員|募集《ぼしゆう》に応募してこの仕事に就いた。就職当座は、一時の「世を忍《しの》ぶ仮の姿」だと自分と妻に言い聞かせた。一流会社のホワイトカラーであった身が、いかに社会的に必要な仕事とはいえ、ゴミを収集して歩くのは辛《つら》かった。
だが仕事に携《たずさ》わっている間にその辛さを感じなくなった。辛さがなくなったのではなく、麻痺《まひ》したのかもしれない。
イメージのよくない仕事ではあっても、ノルマの達成のために尻《しり》を叩《たた》かれることもなければ、煩《わずら》わしい人間関係もない。清掃《せいそう》車一台につき、運転手一人、作業員二人の三人チームである。作業員が収(取)集、運転手が廃棄《はいき》と仕事の分担が決まっている。勤務は月から土まで午前八時から午後四時四十五分まで、日曜祭日は休み、三人チームの仕事量は一日平均十トン、清掃車は二トン、二トン半、四トン車とあるが、だいたい二トン車で五回出動するケースが多い。
因《ちな》みに都内の一日ゴミ排出量は約一万四千トン、これを十一か所の清掃工場で処理しているが、すでにパンク状態である。
ともあれ、三人でいったん街へ出てしまえば、彼らの天下である。うるさい上役もいなければ、複雑な内規もない。担当地区を二分して、隔日《かくじつ》に週三日ずつ回る。このローテーションの繰《く》り返しである。気楽と言えば気楽である。平川はその気楽さに去勢されたところがあるのを認めないわけにはいかなかった。
彼がこの仕事に就いたとき、世を忍《しの》ぶ仮の姿だとおもった。いまは人生のめぐりあわせでゴミを集めているが、再び機会をつかんで社会の華《はな》やかな位置に返り咲いてやるという野心があった。その野心がいまはない。平川はすでに五十二歳で定年まであと八年しかない。もう行末が見えている。いまさらじたばたしたところで、大した挽回《ばんかい》はできない。
壮年《そうねん》の凝脂《ぎようし》が落ちかけてくると、仕事の気楽さがけっこう居心地よくなってくるのである。だから娘が言うほどに自分をみじめとも可哀想《かわいそう》ともおもわないのであるが、娘が適齢《てきれい》期に達して縁談《えんだん》が生じたとき、父親の職業は決して有利には働かないだろう。
それまでにはなんとかしたいとおもう。とにかく八年後には否《いや》でも応でも別の仕事を探さなければならないのである。
だが最近はこの仕事も競争率が激しくなった。便所の水洗化に伴《ともな》って第二デパート(バキューム・カー)の作業員が失職し、その人たちが第一デパート(ゴミ処理班)に回ってくるからである。平川も初めはバキューム・カー付きであった。これに加えて不況《ふきよう》で企業《きぎよう》からアブレた人たちや、就職できない大卒者などが経歴や学歴を隠してわずかな募集《ぼしゆう》に応募してくるようになったためである。世を忍《しの》ぶ仮の姿も、奪《うば》い合いになったのである。
平川はこの仕事に就いてから、世の中を影《かげ》の部位から眺《なが》められるようになった。人間は憲法によって基本的人権を保障され、法の下の平等を約束《やくそく》されているが、社会は実に不公平な所である。大して努力もせず才能もないのに人生の神に偏愛《へんあい》され、一生日当たりのよい場所に据《す》えられる者がある一方では、才能に人並《な》みに恵《めぐ》まれ、まじめに身を粉にして働き通しても遂に芽の出ない人がいる。それは単なる運不運では説明できない、「不公平」こそこの世を統《す》べる神の摂理《せつり》ではないかと信じたくなるような「法の下の平等」に反する社会の実相であった。その実相を見るとき、「人間万事|塞翁《さいおう》が馬」とか「禍福《かふく》はあざなえる縄《なわ》のごとし」とかいう人生のバランス論が、いかに楽観論であるか実感できるのである。
そして平川は、自分を常に日の当たらない影の部位におかれた人種に属するとおもっていた。しかし影にあっても、日の当たる所は見える。自分自身は日の当たる所へ決して移動していかないが、日光を浴びている人本人よりも、影の中に身をおいたほうが日光の明るさがよく見える。日向《ひなた》にいる人にはよく見えない影の部位も、自分の所属する領域としてよく見えるが、光と影の境界やそのコントラストもはっきりと見て取れる。
客席から舞台《ぶたい》裏は見えないが、舞台裏から幕|越《ご》しに客席をうかがうことができるようなものである。そして平川は客でもなければ、舞台の役者でもないことを自覚していた。強《し》いて言うなら、黒衣《くろこ》であろう。そこに存在しながら存在しないものとして扱《あつか》われる黒衣である。
人々の侮蔑《ぶべつ》の視線にも馴《な》れてきた。平川の仕事は、ゴミを扱う性格から、女性との接触《せつしよく》が多い。ゴミを出すのはおおむね女性であり、ゴミの収集時間には男たちは家にいない。
女性でも年齢《ねんれい》が若いほどおもいやりがない。といっても二十代の女性はどちらかといえば平川らを無視する態度であり、三十代が軽蔑《けいべつ》の視線を向ける。四十代になるとやや角がとれてきて、五十代以上になると、優しくねぎらってくれるようになる。
二十代後半から三十代前半の主婦の中には、平川らを指さしながら、遊んでいる子供に向かって、「勉強をしないと、あのオジさんたちのようになるわよ」と諭《さと》す者もいる。
そういう心得ちがいの女に限って公衆道徳が低く、ゴミの捨て方のルールを守らない。「廃棄《はいき》物の処理及び清掃《せいそう》に関する法律」によってゴミの捨て方が――自ら処分しない一般廃棄物については、可燃物と不燃物の各別の容器に収納し、粗大《そだい》ゴミを所定の場所に集める等市町村が行なう一般廃棄物の収集、運搬《うんぱん》及び処分に協力しなければならない――と規定され、役所の広報誌で知らされているにもかかわらず、可燃物、不燃物を一緒《いつしよ》くたにして出す。生ゴミの中にガラスの破片があったり、針金が混ざっていたりする。ゴム手袋《てぶくろ》をしていても、怪我《けが》をすることがある。
また、収集日に関係なく出すために、野良猫《のらねこ》や烏《からす》が突《つ》っつき散らかす。袋の口をしめなかったり、もっとひどいのはバラのまま出す。雨でも降ると水分を吸って手に負えなくなってしまう。自分の家さえきれいになっていれば街がどんなに汚《よご》れても一向にかまわないという公衆道徳の完全|欠如《けつじよ》がゴミによく現われている。
それは杉並清掃《すぎなみせいそう》工場をめぐる「杉並ゴミ戦争」や、放射性|廃棄《はいき》物の南太平洋投棄問題に見られるように、捨てる主体が大きくなっても、ゴミをめぐるエゴイズムの構造は同じである。
あまり悪質なので、ゴミの中身を調べて、捨て主を突き止めて注意したところ、プライバシーの侵害《しんがい》だと逆に噛《か》みつかれたことがあった。
たしかにゴミにはプライバシーがあり、他人に見られたくないものがある。ゴミはだれにも覗《のぞ》かれないという安心感があるから、安んじて捨てられるのだ。それを都の職員が覗き込《こ》むとは何事かと逆ネジを食わされ、平川は上司から注意された。結局、平川のほうが悪者にされてしまった。清掃作業員の職業|倫理《りんり》上好ましくないということなのである。
このとき驚《おどろ》いた発見は、そのゴミの主の家がチリ一つ落ちていないようにピカピカに磨《みが》き上げられていたことである。まことにゴミには人間の独善性がよく象徴《しようちよう》されている。
またゴミにはそれを捨てた人間の性格がよく現われる。丈夫な袋《ふくろ》に入れて作業員が持ち運びしやすいようにまとめて出してあるゴミを見ると、それを出した人の人柄《ひとがら》が偲《しの》ばれるようである。
作業員にとって有難い(取|扱《あつか》いやすい)ゴミは、分別のルールを守り、水分をよく切り、丈夫《じようぶ》な袋で小分けにして収集直前に出してくれるゴミである。
悪いゴミはこれの逆となる。
収集されたゴミは、清掃車によってゴミ処理場へ運ばれ、集積場《シユート》の中へ投げ込まれる。そこからパワーショベルで焼却場《しようきやくじよう》へ、さらにベルトコンベアに乗って炉《ろ》へ運ばれる。したがって収集時に人間の手によって選別されなかったゴミは、選別されないまま最終処理段階まで行ってしまう。ゴミ自動選別機械はまだ正式に採用されていない。
水を切ってない生ゴミや、清掃車のゴミ投入口に引っかかるような大きなゴミを出されると腹立たしくなる。
だが、作業員に腹を立てることは許されない。ただ黙々《もくもく》とゴミを運び街を美しく保つのが仕事なのである。
平川はいつのころからか休日に東京タワーに上ることをおぼえた。タワー最上階の展望室から東京の市街を見下すと、日頃《ひごろ》の仕事の鬱屈《うつくつ》が癒《いや》されるような気がした。都会は、人間から発する野望や物欲や、また美醜《びしゆう》、貧富、諸学問、政治、文化、序列、愛憎《あいぞう》、成功、失敗、犯罪等すべてをのみ込む巨大《きよだい》な容器である。そしてそれらすべてを総合した美しさに輝《かがや》いている。昼と夜、天候、季節のちがいによる美しさの相違《そうい》はあっても、それが人工の総合美であることに変りはない。
だがこの巨大な総合美の底には必ず排泄物《はいせつぶつ》がある。マンモス都会に相応する膨大《ぼうだい》な排泄物を収集し、視野におさまりきらないような東京の総合美を支え、維持《いじ》しているのは、自分たちなのだという自負が静かに体の芯《しん》から盛《も》り上がってくるのである。最も美しいものと表裏一体にあるゴミを処理する自分たちが実はその美の立役者≠ネのだという自負である。その自負があればこそ再び地上に下り立ち他人の出したゴミに自分をまみれさせることができるのだ。
芥溜《ごみため》の女神
作業員にはいやなことや屈辱《くつじよく》ばかりではなかった。稀《まれ》にはいいこともある。中元やクリスマスの季節になると、顔なじみになった心優しい主婦や娘が、ささやかな贈《おく》り物をプレゼントしてくれることがある。
菓子や飲物、煙草《たばこ》などみんなで分け合えるものが多いが、品物よりは、その心遣《こころづか》いが嬉《うれ》しい。社会の影《かげ》の部位で目立たぬように黙々《もくもく》と働いていても見ている人は見ていてくれるのだとおもうと、嬉しさが込《こ》み上げてくる。そんなとき、都民との間に心の紐帯《ちゆうたい》ができたような気がする。あえかな紐帯であるが、それは確かにある。ゴミを収集して走り去りながら無言の感謝の視線を感じるのもそんなときである。
担当地区をABに二分して、各地区を週三回、隔日《かくじつ》に回っていると、顔なじみもできてくる。ゴミを収集するや次の集積所へ回らなければならないので、立ち話をする時間もないが、顔が合えば、笑顔と会釈《えしやく》を交わす。「ご苦労様」と手を振《ふ》ってくれる主婦もいる。そんなときは心が弾《はず》み、仕事に精が出る。
平川は、ある火曜日の朝、B地区で一人の若い女性と知り合った。A地区が月水金、B地区が火木土となっている。ゴミを収集して車が動きだしかけたとき、「すみません、待ってえ」という声が後方にあった。外出姿をしたOL風の若い女性がゴミ袋《ぶくろ》を下げて走って来た。
車はもうスピードを出している。そのまま行ってしまってもよかったのだが、平川は運転手の宮前に合図をして車を停《と》めさせた。彼女を置き去り≠ノすればおそらくゴミを集積所に放置していくだろう。
「すみません、土曜日に出しそこなってしまったので、今日出せないと家がゴミで埋《う》まってしまうところだったんです」
彼女は鼻の頭に汗《あせ》をかいて言った。二十|歳《さい》前後か、丸顔色白の目元の可愛《かわい》らしい女性であった。淡《あわ》いブルーの花|柄《がら》模様のワンピースがよく似合う。この付近には見かけない顔であるが、最近移転して来たのであろうか。
平川は彼女の手から受け取ったゴミ袋に感激《かんげき》した。その日は生ゴミの収集日であったが、よく水を切り、丈夫《じようぶ》な二つの袋に分けて、持ちやすいようにしっかりと口が結《ゆわ》えてある。しかもひも代わりにトリコロールのだんだら模様のリボンで縛《しば》ってある。ゴミというよりなにかプレゼントをもらったような気がした。
「これはまた可愛らしいゴミだねえ」
堀越も笑った。
「有難う。助かりましたわ」
彼女は嬉《うれ》しそうに頭を下げて、これから出勤するらしく駅の方角へ足を向けた。その日はそれだけのふれ合いであったが、それ以後時折、彼女と出会った。彼女が住んでいる地区の集積所を出動第一番目に収集するので、ちょうど出勤時間とかち合うらしい。それが平川の収集に合わせて待っていてくれるような気がした。
土曜日は休みらしく姿が見えず、リボン付きのゴミ袋だけが出されていることが多い。休日なので寝坊《ねぼう》したのか、特徴《とくちよう》のあるゴミ袋が見えないこともある。そんな日は気がかりで、一日中、心が沈《しず》みがちになった。
「へいちゃん、リボンのゴミがないと盛り下がっちゃうんだなあ」と堀越にひやかされるほどである。
B地区にはA地区に比べてアパートが多い。総じて民間アパートの住人のほうが一戸建てよりだらしがない。独身者や、転々とする人たちが多いために、「旅の恥《はじ》」意識で公衆道徳を守らない。ゴミなどはまさにたれ流しの観がある。
そのような環境《かんきよう》の中で、リボンのゴミは目立った。袋《ふくろ》の感触《かんしよく》から二重にしていることがわかった。おそらく中のゴミもきちんと仕分けされているにちがいない。平川は中を覗《のぞ》いてみたい衝動《しようどう》に駆られた。
ゴミには人間の生活の残渣《ざんさ》が詰《つ》まっている。それは「プライバシーのパック」といってもよく、ゴミを見れば、その人間の生活水準や様式や性格までがわかる。
平川はゴミを通して彼女《かのじよ》の生活を覗いて見たかった。集積所の近くに住んでいることはわかっても、正確な住所や名前も知らない。
そのうちに中元の季節となった。この仕事は、夏期のほうが辛《つら》い。生ゴミが腐《くさ》りやすく、悪臭《あくしゆう》を発するからである。だれでも腐りやすいゴミを身辺に留《とど》めておきたくないから、収集日前に出す。露天《ろてん》でゴミの腐敗《ふはい》はさらにうながされる。自分たちがルールを守らないことを棚《たな》に上げて、街が汚《よご》れているのはいかにも作業員がサボッているからだというようなことを言う。税金|泥棒《どろぼう》≠ニ罵《ののし》る。
都民はゴミを自らが出しておりながら清掃《せいそう》車が通りかかると、顔をしかめ、逃《に》げ出す。
暑熱に焼かれる東京の街を汗《あせ》と汚物《おぶつ》にまみれながら一日走り回っていると、悪臭が身体《からだ》に沁《し》みついて、一度|風呂《ふろ》へ入ったくらいでは抜《ぬ》けなくなる。
七月の下旬《げじゆん》にかかった朝、B地区の第一集積所に近づくと、彼女が待っていた。
「オジ様、いつもご苦労様です。これはささやかなものですけど、私の感謝の印です」
と恥《は》ずかしそうに言いながらリボンをかけた包みを三個差し出した。
「仕事でやっているのにこんなことをしてもらっていいのかなあ」
三人は恐縮《きようしゆく》した。
「それでは会社がありますので」
彼女はプレゼントを渡《わた》すと、未練げに見送る三人の前から立ち去って行った。包みの中には靴下《くつした》のセットが入っていた。プレゼントはあるにはあるが、菓子や飲み物などが多い。身に着ける品物は珍《めずら》しい。それだけに謝意を形あるものにこめようとした彼女の誠意が感じられて嬉《うれ》しかった。
トリコロールリボンのゴミは定期的に出された。時折り欠けるときは土曜日が多かった。
「彼女どんな仕事をしているんだろうな」
「会社に勤めていると言っていたが」
「タイピストか秘書といった感じじゃないかな」
「声がきれいだから電話|交換《こうかん》手じゃないか」
「電話交換手が必ずしも声がきれいだとは限らないだろう」
「それより彼女、独身だろうか」
「糠味噌《ぬかみそ》のにおいがしないからまず独身だろう。人の女房《にようぼう》がゴミ袋《ぶくろ》の口をリボンで縛《しば》るなんて真似《まね》はしないよ」
「まあ結婚《けつこん》はしていないにしても、男はいるかもしれないな」
「清純な感じだがね、おれはまだ男を知らないとおもうな」
「さあどうかな。最近の女はわからないからね」
「最近だけでなく、女はいつもわからないよ」
「変な男に引っかけさせたくないなあ」
「同感だ」
三人はよく彼女の噂《うわさ》をし合った。
リボンのゴミ袋を媒体《ばいたい》にしてあえかな友情≠ヘつづいた。彼女《かのじよ》と初めて遭遇《そうぐう》してからそろそろ一年目に近づいたある朝、彼女と集積所で出会った。どうやら彼《かれ》らが来るのを待っていた様子である。
「おじ様、おせわになりましたけど、今度引っ越《こ》すことになりました。これが最後のゴミになります。本当に有難うございました」
彼女は丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「え、引っ越しちゃうのか、残念だなあ」
「またいつかお目にかかれることもあるかとおもいます」
「結婚《けつこん》でもするのかい」
「ええまあ」
彼女ははにかんだように笑った。
「身体《からだ》に気をつけて、元気でな」
「おじ様たちもね」
彼女は最後のゴミ≠託《たく》すと去って行った。三人は気落ちしたように黙《だま》り込んだ。彼女の後ろ姿が角に消えたとき、
「しまった!」と平川は叫《さけ》んだ。
「どうしたんだい」堀越と宮前が視線を向けた。
「せめてどこへ引っ越すのか聞いておけばよかった」
「ああそうだったな。都内だったらまた会えたかもしれないのに」
堀越が残念そうな顔をした。
「名前を聞いておかなかったぞ」
宮前が口を出した。
「いまから追いかけて聞くか」
堀越が未練げに言うのへ、
「まさか。収集ルートからはずれてしまうよ。それにわざわざ追いかけて行って名前や住所を聞いたら変におもわれる」
堀越をなだめながらも、平川自身未練を押《おさ》えられない。彼らの女神≠ヘ立ち去ってしまった。かぐや姫《ひめ》は束《つか》の間《ま》の地上での生活の後、天上へ帰ってしまったのである。
希望の女神を失って再び彼らにゴミ屋の生活が戻《もど》ってきた。希望が失われれば、辛《つら》いだけで、いいことはなにもない。ルールを守らない住民の程度の悪さだけが目立った。
同じ時期に古新聞や古雑誌の値段が下がり、チリ紙|交換《こうかん》屋が転廃業《てんはいぎよう》してしまったために、それらをゴミとして出す家庭が多くなった。古新聞、古雑誌、段ボール、ボロなどは資源ゴミとして別に分けなければならないのであるが、おおかたの人はこれを可燃ゴミと勘《かん》ちがいして一緒に出す。
出されればその場で分別できないので、止むを得ず収集する。そのためにゴミの量が増えてしまう。また古新聞、古雑誌類を出す人にかぎって可燃ゴミの収集日すら守らないので、前日に雨でも降ると、それこそ収拾≠フつかない状態になってしまう。
名も知らぬ女神が去ってから一年ほど後、平川は異動になった。異動といっても、他の仕事に移されたのではなく、担当地区が変っただけである。
今度の地区は山手《やまのて》の高級住宅街をかかえており、住民のマナーもよさそうであった。高級マンションは、同所内の集積所にいったん集め、管理人が収集日に一括《いつかつ》して出すので、民間アパートのようなでたらめはない。
だが住人はお高くとまっていて、清掃《せいそう》作業員など、まさにゴミのようにしか見ない。下町にあった住民との触《ふ》れ合いなどはまったくなくなった。
「だいたいゴミ屋が住民と触れ合うなんて意識がおかしいんじゃないのか。ゴミ屋はゴミだけ集めていればいいんであって、住民と触れ合う必要なんかないのさ」
今度の相棒の木下《きのした》が自嘲《じちよう》的に言った。
木下は以前旅館を経営していたのだが、近くにラブホテルができてからすっかり寂《さび》れてしまい、旅館を人手に渡してこの道に入ったという変り種である。だが別筋の噂《うわさ》によると博奕《ばくち》に凝《こ》って、負けがこみ、ヤクザに旅館を巻き上げられてしまったということである。どことなく自棄《じき》的な影《かげ》のある男であるが、影があるのは彼《かれ》一人ではなく、作業員はいずれもどこかに過去の影を引きずっている。最初から志望して作業員になった者は少なく、みな人生の「めぐりあわせ」でなった者ばかりである。
彼らは過去の話をあまりしたがらないし、稀《まれ》に昔を誇《ほこ》る者がいると、みなから軽蔑《けいべつ》されるだけである。都会の営みの排泄《はいせつ》物を集めて生きている自分に負い目をもっているのだ。
子供が学校へ行っている作業員は、親の職業|欄《らん》に「清掃作業員」とは書かない。「地方公務員」か「都職員」、精々具体的に書いて「運転士」である。作業員より運転士のほうがイメージがよいというわけである。
本人としては自分の職業に誇りをもち、重要な仕事だとおもいたがっている。だが家族はそのイメージの悪さを嫌《きら》う。理屈《りくつ》では仕事の重要性がわかっているのであるが、職業を明らかにしたがらない。特に若い娘の父親の職業に対する拒否《きよひ》反応は徹底《てつてい》していた。理屈ではなく皮膚《ひふ》感覚的に嫌悪《けんお》するのである。
本人の職業に対する認識も、おおむね家族によって突き崩《くず》される。いかにこの仕事の重要性を力説する者でも、それを我が子に継《つ》がせようとおもっている者はいなかった。
自分はめぐりあわせでこの仕事に携《たずさわ》ってしまったが、子供には他人のゴミを集めさせたくないというのが本音である。ゴミを集めるのに、特殊技能はいらない。単調な筋肉労働(作業員の間では肉体労働とは言わない)が可能な筋肉の力と、侮蔑《ぶべつ》の言葉や視線に耐《た》えられる精神があればよい。
精神があってもなくても、この仕事は胸にうっくつを蓄《たくわ》える。やり場のないうっくつであり、家族にも理解してもらえない。むしろ家族が最も理解していない場合が多い。妻や娘が虚栄《きよえい》心が強いと、夫や父の仕事を軽蔑し、彼を夫や父にもったことを恥辱《ちじよく》とするようになる。
家族からすらも疎外《そがい》されるうっくつはどこにも捌《は》け口がない。それが作業員の胸底に一種の埋《うず》み火《び》となって沈澱《ちんでん》している。埋み火の重しとなっているものは諦観《ていかん》である。どんなにあがいたところでめぐりあわせは変えられないという諦観に押《おさ》えられて、彼らの埋み火は一生|爆発《ばくはつ》することなく枯《か》れていくのが、おおかたのケースである。
平川は新たな担当地区へ異動して来て、自分が作業員から作業機械になったような気がした。この仕事に就いてから十年になるが、これまでずっと下町が担当であった。下町はマナーは悪かったが、住民との触《ふ》れ合いがたしかにあった。
だが山手の高級住宅街を担当するようになると、そんなものは気配もなくなった。ゴミのルールはよく守る。ゴミを漁《あさ》る野良猫《のらねこ》もあまりいない。飼《か》い猫たちは美味なキャットフードをたっぷりあたえられて、ゴミなどには見向きもしない。
だがきちんと分別されて、収集日に出されるゴミには人間の体臭《たいしゆう》がないのである。それらは家庭の生のゴミではなく、無機質の産業|廃棄《はいき》物のようであった。産業廃棄物の処理となれば、別の構えがあり、感触《かんしよく》があるであろう。
家庭のゴミであろうと、産業廃棄物であろうと、大きな意味でのゴミには変りないとおもうのであるが、やはり人間に直結≠オたゴミを収集して人間の営みを支えているという自負心が必要であった。
コンピューターに操られたオートメイション工場から排泄《はいせつ》された産業廃棄物の処理であるなら、それこそ機械に任せておけばよかろう。
人間と直結したゴミであればこそ、その処理に人間の手を煩《わずら》わすのである。
だがこの街のゴミはどうだ、人間の体臭がまったくない。猫も見向きもしないようなゴミが、「廃棄物の処理及び清掃《せいそう》に関する法律」に忠実に則《のつと》って処理≠ウれている。なんの違反《いはん》もないし、トラブルも生じない。ゴミを出す住民の姿すらめったに見かけない。一括《いつかつ》してゴミを集積所に運んでいるマンションの管理人を稀《まれ》に見かけるくらいである。管理人は住民ではない。職業としてゴミを運んでいるだけで、一種の同業者である。
住民の程度が悪くても、マナーを守らなくても、これまでに担当した地区の方には確実に人間の体臭があった。
生ゴミの中にガラスの破片があっても、古新聞がスポンジのように水を吸っていても、猫が食い散らかしていても、あれこそまぎれもなく「人間のゴミ」であった。いま相手にしているものは産業廃棄物かロボットの出したゴミのようである。
最後の残渣《ざんさ》
ロボットの街を自らもロボットと化して、ロボットのゴミを集めている。イメージはそのほうがたしかにきれいである。きれいというより、無機質の金属的な冷たさがある。筋肉労働から鉄筋≠フ労働に変ったのだ。そのほうがうっくつも屈辱《くつじよく》もなくなるかもしれない。
平川は自分を納得させて新担当地区を収集していた。異動一か月ほど後、ある集積所で、平川は我が目を疑った。一つの袋の口をトリコロールのリボンが結んでいる。瞼《まぶた》に焼きついているリボンである。こんな特徴のあるひも≠ナゴミ袋《ぶくろ》を縛《しば》る者は他にあるまい。あの天上に還《かえ》ったかぐや姫《ひめ》がこの地域に住んでいるにちがいない。
「どうしたんだい、びっくりしたような顔をして」
平川の異常な気配に木下が不審《ふしん》をもったようである。
「このゴミ袋だがね、だれが出したか知っているかい」
「だれが出したかって? あんた何年ゴミ屋やってるんだ。そんなこと知るわけねえだろう」
木下はあきれたような顔をした。
「以前にこんなリボンで結んだゴミはあったかい」
異動して一か月ほどであるが、今日初めてそのゴミ袋に見《まみ》えたのである。あるいはゴミの主は平川の異動後今日まで長期の旅行でもしていたのかもしれない。そうだとすれば木下が異動前に見ている可能性がある。
「さあ、憶《おぼ》えてねえな。いやにその袋にこだわるね、それがどうかしたのかい」
「リボンでゴミ袋を縛るなんて珍《めずら》しいとおもってね」
「ちょうどひもがなかったんだろう」
木下はこともなげに言った。彼に女神との束《つか》の間の友情を話したところでわかってもらえないだろう。
だが次の収集日から、その集積所にトリコロールのリボンで結んだゴミ袋が出されていた。平川は確信した。
――まちがいない。彼女はこの町内に住んでいるのだ――
平川は、この稀少《きしよう》な偶然《ぐうぜん》に当たったことに因縁《いんねん》のようなものを覚えた。やはり彼女とは奇《く》しき縁《えにし》で結ばれていたのである。そうでなければこの人間の海の大都会で再会するなどということはあり得ない。今度会ったときは、必ず住所氏名を聞いてやろう。
現金なもので、ロボットの街がとたんに人間の街に還元《かんげん》し、産業|廃棄《はいき》物が人間のゴミになった。
だが、リボンのゴミの主はいっこうに姿を見せなかった。とにかく集積所の近くに住んでいることは確かである。マンションが多いから管理人が一括《いつかつ》して出しているのかもしれない。管理人がゴミを出すところを見かければ、マンションを突き止められるのだが、生憎《あいにく》管理人にも出会《であ》わない。
以前とちがってその集積所は収集時間が午前の遅《おそ》い時間であったので、車が回って行くころは、すでにゴミが出されていた。
付近のマンションを一つ一つ訪ね歩けば探し当てられるであろうが、それをするのはなにか邪心《じやしん》があるようで憚《はばか》られる。それに探すといっても名前も知らないのにどうやって探すのか?この町内に住んでいるのは確実なのであるから、いずれは顔を合わすときがくるだろう。それまで気長に待とうと、自分を納得させた。
だが一向に彼女と顔を合わす機会はこなかった。
考えてみれば平川がその町内を通過するのは、一日のほんの束《つか》の間である。生活時間帯が異なればいつまで待っても出会う可能性はない。加えて、その町内の収集時間は午前の中途半端《ちゆうとはんぱ》な時間である。家庭の主婦は夫と子供を送り出して、家でホッとしているときであろうし、OLならば会社に行っている時間である。
平川は次第に不安になってきた。彼女《かのじよ》は結婚《けつこん》するようなことを言っていた。旦那《だんな》が転勤の多い職業なら、再びどこかへ引っ越《こ》して行ってしまうかもしれない。この宝くじのような千載一遇《せんざいいちぐう》の出会いを無にしたら、もはや三度目の出会いは絶対にない。この奇《く》しき縁《えん》を無にしてはならない。せめて彼女の名前だけでも知っておきたい。
しかし、彼女に出会わないことにはどうにもならない。どうすればよいのか? 不安が焦《あせ》りに変ってきた。こうしている間にも、彼女は夫に従《つ》いて移転してしまうかもしれないのである。
彼女の地区の次の収集日がきた。その日木下が突然熱を発して欠《やす》んだ。急なことで、補充《ほじゆう》がつかない。平川は一人で収集作業に当たることになった。彼《かれ》はこれを神があたえたもうたチャンスだとおもった。
彼女の居所を突《つ》き止める唯一《ゆいいつ》の手がかりがある。それは彼女自身が出したゴミである。ゴミの中には古手紙や領収書やメモ類など身許《みもと》を示す数々の資料が入っているものである。「プライバシーのパック」と呼ばれる所以《ゆえん》であるが、相棒の目が光っていては、作業員自らがゴミを横領≠キることはできない。
だが今日は木下が急病で欠んだ。運転手は運転席にいて、彼の死角に入ることは易しい。問題は彼女のゴミだけいかにして横領≠キるかという点であるが、車の後部、ゴミ投入口の下に作業員が乗るステップがあり、その上にゴミ袋《ぶくろ》一つぐらいは乗せられる。
収集後ゴミ処理場に向かう途中、草原がある。そこへ投げ下しておいて、後で回収に行けばよい。ゴミ袋など、だれも盗《ぬす》む者はあるまい。
木下の欠勤を知ると、平川は咄嗟《とつさ》に決心した。残る不安は果たしてその日「リボンのゴミ」が出ているかどうかということであった。
収集に赴《おもむ》くと、常よりも一回り大きな袋が出されていた。リボンのトリコロールはいつもより鮮《あざ》やかに平川の目に焼きついた。
すべてうまくいった。運転手に怪《あや》しまれず、草原に落とし、だれにも不審《ふしん》をもたれることなくその回収に成功した。あとは家族の目に触《ふ》れないように中身を点検すればよい。
平川は彼女のプライバシーのパックを遂《つい》に手中にして胸の高鳴りを覚えた。この中に、あの幻影《げんえい》のようなかぐや姫《ひめ》の実体が詰《つ》まっている。一体彼女は何者であり、どんな生活を送っているのか。果たして生ま身の人間なのか。いまこそその正体を突き止めてやる。
平川はその夜、夕食もそこそこに自分の部屋に閉じこもった。
袋は二重になっていた。捨て主の人柄《ひとがら》を示して、中身はしっかりと梱包《こんぽう》≠ウれてある。驚《おどろ》いたことに生ゴミ類や雑ゴミはさらに二つのビニール袋《ぶくろ》に入れてあり、外表の袋と合わせて三重になっている。紙くずや包装《ほうそう》紙や各種チラシの中に、ガス、水道、電気使用量の通知書が入っていた。
名前はカタカナで、オダギリサヨコ、三枚とも宛名《あてな》が一致した。これが彼女《かのじよ》の名前にちがいない。小田切小夜子とでも書くのか。結婚《けつこん》するようなことを言っていたが、戸主を彼女の名義にしているのであろうか。最近は妻を戸主に据《す》えることも珍《めずら》しくない。あるいはなにかの事情があって亭主《ていしゆ》の名を伏《ふ》せているのかもしれない。
通知書からは住所はわからなかった。なおもゴミを検《あらた》めていくと、ガス料金|振替《ふりかえ》済領収証が出てきた。それにより、住所はN区元町三丁目二十六番地の十六元町レジデンス408号室と確認された。
遂《つい》に女神の名前と居所を突き止めたのである。平川に静かな喜びがゆったりと盛《も》り上がってきた。突き止めてどうこうするという野心はない。ゴミを媒体《ばいたい》としてわずかに触《ふ》れ合っただけのはかない人間関係にすぎない。
彼女に対してなんの権利ももたない、おそらく彼女の心になんの影《かげ》も落としていないはずの、ただその生活の残渣《ざんさ》を託《たく》されただけの初老のゴミ屋である。
だが、彼女はこの初老の男が心の祭壇《さいだん》に祀《まつ》った女神であった。いまこそ祭祀《さいし》さるべき神の身許を知ったのである。これが嬉《うれ》しくなくてなんであるか。
平川はさらにゴミを探ってみた。彼女についてもう少し深く知りたかった。次に知りたいのは彼女を所有している男、すなわち夫についてである。一体、彼女の夫は何をしているのか。女神を所有するだけの価値のある男か、それを確かめなければならなかった。数本の煙草《たばこ》(マイルドセブン)の吸がらがあった。それが男の吸ったものかどうか見分けられない。
吸がらに口紅が付着していないが、自宅で化粧《けしよう》を落とした後|喫《す》えば口紅が付かなくとも不思議はない。
それ以外に男の存在や素姓《すじよう》を示すような資料はなかった。男のにおいのするものは、小田切小夜子の生活|残渣《ざんさ》の中に発見されなかった。あるいは夫だけ任地へ単身|赴任《ふにん》しているのかもしれない。さらにあるいはすでに別れてしまった可能性もある。
平川は小夜子が別れを告げたときの光景をおもいだした。結婚《けつこん》でもするのかと問うと、彼女ははにかんだように笑いながら「ええまあ」と答えた。
そうだ! 小夜子は結婚すると答えたわけではなかった。曖昧《あいまい》な返事をこちらが勝手に結婚と解釈しただけである。彼女がまだ独身に留まっていたとしてもなんの不思議もない。独身ならば、男のにおいがしないのは、当然である。女神はまだ純潔であった。
静かな喜悦《きえつ》が、大声で叫《さけ》びたいような激しく衝《つ》き上げる喜びに替《かわ》った。彼女が独身であっても、平川にはなんの関係もない。ショーウインドウの中の美しい人形でも見ているように、彼にとってなんの具体性もない美しい存在でしかない。
それでいて嬉しいのだ。目の前に新しい視野が開いたような嬉しさである。
袋《ふくろ》の底の方にまた別の包みが入っていた。これは油紙で厳重に包んだうえにひもがかけてある。ずしりと手にかかる重量があり、金属的な固い感触《かんしよく》がある。なにやら曰《いわく》ありげな包装《ほうそう》であり、中身であった。
平川は新たな好奇《こうき》心をかき立てられて、包装を解いた。中から現われてきた物体を確かめて彼は仰天《ぎようてん》した。
それは一挺の拳銃《けんじゆう》であった。彼は拳銃を見たのは初めてであるが、その感触、重量、形、鈍《にぶ》い光沢《こうたく》等、すべて本物のもつ貫禄《かんろく》があった。
なぜこんな物騒《ぶつそう》な物体が、小田切小夜子のゴミの中にまぎれ込んでいたのか、一切わからない。ただわかることは彼女《かのじよ》がそれをゴミとして捨てようとした事実である。
ゴミの中の資料から捨て主として自分が手繰《たぐ》り出される危険も考えていなかったようである。
捨てるにしてもなぜ月二回の不燃ゴミの収集日まで待たなかったのか。不燃ゴミとして出してしまえば発見率は少なくなる。
それともそれまで待てない事情があったのか。ともあれとてつもないものが手中に転がり込んできた。小田切小夜子がそれを捨てたということは、所有権≠放棄《ほうき》したことを示す。
しかし、平川は清掃《せいそう》作業員であり、職務を濫用《らんよう》して他人の「プライバシーのパック」を不法に領得したものであり、領得した客体が、一般が所持を禁止されている凶器《きようき》である。
ゴミを収集し、焼却《しようきやく》処分することを職務とし、それによって給料を得ている者が、たとえ捨てられた物とはいえ、清掃作業以外の目的にゴミを利用することは遺失物法|違反《いはん》に問われる。
また古タンス、ベッド、冷蔵庫などの粗大《そだい》ゴミは、再利用可能と判断した場合、再生品用集積所にストックしておき、一定量集まったところで一般《いつぱん》に安く売り、収益を各社会|施設《しせつ》に寄付する。都民は廃品《はいひん》再利用の利益を作業員が着服してしまうのではないかとおもいがちだが、都の場合、そのようなことは絶対にない。作業報告書に収集量を書き込むことが義務づけられている。
よくあるケースは清掃車が来る前に、古紙再生業者(チリ紙交換屋)が資源ゴミとして出された古新聞やダンボールだけを持ち去る場合である。また冷蔵庫や大型家具などは一般の人が持ち返って再利用することも多い。
平川が領得したものは上司またはその筋に直ちに届け出るべき筋合のものである。だが下手《へた》に届け出れば、当然小夜子に凶器の所持および取捨の事情が訊《き》かれる。彼女に迷惑《めいわく》をかけたくなかった。また自分にもなぜ特定のゴミを選別して開いたか訊かれる。自分が黙《だま》って秘匿《ひとく》しているかぎり、だれにもわからないことである。
平川は、拳銃《けんじゆう》を自分が保留≠オておくことにした。
翌日、出勤前朝食を摂《と》りながらテレビの朝のニュースをなにげなく聞いていた平川は、アナウンサーの平板な口調から小田切小夜子の名前が読み上げられたので、おもわず箸《はし》を取り落としかけた。愕然《がくぜん》としてテレビ画面に凝《こ》らした視線の前で、アナウンサーは淡々《たんたん》と原稿を読みつづけていく。
――昨夜七時ごろ、N区元町三丁目二十六番地十六元町レジデンス407号室の主婦|金子晴代《かねこはるよ》さんは隣室《りんしつ》の408号室小田切小夜子さんの部屋からガスの臭《にお》いが漏《も》れて来るのに気づいて、管理人にドアを開いてもらい、部屋の中を調べたところ、小田切さんがダイニングキチンの床《ゆか》に倒《たお》れているのを発見しました。直ちに救急車で病院へ運びましたが、すでに大量のガスを吸っており、小田切さんは死亡しました。警察の調べでは小田切さんは最近ノイローゼ気味で、発作《ほつさ》的にガス自殺を図ったものとみられています――
アナウンサーは一個の人間の死をなんの感情も混えずに告げると、機械のように正確な進行速度で次の項目《こうもく》へ移っていった。
小田切小夜子が自殺した――平川は茫然《ぼうぜん》とした。昨夜七時ごろ死体が発見されたというから、昨日の朝ゴミを出してから死んだのであろう。すると平川が横領≠オたゴミは彼女の生活の最後の残渣《ざんさ》ということになる。
死を前にして、身辺をきれいに整理したかったのであろうか。だからこそ彼女が出したゴミ袋は常よりも一回り大きかった。
彼女は最後のゴミを出してからガス管を咥《くわ》えたのだ。
テレビは、ノイローゼ気味で発作的に自殺を図ったと報じていたが、発作的にしては、ゴミを出す余裕《よゆう》があったのか。あるいはゴミを出してから、発作が起きたのか。いずれにしても、平川の女神が死んでしまったことは確かである。
「あなた、 ぼんやりしてどうしたの? 遅《おく》れるわよ」
妻にうながされて平川は我に返った。
その日一日、平川は仕事にならなかった。退所時間を待ちかねるようにして、帰途《きと》につき、駅で数紙の夕刊を買った。どの紙も小田切小夜子の死を社会面の片隅《かたすみ》で小さく報じていた。中にはまったく扱《あつか》っていない紙もあった。無名の女の平凡《へいぼん》な死にはなんのニュースバリューもないのであろう。
新聞は、ほとんど朝のテレビニュースをなぞったものであったが、彼女が二十一|歳《さい》で新宿のデパート「赤看板」に勤めていたことと、彼女の写真が付け加えられていた。
写真の小夜子は、髪形《かみがた》が少し変り、以前よりややふっくらしているようであったが、平川の記憶《きおく》とおおむね合致《がつち》した。警察も自殺には関心がないらしく、とおり一遍《いつぺん》の調べをしただけで処理してしまったようである。
小田切小夜子の死は、大都会の人間の海に消えた一粒の泡沫《ほうまつ》として、その生活の痕跡《こんせき》を完全に抹消《まつしよう》されたのである。
だが平川は納得できなかった。小夜子が自殺したとしても、なにか理由があったはずである。ノイローゼが原因であるなら、ノイローゼになった原因は何なのか。ノイローゼでなければ、果たしてどんな理由があったのか。平川はそれを知りたいとおもった。
小夜子が住んでいたマンションは、レンタルであったが、その立地点からいっても安手のものではない。瀟洒《しようしや》な外観を見てもかなり高級であることがわかる。彼女が勤めていたデパートは一流であったが、二十一歳のOLが高級マンションに居住できるほどの高給を支払《しはら》っていたとは考えられない。
平川は彼女の背後に男の存在を感じた。男がいれば、彼女の自殺に重大な関係があるはずである。おそらく男が自殺の原因になっているのではないのか。
だが報道には男のことはまったく触《ふ》れられていない。故意に伏《ふ》せているのか、あるいは関心がないのか。平凡《へいぼん》なOLの自殺の原因などには警察もマスコミも興味がないのかもしれない。
しかし、平凡なOLであっても平川にとっては女神であった。彼女の死によって、その神格化はますます進み、いまや心の祭壇《さいだん》の中枢《ちゆうすう》にしっかりと住みついている。
彼女を死に導いたものは、平川の女神を奪《うば》ったものである。「リボンのゴミ」との遭遇《そうぐう》により、この地上へ再び還《かえ》ってきた女神を、永遠に奪い去ったのである。
彼は、小夜子の死の原因を憎《にく》み、その原因をあたえた者を憎悪《ぞうお》した。
小田切小夜子は死に際して、最後の生活|残渣《ざんさ》を整理した。――とすればその中に生活の最後の様相を伝えるものが残っているかもしれない。そうだ。リボンを付した最後のゴミには、彼女の死の原因を告げるべき遺言≠ェ入ってたかもしれない。
横領≠オた時点ではまさか遺言とは知らないから、彼女の身許証明ばかりを探していた。別の視点で探せば遺言≠ェ出て来る可能性がある。
平川は、小夜子のゴミを再点検した。そこで奇妙《きみよう》な事実に気がついた。二重になった大袋《おおぶくろ》の中にさらに別のゴミの小袋が二袋入っていたのであるが、その一つの内容は別に区分する必要のない雑ゴミであった。
ゴミにはそれぞれ個性がある。その家の生活様式や程度が反映するうえに、ゴミの捨て主の人柄が現われる。生ゴミだけ、別の袋に仕分けしたのはわかる。だがもう一袋、生ゴミと他の雑ゴミを一緒《いつしよ》に入れた袋があった。小夜子は、一緒にまとめてもよいゴミをなぜ二袋に分けたのか?
さらに二袋の生ゴミを比較《ひかく》してみると、Aの袋は果物《くだもの》、野菜のくずが主体であるのに対して、Bの袋は、食べ残しが多い。それも魚、肉、穀類、菓子、パンくずなどひどく勿体《もつたい》ない捨て方をしている。これに紙くず、包装紙など種々雑多なゴミが一緒くたに詰《つ》め込まれている。ゴミの量は大したことはないが、Aの袋の内容と著しく個性が異なるのである。
AB二つの小袋は、どうみても別人によって捨てられたとしか考えられないほど、内容がかけ離《はな》れている。そして平川は遂《つい》にそのように判断を下した。すなわちAB二つの小袋の主は別人であると。別人によるゴミの小袋が、なぜ一つの大袋の中に入っていたのか。
平川は一つの推理を組み立てた。小田切小夜子がゴミを出しかけたとき、顔なじみの近所の人が同じ様にゴミ袋を下げて出て来た。そこで親切な小夜子が声をかける。ついでだから、自分が一緒に出してきてあげようと。その際、彼女の袋に余裕《よゆう》があったので、一袋にまとめてしまったのではあるまいか。
だがこの推理を阻《はば》む一つのネックがあった。それは大袋の中に伊豆《いず》東海岸のKホテルのパンフレットが捨てられてあり、Bの小袋から同ホテルのマッチの空き箱が出てきたことである。
Kホテルは平川も名前を聞いたことがある政財界人がよく保養する有名なリゾートホテルであるが、同じマンション内の二戸の居住者が、なんの連絡《れんらく》もなく同じ時期に(ゴミを捨てた時期から判断して)泊《と》まり合わせるという偶然《ぐうぜん》は少ないであろう。したがってAB二つの小袋は同一人が出したという推測になるのである。
だが平川は自分の推理にこだわった。ゴミには人間の生活と性格が反映する。ゴミを出すとき、自分のゴミを横領£イ査されるという予測はないはずであるから、作為《さくい》が介入《かいにゆう》する余地はない。
すると、AB二つの袋《ふくろ》の捨て主を同一人とすることは人間の合理性に反するのである。ABの小袋は別人によって出されたものにちがいない。平川の推理は確信となっていた。
その推理をどのようにして確かめるか。平川は休日に小田切小夜子のマンションに出かけて行った。管理人はいるが、ゴミは各居住者が銘々《めいめい》集積所まで出している。現場の情況《じようきよう》は平川の推理に一歩近づいた。
平川は報道されていた発見者である隣人《りんじん》にまず当たった。玄関《げんかん》ドアの脇《わき》にポリエチレンのゴミ容器が出ていて口を開いたままのゴミ袋が突込んである。金子晴代は三十代半ばとみえる主婦であった。顔は小ぎれいに化粧《けしよう》していたが、ゾロリとしたネグリジェ風の部屋着をまとっており、玄関の様子にふさわしく、なんとなくだらしのない感じであった。
不審《ふしん》顔の彼女に、自分は週刊誌のフリーのルポライターだが、小田切小夜子の自殺の背後になにかあるような気がするので、それを追ってみたい、ついてはお隣《とな》りさんならなにか心当たりがあるかもしれないとおもってお尋《たず》ねする次第であると、あらかじめ考えておいた台詞《せりふ》を言った。
初めは警戒《けいかい》の構えをとっていたが、ルポライターと聞くと、金子晴代は俄然《がぜん》目を輝《かがや》かせて、
「すると、私の話が週刊誌の記事になるのね」
「お話の内容によっては記事になるかもしれません」
「小田切さんは可哀想《かわいそう》なことをしたわ。自殺となると警察もマスコミも冷淡《れいたん》なものね。ろくすっぽ調べもしないんだから。でもね、小田切さんは絶対ノイローゼなんかじゃないわよ」
金子晴代はだれかに話したくてたまらなかったようである。
「ノイローゼでなければなんですか」
「男よ、男に捨てられたのよ。小田切さんが自殺する前の夜、小田切さんの所に男が来ていたのよ。夜|遅《おそ》くまでしゃべっていた気配だったわ。壁に耳なんかつけないわよ。うちのマンションは壁《かべ》が厚いからそんなことしても聞こえないけど、夜遅くまでしゃべっていれば気配でわかるわ。翌朝、小田切さんが死んだ日の朝だけど、ドアの所で出会ったとき目を真赤《まつか》に泣き腫《は》らしていたわ」
「男を見ましたか」
「男は夜のうちに帰ったみたい。男が帰った後、小田切さんはずっと泣いていたようだったわ」
「その男は彼女の部屋によく通って来ていたのですか」
「――とおもうわよ。そうでなければ二十一、二のOLの給料でこんな所に住めるはずないわ。彼女には絶対スポンサーがいたわよ」
「あなたは彼女のスポンサーの顔を見たことはないのですか」
「一度|突《つ》き止めてやりたいと狙《ねら》っていたんだけど、いつも夜遅く来て、夜の明けないうちに帰ってしまうのよ。お隣《とな》りさんが引っ越《こ》して来てからまだ一度も顔を見たことがないわ」
金子晴代は口惜《くや》しげに言った。
「そうそう、小田切さんはいつごろこちらへ入居されたのですか」
「まだ一年にならないわ。そのときも運送屋の若い人が来ただけで男は姿を見せなかったわ。よっぽど秘密の関係なのね」
入居の時期も合っていると、平川は心中うなずきながら、
「ところでつかぬことをうかがいますが、奥《おく》さんは当日の朝、つまり小田切さんが自殺した日ですが、もしかしてお宅のゴミを小田切さんに一緒《いつしよ》に出してもらったことはありませんか」
「ゴミを? ああそんなことがあったわね。あの朝、私がこのトラッシュのゴミを捨てようとしていると、ちょうど小田切さんが通りかかって、ついでに捨ててきてくれると言うので頼《たの》んじゃったのよ。ゴミがどうかしたの?」
これで平川の推理の一端《いつたん》が裏づけられたことになる。平川は金子晴代の反問に取り合わず、
「もう一つお尋《たず》ねしますが、奥さんのお宅では、最近伊豆のKホテルに行かれましたか」
「伊豆のKホテルへ? いいえ」
「最近でなくとも、Kホテルへ行ったことはございませんか」
「そんなホテルに行ったことは一度もないわよ」
「ご主人はどうでしょう」
「主人もそんなホテルへ行ってないわよ。大体主人は旅館派なのよ」
「それでは最近お宅に来られた方でそこへ行った方はいらっしゃいませんか」
ゴミの中からKホテルのマッチが出てきたとは言えないのが苦しいところである。
「さあ、そんな気のきいたホテルへ行った人はいないとおもうけど、Kホテルがどうかしたの?」
「いやいらっしゃらなければよろしいのです」
金子晴代から聞き出すべきことは、おおかた聞いた。彼女の好奇心《こうきしん》を適当にいなして平川は帰って来た。
平川の推理はおおかた裏づけられた。残るパンフレットとマッチのネックも大体説明がつけられていた。
金子晴代はだらしがない性格とみた。彼女はゴミ容器を玄関《げんかん》の外へ出してある。よく経験することであるが、街を通行中紙くずや、空かんを公共のトラッシュボックスが見当たらないとき、通りすがりの民家のゴミ容器の中に捨てていく。
男は小田切小夜子の家に来て、彼女に死を決意させるようななにかをした。男は帰途《きと》、空になったマッチを、隣家《りんか》の表に出ていたゴミ容器の中に捨てた。まさかそれが小夜子の家のゴミと同じ袋に入れられて捨てられるとは予測しなかったのであろう。
小夜子のゴミの中からKホテルのパンフレットが出てきたところをみると、二人は最近同ホテルに宿泊《しゆくはく》したとみられる。マッチの量から推測しても、それほど以前のことではあるまい。Kホテルを当たれば、二人の足跡《そくせき》を見つけられるかもしれない。
女神の遺志
次の休日を利用して平川はKホテルへ向かった。
Kホテルは伊東《いとう》の南方約五キロの海蝕崖《かいしよくがい》の高台に立つリゾートホテルである。相模《さがみ》湾を一望にする恵《めぐ》まれた環境《かんきよう》にあって、温泉都市伊東の喧噪《けんそう》を嫌《きら》う客がひっそりと憩《いこ》う穴場として利用する。
熱海《あたみ》、伊東のホテル、旅館が遊興性を強く打ち出しているのに対して、宿泊、食事|一辺倒《いつぺんとう》の古典的経営を頑《かたく》なに守っている。
伊東からタクシーで約十分、Kホテルは海を向いて、立地した高台の一部分のように古く同化したたたずまいを見せていた。
フロントへ行った平川は、小田切小夜子の新聞写真の切り抜《ぬ》きをフロントクラークに示して、
「最近、おそらくこの一、二か月の間とおもうのですが、この女性が男と一緒《いつしよ》にこちらのホテルに宿泊《しゆくはく》したはずです。名前は小田切小夜子といいます。記録を調べていただけませんか」
「あのう失礼ですが、お客様は?」
フロント係が警戒《けいかい》の姿勢をとって質《たず》ねた。
「この女は私の家内ですが、実は家内はこの新聞記事にありますように私の不在中に自殺をしました。原因はノイローゼということにされましたが、真因は、私の目を盗《ぬす》んでの不貞《ふてい》の清算をするためだとおもいます。家内は命を縮めて責任をとったのに相手の男は素知らぬ顔をして名乗り出もしません。私は家内を死に追いつめた相手の男の正体を突き止めたいのです。そんなことをしてもなんにもならないことはわかっておりますが、このままでは玩《もてあそ》ばれて死んだ家内が浮かばれません。家内が自殺する少し前に男と一緒にお宅のホテルへ来たことはわかっています。家内の成仏《じようぶつ》のためにもご協力いただきたいのです」
ホテルが客の秘密や不利益になる情報を漏《も》らさないことはわかっていたので、あらかじめ考えておいた口上を使った。フロント係は緊張《きんちよう》した表情になり、「少々お待ちを」と言って奥《おく》の部屋へ引っ込んだ。間もなくフロントの責任者らしい厚みのある男を伴《ともな》って引っ返して来た。
「お話はうかがいました。おたずねの小田切様は、たしかに×月××日と翌日の両日当館にご宿泊いただいておりますが、私共の記録では、小田切|俊夫《としお》様ご夫妻となっております」
責任者は、マイクロフィルムに撮《と》ったレジスターの拡大コピーらしいものを手中にしている。だがそれを平川に直接見せることはしない。
「小田切としおですか。それは私の名前です。男は私の名前を騙《かた》ったんだ」
平川は演技した。妻を寝取《ねと》られた男という自作自演が相手の同情を引いたらしく、
「この者が奥様の|ご到着《チエツク・イン》を受け付けておりまして、奥様のお顔を憶《おぼ》えているそうでございます」
責任者は、最初に平川を迎《むか》えたフロント係に目を向けて、知っていることを話してやれと促《うなが》すように顎《あご》をしゃくった。
「お連れの男性は四十代半ばとみえる風采《ふうさい》の立派な方で、そうですね、一流会社の幹部といったタイプでした。レジスターにはご職業はただ会社員とだけご記入なさいました。でも私はそのとき本当のご夫婦ではないと直感しました」
「それはなぜですか」
「ご主人、いや失礼、男の方がレジスターなされる間、女性の方は少し離《はな》れた所に人目を憚《はばか》るようにして待っておられましたが、ご夫婦でしたら、奥様がもっと堂々としておられます。それから男の方がご住所を記入したとき、女性にきみの住所、何番地だったかなとついうっかり質《たず》ねたからです。ご夫婦ならそんなことを聞くはずがありません」
「家内の……つまり私の住所を記入したのですね」
「N区元町三丁目二十六番地の十六元町レジデンス408号室となっております」
「それは私の住所です。男はなにか自分の身許《みもと》を示すようなことを言いませんでしたか」
「おっしゃいませんでした。黙《だま》ってレジスターをされると、そのままお部屋の方へ行かれました」
「予約はどうなっていますか」
「ご本人からとなっています」
つまり男がデッチ上げた小夜子の夫、「小田切俊夫」名義で予約をしているのである。小田切小夜子の男の身許|韜晦《とうかい》は完璧《かんぺき》であった。平川の落胆《らくたん》を見かねたようにフロント係は、
「男の方は、到着《とうちやく》されて二日目の朝、十時過ぎ熱塩《あたじお》市の文化会館までハイヤーを頼《たの》まれましたので、そちらの方へ問い合わせれば、もしかすると正体、いえ、本当のご身分がわかるかもしれません」
「熱塩市の文化会館!?」
「昨年、市制施行二十周年を記念して、当地方の文化の殿堂《でんどう》として竣工《しゆんこう》した自慢《じまん》の施設《しせつ》でございます」
「そこへ小田切としおは何をしに行ったのですか」
「さあ、それは私にはわかりかねます」
「男と小田切小夜……いや家内は一緒《いつしよ》に出かけたのですか」
「いえ、男の方一人でございます」
「男が留守《るす》の間、家内は何をしていたのですか」
「お部屋の中で帰られるのをずっとお待ちになっていらっしゃいました」
「男が帰って来たのは何時ごろでしたか」
「多分午後二時ごろだったとおもいます」
「その夜家内と一緒にさらに一泊したのですね」
「さようでございます」
「翌日は何時ごろ出発したのですか」
「午前十時ごろでした」
平川はフロント係から「としお」の使用文字を教えてもらい、ホテルを去った。
ともあれホテルのフロント係からかすかな追跡《ついせき》の糸口がつかめた。熱塩市はKホテルから十数キロ南方の保養都市である。熱海や伊東に比べて保養所や別荘《べつそう》が多く、娯楽《ごらく》的要素が少ない。そのために地味ではあるが、家庭的で自然が豊かに残っており、市域は史蹟《しせき》に富む。また、京浜の文化人の別荘が多く、市民の文化の気風が高い。熱塩市民文化会館は「文化都市熱塩」の象徴《しようちよう》として市の五か年|継続《けいぞく》事業として進められてきたものであるが、それが昨年第一期工事が完成したものである。
平川はその足で熱塩市へ向かった。熱塩市民文化会館は「東洋一」を誇《ほこ》るだけあって、「文化の殿堂」たるにふさわしい文武両道≠フ総合|施設《しせつ》として、近代技術の粋《すい》を凝《こ》らした文化とスポーツのための諸設備を一大ワンセットにしていた。
文化都市を標榜《ひようぼう》する一方では、観光客や保養客から吸い上げた豊かな財源の蓄積《ちくせき》を見せつける大小のホール、会議室、温泉プール、屋内テニスコート、展示室、図書室、レコードライブラリイ、アスレチックルーム、レストラン、宿泊《しゆくはく》施設など、至れりつくせりの諸設備を網羅《もうら》している。正面|玄関《げんかん》には、今日|開催《かいさい》されている各種集会や催《もよお》し物の表示板がパネルに並んでいる。
平川は正面入口から入り、ホテルのフロントのような一階ロビーの受付けカウンターへ行った。
「×月××日朝十時ごろKホテルからこちらの文化会館に小田切俊夫という人物が来たとおもうのですが」
平川は受付係にとりあえずの質問を発した。それは偽名に決まっているが、こちらでも同じ偽名を使っている可能性がある。
「おだぎり……」
「こういう字を書きます」
平川がホテルで聞いてきた字を示すと、
「さあ、名前を言われてもわかりませんね。なにぶん大勢の人が出入りをしておりますから」
受付係はニベもなく首を振った。
「×月××日にこちらにはなにか催し物がありましたか」
平川は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。「小田切俊夫」はその催し物のどれかに出席した可能性が考えられる。
「×月××日は当館|竣工《しゆんこう》一周年記念行事として講演会や市民による美術展や写真展を開きました」
「講演会の講師はどんな人でしたか」
平川はKホテルのフロント係による「四十代半ばの風采《ふうさい》の立派な一流会社の幹部風」という印象をおもいだしていた。
「評論家の泉谷信重《いずみやのぶしげ》先生と、東都大学助教授の石黒正範《いしぐろまさのり》先生をお招きしました」
「講演は何時から始まりましたか」
「泉谷先生が午後一時から、石黒先生が午前十一時からそれぞれ一時間ずつお話しいただきました」
泉谷信重は、新聞記者出身の聞こえた評論家である。時代を先取りするジャーナリスティックな感覚と、該博《がいはく》な知識に裏づけられた緻密《ちみつ》でシャープな論理構成と弁舌には定評があり、各所から講演に引っ張り凧《だこ》である。
一方、石黒正範は平川が初めて聞く名前であるが、熱塩市文化会館が泉谷とセットにしてわざわざ招いた講師であるから、名のある学者なのであろう。
泉谷信重ならばテレビやマスコミ各方面にしばしば登場しており、平川も顔を知っているから、ホテルのフロント係が顔を知らないはずがない。それに泉谷はたしか六十|歳《さい》近い年齢《ねんれい》であり、フロント係の印象からかけ離《はな》れている。小田切俊夫はホテルを午前十時に出ている。ホテルから熱塩市の文化会館まで十〜二十分である。午前十一時開演の講演にちょうど当てはまる時間である。平川は石黒をマークすることにした。
石黒正範の身辺について公表されている資料で調べたところ、彼は現在三十八歳、東都大学在学中当時法学部教授であった小笠原恒典《おがさわらつねのり》の知遇《ちぐう》をうけ、同人の研究室に残り、講師のとき、小笠原の次女と結婚《けつこん》した。
小笠原恒典は、日本民法学の泰斗《たいと》であり、六法全書の代表編集者として知られる法曹《ほうそう》界の大元老である。法学部長を経て、東都大学総長をつとめた。彼《かれ》の総長就任によってそれまで右翼的色彩の濃《こ》かった同大学の学風は塗《ぬ》り変えられ、学生の意見を大学の運営に反映させる民主主義的学風が確立された。
三年前に総長を退任したが、その後も民主主義と民法、労働法、憲法と平和問題について数多くの論説や著書を発表すると共に、護憲、核《かく》兵器|廃絶《はいぜつ》運動の最先鋒《さいせんぽう》に立ち、民主主義と平和の維持《いじ》、確立のために論壇《ろんだん》と実践《じつせん》に目ざましい活躍《かつやく》をしている。
石黒が多数の競争者を押しのけて、若くして助教授の椅子《いす》に坐《すわ》れたのも、小笠原のヒキが大きくものを言っている。教授の椅子も確実に射程にある。
妻との間に、十二歳、九歳、七歳の三人の子供があり、家庭は円満である。また最近ある新聞紙上で始めた「家庭の法律相談」が評判がよく、マスコミにも名前が売れ始めていた。まさに順風|満帆《まんぱん》、人生の上昇《じようしよう》気流にかかっている感がある。
石黒正範の人間像が具体化してくるにつれて平川の心証は固まってきた。小田切小夜子の男は彼にちがいあるまい。どこで二人が知り合ったのか不明であるが、岳父《がくふ》の強大なカサの下で現在の社会的地位を築いた石黒にとって、情事が露顕《ろけん》することは、その地位の崩落《ほうらく》と家庭の破壊《はかい》を意味する。
非常に危険な情事であった。だが火遊びは危険が大きいほど面白い。石黒は火遊びに溺《おぼ》れて危険を冒《おか》した。女も危険を冒すだけの価値があった。石黒が学究の徒として象牙《ぞうげ》の塔《とう》の中に閉じこもっているかぎりは、情事が露《あら》われることはなかった。
だが石黒はマスコミの寵児《ちようじ》になりつつあった。それ自体は大いにけっこうなことである。マスコミにもて囃《はや》されることは、学業にはつながらないが、名声をもたらしてくれる。虚名《きよめい》ではあっても、世間的な名声というものは、本来そのようなものである。学外における盛名《せいめい》は教授間の力関係にも影響《えいきよう》をあたえる。
これが、主流に乗っていない学者の場合、学外で有名になることは、本業が疎《おろそ》かになりがちで、学内に嫉視《しつし》や反感を生み、かえってマイナス効果になることが多いが、石黒はまぎれもなく主流にある。
石黒の学外における盛名は、単なる虚名ではなく、確実な収穫《しゆうかく》をもたらしてくれるものであった。
しかし、ここに小田切小夜子の存在が重大な障害となってきた。顔と名前が売れてくれば人目を忍《しの》んで逢《あ》えなくなる。秘密の関係を維持《いじ》できなくなる。
そこでよくある型《パターン》のように石黒が別れ話を持ち出した。気の優しい小夜子はそれを拒否《きよひ》できなかった。石黒と別れたら生きていけない。そこで自ら死を選んだ。
平川は、小田切小夜子の死の構図をおおむね描《えが》き上げることができた。石黒は小夜子に死なれて一時はびっくりしたものの、彼女が自分との関係をだれにも漏《も》らさず、墓場へもっていってくれたので、大いに安心し、むしろ清々《せいせい》しているにちがいない。そろそろ小夜子の体にも飽《あ》きていた時期であったかもしれない。
小田切小夜子が死んでくれて、危険の火種は取り除かれた。保障された安全の中で、あたえられたマスコミという羽衣をまとっておもうがままに羽ばたける。虚名《きよめい》を大いに売りまくって、それで実質を築くのだ。
平川は石黒正範を許せないとおもった。
石黒は邪魔《じやま》になった小夜子をゴミのように捨てた。だが彼女はゴミではない。石黒は小夜子の瑞々《みずみず》しい身体を玩《もてあそ》び、その甘美な肉叢《ししむら》を貪《むさぼ》りつくして捨てた。なんの代償《だいしよう》も支払《しはら》わず、得るものだけを得て捨てたのだ。そうはさせない、それがどんなに高いものにつくかおもい知らせてやる。
小夜子が出した最後のゴミ≠フ中に一挺《いつちよう》の拳銃《けんじゆう》があった。彼女がどんな経緯《いきさつ》からそんな物騒《ぶつそう》な凶器《きようき》を手に入れたのかわからないが、それが仇《かたき》を討ってくれと訴《うつた》えている彼女の無言の遺志表示のようにおもえた。
平川も拳銃など手にするのは初めてのことである。引き金を引けば、果たして弾《たま》は出るのか。また弾はこめてあるのか。平川には確認のしようがないが、そのずしりと手にかかる本物の感触《かんしよく》の中に彼女の無量の怨《うら》みと悲しみが託《たく》されているようにおもえた。それはゴミとして捨てられた拳銃自体の怒《いか》りと悲しみであるかもしれない。
まず石黒正範に会うことが先決問題であった。平川は石黒が在宅する確率の大きい日曜日の夜を狙《ねら》って彼の自宅に電話をかけた。最初に電話口に出たのは、細君らしい女の声である。平川は「小田切」と名乗り、
「妹が石黒先生に大変おせわになった者ですが、この度、妹が病死いたしまして、その遺品をおせわになった方々にお配りしております。ぜひお渡《わた》ししたい品がございます。先生はご在宅でございますか」
「妹さんとおっしゃいますと、学生さんですか」
「先生にはいろいろと教えていただきました」
「それはそれはご丁寧《ていねい》に。ただいま主人と代ります」
細君は、――いろいろと教えてもらった――という言葉に含まれた微妙《びみよう》な意味に気がつかなかったらしい。「小田切」という名前は、石黒にショックをあたえるはずである。一切、女との関連を断ち切ってあると安んじていたところへ、いきなり女の兄と名乗る人物が彼女の形見を携《たずさ》えて自宅へ電話をかけてきた。
石黒は、細君の手前そんな女は知らないと突《つ》っぱねて電話口に出て来ないだろうか。あるいは突っぱねて自宅に乗り込《こ》んで来られては面倒《めんどう》と判断して電話に出るか。平川は後の方に賭《か》けた。
案の定《じよう》、賭けは当たって、間もなく電話口に渋《しぶ》い中年のバリトンが応答した。
「石黒ですが、私には心当たりはありません。なにかのまちがいではありませんか」
その声は細君の耳を意識しているようである。
「おかしいですね、妹は遺書に先生の名前を確かに書いております。自分が死んだら先生に渡して欲しいと。その品物を見ればおもい出されるかもしれませんので、これからお宅の方へおうかがいします」
「き、きみ、そんなことをされては困るよ。ぼくにまったく憶《おぼ》えのない人から、いきなり遺品など押《お》しつけられても、迷惑《めいわく》するばかりだ」
石黒の声が狼狽《ろうばい》した。
「先生はどうしても小田切小夜子という女にお心当たりがないとおっしゃるので」
「ないね」
「それでは×月××日伊豆東海岸のKホテルへ妹と一緒《いつしよ》に泊《と》まったことも否定なさいますか」
「そ、そんな所へ行った記憶《きおく》はない」
「しかし、先生は、翌日Kホテルの近くの熱塩市文化会館において講演をなさっていらっしゃいますね」
「確かに当日熱塩市に頼まれて講演をしているが、Kホテルには行かなかった。その日は日帰り……いや別の所に泊まったよ」
「どちらへお泊まりになりましたか」
「きみ、失敬じゃないか、そんなことをきみに言う必要はない」
「Kホテルのフロント係が先生に大変よく似た人が妹と泊まったことを認めていますが」
「人ちがいだ」
「先生が人ちがいだと主張なさるのであれば、ホテルのフロント係を連れてまいりましょうか。ホテルには先生が直接記入されたレジスターカードもございます。それを先生の筆蹟《ひつせき》と照合すれば、先生ご本人か人ちがいか直ちに見分けられるとおもいます」
「き、きみは一体何者だ」
「申し上げましたでしょう。小田切小夜子の兄でございます」
「兄などいなかったはずだ」
「おや、よくご存知ですね」
それは、平川に対するだけでなく、細君の手前も重大な失言であった。
「いきなり見も知らぬ女の兄などと名乗っても、信用できないという意味だ」
石黒はしどろもどろにその場を糊塗《こと》しようとした。
「先生がどうしてもしらばくれるおつもりならば、妹の遺品をせめて奥様にお渡《わた》しいたします」
「待て、その遺品とは一体何なのだ」
石黒は声を低くして質《たず》ねた。ようやく会話がかみ合った形である。
「お目にかかって直接お渡しすればわかります」
「私にはいっこうになんのことかわからないが、明日午後二時S駅前の喫茶店《きつさてん》エリアナに来たまえ。そこで会おう。私の顔は知っているのかね」
平川は遂《つい》に石黒を引っ張り出すことに成功した。石黒が面会を約束したことは、彼が小夜子と関係があった事実を示す間接の証拠《しようこ》でもある。
翌日|休暇《きゆうか》を取った平川は指定されたエリアナに赴《おもむ》いた。石黒は駅前といったが、駅からかなり離《はな》れた横丁の目立たない位置にあり、探すのに手間取った。平川が着いたとき、石黒はすでに来て待っていた。石黒の顔は、雑誌のグラビヤ写真で見知っている。
店内に他の客の姿は見えない。平川は石黒がこの時間と場所を指定した意味がわかった。場末の喫茶店の午後二時はまことに閑散《かんさん》としていた。
平川はまっすぐ石黒の前に歩み寄った。二人の目が合った。
「石黒先生ですね」
石黒は黙《だま》ってうなずいた。平川の素姓と意図がはっきりしないので、目先の詮索《せんさく》をしているという体《てい》である。社会の偏愛《へんあい》にあまく取り入って虚名《きよめい》と地位を得た者特有のポーズであるが、その底に不安が揺《ゆ》れている。
「妹が大変おせわになりまして」
テーブルをはさんで真向いの席に腰《こし》を下ろしながら改めて挨拶《あいさつ》をすると、
「きみの妹など知らないと言ったろう」
石黒は、ようやく言葉を発した。
「先生、話の蒸し返しは止めましょう。知らなければこんな所で我々が会う必要はないはずです」
「見も知らぬ女性の兄がいきなり名乗り出て来て、その女性の形見分けをするというので興味をもっただけだよ」
石黒は妻の耳がないので、自宅よりやや強気である。
「先生、おとぼけになるのはいいかげんにしたらどうですか。もう割れているのです。あなたが小夜子と関係をもち、彼女を死に追いつめた犯人であることはわかっているのです」
「犯人などと人聞きの悪いことは言わないでくれ。勝手に死んだ人間の責任まで取れない」
「彼女は勝手に死んだとおっしゃるのですか」
「私は一切|与《あずか》り知らないことだ。まったくの言いがかりだ、私は迷惑《めいわく》をしている」
「先生、彼女があなたに残した形見、何だとおもいますか」
「…………?」
「テーブルの下をごらんください」
なにげなくテーブルの下に目を向けた石黒は、そこにひたと自分の位置に向けて据《す》えられている凶悪《きようあく》な銃口《じゆうこう》を見出して愕然《がくぜん》とした。
「な、な、なんの真似《まね》だね、こ、こ、これは」
不覚にも声が震《ふる》えて滞《とどこお》った。
「ごらんの通りの品です。これが彼女の形見です」
「な、なにが欲しいのだ、金か」
「恐喝《きようかつ》をしているのではありませんよ。小田切小夜子との関係を認め、彼女に一言謝罪してもらいたいのです」
「私はなにも知らないのだ」
「この期《ご》に及んでまだそんなことをおっしゃるのですか。この拳銃《けんじゆう》は、彼女が先生に渡《わた》してくれと私に託したものです。彼女がなぜこんな物騒《ぶつそう》なものをもっていたのか、私は知りません。果たして装弾《そうだん》してあるのかどうかも知りません。しかし、先生が彼女との関係をあくまでも否定しつづけるおつもりならば、ここで弾《たま》が入っているかどうか確かめようとおもいます」
「そんな脅《おど》しにのるとおもっているのか」
「脅しか脅しでないかすぐにわかります。とにかく私は彼女の形見を先生にお渡ししなければならない。つまり拳銃本来の用途《ようと》に従ってね……」
「待て、待ってくれ」
石黒のポーズが崩《くず》れた。さほど暑くもないのに額にびっしりと汗《あせ》の玉が浮かんでいる。
「小田切小夜子との関係を認めますね」
「彼女にはすまないことをしたとおもっている。しかしまさか自殺するとは予測していなかった。おたがいに納得ずくの関係で、それぞれの生活を傷つけないという約束だった。それがあれほどおもいつめていたとは考えなかった」
「彼女はなぜ自殺をしたのですか」
「私の顔も知られかけてきたのでこれ以上秘密の関係をつづけるのは難しい。小夜子もまだ若いし、やり直すチャンスはいくらでもある。これ以上妻子のある私と不毛の関係をつづけているより、二人の間を清算して再スタートしたほうがたがいのために幸福だと説得して、彼女も納得してくれたのだ。あの夜、最後の話し合いを小夜子のマンションでしたとき、彼女はむしろ上機嫌《きげん》で、二人の新しい人生のスタートのためにワインで乾杯《かんぱい》したくらいだ。まさかその後、ガス管を咥《くわ》えるとは予測の外だった」
「そして先生の名前が現われないのをいいことに知らぬ顔の半兵衛《はんべえ》を決め込んだのですね」
「彼女の死を無駄《むだ》にしたくなかった」
「死を無駄に?」
「小夜子は私のために黙《だま》って身を退《ひ》いてくれたのだ。その好意を無にしてはならないとおもった」
「ずいぶん身勝手な理屈《りくつ》ですね。あなたを愛した女性が命を縮めたのですよ」
「それが彼女の愛の形だった。だからこのことはどうか内密にしていただきたい。いまさら彼女と私の関係を表沙汰《おもてざた》にしてもなんにもならないし、彼女の霊《れい》も喜ばないとおもう。この通りだ、頼《たの》む。私には地位もあり、家族もいる。達成しなければならない学問もある。いま私を破滅させることは社会的な損失なのだ」
石黒は、喫茶店の従業員の目がなければ、その場に土下座しかねない様子であった。その姿には彼《かれ》のために死んだ女に対する一片の愛情もなく、保身本能だけが剥《む》き出されていた。
平川は猛烈《もうれつ》に腹が立ってきた。こんな男のために平川の女神は殉《じゆん》じたのである。平川はおもわず拳銃《けんじゆう》の引き金にかけた指に力を入れかけた。瞼《まぶた》に小夜子のおもかげが彷彿《ほうふつ》とした。
彼女はなぜ拳銃を捨てたのか。彼女に石黒に対する怨《うら》みがあれば、彼女自身が拳銃の引き金を引いたであろう。小夜子には石黒に向ける怨みはなかったのかもしれない。
考えてみれば、平川が彼らの間にしゃしゃり出て来る必要も義理もないのである。平川は小夜子のゴミを収集していただけの関係にすぎない。
石黒が平川の真の素姓を知れば、余計なお節介《せつかい》だと冷笑するのが目に見えている。
平川は引き金から指を離《はな》した。
「どうぞお帰りください」
平川は言った。
「それでは内聞にしてくれるのだね」
石黒の顔が輝《かがや》いた。
「お帰りくださいと申し上げたのです」
「有難う。これは少ないがとっておいてくれたまえ」
石黒は懐中《かいちゆう》からあらかじめ用意してきたらしい封筒《ふうとう》を取り出して平川の手に押しつけようとした。
「これは何ですか」
「彼女の供養料《くようりよう》にしてくれたまえ」
「馬鹿《ばか》にしないでください。こんなものが欲しくて来たんじゃないんだ」
平川の強い語調に、石黒はうろたえて、
「それはよくわかっています。だからせめて供養料にと……」
「こんなものが供養になるとでもおもっているのか」
平川は汚物《おぶつ》のように封筒をはらいのけて席を立った。
廃棄《はいき》された神棚《かみだな》
平川は、石黒との対決≠終えると、虚《むな》しくなった。小夜子の男を突《つ》き止めて、結局、彼女が殉《じゆん》じた愛の正体を剥《む》き出しただけであった。
小夜子が自ら命を縮めたことを「愛の形」と呼んで憚《はばか》らない利己的な男であった。彼女は殉ずる価値のない男に殉じたのである。ゴミ袋《ぶくろ》から探り出した一つの恋《こい》の末路、それは捨て去られた情事であり、恋の廃《ゴ》棄物《ミ》であった。
ゴミ屋が恋のゴミを拾ったのか――平川は自嘲《じちよう》した。
だがゴミの中にも、まだ使える物や手を加えれば再生利用できるものもある。小夜子が、このままではあまりにも哀《あわ》れである。彼女に石黒を怨《うら》む気持がなかったとしても、彼女が命をかけた恋が、捨てられたゴミとあっては浮かばれないだろう。余計なお節介《せつかい》であるが、彼女の最後のゴミを拾い取ったのもなにかの因縁《いんねん》である。彼女になり代って石黒に一矢報いてやりたい。
平川は、石黒との対決の模様を密《ひそ》かに録音したテープをコピーして石黒の大学の総長と彼の細君|宛《あて》にそれぞれ送りつけた。
石黒正範は大学を辞任した。同大学法学部の主流の中央に位置していた彼《かれ》が、教授選挙を目前にしての突然の辞任は、周囲や関係者を驚《おどろ》かせた。しかも理由が健康を害して講義を欠《やす》むことが多いためというはなはだ曖昧《あいまい》なものであった。たしかにマスコミでもて囃《はや》されるようになってから、時々休講が出るようになったが、決して辞職の理由になるほどのものではない。
それに石黒が健康であったことは周囲のだれもが認めている。辞める理由はどこにも見当たらなかった。
大学側ではひた隠《かく》しにしていたが、手から水が洩《も》れるように、石黒の辞任について噂《うわさ》が広がった。
噂は、石黒が若い女と情事に耽《ふけ》り、別れ話がこじれて女が自殺したというものである。その経緯《いきさつ》の一部始終を録音したテープが総長の許《もと》に送られてきて、石黒は辞職を勧告されたということだが、これが事実とすれば、教育者として救いようのないスキャンダルである。
噂は逸速《いちはや》くマスコミに飛び火して、石黒はマスコミのあらゆる舞台《ぶたい》から閉め出された。せっかく出かかっていた芽が、平川が送りつけた一巻のテープによって踏《ふ》み潰《つぶ》されてしまったのである。
平川は間もなく石黒が離婚《りこん》したという噂を聞いた。石黒は社会的位置と職と家庭を一挙に失ってしまったのである。只乗《ただの》り≠ヌころか、きわめて高い火遊び代になってしまった。
余計なお節介《せつかい》の形であったが、小田切小夜子のために痛烈《つうれつ》な復讐《ふくしゆう》を果たしてやったことになった。
平川は、相変らず清掃《せいそう》車に乗って街を回っていた。もう「リボンのゴミ」に出会うことはないとおもうと、寂《さび》しかった。
彼の心の祭壇《さいだん》に二度と女神が祀《まつ》られることはあるまい。それは寂しいことにはちがいないが、世間にはむしろ心に祭壇をもっていない人のほうが多いのである。そんなものをもっていないほうが、悩むことなく生きていけるのかもしれない。なまじ祭壇など設けるから、悩んだり苦しんだり、生き甲斐《がい》を探し求めたりすることになる。
人間は生き甲斐はなくとも生きていけるが、食わなくては生きていけない。それが生きるに値する人生かどうかは別の問題であり、生活に追われる庶民《しよみん》は、まずさしせまって今日明日の命を生きなければならないのである。
街は灰色に翳《かげ》り、人々の今日の営みの証《あかし》としてゴミが堆《うずたか》く積まれている。それを集める平川の視野も灰色に翳っている。喜びも悲しみもない。ただ機械的に収集し、ゴミ処理場まで運搬《うんぱん》する。
そういう毎日を積み重ねながら、自分自身が火葬場《かそうば》で焼かれる日に次第に近づいていくのである。
ある朝、無感動に担当区域の収集に出た平川は、ある集積場に来て、愕然《がくぜん》と目を剥《む》いた。そこにトリコロールのリボンで結んだ袋が出されている。そこは小田切小夜子が住んでいた地区とは別の地区であり、彼女の生活|圏《けん》とはまったく関係がない。たとえ関係があったとしても、彼女はこの世の人間ではないのである。だれか別人が同じ様なリボンでゴミ袋《ぶくろ》を結んだのか。小夜子のほかにそんな人間がいるのか。
平川は混乱した意識のまま、そのゴミ袋を収集した。咄嗟《とつさ》のことであったので、問題のゴミ袋を保存≠オて内容を調べるという智恵《ちえ》は出ない。それに相棒が一緒《いつしよ》にいるのでどうにもならない。その集積所にトリコロールリボンのゴミ袋が出されたのは、今回が初めてであったから、その主は、前回収集日の後、この地区へ転入して来たものであろう。
たとえ別人であっても小夜子と同じ様な心優しい人がいると知って嬉《うれ》しくなった。ゴミの収集は定期であるからいずれは顔を合わせる機会があるかもしれない。心の祭壇に祀《まつ》るべき神はまだ帰っていないが、久しぶりに燈明《とうみよう》が灯《とも》ったような気がした。
急ぐ必要はない。女神は還《かえ》りつつあるのだ。いや、女神を確かめないほうがよいかもしれない。神は常に非現実的であり、人間の前に姿を現わすべきではない。
だが意外に早く、機会≠ヘやってきた。それから二週間後の朝、同集積所に収集に赴《おもむ》くと、若い主婦がよちよち歩きの幼児の手を引いてゴミ袋《ぶくろ》を出したところに行き合わせた。その袋の口はトリコロールのリボンで結ばれている。彼女の顔を見た平川は茫然《ぼうぜん》としてその場に立ちすくんだ。
そこにいるのは、忘れもしない小田切小夜子その人であった。なぜ死んだはずの彼女がここにいるのか。人ちがいではなかった。
以前より全体に円みを帯びていたが、それは結婚《けつこん》し、母となった成熟によるものであろう。あの優しげなおもかげは、いま幼な児の手を引いて母として妻としての幸せに輝《かがや》いている。
その輝きは、平川が知っている当時はなかったものである。自分の内から発する輝きではなく、他の存在から来る光を浴びて、本人自身の光を打ち消すほどに輝く、女性特有の輝き方である。そしてそれこそ女性本来の幸福というものである。幸福の原点あるいは拠点《きよてん》が、他の存在の中にある。男はその逆であり、また、そんな原点がなくとも生きていける。
いま平川が再会した小夜子は最も幸せな光束《こうそく》の中央に立って微笑《ほほえ》んでいた。だが彼女は平川に気がついていない。彼女の目は我が子にばかり向けられていて、平川の存在など眼中にないかのようである。実際に彼女の視野には、我が子以外の存在はうつっていても見えないのであろう。
平川が声をかけようとしてためらっていると、幼児が清掃《せいそう》車の方へちょこちょこと近づきかけた。彼女は慌《あわ》ててその手を引いて、
「だめよ、だめよ、あの車は汚《ババツチ》いのよ」
と言った。そして茫然《ぼうぜん》として立ち竦《すく》む平川の方を一顧《いつこ》だにせず、立ち去って行った。
相棒に声をかけられて、我に返った平川はともかく収集をすました。「小田切小夜子」との遭遇《そうぐう》の意味を考える余裕《よゆう》が生じたのは、その日退所してからである。混乱した意識が思考を拒否《きよひ》していたのである。
そのときになって平川は重大な勘《かん》ちがいを犯していたことに気づいた。女神を小田切小夜子と決めたのは、トリコロールのリボンとゴミ袋の中にあったガス料金領収証その他の資料からである。たまたまその主が時期を同じくして自殺をし、新聞に出た顔写真が似ていたところから、本人と錯覚《さつかく》してしまった。いまにしておもえば、顔写真は、平川の記憶《きおく》と微妙《びみよう》なところで異なっていた。
それを先入観から勝手に同一人物と決めてしまったのである。石黒正範に対する復讐《ふくしゆう》も錯覚から発していた。もともと平川が介入《かいにゆう》すべき筋合ではなかったが、錯覚に基いた要らざる介入が、一人の有能な学者を滅《ほろぼ》したことになる。
平川の心の祭壇《さいだん》は完全に取り壊《こわ》された。彼の女神は永久に去ってしまった。幸福の光輝《こうき》にまばゆく包まれながら、平川に侮蔑《ぶべつ》の視線を向けて。それはすでに彼の女神ではなかった。女神は、結婚《けつこん》して子供を産み、地上の並《なみ》の女に還元《かんげん》してしまったのである。
潤沢《じゆんたく》な朝の光を全身に浴びながら我が子と手をつないで立ち去って行った彼女の後ろ姿は、幸福の象徴《しようちよう》そのものであったが、それは平川と関係ない世界の象徴であり、どんなに輝《かがやか》しい光に包まれていても、平川には届かぬ光である。
平川の視野には灰色に翳《かげ》った街があり、もはやトリコロールのリボンで結んだゴミ袋を見出しても、なんの感興も覚えなかった。
〈作者注〉
本編は発表後、清掃《せいそう》事業組合より「差別」であるという抗議をうけた。人生の真実を追及《ついきゆう》するためには表裏一体に描《えが》かなければならない。表だけ描いて裏を省くのは、ヤラセであり、コマーシャルにすぎない。そんなものを描く意志はない。ある対象を侮蔑と偏見《へんけん》によって歪《ゆが》めるのと、真実を追及するのとは異なる。
差別という大義名分によって我々は多くの日本語を失ってきた。それは差別を旗印にした言論と表現の自由に対する干渉《かんしよう》であり、民主主義に対する挑戦《ちようせん》である。私はこの作品は差別ではないと確信しているが、さらに読者のご意見を問いたい。私の差別問題に対する考え方は本書一八一〜一八二|頁《ページ》に記述してある。
因《ちな》みにこの「異型シリーズ」では多くの職業の裏面を描いているが、差別として抗議を寄せてきたのは清掃事業組合だけであった。
第三章
幸福の破片
司会者の大木道夫《おおきみちお》が、
「さあ、この方はどんなおもいでの方でしょう」
とおもい入れたっぷりに対面者を呼び入れた。一人の中年の女性が上気した表情でスタジオの中へ登場して来る。ゲストのソファにゆったりと腰を下ろしていた大竹順一《おおたけじゆんいち》がトレードマークになっているパイプを一瞬《いつしゆん》落としそうになった。彼《かれ》の目は愕然《がくぜん》として見開かれ、対面者の顔に固定した。
「あ、あ、あなたは、ぼくの……まさか、そのう」
自らをテレビ怪獣《かいじゆう》と称し、どんなオーソリティでもブラウン管の中に引っ張り込《こ》んでしまえば互角《ごかく》に渡り合えると豪語《ごうご》している、テレビの申し子のような大竹が、うろたえ、上気し、言葉がなにを言っているのかさっぱり意味をなさない。
大竹の小学校時代の「初恋《はつこい》の人」との対面シーンである。手がかりはうろ憶《おぼ》えの名前だけで、住所も親の職業もわからない。幼い日の幻影《げんえい》のような大竹の初恋の人をテレビ局の探し屋<`ームが探し出して来たのである。
大竹の率直な反応は、遠い青春の幻影が突如《とつじよ》目の前に生き返ったことに対する驚《おどろ》きを如実《によじつ》に伝えていた。初恋の人のおもかげは長い歳月《さいげつ》に耐《た》えて大竹の胸の中に生き残っていたのであろう。テレビ怪獣と自称するマスコミのすれっからしが、テレビ初体験のように上気している。
その光景をモニターテレビで見ながら、探し屋チームの主任《チーフ》、檜笠駿介《ひがさしゆんすけ》は、大竹の初恋の人探しの労が一挙に報われるのを感じた。
テレビ怪獣《かいじゆう》の素顔を晒《さら》させただけでも大成功である。怪獣もやはり人間であった。その証明が檜笠を中心とする探し屋チームの苦労のピラミッドの頂上で、全国|視聴者《しちようしや》の見守る中に行なわれている。
大竹の初恋《はつこい》の女性「エッちゃん」は、彼《かれ》が小学生時代住んでいた墨田《すみだ》区の「どこか」の町で、家の隣《とな》りに住んでいた少女である。手がかりはそれだけであった。
小学生のころ大竹は内気な少年であった。腕白《わんぱく》たちと野原や空地を駆《か》け回って遊ぶのよりも自宅に閉じこもってひっそりと本を読んだり、空想に耽《ふけ》ったりするほうが好きであった。そんな大竹少年のこよない遊び相手になったのが隣りの「エッちゃん」であった。学校へ行くのも一緒《いつしよ》、帰ってから遊ぶのも一緒で、夏休みには両家合同で湘南《しようなん》の海へ行ったこともあった。
一人では学校へ行けないような大竹少年をエッちゃんは庇《かば》ってくれた。エッちゃんと隣り同士だったのは、二年か三年間ぐらいだったとおもうが、小学校四年の春、エッちゃんの家は突然《とつぜん》引っ越《こ》して行ってしまったきり、その消息は絶えた。
檜笠は、まず大竹のおもいでの原点を突き止めることから始めた。大竹の父親の本籍《ほんせき》地を聞いてそこの役所から戸籍の附票《ふひよう》を取り寄せた。居住者は住民基本台帳法により、その居住地の市町村に備えられた住民基本台帳に個人を単位とする住民票を記入して世帯|毎《ごと》に編成しなければならない。住民票には主として氏名、出生年月日、性別、世帯主および世帯主との続柄《つづきがら》、戸籍の表示、転入して来た年月日、住所等を記載《きさい》することが義務づけられている。
居住者の住所は、本籍地に送られて戸籍の附票として保存される。この附票をたどれば当該《とうがい》人物の住所の変遷《へんせん》を追える。
附票から大竹順一の小学二年生から四年生の頃《ころ》の住所が判明した。それは本所《ほんじよ》区|厩橋《うまやばし》二丁目十×番地である。
だが、この住所地はいまの地図の上には載《の》っていない。度重なる地名や住居表示の変更《へんこう》によって、大竹の幼いころの住所地は完全に抹消《まつしよう》されていたのである。
次に檜笠は、墨田区の図書館を訪ねて、いまから四十年前の大竹の小学生時代の東京地図を借りた。その地図と現在の地図を重ね合わせて、本所区厩橋の地名と対応する現在地を探す。こうして現在の住居表示「墨田区本所二の十×」が割り出された。
大竹順一は小学生のころ本所に住んでいたことが判明した。
探し屋チームは早速現地へ行き、年寄、古くからそこに住んでいる商店、町会長、医者などに四十年ほど前に「エッちゃん」という女の子が住んでいなかったかと聞込《ききこ》みをして歩いた。
だが聞込みの網《あみ》にエッちゃんは引っかかってこなかった。四十年前の本所というと、東京大|空襲《くうしゆう》で壊滅《かいめつ》的な打撃《だげき》を受けた所である。土地も人も入れ替《かわ》っていた。ここで檜笠は、「学校へ行くのも一緒《いつしよ》」という大竹の言葉から、本所二丁目の外手《そとで》小学校の卒業生|名簿《めいぼ》を調べその人たちの中でまだ同地域に住んでいる人たちを訪ねて、エッちゃんについて問い合わせた。
こうして、その中の一人から、
「そう言えば大竹順一さんと仲のよいエッちゃんという女の子がいましたよ。苗字《みようじ》は秋山といいました。よくぼくたちは二人の仲のよいのを嫉《ねた》んで『男と女のマンメンジー』などとからかったものです。エッちゃんの家はたしかお父さんが××汽船の船長さんで、当時軍属として輸送船に乗り組んでいるということでした」という情報を得た。
直ちに、××汽船に問い合わされて、当時の「秋山船長」の行方《ゆくえ》が探された。秋山船長の名前は、同社の古い社員名簿に残っていた。秋山船長は昭和二十年三月南方への輸送作戦に従事中、米|潜水艦《せんすいかん》の攻撃《こうげき》をうけて船と運命を共にしたが、その遺族の消息は同社の社友会を通して追うことができた。
こうして本番の対面日当日に、どうせ見つかるはずはないとあきらめていた大竹順一の前に「初恋《はつこい》のエッちゃん」が姿を現わしたのである。
檜笠は、「探し屋のガサさん」の異名をもっている。ガサは、もちろんその名前の一部と捜索《ガサ》を掛《か》けたものである。
東都テレビの長寿《ちようじゆ》番組「大木道夫ショー」の中心コーナーとなっている対面番組「会いたいな、あの人に」を支えてきた人物である。
有名人をスタジオに招き、主としてその人の初恋の人やおもいでの人と対面させるコーナーである。大木道夫ショーのディレクターである彼《かれ》は、番組発足当時息も絶えだえの低|視聴率《しちようりつ》からの脱出《だつしゆつ》に腐心《ふしん》していた。
そこで檜笠が案出した一案が、初恋の人とのテレビでの再会である。すべての人にとって初恋の人は、心の片隅《かたすみ》にほのぼのと烟《けむ》っている遠い青春の幻影《げんえい》にちがいない。青春の入口を彩《いろど》った初恋の人は、すべての人間の甘《あま》くほろ苦い感傷であり、いまはいずこにいかにしある初恋の人の消息を追うことは、帰らぬ若き日への溯行《そこう》である。
これは必ずや対面番組の新|機軸《きじく》となるにちがいないと考えて提案した檜笠の企画《きかく》は採用されて、大木道夫ショーの目玉となった。
だが彼の企画がすんなりと通ったわけではない。対面番組のネックは人探しの難しさにある。消息が判明している人間と対面させても、本人はもちろん、視聴者にもなんの感動もあたえない。
どこにいるのか、生死すら不明の人物の居所を突《つ》き止め、ブラウン管の中に登場させるからこそ、鮮烈《せんれつ》な感動と反応が得られるのである。
まして初恋の人ともなると、その後の消息はおろか、片想《かたおも》いに終った場合は、相手の名前すらわからないことがある。ゲストの魅力《みりよく》も大きい。それぞれが社会の一方の旗頭であり、視聴者《しちようしや》も彼らの初恋《はつこい》の人に会いたいとおもう。「あの人がどんな初恋の人を?」というおもわくは、視聴者の共通の関心事となっている。ゲストと一緒《いつしよ》に驚《おどろ》き、喜び、感動し、あるいは幻滅《げんめつ》したりする。
だが記憶《きおく》の曖昧《あいまい》な、名前すらわからない青春の幻影をどうやって探すのか。それこそ雲をつかむような話ではないかという反対意見を檜笠は懸命《けんめい》に説得して、とにかく企画を通した。
番組がスタートしてから檜笠の探し屋チームの奮闘《ふんとう》によって、「初恋の人」が次々に探し出された。青春の夢《ゆめ》がブラウン管によみがえり、番組の視聴率はうなぎ上りに上った。番組の好調に目をつけた他局が同種対面番組を次々に企画した。だが人探しが想像以上に困難で、みな挫折《ざせつ》し、結局「会いたいな、あの人に」の独走となった。
「地図重ね合わせ方式」は檜笠が発明した人探しのコツの一つである。またその人物の戸籍《こせき》は、人探しにおける全能《オールマイテイ》に等しい武器といってよい。
その他現代ではさまざまな手がかりがある。電話帳、登記|簿《ぼ》、税務事務所、運転|免許《めんきよ》証、各種国家試験資格、出入国記録、各種保険、各種恩給、各種年金、学校、選挙人名簿、成人病、乳幼児|検診《けんしん》リスト、就学リスト、成人式|該当《がいとう》者リスト、等からもその人間の人生の軌跡《きせき》を追える。警察とちがって捜査権《そうさけん》がないので、利用できない公的記録や帳簿もあるが、テレビ局の名声とマスコミのもつ社会的|権威《けんい》によって民間機関としては最大限の手がかりが得られた。
檜笠の人探しは、時の警視総監をして「あれほど巧妙《こうみよう》な人探しをやられたのでは警察の面目まるつぶれだ」と嘆《なげ》かせたというエピソードがあるほどである。
檜笠が人探しに警視総監を嘆かせるような才能と情熱を発揮した根底には、人間に対する飽《あ》くことなき関心がある。つまり彼《かれ》は人間が好きなのである。
ある人物の生活史を追いながら、彼はいつの間にか自分の人生を重ね合わせていることに気がつく。ゲストの初恋《はつこい》の人を探しながら、自分自身の実らなかった夢《ゆめ》の破片を探している。
自分にも「会いたいあの人」が何人かいる。いまは職業として他人のための人探しをやっているが、いずれ定年に達して職を退いたなら、しみじみと自分の人生を振《ふ》り返って、溯《さかのぼ》ってみたいとおもう。
ゲストが捜索《そうさ》を依頼《いらい》する「あの人」は、常に美化された過去の中に在《あ》り、幻影《げんえい》として優しく烟《けぶ》っている。
だが人によっては詮索《せんさく》されたくない過去をもつ。歳月《さいげつ》によって決して風化されることのない、むしろ忘れ去りたい苛酷《かこく》な昔があるかもしれない。過去を溯れる人は幸せな人である。
ゲストはいずれも社会の一方で功成り名|遂《と》げた人たちである。だがそうなったことが、必ずしも幸福とは結びつかない。一方の旗頭たることを維持《いじ》するために、むしろ苛酷な戦いをしている人たちが多い。
そのようなゲストにとって初恋≠ヘ幸福だった過去の破片――それもかなり大きな――であるにちがいない。現在の成功と、幸福を引換《ひきか》えにしたような人々にとって、おもいがけない過去の幸福のかけらは、一つの救いになるだろう。そう信じて、檜笠は熱心に初恋の人を探し歩いていた。
日本画壇の重鎮《じゆうちん》深志龍之介《ふかしりゆうのすけ》がゲストとして出演することを約束《やくそく》した。深志は有名なテレビ嫌《ぎら》いであったが、大木道夫ショーの「会いたいな、あの人に」の評判を聞いた彼が、自分の初恋の人を探してくれるならという条件付きでようやく出演約束を取り付けられたのである。
深志が七|歳《さい》か八歳、小学校一、二年生のとき、両親に連れられて伊豆《いず》東海岸のK温泉で一夏を過ごした。彼はその温泉場で初恋《はつこい》の女性にめぐり会ったのである。
K温泉は、いまでこそ近代的設備を擁《よう》する温泉旅館が数十軒《けん》立ち並ぶ遊興色の濃《こ》い、伊東以南の東海岸の中心地のようになっているが、当時は旅館がたった二軒だけで、交通手段も馬車だけという鄙《ひな》びた湯治場であった。
客も、深志一家と、老人が数組と二十一、二歳の若い女性が一人だけであった。当時はのんびりしていていずれも逗留客《とうりゆうきやく》であった。
「私はすぐに退屈してしまった。海岸はすぐ近くだったが、両親は一人で浜《はま》へ行くことを許してくれず、東京の美術商だった父親は仕事や東京からの来客の応対に忙《いそが》しく、私の相手どころではなかった。私は旅館の内部を全棟《むね》にわたって探険した。他の客の部屋の留守《るす》を狙《ねら》って空巣《あきす》まがいに忍《しの》び込んだりもした。
老人ばかりの滞在《たいざい》客の中の若い女性客は、特に私の関心の的だった。なぜ若い女が、そんな鄙びた辛気《しんき》くさい湯治場に一人で逗留していたのかわからない。凄《すご》い美人で逗留客の関心を集めていた。
私はその女の部屋の前の廊下《ろうか》を故意に行ったり来たりして彼女《かのじよ》の気を惹《ひ》こうとした。ある日彼女は、そんな私に障子を開いてにっこりと笑いかけ部屋の中に招じ入れてくれた。彼女も退屈《たいくつ》していたらしい。私に菓子をくれて取りとめもない話相手になってくれた。それをきっかけに私は彼女の部屋へ入りびたるようになった。
私は彼女に出入りを許されたので、次第に横着になり、彼女の部屋で昼寝《ひるね》をしたり、終《つい》には泊《とま》る≠謔、になった。両親は見知らぬ女の部屋へ泊ることに最初は渋ったが、同じ宿の中のことでもあり、私の機嫌《きげん》を損じたくなかったので、結局許してくれた。
私は彼女と同じ床《とこ》に寝《ね》た。彼女の躰《からだ》は柔《やわ》らかく全身からいい匂《にお》いがした。彼女に抱《だ》かれて眠《ねむ》ると、ふわふわと雲に包まれたようないつも楽しい夢《ゆめ》を見た。どんな夢だったか憶《おぼ》えていないが、幼いころの楽しい夢はすべてその伊豆の温泉宿で見つくしてしまったような気がした。
楽しい夏の日は長くつづかなかった。間もなく両親に連れられて東京へ帰ることになった私は、彼女と別れなければならなくなった。そしてそれ以来彼女に会うことも、その消息を聞くこともなかった。彼女の名前も住所も知らない」
と深志龍之介は語った。まったく手がかりがないといってもよいくらいであったが、檜笠は探し出せないことはないとおもった。
まず当時のK温泉の経営者を探し出して、幼いころの深志龍之介と泊《とま》り合わせた若い美しい女がいなかったか質《たず》ねる。深志自身が言っているように美しい女の独りの滞在《たいざい》は旅館の注意も引いたはずである。また深志ほどのVIPが幼いころ泊ってくれたことを旅館は名誉《めいよ》と心得、記録(宿帳)を残しているかもしれない。
そのとき深志龍之介はややためらいの色をみせながら一枚の変色した古写真を差し出して、
「ここにその女性の写真がある」
「えっ写真があるのですか!」
それならもっと話は早くなると、檜笠が覗《のぞ》き込《こ》むと、
「実はね、面目ない話だが、これは盗《ぬす》んだ写真なのだよ。なにか彼女のおもいでが欲しいなとおもって、彼女が入浴中にバッグの中に入っていた写真を一枚盗んだのだ。バレたら返そうとおもっていたが、なにも言わなかったところをみると気がつかなかったのだろう。いまになってみればこの写真一枚が私の初恋《はつこい》の人の形見というわけだ。もしまだ元気でいればぜひ会いたい」と柄《がら》にもなくテレた表情になった。
深志が示した写真には和服を着た丸いふっくりした若い女が撮《うつ》っていた。
背後には一体の野仏とみえる地蔵尊が見える。彼女《かのじよ》の足元には一匹の白い犬がうずくまっている。
「この写真はどこで撮影《さつえい》されたのですか」
檜笠が質《たず》ねると、
「知らない。しかし宿の近所にそんな石仏がなかったことは確かだ」
「すると、その旅館へ来る前のどこかで撮影したのですね」
「よく憶《おぼ》えていないが、写真の顔は、宿に逗留《とうりゆう》していたときよりも少し若いようだ。この写真だと十七、八|歳《さい》だろう。宿にいたときは二十歳を越《こ》えていたとおもう。それに未成年者の単独の長逗留を宿が許すはずがない」
「若い美しい女が田舎《いなか》の温泉場に独りで長逗留して何をしていたのですか」
「わからんね、おおかた男が来るのを待っていたんだろう」
「しかし、男は来なかったんでしょう」
「私たちが出発した後来たかもしれない」
調査が開始された。K温泉旅館組合に問い合わせて古い旅館の名前を確かめる。組合の話によると、K温泉の歴史は古く、開湯は寛永《かんえい》のころ(一六九二〜一七一一年)遊行僧《ゆぎようそう》が岩礁《がんしよう》の間に湧《わ》く温泉を発見したのが始まりという。明治の初期に銀波館《ぎんぱかん》と大和屋《やまとや》という旅館が二軒《けん》開業して今日の隆盛《りゆうせい》の基礎《きそ》となったそうである。現在大和屋は残って営業をつづけているが、銀波館は火災に遭《あ》って消失し、当時の経営者の息子《むすこ》が町役場に勤めていることが判明した。大和屋には深志一家が泊《とま》った記録はない。経営者は存命であったが、深志が泊ったという記憶《きおく》はなかった。すると残るのは銀波館である。
檜笠は火事と聞いていやな予感が走った。人探し作業の最大の敵は火事である。すべての記録が焼失するばかりでなく、そこに住んでいた人間を四散させてしまう。新しい人が移り住んで来て新たな家を建て別の仕事を始める。火は地形すら変えてしまうのだ。
人探しのオールマイティである戸籍《こせき》すら戦災によって燃えている場合は、戸籍が復元されていても不正確なことが多い。
案の定、銀波館の古い宿帳類は一切焼失していた。
初恋供養《はつこいくよう》
「もしかすると親父が憶《おぼ》えているかもしれませんよ」
経営者の息子《むすこ》の有馬徳一《ありまとくいち》は言った。
「お父さんはお元気なのですか」
「東京の世田谷《せたがや》に隠居《いんきよ》しています。少し耳が遠くなっていますが、まだまだ元気なものです」
徳一の情報に基いて、父親の有馬|徳蔵《とくぞう》の住居へ駆《か》けつける。徳蔵は世田谷《せたがや》区|羽根木《はねぎ》の小ぎれいなマンションに四十歳も年齢《ねんれい》のちがう若い細君と共に住んでいた。息子が「まだまだ元気だ」と言ったときの語調の微妙《びみよう》な響《ひび》きがいまにしてわかった。
「ああ深志先生ですか。よく憶えていますよ。あれはうちが火事になる前でしたから特に印象が残ってます。あの先生がまだ七、八歳のときでしたな、腕白《わんぱく》でいたずらばかりして困ったものです。新たなお客が入る部屋には到着《とうちやく》前に名物の温泉まんじゅうを出しておくのですが、それをみんな食べてしまったり、飼《か》い猫《ねこ》の足を縛《しば》って布団部屋で布団蒸しにしたり、浴槽《よくそう》でトカゲを競泳させたり、まあ次から次によくもいたずらのタネが尽《つ》きないものだと呆《あき》れ返るくらいわるさをしていましたな」
老人は往時を懐《なつか》しむ目をした。茫々《ぼうぼう》数十年の過去へ老人は一瞬《いつしゆん》の間に溯行《そこう》しているようである。
「深志一家が滞在《たいざい》していた同じ時期に若い女性が一人|泊《とま》り合わせていたとおもうのですが、ご記憶《きおく》がありますか。この女性です」
檜笠は、深志から預ってきた件《くだん》の写真を示した。老人はじっと写真に目を凝《こ》らしていたが、
「この女《ひと》はたしかミキさんという人じゃなかったかな。きれいな女の人が一人で一か月くらい逗留《とうりゆう》していたことがありましたよ」
「ミキ‥‥?」
「美しい吉と書いたとおもいます。よしは吉凶《きつきよう》の吉を書きます」
「美吉と書いてミキと読むのですか」
「そうです。名前もきれいだったが、本人もきれいな人じゃったな」
徳蔵老人は茶を運んで来た若い細君に目を細めた。細君と美吉という若い婦人客の記憶を重ね合わせているような目の表情である。
「その美吉さんの消息を探しておるのですが、宿帳の住所など記憶していらっしゃいませんか」
多数の泊まり客の中から、ただ一人のしかも五十年も以前の客の住所についての記憶を求めるほうが無理なことはよくわかっているが、老人の細君を見る目の表情に一縷《いちる》の希望をつないだ。
「あの客は可哀想《かわいそう》なことをしましたなあ。火事で逃《に》げ遅《おく》れて焼け死んでしまったのですわ」
「焼け死んだ!」
「深志さん一家が出発して二、三日後の夜でしたな、原因不明の不審火《ふしんび》が出まして、銀波館が全焼してしまったのです。逃げ出した人たちの中に美吉さんの姿がないので、警察と消防が探すと、焼け跡《あと》から美吉さんの焼死体が発見されたのです」
「お宅が火災に遭《あ》ったのは、深志一家が出発して間もなくだったのですか」
「そうです。深志先生があと二、三日出発を遅らせたなら確実に火事に巻き込まれるところでしたよ」
「焼死体が美吉さんということは、どのようにして確認されたのですか」
「私が確認しました。焼け死んだといいましても、煙に巻かれて窒息《ちつそく》したので、割合きれいな死体でした」
檜笠は落胆《らくたん》した。深志龍之介の初恋《はつこい》の人の行方は悲劇的に確定した。死んでいたのでは、テレビに引っ張り出すことはできない。尋《たず》ね人が故人となっている例はべつに珍《めずら》しくない。
だが旅先で不慮《ふりよ》の災難に遭って客死していたケースは、檜笠にとっても初めての経験である。しかもその旅先が初恋の発生地であったというケースは、おそらくこれから先もあるまい。これで深志龍之介の出演は絶望となった。おもい込みが強かっただけに、失望が激しい。檜笠が脱力感の中に心身を委ねていると、
「いまちょっとおもいだしたのですが、火事の出た前の日に男が来たのです」
「火事の前の日というと、深志一家が出発した次の日あたりじゃありませんか」
「入れ替《かわ》るような形で来た客でした」
「美吉という女性の連れではなかったのですか」
老人が美吉を引金にしておもいだしたとすると、二人の間にはなにか因縁《いんねん》があったのか。
檜笠は、深志が「男を待っていたのだろう」と言った言葉をおもいだした。先に来ていた彼女と旅館で落ち合ったとも考えられる。
「別の部屋を取っていたけど、わしはあの二人はデキとるとにらんどりました」
「別の部屋を取ったのですか」
「女がその男を見る目の色は、他人じゃなかったね。女中が、夜中に美吉さんの部屋から男の声が聞こえたと言っていたから、夜だけ一緒《いつしよ》になっていたとおもうね」
「どうしてそんなことをしたんでしょう」
「そりゃあ二人の仲を人に知られたくない事情があったんでしょう。人目を忍《しの》ぶ不義の仲とかいってね」
「しかし鄙《ひな》びた田舎の温泉宿で、失礼、当時はという意味です、静かな湯治場で用心がすぎるんじゃありませんか」
「絶対に知られたくなかったんでしょうよ。万一|露顕《ろけん》すれば、不義者そこへ直れと手討ちにされるような仲だったら、いくら用心してもしすぎることはない」
さすがに年輪をおもわせる古色蒼然《こしよくそうぜん》たる言葉|遣《づか》いである。
「その男の消息はわかりませんか」
「実はですね、美吉さんの死体はあんまり煤《すす》を吸っていなかったので、火事になったときもう死んでいたんじゃないかと疑われて、火事の後警察が調べたのです。そのとき泊《とま》り客はみんな身許が明らかにされたのですが、その男だけ、火事の後姿を晦《くら》ましてしまって行方がわからなかったのです」
「つまり、その男が美吉さんを殺して逃げたと」
「警察はそのように疑っていたようです。また火事の原因も犯人が証拠《しようこ》を隠《かく》すために放火したのではないかとみていたようでした」
火災の発生時にすでに死んでいれば呼吸が停止しているから、煤《すす》は体内に吸い込《こ》まれない道理である。警察がそれを知っていたということは美吉の死体を解剖《かいぼう》した事実を示す。
「それからね、彼女は妊娠《にんしん》していました。四か月ぐらいだったそうです」
老人が追加した言葉は、檜笠のおもわくを裏書きした。彼女に男がいたことは確認されていたのである。
「男の住所などはわからなかったのですか」
「宿帳は焼けてしまいましたが、女中が男の記入した住所を憶《おぼ》えていまして、そちらを当たったところ偽《にせ》の住所とわかりました」
「名前も当然|偽名《ぎめい》でしょうね」
「男が宿帳に書いた名前も忘れてしまいましたね。なんでも田中とか山本とかいうありふれた名前だったような気がします」
「男の特徴《とくちよう》は憶えていらっしゃいませんか」
「全然|記憶《きおく》がありませんな。なにしろ五十年も以前のことですからね。それにきれいな若い女がいると、その周囲にいる男は見えなくなりますでのう」
老人は、また若い細君の姿を細めた目で追った。
「美吉さんの身内の人は来ませんでしたか」
「それがなあ、美吉さんの住所もでたらめでしてなあ。親戚《しんせき》に知らせたくても、居所がわからんのです。美吉という名前も本当かどうか怪《あや》しいものです。警察も捜査《そうさ》を途中で打ち切りました。テレビはなく、新聞やラジオもあんまり行きわたっていなかった時代ですからなあ。結局、美吉さんは無縁仏《むえんぼとけ》として町役場が葬《ほうむ》りました」
有馬老人の話は以上であった。
美吉の死には犯罪性があったのである。いまとなってはたとえ犯人が判明したとしても時効が完成している。
人探しはここまでであった。檜笠の仕事は美吉の死を突き止めることによって終った。だが、檜笠の気分は釈然としなかった。どうも心にスモッグがかかっていて、吹《ふ》っきれない。
警察も疑ったというが、美吉の死因は曖昧《あいまい》である。彼女の死因が火事に因《よ》るものでなければ、何か。同宿の男に殺されたのであればその動機は何か。いまさらそんなことを詮索《せんさく》したところでなんにもならないことはわかっていたが、持ち前の好奇心《こうきしん》が頭をもたげてきた。
若き(幼き)日の深志龍之介の初恋《はつこい》の相手は非業《ひごう》の死を遂《と》げていた。だがその死因を見届けずには、彼の初恋の行方を突き止めたことにならないのではないか。
檜笠は仕事から離《はな》れて手弁当で探ってみようとおもった。調査の結果をひとまず深志に報告すると、
「そうか、彼女《かのじよ》は死んでいたのか。私たちが出発した二、三日後に死んだとは知らなかった。私はとうに死んだ人のまぼろしを今日まで胸に抱《いだ》いていたわけだ」と彼は寂《さび》しげに言った。
「それで先生、彼女の死因を私なりに少し調べてみたいとおもいます」
檜笠が言葉をつけ加えると、深志は、
「それはぜひやってくれたまえ。私も初恋の人の供養料《くようりよう》のつもりで、費用に関しては多少のお手伝いをしたい」と申し出た。
「いえ費用の方は大したことはありません」
「それでどのように調べるつもりかね。なにも手がかりがないのだろう」
「まず彼女の出身地を探り出すつもりです。身許《みもと》が判明すれば、周辺の人間関係も浮かび上がるかもしれないとおもいます」
「宿帳の住所は偽《いつわ》りだったというじゃないか」
「住所は偽りだったそうですが、美吉という名前は本物かもしれません」
「どうしてだね、住所だけ偽って名前を正直に書くことがあるかね」
「偽名《ぎめい》というものは咄嗟《とつさ》に書き難いものです。本名の一部を使ったり、ごくありふれた名前や友人の名前を借用したりするものです。美吉という名前は、偽名にしては凝《こ》っています。偽名らしくないのです。みきなら三木、みよしなら普通《ふつう》は三好と書きます」
「これが仮に本名であるとしても、これだけではどうにもなるまい」
「ある特殊な姓は、特定の地域に集中していることがあります。姓から出身地がわかることがあります」
「そう言えば私の深志という姓も、長野県|筑摩《ちくま》郡深志の里から発していると聞いたが、美吉という姓は特定の地域に集中しているのかね」
「姓氏辞典を索《ひ》いたところ、美吉という姓は武蔵国《むさしのくに》美吉郷から発しています。平安期の秩父《ちちぶ》郡六郷の一つです。これは現在の埼玉《さいたま》県|秩父《ちちぶ》郡|吉田《よしだ》町と、同郡|皆野《みなの》町|大字野巻《おおあざのまき》一帯、および秩父市大字|太田《おおた》一帯の三説があって、いずれの地域にも美吉姓が固まっております」
「つまり、私の初恋の女性の出身地はその三地域のいずれかというわけだね」
「その可能性はあるとおもいます。そしてそれだけが唯一《ゆいいつ》の手がかりです」
「ねえきみ、その秩父とやらへぼくも一緒《いつしよ》に連れて行ってくれないか」
「先生がご一緒に?」
「ぼくも初恋の女性の出た土地を見たい。見果てぬ夢《ゆめ》の故郷というのかな。その地をこの目で確かめて、できれば作品にしてみたい」
初恋の人の出身地かもしれぬ未知の土地が、深志の青春の郷愁《きようしゆう》となって彼《かれ》の芸術的創作意欲を刺戟《しげき》するのであろう。
「先生がご一緒してくださればなによりです」
檜笠は、深志が関心を示してくれたのが嬉《うれ》しかった。初恋の人は死んでいても、深志の初恋は生きていたのである。
夢《ゆめ》の架橋人《かけはしにん》
対面番組の手順はおおむね次のようになっている。
一、出演予定者から出演の承諾《しようだく》を取りつける。
二、本人から対面希望者の資料や手がかりとなる話を聞く。
三、人探し作業。
四、対面者を発見する。
五、対面者の出演承諾を取りつける。
六、本番、対面のときまで両者を隔離《かくり》する。
深志の場合、四の段階まで行ったのであるが、対面者が死亡していたために五以下が不可能となった。
だが、檜笠は、なんとかこの不可能を可能に変えられないものかと考えていた。死者を出演させることはできない。しかしその原因不明死の真相を明らかにして深志の初恋《はつこい》供養≠ェできれば、深志の出演も可能となり、対面番組に新|機軸《きじく》を打ち出せるかもしれない。
視聴者も初恋の供養に共鳴するだろう。これはいけるぞという予感がしきりにした。もし調査の結果、旧《ふる》い犯罪が明らかにされれば、それはそれで面白い。
「あなたも物好きねえ」
妻にその話をすると、彼女は鼻先でせせら笑った。彼女は檜笠が人探しをするようになった初めからその仕事に懐疑《かいぎ》的であった。そんなことをして何になるというのである。
「初恋の行方など見届けないほうがいいわ。遠い昔の初恋の相手がいまはどこで何をしているかわからないからこそ、いつまでも青春のおもいでとして心の大切な場所にしまっておけるんじゃないの。何十年も経《た》ってからおたがいに皺《しわ》だらけの顔を見せ合っても、幻滅《げんめつ》をあたえるだけよ。そこに古い恋の形見がよみがえったとしてもそんなの初恋じゃなくて老いらくの恋だわ。老いらくの恋というのも適当じゃないわね。そうだわ、チリ紙|交換《こうかん》の恋だわよ。初恋なんて掘《ほ》じくり返さずに長い歳月《さいげつ》の底に埋《う》めておくものよ」
「チリ紙交換の恋とは、おまえも夢《ゆめ》がないなあ」
檜笠が嘆《なげ》くと、
「夢があるから、そっとしておきたいのよ。大体、有名人の初恋の相手をテレビに引っ張り出すなんて趣味《しゆみ》悪いわよ。テレビで束《つか》の間《ま》の再会をして、それだけでしょ。初恋を慈《いつくし》むためではなく、見せ物にしているんじゃないの」
「見せ物にしているわけじゃない。初恋の人は、すべての人の青春の郷愁《きようしゆう》といってよい。出演者が代表者となってその郷愁を叶《かな》えているんだよ。そのことを視聴率《しちようりつ》が証明している」
「そうかしら。プライバシーの覗《のぞ》き趣味じゃないのかしら」
「覗きとはまったくちがうよ。覗き趣味なら、出演者が覗かれるのをいやがるはずだ。若い日の夢を出演者と視聴者が共有したがっているんだよ」
「とにかく私は初恋の人なんかに会いたいとはおもわないわ」
「ほう、きみにも初恋の人がいたのか」
「馬鹿《ばか》にしないで。これでもモテたんだから」
「モテるということと初恋は関係ないような気がするがねえ」
こんな調子でなかなか噛《か》み合わない。仲の良い夫婦であるが、初恋の人探しに関しては意見が岐《わか》れるようである。
それが今回のケースは探す対象がすでに死んでおり、その死因を突き止めようとしているのだから、妻がもの好きというのも無理はない。
檜笠にも妻の考えがまったくわからないではない。テレビにおいてはどんなに真実を追及《ついきゆう》しようとしても、対象をカメラの枠《フレーム》の中に捉《とら》えるための人工性を完全に払拭《ふつしよく》できない。
自然物や、無機物や精神のない動物でも、カメラに再現されたものは真実そのものではなくコピーである。まして精神をもつ人間をカメラで追うとき、それはカメラを意識した人工《ポ》的映像《ーズ》となってしまう。どんなに真実らしく装《よそお》っても、本来カメラのない所にあるべき姿や事相に、カメラが介入《かいにゆう》することによって不自然なポーズとなってしまうのである。
その不自然さを少しでも防ぐために、「本番、対面のときまで両者を隔離《かくり》しておく」のである。その配慮《はいりよ》自体がテレビ上の対面の不自然性を如実《によじつ》に示している。
人生における予期せざる再会とは稀少《きしよう》な偶然《ぐうぜん》によって行なわれるものである。そんな宝くじのような偶然にテレビカメラが行き合わせるはずがないのだ。
しかし、人生で真実そのものばかり追及していては疲《つか》れてしまう。むしろ人生とはわずかな真実と多くの虚偽《きよぎ》と、そして大半の妥協《だきよう》によって成り立っているのではないか。
テレビは、妥協の産物と呼んでもよい。真実ばかりを求めても、それは高望みというものだ。この辺のところで折り合おうではないかという大多数の人間の妥協がテレビを産み、その妥協の中において、少しでも真実に近づこうとするのがテレビの姿勢であり、当為《とうい》ではないのか。
一般《いつぱん》視聴者がその妥協において楽しんでいるのに賢《さか》しら顔をした有識人≠ェ的はずれのくそリアリズムを求める。そんなものは一般視聴者は現実の厳しい生活でうんざりしている。
テレビが製作する架空《かくう》の娯楽《エンターテインメント》においても、映画との妥協がある。檜笠の細君にはその妥協がわからない。いや、わかっていても夫がそんな妥協を支える縁《えん》の下の力持ちとなって骨身を削《けず》っているのが面白くないのかもしれない。
たしかに人生の再会をテレビで果たさせるのは一種のヤラセであろう。テレビで束《つか》の間の再会をしてまたそれぞれの生活へ戻《もど》って行ってしまう。忙《いそが》しい有名人にとってはその再会すら営業活動≠フ一つなのである。
だがテレビの力がなければ一生果たせない再会であることも確かである。つまりテレビが夢《ゆめ》を叶《かな》えてやるのだ。檜笠はその夢の架橋人《かけはしにん》といってよい。そしてそのことに彼は生き甲斐《がい》を覚えているのであった。
美吉が美吉郷出身者ではないかというのは、かなりおおまかな当て推量である。仮にそうであるとしても、本人ではなく、その親や、祖先がそうであるかもしれない。美吉郷を探しても本人の生活史が残っているとはかぎらないのである。
だがいまのところそれ以外に手がかりがない。檜笠は、画面の背景に撮《うつ》っている石仏に目をつけた。それは野や辻《つじ》に里人の信仰《しんこう》の対象として造立《ぞうりゆう》された野仏のようであった。野仏といっても見なれた丸首立像、左手に宝珠《ほうしゆ》、右手に錫杖《しやくじよう》を握った地蔵尊ではなく、舟形の石板に立像を浮彫《うきぼ》りしたものである。忿怒《ふんぬ》の形相《ぎようそう》に八本の手を持ち、さまざまな武器を握《にぎ》っている。足許《あしもと》に三匹の猿《さる》が従う。この野仏から撮影地《さつえいち》を割り出せないか。
檜笠は写真を知己《ちき》の竹下和彦《たけしたかずひこ》に示した。竹下は私大の国文学の助教授で、趣味《しゆみ》として各地の辻や路傍《ろぼう》に置き忘れられている野仏の写真を撮り集めている。彼は素朴《そぼく》な信仰の対象であった土地の野仏が開発の波に圧迫されて次第に居場所を失い、存在を忘れられ、さらに単なる石≠ニして廃棄《はいき》されつつあるのを憂《うれ》いて、せっせとその写真を撮り集め記録を作製している奇特《きとく》な人物である。
竹下は、檜笠の示した写真を注意深く見て、
「これは一般に庚申様《こうしんさま》と呼ばれる青面金剛《しようめんこんごう》ですね。陀羅尼集《だらにしゆう》の正説によれば、『一身四手左辺の上手《うわて》は三股叉《みつまたしや》を把《と》り、下手《したて》は棒を把る。右辺の上手は掌《たなごころ》に一輪を拈《せん》し、下手は羂索《けんさく》を把る。其《その》身は青色、面に大いに口を張り、狗牙《くが》は上出し、眼《まなこ》は赤きこと血の如く、面に三眼あり、頂に髑髏《どくろ》を戴《いただ》き、頭髪《とうはつ》は竪《たて》に聳《そび》え、火焔《かえん》の色の如《ごと》し――形像|並《なら》びに皆|甚《はなは》だ畏怖《いふ》すべし』と記述されてあるように、腕《うで》は四本とされていますが、六本が最も普遍《ふへん》的です。従者は大蛇《だいじや》、鬼、童子、鶏《にわとり》など、持ち物も剣《けん》、香炉《こうろ》、銷《しよう》(すき)、叉《しや》(やす)多様ですが、これは腕が八本で従者に三匹の猿がいます。また猿と関係なしに青面金剛が庚申様として観念されるのが普通ですが、古い庚申信仰では、猿田彦《さるたひこ》と関連して道祖神と習合し、庚申を道祖神、つまり道端《みちばた》の神として祀《まつ》られている例もあります」
さすがに竹下は蘊蓄《うんちく》が深い。だが檜笠が知りたいのは、野仏の身許ではなく、それが造立された場所である。一通り青面金剛のアウトラインの講義≠フ後、竹下は、檜笠の心裡《しんり》を読んだように、
「この形像のものは、私の知るかぎり、いくつもありません。大体、埼玉県の北部から群馬県の南部にこの形像を見かけます」
ようやく核心《かくしん》に近づいて来た竹下の話に、檜笠は身を乗り出して、
「埼玉県の秩父地方はいかがでしょうか」
「秩父にもありますよ」
「ありますか」
「数年前、秩父市域|上山田《かみやまだ》という所で、八本の青面金剛を見つけました。しかし、それは猿を従えていませんでした。ちょっと待ってください」
竹下は立ち上がって書斎《しよさい》からアルバムを取って来た。そこに彼が集録した各地の辻《つじ》仏や道祖神の写真が貼《は》り集められてあった。写真の下に所在地、造立月日、施主《せしゆ》、由来、利益《りやく》などが記入されている。
「これが上山田の八臂《はつぴ》青面金剛です。持ち物は剣だけが残っており、従者は鶏二羽です」
竹下が開いた頁《ページ》には、件《くだん》の写真に登場する青面金剛と似た形像の石仏の写真が貼《は》られている。付記に場所埼玉県秩父郡秩父市大字上山田論面堂前東向、此《こ》の堂は三叉路《さんさろ》の角にあり、造立年|延宝《えんぽう》六|庚申《かのえさる》天七月|朔日《ついたち》、像型日月|八臂二鶏《はつぴにけい》、塔銘《とうめい》奉建立庚申供養石塔基為二世安楽也――と書かれてある。
像型は似ているというよりほとんど同じであるが、従者の構成が明らかに件《くだん》の写真のものと異なる。件の写真の塔銘は人物の背後に隠《かく》れている。
「先生は同じ地域の秩父市域大字太田地区と吉田町と皆野町大字野巻地区に八臂の青面金剛があるという話を聞かれませんでしたか」
「まだその地域は回っていませんが、八臂青面金剛のある可能性は大きいとおもいます。この写真の撮影地がただいまおっしゃった地域とお考えなのですか」
竹下は反問した。
「それを先生にうかがいに来たのです。実はこの写真の撮影地を探しております」
「私も現地へ行って確認していないので、断言はできませんが、可能性はあります」
竹下の協力によって撮影地を群馬県南部と埼玉県北部一帯から秩父地方に絞《しぼ》り込《こ》むことができた。写真の撮影地を、美吉の出身地と結びつけたのは、ほぼ的を射たといってよいだろう。地図で調べたところ、三つの美吉は、ほぼ同一地域に固まっていることがわかった。
行政上は秩父市、吉田町、皆野町に分れているが、皆野町で分岐《ぶんき》する荒川の支流|赤平《あかひら》川添《ぞ》いに下流から上流へ皆野町大字野巻、秩父市大字太田、吉田町が位置していることがわかる。秩父から行くとすれば下流の野巻から当たるのが、足がかりがよさそうである。
檜笠はまず皆野町の町役場に電話をかけて八本の腕《うで》をもつ青面金剛が町域に存在しないか問い合わせた。人探しにおいて最大の武器となるのは、電話である。全国の市外通話がダイヤル化されて、わずかな離島《りとう》を除いてナンバーをダイヤル、あるいはボタンタッチするだけで望む相手を電話口に呼び出せる。国によっては海外にいる人間ともダイヤルで通話できる。
檜笠一人で一か月の電話代が五十万円を越《こ》えて経理に渋《しぶ》い顔をされたこともある。まず電話によって得られるかぎりの情報を集めておく。電話では埒《らち》があかないときだけ出かけて行く。これが人探しのコツであった。
さすがに地元だけあって、野巻地区に該当《がいとう》する庚申像《こうしんぞう》があるという答えがはね返ってきた。地元では「八本様」と称《よ》ばれて古くから信仰《しんこう》の対象になっているそうである。矢は狙《ねら》いたがわず的を射たのである。だが檜笠の真の狙いは、青面金剛ではなく、その近くに「美吉」という女性の生活の足跡《そくせき》を探すことであった。
皆野町役場の答えでは、いまでも野巻地区に美吉姓は固まって残っているということであった。その中に深志の初恋《はつこい》の女性の生活史を探すとなると、電話ですむ用件ではない。
檜笠はいよいよ深志を伴《ともな》って現地へ乗り込むことにした。
秩父市は池袋《いけぶくろ》から西武秩父線で直結されており、皆野町は秩父線で二駅上りの方向へ戻《もど》った所にある。高崎《たかさき》線で熊谷《くまがや》まで来て、秩父電鉄を経由してもよい。
秩父は埼玉県西北部の四囲を山に閉ざされた盆地《ぼんち》状の地の総称である。東京から直線|距離《きより》約七十キロの近きにありながら交通の不便から山国としての閉鎖《へいさ》された独特の文化や伝統を保っている。
皆野町は地誌によれば昭和三年町制施行、同三十二年秩父鉄道が通じた。秩父盆地の北端《ほくたん》に源を発す荒川と支流赤平川の合流点に発達した谷口集落で、町並《な》みは荒川右岸の段丘《だんきゆう》に集まっている。
だが行政、経済の中心は隣《とな》りの秩父市に集まり、観光的には、紀州|熊野《くまの》の瀞八丁《どろはつちよう》に比較《ひかく》される長瀞《ながとろ》がすぐ北隣にあり、町のイメージは旅行者にとって印象が薄いのを免《まぬが》れない。
深志が車に弱いので、電車で行くことになった。池袋から西武秩父線の特急により約一時間三十分で秩父市へ着く。この路線が開通したので、従来、熊谷から秩父電鉄で迂回《うかい》しなければならなかった秩父への距離《アプローチ》が縮められ、関東の秘境であった秩父は東京から直結されたのである。
「この一枚の写真からどうやって割り出したのかね」
途中の列車の中で深志が質《たず》ねた。
「写真に撮《うつ》っている服装《ふくそう》を見てください。ごく普通《ふつう》の普段着です。旅先の旅館からちょっと付近をぶらついているといった感じでもない。それにそばに犬がいるでしょう。犬は見知らぬ人間と写真になんか撮りませんよ。この犬は美吉さんか撮影者どちらかの飼《か》い犬かもしれません。飼い犬を連れて旅行なんかに出ません。すると彼らの自宅の近くで撮《と》ったと考えられます。背景に野仏が撮っているでしょう。野仏を研究している知合いの学者に見せたところ、これは主として埼玉県北部から群馬県南部に多く見られる青面|金剛《こんごう》だということです」
檜笠は竹下の八臂《はつぴ》青面金剛についての講義の概略《がいりやく》をうけ売りした。そして行き着いた皆野町役場から「八本様」の所在地を割り出した過程を話した。
殺意の源流
駅前からタクシーを拾って、
「野巻の八本様へやってくれ」と告げると、
運転手は、
「野巻へは時々行くが、八本様なんて聞いたことがないなあ」と首を傾《かし》げた。限られた狭《せま》い土地の古い信仰《しんこう》の対象であるから運転手が知らなくとも不思議はなかった。ともかく野巻まで行けば、所在はわかるだろうということで車を発進させた。
車は140号線に出て北へ向かった。間もなく市街地から出た。
山峡《さんきよう》の地らしく車窓の風景には起伏《きふく》がある。南方には石灰岩の山肌《やまはだ》を痛々しく剥《む》き出した武甲山《ぶこうざん》が突兀《とつこつ》と聳《そび》えており、周囲に小波《さざなみ》のように連なり折り重なる丘陵《きゆうりよう》を侍《はべ》らせている。秩父セメントの粉塵《ふんじん》によるものか、民家の屋根が灰白色の粉で塗《まぶ》されている。
車は間もなく川を渡《わた》った。運転手が「横瀬《よこせ》川」だと教えてくれた。
車は間もなく皆野町に入った。
そこで檜笠は、皆野町役場からもし現地へ来るようなことがあったら、是非寄ってくれと言われていたことをおもいだした。地元の役場の協力を得られればなにかにつけて都合がよい。
町役場へ車をつけると東京から高名な画家と、テレビ局が来たというので、町長までが挨拶《あいさつ》に出て来た。ここで調査の目的を告げると住民課長が、
「昔は野巻に美吉姓が固まっていたと聞きましたが、現在は美吉姓は一戸もありません」
と言った。平安期に見える郷名なので、それはあらかじめ覚悟《かくご》していたことである。
「それでは現在野巻にはどんな姓があるのですか」と問うと、
「そうですな、倉林や林が多いですな」
と答えて住民課長はおもいだしたように、
「そうだ、四郎兵衛《しろべえ》さんに聞けばあるいは知っているかもしれんな」
半ば独り言のように言った。
「四郎兵衛さんとはどんな人ですか」
「野巻代々の名主の家柄《いえがら》で、あの辺の最長老です。跡見《あとみ》四郎兵衛といいましてね、あと少しで百|歳《さい》に手が届く老人ですが、矍鑠《かくしやく》たるものです。この地域の生き字引ですよ」
住民課長は言って自ら案内役をかって出た。
野巻へは皆野駅前から140号線と分かれて、赤平川沿いに吉田町の方角へ溯《さかのぼ》る。国道と別れて間もなく荒川、つづいて赤平川を渡《わた》った。
五百〜千メートル級の丘陵《きゆうりよう》性の山脈|麓《ろく》を一キロも行かないうちに野巻の集落に着いた。赤平川左岸の丘陵の中腹に民家が点在する小さな集落である。右岸の方がやや開けて耕地が見える。対岸が「太田」だと住民課長が教えてくれた。
住民課長が車の中で語ってくれた野巻の概略《がいりやく》は、「秩父十郎|武綱《たけつな》が牧《まき》を開いたところから地名が由来し、後に野牧が野巻となった。江戸期から明治二十二年までの村名で古くは白鳥《しらとり》荘に属し、幕府領、小浜氏|知行《ちぎよう》、幕府領、関宿藩《せきやどはん》領、幕府領と変遷《へんせん》する。村高は百五十三〜四石、村の規模は東西二十町、南北十八町、民業、産物として、薪採《しんさい》、養蚕、絹、煙草《たばこ》、大豆《だいず》、干柿《ほしがき》、明治九年埼玉県に所属、同二十二年|国神《くにかみ》村の大字《おおあざ》となり、昭和十八年美野町、同二十一年国神村に編入、同三十年国神村が皆野町と合併《がつぺい》したために同町に吸収される。
現在の人口三百五十七人、戸数八十六戸であり、これから訪ねる跡見四郎兵衛は、代々の名主であり、鉢形北条《はちがたほうじよう》氏の家臣の後裔《こうえい》である」ということである。
檜笠は北条氏の後裔などと聞いて緊張《きんちよう》した。中世の古武士が甲冑《かつちゆう》をまとっていかめしく出て来るような気がした。ふと深志の方を見ると、わずか一キロ足らずの車の中でうとうととしかけている。さすがは年の功だと、檜笠は感心した。
「これが写真に撮《うつ》っている八本様です」
住民課長が言って車を停《と》めさせた。街道の傍《かたわ》ら、桑畑《くわばたけ》の端《はし》にそれは安置されていた。確かに写真に撮っている青面金剛である。
街道の埃《ほこり》をかむり、路傍《ろぼう》の草むらの中に立っているが、信者がいるとみえて、供え台の上には枯《か》れた花と線香の束《たば》が供えられてある。
ただし当然のことながら犬の姿はない。あの犬もとうに死んでいるだろう。写真では死角に入っていた塔銘《とうめい》が辛《かろ》うじて読み取れた。――延宝七年七月吉日建之庚申供養百塔共為二世安楽――
延宝七年というと一六七九年であり、翌八年には綱吉が五代将軍の座に就く。竹下和彦が秩父市域で集録した八臂《はつぴ》青面|金剛《こんごう》より約一年|遅《おく》れて建立《こんりゆう》されたものである。
うたたねから覚めた深志は、五十年前|初恋《はつこい》の人が記念|撮影《さつえい》≠オた青面金剛の前に下り立って感慨《かんがい》深げであった。いまは彼女はこの世に亡いのである。檜笠が素早くその姿をカメラに納めて、
「課長さん、どうですか、先生とご一緒《いつしよ》に一枚記念に」
とわざとらしくカメラを構えると、住民課長は嬉《うれ》しげに、
「いやあ、これは光栄です」と表情をくずした。
記念撮影を終えて車に戻《もど》り、跡見家へ向かう。跡見家は街道から山側へ少し入った薬王寺のそばにあった。いかにも歴史を感じさせる茅葺《かやぶ》き屋根の構えの大きい家である。いわゆるかぶと造という破風口《はふぐち》(切妻屋根の合掌《がつしよう》形の板)の大きい入母屋造《いりもやづくり》の屋根は、言葉通り鍬形《くわがた》を張った冑《かぶと》を戴《いただ》いたように威厳《いげん》がある。妻(側面)部分を三層にして採光窓と通風口を穿《うが》っているのは、二階を養蚕室としているのであろう。そんな古格のある屋根に銀色のテレビアンテナが立ちはだかっている。それがアンバランスに感じられないのは檜笠の職業のせいか、あるいはテレビが人々の生活にそれほど普及《ふきゆう》したせいであろう。外壁《そとかべ》の土塗《つちぬ》りの真壁にはひびが入って崩《くず》れかけており、腰《こし》に張った杉皮《すきかわ》も剥《は》がれかかって年輪を感じさせる。
土間に入ると、暗い屋内に目がなじまなかった。住民課長が案内を乞《こ》うている間に徐々《じよじよ》に目が馴《な》れてきた。建物の平(前面)右寄りに入り口があり、入った土間は裏手まで通じている通り土間となっているらしい。左手に座敷《ざしき》があり、土間の奥《おく》は勝手のようで食物を煮焚《にた》きするにおいが漂《ただ》って来た。土間の右手は物置きになっているが、以前の家畜《かちく》小屋か厩《うまや》の名残《なご》りらしい。土間の天井《てんじよう》は一部|吹《ふ》き抜《ぬ》けになっていて煤《すす》で黒光りする扠首《さす》(茅葺《かやぶき》屋根の合掌形の木組)が見える。
奥の勝手口に人の気配があり、土間に添《そ》った式台を伝って中年の女が出て来た。
「やあ四郎兵衛さんはおられるかの」
顔なじみらしい課長が挨拶《あいさつ》抜きで話しかけた。女は前掛《まえか》けで手を拭《ふ》きながら、
「隠居屋で猫《ねこ》の蚤《のみ》でも取ってるじゃろう」
と答えて、怪訝《けげん》な視線を檜笠と深志に向けた。
「東京からお客さんだ。ちょっと聞きたいことがあると言ってくれんかの」
「爺様《じさま》に東京から客だって、ま、何の用だべ」
主婦の顔が好奇心《こうきしん》に塗《ぬ》られた。
「こちらは画家の偉《えら》い先生とテレビ局の人だ。早く取り次いでくれろ」
「うんまあ、テレビだと!? うちの爺様がテレビに出るんですか」
主婦の表情が早合点の驚愕《きようがく》を浮かべた。
「そんなことになるかもしんねえな。その件で爺様にちょっと聞きたいことがあるんだ」
課長が彼女の早合点を促《うなが》すようなことを言った。檜笠が訂正《ていせい》しようとするより早く、主婦は足音も慌《あわただ》しく奥《おく》の部屋に駆《か》け入り、「爺様、大変だよう。東京からテレビが来ましたよ」と抑制《よくせい》をかけない声で呼んだ。
奥座敷《おくざしき》から髪《かみ》も眉《まゆ》も真っ白の気品のある老人が出て来た。枯《か》れてはいるが、乾枯《ひから》びた感じはまったくない。年月の経過の中に人間の生ま臭《くさ》い凝脂《ぎようし》が脱《ぬ》け落ちて純化したような雰囲気《ふんいき》をまとっている。腰《こし》が少し曲がっているが、それも気になるほどではない。その老人が、野巻の長老、跡見四郎兵衛であった。
老人は穏《おだ》やかな視線を都会から突然訪問して来た未知の二人の客に当てて、
「この私に何ぞ用事ですかな」と質《たず》ねた。
落ち着いた声音《こわね》であり、まったく老耄《ろうもう》は感じられない。課長が手短に二人の訪意を伝えると、
「それはまあ遠方からこんな草深い所へようこそいらせられましたな。この老人でお役に立つことがあったら喜んでお手伝いいたします。まあとにかくお上がり下さい」
と奥へ招じ入れてくれた。左手は二部屋続きの座敷が田の字形に続き、中廊下《なかろうか》をおいてその奥に隠居《いんきよ》屋≠ェあった。この家で最も上等の部屋であり、老人が長老として家族の尊敬を集めているのがわかった。
改めて初対面の挨拶《あいさつ》を交して、件《くだん》の写真を示しながら、もしや彼女の野巻における生活史を知らないかと質ねると、老人はしばらく写真を凝視《ぎようし》していたが、
「ずいぶん古いことなので確かではないが、たよさんに似ているような気がしますな」
と言った。
「たよさんとおっしゃいますと」
手応《てごた》えに、檜笠と深志は身体《からだ》を乗り出した。
「当時はまだ村に美吉姓の家が何戸かありましてなあ、その中の一|軒《けん》にたよという娘さんがいましたよ。器量よしで、野巻小町といわれたもんです」
「そのたよさんはどうなさいましたか」
「ずいぶん近在の若い衆に騒《さわ》がれていましたが、そんな器量をこんな草深い所にくすぶらせておけなくなって十八か九のとき、東京へ出て行きました。その後たよさんの親も一家してどこかへ引っ越《こ》して行って、行方知れずになってしまいました。その後しばらくしてなんでも偉《えら》い政治家の二号になったとか、いや死んだとかいう噂《うわさ》を聞いたような気がしますが、よく憶《おぼ》えておりませんな。遠いことです」
「たよさんの両親の転居先は、戸籍簿《こせきぼ》を見ればわかるでしょうね」
転居先を辿《たど》って行っても、たよ自身が生きていれば七十代である。両親は故人になっているであろうが、もしたよのきょうだいでも存命していれば彼女《かのじよ》の生活史を追えるかもしれないとおもった。
「その件ならば私が調べましょう」
住民課長が口をはさんだ。
「ちょっと待ってくださいよ。この写真は八本様だが、同じ様な写真を見たような憶えがあります」
老人の記憶《きおく》は刺戟《しげき》をうけているらしい。
「同じ様な写真といいますと、たよさんが撮《うつ》っている写真ですか」
檜笠は気負い立った。
「いや、たよさんではありませんがの、同じような構図というんですかな」
「同じ構図の写真をどこでごらんになったのですか」
「古いアルバムです。我が家にあります」
「お宅に!」
檜笠は愕然《がくぜん》として、
「そのアルバムをちょっと拝見させていただけませんか」と言葉を重ねた。地元の信仰《しんこう》の対象であるから同じ場所で撮影した写真はあるだろう。だが檜笠は「同じ構図」という言葉に期待をかけた。同じ構図はなかなか得られるものではない。あるいは老人の古い記憶が同じ場所での撮影を同じ構図と認識したのかもしれない。
どちらにしても確かめる価値はある。
「ちょっと探してみましょう」
老人は軽やかな身のこなしで席を立った。
しばらく別間でアルバムを探していた四郎兵衛老人は、三人が待ちくたびれかけたころようやく手に部厚いアルバムというより古書のような写真帳をかかえて戻《もど》って来た。
「やあお待たせしましたな、なにしろ五、六十年も前のアルバムですので、探すのに手間がかかりましたわい。しかしようやっと探し出しました。この写真です」
老人は変色した古い写真が貼《は》りつけてある、綴《と》じ付けが崩《くず》れてばらばらになりそうなアルバムのとある頁《ページ》を開いた。頁を開く際、かび臭《くさ》い埃《ほこり》が漂《ただよ》い、頁がバリバリと音をたてた。
四郎兵衛老人が指し示した写真に頬《ほお》の削《そ》げた目の鋭《するど》い男が写っている。右|眉《まゆ》の上にうすい傷痕《きずあと》があって、そのために右眉が薄く見える。背景に八臂《はつぴ》青面|金剛《こんごう》の石像が見える。
「同じ場所ですじゃろう。この男に見憶《みおぼ》えはありませんかの」
老人が言った。老人の言葉には、含《ふく》みがあった。檜笠と深志は人物に目を凝《こ》らしたが、見憶えはない。
「この人は我が村の誇り、土門大介《どもんだいすけ》ですじゃ」
「土門‥‥あの土門銀行の」
「そうです」
「土門大介はこちらの村の出身だったのですか」
「そうですじゃ」
四郎兵衛老人の頬《ほお》に得意げな表情が浮かんで、
「小学校に銅像が立っています。村にもいろいろと寄付をくれましてな、おかげで村はたすかっています」
檜笠は改めて写真を見つめた。現在の土門大介は贅肉《ぜいにく》と貫禄《かんろく》を蓄《たくわ》えだいぶ様子が変っているが、言われてみれば特徴《とくちよう》を伝えている。写真を凝視《ぎようし》した檜笠があっと声を出した。
「どうしましたな」
四郎兵衛と深志が檜笠に視線を集めた。
「写真の端《はし》に犬の後半身がわずかに撮《うつ》っています。白い犬であることがわかります。美吉さんの写真にも犬が撮っています。その体形を比較《ひかく》して同じ犬であることがわかります。同じ犬が画面に入って来ることは同一機会の撮影でもなければまずあり得ません。現に、美吉さんの画面では地上に坐《すわ》っていた犬が、土門氏の画面では立ち上がって去りかけています。一瞬《いつしゆん》シャッターを切るのが遅《おそ》ければ、犬は画面に入らなかったでしょう。つまりこの二枚の写真は同一機会に連続して撮影《さつえい》されたことを示すものです。犬の動きから察して美吉さんが先、土門氏が後でしょう。二人はたがいを被写体にして同じカメラで撮り合ったのです」
「なるほどそういうことになりますかのう」
四郎兵衛老人が感心した表情になった。
四郎兵衛老人から土門大介の写真を借り出した檜笠は、帰京して、その足で有馬徳蔵の家へ赴《おもむ》いた。件《くだん》の写真を示すと、徳蔵は言下に、
「おう、おもいだしましたよ。この男にまちがいありません。右の眉《まゆ》に傷跡のようなものがあるでしょう。そのために右眉のほうが左より薄く見えます。この削《そ》げた頬《ほお》と細い目にも記憶《きおく》があります。まちがいなく、あのとき泊《とま》っていて火事の後姿を晦《くら》ました男です」
有馬は写真の男を指さして断言した。
「それではおうかがいしますが、土門大介という人物をご存知ですか」
「いいや知りません」
「財界の大御所で、土門銀行の総裁、民友党のかげの総裁といわれている人物です」
「ああ、あの土門大介なら知っていますよ」
「この写真の男は若いころの土門大介なのですが、いままで気がつきませんでしたか。新聞や雑誌によく写真が出ていましたが」
「そういわれれば顔の輪郭《りんかく》に似たところがありますな。しかし、まさかあの大物の土門大介があの男とは、ちょっと信じられませんね」
「その男が土門大介であることは証明されているのです。あなたは、写真の男が、火事の後、姿を晦ました男であることを断言できますか」
「断言できます。もしかすると私の旅館に放火して、美吉さんを殺した犯人かもしれないのですから、よく憶《おぼ》えております」
有馬徳蔵の口調には自信があった。写真によって記憶が磨《みが》かれた様子である。
初恋代理人
地元の古老の証言によって意外な人物が割れた。彼は郷土の誇りとして、出身地に銅像を建てられたほどの人物である。しかもまだ現役の財界の大御所として活躍《かつやく》している。
檜笠の胸に次第に一つの構図が描《えが》かれてきた。土門大介は美吉たよとつき合っていた。将来を約束《やくそく》したか、あるいは土門にとっては単なる一時の遊びであったのか、本人に確かめないかぎりわからない。
いずれにしても男にとって、女はうっとうしい存在になってきた。そのうちに女はお定まり通り妊娠《にんしん》した。男は時を同じくして土門家から婿《むこ》に望まれた。男はためらいなく堕《おろ》せと命じ、女はいやだと言い張る。
男にとって女は危険きわまる存在に変っていた。男にせっかく運が微笑《ほほえ》みかけてきた矢先に、女の存在と、しかもその女が妊娠した事実が土門家に知られれば、すべてがご破算になる。
檜笠は自分の推測を深志龍之介に話した。
「わしも同じことを考えておったんだよ。土門大介が自分の栄達を阻《はば》むものとして女を殺して火を放《つ》けたのにちがいあるまい」
「大変な人物の途方《とほう》もない過去を暴き出してしまいましたが、証拠《しようこ》は薄弱ですね。それにもう時効になっている」
「土門大介は日本にとって獅子《しし》身中の虫だ。やつはまず土門家に取り付き、次に日本の国家を食い物にしてあれまでに太った。なんとか一矢酬《いつしむく》いてやりたいな」
深志は、初恋《はつこい》の人を殺した容疑者に反感と闘志《とうし》をかき立てられたようである。
「なにしろ、五十年も前のことですし、たった二枚の写真だけが証拠ですからね」
「きみ、土門大介をなんとかきみの番組に引っ張り出せないものかな。彼はあまりマスコミ嫌《ぎら》いではなさそうだが」
深志がなにかをおもいついた表情をした。土門は以前はマスコミ嫌いで通っていたが、数年前からよくマスコミに顔を晒《さら》すようになった。
インタビューや写真|撮影《さつえい》にも応じ、テレビにも時々登場している。
「テレビに出してどうするのですか」
「彼の初恋の人として、写真と対面させるのだよ」
「自分が殺したかもしれない昔の女を初恋の相手として挙げないでしょう」
「彼がどんな初恋の人を探せといってもかまわない。その相手を探す振りをして例の写真と対面させるのだ」
「出演者の犯罪を暴くようなことはいたしませんよ。もともと遊びの番組ですからね」
「私が土門に対面したらどうかな」
「先生が?」
「土門の初恋の人は死んでいた。その代りに初恋の人に縁《ゆか》りの深い人間を探し出して来たということにする」
「先生が土門の初恋の人の代理人として出演されるのですね。面白いとおもいますが、対面してからどうされるおつもりですか」
「私がK温泉で五十年前土門と出会ったということにして彼の反応を見たい。彼が脛《すね》に傷をもっていれば、それだけでかなりこたえるはずだ。時効が完成しているとしても、昔の恋人の死体の上に今日の成功を築き上げている土門に、成功の下敷《したじき》になっている犠牲《ぎせい》の真相を知っている者がいるということを知らせてやるだけでも痛快じゃないか」
深志は、すっかり自分のおもいつきに酔《よ》っているようである。
檜笠も少し傾《かたむ》いてきた。土門と深志を対面(対決)させるだけでも呼び物になる。テレビで深志が土門の旧悪を暴いたら、大ショックとなる。番組関係者は馘《くび》になるかもしれない。少なくとも始末書ぐらいではすむまい。対面番組において特に留意されなければならないことは、出演者のプライバシーである。この種のトークショー番組の使命は、報道でも事実の記録でもなければ社会正義の追及《ついきゆう》でもない。視聴者《しちようしや》と出演者が一体となって楽しむところに番組の意義がある。
これが出演者の弾劾《だんがい》の場となったら、番組の方向が異なってしまう。
それはよくわかっていた。わかっていながら檜笠は、土門と深志の対決≠ノ強い誘惑《ゆうわく》を覚えていた。土門が数年前からマスコミを避《さ》けなくなったのは、時効がとうに完成していることと自分の旧悪実行当時の顔を知っている可能性のある者がおおかたいなくなったという安心感、あるいはいても、忘れているだろうという楽観からであろう。
その楽観の通りに、有馬徳蔵は現在の土門大介と火事の後、姿を晦《くら》ました男を結びつけられなかった。土門大介は五十年の歳月《さいげつ》の間に一見別人のように変貌《へんぼう》していた。
土門の楽観と、倨倣《きよごう》に揺《ゆ》さぶりをかけてやりたい。たとえ時効が完成していても、彼の昔の凶悪《きようあく》犯罪は、今日の位置と名声に影響《えいきよう》せざるを得まい。いや位置と名前が巨大であるからこそ影響するのである。
土門を引っ張り出せさえすれば、後はこちらの料理のままである。その後の波紋は、後になってから考えればよい。下手《へた》をすると名誉|毀損《きそん》で訴《うつた》えられるかもしれない。檜笠にとって火中の栗《くり》を拾うようなものである。だが危険が大きければ大きいほど、誘惑も大きい。
檜笠の心裡《しんり》の動揺《どうよう》を敏感に読み取ったらしく、深志はつづけた。
「土門が出演を承諾《しようだく》すれば、彼は無難な初恋≠フ資料をきみにあたえるだろう。きみはその資料に基いて一応探す振《ふ》りをするのだ。そして彼を安心させておく。あるいは彼のことだからヤラセの初恋の人を用意するかもしれない」
ヤラセはテレビ局の専売特許のようにとられているが、出演者がヤラセをしてテレビ側を欺《あざむ》くこともある。対面番組の場合、出演者と対面者の間にあらかじめ連絡《れんらく》や了解《りようかい》があって、いかにも本番で感動の対面≠した如《ごと》く装《よそお》うのである。しかしこのような芝居《ヤラセ》は、たいてい探し屋の慧眼《けいがん》によって見破られてしまう。
「まずスタッフから欺かなければなりませんね」
檜笠は言葉をはさんだ。土門の出演交渉の真意を正直に話せば、企画《きかく》の段階ではねられてしまう。番組製作スタッフ、関係者一同にこれまでの出演者とまったく同様におもい込《こ》ませなければならない。真相は本番の直前まで伏《ふ》せておく。真相は本番において初めて明らかにされる仕組である。
従前の対面者は、大木道夫とスタッフの一部にだけは知らせて待機させておいたが、今回はだれにも知らせることはできない。
「そうだ。大木道夫にも真相は話せない。彼には適当な造り話をしておけばよい」
「今回は先生が大木さんの役目も兼ねることになりますね」
「どうだね、やってみないかね。日本をきれいにするために一役買ってみないか」
「先生にとっては私怨《しえん》ですか、公憤《こうふん》ですか」
「両方だよ。私はああいう手合いが汚《よご》れた金で政治を操っているのが我慢《がまん》ならないのだ」
「どれほどの掃除《そうじ》ができるかわかりませんが、一臂《いつぴ》の力を添《そ》えてみましょうか」
「きみがその気になれば、一臂どころか、大変な力になるよ」
檜笠と深志の間に作戦は成った。企画会議で、檜笠がさりげなく土門の名前を出すと、難なくパスした。これまであまり大物なので敬遠されていたが、檜笠の説得には自信があるという言葉に、採択《さいたく》されたのである。
早速、土門との間に出演交渉が始められた。初めは秘書によってそのような軽薄番組≠ノは一切出演しないと素気《すげ》なく断わられたが、土門のような、庶民《しよみん》から超絶《ちようぜつ》した大立物《ビツグ・シヨツト》にも初恋《はつこい》≠ェあったという事実を広く紹介すれば、土門銀行が庶民の銀行として親しまれるようになるだろうと、檜笠は熱心に説得したので、遂に出演を承諾《しようだく》した。
土門大介が初恋の人としてあげたデータは次のようなものであった。
彼《かれ》が土門家の書生をしていた頃《ころ》、友人の家の近所の豪邸《ごうてい》に大谷恵子《おおたにけいこ》という美しい令嬢《れいじよう》がいた。私立の名門S女子学園の学生で、土門家から大学へ通学していた彼と電車の中でよく一緒《いつしよ》になった。一緒になるように彼が工作をしたのであるが彼女《かのじよ》は大介を一顧《いつこ》だにしなかった。貧しい書生など眼中になかったのであろう。
彼は募《つの》る想《おも》いの丈をせっせと書き綴《つづ》り、遂《つい》に一大決心の下に彼女に手渡《てわた》そうとした。ところがいよいよ決行≠ニいう朝になって、当時の有名な陸軍大将が彼女の隣席《りんせき》に坐《すわ》っていた。
そこで彼は出鼻を挫《くじ》かれた形になって、遂に一世一代のラブレターを渡し損なってしまった。その後もなんとなく気合いが抜《ぬ》けたようになって、遂に再び機会のないまま、二人共学校を卒業し、彼女の姿を見かけることもなくなった。その後彼女の家は戦災で焼失して、一家の消息も聞かない――
このデータを一見して檜笠は、ヤラセを感じた。当時の陸軍大将が電車で通勤していて彼女の隣席に坐っていたというのもできすぎた話であるが、――友人の家の近くの「大谷」という邸《やしき》の令嬢、当時S女子学園に在学――というデータは意を尽《つく》している。
まず、想い出の発祥地《はつしようち》が明らかである。相手の名前と住所が判明しており、現在の消息を追う手がかりがあたえられている。探し屋にとっては理想的なデータが三拍子揃《さんびようしそろ》っているのである。
早速、S女子学園に問い合わせて、土門大介の「初恋の人」大谷恵子の現在の消息が判明した。ただ一回の電話問い合わせで埒《らち》があいた。簡単すぎて拍子抜けのする人探しであった。
だがそれは当初から予期していたことであり、大谷恵子、現在は結婚して正岡《まさおか》姓――は囮《おとり》≠ノすぎない。
段取りができたところで、檜笠は計画をP・Dの中沢信彦《なかざわのぶひこ》に打ち明けた。この計画はP・Dすなわちプログラム・ディレクターの協力なしには実行できない。
P・Dは副調整室の実権を握《にぎ》り、番組の放送《オンエア》を担当する責任者である。副調整室はスタジオに隣接《りんせつ》してスタジオのマイクとカメラから送られてくる音響《おんきよう》と映像をオンエアに適する音量、音質、映像に調整する、いわゆる放送現場の戦闘《せんとう》指揮所≠ナある。
オンエアに携《たずさ》わるタイムキーパー、スイッチャー、スタジオ内のF・D(フロア・ディレクター)、カメラマンなどもすべてP・Dの指示に従う。P・Dの上に職制として番組|全般《ぜんぱん》の主宰《しゆさい》者であるプロデューサーがいるが、副調整室内での進行はP・Dが握っている。
たとえプロデューサーの意に反する放送が行なわれて、彼がカメラを換《か》えるように命じても、P・Dの許可がなければ、カメラは切り換《か》えられない。
プロデューサーとP・Dの関係は、実力による力関係であり、プロデューサーの実力が大きければ、P・Dも単なるダミーになってしまう。
だが中沢はテレビが独占|免許《めんきよ》の上にあぐらをかき、番組製作を下請《したうけ》に委ねて、単なる電波発射機関≠ノ堕落《だらく》する傾向《けいこう》の強い中で、ヤル気十分の硬派《こうは》ディレクターであった。批判精神と問題意識が強く、常に新しい番組を開発しようとする意欲に燃えている。編成が企画《きかく》し、営業が売ってきたものを命じられた通りにつくり、電波として発射するのではなく、自己表現と主張の媒体《ばいたい》としてテレビに拠《よ》って立つ放送人としての気骨をもっている。そんな人柄《ひとがら》を見越《みこ》して打ち明けたのである。檜笠が「会いたいな、あの人に」の企画を出したとき全面的に支持してくれたのも彼《かれ》である。
中沢がノーと言えばこの計画は成らない。だが檜笠は成算があった。すべての膳立《ぜんだ》てを調《ととの》えたうえで中沢を口説《くど》けば、彼は必ず乗ってくると踏《ふ》んでいた。
案の定、中沢は強い興味を示した。
「ガサさんのことだから、ウラは十分に取ってあるんだろうな」
中沢は強く光る目を向けた。心中の好奇心《こうきしん》と問題意識に点じられた火が、反映している眼光である。
「その点は責任をもつよ。土門大介をテレビに引っ張り出してギャッと言わせてやりたい」
「もし失敗したら、おれたちがコレになるだけではすまないぞ」
中沢は首を手刀で打つジェスチャーをした。
「中沢さん、あなた次第だよ」
檜笠は、中沢の目を凝視《ぎようし》した。二人の目が宙にからみ合って火花を発した。
「いいだろう。危険を承知で、その橋|渡《わた》ってみよう」
中沢がうなずいた。ここに前代|未聞《みもん》の「初恋の人、仇討《あだうち》作戦」は実行に向かって動き始めたのである。
拾い上げた因縁《いんねん》
×月××日朝、東都テレビHスタジオは緊張《きんちよう》していた。久しぶりに迎《むか》えた超《ちよう》大物ゲスト土門大介の登場とあって、スタッフ一同も常になく硬《かた》くなっていた。めったにこの種のテレビ番組に出ない土門を引っ張り出したのである。番組オンエア前からスタッフの気の遣《つか》いようは大変なものであった。
芸能界ニュース、身上相談、海外取材もの、映画紹介《しようかい》などの各コーナーを順調に消化して、土門の出番が近づいてきた。スタジオ|生中継《なまちゆうけい》であるので、撮《と》り直しがきかない。一発の真剣《しんけん》勝負である。
土門大介がF・Dに導かれてゲスト席に就いた。大物らしく悠然《ゆうぜん》たる態度である。人に傅《かしず》かれることに馴《な》れた人間らしく、万事大風な姿勢に年季が入っている。ソファの腰《こし》かけ方にしても局で「政治家スタイル」と呼んでいる、深く腰《こし》を入れ、背もたれに上体をゆったりと預け、両手を肘《ひじ》かけにおき、股《また》をやや開きかげんにした尊大な格好である。
サラリーマンやサービス業者は決してこのような腰かけ方はしない。
時間が迫《せま》った。F・Dが秒読みを始めた。|OA《オンエア》ランプが点灯した。
「だれにもある初恋《はつこい》の想い出、それは甘《あま》くほろ苦い青春への郷愁《きゆうしゆう》であり、過ぎ去った若い日への帰らぬ永遠の挽歌《ばんか》です。今週の『会いたいな、あの人に』のゲストに非常に珍《めずら》しいお客様をお招きいたしております」大木道夫の堂に入った導入の紹介と共に土門大介の顔がOAモニターにクローズアップされた。
およそ青春の門口を彩《いろど》った純真な初恋のイメージとは馴染《なじ》まないふてぶてしく厚ぼったい顔である。だがそのコントラストが著しいほど視聴者《しちようしや》の興味は盛り上がるのである。
「今朝のお客様は土門大介さんです。と申し上げれば、改めてご紹介するまでもなく皆様ご存知の方が多いとおもいますが……」
大木道夫の紹介によって土門が心もち会釈をした。副調整室では中沢がモニターを凝視《ぎようし》しながら、次に起きるべき場面を予想してのどがひりひりするような緊張《きんちよう》を覚えていた。
「1カメ、ゲスト・アップ」
「2カメ、ゲストのフルショット(全景)」
中沢の指示の下にスイッチャーの寺田の指が忙《いそが》しく動く。
「さて土門さんの会いたい初恋の人は、どんな方でしょうか」
大木道夫の呼びかけと共に対面者登場という段取りになっている。土門は泰然自若《たいぜんじじやく》としている。彼《かれ》には現われる予定の人間がわかっているので驚《おどろ》きも感激《かんげき》もない。ただ土門がテレビの対面番組に出演した事実に意義があるのである。
深志龍之介がスタジオに登場してきた。一瞬《いつしゆん》スタジオと副調整室内が茫然《ぼうぜん》とした。深志と檜笠と中沢以外のスタッフは、女性が入場して来ることを予測していたのである。大木道夫が言葉を呑《の》んだ。土門の表情が不審《ふしん》の色に塗《ぬ》られた。スタッフ一同があっけに取られた。全国視聴者は局のミスかとおもった。
これは台本にはない人物の突然《とつぜん》の登場であった。大木は当惑《とうわく》していた。台本で打ち合わされた人物とは別人が出て来たために紹介ができないのである。
「何だ? ミスったな。三カメ、三カメ!」
中沢の背後のテーブルに陣取《じんど》っていたプロデューサーの佐伯《さえき》が立ち上がってどなった。スイッチャーの寺田がどうしますと問うように中沢の顔をうかがった。
「ミスじゃない。そのまま、一カメ、そのまま」
中沢は平静な顔色で指示した。三カメは、生番組ではなにが起きるか予測できないので不測の事態に備えて、CM用に待機しているCMガールを撮《と》っている。
佐伯は不安げであったが、中沢が落ち着いているので、なにかわけがあるのだろうとおもい直して、席へ戻《もど》った。
その間に深志はゲストの隣《とな》りの対面者席に坐《すわ》った。
「深志龍之介です」
深志は怪訝《けげん》の色を濃《こ》くしている土門と、大木の方を半々に見ながら挨拶《あいさつ》をした。
「今朝はまた実に珍《めずら》しい対面者がお見えでございます。日本|画壇《がだん》の重鎮《じゆうちん》、深志龍之介先生が、土門大介さんの初恋《はつこい》にどのように関《かか》わっておられるのでしょうか。きっと視聴者の皆様の予想外な青春の想い出があるのでしょう。土門さん、深志先生にはどのようなおもいでをもっておられるのでしょうか」
さすがに大木は場数を踏《ふ》んでおり、如才《じよさい》なくその場に対応した。
「深志先生はもちろん画を通して存じ上げておりますが、私にもさっぱり見当がつかないので困っています。私は深志さんに初恋をしたことはありませんなあ」
土門が不審《ふしん》の面持ちで言った言葉がスタジオ内の一般ゲスト席の笑いを誘《さそ》い、雰囲気《ふんいき》が和やかになった。総合司会者の大木にすらゲストと対面者の関係を知らせていなかった様子が画面によく現われていて、巧《たく》まざるリアルな効果を出している。
「それでは深志先生にゲストとの初恋の関わりをお話いただきましょうか」
大木は束《つか》の間《ま》の当惑《とうわく》から立ち直ってきた。
「うん、いいぞ、なかなかいい」
不安げだった佐伯が、うなずいた。
「実は、土門さんの初恋の人はとうに世を去っておられまして、私がその女性に多少の縁《ゆか》りがありましたので、本日代理として参ったわけです」
「ははあ、おなくなりになられた。つまり深志先生は初恋の人の代理人としてお見えくださったのですね」
大木が如才《じよさい》なく合《あ》い槌《づち》を打ちながら、台本にない窮地《きゆうち》の収拾を図るために必死に頭をめぐらしている。土門の初恋の人は健在であり、檜笠が探し当てて出演時間までにスタジオに到着《とうちやく》するはずである。――と台本ではなっている。それがどうしてこんなことになったのか。
大木はいまにしておもい当たった。対面者によんどころない事情があって、出演直前まで来られないということで、大木は対面者に事前に会わせてもらえなかったのである。
対面者の出演|承諾《しようだく》が本番直前まで取り付けられないことは別に珍《めずら》しくないので大木は特に不審《ふしん》をもたなかったが、こういう仕掛《しか》けがしてあったとは気づかなかった。
台本にない即興がリアルな効果を出すことがあるが、司会者までもつんぼ桟敷《さじき》におくのはやりすぎではないか。大木は冷や汗《あせ》のかき通しであった。だがそれを表に現わすことはできない。
初恋の人が死んだと聞いたとき、土門の表情にかすかな不安の気配が浮かんだ。それをカメラが素早く捉《とら》える。
「そうです。実は土門さんの初恋の女性は、私にとっても初恋の人でして、つまり私たちは初恋のライバル同士だったのです」
「初恋のライバル、お二人が! これはますますもって奇《く》しき縁《えん》ですねえ。土門さんをご存知だったのですか」
大木が身体を乗り出した。困惑《こんわく》を好奇心《こうきしん》が克服《こくふく》しかけている。スタッフが固唾《かたず》をのんで見守った。スタジオ内にぶっつけ本番のハプニングによる緊張《きんちよう》が張りつめている。
「ぼくにはまったく憶《おぼ》えがないが」
土門の面には不安と当惑が重なっている。それがヤラセにない素顔を出させていた。
「土門さんはご存知ないことです。ぼくだけが一方的に知っていたのです」
「とおっしゃいますと、土門さんにはライバルの意識はないわけですね」
大木が必死に割り込《こ》む。割り込みの会話を転がしている間に台本なしの即興ハプニング劇のイニシヤチブを取ろうとしているのである。
「ございません。なぜなら土門さんは彼女の愛《ハート》をすでに射止めており、私はそれを横から眺《なが》めていたのですから」
「ほう、土門さんは、彼女のハートを射止めておられたのですか。すると、土門さんには実った初恋というわけですね。その女性はどんな方だったのですか」
カメラが切り換《かわ》って、土門の表情がクローズアップされた。不審《ふしん》と不安の色が濃《こ》くなっているのがわかる。即興の効果がよく現われている。
「二カメ、もっとゲストに近寄って、もっともっと。はい、そこで目の表情をアップで」
中沢が|OA《オンエア》モニターの映像を凝視《ぎようし》しながら指示した。土門の目の動きが慌《あわただ》しい。額に汗《あせ》が浮かんでいる。
「わ、私にはまったく心当たりがないが」
土門が声を押し出した。口調がなんとなくおどおどしている。深志が言葉を承継《しようけい》した。
「古い話ですからお忘れになっておられるのでしょう。その女性はいまから五十年ほど前の夏、伊豆のK温泉に滞在《たいざい》していました。当時私は七、八|歳《さい》の少年でした。両親に連れられて同温泉に避暑《ひしよ》に行き、そこで初めて彼女《かのじよ》に出会ったのです」
K温泉という言葉を聞くと同時に土門の表情に激《はげ》しい驚愕《きようがく》が走った。
彼の示した反応は、ブラウン管にズームアップされて明らかに見て取れた。意外な成行にスタジオ、副調整室内には寂《せき》として声もない。
「女性の名前は美吉《みき》たよといいました。当時二十×歳でした。私は彼女に憧《あこが》れて、一生|懸命《けんめい》アプローチした結果、とうとう彼女の部屋に迎《むか》え入れられるまでになりました。短い夏のおもいでですが、彼女に可愛《かわい》がられたことが、私の稚《おさな》い初恋であり、そしてなにものにも替《か》え難い貴重な夏のおもいでとなって私の胸の中に固定してしまったのです。ところが、彼女にはすでに愛する人がいたのです」
「それが土門さんだったというわけですね」
「わしはそんなことは知らん。なんのことかまったく見当がつかない。人ちがいではないのか」
突然、土門がたまりかねたように大声を発した。スタッフ一同がビクリとした。土門は明らかに怒色《どしよく》を現わしている。
「人ちがいではありません」
深志が自信のある声で遮《さえぎ》った。
「本人の私が人ちがいだと言っておるのだ」
土門が深志の方へ向き直った。
「人ちがいではない証拠《しようこ》があるのです」
「証拠だと」
「そうです。その前に彼女がどうして亡くなったかをお話しいたしましょう。私たち一家がK温泉から引き揚げて二日後、宿が原因不明の失火により全焼して、彼女は焼け死んでしまったのです」
「そんな話は私には関係ない。私は忙《いそが》しい」
土門は席から立ち上がりかけた。
「お手間は取らせません。せっかくご出演されたのですから証拠をご自分の目で確かめていかれたほうがよろしいのではありませんか」
深志に言われて、土門は渋々《しぶしぶ》腰《こし》を戻《もど》した。証拠というのが気になったらしい。
「彼女が焼死する前日、つまり私たちが宿を発《た》った翌日一人の男が同じ宿へ来たそうです。宿の主人の話ではその男は他人を装《よそお》っていたが、彼女と親しい関係にちがいないということでした。男が来た次の日の夜、宿は不審火《ふしんび》を発して彼女は焼け死んだのです。そして男の姿は消えていました。警察は宿帳に書かれた男の住所を調べましたがデタラメでした。警察は男が彼女を殺して、証拠を隠滅《いんめつ》するために放火したとみて捜査《そうさ》しましたが、遂に迷宮入りになってしまいました」
「それが私にどんな関係があるのだ、馬鹿《ばか》馬鹿しい」
土門が憤然《ふんぜん》となった。だれの目にも正体不明の男が土門を暗示していることは明らかである。その様をカメラは冷然と撮《うつ》して全国の茶の間に送っている。中沢は進行をつづけ、佐伯も阻止《そし》しない。意外なことの成行にスタッフ一同思考力を失ったようになっている。
「関係がなければ、そのようにお怒《いか》りにならなくともよろしいでしょう」
土門は図らずも自分が示した反応に縛《しば》りつけられた形になった。席を蹴《け》って立てば、逃《に》げ出したように見られる。土門は自縄自縛《じじようじばく》の体《てい》であった。
「宿の客で身許がわからなかったのは、その男一人でした。ところが偶然《ぐうぜん》のきっかけから男の身許が割れたのです」
土門の顔色が動き、スタジオの中が騒《ざわ》めいた。それは全国視聴者の反応でもある。深志は件《くだん》の写真を取り出した。
「実はこの写真は私が彼女の記念にと、彼女の部屋から密《ひそ》かに一枚|盗《ぬす》み取ったものです」
深志の手中の写真が拡大されて、テレビ画面に固定された。
「詳《くわ》しい経緯《いきさつ》は省略しますが、写真の背景に撮《うつ》っている野仏から撮影地を突《つ》き止めました。その地は彼女の郷里の村だったのですが、名主さん≠フ家から珍《めずら》しい写真を発見したのです」
深志は、跡見四郎兵衛から提供された写真を取り出した。すかさずカメラがその古い印画紙を拡大する。
「この写真に撮っている男は、若い頃《ころ》の土門さんです。いまとはだいぶ様子がちがっておりますが、まぎれもなく特徴《とくちよう》が現われております。右眉《まゆ》の傷跡《きずあと》も撮《うつ》っております。背景をごらんください。同じ野仏が入っているでしょう。これは同じ場所で撮影したことを示します」
カメラは並《なら》べられた二枚の写真を撮した。
「それがどうしたというんだね、たまたま同じ場所で写真を撮《と》るのは、べつに珍《めずら》しいことじゃない」
土門は平静を装《よそお》って言ったが、それは本来弁明する必要のないことである。弁明したことによって撮影地が同一地点であることを自ら証言した形になった。そして有名観光地でもない彼女の郷里の村にたまたま行き合わせたという不自然を説明しなければならない破目に自ら陥《お》ちこんでしまったのである。だがその矛盾《むじゆん》にすらいまは気がついていない。
「そうです。同じ場所で撮影するのは別に珍しいことではありません。参考までに申し上げますと、この写真の撮影地は埼玉県秩父郡皆野町野巻という所です。そこが美吉さんの郷里です。背景の野仏は、地元で八本様と称《よ》ばれている庚申像《こうしんぞう》です。土門さんもたしかご出身は埼玉県の皆野町とうかがいましたが」
深志は意地悪く土門の顔を覗《のぞ》き込んだ。土門の顔色は明らかに変っている。土門の生い立ちや経歴は公表されている。土門と美吉たよは同郷出身であることがわかった。いまや狭《せま》い小さな村を同郷としている同|年輩《ねんぱい》の美吉をまったく心当たりがないと言った土門の不自然さは覆《おお》うべくもない。
土門が反駁《はんばく》すべき言葉を探し当てられないうちに深志は追撃《ついげき》をかけてきた。
「同じ村の出身者でも、時期が異なればたがいに知らないということもあるでしょう。しかし、この二枚の写真は明らかに同一機会に撮影《さつえい》されております。別の機会ということはあり得ないのです」
スタジオの関心が集中した。ゲスト、関係者全員の興味が最高潮に盛《も》り上がっている。その背後に無数の視聴者《しちようしや》の息遣《いきづか》いが聞こえるようである。
「二枚の写真に犬が撮《うつ》っておりますね。同じ犬であることがわかります。同じ犬が別の機会に撮影された二枚の写真に入るということはまずないでしょう。つまり、この二枚の写真は同一機会に前後して撮影されたのです。土門さんは彼女を知っていらっしゃる。それなのに知らないとおっしゃる。私はこの写真を伊豆K温泉の宿の元経営者に見せました。そして土門さんにまちがいないという証言を得たのです」
スタジオ内に名状し難いどよめきが起きた。土門が頬《ほお》を引き攣《つ》らせて立ち上がった。尊大な態度が跡形《あとかた》もなく消えて、顔面をぴくぴく震《ふる》わせながら喚《わめ》いた。
「ひどい言いがかりだ。根も葉もないことだ。名誉毀損《めいよきそん》で訴える。貴様、許さん」
土門は完全に逆上していた。その逆上がなによりも真実を雄弁に裏書きしている。さすがの大木も出る幕がない。
「いかん、カメラを切り換《か》えろ」
佐伯が動転して命令した。それを無視して中沢が、
「一カメ、ゲストの顔をアップ、二カメ写真の顔のアップ。一カメ、二カメへゆっくりとディゾって(次第に移行して)。一カメ、ゲストの表情をもっと強調して。はい二カメ」冷静に指示をつづけた。
「あなたは美吉たよさんと密《ひそ》かに愛し合っておりました。五十年前の夏、K温泉でたよさんと落ち合い、何かをしてあなただけ帰って来た。あなたがK温泉に泊《とま》った夜、旅館は不審火《ふしんび》を発したよさんは焼死しました。あなただけなぜ姿を晦《くら》まし、宿帳に虚偽《きよぎ》の記入をされたのですか」
「黙《だま》れ!」
土門は激昂《げつこう》したが、深志の発言を封《ふう》ずる効果的な反駁《はんばく》ができない。席を蹴《け》って立つこともできない。
「ちょうどこの場にK温泉の当時のご主人が見えておりますので、ご対面いただきましょう」
深志が大木のお株を奪った。一人の老人が入場して来た。有馬徳蔵である。彼は土門の顔を見るなり、
「ああ、あなただ。久しぶりですのう。私の旅館が火事になった前日にお越《こ》しになりましたなあ。おもいだしましたよ。大層なご出世でお芽出とうございます」と挨拶《あいさつ》した。
「私はあんたなんか知らんよ。五十年も前の記憶《きおく》など当てになるか」
「ところが当てになるんですなあ」
有馬徳蔵は茫洋《ぼうよう》たる表情で言った。深志が彼の言葉を引き取った。
「警察の古い記録にあなたが宿帳に記入した虚偽《きよぎ》の住所が残されていたのです。それがどこだとおもいます。あなたが今日対面される予定だった初恋の人、大谷恵子さんの当時の住所だったのです。こんな偶然《ぐうぜん》はあなた自身が記入しないかぎりあり得ない。あなたはまるっきりデタラメの住所を書いたわけではなかった。宿帳の記入を求められて、咄嗟《とつさ》に大谷恵子さんの住所を書いてしまったのでしょう。彼女を見染めてその住所が頭に焼きついていたんでしょうな。まさかそれがこんな形になってはね返ってくるとはおもわなかったでしょう。あなたは確かに五十年前の夏、K温泉へ行った。あなたは美吉たよさんと同郷で一緒《いつしよ》に写真を撮《と》り合うような仲だった。それなのにどちらも否定された。否定する必要のないことを否定した。なぜですか。私は、あなたの初恋《はつこい》の人、美吉たよさんの代理人としてあなたにお質《たず》ねします」
深志に詰問《きつもん》されて、土門は答えるべき言葉を失った。その追いつめられた表情をカメラが執拗《しつよう》に捉《とら》える。
「一カメ、ホールド、はい一カメ。二カメ、ゲスト席の全景《フルシヨツト》、はい二カメ。一カメもうちょっと寄って右|眉《まゆ》の傷アップ」
中沢は興奮を抑《おさ》えてこの劇的な幕切を追いつづけた。
その朝の「会いたいな、あの人に」は、東都テレビをパニック状態に陥《おとしい》れた。視聴者《しちようしや》から殺到《さつとう》した電話で回線はパンクした。電話の後は手紙の山である。視聴率はなんと三十パーセントを記録した。この種のトークショー番組では考えられない数字である。
テレビ画面で社会の大立物の旧い犯罪を暴き立てたのは前代未聞である。視聴者の反響《はんきよう》は、圧倒的《あつとうてき》であり、その大多数が東都テレビの勇気を称讃《しようさん》した。視聴者は、社会の大立物として雲の上にふんぞりかえっていた人間が、テレビによって見るも無残に化けの皮を剥《は》がされたことに溜飲《りゆういん》を下げていた。これからもこのように隠《かく》れた犯罪や不正をどんどん剔出《てきしゆつ》して欲しいという意見が多かった。
少数は、テレビという公器を時効になった個人のプライバシーを暴くことに利用したとして批判的であった。
賛否いずれにしても、局の上層部にあたえた衝撃《しようげき》は強烈《きようれつ》であった。
テレビが企業《きぎよう》とのタイアップによって商品化し、ジャーナリズムとしての批評精神を失ったといわれるようになってから久しい。電波の独占の上にあぐらをかき、上層部は平穏《へいおん》無事の中にぬくぬくと肥え太った。社員はテレビを自己主張の拠点《きよてん》としてではなく、安定した生活を保証する「会社」としてサラリーマン化した。
差別問題などで噛《か》みつかれると、たちまち白旗をかかげ、民主主義の重要な砦《とりで》である言論や表現の自由の内堀《うちぼり》を自ら埋《う》め立てた。差別問題をジャーナリズムのタブーとして避《さ》けて通ることによって、日本語として定着した表現を自ら制限してしまった。
無理解と蔑視《べつし》による差別と、生活の中に慣用化した言葉はまったく別の次元にあるはずであるが、差別の旗印の下に差別から派生した言葉を次々に禁語≠ニして封《ふう》じこめた。
例えば「便所」のもつ不潔な語感を軽減するために、次々に新たな言葉によって置き換《か》えたが、それは便所の置換《ちかん》語であるかぎり、便所を意味する宿命から逃《のが》れられないように、差別語をいかに置き換えたとしても、差別を意識するかぎり、差別語の延長線上にある。置き換えられた当座だけ差別の語感を軽減したとしても、置換語が本来の言葉として定着すれば、置き換えた意味を失ってしまう。
このようにして差別を旗印にした猟語《りようご》運動≠ノ放送ジャーナリズムがほとんど抵抗をしなかったために、日本語というものはずい分窮屈《きゆうくつ》なものになってしまった。
日本人すべての共有文化遺産である日本語を制限したり、廃絶《はいぜつ》したりする不遜《ふそん》な権利と資格はだれにもないはずである。これは差別を笠《かさ》にきた逆差別であり、差別を錦《にしき》の御旗にした一種の特権階級によって言論と表現の自由が侵《おか》されているのである。
「つんぼ桟敷《さじき》」や「盲《めくら》めっぽう」が悪いというのであれば、「健全な精神は健全な身体に宿る」という格言は、身障者を虚仮《こけ》にした大差別表現ではないのか。この場合精神に対応する身体であるから、それが肉体的な健全性を意味していることは明らかである。
生活の中に定着した言葉は、差別から発したものでも、差別とは別の次元の日本語の語彙《ごい》となったのである。
これを差別と混同して、放送ジャーナリズムがあっさりと引き退《さが》り、全ジャーナリズムが、それに追随《ついずい》し、言論と表現の自由、および日本語の自由は「差別」という全能《オールマイテイ》の特権階級によって、重大な干渉《かんしよう》と制限をうけるようになった。
これはジャーナリズムの敗北であり、かつてそれが日本の軍国ファシズムの走狗《そうく》となって以来の屈辱《くつじよく》ではないのか。
視聴者《しちようしや》は、座頭市《ざとういち》に対する「おいマッサージ」という呼びかけや、「右や左の旦那《だんな》様、哀れな巡回求食労働者≠ナございます」という表現の滑稽《こつけい》さに気がつきながらも、差別の特権の前に黙視《もくし》している。そういう風にテレビが視聴者を飼《か》い馴《な》らしてしまったのである。
要するに、商品化、サラリーマン化したテレビの基本姿勢は、いまや新しい映像ジャーナリズムの創造に挑戦《ちようせん》するよりは、ことなかれ主義にある。冒険《ぼうけん》よりは安全、革新よりは保守、高価よりは安価、創造よりは踏襲《とうしゆう》を原則として、そのすべてを視聴率という金科玉条が貫く。視聴者もそんなテレビの姿勢に不満を抱《いだ》きながらも茶の間において無料でスイッチポンの手間だけで得られる手軽な娯楽《ごらく》を受け入れる。それが本物ではないということを知りながらコピーを受け入れる。
すべてをコピーで間に合わせ、コピーが本物を支配するようになる。本物を見てもテレビとちがうと落胆《らくたん》し、同じであることを確認して安心する。
独占と視聴者との馴れ合いに安《とうあん》の夢を貪《むさぼ》っているテレビ局にとって、その朝の大木道夫ショーのハプニングはまさに青天の霹靂《へきれき》であった。視聴者はその衝撃《しようげき》が久しくテレビから受けたことのない本物であることを知り喝采《かつさい》を送ったのである。
局は土門側からどんな反撃《はんげき》が来るか戦々|兢々《きようきよう》とした。だが土門は沈黙《ちんもく》を守った。テレビの後、各週刊誌が執拗《しつよう》に追ったが頑《かたく》なに黙秘をつづけた。
土門の犯罪が存在したとしても、すでに時効が完成している。だが財界の大御所として時効はなかった。自分の将来を確保するために邪魔《じやま》になった恋人《こいびと》を抹殺《まつしよう》した土門に社会の非難は集中した。土門は土門銀行総裁のポストをはじめすべての役職から下りて、飛騨《ひだ》山中の山荘《さんそう》に隠栖《いんせい》した。
局から檜笠駿介に対してなんの沙汰《さた》もなかった。懲罰《ちようばつ》もなければ、もちろん褒賞《ほうしよう》もない。
放送の余波が鎮静《ちんせい》してから檜笠は深志を訪れた。
「先生、首尾よく初恋の人の仇《かたき》を討ちましたね」
「我ながらよくあんな真似ができたと、いまになって驚《おどろ》いているよ」
深志は自ら仕掛けたことでありながら、いまだに信じられないようである。
「私も驚きました。土門を追い詰《つ》めていったときは迫力ありましたよ。役者|真《ま》っ青《さお》、いや本職の検事真っ青というべきですか」
「きみのおかげだよ」
「私などの出る幕はありませんでした」
「お膳《ぜん》立てはきみがすべて整えてくれたんだ」
「有難うございます」
「もう一つ表に出ない協力者がいたんだよ」
「とおっしゃいますと」
「これだよ」
深志は檜笠の前にビニールに包んだ小さな物体を置いた。
「これは?」
と不審《ふしん》の目を向ける檜笠に、
「開けてみたまえ」とうながした。
包みを開いた檜笠は愕然《がくぜん》として危うく中身を取り落としかけた。そこには鈍《にぶ》く光る銃口を檜笠の方に向けた拳銃《けんじゆう》があった。拳銃を手にするのは初めてであるが、まぎれもなく本物の貫禄《かんろく》と手応えがある。
「先生、こんな物をどこから」
檜笠は驚きから立ち直って質《たず》ねた。
「銀波館の元経営者の若い奥《おく》さんがね、ゴミの集積場から拾ってきたんだそうだよ」
「それがどうして先生の手に」
「画材になるかもしれないと私にくれたのだ。こんな物騒《ぶつそう》なものをもっていても困るばかりだが、それを手にしたとき不思議に心が落ち着いたんだ」
「それでは先生出演されたとき、拳銃をもっておられたので」
「もっていた。だからテレビに出られたのだ。もし土門がとぼけ通すつもりだったら、拳銃で脅すつもりだった」
「先生!」
「はは、冗談《じようだん》だよ。テレビでそんなことをしたら、私も無事にはすまない。そこできみにお願いだが、もうこんな物騒なものをもっていても仕方がない。きみに預けるから処分してくれないか」
檜笠は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。深志はまさかと言ったが、彼はそれをぶっぱなすつもりでいたのではあるまいか。スタジオ生中継《なまちゆうけい》の最中、拳銃を取り出されただけでも、一大パニックになる。テレビ局の幹部の首がいくつあっても足りないだろう。
いまにして檜笠は、深志の強気が理解できた。深志は本気で初恋の人の仇《かたき》を討つつもりでいたのだ。
檜笠には拳銃《けんじゆう》が深志の初恋の化身《けしん》のようにおもえた。幼ない日の思慕《しぼ》が、五十年の星霜《せいそう》の中に無機的な黒い鋼鉄に結晶《けつしよう》して、いまその思慕の対象を奪《うば》った相手に復讐《ふくしゆう》を加えた。
おもえば今回の破天荒《はてんこう》の試みは、すべてこの拳銃から発したことではないのか。銀波館の元経営者有馬徳蔵の細君がゴミ集積場から拳銃を拾い上げたのもなにかの因縁《いんねん》であろう。
檜笠は自分の人探し稼業《かぎよう》に一区切りをつける時期がきたような気がした。
(本編の執筆《しつぴつ》にあたりフジテレビの横堀進二氏のご教示にあずかりました。同氏に厚く感謝いたします。 筆者)
第四章
エゴイズムとの接触《せつしよく》
それは低地から高台の住宅地へ出る狭《せま》い坂道であった。両側は住宅のブロック塀《べい》がつづいている。小型車一台の幅《はば》で埋《う》まってしまうような狭い路《みち》であったが、高台へ登る他の道はすべて下り方向の一方通行路で塞《ふさ》がれており、高台へ車(二トン車未満)が抜《ぬ》けられる唯一《ゆいいつ》の通路として、車が絶えず入り込《こ》んで来る。
車が来る都度《つど》、歩行者は路傍《ろぼう》の電柱のかげやブロック塀に張りつくようにしてやり過ごす。通行人を押《お》しのけて通過した車は、その返礼に排気《はいき》ガスを浴びせて行く。塀に挟《はさ》まれた坂道に排気ガスはいつまでもわだかまり、坂の勾配《こうばい》で呼吸のはずんだ歩行者の肺に侵《はい》り込んで行く。
こんな狭い坂道になにもエンジンをつけた車が侵《はい》り込まなくとも、ほかにいくらでも代りの道があるだろうにと、歩行者は忌々《いまいま》しがるのであるが、通行を禁止されているわけでもない車に明からさまに文句を言えない。「強い者に巻かれる」東京の道の一つであった。
八月|初旬《しよじゆん》の暑い日の夕方であった。その坂道で小さな接触《せつしよく》≠ェ生じた。坂の下から大型の国産乗用車がカーラジオの音楽を周囲に振り撒《ま》きながら塀をこすりそうにして登って来た。坂の上から車の方角に向かって右側を子供連れの三十前後の主婦が歩いていた。左側を同一方向へ自転車に乗った若い男が進んでいた。
車は両側を主婦と自転車で占《ふさ》がれていたためにどちらへ避《さ》けることもならず道路の中央を徐行《じよこう》しながら進行して来た。右側の主婦が子供と一緒《いつしよ》に塀《へい》に張りつくようにして車の通過を待っている。左側の自転車はぎりぎりまで塀に寄ってすれちがおうとした。自転車男は、停車せずともすれちがえる自信があったのであろう。徐行しながら車とすれちがおうとした。そのはずみに自転車のハンドルの先端《せんたん》と、車のサイドミラーが軽く接触した。触《ふ》れ合ったか触れ合わないかわからない程度の軽い接触であった。
「おい、無理するなよ」
車のドライバーが窓から首を出して、自転車男を詰《なじ》った。この場合、停車せずにすれちがおうとした自転車のほうが、車に接触した形であった。
だが自転車男には、狭《せま》い道に割り込《こ》んで来たのはどっちだという意識があった。
「無理をしたのはどっちだ」
自転車男が言い返した。
「何だと?」
ドライバーには先に仕掛《しか》けて来たのは、自転車だという意識がある。こちらは四十代のサラリーマン風である。
「これ以上どこへ避《さ》けろと言うんだ」
自転車男はさらに言葉を追加した。自転車のハンドルの左端は壁《かべ》に触れている。
「こっちだってこれ以上避けられないよ。反対側に人がいるんだ」
ドライバーはあっさり詫《わ》びるとおもっていた自転車男が言い返してきたので、頭に血が上った。
「おれは人じゃないのか」
自転車男がまた言葉を投げ返した。彼《かれ》にはこの狭い坂道に割り込んで来た車から排気《はいき》ガスと音楽を浴びせられている忿懣《ふんまん》がある。二人はにらみ合った。どちらも自分は悪くないと信じている。
「ぶつかったのはそっちだ、謝れ」
ドライバーが言った。
「あんたが割り込んで来なければ、ぶつからないよ」
自転車男は負けていない。
「どうしても謝らないというのか」
「謝る必要はない」
ドライバーが運転台から下りようとした。サドルにまたがっていた自転車男も、地上に下りて身構えた。
そのときドライバーの表情に驚《おどろ》きと軽い怯《ひる》みの色が現われた。なぜ彼が急にひるんだのかわからない。彼は運転台に姿勢を戻《もど》すと、
「ここは一方通行なんだぞ」
とどなった。だがその言葉は的はずれであった。坂の上から下方へ向けて進入を禁止されているのは車だけで、自転車は禁止されていない。ドライバーは言ってから自分の言葉の失当を悟《さと》ったらしく、一際《ひときわ》強くエンジンを吹《ふ》かしてその場から離《はな》れた。自転車男はしばらく車の後ろ姿をにらんでいたが、争いの相手を失ったので、坂の下へ下って行った。後に子供の手を引いた主婦が茫然《ぼうぜん》自失したように立ちつくしていた。
東京の路上でよく見かける日常の光景であり、小さな諍《いさか》いであった。
佐古富夫《さことみお》は、腹が立ってしかたがなかった。狭《せま》い路地へ大きな図体《ずうたい》で割り込んで来ながら自動車のサイドミラーが自転車のハンドルと接触《せつしよく》すると、いかにもこちらに非があるかのように罵《ののし》った。しかも自転車の進行が認められているのに、「一方通行」だとうそぶいた。なぜあのときもっと毅然《きぜん》とした態度でやり返さなかったかと、後になって自分が腹立たしかった。
こちらに非があるとすれば、すれちがうとき停車しなかったことである。しかしそうだとすれば、先方も同罪である。両者(車)共、徐行《じよこう》しながらすれちがおうとして接触したのである。もしこちらが身体に傷害でもうけていれば自動車の方の一方的過失とされるであろう。
それを「無理をするな」とは何事か。大体、車を運転する輩《やから》は、道路とは自分のためにあり、車の高性能を自分の力と錯覚《さつかく》し、歩行者を見下す傾向《けいこう》がある。
ある高名な作家が交叉点《こうさてん》で左折待ちをしているとき、横断歩道をよたよたとあひるのように歩いていた妊婦《にんぷ》に対して轢《ひ》き殺してやりたい衝動《しようどう》を覚えたと書いていたのを雑誌で読んだ記憶《きおく》があるが、それこそ運転者の心理である。
たとえ歩行者が交通規則に従って行動していても、車の速度と性能を阻《はば》むような姿形に我慢《がまん》ならない。モータリゼーション時代が産んだ車人間≠フ精神の奇型《きけい》である。
車人間にとって道路は車のためにあり、歩行者は道路と車の性能を阻む憎《にく》むべき邪魔物《じやまもの》でしかないのである。だからこそ、接触《せつしよく》した際「大丈夫《だいじようぶ》か」といういたわりの問いかけの代りに、罵言《ばげん》が浴びせられる。接触の結果が人間より、車体を傷つけたのではないかと心配している。車人間にとってはモータリゼーションの時代に車をもっていない人間が悪いのであり、歩行者は人間であって人間ではないのである。
しかしなにかをもっている人間と、もっていない人間がいて、もっている方がもっていない者の犠牲《ぎせい》や我慢の上に多くの利益を得ているのであるから、もっている方がもっていない者に対して常に感謝と謙譲《けんじよう》の心をもつのが当然である。だが車人間は、まったく逆である。大体、狭《せま》い日本の国土の中で大して必要もないのにマイカーを所有すること自体が、他人の権利を侵《おか》しているのである。車は危険と排気《はいき》ガスと騒音《そうおん》を撒《ま》き散らす。歩行者はそんなことをしない。停《と》まっているときでも、人間より、より大きな空間を占《し》めている。車人間はこの辺の所にほとんど気がつかない。
車を運転する人間は、自分が被害者《ひがいしや》になる場合は考えているが、より多くの可能性をもって加害者にもなり得ることはほとんど予測していない。つまり、車の存在そのものが他人(非車族)の権利を侵していることに露《つゆ》ほども気づいていないのである。
佐古は時間が経過するほどに怒《いか》りが煮《に》えたぎってきた。仕事にまぎれているときはよいが、仕事の切れ間や手持無沙汰《てもちぶさた》なときなど、意識がふと例の接触《せつしよく》事件に戻《もど》っていく。戻るのではなく、いつも意識にこびりついているのである。
束《つか》の間《ま》の接触であったが、相手の顔もよく憶《おぼ》えている。網膜《もうまく》の残像がある時間経過の後むしろ濃《こ》くなってくるように、後になるほど、相手の顔の輪郭《りんかく》がはっきり浮かび上がってくる。
四十前後ののっぺりした顔であった。目と唇《くちびる》が細く、鼻筋は通っていた。眉《まゆ》は濃《こ》かったようである。黒い髪《かみ》をきれいに後方へ撫《な》でつけていた。よく日焼けしていたのは、ゴルフ焼け≠ゥ、白っぽいズボンに半袖《はんそで》のスポーツシャツを着ていた。運転台に坐《すわ》っていたので正確なところはわからないが、全体にスリムな長身のようである。
だが残念なことに車のナンバーを読み損ってしまった。忿懣《ふんまん》に目が晦《くら》んでとてもそこまで見る余裕《よゆう》はなかった。ナンバー以外にもなにか重大な手がかりがあったような気がするのだが、おもいだせない。そのことが余計にいらだたしさを促《うなが》す。
相手の素姓《すじよう》も所在も不明な忿懣であるだけに、捌《は》け口がなくて内攻する。佐古は捌け口を探し求めて、この事故≠知り合いの交通警官に話した。せめて自分の方に非があったと専門家に判定してもらえば、あきらめがつくとおもったのである。
「自転車の人が怪我《けが》をすれば、車の運転者の業務上過失として点数を取られますが、ただミラーとハンドルが触れ合ったというだけであるなら、どうということはありませんね」
「すると狭《せま》い道で車と自転車がすれちがう場合は、自転車が停《と》まって自動車の通過を待たなければいけないのですか」
「いや、そんなことはありません。危険を感ずれば双方《そうほう》が停車すべきです。しかし車の方には営業用であると自家用であるとを問わず業務性がありますよ。業務とは社会生活上|継続《けいぞく》して営むことで、業務上の注意義務は、一般《いつぱん》の注意義務よりも高度です。業務上守るべき注意を怠《おこた》って発生した過失に対しては、普通《ふつう》過失に比較《ひかく》して刑罰《けいばつ》が加重されています」
「それでは私が運転手にどなられるべき筋合はまったくないのですね」
「そのときの状況によって微妙《びみよう》に変ってきますが、たとえば車が徐行《じよこう》しているのに自転車や歩行者が飛び出して来たとすれば、後者が不利になります」
「私は徐行していました」
「接触《せつしよく》事故でよく争われるところですが、両者が徐行していたと主張する場合は、相手の方が早く見えます。運転手にはあなたの自転車が飛び出して来たように見えたかもしれませんよ。ところで信頼《しんらい》の原則というのをご存知ですか」
「信頼の原則?」
「西ドイツにおいて判例理論として確立されたものですが、要するに『車両の運転者はたがいに他の交通関係者――歩行者や他の運転者のことですが、――彼らが交通法規を守り、適切な行動を取るであろうことを信頼して、運転すれば足り、相手が交通法規|違反《いはん》をするかもしれないことまで考えながら運転する必要はない』という理論で、日本の裁判所においても取り入れられるようになりました」
「そんな原則は初めて知りましたが、なんだか車に有利な理論のようですね」
「車を現代文明社会になくてはならない利器として、車の危険を社会的に『許容された危険』として認めているのです。そして事故の被害者にも交通法規を守り、危険を防止すべき義務を課しているのです」
「歩行者や自転車に比べて車の方が一方的に恩恵《おんけい》を被《こうむ》っているのに、車は許容された危険ですか」
佐古は不満であった。ただ存在するだけで人間より大きな空間を占有する車のエゴイズムが社会的に許容されているということに抵抗《ていこう》を覚えたのである。
「歩行者といえども車の利便に浴しているでしょう。現代において車をまったく利用しない人間は考えられません。そのような社会|状況《じようきよう》から発した原則ですが、車と自転車が互角《ごかく》の条件で接触《せつしよく》した場合は、車の方により大きな責任が問われることはまちがいありません」
「すると車の方が悪いのですね」
「自転車には免許《めんきよ》は要りませんが、自動車には免許が必要です。免許が必要だということは、免許条件のさまざまな法規と注意を守る義務があるわけです。注意義務が自転車よりはるかに大きくなります。まあこのようなケースでは被害《ひがい》があったわけでもありませんし、警察が介入《かいにゆう》してもお互《たが》いに話し合いで穏便《おんびん》に解決するようにと勧告するくらいですね」
見た目に被害はなかったかもしれないが、佐古の胸に内攻した忿懣《ふんまん》は、行き所を失い、彼の精神衛生を大いに害している。これを被害と呼ばずしてなにが被害か。
交通警官に相談して、ますます胸の内攻が募《つの》った。車の方が悪いと知らされて、あきらめるどころか、忿懣が増悪《ぞうあく》したのである。
佐古は自分でもどうかしているとおもった。大都会の人間の海における束《つか》の間の接触である。相手はおそらくそんなことがあった事実すら忘れているであろう。
互いになんの実害もなかった。罵《ののし》ったといってもほんの数言である。それもこちらが一方的に言われっぱなしになったわけではない。
先方にしてみれば自転車の方から打ちつけておいて一言の謝りも言われなかったと意識しているであろう。むしろ被害者≠ヘ自分の方だと認識しているにちがいない。
こんなことにいつまでもこだわっているのは馬鹿馬鹿《ばかばか》しい――とよくわかっていながら、どうにもならない。意志の力で支配できない精神の深所にこびりついた痼《しこり》であり、病的な内攻である。
この痼を取り除くためには、相手を探し出して謝らせる以外にない。だが相手の居所や素姓も不明である。車の機能性にものを言わせて、東京の人の海の中に潜《もぐ》り込んでしまった。
だが、まったくあきらめるのはまだ早いと佐古はおもい直した。ドライバーはあのとき「一方通行だぞ」とどなった。ということはその路地が坂の下方から上方へ向かってのみ車両の通行が可能であるのを知っていることを示す。小さな路地の交通条件を知っているところを見ると近所の住人ではあるまいか。
近所、特に坂の上の住宅を当たれば、ドライバーを探し出せるかもしれない。坂の上は高級住宅地になっており、豪邸《ごうてい》や億ションが立ち並《なら》んでいる。「そこのけそこのけ、車が通る」式の傲岸《ごうがん》な態度は、いかにも坂の上の住人をおもわせる。
佐古は早速捜査《そうさ》≠始めた。
末端《まつたん》の提供者《サプライアー》
佐古富夫は有線放送の技術員である。万件単位の加入者を擁《よう》する大手有線放送会社が目白|押《お》しの都内で、S区の一隅《いちぐう》の精々《せいぜい》千件の加入者を後生《ごしよう》大事にかかえ込んだ零細《れいさい》業者の技術員であるから、セールスやモニターもやれば集金も兼務する。技術員は、加入申込者の家に有線《ケーブル》の引込工事を担当する。これが主たる仕事というより本務である。引込工事費は大体一万五千円、これに|チャンネル切換機《マツチングボツクス》(六チャンネルが五千円、十二チャンネルが一万円)、アンプ、スピーカーを加入者に買ってもらう。この三つの機器が有線放送の三種の神器≠ナある。
だが最近は過当競争で工事費はサービス無料にし、機器も分割|払《ばら》いにしたり、貸与《たいよ》したりする所が増えている。これで一か月の加入料が四千五百円であるから、経営の内実は火の車である。その加入料すら、同業者がダンピングをする。
現在の加入者も絶えず確認していないと、同業者に奪《うば》われてしまう。架線《かせん》を切断しておいて加入者の家に行き、「あそこはいつも聞こえなくなるからうちへ切り換《か》えてくれ」と迫《せま》る。ひどいのになると、こちらが設置した未払いの機器をそのまま使って加入者を奪い取ってしまうのがある。まさに侵略《しんりやく》≠ナある。
おとなしくしていると侵略される一方なので、こちらから侵略して行くためには、架線を延ばさなければならない。遠方まで架線を延ばすためには莫大《ばくだい》な資本投下を要する。電柱一本に付き、その使用料、ケーブル、金具、工事費合計で約八千円かかる。
これに保証料月千二百八十円を半年分前払いする。電柱は三十メートルに一本要する。兵站線《へいたんせん》が延びれば戦費がかかるのと同じ理である。守ってばかりいればジリ貧であるし、攻めるには金がかかる。
零細《せいさい》業者の唯一《ゆいいつ》の対抗《たいこう》手段は、切られたら切り返すことである。我が陣営《じんえい》を守り、敵に切られれば、直ちに切り返すのも技術員の重要な任務である。つまり技術員は企業《きぎよう》防衛の防人《さきもり》であった。
有線放送の線条は、東電や電電公社の電柱に共架(共同|添架《てんか》)している。使用線条はいわゆるダルマ線と呼称される上部に針金の支線があり、その下部に放送用の六対の導体を仕込んだ芯線《ケーブル》を抱いた断面がダルマ形をしたものである。この下部ケーブルのみをペンチ等で切断するので一見どこを切られているのかわからない。支線まで切ってしまうと、線条が垂れ下がって直ちに切ったことがわかってしまうからである。
警察に訴《うつた》えても、現行犯を捕《つかま》えなければだめだと相手にされない。その現行犯の解釈もきわめて厳しい。電柱に上っているだけでは現行中とはみなされず、現に線条を切断している最中を捕えなければならないという。
営業地域のどこで犯行するかわからない犯人を、四六時中見張っていることはできないし、だいいちそんな見張りがいるとわかれば犯人は来ない。要するに警察は被害《ひがい》者におよそ不可能な挙証責任を押しつけているのである。
警察が救済してくれないのであれば、自力で衛《まも》らざるを得ない。こうして「目には目を」の泥《どろ》仕合が始まったのである。
有線放送を営業しようとする者は、「有線電気通信法」に則《のつと》り郵政省の管掌《かんしよう》に服する。そして同法および「有線ラジオ放送業務の運用の規正に関する法律」に基く届出を要する。架線《かせん》は私設と東電や電電の電柱に共架する場合があるが、圧倒《あつとう》的に後者が多い。また後者は電柱所有者と道路管理者の使用許可を得なければならない。ところがこれらの手続きを一切無視して、無断で他人の電柱に架線を添架《てんか》しても、いったん加入者との間に放送が開始されると、許可の有無に関《かか》わりなく、保護法益は有線電気通信そのものとなる。無断架線を取りはずそうとすると、有線電気通信法二十一条により「その機能に障害を与えて有線電気通信を妨害《ぼうがい》した者」として五年以下の懲役《ちようえき》又は五十万円以下の罰金《ばつきん》に処せられる。
この法律を楯《たて》にとって侵略《しんりやく》者が跳梁《ちようりよう》した。とにかく架線さえ設置してしまえばこちらの勝なのであるから、深夜架線工事を進めてしまう。凄《すさ》まじいのになると白昼無断工事を進めながらセールスをする。新規加入者を獲得《かくとく》すると、直ちに線を引き込《こ》んでしまう。
電柱一本の年間使用料が、東電が二千二百八十円、電電が九百円、三十メートルに一本の間隔《かんかく》である。経済誌「財界展望」の資料によると、五十六年三月現在、無断添架された電柱の数は電電が約四十七万本、約四億二千万円、九電力合計の無断添架が約四十二万本、一本平均の使用料金を二千円とすると合計八億四千万円、滞納《たいのう》料金が約三億円、総計十五億六千万円、これに道路の不法占用が国道二千キロ、地方道路が八千キロ、林道が五万キロ推定、この不法占用料がしめて約十五億円、電柱と道路の無断使用によりあげた不法利益は、年間三十億円を超《こ》える。
このような「無法」が、法律によって保護≠ウれるのであるから、マジメ業者が馬鹿《ばか》馬鹿しくなるのは当然であり、競って無法業者を見倣《みなら》う。
「悪貨は良貨を速やかに駆逐《くちく》した」のである。
さらに同誌の資料によれば、大阪有線を盟主とする日本有線放送連盟が三十三社四百五十八施設を擁《よう》し六十三パーセントのシェアを握《にぎ》る。これに対して日本音楽放送を中核《ちゆうかく》とする全国有線音楽放送協会の七十二社、百七十一|施設《しせつ》、その他組合系と称せられる群小業者が犇《ひしめ》き合っている。
この場合の市場シェアを示す数値は「無法の数値」ということだそうである。
有線放送においては、時々混線が発生する。各チャンネルの音が重なり合ってしまうのである。混線の原因はいろいろあるが、最も多いのは、架線《かせん》を電柱上の本線から各加入者の家に引き落とす分岐点《ジヨイント》において使用される「スリーブ」という線条を保護するストローのような管の中に水がたまったりして、音が重なり合う場合である。その他、加入者が機械をいじくったりして発生した加入者宅の原因や、工事や同業者の妨害《ぼうがい》による場合である。
佐古の勤める「ニュー・トウキョウ・ミュージック・サプライ」では、加入者の線条を各方面別に四ブロツクに分けている。混線の訴《うつた》えが加入者から寄せられると、まず方面を確かめてから、調査に取りかかる。
加入者はすべて把握《はあく》している。有線放送の加入者は喫茶店《きつさてん》やレストラン、飲み屋、商店などが多いが、最近は個人の家も増えてきている。ニュー・トウキョウ・ミュージック・サプライには、美容院、銀行、会社の寮《りよう》、歯科医、サラ金業者などが加入している。
各加入者を維持《いじ》確認するために、佐古はトラブルが発生しなくとも定期的にご機嫌《きげん》うかがいに回る。そうすることによって加入者との間に親しい人間関係が形成され、同業者の侵略《しんりやく》に対抗し得るのである。
加入者の間を回りながら、佐古はさまざまな人間の断面を覗《のぞ》いた。わずか月四千五百円の加入料であるが、なかなか支払《しはら》ってくれない者もある。指定された日に集金に行くと、別の日に来いと言う。何度も無駄足《むだあし》を運ばせて平然としている者があるかとおもうと、一年分を気前よく前払いしてくれる加入者もある。
精々千軒(件)の加入者であるが、そこに社会の縮図が凝縮《ぎようしゆく》しているようであった。加入者からよく寄せられる苦情は、有線放送では曲目|紹介《しようかい》がないので、曲名を憶《おぼ》えられないというものである。また語りかけ《ナレーシヨン》がないので、放送者とのコミュニケーションがないという者もあった。だが言葉を放送するとなると「有線放送」の枠《わく》をはみ出してしまう。
加入者とのコミュニケーションはリクエストによって得られないことはない。朝夕定められたリクエスト時間帯に加入者からリクエストが寄せられる。リクエスト専用チャンネルがあるので、リクエストはよほど特殊《とくしゆ》な曲以外はほとんど叶《かな》えられる。
リクエスト者は圧倒《あつとう》的にヤングが多い。リクエストの多い時期は週末特に金曜日の夜で、給料日の後なども増加する。天候、テレビなども影響《えいきよう》する。テレビで野球放送と重なったりするときは激減《げきげん》する。また、盆《ぼん》、正月などの帰省時期は少なくなる。
リクエストを見ると、有線放送が余裕《よゆう》の上に成り立つもので、人生に是非共なくてはならないものではないことがわかる。娯楽《エンターテインメント》の一つではあっても、より強力な娯楽、例えば野球や映画や行楽の背後に回される。すべてのエンターテインメントの中で有線放送は最下段におかれるのではないか。
少なくとも有線放送を専念して聞く(自分のリクエストを聞くとき以外は)という人は少ない。常に他のなにかをしながら聞く。「ながら」で可能な娯楽は、専念しなければ追求できないエンターテインメントやレジャーより下位におかれることは確かである。
有線放送がなくとも人生は生きられるし、それなしで生きている人のほうがはるかに多い。加入者にとってもそれは彼《かれ》らの人生の中核《ちゆうかく》に据《す》えられることは決してなく、人生いかに生くべきかという問に答えない。また有線放送にそんな問いかけをする者はない。
だが佐古は、人生がそれがなくては成り立たないエッセンスばかりで構成されていたら索漠《さくばく》たるものだとおもう。人生は、むしろ、あってもなくてもいいようなもの、果たしてどんな役に立っているのかわからないもの、一見|無駄《むだ》な余剰《よじよう》なもの、また多くの矛盾《むじゆん》やアンバランスがあるからこそ、面白いのではないのか。それを構成する歯車や部品が一つ欠けても全体の機能に支障をきたすようであればそれは人間ではなく、ロボットである。
ハンドルの遊びのように、人間に遊びと余裕《よゆう》があるからこそ、長い人生航路に耐《た》えられるのである。
佐古は自分の提供しているものが、加入者の人生にとってあってもなくてもどうでもいいようなものであることに誇《ほこ》りをもっていた。どうでもいいようなことが、実は非常に大切なのである。
それが証拠《しようこ》に、加入者の生活が窮迫《きゆうはく》してくれば有線放送は真っ先に斬《き》り捨てられるべき運命にある。経済的な窮迫だけでなく、戦争や災害などによる非常時には、人間の生存にとってまず必要なものだけが求められる。だがそれは本来、人間の生活とはいえないものであり、非常事態の発生によって人間が動物に接近したのである。生存と生活はちがう。生活とは、多様的な価値を求めることである。価値が多様であればあるほど、生活水準は高くなる。人間は食って寝《ね》て排泄《はいせつ》して働くだけの存在ではない。
有線放送が繁栄《はんえい》していることは、それだけ世の中が平和な証拠であり、価値が多様化している証拠である。つまり佐古が提供《サプライ》しているものは「多様化した価値」なのだ。エンターテインメンツとして最下位にあるということは、余裕と多様化した価値の最先端《さいせんたん》にあるということであり、最も「ナウ」いのである。
佐古は、接触《せつしよく》者≠近所の人間、坂の上の居住者であると推測した。坂の上には高級住宅と豪華《ごうか》マンションが多く、住人は実業家、文化人、医者、弁護士、有名芸能人、外国人などが多く住んでいる。加入者も十数|軒《けん》ある。
路地の近くの坂上に目指す相手は探し当てられなかった。
「坂の上」といってもかなり広範囲《こうはんい》にわたり、その範囲の外に住んでいる者でも、近道として、例の路地を利用している。
佐古は探し始めたものの、直ちに捜索《そうさく》範囲の広さに絶望した。彼は捜索方針を変えた。
相手があの路地を利用している者であれば同じ時間帯に通行する可能性がある。あれは平日の午後六時|頃《ごろ》であった。サラリーマンが勤めを終って帰宅|途上《とじよう》通行したのかもしれない。
こう推測して佐古は同じ時間帯に同一場所に張り込みをした。だが相手は来なかった。張込み時間を前後一時間ずつ延長して粘《ねば》ったが、結果は徒労であった。相手は偶然《ぐうぜん》通りかかっただけなのか。定期通行者でなくとも、土地鑑《とちかん》がある場合はある。
やはり罵《ののし》られっぱなしで悔《くや》しさを胸に刻んだまま、忘却《ぼうきやく》のカサブタができるのを待つほかはないのか。
佐古があきらめかけたとき、一つの事件が発生した。
拾得された復讐《ふくしゆう》
S区|山上《やまのうえ》町は、高台にある。東西に細長い丘陵《きゆうりよう》状の高台であり、南北を低地に挟《はさ》まれている。丘陵の稜線《りようせん》を一車線|幅《はば》の自動車道路が走り、道路の南側に沿って高級住宅、マンション、幼稚園《ようちえん》、北側にV国大使館、児童公園、中学校、移転したある大学の跡地《あとち》などがある。
児童公園の敷地《しきち》は南北に細長い。北方の低地から一方通行の車道が這《は》い上って来て、公園の角で東西を走る稜線《りようせん》上の道路と合する。公園は昼間は近辺の子供たちで賑《にぎ》わっているが、夕方から夜間は人影《ひとかげ》が絶えてアベックも来ない。
それは高台の公園の敷地を切り通した形で北の低地から上って来る坂道の死角にあるために、公園全体が隔絶《かくぜつ》された閉鎖《へいさ》的な雰囲気《ふんいき》をもっており、人影が少なくなると、心細くなるからである。実際、公園の奥(北)の方で襲《おそ》われたら、逃《のが》れようがない。道路の通行人や車からは公園の中でなにが行なわれているかわからない。だがこれまでそこで犯罪が行なわれたことはなかった。
九月二十三日午後九時ごろ根本賢次《ねもとけんじ》は恋人《こいびと》と待ち合わせるためにその公園へ入っていった。彼は南の低地にある自動車修理工場の住込《すみこ》み工員である。恋人の佐々木陽子《ささきようこ》は北の低地にある銀行の女子行員|寮《りよう》に住んでいる。彼女《かのじよ》とは、近くの商店街が催《もよお》した盆踊《ぼんおど》り大会で知り合った。
二人はもっぱら高台の公園でデートを重ねた。公園の閉鎖性は「二人だけの世界」を提供してくれた。都心の近くで理想的な恋人天国の環境《かんきよう》を独占《どくせん》できるのが、根本には不思議であった。
おそらくここは穴場なのだろう。二人だけの秘密の場所にしておかなければならない。もし公けにされれば、たちまち代々木《よよぎ》公園や日比谷《ひびや》公園のようになってしまう。
根本は時計を覗《のぞ》いて、急ぎ足になった。今日は出がけに急の仕事が入ったために約束《やくそく》の時間に少し遅《おく》れてしまった。
ベンチに坐《すわ》って弾《はず》んだ呼吸を調《ととの》える。公園の中は暗い。この暗さが若い二人にとって絶好のスクリーンとなってくれる。
意識が次第に周囲の闇《やみ》と静寂《せいじやく》に馴《な》れてくると、遠方から来る薄明《うすあ》かりと相加して、物の細部が見えるようになった。
砂場に黒い影《かげ》がうずくまっていた。そこは一際暗いのと、滑《すべ》り台のかげになっているために見えにくいが、まぎれもなく地上に長くのびた人の形である。ちょうどそのとき公園の入口から聞き憶《おぼ》えのある足音が近づいて来た。根本は愕然《がくぜん》とした。
「すぐここから出るんだ」
根本は、ようやくやって来た待ち人の前に立ちはだかり、地上に横たわっている物体≠彼女《かのじよ》の視野から遮《さえぎ》った。
デート中のアベックからS区山上町の公園に女性の変死体が転がっているという通報をうけた管轄《かんかつ》署はまず署のパトカーを現場に急行させてその保存に当たった。第一発見者の連絡《れんらく》によっては、死体が犯罪によるものかどうか明らかではない。死体を初めて見た人間は動転してなにはともあれ警察へ通報して来るから細かい観察を求めるのは無理である。
現場に一番乗りをした所轄署のパトカー乗務員は、死体を一目見て「殺し」を直感した。死者は三十前後の主婦風の女性であったが、後頭部に鈍器《どんき》で撲《なぐ》られたような傷があった。傷の実相は髪《かみ》と闇《やみ》に隠《かく》されてはっきりと見届けられないが、砂に吸い取られている出血の量は少なくなさそうである。まず第一報を入れて現場保存にあたっている間に機動|捜査《そうさ》隊、所轄署員などが次々に臨場して来た。
死体の観察と現場の見分が始められる。被害者《ひがいしや》はワンピースにサンダル履《ば》きという軽装《けいそう》で持ち物はなにもない。後頭部を鈍器、鉄棒かスパナのようなもので数回殴打《おうだ》されて、頭蓋骨《ずがいこつ》が陥没《かんぼつ》するほどの深刻な創傷を負っている。自分では傷つけられない位置であり、転んだり、壁《かべ》や地面に打ちつけたりして形成された傷ではなかった。
創傷の部位から推測して、犯人は公園の闇《やみ》の中に潜み、被害者の後方から襲《おそ》いかかったものとみられた。だが各家庭とも夕食のくつろぎの時間に主婦風の女性がなぜ独りで公園に来たのかという点が問題にされた。ちょっとサンダルを突《つ》っかけて出て来たという風態《ふうてい》から判断すると、近所の住人である可能性が大きい。
騒《さわ》ぎを聞きつけて弥次馬《やじうま》が蝟集《いしゆう》して来た。警察は彼らを追いはらわなかった。弥次馬の中に死者の身許《みもと》を知っている者がいる可能性を当てにしたのである。
案の定《じよう》、一人の若い女が同じアパートの住人のようだと言いだした。
「どうかよく確かめてください」
係官は尻《しり》ごみする女性をうむを言わせず、死体のそばに引っ張って来た。死者の顔がライトの集中する中心に浮かび上がった。
「まちがいありません。あまりおつき合いしておりませんが同じアパートの塚田《つかだ》さんという奥《おく》さんです」
彼女は確認した。ここに死者の身許は明らかにされた。被害者は現場の公園から二百メートルほど西へ行った大学|廃校舎《はいこうしや》の前に道路をはさんで建っている「コーポフジ」204号室の居住者、塚田|朝子《あさこ》二十九|歳《さい》である。彼女は三歳の女の子と二人|暮《ぐ》らしである。以前関西に住んでいたが、某有名電機メーカーに勤めていた夫と離婚《りこん》してから東京の親戚《しんせき》を頼《たよ》って上京して来たということである。
現在|新宿《しんじゆく》の映画館に勤めて娘と二人の生計を立てている。コーポフジは名前こそ現代的であるが、今時|珍《めずら》しい全室単室構成、GW、トイレット共用のアパートである。
母親が無惨《むざん》な死を強制されたとも知らず、係官が同アパートへ赴《おもむ》いたときは、残された幼女が六|畳《じよう》一間の借間でよく眠《ねむ》っていた。刑事《けいじ》は彼女を起こして母親の死を告げることができなかった。
アパートの管理人から事情を聞くと、塚田母子が入居したのは、昨年の十月であった。隣人《りんじん》たちともあまりつき合わず、母子二人が寄り添《そ》うようにしてひっそり暮らしていた。その夜八時ごろ、アパート内の公衆電話に男の声で電話があって、彼女の呼出しを管理人に頼《たの》んだ。それから間もなく彼女が一人で外出して行ったそうである。
「その男は名前を言いましたか」
「田中と言いました」
「田中ね、それで塚田さんに取り次いだとき心当たりがありそうでしたか」
「不審《ふしん》そうに首を傾《かし》げていましたが、とにかく電話に出ました」
刑事は電話の主が偽名《ぎめい》を使ったとおもった。
「電話の内容が聞こえましたか」
刑事はアパートの入口に設けてある公衆電話を横目ににらみながら質《たず》ねた。
「いいえ、取り次いですぐ部屋の中へ入ってしまいましたので」
「塚田さんが出かけて行くときの様子はいかがでしたか。いそいそという感じでしたか、それともいやいやといった様子でしたか」
「よく見ていたわけではありませんが、そそくさといった気配だったとおもいます。電話をうけて、いったん部屋へ帰り鍵《かぎ》をかけてからすぐ出かけられた模様でした」
サンダルを突っかけて行ったのであるから管理人の言うように「そそくさ」という感じがぴったりであろう。これで犯人が被害者を電話で呼び出した状況《じようきよう》が明らかになった。つまり犯人は被害者《ひがいしや》との間に「鑑《かん》」があったのである。
新聞でS区山上町の公園において主婦が殺害された事件の記事を読んだ佐古は、被害者の顔写真を見て脳裡《のうり》に流星のように走るものを覚えた。被害者の顔に記憶《きおく》があったのである。どこかで、それもごく最近出会っている。だが出会っていることだけは確かに憶《おぼ》えているのだが、いつどこでどのような状況下で出会ったのか、おもいだせない。わずかな差で記憶を再生する刺戟《しげき》に足りないのである。
どこかで自分に関わりをもった人物が殺されて、その関わりをおもいだせない。どうにも気になって、仕事が手につかなくなった。佐古は、被害者が住んでいたアパートへ行ってみることにした。その住居を見ればなにかおもいだすかもしれない。
コーポフジは、よくその前を通っていた。陰気な古アパートである。裏手(南)は、ある銀行の家族|寮《りよう》の石塀《いしべい》に閉塞《へいそく》されており、部屋はすべて北面の道路に面している。
アパートの前には喪服《もふく》の人たちが屯《たむろ》していた。今日が被害者の葬式《そうしき》だったのである。ちょうど出棺《しゆつかん》の時刻で、数人の男たちにかつがれて棺《ひつぎ》がアパートの玄関《げんかん》から運び出されて来た。母子家庭の母親の葬儀《そうぎ》にしては多数の人間が集まったのは、その無惨《むざん》な死が人々の同情を集めたからであろう。
残された幼女であろう。親戚《しんせき》らしい人に手を引かれて三歳《さい》くらいの幼女が棺の後から従《つ》いて来た。瞳《ひとみ》のつぶらな、頬《ほお》がぷっくり脹《ふく》れた愛らしい幼女である。彼女には母を失った事実がまだよく理解されていないらしい。むしろ人が多勢集まっているのを喜んでいるようであった。それがかえって人々の涙を誘《さそ》った。
幼女の顔を見た佐古は、愕然《がくぜん》として立ち竦《すく》んだ。幼女によって、再生直前で脳皮の下にわだかまっていた記憶《きおく》がよみがえったのである。
(あのときの女の子だ!)
例の坂道で乗用車と接触《せつしよく》したとき、反対側の路傍《ろぼう》に子供連れの主婦がいた。そのために車は道のどちら側へも寄れずに佐古の自転車と接触したのである。被害者はあの主婦であり、彼女が手を引いていた幼女が、いま棺《ひつぎ》の後に従《つ》いている。まさか被害者があのときすれちがった女性だったとは。
しばらく茫然《ぼうぜん》としていた佐古は、ようやく我に返った。棺を乗せた霊柩車《れいきゆうしや》は、すでに発進している。葬祭場《そうさいじよう》まで行く少数の身寄りの人たちを乗せた車が後を追う。一般会葬者は散りかけていた。
アパートの前から離《はな》れた佐古は、いまだに夢遊《むゆう》状態であった。被害者と佐古はなんの関わりもない。路傍でただ一度すれちがっただけである。それも車の方に注意が集まっていてほとんど意識になかった。それは先方も同じであろう。
だが被害者の写真を見たとき、記憶《きおく》に引っかかったのは、見ていないようでいて、視野の端《はし》に在《あ》ったのであろう。
だれがなぜ彼女を殺したのか。警察の発表によると、犯人は彼女の顔見知りのようである。
路上ですれちがっただけの赤の他人が殺されても、佐古にはなんの関係もないはずである。それにもかかわらず、気になった。母を失った幼女のつぶらな目がいつまでも瞼裏《まなうら》に焼きついて消えない。あの幼女はこれからどうするのだろうか。幼女のためにも、犯人が一日でも早く捕《つか》まって欲しい。犯人が捕まったところで、幼女の母親は戻《もど》って来ないが、犯人がどこかで笑っているとおもうと、他人事《ひとごと》ながらはらわたが煮《に》えるようである。あの幼女を母無し子にした犯人が許せないのである。離婚《りこん》した父親が引取りを拒否《きよひ》すれば実質は孤児《こじ》となる。
そのとき、佐古はあっとうめいた。いつの間にか彼の意識の中で犯人像と、例の接触《せつしよく》の相手が重なり合っていたのである。接触の相手に対する憎悪《ぞうお》が幼女を孤児≠ノした犯人に向ける憎《にく》しみに延長されて、一体となっていた。本来無関係なものが、佐古の主観によって合一されたのだ。
しかし、本当に無関係なのか。佐古の主観的憎悪だけで一体化されたのか。なにか関連があったので、無意識の中に結びつけ重ね合わされていたのではないだろうか。
佐古は自分の思案の中にのめり込んだ。接触の相手と、犯人の間になにかつながりはないだろうか。それは無意識にオーバーラップされるような関連である。関連があるならば深く考えるより、直感的に閃《ひらめ》くようなものにちがいない。
あのとき、車のドライバーと口論になり、険悪な雲行になった。あのまま口論が発展すれば暴力|沙汰《ざた》になったかもしれない。現にドライバーは車から下りかけた。ところが急に怯《ひる》みの色を見せて去って行った。なぜ彼は急にひるんだのか。佐古に対してひるんだとはおもえない。佐古は相手に威圧《いあつ》感をあたえるような体格ではない。どちらかといえば小柄《こがら》で貧弱である。だからこそドライバーも居丈高《いたけだか》になったのであろう。
ドライバーは姿勢を車に戻《もど》してから「一方通行だぞ」と捨てぜりふを吐《は》いて去って行った。その間塚田朝子は路上に立ち竦《すく》んで二人の口論を見守っていた。
佐古は、険悪な雰囲気《ふんいき》に反して意外にあっさりと当事者の一方が立ち去ったので拍子抜《ひようしぬ》けしたものである。そのことも佐古の忿懣《ふんまん》の捌《は》け口を失わせ、内攻させている。
あのときドライバーは自分のせりふの失当性を悟《さと》って去ったのかとおもっていたが、別の理由があったのかもしれない。つまり、塚田朝子の存在である。
ドライバーはあの場所で塚田朝子に出会うことをまったく予測していなかった。つまり二人の間にはなんらかの関係が先行しており、ドライバーには彼女《かのじよ》に会いたくない事情があったと想定したらどうであろうか。
佐古は車のナンバーを読み損ってしまったが、朝子はしっかりと確認した。一般の人間はナンバーから車の所有者を簡単に知ることはできないが、その筋にコネクションがあれば可能であろう。
いや、彼女がナンバーを確認することも、それから車のオーナーを手繰《たぐ》り出す必要もない。ドライバーにとって絶対に彼女に居所を知られてはならない事情があった場合、彼女にそれを知られた可能性があるだけでもまずいのだ。その可能性があるだけで、彼は戦々|兢々《きようきよう》としていたかもしれない。
思考を進めるうちに、推理が固まってきた。あのときドライバーが急に車を発進させたのはどう考えても唐突《とうとつ》である。彼は佐古とのトラブルを避《さ》けたのではなく、塚田との遭遇《そうぐう》に驚愕《きようがく》したのだ。
あのとき彼女も茫然《ぼうぜん》自失したように車の去った方角に視線を向けていた。いまにしておもえば、佐古とドライバーとの口論に彼女が茫然自失する必然性はないのである。塚田朝子とドライバーの間には、なんらかの関係が存在したにちがいない。それから間もなく朝子は夜の公園に無惨《むざん》な骸《むくろ》となって横たわっていた。
死因は鉄棒かスパナ状の鈍器《どんき》の作用による頭蓋骨陥没《ずがいこつかんぼつ》骨折であるという。スパナは車の備え付け工具である。犯人はあのドライバーだ!
佐古の意識に、接触《せつしよく》した相手ののっぺりした表情が犯人像として固定した。
しかしすべては佐古の個人的推測の域を出ない。彼が犯人だと仮定してもなんの手がかりもない。動機も不明である。こんな素人《しろうと》の個人的推理≠警察へもっていったところで相手にされないことがわかっている。
せめて犯人を推定させるなんらかの手がかりでもあれば、多少の説得力が生ずるのであるが、なにもない。
佐古はその後何度か現場に足を運んだ。彼《かれ》にとって現場は二か所ある。第一現場は接触《せつしよく》場所であり、第二のそれは塚田朝子が殺害された公園である。第二現場は当然のことながら警察の綿密な検証を加えられている。
公園の入口に公衆電話の丹頂《たんちよう》ボックスがある。犯人はここから被害者《ひがいしや》を呼び出したのであろう。佐古もよくそのボックスの前を通行しているが、閑静《かんせい》な環境《かんきよう》のせいで、いつも空である。
被害者が一本の電話でのこのこ出て来たところをみると、犯人に対してまったく警戒《けいかい》していなかったのであろう。佐古は犯行時間帯と同じ時間に公園に来てみた。ただでさえも寂《さび》しかった公園は殺人事件が発生してからは、昼間でもあまり人が立ち寄らなくなった。夜間は公園のそばを通りかかる者すらない。発見者のアベックもデートの場所を変更《へんこう》したにちがいない。
ボックスに入ると、暗闇《くらやみ》に囲まれた直方形の箱の中に閉じこめられたような感じがした。周囲の暗黒の奥《おく》から無数の凶悪《きようあく》な視線に見つめられているようで無気味である。圧迫《あつぱく》感に耐《た》えきれなくなってドアを開くと、閉所感はなくなり、周囲の闇が薄明《うすあ》かりの中に浮かび上がる。
ドアを一杯に開こうとしたとき、抵抗《ていこう》をうけた。ドアの内角はまだ開き切っていないのに、なにかにつっかえてそれ以上開かないのである。
佐古はドアの下端《かたん》を見た。なにかの異物が地上に落ちていて、ドアの開放を阻《はば》んでいる。彼はボックスの外へ出て、異物を地上から拾い上げた。拾い上げて愕然《がくぜん》とした。それは一挺《ちよう》のピストルであった。佐古はピストルを手にするのは初めてであったが、鈍《にぶ》く光る銃口から発せられる凶悪な気配とずしりとかかる手応えは本物であった。
なぜこんなものが公園に落ちていたのか。だれが落としたのかもわからない。ただ一つわかることは、それが殺人事件が発生して警察の捜査《そうさ》が実施《じつし》された後に落とされたことである。前であれば、必ず捜査の網《あみ》に引っかかったはずである。
佐古はためらったが、それをひとまず保存≠キることにした。彼にはその拾得物≠ェ被害者の復讐《ふくしゆう》をしてくれと訴《うつた》えかけているような気がした。
被害者《ひがいしや》が殺された現場で図らずも自分の占有《せんゆう》に入ってきた凶器も、なにかの因縁《いんねん》であろう。拳銃《けんじゆう》の拾得によって、佐古の犯人に対する敵意が確定した。
だが依然《いぜん》として犯人像は五里|霧中《むちゆう》である。警察の捜査もはかばかしく進んでいないらしい。佐古はよく拳銃《けんじゆう》を構えて空間の一点を狙《ねら》うポーズをした。照準に、接触《せつしよく》した相手が捉《とら》えられている。のっぺりした顔にふてぶてしい笑《え》みを浮かべている。捕《つか》まえられるものなら捕まえてみろと挑戦《ちようせん》しているような顔である。
引金にかけた指に力を加えようとする寸前に、的は消失した。
この頃、佐古はなにか重大な手がかりを忘れているような気がして仕方がなかった。なにかを忘れているのである。それがなにかわからない。たしかに感覚しているのだが、おもいだせない。それがおもいだせれば、犯人を割り出す手がかりとなるかもしれない。
リクエストされた犯人
殺人事件から一か月ほど後の日の午前、佐古は事務所でモニターをしていた。十二チャンネルのテープ(その中六チャンネルはFM)に目を配り、終ったテープがあると、直ちにスタンバイ・テープをスタートさせる。午前十時になると、リクエストの電話がかけられてくる。十一時までの一時間が「リクエスト・アワー」である。給料日前の平日の午前とあって、比較《ひかく》的リクエストの少ない時期であった。
「あのねえ、高木澪《たかぎみお》の『ダンスはうまく踊《おど》れない』をかけてよ」
中年らしい男の声でリクエストが入った。レギュラーのリクエスト者は声でわかる。その声は初めて聞くものであった。彼のリクエスト曲は数年前、石川セリに歌われた曲であるが、最近リバイバルしてきたものである。リクエストが多くなっている。
「『ダンスはうまく踊れない』ですね。かしこまりました。あなた様のお名前は?」
「え? 名前を言うのかい」
「あ、失礼しました。お客様のお名前ではなく、お店のお名前です」
「店? ここは店じゃないよ。自動車の修理屋だ。車の修理にちょっと寄っただけなんだ。じゃあ頼《たの》むよ」
電話は一方的に切られた。送受話器をフックにおいた瞬間《しゆんかん》、佐古は感電したように棒立ちになった。いまの声の主に埋《う》もれていた記憶《きおく》が触発《しよくはつ》されたのである。
「一方通行だぞ!」捨てぜりふを投げて去っていった例の接触者の声といまの電話の声が見事に重なっていた。声紋《せいもん》を重ね合わせればピタリと符合するにちがいない。佐古には確信があった。
その確信の裏づけとなったのが、リクエストされた「ダンスはうまく踊《おど》れない」である。あのとき接触者の車は、カーラジオをつけて坂を上って来た。そのとき放送されていたのが「ダンスはうまく踊れない」であった。狭《せま》い坂道に大きな車体だけでなく、ボリューム一杯《いつぱい》にカーラジオを鳴り響《ひび》かせて割り込《こ》んで来た彼《かれ》に反感をかりたてられたのである。
なにか忘れていた手がかりとは、カーラジオが流していた曲であった。その曲目とリクエスト者の声が重なって、記憶《きおく》をよみがえらせたのである。
リクエスト者は名乗らなかったが、自動車修理工場に来ていると言っていた。加入者の中に自動車修理工場は一軒しかない。
浅川《あさかわ》オート修理工場は、工場内の作業能率を上げるために最近有線放送に加入し、作業中音楽を流していた。佐古は直ちにモニターを事務の山田香代子《やまだかよこ》に頼んで、浅川オート工場へ飛んで行った。同工場はニュー・トウキョウ・ミュージック・サプライから自転車で十分の所にある。まだ加入して日が浅いために顔見知りがいない。同工場は、三階が居住区、二階が事務所、一階が作業場になっており、音楽は全階に流れるようになっている。マッチングボックスとアンプとスピーカーが三か所に設置されており、一|軒《けん》で三軒分の加入者に相当する効率のよい得意先であった。
佐古が駆《か》けつけたとき、工場には三台の乗用車、一台の軽トラック、一台のバンが修理中であった。乗用車の一台を見た佐古は、それが過日|接触《せつしよく》した車であることを認めた。ハードトップ四ドアメタリックグレイ、いま改めて確認した登録番号は「練馬《ねりま》57さ26−4X」である。
一目見て佐古は、この車にまちがいないと確信した。その車に取りかかっていたのは、二十二、三|歳《さい》の若者である。彼は自転車に乗って来た佐古に不審《ふしん》げな目を向けた。
「毎度有難うございます。ニュー・トウキョウ・ミュージック・サプライです」
佐古は愛想よく挨拶《あいさつ》をした。
「ニュートウキョウ?」
「有線放送の会社です」
「ああ、有線放送か。毎日|聴《き》いてるよ。だけど曲の紹介《しようかい》をしてくれないので、新曲が憶《おぼ》えられないよ」
それはよく客から寄せられる苦情である。
「申しわけありません。有線の音楽専門放送なので、音声を流せないのです」
「曲名の紹介ぐらいならいいんじゃないの」
「おっしゃる通りで、只《ただ》いま検討しております」
「有線がなにか用かい」
「少し前にこちらから私共に『ダンスはうまく踊れない』をリクエストされた方がいるのですが。多分この車のオーナーだとおもうのですけど」
「ああ、島木《しまぎ》さんね。うちが有線入れてるのを面白がって、さっきそこの電話からリクエストしていたみたいだな」
「島木さんとおっしゃるのですか。その方はどちらの方でしょうか」
「島木さんがどうかしたのかい」
若者の面に警戒《けいかい》の色が塗られた。性急に聞いて警戒させてしまったらしい。そのとき、佐古に直感が閃《ひらめ》いた。
「つかぬことをうかがいますが、もしかしてあなたは先月公園の殺人事件を最初に発見した根本さんではありませんか」
「あれ、どうして知っているの」
相手はギョッとしたような顔になった。
「新聞を読んでもしかあなたではないかとおもったのです」
「へーっ、新聞を読んでくれたの。会社とおれの名前が出ちゃったので、すっかり知られちゃったんだよ。この頃《ごろ》道を歩いていても、声をかけられることがあるんだ」
根本は得意げに心持ち肩《かた》をそびやかした。事件以来有名人≠フ気分を味わっているのかもしれない。
「やっぱりあなたがねえ、これもなにかの因縁《いんねん》かもしれないなあ」
佐古がおもわせぶりに言ったので、
「因縁ってどういうこと」
興味を惹《ひ》かれた表情になった。
「根本さん、犯人を捕《つか》まえたいとはおもいませんか」
「犯人を? そりゃおもわないことはないがね、警察の仕事だろう」
「それがあなたの協力次第で捕まえられるかもしれませんよ」
「ぼく次第で? どういうことだい」
根本は十分に興味を惹《ひ》かれた表情になった。
「ちょっと話を聞いていただけませんか」
「仕事中なんだよ」
「時間は取りません」
「それじゃ車の中へ入んなよ」
根本は佐古を修理車のリアシートへ入れた。根本は運転席に坐《すわ》った。こうしていると、外部からは根本はハンドル付近を調整しているように見える。佐古は、根本にこれまでの経緯《いきさつ》の概略《がいりやく》を語った。
「すると島木さんが怪《あや》しいというのかい」
根本の表情に驚愕《きようがく》があった。根本から聞いた島木の特徴《とくちよう》も佐古の印象と合致《がつち》した。
「私は彼《かれ》が十中八、九犯人だとおもいます」
「しかしそれはあなたのカンで証拠《しようこ》がないだろう」
「ですから、あなたの協力で証拠をつかみたいのです」
「証拠をどうやって?」
「凶器《きようき》はスパナのような鈍器《どんき》と推定されています。犯人は車備え付けの工具を使ったのにちがいありません」
「そうか、島木さんが犯人なら車の工具の中に凶器があるかもしれないな」
根本はいまや完全に好奇心《こうきしん》の虜《とりこ》にされていた。
「根本さん、あなたが発見者になったのも因縁《いんねん》だとおもいます。あなたの許に犯人が車を修理に来たのも、被害者《ひがいしや》の霊《れい》が導いたとしか考えられません。あなた次第で証拠が得られるのです」
「犯人が犯行に使った凶器をそのまま車に積んでいるだろうか」
「下手《へた》な場所には捨てられません。検《しら》べてみるだけの価値はありますよ。わずかな血痕《けつこん》、一本の毛が残っているだけで決め手になります」
「もしまちがったらえらいことになるよ」
「彼はいつ車を引き取りに来るのですか」
「車検に備えての全体検査だから三日後に来ることになっている」
「それならそれまでに工具を検査して、なにも怪《あや》しいところがなければ素知らぬ顔をして返しておけばいいでしょう」
そのとき、車の外から工場の責任者らしい五十|年輩《ねんぱい》の男が、
「おい根本、そんな所で何やってんだ」と声をかけてきた。
その日の夕方、根本は島木の車からパール、スパナ、レンチなど凶器《きようき》に該当《がいとう》するような工具を持ち出してくれた。佐古はそれらを加入者の一人である南雲《なぐも》医院へ持ち込んだ。南雲は管轄《かんかつ》署の嘱託医《しよくたくい》をしていると聞いていた。
院長はかなりのポピュラーファンで時々本人からリクエストしてくることがあり、佐古とも親しく口をきき合っている。院長にことの概略《がいりやく》を話すと、やや興味を盛《も》り上げられた表情になったが、
「きみの話はなかなかおもしろいとおもうが、被害者と島木という人物を結びつけるものは、きみが島木と接触《せつしよく》したときの心証だけなんだろう。ちょっと短絡《たんらく》にすぎるような気がするなあ」
と消極的な感想を言った。
「しかし、あのときの島木の態度はどう考えても不自然でした」
「島木がきみとのトラブルを中途半端《ちゆうとはんぱ》のまま急に立ち去ったとしても、塚田朝子が原因だったと断定するのは早計じゃないかね。また仮に彼女が原因だとしても、島木に彼女と会いたくない事情、あるいは居所を知られたくない事情があったとは限らないよ。それはきみの独断にすぎない。奇遇《きぐう》でびっくりしたかもしれないじゃないか」
「それなら慌《あわ》てて立ち去る必要はなかったとおもいますが」
「見られたくないところを見られたからだよ。きみとのトラブルの場面を目撃《もくげき》されて気まずかったんだろう」
「やはりぼくの独断にすぎますか」
気負い込《こ》んでいただけに気落ちした。院長は気の毒になったのか、
「とはいえ、きみの意見はおもしろいよ。一応検査してあげよう」と言ってくれた。
検査の結果が出るまで、佐古は島木について調べた。島木はS区|中込《なかごめ》町二丁目にある某有名電機メーカーの家族|寮《りよう》に住んでいた。近所に加入者の商店があったので、問い合わせたところ、この春関西本社から異動して来たばかりで、家族は細君と大学生の息子《むすこ》と高校生の娘が一人ずつである。佐古の調査ではその程度のことしかわからなかったが、島木の勤め先である某有名電機メーカーに着目した。
塚田朝子の別れた夫がやはり関西の某有名電機メーカーということである。佐古は早速その電機メーカーの人事課に電話して、殺人事件の被害者《ひがいしや》となった塚田朝子の別れた夫が勤めているかどうか問い合わせた。佐古がにらんだ通り、朝子の旧夫|山岡吉憲《やまおかよしのり》は、同社の社員であった。しかも島木とは大阪時代同じセクションにいた事実が判明した。
やはり島木と塚田朝子はつながりがあったのである。
だが南雲院長に委嘱《いしよく》した検査の結果はシロであった。島木の工具から血液反応は現われなかったのである。もちろん一筋の髪《かみ》の毛も発見されなかった。
「島木と塚田朝子の別れた旦那《だんな》が同じ会社に勤めていてもべつにどうということはないよ。もともときみが二人を無理に結びつけたんだ。これで島木がきみとのけんかを中途半端にして立ち去った理由も納得できるじゃないか。島木は同僚《どうりよう》の別れた細君がいたので、びっくりしたんだよ」
南雲院長は言った。佐古は釈然としなかったがとりあえず反駁《はんばく》すべき論拠《ろんきよ》をもたなかった。
だが南雲は、佐古の着想に興味をもったらしい。彼の話を捜査《そうさ》本部に取り次いでくれた。捜査本部は任意同行を求めて島木を取調べた。島木は任意捜査ではあっても警察から取調べをうけたことにショックをうけた模様である。警察は島木の態度に手応《てごた》えを感じて姿勢を強くした。その結果、島木は意外な事実を供述した。
島木は大阪時代、塚田朝子と密通していた。それが朝子の夫の山岡の知るところとなった。山岡と島木は話し合い、どちらにとっても不名誉《ふめいよ》なことなので内聞にすることに同意した。山岡夫婦は離婚《りこん》した。間もなく島木も東京へ異動させられた。島木と朝子はそれを契機《けいき》に別れたが、最近路上で偶然《ぐうぜん》再会したことから再び交際が始まった。朝子が島木の勤め先に連絡《れんらく》してきたのである。
だが今度の交際は以前のように、禁断の甘果としての甘味《あまみ》だけではなかった。島木には家庭と職場があったが、朝子には失うべきものはなにもない。対等であった二人の立場が変ってしまったのである。
朝子はいまのような境遇《きようぐう》に陥《おちい》ったのは島木の責任だから生活の面倒《めんどう》をみろと迫《せま》った。だが島木も一流会社の社員とはいうものの、朝子と娘の生活を全面保障する経済力は到底《とうてい》ない。何度か話し合いがもたれた。
あの夜もその件について話し合うために「公園」で待ち合わせた。家を出るとき、朝子に電話して公園へ行ってみるとすでに彼女は何者かに殺害されていた。
驚愕《きようがく》したものの、下手《へた》に警察に届け出ると自分が疑われてしまうとおもった。島木には、朝子を殺す動機がある。たとえ容疑が晴れても、朝子との関係が表沙汰《おもてざた》にされる。彼らのスキャンダルは朝子の夫との話し合いで内聞に付したのだ。それがこんな形で表に現われたら山岡にも迷惑《めいわく》をあたえる。島木の会社での立場も悪くなる。このように咄嗟《とつさ》に判断して、現場から逃げ帰り、口を噤《つぐ》んでいた――ということであった。
島木の言葉にどこまで信頼《しんらい》がおけるかわからない。だが、島木は警察から任意取調べに呼ばれただけで、ひとたまりもなく自分にとって不利益なことをすべて供述した。小心で保身に汲々《きゆうきゆう》たるサラリーマンの典型である彼《かれ》に、殺人を犯し、それを自分独りの胸の中に畳《たた》み込《こ》んでおくことは、到底不可能のようである。
取調官にすべてを供述して、島木はホッとした表情をしていた。その表情に二重底があるようであれば、任意取調べくらいでは動揺《どうよう》しないことを取調官は経験から知っていた。
島木は結局シロだったと聞いて、佐古は脱力《だつりよく》感に襲《おそ》われた。やはり素人推理であった。接触《せつしよく》者≠ノ対する個人的|憎《にく》しみが先入観を促《うなが》し、論理的であるべき推理の方向を狂《くる》わせたのである。
だがまったく的はずれでもなかった。佐古の着想から、島木と被害者との間の意外な人間関係が浮かび上がったのであるから素人探偵《しろうとたんてい》もって瞑《めい》すべしであろう。島木が犯人ではないと判明して、彼に対する憎悪《ぞうお》がなくなってしまった。
先入観が憎悪を促し、推理を歪《ゆが》ませたのであるが、容疑が漂白《ひようはく》されたために原因のトラブルまでが心裡《しんり》で決着がついたのである。
しかし、島木が犯人でなければ、一体、だれが犯人なのか。島木は、家を出る前朝子に電話をして出かけたという。朝子の住居の方が現場に近いが、島木は車で来た。犯行は島木が到着する一瞬《いつしゆん》前に演じられたのだ。島木が来たとき、あるいは犯人はまだ現場に潜《ひそ》んでいたかもしれない。通り魔《ま》の仕業か。朝子は金品をもち合わせておらず、また遺体に凌辱《りようじよく》の痕跡《こんせき》はなかったという。
警察も、通り魔の犯行を疑って捜査を進めているそうである。
佐古は再三、現場へ戻《もど》って来た。島木との接触《せつしよく》は決着がついたものの、塚田朝子殺しの犯人が判明しないことには釈然としない。彼が釈然としなくとも、どうということはないのだが、「乗りかかった船」の意識である。佐古の瞼《まぶた》に棺《ひつぎ》の後に従っていたふっくりしたあどけない幼女の顔が焼きついている。
朝子は、公園に来るのがほんの数分早かったために命を奪《うば》われた。一体、この公園で何が起きたのか。殺人事件以後、公園は、昼でも人が近寄らず、いまは廃園《はいえん》≠フように寂《さび》れている。ブランコ、滑り台、ジャングルジムなどの遊具も錆《さ》びついてしまった。それは廃墟《はいきよ》のようですらある。
佐古はベンチの上に坐《すわ》って思案に耽《ふけ》っていた。闇《やみ》は深く、遠方からの薄明《うすあ》かりも届かない。朝子も同じベンチに坐って島木を待っていたのだろうか。佐古の目は自然に朝子が倒《たお》れていたという砂場の方を向いている。ベンチからやや距離《きより》があり、間に滑《すべ》り台が立っている。ベンチで襲《おそ》われて、そこまで逃《に》げて行ったのか。
そのとき突如《とつじよ》として佐古の背後に凶悪《きよくあく》な気配が起きた。空気がブンと唸《うな》って凶気を凝集《ぎようしゆう》した物体が佐古の頭に振《ふ》り下ろされた。咄嗟《とつさ》に避《さ》けられたのは、動物的な本能としかいいようがない。凶器はベンチの背に当たって激《はげ》しい音をたてた。
第二|撃《げき》が来る前に佐古はベンチから立ち上がっていた。襲撃《しゆうげき》者はベンチの背後から仕掛《しか》けてきたので、第一撃を躱《かわ》されると、ベンチが佐古を守るバリケードとなった。二人はベンチをはさんでにらみ合った。
襲撃者のもののけのような黒い影《かげ》は、必殺の第一撃を躱されて、激しい殺気と怒《いか》りを内攻させている。
「だれだ。なぜこんなことをする」
佐古は恐怖《きようふ》に耐《た》えながらどなった。いや、なにか言わないと恐怖に心身が麻痺《まひ》してしまうようであった。黒い影は無言のままじりじりと迫《せま》って来る。相手から放射されて来る殺気は本物であり、まぎれもなく佐古に向けられている。佐古は朝子殺しの犯人が戻《もど》って来たのを悟《さと》った。
ベンチのバリケードは一時しのぎにしかならない。このまま空《むな》しく時を過ごせば、朝子と同じ運命を辿《たど》るのは、目に見えている。
のどがカラカラに乾上《ひあ》がり、ズボンの前が濡《ぬ》れた。相手は捕《とら》えた獲物《えもの》を嬲《なぶ》るように余裕《よゆう》をもって迫って来る。抵抗《ていこう》してもかなう相手ではない。背をみせて逃げようとすれば、即座《そくざ》に凶器が振り下ろされるだろう。
もうだめだと佐古は絶望した。そのときになって彼は自分が持ち合わせていた物体≠おもいだした。佐古は夢中《むちゆう》でその物体をポケットから取り出し手中に構えた。勝ち誇《ほこ》っていた相手が明らかに動揺《どうよう》した。
「それ以上、一歩でも近寄ってみろ、打《ぶ》っぱなすぞ」
相手の身体《からだ》は化石になったように動かなくなった。手中に支えられた拳銃《けんじゆう》の頼《たの》もしい感触《かんしよく》は、佐古に自信と落着きをあたえた。失禁した自分が別人のように信じられない。
「そんなオモチャは引っ込《こ》めな」
相手が初めて口を開いた。
「オモチャかどうか試してみようか」
本当のところ佐古にも本物かオモチャかわかっていない。だがそれが彼に自信と落着きをあたえていることは確かである。射すくめられるような恐怖《きようふ》を覚えていた襲撃《しゆうげき》者が、にわかに小さく、むしろ弱々しくすら見えた。
「まっ待て」
相手の声が震《ふる》えた。いまや完全に攻守所を変えた。
「動くな」
遠方の薄明《うすあ》かりが届いて襲撃者の顔を浮かび上がらせた。
それは佐古の知っている人物であった。
ひるんで逃げ腰《ごし》になった相手を拳銃で制しつつ、佐古は公園入口にある公衆電話ボックスまで移動して110番をした。
襲撃者は、自動車修理工の根本賢次であった。根本の自供によると、彼は恋人の佐々木陽子が最近、同じ勤め先の同僚《どうりよう》と婚約《こんやく》したことを怨《うら》んで、彼女を殺害する目的で公園へ誘《さそ》い出したところ、先に同公園へ来ていた塚田朝子の後ろ姿が似ていたので、誤って殺してしまったということである。
「スパナで一撃を加えたとき、人ちがいとわかりました。でも相手の女の人が何をするのともの凄《すご》い形相《ぎようそう》をしてつかみかかろうとしたので、夢中《むちゆう》で撲《なぐ》りつづけ、気がついたときは、女の人は砂場で息絶えていました。
凶器《きようき》に使ったスパナを自分の車に隠《かく》したとき、佐々木陽子がやって来ましたので、いま事件を発見したように装《よそお》って警察へ届け出たのです。人ちがい殺人で、佐々木陽子に対する殺意は消えてしまいました。
佐古さんが島木さんの工具を検《しら》べたいと言ってきたときはびっくりしました。私は彼《かれ》がいずれ自分に目をつけるにちがいないとおもいました。そうおもうと不安でたまらず、遂《つい》に佐古さんの口を永久に封《ふう》じようと決心し、彼の行動を監視《かんし》して公園で襲《おそ》ったのです。塚田朝子さんには気の毒なことをしたと後悔《こうかい》しております」
根本賢次の自供によって事件は一挙に解決した。根本は故意にか、あるいは忘れたのか、拳銃《けんじゆう》≠ノついてはなにも言わなかった。
事件が解決して十日後、根本賢次の起訴《きそ》が確定したころ、佐古は坂上の山上町から坂下へ向けて同じ路地を自転車で下りかけていた。坂下から一台の乗用車がエンジンを喘《あえ》がせながら上って来た。
佐古は前回の轍《てつ》を踏《ふ》まぬために自転車から下りて待った。車は徐行《じよこう》しながら、両車はすれすれにすれちがった。通り過ぎた後車の運転台からドライバーが顔を覗《のぞ》かせて、「すみません」と挨拶《あいさつ》した。佐古は微笑《びしよう》でうなずき返した。二人の間を、秋の気配を乗せた風が通りすぎた。
清涼《せいりよう》の気と共に佐古の胸に一抹《いちまつ》の悲しみが水脈《みお》のように入り込んだ。あのときこの場に居合わせた塚田朝子はすでにこの世に亡いのである。あの遭遇《そうぐう》がなければ彼女は命を失わずにすんだかもしれない。
佐古は一刷《ひとは》けの悲色を心から振《ふ》り落とすように坂下へ口笛《くちぶえ》を吹《ふ》きながら下って行った。
(本編の取材にジャパン・ミュージック・サービスの協力を得ました。同社に厚く感謝の意を表します。 筆者)
第五章
垂直の清掃人《せいそうにん》
ゴンドラが東京ロイヤルホテルの高層|壁面《へきめん》に移動するにつれて、風が強くなった。地上は無風|平穏《へいおん》でも、上空には強風が吹《ふ》いている。
「小物を落とさないように気をつけろよ。加速がつくから通行人に当たればいちころだ」
ベテラン相棒の辺見《へんみ》が注意した。ゴンドラの揺《ゆ》れが激《はげ》しくなって、壁面にコツコツ接触《せつしよく》している。ゴンドラは四本の鋼線ワイヤによって屋上のクレーンから窓枠に敷かれた二本のレールを伝って吊り下げられている。身体は安全ベルトによってゴンドラに固定されているが、恐《こわ》い。地上の車や通行人がミニチュアのように縮小され、見上げる頭上のビルの躯体《くたい》によって切り取られた空の真芯《まつしん》は暗いばかりに蒼《あお》い。地上には春霞《はるがすみ》がたつ陽気であるが、四月|上旬《じようじゆん》の高層壁面を通過する風は凍《こご》えるほどに冷たい。
作業は洗剤《せんざい》を窓に吹きつけ、スクイジーと呼ばれる窓|拭《ふ》き用ワイパーで窓を拭くだけである。スクイジーをベルトで、ゴンドラに固定されているが、作業員の小物は一々固定していない。一つの窓が終ると、電動ゴンドラを移動して次の窓に取りかかる。
内側より外側の作業のほうが辛《つら》いのはもちろんである。
「よし、次へ行こう」
辺見が移動ボタンを押した。ボタンによってレールを伝って上下に動くようになっている。おおむね上方から下方へ向かって作業をするのが普通《ふつう》順序であるが、いまのようにその逆の場合もある。
笠井《かさい》がまだ高所の作業に馴《な》れていないので、下方から徐々《じよじよ》に上って、高所順応≠ウせるためであった。高さに強いと自負している者でも意外に高所|恐怖症《きようふしよう》があるのである。
次の窓にはカーテンが引いてある。ホテルの場合、中に客がいるしるしであった。なるべく空き部屋と、客がいない出発から到着《とうちやく》までの午前十一時〜午後三時ぐらいの時間帯を狙《ねら》って作業を行なうのであるが、作業手順が縦割りであり、滞在《たいざい》客がいる場合は、止むを得ない。もちろん客室内には、窓|拭《ふ》き作業が行なわれる旨《むね》の通知《ノーテイス》が入っている。だがたいていの客はそんなものは読まない。そのためにこちらにその気がなくとも客のプライバシーをうっかり覗《のぞ》いてしまうことがある。客も仰天《ぎようてん》するが、作業員も困る。そして文句を言われるのは作業員の方なのである。
カーテンが引いてある部屋は中に人がいることがわかっていても仕事がやりやすい。しかし、笠井のような見習いは、カーテンの奥《おく》でどんなプライバシーが営まれているのか妄想《もうそう》をたくましくするために、かえって作業がはかどらない。
「窓の中でなにが行なわれていようと、窓ガラスだけしか見えないようにならなければ一人前とはいえない」
辺見はよく言ったが、笠井はとてもそんな境地には到達《とうたつ》できない。
ゴンドラが移動すると、一際風が強まった。風に呼吸があり、一息ついた後に突風《とつぷう》が来る。狭《せま》いゴンドラの中にしゃがみ込《こ》んで突風をやり過ごすこともある。
そんなとき、ホテルの暖かい部屋の中でぬくぬくと女と寝《ね》ている者がいるかたわらで仕事とはいいながら、高層|壁面《へきめん》に虫のように貼《は》りついて窓を拭いている人生の落差をおもってしまう。
冬は冷凍《れいとう》人間となり、夏は遮熱《しやねつ》ガラスの輻射《ふくしや》で焙《あぶ》り立てられる。笠井も窓の外を拭く側からプライバシーを覗《のぞ》かれてもいいから、窓の中の客になりたいとおもった。しかしそれも世を忍《しの》ぶ仮の姿≠ナある。ベテランの辺見ですら仮の姿なのであるから耐《た》えなければならない。
ゴンドラがゆっくりと移動して、格好の位置で停止した。笠井は身体《からだ》のバランスを取りながらスクイジーを動かした。窓|拭《ふ》きに難しい技術はいらない。最も要求されることは高度に馴《な》れることである。
ホテルのような窓が固定されていて開かないハメコロシでは、まず内側から始めて、徐々《じよじよ》に外側の低い所から馴《な》らしていく。プロになると一メートル四方の窓ガラスを一日平均二百枚こなしてしまう。
笠井はスクイジーを動かしながら、視線はついカーテンの奥《おく》を覗《のぞ》いてしまう。ちょうど彼の前でカーテンが五センチほど開いていていやでも中が見えるのである。辺見のような悟《さと》りの境地に達していないので、好奇心《こうきしん》に脹《ふく》らんだ視線が侵入《しんにゆう》していくのを防げない。
ベッドの上で一組の男女がもつれ合っているのが見えた。ホテルでは最もよく遭遇《そうぐう》するプライバシーの構図である。作業員の密《ひそ》かな楽しみにすらなっている。
室内には電灯がついているらしく、中の様子がよく覗ける。ゴンドラが移動すると、その影が室内にうつるので、たいてい悟られるのであるが、カーテンが引いてあったので、ゴンドラの接近に気づかなかったのであろう。
ベッドの中で、女に男がのしかかっていた。女はしきりにもがいているようである。その顔が窓の方を向いた。覗きを気づかれたかと、笠井ははっとしたが、女は苦しげに表情を歪《ゆが》めてもがいているだけである。視線を凝《こ》らしてみると、男は女に馬乗りになって彼女の首を絞《し》めているのであった。男も夢中《むちゆう》で、窓の外にゴンドラが貼《は》りついているのに気づかないようである。
「おい、どうしたんだ」
スクイジーの手を休めて中を覗き込んでいる笠井を辺見が注意した。
「中の様子がおかしいんです」
「そんなこと気にするな。中でなにをしていようとおれたちには関係ない。おれたちは窓さえ拭《ふ》いていればいいんだ」
辺見は表情を動かさずに言った。
「ちがうんですよ。男が女の首を絞《し》めている」
「じゃれっこをしているんだよ。放っておきな」
辺見は眉《まゆ》一筋動かさず、洗剤《せんざい》を吹きかけた。
「とにかくちょっと見てください。様子が普通《ふつう》じゃないんです」
「おまえさんも弥次馬《やじうま》だね」
辺見は苦笑しながら、身体《からだ》の位置をカーテンの切れ目の前に移した。女の苦悶《くもん》の表情はますます増悪《ぞうあく》されている。
「これはじゃれっことはおもえないでしょう」
「わからないよ。いまはSMプレイなんていうのがはやっているから」
「放っておいていいんですか」
「おれたちになにができるっていうんだ」
ハメコロシ窓なので、外からはどうすることもできない。
「もしこれが殺人の現場なら我々は人が殺されるのを見殺しにしたことになります」
言われて辺見も少し不安になったらしい。女の抵抗《ていこう》は次第に弱まり、窓の外からの観察であるが、表情が死相に近づいているようである。
「ぐずぐずしていると殺されてしまう」
「そうだな。とにかく止めさせよう」
ようやく辺見も同意した。
「こら、止めろ」
「よせ」
二人は窓の外から、窓ガラスをスクイジーの柄《え》で叩《たた》き、どなった。防音、防風効果の高い気密性のガラスであったが、彼らがあげた気配は室内に伝わった。
男は愕然《がくぜん》としてベッドからはね起きて、窓の方を見た。だれもいないと安心しきっていた高層|壁面《へきめん》にいつの間にかゴンドラが貼《は》りついていて、カーテンの隙《すき》から作業員が騒然《そうぜん》たる気配をたてている。
男はよほど驚《おどろ》いたらしく、カーテンの隙間を塞《ふさ》ぐこともせずベッドの中にいた裸《はだか》のまま逃《に》げ出した。
「あっ、待て」
「逃げるな」
窓の外からどなったところでどうにもならない。だが男が逃げ出したということは、笠井が想像した通りの犯罪が進行していた事実を示すものである。残された女はベッドの上にぐったりとなって動かない。
「大変だ、どうしよう、辺見さん」
笠井はうろたえた。情事の現場を覗《のぞ》いたことはすでに何度かあったが、殺人の現場を目撃《もくげき》したのは初めてである。ベテランの辺見も初めてであろう。
「とにかくホテルに知らせるんだ」
辺見は移動ボタンを押《お》した。地上へ下りてフロントへ通報したが、フロントも半信半疑であった。
まず外側から目撃したものだから正確なルームナンバーがわからない。いったん位置を移動してしまうと夥《おびただ》しい窓が規格的に配列されているだけであるので、果たしてどの窓であったか特定できない。あいにくその近辺のいくつかの窓にカーテンが引かれていた。おおよその見当で二十四・五・六階の中央向かってやや右寄りの部屋のどれかだろうということになった。
部屋の宿泊客名が調べられて、二十五階の2515号室のアベック客らしいと見当をつけた。
ホテルとしても「人が殺された」という連絡《れんらく》をうけて放っておくわけにもいかない。だが警察へ通報する前に確かめることにした。支配人、フロント課長、メードキャプテン、守衛など十数人が及《およ》び腰《ごし》に構えて2515号室の前へ来た。室内はシンと静まっていて人の気配がない。フロント課長がチャイムを押した。依然《いぜん》として気配がない。つづいてノックをしたが、静まり返ったままである。
「止むを得ない。マスターキイで開けたまえ」
支配人の命令でメードキャプテンがマスターキイをさし込んだ。ドアが開かれた。どかどかと闖入《ちんにゆう》した一隊の前で全裸《ぜんら》の男女がベッドの中に抱《だ》き合って竦《すく》んでいた。
結局、ホテル側の早とちりであった。アベックはSM愛好者でプレイを楽しんでいたのを殺人現行犯と勘《かん》ちがいされたのである。
「きみたちもっと慎重《しんちよう》に行動してもらわないと困るよ。おかげでホテルの信用を損《そこな》ってしまった。我が社はきみらに窓ガラスの清拭《せいしよく》を依頼《いらい》しているのであって、客のプライバシーを覗《のぞ》けとは言ってない。今後このようなことがあれば業者を変えるからね」
笠井と辺見、および二人が所属する窓ガラス清掃《せいそう》会社は、ホテルからこってりと油を絞《しぼ》られた。
「どうもおかしい」
笠井は首をひねった。
「何がおかしいのだ」
辺見が質《たず》ねた。
「犯人は逃げ出したはずなのにベッドの中で女と抱き合っていたでしょう」
「戻《もど》って来たんだろう。犯人は裸《はだか》だった。裸のまま逃げ出せないよ」
「それですよ。裸でSMプレイをしていたところを目撃されて騒《さわ》ぎになったのですから、当然、身支度をしているとおもうんですがね。それが裸のままいたのはおかしい」
「本人に悪いことをしたという意識がなかったんだよ。余計なお節介《せつかい》はいいかげんに止めろよ。あのホテルからお出入りを禁止されると、おれたちたちまち失業なんだぜ」
辺見は呆《あき》れたように言った。
「それにどうもあのアベックの顔も少しちがうような気がするんです。咄嗟《とつさ》のことでよく憶《おぼ》えていませんが、男はもっと年を取っていたような気がするんです」
「きみもこだわるんだな。狭《せま》いカーテンの隙間《すきま》からほんの束《つか》の間覗《のぞ》いただけなんだよ。そんな深い観察はできない。おれも確かに見ているが、あんな顔だったとおもうよ、というより、よく憶えていない。人間の記憶《きおく》なんていいかげんなものなんだ」
「どうもぼくは別の部屋で殺人が行なわれていたようにおもうんです」
「なんだって?」
「2515号室と確認したわけじゃありません。多分その部屋だろうと見当をつけていった先でたまたまアベックがSMプレイをやっていたんじゃないでしょうか」
「すると、きみは我々が部屋をまちがえたというのか」
「そうです。たまたま駆《か》けつけた部屋でSMプレイをやっていたものだから、てっきりその部屋にちがいないとおもい込《こ》んでしまった」
「考えすぎだよ。もしきみの考えている通りだとしたら、別の部屋から死体が発見されるはずだ。ホテルの部屋の中に死体は隠《かく》しきれないよ」
「そこのところがぼくにもわからないのですが、例えばなんらかの方法でホテルから死体をかつぎ出すということは考えられないでしょうか」
「そいつはかなりの冒険《ぼうけん》だね。それにかつぎ出したところでどこに隠すんだ。そんな危険を冒《おか》すくらいなら、初めからホテルの部屋の中なんかで殺さないだろう。まああまり想像をたくましくしないほうがいい。おれたちは窓さえ拭《ふ》いてりゃいいってことを忘れちゃいけない」
辺見に言われて、とりあえず反駁《はんばく》する言葉がなかったので笠井は口を噤《つぐ》んだ。だが胸の奥《おく》で不満が軋《きし》っている。その軋りが真相は別にあると訴《うつた》えていた。
笠井|祥二《しようじ》は、業界で「ガラス屋」と呼ばれているビル専門のガラス拭き作業員である。一応大学を卒業しているが、こぢんまりまとまったサラリーマンの枠《わく》をはめられるのに反発して、世界自転車一周旅行を企画《きかく》した。企画は壮大《そうだい》であったが、インド・パキスタンの国境近くで自転車が壊《こわ》れたところを山賊《さんぞく》に襲《おそ》われ身ぐるみ剥《は》がれた。生命があっただけ幸いだった。雄図《ゆうと》は虚《むな》しく挫折《ざせつ》し、それ以後、日雇《ひやと》いをしながら世界を放浪《ほうろう》した。ヨーロッパ、アメリカを回って三年後に帰国した。同級生は社会のそれぞれの位置に落ち着いていたが、海外ルンペンのその日|暮《ぐ》らしが身についた笠井には固苦しい会社勤めができなくなっていた。職もなかった。
そこで五体満足であればだれでもできるガラス屋になったのである。夏や冬場は辛《つら》かったが、馴《な》れてみると気楽な稼業《かぎよう》であった。
ガラス屋はおおむねビルの総合管理会社の下請《したう》けである。ビルのメンテナンスは「警備、設備、清掃《せいそう》」が三大業務であるが、窓|拭《ふ》きだけが下請けに任されているのは、その作業員が日雇いによって構成されているからである。つまり技術がいらないということである。
うるさい規則も人間関係もない。ゴンドラに相棒と二人だけで乗って窓さえせっせと拭いていればよいのである。
三か月から半年は見習い期間で日当は六千円、本雇いになると八千円になる。それだけあれば、人間一人生活していける。ガラス屋の気楽さに馴れると、他の仕事を探すのが億劫《おつくう》になる。
窓の外から中を覗《のぞ》いていると人間の営為《えいい》が滑稽《こつけい》に見えてくる。ホテル建物を担当するときは客が羨《うらや》しくなることもあるが、一般《いつぱん》ビルの窓の外から観《み》る中の人間は巨大な鉄筋の畜舎《ちくしや》に監禁《かんきん》された囚人《しゆうじん》である。
社長室で痴戯《ちぎ》に耽《ふけ》っている社長と秘書、人気のない資料室でキスを交している男女社員、女子トイレットでつかみ合いのけんかをしているOL、女性サウナ風呂《ふろ》の大胆《だいたん》な構図、それぞれの窓に人生がある。
ガラス屋にとって相棒は大切である。二人定員のゴンドラでペアで仕事をするのであるからウマが合わなければならない。
辺見は笠井より三|歳《さい》年長である。彼は著名な登山家でアルプスやヒマラヤも経験しているそうである。山にいるときが彼が本当に生きているときであり、下界にいる間は、山へ登る費用を稼《かせ》ぐための止むを得ない苦役≠ネのだという。
「地上何十メートルのゴンドラに乗っていても下界ですか」
笠井が質《たず》ねると、
「ヒマラヤの八千米峰《ジヤイアンツ》を狙《ねら》っているんだよ。五十や百メートルは、高さの中に入らない」
「まあ下界が苦役であることはぼくも認めますが、山はもっと凄《すさ》まじい苦役におもえるがなあ」
「体にとってはね。しかし精神にとっては天国だよ。生きてるってのは、そういうことじゃないか。見ろよ、ビルの中にいる連中を、みんなわずかな月給のために魂《たましい》と自由を売り渡《わた》しちまっている。おれたち日当は安いが自由を売っていない。いやならいつでも休める。止めるのも自由だ」
辺見だけでなく、ガラス屋には一風変った連中が多かった。ギャンブルが好きで会社をしくじった者、女房《にようぼう》に逃《に》げられて、高い所へ登れば見つかるだろうと信じてガラス屋になった者、趣味《しゆみ》の覗《のぞ》きが高じた者、世界一周リアカー旅行に近く出発するため定職に就けない者、元易者、絵描《か》き、自称元大学教授、自称詩人など、彼らに共通のパターンは管理されることが嫌《きら》いなことである。管理社会の落ちこぼれが集まったといってもよいだろう。
だが反面彼らは管理社会に対する反逆児でもあった。管理されることを断乎《だんこ》として拒否《きよひ》して、精神の自由を維持《いじ》し、自己に精一杯忠実に生きている。ガラス屋は一社精々、三人〜二十人ぐらい、全国でも六百人前後である。
彼らには不思議に生活の垢《あか》がついていない。生活苦の疲労《ひろう》もない。日当目当てであるならもっと他に割のよい仕事がある。現に学生アルバイトは楽で割のよい仕事を他に求めてあまりやって来ない。若い女がいない職場ということも彼らを惹《ひ》きつけない理由かもしれない。
「どうもすっきりしないようだな」
辺見がトイレ休憩《きゆうけい》時に声をかけた。高所での作業なので時々トイレットのための休憩が必要である。二人の呼吸が合わないと交互《こうご》にトイレに行っていて作業がはかどらなくなる。
「すみません。どうもスモッグみたいに頭の隅《すみ》に引っかかっていましてね」
「それじゃあ気がすむように調べてみたらどうだい」
「でも調べようがないのです」
「ホテルのフロントにおれの山登りの弟子≠ェいるんだ。彼に当日、SMアベックの周辺の部屋に泊まっていた客のリストを調べてもらおう」
「しかしSMアベックの周辺には、他に二人連れはいなかったんでしょう」
「名探偵がなに言ってるんだ。女か男が一人で泊まっているところへ、どちらかが訪ねて来たかもしれないじゃないか」
辺見の意見は、死体消失≠フ謎《なぞ》を解いていないが、新たな視野を開いてくれるものであった。
辺見の弟子≠フフロント係がSMアベックの部屋の近くに泊まり合わせた客のリストを調べてくれた。調査の範囲《はんい》は、アベックの部屋を中心にして上下各二階《フロア》ずつ、二十三階から二十七階まで左右各二室ずつ、計二十四室である。それらの階《フロア》は二人部屋《ツイン》、三人部屋《トリプル》によって構成されており、夫婦、アベック、家族連れが多い。
SMアベック以外に二十四階に二組、二十五、六階に各一組、二十七階に二組、計六組|宿泊《しゆくはく》していた。出発《アウト》と到着《イン》の狭間《はざま》にあったために、少なかったのである。
これらの客の中、二十四階は新婚《しんこん》客と大学教授夫妻、二十五階が転勤して来て社宅が定まるまで滞在《たいざい》しているある商社マン夫妻の家族、二十七階が、長期滞在しているR国大使館員一家である。
この中、二十六階2615号室の女性客だけが一人で宿泊している。宿泊カードには野見山園枝《のみやまそのえ》(二八)、無職、高槻《たかつき》市|奥天神《おくてんじん》町二丁目二十三の××番地となっている。
「この野見山という女性はダブルに一人で泊《と》まっていますね」
その女だけが、辺見説に該当《がいとう》する。
「シングルは狭《せま》くていやだという方もいらっしゃいます。一人でツインやダブルを取る客もけっこういるのですが、女性のシングルユースというのは珍《めずら》しいですね」
辺見の弟子の星島《ほしじま》というフロント係が説明した。
「シングルユースというのですか」
「一人で二人部屋以上の部屋を使うことをいいます」
「野見山園枝はどういう客筋ですか」
「一年ぐらい前から二か月に三度くらいの割で来られるお客です。どういう素姓の方かわかりません。これまで面倒《めんどう》を起こしたことはありませんね」
「若い女がダブルのシングルユースをするということは、男が後から来ることを意味しませんか」
「多分そうでしょうね。しかし一人部屋に二人入るのとちがって二人部屋に後から連れが合流する場合はワンベッド分の差額を追徴《ついちよう》するだけで、ホテルはあまりうるさいことは言いません。特にダブルは一人でも二人でも使用ベッドに変りありませんから」
「野見山園枝は差額を払《はら》っていますか」
差額を払っていれば、後から男が来たことを意味する。
「野見山さんは二泊の予定で四月十二日にチェックインされて、五万円|前金《デポジツト》を預けてますね」
「それはどういうことですか」
「到着《とうちやく》時に宿泊《しゆくはく》飲食代金に相当する金額を預けることをデポジットといいます。そのデポジットがまだ精算されていませんね」
「精算しないで出発してしまったのですか」
「デポジットを入れたお客にはそういう方もいらっしゃいます。2615号室は一泊お一人様一万七千円のダブルですので、税金、サービス料を加えて約二万円となります。五万円のデポがあると、一万円ほどのお釣《つ》りが出ます。お二人の場合は一泊約三千円加算されます」
「すると野見山さんは一万円のお釣りを受け取らずに出発してしまったのですか」
「出発予定日に精算されないので、お部屋をチェックしましたところお荷物がないので、一応ご出発とみなして伝票《ビル》を締《し》めました。ルームサービスが五千円ほどございまして、約五千円のお釣りは次回のお越《こ》しまで|お預り《キープ》してございます」
これは新しい発見であった。野見山園枝は実際に出発したかどうか確かめられていないのである。出発予定日に精算をしないので、ホテル側が会計処理上勝手に出発させたのであった。笠井らが事件を目撃したのが四月十三日午後三時|頃《ごろ》であるから、そのとき殺害されて死体を運び出されれば出発予定日の十四日に本人は精算できない。
部屋に荷物がなく、人間がいないからといって本人が出発したとは限らない。別の人間が彼女と荷物を運び出すことは可能である。野見山園枝の次回の予約は入っていないということである。
ホテルから聞き出せたことは以上であった。SMアベック客の近くに泊《と》まり合わせていた胡散臭《うさんくさ》い人間は野見山園枝だけである。年齢《ねんれい》も、笠井が目撃《もくげき》した女性の年格好に符合《ふごう》する。他の客はいずれも身許が明らかであり、該当《がいとう》しなかった。
笠井は、野見山の住居まで出向いて確かめる前に一計を案じた。
――四月十三日の午後東京ロイヤルホテルのロビーで図らずもあなたをお見かけした者です。私の高校時代の同窓野見山園枝さんにそっくりでしたので声をかけようとしたとき、エレベーターに乗られてしまいました。お部屋にお電話するのも失礼かと存じ、ホテルで聞いたご住所|宛《あて》に書中にてお質《たず》ねします。もし野見山園枝さんでしたら、同窓会|名簿《めいぼ》を作成中でございますので近況《きんきよう》をお知らせいただけませんか。人ちがいの節はどうぞご放念ください――と書いた手紙を野見山園枝の住所宛に投函《とうかん》した。数日後、その手紙は「宛名人居所不明」で差し戻《もど》されてきた。
おもった通りであった。彼女は偽《いつわ》りの住所地をホテルのカードに記入したのだ。名前も虚偽《きよぎ》であろう。すると彼女は四月十四日(ホテル側の自発的精算)以降消息が不明ということになる。
笠井の疑惑《ぎわく》は調査によってますます脹《ふく》れ上がった。だがそこまでが素人|探偵《たんてい》の限界であった。そこから先へ進めなかった。
社用《ハウスユース》の情事
四月十五日午前七時三十分ごろ東京都|西多摩《にしたま》郡|檜原《ひばら》村アマメクボ地域内の北秋川右岸にある通称、「雨戸岩」と呼ばれる岩場に女の変死体があるのを魚釣《つ》りに来た八王子《はちおうじ》市|東浅川《ひがしあさかわ》七七〇の九、会社員|中村洋二《なかむらようじ》さんが発見して五日市《いつかいち》署に届け出た。
五日市署が調べたところ死体の首に手で絞《し》めた跡《あと》があり、身体《からだ》に争った痕跡《こんせき》があることから殺人事件と断定、警視庁|捜査《そうさ》一課の応援《おうえん》を求め、殺人死体|遺棄《いき》事件の捜査本部を設けて捜査を始めた。
同本部の調べによると、女性はレースのネグリジェをまとっただけの推定|年齢《ねんれい》二十五〜三十|歳《さい》くらい、身長百六十センチ、細身で髪《かみ》は長く、一部を赤く染めたメッシュにしている。指にマニキュアを施《ほどこ》し、右手首に金の腕環《うでわ》を付けている。なお右下腹部に盲腸《もうちよう》の手術痕がある。
身許を示すような衣服や所持品は見つからないが、腕環は銀座の高級|宝飾《ほうしよく》店「金亀堂《きんきどう》」製の高価な品であり、身許割出しの手がかりになるとみて同店に照会している。
現場は渓谷《けいこく》沿いの車道から急斜面《しやめん》を約三十メートル下った岩場の基部にあたり、上部に杉《すぎ》木立、中腹から基部にかけては切り立った崖《がけ》である。死体は水流から二メートルほど上にある岩のポケット状のくぼみにあり、道路から杉木立の縁《ふち》まで死体を運んでそこから突《つ》き落としたものとみられる。死体には墜落《ついらく》の際につけられたとみられる死後の打撲傷《だぼくしよう》やすり傷がある。
死後経過は一〜二日、犯人は他の場所で殺した後死体をこの場所へ運び捨てた模様である。現場が道路から近く、しかも容易に発見され難い場所であることから、犯人は現場の地理に通じているともみられ目撃者《もくげきしや》を探している。――
この報道の翌日には、早くも被害者《ひがいしや》の身許が割れた。追報記事によると、
――秋川の女性殺人死体|遺棄《いき》事件を捜査《そうさ》している捜査本部では被害者が腕につけていた腕環《うでわ》の製造|販売《はんばい》元銀座四丁目金亀堂|宝飾《ほうしよく》店から、同腕環を江東《こうとう》区|東陽《とうよう》町五の二十六サンビスタ403号室野田園子《のだそのこ》さんの注文をうけて製造したことが判明した。
早速野田園子さんの住居を当たったところ、数日前から出たまま帰宅していない。職業はホステスで、銀座六丁目のクラブ「桂樹《かつらぎ》」に勤めている。桂樹に問い合わせると、月曜日の四月十一日に店をひけてからずっと無断欠勤しているので、電話をかけているが連絡《れんらく》が取れないで困っていたということである。
同店の経営者や同僚《どうりよう》によって被害者は野田さん(二六)と確認された。同店の上司、同僚の話によると野田さんは「客あしらいが上手で贔屓《ひいき》が多かった。仲間の面倒《めんどう》みもよく、みんなから好かれていた。勤務はまじめで無断欠勤はしたことがない」ということである。
男関係については店のマスターが、
「こういう商売ですからつき合っていた男性は何人かいたかもしれないが、そんな深刻な関係の相手はいなかったようです」と語った。
捜査本部はまず焦点《しようてん》を野田さんの男性関係に絞《しぼ》って捜査を進める方針である。――
新聞の報道記事を読んだ笠井は、一緒《いつしよ》に掲載《けいさい》されていた被害者の写真に改めて目を凝《こ》らした。記憶《きおく》がしきりに騒《ざわ》めき、当日の光景を再現しようとしている。
狭《せま》いカーテンの隙間《すきま》から束《つか》の間の覗《のぞ》き見であったが、あのとき男に首を絞《し》められてベッドの上でもがいていた女の顔に似ているようである。野田園子と野見山園枝にも関連性が感じられる。犯人は笠井らに見られたのを悟《さと》って死体をなんらかの方法でホテルから搬《はこ》び出して捨てたとすれば、死体が発見された日から逆算してもおおむね該当《がいとう》する。
被害者《ひがいしや》が勤め先の無断欠勤を始めたのが四月十一日というから、その二日後に東京ロイヤルホテルの2615号室で笠井に目撃《もくげき》されることが可能である。
ともあれ死体が発見されて警察の本格的|捜査《そうさ》が始まったのであるから、犯人|逮捕《たいほ》は時間の問題であろう。被害者の異性関係を中心に捜査を進めているという警察の姿勢にも自信のほどが感じられる。
だが笠井は自分が知っている事実を警察に通報しなかった。それはまず被害者と「野見山園枝」が同一人物かどうか確信がもてなかったことと、自分が目撃した事件が2515号室かあるいは2615号室か確認できなかったからである。
もし初めからSMアベックを目撃していたのであれば、虚偽情報《ガセネタ》を提供して徒《いたず》らに捜査を混乱させ、ホテルの働き口も失ってしまうかもしれない。
辺見も新聞の報道についてなにも言わない。彼も、現場を目撃しているのであるが、女の顔を忘れてしまったのか、新聞を見ないのか、それともあえて黙秘《もくひ》しているのか、まったく無反応であった。
笠井はその後の報道に注意していた。だがいっこうに犯人が逮捕されたというニュースは聞こえなかった。被害者の職業|柄《がら》、男性関係から犯人逮捕は時間の問題とみられていたのが、容疑者は次々に消されて、どうやら迷宮入りの気配が濃《こ》くなっていた。
笠井は辺見とのペアで東京ロイヤルホテル専門の窓|拭《ふ》きを担当していた。地上四十二階、客室数約二千五百室の窓を外から全部拭くのに一日百五十〜二百室のペースで順調に進めば二週間、強風や悪天候の日を差引いて約二十日間要する。
ガラス屋は普通外側だけを担当する。内側は業者が異なる。だが、辺見と笠井は内外まとめて請《う》け負っていた。
作業はまず内側を拭いてから外側に取りかかる。外側はゴンドラやブランコに乗って集中的に行なえるが、内側は空室や客の不在時を狙《ねら》うので能率が悪い。内外合わせると一周《ワンサイクル》終るのに二か月くらいかかる。
ガラス屋が仕事の対象にする窓の種類はおおむね三種類である。すなわち、高層ホテルに多い「ハメコロシ」という開かない固定式、「回転式」という中央の軸《じく》によって回転するタイプ、左右に開く「観音《かんのん》開き」である。
回転式と観音開きは内外側同時に仕事ができるが、ハメコロシは内と外を分けてしなければならない。長期|滞在《たいざい》や、客の入室が不規則な部屋は、内側からの仕事がなかなか行なえず、内外の作業の進行|状況《じようきよう》がアンバランスになりやすい。
ホテルの仕事は定期性があり、ガラス屋のよい得意先であるが、最近は「ロボット」と呼ばれる自動窓拭き機が出現したため、ガラス屋のマーケットが脅《おびや》かされている。
二か月後、ワンサイクルが終り、笠井は例の事件があった客室ブロックの作業へ戻《もど》ってきた。まず内側の可能な部屋の窓から作業を進めていく。
2615号室は標準のダブルルームである。笠井はこの部屋だなとおもいながら内側から窓を拭《ふ》いた。固めてできない非能率性はあるが、外側に比べて危険はなく、スクイジーを落とす心配もない。エアコンの室温は身体《からだ》に快く、トイレットは備えつけられている。ガラス屋は外側がなければ気楽な稼業《かぎよう》である。
「あれ、こんな所にドアがあったかな」
笠井は隣室《りんしつ》との隔壁《かくへき》に設けられたドアに初めて気がついた。前回内側作業のため入室したときはそこにドアがあったことに気がつかなかった。窓ばかり見ていたので、視野に入らなかったのであろう。
「連絡《コネクテイング》ドアさ」辺見が言った。
「コネクティングドア?」
「部屋と部屋を連絡《れんらく》するのさ。家族連れやグループの場合このドアを開放してより広い部屋として利用するんだ。ドアをロックすればそれぞれ独立した部屋になる。こういうタイプの部屋をコネクティングルームというんだそうだ」
笠井がロックをはずしてドアを開くと、さらにもう一枚のドアが隣室との間を隔《へだ》てている。つまり二枚のドアが背中合わせになっていて、隣り合った部屋が同時にコネクティングドアを解錠《かいじよう》しないかぎりコネクティングルームとして利用できない仕掛《しか》けになっていた。
「辺見さん!」
笠井の視野にチラと見えかけたものがあった。
「何だい」
「あのとき女を絞《し》めていた男が逃げ出しましたね」
「まだあの事件にこだわっているのか」
辺見が呆《あき》れた声を出した。
「あのとき首を絞めていた男は裸《はだか》でした。そんな姿で廊下《ろうか》へ逃《に》げ出したらいっぺんに不審《ふしん》をもたれてしまいます。コネクティングドアを通って隣室《りんしつ》へ逃げるという手が残されていたのです」
「コネクティングドアは一方だけ開けても通行できないよ」
「だから二枚とも開放されていたんですよ。別行を装《よそお》って隣《とな》り合った部屋を取り、コネクティングドアを開放すればだれにも知られることなく内部で往来できます。人目を忍《しの》ぶ情事には理想的じゃありませんか」
「なるほど、あり得るな」
辺見の目に興味が盛《も》り上がった。
「犯人は狼狽《ろうばい》していったん隣室へ逃げたものの、目撃《もくげき》者が部屋の位置を錯覚《さつかく》した様子を悟《さと》った。たまたままちがえた部屋にSMアベックがいたものだからホテル側の関心がそちらへ集中した。その隙《すき》を突《つ》いて死体を運び出してしまったんじゃないでしょうか」
「なぜ危険を冒《おか》して死体を運び出すんだね。別行の形で泊《と》まっているのだから、死体を部屋に残したまま逃げてしまえばいいじゃないか」
「死体を苦労して運び出したのが、野見山に連れがいた証拠《しようこ》です。行きずりの犯行ではない。ホテルの部屋から死体が発見されたら、どんなに別行を偽装《ぎそう》しても見破られてしまうでしょう。ましてコネクティングルームで発見されればペアの部屋が真っ先に疑われる。犯人が死体を運搬《うんぱん》した事実が隣《とな》りの部屋にいた証拠《しようこ》です」
「死体がそんなに簡単に運び出せるとはおもえないが、野見山園枝の隣室の客を調べる価値はあるね」
「また星島さんに頼《たの》んで調べてもらえませんか」
「それはちょっと難しいとおもいますよ」
星島は首をひねった。
「どうしてですか」
「ホテルはよほどのVIPかおなじみさんでないと、客の指定するナンバーの部屋を|割り振る《アサイン》ことはないのです。野見山園枝さんからそのようなリクエストが出されてもお断わりしたはずです」
「フロント係に知っている人がいたらどうでしょう」笠井は食い下がった。
「それなら可能ですが、その場合はコネクティングルームの隣り同士を別行のように装《よそお》えなくなります」
星島の説明によると、別行を偽装した二組の客がコネクティングルームを取るためには、ルームナンバーを指定しなければならないという。つまりAが先着してBがその隣りへ来るにしても、その逆の場合にしても、AB同時に到着《とうちやく》しても、別行を装っているのであるからどちらかが目当ての部屋の隣室を取るためにはナンバーをあらかじめ指定しなければならないのである。
「仮にホテルに知合いがいて便宜《べんぎ》をはかってもらったとしても、コネクティングルームは二室単位《ペア》で構成されておりますので、ペアでなければ隣《とな》り合っていても、連絡《コネクテイング》ドアがありません。ペアの一方の部屋に他の客がすでに入室していれば、意味がありませんので、AB両方のルームナンバーを指定しておかなければなりません。そうなるとホテル側に同行者であることがわかってしまいます」
野見山園枝にコネクティングルームの同行客がいたとすれば、宿泊《しゆはく》カードにその旨《むね》が必ず記入されているはずであった。
「ともかく当日どんな客が野見山のペアの部屋にいたか調べてもらえませんか」
笠井は少しうんざりしているような星島に頼《たの》み込んだ。
「2615のペアは2616ですが、四月十二日から二日間はホテルのハウスユースとなっています」
星島が渋々《しぶしぶ》と記録を調べてくれた。
「ハウスユースって何ですか」
「ホテルの社用ですね。ホテルの幹部などが宿泊する場合、社用として売り上げないのです」
「社用!」
脳裡《のうり》を一閃《いつせん》の光が通り抜けた。
「2616にはだれがハウスユースとして泊《と》まっていましたか」
「客室支配人の田島さんです。我々の上司ですが、凄《すご》いやり手で上層部の信頼《しんらい》も厚い人です」
「客室支配人といえば、たしか私たちが異変を連絡《れんらく》したとき、2515号室へ駆《か》けつけたホテル側スタッフの中にいたように記憶《きおく》しておりますが」
「客室関係の最高責任者ですからね、当然いたでしょう」
おもわくが笠井の脳裡を慌《あわただ》しく駆《か》け回る。犯人を客室支配人と仮定すれば、彼は犯行現場を目撃《もくげき》されたことに動転しながらも、束《つか》の間の覗《のぞ》き見だったから自分の顔までは記憶されていないだろうとおもい直す。そしてなにくわぬ顔をしてそれらしいアベックが入室している2515号室へ一同を誘導《ゆうどう》する。タイミングよくアベックがSMプレイに耽《ふけ》っていたものだから、一同は完全に錯覚《さつかく》してしまった。客室支配人は笠井らが彼《かれ》を見ても反応しないことに自信を強めた。この調子なら逃げられるかもしれない。
一同の注意を2515に惹《ひ》きつけておいて、深夜に2615から死体を移動した。
「ハウスユースの部屋ナンバーはどのようにして決定するのですか」
笠井はおもわくを転がしながら訊《き》いた。
「幹部から要請があったとき我々フロント係が|部屋割り《アサイン》するのですが、田島支配人の場合はご自分で空き部屋の中から適当に選んでいます」
「それでは四月十二日から二日間は田島氏が2616を勝手に選んだのですね」
「そういうことになりますか。客室部門の最高責任者ですから、ご本人が自分で使う部屋をピックアップしてもべつに不思議はありません」
「田島氏がフロントで客の部屋割りをすることはありませんか」
「あまりありませんけど、フロントが忙《いそが》しいときは到着受付け《チエツクイン》を手伝うことがあります」
「それでは田島氏が野見山園枝の部屋割りをしたということはあり得ますね」
「あり得ます。しかし宿泊《しゆくはく》カードにチェックインを担当した係のサインが入ってますから、だれが受け付けたかわかりますよ」
「野見山園枝はだれが受け付けたかわかりますか」
「おや、この宿泊カードにはサインがないな」
星島がいま初めて気がついたような声を出した。
「サインがないと、だれが受け付けたのかわからないのですか」
「時々忘れることがあるのです。チェックインのラッシュ時には一度に二、三十組が到着《とうちやく》することがありますのでね。責任の所在を明らかにするために受付けサインを忘れないようにうるさく言っているんですが、たて混んでくると、つい忘れてしまうのですね」
「田島氏が野見山の部屋割りをして、故意にサインをしなかったとは考えられませんか」
「それは考えられます。特に幹部が手伝ったときは、フロントの取り決めを忘れることがあります」
「野見山のデポジット五万円も田島氏が出したのかもしれませんね」
「支配人が女を密かに呼び寄せたとおっしゃるのですか」
「自分の勤め先へ女を呼ぶのは一見危険なようでいて意外に安全なんじゃありませんか。業界で顔を知られているのでよそのホテルは使えない。自分のホテルなら自由に客室を操作できる。忙《いそが》しい身体《からだ》でも勤務時間を盗《ぬす》んで逢《あ》える。どうでしょう、野見山園枝のこれまでの宿泊記録を溯《さかのぼ》って全部調べていただけないでしょうか。面白いことがわかるかもしれない」
「やってみましょうか」
笠井の好奇心《こうきしん》が星島に伝染したようである。
「大変なことがわかりましたよ」
二日後星島が興奮してやって来た。彼の表情からなにかをつかんだことが察せられる。
「野見山さんは昨年の二月以来、全部で十八回、延べ三十二|泊《はく》していらっしゃいますが、いずれの宿泊カードにもサインがありません。そして全宿泊を通じてコネクティングルームを取り、そのペアの部屋を同時に田島支配人が使用しております」
予想はしていたが、こうも見事に的中するとはおもわなかった。
野見山園枝と田島はなんらかの関係があった。十八回の宿泊を通じてコネクティングルームに隣《とな》り合うという偶然《ぐうぜん》は考えられない。
「田島氏を犯人と仮定した場合、2615号室から死体を人目に触《ふ》れずに館外へ運び出すことはできませんか」
「夜間、荷物専用《バゲージ》エレベーターを使えば可能ですね」
星島も田島にかけられた重大な嫌疑《けんぎ》を察していた。
「バゲージエレベーター!」
「2615号室と廊下《ろうか》をはさんでフロアステーションがあります。昼間は客室係が詰《つ》めていますが、夜間は無人になります。ここに従業員がバゲージ運搬《うんぱん》やルームサービス用に使うエレベーターがあります。午前二時以降はほとんど使用されませんし、直通のボタンを押しますと、途中階をパスしてしまいます。これに乗って地下二階の駐車場《ちゆうしやじよう》までパスすれば、だれにも知られず抜《ぬ》け出せます。従業員しか知らないことですが」
「それだ! それを使ったのにちがいない」
笠井はおもわず興奮した声を出して、
「野見山園枝と殺された野田園子が同一人物と断定できれば、田島氏の容疑は免《まぬか》れませんが、ホテル側で野見山園枝を見た人はいないでしょうか」
「それが十八回のチェックインすべてが受付者不明で、印象が残っていないのです。なにしろ一人が一日五十件から百件のチェックインを受け付けるので、受付け外の客まで記憶《きおく》しているのは無理です」
また野見山としても田島から言い含《ふく》められていて、つとめて自分の印象を薄《うす》くするようにしたのであろう。
笠井の発見を聞いた辺見は、
「たしかに偶然《ぐうぜん》がそんなに重なるとはおもえないな。しかし、だからといって野見山園枝と被害者《ひがいしや》とを同一人物とは断定できないだろう。また断定できたとしても、我々が目撃《もくげき》したシーンが被害者が殺害された犯行シーンだったとは断定できないよ。田島を容疑者とするためには田島と野見山園枝の関係、および野見山と野田園子が同一人物であること、さらに我々が目撃したシーンが犯行現場であったことの三重の証明が必要だ」
と冷水をかけた。
「野見山園枝が宿泊《しゆくはく》の都度田島のペアの部屋を取っていたことは証拠《しようこ》になりませんか」
「それは野見山と関係があったことにはならない。要するにきみの臆測《おくそく》にすぎないのだ。考えてもみろよ、自分の勤め先へ女を連れ込んで関係するということがエリートらしからぬ乱暴な振舞《ふるまい》なのに、そこで女を殺すなんて気ちがい沙汰《ざた》だよ」
「衝動《しようどう》的な犯行ならばあり得るんじゃありませんか。それを我々に目撃され、部屋ちがいによって危ういところを逃《のが》れた」
「いいかげんにしろよ、どのみちおれたちには関係ない。ガラス屋が窓の中のことに一々興味をもっていたら、商売にならない。おれたちは窓さえ拭《ふ》いていればいいんだ」
「我々が気づくのがもう少し早ければ彼女死なずにすんだかもしれません」
「窓の中でだれが死のうと生きようと、関係ないことだよ」
「火事になって、窓の中からゴンドラに救いを求められても見殺しにしますか」
「それとは別だよ。殺されたかどうか確認されていないのだ。それを確かめるのは、おれたちの仕事じゃない」
「乗りかかった舟といいますが、野見山園枝は我々のゴンドラに乗りかかったようにおもえてならないのです」
「乗りかかったゴンドラか」
辺見は一本取られたような顔をした。
「ガラス屋は外側だけ拭いていたのでは仕事を完了したことになりません。表と内の両サイドから拭いて、窓はきれいになります」
「わかったよ。きみの気のすむようにしたらいいだろう」
だが笠井は辺見が示唆《しさ》した三つの証明≠ェできなかった。田島の疑惑《ぎわく》は濃《こ》かったが、それ以上立ち入った調査はできなかった。ここまで来られたのも星島の協力があったからである。
「ちょっとおかしなことがわかりましたよ」
笠井の調べが頓挫《とんざ》して数日後、星島が連絡《れんらく》してきた。
「なんですか、おかしなことって?」
「あれからどうも気になりましてね、ぼくなりに調べてみたのですが、田島支配人が事件の三日後から一週間2615をハウスユースしていたことがわかりました。それだけじゃありません。2615が気に入ったとみえて、ホテルに泊《と》まるときは、いつも2615を取ります。事件後田島さんの専用室みたいになっているのですよ」
「事件の前はそんなことはなかったのですか」
「ありません。空き部屋の中から適当に選んでハウスユースしてました」
「田島氏が2615を専用室にした……」
田島としては心理的に2615と2616は避《さ》けたいはずである。それが逆の行動に出た。そのことになにか重要な意味があるにちがいない。
「なぜそんなことをしたのでしょうか」
笠井は専門家としての星島の意見を聞いた。
「考えられることが一つあります」
星島はおもわせぶりにいったん言葉を切ってから、
「田島さんがなにか忘れ物をした場合ですよ」
「忘れ物……」
「紛失《ふんしつ》物といったほうが正確かな。2615で自分の持物をなにか失ったのです。それが見つからないので、同室を専用室にキープして探しつづけた」
「なるほど、いまだに専用室にしているところをみると、まだ失った物を見つけていないということですね」
「そうです」
「後から2615へ入った客が持ち去ったということはないでしょうか」
「その点は調べましたが、四月十四日野見山さんの精算以後、2615は他の客に売られていないのです。田島さんも部屋の売上げ記録を調べて、紛失物がまだ2615にあるにちがいないと信じてしつこく探しつづけているのでしょう」
「もちろん客室係が部屋の掃除《そうじ》の際に発見すれば届け出るのでしょうね」
「ハウスキーパーリポートというものがありまして、そこに忘れ物などがあった場合は記入した後、フロントの遺失物保管係に下ろします。忘れ物の所有者がわかる場合は、連絡《れんらく》をして、お送りするなり、再び来館されるまでお預りするなりします」
「高価な品物で、客室係が着服するということはありませんか」
「まずありませんね。客室に高価な指環《ゆびわ》やアクセサリーなどを置き忘れることはよくあります。客室内で紛失《ふんしつ》すればたいてい出て来ます。客室係がそれを一々着服していてはホテルの信用を維持《いじ》できなくなりますし、客室係もやっていられません」
「野見山園枝が出発――会計事務上ですが、出た後、2615の掃除をした客室係に田島氏は直接当たっていませんか」
「当たっていません。そこが田島支配人としては辛《つら》い所でしょう。忘れ物がなかったか直接|尋《たず》ねたいのは山々なれど、そんなことをすれば、野見山さんが2615に居たとき、自分がその部屋へ入ったことがバレてしまう。あくまでも野見山さんと無関係の形にして失った物を回収しなければならないのです」
「あれから二か月も経っているのにいまだに発見した気配がないのは、紛失物はよほど小さな物なのでしょうね」
「そうです。そして田島支配人の持物であることが一目でわかるような品でしょう」
「狭い閉鎖《へいさ》された部屋の中で失って何か月も発見されない品とは、いったいどんな物でしょうね」
「さあ、私にも見当がつきません」
「紛失してから二か月も探しつづけて発見されないようなそんな難しい場所がホテルの客室にありますか」
「ないとおもいますね」
「掃除《そうじ》の際バキュームの中に吸い込《こ》まれてしまったとは考えられませんか」
「小さくともバキュームに吸い込まれるような品ではないのでしょう。だからこそ二か月も探しつづけているのだとおもいます。それに指環などはバキュームに吸い込めば気がつきます。客室係はそういうケースに馴《な》れていますからね」
星島の示唆《しさ》は、三つの証明≠フどれかをあるいは全部を可能にするかもしれない。田島の紛失《ふんしつ》物を彼に先がけて2615号室より発見すれば少なくとも田島と野見山園枝の関係は証明できる。そこから膠着《こうちやく》した局面を突破《とつぱ》できるかもしれない。
だがホテルのベテランの田島が二か月も探しつづけて発見できないものを、門外漢の笠井が先んじることができるか。「岡目八目《おかめはちもく》」ということがある。素人《しろうと》だからこそ専門家に見えない死角が見えるかもしれない。
「2615号室をなんとか調べさせてもらえませんか」
笠井は星島に頼《たの》んだ。次の窓|拭《ふ》きのサイクルまで待っていられない。
「短い時間なら押《おさ》えられます。フロントのスペアキイを貸してあげましょう」
笠井の興味が星島に完全に移ったらしい。星島の協力は積極的であった。
だが2615号室からそれらしき物は針一本発見できなかった。ベッドの下、額の裏、ワードローブの隅《すみ》、バス、トイレット、水洗フラッシュ用のタンクの中、空気調整機、換気孔《かんきこう》、テレビ、冷蔵庫など考えつくかぎりのあらゆる場所や調度、什器《じゆうき》類は検《あらた》めたが、なに一つ異物≠発見できない。
笠井が探した個所は、田島がとうに検索《けんさく》しているはずである。それは田島の目を逃《のが》れるような場所にちがいない。練達のホテルマンの目を逃れる死角が、ホテルの客室の中にあるか。
探しあぐねて考えてみたが、死角が見えてくるものでもなかった。
結局三つの証明はなに一つ為《な》されず、星島の発見は新たな混乱の要素を一つ加えただけにすぎなかった。
管理社会の中毒患者《ジヤンキー》
笠井は、田島が事件後2615を専用室≠ニしてハウスユースしている事実を単なる偶然《ぐうぜん》とは考えなかった。田島が2615号室でなにか持物を失ってそれを探しつづけているという星島の推測は正しいとおもう。それは単なる臆測《おくそく》ではない。そうと考えなければ、人間の心理として不合理なのである。
だが、田島が実際に失った物がわからない。その紛失《ふんしつ》物を田島に先んじて入手しない限り取るに足りない臆測にすぎないのである。そのうちに田島は2615をキープしなくなった。これは目的の品を発見したか、あるいはあきらめたかのどちらかであろう。
野田園子殺害事件はどうやら迷宮入りになった模様である。田島は捜査《そうさ》の行方を注目しており、最近になってようやく警戒《けいかい》を解いたのであろう。そうとすれば、彼はまだ紛失物を発見回収していない。
まさかガラス屋が疑惑《ぎわく》を抱《いだ》きつづけて執拗《しつよう》に私設調査≠つづけているとは知らないのだろう。そこにまだチャンスが残っている。笠井は星島の協力を得て、2615に入り、根気よく家宅|捜索《そうさく》をつづけていた。バス・トイレットの天井《てんじよう》板をはずして天井裏にまで這い上がってみた。もはや探すべき場所が残っていなかった。
すでに一般客に販売(提供)されているので客の忘れ物が残っていることが多い。ダブルルームに最も多い忘れ物は女性の下着である。用ずみ後♂コ着を着るのを忘れてしまうのであろうか。
下着が忘れられた状況《じようきよう》を想像していると、悩ましくなってしまう。次に多いのは装身具《そうしんぐ》類である。本なども多いが、これは故意に読み捨てていったものかもしれない。
田島が2615のハウスユースを解除して、一般客に売りに出したことは、彼《かれ》の自信のほどを示すものかもしれない。
そうだ、いまになって田島の持物が2615から出てきたところで彼はなんら痛痒《つうよう》を感じないのである。野見山園枝の後に同じ部屋を使用して忘れたと言い逃《のが》れられるからである。
笠井はいまにして田島が危険を冒《おか》して2615をハウスユースした理由がのみ込めた。田島はただ紛失物を探すためだけに同室をキープしていたのではなかった。彼は忘れ物をする機会をつくっていたのである。その機会は多ければ多いほどよい。唯《ただ》一回の機会を多数の機会の中にまぎれ込ませてしまえば安全度は高くなる。
笠井は、仮に田島の紛失物を発見したとしても、それが犯行機会に失われたものであることを証明しなければならなくなっていた。
2615が一般客に開放《レリーズ》されてから、笠井は大変な忘れ物を発見した。
それは一挺《ちよう》の拳銃《けんじゆう》であった。直前に出発した客が忘れていったものらしい。客がなぜそんな物騒《ぶつそう》な品を所持していたのかわからない。
笠井は拳銃を見たのは初めてであるが、ずしりと手応えのある重量や凶暴《きようぼう》な殺気を秘めた鈍《にぶ》く光る銃身などが本物であることを語りかけてきた。
笠井はえらい物を拾ったと仰天《ぎようてん》してフロントに届け出ようとして、おもい止《とど》まった。拳銃を手にしたとき、自分に超能力があたえられたかのような力強さを感じたことと、客室の中に入っていた理由がなかったからである。まだ2615は内側の窓を拭《ふ》く周期にきていない。
星島の協力で「故障室」という形にしてもらい入室していたのであるから、拳銃を拾得物として下手に届け出たりすると星島の立場を苦しくしてしまう。
拳銃を拾ったことを、笠井は自分一人の胸の中に畳《たた》み込《こ》んでしまった。
拳銃を拾ってから一週間ほど後、笠井は低層階の内側の窓を拭《ふ》いていた。ビルの低層階には「ビル風」という巻いて吹く風が強いので低層階といえども油断がならない。
どうしても外側が雑になる分だけ、内側を入念に拭くのは、ガラス屋の心理である。
客室係と連絡《れんらく》を取り合い、なるべく空《あき》室から作業をするのであるが、なかなか作業|単位《ブロツク》に都合よく、部屋が空いていない。客のいる部屋は止むを得ず外出時を狙《ねら》ってするのであるが、整備(掃除《そうじ》)前の部屋などに入ると、情事の痕跡《こんせき》が生ま生ましく残っているのにぶつかったりする。
馴《な》れない間はギョッとなったものだが、最近は芭蕉《ばしよう》の古句を連想する余裕《よゆう》が生まれた。それだけガラス屋になったのか、あるいは人間として鈍感《どんかん》になったのかわからない。
その部屋は二人部屋《ツイン》であったが、よくもこうも汚《よご》せたと呆《あき》れるくらい汚れていた。枕《まくら》は床《ゆか》のとんでもない方向に落ち、シーツは乱れ、毛布、浴衣《ゆかた》、タオル等が八方にはね飛ばされている。受話器ははずれたままで椅子《いす》は倒《たお》れている。灰皿《はいざら》は吸いがらで溢《あふ》れ、トラッシュからゴミがはみ出している。ルームサービス用のワゴンが二台おかれてあり、食い散らかした食物を乗せた食器が散乱している。什器《じゆうき》調度類で定位置にあるものは一つもないくらいに乱雑になっている。それは部屋の主の心情の荒廃《こうはい》を示すように、荒《あ》れ乱れていた。
「よくもまあ、これだけ散らかせたものだな」
部屋へ入った笠井は一瞬《いつしゆん》立ちすくんだ。これでは窓だけ拭《ふ》いてもなんにもならない。ちょうど時を同じくしてルームサービス係がワゴンを下げに来た。
「まあ、ゴミ捨て場みたい!」
若いルームサービス係も足の踏《ふ》み場もないような部屋の光景にギョッとしたらしい。
眉《まゆ》をしかめながらワゴンを下げようとした彼女《かのじよ》が、ワゴンの上からなにか取ってベッドの枕元にあるナイトテーブルの上に移した。見ると、眼鏡《めがね》のケースであった。部屋の主がワゴンの上においていたものであろう。一瞬笠井の脳|細胞《さいぼう》が高圧電流に触《ふ》れたかのように痺《しび》れた。
「ちょっとすみません」
笠井はルームサービス係を呼び止めた。
「はあ?」
ルームサービス係はちょっと身構えた。
「お客がワゴンの上に品物をおいていることはよくありますか」
「ありますよ」
「どんなものがよくおいてありますか」
「そうですね、一番多いのが煙草《たばこ》です。お食事の後煙草を吸う方が多いとみえて、よく煙草の箱が乗っています。それから一緒《いつしよ》にライターがよくあります」
「ワゴンを下げるとき、うっかりして一緒に下げてしまうことがありますか」
「お客様の物がまぎれこんではないか下げる前に確かめますが、小さい品物の場合は、食器にまぎれて一緒に下げてしまうことがあります」
「そういう場合はどうするのですか」
「品物を見つけたときはすぐにお返しいたします」
「見つからないときはどうするのですか」
「そういうことはないとおもいます」
「たとえばたいへん小さな品物で食器の中にまぎれ込んで紛失《ふんしつ》してしまい、お客の方もまさかルームサービスのワゴンの上においたとは気がつかないような場合です」
「さあ、そういう経験がないのでわからないわ」
ルームサービス係は面倒《めんどう》くさくなった様子である。
「指環《ゆびわ》なんかをワゴンの上においていたら、洗い場まで運ぶ途中で転がり落ちるということもあるんじゃありませんか」
「そういうこともあるかもしれません」
ルームサービス係はチラリと腕《うで》時計を覗《のぞ》いた。
「お引き留めしてすみませんでした」
笠井は礼を言って彼女を釈放した。
笠井はこれまで死角に入っていたものが見えてきたようにおもった。野見山園枝はルームサービスを取っている。オーダーがワゴンで運ばれて来て犯人がそのワゴンの上に重要な持物をおいた可能性は十分考えられる。
犯人にそれをワゴンの上においたという意識がなければ、紛失物が室内から|自動的に《ヽヽヽヽ》抜《ぬ》け出して行ったとは夢《ゆめ》にもおもわない。室内で失ったのだから室内にあるはずだという膠着《こうちやく》したおもわくから捜索範囲《そうさくはんい》を室内に限定して探しつづけたにちがいない。
そして紛失物の行方にももう一つのコースが考えられる。それはルームサービス係が本来の所有者からクレイムが出ないのを奇貨《きか》として着服した場合である。もし紛失物がこのコースを辿《たど》っていれば、所有者がそれを失った時期を特定できる。
つまり着服した者がいつどこでどのようにしてそれを手に入れたか証言することによって、所有者がそれを失った場所と時間を割り出せるのである。ルームサービス係が、四月十三日前後野見山園枝の部屋から取り下げてきたワゴンの上に田島の品物がおいてあったことを証言すれば、田島がその後何度野見山の部屋をハウスユースしたとしても紛失《ふんしつ》機会をごまかすことはできない。
遂《つい》に田島の首根を押《おさ》えた。――笠井の胸に興奮が盛《も》り上がってきた。
笠井は自分の着眼を星島に伝えて協力を要請《ようせい》した。
「ルームサービスか、いい所に目を着けましたね。プロのホテル屋真っ青だ。早速ルームサービス係を調べてみますが、ちょっと難しいなあ」
星島は一応感心してくれたが、歯切れが悪い。
「どこが難しいのですか」
笠井は気負っていただけにやや拍子《ひようし》抜けがした。
「ルームサービス係が客室にあった品をネコババしたなんて自分の口から言うはずがないでしょう」
「あ、そうか」
気負いすぎていたために当然の心理を忘れていた。
「ネコババしたと決めつけたわけじゃありません。ワゴンの上になにかなかったか聞くだけ聞いていただけませんか」
「聞き方も難しいですね。もう何か月も経っている。なにかあれば、当然客に返しているはずです。それにフロントとルームサービスでは職掌《しよくしよう》がちがいますのでね。下手に聞くと、セクション間の感情問題になりかねない」
「ともかく、野見山園枝のルームサービスを担当した者だけでも割り出せませんか」
「まずそこからやってみましょう。だいぶ時間が経っているので、記録が残っているといいんですが」
星島が頑張《がんば》ってくれたおかげで、野見山を担当したルームサービス係が判明した。
「記録を手繰《たぐ》ってようやく突き止めましたよ。伝票には届けた者の番号だけが記入されているものですから、だれが下げたかわからないのです。まず届けた担当者を調べて、聞き合わせた結果、ようやくわかりました」
「ご苦労様でした。それでだれでしたか」
「それがね、いまはホテルを辞めてしまったのです。辞めたというより首にされたのです」
「首にされた! またどうして」
「権藤《ごんどう》という男ですがね、もともと女ぐせが悪かったらしいのですが、オーダーを届けたときたまたま婦人客がシャワーを浴びていて、乱暴を仕掛《しか》けたというのです」
「ホテルマンがそんなことをするのですか」
「権藤は客が誘《さそ》ったと抗弁していましたが、客の言い分の方がいつも正しいのです」
「それで権藤はいまどこにいるかわかりますか」
権藤の所在がつかめなければ、これまでの調査は徒労に帰する。
「あなたがそう言うだろうとおもいましてね、調べておきました」
星島から聞いた権藤の新しい勤め先は、新宿のピンクキャバレー、オリオン商事の「カシオペア」という店であった。笠井が訪ねて行くと権藤はすっかりピンクキャバレーの客引きになり切って|呼び込み《ポーター》をやっていた。
「そこのシックなお客様、素晴しい今宵《こよい》のアバンチュールを新宿カシオペア店で楽しみませんか。より取り見取りのフレッシュギャルがお客様をお待ちしていますよ。義を見てせざるは勇なきなり、ギャル見てせざるは玉なきなり……さあ、らっしゃいまし」
と声をかけてきたポーターに権藤に会いたいと言うと、彼は表情を改めて、
「権藤はおれだが、あんたは何者だい」
と身構えた。表情に荒《すさ》んだものがあった。笠井が自己|紹介《しようかい》をして手短に用件を伝えると、
「それでつまりおれがその女の部屋から取り下げたルームサービスのワゴンになにかなかったかというのかい」
「そうです」
「そんなもの全然|憶《おぼ》えていないね。それにおれがなぜそんなことを憶えていなくちゃならんのだね」
権藤の目がギラリと光った。酷薄《こくはく》な凄《すご》みのある表情である。
「その品物の有無によって殺人犯人を捕《つか》まえられるかもしれないのです」
「人殺しが捕まろうと、捕まるまいとおれには関係ないね」
権藤はポケットから煙草《たばこ》をつまみ出し、ライターを擦《す》った。火を点《つ》けて、煙を笠井の顔に吹《ふ》きかける。
「おねがいです。おもいだしてくれませんか」
「おもいだすということはなにかワゴンの上にあったということだろう。なにかあったということは、おれがそのなにかをネコババしたと疑っていることなんだろう。てめえおれを疑って来やがったな」
権藤の目が剃刀《かみそり》のように細められて、身体《からだ》を寄せて来た。凶悪《きようあく》な気配がその細身な身体から放射されてくる。
「決してあなたを疑っているわけじゃありません。田島支配人が女を殺した証拠《しようこ》をつかみたいだけです」
「いま田島と言ったな」
「言いました」
「田島がどうかしたのか。詳《くわ》しく説明してくれ」
権藤の面に興味の色が濃《こ》く塗《ぬ》られていた。笠井が一部始終を話すと、
「そんないきさつがあったのか。相手が田島となれば話は別だ。協力するよ」
取りつくしまもなかった権藤の態度が柔《やわ》らかくなっている。
「田島の野郎には怨《うら》みがある。あの野郎、一方的におれが悪いと決めつけやがった。ホテルを首になったのもあいつのおかげだ。てめえはホテルに女を引っ張り込んで好き勝手な真似をしてやがるくせに、客と従業員のトラブルがあると、従業員を一方的に悪者にしやがる。許せないな」
「それでワゴンの上になにかありましたか」
「あったよ」
「何があったのですか」
「これだよ」
笠井の鼻先にいま煙草の火を点けたばかりのライターをかざして、火を擦《す》った。
「このライターがワゴンの上においてあった。ワゴンを下げに行ったときは、客はすでにいなかった。上等な品だったのでそのまま使わせてもらったよ。これが田島の品とは知らなかったな。あれからすぐに首になったからねえ。そういえばS・Tのイニシャルが入っている。やつの名前《フルネーム》は田島|信治《しんじ》だったなあ」
「ワゴンを下げたのはいつですか」
「四月十四日の午前中だったな」
「そのことを証言してくれますか」
「田島の野郎をぶち込むためなら証言でもなんでもしてやるぜ」
笠井の発見と権藤の証言および提出したライターによって、捜査《そうさ》本部は田島信治の身辺と、野田園子との関係を内偵《ないてい》した。その結果クロの心証を得たのでまず田島に任意出頭を求めた。
警戒《けいかい》をすっかり解いていた田島は警察から呼ばれたことで大きなショックをうけた様子である。グロッギーになっているところへライターを突きつけられた。2615号室をハウスユースしている間に紛失《ふんしつ》したと言い逃《のが》れようとしたとき権藤証言がぶっつけられた。さらに笠井が星島の協力の下に集めた情況証拠《じようきようしようこ》の追い討ちをうけて、田島は遂《つい》にダウンした。
田島の自供は次の通りである。
「野田園子を殺したのは衝動《しようどう》的だった。殺すつもりなどなかった。園子とは二年|越《ご》しのつき合いだった。初めは単に客とホステスの関係だった。それが次第に深間になった。単なるセックスフレンドとしては園子は便利な存在だった。園子は二号でも三号でもいいから一生そばにおいてくれと言った。忙《いそが》しくて会う時間がないので一度勤め先のホテルへ呼んだのに味をしめて、私のホテルで会うようになった。勤務中でも会えるので、時間のやりくりをする必要がない。女ができると生活時間が不規則になって露見《ろけん》するものだが、勤め先で会っているかぎり、勤務の中に情事が吸収されてしまう。まさか私が勤務中、勤務先で女と逢《あ》いびきしているなどと、だれも夢《ゆめ》にもおもわない。仮に従業員が入室して来たとしてもコネクティングルームのペアルームへ逃げ込《こ》める。
こうしてこんな関係をつづけているうちに園子は次第に大胆《だいたん》になってホテルに住みたいと言うようになった。ある大女優のようにホテルに住むのが自分の夢だった、一部屋自分のために長期に取れと迫《せま》った。そんなことはできないと突《つ》っぱねると、出会った後、別々の所へ帰って行くのに耐《た》えられない、いまさらあなたを独占《どくせん》しようとはおもわないが、せめて、あなたと別れた後、自分が帰る必要のない所で会いたい、二人が別の所から来て、また別の所へ帰って行くなんて、自分たちの愛の痕跡《こんせき》がまったく残らないから虚《むな》しいなどと駄々《だだ》をこねだしたので、私も次第にうっとうしくなってきた。
本来、愛の痕跡が残らないその場かぎりの情事を求めて発した我々の仲だった。私が冷めてきたのを敏感に察した園子は、ますます私にしがみつくようになった。昼間から部屋へ来るように求めることも多くなった。そのうちに妊娠《にんしん》したと言いだした。私が中絶するように頼《たの》んでも絶対に産むと言い張った。あの日も産む、おろせの押し問答が高じてカッとなり、のどを絞《し》めたら意外にあっけなく息が絶えてしまった。そこを窓|拭《ふ》きに見られたのだ。
窓の清掃《せいそう》作業があることは、連絡《れんらく》がきていたが、まさか当日あの部屋をするとはおもわなかった。
咄嗟《とつさ》にペアルームを経由して逃げ出し、フロントへ戻《もど》ると、注進して来た窓拭きは私の顔も部屋の正確な位置も憶《おぼ》えていない。もしかすると逃げられるかもしれないと考えてそれらしきアベックが入室している2515へ誘導したのだ。たまたまそのアベックがSMだったので勘《かん》ちがいされた。その夜午前三時ごろ、園子の死体をバゲージエレベーターで駐車場《ちゆうしやじよう》まで下ろし、以前釣《つ》りに行ったことのある奥多摩《おくたま》へ運んで捨てた。園子の所持品も一緒《いつしよ》に運び出し、処分した。
後になってライターを失っていることに気がついた。そのライターはフランスで買ったもので私のイニシャルが入っている。私の持物だと知ってる人も少なくない。
どこで失ったかよくわからないが、園子の部屋が一番可能性が大きい。そんな重要な品が園子の部屋から出て来たら万事休すだ。幸いまだ次の客が入っていなかった。二日ほど『故障部屋』という形にして販売《はんばい》するのを押え、それ以後私のハウスユースとしてキープして探した。だが部屋の隅々《すみずみ》まで探したがライターは発見されなかった。
私は別の場所で失ったのだろうとおもった。仮に2615から出て来たところで園子の後ハウスユースしていたから少しもおかしくない。いつライターを失ったかだれにも証明できないだろう。私は安心していた。
まさかルームサービスのワゴンの上においていたとは気がつかなかった。
窓|拭《ふ》きは光線の不十分な所で私の顔をチラリとしか見なかったので憶《おぼ》えていないようだったが、いつおもい出されるか不安でたまらなかった。後日の安全を期するために始末したほうがよいとおもっていたが、よい方法がおもい浮かばないまま、時を過ごした」
田島の供述を後で聞いた笠井はゾッとした。一人殺すも、二人以上殺すも同じだとする犯罪者の荒廃《こうはい》した心理も恐《こわ》かったが、笠井らの口を永遠に封《ふう》じようとして機会をうかがっていた田島が、拳銃《けんじゆう》を手に入れた場合を考えて慄然《りつぜん》としたのである。
笠井の手に拳銃が転がり込んできたのは、田島が2615のハウスユースを解いて間もなくであった。田島が再度2615をハウスユースすれば拳銃は彼《かれ》のものになったかもしれないのである。そうすれば……笠井の背筋には二重の戦慄≠ェ走った。
拳銃は笠井の生命を救ったのである。
「ガラス屋は窓さえ拭いていればいい。窓の中が見えなくなって一人前だ」という辺見の言葉は真理である。だがその真理を悟《さと》る前に自分はガラス屋を止めるだろう。自分は辺見のように到底《とうてい》、管理社会に反逆しつづけられない。自分は窓の中を見すぎてしまった――と笠井はおもった。
勤め先に女を呼んで勤務時間の中に情事を吸収させようとした田島は、管理社会の申し子である。彼は申し子であることを喜びながら、申し子としてのルールを破り手痛い懲罰《ちようばつ》をうけたのである。
窓の中にはそれぞれの人生がある。それらは管理された人生である。ガラス屋もそれから逃《のが》れられない。人は窓の外で暮《く》らすことはできないのだ。なるべくならば居心地のよい窓の中に住みたい。だが居心地よさの中に、管理の麻薬がほどよい味付けで仕掛《しか》けられている。その味に馴《な》れたとき、人は逃れようのない管理社会の中毒患者《ジヤンキー》になっているのである。
窓の中を見すぎたために笠井自身いつの間にか間接ジャンキー≠ニなっていたようであった。
(この作品の取材に週刊サンケイ編集部石井啓夫氏、月刊カドカワ編集部見城徹氏の協力を得ました。銘記《めいき》して両氏に感謝いたします。 著者)
角川文庫『異型の街角』昭和61年6月25日初版発行