森村誠一
日蝕の断層
目 次
序 章
ドアのない屈辱
ピラミッドの力学
権力の布陣
美しい標的
ハードな夢《ビジヨン》
陰伴《かげとも》の情事
ビジョンの生存《サバイバル》
仕組まれた断崖《だんがい》
金権代理戦争
姨捨《うばすて》住宅
歯止めのホストマザー
供花の主
復讐された閨《ねや》
第二の断崖
不突合《ふとつごう》の追及
クロスオーバー・アニマルの動機
防衛全権委任
新たなる材料
転移≠オた危険
合成された不運
永遠の日蝕《につしよく》
序 章
そこは都会の低地である。雨が降ると四方の高台から雨水が流れ込んで来て、いつまでも退かない。夏暑く、冬は寒い。雪でも降ると、日かげの部分は春先まで雪が残ることがある。
その低地にモルタル二階造りの安アパートがあった。GW(ガス・水道)およびトイレット共用、全室、単室で構成されたいまどき博物館物並み≠フオンボロアパートであったが、低家賃に惹《ひ》かれて、全室、占《ふさ》がっている。いったん入居した間借人はなかなか出て行かない。
こんなアパートにもただ一つだけ取《と》り柄《え》がある。それは南面が空いていて、二階が昼の間だけ日光が入ることである。現代の都会生活において、日当たりがよいということは、最大の恵沢である。そのために、二階の家賃のほうが、一階よりも少し高い。二階の部屋が空くと、一階の入居者が古い順から繰り上がる≠アとになっている。一階の住人は、二階へ繰り上がれる日を楽しみに待っている。
ところがこのアパートの唯一の恵沢が奪われてしまった。南面の空地にマンションが建設されたのである。五階建ての瀟洒《しようしや》なマンションは、高台にすっくりと立って、アパート全体を自らの影の中に入れてしまった。もちろんアパートの住人は結束して反対運動を行なった。一階の入居者も繰り上がる希望を消されまいとして、二階に協力して反対運動に立ち上がった。
だがそんな反対を蹂躙《じゆうりん》してマンションは完成した。新しいマンションには、アパートの住人よりワンランクもツーランクも上流の人間が入居して来た。アパートの住人は、日の光を奪われ、高台のマンションに対して敵意と反感を内攻させたまま、影の生活を強《し》いられた。
これだけのことであれば、都会でよく見かける日照権の侵害図である。
新マンションが建設されて数年後、さらにその南面に一まわり大きなマンションが建設された。そのためアパートの隣りの新マンションは、新々マンションの影の中に入ってしまった。
マンションの住人はかつて自分たちがアパートの住人の太陽を奪ったことを忘れて、新々マンションに日照権を振りかざして反対運動を繰り広げた。奇妙なことに、アパートの住人がこれに協力した。これまでの敵味方が新たに日照権を脅かす新しい敵に対して手を握ったのである。
この反対運動が現代の都市工学を研究する社会心理学者の興味を惹いた。アパートの住人は、新々マンションの建設が反対運動のために中止されたところで、太陽を取り戻せるわけではない。むしろ新々マンションの建設を、かつての太陽の侵奪者におもい知らせる設定として小気味よくおもうはずである。
ところが彼らは、以前の加害者と結束して新しい加害者に立ち対《むか》った。この場合、より大きな敵の出現に対して、対立し合っていた小さなサークルの者が団結して当たるのとは、事情が異なる。小さな競合サークルが結束するためには、新たな大きな敵により、彼らの対立原因を超えるような大きな脅威や侵略がもたらされなければならない。だがアパートの住人にとって新々マンションは新たな脅威や侵略ではない。新々マンションが建とうと建つまいと、彼らの「影の生活」は同じである。強いて言うならば、影が二重≠ノなったということであろうが、影が重複されたことによって、影がその分だけ濃く暗くなるわけではない。
社会心理学者は、アパートの住人に質《たず》ねた。
「マンションが二つ南に建てば、太陽が二倍遠くなるからね。太陽との間に邪魔者が一つあるのと、二つあるのとでは、心にうける圧迫がちがうよ。地震や災害でマンション一つぐらいぶっつぶれることがあるかもしれない。しかし、二つ立ちはだかっていたのでは、まったく希望がない。まあ少しでも希望の多いほうに味方してるってことかな」
アパートの住人の意見は、学者を考えさせた。少しでも希望の多いほうと言うが、その希望にチャンスはない。太陽を奪った者が、単数であろうと複数であろうと、アパートの住人に太陽が戻るチャンスはあり得ない。どうせチャンスがないなら、直接の侵奪者(新マンション)に対する敵意は変わりないはずであるが、そこに都会の影の住人の太陽に向ける切実な想いがあるようにおもった。
学者はこの現象を「間接日照権の侵害」と名づけた。
ドアのない屈辱
木原高志は、なぜその店で買い物をしてはいけないのか、幼いころよくわからなかった。代金に相当する金を握って行っても、その店で買うことはできない。店員は、断乎《だんこ》として売ることを拒んだ。幼いからといって、大目に見るようなことはなかった。その店がよそより特に安く売るわけではない。同じ値段の同じ品質の品物を特定の階層≠セけに売った。
物心つくにしたがい、高志は、自分がその特定の階層に属さないことを知った。生活全般において悟らざるを得ないような仕組みになっていた。
買い物の店だけでなく、まず幼稚園、つづいて中学校と高校、住居、床屋、美容院、喫茶店、食堂、酒場、バスの席、映画館の席、公衆トイレット等々に至るまで、特定の人種用の設備は画然と区別されていた。
幼稚園に入る前後からその人種差別≠フ基準がわかってきた。その土地においては、すべてが「社員」用と「工員」用に分けられていた。呼吸する空気や、飲む水までが分けられているようであった。
区別に気づかぬまま、入り込んで、「あんた、工員の子だろう。ここは社員用だよ」と軽蔑《けいべつ》の目を向けられて追い出されたことが何度もある。だが成長するにしたがってまちがえないようになった。
まちがえないようになるまでに何度も屈辱を堆《つ》み重ねた。中学のころ、クラブ活動で遅くなり、うまそうなスープのにおいにたまらなくなってつい飛び込んだ中華料理店で、工員の子とわかり、できたての湯気の立つラーメンを引っ込められた口惜《くや》しさは、いまでも胸に刻まれている。
まちがえないように区別の表示をはっきり出しておけばよいものを、「社員用」の設備は、まぎれ込んで来た工員を追い出すことにサディスティックな喜びを感じているかのごとく、彼らは表示を曖昧《あいまい》にしておいた。
高志は、両者の区別がはっきりと見分けられるようになったことは、それだけ自分が工員になりきった証拠だと考えた。
この土地は一部少数の社員と、大勢の工員によって成り立っている。工員が社員になれるのは、競争率数十倍の「正社員登用試験」にパスした場合だけである。両者の身分の差別は世襲であり、この土地およびそれを支配する「会社」から脱け出ないかぎり、先祖代々、孫子《まごこ》の末まで引き継がれていく。社員と工員、あるいはその子たちが結婚することはきわめて稀《まれ》である。
同じ日本人でありながら、この途方もない人種差別が存在し得るのも、土地柄である。そしてその土地を私市のように支配した会社の力である。市民の三〇パーセント以上が会社に直接関わりをもち、八〇パーセントまでが直接間接に生活を会社に関わらせている。
その土地において、会社と関わりをもたずに生きていくことは、不可能なのである。諸官庁や警察の要路も会社に押えられており、市長も市会議員も、会社の支持なくしては、ポストを維持できない。新聞社や他企業の支社も、会社ににらまれたら、その土地で活動ができない。
会社の存続発展にとって、一部少数の社員と、多数の工員による差別的組織構成は都合がよかったのである。一部少数のパワーエリートの思考判断によって、多数の工員が手足のごとく忠実に(盲目的に従順に)動いて、初めて巨大な「会社」は一個の有機体として機能するのである。
木原高志は工員の子として生まれ、工員の子として育った。「高志」と命名するに際しても、一悶着《もんちやく》あった。父親が、初めての男の子の誕生を喜び、「志を高くもつように」という願いをこめて名づけたのであるが、木原家の本家筋の長老(これも代々工員)から、工員の子にしては大それていると異議が出されたのである。「工員は、工員らしく」というのが土地の憲法≠ナあった。高志などという名前は、将来、社員になることを希《ねが》っているようで不遜《ふそん》であるというのである。
だが、父親は、高志を「こうし」と読ませることで高は「工」にも通じると苦しい弁解をして長老を納得させた。父にしてみればまったくチャンスが断たれているわけでもない社員登用試験に将来高志にパスしてもらい、代々工員の家である木原家から初めての社員を出したいという願望があったのであろう。
社員の子と工員の子は決していっしょに遊ばない。義務教育期間中、工員の子弟は、公立の小、中学校へ通うが、社員の子は、社立の学院初、中等部へ行く。ここへはどんなに優秀な工員の子であっても入学を認められない。
高等部への入学に際して初めて工員の子にもチャンスがあたえられて、試験をうけられるが、二、三十倍の倍率である。高等部の卒業者は準社員≠フ身分を取得する。準社員は社員用の設備を利用できるようになる。正社員登用試験は、高等部卒業者は六年間、大学卒業者は二年間の準社員勤務の後、二十四歳から三十歳までの間にうけられる。
社員の子と工員の子がけんかすることはあっても、工員の子が勝つことはあり得ない。それはその土地の憲法を犯すことであり、工員の親は、わが子が社員の子とけんかしたことを知ると、直ちに子を連れて、社員の家に詫《わ》びに行く。
高志は小学校三年のとき、一年生の妹が、三年生の社員の子たちに苛《いじ》められて泣いていたのを救ったことがある。三人いた社員の子にたった一人で挑み、二人を泣かしてしまった。
母親は青くなって、社員の家に行って高志にあやまるように強制した。だが高志はあやまらなかった。子供心にも妹を救ってなぜあやまらなければならないのか、一対三の男のけんかに、一人のほうが勝利してなぜ詫びを入れるのか、その不合理が納得できず、頑としてあやまるのを拒否した。
母はそんな高志を社員の親の前で涙を流しながら叩いた。母の頬を伝う涙を見たとき、高志は母の心の痛みがわかった。
「母ちゃん、ごめんね」
帰り道で素直にあやまった高志を、母は抱きしめて、
「あやまらなければならないのは私のほうだよ。痛かっただろう。高志、おまえはきっと社員になっておくれね」
母は涙に濡れた頬をすり寄せた。
「ぼく必ず社員になるよ」
高志は誓った。それは母子の間に交わされた誓いであった。不当に苛《いじ》められていた妹を救ってあやまらなければならないような工員の身分は、真っ平だ。自分はなんとしても社員になってやる――。高志はそれを母と自分に対する心の債務にしたのである。
高校に進学するに当たって、高志は社立学院の高等部を受験した。高等部への入学は社員へ一歩近づくことである。社員登用試験の受験資格は、高等部の卒業者にあたえられるからである。
毎年春、工員の子弟の成績優秀なる者が、中学校から推薦《すいせん》されて受験する。この試験には優秀な人材を広く集める意味で、工員以外の一般子弟も受験できるので、競争率はますます高くなる。高志はこの難関を見事に突破した。しかも入試成績はトップであった。
高志の両親はもちろんのこと、一族の者は驚喜した。これまで木原一族から社員は一人も出たことがなかった。いや社立学院に入学を許可された者がなかった。ここに初めての入学者が出たのである。一族の者は寄り集まって喜んだ。
「高志」という命名に難色を示した本家の長老は、まだ存命していて、「末代までの誉《ほまれ》」だと手放しの喜びようであった。
高志の高校生活は始まった。だがそれは将来を約束された洋々たる道ではなかった。
最初の挫折は入学式の日にきた。
「選ばれたる者」の自矜《じきよう》に胸を張って登校すると、校門の前で、受付をしていた三年生に阻止された。
「おまえは工員≠セろう。工員は向こうの門から入るんだ」
工員子弟の出入口は、正門の脇に設けられた通用門であった。だが差別はそれだけではなかった。入学式の席から、クラスの席、使用便所まで、社員生徒と工員生徒用に分けられていた。
街に差別があるのは、物心ついて以来馴らされていたが、まさか社員子弟専用の高等部の中まで、差別があるとはおもわなかった。学校が差別しているのではなく、生徒が勝手に分けているのであるが、学校側も黙認しているようである。
これまで入学した工員生徒たちは、決してそのことを話さなかった。高等部への入学は輝かしい栄誉である。その栄誉に少しでも傷をつけるようなことは秘匿しなければならなかった。
高等部における工員生徒に対する社員生徒の村八分≠ヘ苛烈であった。社員生徒にとって工員生徒は侵入者である。本来、その場に来てはならない者が外から侵《はい》って来たのだ。初等部からエスカレーター式に上がって来た社員生徒に比べて、激烈な入試を突破してきた工員生徒のほうが、優秀である。まずこのことが社員生徒の癪《しやく》の種であった。彼らは勉強ではかなわないうっぷんを、陰湿な村八分で晴らそうとした。
社立学院では毎年秋、全学一体の学園祭を開く。各クラブあるいはクラスがそれぞれ趣向を凝らした企画を催したり、研究を発表したりする。構内に各種の模擬店や売店やバザーが出る。芸能人の歌があり、踊りがあり、有名人の講演がある。会社の実力をバックに生徒主催の学園祭とはおもえないほど華やかなものである。
この学園祭の|呼び物《ハイライト》の一つにクラス対抗の仮装行列があった。そこでの工員生徒による出し物は例年決まっていた。それは「乞食の行列」であり、仮装行列中のメインになっていた。そしてたいてい工員生徒の仮装が一位を取っていた。その一位に対してだけ、社員生徒は異議を唱えなかった。
工員生徒はこの日のためにできるだけ汚ならしくみじめたらしく扮する練習をした。日頃、工員生徒として学内の片隅に逼塞《ひつそく》している身がこの日だけは全校の、いや校外からの見物人も集めて、注目の的となる。
だがたしかに注目の的ではあるが、それは嘲笑の的とされているのであった。主役ではなく、醜役≠ネのである。その証拠に工員生徒が他の仮装をすることは許されない。
仮装で一位を取ることは、最も嘲笑を浴びせられることを意味していた。高志は、自ら「ノートルダムのカジモド」に扮して、その意味が痛いほどわかった。彼らの仮装は団体で一位を取り、個人でも彼が一位に選ばれた。
高志は、この一位の意味を忘れまいとした。
彼が行列の先頭に立って、背を折り曲げ、煤《すす》をなすりつけた手を差し出して物乞いのジェスチャーをする都度、見物に来た社員やその家族や一般客は腹をかかえて笑った。
地上にチャリンと音がした。だれかが本当に金を投げたのである。いたずらにしては度が過ぎている。工員生徒がハッと顔色を変えたとき、
「拾え!」という声が見物人の間に生じた。声の方角を見ると、大学生風の若者が立っている。工員生徒の間に騒《ざわ》めきが起きた。大学生風の男は現社長大石成明の三男の光明であった。同じ高等部を出て、東京の大学へ行っている。いま秋の試験休みで帰省しているらしい。
「どうした。せっかくのお恵みを拾わないのか」
光明は嬲《なぶ》るように促した。工員生徒の騒めきが高まった。一触即発の雰囲気であった。そのとき、高志は小腰を屈めて地上に投げられた小銭を拾い上げた。一枚一枚拾い上げては恭《うやうや》しく頭を下げた。そのしぐさは堂に入っていた。
「右や左の旦那《だんな》様、哀れな物乞いにお恵みを」
どっと笑い声が起きた。高志の機転で雰囲気が和《なご》んだ。つられて他の者が金を投げた。高志は、それを一枚一枚拾い集めては頭を下げた。
高志は投げ銭を拾いながら、胸の中に復讐《ふくしゆう》を誓っていた。
(見ていろ。いま金を投げたやつら、この金がどんなに高いものになって投げ返されてくるか。いまにおもい知らせてやる。いま笑ったやつら、その笑いがどんなに高くつくか、必ずいま笑った顔で臍《ほぞ》を噛《か》ませてやる)
それはいつになるかわからない。どんな形にして返せるかもわからない。しかし、いつの日か必ずなんらかの形で投げ返してやる。そしてそのことを自分の人生の目的の一つにするのだ。
高志は一枚一枚小銭を拾い上げては、復讐の誓いを胸に刻みつけていた。
工員生徒のトイレットは社員生徒用から区別されていた。生徒会が勝手に生徒用トイレットの一部を、工員生徒用に分けているのである。これの「大」用の扉が壊れた。学校側は修理したが、すぐにまた壊れた。社員生徒が故意に壊しているらしかったが、証拠はなかった。壊される都度、工員生徒のせいにされた。学校側でもあまりたびたび壊されるものだから、修理せずに放置するようになった。「大」用は他にもあり、学校側では社員生徒と工員生徒を表面上差別していなかったので、トイレットの扉が一つ壊れていても支障はないはずであった。壊れた扉は取りはずされ、そのうちにどこかへいってしまった。
トイレットのドアが失われてから間もなく、高志は学校で激しい便意をもよおした。朝から腹具合がおかしくて、いやな予感がしていたのである。休憩時間を待ちかねて、彼はトイレットへ駆け込んだ。他にだれもいなければ社員生徒用へ入るつもりだった。だが折り悪しく最も意地の悪い三年生の生徒会長が居合わせた。日高というその生徒会長は、高志の切迫した表情から察したらしく、用を足した後も出て行かない。目の端から高志の切迫感を探りながら楽しんでいるのである。
高志はついに耐えきれなくなって、扉の失われている専用トイレットに飛び込んだ。
不幸にもそのとき新たな一団がどやどやと駆け込んで来た。高志のぶざまな姿勢は、彼らの目になんの覆いもなく晒《さら》されてしまった。高志の追いつめられたみじめな立場に、むしろ目撃した者のほうが目を逸《そ》らせた。扉が完全な場合でも、大用を足す者は、小用を足す者にコンプレックスをおぼえるものである。高志は、扉のない便所にうずくまりながら、その屈辱を深く胸に刻みつけた。
仮装行列での屈辱は、「団体」であった。だがいまの屈辱は、ただ一人のものである。自分の最も見られたくないぶざまな姿を衆目に晒した。これ以上の辱《はずかし》めはなかった。
高志は屈辱の姿勢を自虐的に固定させながら涙を流した。なぜ自分はこれほどの辱めに耐えなければならないのか。生きる世界は、この土地だけではない。この土地から飛び出しさえすれば、屈辱を忍ぶ必要はない。会社がいかに巨大であっても、この世のすべてを支配しているわけではない。会社のカサの下から脱け出しさえすれば、社員と工員の差別もなく、一個の自由な人間として生きられるのである。それがわかっていながらなぜ飛び出さないのか。工員から社員になろうとするだけで、身分差別のない自由世界≠ヨの脱出を試みる者はない。この土地に生まれ、会社の禄を食《は》んだ人間は、例外なく外界へ脱出しようとする野心を失ってしまう。
会社のあたえる餌は、社員工員の別なくたっぷりあり、栄養も味も満点である。社宅も厚生施設も完備している。独身者のための男女交際の機会と場所の提供、コンピューターによる相性男女の紹介、共稼ぎ夫婦のための託児所などから社有の墓地への埋葬まで、誕生、結婚、死亡を結ぶ人生のライフサイクルのすべてにわたって面倒をみる。社員と工員の身分差別があると言っても、工員の餌が実質的に劣るわけではなかった。
いったん会社の餌の味をおぼえると、野生の食物は食べられなくなる。社員と工員の身分差別が屈辱的であるとしても、その工員にも簡単になれるわけではない。世襲によってその身分は引き継がれ、会社に対する忠誠心《ロイヤリテイ》は代々|堆《つ》み重ねられる。会社の存続発展を支える人的資源は永い世襲によって確保されるのである。かくて会社中心の封建体制は完成された。封建体制は例外なく排他的である。その構成員として認められた者は、代々にわたり、終身厚い保証をうける。社員も工員もそのことをよく知っており、その身分をまちがっても失うことのないように会社に対してロイヤリティを誓う。
社内の身分差別など、社外の苛酷な生活環境に比べればものの数ではない。
現に高志が通学している高等部にしても、全国から優秀な教師陣を集め、至れりつくせりの教育設備を整えておりながら、学費はすべて会社負担である。だが高志に会社から飛び出そうという気を起こさせなかったのは、その保証する餌のせいではなかった。会社から逃げ出しては、自分に死ぬほどの屈辱をあたえた連中に復讐できなくなるからである。復讐をすることなく、会社のカサの下から飛び出すのは、逃避である。生きているかぎり、自分はあの屈辱を風化させてはならない。
高等部三年生の秋に高志に一つのハプニングが起きた。
高等部では秋の体育行事として市域にある鳶尾《とびお》山という標高千メートルほどの山に全校生徒が集中登山することになっていた。標高は大したことはないが、海岸近くから登り始めるので、かなりの登りでがある。丘陵性の尾根が複雑に重なり合っている。道はしっかりしているが、とんでもない所へ出てしまう。もっとも迷ったところで必ず人里に出られる。
この鳶尾山へ、各学年をクラス単位に縦割りにして、一班五、六名の小チームに別れ、さまざまなコースから頂上目がけて登ることになった。高志のチームはもちろん全員工員生徒によって編成された。リーダーには最上級生の高志がなった。
彼らのチームが取ったコースは、山の裏側からである。海浜側からの表コースと比べて、勾配は緩《ゆる》いが、起伏が多く、距離が長い。裏コース組は少なく、途中から沢に入ったり、枝道へ逸《そ》れたりするチームがあって、いつの間にか山道には高志のチームだけになった。コースは無数に分かれているので、全校生徒が参加していても、山域に分散されている。しばらく登ると尾根に出た。ここから尾根通しの長い縦走路になる。天気はよく時間はたっぷりあった。久しぶりに工員生徒だけになったので、みなのびのびした気分になった。山には社員も工員の差別もない。一同は上機嫌で歌を歌いながら尾根道を伝った。
長い尾根道の先にようやく鳶尾山の特徴ある山頂が見えてきたとき、先頭を歩いていたサブリーダーの二年生の歌声がはたと止んだ。殿《しんがり》を守っていた高志が、「どうした?」と声をかけると、彼は前方を指さして、
「あそこに金庫入り組≠ェいますよ」と言った。
「なに金庫入りが?」
サブリーダーの指先を追うと、林道の先の小さな平に数名の女生徒がうずくまっている。彼女らは社員生徒の中でも、会社の重役クラスの子女で、校内で箱入り以上という意味をこめて金庫入り≠ニ呼ばれている超エリート組であった。彼女らは社員生徒たちの間でも恐持《こわも》てしている。
近づいてみると、金庫入り組の六名の生徒が疲れきったように気息奄々《えんえん》として山道にうずくまっていた。高志らの近づいた気配に彼女らは救われたように目を上げた。
「鳶尾山ってどれなの?」
リーダーの岩本百合が質《たず》ねた。父親が社長をしのぐ実権をもっていると言われる専務の娘である。
「あの山ですよ」と高志が指さした方角を追って、
「あんなに遠いの」と目に絶望の色を塗った。ただ遠いだけでなく、その間に大小の起伏がいくつもある。
「ちょっと見は遠いようですけど、あと一時間ぐらいです」
「まだ一時間も! もう一歩も歩けないわ」
数名が悲鳴をあげるように言った。彼女らも裏コースの一つを取って、ここで力尽きてしまったのであろう。女生徒チームには男子生徒が二人以上必ず付くように学校側は指導していたのだが、男子生徒が金庫入り組を敬遠したか、あるいは彼女らが男子生徒を拒否したのかもしれない。
「ここから麓《ふもと》に下りる道はないの?」
百合は聞いた。
「いくらでもありますよ。三十分も歩けば、村へ出ます」
「鳶尾山までこれから山をいくつも越えて行くより、私たちここから麓の村へ下りて家へ帰ることにするわ。もう山はたくさん。早く帰ってお風呂へ入って寝《やす》みたいのよ」
その口調には金庫入り組の傍若無人ぶりが遺憾なく現われている。
「賛成よ」他の生徒たちが和した。
「そんなことをすれば、先生が心配します」
「だから、あなたたちが私たちの代わりに行って先生に伝えればいいじゃないのよ」
百合が下男にでも命じるような言い方をした。事実、彼女らにとって工員生徒は下男と同じ存在であった。
「そんなことできませんよ。集中登山は参加者全員が目的地まで行って意味があるのです。自分たちだけ先に帰ることは許されません」
高志はあきれてたしなめた。
「そんなことあなたに言われなくてもわかっているわよ。もう歩けないから頼んでいるんじゃないの」
百合は柳眉《りゆうび》を逆立てた。
「麓へ下るだけの力があれば、行けます」
「尾根を歩くのと、下るのではちがうわよ」
「そんなにちがいません。ここからはほとんど平坦な道です」
「私はいやよ。こんな埃《ほこり》っぽくて暑くるしい山歩きなんてもう真っ平だわ。行きたい人だけが行けばいいのよ。あなたに命令される筋合いはないわ。なによ、工員の子のくせに、えらそうに」
岩本百合は嘲るように口の端を歪《ゆが》めた。
「そんなにおっしゃるならどうぞご勝手に。ただこの辺の山は、熊がよく出ると言うから気をつけてください。いまは冬籠《ごも》りに入る前で、餌の食いだめをしていますから十分注意してください」
「嘘《うそ》よ! 嘘だわ。この辺に熊が出るなんて聞いたことないわ」
と言い返したものの、百合の面に不安の影が萌《きざ》した。
「このごろ餌が少なくてね、奥山のほうから迷い出て来るんですよ」
「でたらめに決まってるわ」
だが彼女の不安は募《つの》っている。それは他の女生徒にも急速に伝染した。
「熊が出ないとしても、この辺には野犬が多いですからね、注意してください。この間もこの辺の農家で赤ん坊が食い殺された事件があったでしょう」
「お姉さん、私、まだ歩ける」
「先輩、私も歩けます」
たまりかねたようにチームの少女が相前後して言った。結局高志の脅《おど》しに引きずられて、女生徒たちは従《つ》いて来た。彼女らは、水も地図も磁石ももっていなかった。学校側では携帯必要品を指導していたが、彼女らはたかをくくって怠っていたのである。いかに易しい登山であっても乱暴であった。
彼女らは、高志らから水を分けてもらい、とにかく鳶尾山まで辿《たど》り着いた。すでに参加者はあらかた辿り着いていた。教師たちは到着の遅い金庫入り組に心配を始めていた。
岩本百合をはじめ金庫入り組の女生徒たちは、高志らに一言の礼も述べず、自分たちの力で到達したような顔をしていた。
だがこの山中の遭遇があってから、岩本百合の高志を見る目にはある親しみが感じられるようになった。
高等部を卒業すると、成績優秀な者に大学の奨学資金が会社から出される。大学はそれぞれの自由意志によって選べるが、奨学資金をうけた者は、大学卒業後、必ず会社に就職することを義務づけられる。
他の方面を志す者は奨学資金を返済しなければならない。大学卒業後、二年間の準社員勤務の後、三十歳までの間に、正社員登用試験を受けられる。その際、会社の奨学資金をうけている者は有利な考慮をうける。
正社員登用試験は、毎年秋一般大学卒業予定者の準社員入社試験と同時に行なわれる。
高志は奨学資金を取得し、受験資格年齢に達すると同時に、正社員登用試験を首尾よく突破した。成績は、一般大学卒業者を含めてトップであった。
「とうとう足許に辿り着いたぞ」
合格通知を人事部からうけ取ったとき、高志は密《ひそ》かに期するところがあった。両親や親戚は彼が一族の悲願を果たしたと喜んでいるが、彼にしてみれば、ようやくスタートラインについたのにすぎないのである。
自分は、いま社員の末座に連なった。連なっただけでは意味がない。物心つくころから心身に刻みつけられた差別、皮膚の色や人種による差別と異なり、美味な餌によって人間の野性と自由意志を去勢させての差別は、卑劣である。自分は、仮装行列での一位や、扉のない便所を軽く見てはならない。あの屈辱をこれからの人生航路の推進力にしなければならない。
高志は、自分を執念深い人間だとおもった。この土地に生まれ育った者は、美味な餌によって会社から飼育≠ウれている間に、身分差別をなんともおもわなくなる。おもわなくなるどころか、かえって会社に対するロイヤリティを培《つちか》わされるのである。会社の恐るべき調教力によるものであろう。
調教されない者は、外へ飛び出して行く。
高志はどちらでもなかった。美味な餌に調教もされず、飛び出しもせず、刻みつけられた屈辱を忘れずに会社に残った。
復讐と言っても、だれに対してどのような形で為すのか具体的にはなにも定まっていない。復讐のおもいだけが彼を社員に這《は》い上がらせただけである。彼は、自分にこの執念深さをあたえてくれた親に感謝していた。自分は決して人よりも頭がよかったわけでもない。才能に恵まれていたわけでもない。たまたま餌の味に騙《だま》されないだけの執念深さがあったので、ここまでやって来られたのである。これからも、うけた屈辱は決して忘れない執念を武器にして前途を斬《き》り開いていこうと決意したのである。
ピラミッドの力学
浦島《うらしま》市は、浦島重工業で保《も》っている街であった。浦島市は内海に面し、海上交通の要地として開けた。十二世紀末ごろ船津倉屋敷がおかれたのが、その地の歴史の始まりで、年貢米輸送の中心地として、また江戸時代に至っては西回航路の寄港地として栄えた。幕末、幕府の要請によって創設された「浦島艦船造修所」が同重工業の前身である。
明治維新によっていったん新政府に没収されたが、同十八年中浦源右衛門に払い下げられ、浦島造船所(後の重工業)になった。
明治三十年海軍造船所(後の工廠)が設けられてより、海軍の町として発達した。沈降海岸にあるために山地が海に迫り、港が深い。大型船の出入りに適《む》いており、戦前、戦中は軍港として栄えた。浦島重工業も、基地造船所として海軍と共に発展してきたのである。
戦後は人員と船台の遊休《アイドル》に悩んだものの、連絡船や海上保安庁の巡視船などを手がけてしのぎ、その後造船ブームを迎え、計画造船や外国船舶の受注が本格化して見事に立ち直った。
帝国海軍華やかなりしころは、駆逐艦を主体にあらゆる艦種を建造している。特に駆逐艦の建造技術と実績は、日本一を誇る。いまもその伝統を引き継いで、海上自衛隊の護衛艦の主力メーカーである。
売上高の約七〇パーセントを造船部門で占め、残り三〇パーセントが陸、船用ボイラーとタービン、船用ディーゼル、推進器、舵取《かじとり》機などの機械部門である。
戦後海軍の施設を利用して発展し、造船、機械共に世界有数の近代化された大型設備を完成した。特にエレクトロニクス技術を大幅に取り入れた自動化、省力化の徹底は、従来の造船所のイメージを一新したものとして、世界の注目を集めた。
従業員数は、約一万二千名、家族を加えると約四万七千名、市の人口十四万二千名の約三分の一が浦島重工業の直接関係者≠ニなるわけである。これに下請けや関連企業を加えると、実に市民の八〇パーセントは、同社に関わっていることになる。市の経済も同社によって支えられている。街の主役≠ヘ浦島重工業にならざるを得ないのである。
その主役中の主役が社員≠ニ呼ばれる本社要員および各種事務に携わるホワイトカラーと、技師や研究員などである。これに準社員と呼ばれる見習い社員が加わる。彼らはほとんどが大学卒であり、入社する時点から、現場で働く工員とは身分を区別されていた。
社員は約千五百名で全従業員の一〇パーセント強にすぎない。つまり十四万二千の市民の中で、千五百名の社員が主役として幅をきかせているのである。
戦中、戦前は、これに海軍が加わった。だが海軍は、あくまでよそ者≠ナあった。一見海軍は浦島重工業の上に君臨しているようであったが、歴史も造船技術においても浦島重工業にかなわない。海軍もそのことを知っており、軍人天下の当時でも、同社の城下町のような浦島においては同社の関係者に一目も二目もおいていた。
戦中、戦前は、社員と工員もそれぞれ細かく分けられていた。社員は一級から五級まであり、技術陣、本社要員、その他の事務要員の順であった。準社員は五級である。工員は、普通工員と挺身隊学徒と特殊工員に分けられ、普通工員は在籍工員(これが世襲制の正工員)と徴用工員、挺身隊が、勤労報国隊、大学高専学生、中学校生徒、女子挺身隊、国民(小)学校児童の五種類、特殊工員が朝鮮人、捕虜、囚人の三種にそれぞれ分類されていた。
戦時中は特殊工員は人間扱いをされなかった。
これが戦後になると、工員はA工員とB工員に分けられ、前者は、技術と年功によって一級から五級に分けられた。また同じ一級でも、機械や修理部門よりも、造船部門の工員のほうが幅をきかせた。
A工員の子弟は、社員登用試験に合格しないかぎり、高校卒業後、三か月の適性検査のための臨時工を経て、各部門の五級正工員に採用される。これでも世襲のたいへんな恩典であり、外部から入ろうとおもえば激しい競争率の入社試験を潜ってようやくB工員になれるのである。
B工員の身分は一代かぎりであり、いつまでいても平工員である。技術と能力を認められた者が、A工員の一級から五級の「待遇」をあたえられるが、決してA工員にはなれない。会社は世襲制の身分保証を厳しくしていた。
細分化した序列(身分差別)によって、軍隊に劣らない鉄の命令系統と、強固な中央集権体制は維持される。そしてそれが世界に誇る造船技術と、労働生産性の基礎となっている。
このような封建体制で塗り固めたような会社において、社員になったということがどんな偉業≠ナあるか、浦島市民ならばわかる。
社員登用試験にパスした木原高志は、本社総務部庶務課へ配属された。ここで彼は意外な人間とおもわぬ再会をした。人事課員によって、新たな配属先へ連れて来られた木原は、課長以下課員一人一人のデスクを回って、新任の挨拶をした。
「よう木原か。あんたもいよいよドアのある便所へ入れる身分となったってわけだ」
記憶のある声にはっと顔を上げると、高等部一年のとき、「扉のないトイレット」の屈辱をあたえた生徒会長の日高政治がにやにや笑っていた。もともと細い目が笑っているために糸のように細くなっている。表情は笑っているが、目の奥は少しも笑っていない。眼光が白々としていて、敵意に満ちている。だが彼の笑顔は造ったものではなかった。図らずも手中に転がり込んで来た獲物を全身で喜んでいるのである。
「なにをびっくりした顔をしているんだ。まあ後輩だから、これから特にみっちりと仕込んでやるぜ」
日高は、みっちりという言葉に強勢をつけて言った。高志の希望にふくらんでいた胸が絶望に押しひしがれ、一瞬視野が暗くなった。ようやく社員になれたとおもったら、日高と同じ部署に配属された。彼のデスクの上には「係長」と表示《ポスト》が出ている。
本社要員四百名の中で選《よ》りに選って最も悪い人間の下に来てしまった。
「よろしくおねがいします」
声が震えかかるのを辛うじて抑えた。ここで挫《くじ》けてはならないと自らを励ました。むしろ正社員初日目にして日高と再会できたのは、復讐の第一ステップとして喜ぶべきではないか。自分の執念深さに感謝し、それを武器に進路を斬り開こうと誓った前に、早速第一目標をあたえられたようなものだ。木原はおもい直した。
当分の間は、走り使いの雑用ばかりで、定まった仕事をあたえられなかった。
木原の主たる仕事は、さして重要ではない業務連絡用書類を関係各部署へ配ることであった。日高は、木原を「回覧板」と呼んで、自分の私設秘書のように使った。
女の子がいるのに茶を淹《い》れさせたり、煙草を買いにやらせたりした。見かねた女子課員が木原に代わって動こうとすると日高は意地悪く、きみは自分の仕事をしていなさいと押しとどめた。
「係長って、なんだか木原さんに怨みでも含んでいるみたいね」
その女子課員、矢沢恵理は、木原に同情の目を向けた。五年前、高卒で入社して、日高より社歴は古い。年齢は木原より歳下のはずである。なかなかの消息通で、日高が入社四年で係長になれたのは、社長御曹司大石光明にべったり付いているためだとそっと耳打ちしてくれた。光明は、運動会で木原に投げ銭をした人物である。彼はいま父親のコネクションで事業部次長をつとめている。
庶務課の主たる業務は、各首脳部間の連絡と、本社機構と現場各部門の調整であり、さまざまな情報を入手できる位置にある。社の首脳陣にも近い所にいて、社内で恐持《こわも》てする存在である。社内でも「虎の威課」などとかげ口をささやかれる所以《ゆえん》である。
だが、新入りの使い走りでは、そのような情報パイプの外におかれていた。回覧板係でも社の中枢に近い所にいることは、皮膚感覚としてわかる。高圧線の直下にいるような、一種の緊張感が肌に迫るのである。その意味で新入り≠ニして悪い配属ではなかった。
正社員昇格(この日を入社日とする)後間もなく、木原はもう一人意外な人物と再会した。毎年五月末、会社は市内に経営している傘下ホテルの庭園において、社員およびその家族の懇親園遊会を開く。これを工員は密かに御前パーティ≠ニ呼んで羨《うらや》んでいた。
パーティには社長を始め、社の重役や功労者や社外の関係実力者なども出席する。また政財界の有力者なども招かれる。
有名芸能人や歌手のアトラクションもあって、華やかである。当日御前パーティに出席できることによって、社員は自分の特権階級たる身分を確認するのである。
木原の両親も社員の家族として初めて招かれた。母などは、招待状のくる前から着ていくものの心配をしていた。結局いくら考えても定まらず、木原に恥をかかすといけないから欠席すると言いだす始末であった。
木原家が御前パーティに招かれたのは、家史始まって以来の名誉であるから、どんなことがあっても出席せよと夫に言われて、ようやく心が定まった模様である。
当日は京浜、関西方面からも来賓が集まり、出席者延ベ四千名の盛会となった。木原の母は大層緊張していたが、「九牛の一毛」で、彼女に目を留める者はいなかった。木原自身、会社の威勢をまざまざと見せつける盛会に圧倒されて、会場の隅に両親と共にひっそりと佇《たたず》んだままである。それでも両親は御前パーティに初めて出席したということで十分満足しているのがわかる。二人の幸せそうな表情を見たとき、木原は社員になった実感が胸に迫った。
人波がざわめき、華やかな一団が会場を移動して来た。艶《あで》やかな訪問着に装いを凝らした若い娘のグループである。
いずれ劣らぬ美しい娘たちが、目も彩《あや》な衣装に飾り立てて妍《けん》を競っている。会場のその一角だけが花が開いたように見えた。彼女たちの移動する後に、ホウと嘆声が漏れる。
彼女らは木原が佇んでいる傍らを通りすぎかけた。木原もおもわず見惚《みと》れていた。娘たちは、木原を道端におかれている石コロのように一顧だにせず通りすぎようとした。彼女らの横顔に、遠い記憶があった。上流の雲の上に下界から切り離された権高《けんだか》の嬌色《きようしよく》、木原のたてた気配に彼女らの一人が視線を向けた。グループの中で最も美しい艶やかな娘である。
彼女の表情にも反応が走った。あらっと小さな声を漏らして、目をはっきりと木原の面に向けた。
「百合さん、どうなさったの」
傍らの娘が問いかけながら、彼女の視線を追って、木原のほうを見た。
「あら、あのときの人じゃない。高等部で鳶尾山へ行ったとき……」
その娘が言ったので、木原の古い記憶がよみがえった。花の一団≠ヘ、「金庫入り組」だったのである。百合は、現副社長岩本勝文の娘である。
「その節はおせわになりました」
百合がしとやかに頭を下げた。上流の気位が、にこやかな笑みによって和められている。
木原は、一瞬|茫然《ぼうぜん》とした後、慌てて頭を下げ返した。
「父からうかがいましたけれど、この度は社員になられたそうでおめでとうございます」
百合は言葉を追加した。あのときの父親の権威を笠《かさ》にきた傲慢《ごうまん》さはなくなっていた。それだけ成長したのであろうか。
「頑張ってね、私たちも応援するわよ」
最初に木原をおもいだしてくれた娘が、茶目っぽく言葉を添えた。そのグループの中に木原に鳶尾山でエスコートしてもらったのが数人いた。彼女らは木原をおもいだすと、いずれも好意的な表情を見せた。
百合のグループが立ち去って行った後も、木原はしばらくの間茫然と口を半開きにしてその後ろ姿を見送っていた。
「きみ、大したもんじゃないか。金庫入り組を知っているなんて」
いつの間に来たのか、日高が嫉《ねた》ましげな目を向けていた。
「いったいどういう関わりなんだい」
日高は早くも詮索の触手をのばしてきた。彼にしてみれば、木原と金庫入り組の関係の内容を確かめないことには、不安なのであろう。
「いえ、ほんのちょっとした知り合いです」
といなしたのが、ますます日高の不安をそそったらしい。
「そうでもなさそうだったぞ。副社長令嬢のきみを見る目は、尋常じゃなかったよ」
「まさか」
木原は苦笑して、なおもしつこくまつわりついてこようとする日高を振り切った。パーティが終わった後で、木原は改めて岩本百合の言葉について考えてみた。彼女は「父から聞いた」と言った。副社長が工員の子弟から登用された一社員の人事について知っているのだろうか。
いまや百合の父親の岩本勝文は、社内で並ぶ者なき権勢を誇っている。現在副社長兼船舶鉄構事業本部長、浦島重工業の主力事業部門の最高責任者である。戦後間もなく入社し、先代社長井沢清四郎の知遇を得て頭角を現わした。敗戦によって失業会社となった浦島重工業は、ゼロからの再スタートを余儀なくされる。戦時中、空母や超|弩級《どきゆう》の戦艦を造った栄光の船台で五トンの漁船や炭車をつくるという苦難の時期を、井沢の片腕となって乗り切り、会社を戦後の造船ブームに乗せて見事に立ち直らせた功労者である。
現社長大石成明になってから船舶鉄構事業本部長のポストに就き、時間をかけて政界に売り込んだ顔を最大限に活用して浦島を護衛艦のトップメーカーに引き上げた。いまや同重工業は工廠をもたない海上自衛隊の第一位指定艦艇建造会社である。
超大型船建造時代に入ってから、岩本は、「経済船型」という、船の内容積を広くし、波の抵抗を軽くするように工夫した新しい船型を開発して、売り上げを急伸させた。
この船型の開発によって、浦島重工業は、大きく飛躍したのである。この時期を同社の「ルネッサンス」と気取って言う者もいる。言わばその中興の祖≠ェ岩本であった。
大石社長も岩本には一目も二目もおいており、四人いる副社長の中で彼が次期社長の呼び声が最も高い。岩本が率いるところの船舶鉄構事業本部が「岩本軍団」の別名があるほどに彼をリーダーとした同事業本部の結束は固い。
その岩本勝文が木原の社員登用に目を留めていたというのだろうか。信じられないおもいであるが、百合が嘘を言うはずがない。事実だとすれば大変なことである。
今日の再会は、百合の古い印象を更新《ブラツシユアツプブ》したにちがいない。百合の口から木原のことが岩本の耳に入るかもしれない。木原は、胸の奥に希望の火が点じたように感じた。相手にしてみれば取るに足りない、おそらく目にも触れない一点の火であるかもしれないが、巨大な組織の片隅で、なんとか上方に這《は》い上がろうとしている一寸の虫のような存在には、それは生命の火に等しいものであった。
金庫入り組から声をかけられて以来、木原は日高やその他の古参課員に恐持てするようになった。
私用や雑用の用命がピタリと止んだ。日高などはむしろ木原の顔色をうかがっている。
意外な副次効果に木原は苦笑せざるを得なかった。
「木原さん、あなた岩本副社長のお嬢さんと仲が良いんですって。隅におけないのね」
矢沢恵理がやって来て、木原の脇腹を軽く突いた。
「仲が良いなんて、そんな……」
「いいのよ、そんなにむきにならなくても。でも岩本副社長は有望株だわよ。あの人のお嬢さんにアプローチするなんて、あなたもなかなかいい目をしているわ」
恵理の目に軽い嫉妬《しつと》の色が刷《は》かれているのを見て、木原はうろたえた。
「アプローチなんかしていません。高等部時代のちょっとした知り合いというだけです」
「クラス仲間はいつまでも。――というわけね」
矢沢恵理は流行歌の歌詞をもじってひやかすように言った。
パーティでの再会がもう恵理の耳にそのように増幅されて伝わったらしい。噂《うわさ》の伝播力の速さと増幅作用の大きさからみても、岩本の社内における勢いが察せられる。
だが翌日、木原はその噂があながち増幅されたものでないことを知らされたのである。業務用書類のコピーを取るためにコピー室に行きかけていた木原は、廊下で岩本とすれちがった。庶務課の部屋は、役員の部屋に近いので彼らとときどき出会うことがある。
木原は廊下の脇に身を寄せて最敬礼をしてすれちがった。岩本は鷹揚《おうよう》に会釈を返して通りすぎかけたが、二、三歩行ったところで振り返り、
「きみは、たしか木原君じゃなかったかね」
と声をかけてきた。まさか岩本から直接声をかけられようとは予想していなかった木原は、咄嗟《とつさ》に返答ができなかった。
「どうしたね、木原君だろう」
岩本が重ねて質《たず》ねた。
「さ、さようでございます」
ようやくのどの奥から言葉を押し出した。我ながら情けないほどかすれ、震えている声である。
「きみのことは……」
岩本は、一拍おいてから、
「娘からよく聞いておるよ。今度の土曜日、空いておるかね」
また奇妙なことを質ねられて木原はまごつきながらも、
「はい、べつに予定はございません」と答えると、
「それじゃあ、昼飯を食いに来たまえ。娘のところに社の若い者が集まるんだ。百合も喜ぶだろう」
木原の返事を待たず、すでに背を向けて歩きだしていた。
木原は書類をかかえたまま、しばらく廊下に立ちつくしていた。ようやくべつの足音に我に返ったが、その日は、岩本の言葉が耳にこびりついて仕事にならなかった。
岩本勝文が木原を知っていたばかりでなく、自宅に食事に招いてくれた。百合が喜ぶだろうとも言った。これをどう解釈したらよいのか。工員子弟から成り上がったばかりの一介の新入社員をからかっているのではないだろうか。しかし木原をからかったところで仕方があるまい。なにかの魂胆があってのことか、あの言葉を額面どおりにうけ取ってよいのか。
虚脱したような状態のまま午後の仕事を終わって退社しかけると、目の前に赤いスポーティな車が滑り寄った。
「乗らない」と運転台から笑いかけたのは、矢沢恵理である。木原は、会社の通勤マイクロバスを利用している。
「送ってあげるわよ」
「方角がちがいませんか」
「回ってあげるわ。そんなに広い街でもないし」
恵理は助手台のドアを開いていた。
「お宅は市内ですか」
木原は助手台に身体を滑り込ませながら聞いた。
「咲見町社宅よ」
そこは、高級社員の入る社宅である。おそらく彼女の肉親が会社の要路にいるのだろう。
「あなたは」
「若葉台です」
そこには単身者の社宅がある。
「それじゃ同じ方角だわ」
恵理は軽やかに車を発進させた。
同じセクションでありながら帰りがいっしょになったのは今日が初めてである。
「今日の午後、木原さん、心ここにあらずといった状態だったわね。だれかいい人とデートでしょ」
恵理がいたずらっぽく言ってチラリと木原の顔を覗き込んだ。
「そんなんじゃありませんよ」
恵理はいつも木原の心を見透かしたようなことを言って彼をうろたえさせた。木原は恵理についてなにも知らないのに、彼女は彼の身上をすべて知っているようにさえ感じられる。
「デートでなければ、ずばり当ててみましょうか」
恵理が目の端で木原の顔色を探った。
「べつになんにもありません」
「岩本副社長に土曜日に遊びに来いって言われたんでしょ」
「ど、どうしてわかったんです」
木原は愕然《がくぜん》とした。
「種明かしをしましょうか。あのとき、私、廊下を通りかかったのよ。副社長があなたに声をかけたので、私、遠慮して横の廊下へ隠れたの。べつに立ち聞きするつもりじゃなかったけれど、副社長の声が耳に入ったわ」
「そうだったのですか」
そう言えば背後に足音が聞こえたような気もした。べつに恵理に聞かれても困るような話題ではない。
「岩本パーティと言って、社内じゃ有名なのよ。それに招かれたがってヒリヒリしている男たちが大勢いるのよ」
「岩本パーティ?」
「副社長が肝煎《きもい》り役になって、社内の独身男女の交際の機会をつくっているのよ。もちろん副社長のおめがねに叶《かな》った人だけが招かれるのよ。そこで意気投合したパートナーが見つかれば、副社長が仲人してくれるという仕組みになっているの。パートナーが見つからなくともパーティのメンバーになると、副社長のいろいろなお引き立てに与《あずか》れるというわけなの。社内では、岩本軍団の強化を狙って戦力を養成するための予備隊≠セなんてかげ口をきかれてるけど、かげ口きいている人はたいてい入会したがっているのよ」
さすがに消息通だけあって詳しい。
「あなたは入会していないのですか」
「あらっ」
恵理は一瞬びっくりしたように木原のほうを見たが、笑いだして、
「でも嬉しいわ、まちがえられて」
「まちがえた……?」
「私、結婚してるのよ」
「本当ですか?」
未婚とばかりおもっていた木原は、改めて相手の顔を見つめ返した。高卒後入社して五年というから二十三、四歳であろう。丸顔に茶目っぽい造作は親しみやすい。
飛び切りの美人というわけでもなく、むしろ街角でいくらでも見かけられるタイプだが、表情の奥に男の心を先読みし、手玉に取っているような含みが感じられるのである。その含みが男をよく知らぬ大胆さから発するものか、あるいは、その逆の熟練によって蓄えられたものかはわからない。身体の要所要所は十分実っているが、それらを構成する曲線は新しい。稚《おさな》いほど新しいところがある割りに成熟は本物である。そのアンバランスが彼女の全体を謎めかしていた。女をまだ知らない木原にそれほど深い観察ができたわけではない。ただ彼女を包む全体の雰囲気が謎めいており、その謎の中に世帯の匂いはいっさい感じられなかったのである。
「でも別れちゃったのよ。そのときは親に反対されて心中直前までおもいつめたけど、結局だめだったわ。どっちも恋に恋していたのよ。最初の熱が冷めたらおたがいに正体が見えちゃったのね。あら、こんなことを話してもなんにもならないわね。とにかく岩本パーティには前科者は入れないのよ」
それが真実の過去か造り話かわからない。だが、男がいたことは事実であろう。
これで彼女のアンバランスの所以《ゆえん》がわかったとおもった。彼女は青い実のうちに、男と女の究極を見てしまったのだ。その果てしない味奥《みおう》を探り当てないうちに、男女の修羅場の火を潜らされたのだ。成熟と幼稚のアンバランスの中に、彼女の負った深い傷が畳み込まれている。だが彼女の若さがそれを深手としていないのであろう。
「若葉台よ」
恵理が車のスピードを緩めた。いつの間にか木原の住居の近くへ来ていた。
木原は急に別れ難い気持ちになった。恵理が握っている情報をもらいたいし、彼女の身上についてももっと知りたくなった。同じ課ではあっても、こんな機会は、なかなかない。木原は、おずおずと、どこかでお茶でもいっしょに喫《の》まないかと誘った。
「ごめんなさいね。せっかくだけど、今日は予定があるのよ。また次の機会に誘って」
だが、木原の申し出はあっさりと躱《かわ》されてしまった。
次の土曜日、木原は岩本勝文の邸へ赴いた。岩本邸は市の山手の浦島湾を一望にする丘陵の上にあった。もともと浦島市は沈降海岸に発達しているので、山が海に迫り、市街地は海浜から階段状にスロープを這い上がっている。岩本邸は、海になだれ落ちるスロープがいったん水平を取り戻した丘陵の中腹の上に全市街を見下すようにして建てられていた。
屋根が平坦な洋風二階建ての白亜の建物は、全市のどの方角からも眺められる。屋上にはミニパターゴルフが設けられている。朝は浦島市で最も先に朝陽が射かけ、夕方は、最も遅くまで陽が当たっている。工員住宅のある下町から望むとき、岩本邸は城下町を見下す白亜の天守閣といった趣きである。事実、彼の邸を「岩本城」と呼ぶ者もいる。その呼称の裏には「お高くとまりやがって」という反感もこめられている。
初めて招かれた副社長邸に車で乗りつけるのを遠慮して、途中で車を捨てた木原は、近づくほどに岩本邸の豪勢な意匠から圧迫をうけた。これまで遠方から見ていただけで、訪れるのは初めてである。この一画には、すべて浦島市の上流階級の居宅が集まっている。この地域の住人と言うだけで、市の特権階級として通る。
それぞれの邸は広い庭と庭樹をめぐらして住人の気配は通りまで届かない。ピアノの音がかすかに欅《けやき》や杉や赤松の繁みの奥からこぼれ落ちる程度である。どこからか花の香りが漂ってきた。手入れの行き届いた芝生の奥にモダーンな洋館が立つかとおもうと、古びた冠木《かぶき》門の奥に風雅な数寄屋造りが覗《のぞ》く。
坂を登るにつれて汗ばんだ額に海のほうから来る爽やかな風が快い。通りには人影一つ見えない。住人によって清潔に管理された通りであるが、生活の体臭がまったくない。
体臭と言えば、この一画全体にそれがない。上流階級が住む最も居心地よい生活環境のはずでありながら、環境を美化するために生活を規制しているかのように、管理された美しさが通りを死なせていた。本末転倒の環境管理が人間の街としての活力を奪っている。
上流の管理によって死んだ街――そんな印象を強めながら丘陵の斜面を登りつめた木原に、岩本邸はその上流の極点の象徴のように遠望したときの示威的な意匠を視野一杯に拡大していた。岩本邸の門前に佇んで、木原は市民が「城」と称《よ》ぶ心裏の反感が実感をもって理解できた。間近に立って眺めるとき、その建物はむしろ船のように見える。屋上にミニパターゴルフを設けた平坦な陸屋根は、空母の飛行甲板のようであり、白亜の壁が正面の海によく映える。
邸の裏手にプールがあるらしく、若い男女の賑やかな声と共に水音が聞こえる。すでにメンバーは集まっている様子である。活力のある人間の声が久しぶりに聞こえたが、それも生活の音≠ナはなかった。
玄関には、荘重な樫《かし》材のドアに獅子を象《かたど》ったノッカーが訪問者をにらんでいる。恐る恐るノッカーを鳴らすと、ドアが開かれて、品のよい老女が迎えた。
「さあどうぞ。皆様もうお見えでございますよ」
老女は、場なれしない木原の気持ちを解《ほぐ》すように柔らかく招じ入れた。屋内に大勢の気配は感じられるが、履物はどこかにしまわれてあるらしく見えない。老女に導かれるまま廊下を伝って行くと、庭に面した広い洋間に通された。芝生のかなたに海が広がり、その先は空につながっている。涼しい風が、いっぱいに開いた窓から吹き込んで来る。
部屋から直接庭に下り立てるようになっていて、庭園の一角に造られたプールでは会員とおぼしき若い男女が水遊びに興じている。
岩本勝文は庭園に臨んだ籐椅子にかけて、プールのほうを見ていたが、老女に案内されて来た木原の気配に目を転じた。
「やあ、木原君か、待ちかねていたよ。よく来たね」
岩本は愛想のいい笑顔を向けた。会社で遠方から見かける威厳に溢《あふ》れたいかめしい容貌とは別人のような和やかな表情である。
「いらっしゃい」
水玉模様の涼しげなワンピースの裾を翻して、百合が近づいて来た。過日の羽を広げた孔雀《くじやく》のような盛装の華やかさと異なり、これはまた自宅での素顔の美しさがあった。木原は高嶺の花の清楚《せいそ》な素顔を見たようにおもった。
「百合、木原君をみなさんに紹介してやんなさい。ここにいる者は、みな気のおけない人たちだから、自由に振舞ってくれたまえ」
岩本は鷹揚に言った。メンバーの中には、鳶尾山や、懇親パーティですでに顔なじみの金庫入り組もいた。だが彼女らは、ここでは少しも金庫入りを感じさせない。むしろ会員の中で最もおおらかでのびのびしているように見えた。もっともここに集まった者のほとんどが、街の上流階級の子弟であり、岩本のめがねに叶った者ばかりであるから、すべて金庫入りと言えないこともない。金庫の中に入ってしまえば、その中のもの同士は、金庫を意識しない。
木原は、ついに金庫の中に迎え入れられたのを悟った。
「パーティのご感想は、いかが?」
翌々日の月曜日の昼食後、矢沢恵理が周囲に人のいないのを見澄まして近寄って来た。
「べつにどうってこともありませんよ」
木原は当たらずさわらずの答えをした。
「嘘おっしゃい! 副社長のお嬢さんにすごくモテて、男の会員から嫉《や》かれたそうじゃないの」
「ど、どうして……」と言いかけて木原は後の言葉を抑えた。たしかに百合は、自分に親しみを見せてくれたようである。初めての彼に付き添って一人一人に紹介してくれた。金庫に突然まぎれ込んだ異物≠謔しく所を得ない木原を引き立てようとしていろいろと配慮してくれたのはわかる。
だがそれが果たして「モテた」のかどうか自信がなかった。新入会員に対する当たり前の心遣いかもしれない。それにしてもなぜパーティの様子を恵理が知っているのか? その疑問に答えるように彼女は含み笑いをして、
「私のパイプが会員にいるのよ。なんだってわかっちゃうんだから注意しなさいよ」
「まいったなあ」
「百合さん、どうやらあなたが気に入ったみたいよ。あなたを会員に推薦したのも、彼女だそうよ。いつの間に彼女のハートをつかんだのよ。本当に隅におけない人ね」
矢沢恵理の目にはまたうすい嫉妬の色が刷かれていた。彼女に嫉《や》かれる筋合いはまったくないのであるが、女は身近の男に他の方角から女が近づいて来ると、嫉妬をおぼえるらしい。
「でもね、岩本副社長に可愛がられるのは、出世につながるかもしれないけれど、注意なさいよ」
恵理の笑いの底に意味深長な含みがあった。
「それは、どういう意味ですか」
「敵も増えるということ。追い追いわかってくるわよ」
そのとき、人が入って来た気配がした。
「じゃあまたね」
恵理はスカートの裾《すそ》をひらりと翻して自分のデスクのほうへ帰って行った。
仕事に多少馴れてくると、周囲を見まわす余裕が生じてきた。馴れると言ってもご大層な仕事があるわけではない。浦島重工業は、社の性格からして技術中心の会社である。それでいながらこれまで技術系から社長が出たことはなかった。
浦島重工業の前身である浦島艦船造修所は、回船問屋「浦島屋」から発している。浦島屋の創始者、中浦源右衛門以来、中浦家の支配力が強く、戦前まで代々の経営権を同族で握っていた。これが、満州事変から太平洋戦争になだれ込むと、戦争完遂のため兵器メーカーとして重要な一翼を担わせられて、同族経営は限界にきた。国家の命運を握る企業は、もはや同族の恣意《しい》に委ねられるべきものではなく、軍部の干渉の下に、「家業」としての会社から否応なく近代企業への脱皮を強いられたのである。
ところが終戦によって、すべてが崩壊した。企業全体が戦争という無限の得意先≠失って失業してしまった。ゼロからの再発足を余儀なくされて、ふたたび会社の原型である中浦家が息を吹き返した。
戦後の全社失業時代は、技術陣の出る幕はない。この戦後の苦境を支えたのが、中浦家の大番頭、現会長の井沢清四郎である。彼は卓越した統率力を発揮して、失業時代を無事乗り切り、朝鮮戦争の特需につなぎ、溶接方式によるブロック建造技術をマスターして昭和三十一年以降の未曾有の造船ブームに会社を乗せたのである。
この苦境時代の井沢の片腕となったのが、岩本勝文である。失業℃梠繧逼塞していた技術陣も造船ブームの到来に俄然《がぜん》生気を取り戻した。だが技術の開発時代は、技術者の目は、つくるほうに向けられる。会社の経営は経営者に任せて、発明に専念している。経営の意志と発明の意志がうまく協調し、会社の両輪となって、発展の軌道を走らせている。もともと技術屋は、政治よりも、発明のほうが好きであり、それぞれの能力分野に応じて動いている。
ところが、技術がいちおう開発されつくして、見るべき新製品が出てこなくなると、技術陣の発明意志が、経営のほうへ向かってくる。技術陣には会社の今日あるのは、自分たちのおかげだという自負がある。
タイムリーにと言うべきか、折り悪しくと言うべきか、現社長が穏やか《マイルド》なブレンドコーヒーのような大石成明である。その温容な人柄は「丸石」と呼ばれるほどである。井沢清四郎が、苦境期を乗り切って安定路線に乗せた会社を、どこにも抵触しないマイルドな大石の性格をかって後図を託したのである。
一説には、岩本に譲りたかったのが、彼が個性が強すぎるために中浦家から異議が出そうだったので、岩本につなぐ暫定内閣として中浦家の縁つづきにあたる無難な大石を選んだとも言われている。中浦家の大番頭の井沢としては、同家の意志に逆らいたくないための苦肉の策だというのである。
こうして大石をステップにして中浦家の抵抗を和らげた後、本命の岩本社長の実現を図っているという穿《うが》った観測が行なわれている。岩本が社長になれば、技術畑からの初めての社長である。会社に対する貢献度の割りには冷遇されている意識の強かった技術陣が熱っぽくなるのも無理はなかった。特に岩本を戴く船舶鉄構本部の過熱ぶりは異常なほどであった。
岩本が、本社機構にまで勢力を扶植しようとしているのは、以上のような含みがあってのことである。さしあたって岩本の対抗馬と見られるのは、他の三人の副社長であるが、実力、権勢共に岩本の敵ではない。
このような情勢が木原にもわかってきた。そのような俯瞰《ふかん》を得られたのも、矢沢恵理の情報によるところが大きい。木原のような取るに足らぬ新入社員にまで岩本が手を伸ばしてきたのも、この社内情勢を踏まえたものとみてよい。
そうだとすれば、入社早々木原は千載一遇の機会に見《まみ》えたと言ってよい。組織の固まっている会社の中で台頭するためには、能力や才能は必ずしも必要ではない。むしろそれらは自分を傷つける両刃の剣になりやすい。あまりに有能であることを剥《む》き出しにすると、上役を警戒させ、自分の位置を奪うのではないかという脅威をおぼえさせ、自己防衛本能の下に有能な新参者を排除しようとする心理規制が働く。
年功序列主義的集団においては、どんなに有能な人間でも自分より上の序列の者を飛び越えられない。跳躍の禁止によって会社の秩序は保たれ、無数の人間部分品によって会社というピラミッドは組み立てられるのである。
このような仕組みの社会で出世をするためには有力な上役に認められなければならない。上役に認められるためには、会社のためではなく上役のために働くことである。会社のためには死ねなくとも、上役のためには死ねるような意気込みで上役に一身を捧げなければならない。
だが、認められるために上役に近づく機会がなかなかない。有力な上役は新入社員にとって雲の上で、その足許にも近寄れない。近づくことすら序列順である。これではどんなに一身を捧げたくとも捧げようがない。そのチャンスが先方からあたえられたのだ。いまは岩本にとっても浮沈に関わる正念場である。一人でも有能な味方が欲しいときだ。その時期に彼の懐ろに飛び込み、忠誠を誓う。
会社の中で飼い殺しにされたくなかったら、どれかの派閥に属することである。昇進の力学は集団において働く。一人ではなにもできない。一生鳴かず、飛ばずでもよいのであれば、どの派閥にも属さず、中立を保てばよい。それでも餌だけはあたえられるだろう。
だが、木原の心身には工員の子弟時代の屈辱がなすりつけられている。この屈辱を雪《そそ》ぐためにはどうしても権力の一角に足をかけなければならない。
木原が骨を刻むような努力をして社員登用試験をパスしたのは、単に社員専用のおいしい餌を啄《ついば》むためではない。以前にうけた屈辱をなんらかの形で投げ返すためには、全力をあげて飼い殺しを拒否しなければならない。会社という場所は、黙っていれば、人間規格品として組織の中に嵌《は》め込まれて、飼い殺しにされる。社員の身分を取得した木原は、次のターゲットを岩本に据えた。
権力の布陣
「社内の若手が月に一度集まって研究会を開いているのだが、きみも一度顔を出してみないか」
と日高がいつになく猫なで声をかけてきた。なにか魂胆を含んでいるときの声調である。だが特に断わるべき理由はなかった。最近は日高も入社当時のような意地悪はしなくなっている。それが岩本パーティに入ったせいかどうかわからない。
その日定時に退社して、日高に連れられて行った料亭で、木原は意外な人物に引き合わされた。それは現社長大石成明の息子で常務の大石道明である。高等部時代、木原に投げ銭をして拾わせた光明の兄である。入社後、遠方から姿を見かけたことはあるが、今日のように同席するのは初めてであった。
料亭には道明の子分たちが十数名集まっていた。いずれも本社の二十代の若手で、同じ高等部出身の者が何人かいる。
「やあきみが木原君か、日高君から噂《うわさ》は聞いている。登用試験の成績は、会社創立以来の記録だそうだよ」
道明は、愛想のよい笑顔を向けた。
「きみが入社したことは知っていたのだがね。今日はいい機会だから日高君に誘ってもらった。若い人の意見を聞かないと、どんどん取り残されてしまう。入社して二、三年すると、新入社員の言っていることがわからなくなる回転の速いご時世だ。この研究会にもフレッシュマンに参加してもらっておたがいに勉強しようという趣旨なんだよ」
道明は言って、一座の者に引き合わせてくれた。
社長御曹司として、路傍の石ころぐらいにしか見ていなかった木原に対して、気味が悪いくらいの気の遣いようである。
その夜は「研究会」と称しながら、飲食して雑談を交わしただけで、会社の経営や将来のビジョンなどについてはいっさい語らなかった。
「常務もきみが来てくれて喜んでいたよ」
会が終わってから日高が耳打ちした。
「何の研究なのですか」
研究テーマが曖昧な奇妙な集まりに、木原は無気味な下心を感じ取っていた。その下心の正確な形はまだ読み取れない。
「今日は顔つなぎだよ」
何のために顔をつなぐのか。
日高の含んだ言葉の底には新入社員の末端にまで伸ばされてきた触手の奥の輻輳《ふくそう》が感じられた。
「あなた常務の研究会に行ったでしょう」
二日後、早速恵理が言ってきた。いつものことながら彼女の早耳には驚かされる。
「だれから聞いたのですか」
「だから言ったでしょ。私のパイプはどこにも通っているって。私に隠れて悪いことなんかできないわよ」
「べつに悪いことなんかしていない」
「気をつけなさいよ。岩本パーティに入っていながら、常務の研究会に出ることは、裏切りととられても仕方がないわよ」
「裏切り? だれを裏切ったと言うんです」
「あら、そんなことも知らずに研究会に出たの。あなたってお人善しなのね」
「岩本副社長と常務は反目しているわけじゃないでしょう」
「だからお人善しなのよ。表面は協調しているようだけど、裏があるのよ」
「どんな裏ですか」
「それはここではちょっとまずいわ。聞きたい?」
恵理は誘うように流し目を送った。
「ぜひ聞きたいな」
「そうね、あなたは感じがいいからそっと教えてあげようかな。今夜八時、海岸通りのはずれにソーホーってパブがあるの。そこへ来て。そこなら会社の人間も来ないから」
「ソーホー?」
「ちょっとわかり難いけれど、小さな緑の扉があるわ」
恵理は、目の奥で笑ってデスクへ戻った。
「ソーホー」は、なんと倉庫の中にあった。古い廃倉庫に手を加えて、パブ、カフェ、ブティク、アンティクの品などがそれぞれ個性的な意匠を凝らして入っていた。最もファッショナブルな若者や国籍不明の船員風、ヒッピー風が多い。この街に生まれ育ってこんな一角があったことを知らなかった。
この一角だけは浦島城下の租界≠フように、会社の影響から切り放されている。
店内の照明はおもいきって暗い。木原が入口付近のフロアに佇んできょろきょろしていると、奥のカウンターから「こっちよ」と恵理の声がかかった。
長い髪を肩まで下げ、黒地に白の縞を描いたブラウスにジーンズといったいでたちは、会社で見ている彼女とは別人のようであった。オフィスでは、常に髪をアップにまとめているので、こんなに長い髪をしていたとは知らなかった。
仄《ほの》暗い灯の下に長い素直な髪が乱れかかる横顔を俯《うつむ》けて、ワイングラスを傾けている姿は、妖艶であった。それは会社では絶対に見られない彼女の側面である。
「どうしたの。そんな豆鉄砲顔≠して」
恵理がワイングラスを目の高さに捧げもつようにして笑いかけた。
「驚きました」
「なにを?」
「まったくべつの女《ひと》かとおもった」
「ここにいる私のほうが本物なのよ。会社にいるときは仮の姿なの」
恵理は空いているほうの手でたれかかる髪をかき上げた。照明のせいか、ワインの酔いか、目の縁が仄《ほの》かに色づいて、吹きつけてくるような放恣《ほうし》な色気が感じられた。
「面白い場所を知っているんですね」
木原は、場ちがいの世界に足を踏み入れたような緊張と、とまどいをおぼえていた。
「いい所でしょ。浦島でここだけに自由な空気があるような気がするわ。ニューヨークのソーホーを模しているのよ。ちょっぴり芸術っぽくて、クリエイティヴで、そしてなによりも会社の連中が立ち寄らないところが気に入っているの。でもそのうちに有名になると、本場のソーホーのように俗っぽくなっちゃうわね、きっと。あなたもあまり人に教えないでね」
恵理は軽くにらむように見た。
会社で見る恵理と異なり、挑発的に感じられるのは、ワインの酔いのせいであろうか。
「木原さんも召し上がらない。ここのワインとチーズは最高なのよ」
「いただきます」
「ここではそんな固苦しい口のきき方は止めてちょうだい。ここは会社じゃないんだから」
「すみません」
「こら高志、それがいけないのよ。私のことを恵理と呼べ。呼ばなきゃいいことを教えてやらないぞ」
恵理はからむような口調で言った。すでに相当ワインが入っている様子である。
「それじゃあ、恵理さん」
「さんは余計よ」
恵理は、木原が入社したときから好意的であった。一介の女子庶務課員にすぎないが、謎めいたところのある女である。課長も、日高も彼女には一目おいているようである。それが彼女が社内に張りめぐらした情報網にあることは察せられる。情報蒐集力に特異な才能があるのであろう。蒐《あつ》めた情報を所選ばず撒《ま》き散らす放送局≠ナないだけに、無気味な圧力をあたえている。そしてそれが彼女をしてミステリアスにもしているのである。
その恵理が、ニューヨークのアーティスト村もどきの場所に来て、無防備な側面を見せている。彼女はこれが本物の自分だと言った。すると、彼にだけ会社で着けた仮装を脱ぎ捨てて、正体を見せてくれたのか。本当にこれが正体なのか。木原はこれまで道端に咲いている花に向けていたような恵理を見る目に、積極的な関心を盛ったのである。
「せっかく来たんだから教えてあげるわ。木原さん、どっちつかずは、だめよ。旗幟《きし》を明らかにしなくちゃあ」
恵理はワイングラス越しに木原を見た。その目はすでに酔っていない。
「それじゃあやっぱり副社長と常務は反目しているのか」
木原は恵理の注文どおり、言葉遣いを砕いた。
「そうよ。常務はね、岩本さんが社長になるのを喜んでいないのよ」
「岩本副社長が社長に就任しても常務には影響ないとおもうけど」
「甘いわよ、見方が。常務は、社長の御曹司よ」
「しかし、社長の椅子を継ぐには序列や年齢からいっても無理だ」
「だから影響ないというわけじゃないでしょう。ないどころか大ありなのよ。いまの社長は中浦家の縁つづきに当たり、中浦家が支持しているわ。一族の保有株をまとめると、上位大株主になるし、中浦家にしてみればいったん取り上げられた経営権を取り返したいのよ」
「それがどう影響するんだ」
「先代の井沢社長は、中浦家の大番頭だったけど身内じゃなかったわ。それが身内の大石社長にバトンをタッチしたのよ」
「それは、岩本副社長に引き継ぐまでの暫定的処置だと……」
「先代社長としてはその含みがあったかもしれないわね。でも、権力というものは、いったん手に入れたら離したがらないものよ。そして、権力をつかんだ者が、権力を失った者の意志のとおりに動くはずがないでしょ」
「大石社長が、岩本副社長に譲りたがっていないというのか」
次期社長として岩本の線は衆目の見るところである。大石も異議を唱えている様子は見えない。「丸石」と呼ばれるほど穏和な人柄は、任期が満了したら、岩本にポストを譲ることになんの抵抗もないように見える。
「表面は、岩本副社長を後継者にするような口ぶりだけれど、内心は大ちがいなのよ。社長になってから中浦家に尻押しされて急に野心が生まれたとおもうんだけど、せっかく手に入れた社長の椅子をなんとか御曹司にまわしたいとおもうようになったのよ」
「しかしそれは無理だ」
「いますぐにはね。でもいまから五、六年したら様子が変わってくるんじゃないかしら」
恵理は、謎《なぞ》をかけるように木原を見て、
「副社長は岩本さんの他に三人いるわ。機械事業本部長の宮島さん、人事本部長の横川さん、管理本部長の池上さん、この三人で一任期ずつたらい回しして、ちょうど六年ね」
「岩本副社長を疎外してかい」
「岩本さんは生粋の技術畑で、先代に可愛がられたというだけの中浦家にとっては外様《とざま》よ。それに反して、宮島さんも横川さんも池上さんも中浦家の番頭出身よ。言わば譜代《ふだい》ってわけね。いったん外様の岩本さんに渡したら、ただでさえ勢いのいい造船部門に社長の椅子をずっと独占されそうな脅威を覚えても不思議はないわ。少なくとも、大石常務の許に戻って来る可能性は絶対になくなるわね。そこで大石社長としては、なんとかして岩本さんに譲らない算段をしているのよ」
木原にもようやく恵理の言う裏≠ェ見えてきた。そのような情勢下にあって、両派に二股かけるのは、裏切りと見られても仕方がない。
「私が旗幟を明らかにしなさいと言った意味がわかったでしょ」
恵理は、木原のグラスを新たなワインで充たしながら言った。
「よくわかったよ」
木原は礼を言うのも忘れて、恵理の情報を忙しく咀嚼《そしやく》していた。岩本の対抗馬が三人の副社長であることはわかっていたが、大石社長が彼らに付いていたとは知らなかった。しかもその裏面には中浦家と外様の権力争いがある。女の情報網としては恐るべきものがあった。
「いまはあなたが出るか出られないかの分かれ目よ。入社早々にこんなチャンスに恵まれるなんて運がいいわよ。会社の中で頭角を現わそうとおもったら、権力争いに進んで身を挺することね。どっちつかずはだめよ。戦いのときに味方をしてくれた者が、本当の味方なのよ。どちらの味方をするのもあなたの自由だけれど、大切なことは必ず勝つほうに味方することね。負けたら会社に居場所はないと覚悟しなくちゃあね」
恵理は、木原が岩本パーティに招かれたとき、自らに誓ったことを、はるかに具体的な言葉で言った。いまこそ旗幟鮮明にすべきである。相対する両勢力から誘いがかかったのはそれだけ戦いが熾烈《しれつ》で、戦力が伯仲しているからであろう。
「恵理さん、あなたはどちらが勝つとおもう」
この恐るべき情報通ならば、データに基づいて正確な予測をするだろうとおもった。
「そんなことわからないわよ」
恵理はそこまで聞くのかと嘲るように笑った。それはたしかに木原自身が下すべき判断である。
「でも私の参考意見を言おうかな」
恵理はからかうように言葉をつけ加えた。
「ぜひ聞かせてもらいたいな」
「あくまでも参考よ」
恵理は前置きして、
「実力、人気ナンバーワンはやはり岩本さんね。この点で他の三人の副社長が束になってかかってもかなわないわ。でもここに中浦家と大石社長が三人組に付いたとなると、にわかに情勢は岩本さんにとって厳しくなるわね。中浦家の力は大きいからなあ」
「恵理さんは、岩本副社長に勝ち目がないとおもうのか」
岩本パーティに入って忠誠を誓おうと決心したばかりの木原にとって、それは非常に憂うべき観測となる。
「そうは言ってないわよ。中浦家、社長、三人組の連合軍に対して、孤軍のような岩本さんにも強い味方がいるのよ」
「井沢会長かい」
だが井沢にはすでに代表権はない。
「井沢会長も重要な味方の要素ね。でも会長自身には力はないわ」
「それじゃあだれ?」
「安立《あんりつ》銀行の長谷部頭取よ」
「安立銀行……」
「――は浦島の代々のメインバンクでしょ。その頭取の長谷部潤と、井沢清四郎は同郷で、しかも大学が同窓でとても親しいわ。社長の選任にあたって長谷部頭取の意見を無視できないわ」
「長谷部頭取は、岩本副社長を推すというのか」
「まちがいないわね。膨大な資金を入れている銀行としては、会社を同族経営のオモチャにされてはたまったものではない。いまの浦島でだれが見ても岩本さんの右に出る人材はいないわ。大石社長は暫定内閣としてはよくやっているけど、あの人の下では会社は安定の環状線を走っているだけで、少しも成長しないわ。これだけの大屋台を引っ張ってもっともっと成長させるには、三人組では無理よ。宮島さんは根っからの技術屋で経営に関しては素人よ。横川さんには統率力がないし、池上さんは優柔不断ね。いずれも浦島をかつぐ器ではないのよ。御曹司にいたっては論外ね。留学したおかげで英語が話せるというだけで、英語学校の講師ぐらいが無難なところね。井沢会長と個人的に親しくなくても、長谷部頭取は、岩本さんを強く推すでしょうね」
「それじゃあやっぱり岩本副社長が有利か」
「銀行は、安立一本だけじゃないわ。安立がメインだけど、菱井や古川も入っているわ。これらは虎視|眈々《たんたん》として、安立を蹴落とし、融資トップの位置に立とうとしている。おいしい会社は他行を押しのけてもというのが銀行屋さんのやり口よ」
「菱井や古川は、岩本副社長に対してどうなの」
「あまり好意的じゃないのよ。岩本さん、押しが強くて、銀行なんかに頭下げないでしょ。それに古川銀行は中浦家と仲が良いのよ。銀行のおもわくが決め手になるかもしれないわね。私の観測では、両派の力は伯仲していて、なんとも言えないわね。どう参考になったかしら」
「大いに参考になったよ」
木原は、心の底から感嘆していた。恵理は単に情報を蒐めてくるだけでなく、それを分析し、将来の見通しに再構成する能力をもっている。
「この程度の予測は、材料があればだれだってできるわよ」
恵理は、木原のオーバーな感嘆が恥ずかしくなったらしく、照れたように笑った。妖艶なマスクにチラリと稚い表情が覗いた。
「恵理さん、もう一つ聞きたいことがあるんだ」
木原の改まった口調に恵理は面を上げた。
「きみはどうしてぼくにこんな貴重な情報をくれるんだい」
「知りたい?」
彼女の表情が、また謎を含んだ。
「知りたいな、ぜひとも」
「それでは言っちゃおうかな。いいわ、いずれはわかることだから。私も工員の子なのよ」
「きみが!」
「でもね、あなたみたいに社員登用試験をパスしたんじゃないの。社員と結婚したのよ。工員と社員の結婚を会社は喜ばないけれど、憲法で認められている権利でしょ。強引に結婚したけれど、結局無理が祟《たた》ったわ。だからあなたに頑張ってもらいたいのよ、工員代表の社員としてできるだけ遠くまで行ってもらいたいの」
「そうだったのか」
「約束して欲しいことがあるのよ」
恵理が陰翳《いんえい》の濃いまなざしを向けた。
「約束、何を?」
「私のこと詮索しないって」
「どうしてきみを詮索するんだ?」
「それならいいのよ。私があなたに好感をもっているのは、工員出身という同族意識だけからよ。そこのところをはっきりしておいて、私に必要以上の関心をもたないで欲しいの」
「もつと困るのかい」
「おたがいにね。せっかくのいい雰囲気を壊したくないし、私もあなたの応援ができなくなるわ」
「わかった。約束しよう」
「これであなたを全力で応援できるわ。あなたは全工員のホープなのよ。頑張ってね」
恵理は、瞳の奥から笑いかけた。
恵理と別れてから彼女の言葉が次第に気になってきた。
なぜ彼女はわざわざあんな釘《くぎ》を刺したのだろう。うけ取りようによってはずいぶん自信過剰な牽制《けんせい》である。
詮索されて困るということは、その身上に人に知られたくない秘密があるからであろう。
その秘密とは何か? 禁止されたために逆に木原の好奇心が刺戟をうけてしまった。
詮索されたくない秘密が、彼女の情報源につながっているのか。あるいは身辺にプライベートな問題でもあるのか。
庶務課には他に数名の女性がいるが、恵理は、なんとなく特別扱いをうけているようである。同年輩の同僚と話をしたり、遊びに行ったりするようなこともせず、彼女だけは、同性の課員から孤立している。仕事は抜群にできて、庶務の生字引《いきじびき》的存在である。だが課長や係長連が彼女に一目おいているのは、仕事の能力に対してだけではなさそうである。恵理が途方もない情報網をかかえていることを知る人は知っている。ときどき、それをタイムリーに小出しにして上司たちを愕然とさせることがある。こんなところにも彼女が恐持《こわも》てする所以がありそうである。
考えてみれば、木原は恵理についてなにも知らない。知る必要もないとおもっていた。美しく、異性として十分な魅力を備えてはいるが、恋愛の対象として見たことはない。
だが、いまは事情が変わってきた。彼女は進んで木原の応援団(たった一人ではあるが)をかってでてくれたのだ。女が男の応援≠すれば、容易に恋に転化しやすい。それを見越して釘を刺したとしても、逆効果となる危険がある。現に木原は恵理に特別な関心をもってしまった。
それにしても恵理情報は、新入社員の彼にとって雲の上の動きである。首脳陣の権力をめぐる布陣は俯瞰《ふかん》できても、ピンとこない。権力争いにとって、木原などは、どれほどの戦力にもなるまい。それにもかかわらず両陣営から誘いの手がのびたところに、なにかがありそうな気がする。
(工員のホープか)
木原は自嘲的につぶやいた。いったい自分に何ができるというのか。巨大な会社機構の片隅で毒にも薬にもならない業務書類をコピーして配る回覧板係≠ノすぎない。恵理から途方もない情報をもらっても、自分には大きすぎ噛み砕けない。
だが、いまは恵理の応援≠ノすがる以外にない。彼女とはたしかに「よい雰囲気」である。金の卵を産んでくれるかもしれないトリを無用な好奇心から解剖するようなことがあってはならない。――木原は自戒した。
美しい標的
日高がかけてきた次の「研究会」への誘いを木原はきっぱりと断わった。日高は一瞬、信じられないような顔をしたが、
「きみ、せっかくの機会を潰《つぶ》してよいのか」
とあきれたように言った。
「私が参加しても恥をかくだけなので」
木原はあくまでも低姿勢に出た。
「ただ顔を出すだけでいいんだよ」
日高はあきらめきれないようである。
「それでは研究会になりません」
「ぼくの顔もあるんだ。常務がきみの出席を望んでおられるのだよ」
「他に予定を立ててしまいましたので、失礼いたします。常務にはよろしくお伝えください」
「きみ、これがどういうことを意味するかわかっているんだろうね」
日高は、木原が動かないとみて、恫喝《どうかつ》してきた。だが木原はすでにどちらに付くべきか決めていた。それは反岩本派に対する宣戦布告でもある。遠方から恵理が目顔で合図を送ってきた。それは木原の判断に肯《うなず》いているようであった。
研究会からの誘いを断わってから、木原は岩本パーティに精勤≠オた。土曜の午後は、必ず岩本邸へ行った。木原が道明の研究会を蹴ったという情報は、岩本の耳にも届いたとみえて、その心証をよくした模様である。
百合も、木原には特に親しみを見せてくれるようである。恵理のいう「いい雰囲気」であった。百合が木原を見る目の中にはなにか特別なおもいがこめられているような気がしたが、彼にはまさかという気持ちが強かった。
努力によって社員に成り上がったものの、工員に対する身分差別は、心身に刻み込まれている。次期社長候補の本命である岩本がその愛娘を工員子弟上がりに託すはずがない。社員になり、岩本パーティに入れたものだから有頂天になって夢を見ているのだ。
百合は岩本パーティにおけるナンバーワンである。パーティの女性会員はすべて金庫入り≠フ才媛である。よい雰囲気に自惚《うぬぼ》れて、身分を弁《わきま》えぬ高望みをしてはならないと、木原は自分を戒めた。
恵理とは、ときどきソーホーで会った。午後八時ごろそこで落ち合い、ビールやワインをいっしょに飲む。ローストビーフを食べることもある。そこで恵理の仕込んできた情報を聞く。それ以上に発展することのない奇妙なデートであった。
木原には恵理という女がわからなかった。結婚生活を経験しているのであるから、セックスのなんたるかも知っているはずである。たしかに性の習熟をうかがわせる成熟した色気があった。だが、木原を需《もと》めるようなことはない。男がいれば、木原を相手に遊んでなどいないはずである。またいなければ、いったい木原に何の目的で接近しているのか。本当に同族≠ゥら発した者の応援だけなのか。木原は次第に焦《じ》らされているような気持ちになっていた。
恵理は、パーティの様子にも通じているらしい。
「百合さんともますますいい線いってる気配じゃないの」
「雰囲気だけだよ、おれなんかどうせ枯木も山の賑わいさ」
「難しい言葉を知ってるのね。でもちょっと気になるなあ」
恵理が考え込む表情になった。こういう表情になったとき、彼女の正確な情況分析と判断が下されるのである。
「何が気になるんだい」
木原には、恵理の表情のほうが気になった。
「岩本親娘のあなたに対する態度よ。あなた、少し変だとおもわない?」
「そう言えば少し親切すぎるようなのが、気になっていたんだ」
「それはあなたに対して特にという意味でしょ」
木原が肯くと、
「そこのところが気になるのよ。岩本パーティの数ある男のメンバーの中で、なぜあなたにだけ岩本親娘が色目を使うのかしら」
「色目じゃないよ」
「同じようなものよ。たしかにあなたは社員登用試験を一番で通った秀才だわ。でも、百合の相手としては身分ちがいだとおもわない」
木原は恵理の指摘を認めざるを得なかった。
「副社長や百合さんが特に親切にしてくれたからといって、ぼくをそのような対象で見ているわけじゃないだろう」
「たぶんね。でもパーティの参加者の目にいい雰囲気にうつるということは、いちおう候補者としてマークされていると考えていいんじゃないかしら。たしかに人物本位で選ぶのなら、あなたも立派な候補者の資格があるわ。でも結婚って決して本人同士だけのものじゃないでしょ。家や親同士のおもわくがからむわ。まして岩本くらいになれば、家柄とか政略がらみになるわ。失礼だけど、木原さんの場合、金庫入りに比べて家の格がちがいすぎるわ。岩本親娘の態度には、どうも裏があるような気がするの」
「どんな裏があるというんだ」
「それは私にもわからないわ。ただ、百合の色目にあまり有頂天にならないほうがいいかもしれないわよ」
「百合さんが、ぼくに惚れるということはあり得るとおもうか」
「ふふ、色男は辛いわね。それはあり得るでしょうね。恋に身分の上下はないというから」
「それなら百合さんがぼくにアプローチをしてもおかしくはないだろう」
「百合だけならばね。でも彼女があなたに惚れたのがわかれば、岩本は絶対反対するはずよ。岩本の現在の実力からすればどんな相手でも引っ張ってこられるわ。それを選りに選って工員の子上がりの平社員に反対するどころか、娘を応援して雰囲気を盛り上げようとしているのは、おかしいわよ。岩本クラスの人間にとって子供の結婚は、自分の勢力を伸ばす絶好のチャンスなのよ。あなたに娘をくれても、岩本にとって少しもプラスするところはないわ」
恵理の言葉は辛辣《しんらつ》であったが、事実そのとおりである。プラスするどころか、封建色の強いこの土地で社員と工員の身分差別を、社員のトップにある岩本が進んで崩すような結婚は、社員階級の反感を買うにちがいない。
本人の意志を尊重するにしても、パーティで目を交わす程度で、たがいの意志を確かめ合ったわけではない。まだ「意志以前」の段階にあると言ってもよい。
「いけない。考えすぎて独り相撲を取るところだった」
木原が首を振ってグラスを取り上げると、恵理は真剣な表情になって、
「木原さん、もしもよ、もし岩本が百合をもらってくれと言ってきたらどうする?」
と探るように木原の目の底を覗いた。
「まさか、そんなことがあるはずはない」
「だからもしもよ」
「もしもでも考えられないね」
「逃げないで。我らのホープとしてはそこまで考えておく必要があるわ。そしてあなたの心の底にもひょっとしたらという期待があるはずよ」
「…………」
「どうする。うける? それとも断わる?」
「そのときになってみなければわからないよ」
「だめよ、そんな言い抜け。おそらくあなたは断わらないでしょうね。岩本副社長の娘を妻にすれば、将来は約束されたようなものよ。逆に断わったら、あなたはもはや浦島では一生浮かび上がれないでしょうね」
「それじゃ選択の余地はないじゃないか」
「百合との結婚はあなたにとって出世のチャンスよ。逃す手はないわ。テキが色目を使っているのなら、こちらから積極的に答えるべきよ。パーティだけでなく、デートに誘ってみたら」
「そんな大それたこと……」
「――でもないでしょ。テキの心を試すいいチャンスよ。なにか魂胆があれば、それも確かめられるわ。デートに応ずるようなら、大いに脈があるわよ。もともと岩本パーティは男女交際のきっかけをあたえることを目的にしているんでしょ。深く知り合うためにデートに誘うのは少しも悪いことじゃないわ。百合は岩本の娘ということで恐持てしすぎて、男の会員が敬遠しているそうじゃないの。願ってもないチャンスじゃない」
そこで恵理はふっと挑むような目つきになって、
「木原さん、あなた女を知ってるの」
「いきなりなにを言うんだ」
木原は、虚をつかれてうろたえた。
「もしまだ知らなければ、私が手ほどきしてあげましょうか」
「き、き、きみ!」
「ふっふ、木原さんて純情なのね。そんなところも好きよ。冗談よ。私たち男と女の仲にならないほうがいいのよ。なれば必ず私を詮索したくなる。それはせっかくのいい関係を壊すだけでなく、あなたにとってもマイナスになるわ。でも女を知らないと、百合を攻めるにも要領がわからないでしょ。トルコ風呂へでも行って遊んでおくといいわよ」
恵理は、木原の未経験を見抜いたように言った。
恵理の示唆によって木原は自信を得た。身分ちがいを恐れて、せっかくの機会を手を拱《こまね》いて、見送ることはない。男なら勝負に出るべきである。
それによって独り相撲であることが確認できたとしても元々である。相手になにか魂胆があったとしても、百合は標的として申し分ない。深窓で育《はぐく》まれ磨かれた素質は、妙齢に達すると共に輝きを増して、父親のバックがなくとも、十分魅力的である。成長と共に権高さも中和されたようだ。
木原は次の土曜日、百合の耳にそっと囁《ささや》いた。
「明日さしつかえなかったらドライブに行きませんか」
百合はびっくりしたように木原を見つめ返したが、やがてうすく頬を染めて肯いた。
「それでは明朝十時にお迎えにあがります」
翌日の日曜日は、移動性の高気圧に日本全国が被《おお》われて絶好のドライブ日和となった。木原高志は、最近買い入れた新車を駆って岩本邸へ百合を迎えに行った。N社が発売した最新型のGT車でファッショナブルな高性能車である。ツインキャブレターで百二十馬力エンジンを搭載している。この車ならば、百合を乗せても恥ずかしくない。おもいきって買ってよかったとおもった。
百合は、黄色いシャツ風ブラウスに軽快なジーンズを着けて出て来た。そのスポーティなスタイルが新車によく似合った。彼女は嬉々として車に乗り込んで来た。岩本夫妻が門前まで見送った。
「ゆっくり遊んで来たまえ、木原君、面倒だろうが、よろしく子守りを頼むよ」
と言って送り出した岩本勝文は、すでに婚約者に娘を託す父親の表情になっていた。
「まあ、私もう子供なんかじゃありませんからね」
百合は故意に拗《す》ねてみせた。そんなところにも木原と二人だけでドライブに出かける喜びが弾んでいる。
木原は、市域の北方にある森林公園へ車を走らせた。彼らが初めて出遇った鳶尾山|山麓《さんろく》の広大な森林地帯を縫うドライブコースで、千五百種以上の植物の群生する間に大小の池塘《ちとう》や温泉がちりばめられている。野生動物の天下で、ときどき野猿の群れや野兎などが道路を横切る。ときにはムササビやタヌキも出るという。
森林深く分け入るほどに秋の気配が濃厚になった。紅葉の最盛期にはまだ間があるとおもわれていたが、森林の奥にはすでに秋の宴が酣《たけなわ》であった。見事に色づいた樹葉は、木の下にいる者の面を染めるほどである。
「車で走るのがもったいないような景色ね」
百合はため息を吐いた。
「その辺に停めましょうか」
「ええおねがい」
木原は一際見事に色づいたイロハカエデの樹の下に車を駐めた。エンジンを切ると、急に鼓膜を圧するような静寂が落ちた。まだ、紅葉狩りの客は少なく、車の気配もない。樹の上方を微風が通りすぎ、逆光にひるがえる樹葉の奥から光の破片のように数葉の色づいた葉を落としていく。
「静かですね」
静寂の圧迫から逃れるために木原は言った。いま自分は百合と人里遠く離れた場所で一対一で対《むか》い合っている。なにかを為すべきか、それとも為すべきではないのか。相手がなにも背負っていないただの女ならばとにかく、百合のバックに岩本がいる。岩本は、木原の将来など簡単に踏み潰せる実力をもっている。これは岩本のテストかもしれない。迂闊《うかつ》に手を出せなかった。
「なんだか恐いわ」
百合が言った。
「静かすぎますね」
「いえ、木原さんが恐い顔しているわ」
「ぼくが恐い!? まさか」
木原は、慌てて造り笑いをした。判断の岐路に立たされて、おもわず緊張したのであろう。
「なにをそんなに恐い顔をして考えてらしたの?」
百合が覗き込んだ。
「怒りませんか?」
「私が怒るはずないでしょう」
「私がなにを言っても、お父さんに言いつけないと約束してください」
「私がそんな告げ口なんかするとおもって?」
「おもいません」
「それじゃあ教えて」
「迷っていたのです」
「何を迷ってらしたの」
「あなたにキスをしようかどうかと」
「まあ」
百合が頬をうすく染めた。
「どうしたらよいでしょう」
「そんなことを女性に聞く人がありますか」
「でも聞かなければわからない」
「私にどんな返事をしろとおっしゃるの」
「それはもちろんイエスと言ってもらいたいです」
「…………」
「そばへ行きますよ」
百合は返事をしなかった。木原は百合の体を捉えてぎこちなく唇を重ねた。応じた百合の唇もぎこちなかった。全身がこきざみに震えている。だが唇は柔らかく優しかった。おそらく初めての接吻《フアースト・キツス》であろうか、許容の意志は十分に現われている。
そのとき、後方に車の気配がした。だが木原はようやく捉えた貴重なチャンスを貪婪《どんらん》に貪《むさぼ》った。百合は木原の腕の中に体を預けて陶然としている。視野の端を赤い影がよぎった。赤いスポーティな車の後ろ姿が紅葉の樹林の奥へ閃光のように消えて行った。
木原は、百合の唇を捉えたまま、口の奥であ≠ニ呻《うめ》いた。幸いにその気配は百合に悟られなかったらしい。いまの赤い車の後ろ姿に記憶があった。
まさか矢沢恵理がこんな所まで? と打ち消したものの、このデートを勧めたのは恵理なのである。百合が喘《あえ》いで唇をはずした。長い接吻に息が詰まった模様である。唇をはずした後も、息切れがして、言葉が出ない。「金庫入り」だけに初めてのキス体験が強烈なショックをあたえたらしい。
「ちょっと引き返した所に洒落《しやれ》たドライブインがあります。そこで食事をしましょうか」
木原は誘った。実はこの先にもっと洒落たホテルがあるのを知っていたが、恵理の車らしい赤い車の後を追うのは憚《はばか》られた。
引き返してしばらく行くと、黙り込んでいた百合がポツリと言った。
「さっき通りすぎていった赤い車を知っていらっしゃるの」
虚を突かれた木原は、咄嗟に答えられない。
「いえべつに」
辛うじて言葉を押し出すと、
「なんだかひどく驚いてらしたご様子だったけど」
「いえ、あんなときに急に車が現われたので、まごついただけです」
「そうね、私も突然車が来たのでびっくりしたわ。でもあなたが離さないんですもの」
百合が怨ずるような目で見た。その表情にはすでに成熟した色気があった。
ドライブ先で唇を交わして以来、木原は百合に「旗を立てた」ような感じになった。岩本パーティにおいても、百合と木原は「カップル」と見なされた。岩本夫妻も二人の間柄を認めているようである。当然のことながら、木原は、パーティの立役者になった。それは社内の彼の位置に敏感に影響した。岩本の女婿となれば、もはや一介の新入社員どころではなく、社内の一方の勢力である。
木原が入社後間もなく、岩本の娘の愛を得たのが開運の始まりであるとしても、彼女を狙っていた者は、木原一人ではない。いや浦島の男性独身社員のほとんどすべての者は、無心には彼女を眺められなかったはずである。その大勢の競争者を押しのけて、百合の愛を独占し、岩本の支持を取り付けたのは才能の一つとして評価すべきであった。
たとえ百合の心を捉えても、岩本のめがねに叶わなければそれまでである。
岩本パーティのメンバーすら畏《おそ》れかしこみたじろいでいる間に工員子弟上がりの新入社員に、先を越されてしまった。
だが木原自身が、すんなり入り込んだ領域の畏れ多さに信じられないおもいなのである。からかわれているような気がした。まだ百合とはなんの約束も誓いも交わしたわけではない。
ただ唇を触れ合っただけの他愛もない関係にすぎない。それを「旗を立てた」と自惚れて、独り相撲を取っていると、打っちゃられたときのみじめさやおもいしるべしである。
たしかに百合の目には「唇以上」の好意が覗いている。岩本夫妻の表情も公認≠感じさせる。矢沢恵理も警告したように、岩本の公認にはなにかの裏がありそうである。
まだだれも百合の唇に触れた者がなければ、そこまで行った木原はたしかに一種の旗を立てたのにちがいあるまい。だがその旗は、はなはだ中途半端であった。おもいきって踏み込んだものの、そこから一歩も進みも退きもならず、木原が進退に窮しているとき、矢沢恵理がなにやらおもわくをかかえた表情で近づいて来た。
「その後高値安定≠ニいう感じだけど、安定しすぎちゃってるんじゃないの」
「そうなんだよ」
「やっぱりあなた遊んでいないせいよ」
「遊んでいても同じだよ。下手に手は出せない」
「なにをいまさら言ってんのよ。女なんてモノにしちゃえばどこにでも従いて来るわ」
「そんな乱暴な」
「なにが乱暴なものですか。男と女の行き着くところはそこしかないのよ。プラトニックの関係なんて脆《もろ》いものよ。よくノンセクシュアル・フレンドなんていうけれど、ロマンチックな恋愛ごっこだわ。はっきりとスタンプを押さないと横奪《よこど》りされちゃうわよ」
「まさか強姦もできない」
「ドライブ先でキスするような仲が強姦もないものだわ」
「やっぱりきみだったのか!」
木原は、百合と初めて唇を交わしたとき、目の端をよぎった赤い車体をおもいだした。
「あら、なんのことかしら」
恵理はとぼけた。
「どうしてキスしたと知っているんだ」
「二人だけでドライブへ行ってキスもしないなんて、女性に対して失礼だわよ。私が男だったら、その後、うむを言わさずモーテルへ連れ込んじゃうわ」
「そこまで大胆になれないね」
「あなた、いったい何のために社員になったのよ。せっかく社員になったのなら、社員のトップを極めて、工員の子上がりの気概を示してやりなさいよ。私はね、あなたにできるだけ遠方まで行ってもらいたいの。平社員止まりでふやけてもらいたくないのよ。工員の子上がりの社員が飛躍するためには、金庫入りをモノにする以外にないのよ」
恵理は焦《じ》れったそうに言った。だが彼女にどんなに発破《はつぱ》をかけられても、手荒な真似はできない。その後百合とは何度も二人だけになる機会があったが、進捗《しんちよく》はない。百合は唇は許したものの、それ以上は許さないというより、避けている雰囲気が感じられた。玄関まで招じ入れられたが、奥へは上げてもらえないもどかしさがある。拒否されているのではなく、家庭の事情で家の中に人を入れられないという感じなのである。それを無理に押し入れば一家から総すかんを食いそうである。その「家庭の事情」というのがわからない。
恵理の言うように、「遊んでいない」ために、女の羞恥による否定的許容≠ェ、家庭の事情に見えるのであろうか。だがいまさら付け焼刃の遊びをしたところで、百合の心を読めるようになるとはおもえない。
木原にしてみれば、身を刻むようにしてようやく得た社員の身分を、功を焦って失ってはならなかった。
――焦ることはない。おれはまだ若いのだ――
木原は自戒した。自ら応援団長≠かって出た矢沢恵理にしても得体が知れない。たしかに彼女の情報には恐るべきものがあるが、その源を確かめないことには信用できない。いかに応援団をかって出たとは言え、デート先まで追って来たのは異常である。
恵理は身上を詮索されることを嫌っている。その辺にもなにかありそうである。プラトニックの関係を恋愛ごっこと言う恵理の説に従えば、彼女の応援も、肉体的に結ばれないかぎり、あまり当てにならないことになる。そんな女にそそのかされて危険な博奕《ばくち》は打てないのだ。
木原はうまい切り返しを考えついた。
「そんなに言うなら、まずきみをぼくにくれてもいいだろう」
「私が欲しいの?」
「ノンセクシュアルな男と女は、脆《もろ》いと言ったじゃないか」
「私たち、そんなことをするとややこしくなっちゃうかもよ」
「ややこしいほうが、信頼できるよ」
「いまのままでは信頼できないと言うのね」
「きみがそう言ったんだ」
「考えておくわ」
「早く結論を出してもらいたいな。それが百合さんに対する態度に影響する」
「そんな交換条件みたいに言わないでよ。あなたの運命に関することじゃないの」
「きみの作戦で切り拓こうとしている運命だよ。運命共同体になっておきたいな」
「運命共同体か、うまいことを言うわね」
「応援団長なら、プレイヤーと運命を共にしてもらいたいね」
「わかったわ。あなたのしたいようにして。でも運命を共にすると言っても、あくまでもこれからの運命のことよ。将来は分け合えても過去には遡《さかのぼ》れないということを承知しておいてね」
「きみの過去には関心はない」
恵理にはよほど詮索されたくない過去があるらしい。
「私たちそんなに深刻に考えることないとおもうわ。体の関係を結んでも大した保証にもならないけれど、ノンセクシュアルよりはましでしょうからね。私が言いだしたことだから仕方がないわ」
「仕方がないなんて言ってもらいたくないな」
「あなたの負担を軽くするために言っているのよ。副社長の女婿を狙う身が、同じ課の女子社員と運命を共同にしていてはまずいでしょうからね」
「つまりおとなの関係というわけだな」
「両方にとってプラスになるような関係よ。これまで、せっかくのいい雰囲気を壊すといけないとおもって控えていたけれど、おたがいが割り切っていればいいわけね。考えてみれば、女がプラトニックのまま、男の応援をできるはずがないわ」
恵理の無責任な応援を牽制するための切り返しが、予想以上の反応を得ている。木原と恵理の間には、すでに了解が成立していた。了解の周縁を二人のおもわくが旋回していた。
ハードな夢《ビジヨン》
社員になって一年になろうとしていた。間もなく、百合と再会した御前パーティがめぐってくる。その間岩本パーティから三組のカップルが結婚した。いずれも岩本が媒酌したことはもちろんである。三組目のカップルの女性は、鳶尾山で出遇った金庫入り組の一人咲山みどりである。昨年の御前パーティでの再会に彼に真っ先に声をかけてくれたのが彼女である。それ以後好意的に百合と木原の間柄を見守っていてくれた。その縁で木原も結婚披露宴に招かれた。
披露宴がおひらきとなり、新婚旅行に発つ新郎新婦をホテルの前から見送ったとき、みどりは、木原と百合の耳に囁いた。
「今日はいらしってくださって有難う。今度はあなた方の番だわ、頑張ってね」
その声は、かたわらにいた岩本夫妻の耳にも届いたはずである。みどりは彼らにも聞こえるように意識して言った様子である。
「今日はこれからなにか予定があるのかね」
挨拶をして帰りかけた木原を岩本が呼びとめた。
「いいえ、べつになにもございませんが」
日曜日の午後で百合を誘うには中途半端な時間になっていた。両親が付いているので、家までエスコートすることもないとおもった。
「それでは百合を一人置き去りにして帰るつもりなのかね。きみもずいぶん冷たいところがあるんだな」
岩本が含み笑いをしながら言った。
「いえ、決してさようなつもりは……」
木原はへどもどした。
「はは、冗談だよ。しかしここで百合を放り出すことはなかろう」
「ご両親がいらっしゃったので、ご遠慮申し上げたのでございます」
「そういうのをいらぬ遠慮と言うのだ。百合が寂しがっておるよ。どうだな、ちょうどよい折りだ、わしの家に寄らんかね」
「本当にどうぞお越しください。百合も喜んでいますわ」
夫人もかたわらから口を添えた。百合が目顔でいっしょに来てと訴えた。断わるべき理由はなにもなかった。
パーティのない岩本邸には、またべつの趣きがあった。若い男女の活気に浮かれていた邸は、それが本来のものである上流の高雅な静謐《せいひつ》を取り戻し、この地域独特の住人の気取りによって規制されたハイブローな統一を保っている。上流の者しか許容しない環境は、その資格のない者に冷たい拒絶感をあたえる。だが、木原が初めてこの地域に足を踏み入れたときおぼえた違和感はすでになくなっていた。むしろ住人の地位と威厳による統一が快くすら感じられる。それは彼がこの地域から有資格者≠ニして認められた証拠であろう。認められただけでなく、彼自身が地域に準住人≠ニして馴染んでいた。
「これからはパーティのときだけでなく、気軽に遊びに来てくれたまえ」
居間に招じ入れられて、寛《くつろ》いだ形になったとき、岩本が言った。もっとも寛いでいるのは、岩本だけで、木原には緊張が持続している。華やかな訪問着から、部屋着のワンピースに着換えた百合が、コーヒーを運んで来た。
「似合いのカップルだったな」
岩本がコーヒーをすすりながら、結婚披露宴の模様をおもいだしたようである。
「みどりさんも一際《ひときわ》きれいでした」
木原は相槌を打った。
「あのカップルで十九組になった」
岩本は数えている表情になった。
「十九組……」
木原は、一瞬その意味をとりそこなった。
「岩本パーティが発足してから結ばれたカップルの数だよ。あと一組で岩本パーティも成人≠ノ達するわけだ。幸いなことに一組も破れていない。みんな幸せにやっておる。生まれた子供も二十五人で、それぞれの名付け親になっている」
岩本は至極満悦の表情である。だが浦島の禄を食《は》んでいるかぎり、岩本に仲人されて結婚した以上、めったなことでは離婚できない。離婚は、岩本に叛旗をひるがえすのと同じである。
「二十組目のカップルは、名誉でございますね」
木原は、阿《おもね》った。自分では阿っているという意識はない。本当に名誉であるとおもい込んでいるのである。
「二十組目にだれがなるかの」
岩本は目を細めるようにして木原を見た。百合がそそくさと部屋から出て行った。代わって足音を消すようにして夫人が入って来た。夫人は岩本のかたわらに影のように坐った。
「岩本パーティも元はと言えば、百合にいいパートナーを探してやるために始めたのだが、肝腎の本人がまだ売れ残っているのだから、皮肉だ」
「売れ残っているなんて、とんでもないことです」
木原は、言葉を選んでいるつもりであったが、陳腐な外交辞令になってしまった。
「いやいや百合も二十四歳だ。みどりさんが結婚して同年輩ではただ一人になってしまった」
「百合さんでしたら、いくらでもよい相手が……」
「金庫入りの青年たちは毛並みはよいが、どうも野性に足りない。みな温室育ちで、ちょっとした雨風にも耐えられそうにないひ弱さが感じられてな。安心して娘を任せられない」
木原は返答に窮した。うっかり肯けば、工員子弟上がりの自分には野性があると、自賛することになってしまう。
「その点、きみには、金庫入りにないたくましさがあるな」
岩本の目が木原にまっすぐに向けられた。
「いえ、私などは……」
木原はどう対応すべきか当惑した。
「工員子弟から社員になるということ自体が大変な偉業なのだ。しかもきみはその中でトップだ。世襲の社員とはデキがちがう。これからは、工員子弟の中からも優秀な人材はどんどん抜擢《ばつてき》すべきだとおもっている」
「副社長のお言葉を聞けば、社員志望の若い工員が大いに勇気づけられるでしょう」
「もともと我が社は工員によって成り立っておるのだ。社員と工員の身分差別がナンセンスだとおもっているのだが、これは創立以来の社の体制だから一朝一夕には変えられない。実力次第で社員に登用する機会をもっと大きく広げてやるところから、体制を徐々に改革していくつもりだ」
岩本の意見は、いかにも工員に理解があるように聞こえるが、根本にはやはり社員優位の思想がある。社の基礎が工員にあるのであれば、社員登用制などの機会拡大を考える前に、社員と工員の位置を対等におけばよいのである。職制による差別ではなく、職能のちがいによる分類に置き換えるべきであった。
だがそれをいま岩本に言い立てたところで彼の機嫌を損ねるだけである。
「工員子弟出身の私としましては、副社長のお言葉に勇気百倍のおもいでございます。社員登用の道は開かれているとは申せ、実際は宝くじのような確率で、私のようによほどの幸運に恵まれないかぎり当たりません、社員登用の門をもっと現実味のある広さに開いていただきたいというのが、工員共通の願いでございます」
「それほどの確率を潜って、トップで社員登用試験を突破したのだから、きみの実力がいかに優れているかわかる」
「運がよかっただけでございます」
「運だけでは社員登用試験は突破できない。仮に運があったとしても、運も実力の一つだと私はおもっている」
「恐縮でございます」
「ところで百合とはどうだな、うまくいっておるかな」
岩本が、嫁いだ娘の様子を問う父親のような表情になった。そんな表情を向けられるには、まだ時期尚早の木原は面喰らった。
「はい、いろいろとおせわになっております」
木原は頓珍漢《とんちんかん》な答えをした。
「いや、せわになっておるのは百合のほうだ。私からも改めて礼を言いたい」
「とんでもないことでございます。お嬢様のおかげでパーティで恥をかかずにいられます」
「木原君、きみ、百合をどうおもうかね」
さりげない口ぶりであったが、岩本の目の色は改まっている。
「はい、素晴らしいお嬢様だと存じます」
「そんな通り一遍の言葉ではなく、きみ自身の気持ちを聞きたいのだ」
「私自身の気持ちでございます」
「きみ自身、本当に娘を素晴らしいとおもってくれるのかね」
岩本の目の表情は真剣である。かたわらにひかえた彼の妻も、木原の面に凝《じ》っと目の焦点をおいている。木原は、岩本夫妻に験《ため》されているのを感じた。迂闊《うかつ》な返事はできなかった。
「本当にそのようにおもっております」
「どうかね、きみ二十組目になってくれんか」
「は?」
「岩本パーティの二十組目のカップルにならんか。百合といっしょになって岩本パーティを成人≠ノしてくれんかね」
「ま、まさか、私ごときがお嬢様のお相手に!」
多少心の底に予期していたことであるが、現実に岩本から切り出されてみると、信じられないおもいである。
「それともきみにはすでに将来を約束した相手でもいるのかね」
「そのような相手はございません」
「それなら、きみを見込んでの頼みだ」
「しかし、お嬢様と私とではあまりにも家と身分がちがいます」
「これは現代の若者らしくない言葉だな。いまどき身分も家格もあるまい。憲法は両性の合意のみによって、結婚できると定めている。法律的には親の出る幕はない。だが人生の多少の先輩として、娘を最も幸せにしてくれる相手を選んでやりたい。私の基準は、あくまでも百合の幸せだ。きみなら必ず百合を幸せにしてくれるとおもう」
「お嬢様を幸せにすることにかけてはだれにも負けない自信がございますが、肝腎のお嬢様の意志がございます」
「娘の気持ちがわからないほどの朴念仁ではあるまい。百合はきみを愛しておるよ」
「あまりにも身に余ることでございますので」
「娘では不足かな!」
「と、とんでもないことで」
「それでは百合を娶《めと》ってくれないか」
「私ごとき者がおめがねに叶いましたなら、身に余る幸せでございます」
「その言葉を聞いて私も嬉しい」
「しかし、どうして私ごときを? お嬢様ならば、私以上の相手がいくらでもございますでしょうに」
「だから百合の幸せを基準にきみを見込んだと言っただろう」
それはたしかに正論である。だが矢沢恵理も訝《いぶか》っていたように、岩本が本心からその正論に従って、自分の勢力を伸ばす絶好の機会である娘の結婚を、木原ごとき工員子弟上がりの平社員を相手に棒に振るとは考えられない。それに正論の基準である本人の幸福も、将来の不確定要素である。いまのところ木原の唯一の取《と》り柄《え》は、社員登用試験にトップでパスしたことぐらいである。岩本の正論を素直には信じられない。どうもなにか魂胆がありそうであった。だが岩本の女婿になれるのであれば、どんな魂胆があってもかまわないとおもった。
「お嬢様のお相手に選ばれて光栄でございます」
「それでは近く吉日を選んで婚約発表をしたい。結婚となれば、一生の大事だ。両性の合意のみとは言うものの、きみもいちおうご両親に話して了解を取っておいたほうがよいだろう。結婚は、家同士の結びつきでもあるからな」
「私の両親に否やはございません。ただなかなか信じてくれないでしょう。私自身も信じられないおもいでございます」
「今夜はささやかながら婚約成立の内祝いをしよう」
岩本は、すでに舅《しゆうと》の目つきになっていた。
両親に話すと、案の定信じてくれなかった。父親はからかわれているのだと言った。
「副社長がどうしてぼくをからかうのだ。そんなことをしてもなんにもならない」
と説得しても、いっかな信じようとしない。社員と工員の身分差別の厳しい土地で両者の結婚の前例が皆無ではないにしても、社員のトップとも言うべき副社長の娘と、工員子弟上がりの平社員の結婚は、前代未聞である。それはこの土地ではあり得ない事件である。
二日後の夜木原は岩本邸へ出向いて、正式に承諾の返事をした。岩本はいつもの居間ではなく、二階の書斎に木原を通した。技術畑らしく、書棚には技術関係の専門書が多い。百科事典や、経営関係の本も目立つ。それらの書物の背表紙の手ずれ具合から、岩本の勉強ぶりがうかがわれた。岩本の趣味の本や置き物はほとんど見当たらない。南方の窓に向かった普通サイズの二倍はある広いデスクと、壁に沿ったファイリングキャビネットの列が、部屋の雰囲気を殺風景ながら仕事に向かわざるを得ないような厳しいものに引き締めていた。書斎と言うよりは、仕事部屋といった趣きである。その部屋にいる岩本の表情にも、会社で見かけるものとは異なった自分自身を見つめるような孤独な厳しさがあった。
岩本は、木原の承諾の返事を醒めた表情で聞いた。先日とは別人のように冷然たる態度である。
木原が、岩本の気が変わったのではないかと惧《おそ》れたほどにその場には、白々しい空気が流れていた。岩本夫人も百合も姿を現わさない。茶一杯も出されない。
「有難う。きみの言葉を聞いて百合もさぞ喜ぶだろう」
だが岩本の言葉は、木原の承諾を喜んでいる。
「きみの承諾を聞いて、改めてきみに話さなければならないことがある。それを話した以上は、承諾を絶対に取り消さないでもらいたいのだ。いまのうちなら承諾を撤回してもかまわない」
岩本は、緊迫した表情で言った。
「お言葉の意味がよくわかりませんが」
これ以上改めてなにを話すというのか、それを聞いた以上取り消しを許さないとは、なにやら共犯に引きずり込むために悪事の計画でも打ち明けるような感じである。木原はとまどった。
「改めてきみに打ち明けることは、表沙汰にしたくないことだ。いったん打ち明けた以上きみは岩本家の秘密を分け合った者として、引き返すことを許さない。どうしても引き返そうとするなら、きみは浦島にいられなくなるだろう、いまのうちならきみはここから自由に引き返してよい。そのことによってきみに対して不利益な扱いはしないと約束しよう。どうするね」
岩本は、冷えた視線を、木原の心の底まで覗き込むように射かけてきた。
「お聞かせください」
「引き返せなくなるぞ」
「望むところです」
木原は、決然と言った。岩本はいまのうちなら不利益な扱いはしないと言っているが、ここで引き返したら、彼の支持を失うことは確実である。だがいまさら大石派に近づけない。木原は、岩本にあまりにも接近している。
やはりなにかの裏があったのだ。百合を木原に託そうとする岩本の心裏が、いま打ち明けられようとしている。ここまで木原を誘い込むまでに十分彼を研究して、彼が引き返さないという見込みをつけたからであろう。
「やはりきみは、私が見込んだとおりの男だ。打ち明けたからには、きみを私の身内として私が全力をあげて盛り立ててあげよう」
「口はばったいようですが、お身内の一人として、微力を尽くす覚悟でございます」
ヤクザが親分子分の盃を交わすような言葉になってしまったが、それがその場の雰囲気に最も合っていた。
「きみを見込んで打ち明けるのだ。絶対に他言はしないように」
「お約束いたします」
「秘密というのは、百合の体のことだ」
「お嬢さんの……」
「百合の体は夫婦生活ができない」
強い打撃をうけたようであるが、まだ実感として伝わってこない。
「百合は女性の重要な部分が先天的に未発達なのだ。未発達と言うより欠けている」
「どういうことなのでしょう」
「つまり先天的に子宮や膣が欠損している」
「先天的に……」
あまりにも意外な事実を告げられて、木原は咄嗟に対応できない。それがそのまま彼の驚愕の大きさを現わした形になった。
「なぜそうなったのか、医学的にもよくわからないそうだ。性器欠損にもいくつかの段階があって、子宮や膣は正常でも、卵巣のない場合、子宮があり排卵もあるのに膣が閉鎖されている場合、およびそのすべてを欠損している場合がある」
「お嬢様はどの場合で」
木原はようやく言葉を押し出した。
「残念ながら最も重症の全部欠損だ」
重苦しい沈黙が落ちた。これが重大な岩本家の秘密である。そしてその秘密を分け合ったいま、木原は引き返せなくなっている。だがそれは結婚に先立ち明らかにしなければならない秘密であり、分明にすれば結婚に対する重大な障害となる。
性を欠いた女性との結婚には、夫婦生活の実質はない。あるとすれば疑似的な夫婦生活である。健康な男女が結婚した後どちらか一方が事故や病気によって性的に不能に陥る場合がある。このような場合、肉体的な結びつきは失われても、精神的な愛がつづくことは可能である。
だが、会社における絶対優位を笠《かさ》にきて性的に不具な娘を押しつけようとする岩本には、木原の不毛な夫婦生活に対する考慮は一片もない。あるのは親のエゴイズムだけである。
娘の幸せを第一義に考えているかどうかも疑問である。そんな疑似夫婦生活を強制しても、娘が幸せになれる保証はない。むしろ不幸を抽《ひ》き当てる確率が大きいであろう。岩本は百合を嫁《かた》づけることによって親の責任を果たしたいのだ。
だが木原は岩本のエゴに内心あきれながらも反駁《はんばく》できない。岩本ににらまれたら、浦島での将来はないと覚悟しなければならない。
「治療はできないのですか」
反駁する代わりに辛うじて質問した。この程度の質問が木原に許されたせめてもの権利≠ナある。
「もちろんあらゆる手は試みた。手術によって造膣する方法もあるが、百合の症例には向かないそうだ。また造膣に成功したとしても、子宮がないので、子供を産むことはできない」
「それで身体に不都合はないのですか」
百合は、一見したところ、そのような欠陥をかかえているとは信じられないような女らしい体つきをしている。岩本がバックにいなくとも、女の要所が実った魅力的な体形である。
「月経がないだけで、身体は健康そのものだ。日常生活にはまったく支障はない」
「お嬢様は、そのことをご存じなのですか」
「いちおう説明してあるが、あまり深刻に考えていないようだ。無理もない。セックスということがどういうことかよくわかっていないのだからな」
木原は答えるべき言葉をもたなかった。やはり、こんな裏があったのだ。だからこそ、岩本は、絶好の政略の道具を木原にあたえようとしているのである。自分が絶対の優位に立てる相手を探し出し、断われない立場に追い込んで不具の娘を押しつけた。岩本パーティは獲物をおびき込む罠《わな》である。巧妙で卑劣なやり方である。
「百合は、性生活ができない。当然子供も産めない。きみが女をつくろうと、子供を産ませようとかまわない。ただ百合を妻として扱ってもらえれば、それでよい。百合は性的に不具なだけで、性格の明るい素直な娘だ。きっときみのよい妻になるだろう。百合の配偶者として、私はきみを今後全力をあげて応援することを約束する。どうか百合を幸せにしてやってくれたまえ」
白々と醒《さ》めていた岩本の面が、親馬鹿のエゴを剥《む》き出しにして訴えていた。若い女が性的に不具であれば、他にどんな美点があっても、女でないのに等しい。女でない女を押し売りして、それの景品≠ニして、木原の将来を約束しようとしている。これは人間不在の契約であるが、岩本はそれに気がついていない。
しかし、夫婦が相互に異性を意識するのは、新婚後わずかな期間にすぎない。一夫一婦のマンネリの性生活は速やかに夫婦間の性を鈍磨させてしまう。夫は浮気に走り、妻は糠味噌くさくなり、ますます夫婦間が枯渇する。枯渇しない場合は、家庭争議となってついには破婚に至る。
結婚をそれほど深刻に考えることはあるまい。夫婦間に占める性のスペースはそれほど大きくない。性のない夫婦もあり得るし、性の部分だけ、他の異性によって十分に代用できるのである。それを岩本は認めている。
むしろ性の欠陥を埋めるべく提供された巨大な景品に目を向けるべきである。花の命は短い。速やかに枯萎する花にこだわらず、造花≠ナ家庭を飾っていても見た目には同じである。割り切りさえすれば、家庭に本物の花は必要ない。花の代わりに将来をこそ買おう。
一瞬の間にこれだけの計算をした木原は、
「お嬢様のことはおまかせください。誓ってお幸せにいたします」
と力強く言った。
「それではもらってくれるか。有難う。このとおりだ」
岩本はいまにも土下座しかねない様子で喜びと感謝を現わした。立場が完全に逆転し、木原の買い手市場≠ノなっている。このとき一介の平社員が浦島の次期社長の本命候補を押えたのである。
「もったいないお言葉でございます。私ごときにお嬢様をくださることさえ、身に余る光栄でございますのに」
木原は、いまや絶対の優位に立ってへり下っていた。
「娘と家内に知らせてやりたい」
岩本はデスクの上のインタホーンを取り上げた。待ちかねていたように、百合と岩本夫人が喜色を満面に現わして入って来た。
「木原君は、承知してくれたぞ。百合、いまから旦那様同然だ。これまでのようなわがままはいかんぞ」
「あらお父様、私これまでわがままなんか言ったことありませんわ」
百合が拗《す》ねてみせた。
「鳶尾山では、木原君をだいぶ手古《てこ》ずらせたそうじゃないか」
「あら、お父様どうしてそれをご存じなの」
「副社長、どうしてそれを!」
百合と木原は、同時に愕きの声を漏らした。
「私の耳にはなんでも入る」
「みどりが言ったのね、あのおしゃべり屋め」
「もうああいうわがままは許されないぞ」
岩本は諭《さと》すように言った。そこには娘を降嫁≠ウせる優位はどこにもなく、弱みをかかえた娘を庇《かば》おうとする弱気な親心が覗いていた。百合は、自分の欠陥をあまり意識していない。夫婦生活における性の意味を知らないだけでなく、深窓(金庫の中)で厚く保護されてきたおおらかさのせいであろう。むしろ身体的欠陥は、彼女の性格にプラスに働いている。以前にあった驕慢《きようまん》さが、成長に伴う肉体的欠陥の漠然たる認識によって中和されたのである。
木原は、百合の面に恵理のおもかげを彷彿《ほうふつ》と重ねた。百合の欠陥は、恵理の存在価値を俄然大きくする。百合の欠陥を恵理によって補填《ほてん》すれば、さしずめ男としての不便はない。恵理としても「おとなの関係」を持続させるうえに、百合の欠陥はまことに都合がよいであろう。
本来ならば、絶大の権力を握る帝王≠フ娘を降嫁された男が、他の女と秘密の関係を保つためには、大きな危険を冒さなければならない。せっかくの玉の輿《こし》(逆の形)を失うばかりでなく、素裸に剥かれて放り出されかねない。それが百合の欠陥のおかげで、他の女との関係を公認≠ウれたのである。考えようによっては、こんな都合のよいことはない。家庭には美しい造花を据えて、外にあっては多彩な生花をおもうがままに帥《むし》り取れる。
恵理は「外の生花」として申し分ない。単に生花の魅力だけでなく、情報という素晴らしいおまけ付きである。
「あなた、木原さんを、こんな殺風景なお部屋では失礼ですわ。下の客間にご用意ができてますから」
岩本夫人が言った。
「おおそうだった。嬉しくてつい席を移すのを忘れておった」
岩本は上機嫌であった。木原はこのときから岩本家の第一級の客に据えられたのである。
婚約発表は御前パーティ直前の吉日を選んで行なうことになった。そのほうが御前パーティにおける演出効果が高いという岩本の意見に従ったのである。
御前パーティが実質的な二人の婚約披露宴になると計算しているようでもある。岩本にしてみれば、御前≠ヘ自分だという意識がある。木原を百合の婚約者として発表することによって、浦島の封建体制を打破する進取ぶりを示威したい。それは社員の反感をかうことは免れないが、旧態依然たる浦島に衝撃をあたえ澱《よど》んだ社風に新風を吹き込むことは確かである。また一万五百人の工員層の支持を確実に取り付けられるだろう。
さすが浦島の最大の実力者だけあって、転んでもただでは起きない計算を弾いていた。
木原は迷った。百合との婚約は間もなく発表される。それまでに矢沢恵理に打ち明けるべきか否か。恵理と体の関係が生じてから逆に彼女の謎が深まったようである。恵理はまことに不思議な女だった。いったん契約≠ェ成立すると、彼女は、性の教師として懇切きわまる手ほどきをしてくれた。さまざまな技法や体位を女体の構造と共に指導されていると、官能の悦楽を分から合っているよりも、性という一つの道を優秀な女教師によって導かれているような気がした。
女体に対する知識は急速に養われながらも、木原は女という、男に対置される存在がますますわからなくなった。恵理は木原に対してたしかに体を許した。初体験の彼にとって目も眩《くら》むような放恣な体位をもって、女体の秘密を覗かせてくれた。それによって秘密が解明されたわけではない。秘密は依然として秘密のまま残され、性の味奥《みおう》が果てしもない深みを見せた。恵理は、その味奥に立って、木原が一歩迫れば、一歩遠のいた。そのくせ、手を携えて辿る道程においては、自分が教師≠ナあることを忘れたごとく、官能を貪婪《どんらん》に追い求める。生徒≠フ木原は、彼女の官能の媒体にすぎず、彼が懇切丁寧な指導とうけとめた行為も、要するに恵理の官能追求のおこぼれか、せいぜいその過程の副産物であった。
木原より年下であるにもかかわらず、かくも性に熟達を見せた裏には、彼女の過去の堆積があるはずであったが、その詮索はあらかじめ封じられていた。
「あなた、とても上達が早いわよ」
恵理は誉《ほ》めてくれた。
「教師がいいからだよ」
「私のほうが負けそうだわ」
「まだまだとても足許にも及ばない」
「私たち相性がいいわ」
「この関係いつまでもつづけたいな」
「そういうことは言いっこなし。男と女の約束に保証はないわ。どちらかが飽きたときはそれで終わりよ」
「運命を共同にするんじゃなかったのか」
「飽きない間の運命ね」
「そういうことを言える間は、きみは負けないよ」
恵理の肉体は、熱く熟し、官能を求めて完全燃焼しても、どこかに白く醒《さ》めている部分がある。その覚醒した閾《いき》に、彼女の謎が潜んでいる。そして彼女が謎をかかえている間は真の味方として心を許しきれない。やはり彼女には婚約発表前に打ち明けるのは危険である。――と結論を下したときに、恵理は、
「その後、百合との仲はどうなったの」
と質ねかけてきた。
「一進一退というところだね」
木原はさりげなくいなした。
「私に隠しだてするなんて、水臭いわよ」
恵理は、すべてを見通すような目をして言った。いかに彼女の情報網が端倪《たんげい》すべからざるものであっても、岩本家の内部にまで張りめぐらされているとはおもえない。彼女得意の誘導であろうとおもい直したが、
「顔にちゃんと書いてあるわよ」
と反応を指摘されてしまった。
「一進一退どころか、かなり進捗《しんちよく》しているんでしょ。あなたこのごろ岩本パーティに出なくなったそうね。あなただけでなく百合もあまり姿を見せなくなったと聞いたわ。ということは、二人とも出る必要がなくなったと推測できることだわ。近いうちに婚約発表という段取りなんじゃない。発表するとすれば、御前パーティの前あたりが効果的だわね。まず身近な人間だけ集めて発表すれば、御前パーティがそのまま披露宴になるわ。どうお見通しでしょ」
「きみ、本当にだれか岩本家関係から聞いたんじゃないのか」
木原の驚きは持続している。
「この程度の推理は、あなたの顔色を見ていればだれだってできるわよ。将来浦島の天下を狙っているような人が、このくらいの腹芸ができなくてはだめよ。でも私にまで隠すなんて水臭いじゃないの」
「許してくれ。きみにだけは打ち明けたかったのだが、発表まで副社長からだれにも他言してはならないと口留めされたのだ」
「多分そんなところだとおもったわ。この結婚はショッキングだわよ。事前に漏れたらどんな妨害が入るかもしれないわ。それに岩本にしても要所要所に根まわししておく必要があるわ」
「根まわしというと?」
「岩本のスポンサーの了解は、取り付けておかなければね」
「井沢会長のことかい」
「安立《あんりつ》銀行の長谷部頭取にもね」
「そんな大物にまで、娘の結婚の根まわしをするのか」
「尋常の結婚じゃないのよ。浦島の既成体制を破るのよ。それにスポンサーに反対されたら、娘婿のあなたを十分に引き立てられないでしょ」
「会長や長谷部頭取は反対しないだろうか」
「まずしないでしょうね。二人とも浦島に刺戟を欲しがっているのよ。そのために活《い》きのいい岩本を後押ししているんだから。あなたが百合の婿になったら、凄い刺戟だわよ」
「二人が賛成してくれたら、鬼に金棒だな」
「それで岩本の魂胆はわかった?」
「え?」
「とぼけないでよ。岩本ほどの策士がなんの裏もなく、娘を素寒貧の平社員に降嫁させるはずがないのよ。婚約成立のときに、魂胆を打ち明けたでしょ。応援団長として私は知りたいわ」
「なにも魂胆なんかないよ。ぼくが百合さんのハートを射とめ、副社長のおめがねに叶っただけだ」
「この期に及んでそんな他人行儀を通すなら、私にも覚悟があるわよ」
恵理はニンマリと笑った。
「どんな覚悟だ」
木原は少し不安をおぼえた。
「まずあなたの応援団長を下りるわ。信頼してくれない人の応援なんかできないもの。そして岩本と百合にあなたとのことをみんな打ち明けちゃうわ」
「き、きみ!」
「いま打ち明けられたらせっかくの玉の輿≠ェご破算になっちゃうわよ。あなたにとって千載一遇のチャンスでしょう。私の機嫌を損じないほうがいいんじゃない」
おとなの関係などと言っておきながら、男が他の女との結婚の気配を見せたときの典型的な三角図式を見せ始めていたが、恵理の態度には余裕があってどこまで本気かわからない。岩本家に恵理との関係を暴露したところで、すでに岩本から公認されていることである。
それにしてもできることなら隠しておきたい秘密の情事である。
「本当になにもないよ。仮になにかあったところで、ぼくにはわからない」
木原はシラを切り通すことにした。
「私にまで隠すところを見ると、よほど重大な秘密なのね。それとも私をまだ信用できないのかもね」
「きみを信用しないわけじゃない。信用されていないとすれば、ぼくだ。きみだって無用の詮索を禁じているじゃないか。岩本副社長が、この結婚になにか魂胆をかかえているとしても、まだぼくに打ち明けるほど信用していないのだ。婚約は脆《もろ》い関係だ。きみが言ったように、きみとの関係をバラされただけで、ご破算になってしまう」
恵理が一身の詮索を嫌うについては、背後に男の存在を予感させる。その男の正体が確かめられるまでは、彼女を信用しきれないのである。
「うまいこと逃げたわね。まあいいわよ。おおよその見当がつかないこともないから」
「おおよその見当だって?」
木原は、恵理が知っているのではないかと、一瞬ギョッとなった。だがいかに彼女の情報網がすぐれていても、そこまで知るはずがないとおもい直した。
「一見不釣合いな結婚も、どこかで釣合いを保っているものよ。結婚って一種の売買ですものね。あなたが、岩本家に対して釣合いのとれているところってどこでしょうね」
「釣合いなんか初めからない」
「そう見捨てたものでもないわよ。とにかくあなたが全工員のホープであることはまちがいないわ。頭もいいし、身体も丈夫だわ。マスクだってなかなかのもんだわよ。金庫入り組の中で熱いため息をついている女性が少なくないという噂だわよ。この私が応援団長をかって出るほどですものね。百合に父親のバックがなければ、むしろあなたのほうが勝っているわ」
「それほど自惚れていないよ」
「私が言うのよ。まちがいないわ。すると、父親のバックがあっても、釣合いが取れるということになるわね。考えられるのは二つね。一つは父親のバックがそれほど大したものではなくなっている場合よ。でも岩本の勢いは盛んなものだわ。中浦家と三副社長の連合軍を向こうにまわしてびくともしないわ。岩本とあなたとではだれが見ても月とスッポンだわよ。譬《たと》えが適切じゃないわね。岩と砂と言い改《か》えるわ。するともう一つは娘に関することになるわね」
木原は、旋回しながら次第に核心に近づいて来る恵理の推理に対して表情を抑えるのに苦労をした。
「百合さんに関することって何だ」
努めて平静を装ったために、かえって声が平板になりすぎた。
「百合本人になにか秘密がある場合よ。百合に傷があれば岩本側の優位をかなり損なうわね。例えば彼女に過去があって、まともな結婚ができないというようなケースね。でも金庫入りに過去なんかあるかしらね。百合はたしかに初婚だし、恋愛経験があった様子もないわ」
「そんなこときみにわからないだろう」
恵理の推理が図らずも触れたように、百合の過去のせいに押しつけてしまえば、恵理の詮索を躱《かわ》せるとおもった。
「仮に百合に過去があったところで、大した傷にならないとおもうわ。いまどき、処女を結婚の引出物にしようという考えは少ないわ。岩本の娘なら、多少の過去があっても、男は文句を言わないわ。ねえ、そうでしょ」
「百合さんに過去なんかないよ」
木原は、ついおもわくに反する弁護をしてしまった。
「まだ百合と寝たわけじゃないでしょ。それにもう寝ているようであれば、過去があっても、傷にならないわ。百合本人に傷があるとしても、そんなものじゃないわね。もっと重大な障害ね。そうね、例えば子供を生めない体であるとか」
恵理の推理はついに核心の表皮に達した。表皮を探りながら核心を貫こうとしている。
「子供を生めないとわかっていたら、これは結婚の重大な障害になるわね。父親のバックの力もかなり減殺されざるを得ないわ。でも子供を生めるかどうかは、たいてい、結婚してみなければわからないことが多いわ。百合の場合、それが結婚前からわかっているんじゃないかしら。わかっていたら、そこでかなり釣合いが取れてくるわね。最初から重大な欠陥をかかえている娘を、対等の相手に嫁がせれば破れるのは目に見えている。そこで劣位の相手に莫大な持参金を付けてやる。そこで初めて釣合いが取れるというわけだわ。どう図星じゃなくて」
恵理は、射るような目で木原を見た。そこまで見透かされては、これ以上の隠しだては無意味である。木原は、百合との婚約の裏についてすべてを恵理に打ち明けた。
「そうだったの。私もそんな欠陥があったとはおもわなかったわ」
さすがの恵理も驚きの色を隠せない。
「きみを信用しなかったわけじゃあないが、自分の妻になる女性の秘密だからね。話したくなかったんだ。このことは絶対に他言無用だよ」
「いいかげんに私を信じてよ。百合がそんな体なら、これからますます私が必要になるじゃないの。私はロボット妻に代わる実質的なパートナーになるのよ」
「それだけにきみをもっとよく知りたい」
「これ以上の何を知りたいのよ」
「きみの身上はなに一つわかっていない。ぼく以外にもきみには男がいるだろう。だから詮索されるのを嫌がっているのだ。きみの背後にいる男の正体がわからないかぎり、きみを完全に信用することはできない。ぼくに情報を流してくれるのと同じ可能性と確率で、いやそれ以上にその男へ流しているかもしれないからね」
「私には、あなた以外に男はいないわよ。それは誓ってもいいわ」
「それじゃあどうして詮索されるのを嫌がるのだ」
「私には過去があるのよ。それを探られるのが嫌なだけ。過去に男がいたことは否定しないわ。でもいまはあなただけ。本当よ。私の言葉を信じてもらう以外にないけれど」
「きみの情報源に男はいないのか」
「金の卵のモトを探ろうとして、鳥を殺すようなことをしてはいけないわ」
「その鳥にこちらが啄《ついば》まれているかもしれない」
「一つ教えてあげるわ。その鳥はあなたの味方よ」
「本当か」
「本当よ」
いまは信じる以外になかった。結婚と将来を売買したと割りきったつもりでも、無性女≠妻に迎える覚悟を強《し》いるのは、辛いことである。木原の年齢は、結婚に甘い幻想をかけられる人生の唯一の時期である。幻想は醒めてみるまでは、幻想であることがわからない。若さの特権である幻想を将来のために売り渡した。実利の計算は、侘《わび》しく、金属のように冷たい。夢を追う心を電子計算機のような金属の冷たさで武装しなければできない計算である。
将来もまぎれもない夢である。だが結婚がソフトな夢であるとすれば、男の野心が描いた将来はハードな夢である。
若い時代はこの両種の夢が縦横の糸となり、未来のビジョンを織る。ソフトな糸をすべて除去して、ハードな糸だけで織ったビジョンは、精巧な部品を集めて組成した精密機械のように、冷徹であるが、人肌のぬくもりがまったくない。人肌で機械を買ったようなものである。人肌がまったく無用になるまでには、そのぬくもりが冷えるまでの生活の歴史がある。
花も実もある若いうちから、人肌を拒否して、ハードなビジョンのみを追求していこうと決意した素地には、強い上昇志向に加えて、工員時代の屈辱があった。あの屈辱が木原の野心を支えていると言ってよい。扉のない便所で排泄を強いられた屈辱を雪《そそ》げるならば、人肌のぬくもりどころか、魂を売ってもよいとおもっている。いやすでに魂を売り渡しているかもしれない。そうでなければ、人肌と機械を交換できないはずである。
「あなたと私、離れられなくなりそうだわね」
恵理は、またしても木原の肚裡を読んだ。
「もう離れられないよ」
「飽きるまでのおとなの関係と言っていられなくなったわけね」
「そのとおりだ」
「でも気をつけてね、ロボット妻でも、妻は妻よ。彼女の扱いをまちがえると、元も子も失《な》くしちゃうわよ」
結婚経験のある恵理の言葉には重みがあった。
陰伴《かげとも》の情事
御前パーティは、予想したとおり、百合と木原の実質的な婚約披露宴になってしまった。パーティの主役は、完全に二人になった。
この日のために特に誂《あつら》えた淡いピンクの紋|綸子《りんず》地に総花模様の中振袖をまとい、蝶を金糸銀糸で織り出した袋帯で引き締めた百合は、息をのむほどに艶《あで》やかであった。彼女が性を欠落しているとは、とうてい信じられないほどに、それは女そのものであり、花の命の盛りに輝いていた。
不釣合いの結婚にささやかれる、コネクション目当てとか功利の計算ずくの結びつきなどというかげ口が、まったく聞かれなかった。
実際に百合の艶姿を見た者はコネや功利の計算の入り込む余地がないほどに彼女の美しさに惹きつけられた。そしてその美しさと結婚しようとする木原を少なくともその場においては信じようという気になった。
男たちの目に塗られた嫉妬と羨望は、その美しさを独占しようとする木原に向けられており、彼女が背負った持参金に対して意識を割く余裕はなかった。
一年前の同じパーティにおいては、木原はこの会場の片隅におずおずと身をおいて、百合に高嶺の花としての諦《あきら》めと畏敬《いけい》の視線を送っていたものである。それが、いまは婚約者としてエスコートを独占している。それもナイトとして侍《はべ》っているのではない。絶対の優位に立って、むしろ百合を侍らせているのだ。
――やはり、おれの選択は誤っていなかった――
木原は、確信した。木原は遠方からの視線を感じた。彼は会場の注目の的であったが、無数の視線の中からその視線は彼に突き刺さるように射かけられてきた。その主を探して遡行《そこう》した先に、恵理の含み笑いをした顔があった。
(大したもんじゃないの)
恵理は目顔で語っていた。彼女の目が百合と木原のどちらについて言っているのか、見分けはつかなかった。
挙式の日取りは秋の吉日に決まった。
百合は天真爛漫であった。岩本は、百合が成長するにともなって自分の身体の欠陥を漠然と悟っているようだと言ったが、彼女を見ていると、そんなことはまったく意識していないようである。金庫の中で育てられて、性に関する基礎知識すらないように見える。多少なりともそれがあれば、結婚に対して恐怖か不安の念をもってもよいはずである。そんな気配も見せず、木原との結婚を単純に喜んでいる様子であった。それは新しい玩具を買ってもらう童女のように純真で素直な喜び方である。
たしかに玩具にはちがいない――と木原は自嘲したが、金庫の中に閉じこめて、ひたすら彼女の欠陥を悟らせないようにしていたのではないかとおもわれるほどに、百合はコンプレックスの陰翳を見せなかった。女として、致命的な欠陥をかかえていれば、なんらかの形で性格に影響をうけるはずである。その影響が微塵《みじん》も感じられないのだ。
その疑問を恵理に言うと、
「どうして本人にそんなことを知らせる必要があるのよ。治療不能とわかれば、一生独身で過ごさせるか、お婿さんを金で買ってやる以外にないでしょ。金で買うお婿さんにはあらかじめ因果を含めておく。そうすれば、娘は一生自分の欠陥を気がつかずにすむわ」
「おれは金で買われた婿さんというわけか」
「そうではないと言うの?」
「いったい初夜をどうしたらいいのだ」
「妹を抱くように優しくダッコして寝るのね。彼女はきっと夫婦生活ってそういうものとおもい込んでいるわよ」
「それを一生つづけるのか」
「あなたが選んだんでしょ。それに夫婦が同じベッドで寝る時期なんて、ほんのわずかよ。世の中の多くの夫婦が愛情と睡眠はべつだって割り切っているわ」
「おれたちの場合、性のない純愛と睡眠と言うべきだな」
「じゅんはじゅんでも準ずるの準じゃないの」
「準愛≠ゥ、侘しいね」
「少なくとも偽愛や無愛よりはましだわよ。心配しないで。その分を私がおとなの愛で十分に補ってあげるから」
十月の吉日を選んで、木原と百合は結婚した。井沢清四郎はむろんのこと、社長の大石成明を始め、宮島、横川、池上の三副社長、その他すべての重役級、銀行筋からは長谷部安立銀行頭取を筆頭に、各銀行の頭取、副頭取クラス、取引先や傘下各社の重役、そして東京や関西の財界人、政界の要人など、約二千名を招いての大披露宴となった。
これだけの錚々《そうそう》たるメンバーをかくも大勢集めての結婚披露宴はめったにない。それはそのまま浦島重工の威勢と、そこにおける岩本勝文の実力を示すものであった。
首相は、代理に託して祝辞を寄せたが、時の与党民友党最大の派閥の領袖《りようしゆう》であり、現首相を背後から操っている黒幕とされている元首相の堂本憲生が出席して、浦島と岩本を持ち上げる大演説を打《ぶ》ち上げた。
この結婚において、新郎の高志と木原家は不在であった。終始無視されていた。工員子弟出身の新郎でありながら工員は一人も招かれなかった。新郎の友人として工員子弟出身の社員がわずかに招かれただけであった。それも受付や配車係として忙しく走り回っていた。
それでも木原高志は満足であった。どんなに無視されようと、木原がいなければ成立し得ないイベントであり、宴《うたげ》である。岩本の実力がこれだけの人間をかき集めたとしても、彼らはこの結婚における木原の絶対的優位を知らない。
来賓のすべてが岩本と百合を見ていても、木原こそ、宴の真の主役であり、中心なのである。
来賓の中に、矢沢恵理の姿を見出して、木原は愕いた。恵理は、岩本家の来賓として出席していた。もっとも木原家側は、両親ときょうだいを含めて十数人である。あまりにアンバランスであるために、岩本家の半数が、木原家側の席へ均《な》らされていた。そのテーブルプラン上の恵理の席も岩本家になっている。
恵理が岩本家にどのような関わりをもっているのかわからない。彼女は遠方からからかうように、二人だけにわかる目配せを送ってきた。恵理の目は、この結婚の裏のかけ引きを知り、木原と共通の秘事を分け合う共犯者の目であった。そしていまこの場合、共犯者の存在は、木原にとって唯一の味方となったのである。
新婚旅行は、アメリカ西海岸であった。サンフランシスコとロスアンジェルスを結んでの六泊八日のデラックス・パッケージ・ツアーである。木原はどうせ疑似的なハネムーンであるから、国内ですませたかったのだが、岩本が外国を強く勧めた。百合はアメリカもヨーロッパも初めてではない。
岩本は、この際世界一周をして来るように言ったが、疑似ハネムーンを三週間以上もつづけるのは辛い。木原はいまや、矢沢恵理の体から離れられなくなっていたのである。六泊八日の旅行期間ですら、恵理の禁断現象に陥りそうなのである。
披露宴がおひらきとなって、来賓を送り出したとき、恵理はさりげなく挨拶をしながら目の奥から私から一週間も離れていられるの? と笑いかけていたのがわかった。
サンフランシスコに二泊して、一日は別途料金《オプシヨナル》旅行《ツアー》に参加してヨセミテへ行った。新婚旅行向けのパックツアーであったので、参加者のほとんどが新婚のようであった。
ところが途中から彼らの意外な実体が現われた。新婚を装いながら彼らの大半は人目を忍ぶ男女の旅行だったのである。芸能人同士のカップルや、客とホステス、上司と女性秘書、男女学生などの組み合わせがいた。本物の新婚は、木原組を入れて二組しかいなかった。
新婚は、婚姻届けを提出する前に旅券の申請をするケースが多いので、男女の姓が異なっている。そのために本物の新婚と疑似カップルの見分けが表面からはつけ難い。旅行社だけが知っていて、添乗員が木原にそんな内情をそっと耳打ちしてくれた。添乗員も本物の新婚のほうに好意をもつらしい。
だが、添乗員が木原らが最も疑似的な夫婦だと知ったら、どんな顔をするだろうか。偽新婚客のほうが、性《セツクス》に熟達しているのは明らかであり、二人だけの悦楽をだれ憚《はばか》ることなく楽しもうとして海外へ出かけて来たのである。その点、彼らは性を楔《くさび》にしてしっかりと結ばれている。
絶対に結ばれる可能性のない疑似夫婦が、偽新婚客に混じってハネムーンに来ている。木原はその皮肉さに苦笑せざるを得ない。
折りも折り、ニューヨークの有名な週刊誌が、日本から米国への新婚旅行カップルをルポするために、木原の参加したツアーに記者を特派した。記者は群を抜く百合の美貌に魅せられたらしく、彼ら夫婦に密着せんばかりにして取材をしていた。米人記者は百合の肉体的欠陥を知らない。木原の将来と取引された結婚が、日本の最も幸せな新婚夫婦の典型として米誌に紹介されることになる。
百合は、自分の身体の欠陥が結婚に及ぼす致命的な影響も知らぬげに、天真爛漫であった。結婚の意義も、性の意味も知らぬ様子である。夫婦とは、同じ屋根の下で男女が兄妹のように起居を共にするぐらいの認識しかなさそうであった。だれの目から見ても、女の幸せを一身に集めている新妻である。
ヨセミテ往復の長駆八時間のバス旅行で疲れたらしく、その夜、百合は早々と部屋へ引き取った。肉体の結び合いがまったく期待できない新婚夫婦というものは、二人だけでいるとき、ひどく手持ち無沙汰である。もっとも手持ち無沙汰なのは、木原だけであり、百合は幸せ一杯で十分満足している様子であった。
ダブルベッドに兄妹のように並んで横になって百合は、尻取り遊びをしようと言いだした。新婚旅行二夜目の床で、他愛もない尻取りゲームをしながら、木原は、それが実によく彼らの夫婦生活を象徴しているような気がした。
夫婦の営みもなく、その結果である出産も育児もない。家事はすべてお手伝いまかせとなれば、夫婦の間ですることは尻取りぐらいしかない。この場面を米誌の記者が見たら、何とリポートするか。
木原の三分の一も語彙《ごい》のない百合は、すぐに詰まって、眠たげな表情をした。
「明日はロス行きだから、早く寝《やす》んだほうがいい」
木原は百合に言ったものの、自分はまだ全然眠くならない。百合は、早くも健康な寝息をたて始めていた。満ち足りた幸せそうな寝顔である。一見したところ、女としての決定的な欠陥をかかえているようにはとてもおもえない。それだけに木原は悶々とした。同行のカップルたちは、それぞれの部屋で楽しくやっているにちがいない。見かけだけは抜群に美しい新妻を擁して、膝をかかえている夫、この結婚に対して支払ったものは、決して安くなかった。
木原は、ふとおもいついたことばがあった。ホテルの地下にあるバーはコールガールのたまり場であることを添乗員が言葉の端に漏らしていた。まさか新婚旅行先でコールガールを買えないが、どんな女がいるか、素見《ひやかす》くらいならいいだろう。ロボット妻のそばで膝をかかえているよりは、ましである。
木原は百合の寝息を確かめて、部屋をそっと脱《ぬ》け出した。バーは照明が暗く、澱《よど》んだ煙草の煙が視野をいっそう妨げていた。
木原はカウンターに坐って、ウイスキーの水割りを注文した。視野の端で、それとなく店の様子を探ったが、それらしい女は見えない。これでは素見どころではないと内心落胆した。止まり木《ストール》に坐って出された水割りを舐《な》めていると、侘しさが身に迫った。新婚二日目にしてこの侘しさの夫婦生活をこれから一生つづけていくのかとおもうと、自ら選び取った人生とはいえ、耐えきれるかどうか自信がない。
(この取引、割りに合わないのではないか)
絶対の自信のあった計算が揺らぎかける。
「お隣りに坐ってもよろしいかしら?」
突然|流暢《りゆうちよう》な日本語で話しかけられた。その声に馴染みがあった。声の主の方角に目を向けた木原は、愕然として、ストールから落ちかけた。
「き、きみは!」
「新婚の奥方を放り出して、バーで金髪女に色目を使っているなんて穏やかじゃないわね」
艶然と笑ったのは、矢沢恵理である。
「きみ、どうしてここへ?」
愕きのあまり、声が滞っている。
「来てはいけなかったかしら。こんなことではないかと、陣中見舞い≠ノ駆けつけて来てあげたのに」
「本当か」
木原は、喜ぶべきか、当惑すべきかわからなかった。こんなとき恵理がいてくれたらとおもいかけた矢先、当の本人が現われた。不能の壁に挫《くじ》かれていた欲望が、可能な対象の出現によって猛然と目を覚まし、膨張している。人目がなければ、いますぐにでも、恵理にむしゃぶりつきたい。
だが一方では、新婚旅行の抑制がある。不能の妻とは言え、ハネムーン先で他の女との情事は、途方もない。いかに岩本が公認≠オたとしても、せめて新婚旅行中は、身を慎むのが、妻に対する礼儀である。それは夫婦間の最小のルールであると言ってもよい。
木原は可能となった欲望と、夫婦のルールの振幅の間で当惑していた。
「どうなさったの、足はちゃんとあるわよ」
恵理は、驚愕の持続している木原の前で、足踏みをしてみせた。
「まさか、きみがここへ来るとはおもわなかった」
ようやく言葉が出てきた。
「陣中見舞いと言ったでしょ。披露宴であなたの顔を見たとき、これはとても一週間は保《も》たないなとおもったの」
それはそのまま恵理の心情を現わしているものであろう。
「きみの気持ちは有難いけれど、どうにもならないよ。百合がいっしょなんだぜ」
木原にしてみれば、空腹時に馳走の匂いだけ嗅がされたようなものである。
「大丈夫よ。私はずっと同じホテルに部屋を取るわ。隙を見て五分でも十分でもいらっしゃい。お腹が空いていて食事の時間がないときは、とりあえずサンドウィッチかおにぎりで胃袋を騙《だま》すのよ。私、いまここの515号室にいるわ。すぐいらっしゃらない。他にもお話ししたいことができたのよ」
恵理は、木原の耳許に囁くと、またさりげなく離れて行った。幸いに密着取材≠フ米人記者の姿もない。二、三分おいてから恵理の後を追いかけた。
515号室では、恵理が待ちかねていた。二人はものも言わず抱き合い、ベッドにもつれ合いながら倒れ込んだ。餓鬼が食物に喰いつくように彼らはまずたがいの身体を貪《むさぼ》り合って、とりあえず激しい餓えを騙さなければならなかった。珍味のフルコースを時間をかけて味わうより、手当たり次第に頬張り、胃の腑を充たすのが、先決といった体である。
性急な貪り合いの後、ようやく口をきく余裕ができた。
「どう、おにぎりのつまみ食いでも、いくらかお腹がふさがった?」
恵理は、からみ合った姿勢を解かずに聞いた。より貪婪《どんらん》に頬張ったのは、むしろ彼女のほうである。そして事後も、官能の余韻を楽しんでいる。
「たすかったよ。しかしまったく驚いたなあ」
「私が案じていたとおりだったわ。あなたもこれから大変ねえ、奥方とは、やっぱりだめだったの?」
「だめ以前だよ。彼女には結婚の意味もわかっていないらしい。金庫の中でまったく目隠しをされて育てられたんだ」
「友達や本から知識を得なかったのかしら」
「友達もみんな金庫入りだからね。性に関する本なんて手に入れられる環境じゃないだろう」
「私の存在の重要性がよくわかったでしょ」
「身に沁《し》みてわかった。しかし、いまは時間がない。きみがさっき他にも話したいことがあると言ったのは何だ」
「まだよくわからないんだけど、大石社長や三人組が古川銀行や菱井銀行の重役と、ここ数日しきりに顔を合わせているのよ」
「古川や菱井と?」
「岩本や井沢会長は会合からはずされているの」
「岩本さんは、その会合を知っているのか」
「知っていれば、彼だけはずされるはずがないわ。もう三、四回会っている様子なの。私も、あなたがハネムーンに出発してから知ったのよ。彼らどうもなにか画策しているらしいわよ。岩本派をいっさいはずして、メインバンク抜きの銀行筋と大石派が密議を凝らしているのが気になるわ」
「きみはその動きをどうおもう?」
「気になるだけで、私にもわからないわ。とにかくあなたの耳にも入れておくわ」
「岩本さんに知らせたほうがいいとおもうか」
「結婚早々の引出物というわけね。もう少し私が調べて固めてからのほうがいいとおもうわ。反岩本派が会合したことは、これまでにもあったことだから」
「きみがこちらへ来ていたら、調べようがないだろう」
「私の情報網は、私がいなくても動いているわ。なにかあれば直ちに連絡がくる仕組みになっているのよ」
「有難う。そろそろ部屋へ帰ろう。あまり行方不明になっていると疑われるからね」
「私は、木原恵理という名前でロスのホテルの部屋を取るからフロントで部屋番号を聞いていらしてね」
「木原恵理!」
「だってこのハネムーンの真のパートナーは、私でしょ」
恵理は、立ち上がりかけた木原に妖しく笑いかけた。彼女のしどけなく解放された姿態から吹きつけるような魔性の蠱惑《こわく》を覚えて、木原は束の間くらくらとした。
恵理はロスアンジェルスのホテルでは大胆にも同じ階《フロア》へ部屋を取った。
「百合に顔を見られたら危険だよ」
さすがに木原も心配になった。
「大丈夫よ。奥方は私の顔を知らないはずよ」
「披露宴にも出席したじゃないか」
「私は岩本副社長の関係の、それも代理なのよ。あれだけ大勢の人間ですもの、私の顔なんか憶えているものですか」
「御前パーティにも出席しているし、危険だよ」
「あなたが心配だったら、用心のために、あなた方がホテルの中にいる間は、部屋に閉じこもっているわ」
恵理が密かに付き添ってくれているおかげで性の飢餓は解消した。それこそサンドウィッチやにぎり飯を頬張るような忙しない情事であったが、餓えている身には、フルコースのディナーよりも美味に感じられ、そしてそれで十分に餓えは充たせた。
欲望がとりあえず鎮められると、新婚旅行を楽しむ余裕ができた。アメリカのサンベルト地帯と呼ばれるサンシャイン・カリフォルニアだけあって、どこへ行っても太陽の光が瀰漫《びまん》している。空気は乾燥し、風には花の香りが乗っている。
百合はどこでも人目を惹いた。おおらかなアメリカの男は、率直な賛嘆と羨望と好色の視線を向けてきた。彼女の夫がエスコートしているとも知らず、本気でデートを申し込んでくる者もあった。
彼女の欠陥が恵理によって補われているかぎり、楽しいハネムーンになった。セックスを意識しなければ、百合はいっしょにいて楽しい女であった。木原は、性的結合のない夫婦もあっていいのではないか、とおもうようになった。
兄妹のように愛し合える夫婦、それは決して不可能ではない。取引によって擬制された夫婦であっても、愛はないよりは、あったほうがよい。性による結びつきが不可能なのであるから、性以外のものに連帯を求めざるを得ない。
そのように考えると、自分の女としての致命的な欠陥に少しも暗い影響をうけていないような百合は、稀にみるよい性格である。金庫の中に愛蔵されて、欠陥を意識しないように精一杯、親に庇護されたせいもあるだろうが、生来の明るい性格もあるのだろう。
百合の欠陥さえ意識しなければ、これは楽しい伴侶である。木原は、急に百合が愛《いとお》しくなってきた。取引とは言え、無数の男女の中から夫婦になったのは、一つの縁にはちがいない。たとえロボット妻であっても、妻は妻である。まして百合は、夫として自分を選び取ってくれたのである。親のおもわくが働いていても、彼女が拒否すれば、この縁は成立しなかった。この縁を大切にしようと、木原はおもうようになった。
ビジョンの生存《サバイバル》
六泊八日の新婚旅行は無事に終わった。旅行の成り行きを心配そうに遠方から見まもっていた岩本夫婦は、幸せそうに帰国して来た新夫婦を見て、ホッと緊張を緩めた。
取引に基づいた納得ずくの結婚とは言え、いや、取引であるだけに、取り消されるおそれがある。結婚そのものが一種の契約であり、百合の欠陥は、契約の目的を果たせないとして取り消しの理由となる。だが、この結婚は、欠陥をあらかじめ明らかにしたうえで、取引が行なわれたのであるから、欠陥を理由に取り消されることはあるまい。――とは希望的におもっても、木原がいや気がさして、気を変えるおそれがある。それが、満ち足りた表情をして帰って来た新夫婦を見て杞憂《きゆう》であったことがわかった。
岩本は、矢沢恵理がハネムーンに陰伴《かげとも》≠したことを知らない。しかしそれを知ったところで、なにも言う筋合いはない。
新夫婦は、咲見町の家族用社宅を新居とすることになった。咲見町社宅は、高級社員の入る社宅である。早くもそこに岩本のヒキが現われていた。たっぷりした庭をめぐらせた5LDKの一戸建ての家屋は、社宅と言うより邸宅のおもむきである。新婚の二人には広すぎる家であったが、岩本城≠フ住人であった百合には、さしたる印象もなさそうである。
だが、木原には高級社員専用の居宅に住めるようになった感動よりも、矢沢恵理と同じ社宅に来たことに当惑を覚えた。恵理はむしろその符合を喜んでいた。
「このほうが能率的に逢えていいじゃないの。新婚旅行の延長のようなもんじゃない」
「冗談じゃないよ。ここはホテルとはちがう」
木原は、恵理の大胆な発想に仰天した。たがいの身上を詮索《せんさく》しないという条件で出発したはずの二人の関係であったが、恵理は次第に大胆になっている。アメリカまで新婚旅行を追いかけて来たのも、常軌を逸している。彼女の無謀とも言える大胆さに引きずられかけている自分を、木原は戒めた。
「ホテルよりは安全かもよ。出入りにさえ注意すれば、声を隣りの部屋に聞かれる心配がないもの」
恵理は、二人にだけわかる淫《みだ》らな笑いを口辺に浮かべた。
「きみの家へ行ったら、身上を詮索されて迷惑じゃないのかい」
恵理の家には、彼女の背後の男の痕跡が残っている可能性が大きい。いまにしておもえば、これだけ親しくなりながら、彼女の家に招かれたことがない。
「私はちっとも。これまでは、独身のあなたが咲見町へ来たら、目立つでしょう。でもこれからは同じ町内の住人よ。かえってカモフラージュになるわ」
「やっぱり、たがいの家で逢うのは止めよう。危険が大きすぎる」
「結婚したら、急に慎重になったのね」
恵理は、目の底で嗤《わら》っているようであった。
「ところで社長や三人組の動向の調べはその後どうなった?」
木原は新婚旅行以来の気がかりを質ねた。
「相変わらずこそこそ動いている気配なのよ」
「いったい何を企んでいるんだろう」
「アンチ岩本派が画策するとすれば、岩本追い落とし作戦以外にないけれど、どうも腑に落ちないことがあるの」
「腑に落ちないことって何だね」
「まさかとはおもうので、もう少し裏付けを取ってから教えたげるわ。あまりにも途方もない想像なので、私にも自信がないのよ」
「きみの想像でもいいから教えてくれ」
「だめよ。もし当たったら、あなたが可哀そうすぎるもの」
「気になる言い方だね。ぼくが可哀そうすぎるとは、どういうことなんだ」
「いまの段階では言えないわ」
「きみとぼくの仲じゃないか」
「だから言えないのよ。応援団長としては、選手のヤル気を失わせるようなことは言えないわ」
「ぼくがヤル気を失うと言うのか」
「その危険は大いにあるわね。とにかくもう少し時間をちょうだい」
木原は、質《たず》ねたことによって気がかりがさらに脹《ふく》れてしまった。恵理の途方もない想像とは何か。それが的中すれば、木原が気力を喪失すると言う。ようやく成功の階段の袂《たもと》に片足をかけたところで闘志を失ってたまるものか。木原は、右手に百合をパスポートにして、左手に岩本のヒキを得て長い階段を上っていかなければならない。
いま木原をして再起できないほど打ちのめせるものがあるとすれば、それは岩本の失脚である。岩本が健在であって初めて、百合というパスポートが絶大の威力を発揮する。もし岩本の後ろ楯がなくなれば、百合は、金属的な冷たさしかあたえないロボット妻に還元してしまう。
だが岩本は簡単には失脚しない。井沢清四郎や安立銀行という強大な味方を擁して、その勢力は反対勢力と拮抗と言うより圧倒している。そうと読んだから百合と結婚したのだ。
自分を再起不能に打ちのめすものは、それ以外にはあり得ない。すると恵理が仄《ほの》めかしたものは、やはり、岩本の失脚作戦が密かに進められているということなのか。彼女は「途方もない」と言った。それは岩本の実力と位置をも揺さぶるほどの威力をもつ作戦ということか。
もし有効な岩本失脚作戦が密かに進行しているとすれば、可及的速やかに阻止しなければならない。岩本の耳に入れるべきではないのか。しかし、なにを注進するというのか。大石や三人組が密議を凝らしているというだけで、なにも具体的な事実をつかんでいない。派閥の会合ならば、珍しくないし、岩本派でも行なっている。岩本パーティも、反岩本派には、派閥の密議と見られている。ともかくいまは、恵理の調べを待つ以外になかった。
三月初めの土曜日の午後、木原は百合と共に社宅内にあるスーパーに行った。木原はスーパーへ行くのが好きである。特に物資が欠乏している時代に生まれ育ったわけではないが、豊かな食料品や日用品に取り囲まれていると、なんとなく豊かで幸せな気分になった。特に社員専用のスーパーで目を引かれた物を手当たり次第にバスケットに放り込む気分は、最高である。さすが高級社員社宅内のスーパーだけに、高級品が揃えてある。
「あなたといっしょにお買い物に来ると、お金がかかって仕方がないわ。いらない物まで買ってしまうんですもの」
と百合は苦情を言ったが、彼女も木原と共にスーパーに来るのが嬉しそうである。貧しさの味を知らない百合は、木原がスーパーで買い過ぎたところで家計への脅威を覚えるわけではない。
木原の給料はスーパーでの衝動買いの影響をうけるほど悪くないし、いざとなれば、実家へ駆け込むという奥の手がある。牛肉や野菜や総菜などの一つ一つを手に取って夫婦で相談しながら買っていると、家庭のささやかな幸せの味がわかるような気がする。スーパーでどんな材料を仕込んだところで、百合の料理のレパートリィはたかが知れている。それでも木原の気に入ったものをつくろうとして、真剣に材料を検討している百合の姿はいじらしかった。
百合は結婚してから体の線が円くなり、新妻としての色気が出てきたようである。性的な結び合いはなくとも、木原の妻としての生活と心構えが、彼女の身体に作用しているようであった。
木原は、ふとだれかの視線を感じて、その方向へ目を向けた。そこに矢沢恵理の姿を見出して一瞬ハッとしたが、百合の手前、反応を抑えた。同じ社宅団地の住人であるから、このような邂逅《かいこう》は予期していたことでもある。幸いに百合は、ディスプレイされている商品に気を取られて、木原の反応には気がつかなかったらしい。
恵理は、さりげなく二人のほうに近づいて来たが、軽い会釈をしてすれちがった。ここへ買い物に来る客は、すべて同じ会社の社員とその家族であるから、挨拶を交わしても不審はない。だが恵理は、会釈の底から、木原との間だけに通ずる目配せを送った。
(ずいぶん仲がおよろしいのね)
恵理の目の色が嫉《や》いていた。
(見せかけだけだよ。そのことはきみがよく知っているだろう)
木原は、恵理の嫉妬に抗議をした。
(とても見せかけにはおもえないわよ。私なんか必要ないみたい)
女心の微妙さというのか、自ら木原の応援団長をかって出て百合との結婚を勧めた恵理が、嫉妬の色を隠さない。木原は、恵理に悪いところを見られたような気がして少しうろたえた。
「いまの女の人、会社の人でしょ?」
恵理の後ろ姿を振り返って百合が言った。
「そうだよ。同じ課の矢沢さんという人だ」
「なんだか変だわ」
百合が考え込むように襟《えり》に顎を埋めた。
「何が変なんだい」
「だって同じ課の人でしょ。二言、三言挨拶してもいいはずよ」
「それほど親しくないんだよ。それにきみがいたから遠慮したんじゃないかな」
木原は狼狽を現わさないようにして言った。たしかに同じ課の同僚としては、いまの態度はよそよそしすぎた。
「でもあなたまでが遠慮することないじゃないの」
「言ったろう、そんなに親しくないって」
やむを得ない言葉のあやになってしまったが、この言葉にこれから大変な拘束をうけることになる。
月曜日に矢沢恵理に会社で顔を合わせると、彼女は遠方から軽く片目をつぶってみせた。その目が一昨日はご馳走様と言っている。間もなく内線電話を使って、今夜「いつもの所」で逢いたいと連絡してきた。彼らは一線を越えてから、それぞれのマイカーを使って、市外のモーテルで逢っていた。彼らの定期デートは木曜の夜と定まっていたので、木原は、
「なにか急なご用件でしょうか」
と質ねた。
「至急にお耳に入れたいことがございまして」
遠方のデスクで恵理が送話器に囁いている。二人が同一回線上で話しているとはだれもおもわない。内線であるから、交換台に傍聴される危険もない。
「かしこまりました」
木原は、電話に一礼して送受話器をおいた。耳に入れたいことがあるなどと言っているが、土曜日のスーパーでの遭遇について、いやみを言いたくなったのかもしれない。恵理の目には「おとなの恋」にはないはずの嫉妬の色が塗られていた。
女の謎を留めているような恵理も、最後のものをあたえた男に対しては、速やかに生臭く、具体的になってくる。だがそれだけ恵理のおもい入れの強さがわかって、木原は悪い気はしなかった。
その日定時に退社してモーテルへ行った。恵理も相前後して着いた。このモーテルは、ガレージから直接客室に出入りできるような造りになっていて、客と従業員が顔を合わせずにすむ。彼らのような人目を忍ぶカップルの出逢い場所として申し分ない。
「今日はとんだボーナスだね」
木原は、着がえもせず恵理の体に挑みかかった。恵理のかすかな体臭が、木原の官能を刺戟している。風呂から上がったばかりの石鹸の匂い立つような瑞々《みずみず》しい体も好きだが、一日の生活に汗ばんだ、生の体臭のする女の躰からも激しい興奮を覚える。
「相変わらずせっかちだわねえ。バスぐらい使ったら」
恵理は苦笑しながらも、木原の欲望を受け容れる体勢をとっている。
「風呂へ入らないと気持ち悪いか」
「なにをいまさらおっしゃるのよ。あなたが気持ちが悪いかとおもって」
「とりあえず挨拶≠させてくれないか」
会社で他人を装っているストレスが、すぐに新たな欲望を蓄えさせてしまう。自分が支配しているはずの女体が、まったく他人を装って、自分と他の男とを同等に扱っていることが、嫉妬と不安を培い、支配権を確認したくなるのである。週一回のデートでは耐えられなくなることが多い。
軽く体を合わせて、ひとまず飢餓を騙す。本格的な宴の前の食前酒のようなものである。
「今日はあまり時間がないのよ」
「せっかく逢えたのに、そりゃないよ」
「今日はそのために来たんじゃないのよ」
「じゃあ何のためだ」
「言ったでしょ。あなたの耳に入れたいことがあるって」
「しながらでも聞けるよ」
遮《さえぎ》られて、木原は余計抑えがきかなくなっている。
「まるで聞き分けのない子供みたい」
恵理は辟易したように言いながらも、身体は、自動的に対応させられている。成熟した女の官能には常に口火がついていて、わずかな刺戟によって完全燃焼できるようになっている。
「仕方ないわね。それじゃあサンドウィッチだけよ」
「せっかく逢えたのに、サンドウィッチでがまんしろというのかい」
「時間がなければ仕方がないでしょ」
「ぼくの後にまた約束があるのか」
今度は木原が嫉《や》く番であった。
「詮索はしないという約束でしょ。あなたには奥さんとの生活があるように、私には私の生活があるのよ。サンドウィッチだって食べないよりましでしょ」
たちまちしっぺ返しを食った。うながされての忙しない情事は、味気ないが、「空腹は最良のソース」とは、性《セツクス》にも当てはまる。
「ところで、ぼくの耳に入れたいことって何だ」
やむを得ずサンドウィッチで空腹を充たした木原は、質ねた。
「あら、食べながら聞く予定じゃなかったかしら」
恵理は意地の悪いことを言った。
「きみが話せる状態だったかな」
「あなたもたくましくなったわね」
「きみに鍛えられたからね」
二人は、目の奥を見合って淫靡《いんび》なおもいだし笑いをした。
「実はね、あなたにとっては不吉な情報があるのよ」
恵理は、表情を改めて言った。
「不吉な情報?」
「彼らの企みがわかったわ」
「彼ら」とは、もちろん反岩本派のことである。
「本当か」
木原は身を乗り出していた。
「やっぱり私が想像していたとおりだったわ」
「きみが『途方もない』と言った想像か」
「そうよ」
「教えてくれ。ぼくはそのことによってヤル気を失わないよ。どんなことを聞かされても大丈夫だ。失ってたまるか」
「私、あなたに話そうかどうか、ずいぶん迷ったのよ。いまでも迷っているわ」
「今日呼び出したのは、話すためだろう」
「でも決心がついたわけじゃないの」
「もったいぶらずに話してくれよ。それは遅かれ早かれわかることなんだろう」
「いずれはわかるわ」
「それならなおさらだ。悪い情報でも事前に得られれば、守りを固められる。その意味で情報はすべて価値がある。悪い情報なんてないのだ」
「その言葉を聞いて安心したわ。あなたなら必ず切り抜けるわよ。実はね、昨日大石の邸を密かに訪問した人物があるのよ。谷井精之介よ」
「やついせいのすけ」
どこかで聞いたような名前だとおもったが、おもいだせない。
「国武銀行の副頭取よ」
その意味がわかるかと問うように恵理が木原の顔をうかがっている。
「国武銀行は、グループに日本最大の重機械メーカーの国武重工業をかかえているわ」
恵理の示唆によって木原の脳裡に感電したように走ったものがある。その電流によって散開していた各要素が有機的に結び合わされて、一場の恐るべき構図を描きだした。
「まさか」
木原はうめいた。もしその構図が恵理の想像と重なるものであれば、それはまさに途方もないことである。恵理が木原のヤル気を失わせるかもしれないと言ったが、その構図の中には、木原の野心《ビジヨン》の生きる余地はない。
「わかったようだわね」
恵理がうすい笑いを含んで言った。木原の反応を験《ため》しているようにも見える。
「谷井精之介が来ても、国武が乗り出して来たとはかぎらないだろう」
木原は、脳裡に描きだされた構図を自ら打ち消すように言った。
「そうおもいたいわね。でも谷井精之介が現われて、これまでの大石や三人組の動きが、すべて辻褄が合うのよ」
「きみは、国武が我が社を狙っていると言うのか」
木原は、脳裡の構図を初めて具体的に口にだした。
「業界は再編成の方向に向かって動いているわ。私には難しい理屈はわからないけれど、会社が合併すれば、会社はその分だけ大きくなって国際的な競争力が強くなるのでしょう。これを錦の御旗に押し立てて、大石、三副社長、国武銀行、国武重工業、副《サブ》銀行団の連合軍が攻めてきたら、恐いわよ」
恵理の言葉には、根拠があった。ドルショック以来、国際競争に耐えられる企業の体質強化を余儀なくされて、企業の合併・再編成があいついでいる。自転車操業や、子会社への押込み販売などによって見かけだけは威勢よくとも、内容は外国企業にかなり劣るのが日本企業の実情である。
日本の企業は、戦後の占領政策によって財閥その他の独占企業が解体されて、どんぐりの背くらべとなった。それがかつてない激しい企業間競争を生むことになった。競争に打ち勝って生き残っていくには、技術の革新に一歩でも先んずることである。そのために産業構造の重化学工業化の過程を通して生産設備が大型化される。設備投資をまかなうために借金をする。これが企業の資本構成を悪化させる。
ここにきて、資本自由化による外国企業の日本市場進出が本格的に始まった。脆弱《ぜいじやく》な日本企業が、強力な外国企業と渡り合うためには、合併して体力の差を縮める以外にない。
世界的な不況の中で、その対応に立ち遅れた者は速やかに淘汰される運命にある。企業の倒産はあい次ぎ、どんぐりの背くらべ時代から、強い者は弱い者を食って、ますます肥る弱肉強食時代へと入った。企業格差は開いてくる。生き残るために合併や業界の再編成が進められる。
合併に際して、常に旗印として掲げられるものは、「国際競争に耐えられる体質づくり」であったが、実際の意図は、無駄な競争は止めて、たがいに手を携えて苦しい時期を生きのびようというものであった。
それは競争に伍し、打ち勝つための積極的合併に比べてかなり後退した合併や提携であるが、内情はそれほど苦しいのである。ましてやドルショックで最大の被害をうけた造船業界では、すでに大型合併やグループの大合同が行なわれている。浦島にも業界再編成の高潮が押し寄せることは当然予想されてよい。
「しかし、江戸時代からの由緒ある浦島重工を容易に合併させるだろうか。まず中浦家が激しく抵抗するだろう」
木原としては希望的観測を捨てたくない。
「中浦家が反対してもどうってことはないわよ。中浦家は象徴にすぎないわ。同族の中に株は散らばって、経営に対する発言権は銀行に太刀打《たちう》ちできないわ。それに中浦家も岩本に会社を乗っ取られる≠ュらいなら、合併したほうがいいとおもっているかもしれないわよ」
「まさか中浦家が……」
「中浦家の岩本に対する反感は、相当なものよ。あなたの結婚式のとき、中浦家の人間は一人も出席しなかったでしょ」
「そう言えば……」
木原はおもいだした。浦島重工業の戦後の今日を築いた岩本勝文の娘の結婚であるから、中浦家からも出席があってしかるべきであるとおもっていたが、ついに一族のだれも姿を見せなかった。そのときふと不審を覚えたが、そのわずかな空白を埋める綺羅《きら》星のような来賓が、彼の不審を圧塞《あつそく》してしまった。だがそれは意識の隅に引っかかった気がかりとして生きていたのである。
「岩本が中浦家を故意に招かないはずはないわ。招いたけれど、来なかったのよ」
「どうしてそんなに反感をもっているんだ」
結婚披露宴への招待を拒否したというのは、穏やかではない。
「私も少し前に知ったばかりなのよ。中浦家に、晴生《はるお》という現在菱井銀行に勤めている三男がいるのよ。この晴生が二年ほど前に、あなたの奥さんを見初めて、プロポーズしてきたらしいのよ。ところがこの御曹司、少し頭が弱いのよね、愚鈍なのね。それで百合さんが断わったというの。もっとも、それで岩本家は救われたんだけど、百合さんが晴生を気に入っても絶対に結婚させられなかったわ。そんな欠陥女をこともあろうに中浦家の御曹司に嫁がせたとなったら、岩本としては切腹ものでしょうからね。でも事情を知らない中浦家は大変おもしろくないわけよ。自分の家の息子が馬鹿だから断わったとおもったのね。岩本としては事情を説明したくともできない。いまにしてみればそのとき本当のことを中浦家に打ち明けておけば、シコリは残らなかったのよ。中浦家では面当てがましくすぐその後、菱井銀行の重役の娘と晴生を結婚させたので、ますます時期を失ってしまったのよ。
だから岩本としては、中浦家に対するおもんばかりからも、百合を目立つ男と結婚させられなかったのよ」
「そんな裏があったのか」
いま初めて知らされる裏の事情であった。中浦家からのプロポーズを蹴った後、中浦家に匹敵するような家柄に嫁がせれば、余計に同家を刺戟することになる。そこで、「目立たない」ということで工員子弟上がりの木原が選ばれたのである。
「でもあなたは反対の意味で目立ったわね。中浦家が工員以下と見られたということで,かえって中浦家の心証を悪くしちゃったのよ」
「きみはそのことをずっと前から知っていたんじゃないのか」
「知っていたら、とうに話しているわよ。とにかくそんな経緯《いきさつ》があるから、中浦家は、どんなことがあっても岩本を社長にしたくないのよ。岩本を社長にするくらいなら、会社を悪魔にでも売り渡すにちがいないわ」
「中浦家がそこまで感情的になるものかな」
「できの悪い子供ほど可愛いものなのよ。ともかく中浦家の合併に対する反対は、たとえあっても大したことはないわ」
「これまで国武重工業は、浦島に色気をもっていたのだろうか」
「色気かどうかわからないけど、最近国武の名前がチラチラしていたわね」
恵理に言われて、木原はおもい当たることがあった。最近、庶務課を往来する文書に、国武重工業に関する資料があった。合併などという発想が意識の片隅にもなかったので、漫然と見すごしていたが、その名前が視野にチラチラしていた。一般の業務用書類の中にさりげなく混入されていたが、それは色気≠フあった徴候とみてよいのではないか。
情事の甘い余韻はかけらもなくなってしまった。現在徴候らしきものは、谷井精之介が大石成明の私邸を密かに訪問したことだけである。二人には個人的親交があって休日の訪問となったのかもしれない。谷井が大石に会った事実だけで合併を想像するのは短絡にすぎる。だが、谷井は東京に住んでいる。多忙な巨大銀行のトップが個人的な清談をしにはるばる東京からやって来るか。周遊の途中に立ち寄ったということもあるかもしれない。
だがこの恐るべき情報魔であり分析魔である恵理が合併のにおいを嗅ぎつけているのである。合併は組織の合体であり、合併によってそれまでの社内の勢力分布図は完全に塗り替えられる。木原のビジョンはあくまでも現在の、浦島重工という会社の上に描かれている。ビジョンの基礎であり、画布《カンバス》でもある会社がまったく異質のものに化学変化をしてしまえば、これまでの遠大な戦略の下に営々として築いてきた位置が根底から覆されてしまう。
国武重工業は、企業規模からみても、浦島の三倍はある。単純な規模による比較計算からいけば、合併比率は三対一となる。つまり新社における浦島の分布は、その分だけ狭められ、木原のビジョンも限定をうける。
いや限定どころか、合併となれば重複部署が統合されるから、余剰人員および斜陽部門の斬り捨てが行なわれる。新社に生き残れるかどうかもわからない。
たとえ生き残れたとしても、吸収合併の形を取れば被吸収会社の社員は、企業植民地の住人である。もともと岩本に政権を渡さぬために仕組まれた合併案であろうから彼のカサは無効になる。木原がようやく社員になれたとおもったのも束の間であり、新社の中の工員∴ネ下の存在として、新たな支配階級に仕えなければならないのだ。
そんなことがあってたまるか。――
木原は、うめき声をのど元に押えた。
帰る方角はいっしょであったが、連れ立って帰るわけにはいかない。それに恵理にはべつの約束がある様子である。
「いまの話、まだ岩本に話さないほうがいいわよ。二、三日うちに動かぬ証拠をつかんでみせるわ」
別れ際に恵理が言った。木原はいったん家の方角へ車を向けたが、おもいなおして、車首を反転させた。恵理には釘を刺されたが、やはり、岩本の耳に入れておくべきだと判断したのである。
もし、岩本をツンボ桟敷《さじき》において合併話が進められているなら、一刻も早く彼の耳に入れるべきである。こちらのおもいすごしであったとしても、岩本なら正確な情況判断ができるだろうとおもった。
木原が訪ねていくと、岩本は書斎で就寝前の読書をしていた。重役業務で帰宅がどんなに遅くなっても、岩本は、寝室へ入る前の読書を欠かさない。習慣として定着しており、またそれが彼の情報と知識の源になっている。
「ちょうどぼくも少し前に帰って来たところだ。久しぶりに会長にあってね、ご老体相変わらず矍鑠《かくしやく》たるものだ」
岩本は、木原を愛想よく迎えた。この時ならぬ時間に岩本の私邸を突然訪問できるのも百合というパスポートがあるおかげである。
岩本邸へ来る都度、自分の出世≠確認して自己陶酔に浸るのであるが、今夜はそんな余裕はない。
「ちょっとお耳に入れたいことがございまして、夜分も憚《はばか》らずおうかがいいたしました」
「夜分もなにもない。ここはきみの家じゃないか。いつでも来たいときに来てくれたまえ」
岩本は、むしろ媚《こ》びるように言った。彼にしてみれば、木原に娘を人質に押えられているような気分であっただろう。欠陥のある娘を大切にしてもらいたいばかりに、工員子弟上がりの木原に低姿勢を維持している。木原はたったいま恵理から仕入れてきたばかりの情報を伝えた。岩本は、平静な表情をくずさずに木原の話を聞いていたが、
「きみはその情報をだれから聞いたのかね」
と問うた。ここで恵理の名前を明らかにすることはできない。
「庶務課を往来する文書に最近国武の名前がチラチラするので気にかけていたのですが、大学時代の友人が国武に勤めておりまして、その名前を明らかにしないという約束でそっと漏らしてくれたのです」
この程度の説明で岩本が納得してくれるかどうかわからなかったが、彼は深く詮索しなかった。
「谷井精之介が大石を訪ねたのは確かなのかね」
岩本の表情が事態を冷静に分析している。
「実は彼らの動向が気になりましたので、工員子弟の仲間に社長の邸を密かに見張らせていたのです」
木原は、苦しい口舌《くぜつ》を使ったが、岩本は木原の下に工員の応援組織のような存在があるとおもったらしい。
「よくやってくれた。大いに参考になった」
岩本がうなずいてねぎらってくれた。
「いかがでしょう。私の取るに足りないおもいすごしならばよろしいのですが」
木原は、岩本の顔色を探った。さすがに浦島の大屋台をかついで、その中興の祖≠ニ呼ばれるだけあって、内なる思惑をめったに現わさない。
「いまの段階ではなんとも言えないが、いちおう危険な徴候と見るべきだろうね」
岩本は穏やかな声音で言った。
「やはり危険ですか」
「それだけの火種はある。国武にとって、浦島は最も格好な合併の相手だ。国武重工は我が国最大の重機械メーカーであるが、造船部門において、やや弱い。本職は飛行機屋で、戦時中は海軍の飛行機をほとんど一手に手がけていた。戦後はその技術を活かして、産業機械に転向したが、浦島重工と合併すれば、造船とプラントなどの重機械部門が強化されて、ワンセットの重工業がもてる。これは国武重工業の見果てぬ夢と言ってもよい」
岩本は淡々と解説した。
「すると、国武は以前から我が社を狙っていたと……」
「これまではつけ入る隙《すき》がなかった。それが大石や三人組の馬鹿どもが、社長の椅子をたらいまわしにしたいばかりに、国武に足元を見られたのだろう」
「しかし、合併すれば、社長にはなれないでしょう」
「目先に甘い餌をぶら下げられたのだろう。国武重工は、我が国最大の兵器メーカーでもある。だが国武は兵器生産はごく一部だけと弁明している。国武の社内にも、一握りの兵器部門のために、死の商人呼ばわりをされるのは迷惑だという意識がある。そこで兵器部門だけを切り離して浦島と合併させ、総合兵器メーカーをつくろうとしているのかもしれない。つまり、国武の死の商人のイメージを、そっくりこちらへ押しつけてしまおうという肚《はら》だ」
「どちらにしても我が社にとっては割りに合わない話ですね」
「いや必ずしもそうとは言いきれないところもある」
「陸上部門への進出ですか」
「そうだ。だが、国武ではいかにも相手が悪い。我が社は呑まれてしまう」
「それがわからないのでしょうか」
「彼らには目先のことしかわからないのだよ」
岩本は索然たる表情になった。造船業界の景気変動は、「華やかな祝宴ときびしい飢餓のくりかえし」と言われるほどに激しい。世界第一の建造量を誇る造船業であるが、業者にしてみれば、低収益性、長期延べ払いなどの厳しい条件の重なる変動の歴史である。この変動の危険を少なくするために、造船業は、かなり以前から、陸上への進出を図っていた。大手造船会社が競って自動車、建設機械、その他の陸上機械に進出し、陸へ上がっている。
当初は造船不況を切り抜ける策として発足したが、海陸補い合っての安定経営を目指して積極的に上陸作戦を進めているのが、現状である。主要造船会社の船舶と陸上機械の売上比率を追ってみても、一九五六年が六対四であったのが、六一年に互角《タイ》となり、六八年には三十八対六十二と完全に逆転されている。ところが浦島重工では、陸上部門は船用を含むタービンやボイラー、ディーゼル機関、ゴムタイヤ機械などわずかに三〇パーセント足らずであり、他の大手に比べて上陸≠ェ大幅に遅れている。
浦島としては、事業の安定のためにさらに意欲的な陸上部門への進出を迫られていた。
「私もきみから教えられるまで気がつかなかったとは迂闊《うかつ》だった。私のほうからも少し調べてみよう。もし事実だとしたら一大事だからな。きみのネットにこれからも引っかかってくるものがあったら教えてくれたまえ」
岩本は、舅《しゆうと》としてのプライベートな着流しの上に、権力闘争の闘士の鎧をつけていた。
仕組まれた断崖《だんがい》
火曜日に出社すると、まだ矢沢恵理の姿が見えなかった。時計を確かめると、午前九時に数分前である。彼女がこの時間に来ていないのは、珍しい。いつもは木原が出社すると、すでに恵理は来ていて、オフィスの中を甲斐甲斐しく掃除をしたり、男子課員のためにお茶を淹《い》れたりしていた。
恵理は、女子課員の中では、最も古参になっていたが、課の雑用を率先して行なった。恐るべき情報網をもって恐持《こわも》てしている割りに、それを少しも鼻にかけず、新入りの女子社員でもいやがるお茶汲《く》み、雑用を進んで引きうける殊勝さが恵理にはあった。
それも所属セクションの内部に留まらない。書類のコピーや、回覧文書の作成なども、いやがらずに手伝ってやる。こんなところが、男子社員の間に彼女の人気を高め、その情報網を支える一端になっている。
お茶を一杯淹れてもらったり、煙草を買ってきてもらったりして、礼に重要な情報を流す。高い煙草やお茶になるわけだが、男たちはそれを少しも高いとはおもわない。
男子に人気がある分だけ、女子に不人気になるのは、やむを得ない。恵理のおかげで、他の女子がみんな怠け者に見えてしまうのだ。
今朝も、課長が出社してくるなり、
「なんとなくオフィスが雑な感じだとおもったら、まだ矢沢君が出勤していないからか。彼女が遅刻するとは珍しいこともあるもんだね」と言ったものだから、他の女子課員の表情が険しくなった。
始業の九時を過ぎても恵理の姿は見えなかった。彼女の空白のデスクが、前歯が欠けたように目立つ。彼女に欠《やす》まれて、その存在の大きさが実感された。
九時半になった。課長も木原と同感だったとみえて、日高に、
「矢沢君からなにか連絡があったかね」
と問いかけた。
「ございません。あればご報告しております」
日高も気がかりの様子であった。
「だれか矢沢君から連絡をうけた者はいないかね」
課長の目がオフィスを一巡したが、返答はない。
「おかしいな。矢沢君が無断欠勤をするはずがない。なにか突発の事故でもあったのではないのか」
「自宅のほうに問い合わせてみましょうか」
「そうしてくれたまえ」
課長と日高の会話にそれとなく耳を欹《そばだ》てながら、木原は胸の中で不安が容積を広げるのを感じた。おそらくこの部屋の中で恵理に最後に会った人間は木原だろう。事故が起きたとすれば、木原と別れた後にあったにちがいない。
日高が恵理の家にダイヤルする気配がした。指が止まり、受話器を耳に押し当てている。コールベルが鳴っているのだが、応答しないようである。日高はあきらめて、課長のほうを向いた。
「留守のようです」
「矢沢君はマイカーで通勤していたね」
「そうです」
「途中で車が故障でもしたのだろう」
「たぶんそうでございましょう」
隅のデスクで二人の女子課員がささやき合った。
「私たちが遅刻してもあんなに心配してくれないわね、きっと」
「遅刻どころか、欠勤してもなんにも言わないんじゃないの」
「いなくってかえっていいぐらいにおもうわよ」
「いないことにすら気がつかないんじゃないかしら」
「ひどいわ」
「仕方ないわよ、実力のちがいだもの」
だが十時を過ぎても、恵理からはなにも言ってこなかった。
「ちょっと矢沢君の家に様子を見に行きましょうか」
日高が腰を浮かしかけた。これを口実に彼女のプライバシーを覗きたがっている。
「そうだな」
課長の目がためらった。一時間の消息不明で自宅まで様子を見に行くのが大袈裟すぎるとおもったようである。そのとき課長のデスクの電話が鳴った。
「なに、警察!」
応答した課長の言葉にオフィスの空気が張りつめた。一座の視線が集まる中で、課長の顔色がみるみる変わるのがわかった。
電話を切った課長が立ち上がった。
「何かありましたので」
問いかけた日高に、
「矢沢恵理君が亡くなった。昨夜車の運転を誤って、二天《にてん》の岩屋の崖から谷へ落ちたらしい。これからすぐに現場へ行く。そうだ、きみも来てくれ」
と口早に言った。木原は棒で撲られたようなショックを覚えた。恵理が死んだという。信じられなかった。まだ昨夜の狂おしい抱擁の感覚が生々しく木原の体に残っている。忙しなかっただけに、短い時間に効率よく貪り合った。情事の残り香と言うより、噛み跡がたがいの体に刻まれている。そのパートナーが死んだ。信じられないおもいであるが、警察が嘘を告げるはずはない。
「私もごいっしょしてよろしいでしょうか。この際人手は多いほうがいいとおもいます」
木原は、無意識のうちに立ち上がっていた。
事故現場は、市域内鳶尾山山岳道路で沿道に約三千本の桜の並木があるところから、通称「チェリーライン」と呼ばれる上部の「二天の岩屋」付近の谷であった。
このチェリーラインは、急傾斜の山腹のつづら折りのつづく道であり、市外や県外から来る馴れない車が、よく運転を誤って事故を起こす難路である。だが風景はパノラミックで、眼下に階段状に発達した浦島市街を見下ろし、浦島湾から内海にかけての大小の島をちりばめた広大な眺めを一望におさめることができる。桜の開花時には、花のトンネルがつづく。花吹雪と、連続するヘアピンカーブの都度入れ替わる山の林相美と、海のパノラマに見惚れている間に、ついハンドルが疎《おろそ》かになるために最も景観の極まれる地点には、「運転注意」の掲示《ノーテイス》が美観の障碍になるほど立てられていた。桜の季節にはまだ間があったが、風景の壮《おお》きさには変わりない。
二天の岩屋は、チェリーラインの最上部にあたり、第十六から二十二カーブにかけての平均曲線半径が十五メートルの急カーブが階段状に連なっている。最急勾配は一四・五パーセントの運転し難い道である。
二天の岩屋は、宮本武蔵が二天流の悟りを開いたという伝説のある安山岩の洞窟で、亀甲状の柱状断面が見られる。この二天の岩屋を構成する岩層は、山腹に垂直に露出して深い谷を抉《えぐ》っている。道路と谷底との最大高差は、約百メートルである。その底を鳶尾山の奥山から発した沢が白い泡をたてながら海に向かって急降下している。その流れは、淀を蓄え、山を映すほどの余裕もないほどに急である。
露岩の部分を除いて、杉、檜《ひのき》、赤松、などの樹種が山腹を埋めているので、谷は暗い。
恵理の車は、二天の岩屋の基部にあたる岩場から樹林帯へ移る境目の檜の大木の根本に引っかかった形で発見された。
発見者は、鳶尾山森林公園の森林パトロールであった。午前九時ごろ現場付近へさしかかったパトロールは、ガードレールが破損しているのを認めて、谷底をうかがったところ、転落している車を見つけたので、けもの道を伝って現場に下りた。もっと早く発見した者もいたかもしれないが、関わり合いになるのを恐れて届け出なかったのであろう。
車は転落のショックで大破し、車から約二十メートルほど上部の岩場に、転落途中車から放り出された模様の若い女性の死体が引っかかっていた。車検や運転免許証からその身許が判明したので、車の無線で警察を経由して勤め先に連絡したという次第である。
木原や課長らが現場に駆けつけたときは、すでに警察が臨場していた。現場と死体の見分をほぼ終えて、死体の収容にとりかかったところである。
「会社の方ですか。お気の毒です。おそらく昨夜から今朝にかけて落ちたのだとおもわれます。昨日はガードレールが壊れていなかったことが確かめられておりますので」
警部の階級章を付けた警察官が言った。「浦島」の社員と知って言葉遣いも丁寧である。
「この高さから落ちたのですからたまりません。遺体も、車から放り出されて岩場に何度もバウンドしたものですから大変傷んでおります。間もなく遺体が引き上げられますので、ご確認ねがいます」
「そんなにひどいのですか」
あれほど心配していたのに、課長が尻ごみをした。
「どなたかお一人でけっこうです」
「きみ、頼むよ」
課長は早速、検屍役≠木原に押しつけた。言われなくとも木原は、その役目を引きうけるつもりであった。恵理の死体を自らの目で確かめないかぎり彼女の死を信ずることはできない。たとえどんなにむごたらしく破壊されていようとも、その死を確認してやるのは、自分の義務のような気がした。
「ようし、引き上げろ」
谷底から合図があった。谷底にいる警官のかたわらにひしゃげている赤い車の残骸は、遠目ながら恵理のそれと同じ車種であった。
「遺体が上がってきます」
警部が言った。シュラーフ(寝袋)に詰められた死体がザイルに引かれて崖を徐々に引き上げられてきた。谷底にはまだ検屍や現場見分の警官が十人ほど残っている。崖の上部では警官と森林パトロール隊員が数人がかりで綱を引いている。シュラーフにはザイルで身体を吊った警官が一人付き添っている。死体をこれ以上傷つけないように慎重な引き方である。
シュラーフが近づくにつれて血の臭いが漂ってきた。
「それではおねがいします」
シュラーフが道路の待避帯に置かれたのを見届けた警部はうながした。
「よろしいですか」
谷底からシュラーフに付き添って上がって来た警官が、ファスナーに手をかけて聞いた。大きく息を吸って木原は、「どうぞ」と言った。
シュラーフのファスナーが下げられた。顔面は警部が言うほどむごたらしい損傷をうけていなかった。頭蓋が砕けているということだったが、傷は豊かな頭髪に隠されて目立たない。耳と口角からわずかに流れている血が、その深部に加えられた致命的ショックのほどを示している。むごたらしさよりも、哀れを覚えた。だが木原は感情を抑えなければならなかった。
「いかがですか」
警部が、木原の顔色を探った。課長も日高も木原に視線を集めた。
「まちがいありません。矢沢恵理さんです」
「やっぱり」
課長と日高がうめいた。
「ご遺族に連絡を取りたいのですが、自宅に電話しても、だれも出ないのです。お身内かご親戚の方に会社から連絡をしていただけませんか」
警部は、事務的に言った。谷底から人が上がって来る気配である。車の引き上げは、後になるらしい。
「矢沢さんはなぜ、こんな場所から落ちたのでしょうか」
木原は警部に質ねた。
「運転を誤ったのでしょう。ここはかなりベテランのドライバーでも緊張するところですからね。事故も多発しています。ガードレール破り≠ニいう別名もあるほどです。現に四、五日前にトラックが転落して車体がまだそのままになっています」
警部は、運転ミスと信じて疑っていない様子である。
「この高さから落ちてよく燃えなかったものだな」
木原は、どうも胸に淀むものがあった。
「転落しても必ずしも炎上するとはかぎりませんよ。映画やテレビとはちがいます」
たしかに崖から車を落として、盛大に爆発させるシーンは、アクション映画のお家芸である。崖から車が落ちれば燃えるものという先入観があったかもしれない。
だが木原は、なぜ彼女がこんな場所に来たのか不思議であった。
恵理は、昨夜すなわち三月五日午後九時ごろモーテルで木原と別れてからもう一つの約束がある様子であった。深く詮索しなかったが、彼女はその約束への往復いずれかの途上で崖から落ちたのであろう。ガードレールの破損状況から判断して、下降の途中、加速度がつき、急カーブで蓄積された遠心力を支え切れず、ガードレールの外へ飛び出したといった状況である。
チェリーラインを下る途中であったとすれば、恵理は「もう一つの約束」を果たして帰途にあったのであろう。
もし約束の対象が彼女の黒幕のスポンサーであれば、彼女は一晩に前後して二人の男の相手をつとめたことになる。その疲労が現われて、運転を誤らせたのか。
そこまで思案を進めた木原は、はっとなった。木原の胸に淀むものは、恵理の死因に、事故以外の要素を探しているところから発していることに気づいたのである。
事故以外の死因とは何か? 恵理はだれかに事故を装って殺されたのではないのか。だれが何のために? だがそうだと仮定すれば、最も初めに疑われるのは、木原である。警察はまだ犯罪を疑っていないようであるが、もし疑惑を抱けば、必ず木原を第一容疑者としてマークするにちがいない。
木原が恵理に会った最後の男であることはモーテルを調べられたら、わかってしまうかもしれない。恵理の背後に存在を感じさせる男は、これまで一片の手がかりもつかませていない。それに反してその男は、恵理から木原の存在を聞いている可能性がある。
たとえ恵理が背後の男に木原の存在を秘匿していたとしても、彼女との関係が表沙汰になった場合の木原の不利は覆いようもない。木原は恵理の背後の男が一方的に木原を視野においているような不安を拭えなかった。そうだとすれば、盲人と目あきの戦いである。彼が一言警察に木原と恵理の関係をタレこむだけで、木原はたちまち強い嫌疑を据えられるだろう。
いまは、彼女の死因に釈然としないものを感じても黙っていたほうがよい。下手に騒ぎ立てれば、せっかく事故として片づけようとしている警察を刺戟していらざる疑惑を招くおそれがある。
束の間にそれだけの判断をした木原は、しきりに異状を訴えて醗酵している思案を、胸の内に閉じこめた。
結局矢沢恵理の死は、事故死として処理された。恵理の葬儀は、彼女の自宅で身寄りの者だけを集めてしめやかに行なわれた。死体は、犯罪の疑いなしとして、そのまま遺族に引き渡され、遺体加工技士によって損傷を親しい人との告別に耐えられる程度に縫合されて納棺された。
身寄りの者と言っても年老いた母親と、数人の親戚らしい人たちだけである。木原は、同じ課の同僚ということで会葬したが、恵理の別れた夫らしい人物や、背後のスポンサーをおもわせるような男は、ついに現われなかった。
会葬者の顔ぶれから、恵理の寂しげな身上が推測された。遺体加工技士の卓抜な技術によって、恵理の顔は生きているように見えた。
汚れは落とされ、損傷は修理され、腐敗止めの薬液を注射され、顔に薄化粧を施され、香水を振り撒かれた遺体は、その美点を人工的に強調され、むしろ生きているときよりも艶やかに見えた。
軽く閉じられた陰翳の濃い目元は、いまにも開かれそうであり、紅をさされた形のよい唇は、接吻すれば甘く柔らかく答えそうであり、ふっくらした頬には赤みがさして、笑みを含んでいるように見える。
生きていたときのままの表情が美しく強調され、固定されて、告別する者に向けられていた。
木原は彼女に最後に対面したとき、涙を抑えるのに苦労した。あまりに過剰な悲嘆を見せることは危険であると自戒しながらも、心身の深いところから噴き出てくる悲しみをどうすることもできない。恵理に死なれて、彼女が占めていたスペースの大きさがわかった。「おとなの恋」のつもりがいつの間にか深く根を下ろし、かけ替えのない愛として着床していたのである。
彼女の異常な美しさが、会葬者の悲しみを誘ったらしく、木原の深刻な悲傷はだれにも悟られなかったようである。
おもえば恵理は、木原に性の甘美な味を教えてくれた教師であり、百合との疑似結婚を支えてくれた真のパートナーであり、女の謎を呈示したまま、ついにその解答をあたえずに逝《い》ってしまった「永遠の女性」であった。彼女の急逝によって、それは「永遠」となってしまったのである。
また木原は、最も有力な応援団長を失ったことにもなる。彼女の嗅覚が会社の危機を嗅ぎ取り、これからその応援が最も必要な時期に忽然《こつぜん》と去ってしまったのである。
恵理の死化粧を施された顔は、木原になにかを訴えたげであった。二人の間だけの秘密があり、二人にだけわかる会話がある。その秘密も会話も死によって一方的に凍結されてしまった。
(恵理、何を言いたいのだ?)
遺体に問いかけることすらできないのが、もどかしい。
(恵理は、自分の生命を突然奪った本当の原因をおれに告げようとしているのだ)
恵理に最後の別れを告げながら、木原は、異常醗酵をつづけた疑惑が凝固してくるのを感じた。「本当の原因」とは、何か? 木原は恵理の背後に蠢《うごめ》く禍々《まがまが》しい黒い影をはっきりと見ていた。恵理は殺されたにちがいない。――木原は確信した。
恵理を殺した者は、だれか?
なぜ、殺したのか?
恵理が殺されたと仮定してとりあえず立ちはだかるのは、この二つの問題である。
恵理はモーテルで別れ際《ぎわ》に「二、三日じゅうに合併の動かぬ証拠をつかんでみせる」と言っていた。合併は事前に反対派に悟られると潰《つぶ》される恐れがある。彼女に嗅ぎつけられたことを悟った合併派が、逸速《いちはや》くその口を塞《ふさ》いだのか。だが彼女がそれを口外していないという保証はないし、現に木原に話している。それを確かめずに殺してしまうというのも気が早過ぎるようである。それに保身と功利第一のサラリーマンが、果たして派閥に対するロイヤリティのために殺人を犯すであろうか。
次に考えられるのは、正体不明の男である。彼は、恵理の存在が邪魔になってきた。彼女にいられては、地位もしくは家庭が脅かされる。そこで抹殺したか?
しかし、彼女は一方では木原と「おとなの愛」を楽しんでいた。男に対して彼女が強くなれるのは、彼女自身がクリーンな場合である。一方で木原と浮気(その男の目から見れば)をしながら男を脅かしても、男にとって少しも脅威にはなるまい。
木原の存在を秘匿して男を脅迫したということも考えられる。だが木原が男の存在を感じ取ったように、その男も木原の正体は知らぬながらも、自分以外の男がいる気配を感づいたにちがいない。男の気配は、どんなに巧妙に隠してもライバルには悟られるものである。
その男がだれか確かめようともせずに、べつの男の気配を感じながら、女を消すような危険を冒すだろうか。あるいはすでに木原の存在も正体も確かめたうえで、彼に罪を転嫁させようとして恵理を殺したのか。
そうだとすれば、木原は非常に危険な崖縁に臨んでいることになる。幻のライバルは、獲物を十分に引き寄せておいて引金を引く前の余裕を楽しんでいるのだ。
だが幻のライバルを犯人に据えるための反対要素がある。それは、木原が恵理の情報源として男の存在を詮索したとき、彼女が「いまは木原だけだ」と明言して、「金の卵のモトを探ろうとして鳥を殺すようなことをしてはいけない」と戒め、「その鳥は木原の味方だ」と示唆したことである。
味方であれば、木原を陥れるようなことはするまい。それとも恵理が嘘をついたのか。あるいは彼女の男に対する認識に錯覚があったのであろうか。
第三は通り魔の可能性である。だが通り魔が、マイカーで通行中の女性を襲って事故死を擬装させるというのも、通り魔らしからぬ手口である。通り魔が通行の跡絶《とだ》えた山中に待ち伏せていたという設定にも無理があるようである。
このように考えてくると、第二の仮説が最も有力になってくる。だが犯人が幻のライバルとなると、下手に動けない。敵はこちらの動きをすべて視野におさめて、獲物を睨んでいるのである。
恵理が殺されたとすれば、犯行はどのように演じられたのであろうか。生きている彼女を車に押しこめたまま、崖から突き落とすのは難しい。彼女が突き落とされるまで車の中でおとなしく待っているはずがない。
車が崖から落ちるとき、恵理はすでに死んでいたか、あるいは避難できないような状態になっていたのかもしれない。彼女と車がべつべつに突き落とされた可能性も考えられる。発見されたとき、死体は車から二十メートルほど離れた岩場に引っかかっていた。そのことから転落時に彼女が車体から放り出されたと推測されたのであるが、これは初めから人間と車が、別個に落とされた状況と見てもさしつかえないのである。
落ちたとき、すでに死んでいれば、死体に生活反応が現われないから、解剖すれば見分けられる。だが死んだ直後であれば、死体にも生活反応が現われることがある。犯人にしてみれば、完全に息の根を止める必要はない。車から逃げ出せない程度に行動能力を奪えば、それで十分目的を達せられる。睡眠薬を服《の》ませてもよいが、これも解剖によって証明される。
死体に崖から転落前に加えられた傷があったとしても、転落途中に追加された複雑なショックと創傷にまぎれて見分けがつき難くなったであろう。警察側に初めから運転ミスによる事故という先入観が働いていれば、死体見分においても犯罪性を疑っていないから、死体に残っていたかもしれない多少の矛盾点も見過ごされたであろう。
警察の判断を事故へ誘導するために、事故多発地帯から突き落とした。――とにかく死体を事故ということで片づけさせてしまえば、後になって多少の不審な状況が現われても、犯罪性の有無は曖昧になってしまう。だが彼女の死後、だれもその死因に疑問をはさんだ者はいなかった。
それにしても恵理は何をしに二天の岩屋の近くに行ったのだろう。二天の岩屋の上部でチェリーラインは鳶尾山の稜線へ出て、起伏に富んだ尾根道となる。その先へさらに行くと、「富士見平」という避暑地があり、カラマツ林の中に、洒落たホテルや別荘が下界から隔絶された集落をつくっている。恵理の「約束の人間」は、ここにいたのであろうか。チェリーラインを伝って富士見平まで、車で約四十分から一時間の距離である。
いずれにしても恵理はなにかの秘密をかかえたまま死んでしまった。彼女の死に顔はその秘密を木原に訴えたがっていたようであった。秘密をそのまま伏せておくのが死者に対する礼儀になる場合もある。だが死因に犯罪性があり、死者がそれを訴えたがっているのに、気がつかなければ、彼女は浮かばれないであろう。犯人を明らかにすることは、この際木原の自衛にもつながるのである。
最大の証拠たる恵理の死体は、荼毘《だぴ》に付されてしまったが、もう一つ少なからぬ資料が残されている。それは彼女の車の残骸である。百メートルの谷底に落ちているために引き揚げにかなりの費用がかかる。金をかけて引き揚げたところでなんの価値もない。遺族にとっては新たな悲しみを引き出すよすがとしかならないだろう。
引揚げ料は遺族の負担になるが、いずれにしても一日延ばしにされる。だがそこに犯罪の証拠が残っているかもしれない。残骸は遅かれ早かれ始末されるものである。犯人がその危険性に気がついて、証拠を隠滅する恐れもある。
木原は、恵理の葬儀が終わって一週間してから、現場の谷底へ自ら調べに行ってみるつもりであった。もっと早く行きたかったが、直後だと世間の関心が冷めていない。現場をうろついている姿をだれかに見咎《とが》められて、疑いを招く危険が大きい。
木原は焦燥しながらも一週間の冷却期間をおいて、ちょうど恵理の初七日の深夜、現場へ来た。現場の谷底へ下りるには、けもの道を伝うか、かなり下方から沢へ下りて、そこから沢伝いに上らなければならない。空は重苦しい雲に覆われ、暗い夜となった。だが、人目を憚《はばか》る個人調査≠ノはもってこいの夜であった。
けもの道はわからないので、自動車道から谷へ下り、沢伝いの道を足元を濡らしながら三十分ほど登ると、現場へ出た。見上げると、車道は、二天の岩屋を構成する断崖の中腹を、巨大な蛇のように這っている。ガードレールは修復されていたが、転落個所から現場まで、草が折れ、灌木が倒れ、表土がかきむしられて、夜目にもはっきりと痕跡がつけられている。
残骸は落ちたときのままの形で檜の大木の根本にひしゃげていた。暗黒の中に車体を彩った赤い色は消えて、一塊の鉄屑となって、その場に同化したかのようにうずくまっている。そのスクラップからは、もはやかつてのファッショナブルなデザインや高性能のマシンを想像することはできない。
歩みを止めると、山気が鼓膜を圧迫した。水音と共に、自分の心臓の鼓動が耳に迫る。少し離れた所に恵理の車より数日前に落ちたトラックの残骸があり、積荷らしいボトルが散乱している。ボトルの中身はウイスキーらしく、まだ濃厚な酒精分の香が夜気に残っている。木原は、一息つく間もなく、ライトを残骸に当てて観察を始めた。すでに一度は、警察の目を経ているはずであるが、彼らは、事故の犯罪性を疑っていない。こちらは最初から疑惑の目で見ている。そこにプロと素人のハンディキャップが相殺されるかもしれない。
車は完全に大破していた。百メートルの崖をバウンドしながら転落したために、八方からのショックをうけて、複雑に変形破壊されていた。運転台のドアは破断分離して、消失している。崖の途中のどこかにあるのであろうが、その行方を探しても仕方がない。だが消失したドアは、死体が車外へ放り出された状況を裏書きする。これでは安全ベルトで固定でもしなければ、運転者は車内に留まれなかったであろう。安全ベルトは後部に畳み込まれて使用されていなかった。
車内も圧壊されて、ステアリング、計器盤、シート、グラブボックス、ベンチレーター、インナーミラー等、原形を留めているものはなかった。メーター類はすべて破損していた。変形したグラブボックスの内部は警察が検索したとみえてなにも入っていない。
恵理は、早い時期に車外へ放り出されたのか、運転台のシートには血痕は認められないようである。だがルミノール検査でも実施すれば反応が出るかもしれない。警察はそんな検査は、やっていないだろう。
運転台を中心に全般にわたって注意深く調べたが、べつに怪しい点はなかった。結局、自分の勇み足であったか。警察の見立てどおり、単純な運転ミスだったのか。徒労感が深まると、急に寒さが身に沁《し》みた。まだ春は浅く、山の深夜は凍《い》てつくように冷える。登って来るとき沢道で濡らした足が痛い。下手をすると凍傷になりかねない。木原は胴震いをした。自分の独り相撲とわかってみると、急に張りつめていた気が抜けた。
結局、恵理に対する未練が彼女の突然の死を信じたくなかっただけである。そうとわかれば、長居は無用である。妻の待っている暖かいベッドが恋しくなった。女の役目は果たせないが、湯タンポ代わりにはなる。
踵《きびす》をめぐらして沢道を下りかけたとき、足元が軟土に滑って重心を失った。盛大な尻もちをついたが、受身体に地面に支えた片手に土とは異なる感触があった。ライトを向けてみると、なにかを燃やした跡らしい。手に付着したものを見ると、土のような色をしているが、明らかになにかを燃やした灰であった。
――こんな所で、いったい、だれが、何を燃やしたのか?
疑惑が頭を擡《もた》げた。それは焚火の跡ではない。もっと小さなもの、そう、紙を燃やしたような跡であった。それほど古い跡ではない。土にまぎれるような小さな痕跡であるから、それほど古いはずはない。谷底の湿っぽい凹地であったので、風にも飛ばされずに残っていたのであろう。木原もそこに転倒しなければ気がつかなかったにちがいない。
この燃やし跡が、車の転落の後につくられたとしたらどうか? だれかが事故の後この場へ来てなにかを燃やした。なぜそんなことをしたのか?
木原は、寒さも忘れて、その場に坐り込んだまま、思考を追いつづけた。
そのだれかとは、転落事故になにかのつながりがある者で、事故発生後、現場へ来て本人にとって都合の悪いものを燃やしたのではあるまいか。
都合の悪いもの――すなわち事故の犯罪性を示すものだ。やはりこの事故には裏があったのだ。木原の思量の針がまた疑惑のほうへ傾いている。彼はハンケチを取り出すと、その灰をできるだけ崩さないように保存した。
木原は、燃やし跡から、連想したことがあった。ふたたび残骸のそばへ戻った彼は、さらに慎重な観察をした。そして燃料タンクとその周辺にわずかに焦げた跡を認めたのである。
車は、火を発したのだ。だが炎上爆発するには至らなかった。なぜか。それはすでに燃料が切れていた状況を示すものである。恵理は燃料切れの車をどのように操ってこの山中まで来たのか。燃料が底をつくと同時に転落したのか。
切れていた状況を示すものである。恵理は燃料切れの車をどのように操ってこの山中まで来たのか。燃料が底をつくと同時に転落したのか。
犯人がいたとすれば,車を炎上させたほうが都合がよかったのではあるまいか。そうすれば、車といっしょに証拠資料も灰となってしまう。わざわざ後になって危険を冒して現場へ舞い戻り、資料の隠滅をはかる必要もなくなる。
犯人としては、できれば車ごと燃やしてしまいたかった。それなのになぜ燃やさなかったのか? 一抹の燃えかすから新たな謎がいくつも呈示されてきた。
ともあれ木原は所期の目的を達したとおもった。これは警察が見立てたような単純な運転ミスではない。この事件には裏がある。恵理に生きていられては都合の悪い人物が、事故を擬装して彼女を抹殺したのだ。木原は確信を深めて帰って来た。
金権代理戦争
矢沢恵理の死は、束の間社内で取り沙汰されたが、速やかに忘れ去られていった。彼女がいなくなっても、会社はまったく影響をうけない。精々、美しい職場の花が一輪失われた程度であるが、花は早晩枯萎する運命にあり、若く新鮮な替え花がいくらでもあった。
「惜しい女を死なせたね」
「あの若さと美しさをもったいない」
などと男子社員の口の端で愛惜されても、彼女の肉体の味奥《みおう》やその価値を知っていて言うのではない。生きているうちにその魅力のお裾分けに与《あずか》りたかったという好色で意地の汚ない愛惜には、悲しみが伴わない。
木原は、彼らのむしろ死者を侮辱するような悔やみ言に、腹立たしさを覚えたが、それを表に現わすことはできなかった。
そのうちに会社は、恵理どころではなくなった。恵理の死んだ後あたりからくすぶり始めた合併問題がにわかに表面化し、具体化してきたのである。重役の動きが慌ただしくなり、重役会議が連日開かれた。合併推進派、反対派の勢力は伯仲した。両派は一歩も譲らず、会議の行方は予断を許さなかった。
推進派の原動力は、国武銀行に尻押しされた菱井、古川の副銀行団である。これに滔々《とうとう》たる業界再編成の時流がある。
「日本経済強化のために」「規模を拡大して国際競争力に耐える体質づくり」という大義名分は、業界の抵抗を許さない。反対派の中心勢力は、メインバンクたる安立銀行である。つまり浦島重工に場所を借りた銀行間の戦争であると言っても過言ではない。
合併に対して公正取引委員会の判断がどう出るかも注目される。独禁法(私的独占の禁止および公正取引の確保に関する法律)第十五条第一項は、その第一号に規定する「当該合併によって一定の取引分野における競争を実質的に制限することとなる場合」合併を禁止している。
両社が合併するとなると、規模が大きいだけでなく製品構成が多種多様にわたって独禁法上の判断がきわめて難しくなる。両社の製品を対照してみると、主力製品の一部である鉄構製品中、橋梁、超高煙突、また非主力製品の一部である各種空調機械や冷凍機応用製品が引っかかるおそれがある。
だが違反製品はごく一部であり、これをもって全体の合併を否定することはあるまいとおおかたは見ていた。
会社の慌ただしい雲行きに社員は不安の色を隠せなかった。サラリーマンで合併を喜ぶ者はいない。サラリーマンは本質的に保守である。進取革新を気取る者は、おおむね会社から冷や飯を食わされている社員である。彼が居心地よいポストへおさまれば,とたんに保守へ鞍替えしてしまう。
合併は、その態様が対等、吸収、被吸収のいずれであっても、それによって確実に会社に変化が起きる。せっかくの居心地よいポストにぬくぬくとおさまっているのに、変化などとんでもないことである。
また、日頃変化を望んでいる冷や飯組も、合併によって、放り出されてしまう危機に晒《さら》される。これまでの冷や飯すら食えなくなるおそれがあるのだ。だいたい冷遇されている連中は会社からあまり要求されていない。
合併のメリットの一つは重複部署の整理統合である。冷や飯組などは、真っ先に整理されそうである。
「実力のある人間は、合併に関係なく成長する」「これまで会社に認められなかった能力を合併をきっかけに発揮できる」などと強がっていても、虚勢を張る者ほど不安で仕事が手につかなかった。
合併の討議は、一進一退の模様であった。肝腎なときに恵理という情報アンテナを失ってしまったので、木原はその後の形勢がさっぱりつかめない。
時折、百合と共に岩本邸に行って、岩本にそれとなく探りを入れるのだが、岩本自身にも予測がつかないらしい。ただ彼の面に塗られた憂色から見て、どうも雲行きがおもわしくないようである。
反対派の頼みの綱である安立銀行が、意外に煮えきらない態度をとっていることが、反対派を混乱させているらしい。安立銀行はいちおう反対の意見を表明しているのであるが、その姿勢に断乎たるものがないのである。安立の弱腰に、推進派はつけこんで、ますますその勢いを盛んにしている。
「あなた、苦しいでしょう」
ベッドに寄り添って眠ろうと努めていると、百合が声をかけた。木原は「苦しい」という言葉の意味を釈《と》り損ねた。
「ごめんなさいね」
百合が追加した言葉には無量の意味がこめられていた。夫婦でありながら、体の結び合いを達することがない。すでに人間の凝脂の脱けた老人ならばとにかく、男女の盛りにありながら、夫婦の最大のハイライトである性《セツクス》の恵沢に与ることができない。性生活を中心に据えないというのではなく、初めからそれを欠いている夫婦は奇型である。これまではその奇型を恵理の存在が補ってくれていた。奇型は是正されないながらも、そこから生ずる性的飢餓は癒やされていた。その意味でいちおうの手当てを施されていたのである。
だが、恵理が死んで、奇型は、その異常な形を露出した。恵理の代替はすぐには見つからない。定期的な性交渉を断たれた若い男の健康な体は、たちまち深刻な禁断現象≠呈した。
百合はそれを悟っていないと見ていた。奇型は、あくまでも木原にとってのみ実害があり、百合は「知らぬが仏」の新妻の座に、人形のように坐っているとおもっていた。
「あやまることはないよ」
木原は、妻の体を優しく撫でた。女の身体の中心以外は、ほぼ完璧《かんぺき》に近い造形を成している。造化の神のいたずらと言うか、手ぬかりと呼ぶべきか、性の禁断現象に悩む夫にとっては残酷な女体の模型≠ェそこにあった。
百合に詫びられたところで、どうなるものでもない。
「こんな体で、あなたと結婚すべきではなかったんだわ」
「いまさらそんなことを言っても、どうにもならないよ」
「私、よく知らなかったのよ。夫婦というものが、どのように結ばれるのか。知っていれば、結婚しなかったわ」
百合の声は震えた。涙を抑えているらしい。
「いつ知ったのだ?」
「つい最近よ。お友達からそれとなく結婚生活のことを聞かれたり、本を読んだりしているうちに疑いをもって、専門の本を買って勉強したの。私の体は、女ではないのね」
「…………」
「もう少し早く知っていれば……父も母も曖昧な説明しかしてくれなかったわ。あなたすらはっきりとは教えてくれなかった。結婚するということは、心の結び合いだとおもっていたのよ」
「心が結ばれていればいいじゃないか。きみの言うとおり、きみと心が結ばれたと信じたから結婚したんだ」
百合に野心と結婚を取引したことを打ち明けたところで、徒《いたず》らに彼女を悲しませるだけである。
「でも、男の人って辛いんでしょ」
「そりゃあ辛いけど、がまんできない辛さではない」
代替の女性によって癒《い》やされる辛さであることは打ち明けられない。
「私、このごろ自信がなくなってきたわ」
百合の声が心細げにかすれた。
「何の自信だ」
「これから先あなたといっしょに歩んでいく自信よ。年頃から、なんとなく私の体が他の人とちがうようなおぼろげな認識はもっていたの。でも私の愛によって、克服できるとおもっていた。愛が結婚のパスポートだと信じていたのよ。このごろのあなたの苦しげな様子を見ていると、愛だけでは、どうにもならないものがあることがわかってきたの」
「きみはそんなことを考える必要はない」
「どうして? 私はあなたの妻なのよ。たとえ形だけの妻であっても、妻であることに変わりはないわ。ねえ、教えて。父はもしかしてあなたに圧力を加えて、私を押しつけたんじゃないの」
「馬鹿な。ぼくは圧力をうけて、妻をもらったりなんかしない」
たしかに圧力≠ヘあったが、それを取引に変えたのは、自分の意志である。
「でもあなたは私の体のこと、知ってらしたんでしょう。知っていたから、初めから私を人形≠ニして扱ったんだわ」
「ぼくも愛で克服できるとおもったんだ。そしていまでも克服できると信じている」
「本当?」
「本当だよ」
「その愛に少しでも疑惑が生じたら別れてもいいわ。私、あなたの可能性に蓋《ふた》をしたくないの」
百合の言う「可能性」の意味は異なっていた。木原は、自分の可能性を促すバネとして彼女と結婚したのである。合併問題によって岩本の位置がにわかに動揺を始めたが、権力闘争の帰趨《きすう》を見届けるまでは、百合は手放せない。
「きみは、ぼくと別れたいのか」
「とんでもないわ。あなたのいない私の生活なんて死んだも同然だわ」
「それじゃあどうして別れてもいいなんて言うんだ」
「私のエゴからあなたを縛りたくないからよ。あなたと別れるということは、自殺をするようなものだわ。自殺をしてもいいほど、あなたを愛しているのよ」
「きみにそんな悲しいおもいはさせない。大丈夫だよ。性だけが夫婦のすべてじゃない。時間はかかるけど、ぼくたちの愛がすべてを克服するよ」
話しているうちに愛《いとお》しさが増してきた。百合は女としては人形であるが、妻としては決して模型ではない。性生活が夫婦のすべてでなければ、性以外の分野で夫婦としての交流があり得る。性生活を欠いている分だけ、それ以外の交流が増幅される。性の欠陥を宿命としてうけ入れ、増幅された交流分によって夫婦生活を支えられるのではあるまいか。
暖かくふくよかな百合の体を妹のように抱きながら、木原は自分の壮大な野心がささやかなマイホームの平安と対置されて、同一レベルで拮抗しているのを感じた。恵理を失って、いまは百合しかいない。他の女を手当てしても、決して恵理のように補ってはくれないだろう。また百合は、父親のバックを失っても、木原の中に抜き難い比重を増している。その比重は、木原の計算にはないことであった。
本来、恵理との仲は、百合の欠陥を補うところからスタートしていた。だが、恵理を失ったことによって両者の価値が、それぞれ独立していた事実に気がついたのである。そしてその事実に木原は狼狽していた。
「なぜ安立銀行が、及び腰か、わかるかね」
岩本が、日曜日、百合を伴って訪れて来た木原に問いかけた。ここのところ妻の実家《さと》の訪問が頻繁になっている。本命目的は言うまでもなく合併問題の行方の偵察にある。もともと合併の第一情報は、恵理の情報網を介して木原が注進したものである。彼にはその帰趨を知る権利があるというものである。
岩本の面は、連日の心労で、憔悴《しようすい》を隠せない。
「さあ、ちょっとわかりかねますが」
「私にもようやく最近、安立銀行の内部事情がわかってきたのだ。安立め、安中《あんなか》商事に肩入れしすぎて、意外に深傷《ふかで》を負っていたのだよ」
「安中商事と申しますと、先ごろユダヤ系の米石油資本との提携事業に失敗して、事実上、解体されたあの安中……でございますか」
妻とその母親は、男同士の話の席から遠慮している。
「そうだ。その安中商事だよ。総合商社化の拡大路線を焦った安中は、メキシコの石油精製事業に手を出して破綻《はたん》した。幸いに最悪の事態は銀行団のテコ入れで避けられたものの、同社のメインバンクの安立は深い痛手をうけていたのだ。安立銀行の安中商事に対する貸付金のうち、約一千二百三十億円が回収不能の貸倒金となった。これまでの企業倒産劇においては、銀行はその会社を見限るや否や担保を押え、債権の保全に躍起となって瀕死の病人の足を引っ張るようなまねをしてきた。死んだら死んだで、死者の枕元で激しい形見の奪い合いを演ずる。安立どころか『孤立』か『安死』だと言われるくらいにガメツイ安立が、日本の銀行史上初めてという香典≠供えた。当然この損失はなにかで埋め合わせなければならない。これを安立銀行は、関連グループの持株を売ったり、積み立てた貸倒引当金を取り崩したりして手当てをしたが、それでも埋めきれないで、申告所得は約五百億円の赤字を計上した。これに安中商事の清算会社に対する融資が千八百億円ほどある。これだけの資金が長期間凍結され、清算しきれない場合はそのまま損失となってしまう。いかに日本一の高収益を誇る安立といえども、これだけの出血をしては、貧血でよろめかざるを得ない。申告所得が赤字であると、これまで納めた法人税が還付される。そのおかげで税引後利益約九十億円を計上し、一〇パーセントの利益配当を維持して、経理上辛うじて危機を糊塗したが、勝手元は火の車なのだ」
「安立銀行が、安中商事のメインだということは知っていましたが、そんな深傷を負っていたのですか」
「実情はそうなのだ。安中は安立の命取りになりかねなかった。昭和恐慌の二の舞いを恐れた大蔵省や日銀が、他の銀行団に直接協力を要請したので、貸倒金の負担が分散されて危うく命脈を保ったという切迫した状況だった。そこへもってきて、ドルショックで最大の被害にあった造船業は、二千五百七十億円もの為替差損をうけて政府に救済を求める騒ぎになったことは、きみも知っているだろう。この危機を輸出船の受注増でどうにか切り抜けたとおもったら、石油危機によるダブルパンチだ。多数の同業が相次いで倒産して、次はどこかというのが業界の最大の関心事になったくらいだ。どうにか倒産を免れた社も、人員削減や減量経営で青息吐息だし、銀行にテコ入れされて辛うじて息をつないだ者も多い。我が社も決してその例外ではない。長期不況の中のどん底状態を希望退職の募集、一時帰休、労働条件の切り下げなどでしのいでいる。構造不況業種の最たるものであった造船業は、メインバンクのメリットがマイナスに逆転して、銀行の利益を圧迫するようになった。つまり、我が社は、いまや安立にとってぜひともメインの位置を維持しなければならないほどの妙味を失ってしまったのだ」
「そこを国武につけ込まれたのですね」
「そうだ。国武側には企業のワンセット化という狙いがある。足並みを揃えている副銀行団にしても、安立をメインの位置から引きずり下ろしてやりたいというところから一時的に連合しているのだろう。ともかく銀行屋はいずれも一筋繩ではいかない連中ばかりだ。会社の医者にもなれば、引導を渡す坊主にもなる」
「死刑の執行人になることもありますよ」
「そのとおりだよ。だが私もむざむざと会社を彼らのキャッチボールにはさせないぞ。彼らは会社の血液を管理しているつもりかもしらんが、われわれは会社の内臓を握っておるのだ。手持ちの血液もないことはない。血液型が合わなければ、新しい血も役には立たんのだ」
「それで情勢はいかがですか」
「まったく予断を許さない。以前ほどのメリットは失われたとは言うものの、メインバンクのプラスイメージは大きい。浦島のメインの座から下りたことによるマイナスのイメージは拭い難いだろう。信用を根幹とするイメージ産業だけに、それを損なうおそれのあるものは、極力避けなければならない。安立の曖昧な姿勢は、ここから発しているのだろう。安立の首脳部も、方針が定まっていないと見てよい」
「それでは安立の態度いかんによるわけですね」
「安立がキャスティングボートを握っていることは確かだが、運輸省や公取委の態度も無視できない要素ではある」
「運輸省は、どんな態度なのですか」
「どちらかというと反対だね。これまで日進月歩の技術の革新に備えて業界再編成を進めてきた同省だが、これ以上の大型合併は、国民経済上マイナスが多いとして最近にわかに難色を見せてきたのだ」
「それはわれわれにとって心強い味方ですね」
「いまのところはね」
「とおっしゃいますと」
「政治家の最大の資金源は銀行筋だ。金権政治を支える金脈だよ。銀行と政治権力は結託しやすいからね。銀行資本の意志が政治を動かすことがある」
自民党にかぎらず、右翼団体から野党の一部にまで、銀行からの貸出金や献金が行きわたっている。銀行の力はクロをシロに変えることもある。
岩本の言葉の含みは大きかった。
姨捨《うばすて》住宅
合併推進派の旗色が良くなってくるにつれて、社員や工員の動揺も激しくなった。彼らは寄るとさわると、合併のことを話題にした。
「合併と言っても、二つの会社が一つのビルに入るわけではない。命令系統が一本にまとめられるだけだから、人事の機構はこれまでとあまり変わりないんじゃないのか」
と楽観的な観測をする者がある一方では、
「命令系統の一本化ということは、当然組織の一本化を図るということだ。同じ部課が二本立てで併存することはまずあり得ないね」
と悲観論が打ち出される。
「一つの会社に統合されても、国武とは会社の立地条件が異なるから、組織はそのまま残して人事の交流を図るということになるだろう」
「人事の交流と言えば、聞こえはよいが、進駐軍≠ェ来るんじゃないのか」
「我が社が吸収されるとは決まっていないぞ」
「本社の中央集権制の下に、共和国のような自主独立が認められるんじゃないのかな」
「それにしても中央政府から進駐軍がやって来るのに変わりはあるまい」
「共和国にあって進駐軍を迎えるのならまだいいが、先方へ出向させられるのは辛いぞ」
「参勤交代と言うわけか」
「いや人質だよ」
「どちらにしても、主流にはなれないね」
「どうせ傍流にしても、いまさら他国≠ヨ出されたくないね」
「悠長なことを言ってるね。生き残れるかどうかもわからんのだよ。どんなに社員に寛大な合併でも、同じ数の椅子が残ることは絶対にない。浦島には六十二課ある。このうち、三十課ぐらいは国武ともろに重なる。生き残れたとしても、われわれにとって課長、係長への距離は二倍になると見なければなるまい」
「そうとは限るまい。合併推進派の大石社長や三副社長の下につけば、われわれにもチャンスはある。それにこれまでなかった分野を合併によって新たに手がけるようになれば、ポストも増える」
「合併と決まれば、岩本副社長派は真っ先に刈り取られるだろうね」
「もともと反岩本派の仕組んだ合併劇だという噂もあるくらいだ」
「木原君なんか一番の殉死組だな」
「彼は可哀想だ。ようやく社員になれて、岩本副社長の女婿になったところでおもいもかけない合併だからな」
「大物の娘なんかと結婚するもんじゃないね」
「大丈夫だ。われわれにはそんなチャンスはない」
「嘘《うそ》言え! きみも岩本パーティにだいぶ色目を使っていたじゃないか」
「おたがいに入会していなくてよかったな」
「岩本パーティの会員にも一つだけ、合併のプラス点がある」
「何だ、それは」
「心おきなく離婚できるということさ」
社員たちは臆測をたくましくした。現金なもので、岩本パーティの出席者が目に見えて減り、代わって、大石道明の主宰する「研究会」が盛会になってきた。また大石や三副社長に結婚の仲人になって欲しいという申し込みが急に増えてきた。このあたり、サラリーマンの敏感な保身本能が鮮やかに織り出されていた。
労働組合の反応もまちまちであった。浦島の労組は、社員と工員単位に分かれており、工員はさらに、AB単位に分かれる。社員労組はおおむね合併を喜んでいないのに対して、工員労組は歓迎している模様である。特にB工員労組は積極的である。B工員は一代限りであり、合併によってその身分の変更、または延長が期待できるからである。本社機構と異なり、生産部門のブルーカラーは合併によって重複しない。仮に重複したところで、つぶしが効く。
工員子弟出身の木原は、合併という予測せざる事態の発生によって、自分の母体である工員層と相反するという矛盾に逢着したのであった。
矢沢恵理の死は、浦島の社史上、未曾有の大事件である合併問題のかげに完全に忘れられてしまった。もっともそんな事件がなくとも速やかに忘れ去られる運命にあった。だが少なくとも木原は忘れていなかった。彼女の死によって募《つの》る性的な飢餓が、ますます木原の記憶を切なくさせている。
恵理のなにげない動作の一コマ一コマが、気も狂わんばかりの恋しさとなって、瞼裏《まなうら》に焙《あぶ》り出される。木原は、なるべく彼女をおもい出さないように努めた。それは餓えているときにレストランのサンプルケースを見せられるように辛い。サンプルは、それを買うことのできる者には、欲望をそそり引き出すための誘因となる。
木原のいまの飢餓は、恵理そのものによらなければ癒やされない性質のものであった。代替のきかない欲望の対象なのである。となれば、あきらめるか、忘れるか、それ以外に方法はない。
だが、どうして恵理を忘れたり、あきらめたりすることができよう。彼女の生前、さして重要ではないとして記憶の片隅に押しこめられていた、言葉や身のこなしの断片が、突如脚光を浴びせられた端役《ガヤ》のように、クローズアップされる。そしてそれが彼女の記憶の主役を占める。その体の重要な部分や行為よりも木原を切なくさせるのである。
それは恵理が彼の中で「永遠の女性」として偶像化された証拠であろうか。
恵理の記憶が抽象的に昇華されるにしたがって彼女は殺されたのだという疑惑は動かないものとなった。犯人はどこかで笑っているにちがいない。人々の忘却をうながした形になった合併劇を大いに喜んでいるのだろう。
下手に動くと、自分が疑われる立場にあるので自粛していたが、そろそろ動きだしてもよい時期だと判断した。素人が探偵の真似をしたところで、なにを探り出せるものでもないが、自分なりにできる範囲で調べてみたい。
木原が当面、狙いをつけている対象が二つあった。一つは、例の現場から採取してきた「灰」である。もう一つは、恵理の肉親である。灰の成分がわかれば、燃やしたものがなにか推測できるかもしれない。肉親を当たって、彼女の前夫や、かげの男を手繰り出してみたい。親ならば恵理の結婚した相手ぐらいは知っているだろう。
戸籍簿から探るという手はあるが、いま戸籍は閉鎖されてしまった。関係者≠装って閲覧を願い出るには、こちらの身許を、明らかにしなければならない。いまは彼が恵理の身上に興味をもっていることを知られたくなかった。
合併問題に会社全体が揺れているとき、木原を愕然とさせるような事件が起きた。それは一本の電話によって始まった。
午後五時が近づき、帰り支度を始めていた木原は、交換台から一本の外線電話を取り次がれた。最近上層部の動きは慌ただしく、社員は仕事が手につかない。口実を見つけては仕事をサボり、寄り集まっては、合併問題の行方を占って、不安をまぎらせている。
だいたいサラリーマンが定時に退社できるときは、会社が平穏無事か、本人が社からあまり要求されていないときである。定時前に帰り支度をしていた木原は、岩本派の退勢を如実に反映していた。
受話器を取った木原に聞き馴れない声が話しかけてきた。木原かと何度か確かめた後、
「あなたは、矢沢恵理さんを知っていますか」
と問いかけた。無防備のところをいきなり突かれたので、一瞬、木原は返答に詰まった。
「ご存知ないはずはないんですがねえ」
相手の声がいやな響きを帯びて返答をうながしてきた。
「それは知っています。同じ課で働いていましたから」
木原は立ち直った。ほんのわずかでもうろたえた自分が忌々しかった。彼が恵理を知っているのは、当然なのである。
「それだけですか」
「それだけとは、どういう意味ですか。あなたはだれですか」
「矢沢恵理さんが死にましたね」
相手の声はおもわせぶりな含みをもった。口調に卑しい濁りがある。
「それがどうかしましたか」
「あなた、どうおもいます?」
「どうおもうって、どういうことですか」
「あなた、本当に彼女が事故で死んだとおもっているんですか」
卑しげな濁りを帯びた相手の声を聞いたときから不吉な予感があったが、彼の言葉はいよいよ木原の恐れる方角に向かってさしのばされてきた。
「事故以外の何で死んだというのですか」
「それをあなたご存知なんじゃありませんか」
「彼女は崖から運転を誤って落ちて死んだのです。警察も事故と断定した」
木原は相手の正体の詮索も忘れて、反駁《はんばく》した。
「警察も騙《だま》されたのです。私も初めは事故だとばかりおもっていた。ところがどうもそうではないような状況が浮かんできた。そこであなたにご相談をしようとおもい立ったのです」
「なぜ私に相談するのです、あなたはだれですか。あなたはまだ私の質問に答えていない」
「いずれお会いしたとき自己紹介します。今日は初対面の、いや、まだお目にかかっていないから、第一声のご挨拶ですか」
「どこのだれとも名乗らない人間に会う必要を認めませんね」
「会ったほうが、あなたのおためかとおもいますよ。それでは近いうちにいずれまた」
「あ、ちょっと待て」
木原の呼びかけを途中に、電話は先方から切られた。木原は死んだ電話を握ったまま、しばらく茫然としていた。
合併騒動にまぎれて、恵理の死は忘れられたとばかりおもっていたが、いまの電話は、忘れるどころか、その死に重大な疑惑を抱いている者がいることを告げた。ようやく受話器をフックに戻して、木原にいまの電話の内容を分析する余裕が生じた。
まず最も気になるのは、いまの怪電話の主Xが、恵理の死因について木原を疑っている語調であった。ということは、木原と恵理の関係を知っているということである。
Xは、初めは事故かとおもっていたが、途中から疑うようになったと言っていた。すると、そのきっかけは何だったのか? そのことについて「相談」したいとも言った。相談とは何のことか。木原を恵理を殺した犯人と見て恐喝しようという肚なのか。「会ったほうが木原のためだ」という言葉には、十分に恐喝の含みが感じられる。
だが恐喝にしては、やや曖昧にすぎる点もあった。恐喝の最も重要な材料となるべき恵理との関係については、もっと具体的に示唆すべきであろう。恵理とは同じ課の同僚としてのつき合いだととぼけようとした木原に、Xは具体的なデータを示して追撃をかけてこなかった。それは、Xが推測だけで、データをもっていなかったからではあるまいか。
ここまで独りの思案を追った木原は、もう一つの可能性に気がついた。恵理を殺した犯人が、木原に罪を転嫁すべく近づいて来た場合である。いずれの場合にしても、対応を誤ると、身の破滅となる。
合併騒動で前途多難の折、危険な敵が現われた気配であった。
木原はXの正体についてあれこれ思案をめぐらした。木原が最も恐れているのは、警察の追跡である。警察がなにかのきっかけから、いったん事故として処理した恵理の死因に疑惑を抱いて調べ始めれば、木原が浮かぶのは、時間の問題である。
だが、警察が自らの過失を暴露するような再調査をするであろうか。またXが警察であれば、「相談」などとまわりくどいことを言わずに、一直線に木原の許へ来るであろう。
Xは、警察ではないと見てよさそうである。するとXの正体は何者か?
犯人が、木原に罪を転嫁すべく近づいて来たとすれば、相手もかなり危ない橋を渡っている。せっかく事故として警察が処理したものを、自ら火中の栗を拾うようなものである。その場合、最初に考えられるのは、恵理の背後の男と、前夫である。両者は同一人物かもしれない。
それにしても、木原に罪を転嫁したければ、警察に匿名でタレこめばよいはずである。やはり、Xは犯人ではなく恐喝者とみるべきではあるまいか。
木原は、恐喝者? が現われた以上、自衛の備えを固めておく必要に駆られた。それにはまず相手の正体を知っておかなければならない。木原は、危険を覚悟で、恵理の母親を訪れた。
恵理の死によって初めて、その存在を知った肉親である。母親は浦島市から二十キロ離れた「小日向《こびなた》」という小さな町に一人で住んでいる。恵理の葬儀の後、会葬から漏れた人たちの香典を届けるという名目で、人事課から住所を聞き出しておいた。恵理の係累で会社側にわかっているのは、その老母だけであった。
小日向は、名前のとおり、山裾の小さな日だまりに寄り集まったような小さな集落であった。浦島のベッドタウンであり、町の産業も電波計器や艤装部分品や付属品など造船関連の中小企業で、浦島の下請である。つまり、小日向の町そのものが浦島の付属町≠ナあった。
またこの町には浦島の工員の退職者住宅がある。それを現役≠ヘ、姨捨《うばすて》住宅姨住≠ニ呼んでいる。恵理の母親は、その姨住の一つに独りで住んでいた。山懐ろに抱かれて建った半ばスラム化したような古いコンクリートブロックの住宅である。日没が平地よりも一時間も早い。
老母は、木原の突然の来訪を歓迎してくれた。姨住に言葉どおり「捨てられた」身には、だれであれ、訪問者が嬉しいらしい。
招じ入れられた南側のテラスに面した部屋は、日当たりがよかった。部屋の隅に、年代物の仏壇が置かれ、古い位牌に混じって新しい位牌が祀《まつ》られている。位牌のかたわらに恵理と、その父親のものらしい男の写真が飾られている。部屋の中はこぎれいに整頓され、住み心地よさそうに工夫されてあったが、老後の独り住まいの寂しさが、壁ににじんだ雨水のように染み出ていた。
「恵理と同じ課の方ですか。それはそれはようくお越しくださいましたのう」
老母は、いそいそと木原のために茶を淹《い》れたり、煎餅を勧めたりした。彼女は、葬式に焼香に来た木原の顔をすっかり忘れているらしい。しばらく老母の雑談の相手になっている間に、恵理は十年ほど前に先立った工員の夫との間に生まれた末子で、上に二人兄と姉がいることなどがわかった。
「そのお兄さんとお姉さんは、いまどちらに」
木原は、会葬に二人の姿が見えなかったような気がした。
「うちらは一代限りのB工員ですけん、父親が死ぬと子供たちは仕事を探して東京へ飛び出しましてのう、音信不通になっていますわいの。恵理が死んでも連絡の取りようがなかったですわい。おおかた東京でヤクザにでもなっちょるじゃろう」
老母は、口では怒ってみせながらも、離郷した二人の子の安否を全身で気づかっているのがわかった。B工員の子弟も希望すれば、形式的な工員採用試験の後、B工員として採用される。この浦島で終身保証の工員身分制度に反旗を翻して離郷したとは、進取的な兄姉である。恵理は、その二人の影響を強くうけていたのにちがいない。
恵理の死の前に、夫に先立たれ、二人の子供に置き去られたショックが、母親を、実際の年齢以上に老け込ませたのであろう。
木原はさりげなく、本命目的の質問を切りだした。
「葬儀には、恵理さんのご主人がお見えにならなかったようですね」
「主人? どなたのことですぞな」
老母は驚いたような顔をした。
「ご結婚されて別れたとうかがっておりましたが」
「恵理は結婚などしておりませんがな」
「しかし、恵理さんは、結婚をしたとおっしゃってましたよ。親御さんに反対されて、心中直前までおもいつめたと……」
「それは恵理にかつがれたんぞな。恵理は心中も結婚もせんかった」
「それでは、どうして社員に?」
B工員は、社員登用試験を受ける資格すらあたえられていないのである。
「もう死んでしまったからかまわんじゃろ。恵理は、さるお偉《えら》方に世話されておったのです。二号ですとな。私が亭主が死んだ後もこの社宅におられるのもその人のおかげですがな」
「恵理さんが……世話されていた!」
なんとなくそんな予感がしないでもなかったが、いま老母の口からはっきりと告げられて木原は、やはり索然としたおもいに捕われた。恵理が囲われていた。いったい、その男《スポンサー》はだれか? 恵理は生前、「触れられたくない過去」があると言っていた。過去に男がいたことも否定しなかった。その過去≠ェ、囲われていた事実であり、過去の男≠ェスポンサーだったのか。
それを木原の手前「結婚して別れた」と偽っていたのか。
すると現在は「切れて」いたことになる。「お偉方」というからには、年輩者が想像される。一度は囲われたものの、スポンサーの老化によって、男女の関係は自動的に卒業し、援助関係だけが持続していたのか。恵理のバックに大物がいれば、彼女の恐るべき情報網が肯《うなず》ける。
「そのお偉方とはどなたですか」
木原は核心に斬り込んだ。
「それは、私の口からは言えまっせん。いや私も本当のところよく知りませんのじゃ。恵理がはっきり言いませなんだからな。多分あの人じゃなかろうかと想像しておるだけじゃ」
「お母さん」
木原は、膝をにじり出させて、
「お母さんは恵理さんが本当に交通事故で亡くなられたと、信じていらっしゃいますか」
「そりゃどがいなことですかの」
老母の面に不審の色が浮かんだ。
「私は恵理さんの車に何度か乗せてもらいましたが、決して崖から落ちるような乱暴な運転はしたことがありませんでした」
「事故でなければ、どがいなことになりますかいの」
「つまり、何者かによって崖から突き落とされたのかもしれない」
ひぇっというような声が、老母ののどから漏れた。
「警察はさっさと事故で片づけてしまいましたが、恵理さんの慎重な性格からみても、私には事故とは考えられないのです」
「いったいだれがそんなむごいことをするのですかいの」
老母は喘《あえ》ぐように言葉を押し出した。
「わかりません。しかし、恵理さんを世話しながら葬儀にも来ないような男は、まず疑うべきではないでしょうか」
その男≠ェ葬儀に出席したかどうか確認されたわけではない。だが、木原ははったりをかけたのである。
「そ、それでは、あの方が怪しいと言いんさるのかね」
老母の喘ぎはさらに激しくなった。
「断定はいたしませんが、大いに怪しむべき要素はあります。恵理さんの存在が邪魔になったか、あるいは恵理さんが彼を恐喝したか」
「キョーカツって何ぞな」
「弱みを握って、それをタネに金品を要求することです」
「恵理が金を要求されたのかいな」
「反対です。恵理さんが要求したのです」
「恵理が他人《ひと》様に金を? あなたそがいな途方もないことを、まさか」
老母は笑おうとしたらしいが、顔が引き攣《つ》った。
「可能性として申し上げているのです。とにかく恵理さんが相手にとって邪魔か脅威になって殺されたのかもしれない。恵理さんを囲って……いや世話をしていたという男は真っ先に疑われるべき人間です」
「何をタネにキョーカツするのですかいの」
「恵理さんの存在が明らかになるだけで、相手の家庭を破壊するかもしれない」
「どがいして家庭をハカイすっとな」
「奥さんや子供に恵理さんのことがわかってはまずいでしょう」
「奥さんはいませんがな」
「奥さんがいない!?」
「もう何年も前に亡《の》うなんさってますがな」
「亡くなったのですか」
「はい」
「奥さんがいなくても、恵理さんの存在を隠していたのでしょう」
「あの方は、恵理を殺したりなどはしいしません。それはそれは恵理を大切にしてくれましたぞな。恵理が死んで、だれよりも悲しゅうおもうちょるにちがいありまっせん」
「それならばなぜ、葬儀に見えなかったのですか」
「立場上、表立って焼香はできまっせんけえど、お墓にそっと花を供えんさるにちがいありまっせん」
「それでは|お偉方《ヽヽヽ》のことは保留して、恵理さんをけむたがっていた人や、怨んでいたような人間の心当たりはありませんか」
木原は鉾先《ほこさき》を変えた。
「恵理は他人様から怨みを買うような人間じゃありまっせん」
「恵理さんに横恋慕していたような人間は、いませんでしたか」
横恋慕≠ニいう意味の解釈によっては、木原もその範疇《はんちゆう》に入るかもしれない。
「恵理の|プライベット《ヽヽヽヽヽヽ》なことはよく知り申さんのです」
老母は年に似合わずモダンな言葉を使って首を振った。
歯止めのホストマザー
恵理の母親を訪ねても、具体的にわかったことはなにもなかった。だが彼女は何点か重要なことを暗示してくれた。
まず恵理は大物≠ノ囲われていたことがわかった。その大物は妻に先立たれて、現在|鰥夫《やもお》である。恵理のスポンサーは、B工員の娘を社員に引き上げるだけの実力を有する人間である。それほどの実力者は、浦島の社内でも数えるほどしかいない。そしてその実力者には、いま妻はいないとなると、対象はさらに絞られてくる。
恵理は、岩本パーティに前科者≠ヘ入れないと言っていたが、岩本は彼女の身上を知っていたのか。それとも、それも木原の詮索を躱《かわ》すための口実であったのだろうか。
岩本が恵理の身上を知っていたとなると、彼と、恵理のスポンサーの間に連絡があることになる。いや岩本自身がスポンサーになれないか。だが彼の妻は健在である。それに彼がスポンサーであれば、合併工作を木原が注進する前に知っていて対策を立てていたはずである。岩本は、合併工作を確かに知らなかった。そのために、策士の彼が社長派や三人組に一歩先んじられて、退勢を挽回できずに苦戦している。
まだ恵理の背後の男の正体はわからぬながらもその足元に確実に肉薄している気配がわかった。
恵理が死んでからも、木原はときどき「ソーホー」へ行った。そこにわずかに彼女のおもいでが残っているようであった。単に恵理の追憶を追うだけでなく浦島城下の租界≠フようなソーホーにいると、合併問題で揺れている会社から切り放される。束の間のそして錯覚の自由の中で、茫然としているのが、最近の木原の唯一の楽しみであった。
家に帰ってもロボットの妻がいるだけである。なまじ女として完全な成形をもっているだけに、辛い。寝るまでの手持ち無沙汰の時間が辛く、床に就いてから眠るまでの間が、また焙《あぶ》り立てられるようである。
百合は、そんな夫を見かねて、手や口を使って慰めようとしてくれた。だがそれは夫婦を余計みじめにするだけであった。
夫婦は、セックスを避けては行けないものなのか。避けようとすればするほど、それが意識され、夫婦の中心に決して溶けることのない氷塊となってうずくまっている。その氷塊が夫婦仲を決定的に冷やしてしまえば、たがいに悩むことはなくなる。不思議なことに彼らは不能であるが故に、より強く結びつくようになった。奇妙な心理の傾斜と言うべきか。
餓えた身にオープナーもなくかんづめをあたえられたように、不能の殻に密閉された美肉に執着を強くしている。その執着が、二人の愛をうながす形になったのである。心身一致すべき夫婦愛が、肉体面だけ閉塞されて、いびつになってしまった。その奇型が是正される可能性はない。夫婦から肉の凝脂が抜けきるまでひたすら、待つ以外に治療法はないのである。
木原がソーホーへ通うようになったのも、待ち時間≠少しでも縮めるためである。
これが差別≠ゥら抜け出て、復讐をするために這い上がって来た場所なのか。――木原は、グラスを傾けながら自嘲した。べつに悔やんでいるわけではなかった。ここまで這い上がって来たのは、まぎれもなく自分の意志によるものである。たとえ魂を売り渡しても、元の被差別身分に戻るのは、真っ平であった。
ソーホーで飲んでは、夜更けて帰宅する。どんなに遅く帰っても百合は待っていた。
待ち姿が、木原にあてつけがましくないように配慮している。そのいじらしさが、また辛い。
その夜、「ソーホー」を午後十一時ごろ出た木原は、タクシーを探しながら通りを伝っているうちに尿意を覚えた。通りの端に小公園があり、公衆トイレがあった。切迫して駆け込んだ木原は、入口の表示を見て、
「あ、いけない、工員用か」とつぶやき、隣接する「社員用」トイレットに移った。用を足して出て来ると、出入口に四、五人の男の影が固まっている。なんとなく彼らに険悪な気配を覚えて、そのかたわらをすり抜けようとすると、「おい待て」と尖《とが》った声をかけられた。
「私のことですか」
木原が問うと、
「おまえ以外にいねえだろう」
「何かご用ですか」
「用があるから呼んだんだよ」
言いながら人影は、木原を取り囲んでいた。いずれも彼と同年輩の男たちである。どこかで見たような顔だがおもいだせない。
「あんた社員になったら、便所も工員用を使えないのか」
リーダー格がドスをきかせた声で言った。木原は、彼らが工員であることを悟った。工員用に入りかけて、社員用に直った木原が、工員たちの癇に障ったのであろう。
「べつにそういう意味ではない」
「じゃあどういう意味だと言うんだね」
輪がじりっと狭められた。
「せっかくそれぞれの専用があるのだから、分けられたとおりに使っただけだよ」
「あんた、工員の家から社員に出世した木原さんだろう。あんたはおれたち工員のホープだった。|だった《ヽヽヽ》という意味がわかるか。もうおれたちはあんたを工員の利益代表とは認めていないんだ。あんたは社員になって、工員の苦労や屈辱をすっかり忘れてしまった。工員の子の出であることを恥じている」
「そんなことはない」
「だったらなぜ入りかけた工員便所から出たんだ。工員便所なんか汚ならしくて使えないのか」
「そんなつもりはなかった」
「工員の小便には、血が混じっているよ。社員の便所へ入っていると、そのことがわからなくなる。たまには工員便所の臭いも嗅いでみるんだな」
リーダーが顎をしゃくると同時に、彼らは一斉に躍りかかった。多勢に無勢でたちまち寄ってたかって、かかえ上げられ、工員便所の中にかつぎ込まれた。
数回前後に拍子をつけられて、小便槽の窪みに抛《ほう》り投げられた。木原はコンクリートの踏台に腰を打ちつけて、しばらく身動きできない。
「しばらくそこに寝転がって、前の自分をおもいだすんだな」
リーダーは捨てぜりふを吐いて、立ち去った。
公衆トイレから惨澹たる姿でよろめき出たものの、この小便浸しの体では、車に乗れない。「ソーホー」で飲むときは、マイカーには乗って来ない。自宅までやや距離があったが、歩く以外に方法がなかった。コンクリートの床に強く打ちつけたとみえて、腰の骨が痛んだ。痛みに耐えながら、足を引きずっていると、かたわらを通り過ぎた通行車が、木原の少し先で停まり、ドライバーが窓から顔を出した。若い女性であった。
「どうかなさいましたか」
問いかけてきた顔は、木原の知らない顔である。闇の中に女の白い面が浮かんでいる。
「悪酔いして転んでしまったのです。ちょっと腰を打ったらしくて……」
本当のことは言えなかった。
「それはいけませんわ。よろしかったらお送りいたしましょう」
女は親切に言ってくれて、車を木原のそばまでバックさせた。
「いえ、とんでもない」
木原は、うろたえた。幸い、闇に隠されているが、全身汚水にまみれている体を、未知の人間のマイカーに乗せられない。
「どうぞ、ご遠慮なく。お宅は咲見町でしょう。どうせ通り道ですから」
女はどうやら木原の身許を知っているらしい。
「いえ、そのう、つい悪酔いしまして、汚ない所に転んだものですから、お車を汚してしまうといけませんので」
木原の狼狽は増した。先方に知られているとなると、この醜態はますますもって見せられない。
「それではタクシーにも乗れませんわ。歩くと咲見町までかなりあります。車のことならどうぞご心配なく」
女は木原のために後部座席のドアを開けてくれた。ここまでされては断われない。木原はなるべくシートを汚さないように、身体を縮めて乗り込んだ。それとなく女の横顔を観察したが、まったく見憶えがない。年齢は二十二、三か。平凡な顔立ちであるが、表情が豊かで優しげである。横分けの素直な髪が肩の先で緩やかなウエーブを打ち、女の横顔を艶っぽくしている。
「あなたに以前どこかでお会いしたことがありますか」
木原は、記憶をまさぐりながら質ねた。
「いいえ、でも、木原さんはこの街で有名ですもの」
女は、ひかえめな口調で言った。たしかに社員登用試験をトップでパスして、岩本の娘を射止めた木原は、浦島のちょっとしたヒーローであった。そのヒーローが最もぶざまなところを見られてしまったのである。
「有名は恐れ入ったなあ。お名前を教えていただけませんか」
「こいずみと申します」
木原はさらに、彼女の身許まで詮索したかったが、車は、咲見町に着いていた。
「改めてお礼申し上げたいのですが、ご住所を教えていただけませんか」
木原は、女に興味をもつと同時に、後日、機会を改めて、今夜のぶざまな第一印象を挽回したいとおもったのである。
「お礼なんて、とんでもないことですわ。どうせ通り道ですもの」
女はにっこりと笑った。笑うと、右の頬に笑くぼが刻まれて、魅力的なアクセントとなった。木原は、それ以上追いすがる口実を失った。悪臭ふんぷんたる体では、口説《くどき》もままならない。木原は未練を残しながら車から下りた。
全身小便浸しになって帰宅した夫の姿に百合は愕いたが、酔ってトイレで転んだという木原の言葉を素直に信じた様子である。
だがその夜の事件は、木原にショックをあたえた。コンクリートの踏台で打った腰の痛みよりも、心にショックをうけていた。
彼は、母体と信じていた工員層から背を向けられていた。一万名を超える工員のすべての支持を取り付けられるとは期待していないが、利益代表であることを拒否されて、公衆トイレットへ叩き込まれるほど反感をもたれていたとはおもわなかった。
木原の強い上昇志向が、いつの間にか、ベースたるベき素地を、置き去りにしていたのか。だがこの事件は木原を吹っきらせた。
いつまでも工員の殻を引きずっていたのではだめなのだ。工員子弟出身の社員ではなく、社員そのものになりきらないかぎり、熾烈な生存競争に生き残ってはいけない。
工員は終生工員たるべく運命づけられた者である。工員子弟出身の社員は、社員の身分を取得した瞬間から工員たるべき運命から離れたのである。それは初めから社員たるべく運命づけられていたものである。工員に同根から発した者としての一片の親近感や同情を寄せてはならない。
彼らは社のために卵を産みつづける白色レグホンである。レグホンに同情を寄せたところで仕方がない。
工員トイレット事件の二日後の午後、オフィスで勤務していると木原は岩本から呼ばれた。岩本が会社で木原を呼びつけるのは珍しい。副社長室へ赴くと、岩本は秘書も追いはらって改まった表情で対い合った。私邸で舅として対するのとちがい、浦島の大屋台を背負う経営者としての威厳が溢れている姿である。
木原はなにか事件が起きたのを悟った。それも木原の一身に関わりがあることであろう。だが公私の別を厳しくしている岩本が、会社で木原を呼んだところをみると、仕事にも関係あることなのだろう。合併問題で新局面が開いたので、木原の耳に一拍先に入れておこうというつもりか。
木原が緊張して身構えていると、
「家では家内もいて、ちょっと話し難いことなのでね」
と机上の供え煙草を一本つまみながら表情を少し緩めた。木原が火をつけてやると、深く一息喫《す》って紫煙を吐き出しながら、
「どうかね、百合とはうまくいっているかな」
と質ねた表情は、完全に私的な素顔に還っていた。木原は舅の質問の意味を釈《と》り損ねた。性生活を除いては、うまくいっている。だが性生活のない夫婦が、うまくいっていると言えるのだろうか。岩本の質問には、日常の挨拶と同じで、それほどの深い意味はあるまい。
「はい、しごく円満にやっております」
木原は、無難な返事をした。
「それはよかった。ところできみ、子供は欲しくないかね。私もそろそろ孫の顔を見たくなった」
岩本は奇妙なことを言いだした。子供がつくれるようであれば、木原と百合の結婚はなかったのである。性的欠陥を承知でいっしょにされた夫婦に、子供が欲しくないかと問うのは、酷である。
木原が返答に困っていると、
「きみも辛いだろうな。女はいるのかね」
とさらに当惑させるような質問を重ねた。
「いえ、ベつに、そのう、そのような女性はおりません」
木原が、ややしどろもどろになると、
「べつに隠さなくともよいのだ。これは初めから条件に入れていることだからな。きみのような若い健康な男を女なしで封じこめることはできない」
「いえ只今は、会社も前途多難の折でして、女のほうに関心を向ける余裕はございません」
「それはいかんな」
「は?」
「きみのような精気溢れる時期に、まったく女気なしでは、体に悪いぞ」
「とおっしゃいましても、女はいなければいないですむものですから、さほど苦になりません」
恵理が死んでからの全身をトロ火で焙《あぶ》られるような苦しさを岩本に訴えても仕方がないとおもった。それにしてもなぜ岩本はカマをかけるようなことを言うのか。
「それはますますもっていかんな。どんな優秀な機能も使わずにいると、錆《さび》がつく。きみの年で本当に女が欲しくないとすれば、錆がついた証拠だ。いまのうちに落としておかないと、本当に錆ついてしまう」
木原は、ようやく岩本が胸に一物かかえているのを悟った。岩本はなにか魂胆があって先ほどからしきりに誘導しているのである。
「おとうさん、まさか私に女を勧めているのではないでしょうね」
木原は、踏み込んでみた。
「さすがだな。ちゃんとこちらの胸の内を読んでおる」
岩本は、苦笑した。
「いったいどういうことですか」
「ざっくばらんに言おう。きみが百合だけをかかえて一生女なしではすまされない。それは男の生理からも無理だ。性欲の処理だけなら、その都度女を漁《あさ》っても解決できる。しかし、長い間には専属の女のほうがなにかにつけて便利だ。その都度女を替えるほうが刺戟的でもあり、新鮮だろう。しかし数の中には、悪い女に引っかかるかもしれないし、悪い病気をもった女もいるだろう。きみがどんな女を相手にしようと、きみの自由だが、子供を生ませる女を選んで欲しいのだ。きみの子は、私の孫にもなる。少なくとも私の孫の母親として恥ずかしくない程度の女を選んで欲しいのだ」
木原は、どう返答してよいか当惑していた。岩本は、恵理との関係を知ってカマをかけているのではあるまい。だが下手に返答をすると藪蛇になるおそれがある。
「そこでどうせなら身許のしっかりした女をきみに推薦《すいせん》したいのだ。私の孫の母親として相応の毛並みもある。きみさえ異存なければ、私の勧める女性をうけてもらいたいのだが」
それはまことに途方もない勧誘であった。だが岩本にしてみれば、どうせ木原が女なしではやっていけないのを見越して、自分のめがねに叶った「純血《サラブレツド》の女」を提供しようという気になったのであろう。
「しかしおとうさん、それは相手あってのことですし、相手の意志もあります」
木原はようやく反駁した。自分の閉塞された欲望を見透かされている以上、それを認めたうえで話を進めたほうが、手っ取り早い。木原も、岩本が誘導訊問をしているのではなく、本気で女を勧めている気配を悟った。
「私が、心当たりの相手もなく、こんな話をしているとおもうかね」
「すると、相手がいるので」
木原は、不覚にも身体を乗り出しかけて、危うく自制した。
この期《ご》に及んでも、「武士は食わねど」のやせがまんを張っている。舅《しゆうと》の勧める公認の女によだれを見せてはならない。だからといって高楊枝≠装いすぎてもいけない。いかに公認していても、女に食傷している婿に、舅としては、決して愉快にならないだろう。飢餓≠ニ高楊枝≠フ兼ね合いが難しかった。
「きみもまんざら知らない女性ではない。きみのことは話して、本人の内諾を得てある」
「私の知っている女性?……すると当人は初めから二号……いや、|腹を貸《ホストマザー》すことを承知しているので」
「きみならいいと言っている」
「いったいだれですか」
自制が除《と》れて、好奇心が前面に押し出された。最初から日かげの身に甘んずるような、身許のしっかりした女性がいるのだろうか。それも岩本の実力のしからしむるところか。
「出戻りだがね、子供はいない。結婚一年早々で別れてしまったのだが、結婚に幻滅してね、もう再婚は懲りごりだと言っている。これからは妻として束縛されるような生活は真っ平だが、自分の子供は欲しいんだそうだ。自由に生きたいが、年を取ってからの孤独はいやだ。また自分が求めるときは、相談相手になってくれる男がバックに欲しい。つまり自分の都合のいいときだけ男や子供が欲しいというわけだ。まさにきみの相手にピッタリの女性だとおもわないか。しかも女としては新品同様≠セ」
「だれですか、その女性は」
もはや、よだれを隠してはいられなくなった。
「みどりさんだよ。旧姓咲山……」
「咲山みどり!」
彼女は、岩本パーティ十九組目のカップルとして、昨年春に結婚した。鳶尾山のハイキングで百合と初めて出会ったとき、同行していた金庫入り組の一人でもある。彼女が離婚したとは初耳である。これまで岩本パーティの中から結婚した者が離婚したケースはない。もし事実だとすれば、岩本パーティ初めての破婚である。しかも十九組目が結婚一年足らずして破れたことは、同パーティの権威、ひいては岩本の権勢の凋落《ちようらく》を如実に示すものである。
「私の手前まだ正式に離婚届けを出してはおらんが、すでに彼女は実家に戻ってきておる。性格の不一致ということで、どちらが悪いか私にはわからんが、亭主は合併問題の行方を見届けてから籍を抜くつもりらしい。自分のほうから追い出したくせに、私が恐くて、合併の成り行きを見守っておるのだ。馬鹿なやつめが」
岩本は吐き出すように言った。岩本にしてみれば、彼が媒酌した夫婦が、合併問題で彼の権勢が動揺しかけた時期に別居するだけで許し難い叛逆なのである。夫婦が長い間にけんかをすることもあるだろう。みどりの夫は、まことに悪い時期に彼女を追い返したと言うべきであろう。
たとえ彼らが仲直りをしたとしても、もはや岩本の信頼と支持を取り戻すことはできまい。
それにしても咲山みどりが、木原のためにホストマザーになってもよいとは、信じられないような話である。岩本パーティのお下がり≠ニ言うべきか、天下り≠ニ呼ぶべきか。岩本にしてみれば、孫欲しさと同パーティ崩れ≠フ面倒の完遂をうまく兼ね合わせたつもりであろうか。
みどりの父親は、鉄構事業部の次長で岩本の腹心でもある。器量も百合と共に金庫入り組の中で双璧《そうへき》をなしていたほどであるから、いくらでも再婚の口があるはずである。
それが自らホストマザーを望んだというのであるから、結婚に対して激しく失望したにちがいない。もっともみどりは木原に初めから好意的であった。さまざまな要素が、重ね合わされてホストマザーに向かわせたのであろうが、彼女ならば、木原にも異存はない。むしろこちらから願い出たいところである。
「それで百合は何と言っているのですか」
百合は、自分のエゴから木原の可能性に蓋《ふた》をしたくないと言っているが、親友を自分の代わりのホストマザーとして夫に侍《はぺ》らせることに抵抗をおぼえるだろう。
「百合にもいずれは話さなければならないことだが、まだ話してない。まずきみの意志を確かめるのが先決だからね」
岩本は験《ため》すような視線を向けた。
「なにしろ突然のお話なので面喰らっております。少し時間をいただけないでしょうか」
返事は決まっているが、即答すると、「口中の唾《つばき》」を見透かされてしまう。
「いいとも。しかし返事はなるべく早いほうがよいぞ。いつ先方の気が変わるかもしれんからな」
岩本はとうに木原の肚《はら》の内を読んでいるように口辺に笑いを刻んだ。
二日おいて、木原は承諾した。その二日間が彼が咥《くわ》えたせめてもの高楊枝であった。岩本は返事は最初からわかっていたというような表情で、
「早速、先方に伝えよう。ただし、一つだけ条件があるぞ」
「何でしょう」
「そんな不安げな顔をせずともよい。みどりさんという特定の相手ができた以上、これからは、他の女性関係は慎んでもらいたい。みどりさんは百合の欠けているものを補ってくれる。したがって百合は、完全な妻になったわけだ。今後、他の女にはいっさい目を向けないように。これが条件だ」
なるほど、そういう仕掛けだったのか。木原はのどの奥でうなった。岩本は、木原の浮気封じのために咲山みどりをあてがおうとしているのである。これもすべて百合の安全保障である。いかにも岩本の考えだしそうな手であった。
だが、木原にしても、恵理を失って代替の見つからないときに、それは有難い申し出であった。
そのときふと疑惑の端末が、木原の脳裡をかすめた。恵理を排除したのは、岩本ではあるまいか。岩本は、木原と恵理の関係を知っていたとする。そして恵理を木原から遠ざけたいなんらかの理由があって排除した。だが恵理の空白を埋めないと、また危険な女を木原がつかむおそれがある。それを封ずるために、公認の安全女を勧める。
恵理を木原から遠ざけたい理由とは何か? 恵理は危険な女だったのか。その危険性とは何だろう。恵理が岩本の女ではなかったかという疑いはすでに否定されている。
岩本が恵理になにか弱みを握られていて、それを木原に告げられたくなかったのだろうか。仮にそうだとしても、その弱みは、百合の体の秘密ではなかったはずである。恵理が死んだときは、すでに木原と百合は結婚しており、木原にとって妻の秘密は、秘密ではなくなっていたからである。
それ以外の秘密としては、当面考え浮かぶものがない。
恵理が初めに嗅ぎつけた合併工作を、岩本はまだ知らなかった。
岩本が恵理のスポンサーならとうに知っていたはずである。それとも、知っていながら、知らない振りをしたのか。それにしても木原にそんな擬装をする必要はないはずである。
また恵理の情報網は、岩本を越えるほど広く大きかった。その情報の質量から言っても、岩本以上の大物の存在が感じられた。
こう考えてくると、恵理のスポンサーとして岩本には無理があるようである。
「どうかね、この条件のめるかね」
独り思案に耽《ふけ》ってしまった木原を、岩本がうながした。
「もちろんでございます。私は百合だけを守っていこうと考えていたのですから、他の女に目をくれるようなことはございません」
「きみの身持ちの確かなことは、よく知っておるよ。しかし無理はよくない。無理をつづけていると長い間にはきっと破綻がくる。だから、そんなことのないようにしっかりと歯止めをかけておくのだ」
それは、奇妙なデートであった。木原が承諾すると、
「善は急げ」とばかりにその夜みどりと会うように手筈が整えられた。彼の承諾を見越して、すでに膳立てができていたようである。
初めは恥ずかしそうにしていたみどりも、すぐに馴れて悪びれない態度になった。そして鳶尾山で出遇ったときから木原が好きだったのだと言った。
「それにしては、ずいぶん冷たい顔をしていたじゃないか」
木原が詰《なじ》ると、
「あなたこそ百合のほうばかり見ていたくせに」
と逆に怨じられた。
「きみはあのころから百合の体のことを知っていたのかい」
「まさか。百合のことをお父様から聞いたのは、つい最近のことよ」
「それで頼まれたのか」
「それがね、本当は私からあなたの二号にして欲しいって頼んだのよ」
「まさか!」
「本当よ。でもそんなことどうでもいいじゃないの。あなたは奥方が役に立たない。私は結婚は真っ平だけど、相談相手になってくれる男の人が欲しいの。需要と供給が一致したのよ。そんなところを百合のお父様に見抜かれたんだわ。だからおたがいの幸せのために仲良くしましょうね」
みどりは邪気のない顔で笑った。恵理は、表情に常に仄《ほの》暗い陰翳がまつわっていたが、みどりはなんの屈託もなさそうな晴ればれとした顔である。結婚に破れて、サトへ帰って来ているような暗さは一片もない。またそれだからこそ、悪びれずにホストマザーを志願できるのであろう。
「今夜は私たちの初夜だわ。末長くよろしくね」みどりは、面をやや傾けてワイングラスを掲げた。食事が終われば、彼女の言葉どおり初夜の褥《しとね》が待っている。
木原はサンフランシスコで、百合を新褥に独り眠らせて、陣中見舞い≠ノ来た恵理が差し入れてくれた「サンドウィッチ」を慌ただしく頬張った記憶と重ね合わせた。
今夜はサンドウィッチではない。適度に耕された結婚経験女性との豪華なフルコースが待っている。
興奮が徐々に確実に盛り上がってきている。
供花の主
岩本が恵理の男《スボンサー》ではないとすると、果たしてだれか。恵理の代替としてみどりを得た木原にその疑問が大きくのしかかってきた。その後、怪電話は、音沙汰がない。彼は恵理の死因に疑惑を抱いていたような口ぶりであったが、その後相談≠ェないところをみると、新しい材料を見つけられないでいるらしい。木原が推測したとおり、決定的な材料をつかんでいないのであろう。
怪電話の主は、木原を恵理の男とおもっているような口調であった。彼が警察へタレこんだり、だれかに漏らしたりする前に、恵理のスポンサーを突き止めておかないと、木原の身が危険である。
スポンサーを知っているのは、恵理の母親である。だが彼女の口は固い。老後の寄る辺《べ》なき身に住み家をあたえてくれるその人は、老母にとっても大切なスポンサーであるから、めったなことでは、口を割るまい。恵理がその人の世話になっていたという事実も、久しぶりの訪問者につい口が滑ったのにちがいあるまい。
岩本が否定されてみれば、大石社長が考えられるが、彼も妻が健在である。三副社長も、その点、すべて否定される。それに恵理は、スポンサーが木原の「味方」であると示唆していたから少なくとも、大石派ではあるまい。
それでは井沢清四郎はどうか? 彼は妻を病気で五年前に失っている。その意味では、恵理のスポンサーの条件に該当する。それに現在七十四歳で、生臭い凝脂も脱け落ちたようである。その点も「いまは木原だけだ」と言った恵理の言葉に符合する。
だが井沢には、性的な関係は終わったのかもしれないが、公にしている愛人が二人いる。どちらも十年以上も前に落籍した芸者で、交替で仲良く井沢の身の回りの世話をしている。
諸事あけっぴろげな井沢が、第三の女≠ニして恵理だけ隠していたというのも肯《うなず》けない。それとも、古手の二人の愛人に遠慮したのであろうか。仮にそうだとしても井沢がスポンサーであれば、合併工作情報を岩本は恵理よりも早く手に入れていたはずである。どうも井沢の隠し女として恵理はもう一つピンとこないのである。
浦島の要人の顔を一人一人おもい浮かべてみた。ピタリと当てはまる人物がいない。木原は考えあぐねて、頭脳が空白になった。疲労が思考を拒否している。思案にもまれて犇《ひしめ》き合っていた脳細胞が弛緩《しかん》した。
「立場上、表立って焼香はできまっせんけえど、お墓にそっと花を供えんさるにちがいありまっせん」
その弛緩した空隙《くうげき》に、老母の言葉がよみがえった。木原は、スポンサーの正体を探るあえかな手がかりを、その言葉の中に見出した。
間もなく恵理の四十九日がくる。彼女の墓所に張り込みをかけていれば、スポンサーが密かに花を供えに来るのではあるまいか。それが恵理の老母の言葉から得たヒントであった。表立って焼香できない者も、墓所への供花ならば目立たない。四十九日に姿を現わさなくとも、その前後に来るかもしれない。
木原はふたたび、小日向の老母の所へ行って、菩提寺の場所を聞いた。そのとき、彼は恵理の葬られた場所を知ったのである。あれほど彼女の死にショックをうけ、悼んでいたのに、墓所すら知らなかった自分に驚いていた。その死の真相と犯人の追及にばかり熱くなっていて、墓参りしようなどという気がまったく起きなかったのである。
だが結局、その気持ちを突きつめてみれば、恵理を不当に奪われた怒りから発していた。彼女の冥福を祈るためではなく、自分本位の怒りであった。そして犯人として自分が最も疑われやすい位置にいたので、真相を明らかにすることは、自衛にもつながっていたのである。
四十九日に密かに墓に花を供えに来るスポンサーのほうが、ずっと心の深いところで彼女の死を悲しんでいるような気がした。
恵理の墓は、小日向の町はずれにある源長寺という小さな寺にある。檀家せいぜい五、六十軒の小寺で、住職も町役場の勤めのかたわらである。
恵理の遺骨は、この日ささやかな忌明けの法要の後、寺のはずれのこぢんまりした「矢沢家」の墓に葬られることになっている。この日集まった彼女の身内は、告別式の日よりさらに少なくなっていた。老母と、ほんの数人の近い親戚だけである。いずれも告別式に来ていた顔である。もっとも木原は彼らと恵理との続柄《つづきがら》を知らない。彼女の兄と姉らしい人の姿は見えなかった。スポンサーらしき人物も見えない。四十九日はささやかながら人が集まるので、その日をはずしたのか。
法要と納骨が終わって人々が散って行った。
木原は、夕方まで粘った。桜はとうに散り、境内の木立に新緑が萌えている。光沢のある若葉が風にさわさわと揺れて、樹間に弾む光とたわむれ合う。風が光り、むせる若葉の匂いを乗せて走る。
新鮮でエネルギッシュな季節に取り囲まれた小さな墓所は、真空のように静かである。さしも日の長い季節もようやく昏《く》れかけてきた。夕闇が墨のように滲み出してくる中で恵理の新しい卒塔婆《そとば》が白く浮き立った。
昼の明るさの中でその存在を消していた卒塔婆が夕闇と共に自己主張をしてきたことに、なにかの寓意《ぐうい》が秘められているような気がした。
一時、夕闇の中に一際鮮やかに浮かび上がるかに見えた白木の墓標は、薄明の底に沈んで、本物の夜の暗さの中に塗り隠されようとした。
木原は、あきらめて帰ろうとした。これまで待ったが、スポンサーらしい人影は現われない。老母の言葉は、彼女の願望が現われたものであろう。遺族がせめて花ぐらい手向《たむ》けてもらいたかったその人は、ついに姿を現わさなかったのだ。
木原が立ち去りかけたとき、山門の方角にあたって、タイヤが砂利をかむ音がした。車の停まる気配があって、間もなく水桶と花をかかえた人影が、一日の最後の薄明の中に浮かび上がった。
こんな遅い時間に墓参りに来る人がある。――木原は、自分の待ち人≠ヘあきらめていたが、好奇心をもった。境内の樹のかげに身を寄せて、人影をやりすごし、その行方を見届けようとした。人影は、広くもない墓地の間の小道をためらいのない足取りで突っ切り、そのはずれにある小さな墓の前に立った。
木原は、はっと息をのみ込んだ。それは恵理の墓の前であった。人影は闇に溶けかかり、特徴を消しているが、その外郭は男である。小柄な痩せた男らしい。
とうとう、スポンサーが現われたのか。木原は固唾《かたず》をのんで、人影のほうを見守っていた。人影は花を供え、墓に水をかけ、墓前に額《ぬか》ずくと、しばらく合掌していた。その時間はかなり長く感じられた。墓参者の影が闇に同化した。死者と墓参者の間に無言の会話が交わされていた。
樹かげに身を潜めて様子をうかがっていた木原は嫉妬をおぼえた。そこには木原のうかがい知ることのできない生前の恵理と墓参者だけの世界があった。その全部を所有していたと信じていた恵理の知られざる側面が、木原の所有面を圧倒するような広さと実質をもって再生されている。
ようやく墓参者が立ち上がった。すでに闇と人影の見分けがつき難くなっていたが、闇の中に気配が動いたのである。土を踏む足音がした。足音は、木原の潜む樹の前を通りすぎて、山門のほうへ去って行く。木原は足音を忍ばせて後を追った。
彼は、スポンサーにまちがいあるまい。なんとかその顔を見たかった。だが、もはや顔形を見るためのほんの一抹の光も残っていなかった。
墓参者は、水桶を返すために山門のかたわらの寺務所に寄るはずである。そのとき顔を見られる。
だが木原の期待に反して、墓参者は寺務所の前で待っていた運転手に水桶と柄杓《ひしやく》を渡した。墓参者はそのまま山門を出て、車のかたわらに立っていた。高級な外車である。ハイヤーでもないが、マイカーでもなさそうである。運転手が小走りに走って来て、墓参者のために車のドアを開いた。彼は鷹揚に車に乗り込んだ。束の間、ルームライトがついて、男の横顔を浮かび上がらせた。乏しい束の間の光であったが、男の横顔の特徴をつかむのには十分であった。木原はおもわず小さな声を漏らした。それは彼の知っている人物であった。
狭く尖《とが》った額の下に、小さな目や鼻や口がちまちまと固まっている。右の鼻翼に大きなホクロがあり、それがちょうど木原のほうに向けられている。木原も会社の重役会議の折に何度か見かけた顔であった。
その男こそ安立銀行頭取長谷部潤であった。そうか。長谷部が恵理のスポンサーだったのか。木原は初めて納得のいったおもいであった。長谷部が恵理の背後にいたのであれば、彼女の並々ならない情報源が理解できる。また長谷部ならば、岩本を推している。岩本の支持者である井沢清四郎とは同郷で昵懇《じつこん》の仲である。恵理の会社におけるさまざまな優遇も長谷部に頼まれて、井沢が口をきいていたのであろう。
お偉方≠社内にばかり探していたが、社外の要人にも目を向けるべきであった。
だが、長谷部は安立銀行の頭取として、なによりも自行の利益を優先させるであろう。それ故に合併のための菱井や古川銀行の動きを逸速《いちはや》く知りながら、岩本に知らせなかったのである。安立銀行は、安中商事問題で取り込んでいる。取込み中に発生した合併話だけに、直ちに旗幟《きし》を明らかにせず、事態の推移を見守っていたのであった。
恵理と長谷部がどんな経緯で知り合ったかは、興味がないし、さして重要なことではない。長谷部は、浦島の取締役を兼ねており、そのメインバンクのトップとして絶大の発言力をもっている。
恵理のスポンサーが長谷部であると見当をつけたものの、それは墓前に花を供えただけで、確かめられたわけではない。木原はとりあえずどうすべきか迷った。長谷部に面会を求めて、本人の口から確認を取るような大それたまねはできない。長谷部は岩本の上位に位置し、浦島の死命を制する天皇のような存在である。単なる象徴ではなく、実権を握っている。
だが、長谷部はまず犯人ではないだろう。自分が殺しておいて花を供える犯人もいないではないだろうが、長谷部は擬装のためにしたことでもなかった。
長谷部は富士見平に別荘をもっている。あの日、恵理は、別荘に長谷部を訪ねての帰途、崖から落ちたものとおもわれる。彼にしても、恵理のような若く美しい女を二度と得ることはあるまい。男にとって性的能力の有無にかかわらず、若い女を常に身辺に侍らせておくということは、活力の源泉になる。男にとって真に恐れるべきことは、性的能力の衰弱や喪失ではなく、若い女との縁がなくなることなのである。
ワインを次々に酒倉に仕込んでおくように、若い女を蓄えておく。一人でも女と縁がある間は、次の女へと火種≠ェつづく。身辺から女が皆無となったときに、火種が消えて、女と無縁になってしまう。そうなってからでは遅いのだ。
美《い》い女をもっている者は、不思議と美い女に次々と縁がつづくものである。
木原は、恵理が長谷部潤にとって最後の火種であったような気がした。長谷部にとって恵理は、「最後の女」ではなかったのか。彼の墓参りには、女と無縁になった男の孤影がにじんでいた。
長谷部が恵理を殺すべき理由はなさそうである。また彼女に秘密を知られすぎたとしても、女との寝物語にはそれ相当の覚悟をするものである。女に話すとき、男はいちおう口留めをしても、女の口に絶対の閂《かんぬき》をかけられないことを知っている。もともと不完全な閂をはずしたからといって殺すには当たらない。長谷部が犯人ではないにしても、彼は恵理の死をまったく疑っていないのだろうか。もし彼が少しでもその死因について疑惑を抱いているのであれば、犯人探しにおいて協力し合えるかもしれない。長谷部を協力者≠ノ得られたら心強い。
だが一方では、反対の不安もある。恵理は長谷部を木原の「味方」だと言っていたが、彼のことをどの程度、長谷部に話してあるかわからない。長谷部が木原と恵理の関係をまったく知らなければ、木原は長谷部の女を「盗んでいた」ことになる。いや知っていたとしても盗んでいた事実に変わりない。
わざわざ名乗り出て、長谷部に反感を含まれれば、それこそ藪蛇である。名乗り出れば長谷部の口から岩本と百合に、恵理との関係が筒抜けになるのを避けられまい。
長谷部が恵理の死を悲しんでいるだけで、疑っていないとすれば、木原の視点が彼にどんな反応をあたえるだろうか。長谷部の反応を見たい気もする。
木原は、恵理の死因に犯罪性を疑っているもう一人の存在をおもいだした。それは怪電話の主である。彼が長谷部の存在を知っていれば木原と同様に接触を図っているかもしれない。
復讐された閨《ねや》
長谷部潤の存在が浮上するのとほぼ時期を同じくして、木原が転落現場から拾ってきた「灰」の成分が判明した。
木原の大学の同窓が、関西の化学会社に就職しており、彼を介してその中央研究所に成分を検査してもらったのである。
灰の成分検査は、たいてい灰の中にわずかながら燃えかすが残っていて、それによって燃えた物体の成分が突き止められるものであるが、問題の灰は完全に燃えていたために、染色検査や分光検査を行なったそうである。ガスクロマトグラフィと呼ばれる成分分析機にかければ、試料が気体なら数ミリリットル、液体なら〇・〇五ミリリットルの少量でも、各成分に分離して定性分析、定量分析ができる。性質の類似した混合多成分の分離に有効であり、従来不可能とされていた有機物分析に威力を発揮する。しかしこの検査によっても、完全に灰化している場合は、燃焼前の物体を正確に当てることはできないそうである。
問題の灰は、きわめて上質の紙とまではわかったが、紙の種類までは特定できなかった。犯人≠ヘ、現場へ戻って来て、「紙」を燃やしたのである。その紙に犯人にとって都合の悪いことが書かれていたか、刷られてあったのだろう。
木原の素人探偵もここまでであった。素人にしては自分でもよくやったとおもうのだが、それから先へ一歩も進めない。怪電話の主もその後音沙汰がない。
合併問題は、積極推進派、反対派の勢力が伯仲して膠着《こうちやく》している模様である。
安立銀行の姿勢も曖昧であったが、推進派の中核たるべき国武銀行の態度もどうも歯切れの悪いところがある。遮二無二、先頭に立って合併案をゴリ押しするというのではなく、切り札を隠したまま、相手の手の内を探っているような軟弱性が感じられる。
合併問題の予断を許さない推移は、社員を混乱させていた。旗幟を明らかにしたところで、自分の付いた側が敗れれば目も当てられない。一時反対派の旗色が悪かったが、その後少し盛り返しかけたようである。その原因は国武銀行の弱腰にあるのだが、深い事情を知らない末端の社員でも、保身の嗅覚は敏感である。付くべき陣営の判断を誤れば、もはや浮かび上がれない。
滑稽なのは、咲山みどりの夫である。岩本派がやや挽回してきたので、別れるに別れられなくなっていた。みどりの夫は、財経本部、財務部の係長江口|克洋《かつひろ》である。
「江口ったらね、このごろ家に戻って来て欲しいと言うのよ」
みどりは、笑いを抑えたような口調で言った。
「それできみはどうするつもりなんだ」
木原は不安になった。みどりは性的に恵理のよい代替となった。逢うごとに体がよく合ってくるようである。みどりは、「木原とは相性がよい」と言って、喜悦の声を迸《ほとばし》らせたが、たしかにそんな相性があるようであった。恵理の記憶は速やかにみどりによって拭い去られていくようである。
木原の素人探偵業が停滞してしまったのも、みどりによって、恵理の欠落が埋められ、彼女を奪われた怒りがうすれてきたせいもある。ようやく飢餓が癒やされ、二人の体がなじんできた矢先に、またみどりに去られたら、性の荒野にいつ得られるかわからない獲物を求めて彷徨《ほうこう》しなければならない。どんなに熱心に狩っても、みどりのような上質な獲物は絶対に捕えられないだろう。
「お馬鹿さんねえ。私がのこのこ戻るとおもってらっしゃるの」
みどりが、いたずらを含んだような顔になった。
「まさかとはおもうけど、なんてったってまだ夫婦だからね」
「ふん。もう真っ平だわよ。江口はね、岩本さんが恐いのよ。自分から真っ先に反旗を翻しておいて、いまさらシッポを振り直したって遅いわよ。あの人、自分じゃ利口なつもりでいるけど、その辺のところが全然わかっていないのね。あの人初夜のとき何と言ったとおもう? きみをどんなにしても重役夫人にしてあげるよですって。私を幸せにしてくれるとは一言も言わなかったわ」
「重役夫人になれれば、女は幸せだろう」
「あなたまでそんなことをおっしゃるの? 妻が夫の出世を自分のこととして喜べるようになるのは、一心同体の夫婦としての実績がある程度できてからよ。初夜の不安に震えている妻に、重役夫人もないものだわ。そういう意味では、私も重役候補の娘なのよ」
「きみも不安に震えていたのかい」
「茶化さないでよ」
「べつに茶化してはいない。しかし、きみほどの女と別れるなんて、江口も女を見る目がないな」
「江口も最近になってそれが少しわかってきたみたい。私に帰って来てくれと言うのもあながち、岩本さんが恐いだけじゃないみたいよ。帰って来るのがいやなら外で会おうなんて、虫のいいことを言ってるわ」
「きみなら、どこで会ってもいいよ。他にも声をかけてくる男がいるんじゃないのかい」
「実はね……」
「え、本当にいるのか」
「あなたの課の日高さんね」
「日高が!」
「あの人、なかなかしつこいのよ。ぜひ一度お手合わせねがいたいって」
「そんなに露骨に言うのか」
「まさか。でも魂胆は見えているわ。あの人、私の結婚前から色目を使っていたのよ。私が出戻って来てから、空家が入居者≠募集中とでもおもっているらしくて、それはしつこいのよ。ここにこんなに凄い入居者がいることも知らずにね。うふふ」
みどりは、のどの奥で低く笑った。そのとき木原の脳裡の一隅を光が走ったように感じた。
「きみ、江口と本気で別れたいとおもっているのか」
「おもっていなければ、あなたとこんなになるわけがないでしょ」
みどりがまた手足をからめてきた。
「本気で別れたければ、江口に離婚せざるを得ないように仕向けるんだ」
「どうするのよ」
木原は、頭の一隅を照らしたアイデアをみどりに話した。みどりは聞き終わると、少し上気したような顔になって、
「面白そうだわね」
「どうだい、やってみないか」
「成功すれば、あなたの復讐の片棒もかつげるわけね」
乗り気になったみどりとの間に詳細な打ち合わせが行なわれた。
「きみは、ここへ来て国武銀行の弱腰をどう見るな」
日曜日、岩本の私邸へご機嫌うかがいと言うより偵察≠ノ行った木原に、岩本は謎をかけるように問いかけた。最近勢いを挽回しかけているので岩本の気色は悪くない。
「私ごときにはわかりかねますが」
「国武銀行の内部事情が変わってきたのだよ」
「どんな内部事情ですか」
「国武銀行には同一グループ内の姉妹銀行として国武振興銀行がある。国武振銀は、長期信用銀行のリーダー的存在だ。資金量では、大手都市銀行に劣っても、企業が本当に欲しがる長期資金貸付を大きく握っている。都市銀行は大蔵省の行政指導によって融資量の平均八パーセント以上の貸付を禁止されている。都市銀行が指をくわえて見送っている前で長期信用銀行は日本産業界を押え込んでいった。だがこの長期信用銀行にも泣きどころがあった。それが資金集めだ。彼らは預金集めを禁止されているので、債券を売って資金を調達している。この金融債券を買っていたのが、都銀、地銀、相銀、信金などの各金融機関だった。つまり長信銀の発行する金融債券の売買を通じて、短期資金が長期資金に転換されていたわけだ。国武銀行としては、グループ各社に十分な融資をしてやらなければならない。ところが全貸付の八パーセント以内に長期貸付は押えられている。これを救ったのが国武振銀というわけだ」
「国武銀行は、国武振銀の金融債券を大量に引き受けて、系列企業の長期貸付資金を調達してやったわけですね」
「そうだ。国武銀行にしてみれば、国武振銀の金融債券を買うことは、系列企業の資金を賄ってやるようなものだった。ところが昭和四十年代に入って、国武銀行と国武振銀の持ちつ持たれつの関係に変化が生じた」
「少しわかりかけてきたような気がします。国債が発行されたためじゃありませんか」
「さすがだな。昭和四十一年に長期国債が発行されて、都市銀行は大量の国債を引き受けざるを得ない立場に立った。これは長期信用銀行の資金調達に大きな打撃をあたえた。
国債で手一杯になった都銀は、長信銀の金融債を買う余裕がなくなり、買い渋り、あるいは、買入れ量を減少するようになった。こうなると、これまで姉妹的な友好関係にあった国武銀行と国武振銀も、預金集めにおいて鎬《しのぎ》を削るようになった。ここに起きてきたのが、同一グループの中で姉妹が相争うより、いっそのこと両行を合併させたらという発想だ。そうすれば無駄な競争はなく、一行をもって資金集めも長期貸付もできるようになる。大蔵省も乗り気な様子である。
企業再編成のイニシアチブを取ってきた国武の二銀行が、今度は再編成の対象にあげられたのだから皮肉なことだ。これまで、各企業の意向に関わりなく、企業再編成を指導し、ときには情け容赦もなく鉈《なた》を振るってきた者が、企業の血にまみれた鉈を振り上げられた。国武銀行の頭取|二瓶利行《にへいとしゆき》が、突然代表権のない会長に祭り上げられたのは、銀行再編成の前ぶれだと言われている」
「二瓶頭取が辞めた裏には、そんな事情があったのですか」
「まだ観測の域を出ておらんがね。それほど大きくはずれてはおらんだろう。ともかく国武銀行にとっては、浦島と国武重工業の合併どころではない内部事情が発生したことは確かだ。ともあれ、いまの国武にとって浦島は是が非でも捕えなければならない獲物ではなくなってきている。安立銀行にとっても事情は似たようなものだ。おそらく両行ともマイナスイメージを残さないような退《ひ》き時を狙っているのだろう。国武が要らざる食指を動かしおったものだからつまらない波紋を広げてしまったが、間もなく銀行間で話し合いがつくだろう」
「それで見通しはいかがですか」
「私が見るところ、国武は撤退するとおもう。国武内部にもいま浦島や安立とことを構えたくないという意見が少なくないと聞いた。この合併騒動を乗り切れれば、私の天下が来る。そのときは、合併推進派や、私に少しでも反意を見せた者は、根こそぎ取り除くつもりだ。きみも社内の動向をよく見守っていてもらいたい」
岩本の声は自信に溢れていた。彼は、完全に生気を取り戻していた。それを見て木原も自信が湧いてきた。やはり、自分の判断は誤っていなかった。岩本が権勢の座にあるかぎり、百合というパスポートは絶大の効力を発揮する。今度の合併騒動で岩本の権勢は動揺したが、これを乗り切れば、反対勢力を一掃して確固不動のものとなるだろう。これはむしろ地を固めるための雨のような事件であったかもしれない。
だがこうなると、恵理殺しの一つの可能性としての合併派の口封じという線は、消されたとみてよいだろう。もともと合併にまつわるトラブルは、殺人の動機として弱いと考えていた。国武側の及び腰を見ても、殺人を犯してまで計画の事前漏洩を防がなければならないという強い姿勢は初めから感じられない。少し弱りかけて見えた大獲物にちょっとちょっかいを出したところ、意外に強い抵抗にあって慌てて手を引っ込めたというようなところであろう。
合併話は、いつの間にか立ち消えになった。岩本が言っていたとおり、銀行間での話し合いがついて、国武側が撤退した模様である。
だが、浦島の社内を、その後一大旋風が吹き荒れた。次の取締役会において大石成明社長は、代表取締役社長の任を解かれて平取≠ヨ下ろされた。それについて大石は一言も抗弁しなかった。更迭は大石一人ではなく、宮島、横川、池上の三副社長もすべて降格された。大石道明一人が、常務の椅子に留まったが、任期満了と共に、父や三人組ともども取締役に残れるかどうかもおぼつかない。社内においても、合併推進派に付いた者、または色目を使った者は悉《ことごと》く左遷更迭された。代わって形勢不利な間も岩本に対するロイヤリティを崩さなかった者が登用された。それはいかにも岩本の性格を示すように明快かつ仮借なき処置であった。
庶務課においても、日高は社内|姨捨《うばすて》山と呼ばれる資料室へ移され、木原がその後へ坐ることになった。
合併推進派は、根こそぎと言ってよいほど放逐された。それに対して合併派は、一矢の抵抗もできなかった。国武という強大な後ろ楯が撤退してしまっては、彼らは社を売ろうとした裏切り者でしかない。裏切り者が孤立してしまったのである。
岩本は全社員を集めて社長就任の挨拶を行なった。その中で、彼は、浦島の社業の存続発展のために、おのれのもてるすべての能力を傾けることを誓い、社員にも会社のために数値で評価できるような具体的貢献を求めた。
「諸君は会社に対して何を具体的になしたかを問われるべきである。諸君は浦島の社員である。浦島は一朝一夕にして成り立ったものではない。会社からうける恩恵のすべては、諸君の働きだけによるものではないのだ。現在の浦島はピラミッドの頂きである。われわれを支えている無数の先輩たちの堆積があることを忘れるな。われわれも浦島というピラミッドを支える礎石となって、次代のより高い頂きを支えなければならない。浦島を売ろうとしたり、その純血を汚そうとする者は、すべて私の敵と見なす。このことを銘記してもらいたい」
岩本の就任の訓示は、テープに取られて、各工場の全工員の前で再生された。岩本の意気ごみと強い姿勢は全浦島に徹底された。
ついに岩本社長が実現した。それは木原の天下の到来でもある。合併騒動がまさに雨となって、岩本の地盤は磐石のように固まった。当分岩本の天下は動くまい。また岩本は、自分の手に入れた政権を、子飼いの部下に承継させるべく、早くもその根まわしに怠りない。
技術畑から出た初めての社長である。技術陣は結束して岩本を守《も》り立てている。ここへきて軍団≠フ強みが遺憾なく発揮された。
その岩本の女婿として木原は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。合併騒動を潜り抜けてきたので、もはや彼を成り上がり≠セの出世目当ての結婚などと悪口を言う者もいない。木原は弾圧を潜り抜けたレジスタンスの勇士のような見方をされているのを知って苦笑した。
この時期に木原は長い間胸に蓄えていた復讐の一つを果たすことにした。咲山みどりに言い含めて、彼女の夫と「外で会う」ことにさせた。一方、かねてから言い寄っていた日高とデートの約束をさせた。日高は多年の夢が果たされそうになったので、有頂天になった。郊外の目立たないホテルを出会いの場所に指定された日高は、みどりが、すべて了解≠フうえでデートに応じたと解釈した。さすが結婚しているだけにものわかりが早いとおもった。おとなのデートに回りくどい手順は不要である。需《もと》め合っているものが一つであるなら、さっさとそれをあたえ合えばよい。その辺のところがさすがによくわかっている。――と日高は自分に都合のいい解釈を施した。デートの場所も郊外のホテルとは気がきいている。日高もすでに結婚している。あまり目立つ場所では、いかに据膳ではあっても、つまみ難い。
日高が約束の時間に指定の場所へ出向いて行くと、すでにみどりは来ていた。女のほうが先着していることも、彼女の積極的姿勢を示すもので嬉しい。
「なんだか夢のようで、信じられない気持ちです」
と言いながらも、日高はすでに目に露骨な欲望の色を塗っている。
「信じて。私は現実にここにいるのよ」
日高の欲望をさらに煽《あお》り立てるようなことを言って、みどりは、時間を測っていた。あまり早く部屋に入ると、江口が来るまでの時間を稼げなくなる。また入室のタイミングを誤ると、江口に決定的な現場を見せられない。その辺の兼ね合いが難しい。
もっともみどりには、日高に奪われてもかまわないという開き直りがある。木原はそれを嫌っているが、彼に拘束される義理はない。それにもともと彼の復讐のために仕組んだことである。ただ木原は好ましいし、当分彼の代理妻をつづけたいとおもっているので、なるべくならば、日高を躱《かわ》したい。
江口が間に合わない場合は、木原が助けてくれるだろう。
「お食事は、お部屋で落ち着いていただきましょ」
みどりに誘われて、日高は肯いた。望むところだった。食事は、むしろ事後≠フほうがよい。餓えはべつのものにある。その点でもルームサービスはまことに都合がよい。
二人は部屋へ入ったが、まだ少々、江口の到着する時間には早すぎた。江口にはくれぐれも時間厳守を言い渡してあるが、久しぶりの禁断の妻≠ニの出会いに早く来てしまうかもしれない。それを考慮して早目に部屋へ入ったのであるが、いまからベッドインしたのでは、江口が時間どおりにやって来た場合、それまでをつなげない。
部屋へ入ると、日高はもはや露骨な昂まりを隠すことなく迫ってきた。
「待って。せめてバスを使わせて。汗をかいちゃったのよ」
みどりは危うく遮《さえぎ》った。
「ぼくは生《なま》の体臭のする女性のほうが好きなんだ」
「そんなに急《せ》かなくとも大丈夫よ。ここまで来たんですもの。逃げやしないわよ。おいしいものはおたがいにゆっくり味わわなきゃ」
「ぼくもいっしょにバスに入っていいかい」
「それも終わってからゆっくり。女にはいろいろ支度があるのよ」
みどりに流し目を送られて、日高は渋々昂ぶりを抑えた。
バスから上がり、日高にもバスを使わせてようやく時刻が迫った。もうルームサービスを取っている余裕はない。みどりは、日高がバスを使っている間にドアの錠《ロツク》をはずしてベッドへ入った。日高はバスから上がると、すでにベッドインしているみどりを見て、子供のような歓声を上げた。そのときみどりは彼を罠《わな》にはめるのが急に可哀想になった。
日高はあまり遊び馴れていないようだ。それだけに、みどりに対する熱意にはナイーヴなものが感じられる。彼の結婚生活もあまり豊かなものではなさそうである。罠にはめたのであるから、せめて、餌だけでも食べさせてやろうかという気になった。
もう江口はいつ来てもよい時間になっていた。日高は、みどりの脇のベッドスペースに身体を入れて、彼女を抱き寄せた。ナイトテーブルの灯を消す余裕もなければ、その灯によって彼女の躰《からだ》の眺めを楽しむ余裕はさらにない。
「優しくしてね」
みどりの言葉にうわの空で肯いて、稚拙な手つきで彼女の身体をまさぐり始めた。稚拙な前戯ではあるが、十分に成熟し、開発されたみどりの躰は、敏感に反応を始めている。
「早く来ないと、間に合わなくなっちゃうわ」
みどりの喘ぎ声を、
「いま何と言ったの?」と日高が聞き咎めた。
「早く来てと言ったのよ」
その言葉は、いまや二重の意味に掛けられている。だが日高は、もう一つの意味の裏を知る由もない。女から促されて、昂まりきった欲望を女体に突き立ててきた。
「ああ、だめだわ。早く来なければ」
みどりの言葉が、ますます日高を急がした。彼女にはもう躰をひねって男の追蹤《ついしよう》を避ける余裕もない。彼女自身、官能の昂まりの中に溺れかけていた。この場合パートナーに選り好みはない。彼女を官能の極致へ引っ張り上げてくれる手であり、もみしだかれる波濤の中で必死に縋《すが》りつくべきブイであればよかった。
ドアが静かに開かれて、廊下の空気が流れ込んで来た。だが二人は気がつかない。室内の空気のほうがもっと妖《あや》しく揺れ動いていたからである。
入口の人影は、ベッドの上で進行している痴態に言葉を失って立ちつくした。唖然としている様子であった。さらにその背後から一個の人影が近づいた。彼は手にカメラを構えると、室内に向けてシャッターを押した。フラッシュが閃《ひらめ》いた。さらにつづけて二度三度、閃光《せんこう》が迸った。ベッドの上で二人の体がからみ合ったまま硬直した。
「な、なんだ、きみは!?」
咎めたのは、ベッドの上の日高ではなく、ドアの許に立ちすくんでいた江口である。
「ちょうど通り合わせたのです。無意識にシャッターを押してしまいましたが、フィルムは差し上げます」
その声を木原のものと悟ったとき、日高は自分がはめられたことを悟った。これはまさに日高が木原をドアのない便所へ追い込んだときの忠実な再現ではないか。木原の場合は人に見られることを覚悟してのやむにやまれぬ行為であったが、こちらはまったく無防備のところを斬り込まれた。それだけに救いようがない。日高が自分のこれ以上はないみじめな立場を確認したとき、みどりが江口に声をかけた。
「あなた、離婚して」
復讐の一つは劇的な成功をみた。木原は、「ドアのない屈辱」をそのままの形で増幅して日高に投げ返した。だが、その後、時間が経過するほどに、ベッドの上に固定されたみどりと日高の姿勢が気になってきた。それはあまりにも刺激的な構図であり、復讐のための演技にしては、みどりが必要以上に相手に許容しているように見えた。写真で確かめると、それはさらに強調されて定着している。
「きみ、いったいどこまで許したのだ」
木原が気がかりを抑えておけなくなると、みどりは、例のいたずらっぽげな目を、くるりとひるがえして、「気になる?」と反問した。
「それは気になるよ。きみはぼくの妻と同じだからね」
「妻のようなものだけど、妻じゃないわよ」
「そうは言っても、きみを奪われたら、復讐にならない」
「うふふ、でも気にしてくれて嬉しいわ。女って好きな男に気にかけられるのは嬉しいものなのよ。それがだんだん高じて束縛をうけるのを喜ぶようになるわ」
「まだ束縛をうけたくないか」
「私、やっと自由の身になったばかりだもの。もう少し、この身分を楽しみたいの」
みどりは、ようやく江口との離婚が成立したところであった。江口に現場≠見せたことが、彼の未練を断ち切り、離婚届けに印を押させたのである。
木原は、多年の屈辱として蓄えてきたものの一つをこのような形にして雪《そそ》いだ後、なにか虚しさをおぼえていた。自分が工員と社員の身分差別を胸に刻み、その屈辱をいつの日どんな形にして返せるかわからないが、必ずなんらかの形で投げ返してやると誓った復讐が結局これであったのか。ただこれだけの復讐のために、人生のあらゆる可能性を集中してきたのか。
そうではないという声が、心のどこかにあるようであった。木原の目指す復讐はそんな小さなものではない。「目には目を」式の復讐には、同次元の憎悪があるだけで、新たに産み出されるなにものもない。
木原は、人生そのものに復讐をしたいのである。差別をした人生に、差別の存在する人生に、そしてその差別に付け込んでロボットの妻を売りつけた人生に、そしてなによりも差別に克《か》つ武器とすべく彼女を買った自分自身に復讐をしたいのだ。
自分自身への復讐とは何か。それは復讐のために魂を売り渡した自分に嫌悪を覚え、人生から逆に復讐されたがっている心の傾きかもしれない。
罠にはめた日高のぶざまな姿勢を写真に捉えながら木原は多年の胸の閊《つか》えが晴れるどころか、自分をみじめに感じていた。自分は結局この程度の人間であったのか。自分のもてる能力のすべてを傾けて画いた壮大なビジョンとやらも、所詮、この程度のものであったのか。
「ドアのない屈辱」も投げ返してしまえば、低次元のものであった。投げ返した後には、虚しい空洞があるだけで、なにも残らない。
第二の断崖《だんがい》
岩本の言葉に嘘はなかった。身体の欠陥を承知で百合と結婚してくれれば、今後全力を挙げて守り立てると約束したとおり、庶務課係長就任後間もなく、社長室を新設し、その室長に木原を据えた。しかも社長室に、岩本パーティの若手を集めて、社長直属のスタッフとした。このスタッフには、資料を集め分析し、経営をマクロ的視野で見させて、各現場への直接介入権をもたせたから、その権力は強大なものとなった。
また岩本は、木原の進言を入れて各事業本部の優秀な若手を一人|乃至《ないし》三人ぐらいずつ社長室に集めさせたので、現場の状況をよく把握すると同時に、トップの意志が滑らかに各現場に疎通するようになった。浦島の社員は、社長室を小姓部屋≠ニ呼んで、そこに抜擢《ばつてき》された者を羨んだ。
木原は、この小姓部屋の長として、オール浦島ににらみをきかすようになったのである。これが百合と結婚後、二年余の間に到達した位置であるから、彼女のパスポートの絶大な効能と言うべきであろう。
だがあながち、妻のヒキだけではなく、木原自身、社長室長になってから、めきめき本来の力倆を現わしていた。
木原は、おのれの早すぎる出世に不安を抱いていた。社長の女婿として、いま岩本の最側近にある。社長の意志の代行機関としてオール浦島を統《す》べる位置にある。代行という形で、しばしば木原自身の意志で判断を下すことすらある。工員子弟出身の成り上がりがオール浦島に君臨している。これこそ工員子弟時代、自分の夢見たビジョンの展開であり、実現である。いや社員になることで精一杯で、そんな大それた野心はもっていなかった。
予期せざる百合との出会いによって、夢が膨張し、意外な形に展開した。
だが社長はすでにトップに登りつめた人間である。もはや下りる道しか彼の前にはない。権力者に近づきすぎた者は,権力者が権力を失うと同時に失脚する。
岩本の女婿としてその懐ろに入りすぎた木原は、岩本と運命共同体≠ノなってしまった。
功成り名遂げた岩本は、いつ退いてもよいだろう。だが木原はさらに遠方まで行かなければならなかった。社長室長ぐらいで終わってたまるかという気概が、そのポストに坐って生じてきたのである。社長の意志を代行しようと、それは自分の意志ではない。せっかくここまで来たからには、自分の意志で浦島を統べてみたい。野心は階段的にエスカレートする性質をもっている。一つの野心の達成によって、新たな野心が芽生えていた。
だがその野心を果たすためには、登りつめた岩本のために殉死してはならない。岩本が下りた後もこちらは登って行かなければならないのである。
そのためには、岩本の後継者に誼《よしみ》を通じておくことである。また権力を反対勢力の手に渡さぬことであった。徳川幕府が三百年にもわたって政権を維持したのは、それを手に入れたとき、徹底的に反対勢力を駆逐したからである。木原も同じ手を使った.岩本に進言して大石派、三元副社長派、合併推進派、中浦家にゆかりのある者などは、どんな末端までも容赦なく刈り取って、悉《ことごと》く閑職や傍流傍系へ追いはらった。
さすがの岩本がなにもそこまでしなくともと二の足を踏むほどの徹底した駆逐ぶりであった。岩本の政権を磐石に据えるためには、どんな小さな危険要素も取り除かなければならないと、木原は強く主張した。この社内の草刈り≠ノよって、岩本はこれまで「娘を預けた男」から「頼れる側近」として木原を見直してきたようである。娘のオモチャが、岩本の懐ろ刀に変化してきたのである。
木原にしてみれば、すべて自分の保身のためにやっていることである。岩本の最側近に位置しながら、彼は浦島に一片の忠誠も誓っていなかった。木原はもともとなにものに対しても、忠誠を誓えない男であった。誓うべきなにものももたないのである。忠誠も、愛も、友情も……それはずいぶんと寂しいことである。彼の只一つの取り柄は執念深さである。それを武器にここまで斬り取って来られた。
木原は、いま初めて自分のビジョンの一端が具体的に見えてきた。それは人生を斬り取ることである。斬り取った後が、雑草も生えないような荒野であっても、自己の版図を画することが重要なのだ。
ただうけた屈辱を投げ返すだけでは、人生を斬り取ることはできない。投げ返すだけで斬り取る姿勢に欠けていたから虚しかったのである。そのことが社長室長になって草刈り≠進めながらよくわかってきた。
木原の人生に対する復讐とは、このことだった。斬り取った後にたとえペンペン草も生えなくとも、確実に足跡は残る。荒野の版図、それはまさに男っぽいビジョンではないか。
木原はその版図を維持し、拡大するために、みどりの父親に接近した。みどりの父親咲山良治は、今回の人事異動によって船舶鉄構事業本部長に就任した。次の株主総会においては取締役候補者として挙げられることになっており、その選任は確実である。大石元社長および三副社長組が取締役からはずされる可能性は大きく、次の総会によって重役地図は大幅に塗り替えられるだろう。
咲山は、岩本の腹心の最右翼としてこれまでピタリと付いてきた。岩本が大胆に動けたのも、咲山が常にその背後を固めていたからである。咲山が取締役になれば、取締役会において、一挙に表見代表取締役、つまり常務あるいは専務程度のポストに跳躍するかもしれない。ともかく咲山は浦島の技術畑ではナンバーツーマンなのである。岩本としてもようやく技術畑が手に入れた政権を同畑内でパスしていきたいところだ。いや是非ともそうさせなければならない。岩本の腹の中には、一人か二人クッションをおいた後、咲山に政権を渡したい気持ちが強いだろう。「咲山社長」も、十分、実現性があるのである。
もし咲山社長が実現すれば、木原はみどりを媒体として咲山とも強いコネクションを有することになる。咲山が社長となれば、岩本は代表権を留保した会長のポストに納まっているだろう。そうすれば、木原は会長と社長の二重の女婿≠ニいうことになる。こう考えると、咲山社長は是非実現させなければならない。
二重のヒキ≠うけている間に、木原としてはできるだけ版図を拡大しておいて、やがてヒキが失われた後も、独立していけるだけの強い力を蓄えておかなければならない。
このような計算の下に行動する木原は、岩本の目にことさらに頼もしく映じた。いまや木原は岩本にとってなくてはならない帷幄《いあく》となっていた。恵理が死んで一年が経過しようとしていた。
反岩本派の草刈りが一段落したとき、木原の許に交換台から一本の電話が取り次がれてきた。だれからだと問うた木原に交換手は、
「お名前をおっしゃらないのです。二天の岩屋の件でお話ししたいと言えば、必ず電話に出てくるはずだとおっしゃってます」
「なに! 二天の岩屋だと!?」
いきなり大きな声を出されたので、交換手はびっくりしたらしい。
「つなぎなさい」
木原は、呼吸を整えて言った。合併騒動とそれにつづく人事交代ですっかり忘れていたが、例の怪電話の主Xがまた接触を図ってきたのである。それにしてもいままで鳴りを静めていたのが無気味であった。獲物が肥えるのをじっと待っていたような気配である。
「ご無沙汰しました。私のことを憶えていてくださったようですね」
Xの声が記憶を呼び覚ました。口調の卑しい濁りに記憶がある。
「きみはいったいだれだね」
木原は、Xの正体が気になった。
「お会いして自己紹介したいとおもいます」
「何のために会うんだね」
「矢沢恵理さんの死因について新しい事実がわかりましたので、あなたとご相談したいのですよ」
「新しい事実とは何だね」
「彼女は殺されたことが確認されたのです」
「殺されたという証拠でもあるのか」
「それを私が見つけたのです」
「どんな証拠だ」
「それはお会いしたうえでお話しします」
「なぜ、ぼくがそんな話を聞かなければならんのだ?」
木原は、周囲の耳を警戒しながら、Xがどの程度知っているのか探ろうとした。
「それはあなたご自身がよくご存知なんじゃありませんか」
「ぼくはなにも知らないよ」
「信じられませんね。ご夫婦≠ネんでしょ」
木原は、胸の柔らかい部分をグサリと突かれたような気がした。やはり相手は、恵理の代理妻≠ニしての、木原との特殊な関係を知っていたのだ。
「冗談じゃないよ。勝手な臆測で話をしないでもらいたいな」
木原は言質を取られないように言葉を選んだ。電話にテープレコーダーを仕掛けられていないともかぎらない。
「とにかくあなたにとって身近な人だ。一度会ってお話ししたいのです。そのほうがあなたのおためですよ」
「この前もそんなことを言ったな」
「私はあなたのためをおもっているのです。あなたでなければ埒《らち》があかないのでご相談申し上げたいのです」
「何のことかさっぱりわからないが、会うだけなら会ってもいい。ぼくもこんな不愉快な電話で悩まされたくないからね」
Xに会うことは、矢沢恵理との関係を認めることになるが、会わないことにはXの正体も意図もつかめない。
「そうこなくちゃ。私は決して多くを求めているわけではないのです」
だんだんXの意図が見えかけてきた。
「きみになにも求められる筋合いはないがね」
「それもお会いしたうえでご相談しますよ。今度の土曜日三月七日の午後八時、国道沿いのホテル・リトルマーメイドのラウンジでお待ちします」
そのホテルは偶然にも日高を罠にはめたホテルであった。そこにもなにかの底意が感じられるようである。
「私はきみを知らない」
木原はXのペースに乗せられていた。
「ご心配なく。私のほうがよく存じ上げております」
「一つ聞いておきたい。きみが初めて電話してきてから一年以上経っている。なぜいまごろになっておもいだしたようにまた電話してきたのだ」
「えっもうそんなに経つのですか。驚いたなあ」
Xは素直な驚きを声に盛ったが、質問には答えなかった。結局先方のリクエストどおりに会うことになった。
電話を切ってから木原は、忘れていた恵理の死がまだ依然としてくすぶりつづけていたことを知った。Xは恵理が殺された証拠をつかんだと言った。その証拠とは何か? それを木原に突きつけて買い取れとでも言うつもりだろうか。Xは、恵理が「殺された証拠」と言っただけで、「犯人をしめす証拠」とは言わなかった。ということは、木原を犯人として疑っていることであろうか。
その証拠≠ネるものを突きつけて、木原の反応を見ようとしているのであろう。これは迂闊《うかつ》には会えない。弱い姿勢を見せると、つけ込まれて、骨までしゃぶられかねない。
とにかくこちらには恵理と夫婦に準ずる関係を結んでいたという弱みがある。いま岩本の帷幄《いあく》にあってオール浦島を斬り取りかけている時期に雑音を入れられたくない。反岩本分子を刈り取ったとは言うものの、根は埋伏されて、また天下を奪い返す機会をうかがっている。いま兎《う》の毛ほどの隙《すき》も見せてはならなかった。
次の土曜日の夜、木原はみどりとのデートを犠牲にして怪電話の主との待ち合わせ場所へ行った。国道沿いのこのホテルは、ドライブイン代わりに、あるいはモーテル代わりに使われていて、双方の客にとって便利な存在であった。
デートに利用する客も、いかにも|それ《ヽヽ》を目的に建てられたモーテルに入るような気恥ずかしさをもたずに立ち寄れる。またちょっとした商談や会議もできる小部屋もある。
木原は、約束の時間より少し早目に出かけて行った。休日前夜なので、ドライブ途上の男女やグループがよく立ち寄る。朝から冷たい雨がパラついており、こんなときはみどりと暖かい部屋に引きこもって週一回のデートを楽しみたかった。木原はアベックが羨《うらや》ましかった。さりげない振りをしてフロントのほうへ行く男女の目的はおのずからわかるが、それがあまりぎらついて見えないのが、このホテルのよさである。
約束の時間がきたが、それらしい人物は現われなかった。電話の声の調子からして三十前後の男が想像されたが、木原に声をかけてくる者や遠方から視線を送る者もいない。休日前夜の人間はいずれも独善的で、それぞれの楽しみを追うのに忙しそうであった。
木原は一時間待ったが、結局だれも接近してこなかった。あるいは今日は様子を見に来ただけかもしれない。
木原は、無駄足を踏んだだけになった。Xに急な不都合が発生したのか。それとも、木原に対して危険な気配を嗅ぎ取って姿を現わさなかったのか。理由は判然としないながらも、木原は生《なま》殺しの状態におかれたようでなんともすっきりしなかった。
あるいは先方の狙いは、木原にちょっかいをかけて反応を見ることにあったかもしれない。そうとすれば、のこのこと誘い出されて一時間も待ったのは、まずかった。先方にそれは十分な反応と映じたにちがいない。
だが反応を見ただけでは恐喝の目的を達せられない。これから追い追いとなにか言ってくるのであろう。
帰宅したのは九時半ごろであった。玄関へ入ると家の中がなんとなく冷え冷えとしていた。木原の気配に百合が迎えに出て来た。
「お帰りなさい」
百合の面も寒そうに白くなっている。みどりとのデートを棒に振ってXと待ち合わせたにもかかわらず、ついに彼は姿を現わさなかった。こんなことであれば、みどりに会えばよかったと悔やんでも、空費した土曜の夜は償われない。せめてこれからの時間を楽しく過ごして埋め合わせようと、木原は敗者復活戦に臨むような気持ちで靴を脱いだ。急に空腹が意識された。なにか食べる物があるかと問うと、百合は当惑した表情で、
「あら、召し上がっていらっしゃらなかったの。朝、お夕飯はいらないとおっしゃったので、用意してないのよ」
「あり合わせでいいよ。早い時間に食ったのでまた腹がへってきた」
「ごめんなさい。すぐ用意しますわ」
「めしができるまで風呂にでも入ろうか」
百合はますます慌てて、
「すぐお湯をためますわ。五分待ってくださらない」
「なんだ、風呂も用意してないのか」
木原は、鼻白んだが、今日は遅くなると言っておきながら自分の都合で急に早く帰って来たので、あまり文句も言えない。
自分の弱みをよく承知して甲斐甲斐《かいがい》しく立ち働く百合の姿は可憐ですらあった。今夜はXとの会見の約束であったが、帰りの遅くなる夜はみどりとのデートであることを知っている。知っていながら、なにも知らない振りをして夫に仕えている。やむを得ない代理妻とのデートであるが、百合の切ない気持ちがわかるだけになるべく百合を悲しませないようにしようという心の傾きとなっている。
浦島市袖ケ崎の住人、井関純夫は、自室を出て、バス停の近くまで来てから、次第に気がかりになってきた。ガス風呂の元火をどうも消さなかったような気がしてきた。井関は、慎重なタチで、部屋を出るときに、ガス、電気、水道、戸閉まりのたぐいを、すべて自分で確認しないと安心しない。外出時には身体が自動的に動いて、必要個所を「切」ったり、「閉」じたりする。外出時の確認個所は決まっていて、ガス風呂だけ漏れることはない。
だから不安は気のせいで、必ず、消してきたはずであった。だがそのときなにか他のことを考えていたらしく、身体が行為として憶えていないのである。それでは、面白くないのだ。指先に記憶として残っていないと安心ならない。
ガス風呂の元火が不安になると、他のガス栓や戸閉まりや、電気までが安心ならなくなる。こうなるともういけない。自分でも馬鹿馬鹿しいとおもいながらも、強迫観念でどうにもならなくなる。
約束の時間は迫っていた。家まで戻ると、確実に遅れてしまう。不安なのはガス風呂だけであり、他の確認個所には記憶がある。
ちょうど視野の中に公衆電話ボックスが入った。家を出るとき激しかった雨足は小降りになっている。彼は電話ボックスに駆け込んで隣室の野津昌子の番号をダイヤルした。昌子がいま在室していることは、出て来るときの気配で知っていた。昌子はすぐに応答した。井関のリクエストを聞くと、彼女は、
「またはじまったのね」と揶揄《やゆ》するように笑いながら、「鍵は牛乳受けの中ね」と引き受けてくれた。
昌子には鍵のしまい場所も教えてある。間もなく合鍵を一本預けそうな予感がする。そうなったときは外出時にこんな神経を使う必要はなくなる。もっともいっしょに出かける機会が増えれば同じことであるが。純夫は少し眩《まぶ》しいおもいで美しい隣人のことを想った。
なんとなく心が弾んで、ボックスを出ると、雨は上がっていた。そのままバス停へ来たところで、ボックスに傘を忘れたのに気がついた。雨が上がったのと、野津昌子との会話で上気したのとで、傘を忘れてしまったのである。雨は完全に上がったのではなく、いつまた降り出すかわからない。バスが来るまでまだ多少時間があった。井関は急いでボックスへ引き返した。案の定、ボックスの近くまで来ると、また雨が降ってきた。
ボックスを外から覗いたが、傘は見えない。ドアを開いてみたが、内部のどこにもない。ここからバス停まで往復するわずかの間に、井関の次に来た電話利用者が、降り出した雨に忘れ傘をこれ幸いとさしていってしまったのだろう。持去り人は、まだ近くにいるかもしれない。しかし周囲は暗くどちらの方角へ行ったのかわからない。バスはいまにも来る時間になっている。そのバスを逃せば会合には確実に遅れる。雨の中を、傘の持去り人を捜索する気にはなれない。どうせ失っても大して惜しくない安傘である。
だが、雨に濡れながら再度バス停へ急いでいると、腹立たしくなった。せっかく傘をもってきながら雨に濡れて歩いているのが腹立たしい。傘を持ち去った犯人が憎らしかった。先刻の心の上気は、あとかたもなく冷やされていた。
月曜日の朝、朝食を摂りながら朝刊に目を通していた木原は、社会面の一隅に視線を固定させた。それは、市域で発生した事故を報じたものである。記事は次のようなものである。
――三月八日(日曜日)午後一時ごろ浦島市大崩海岸通称屏風ガ浦の親子岩付近に磯釣りに来た小日向町の吉田源三さん(四八)が、母岩のそばの海中に一台の乗用車が沈んでいるのを見つけて、浦島署に届け出た。同署では浦島消防署のアクアラング部隊に出動を要請して、車を引き揚げたところ、運転席に浦島市西駅前町内海運輸勤務の小泉幸平さん(二八)同市千石台十二――の死体が見つかった。
検視の結果、死亡推定時間は前日三月七日午後八時から約二時間。外傷は認められず、死因は窒息か、海に転落したショックによる心臓麻痺とみられている。
現場は約八十メートルの海蝕崖が海に垂直に切れ落ちて魔の淵を抉《えぐ》り、自殺名所となっている。断崖の上は溶岩流の台地が廊下状に海に面している。ガードレールなどの転落防止設備はない。車の乗入れは禁止されているが、海の眺めがよいので、ときどきアベックの車が入り込んで来る。
小泉さんの車はこの崖の上から海中に転落した模様である。崖の中腹には車の落ちた痕跡が認められ、中腹に疎生している赤松の枝にはミラーその他の積載物破片が引っかかっている。
車のサイドブレーキは引きかたが甘く、車内にウイスキーの空きびんがあり、小泉さんが靴を脱いでいる点から、同署では小泉さんが崖の上に車を停めてウイスキーを飲み仮眠をとっている間に、車が傾斜に引かれて自然に動き出し、海中に落ちたとみている。
なお、小泉さんのポケットに現場から二キロのところにあるホテル・リトルマーメイドのマッチがあったので同ホテルにも事情を聴いている。――
読んでいる間に、木原は緊張してきた。土曜日の午後八時ごろと言えば、ちょうど木原とXがホテル・リトルマーメイドで待ち合わせていた時間である。しかも死者のポケットから同ホテルのマッチが出てきたという。
これは単なる偶然の符合であろうか。木原はさらに重大な符合に気がついた。それは、矢沢恵理の死の状況とよく似ているということである。片や谷底、一方は海中というちがいはあっても、どちらも崖から落ちた。そしていずれも事故とされている。
この二つの事故に関連性があると仮定したらどうか。つまり恵理を殺した犯人が、その擬装を見破った小泉幸平の口を封じたとしたら。
「あなた、遅れるわよ」
妻の声に、新聞を手に自分の思考に耽ってしまった木原は、我に返った。
その日は出勤しても、親子岩の転落車が気になって仕事にならなかった。小泉幸平が怪電話の主であれば、恵理と確実に関連がある。
だがいまのところ小泉をXと想定させるものは、死亡推定時間と木原とXの待ち合わせ時間の符合、ホテルのマッチおよび、恵理の死との相似だけである。ホテルのマッチは多数出まわっているものであり、車の転落事故も珍しいことではない。これだけでは弱い。その後Xからの連絡はない。木原は、自分の目で現場を確かめたくなった。
恵理が死んだ現場も踏んでみたが、小泉の現場も自分で確かめてみれば、なにか新しい発見があるかもしれない。浦島署には初めからヤル気がない。
なるべくならば事故へもっていきたい姿勢のところへ、自殺名所でサイドブレーキが甘かったり、ウイスキーのボトルがあったものだから手もなく騙されてしまったのかもしれない。
木原は、翌日口実を設けて会社を脱け出した。次の休日まで待っていたのでは、あり得べき痕跡も消えてしまうおそれがある。また夜間行ったのでは、闇の中に手がかりを見逃してしまうかもしれない。
明るい昼の光の下でゆっくりと観察をしたかった。大崩海岸屏風ガ浦は、その名のとおり屏風のような海蝕崖が海面から八十メートルの高さに切り立っている。親子岩の付近には激浪によって抉《えぐ》られた「母の胎内」と呼ばれる海蝕洞もあり、死体は潮流によってこの中に引きずり込まれて永久に上がらないと言われている。車が落ちたあたりは、魔の淵と恐れられて、地元の者もめったに近づかない。発見者が危険を冒して磯釣りに来なければ、いまだに発見されなかったかもしれない。
屏風ガ浦の上は幅五、六メートル、長さ五十メートルの溶岩流の台地状になっており、海に向かって緩やかに傾斜している。台地の縁や、崖の中腹には赤松が疎生している。また親子岩には海生動植物が豊富である。
国道から屏風ガ浦の上まで特に道があるわけではないが、車で入って来られる。
平日なので周囲に人影はなく、台地の突端に一台のスポーティカーが駐《と》まっているだけである。車内に人影は見えないが、うっかり近づけない。車内の死角でアベックがどんな状態になっているかわからないからである。
海は凪《な》いでいる。縮緬皺《ちりめんじわ》を刻んだ海面が午後の陽を浴びて光の粉を塗《まぶ》したように局所的に輝いている。それは台地の突端に気配を消してシンと駐まっている車のせいか、官能的な眺望に映じた。
車の落ちた痕はすぐに見つけられた。崖の上部から海面まで、崖の土がかきむしられ、松の枝が裂かれ、灌木が折れて、一条のむごたらしい痕が刻まれている。
木原はしばらく転落の痕跡を見つめていたが、車へ戻ると、一つの実験を行なった。車首を海のほうへ向けて、サイドブレーキを徐々に緩める。だが車は動かない。台地は総体に海に向かって緩傾しているが、小さな凹凸が無数にあって予期したように傾斜に引かれない。
警察も当然同様の実験をしたはずである。車が自然に動きだすためには、なにかの「はずみ」が必要である。
それではそのはずみは何によってあたえられたのか。
場所を変えれば、自然の勾配が車を引き込むかもしれないとおもって、駐車位置をあちこち移動してみた。だが車は動かない。
やはり車にはなんらかのはずみがあたえられたのだ。自然に働くはずみというものもあるだろう。たとえば、崖縁に駐車中に地震が起きたり、土砂崩れがあったり強風に煽られたりして車が自然に動きだすケースである。
だが当日地震も土砂崩れも強風も発生していない。すると考えられるのは、人為的なはずみである。人為的なはずみによって動いたのは、「自然に動いた」のではない。
木原が独り思案に閉じこもっていると、かたわらからいきなり、
「そこで何をしていらっしゃいますの」
と問いかけられた。我に返って目を上げると、若い女性が彼の顔を訝《いぶか》しげに覗き込んでいる。平凡な面立ちだが、目元の涼しい清潔な雰囲気の女性であった。シンプルな仕立てのワンピースがよく似合う。
「木原さんですわね。いつぞやは大変失礼しました」
女はにっこりと笑った。右の頬に笑くぼが刻まれて、表情を愛くるしくしている。その笑くぼに記憶があった。
「あなたは……」
と言いかけて咄嗟に名前が出てこない。工員グループに公衆便所へ叩きつけられたとき、通りかかって車に拾い上げてくれた女性である。あのときたしか名前を聞いていたはずであった。
「小泉雅子と申します」
「ああ、こいずみさん」
おもいだすと同時に、彼女の姓が、屏風ガ浦に落ちた車の主と、表音上同じなのに気がついた。
「木原さんも、ここから落ちた車に興味がおありのようですわね」
彼女の目がはっきりと詮索の光を浮かべている。
「それでは、落ちた小泉さんは……」
「私の兄です」
「あなたのお兄さんだったのですか」
「木原さんは、なぜ兄の事故に興味をおもちなのですか」
視線が突き刺さるように向けられた。一見|嫋《たお》やかだが、芯の強さが表情に現われている。納得のいく答えを聞くまでは引きさがらないという構えが感じられた。
「あなたもお兄さんの事故に疑惑を感じたのですね」
「木原さんも疑惑をもったのですか」
「そうです」
「なぜですか」
彼女は追及の手を緩めない。木原はどこまでをどう話すべきか当惑した。まず小泉幸平が怪電話の主Xであるかどうか確かめたうえでなければうっかり話せないし、Xでなければ、彼女に話したところで仕方がない。Xであって、初めて恵理の死と関連が生じる。木原が疑いを抱いた理由も納得されるのである。またXであれば、妹も怪電話の件を認識しているかもしれない。
それを認識していれば、木原が小泉の死に疑惑を抱いた経緯も推測できるはずである。
雅子はすべてを承知のうえで木原に問うているのかもしれない。下手な返事はできなかった。
「その前にお質ねいたしますが、お兄さんは矢沢恵理という女性となにかご関係はありませんでしたか」
「やざわ……さあ。その人がどうかしたのですか」
反問されて、小泉雅子は首を傾げた。演技している様子も見えない。
「どんなつながりでもよいのですが、おもい当たることはありませんか」
「その女性は、どんな人なのですか」
「浦島の社員だった女《ひと》です。昨年の三月初めに二天の岩屋から車の運転を誤り、谷底へ落ちて死にました」
「いま、二天の岩屋とおっしゃいましたか」
小泉雅子の表情が大きく反応している。
「そうです。チェリーラインの上部にある二天の岩屋です」
「私の兄も同じころトラックを運転していて運転を誤り、二天の岩屋から落ちたのです」
「なんですって!」
木原は、愕然とした。
「兄は車から投げ出されて、奇蹟的にかすり傷だけで助かりましたが、トラックは谷底に落ちてめちゃめちゃになりました」
ここに重大な共通項が生じてきた。そう言えばあのとき、恵理の車が落ちる四、五日前に同じ場所にトラックが落ちたと検視の警部が言っていた。木原自身現場へ行ってその残骸を確認している。矢沢恵理と小泉幸平は二天の岩屋を接点にしてつながりをもっていた。この共通項をどう解釈すべきか。
ともあれ、木原は小泉幸平がXにまちがいないという確信をもった。そして幸平は妹になにも話していない。木原は雅子に小泉幸平が怪電話の主(恐喝《きようかつ》者)の疑いがある事情を自分に都合よく粉飾して話した。
「そういう事情があったのですか」
雅子は初めて合点がいったように肯いた。だが同時に木原に対する疑惑に点火されたようでもある。すべては木原の造り話とも釈《と》れるのである。
「しかし、私が不思議でならないのは、なぜお兄さんが私に電話してきたかということです」
「それでしたら、私にある程度想像がつきますわ」
雅子は思慮深そうな目を海のほうへ向けた。目元が涼しいので、目の色が深く見える。恵理もそんな目つきをすることがあった。――と海の色を映して青く翳《かげ》った雅子の目に木原は恵理のおもかげを重ねていた。
「兄はトラックを落として、会社から損害賠償を要求されていたのです」
「保険に入っていなかったのですか」
「交通事故の被害者を救済する対人賠償保険にしか入っていなかったのです。そのために車と積荷の損害賠償八百万円を要求されていました」
「それで賠償金欲しさに私を恐喝しようとしたわけですか。しかし、どうして私なんかに白羽の矢を立てたのでしょうか」
「木原さんは矢沢恵理さんの事故の現場をご自分で確かめるためにそこへ行かれたそうですね。兄はおそらくそのとき現場にいたんじゃないかとおもいます」
「お兄さんが現場に?」
木原は、現場へ立ったときの様子をおもいだした。深夜の山気は凍てつくようであり、人の気配は感じられなかったが、木立や岩のかげや、窪地にだれかが身を潜ませていてもわからなかったであろう。
「兄は、トラックの残骸を引き揚げるために何度も現場へ行ったのです。そこでたまたま木原さんを見かけて、矢沢さんという女の人となにかつながりがあるとおもい、苦しまぎれにあなたからお金を取ろうとしたのではないでしょうか」
「お兄さんは矢沢さんが車ごと突き落とされた証拠を見つけたと言ってましたよ」
「犯人が木原さんだと言ったのですか」
「そうは言いませんでした。会って相談したいと言ってました。そして会う約束をした夜にこの崖から落ちてしまわれたのです」
「木原さんと矢沢さんを相当深い関係と見たようですわね」
事実、深い関係なのであるが、それを雅子に打ち明けるのは危険である。木原は恵理殺しの容疑圏外に身をおいて、小泉幸平の正体と死因を突き止めなければならない苦しい立場にある。
「深夜密かに現場を確かめに行ったのですから、深い関係と見られても仕方がありませんが、お兄さんの口調でちょっと解《げ》せないところがあるのです」
「それは何ですか」
「私を恐喝するにしては口調が弱かったのです。お兄さんの口ぶりでは、犯人を見つけたので、私と相談したいといったようなニュアンスでした。なぜ私がそんな相談に応じなければならないのか、解せないのです。私と犯人はなんの関係もないはずです」
「でも結局、兄と会う約束をしたのでしょう」
雅子の目は、木原の表情の動きを探っている。心の奥で彼に対する疑惑を捨てていないのであろう。
「それは、私もお兄さんの正体と意図を知りたかったからです。ところであなたはなぜ、ここにおられるのですか。あなたはなぜお兄さんの死因に疑いをもったのですか」
木原はようやく反問に転じた。
「兄が崖縁《がけぶち》に車を停《と》めて酔いつぶれるほどにウイスキーを飲んだことに引っかかるのです」
「お兄さんはお酒を飲まなかったのですか」
「好きでしたけれど、海に面した崖際にわざわざ車を運んで行って飲むようなことはありませんでした」
「トラックの賠償問題でむしゃくしゃして、酒を飲んだということは考えられませんか」
「たとえそうだったとしても、独りで飲むのは嫌いでした。賑やかなお酒が好きだったのです。もともとあの事故も会社の無理な勤務編成で、ほとんど寝ていなかったためなのです」
「それでなにか手がかりを見つけましたか」
「この崖の上からでは、車は自然に動きださないことがわかりました」
彼女も木原と同じ発見をしていた。
「するとやはり、だれかが突き落としたと……」
「木原さんは、だれが突き落としたとおもいます?」
雅子の目に強い光がこもった。
「私は、矢沢恵理さんを突き落とした犯人が、お兄さんにそれを悟られたために口を封じたのではないかとおもいます」
「矢沢さんと兄は、同一犯人に殺されたとおっしゃるのですか」
「手口も同一です」
「矢沢さんはなぜ殺されたのでしょう?」
その点に関しては詳しい説明をしていない。
「私もよくわからないのですが、矢沢さんはいろいろとあちこちにつながりがあったようですから」
「どんなつながりですの」
「それは、つまりそのう……若い美しい女性でしたから……」
「木原さんもそのつながりの一つだったのではございません?」
雅子の追及は厳しかった。木原が返答に窮すると、
「単なる会社の同僚ぐらいでは、わざわざ山の中の現場まで確かめには来ませんわ。木原さんは矢沢さんと相当に深いご関係だったのでしょう。そうでなければ、兄と会う約束をしないはずですわ。木原さん、どうか本当のことをおっしゃってください。さもないと私、あなたも疑わなければなりません」
もはや言を左右にして逃げることはできなかった。木原は恵理との関係を話した。ただし、百合の代理妻ということだけは伏せた。それは雅子に話す必要のないことだとおもったからである。
「わかりました。兄も同じように考えて、あなたに接近したのだとおもいます。兄は木原さんに会う直前に殺されたことになりますけど、兄が木原さんに犯人の正体を明らかにすることを恐れたのでしょうか」
「そうだとすれば、犯人はお兄さんが私に会うことを知っていたことになりますが、おそらく犯人は、それを知らずにお兄さんを殺したのではないかとおもいます」
「それなら兄はなぜ木原さんに会おうとしたのでしょう。一方では犯人を恐喝しながら、同時に木原さんにも会見を求めて、金品をゆするというようなことがあるでしょうか」
雅子の表情は、まだ木原に対する疑いを捨てきっていない。ホテルから現場まで二キロ足らずである。ホテルで小泉幸平を待っている姿を第三者に確認させておいてから、現場へ駆けつけて同人を崖から突き落とすことは可能である。
小泉幸平の死亡推定時刻は午後八時から約二時間と幅があるのである。ホテルに午後八時から九時まで待っていた木原のアリバイは、完全ではない。
「兄さんに恐喝された犯人に経済力がなければ、二重に恐喝することもあり得るでしょう。お兄さんは賠償に迫られて焦っていたようですから」
「兄が犯人を知っていれば、当然木原さんが犯人ではないことを知っていたはずです。兄の口調が恐喝にしては弱かったとおっしゃいましたわね。木原さんに会って、何を求めるつもりだったのでしょうか」
「それが私にも解せないのです」
崖の上で話しているうちに、陽がだいぶ傾いてきた。光の粉を塗《まぶ》したようだった海面が蒼ざめ、冷たげな色に塗られている。風が冷たくなった。
雅子は、話している間にだいぶ打ち解けた様子である。まだ完全に疑いを捨てきっていないまでも、木原を犯人とは見ていないようであった。二人の意見は、「小泉幸平が殺された」という点において一致した。木原が犯人なら、そんな危険な一致をするはずがない。
警察がまったく頼りにならないのであるから、雅子としては、木原に頼らざるを得ないのである。
犯人にとって犯行の証拠を握られることは致命的である。それにもかかわらず、恵理の死後一年以上も経ってから小泉幸平の口を塞いだということは、幸平が最近証拠をつかんだためとみてよいだろう。幸平もそんな口吻であった。
犯人はすでに二人も殺した。しかも警察に犯罪の存在を疑わせていない。疑っているのは、木原と小泉雅子の二人だけである。それも犯罪が行なわれたという確信があるだけで、なんの手がかりも残されていない。
幸平殺しの動機は、恵理殺しから派生していると推測されるが、後者の動機については五里霧中である。
犯人は、木原が疑っていることを知っているであろうか。犯人が小泉幸平の動きをマークしていれば、当然木原の動きも悟っているであろう。雅子の手前、幸平殺しは木原と関係なく行なわれたと言っておいたが、二人の会見約束直前に幸平が殺された状況を見ても、決して無関係ではあるまい。
木原になんの手出しもしないのは、犯人が彼に脅威をおぼえていない証拠である。事実、木原は疑いを抱いているだけで、犯人に一歩も迫っていない。
だが彼が犯人に迫るようなことがあれば、すでに二人も殺した犯人である。彼を抹殺するのにためらいはあるまい。木原は背筋がぞくっとするのを覚えた。
不突合《ふとつごう》の追及
人事の一新によって大石色が一掃された後木原は、岩本に特に頼んで大石光明と日高政治の二人を社長室に配属させた。岩本は不審な面持ちで、「二人は、特に優秀なのか」と質ねた。光明は大石前社長の三男であり、日高は長男の道明の腰巾着である。言わば大石色の最も強い二人を岩本の小姓部屋に入れるのに不審をおぼえたのも無理はない。
「是非あの二人が欲しいのです」
木原は、理由は言わず、強くリクエストした。
「まあよい。きみが欲しがるからには、なにか特別な考えがあるんだろう」
岩本は深く詮索しなかった。社長室に移された光明と日高は、戦々兢々としていた。彼らはこの異動の理由を知っていた。
二人は木原にあたえた屈辱をおぼえていた。木原はそれを投げ返すために、自分の麾下《きか》においたのである。全社からエリートの巣≠ニ羨ましがられる社長室が、二人にとっては恐るべき復讐の拷問部屋となるはずであった。だが全身針ねずみのように身構えてやって来た二人に、木原はまったくなにもしなかった。他の課員とまったく同等に扱い、彼らの能力を十分に引き伸ばせるように仕事をあたえた。
二人は拍子ぬけがすると同時に、自分たちが岩本派の政権下でもその能力を認められたのだと自惚《うぬぼ》れてきた。そして木原に感謝するようになった。だが二人の仕事はすべて木原がお情けであたえたものであった。彼らは、木原に運動会の仮装行列で金を拾わせた復讐を巧妙にされていることに気がつかなかった。
木原は、長谷部潤と対決するときがきたとおもった。相手がいかに身分ちがいの大物であっても、彼との対決を避けられない。すでに二人の人間が殺されているのである。長谷部の口から岩本と百合に、恵理と木原の関係が伝えられるのを恐れてはいられない。
長谷部が恵理の黒幕であるなら、彼女の死についてまた異なる視点をもっているかもしれない。その視点に木原の目を据えれば、新たな発見を得る可能性がある。
それにいまは、木原も岩本勝文の女婿として、また、その社長室長として確固たる実権を握っている。もはや工員子弟上がりの一介の社員ではない。
閨閥《けいばつ》によって築いた橋頭堡から抜き難い版図《はんと》を斬り取っている。
木原は、長谷部が休日には芦屋の本邸から富士見平の別荘のほうに行っていることを探り出すと、次の日曜日に、抜き打ちに訪ねて行った。長谷部の別荘は閑静なカラマツの林の中にある。原木の木肌を活かした山小屋風の家で、自然とできるだけ調和するように配慮されたデザインである。玄関の前の石段も、自然石を積み上げただけである。
彼はこの山荘で週末を管理人の老夫婦と数匹の猫といっしょに過ごすそうである。
玄関に立ったが、ブザーやノッカーが見当たらない。住人の呼出し装置がないということは、ここではだれにも会わないという無言の訪問謝絶を意味しているのであろうか。
やむを得ず、木原はノックした。数度ドアを叩いたが屋内に気配は生じない。まったく無住のように静まり返っている。だが家の奥のほうでかすかに音楽が聞こえている。
木原は、あきらめずにノックをつづけた。ずいぶん長い間その場に立っていたように感じた。依然として貝の蓋のように閉じたままなんの気配も見せないドアに、木原は無作法を犯して裏手の庭のほうから直接居住区を覗いてみようとおもいかけたとき、ドアが細目に開かれた。ドアの隙間から老女の顔が覗いている。気品のある面立ちであるが、表情が警戒している。
「突然お邪魔いたします。浦島重工業社長室長の木原と申しますが、長谷部頭取のお耳に是非入れたいことがございまして、失礼をも顧みず参上いたしました」
木原は、せいぜい辞を低くして言った。
「旦那様は、こちらではどなたにもお目にかかりません。御用がおありでしたら、月曜日以後に大阪のお店のほうへお越しくださいということでございます」
老女は、表情のない声で言った。きっともう何度となく繰り返しているせりふなのであろう。早くも閉じかけたドアに木原はすがりつくようにして、
「お店では申し上げられないプライベートなお話なのです」
「それでは芦屋のお邸のほうへお越しくださいまし」
「芦屋のお邸でも申し上げ難いお話なのです。木原と申す者が矢沢恵理さんのことでお話ししたいことがあっておうかがいしたとお伝えください。お伝えくださるだけでもけっこうです」
木原の言葉に老女の無表情が少し動いた。一瞬の動揺で見過ごしてしまうところであったが、彼には、はっきりとわかった。老女は、恵理を知っている。木原は確信した。
木原はすかさずつけ込んだ。
「どうぞ、お取次ぎねがいます。それでもお会いいただけなければ引き取ります」
老女の面がためらっている。そのとき、木原の足許に柔らかい感触が触れた。足許を見ると、ドアの隙間から抜け出した一匹の白い子猫が木原のズボンの裾にじゃれついていた。
「チロ、いけません。おうちの中に帰りなさい」
老女の言葉を尻目に子猫は嬉々《きき》としてズボンの裾にたわむれている。木原は子猫を手の中に掬《すく》い取った。よく馴れていて、彼の手の甲をなめ始めた。
「矢沢恵理さんのことで重要なお話があるとお伝えください。どうぞおねがいします」
木原は、猫を人質≠ノ取った形で老女に取次ぎを求めた。
「たぶんだめだとおもいますけど、それではちょっとうかがってまいります」
老女は、猫と引き換えに仕方なく妥協した。待つ間もなく老女は引き返して来て、
「旦那様は、五分だけお会いになるとおっしゃってます。どうぞお入りください」
ドアを広く開いた。五分とは刻んだとおもったが、会ってしまえばこちらのものである。ともかく長谷部が休日の習慣を破って木原の面会強要に応じたのは、恵理に強い関心をもっている証拠である。拒否しなかったのは、ここまで追って来た木原に恵理との関係をとぼけ切れないと観念したからであろう。
通された所は、二階の十畳ほどの民芸風の部屋である。柱や梁《はり》や壁は自然の木肌を生かしたオイルステイン仕上げで、室内を落ち着いた渋みある色調に統一している。窓にはめられた障子が柔らかい光を濾過して、木肌のくすんだ色調とよい対照をなしている。天井は山小屋風の屋根をそのまま生かした舟底型で、片側が明かり取りになっている。室内に木の香がかぐわしい。
家具らしい家具はなく、スペースを尊重しているのがわかる。北側の壁面に接して手造りのようなステレオが据えられて、クラシックの音楽をほどよい音量で流している。ステレオの外見は粗樸《そぼく》であるが、音色は素晴らしい。ステレオのかたわらにマガジンラックがあり、外国の雑誌が数冊入れてある。書棚は見当たらない。
全体にほどよい暖かみをかもし出し、自然の素朴さを取り入れるように工夫したインテリアである。
木原は、部屋の入口に立って、ふと足をためらわせた。長谷部潤は、木原のほうに背を向けた形で部屋の中央にうずくまっていた。長谷部の周囲に数匹、いや十匹近い猫がいて、彼らとたわむれ合っているのである。先刻木原にジャレついてきた子猫も、その中にいるのであろうが、ちょっと見分けがつかない。
猫はいずれも平凡な日本猫で、三毛や白や虎や斑《ぶち》である。
「どこでも好きな場所に坐ってくれませんか。猫の毛がつくかもしれんが、うちの猫はみんな風呂好きですから、清潔です」
長谷部は、木原の気配を悟って、振り返りもせずに話しかけた。
「お寛《くつろ》ぎのところをお邪魔して申しわけありません」
「用件をうかがいましょうかな」
長谷部は、背を向けたまま言った。膝の上に数匹の猫が居坐っているようである。
「矢沢恵理さんのことでおうかがいしたいことがございまして」
「恵理について話したいことがあると言ったのは、あなたのほうじゃなかったのかな」
「頭取は、恵理さんが本当に崖から運転を誤って落ちたとお考えでしょうか」
木原は、長谷部の右の鼻翼のホクロが見える位置に坐った。案の定、彼の膝の上には三匹の猫が気持ちよさそうに目を細めている。長谷部は彼らの背を愛しげに撫でながら、
「そうではないと言うのかね」
と言った。横顔にはなんの反応も現われていない。着流しにちゃんちゃんこを羽織り、猫ののどをさすりながら頬をゆるめっぱなしにしているこの枯れ萎《しぼ》んだような老人が、日本金融界の怪物と言われる安立銀行の頭取長谷部潤とは、とうていおもえない。
「私は、彼女は殺されたのだとおもいます」
「ほう、それはまたどうしてかね」
長谷部の表情に関するかぎり、依然として猫だけにしか関心がないようである。どちらも恵理との関係を質ね合うことなく、話を進めているのは、共通の素地≠了解してのことであろう。
木原は、疑惑をもつに至った理由と、自分の調査を話した。長谷部の目はまだ猫に向けられたままであるが、とうに約束の五分は経過していた。
「すると、きみは、小泉という男も恵理に関連して殺されたと言うのかね」
長谷部は初めて猫から木原のほうへ視線を転じた。無表情だった目の奥に好奇の火が点じられている。
「さようでございます」
「そんな話をなぜ、私の所へもってきたのかね」
長谷部は、最初に質ねるべき問いをようやく発した。
「恵理……さんの四十九日に、彼女の墓参に来られたお姿を拝見いたしましたので」
「なんだ、見られておったのか」
長谷部は、それでは仕方がないと言うように苦笑して、
「私が聞きたいのは、そんな話を私にもってきてどうするつもりなのだという意味だよ」
と、共通の素地を了解していることを改めて認めたうえで問うた。
「頭取におかれては、恵理と私の関係は知っておられたので?」
今度は、木原が改めて素地について質ねた。
「おおよそのところは恵理から聞いておったよ。べつに恵理がどんな男とつき合おうと干渉する筋合いはないが、彼女を悪い男の食い物にさせたくなかったので、いちおうつき合っている男について最小限聞くことにしていたのだ」
すると、木原は「恵理の男」として長谷部のめがねに叶ったらしい。しかし、彼女を食い物にしなかったとは言えない。残る懸念は長谷部が岩本に話していないかという点であるが、恵理は、「男」の正体を黙秘することを条件に打ち明けたはずである。だが恵理が死んだ後、岩本がタイミングよくみどりを勧めた点を考えると、彼が恵理と木原の関係を知っていたようにもうかがえる。しかしいまはそれを詮索すべきときではなかった。
「私は恵理を愛しておりました。彼女に死なれて、そのことがよくわかりました。なんとしても犯人を捕えたいとおもって自分なりに調べてまいりました。その熱意が頭取を探し当てたとお考えいただければ幸いでございます。そこで恵理を可愛がってくださった頭取におうかがいすれば、私の知らない彼女の人間関係をご存知かもしれない、そしてそこから犯人の手がかりが得られるのではないかと考えたのでございます」
「なるほど。だがの、私は彼女の人間関係についてはなにも知らんのだ」
「ただいま頭取は、恵理を悪い男の食い物にされたくないので、つき合っている男について聞いたとおっしゃいましたが、彼女には私の他に男はいなかったのでしょうか」
相手が日本金融界の巨頭であるという意識は、木原から消えていた。いまは恵理に共通の関わりをもっていた同志≠ナある。俗な表現を使えば、きょうだい≠ナあった。年齢差があるせいかライバル意識はなく、一人の女を共有した男同士の奇妙な親しさを感じていた。木原はその親しさにすがって、犯人の手がかりを得ようとしていた。
木原の態度は、長谷部に好感をあたえた様子である。
「私の知っているかぎり、恵理が生前つき合っていた男はきみだけじゃよ」
それを聞いてホッと救われたおもいがすると同時に、また手がかりが遠のいたように感じた。
「恵理は、死の直前、こちらへ来たのでしょう」
それはほぼ確実であったが、木原は改めて確かめた。長谷部は肯いて、
「ここからの帰途あんなことになったので、私も大層驚きましてな。しかし恵理との関係は表むきは伏せていたので、なにも言えなかったのじゃ」
長谷部は、膝の上から猫を追いはらった。猫は不服げにのどを鳴らしながら、それでも主人の顔色をうかがって、それぞれの方角に散って行った。
「恵理が最後にこちらへ来たとき、なにかいつもと変わった様子はございませんでしたか」
「特に変わったことはなかったようだが」
「どんな些細なことでもけっこうですが」
「さあ、おもいだせないな。べつになにも変わった節は見えなかった」
「大変失礼なことをお質ねしますが、お許しください。恵理は、その夜、何の用事でこちらへ来たのですか」
あの夜、木原と忙しないデートをした後、恵理は長谷部の許へ駆けつけたのだ。
「私が呼んだのだ。少し疲れておって週末からいつづけていた。恵理とはとうに男と女の関係は終わっていたが、そばに若い女にいて欲しいときがある。月に一、二度恵理を呼ぶのだが、そんなとき第一優先で私の許へ駆けつけてくれるという約束になっていた」
すると恵理は、あの夜、長谷部より木原を優先させたことになる。長谷部はおそらくそのことを知るまい。
「せっかくこちらへ来たのに、深夜どうして帰ったのですか」
「娘が心配して電話をかけてきての、翌朝、孫といっしょに山荘へ見舞いに来ると言ってきたのだ。娘のほうが恵理より年上でね、来てはいかんという理由もなく、やむを得ず、恵理に帰ってもらったのだ。いま考えれば、朝早く帰してもよかったと悔やまれてならない」
「恵理さんは素直に帰りましたか」
「帰りましたよ。娘さんより年下の愛人がいたのではまずいでしょうと皮肉を言ってね」
「頭取は恵理の事故を聞いたとき、犯罪を疑いませんでしたか」
「疑わなかった。恵理が殺されたなどとは考えてもみなかった。なぜ彼女が殺されなければならんのかね」
「それについて頭取になにかお心当たりはございませんか」
「ないね」
「先ごろの合併話は、関係ないでしょうか」
「合併がどうして関係あるのかね」
「合併の情報が反対派に漏れないように口を塞いだということは」
「それは考えなくともよかろう。恵理の情報源はだいたい私じゃ。国武が浦島を狙っておったことも事前にわかっておった。私は、本来反対派のはずだから、そういう意味では反対派にとうに漏れておったことになる」
「頭取はどうしてそれを岩本社長に知らせなかったので?」
「銀行には、銀行の事情があってね。旗幟を明らかにできない時もある。しかし、きみを通して間接的に知らせてやったではないか」
「それでは、恵理にお漏らしになったのは、私に漏れることを予測なされて……」
「恵理がどの程度きみに話したか知らんが、男と女の間ではそれほど精密に計算して話しているわけじゃない。私も恵理の前では、無防備になっておった。年寄りは、若い女がそばにいるだけで嬉しいものだ」
「もう一つプライベートなことをお質ねしてよろしいでしょうか」
「何だな」
「恵理と私とのことを岩本社長にお話しになったでしょうか」
「私がどうしてそんなことを話さなければならないのかね。私には関係ないことだ」
もっとも長谷部がそれを岩本に話すことは、自分と恵理の関係を打ち明けるようなものである。岩本がみどりを、恵理の死後、代理妻に斡旋《あつせん》したのは、偶然とみてよさそうである。
「私からも聞いていいかな」
長谷部がチンマリした目を向けた。皺の間に陥没しそうな目であるが、眼光が凝縮されている。
「どうぞ」
「きみは、私の所へ来るからには、恵理との関係が現われるのを覚悟していたはずだ。私と岩本君とは親しい。私の口から岩本君に、恵理ときみの関係が伝わると、きみの立場は大変苦しいものになるんじゃないのかね」
百合の体の欠陥を知らない長谷部にとっては、岩本の女婿である木原が家庭の崩壊と岩本の庇護の喪失を恐れずに愛人の死の真相を探っているのが、理解できないようであった。それは、木原のような閨閥によって昇進した人間の計算にはあり得ない、不合理な行動である。
「私は、恵理を愛しておりましたから」
「愛か。そのために岩本君を怒らせてもよいのかね」
愛が錦の御旗にならないのが、閨閥である。愛が中核にあるべき結婚を、政略や商略の道具にした閨閥に連なる木原の口から、臆面もなく飛び出した愛情物語≠ノ、長谷部は面喰らったようである。
「私のような結婚をして、愛の貴さがわかったのです。恵理を失って初めて彼女が私にどんなに必要であったかわかりました」
「死んだ者に対する愛のために、危険を冒してもかまわないというのか」
長谷部は、むしろ呆れた表情である。
「それほど深刻に考えているわけではありません。ただこのままでは恵理が浮かばれないとおもいまして、前後の見境いもなくおうかがいしてしまいました。考えてみれば私は大変軽率なことをしてしまいました」
木原はいま初めて、功利と保身の計算にはずれていることに気がついたような振りをした。木原の強みを知らない長谷部を、そうでもしないと納得させられないとおもったからである。銀行員にとって計算はすべて「一算|合明《ゴメイ》」でピタリと合わなければならない。木原のような閨閥の最先端にいる者が至上の愛≠ネどを謳《うた》ったら、大変な不突合《ふとつごう》=i計算が合わない)なのである。
だが一時的に逆上して計算をまちがえたというのであれば、わからないでもない。
「安心したまえ、私はだれにもなにも言いはせんよ」
長谷部は、木原の擬装した不安をなだめるように言った。だが彼は木原のエリートにもあるまじき計算ちがいに好意をもったようである。家庭とポストの喪失の危険を顧みず、恋人の死の真相を探っている木原に呆れた後、好感と共鳴が盛り上がってきた様子である。共鳴は、同一の女性を共有した意識と、得難い共有物を失った愛惜から発していた。
長谷部潤という大きな共鳴者は得たものの、結局、彼の視野にもなにもなかった。犯人は長谷部の視野に影も見せていない。
犯人はどこにいるのか? その存在も動機もわかっていない。だがここに小泉幸平の死という事実がある。幸平は犯人の正体を突き止めたために殺されたと考えられる。すると幸平はどうやって犯人に行き着いたのだろう。木原には見えなかった手がかりを、幸平はつかんだのだ。いったいどのようにして?
思考を集めているうちに、木原ははっとなった。小泉雅子は、幸平が現場を確かめに来た木原を見たのだろうと言った。同じことが犯人についても言えないだろうか。幸平は車の残骸を引き揚げる準備に何度も現場へ行ったそうである。もし犯人が現場へ戻って来れば、幸平に姿を見られたかもしれない。犯人は幸平の知っている人物だったのだろうか。いや知らなくとも、密かに尾行して正体を突き止めることができる。そして犯人を恐喝した?
三日後、意外な人物から木原へ電話がかかってきた。交換台から回された電話になにげなく応答した木原は、声の主を知って姿勢を正した。
「木原君か。先日は失礼した」
声は長谷部潤のものであった。
「いえ、こちらこそ突然お邪魔いたしまして」
「きみは、恵理になにか変わった節はなかったかと言ったね」
「なにかお気づきになられましたか」
「変わったことかどうかよくわからんのだが、ちょっと気になったことをおもいだしたのだ」
「どんなことでございますか」
「雑誌の頁《ぺージ》を切り取っていったのだ」
「雑誌の頁を?」
「情報源として欧米の雑誌を取っているのだが、それらの中にあったアメリカの古い週刊誌のある頁に興味をもったらしくて、切り取っていった」
「どんな週刊誌でしたか」
木原は、ステレオのかたわらにあったマガジンラックをおもいだした。
「アメリカの『ストリーム』という週刊誌だ。ホットなトピックが売り物で、ニューヨークを中心に広範な読者を獲得している。これの一昨年の十一月十二日号の頁を切り取っている」
「その頁にはどんな記事が載っていたのですか」
木原は無意識のうちに身体を乗り出していた。彼は、現場に残されていた「灰」との関連を考えていたのである。灰の成分検査によって、かなり上質の紙であることがわかっている。その紙と、恵理が切り取ったという週刊誌の頁との間に関連はないのか。
「目次から見当をつけたところ、『クロスオーバー・アニマル、日本人の研究、パート4』となっている。筆者はポール・フラナガンという人物だ」
「頭取はその記事をお読みになりましたか」
「読んだかもしれないが、さっぱり記憶にないのだ」
「週刊誌のバックナンバーは手に入らないでしょうか」
「少し時間がかかるが、手に入るとおもう」
「出版社の住所を教えていただければ有難いのですが」
「いや、私のほうから取り寄せたほうが早いだろう」
「お手を煩わして申しわけありません」
「こんなことでも役に立つかな」
「大変助かります」
「犯人を突き止めたら、私にも是非教えてもらいたい。警察にも知り合いがないこともないからね」
長谷部の言葉は好意的であった。
好意がなければ、電話などしてくれないはずである。いったん事故として処理した警察を動かすのは、容易ではない。その際、長谷部のような大物の後ろ楯があると心強い。
長谷部からの電話を切ってから、木原はその内容について考えてみた。恵理が切り取ったスクラップに何が書いてあったのか。犯人がそれを焼却したとすれば、そこに犯人にとって都合の悪い記事が載っていたのであろうか。アメリカの古い雑誌の|切り抜き《スクラツプ》ならば、簡単には同じものは手に入らない。
ともあれ、ここに重大な手がかりが現われかけている気配が濃厚であった。
長谷部潤からの電話の後、小泉雅子が会社へ訪ねて来た。受付から取り次がれて応接室へ出て来た木原に、雅子は恥じらいを含んだ微笑を投げかけて、
「突然お邪魔してすみません。会社の近くへまいりましたものですから」
雅子は、市内の書店の外回りの仕事をしているという。木原は、彼女を通して会社の購読雑誌や図書室の図書を購入しようかと考えていた。ちょうどよい折だったのでその話を持ち出そうとした矢先に、
「先日の兄の転落事故ですけれど、後で考えついたことがあるのです」
と雅子は言いだした。
それを話したくて来た様子である。
「ほう、どんなことを考えついたのですか」
「兄が木原さんに会おうとした目的です」
「あわよくば私からも金品を取ろうとしたのではないのですか」
「兄は犯人を見つけたので、木原さんと相談したいと言ったのでしょう」
「そうです」
「相談≠ニはどういう意味でしょうか」
「つまり、それが金品が欲しいということなのではありませんか」
「でも犯人でもないあなたに何を理由に金品を要求できるのですか」
「私も現場に行ったので、事件につながりがあるとでもおもったのでしょう。つまり、共犯を疑ったとか」
「でも共犯ではないのでしょう」
「もちろんですよ」
「共犯でもない木原さんになぜ相談をもちかけたのですか」
「お兄さんは私を疑っていたのでしょう」
「共犯の疑いをもたずに相談をもちかける場合もあるとおもいます」
雅子は謎をかけるように、木原に大胆な視線を射かけた。
「とおっしゃいますと?」
かけられた謎の底に、木原は無気味な含みをおぼえた。
「それは犯人が木原さんとごく親しい人間の場合です」
「私と親しい人間!」
「そうです。木原さんと親しい人間であれば、相談をもちかけてもおかしくないでしょう。木原さんにとって犯人であることが明らかにされると都合が悪いような人物であれば、お金をあたえても口留めをしようとなさるのではありません?」
閉ざされていた窓が開かれ、一条の光が入ってきたように目先が明るんだ。強い光に目が眩《くら》んで、視野がまだよく見えない。雅子の示唆が意識の死角にあったものを触発している。自己防衛の本能から、無理に死角に押しこめたのかもしれない。
木原は、見えかけてきたものを見極めるのが恐ろしかった。
クロスオーバー・アニマルの動機
「私が、犯人であることを明らかにされると困るような親しい人間だとおっしゃるのですね」
木原は、小泉雅子と視線が合わないようにして、辛うじて言葉をつないだ。
「どなたか、おもい当たる人は、いらっしゃいませんか」
雅子は、木原の逡巡《しゆんじゆん》を見透かしてか、斬り込むような視線を射かけてきた。
「そんな人はいませんね」
木原は突っぱねた。
「それならよろしいのですけれど」
雅子の目がうすく笑った。木原より高い視野から見下ろしている者の優越がその笑いの中に感じられた。
「私の親しい者には、矢沢恵理を殺さなければならないような人間はおりません」
「そうでしょうか」
雅子の目が微笑の奥から観察している。
「あなたに心当たりがあるとでもおっしゃるのですか」
「申し上げてもよろしいですか」
「うかがいましょう」
二人は対決するような雰囲気になっていた。
「さしずめ、あなたの奥様はいかがでしょう」
雅子の口調は静かであったが、その底に凶器を突きつけるような気(き)魄《はく》があった。
「私の家内が!? はは、そんな馬鹿な。家内がどうして恵理を殺さなければならないのです」
「動機はあるとおもいます。奥様は矢沢恵理さんにあなたを奪われていたのでしょう」
「家内は人を殺すような女ではありませんよ。百合が犯人だなんて、そんなことはあり得ません」
「身近な人はみなそう言います。事件の真相が明らかにされたとき、あの人が犯人だなんて信じられないという言葉は、親しい人や身近な人の決まり文句ですわ」
「家内はちがいます。私には確信があります」
木原は言いきった。百合の身体の欠陥を知らない雅子には、通常の三角関係が殺人の動機になり得ないことがわからないのである。
百合も自分の欠陥を悟っている。夫の性的欲望を自分の身体で封じこめられないことを知っている。その彼女が、自分の欠陥を補ってくれていた恵理を殺すはずがない。
「どうしてそんなにはっきり言いきれるのですか」
だが雅子には通常の痴情怨恨による三角図式しか目に入らないのである。
「それは私たちが夫婦だからです」
言いかけて木原は、はっとなった。小泉幸平が二度目の電話をかけて相談≠もちかけてきたとき、「夫婦」だから応じるのが当然だというようなニュアンスを含んでいた。木原は、「夫婦」を、恵理との関係において解釈していたのだが、幸平は、言葉どおりの夫婦を意味していたのではあるまいか。
(百合が、恵理を殺した? まさか!)
木原は、自ら激しく否定した。それに百合が仮に恵理を殺したとすれば、小泉幸平はだれが殺したことになるのか? 百合が一つの犯罪を晦《くら》ますために新たな罪を累《かさ》ねたというのか。それはとうてい信じ難い。幸平は屈強な男である。崖の上に誘い出して車ごと突き落とすという手口は、恵理の死んだときと共通しているが、いかにも荒っぽい。だが女手でできない犯行ではない。
いま振り返ってみると、百合自身が気になることを言ったことがあった。それは合併騒動が酣《たけなわ》のころ、恵理亡き後悶々としている木原に対して、百合が苦しいだろうといたわったことである。百合はあのとき、こんな体で結婚すべきではなかったと木原に詫びた。無知の新妻の座に天下太平に坐っているとばかりおもっていた百合が、夫婦生活における自分の重大な欠陥をはっきりと認識していたのである。彼女は、――つい最近、専門の本を読んで、それを知ったばかりで、「もう少し早く知っていれば」――と言ったのだ。
「もう少し早く知っていれば」という言葉は、恵理の死に関わることもできるのである。
いったん否定したものの、木原の思惑は動揺した。
「ご夫婦でもすべてがわかり合えるとは言いきれないでしょう。木原さんと矢沢さんの関係は奥様に秘密にしておいたのでしょう。それを奥様が嗅ぎつけて、矢沢さんと兄を木原さんの知らないところで抹殺した。夫の協力を求められない行為であるなら、妻一人でやる以外にないではありませんか」
「しかし、家内ではないのです。家内のはずがない」
「奥様が犯人ではないという明らかな反証でもあるのですか」
「そ、それは……いやその前に家内が犯人であるという証拠があるのですか」
一方的に押されていた木原は、ようやく反撃の機をつかんだ。
「まだ証拠はなにもありません。兄の死の前後の模様から私の推測を申し上げているだけです。
私の推測は十分論理的だとおもいます。矛盾があるようなら、どうぞおっしゃってください。でも木原さんは、ただ奥様がそのような人間ではないとおっしゃるばかりで、なぜ奥様が犯人になり得ないのか、合理的に納得できるような説明をしてくださいません」
「家内には動機がない」
「動機は十分にあると申し上げたばかりじゃありませんか」
雅子は呆れたように木原を見た。蔑《さげす》みの色が目の奥に刷かれている。
「そ、それは……」
木原は、返す言葉に詰まった。妻の欠陥は、打ち明けられない。それを打ち明けられない以上、百合と恵理と木原は、典型的な三角関係を構成するのである。また仮にそれを打ち明けたとしても、恵理が死んだころ、百合が自分の欠陥の意味をよく知らなければ、動機を形成する妨げにはならない。
「木原さん、あなたが奥様をお庇《かば》いになりたいお気持ちは、よくわかります。でも私は兄に死なれたのです。私は、殺されたと信じております。私にはたった一人の骨肉なのです。その骨肉の生命を無法に奪われたのです。あなたも矢沢恵理さんの死に疑惑を抱いて一人でお調べになっていたのでしょう。矢沢さんがお気の毒とおもう気持ちに変わりなければ、奥様に質ねてくださいませんか。矢沢さんと兄が死んだ夜、奥様がどこにおられたか。それをお質ねくださるだけでもけっこうです。兄が死んだときあなたは、ホテルで兄を待っておられたのでしょう。その時間に奥様は果たしてご自宅におられたのでしょうか」
雅子に言われて、木原は、「その夜の記憶」を掘りおこした。まず、Xに待ちぼうけを食わされて家へ帰って来たとき、百合は玄関へ迎えてくれた。だが、家の中がなんとなく冷えびえとしており、インスタント食品を主体としたあり合わせの食事で我慢させられた。もっとも食事はいらないと言って家を出たので、文句は言えなかった。だが風呂の用意もできていなかった。雨に濡《ぬ》れて冷えた身体で、腹立たしいおもいをしながら、浴槽に湯がたまるのを待っていたものである。冷えびえとしていたのは家の中だけではなく、百合の顔色も寒い風に晒されたように白かった。
あの夜、百合は屏風ガ浦の断崖に立ち、木原が帰宅する直前の際どい時間に家に滑り込んだのではないのか。
また昨年の三月五日は記憶がうすれているが、恵理との情事の後岩本の邸で時間を過ごして帰宅は遅くなった。百合はそのときすでに家にいた。迎えてくれたが、彼の帰宅前ずっと家にいたかどうかわからない。
雅子の指摘によって、百合のこれまで隠れていた怪しい節々が浮き上がってきた。
しかし、百合が単なる三角関係による痴情怨恨から連続殺人を犯したとは信じ難い。雅子は言葉を失った木原に強い目つきで返事をうながした。涼しい目元がこんなとき迫るように見える。
だが即答できる問題ではなかった。
「あなたのお話はわかりました。一理あるとおもいます。しかしあまりにも途方もない推測です。妻には確かめてみます。妻は笑いとばすか、怒るかのどちらかでしょう。いずれ改めてお返事をさし上げます。今日はお引き取りいただけませんか」
木原は、会社の応接室では場所が悪いとおもった。いまようやく反対派を追いはらって岩本政権の基礎を定めたところである。「草を刈った」とは言うものの、刈り残した草むらもあるかもしれないし、根は残っている。
岩本の時の勢いの前にいちおうなびいて見せている草もあるかもしれない。この草刈り後の地のまだ十分に固まり切らない時期に百合の「殺人容疑」など途方もない。
それは岩本にまで影響しかねない。いや影響せざるを得ない。
しかし、小泉雅子の推理には無視できない論理性がある。犯人であることを明らかにされると、木原にとって都合の悪い人間は、限られてくる。身近な人間と言っても、親やきょうだいは問題にならない。身内から犯罪者が出て、都合の悪いことは確かであるが、致命的ではない。木原自身が罪を犯したわけではないのである。それにどう考えても親やきょうだいには恵理につながりがない。彼らが恵理を殺さなければならない理由はまったくない。
ところが百合が犯人となると、これは大いに木原に影響してくる。百合というパスポートの失効は、木原に決定的なダメージをあたえる。仮に、百合が犯人であるなら、木原はどんなことをしても庇おうとするだろう。小泉幸平が百合が犯人である証拠をつかんだとすれば、それを種にしての恐喝は、木原に対して有効である。
それでは百合以外に身近な人間で犯人になり得る者がいるか。とりあえず考えられるのは岩本であるが、彼には百合以上に動機がない。岩本は百合との結婚に先立ち、木原に他の女との関係を公認≠オたのである。恵理の死後、咲山みどりを斡旋してくれたほどである。
不能な娘の夫と関係をもった女をいちいち排除していたのでは、何人殺しても足りない。それに大企業の首長としての岩本と凶悪犯罪はどうも結びつき難い。その他に、木原に対して有効な人物≠ヘ、見当たらない。
小泉雅子の推理を警察へもっていかれるとまずい。彼女もいまのところそこまでする気持ちはなさそうである。本人の臆測だけで証拠があるわけではない。警察としても、いったん事故として処理した事件を、なんの証拠もなく素人推理だけで覆すようなことはあるまい。無視しても、どうということはない。だが、地平の果てに萌《きざ》した黒雲の影を見るように、木原は不安であった。放っておくと、せっかく我が世の春になりかけた天下を黒雲に蔽《おお》われてしまいそうな不吉な予感がする。黒雲を影のうちに封じこめてしまわなければならない。それには、小泉雅子を納得させなければならない。
だが、木原は雅子にこれまでのいかなる敵よりも手強さを感じていた。小泉雅子は聡明である。彼女を納得させるのは、容易ではない。下手に糊塗したり、懐柔しようとしたりすると藪蛇になる。小泉雅子には慎重に対応しなければならない。しかもあまり引き伸ばしはできない。警察に言わないまでも、彼女の推測が大石派の残党の耳に入るとまずい。
木原は、自分がべつに罪を犯したわけでもないのに追いつめられたように感じた。
小泉雅子が訪ねて来てから数日後、また長谷部潤から連絡があった。例の雑誌のバックナンバーが手に入ったというのである。
「きみが来るにはおよばんよ。こちらから届けさせよう。私が本のコンサルタントのようにしている浦島の書店の人に託そう。その人が情報源としてこの雑誌の存在を教えてくれたのだ。恵理が切り取った記事の個所に栞《しおり》をはさんでおく。べつにどうということのない記事だがね、なぜ恵理が興味をもったのかわからない。まあきみ自身で読んでみてくれ」
間もなく雑誌をもってきた人物を見て、木原は、愕きの声を漏らしかけた。それは、小泉雅子であった。
「私も偶然で驚きました。長谷部頭取には以前から可愛がられて、別荘だけでなく、大阪のお店や芦屋のお邸のほうにまで本をお届けしております。ご希望の雑誌のバックナンバーは、たまたま私どもの倉庫にございました。頭取が栞をはさんでいらっしゃいましたわ」
雅子は、先日の件は気配にも出さずに『ストリーム』の十一月十二日号を差し出した。だが、彼女は立ち去ろうとしない。それは先日の返答を待っているとも、また、雑誌を読む木原の反応をうかがっているとも釈《と》れた。
弱みをかかえた形になっている木原は、雅子の前で栞の個所を開いた。
『クロスオーバー・アニマル、日本人の研究、パート4』として、ポール・フラナガンのリポートが載っている。犯人と目される人物は、この記事を恵理が転落死した現場で焼却した状況が濃いのである。記事を読み始めた木原は、次第に顔面が強張ってくるのを感じた。雅子の手前、せいぜい平静を装おうとするのだが、顔面神経痛のように、顔が引き攣《つ》った。
その記事を日本語に訳した大意は次のようなものである。
――近年、日本人の旅行者集団が大挙して米国大陸を侵略≠オている。一人一人だと、まことにひ弱い日本人は、集団になると、ミステリアスでむしろ無気味な底力を発揮する。集団行動は、日本人が発明した最大の武器であり、この武器を振りかざして、かつての太平洋戦争の報復を米国大陸のあらゆる隅々に加えようとしている。眼鏡とカメラとハラマキ(胴巻のことか)の中のまとまった金を|三種の神器《ビツグスリーウエアポン》として、米国大陸を蹂躙《じゆうりん》する日本人旅行者集団を阻むものはもはやなにもなさそうである。
彼らの集団の代表的なものはこれまでノーキョーであった。ノーキョーの構成メンバーはおおむね日本のローカルの農夫である。彼らは暴騰する土地を売ったり、貸したりして、あるいは公共事業用地買収の補償などによって、土地成金となり、日本の資本家グループの一方の勢力となった。もちつけない大金を所有したノーキョーは、集団となって世界へ観光旅行に繰り出し、凄まじい浪費をした。それはまさにトラベル・アニマルであった。
われわれはノーキョーを、日本人旅行者の中でも特殊な集団と見ていた。だがノーキョーのもつ集団パワーとも言うべき恐るべきエネルギーこそ、エコノミック・アニマル・日本人の原動力なのである。それはわれわれアメリカ人にはないエネルギーである。
最近、トラベル・アニマル・日本人に一つの異変が生じた。それはノーキョーに加えて、もう一つの新たな旅行者集団が台頭してきたことである。彼らは新婚旅行《ハネムーン》のカップルである。
いまや日本の若者たちの間では、ハネムーンに海外に出かけるのがポピュラーになっている。特にハワイや米西海岸は、ハネムーンのベストセラーコースだそうである。この最も個人性の強いハネムーンすら日本人は集団で行なうようになり、米国各地を熱々の桃色旋風が吹き抜けている。
記者は、日本の新婚旅行者集団《ハネムーナーツアー》の一つに同行して、つぶさに彼らの生態を観察してみた。同行して最初にうけた印象は、ハネムーナーにしては初々しさに欠けることであった。だが間もなくその理由がわかった。
新婚にはかなり有利な|割引き《デイスカウント》が施される。これを狙って、新婚でも夫婦でもないアベックが新婚を装って参加しているのである。記者が同行したツアーには十五組のカップルがいたが、本物のハネムーナーは二組だけであり、他は芸能人同士、客とホステス、会社の上司と秘書、男女学生などの組み合わせであった。
だが同行中、記者は本物のハネムーナーの中の一組に信じられないような事実を目撃した。夫は日本の大会社の社員で、妻はツアーの女性中、抜群の美貌でどこへ行っても人目を惹いていた。ところがこの夫が密かに愛人を同伴していて、同じホテルに部屋を取り、夜半妻の目を盗んでは愛人の部屋へ通っていたのである。ロサンゼルスのホテルにおいては大胆不敵にも同じフロアのすぐ近くに部屋を取った。しかも部屋の主の名義を夫と同姓にレジスターさせていた。
記者は唖然としてしばらく声も出なかった。我が国の性道徳および性風俗の紊《みだ》れは、社会問題化しているが、少なくともこの日本人新婚旅行者に見るような大胆な|かけもち《クロスオーバー》セックスはないだろう。まことに|かけもち《クロスオーバー》アニマル・日本人の面目躍如たるエピソードである。……
記事はまだつづいていたが、木原は半ばにしてのどの奥でうめいた。その日本人ハネムーナーの名前は伏せてあるが、それは明らかに木原と百合と恵理のことである。
あのときニューヨークの週刊誌記者が、日本人ハネムーナーを取材するためにツアーに同行していたが、彼がこの記事を書いたのにちがいない。記者の目をうまく晦《くら》ましていたとおもっていたが、やはり敵もさる者であった。すべて見通されていたのである。
だが、この記事が現場で焼却されていた事実は何を意味するのか。恵理が興味をもつのは当然である。そして百合が読めば、書かれているのは自分たちであることを直ちに悟るだろう。いかに不能妻でも、この記事を読めば怒るはずである。まして百合はそのとき自分の欠陥を正しく認識していない。
新婚旅行に同伴して、新褥の隣室のような部屋で夫を盗んだ。しかもその部屋の名義に夫と同姓を使った。「木原恵理」、自分こそ木原の本当の妻だという表意なのか。
それは単に妻を侮辱するだけでなく、人間性の冒涜《ぼうとく》である。百合はどこかで記事を読み、恵理を許せないとおもったのであろう。犯行後、遺留品がないように検《あらた》めて、恵理が記事のスクラップをもっているのを知り、その場で燃やしたのであろう。スクラップが残っていれば百合にも強い動機があることがわかってしまうからである。
週刊誌を手に百合の心理を忖度《そんたく》していた木原は、小泉雅子の視線を感じて我に返った。雅子は、先刻からずっと木原の様子を観察していた。それは彼女も記事を読んだことを意味している。記事は平明な英語で書かれており、長谷部のブックコンサルタントをつとめているくらいであるから、この程度の文章は解せるだろう。
「あなた、読みましたね」
木原は絶望を確認するように質ねた。
「木原さんがどんな記事に関心をおもちかとおもって、無躾《ぶしつけ》とはおもいましたが、拝見いたしました」
雅子は、木原の顔色を探っている。そうだ、べつに読まれてもどうということはない。雅子は、ここに書かれている日本人ハネムーナーが、木原たちだとは知る由もないのである。木原は立ち直りかけた。
「たしか木原さんも、この週刊誌の記事が書かれた前後にご結婚なさったとうかがっていますが」
ようやく立ち直りかけた木原に、きつい追い打ちがかけられた。彼が黙していると、
「新婚旅行もたしか米国西海岸と……」
「そんなこときみに関係ないだろう」
木原は、ようやく反駁した。黙っていると、追いつめられる一方である。
「関係ないとはおもいません。ここに取り上げられているハネムーナーは、とても木原さんご夫妻に似てらっしゃいますわ。同行した女性は、矢沢恵理さんだったのではありませんか」
「自分の臆測でいいかげんなことを言わないでくれたまえ。同じ時期に結婚をしてアメリカへ新婚旅行に行ったカップルはいくらでもいる」
「でもこのような三角関係のハネムーナーはめったにいませんわ。この奥様がそれを知ったら、さぞ怒るでしょうね。私が同じ立場だったら、絶対に許しません」
「この記者は、本人たちに直接取材をしたわけではない。妹を連れていったのかもしれないだろう。レジスターが同姓だったということは、その可能性も十分に考えられる」
「妹を同行する新婚旅行なんてあるでしょうか」
「絶対にないとは言いきれない」
「木原さんは、どうしてこの新婚をそんなに弁護なさるのですか」
「そ、それは……」
「私、長谷部頭取からうかがったのです。この記事は、矢沢恵理さんが亡くなる直前に切り取ったものだそうですね。矢沢さんがなぜこの記事に興味をもったのか、それは彼女のことが書かれてあったからではないでしょうか」
雅子は、記事についてかなり研究していた。言い逃れは許さない強い気魄《きはく》で木原に迫ってきた。彼女は百合の強い殺人の動機を知った。
「私、記事を書いた記者に直接問い合わせるつもりです。そうすれば、ハネムーナーがだれかはっきりするでしょう。ツアーを主催した旅行社にも当たります」
雅子は、一直線に追いすがってきた。
「きみは私を脅迫するのか」
「脅迫なんかしていません。私はただ兄の死の真相を知りたいだけです。あなたも矢沢さんの死の真相を調べておられたのでしょう。そのためにわざわざ頭取を別荘まで訪ねていかれた。そんなに熱心だったあなたが、どうして急に逃げ腰になられるのですか。少なくともあなたは屏風ガ浦の断崖で車の引力実験≠しておられたときまでは、熱心に犯人を追っていました。私に協力も約束してくださいました。でも私が奥様を疑い始めると、急に逃げ腰になったわ。奥様を信じていらっしゃるなら、もっと毅然《きぜん》としていてよいはずだわ。それなのにただ感情的に奥様の弁護をされているだけです。木原さんらしくないとおもいます。あなたに心当たりがあるからではございません?」
冷静な視線で観察されて、木原はおもわず高い声で、「心当たりなんかない!」
「そんな大きな声をなさらずとも聞こえます。そういうところが木原さんらしくないと申し上げているのです。奥様にはお質ねくださいましたか。そのご様子ではまだのようでございますわね。なんでしたら私がこの週刊誌をおもちして直接お質ねしましょうか」
「それだけは止めてもらいたい」
木原はまた一歩、追い込まれたのを悟った。
「ぜひお確かめください。私、それまでお待ちしております」
「何を待っているんだね」
「警察に訴えることをです」
「あなたの推測をすでにだれかに話したかね」
「話しません。まだ証拠がなにもありませんから。でも近いうちに米国の週刊誌の記者の確認を取りますわ」
雅子の態度には自信がある。
「長谷部頭取には、どのくらい話したのだ」
「なにも話しません。ただあなたがなぜこの週刊誌の古いバックナンバーに関心をもったのか、職業的な興味からお質ねしただけです」
「家内には必ず、私から確かめる。それまできみもいっさい他言をしないでもらいたい」
「いたしません。私は真相を突き止めて、兄の冥福を祈りたいだけです。真実を確かめる前に推測を触れまわって人を傷つけるのは、私の本意ではありませんから」
事態は猶予ならなくなった。雅子に対してこれ以上引伸ばし作戦は通用しない。だが木原は恐ろしかった。妻に確かめて、根も葉もない臆測にすぎないことがわかれば問題ないが、もし、雅子の推理が的中していたらどうするか。百合に自首させるか。そんなことをさせたら、家庭が崩壊するだけでなく、岩本は退陣せざるを得なくなるかもしれない。そうなれば、木原の現在と将来もない、岩本の後ろ楯を失った、殺人犯の夫として社会で孤立する。木原自身が殺人を犯したわけではないが、その種は彼が蒔《ま》いたのだ。
新婚旅行に愛人を伴い、それを知った妻が愛人を殺したとあっては、夫も救いようがない。いや真に責められるべきは、夫のほうである。
これが木原が追ってきた事件の真相であったのか。おもえば屏風ガ浦の断崖で、小泉雅子に介入しなければ、彼女の推理をうながすことはなかった。雅子の手持ちの材料では、未知数が多すぎて、決して恵理や百合に結びつくことはなかったのである。いまさら悔やんでも遅いが、自らの首をしめる凶器を最も恐るべき敵にあたえてしまったのである。
だが一寸伸ばしに引き伸ばしているだけでは、事態は解決しない。その間に小泉雅子が自分の推理を人に話すようなことがあっては一大事である。米週刊誌の記者や旅行社の裏づけが取れれば、単なる素人推理では片づけられなくなる。木原は、おもいきって、百合と対決することにした。
防衛全権委任
いつもとちがう夫の様子に百合は緊張していた。不毛の夫婦ではあっても、冷えてはいない。最近は、精神的な紐帯《ちゆうたい》のようなものが二人の間にできかかっている。表面の夫の劣位と内側の妻の欠陥がしっくりと噛み合って家の中に和やかな調和をつくりだしている。
調和を支えるものがコンプレックスといたわりであっても、同じ屋根の下で起居を共にしている間に、愛をかもし出す。愛の成分は問題ではなく、愛があるかないかが重要であった。そしてその意味では、この家にたしかに愛は存在していた。
その愛の裏づけに咲山みどりがいる。みどりのセックスのカサの下にあるまことに脆《もろ》い愛であったが、それだけに夫婦生活の実質を他の女の躰《からだ》によって賄ってもらわなければならない百合が哀れで愛しい。奇型の夫婦であるが、奇型なりに定着しかけていた。
最近は百合も夫の顔色の微妙な動きから、その機嫌が読み取れるようになっていた。
「あなた、改まってお話って何なの」
百合は、木原の表情の奥にあるものを探りながら言った。
「きみにちょっと聞きたいことがあるんだよ」
木原は、この期におよんでためらっていた。やはり妻に問い糺《ただ》すべきことではないような気がした。
「何なの?」
「なにを聞いても正直に答えてくれるかい」
「いやだわ。私たち夫婦でしょ。あなたに隠しだてすることなんかないわよ」
とは言いながらも、百合の面には不安が揺れているようである。
「それじゃあ聞くが、三月七日の夜八時ごろどこにいたんだね」
「三月七日の夜」
木原の凝視する中で、百合の表情が強張った。反応を意志的に抑えようとするものだからますます表情に現われてしまう。
「土曜日の夜だよ」
「あら、私、家にいたわよ。あなたが帰っていらっしゃったとき、ちゃんとお迎えしたでしょ」
百合は、言葉を押し出した。
「いや、ぼくの帰る前だよ。どこかへ行っていたんじゃないのか」
「どうしてそんなことおっしゃるの。私どこへも行かずに、あなたのお帰りをお待ちしていたわ」
「それにしては、家の中の空気が冷えていたし、夕食も風呂の支度もできていなかった」
「それはあなたがお食事はいらないとおっしゃったからよ。お帰りももっと遅いとおもっていたのよ。ねえ、どうしてそんなことを質ねるの」
「それではもう一つ聞く。昨年の同じころ、三月五日の夜、きみはどこにいた」
「そんな一年も前のこと、よく憶えていないわ」
百合は泣きだしそうになった。木原は斟酌《しんしやく》せずに追いすがった。
「おもいだすんだ。矢沢恵理が二天の岩屋から落ちて死んだ夜だ」
百合の顔が紙のように白くなった。木原は絶望が固定してくるのを悟った。演技でもよい、とぼけ通してくれと祈る木原の切羽つまった期待に背いて、百合は、著しい反応を見せている。
「きみは矢沢恵理を知っているのか」
「あなたと同じ課の女の人でしょ。前にスーパーで出会ったことがあるわ」
「きみは、それ以前から彼女を知っていたのじゃないのか」
「同じ団地に住んでいたのですもの、ときどき、すれちがったことはあるわ」
「すれちがい程度ではなくて、はっきりと身許を知っていたんだろう」
「どうしてそんなことをおっしゃるの。私が知らないと言ってるのよ。今夜のあなたはおかしいわ」
百合は、土俵際に踏みとどまって切り返してきた。
「百合、ぼくにだけは本当のことを言ってもらいたいのだ。こういうときこその夫婦じゃないか。困ったときはたすけ合う、共に手を取り合って困難を切り開くのが夫婦だろう」
「私、困ってなんかいないわ」
「それじゃあ、これは何なんだ」
木原は、百合の前に米週刊誌の例の記事を開いて差し出した。
百合の顔が引き攣《つ》った。彼女は明らかに記事の内容を知っている。
「クロスオーバー・アニマル、日本人の研究、それを読んでごらん。きみは内容を知っている。もうすでに読んでいる。ポール・フラナガン、ぼくたちのハネムーンに密着取材≠オた米国週刊誌の記者だ。そこに書かれている記事のモデルは、ぼくたちだ」
「ち、ちがうわ」
「どうしてちがうのがわかる?」
「わ、わたし……」
声が震えて言葉にならなくなっている。
「百合、これをごらん」
木原は、妻の目の前に、ビニール袋に入れたある物質をおいた。それは、彼が恵理の死んだ現場から採取してきた「灰」である。
「これが何だかわかるかい。灰だよ。この記事の切り抜きを燃やした灰だ。これを燃やしたのは、きみじゃないのか」
「どうして私が燃やしたとおっしゃるの」
「きみでなければよい。しかし、きみ以外には考えられないのだ。それに気がついた者がいる。屏風ガ浦から落ちて死んだ小泉幸平の妹だ。彼女はきみが犯人だと見ている。なんとかしなければならない。ぼくはきみを救いたいのだ。きみが本当に無実ならばこんな嬉しいことはない。しかしもしきみが事件にからんでいるのだったら、どうかぼくにだけは本当のことを言って欲しい。夫婦で協力してこの危機を乗り越えなければならない。いいかい、きみの不幸や困難はきみだけのものじゃない。きみだけに留めておけないのだ。ぼくたちは運命共同体なのだ」
「あなた……」
百合の突っ張りもそこまでが限界だった。彼女は木原の腕の中に身を投げかけて泣きだした。妻の泣くままにしばらく任せておいて、木原は潮時を測り、
「きみがやったのか」
と聞いた。
「仕方がなかったのよ」
百合は泣きじゃくりながら肯いた。ここに一縷《いちる》の希望は消えて、絶望が確定したのである。
「どうしてそんなことをしたのだ」
「殺すつもりはなかったのよ。恵理さんからこの記事を見せられて、気がついたときは、恵理さんぐったりしていたの」
「初めから順序立てて話してごらん」
百合の話したところによると、――あの日、車で市外の友人を訪ねての帰途、偶然モーテルに入って行く木原の車を見かけた。相い前後して恵理が車を操って来た。百合にはピンときた。以前から恵理の視線に、女のカンから木原との間になにかあると感じていた。モーテルの前で見張っていると、二時間ほどして二人がまた前後して出て来た。もはや彼らが共通の時間を過ごしたことは明らかだった。
百合は、前後の見境いもなく恵理の車を尾行した。尾行してどうこうするという当てはなく、ただ尾行した。百合は富士見平の長谷部の別荘へ入った。そこは以前に父に連れられて二、三度訪問したことがあったので、知っていた。
しばらく長谷部の別荘の前で待っていたが、出て来る気配がないので、そのまま山岳道路を走った。家にまっすぐ帰る気はしなかった。木原を、自分の不能の身体で、一生閉塞できないことは知っていたが、あからさまに他の女との現場を見せつけられるのは、辛かった。木原の顔を見ると、平静ではいられないような気がしたので、山岳道路を一回りして、頭を冷やそうとおもったのである。
午前零時ごろ二天の岩屋へさしかかると、見憶えのある恵理の車が停まっていた。
なんと恵理の車はガス欠を起こしていたのである。恵理はたすかったと喜んで、街まで便乗させてくれと言った。
「私は、いい気味だとおもって、便乗を断わり、朝までそこで他の車が通りかかるのを待っているといいわと言ってやったの。あなたとモーテルで過ごした後,長谷部の山荘で何をやってきたかわからない恵理を便乗させるなど、真っ平だとおもったの。私が断わると、恵理は、記事のスクラップを突きつけて私に読めと言ったの。そして鼻の頭に皺を寄せて笑いながら、そこに書かれているのは、あなたのことよと言ったの。あなたになり代わって、ご主人を便乗≠ウせている私を、あなたの車に乗せてくれても、罰はあたらないんじゃないと言ったわ。恵理は私の体の秘密を知っていたのよ。そのとき、私は我を忘れたの。気がついたとき、私は石を手に握っていて、恵理が倒れていたわ。我に返った私は、このままにしてはおけないとおもって、恵理の体を車に乗せ、私の車で尻を押しながら崖から車ごと突き落としたのよ。ガス欠になっていたので、車は燃えなかったわ。恵理の死体と車は翌朝発見されたけど、警察は疑いをもたなかったわ。でも、恵理の死体が引き揚げられた後で私は重大な忘れ物≠ノ気がついたの。恵理は突き落とされる前に雑誌の切り抜きのようなものを突きつけて、私のことが書いてあると言っていたのをおもいだした。私はその切り抜きも車といっしょに突き落としてしまった。車は燃えなかったから車の中に残っているかもしれない。警察はなんにも言ってこないから、切り抜きに気がつかなかったのか、切り抜き自体に気がついても私と結びつけなかったのかもしれない。でも、もしまだ車内に切り抜きが残っていれば、車が引き揚げられたとき、だれかの目に触れて、私を疑うようになるかもしれない。そうおもって、私は事故から二日後の夜、現場へ行って確かめたの。そして車の残骸の中にあった切り抜きを見つけて、それを読み、これが人目に触れてはまずいと判断してその場で燃やしたのよ。家へ持ち帰って万一あなたの目に触れてもいけないと考えたのよ。寂しい山の中だったけど、必死だったので、少しも恐ろしいとはおもわなかったわ。でもそのとき小泉幸平に見られていたのよ。小泉は、トラックの積荷を少しでも回収しようとして現場に来ていたのよ。小泉は、わけありげな私を密かに尾行して、恵理の転落事故が、私の仕業であったことを見破ったのよ」
金に窮していた小泉幸平は、よきカモとばかり、百合を恐喝してきた。小泉にしてみれば、またとない大獲物だった。百合の身体の秘密を知らず、彼女の躰までも要求するようになった。幸平の口は金で黙らせられなくなった。おもい余った百合は、すべてを岩本に打ち明けて、救いを求めた。岩本は驚愕した。百合の犯罪は、岩本の位置までも危うくする。
「すると、小泉幸平を殺したのはお父さんだというのか」
木原は、真相の意外な展開に仰天した。まさか火の手が岩本へ延びるとは予想もしなかった。彼が恐るべき犯行を演じたとは信じられない。
「父は、私を救おうとしたのよ。最初はお金で解決しようとして、小泉に会ったわ。小泉があなたに最初電話をかけたのは、私に対する示威だったの。二度目の電話まで一年あいたのは、それまで父と私がお金でなだめていたからなの。でもお金で小泉の口を封じられないことがわかってきたの。父はずいぶん悩んでいたわ。殺すつもりはなかったのよ。なんとか小泉をなだめて、穏便に内聞にすまそうと努めたわ。父がどのようにして小泉の口を塞いだのか、私は詳しいことは知らないのよ。あの晩、あなたが帰っていらっしゃる少し前に、父から電話があって、小泉の件は全部始末したから心配するなと言ってきたのよ。私はそれですべてを悟ったの。そのために、私、青い顔をしていたのだとおもうわ」
小泉幸平が二度目の電話を木原にかけてくるのに一年待った理由が納得できた。
木原に会うと言ったのも、岩本父娘に対するデモンストレーションであった。そのデモを実行に移しかけて、口を封じられたのである。
「あの夜、ぼくが小泉と会う約束をしていたことは知っていたのか」
「私は知らなかったわ。でも父は知っていたみたい」
「小泉は、ぼくに会って何を相談するつもりだったんだろう」
「私が言うことをきかないので、私に対する牽制だったとおもうわ。あなたに会ってすべてを打ち明けるぞと私を脅かすための……」
「きみはどうしてこれまでぼくに黙っていたのだ」
「そんなことあなたに話せるわけがないじゃないの。あなたが私の秘密を恵理に話したことから発したのよ。でも私、あなたを責める気持ちはありません。こんな身体の私と結婚してくださったあなたに感謝こそすれ、怨む気持ちなど、かけらもありません。ただ、あなたを失いたくないだけです。おねがい、私を捨てないでちょうだい」
百合は泣きながら懇願した。彼女の切ない愛情が犇々《ひしひし》と伝わってきた。だがいまは感傷に溺れているときではなかった。木原は立ち上がった。
「お父さんに会わなければ」
「父には黙っていてください。おねがいです」
「そうはいかないよ。小泉の妹がきみを疑っているのだ。お父さんに会って対策を相談しなければならない。きみもいっしょにくるんだ」
時ならぬ時間に、緊迫した表情でやって来た木原と百合に、岩本はすべてを察した様子であった。岩本は二人を二階の書斎に引き入れた。
「ちょっと仕事のことでこみ入った話があるので、しばらく三人だけにしてくれ」
事情を知らない岩本夫人は、素直に階下へ引き退った。妻を遠ざけた岩本から大企業の首長としての威厳は消えた。いまは追いつめられた老ねずみのように、老いを剥《む》き出して、退路を探している。
「百合からすべてを聞きました。お父さんともあろう方がどうしてそんなことをなさったのですか」
いまさら岩本を難詰してもどうにもならないことであるが、とりあえず、他の言葉がない。
「あんなことをするつもりはまったくなかったのだ。なんとか金で口を塞ごうとしてきたのだが、小泉は金をうけ取らなくなった」
「やはりお父さんが突き落としたのですね」
「あの夜、小泉はきみに会ってすべてを言うと迫った。彼をきみに会わせたくなかった。小泉は百合に横恋慕して前後の見境いがつかなくなっていた。いや、前後の見境いがつかなくなっていたのは、私だった。あの夜七時すぎに、車で私の家に押しかけて来たときは、すでにかなり酔っていた。事情を知らない妻の耳に入れたくなかったので、私が彼の車を操り、人目を避けて屏風ガ浦へ行ったのだ。彼はそのとき、今夜これからきみに会うつもりだと言った。会って百合を貸せと直談判するのだと言う。私がどんなに説得しても聞き入れてくれない。そのうちに急におとなしくなったので、見ると酔いつぶれて眠ってしまっていた。そのとき小泉が酔いつぶれさえしなければ、あんなことはしなかった。私はまったくどうかしていた。周囲に人影はない。この男さえいなければ、百合と私は救われる。理性は、咄嗟の悪魔的衝動の前に慴伏《しようふく》していた。私は小泉の身体を運転台に移動すると、靴を脱がせ、サイドブレーキを甘く引いておいて崖縁から突き落とした。小泉を入れた車体は、崖をもんどり打つように落ちて、たちまち、海中に沈んだ。私は、近くに公衆電話を見つけると、百合にすべて終わったことを告げ、裏道を伝って家まで歩いて帰った」
「いまさら言っても詮ないことですが、どうして、小泉ずれの恐喝に屈伏したのですか。百合が現場へ行っただけでは、犯人の証拠にならないのです。なぜ言を左右にしてとぼけ通さなかったのですか」
「百合が私に救いを求めてきたのが、遅すぎたのだ。小泉に恐喝されて、何度か応じてしまった後、どうにもならなくなってから私の許へ来たのだよ」
「私に一言相談してくだされば」
「きみに相談してもどうにもなるものではなかった。ただ徒《いたず》らにきみを苦しませることになる」
「どうしてそんなことをおっしゃるのです? 元はと言えば、私から発したことなのです。小泉に百合の体の秘密を打ち明けてもよかったのに。百合の秘密はべつに恥ずかしいことではない。先天的なもので、本人の責任ではないのです」
「実は打ち明けたのだ。ところが信用しないのだ。要求を躱《かわ》すためのでたらめだと言うのだよ。そして、自分の目で直接確かめさせろと要求した」
「…………」
「百合にそんなことはさせられない。それはきみのためにも絶対にできないことだった。私が応じないので、小泉はきみに会って百合の体を確かめるために、借りようとしたのだ。それは脅しではなく本気だった。私は、それをどうしても阻止しなければならないとおもった」
「お父さんは、私が恵理の死に疑惑を抱いて密かに探っていたのをご存知でしたか」
「まったく知らなかった」
「私が余計な動きをしたばかりに新たな強い敵を呼び寄せてしまいました。今度の敵は、まったく買収がきかないので、幸平よりはるかに危険です」
木原は、小泉雅子の探索に介入したために彼女の推理を導き出してしまったことを告げた。
「しかし、それこそその女の素人推理で、証拠があるわけではないだろう」
「週刊誌の記者と旅行社のウラを取ると、相当にうるさいことになります」
「そうだとしても決め手にはなるまい。きみの口舌《くぜつ》で徹頭徹尾とぼけ通してくれないか。百合と私と、そしてきみ自身を守るためだ。きみの全能力を振り絞って、この危機を切り抜けてくれ」
岩本は、少なくとも木原の前では立ち直りつつあった。
新たなる材料
岩本から対小泉雅子工作の全権≠託された形になったが、木原に妙案があるわけではなかった。小泉雅子は切れる女である。対応を誤ると、ますます窮地に追いつめられることになる。彼女は木原の返事を待っている。それによって態度を決定すると言う。それまで警察への告発も保留し、いっさいの他言をしないと約束してくれた。彼女は約束を守るだろう。その間になんとかしなければならない。
小泉雅子は、言を左右にして躱せる相手ではない。ともかくもう一度会って、百合が犯人ではないことを納得させなければならない。三角関係ハネムーンが殺人の動機になるというのは、雅子の短絡であることを、自分の舌先で説得しなければならないのである。
「とにかく証拠はなにもないのだ。それで押し通す以外にあるまい」
木原が決意したとき、タイミングを測っていたかのように小泉雅子が連絡してきた。新しい材料が現われたので、至急会って相談したいということである。
「新しい材料とは、何ですか」木原が問うても、「電話では申し上げられませんわ」と彼女は含み笑いをするばかりである。その笑いの奥に肉感的な響きがあった。そのとき木原は、岩本が全能力を振り絞って危機を切り抜けろと言った意味の含みがわかった、全能力≠ノは男の能力も含まれる。小泉雅子を征服してしまえば、危険性は排除される。また雅子は征服に値する女である。
しかもいまは、彼女と二人だけで会う立派な口実がある。彼女も、木原に会いたがっている。人目を避けて会いたがる木原をむげにも断われないだろう。ことは木原の妻の秘密に関することなのである。
そう考えると、木原に新たな元気が湧いてきた。
「ホテル・リトルマーメイドのラウンジで今夜七時にいかがですか。あそこなら目立ちませんから」
咄嗟にその場所が頭に浮かんだ。ここなら二人だけの密室に直ちに移動できる。
「兄と会う約束をした場所ですわね。けっこうですわ」
屏風ガ浦で出会ったとき、木原は幸平との関係を話したが、雅子はその内容をディテイルまで憶えていた。雅子との会見の約束を交わした木原は、戦場に向かうように心身が張りつめた。
ホテル・リトルマーメイドに約束の時間に赴くと、雅子はすでに来ていた。このホテルの裏の性格を悟ってか、うすい色の入った眼鏡で素顔を隠している。週末ではないので、ホテルの中は閑散としている。
「お食事まだでしたら、いっしょにいかがですか」
木原は、第一の誘いをかけた。
「いえ、すましてまいりましたから」
だが雅子のガードは固かった。
「それは残念ですな。このホテルのプルニエ料理はなかなかのものですよ。一言、言っておけばよかった」
「奥様にはお確かめになりましたか」
一直線に追及してくるのを、
「まあ、なにか注文《オーダー》しましょうよ」
とウエイトレスの姿を探した。雅子を男の獲物にしようと決意したときから、木原に余裕ができていた。改めて観察してみると、雅子は上等の獲物である。年齢は、二十二、三歳か。体の線は瑞々《みずみず》しいが、身体の要所はもう申し分なく熟れている。自然の熟成に、だれも開発の鋤《すき》を入れていない生硬さが残っているが、それがみどりにはない新鮮な造形をなしている。
だれかがちょっと食指を触れるだけで、本人が自閉している成熟は外へ向かって開かれ、自らの中にある実りの価値に気づくだろう。
この女を獲物として取り込むことに、おれの全能力を振り絞ろう――木原は雅子の体を衣服の上から視姦していた。
木原は、スコッチの水割り、雅子はコーヒーとちぐはぐなオーダーをして、対《むか》い合った。オーダーを追蹤《ついしよう》しないところに、雅子の鎧が感じられる。空き腹に水割りウイスキーを飲んでいると、酔いが早く回り、気が大きくなった。そんな小癪《こしやく》な鎧は、すぐに脱がせてみせる。
「奥様は何とおっしゃいましたか」
コーヒーカップに形だけ口をつけて、雅子は同じ質問を反復した。
「家内は、笑っていましたよ」
「笑って?」
雅子はカップを置いて、木原をまっすぐに見た。一途な視線である。
「ずいぶん途方もない臆測をする人がいるものだと呆れていました」
「途方もない臆測だとおっしゃるのですか」
「自分はそんな週刊誌を読んだこともないし、新婚旅行に夫が愛人を伴って来たなんて信じない。仮に百歩譲って、それが事実だとしても、自分の知らないことだ。たまたま自分たちの新婚旅行がアメリカの週刊誌のモデルにされたところで、直接取材をされたわけでもなし、相手が勝手に書いたことだ。そんなことで殺人の犯人にするなんてとんでもない。どうかしているのではないか」
「私がどうかしているとおっしゃるのですか」
「先日は、あなたの推理にも一理あるとおもったが、妻に言われて、途方もない臆測であることがよくわかりましたよ。あなたの推理は、週刊誌の記事のモデルがわれわれであり、それを読んだ妻が激怒して、矢沢恵理を殺し、その事実を知ったあなたのお兄さんの恐喝を逃れるために彼も殺したという恐るべき短絡思考に基づいているのです。われわれがモデルだとしても、どうして、妻がアメリカの週刊誌を読んだと断定できるのです? また仮に読んだとしても、それがどうして殺人の動機に直結するのですか。さらにお兄さんが妻を恐喝して殺されたという推測に至っては、仮定の上に仮定を積み上げている。つまりあなたの推理は、すべて仮定に基づいているのです」
木原はどうだと言うように雅子の顔を見返した。二人の視線が宙に斬り結んだ。
「そうおっしゃられると、たしかに証拠はありません|でした《ヽヽヽ》わね」
雅子は、一歩退るようにして視線をはずすと、ふっと笑いを口辺に浮かべた。木原は、その笑いに帯びた嘲《あざけ》りの気色と、過去形で言った言葉が気になった。彼女は電話で、新たな材料が現われたと言っていたが、それが仮説を証明するものなのか。
「そうです。根も葉もない臆測にすぎません」
胸に萌《きざ》した一抹の不安をねじ伏せるように、木原は断定した。
「でも指紋が現われたのですよ」
口辺の笑いが、はっきりと嘲笑になっていた。
「指紋? 何のことですか」
木原は、まったく防備を施していない搦《から》め手から攻め込まれたような気がした。だが攻めて来たものの正体がつかめていない。
「兄の車の中に空になった国産ウイスキーのボトルがあったでしょう。それに指紋がついていたのです」
「それは指紋ぐらいついているでしょう。ボトルからストレートに飲んでいた様子でしたから」
「兄の指紋は、もちろんついていました。でももう一つ、兄以外の指紋が顕出《けんしゆつ》されたそうです」
「いったいだれの指紋があったと言うのです」
木原から酔いも余裕もいっぺんに消し飛んだ。
「さあ、そんなこと存じませんわ。奥様の指紋とお比べになってはいかがですか。断崖の上で独りでウイスキーを飲んで眠ってしまったはずの兄のかたわらにあったボトルから、奥様の指紋が出たらまずいんじゃありません。あら、お顔の色が悪いようですわね」
雅子に顔を覗き込まれても、対応する余裕が失われている。百合の指紋が捺《お》されているはずはない。指紋があるとすれば、岩本のものであろう。岩本は幸平と共に車体を突き落とす際に、ウイスキーのボトルに手を触れたのであろう。空のボトルは、自然の引力による転落を擬装するための重要な小道具であったから、岩本が手を触れた可能性は十分にある。しかしそれは彼の命取りになる。幸いに、雅子はまだ岩本が事件に関わっている事実を知らない。だが彼女の論理的な推理≠ナ岩本の介在を導き出すのは、時間の問題であろう。指紋の照合(対照)をさせられたら、逃れようがなくなる。
木原は、突きつけられた「新たな材料」の前に身動きできなくなった。
「奥様が、私の推理を途方もない臆測だとおっしゃるのでしたら、指紋を比べていただけないでしょうか。そのうえでべつの指紋ということがわかれば、私の疑いを潔く取り下げますわ」
雅子は勝ち誇っていた。
木原は、雅子のおもいちがいに逆転のチャンスを見つけた。警察は逮捕状も出ていない人間の指紋を強制的に取らない。いまの段階では百合に逮捕状は出ない。この際、雅子の求めるままに指紋を照合させてやろう。百合の指紋のはずがないのだから、照合しても危険はない。指紋が合わなかったからといって、雅子が疑惑を素直に引っ込めるとはおもえないが、時間稼ぎにはなる。その間に岩本と相談をして対策を立てられる。
「指紋の照合など、お安い御用です。しかし照合して、別人のものとわかったとき、あなたはどうなさるおつもりですか」
「どうするとおっしゃいますと?」
雅子の表情が少し揺れた。
「あなたはまったく無辜《むこ》の私の家内に忌まわしい疑いをかけたのです。ただすみませんでしたではすまないでしょう」
雅子の表情の動揺は強くなった。指紋が百合のものであるという確信はないのである。雅子にしても多分にヤマをかけているところがあった。
「私にどうしろとおっしゃるのですか」
雅子の優位が少したじろいでいる。
「あなたは私の妻の名誉を損ない、私まで侮辱したことになります」
「私にはそんなつもりはありませんわ。私はただ真相を突き止めたいだけです」
「あなたにはなくとも、結果としてはそうなります。真相を知るために、他人を傷つけてよいということはないでしょう」
「木原さんは、亡くなった矢沢さんに対して他人ではないのでしょう」
「妻は関係ありません。無実の人間に対してそれだけの検査を求めるからには、あなたも覚悟をしていただきます」
「覚悟はできています」
「どんな覚悟ですか」
二人はたがいの目の奥を探り合った。
「あなたの求めるとおり、どんなお詫びでもいたします」
雅子は心の底に揺れる不安を意志の力で抑えつけているようである。――木原は指紋の照合を雅子のほうから取り下げるようにはったりをかけている。ここで負けてはならない――と必死に自らを励ましているようであった。
「そこまでのお覚悟があるなら、本当のことを申し上げましょう」
「本当のこと?」
雅子の目が訝《いぶか》った。
「妻の秘密です。あなたは新婚旅行に他の女を同伴した私をひどい男だとおおもいでしょうね」
「やはり、モデルはあなた方でしたのね」
「しかし、そのことは、妻が公認していたのです」
「奥様が公認? そんな!」
「信じられないでしょうが本当です。実は私の妻は、女であって女ではないのです。つまり、夫婦生活のできない体なのです。あなたが体験ずみかどうか知りませんが、その程度の知識はもち合わせておられるでしょう。妻はセックスができないのです。矢沢恵理は妻の欠陥を補う代理妻として同行したのですよ」
「それでしたら、どうして結婚などなさったのですか」
突然、異常な夫婦間の秘密を打ち明けられて、雅子は半信半疑の表情である。秘密がセックスの微妙なあたりにわたる羞渋《しゆうじゆう》は、愕きによって背後へ押しのけられている。
「それにはあなたにわからない複雑な事情があるのです。まあ、政略結婚の一種だとおもってください。そんな事情ですから、世の常の夫婦とはちがうのです。家内は、矢沢恵理の同行を最初から知っておりました。歓迎はしないまでも、やむを得ないこととして割り切っておったのです。後で週刊誌を読んで怒ることもないし、それが矢沢恵理を殺す動機につながるはずがないのですよ」
「そんなこと、信じられないわ」
雅子は強烈なカウンターブローを喰ったようによろめいた。
「信じる、信じないはあなたの勝手だが、本当のことです」
「そんなことを言って私の心に圧力をかけて、指紋の照合を逃れようとなさっているのでしょう」
「指紋は照合します。任意的にね。警察もそんな根も葉もない臆測では照合しない。
これはあなたを納得させるためにすることです。指紋が家内のものではないと確かめられたときは、あなたに矢沢恵理の代わりをつとめていただきます」
「矢沢恵理さんの……」
その言葉の意味を悟って、雅子の表情が強張った。
「あなたは、私の求めるままにどんな詫びでもするとおっしゃいましたね」
「でも、でも……」
立場が逆転して雅子はロープに追いつめられた。
「どんな詫びでもするという言葉に、いっさいの保留はありません。あなたの詮索によって、私たち夫婦の秘密を晒《さら》け出し、禍々《まがまが》しい疑いをかけられたのですから、そのくらいの償いは当然だとおもいますがね」
「最初からそのつもりだったのですね」
「自惚《うぬぼ》れないでください。指紋の照合を言いだしたのは、あなたですよ。私は妻に殺人の容疑者として指紋を比べさせるのです」
「それではあなたの指紋も比べていただきます」
「私の指紋も?」
「兄を殺した犯人を許すわけにはいきませんもの」
「私も疑っているのですか」
「犯人は現場へ戻ると言いますからね」
「お望みとあれば、私の指紋も比べていただいてけっこうです。なんだったら、この水割りのグラスをホテルに言っておもちください。いまつけたばかりのホヤホヤの私の指紋があります」
虚勢を張りながらも木原は内心ヒヤリとした。百合を庇《かば》って殺人を犯せる人間として、論理的に岩本を手繰り出すまで、あと一歩のところへ迫っている。雅子はうわべは自信たっぷりの木原に少したじろいだ様子である。
「さあ、どうぞおもちください。念のために一通り押しつけておきましょう。どの指の指紋かわからないので、左右十指分、全部つけておきます」
木原は、雅子の目の前で、グラスに十指の指紋を押しつけながら、
「ところで指紋の照合と簡単におっしゃいますが、ボトルについている指紋と、どうやって比べるつもりですか」
「奥様の指紋をいただいて、私が警察へもっていきます」
「そんなことをすれば、あなたの臆測を警察に話すことになる。指紋が合わなくとも、われわれ夫婦のプライバシーが明るみに出てしまう」
「だれの指紋であるか伏せてもっていきます」
「いかにやる気のない警察でも、そんなことでは納得しない。照合指紋の主の身許を必ず確かめる」
「ボトルは兄の遺物ですから、返してもらいます」
「証拠品を簡単に返しますか」
「警察は犯罪を疑っていません。べつの指紋も、ボトルを買ったとき店の人間のものがついたのだろうぐらいにしか考えていません」
「あなたが、ボトルを返してもらったら、必ず照合いたしましょう。それが私の条件です」
結局、その日の対決は引き分けに終わった。
木原の指紋のついたグラスはいちおう持ち返ったが、木原の毅然たる態度から、彼に対する疑惑は捨てたようである。雅子が最後に望みを託しているのは百合の指紋であるが、もしこれが合わない場合は木原に身体をあたえなければならない。引っ込みのつかないままに、そんな約束をしてしまったが、木原の強い姿勢に雅子の自信も揺らぎかけているようである。その動揺に木原は乗じたのである。
雅子の手前、精一杯虚勢を張って見せたが、内心は薄氷を踏むおもいであった。幸い、雅子は百合の指紋とおもい込んでいるようであるが、百合のそれが合わなければ、指紋の形状から男を疑うだろう。そして木原が消去されれば、残るは岩本しかいない。雅子の着眼はそれほどずれていないのである。彼女の明晰《めいせき》な頭脳がわずかな誤差を修正するのはたやすい。
雅子と別れてから直ちに岩本の邸に行った。指紋の一件を話すと、岩本は蒼白になった。
「やはり指紋は残されたのですか」
岩本ほどの冷徹な男がなぜそんなヘマをと木原は、歯がみをしたいおもいを怺《こら》えた。たった一刷の指紋がすべてを破壊する。
「多分、指紋は残していないとおもう。だがいまになって振り返ってみると自信がないのだ。落ち着いていたつもりでも、逆上していたからな。逆上していなければ、できないことだった」
「多分では困るのです。よくおもいだしてください。おねがいです。その指紋にすべてがかかっているのです」
木原は、舅を叱咤《しつた》していた。自衛のための奮励が、岩本の権威を忘れさせている。
「無理だよ。出先で締めたつもりのガス栓に自信がなくなることがあるだろう。多分残さなかったとおもうが、絶対に残さなかったとは言いきれない」
木原に叱咤されても、浦島の絶対の権威者が力なくうなだれるばかりである。
「順序立てておもいだしてみましょう。小泉の車でお父さんが運転して屏風ガ浦へ行きましたね。そのとき彼は助手席にいたのですか。それとも後部座席にいたのですか」
「後部座席だった。おとなしくなったので、後ろを覗いてみると、酔いつぶれて眠っていた」
「それから屏風ガ浦へ着いて、小泉の体を運転席へ移動させたのですね。そのとき、ボトルもいっしょに移しましたか」
「移したような気がする。酔って転落した死体のかたわらにボトルがないとまずいとおもって」
「すると、ボトルに手を触れたわけですね。手袋ははめていませんでしたか」
「手袋は、はめていなかったが、素手で触れると、指紋がついてまずいなとおもったような気がする」
「おもってどうなされましたか」
「さあ、そこのところがかすんでしまってはっきりしないのだ。咄嗟《とつさ》になにかをあてがってつかんだような気もするんだが」
「どんなボトルだったか憶えていますか」
「国産S社のブルーラベルだった」
「国産品としては高級品ですね。もしボトルからお父さんの指紋が出た場合、非常に困った立場になります。これまで小泉との間になにか個人的なつながりがありませんでしたか」
「百合の件で恐喝に現われる前は、一度も会ったこともない」
「小泉とは何度会いましたか」
「つごう五度だ」
「どこで会ったのですか」
「いずれも夜遅い時間に自宅に呼んだ」
「ご自宅へ呼ばれては、人に見られるとまずいのではありませんか」
「自宅には大勢が出入りしているから、かえって目立たないとおもった。それに小泉も後ろ暗い目的をかかえて来ていたから、人目を憚《はばか》ってやって来た」
「万一、ボトルからお父さんの指紋が出てきた場合は、お父さんがボトルを彼にやったのだと言い逃れられませんか」
「私が彼にボトルをやる理由がないな」
「なんとでもデッチあげてください。便利屋のような形で出入りを許していたとか、就職を頼みに来たとか……」
「それ以外になさそうだな」
「私は、全力を挙げて、指紋の主をべつの方向へ逸らすようにします。いまの時点では、小泉雅子は指紋の主を百合と考えています。警察もまだ犯罪を疑っていないようです。しかしボトルの指紋は、警察の疑惑を引き出す十分な引金になります」
「頼むぞ。きみだけが頼りなんだ」
岩本は、娘の結婚の玩具《がんぐ》として購《あがな》ったこの若者に一家の存否と自分の地位が懸けられているのを悟った。コトは岩本家と木原の運命に関することである。岩本は表立って動けない。岩本が築き上げた強大な権力のカサを守る唯一の戦力が、木原なのである。
「ご安心ください。誓ってこの危機を切り抜けてごらんにいれます」
事態は深刻であるが、木原に多少の成算がないでもない。まず百合の指紋を照合させて、指紋ちがい≠理由に約束の履行を迫る。雅子を征服してしまえばこちらのものである。彼女の疑惑を男の体で強引にねじ伏せてしまうのだ。
転移≠オた危険
事態は予想もしない急転回を見せた。「ボトルの指紋」の件を帰宅して百合に話すと、彼女の顔色が変わった。唇までが白っぽくなり、顔面の筋肉がこまかく震えている。尋常ではない形相に、木原は不吉な予感が胸を走った。
「指紋にどうしてきみが、そんなに驚くのだ」
「もしか、もしかすると、その指紋、私のものかもしれないわ」
「何だと!?」
今度は、木原が仰天する番であった。
「どうしてきみの指紋が小泉のボトルについているのだ」
男だけに木原は逸速《いちはや》く立ち直った。
「私、週刊誌のスクラップを取り戻しに現場の谷底へ下りて行ったとき、初めに小泉のトラックの残骸へ行き当たったのです。そのとき、ウイスキーのボトルが周囲に散乱していて、アルコールのにおいが一帯に漂っていました。トラックの積荷はウイスキーのボトルだったのです。私、寒くてたまらなかったので、その中からこわれていないボトル一本を拾い出して少し口をつけたのです。ライトでちょっと見ただけだけど、S社のブルーラベル、小泉の車から出てきたボトルと同一メーカーだったわ」
「そのボトルはどうした?」
「その場に残してきました」
「トラックにはボトルはたくさん積まれていたのか」
「箱積みされていたわ。相当な数だったとおもうわ」
「その中で満足なボトルはどのくらいあったか」
「数えたわけじゃないけど、あまりなかったみたい。でも探せば箱の中に残っていたかもしれないわ」
「きみが口をつけたボトルを小泉が拾って、飲んだというのか」
「その可能性がないとは言えないわ。小泉はトラックの残骸と、生き残った積荷を回収するために現場へ行っていたと言うから」
「おい、冗談じゃないぞ」
「あなた、もし私の口をつけたボトルだったらどうしましょう」
妻にすがりつかれて、木原は事態の深刻な推移を再認識した。トラックの転落と共に積荷は大部分破壊されたであろう。だが大量のボトルの中には、生き残ったものもあるだろう。現に百合はそれらの一つに口をつけた。それが小泉に拾われて、屏風ガ浦から岩本によって突き落とされた車の中に入り込む確率は少ないとみてよいだろう。だが可能性はある。そしてその可能性があるかぎり、木原が唯一の武器にしていた「指紋ちがい」で雅子を責めることはできない。
木原にも、この新事態にどう対処すべきかわからない。まさか百合に、小泉のボトルに指紋をつけるチャンスがあったとはおもわなかったので、いつでも指紋の照合に応じると雅子に大見得を切ってしまった。それをいまになって断われば、雅子の疑惑を固めてしまう。彼女の論理的な説得≠ノよって、警察の中にも疑いを抱く者が生じるかもしれない。べつの女の指紋を百合のものだと偽って、その場を糊塗《こと》する手もあるが、それが露顕すれば命取りになる。
その前になんとかしなければならない。唯一の武器を封じられては、約束を楯に雅子をねじ伏せることはできなくなった。女の体を征服せずに、その口を封ずることはできないか。
一瞬、脳裡をかすめた不吉な発想に、木原は愕然とした。岩本ほどの思慮分別のある、社会の一方の地位を占めるビッグショットが、どうしてそんな幼稚で危険な衝動に身を委ねたか理解に苦しんだものであるが、いま黒い稲妻のように通り抜けて行った発想は、まぎれもなく岩本を捉えた衝動と同一のものであった。
だがどこにも逃げ場のない窮地に追いつめられた者は、目先の危機しか見えない。火種よりも身に迫る炎の先を見て、そこから逃れようとする。そして自らを|破滅の淵《デツド・エンド》に追い込んで行く。
「父に相談をしましょう。父ならきっとなにか妙案を考え出してくれるにちがいないわ」
途方に暮れた様子の木原を見て、百合はたすけ船を出したつもりなのだろう。だがその父親から木原は全権≠委任されている。夫よりも父親を信じて救いを求めていったことから事件は紛糾してしまったのだが、いまそれを咎めたところでどうにもならない。それに、この新事態の発生を、岩本の耳に入れないわけにはいかなかった。
岩本は、木原以上に驚愕した。問題の指紋の主として、にわかに百合が介入してきた。いずれの指紋にしても照合されて、その主が特定されたら最後である。
「しかし、百合が口をつけたボトルが、小泉の末期の酒≠ノなった確率はきわめて薄いとおもうがね」
岩本は、絶望の闇の底でわずかな曙光《しよこう》を手探りするように言った。
「確率はたしかに少ないでしょう。まず、現場から回収されたボトルの中に、百合が口をつけたボトルが入る確率、次に入っていたと仮定してそのボトルが、小泉の末期の酒になる確率、そして、ボトルが同一メーカーの同種のものである確率、これらをかけ合わせると、きわめて稀少な確率になります」
「同一メーカーの同種のボトルであったとしても、小泉が他の店で買ったボトルがたまたま、百合の口をつけたボトルと同種のものだったかもしれない」
「それだと、新たな指紋は、本当に酒屋の店のものかもしれません。しかしですね、小泉はトラックと積荷の損害賠償に追われて、国産ながら高級のウイスキーを買える身分ではありませんでした。その彼がお父さんを訪ねて来たときは、運転もおぼつかないほど飲んでいたという。するとウイスキーは身近にあったと解釈したいですね」
「それにしても、百合のボトルが当たる確率は少ないだろう」
「お言葉を返しますが、私はそれほど楽観できないのです。百メートルの断崖から落ちたトラックに積まれていたボトルの中で、こわれず残った数は少ないとおもいます。そして、完全なボトルあるいは中身の残っているボトルは、小泉が回収して積荷の主に返したのではないでしょうか。小泉にしてみれば、少しでも賠償額を下げたかったでしょう。すると、彼の手許に残されたのは、中身は影響を受けないがボトルが汚れたり、表面に傷がついたりして、商品価値が下がり、引き取りを拒否された品ではないでしょうか。小泉がそういう中途半端なボトルを飲んで憂さを晴らすということは、十分に考えられます。百合が口をつけたボトルは当然引き取りを拒否されたでしょう。こう考えると、百合のボトルが当たる確率はさほど稀少ではなくなります。私はあまり楽観はできないとおもいます」
「新たな指紋が出たというのは、小泉雅子のデッチ上げではないのかね」
「そんなデッチ上げをするメリットはありません。指紋が出たからこそ、われわれの指紋との照合を求めているのですよ」
「警察には、われわれに対する疑惑は本当に話してないのか」
「仮に話したとしても、いまの時点では取り上げられないでしょう。浦島署が、浦島の事実上の主権者であるお父さんに、そんな素人推理で疑惑をかけることはあり得ません。だからこそ雅子は新たな指紋を武器に一挙に勝負を決めようと攻め込んで来たのです」
「だったら、初めから無視して相手にならなければよかった。いまからでも無視するに遅くはあるまい」
「まさか百合の指紋がついている可能性などおもってもいなかったものですから、それを逆手に使って、敵をひねってやろうと考えていたのです。ここへきて、照合を拒否すれば、敵の疑惑を固めてしまいます。小泉雅子は女ながら手強い相手です。照合を拒否しても、必ずなんらかの方法で、百合やお父さんの指紋を手に入れるでしょう」
木原は、雅子と交わした約束≠打ち明けた。百合は面を伏せて聞いていない振りをしたが、岩本には、木原の身体で、女の疑惑をねじ伏せようとする効果がわかったようである。
「どうやって、われわれの指紋を手に入れるね」
「そんなことは簡単ですよ。社内で息を潜めている反対派にお父さんの手に触れた物を盗ませればよいのです。書類、カップ、茶碗、本、日常生活において手を触れる物はいくらでもあります。それを防ぐ手段はないでしょう。警察の捜査ではないから証拠収集の違法性も問題にならないでしょう。雅子の狙いは、警察の捜査をスタートさせるきっかけをつくることにあるのです」
「反対派の耳に雅子の疑惑が入るとまずいな」
「私もそれを恐れています。雅子は私が照合することを約束したので、彼女の推測は、いまのところ彼女一人の胸の内にしまってあるようです。もっとも話してもだれにも信じてもらえないせいもあるでしょうが。ですから照合を拒否された時点から反対派への接近を図るでしょうね」
「彼女を反対派に近づかせてはいかん」
「そのために照合はしなければなりません。しかし行なえば、危険を賭けることになります」
「危険は賭けられないぞ」
「つまりにっちもさっちもいかないわけです。小泉雅子がいるかぎりは……」
その言葉にギョッとしたように、岩本は木原を見た。
「まさか、きみ……」
あとの言葉はつづかない。
「もちろん最後の手段です。その前になにか手はないか、脳味噌を絞って考えてみます。警察がボトルを返すまでは、時間を稼げます」
「警察がそんなに簡単にボトルを返すかね」
「犯罪の疑いを抱いていなければ、あっさりと返すとおもいますよ。兄の末期の酒びん≠ヘ、妹にとって十分な遺品になりますからね」
「ボトルが返されたら、もはや逃げられないか」
ここで二人はたがいの目の奥に萌《きざ》しているものを露骨にまさぐり合った。二人はそのとき
舅《しゆうと》と女婿の関係から共犯者になっていた。運命共同体と言っても、共犯の連帯によって運命が結ばれたのである。
「逃げられません。この危機に直面せざるを得ないのです。いまの段階ならば、危機が転移しておりません。転移してからでは取り除けません」
危機の転移とは、小泉雅子の疑惑について同調者が現われることである。とりあえず警察、次いで反対派に同調者が現われるのが恐い。木原はそれを癌《がん》細胞の増殖になぞらえていた。
「転移していないという保証はあるのかね」
「その点に一つの危惧《きぐ》があります。私は転移していないとおもいますが、確かめたいのです」
「どうやって確かめるつもりかね」
「お父さんなら警察内部に知り合いがいるでしょう。それとなくボトルの指紋について犯罪性を疑っている者がいないかどうか探っていただけませんか」
「そんなことならお安い御用だ」
「いや、決してお安い御用ではありません。お父さんが探りを入れたことがわかっては危険です。あくまでも間接に探っていただきたいのです」
「わかった」
「われわれが小泉幸平の屏風ガ浦転落事件に関心をもっているとは、露ほども悟られてはならないのです。それでいながら、警察の態度を詳しく探らなければいけないのですからね」
「それならばいい手がある」
「どんな手ですか」
「咲山みどりの親戚に浦島署の刑事がいるのだ。その線から探らせよう」
「みどりが関心をもつのを不審におもわれませんか」
「彼女が同じような経験をしたと言っていたことがあるんだよ」
「同じような経験?」
「きみは聞いたことがなかったかね、パーティで。江口といっしょにドライブに行ったとき、屏風ガ浦の同じ場所に車を駐めて海を見ていたんだそうだ。車の中で何をやっていたのか知らんがね。はっと気がついたときは、車が自然の勾配に引かれて、崖縁まで来ていたそうだ。おそらく車内の激しい動揺がタイヤに伝わって車が動きだしたのだろう。サイドを引いて危うく命拾いをしたが、気がつくのが一瞬遅ければ、車と共に心中するところだったと話していた。実は、小泉の車を落としたのは、その話からヒントを得たのだ」
「そういうことであれば、私がみどりに頼みましょう」
いまこの運命共同体の中でだれが指揮者かよくわかっていた。岩本も百合もその指揮者に不満はなかった。
「もしすでに疑惑が諸方面に転移していたらどうするつもりかね」
「転移の状態によります。もみ消せる段階にある場合は、お父さんに働いてもらいます」
「もみ消せない段階に達している場合は?」
「そういう段階になっていないように祈るしかありませんね。しかし十中八九までそうはなっていないでしょう。もしその段階であれば、警察が直接指紋の照合に来るでしょう」
「小泉雅子は抹殺する以外に方法はないかね」
「なるべくならば穏便にすましたいとおもいます。新たな犯罪は必ず新たな危険をまねきます。しかし、この場合、彼女を懐柔できなかった場合の危険と、その口を塞いだ後の危険の比較考量ですね。彼女の存在は現実の危険であり、その口を塞いだ後の危険は、将来発生するかもしれない不確定の危険です。その危険を絶対発生させないためにも、沈着な行動が必要です」
「きみの沈着冷静ぶりには感嘆している」
それは、こういう事態に直面しなければ、知ることのなかった木原の側面であった。
「百合と私自身を守るためです」
木原は自ら確認するように言った。
咲山みどりを介して密かに探りを入れたところ、警察の内部には「ボトルの指紋」について犯罪性を疑っている者はいないということがわかった。つまり危険は転移≠オていなかったのである。小泉雅子の素人推理は警察部内で問題にもされていないようであった。彼女は屏風ガ浦の「実験」から、疑惑をもっただけで、その疑惑の対象を特定して表に出していない。雅子も、相手が浦島の権力者の娘であるだけに慎重に構えているようである。
それは、木原との約束を守ったというより、証拠もなく、下手なことを言いだしたら、自分が浦島にいられなくなるからであろう。雅子の慎重さの中に、こちらの付け込む隙《すき》があるのである。
だがその後、雅子から梨の礫《つぶて》で、なんの音沙汰もない。ボトルが返されれば、直ちに連絡してくるはずである。それをしてこないということは、ボトルが返されないということか。ボトルは彼女にとって唯一の武器である。それが手に入らないかぎり、手も足も出せない。
だが、一方べつの不安も生ずる。警察がボトルを返さないのは、事件に犯罪性を疑って一件資料を押えたからではないのか。となると、雅子の音沙汰のないのを喜んでばかりはいられない。咲山みどりの線からの偵察の結果を信頼できれば、警察はボトルを返してもよいはずである。犯罪資料として以外のべつの理由があるとすれば、何か。
木原は雅子の沈黙が無気味であった。彼女が理由もなく黙っているとはおもえない。またボトルの「指紋ちがい」を恐れてにわかに尻ごみをしたとは考えられない。彼女はそんな臆病な女性ではない。指紋ちがいの場合の、木原との約束に恐れをなすくらいなら、初めから指紋の照合を求めてこないだろう。
雅子の沈黙にはなにかの底意があるはずだ。その底意を確かめなければならない。木原は小泉雅子に自分から連絡を取った。
だが雅子の態度は、歯切れが悪かった。なんとなく木原との面会を避けている気配なのである。あれほど決然と指紋の照合を迫った彼女にしては,別人のように姿勢が弱くなっている。木原は、雅子の打って変わった弱気になにかあると感じた。
どうやら情勢に変化があったらしい。木原は、一気に攻勢に転じた。
「ボトルは返してもらったのですか」
「ええ、いちおう」
「それでは指紋の照合ができますね」
木原はおもいきって核心に斬り込んだ。
「あのう、照合は少し待っていただきたいのです」
雅子の返答は意外であった。あれほど強く照合を迫った彼女が、ボトルを返されたのにもかかわらず躊躇《ちゆうちよ》している。
「なぜ待つのですか。私としては、一刻も早く照合をすまして、妻のあらぬ疑いを晴らしたいのです」
木原は、嵩《かさ》にかかって攻め込んだ。敵に照合を阻む重大な障害が発したという予感がした。電話で表情をうかがえないのが残念であるが、雅子は電話口で困惑しきっている気配である。
「いまになって、一方的にそんなことをおっしゃられては困ります。私は、あなたに妻を殺人者呼ばわりされたのです。われわれ夫婦のプライバシーもあなたに明らかにした。あなたは、他人に濡れ衣を着せたことに対して責任があるのですよ」
木原に畳みかけられて、
「私、まだ疑いを解いたわけではありません。また無実の人に濡れ衣を着せたともおもっていません」と雅子はややキッとなって切り返してきた。
「それではなぜいまさら指紋の照合をためらうのですか。とにかく、電話では埒《らち》があかない。先日お会いしたホテル・リトルマーメイドへお越しください」
木原は強引に彼女を引きずり出した。
小泉雅子と対《むか》い合ったとき、彼女から対決の姿勢が消失しているのを悟った。彼女は待ち合わせの場合へ、木原よりやや遅れて到着すると、伏目がちに彼の前へ胴が丸く脹《ふく》らんだ布製バッグをおいた。そして木原が見守る中で、ビニールに包まれたウイスキーのボトルを取り出した。
「ほう、これが例のボトルですか」
まさかこの場へ持参するとはおもっていなかった木原は、愕いた目を向けた。
雅子は肯《うなず》いた。
「こんなふうに、持ち歩いて、指紋が消えてしまわないのかな」
「ちゃんと警察のほうに保存してありますから大丈夫です」
「すると、警察はやはり犯罪を疑っているのですか」
「そうだといいのですが、事故の参考資料≠ニしていちおう保存しておくのだそうです」
ボトルには白い粉を振りかけたような痕が見られたが、指紋は肉眼には見えない。
「問題の新しい指紋はどの辺についていたのですか」
「この辺です。右親指と人指し指と中指の一部だそうです」
「それでは早速照合しましょうか」
その結果、合致すれば、雅子の運命は定まる。それは木原自身の手を汚すことである。
「それが照合は難しくなったのです」
雅子は、困惑の色をはっきりと面に表わした。
「なぜですか」
「指紋が不完全で、照合が不可能だそうなのです」
「照合不可能……」
雅子の言葉を反復しながら木原は急に腹の底から笑いが込み上げてくるのを覚えた。なんのことはなかったのだ。「新たな指紋」の出現に怯《おび》えて、岩本や百合の指紋の可能性まで考え、対策を立てたが、早合点であった。
対照(照合)不能の指紋など、なんの価値もない。もはや、小泉雅子など恐るるに足りない。幻影に怯えて踊らされていたのである。だが雅子の次の言葉が、木原の笑いをのど元で凍りつかせた。
「それに、指紋の形が、女性のものではないそうです。警察の見解のように、兄がボトルを買った店の人の指紋がついたのでしょう」
百合の指紋は打ち消されたが、火は岩本の足許へ迫った。幸いなことに雅子も警察も岩本の存在についてまったく考え及んでいない。だが雅子が論理的に岩本に考えつく可能性はきわめて大きい。いまは、不完全な指紋に落胆して、新たな可能性を考えるゆとりがなさそうであるが、立ち直れば、気がつくかもしれない。
その前に彼女をこちらの獲物に取り込んでしまわなければならない。素早くソロバンを弾き直した木原は、
「それでは指紋の照合は、願い下げということですか」
じわりと詰め寄った。
「別人のものとわかっているものを照合しても仕方がありません」
雅子はやんわりとうけた。
「すると、約束はどういうことになるのですか」
「指紋の照合はしなかったのですから、約束も自動的に消滅するとおもいます」
「冗談じゃない。私は、夫婦の秘密を晒《さら》け出し、指紋の照合に応じようとしていたのです。それを指紋が照合不能とわかったものだから、一方的に照合を中止して、約束は自動的に消滅したといっても通りません」
「私、あなた方ご夫婦の秘密は、口外いたしません」
「そんなこと信用できませんね、あなたはすでに約束を破っているし、あなたに打ち明けた秘密は取り戻せない」
「私、あなたの奥様の代理をつとめる約束などしておりません。あなたが勝手な解釈をしているだけですわ」
「あなたは私の求めるとおり、どんな詫びでもすると言った」
「私は、奥様が無実と確定したときは、どんなお詫びでもすると申しました。まだ奥様に対する疑惑を解いたわけではありません」
「指紋は、家内のものではないことが明らかにされたのでしょう」
「共犯者の指紋かもしれません」
「共犯者!」
追いつめたつもりがまた強烈なカウンターを喰った。
「崖から車を突き落とすのは、女の力より、共犯の男の力のほうが効果的でしょう。奥様を庇《かば》うために、だれか男がやった。さしずめ木原さんなんか、最有力候補者じゃありません?」
雅子の推理は、まさに木原が恐れていた方角へ向かいつつあった。
「冗談じゃない。だいいち、私にはアリバイがある」
「アリバイは完全ではありません。兄の死亡時間帯は、午後八時から二時間と幅があります。午後九時にホテルを出たあなたは、それから充分兄を殺せる時間があるのです」
「私が犯人なら現場へのこのこと戻ってのんびりと実験なんかしていませんよ。このことはすでに申し上げた」
攻撃しているつもりが、いつの間にか受け身に回っている。
「犯人が現場へ戻るのは、捜査の常識だそうです。犯人が車を突き落としてから、自然の勾配で車が落ちるかどうか不安になって実験に来たとも考えられますわ」
反駁《はんばく》しようとして、木原は、疑惑を自分から逸らしてしまう危険も考えた。木原が完全に漂白されれば、次に疑われるべき人物は、岩本以外にない。いまのところ岩本がノミネートされないのは、彼がまとっている権威の鎧のおかげである。浦島の帝王である岩本が、娘を守るためとは言え、虫のような恐喝者を取り除くために、自らの手を汚すはずがないという先入観が、彼女の論理的推理を妨げているのである。
「それではなぜ、私を訴えようとなさらないのです」
「あなたと初めてお会いしたとき、矢沢恵理さんのことを質ねたからです。あなたが兄殺しの犯人なら、決してしない質問です。それにもう一つ、あなたは犯人ではないというカンがするのです。あなたは衝動で決して人を殺せないはずです。二天の岩屋も、屏風ガ浦も衝動性が感じられるのです。計算しつくした犯罪なら、現場で資料を燃やしたり、不完全ながらボトルに指紋など残したりするはずがありません」
「衝動の犯罪にしては、疑っているのは、あなただけですね」
「いずれの事件も犯人に幸運が味方したのです。でもどこかに、犯人の手ぬかりがあるとおもうのです。いえ犯人の手ぬかりと言うより、犯人にとって不運な要素と言うべきでしょう。いまのところ幸運の要素のかげに隠れて見えませんが、私たちの死角に犯人の不運があるとおもうのです。その一つはすでに現われています」
「犯人の不運が現われているというのですか」
「あなたと私が屏風ガ浦で出会ったことです。あの出会いがなければ、私はあなたの奥様を疑うこともありませんでした。これはまさしく犯人にとっての不運だとおもいます」
「私が妻を疑わせるきっかけをつくったわけですね」
「そうです。ですから、まだ他にも犯人にとっての不運が隠れているとおもうのです。それが現われれば、犯人のツキも落ちます」
もはや雅子に約束を迫るどころか、心理的に防戦一方に追いつめられていた。雅子の言うように不運がどこかに隠れているのか。たとえ雅子が岩本を疑いだしたとしても、指紋が不完全ならば恐るるに足りない。あとどこに不運な要素が隠れていると言うのか。
だがいまのところ、指紋の脅威はひとまず去ったとみてよいだろう。同時に雅子も命拾いをしたのである。
合成された不運
平穏無事な日々がつづいた。ボトルの指紋の脅威が去って、木原の幸運もようやく安定したかに見えた。岩本体制も定着し、岩本軍団も当たるべからざる勢いである。木原をリーダーとする社長室は、社長直属のスタッフとして、会社ににらみをきかせていた。
木原の私生活においても、百合との仲は円満であり、みどりともうまくいっていた。二天の岩屋と屏風ガ浦の危機をうまく躱《かわ》してから、岩本の木原に対する信頼は絶対的である。
だが、木原はあまりにも順風満帆な推移にかえって不安をおぼえるのである。幸福の絶頂にあって、その幸福を失うことを恐れるあまり、不安でたまらなくなるという「不安神経症」だと自らを戒めるのだが、小泉雅子の「隠れている不運が表に出てくれば、これまでのツキが落ちる」という言葉が、次第に比重を増してくる。隠れている不運などあろうはずがない。――あれからだいぶ日数も経過したし、多少あったかもしれない痕跡も消滅してしまったにちがいない――と木原は自分に言い聞かせるのだが、死角のどこかに息を殺して、躍り出る機会をじっとうかがっている獰悍《ねいかん》な「不運」の姿勢を想像しないわけにはいかなかった。
不運は隠れるのが巧みであるが、幸福は擬態が上手である。その幸福が本物かどうか、容易に見分け難い。また幸福とは脆い性質をもっている。
木原が、安定した位置に不安を抱きかけた時期に、その不安をうながすような事件が報道された。それは大阪で発生したタクシー運転手連続強盗殺人事件の捜査について報道した記事であるが、車内のハンドルやドアから採取した犯人のものとみられる不鮮明な指紋十数個を合成して鮮明な指紋の復元に成功したというものである。
記事によれば、――我が国の捜査当局が指紋の復元に成功したのは、これが初めてであり、犯行現場から採取した指紋がいずれも部分的であったり、不鮮明だったりしたため、これらの不完全指紋の比較的鮮明な部分を取り出して合成するという方法が採用され、この度ようやく対照可能な指紋の復元に成功した。同捜査本部では犯人を割り出す有力な手がかりとして全国犯罪情報管理システムと照合している――ということである。
木原が不安をそそられたのは「不完全指紋の合成」という新手法である。これが「ボトルの指紋」を連想させたのである。ボトルの指紋も部分的に不鮮明で対照不能であった。だがこの新手法を採用すれば、完全指紋に復元できるのではあるまいか。
しかし報道記事によると、復元のための資料となった指紋は十数個あったそうである。ボトルの指紋は、右手の親指、人指し指、中指各一個ずつである。一個では「合成」のしようがあるまい。
木原は、不安を納得させた。
だがその記事が出てから数日後、べつの方面で彼を驚愕させる事件というより異変が発生した。みどりとの定期的デートのときのことである。彼女はいつもより元気がなく、食事もほとんど口をつけなかった。どうかしたのかと問うても、なんでもないと首を振って、木原をベッドへ誘った。床急ぎのあまり、胸が一杯になって、食事どころではなかったのかとおもい直したが、ベッドでも彼女はいつものように弾まなかった。
「やはり、おかしい。どこか体の具合が悪いんじゃないのか」
なんとなく白けた気分で木原が問いかけたとき、みどりは彼を突きのけるようにして口を押えながらトイレットへ走り込んだ。
「いったいどうしたのだ」
ドアも閉じずに、便槽《トラツプ》の上にかがみ込んで黄色い水を吐いているみどりの背中をさすりかけた木原は、はっとおもい当たったことがあって、
「きみ、まさか!」
と苦悶に歪めているみどりの顔を覗き込んだ。胃の中のものを吐き尽くしていくらか鎮まったみどりは、
「どうやら命中しちゃったみたいだわ」
と照れ笑いをした。
「どのくらい経つんだ」
「よくわからないけれど、三か月くらいお客様≠ェ遅れているとおもっていたのよ」
「なぜぼくに黙っていたのだ」
「そんなこと、男の人に話しても仕方がないでしょ。それに私は不規則だからあまり気にかけていなかったのよ」
「三か月も遅れているとなると、もうだいぶ育っているかもしれないぞ」
木原は、それとなくみどりの下腹部を目で測った。最近、少し厚ぼったくなったように感じていたのだが、妊娠していたのか。木原は事態にどう対処すべきか当惑していた。
みどりは、岩本と百合公認のホストマザーである。したがってみどりが妊娠すれば、当然、木原の子として出産してもらわなければならない。「|腹貸し母《ホストマザー》」とは、その意味もある。
だが、岩本はとにかくとして、百合の心情を考えると、ことはそう単純にはいかない。百合は、木原を独占するために殺人まで犯したのである。自分の不能の身体で、木原を一生封鎖できないことを知っていて、みどりを認めたものの、胸の奥には、不能の妻の無念が暗い埋《うず》み火《び》となって燃えているにちがいない。
その彼女の前に、他の女に産ませた子供を結婚後いくばくもなく連れ出すのは、残酷である。だが子供は欲しい。みどりがいつまでホストマザーをつとめてくれるか、保証はないのだ。この機会を逸したら、二度と子供をもてるかどうかわからない。
「とにかくすぐに医者にみせなければいけない」と渋るみどりを引き立てるようにして医者の許へ連れて行った。
その結果、彼女は妊娠中期の初めにかかっていることがわかった。木原は岩本に相談した。岩本はみどりの妊娠を喜び、ぜひ産むようにと強く勧めた。そして、木原とみどりの間に生まれる子を自分の孫として認めると言った。
「百合とみどりを説得して、生まれてくる子供をきみと百合の実子として届けるのだ。ようやくきみにも跡取りができたのだ」
岩本は、実の孫が生まれてくるような喜び方であった。百合は、岩本の援護射撃≠烽って納得してくれた。
だがここに重大な障害が生じた。みどりが胎児を中絶したいと頑強に主張しはじめたのである。母親が産む気になってくれないことにはどうにもならない。
「なぜなんだ。きみは初めから子供ができたら、ぼくら夫婦にくれると言っていたじゃないか。子供のために自分の人生を縛られたくないと」
「考えが変わったのよ」
「きみの考え一つで胎児を始末してよいとおもっているのか」
「私の子を人にやるなんていやだわ」
「ぼくの子でもあるんだぞ。きみとぼくとはいまさら結婚できない。きみも結婚を望んでいない。結婚は真っ平だけど、相談相手になってくれる男が欲しいときみ自身の口から言ったろう」
「子供をやるなんて約束しなかったわよ」
「子供はわれわれ二人の子だ。少なくともきみ一人の判断で処分できないはずだ」
「そこまでおっしゃるなら、本当のことを打ち明けるわ」
みどりは、あきらめたような表情になった。
「本当のことって何だい」
木原は、みどりの改まった口調が気になった。
「実はね。お腹の赤ちゃんあなたの子かどうか自信ないのよ」
「何だって!?」
独占していたと信じていただけに、激しい驚愕が木原の胸を走り抜けた。
「多分あなたの子だとおもうけど、絶対の自信がもてないのよ。生まれてから父親ちがいが明らかになったら、赤ちゃん可哀想でしょ」
「きみは、やはり江口ともつづいていたのか」
「江口じゃないわ。日高よ」
「日高だと?」
「あなたに頼まれて、彼を罠にはめたことがあったでしょ。あなた、あのときずいぶんしつこく聞いたけど、実はね、最後までいっちゃったのよ。あなたが悪いのよ。踏み込むのが遅かったんだから。あのときいちばん危険なときだったのよ」
「だったらどうして避けなかったんだ。べつの日にしてもよかったのだ」
「そんなこと、後になってみなければわからないわよ」
「女には、だれが父親かわかるというじゃないか」
「わかる人もいるんでしょう。私にはわからないわ。だからおねがい。堕《お》ろしていいでしょ。父親がはっきりしないまま生まれては、赤ちゃんが可哀想よ」
女の自由を主張したみどりが、いまは母親の顔を覗かせている。
もはや結論は明らかである。日高が父親である可能性のある胎児を出産することはできない。罠にかけたつもりが、こちらがかけられていたのだ。
復讐のために周到に張りめぐらした罠の底に、このような二重底があったとは。――木原は、人生に復讐しているつもりが、逆に人生から復讐されているような気がしてきた。
工員と社員の身分差別を終生の怨念として胸に刻み、いつの日かその差別に復讐してやるために、ここまで成り上がって来たのであるが、元々、人生を怨むなどということが、筋ちがいではなかったのか。
それぞれの人生は、各個人の運命《さだめ》である。自分に背負わされた運命を呪《のろ》い、それにおろかしくも復讐を企む者は、運命から返り討ちにあうのではないのか。木原が屈辱として胸に刻み蓄えたものは逆怨み≠ナはなかったか。木原は、社員になってから今日までの軌跡がにわかに自信がなくなってきた。その動揺する足許から幸運の要素がパラパラと剥落《はくらく》していくように感じられた。
みどりは人工中絶をした。胎児はすでに性別が見分けられた。男の児であった。その翌日二人連れの男が、木原を会社へ訪ねて来た。五十前後の背の低い男と、二十代後半と見られる若い男である。年輩の男のほうが仕立下ろしの渋い背広をキチッと身につけているのに対して、若いほうがすり切れたジーンズに洗いざらしの色シャツを着たちぐはぐなコンビである。
年輩の男は、浦島署捜査課刑事、大江と名乗った。若いほうは北村と言った。大江はいやに低姿勢であり、北村は、妙に突っ張っている。彼らの服装だけでなく、態度の不調和も、木原にいやな予感をあたえた。
「実は、本日お邪魔いたしましたのは、二天の岩屋と、屏風ガ浦から車が転落した事件につきまして、小泉雅子さんからあなたをお訪ねすれば参考になるお話をうかがえるだろうとサジェスチョンをうけたからです」
大江は、サジェスチョンという言葉に奇妙なアクセントをおいて言った。木原は、一瞬、全身の血が逆流したように感じた。とうとう雅子が警察に話してしまったのだ。いや彼女が話したことは重要ではない。重要なのは、刑事がここへ来た事実である。それは警察が彼女の素人推理に耳を傾けかけた証拠であろう。
「あの事件は両方とも、事故だったのでしょう。小泉さんが何を言ったか知らないが、私にはなにも話すことなんかありませんよ」
努めてポーカーフェースを装いながら、木原は、刑事の表情から、そのかかえている魂胆を探ろうとした。
「われわれも事故だとおもって、いったんはそのように処理したのです。いまでも署の大勢意見は事故として固まっております」
大江は茫洋とした表情で言った。北村のほうは茶を運んで来た受付の女性の足に目を吸われている。若い刑事の無遠慮な視線に辟易《へきえき》して、受付係はスカートの裾を両手で下へ引くようにしながら急いで応接室から出て行った。
「それならばなぜ?」
茶碗を取り上げながら問いかけた木原に、
「われわれは少数派なのですよ」
大江はふんわりとはぐらかすように笑った。
「少数派?」
「浦島署の中にもあの二件を単なる事故ではないと疑っている者が、少数ながらおりましてね。細々と調査はしておったのです」
そんな少数派がいたとは、初耳であった。ポーカーフェースが不覚にも少し動いた。だが大江の視線はどこを見ているのか曖昧模糊としている。
「ところが、屏風ガ浦から落ちた小泉さんの妹の雅子さんから、あなたもわれわれ同様の疑いをもって、現場で実験≠されていたと、うかがいまして、大いに心強くおもい、まあ表敬の意味でうかがったのです」
刑事が単なる表敬訪問に来るはずがない。だが大江がそれをぬけぬけと言うと、いかにも本当らしく聞こえてくる。
「いやはっきりと疑いを抱いたわけではなく、崖の上から勾配《こうばい》に引かれて落ちるようであれば、うっかり車も駐められないとおもって、軽い気持ちで験《ため》していたのです」
木原は、言葉尻を捉えられないように慎重に言った。雅子が何をどの程度しゃべったかわからないが、この場に雅子はいないのであるから、多少の矛盾はやむを得ないとおもった。
「雅子さんは、あなたが二天の岩屋の事故とのつながりから疑いをもったとおっしゃってましたが」
案の定刑事は、雅子との「言葉ちがい」を突いてきた。
「疑いのきっかけはそうでしたが、私の知り合いが、やはり同様のケースで屏風ガ浦から落ちかけたという話を聞いて、車の重さ、タイヤの種類、またそのときのさまざまな条件の変化によって車は落ちたり、落ちなかったりするということがわかりました」
「そのお知り合いの方は、咲山みどりさんじゃありませんか」
大江はまた木原をギョッとさせるようなことを言った。
「どうしてご存知なのですか」
木原が驚きを抑えて問うと、
「この北村君の遠い親戚が、咲山みどりさんなのです。咲山さんも、この事故に関心をもたれたとみえて、北村君に詳しく警察のその後の処置を聞いてこられましてな」
木原は背筋が冷たくなった。みどりを介して探りを入れた相手が少数派≠セったとは迂闊《うかつ》であった。これは浦島署を少し見くびりすぎていたようである。
「ところで二天の岩屋のほうでは、われわれは完全にあなたに先を越されましたよ」
大江は、楽しい計画でも打ち明けるような口調になった。
「それはどういうことでしょうか」
「いやあの時点では、われわれも犯罪性を疑っていなかったのです。もともと事故の多発する場所ですからな。小泉さんのトラックが少し前に落ちたときでもあり、全員一致で事故ということになりました。だから、検視も形式的なものでしてね。ああ、あのときあなたも現場へ遺体を確認に見えられたそうですな。われわれはあのときべつの事件で現場にいなかったのです。いたとしても疑いはもたなかったでしょう。しかし、現場に事故発生後残されていた灰を分析したとは玄人《くろうと》はだしだ」
雅子はそこまで話していたのか。いや浦島署に犯罪性を疑っている少数派が存在する以上、雅子は自分の推理をすべてしゃべっているとみなければならない。木原は、この二人がいまやなにかの意図をかかえて訪ねて来たことを確認した。
「それでは屏風ガ浦はなぜ疑ったのですか」
木原は、おおかたの察しをつけながら質ねた。質ねないことには不安であった。そうすることが少しずつ相手の術中にはまっていくこともわかっていながら、まだ自分を守る幸運の要素に拠《よ》っていたのである。
「それはあなたと同じですよ。二天の岩屋から転落した車の運転手が、屏風ガ浦からまた似たようなスタイルで落ちて死ねば、馬鹿でも疑う。それでも疑わない我が署の大勢は馬鹿以下ということでしょうか。いや利口だから疑わないのです。われわれ馬鹿だけが、素朴に疑うのです」
「しかし、犯罪であることは証明できなかったのでしょう」
だからこそボトルも返したのであろう。少数派が何を疑おうと、証拠がないことにはどうにもならないのだ。
「小泉雅子さんの推理もいちおううかがいました。それまで雅子さんと協力して調べておられたあなたが急に彼女と袂を分かったのも無理からぬとおもいます。なにしろ、奥さんが疑われたのですからね」
「まさか、あなた方までが妻を疑っているのではないでしょうね」
「小泉雅子さんの推理には十分合理性があります」
「合理性があるということと、犯人であることとはべつです」
「われわれも雅子さんの推理を全面的に認めたわけではありません。二天の岩屋と屏風ガ浦の事件は関連性があるとおもいますが、同一犯人による犯行とは考えていません」
「それはなぜですか」
木原はドキリとした。刑事の言葉は、木原の恐れる方角を暗示するものである。
「まず二天の岩屋の場合ですが、現場は急勾配で、女の力でも簡単に車を突き落とせます。屏風ガ浦は、傾斜が緩く、実験をされておわかりのように、なかなか自然には落ちません。車には甘いながらサイドブレーキが引かれていました。これを崖縁まで押して突き落とすのは、かなりの膂力《りよりよく》を必要とします。次に、二天の岩屋の車はガソリンがまったく残っていませんでしたが、屏風ガ浦のほうは、まだ三分の二ぐらい残っていました。このことから、前者がガス欠状態で立ち往生しているところへ犯人の車が通りかかったと推測されます。なぜなら、そこから犯人が歩いて逃げるにしては、どちらの方角へ向かっても人里までかなりの距離があり、犯人はべつの車を用意していたと考えられるからです。一方、後者は、すぐかたわらを国道が走っており、市街地まで歩いても大した距離はありません。つまり、こちらの犯人は車を必ずしも用意する必要はありませんでした。犯人は、被害者の車を、被害者になり代わって運転して屏風ガ浦まで来、崖から突き落とした後、徒歩で逃走したのではないかというのが、われわれの推測です。そのように考えると、二つの事件の間には微妙なずれが生ずるのです」
「それで、どんなところに関連があるのですか」
「その点は、雅子さんの推理とほぼ同じです。いや本来はあなたの推理なのでしょう。二天の岩屋に前後して落ちた一方の生き残りが屏風ガ浦から落ちた点です。つまり馬鹿が疑惑を抱くに足りる関連性ですよ」
大江の目尻が笑っている。木原の反応を楽しんでいる。質疑応答の立場がいつの間にか逆転しており、その間に木原は確実に追い込まれていた。ついに木原は、最後の質問をせざるを得ない立場に立たされた。巧妙な誘導と言うべきである。
「それではだれが小泉幸平の車を突き落としたとおっしゃるのですか」
「これも雅子さんの推理と原理は一致します。あなたの奥さんを犯人にしたくない人です」
「やはり私を疑っているのですね」
「もちろんあなたも可能性のある一人には数えております。しかし、われわれはあなたではないと考えています」
「なぜですか」
「いくつか理由はありますが、大きな理由はアリバイです。あなたが当夜午後八時から九時までホテル・リトルマーメイドにおられたことは大勢の証人によって確かめられています。それ以後、死亡推定時間帯内に現場に駆けつけられないことはありませんが、あなたはそれから三十分ほど後自宅へ帰って来られたところを近所の人に見られているのです。屏風ガ浦へ回って車を突き落としていては、その時間に帰って来られません。また死亡推定時間に二時間ほどの幅がありますが、小泉さんの腕時計や車の時計などから判断して、午後八時前後に落ちたのは、ほぼ確かなのです。あなたは犯人にはなり得ない」
「そ、それでは、いったいだれが」
木原は喘いだ、もはや演技のポーカーフェースは完全に崩れていた。
「木原さん、あなたは、それをご存知なのでしょう」
茫洋と放散していた大江の視線が凝縮してまっすぐに射かけられてきた。
「あなた以上に奥さんを庇《かば》い、守り、崖から車を落とす膂力《りよりよく》をもっている人は、何人もいないはずだ」
「わ、私は知らない」
「ご存知のはずなのに知らないととぼけられるところを見ると、あなたはすでに犯人を知っており、それを庇っていますね」
「私はだれも庇っていない。私が犯人を知るはずがない」
「犯人がだれか聞いているのではありません。犯人になり得る人物を聞いているのです。あなた以上に奥さんを庇い、崖から車を落とす膂力をもっている人はだれかということなのです」
追及は一直線で、もはや避けも躱しもならなかった。
「あなたがお答えにならないのであれば、私が申し上げましょう。その人は、奥さんの父君であり、あなたにとって舅にあたる人です」
「でたらめを言うと、警察でもそのままにはすまないぞ」
木原は、無意味な恫喝《どうかつ》を加えた。相手が、浦島の主権者の名前をなんの証拠も論拠もなく、殺人容疑者として挙げるはずがない。
「でたらめではありません。われわれは十分な証拠を集めました」
案の定、大江は切り札があることを仄《ほの》めかした。
「どんな証拠があるというのだ」
それを聞くのが恐ろしかったが、聞かずにはいられない。
「われわれは、屏風ガ浦に落ちた車内から小泉さん以外の指紋の顕出に努めました。転落後、あまり時間が経過していなかったので、水中の指紋が残っていました。その結果いくつかの不鮮明な指紋を採取したのですが、いずれも対照不能でした。その中でもボトルの指紋が最もましだったのです。その後、咲山みどりさんを介して北村君に事件の調査の推移について探りを入れてこられたとき、われわれは臭いと直感しました。犯人が存在すれば、調査の推移に最も関心をもっているはずです。咲山さんの背後に、犯人の動きを感じたのです。われわれは咲山さんをマークして、あなたを発見しました。小泉雅子さんからあなたと矢沢恵理さんの関係を聞いて、われわれはあなたを犯人として申し分ない人物だと意を強めました。奥さんと矢沢さんの三角関係に苦しみ、矢沢さんを殺した。その後、真相を嗅ぎつけた小泉さんに恐喝されたので、彼の口も塞いだ。手口も似通っており、動機も申し分ない。
ところが、あなたにはアリバイが成立してしまった。そこであなたに代わり得る人物を物色したところ、岩本社長が浮かび上がってきたのです。われわれも最初は、まさか岩本社長がそんなことをと迷いました。しかし、我が子を庇う親の気持ちに変わりはないとおもい直し、岩本社長に的を絞って密かに捜査を進めました。犯人は被害者の車を運転して現場へ来、犯行後徒歩で逃走した模様です。すると、目撃者がいるかもしれない。われわれは現場と岩本家を結ぶ線に沿って丹念に聞込みを重ねました。その結果、当夜八時ごろ現場付近に住む人が現場の近くの公衆電話ボックスに傘をおき忘れて取りに戻ったところ、すでにだれかに持ち去られていたという話を聞き込みました。その人がボックスに傘をおいていたのは五分ぐらいの間だということでした。その間にいったん止んでいた雨がまた降りだしたので、次に電話を使った人がこれ幸いと忘れ傘をさしていったのでしょう。ちょうどその時間帯が犯行時間帯にうまく重なり合うのですな。われわれは犯人の立場に立って考えました。犯行を終えて、現場から逃走して来る。その心情は荒涼としており、また逆上していたにちがいありません。犯人としてはだれか身近な人間の声を聞きたかったのではないでしょうか。共犯者が存在すれば、犯行の成否を少しでも早く連絡したいところでしょう。
われわれは、傘を持ち去った人間を犯人と想定しました。いや、寂しい場所にある公衆電話の雨の夜の相前後した使用者は限られる。傘の持去り人は、犯人にちがいない。つまり、その傘を持っている人間が犯人だと考えたのです。また犯人にしてみれば、果たしてその傘を家の中まで持ち込むだろうか。持ち込めば、見馴れぬ傘に家人からどこから借りてきたのかと質ねられる。家人が共謀していなければ、犯人としては答え難い質問です。だが雨は降りつづいている。すると考えられるのは、犯人の家の近くまで傘をさしてきて、家に入る直前に、傘を捨てるという可能性です。われわれはその可能性にかけて岩本家の近くを徹底的に捜索いたしました」
大江は、いったん言葉を切って、木原の反応をうかがった。木原は、もはや大江の視線を真正面からうけとめられなくなっていた。
「そしてついに問題の傘を発見したのです。傘の柄から採取した指紋は、不鮮明でしたが、ボトルや車内に残された不完全指紋と合成して、ようやく対照可能な完全指紋の復元をしました。これをさる筋を介して入手した岩本社長の指紋と対照したところ、ピタリと合致しました」
大江はピシリと止めを刺すように言って、木原の返答を待った。重苦しい沈黙が屯《たむろ》した。木原にとっては敗北の沈黙である。
「なぜそんな話を私に?」
木原はようやくかすれ声を出した。沈黙が長引けば、それだけ敗北を認めてしまうような気がしたのである。
「自首を勧めていただきたいのです。われわれが逮捕状を用意して岩本社長の許へおもむく前に社長自らのご意志で出頭していただきたいのです。それが私どもの岩本社長に対するせめてもの礼譲です。木原さん、おねがいします。社長に自首を勧めてください」
大江は、木原の視線をしっかりと捉えて離さない。北村がいつの間にか木原をはさむような位置に身体を移動させていた。
「社長が自首を拒否したら?」
木原の質問は大江の言葉を素地にしている。
「そのときは、やむを得ません」
大江の語調に妥協はなかった。
「一両日、時間をいただけませんか」
「よろしいでしょう」
大江は意外にあっさりと肯いて立ち上がった。これまで沈黙を守っていた北村が、大江の言葉を補足した。
「あなたの行動はマークしておりますから、念のために申し添えておきます」
永遠の日蝕《につしよ》《く》
捜査員が立ち去った後も、木原はしばらくその場から動けなかった。ついに恐れていた終局がきた。これで岩本は破滅である。それは、木原の破滅をも意味している。工員の子から成り上がり、浦島の首長の女婿となったのも、束の間の夢であった。
これが自分の人生からうけた復讐であったのか。――人生に復讐しようとして、返り討ちにあった。それぞれに定められた人生に、よもや復讐などを企てるべきではなかったと気がついたときは遅い。
考えてみれば、すべては木原から発したことである。木原が岩本と百合と、岩本家を破滅させたのである。被差別身分からの脱出を図ったために、岩本家の幸福を根本から破壊してしまった。
警察が木原を介して岩本に自首を勧めたのは、木原を共犯とみていない証拠であろう。そうだ、これに乗じて、なんとか自分だけ生き残る機会《チヤンス》はないだろうか。なにも岩本や百合と心中をする必要はないのである。二人は司直に殺人の罪を問われ、木原は絶大の後ろ楯と出世のパスポートを失った。だが、新たな後ろ楯とパスポートがないわけではない。これからみどりを介して、咲山の支持を取り付ければよい。咲山は岩本の地盤を継いで、いい線を行くにちがいない。
終局とあきらめるにはまだ早い。自分の立場はそれほど見捨てたものでもない。木原はいくらか立ち直ってきた。まだ希望を捨ててはいけないのである。
木原は、その後、百合を伴って岩本家へ赴いた。警察が傘に残した岩本の合成指紋から完全指紋を復元したことを伝えて、自首を勧めると、
「とうとう来たか。私も覚悟をしていた。自宅や会社から手錠をかけられて連行されるような醜態は晒したくないからな。よろしい。明後日、自首しよう。明日できるだけ身辺の整理をする。いくつか別れの挨拶に行かなければならないところもある」
岩本は、特に表情を動かさなかった。百合が嗚咽《おえつ》した。
「百合、そんなに深刻に考えることはない。初犯でもあり、情状酌量もされるだろうから、執行猶予の可能性もある。腕のいい弁護士を付けるから希望をもつんだ」
岩本は、百合を慰めた。
「お父さんも、執行猶予の可能性は十分にあるとおもいますが」
木原は、二人の視線を努めて明るい方角へ向けようとした。
「私が執行猶予になったところで、もはやなにもできないがね」
岩本は、自嘲の笑いを浮かべた。
まだ事件は漏れていなかった。大江と北村は、岩本の自首を信じて、マスコミに伏せているのであろう。
翌日は金曜日であった。岩本は平常どおり出社した。彼が密かに身辺整理をしているとは、だれも知らない。夕方、木原は社長室に呼ばれた。
「これから、長谷部頭取の山荘へ行く。きみの車で連れて行ってくれ」
と岩本は言った。
「承知いたしました」
木原は答えて、会社の車は使いたくないのだろうとおもった。
「帰りは遅くなるかもしれないから、百合にも連絡しておいたほうがいいぞ」
岩本は、おもいやりを見せた。週末山荘へ来ている長谷部に密かに別れを告げに行くのであろう。木原は、岩本の心情をおもった。
長谷部の山荘では、特に別辞めいた言葉もなく、雑談で終わった。長谷部は、木原に対して初対面を装った。その後の犯人探し≠ノついて一言も聞かず、すでに矢沢恵理の件は、まったく忘れ去ってしまったかのようであった。
長谷部邸を辞したのは午後八時ごろであった。
「これから井沢会長の邸へ行こう。今夜のうちに挨拶をしておかなければならんからな」
岩本は言った。遅くなると言ったのは、初めから井沢邸ヘ回る心づもりがあったからであろう。木原が承知して運転席へ就こうとすると、
「私に運転させてくれ。当分車に乗ることもあるまいからな」と自分から運転席へ乗り込んだ。重役になってから、専用運転手まかせにしているが彼のドライバー歴は長い。
「これからきみも辛くなるな」
ハイウエーが尾根通しにかかったところで、岩本はポツンと言った。
「辛いことには馴れておりますから」
「きみの後事は咲山君によく頼んでおいた」
「百合が刑期を終えるまで、待っております」
「嬉しいことを言ってくれるが、百合はもはやきみの将来を開くパスポートにはならんぞ」
岩本は、見透かしていた。
「百合は、パスポートではなく、私の妻でございます」
「百合が聞いたら喜ぶだろう」
岩本は、言ったが、表情は影に入っていて見分けられない。車は快適なスピードでハイウエーを進んだ。岩本の運転は危なげがない。尾根通しの道は、山岳道路とはおもえないほど、起伏が少ない。車窓に迫る濃い闇は、山影が重なっているのである。間もなく前面の闇にはかなげな光点が連なって見えてきた。沖の漁《いさ》り火が視野に入ったのである。
「そろそろ二天の岩屋だな」
「さようでございます。運転を代わりましょうか」
「はは、心配するな。これでも若いころは山岳ラリーに出たこともある。腕は鈍《なま》ってはおらんよ」
岩本は、笑って、さしてスピードを緩めずに下降にかかった。さすがに岩本の腕は確かであった。コーナーリングも巧みに連続するヘアピンカーブをほとんどブレーキを使わずに一気に駆け下りて行く。
「しかしきみのことだから、私がいなくてもうまくやっていくだろう」
岩本は、ハンドルを操りながら言った。木原はどう答えるべきか迷った。
「私がいなくてもうまくやっていけるということは、百合は、もはや、きみにとって邪魔物でしかないということだ」
岩本は、視野の端から木原の反応を探っている。
「とんでもないことでございます。百合は私にとってなくてはならない人生の伴侶でございます」
「無理をしなくてもよい。きみはよくやってくれた。私の想像以上だった。私は満足している」
スピードが一段と加速された。木原は少し不安をおぼえたが、岩本の運転に口をはさむわけにはいかない。
「私はきみを手放すのが本当に惜しい。百合の配偶者として、また私の懐ろ刀として、常に私の身辺にいてもらいたくなった」
「もったいないお言葉でございます」
「私がいなくなったら、きみはみどりと結婚して、咲山君の支持を取り付けるだろう。やむを得ない仕儀とはおもうが、百合が可哀想だ」
「私は百合とは別れません」
「言葉だけでも嬉しい」
「少しスピードを緩められたほうが、よろしいかと存じます」
木原はたまりかねて言った。二天の岩屋の最急カーブが迫っていた。ガードレールに車輪が接触するばかりにすれすれに躱《かわ》している。このままのスピードで下降すると、加速度がつき、カーブで蓄積された遠心力を支えきれなくなる。
「百合は哀れな娘だった。その哀れさに思慮分別を忘れた私は愚かだった。しかし哀れな故に私は百合が可愛い。彼女はなんとしても救いたい。きみ、百合を救ってやってくれんか」
「どのようにしたらよろしいので」
「きみが犯人になってくれんか」
「私が犯人に?」
木原には、岩本の示唆の意味がつかめない。
「きみが矢沢恵理を殺した犯人になってくれれば、百合は救われる」
「私が犯人に? そんなことが……!」
岩本の意外な慫慂《しようよう》に、木原は後の言葉がつづかない。
「そんなことができるのだよ。きみが私といっしょに死んでくれれば、警察は納得してくれる。警察の要所に根回しをしておいた。すべては遺書にしたためておいた。きみなら恵理を殺す動機が十分ある。三角関係を清算するために、愛人を殺したということにすれば、十分に納得させられる。私がいっしょに行くのだ。寂しくはあるまい」
「待ってください。まさか、私を……」
木原は愕然として声がかすれた。
「私は、仮に執行猶予されたとしても、私の生きる余地はない。短い間だったが、私は功成り名遂げた。悔いはない。きみも念願の社員になった。おもい残すことはあるまい」
車は、恵理が落ちたガードレール破り≠ノさしかかった。そのまま加速度を少しも殺さずに遠心力に車体を任せた。車輪が崖縁をジャンプした瞬間、木原は、警察が岩本に自首を勧めたのは、自殺慫慂の暗示でもあったことを悟ったのである。
太陽を目がけてここまで這い上がって来たが、永遠に日の当たる場所はどこにもなかった。それを悟ったとき、車体は、岩本と木原を乗せたまま、崖を数回バウンドしながら谷底へ転落していた。谷底へ到達する直前に燃料に引火して、盛大に爆発した。
角川文庫『日蝕の断層』昭和58年6月10日初版刊行