[#表紙(表紙.jpg)]
棟居刑事の憤怒
森村誠一
目 次
アニマルのセックストイ
不吉なオーラ
曖昧《あいまい》な恋人
エトランジェの死
不安定な犯人像
乗船した疑惑
途方もない火種《ひだね》
ジャパゆきの目的
墜落した発見
分離した証拠
行きずりの疑惑
両刃《もろは》のアリバイ
父親の破片《チツプ》
同意した遺棄
飼われていた証拠
訣別《けつべつ》の歌
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アニマルのセックストイ
週末のホテル「ピロートーク」は活況を呈する。
満室であることはもちろん、午後三時ごろから二時間単位の休憩客でフル回転する。
待合室で数組のカップルが空室待ちをすることもある。
前の客の体温がまだベッドに残っている間に、次の客を入れる。文字通りのホットベッドである。
ほとんどがカップルであるが、中には男一人で部屋を取る客もある。そういう客は後から女性の連れが合流する。
女性の後着者はほとんどプロである。同性が合流するのは同性愛者である。
深夜まで客室がフル回転するが、宿泊する客は意外に少ない。
午前零時を過ぎるとみんなさばさばした顔をして出発《チエツクアウト》してしまう。
宿泊客は単身で到着し、後から女性が合流し、一、二時間共に過ごした後、女性が帰り、男だけ一人残るというケースが多い。
出張や所用で上京して来た男が、独り寝の寂しさをまぎらすためにプロの女性を呼ぶのである。
本杉高志《もとすぎたかし》はホテル・ピロートークに勤めてから一年になる。
その間、ラブホテルの客の生態を見守ってきた。
ラブホテルに来る客はセックスだけを目的にしている。情事のための場所を手軽に求めて、欲望を排泄《はいせつ》するとさっさと出て行く。
男と女が出会って恋し合い、愛し合う情緒も余韻もない。
当人同士の感情はわからないが、少なくとも彼らが出発して行った後の部屋は荒涼として腥《なまぐさ》く、「後朝《きぬぎぬ》の別れ」といった余韻はまったく感じられない。
彼らは二時間刻みのホテルの休憩料に急《せ》かされるように、そそくさと情事を終えて出て行く。
呼び寄せた女性がプロであれば、女性の出張料も時間刻みに加算される。
情事のための場所とパートナーがプロの場合は、情事そのものがレンタル料金を請求されるので、メーターを見ながらタクシーに乗っているような心理にさせられる。
メーター制の情事には後朝の別れの入り込む余裕がない。
これも人生の断片であるとするなら、人間のむしろ動物に近い断片である。それだけに生《なま》の人間性が現われているといえる。
ホテル・ピロートークの外観はシティホテルの感覚なので、ラブホテルに抵抗を感ずる若い女性には入りやすいらしい。
だが、中身はラブホテルそのものである。
新宿|歌舞伎《かぶき》町という立地点から利用客、特に女性はプロが多い。
歌舞伎町一帯に散在しているホテトル、エスコート《デート》クラブなどから派遣された女性が客と連れ立って、あるいは客に呼ばれてホテルへやって来る。
中には一日に二回も三回もべつの部屋へ来る女性もいる。
本杉はフロントに立っている間に、彼女らと親しくなった。
本杉は彼女らをプロの女性ということで特別の目で見ていたが、彼女らと親しくなるにつれて、彼女らが驚くほど普通の女性であることを知った。
だが、普通の女性であれば不特定の男に侍《はべ》らない。
彼女らは普通の女性に限りなく近いが、どこかわずかなところで破れていた。その破れが治癒されれば、普通の女性とまったく変わりなくなる。
本杉は彼女らの破れ目が面白いとおもった。給料で月の生活費が賄えないとき、友達から聞いて、ふと身体《からだ》の切り売りをしたところが、わずかな時間で数万の金を稼ぎ出せるのに味をしめて入り込んでしまったというのが最もオーソドックスなタイプである。
自分の身体が金になることを知った女たちは、元の乏しい給料だけに頼った慎《つつ》ましい生活に戻れなくなる。
生活費だけではなく洋服代や旅行費、遊興費などを身体を売って得る。
彼女らの中で堅実?なタイプは、自分の身体が高く売れる間にせっせと貯《た》めた金で店を持とうとする者や、海外留学を志す。
ギャンブルが好きで金をつかむと競馬場に直行する者や、スロットマシンに耽《ふけ》る者、男のヒモがいて貢いでいるのはむしろ少数派である。
プロといっても外国人女性を除いて、彼女らは昼の間はたいていべつの仕事を持っている。
OL、AVタレント、女優、ヌードモデル、オペレーター、学生、中には代議士の秘書というのもいる。
彼女らは昼はそれぞれべつの顔を持ち、夜はセックスの切り売り屋に変身する。
彼女らは変身したとはおもっていない。どちらも彼女らの顔であり、人間の側面であった。
彼女らのレギュラーパートナーはべつの側面を知らない。
中には夜の側面の部分で知り合って、レギュラーパートナーとなる場合もある。昼と夜と二人のレギュラーパートナーを持っている者もいる。
「本杉さんは恋人はいないの」
ホテルのフロントで顔《かお》馴染《なじみ》になった常連の直美《なおみ》が問うた。
近くのエスコートクラブに所属している女性であるが、本名かどうかはわからない。
彼女自身の言葉であるが、昼はごく普通の会社のOLをしているということである。
「そんなものいませんよ」
本杉は答えた。それは事実である。
上京して一年、東京にしがみついているのがやっとで、恋人を持とうという余裕などない。
東京という人間の海は潮流が速くて、外来者になかなか定着を許さない。
一見、定着しているようでも、浮かんでいるだけである。東京に集中した人口の大部分は漂流している。
一定期間そこに住み着いても、その凄《すさ》まじい潮流に流されて東京から去って行く。
東京にチャンスを求めて集まって来た若者たちも、東京にしがみついているだけで精一杯である。
東京にはチャンスも多いかわりに危険も多い。チャンスをつかむ前に危険につかまってしまう者の方がはるかに多い。
上京して間もない本杉にとって、恋人も危険の一種であった。
「本当? 信じられないなあ」
直美がいたずらを含んだような顔をして笑った。
「本当ですよ。ぼくのような男の、恋人になってくれる女性はいません」
「まさか。もし本杉さんがフリーだったら、私が恋人になってあげようか」
直美が挑むような表情をした。
「からかわないでくださいよ」
本杉が少し怒ったように言うと、
「ジョーク、ジョーク。本杉さん、すぐ真面目《まじめ》に取っちゃうんだから。でも、恋人が欲しいときは私に声をかけてね。本当の恋人にはなれなくても、ピンチヒッターぐらいは務まるわよ。本杉さんならサービスしちゃう」
直美は流し目で睨《にら》んだ。
本杉が親しくなった女性の一人にフェリシアがいた。彼女はフィリピンから来た俗に言うジャパゆきさんである。
気立てが優しく、客に呼ばれての帰途、時どきフロントに立ち寄って本杉と言葉を交わすようになった。
彼女の話によると、マニラ郊外の小さな村に母親と、妹が一人いるそうである。
日本には出稼ぎがてら、父親を探しに来たそうである。
右の目尻《めじり》に小さな黒子《ほくろ》があって、個性的なアクセントとなっている。笑うとどういうわけか黒子の色が濃くなる。
「嬉《うれ》しいとき、悲しいとき、怒ったとき、黒子が濃くなるのよ。だから、感情を隠そうとしてもわかっちゃうの」
とフェリシアは言った。
「お父さんが日本にいるのかい」
本杉が尋ねると、
「私のパパは日本人です。パパは商社マンで、マニラに派遣されたときママと愛し合って私が生まれました。パパが帰った後、ママは新しいパパと結婚して妹が生まれました」
「きみはお父さんの顔を知っているのかい」
「いいえ」
「新しいパパはマニラにママや妹さんと一緒に住んでいるのかい」
「新しいパパは二年前に強盗に襲われて殺されてしまいました。ママは身体が弱くて、私がマニラに働きに出て家族の生活を支えました。でもマニラでは大した稼ぎにならないので、日本に行きたいとおもっていた矢先に、現地で玉ころがし《ボーラー》と呼ばれている女性出稼ぎ斡旋人《ブローカー》に声をかけられて、日本にやって来たのです。日本でお金を稼いで、ママや妹に楽をさせてやりたいとおもっています」
「それで、お父さんは探し出せたのかい」
「いいえ、まだ。でも、きっと探し出すわ」
「なにかお父さんの手がかりでもあるの」
「二十何年か前の写真があるわ。名前はヤマギシアキヒコというの」
「アドレスはわかっているの」
「ママから聞いてきたアドレスからはとうに転居してしまったらしいわ」
「二十数年も前じゃ、同じアドレスにいないだろうね。転居先はわからないのか」
「わかりません」
「お父さんは商社マンということだが、会社に問い合わせたの」
「問い合わせたけれど、ヤマギシアキヒコという社員はいないというのよ」
たとえかつて在社したとしても、その当時の社員の行方を、フェリシアの乏しい日本語で追跡するのは無理であったであろう。
彼女の滞在期限の切れるまでに、果たして父親を探し当てられるかどうか、はなはだおぼつかない。
いまの滞在も不法滞在かもしれない。
「帰国するまでにお父さんを探し当てられるといいね」
本杉は言ったものの、母と娘《こ》を置き去りにして帰国したまま二十数年もなんの音信もない無責任で冷たい父親を探し出したところで、幻滅を味わうだけであろうとおもった。
フェリシアが見せてくれた日本の父の写真は、細面《ほそおもて》に太い眉《まゆ》と凛々《りり》しい目を持ったハンサムである。年齢は二十代後半から三十前後。とすれば、現在は五十代半ばか六十代に入っているはずである。
フェリシアの父親も日本の家庭の中に定着している。
そんなところに二十余年前の出張先での落とし子が訪ねて来ても、迷惑と困惑をおぼえるだけであろう。だがフェリシアは別れた父親に幻影をかけているようである。
父さえ探し出せれば故国に残して来た母や妹の境遇が一遍に変わるかのように錯覚している。
彼女が日本の父親にかけた幻影を、本杉が消してはならない。
本杉はフェリシアの身の上に同情した。他人事《ひとごと》ではないような気がした。
本杉自身が似たような境遇にあった。
本杉は幼いころ母から捨てられた。母に男ができて、父と幼かった本杉を残して男の後を追って家出してしまったのである。
それ以後、母の消息は絶えた。
当時二歳であった本杉には、母の記憶は残っていない。
母に置き去りにされた後、父一人子一人の寂しい家庭で成長してきた。父は再婚しなかった。
父はとても本杉を可愛《かわい》がってくれて、その後の父の人生を本杉の養育にかけていたようであった。
本杉は父のおかげで高校を卒業し、地元の小さな会社に就職した。
父は東京の大学へ行くようにと勧めてくれたが、父一人を残して上京する気にはなれなかった。
本杉が二十歳になったとき、父は病気になった。治癒する可能性のない死病であった。
死期を悟った父は、本杉を枕元《まくらもと》に呼んで、彼の出生の秘密を知らせた。
「このまま黙って死んでいこうとおもっていたが、おまえには本当のことを知る権利があるとおもって、あえて知らせることにする。おまえは私の本当の子供ではない。おまえのお母さんが追って行った男との間に生まれた子供だ。おまえにこのことをおしえたからといって、私のおまえに対する気持ちが変わるわけではない。私はおまえを自分の実の子だとおもっている。しかし、それは私一人のおもい込みで、おまえには本当の父親がだれかを知る権利があるんだ。
私が死んだ後、私のためにこの土地に留《とど》まる必要はない。
私はおまえの枷《かせ》となってしまったようだ。私が死んだ後はおまえは自由だ。自由になって、おまえの無限の可能性を試したらいい。おまえの本当の父親と母親がいまどこで暮らしているかわからない。母親が家出した後、あれが置いていった持ち物の中に男の写真が残されていた。写真の主がおまえの父親であるという確証はないが、成長したおまえの顔は写真の主に似ている。
おまえはもう自分一人で生きていける力を持っている。いまさら幼いおまえを置き去りにした冷たい母や無責任な父親を探し出す必要はないかもしれない。しかし、二人を探す自由も私が死んだ後のおまえの無限の自由の中に含まれている。高志、有り難う。おまえは私の生き甲斐《がい》だった。おまえの母親に捨てられた後、おまえがいなかったら、私はきっと駄目になっていたにちがいない。
父親らしいことをなに一つしてやれなかった私を許してほしい」
と父(養父と判明した)は本杉の手を握り締めて死んだ。
本杉はしばらく茫然《ぼうぜん》として自分を失っていた。
地球が動くとコぺルニクスから初めて告げられたように、自分がこれまで信じていた世界が一挙に覆されてしまったのである。
これまで父と信じていた人が父ではないと告げられても、にわかには信じられない。
だが、養父の徳松《とくまつ》が死に際してそんな嘘《うそ》をつくとは考えられない。それに徳松が残した一枚の変色した写真には、たしかに本杉の特徴を伝えた男が定着されている。
これまで父と信じていた徳松との間には、なに一つ相似点がなかった。
近所の人たちから、父子なのにちっとも似ていないと言われたものである。
似ていない父子も珍しくないので、そんなものかとおもっていた。
「そんな馬鹿な。おれの父親は一人しかいない。この写真の男は他人の空似だ」
本杉は父の死体に向かって訴えた。訴えながらも、徳松の遺言が真実であることを悟っていた。
近所の者たちが寄り集まっての寂しい徳松の葬式をすませた後、本杉は徳松の遺言に従って上京した。物心つくころから東京に憧《あこが》れていた。だが、東京の誘惑よりも徳松と本杉を結ぶ親子の絆《きずな》の方が強かったのである。
その絆から解き放されて、本杉は東京へ出た。
地元では東京に憧れて上京し、傷つき破れ、ずたずたになって帰郷して来た若者たちを多く見ている。東京は決してきらめく表層のように華麗で美しいだけではない。その華やかな表層の下には恐ろしい危険と、汚辱と腐食が渦を巻いている。
そのことは豊かすぎる情報によって、しっかりと予備知識として蓄えられている。
だが、東京の危険を恐れて、東京を知らずに青春を失うのは惜しい。
本杉は郷里に飽きていた。広い世界に向かって自分の可能性を試してみたかった。
せっかく父の生命《いのち》であがなった自由を、東京の危険の前で足踏みしては、父の遺志にも背く。
敗北を恐れて挑戦しないのは若者ではない。敗れてもいい。一度は東京と戦ってみたい。本杉はそんな気概をもって父の葬儀がすむと上京した。
東京は広大な人間の海であったが、夥《おびただ》しい人間が犇《ひし》めき合い、その海の泡粒のような本杉一人の居場所がなかった。
学歴も保証人もない本杉は、とりあえず東京にしがみつく手がかりとして風俗業界やファーストフードのアルバイトをした。
ファッションヘルスの呼び込み、ピンサロのボーイ、ピザの配達員などを転々として、現在のホテルのフロント係に就職した。
いまの職場は本杉にとってわりあい居心地がよかった。給料は低かったが、チップがけっこうな額になった。
これまで渡り歩いて来た職種に比べて、勤務時間も明確であった。
仕事の内容も面白い。これまで本杉が渡り歩いたほかの職種よりも、東京の断面がよく覗《のぞ》けるようにおもえた。
風俗営業とは、一言で言うなら女性の色を企業化した分野である。
男女共に性欲があっても、男の性欲の方が衝動的で耐性に欠けることは、当然の帰結として男は買手、女は売手というマーケットが形成されていく。
最近は女性の立場と経済力が強くなって、その位置が逆転したマーケットも生じつつあるが、少数派である。
風俗営業の終点といえるところがラブホテルである。
多種多様な風俗営業が犇《ひし》めいている中で、行き着くところは男と女が出会う場所である。
それ以前のすベてはセックス産業のバリエーションである。
ラブホテルの客がすべて風俗営業の帰結ではないが、一般のカップルを含めて、男と女の多様な出会いが覗き込めることには変わりない。
本杉の発見であるが、風俗営業を経由しない一般客のカップルでも、ラブホテルに来るとなんとなく風俗営業化してしまうのである。
風俗営業では女性の身体を中心として、それから派生するすべてのもの、各種ショー、サービス、関連グッズ、大人のおもちゃなど、すべてが商品化されて有料になる。
ラブホテルに来る女性は風俗関係でなくとも、自分の身体が金になることを知っている。
一般女性が自分の身体が金になることを知った場合の変貌《へんぼう》が、ラブホテルにいるとよく覗き込める。
本杉には彼女らの変貌が面白かった。
ラブホテルに来るプロの女性は、最初から料金が決まっているが、一般女性には定価はない。いわゆる素人の女性は、建前は無料でパートナーに身体を提供する。
だが、レギュラーパートナーをラブホテルに伴う男たちは、ただほど高いものはないことを知っている。
ラブホテルにたどり着くまで、高級レストランでの食事や、高価な贈り物で彼女らの歓心をつなぎ、苦心惨憺《くしんさんたん》した挙げ句、ようやく目的を達しても、またその後、彼女らの家まで送り届け、あるいは車代をあたえて次のデートの約束をようやく取りつける。
男たちの涙ぐましい努力にもかかわらず、必ず目的を達せられるという保証はない。
会えないときでも小まめに連絡して、誕生日や、彼女にとって重要なイベントのときには花や電報などを贈ってご機嫌を取り結ばなければならない。
その出費と手間は大変なものである。
それに対してプロは実に簡単である。明朗会計、支払っただけのサービスは必ず提供してくれる。料金以外のものは求めない。
一般女性が曖昧《あいまい》で、ぼる[#「ぼる」に傍点]のに対して、プロの女性はまことに公明正大と言える。
本杉の覗いた視野には、ラブホテルにおける一般女性、いわゆる素人の方が男に対して曖昧で、はるかにあくどく映った。
ホテルに呼びつけのタクシーの運転手が本杉に言った。
「まったく女ってやつはがめついね。男と一緒にホテルから出て、男が一万円か二万円、女にタクシー代としてあたえて車から降りた後、必ず駅へ着けさせるよ。電車で帰って、男からもらったタクシー代を浮かすんだな」
その点、プロの女性はあまりそういうことはしない。男からタクシー代をもらうこともめったにないし、もらえばほとんどの者が家まで車で乗り通す。この辺の意識のちがいが面白い。
日本人のプロの娘はどこかが破れていたが、フェリシアにはそのような破れはなかった。
彼女は自分の身体を用いて日本に出稼ぎに来て、せっせと貧しい家族に送金していた。
彼女の故国では貧しい女性が身体を売ることは日常であった。
日本では貧しくても、必ずしも身体を売らない。むしろ貧しくない中流の家庭の女が遊興費や衣装代を稼ぐために切り売りしている。
その違いはフェリシアの破れではなく、国情のちがいと言うべきであろう。
フェリシアは自分の身体が金になることを知ってはいても、それを常識としてわきまえている。
だから日本の娘が男から突然、金や贈り物をもらって、自分の身体が金になることを知ったようなカルチャーショックはない。
貧しいがゆえの生まれながらに身についた常識である。
フェリシアは常識的にラブホテルに客と来て、身体を売っていた。身体を売るという意識も彼女にはなかったかもしれない。いや、女の身体の売買がごく日常的なのである。
日本では遊興費や衣装代や交際費、あるいは生活費のちょっとした不足を補うために身体を手軽に売っても、非日常的であることは事実である。
彼女らもそれが非日常的であることは知っている。そこに破れ目が生ずる。
フェリシアは本杉と親しくなっても、直美のように決して本杉に誘いをかけるようなことはしなかった。
身体を売る相手と友人は混同しない。そこにフェリシアの節度があった。
本杉に身の上を打ち明けてから、フェリシアはいっそう彼に親しみを見せるようになった。
仕事が終わった後、本杉はフェリシアとよく一緒に食事をしたり、時にはディスコへ行ったりした。
フェリシアは天性の踊りの感覚とリズム感に恵まれ、フェリシアが踊り始めると断然、ダンスフロアを圧した。
フェリシアはいやがったが、お立ち台に引っ張り上げられて、たちまち女王になった。
本杉はそんなフェリシアが誇らしかった。
「フェリシア、きみの踊りは素晴らしい。きっとタレントになれるとおもうよ」
本杉は言った。
フェリシアの日本の父親から受け継いだ彫りの深い造作と、母親譲りの神秘的な深い瞳《ひとみ》と、漆黒の黒髪と抜群のプロポーションは、タレントとしてもっと高く売れるにちがいないと本杉はおもった。
「私、タレントなんかになりたくない」
フェリシアはモデストに言った。
「どうしてだ。きみだったら、どんな舞台に出しても恥ずかしくないよ」
「私なんかとても駄目」
「きみはモデストすぎるんだ。オーディションに応募してみたらどうだい」
「そんな自信、私にはないわ」
「きみだったら絶対大丈夫だよ。オーディションに合格して、きみが有名になれば、お父さんも探し出せるかもしれないぞ」
「それ、本当」
父を探し出せると聞いて、フェリシアが興味を持ったようである。
「きみがテレビに出れば、何百、何千万の日本人にきみの顔が露出される。それだけ効率よく探せるわけだよ」
「でも、私……ビザが……」
興味を持ったフェリシアの面《おもて》が曇った。やはり不法滞在か不法入国なのかもしれない。
本杉は悪いことを言ったと後悔した。
「きみのお父さんに関する資料をできるだけおしえてくれ。ぼくも及ばずながら協力するよ」
「有り難う。本杉さんはとても親切」
「きみを見ていると、妹のような気がしてくる」
「私も。本杉さんが兄のようにおもえる」
日本人同士の男女であればこの言葉は婉曲《えんきよく》な拒絶であるが、本杉は真情を素直に表現し、フェリシアは本杉に向ける想《おも》いを日常の仕事としている身体の切り売りから区別しているつもりであった。
「本杉さんは日本の男の人とはちがうわ」
フェリシアは言った。
「ぼくも日本男子だよ。どこもちがわないよ」
「いいえ、ちがうわ。日本の男の人、みんな私をおもちゃとしてしか見てくれない。セックストイよ。でも、本杉さんは私を人間として見てくれる」
「きみは人間だよ。人間以外のなにものでもない」
「そう言ってくれるのは本杉さんだけ」
「そんなことはないよ。きみを買うお客だけが日本の男ではない」
「私、日本人好きよ。私を買ってくれる日本の男の人も好き。みんな私の大切なお客様。でも、本杉さんは私のお客様ではない。私の友達よ」
「きみもぼくの大切な友人だ」
「お客には私、決して自分の|身の上《プライバシー》しゃべらない。お客も聞かない。セックストイに身の上なんてないもの。でも、時どき身の上のないセックストイの自分が寂しくなるの。セックストイも身の上を話したくなることがあるのよ」
「きみはセックストイではない。人間なんだよ。きみを買う日本の男たちがかえって人間ではないのかもしれない」
「人間でなければ、なんなの」
「セックスアニマルさ。セックスアニマルが人間を買っているんだよ」
「私、お客のことをアニマルなんておもいたくない」
「買う者がいて売る人がいる。売る者がいて買う人がいる。ぼくは道徳家ではないからね。ぼくも女性が欲しくなれば買うかもしれない。でも、きみは買わないよ」
「どうして」
「ぼくはきみをセックストイとは見ていないからね。人間を買うためには自分がセックスアニマルにならなければならない。でも、きみの前ではアニマルになれない」
「嬉《うれ》しいわ。私も本杉さんをアニマルだなんて決しておもわない」
二人はそんな会話を交わしていると、言葉は不自由ながらも、心の底から打ち解け合えるような気がした。
直美の馴染客に若い男がいた。
若いくせに金まわりがいいらしく、フロントでも札びらを切った。
大会社の社長の息子という噂《うわさ》があり、大学を遊び呆《ほう》けて中退したそうである。ホテルの従業員の間では若様をもじって馬鹿様と陰で呼ばれている。
親の威光を笠《かさ》に、傲岸不遜《ごうがんふそん》で人を人ともおもわない。
ある夜、直美とチェックインすると間もなく、部屋から電話がかかってきた。
折悪《おりあ》しく部屋係がいなかったので本杉が部屋へ行くと、いきなり一万円札を突きつけて、
「スキンを買って来い」
と命じた。
「スキンならばお部屋にご用意してございますが」
ベッドの枕元に常に二個、コンドームが備え付けられてある。
客が交替するつど、部屋係がいちいち点検して、不足があれば補充しているはずである。
「ホテルのスキンは安物で、おれに合わない。これで高いスキンを買って来い」
と高飛車に命じた。
やむを得ず本杉は近所の薬屋へ走って、高価なスキンを買い求めて馬鹿様に届けた。
そんなことがあってから、馬鹿様はこまごました用事をすべて本杉に言いつけるようになった。
当初は虎《とら》の威《い》を借る狐《きつね》とおもっていたが、過保護に育てられ、精神が子供のまま身体だけ大人になってしまった人間であることがわかった。
彼は自分が世界の中心であるかのように錯覚しているが、その世界は親の厚い庇護《ひご》によってつくられた世界であることに気がつかない。
その世界の住人は親の財力によって住民登録されている。彼らは馬鹿様に家臣としてかしずいて、彼の錯覚を促している。
さしずめ本杉も馬鹿様に仕える家来の末端に連なるパートタイマーと言えるであろう。
馬鹿様は直美が気に入っているらしく、ホテル・ピロートークに同伴する女性は直美に限られていた。馬鹿様が一度、本杉に問いかけたことがある。
「あんた、ここでどのぐらい給料もらっているんだい」
本杉が正直に答えると、馬鹿様は鼻先でせせら笑って、
「おれの一回のデート代よりも少ねえな。あんた、そんな安金でよくやってられるな。なんだったら、おれがいい口を紹介してやろうか」
と言った。
「有り難うございます。でも、ここにいるといろいろなお客様に会えますので」
本杉は謝絶した。
いくらよい口であっても、馬鹿様の紹介では信用できない。馬鹿様のパートタイマーが精一杯で丸抱えになるつもりはない。
「まあ、その気になったら言ってきなよ」
馬鹿様も外交辞令であったらしい。
六月初旬のある日の夜、ちょっとしたアクシデントが生じた。
馬鹿様がホテルに先着して直美を呼んだ。いつもは連れ立って到着するのであるが、この夜に限って馬鹿様が先着して、部屋で直美を待っていた。
折悪しく馬鹿様のいつも取る四〇一号室が先客によって塞《ふさ》がっていたために、やむを得ず三〇二号室に入った。
たまたま四〇一号室の客がフェリシアを呼んでいた。
同じクラブに所属していた直美とフェリシアに、受付係は部屋番号をたがいちがいにおしえてしまった。
直美は四〇一号室が馬鹿様のレギュラールームであるので、疑わずに指示された部屋へ直行した。一方フェリシアは馬鹿様の部屋へ行った。
二人は部屋へ到着すると同時に部屋ちがいを悟ったが、フェリシアを見た馬鹿様が彼女をひどく気に入ってしまった。
馬鹿様はクラブにチェンジパートナーをリクエストした。
一方、四〇一号室の客もまちがえて訪問して来た直美が気に入ったので、二人はそのまま誤導《ミスデイレクト》された客に侍《アテンド》った。
そのアクシデントの後、馬鹿様はフェリシアを同伴してホテルへ来るようになった。直美もべつにこだわらない。
本杉は一時はどうなることかと肝を冷やしたが、チェンジパートナーが円満に成立して、ほっと胸を撫《な》で下ろした。
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不吉なオーラ
七月下旬のある深夜、ホテルのフロントに二十歳前後の女が飛び込んで来た。右手に大きな旅行バッグを提げ、胸から袈裟《けさ》がけにポシェットを吊《つる》している。息を弾ませている。
長い髪をして化粧が濃く、アダルト向きのボディコンシャスのスーツを着ているが、表情にあどけなさが残っている。
本杉はせいぜいツッパっているが十七、八と睨《にら》んだ。
彼女は一瞬、フロントの前でたたらを踏んだように立ち止まり、
「助けてください。悪いやつに追われています」
とフロントに居合わせた本杉に訴えた。
追いつめられて、ホテルとは知らずに飛び込んで来たらしい。
深夜、歌舞伎町|界隈《かいわい》を場馴《ばな》れのしない若い女が一人で歩いていたら、狼《おおかみ》たちにつきまとわれる。
本杉はとりあえずフロント脇《わき》のオフィスへ通した。
どんな事情があるか知らないが、飛び込んで来た窮鳥はひとまず保護しなければならない。
幸いに彼女を追跡して来る者の気配はなかった。
「どうしたのですか」
ようやく落ち着いた彼女に、本杉は問うた。
「この近くに住んでいるお友達の家を探している間に、突然車が寄って来て、ヤクザのような二人連れの男に車の中に引きずり込まれそうになったの」
「それは危なかったね。車の中へ引っ張り込まれたら、どこへ連れて行かれたかわからないよ」
「でも、ハンドバッグを取られちゃったわ」
彼女はべそをかいた。
「ハンドバッグに大切なものが入っていたのかい」
「お金を入れていたの」
「どのくらい」
「十万円くらい。持っていたお金を全部取られちゃったわ」
「そりゃ大変だ。すぐ警察に届け出なければ」
「警察には届け出ないで」
電話をしそうになった本杉の気配に、彼女は少しうろたえたようである。
「どうして。警察に届ければ、お金が戻ってくるかもしれないよ」
「警察はいや」
彼女は怯《おび》えたような表情を見せた。
「立ち入ったことを聞くけれど、警察に行くと都合の悪いような事情でもあるのかい」
本杉はおもいきって問うた。
「警察へ行くと、連れ戻されてしまうもの」
「連れ戻される。もしかしてあなたは……」
「そうなの。家出して来たのよ。もうあんな家、二度と帰りたくないわ」
「しかし、家ではご両親が心配しているだろう」
「両親……ふん、あんなやつ親じゃないよ」
彼女は憎しみの色を面に浮かべた。
「親をあんなやつなんて言っちゃあいけないよ」
「だって、本当の親じゃないもの」
「よけいなことを聞いてしまったようだね」
本杉は複雑な事情がありそうだとおもった。
「母は再婚したの。あの男、母の留守の間に私を狙《ねら》うのよ。家にいたら、あいつにレイプされちゃう。あんなやつにレイプされるくらいなら、売春した方がましよ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「それで、あなたが訪ねて行った友人には会えたのかい」
「いいえ、とうに引っ越した後だったわ」
「それで、ほかには知り合いや親戚《しんせき》はないの」
「ないわ」
「それじゃあ、どうするつもり」
「わかんない。どこかに働き口はないかしら」
身に迫った危難をとりあえず逃れて、彼女は自分が陥った深刻な状態をようやく正確に理解したらしい。
「今夜はもう遅いから、とにかくここに泊まって、明日考えなさい」
本杉は勧めた。
「でも、私、お金持ってない」
「今夜の部屋代は心配しなくていい。使用後の部屋でよかったら泊まっていきなさい」
情事目的の客はほとんど泊まらない。部屋に余裕があるときは、彼らの出発後の部屋は未整備(掃除をしない)のまま放置しておく。そういう部屋をかす部屋と呼んで、従業員が寝る。
ツインべッドの場合はワンべッドはほとんど未使用なので、かす部屋とはいえ新しいベッドにありつける。
情事直後のホットベッドでも、従業員専用の当直室よりはましである。
当夜、そのようなかす部屋がいくつかあった。
「有り難う。助かります」
彼女はほっとしたように礼を言って、
「私、菊岡理絵《きくおかりえ》と申します」
と殊勝な表情に戻って名乗った。
それが本杉と理絵との出会いであった。
とりあえずその夜はホテルのかす部屋に泊めたが、翌日、理絵の行き先はない。
夜勤の本杉は午前九時に明《オフ》けになる。
本杉は乗りかかった船で、彼女を放り出せない意識になっていた。
「これからどうするつもりなんだい」
本杉は理絵に尋ねた。
「わかんない。でも、なんとかなるわ」
一夜ホテルに泊めてもらって、元気を回復したらしい理絵は楽観的になっていた。
「そんな呑気《のんき》なことを言って、金もなく知り合いもない東京でどうにもならないぞ」
「大丈夫よ。お金を持っていそうな男の人に声をかけて、ホテルへ行くわ」
理絵はあっけらかんとして言った。
「そんなことをすれば、昨日以上の悪いやつに捕まるかもしれないよ」
「だって、仕方ないもん」
理絵はまだ東京の本当の恐ろしさを知らないようである。
「困った人だなあ。仕方がない。きみさえよかったら、身の振り方が決まるまで、ぼくのところへ来ないか」
本杉は言った。
「本当」
理絵の表情が輝いた。
「汚いところだけれどね、きみが寝るスペースぐらいはあるよ」
「助かったわ。本当は私、どうしようかと途方に暮れていたの。地獄に仏とはこういうことを言うんでしょうね」
「そんなに人を簡単に信用するもんじゃないよ。仏かどうかまだわからないだろう」
本杉はたしなめた。
「仏に決まっているわよ。本杉さんが悪い人間のはずがないじゃないの。私にだってそのくらいの見る目はあるわ」
奇妙な成り行きから、本杉はこの家出娘を同居させる羽目になった。
彼はその成り行きを面白がっていた。
理絵は濃い化粧と、アダルト向きの衣装で大人びて見えたが、実際の年齢は十八ということであった。地元の高校を卒業して間もなく家を飛び出して来たそうである。
「親に黙って出て来て、捜索願を出されないか」
本杉は案じた。
「捜索願なんて絶対に出さないよ。厄介払いをしたと喜んでいるわよ」
「お父さんはとにかくとして、お母さんは本当の母親なんだろう」
「母親の方が私を邪魔にしていたのよ。あいつが私に色目を使うものだから、私に妬《や》いていたんだよ」
理絵はぞんざいな口調になった。
「そうは言っても、実の娘が家出すれば、心配しない親はいないよ」
「それがいるんだな。つい最近、恋人との結婚に邪魔になって、誘拐殺人に見せかけて我が子を殺したという母親がアメリカにいたじゃない。私がもっと小さかったら、きっと母親に殺されていたよ」
「まさか」
「私、なんでもするから、本杉さんの家に置いてください。東京へ出て来て、本当によかったとおもっているわ」
理絵は神妙な表情になった。
本杉と理絵の奇妙な同棲《どうせい》生活は始まった。
理絵はべつに職を探すでもなく、本杉のアパートに居ついてしまった。
本杉が勤めに出ている間、部屋を掃除し、汚れものの洗濯をし、買物に出かけ、食事を用意して彼の帰宅を待っている。理絵にとってそんな生活が楽しいらしい。
同じアパートの住人は、二人が結婚か同棲をしているとおもっているようである。
だが、二人は依然として他人のままであった。
理絵が拒んでいるわけではない。本杉が特に求めなかったのである。
求めれば、理絵はいつでも許容したであろう。本杉は理絵に魅力をおぼえなかったわけではない。まったく魅力のない女性であれば、素性も曖昧な者を自分の居所に連れて来ない。
理絵は身体も成熟していて、要所要所がよく実っている。
狭い一部屋で理絵と一緒に暮らしていて、目のやり場に困るようなことが多い。
また理絵が本杉の目を少しも憚《はばか》らない。むしろ挑発しているようにすら見えることがある。
本杉も若い健康な男である。体内には欲望が蓄積されている。
理絵と同居して、むらむらと欲望をかき立てられることもあるが、理絵には彼の衝動に水をかける痛々しさがあった。
身体は一人前に成熟しているが、精神が幼いのである。心と体のアンバランスが理絵に妖精《ようせい》のような魅力と痛々しさを同居させている。
理絵の無防備も本杉を挑発しているのではなくて、彼女の心身のアンバランスのせいかもしれない。
本杉の前で平然と着替えをしたり、浴室から裸のまま出て来たりする。
「理絵さん、おれも男の端くれなんだがな」
本杉が苦笑しながら確かめると、
「あら、私も女の端くれなんだけど」
と理絵は皮肉っぽい口調で切り返して、
「私って、よっぽど魅力がないみたいね」
と怨《うら》みを含んだようなまなざしを本杉に向けた。そんな目つきは立派に大人《アダルト》のものである。
「きみはまだ子供だよ。大人をからかってはいけない」
「私、もう大人よ、その証拠を見せてあげましょうか」
そこまでされても、本杉は理絵に手を出さなかった。自分でもだらしがないとおもった。
つまり、理絵の痛々しさにブレーキをかけられたというよりは、本杉には勇気がなかったのである。
理絵は一種の危険なにおいを振りまいている。彼女に深く関わると、危険であることを本能的に察知していた。
そんな危険な女を自分の居宅に引っ張り込むべきではなかった。だが、その時点では途方に暮れている彼女に同情が先立った。
同居して一カ月ほど後、夜勤から帰宅すると、理絵の姿が見えない。
最初、会ったとき持っていた旅行バッグを残しているので、ちょっと外出したらしい。
どこへ出かけたのかとおもっていると間もなく、意気揚々と帰って来た。
「どこへ行ったんだい」
本杉が問うと、
「いい仕事を見つけたのよ」
と言って、二、三枚の一万円札を見せた。
「そのお金、どうしたんだ」
「ちょっと割りのいいバイトを見つけたの」
理絵はちろりと舌先を覗かせた。
「まさか、きみ」
「変なこと想像しないで。そんなんじゃないわよ」
「じゃあ、どうしたんだい」
「ちょっと脱いだの」
「脱いだ?」
「ブルセラショップというところへ行って、ブラジャーやパンティを売って来たのよ。千円のパンティが三千円で売れたわ。その場で脱ぐと五千円になるの。また新しい下着を買ってべつのブルセラショップに売ったら、たちまちこれだけ儲《もう》かったのよ。ヘアも爪《つめ》も高く買うと言っていたわ」
「驚いたなあ。ブルセラショップへ行ったのか」
「べつに体を売ったわけじゃないんだから。パンティやブラジャーをちょっと体に付けるだけで何倍にもなるなんて、こんな割りのいいバイトはないわよ」
理絵は宝の山でも見つけたようなはしゃぎ方であった。
「それで、ヘアや爪も売ったのかい」
「それはまだ。だって、怒られそうな気がしたんだもの」
「怒られるって、だれに」
「もちろん本杉さんによ。はきパンやほかブラならちょっと体に着けただけのものだけど、ヘアや爪は身体の一部だものね」
「ぼくに怒る権利なんかないよ」
「あるわ。だって、本杉さんは私の保護者だもの」
「そうか、ぼくはきみの保護者なのか」
「保護者ではないと言うの」
「まあ、いまのところは保護者みたいなもんだな」
本杉は認めた。ただ同居させているだけであるが、自分自身、狼にもならず、とりあえず都会に充満するさまざまな危険から隔離してやっているのだから、保護者の意識にはちがいない。
「本杉さん。お医者さんを知っている」
「医者を。どっか体でも悪いのかい」
「ううん。処女証明書が欲しいのよ」
「処女証明書?」
「お医者さんの処女証明書があると、ブルセラショップでもっと高く売れるのよ」
「いやはや、ますますもって驚いたな」
医者から大真面目《おおまじめ》で処女証明書を取り付けようとしているからには、彼女はきっと未経験なのであろう。本杉はますます気後れした。自分の不甲斐なさに腹が立っている。
だが、保護者が迷い込んで来た羊に牙《きば》を突き立てたのでは、保護者が狼に変身してしまう。
本杉は自分の臆病《おくびよう》の口実に保護者を使った。
「私、お金を稼ぐようになったのだから、自分の食費とお家賃を払うわ」
理絵が言い出した。
「そんなもの払うくらいなら、いつまでもこんな汚いところに同居していないで、自分の部屋を見つけたらどうだい」
本杉が勧めると、
「私に出て行って欲しいの」
と理絵は少し悲しげな表情をして問い返した。
「そんなことはないが、きみは一人で生活できるだけの収入があるんだろう」
「本杉さんさえいやでなかったら、ここに置いといて」
理絵は懇願するように言った。最初出会ったときのように、途方に暮れた表情をしている。
本杉もブルセラショップからの不定の収入では、女一人が東京で生きていけないことを知っている。いずれは下着やヘアではなく、その中身と本体を売るようになってしまうだろう。
それでは保護者として仏つくって魂入れずである。
理絵と同居して二カ月ほど後、フロントに立ち寄ったフェリシアがふと洩《も》らした。
「パパがわかりかけたの」
「そりゃあよかったね。お父さんもきみを認めたのかい」
「まだよ。まだ会っていないの。でも、パパのような気がする」
「お父さんがきみを認めてくれるといいね」
本杉は父娘《おやこ》対面の結果を少なからず危惧《きぐ》していた。
若いころのラブアフェアーの落とし子が突然名乗り出て来ても、素直に認めるとは考えられない。
フェリシアが父にかけた幻想をおもうと、胸が痛む。
「私、パパを困らせるつもりはないわ。ただ一目、パパに会うだけでいいのよ。それをお土産《みやげ》にして帰りたいのよ」
フェリシアは本杉の危惧を見通したように言った。
「お父さんはどんな人だった」
「それが、とても偉い人のようなの。だから私、迷っているのよ」
「迷うって、名乗り出ることをかい」
「ええ、名乗り出てパパを困らせてはいけないとおもって」
「そうだね。パパの姿を遠くからそっと確かめるだけで帰る方が賢明かもしれないね」
「そうはおもうんだけれど、パパに一目会って言葉を交わしてみたいの」
フェリシアはおもいつめた表情をした。
フェリシアの心は振幅しながらも、日本の父の幻影に向かって凝縮しているようである。本杉から見れば危険な凝縮である。
それから間もなく、フェリシアは妙なことを言い出した。
「本杉さん、もう会えなくなるかもしれない」
「国へ帰るのかい」
「いいえ、日本にずっとステイするの」
「日本にいるのなら、会えるじゃないか」
「私、この仕事辞めるの」
「そうか。それはよかったね。べつの仕事を見つけたのかい」
「仕事と言えば仕事のようなものだけれど、私、専属《オンリー》になるの」
「オンリーに。だれの」
「もちろん、若様のよ。私、少し肥《ふと》ったとおもわない」
フェリシアは意味ありげに笑って、下腹をポンと叩《たた》いた。
言われて、本杉ははっとした。そう言われてみれば少し彼女の下腹部が厚ぼったくなったようである。
「それじゃあ……」
「三カ月なんだって。私、若様の赤ちゃんを産むのよ」
「それは……」
コングラチュレーションと言うべきかどうか迷って、本杉は後の言葉を喉元《のどもと》に抑えた。
このような形で生まれてくる子供が果たして幸せになれるかどうか、複雑なおもいが本杉の胸をかすめた。
「若様は知っているのかい」
「産んでもいいと言ってくれたのよ」
あの馬鹿様にしては珍しいことである。
外国人女性、それもジャパゆきの妊娠した子供を我が子と認知するのはかなり勇気を要することであろう。本杉は馬鹿様を少し見直した。
「だから、この仕事を辞めて若様の専属になるの。いまマンションを探しているの」
フェリシアは幸せそうな顔をした。
「ベイビーをパパに見せられるといいね」
遠い昔、異国に産み捨てた娘が孫を連れて突然現われたら、パパはさぞびっくりするであろう。
「本杉さんにもお世話になったわ。新しい住所が決まったら、必ず連絡するわね」
「幸せを祈っている」
日本のパパとの対面を前に、体内に新たな生命を宿したフェリシアは幸福の|輝き《オーラ》に包まれているように見えた。だが本杉には、それが不吉なオーラに見えた。
それが本杉がフェリシアを見た最後の姿であった。
フェリシアは新たな居所が定まったら連絡すると言っていたが、その後、彼女からの連絡はなかった。
本杉は彼女の外交辞令だとおもっていた。フェリシアにしてみれば、彼女の恥部を知っている本杉は、新たな生活から切り離したいにちがいない。
彼女からの連絡がないのは、幸せに暮らしている証拠だと解釈した。
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曖昧な恋人
理絵と同居を始めてから約三カ月が経過した。
理絵は居心地がよいらしく、すっかり腰を落ち着けてしまった。
その間、ブルセラショップ通いをしてけっこうな収入を得ているらしい。安易に金が入るので、定職に就く意志はなさそうである。
本杉はこのままではいけないとおもった。
「理絵さん、そろそろちゃんとした仕事を探した方がいいよ」
本杉は忠告した。
「そのうちにね」
理絵は曖昧《あいまい》に笑った。
「いつまでもブルセラ通いをしているわけにはいかないよ。その気になれば、働き口はあるだろう。なんだったら、ぼくが探してやってもいい」
「朝から夜までくたくたになるまで働いて、一カ月の生活費にも足りないような暮らしはいや。楽をしてお金が入るのに、仕事の奴隷になることはないわ」
「きみの考え方は危険だよ」
「お説教をするの」
「お説教するつもりはないが、いつまでもそんなことをして同居しているわけにはいかないだろう」
「本杉さん、私を追い出したいのね」
「そんなつもりはないよ。でも、きみにしても、いつまでもここにいるわけにはいかないだろう」
「私はかまわないよ。本杉さんさえここに置いてくれれば」
「そういうわけにはいかないよ。ぼくたちは結婚しているわけでもなければ、恋人同士でもない。そんな曖昧な関係の同居はいつまでもつづけられない」
「本杉さんが曖昧にしているんじゃないの」
「きみはまだ子供だ。未成年者なんだよ。結婚するためには親の同意がいるんだ」
「恋人関係ならば、同意なんかいらないでしょう」
「きみはぼくの恋人ではない」
「どうして恋人にしてくれないのよ」
理絵はいら立たしげに言った。
「そういうわけにはいかないよ。ぼくはきみの保護者なんだ」
「保護者だったら、恋人になってもいいじゃないのよ」
「保護者という位置を利用して、未成年者のきみとずるずるとそういう関係になりたくないんだ。きみの親父《おやじ》さんと同じになっちゃうからね」
同居後、二人は初めて激しく言い争った。本杉はいずれは言わなければならないことだとおもっていた。
理絵との同居は彼にとって悪くない。男の身のまわりに女がいるということは便利である。
勤務から帰って来ると、部屋は綺麗《きれい》に掃除してあり、温かい食事がすぐ食べられるように用意してある。
汚れたものもいつの間にか綺麗に洗濯してある。
本杉が求めれば、理絵はいつでも許容するであろう。
だが、手を出したら腐れ縁になってしまう。彼女との関係は、いずれは終止符を打たなければならない性質のものである。
奇妙な成り行きから彼女を保護したが、親から訴えられれば、未成年者の誘拐罪に問われかねないところである。
途中から放り出すのも気の毒であり、本杉自身にとっても便利なので置いていたが、そろそろ潮時だとおもった。
本杉も同居生活がこんなに長くなろうとは予期していなかった。せいぜい数日泊めてやればどこかへ行くだろうとおもっていたのが、そのまま居ついてしまった。
途中、何度か実家に連絡をしてはどうかと理絵に勧めたが、彼女は頑《かたくな》に拒んだ。本杉に連絡されまいとして、彼にも実家の住所を秘匿している。
しかし、なまじ三カ月も同居してからむげにも追い出せない。彼女が自発的に出て行くように仕向けなければならない。
まず定職に就かせ、居所を定めてやる。そこまでしてやれば、保護者としての責任は一応果たしたことになるだろう。
だが、理絵には真面目に働こうとする意志がなさそうである。本杉は当惑した。彼女の振り撒《ま》く危険なにおいを察知して、深く関わるのを避けようとしていたが、すでに深く関わってしまった。
若い男女が三カ月も同居して、他人のままとはだれも信用しないであろう。どうせそのようにおもわれるなら、と本杉は少し自棄的になった。
考えてみれば、本杉の抑制は意味のないことである。
難しく考えることもなければ恐れることもない。男と女が同居して、なるようになるだけである。
理絵の危険なにおいを恐れて手を出さない方が、もっと危険かもしれない。
その夜、本杉は理絵を抱いた。本杉によって初めての生硬な身体を開かれた理絵は、破瓜《はか》のしるしを認めた本杉に、
「本杉さんに証明書を出してもらおうかな」
といたずらっぽい笑みを含んで言った。
「どんな証明書を出すんだい」
「処女だったという証明書よ」
「そんな証明書、なんにもならないだろう」
「失ったほやほやでも価値があるのよ」
「そんな証明書を書いたら、きみのファンクラブのおじさんから殺されてしまいそうだな」
本杉は苦笑した。
「そうよ。私にはファンのお客が付いているの。私のはきパンやほかブラでなければ駄目だというお客が何人もいるのよ」
「凄《すご》いファンだね」
「私のお客の間で私を守る会をつくろうという話もあるのよ」
「きみを守る。きみをなにから守るんだい」
「私の処女を守る会よ」
「それじゃあ、ぼくはその会の敵ということになる」
「そうよ」
「ますますそんな証明書は怖くて書けなくなっちゃうよ」
「でも、私、嬉しいわ。本杉さんに最初にあげたかったの」
「きみの気持ちは嬉しいけれど、そう何人にもあげるものではないよ」
「でも、いつまでもはきパンやほかブラだけを売っているわけにはいかないわ」
理絵は気になることを言った。
「はきパンやほかブラだけって、変なことを考えているんじゃないだろうね」
「だって私、本杉さんの恋人ではないもの。それとも本杉さんの恋人にしてくれるの」
本杉は一瞬、返す言葉につまった。
「いいの、いいのよ。恋人にしてくれなんて言わないわ。私はいまのままで充分なの」
理絵は少し寂しげな面持ちをして言った。
三カ月も同居して、いまさら恋人ではないとは言えないが、まだ理絵は十八歳である。
彼女の将来と可能性をそんな形で束縛したくない。
本杉自身、曖昧な同居の延長で恋人関係に入りたくない。彼もまた恋人を運営するほど東京に定着していない。理絵も本杉に抱かれたことをそれほど重視していないようである。
「大丈夫。安売りはしないわよ」
理絵は平然と言った。
「高くも安くも、売るもんじゃないよ」
だが、買えば高価なはずの彼女の身体をただで提供された本杉は、理絵を諭す資格がないことに気がついた。
それから数日後、本杉が勤めから帰って来ると、理絵の姿が見えなかった。
近所に買物にでも出かけたのだろうとおもったが、家の中が妙に寒々としている。綺麗に片づけられているが、人肌の温《ぬく》もりが感じられない。
外出したにしても、不在になってから長い時間が経過しているようである。
食卓の上に一人前の食事がすぐ食べられるように用意されている。二人分ではなかった。
本杉は不吉な予感をおぼえた。彼は慌てて室内に駆け込むと、理絵の荷物を調べた。
初めて会ったとき持っていた旅行|鞄《かばん》や、着ていた衣服が消えている。
理絵は出て行ったのだ。あちこち探してみたが、書き置きはなかった。
「理絵、どこへ行っちまったんだ」
本杉は理絵のいない部屋の中に立って問いかけた。答える者はいない。
理絵が立ち去って初めて、彼女が占めていたスペースの大きさがわかった。
単に部屋の空間を占めていただけではなく、いつの間にか本杉の胸の中の大きな部位を占めていた。
理絵と深く関わり合うのを恐れながら、切っても切れない形に関わっていたのである。
いつまでも同居できないと理絵を追い出すようなことを言っていながら、心では彼女にいつまでもいてもらいたいと願っていたのである。
理絵は本杉の部屋を出る覚悟をしていたらしい。
家の中を隅々まで清掃していただけではなく、汚れものをすべて洗濯し、上着やシャツの落ちたボタンを取りつけ、冷蔵庫の中まで綺麗に片づけていてくれた。
古い食物は捨て、彼の好きな飲食物を補充してくれている。
洗濯された彼の衣類の上に、理絵の下穿《したば》きが一枚だけ恥ずかしげに載せられていた。
その一枚に彼女のにおいがかすかに残っていた。
理絵は故意にそれを残していってくれたのである。
本杉は理絵のかすかな残り香を嗅《か》ぎながら、かけがえのない宝物を失ったことを悟った。
「理絵、帰って来てくれ」
理絵が来る前は狭く感じた部屋が、いま理絵に立ち去られて、だだっ広く寒々としている。
どうして理絵をしっかりと抱き留めてやらなかったのか。
同居関係からずるずると恋人関係に移行したくないなどとツッパっていたが、三カ月も若い男と女が同居しながら、恋人にならない方がよほど中途半端であった。
理絵はその中途半端に耐えられなくなったのかもしれない。
飛び出したものの二、三日すればまた戻って来るかもしれないと、本杉は淡い希望をつないだ。
東京で若い女が保護者もなく一人では生きられないことに理絵が気がつけば、早晩戻って来るだろう。戻って来てくれ。本杉は楽観し、そして祈った。
だが、二日たち三日経過しても理絵は帰って来なかった。
女は売るものを持っている。そして、理絵は自分が金になることを知っている。
ブルセラだけでなく、いずれは中身も売ることをほのめかしていた。
本杉の勤め先のある歌舞伎町界隈は、女性およびその関連グッズのマーケットでもある。
いずれは客を連れて本杉のホテルに現われるかもしれない。
新宿には女性を斡旋《あつせん》するその種の店が百は越えるという。本杉は直美や顔馴染の女性に理絵の特徴を伝えて、もしそのような女性が店に来たらおしえてくれと頼んだ。
「その人、本杉さんのなに」
直美が尋ねた。
「ちょっとした知り合いでね、行方を探しているんだ」
「お安くない知り合いみたいね。本杉さんって関心ないような顔をしていて、隅に置けないのね」
「そんなんじゃないよ」
「いいのよ、むきにならなくても。見かけたら必ず連絡するわ。でも、十八歳ではお店では使わないわよ。未成年者はうるさいのよ」
「年齢のサバを読んでいるかもしれない。二十歳と言っても充分通るからね」
「うちでは、保険証とか定期券とか、なにか証明書の提示を求めるわ」
「そんなにうるさいのかい」
「よそのお店はどうか知らないけれど、いまは風俗関係もけっこううるさくなっているのよ」
直美や顔馴染の女性に頼んだが、理絵は本杉の人脈の網には引っかからなかった。
あるいは本杉のいる新宿界隈を敬遠しているのかもしれない。
理絵が残して行った下穿きから、彼女の残り香は消えていった。それだけ本杉と理絵との距離が開いているのである。
本杉は理絵がブルセラショップに通うことをたしなめたが、いまにして彼が彼女のはきパンやほかブラを最も求めていることがわかった。
こうなると知っていたら、もっと確保しておけばよかった。
彼は理絵の至近距離にいて、いくらでも彼女の下着を手に入れられる位置にいたのである。
そんなものを買いたがる客を軽蔑《けいべつ》していたが、理絵の本体が失われて、せめて彼女の想い出のよすがでも手許《てもと》に欲しい。
理絵は家出前にこれまでの保護料として、彼女を提供してくれたのかもしれない。つまり、訣別《けつべつ》の意思表示であったのだ。それに気がつくべきであった。
本杉こそ保護者の隠れ蓑《みの》の下《もと》に、無責任な中途半端な関係をつづけていたのである。そしてそれを断ち切られて、後遺症に悩んでいる。
理絵の行方を探すべきではない。せっかく彼女が定めた意志をふたたび迷わせるだけである。
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エトランジェの死
根岸義人《ねぎしよしと》は都下|町田《まちだ》市域の山中に防空壕《ぼうくうごう》が放置されているという情報を地元の知人から聞きつけた。
最近、防空壕といっても意味を知らない人たちが増えている。
戦時中、空襲から避難するためのシェルターといっても、空襲がどんなものかピンとこない。
戦時中は市街地にも道路|脇《わき》に防空壕が軒並みに掘られていたが、戦後速やかに埋め立てられ、区画整理と共に跡形もなくなってしまった。
地方の防空壕もしばらく物置や食糧貯蔵庫の代わりとして利用されていたが、次第に埋め立てられ、影をひそめてしまった。
いまや当時のままの姿で残っている防空壕は、人里離れた場所に掘られたまま、つくった人間が移転したり、死んでしまったりしたために、その所在場所も忘れられてしまったものである。
本来、そんな場所につくる意味がないような防空壕が、戦争の遺跡として置き去りにされている。
根岸は地域の有志に呼びかけて結成した戦争資料保存会の会長である。
このまま平和の中に浸っていると平和ぼけして、戦争で支払った痛い犠牲を忘れてしまう。
戦争の資料や遺跡は散逸し風化する一方である。
熟しやすく冷めやすい日本人は、喉元《のどもと》過ぎれば熱さを忘れる「喉元民族」と言える。
喉元民族が平和漬けの中で自由を飽食し、戦争で支払った苦い代償を忘れかけている。歴史の教訓を忘れて、平和と自由に飽きている。
戦争の風化は同じまちがいを繰り返しやすい。
歴史の教訓を心身に刻み、過去の過ちを反復しないために、根岸は地域に呼びかけて戦争資料保存会を結成した。
戦争の資料や遺跡を保存することによって、戦争の風化を食い止めたい。
根岸の呼びかけは次第に同調者を得て、草の根的に拡《ひろ》がりつつある。
マスコミが彼の運動を聞きつけて報道したことから、運動は全国的に広まった。
各地方に支部ができて、情報交換が行なわれ、資料が集められ、遺跡の所在地が明らかになってきた。だが、民間有志による運動なので、せっかく集められた資料の保存施設や、所在が判明した遺跡を保存するための財力や強制力がない。
有志のカンパに頼っているが、いま根岸らが働きかけているのは国家規模による戦争博物館の設立である。
広島や長崎には平和記念館があるが、地方自治体レベルの施設である。
国家レベルの戦争博物館を建設して、戦争に関するすべての資料を保存したい。
防空壕や戦火の爪痕《つめあと》を政府が保存し、全国戦争遺跡地図を作成したい。
それは根岸らの悲願になっていた。
「町田市の山の中ですが、当時のままに防空壕が残っているそうです。私も父親から聞いただけで、その位置を確かめたわけではありませんが、親父《おやじ》が死に、当時の住人も八方へ散ってしまって、いまは正確な場所を知る者もいません。そこに防空壕があるということもだれも知りません」
知人は略図を描いてくれた。
「この地域はまだ開発されていませんので、たぶん当時の形のまま残っているとおもいます。残ってはいても、山中に五十年も放置されているので、草に埋もれてわからなくなっているでしょう」
根岸は知人が描いてくれた地図を頼りに、防空壕探しに出かけた。
都下に当時の防空壕が原形のまま残されていれば、貴重な戦争資料である。地主と市の協力を取りつけて永久保存したい。
いまや都下近郊は開発の触手が隈《くま》なく及んで、自然は稀少《きしよう》価値になっている。
道路は毛細血管のように分岐して、どんな山奥にも機械文明の使者である車が入り込んで来る。
根岸自身がその車を駆って五十年前の遺跡を効率よく探している。
車で探し当てられるくらいなら、五十年前の遺跡が手つかずに残っているはずはないとおもうのだが、矛盾の中に生き残っているのが現代の遺跡である。
地図を頼りに開発の触手が奇跡的に及んでいない町田市域の山林を根岸は歩きまわった。
地元の住人に聞き合わせたが、みな首を傾《かし》げるばかりである。
彼らの中には防空壕がなにか知らない者も多い。
丘陵を登り、谷戸《やと》へ下り、叢《くさむら》を分け、山林の中に迷いながら、根岸は五十年前の戦争の遺物を探し歩いた。
自然と開発が入り組み、残されている自然も浅い。
迷い込んだ山林もすぐに抜け出て、そこには、民家が散在し、車が走っている。多摩《たま》の自然も風前の灯火《ともしび》である。
開発は自然を損壊しただけではなく、そこに住むさまざまな動植物を駆逐し、季節感を稀薄にした。
季節は晩秋にかかっていたが、香ばしい秋のにおいの中に排ガスが漂ってくる。
根岸は山林の中に排ガスのにおいを嗅《か》いだとき、絶望的になった。
これではもはや五十年前の戦跡が生き残っている見込みは少ない。
地元の人の話では、つい最近、この地域でオリエンテーリングの競技が行なわれたそうである。
それではますます大勢の人間が入り込み、防空壕は発見されて埋め立てられてしまったかもしれない。
初日には探し当てられず、根岸は次の休日、また出かけて行った。あきらめきれなかった。
都下に防空壕がそのまま残されていれば、大発見である。全国戦跡地図の目玉となることはまちがいない。
小さな丘陵を登り詰めた根岸は、前回下りた方角とは逆の谷戸に足を向けた。
略図によると、防空壕は丘陵の中腹に設けられているが、どちらの中腹か曖昧《あいまい》である。
略図は、個人の記憶を頼りにつくられたかなり曖昧な地図であった。
だが、この丘陵のどこかにあることはまちがいない。浅い丘陵に地元の人がつけたらしい踏み跡がつづいている。迷ったところでたかが知れている。
視野の中には雑木林越しに人家や煙突や、高圧電塔や建造物が常に覗《のぞ》いている。
道を下降路に取ったとき、足許《あしもと》の叢からガサとなにか飛び出した。
この地域に生き残っていた野ウサギかタヌキか、小動物らしい。
はっとしてたたらを踏んだ瞬間、体のバランスを失って尻餅《しりもち》をついた。そこがやや勾配《こうばい》の急な草つきの斜面であった。
転倒した勢いをそのまま伝えて、勾配に引かれて加速度がついた。
咄嗟《とつさ》にすがりつくものもないまま、根岸は丘陵の山腹を滑落した。
根岸の身体《からだ》は中腹の小さな起伏をバウンドしながら加速度をつけた。
何度かバウンドした後、根岸の身体は突然、斜面の抵抗を失って空間の中に放り出された。
束《つか》の間《ま》、根岸は身体の位置の見当を失った。
視野が暗くなって、身体が柔らかい土の上に軟着陸した。中腹に穿《うが》たれていた穴の底に落ちたのである。
頭上に伸びた雑草が生い茂り、穴の口を隠している。
ようやく位置の見当をつけた根岸は、穴の中の様子を探った。
深さは大したことはないが、奥行きがかなり深そうである。天然の穴ではなく人工のものらしい。
瞳《ひとみ》が闇《やみ》に順応せず、穴の中の様子はわからない。根岸は穴の底に立ち上がって、そろりと奥へ進んだ。べつに身体にダメージは受けていない。
こんな山中にだれがなんのためにこんな穴を掘ったのか。と不思議におもったとき、はっとした。
もしかしたら、これが探しあぐねていた防空壕ではないのか。
穴の出入口は一メートル四方が地上に開口しているが、深さは約一メートル、奥行きは四、五メートルある。天井には板を渡して上に土が被《かぶ》せてある。
穴のところどころに柱が支《か》われて補強されている。
まちがいない。戦時中の防空壕である。
とうとう見つけた。根岸の胸に興奮が盛り上がった。
そのとき彼は壕の奥にこもっていた濃厚な臭気を嗅いだ。壕の奥にわだかまった闇の底には、おどろおどろしいものがうずくまっているようである。
山の動物が死んでいるのか。あるいは近くの住人が犬か猫の死骸《しがい》でも捨てたのか。
根岸は臭気に辟易《へきえき》しながらも臭源を探った。
五十年前の遺跡であれば、なにが捨ててあっても不思議はない。
ようやく目が闇に馴《な》れてきた。
穴の奥に進みかけた根岸はぎょっとなって立ちすくんだ。壕の突き当たりの床の上に不気味な黒い影が横たわっているのを認めた。
それは闇が煮つまった塊のように見えた。明らかに犬や猫や小動物ではない。
腐臭はその辺りから吹きつけてくるようである。
根岸は勇を鼓してさらに数歩進んだが、においの壁にはね返されたように後退《あとじさ》った。
実際それはにおいが結界を張っているようであった。目に見えないにおいの壁が侵入しようとするものをはじき返している。
根岸はにおいの壁を突破する必要はなかった。壁の外に立って、あらかじめ用意して来たライトを向けて、むごたらしい物体の正体を確かめた。
悲鳴をあげなかったのはさすがである。
十一月八日午後二時ごろ、都下町田署に、町田市|上小山田《かみおやまだ》町内の山林中に女性の変死体を発見したという通報が一一〇番経由でもたらされた。
町田署員が臨場したところ、現場は丘陵の山腹に戦時中つくられた防空壕である。
発見者は民間の戦争資料保存会のメンバーである。この地域に残存しているという防空壕を探していて、山腹で足許を誤って滑落し、件《くだん》の防空壕に転落して死体に遭遇したというものである。
防空壕の出入口は雑草が生い茂って見分けにくくなっている。地元の人間もそんなところに防空壕があることを知らなかった。
現場は低い丘陵の中腹で、すぐ近くまで車道が入って来ている。
死者は推定年齢二十代前半の東南アジア系女性で、死後経過十日前後と推定された。
死体は壕の中の冷暗な場所に放置されていたために、死後変化の進行が遅い。山の動物や土中生物による影響もあまり受けておらず、原形をわりあいよく保っていた。
死体の首には水平の索溝(紐《ひも》で締めた痕《あと》)が一周している。明らかに自ら首をくくった痕跡《こんせき》ではない。縊首《いしゆ》の場合は索溝が斜めにつけられる。
寂しい山中の現場に若い女性を誘い込むよりは、べつの場所で殺害して死体を運搬、遺棄した可能性が大きい。
「犯人はここに防空壕があることを知っていたらしいな」
現場を観察していた町田署の有馬《ありま》が言った。
「地元の人間もこんなところに防空壕があることを知りませんでしたよ」
若い相棒の松坂《まつざか》が言った。
「こんなところに防空壕があることを知っている者は限られているはずだ。犯人は土地鑑があるな」
「単なる土地鑑ではなく、この地域に住んでいたか、現に住んでいる者かもしれませんね」
「地元の者でも、ここに防空壕があることを知っている者はいない。防空壕をつくった者か、あるいは通りかかって、発見者のように防空壕に落ち込んだかして知った者だな」
二人は犯人像について憶測を交わし合った。
その間も死体と現場の観察が進行している。
「おや、これはなんだ」
有馬が死体の腰の脇辺りからなにかをつまみ上げた。
半ば土中に埋もれていた物体が、有馬の指先に引っ張り出された。
「なにかありましたか」
松坂が有馬の指先に目を向けた。
「貝殻みたいだな」
有馬がつまみ上げたものは扇形の小さな貝殻の断片で、紫の彩色が施されている。
「綺麗《きれい》な貝ですね。まさか古代の出土品ではないでしょうね」
「まさか。この貝は新しいよ」
「すると」
二人はたがいの目の色を測り合った。胸の内にあるおもわくが醸成されている。
「こんなところに貝が落ちているはずがないとすれば、犯人か、あるいは被害者が持ち込んだものかもしれませんね」
「そういうことになるね」
貝殻は犯人に結びつくかもしれない重要資料として保存された。
被害者は浅黒い肌をした東南アジア系の女性で、長い黒い髪、体型はスリムで、身長百六十センチ前後、右の目尻《めじり》に小さな黒子《ほくろ》がある。
ホステス風のスーツを着ているが、身許を示すようなものはなにも身に付けていない。
衣類や下着には特に乱れは認められない。
検視の後、死体は解剖に付するために搬出された。
解剖の所見は次の通りである。
死因、索条(紐)を首に一周して強く引き、気道閉鎖による窒息。
死後経過、解剖時より逆算して十日ないし十二日。
生前、死後の情交、凌辱《りようじよく》痕跡は認められず。
薬毒物の服用は認められず。
胃内容はほとんど空虚。
被害者は妊娠四カ月と認められる。
以上であった。
なお、死体の近くから発見された貝殻は、静岡にある東海大学水産学部に鑑定を委嘱した。
十一月十日、町田市に捜査本部が開設されて、警視庁捜査一課|那須《なす》班が捜査に参加した。
十一日、町田署において、解剖の結果を踏まえて第一回の捜査会議が開かれた。
被害者が外国人女性であるため、国際的な捜査に拡がる可能性が大きい。
身許不明死体の場合は被害者の身許の割り出しが捜査の第一ステップである。
被害者の身体的特徴からして、東南アジア、特にフィリピン、タイ系の女性である可能性が大きい。
フィリピンの場合、エンターテインメント関係以外の入国者にはビザが出ない。
その点、タイは密入国|斡旋《あつせん》業者がいて、かなりの不法滞在者や偽造旅券を用いての不法入国者がいる。特に若い女性の入国者は、俗にジャパゆきさんと呼ばれて、風俗営業関係の出稼ぎが多い。
ジャパゆきさんの中には、ブローカーの甘言に騙《だま》されて来日して、売春を強制されたり、劣悪な労働条件にたまりかねて逃げ出し、大使館や警察に救いを求めて来たりする者もいる。
逃げ出したものの、追手に捕まって連れ戻され、ひどい暴行を受ける者も少なくない。
中には人知れず殺害されて、死体を隠されてしまった者もあるという。
被害者がジャパゆきさんかどうか不明であるが、可能性の一つには数えられる。
被害者が偽造旅券で不法入国している場合は、身許割り出しが極めて困難になる。
捜査本部長となった管轄署長の挨拶《あいさつ》の後、現場の捜査指揮を執る那須警部が訓示して、初期捜査のあらましが有馬から報告された。
「被害者が風俗営業関係に従事しているとすれば、殺害動機はその方面の線が考えられます。
客とトラブルが生じて殺害されたのであれば、死体をわざわざ山中まで運んで隠匿する必要はありません。その点から行きずりの犯行の見込みは薄いと考えられます。
犯人は死体遺棄現場に土地鑑があり、計画的な犯行と見られます」
有馬は報告を締めくくった。
一拍の沈黙の後、捜査一課の山路《やまじ》が発言した。
「被害者はまだジャパゆきと確認されたわけではない。
東南アジア系の外国人、それも国籍も確認されない段階で、風俗営業関係者と見込んで捜査を進めるのは危険ではないか」
早速、山路からの反駁《はんばく》によって会議の口火に水がさされた。
「ジャパゆきと断定したわけではありません。可能性の一つとして提示した次第です。死体が山中に遺棄されていた点から、被害者の職業、身許いかんにかかわらず、計画的な犯行である見込み大と考えます」
有馬が言葉を追加した。
外国人女性が寂しい山中の現場付近に迷い込んで、行きずりの犯人に殺害されたという可能性は少ない。
有馬が主張したいところは、被害者の身許の推定よりも、土地鑑のある犯人による計画的な犯行という点であった。
その点については山路も異議はなさそうである。
捜査会議の進行中に現場で発見された貝殻の鑑定結果が、東海大学水産学部から連絡されてきた。
それによると、その貝殻は島根県|隠岐《おき》、および三重県|鳥羽《とば》の特産物とされる檜扇貝《ひおうぎがい》であるということである。
隠岐、あるいは鳥羽の特産物と聞いて、捜査本部はある連想を促された。
奄美《あまみ》諸島、九州南方洋上、九州西海岸にベトナム、中国の難民を乗せたボートが頻々と漂着したというニュースが想起された。
難民ボートは、平成四年(一九九二)四月に八丈島に上陸後、黒潮に乗って紀伊半島周辺に集中上陸するようになった。
隠岐諸島には東シナ海で黒潮と分かれた対馬《つしま》海流が流れ込んでいる。これに乗って中国やベトナムの密入国者や難民が同島に上陸しているかもしれない。
最近は三百万円くらいの手数料を取って密航を請け負う「蛇頭《スネークヘツド》」と呼ばれる組織があるそうである。
あるいは、難民ボートの一|艘《そう》が隠岐に漂着したかもしれない。被害者がボートに乗って入国した難民であれば、隠岐特産の檜扇貝を持っていたとしても不思議はない。
「被害者と隠岐を結びつけるのは早計である。被害者が難民であるかどうか確認されていない。難民であったとしても、隠岐に漂着したかどうか確かめられていない。
檜扇貝は犯人の遺留品かもしれないし、あるいは事件とはまったく無関係かもしれない」
またしても山路が異議を唱えた。
だが、山中に地域の住人もその所在を知らないような見捨てられた防空壕の中に放置された真新しい檜扇貝が、事件と無関係である確率は低い。
被害者が身に付けていたものでなければ、犯人の遺留品である可能性が大きい。
隠岐、または鳥羽から来た一枚の檜扇貝、紫の天然の彩色を施された可憐《かれん》な貝殻が、異国の地で無惨な末路を迎えた女性の死を見つめていたのかもしれない。
被害者の身許は不明であるが、檜扇貝の出所を無視するわけにはいかなかった。
隠岐は後鳥羽《ごとば》上皇や後醍醐《ごだいご》天皇が流された地、鳥羽は真珠の産地ぐらいの認識しか捜査員にはない。
「とりあえず被害者の特徴を警察庁の家出人ファイルと、隠岐、鳥羽に照会してみることにしよう」
那須警部がその日の会議の結論として言った。
第一回の捜査会議において、
被害者の身許割り出し、
現場周辺の聞き込み捜査、
隠岐、鳥羽への照会、
タイ、フィリピン、その他東南アジア諸国の大使館への照会、
都内、都下、近隣県の外国人女性を使用する風俗営業関係者の捜査、
等が当面の捜査の第一方針として決定された。
本杉高志は新聞を見て驚愕《きようがく》した。社会面の一隅に、フェリシアの顔写真が載っている。
東南アジア系外国人女性の絞殺死体、都下町田市の山中より発見、という大見出しが添えられている。
愕然として記事を読むと、都下町田市上小山田町の山中に放置されていた戦時中の防空壕の中から、首を紐で絞められて殺された外国人の女性が、戦争資料保存会のメンバーによって発見されたというものである。
新聞記事では、被害者の身許は不明のようであるが、モンタージュ写真はまぎれもなくフェリシアである。推定年齢も符合している。
おそらく死に顔は修整《モンタージユ》されたものであろう。
生前の面影をそのまま伝えているだけに、モンタージュ写真には痛々しさが感じられた。
こんなことになるのではないかという予感がないではなかった。
しかし、まさかというおもいを捨て切れない。他人の空似ということもある。
だが、見れば見るほどよく似ている。特に右の目尻の黒子は、フェリシアの明確な特徴であった。
その黒子の色が濃く見えるのも、殺される直前の恐怖や怨《うら》みを現わしているようで痛々しかった。
本杉はホテルの同僚に、新聞の顔写真を見せた。
「やあ、フェリシアだ。これはフェリシアだよ」
写真を見た者は異口同音に言った。
フェリシアなら、まず若様が名乗り出るはずである。
それにしても若様の専属になると言っていたフェリシアが、都下の寂しい山中で無惨な死体となって捨てられていたのはどういうことであろうか。
フェリシアの死に最も近い位置にいる人間は若様のはずである。
まさか若様が……本杉のおもわくは脹《ふく》らんだ。
若様が犯人であれば、名乗り出るはずもあるまい。
本杉は報道後数日、様子を見た。
その後、フェリシアの身許が判明したという報道はない。やはり若様は黙したままである。
フェリシアが所属していたエスコートクラブからもなにも言ってこないようである。
もっともエスコートクラブやホテトルの類《たぐい》にとって警察は鬼門である。自分の方から協力するということはまずない。
それに、すでに辞めてしまった外国人女性の行方などに関心はないであろう。
風俗営業関係の女性は流動性が激しく、一回限りで辞めてしまう女性も多い。
本杉はフェリシアを哀れにおもった。
異国の地で殺されて、身許不明死体として名前もわからぬまま葬られては浮かばれないであろう。
届け出たところで、彼が喪主となって葬ってやることはできないが、せめて名前ぐらいは知らせてやりたい。
若様が犯人とは断定できないが、フェリシアと若様との関係は捜査本部としては無視できないであろう。
本杉は同時に理絵の行方が不安になった。
フェリシアの運命と理絵の行方が重ね合わされざるを得ない。
理絵の家は茨城県|日立《ひたち》市と本人が言っていたが、詳しくは聞いていない。本人が話したがらなかったせいもある。
彼女は死んでも郷里の家に帰りたくないと言っていた。すると、本杉の部屋を出てどこへ行ってしまったのか。
本杉の人脈に広げた網には引っかかってこない。
ささやかではあったが、本杉の小さな庇護《ひご》の傘の下から離れて、東京を放浪している彼女が幸せになったとは考えられない。
むしろ不幸に捕まってしまったのではないのか。
幸福とチャンスを求めて東京へ出て来た者が、それをつかむ確率は極めて低く、むしろ不幸や危険の獲物になってしまう。
同僚は関わり合わない方がいいと言ったが、本杉は黙っていられなくなった。
管轄の新宿署に出向いた本杉は、都下町田市域山中の身許不明外国人女性死体についての自分の心当たりを届け出た。
その際、同居していた菊岡理絵の家出についても捜索願の届け出を考えたが、もともと理絵は郷里から家出した出先の東京で本杉に拾われて、彼の居所に一時身を寄せたにすぎない。
本杉の居所から立ち去ったのは家出とは呼べない。
理絵という名前も本名かどうかわからない。郷里も偽っているかもしれない。
彼女の話そのものがまったくの創作かもしれない。
本杉は理絵の保護者とは言えないことに気づいて、捜索願の届け出を差し控えた。
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不安定な犯人像
新宿歌舞伎町のホテル従業員からの届け出によって、捜査本部は被害者の身許の手がかりをつかみかけた。
有馬が推測した通り、被害者はジャパゆきさんであった。
だが、届け出たホテル従業員も彼女の身許について詳しく知っているわけではない。
届け出によって捜査の触手は、さらに彼女が所属していた歌舞伎町のエスコートクラブ「メッチェン」に伸びた。
メッチェンで被害者はフェリシア・キリノと名乗っていたことがわかった。
ファーストネームは届け出者の申述《しんじゆつ》と符合している。
メッチェンでは斡旋業者によって斡旋されただけで、彼女の詳しい身許についてはなにも知らない。
斡旋業者はマニラ在住の水野《みずの》という男で、年に数回、主としてタイ、フィリピン女性を引き連れて来日するらしい。
フェリシアがメッチェンに来たのは昨年の七月だという。
フェリシアがメッチェンの同僚に語ったところによると、フェリシアは日本人と結婚してビザを取得したそうである。
日本に入国するために日本人男性と偽装結婚してビザを取得し、後に離婚するという手口は、大量の東南アジア系女性を日本に輸出≠オている斡旋業者の常套《じようとう》手段である。
彼らは五十万円から二百万円の結婚名義料で、日本人男性と出稼ぎ外国人女性を偽装結婚させてビザを取得した後、離婚させる。
離婚後、女性たちは日本に滞在して風俗営業で稼ぐという仕組みになっている。
捜査本部は法務省入国管理局に照会して、フェリシア・キリノが××年七月十日、神奈川県川崎市|高津《たかつ》区××、下山伸二《しもやましんじ》、三十一歳と結婚、二カ月後の九月十二日に離婚した記録を発見した。
その婚姻届によって、フェリシアはマニラ市の出身であることが確認された。
ここに被害者の身許が割り出された。
本国の遺族にフィリピン大使館を経由して連絡された。
だが、遺族からは梨《なし》の礫《つぶて》である。異国から出稼ぎに行った娘の悲報を連絡されても、貧しい遺族にはどうすることもできなかったのであろう。
被害者の身許が判明するのと並行して、彼女の生前の人間関係が浮かび上がってきた。
被害者はブローカーの斡旋によって、下山伸二と偽装結婚するために来日し、新宿歌舞伎町のエスコートクラブ「メッチェン」に入店して、ホテトル嬢をしていた。
日本の農村の花嫁不足に目をつけた国際結婚斡旋業者が、フィリピン、中国、韓国、タイなどのアジア女性との結婚を斡旋するようになった。
こうしてお見合ツアーを募集し、集団見合の後、縁談が成立して花嫁が日本へやって来る。
ところが来日後、妻≠ヘ間もなく姿を消してしまう。妻の目的は結婚にはなく、日本への入国資格を取りつけることにあった。
留学名目のビザだと取得まで何年もかかるが、結婚だと数カ月で取れる。
またスネークヘッドに密航を依頼すると三百万円もかかるが、結婚ならば斡旋業者への手数料は数十万円ですむ。
妻として入国すると、最長限三年間の在留が認められる。
離婚すれば帰国するのが建前になっているが、許可期限内であれば不法残留者として摘発されることはない。
こうして日本での豊かな生活を夢見て来日を希望する外国人女性たちが、ビザを取得するために偽装結婚をするようになった。
一件の結婚ごとに五十万円から二百万円前後の手数料を取って、ビザ取得目的の偽装結婚をさせる。
これに目をつけたのが、悪達者な日本人独身男性である。彼らは手数料を取って名目だけの結婚をすると、妻が入国後離婚をする。
このようにして何回も結婚と離婚を繰り返して手数料を稼ぐ。
エキゾチックな美人で気立ての優しいフェリシアは、客の人気を集め、メッチェンの売れっ子ナンバーワンであった。
メッチェン入店後約一年余にして、若様と呼ばれる客に見初められて、その専属となってメッチェンを辞めた。
それから二カ月足らず後に都下町田市域の山林中の防空壕から死体となって発見されたのである。
捜査本部はフェリシアの死因に関わる重要人物として若様をマークした。
若様はフェリシアを専属にする前に、メッチェンのデート嬢、直美の固定客であったことがわかった。
「一度、若様の会社に連れて行ってもらったことがあるの。赤坂に大きな会社の建物があったわ。都内にビルを百ぐらい持っているんですって。若様はその社長の御曹司《おんぞうし》なの。近い将来、若様がその会社の社長になるんだと威張っていたわ。若様はしばらく私を指名してくれたけれど、部屋ちがいでフェリシアが若様の部屋へ行ったのがきっかけになって、それ以後はフェリシアばかり指名していたわ」
直美はそのことを怨んでいないようであった。
一夜限りに客につくデート嬢であるので、さばさばしている。彼女はフェリシアの哀れな運命を知らないようであった。
若様は荒尾幸広《あらおゆきひろ》、港区赤坂×丁目、荒尾産業の社長室長である。
荒尾産業は都内、都下中心に賃貸ビル業を主力として、分譲マンションも手がけている。
全国各地にリゾートホテルを展開して好調であり、総合生活産業を志向している。
フェリシアが荒尾幸広と特に親密であったことは、複数の証言によって確かめられた。
フェリシアは荒尾幸広の専属となってメッチェンを辞め、どこかのマンションに囲われていたということである。
さらに聞き込みを進めて、フェリシアが親しくしていたメッチェンの同僚、鈴木和枝《すずきかずえ》という女性から、
「この間、偶然フェリシアにうちの近くのスーパーで出会ったのよ。彼女、近くの新しくできたマンションに入居したと言っていたわ。どこのマンションか聞かなかったけれど、たぶん若様に囲われていたんだとおもうわ」
という聞き込みを得た。
早速、鈴木和枝が住んでいる目黒区学芸大学付近の新興マンションに捜査の網を拡げたところ、目黒区|鷹番《たかばん》一丁目××、ドルミール・ニューイーグル三〇一号室にフェリシアが入居していた事実をつかんだ。
ドルミール・ニューイーグルは昨年四月に完成した、荒尾産業が建設したマンションである。
その一室がフェリシアに提供されていた。
ドルミール・ニューイーグルの管理人の話によると、フェリシアは本年九月下旬、荒尾幸広が保証人となって同マンションに入居したということである。
週一、二回、幸広がフェリシアの許を訪れるほかは、彼女はぶらぶらしていたという。
十月末ごろ、その姿を見かけたのが最後で、管理人は荒尾幸広と旅行にでも出かけたのかとおもっていたそうである。
「荒尾さんから、フェリシアの姿が見えないが、どこへ行ったのかと尋ねられて、初めて本人が一人でどこかへ行ってしまったらしいことを知りました。
荒尾さんの話によると、荷物がそのままに残してあって、すぐ帰って来るつもりでちょっと外へ出かけたというような様子だったそうです。
フェリシアさんがあんなことになっていようとは夢にもおもいませんでした。荒尾さんもかなりうろたえていたようです」と管理人は述べた。
「荒尾氏がうろたえていたのは、殺されたフェリシアさんの身許が判明した後でしたか、それとも前でしたか」
本杉高志の届け出によってフェリシアの名前は報道されたが、それ以前に荒尾がうろたえていたのであれば、彼はフェリシアが殺されていたことを知りながら黙っていたことになる。
「たぶん前だったとおもいます。私が町田市で殺されていた外国人女性はフェリシアさんに似ていると荒尾さんに言ったところ、荒尾さんは真っ青になりました」
「それではあなたもフェリシアさんに似ているとおもいながら届け出なかったのですか」
「似ていましたけれど、自信が持てなかったのです。うっかり届け出て、人ちがいだと警察から怒られそうな気がしまして」
「あなたがフェリシアさんに似ていると言ったにもかかわらず、荒尾さんも届け出ませんでしたね」
「荒尾さんも自信が持てなかったのだとおもいます。人目を忍ぶようにしてフェリシアさんのところへ来ていましたから、彼女との関係を隠したかったのかもしれません」
捜査本部は聞き込みの結果を検討した。
「荒尾が管理人にフェリシアの行方を聞いたのはカモフラージュではないのか」
という意見が多かった。
荒尾自身がフェリシアを殺しておいて、その偽装工作として管理人の手前、いかにもフェリシアが行方をくらましたようにみせかける。
「しかし、マンションをあたえて囲ったフェリシアを、なぜ荒尾は殺さなければならなかったのか。荒尾はフェリシアを気に入っていたのでしょう。売り物、買い物のコールガールを昔風に言うなら落籍して、ぴかぴかの豪華マンションに囲ったのは相当の執心だったと考えられます。ようやく手活《てい》けの花にして、これからじっくり観賞しようという矢先に殺してしまっては、元も子もないではありませんか」
有馬刑事が古色蒼然《こしよくそうぜん》たる言葉を用いて反駁した。
「先代萩《せんだいはぎ》では高尾太夫を身請けした伊達《だて》の殿様が、女に情夫がいたのを怒って船から吊《つ》るし斬《ぎ》りにしているが」
山路がこれまた古びたたとえをひいて切り返した。フェリシアに隠れた男がいたかどうかはこれからの捜査に俟《ま》つところである。
さらに荒尾幸広の身辺について内偵を進めた結果、現在、彼と政権党、民友党の大物代議士|梅川隆一《うめかわりゆういち》の次女との間に縁談が進行中であることがわかった。
梅川は建設大臣、自治省長官の閣僚体験もあり、現在、民友党の幹事長を務めている。
幸広の父荒尾|幸一郎《こういちろう》と梅川隆一は同郷で、刎頸《ふんけい》の交わりと認め合っている仲である。
フェリシアの存在が梅川の娘との障害になったのではないかという疑いが持たれた。
だが、それならば殺さなくとも、フェリシアとの関係を断てばすむことである。
捜査会議の結果、荒尾幸広を事件の重要関係人物としてマークすることに決定した。
参考人として任意同行を求める前に事情を聴くことにした。
これは幸広の父親の荒尾幸一郎が政界とも関わりの深い経済界のVIPであることを考慮したものである。
荒尾幸広に会見を申し込んだのは有馬と、捜査一課から参加した棟居《むねすえ》である。
荒尾幸広は会見場所として、都心にあるホテルのバーを指定した。時間は午後三時である。
この時間帯のホテルのバーは閑散としている。荒尾がそれを計算して、会社から離れた場所を選んで指定したとすれば、刑事の訪問が彼に脅威をあたえているのかもしれない。
二人の捜査員が約束の時間に指定の場所へ赴くと、荒尾は先着して待っていた。
足の長いスリムな体躯《たいく》と、色白で彫りの深い端整なマスクは、恵まれた環境ですくすくと育ったようであるが、親の威光を笠《かさ》に着た傲岸《ごうがん》な雰囲気を背負っている。
捜査員の突然の来訪にショックを受けながらも、たかが下っ端刑事と見くびっているのが態度にうかがえる。
「今日は突然お呼びたていたしまして申し訳ありません」
初対面の挨拶の後、有馬が低姿勢に切り出した。
「今日は民友党の梅川先生と会食の予定があるのですが、警察のご用と聞きまして時間を捻《ひね》り出しました」
荒尾幸広は恩着せがましく、またおれの後ろには梅川が付いているぞと、それとなくにおわせながら言った。
「お忙しいところを申し訳ありません。お手間は取らせないつもりです」
「どんなご用件ですか」
「フェリシア・キリノさんをご存じですね」
有馬はいきなり核心に入った。
「知っていますよ。彼女は可哀想《かわいそう》なことをしました」
幸広は眉《まゆ》一筋動かさずに言った。
「それでは、フェリシアさんが殺されたことはご存じですね」
「新聞を読んでびっくりしました」
「それは、死体が発見されたときですか、それともフェリシアさんの身許が判明したときですか」
「もちろん身許が判明したときですよ」
「フェリシアさんが町田市域の山中から身許不明死体となって発見されたという報道には気がつかなかったのですか」
「テレビのニュースで聞きましたが、まさかフェリシアとはおもいませんでした」
「モンタージュ写真が報道されたはずですが、わからなかったのですか」
「似ているような気がしましたが、まさかとおもいました」
「しかし、フェリシアさんを一番よく知っているはずのあなたが気がつかずに、フェリシアさんとは時どき言葉を交わしただけのホテルのフロント係が届け出たのはどういうことでしょうか」
「そ、それは、よく知っているだけに、本人とは少し様子がちがうような気がしたのです。報道された写真はあくまでモンタージュで、本物の写真ではなかったのでしょう」
幸広は際どいところで切り返した。
「フェリシアさんが外出したまま消息不明になったのはいつごろですか」
「十月二十八日ごろからです」
「管理人から聞いたところによると、フェリシアさんの居所はすぐ帰って来るような様子だったそうですね」
「荷物もそのまま残してあり、部屋も特に片づけてありませんでした」
「フェリシアさんが発見されたのは十一月八日、身許が判明したのはさらに数日後、その間、あなたはフェリシアさんの行方をまったく探さなかったのですか」
「探しましたよ。しかし、心当たりのところにはどこにも立ちまわっていませんでした」
「それにもかかわらず捜索願も出さず、フェリシアさんによく似た身許不明死体発見の報道があったのに届け出なかったのはなぜですか」
「先程も申し上げましたように、自信が持てなかったからです」
「行方を探していたら、似た人物の死体発見の報道に届け出ようという気にはなりませんでしたか」
「関わり合いになりたくなかったのです」
「関わり合いになりたくなかったので、身許が判明してからも届け出なかったのですか」
「届け出なければならないという義務はありませんよ」
「しかし、あなたは彼女にマンションを提供して世話をしていたのではありませんか」
「世話をしたというほど大袈裟《おおげさ》なものではありません。彼女はご存じとはおもいますが、ジャパゆきですからね。私以外にも不特定多数の客を持っていたはずです。彼女が死んだところで、客の一人にすぎない私がなぜ届け出なければならないのですか」
「あなたは彼女の不特定多数の客の一人ではありませんよ。マンションを提供して、あなたの専属に……つまり囲っていた」
「私を疑っているのですか」
幸広の声が尖《とが》った。
「参考人の一人として事情をうかがっているのです。事件関係者にはすべておうかがいしていることです。ご協力いただけませんか」
「おれは事件にはなんの関係もないぞ」
「関係ないとは言えないのではありませんか。あなたはフェリシアさんの生前の人間関係の中で、最も親しかった人です。フェリシアさんの不幸な末路に一片の同情でもあれば、犯人を捕まえるためにご協力お願いします」
「なにを協力すればいいのだ」
「質問にお答え願います。十月二十八日ごろからフェリシアさんが行方をくらましたということですが、彼女の行き先にまったくお心当たりはないのですか」
「心当たりなんかないとさっきから言っているだろう」
「フェリシアさんが発見された都下町田市には、なにか関わりがありますか」
「関わり?」
「たとえば別宅があるとか、知り合いの方が住んでいるとか、その近くのカントリークラブのメンバーとか……です」
「なんの関わりもないね。町田なんてところは行ったこともないよ」
「フェリシアさんに最後に会ったのはいつですか」
「十月二十三日ごろだった」
「そのとき、なにか変わった様子がありましたか」
「特に変わった様子はなかったとおもう」
「近いうちに帰国するとか、どこかに旅行するとか言っていませんでしたか」
「そんなことはなにも言っていない。フェリシアがおれに黙って帰国も旅行もするはずがない」
「それだけ密接な関係だったというわけですね」
幸広は語るに落ちた形になって唇を噛《か》んだ。
「十月二十八日から三日間、どちらにおられましたか。ちょうど金、土、日の週末に当たりますが」
「それはアリバイか」
幸広の顔が強張《こわば》った。
「フェリシアさんと関係のあった方にはすべてお尋ねしていることです」
「週末、フェリシアと過ごすつもりだったのが、彼女がどこかへ出かけたまま帰って来ないので、仕方がなく一人でぶらぶらして過ごした」
幸広はしぶしぶといった口調で答えた。
「ぶらぶら過ごしたということですが、三日間、ご自宅に閉じこもっておられたのですか」
「金曜日はほぼ定時に退社して、フェリシアのマンションへ行ったよ。フェリシアがいないのでしばらく待っていたが、フェリシアがいつ帰って来るかわからないので、そのままずっとフェリシアのところにいた」
「ずっとといいますと」
「金曜の夜から月曜日の朝までだよ」
「月曜日はフェリシアさんの家から出勤したのですか」
「そうだ」
「その間、フェリシアさんからなんの連絡もなかったのですか」
「なんの連絡もなかった」
「あなたがフェリシアさんの家で待っている間、どなたか訪問者がありましたか」
「だれも来なかった」
「電話はかかってきませんでしたか」
「こちらから何本か電話をかけたが、かかってきた電話はなかった」
「あなたは金曜日の夜から月曜日の朝出勤するまで、一歩もフェリシアさんの家から出なかったのですか」
「いつ連絡があるかとおもうと、出るに出られなかった」
「月曜日の朝出勤するとき、管理人か、あるいは入居者に姿を見られませんでしたか」
「フェリシアの家には非常階段を使って出入りしているので、管理人や入居者にも姿を見られていない」
幸広の言葉を総合すると、十月二十八日金曜日は定時に退社して、フェリシアのマンションに行き、彼女の帰宅を月曜日の朝まで待ち、だれに会うこともなく月曜日の朝、出勤したということになる。
「金曜日の夜、あなたがフェリシアさんを訪ねることを彼女は知っていたのですか」
棟居が質問役を交替した。
「もちろん知っていたよ。金曜日の夜はたいてい泊まる」
「すると、フェリシアさんはあなたが来られることを知っていながら、留守にしたことになりますね」
「そういうことになるな」
「あなた以上に優先しなければならない人間が考えられますか」
フェリシアにとって幸広は唯一最大のスポンサーのはずである。その大スポンサーとの定期的デートをすっぽかして出かけなければならなかった所用とはなにか。
「そんな相手はいるはずもないね」
幸広の口調には自信があった。
「フェリシアさんは四カ月の身重でしたが、ご存じでしたか」
「全然知らなかった。そんな気配も示さなかった」
「フェリシアさんの胎児についてはお心当たりがありますか」
「それはおれの子という意味か」
棟居はうなずいた。
「そんなことわかるはずねえだろう。妊娠四カ月と言えば、おれの専属になる前に仕込まれたことになる。だれの子かわからねえよ」
幸広の言葉遣いがくずれた。
「フェリシアさんが四カ月になるまでなんの処置もしなかったということは、産むつもりだったとおもわれますが、父親が不明の胎児を産む気になるものでしょうか」
「そんなことはおれの知ったことではない」
幸広は昂然《こうぜん》と胸をそらしたが、語尾に狼狽《ろうばい》が感じられる。
「仮に胎児があなたのお子さんだとすれば、進行中のご縁談に差し障りがあるのではありませんか」
「なにを言ってるんだ。フェリシアがだれの子を孕《はら》もうと、おれには関係ない。フェリシアはおれの遊び友達にすぎない。いや、遊び道具だよ」
幸広は肩をそびやかしてうそぶいた。
「フェリシアさんにあなた以外に親しかった男性の心当たりはありますか」
「おれの専属になる前は売り物、買い物だからね、贔屓《ひいき》にしていた客がいたかもしれない。専属後も毎日へばりついて見張っていたわけではないから、以前の客とつづいていたかもしれないな。つづいていたとしても、おれの目から隠れてしていたことだろうからわからねえよ」
「ところで、あなたは隠岐や鳥羽になにか関わりがありますか」
棟居は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。
「隠岐や鳥羽」
「島根県の隠岐の島と、三重県の鳥羽です」
「三重県には何度か行ったことがあるが、隠岐には行ったことはないね。それがどうかしたのか」
「フェリシアさんは三重と島根になにか関わりがありましたか」
「そんな話は聞いていないね」
「あなたは三重のどこへ行かれたことがあるのですか」
「伊勢神宮に参拝に行ったことがある。あとは津市に仕事で出張したことがある。それだけだよ。それがどうかしたのか」
「檜扇という貝をご存じですか」
「ヒオウギ?」
「この貝です」
棟居は現場から保存した檜扇貝と同種の貝を幸広に示した。だが、幸広の面には特に反応は表われない。
「こんな貝は初めて見たな」
「フェリシアさんの身辺にこの貝を見かけませんでしたか」
「見たことないね。一体どうしたというんだ。さっきからおとなしく答えていれば、おれのアリバイを確かめたり、隠岐だの鳥羽だのヒオウギだの、訳のわからないことを聴きやがって、まるで犯人扱いじゃないか。名誉|毀損《きそん》の人権|蹂躙《じゆうりん》だ。あとですみませんではすまされねえぞ。その気になれば、おまえたちの首を並べて吹っ飛ばせるんだ」
幸広がついに爆発した。
これまで彼なりに精一杯耐えていたのであろう。
荒尾幸広との第一会見はそこまでであった。
「梅川先生との約束の時間が迫っている。失礼する」
幸広は席を立った。強制捜査ではないので、彼を押し止《とど》める権利はない。
「棟居さん、どうおもいますか」
帰途、有馬が問うた。
「限りもなくクロに近い灰色と言いたいところですが、どうもクロになりきれません」
棟居が答えた。
「私も同感です。彼はフェリシアを遊び道具と言い切っていますが、遊び道具なら捨てればすむことで、殺す必要はありません」
「これまでの内偵捜査では、幸広と町田、隠岐、鳥羽に特に関わりはありません。彼にはフェリシアの死亡推定時間帯にアリバイがありませんが、もし彼が犯人なら三日間すべてアリバイがないというのもおかしいとおもいます。死体を町田に捨ててくるだけなら、せいぜい四、五時間もあれば充分でしょう。それ以外の時間帯はアリバイ工作をしておくはずです。
それが金曜日の夜から月曜日の朝出勤するまでアリバイがないというのは解せません。
彼は意外に本当のことを言っているのではないかとおもいました。フェリシアの帰るのを待って動くに動けなくなったのではないでしょうか」
「彼の言葉が本当であれば、彼は週末から月曜の朝にかけて、フェリシアの帰りをひたすら待っていたことになります。遊びのおもちゃではあっても相当に気に入っていたということですね。それほど気に入っていたおもちゃを殺すでしょうか」
「フェリシアの妊娠も、彼にとってさしたる障害にはなりません。幸広の専属になる前に妊娠したホテトル嬢の胎児ですから、父親を幸広と特定することはできません。仮に特定したとしても、幸広にとってさしたる障害ではないでしょう。幸広の放縦な私生活は、かなり知れ渡っていました。梅川の娘との縁談もそれを承知の上で進めているのでしょう。
容疑線上の最右翼にいることは確かですが、犯人像としてどうも座りが悪いのですよ」
ようやく焙《あぶ》り出した容疑者が犯人像として安定しない。
捜査本部に帰る二人の足取りは重かった。
しかし、捜査本部に対する報告には、二人の心証よりも、まず幸広のアリバイのないことを優先しなければならない。
案の定、捜査本部では二人の報告に色めき立った。
幸広のアリバイのないことが、彼に据えられた嫌疑をいっそう煮つめた。
だが、ここにおいて山路が棟居と有馬の心証を援護《えんご》射撃してくれた。
「アリバイがないということは、現場にいなかったということが証明できなかっただけで、現場にいたことにはならない」
「それにしても金曜日の夜から月曜日の朝まで、まったくアリバイがないというのもおかしいのではないか」
という意見が出た。
「その点に私も引っかかっている。幸広の申し立てでは、金曜日の夜はフェリシアの家で彼女の帰りを待っていたということだが、仮にそれが事実であったとしても、月曜日の朝まで待ちつづけたとは考えられない。彼はその間、どこかにいた」
「その間にフェリシアを殺したのではありませんか」
「フェリシアを殺すのであれば、三日間も必要ない。幸広はその間、フェリシアとは無関係のどこかにいたのではないのか」
「幸広はなぜそのことを言わないのでしょうか」
「つまり、言えないようなどこかにいたのではないのかな」
「言えないようなどこかに」
山路の示唆はなにか謎《なぞ》をかけているようである。
「殺人のアリバイを問われて、答えられないような場所にいたということは、本人にとってよほど極秘に付さなければならない事情があったということになる」
山路の示唆は新たな推測を導き出そうとしている。
「そんな極秘の事情とはどんな事情でしょうか」
「たとえば秘密の情事に耽《ふけ》っていたとか」
「縁談が進行中のかたわらで情事に耽っていたことが露見しては、せっかくの縁談が破談になってしまうかもしれない」
「幸広はまだ結婚していない。不倫の情事ということはあるまい」
「相手が人妻ならば、不倫だよ」
「情事ならば、アリバイを犠牲にしてまで隠し通すことはないだろう。縁談にとってはむしろフェリシアの存在の方が不都合のはずだ。フェリシアがどこかに行ってしまったので、べつの女と情事に耽っていたことを秘匿するというのも変な話だよ」
「情事とは限るまい」
「情事でなければ、なんだね」
「絶対に秘匿しなければならない会合に臨んでいたとか」
「そんな会合とはなんだね」
山路の示唆は侃々諤々《かんかんがくがく》たる意見を引き出した。
「幸広の容疑が薄められたわけではない。犯人像としてはまだ不安定だ。アリバイのないことが不安定にしていることを指摘しておきたい」
と山路は結んだ。
山路の言葉は幸広のアリバイのないことが、彼にとって不利にも有利にも働いているという意味である。
捜査会議の後、棟居は山路の示唆が胸に引っかかった。釈然としない澱《おり》となって違和感を大きくしている。
山路の意見は棟居と有馬の心証を援護射撃した形になったが、殺人のアリバイを問われてまで秘匿しなければならない事情というのがわからない。
山路自身が幸広の容疑は拭《ぬぐ》えないと言っていたが、フェリシア殺しの容疑を引きずったまま、棟居の心証の中で揺れている。
幸広が殺人容疑に耐えてまでアリバイを提出しないのは、殺人容疑を上まわるような事情があったことを示すものである。
捜査会議では情事や秘密の会合が検討されたが、いずれも殺人容疑を上まわるものとは考えられない。幸広の容疑は依然として濃厚であるが、三日間のアリバイがないというのは不可解である。
アリバイの不存在は容疑者にとって不利に働くものであるが、この場合、幸広の容疑を阻《はば》むネックとなっているのも皮肉である。
あるいは幸広は彼のアリバイの両様性を知っていて、三日間のアリバイを故意に提出しないのであろうか。
いやいや、幸広にはそこまでは読めまい。
偉大な父親の傘の下でスポイルされた若様が、そこまで先を読み取れるとはおもえない。アリバイを持っていれば、得たりとばかり言い立てるはずである。
若様は棟居と有馬にアリバイを問われて、窮したあげく、父親の威光を笠に二人の首を並べて吹っ飛ばせるんだと凄《すご》んだが、あの恫喝《どうかつ》には二重の意味がこめられていないか。
すなわち無実の嫌疑をかけられた怒りと、脛《すね》に抱えた傷を糊塗《こと》するための脅しである。無実の身が脛にべつの傷を持っている。
考えられるのは、フェリシアが殺された時間帯に幸広はなにかべつの犯罪に関わっている場合である。彼のアリバイはべつの犯罪を現わしてしまう。
これならば、幸広がアリバイを出すに出せない事情がわかる。
べつの犯罪とはなにか。フェリシア殺しと同等、あるいは以上の犯罪である。
そんな犯罪の発生は報告も報道もされていない。まだ犯罪そのものが現われていない場合も考えられる。
幸広がべつの殺人に関わっている。とすれば、彼はアリバイを申し立てたくとも申し立てられないだろう。
彼が関わっているかもしれない犯罪は、殺人とは限らない。幸広にとって、その地位を左右するほどの犯罪あるいは事件に関わっていれば、たとえアリバイがあっても使えない。
荒尾幸広はフェリシア殺しの犯人像としては不安定であるが、彼から目を離すことはできない。
彼にはなぜアリバイがないのか。彼の身辺を注意していれば、アリバイを提出できない事情が判明するかもしれない。
フェリシア殺しと並行して、幸広の身辺になにか事件は起きていないか。棟居は自分の思案を見つめた。
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乗船した疑惑
菊岡理絵の消息は依然として不明であった。彼女が新宿|界隈《かいわい》に留《とど》まっていれば、本杉の人脈に引っかかるはずである。彼の人脈の及ばぬ、新宿以外の土地へ行ってしまったのかもしれない。
理絵が本杉の家を出てから約二カ月後、今年も残り少なくなった十二月中旬のある日、彼の住居に一本の電話がかかってきた。
未知の電話の声は本杉の名前を確かめてから、菊岡理絵を知っているかと問うた。
本杉ははっとして、
「理絵さんがどうかしたのですか。あなたはどなたですか」
と問い返した。
相手は本杉の質問に答えず、
「あなたと、菊岡さんはどんなご関係ですか」
と、さらに問いかけてきた。
口調に疑惑と警戒の響きがある。
「理絵さんは私の家にしばらく同居していましたが、二カ月前に出て行ってしまいました。行方を探していたところです。あなたはどなたですか。理絵さんの行方をご存じですか」
本杉は胸の鼓動を抑えて問うた。
「すると、ご夫婦とか恋人関係とかですか」
相手は素性を明かさぬまま詮索《せんさく》してきた。
「夫婦ではありませんが、恋人のようなものです。一体あなたはだれですか」
本杉は少し語気を強めた。
「私は大川という者ですが、うちの犬小屋を掃除していたところ、菊岡理絵さんのものらしいポシェットが出てきたのです。夜間、時どき鎖からはずして散歩させるのですが、うちの犬は落ちているものをくわえて来る癖がありまして、ポシェットの持ち主を探しているのです」
「理絵さんのポシェットが犬小屋の中に」
本杉は驚いた。
理絵のポシェットとは、彼女が地廻《じまわ》りに追われて本杉のホテルに逃げ込んで来たとき、旅行バッグと一緒に持っていたポシェットであろう。
「理絵さんのポシェットということがどうしてわかったのですか」
「悪いけど中身を調べましてね、菊岡理絵という名前の記入してあった手帳が入っていたのです。手帳の中にあなたの名前と電話番号が記入してありました」
「それは理絵さんのポシェットです。その近くに理絵さんがいるのだとおもいますが、お宅のご住所をおしえていただけませんか」
「府中《ふちゆう》市南町です。菊岡理絵さんはこの近くに親戚《しんせき》か友人がいますか」
府中とは、理絵にはまったく関係なさそうな地名である。
「東京には私以外に友達はいないはずですが、なにか用事があってご近所に立ちまわったのかもしれません。お宅の犬がポシェットをくわえて来たのはいつごろでしょうか」
「ここのところしばらく小屋の掃除をしていなかったのですが、一週間前に掃除をしたときはポシェットはなかったので、その間にくわえて来たのだとおもいます」
「理絵さんが私の家を出たのは約二カ月前ですから、その後ポシェットを落としたとすれば、お宅の犬がくわえて来るまで落とした場所に放置されていたのでしょう」
「小銭の入っている財布や手帳ですが、引き取ってもらえますか」
本杉のものではないので警察に届けるように頼もうとしたが、ふとおもい直した。
ポシェットの中身は小銭入れと手帳ということであるが、彼女の行方を知らせるなにかが残っているかもしれない。
ともかく理絵が犬の飼い主の住居の近くに立ちまわったことは確かである。もしかしたらその近所に住んでいるかもしれない。
しかし、ポシェットを落とすということがあるだろうか。
本杉は理絵が袈裟《けさ》がけにポシェットを下げていた姿をおぼえている。本杉は理絵の身になにかの危難が降りかかったのではないかと不安をそそられた。
幸いに犬の飼い主はそんな疑いは持っていないらしい。
本杉は次の休日に大川の家を訪ねて行った。府中市の外れにある住宅街の中の小住宅で、大川は定年退職後を猫の額のような庭の植木いじりをしながら、悠々自適の暮らしを楽しんでいるように見えた。
庭の隅の犬小屋には、理絵のポシェットをくわえて来たという犬がつながれている。雑種の日本犬で、あまり毛並みはよくない。
「散歩に行ったとき、従《つ》いて来てしまったのですよ。人なつこいのでそのまま飼ってしまいました。最初は放し飼いにしていたのですが、近所の手前、昼間はつないでいます。夜ときどき鎖から放してやると、妙なものをくわえ込んで来て、小屋の中に隠匿するのですよ。妙な癖があって困っているのですが、まあ、大したものをくわえて来るわけではないので、大目に見ていたのです」
大川は苦笑しながらポシェットを取り出した。たしかに理絵が持っていたポシェットである。
最近、若い女の子に流行《はや》らなくなったポシェットであるが、理絵は愛用していた。
「それではお渡しします。一応受取証をいただけませんか」
大川は言った。
本杉は名刺の裏に、菊岡理絵さんのポシェット、たしかに受け取りましたと記入して、大川に差し出した。
「このポシェットをお宅の犬がどの辺からくわえて来たかわからないでしょうか」
本杉はポシェットを受け取ると、大川に問うた。
「犬のテリトリーの内だとおもいますが、犬は意外に遠方まで遠征することがありますので、どこからくわえて来たのかわかりません」
大川は答えた。
「散歩の途中から従いて来たとおっしゃいましたが、最初、犬に出会った場所はどこでしたか」
「関戸《せきど》橋近くの多摩川《たまがわ》河川敷です」
「恐縮ですが、その場所の略図を描いていただけないでしょうか」
大川の家からの帰途、彼に描いてもらった略図を頼りに、本杉は大川が犬に初めて出会ったという場所へ足を延ばした。
多摩川河川敷に造成された緑地帯で、近所にはサイクリングコースや野球場がある。多摩川を隔てた対岸は多摩市である。
本杉は漠然と略図に示された辺りを歩いてみたが、寒い風の吹き過ぎる河原に人影もなく、理絵の行方を示すなんの手がかりが残っているはずもなかった。
大川から預かった菊岡理絵のポシェットを家に持ち帰って、中身を丹念に調べてみた。
手帳、ティッシュ、ハンケチ、財布などが入っている。財布の中には約千円のコインが入っていた。
理絵が本杉の家を出たときはもう少しまとまった金を持っていたはずである。家出後、使い減らしてしまったのであろう。
手帳には時どきの収入や支出が記入されているだけである。収入ははきパンやほかブラを売ったときのものであろう。
電話メモ欄には本杉の名前と電話番号が記入されてあった。
ポシェットの中身を調べ尽くした本杉は、手帳のページを一枚一枚繰ってみた。どんな小さなメモや走り書きでも、理絵の行方を示すヒントになるかもしれない。
だがはきパン、ほかブラを売ったらしい収入と、本杉から食料や日用品の購入費として預かった金額、および支出が記入されているだけで、行方を示す手がかりとなるような文字は一切書かれていない。あきらめかけたとき、ページの間からぱらりと落ちた小さな紙片があった。
なにかと取り上げてみると、その紙片には、隠岐《おき》汽船乗船名簿と文字が刷られ、乗船月日、船名、上陸地、等級、住所、氏名、年齢、性別、職業、同伴の満六歳未満の幼児名、旅行目的の記入欄がある。
そして、船名欄はフェリー隠岐路、隠岐、国賀《くにが》、超高速船。
職業欄は公務員、会社員、農漁業、商工業、学生、その他。
また旅行目的は観光、ビジネス、その他と分類されている。
氏名欄と住所欄だけに文字が記入されている。
書き損じた乗船名簿をなにげなく手帳に挟み込んでおいたらしいが、記入されているのは、理絵の名前ではなかった。
名前は梅川有美子《うめかわゆみこ》、住所は東京都大田区田園調布となっている。
本杉のまったく知らない名前である。理絵の口からもそんな名前は聞いたことがない。
理絵の手帳の間に挟み込まれていた乗船簿の主は、理絵になんらかの関わりがあった人物とみていいだろう。住所は大田区田園調布だけで、番地は記入されていない。
乗船簿の一部分が破損されているが、記入中、あるいは記入後破損してしまったので、新たな乗船簿に書き直したものであろう。破損した書きかけの乗船簿がなぜ理絵の手帳に挟まっていたのか。
梅川有美子にその辺の事情を問い合わせてみればわかるであろうが、田園調布の梅川有美子だけではどうしようもない。
仮に梅川有美子の居所を突き止められたとしても、理絵との関わりを素直に答えてくれるとは限らない。
本杉の追跡もそれまでであった。
それから数日後、いよいよ年が押しつまったとき、本杉は意外なところから梅川有美子の素性を知った。
ラブホテルの遺留品は妙なものが多い。毛布の間に脱ぎ忘れた下着はラブホテルの最もポピュラーな遺留品であるが、スーパーのビニール袋に入れた食料品などが置き忘れられていることがある。
これは家庭の主婦がスーパーで買物をした後、浮気をして忘れて行ったものであろう。
下着だけではなく、ズボンやスカートまでが遺留されていることがあるが、その主は一体どういう恰好《かつこう》をして帰ったのかと頭をひねってしまう。
入れ歯や鬘《かつら》があるかとおもうと、位牌《いはい》や骨壺《こつつぼ》などを置き忘れて行く罰当たりがいる。
それらの遺留主は、葬式の後、ラブホテルへ立ち寄ったのであろうか。置き忘れたまま引き取りにも来ない。
オーソドックスな遺留品は雑誌類である。もっともその遺留主は捨てて行ったのかもしれない。
各客室の遺留品はすべてフロント事務所に集められる。
遺留品はすべて警察に引き渡すことになっているが、食べ物や、大して価値のないものはフロントで適当に処分してしまう。
所有主のわかるものは連絡をするが、これもへたに連絡をすると家庭争議の原因になりかねない。
十二月十四日、本杉は整備(清掃)の終わった客室から集められた遺留品をチェックしていた。
ラブホテルの朝はシティホテルとちがって出発客は少ない。泊まりの客が少なく、ほとんどが休憩客ばかりであるからである。
用事≠すませた客は深夜か、遅くとも未明のうちに出発してしまう。
朝、出勤時の最初の仕事は客室から集められた遺留品のチェックとなる。
金目のものは遺留品台帳に記入して、速やかに警察に引き渡す。
この朝は数点の下着、薬、傘、眼鏡《めがね》のケース、冷蔵庫の中に寿司の折り詰め、そして数冊の雑誌であった。
本杉はそのうちの一冊の写真週刊誌をなにげなく取り上げて、ぱらぱらとページを繰った。
「おや、これは」
本杉の視線はあるページに固定した。そこに見おぼえのある顔が写っている。
「やあ、馬鹿様じゃないか」
脇《わき》からページを覗《のぞ》き込んだ同僚の原口《はらぐち》が言った。
馬鹿様の荒尾幸広が着飾った女と嬉《うれ》しげに寄り添っている。
記事本文には、「政界のダークホースと黒幕政商の天下の政略結婚」の見出しの下に、時の政権党、民友党幹事長梅川隆一の次女有美子と、荒尾産業社長荒尾幸一郎の長男荒尾幸広との婚約を伝えている。
キャプションによると、――幸広はソープの帝王と異名を取ったほどのプレイボーイであるが、梅川の娘有美子と見合いをして一目でその美貌《びぼう》の虜《とりこ》となり、ついに沈没する羽目となった。
父親同士の政略結婚であるが、一声、声をかければ、たちまちボーイフレンドの親衛隊が集まると言われる梅川有美子との結婚は、当人同士にしてみれば性略′牛・かもしれない。
その政略、性略、果たしてうまくいくかどうか、これからお楽しみというところである。――と皮肉たっぷりな筆致で書かれているが、本杉が興味を持ったのは記事ではなく、幸広の婚約パートナーの名前である。
梅川有美子は、理絵の手帳に挟まれていた隠岐汽船乗船簿の主と同名ではないか。しかし、同姓同名の別人ということもある。
「梅川有美子……父親の住所はどこか知っているか」
本杉は原口に尋ねた。
「梅川隆一の住んでいるところか。……写真の脇に書いてあるじゃないか。田園調布の梅川邸の庭にて」
「あ、ほんとだ」
原口に指摘されて、本杉も写真の脇に刷られた文字に気づいた。
同姓同名の二人の梅川有美子が田園調布に住んでいる確率は極めて低いだろう。
すると、隠岐汽船乗船簿の主は荒尾幸広の婚約者となる。
なぜ幸広の婚約者の乗船簿が理絵の手帳に挟まっていたのか。
「あんた、馬鹿様の婚約者を知っているのかい」
原口が本杉の反応に訝《いぶか》しげな視線を向けた。
「いや、べつに」
原口の不審を躱《かわ》した本杉は、梅川有美子の意外な正体にとまどっていた。
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途方もない火種
フェリシア殺しの捜査は行きづまっていた。
荒尾幸広が容疑線上に浮かんだものの、動機が薄弱であり、犯人像を薄くしている。
フェリシアが荒尾幸広の専属になる以前は、不特定多数の客に身体《からだ》を売っていたが、それはあくまでもビジネスとしてである。
その後の懸命な捜査にもかかわらず、幸広以外に有力な線は浮上していない。
「一度、隠岐へ行ってみたいな」
棟居《むねすえ》が言った。
現場に残されていた檜扇貝《ひおうぎがい》は、その後形状からして鳥羽産ではなく島根県隠岐島の特産物と鑑定された。
なぜ隠岐の特産物が現場にあったのか。
生前、フェリシアと隠岐との間にはいかなるつながりも発見されていない。
終戦後、山中に長く放置されていた防空壕《ぼうくうごう》に、事件関係者以外立ち入った形跡はない。となると、檜扇貝は犯人の遺留品として絞られてくるのである。
「ただ隠岐の檜扇貝があったというだけで、出張を許してくれるでしょうかね」
有馬《ありま》の口調は懐疑的である。
「隠岐にフェリシアと多少とも関わりのある人物の足跡を発見できるかもしれません」
棟居は隠岐にこだわっている。
犯行現場に残されていた小さな貝の断片、それも事件に関わりがあるかどうか不明である。
だが、それだけに犯人につながるかもしれない唯一無二の資料である。
「那須警部を口説いてみますか」
棟居と有馬は那須警部に隠岐行きを希望した。
「そろそろ言ってくるころだとおもっていたよ。すべての線は消されて、いま残っているのは檜扇貝の出所だけだ。遠路ご苦労だが、行ってもらおうかね」
那須がにやりと笑った。
「それでは、出張を許可していただけますか」
「頼むよ。檜扇貝だけでは雲をつかむような話だが、あんたたちの鼻ならなにかを嗅《か》ぎつけるかもしれない。八方塞《はつぽうふさ》がりの中で、この貝だけが最後の頼みの綱だ」
那須は金壺眼《かなつぼまなこ》を半眼に見開いて言った。
棟居と有馬が隠岐へ向かったのは十二月半ばである。
まず、羽田《はねだ》から米子《よなご》まで飛び、そこから隠岐行きの飛行機に乗り換える。
距離はあるが、米子で三十分の待ち時間を加えても二時間半で隠岐に着いてしまう。
後鳥羽《ごとば》上皇と後醍醐《ごだいご》天皇が流された雲煙《うんえん》万里の伝説の島も、機械文明の今日では旅情に浸《ひた》る間もない一飛びであった。
折から日本列島は優勢な移動性高気圧の圏内にあって、快適な飛行であった。
隠岐と一口に言っても、島前《どうぜん》、島後《どうご》に分かれて、飛行場は隠岐最大の都邑《とゆう》である島後|西郷《さいごう》町域にある。
米子から飛行機に乗ったとおもう間もなく、青い画布を敷きつめたような洋上に、隠岐の島影が近づいてきた。
最初に視野に入ったのは島前の西ノ島、知夫里《ちぶり》島、中ノ島の島影である。
飛行機は三島の上空をかすめるようにしてふたたび洋上へ出ると、高度を下げながら島後へ接近した。
「いま通過して来たのが西ノ島で、飛行場のあるのが島後です。後醍醐天皇は西ノ島あるいは島後に流されたと、地元でもそれぞれ主張しているようです。
後鳥羽上皇が流されたのは中ノ島で、これは争いがありません」
機窓から隠岐の島影を眺めながら、有馬が仕入れてきた予備知識を披瀝《ひれき》した。
「美しい島ですが、飛行機もない時代に、無期限に絶海の離島に流された二帝の胸中は察するにあまりあるものがありますね」
「旅行前につけ焼き刃で隠岐のガイドブックや歴史書を読んできましたが、後鳥羽も後醍醐も雲煙万里の、寂しいのと隠岐のことをぼろくそに言っているだけで、後醍醐などは配流中、隠岐の人々の大変な世話を受け、島民の協力がなかったら絶対に脱走できなかったはずでありながら、都へ還幸してしまうと隠岐のことなど一言も言っていません。隠岐から恩知らずと言われても仕方がないほどに、都へ還《かえ》った後醍醐は隠岐のことをけろりと忘れています。
しかし、隠岐の人たちは後醍醐を懐かしんで、島前、島後で配流地を争い合っているほどです」
二人がそんな会話を交わしているうちに、飛行機は隠岐空港に着陸した。
島の突端に設けられた牧歌的な空港である。降りた乗客はのんびりした足取りで、迎えの人もまばらな空港ターミナルビルへ歩いて行く。
空港ビルの前には、それでもタクシーが待っていた。
二人はとりあえず島根県警西郷署へ立ち寄って、挨拶《あいさつ》を兼ねた協力を依頼するつもりである。
捜査の協力といっても、まずはフェリシアの足跡探しである。
フェリシアが旅行者として隠岐へ訪れていれば、かなり目立ったにちがいない。フェリシアに同行者でもいたらしめたものである。
舗装された坦々《たんたん》たる道路に通行車の影はまばらである。
「松の紅葉を初めて見ました」
棟居が窓の外の緩やかな丘陵を彩る松林の遅い紅葉に目を向けた。全島に松が多い。
「ありゃ紅葉じゃないですよ。マツクイムシにやられたですわ」
運転手が背中越しに言った。
「あれが紅葉ではないって」
棟居と有馬が顔を見合わせた。言われてみれば、天然の紅葉より褐色がかっているように見える。
黒い髪を脱色して疑似金髪にしたような不自然な紅葉である。それに松は紅葉しないはずであった。
「あれがマツクイムシの被害だとすると、これは全島、マツクイムシにやられてしまいそうだな」
有馬が驚きと慨嘆を交えたような口調で言った。
「そうですわ。島でもせっかくの観光資源が破壊されてしまうもんで、あれこれ対策を講じているのですが、なかなか効果のある方法が見つからんそうですわ」
「見る限りマツクイムシにやられっぱなしというような感じだね」
「薬剤を散布するにしても、がいな(莫大《ばくだい》な)費用がかかりますし、地主の資力ではとても賄えんし、役場にもそげな財源はないちゅうことで、結局、被害は増える一方ですわ」
運転手の口調にはあきらめが感じられる。
見た目には紅葉と見分けがつかないような赤い染色の底に、獰猛《どうもう》なマツクイムシが全島をじりじりと蚕食している。
その染色の原因をマツクイムシと悟ったときから、この伝説の美しい島が熱のない赤い火の手によってじりじりと侵されているように見えてきた。
港町にある西郷署は遠来の二人を歓迎してくれた。
フェリシアの写真を示して協力を求めると、
「この島にこんな毛色の変わった美人が来ておったら、目立ったはずです。東京方面から来れば日帰りは無理ですけん、島内に宿泊しているでしょう。泊まっていれば、宿の者が必ずおぼえちょりますわ」
小室《こむろ》と名乗った地元署の刑事が、自信ありげな口調で答えた。
つづいて棟居が差し出した檜扇貝を手に取った小室は、
「ああ、これはまさしく隠岐の島の檜扇貝ですわ。初めて見る人は人工の彩色とおもうようですが、天然の色ですけんね。隠岐を訪れた人はたいがいこの貝を土産に買って帰りますよ」
と言った。
小室の話によると、西郷町には十二軒の旅館と三十五軒の民宿があって、島後を訪れた人はたいてい西郷町に泊まるそうである。
隠岐観光の中心地は空港のある島後である。後醍醐の行在所《あんざいしよ》のある国分寺や玉若酢命《たまわかすのみこと》神社など島後観光スポットをまわった後、西ノ島にあるもう一方の後醍醐の配流地黒木御所や、国賀海岸、後鳥羽上皇が流された中ノ島へフェリーで足を延ばし、ふたたび島後へ帰って来るという。
二人は西郷署に立ち寄った後、小室の案内で早速島内の旅館をまわった。
フェリシアの写真を示して、彼女が来日した昨年の七月から殺害されるまでの一年数カ月にわたって宿泊、あるいは休憩した記憶がないか問い合わせたが、どこの旅館にも反応はなかった。
外国人も時どき訪問するが、東南アジア系の女性の宿泊記録は残っていなかった。
小室の話によると、北朝鮮や中国からの密入国者を乗せた船は、台風などで緊急避難して来るほかは、隠岐へ上陸することはないという。
狭い島なので、そんなところへ上陸すれば、直ちに捕まってしまうからである。
「西郷町以外にも布施《ふせ》や五箇村方面に民宿やログハウスがあります。また西ノ島や中ノ島に泊まっちょるかもしれません。明日はその方面を調べてみましょう」
小室は落胆の色を浮かべた二人を慰めるように言ってくれた。
「せっかく来られたですけん、国分寺でも見学されてはどげですか」
西郷町内の旅館の照会が終わったところで、小室は勧めた。
まだ島内に数軒の旅館と民宿が残っているが、すでに日は暮れかけている。これ以上、小室をわずらわすのは気の毒であった。
隠岐に流された後醍醐が行在所にしたという国分寺にも心を動かされた。
「ご用意した宿への道中ですけん、ちょっと寄りましょうや」
二人の返事も待たず、小室は車を国分寺へ進めた。
島のハイライトを遠来の二人に是非訪れてもらいたいようである。
後醍醐が流された隠岐は、西郷町の国分寺と、西ノ島にある黒木御所との二説に分かれている。
「国分寺説の根拠は『増鏡《ますかがみ》』に『海づらよりは少し入りたる国分寺といふ寺を、よろしきさまにとり払ひて、おはしまし所に定む』と書かれていることです。
当時はこの辺りまで海が来ちょったんでしょうな」
小室は言った。
車窓に緩やかな起伏の田園風景が広がっていて、海は見えない。車は島のかなり内陸部に入っているようである。
「黒木御所説は『増鏡』は現地に取材せず、都にいた人間が推測だけで書いたもんだから当てにならんと言っていますが、隠岐に幽閉された後醍醐が脱出するためには、全国の情報を掌握しておらんといけんわけです。
ただやみくもに脱出しても、彼を支持してくれる武士がおらんかったら、たちまち捕まってしまいます。千早《ちはや》城で頑張っている楠木正成《くすのきまさしげ》や、吉野の護良《もりなが》親王、また全国各地の勤皇諸党と連結を取りながら冒険小説を地でいく脱出に成功したのです。そのためには当時の帆船の風待ち港となっていた西郷にいなければ、全国からの情報が入りませんけんね。黒木御所では、後醍醐は情報網から遮断されてしまったはずです」
小室は地元の人間らしく国分寺説を主張した。
緩やかな丘陵の奥まった台地に国分寺はひっそりとたたずんでいた。
隠岐観光のシーズンからも外れていて境内には人影もなく、境内を囲む松や杉の林に颯々《さつさつ》と風が鳴っていた。
こんな寂しい行在宮に流された後醍醐は、都の我が代の春と重ねて、松籟《しようらい》に望郷の念をかき立てられていたことであろう。
国分寺を立ち去ろうとしたとき、棟居は門前の民家の壁に貼《は》り残してあったポスターに目を留めた。
「梅川隆一先生、時局講演会」の文字と共に、テレビや新聞で見おぼえのある顔写真が愛想笑いをしている。
「おや、梅川隆一が来たのですか」
棟居は言った。
「ああ、だいぶ古いポスターが貼り残されちょりますね。九月の初めごろでしたかな。町の有志が町制施行九十周年にかけて呼んだときのもんです」
小室が答えた。
「隠岐と梅川氏はなにか関わりがあるのですか」
有馬が問うた。
「梅川先生は浜田《はまだ》(島根県)の出身です。地元の政治家として隠岐の人も親近感を抱いていますけんね」
「梅川氏が浜田出身とは知りませんでした」
「こちらで過ごしたのは中学までで、東京へ移転してしまいましたがね、本人も島根には地元意識を持っちょるようです。私も講演会を聴きに行きましたが、なかなか卓見でしたよ。政治の話のほかに、隠岐のマツクイムシの被害にも触れましてね、天敵利用の駆除などを提案していました。私も啓蒙《けいもう》されましたわ」
「天敵利用の駆除というと」
「殺虫剤を使用するとマツクイムシ以外の人畜に対する影響が考えられます。費用も莫大になります。そこでマツクイムシの天敵を導入して駆除してはどうかと提案されたのです」
「なるほど、天敵利用か」
棟居と有馬は感心してうなずいた。
「そうそう、そのとき梅川先生と一緒に荒尾幸一郎が同行して来ちょったです」
「荒尾幸一郎」
棟居と有馬は顔色を改めた。
「ご存じでしょう。梅川先生とは刎頸《ふんけい》の交わりと自他共に認めている政商ですけんね」
「よく知っていますよ」
「荒尾は隠岐に観光ホテルの建設を考えちょるようです。梅川先生の講演会をよい機会に同行して、島内にホテル敷地を物色して行ったようですわ」
「そのとき荒尾の子息の幸広は同行していませんでしたか」
「幸広ですか。いいえ。何人か秘書らしい側近は連れていましたが、ご子息はいなかったようですな。そうそう、荒尾の子息と婚約した梅川先生の娘さんが一緒に来ちょったですよ」
小室は荒尾幸広と梅川有美子の婚約ニュースを知っていたらしい。
「ほう、梅川氏の娘が同行していたのですか」
「梅川先生はあの娘さんがご自慢のようでしてね、どこへ行くにもたいがい連れて行くようです。まあ、むくつけき男の秘書団よりは華やかになりますけんね」
「講演会の当時はまだ婚約していなかったのでしょう」
「その後報道されました。なかなか美人のお嬢さんですね。そうそう、今夜ご用意した宿も、梅川先生や荒尾幸一郎一行が泊まったホテルです」
「そんないいホテルでなくてもいいのですよ」
棟居は恐縮した。
刑事の出張旅行に政界の要人や政商が宿泊した本陣≠ナは肩が張ってしまう。
「それほど肩の凝るホテルではないですわ。海に面した静かな立地環境なのでご用意したのです」
小室が事もなげに言った。
間もなく車はホテルの構内に滑り込んだ。
コンパクトで機能的なホテルの外観に、まあこの程度ならば出張目的を逸脱することはあるまいと二人は安心した。
客室は入江に面して静かであった。
間もなく日が暮れて、対岸にまばらな灯がともった。
隠岐第一の都邑の中にあるホテルも、日暮れと共に鼓膜を圧迫されるような静寂が屯《たむろ》する。
「これでは短歌でも作る以外にありませんな」
有馬が苦笑した。
後鳥羽上皇は隠岐に配流されて十九年、都へ還幸する日を夢見ながら、ついにこの島の土と化した。
その間、望郷の想《おも》いを歌に託して、「遠島御百首」「詠五百首和歌」を作った。
「どうやら今夜の泊まりは我々だけのようですよ」
棟居が言った。
館内はまるで無住のように静まり返っている。
「捜査本部ではまだだれも上がって来ないという時間が、すでに深夜の趣きですな」
「テレビの音も聞こえません。この島の人たちは夜はなにをしているのでしょう」
「まさか、もう眠ってしまったわけではないでしょう」
「人が少ないので、多少の気配はあっても吸い取られてしまうんでしょうね」
「吸い取られるとすれば海でしょうね」
山間の静寂の中ではわずかな気配でも増幅されるものであるが、離島の静けさは気配が吸収される。
二人はそんな静寂のちがいを感じ取った。
「おや、この色紙は梅川隆一のものではないかな」
有馬が客室の壁にかけられた額縁の色紙に目を留めた。たしかに梅川隆一のサインが入っている。
「和歌が書いてあります。なになに、波もまたきらめくあたり王朝の夢もはるけし隠岐の通い路。講演に来たとき、ホテルに乞《こ》われて書いたものらしいな」
「すると、この部屋は梅川が泊まった部屋でしょうか」
「たぶんそうでしょう。きっと小室さんが言葉を添えてくれたので、VIP扱いなのですよ」
「となると、やっぱり肩が凝るなあ」
「西郷署のせっかくのご好意です。今夜は甘えましょう」
日本海の海の幸を集めた夕食を飽食した後、二人は久し振りに早々と寝床へ入った。
翌朝、充分眠り足りて西郷署に立ち寄ると、すでに小室は出勤していて、島後の西郷町外の旅館や民宿にフェリシアの宿泊記録の有無を照会してくれていた。
フェリシアの宿泊記録は島後にはなかった。
島後にないとなると島前での確率はぐんと低くなる。
「西ノ島や中ノ島の宿に照会中ですが、間もなく返事が来るはずですけんね」
小室は二人をホテルに送った後、二人が日本海の海の幸に舌鼓を打っているころ、これだけの調査をしてくれていたのである。
二人は大いに恐縮した。
「島前と島後はフェリーで結ばれちょりますが、四島をまわるとなると一日がかりになります。本土のように車で効率よくまわるということができませんのでね」
小室は言った。
小柄であるが、スタミナの塊のような体つきをしている。
結局、島前にもフェリシアの足跡はなかった。
「午後の便《フライト》が出るまで西ノ島をまわれますけん。せっかくの機会ですけん、黒木御所に立ち寄られてはいかがですか」
小室は勧めた。
目下の関心は史跡にはなかったが、西ノ島の主な宿にフェリシアの写真を示して直接、反応を見たいとおもった。
「西ノ島では別府《べつぷ》の駐在|横田《よこた》がご案内するよう手配してあります」
二人は小室に送られて西郷港からフェリーで西ノ島へ向かった。
西ノ島町は島根県警|浦郷《うらごう》署の管轄である。
この日も穏やかな天候で、海は凪《な》いでいる。
西郷港から西ノ島の別府港まで超高速船フェリーで三十二分、別府港に着くと波止場に警官が出迎えていた。
「駐在の横田と申します。遠路ご苦労さまですね」
いかにも朴訥《ぼくとつ》な表情の横田は、二人を挙手の礼をして迎えた。東京の刑事と聞いて緊張しているらしい。
黒木御所へ案内するつもりでいたらしい横田は、二人にまず地元の主な宿へ連れて行ってくれと頼まれて、ややとまどったような表情を見せた。
横田の運転する車で島内の数軒の旅館をまわったが、反応はなかった。
やはりフェリシアは西ノ島を訪れていない。これが中ノ島、知夫里島となるとさらに確率は低くなる。昨夜、充分に眠っているはずでありながら、二人の身体に徒労感が重く澱《よど》んだ。
「これから黒木御所へご案内しますわ」
帰りのフェリーまで、まだ多少の時間の余裕がある。二人はどうすると言うようにたがいの顔色を測り合った。
隠岐への出張が徒労に終わったので、史跡に対する興味は失われている。
だが、横田は彼らが迷っている間に車を黒木御所へ進めた。
黒木御所の所在地は別府港を見下ろす小高い丘陵の上である。
車を降りたところから御所まで階段がつづいている。やや辟易《へきえき》している二人の前に立って、横田はさっさと石段を上り始めた。
現在、黒木御所は改修中とかでネットが張りめぐらされている。
別府港の入江がよく見下ろせる。青い海に島影が濃く影を落としている。
遊覧船が一隻、長い航跡波を引いて出て行った。風景は大きいが西郷町より一段と寂しい。
内陸にあった国分寺に比べて、黒木御所は海に突出した丘陵の高台にあるので、民家からも切り離されている。いかにも囚帝の流刑地らしい隔絶された地点である。黒木御所とは原木で組んだ粗末な行在宮という意味である。
後醍醐はこの御所に幽閉されて、朝な夕な海を眺めながら望郷の想いと、流刑に処した朝敵に対する報復の牙《きば》を研いでいたのであろう。
「この建物は後から建てたもんで、黒木御所の所在地はここの裏手にありますわ」
横田はネットを張りめぐらした社《やしろ》の裏手を指した。
細い道をたどって少し裏手に入り込むと、道は狭い台地の上に尽きた。そこが黒木御所の跡地であった。せいぜい一室の小屋を建てるほどのスペースしかない。
いかに配流の囚帝とはいえ、側近の者もいたであろうに、こんな狭い台地に都振りの贅沢《ぜいたく》な暮らしに慣れた殿上人が果たして生活できたのかと、二人は信じられないおもいで跡地にたたずんだ。
「以前はこの辺りは松林でしたが、いまはマツクイムシにやられて、この通りになってしまいました」
横田が言った。
海の見晴らしがよいのはマツクイムシに松がやられたせいであった。
そろそろフェリーの時間が迫っている。
フェリシアの足跡を探して、結局、後醍醐天皇の足跡を追っただけの旅になってしまった。
「那須警部に合わせる顔がありませんね」
有馬がつぶやいた。
なんの土産《みやげ》もない帰路の足取りは重かった。
「時間があれば国賀海岸にご案内したいのですがね」
横田が二人の胸中も知らず、のんびりしたことを言った。
「国賀海岸とはどんなところですか」
「海に面して凄《すご》い絶壁があります。徳川夢声《とくがわむせい》が摩天楼に因《ちな》んで、摩天|崖《がい》と名づけたのです。たいていの人はびっくりしますよ。こんな素晴らしい天気はめったにありませんけん。摩天崖の観光には絶好のチャンスですけん」
横田は黒木御所から足を延ばしたそうである。
「またの機会にしましょう」
棟居が言った。
「幸広の父親荒尾幸一郎が梅川隆一に同行して隠岐へ行っていたとなれば、幸広自身は行かなくとも、隠岐と関わりを持っていたことになるじゃないか。まったく土産がなかったというわけでもあるまい」
棟居と有馬の報告を聞いた那須は、そう言って慰めてくれた。
「しかし、荒尾幸広は犯人像として無理があります」
棟居が言った。
「フェリシアと荒尾幸一郎との間には関係はないかな」
那須の言葉は重要な示唆を含んでいる。
「荒尾幸一郎とフェリシアとの関わり……」
棟居と有馬ははっとした。那須の言葉に盲点を衝《つ》かれたおもいがしたのである。
「現在、幸広と梅川隆一の娘との間に縁談が進んでいる。この縁談が破棄されれば、荒尾幸一郎にとってかなりのダメージとなるだろう。
これまで幸広については捜査したが、彼の父親についてはまったく捜査のアプローチをしていない。政治家と政商は持ちつ持たれつだ。政治家は政商を資金源にして自分の派閥を養い、勢力を拡大する。また政商は政治家の庇護《ひご》の下に数々の特権を増やす。
梅川と荒尾は自他共に刎頸の交わりと認める切っても切れない間柄だ。彼らの連帯を息子と娘を結婚させてさらに強化させようとした。フェリシアはそこに突如介入してきたとんでもない邪魔者だろう」
「幸広の縁談にとって邪魔者ではありますが、致命的な存在ではありません。ジャパゆきをどら息子が気に入って専属に直したのですから、金で決着がつけられます」
棟居が反駁《はんばく》した。
「そうだ。荒尾幸一郎にとってフェリシアは殺さなければならない存在ではなかった。しかし、それは幸広と梅川の娘との縁談に限定してのことだ。荒尾幸一郎とフェリシアとの間に直接の関わりがあれば、べつの話になってくるよ」
「荒尾幸一郎とフェリシアとの直接の関わり……」
「あったとしても、べつに不思議はあるまい。荒尾幸一郎とフェリシアとの関係をマークして洗ってみてはどうかな」
那須の示唆は膠着《こうちやく》した捜査に新たな光を投げかけるものである。
それにしても荒尾幸一郎は梅川隆一はじめ、日本政界の中枢に深く食い込んでいる政商である。
現政権党の結成に当たって、その資金を荒尾が出したという噂《うわさ》もある。
財界の妖怪《ようかい》、闇《やみ》の金庫番、政界の黒幕などの異名があるほど、政権に強い影響力を持っている人物である。
権力に密着している怪物を、微小な一個の貝の断片から殺人の容疑者としてアプローチするのは大胆不敵である。
へたをすれば、捜査陣が返り討ちに遭ってしまう。
内偵捜査が洩《も》れただけで、捜査そのものを叩《たた》き潰《つぶ》されてしまうかもしれない。那須の示唆は捜査陣にとって両刃《もろは》の剣でもあった。
那須が捜査会議にかけず、あえて二人だけに示唆したのも、その危険性を充分わきまえているからであろう。
荒尾幸一郎――棟居と有馬はいま巨大な敵がゆらりと立ち上がって来たように感じた。
隠岐行きは無駄足どころではなく、埋もれていた危険で巨大な火種をかき出してしまったようである。
那須は当面、その火種を二人だけで探ってみろと示唆している。
那須の示唆は棟居に新たな視野を開いた。
「フェリシアの存在は荒尾だけではなく、梅川にとっても都合が悪いですね」
「なるほど。梅川と荒尾は持ちつ持たれつの仲だ。子供たちの縁談が壊れれば、梅川、荒尾双方にとってかなりのダメージになるでしょう」
有馬がうなずいた。
つまりフェリシアに対して梅川隆一も動機があることになる。
「荒尾と併せて、梅川とフェリシアの線も探ってみる必要があるようですね」
「敵は強力なタッグチームとなった」
まだ火種の形状も規模も、またその有無さえ確かめられていないが、火種によっては途方もない燃え広がり方をするかもしれない。
だが、那須から示唆されたものの、どこから手をつけてよいかわからない。いまのところ、攻め口がまったく見つけられない。
難攻不落の巨大な城砦《じようさい》をたった二人で攻めかけるような無謀さを、彼らはおぼえていた。
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ジャパゆきの目的
菊岡理絵の手帳の中に挟み込まれていた隠岐汽船乗船簿の主、梅川有美子と理絵はなんらかの関わりがあったにちがいない。
そうでなければ、理絵の手帳の中に有美子の乗船簿が挟み込まれているはずがない。
本杉高志は自分の思案を凝視した。
だが、理絵の失踪《しつそう》前、彼女の口から梅川有美子の名前を聞いたことはなかった。
理絵が本杉の家を出た後、有美子との間に関わりが生じたのかもしれない。
このことがあってから、本杉はこれまで無縁の人間とおもっていた梅川有美子を特にマークするようになった。
有美子だけではなく、彼女の父親梅川隆一に対する関心が強くなった。
有美子よりも政界の要人である梅川の方がマスコミに露出する機会ははるかに多い。
新聞、テレビ、雑誌等、政治関係のニュースや記事にはほとんど梅川が登場した。
特に現在の政権が不安定で、次期政権に向かっての台風の目とされている梅川隆一の動向は、マスコミの注目の的となっている。
梅川は有美子がご自慢らしく、マスコミにはよく彼女を伴って登場した。
もし梅川が次期政権において総理の金的を射止めれば、妻ではなく娘をファーストレディにしそうである。
梅川自身、次期政権に向けて満々たる意欲を示している。
政界の要人はマスコミの有名人でもある。
だが、関心がなければ、どんなに露出機会が多くとも路傍の人である。
その点、スターや有名歌手とは異なる。
芸能人は一般大衆にとって決して路傍の人ではない。大衆は芸能人に自分の夢を仮託する。芸能人はテレビやスクリーンを通して大衆の人生に関わってくる。
梅川隆一|父娘《おやこ》はあたかも芸能人のように、テレビや新聞を通して本杉の人生に関わってきた。
特に梅川隆一はマスコミを介して何度も接触している間に、本杉の記憶を刺激するようになった。
以前、彼にどこかで会ったような気がする。いつ、どこで会ったのかおもいだせないが、本杉の遠い過去に忘却のかさぶたを幾重にも被《かぶ》って潜んでいるようである。
それが、マスコミを通して何度も会っている間に、かさぶたが剥《は》がれて、古い記憶が蠢《うごめ》き出した気配であった。
梅川隆一は芸能人の大衆への関わり方とちがって、本杉の過去の人生に個人的に関わっているような気がした。
だが、どう考えても彼と梅川との間には個人的な関係は見当たらない。
いや、ないのではなく、遠い過去の関係との間に長い空白があって、記憶が風化を受けているのである。
風化して硬くなったかさぶたを何枚も引き剥がしながら、本杉は過去の記憶を探った。
かさぶたの下に閉じ込められていた記憶がざわめき立っている。
何度か手の届きそうなところまで浮かび上がってきながら、ふたたび忘却の淵《ふち》に沈み込んでしまう。
そんなもどかしい作業を何度も繰り返して、一瞬、指先が遠い記憶の端に引っかかった。
手許《てもと》に手繰《たぐ》り寄せようとした弾みに取り落としたが、次はもっと近くまで浮かび上がった。
今度こそしっかりと捕まえた。
本杉は捕らえた記憶の輪郭に凝然となった。
「母の相手《パートナー》」
養父の徳松が臨終に際して、これがおまえの実父だと渡した写真の主こそ、若い日の梅川隆一ではないか。
母は徳松と本杉を捨てて男と共に駆け落ちした。
男は徳松の妻と密通して本杉を産ませた後、彼女を連れて逃げた。
徳松は自分を裏切った妻の不倫の子を、我が子として成人するまで育ててくれた。
徳松が死ななければ、その事実をまだ本杉に告げなかったであろう。
死に際して、本杉に、おまえには実の父親を知る権利があると言って、事実を告げたのである。
写真の撮影時点からすでに二十数年経過しているであろう。その間、写真の主は人生の脂をたっぷりと蓄え、変貌した。
だが、写真の主の特徴を残している。
現在の梅川隆一から脂と贅肉《ぜいにく》を除《と》り、狼《おおかみ》のような飢餓感と黒い豊かな頭髪を加えれば、写真の主となる。
梅川隆一が実父……本杉は信じられないおもいであった。
父子関係を証明するものは、彼が徳松から遺《のこ》された一枚の古ぼけた写真だけである。そんなものはなんの証拠力もない。
仮に写真の主が梅川隆一と証明されたとしても、彼が母の情人であり、本杉の父親であるという証拠にはならない。
それにもかかわらず、本杉は梅川が実父であると確信した。
本能的な確信である。
確信しても、本杉には名乗り出る意志はない。梅川に対して父としての愛情や懐かしさなどは一かけらもない。
むしろ父(徳松)を裏切り、本杉を捨てた怨《うら》みだけが残っている。
梅川との関わりを突き止めた本杉は、べつの不審に突き当たった。
なぜ梅川隆一の娘の乗船名簿が、菊岡理絵の手帳に挟み込まれていたのか。
梅川隆一と本杉との個人的な関係は、理絵と有美子には影響はないはずである。
それとも有美子は本杉との関わりを知っていて、理絵に接触したのであろうか。
そんなはずはない。本杉がいま初めて気がついたことを有美子が知っているはずがない。
有美子の母親が本杉の母親でないことは確かである。
梅川隆一は民友党の前身、民主労働党の大物政治家、佐田要介《さだようすけ》の女婿《じよせい》となってその地盤を継ぎ、勢力を引き伸ばしてきたのである。
梅川の妻は佐田の長女である。
すると、本杉の母はどこへ行ってしまったのか。
佐田の知遇を受けた梅川は、とうに母を捨ててしまったのであろう。
梅川から捨てられた母は徳松の許へ帰るに帰れず、どこかを流浪しているのであろうか。あるいは野垂《のた》れ死にしてしまったのか。
記憶が再生すると同時に、新たな疑問が次々に引き出されてきた。
本杉は梅川本人に会って確認したくなった。
まず、自分の実父であることの確認。次いで母の行方。そして理絵と有美子との関係である。
本杉にとって第一の確認はどうでもよいことである。気になるのは第二と第三である。
徳松は臨終に当たって、本杉に実父を知る権利があると言い残したが、梅川が本杉の実父であるなら、本杉には第一点と第二点を確かめる権利があるであろう。
だが、なんの証拠もなく本杉が梅川に父子関係の確認を求めたところで、取り合ってくれないだろう。
梅川が母を捨てて佐田要介の娘と結婚したことは確かである。
いまごろになって捨てた女に産ませた子が名乗り出たところで、認知するはずがない。
若いころの落とし子を認めても、梅川にとってなんの利益もない。
どんなに本杉が権利を主張したところで、梅川は彼の権利を認めないであろう。
棟居と有馬は、荒尾幸一郎の身辺に内偵捜査の触手を伸ばした。
内偵は本人のプライバシーに触れることが多いので、安易に行なうべきではない。
フェリシアと荒尾との関係に焦点を絞っての捜査であるが、両人の間には幸広以外に接点が見当たらない。
身辺内偵は本人に察知されては意味がない、また察知された場合、捜査にいかなる妨害が加えられるかもしれない。
慎重に慎重を重ねての内偵は、おもいきって踏み込めず、隔靴掻痒《かつかそうよう》の感があった。
荒尾企業グループの総帥として国際的にも一流の人脈を擁している。
海外に出かけていることも多く、その所在をつかむことすら難しい。
公表されている家族構成は、妻|多佳子《たかこ》との間に幸広と、長女|雅枝《まさえ》の二人の子がいる。
雅枝は現在、大学四年生である。
特定の女も何人かいるらしいが、秘匿されている。
戸籍簿上、嫡出の二人以外には認知した子はいない。
荒尾幸一郎はどんなきっかけか不明であるが、荒尾多佳子の心を射止めて、父|征四郎《せいしろう》の反対を押し切って結婚、後に荒尾産業に入社して辣腕《らつわん》を発揮し、征四郎の認識を改めさせ、その信頼を勝ち取った。海外事業部を任せられてからみるみる業態を拡大、荒尾産業を一挙に飛躍させた。
征四郎の跡を継いで荒尾産業の社長に就任して以来、多方面に資本を展開して悉《ことごと》く成功させ、荒尾産業中興の祖として不動の地位を築いた。
だが、幸一郎の結婚以前の経歴は茫漠《ぼうばく》としている。
ホテルのボーイやタクシーの運転手や、風俗営業を転々としていたとか、詐欺まがいの貿易をして巨利を博したとか、麻薬の密輸入をしていたとか、不法入国者の仲介業《ブローカー》をしていたとか、さまざまの噂が乱れ飛んでいるが、その真偽は確かめられていない。
「確認はされていませんが、密入国者のブローカーというのが気になりますね」
棟居が荒尾幸一郎の曖昧《あいまい》な経歴の一部をマークした。
「私もそうおもいました。密入国者のブローカーとなれば、東南アジア諸国の出稼ぎ女性と接触があったかもしれません」
有馬がうなずいた。
「しかし、フェリシアが来日したころは、幸一郎は荒尾グループの総帥として重きをなしていました。密入国者のブローカーなどやるはずがありません。また幸一郎にそのような経歴があったとしても、フェリシアの生まれる前のころのことでしょう」
有馬の言葉に棟居が愕然《がくぜん》として目を見開いたような表情をした。
「そうだ。荒尾とフェリシアの母親との間になんらかの関わりがあったかもしれませんね」
「荒尾とフェリシアの母親」
有馬も新たな窓を開かれたような顔をした。
「密入国者のブローカー時代にフェリシアの母親と接点があったかもしれません」
「つまり、幸一郎が仲介してフェリシアの母親を日本に密入国させた……」
「その可能性もありますが、幸一郎自身がフィリピンへ行き、フェリシアの母親と関わりを持ったかもしれません」
「なるほど、その可能性があったかもしれませんね」
二人のおもわくは急速に脹《ふく》れ上がった。
「私はいまふと、フェリシアの来日目的はなにかと考えたのですが」
「日本に出稼ぎに来たのではないのですか」
「そうかもしれない。あるいはべつの目的があったのかもしれません」
「ジャパゆきの出稼ぎ以外の目的となると……」
「つまり、日本へ父親を探しに来たのではないかと……」
「父親! それでは、まさか」
有馬は愕然としたようである。
「幸一郎がフィリピンでフェリシアの母親と関わりを持って、フェリシアが生まれた後帰国したとします。フェリシアは成長して、母親から日本に自分の父親がいることを聞いて、彼を探しに来たとしたらどうですか。父親を探し出すまでの生活をつなぐためにジャパゆきを兼ねたとしたら」
「もし、その推測が的中していれば、幸一郎にとっては大変困ったでしょうね」
那須が示唆した幸一郎とフェリシアの直接の関わりがここに潜んでいるかもしれない。
「困ったどころか、こともあろうに息子の幸広がフェリシアを愛人にしてしまった。二人は姉弟であることを知りません」
「それは恐ろしい推測ですが、可能性はありますね」
「私の単なる推測にすぎません。このように推測すると、幸一郎もフェリシアに対して殺人動機を持つことになります」
「幸一郎の結婚以前の経歴を確かめたいですね」
「そうです。彼の経歴にフェリシアとの関わりが潜んでいるかもしれません。そいつを探り出せれば、一挙に荒尾幸一郎に迫れます」
「戸籍簿に記載された幸一郎の本籍地に遡行《そこう》して、彼の経歴を洗ってみますか」
棟居と有馬は荒尾幸一郎の過去を睨《にら》んだ。
荒尾幸一郎の結婚前の旧姓は山際《やまぎわ》である。出身地は島根県|江津《ごうつ》市。本籍地も同じである。郷里の小学校には幸一郎の銅像があるという。
梅川隆一とは同県人としての連帯感もある。
幸一郎の生家は土地の旅館であったそうであるが、とうに廃業して、両親はすでに故人となっている。弟が一人いるが、ブラジルに移住して、現在は消息不明である。
幸一郎が地元の中学を卒業した後、上京して、荒尾多佳子と結婚するまでの経歴は茫漠としている。
この間、幸一郎自身の言葉によると、約三十の職業を転々として、社会のあらゆる辛酸を嘗《な》めたということである。
地元では幸一郎の人気が圧倒的である。
母校の小学校には体育館を寄付し、町には文化会館や老人ホームや保育所などを贈った。
日本の片隅の小さな町にしては分に過ぎた施設である。
いわば町の誇りであり、地域の神様のような存在になっている幸一郎の郷里から彼の不利益な情報は引き出せそうもない。
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墜落した発見
空間が優しい。光が弾んでいる。風が微笑《ほほえ》んでいるようである。
空はよく晴れ渡り、気流が安定している。絶好の飛行《ひこう》日和《びより》である。
背中の二百五十ccモーターは順調に回転している。
動力のないパラグライダーは上昇気流に乗らない限り高度は下がる一方であるが、背中にエンジンユニットを背負ったモーターパラグライダーは上昇風や気流の奴隷にならず、かなり自主的に空を飛びまわれる。
鳴海静夫《なるみしずお》はパラグライダーで空を飛ぶようになってから、たちまちのめり込んでしまった。
これまでさまざまなスポーツをやったが、これほど夢中になったものはない。
空を鳥のように飛ぶことは人類の夢である。
だが、飛行機は鳥ではない。人間が機械の力によって空を侵略したものである。
グライダーやハンググライダーは、それを乗りこなすようになるまでには長い訓練が必要である。
だがパラグライダーが出現してだれでも容易に空を飛べるようになった。
操縦方法は簡単で、訓練日数も三日ないし七日で一応飛べるようになる。
パラグライダーはたためば六キロ前後、ザックに入れてどこへでも簡単に背負って行ける。
仕組みは簡便で、空に優しい。
ふんわりのどかに空を飛ぶパラグライダーには飛行機のような攻撃性や侵略性はなく、トンビのように気流に乗って空間を舞う引力との協調がある。
だが、だれでも鳥のように飛べる安易さから、空を飛ぶことは易しいと錯覚させて、空が孕《はら》んでいる多くの危険性を忘れさせてしまう。
パラグライダーの柔らかな翼構造、特殊な滑空機能は、気流の変化と地形の影響を受けやすく、他の空中スポーツ用乗り物に比べて数多くの危険性を隠している。
快適な空中浮遊感覚に、自分が引力に逆らって空間に滞留していることを忘れてしまう。
気流が穿《うが》った陥穽《かんせい》にはまれば、一挙に失速して地上に激突してしまう。
臆病《おくびよう》な鳴海は、初めは空に浮かぶということが信じられなかった。
山仲間の友人に半強制的に勧められて、おっかなびっくり飛んだのが病みつきになって飛び始めたが、恐怖心がなくなったわけではない。
せいぜい初心者用のゲレンデで飛んでいたのが、友人から勧められたエンジンユニットを背負って、一挙に行動半径が拡大した。
モーターを背負っていればどこからでも飛び立てる。あまり気流に気を遣わずに大空を自由に飛びまわれる。
エンジンの力を借りることは引力と協調して空間を飛ぶパラグライダーの原理に反するが、二百五十cc程度のエンジンで引力に抵抗するのは空の侵略ではないだろう。
と鳴海は自分に都合のよい解釈を施して、休日、好天の日を待ちかねては空を飛びまわっていた。
その日は風速、秒速一メートルないし二メートル。パラグライダーの離陸《テイクオフ》には理想的な風である。
エンジンユニットの力を借りなくとも充分にテイクオフできる。
鳴海はテイクオフ後、安定した気流に乗って空中の散歩を楽しんだ。
鳴海はエンジンユニットの助けを借りて、熱上昇気流《サーマル》からサーマルを乗り継いで、クロスカントリーフライト(野外遠距離飛行)を楽しんでいた。
サーマルに乗って高度を稼ぎ、そこから次のサーマルに飛び移る。義経の八艘《はつそう》飛びのようにサーマルからサーマルを乗り継いで行けば、飛行距離を延ばすことができる。
次のサーマルまでたどり着かないうちに着地してしまえば八艘飛びは失敗してしまうが、サーマルの間をモーターでつなぐ。
一瞬のカンニング飛行であるが、彼のように初心者で横着な鳥人《フライヤー》には、まさに打ってつけの翼≠ナあった。
空はよく晴れ、気流は安定していて、飛行にはなんの危なげもない。
眼下にはパラグライダーを始める前に盛んに登っていた奥多摩《おくたま》の山々が波のようにたたなわっている。若いころは高い山にも登っていた。
もともとパラグライダーは登山家が下山や移動の労力を省くために発明したものである。
高いところへ登るのが好きな登山家は、そのままパラグライダー予備軍と言える。
サーマルからサーマルへと飛び移り、いい気分になって空中散歩をつづけていた鳴海は、突然、エンジンの音が不調を訴えているのに気づいて狼狽《ろうばい》した。
折悪《おりあ》しく、一つのサーマルから次のサーマルを狙《ねら》って飛行中であった。
山間《やまあい》の強い風が吹き抜ける地点に来ていて、パラグライダーが煽《あお》られた。
地形が複雑で、地表に近い気流は乱気流となって風速が落ちている。
パラグライダーにとっては最も危険な空域である。
不調を訴えていたエンジンは、ぷすんぷすんと情けない音を発して、ついに停《と》まってしまった。
鳴海の愛機はどんどん高度を下げていく。これまで彼に微笑んでいた空域が急に敵意を剥《む》き出したように感じられた。
地表に近づくと、ある高度から急激に風圧が弱まった。
地表に近づくと急速に風が弱くなるウィンド・グラジエント現象であるが、鳴海には急に風が死んでしまったように感じられた。
鳴海は失速状態になって地上へ落ちて行った。
予定の着陸地点《ランデイング・ポイント》のはるか手前の山中である。
彼の身体《からだ》は山腹の樹林帯に突っ込んだ。樹枝をへし折りながら林床に落下したが、樹枝に引っかかったのが緩衝となって衝撃を和らげた。
だが、鳴海は着地の衝撃で右足首を少し捻挫《ねんざ》したらしい。
立ち上がろうとしたはずみに右のくるぶしがずきりと痛んだ。
それでも、失速して墜落し、捻挫程度ですんだのはラッキーと言うべきである。
上空から山裾《やますそ》に人家が散在しているのが視野の外れに入っていたが、樹林帯に落下すると位置の見当が失われてしまった。
それほど深山ではないことはわかっているが、落下した地点は密度の濃い樹林が鬱蒼《うつそう》とした森林を形成している。
とりあえずこの森林から脱出しなければならない。
樹林の枝に引っかかって、傘《キヤノピー》はずたずたに引き裂かれ、|吊り糸《ライン》はもつれている。
金をかけた愛機であるが、もはや再使用には耐えられない。
だが、この愛機が犠牲になって、鳴海の生命を守ってくれたのである。
樹枝に引っかかったキャノピーは独力では外せそうになかった。
とりあえず機体はその場に放置して、身体一つで脱出しなければならないようである。
だがくるぶしの痛みが激しく歩けそうにない。
途方に暮れて周囲を見まわした鳴海は、落下地点から地上に突き出しているグロテスクな物体の先端を認めて、ぎょっとなった。
地中に埋もれていたものが、落下して来た鳴海の身体の衝撃を受けて地表に現われたらしい。
それは明らかに人間の手の形をしていた。
だれかがこの山中に人形を埋めたのであろうか。
最初の驚愕《きようがく》から立ち直った鳴海は、目を近づけてその物体をつぶさに観察した。人形の指先ではなかった。
愕然とした彼は、樹林帯を低い方へ向かって走り始めた。くるぶしの痛みは忘れていた。
一月十五日午後二時ごろ、八王子《はちおうじ》市|裏高尾《うらたかお》町の山林に墜落したパラグライダーのフライヤーから、同山林中に埋められている死体の一部を発見したという連絡を受けた八王子署は、直ちに捜査員を現場に臨場させた。
発見者は都下|三鷹《みたか》市の会社社長で、趣味のモーターパラグライダーで飛行中、エンジンが故障して落下した山林中に、地中から現われた死体の一部を発見したというものである。
現場は景信《かげのぶ》山に近い山林中で、すぐ近くまで自動車道路が通っている。
怒濤《どとう》のような乱開発に反して、都下では過疎化の進行している地域である。
現場はクヌギ、コナラを主体としたクリ、エゴノキ、カシなどの混生林で、林床に枯れ枝の先のように泥まみれの人間の指先が覗《のぞ》いていた。
臨場した所轄署員によって、早速発掘作業が進められた。
掘り進むほどに、現場の地層は柔らかく、いったん掘り返した土を埋め直した状況が感じ取れた。
間もなく若い女性と見られる土まみれの死体が掘り出された。
地中に浅く埋めていたために、フライヤーが落下した衝撃で指先が地表に露出してしまったのである。死体は死後数カ月経過したものらしいが、寒冷の季節、北面の山腹に埋められていたせいで死体現象の進行は比較的遅い。顔面は生前の面影を辛うじて止《とど》めている。
髪は長く土まみれで変色している。
死体は地中浅いところに最小限の穴を掘り、無理やりに押し込んだといった状況である。
衣服は土まみれでぼろぼろになっているが、原型はボディコンシャスの青っぽいスーツと推定された。時計やアクセサリー類、また身許《みもと》を示すようなものは身に付けていない。
年齢は十七、八歳から二十代前半と推定された。
「こんな山中に埋められて、さぞ寂しかったろうな」
臨場した八王子署員の増成《ますなり》が痛ましげに面を曇らせた。
「パラグライダーが墜落しなければ、まだ発見されなかったね」
相棒の池亀《いけがめ》が言った。
「地上に露出していた被害者の指先を見たかい。まるで発見してくれと言うように手招きしていたよ」
「被害者の想《おも》いがパラグライダーに伝わって招き寄せられたのかもしれない」
「発見者の言葉によると、それまで順調に飛行していたのが、急にエンジンの調子が悪くなって失速したそうだ。
墜落して、死んでも文句を言えないところに足の軽い捻挫ですんだのは、被害者の霊が発見してくれたお礼に守ったんだろ」
「若い女が何カ月も失踪《しつそう》していれば、捜索願が出ているかもしれないね」
「そうだね。まずは被害者の身許割り出しだ」
発掘された死体は解剖のために搬出されることになった。
死体と共に遺体を埋めていた現場の土が採取される。
土の中に被害者および犯人の遺留品が含まれている可能性があるからである。
八王子署では殺人事件と断定し、警視庁捜査一課に連絡すると同時に応援を要請した。
その日の午後のうちに八王子署内に捜査本部が開設された。
死体は翌日解剖に付されて、死後経過二カ月ないし三カ月。
死因は頸部《けいぶ》を手で圧迫して気管を閉鎖しての窒息。
腐乱が進行しているが、生前、死後の情交|痕跡《こんせき》はない模様。
被害者の推定年齢十七、八歳ないし二十五歳というものであった。
この間、被害者の特徴が警察庁の捜索願を出されている家出人ファイルに照会された。
だが、該当者はなかった。
ということは、被害者の捜索願は出されていないということである。
前歴者ファイルにも照会したが、該当者はいない。
一月十七日、解剖の結果を踏まえて、八王子署において第一回の捜査会議が開かれ、当面の捜査方針として被害者の身許割り出しに全力を挙げることが決定した。
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分離した証拠
なにげなく新聞を開いた本杉高志は、社会面のかなり大きなスペースを割いた見おぼえのある顔写真に愕然とした。
裏高尾の山中に若い女の死体という大見出しが目に突き刺さるように飛び込んできた。
それは菊岡理絵の顔写真である。
死体の顔を修整《モンタージユ》した写真であるが、まぎれもなく理絵の顔である。
新聞記事は、一月十五日午後二時ごろ、裏高尾の山中に不時着したパラグライダーのフライヤーが偶然、不時着地点に埋められていた若い女の死体を発見したというものである。
推定年齢も、推定死後経過時間も理絵の年齢と、彼女が消息不明になった期間と符合している。
こんなことになりそうな予感がないではなかった。
だが、予感が的中してみると、悲しみと怒りが一挙に突き上げてきた。
なぜ彼女が殺されなければならないのか。
ただ一人で東京に出て来て、まがりなりにも生きようとしていた。
本杉が知っている限り、正業とは言えないが、とにかく悪いこともせず、他人《ひと》に迷惑もかけずに生きていた。
むしろ彼女が生産≠オ、販売した商品は需要が多く、おじさんたちを喜ばせていた。
本杉は警察に届け出た。
理絵のポシェットを入手した時点で届け出るべきであった。あのときすでに理絵は殺されていて、裏高尾山中に埋められていたのである。
本杉が彼女をしっかり保護しつづけていれば、彼女は殺されずにすんだのだ。本杉は自責の念に胸をかまれた。
新宿歌舞伎町のラブホテルの従業員から被害者について心当たりがあると届け出られた八王子署では、解剖後、大学病院のモルグに保存されていた被害者の遺体を、届出人に確認してもらった。
「生前と様子が少し変わっていますが、まちがいなく菊岡理絵さんです」
本杉と名乗った届出人は断言した。
ここに被害者の身許は判明した。
だが、身許が正確に確認されたわけではない。被害者の名前菊岡理絵は、本杉が彼女を保護したとき、本人が名乗ったものである。果たして本名であるかどうか不明である。
彼女は本杉に保護されたとき、茨城県の日立市に生家があると言ったそうであるが、それも確かめられたわけではない。彼女の言葉だけで、偽名を名乗り、嘘《うそ》をついていたかもしれない。
「実は、もう一つお届けしなければならないものがありました」
本杉はおずおずと言った。
増成と池亀は、本杉がなにかを知っていると悟った。
「昨年十二月下旬、彼女のポシェットが出てきたのです」
本杉は大川家の飼い犬が理絵のポシェットをくわえ込んで来たいきさつを手短かに話した。
そのポシェットの中には隠岐《おき》汽船の乗船名簿が入っていた。
「その乗船簿に梅川有美子という名前が記入されていたというのですな」
増成は確かめた。
「はい、その乗船簿の主と民友党幹事長梅川隆一の令嬢有美子さんは同姓同名です。そして、乗船簿に記載された住所も令嬢の住所と同じです」
本杉は慎重な言いまわしをした。
「つまり、梅川隆一氏の令嬢が乗船簿の記載主の可能性が大きいということですね」
増成が本杉の言わんとするところを言った。
「菊岡理絵さんがあなたの家に同居中、梅川有美子さんの名前を口にしたことがありますか」
「いいえ、ありません。梅川有美子も梅川隆一も理絵さんにはまったく無縁の、いうならば雲の上の人たちでした」
理絵にとって雲の上は本杉にとっても無縁の、別世界の人物であることを示している。
「菊岡理絵さんは隠岐へ行ったことがありますか」
「私の家に同居していた間は、隠岐どころかどこにも旅行していません。また彼女の口から隠岐へ行った話は聞いたことがありません。でも私の家を出てからはわかりません」
「梅川有美子の乗船簿がなぜ失踪中の被害者のポシェットに入っていたのかな」
増成は独り言のようにつぶやいて、本杉の顔色を探った。
生前、菊岡理絵と梅川有美子の間になんの関《かか》わりがなさそうであっても、捜査本部としては見過ごすわけにはいかない。
本杉高志の届け出は捜査本部に報告された。
「被害者のポシェットに、名前と住所が記載されていた乗船簿が入っていたというだけでは、被害者と乗船簿の主の間に関係があったということにはならないだろう。
乗船簿はその船に乗ればだれでも入手できるものだ。書き損じて捨てたものを拾い取ったかもしれないし、ポシェットそのものが被害者の手から別人に渡っていたかもしれない」
捜査会議で異論が出された。
「たしかにポシェットに乗船簿が入っていただけでは、ポシェットの主と乗船簿の記載者の間に関係があったとは断定できませんが、書き損じた乗船簿などというものは第三者には興味のないものです。十八歳の女の子が持っていた流行後れのポシェットを、政界の大物の令嬢が手に入れるというのも無理があります。断定はできないまでも、二人の間になんらかの関わりがあったと見るべきではありませんか」
増成が主張した。
「梅川有美子と隠岐の関わりを調べてみる必要があるとおもいます。この乗船簿によれば、乗船月日は記入されていませんが、それほど古い時期ではなく、梅川有美子が隠岐へ行った可能性があります」
池亀が援護射撃をした。
「仮に梅川有美子が隠岐となんらかの関わりがあったとしても、それが事件にどんな関係があるのかね」
という質問が出された。
「隠岐汽船を調べて、もし菊岡理絵が乗船していることが確認されれば、二人は同じ船に乗って知り合った可能性が生じます。
また梅川有美子と被害者の足跡が隠岐にあれば、二人の間に接点が生じます」
増成は言った。
梅川有美子の父親梅川隆一は政権党のキーパーソンであり、次期政権も射程に入れているVIPである。その令嬢を殺人事件の参考人としてマークするには慎重を要する。
「たしか梅川隆一の次女は荒尾産業社長荒尾幸一郎の息子と婚約をしたと週刊誌に書いてあったような気がするが」
会議列席者の一人が言い出した。
「そう言えば、そんな記事を見たような気がするな」
何人かがうなずいた。
ともあれその日の捜査会議によって、被害者と梅川有美子の足跡を隠岐に探すことに決定した。
捜査の触手は隠岐へ伸びた。
まず島根県警西郷署に照会して協力を依頼したところ、意外な事実が判明した。
西郷署の小室《こむろ》という刑事が、町田署管内で発生した外国人女性殺害事件に関して警視庁町田署から問い合わせがあり、棟居《むねすえ》と有馬《ありま》という捜査員が出張して来た旨を伝えた。
棟居と有馬ならば旧知の間柄である。
小室はさらに八王子署を驚かせるような事実を伝えた。
九月五日から二日間、梅川有美子は隠岐へ講演に来た梅川隆一に同行して、隠岐を訪問したということである。
梅川有美子は隠岐と関わりがあった。
これで菊岡理絵の所有していたポシェットから発見された乗船簿に記載されていた梅川有美子と同一人物であることが確かめられたといってよいだろう。
「町田署管内の外国人女性殺害事件と隠岐はどんな関わりがあるのですか」
増成は問うた。
なんらかの関わりがあるからこそ、捜査員が隠岐へ出張したのである。
「隠岐特産の檜扇貝《ひおうぎがい》が犯行現場から発見されたそうで、被害者および荒尾幸広という人物の足跡を探すために来島されたようです」
「荒尾幸広とおっしゃいましたか」
「はい、なんでも荒尾産業の御曹司《おんぞうし》ということでした」
「梅川有美子の婚約者だ」
増成は電話口でおもわず大きな声を発した。
「ああ、そげなことを聞いちょりました」
「それで、荒尾幸広は隠岐へ行っていたのですか」
増成は本題から逸《そ》れたことを聞いた。
「いいえ、荒尾幸広が近年、本島へ来た模様はありません。しかし、荒尾産業の社長であり、幸広の父親である荒尾幸一郎氏は梅川隆一氏に同行して同じ期間、来島しちょられます」
「荒尾幸一郎が梅川隆一に同行して隠岐を訪問しているのですか」
「はい、なんでも本島に観光ホテルをつくるための下見に同行したということですけん」
西郷署に照会して、意外な事実が浮かび上がってきた。
菊岡理絵殺害事件の関係人物として浮かび上がった梅川有美子の婚約者が、町田署管内の殺人事件の関係者としてマークされていた。
もしかすると二つの事件はなんらかのつながりがあるかもしれない。
つづいて隠岐汽船に、梅川有美子の乗船記録を問い合わせたところ、九月六日、西郷より西ノ島へ、同日午後、西ノ島より西郷に、乗船した記録が確かめられた。
有美子と共に梅川隆一、荒尾幸一郎も同じ便に乗っていた。
増成の報告を聞いた捜査本部は、なお慎重であった。
たまたま他署管内の殺人事件の参考人が、担当事件の参考人の婚約者であったとしても、まだ梅川有美子自身に当たっていない時点で二つの事件の関連性を考えるのは早計であるという姿勢である。
だが、梅川有美子が隠岐を訪問している事実は見過ごせなかった。
フェリシアが発見されたときも、身許を届け出たのは本杉高志である。
同じ人物が二人の被害者の身許を届け出て、遺体の確認をしている。
捜査本部では慎重な姿勢を保ちつつ、町田署捜査本部に連絡を取った。
理絵とフェリシア両人ともに隠岐に関わりがあった。
ここに両事件の関連性の有無を検討するために、八王子署と町田署、両捜査本部の連絡会議が持たれた。
一月二十日午後、増成と池亀が八王子署を代表して参加し、町田署において両捜査本部の連絡会議が開かれた。
それぞれの担当事件がなんらかの関連があると見られた場合に情報を交換して、事件の関連性の有無を検討し、共同あるいは合同捜査の必要があれば共同、合同捜査態勢に入る下敷きとする。
両捜査本部を代表して、まず増成が立って、事件発生からこれまでの捜査経過を報告した。
つづいて町田署からは有馬が立って、フェリシア殺しの捜査経過を説明する。
「荒尾幸広のアリバイは曖昧《あいまい》ではありますが、動機が薄く、犯人像としては無理があります。幸広にはフェリシアを是が非でも排除しなければならない理由がありません。現在のところ、荒尾幸広に代わる有力な人物は浮かび上がっておりません」
と有馬は報告を結んだ。
「荒尾幸広の周辺に菊岡理絵は浮かび上がっていますか」
増成が質問した。
「これまでの調べでは、彼の人間関係に菊岡理絵という女性はおりません」
有馬が答えた。
「菊岡理絵なる名前は、彼女が家出後保護した本杉高志に名乗った名前でしょう。家出少女が偽名を使った可能性もありますね」
代わって棟居が指摘した。
八王子署の担当事件の被害者はまだ完全に身許が判明したわけではない。
八王子署では各マスコミ機関に協力を要請して身許割り出しを急いでいるが、本杉高志の届け出を裏づける情報提供はない。
「本杉高志は菊岡理絵に生家に連絡するように勧めたところ、生家には帰りたくないと言ったそうです。彼女が本杉に語ったところによると、父が早く死んで、母親が再婚した男が、母親の留守に理絵を狙うので家を飛び出したということです。
菊岡理絵が偽名を使っていた可能性は大いに考えられますが、身体特徴、年齢等、彼女に該当する人間が荒尾幸広の人間関係の中にはないでしょうか」
増成が問うた。
「本杉の話によると、荒尾幸広は本杉の勤めていたホテルに不特定多数の女性を連れ込んでいたということです。その中の一人がフェリシアで、彼女を囲ってからは他の女性を連れ込むことはなくなったそうですが、荒尾が連れて来た女性の中に菊岡理絵はいません。本杉は理絵に出会ってから直ちに同居を始めていますので、その間、荒尾と理絵が接触する機会はなかったということです。
しかし、理絵が本杉の家を出てから後のことはわかりません」
「フェリシアの発見現場から隠岐の特産物である檜扇貝が発見されたそうですが、現場にそれを残せる人物として、とりあえず梅川有美子、梅川隆一、荒尾幸一郎の三名が考えられます。そのうち梅川有美子の隠岐汽船乗船簿が菊岡理絵のポシェットから発見されたわけでありますが、檜扇貝と同様、これを菊岡理絵のポシェットに残せる可能性のある者は、有美子と隠岐に同行した梅川隆一と荒尾幸一郎の三名ということになりますが」
池亀が、荒尾幸広は理絵に直接関わってこないことをそれとなくほのめかした。
「乗船簿は隠岐へ行った者から受け取ることができますが」
有馬が答えた。
「書き損じの乗船簿などというものは大切に保存しておくものではないとおもいます。書き損じて捨てるか、捨てたつもりでポケットや鞄《かばん》の隅に入れたまま忘れてしまったか、そういう類《たぐい》のものでしょう。捨てたものをべつの人間が拾い取ったとすれば、なんらかの意図を抱いていたものと考えられます。
隠岐へ行った三人以外の者が梅川有美子の乗船簿を拾ったとすれば、とりあえず荒尾幸広が考えられますが、彼はなんのためにそんなものを拾ったのか。仮に彼が拾ったとすれば、その意図がわかりません」
「理絵殺しとフェリシア殺しを結びつけるものは、乗船簿と檜扇貝のかけらだけだ。どちらも隠岐へ行けば容易に入手できるものだ。まして書き損じた乗船簿は、大切に保存しておくものではなく、捨てたものをだれかが拾い上げたかもしれない。檜扇貝も隠岐へ行った人間から土産としてもらうことができる。
フェリシア殺しの線とはまったく無関係の線から乗船簿が来た可能性も検討すべきではないか」
山路が言った。
山路の意見はすでに八王子署の捜査本部でも提出されていた意見である。
だが、まず梅川有美子の線を重視しての連絡会議である。
「梅川有美子以外の線として、どんな線が考えられるかね」
那須警部が言葉を差し挟んだ。
「さしあたって三本の線が考えられます。まず菊岡理絵が本杉高志に出会った以前の人間関係、第二が本杉の線、第三が本杉の家を出た後の線です。
このうち第一の線はいまのところまったく不明です。仮に第一の線から来たとしても、菊岡理絵は本杉の家に同居していることを郷里、つまり本杉以前の過去に対して秘匿していたようですから、彼女を追跡する手段がなかったはずです。
本杉については捜査を進めておりますが、彼が犯人であれば、菊岡理絵が発見されたとき届け出なかったはずです。本杉の家を出た後の足取りはまったくつかめておりません」
「本杉はカモフラージュのために届け出たのではないのかな」
那須が言った。
「カモフラージュにしては危険すぎます。彼が黙秘していれば、理絵が本杉と同居していたことは郷里には知られていないはずですし、本杉の周辺にも知っていた者はいません。知っていれば、理絵の発見が報道された時点で届け出があったはずです。本杉には理絵を殺さなければならない理由が見当たりませんが」
「家出をされて怒り、追いかけて行って殺したということは考えられないかな」
「本杉は理絵の行方を知らなかったはずですが」
「同居中に痴話喧嘩《ちわげんか》をして本杉の家を飛び出したものの、行くところがなくて舞い戻り、喧嘩が延長されて殺したということはないかね」
「その可能性がまったくないわけではありませんが、本杉が仮に犯人だとすれば、梅川有美子の乗船簿を手に入れることはできませんが」
「本杉と梅川有美子の乗船簿は切り離しても考えられる。つまり、理絵は犯行とは無関係のところで乗船簿を手に入れた可能性はないか」
山路の意見は二つの事件を切り離そうとするものである。
「その可能性も考えられますが、乗船簿は犯人の遺留品である確率が高いとおもいます。
菊岡理絵が犯行と無関係にポシェットを落としたと考えるには無理があります。ポシェットは肩にかけているもので、落としたり置き忘れたりしにくいものです。菊岡理絵は自分の意志によらず、本人からポシェットを引き離されたと考えるのが妥当ではないでしょうか」
増成がこだわった。
「犯行時に犯人によってポシェットがその所有者から引き離されたとすれば、犯人はポシェットを放置しないとおもうが」
「犯人には放置した意識がなかったのではありませんか。犯行時、殺害された被害者からポシェットが分離した。犯人がそれに気がつかなかったとすれば」
「落としたり置き忘れたりしにくいはずのポシェットが、本人の体から分離したというのかね」
山路の口調が皮肉っぽくなった。
「ポシェットを被害者が外したときに襲われれば、被害者の体から分離することはあります。分離したときに犬がくわえて持ち去った」
「犯人は犬がポシェットをくわえ去ったのを気がついていても、犬に追いつけなかったのかもしれないな」
山路の言葉はすでに増成の意見を踏まえている。
フェリシア殺しと菊岡理絵殺しの関連性が多角的に検討されて、両署は今後、密接に連絡を取り合いながら共助態勢の捜査を進めることを決定した。
その日の連絡会議では、共助態勢の大方針の下に、八王子署は、
@菊岡理絵の身許確認(本杉に出会う以前の経歴捜査)
A理絵と梅川有美子との関係確認
B本杉高志の捜査
C本杉の家を出た後の足取り捜査
一方、町田署の捜査本部では、
@檜扇貝を現場に遺留できる者として梅川隆一とフェリシアとの関係確認捜査
A右同、梅川有美子とフェリシアとの関係確認捜査
B右同、荒尾幸一郎と同女との関係確認捜査
Cフェリシアと菊岡理絵との関係確認捜査
Dフェリシアと本杉高志との関係確認捜査
以上が当面の捜査方針として決定された。
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行きずりの疑惑
八王子署の増成と池亀の訪問を受けた本杉高志は、菊岡理絵との関係を根掘り葉掘り聞かれた。
理絵が発見されたとき届け出たことの再確認であるが、質問はさらに詳細にわたっている。
理絵と喧嘩したことがなかったか、理絵に新たな男ができた気配はなかったか、さらに理絵が家を出てからポシェットが発見されるまでの所在を詳しく聞かれた本杉は、はっとした。
「ま、まさか、ぼくを疑っているのではないでしょうね」
本杉は少し色をなして問い返した。
「あなたは理絵さんと無関係とは言えない。被害者の関係者にはすべて尋ねていることです」
増成がなだめるように言った。
「彼女があんな死にざまをして、最も悲しんでいるのはぼくなんです。保護者としての責任を感じています。理絵が家出しないようにぼくがちゃんと保護していれば、彼女はあんな目に遭わずにすんだはずです。彼女の死に対してぼくには責任がありますが、ぼくを疑うなんて見当外れですよ」
「我々もあなたを疑いたくはないが、あなたと理絵さんの関係が濃厚であればあるほど、あなたも捜査の対象にせざるを得ないのです。真犯人を一日でも早く捕らえたいとおもったら、協力していただけませんか」
「わかりました。理絵が家を出てからポシェットが発見されるまで遠出はしておりません。勤め先と住居を忠実に往復していただけです。住居にいたときは管理人がぼくを見ているはずです。電話も何回かかかっています。あとは家で寝ていました」
本杉は記憶している限りのアリバイを申し立てた。
だが、居室で一人で眠っている間のアリバイは証明しようがない。
それに菊岡理絵殺害の犯行推定時期はかなり幅が広い。その間のアリバイとなると茫漠《ぼうばく》としてしまう。
「わかりました。その辺でけっこうです」
増成はうなずいた。
増成と池亀の表情から、彼を本気で疑っていないことはわかる。
被害者の保護者(関係人)として、一応の捜査はしなければならないのであろう。
新たな男ができた気配はなかったかという質問に対しては、本杉にはおもい当たるところがなかった。
理絵と初めて結ばれたとき、彼女が処女であったことは本杉の体がおぼえている。
理絵は本杉一人に寄りかかっていた。ほかの男の気配はまったく感じられなかった。
本杉は増成の質問に答えている間に、ふと自分の母親のことをおもいだした。
母は本杉が幼いころ、彼と養父の徳松を捨てて男と一緒に駆け落ちしてしまった。
徳松は臨終の床で、母の駆け落ちパートナーが本杉の実父であることを告げた。
その実父が梅川隆一である。
そのことを増成と池亀に伝えようかとおもった。
だが、それは捜査になんの関係もないことである。ましてや、梅川隆一が実父であるということは本杉の心証にすぎず、なんの証拠があるわけでもない。
二十数年も前の写真一枚では証拠価値はない。
写真の本人が、これは自分ではないと否定すればそれまでである。
また仮に本人であることを認めたとしても、そのことが本杉の実父である証拠にはならない。
養父の徳松が言い残した言葉にすぎないのである。
「なにかおもい当たることでもありますか」
増成が本杉の表情の微妙な反応を悟って、顔を覗き込んだ。
「いいえ、なんでもありません」
本杉は増成の質問をいなした。
「一応すべてを疑うのは我々の職性だが、本杉は潔白《シロ》のようだね」
本杉を訪問しての帰途、池亀が言った。
「消去《ツブシ》のための手つづきだよ。本杉がクロなら届け出て来ない。彼は菊岡理絵が殺されて、本当に悲しんでいるよ。ただ、ちょっと気にかかったことがあったな」
増成が答えた。
「気にかかったことって、なんだね」
「理絵に新しい男ができた気配はなかったかと問うたとき、本杉の表情が少し動揺したような気がしたんだが」
「ぼくは気がつかなかったな」
「おれの気のせいかもしれない」
「男ができたので、本杉の家を出たのではないのかな。そこで本杉が怒って理絵を殺した……」
「そんなことをしたら、新しい男が黙っていないだろう」
「あっ、そうか。それでは、新しい男が理絵をどうかしたとしたら……」
「そのことをちょっと考えてみたんだがね、新しい男が理絵を殺したとしたら、今度は本杉が黙っていないはずだ」
「本杉が新しい男の気配だけ察知して、所在を知らなかったとしたらどうだい」
「その場合でも、本杉が男のにおいを嗅《か》ぎつけていれば黙秘しないはずだ。もし彼が新たに男の気配を嗅ぎつけながら黙秘したとしたら、庇《かば》っているのかもしれないな」
「庇う。本杉がだれを庇うんだ」
「それはわからない。理絵に新しい男がいたのかいないのか、その辺も確認されていないのだからね。あまり推測を積み重ねない方がいいだろう」
八王子署捜査本部の捜査の鉾先《ほこさき》は梅川有美子に向けられた。
捜査本部は慎重な姿勢を崩さなかった。
なんといっても父親は次期政権を射程に入れている政界の大物である。彼の娘に下手に手出しをしたら、捜査そのものをつぶされる虞《おそれ》がある。
だが、被害者の遺品の中から名前が出てきた人物を見過ごすこともできない。
捜査本部は梅川有美子に会見の申し入れをした。
まだ任意取調べの段階なので、本人が拒否すれば強制力はない。
有美子は意外にあっさりと会見申し込みに応じた。
有美子は一昨年、都内の有名私立女子大を卒業して、父親の私設秘書をしている。
容姿の美しい彼女を伴って行くと彩りが添えられ、マスコミ効果が高いので、単なる親馬鹿の娘自慢ではなく、かなりの戦力になっている。
梅川有美子は会見場所として、麹町《こうじまち》四丁目にある梅川隆一の事務所を指定した。
増成と池亀が指定された時間に貸しビルの一室にある梅川隆一事務所に赴くと、応接室に請《しよう》じ入れられて、待つ間もなく当の有美子がにこやかに現われた。
仕立てのよい薄いピンクの上品なスーツをまとっているが、華やかな装身具は控えている。
美しさを金をかけて抑制している優雅な渋さが感じられる。
初対面の挨拶《あいさつ》を交わして、二人の名刺を眺めた有美子は、特に顕著な反応も浮かべず、
「それで、私でも警察にお役に立てることがございますかしら」
と心持ち小首を傾《かし》げるようにして言った。
刑事が訪ねて行くと、たいていの者は顔色を改めて用件はなんだと聞く。
これが自然体であるとしても、あるいは政治家の秘書として鍛えられた応対であるとしても、さすがは梅川隆一の戦力となる自慢娘だけのことはある。
「お忙しいところをお邪魔して申し訳ありません。それでは早速お尋ねしますが、菊岡理絵という女性をご存じでしょうか」
「きくおかりえ?」
「このような字を書きます」
池亀があらかじめ紙片に書いておいた理絵の名前を見せた。
「さあ、存じませんわ。この人はどんな人ですか」
問い返した有美子の表情には、特に演技も作為も感じられない。
「この乗船簿はあなたがご記入されたものでしょうか」
増成が理絵のポシェットに入っていた有美子の乗船簿を差し出した。
乗船簿に目を向けた有美子は、
「私の書いたものですわね。書き損じて、どこかに捨てたものだとおもいますけれど、こんなものをどうしてお持ちなのですか」
有美子の目に不審の色が塗られている。
「ただいま申し上げた菊岡理絵さんの持ち物の中に、この乗船簿がまぎれ込んでいたのです」
「でも、私、菊岡理絵さんという人を存じ上げませんわ」
「この乗船簿は書き損じたものだとおっしゃいましたが、どこを書き損じたのですか」
増成はさらに問うた。
「字が気に入らなかったのです。私の字になっていなかったので」
乗船簿でも気に入らない字を書き残したくないという潔癖な心理であろう。
「その書き損じた乗船簿をどこへしまわれたか、おぼえていらっしゃいますか」
「おぼえていません。もともと書き損じたものですから、大切に保存しておくようなものではありませんわ。刑事さんが持っていらっしゃったのでびっくりしています。これをどこで見つけたのですか」
「先程申し上げた菊岡理絵という女性のポシェットの中に入っていたのです。菊岡理絵という名前ももしかすると偽名かもしれませんが」
「初めて聞く名前ですわ」
「本人の言葉ですが、郷里は茨城県で、昨年の七月、家出をして来たそうです。自称十八歳です。ここに写真があります」
増成は本杉から領置した理絵の写真を差し出した。
本杉の家に同居中、ブルセラ商品に添付するために撮影した写真の一枚である。
「知りません。初めて見る顔です」
有美子の面にはなんの反応も表われない。
「それにしても、その菊岡理絵さんのポシェットの中に私の書き損じた乗船簿が入っていたことが、警察の調べるほどのことなのですか」
有美子が当然の疑問を発した。
「新聞やテレビをご覧になりませんでしたか。菊岡理絵さんは一月十五日、裏高尾の山林に埋められていたのを発見されたのです」
「埋められていた……それでは……」
有美子が愕然として顔色を失った。
「そうです、菊岡理絵さんは殺されて、死体を山中に埋められていました。彼女のポシェットからあなたの名前と住所を記入した書き損じの乗船簿が発見されましたので、おうかがいしております」
「私、私、知りません。なにも知りません。どうして私の乗船簿がその殺された菊岡理絵さん、とかいう人のポシェットに入っていたのか、わからないわ」
梅川有美子は蒼白《そうはく》になって唇を震わせた。
「この乗船簿をだれかに渡したということはありませんか」
「そんな書き損じをだれにも渡しませんわ」
「どこへ捨てたかまったくご記憶はありませんか」
「書き損じの乗船簿なんて、どこへ捨てたかおぼえていません」
「そうでしょうなあ、乗船簿の書き損じなど、いちいちおぼえていませんよね」
増成が同調するようにうなずいた。
「でも、私の書き損じた乗船簿が殺された人の遺品の中から出てきたということは、もしかして私が疑われているんじゃないかしら」
有美子がはっとした表情になった。ようやく、二人の真の訪意を悟ったらしい。
「我々としては、乗船簿があなたからどのような経路を経て被害者のポシェットに入ったか、それを確かめたいのです」
「乗船簿がその人のポシェットにあったということは、どこかに私とその人に接点があったということですわね。どうしてそんなことになったのかしら」
有美子は懸命に記憶を探っているらしい。
「書き損じた乗船簿を最も捨てやすい機会と場所は、書いた直後、書いた場所でしょう。乗船簿はいつ、どこで書かれたのですか」
池亀が質問を挟んだ。
「西郷から船に乗る前でした。乗船券は町の方がすでに用意していて、待合室で渡されたような気がします。父の秘書がまとめて記入しようとしたのですが、時間がなかったので、私の分は私が記入しました」
「そのとき書き損じて、どこへ捨てましたか」
「捨てなかったとおもいます」
「捨てなかった」
「近くにトラッシュがなかったので、バッグの中に入れたような気がします」
「そのバッグはいまお持ちですか」
「バッグはいくつか持っていまして、TPOで使い分けています。そのときの気分によって選ぶこともあります。隠岐へ行ったときは、たしかセリーヌだったとおもいます」
「すると、そのセリーヌのバッグからどこかに落としたということになりますね」
「ええ、財布や化粧用具をよく出し入れしますから、そんなとき落としたかもしれません」
「バッグはたくさんお持ちとおもいますが、そのセリーヌのバッグはお気に入りですか」
「わりあい気に入っていて、よく持ち歩きます」
「それでは落とす機会も場所も多いということになりますね」
「そういうことになりますわね」
有美子は途方に暮れたような表情をした。
セリーヌのバッグの使用機会と場所が多く広範にわたればわたるほどに、記憶の遡行《そこう》が困難になる。
「それではそのあとセリーヌのバッグを持ってお出かけになったのはどちらでしょうか」
「さあ、そのあとセリーヌを持って出かけたのは……」
有美子の表情が記憶を追って、
「そう言えば幸広さんに誘われてドライブに出かけたとき、セリーヌを持って行ったような気がします」
「幸広さん、とおっしゃいますと、ご婚約された荒尾幸広さんですか」
「そうです」
有美子はうなずいた。
荒尾幸広の名前が登場してきたので、二人は緊張した。
荒尾幸広は町田署管内の外国人女性殺害事件の参考人として浮上している人物である。
棟居や有馬から聞いたところによると、幸広は犯人像としては無理があって、現在、捜査圏から少し遠のいているそうである。
だが、容疑が完全に払拭《ふつしよく》されたわけではない。
「そのときのドライブに使用した車は、荒尾さんの車ですか、それとも……」
「幸広さんの車です」
「立ち入ったことをおうかがいして恐縮ですが、そのときどの方面にドライブに出かけられたのですか」
「伊豆の東海岸から西海岸をまわって来ました」
「すると、かなり長い時間、荒尾さんの車に乗っていたことになりますね」
もしかすると、途中で泊まっているかもしれないと刑事らは推測した。
「はい、朝の早い時間に東京を出て、帰宅したときは夜遅くなっていました」
有美子は刑事の推測を打ち消した。
「そのドライブ旅行のとき、荒尾さんの車の中に乗船簿を落とした可能性はありませんか」
増成が問うた。
「そうですね。途中、車内でバッグを何度か開けたことがありましたから、車内に落とした可能性はあるとおもいます。でも、幸広さんとその菊岡理絵さんとかいう女性と、なにかつながりがあるのでしょうか」
「そういうことではなく、乗船簿を落とした可能性のある場所についておうかがいしているのです。その前にセリーヌのバッグを持って荒尾さん以外の方にお会いになったことはありませんか」
増成が言葉を添えた。
「さあ、特におもい当たりません」
「荒尾さんとドライブに行かれた正確な日をおぼえていらっしゃいますか」
「十月二十日でした」
「ドライブ先で荒尾さんが菊岡理絵さんに似たような女性に出会ったということはありませんか」
「そんなことはなかったとおもいます」
「ドライブ中、荒尾さんと離れた時間はありませんでしたか。たとえば途中、休憩されたときとか、買物をしたときとか」
「休憩は何度かしましたけれど、離れていたのはトイレに行ったときぐらいです。でも、それはほんのわずかな時間でした。下田で少しお土産を買いましたけれど、一緒にいました。幸広さんがドライブ中、私の知らない間にだれかと出会ったということは考えられませんわ」
菊岡理絵が伊豆方面に旅行した形跡はない。同方面に親戚《しんせき》、知己等が住んでいたとも聞いていない。
だが、すべて本杉からの伝聞であり、また彼の家を出た後の理絵の行動は不明である。
梅川有美子が荒尾幸広と伊豆方面にドライブしたのは、理絵の家出前である。
「こんなことを申し上げると幸広さんが疑われることになりますか」
有美子の表情にべつの不安が兆した。
彼女は幸広が別件の殺人事件の関係者としてマークされた事実を知らないらしい。
「多少とも関わりのある方にはすべてうかがっていることです」
「私がいま幸広さんの名前を挙げたことが、関わりがあるということになるのですか」
刑事は黙ってうなずいた。
「でも、幸広さんから菊岡とかいう女の人の名前を聞いたことはありませんわ」
有美子は荒尾の名前を出したことを後悔しているようである。
さらにフェリシアとの関係の有無について問うたが、有美子はフェリシアをまったく知らないと答えた。
増成と池亀は梅川有美子の許を辞去した。
二人の報告を受けた捜査本部では、有美子シロの心証を得た。
代わって浮上したのが荒尾幸広である。幸広の浮上は、有美子の供述を踏まえている。
仮に有美子が虚言を弄《ろう》したとしても、自分の容疑を躱《かわ》すために婚約者を犠牲にしたとは考えられない。
彼女が幸広の名前を出したことで、彼女の言葉には信憑性《しんぴようせい》があたえられた。
「犬が菊岡理絵のポシェットをくわえて来た時期以前に、梅川有美子が荒尾幸広の車でドライブしたからといって、乗船簿が彼女から幸広に渡ったと断定するのは短絡にすぎないか」
という慎重意見が出された。
だいたい有美子が乗船簿を紛失した時間と場所が特定されていないのである。
「有美子が仮に幸広の車に乗船簿を落としたとしても、幸広がなぜそんなものに興味を示して、拾い上げたのかわからない」
消極意見が相次いだ。
有美子が落とした乗船簿を幸広が拾い上げなければ、理絵(のポシェット)に移動できない。
「たとえばだが、幸広の車に理絵が乗ったと仮定したらどうだろうか」
新たな意見が出た。一座がざわめいた。
これは新しい着想である。
「しかし、なんの関わりも見いだせない幸広の車に、どうして理絵が乗ったのか」
「なんの関わりがなくとも、未知の男女が同じ車に乗り合わせるきっかけはいくらでもあるだろう。ヒッチハイクをしたかもしれないし、幸広が誘ったかもしれない」
「ヒッチハイクか」
荒尾産業の御曹司の運転する高級乗用車となれば、若い女が便乗したくなるかもしれない。
理絵は家出少女で、たくましくなっている。一般の少女よりも大胆で警戒心が薄かったかもしれない。
「仮にそうだとしても、荒尾幸広ともあろう者が、ヒッチハイクで乗り込んで来た少女をなぜ殺さなければならないんだね」
「それはこれからの課題だよ。行きずりの人間同士の殺人も決して珍しいことではない」
「荒尾幸広に当たってみたいね」
「その前に町田署と連絡を取り合うべきではないか」
検討している間に、次第に意見が固まってきた。
まだ荒尾幸広一本に絞るのは危険であるが、町田署がすでにマークした人物であることが、八王子署捜査本部の心証の下敷きになっていた。
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両刃のアリバイ
八王子署から連絡を受けた町田署の捜査本部では、棟居と有馬が緊張した。
「棟居さん、前にあなたが言っていた通りの展開になりそうじゃありませんか」
有馬の声が少し興奮している。
棟居はフェリシア殺しについての幸広のアリバイが曖昧であるのを、彼がその時間帯、べつの犯罪に関わっていたからではないかと推測した。
だが、べつの犯罪に該当する殺人事件や交通犯罪が報告されていないので、捜査会議の取り上げるところに至らず、推測の域に止まっている。
ここに八王子署から強力な援護射撃を加えられて、棟居説はにわかに具体性を持った可能性としてクローズアップされてきた。
「荒尾幸広と菊岡理絵がまだつながりを持ったというわけではない。梅川有美子の乗船簿が幸広に渡る可能性があったというだけで、彼と理絵を結びつけるのは短絡ではないか。
それに仮に幸広と理絵に関わりがあったとしても、本件の解決にはなんの役にも立たない」
と山路から異論が出された。
たしかに八王子署からの連絡は、フェリシア殺しに関する幸広の容疑を薄めるだけである。
「荒尾幸広が有力な線の一本であることには依然として変わりありません。彼が菊岡理絵の事件に関わっているとして、フェリシア殺しのアリバイが確立すれば、幸広は完全に消去できます」
有馬が反駁《はんばく》した。
捜査は消去《ツブシ》の作業である。怪しい線を一本一本つぶして、最後に残った線が犯人に至る。
八王子署からの連絡は町田署にとって重視すべきものであった。
山路もそれ以上、反論しなかった。
町田署に連絡して棟居説を聞いた八王子署の捜査本部は緊張した。
棟居説が的中していれば、幸広のアリバイは菊岡理絵殺しに関わってくる。
「梅川有美子の乗船簿が荒尾幸広に渡ったことが確認されない限り、幸広には手を出せない」
「幸広の車を捜索してはどうか。梅川有美子が乗船簿を幸広の車に落としたとすれば、それが理絵のポシェットに移動する最も大きな可能性のある場所は、同じ車内ということになる。つまり、理絵が幸広の車に便乗しているかもしれない。
理絵の遺留品が彼の車内に発見されれば、二人の間はつながったことになる。幸広の車を捜索してみたい」
という意見が有力になった。
幸広はすでに町田署の捜査本部がフェリシア殺しの参考人として取調べずみである。町田署の下敷きがあるので、捜索令状は取りやすい。
八王子署の請求によって、幸広の車に対する捜索令状が発付された。
捜索の結果、重大な証拠資料が発見された。
八王子署捜査本部はその資料に基づいて、荒尾幸広に菊岡理絵殺人容疑の逮捕状を請求し、その発付を得た。
二月十三日午前七時、八王子署捜査本部の捜査員総勢十二名は、世田谷《せたがや》区|成城《せいじよう》の荒尾幸広の自宅を訪問して、任意同行を要請した。
まず任意で呼んで、自供を得た後で逮捕状を執行しようという方針である。
幸広はまだ自宅のベッドの中にいた。
早朝、大挙捜査員の訪問を受けて、幸広は動転していた。
前回、フェリシア殺しの嫌疑で取調べを受けたときとは比較にならないほど雰囲気が切迫している。
幸広は自宅から八王子署へ同行された。
署では朝食が用意されていたが、幸広は箸《はし》をつけなかった。
今度は自分にかけられた嫌疑が容易でないことがひしひしと伝わっているようである。
主たる取調べに管理官が当たり、増成と池亀が補佐した。
「早速ですが、菊岡理絵さんをご存じですか」
管理官は単刀直入に核心に入った。
「いいえ、知りません」
幸広は言下に否定した。
寝込みを襲われた狼狽からすでに立ち直っている。
「ご存じない。すると、大変困ったことになるのですがね」
管理官は幸広の顔を覗き込んだ。
「私は知らないと言っているんですよ。菊岡理絵などという名前はいま初めて聞きました」
幸広は頑として突っぱねた。
「この女性ですが」
すかさず増成が本杉から領置した理絵の写真を幸広の前に差し出した。
幸広はちらりと視線を向けただけで、
「全然知りませんね」
とにべもなく首を横に振った。
「忘れているということはありませんか」
増成は念を押した。
「忘れるもなにも、会ったこともなければ、名前を聞いたこともありません」
「これは困りましたね」
管理官は余裕のある口調で言った。彼の余裕が不気味な圧力となって幸広に迫っているらしい。
「知らない人間を知らないと言っているのに、なにが困るのですか」
幸広はいらだたしげに言った。
「この乗船簿にご記憶がありますか」
管理官に目配せされて、池亀が梅川有美子の乗船簿を差し出した。
「これは私の婚約者の名前ですが」
幸広の面《おもて》に不安と不審の色が揺れている。
「そうです。九月初旬、梅川有美子さんが父上に同行して、島根県の隠岐へ行かれたとき書き損じた乗船簿です」
「その乗船簿がどうかしたのですか」
「実は、この乗船簿が菊岡理絵さんのポシェットの中から出てきたのです」
「それでは有美子さんと、この菊岡理絵とかいう女性との間に、なにかつながりがあったのではありませんか」
「梅川有美子さんに問い合わせたところ、菊岡理絵さんを全然知らないということです。あなたと同様に会ったこともなければ、名前を聞いたのも初めてだということでした」
「有美子さんに会ったのですか」
捜査陣の触手が梅川有美子に及んでいることに、幸広は驚いた様子である。
「しかし、おかしいですね」
増成がわざとらしく首を傾げた。
「なにがおかしいのだ」
「あなたが菊岡理絵さんを知っていたとしても、なんら差し支えないではありませんか。なぜそのように向きになって打ち消すのですか」
「知らないから知らないと言っているだけだ」
「理絵さんのポシェットの中から梅川有美子さんの乗船簿が出てきたとしても、一向にかまわないではありませんか。あなたが仲介しなければ、有美子さんと理絵さんの間に接点はありません。あなたが仲介したところで、一向に差し支えないではありませんか」
増成の言う通り、有美子の乗船簿と理絵のポシェットをつなぐ接点に幸広がなったところで、それは即幸広が理絵を殺したということにはならない。
幸広に疚《やま》しいところがあるからこそ、接点となることを拒んでいるのではないかと増成は指摘した。
「有美子さんはもしかするとこの乗船簿をあなたとご一緒に伊豆へドライブに行ったとき、あなたの車の中に落としたかもしれないとおっしゃっていました」
管理官が言葉をつづけた。
「彼女とは伊豆へドライブに行きましたが、そんな乗船簿を落としたかどうか気がつきませんでした。書き損じの乗船簿だったら、私の車の中だけではなく、どこに落としても不思議はないでしょう」
「ところが、あなたの車の中に落としたという証拠があるのですよ」
管理官がうっそりと笑った。
「どこにそんな証拠があるのですか」
幸広は不安を促されたようである。
「あなたの車の中に犬の毛があったのです」
「犬の毛」
「ある家の飼い犬の毛ですがね、実はその飼い犬の小屋の中から乗船簿を入れた菊岡理絵さんのポシェットが発見されたのです。犬がべつの場所からポシェットをくわえ上げたとしても、あなたと無関係の犬があなたの車に入り込む確率はきわめて低い。つまり、その犬があなたの車の中に落ちていたポシェットをくわえ取って来たというわけですな」
幸広にはそのことの重大な意味が咄嗟《とつさ》にわからないらしい。
「あなたは菊岡理絵さんに会ったこともなければ名前を聞いたこともないと言った。しかし、彼女のポシェットがあなたの車の中にあった。その証拠に、そのポシェットをくわえて来た犬の毛があなたの車の中に発見されたのです。あなたの車から採取された犬の毛は、ポシェットをくわえて来た犬の毛と照合して、同一の毛と鑑定されました。あなたはこのことをどう説明されますかな」
管理官は止めを刺すように言った。
理絵殺害からポシェット発見までの二カ月間のタイム・ギャップは、犬が一度現場付近に放置したポシェットを、再びくわえとって、自分の小屋に持ち込んだためであろう。
幸広の顔が蒼白になり、全身が小刻みに震えてきた。
荒尾幸広は犯行を自供した。
彼の自供は次の通りである。
「菊岡理絵は私が殺しました。十月二十八日の夜、フェリシアのマンションに行って彼女が帰って来るのを待っていましたが、明け方近くまで待っても帰って来ないのに業を煮やして、気晴らしに車を走らせました。たしか六本木の近くだったとおもいますが、一人で歩いている女の子を見かけて声をかけると、車に乗り込んで来ました。彼女が菊岡理絵でした。
フェリシアにふられてむしゃくしゃしていた私は、気まぐれに彼女を誘ってみたところ、簡単にオーケーしたので、通り合わせた多摩川の河川敷に車を乗り入れて、彼女と情交しました。大人びていたので、てっきりアダルトの女だとおもっていたのですが、後で未成年と知ってびっくりしました。
事が終わった後、彼女は私に六十万円要求しました。私がたった一度のプレイに六十万円は高すぎると言うと、彼女は自分は十八歳未満だ。六十万円払ってくれなければ、無理やりに車に引きずり込まれてレイプされたと訴えてやると私を脅しました。
そのときすんなりと六十万円払ってやればよかったのですが、こんな小娘に脅されて、言いなりになるのが業腹だったので、私は拒否しました。すると、彼女は突然悲鳴をあげて、人殺しと叫びました。
うろたえた私は彼女の囗を塞《ふさ》ごうとしてもみ合っている間に、彼女がぐったりして動かなくなりました。見よう見真似《みまね》の人工呼吸を施したのですが、彼女は蘇生《そせい》しませんでした。彼女と争ったはずみに、車のドアが開き、異常を悟ってどこからか近寄って来たらしい犬が吠《ほ》えかけましたので、私はますますうろたえました。
犬がいつ彼女のポシェットをくわえ取ったのか知りませんでした。彼女が私の車に便乗したとき、車内に落ちていた乗船簿をなにげなくつまみ上げて、ポシェットの中に入れたのだとおもいます。そんなものをなぜポシェットに入れたのかわかりませんが、私の素性の手がかりとして拾ったのかもしれません。
おもわぬアクシデントから、予想もしなかった殺人を犯してしまった私は、以前何度かゴルフに行って土地の見当を知っている裏高尾の山中に彼女を埋めたのです。
死体が発見されて身許が判明するまで、彼女の名前も素性も知りませんでした。
フェリシアの死体が発見され、私のアリバイが問われましたが、私はフェリシアが殺された時間帯、菊岡理絵と一緒にいたのです。
私には確固たるアリバイがありました。しかし、そのアリバイを提出することは理絵殺しを認めることになります。
Aの殺人の無実を証明するためには、Bの殺人を認めなければなりません。
こういうアリバイを両刃のアリバイとでも言うのでしょうか。
菊岡理絵さんには気の毒なことをしたとおもっています。彼女から六十万円要求されたとき、私はそれだけのお金を持っていました。私にとって六十万円ははした金でした。
なぜ彼女に言われた通りの金をやらなかったのか。きっと小娘に馬鹿にされたくないという気持ちが働いたのでしょう。
たった六十万円のために一人の人間の生命《いのち》を奪い、私自身も破滅してしまいました。いくら悔やんでも悔やみきれないことですが、人生には魔がさすという瞬間があります。
私はあのとき、魔の瞬間に陥ったのだとおもいます」
荒尾幸広の自供によって、菊岡理絵殺害事件は解決した。
棟居の推理は的中したわけである。
だが、フェリシア殺害事件は依然として未解決のまま残された。
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父親の破片
事件解決の報道を読んだ本杉高志《もとすぎたかし》は、衝撃を受けた。
菊岡理絵《きくおかりえ》を殺した犯人は馬鹿様であった。
当夜、理絵と馬鹿様が出会わなければ、理絵は殺されずにすんだ。
それにしても、理絵はなぜ馬鹿様に六十万円も要求したのであろうか。
その理由を思案した本杉は、あることを想起して、はっとした。
彼女が同居中、本杉と一緒にハワイへ旅行をしたいと言ったことがある。そのとき旅行費用はどのくらいかかるかと理絵に問われて、本杉はなにげなく、二人で六十万円ぐらいではないかと答えた。
もしかして理絵はそのときの会話をおぼえていて、本杉とハワイへ行くための旅行費用を稼ごうとして、馬鹿様に六十万円要求したのではないだろうか。
本杉自身が忘れていたたわいない会話であるが、もしあのときの会話を理絵が約束と解釈して、旅行費用を稼ごうとして馬鹿様を恐喝したのであれば、本杉が間接的に理絵を殺したことになる。
理絵は家出をしたのではなく、本杉とのハワイ旅行を夢見て出稼ぎ≠ノ行ったのではないだろうか。そうでなければ、彼女がそんな荒稼ぎをおもいたつはずはない。
理絵はそんな形で本杉に恩を返そうとしていたのかもしれない。
理絵が殺されたことは報道されているにもかかわらず、彼女の母親や身内からはなんの届け出もされない。
理絵の郷里も茨城県日立市というだけで、確かなところはわからない。彼女の名前自体も本名かどうか確かめられていない。
彼女が本杉の許《もと》に飛び込んで来たとき、なにかこの世に属さない客のようなあえかな危なっかしさが感じられた。
あれはいまから考えると、この世にわずかな滞在期間しか許されない旅人としての不安定さであったのかもしれない。
理絵が残していった一片の下着は、天女が脱ぎ忘れた羽衣である。
彼女の体臭ももうほとんど残っていない。
この世に属さぬ天女の脱《ぬ》け殻《がら》、いまはそれだけが彼女を偲《しの》ぶよすがとなってしまった。
理絵の事件解決が報道されてから数日後、ホテルのフロントで直美と出会った。
客の部屋から帰るとき、フロントに立ち寄ったのである。
「馬鹿様が理絵さんを殺した犯人だったとは、意外だったわね」
直美が言った。
「ぼくも驚いたよ。しかし、馬鹿様には彼女を殺す意志はなかったらしい。はずみであんなことになってしまったと自供したそうだよ」
「馬鹿様がフェリシアが殺された時間に理絵さんを殺していたとなると、一体だれがフェリシアを殺したのかしら」
直美は声をひそめて言った。
「まだフェリシアの事件は解決しないそうだ。犯人のめども全然ついていないようだね」
「フェリシアが可哀想《かわいそう》。他人事《ひとごと》ではないわ。私たちは知らないお客に呼ばれて、ホテルの部屋で一対一になることが多いでしょ。中には怖いお客もいて、危険な目に遭うこともあるわ。フェリシアはきっとそんな客の一人に殺されちゃったのかもしれないわ」
「フェリシアを殺したような客の心当たりはないのかい」
「心当たりがあれば、とっくに警察に届け出るわよ。フェリシアを殺した犯人は私たち共通の敵だもの。一日も早く犯人が捕まればいいと祈っているのよ」
「素人考えかもしれないけれど、フェリシアを殺した犯人は客ではないとおもうよ」
「どうして」
「客だったら、フェリシアを殺して死体をホテルに残したまま逃げたはずだよ。わざわざ遠い山の中に運んで隠すはずがない」
「そう言われてみればそうだわね。本杉さんには犯人の心当たりがあるの」
「そんなものあるはずないよ。ただ、客ではないとおもうんだ」
「お客でなければ、だれが殺したのかしら」
「フェリシアに生きていられては都合の悪い人間さ」
「でも、フェリシアは日本に来て一年三カ月後に殺されたのよ。その間に、彼女に生きていられては都合の悪い人間が現われたとはおもえないけど」
「フェリシアは日本に父親を探しに来たと言っていただろう」
「そんなことを言っていたわね」
「フェリシアが殺される少し前、彼女は父親の行方がわかりかけたと言っていた」
「そんなことを言っていたの」
「まだ会っていないけれど、パパのような気がすると言っていたよ」
「フェリシアが突然娘だと言って現われたら、フェリシアのお父さん、喜ぶかしら」
「さあ、そこだよ。二十数年前、異国のプレイのつもりでつき合った女性の子供が突然、目の前に現われて、実の子供だと名乗られたら、喜ぶよりも困るんじゃないかな。
彼にも当然、家庭があり、社会的な地位もあるかもしれない。突然の父娘《おやこ》ご対面となっても、父親の方には父をたずねて何千里のフェリシアのような懐かしさはないだろう。あるのはむしろとまどいと困惑だけかもしれない。つまり、父親にとってはフェリシアの存在は都合が悪いことになる」
「本杉さん……あなた、まさか」
「ふと考えてみただけさ、想像するのは自由だからね」
「本杉さんに言われて、私もそんなような気がしてきたわ。たしかに、フェリシアの父親にしてみれば、突然毛色の変わった女の子が目の前に現われて、パパと呼びかけてきたら、困っちゃうかもしれないわ。まして、そのパパに社会的地位があれば、若いころの外国のプレイの落とし子が現われたら、大いにまずいわよ」
「フェリシア自身、名乗り出てパパを困らせてはいけないから、名乗り出ようかどうか迷っていると言っていた。フェリシアの言葉では、彼女のパパはとても偉い人のようだった」
「名乗り出なければ、パパがフェリシアを殺す必要はないわね」
「パパを困らせるつもりはない。ただ、一目会って、それを土産に母国へ帰りたいと言っていた」
「一目でも二目でも、パパにとってはフェリシアの存在は脅威だったかもしれないわね」
「そういうことになるかな」
「本杉さんはそのことを警察に話したの」
「話してないよ。ぼくの憶測にすぎないからね。下手なことを話して、警察の捜査を混乱させたくない」
「私、話した方がいいようにおもうけれど」
「ぼくの推測だけで裏づけるものがなにもないんだよ」
「本杉さんもいま言ったばかりじゃないの。フェリシアに生きていられては都合の悪い人間が犯人だって。フェリシアの日本のパパにとっては、フェリシアの存在は都合が悪いのよ。充分犯人になる可能性があるわ」
「しかし、仮にも自分の実の娘だよ」
「パパにとっては、突然目の前に現われた毛色の変わった女にすぎないわよ。娘としての愛情なんかなかったでしょう」
「実の娘だからこそ、困ったはずだ。しかし、いくら困っても、果たして自分の実の娘を殺せるものだろうか」
「実の娘ということと、愛情はべつの問題よ。血がつながっていても、愛情なんか全然ない場合も珍しくないわ。むしろ血がつながっていればこそ、都合が悪いのよ。
フェリシアが殺されたということは、彼女のパパが娘と認めた証拠よ」
直美はすでにフェリシアの父を犯人として踏まえているようである。
主客が交替した感じであった。
フェリシア殺しの捜査は膠着《こうちやく》していた。
荒尾幸広の線は消去されたものの、彼の自供につづく逮捕は、フェリシア殺しの解明には役立っていない。八方塞《はつぽうふさ》がりの捜査本部の中で、棟居がおもいだしたように言い出した。
「梅川有美子はフェリシアをまったく知らないと言っています。有美子が嘘《うそ》をついているとしても、彼女一人でフェリシアの死体を町田署管内の山中の防空壕《ぼうくうごう》に運んで遺棄することはできません。だれかの助けを借りたか、彼女の言葉通りフェリシアと無関係とすれば、残るは梅川隆一と荒尾幸一郎の二人ということになります」
この二人の事件に対する関連性は、すでに那須から示唆されている。
本命の容疑者(荒尾幸広)が消去されて、その背後から最近、隠岐に旅行した人物が浮かび上がってきた。
つまり、本命は隠岐に無関係であったが、本命の父親や婚約者が隠岐に旅行していた。
棟居の発想の原点には檜扇貝と乗船簿の共通項がある。
二つの共通項が三人の共通関係人物を浮かび上がらせた形である。
折も折、本杉高志から、フェリシアの来日目的に関する情報が寄せられた。
荒尾幸一郎は若いころ、フィリピンやタイでいかがわしい仕事に従事していたという噂がある。
噂の真偽は確かめられていないが、彼が若いころフィリピンでフェリシアの母親と関《かか》わりを持った可能性がある。
本杉の情報は棟居の推測を裏づけるものである。
フェリシアの父親の位置に荒尾幸一郎を置いてみると、これまで散乱していた事項がおさまるべきところにぴたりとおさまって、一個の有機的な構図を描き出す。
もしフェリシアの実父が荒尾幸一郎であれば、フェリシアの出現は幸一郎にとって驚天動地の事件であったはずである。
フェリシアを我が子とは絶対に認知できない。
単に若いころの情事の落とし子が目の前に現われただけではなく、あろうことか我が息子と関係を持っている。
しかも、フェリシアの腹には幸広の胤《たね》が宿されたという。幸一郎にとっては悪魔の申し子である。
一刻も早く二人の関係を断ち切り、フェリシアの胎内に成長しつつある悪魔の申し子を掻《か》き出してしまわなければならない。
棟居には荒尾幸一郎の驚愕《きようがく》と焦りが目に見えるようであった。
だが、フェリシアの父親が荒尾幸一郎であるという証拠はなにもない。
ジグソーパズルの破片《チツプ》のように幸一郎をフェリシアの父親の位置に置いてみたら、ぴたりとおさまっただけである。
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同意した遺棄
根岸義人はしばらく戦跡探しを中止していた。
町田市域の山中に五十年前の防空壕があると聞きつけて探しに行ったところ、防空壕の中に殺人死体を発見してしまった。
被害者は若い外国人女性であったが、壕の奥に横たわっていたむごたらしい形は、いまでも瞼《まぶた》の裏に刻み込まれている。
五十年の星霜は、戦争の遺跡を所在だけではなく、そんな形に風化してしまったのである。
かつて爆撃から人間の生命を守ってくれた防空壕は、五十年後、殺した死体の隠し場所となってしまった。
ある意味では殺された外国人女性も、戦争後遺症の被害者と言えるかもしれない。
年が変わって季節が次第に陽転してくると、死体によって怯《ひる》んだ気分が立ち直ってきた。
死体と共に発見されて、あの防空壕も所在が明らかにされた。
町田市では市の史跡として保存を検討中ということであるが、戦争資料保存会からもぜひ保存するようにと要請している。
戦争遺跡の発見は、両刃の剣である。
これまでだれ知られるともなく埋もれていた戦跡が、発見されたことによって所在が明らかになり、原型を損なわれたり、最悪の場合は跡形もなく破壊されてしまうことがあるからである。
もしあの防空壕が根岸の発見によって埋め立てられるようなことでもあれば、防空壕は殺された被害者と共に浮かばれないであろう。
だが、保存会が探さなければ、戦跡は所在を知られることもなく、記録もされずに、破壊されてしまうかもしれない。
現に保存会の手の及ぶ前に、多くの戦跡が風化、あるいは破壊されてしまった。
破壊されるにしても、せめて記録はしておきたい。
こうして根岸はしばらくの中断の後、ふたたび戦跡探しを始めることにした。
戦跡探しのときに着用している釣り用のジャンパーやリュックサックを取り出して埃《ほこり》を払い、地下足袋《じかたび》の土を落とした。
昨年の防空壕探しのときに脱ぎ捨てたままである。
地下足袋に付いている土は、防空壕の土かもしれない。
泥まみれの地下足袋の土を落としていた根岸は、地下足袋の底の紋様の刻み目に挟み込まれている異物に気がついた。
「おや、なんだろう、これは」
根岸は異物をつまみ取ろうとした。
踵《かかと》の部位の刻み目の間に異物はしっかりとくわえ込まれていて、なかなか取れない。
刻み目を広げるようにしてようやくつまみ取った異物を、根岸はしげしげと観察した。
それはバッジであった。
バッジの表に多摩カントリークラブ545とナンバーが刻み込まれ、ゴルフボールとクラブの図案が描かれている。
カントリークラブのバッジらしい。
「もしかすると、このバッジはあの防空壕の中にあったものかもしれないな」
多摩カントリークラブは、防空壕の所在地の近くにあるゴルフ場である。
なにげなくバッジの拾得場所を思案していた根岸は、ある連想を促されてはっとなった。
「このバッジは犯人の遺留品ではないのか」
バッジを根岸の地下足袋がくわえ込んだ場所が防空壕であるとするなら、根岸より先にその防空壕へ行った者がいることになる。
山中の忘れられた防空壕に先客が何人もいるはずがない。
フェリシアがバッジの落とし主でなければ、犯人のものである可能性が大きくなる。
もちろんバッジは他の場所でくわえ込んだ可能性もある。
だが前回、防空壕探しに出かける前に地下足袋も点検したが、そんなバッジはくわえ込んでいなかったようにおもう。
ゴルフ場の所在地が防空壕の近くであることも、バッジの拾得場所が防空壕の中である確率が高くなる。根岸の胸に興奮が盛り上がってきた。
もしこれが犯人の遺留品であるとすれば、ゴルフ場に問い合わせれば、犯人の身許が判明する。重大な証拠資料である。
また、もし犯人とまったく関係がなければ、無辜《むこ》の人間に迷惑をかけてしまう。
根岸は迷った。
関わり合いになりたくない気もする。犯罪の犯人探しは、戦争資料保存会の役目ではない。
だが、死体の発見者として根岸はすでに事件に関わっている。
被害者が早く犯人を捕まえてくれと、根岸に訴えているようである。
バッジの所有者が事件に無縁であれば、すぐにわかるであろう。
根岸はおもいきって、バッジを警察に届け出ることにした。
フェリシアの死体発見者から意外な資料を届け出られて、捜査本部は色めき立った。
「ついでに地下足袋と、地下足袋に付着していた土も一緒にお借りしたいのですが」
地下足袋の土はおおかた洗い落としてあったが、底の刻み目の中にはわずかに付着したまま残されている。
その土をかき落として防空壕の中の土と比較検査するのである。
土の対照検査と並行して、多摩カントリークラブに会員番号545番の会員の身許が照会された。
その結果、地下足袋に付着していた土は防空壕の土と同一種類と判定され、545番の主は荒尾幸一郎と判明した。
捜査本部は興奮した。ここに荒尾幸一郎が再登場して来た。
荒尾については、すでに棟居からマークすべき人物として捜査会議に提議されている。
「荒尾幸一郎は政界の要路と通じている政商で、梅川隆一の黒幕でもある。
彼のバッジがフェリシアの死体発見現場に残されていたからといって、即彼が犯人ということにはならない。
バッジは第三者の手に渡ることもできるし、バッジの拾得者が発見現場で拾得したとは確かめられていない」
という慎重意見が出された。
「地下足袋に付着していた土は、発見現場の土と符合したのであるから、バッジは現場で拾得されたと断定してよいのではないか」
「地下足袋に付着していた土が発見現場の土と符合したというだけであって、土とバッジが同じ機会、同じ場所において地下足袋に引っかかったことにはならない」
捜査本部は動揺していた。
政界の黒幕、梅川隆一と結んだ巨大な政商の浮上に緊張した。
荒尾ほどの大物となると、容疑がかなり煮つまっていないと手出しできない。
逮捕状を用意するか、逮捕状がいつでも下りる下地ができた上で対決しないと返り討ちに遭ってしまう。参考人として事情を聴くことも、逮捕の前段階でなければならない。
フェリシアから父親の写真を見せられた本杉に、写真の主は荒尾幸一郎に似ていたかどうか問い合わせたところ、二十数年前の写真で、一度見ただけなのでなんとも言えないと答えた。
捜査本部の意見は真っ二つに割れた。
積極派は荒尾幸一郎の容疑は充分と主張した。
これに対し消極派は、容疑がまだ煮つまっていないと反駁《はんばく》した。
いずれにしても一理あり、早計には決められない。
双方の意見を聞き終わった那須警部が発言した。
「棟居君の仮説を考慮すれば、荒尾幸一郎には充分な動機がある。
だが、あくまでも仮説の域を出ず、荒尾とフェリシアの父娘関係は確認されていない。
また荒尾は隠岐に旅行しており、多摩カントリークラブのメンバーであるところから、現場付近にも土地鑑を持っていることがうかがわれる。
以上を総合して、荒尾幸一郎の容疑性を固めたい」
那須の言葉が結論となった。
荒尾幸一郎は政財界にまたがる有名人でもあるので、公開されている資料も多い。
まず公開資料を広く集めて、本人と犯人像とのギャップを埋め立てていく。
公開資料で埋められない未公開のプライベートな資料を集める。
この捜査が問題を生じやすい。
幸一郎とフェリシアの間に接点が見つかれば、彼の犯人像は一段と濃くなる。
「フェリシアは殺される少し前、父親がわかりかけたと言っていたそうですが、どんな線を手繰って父親に行き当たったのでしょうかね」
棟居が有馬に問いかけた。
「本杉にフェリシアが語ったところによると、二十数年前、父親が勤めていたという会社には、父親の名前の社員は在籍していないということでしたね」
「フェリシアは父親の写真を持っていたそうです。その写真が消えています」
「フェリシアが持っているはずの写真が消えているとなると、犯人が持ち去ったことが考えられますね」
「犯人にしてみれば、最も危険で重大な資料です。フェリシアはその写真を頼りに父親を探し出したのかもしれません。二十数年しても変化しない特徴が、その写真にあったのでしょう」
「荒尾幸広は当然知らなかったでしょうね」
「知っていれば、フェリシアを囲ったりなんかしなかったはずですよ」
「いま、ふとおもいついたことですが、フェリシアが父親がわかりかけたと言ったのは、幸広に囲われた前だったとおもいます。
二十数年前の父親の写真を持っていただけでは、そう簡単にその消息がわかるとはおもえません。幸広とつき合うようになって、幸一郎に接触する機会が生じたのだとおもいますよ」
「そうか、もしかすると幸広が、フェリシアから父親の形見をなにか預かっているかもしれませんね」
「その可能性が考えられます。しかし、フェリシアがもし幸広と兄妹《きようだい》ということに気がついたら、彼との関係をつづけられなかったとおもいますが」
「その辺のところも、幸広に確かめたいとおもいます。幸広が菊岡理絵を殺害するに至ったのも、もしかしたらフェリシアから関係を拒まれて鬱憤《うつぷん》が爆発したのかもしれませんよ」
「これらの点を早速、幸広に確かめてみましょう」
現在、荒尾幸広は起訴されて拘置所に勾留《こうりゆう》されている。未決勾留中の刑事被告人は本件の取調べ中、余罪を自供することがある。
幸広に会った棟居と有馬は、新たに浮かび上がった疑問点について確認した。
「実は、フェリシアを専属にしてから四カ月ほど後、急に彼女が私を拒むようになりました。私が嫌いになったのかと問うと、嫌いではない、大好きだと言いながら、関係を拒否するのです。無理に関係しようとすると、舌を噛《か》んで死ぬと言いました。なぜ急に拒むようになったのかと聞いても、理由を言いません。
菊岡理絵さんに出会ったのは、フェリシアからずっと拒まれて、むしゃくしゃしていたときでした。
専属の女から拒否されて、行きずりの少女からはたった一度のプレイに六十万円も要求されて、おもわずかっとなってしまったのです」
「フェリシアにきみの父親について話したことはなかったか」
「そう言えば、親父《おやじ》の写真が載っていた新聞をフェリシアが熱心に見ていたので、私の親父だと言うと、大変びっくりしたような顔をしていました」
「そのとき、なにか言わなかったかね」
「そうそう、妙なことを言っていたな」
「妙なことというと」
「親父のことをべつの名前で呼んでいました」
「なんという名前だね」
「ヤマなんとか言っていたな」
「ヤマギシアキヒコではないかね」
「そうそう、そんな名前だった。どうして知っているんですか」
幸広が驚いた表情をした。
「フェリシアを専属にしてから、彼女からなにか預かったものはないかね」
棟居は幸広の反問に取り合わず、質問をつづけた。
フェリシアのマンションに残されていた遺品は、すべて綿密に調べられている。
「預かったもの……さあ、特にないなあ」
「フェリシアは父親を探しに日本に来たというようなことを言っていなかったかね」
「ああ、たしかそんなことを言っていたな。父親は日本の商社マンで、フィリピンに出張中、フェリシアの母親と恋愛してフェリシアが生まれたそうだ」
「父親の名前を言わなかったかね」
「聞いていないな」
棟居と有馬は、本杉から聞いていたフェリシアの父の名をあえて告げなかった。すでに充分ダメージを受けている彼に、責任のないことで追い討ちをかけることはあるまいとおもったからである。
「そうそう、預けられたわけではないが、フェリシアのものが残っていたな」
幸広はふとおもいだしたように言った。
「フェリシアのものが残っている……なんだね、それは」
棟居と有馬はおもわず上体を乗り出した。
「猫ですよ」
「猫?」
「フェリシアは猫が好きで、デパートのペットショップから仔猫《こねこ》を買って来て、飼っていたのです。あの猫、どうなったかなあ」
「フェリシアは猫を飼っていたのか。そんなことは知らなかったな」
「家族同様に可愛《かわい》がっていましたよ。おれより猫の方を愛していたかもしれない」
「その猫はどうしたかね」
「さあ、フェリシアが死んで、野良猫になっちゃったでしょうね」
「どんな猫だったかね」
「日本猫です。真っ白で、尻尾《しつぽ》の先だけ墨に浸したように黒かったですね。フェリシアはシロと呼んでいました」
幸広に確認して、荒尾幸一郎がヤマギシアキヒコ、すなわちフェリシアの父親である状況が濃くなってきた。
フェリシアが居住していたマンションに問い合わせたところ、猫は管理人が引きつづき餌《えさ》をあたえて、放し飼いにしていることがわかった。
「人なつこくて可愛い猫なので、私が餌をあたえています。このマンションのまわりに住み着いていますよ。入居者みんなが可愛がっています」
と管理人は言った。
フェリシアの飼い猫はその主を失った後も、入居者のペットとしてたくましく生きているらしい。
棟居はその猫を見に行った。
管理人がシロと呼ぶと、尻尾を振りながらどこからか出て来た。
全身真っ白で、尾の先端だけが黒い。入なつこい、愛嬌《あいきよう》のある猫であった。
「人なつこいのはいいのですが、どうも節操がなくて、飼い主があんな目に遭ったというのに、少しも悲しげな顔をすることなく、だれにでも愛嬌を振りまいていますよ」
管理人は苦笑いした。
「この猫ならば、みんなに可愛がられるでしょうね」
「こんな可愛げな顔をしていて、けっこう強いらしく、このマンション周辺一帯を縄張りにしています」
フェリシアの身許が判明してから、その住居は調べたが、飼い猫がいたことには気がつかなかった。
管理人も入居者たちも、飼い猫についてはなにも言わなかった。
「フェリシアさんも可愛がっていたんでしょうね」
「どこへ行くにも一緒に連れて行きましたよ。犬並みに一緒に散歩にも行きました。車で遠出するときも、車に乗せて行きました」
「フェリシアさんが消息を絶ったときは、なぜ一緒に連れて行かなかったのかな」
「そのことを私も不思議におもっています。きっと急いでいて、シロを連れて行く暇がなかったのでしょう」
もう一つ考えられる可能性は、犯人に拉致《らち》されたために、シロを連れて行けなかった場合である。
だが、それならば、なぜフェリシアは救いを求めなかったのであろう。
犯人が荒尾幸一郎であれば、フェリシアはなんの疑いも抱かずに彼に従《つ》いて行ったにちがいない。
その際、幸一郎が猫は置いて行くようにと言えば、その通りにしたであろう。
猫が取り残されたことに犯人の意志と、フェリシアの同意が感じられる。
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飼われていた証拠
荒尾幸一郎の容疑は濃厚であったが、依然として決め手に欠けていた。
身辺内偵捜査によっても、幸一郎とフェリシアの接点は見つけられない。
彼の若いころの経歴は茫漠《ぼうばく》としていて、確かめようがない。
荒尾幸一郎は戦時中、軍需物資の調達をしていた荒尾|征四郎《せいしろう》の知遇を得て、その女婿《じよせい》となった。
終戦後、荒尾征四郎は軍の退蔵物資を独占して、荒尾産業の基礎を築いた。彼の跡を継いだ幸一郎が政界と結んで企業規模を飛躍させ、今日の大をなした。
現政権党の結党資金は、幸一郎が出したという噂《うわさ》がある。
内偵捜査によっても決め手はつかめなかった。
捜査本部に焦燥が募った。
それから数日後の捜査本部で、棟居は荒尾幸一郎の資料を見ていた。
彼に関する公開、非公開資料の手に入る限りは集めた。
集めた資料には全部、目を通しているはずであるが、新たに得るものもないまま、もう一度見直している。
それは数カ月前の写真週刊誌のバックナンバーである。
すでに目を通しているページを未練がましくもう一度眺めていた。
見出しには政界の黒幕荒尾幸一郎のプライバシーと書かれて、次のような記事がつづく。
――荒尾幸一郎と言えば政界の黒幕、政商、フィクサー、そして民友党幹事長、次期総理候補として最も下馬評高い梅川隆一《うめかわりゆういち》氏の刎頸《ふんけい》の友として、自他共に認める政財界を股《また》にかける大物である。旧荒尾機関の総帥荒尾征四郎氏の知遇を得て、荒尾産業を引き継ぎ、関連企業五十六社を抱える一大企業グループの総帥となった。
その分刻みのスケジュールは殺人的で、睡眠十八分、食事が一分三十秒、排泄《はいせつ》には二十五秒しかかけていないという伝説を生んだ。
ことほどさように日曜日の午後、世田谷区成城の自宅で寛《くつろ》いでいたかとおもうと、その日の夜は国際線の機上の人となっている。国内にいるときも五十六事業の拠点に忍者のように神出鬼没。側近すらその居所をつかむのが難しいと言われる。
なんとその荒尾氏が東京の街角にたった一人でいるところを捕らえたのがこのスナップ。どこへ行くところか、あるいはどこから帰って来たところか、なにやら人目を憚《はばか》るような目配りをしながら、世田谷区のある公園のかたわらを歩いていた。まさかあの荒尾氏がと疑いながら、遠方からシャッターを押したが、もし気づかれたらカメラからフィルムを引っこ抜かれそうな迫力があった――
以上の文章が付いた写真は、遠方から盗み撮りしたらしくややピントが甘いが、公園を急ぎ足に歩いている様子の荒尾幸一郎が撮影されている。
普通の人間が被写体なら面白くもなんともない写真であるが、荒尾幸一郎の微行一人歩きとなるとニュースバリューが高い。
漫然と写真に向けていた棟居の目が、はっとして構図の一隅に固定された。
「これはなんだ」
棟居はおもわずつぶやいた。
かたわらに居合わせた有馬が聞き咎《とが》めた。
「どうかしましたか」
「これを見てください」
「荒尾幸一郎ですね。この写真なら見たことがあります」
有馬はさして興味なさそうに答えた。
「ここですよ。これを見てください」
棟居が指さした構図の一角に目を向けた有馬は、顔色を改めた。
捜査本部は棟居の発見を検討した。そして、荒尾幸一郎の容疑は確定したという結論に達した。
その日のうちに殺人、および死体遺棄容疑で東京地裁に逮捕状が請求され、発付された。
三月十五日午前七時三十分、町田署捜査本部より十六人の捜査員が世田谷区成城の荒尾幸一郎の自宅を訪問して、任意同行を求めた。
すでに前日から荒尾邸周辺に前進基地を設けて、彼の帰宅は確かめてあった。
荒尾幸一郎の任意同行となるとマスコミの大騒ぎになる。
捜査員はそれぞれの自宅から荒尾邸近くの公園に集合して、荒尾邸に向かった。
早起きの幸一郎はすでに起床していて、朝の日課である太極拳《たいきよくけん》を行なった後、ダイニングルームで朝刊を読んでいた。
早朝、捜査員が大挙して訪問し、任意同行の要請に荒尾は少し驚いたようであったが、悠然たる姿勢は崩さず、捜査員を待たせて着替えをすると、荒尾邸の前に待たせてあった警察の車に乗り込んだ。
近所の住人はそのことを知らない。
町田署の捜査本部に同行された荒尾幸一郎は、用意されていた朝食に、息子と異なり平然と箸《はし》をつけ、おおむね平らげた。
朝食後、荒尾に応対したのは那須《なす》警部である。
これまで通り補佐に棟居と有馬が付いた。
「早朝からご足労いただきまして恐縮です」
那須は低姿勢に切り出した。
「驚きましたよ。一体なにごとでしょうかな。あんな大勢のご足労をいただかなくとも、電話一本くだされば、私の方から出向いてまいりましたものを」
幸一郎は大物らしく悠然たる姿勢を維持して言った。
言葉遣いは慇懃《いんぎん》であるが、大物然として那須らを見下している。
「早朝からお騒がせして申し訳ございません。少々お訊《たず》ねしたいことがございましてお呼び立ていたしました」
「どんなことでしょうか」
「フェリシア・キリノという女性をご存じですか」
「息子が親しくしていた女性のことですか。都下の山中の防空壕《ぼうくうごう》で殺されていたのを発見された………」
「そうです。そのフェリシアさんです」
「息子が疑われたので名前は知っていますが、会ったことはありません」
「フェリシアさんが社長を訪ねて来たことはありませんか」
「フェリシアとかいう女が私を……なんのために訪ねて来るのですか」
「フェリシアさんは妊娠四カ月でした。胎児の父親はたぶんご子息でした」
「私にはなにも言っておらんが」
「申し上げにくいのでしょう。ましてや現在、梅川隆一氏のご令嬢と婚約が調ったばかりですから」
「幸広があんなことになったので、あの婚約は一時保留ということになっています。私は幸広の無実を信じています。裁判で必ず無実を証明してみせますよ」
幸一郎は挑戦するように言った。
まだ公判は始まったばかりである。
幸一郎の財力と人脈を最大限に駆使して、法廷戦術を繰り広げるであろう。
だが、いまは幸一郎自身の頭の上に火の粉が降りかかっている。
それにもかかわらず彼の挑戦的姿勢は、その自信と余裕を示すものでもある。
「それではフェリシアさんに直接会ったことはありませんか」
「ありませんな。会う必要もない」
「ご子息がフェリシアさんと親密な関係になる前に会ったことはありませんか。いや、ご子息とは関わりなく、フェリシアさんをご存じではありませんか」
「質問の意味がよくわからんが」
「フェリシアさんと個人的なお知り合いではないかという意味です」
「どうして私が、息子がつき合っていた女を知っていなければいけないのかな」
幸一郎はゆったりと問い返した。
「フィリピンへ行かれたことはありませんか」
那須は幸一郎の反問に取り合わず、質問をつづけた。
「仕事柄、何度か行ったことはあるがね、フェリシアとかいう女とは関係ありませんよ」
幸一郎が先に予防線を張った。
「二十数年前にフィリピンへ行ったことはありませんか」
「そんな以前にはないな」
「ところで、荒尾さんは以前、ヤマギシアキヒコと名乗っていたことはありませんか」
「ヤマギシ……いいえ。全然心当たりのない名前ですね」
「ご結婚前はたしか山際《やまぎわ》という姓でしたね」
幸一郎はうなずいた。
警察がそこまで調べていることに、捜査本部の姿勢を感じ取ったようである。
「ご親戚《しんせき》やお知り合いにヤマギシアキヒコという人はいませんか」
「一向に心当たりはない」
幸一郎はにべもなく言った。
那須はヤマギシアキヒコを一時保留して、多摩カントリークラブのバッジを差し出した。
「このバッジは社長のものですね」
那須はビニール袋に入れた多摩カントリークラブのバッジを差し出して、
「545番の会員番号が刻んであります」
「番号からするとカントリークラブの私のバッジだが、これをどこから……」
幸一郎の悠然たる目に初めて不審げな色が塗られた。
「フェリシアさんのそばに落ちていたのです。フェリシアさんの死体が発見された防空壕の中に」
那須は幸一郎の面を凝視しながら言った。
那須の言葉は正確ではない。実際は死体発見者の地下足袋の底の刻み目に挟まっていたのである。
「どこかに失っていたものだが、そんなところに落ちていたのかね」
幸一郎はまったく動じない。
「社長のカントリークラブのバッジが、どうしてフェリシアさんの死体のそばに落ちていたのでしょうか」
「さあ、そんなことは知らないね。バッジなんてこんな小さなものだ。私が落としたものをだれかが拾い取ったのだろう。
それにバッジが、その防空壕の中にあったという証拠があるのかね」
「ビニールの中をよくご覧ください。バッジと共にごく微量の土が入っています。その土の成分を鑑定しましたところ、防空壕の土と一致しました。正式な名称は洪積層火山灰土、俗に黒ボクと呼ばれる土です」
「同じ土など、どこにでもあるだろう」
「ところが、土の中には夥《おびただ》しい微生物が含まれていましてね、顕微鏡で検査すると、細菌、糸状菌、つまり黴《かび》ですな。それから藻類、原虫など、まさに微生物の宝庫です。
土に含まれたこの微生物の種類と割合は、土の所在地によって微妙に変わります。バッジはフェリシアさんの死体と共に、同じ防空壕の中に落ちていたのです」
「それがどうしたというのかね。バッジなどというものは失いやすいものでもあるし、拾った者はだれでも、どんな場所にでも落とせるよ」
幸一郎は平然としている。
「たしかにバッジは失いやすいものでもあるし、だれでも拾えます。しかし、落ちていたバッジを拾い取って、被害者の死体のそばに落として行くという人間はいないのではありませんか」
那須の口調が皮肉っぽくなった。
「いるかいないか、その辺の解釈は警察にお任せします。しかし、私はバッジをどこに失ったか記憶にないし、フェリシアなる女性には会ったこともない。息子の囲い者には用はない」
幸一郎は言い切った。その口調の裏には、下級警察官の首の三つや四つは並べて吹っ飛ばせるという傲岸不遜《ごうがんふそん》な態度が覗《のぞ》いている。
だが、当初の慇懃無礼が傲岸不遜に変わってきたことは、それだけ那須の追及が的を射ていることを示している。
「それでは、この写真をご覧ください」
那須は悠揚として迫らざる態度で、収集した資料の一つの写真週刊誌を差し出した。
開かれたページには、棟居が着目した幸一郎の街角でのスナップが写っている。
「なにかね、これは」
幸一郎は問い返した。
「ご覧のように社長の街角でのスナップですよ。盗み撮りをしたらしく少しピントが甘いが、特徴をよく捕らえています」
「私には写された記憶がない」
「雑誌社に問い合わせたところ、撮影日時は十月二十八日午後三時ごろ、撮影場所は世田谷区のある公園の中ということでした」
「まったく記憶に残っていない。この写真がどうかしたのかね」
「写真の右端、誌上をご覧ください」
那須は指さした。
幸一郎の視線が那須の指先に向けられる。
「ここに猫が写っています。全身真っ白、尻尾《しつぽ》の先だけが墨に浸したように黒くなっています」
それがどうしたと、幸一郎の目が問いかけている。
「実は、この猫はフェリシアさんの飼い猫です」
この意味がわかるかと問うように、那須は幸一郎の目の奧を覗き込んだ。
「フェリシアの飼い猫……」
幸一郎には咄嗟《とつさ》に那須の示唆の意味がわからないらしい。
「この写真の撮影場所はフェリシアさんの住居からは離れています。猫の縄張りはその住居を中心に約三十ないし五十ヘクタールの範囲だそうですが、それからもはるかに離れています。つまり、あなたと一緒にフェリシアさんの飼い猫が写っているということは、この写真の撮影時、撮影場所の近くにフェリシアさんがいたということになります」
社長がいつの間にかあなたになっている。
これまで仮面のように静止していた幸一郎の顔色が少し動いた。
「そ、それが、どうしたというのかね。たまたまフェリシアが写真の撮影時、撮影場所の近くを通りかかっただけだろう」
「雑誌に掲載されたスナップはこれ一枚だけでしたが、同じ機会に撮影した掲載されなかったスナップが何枚かあるのです」
那須は言うと、さらに数枚のスナップを幸一郎の前に差し出した。
そこにははっきりとフェリシアと幸一郎の姿が一緒に定着していた。
路傍に駐車した一台の乗用車から降りかけているフェリシアと幸一郎、やや距離を保って歩いている二人。
いずれにしても二人が連れ立っていることを明確に示すスナップである。
「雑誌社では、あなたの立場を考えて、フェリシアさんとのツーショットはあえて掲載しなかったと言っております」
荒尾幸一郎の脂ぎった血色のよい顔がみるみる白茶けていった。
「そうそう、申し忘れましたが、このスナップを撮影した十月二十八日からフェリシアさんは消息を絶ったのです」
那須が止《と》どめを刺すように言った。
捜査陣にはもう一枚、切り札が用意されていた。
雑誌社から荒尾幸一郎とフェリシアのツーショットを領置したころとほぼ時期を同じくして、フェリシアが所属していた新宿歌舞伎町のエスコートクラブ「メッチェン」の店長から、フェリシアの遺留品の中から出てきたという一枚の写真が提供された。
それは荒尾幸一郎の二十数年前の前身、ヤマギシアキヒコの写真であった。
現在とはだいぶ様子が異なっているが、幸一郎の特徴を捕らえている。
有無を言わせぬ証拠を突きつけられて、荒尾幸一郎は犯行を自供した。
「フェリシアは私が若いころ、山岸明彦名義で経営していた貿易の仕事で、マニラに滞在していたころ知り合ったフィリピン女性に産ませた子です。フェリシアが生まれる前に帰国した私は、その後、荒尾征四郎の知遇を得て、その女婿となり、荒尾産業を引き継ぎました。フェリシアが私の顔写真を新聞に発見して、私を訪ねて来たときは驚きました。
それにもましてショックを受けたのは、幸広がフェリシアを囲い、彼女がすでに妊娠していたことです。
フェリシアには可哀想《かわいそう》だとはおもいましたが、私の娘として認知できない。フェリシアには胎児を中絶するように言いました。しかし、フェリシアはどうしても産むと言い張ったのです。あろうことか兄と妹が交わってもうけた子を、孫として認めることは絶対にできません。そんな孫を産ませてはならないとおもいました。
私はそのとき、正常な判断力を失っていました。巨大化した企業の経営に疲労していた私は、突然出現したフェリシアから突きつけられた難問にうろたえて、自分を見失ってしまったのです。
こんなことを相談する人間もなく、このようなとき、最も私を助けなければならない幸広には秘匿しなければならない問題でした。
こうして私はフェリシアさえこの世から消えてくれれば、すべて円満におさまると、短絡してしまったのです。
十月二十八日、フェリシアを誘い出すと、喜んで出て来ました。まさか猫を一緒に連れて来るとはおもいませんでした。車に乗せて世田谷区の公園のそばを通りかかったとき、フェリシアが猫がトイレに行きたがっていると言い出しました。やむを得ず公園のそばに車を停《と》めてちょっと降りたとき、写真週刊誌に盗撮されたのです。
現場の防空壕の所在地は、以前、ゴルフの帰りにその近くにあった無住寺に立ち寄って知っていました。
なんの警戒もしていなかったフェリシアを殺すのはいとも簡単でした。フェリシアの死体を防空壕に運んだとき、その重さに罪の重さを感じました。
そのとき猫も一緒に殺そうとおもったのですが、フェリシアと猫が同時に失踪《しつそう》しては疑惑を招くとおもい直して、フェリシアの死体を防空壕に捨てた後、猫を彼女のマンションに連れ帰りました。
防空壕に檜扇貝《ひおうぎがい》とバッジを落としたことには気がつきませんでした。
檜扇貝は隠岐《おき》へ行ったとき、現地の世話人から土産にもらったものですが、だれかにあげようとおもって車に積んだまま忘れていました。フェリシアが物珍しげに手に取って見ていましたから、もしかしたらフェリシアがその一枚を衣服に忍ばせたのが防空壕に落ちたのかもしれません」
荒尾幸一郎の自供によって、フェリシア殺害事件は解決した。
政財界を股にかけた大政商の犯罪を、マスコミは大々的に報道した。
しかも父子が前後しての殺人に社会は驚愕《きようがく》した。
荒尾企業グループは総帥の凶悪犯罪に、急遽《きゆうきよ》、臨時株主総会を招集し、幸一郎の社長解任を決議した。
だが、政財界の被った衝撃は幸一郎を解任しただけで癒《いや》せるものではなかった。
特に荒尾幸一郎と刎頸の友と自他共に認める梅川隆一のショックは深刻である。
梅川は主要資金源を失うだけではなく、政治家としての彼のイメージも大きなダメージを受けた。
これまで持ちつ持たれつの関係であったが、殺人事件の犯人として自供した後では援庇《えんび》の手も及ばない。下手に庇《かば》い立てすれば、梅川自身が共犯者の染色を受ける。
現に梅川を共犯者のような目で見ている者もいる。
こうなると刎頸の交わりが同じ穴の貉《むじな》になってしまう。
荒尾幸広の逮捕によってダークなイメージの下地ができていたところに、幸一郎逮捕の追い打ちを受けて、ダークイメージの上塗りをされた形である。
幸広の逮捕によって一時保留していた彼と梅川有美子との婚約は、幸一郎の逮捕によって白紙に戻された。
荒尾幸一郎の逮捕は本杉高志《もとすぎたかし》に衝撃をあたえた。彼がフェリシアを殺害した犯人とは予想もしなかったことである。
報道された自供によると、幸広の子を妊娠した彼女が中絶を拒んだために、おもいあまって犯行に走ったという。
荒尾幸一郎ほどの人物が信じられないような軽率な犯行動機であるが、「おもいあまった」という自供の中に、表には現われない複雑な動機が秘められているのであろう。
荒尾幸一郎の逮捕後、梅川隆一は荒尾との関係を否定することに躍起になっていた。
父子|揃《そろ》って殺人犯と、刎頸の交わりを結んでいたとあっては、梅川の政治家イメージにも関わってくる。
本杉は梅川隆一の態度が我慢ならなかった。
梅川と荒尾の刎頸の交わりは多年にわたって自他共に認めるところである。
荒尾のフェリシア殺しは、梅川との間にはなんの関係もないはずである。荒尾ほどの人物がおもいあまってフェリシアを殺したということは、報道されないよほどの事情があったのであろう。
苦境に陥った荒尾が、いまこそ友の助けを必要としているときに、我が身大事に友を見捨てた梅川の利己的な姿勢が目にあまった。
梅川が本杉の父であり、彼の母親と駆け落ちしたパートナーであれば、佐田要介《さだようすけ》の知遇を受けて逆玉の輿《こし》に乗るに当たって、母を弊履《へいり》のごとく捨てたことは想像に難くない。
そんな梅川にいまさら本杉が名乗り出ても、我が子と認知するはずがない。本杉には名乗り出る意志もない。
ただ、梅川を問いつめて、母の行方を確かめたいとおもった。
本杉と養父徳松を捨てた非情の母親であるが、梅川に捨てられて孤独の晩年を送っているにちがいない。
母親らしいことをなに一つしてくれなかった母であるが、母がこの世にいるということには決して無関心になれなかった。
本杉はそのとき、なにげなく導かれた連想に、はっとなった。
母がこの世にいるということは、だれが決めたのか。
母の行方が不明ということは、彼女の生死が不明ということでもある。
もしかすると、母はすでにこの世の人間ではないかもしれない。
もし彼女がすでに死んでいるとすれば、その死の原因に最も近い人間は梅川隆一である。
母と駆け落ちした隆一が、佐田要介の知遇を受けたとき、最も邪魔になる存在は母である。
母を捨てようとしても隆一にしがみついて離れようとしなかったならば、どうしたか。
彼の利己的な性格から判断して、最も手っ取り早い処分方法が容易に推測される。
まさか。
本杉は自分の想像を打ち消したが、疑惑はたちまち彼の胸に根を張り、脳裡《のうり》に枝葉を拡《ひろ》げた。
母が母性の一片でも残していれば、隆一に捨てられた後、捨てた子のことをおもいだしてもいいはずである。
それが徳松が死ぬまでなんの連絡もなかった。
駆け落ちした男に捨てられて、いまさらどの面下げて捨てた夫の許《もと》へ帰れるかという意識があったとしても、本杉の身の上は気にならなかったであろうか。
それがただ一度の便りもしなかったのは、すでに便りのできない状態になっていたからではないのか。梅川隆一が荒尾幸一郎の逮捕と同時に、彼との刎頸の交わりを絶ったのは、隆一も脛《すね》に同じ傷を抱えていたからではないのだろうか。
母は梅川隆一に殺されている。殺されて、その死体を人知れずどこかに隠されてしまっているのだ。
本杉の推測は速やかに確信となった。
それはあくまでも本杉個人の心証にすぎない。そんなことを警察に言っても相手にしてくれないだろう。
仮にも相手は現政権の重鎮である。下手をすれば名誉|毀損《きそん》になる。
だが、本杉は荒尾幸一郎を追いつめ、犯行を自供させた警察の姿勢に信ずべきものを見た。
警察は必ずしも権力の走狗《そうく》ではない。荒尾幸一郎は梅川隆一ほか政権の中枢と結び、現政権党に対して強い影響力を持っている超VIPである。
梅川が事前に警察の動きを察知していれば、荒尾|庇護《ひご》の手を事前に差しのべられたはずである。
警察は梅川の援庇が及ぶ前に、荒尾を厚い証拠の壁の内に隔離してしまったのである。
権力を恐れぬ正義派の警察官が執念をもって荒尾幸一郎を追いつめて行ったのであろう。
本杉はこの警察ならば、あるいは彼の訴えに耳を傾けてくれるかもしれないとおもった。
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訣別の歌
棟居は本杉高志の途方もない訴えにとまどった。
本杉の訴えは棟居の担当した事件となんら関係ないものである。
仮にも相手は現政権党の大物政治家である。その人物をなんの証拠もなく、本杉の推測だけで古い犯罪の容疑をかけることはできない。
だが、棟居は本杉の訴えを聞き流すことができなかった。
梅川隆一ならばありそうな過去である。そして、本杉から提供された彼の父と称する男(母の駆け落ちパートナー)の写真はたしかに梅川の特徴をよく伝えている。
だが、他人の空似と言えばそれまでである。
「たしかに梅川に似ているようですが、どうにもなりませんな」
有馬が写真を見ながらあきらめたように言った。
梅川は荒尾幸一郎の刎頸の友であっただけで、荒尾が犯した罪にはなんの関《かか》わりもない。
荒尾自身、犯行を自供して事件は解決している。この上、梅川を追う口実もない。
「どうにもなりませんが、本杉から届け出を受けて、ふと気になったことがあります」
棟居が言った。
「気になったことというと」
「梅川が隠岐《おき》へ行ったことです。梅川はなんのために隠岐へ行ったのでしょうか」
「講演ということでしたが」
「隠岐は島根県ですが、梅川が隠岐へ行ったのはあの講演会が初めての機会だったそうです。講演にかこつけてなにかほかの目的があったのではないでしょうか」
「梅川に同行した荒尾は、隠岐に観光ホテルの敷地を物色に行ったようですが、もしかしたら荒尾が隠岐へ行く機会に、梅川の講演会を設けて誘ったのかもしれませんよ」
「なるほど、梅川にとって荒尾は重要な資金源ですからね。荒尾から隠岐へ行かないかと勧められて同行したのかもしれませんね」
棟居はうなずいた。
だが、どうも釈然としない。
「棟居さん、なにを考えているのですか」
有馬が棟居の顔色を探った。
「埒《らち》もない妄想かもしれませんが、梅川が本杉の母親と駆け落ちして隠岐へ行ったのではないかと、ふと考えたのです」
「本杉の母親と隠岐へ駆け落ち」
有馬が驚いたような表情をした。
「そうです。梅川は世に出る前に隠岐になんらかの関わりを持っていたのではないのか。功成り名遂げて、隠岐へ様子を見に行った……。犯人は現場へ戻ると言いますからね」
「犯人が現場へ戻る。というと、梅川が隠岐でなにか犯罪を……本杉の母親をどうかしたと……」
有馬は棟居の発想に愕《おどろ》いたようである。
「仮定の話ですが、梅川が本杉の母親を隠岐でどうかしたとすれば、彼の心にいつも引っかかっていたはずです。時効が完成してから旧悪の現場を確かめるために帰って来たと考えるのは無理でしょうか」
「ちょっと無理ではありませんか。彼が隠岐で本杉の母親をどうかして、つまり殺して、死体を島内のどこかに隠したとしたら、犯人の心理としては最も敬遠したい場所ではありませんか。一見、本土から隔てられた離島は、犯罪を隠すのに恰好《かつこう》の場所のようですが、狭い島内によそ者が来れば目立ちます。連れ立って来た男女が帰るときは男一人になっていたら、島の住人の目を惹《ひ》きますよ。当時の住人の中には男の顔をおぼえている者がいるかもしれない。脛《すね》に傷があれば寄りつかないでしょう」
「そうですね。そこがネックです」
梅川が仮に本杉の母親を隠岐でどうかしていれば、隠岐へ行くはずがない。あの時期、隠岐で講演会を開く必然性などはなかった。
梅川になんの証拠もない古い犯罪を疑って、彼の隠岐行と結びつけるのはなんとしても無理である。
棟居は胸をよぎった発想を打ち消そうとした。
だが、心にへばりついた粘液のように、振り落とそうとしても振り落とせない。
棟居は自分を納得させるために西郷《さいごう》署の小室《こむろ》に電話をかけてみることにした。
折よく署に居合わせた小室が電話口に応答した。
「事件が解決しておめでとうございます」
小室は言った。
事件解決後、西郷署には報告して協力を感謝している。
「その節はいろいろとお世話になりました。ところで昨年九月、貴島を訪問した梅川隆一氏ですが、あのときが初めての来島と聞きました。あれ以前に御地を訪れたことはないのですか」
「公式に来られたのはあのときが初めてだったはずです。VIPですけんお忍びでも我々にはわかります」
「講演前後の梅川氏の行動をおしえていただけませんか」
「九月五日午後の飛行機で西郷に到着し、午後六時から町の公民館で講演を行なった後、町の有志と夕食を摂《と》りながら懇談、同夜ホテル・ニュー梶谷《かじたに》に一泊して、翌日フェリーで西ノ島へ渡り、車で国賀《くにが》海岸を観光、ふたたびフェリーで西郷へ戻り、午後の飛行機で離島されました」
「ほう、国賀海岸へ行ったのですか」
同地には棟居と有馬が黒木御所を訪れた際、横田巡査から誘われた。
「政治家になる以前に来島したことはないでしょうか」
「政治家以前となると、ちょっとわかりませんね」
無名のころの梅川が隠岐へ行っていても、その足跡を確かめるのは不可能であろう。
棟居は自分の質問が無理を聞いていることを承知していた。
「つかぬことをお聞きしますが、二十数年前、御地でなにか事件はなかったでしょうか」
本杉の母親が駆け落ちをしたのは二十数年前と聞いている。
駆け落ち後、直ちに殺害したとは限らない。むしろ梅川が佐田要介の知遇を受けてその女婿《じよせい》におさまった前後に、古い女が邪魔になって始末した公算が大きい。
「事件と言いますと」
小室は問い返した。
「たとえば殺人事件とか、殺人死体が発見されたとか、凶悪な事件です」
「二十数年前と言えば、私が警察に入ったころですが、そういう事件の記憶はありませんね。平和な島ですけん、そんな事件が発生していればおぼえちょるはずです」
「やっぱりありませんか」
「平和な島ですけん、特段の事件はありませんでしたね」
小室は記憶を探りながら答えた。
「あっ、ちょっと待ってくださいよ」
小室はなにかおもいだしたような声を出した。
「なにかありましたか」
「西ノ島に国賀海岸がありますが、そこの断崖《だんがい》から女が投身自殺をしたことがありました」
「女が投身、女の身許《みもと》はわかったのですか」
「それがわかりませんでした。三十前後と見られるなかなかの美人でしたが、三日ほど前、島後《どうご》に来て西郷の旅館に逗留《とうりゆう》しちょったそうですが、国賀の断崖から身を投げたのです。宿帳の住所に連絡したところ、該当者はいないということでした」
西ノ島へ足を延ばした際、横田巡査から国賀海岸へ誘われた。海へ突き出した海抜約二百六十メートルの海蝕崖《かいしよくがい》は地元で摩天楼にちなんで摩天崖と名づけられている。
摩天崖は自殺者にとって恰好の投身場所であろう。
「女が投身した断崖の突端に梅川は行ったでしょうか」
「私も警備の一員として同行しましたが、梅川氏は摩天崖の突端に立って、しばらく断崖の下に砕ける波を見下ろしていました」
「妙なことを尋ねますが、そのとき梅川氏は花を投げませんでしたか」
「いいえ、そげなことはしませんけんね。もしかして梅川氏と投身女性との間になんらかのつながりがあったと……」
小室が気をまわした。
「いえ、あの超多忙の梅川氏が国賀海岸へまわったということがちょっと気になったものですから」
「摩天崖は隠岐観光のハイライトですからね。地元の人間としては時間が許せばぜひ見ていただきたいところです。そう言えば、梅川先生は摩天崖の突端からしばらく離れず、感慨深げにしちょられました。帰りの飛行機の時間が迫っていたので、お付きの人ははらはらしちょりましたよ」
「感慨深そうにしていたのですか」
「そうです」
「国賀海岸からの投身者は多いのではありませんか」
投身自殺者が多ければ、必ずしも特定の人間と限定できない。
「それが、国賀海岸は海から船で観光するのが普通のコースで、陸伝いにはタクシー以外には交通手段がないために投身者はめったにありません。その女もタクシーで摩天崖の手前まで行って、タクシーを待たせている間に飛び下りたそうです」
「その投身女性の調書記録はいまでも保存してありますか」
「西ノ島は浦郷《うらごう》署の管轄ですが、早速問い合わせてみます。投身女性と梅川氏の間になにか関係があるのですか」
「まだなんとも言えませんが、その点を調べてみたいとおもっています」
「早速、浦郷署に連絡を取ってみますけん」
小室の声が興味を持っている。
小室との電話を切って間もなく、島根県警浦郷署から棟居に電話がかかってきた。
棟居は電話の声に聞きおぼえがあった。
「浦郷署の横田です」
「ああ、横田さんですか。あの節は大変お世話になりました」
電話の相手は西ノ島を訪れた際、黒木御所へ案内してくれた別府港の駐在横田巡査であった。
「いま本署におります。西郷署の小室さんから連絡を受けましてね、実は国賀海岸の投身女性は私が立ち会いましたのでよくおぼえています」
横田が言った。
「横田さんが立ち会ったのですか。それは大変都合がいい。そのときの状況や女性の特徴などはまだおぼえておられますか」
棟居は幸運を喜んだ。
「よくおぼえちょりますよ。あの高所から飛び下りたわりには、崖《がけ》の中腹に生えている灌木《かんぼく》や藪《やぶ》にバウンドしながら落下したために死体はそれほど損傷されておらず、顔はほとんど原形を保っていました。
二十代後半から三十前後の、なかなかの美人でしたよ。死因は溺死《できし》でした。自殺の動機は失恋のようでした。
一件の記録書類は本署に保存されちょりましたので、お急ぎならこれからファックスで送りましょうか」
横田は手際よく棟居の欲するものを用意していてくれた。
「投身女性の写真もありますか」
「ありますよ。しかし、写真はファックスでは写りが悪いとおもいますけん」
「べつに急ぐものではありませんので、お手数でも記録書類と共に郵送していただければ幸いです」
「承知しました。参考までに女性が宿泊した旅館は西郷町の梶谷旅館と言います。現在はホテルになっていますが。その女性は昭和××年九月十日から十三日まで、杉本ヒロ子という名義で滞在しています。宿帳に記入した住所には該当者はなく、偽名ということがわかりました」
杉本は本杉の逆転である。梅川は同じ季節に隠岐へ行っている。棟居は自分の推測が一歩進んだ感触を得た。
「梶谷旅館、そこは我々が泊まったところですよ」
「それならなおさら都合がいい。直接問い合わせれば、当時の古い従業員がいるかもしれませんけん」
横田に礼を述べて電話を切った後、急ぐ調べではないと横田には言ったものの、棟居は早速ホテル・ニュー梶谷へ電話をした。
東京の警察からの電話と聞いて、ホテル・ニュー梶谷では身構えたようである。
「先日お世話になった捜査一課の棟居と申しますが、昭和××年九月十日から、杉本ヒロ子という名義でお宅に泊まった女性についてお尋ねしたいことがあります。お宅に三泊逗留した後、国賀海岸に投身した女性ですから記憶にあるでしょう。当時の従業員がいたら、杉本ヒロ子さんが滞在していたときの様子を聞きたいのです」
棟居は言った。
「昭和××年当時の従業員は、もう一人もおりません。私の父が旅館を経営しちょったころですが、当時の従業員が米子《よなご》に住んでいるかもしれませんけん。様子を聞いてみてあげますわ」
電話口に応答したのは、どうやら現在の経営者らしい。
「従業員の連絡先がわかれば、こちらから電話をします」
棟居は言った。
「早速調べてみますけん」
「それから当時の宿帳は保存してありますか」
「ございません。しかし、お客様が投身自殺をしてしまったので、警察が証拠資料として持って行きましたけん、警察の方に保存してあるかもしれません」
横田はその保存資料を見て、投身者の氏名をおしえてくれたのであろう。
翌日、一件資料が浦郷署の横田から送られてきた。
資料によると、投身女性は昭和××年九月十三日午後、西郷からフェリーボートで別府へ着き、そこからタクシーに乗って摩天崖の入口まで行って、タクシーを待たせたまま二百五十七メートルの摩天崖の突端から飛び下りた。
いくら待っても帰って来ない乗客に不審をおぼえたタクシーの運転手が摩天崖へ行って探したが、姿が見当たらず、浦郷署へ届け出たものである。
浦郷署から船を出して摩天崖の下を探したところ、崖下の磯岩《いそいわ》に引っかかっていた女性の死体を発見した。
約二百六十メートルの断崖の上から身投げして、崖の中腹のあちこちにバウンドしながら転落したらしく、身体各所に打撲傷が認められたが、顔は奇跡的にも無傷で、生前の原形を留《とど》めていた。
身に着けていた衣類は波にさらわれ、死体はほとんど裸同然であった。
所持品等も波にさらわれて、本人の身許を示す手がかりはなに一つ残されていなかった。
タクシーの運転手から女性の足跡が遡行《そこう》され、島後からのフェリーボートで別府に着いたことがわかった。
西郷署に連絡されて西郷署が捜査し、女性の宿舎が突き止められた。杉本ヒロ子が梶谷旅館に投宿したのは九月十日である。
当日の境港《さかいみなと》から西郷町への船便、隠岐路丸の乗船名簿に杉本ヒロ子の名前があった。
だが、鳥取県境港以前の足跡は不明であった。
同送されてきた投身者の写真は、デスマスクながら生前の美形が偲《しの》ばれる整った造作の持ち主である。棟居は本杉を呼んだ。
なにごとかと出頭して来た本杉高志に、棟居は浦郷署から送られて来た写真を示した。
「この写真に見おぼえはありませんか」
明らかに死者を撮影したとわかる写真に目を向けた本杉は、表情を改めて、
「だれですか、この写真の主は」
と問い返した。
「昭和××年九月十三日、隠岐の国賀海岸から投身自殺した女性の写真です」
「隠岐の国賀海岸から……その身投げ女と私とどんな関係があるのですか」
本杉は問うた。彼の面に不審の色が濃くなっている。
「昭和××年九月と言えば、それから間もなく梅川隆一氏が佐田要介の女婿となっています。投身場所は隠岐ということもちょっと引っかかりましてね」
「佐田要介の女婿に……それでは、まさか」
本杉の顔色が変わった。
「推測の域を出ませんが、あなたのご記憶にないかとおもいましてね」
本杉は改めて写真を取り上げると、凝視した。
突然、棟居から死んだ女の写真を差し出された本杉は、写真のいわれを知らぬまま見過ごした。
だが、棟居に重大な示唆をあたえられて、改めて見つめ直した。
物心つく前に母に置き去りにされた本杉には、母の記憶はほとんど残っていない。
だが、徳松が母の写真を何枚か保存していてくれた。
改めて見つめ直した投身者のデスマスクと母の写真が重なり合った。
徳松が保存していた写真とは様子が変わっていたが、たしかに母のデスマスクである。
もしかしたらどこかの空の下で生きているかもしれないという淡い期待は、ついに終止符を打たれた。
「母です」
本杉は言ったつもりが、呻《うめ》き声のようになった。
「まちがいありませんか」
「まちがいありません。義父《ちち》が保存していた母の写真と符合します」
「その写真を貸してもらえませんか」
「けっこうです」
うなずいた本杉は、
「母はなぜ隠岐で身投げなどしたのですか」
「それはわかりません。昭和××年九月十日、隠岐へ一人で旅行に出かけて同月十三日、西ノ島にある国賀海岸の絶壁から投身したのです」
「義父の許にはなんの連絡もありませんでしたが」
「お母さんが偽名を使っていたために、本名と連絡先がわからなかったのです。捜索願も出されていなかったのでね」
捜索願を出さなかったのは、徳松が母の意志による家出と見なしたからである。
母が梅川と駆け落ちした時点で、徳松は母を見限ったのである。
母を探さなかったのは、徳松のせめてものプライドであった。
「そんな寂しいところで母はなぜ死んだのでしょうか」
「いまさらあなたや父上のところに帰れなかったのではありませんか」
棟居が控え目な口調で言った。
夫と幼い我が子を捨て、男と駆け落ちした彼女が、その後、男に捨てられて行き場所を失ったことは容易に想像できる。
「母は三日間も隠岐に滞在していたそうですね」
「宿の記録はそうなっています」
「三日間もなにをしていたのでしょうか」
「死ぬための覚悟をするのに三日かかったのではありませんか」
「三日も一人で旅館に泊まって、ずっと死ぬことを考えつづけていたなんて、ずいぶん寂しかったでしょうね」
本杉の頬《ほお》がいつの間にか濡《ぬ》れていた。
徳松と自分を置き去りにして、男との不倫の恋に走った母を絶対に許せないとおもっていたが、いま母の死が確定して、わずかにつないでいた肉親の生存の可能性を断たれてしまった。
本杉は自分が泣いていることに気がつかなかった。母に対する愛情などは一かけらも残っていないとおもっていた。
母は男に捨てられて、夫や子の許へ戻るかわりに、死を選んだのである。
最後まで母は妻であり母であることを拒否しつづけ、男に捨てられたことを怨《うら》んで死んだのだ。
母が死んだときは三十歳であった。
母は三十年の生涯、女を通しつづけた。母の意識の中には本杉の入り込む余地などなかったにちがいない。
そんな母の死に涙を流している自分が、本杉は不思議であった。
本杉高志によって、杉本ヒロ子が彼の母親と確認されて間もなく、西郷町のホテルから連絡がきた。
ホテルの経営者が古い従業員名簿を調べ、現在、米子市に居住している当時の仲居の住所を探し出して連絡してきてくれた。
棟居は早速、米子の元仲居の家に電話をかけた。ホテルの経営者から連絡が行っていたらしく、彼女は家にいた。
棟居の問いに、
「ええ、よくおぼえちょります。まさか国賀の海岸から身投げするなんておもってもいませんでした。なんでもお連れさまが後からいらっしゃるとかで、お待ちになっていたようですけん」
「連れが後から来ると言っていたのですか」
仲居の意外な言葉に、棟居はおもわず声が高くなった。
「はい。いつお連れさまから電話がかかってくるかもしれないとおっしゃって、ほとんどお部屋に閉じこもっていらっしゃいました」
「それで、電話は来たのですか」
「三日目の夕方に電話がありました。でも、よくない知らせであったらしく、お客様はすっかり元気を失って、食欲もなくなってしまったらしく、その夜の夕食にはほとんど箸《はし》をつけませんでした」
「夕食をほとんど食べなかったんですか」
「はい。私がどこかお体の具合でも悪いのですかと問うと、お客様は無理に笑ったような顔をして、なんでもない、ただ、なんとなく欲しくないだけだとおっしゃいました。その次の朝出発されて、フェリーで西ノ島へ渡り、自殺をしてしまったのです。後で警察から問い合わせがきて、びっくりしました」
「食欲を失った少し前にかかってきた電話の相手はだれだかわかりますか」
「ちょうど私が帳場に居合わせて電話を取り次いだのですが、男の人でした。どこからかけてきたかわかりません」
「どんな内容の話をしたかわかりませんか」
「お客様の電話の盗聴などはしませんけん」
「いや、これは失礼しました。取り次いだとき、電話の相手になにか気がついたことはありませんでしたか」
「さあ、だいぶ前のことですけん、おぼえちょりません」
二十数年前、宿泊客に取り次いだ電話の記憶を求めるのは不可能を強いることである。
ともあれ本杉の母親が自殺の前に隠岐の旅館でだれかと待ち合わせていた状況がわかった。
男から電話を受けた翌日、彼女は摩天崖から身を投げたのである。
九月十二日夕方の電話が、彼女に致命的なことを告げたのであろう。
電話の後、彼女は食欲を失い、そして生きる気力を失った。
「電話の相手についてではありませんが、一つおもいだしたことがあります」
あきらめかけた棟居に、仲居が言った。
「どんなことでもけっこうです」
「あのお客様は出発時に、私に多分の心付けをくださった上に、滞在中作った歌だとおっしゃって、三首の和歌を便箋《びんせん》に書いて私にくださったのです」
「和歌を……」
「いまにしておもえば、あれが辞世だったのでしょうか」
「その和歌をおぼえていますか」
「和歌を書いた便箋は探せば保存してあるとおもいます」
「ぜひ探し出していただけませんか」
「それでは一時間ほど後に、もう一度お電話をください」
棟居はいったん電話を切った。
一時間後にふたたび電話をすると、
「ありました。当時のアルバムに貼《は》ってありましたけん」
仲居が答えた。
「ちょっと読み上げていただけませんか」
棟居のリクエストに、仲居が電話口で和歌を読み上げた。
来ぬ君を待つ身につらし沖鴎《おきかもめ》せめて伝えよ燃える想《おも》いを
王朝の夢を訪ねし夢|醒《さ》めていずこへ行くぞ隠岐の旅人
波もまたきらめくあたり王朝の夢もはるけし隠岐の通い路
三首目の和歌を聞いた棟居は、はっとした。
その歌には記憶があった。フェリシアの足跡を探して隠岐へ出張したとき、ホテルの部屋にかけられていた梅川隆一の色紙に書いてあった和歌と同じ和歌である。
「第三首をもう一度読んでいただけませんか」
棟居は興奮を抑えて言った。
たしかに同じ和歌であった。
「その三首を杉本ヒロ子さんがあなたにくれたのですね」
「後鳥羽上皇の真似《まね》をして詠んでみたと恥ずかしそうにおっしゃっていました」
「その三首を書き留めた便箋を貸していただけませんか」
「けっこうです。アルバムから剥《は》がしてお送りしますけん」
杉本ヒロ子――本杉の母親の辞世が、梅川隆一の詠んだ和歌として、ホテル・ニュー梶谷の客室にかけられていた。これは一体なにを意味するのか。
この歌が二人のいずれの作であったとしても、杉本ヒロ子と梅川隆一の間に|意思の疎通《コミユニケーシヨン》があったことは確かめられたといってよい。
梅川の作った歌を杉本ヒロ子が辞世に借用したと解釈するよりは、梅川が彼女の歌を盗んだ可能性が大きい。
いや、盗んだというよりは、ヒロ子から辞世を送られた梅川が彼女の死後、二十数年目にその終焉《しゆうえん》の地を訪れ、彼女の最後の宿に菩提《ぼだい》を弔うためにその辞世を返したのかもしれない。
いまとなっては、杉本ヒロ子が生前、最後に受けた電話でなにが起きたのか、電話の対話者しか知らないことである。梅川に問うても答えてくれないであろう。
間もなく梶谷旅館の仲居、山本せつから杉本ヒロ子の三首の辞世が送られて来た。
第一首の「来ぬ君を待つ身につらし」は、首を長くして男を待ちわびている女の切ない心情が詠《うた》われており、第二首は彼女の悲劇的な最期を予測させる歌である。
最後の電話によって夢が破れた女は、国賀の断崖から身を投ずるよりほか行く場所がなかった。
おそらく彼女は男からの最後の電話を切った後、この歌を作ったのであろう。
すると、梅川はこの歌をどうやって知り得たのか。あるいは梅川がすでに作っていた歌を、彼女が辞世に使ったのであろうか。
いや、辞世に他人の作品を盗用、あるいは借用しようとする心理には無理がある。
彼女が辞世を作った後、投身するまでの間に梅川|宛《あて》に送ることはできる。
梅川が辞世を受け取ったときは、すでに彼女は摩天崖から身を投げていたのであろう。辞世を受け取る前に梅川はすでに彼女から死ぬ意志を告げられていたかもしれない。
だが、彼はあえて制止しなかった。隠岐で待ち合わせていた女に待ちぼうけを食わせたとき、男はすでに女との関係を清算しようと決意していた。
女の方から死んでくれれば、彼にとっては勿怪《もつけ》の幸いであったかもしれない。
逆玉の輿《こし》に乗る直前に、その障害となっていた女が自らの死をもって身を退いてくれた。
その後の梅川の人生は順風満帆であった。功成り名遂げた後、自分の犠牲となった女がしきりにおもいだされた。
そこで、講演にかこつけて女の最期の地を訪れ、菩提を弔ったということではないのだろうか。
棟居から母の辞世を示され、そのうちの一首をめぐっての母と梅川との関わりを告げられた本杉高志は、心の一隅でほっとするものをおぼえた。
父が母を殺害するという最悪の場面は避けられたのである。
棟居の調査によると、母は隠岐島で梅川に待ちぼうけを食わされて断崖から身を投じたという。
梅川の最後の電話が母に死を決意させたのであるが、梅川が殺したも同然である。
だが、少なくとも梅川が直接手にかけたわけではなかった。
梅川の言葉が母に死を決意させたとしても、母には生死の選択が許されていた。
結局、母は自らの意志で死を選んだのである。
梅川がなぜ母の死後二十数年もして隠岐を訪れ、母の投身地を訪れたのか本人に確かめる以外にないが、本杉にはもはやそんなことはどうでもよくなっていた。
梅川と自分との間にはなんの関係もない。本杉の父は徳松一人である。そして、母は三歳のときに死んでしまった。
国賀海岸から投身した女は本杉の母ではない。もし彼の母であれば、梅川に捨てられたとき、本杉と徳松の許へ帰って来たはずである。
彼女は隠岐の宿帳に記入した通り、杉本ヒロ子という女であった。
彼女の辞世のうちの一首、
波もまたきらめくあたり王朝の夢もはるけし隠岐の通い路
は男から捨てられた女がこの世のしがらみのすべてに訣別《けつべつ》する意志を示している。
本杉は彼の生涯において、決して行くことはないであろう杉本ヒロ子が身を投げた隠岐の断崖の光景を瞼裏におもい描いた。
海中から屹立《きつりつ》する荒涼たる海蝕崖、断崖の突端に立って見はるかす海の果ては空と溶け合って杳々《ようよう》と烟《けむ》っている。
断崖の先は海に切れ落ちる垂直の空間である。前へ進むことは死を意味する。
観光客ならば、海と陸が噛み合って形成した凄絶《せいぜつ》な風景に感嘆し、戻って来る。
だが、夢破れ生きる目的を失った旅人は、断崖の先のなにもない垂直の空間に歩を進めた。
二百六十メートルの断崖から吹きつける死の誘惑は、観光客ならば耐えられる。
だが、男に裏切られ、母性本能を失った女には耐性がなかった。
彼女が死んだ当時、彼女の死を喜ぶ者はあっても、嘆く者はなかった。
死後二十数年、裏切った男が彼女の最期の地を訪ねて来たが、それも気まぐれであったかもしれない。
本杉は一人で暮らすのには馴《な》れている。もともと東京という都会は、孤独な人間が集まって形成された町である。
一時、菊岡理絵《きくおかりえ》が本杉の許に翼を休めたが、二度と帰らぬ空へ飛び去って行った。一人で生きて行ける力を持ったいま、改めて親が欲しいなどとはおもわない。
梅川隆一も無縁の人間である。
棟居から示された杉本ヒロ子の辞世は、彼自身が両親に訣別する歌であった。
棟居は久し振りに恋人の本宮桐子《もとみやきりこ》に会った。
「事件が解決しておめでとう」
都心のホテルのダイニングルームで向かい合った二人は乾杯した。
「有り難う。なんとか犯人から自供を取ったが、これから長い裁判が待っているよ」
「父子が偶然同じときに、殺人を犯していたなんて驚いたわ」
「これも因縁かもしれないね。犯人を捕らえても、被害者の生命は決して戻らない。刑事の力の限界を感じるよ」
「それを刑事に求めるのは無理よ」
「警察は犯罪が発生してから動き出す。そのときは被害者にとっては手遅れなんだ。刑事の本来の使命は人が殺されてから犯人を捜査するのではなく、殺される前にそれを予防することにあるんじゃないかとおもう」
「でも、悪いことをした人間を決して許さないシステムが、次の犯罪を予防することになるんじゃないかしら」
「本当に悪いやつはそのシステムを潜《くぐ》り抜けてしまう。ぼくらが捕まえている犯人は氷山の一角にすぎない」
「それでも捕まえないよりはましでしょう」
棟居はそのとき、ふと梅川隆一をおもいだした。
彼の行為は犯罪ではない。仮に犯罪行為があったとしても、確認されていない。
だが、現在の地位を築くために一人の女の死を踏まえていることは、梅川にとって生涯の負債になるであろうか。
女が死んだ場所をたとえ気まぐれに訪ねて来たとしても、彼の心に女に対する一片の痛みがあれば、夫と子を犠牲にしてまで男に走った女の死も、いくらか救われるかもしれない。
「棟居さん、なんだか悲しそうね」
桐子が棟居の顔を覗《のぞ》いた。
「そんなことはないさ。きみと会っていて、悲しいことなんかない」
棟居は慌てて言い繕った。
「いいのよ、隠さなくても。また被害者のことを考えているんでしょう。そして、被害者の遺族や親しかった人たちの悲しみを」
「遺族や友人のいない被害者もいる。たとえいたとしても、死んだことを知らないかもしれない。人間の海のような都会で、生命が泡粒のように消える。泡が消えても、だれもなんともおもわない」
「でも、棟居さんの胸の中にはそういう泡粒のような被害者が生きているんでしょう」
「忘れようとしても忘れられない」
棟居は胸の底から衝《つ》き上げる憤怒に耐えるように言った。
桐子ははっとした。棟居の胸に生きる被害者の中には彼の家族もいたのである。
「ごめんなさい。悲しいことをおもい起こさせてしまって」
「あなたが謝ることはないさ。せっかくあなたに会えたんだ。今夜は事件のことも被害者も忘れよう」
棟居は桐子の気を引き立てるように言った。
本書は平成九年八月に刊行されたカドカワエンタテインメント版を文庫化したものです。
角川文庫『棟居刑事の憤怒』平成11年10月25日初版発行