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日本アルプス殺人事件
森村誠一
目 次
雪と炎と車
破壊の競争
赤坂アビタシオン801号室
黙秘のアリバイ
淘汰《とうた》されたライバル
謀略のビールス
アリバイ自動再生機
犯人のない犯罪
雲の牧場
取り除けられた遮蔽《しやへい》
アリバイ縦走路
アリバイの切戸《キレツト》
鹿島槍山行
大残照
欠陥撮影
濃縮された山脈
倒立解像
頽《くず》れた孤独
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雪と炎と車
北アルプス北端の白馬岳《しろうまだけ》山頂から右手に信州側の切り立った断崖《だんがい》、左手に越中側のガラガラの岩屑《いわくず》が堆積《たいせき》しているやせ尾根を三十分ほど北へ下ったところに、「三国境《みくにさかい》」と呼ばれる、風をよけるちょっとした鞍部《あんぶ》がある。ここが文字どおり長野、富山、新潟三県の県境にあたる。
ここから後立山《うしろたてやま》連峰の稜線《りようせん》は、Y字形に二脈に岐《わか》れる。北方へ伸びる主脈を見送って、三国境から北東方向へ岐れた支脈は、小蓮華《これんげ》山、乗鞍《のりくら》岳(南の乗鞍とは別の山)、風吹《かざふき》岳、岩菅《いわすげ》山へと連なっている。
この乗鞍岳から天狗原《てんぐはら》を経由して北に伸びる通称「風吹尾根」を、二人の男女がスキーツアーをしていた。
二人は一昨日夜行で東京を発《た》ち、前の日に大糸線《おおいとせん》の白馬大池駅から栂池《つがいけ》ヒュッテまではいっていた。その日の午後はヒュッテ周辺のスロープで軽く足馴《あしな》らしをして、今日いよいよ待望の風吹コースのツアーへ出発して来たのである。
このコースは、栂池ヒュッテより天狗原まで登り、ここから風吹尾根を経て、岩菅山の西側中腹の栂の林を北に向けて滑降し、岩菅山と隣の箙《えびら》岳の中間から北西にはいるワサビ沢という沢から林道伝いに大糸線平岩駅へ出るものである。
滑走距離は約二〇キロ、所要時間は途中の休憩を含めて約六、七時間である。雪質もよく、白馬岳以北の朝日岳や雪倉岳などの主脈の大斜面や日本海を見下ろしながらの大滑降は豪快そのもので、このあたりのツアーコースの中でも屈指の展望コースとして知られていた。
しかし途中に道標がなく、いったん悪天候に巻き込まれると、日本海を越えて吹きつけて来る冬期季節風が、何の遮蔽物《しやへいぶつ》もおかずに、裏日本の高山に、牙《きば》を剥《む》きだして襲いかかってくる。
実際このコースでの荒天は、想像を絶するものがあった。そのためこのツアーを志す者は、むしろスキー技術よりも、冬山の経験を要求される。上級者向けのコースであり、必ずガイドが必要とされていた。
そこへ「|ガイドなし《サン・ギード》」で踏み込んで来た二人は、かなり自信があったらしい。事実、ボーゲンやクリスチャニアのさまざまの技術を駆使して、新雪にシュプールを刻んで行く彼らは、ゲレンデスキーヤーの域をはるかに越えているようである。
天候もすばらしかった。冬の北国の透明な青空には、一片の雲もない。輝く雪原からいきなりはじまる空の青さは、あまりにも強烈なコントラストのために、まるで夜の空のような錯覚をあたえられる。
氾濫《はんらん》する光は、遮光《しやこう》眼鏡《めがね》をかけていても、まぶしいくらいである。
彼らは、なんの不安も持たずにコースへはいった。時間に余裕があったので、コースの起点である天狗原より乗鞍の頂上まで足をのばした。それは彼らの自信からくる余裕でもあった。
風吹尾根の一九四四メートルのピークまでは、はっきりしており、迷う心配はなかった。乗鞍からここまで、二人は二時間足らずで飛ばして来た。
時間にはまだたっぷり余裕がある。天候はまったく危なげがない。
「スキーってこんなにも楽しいものかということを再確認させるようなコースね」
女は、いよいよこれからコースの核心へはいる前の小休止のときに、頬《ほお》を火照《ほて》らせて言った。
女は、このコースにまったく不安をもっていない。彼女にとっては男が最も頼り甲斐《がい》のあるガイドであり、ただ彼に尾《つ》いて、これまでゲレンデで磨《みが》いてきた腕をふるっていればよかったのである。これまでのところ、銀座の延長のようなゲレンデよりも、はるかに滑りよかった。女はなんだか急に腕が上がったような気がしていた。
それが彼女を興奮させていた。
「そりゃそうさ。ぼくが選んだコースだもの」
男は女の興奮を受け止めて、誇らしそうに言った。
「私たちの婚約旅行にふさわしいコースね」
女は頬を赧《あか》らめた。それは快適な滑走による興奮のためではなかった。昨夜、アフタースキーのヒュッテの一室で、男と初めてもった恥ずかしい行為をおもいだしたのである。
彼らはスキーにはかなり年季を入れていた。引き合わされたのもスキー場である。何度かゲレンデで会ううちに、その交際が、都会へ延長された。二人はやがて結婚を考えるまでになった。
そんなとき、男は女をスキーツアーへ誘った。
女は、ゲレンデでかなり腕を上げていたが、本格的なスキーツアーへ出かけるのは、これが初めてであった。かすかに心の底に残った不安を、男への信頼と、男と何泊かともに夜を過ごすことになる旅行への覚悟が吸収した。
愛する男といっしょに、初めてのスキーツアーも魅力的だった。リフトやロープウエーに助けられてのゲレンデスキーには、スポーツにつきものの、自分の筋肉と体力を振り絞った汗の臭《にお》いが少ない。
はなやかな技巧と衣装のコンクールにすぎないゲレンデを離れ、白樺林《しらかばばやし》を縫い、樹氷の間を抜けて、広大な斜面の処女雪に自分のシュプールをつけてみたい。
かねてから、スキーツアーに憧《あこが》れながらも、よいパーティに恵まれなかったために、いまだにゲレンデの人ごみの間をせせこましく滑っていた。
ゲレンデでひととおりの技術を覚えた彼女は、ぜひツアーに出かけたいとおもっていた。そこを愛する男から誘われたのである。
この旅行を記念して、二人は昨夜の宿でプレゼントを交換した。
男はスキーを、女はナイロンザイルを、たがいに相手へ贈ったのである。だから女にとっては、男から贈られたスキーで、初のツアーへ出かけたわけであった。
スキーも初物なら、コースも初めて、昨夜男に刻印された体の中心の恥ずかしい感覚も初めてである。女にとっては、まったく新しい世界へ踏み入って行くような気がした。この旅行のあと、二人は正式に婚約を発表するつもりだった。
彼女は、男が選んだコースがどんなところかも知らずに、心浮き浮きとして尾《つ》いて来たのである。男もそのコースになんの不安ももっていなかった。すでに何度も通っており、コースの地形は完全に諳《そら》んじていた。ただ一つの危惧《きぐ》は天候だったが、それも天気予報はここ数日の好天を告げている。
男が女に最も効果的に自分のスタンプを捺《お》しつけるには、自分の最もたくましい姿を、彼女に見せることである。彼はそのために、このコースへ女を連れ出したのであった。
上級者以外は、はいりこまない難コースへ、「おれに尾いて来い」とばかりに女を連れ出して、壮麗な大自然を背景にして、自分の頼もしそうな姿をたっぷりと見せてやるのだ。
男の計算は見事に当たった。北アルプス山中の、本格的なツアーコースへ初めて連れ出された女は、「すばらしい」と「すてき」を連発して、男を見る目に鑽仰《さんぎよう》の念すらこめてきた。
今夜は山麓《さんろく》のましなホテルに部屋《へや》が取ってある。昨夜半ば強制的に開かせた体を、今夜は女のほうから積極的に開くだろう。
男は環境にあまり親しまない、しごく即物的な連想をしていた。そこに女より積んだ男の人生経験と年齢があった。
「さあ、いよいよこれからがコースの中心だ。頑張《がんば》って行こう」
男は、くわえていたパイプをしまって立ち上がった。
天候の悪変は、信じられないくらい急激にきた。いまのいままで晴れわたっていた紺碧《こんぺき》の空に、一陣の強風が吹きつけると、雪雲の断片が一、二度通過した。次の瞬間には、まったくべつの世界にいるような本格的な悪天のまんなかに二人は捉《とら》えられていた。
いままで優しい微笑をもって、彼らを迎え入れてくれていた雪原も山も、樹林も、いっせいに牙を剥きだして、咆哮《ほうこう》した。これまで何度かコースを通過したことのある男も、この凄《すさ》まじい天候の変化というより、自然の豹変《ひようへん》に圧倒された。
これが同じ北アルプスでも、南のほうにある槍《やり》ケ岳《がたけ》や穂高《ほだか》岳あたりになると、その周囲に季節風を緩衝《かんしよう》する山があるので、悪天の兆《きざし》を認めてから避難するまでに、多少のゆとりがある。
ところが北アルプス北端の山々は、季節風による悪天の襲来を、直接、真正面から受ける。そこに居合わせた人間には、逃げるひまがないのだ。
「いいか、ぼくから離れるんじゃないぞ」
強風の坩堝《るつぼ》の中で、竦《すく》んでしまったような女を励まして、ともかく前進をつづけたのは、急降下する気温の中で一か所に立ち止まっていることができなかったからである。
そこはもはやスキーヤーの世界ではなかった。ピッケルとアイゼンで武装した経験豊かなアルピニストにのみ辛うじて、いることを許される厳冬期の北アルプスであった。
吹きつける強風は、雪を舞い上げ、視界をいちじるしく妨げる。右手に見えていた岩菅山も雪の煙幕の中に消えた。雪つぶてが頬を叩《たた》いた。
「頑張れ! もうすぐだからね」
男は、いまにも泣きだしそうにして尾いて来る女を励ました。しかしその言葉は、自分自身へ向けたものでもある。つい先刻までの余裕など、二人のどこにもなかった。
ただ山全体が咆哮する中に身を竦めて、雪煙の中を必死に滑降するだけである。
突然女が悲鳴をあげた。斜面の凸凹《でこぼこ》で転倒したのだ。悲劇はその瞬間におきた。身体《からだ》全体を投げだして、すなおに転んだために、怪我《けが》はしなかったが、転んだはずみに右のスキーが女の足からはずれた。
女のスキーは、怪我を防ぐために、転んで無理な力がかかると、スキーから靴がはずれるセーフティ・バインディング式の締め具を使っていた。
はずれても、スキーが逃げないように、スキーと靴との間を紐《ひも》でつないだ流れ止めがついている。いや、ついているはずであった。
ところが、女のスキーは、靴からはずれると雪面の上をするすると滑り、傾斜を強めた谷側へ向かって、それ自体の意志のように流れ落ちて行った。男が贈ったスキーの流れ止めが切れていたのである。
あっという間のできごとだった。谷の下方には雪煙が渦《うず》を巻いて、スキーがどのへんに落ちたのかすらもわからない。二人はしばらく呆然《ぼうぜん》として声を失っていた。あまり突発のことなので、自分たちが直面した事態の深刻さもよくわからないらしい。
さすがに男のほうが先に我にかえった。汗や洟《はな》をつらら[#「つらら」に傍点]にするほどの寒気が、彼を正気にもどらせたといってもよい。
「たいへんだ!」
我にかえったといっても、深刻な事態を認識しただけで、よい方策を考えついたわけではなかった。
「どうしよう?」
女に問いかけても、彼女に答えられるはずがない。いきなり女がワッと泣きだした。泣かれてもどうにもならなかった。どこへ落ちたのかわからないスキーを、谷底へ探しに行くことはできない。スキーが流れた先は、スキーヤーが降りられるような斜面ではなかった。よしんば降りられたとしても、スキーの行方はわからないのだ。
女を背負って滑降することは、体力的にも技術的にも不可能だった。この深雪の山腹を歩いて下ることはできない。途方に暮れた二人を、風雪と寒気が容赦なく叩いた。体熱が速やかに奪われていく。
このまま時間を失えば、二人とも凍死することは明らかだった。生きるための道は、一つしか残されていなかった。男はためらわなかった。
「きみはここで待っていてくれ。救助隊を連れてすぐにもどって来る」
男は無情に告げた。
「私一人だけを置いて行くの?」
女の目に哀願があった。
「ぐずぐずしていれば、二人とも死んでしまう。なに、すぐにもどって来る。きみはここを動かずにじっとしているんだ」
「おねがい、行かないで!」
女が必死の声を振り絞ったときは、男はすでに滑りだしていた。あわてて後を追おうとした女は、深雪の中に腰まで沈んで、動きがつかなくなった。
「行かないで!」
必死に追いすがる女の声から耳を背《そむ》けて、男は、直滑降の姿勢をとった。
男が救助隊を連れて現場にもどったときは、女はすでに凍死していた。
この事件から約半年後の夜のことである。東京の都心に、超高層ビルブームの先端をきって建設された地上三十階の超高層ホテル「帝都グランドホテル」が出火した。
一階の調理場から発した火の手は、火炎放射器から放射されるようにひろがり、各階段から激流のように上層階へ燃え移った。火の回りは驚くほど速かった。
帝都グランドホテルは、三階から二十八階までが客室部分である。保有客室数は約一千室、当日の客室占拠率《オキユパンシー》は九〇パーセントであった。つまり九百室に客がはいっていたのである。その人数は約千三百名、当日大安にあたったために新婚の泊まり客が多かった。
ホテルや都内の式場で挙式したカップルが、初夜をホテルで過ごすためである。
新生活の門出《かどで》を祝す記念すべき夜は、たちまち阿鼻叫喚《あびきようかん》の地獄絵図となった。駆けつけた消防隊のハシゴ車は十階までしか届かない。
新婚用のデラックス・ダブルルームは、二十階以上の高層階に集中していた。各階を侵蝕《しんしよく》した炎と煙は、上へ行くほどにその速力を速めて、新婚初夜の甘い安らかな夢を貪《むさぼ》っていたカップルたちが、危険を意識したときは、すでに炎と煙が彼らの脱出路を阻《はば》んでいたのである。
あわてて廊下へ飛び出して、くすぶっていた有毒煙を吸い込んで倒れる者が続出する。このホテルは、高層ビルの火災に備えて、壁天井に難燃材料《ハードボード》を使い、避難路になる廊下や階段などは準難燃材料を用いていたが、化学繊維の布団《ふとん》や枕《まくら》から大量の有毒ガスが発生するのを防ぐことはできなかった。
排煙設備つきの避難階段も、建物内に組み込まれているために、さっぱり威力を発揮しない。だいたい、煙が目に沁《し》みただけで方向感覚を失い、一息吸い込んだだけで、行動能力を奪われてしまうという石油化学製品から発生する有毒ガスを、完全に排除する排煙設備などは考えられないのだ。
新建材の使用をひかえることはできても、現代の文化的生活の中から、いっさいの石油化学製品、つまりプラスチックを追放することは不可能である。
室内温度が一定の範囲を越えると自動放水するスプリンクラーも、煙の前にはまったく無力だった。それにスプリンクラーは、火勢との一定のバランスを保って初めて有効に作用するものだった。火勢がいったんスプリンクラーを圧倒すると、テコの原理で、次々に波及してスプリンクラーの発するかぼそい水は、たちまち殺到する火勢に蹂躙《じゆうりん》されてしまった。
窓は気密式で開かない。客の自殺を防ぐ意味から密閉した窓は、たちまち人間の燻製室《くんせいしつ》と化した。
廊下へ出ればガス中毒、室内に留《とど》まれば燻《いぶ》し殺される。客はパニック状態に陥った。
悪いことに、新設のホテルで従業員の非常事態に対する訓練ができていない。客を安全な場所へ誘導するよりも、まず自分自身の逃げ道を探すことに狂奔《きようほん》した。
さらにこれがホテルの盲点とも言うべきものなのか、フロントや宴会場には大勢の従業員が配されているが、肝心の客室部門には従業員が最も少ないのである。
夜間はそれがさらにひどい。当直のボーイを十、十五、二十、二十五階の主要階のステーションに集中させて、他階ステーションはまったく無人であった。人手不足と人件費節減のために実施しているのであるが、人を泊めるのを商売にしているホテルが、夜の客室部門にまったく従業員を配置しないというのは、ずいぶん乱暴な話である。
「上だ! 屋上へ逃げるんだ!」
それでも非常階段の近くにいた客は、上方へ逃げ道を見つけた。
逃げながら、有毒ガスにとらえられて、ばたばた倒れる者がある。それを見ながら助けてやることができない。ぐずぐずしていればこちらがやられる。それほどに吹き上げる有毒煙の速力は速い。
煙が階段の部分へかかると、煙突に吸い上げられるような形になって、人間の走る速度よりも速くなるのだ。
煙との競争に勝った者だけが、束《つか》の間《ま》のことではあっても、とにかく生きられるチャンスをつかめる。
屋上には空調機械室や水槽タンク室をおさめたタワーがある。その周囲は屋上庭園になっている。辛うじて炎と煙を逃《のが》れた客や従業員は、その庭園へ避難して来た。
客のほとんどはベッドの中からそのまま逃げ出して来たので、ホテル備えつけの浴衣姿《ゆかたすがた》である。中には裸同然の者もいる。
辛うじてたどり着いた屋上も、安全な場所ではなかった。下層から吹き上げる黒煙は、たちまち屋上へ殺到して来たのである。しかしこれ以上に逃げ場所はない。屋上の周囲にめぐらせたフェンス越しに見下ろす地上は、三十階の高さ約一二〇メートルの、目もくらむような下方に遠い。
大衆《マス》レジャー時代の到来と地価の高騰《こうとう》に追われて、限られた空間の中にできるだけ多くの平面≠造りだすべく、天の上方へと伸びるだけ伸びた超高層ホテルビルの各階の平面は、おどろくほどに狭い。
各階に分散されていた人間が、屋上の限られたスペースへ炎と煙に追われていちどきに殺到した。吹き上げる煙が濃く強くなるほどに、追い上げられて来る人間の数は増える。
「苦しい!」
「たすけて」
彼らは、もはや、これ以上に逃げ場所がないと知っても、絶望的なあがきを止めなかった。周囲のビルに逃げたくとも、この建物以上に高い建物は、付近にはないのだ。
超高層ビル時代の幕を切って建設されたホテルだけに、平地からいきなり、にょっきりと聳《そび》え立ったような形になっている。
駆けつけた消防隊も、屋上で必死に救いを求める人々を見上げながら、なすすべがなかった。
航空自衛隊に救難要請が出され、ヘリコプターが飛んで来たが、ホテル屋上にヘリポートがないために、降りることができない。それに、そんなものがあったとしても、狭い屋上には人間がひしめいていて、とても降りられるものではなかった。
うっかり近づけば、先を争って殺到する人間を回転翼《ロータープレード》で打ったり、あるいはヘリそのものが、パニック状態に陥った人々によって引きずり墜《お》とされるおそれがあった。
やむなくヘリコプターは、ひじょうに危険なことではあったが、機体から救助|梯子《はしご》をたらし、それに避難者をつかまらせて地上まで運ぶことにした。
ヘリが地上に到達するまでの四、五十秒を、避難者の腕の力が自分の体重を支えられれば、助かる。しかしもし支えられないときは、地表に激突して、身体を砕いてしまう。腕力の強い男のほうにチャンスがあった。
しかしこれ以外に方法がない。救難部隊はためらわなかった。座して見殺しにするよりは、危険ではあっても、その作業に賭《か》けることにした。
ヘリコプターは救助梯子や救助網を機体にぶらさげて、黒煙を吹きだすホテルの上を翔《と》びまわった。
逃げ場所を探し求めて、屋上を右往左往していた人々は、先を争って救助梯子にしがみついた。救うほうも救われるほうも必死である。
梯子に群がれるだけ群がらせて、ヘリは空間へ舞い上がる。途中で腕の力が尽きたのか、梯子からバラバラと人が落ちる。四、五十秒のわずかな時間だが、このような異常事態に初めて際して、身も心も動転していた人々は、安易に梯子にしがみついて、いきなり吊《つ》り上げられた目もくらむような虚空《こくう》の中で、腕の力が尽きる前に、恐怖と驚愕《きようがく》から、手を離してしまったのかもしれない。
ヘリは、みずから手を離して行く人間を、どうしてやることもできなかった。はるか上方をひらひらと、まるで木の葉のように落ちて来た人間は、地表に近づくにつれて、まさに人間としての重量に加速を助長して、まるで、よく熟《う》れた果物《くだもの》を力いっぱい地面に叩きつけるように、原形を失って砕けた。
ホテルを取り囲んだ消防隊や救助関係者、それに無数の弥次馬《やじうま》たちは、高層ビル火災の恐ろしさをまざまざと見せつけられて、声を失った。
そのようにしてヘリから墜落した者の中に、若い女が一人混じっていた。もっとも墜ちた人間は、女のほうが圧倒的に多かったが、彼女は新婚の妻ではなかった。
その夜、恋人に初めてのものを許すために、ホテルに一泊し、男におもう存分、二十何年か大切に守ってきたものを貪《むさぼ》らせた後の男と肌《はだ》をからめ合ったままの恥ずかしいまどろみを、いきなり炎と煙に叩き起こされたのである。
気がつくのが早かったので、衣服を辛うじて着けるだけのひまはあった。だがすでに逃げ道は上へ行く以外になかった。
こうして追い上げられた屋上は、まるで次第に熱くなってくるフライパンの底のようであった。じりじりと炒《い》られ、燻されながらも、もはや逃げ場所はない。
今宵《こよい》あたえた恋人だけを頼りに、絶望的に逃げ道を探しているときに、頭上に回転翼の轟音《ごうおん》と、空気の渦がおこって、ヘリコプターが翔んで来た。
機体から網梯子のようなものをぶらさげている。恋人がいきなりそれに跳《と》びついた。
ヘリは恋人を梯子につかまらせたまま、高度を上げようとした。彼女はそのとき、ヘリが自分の恋人をひっさらって行くような気がした。
「待って!」
女は叫んで、ヘリに吊るされて目の前にぶらさがった形の男の脚にしがみついた。ヘリはそのまま高度を上げる。梯子の下に二人の男女は数珠《じゆず》つなぎになって宙に浮いた。
「離せ! 離してくれ」
男は驚いた。自分一人の重量を支えるだけで精いっぱいのところへ、女の体重が加えられたのである。男が叫んだときは、すでにヘリは屋上を離れて、地表から百数十メートルの空間に浮いていた。
女にいま手を離させることは、死を強制することになる。
「だめだ! 保《も》たない。手を離せ」
男は自分自身のことしか考えなかった。ヘリは最大速力で地表に近づいていたが、二人分の体重を支える男の手は、それよりも早くしびれてきていた。
彼の目には地表までの距離が絶望的に映った。その距離が絶望的に見えれば見えるほど、女に手を離させることは彼女に死を強制する度合いを強くさせるわけだが、男はそんなことは考えなかった。
「離してくれ、頼む!」
だが男の必死の叫び声は、ヘリの轟音に消されて女に届かない。たとえ届いたとしても、女には手を離す気はなかった。自分の身を守るためではなく、恋人をさらって行こうとするヘリにしがみついているのだ。手を離せば、恋人を奪われてしまう。それだけに女ながらもそれなりの必死の力をこめた。
「離さなければ」
男はついに決心した。いや心の推移よりも本能的な行動が先にきた。手はしびれかけている。もはや一刻の猶予《ゆうよ》もならなかった。
女の腕は、男の右脚にしがみついていた。左の脚は遊んでいる。彼はその脚で女の腕を蹴《け》った。
さすがに女は驚いた。このような場合、だれよりも自分を力強く守ってくれるはずの恋人が脚で蹴りつけながら、自分の腕を引き剥《は》がそうとしている。
――何をするの!?――
と詰《なじ》ろうとして仰向けた彼女の面に、必死の力をこめた男の脚が振り下ろされた。男の脚は女の顔の中の最も柔らかい部分を力いっぱい蹴りつけた。
女は、悲鳴をあげて手を離した。まだ地表まで数十メートルの距離があった。女の体は、まるで自分の意志で墜ちるように、一直線に墜ちた。
大勢の人間が目撃していた。だが彼らの目は、男が自分の身を守るために、女の腕を引き剥がしたところまで見届けたわけではない。性別も、地表に墜ちてからわかったくらいである。墜ちたのは、その女一人だけではなく、ばらばらとまるで落葉のように落ちてきた。
その中の一人として、哀れな女は、その初めてのものを捧《ささ》げた相手の男の自衛のために、数十メートルの空間から突き放されたのであった。
その年の秋遅く、北アルプス山中の温泉、平湯《ひらゆ》から乗鞍岳へ向かう、名にしおうアルペンロードを、一台の小型乗用車があえぎあえぎ登っていた。
道が悪化するのに比例するように天候が悪くなった。平湯へかかるころから、うすい上層雲のひろがりかけた空は、いまは完全に厚い雲に被《おお》われて、いかにも陰鬱《いんうつ》な表情に変わっている。これから向かう山頂方面には、黒い密雲がたれこめて、見るだけでも心を重苦しくするような暗い閉ざされた風景を造っている。
このあたりは夏の最盛期には車の列がつづくところである。季節はずれのいまは、視野のかぎり荒涼として、動くものの気配は、悪天を冒《おか》して乗鞍岳を目ざす、酔狂なこの車一台だけであった。
車の中に若い二人の男女が乗っている。彼らは東京からレンタカーで上高地《かみこうち》へやって来た。昨夜は中ノ湯へ泊まり、朝起きたときの疑似好天に欺かれて、冬が来る直前の乗鞍越えを予定どおりに図ったのである。
中ノ湯から安房峠《あぼうとうげ》を越えて平湯までは、しごく調子よくやって来た。中ノ湯から峠までの急坂と急カーブの悪路を難なく登りきった男の運転者は、だいぶ自信をつけていた。峠から平湯までの下りは二車線で、路面も良い。
中ノ湯から一時間あまりで平湯へ着いた。運転者は、気をよくして、一気に乗鞍岳へ向かった。
「お昼は頂上のレストハウスでゆっくり食べよう」
とハンドルを握る男に言われて、少し憩《やす》みたそうにしていた伴《つ》れの女は、ついうなずいてしまった。
中ノ湯から平湯までの道もずいぶん悪かったが、平湯からはさらにいちだんとものすごくなった。ほとんど一車線に近いような道は、カーブの連続である。
サンデー・ドライバーの男にとっては、すれちがう車のないのが幸運だった。ここで大型バスなどと対面したら、彼の腕では、はなはだ心もとない。彼がバスの終わったこの季節をえらんだのも、その含みがたぶんにあったのかもしれない。
三十分ほどで平湯峠へ着く。ここで高山《たかやま》からのバス道が合流する。道幅は二車線になって、運転者は少しホッとした。高度が上がるにつれて、灌木帯《かんぼくたい》からハイマツ帯になる。
しかし頭上を密閉していた雲が、たれ下がって霧となり、視野を閉ざした。雲がおりて来たのではなく、車がそれだけ高度を上げたのである。晴れていれば、濃緑の絨毯《じゆうたん》を敷きつめたようなハイマツの海のかなたに、槍・穂高を中心とする北アルプスの巨大な岩の楼閣がせり上がるはずであった。
ところがいまは、濃密な雲のベールに隠れて、視野のどの方面を探しても、明るさに通じる色がない。明るい色どころか、山はその不機嫌《ふきげん》な表情を、季節はずれに侵入して来た、一台のこざかしい車に向けて、凶悪な意志にすり替えようとしていた。
雲はますます厚く低く、そして、霧の中に浮遊していた水滴は、急降下する気温の中に凍って霙《みぞれ》となった。
「ねえ、大丈夫?」
先刻から助手席に口をつぐんで、身体をすくめるようにしていた女が、ついにたまりかねたように言った。進行方向のあまりにも荒涼とした様相に、心細いおもいを耐えきれなくなったらしい。
「大丈夫って、何が?」
男はつとめて明るい口調《くちよう》で聞きかえした。
「だって、お天気はこんなに悪くなったし、私たちのほかに、車は一台もいないみたいだわ」
「はは、何言ってるんだ。だからこそ、山がぼくたちだけのものになるんじゃないか。きみは山へ来てまで交通|渋滞《じゆうたい》を味わいたいのか?」
「だって、私たちだけしかいないんでしょ。こんなところで道に迷いでもしたら大変だわ」
「きみは心配性だな。大丈夫だよ、ここから頂上まで一本道だ。迷いたくても迷わないよ」
「でも頂上のレストハウスは開いているかしら?」
「開いているとも。まだ観光客も来ているはずだ」
「でも……」
女は心細そうに眉《まゆ》をしかめた。
「でもどうしたんだい?」
「このお天気じゃ、上へ行っても何も見えないでしょ。ねえ、引きかえしたほうがいいんじゃないの」
「馬鹿《ばか》なことを言うなよ。ここまで来たら、登ったほうが早いんだ。なに、もうすぐだ。すぐに、レストハウスで熱いコーヒーが飲めるさ」
男は女の心配を笑いとばして、ハンドルを操《あやつ》りつづけた。
車の中はヒーターが効《き》いていて適当に暖かい。しかしその熱をも圧倒するほどに外気の温度は低そうだった。進むほどに霙はますます激しく、ワイパーが間に合わなくなった。男は何度もフロントウインドーを拭《ぬぐ》った。視界は極端に悪くなった。
女は先刻から下腹部にひろがる疼痛《とうつう》を必死にこらえていた。彼女は今朝から生理がはじまっていた。彼女の計算によると、それがはじまるのはまだだいぶ先のはずであった。
だから安んじて男とのドライブ旅行へ出かけて来たのである。いちおうの用意はしてきたが、こんなに早くくるとはおもわなかった。
きっと昨夜の男との激しい営みが刺激となって、彼女の比較的正確だった生理を狂わせたのかもしれない。
それにしてもいまの痛みは、例月よりもひどかった。体の深部をえぐりこむような、先鋭な痛みである。シートに体をもたせかけているのすら苦しかった。
いつもの生理痛ならば、痛いといってもこらえられる程度のものである。痛みも、もみこむように鋭いものではなく、下腹全体が厚ぼったく感じる鈍痛なのだ。それがいまはその鈍痛の上に、刺すような痛みが重なっている。
「きっと昨夜のあのことがいけなかったんだわ」
女は唇《くちびる》をかみしめながらおもった。女は、昨夜初めてのものを男に許した。それは彼女が男に捧げた愛の証拠であった。捧げる覚悟がなければ、最初からこの旅に出はしない。
生硬な女体にとって、男を初めて受け容《い》れる行為は苦痛以外の何ものもあたえなかったが、しかし、その苦痛も、いまの疼痛に比べれば、はるかに軽いものにおもえた。
それに、男を初めて自分の体内に深く迎え入れたときは、愛する者に、自分の最も貴重なものを捧げた、めくるめくような感動があった。
生まれて初めてとらされた、あられもない姿態の羞恥《しゆうち》を、その感動は吸収した。ところが、いまは痛みだけしかなかった。それも鈍痛と鋭痛が重なった、痛みの二重奏《ダブルパンチ》≠ナある。
自分を助けてくれるべき唯一人の男は、運転に全身の注意を集めている。視野を埋めた荒涼は、ますますその絶望的様相を強めている。霙はいつの間にか雪に変わっていた。
雪に変わると同時に、吹雪《ふぶき》の様相を呈した。ワイパーが悲鳴をあげた。チェーンはいちおう用意してきたが、インスタント・ドライバーの悲しさ、その着脱に馴れていない。
「ちくしょう!」
男が毒づいたとき、突然、エンジンが止まった。あわててスタータースイッチを押す。ところがエンジンはかからない。彼はますます狼狽《ろうばい》してスイッチを押しつづけた。
しかしいったん停止したエンジンは、吹雪の中で急激に冷却されて、いっかな始動しようとしなかった。
「故障したの?」
女が苦痛をこらえて聞いた。こんなところで車に頓挫《エンコ》されたら、動きがつかない。それは周囲の情況によるものよりも、彼女の身体が身動きできるような状態になかったからである。
「大した故障じゃないとおもう。ちょっと見てくる」
男はつとめてさりげない口調で言って車の外へ飛び出した。突き刺すような寒気が一気に殺到した。フードを開いて内部を覗《のぞ》きこんではみたものの、実は彼にはどうしてよいかまったくわからなかった。
要するに車を動かせるというだけのことで、その構造については、まったく知らない。試験の前にひととおりの勉強はしておいたはずであるが、実戦の経験がないから、このように車に頓挫されてみると、お手上げだった。
こんなお粗末な腕で、日本有数の山岳ドライブに出かけて来たのだから、まったく無謀というほかはないが、いままで故障しても、電話一本でいつでもサービスカーが駆けつけてくれた。
しかし、ここにはサービスカーを呼びたくとも連絡する方法がない。
なんの徴候もなく突然エンジンが止まってしまったのであるから、まず電気系統の故障を考えるべきであるのに、男はただ狼狽して、ボンネットフードの下の、複雑なエンジン部分に、絶望的な目を向けているだけであった。
自家用車とちがって、不特定多数の人間に乗りまわされたレンタカーを駆って、はいりこむような道ではなかった。機関を覗き込んだのは、女に対するジェスチャーにすぎなかった。だがそのジェスチャーは長くつづかなかった。
全身を突き刺す寒気に追われて、車内にもどった男は、つとめて平静を装いながら、
「車は故障してしまった。簡単にはなおせない故障だ。でも、心配しなくていいんだよ。もうここまで来ていれば、レストハウスはすぐ近くだ。歩いても大したことはない」
「歩くの!?」
女の目は絶望的にみひらかれた。
「私、とても歩けないわ」
下腹部につのる疼痛は、シートに腰かけているのさえ苦しいくらいである。それを吹雪の山道を歩くなんて、考えただけで、目の前が暗くなった。
「ほんの十分か二十分だよ。さあぼくといっしょに来たまえ。こんなところにいたら凍《こご》えてしまう」
「だめよ、私、一分と歩けないわ。おねがい! 私のそばにいて」
「聞き分けのないことを言うもんじゃない。歩いたって、たかが知れてる」
「私、車の中で待ってるわ」
「なに言ってるんだ。ヒーターも切れたし、こんなところにいられるものか。さあぼくといっしょに来るんだ」
男は、女を無理矢理にシートから引きずり出した。女の腕を小脇《こわき》にかかえて、山頂のほうへ向かって歩きだす。女もやむを得ないと観念したらしく、痛みをこらえて必死に歩きはじめた。
しかし十分歩いても、二十分登っても、男が言ったようにバスの終点にあるはずの山頂のレストハウスは現われなかった。二人はすでに全身雪まみれになっていた。
「だめ、私、もう一歩も歩けない」
女はついに雪の上に崩折《くずお》れてしまった。
「しっかりしろ! もう少しだ」
男は女の頬を叩いて励ました。しかし気力と体力を費《つか》い果たした女は、男がいくら叱咤《しつた》しても、立ち上がろうとしなかった。
女を背負って行く体力は、男になかった。車のところまでもどるには、せっかく歩いて来た距離が惜しい。レストハウスまで、本当にあと少しにちがいない。
男はついに決心をした。
「いいかい、ここを動くんじゃないぞ。レストハウスまで行って、すぐに救援を連れて来るからね」
女の体を道の端の風当たりの少しでも弱そうな凹地《くぼち》へ引きずりこんだ男は、女の耳に口をつけて言った。
女はかすかにうなずいたようだが、それも彼の言葉を理解してかどうかわからない。女を残して一人進んだ男が、レストハウスに辿《たど》り着いたのは、それから二時間もたってからである。
彼は車と徒歩によるちがいをまったく理解していなかった。彼の遅々たる歩みを、吹雪がさらにブレーキをかけた。
救援隊が、女を残した現場へ駆けつけたときは、すでに彼女は凍死していた。遺族の請求によって解剖された女の体は、急性盲腸炎をおこしていたことがわかった。
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破壊の競争
門脇美紀子《かどわきみきこ》にとって、その年の夏はまさに「青春の祭り」と呼ぶにふさわしい夏であった。
彼女は大学生活最後の夏を、父に連れられて上高地へ来た。夏は海に行くのが恒例になっていたが、年々海は汚なくなる一方だし、友人からかねてより上高地の美しさを聞かされていたところから、一度は行ってみたいとおもっていた。
そこへどうした風の吹きまわしか、父が、
「美紀子、おまえもいよいよ来年の春で卒業だな。この夏が大学生活最後の夏というわけか。よし、お父さんがいいところへ連れて行ってやろう」
と言いだしたのである。美紀子は父といっしょに旅行することが好きだった。彼女くらいの年ごろになると、父親と旅行したりすることになんとなくこそばゆいものを感じるものだが、彼女の父は、適齢の娘のそんな微妙な心理をよく考えていて、部屋もべつに取ってくれたり、旅先でも「フリータイム」と称して、彼女に自由行動を許してくれるのである。
父といっしょに旅行しながら、父の監視つきといった窮屈なものをまったく感じさせない。だから、へたなボーイフレンドなどと行くのよりも、ずっと楽しいし、安心していられる。
そういう意味では、父よりも頼もしいナイトはいなかった。ということは、彼女がまだ父親のイメージを圧倒するほどの男性にめぐり逢《あ》っていないということでもある。
幼いときに母を失い、父の男手一つで育てられた美紀子は、多分にファザー・コンプレックスがあった。
「いいところってどこなの?」
美紀子が目を輝かせてたずねると、
「上高地だ。名前ぐらい聞いたことがあるだろう。きっと、日本にもこんなすばらしい場所があったのかと驚くよ」
かねて訪れてみたいとおもっていたところを、ズバリと言われたので、美紀子はおどりあがらんばかりにして喜んだ。
「でも、お仕事のほうは大丈夫なの?」
父の門脇は、ある中央官庁の局長をつとめている。彼の職分のくわしい内容は知らないが、常日ごろ、業者が群がり、かなり忙しいポストのようであった。
「いくら公僕でも、夏休みぐらいもらえるよ。それに上高地だったら、まったく仕事に関係ないわけじゃない」
門脇の局は国立公園を管理している。上高地は中部山岳国立公園の代表的な観光スポットになっている。
「それじゃあ、お仕事で行くの?」
美紀子は急につまらなさそうな声を出した。以前にも父に連れられて出かけた先で、業者につかまり、一人ぼっちに放り出されたことをおもいだしたからである。フリータイムばかりでも、つまらないのだ。本省の幹部が管轄区域へ旅行すれば、下部官庁の役人や業者が放っておくはずはない。
「仕事にはひっかけない。完全なレジャーさ。いまのうちにおまえと二人っきりの旅行をしておかないと、お嫁に行ってしまえば、もう、はなもひっかけられないからな」
「そんなこと絶対ないわよ。それに私、まだ当分お嫁に行く気なんかないもの」
美紀子はむきになって言った。彼女のために再婚もせずに通してきた父の、娘の幸せをおもって、みずからの寂しさを耐える男の翳《かげり》のようなものを、美紀子は感じ取ったのである。
父も健康な男であるかぎり、この長い年月、女なしで過ごしたとはおもえない。本省の重要なポストを占める彼の周囲には、業者の花やかな接待もあったであろう。女との浮いた話の一つや二つあったはずである。
それにもかかわらず、彼は、美紀子の前では女の匂《にお》いも影も見せたことはなかった。そこに彼女は、父の男としての誠実味を見たようにおもった。
それは彼の妻としての美紀子の母親と、美紀子自身に向けて示した誠実であった。
〈この父を、自分の幸福のために寂しくさせてはいけないわ〉
美紀子が現代娘でありながら、若い男にあまり目を向けず、なかなか父のイメージから脱しきれないのは、そのためであった。
「いや、おまえには嫁に行ってもらわなければ困る。おまえに最もふさわしい相手を、探してやるからな」
「そんな人がいたら、自分で探すわよ」
「言ったな」
父娘《おやこ》はそこで明るい笑い声をあげた。
「上高地へ行ったら、穂高へでも登ってみようか」
と父は言った。彼の話によると、若いころはかなり登山をやったそうである。
「穂高って、高い山なの?」
「三一九〇メートル、日本で三番目の山だよ」
「まあ、そんなに高い山へ登れるかしら?」
美紀子が心細そうな声を出すと、
「大丈夫だよ、上高地から一日で登れる。上高地から穂高までは、日本アルプスの王道《ロイヤルルート》と言われているくらいに、道も整備されている。まあ、河童橋《かつぱばし》から穂高を仰げば、必ず登りたくなるさ」
父は自信たっぷりに言った。
父は七月の末に五日間の休暇を取った。夏の最盛期だったが、上高地帝国ホテルに部屋も取れた。夜行の混雑を避けて、新宿を朝の列車で発ち、穂高の稜線になみなみとした夕映《ゆうばえ》がかかるころ、美紀子は河童橋の畔《たもと》に立っていた。
彼女はそこへ来て、父の自信が正しかったことを実感した。それは聳え立つ巨大な岩の楼閣であった。夏の花やかな夕映が豊かに浮かんだ空を、豪快に切りぬいた鋸歯状《きよしじよう》の山稜《さんりよう》、岩肌《いわはだ》に刻まれた残雪の白さに、緑濃いハイマツの織りなす鮮やかなコントラスト。
山腹にわだかまった夕べの霧が、近々と迫った山に、山麓に群れる人間たちとの断固たる断絶を示すような隔絶の距離感を造りだしている。
美紀子の立つかたわらを梓川《あずさがわ》が流れている。透き通って青いというより、夕映の空を映してうす赤く見える。川の底の砂までが読みとれるような澄んだ水流は、山を映し、空を映し、両岸の樹林を映して、無色なのである。
樹林帯の緑はあまりに豊かで、黒々と感じられる。その中に点綴《てんてい》する白樺の幹の白が鮮やかである。
渓谷《けいこく》を取り巻く山々は、穂高をはじめとして、岩の襖《ふすま》のように山麓から垂直に屹立《きつりつ》している。それでいながら渓谷の空が広々と感じられるのは、すべての造化が、圧倒的なスケールをもっているからか。
河童橋は、梓川に架《か》けられた吊り橋である。その上を、都会の延長のままの男女の花やかな服装が絶え間なく往来している。本来ならば美紀子自身を含めて、彼らはこの神々しい場所にふさわしからぬ、大自然の俗化をうながす人種であろう。
しかし、ここにある山々はそれらすべてをこともなく包容するようなおおらかさがあった。花やかな夏の日をいっぱいに浴びて切り立つ夕焼けの穂高は、限られたアルピニストが独占するには、あまりにも巨《おお》きい。
いまこの渓谷を埋めている雰囲気《ふんいき》は、閉鎖的な聖地のものではなく、若々しいエネルギーに満ちあふれた祭りのにぎにぎしさであり、新鮮な色彩の氾濫《はんらん》であった。
「どうだ? 美紀子」
父が満足そうに美紀子の顔を覗きこんだ。
「すてきだわ」
彼女にはただそれしか言えなかった。
「これは上高地の美しさのほんの一部でしかない。雨や霧の日には、山がもっと奥深くなって、べつの趣がある。時間によっても、季節によっても、それぞれ異なる無量の美しさがあるんだよ」
「すばらしいわ」
美紀子の乏しい語彙《ごい》では、この風景を描写することはできなかった。またどんな言葉も実景を正確に描写することは難しいだろう。
「明日は、この周辺をゆっくり散歩して、あさってあたり、穂高へ連れて行ってやろう」
「登りたいわ、ぜひ」
「険しく見えるけど、登りはじめてみると、案外それほどでもないよ」
「私にもあの頂上に行けるのかしら?」
美紀子には、自分の足であの頂上を踏みしめるということが、どうしても実感をもてないのである。体力に自信がないのではない。穂高の姿が人間の足から隔絶して見えたのである。
「行けるとも。ゆっくり歩いて、一日で穂高山荘へはいれる。次の日の午前中にはあの頂上へ立てる」
美紀子はあの高所に立ったときの自分を想像するだけで、胸がときめいた。稜線の上には赫々《あかあか》と燃えた積雲の頭が沸きだしている。いまこの時間をあすこにいる人間は、どんなに幸福だろうかと彼女はおもった。
ホテルへもどって、シャワーで軽く汗を流し、食堂へ出たときである。
父といっしょにメニューを物色していると、美紀子は首すじのあたりに、ふとだれかの視線を感じた。
「どうした?」
父がメニューから目を離してたずねた。
「だれかに見られているようで……」
「おまえなら見られるさ」
父はまんざらでもない顔をした。母親似のあたたかそうな面立ちの中にある知的なシャープさと、愁いをたたえた謎《なぞ》めいた瞳《ひとみ》は、いつも男の視線を集めていた。母親を幼くして失ったかげりが、男を惹《ひ》く性的魅力になっているらしい。門脇にとっては、それが誇らしくもあったのだ。
「いやだわ」
美紀子が注文《オーダー》を待っているウエーターを意識して、軽く身体をひねったとき、少し離れたテーブルから、つと立ち上がって近づいて来た者がある。
「局長、これは珍しいところでお目にかかります」
「お嬢さんとご旅行とはうかがっておりましたが、まさかここでお目にかかろうとはおもいませんでした」
「お邪魔でなかったら、ぜひ、ごいっしょさせてください」
次々に挨拶《あいさつ》したのは、シャープな背広をピタリと身に着けた、いずれも二十七、八歳の青年である。
「なんだ、きみたちも来ていたのか」
父は、少なからず愕《おどろ》いた様子であった。旅先で知人に偶然出会うのは、常に一つの驚きである。
「局長、ここは私たちのなわばりですよ。このホテルは社の夏期出張所みたいなものです」
痩《や》せ型の長身の青年が言った。
「まさか、私を追いかけて来たんじゃあるまいね」
父の口調が警戒調になった。
「とんでもない! プライベートなご休養を妨げるつもりは毛頭ありません」
二番目に声をかけた、筋肉質のがっしりした体格の青年が、あわてた身ぶりで手を振った。
「それならいいが、ここでは仕事の話はタブーにしてほしいね。娘といっしょにレクリエーションに来たんだから」
門脇は釘《くぎ》をさすようにつけ加えた。彼の口ぶりから推《お》して青年たちは、父の局に出入りする業者らしい。彼らも夏休みのレジャーに来たのか、それにしても三人いっしょというところに不自然なものがある。
あるいは父が言ったとおり、彼のあとを追って来たのかもしれない。父は常に、業者に追いまわされているのだ。
だからこそ父が釘をさしたのであろう。
「私たちも、ここで偶然いっしょになったのですよ。まあ日ごろはライバル同士でいがみ合っていても、せめて山へ来たときぐらいは仲良くしようということで、呉越同舟《ごえつどうしゆう》でめしを食おうとしたところに、局長のお姿をお見かけしたのです」
三番目の中肉中背の青年が弁解した。業者は出入り官庁の役人がお忍びの女連れで旅行をしているときは、近づくのを遠慮するものである。
それにもかかわらず声をかけてきたのは、美紀子を実の娘と知っていたからであろう。しかし美紀子は彼らを知らない。
父はあえて彼らを紹介しようとしなかった。せっかく娘と水いらずで夕食を楽しもうとしたときに、いきなり無遠慮にアプローチして来た彼らを、迷惑がっている様子さえ見える。
「こちらがお嬢さんですね、初めまして。弓場久彦《ゆみばひさひこ》と申します」
門脇が紹介しようとしないので、長身の青年が勝手に名乗って名刺を差し出した。
「国井弘《くにいひろし》です」
「村越順也《むらこしじゆんや》と申します」
筋肉質と中肉中背の二人が、遅れをとるまいとするかのように名刺を出した。その様子がいかにもおかしかったので、美紀子は思わずクスリと笑ってしまった。
美紀子が笑ったので、その場の空気が解《ほぐ》れた。門脇はあくまでも美紀子を中心に考えている。
考えてみれば、娘にとってはジジくさい父親と食事をするのよりも、若さのあふれる青年たちと食卓をともにしたほうが、楽しいかもしれない。
「きみたち、よかったらこっちへ来ていっしょにやらないか」
門脇はしぶしぶ言った。
「えっ、よろしいのですか」
急に軟化した門脇の態度に、青年たちはむしろ驚いたような顔をした。
「きみたちさえ、さしつかえなければね」
「さしつかえどころか」
「光栄です」
「以前から局長のお嬢さんはすてきな方だとうかがっておりましたが、こんなすばらしい方だとは!」
「なんだ! 光栄だと言ったのは、娘に対して言ったのか」
「そのとおりです」
こんな歯の浮くようなお世辞も、門脇にとっては嬉《うれ》しいらしい。庁内で、能史として聞こえた彼が、こと美紀子のことになると、まったく、だらしがなくなってしまうのである。
「いやだわ、そんなおおげさに」
美紀子は頬を染めた。しかし青年たちの気取らないあけすけな態度は、不愉快ではなかった。
いまはそれぞれライバル会社に就職しているが、学生時代は、同じ大学のワンダーフォーゲル部にはいっていて、上高地にも何度か来たことがあるそうである。周辺の山々もほとんど登りつくしており、父よりも詳しかった。
「同じ大学の同じ部にいたのに、それぞれライバルの会社にはいるなんて皮肉ですわね」
たった一日のことで、だいぶ彼らと親しくなった美紀子が言ったとき、
「めぐりあわせですよ」
「いやなめぐりあわせです」
「運命は皮肉だ、いや残酷だと言うべきかもしれない」
と答えた三人の目が交錯して、火花が散ったようにおもえた。彼らの間の隠されていた敵意が、突然|鞘《さや》を抜かれて、鋭い刃《やいば》となって切り結んだようである。
美紀子が突然凍結した空気に、ハッとしたときは、すでに三人は和やかな微笑を浮かべて、
「まあ学生時代、同じ釜《かま》のめしを食っていたから、いまは商売敵になっても、友情がつづくんでしょうね」
「まずい釜のめしだったなあ」
「そういうおまえが食当のときが、いちばんひどかった」
と他愛ない表情で言い合っている。美紀子は自分の錯覚だとおもった。
三人は翌日の上高地の散策にも尾《つ》いて来た。
その日一日、田代池《たしろいけ》や焼岳《やけだけ》の中腹までゆっくり散歩を楽しんだ。穂高へは翌日登ることになった。
青年たちはふたたび当然のことのように同行を申し出た。
「きみたちには、きみたちの計画があるんじゃないのか?」
さすがに門脇はためらった。穂高へ登るとなれば、少なくとも二日は費やされる。サラリーマンの休暇にとって、二日は貴重である。足弱の美紀子を連れて登るのだから、あるいはもっとかかるかもしれない。
「いえ、ぼくらも穂高へ登るつもりで来たんです」
「上高地へ来て、穂高へ登らないほどまだ堕落していないつもりです」
「ぜひごいっしょさせてください」
彼らが同行してくれれば、美紀子にとってこの上ないエスコートにはちがいない。結局、またいっしょに行くことになった。
門脇の予定に変更が生じたのは、その夜である。夕食後ロビーでくつろいでいるとき、彼に東京から電話がはいった。緊急の打合わせ事項が生じて、彼を本省へ呼びもどすための連絡であった。
「弱った」
父は美紀子の顔を覗き込みながら、心底困ったような表情をした。
「明日、山へ登れなくなった。役所に急用がおきてね、どうしても帰らなければならなくなった」
「いいじゃないですか、局長」
口をはさんだのは、弓場である。
「ぼくらがお嬢さんをご案内しますよ」
「責任をもってエスコートします」
国井と村越がつづいて言った。
「そうだな」
門脇は曖昧《あいまい》な表情をした。三人の青年のエスコートならば、いずれも門脇よりも頼もしい。だが門脇を逡巡《しゆんじゆん》させたものは、彼らがいずれも独身の若者であるという事実である。若い男たちばかりに、美紀子を任せてよいものかといった父親の心配が働いたのだ。
「お父様、私、登りたいわ」
心の底に残っていたためらいを、美紀子の言葉が、払拭《ふつしよく》した。
「それじゃあ、きみたちに頼もうか」
「どうぞご安心してお任せください」
「お嬢さんも、私たちといっしょに登るほうを喜んでおられるかも……」
「こら!」
こうして門脇は、大いに心を残しながらも、娘を三人の青年たちに託して帰京した。
松本からの早い時間の特急をつかまえなければならない父親と、今日のうちに千メートル以上の高度差を稼がなければならない娘は、翌朝同時にホテルを出た。
ホテルの屋根ごしに望める穂高の峰頭がかすかに色づいている。快晴であった。梓川の川面《かわも》と両岸の樹林帯にたゆとう薄い靄《もや》が、しきりに揺れ動いている。
朝日の射しこむ前の、ダイナミックなエネルギーのほとばしりを、精いっぱいにこらえているような、躍動に移る前の大自然の姿が、そこにあった。
「それじゃあ気をつけてな」
「お父様こそ」
そんな穂高を背負って晴れ晴れと笑った美紀子に、わが娘ながら門脇はハッとするような性的魅力を感じたのである。
福祉省国立公園局に「観光三社」より、中部山岳国立公園内に工作物≠新設する許可願いが出されていた。ただの工作物ではなかった。
場所は中部山岳北アルプスの立役者《スター》ともいうべき槍ケ岳へ、ロープウエーやケーブルカーを敷設《ふせつ》しようというものである。
まず、東京西郊に広大な路線網をもつ「帝急」を中核に発展した総合観光会社「帝急観光」が、高瀬川を遡行《そこう》し、湯俣《ゆのまた》温泉から天井沢《てんじようさわ》に沿って槍ケ岳東側に派生する東鎌尾根《ひがしかまおね》上部までケーブルカーを敷設しようという計画を出した。
次に関西地域に路線網と主要ターミナルに百貨店を経営する「西急《せいきゆう》」が、北アルプスの総合開発に乗り出して、岐阜県側新穂高温泉上部のワサビ平《だいら》から一気に槍ケ岳の肩まで、ロープウエーを架《か》けるというものである。
これらが実現すれば、いずれも世界に類のない最大のスケールのものとなる。
もう一つは、中部地方と、関東西域に圧倒的な路線網をもつバス会社「中台《ちゆうだい》興業」が、上高地まではいっているバス路線を槍ケ岳まで延長したいというものである。これも前二社の計画に劣らない大規模なものだった。
戦後の驚異的な経済成長に比例して、国民のレジャーも大型化して、マスレジャー時代にはいった。五月のゴールデンウイークには、なんと二千万人が旅行し、一千億円の金が動いた。まさに一億総レジャー時代に突入したのである。
数あるレジャーの中で最も花形は、旅行である。旅行に伴って金も最も動く。従来旅行を物見遊山《ものみゆさん》≠ニして罪悪視した傾向は、レジャーを生き甲斐とする観念の推移によって、影も残さずに駆逐されて、人々はますます積極的に旅へ出るようになった。
人々が好んで旅行するところは、なんといっても国立公園である。特に日本の名峰高峰のほとんどすべてを集めている中部山岳の人気は群をぬいている。
現在の登山人口は一千万から一千二百万ぐらいと推定されている。これらの中の百万人あまりが、夏期のアルプスに集中する。しかし登山という積極的体力を要求されるスポーツである関係上、だれでも登れるというものではない。
山は好きだが、体力に自信がなくて登らないという潜在的登山人口が、かなりあるはずであった。それが証拠に、山など一度も登ったことのないような足弱の女の子や老人が、ロープウエーやバスなどで高山へ初めて登って来ると、みな一様にその雄大な風景に感激する。
だれにも山の美しさはわかるのである。つまり幼児を除くほとんどすべての人間が、登山人口になり得るのである。
だから自然破壊がいくら叫ばれようと、文化人や地元がどんなに反対しようと、機械力は大自然の奥深く深くへとすさまじい勢いで侵略して来るわけである。
槍ケ岳は、日本アルプスとも呼ばれる中部山岳の中の象徴のような山である。標高三一八〇メートル、さながら槍の穂先のような鋭い山頂は、見る者をして必ず登攀欲《とうはんよく》をそそらせる。
その特異な風貌《ふうぼう》、険しそうな山容のわりにはアプローチの易しさ、山腹に横たわる長大な雪渓、山頂からのまさにアルプス随一の眺望《ちようぼう》などから、登山者の人気を集めている。
しかしなんといっても、三千メートルを越える高山であり、アルプスの盟王とされる山である。だれにも簡単に登れるものではない。
事実、上高地まではいって来た観光客の大半は、河童橋から穂高を覗いただけで帰ってしまう。
これがもしバスやロープウエーが槍ケ岳まで登って行ったら、上高地でとまってしまった観光客の足は、ほとんどすべて槍ケ岳まで延びるだろう。
それだけではない。機械力で頂上まで行けるようになれば、例の潜在的登山人口を動員できる。
山頂に本格的なホテルを建設して、ロープウエーやケーブルカーを通年運行すれば、日本中から観光客が集まって来る。これほど優れた観光資源≠、体力のある人間や、夏期以外は限られたベテラン登山家に独占させておくことはない。
ということで、「観光三社」が等しくこの槍ケ岳に目をつけたのである。彼らはスイスの登山鉄道を例にあげて、
「近代的機動力を自然の中に持ち込んだからといって、必ずしも自然破壊につながらない。むしろそのおかげをもって、いままで自然美に憧れながらも、体力の欠如などの理由によって近寄れなかった一般大衆を大自然に親しませる利益のほうが大きい。槍ケ岳周辺の景観は、体力と経験をもった一部登山者だけに独占させるには、あまりにも美しい。
スイスのユングフラウ鉄道を見ても、あれをもってアルプスは汚されていない。むしろスイスアルプスの名前を国際的に高め、外貨獲得の貴重な手段となっている。単純に自然保護の狭い視野から、あたら優秀な観光資源を死蔵することなく、広く普及すべきである。この観点から、建設の許可を申請する」
というかなりの強弁であった。この申請をめぐって、省内の意見はまっ二つに割れた。
賛成派はだいたい三社の申請意見と同じであったが、反対派は、
「いくら自然を大衆が等しく享受《きようじゆ》する権利があるといっても、観光開発という名目の下に自然破壊を許すべきではない。みんなが楽しむために自然を破壊すれば、自然はなくなってしまう。自然は近寄り難いがゆえに、その美しさを留めるのだ。
この計画は、観光開発の限度を超えるものである」
という意見を述べて激しく反対した。
三社三様の計画が外部にもれると、自然保護協会、日本学術会、有識人、文化団体、地元旅館組合、山小屋組合、各種山岳団体などが結束して反対運動をはじめた。
自然保護協会や、文化人などは、国土の自然破壊を憂えての反対だったが、地元関係者の反対には、生活がかかっていた。それぞれの思惑は異なっても、反対の激しさにおいては一致していた。
これに対して三社側は、ひもつき代議士などを動員して、福祉省の担当局である国立公園局へ圧力をかけてきた。
福祉省としても、軽々に判断は下せなかった。
許可不許可いずれにしても、納得のいく理由を示さなければならない。また三社の計画においては、事業免許の申請は陸運局の管轄になる。陸運局の判断も考慮しなければならなかった。管轄の県知事の許可もからんでくる。
国立公園内の自然を保護するために制定された自然公園法において、特別保護地域、特別地域、普通地域の三つに分け、特別保護地域においては自然の原始性保護を最も徹底し、特別地域内においては、それに準じて各種の制限禁止を厳しくしている。
三社から出された申請は、大部分が特別地域と、特別保護地域にかかる。たとえ許可になるとしても、三社全部が許可されることは考えられなかった。
三社の計画を子細《しさい》に検討したのち、どれか一社に絞ったうえに、その許可不許可を決定することになる。
反対派に対しては結束してあたった三社も、許可をめぐっては、ライバルとして猛烈なせり合いをすることになった。
計画の審査は、国立公園局が主幹になって、外部から学識経験者を招いて、審議会を組織し、慎重に行なわれる。その中でも問題の帰趨《きすう》を決するキャスチングボートを握っているのが、国立公園局長の門脇|秀人《ひでと》である。彼が審議会の意見を統一して、大臣の諮問《しもん》に答え、その決定を左右することになる。
当然三社は門脇に猛烈なアプローチをかけてきた。ところが門脇は、自分の微妙な立場をよく認識していて、肚《はら》の中を絶対に割らない。その点に関しては、まったくの無色を押し通していた。
三社は門脇攻略の担当者として、それぞれ若手社員の腕ききを繰りだした。すなわち、帝急が弓場久彦、西急が国井弘、中台が村越順也を立てたのである。
三人は奇《く》しくも東都大学経済学部の同窓であり、クラブ活動のワンゲル部で、同じ釜のめしを食った仲であった。その三人がそれぞれ異なる社に属して、巨大な商業利権を争い、猛烈な鍔《つば》ぜり合いを展開することになったのであるから、実社会は苛酷であった。
山から帰った門脇美紀子は、しばらくの間、陶然としていた。まるで熱い風呂《ふろ》から出た後のように、体の芯《しん》に残った興奮が長い余韻をひいてなかなか消えない。
初めて登った三千メートルの高山は、それだけ強く彼女の心を捉《とら》えたのである。エスコートしてくれた三人の若いガイドも申し分なかった。スポーツが好きで、高校時代はテニスの選手をしたことがあるとはいえ、このような高い山には初めての彼女をいたわりながら、早すぎも遅すぎもしないペースで、着実に頂上へ導いてくれた。彼らは美紀子のために山々の名前や、植物をおしえてくれた。彼らは山だけ、がむしゃらに登る山男とちがって、山の歴史や、博物にも詳しかった。
おかげで、美紀子はこの登山を通して、かなり穂高の博物に通じたのである。
彼女はその山頂ですごしたひと時が、何か別世界でのできごとのようにおもえてならなかった。何物にも遮《さえぎ》られない無垢《むく》の日光が洪水のようにあふれていた空間、これ以上、もう高いところはない岩の一角に腰を下ろして見わたした未知の青い展望、地平線に林立した積雲の頭が、プラチナのように光り、遠望に茫々《ぼうぼう》と流れる山脈はうすい紫に、近くに切り立つ銀灰色の岩壁は、ハイマツの緑と、雪渓の白に彩《いろど》られていた。
数歩の距離の岩の先を、垂直に落ち込む蒼《あお》い虚空《こくう》に囲まれて、言葉を失っていたあのひと時、その間三人のナイトたちも黙って、煙草《たばこ》をふかしたり、焦点の定まらない視線を、遠方へ泳がせていた。
美紀子はそんな彼らを男らしいとおもった。父一人娘一人の生活の中で、べつに意識したわけではないが、なんとなく対象になるような若い男たちから隔絶された生活をつづけてきた彼女にとって、この山行は、むんむんするような男の体臭に、直接触れた最初の機会であった。
父が分泌《ぶんぴつ》の少ない体質のせいか、美紀子は異性の強い体臭を好まない。動物的な感じがしていやなのである。電車の中で、酔漢に酒臭い息など吹きかけられると、嘔吐《おうと》しそうになった。
三人のガイドは、みな一様に煙草を喫《す》う。酒も飲む。上高地へ下山したとき、ビールで乾杯してから、ウイスキーなどをかなり盛大にやった。
いずれも体臭が強かった。それでいていつものように嫌悪感《けんおかん》をもたなかった。むしろ爽快《そうかい》な匂いである。山頂を渡る青い風に乗った彼らの汗の匂いは、まさしく男の体臭そのものであった。
こんなふうに美紀子が三人から受けた印象は、かなりよいものであった。彼女の好印象は、下山してからも持続された。こうして美紀子と、三人の青年の間に交際がはじまったのである。
女一人に男三人の交際は、均衡を保てない。性《セツクス》を意識しなければ、それを保つこともできるが、男女の交際において、性を意識しないということは、ほとんど不可能である。
やがて、いや速やかに、美紀子をめぐって激烈な競争がはじめられた。
「美紀子、おまえ、まだ、あの三人とつきあっているのか?」
父が日曜日の朝食のあと、さりげなく言った。
「あの三人?」
美紀子は、その三人がだれを指すか、すぐにわかったが、故意に、聞きなおした。べつに悪いことをしている意識はないが、やはり、なんとなく気恥ずかしいものがある。
「弓場、国井、村越の三人だがね」
父の口調はあくまでもさりげない。感じやすい年ごろである。へんに刺激しないように考慮しているのであろう。
「ああ、弓場さんたちね、ときどきお会いしているわ」
努めてなにげなく答えたつもりだが、語尾が少し震えた。実は彼女は彼らの中の一人と、単なる交際以上の行為をすでにしていたのである。それが、語尾の震えとなって現われた。
「おまえ、どんな気持ちでいるんだね?」
「どんな気持ちって、べつに……」
それとなく探りを入れてくる父に対して、美紀子は当惑した。父に隠すつもりはなかったが、つい行為のほうが先行してしまった。
行為といっても、まだ決定的なことをしたわけではなかったが、処女が男に唇を許したということは、かなり気恥ずかしいものである。
フリーセックスの世相にあっても、常識的な環境の中に育ってきた彼女にとっては、接吻《せつぷん》はやはり恋愛の重要なそして羞恥に満ちた最初のステップであった。少なくとも親に「男と接吻した」と堂々と報告できるようなものではない。
それでつい父に対して、なんとなく隔意をおくような態度になってしまったのであろう。父はそれを敏感に感じ取って、探りを入れてきたのである。
「三人の中で特に好きな人でもいるのかね?」
「あのう……べつに、いやだわ、急にそんなことを言いだして」
美紀子は顔を赧《あか》らめた。父がすでに接吻のことを知っているような気がしたからである。だが彼は頓着《とんちやく》なく、
「もしおまえが、三人のだれかに特別な感情を抱いているようだったら、お父さんに言いなさい」
父の口調は、どうもあの三人に対しては消極的なようである。
「結婚となると、おまえの一生の問題だからね、もっとよく調べてみなければならない。外観だけではわからない遺伝の問題とか、本人が隠している私行や性格の秘密なんかがあるかもしれない」
「いやだわ。私、まだ結婚なんかするつもりなくってよ」
「おまえになくても、相手にあるかもしれない。それにおまえも来年は二十三だ。あんまりのんびりしていられないぞ」
「でも、いくらなんでも、学校を卒業して、すぐ結婚なんていやだわ」
「おまえの母さんが結婚したときは、二十一だった」
「時代がちがうのよ。女性の結婚年齢は、どんどん高くなっているのよ。女性が経済力をもつようになって、結婚に束縛されるのを嫌《きら》うようになったからよ」
「まあいい。とにかく結婚は女にとって一生の問題だ。決して軽はずみなことはしないでくれ」
と父は話を打ち切った。美紀子の態度から、まだ打ち明けるまでに熟していないと悟ったのであろう。
美紀子は素直に礼を言った。この父に心配をかけるようなことだけはすまいと、そのとき心に誓った。
実際のところ、いま父に聞かれても、彼女は答えられる状態になかった。
こちらに結婚する気はなくとも、相手にあるかもしれないと父は言った。その言葉のとおり、彼女は数日前、三人の男たちからつづけざまにプロポーズを受けていたのである。
最初は国井弘からであった。たまたま来日していたヨーロッパのポピュラー音楽の大御所のようなオーケストラの演奏会へ誘われて、その帰途、送って来た彼から強引に接吻された。
三人の間で微妙に心が揺れ動いていただけに、美紀子の男の唇を拒む力は弱かった。そこをつけこまれて、奪われたのである。その直後に国井はプロポーズした。
彼のプロポーズのあと、弓場と村越が先を争うようにしてプロポーズしてきた。美紀子は当惑した。彼女も現代娘である。三人の生きのいい男たちとつきあって、いつまでも「兄妹のような仲」でいられるなどとはおもっていない。
三人の自分を見る目がだんだん熱っぽくなってくるのをよく知りながら、選択の計算を働かせていた。
国井の行為は、その計算がまだ十分になされていない段階で強《し》いられた。その行為によって、急速に国井に傾いたというわけではない。
「どちらを選ぶべきか迷ったときは、熱心なほうを選べ」
と言ってくれた先輩の言葉がおもいだされた。三人三様に惹《ひ》かれるところがあったが、熱心という点では、国井はぬきんでていた。
弓場も村越も熱心なのだが、国井ほど態度に顕《あら》わさないのである。こういう際の積極性は、最も女に有効に働いた。
そうなってみると、国井の男っぽさは、ことごとく好ましく見えてくる。
国井は三人の中で、いちばん男っぽい感じである。目も眉《まゆ》も太く、体格も筋骨質であった。体形だけでなく、美紀子からまっ先に唇を奪ったように、行動も積極性に富んでいる。
三人の中では、やはり最も印象が強い。それでいながら彼女にふんぎりがつかないのは、国井の行動の中に、ごくたまにではあるが、おもいもかけない粗野というか野蛮なところがあったからである。
たとえば、ホテルのクロークから荷物を引き出そうとするとき、チェックナンバーでカウンターをカチカチ叩いて従業員を呼ぶ。駅の売店で小銭両替を頼むとき、平気で金を投げだしたりする。
美紀子には親切でこの上なく優しいのだが、関係のない人間、特に下位の者には、まったくおもいやりがないようであった。いや、おもいやりというよりは、無関心なのである。それが彼女をためらわせていた。
弓場久彦は、およそ国井と対照的であった。まず体形からして筋骨質で角張っている国井に対して、痩《や》せて、ほっそりしている。鼻梁《びりよう》が高く、目が細く唇がうすい。右の耳の下にかなり目立つホクロがあって、横顔のいいアクセントとなっている。広い額は知的なものを感じさせるが、難は目と眉の間がせまっているために、見る角度によってはなんとなく賤《いや》しそうな感じをあたえることである。
しかしハンサムという点では、三人の中で、随一であった。表情全体に漂うどことない虚無的な翳《かげり》も、美紀子は好きだった。
村越順也は、三人の中で最も平凡である。中肉中背、顔立ちもおとなしい。服装などもあまり冒険せずに、白ワイシャツにネクタイをいつもキチンとつけている。
印象はうすいが、いちばん堅実な感じがした。彼の性格は、山歩きのときにもよく現われていた。明らかにまたすぐに合するということがわかるような岐《わか》れ道にかかっても、必ず一方の道へ少し踏みこんで確かめる。
デートの相手としては、弓場のようにスマートではないが、結婚の対象としては、案外こういう男のほうがいいのかもしれないと、美紀子はおもった。
村越には、国井や弓場のように目立った欠点がない。何をさせてもそつ[#「そつ」に傍点]がないし、堅実である。
欠点のないというところが、欠点かもしれないと、美紀子はおもった。
「私、きっとぜいたくすぎるんだわ」
三人の男のあれこれを考量しながら、彼女は自分を戒めた。
結婚は「耐え忍ぶことだ」という言葉さえあるくらいである。
三人の男たちは、いずれも水準以上である。まだ家族関係を詳しく調べたわけではないが、三人ともに一流大学を卒《お》えた一流企業のエリート社員ばかりだ。
「私ったら自分のことは棚《たな》に上げて、相手のあら[#「あら」に傍点]探しばかりしてるわ」
美紀子はひとり顔を赧らめた。そのときふと気がついたことがある。
「あの人たち、本当に私を愛してプロポーズしたのかしら? もしかしたら、仕事の面で、父とのコネがほしくて、申し込んで来たんじゃないかしら?」
そうだとすれば、自分は道具にされたことになる。
「これは確かめなければならないわ」
美紀子はおもった。
「国井はひどい男ですよ」
弓場は、ふとひとり言のように言った。弓場と逢ったのは、久しぶりである。国井に唇を奪われてから、なんとなく弓場や村越に逢いにくくなっていた。
それにプロポーズされた返事を保留してあることも、逢いにくい条件を強めている。当然国井と逢う回数のほうが増えてきた。たった一回の接吻の実績は、男を図々《ずうずう》しくさせて、逢えば当然のことのように唇を求めるようになった。
彼女はそれを拒むことはできない。実績は速やかに堆積《たいせき》された。男が、唇だけで留まらないことは明らかである。国井は最後のものを求めた。
愛し合っていれば、あえて結婚という形式を踏まずとも許せるはずだと彼は言った。
美紀子もそのようにおもっていた。結婚は一つの形式にすぎない。形式でなければ、うつろいやすい男女の気持ちにかけられた保証だと考えてもよい。
愛に保証をかけること自体がナンセンスだと、美紀子はしごく現代娘らしい気持ちで考えていた。だから結婚するまで、男を釣っておく餌として、処女を虎の子のように守っているつもりはない。
心から愛せる男性にめぐり逢えば、結婚とは関係なく捧げてもよいと考えていた。それが、国井の需《もと》めを拒んだのは、心の底に彼を信じきれないものがあったからかもしれない。
――かもしれない――というのは、彼女自身にもはっきりわからないのである。ただ、女のカンのようなものが、執拗《しつよう》にかすかな不信を訴えつづけていた。
「あなたがほしいのは、本当にこの私なのか?」と美紀子は聞いた。質問の真意が、門脇とのコネを求めて美紀子に近づいたのではないか? ということだったと悟ると、国井はまっ赤になって怒った。その怒りは本物だった。
だが彼女が本当に聞きたかったのは、そのことではなかった。心の奥底に執拗にくすぶりつづける不信の澱《おり》のようなものの正体は何か?
しかしそれを聞くことはできない。聞きたくとも聞きようがないのだ。また国井にしても聞かれたところで、答えようがないであろう。
「どうして許してくれないのですか?」
国井は身もだえするようにして聞いた。はっきり嫌いだと宣告されて拒まれるのであれば諦《あきら》めようもある。だが女は明らかに自分に傾いている。それでいて最後のものを許そうとしない。
べつに結婚式にこだわっている様子も見えない。式の前に許すことに抵抗を感じるのであれば、早く結婚しようと迫っても、美紀子は確たる返答をよこさない。プロポーズに対する返事そのものが、まだ宙に浮いたままなのである。
いわば、国井は蛇《へび》の生殺しのような状態にあった。だが美紀子は、国井に迫られるほどに、彼と距離を縮められつつあった。
年が代わり、卒業が迫ってくるにつれて、美紀子はこのままいったら、遠からず、国井の熱意に圧倒されてしまうような気がした。
以前は動物的でいやだとおもった強い男の体臭も、くらくらするような性的な興奮をあたえるようであった。
美紀子と国井の仲が、他の二人より接近したせいかどうかわからなかったが、国井と父は、以前よりも頻繁《ひんぱん》に接触するようになった。
三人の社からそれぞれ父の役所に何か申請が出されているらしいが、その中で父は国井の社の申請に最も強い興味を示しはじめたことがわかった。
父が公私を混同するような人間でないことはわかっていたが、国井の仕事に対して特に面倒をみようとしている姿勢を、美紀子は嬉しいとおもった。それが嬉しいということは、二人の間が、それだけ接近していることを示すものである。
「私は、国井さんと結婚するのかしら?」
というおもいが、彼女の心に少しずつ堆積しかかっていた。そのおもいの中に、ほんのかすかだが、諦めのようなもののあることが、彼女の気がかりでもあった。
「国井さんとのこと、父に打ち明けよう」
――いや、父のことだから、もうとっくに知っているかもしれない――
そんな矢先に、弓場から、国井に関する聞き捨てならない言葉を聞いたのである。
実は今日、弓場のデートに応じたのは、国井と婚約する決意を告げるためであった。
ひとり言のようではあっても、美紀子はそれを聞き逃さなかった。
「それどういう意味ですの?」
「いや、やっぱり言わないことにしましょう。友人を中傷することになりますから」
「言いだしておいてずるいわ。ぜひ聞きたいわ。国井さんについて、重大な決心をしようとしているときですもの」
「重大な決心? まさか彼のプロポーズを受けるつもりじゃないでしょうね?」
弓場は顔色を変えた。三人が美紀子に一様にプロポーズしたことは、すでにおたがいが知っている。
「まずあなたのお話が聞きたいわ」
美紀子は弓場の顔を一直線に見つめた。彼女の大学の近くの、喫茶店である。比較的時間が自由になる弓場は、彼女の都合に合わせて、この喫茶店で待ち合わせた。
「もしあなたが国井と婚約するつもりならば、それはぜひ止めなさい。彼はひじょうに危険な男です」
「どういうふうに危険ですの?」
デートの甘い雰囲気などは、けし飛んでしまった。もっとも美紀子のほうには、最初からそんなムードはあまりない。
「お話ししましょう。あなたを不幸にしないために」
弓場は、運ばれてきたコーヒーを一口すすって、
「国井は実はぼくの妹と婚約しておりました」
「まあ!」
美紀子は愕然《がくぜん》とした。弓場に妹がいたということも初耳だったが、その妹と国井が婚約をしていたという情報は、さらにショッキングであった。
美紀子は頭部を棒で撲《なぐ》りつけられたような痛みすら覚えた。
「それは本当ですの?」
ややあって、美紀子はようやく声を出した。声が別人のようにかすれている。
「こんなこと、嘘は言いません」
「それでお妹さんはいまどうなさっているのですか?」
「死にました」
「死んだ?」
「いや殺されたんです。国井にね」
「まさか!」
美紀子は子供がいやいやをするように、首を振った。
弓場が告げたことは、それが事実とすれば驚くべきことだった。三年ほど前、国井と弓場の妹は、都心の高層ホテルに泊まった。夜半出火して、脱出するチャンスを失った二人は屋上に追い上げられた。救出に来たヘリに数珠《じゆず》つなぎにぶら下がった彼らは、地上へ到着する前に、妹だけが墜《お》ちて死んだそうである。
「妹だけが墜ちて死んだのです。この意味がわかりますか? 国井が振り落としたのにちがいない」
「まさかそんなこと! 妹さんのほうが力が弱くて、地上へ着くまでこらえきれなかったんでしょう」
美紀子はなんとなく国井を弁護する形になった。
「いや振り落としたにちがいない。いいですか、二人は数珠つなぎにヘリにぶら下がっていた。墜ちた妹は、国井の脚にでもしがみついていたのです。国井は二人分の重量を支えきれず、妹を振り落としたんです」
「だれか見ていたんですか?」
「大勢の目撃者はいました。でも、距離があったし、暗くもあったので、振り落とすところをはっきり見届けた者はありません」
「だったら、そんなふうにきめつけられないわ」
「いや、彼の性格をぼくはよく知っています。自分が助かるためには、あの男はどんなことでもやります」
「そんな自分の憶測だけで……」
と言いかけて、美紀子は、はっと胸を衝《つ》かれた。
国井に対して執拗に感じた不信の澱のようなものは、これだったのであろうか? 彼に向けて傾斜の度合いを増しながらも、なおかつ全幅の信頼を寄せきれないためらいを覚えたのは、彼の過去にひそむ暗いものが、女の本能的な自衛の触角《アンテナ》に危険信号を送ったからか。
美紀子の内心の動揺を見透かしたかのように弓場は、
「国井が上にぶら下がっていたことは明らかです。彼が手を離せば、彼も墜ちたはずだ。この事実をよく考えてください。妹といっしょに屋上へ避難して来ながら、彼が上にぶら下がっていたということは、妹を見捨てて、彼だけがヘリにしがみついたということです。ひとり取り残されかけた妹は、慌てて国井の脚にすがりついた。この事実を見ても、彼の恐るべきエゴがわかるじゃありませんか。国井は猛火の中に妹を振り落とし……」
美紀子は弓場の言葉を遮った。これ以上聞くに耐えられなかった。
弓場が事実を告げていることはわかった。そうでなければ、これだけ具体的に事件を描写できない。
何よりも、死んだ人間が、弓場の妹であることが、絶対の説得力をもっていた。こんな嘘をつくはずがなかった。弓場をそこへ残したまま、美紀子は顔をおさえて喫茶店を飛びだした。
男と数珠つなぎに虚空《こくう》に吊るされた女が、男によって振り落とされる。その男に自分は、これから生涯を託そうとしていた。恋愛経験のない処女にとって、それは大きすぎるショックだった。
観光三社より申請された許可願いを検討するために、福祉省内に設けられた「槍ケ岳開発計画審議会」は、徐々にその方針を絞りつつあった。
まず当初勢力が伯仲しているかに見えた賛否両論の二派のうち、しだいに許可賛成派のほうが、その勢いを強くしてきた。
「見るレジャー」から「するレジャー」へと積極的に大型化するマスレジャー時代の世相を背景にして、「背広やミニでアルプスの頂上へ」というキャッチフレーズの下に遮二無二《しやにむに》推し進めてくる開発計画は、さながらブルドーザーのような勢いで、自然保護を堅持する反対派を蹂躙《じゆうりん》した。
反対派は、マスコミや各界の有識人あるいは各種文化団体などに働きかけて、執拗に巻き返しをはかったが、貪欲《どんよく》な大資本と、非情な機械文明の怒濤《どとう》のような攻勢の前には、所詮|蟷螂《とうろう》の斧《おの》でしかなかった。
反対派の主張は、まさに正論であった。だれが聞いても自然破壊はよくない。観光開発の名目の下に自然を破壊しつづけていけば、タコが自足を食うように、自然は失われてしまうであろう。
いったん失われた自然を、よみがえらせることは難しい。機械文明が発達すればするほど、人間の自然に対する飢餓感は大きくなる。山の緑、小鳥のさえずり、セルリアンブルーのせせらぎ、万年雪をいただいた峰々、原生林、高山植物の群落、それら自然の息吹《いぶき》に触れることによって、人間は本当の安らぎと、人間らしい情操を取りもどせるのである。
だから自然は保護すべきだ。――まさにそのとおりであった。だが反対派は金をもっていなかった。そしてそれは致命的であった。金の裏づけのない反対は、結局のところ心情的であり、感情論でしかなかった。
反対派が正論として具体的な勢力をもつときは、自然破壊の凄《すさ》まじさを目《ま》のあたりに見せつけられた人々が反省したときである。だがそのときではすでに遅すぎるのだ。ともあれ審議会の大勢は、許可に傾いてきた。しかし三社すべてに許可をあたえることはできない。許可するにしても、それは消極的な許可である。そしてそこに、人間としてのせめてもの良識(良識の残渣《ざんさ》と言うべきかもしれない)を示したつもりだった。
審議会の中で、最も有力になったのは、中台興業である。帝急と西急の計画が、新たに長大なケーブルカーや、ロープウエーを敷設するというのに対して、中台の場合は、上高地までの在来バス路線を、槍ケ岳へ延長しようというものである。
まことに単純な発想であるが、「新設」するよりも、在来のものの「延長」のほうが、自然破壊が少なくてすむように考えられた。
さらに中台案が有力になったのは、延長路線を、申請の原案である「槍ケ岳の肩まで」を、「槍沢の下端まで」に短縮できる弾力性をもっていたことである。
現在でも明神《みようじん》あたりまで小型車がはいる。横尾あたりまで単車ではいれぬこともない。槍沢の下端まででもバスが通じれば、上高地の客をほとんど吸収できる。
それに対して、他二社のケーブルカーやロープウエーを短縮≠オては、利用価値は半減、あるいはほとんどなくなってしまう。
北アルプスのメッカのような上高地を向こうにまわして、観光客を集めるには、やはり「槍ケ岳の頂上まで歩かずに」という切り札が必要であった。帝急と西急は申請に弾力性がなかったのである。
審議会の大勢は、中台案に傾いていたが、議長の門脇秀人がそれに難色を示していた。
その理由として、彼は上高地の凄まじいばかりの俗化を指摘し、もしバス路線を槍沢まで延長すれば、上高地の俗化は、堰《せき》が切れたように速やかに槍・穂高連峰一帯に拡大されると主張した。
中台案を排する彼が、代わりに推したのは、西急案である。
「上高地の集客数と、穂高の飛騨《ひだ》側にあたる蒲田《かまた》川渓谷のそれとでは桁《けた》はずれにちがう。東京、大阪から中央線で直結される上高地と異なり、高山経由ではいらなければならない飛騨側は、どうしてもアプローチが不便で、その分だけ客足にひびく。それに蒲田川渓谷は、すでにわさび平《だいら》までバスがはいり込んでおり、ここから槍ケ岳までロープウエーを敷設しても、工事区間は比較的短くてすむ。ロープウエーが架《か》けられても、飛騨側からはいる人間は知れたものだ。上高地とは比べものにならない。
それに反して帝急案は、まず工事区間が長すぎる。現在バスは大町《おおまち》より七倉《ななくら》まではいっているが、槍ケ岳方面を目ざす登山者は七倉から約十四キロの湯俣《ゆのまた》まで長大な渓谷を高瀬川に沿って四〜五時間も歩いて来る。帝急案はこの湯俣を起点にして東鎌尾根までケーブルカーを敷設するというものだが、それにはまず、湯俣までの交通を開発しなければならない。
ロープウエーの起点まで、すでにバスが来ている西急案と同率には論じられない。蒲田川方面は開発が急テンポで進んでいるが、高瀬川はまだ手つかずである。自然保護と俗化防止の観点から、西急案が最も無難だと考える」と主張した。
大勢は中台案に傾いていたが、議長でもあり、多年この分野で実績を重ねてきた門脇の意見は、審議会にかなりの影響をもち、大勢をくつがえす十分の可能性があった。
[#改ページ]
赤坂アビタシオン801号室
日ざしがだいぶ春めいてきた日曜日の朝、門脇美紀子は、地下鉄|赤坂見附《あかさかみつけ》の駅から渋谷方面へ向かう国道二四六号線を上がっていた。
日曜日なので車が少なく、空気が清々《すがすが》しい。都心とはおもえない蜜《みつ》のような日光が、透明な空気を通して落ちてくる。まだ冬の存在を主張しているような十分な冷たさを含んでいる風すら、いかにも明るくキラリと光るのである。
赤坂見附の交差点は、ちょうど谷底になっていて、渋谷方面へ上がって来るにつれて、向かいの紀尾井《きおい》町方面に建っている高層ホテルがますますせり上がってくるように見える。
幾何学的な高層ビルが林立する麓《ふもと》に、高速道路が巨大な蛇のようにうねっている。いかにも都会的な眺《なが》めだった。
昨年の夏、初めて上高地を訪れて、大自然の巨大な造化に圧倒された美紀子だったが、人間のつくりあげた大都会も、それに劣らないスケールがあるとおもった。人間が、自然をひきちぎり、むしり取って建設した大都会は、公害という形となって、自然からの復讐《ふくしゆう》を受けた。
しかし破壊された自然はもどらぬながらも、日曜日には大都会の排泄物《はいせつぶつ》が例日よりも少なくなるせいか、人工の醜悪な部分が捨象《しやしよう》されて、少なくとも自然の破壊ではなく、変改≠ニ言える程度の人工美が現われるようであった。
坂を上っているうちに、美紀子はうっすらと汗をかいた。卒業式まであといく日もない、三月も末に近い日曜日である。彼女にとって今日が学生生活最後の日曜になる。
と言っても、学校はとうに春休みにはいっているから、改めて日曜という実感はない。日曜日に出かけて来たのは、これから逢う相手の都合のためである。
国井弘は、赤坂のマンションに住んでいた。生花《いけばな》のS会館の裏手にある高級マンションは、とうてい若いサラリーマンの給料で入居できるものではない。
国井の会社が「槍ケ岳ロープウエー建設計画」の担当官庁工作員として彼を派遣するにあたって、彼のために借りてくれたのだ。
霞《かすみ》が関の福祉省までの距離も近く、都心に基地≠もっていたほうが、何かと動きやすいだろうという考慮からである。
冷暖房は各戸温度調節自由なエアロマスター方式、給湯、非常電源装置付き、駐車場も完備しているデラックス版である。
内部は3DKで、日本にはまだ珍しい、家具付きである。独身者には広すぎるスペースに、国井は当然のことのように、悠然《ゆうぜん》と広がっていた。
彼にとっては、住居というよりは、そこが仕事場であった。しかし外見は悠然と見えても、彼の内心はかなりせっぱつまっていた。
彼の給料ほどもある家賃《レント》を出してもらっているからには、それ相応の仕事をしなければならない、だが、このところどうも仕事の雲行きが怪しい。
最初は勢力が伯仲していた三社のうち、村越の中台興業が最近とみに有力になってきた。もし中台に許可が下りて、自分のところがはねつけられたら、なんの面目があって本社に顔を出せよう。
反対派をさまざまに工作して、ともかく福祉省の意向を許可に傾けたのは、ひとえに自分らの働きである。しかしその努力も、許可が自分の会社に下りなければ、まったく水の泡になる。
企業というところは、常に結果だけで評価するところなのだ。
「もし許可が下りなかったら……」
国井は、その結果を想像すると慄然《りつぜん》とする。若手の彼を、社運を賭《か》けた工作の担当に抜擢《ばつてき》してくれた本社幹部の期待を裏切るだけでなく、彼らの信任をいっぺんに失墜《しつつい》し、会社に莫大《ばくだい》な損害をあたえる。
「国井はだめなやつだ」というレッテルを貼《は》られる。そうなったときのサラリーマンの惨《みじ》めさは、救いようがない。
なまじ社内で「若手のやり手」という定評を得ているだけに、失敗したときの反動は凄まじいものがあろう。
唯一の支えは、国井が門脇の支持を得ていることである。国井はそれを得るだけの切り札を握っている。それがあるかぎり、門脇の支持は変わらないだろう。門脇の娘、美紀子が、三人の中で最も彼に傾いているのは、明らかである。
大勢が中台案に傾きかかっているときに、門脇のバックアップは、国井にとって唯一の、そして最後の頼みの綱であった。唯一ではあっても、国立公園局長の門脇が支持しているのである。中台案になんらかの欠陥が発見されるか、あるいは微妙な力関係の推移によって、一挙に西急案が主流になる可能性もある。
それだけに国井としては、一歩も退《ひ》けないところであった。この際ますます門脇の支持を強め、彼の娘をがっちりと自分のそばへ引きつけておかなければならない。
そのような仕事の上の打算を除いても、国井は美紀子に惹《ひ》かれていた。最初のアプローチの段階で打算が働いていたことは、事実である。
だが、彼女に近づけば近づくほどに、女としての魅力に、打算を忘れて夢中になってきた。もはや国井は、美紀子以外の女は考えられないくらいに逆上《のぼ》せていた。
二十八歳の今日まで、女との交渉がなかったとは言わない。エリートの仮面の下で、会社から離れれば、かなり派手な私生活を愉《たの》しんだものである。
その彼が、高校生がいちずに女学生を恋するように、美紀子に夢中になってしまった。そしてまずいことに弓場と村越にも、同じような現象がおこっているらしいのだ。
いちずに、といっても、社会の汚濁をたっぷりとなすりつけた彼らだったから、美紀子を偶像視することはない。「性器をもった女体」として、生臭い欲望をもちながら接近していた。
だがその欲望の生臭さが、ほかの女では代替がきかないのだ。突きつめてみれば、その構造の唯物的な感覚だけにしかすぎないものを、絶対無二のものとしてみつめてしまったのである。
彼らは美紀子の構造を知っているわけではない。具体的な構造は、要するに知るまでのことである。そんなことは十分承知していた。
それでいながら、美紀子でなければならなかった。そこに国井らの、美紀子を構造だけの女体とみないロマンチシズムがある。そしてそれはやはり一種の偶像化であった。
国井は焦った。美紀子に対して弓場と村越よりも一歩先んじていることは確かだった。だがそんな一歩などわけもなく追い抜かれることも、よく知っている。
なんとしても、彼らとの間に決定的な差をつけたい。だが国井がどんなに焦っても、美紀子は微妙なところで最後のものを許そうとしない。また美紀子の意志を門脇の支持によってどうすることもできない。
いったん既成事実さえつくってしまえば、女はどのような鋳型《いがた》にもはめこめるのだが、彼女は、国井がどんなに巧妙に誘っても、危険を感ずる環境には近づかなかった。
国井の焦りが最高になったとき、突然美紀子のほうから逢いたいと言ってきた。国井はおもいきって自分のマンションへ来ないかと誘った。
断わるとばかりおもった美紀子が、なんとオーケーしたのである。国井は舌なめずりをした。いよいよカモが飛び込んで来た。このチャンスを逃がすという手はない。
ところが国井は早合点をしていた。美紀子はそんなつもりで彼のマンションへ来たのではなかった。
弓場からおもいがけない事実を聞かされたために、どこででもいいから、とにかく国井を問いつめて、ことの真偽をはっきりさせたかったのである。
ショックで動転していた美紀子は、日頃《ひごろ》の警戒本能も忘れて、国井がマンションへ呼び寄せた下心を見ぬけなかった。
国井のマンションは、地上十階建の鉄筋コンクリートのデラックスホテル並みの建物である。
国井の部屋は、801号室である。美紀子はここを訪れるのは初めてであるが、場所は彼からあらかじめよく聞いていた。
S会館から左へ折れた美紀子は、青山一丁目の駅から来たほうが近かったかもしれないとおもった。
しかし国井は最寄《もよ》り駅として、赤坂見附をおしえたのだ。管理人室らしいものは、特に見当たらなかった。部屋番号がわかっているので、美紀子はエレベーターに乗り込んだ。
八階でケージから下りて、番号を頼りに廊下を伝って行く。どうやら、廊下のはずれの南側に面した部屋らしい。日曜の朝、それも、そろそろ十一時になろうとしているのに、廊下にはまったく人影がなかった。
規格的なスチールドアが、閉じられた貝の蓋《ふた》のように並んでいる無人の廊下は、この建物全体にまったく住人がいないかのような無気味な静寂を造りだしている。
ドアの内側にも人声は聞こえない。
「子供はいないのかしら?」
美紀子は廊下を歩きながら不思議におもった。造りは高層団地と同じだが、この無気味なまでの静寂はまさしくマンションのものだとおもった。
彼女は、団地もマンションも知らない。それでいながら、そのちがいをここに来て実感していた。
団地はもっと賑《にぎ》やかで、住人の生活の体臭があるように感じた。子供が泣き、騒ぎ、住人の匂《にお》いや音が、ドアや窓を越えて外へあふれ出ている。
それに対して、マンションは、完全に閉じこもっている。立地環境によるものであろうが、自然の恵みを十分に取り入れている団地とちがって、スモッグや騒音を閉め出し、外部の影響から生活を完全に遮断《しやだん》した、しめきった部屋の中に、人工の住みよい空間を造りだそうとしている。
だから外部は、彼らの生活にとって、あくまでも無関係なのである。外に何が起ころうと、隣にだれが住もうと、まったく関係ない。それが廊下の無気味な静寂を造りだしているのだ。
それは内部と遮断された静寂であった。
「もしいま私がここでだれかに襲われても、だれも助けに来てくれないかもしれない」
美紀子は、ふと背すじに冷たいものを覚えた。彼女は自然に急ぎ足になった。801号室は、廊下のいちばんはずれにあった。
ドアの上にかかっている「国井弘」という名札を見いだして、美紀子はホッとした。
暗い夜道から、ようやく明るい町並みの中へ出たような気がした。一呼吸してから、ブザーを押す。
ドアは、待ちかねたように内部から開かれた。――いや、開かれるはずであった。いっこうに反応のないドアに、美紀子は肩すかしをくったように感じて、もう一度ブザーを押した。
しばらく待ったが、ドアはシンと閉ざされたままである。内部に人の動く気配さえ起こらない。
「まだ寝ているのかしら?」
美紀子は眉をしかめた。腕時計を覗《のぞ》く。午前十一時をまわっている。彼女はおもしろくなかった。自分がこの時間に来ることは、わかっている。留守《るす》ということはあるまい。
「まだ寝ているなんて、許せないわ」
美紀子は、美しい女が共通にもつプライドをいたく傷つけられたような気がした。
「このまま帰ってしまおうかしら」
とおもった。かつて男のクラスメートと喫茶店で待ち合わせたとき、五分遅れて来た相手を待たなかったことがある。
しかしノンセクシュアルのその級友と、唇だけではあっても、とにかくそれを許した国井とはちがう。それに今日の訪問の目的は、彼を問いつめることにある。甘いデートではなかった。
もう一度ブザーを押そうとして、美紀子は試みにドアの握りに手をやった。なんと、鍵はかかっていなかった。
「まあ!」
なんの抵抗もなく開いたドアの前で、彼女は立ちすくんだ。
「何か買い物にでもちょっと出たのかしら? それにしても無用心な」
美紀子はおずおずと室内へ足を踏み入れた。鍵をかけずに出て行ったくらいであるから、すぐに帰って来ることはわかっていたが、それまで遮断された§L下で待っているのはいやだった。
国井は、室内で待っているようにという心づもりから、鍵をかけずにいったのかもしれない。
中へはいると、覚えのある国井の体臭がこもっていた。それはまぎれもなく国井の部屋であった。
「国井さん、私よ、美紀子よ」
美紀子は玄関の三和土《たたき》に立っていちおう声をかけた。しかしやはり室内に彼のいる気配はなかった。三和土から小さなホールへつづき、その奥にダイニングキッチンや居間があるらしい。
美紀子は靴を脱いでホールへ上がった。ホールの真正面にダイニングキッチンがあった。テーブルと椅子が二脚、テーブルの上にはいかにも独身者らしく、ウイスキーのびんやら、つまみ物の残りなどが乱雑に散らばっている。
ダイニングキッチンの右手が、居間になっているらしい。洋間で、国井の趣味なのか、民芸調の藁《わら》マットが敷きつめられてある。
「あら!」
彼女は居間のほうを見て、声をあげた。間仕切りのアコーデオンドアが半開きになっていたが、そのかげから靴下を穿《は》いた男の脚が覗いている。
「まあ、こんなところに寝ていたんだわ」
居間はテラスに面していて、日当たりがよい。きっと日光浴でもしているうちに、いい気持ちになって、眠り込んでしまったのだろう。
――それにしても――
と美紀子は急に腹が立ってきた。
「うんととっちめてやるわ」
気負い込んで、居間へ足を踏み入れた美紀子は、その場に硬直した。驚愕《きようがく》のあまりハンドバッグが手から落ちた。
彼女の視野にその全体を晒《さら》した国井は、凄惨《せいさん》な様相を呈していた。
まず目に飛び込んできたのは、血だらけになった彼の胸である。白いワイシャツ姿だったために、その血の色はシャープに映った。
明るい朝の陽《ひ》に晒されて、胸を流れた血液は、すでに凝固していたはずであるが、彼女の目には、それはまぎれもなく、赤い色として映った。胸から流れ落ちた血液は、藁マットの上にドロリとした澱《よど》みをつくって、惨劇のリアリティを訴えている。
美紀子にとって、これだけ見れば十分だった。
彼女はその場に悲鳴をあげることも忘れて立ちすくんだ。何か叫びたくても、口がぱくぱくするだけで声が出ない。
悲鳴よりも行動が先にきた。彼女はいまはいって来たばかりのドアへ向かって、猛烈な勢いで逃げだした。廊下へ出ると、ちょうど部屋から出て来た人があった。
「た、す、け、て」
彼女はこのとき初めて、体の芯から振り絞るような声を出した。
「いったいどうしたんです」
車の鍵をぐるぐるまわしながら、エレベーターのほうへ向かおうとしていたその男は、びっくりしたような視線を、美紀子へ向けた。
しかし、まさか殺人がおこったとはおもわないから、その態度にはのんびりしたものがある。むしろ好奇心のほうが彼を支配しているようであった。
マンションの一室からいきなり飛び出して来た若い娘に、彼は変な想像をしたらしい。
「大変です、し、死んでいます」
「死んでる?」
「殺されてるんです」
「まさか!」
男の顔色が変わった。それでもまだ半信半疑の様子である。
「本当です。国井さんが、国井さんが殺されている」
美紀子の様子に、ようやくただごとでないと悟った男は、
「国井さんって、どの部屋なんです?」
同じマンションの同じ階に住みながら、国井を知らないらしい。
「801号室です。とにかく警察を呼んでください!」
ようやく廊下の騒ぎを聞きつけた住人たちが、ドアからおずおずと首を覗かせだした。外部を遮断している彼らだったが、人が殺されていると聞いては、閉じこもってばかりはいられない。
さりとてかかり合いになるのもいやだった。彼らの表情は、いずれも恐いもの見たさの弥次馬のものである。
それでもその男を先頭に、二、三人の男たちが美紀子に尾《つ》いて来てくれた。
「本当だ。殺されている」
「警察を呼べ!」
半信半疑だった彼らも騒ぎだした。
静かだった日曜日の朝のマンションは、たちまち刑事や鑑識課員であふれかえった。所轄の赤坂署は、ほんの目と鼻の距離であり、本庁もすぐそばである。
いわば警察のお膝元《ひざもと》≠ナ発生した事件であった。型どおりに現場観察が進められた。
国井の創傷は、左胸部に一か所、背面右側胸部に一か所の二か所である。被害者が白いワイシャツを着ていたので、視覚には凄惨に映ったが、心臓がショックで圧挫《あつざ》されたらしく、出血量は大したことはなかった。特に左胸部の傷は深く、心臓を穿通《せんつう》している模様だった。創傷の部位および程度から、自殺は考えられなかった。それに現場とその周辺の丹念な検索にもかかわらず、凶器が発見されなかったのである。
どちらの傷が最初に形成されたのか、外表からの観察ではわからなかった。被害者に抵抗した様子が見られないところから、即死、あるいは即死に近い状態だったとおもわれた。鑑識は死斑《しはん》や死後硬直の状態などから死後八〜十時間経過したものといちおうの推定を下した。
現場は港区赤坂四丁目にある高級マンション「赤坂アビタシオン」八階の801号室である。被害者の発見された部屋は、南側のテラスに面した洋間で、被害者はそこを居間兼寝室に使用していた。
室内には荒らされた様子もなければ、物色の痕跡もない。テラスに面したガラス戸、およびその他の窓はすべて内側から鍵がかかっているところから、犯人は訪問者として、廊下側の玄関ドアから侵《はい》って来たものと考えられた。
このことからも犯人は「鑑《かん》」のある者、つまり被害者との間になんらかの形でつながりをもっている者と推定されたのである。屋内の強殺事件はほとんどの場合、カンがあるとされている。
犯人はごく普通の訪問者を装って被害者を訪れた。被害者も知っている人間なので、室内へ迎え入れる。犯人は隙《すき》をみて、隠しもった凶器で被害者を刺す。まず一撃を加え、つづいて止《とど》めのために第二撃をふるう。
創傷の情況から、犯人はあまり返り血を浴びていないと判断される。被害者の息が絶えたのを確認してから、犯人は悠々と逃走した。――犯人の余裕を示すように、綿密な検索にもかかわらず、対照価値のある遺留指紋や、犯人の手がかりになるような遺留品は何一つ採取発見できなかった。
所轄署が現場と目と鼻の先であったことや、駆けつけたマンションの住人がかかり合いになるのを惧《おそ》れて、現場を荒らさなかったことなどに助けられて、現場はほとんど原形に近い状態で保存されていた。
犯罪現場は、その犯罪に対する捜査や公訴の提起、維持に大きな影響力のある有形無形の資料の宝庫である。これらは捜査過程において残りなく発見|蒐集《しゆうしゆう》されなければならない。だが、犯罪発生以後、時間の経過による自然的変化や、犯人の作為、あるいは発見者や弥次馬の不注意によって、原形が変更破壊され、その資料価値を次第に減少し、ついにはまったく無価値になってしまう。
これほど重要な犯罪現場が、都会人の自衛的な他人のことへの無干渉主義によって保たれたというのは、いかにも皮肉であった。
鑑識係は、せっかく完璧に近い形で保存された現場から、指紋がなければ、せめて犯人に関係のあるような遺留品や参考物を見つけようと、室内をしらみつぶしに探したのだが、結局、何一つ発見できなかったのである。
門脇美紀子は、事件の第一発見者として、当然厳しく事情を聞かれた。取調べを担当したのは、那須《なす》警部である。
「あなたと国井さんとの間柄を、さしつかえない範囲でお聞かせくださいませんか」
那須は、相手がうら若い女性であるうえに、福祉省の要職にある人間の娘と知って、言葉|遣《づか》いを慎重にした。相手の身分によって特に差をつけるつもりはないが、事件の性質や態様に応じて、相手がその事件に対して置かれている立場や、被害者に抱いている感情を正しく理解し、相手の身分や性格などを十分考慮して、取調べの態度と方法に工夫をこらさなければならない。
まして相手が高官の娘となると、ちょっとした取調べ上のミスや欠陥をついて、父親がどんな雑音を入れてくるかわからない。無駄な雑音はできるだけ避けるにこしたことはなかった。
「友人です」
美紀子は素直に答えた。目の表情の美しい娘だと那須はおもった。
「友人と言ってもいろいろありますが、どの程度のご友人ですか?」
那須は、怒るかなとおもったが、おもいきって突っ込んで聞いた。これはどうしても聞かなければならないことである。たとえ昼間とはいえ、独身の若い男のマンションへ一人で訪れて来るからには、かなり親しい仲の友人とおもわれてもしかたがない。
「国井さんは私にプロポーズしておりました」
美紀子は悪びれずに答えた。
「するとご婚約をしていたわけですな」
「いいえ、まだはっきりとプロポーズを承諾してはおりませんでした。でも承諾してもよいと考えていた矢先に……」
美紀子は言葉をつまらせて、唇を震わせた。死体を発見したときの模様をおもいだしたらしい。
「いやなことをおもいださせてすみませんが、あなたが国井さんの殺されているのを見つけたときの様子を、できるだけ詳しく話してください」
那須は質問の核心にはいった。
「マンション殺人事件」の捜査本部が赤坂署に設置された。本部に投入されたのは、警視庁捜査一課強行犯捜査グループ殺し担当≠フ第四係那須警部以下十名の刑事と、本庁からの機動捜査班、および所轄署の刑事を含めて、三十余名である。
那須警部らが中核となって現場を調べた結果、刑事用語で「濃鑑《のうかん》」と呼ぶ、被害者と親しかった者が、最も有力な犯人像として浮かび上がった。
ついで「薄鑑」と言われる、被害者と直接面識はないが、なんらかの形でつながりのある者、および三番目として流し≠フ犯行という三つの仮説が立てられた。
捜査本部の刑事たちは、二人一組になって、これらの仮説を追って精力的な聞込みをはじめた。各コンビは、地取り捜査と言われる現場を中心とした捜査と、土地鑑と言われる犯人と犯行地のつながりを洗う捜査および、識鑑と呼ばれる被害者と犯人の人間関係を追う捜査に、それぞれ分担が決められた。
捜査本部が開設されると同時に開かれた捜査会議においては、初期捜査結果の総合検討、各刑事の捜査分担および、捜査一課長の訓示が行なわれた。
翌朝八時には本部に勢ぞろいした各刑事は、資料に目を通し、今日の捜査計画を立てたうえで、那須警部のゲキを受けて、いっせいに本部から飛び出して行った。いよいよ本格的な捜査が展開されたのである。
その日の午後、刑事たちが各方面において聞込みをつづけている最中、解剖の結果が出た。
それによると、被害者の死亡推定時間は鑑識の第一所見のとおり、一昨夜すなわち三月二十二日午前二時から一時間のあいだと鑑定された。
致命傷は心臓部の損傷である。刃渡りの長い切っ先の尖鋭《せんえい》な鋭器で心臓を穿通されている。第一衝撃によって心臓が瞬間的に圧挫されたと見えて出血は少ない。
背面からの刺創は、右肺下葉を損傷している。鑑定意見は、どちらの傷が先に形成されてもさしつかえないと慎重に断定を避けていた。つまり解剖によっても、二つの創傷の形成順序はわからないということである。
その日の夕方、刑事たちがそれぞれの捜査から本部へもどって来るのを待って捜査会議が開かれた。今日一日の捜査の収穫がそこで披露され、総合的に検討されるわけである。
薄鑑と流しの仮説を追った刑事たちには、なんの収穫もなかった。二つの仮説がますますその可能性をうすくした中で、犯人濃鑑説に立って追及した、本庁組の河西《かさい》、草場《くさば》刑事のコンビが、有力な情報をもたらした。
「草場君、何かつかんだようだね」
草場組の顔色から、何か収穫があるなとにらんだ那須警部に指名されて、まず草場刑事が立ち上がった。もともと彼らが分担した捜査は、最も有力なセンとされていたのである。フランスの喜劇俳優に似たこの刑事は、とぼけた風貌《ふうぼう》ながら、無類の聞き上手で、聞込みの名手として那須班の有力な戦力になっている。
「われわれはまず門脇美紀子のセンから洗いました」
識鑑の捜査は、ほぼ定石化されている。鑑どりの方法は、まず被害者の家族、親戚《しんせき》、知人関係からの聞込み、被害者の日記・メモ類の調査、出生地、前住所地等における聞込み、近隣、出入り商人などからの聞込みというふうに「鑑を洗って」いくわけである。
事件の第一発見者である門脇美紀子は、被害者との関係を「単なる友人」だと供述した。
もちろん捜査本部では、そんなロマンチックな供述を信じない。美紀子を直接当たった那須警部は、彼女の様子からその言葉を信じてもよさそうだとはおもったが、何せフリーセックス世相の現代娘である。
外観だけで信用するのは危険であった。
むしろ婚約寸前まで行った男女の間に、肉体的な関係があったと考えるほうが、自然である。
しかしそうだとすれば、門脇美紀子をめぐって何かありそうだった。那須は若いころ結核を患《わずら》い、肋骨《ろつこつ》を数本切除したために、片一方の肩が吊り上がってしまった。痩身《そうしん》で、凹《くぼ》んだ眼窩《がんか》の底に光る目は鋭いが、男としてはなんとなく乾上《ひあ》がってしまったような感じである。
そんな那須の目にも、美紀子は十分魅力的な女に見えたのだから、彼女をめぐって若い男たちの軋轢《あつれき》を考えるのは、警察官ならずとも当然である。
最も濃厚なセンを追った草場と河西は、案の定、何か大きな獲物《えもの》をくわえて来たらしい。
参座していた全員が身を乗り出すようにした。
「門脇美紀子を、被害者と張り合っていた男が、他にも二人いたことがわかりました」
それは当然予期していたことでもあるが、会議場にざわめきが起きる。
「一人は弓場久彦という男で、帝急の社員です」
「もう一人は?」
待ち切れずに那須がうながした。
「もう一人は、村越順也といい、名古屋に本社がある中台興業という大手バス会社の社員です」
「その村越というのも東京にいるのか?」
「おります。やはり中野のほうにあるマンションに一人で住んでおります」
「弓場は?」
「これは笹塚《ささづか》にある帝急の独身寮に住んでます」
「二人とも独身というわけだな」
「はい。しかし重要なのは、そんなことではありません」
「何かほかにあるのか?」
那須の目がますます強く光ってきた。ここで草場は、被害者と弓場と村越の三人が、槍ケ岳開発許可申請をめぐって、観光三社がそれぞれに編成したプロジェクトチームの主力担当工作員として、たがいに鎬《しのぎ》をけずっていた事実を報告した。
「すると、三社の中で最も有力だったのは、村越の中台興業で、ついで被害者の西急が、門脇局長の支持を得ていたというわけだな」
「そうです。門脇の娘には、殺された国井が最も接近していたようです。そのために門脇が国井の会社を支持していた情況が強い」
「すると三人の男たちは仕事のさや当てに、恋のさや当てが重なっていたということになる」
「それだけじゃないんです。河西刑事が、門脇美紀子から、もっと驚くべき事実を聞きだしました」
「驚くべき事実?」
那須はぎょろりと剥《む》いた目を河西のほうへ転じた。河西が草場に代わって立ち上がった。こちらはどう見ても捜一係の殺し担当の刑事には見えない。どんなときにも背広の下のボタンまでかけているような実直な銀行員タイプである。
彼は全員の注視を浴びて身をすくめるようにして、
「実は国井は、弓場の妹を殺したのだそうです」
「国井が殺した!?」
さっき以上のざわめきが起きた。殺したとは穏やかでない。
「故意の殺人かどうかはっきりわかりませんが、国井に見殺しにされたという情況なのです」
河西は門脇美紀子から伝聞した、高層ホテルの火災で弓場の妹が国井に見殺しにされたという話をした。
「門脇美紀子は、どうしてそんなことを知っているのかね?」
那須班の最古参である山路《やまじ》部長刑事が聞いた。すでに四十を越えているが、まだ二十代の童顔である。ちんまりまとまった顔の真ん中に、これまたちんまりまとまった目鼻があり、鼻の下にいつも汗をかいている。
この汗が彼のトレードマークで、犬のように鼻の下が濡《ぬ》れているときは、彼の体調のよい証拠だった。
「弓場自身の口から聞いたということです。きっと国井に傾きかかった美紀子の気持ちを引きもどすために話したのでしょう」
「本当だろうか?」
山路は半信半疑の表情だった。
「いずれ弓場に当たりますが、いくらライバルを排除するためでも、まさかそんな悪質なデマは言わないでしょう」
「すると強力な動機があることになる」
「恋と仕事のライバルであるうえに、妹を殺された怨《うら》みが重なっております」
「しかし門脇美紀子は、おれにはそんな話をしなかったぞ」
那須が不満そうにぎょろ目を光らせた。昨日、彼が第一発見者として彼女を取り調べたときは、事件発見当時の模様と、国井との関係を供述しただけである。
「おそらく河西君が信用できたからなんでしょう」
「なんだ、それじゃあ、おれがいかにも信用ならないようじゃないか」
「いや、べつにそういう意味じゃありません。ただ係長のほうがちょっとおっかなかったんでしょう」
「同じことだよ、どうせおれは若い女むきじゃない」
那須が、山路のいささか慌てた口調の弁明に不満そうに鼻を鳴らしたので、硬《かた》い雰囲気だった一座が、どっと沸いた。おかげで空気がだいぶ解《ほぐ》れた。
「とにかく弓場という男には強力な動機がありますね」
山路に次ぐ古参の横渡《よこわたり》刑事が言った。顔が猿に似ているので猿面《さるめん》刑事の別名がある。なかなかこわもてのする刑事である。
「しかし、村越もはずせません」
つづいて下田刑事が発言した。
昨年、都心で起きた超高層ホテルの殺人事件で示した手腕をかわれて、花の警視庁入りをし、那須班へスカウトされた若手刑事である。目と唇のしまった意志的な顔をしている。
「弓場ほど強くありませんが、まず美紀子をめぐるせり合いがある。次に、福祉省の大勢が自分の社に傾いているとはいうものの、局長の門脇が国井を支持しているために、どうひっくりかえされるかわからない。ここで国井を消してしまえば、福祉省の大勢はゆるぎないものになるだろうし、美紀子に対する最も手強《てごわ》いライバルもいなくなります」
「美紀子をめぐるライバル関係はとにかくとして、国井を消したからといって、門脇の意見が変わるとは限らないじゃないか?」
と疑問を出したのは、一昨年、東京空港内で発生した密室殺人事件で手腕を見せて、那須班にスカウトされた辻《つじ》刑事である。下田の一年先輩にあたる。
「門脇が西急をバックアップしているのは、多分に、国井と美紀子のつながりを意識しているとおもいます。もし門脇に、娘を国井と結婚させようという肚《はら》があれば、いずれは婿になる男の会社を支持したくなるんじゃないでしょうか?」
下田の意見も、辻の疑問も、あくまでも推測である。門脇の周辺をもっと深く探らないことには、確たる答えは出せない。だがいずれにしても、村越も、弓場に次ぐ動機保有者として捜査の対象から決して外《はず》すことのできない人間であった。
――弓場と村越を当たれ――
その日の会議の結論がようやく出た。
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黙秘のアリバイ
弓場久彦の会社は、新宿の「帝急ビル」にある。新宿副都心計画のトップバッターとしてまっ先に建設された十五階建の高層ビルで、ここに帝急の本社をはじめ、帝急|傘下《さんか》の関連企業群がすべてはいっている。
弓場に当たることになったのは、横渡と下田刑事のコンビである。受付に刺を通じると、豪華ホテル並みの応接室へ通された。待つ間もなく弓場が出て来た。
「弓場です、私に何か?」
長身|痩《や》せ型の彼は、顔も細く尖《とが》っていて、いかにも鋭い感じであった。だがその目の光はきょときょととして落ち着きがない。
刑事は今日予告せずに訪れた。だが、彼の様子を見ると、刑事の訪問をあらかじめ予期していたようである。
国井弘が殺されて、当然自分に嫌疑《けんぎ》がかかることを避けられないと覚悟していたのであろうか。それならそれで当たりやすいとおもった。
「もうすでにご存じとおもいますので、率直におうかがいいたします。国井弘さんが殺された件について、いくつかおたずねしたいことがあります」
「国井とは、大学で同期でした。まさか、彼が殺されるなんて、夢にもおもっていなかったので、ひじょうにショックでした」
その表情には、まんざら芝居でもなさそうな真情があった。だが、何かにおびえているような態度には後ろ暗いものを感じさせる。
「単なる同期というだけでなく、ワンダーフォーゲル部でごいっしょでしたな」
横渡は探りを一歩進めた。弓場は、もうそこまで調べたのかというような表情でしかたなくうなずいた。
「率直に申し上げるなら、この事件に関してあなたはひじょうに複雑な立場に立っています。つまりあなたはいろいろな意味から国井さんに対して動機をもっている」
「ぼくを疑っているんですか!?」
弓場が蒼白《そうはく》になって問い返した。
「はっきり言って、そのとおりです。だからあなたも、疑いを晴らしたいとおもったら、これからわれわれのたずねることに正直に答えてください」
「わかりました。なんでも聞いてください」
弓場は唇《くちびる》をかみしめてうつむいた。その様子には、なんでも聞いてくれと言いながら、聞かれては困る何かをかかえている消極さがあった。
横渡は次第に強まる手応《てごた》えを感じていた。
「それではうかがいますが、三月二十二日、つまりおとといの午前二時から三時までの間、どこにいましたか?」
「おとといの午前二時から三時……」
口の中で反復した弓場は、ますますうつむきの傾斜を強めた。
「説明するまでもなく、国井さんの殺された時間帯です。つまりあなたのアリバイが聞きたい」
「――――」
「どうしました? おっしゃってください」
「――――」
「これさえはっきりすればあなたの疑いは晴れます。われわれの役目は事件の真相を発見することにある。無辜《むこ》の人にぬれ衣《ぎぬ》を着せるようなことのないように、事件関係者には隠しだてすることなく、事実を語ってもらいたいのです」
「その時間には、ある人と、ある場所にいました」
うつむいていた弓場が、苦しそうに面を上げた。熱くもないのに、額にびっしょりと汗を浮かべている。
「ある人と、ある場所に? そのある人はだれですか? その場所はどこですか?」
「そ、それは申し上げられないのです」
「弓場さん!」
横渡は、ドンと目の前の卓子《テーブル》を叩《たた》いた。
「そんな答えでわれわれが満足するとおもってるのですか?」
「本当です。ぼくはその時間、ずっとその人といたのだ。ぼくは殺してなんかいない」
弓場はあえぎながら必死に言った。
「弓場さん、あなたは自分の危険な立場が少しもわかっていないらしい。本当のことを言えば、あなたは身柄を抱束される寸前まできているんだ。そんないいかげんな申し立てで逃げられるとおもってるのか!」
横渡は声の調子を強めた。
「どうしてぼくが、そんなことを答えなければならんのだ!?」
弓場は追いつめられて、開きなおった。
「われわれの口から話させたいのかね。あなたは、門脇美紀子さんを国井氏と張り合っていた。仕事の上でもライバルだった」
「馬鹿馬鹿しい! そんなことで友人を殺すものか」
「果たしてそうかな? 女と仕事の軋轢《あつれき》がからんでいれば、十分の動機になるとおもうがね」
「それはおれだけじゃない。村越……中台興業の村越順也という男だって、同じ立場にいるはずだ」
「それを、われわれが知らないとでもおもっているのかね。村越のほうにも、われわれの仲間が行って当たっているよ。だがあんたは村越よりもクロいのだ」
弓場の体にビクッと震えが走った。
「われわれは、あんたの妹のことを知っている。あんたは、仕事や女のせり合いのほかに、もう一つ大きな怨《うら》みを国井氏に含んでいた」
「そんなこと関係ない!」
「関係ないどころか、大いにある。被害者に対して、三重もの動機をもっている人間が、事件の起きた時間帯に、ある人とある場所にいただけで通るとおもってるのか!?」
横渡はこわもて刑事の本性をあらわした。だが、弓場はどこへも逃げ場がないまでに追いつめられながら、頑強《がんきよう》に、最初の供述を固執した。
一方、村越順也を当たったのは、山路と辻のコンビである。中台興業の東京支社は、神田司町《かんだつかさちよう》の貸ビルに間借りしている。間借りとはいえ、八階建の堂々たるビルの三階から五階まで借り切っている。
弓場を訪ねた横渡組と同じに予告なしでやって来た刑事は、折りあしく村越が外出していたためにしばらく待たされる羽目になった。待つことには、張込みで馴《な》れている。それに間もなく帰って来ることがわかっているのだから、苦にならなかった。
一時間ほどして村越は現われた。エリートタイプのビジネスマンを予想していた二人の刑事は、村越が案外平凡な目立たない男だったのにちょっと拍子抜《ひようしぬ》けがした。
実直な様子は、同じ班の河西刑事に似たところがある。だが河西の実直は、先天的な性格によるものだったが、村越のは、なんとなく職業的に訓練をしたような感じである。
そんな点から二人の刑事は、相手の一見まじめサラリーマン風の態度に騙《だま》されてはならないとみずからを戒めた。村越は刑事の名刺を渡されても、特に動じた様子は見えない。素朴なのか、したたかなのか、外から見ただけではわからなかった。
質問は山路刑事から、直線的にはじめられた。
「――というわけで、関係者にはすべて聞いていることなので、ご協力いただきたい。さっそくですが、日曜日、二十二日の午前二時ごろから三時までの間、どちらにおられましたか?」
「おとといの午前二時ですか?」
村越は茫洋《ぼうよう》たる目つきをした。何を考えているのかわからない。感情を皮膚の下に閉じこめて、表情を面に顕《あら》わさないこの男は、まじめの仮面の下に、何やら、したたかなものをかかえているようでもある。
「あの日は日曜の朝、といってもまだ夜中ですが、とにかく日曜日でしたね。土曜日午後から、最近仕入れた新車の試乗がてら、箱根のほうへドライブに行きました」
「それでは箱根へ泊まったんですか?」
「いいえ、厚木《あつぎ》に、高校時代の後輩が住んでおりましてね、一泊しました」
「すると二十二日の午前二時から三時までは、その友人の家にいたわけですか?」
「そうです。ちょっと箱根でゆっくりしすぎましてね、友人のところへ着いたのが、ちょうど午前二時ごろでした。そのままそこへ一泊、いや半泊したのです」
「午前二時に着いたのですか?」
山路は、きな臭そうな顔になった。
「はい」
「友人の家を訪問するにはずいぶん半端な時間ですな」
山路の口調《くちよう》は皮肉っぽくなった。凶行時間帯のはじまる午前二時に、友人の家に着いたということに、なんとなく胡散臭《うさんくさ》いものを感じたのである。
「土曜日の晩でもあるし、どうせ、チョンガーですからね。おたがいに気のおけない仲なのです」
「その友人の名前は?」
「石井昇といいます。厚木市郊外にある共栄自動車部品に勤めていて、すぐそばの公団住宅に住んでいます」
「住所は?」
「厚木市緑ケ丘四の二の41号です」
「電話はありますか?」山路の口調は、つい訊問調《じんもんちよう》になったが、村越は気にする様子もない。
「〇四六二‐二一‐八七八×です」
「その石井氏の家には突然行ったのですか?」
「金曜日に彼の会社のほうへ電話して、もしかしたら土曜の夜寄るかもしれないと言っておきました」
「石井氏の家へは、よく行くのですか?」
「半年ほど前、会社のバス旅行で浜名湖へ行った帰りに寄りました。でも石井のほうから一か月に一度くらいの割りで、私のアパートへ遊びに来ました」
村越の答えにはまったく澱《よど》みがなかった。さすが老練の山路もつけ入る隙《すき》がない。もし村越の供述が正しければ、彼は犯人にはなり得ない。
都心の赤坂のマンションで午前二時から三時の間に殺人を行なった人間が、同じ午前二時に、そこから四十キロも離れた厚木の郊外へ姿を現わせるはずがないのである。
「問題は石井とかいう友人だな」
中台興業からの帰途、山路は言った。
「石井が村越と同じ穴のムジナだったら、一時間や二時間のずれは簡単に偽証してくれますからね。東京から東名高速を通って厚木まで、深夜ならば、せいぜい一時間足らず(作者注、当時、東名高速に首都高速は連絡していなかった)です。その一時間を証人が偽証してくれれば、村越のアリバイは成り立ちます」
「とにかく石井を当たってみよう」
二人は、その足で厚木へ行くことにした。厚木へは、新宿から小田急が通じている。新宿から急行で約四十五分である。
無駄足になってもつまらないので、公衆電話で共栄自動車部品に連絡を取り、石井が在社していることをたしかめた。
通勤時間帯からはずれていたので、電車は空いていた。相模川《さがみがわ》を渡り、丹沢《たんざわ》の一角である大山がグンと近づいたところに厚木の町はある。
共栄自動車には、さらにバスで十分ほど山のほうへはいらなければならない。折りよくバスはすぐに来た。市街地をはずれると、丘陵をのぼり、山の眺めがいちだんと迫ったところに、広々とした用地をめぐらせて、共栄自動車の厚木工場はあった。
受付で、石井に面会を申し込む。相手の立場を考えて、ただ名前だけを告げる。待つ間もなく、腕に黒い袖《そで》カバーをつけた男が出て来た。工員ではなく、何か事務でもやっているらしい。けげんそうな顔をして、山路たちのほうをうかがった。先刻電話をしたときは、彼がいることを確かめただけで、アポイントメントを取ったわけではない。
「石井さんですね、警視庁の山路です」
山路が名乗ったので、相手はギョッとした表情になった。だれでもいきなり刑事に訪問されると、そんな顔つきをするものである。
「突然おじゃましてすみません。おうかがいしたいことがありましてね」
相手の緊張を解《ほぐ》すように、山路が努めて柔らかく言った。
「いったいなんでしょう?」
石井は、かたい身構えを解かなかった。村越の後輩というから、まだ二十代のはずであるが、すでに三十代後半にかかっているように、老《ふ》けた感じの男である。髪がもしゃもしゃで、顔にしわが多い。腕の袖カバーがひどく貧乏くさくて、彼のじじむささをよけいに助長している。
「ついこの前の土曜日の夜ですがね、いや日曜日の朝のことですが、午前二時ごろ、中台興業の村越さんがあなたの家に来ませんでしたか?」
「土曜日の夜? ああ、来ましたよ。真夜中の二時にいきなりやって来ましてね、たたき起こされました」
「いきなりですか? 村越さんは金曜日に、土曜に寄ると連絡したと言ってましたが」
「いつもそうなんですよ。来る来ると予告ばかりしていて来たことがない。だからあの日もどうせ予告編だけだろうとおもって、十時ごろには寝てしまいました。ぼくは夜ふかしは弱いのです」
石井がどこへも案内してくれないので、その場の立ち話になった。山路には石井の生活内容がわかるような気がした。きっと会社で経理の帳簿か何かをつけているこの男は、判で押したような規格的な生活を送っているのであろう。
単調反復的な事務の仕事を任せれば、比類なく忠実に行なうが、進んで仕事を開拓して創意工夫をこらすようなことは絶対にない。あたえられた仕事をコマネズミのように忠実に反復しているだけである。
山路は石井の袖カバーから、そんなことを想像した。
「すると、村越氏が来たころは、最も眠りが深かったときでしょうね」
辻刑事が口をはさんだ。
「そうです」
「熟睡しているところを、叩き起こされて、どうして午前二時だということがわかったのですか? 村越氏が、いま二時だとおしえてくれたのですか?」
もしそうだとすれば、石井の証言は、村越によって造り上げられたことになる。山路も、辻の質問の重要性を悟って、にわかに目の光を強める。
「ああそれは――」
石井は何かをおもいだした顔になった。
「でも、どうしてそんなことを聞くのですか?」
答えようとして、石井はふと、訝《いぶか》しげに眉をかげらせた。
「いや、村越さんがちょっとした事件に巻き込まれましてね、その時間に彼があなたのところにいたということが証明されると、ひじょうに助かるのです」
「何か、アリバイのようなもんですね」
「まあそんな大げさなものではありませんがね」
辻は軽い口調でいなした。
「村越さんが助かるのであれば、いくらでも証明しますよ。実はあの夜、村越さんからトランジスター・ラジオをプレゼントされたのです。村越さんは、私を叩き起こすなり、『ほら、おまえのほしがっていたトランジスターをもってきてやったぞ』と言って、スイッチを押したとき、ちょうど午前二時からのFM放送の番組がはじまったのです」
「午前二時からの番組?」
「トランジスター・ラジオ?」
山路と辻は顔を見合わせた。
「そのラジオは、以前から村越さんがプレゼントすると約束していたのですか?」
辻は、ラジオを贈ったというところに、どうも作為を感じた。
「ええ、私は前からトランジスター・ラジオをほしいとおもっていたのですが、村越さんが会社の忘年会の福引の景品としてもらったのがあるから、近いうちにもって来てやると言っていたのです。村越さんは、ラジオ付きのステレオをもっているので、いらないと言ってました」
「それをわざわざ土曜の夜にもってきてくれたわけですね」
「そうです」
「その午前二時からはじまったという番組の名前は?」
「FM関東で毎土曜日に午前一時からやっているヤングポップスの第二部で、エンゲルベルト・フンパーディンクの特集でした」
「な、なんだって、もう一度言ってください」
山路が目を白黒させた。音楽といえば、歌謡曲しか知らない彼は、いきなり舌をかみそうな名前を言われて、まごついたものである。
「エンゲルベルト・フンパーディンクです。人気絶頂のバラード歌手です」
「それの特集が土曜の夜、いや日曜の朝二時からあったのですか?」
若い辻は、さすがにその歌手の名前を知っていた。
「いえ、FMファンは、午前零時を過ぎても、前の日の番組として考えておりますので」
「なるほど、それでその土曜の晩午前二時から、FM関東がエンゲルの特集をしたのは、確かなのですか?」
「確かです。ぼくはポピュラー音楽は大好きで、いつも新聞で番組だけは見ております。ラジオをほしいとおもっていたのですが、せっかく村越さんがくれるというものを、べつに買ってももったいないので、がまんしていたのです。あの夜、まさか村越さんがもってきてくれるとはおもわなかったので、いつもの時間に寝てしまいましたが、今夜はエンゲルの特集が二時からあるなということは、新聞で知っていました」
「どうでしょう。あなたが聴《き》いたのは、テープかカセットによるものではなかったでしょうか?」
「そんなことは絶対にありません。現にぼくはそのトランジスター・ラジオをもっております」
石井は一言の下に否定した。じじむさい表情ながら、そう言ったときの顔つきは頑固《がんこ》そのものである。
〈この男に偽証させるのは、難しいな〉
山路と辻は同時におもった。まじめを顔に書いたような石井を見ていると、村越のアリバイの確固不動さがよくわかるようである。
「そのラジオを見せてもらえないでしょうか?」
「家においてあるんですが、もう三十分ほどで終業になるので、もし待っていていただければ、ごらんにいれますよ」
「けっこうです。待たせていただきましょう」
三十分のち、彼らは石井の家へ行った。彼の家は工場から歩いて五分ほどの団地の2DKである。
「嫁さんをもらうつもりで、ここを買ったんですが、なかなか嫁に来てくれる女がおりませんでね」
石井は、てれ臭そうに笑った。公団住宅の外観を呈していたが、頭金を支払って、あとは割賦返済にしていく長期分譲住宅であった。
室内には、いちおう道具がそろっている。まだ二十代で、これだけの我が城≠確保した石井は、かなりのがっちり屋らしい。ラジオをもらうまで買わなかったということも、うなずけた。
「これですがね」
石井がもってきたのは、S社製のありふれたトランジスター・ラジオであった。録音装置などはどこにも付いていない。スイッチを押すと、きれいな室内楽がはいってきた。
「このラジオから、エンゲルの歌は聞こえてきましたか?」
辻はなおも未練がましく聞いた。彼は、村越が身体のどこかに小型のカセットレコーダーでも隠しておいて、いかにもラジオから放送されているように装いながら、その実、そのカセットを再生して聞かせたのではないかと考えたのである。
「まちがいありません。確かにこのラジオからです。村越さんがスイッチを押すところをはっきり見ました。ほかの音源から来るサウンドを、ラジオと錯覚するほど鈍くはありませんよ」
石井は音楽ファンとしてのプライドを傷つけられたような表情をした。
「ところで、あなたと村越さんとは長いおつきあいなのですか?」
山路が質問の方向を変えた。
「高校のとき、同じクラブの一年先輩でした」
「ワンゲルですか?」
「ワンゲル? なんですか? それ」
今度は、石井が面くらった顔つきになった。
「それじゃあ、なんのクラブにいたんです?」
「ソロバンです」
「ソロバン?」
「当時はコンピューターがいまみたいに羽振りをきかしていませんでしたからね。どこへ行くにしても、ソロバンができれば潰《つぶ》しがきくとおもったんです」
まさに石井らしい発想であった。だがそこに村越もいたとは、おもしろい偶然である。いや偶然でもなんでもなく、人生を計算だけで生きる人間にとっては、必然のクラブ活動であったかもしれない。
学業の余暇《フリータイム》に、青春時代でなければできないものを追求するべきクラブ活動においてすら、ソロバンばかり弾《はじ》いていた村越は、すでにそのころから、自分の人生の路線を精密に計算していたのであろう。
「村越さんの話だと、あなたは月に一回ぐらいの割りで、彼のアパートへ遊びに行ったそうですが、そのときラジオはくれなかったのですか」
「ラジオのことが話題になったのは、三か月ほど前です。その間、一回、村越さんのアパートへ遊びに行きましたが、会社に置いてあるとかで、もらえませんでした。実はラジオがお目当てで行ったんですが、電車賃を損してしまいましたよ」
石井は惜しそうな顔をした。これは並み大抵の握り屋≠ナはないなと二人の刑事はおもった。そう言えば、彼は山路たちを玄関の三和土《たたき》に立たせたまま、お茶一杯出すでもない。
このくらいにしなければ、二十代で自分の家はもてないのかもしれないと、ほぼ同じ年代で、まだ親の家に置いてもらっている辻は、いささか複雑な気持ちになった。
村越のアリバイは確立した。石井の性格や彼と村越との交際関係から、石井が偽証することは考えられなかった。あのがっちり屋の石井がラジオ一つで、犯罪になる偽証の罪を犯すことは、とてもあり得ない。
石井にはいちおう事情を聴き終わったあとで、村越の重大な立場を話してやると、彼は蒼白になって、そんなに重要な証言ならばなおさらのこと、自分は絶対に嘘《うそ》は言わないと誓った。
小心翼々たるこの男は、いまは自衛のことしか考えていなかった。真実を告げることが、自分の安全につながると知った石井は、ただひたすらに自分の言葉を刑事に信じさせようとして、汲々とした。
村越にアリバイが成立してみると、クロいのは弓場しか残らない。もともと弓場のほうが動機が強く、さまざまな情況から、本命とにらんでいた。
しかしアリバイがないということだけでは、引っ張れない。現場には、弓場の犯行を示す資料は、何も残されていないのだ。
「奥の手を使うか」
那須警部は思案の末に言った。奥の手とは別件逮捕である。
別件逮捕は、本命事件に関して、何も確証がないために、狙《ねら》いをつけたクロっぽい人物を、普通ならば問題にならない程度の些細《ささい》な事件で逮捕し、本命事件について取り調べるというやり方である。
別件逮捕による本命事件の取調べは、逮捕状に記載されている被疑事実とはべつの事件が追及されるという点で、令状主義を建前とする憲法、刑訴法の精神に反するものであるが、肝心の本命事件についてのきめ手がないために、どうしても「自白を強《し》いる」という形になりやすいところにも問題がある。
だが形式的には違法ではないので、警察の奥の手として、ときどき利用される。
事実、別件逮捕がきっかけとなって、難事件が解決された前例は多かった。ある罪名で逮捕された被疑者が、その取調べ中に別件の犯行を自供することはよくあるケースである。別件逮捕は、ちょうどこの順序を逆転した捜査方法であった。
これはと目星をつけた人間の、まず身柄を抑えて、いっきょに自白を迫る方法は、たしかに、科学捜査に反する、捜査官のカンに頼った見込み捜査である。
那須としては、極力避けたいところであった。それでなくても、最近別件逮捕に批判的な判決が出され、「人権感覚を欠落した捜査方法」などと、とみに風当たりが厳しくなっている。
それにしても、弓場久彦の情況は黒い。捜査本部は十中八九、彼の犯行にまちがいないという心証を得ていた。
三重の動機、刑事が取調べに行ったときのとりみだした態度、「ある人とある場所にいた」という曖昧《あいまい》な供述、物証こそないが、まずこれだけ黒い情況というものもなかった。
「警部、やりましょう」
部員たちは、気負い立っていた。
「やるか」
別件逮捕には消極的な那須も、ようやく踏み切った。別件逮捕の大きなメリットには、身柄拘束が普通の場合の二倍できるということもある。
警察官が逮捕をすると、まず警察に二日、検察に一日留置し、ひきつづいて検察官の請求によって十日間|勾留《こうりゆう》され、さらに十日の勾留延長が許される。つまり二十三日間の身柄拘束の制限を受ける。
これが別件逮捕の場合だと、別件中の取調べで得た資料をもとにして、本命事件で再逮捕すれば、さらに二十三日間延長され、計四十六日間、被疑者の身柄を抑えられることになる。
これだけ長期間にわたって、毎日厳しい取調べを受ければ、たいていの被疑者が陥《お》ちてしまう。犯人の自白があれば、事件の解決は容易となり、捜査費用も安上がりになる。
これがために、悪意はなくとも自白の強制という形になりやすいのである。
ともあれ、那須は、弓場久彦を別件逮捕することにした。改めて弓場の身辺が徹底的に洗われた。
そしてその結果、彼が銀座のあるバーにツケをためたまま支払っていない事実をつかんだ。さっそく刑法第二四六条二項の詐欺罪が適用された。
弓場は赤坂署に留置されて厳しい取調べを受けた。しかし本部の意気込みに反して、弓場は頑として犯行を否認しつづけた。絶対に自分はやっていないと言い張るのみで、肝心のアリバイに関しては、依然として曖昧な申し立てをつづけていた。
殺人事件の捜査は、事件が発生してから二十日間を、一期≠ニ呼ぶ。この一期の間に解決されないと、迷宮《おみや》入りになる確率が大きい。
すでに第一期は過ぎた。弓場は頑強に否認をつづけている。新しい資料は何も出ない。検察は勾留の延長を請求した。しかしこのままの状態では、再逮捕の要件を充《み》たすことは、難しそうであった。
捜査本部に沈滞ムードが広がった。
「弓場はだれかを庇《かば》っているのではないだろうか?」
なんの進展もない捜査会議で、辻がふともらしたつぶやきを、横渡が耳|敏《さと》くとらえた。
「庇っているってだれを?」
「弓場は、供述のとおりだれかとある場所で逢っていました。ところが、そのだれかは絶対に表面に出せない人物だったのではないでしょうか?」
「女か?」
辻がうなずくと、一同に軽いざわめきがおこる。
「つまり、犯行の時間、弓場は女と、密会をしていたというわけだな」
那須が年齢にふさわしい古めかしい言葉を使った。だがそれがこの場合少しも古めかしくひびかない。表面に出せない密会の相手として最も容易に考えられるのは、人妻である。そして人妻と隠れ逢うのに、密会という用語は、いかにもふさわしかった。
「弓場は、その時間、人妻と不倫の情事に耽《ふけ》っていたのではないでしょうか? 情事の相手に証明してもらえば簡単に彼のアリバイは成り立つ。それにもかかわらず、それをしないのは、相手を庇っているからです。相手の人妻が弓場のアリバイを証明すれば、当然彼女の不貞の事実も露《あら》われてしまう。それは、彼女の生活を根底から覆《くつがえ》すものです。これが昼間の時間ならば、男と会っていたからといって、直ちに情事に結びつきませんが、真夜中の二時とあっては、なんとも言い抜けがきかない」
「すると弓場は、犯人ではないということかね?」
山路が聞いた。
「はっきり断定できませんが、私は、村越順也をもう少し注目すべきだとおもいます」
「村越を?」
「しかし村越にはアリバイが……」
何人かが言いかけるのへ、辻は、
「確かに村越には、はっきりしたアリバイがあります。しかしどうも胡散臭いところがあるのです。まず午前二時どんぴしゃりに、石井の家へ行ったことが、うまくできすぎているような気がします」
「そう言えば、村越のやつはそれ以前にも、行くぞ行くぞと石井に予告をしておきながら、何回か待ちぼうけをくわせていたな」
辻といっしょに石井を当たりに行った山路が、鼻の下を汗で光らせた。
「それなんです。なぜ、何回も待ちぼうけをくわせたのか? それは、またどうせ待ちぼうけだと石井におもわせることによって、彼を寝かしてしまうためではなかったのでしょうか?」
「ということは、石井に起きていられては都合の悪い事情があった」
「その事情が、午前二時という時間にからんでいるのではないかとおもうのです」
「つまり村越が石井を訪れた時間は、午前二時ではなかった。石井に起きていられると、それを見破られてしまうので、何度も待ちぼうけをくわせて、起きていないように仕向けたというわけですか」
河西刑事が確認した。彼は辻よりも那須班でかなりの先輩でありながら、言葉遣いをくずさない。そんなところにも、彼の几帳面《きちようめん》な性格があらわれていた。
「そのとおりです。あのときは弓場の供述が曖昧でアリバイがなかったために、捜査の焦点を彼一人に絞ってしまいましたが、いまになって、よく検討しなおしてみると、村越にも怪しい点が多いのです。動機の点にしても、門脇ひとりが国井を支持しているために、許可が下りない。国井さえいなければという焦りとサラリーマンの功名心が、犯行へ駆り立てたという可能性もあります」
「待て待て」
那須が手をあげて制した。
「まあ国井を殺したからといって、福祉省の意向が変わるものでもあるまい。それに村越のアリバイは、ごまかしようのない確かなものだったんじゃないか」
「村越が石井に贈ったトランジスター・ラジオはなんの変哲もないもので、仕掛けの施しようがありません」
山路が答えた。
「そのなんの変哲もないラジオが、午前二時からの番組をスタートしたときに、村越が石井の家を訪れ、石井がそれを確認している」
「こういう考え方はできませんか?」
下田が発言を求めた。
「つまりその石井が聞いた番組は、FM関東のものではなくて、どこかよその放送局が放送したものではないでしょうか?」
たまたま同じ内容の番組を、二つの放送局から、時間をちがえて放送したとする。石井が聞かされたものは、FM関東の番組ではなく、べつの放送局が、午前三時か四時ごろに放送したものではなかったかという着想である。
それを村越からFM関東だと言われたものだから、寝ぼけ眼《まなこ》の石井が、簡単に錯覚してしまった。もしその番組が、三時か四時ごろにはじまるものであれば、村越のアリバイは、いともあっけなく崩れてしまうのである。
「その点は、私も考えました。しかし、厚木地域で受信可能のFM放送は、FM関東と、NHKしかないのです。当夜の番組はまちがいなく、FM関東から午前二時に放送されたものでした」
せっかくの下田の着眼も、辻によってあっさりと否定されてしまった。
「ともかく――」
重苦しくなりかけた空気を救うように、那須が、
「当面、弓場と村越の二人を追ってみよう。弓場の否認は頑強だが、なんとしても彼の情況がいちばん怪しい。村越のアリバイの完全すぎるのも気に入らない。ご苦労だが、もう一度二人の周辺を徹底的に洗ってみてくれ」
と結論を打ち出した。
事件がおもいがけない展開を見せたのは、それから二日のちである。弓場の勾留期限も残り少なく、本部に焦燥と疲労が目立ちはじめたとき、本部全体を震撼《しんかん》させるような情報がもたらされた。
その日、午後四時、本部の電話が鳴った。部員たちがもどって来るまでには、まだ多少の時間がある。電話を取ったのは、本部へ投入された、所轄署の畠山《はたけやま》刑事である。
「マンションの人殺し犯人の疑いでつかまっている弓場という男は、痩せ型で、どちらかの耳の下にホクロがあるか?」
と回線の向こうで、年齢不詳の男のものらしい、もそもそした声が聞こえた。
「もしもし、あなたはだれですか? 住所とお名前を言ってください」
カンにピンとくるものがあった畠山は、空いている手に鉛筆をかまえた。この種の密告《たれこみ》によって、事件がおもわぬ展開を示す例は多い。タレコミの九割九分は偽《ガ》情|報《セ》であるが、残りの一分に金の鉱脈がある。
畠山のカンは、しきりにその電話の主が、金鉱脈だと訴えた。
「その前に、私の質問に答えてください。弓場久彦は、私がいま言った特徴を備えておりますか?」
相手は質問に固執した。やむなく畠山がそうだと答えると、
「それでは弓場は犯人ではありませんよ。私はその時間に、弓場がある場所にいたことを偶然、目撃しているのです」
正体不明の電話の主は、突然途方もないことを言いだした。
「な、なんだって!?」
愕然《がくぜん》としてあげた畠山の声に、室内に居合わせた者が、視線を集めた。
「三月二十二日の午前三時ごろのことです。私はある女性とドライブに出かけて、埼玉県の川越市近くの国道沿いのスナックで休憩しているとき、そのスナックが兼営しているモーテルから車で出て来た男女がありました。彼らは慌てていたらしく、私の車に少し接触しました。塗装がちょっと剥《は》げた程度の、大した傷ではありませんでしたが、そのままそらとぼけて逃げだしたので、腹が立って一〇キロほど追いかけてつかまえました。
そのとき平謝りに謝って、塗装代として二万円弁償してくれた男が、どうも赤坂のマンション殺人の容疑者としてつかまった弓場の、新聞に出た写真に似ているのです。もし弓場ならば、彼は絶対に犯人になれませんよ。被害者は二十二日の午前二時から三時の間に殺されたということですが、その時間、弓場は川越にいたんですから。追いかけてつかまえたのが午前三時ごろですから、モーテルにいた時間を考えると、その二人はもっと前からそこにいたことになります」
「もしもし、あなたの名前と連絡先をおしえていただけませんか?」
畠山は必死になった。もしこの男の申し立てが事実であるなら、弓場はシロである。捜査は振出しへもどってしまう。
「それはかんべんしてください。私も、ちょっとワケのある女性を伴《つ》れていたもんでね、かかり合いになりたくないのです。今日まで黙っていたのも、そのためです。しかし新聞で知ってから、どうにも気持ちが落ち着かないので、おもいきって電話したんです。でも嘘じゃありませんよ。国道二五四号沿いの川越の近くにある『シャトー・花ノ木』というモーテルを洗ってごらんなさい」
男はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。
「なんだか、重大なタレコミのようだな」
畠山の周囲に居合わせた部員や、ちょうど捜査から帰って来た刑事たちが集まった。
「係長、大変です」
畠山は興奮して、那須にいまの電話のタレコミを報告した。
「事実だとすれば、大変なことだな」
那須も顔色が変わった。捜査は初手から大きな見込みちがいをやったことになる。無実の人間を、別件で逮捕し、勾留を延長して、厳しい追及をつづけていたのである。
捜査陣の重大な黒星と言わなければならない。
「警部、いまからすぐに川越へやらせてください。花ノ木というモーテルを当たってきます」
畠山が言った。
「うん、ご苦労だが、行ってもらおう」
那須はうなずいた。畠山に同行したのは、本庁組の下田刑事である。
花ノ木の従業員は、畠山が示した弓場の写真に、確かに彼が三月二十二日の午前零時ごろ、三十前後の人妻風の女性を伴って来館し、午前二時ごろ出発したことを証言した。
彼らはそこで大きな収穫を得た。それは花ノ木では犯罪防止のために入口ドアの上に自動カメラを備えつけてあり、訪れた客がすべて撮影されるようになっていたことである。そして弓場と同伴の女性も、確かにそこに撮《うつ》っていた。年齢は三十を少し越えたぐらいか、人妻風の服装をした、はっきりした目鼻立ちをもった女だった。
鮮明な映像ではなかったが、顔形の特徴は十分にとらえている。
これで弓場久彦は二十二日の午前二時に、川越市のモーテルにいたことは、証明された。だがここで一つ問題が起きた。
それはモーテルの証言と、電話のタレコミとの間に微妙なずれがあったことである。
花ノ木では、弓場らは午前零時に到着して、午前二時に出発したと証言している。それに対してタレコミの主は、弓場を追いかけてつかまえたのは、午前三時ごろだと言った。
この程度の食いちがいは、証言者の間によくおこることであるが、この場合、国井の死亡推定時間が午前二時から三時にわたっているだけに、重大なちがいになってくる。
スナックで休憩していた電話の主が、弓場に愛車を傷つけられてむかっ腹を立てて追いかけ、ようやくつかまえたところで、ぶつけたぶつけないで、すったもんだすれば、一時間のずれ[#「ずれ」に傍点]ぐらいはすぐ出てしまう。
人目を忍ばなければならない弓場らが、トラブルを避けて、すんなり弁償金を支払ったとしても、彼らがモーテルを出る時間と、スナックで休んでいた電話の主が追跡をはじめた時間との間には、多少のずれ[#「ずれ」に傍点]があったのであろう。電話の主が言った三時ごろ[#「ごろ」に傍点]とは、三時前かもしれないのである。
が、ともかくこの重要なタレコミをした本人は正体がわからないので、確かめようがなかった。つまり証言としての価値がない。
それに対して花ノ木の「午前二時」は信憑性《しんぴようせい》がある。従業員に何度も確認を重ねて、弓場らが午前二時、正確には午前二時三分、同所を出発したことが、記録に残っていた。
花ノ木では、客の到着から出発までが、ほとんど機械化されている。車の出入りは、赤外線装置でわかる仕組みになっていて、ガレージへの入口の上にテレビカメラが備えつけられてある。従業員はいながらにしてどんな客が来たか知ることができる。
部屋のドアは、自動式になっている。客がその前に立つと開く。同時に記録用カメラが作動して、客の顔が撮影される。室内のセックスを刺激するためのあの手この手の設備は、言わずもがなのことで、さて客が出発するときは、メーターに表示された料金をシューターへ投げ込むと、ガレージのドアが自動的に開く仕掛けになっている。
料金が収受されると同時に、レジスターに出発時間が打刻されて、メーターがゼロへもどる。この時間が午前二時三分であった。
となると、せっかく成立しかけた弓場のアリバイは微妙なものになってくる。
国井の死亡推定時間は午前二時から一時間である。川越から赤坂まで三十数キロ、深夜の国道を突っ走って、午前三時までに犯行現場に立つことは、必ずしも不可能ではないのである。
実際問題として、午前二時に川越のモーテルで女と逢っていた人間が、三時までに赤坂へ来て殺人を実行することは、まずあるまい。
だが可能性の問題として考えるかぎりは、必ずしもこの観点を否定できないのだ。
こうなると、弓場のアリバイを確立させるためには、もう一人、どうしても第三者の証言が必要となった。
彼が午前三時まで、犯行現場以外の場所にいたことを証明してくれる人間がいないことには、弓場の嫌疑がだいぶうすれてきたとはいえ、完全に晴れたことにはならない。
最初に捜査員たちの頭に浮かんだのは、とにもかくにも膠着《こうちやく》した事件を流動させるきっかけをあたえてくれたタレコミの主である。彼が現われて、身分を明らかにしたうえで、「弓場と午前三時ごろいっしょにいた」と証言してくれれば、弓場のアリバイは完全に成立する。
しかし、タレコミの主を探すことは、雲をつかむようなものであった。
「この女以外にないな」
那須は、畠山が花ノ木から領置してきた写真をにらんだ。弓場の周辺を、この写真の主を探して徹底的に洗えば、浮かび上がってくるかもしれない。
弓場らの忍び逢いが行きずりの情事でないことは明らかである。人目に触れては都合の悪い情事のパートナーは、たいていその人間の生活関係の中にいる。
写真という決定的な切り札を握った本部にとって、弓場が隠している相手を探しだすことは、さして困難ではないようにおもえた。
「よし。当たりはじめる前に、この写真を、弓場にぶつけてやれ」
それによって、弓場が崩れれば、捜査の手間が省ける。
「だが――」
那須は、弓場のアリバイが成ったあとのことをふと考えて、身体が押し潰されるような疲労を覚えた。
弓場が犯人でなければ、だれが犯人であるのか? 残るクロっぽいのは、村越順也しかいない。
だが彼のアリバイも確固不動なのだ。
「最も黒い容疑者の反証を、せっせと見つけだしてやって、どうにも動かしようもないアリバイをもっている人間に立ち向かわざるを得ないようにしている」
那須はいま自分たちが、むき[#「むき」に傍点]になってやろうとしている作業が、別件逮捕してまで、犯人を挙げようとした警察官的な熱意とひどく矛盾しているような気がした。
いずれにしても、那須たちの本分は、事件の真相を発見することにある。だがその真相は依然として混沌《こんとん》たる霧に厚く包まれていた。
モーテルから領置した写真が弓場に示された。
「この女性に覚えはないかね」
那須がさりげなく差し出した写真を、手に取るなり、弓場は顔色を変えた。表情が硬直して、手がブルブル震えている。
「どうやら、心当たりがありそうだね」
「ど、ど、どこから、これを?」
弓場はあえぎあえぎ、ようやく聞いた。
「蛇《じや》の道はヘビだよ。どうだ、いつまでも隠し立てしていてもつまらないだろうが」
那須は、こちらの手の内はさらさずに追及した。まだ写真を手に入れただけで、その主の正体は何もつかんでいないのだが、そんなことは|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》にもあらわさない。
何もかも知っているというふうにおもわせながら、網を絞っていくのである。
「いまさら隠したところで、どうにもならないことだ。すべてをありのままに話すんだ」
「部長はもう知っているんでしょうか?」
――そうか、この女は、上役の妻だったのか――
那須は、腹の中でうなずいた。おそらくその部長とやらは、弓場の直属の上司にあたるのであろう。とにかく弓場のサラリーマンとしての生命を握っているやつだ。
その男の妻と秘かに通じていた。もしコトが公けになれば、上司の信任を一度に失ってしまう。相手の女を庇うためではなく、自分自身の保身のためだったのか?
それにしても、殺人の被疑者に仕立て上げられてもなお、サラリーマンとしての保身をはかったのはうなずけない。信用や体面を重んずる会社ならば、それだけで解雇の対象になるだろう。
一上司の信任などは問題ではないはずであった。那須にはサラリーマンの価値観がよくわからなかった。
「部長にはまだ知らせてない。しかしきみのアリバイが成立せずに、このまま殺人容疑者として起訴されたら、部長に知られようが知られまいが、問題ではあるまい」
那須は、誘導をつづけた。
「部長は、営業の実権を握っております。うちの会社は営業中心ですから、その勢力は担当常務よりも強いくらいです。私は、部長には特に可愛がられておりました。個人的にもお宅へ招かれたりしているうちに、つい奥さんと道ならぬ関係にはいってしまったのです。
私は絶対に殺人なんかしておりません。ですからアリバイはなくとも、必ず釈放されるとおもっていました。釈放されさえすれば、部長がまた引き立ててくれると信じていたんです」
那須は、弓場の供述を聞きながら、誘導の目的を達したことを悟った。弓場の相手は、帝急の営業担当部長の妻である。それを探しだすことは、たやすい。
弓場のアリバイが証明されるのは、もはや、時間の問題と言ってよい。その部長夫人も、のっぴきならない写真を突きつけられては、とぼけることはできまい。
「警部さん、お願いです!」
問わず語りに落ちた形の弓場が、那須の手を握って、必死な口調で言った。
「どうか部長には内証にしておいてください。もし話されたら、私はもうおしまいです。中沢部長に睨《にら》まれたら、帝急にはいられません。中沢部長は、社長とも個人的につながりがあり、常務昇格は確実な人です。どうか黙っていてください。それに……」
ここまで切々と訴えた弓場の言葉が、ふととぎれた。
「それになんだ?」
「美紀子さんに知られたくないのです。福祉省の門脇局長の令嬢です。私はあの人に結婚の申し込みをしております。もし美紀子さんが私と部長の奥さんとの関係を知ったなら、確実に拒《こと》わってくるでしょう。私はあの人を失いたくないのです。あの人のいないぼくの人生なんて考えられません」
聞いているうちに那須は、弓場のあまりにも徹底した自己中心の姿勢に腹が立つよりは、呆《あき》れてきた。
アリバイを証明してくれるべき人間を隠したのは、相手を庇うためではなく、あくまでも、自衛のためであった。それもこざかしいサラリーマン的な保身からである。
この期《ご》におよんでも、弓場は上役を恐れている。そんなに恐いのであれば、最初からそんな危険な関係を結ばなければよかったものを、臆病なくせに、意地が汚なくて、つい手を出してしまった。
そのうえ、手つかずの処女にプロポーズする資格《タイトル》は失いたくないという。
あまりにも虫のいい自己中心の弓場の精神の構造に、那須は唾《つば》を吐きかけたいような衝動を覚えた。弓場の嫌疑はほぼ晴れたものの、那須は犯人に向ける以上の憎しみを覚えたのである。
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淘汰《とうた》されたライバル
弓場久彦はアリバイが成立して釈放された。彼は三月二十二日午前零時より午前四時ごろまで、彼の上司にあたる帝急第一営業部長取締役の中沢幹郎の妻、弥生《やよい》とともにいたことが証明されたのである。
別件逮捕の被疑事実になった詐欺のほうも金額が少なかったので、不起訴処分となった。もともと殺人事件追及のための手段としての別件であるから、検察側にはそれによって起訴する意思はない。
捜査陣の重大な失点であった。
弓場は釈放された。だが彼にとって本当の意味の拷問は、これからはじまったのである。
まず出社した彼を待ち構えていたものは、全社の、凶器のように尖《とが》った視線である。逮捕される以前の、若手随一のエリートとして、社内を肩で風を切って歩いていた彼の羽振りは、身柄を警察に拘束されていたこの十数日の間に、見るも無惨に凋落《ちようらく》していた。
「どの面《つら》さげて帰って来た!」
中沢は、彼の顔を見るなり、憎しみをこめて言った。その中沢の表情を見た瞬間、弓場は視野がまっ暗になるような、絶望を感じた。
中沢だけが、残された頼みの綱だった。彼のアリバイが成立したということは、とりもなおさず、中沢の妻との情事が露《あら》われたことを意味する。
それを知りながら、もしかしたら、中沢は知らないのではないかという、まことに虫のいい希望を抱いて、敷居の高い会社へ、身を竦《すく》めるようにして出て来たのである。
槍ケ岳開発計画をめぐる管轄官庁工作プロジェクトチームのキャップに中沢の引き立てで据えられたのも、彼にいかに高く買われていたかを示すものである。
そして中沢の期待を、仕事の上で、いままで一度も裏切ったことはなかった。中沢との公私にわたる接触が増えて、その自宅を何度か訪れるうち、先方が誘惑したこととはいうものの、彼の妻と通じたことは、取り返しのつかない失敗であった。しかし中沢の支持さえ失われていなければ、またすぐに以前の勢いを回復できる。身柄拘束中も、中沢は一度励ましに来てくれた。殺人の容疑者に擬せられたとはいえ、無実であることが証明されたのである。
容疑者にされたことすら、仕事熱心からきたことだ。国井と仕事上の競争関係が、動機の一つとして考えられたのである。青天白日の身となってみれば、会社からむしろ同情されこそすれ、冷視される筋合はない。ただアリバイの証明者とすごした不倫の時間さえなければ――
「ともかく出社しないことには、会社側の態度はわからない」と、釈放されると、勇を鼓《こ》して出社して来たのであった。
だが弓場の自衛的な楽観は、脆《もろ》くも崩れた。
「きさま、よくものめのめと、おれに顔を合わせられるな」
面罵《めんば》とはこのようなことを言うのであろう。
火のように激しい罵言《ばげん》を浴びせられても、弓場は一言も反駁《はんばく》できずに、その場に立ちつくした。
「とにかく、おまえはおれの個人的な信頼を裏切っただけではなく、会社の名前と体面をいちじるしく汚《けが》した。処分は追って決める。いずれ沙汰《さた》があるまで、家で謹慎していろ」
判決の宣告でもするように、これだけ言った中沢は、まるで汚物から目をそらすようにして、顔をそむけた。取りつくしまもなかった。
殺人事件の被疑者を救うアリバイの証人が、被疑者と秘かに通じていた上司夫人であったという絶好のスキャンダルを、週刊誌が嗅ぎつけて動いた。無実とわかった弓場のプライバシーにもわたることなので警察はいちおう伏せたが、アリバイの証人として中沢の妻を隠すことはできなかったのである。週刊誌ならずとも、彼ら二人の関係は容易に推測できた。
つい半月ほど前までは、自分のためにあったように感じられた社内が、ことごとく、拒絶的な様相を呈していた。
周囲を圧して聳《そび》えたつ鋭角的な本社ビルも、活気に充ちたオフィスも、支社網をつなぐテレックスの騒音も、電話のベルも、すべては、自分のエリートの地位をガードする頼もしい武器であり、輝かしいパスポートであった。
会社のすべての営みが、自分を中心にしているように感じられた。それがいまは、武器はすべて、自分に敵意を示す凶器と変わった。
組織はダイナミックに動いている。本社ビルの偉容は相も変わらず威圧的である。オフィスに人の動きは激しく、テレックスや電話の音が間断ない。
だがそれらはすべて、弓場を疎外《そがい》して動いていた。弓場の存在と関係なく、彼を完璧に閉め出して、滔々《とうとう》たる有機的な営業が進められているのだ。もはやその中に彼のためのスペースは、まったくなかった。
――追って沙汰するまで、家で謹慎していろ――
と言われても、その「家」は会社の寮であった。会社の延長というよりは、会社そのものである。
会社にいるスペースのなくなった弓場にとって、そこはまことに居辛い場所であった。
「いままでの実績があるから、まさかクビにはしないだろう」
弓場は、中沢の言った「沙汰」を好意的に解釈して、ともあれそこで待つことにした。
中沢の信頼を決定的に裏切るようなことをしておりながら、しかもなお未練たらしく、会社側の沙汰を待ったところに、弓場の徹底した自己中心の性格がうかがわれる。
中沢が弓場を罵《ののし》ったとき、弥生とのことを一言も言わなかった。そこに中沢の飼い犬に手を咬《か》まれた形の裏切りに向ける怒りの激しさを感じ取るべきだったが、弓場は、もしかしたら弥生が、自分のために口添えしてくれるかもしれないという、はなはだ手前勝手な期待すら寄せていたのである。
しかしいくら待っても沙汰はこなかった。弥生に逢いたくても、連絡の方法がない。いままでも先方からの一方的な連絡であった。それもプツリと切れた。さすがに図々《ずうずう》しい弓場も、心配になってきた。図々しくとも、居辛いことはわかる。
温度調節自在の冷暖房、給湯の設備、一人当たりに1DKをあたえて、各室バス・トイレ、冷蔵庫・カラーテレビを備えつけたこの独身寮は、「未来社員のための未来派デラックス寮」と羨《うらや》ましがられる抜群の居住空間であったが、それがそのまま、彼を幽閉する鉄の檻《おり》となった。
食堂やロビーなどの共用《パブリツク》スペースへ出て行けば、社員たちと顔を合わせなければならない。それがいやで、四六時中、室内に閉じこもっている。
謹慎を申し付けられた身だから、外出することはできない。べつに外出まで禁じられたわけではないが、それが「追っての沙汰」にどんな影響をあたえるかとおもうと、恐くてとても出かける気になれなかった。
一日中部屋の中に閉じこもって、テレビばかり観《み》ていると、気がへんになりそうであった。こうしている間も、会社の組織はたくましい回転をつづけ、同僚たちは働いている。
ブラウン管の前にうずくまって痴呆的《ちほうてき》な表情を晒《さら》している間に、ライバルたちとの差はますます開かれるばかりだ。――とおもうと、いても立ってもいられなくなるが、そこ以外に、とりあえずいられる場所はないのである。
そこすら正式にいることを許された場所ではなかったが、なんとなく居すわった形になっていた。
朝起きて鏡を覗《のぞ》くと、無精《ぶしよう》ひげが目立った。ここ数日、剃刀《かみそり》を当てずにいたところ、まるで浮浪者のようにのびてしまった。
「これが、われながらシャープだと見惚《みと》れたおれの顔だろうか?」
弓場は、鏡を見ていると情けなくなった。のびたひげ[#「ひげ」に傍点]、色艶《いろつや》のない顔、弛緩《しかん》した表情、この数日、テレビの前で無為をまぎらすために、白痴化番組を見つづけている間に、彼自身が番組以上の白痴に呆《ほう》けてしまったようである。
そしてついに、待ちに待った沙汰がきた。それは彼のおもってもいなかった形できた。
その日の朝九時ごろ、まだベッドで惰眠を貪《むさぼ》っていた弓場は、入口のブザーによって起こされた。彼の部屋のブザーが押されたのは、謹慎してから初めてのことである。
渋い目をこすりながら、ドアを開くと、そこに管理人と、見知らぬ青年が立っていた。
「ああ、お早うございます。いや遅ようかな」
管理人は、寝起きの弓場に皮肉たっぷりに言うと、
「今度新しく入居することになった、福田君を紹介します。本社の総務課へ配属された新入社員です」
とその青年を紹介した。
「いや、これはごていねいに。弓場です、よろしく」
完全に疎外されていたとおもった弓場は、新入社員を紹介されて嬉《うれ》しくなった。紹介されたということは、彼がまだそこの一員として認められている証拠でもある。
だが管理人の次の言葉は、弓場の度肝《どぎも》を抜いた。
「それで福田君には、とりあえず家族室で待ってもらいますが、弓場さんにはいつごろ部屋を空けてもらえますか?」
「空けるって、何をですか?」
弓場は管理人の言う意味がわからずに、キョトンとした。
「もちろん部屋ですよ」
「部屋って、どの部屋を?」
「あなたの部屋ですよ」
「ぼくの部屋を? ぼくの部屋を空けて、ぼくはどこへ行くのだ?」
「そんなこと知りませんね。厚生課から何も連絡はきていないんですか?」
「そんなもの何もない」
「困るなあ、連絡不十分で。ともかく弓場さんの部屋は、先週で切れております。その後には、この福田君が入居することになっているんです」
「そ、そんな乱暴な! ぼくは何も聞いていないぞ」
弓場は、悲鳴のような声をあげた。寝耳に水とはまさにこのことである。
「と言われても、私は本社の指示どおりを伝えているだけです。ここに福田君の入居指示書があります」
管理人は軽蔑《けいべつ》するような視線を向けながら、一通の書類を彼の前へ突きつけた。そこには確かに、本社厚生課名で、福田に入居を指示する旨が記載されてある。
そして入居開始日は、なんと今日から三日前になっている。ということは、弓場の入居資格は、それ以前に切れていることになる。
「とにかく私は指示どおりに行動しているだけです。詳しい事情は、本社のほうへ問い合わせてください。まあ二、三日は家族室でがまんしてもらいますが、入居開始の日付けはすでにはじまっておりますので、なるべく早く福田君に空け渡してやってください」
管理人は言うだけのことを言うと、帰って行った。家族室は、異性を部屋へ泊めない建前から、入居者の姉妹などが訪ねて来たときの宿泊用の部屋である。
寝起きのまったく無防備のところを、いきなり痛打をくらった形の弓場は、しばらく呆然としていた。
管理人が帰ってだいぶ経ってから、事態の容易ならないことがわかってきた。彼のいるべき部屋は、すでに寮の中にない。ということは、彼が社籍を喪失したことを意味している。
一片の予告もない、冷酷非情な解雇であった。
――おまえにはもう用はない。荷物をまとめて、どこへなりと好きなところへ出て行け――
「これが、若手きっての敏腕として、社からチヤホヤされた者の、なれの果てか」
弓場の頬《ほお》に、涙の雫《しずく》が筋をひいた。くやし涙である。そのくやしさを、どこへももっていけないことが、彼のくやしさを助長した。
国井弘の死体の第一発見者として、事件の渦中に立たされた門脇美紀子も、日数の経過にしたがって、ようやく平静さを取りもどしてきた。事件後|頻繁《ひんぱん》に訪ねて来た刑事の足も遠のいた。
国井が殺されたと知ったときの衝撃と悲しみ、彼を喪《うしな》ってみてはじめて彼がいつの間にか自分の心の中に侵《はい》りこみ、広げた容積の広さに驚いた。
あの傍若無人《ぼうじやくぶじん》の男っぽさで、容赦なく美紀子の心の垣根《かきね》の中へ侵入し、彼女の精いっぱいの抵抗を速やかに抑圧して、侵略の範囲を広げつつあった国井。このままの調子でいったら、完全に屈服させられるのは、時間の問題とおもっていた矢先に、突如として、まるで停電のように、そのあらあらしい光彩を消してしまった。
やがて容疑者として弓場久彦が逮捕された。
「まさか弓場さんが!」
と否定する心の奥から、――国井はひどいやつだ――と国井に「妹を殺された」ことを訴えたときの、弓場の憎しみの表情がよみがえって、「やはり弓場が」という一抹《いちまつ》の疑いを拭《ぬぐ》い去ることができない。
その後、弓場のアリバイが成立して、容疑が晴れたので、ホッとすると同時に、彼が捜査陣からうまく韜晦《とうかい》したような気がしないこともなかった。
ともあれ、弓場は美紀子の前から姿を消した。国井が殺され、弓場が去ったので、彼女の前には村越順也しか残っていなかった。
まだそれほど遠くない夏の一日、積雲のしきりに湧《わ》く、サファイア色の穂高の頂上へ美紀子をエスコートしてくれた三人のたくましい青年は、たった一人に減ってしまったわけである。
美紀子はそれを悲しいとおもった。国井に最も傾いていたとはいえ、彼女は三人の男たちが三様に好きだったのである。
美紀子が少し傾斜の強い岩の前で立ちすくむと、国井は厚いザラッとした手をさしのべて引っ張り上げてくれた。
「いま啼《な》いたのがコマドリ、この花がキバナシャクナゲ」と山の博物に詳しい弓場は、黒いまでに繁茂した森林の青葉にさえずる小鳥や、絢爛《けんらん》たる高山植物の群落を指さしておしえてくれた。
そして村越は、それらの背景を背負った美紀子のさまざまな姿を、青春の記念として、ファインダーにとらえてフィルムに定着してくれたのである。
その三人のナイトが、いまは一人に減ってしまった。
「弓場って男は、まったく図々しいやつです」
その残った一人のナイトである村越が、去った弓場を罵った。
「どうして?」
「だって彼は、あなたにプロポーズしておりながら、上役の細君と通じていたんですよ。まったく図々しいというか、厚かましいというか」
「そのお話は止めて!」
美紀子は遮《さえぎ》った。弓場の不倫の関係は、美紀子も聞いていた。そのために彼の殺人の嫌疑は晴れたのだが、同時に職を失ってしまった。
情痴の褥《しとね》に、上役の夫人と道ならぬ関係を結んでいながら、自分にプロポーズした弓場は許せない。しかし許せないのは、自分であって、村越がとやかく言うべきことではないとおもった。
弓場はすでに十分その報いを受けているのだ。かつて三千メートルの山巓《さんてん》に自分を扶《たす》けて立たせてくれた三人の山男たちが、たがいの恥部を暴《あば》き合うのを見るのはいやだった。
美紀子にとって、彼らは地上の毀誉褒貶《きよほうへん》から隔絶された純真な山男であった。そうであらねばならなかった。父の庇護《ひご》の温室の中で育った彼女は、男同士の熾烈《しれつ》な生存競争を知らない。その競争の重要な要素《モメント》として、美紀子自身が含まれていることに気がつかない。
三人の男たちがどんな下心をもって、彼女にアプローチし、彼女を穂高の頂へ立たせたか。それを知るためには、彼女の美しい青春の記憶を、根本から破壊しなければならない。
いや、すでに、三人の男たちの間に醸成された険悪で陰湿なものに、うすうす気がつきかけていたが、美紀子は、過去の宝物を守るために、強いてそれから目をそむけようとしていたのである。
二人の競争者が消えたので、当然のごとく村越が接近して来た。村越は、国井や弓場に比べれば特徴はうすいが、けっして美紀子の嫌いなタイプではない。
平凡ではあっても、最も堅実であった。いっきょに強烈に印象づけるということもないかわりに、少しずつ、しかし着実に美紀子の中へ侵《はい》り込み、その領域を拡張した。
国井のように容赦のない侵略ではなく、水かさが徐々に増えるように、確実に美紀子の心の中に水位を上げてくる村越には、圧縮も破砕もできない弾力性に富んだふてぶてしさを感じた。
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謀略のビールス
国井の死後、福祉省の「槍ケ岳開発計画」に対する姿勢は、微妙に変動していた。
彼の死に影響を受けたわけではあるまいが、いままで大勢に抗して、西急案を頑強に支持していた門脇秀人が、態度を軟化させてきたのである。
つまりいままで支持してきた西急案に、急速に冷淡になり、中台案へ歩み寄りを見せはじめたのだ。
もともと中台案は、大勢の傾くところであった。ここで強硬な反対者だった門脇が軟化すれば、審議会の意向が中台案に落ち着くのは、まずまちがいのないところとされた。
だがここで、いったん戦列から離脱したかに見えた帝急が、熾烈な巻き返し作戦に出てきた。
「門脇局長がいままで西急を支持していたのは、彼の娘と、西急の開発計画担当社員の国井弘との間に縁談が進んでいたからである。それが中台支持に豹変《ひようへん》したのは、国井が死に、代わって中台社員、村越順也が娘の相手として登場したからだ。国立公園の開発という重要な審議事項を、国立公園局長の要職にある身が、私情をからめて判定するとは、言語道断である」
こんな噂《うわさ》が、関係者の周辺にばら撒《ま》かれた。出所は、帝急筋らしいということだった。
「馬鹿な! ひどいデマだ」
門脇は憤然としたが、噂が帝急から出たという確証はない。それに美紀子が最初国井と親しくしており、最近は村越と接近していることも事実であった。
「門脇は、ひとり娘のこととなると、分別を失う」
「能吏だが、典型的な親馬鹿だ」
「自分が老衰して生活力を失えば、結局、娘の婿の厄介にならなければならん。そのための布石さ」
「なんでも門脇は、中台へ天下るらしいぞ。最初は西急へ行くつもりだったのが、国井がいなくなって、橋《ブリツジ》がなくなったので、中台へ乗り換えた。そのための手《て》土産《みやげ》に……」
「中台から、だいぶ賄賂《わいろ》が、門脇へ贈られたということだ」
「定年前に地位を悪用してがっぽり貯《た》めて」
「審議会全体にも、かなりの金がばら撒かれているそうだ」
「何しろ槍ケ岳の利権は莫大だからな」
「役人はいいね」
「地位でがっぽり儲《もう》けたうえに、サラリーマンが一生かかってもたどり着けないような要職へ天下る」
噂は、たちまち尾ひれをつけて業界筋や関係者にひろまった。こうなってくると、審議会も、迂闊《うかつ》に中台に許可できなくなった。
暗い噂が流れている折りから、中台に許可すれば、企業との腐敗した癒着《ゆちやく》を疑われる。だれも自分の保身のリスクを冒してまで、中台に肩入れする義理はなかった。こうして、せっかくかたまりかけていた審議会の意向が、また曖昧《あいまい》になってきた。福祉省から委嘱を受けた委員の中には、痛くもない腹をさぐられるのはいやだといって、オリる者も出てきた。
これまで、大勢に圧《お》されて抑えられていた反対派が、これをきっかけにふたたび勢いを取りもどして、猛烈な反対運動《アンチ・キヤンペーン》をくりひろげはじめた。
黒い噂は、反対派によって増幅され、さらに広い範囲にわたって流布《るふ》した。いったん禁忌の檻から出された謀略のビールスは、檻を開けた当人にもどうにもできないほど、それ自体の勢いで激しく増殖し、蔓延《まんえん》した。
「まずいな、大いにまずい」
社屋最上階にある特別会議室で、社長の増尾義明《ますおよしあき》は言った。テーブルの上を指で激しく叩いている。いらだっている証拠であった。
彼の前にかしこまっているのは、帝急の首脳陣である副社長、専務、常務の十人である。取締役会が有名無実化してしまったために、帝急の経営方針《ポリシー》は、その常務以上の役員によって構成される常務会によって決められる。帝急の事実上の意思決定機関であった。
しかしその常務会も、実は有名無実であり、最終決定は、常に増尾の意思によって定まるのである。長い時間をかけた会議も、増尾がノーと言えばだめであり、イエスと言えば、二、三分でも結論は出る。
増尾は、わが国の私鉄総合経営の代表的パターンを確立した創設者である。帝急の電車に乗せて、帝急のデパートで買い物をさせ、帝急のレジャーランドで遊ばせる。
沿線住民の金を帝急王国≠フ領土の中にがっちりととらえて、絶対に外部へ流出させない。
本業の私鉄を軸にして、バス、デパート、ホテル、映画館、遊園地、土地住宅開発など多くの関連企業を派生させて、沿線の徹底的な総合開発をはかった。
分家は分家を生み、子や孫がさらに独立していくように、系列会社はさらに系列会社をつくって、帝急王国はたくましい成長拡大をつづけている。
分家のいくつかはふるわず、途中で絶えたものもあるが、そんなものは、全体のたくましい伸長の中へ吸収されて、毛ほどの影響もない。
増尾は、そのたぐいまれな独創力と実行力とを駆使して、東京の片隅を細々と走っていた帝急を、日本私鉄界の雄に仕立て上げた。
日本の私鉄が、本業の電鉄業を中核に、各種関連企業を総合経営するという、世界に類のない独特の経営パターンを採るようになったのも、すべて増尾の創始したものを見習ったのである。
増尾は名実ともに帝急の代表者であった。増尾というあまりにも強烈なキャラクターを首長にいただいたために、帝急は、また代表的なワンマン会社でもあった。
増尾の逆鱗《げきりん》に触れないことが、自分の保身につながる。そんな常務会は、当然、増尾の意を損わないようにした馴《な》れ合い万歳《まんざい》にすぎない。
増尾は口ぐせに、
「もう二、三人、おれくらいの人材がいれば」
と嘆く。だが、それは本当に嘆いているのではない。自分の打ち建てた帝急王国に、自分に比肩すべき人材のいないことは、とりもなおさず自分の王者たる身分を確認することであり、彼を最高にいい気分にさせているのである。
取巻きの役員連は、そのことを十分に知っていた。だから彼の優越感をくすぐり保証してやるために、常に増尾より数枚役者が劣ることを示してやらなければならない。
ひとかどの人材にはちがいない増尾も、立志伝中の人物に多い、「お山の大将意識《リーダーシツプ・コンプレツクス》」の弊から脱けきれなかった。
とにかくいまその大将が、最高に機嫌が悪い。こういうときは、みなひたすら頭を下げ、身を竦《すく》めて、低気圧が通過するのを待つのが、いちばん安全であり、賢明なやり方である。
「門脇と、中台の個人的つながりを指摘したまでは上出来だった。だが、賄賂をやったというのは行き過ぎだ。そんなデマを流せば、審議会がどうなるかわからなかったのか」
とどなりつけられて、一同声も出ない。
「中沢」
増尾が営業担当の常務の名前を呼んだ。最近平取りから昇格した男である。
「はっ」
中沢は縮めていた身体をさらに竦めるようにした。
「今度の工作をしたのは、おまえだろう」
「はい」
「このくらいのことがわからなかったのか!?」
「はっ、まことになんとも……」
中沢の額には脂汗が浮いている。それに反して他の役員たちは、増尾の雷がひとまず脇へそれたのを悟って、ややホッとした表情である。
「うちとしては、中台に傾いた審議会の意向を、こちらへ挽回《ばんかい》できればよかったのだ。審議会にも金がばら撒かれているような噂が広まれば、福祉省としても迂闊に許可できなくなる。審議会が反対となったら、元も子もなくなってしまうぞ」
「なんとも申しわけありません。しかし、審議会に金がばら撒かれたとは流さなかったのです」
「馬鹿!」
咽頭部《いんとうぶ》が見えるほど大口をあいてどなられた中沢は、あたかも感電したように身体をブルッと震わせた。対岸の火事でも見るようにいくらか緊張を弛《ゆる》めていた他の役員も、身体を緊《かた》くした。
「噂というものには尾ひれがつくに決まっているではないか。きさま、常務になって、そんなこともわからなかったのか」
「はっ、それがそのう……まことに、つまり、中台の追い落としにばかり懸命になっておりましたので」
「それでどうするつもりだ?」
増尾は中沢のしどろもどろの弁明は聞かずに、一直線に追及してきた。
「ともかく、噂をもみ消してみます」
「そんなことができるとおもうのか」
「はっ、とにかくやってみないと……」
「金がかかるな」
「申しわけありません」
「警察にでも動きだされたら、もうどうにもならんぞ」
「警察が……?」
「鈍い男だな。審議会に金がばら撒かれたとなれば、れっきとした贈収賄事件だ。二課が動き出すかもしれん」
「しかし、もともと謀略のためのデマですから」
「だから鈍いと言うのだ。警察が動いているというのに福祉省が許可するとおもうか。中台の独走を阻止したのはけっこうだったが、せっかく許可に傾いていた審議会を反対へ転じてしまっては意味がない。おまえがやったことは、多少うちにも残されていたチャンスを、根本から摘み取ったことになるんだ。この責任は重大だぞ」
増尾に面詰されて、中沢は一言も反駁できなかった。
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アリバイ自動再生機
弓場久彦のアリバイが成立したために、捜査線上に浮いた最も有力な容疑者は消えてしまった。捜査本部を覆った沈滞は、絶望的ですらあった。
残るは村越順也のセンだけである。しかし、彼のアリバイは、動かしがたい。神奈川県の厚木に午前二時以降確かにいた人間が、同じ時間帯、赤坂のマンションに立てるはずがないのだ。
「国井弘の死亡推定時刻は、午前二時から一時間、死体に何かトリックを仕掛けて、時間をごまかしたという痕跡はない。
死体の執刀は、ベテランの法医があたった。彼が鑑定した死亡時刻は信頼できる。だが、弓場が犯人でなければ、他に村越以外は考えられない。
流し、薄鑑のセンは、何度も重ねた捜査によって完全に打ち消されている。国井に対して動機をもっていた者は、弓場と村越以外にはない」
辻刑事は、弓場が容疑圏外へ去ってから、この問題を頭が痛くなるほど考えた。もともと村越のことは、彼の意識の底にずっとオリのように澱《よど》んでいた。
山路といっしょに、厚木まで石井を当たりに行った彼は、あまりにも村越にとって都合よくできていたアリバイに対して、ひっかかるものがあった。
午前二時、村越は眠っている友人を叩き起こして、かねてより約束していたトランジスター・ラジオを贈った。そのときスイッチを押したら、ちょうど午前二時からの音楽番組がスタートした。
あたかも同じ時間に、国井の死亡推定時間ははじまるのである。なんとしてもうまくできすぎていた。
だがそこに弓場という強力な動機をもった容疑者が登場したために、村越はその背景に隠れてしまった。
「ヤマさん、あのトランジスターに何か仕掛けられないでしょうか?」
辻は、コンビの山路部長刑事にたずねた。
「あのラジオには、仕掛けなどなかったよ」
「しかし……」
「石井は嘘をついていない、ラジオには仕掛けはない。やつのアリバイには隙がないのだ」
「村越のやつ、なんだって午前二時なんかに、石井の家へ行ったんでしょうね?」
「そこだよ、いちばん臭いのは」
「あのしわんぼの石井の家なんかに寄ったって、ちっともおもしろいことはないだろうに」
「石井がラジオをもらいたくて、村越のところへ来たとき、口実をつけてやらなかったのも、考えてみればおかしいな」
「臭いことばかりですよ。ぼくは、どうも村越が本ボシのような気がしてなりません。東名高速へ乗って厚木まで来れば、そのまま東京まで、直線に飛ばしてしまうのが、普通です。可愛《かわ》い子ちゃんでもいるならとにかく、どう考えても石井では、午前二時にわざわざ寄るほど魅力ある相手じゃありませんよ」
「ラジオをやるために行ったのかもしれない」
「それにしても、もっと早い時間にすべきでしょう。わざわざ物をやるために、午前二時に寄り道したのは、不自然です」
「不自然かもしれないが、完璧なアリバイだ」
「完璧すぎます。まるで、犯行時間を犯人と打ち合わせでもしていたように、どんぴしゃりのアリバイをもっている」
「だからといって、彼を本ボシと決めこむのは、早計かもしれんぞ」
「どうしてですか?」
慎重な山路の口調に、辻は不満そうな声を出した。
「村越の動機と言われているものを、よく考えてみよう。村越は仕事の面で、国井と競争すると同時に門脇の娘も争っていた。仕事と恋愛のトラブルと見られたわけだ」
「そのとおりです。十分な動機だとおもいますが」
「しかし、その点に関するかぎり、弓場も同じ立場にいたわけだ。国井を殺したところで、必ずしも、自分が国井の優位を継ぐとはかぎらない」
「村越は弓場よりも優位に立っていたのでしょう。国井さえ排除すれば、彼のお株はすべて自分にまわってくるという自信があったんじゃないですか。そして結果はまさにそのとおりになった」
「ビジネスと恋愛をそんなにはっきり予測できるものだろうか? もし予測できなければ、結果のはっきりしないものを目的にして、殺人を犯したことになる」
「こういう考え方はできませんか?」
「どんな考え方かね?」
「国井殺しの疑いを、弓場にかけるように仕組んだのではないかと」
「なるほど」
「弓場が国井殺しの責任を負ってくれれば、確実に国井のお株は、村越へまわってくる」
「おもしろい見方だ。しかしそのためには、村越は弓場のスキャンダルや、弓場の妹が国井に殺された≠ニいう事情を知っていなければならない」
「知っていたかもしれませんよ。村越、弓場、国井の三人は、たがいにライバル同士ではあっても、同じ大学の出身者で、個人的なつながりも深いようです。それだけの事件をおこしていれば、知っていたとしても、不思議じゃありませんよ」
「上役の細君との浮気の件は?」
「弓場の動機が強いことを知って、彼に嫌疑を着せようとおもいたったころから、弓場の身辺を探っていたかもしれません。国井殺しの罪を着せようとしても、完全なアリバイがあっては、なんにもなりませんからね」
「すると、かなり以前から犯行を計画していたことになる」
「まさにそのとおりだと思います。トランジスター・ラジオの件を見ても、練り上げた計画性が感じられます」
「しかし、結局は弓場にアリバイが成立してしまったじゃないか」
「その点が村越の巧妙なところだとおもうのです。弓場のアリバイの証明者を、情事《スキヤンダル》の相手《パートナー》にすれば、弓場は自衛のために、その証明者《パートナー》を隠さざるを得なくなる。またそのパートナーが露《あら》われて、アリバイが証明されたときは、彼がエリートの地位から失脚し、門脇美紀子をめぐる競争から落伍するときです。
上役の細君と不倫の関係を愉《たの》しんでいたことがバレては、確実に美紀子にプロポーズする資格を失います。どちらに転んでも村越にとって有利になるように計算してあります。そして事実は、まさにそのとおりになったわけです」
「村越が犯人だとすれば、実にうまく組み立てられてあるな」
山路は辻の意見にだいぶ傾いてきた様子である。だがそれにしても、村越のアリバイは不動であった。
残されたたった一人の容疑者。だがその前には、堅固なバリケードが築かれてあった。
下田は赤坂見附から地下鉄に乗った。新橋で国電に乗り換えて、埼玉県のW市にある自宅へ帰るためである。警察官は、勤務地の都道府県に住むのが原則であるが、住宅事情から通勤可能な範囲であれば、例外が認められる。
彼もその例外組の一人だった。ラッシュをずれていたので、車内に空席はなかったが、新聞を広げて読める程度に空いていた。
彼は吊皮《つりかわ》にぶらさがって、ぼんやりしていた。こんな放心状態のときに膠着《こうちやく》した事件を打開するヒントを得ることがあるものである。
だが今日の彼は、少し疲れすぎていた。全身に疲労が澱《よど》んで、動きが重い。背筋や関節にも鉛がつまったようだ。頭が灰色にかすんでいて、目やにがやたらに出る。瞼《まぶた》がぴくぴく震える。ここのところ寝不足がたまっていた。そのうえ、ろくな食事もしなかったので、栄養状態もよくない。
「刑事は身体が資本だから、少し大切にしなければ」とおもうのだが、本部の人手不足の中に重要な戦力として投入されると、無理を承知で動いてしまう。
ひととき刑事部の中では「マンコロ」という言葉がはやった。定年満[#「満」に傍点]期になると、コロリと死ぬという意味である。しかし最近のように凶悪犯罪が続発すると、強行犯捜査の刑事は定年前[#「前」に傍点]にコロリといく「マエコロ」勤務と言ってもさしつかえないほど、ハードな捜査活動に従事しなければならない。
「マエコロか」
下田は地下鉄の吊皮に両手を通して、ぶらさがりながら苦笑した。このようにぶらさがっていると、格好は悪いが、体重が支えられて、多少楽なのである。
若い下田は、まだ定年を考えたことはない。ハードな毎日も、若い体力が消化吸収した。だが捜査が頓挫《とんざ》して、本部が沈滞ムードになると、体の芯に沈澱していた疲労がいっぺんに噴き出してくるのだ。
彼が、がらにもなく、マンコロやマエコロを連想して、苦笑したのも、捜査が、はかばかしく進まないせいである。
彼の前の網棚《あみだな》にチョコレート色の合成皮革製らしい書類かばんが無造作に置かれてあった。その下の座席で熱心に雑誌を読んでいる男のものらしい。
虎《とら》の門でサラリーマン風体の男が四、五人、がやがやと乗り込んで来た。その中の一人が手にしたかばんを、下田の前の網棚にポンと放り投げて、そのまま仲間たちとの雑談にもどった。
なにげなく網棚を見上げた下田は、下車するときにまちがえなければよいがとおもった。そこにはまったく同じ色と形をしたかばんが二つ並んで載っていた。
雑誌を読んでいるのは左、虎の門から乗ったサラリーマンのは右に、仲良く並んでいる。おそらく大量に市販されている同じメーカーの製品なのであろうが、こうやって二つ並んでいると、どちらがだれのか、まったく見分けがつかない。
最初から見ていた下田には、二人の持ち主の使用度に応じたかばんの痛み方とその位置から、二つの微妙なちがいがわかるのだが、いきなり突き出されたら、見分けられない。
やがて電車は新橋に着いた。雑誌を読んでいた男が立ち上がった。慌てて網棚からかばんを取る。下田が案じていたとおり、彼は右のかばんを取りかけた。彼のかばんは左のほうなのである。だがすぐに手ざわりのちがいから気がついたらしい。「いけない」と舌打ちしながら、右のかばんを網棚へもどし、左の自分のかばんを取った。
右のかばんの持ち主は、危うく自分のかばんが取りちがえられかけたことも知らずに、仲間たちと競馬の話に夢中であった。
他人事《ひとごと》ながら、下田もややホッとして下車した。よく電車の中で目にするごくありふれた光景であった。網棚に無造作に投げ上げておくくらいだから、どうせ大した物は入れていないのであろう。
国電に乗り換えて、地下鉄よりも少し混んできた車内から、窓を流れ去るネオンにとりとめもない視線を向けた下田は、すでにその小さな事件を忘れていた。
電車は東京からかなり混んできた。新たな群衆にもみしだかれて、下田の疲労は、さらに倍加されたようである。もう地下鉄の中でのように一人で二つの吊皮を占領することもできない。一人で二つどころか入口の近くの吊皮には、数本の手がしがみついていた。
網棚にも乗客の手荷物がぎっしり載っている。
「チョコレート色のかばんはないな」
ネオンから網棚へ目を移した下田は、先刻の「かばんとりちがえ未遂事件」をなにげなくおもいだした。
灰色にかすんだ頭脳に、何かが閃《ひらめ》いたように感じたのは、その瞬間である。
「あっ」と嘆声をあげた彼は、一瞬にして消えた閃光《せんこう》の行方《ゆくえ》に瞳《ひとみ》を凝《こ》らした。何かが解けようとしていた。視野を厚く閉ざしていた霧が、日光を浴びて、晴れる寸前の躍動をはじめようとしている。
〈トランジスター・ラジオが午前二時からの番組をはじめた。トランジスターそのものには、仕掛けはなかったが、要するにいくらでもありふれた規格品だ。ここにトリックはないか?〉
――しかし、Aのラジオで午前二時から放送をはじめた番組は、Bのラジオでも二時からのはずだ――
動きはじめた霧は、また厚かった。だが流動していることは、確かである。
電車は神田を過ぎて、秋葉原に近づいた。
「秋葉原は、電気器具の問屋が集まっていたな」
おもうより早く、下田は、ドアに向かって人波を分けた。駅前の、最も大きそうな問屋のビルへはいった下田は、トランジスター・ラジオの売り場をたずねた。
二階だとおしえられて、階段を上った。テレビやステレオの売り場の奥に、目ざす売り場はあった。
「いらっしゃいませ」と、にこやかに迎えてくれた店員に、下田は、ラジオの種類によって、番組の放送時間が変わることはあるかとたずねた。
「局が変われば、時間も変わりますけど」
店員は怪訝《けげん》な表情で答えた。
「そうじゃないんだ。同じ放送局から同じ時間に放送したものが、ラジオの種類や、メーカーのちがう製品によって、聞こえる時間がまちまちになるようなことはないだろうか?」
「よく意味がわかりませんが」
「たとえばだね、ここにある東芝のラジオで午前二時に聞いた番組が、ナショナルのラジオでは午前三時に聞こえないかということなんだがね」
下田はいらだつ心を抑えて説明した。何しろ質問が突飛なので、自分にはよくわかっていても、なかなか相手に通じない。
「再放送番組ですか?」
「いや再放送とはかぎらない。同じ時間の番組がだよ」
「同じ時間の番組が、ラジオによってべつの時間にですか!?」
ようやく店員は、下田の質問の趣旨がわかったらしい。
「そうだよ」
「そんな馬鹿なことは絶対にありません」
店員は、理解すると同時に、容赦のない口調で否定した。
「絶対にないだろうか?」
「あり得ませんね。東芝で聞いた一時のニュースは、ナショナルやソニーで聞いても、一時ですよ」
妥協の余地はなかった。
「一時のニュースを、二時三時に遅らせて聞くことはできないだろうか?」
「そりゃ録音すれば、何時にでも聞けますよ」
「録音以外の方法ではないだろうか?」
「ぼくの知る範囲ではありませんね」
最初は愛想がよかった店員が、しだいに突慳貪《つつけんどん》になった。他にも客がいる。買う気配も見せずにナンセンスな質問ばかりしている下田にいつまでもつきあっているほどひまではなかった。
石井が聞いた番組は録音機からではなかった。確かにラジオの本体から発せられたものである。
「ラジオにわからないように録音機を仕掛けられないだろうか?」
「そんな面倒なことをしなくても、カセットが組み込まれているラジオがありますよ」
「しかし、それはその分だけ大きくなるんだろう」
「いえ、大して変わりませんよ。最近は技術が発達していますからね。外観は、普通のトランジスター・ラジオと大して変わりません」
「外観は大して変わらないって!」
下田の声は、おもわず大きくなった。ラジオと録音機が一体になっているものがあるということは知っていたが、それは当然、普通の機種の二倍のサイズになると考えていた。
「ここに実物があります」店員はディスプレーされている機種の一つを指さした。
「これが、ラジオとカセット共用のものです。スイッチ一つで、録音もできれば、ラジオに切り換えもできます。たとえば聞きたい番組を、都合が悪くて聞けないときは、それを録音しておいて、自分の好きな時間に再生して聞くことができますよ」
「ラジオからのナマの音と、再生音は、聞き分けられますか?」
「そうですね、音域が多少変わるでしょうが、まず耳には同じに聞こえるでしょうね」
「もしあなたが、ラジオ・カセットレコーダーから、再生音を、ナマの音だと言われて聞かされたらわかりますか?」
高性能のアンプやチューナーからのサウンドに、いかにも鍛練されているように見える店員は、
「まず無理でしょう」と、首を振った。
その店員の言葉は、いまどんなムーディなサウンドよりも下田に快かった。下田の目は改めて、展示棚に鈍い光沢を放っている普通機種と、ラジオ・カセットレコーダー共用の機種に注がれていた。その背後に、つい少し前、地下鉄の中で見かけた、二つのチョコレート色のかばんがオーバーラップしていた。
「村越のやつ、二つのラジオを用意していたのにちがいありません。まず石井に最初に見せたものが録音装置を組み込んだもので、寝呆《ねぼ》け眼《まなこ》の石井に、午前二時からの音楽番組の録音したものを聞かせたのです。石井が聞いたのは、番組のナマの音ではなく、録音の再生だったのです。それを、ラジオの本体から聞こえてくるものだから、ナマの放送だと錯覚してしまった。だから彼がそれを聞いたのは二時より後のはずです」
「すると、最初村越がやったのは、ラジオとカセットレコーダーのあいの子で、朝までの間に、ラジオだけのものとすり替えたというわけか?」
「そうです。石井も外観が似ているものだから、まんまと騙《だま》されてしまったのでしょう。ラジオに録音機を仕掛けたのではなく、ラジオの中に録音機が内蔵されていたのですね。まさか二つのラジオがあったとはおもわないから、騙されてしまいました」
那須警部に報告する下田刑事の声は弾んだ。解けてみれば、なんでもないトリックだった。だが石井に当たったとき「たしかにラジオから聞こえてきた番組だった」という断言に、そのラジオがすり替えられたものかもしれないという想像が阻《はば》まれた。
たとえその想像があたったとしても、ラジオ受信機だけのものと、それに録音装置が内蔵されている機種が、外観《サイズ》が相似しているという連想は、実物を見ていないだけに困難であった。
「村越は、石井をトリックにかけるために、何度も予告をしておきながら、すっぽかしたのです。はっきり目を覚ましているときでは、機種のすり替えができないし、すり替えを見破られてしまいますからね」
「真夜中の熟睡中のところを叩き起こして、寝起きの朦朧《もうろう》としたところに、ラジオのスイッチを押して音楽を聞かせる。実は録音の再生だが、外見ラジオとそっくりのあいの子[#「あいの子」に傍点]から聞こえてくるから、ナマ放送だとおもいこんでしまう。うまいことを考えやがったもんだな」
横渡が猿面をしかめて感心した。録音であれば、何時の番組であろうと、好みの時間に再生できる。村越がその再生を石井に聞かせたのは午前三時か、あるいは午前四時ごろかもしれないのである。
要するに暗いうちなら、寝呆け眼には何時でも同じ時間に印象される。
「ちょっと待ってくれ」
那須が待ったをかけた。
「石井がそのとき時計を見れば、簡単にバレてしまうじゃないか」
「そのことは調べました」辻が言った。
「後でもう一度石井に当たったところ、石井は、掛け時計も目覚まし時計も持っておりません。腕時計を持っているだけですが、それも枕元に置いておかない習慣です」
「サラリーマンにしてはおかしいね、それでよく会社を遅刻しないもんだ」
「石井は神経質で、時計の秒針の音がすると、眠れないんだそうです。腕時計の秒を刻む音さえ気になるので、掛け時計や目覚まし時計はもちろんのこと、腕時計も枕元から遠く離れた場所へ置くそうです。それでも朝は定時に目が覚めるから、不便は感じないと言ってました」
「なるほど、もう一つ疑問がある」
「なんでしょう?」
「石井という男は、なかなかがっちり屋らしい。そのがっちり屋が、かねてほしがっていたラジオを贈られて、ほしいオモチャをもらった子供のように大喜びでもてあそんだら、すり替えは難しくなるだろうが。もし石井が共用《あいのこ》ラジオだということに気がついたなら、もはや絶対にすり替えられないだろう」
「その点も石井に確かめてきました」
辻は、下田の発見によって、手まわしよくウラを取っておいたらしい。
「ほう!」
「村越は、エンゲルの歌を二曲ほど聞かせたのち、『あとは明日の楽しみにしておいて、今夜はもう寝よう、もう二時すぎだからな』と言って、元どおり箱の中へ入れてしまったそうです。だから石井はお土産《みやげ》をもらった子供が、それを包みのまま枕元へ置いて寝たような気分だったと言っておりました」
「村越はそのときにも、二時だということをそれとなくにおわせたんだな」
「まったく抜け目のないやつです。どうでしょう。これで村越のアリバイは完全に崩れました。警部、すぐに逮捕状を取ってください」
「待て待て」
那須は、はやりたつ部下を手を上げて制した。
「石井は、ラジオがすり替えられたということを認めたのかね?」
「いえ、それは認めてはおりませんが、同一のものだとは断定できないと言いました」
「ということは、同一のラジオではないかもしれないし、同一のラジオであったかもしれない」
「そ、そんな!」
「いいかね、確かにラジオが二つあった可能性はある。だが石井が確認していないかぎり、われわれの推測にすぎんのだ。下田君、きみの着眼は見事だ。だが確かにラジオが二つあったという証拠のないうちに、村越と対決することはできない」
那須の慎重論は、せっかく気負い立っていた部下に水をかけることとなった。だが逮捕状の請求権者の那須としては、当然の意見である。
容疑者は、自分が確かに罪を犯さなかったという証明をする責任はない。罪を犯したことの証明をする責任は、警察側にある。
犯罪を為《な》した確証、あるいはそれを為したと疑うに足りる相当の理由を疎明《そめい》できたときに逮捕状が下りるのである。
「村越が二つラジオをもっていたことを証明できたとしても……」
河西が口を入れた。
「それが果たしてすり替えに利用されたかどうかは、わからないでしょう」
河西の意見は、那須の慎重論に輪をかけたものである。
「いや、普通のラジオと外観が似通っている共用《あいのこ》ラジオを彼がもっていることが証明されれば、相当強い情況証拠にはなる。逮捕状を取れる可能性はあるよ」
今度の那須の口調は自信があった。だが、問題が解決されたわけではない。村越が、二個のトランジスター・ラジオをもっていたことの証明は、ほとんど困難であった。
これだけ周到な計画をした人間が、自分の命取りになるような物証を、いままで身辺に置いておくはずがないからである。
それを買った電気器具店関係からの捜査も絶望的であった。劇薬や銃器と異なり、だれでも自由に購入できるごく日常の品物を、その販売先から探っていくのは、雲をつかむような作業である。
しかも、村越がもっていたと推定される共用ラジオのメーカー名も、製品ナンバーも、いっさいわかっていない。この方面からの捜査は、まったく絶望であった。
村越のアリバイは理論的には崩れた。だがそれはあくまでも、理論的[#「理論的」に傍点]にであって、彼の逮捕にはつながらない。
一つの障壁をつき崩すと、その背後に、さらにそれよりも高い障壁が聳えていた。
「ともかく村越から目を離すな」
捜査本部の厳しい目は、改めて村越順也のまわりに集中した。
ラジオのセンからたぐるのは絶望であっても、何か他にシッポを出すかもしれない。
だがそのとき、村越は捜査陣の方針を見透かしたように、忽然《こつぜん》としてその行方を晦《くら》ましてしまった。捜査本部は、いやな予感をもった。
[#改ページ]
犯人のない犯罪
「何、村越がまだもどっていない!」
電話を受けた那須警部は愕然《がくぜん》として席から立ち上がった。
「今日は会社に出勤していないので、中野のほうの下宿をあたったところ、昨日の朝、出たまま帰らないということです」
現場から電話で報告してくる畠山刑事の声も、緊張していた。村越が昨日会社に定時までいたことは、確認されている。下宿にもどらないとすれば、退社後どちらかへまわったのであろう。
独身の若い男が、一晩ぐらいねぐらへ帰らなかったからといって、何も騒ぎ立てることはない。
だがラジオのすり替えトリックを見破って、村越のアリバイが崩れかけたときだけに、たった一晩の行方不明でも、大いに気になった。
「彼の部屋の様子はどうなんだ? どこかへ旅行した気配でも残っていないか?」
彼が何泊かの旅行へ出たのであれば、衣類や旅行用具がもちだされているはずだ。もっともそのような品物がもちだされていたとしても畠山には見分けがつくまい。
「部屋の内部は散らかしほうだいで、カメラなども残してあります。管理人に聞いたところ、昨日の朝出るときには、とくに旅行へ出かける様子は見えなかったそうです」
村越に、会社から突然出張を命じられた事実はなかった。ということは、彼は昨日、会社から退社したまま、気まぐれにどこかへ外泊したという情況なのである。
「車は?」
「数日前に軽い事故を起こして、修理工場へ入れてあります」
「管理人には、なんの連絡もないのか?」
「ありません。管理人もいるにはいますが、家賃の徴収だけが仕事で、居住者の私生活にはまったくタッチしないのだそうです」
「外部から村越あての電話などはこなかったのか?」
「各部屋直通電話付きですからね、たとえあったとしても、管理人には、まったくわかりません」
どうやら管理人が電話の取次ぎをする、庶民的なアパートを想像しているらしい那須に、畠山は説明調になった。
「よしわかった。ご苦労だが、きみはもう少しそこに張り込んでいてくれ。私は、村越の会社のほうへ行ってみよう」
那須は、送受器を置くと、腕時計を覗いた。午前十一時を少しまわったところである。メートルの上がるにまかせて、どこかへ沈没した独身社員が、頭をかきかき、脹《は》れぼったい目をして出勤して来る可能性の残っている時間であった。
村越のアリバイトリックを下田が見破り、石井などに裏づけ捜査をしたのち、捜査会議にかけたのが、昨夜遅くである。
そして今朝、彼のマンションをそれとなく当たったところ、昨夜は帰って来ないということがわかった。ほぼ同時に会社のほうを当たったが、昨日退社したまま、出勤時刻になっても、村越の姿は現われない。
彼が捜査本部の動きを察知するはずがなかった。また万一察知したとしても、ただちに逃走をはかる必要はない。
時間は刻々と経過したが、村越は現われなかった。もちろんなんの連絡もこない。会社では、村越は几帳面な男で、過去遅刻をしたことはないという。
那須は、いやな予感がしてならなかった。彼は以前にも、これと似たような経験をもっている。
神田の中台興業の東京支社へ駆けつけると、すでに先行していた草場や河西が待っていた。
「どうだ?」
「まだです」
二人は首を振った。最初の間は比較的イージーに考えていたらしい二人も、時間が経過し、聞込みを累積《るいせき》するうちに、次第に事態を重視してきた。
「で、どうなんだ?」
「村越が退社したのは、昨日六時ごろ、規定の勤務時間が、午前九時半から五時半までだそうですから、ほぼ定時の退社です」
「それで退社するとき、何かいつもと変わった様子はなかったかね?」
「とくに変わった様子もなかったということです。ただ――」
「ただ、なんだ?」
「いつもよりちょっと嬉しそうだったそうです」
「嬉しそうだった?」
「同僚が、デートですか? とひやかすと、ご想像にまかせるよと、いそいそと出て行ったんだそうです」
「いそいそとね」
那須は目を半眼にして、あごを撫《な》でた。
「村越が、いそいそとしてデートする相手は、だれだろう?」
「門脇美紀子でしょうか?」
「ほかにもいるかもしれないが、目下、最も熱くなっている女は、美紀子だろうな」
「国井が死に、弓場が去ったので、最近村越はかなり門脇美紀子に接近しているようです」
「美紀子へ電話を入れて、昨夜、村越といっしょにいなかったか、確かめてくれ。若い女のことだから、聞き方に注意してな」
「わかりました」
河西が電話のほうへ走った。本来なら美紀子への問い合わせは、もっと早く行なうべきであった。
だが、村越が美紀子との距離を縮めたのは、つい最近のことである。国井が殺され、弓場が去ったために、競争者がなくなった。
それまでは国井に近かった美紀子が、彼の死後、村越と夜をすごすまでに変節したと、那須たちが推測するには、やはりこのくらいの時間が必要だったのである。
それに美紀子の清潔なイメージも、この推測を阻んでいた。結婚前から男と爛《ただ》れた夜をすごすような女には見えなかった。婚前に愛する恋人に身体を捧げることは、爛れた情事とは異なる。
だが村越が消息を消してすごした夜を、爛れた情事に結びつけて考える刑事たちは、すでに彼を容疑者として見ている先入観があった。
間もなく河西が電話からもどってきた。
「美紀子は知らないそうです。なんでも昨日から父親が旅行へ出かけたとかで、昨夜は親戚《しんせき》の家へ泊まったんだそうです。これからその親戚にも当たってみますが、まんざら嘘でもなさそうな口ぶりでした」
「いまどきの若い娘の言うことは信じられないが、いちおう信用しておこうか。まあ、昨夜は男と寝ましたと、正直に言う娘もいないだろうがね。それにしても美紀子が家にもどっているんだから、昨夜彼女とデートしていたのなら、村越も姿を現わしてよいはずだ」
「逃《ふ》けたんでしょうか?」
草場が心配そうな顔をした。
「フケるのに、いそいそと嬉しそうな顔をするかね? それにフケるんなら、なにも定時の退社時間まで待つ必要はないだろう」
「それもそうですね」
「会社や友人たちに聞いて、村越の立ちまわりそうな先を当たってみてくれ」
那須は指示を下した。草場、河西をはじめ本部の人間は、村越の立ちまわり先を追って八方に散った。
しかし刑事たちの手分けしての捜索も空《むな》しく、村越の消息はどこにもなかった。彼からの連絡もいっこうにはいってこない。那須の不吉な予感は次第にふくれ上がるばかりであった。
川崎市というと、「公害の町」というイメージが大きいが、これは東京湾に面した市の南東部のことである。多摩川の右岸に沿って南東から北西に細長く、その北西部は多摩丘陵の起伏と緑に富んで実に美しい。
空に煤煙《ばいえん》はなく、小鳥は多く、水は澄んでいる。
これが同じ川崎の市域かと疑われるほどに、自然の恩恵に恵まれている。特に春から新緑のころにかけて、この一帯を歩くと、改めて、川崎という土地のよさを再認識するであろう。
美しい土地の三要素として、水と緑と起伏がある。これらのどの一つが欠けても、自然はその造形の魅力を半減する。川崎北西部は、この三要素のすべてを備えている。
晩春から新緑にかけて、北西部の丘陵のどこかの一角に立ってみよう。丘陵の下に水と緑と白い街道をくねらせた谷地《やち》があり、その向こうに幾重にも尾根がたたなわる。尾根の緑を遅咲きの桜のうすいピンクや、レンギョウの濃い黄色が彩《いろど》る。晴れた日は、空の真芯《ましん》が青く澄み、尾根のかなたは春霞《はるがすみ》にけむってなんとものどかだ。
どの道へ歩み行っても、車のはいり込まない街道の風情《ふぜい》がある。道はすべて曲線で構成され、途中の家は、雑木林に囲まれて斜面に立つ。鶏が啼《な》き、豚が鼻を鳴らし、牛が鳴く。犬の吠《ほ》え声が増えたなとおもうと、急にぽっかりと視野が開けて、不動産業者が造成したらしい新興住宅地の、都会的な小住宅の集落の中に出るのだ。
川崎市|生田《いくた》地域――小田急線生田駅と、読売ランド前駅のちょうど中間を南へ一キロ足らず下ったあたりに公園墓地|春秋苑《しゆんじゆうえん》がある。
この春秋苑が、このあたりの最高所になっていて、周囲の多摩丘陵の全景が見渡せる。
もともと丘陵地だったところを、ブルドーザーで造成して墓地にしただけに、自然を機械力で歪《ゆが》めた無理が、雨が降ればいまにも崩落しそうな崖《がけ》や、付近の住民から「万里の長城」と危惧《きぐ》されているそそり立つ石垣となって、自然の傾斜を人為的に刻んだ痛ましい傷痕として残っている。
春秋苑の北面のはずれにも、こんな崖がある。造成墓地の侵略に必死に耐えている凹地《くぼち》の田圃《たんぼ》に、押しかぶさる崖は、機械力が無惨にひきちぎった自然のひきつれのように見える。
だがこれは、以前からある自然の崖で、いまにも崩落しそうに見えながら、星霜《せいそう》に耐えた強度をもっていることを、地元の住民は知っている。
この崖の落差があまりひどいために、貪婪《どんらん》な業者も造成をあきらめた。おかげで、人工的な公園墓地のかたわらに、辛うじてブルドーザーの蹂躙《じゆうりん》をまぬかれた凹みの田畑や、子供たちがオタマジャクシやドジョッコ、フナッコとたわむれられる水たまりを残した。
「カイジュウのアナへ行こうよ」
崖下の田圃の畦《あぜ》で、「ボッカン」と子供たちの称する小魚取りをやっていた腕白《わんぱく》の一人が言った。これは畦の中の水路を泥や石で堰《せ》き止め、中の水を掻《か》い出して、残った泥の中にもがいているフナやドジョウをつかまえるという、腕白たちの発明した、一種の簀立《すだて》@Vびである。
水田の水路を堰き止めてしまうので、おとなたちに見つかると、大目玉を食う。それだけに、禁じられた遊び≠ニしてのおもしろさがあった。
だが、今日は五、六人の腕白が全身泥まみれになって、ボッカンをしても、一匹もつかまえられない。頭上からは、すでに夏のような日光が直射してくる。凹地なので風も通らない。暑かった。
彼らは涼しい場所へ行きたくなった。腕白の一人が提案した「怪獣の穴」は、戦時中、付近の住民が崖の中腹に掘った待避壕《たいひごう》のことである。それがそのまま埋められずに残って、子供たちのよい遊び場となった。
崖に直線に掘られた単純なものから、奥の横穴によって連絡されているU字形のものやら、大小十近くうがたれた壕を、子供たちは怪獣の穴と呼んで、絶好の遊び場所としていた。
ところが最近は、アベックたちがこれに目をつけて、デートの場所に利用するようになったために、子供たちにはまことに好ましくない遺留品がある。親は困って、洞窟《どうくつ》遊びも子供たちに禁じたのであるが、遊びというものは、禁じられたものほどおもしろい。
「よし行こう」
「早く行こうぜ」
ボッカン遊びにだいぶ飽きていたほかの腕白たちはいっせいに賛成した。
子供たちがいちばん気に入っている怪獣の穴は、最も大きいU字形の洞窟《どうくつ》である。奥の横穴が長くて、外界からの光が届かず、ちょっと無気味な秘密めいたものを感じさせる。
そこが、アベックたちにも、最も居心地がよいとみえて、好ましからぬ遺留品が多いところである。
「あれ、だれか寝てるよ」
まっ先に飛び込んだ腕白が、奥の横穴で何かにつまずいた。
「アベックかな」
氾濫《はんらん》する直射日光の下に収縮しきった瞳孔《どうこう》は、同窟の暗闇《くらやみ》に順応しない。洞窟から逃げ出した腕白連は、入口にかたまって、こわごわと中を覗《のぞ》き込んだ。
彼らの中には、アベックが穴の中で「寝ている」ことの意味をすでに知っている早熟《ませ》たのがいる。おっかなびっくりの視線に、旺盛《おうせい》な好奇心が混じる。
「だれも出てこないぞ」
しばらく中の気配をうかがったが、シンと静まりかえったままだ。
「ほんとうにだれか寝てたんか?」
一人が疑わしそうな声を出した。
「ほんとうだよ、確かにグニャッとしたものにけっつまずいた」
最初の腕白がむき[#「むき」に傍点]になって言い返した。彼らの目が、だいぶ馴れてきた。
「犬か猫の死んだんじゃん?」
「そんなんじゃないよ、確かに人間みたいだった」
「もう一度はいってみよう」
彼らはひとかたまりになって、恐る恐る穴の中へはいった。
現代の子供はテレビの影響で、連想が早い。
「寝たまま踏まれても起きてこない人間」から、容易に恐ろしい連想をした。
恐怖で圧倒されそうになりながらも、それ以上の好奇心と、仲間同士のみえから、逃げ出せない。
「人間だ」
「男の人だぞ」
寝ているものの正体を確認した腕白たちは、横穴のすみに呪縛《じゆばく》されたように立ち竦《すく》んだ。
「死んでるんじゃない」
だれかがおもいきって自分の想像を言ったのが、少年たちの呪縛を解いた。耐えに耐えていた恐怖が限界に達した。
ワッとばかりに悲鳴をあげて、彼らは一目散に逃げ出した。
子供の親から、春秋苑崖下の洞窟に変死体発見の報を受けた小田急線生田駅前の派出所は、直ちに所轄の稲田《いなだ》署へ連絡すると同時に、現場保存のために春秋苑へ急行した。
連絡を受けた稲田署は、まだ自他殺いずれとも事情がはっきりしないので、とりあえず県警本部刑事課へ一報して、捜一係の刑事と鑑識を現場へ急行させた。
新緑のたけなわな平和な谷地は、たちまち警察関係者の運んで来た、ものものしい空気によって凍結した。
死体を視《み》た鑑識や刑事は、明らかにそれが自為によるものではないことを認めた。後頭部に鈍器で殴打《おうだ》されてできたらしい裂創がある。
懐中電灯の乏しい光を集めての観察であるが、後頭部に一見、鋭い刃物で切りつけたような切創《きりきず》に似た創傷が認められた。
だが、傷の縁《ふち》に沿って鈍器で殴られた特徴の細い幅の表皮剥脱《すりむけ》が見られる。傷の底の骨にも亀裂《ひび》がはいっているらしい。
このような形の裂創は、皮膚のすぐ下に脂肪や筋肉がなく、いきなり固い骨がくる場所を叩いたときにつくられる。成傷用器は棍棒か鉄材、鉈《なた》の背のようなものと推定されたが、現場周辺には発見されなかった。
死者の周囲には、倒れたはずみに、後頭部にそんな傷をつけるような固体、たとえば、岩とか、コンクリートのブロックなどはない。
殺人事件と確認されて、現場の緊張は、いやがうえにも高まった。
県警刑事部に第二報が送られる。いよいよ本部の捜査一課が出動して来るのである。
死者の身元を特に秘匿《ひとく》するような工作はなされていなかった。所持品の名刺入れや定期券などから、東京神田の中台興業の支社員、村越順也と確認された。
致命傷は、鈍器の殴打による頭蓋骨《ずがいこつ》の骨折と脳損傷である。創傷は四か所、犯人は被害者の後方から隙を狙って、棍棒のようなもので連打したらしい。第一打撃か二撃で倒れかかるのを一方の手で支えて、止《とど》めの意味でさらに打撃を加えた様子である。
腕時計のガラスが割れ、十二時三分まえで止まっていた。付近に倒れたはずみにガラスを割るような固い物体がないので、犯人の攻撃を防ぐときに、凶器にあたって割れたのか、あるいは、犯人が故意に割ったもののいずれかと考えられる。
その日のうちに行なわれた解剖の結果、死後経過時間は十二時間〜十七時間と鑑定された。すなわち五月二十六日午後十一時から二十七日の午前四時ごろの間に殺されたのである。腕時計の針は凶行の時刻を指すものと推測された。たとえそこに犯人の作為があったとしても、実際の凶行時刻から大きくずれていないことが、科学的に裏づけられたのである。
現場付近には国道二四六号線から、生田駅前で分岐《ぶんき》した二車線の直線道路が走っている。犯人は現場のすぐ近くまで車を使うことができた。
車の中で殺して、死体を現場まで運んだのか、あるいは言葉巧みに被害者を誘い出して、現場付近で殺したのかは、はっきりわからない。犯人の負担は、壕の近くで殺したほうが軽くなるが、深夜そんな場所へ誘い出す口実が苦しいはずである。
あいにくここ数日来つづいた好天気で、現場付近はよく乾いており、採取可能な足跡は認められなかった。県警捜査一課と、所轄署が協力しての綿密な捜索にもかかわらず、なんら遺留品を発見できなかった。道路寄りの畦にいくつかの靴の跡が見られたが、そこは近くにある住宅地の住人が近道として利用するところなので、それが果たして犯人のものかどうか対照することは、不可能であった。
犯人の手がかりになるような遺留資料は、何一つ発見採取できなかったが、被害者が、二月末、都内赤坂のマンションで発生した殺人事件の重要参考人≠ニわかるにおよんで、稲田署に設置された捜査本部の緊張は、にわかに増幅されたのである。
未解決のコロシの重要参考人が殺されたとなると、穏やかではない。だれしも、真犯人が事件の真相を知る関係者の口を塞《ふさ》ぐために、第二の犯行を重ねたという推測を、容易にもつ。
「もしかしたら、連続殺人事件か?」
稲田署と赤坂署との連絡がにわかに繁くなった。
村越殺害の報を受けた赤坂署では、一時、全部員が呆然とした。村越の行方不明と同時に不安な予感をもっていたが、こうも具体的な結果として発生してみると、それをどう受け止めたものか、困惑した。
「いったいだれが村越を殺《や》ったんだ?」
山路が宙をにらんでつぶやいた言葉は、全員の疑問でもあった。その疑問は直ちに、「だれが国井を殺したのか?」という疑問につながる。国井殺しについて、まず弓場が浮かび上がり、次いで村越が現われた。
村越のアリバイの作為が見破られて、彼の容疑がきわめて濃くなったところで、いきなり消されてしまったのである。決め手がつかめないために、「重要参考人」と呼んだが、彼の情況からして、部員たちは彼を本ボシとにらんでいたのだ。
その村越が消された。それではだれが犯人なのか? まずおもい浮かべられるのは、弓場である。だが弓場は国井殺しの容疑が晴れたばかりである。国井殺しを隠蔽《いんぺい》するために、事情を知っていたかもしれない村越を殺したのであればとにかく、その容疑が晴れたあとになってから殺したというのは、おかしい。
それとも何かほかに、べつの動機があったのか? それにしても、一つの殺人容疑から、やっと釈放された直後に、新たな殺人を重ねたというのは、なんとしても不可解である。
村越が殺されると、犯人がいない[#「犯人がいない」に傍点]のである。
――流しか?――
というセンが残されているが、人家から離れた墓地の崖下へ誘い出して(あるいは車内にしても)の犯行が、流しとは考え難い。
ともかく弓場久彦の五月二十六日夜のアリバイが当たられることになった。弓場の追及は、赤坂署と稲田署との合同捜査の形になった。
弓場は、すでに帝急を辞めていた。いや罷《や》めさせられていた。国井殺しの容疑が晴れた時点において、社籍を抹消《まつしよう》されていた。釈放されると、いったんそれまで住んでいた笹塚にある帝急の独身寮に帰ったが、間もなく寮を出ている。
それから先、どこへ行ったか不明であった。弓場の出身地は、群馬県の前橋《まえばし》市である。急行で一時間半ばかりの距離なので、稲田署から刑事が出張した。地元署を経由するのは、はがゆいのだ。
ところが前橋市の生家に弓場は帰っていなかった。家人が隠している様子はない。近所の人間にも聞込みをかけてみたが、ここ一年ほど弓場の姿を見た者はいなかった。
東京で殺人事件の容疑者として、彼が拘置されたというニュースは、すでに、土地の人間にも知れわたっている。県庁所在地とはいっても、他人のプライバシーが好奇心の対象になる閉鎖的な地方都市のことである。容疑が晴れて、釈放されたとはいえ、そんなところへ彼が帰って来ていれば、人々の耳目に触れぬはずはなかった。
弓場は帰省していなかった。もちろんなんの連絡もきていない。
「ぬれ衣が晴れたとはいうものの、上役の細君との浮気がバレて、会社を首にされたんでは、なまじ生地には格好いいところばかり見せていた手前、いまさらおめおめと帰れないだろう」
出張して来た刑事はおもったが、弓場の消息は、ぷっつりと断ち切られたままである。
ところがその消息は意外なところから現われた。弓場はなんと、警察の留置場にいたのである。新宿のバーで飲み、意気投合したホステスを、ホテルへ連れ込もうとして、宿泊を拒否された。カッとなって、ホテルのクラークを撲りつけた。そのうえ酔った勢いで、暴れまわってフロントカウンターのフェンスなどを破損し、ホテル側から、暴行・器物損壊などの現行犯で警察へ突き出された。
それが五月二十六日の午後十一時ごろのことである。弓場はそのまま所轄署の留置場に朝まで置かれた。朝になって酔いから醒《さ》めた弓場は、別人のように恐縮して、ホテルに陳謝し、損害を弁償したので、ホテル側と示談が成立した。所轄署も徴罪でもあり、本人が悔いているので、説諭しただけで釈放した。それが二十七日の午後三時ごろのことである。
村越順也の殺害された時刻は、五月二十六日の午後十一時から翌午前四時ごろまでの間である。壊れた腕時計から判断するかぎり午前零時前後が、最もくさい。
弓場がホテルで暴れて警察へ突き出されたのが、同じ日の午後十一時、さらにそれ以前の八時ごろから、新宿のバーで飲んでいたことが、ホステスやバーテンなどによって証明されている。弓場の犯行は不可能であった。
皮肉なことに、ほぼ同じ時期に、村越の家族関係の捜査から、村越の妹が弓場久彦と恋愛関係にあって、弓場といっしょに山岳ドライブへ行って、妹だけ遭難した事実が浮かんできた。それも弓場によって雪の中に置き去りにされたという情況での遭難である。
国井殺しのときに、もちろん村越の周辺は洗われた。しかしそのときは被害者としてでなく、加害側の被疑者としてである。しかも国井との関係に、捜査の焦点は絞られていたので、弓場と村越の妹との関係は浮かび上がらなかった。
しかしいまごろになって、弓場と村越の妹の関係が明るみに出ても、弓場にとって、どうということはなかった。
動機としては、村越が弓場を怨《うら》む側にまわるだろう。妹の事件をタネに村越が弓場を脅迫あるいは恐喝《きようかつ》していたことも考えられる。
それを排除するために、弓場が村越を殺したという可能性もあるが、すでに弓場のアリバイは警察によって証明され、彼の犯行は、不可能であることが、確定しているのである。いまさら新しい(というより過去の)データが出ても、どうということはなかった。
弓場は、板橋のほうの安アパートに、帝急にいたころとは別人のような、しおたれた格好で逼塞《ひつそく》していた。警察の調書に残された連絡先から、いちおう彼のあとを追っていった刑事も、念のために事情を聞くだけで、完全に弓場を捜査圏内からはずしていた。
「会社くらい冷たいところはありませんよ。役に立つ間は、チヤホヤおだてて使うだけ使い、会社にとって無用か、マイナスとなれば、まるで消耗品のようにポイですわ。私が何をしたと言うんです。部長の奥さんの誘惑に乗っただけです。先に誘惑したのは、女のほうなんだ。そのことは、事件とはなんの関係もないんだ。それなのに、会社の名誉をいちじるしく傷つけたというかど[#「かど」に傍点]で、はいそれまでですわ。
私が警察に疑われたのは、それだけ私が仕事熱心だったからですよ。警察もひどいじゃないか。無実の人間を引っ張って、人の名誉と信用をめちゃめちゃにしておいて、一日あたり千円程度の刑事補償ですましているんだからな。あんまり腹に据えかねたから、その金をきれいさっぱり費《つか》い果たしてやろうと、飲んでメートルをあげて、豚箱へ入れられれば世話はないやね」
だんだん言葉をくずしてからんでくる弓場には、すでにエリートサラリーマンの片鱗《へんりん》もない。落ちるところまで落ちた人生の敗残者のような荒《すさ》んだ臭いを漂わせていた。
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雲の牧場
わずか一年に満たぬ間に、三人の男《ナイト》たちはすべて美紀子の前から去ってしまった。しかもその中の二人は、すでにこの世の人間ではない。美紀子はその事実がどうしても信じられない。
彼らと知り合った穂高の山頂は、あまりにも生のエネルギーにあふれていた。躍動する雲海も、純粋な夏の光も、短い夏にいっせいに咲きそろう高山植物も、すべては生命そのものであり、ダイナミックな饗宴《うたげ》であった。
その饗宴の主役《ホスト》が、彼らであった。主役としての彼らは、宴そのものよりも、エネルギッシュで、たくましかった。
その主役の二人が死んだ。それも、病気とか寿命が尽きたとかいうのではなく、殺されたのである。しかもその容疑者として、生き残った主役が次々に挙げられた。どうやら三人の中には、自分をめぐる葛藤《かつとう》があって、それが殺人の動機の一つとして数えられたらしい。
〈三人の山仲間、女をめぐって情痴の殺人〉
〈山男の友情、女の争奪でもろくも崩れる〉
美紀子は、こんな煽情的《せんじようてき》な新聞の社会面や、週刊誌の見出しを想像した。
「あの三人が、この私を奪い合って殺し合いを!」
そんなことは考えたくなかった。だが、いまにしておもいかえせば、三人の自分をみつめた目には、いずれもひたむきな熱情があった。
ある社会的に大きな関心を集めた事件の被告を「被告の目は澄んでいた」と弁護して、裁判関係者や法医学者の失笑をかった作家がいたが、三人の男たちの美紀子をみつめた視線は、澄んではいなかった。
もっとぎたぎたとして、熱っぽく充血していた。その視線には、偶像を遠くからみつめる澄んだロマンチシズムはない。ほしいものはなんとしても、手に入れようとする貪婪《どんらん》な情熱があったのだ。
それだけに、彼らの中にくりひろげられた葛藤の激しさが想像できる。
「でも、まさかそのために人殺しを?」
という疑問を、美紀子は否定しきれないところに、彼女の救いのなさがあった。
父の庇護《ひご》の下に、若い男性から切り離されたところで育ってきた美紀子にとって、それはあまりにも激越な経験であった。
そんな彼女の心の内を察してか、父は旅へ誘った。近く父の口ききで、ある旅行社に就職することになっていたが、出社するまで、多少、余裕がある。大学は卒業していたし、家の中に一人で閉じこもっているのよりは、父と旅行するほうがはるかにいい。
「おまえも勤めに出ると、そう簡単にまとまった休暇も取れなくなる。いまのうちにせいぜい旅行しておいたほうが、これからのおまえの仕事にとっても役に立つだろう」
と父は言った。美紀子をつとめて刺激しないための配慮からであろう、三人の男たちのことには、父はなるべく触れないようにしていた。
「でも、お仕事のほうが」
美紀子は言った。彼の仕事が最近大変らしい様子はわかる。観光三社の申請をめぐって、とかく世評がやかましい折りから、担当局長の父の気苦労は、並み大抵ではあるまい。
年齢よりもはるかに若く見える父に、最近めっきり疲労が目立ってきたのも、その仕事の負担の重量を物語るものである。髪にも白いものが増えたようだ。
つい最近、その申請現地の視察をかねて数日間、山へ行って来たばかりである。日灼《ひや》けした父の面は、一見健康そうだが、それはそのまま彼の出張旅行が、登山という激労作《げきろうさ》につながったことを意味する。
門脇が美紀子を連れて行ってくれたところは、長野県の「美《うつくし》ケ原《がはら》」である。果てしなくつづく柔らかいなめし皮のような草原のスロープは、まことにいまの美紀子にふさわしい場所だった。
いまは鋭角的な山岳や、平面的で単調な広がりをもつ海よりも、柔らかな起伏に富んだ草原が、彼女の傷ついた心を、しっくりと包んでくれるようであった。
山や海には、旅に求める何かがある。それらは未知への憧《あこが》れであったり、秘境を求めての旅であったり、あるいは可能性の限界への挑戦《ちようせん》であったりする。
だが高原への旅は、目的がなくともよい。視野の限りつづく茫洋《ぼうよう》とした空《むな》しい起伏の中へ、自分自身も空しくなるために、人々は、はいって行く。
ちょうど、彼らが訪れた時期が、ツツジの花期にあたり、高原一帯が燃え上がったように見えた。遠くつづく起伏が、青い霞《かすみ》の中に消えかかる先に、美しい錯覚のように巨大な終止符を打つものが、中部山岳の白い連峰である。
高原の果てと、山脈の麓《ふもと》が霞の中に青く溶解しているために、それは高原が遠望の中へ化体したように見えるのである。
そしてその山脈の上に、茫とけむった霞を完全に濾過《ろか》した暗いばかりに澄んだ空がはじまるのだ。山は理想的な好天の中にあった。
「ほら、穂高が見えるだろう」
|王ヶ鼻《おうがはな》の断崖《だんがい》に立って、父は松本平をへだてて聳立《しようりつ》する白い山脈の中の一点を指さした。
父の指の延長線を追った美紀子は、そこに、そう言えば、見覚えがあるような山容を、連峰を構成する一つの峰としてとらえた。しかしそれは、流れる山脈の壮《おお》きさに吸収されたせいか、上高地から仰ぎ見たときの胸に迫るような迫力はない。ただ長大な山脈の一部分として遠望の中で自分と背比べをしていた。
上高地で見た穂高の巨《おお》きさは、個体≠フ巨きさであり、いま見る穂高は、全体の中の一部分であった。あの巨大な穂高を吸収してしまった山脈は、それだけに胸のすくような広がりを見せている。
「こうやって見ると、山は穂高だけじゃないってことがよくわかるね」
父はパイプをくゆらしながら、なにげなく言った。その瞬間、美紀子はハッとした。
〈父はもしかしたら、そのことを私におしえるために、この旅へ誘ったのではないかしら?〉
三人の男と穂高で知り合い、つづけざまに三人を失った美紀子の傷心を癒《いや》すために、この標高二千メートルの山岳展望台へ立たせたのではないだろうか?
日本アルプスの諸峰は言うまでもなく、八《やつ》ケ岳《がたけ》、妙高、戸隠《とがくし》、浅間山などの信越国境の山群、そして富士山と、日本の山のサラブレッドが、オンパレードを展開している。
穂高は、その中にあっても、ひときわ目立って巨きいが、しかし、連山の中の一峰にすぎない。穂高に比べて、決して劣らない高峰群が、美紀子の眼前におもいおもいの山容で妍《けん》を競っていた。
――山は穂高だけではない――
「男も、あの三人だけではないのだ」と父は言いたかったのではなかろうか。父は美紀子が穂高で知り合った男たちの記憶から少しでも早く脱け出すことを願っているのだ。
その願いをこめて、忙しい仕事の中を割いて、信濃路《しなのじ》の高原へ自分を誘ってくれた。父の心が、美紀子の胸の中にじいんとひろがった。
「私には、いつでもこの父がいる。父は私の幸福のときにも、不幸なときにも、私のそばにいてくれるのだわ」
美紀子は、広大な展望の中心に立って、その展望よりも大きく優しい父を感じていた。
「ここは美ケ原のほんのはずれだよ。これからその真ん中を横切って、今夜は高原ホテルへ泊まろう」
いつまでも遠望に目を吸いつけられている美紀子に、父は言った。歩くべき道のりの大部分を、車で来たために、時間はたっぷりあった。
高原はいたるところに踏み跡がつけられてある。人々が気ままに歩くうちに踏み跡になったらしい。どちらの道を歩こうと、晴れ渡っているので心配がない。
「このあたり、霧が出ると厄介なところだよ。以前はよく遭難者があったらしい」
「まあこんなところで?」
草原は広大だが、視野がきくのでまったく危なげがない。自然の最も機嫌《きげん》のよいときには、その悪変したときの凄《すさ》まじい形相は想像できなかった。
「あそこに塔のようなものが見えるだろう」
父は高原の中央を指さした。美紀子もさっきから父に聞こうかと、視線を向けていた梯形《ていけい》の塔である。
「あれが美しの塔といってね、塔の上に鐘が吊るされている。天気の悪い日には、その鐘を鳴らして、道しるべとしているんだよ」
「まあ!」
「しかしいまでは、悪天時の道標としてよりは、美ケ原の欠かせない名物になってしまっている。尾崎喜八《おざききはち》という山の詩人の詩が、レリーフにはめこまれているよ」
「どんな詩なの?」
「よく覚えていないが、この美ケ原を讃《たた》えた詩文だ。とにかくあそこまで行けばすぐにわかる」
塔の周囲には放牧の牛がのどかに草を食《は》んでいる。
「雲の牧場だわね」
「雲の牧場か、うまいことを言うなあ」
父は、草原の果てを見まわした。晴れた空に、白い片積雲が、点々と泳いでいる。いかにもそれが、高原全体を、地上よりも空の高みへ近づけているような感じだった。
地上よりも、空の領域の中にはいっている高原なのである。
「こんな上天気のときは、おもいのままに動くのがいい。美ケ原を歩くときはためらってはいけない。足の向くまま、気の向くままに、好きな方向へ行けばよい。自分がいちばん行きたい方向に、いちばん美しいものがあるのさ」
父はあふれる陽の光に面を向けて、目を細めた。彼の日灼けは、この旅でさらに濃くなるであろう。日ごろビルの中で不足している日光の恵みを少しでも取り返そうとしているかのように、彼は貪欲《どんよく》に、潤沢な光を浴びていた。
やがて二人は、美しの塔へ着いた。
――登り着いて、ふいに開けた眼前の風景に、しばらくは世界の天井が抜けたかとおもう――という尾崎喜八の詩文が、レリーフにはめこまれてある。そして、まさにその詩のままの空が、彼らの頭上にあった。ただ少しちがうことは、太陽が天心に近づいたので、光があまりにもあふれすぎて、天井の抜けた青さが、やや白濁していたことである。
「尾崎喜八の詩もいいがね」
父はパイプを取り出しながら言った。
「ほかに、もっといい詩があるの?」
「いいか、悪いか知らないが、私は高原へ来ると、必ずおもいだす詩がある」
「どんな詩?」
「聞きたいかね?」
門脇はじっと娘の目を見た。
「ええ、ぜひ!」
「旅人は草を藉《し》いて
長い息をのんだ。
瞳《ひとみ》は遠く、かぎりもない山脈が
辛夷《こぶし》の花の様に簇《むらが》り咲く
五月の空の
匂《にお》わしい邦《くに》の幻想へと吸われていた。
彼の心は
胸をふるわせる喜びの日の記憶も
凍《い》てつく冬夜の
痛ましい街頭の彷徨《ほうこう》も
このとき痛手として残るには
あまりに晴れ晴れとしていた」
「まあ、だれの詩?」
「富田砕花《とみたさいか》という人の詩だ。だいぶ以前に覚えたので、詩句は少しちがっているかもしれない」
父は言って、パイプにゆっくりと火をつけた。美紀子はそのとき、父が、尾崎喜八の詩を富田砕花に替えたのは、彼の詩の好みによるものではなく、彼女の痛手を少しでも早く拭い去るためだと悟った。
パイプの煙が、すっと横に流れて宙に消えた。風が少し出たようである。今夜の宿はもう見えていた。
美紀子は、自分が柔らかくよみがえるように感じた。それは、少しもよみがえったのではなく、彼女のファザー・コンプレックスが深まっただけである。という事実に、そのとき美紀子は気がつかなかった。
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取り除けられた遮蔽《しやへい》
赤坂署の捜査本部は、解散寸前のところへ追いつめられていた。国井弘が赤坂アビタシオン内の一室で殺害されると同時に設置された捜査本部は、有力な容疑者として弓場久彦をあげたが、彼にアリバイが成立した。
つづいて村越順也に注目して、ついに彼のアリバイを崩したが、逮捕に至る前にあっけなく何者かに殺されてしまった。
村越に動機をもつと目されるただ一人の人間である弓場は、犯行当夜なんと、警察の留置場にいたという、なんとも皮肉な、そして完璧なアリバイが成立したのである。
弓場のアリバイの証明者は、警察であるだけに、村越のときのようにトリックの仕掛けようがなかった。
「弓場の容疑が消えたとなると、いったいだれが村越順也を殺したことになるのか?」
赤坂署の捜査本部は、本命事件である国井殺しを離れて、むしろ村越殺しの穿鑿《せんさく》に焦点を絞った形になってしまった。
村越殺しは、彼らの担当ではない。そんなことは重々承知しながら、それ以外に当面、いじくるものがなかった。
稲田署の捜査本部とはまだ正式に合同していない。だからいじくるにしても、稲田署に対する微妙な遠慮が必要であった。
警察内部でのなわばり意識はかなり強い。特に神奈川県は、面積では全国都道府県中第四十三位であるが、人口密度は東京、大阪に次いで、第三位である。川崎市の東部から横浜港にかけては、京浜工業地帯の中心部にあたり、日本屈指の工業県である。
それだけに凶悪犯罪の発生率は、東京、大阪とともにトップグループにはいる。それを扱う神奈川県警にも、東京と張り合うという意識が強い。
神奈川県内に事件が発生して、犯人が都内に逃げ込むおそれの多い場合、あるいは、都心の犯人が神奈川県内へ逃げた場合など、神奈川県警側の「自分のところだけでやる」という姿勢に、警視庁は悩まされたことが何度もある。
事件が神奈川県と競合することが多いだけに、警視庁と神奈川県警のライバル意識は強い。那須にとっては、はなはだやりにくいことになったわけである。
稲田署では、地元のヤクザやチンピラ、フーテン連中にまで捜査の範囲を広げて、聞込みを進めたが、何も収穫はなかった。
稲田署に収穫がないということは、赤坂署のほうでは、まったく手も足も出ないということである。
捜査会議の発言は減り、刑事の捜査は、解散までの時間|稼《かせ》ぎとなった。
ナワバリ意識は、他県警察との間だけでなく、庁内にもある。刑事部内でも、合同捜査となるまでは、完全な連携のもとに捜査を進めているわけではない。
自分の課の捜査が、他の課の捜査に抵触するときは、あらかじめ挨拶《あいさつ》≠しておくのが、一種の仁義となっている。単に仁義としての虚礼だけではなく、その課の捜査活動を脇《わき》から無断で、いじくったために、いちじるしく阻害することがあるからである。
捜査二課が、観光三社と福祉省の間に贈収賄関係の容疑をもって内偵を進めているという情報は挨拶として、那須のところにもきていた。
だが凶悪な殺人犯をまなじりを決して追いかけている彼らには、賄賂《わいろ》などという犯罪は、どうしても「よその事件」として映る。
村越が殺されて、国井殺しの犯人に至る手がかりがすべて打ち消されてしまったとき、那須警部の膠着《こうちやく》した頭に新しい視野を開くきっかけをあたえてくれたのが、この情報であった。
「観光三社が福祉省に賄賂? いったいだれに賄賂をやったというのだ?」
那須の眠っていたような目が、見ひらかれた。
那須は早速、二課へ照会した。
「槍ケ岳開発計画の申請をめぐって、観光三社の中の中台興業が、福祉省国立公園局内に設けられた同計画審議委員会に贈賄した疑いだと!?」
那須は愕然《がくぜん》とした。言うまでもなく中台興業は村越順也の会社である。そして審議会の議長は、国立公園局長の門脇秀人だ。
門脇は、ひととき審議会の大勢に反して、西急を支持していた。それが最近急に態度を軟化させて、中台案に傾いてきたという。このへんに中台から門脇の懐《ふところ》へ賄賂が流れたという憶測が生まれたのだ。
しかも、三社の代表選手たる三人の若手エリートは、門脇の娘をめぐって激しく争っていた。娘の父親としても、門脇は無色にはなれない。
ここに新しい人物がいるではないか! 村越は審議会の大勢を自社へ有利に導くために門脇に賄賂を贈った。ところがそれが警察の嗅《か》ぎつけるところとなって、内偵がはじめられた。賄賂を受け取ったということがわかれば、営々として積み重ねてきた地位がふい[#「ふい」に傍点]になるばかりか、一挙に不名誉な犯罪者の烙印《らくいん》を捺《お》される。
自分の地位は、官僚組織の中の血の滲むような競争の結果ようやく手に入れたものである。官僚制度というものは、一言にして言えば、能率のためではなく、保身のために職制が細分化された制度である。口で言ったことは放言として、おもわぬところで責任を追及される。そのときのおもいつきでしゃべることなく、発言と行動はすべて、規則と命令と前例に則《のつと》って行なわれる。
官僚は人間であって、人間ではない。自分よりえらいか、あるいは自分よりえらくないかのタテ型の職階制度《ヒエラルキー》の中で上意下達と下意上達のための組織の部分品にしかすぎない。
要するに、官僚にとって最も危険なことは、自分の思考判断だけに頼って行動することである。
規則と命令に忠実に従うことによって身分が保障されるような制度の中での競争は、徹底的に陰湿である。
成員《メンバー》の視線はずば抜けた人間の顕彰のためではなく、ライバルを失脚させるためのあら探しに注がれる。
そのような競争を収斂《しゆうれん》したあげくに得た地位だけに執着も強いだろう。大切につとめあげれば、次官の椅子《いす》も射程内だ。そこまで行かなくとも、多額の恩給と退職金をせしめたうえに、出入り業者へ天下れる。
よもやこんなことで失ってはならないポストである。それを防衛するためには……。
「しかし内偵を進めた結果、どうやらこれは中台興業に傾いた審議会の意向を挽回するために、ライバル筋が流したデマらしいことがわかってきました。われわれの意気込みも、肩すかしを食わされた感じです。そんなことで、一課さんのほうにも連絡が疎《おろそ》かになってどうも……」
電話に答えた担当者は、那須の照会を勘ちがいした様子である。
ともかく二課の内偵の結果、賄賂の容疑はうすれたらしい。村越と門脇の間に賄賂の関係がなければ、那須がいま推測したことは、文字どおりの邪推となる。
だがいったん彼の頭に点じられた「門脇秀人」という新たな登場人物は、強く焼きつけられていっこうに消えなかった。
とにかく村越の申請の担当局長として、彼の生前、なになとかかわりがあったことは、確かであろう。まして村越は門脇の娘にプロポーズした一人である。
その娘の父親として、門脇をもっと早く注目すべきであった。しかし、那須たちが追っている人間は、国井殺しの犯人である。門脇は最初から弓場や村越の背後に隠れていた。
二課の、審議会に対する内偵も、同業者の謀略とわかって尻つぼみになったために、そのセンから門脇がクローズアップされることはなかった。
だがいま、弓場と村越の遮蔽《しやへい》が取りはずされたのである。それにもかかわらず、門脇を注目《マーク》しなかったのは、本来の捜査である国井殺しから、捜査の視点を一時的にもせよ、村越殺しに幻惑されたからであった。
国井殺しの有力容疑者としてのみ追っていた那須たちは、いきなり容疑者に消えられて当惑した。その当惑が捜査方針に迷いを生じさせたのだ。
那須は門脇をいまスクリーンをはらいのけられた人間として見ていた。二課は賄賂の事実なしとして、捜査を中止したらしいが、一課としては、決して無色に見送ることのできる人物ではない。問題は国井殺しに彼がどのような関係をもっているかということだ。
「とにかく洗ってみるだけの価値はある」
那須は判断を下した。解散寸前にいたって赤坂署の捜査本部は、新たに浮かび上がった人物に向かって、新しい一歩を踏みだしたのである。
相手は中央官庁の高官なので、那須が直接担当することにした。参考人として本部へ呼ぶ前に、那須のほうから出向くことにした。
出向くと言っても本部から福祉省まで地下鉄で二駅である。庁内に捜査本部を設けていれば、歩いても行ける距離であった。
門脇は、那須からの面会申し込みに、気軽に応じた。本省の局長となれば、大企業の副社長か専務級である。
「また例の件ですかな」
門脇は苦笑を含んだ声で聞いた。
「例の件?」
「なんでも、賄賂を受け取ったとか受け取らなかったとかで、だいぶ痛くもない腹を探られましたよ」
二課の内偵は、かなり露骨に行なわれたらしい。門脇の苦笑には辟易《へきえき》があった。
「こちらは何も後ろ暗いことはないから、いっこうに構いませんが、早いところすっきりしたいですな。うっとうしくてかなわない」
そのためにも積極的に捜査に協力して、一刻も早く青天白日の身となりたいという姿勢がうかがわれる。
しかしこちらの捜査の目的が、収賄容疑ではなく、殺人事件と知ったら、その積極的な姿勢がどう変わるか? あるいはその姿勢も、すでに備えをかためて、来るならどこからでも来いという構えなのか。
那須にはどうも後者のように感じられた。
那須は、門脇が午後六時以降なら、場所はどこでもよいと言うので、その日の夕方、赤坂のホテルの中にある『アルビレオ』という喫茶店を選んだ。
普通このような場合、相手に場所の選択を任せるということは、めったにない。そこにも門脇の余裕が感じられる。
なるべく本省に無関係なところがよいとおもって、アルビレオを選んだのであるが、そんな配慮はまったく必要なかったような自信たっぷりの相手の態度に、那須は会う前から手ごわいものを感じていた。
門脇は約束の時間ピタリに、アルビレオへ姿を現わした。意志的な目と口をもった厚味のある顔をしている。すでに五十代にはいっているはずであるが、四十代、いや見ようによっては三十代後半にも取れないこともない若さである。
ゴルフにでも行ったのか、いい色に日灼けしている。それがたくましい感じすらあたえていた。
服装もシャープで、寸分の隙《すき》もない。いかにも能吏の雰囲気《ふんいき》を身につけた男である。那須は自分と大して年齢のちがわない相手の若いルックスに多少のコンプレックスを覚えた。しかしそれを表に現わさないだけの甲羅《こうら》も身につけている。
いっしょに来たのは山路であった。初対面の挨拶がすむと、那須は早速用件を切りだした。相手の様子から、まわりくどい前置きは、いっさい無用と判断したのである。
「率直におうかがいいたします。中台興業の村越順也氏が殺された事件は、すでにご存じですね」
「よく知っております。なかなかのやり手で、私もかなり目をかけていたのですが」
「村越氏はお嬢さんに求婚なさっていたそうですな」
「そうです。なかなか見所のある青年なので、娘さえよければ、私には異存はありませんでした」
「村越氏が殺されたことについて、なにか心当たりはありませんか?」
那須は、自分たちがいつの間にか稲田署の捜査を代行しているような形になっていることに気がついた。
稲田署側を刺激するつもりはないが、今日門脇を当たるということは、連絡していない。連絡すれば、当然、向こうからも刑事が出張して来るだろうし、なにかと面倒なことになる。
那須はとにかくこの新しい人物を、慎重に扱いたかった。
いまのところ門脇は、彼らの本命事件である国井殺しに直接の関連はもっていないようである。だが村越殺しに対しては、無色ではない。しかも村越こそ、那須たちが本命事件の本ボシとにらんで追っていた人物なのである。だから門脇は、国井殺しに対しても間接のつながりをもつことになるのだ。
ともかく当面、この門脇を追う以外に、赤坂署には打つ手がなかった。神奈川県警が知ったら、かなりおもしろくないだろうとはおもいながらも、自分たちが見つけだした門脇に、まず自分たちの視点から当たってみたかった。
「どうやらこれは、いままでの捜査とは、別口のようですな」
門脇は、いま交換したばかりの那須と山路の名刺をもてあそびながら苦笑した。
「まったく無関係というわけではありませんが、まず別口と考えていただいてよろしいでしょう。ご存じとはおもいますが、われわれ捜査一課は、殺人や傷害などの強力犯を担当しております。それで事件に多少なりとも関係をもっている人からは、すべて事情を聞くことにしているのです」
那須の言葉は、相手の協力を要請すると同時に、二課の捜査とはちがうぞという有無を言わせぬものがこめられていた。
「わかりました。それで、何をお聞きになりたいのですか?」
門脇はパイプを取り出した。那須はおっというような目をした。門脇が自分が愛用している舶来銘柄のミクスチャーを詰めはじめたからである。那須は、機先を制されたような気がした。ベテランの彼には珍しいことである。
「ですから村越氏の事件について何か心当たりがあったらおしえてもらいたいのですが」
「そんな心当たりのあるはずがないでしょう」
ゆっくりとパイプに火をつけた門脇は、煙が那須たちのほうへ当たらないように注意しながら言った。
「村越君とはあくまでも、仕事の関係でつき合っていただけですからね」
「しかし……」
「わかっています。娘の関係があるというのでしょう。その意味からは、公私にわたるつき合いとおもわれてもしかたがありませんな」
那須と山路が、無言のままうなずくと、
「でも私は、娘のことに関しては、いっさい口出しはしませんでした。娘ももう子供じゃありませんから、娘の判断に任せておりました。ですから、村越君からのプロポーズを受けたことは知っておりましたが、その判断に関してはすべて娘の自由意志に任せているのです。村越君が殺されたことについては、彼と私的なつき合いがなかったので、いったいどういう理由から彼があんなむごたらしい目にあわされたのか、かいもく、見当がつきません」
「わかりました。それではこれは事件に多少なりとも関係をもっている人にはすべて例外なくたずねる質問として、ごく気軽にお答えいただきたいのですが」
那須はいよいよ質問の核心にはいった。
「なんでしょう?」
パイプをくわえた門脇の表情がちょっと緊張する。
「五月二十六日の夜十一時ごろから、翌朝の午前四時ごろまでどちらにおられましたか?」
「それは、アリバイとかいうものですか?」
門脇の顔色が少し変わったようである。
「どうかあまり重大に考えないでください。関係者にはどなたにもたずねていることなのです」
「いや、私が殺人事件のアリバイを聞かれようとはおもいませんでしたな」
門脇は、さすがに憮然《ぶぜん》たる面持ちになった。憤然としないところが、彼の人間がそれだけできている証拠なのか、あるいは、何か含んでいるからなのであろうか?
「いや驚きました」
門脇は重ねて言うと、口からパイプを離した。しばらくの間、心の動揺を鎮《しず》めている様子である。
「五月二十六日の夜から二十七日の何時ごろまででしたか?」
と問い返した。
「午後十一時から午前四時ごろまでです」
「よかった」
「え?」
「いや、アリバイがあってよかったということです」
「それは?」
「私がどういう理由から、こともあろうに殺人事件の容疑者にされたのかわかりませんが、それだけにアリバイがあってよかったとおもいます」
「べつに容疑者にしてはおりませんよ」
「推理小説などでは、アリバイを聞かれるのは、かなり疑いが深いときですね」
「現実の捜査と、小説ではちがいます」
「ま、いいでしょう。どっちにしても、疑いがまったくなければ、アリバイなど聞かれるはずはありません。とにかく私には偶然のことですが、はっきりしたアリバイがあります」
「うかがいましょうか」
「この顔、かなり日灼けしているとおもいませんか?」
「ゴルフにでも行かれたのですか?」
那須は、門脇のアリバイとは、ゴルフに行ったものかとおもった。そうだとすれば、かなりはっきりしたアリバイになる。ゴルフというものは一人ではプレイしないし、ゴルフ場のフロントや、キャディなどにも証明してもらえる。
「いやいや、ゴルフなんかじゃあ、こんなに深く灼けません」
「それではどこへ?」
海にしては少し季節が早すぎるとおもった。
「山ですよ」
「山?」
「鹿島《かしま》槍ケ岳という山をご存じですか?」
「いいえ」
那須はニベもなく首を振った。金と手間ひまかけて危険な山登りなんかする人間を酔狂の代名詞のようにおもっている那須が、そんな名前を知っているはずがない。
「北アルプスの中にある一つの峰ですがね」
「知っております」
なんと、そばにひかえていた山路がうなずいた。
「え、ご存じですか?」
門脇が意外そうな顔をした。知っているかと聞いておきながら、どうせがつがつと犯罪者のあとばかり追いかけている刑事らは、山も海も無縁の衆生《しゆじよう》≠ニ考えていたらしい。
「信濃大町《しなのおおまち》は、私の生まれた町です」
「信濃大町が、刑事さんの!」
門脇は驚いた様子である。那須も、ようやく山路が長野県の出身だったことをおもいだした。どうやら山路の様子から、その鹿島なんとかいう山は、彼の故郷の近くにある山らしい。
「それだったら、話がしやすい。実は二十六日の夜は、私は鹿島槍に登って、冷池《つべたいけ》の小屋付近にいたのです。山登りは好きで若いころはよく登りましたが、最近は年齢《とし》でね、久しぶりでした。それだけによく覚えております」
「山登り?」
那須と山路は同時に言った。那須はその山が長野県のどのへんに位置しているのか知らなかったが、北アルプスの高峰だという山に登っていた人間が、東京で殺人を犯せるはずがない。
山路のほうは土地鑑があるだけに、その不可能性が、いっそうはっきりとわかったのにちがいない。
もし門脇の申し立てが事実であるならば、彼は絶対に犯人になれないのである。まだウラを取ったわけではないが、彼の自信たっぷりの様子から、すぐわかる嘘をついているとはおもえない。
二人はようやく割り出した新しい容疑者が、文字どおり遠い山のように、下界とへだてられた雲の上に遠ざかって行くように感じた。
「詳しくうかがいましょうか」
那須は失望感でくらくらしそうになるのを抑えて言った。
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アリバイ縦走路
一般に北アルプスと呼ばれている飛騨《ひだ》山脈は、黒部《くろべ》川の源流帯にある三俣蓮華《みつまたれんげ》岳よりY字形に岐《わか》れ、その北部において黒部|渓谷《けいこく》をはさんで南北に並立する二つの長大な山脈によって構成される。
西側富山側の山脈が立山《たてやま》連峰で、東側の長野との県境を走る山脈が後立山連峰である。富山側から見て、立山の後ろに連なる山という意味合いから名づけられた。
この山脈の範囲についてはいくつもの説があるが、北限を白馬岳、南端を針《はり》ノ木峠《きとうげ》とするのが、最も一般的なようである。
この後立山連峰の中央やや南寄りに聳《そび》えるのが、連峰の盟主とされる鹿島槍ケ岳である。花崗岩《かこうがん》からなる鋭角的な山容で、峰頭は主峰の南峰と、北峰に岐れている。
標高は、南峰が二八八九・七メートル。その秀麗な山容は、まことに男性的で、この連峰の盟主たる貫禄をもっている。
門脇秀人は、この鹿島槍ケ岳に、村越順也が殺された夜、登っていたというのである。
山、それも北アルプスの高峰のてっぺんにいたとなると、地上の交通機関から隔絶されているだけに、トリックの仕掛けようもない完璧なアリバイである。
「鹿島槍ケ岳の頂上近くに冷池小屋《つべたいけごや》という山小屋があります。二十六日の夜はその近くの草原に野宿しました」
門脇は淡々と答えた。
「その山登りは、お一人で出かけたのですか?」
「一人です。私はもともと単独行が好きでしてね、若いころから、山登りはたいてい一人で行きます」
「それでは……」
「はは、わかりますよ。それでは鹿島槍にいたという証拠がないと言うんでしょう」
門脇は余裕|綽々《しやくしやく》として、
「私も、いつまでも痛くもない肚《はら》を探られるのはいやですから、すべてを正直に申し上げます。この山行は、完全に自分のレジャーで出かけました。娘が尾《つ》いて来たがるので、娘の手前いちおう視察を兼ねてということにしましたが。私の局の管轄区域だから、出張にひっかけられないことはなかったんですがね、そうすると地元の業者やなにやかが出迎えに出てうるさいことになります。役人も人間ですから、たまには息抜きをしたい。それで以前から訪れたいとおもっていた山開き前の残雪期の後立山へ来たのです。山開きの後では、山は銀座の歩道並みになりますからね。計画は、大町から鹿島槍へ登り、五竜《ごりゆう》岳、唐松《からまつ》岳と縦走して、八方《はつぽう》尾根を下るというものです。二十六日は新宿、朝六時五十分発の『アルプス1号』で出発し、ちょうど十二時ごろ大町着、駅前のタクシーを拾って、登山口の大谷原《おおやはら》まで行きました。大谷原にある登山指導センターに登山カードを提出して、赤岩尾根を冷池まで登ったのです」
土地鑑のない那須には、そう説明されても地形が把握《はあく》できないが、地元出身の山路にはよくわかるらしい。偶然だったが、山路を連れて来てよかったとおもった。
「冷池へ着いたのは何時ごろでしたか?」
山路が聞いた。
「夕方の六時すぎでしたよ。うす暗くなりかけたころでした」
「冷池の小屋にはなぜ泊まらなかったのですか?」
「冷池に管理人がはいるのは、六月十五日以降です。それまで冬期小屋だけが使用できるのですが、中がかなり荒れていたので、近くの、ハイマツの中に野宿《オカン》したのです。最初から覚悟していたので、寝袋などはもっていましたから」
一冬経過すると、山小屋は雪が吹き込んだり、登山者が汚したりしてかなり荒廃する。それを避けて露営するということは考えられないことではない。
しかし若い山男ならばとにかく、五十代の門脇がそれをしたということに、那須は不自然なものを覚えた。
「冷池付近でいっしょに泊まり合わせた人間はおりませんでしたか?」
「冷池小屋には最初から、あまり期待していなかったので、チラッと覗《のぞ》いただけで、小屋から鹿島槍のほうへ寄ったハイマツ帯に露営の支度をしました。私のあとから小屋へはいった人間もいるかもしれませんが、注意しておりませんでした。とにかく山開き前で山は静かなものでしたよ」
「それじゃあ……」
「まあまあ、話は最後まで聞いていただきましょう」
門脇は気負い込む山路を、手を上げて制しながら、
「翌日は一気に唐松まで縦走する予定で、午前六時ごろ冷池を出発しました。ガイドブックのコースタイムは、唐松まで約九時間ですが、ゆっくり歩いたうえに、残雪が多くて、八峰《はちみね》キレットなどの通過に時間を取られてしまい、唐松山荘に着いたのは、夕方の六時ごろでした。ここには五月一日から管理人がはいっておりますから、問い合わせてもらえばわかります。その夜は唐松に泊まって、二十八日、八方尾根を下って帰京したのですよ」
那須と山路は、唐松山荘に番人がいたということの意味を反芻《はんすう》した。つまり二十七日夜の門脇の所在は、はっきりしているわけである。
ところが問題の二十六日夜は、冷池小屋付近に露営したと言っていたが、同小屋は無人で、居合わせた人間もいない。ということは、肝心の二十六日夜の門脇のアリバイを証明するものは、何もないことになる。
二十六日の午《ひる》ごろ大町へ着き、登山口で登山カードを提出した。それらはすぐに裏づけが取れるから嘘ではあるまい。だがカードを出した後、直ちに東京へとんぼがえりをして、村越を殺し、夜行でまた山へやって来れば、二十七日の夕方までに、唐松岳の山荘へ姿を現わすことは、決して不可能ではないようにおもえた。これはいずれ時刻表や登山地図と照らし合わせて、徹底的に検討することになるだろう。
だがそれにしても門脇の態度は悠然たるものである。こんな不完全なアリバイを申し立てて、これだけ平然としていられるものではない。
門脇にしても、これで那須たちが納得《なつとく》するとはおもっていないはずであった。
〈何か切り札があるな〉
と那須はにらんだ。案の定、門脇は、自分のたどったコースをひととおり説明すると、
「冷池小屋が無人だったのは、残念ですが、私が確かに二十六日夜、その近くへ露営したという証拠があります」
「確かな証拠とおっしゃると」
那須の目が光った。
「写真を撮《と》ったのですよ」
「写真を?」
「いまあいにく、カメラも撮影したスナップも、もってきておりませんが、フィルム一本分スナップを撮って来ました。自分自身も、セルフタイマーと三脚で撮りました」
「それがどうして証拠になるのですか?」
「フィルムにはコマ番号が打ってありましてね、最後のほうのナンバーが、唐松周辺で撮ったのですよ。一、二枚、唐松山荘の管理人にシャッターを押してもらったスナップもあります。ですから、それより前のナンバーのフィルムは、唐松以前で撮影したということになりませんか」
門脇の目にいたずらっぽい笑いが浮かんだ。彼はさらにダメ押しをするように、
「私は、現在は製造中止になっていますが、スプリングカメラを使用しております。前蓋《まえぶた》を開けると、蛇腹《じやばら》が飛び出す、オールドファッションのやつです。最近は35ミリばやりですが、私はこの蛇腹式が好きで、愛用しております。フィルムもセミ判と言われる6×4.5センチ画面で、35ミリカメラよりも、シャープな引き伸ばし印画ができます。実物をお見せするとよくわかるのですが、このタイプですと、35ミリの有孔フィルムのように巻き戻しができません。巻き戻しができないということは、あえて説明するまでもないでしょう」
門脇は微笑をおさめて、那須と山路の面《おもて》を交互にじっとみつめた。
もはや二人にはカメラとスナップの実物を見ないことには、追及のしようがなかった。だが門脇の態度からして、フィルムに定着された構図は、彼のアリバイを完全に証明するものなのであろう。
「わかりました。それではそのカメラとフィルムをお借りできますか?」
「私の容疑はそれほど濃いのですか?」
門脇の厚味のある表情が少し翳《かげ》った。
「容疑に関係なく裏づけのためですよ」
「なるほど、とにかく早いところさっぱりしたいものです」
「質問ついでに、もう一つたずねたいのですが」
「なんでしょう?」
「これも参考としておたずねするのですが、三月二十二日の午前二時ごろはどちらにおられましたか?」
実はこの質問のほうを、赤坂署の捜査本部としては先にたずねるべきであった。だが那須たちの本命事件である国井殺しについては、門脇は直接の関連をもっていなかったので、順序が逆になったのである。
那須も質問しながらも、国井殺しに関しては、門脇をほとんど疑っていなかった。
文字どおりの「参考まで」に聞いたにすぎない。
だが、たずねられた門脇は、そうは釈《と》らなかった。
「三月二十二日? それがどんな関係があるのです?」
「質問に答えていただけませんか」
「きみ、失礼じゃないか!」
温厚な門脇の頬が少し紅潮している。さすがの彼も、腹に据えかねたらしい。本省の局長といえば、一国一城の主《あるじ》である。その彼に向かって、重ねて別件のアリバイを聞いた。この種の質問が、アリバイ調べだということは、だれにもわかる。
つづけて二件のアリバイを聞かれたということは、連続殺人事件の容疑者にされていることを意味する。いかに温厚な門脇でも怒るのがあたりまえであった。
「私は、ただいまの質問でも、かなり腹に据えかねていた。だいたい私には疑われるいわれはない。それが理由も明かさずに今度は別口らしいアリバイを聞く。人間、そんなに正確にいつどこで何をしたかなんて覚えておらん。五月二十六日はたまたま山登りという非日常的なことをしていたから、覚えていたが、そんな前のことなんかいちいち記憶していない。いったいどういうつもりなんだね」
門脇は役人特有の大風な口調になった。
「三月二十二日土曜日の夜です。正確には日曜の朝ですな。何かご記憶はありませんか」
那須は門脇の抗議がまったく聞こえなかったかのような表情で、同じ質問を重ねた。こんなときの那須の面は、言葉がまるでわからないような無表情を造りだす。何を言ってもまったく受けつけないのである。
もともと人生の風霜《ふうそう》に風化されたような彼の顔には、仏教的な無常感が漂っている。門脇もいったん憤然としたものの、那須が相手では、のれんに腕押しなのであきらめたらしい。
怒りを抑えた表情で、
「三月の末は、確か九州のほうへ出張していたはずだ。秘書にあたってもらえばすぐにわかる」
投げ捨てるように言うと、伝票をつかんで立ち上がった。
「とうとう怒らせてしまいましたね」
門脇が席を蹴《け》って出て行ったあとで、山路が首を竦《すく》めた。
「案外、演技かもしれないよ」
那須が少しも動かされていない口調で言った。
「あれだけ疑われて、怒らなかったら、かえって不自然だという計算からね」
「なるほど。しかし彼のアリバイは事実だとすれば完璧ですね」
山路が言ったのは、村越殺しに関してである。国井殺しの犯人は、村越という心証が、依然として彼らに強いことを言外に物語っている。
「私には、カメラの趣味がないのでよくわからないが、もし本当に巻き戻しがきかないのなら、門脇のアリバイは成立するな」
門脇が唐松山荘に宿泊したのは、五月二十七日ということになっている。そのとき管理人にシャッターを押してもらったスナップが、巻き戻しのきかないコマ番号の下位の部分を占めているとすれば、門脇が冷池に泊まったのは、所要のコースタイムから逆算して、二十六日の夜でなければならないことになる。
「ともかく問題のカメラとフィルムを領置してからのことだ。それまでに唐松山荘と、鹿島槍登山口の登山カードを当たっておいてくれ」
那須はカップの底のほうに澱んだ、コーヒーの残渣《ざんさ》を一気にすすって、立ち上がった。
門脇からカメラとフィルムが提出された。憤然として席を蹴ったあとなので、素直に貸してくれるかどうか危ぶまれたが、翌日、本人のほうから連絡してきて、早く疑いを晴らしたいからということで、二つの品を提出したのである。
この情報は直ちに稲田署へ連絡された。門脇という新しい登場人物に色めきたった稲田署では、そのアリバイを赤坂署と共同して検討するために、捜査官を送って来た。
派遣されて来た稲田署側の人間は、空港内ホテルでの殺人事件のとき、すでに那須たちと顔なじみになっていた、神奈川県警の堀越《ほりこし》警部と本田《ほんだ》刑事である。
「今度この事件の捜査に投入されましてな。またお世話になります」
堀越は、那須とは対照的に、いかつい体躯《たいく》の持ち主である。旧知の仲というものは、おたがいにやりやすい。彼らは、このおもわざる再会を喜んだ。堀越警部ならば、ライバル意識に無用の神経を使わなくともよさそうである。
門脇が提出したカメラは、小西六製のスプリングカメラで、製品名はパールW型である。現在は製造中止されているが、レンズはヘキサー3.5、解像力は抜群である。距離計がレンズと連動になっていて、スプリングカメラの難点がうまく工夫されている。戦後西独で開かれた世界カメラ機種コンテストにおいて、スプリングカメラの部で世界第一位になった名機で、現在でも多くの愛用者をもっている。
しかしレンズとシャッターがボディの中に畳み込まれる構造上、大口径のレンズをつけにくいことと、レンズとシャッターが前方に押し出されたとき、本体と連絡しているものは前蓋と蛇腹だけのために、フィルムの巻き上げと同時にシャッターをチャージする、いわゆるセルフコッキングのメカニズムを採り入れにくいこと、つまり速写性に欠けるところから、近代的な35ミリ小型カメラに、アマチュアの主流カメラの座を奪われてしまった。
使用フィルムは、セミ判と呼ばれる6×4.5センチ画面で十六枚撮れる遮光紙《しやこうし》(裏紙)付きのロールフィルムである。
撮影方法は、フィルムをカメラに装填《そうてん》し、フィルム巻き上げダイヤルをまわしていくと、遮光紙にスタートマークの矢印が現われる。その矢印とボディの中にある目印を合わせて裏蓋を閉じると、コマ番号を示す標示窓《カウンター》が作動する。
巻き上げダイヤルを、カウンター窓に@の数字が現われるまでまわすと、自動的にダイヤルが止まる。シャッターを切らないかぎり、次の数字までダイヤルがまわらない仕掛けになっている。つまり二重露出防止装置が付いている。
シャッターを十六回押したところで、初めて二重露出防止装置が解除されて、フィルムが巻き取れるようになっている。
その間、巻き戻しは絶対にできない。したがって、いったんフィルムスタートの位置で裏蓋を閉じ、巻き上げダイヤルをまわしはじめたら、そのフィルムを全部撮影してしまわないかぎり、カメラを開けられないことになる。裏蓋を開けると同時にカウンターナンバーは自動復元する。
門脇はカメラとともに現像したネガフィルムと、手札判に引き伸ばした印画を提出した。ネガフィルムにはコマ番号と記号がはいっていて、撮影の順序がわかるようになっている。
セミ判と呼ばれるロールフィルムで、一本の中に十六コマある。ナンバー@のコマには登山口にある登山センターをバックにした門脇の姿が、笑っている。Aは大谷原の道標の前、Bが問題の冷池小屋前で、夕方のうすい光の下で撮ったらしく、@Aに比べて露出が足りない。
小屋に泊まりはしなかったが、記念撮影の意味であろう。Cも、冷池付近から撮《うつ》したものと山路が鑑定した。樹木越しに雪を刻んだ剣《つるぎ》岳が撮っているが、これも露出不足である。Bに連続して撮ったものらしい。
D〜Kまでは縦走中のスナップで、剣岳や立山、あるいは五竜岳などのダイナミックな姿が、素人《しろうと》写真にしてはなかなか見事に撮られてあった。
L Mが、 唐松山荘で撮影されたもので、 特にLが山荘の管理人にシャッターを押してもらったと門脇が主張するコマである。背景の山荘風の建物には、確かに唐松山荘の文字が読める。
「唐松山荘にまちがいありません」
山路が言った。残りのNOは、八方尾根|山麓《さんろく》でのスナップであった。
一方、地元署に依頼した、門脇の供述の裏づけの結果が次々に連絡されてきた。
そして門脇は、
一、五月二十六日、鹿島槍登山口の登山センターに、登山カードを提出した(そのカードは後で鑑識により、門脇の手蹟であると鑑定された)
二、五月二十七日午後六時ごろ唐松山荘に到着して、その夜同山荘に宿泊したこと
――の二点が確認されたのである。
以上の資料をもとに、稲田署と合同した形の捜査会議がもたれた。
「五月二十七日夜、門脇は確かに唐松山荘に一泊している。その翌朝フィルムのLとMが撮影された。ということは、K以前のコマは、唐松山荘へ到着する前に撮影されたことを示すものだ。つまり五月二十七日の午後六時前にだ。冷池から唐松まで平均のコースタイムで九時間、山開き前で道が荒れていただろうから、門脇が十二時間かかったのも、おかしくはない。これから逆算すると、彼は、午前六時に冷池を出発したことになる。これは彼の供述と一致している。するとK以前のコマは、二十七日の午後六時以前に撮影されたもので、所要のコースタイムから考えても、門脇が、二十六日の夜は、冷池にいたということは確実になるのだ」
これに対して、何か意見はないかというように見まわした那須に、早速、畠山刑事が発言を求めた。
「このフィルムは、昨年の同じ季節、あるいはそれ以前に撮影されたものじゃないでしょうか? 唐松の小屋番にシャッターを押してもらって、いかにも、今年撮影したように装い、実は、昨年に撮ったフィルムを提出する……」
「フィルムだけすり替えたというわけか」
那須がちょっと興味を惹《ひ》かれた顔になった。
「そうです」
「だめだね」
かたわらから山路がニベもなく打ち消した。
「どうしてだめなんです」
せっかくのおもいつきを一言のもとに否定されて、畠山は少し鼻白んだ。もともと所轄署の刑事は、本庁の捜査員にいい感情をもっていない。
所轄に地味な仕事を押しつけて、自分たちだけがスタンドプレーばかりやりたがる。本庁のエリート意識を剥《む》き出しにして、所轄の意見を押し潰《つぶ》す。そして結局手柄は、本庁側がさらっていく。
畠山のコンプレックスもあったが、本庁側にもそうおもわれてもしかたのないところがある。
しかし赤坂署あたりの花形署になれば、あまり本庁との差はないのだから、これは畠山の偏見だったかもしれない。
「いいかね、門脇は小屋番にシャッターを押してもらっているのだ。もし昨年の写真をすり替えたのであれば、昨年も、小屋番にシャッターを押してもらったことになる。小屋番に覚えられるおそれがあるよ」
「北アルプスの山小屋には全国の登山者が殺到すると聞いています。まして小屋番ともなれば、客に頼まれてシャッターを切ってやることは多いとおもいます。とても一年も前のことなんか覚えていないでしょう」
畠山は負けていなかった。
「それもそうだが、五月二十日ごろは連休が終わり、山開き前の山が真空地帯にあるときなんだ。覚えられる危険のほうが大きいね」
「小屋番にシャッターを押してもらったとはかぎらないじゃないですか。以前に、居合わせた登山客に押してもらったフィルムとすり替えることだってできる」
「なるほど。しかし、山は毎年様子が変わる。たとえ同じ時期《シーズン》に撮影したものでも、残雪の状態や天候などが異なる。特に五月の末は、融雪が盛んで、毎日の変化が激しい。小屋番に見せれば今年のものか、あるいはそれ以前のものか一目で見破られてしまう」
「でしょうか? 雪が同じ状態になったころを狙《ねら》って撮れば、山の微妙なちがいは小屋番だってわからないとおもうのですが」
「きみは重要なことを忘れているよ」
「重要なこと?」
「もしフィルムがすり替えられたものであれば、門脇は一年も前からこの犯行を計画していたことになる。槍ケ岳開発計画が申請されてから、まだ一年たっていないんだぜ」
畠山はちょっと虚をつかれたようだが、すぐに、
「五月二十六日前後に同じコースを歩いて、もう一本フィルムを撮影したとしたらどうですか」と反撃した。
「それも無理だね、このころの雪の状態はどんどん変わる。よほど接近して撮さないと、すぐ見破られる。管理人の記憶も残っているだろうし、だいいち、そんなに役所のほうを欠《やす》めないだろう」
畠山はとうとう沈黙した。
「このタイプのカメラは、絶対に巻き戻しはできないんですか」
河西刑事が聞いた。
「絶対にできないね。いろいろやってみたが、構造が35ミリカメラとはまったくちがうんだ。いったん巻き上げダイヤルをまわしはじめたら、最後までコマを追って巻いていかなければならない」
山路はカメラにもかなり詳しい。庁内でのカメラコンクールにもたびたび優勝した腕の持ち主である。
巻き戻しのきかないカメラであるという事実の前には、コマ番号は明らかな時間の経過に従ったものとして、ごまかしようがなかった。
「このフィルムが、どうしてこのカメラで撮られたと言えるんです?」
草場が新しい意見を出した。巻き戻し可能のカメラで撮影しておいて、巻き戻しのできないカメラに添えて提出したものだとすれば、門脇のアリバイなど簡単に崩れてしまうのである。
まず@からKまで空シャッターを切り、L以後のコマを唐松岳周辺で撮影してから巻き戻し、その後鹿島槍ケ岳へ登って@からKを撮影した。そうなれば、冷池へ泊まったのは、二十七日唐松山荘へ泊まったあとでもさしつかえなくなる。
一、二日程度のずれならば、残雪等の状態から見破られることはあるまい。門脇は二十六日の夜、川崎にいられることになる。
「言えなくとも、ちっともさしつかえない」
また、山路が、せっかくの草場の意見に水をかけた。こんなときの山路の顔は、意地悪爺さん≠フように見える。
「どうしてです?」
「ロールフィルムを使用するカメラで、巻き戻しのできるのはないんだ」
草場の着眼は、まことにあっさりと打ち消されてしまった。巻き戻しができなければ、どのカメラを使おうと、同じことである。
門脇のフィルムは、コマ番号に従って撮影されたことになる。すなわち五月二十七日に唐松山荘に泊まり、L以降のコマを撮った彼は、二十七日より後には、絶対にK以前のコマを撮《うつ》せなかったのだ。
「石井は、袖カバーをつけていたな」
突然、横渡が変なことを言いだした。
「石井?」
那須が近視者が遠くを見るように目を細くした。彼は面くらったとき、よくこんな目つきをする。
「厚木の自動車会社に勤めていた石井は、袖を汚さないために袖に黒いカバーをつけていました」
「ああ、村越のアリバイ工作に利用された男だったな」
那須はおもいだした目をして、
「しかしそれが、なんの関係があるんだね?」
「確か、あんなカバーのような形で、どこででもフィルム交換ができる袋がありました」
「ああ、チェンジ・バッグ!」
山路が叫んだ。
「そうそう、そのチェンジ・バッグを使えば、ロールフィルムでも巻き戻しができるんじゃありませんか」
チェンジ・バッグは、携帯用暗室みたいなものである。フィルムの装填方法がまずかったために、35ミリフィルムの両端に開いている長方形の穴《パーフオレーシヨン》とカメラのフィルム送り歯車《スプロケツト》がしっくりかみ合わなかったり、ロールフィルムの裏紙《リーダーペーパー》がスプールにぴったり合わないままに巻き取られて、途中で巻き上げられなくなったようなとき、うっかりカメラを開けると、それまで撮したフィルムを全部だめにしてしまう。
そのような場合に、このチェンジ・バッグがあると、どこでも、カメラを開いてフィルムを損わずに装填しなおすことができる。横渡が言った事務用の袖カバーによく似ていて、カメラを中に入れて両端から腕を突っ込んで操作するようになっている。両端はゴムでくくられてあり、腕をピッチリと締めつけて、遮光する。
「まず、@からKまでレンズキャップをつけたまま空シャッターを切り、次にL以後のコマを唐松で撮影する。そして二重撮り防止装置を解除したところでチェンジ・バッグを使って、もう一度、フィルムをスタートの位置に巻き戻して装填しなおしてから、改めて鹿島槍に登り、@からKまで撮れば、連続しているように見えます」
確かにチェンジ・バッグを携行すれば、暗室をもっているのと同じであるから、巻き戻し不可能のロールフィルムも、バッグの中で手でスプールを操りながら巻き戻せる≠アとになる。感心したような一同に、山路がまた、
「残念ながら、それもだめだね」と水をかけた。
「まずチェンジ・バッグの欠点は、中が見えないことだ。見えないから、巻き戻しはできたとしても、ロールフィルムのスタートマークや、ボディの内部は見えない。だからいいかげんのところで、裏蓋を閉じて、フィルムを巻き上げることになるが、そうなると、あらかじめ撮しておいたL以後と、Kの間のコマ間隔が大きすぎるか、あるいは重なってしまう。門脇のKLの間隔は、ほかのコマ間隔とまったく同じに規則的だった」
パールは、自動巻き上げ装置になっている。裏蓋を閉じると同時に、カウンターが作動し、シャッターを一回切るごとに一コマ送れるようになっている。その際、裏蓋を閉じる基準となるものが、フィルムの裏紙にしるされてあるスタートマークである。
チェンジ・バッグは、中が見えないので、カンでスタートすることになる。めくらスタートによる狂いは各コマに順送りに伝えられて、KとLの間がうまく連続しなくなるというわけである。
さらにこのような撮り方をすると、たとえ、スタートマークを合わせて、スタートしたとしても、スプールの巻き取りには微妙な狂いがあるので、前に巻いたのと、まったく同じ状態では巻き上げられない。
そのために、KとLのコマ間隔は、連続して撮影したように規則的にはならないと、山路はつけ加えた。
横渡は気まずそうに押し黙った。
「そうだ!」
稲田署から来た本田刑事が眼鏡《めがね》を光らせた。何かおもいついた様子である。全員の視線が彼に集まった。
「まず五月二十六日より少し前に鹿島槍へ登って@からKまで撮っておきます。そして二十六日には川崎へもどって村越を殺す。それから、二十七日の夕方までに唐松へ来てL以後を撮影したとは考えられませんか?」
これは畠山の着想によるフィルムすり替え説をもう一歩推し進めたものである。畠山は、あらかじめ一年以上の間隔をおいて同じ季節に撮影しておいたフィルムとすり替えたのではないかと考えたのだが、本田は、一本のフィルムを分割して撮したと推測した。横渡説が切断撮影≠ナあれば、これは分割撮影≠ニ呼ぶべきであろう。
この方法であれば、コマ間隔も、コマ番号も連続するし、K以前の撮影も、L以降を撮った五月二十七日前後にきわめて接近して行なえば、被写体の状況から、見破られるおそれはない。
「いい着眼ですな」
意地悪爺さんの山路がほめた。
「もし門脇がそれをやっていれば、鹿島槍へ五月二十六日より前に行っているはずです。L以降を撮ったのは、二十七日から二十八日にかけて、唐松周辺であることはわかっていますが、二十六日は村越を殺すために川崎にいなければなりませんからね」
山路も、相手が他県の刑事なので、言葉遣いに気をつける。
「門脇の五月二十六日より前のアリバイも調べる必要があるな」
那須が言った。もし門脇が、五月二十六日より前にも休暇を取るか、役所を欠《やす》んで所在不明になっておれば、彼は鹿島槍へ分割撮影≠フために登山した疑いが強い。
そうなれば、彼の巧妙なアリバイは崩れるのである。捜査本部はようやく一筋の光明を見つけたおもいであった。とにかく門脇の五月二十六日前のアリバイを調べないことには会議の進めようがない。結局、那須の言葉を結論として、その日の会議は終わった。
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アリバイの切戸《キレツト》
門脇美紀子は、最近父の様子がおかしいことに気がついた。父一人|娘《こ》一人の家庭では、父は家にいるとき、美紀子と語り合うのを、なによりの楽しみにしている。
超多忙の激務にもかかわらず、美紀子とともにすごす時間を最優先してくれる。休日なども極力、家にいて、彼女といっしょにいるようにしている。
それが最近になって、家にいても、ひとり書斎に閉じこもる時間が多くなった。美紀子と顔を合わせても、あまりしゃべらない。以前なら次々に話題を提供して、親子の間に楽しい会話の絶えることがなかった。
心の奥底に何か大きな負担をかかえていて、それをひとりでじっと支えているような感じである。
できることなら美紀子はその負担を父と分け合いたかった。しかし、それが分け合えるような負担でないことはわかっている。彼女は父の苦しむ姿を、傍観している以外にどうすることもできなかった。
父に聞いたところで、話してくれないことはわかっている。もともと仕事のことは家庭に持ち込まない主義なのである。また聞いたところでどうにもなるものでもない。
愛する者の苦しむ姿を傍観しているのは、苦しんでいる本人以上に苦しいことであった。
父に変化が生じて間もなく、一人の男が美紀子を訪ねて来た。彼女はその男を知っていた。
一見まじめ銀行員のような彼は、警視庁捜査一課刑事といういかめしい肩書をもっていた。河西は、以前、国井殺しの捜査のときに、美紀子を訪れたことがある。
彼女は、刑事らしからぬ穏やかな風貌《ふうぼう》と物腰をもつ河西に悪い感じをもっていなかった。
質問の一つ一つにも、相手の立場や心情を考慮したデリカシーが行き届いている。視線も和やかで、若い女性に対するために、取ってつけた付け焼刃でないことがわかった。
河西刑事と話していると、彼の身分を忘れさせられてしまう。
〈家庭に帰ると、きっといい夫であり、パパになるのだろう〉と美紀子はおもった。
「突然おうかがいして申しわけありません」
河西は美紀子にまぶしそうな視線をあてて言った。年齢は三十を少し越えたぐらいか、その視線には中年男の厚かましさや、衣服の奥を探るようなものほしげな無躾《ぶしつけ》さがない。
「いいえ」
美紀子は本心から言った。
「お勤めになられたそうですが、学校とちがって、何かと大変でしょう」
その声に実社会に新しく参加した者に対するいたわりがある。そういえば、彼がこの前、美紀子を訪れたときは、まだ卒業式の前であった。
「そうでもありませんの。皆さんが優しくしてくれますし、お仕事もわりあいおもしろいので」
彼女は、それが父の威光であることは知らない。また社会というものは、美しい女に対しては多少甘いところがある。その甘さの底に黒い陥穽《かんせい》があるのだが、門脇が権力のポストにいるかぎり、彼女に対してそれがあからさまに剥《む》き出されることはあるまい。
要するに美紀子は、門脇の権勢を背景にしてのお客様≠ナあった。
「それはよかったですね」
河西は美紀子のために本当に喜んだ。美しい女が無惨に傷つけられるのを見るのはいやなものだ。それを喜ぶサド的な者もいるが、河西にはそのような趣味はなかった。
今日の訪問は、もしかしたら彼女を傷つけることになるかもしれなかった。傷つける公算のほうが、ひじょうに大きい。
河西は気が重かった。また反面、どんな用件にせよ、美紀子との再会を喜ぶ心理が、心の片すみにある。聞込み捜査のために、たった一回訪れただけであるが、彼は、美紀子の影を沈めたような、脆《もろ》さのある面立ちが好きだった。学生時代お下げにしていた髪を、無造作に後ろで束ねている。それだけのことで、輪郭がひきしまり、別人のようにおとなびて見えた。
好きになったところで、彼にとってはまったく無縁の女性であったが、とにかく忘れ難い印象を受けた。
もちろん河西には妻子がある。だがもしこのような女性が世の中に存在していると知ったら、自分の結婚は、もう少しべつの方向へ行ったかもしれないと、彼は細君が聞いたなら怒るような想像を、美紀子と会ったときにもったのである。
なにくわぬ顔をして、事情を聴きながら、河西は胸の中でそんな想像をめぐらしていたのであるから、彼も中年のいやらしさを内蔵していたのだ。
河西がふたたび美紀子に聞込みに訪れたのは、その必要があったからでもあるが、最初にもった想像が、誤っていないか、確認したい気持ちもあった。
「今日はまたなにか?」
美紀子がおずおずと切り出した。現職の妻子ある刑事が、自分とプライベートなデートに来るはずがない。またデートするいわれもない。
女が男に恋愛の対象として以外の好感をもつということは、要するに無色の感情のことである。
好きか嫌いかが、直ちにセックスに結びつく男とのちがいがそこにあった。
「ちょっとおうかがいしたいことがありましてね」
「なんでしょう?」
河西はコーヒーをすすった。もうカップにいくらも残っていないはずである。今日、彼から突然、勤め先に電話があって、ちょっと会ってたずねたいことがある、というので、会社の終業後、近くにあるこの喫茶店を指定した。
一別以来の挨拶《あいさつ》がすんで、運ばれてきたコーヒーがあらかた喫《の》まれた後になっても、何かためらいがちにしている河西に、美紀子は、胸騒ぎをおぼえた。
どんなに穏やかに見えても、相手は刑事である。彼女は河西の身分を忘れることはできなかった。
「つかぬことをおうかがいしますが」
河西は言って、切なげに美紀子の目を見た。こういうことを聞く自分を許してくれ、と言っているようであった。実際、河西は自分が来るべきではなかったと後悔していた。
こういう質問は、もっと事務的に行なうべきなのである。そのほうが相手を構えさせず、素直な答えを引き出せる。
「実はお父さんのことでお聞きしたいのですが、たしか門脇さんは、五月二十六日から山登りに出かけられましたね?」
「はい。なんでも出張とかで山のほうへ行きましたけど」
「出張ですか?」
門脇は娘の手前、視察旅行ということにしている。そうでないと、娘が尾《つ》いて来たがるからだということであった。確かに後立山の縦走は、美紀子には無理であろう。だが彼女にいっしょに来られては、都合の悪い事情があったかもしれないのである。
「どうでしょう? それ以前に、休みを取られて山へ行かれたことはありませんか」
「それ以前? 後ならありますけど」
「後、それはいつですか?」
「六月の初めごろです。美ケ原へ連れて行ってくれました」
「美ケ原?」
河西は初めて聞く地名である。
「長野県にあるアルプスの展望台と言われる高原です」
「それは正確にはいつのことですか?」
「金、土でしたから、三日と四日でした」
それは、門脇が鹿島槍から帰ってすぐ次の週である。
五月末に三日間、休暇を取って登山し、すぐ次の週末には、また二日休みを取って、娘を信州の高原へ連れ出した。これに何か意味はないか? 河西のためらいは完全に消えた。
自分一人で山を愉《たの》しんだ罪ほろぼし?≠フために、娘を高原へ連れて行ったのかもしれないが、それにしても、中央官庁の要職にある身が、二週間つづけて週末に休暇を取るのは、異例なことであった。
だが分割撮影のためには、五月二十六日以前でなければならない。後≠ナは意味がないのだ。
河西は門脇の二週つづけての休暇に少しひっかかるものを覚えたが、ひとまずそれを保留して、質問を進めた。
「五月二十六日より前には、ご旅行されたことはありませんか?」
「二十六日より前? さあ」
美紀子はあごを襟《えり》に埋めるようにして考えていたが、
「ありませんわ。父が休暇を取ったのは久しぶりのことですもの。五月二十六日以前は、日曜日にゴルフへ行ったくらいで、どこへも行っておりません」
その久しぶりの休暇を、門脇は二十六日後に、つづけて二度も取ったのである。
「日曜日にゴルフ?」
河西はハッとした。休暇を取らなくとも、土曜の午後から日曜をフルに使えば、鹿島槍を往復して、分割撮影ができるかもしれない。五月二十六日は木曜にあたるから、二十二日は日曜日にあたる。
「五月二十二日の日曜日はいかがでしたか?」
気負い込んでたずねた河西に、いままで素直に答えてくれていた美紀子が強い不審を浮かべた視線を向けた。
「どうしてそんなことをお聞きになりますの?」
「いや、それはその……」
河西が口ごもったのがいけなかった。
「父に何か、警察から疑われるようなことがございますの?」
逆に問いかえしてくる美紀子の目には、すがりつくようなひたむきな色があった。それは父の身を案じての肉親の張り裂けるばかりの不安である。
「いえ、ちょっとした事件の参考までにお聞きしたいだけです」
河西は答えたが、すでに遅すぎた。彼がふと露《あら》わしたベテランらしくない狼狽《ろうばい》が、警察の門脇に向ける疑惑を端的に示してしまった。
美紀子の連想は速かった。最初に河西が彼女のもとへ現われたのは、国井弘が殺された事件の捜査のためである。
そしていま彼は、父の五月二十六日前の旅行を問題にしている。前[#「前」に傍点]ということの意味はわからないが、五月二十六日という日には何か覚えがあるような気がした。
「村越さんが殺された日だわ!」
美紀子はその日の出来事≠おもいだした。その同じ日に父は旅行へ出かけた。これは偶然の一致であろうか?
美紀子の疑問は直ちに最近の父の異常な様子に結びついた。
「まさか!」
彼女の頬が蒼《あお》ざめ、唇が白っぽくなった。
「まさか父が! いや! いやだわ」
美紀子は周囲に人がいることも忘れて叫んだ。まわりに居合わせた客が、好奇の視線を集める。それすらわからないほどに美紀子は動転していた。
彼女は自分自身の途方もない連想に動転していたのである。
「父が、父がそんなことをするはずはありません。警察は勘ちがいしてるんだわ」
美紀子は蒼白《そうはく》になりながら、河西を詰《なじ》った。どんな凶暴な犯人をも自分のペースに巻き込んでしまう河西も、美紀子の扱いには当惑したらしい。
これが単に美しい女というだけのことであったら、河西も扱いようを心得ている。だが、美紀子の中に沈められている脆い美しさに好感をもち、それに無縁の者ながら、傷つけたくないという、いたわりが働いていたために、彼の経験が、一時的に麻痺《まひ》した。
「いえ決して、そんなことはありません。ただ参考までにうかがったことなのですから」
「どんな参考にするというのですか? 私にはわかるんです。警察の考えていることが。ひどいわ、父を疑っているなんて。あんまりひどい」
抗議しているうちに、美紀子の感情が激して、大粒の涙が目にあふれ、頬にしたたった。
「こ、こりゃいかん。どうぞ泣かないでください。弱ったな、これは」
河西の当惑は頂点に達した。
本部の期待はもろくもはずれた。探査の結果、門脇が休暇を取ったのは、五月二十六日より三日間で、中一日日曜をおいて、三十日の月曜日には出勤していたことが確認された。
さらに六月にはいってから、三、四日に休暇を取り、娘と美ケ原へ行ったこともわかったが、これは、二十六日以後のことなので、無関係とされた。
五月二十六日は、木曜日にあたる。したがって日曜日の二十二日に夜行日帰りで行って来られぬこともない。だが、この日も、さらにもう一週間前の十五日の日曜日も、門脇は役所内のゴルフ仲間と、郊外のカントリークラブでゴルフをしていたことがわかった。それより前の日曜祝日となると、山の状態が明らかに変わって、分割撮影が歴然とわかってしまう。
門脇の写真は分割撮影されたものではなかった。五月二十六日から三日間、時間の経過にしたがって撮《うつ》されたものである。
唐松岳‐冷池間は平均コースタイムで九時間、残雪期のハンディを考慮して逆算すれば、二十七日夕方、唐松山荘に着いた門脇は、絶対に二十六日夜は冷池小屋にいたことになる。その彼が川崎で殺人を犯せるはずがなかった。
「門脇は犯人ではないのではないか?」
という意見が捜査本部に頭をもたげた。堀越警部はあからさまに言わなかったが、稲田署側にその意見は強いらしい。
門脇秀人は、赤坂署側で割り出した人物である。稲田署にしてみれば、別件の捜査本部に自分のところの容疑者を示唆《しさ》された形になっている。
面子《メンツ》からいっても、赤坂署のように、熱心にはなれない。彼らから見れば、赤坂署は、他署の管轄事件に鼻先を突っ込んで来たように感じられるのである。
最初に門脇に目をつけたのは、那須である。八方|塞《ふさ》がりの情況の中で、二課の動きからヒントを得て、門脇を新たな人物として注目したのだ。
しかしそれは要するに、那須のカンによる見込みが多分に強い。捜査のいくつかのセンが次々に消されていった中で、かすかに浮かんだ新しいセンに飛びついたといった形なのである。
他にとりあえずたぐるべきセンがないので、とにかくいちおう当たってみる価値はあるということで、門脇を洗っているうちに、次第に傾斜《のめ》っていったのだ。
もちろん並行して進められた薄鑑や流しのセンが、すべて消去されたということが、この傾斜を強めていた。
門脇のアリバイがしっかりしていることがわかるにつれて、この傾斜が見込み捜査ではないかという危惧が、部内に起きてきた。
だが那須は門脇への疑惑を捨てなかった。
「門脇と村越の間には何かもやもやしたものがある。本当に賄賂の事実はなかったのか? 村越というパイプを通して、何か不正の取引きがあったのではないか?」
そして那須の疑惑を決定的にするものが、門脇の不動ともいえるアリバイである。
川崎で村越が殺された夜、北アルプスの山稜《さんりよう》にいたというのは、いかにもうまくできすぎているのだ。しかも一人で行った。一人で行っても、べつに悪いことはないが、中央官庁の局長ともあろう者が、自分の担当管轄たる国立公園に、プライベートな休暇を取って一人で行ったというのはいかにも臭い。
門脇は若いころかなり山をやったらしいが、最近では一人で出かけるというようなことはなかった。それが五月二十六日にかぎって、突如として単独山行へ出かけたのである。
五月の山は、夏山とちがって残雪が多い。かなりの経験者向きである。冬山のような厳しさはないが、悪天候に見舞われると、冬の再来をおもわせるように、風雪の吹き荒れることがある。
門脇が登った五月二十六日前後は、天候が安定していたが、要するにお天気まかせである。
腐った雪の斜面、稜線に張り出した巨大な雪庇《せつぴ》などの凶器≠ナ山が武装するのも、この季節である。いつ雪庇が崩れるか、尾根の側面から残雪がずり落ちてくるかわからない。
体力の衰えた五十男が、日ごろ会議や宴会でなまった身体を運んで行くにしては、かなりしんどい[#「しんどい」に傍点]、いや危険な場所であった。
少なくとも、単独で出かけるのは危険であった。門脇が事前にこの山旅のために特に体を鍛練した様子はない。
それにもかかわらず彼は一人で出かけた。しかも、二十六日の夜にかぎって無人の山小屋を嫌って露営した。地元署を経由して問い合わせたところによると、冷池小屋の開設期間は、六月十五日から、十月十五日までである。それ以外の期間は無人になっている。
無人ではあっても、冬期小屋は使用できる。にもかかわらず門脇は露営した。露営となれば、荷物も重くなり、体力的にもかなり負担が増してくる。
「門脇はなぜ露営したのか?」
――それは小屋に他の登山者が泊まり合わせるとまずいからだ――
「どうしてまずいのか?」
つまり彼がそこに泊まっていなかったことが、あとから問い合わされて、バレてしまうおそれがあるからだ――
露営したと言えば、小屋にいなくとも、おかしくはない。山開き前とは言っても、天下の北アルプスである。他の登山者や縦走者が、泊まり合わせないとはかぎらない。
「もしかしたら門脇は、冷池小屋に管理人がいない時期をことさらに選んだのかもしれない」
――そうだ。そうにちがいない――
那須は自問自答をつづける。
冷池小屋が開いた後に、露営をすれば、当然、なぜ泊まらなかったかと疑われる。もう若い山狂&タみに酔狂な真似《まね》をする年齢ではない。
それが小屋開きの前であれば、小屋が汚なかったからという口実で、露営の不自然さをかなり糊塗《こと》できる。
「これだな」と那須はおもった。
わざわざ小屋が開設される前に重い荷物を背負って、北アルプスの高山へ登り、露営したという情況は、門脇に向けた疑惑に拍車をかけるものであった。
一日おいて鑑識に依頼しておいたフィルム鑑定の結果が出た。
それによると、門脇のカメラのボディの特殊な構造がネガフィルムに微かな傷をつけているために、提出されたフィルムが、提出されたカメラによって撮影されたことは確実であるということであった。
カメラに詳しい鑑識課員が加えた専門的な説明によると、ロールフィルムは巻軸《スプロール》に巻かれているために、巻きぐせがついていて、平らに伸ばしても背中に反《そ》ろうとする性質をもっている。そのうえ、感光乳剤を塗布した側が、乾燥して収縮する傾向があって、画面窓に引き出されたフィルム面は背中を丸めて中央部が後方へ反ってしまう。これを背後から適当な力で押してやって平らに矯正《きようせい》してやらないと、レンズの像面と一致しない。
このため初期のロールフィルムカメラは、後ろから軽くバネで押されている圧着板《プレツシヤープレート》でこの反りを直そうとしている。
ところが、各メーカーによって、ロールフィルムの反りの力が異なり、腰の強いものもあれば、柔軟なものもあり、一定の圧着板では、押し足りない場合や押しすぎて、フィルム面に傷がつくことがあるという。
門脇の場合は、圧着板が強すぎたうえに、そこにゴミが付着していたらしい。ともあれ鑑識の鏡検によって、このフィルムが、このカメラで撮影されたことは確認されたのである。
鑑識は門脇が使用した同種のフィルムを装填《そうてん》し、フィルム面に形成された傷の状態を顕微鏡で観察した。その結果、たとえフィルムは同じ銘柄であっても、反りの力や、カメラに付着したゴミの状態によって、フィルム面に巻き取りごとに異なる傷が形成されるが、個々の傷の形状に特徴があるので、そのカメラに装填されてできた傷であることはわかった。
横渡が示唆したチェンジ・バッグの利用は、最初L以後を撮影し、バッグの中で巻き戻して@からKまで撮るという着想だが、この方法だと、KL間がうまく連続しない。
この点において、切断撮影説≠ヘ否定されたのである。
合成写真や複写等によるトリックもいっさい弄《ろう》されていないことが確認された。
門脇のアリバイは確立した。それはどうにも動かしようのないアリバイである。だが同時に、那須の門脇に向ける疑惑は、その不動さに比例して大きくなった。
彼は鹿島槍登山口の登山センターに提出された登山カードをもとに、五月二十六日前後に鹿島槍山域に入山した人々をたぐり出して、気の長い聞込み捜査をつづけると同時に、門脇と村越の関係を徹底的に洗った。
地道な捜査がつづけられる一方、那須は、再度、門脇のアリバイを会議にかけて、理論的に検討した。
門脇は本来、稲田署の容疑者である。赤坂署は稲田署の捜査を代行しているような観があった。だが那須はそんなことはいっこうに頓着しなかった。
那須は山路の協力のもとに上のような図をつくった。
那須はその表を大きな紙面に書いて、本部会議室の黒板に貼《は》りだした。
(画像省略)
「この表を見てもらいたい」
那須は表を指さしながら、
「この中で気がつくことは、人物写真が七枚、風景スナップが九枚あるが、人物は、いずれも道標や建物を背後において、その場所がどこか、はっきりわかるようにしていることだ」
「しかしそれは記念撮影なんだから、おかしくないんじゃありませんか?」
横渡が言った。
「そのとおりだ。しかし、それならば、山をバックにして撮ってもいいはずだ。門脇は三脚とセルフタイマーを持っていったんだからな。しかし山をバックにしているコマは一枚もない。どうしてだとおもう」
「山だと巨《おお》きすぎて、どのへんから撮ったのか、はっきりしないからじゃありませんか」
下田が言うと、那須はわが意を得たりというように大きくうなずいて、
「私もそうおもう。そして私は門脇がこうもしつこく自分の所在地を強調しなければならなかったところに、不自然なものを感じるんだ。それで私は一つの仮説を立ててみた」
全員の緊張した視線を集めて那須は、表の一点を指さした。
「このコマ番号の中で、最も時間的間隔をおいている個所はどこか? それは、CとDの間だ。すなわちCは二十六日の夕方、冷池小屋付近で撮影されているのに対して、Dは翌二十七日正午近くに、鹿島槍と五竜の間の岩尾根で撮影されている。山路君の鑑定だが、ちょうど二つの峰の中間あたりの『口ノ沢のコル』と呼ばれるあたりらしい。Dに撮《うつ》っている雪渓《せつけい》は、鹿島槍のカクネ里の雪渓で、口ノ沢のコルから見下ろせるということだ。
撮影時刻は写真の光線の具合や、尾根の影などから推測したものだ。五月二十六日の日没は、七時少し前だから、BCは午後六時前後とおもわれる。ということは、CとDの間に約十八時間の間隔がある。この空白の間に門脇に、川崎まで往復する可能性があるかどうか、検討してみたいとおもう」
全員の口から、あっという嘆声がもれた。これはまことに突飛な着想であったが、十八時間空白があれば、往復できそうな気もした。
突飛ではあるが、まことに柔軟な着想と言うべきであろう。
那須はあらかじめ用意しておいたらしい、五月の列車時刻表を取り出した。
「まず、門脇は冷池で写真を撮ると、すぐに下山を開始するとする。冷池から大谷原まで下り四時間だ」
「しかし夜の高山を、昼のコースタイムと同じに下れるでしょうか?」
下田が疑問を出した。
「かなり難しいだろうな。だが、いまはあくまでも仮説として追及してみよう。いっさいの条件《ハンデイ》はこの際無視して、時間的な可能性だけを検討する。大谷原へ二十二時、大町から二十二時五十分発の急行アルプス11号がある」
「大谷原で都合よくタクシーかハイヤーが拾えれば間に合いますね、しかし乗車拒否にあったらアウトだ」
草場が茶化した。しかしだれも笑わない。
「アルプス11号が新宿に着くのは、二十七日午前五時五分だ。村越の死亡推定時刻は四時に終わる」
一同からホッと安堵《あんど》したようなため息がもれた。これは奇異な現象である。アルプス11号が犯行時間帯に間に合えば、門脇の強固なアリバイにかすかなひびがはいることになる。
それが間に合わないとわかって、かえってホッと安心している刑事たちは、いつの間にか那須を向こうにまわして、門脇のアリバイを擁護しているような矛盾した心理に陥っていた。
それからもう一つ、いかに時間的可能性を検討するとしても、一日のうちに北アルプスの三千メートル級の高峰を登降し、川崎まで殺人を実行するために帰ってくるという、聞くだけでしんどい仮説に疲労を覚えたせいもある。
だが那須は、まだ仮説をあきらめていないようであった。
「門脇は一時間遅れる[#「遅れる」に傍点]。川崎までの往復を加味すると、もっとずれは大きくなる。だが私は、たった一時間の遅れで、鹿島槍から新宿に時間的に帰って来られる可能性に、大きな執着を感じるんだ」
那須はぐるりと部員の顔を見まわした。緊張しているのか、愛用のパイプも取り出さない。
「だからここでさらにもう一つ仮説を重ねてみよう。とにかく門脇は帰って来て村越を消したとする。川崎までの死体の運搬方法などは、あとで考えることにして、彼は果たしてその日の午《ひる》ごろまでに、鹿島槍と五竜の間の岩尾根に立てるか? もう一度時刻表を見よう。新宿発午前六時五十分にアルプス1号がある。これは門脇が前の日に乗った列車だ。これが五竜の登山口である神城《かみしろ》に着くのが、昼間の十二時四十五分、遠見尾根を経由して五竜岳までどんなに急いでも、九時間はかかる」
ふたたび先刻の奇妙な矛盾のため息が、一同から吐かれた。この仮説は、時間的な可能性だけを追及して、人間の体力を無視している。それだけに、聞いているだけで疲れる。
「とにかく十八時間の空白では、川崎を往復することは無理だとわかった。しかしだ、この十八時間の間隔というのが、どうしてもひっかかるんだ」
那須の目には依然として執着がある。時間的に彼の仮説が成り立たないことは、ことさらに捜査会議の席上で時間表を練って検討しなくとも、一人で調べてもわかることである。
それにもかかわらず会議に持ち出した彼には、何かべつの真意があるらしい。
「十八時間、間隔があるということは、その間、全然写真を撮らなかったということだ。これは不自然だとはおもわないか」
一同が沈黙したまま、那須の質問の意図を考えていると、
「門脇はなぜ冷池で朝、写真を撮らなかったのだろう? D以後の写真から判断して、その朝も天気のよかったことがわかる」
「きっと出発の支度に忙しくて、写真どころじゃなかったんじゃないでしょうか?」
河西が言った。
「いや、いよいよ憧《あこが》れの縦走に出発する朝だ。天気もいい。出発前に一枚という気持ちになるのが自然だとおもうが。それにだ、この朝写真を撮っておけば、十八時間もの間隔はあかなかったんだ。アリバイを造るために行った登山ならば、間隔をあけるのはひじょうに危険だよ。私はこの十八時間の空白の中に何かがあるような気がしてならない。そいつをみんなで考えてもらいたいのだ」
ともかくこの会議によって、門脇をめぐる怪しい情況は、いっそうに増幅されたのである。
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鹿島槍山行
美紀子が受けた衝撃は大きかった。
――警察は父を疑っている――
年ごろの異性からの吸引力を、すべて打ち消してしまうような、自分が絶対の信頼をおいている父を殺人の容疑者とは――、あまりにもひどいとおもった。
だがいっときの驚愕《きようがく》と動転が過ぎてみると、最近変わった父の様子が拡大されて、目の前に迫ってきた。その異常があればこそ、河西刑事の質問に対して機械のように速い連想ができたのである。
河西を詰《なじ》ったものの、彼が具体的な説明をしないうちに、あれだけ「連想による動転」をした美紀子自身が、とりもなおさず、門脇の怪しい情況を示す人証≠ノなっていた。
――父が殺人などするはずがない――
という確信は、美紀子の中にあった。だがなんとしても最近の異常な父の様子と、それになによりも、五月二十六日から三日間旅行をした事実にひっかかる。あとで人づてに聞いたことだが、父はこの旅行に休暇を取って出かけたそうだ。
美紀子には「視察を兼ねて」と言ったが、完全にプライベートな旅行であった。そのすぐあとに彼女を美ケ原へ連れて行ってくれた。
警察ではそれを、自分の愉《たの》しみだけに山へ登り娘を放っておいたので、その償いに彼女を美ケ原へ連れて行ったと解釈したらしいが、美紀子には、親子であるがゆえに、その不自然さが、よくわかるのである。
彼女には、父のひとりの愉しみを邪魔するつもりはない。父がひとり旅をしたいと言えば、尾《つ》いて行きはしない。
しかし、事実は逆で、父のほうが彼女に尾いて来たがるのだ。美紀子さえ嫌がらなければ、父はいつも彼女といっしょに旅をしたがっていた。
父にとって、美紀子を残してのひとり旅ほど、佗《わび》しくつまらないものはないのである。やむを得ない出張以外は、門脇が美紀子を残して旅へ出ることなど考えられない。
それをするときは、父としてではなく、一個の男として、娘に知られたくない秘密の悦楽を追求するときだけであろう。父も健康な男である以上、そのような秘密の旅があったかもしれない。
しかしひとりで山登りをすることを、秘密にする必要は少しもなかった。そんな閑《ひま》があれば、父は必ず、美紀子を連れて行ってくれたはずである。
それを父は、美紀子に隠して休暇を取り、北アルプスの峻険《しゆんけん》な山へたったひとりで登った。若いころはかなり登ったらしいが、最近そんな激しい登山をやったことはない。
美紀子に心配させないためというより、隠すために、家を出るときはごく普通の服装であった。帰って来たときも、日灼《ひや》けをしただけで同じ服装である。
高い山へ登るには、登山服やいろいろな道具が要るとおもうが、いったいそれらをどこで身に着けたのだろうか?
おそらくどこかのホテルか旅館を中継点にしたと考えられるが、どうしてそんなにまでして山へ行かなければならなかったのか?
父が美紀子に隠して山へ登ったということは、彼女の記憶にないことである。その山行には他の女性を伴った様子もない。また五月の北アルプスは、悦楽の対象たる女性を伴える場所ではなかった。
「父が自分からこの山行を隠したのは、何かべつの事情があったのだわ」
――その事情とは何か?――
憶測は直ちに戦慄《せんりつ》すべき事件に結びついた。
五月二十六日夜から二十七日朝にかけて村越順也は殺された。ちょうどその時間帯に、父は北アルプスの高峰に登っていた。
それは警察の言葉でアリバイという、父の無実を示す絶対の証拠である。だが絶対であっても、不自然さは拭《ぬぐ》えないのだ。
だから警察も父の身辺を探っているのであろう。
「父は犯人ではないわ。犯人であるはずがない。でも――」
この殺人事件になんらかの関《かか》わりをもっているかもしれない。美紀子はその憶測を振り捨てることができなくなっていた。
美紀子の目は、いつしか父を探っていた。探られていると知ってか、知らずか、門脇の異常な様子は、ますます増してくるようである。
「父はやはり、心に何か大きな負担をかかえているのだわ」
美紀子の疑惑は決定的になってきた。
門脇秀人をめぐる怪しい情況をそのまま残して、捜査は一歩も進展しなかった。稲田署のほうからも、新しい収穫は出ない。
門脇という人物が登場して来たために、一時は合同するかに見えた二つの捜査本部の間にも、次第に連絡が間遠《まどお》になった。それはそのまま事件の膠着《こうちやく》をしめすものであった。
だが那須班の刑事たちは、依然として門脇から疑惑の目を離していなかった。
門脇はなぜ五月二十六日という、冷池小屋が開設される前の条件の悪い時期を選んで登山したのか?
冬期小屋を利用できるのに、どうして寒い露営に耐えたのか?――
二つの大きな疑問があるかぎり、いかに門脇のアリバイが確固たるものであっても、その不自然さを償えないのだ。
これが、さらに門脇美紀子の視角から見た場合、「なぜこの山登りを彼女に隠したか?」という疑問が加えられるのだ。そして、その直後に美ケ原へ行った理由は、何? 長い空白のあとに突如として、激しい登山をしたのはなぜ? そして、二十六日の夕方から、翌日|午《ひる》ごろまでの十八時間近い空白の意味は? 等々、考えるほどに怪しい情況は増すばかりである。
怪しい情況があるだけで、なんの進展もないまま、夏がきた。梅雨《つゆ》が明けると、本格的に小笠原高気圧が張り出して来て、連日カンカン照りがつづいた。足で捜査する刑事たちには辛い季節であった。
またこの季節は張込みが最高にやりにくい。藪蚊《やぶか》に悩まされるからではない。痴漢とまちがえられて、すぐに一一〇番されるのである。テレビのおかげで、一一〇番が人口に膾炙《かいしや》したのはよかったが、刑事の捜査活動までが阻害されるようになった。
「家の近所に目つきと服装の悪い男が、長いことうろうろしている」という連絡に、パトカーがサイレンを鳴らして駆けつけてみると、張込み中の刑事だったという笑えない喜劇が続発するのもこの季節である。
一一〇番の普及が、張込みをむずかしくしたというのは、なんとも皮肉なことであった。
だが張込むべき対象がある間はよい。浮かび上がった容疑者を一人一人消していって、ついに捜査の対象がなくなってしまったときの捜査本部の焦燥と疲労は、大きい。探るべき対象は、次々に現われることは現われる。だが本ボシとにらんだのが消えたあとでは、提供されたあやふやな情報や、新たに浮かんだどんなうすい資料にでも、無駄と知りながらも、無駄であることを確認するためだけに食いついていかなければならない。
消し≠確認する作業が、主たる仕事になってくると、捜査本部も末期的症状を呈する。
朝夕の捜査会議も定型的《おざなり》になる。上司は指示をあたえたくとも、あたえるべき材料がない。いきおい精神訓話みたいな話になってしまう。夕方の会議は、もっとひどい。一日の疲労と徒労が、汗と埃《ほこり》といっしょにいっぺんに集積される。
一晩の眠りで、朝辛うじて取りもどした今日一日の捜査の目標と、ホシを追う刑事の根性が、一日の無駄足のあとに、もののみごとに挫折している。部屋の蒸し暑さが、それに拍車をかける。
会議といっても、おたがいの無収穫を披露《ひろう》しあうだけである。あとはおたがいの疲れてうす汚れた顔を見ているだけだった。そんなときには、さすがの那須も、部下にかけるべき言葉がなかった。
河西刑事が奇妙なリクエストをしたのは、そんな会議のあとである。
「それでは、今日はこれぐらいにして、みんなご苦労さま」
那須の言葉とともに、一同が椅子を鳴らして立ち上がりかけたとき、河西がおずおずと、
「二、三日休暇をもらえないでしょうか」
と言ったのである。
那須は、一瞬キョトンとした。河西の言ったことの意味がよくわからなかったようである。
「休暇がほしいんだって?」
那須のかたわらにいた山路が確認した。
「はい、三日もらえればありがたいのですが」
「身体の具合でも悪いのかね?」
ようやく那須が、リクエストの意味を把《つか》んだ目を向けた。しかし、そこに不審の色が浮かんでいる。捜査が膠着しているので、休んで休めないことはなかった。
だが捜査本部が現に開設中で、事件が解決をみないうちに、捜査の主力たる本庁刑事が連続して休暇を取るというのは、聞いたことがない。
那須が、体が悪いのか? とたずねたのも、当然であった。
「いえ、体はなんともないのですが」
河西の歯切れは悪かった。
「じゃあ、身寄りに不幸でもあったのかい?」
「いや、そんなんじゃないのです」
河西は言ったものかどうか、ためらっている。ついうっかり会議の席上で言いかけたことを、彼は後悔していた。これは釈《と》りようによっては、スタンドプレーを狙うようにも見える。
しかし、いまさらみんなのいる前では言えないと渋るわけにもいかなかった。
「じゃあなんだね? きみが休暇をこんなときにほしがるなんて、珍しいことだ」
珍しいどころか、初めてである。仲間の刑事たちにもいないだろう。河西はおもいきったように、
「実は、山へ登ってみようかとおもったんです」
「山へ?」
「その後、新しい資料も出ませんし、門脇が歩いたコースを、実地に追ってみれば、何か出そうな気がするんです」
これは本来ならば、出張扱いになるべきものである。だが河西は山に行ったからといって、果たして収穫が得られるかどうかまったく自信がなかった。
いやむしろ、何も得られない公算のほうが大きい。だから私的休暇を願い出たのである。
「実地にねえ……」
那須は河西の着想にびっくりした。まさか北アルプスの尾根にまで門脇の足跡を追おうという考えは、那須にはなかった。那須だけでなく部員のだれにもない。
登山などという金と暇と体力のかかるレジャーは、刑事たちには、無縁のことであった。それがそのまま距離的な隔絶感と一体になって、文字どおり雲の上に隔てられている。
そこへ河西は行きたいと言っている。ホシの足跡をひたすらに追う刑事であってみれば、足跡があるかぎり地の果てまで追って行くが、いきなり北アルプスへ行くと言いだされると、突飛に聞こえた。
「きみは山登りをやったことがあるのか?」
「全然ありません。小学校の遠足で高尾山へ行ったくらいです」
「それでアルプスへ登れるのかね?」
那須はいささか呆《あき》れたような顔をした。帰りかけた仲間たちも、同様の表情をしている。
「夏の北アルプスは、銀座の歩道並みだと、聞いています。山小屋もたくさんあるし、登山者も大勢いるでしょうから、心配ないとおもいますが」
「それにしてもきみがねえ」
「ロープだの、ピッケルだの、それから刺《とげ》のはえている靴なんかもっているんですか?」
辻が聞いた。彼はザイルやアイゼンのことを言っているらしい。
「いや、あれは冬山や岩登り用だから必要ないんだ」
大町出身で、山には多少通じている山路が注釈を加えた。
「実地踏査か、うん」
那須はうなずいた。
「それは案外いけるかもしれんな。机を囲んで議論ばかりしていても、ラチがあかない。現場を実際に見れば、何かわかるかもしれない。ひとつ行ってもらおうか」
最初は突飛だとおもっていた河西の考えが、なかなか名案に見えてきた。
「それでは休暇をいただけますか?」
「休暇でなく、出張扱いにしてやろう」
「出張に? よろしいのですか? 行ったところで、どうせ何も得られないとおもうので、休暇のほうが、気が軽くていいのですが」
「最初からそんな弱気じゃ困るよ。ぜひ出張で行ってもらおう。山路君にいっしょに行ってもらえるといいんだが、彼は本部に必要だ。それに捜査費用も乏しいのでな、二人出すわけにはいかないんだよ」
那須はすまなさそうに言った。捜査本部も開設当初で、有力な容疑者があがって活気のあるころは、費用も気前よく使える。しかしいまのように八方|塞《ふさ》がりの末期的症状を示してくると、人手もどんどん取られ、費用もぎりぎりに削られる。
山に詳しい地元出身の山路にいっしょに行ってもらえれば、こんな心強いことはない。だが那須班の最古参で、那須を扶《たす》けて捜査の第一線に立って指揮しなければならない彼が、本部をぬけるわけにはいかなかった。それも確実な捜査の目星でもついていればとにかく、まったくの河西のおもいつきによるところから、無目的に北アルプスの尾根をうろつくことはできない。
「怪我をしないように十分気をつけてな。まあ慎重なきみのことだから、大丈夫だとはおもうが」
河西を出張させることに決めた那須は、にわかに心配そうな表情になった。今度は彼が遭難しないか気がかりになったのである。
「おやじさん、大丈夫ですよ。いまの北アルプスならば、遭難しようたってできやしません」
山路が慰めるように言った。
男というものの野心は、どうして、こうも賤《いや》しいのかと、美紀子はこのごろつくづくおもうようになった。
美紀子が就職した東都観光という旅行会社は、ある大手私鉄の関連会社である。普通の企業とちがって、会社の主たる商品は、「旅行」である。
旅行なんて何もわざわざ買わなくとも、自分で勝手に計画を立て、自分の行きたいところへ自由に出かければよいとおもう。またそこにこそ、旅のおもしろ味があるのだ。
しかし、いまのようにマスレジャーの時代になると、旅行もインスタント化したものが好まれるようになってくる。それは旅≠ナはなく、あくまでも旅行≠ナあった。
計画を立てたり、汽車の切符を買ったり、宿の予約をするのは、すべて、煩わしい。要するに金さえもっていけば、インスタントラーメンでも買うように、好みの旅行が買えるという時世になった。
ここにおいて、旅と旅行は、まったく異質のものになってしまった。現代の人間は、旅よりも、旅行を好むようになったのである。
彼らは旅行業者がパックした旅行の詰め合わせプランに乗って、定められたとおりに動き、定められたとおりのものを観《み》て、けっこう満足して帰って来る。その満足は、おおむね、支払った金額に相応する満足である。
美紀子は、それは旅行ですらなく、移動≠ゥ、通過≠セとおもった。
初めて未知のものに触れる胸の打ち震えるような感動や、遠い邦《くに》に向けた憧れなど破片《かけら》もない。あるとおもうのは、業者にカモにされた、旅馴れない客の錯覚であった。
美紀子の会社では、社員が各七、八人のグループ単位で働くシステムになっていた。男四、五人に対して、女二、三人が付いた。
「付いた」というのは、女が男性社員の秘書的な役目をしていたからである。
ただし特定の男の秘書ではなく、グループ全体の秘書である。男はもっぱら自社が開発した旅行を販売するセールスマンであった。セールスマンといっても、百科事典やミシンのセールスマンとはちがう。旅行という形のない商品を売るのであるから、行き当たりばったりに飛び込んでも成績は上がらない。
自社の企画した旅行にできるだけ大勢の客を参加させるように勧誘するのが、彼らの腕であった。
各グループは同じ社内でありながら、たがいに実績を競い合うライバル同士である。このようなシステムは、確かに実績は上がるかもしれないが、すべての価値が実績だけで測られるという、およそ乾燥した雰囲気となる。
最初のうちは門脇の口ききで、お客様≠ニして迎えられた美紀子も、次第に社内の、優勝劣敗が数字によって画然と示される、酷烈な空気がわかってきた。
各グループのチーフが主任であり、そのグループが三つ集まって、隊となる。隊長が係長である。さらに三つの隊を集めて課となる。
これらの長《チーフ》は、いずれも、年功や学歴よりも実績を上げた者がなる。正確な意味で実力主義であった。だが美紀子は、それをひどく残酷なシステムだとおもった。
実績だけによって評価される生活は弛緩《しかん》のまったく許されない、緊張しずくめの毎日であろう。緊張を持続できなくなったときは、もはや実力の衰えた者として、その場にいる資格がない。人間の消耗品であり、企業の排泄物≠ナしかない。
男たちはその緊張に耐えて、激しい競争をくりかえしていた。ヒラのグループメンバーは一日も早く主任になるべく、主任は係長に、係長は課長にと、彼らは競争に勝った報酬として、責任の増加と、緊張の激化を伴った椅子しかあたえられないことを知りながら、それを奪い合って、激しい鍔《つば》ぜり合いをくりひろげている。なんだか消耗品になるために、会社から排泄されるためにだけ競争しているように見えた。
男の生存競争はまことに酷《きび》しいとおもいながらも、同時に非常に虚《むな》しく映った。要するに勝ったところで、大したことのないどんぐりの背比べであり、得た戦利品≠ヘ高の知れたものだ。
美紀子のグループの主任は、大原という男である。デパートの婦人服売り場でくすぶっていたのを、東都観光の部長にスカウトされたとかで、ひどくハッスルしていた。まだ三十前の独身であった。
彼にとって、目下最大の目標は、係長になることである。係長になるために、彼のすべてのエネルギーが傾けられていた。
その彼がどうしたことか、美紀子に関心をもちはじめたのだ。美紀子の美貌《びぼう》には、すべての男が、いちおうの関心を寄せる。だが彼女は美しい女が自然に会得《えとく》する技術で、それらの関心をするりするりと躱《かわ》してきた。
それが、大原の関心には、どうしても躱しきれない粘着力があった。美紀子には彼の関心の本質がわかるような気がする。確かに裸身の美紀子に寄せた男としての関心もある。だが彼が本当にほしいものは、彼女の父親とのコネクションにあるらしいのだ。
「馬鹿な人、お父様とコネをつくったって、なんにもならないのに」
と美紀子は秘かに嗤《わら》った。だが、東都観光の上層部にまで影響力をもつ門脇が、大原の目には、よほどの大物に見えたのであろう。下級のサラリーマンとして、コンプレックスだけを堆《つ》み重ねたような彼には、美紀子が下界へ舞い降りた、かぐや姫のように映るらしい。
つまり育ちの悪い男が、上流階級の女に憧れる心理である。自分を上流視する大原には美紀子は辟易《へきえき》したが、それ以上に彼の熱心なアプローチに当惑した。
毎日仕事のことでいろいろと接触があるうえに、直属の上司でもあるので、むげに冷たくもあしらえない。
大原は仕事の腕はよかったが、まったく美紀子の興味を惹《ひ》かないタイプであった。このうえなく仕事熱心にはちがいない。だが人生の目標をノルマの達成と、係長になることだけにおいているような彼とは、人間的な共通項が何もなかった。
男は確かに仕事に命を賭ける。でも本当に男らしい男は、賭けた仕事の他に、女の微細な心理の襞《ひだ》の隅々にまで、柔らかく浸透してくる優しいデリカシーをもっている。泡が身体を柔らかく包むように、優しさの行き渡らぬところはない。
大原にそんなものは望むべくもなかった。同じ職場に働いていても、心の構造は別の星の生物のようにちがっている。
それに気がつかずに、しつこくアプローチしてくるのは、滑稽《こつけい》であった。
だが滑稽だと笑ってばかりもいられない。三度に一度は、デートの誘いを断わることができなくなった。断わる口実がなくなってしまったのである。
一生の職場とするつもりはないが、やはりそこにいる間はみずから居心地を悪くしたくはない。大原のご機嫌を損ねたくはないのだ。
その夜も大原に強引に誘われて、美紀子はしぶしぶ食事につき合った。いっぱしの通《つう》ぶって、彼が連れて行った先は、何やら由緒《ゆいしよ》ありげな和食の店である。
美紀子のように洋風の生活に馴れた者には、座敷は苦手なのである。いかにももったいぶった料理が次々に出されたが、彼女には全然わからない。
店の亭主というのが出て来て、料理のいわれをひとつひとつ説明してくれたが、料理にとって講釈が味を最大に破壊するものであることには、気がつかないらしい。
「大原さんは、とても毎日が充実しているように見えますわね」
美紀子は、どうせ退屈な時間なのだから、それを少しでも早く、つぶすために、彼をからかってやろうとおもった。
「そう見える? 嬉しいな」
大原は相好《そうごう》をくずした。美紀子にほめられたとおもっているらしい。
「大原さんを見ていると、プロのビジネスマンの本当の姿がわかるような気がするわ」
「本当かい」
「ええ、お仕事楽しくてしかたがないみたい」
「時間がもったいなくてしかたがないんだ。この仕事の一つ一つが、会社の栄養となり、自分自身の実績になるとおもうとね」
「大原さんは会社のために働いているんですか?」
美紀子にとっては、ただ一度かぎりの、くりかえしのきかない人生を会社のために働くなんて、およそ気ちがい沙汰《ざた》に見えるのである。
「会社のために働くことが、結局自分のために働くことになるのさ」
「難しいのね」
「難しいことなんかないよ。男はすべからくそうあるべきだとおもうんだ。その社に勤めたからには、その社と心中するくらいの心意気がなければ、サラリーマンとして成功しないだろう。最近の若い連中にはロイヤリティがまったくない」
「サラリーマンの成功って、どういうことですの?」
「そりゃ地位も上がることでもあるし、会社から真に必要とされるような人間になることだよ」
「それだったら、大原さんは、もう十分成功しているんじゃない?」
「まだまだだ。もっともっと実績を積み重ねなければ」
「私、男の人で、どうしてもわからないことがあるの」
「わからないって、どんなこと?」
「男の人は一生懸命働けば、出世して地位が上がるでしょう。でも上がった地位は、重い責任と、ハードワークしかあたえないみたいなのに、どうして上へ行きたがるのかしら?」
「そこが女とのちがいさ。責任が重くなればなるほど、男は生き甲斐《がい》を覚えるものなんだよ」
「生き甲斐ねえ。でも、大原さんがいくらお客を募集してきても、その旅行が終われば、結局消えてしまうわけでしょう。そんなところに虚しさは感じない?」
「それを虚しいとおもうような人間はだめだね。消えることが人生じゃないか。自分の仕事に迷わずに力いっぱいぶつかる。それでいいんだよ。学校と実社会はちがうからね。哲学じゃ人間は生きていけない」
「それじゃあ、なんで生きていくの?」
「実力さ。実績と言ってもいい。実績だけが自分を護《まも》ってくれる武器だ。いかにも男らしい生き方だとおもわないか。ぼくはそのうちに、必ず全社一の実績をあげてみせる。そのときは、きみも……」
大原の美紀子に注いだ視線が、べつの熱っぽさを帯びてきた。一段刻みの昇進と保身に汲々としている彼が、門脇秀人の娘ということを知りながら、乱暴な振舞いに出るおそれは、まちがってもなかったが、美紀子は、そろそろここを出たほうが無難のようにおもった。
料理も終わりに近づいていた。
家まで送って行くという大原を、かたく断わった。一人になった美紀子を、言いようのない寂しさが襲った。
これが大原に別れたあとの寂しさならば、救いようがあった。そうではなかった。美紀子は男というものに失望しかけていた。まだ男の身体を知らぬうちから失望したというのは、ずいぶん気の早いことであるが、彼女を襲った寂しさは、まさにその失望であった。
彼女はまだあまり遠くない以前に、好ましくおもった三人の男たちがいた。彼らは先を争うようにして彼女にプロポーズして、その返事を待たずに、次々に彼女の前から消えて行った。
せっかく、好意から愛へと結晶しかけていた彼女の心は、平衡をくずされたまま冷えてしまった。
彼女の心にふたたびみずみずしい若さと弾力をあたえるためには、女の全体と、デリケートな心理の襞の末端までも柔らかく包容する男の大きな優しさが必要であった。
そんな状態のときに美紀子は、身を置くべき場所をまちがえたのである。
日々の生存競争を生きるためには、哲学よりも計算が必要である。人間としての情操などは不要だ。目的に至るためのすべてを手段化し、自分以外のあらゆる存在を道具として扱う。
彼らは、がさつではあっても、生存競争に強い。不毛の砂漠にも住めるタフな心は、知的な感動を栄養としない。
いまの美紀子には、周囲のすべての男性が、人間の情操を失った動物に見えた。彼らにとっては、女など所詮《しよせん》、寝てみてからの、その部分の構造によってしか評価しない道具≠ノすぎない。
美紀子は体験こそしていないが、そういう男はすぐにわかるような気がした。女を性器を備えた道具としてしか見ない男は、みな一様の表情と目をもっていた。どんなに紳士の仮面をかぶっていても、心性の賤しさは隠せない。
高まる愛の過程《プロセス》の中に、あるいは好みのタイプの女と遭遇して、内心にセックスを想像したとしても、女を人間として見ようとする男には憧れがあった。
ところが、女を道具としてしか見ない男には憧れがない。あるのは即物的な好奇心だけである。
大原がどんなに神妙にアプローチして来ても、彼の目にある熱っぽさは、動物の好奇心だけであることを、美紀子は敏感に見破っていた。
彼女は、いま自分に憧れを捧げてくれる男がほしかった。そんな男を全身で求めていた。だがそんな男は彼女の周囲に一人もいなかった。
どんな男よりも大きく彼女を包容してくれるはずの父も最近遠ざかってしまった。しかも遠ざかった原因として、途方もなく恐ろしい疑いがからんでいる。
体のなかを隙間風《すきまかぜ》が吹き抜けるような寂しさをかかえて、美紀子は新宿まで来た。彼女の家はここから私鉄に乗り換えて、さらに二十分ほど郊外へはいったところである。
国電から私鉄へ抜ける地下通路に、異様な風体《ふうてい》をした大勢の男女が長蛇《ちようだ》の列をつくっていた。
何かしら? と、一瞬立ち竦《すく》んだ彼女は、彼らが、中央線の列車待ちをしている登山者であることに気がついた。
登山列車の始発駅になっている新宿は、休日前夜になると、列車の改札を待つ登山客が長い列をつくる。いまは夏のシーズンなので、山岳夜行を利用する登山客で、毎晩駅構内はごったがえしているのである。
夏の間は、新宿駅と中央線は、登山客によって占領されてしまった観がある。まだ改札までだいぶ時間があるというのに、座席にありつくために、あるいは家でじっとしていられないからか、早々と駅の通路に屯《たむろ》して、すでに山に来ているかのようなはしゃぎ方である。
地下通路は、若い登山者の熱気で、むせかえりそうであった。軽装のハイカーの間に、ピッケルだのザイルだので重装備した本格派の登山者が混じる。
彼らはさすがにハイカーのようにはしゃがなかった。かわりに通路に新聞紙を敷いて、寝そべっている。中には本当に眠っている豪の者もいた。体力を蓄えておくためであろう。
「私も山へ行こうかしら」
そんな彼らの姿を見ているうちに、美紀子はふと衝《つ》き上げるような衝動を覚えた。
「でも、どこの山へ?」
すぐ頭に浮かんだのは、穂高である。しかしそれは苦い記憶につながっていた。
「父がひとりで行った山は、なんといったかしら? 確か鹿島……」
その山こそ、いま疑惑の焦点に立つ山であった。父はそこへひとりでなんのために登り、何をしたのか?
未知の高山の青い尖峰《せんぽう》に、父の孤独の影が揺れた。
山へ登りたいとおもったのは、所詮その場のおもいつきであった。現実に、美紀子ひとりで未知の高山へ登れるものではない。穂高へ登ったときも、屈強なナイトが三人もエスコートしてくれた。
そのナイトは今度は一人もいないのだ。北アルプスがいくら観光地化したとはいえ、いったん天候が悪くなれば、三千メートルの標高にふさわしい悪条件をすべて備える。
そこへほとんど都会の舗道しか歩いたことのない彼女が、たったひとりで行けるものではなかった。
「でもせめて麓《ふもと》まででも行ってみよう」
美紀子は自分のおもいつきをあきらめきれなかった。夏の上高地のお祭り並みの賑《にぎ》やかさは、すでに経験している。それほどではないにしても、北アルプスのかなり有名な山の麓とあれば、相当数の人間がはいりこんでいるにちがいないと単純におもった。
ともかく鹿島なんとか岳の概説だけでも調べたい。美紀子は、私鉄の改札の前で踵《きびす》を返した。東口の駅ビルの中に書店があったことをおもいだしたのである。本屋へ行って、ガイドブックをあされば、父が登った山の正確な名前をおもいだせるとおもった。
本屋は、閉店まぎわだったが、かなり大勢の人間がいた。旅行案内や山のガイドブックの棚《たな》を探して近づくと、ちょうど棚から一冊の本を抜き取った男がいた。
本の背文字に「白馬、不帰、鹿島槍」とあったのがチラリと見えた。
「あらっ」
美紀子の欠けていた記憶が、補われた。その本こそ、美紀子の探していた本でもある。彼女の小さなつぶやきを、本をもった男が耳|敏《ざと》くとらえてこちらを向いた。
「やあ!」
「まあ」
二人の口から同時に声がもれた。
「あなたでしたか」
「刑事さんも登山?」
美紀子はおもいがけず、そこに河西刑事の姿を見いだしていた。
「あなたもご旅行ですか?」
「ええ、いま刑事さんの持っているガイドブックのその山の麓へ行こうとおもってますの、鹿島とかいう」
「えっ、あなたも鹿島槍ですか!? それゃ偶然だなあ、ぼくも、明後日《あさつて》からそこへ行くんですよ。夜行は混むので、朝一番の特急で行くことにしています」
「でも刑事さんが登山なんて、珍しいわね」
「ちょっと出張にひっかけましてね。刑事も人間ですから、たまには山へでも山かけて息抜きしないと……」
言いかけた河西は、途中でハッと口を噤《つぐ》んだ。偶然書店で再会したために、河西は迂闊《うかつ》にも相手の身元を忘れていた。
淡い好意をもっていた若い女性との、はからざる出会いは、河西に職業を忘れさせ、知己の女性とプライベートな会話を交わしているような錯覚をあたえたのである。
しかも彼の鹿島槍行の目的は、相手の父親のアリバイの突破口を開くためであった。美紀子も、河西が口を噤んだ意味を敏感に悟った。ということは、彼の山行の目的を悟ったことである。
〈警察はやはり父を疑っている。その疑いは相当に強いものらしい。父が登った山へまで、父の足跡《トレース》を追いかけて行こうとしているのだもの〉
美紀子は蒼白になった。二人は言葉を失ってたがいの顔をにらみ合った。私的な再会は、仇敵同士があいまみえたような雰囲気になってしまった。
季節柄、特急『あずさ1号』は満員であった。この山行をおもいたってから、何もかも泥縄式《どろなわしき》である。河西がとにかく山と名のつく山で登ったのは、高尾山くらいなのであるから、まったく見当がつかない。
リュックとかアノラックなどは山路が貸してくれた。それもだいぶ長いこと使っていないものらしく、かびがはえていたようなしろもの[#「しろもの」に傍点]である。靴だけはキャラバンシューズを買った。夏なので、ピッケルは要らないそうだ。またそんなものを持っていったところで、使い方がわからない。
ガイドブックや地図によって、鹿島槍から唐松岳周辺にかけての地勢を勉強した。一夜漬けもいいところである。こうして、インスタントのアルピニスト? が生まれた。
車内には、山へ行く客が多い。網棚は、ほとんど大きなリュックやキスリングによって占領されている。一般客が、登山客の間で小さくなっているようだ。登山客はみな若い。一般客がいるので夜行組よりは静かだが、車内は未知の山を志す若者の花やいだ雰囲気があふれている。
そんな中に、山へ行く一人としておさまっていると、河西も、そもそもの旅の目的を忘れて、久しぶりに休暇の旅へ出るような気分になった。
発車時刻が迫った。発車の二、三分前、彼ののんびりムードを、さっとひきしめることが起きた。こつこつと窓ガラスを叩く音に、河西が、ホームのほうを見ると、そこにおもいがけない人間が立っている。
「警部!」
河西は愕然《がくぜん》として立ち上がった。窓が開かないので出入口に行くと、那須が息を切らしながら、
「ああ、間に合わんかとおもったよ。よかった」
「わざわざお見送りに来てくださったんですか」
「そんなおおげさなもんじゃないよ。本部へ出勤する途中に寄ったんだ」
新宿が那須の通勤経路でないことを、河西は知っている。
「すみません」
「何を言うんだ。それより気をつけて行って来てくれよな。きみに遭難でもされたら大変なことになる。これは交通事故のお守りだ。山で交通事故もあるまいが、家内がよく効《き》くと言うので持ってきたよ。きっと何かのご利益《りやく》があるだろう。邪魔だろうが、持っていってくれないか」
那須が差し出した厄除《やくよ》けのお守りに、河西は胸が熱くなった。発車ベルが鳴りはじめた。
「それじゃあ気をつけて行って来てくれ」
デッキから離れた那須の目に、「頼むぞ」というような切実な祈りがあった。河西は責任をひしと感じた。
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大残照
あずさ1号は、松本で、グンと空席が目立つようになる。上高地方面へ向かう客が、ここで降りるからである。車内に残った客は、白馬、鹿島槍、黒部等の、さらに北アルプスの北部へ志す者である。終着の大町には十二時二十六分に着いた。
ここからバスでいよいよ鹿島槍の登山口まではいるのである。冬は源汲《げんゆう》までしかはいらないバスが、夏山シーズンの間は、大谷原まで延長される。
大谷原行のバス停には、トンネルの開通した黒四ダム方面と異なって、重装備の登山者が列をつくった。河西は、いずれも猛者《もさ》らしい面がまえと装備をした登山者たちに、これから向かう山の険しさを予感した。
河西と門脇美紀子は、そこでふたたび出会った。一足先に行列に並んでいた美紀子は、猛々《たけだけ》しい山男たちに囲まれて、ひどく心細げに身を竦《すく》めて見えた。
河西の姿を見ると、いたずらを見つけられた子供のような、迷子《まいご》が親とめぐりあったときのような、てれ臭さと嬉《うれ》しさをないまぜた笑いをもらした。
河西にまったく期待がなかったわけではない。二日前の夜、新宿の書店で出会ったとき、美紀子も、鹿島槍へ行くと言っていた。
――もしかしたら、いっしょになるかもしれない――という淡い期待の底には、彼の山行の目的とはべつの、北アルプス山麓《さんろく》に立った美紀子の姿を見たいという、すでに河西の年齢ではたぶんにロマンチックがかった個人的な願望があった。
あの愁いがちな、翳《かげり》の濃いおもざしは、アルプスの尖鋭《せんえい》な峰頭と、山麓の樹林帯を背景にしたときに、どんな対照を見せるだろうか?
河西はまるで抒情派《じよじようは》の詩人が寄せるような想像をしていた。
「あなたも同じ列車でしたか」
淡い期待がこうも見事にかなえられて、河西は、率直に喜びを表情に現わした。しかし彼女がまさか一人で来たとはおもっていない。
周囲のいかつい山男たちが、彼女のエスコートなのであろう。おそらく、会社の山岳部か何かに尾《つ》いて来て、山麓でキャンプでもするつもりかと考えた。
だから河西は、美紀子の旅の目的も、また彼に合わせて、伝《つて》を通して今朝の特急の切符を手に入れたことも知らない。
美紀子は最初、麓まで行くつもりであった。新宿で偶然河西に出会い、彼が同じ山へ登ることを知り、急遽《きゆうきよ》自分も登ることに計画を変更したのである。強引に、河西に尾いて行くつもりであった。警察官といっしょに行けば、こんな心強いことはない。それに彼にピタリと尾いていれば、警察が父に向けた疑惑の正体がわかるかもしれない。
河西にしても、勝手に尾いて行く自分を、追いはらうことはできないだろう。それに彼だったらそんなことはしないとおもった。
美紀子は、河西が自分に寄せた好意を、本能的に感じ取っていた。
河西がふと口をすべらした「あさっての特急の一番」は、今日のあずさ1号しかない。列車へ乗って、河西がいなければ、最初の計画どおり、山麓までにしてもよいと両様の構えで出て来た美紀子は、新宿で、河西がいることを秘かに確かめていた。
父には、友だちといっしょに白馬山麓へキャンプに行くと言って、家を出て来た。
なんとなく嬉しそうな顔をした河西に、美紀子は内心おかしくなった。これで自分が彼に尾いて、全コースをいっしょに歩くつもりだと知ったら、どんな顔をするだろうかとおもった。
〈その驚いた顔がすぐに見られるわ〉
美紀子はいたずらをたくらんだおてんば娘のように、内心でほくそ笑《え》んだのである。
シーズンなので、バスの便がよい。午後一時半には大谷原へ着いた。ここからいよいよ徒歩で登る。バスでここまで来る間に河西は、美紀子に連れがないことを知った。
しかし、まさか鹿島槍までひとりで登るとはおもわなかった。大谷原より、赤岩尾根をつめて冷池へ至るコースは、後立山連峰中、最短の登山路をもつ尾根とされているだけに、傾斜がきわめて強い。
「鹿島槍には、写真でも撮りに来られたのですか?」
「ええ」
「おひとりで?」
「ひとりのほうが、気ままですもの」
小型カメラをもっていた美紀子にたずねた河西は、鹿島槍のどのあたりまで行くつもりか、とはたずねなかった。それにそんなことを聞くのは、なんとなくものほしそうに見られる気がした。彼女の服装から判断しても、それほど奥のほうへ登るとはおもえなかったからである。
もっとも服装の点では、まわりのいかにもベテランらしい山男たちに比べて、河西も、なんとなくサマにならない。べつに軽装ではないが、板につかないのである。
大谷原のバス終点は、大冷沢《おおつべたざわ》と呼ばれる沢の右岸の木立の中にある。バス停の前に、北アルプス北部山岳遭難防止対策協議会の後立山連峰登山指導センターの建物がある。
「これだな」
その建物を見て、河西は美紀子に聞こえないようにつぶやいた。言うまでもなく、門脇秀人がコマ番号@を撮影した個所であった。撮影時刻もほぼ一致している。
沢の広い川床には、水はほとんどない。河西はさっそく歩きはじめた。日のあるうちに冷池まで登るので、急がなければならなかった。川原の手前に道標がある。これがAの撮影場所だった。
川原をいったん渡って、左岸の林道を沢に沿って溯《さかのぼ》って行く。この林道は約一キロ、右岸から別の沢が合流する。小冷沢の出合《であい》と呼ぶそうである。発電所の取水口を見送ると、右手東尾根の裾《すそ》をからんだ登りとなる。この登りはかなりの急傾斜で、ところどころに梯子《はしご》がかかっている。
なんとなく連れ立って歩く形になっていた美紀子が、少し遅れがちになった。さすがにのんびりした河西も、彼女の行く先について少し心配になった。
「鹿島槍は、どのあたりまで登るつもりですか?」
遅れた美紀子を待って、さりげなくたずねた。
「もちろん頂上までですわ」
呼吸を弾ませて登って来た彼女は、こともなげに答えた。
「頂上までですって!?」
河西はあんぐりと口を開けた。その表情は、美紀子がまさに予測したとおりのものである。想像と実景のあまりの相似におもわずクスリと笑いながら、
「だってこのあたりでは、ほとんど写真になるところがありませんもの」
「し、しかし、たったひとりで危険じゃないですか」
「大丈夫ですわ。こんなに大勢ぞろぞろ登っているじゃありませんか。それに……」
美紀子はいたずらっぽく首をすくめて、
「刑事さんもいらっしゃるもの」
「ぼくは遊びに来たんじゃない」
言ってしまってから、河西は、その言葉がどんなに美紀子を傷つけるかということを悟って、ハッとなった。しかし彼女は気にした様子も見せずに、
「ご心配なく。刑事さんには、ご迷惑をおかけしませんわ」
と柔らかく答えた。
美紀子を連れていては、普通のコースタイムより遅くなることが考えられる。それでは、門脇の歩いたとおりに歩いて、彼のアリバイの矛盾点を見つけようという実地踏査の意味がなくなる。
河西にとって、美紀子と連れ立って、アルプスを歩くなどという機会は、夢にもおもっていなかったことである。
雄大なアルプスの展望路を、若い美しい女性と、殺し担当の捜一刑事がアベックで歩く。なんとなく滑稽《こつけい》であるが、また楽しそうでもある。こんなチャンスは、おそらく二度とないだろう。美紀子は暗に河西のエスコートを望んでいる。河西もいっしょに行ってやりたかった。
だがそれは公務の障害になる。安易に彼女と同行する約束をしてはならなかった。いったん暗黙にでも、同行の了解をあたえれば、責任が生ずる。自分の楽しみのために、確実に捜査の障害となる責任を背負いこんではならなかった。
しかし美紀子が勝手に尾いて来るものを拒否できなかった。登山道は公道である。河西が彼女を突き放してどんどん先へ行ってしまえば、それまでである。河西の性格からしてそれができなかった。
美紀子が遅れて、視野からはずれると、やはり気になった。遅れると、それとなく歩度をゆるめて待ってやる。彼女が後方を着実に登って来るのを確かめると、また先へ行く。そんなことを何回か繰り返しているうちに、河西はそれが、同行の暗黙の了解になっていることに気がついた。
つまり確約はしないが、実績≠ェできてしまったのだ。いまさら突き放すわけにはいかなくなった。まさに美紀子が計算したとおりになったわけである。
(画像省略)
一ノ沢で丸木橋を渡り、少し登ると、台地上の河岸段丘に出る。ブナなどの闊葉樹林《かつようじゆりん》ごしに爺《じい》ヶ岳《たけ》が真正面に姿を現わす。樹林を分けるようにして進むと、道は下りとなって、西俣《にしまた》と北俣の合流点に出る。北俣本谷の川原に下り立つと、先行の登山者が、水筒に水を補給したり、食事をしたりしながら三々五々と憩《やす》んでいる。
大谷原からここまで約一時間二十分、ほぼコースタイムどおりである。
ガイドブックによると、本谷の丸木橋を渡って一〇〇メートルほど上流から、いよいよ赤岩尾根の本格的な登高がはじまるとなっている。河西はここで小憩することにした。やや遅れて着いた美紀子も河西に倣《なら》った。
彼はそれを横目に見ながら、しかたがないというように笑った。しかし美紀子が彼の最も近くにリュックをおろしたことが嬉しいのである。実績≠ヘ徐々につくられつつあった。
二人とも、食事はすでに列車の中ですましてあったので、五分ほど憩むと立ち上がった。河西が立ち上がると、美紀子も当然のように行動をともにする。
いよいよ名にしおう赤岩尾根の本格的な急登がはじまった。取付点からブナの樹林の中の急坂がつづく。前を行く人間の足がすぐ目の前に見えるような急傾斜の道である。展望もなく、ただひたすらに登る。
さすがに美紀子は苦しそうだった。唇《くちびる》をかみしめて懸命に尾いてくる。
「ゆっくり、ゆっくり登りなさい」
河西はもはや彼女から離れることができなかった。彼自身が、心臓が裂けそうに苦しい。だが彼には聞込みで鍛えた脚があった。その点、都会の舗道からいきなりやって来た美紀子にハンディがある。
河西はいつしか、美紀子のペースに合わせて歩いていた。
「そんなに口をかみしめずに、口で息をするようにすると、楽ですよ」
そんな注意をすることが、抜きさしならない同行の了解をあたえることになるのをよく承知しながら、苦しそうな美紀子の表情に黙っていられなくなるのである。
傾斜が強いので確実に高度は上がった。やがて尾根の主稜《しゆりよう》に出て、これをさらにつめて行くと右手に大きな岩が見えてきた。このへんから針葉樹の発育が目立つようになる。
このころには、美紀子は完全に河西の同行者≠ノなっていた。足は遅いが、彼女が案外に健脚で、懸命に歩いてくれるので、平均コースタイムからあまり遅れていない。河西は、彼女がエスコートつきではあっても、穂高へ登ったことを知らなかった。
また高校時代テニスでかなり鍛えられていることも知らない。表面から見た脆《もろ》そうな骨格に、かなり危惧《きぐ》していたのだが、この調子なら、案外行けるかもしれないとおもった。
梯子をいくつか越えると、傾斜がやや緩《ゆる》くなってくる。樹林がまばらになった。丸木橋をまた一つ渡る。西俣側のガレた斜面に出る。これを登って、尾根の背を北俣側に乗り越す。
残雪のある凹地《くぼち》を通り過ぎて、一登りすると、一気に視界が展《ひら》けた。そこが高千穂平《たかちほだいら》であった。いままで樹林に視野を暗く閉ざされていたために、急激に反転して開いた鹿島槍の展望は、あたかも錯覚のような圧倒的な量感をもって迫った。
河西はアルプスの高山を、こんなに近々と眺《なが》めたことはなかった。美紀子も、穂高でアルプスの洗礼を受けていたが、やはり信じられないような目を山に吸いつけている。
山腹に刻まれた雪渓《せつけい》と、雪を受けつけない岩壁の黒の集積《マツス》は、明暗の両極端とも言える強いコントラストを描いて、高山の風格をきわだてている。
北俣本谷に切れ落ちる鹿島槍ケ岳の岩壁は、いかにもその山の険悪な様相を示しているが、鋭角的な双耳峰《そうじほう》をもってスカイラインを描く山容は、まことにスマートに見える。左手にあたって屹立《きつりつ》する爺ケ岳の奥壁も、その名に反してダイナミックである。
稜線の上には、午後にまわって、積雲が湧《わ》き出していた。それは空にみなぎりあふれたエネルギーが沸騰《ふつとう》してつくった泡の集塊のようである。
岩を彩《いろど》る点景として、ハイマツと雪と花がある。北アルプスのどこでも見うけられる、山のアクセサリーのようなものだが、鹿島槍の場合、それがひどくダンディに見えた。
河西は、自然の造化の核心に迫りながら、初めて見参《げんざん》した鹿島槍の全容に、ひどく都会的な印象を覚えたのであった。
おそらくそれはこの山が、穂高や剣《つるぎ》のように広域にわたる山塊の代表として、巨大な岩の量感に終始するのに対して、単独峰の中に、数々の、山の基本的なメリットを備えているせいかもしれなかった。
「ここで写真を撮《と》っていいかしら?」
美紀子が遠慮がちに聞いた。いままではカメラを取り出す余裕がなかった。
「どうぞ。シャッターを押してあげましょうか」
「いいえ、風景だけでいいんです。私って自分の姿を撮《うつ》すの、あまり好きじゃないんです」
「どうして?」
「写真って、自分のいちばん嫌《きら》いな表情でもつかまえてしまうでしょう。まさか写真を撮るときに鏡を見ながらポーズするわけにもいかないし、風景だけ撮っておくほうが無難ですわ」
美紀子にも、自分の嫌いな表情があるのか? と、どの角度から見ても好ましいような彼女の面《おもて》を改めて眺めたとき、河西はハッと気がついたことがあった。
〈門脇はどうしてここで写真を撮らなかったのだろう? 展望のきかない長い登りのあとで、こんなに景色《けしき》のいい場所へ来たのだから、当然、カメラを構えたくなるはずだ〉
現に美紀子がしきりにシャッターを切っている。ほかにも休憩している登山者たちが盛んにカメラを構えている。地元が備えたらしい屑かごの中にはフィルムの空箱が目立つ。
河西は、参考資料として、門脇の撮った写真のすべてのコマの複写をもってきていた。
@Aは大谷原で撮影され、Bは一気に冷池まで跳躍している。
眼前の展望は、その趣味がなくとも、おもわずカメラを構えたくなるような壮大で秀麗なものである。やや遅い午後の斜光になっているが、それがかえって山に立体感をあたえていて、おもむきが深い。
それとも門脇が登ったときは、天候が悪かったのか?
いやいや、そんなことはなかった。@Aのコマは、明らかに「晴れ」の情況で撮影されている。途中で天候が悪化したとも考えられるが、BCの冷池のコマは、日没寸前の光線不足ではあっても、そんなに悪天の様子は見えない。山の天気のことだから、途中から悪くなり、冷池へ着くまでにまた回復したということも考えられる。
〈とにかく当時の天気は、地元の気象台に問い合わせる必要があるな〉
――あるいは、天気がよくても、日没前に冷池へ着こうとして、急いでいたのかもしれない。いまの季節でも、昼大町を出て、その日のうちに冷池まではいるのは相当の強行軍だから、五月の残雪期になると、かなりピッチをあげなければなるまい――
〈写真どころではなかったかもしれないな〉
「何を考えていらっしゃるの?」
ふと目を上げると、写真を撮し終えた美紀子が、河西の顔を覗《のぞ》き込むようにしていた。
「いえ、なに、なんでもありません」
彼は、美紀子に心の内を見透《みす》かされたような気がした。どぎまぎしながら立ち上がると、瞬時の狼狽《ろうばい》を糊塗《こと》するように、
「さあ、もうひとふんばりです。途中で日が暮れると厄介ですから」
と美紀子を励ますように言った。
高千穂平から先は、道は尾根すじを行くようになる。植物も高山性を帯びてきた。シラカバの目立つ斜面を電光形に登ると、岩稜に出る。展望がきくようになったので、登る足にもはずみがついた。
頭上の空が、次第に赫《あか》みがかってきた。長い夏の一日が、ようやく黄昏《たそがれ》に向かって傾いているのだ。雪を刻んだ山腹に夕べの霧がたむろしはじめた。
午後六時少しすぎ、ついに彼らは国境稜線に達した。超弩級《ちようどきゆう》の岩の戦艦のような剣岳が、黒部|渓谷《けいこく》の深淵《しんえん》をへだてて雄大な影絵を切り抜いている。
稜線に近づいて赫みを帯びた太陽が、雲を染める。逆光の中に濃いシルエットを刻んで沈む稜線の真上が最も赫く、天の上方へ行くにつれて茜《あかね》から黄色へ、そして、夕闇《ゆうやみ》がひたひたと侵蝕して来る東方の藍色《あいいろ》の空へとつながる。
その中間にあって、複雑に堆《つ》み重なった雲層が、落日を屈折して乱反射する。光を浴びた雲の下層は燃え上がり、雲そのものが炎のように見える。上層の雲は、紫から、黒へと退色する。
それら燃える雲塊の反映を受けてか、夕日から最も遠い東の地平線上に林立した積雲の頭が、その下端を夕闇の中にどっぷり浸しながらも、かすかに色づいている。
一瞬の時点をとらえての写真に定着させたような観察すら、赤と黄を主体にした色彩の洪水である。それが時間の経過にしたがって、夕闇の藍と黒の蚕食《さんしよく》を受けて、少しも静止することのない千変万化の色彩の饗宴《きようえん》をくりひろげていた。
冷池小屋が視野にはいった。もうここまで来れば急ぐ必要はなかった。二人は苦しい登高の末に報われた大自然の豪華な饗宴のただ中に、招かれた客として、身を置いているだけでよかった。
「門脇さん。あなたの写真は、カラーですか?」
「そうよ、もちろん」
酔ったように、美紀子は頬を染めている。彼女は事実酔っていた。あまりにも壮大な落日に酔っていた。
山そのものが炎上しているような剣・立山の連峰に視線を固定させながら、カメラを構えようとしない。彼女は写真を撮ることすら忘れている。
「撮るならいまのうちですよ」
河西のほうがかえってはらはらした。燃える山脈は、比類ない光の蕩尽《とうじん》をしつつ、速やかに鎮められていく。盛んな発光と炎焼は、衰える一方でよみがえることがない。
夕映《ゆうばえ》の美しさは退勢の中にこそあった。しきりに燃えながら、衰えて行ったあとには、替わって遠い星座が山上の空を支配するのだ。
河西が美紀子をうながしたとき、また一つ新たな発見をしたのである。
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欠陥撮影
翌朝――午前六時にはすでに二人は歩きだしていた。早発《はやだ》ち早着が鉄則の山では、むしろこれでも遅いくらいである。今日はこれから唐松岳まで後立山連峰の長大な稜線を縦走しなければならない。
途中に八峰キレットの難関があり、鹿島槍ケ岳、五竜岳という連峰中の雄峰を二つ越えて行く、後立山縦走路の核心部にあたる地帯であった。
天候は快晴である。日はすでに昇っている。進行方向右側の信州側の安曇野《あずみの》に敷きつめられた雲海が、朝日を受けてしきりに躍動をはじめていた。
高山の連峰が平野の末を屏風《びようぶ》のように限っていることが、美しい雲海のできる絶好の条件となっている。後立山連峰は、雲海の名所でもある。
高い山の頂を、雲の上に海に散る島嶼《とうしよ》のように浮かべて、目の前からまるで歩いて行けるような雲海が、地平の果てまで広がっている。
雲の下では、いまにも雨が降りだしそうに見えるのであろうが、高い山の頂に立ってみると、雲の上に突き出て、胸のすくような快晴である。
出発前のひととき、小屋の前の高みから息をひそめて見守った日の出は、昨日の落日とは異なった溌剌《はつらつ》たる光の噴出であった。
夕映が、闇の中に退色していったのに反して、日の出は、誕生する光の氾濫《はんらん》を、自然が収容しきれなくなって飽和するプロセスの、色彩の乱舞そのものである。雲を振り切った太陽は輝きを増しながら、雲の凹凸《おうとつ》に生まれたばかりの斜光を浴びせる。
一瞬もとどまることのない色調の変化は、夕映とは逆に、赤から黄に、そして明るく澄んだ透明化へと、動揺をつづける。
美紀子は、河西と体を寄せ合うようにして、いまかいまかと待ちわびた山上の日の出の、定まった時刻どおりにはじめられた、巧緻《こうち》をきわめた自然の演出に息をのんだ。
進むほどに、雲海は上昇気流に乗ってガスとなり、稜線を包むようになった。しかしそれは束《つか》の間《ま》である。ガスが切れると、危なげのない青空が、気の遠くなるような深みを見せて広がる。
〈門脇はなぜカラーフィルムを使わなかったのか?〉
一歩一歩、青空へ踏み込んで行くような歩みをつづけながら、河西は昨日来もちつづけていた疑問を追っていた。あの豪華な色彩の饗宴を白黒フィルムで撮したのでは意味をなさない。
山に素人《しろうと》の美紀子ですら、カラーフィルムを用意して来た。門脇は、山は初めてではない。若いころにはかなり登り、現に残雪期の後立山をやるだけの体力を保有している。
山の落日や日の出の美しさは、よく承知しているだろう。その美しさを知らなかったとしても、いまは旅行に出かけるとき、カラーフィルムを用意するのは、常識になっている。
何度も登って写真なんかに興味がないというのであれば、白黒フィルムも必要なかったはずである。
河西は、あの豪華きわまる色彩の躍動に向かって、色盲的に白黒フィルムのシャッターを切った門脇の感覚を疑った。いや門脇はカメラを構えもしなかった。彼が冷池周辺で撮したのは、BとCの二コマだけである。Cに辛うじて剣岳を納め、Dは十八時間の空白をおいて、鹿島槍―五竜間の白昼の岩尾根へと跳躍するのである。
那須警部が指摘したこの十八時間の空白は、写真を撮る感覚のうえからも、納得できないものがあった。
道は高山植物の群落や、草原の中を通り抜けていく。色とりどりの天幕が点在している。灌木帯《かんぼくたい》からハイマツ帯に移り、道はジグザグに着実に高度をあげる。
小屋を出てから二時間半のちに、鹿島槍ケ岳の南峰へ着いた。いいペースである。標高二八八九・七メートル、身長よりも高い大ケルンが立っている。その周囲に登山者が積み重ねていったらしい大小さまざまなケルンが乱立する。
眼前に聳立《しようりつ》する剣岳の山塊は、まるで押し寄せる岩の津波である。
昨日見たときは逆光にシルエットとなっていた巨大な山体が、険しい岩の骨格を剥き出して、いかにも猛々しく見えた。頭《こうべ》をめぐらせば、北峰が、彼らの立つ南峰と高度を競い合うように吊尾根《つりおね》の向こうに荒々しい頭をもたげている。
「さあ、ここで一休みしましょう」
河西が言うと、美紀子は嬉しそうにうなずいた。冷池からここまで、ほとんど憩《やす》まずに来た。途中何度も憩もうかと河西は言ったのだが、せっかくペースが出ているから、このままでよいと彼女は答えたのである。
なかなか調子《コンデイシヨン》がいいらしい。
河西はまだ、はっきりと同行の了解をしたわけではなかった。だが一夜明けると、美紀子は当然のごとく尾いて来た。
冷池から鹿島槍の頂上まで、平均二時間のコースタイムである。尾根の上のはっきりした道であり、迷う心配はない。天候も一年で最も安定している時期であった。
ひとりで行こうと、連れだって登ろうと、変わりのない場所である。河西も美紀子と歩くのを喜んでいた。
しかしそれも鹿島槍の頂上までである。二人はここで南北に袂《たもと》を分かつことになっている。
河西はさらに唐松岳まで主脈縦走路を北上し、美紀子は来た道を引き返して、大町へ下る。
「刑事さん、写真を撮ってあげましょうか」
美紀子が笑った。いたずらを含んだような笑いである。河西のこの山行の目的を知っていて、からかっているようでもある。二人並んで記念撮影でもしたそうな、皮肉っぽい表情であった。だが河西はその表情を可愛いとおもった。
「写真なら、私が撮ってあげますよ」
「まず刑事さんのから」
「それじゃあ一枚お願いしましょうか」
河西は、ぎごちない格好で、剣岳を背にポーズした。
「そんなに恐い顔をしないで、笑ったほうがいいわ。ほら、チーズ」
河西はしかたなく苦笑した。いまのポーズを那須警部たちが見たら、なんと言うだろう。たとえ写真をもらっても、彼らには見せられないとおもった。
「今度はぼくがシャッターを押しましょう」
美紀子は昨日のように嫌《いや》がらなかった。それだけ親しくなった証拠か。
二人は交互に写真を撮り合った。剣岳を背にたたずんだ美紀子、河西はその構図を、自分の心の印画に焼きつけるようなつもりで、シャッターを切った。
〈門脇はなぜ、ここで撮らなかったのか?〉
シャッターを押した瞬間、あらたなべつの疑問が湧いた。鹿島槍ケ岳の頂上、後立山の縦走を志す者で、ここに立ち止まらない人はいない。カメラをもっていれば、必ず構えるスポットである。
黒部渓谷をはさんで聳立する剣岳の山塊をはじめとして、どの方角にカメラを向けても、息をのむ大景観が展けている。雲表に覇《は》を競う高峰群は、午前の光の中で、まさに好個の写材のオンパレードである。
悪天候のときはべつとして、まず撮影可能な状態であれば、カメラを取り出すのが、当然の人情だ。門脇は、高千穂平を通過し、冷池の落日と日の出に色盲となり、いままた、たどり着いた連峰の盟主、鹿島槍ケ岳の頂上を素通りして、脇目《わきめ》もふらずただひたすらに先を急いだのである。
〈おかしい〉
――門脇がCの冷池付近から跳躍したDコマ目の岩尾根には、この頂上を上まわるような絶景があったのだろうか?――
〈いずれにせよ、それはすぐにわかる〉
河西が自問自答している間に、美紀子はフィルムを消費し、新しいパトローネと交換していた。
いよいよ別れの時間が近づいていた。ここまでいっしょに来てみると、さすがに河西も名残《なご》りおしくなった。
時間がきた。河西は吸っていた煙草を足で踏み躙《にじ》ると、立ち上がった。
「それでは、気をつけて下ってください」
「下る? どこへ」
美紀子は瞬間、何を言われたのかわからないような顔をした。
「今日は大町へ下るんでしょう?」
「大町へ、私が?」
「そうじゃなかったんですか」
今度は河西が呆《ほう》けた顔をした。
「ねえ、お願いです」
美紀子の顔が真剣な色を浮かべた。
「私を唐松まで連れて行ってください」
「唐松まで!?」
「ねえ、いいでしょう。こんなにいいお天気だし、道もいいし、けっしてご迷惑はかけませんから」
「そんな約束じゃなかった」
「私、何も約束なんかしません。ただ勝手にここまで尾いて来ただけです」
そう言われてみれば、確かにそのとおりだった。美紀子は昨日「頂上まで行く」と言っただけで、そこから下りるとは約束していない。しかもここまでいっしょに来ることは来たが、形としては、彼女が勝手に尾いて来たのである。
「ねえ、刑事さん、お願い。もう私の脚もわかったでしょう」
もし河西がだめだと言っても、彼女は勝手に尾いて来るだろう。ここから先のコースは、これまでとはちがう。後立山の核心部にかかるのである。もはや突き放すわけにはいかなかった。
「予定の行動だったんですね」
「すみません」
美紀子は素直に頭を下げた。勝手に尾いて行くとしても、ここで突き放されたときの心細さはよくわかる。彼女としては、これまでの実績≠ノものをいわせて、河西に遮二無二《しやにむに》くっついていく以外になかった。
「困ったお嬢さんだ」
苦笑しながらも、河西の胸は喜びにあふれた。彼としても、ここまでいっしょに来ては別れがたいおもいだった。
美紀子は見かけによらず、健脚である。これまでのところ、ほとんどブレーキになっていなかった。
〈それに――〉と河西はおもった。
〈門脇が登ったときは、残雪期だった。夏の最盛期に比べて、何かとハンディが多かったにちがいない。そのハンディと、美紀子を相殺《そうさい》すると、ちょうどよくなるかもしれない〉
多分に都合のいい解釈であったが、河西はすでに美紀子の同行を、自分から積極的に望んでいた。
空気が澄んでいるので、五竜岳がすぐ目と鼻の先に見える。そこまで約五時間の距離があるのだが、視覚的にはとてもそれほどには見えない。
八峰キレット(尾根すじにある深い切れ込み)の難所も、どのへんにあるのかよくわからないし、坦々《たんたん》とつづく糸のような尾根道はいかにも歩きやすそうに見える。
美紀子は、河西の苦笑の意味を敏感に悟った。
「よろしいんですね、刑事さん」
「一つだけ条件があります」
「なんでしょう?」
彼女は首をかしげた。そんな仕草は、ひどく幼げである。
「その刑事さんと言うのは、やめてもらえないかな。人がじろじろ見ます」
「まあ!」
美紀子はちょっと顔を赧《あか》らめて、
「でも、なんとお呼びしたらよいのかしら?」
『河西さん』と呼ぶのは、なんだか馴々《なれなれ》しいような感じがした。
「名前を呼んでください」
「でも……」
「それが条件です」
河西は終止符を打つように、ピシリと言った。
縦走路は、南峰からいったん北峰との間を連絡する吊尾根(二つの峰を吊橋のように結ぶ尾根)の鞍部《あんぶ》(鞍《くら》のように低くなっているところ)へ下降する。ザラザラした岩の斜面の急降下である。
吊尾根の上の小突起をいくつか越えると、北峰の黒部側の山腹を巻いて、いよいよ八峰キレットの険へ向かって、岩とハイマツのまじった急斜面を一気に降りる。
南峰を出発してから約一時間半で、八峰キレットへ降り着いた。
危ない個所は、鉄線や針金で固定されているので、大した緊張もなく通過できた。後立山縦走路中、不帰《かえらず》ノ嶮《けん》とともに有数の難所と言われているだけに、むしろあっけないくらいであった。
キレットの小屋で小休止して、さらに先を急ぐ。小岩峰のピークをいくつか上下する。信州側はきわめて切り立った険しい岩尾根がつづく。いよいよ後立山縦走路の核心部へ踏み込んで来たという感が深い。
「このあたりだな」
河西は、あらかじめ取り出しておいた門脇のスナップと、周囲の実景を、美紀子に気づかれないように対比してうなずいた。
場所はちょうど、鹿島槍と五竜の真ん中あたりである。口ノ沢のコル(鞍部)と呼ばれるところで、信州側に、鹿島槍北壁からなだれ落ちるカクネ里の雪渓が光る。
時間は正午に近い。午前六時に門脇は冷池小屋を出たというが、美紀子を連れているので、ほぼ同じ所要時間になったのであろう。縦走路は崩れやすい赤茶けた岩尾根がつづく。五竜岳まで、この調子で複雑なやせ尾根が連なるらしい。
このあたりで門脇は、DからKまでたてつづけに撮していた。行く手には五竜岳の量感のある山体、ふりかえれば、鹿島槍北峰からカクネ里へざっくり削《そ》ぎ落ちた北壁の豪壮な垂直空間、写材として不足はない。
だが時間的には太陽が真上に近づいたために、山から陰影と質感が消えている。どんな細部をもくっきりと露出するような潤沢な昼光は、写真的には、山を平面的に仕立ててまことにおもしろくない。もしもこれが残雪期だったら、雪はただ白いだけの、のっぺらぼうの画面となるだろう。
しかも、絶好の写材に恵まれた鹿島槍頂上を素通りして、光線の具合の好ましくないこの周辺で集中的に撮影したのはなぜなのか?
「食事にしませんか。お腹が空《す》いて、たまらないわ」
美紀子が恥ずかしそうに提案した。さっき八峰キレットの小屋で軽いものを納めたばかりである。しかし山では下界の食事時間にこだわらない。腹が空いたところで食べればよかった。
河西も空腹を覚えていた。山での空腹は、空いたかなとおもうと、ゴソッと空く。満腹と空腹の中間がないのである。河西も美紀子に言われて猛烈な飢餓感をおぼえてきた。
われながら旺盛《おうせい》な食欲だなと苦笑しながらも、河西は美紀子の提案を渡りに船と受けた。
〈もしかしたら、門脇は食事の休憩時間に撮ったのかもしれない〉
――そうだ。きっとそうにちがいない。いまとちがって、残雪期には登山者もなく、たった一人でたどる縦走路にはいろいろと困難な条件が多かったはずだ。目的地に少しでも早く着くために、食事の休息以外は、脇目もふらずに歩いたにちがいない――
〈どうしてそんな困難な時期を狙って登ったのか?〉
その答えは、まだわからなかった。だが門脇の足跡を追うほどに、いままで下界《した》にいたのではわからなかった数々の矛盾が、頭をもたげてきたことは確かである。
「また考えごとをしていらっしゃる?」
美紀子が覗き込んでいた。
「いえ、なに、そのう、昼間の山って、なんだか洗濯機《せんたくき》のような感じだなとおもったんです」
河西はふいに話しかけられて、どぎまぎしながらおもいつきを口に出した。
「洗濯機?」
「つまり、ほら、雲が泡立って、なんだか洗濯の泡みたいじゃありませんか」
「まあ、おもしろいたとえ」
山は午後にまわって、雲が湧き、空が白濁してきたような感じである。それが盛んな洗剤の泡のように見えぬこともない。信州側の断崖に霧が湧いて、それが時折り稜線の低い部分にあふれて、黒部側へなだれ込む。
しかしこの雲は低気圧の接近によるものではない。ひじょうに優勢な小笠原高気圧の圏内にすっぽりと包まれた山が、湿気を雲や霧にして上昇させているのである。
むしろ午後に雲が湧くのは、好天の持続する証拠であった。
だが河西にそんな気象の知識はない。まだ前途には五竜岳の登高がひかえている。今日中に唐松まで行くのであれば、午《ひる》までには、五竜の頂上へ立ちたいところである。にもかかわらず、まだ旅程の半分を消化したにすぎない。
今日のような空模様は、好天の持続を約束するものであると同時に、午後になって雷をおこしやすい条件ともなる。
何日もつづいた好天によって、空中にエネルギーが貯えられ、上昇気流によって雷がおきる。小笠原高気圧内の典型的な副産物である。
河西はもっと先を急ぐべきであった。だが彼は故意にそうしなかった。美紀子によってブレーキをかけられたからではない。門脇と同じコースタイムで歩くためである。
だがさすがに前途|遼遠《りようえん》のコースをおもうと、心細くなる。夏の主脈の縦走路は行き交う登山者で賑《にぎ》やかだが、冷池から出発した人間は、みな先へ行ってしまったらしい。
美紀子は河西のとってつけたような態度に、彼が何かを発見しつつあることを感じ取っていた。それは明らかに彼女の父にとって不利になるものであろう。警察は父の登山に疑いをもち、その足跡を徹底的にトレースしているのだ。
彼女は悲しいとおもった。父の周囲に張りめぐらされた弾劾《だんがい》の鉄環《てつわ》が、じりじりとしめつけられて来るのを知りながら、どうすることもできない。
むしろ彼女の行動は、河西にヒントをあたえ、次々に疑問を誘発させているのである。
だがいまそれを悲しんでも、どうにもなるものでもなかった。彼女は父のことを忘れようとおもった。いまはただ、アルプスの高燥な大気と、熾烈《しれつ》な日光にどっぷり浸《ひた》ろう。
「そろそろ出かけましょう」
今度は河西から声をかけられた。いつの間にか美紀子のほうが、ものおもいに耽《ふけ》っていた。
五竜岳の頂上に着いたのは、午後三時である。空にはしきりに雲が湧き、視界が悪くなっていたが、さいわいに雷雲の発達する様子は見えなかった。このへんで雷に襲われたら、逃げ場がない。
たどって来た鋸歯型《きよしけい》の岩稜が、鹿島槍ケ岳までつづいている。その岩尾根を境にして、安曇野《あずみの》側から盛んに霧が吹き上げる。剣《つるぎ》山塊の岩襖《いわぶすま》は、午後の斜光の中に黒ずんで見えた。
遠望に幾重にもたたなわる尾根と、その間にはさまれてしきりに動揺している山峡の雲、いまや午前の晴天の支配が崩れて、雲と山が乱戦にはいったような眺《なが》めである。それは快晴下のフラットな山脈よりも、いかにも高山らしい凄味《すごみ》のある様相となった。
また美紀子がカメラを取り出した。またたく間に一本を消費して、
「フィルムが何本あっても足りないわ」
とつぶやいた。その瞬間河西は、重大な事実に気がついて、愕然とした。
門脇は、たった一本しか、フィルムを消費しなかったのだ!
「あなたの使っておられるフィルムは、何枚撮りですか?」
河西は、フィルムを交換している美紀子にたずねた。
「二十枚撮りです」
「もう何本撮りました?」
「二本です。これが三本目。全部カラーだから、帰ってから写真代が大変ですわ」
美紀子のカメラは最も普及している35ミリ小型カメラである。大してカメラマニアでもない彼女が、コースの三分の二の五竜までで、すでに四十コマも撮影しているのである。
それに反して門脇は、十六コマ撮りのロールフィルム一本を消費しただけであった。その一本の中に、彼が歩いた全コースが、登山口から下山するまで、すべておさめられている。
河西は、午後から夕暮れに向かって大きく傾斜しつつある遠望の一点に目を据えたまま、動かなかった。
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濃縮された山脈
河西がもたらした収穫は大きかった。彼の脚による発見は、門脇のアリバイの、重大な矛盾を露《あら》わしたのである。これはやはり現場へ行ってみなければわからない事象であった。
河西が山へ登る前にすでにあった、怪しい情況に加えて、新たな発見は、捜査本部の門脇に向ける疑惑を決定的にした。
河西の発見を改めて整理すると、次のようになる。
(一)門脇のスナップは、絶好の撮影スポットをはずしている。
(二)フィルムをたった一本、十六コマしか消費しなかったのはなぜか?
(三)十六コマの中に、登山口から下山までがすべて撮《うつ》されているのは不自然である。最初から一本しか用意しなかったのであれば、途中で撮し終わるか、あるいは、何コマか残るのが自然だ。
(四)なぜカラーフィルムを用意しなかったか?
(五)最も不自然なのは、Cコマ目とDコマ目の跳躍である。その間には縦走コースの白眉《はくび》とも言うべき、鹿島槍の頂上がある。門脇はここを素通りした。
(六)撮影スポットだけでなく、撮影時間も、ことさら光線の具合がこのましくない昼に集中して撮ったのはなぜか?
河西の発見にもとづいて、門脇の写歴≠ェ調べられた。その結果、彼がかなりのカメラマニアだということがわかった。
省内のカメラコンクールにおいても、何度か優勝したことがある。撮す腕のほうもさることながら、機材に関しても、かなりの凝《こ》りようで、問題のパールWのほかに戦後のボックスカメラや、蛇腹式《じやばらしき》のハンドカメラと初期大型一眼レフを各一台、普及型の35ミリカメラ二台のほかに、各種レンズ交換のできるカメラなどを持っていることが明らかになった。
さらに自宅にDPEの設備を有し、自分の撮影したものはもちろん、友人たちのスナップの現像焼付を引き受けてやっている。
それほどのカメラマニアが、二泊三日の久しぶりの山旅に、コレクションの中からスプリングカメラ一台だけを伴い、たった一本の白黒フィルム十六コマしか撮影しなかったのである。
門脇のアリバイをめぐる矛盾は、この事実によって、さらに拡大されたわけである。
皮肉なことに、河西は以上の発見を、ほとんど美紀子のおかげで為《な》したのである。だが彼はこの美しい道連れのことは伏せておいた。
それは彼ひとりだけの秘密にしておきたかった。おそらく彼女もだれにも話さないであろう。
それならば二人だけの秘密である。河西は美紀子と共通の秘密を分かったことが嬉しかった。
「おそらくあの旅の記憶は、おれのこれからの一生の、心の宝物になるだろう」
河西は本当にそうおもっていた。年齢もちがうし、住む世界もちがう。それに彼は妻子ある身だ。美紀子は彼にとって可能性のまったくない異性であった。可能性以前に、資格がなかった。
だが、その異性と数日間、山上でともに過ごしたことは、夢ではない。単なる遠い異性として眺めたのではなく、その体に触れんばかりの至近距離≠ノ身を置いて数日間行動をともにした。
唐松岳の山荘では、その体に触れすらした。河西はそのときのことをおもいおこすと、全身がカッと熱くなって、頬《ほお》が火照《ほて》るのを覚える。
夏の北アルプスの山小屋はどこでもそうだが、その夜の唐松山荘の混雑は特にひどかった。
夜具は二人に一枚、アベック以外は男は男同士、女は女同士で雑魚《ざこ》寝をする。そのとき美紀子は言ったのである。
「私、知らない女の人といっしょに寝るくらいなら、河西さんといっしょのほうがいいわ」
河西は彼女の申し出に喜びと当惑を同時に覚えた。美紀子と同じ布団に寝る。それは都会では考えられないことである。
単なる物理的な同衾《どうきん》≠ノすぎなかったが、彼はそれを冷静に受け止められなかった。
しきりにためらう河西に、美紀子は山荘の従業員に、さっさと河西と同行であることを告げて、一組の夜具をもらってきた。
夜具の中でせいぜい離れて寝るなどという芸当はできない。夜中にトイレに立てば、自分のスペースがなくなってしまうほどの混雑なのである。
いやもおうもなく、河西と美紀子は一つ夜具の中に抱き合うような形で眠った。美紀子はどうか知らなかったが、河西は、ほとんど眠れなかった。美紀子の体温が、彼の体に移ってくる。ほんのちょっと身じろぎするたびに、彼女の柔らかい肉の触感が伝わる。文字どおり肌と肌を寄せ合っているのである。
少し顔を傾ければ、美紀子の花弁のような唇がそこにある。それを無視するには、河西はまだ十分に若く、そして美紀子に好意をもちすぎていた。
あの夜のことをおもうと、山上の日の出や、落日よりも、花やかな色彩が目の前で渦を巻いているように見える。
しかし、これは那須や本部のメンバーには言えないことである。もちろん細君にも話せない。
「本当にご苦労だったね」
那須は、そんな河西の秘密≠熬mらずに、彼のまっ黒に日灼《ひや》けした顔を見上げて、労をねぎらってくれた。
まっ黒というよりは、まっ赤と言ったほうが正確かもしれない。実際、河西の顔はひどいことになっていた。美紀子は若い女らしく、日灼け止めクリームを塗っていたが、なんの予防もなく、山の強烈な日に面を晒《さら》した河西は、顔じゅう火脹《ひぶく》れみたいになっていた。
鼻の頭の皮はズルリと剥《む》けて、ケロイド症状を呈している。この凄まじい面相を見て、捜査本部の人間はだれも、彼が若い女と山上の一夜を同衾≠オたなどとはおもいも及ばなかった。
河西の発見をもとに、会議が開かれた。改めて稲田署に声がかけられた。堀越警部と本田刑事が会議に参加した。稲田署側も、いっこうに捜査が進展せず、解散寸前に追いつめられていたので、面子《メンツ》にこだわっていられなかった。
「河西刑事の発見をもとに、もう一度、門脇の情況をよく検討しなおしてみたい」
那須が、河西の発見した事項を説明したあと、今日の会議の目的を告げた。
「まず(一)の撮影場所に関してだが、これについて何か意見はないか?」
那須がみなの発言を促《うなが》した。早速、稲田署から来た本田が立ち上がった。
「撮影の場所というのは、個人の好みが現われるものですから、河西刑事がいいとおもっても、門脇の興味を惹《ひ》かなかったのではないでしょうか?」
河西は、困ったような表情をした。そう言われてみると、彼は写真に関してはまったくの素人だけに反駁《はんばく》できない。
本田はさらに追い打ちをかけるように、
「それに山は五月となれば、河西刑事が行かれたときよりも、はるかに条件が悪いとおもいます。先を急ぐために、とても写真どころではなかったということも考えられます」
本田が腰を下ろすと、室内には重苦しい沈黙がよどんだ。だれも門脇が歩いたときの五月末の山の状態を知らないだけに、すぐに発言できない。地元の山路にしても、門脇が歩いたときの状態はわからない。
「たしかに」
山路が口を開いた。やはりこの際発言するとなれば、山とカメラに強い山路であった。
「カメラポジションというものは、個人的な好みに大きく左右されますが、普遍的にいい場所は共通していますよ。特に山岳写真の場合は、山の中腹よりも、高いところへカメラを据えることが常に有利で、岩壁の険しさとか山の高度感や質量をよく表現できます。
素人写真のときは、このことが例外なく言えます。高ければ高いほど、視野が広がって狙う対象が増える。彼らが山頂を素通りするということは、まず考えられません。
先を急ぐのに忙《せわ》しく写真どころではなかったということになれば、途中の鹿島槍―五竜間の岩尾根で撮っているのは解《げ》せない。門脇はここでDコマからKコマまで八枚、実に全コマの二分の一を消費しておるのです。それでいながら、五竜や鹿島槍の頂上は素通りしているのです。これはどうしても解せない」
山路は河西を弁護する形になった。
「天候とか光線の具合が悪かったというようなことは考えられませんか?」
本田は執拗《しつよう》に食い下がった。合同捜査会議の形式を取ると、どうしても他署意見のあら[#「あら」に傍点]を探す形になってしまう。感情的になって、論点がかみ合わず空転することもあるが、一署の偏見を訂《ただ》し、資料を客観的に総合検討できるメリットもある。
「地元の気象台に問い合わせて、門脇の登山中は好天が持続しておったことがわかっております。光線も、昼よりは朝のほうがいいことは写真の常識になっています」
「昼めしを食いながら撮したのでは?」
本田も河西が考えたと同じことを指摘した。
「その可能性はあります。しかし門脇ほどのマニアが、めしを食う片手間に、パチパチ撮ったということは考えられません。パールW型は小型で操作も簡単ですから、撮影にそんなに手間はかかりません。絶好の写材を目の前にしながら、シャッターを押す手間を惜しんで先を急いだというのは、おかしい」
本田は黙した。山路の言葉に満足したわけではない。どちらも情況を憶測だけでしゃべっているだけに、これ以上のことが言えなかったのである。
(二)のフィルムを一本しか使わなかったというのは、おかしいという問題ですが、フィルムを失ったとか、忘れたとかいうことは考えられませんか?」
辻が言った。
「可能性としては考えられるが、きわめてうすい可能性だね」
横渡が一言のもとに打ち消した。
「(四)のカラーフィルムの問題ですけど」
所轄署の畠山が、面を上げた。
「門脇はカラーフィルムも用意していったのではありませんか? ところがカメラを一台しか持っていなかったために、最初|装填《そうてん》した白黒を全部撮り終わるまで、カラーを詰められなかった」
「それは一つの見方ですね。しかしカラーフィルムを用意したのなら、もう一台カラー専用のカメラを持っていくべきじゃないですか」
本田が反問する。
「荷物が重くなるので、やむを得ず、一台にしたのでは?」
「それだったら、そんなオールドタイプのカメラなんか持たずに、もっと最新式のやつを持っていけばいい。彼はたくさん持っているんだから」
「そのカメラに特別の愛着をもっていたのでは?」
パールWは現在は生産中止になっているが、レンズはヘキサー3.5、解像力は抜群で、画面が大きいので、鮮明な画像が得られる。その他スプリングカメラの難点とされている個所をうまく設計工夫してあるので、いまなおかなりの愛好者をもっている。
特に造りが堅牢《けんろう》にできているので、登山家に愛用されている。門脇がその一台を選んだとしても、不思議はなかった。だがいずれにしてもこれは、門脇本人に聞かなければわからない問題である。その機は刻々に熟しつつあった。
「選んだたった一台に装填した、たった一本のフィルムに、コースの全行程を撮り終えたというわけですか?」
だがそれは(三)の問題であった。当面討議されていた(四)を、(三)の問題をもってすり替えた本田は、畠山の出した意見を認めたわけである。
「ちょっとおもしろい発見をしたのですが」
いままで黙していた草場が、目をあげた。彼はいままで、机の上に広げた手帳に何かしきりに書きつけていたのである。
全員の視線が、草場に集中した。
「門脇の写真を見ると、撮影時間が大きく三つに分かれているのです。@Aコマが昼間、BCが夕方、DからKが昼間、LMが朝、NOがまた昼間です。つまり朝か正午前後か夕方、門脇はこの三つの時間帯だけしか撮っていないのです。しかも泊まった場所では、朝か夕方かのどちらかにかぎり、両方は撮していません」
ホウという吐息のようなものが、一同の口からもれた。これは確かに新しい発見である。彼らは改めて手もとに配られた一連のスナップを見なおした。
(画像省略)
@〜Cと、L〜Oは、いずれも出発点と到着点にあたる。すなわち、大谷原の登山口を門脇は午後一時前後に出発し@Aを撮影、夕方六時前後に冷池に到着して、BCを撮った。
これと同じことが唐松山荘―細野(八方尾根山麓)間においても言える。だから撮影時間は明らかにわかる。
問題は、鹿島槍―五竜間で撮影されたD〜Kである。これがその日の歩程である冷池から唐松までのほぼ中間地点にあたることは想像できる。
だが微妙な条件が重なる山のコースタイムは、必ずしも距離に忠実に相応しない。D〜Kが昼に撮影されたと断定するのは危険であった。しかし、平均的なコースタイムや印画の光線の角度や被写体の状態などから計算して、この一連のコマ番号が、正午前後に撮影されたことは、ほぼまちがいなかった。
門脇の写真は、朝、昼、夕方しか撮られていない。それ以外の時間に撮影されたものはないのだ。しかも一か所で朝と夕方を同時に撮したものはない。
――これはいったい、どうしたことか?――
新しい発見にメンバーの目が光った。しかし確かにおかしなことではあったが、いくら考えても理由はわからない。
ようやく発言が減って、重い沈黙が支配しはじめた。
会議はいくつかの矛盾を明確にするにとどまり、それ以上の結論は出せなかったのである。
「このままだと、わざわざ現地へ行った意味がなくなる」
河西は責任を覚えた。彼の発見によってひととき活気を取りもどしたかに見えた捜査本部も、門脇のアリバイを崩す決定打をつかめずに、ふたたび沈滞した。
門脇を呼んで事情を聞くとしても、その答えはわかっていた。河西の発見は、あくまでも「疑わしき情況」にすぎない。
捜査会議において、その情況を検討するために行なった反問が、すべて門脇の回答につながるであろう。
〈どこで写真を撮ろうと自由である。だれもが狙う場所での、絵葉書のような構図には、まったく撮影意欲をそそられない、一本撮ろうと、十本撮ろうと、大きなお世話だ。十六コマで全コースをちょうど撮り終えたっていいではないか。途中でのフィルム交換が面倒だから、そのように計算して撮ったのだ。早く現像するために、旅の終わりに、未撮影分のコマをパチパチ撮ってしまうことは、よくある例じゃないか。カラーフィルム? それこそ趣味の問題だよ。白黒のほうが、深味のある写真が撮れることがある。どんなカメラを持っていこうと私の勝手だね、そこまで束縛しようというのかね、きみ〉
門脇はこんなふうにうそぶくであろう。要するに河西の発見には、なんの決め手もないのである。情況証拠というものの、歯ぎしりしたいようなはがゆさが、そこにあった。
ほぼ時を同じくして、一つの異常な事件が、東京の都心のホテルで発生した。時間はちょうど午後二時ごろである。
赤坂に新設された『赤坂グランドホテル』のフロントクラークは、たったいま受け付け《チエツクイン》たばかりの人妻風の婦人客が、ボーイに案内されて行く後ろ姿を見送りながら軽く舌打ちした。
〈これから昼下がりのお愉《たの》しみというわけか、チェッ、うまくやってやがる〉
彼は心の中でつぶやいた。商売がら情事の客は多く扱っている。どんなに一流ホテルでございと気取っていても、所詮、密室の商売≠ナある。ましてダブルルームを主体にしたこのホテルから、情事客を追放したら、確実に経営は難しくなる。
だからその種の客[#「その種の客」に傍点]を見るたびに羨《うらや》ましがっていたのでは、この商売はつとまらない。
クラークは羨ましがったというよりは、くやしがったのである。女はたった一人で到着《チエツクイン》した。いつもそうなのである。宿帳《レジスター》には「中井八重子」と書いてあるが、どうせ偽名だ。職業が「文筆」とあるのが、笑わせる。
だいたい、そんな名前の女流作家は聞いたことがないし、作家ならば、たいてい原稿用紙や資料を持ち込む。しかも、彼女のリクエストする部屋はいつもダブルである。
女が先に来て、男が後から来るのだ。おそらく上流家庭の有閑夫人であろう。夫の留守《るす》中に火遊びをしているのである。
最近は、ホテルも過当競争気味で、店を開いて客を待っているだけの、殿様商売では、客室が埋まらなくなった。
そのために、ホテルはさまざまの工夫を凝らした。ホテルで結婚式を挙げた客に初夜の部屋代をサービスしたり、受験生を呼んだり、航空会社と一括《ブロツク》販売契約をしたり、日本旅館並みに、食事付き料金を打ち出したり、あの手この手で客を引いている。
その苦心の一手として、昼間空いている部屋を、ビジネスマン向きのオフィスとして時間貸しする、「オフィスユース」とか「デーユース」と呼ばれるものがある。
呼称は異なっても、温泉マークやモーテルの「ご休憩」と同じである。
ビジネスマン向きのオフィスユースの主たる客が、情事目的のアベックだったとは皮肉である。しかしこれは皮肉でもなんでもなく、ホテル側も最初から予測していたことだ。
日本ホテル協会に加盟している一流ホテルが、公然と温泉マークの真似はできない。したがって、オフィスのオブラートで赤裸な商法をくるんだのである。
中井八重子も、オフィスを、別途に利用する客であった。露骨な温泉マークやホテルとちがって、一流ホテルなら出入りするにも、気を使わなくてよい。しかも使用する部屋は、ビジネスマン向きのオフィスである。
偶然知人に出会ったところで、いくらでも言い抜けがきく。ただ一つ注意すべきは、男といっしょにいるところを見られないことだけである。一歩部屋の中にはいれば、外からは見えない。男と汗みどろになって抱き合い、快楽にのたうっても、だれにもわからない。
少しぐらい大きな声を出したところで、周囲はどうせ同じようなダブルの部屋ばかりである。
クラークは、虫も殺さないような顔をしたその婦人客を、憎らしくおもった。家に帰れば貞淑な妻なのであろう。それが夫の留守を狙って不倫の肉の悦楽に耽っている。
それだけだったらよくあることだが、「女流作家のオフィスユース」とは憎いではないか。
クラークは、ホテルのたくましい商魂が生んだ顧客にもかかわらず、義憤めいたものを覚えていた。
中井八重子の部屋は1591号室である。つまり十五階の91番ということになる。91番はエレベーターから最も離れた棟末の位置にある。
ここならば遠慮なく大きな声を出せる。この位置の部屋は、彼女の気に入りであった。だからこのごろでは黙っていても、フロントがここを|部屋割り《アサイン》してくれる。
ボーイが去ったのを確かめてから、彼女はシャワーを浴びた。ベッドの上に出された二組の浴衣《ゆかた》が、これからの悦楽を暗示するようである。
彼女は浴衣に着かえて、時計を見た。そろそろ男の来る時間であった。今日は夫の帰りの遅いことはわかっているので、比較的ゆっくりできる。
彼女は浴衣の下には何も着けていない。シャワーで汗を流した素肌に、なめらかな浴衣が快い。このホテルでは浴衣にあまり糊《のり》をきかせない。肌が荒れるのを防ぐためである。
敏感な彼女の肌は、糊のきいた浴衣やシーツに直接肌を接すると、すぐにすりむけたように赤くなってしまう。実際軽いすりむけができて、風呂へもはいれなくなってしまう。
風呂よりも何よりも、敏感な彼女の肌を知っている夫に、そのすりむけから今日の情事を悟られるのが恐かった。彼女はその危惧がないところから、このホテルを愛用していたのである。
〈彼と逢《あ》うのは久しぶりだわ、ここのところなかなか家を出るチャンスがなくて。今日はおもいきり補給≠オてもらわなくちゃ〉
女は、間もなくはじまる悦楽の時間に寄せる期待で、体の中心が早くもうるんでいるのを感じた。彼女はもう一度、時計を見た。約束の時間まであと二、三分だった。
「そろそろだわね」
彼女がわくわくしてつぶやいたとき、ドアにコールサインが鳴った。
「来たわ!」
彼女は、飛び立つように立ち上がり、ドアに駆け寄った。
「原口さん?」
と彼女は男の名前を呼びながら、なんの備えもなく、ドアを開けた。
「待ったわよ……」と言いかけた女の体は硬直した。彼女はそこに、待ちわびていた男とは、べつの男を見いだしたのである。
「その原口とやらでなくて悪かったですね」
男は、険しい視線を女に向けた。
「なんですか、いきなりはいって来て」
最初の驚きから立ち直った女は、居丈高に男をとがめた。
「いきなりだって? ちゃんとブザーを押しましたよ」
「すぐ帰ってちょうだい! あなたなんかに、用はないわ」
「用がないとはひどいでしょう。さんざん人を玩《もてあそ》んでおいて。ぼくは奥さんのオモチャにされて破滅させられたんだ」
「オモチャですって!? ふん、おおげさなことを言わないでよ。そういう言葉は女が男に言うものだわ。私たち、納得ずくの浮気だったのよ」
「ぼくは納得した覚えはありませんね。奥さんを庇《かば》うために、ぼくは人殺しの容疑を受けながらも、あなたの名前を隠した。それなのにひどいじゃありませんか、ぼくに乱暴されたなんて。いまの言葉が何よりの証拠だ。納得ずくなら、そうだと、どうして言ってくれなかったんです。あの事件の後は逢ってもくれない」
「もう過ぎたことよ。あなただって私を庇うためじゃなくって、自分の身が可愛かったからでしょ。ふん、おたがいさまだわ。さあ早く帰ってよ。こんなところを人に見られたら誤解されるわ、迷惑よ」
「迷惑? どうせ男と待ち合わせているんだろう。ぼくは見られても少しも困らないぞ」
「失礼ね。この部屋は仕事用に借りているオフィスよ。さ、早く出て行って」
「笑わせるなよ、仕事だって? そんな格好をしてどんな仕事をするんだ?」
「どんな格好をしようと大きなお世話よ。汗をかいたからシャワーを浴びたのよ。さあ帰らないと警察を呼ぶわよ」
「警察だって? それがこのおれに言う言葉なのか。一度なんか、亭主と離婚して、おれと結婚したいと言ったくせに」
「男と女の仲はね、どちらかの熱が醒《さ》めればそれまでなのよ。未練がましい男は大嫌い。顔を見るのもいやだわ」
「なんだと!?」
かつては激しく肌をからめ合い、共通の享楽《きようらく》を分けてのたうった二人が、いまは全身で憎み合っている。
「さあ出てって、出てってよ。私の貴重な時間の中に、あなたに割《さ》くための時間は、一分もないのよ」
女はこうしている間にも、待ち合わせている男が来ないか気が気でなかった。いまの男には、現在彼女のほうが夢中である。前の男≠ニいっしょにいるところを見られては、いかにもまずい。
彼女が「誤解される」と言ったのは、その新しい男に対しての意味であった。
「どうしても出て行かないんだったら、強盗が押し侵《い》ったって、警察に言うわよ」
女は、電話機に手を伸ばすジェスチャーをした。
「ちくしょう!」
それまで耐えに耐えていたらしい男の表情に凶暴な陰翳《いんえい》が走った。
「許せない」
「な、なにすんのよ!」
女が危険を意識したときは、遅すぎた。女が靡《なび》かないときに脅すつもりでもってきたナイフを、男は発作的《ほつさてき》に腰だめに構えて、女に跳《と》びかかった。
女の悲鳴が、静まりかえった午後のホテルの廊下を引き裂いた。
急報によって、所轄の赤坂署員が現場へ駆けつけたときは、すでに女は心臓を刺し通されて死んでいた。
血まみれになった凶器を握ったまま、その場に呆然自失していた犯人は、なんの抵抗もせずに逮捕された。犯人の名前は、元帝急社員、弓場久彦、被害者は彼の上司にあたる同社幹部、中沢幹郎の妻弥生とわかった。
弓場は、美紀子へ向けた愛の可能性を絶たれたうえに、会社でのエリートの地位を失った。もとはと言えば自業自得なのだが、密通の相手の弥生がああもエゴイスティックな冷たい仕打ちをしなければ、会社から追放されずにすんだと、逆怨《さかうら》みするようになった。
せめて怨みの一言も言ってやろうと、弥生の立ち回り先を秘かに調べて、やって来たのだが、あまりにも素気ない弥生の態度に、衝動的な殺意をふるってしまったのである。
一方、被害者の弥生は、弓場との浮気を中沢に知られてより、夫が放任しているのをよいことに、次から次へ若い燕《つばめ》を咥《くわ》え込んでは、不倫の遊びに耽っていたところを、古い燕≠ノ襲われたのである。
赤坂署の捜査本部で、このニュースを聞いた部員たちは暗然とした。彼らが追及している事件の被疑者にかつてなった男が、今度こそ、本当の殺人犯となったのである。
事件に登場した三人のエリート関係者のうち、二人は殺され、残る一人は別件の殺人犯となった。
そこに捜査官たちは、エリートの末路を見たおもいであった。しかも弓場をこれまでに追いつめた直接の大きな原因は、彼を第一容疑者として挙げたことである。弓場の自業自得にはちがいなかったが、彼らは後味が悪かった。
何かが河西の頭の中に醗酵《はつこう》しつつあった。門脇のアリバイの突破口は依然として見つからない。だが河西には闇の底がかすかに明るんだように予感めいたものがあった。
見つめれば、いままでの闇と同じの一抹《いちまつ》の光明もない深く厚い黒い真実である。それでいながら何かが動いていた。何かが熟しつつある。
それは二月の末の寒さのように、十二月や一月よりも低温でありながら、ひたひたと忍び寄る春の気配を、冬が最後の力を結集して抑えつけているような、あの感じなのである。
濃縮された思考が、ある日突然インスピレーションとなって閃《ひらめ》く。そのためには、考えて考えぬくことが必要であった。
インスピレーションとは、堆積《たいせき》され、濃縮された思考エネルギーが、ふとその緊張を弛めた瞬間、爆発をおこす現象である。濃縮され変化した思考が、まったく新しい視野とアイデアを開く臨界点である。
河西にはその臨界点が近づいていることがわかった。そしてそれは八月の末の日曜日の午後、突然きた。
久しぶりの休日を、河西はガラにもなく家族サービスをする気になった。休日は、家でごろ寝をしていたいところだったが、どこへも連れて行ってやらない妻や子が可哀そうになって、子供がかねて行きたがっていた遊園地へ、お伴《とも》をした。
子供のためばかりではなく、一つには妻にうしろめたい気持ちからでもある。公務出張とはいえ、若い女と山へ登り、同衾≠ワでした。これは河西が、妻にはじめてもった秘密である。
だから彼にしてみれば、罪ほろぼし≠フような意識もあった。ずいぶんささやかな罪ほろぼしであるが、これが河西にできる精いっぱいのことなのである。
彼が、門脇美紀子に惹かれた程度は、セックス氾濫の世相から見れば、子供の遊びのようなものであった。
それでいながら、妻に罪の意識を感じた。捜一の殺し担当の刑事にしては、信じられないくらいにナイーヴな神経である。
またそこに彼のよいところがあるのだった。妻子と家庭を慈しむ、マイホーム主義の刑事であればこそ、世の中のルールを無視し、それを犯す、犯罪者の悪性がわかるのである。
「まあ、雪が降らないかしら?」
河西が言いだしたとき、細君は目を丸くして、しばらくは夫の言葉が信じられないようであった。
近郊の私鉄沿線のレジャーランドで親子水入らずの一日を楽しく遊ぶ。久しぶりに夫と父親を取りもどした妻と子は、大はしゃぎだった。
そんな姿を見ながら河西は、
「これで家庭サービスの一年分ぐらいは、いっぺんにしたな」とおもった。次には、いつ親子いっしょに出られるかわからない。
――せめて今日一日くらいは――
たった一日の家族との行楽を、一年分と考えるところに、やはり刑事の発想がある。
ライオンに餌をやったり、ジェットコースターや観覧車に興じたり、お化け屋敷の中ですくみ上がったりしているうちに、腹が空いてきた。
彼らはレジャーランドの中の大食堂へはいった。かなり広い食堂だったが、行楽客で満員だった。食券を買ったが、なかなかウエートレスがやって来ない。とうとうしびれを切らした河西は、自分のほうから食券をウエートレスのところへもっていった。
河西と細君はカツ丼、子供にはお子様ランチとケーキとアイスクリームである。
さんざん待たされたあげくに、ようやく注文の一つが届けられた。
「まあ、アイスクリームを最初にもってくるなんて、ずいぶんひどいサービスね」
妻が眉《まゆ》をしかめた。子供はさっそく手を伸ばす。
「こんなもの最初に食べたら、せっかくの食欲が損われるわ」
「しかし、アイスクリームが溶けちゃうよ」
「本当にしかたないわね。順序も何もあったもんじゃないんだから……」
妻はなおもぶつぶつ言う。子供はそんなことにはおかまいなしで、夢中でスプーンを動かしている。
「うんと腹を空かしているから、アイスクリームぐらいなら大丈夫だよ。どれから食べても、腹の中へはいればどうせ同じだ」
河西は妻をなだめた。子供がアイスクリームを平らげたとき、今度はケーキがきた。
「いい子だから、ケーキは、ご飯を食べた後になさい」
かぶりつこうとする子供を、妻が制《と》めた。空腹時にアイスクリームやケーキをたてつづけにあたえては、胃がだまされて食欲がなくなってしまう。さすがに河西も今度は「どれから食べても、腹の中へはいれば同じ」とは言えなかった。
苦笑しながら、妻と子のほうを見ていた河西の表情が、突然|硬《こわ》ばった。濃縮されていた思考が共振した。濃縮されたまま固定していた男考が、共振し、一挙に核分裂反応のようなエネルギーを出した。
「どれから食べても、要するに同じか、わかったぞ!」
河西は叫んで立ち上がった。妻子よりも、周囲にいた人間のほうが驚いた。
河西は、門脇のアリバイの突破口を見つけた。だがその突破口を突き抜けるためには、一つの実験をしなければならなかった。
たった一日の家族サービスも、後半は気もそぞろになった。妻も、馴れたもので、河西が仕事のことで、何か重大な発見をしたことを悟り、さっさと帰途についてくれた。子供もおおむね満足した様子である。
河西は、帰り道で、十六枚撮りのセミ判ロールフィルムを二本買った。実験用のためである。家に帰ると、さっそく自分の部屋に閉じこもって実験≠はじめた。
その結果は、彼が予測したとおりであった。だがこれだけでは、まだ、実験が完全に成功したことにはならない。
翌朝いちばんに本部へ出勤した河西は、領置していた門脇のカメラで、実験の結果を確認した。試し撮りしたフィルムを本庁鑑識課の写真係に焼き付けてもらい、自分の発見が誤っていない保証を受けた。
河西は勇躍して、自分の発見を那須に報告した。
門脇秀人は重要参考人として捜査本部に呼ばれた。慎重な那須は、相手に逃亡や証拠隠滅のおそれがないところから、逮捕状の請求をひかえたのである。
本部へ気軽に出頭して来た門脇は、余裕|綽々《しやくしやく》たるものであった。彼は捜査本部がまだ解散もせずに持続していたことに、驚きを覚えているようであった。
「いかがです? 私のぬれ衣《ぎぬ》は晴れましたかな」
門脇は、那須の顔を見て、揶揄《やゆ》するように笑った。
「それが、ちょっと困ったことになりました」
こんなときの那須の顔は、秀逸である。出先で雨に遭《あ》い、乗車拒否にあったような表情が、実は相手の身に起きた不都合を憂えてとは、相手にもわからない。
むしろ那須の表情は、相手の優越や同情をそそるようだ。門脇もふっとそれにひっかかった。彼は自分の拠《よ》って立つ基盤が足元から覆《くつがえ》ろうとしていることも知らずに、むしろ那須の身を案ずるような調子で、
「困ったこと? 何かあったのですか」
「改めておたずねしますが、あなたは五月二十六日の夜は、冷池に野宿されたのですね?」
「そうですよ」
門脇の優越に、ふと不安の翳《かげ》がさした。
「二十七日は、鹿島槍と五竜岳を越えて、唐松山荘まで縦走した」
「そのとおりです。それが何か?」
門脇の不安を含んだ反問には答えず、
「二十七日は唐松山荘へ泊まり、二十八日には帰京された。二十九日は日曜日だから、一日おいて三十日には出勤されました」
「いったい何を聞きたいのです? そんなことは、もうすでに話したことだ。私は忙しい。質問の趣旨をはっきりさせてください」
「それではうかがいます。五月二十九日の日曜日はどこにおられましたか?」
那須はいきなり鋭い刃物でも突き出すように聞いた。門脇は瞬間絶句した。顔面が蒼白になった。那須の質問は、実際に刃物で刺したような効果があったらしい。
「そ、そんなことが、どんな関係があるのです?」
門脇はようやく反駁《はんばく》した。まったく予期しなかったことを、たずねられたのである。堅固なアリバイに安心して、なんの備えもしていなかった急所を、いきなりグサリと刺し貫かれたのだ。
「大いに関係があります」
那須の追及には容赦がなかった。先刻の「出先の雨」の表情が、仏像の面のように柔らかみを浮かべたまま膠化《こうか》した。この場合、それは能面や鬼面よりも冷酷に見えた。
「日曜日に私がどこにいようと、私の勝手だ。問題になっているのは、二十六日の夜だろう。そのとき私は鹿島槍に登っていたことは、確かなんだ」
「証拠がありますか?」
「いまさら何を言うんだ。証拠としてカメラと写真を貸してあげたじゃないか。あれはいつ返してくれるんだ? まさか没収したわけじゃあるまい」
「ただいまお返しします。せっかくお借りしましたが、あんなものは、なんの証拠にもなりませんから」
「なんの証拠にもならないだと!?」
門脇の蒼《あお》い表情には怒気がのぼった。不安を怒気で隠しているのかもしれない。相当に動転していると那須はおもった。
「そうです。なんの証拠価値もありません。あの写真では、あなたが五月二十六日の夜十一時から、翌日の午前四時まで鹿島槍にいたという証拠にはなりません」
「そ、そんな馬鹿な!」
「あなたの弄《ろう》したトリックはわかった。いちいち説明してあげましょうか」
「――――」
「説明したあとには、二十九日はどこにいたか話してもらえるでしょうな」
「おもしろい。私がどんなトリックを弄したというのです」
門脇はグイと面を上げた。開きなおった様子である。
「いかがです。こんな簡単なトリックで、あなたは、いくらでも二十六日夜、川崎の犯行現場に立つことができる。こんなスナップには少しもアリバイを証明する力はありません」
「と、とんでもない言いがかりだ。そんなトリックのことは、私は知らない。私は二十六日から鹿島槍に登っていたのだ」
「それでは二十九日の所在をおしえてください。あなたの言っていることに嘘がなければ、あなたは二十八日に帰京し、二十九日は東京にいたはずだ。どこにいたか言えるでしょう」
「日曜日に何をしたか、いちいち覚えていない」
「ほう、二十六日から二十八日までの山登りのことはよく覚えていて、山から帰った翌日のことは忘れてしまったのですか?」
「登山の疲れで、家で休んでいたかもしれない」
「あなたのお嬢さんは、そうは言いませんでしたよ」
「何! 美紀子にも聞いたのか?」
しまったという表情が、門脇の面を走った。鉄壁のアリバイに安んじて、娘の口を止めていなかった後悔のようであった。
あるいは、門脇にしてみれば、美紀子を事件に巻き込みたくなかったために、彼女に関してはなんの手も打たなかったのかもしれない。
「お嬢さんのお話によると、あなたは二十九日の夕方、山から帰ってきたそうだ。二十八日に帰ったことになっているあなたが二十九日に帰って来た。一日のずれがありますね。このずれはなんで生じたのですか?」
「た、たぶん、娘が勘ちがいしてるんだ。私は、まちがいなく二十八日に帰って来た」
「それでは、二十九日はどこにいたのです?」
「それは――」
「あなたは二十九日の少なくとも、昼間は家におられませんでしたよ。お嬢さんは国井弘さんが殺されたときの発見者です。刑事が何回かお宅に事情を聴きにうかがいました。二十九日の午後も行きました。そのとき刑事は、お嬢さんになにげなくあなたが在宅かどうか聞いたのです。お嬢さんは、旅行中で留守だとはっきり答えた。あの時点では、勘ちがいする素地も、隠しだてする必要もなかった。あなたは確かに二十九日は家にいなかった。いたとすれば夕方からだ。どうして嘘を言うのかね?」
那須がかましたハッタリに門脇はひっかかった。
門脇は完全に追いつめられた態《てい》になった。厚味のある顔が汗で光っている。冷房はきいていないが、そのとき風がよく吹き入っていて、汗をかく室温ではなかった。
現に那須の顔はクールそのものである。
「聞きたいことは、まだいくつもある」
那須は追打ちをかけた。
「どうしてカラーフィルムを撮らなかったのかね?」
「たった十六コマしか撮らなかったのは、なぜかね?」
「どうして鹿島槍や、五竜の頂上で撮らなかったのかね?」
次々に浴びせかけられても、門脇は、答えられなかった。冷静な状態であれば、なんとか言い抜けられる余地のある質問を、決定打を食ってぐらついたあとに矢継早に浴びせられたので、立ちなおる余裕がなかった。
那須の次の言葉が、止《とど》めを刺した。
「娘さんもあんたを疑っとるよ。娘さんの前で、いまの質問に答えられるかな。なんなら娘さんをここへ呼ぼうか」
門脇の体がグラリと揺れた。そのまま床に崩折れそうになるのを、必死に耐えて、
「美紀子には関係のないことだ。あの子を巻き込むことだけはやめてくれ」
門脇は懇願《こんがん》した。なんと彼は涙を流していた。地位と年齢相応の貫禄に、ズシリと重い武装をしていたこの中央官庁のエリートが、赤裸な親の姿にもどって泣いていた。いっさいの装飾《デコレーシヨン》を剥《は》いで、人間の姿に還《かえ》ったと言ってもよかった。
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倒立解像
門脇秀人は自供した。捜査本部がにらんだとおり、村越順也を殺したのは門脇であった。犯行方法も、おおむね河西が発見したとおりである。
彼の自供によると――
「村越を殺したのは私です。五月二十六日アルプス1号で大町へ行き、そこからタクシーで大谷原まで行って登山カードを提出しました。アルプス1号が大町へ着いたのは十二時三分、午後一時には大谷原の登山センターへ着きました。カードを提出すると、歩いて鹿島槍高原と通称される黒沢峠を越えて、大糸線の簗場《やなば》駅へ出たのです。大谷原から二時間少しで、同駅を十五時五十八分に出る新宿行急行アルプス9号に悠々間に合いました。
アルプス9号は二十一時十三分に新宿に着きます。村越には二十一時までに三越裏の喫茶店『白十字』へ来て待っているように命じておきました。口実は槍ケ岳開発計画審議会の要人に紹介してやるということにしたのです。審議会の大勢を傾けるために、審議会委員に猛烈に接近策をはかっていた村越は、喜び勇んで飛んで来ました。列車の遅延を考えて多少約束の時間に私が遅れても待っているように釘《くぎ》をさしておきましたが、そんな斟酌《しんしやく》は無用でした。審議会の要人とコネをつけるためなら、彼は一晩中でも待っていたでしょう」
――白十字で村越と落ち合った門脇は、その要人が川崎のほうに住んでいるからと欺き、あらかじめ新宿駅の地下有料駐車場に用意しておいたレンタカーに乗せた。かねてより死体を遺棄する場所と下見《ロケハン》しておいた生田の春秋苑墓地付近で車を下り、例の崖下《がけした》付近に誘い込んで、隙《すき》をうかがって隠しもったスパナで村越の後頭部を撲りつけて殺した。――
「最初の一撃で、前こごみに昏倒《こんとう》したのを、止めのために、さらにもう二、三撃加えました。完全に息が絶えたのを確かめてから、腕時計を壊して、洞穴《ほらあな》の中へ引きずり込みました。時計を壊したのは、死亡推定時間を正確にするためです。ヤブが解剖して、見当ちがいの死亡時間を割り出されたら、せっかくのアリバイ工作が無に帰してしまいますから。死体はあまり早く発見されても困るし、かといって白骨化するほど長い間発見されなくてもまずい。その意味で、アベックや子供たちが遊びに来るあの洞穴は、死体の捨て場所として、理想的だとおもいました」
――村越を殺したあと、遺留品を残さないようによく確かめて、東京へもどった。
レンタカーを返し、新大久保付近の連れ込み旅館でひと休みして、二十七日のアルプス1号にふたたび乗った。十二時五十二分に白馬着、ここでコマ番号ONを撮影して、八方尾根をたどって唐松岳へ登った。唐松山荘着が午後六時半ごろ、同夜はそこへ泊まり、翌朝六時ごろ、MLを山荘前と、その付近で撮影し、冷池へ向かう。
正午ごろK〜Dを五竜―鹿島槍間の岩尾根で撮り、午後六時ごろ冷池着、CBを撮影、二十八日夜は、冷池小屋に登山者が泊まり合わせなかったので、そこへ泊まる。二十九日正午ごろ大谷原へ下り着いて、A@を撮影したのである。
村越殺害の動機を門脇は次のように供述した。
「村越には脅迫されていました。実は私は、数年前、一人の女性とスキー場で知り合い、年甲斐《としがい》もなく愛し合うようになりました。愛が高まるままに私は彼女を白馬岳のスキーツアーに誘ったのです。この旅行のあと、本式に婚約をして美紀子に話すつもりでした。ところが途中で天候が悪化し、彼女はスキーを流して動けなくなってしまいました。ぐずぐずしていると二人とも死んでしまうので、やむなく彼女をそこへ残して、私だけ下山したのです。救援隊を連れてもどって来たときは、女はすでに凍死していました。
ところがその女性は、国井の遠縁にあたる人とかで、国井が深く愛していたことがわかりました。女性のほうが国井より五歳ほど年長だったので、彼女は国井を対象として全然考えていなかったのですが、彼は何度も真剣にプロポーズしたそうです。
その女性を私は国井から横奪《よこど》りした形になりました。もっとも国井がそう感じただけで、私たちは愛し合っていたのです。国井はそのショックを忘れるために、弓場の妹に接近したのです。弓場の妹は身代わりにしかすぎませんでした。
国井が殺されたとき、彼の身辺の捜査から、その遠縁の女性の事件と私の関係が浮かび上がらなかったのは、遠縁と言っても、他人に近いようなものであったので、たぐられなかったのです。
とにかく私は国井の恋人を奪い、死なしてしまった形になりました。
そのことで、国井はひどく私を怨みました。それ以外に方法がなく、やむを得なかったのですが、私は国井に負い目を感じたことは確かです。あとになって、観光三社から槍ケ岳開発計画が申請されたとき、私が国井の社を大勢に抗して支持したのはそのためでした。
ところが国井は美紀子にも目をつけたのです。彼の意図は明らかでした。美紀子を玩《もてあそ》んだあと捨てて、奪われた恋人の復讐《ふくしゆう》をしようと図ったのです。悪いことに美紀子は、国井の黒い魂胆《こんたん》を見抜けず、彼に傾いていきました。
美紀子は私の生き甲斐です。そして国井の遠縁の女性の死とはなんの関係もありません。父の失策の償いを、美紀子にさせてはならない。私は、なんとしても美紀子を救わなければならないとおもいました。ちょうどそのとき、村越が近づいて来たのです。村越は審議会の大勢が彼の社に傾いているのに、一人国井の社を支持している私をなんとか懐柔しようとしたのです。
私さえ懐柔すれば、一気に大勢を許可へもち込める。そんな村越の計算を見抜いた私は、国井さえいなければと、もらしました。
村越は私の暗示を重大《シリアス》に取りすぎたのです。村越は国井を殺しました。あとになってから、彼自身の動機によって殺したということがわかりましたが、彼はあくまでも、私にそそのかされたと言い張り、槍ケ岳開発計画の支持と、美紀子を要求しました。前者はともかく、美紀子は絶対に殺人者にはやれません。
するとそのうちに、帝急が謀略のデマを流してきました。こうなると、前者の要求もきいてやれなくなりました。村越は殺人までしながら、なんの報酬も受けないことになったのです。
焦った彼は、要求を容《い》れなければ、殺人の件を美紀子に話すと脅かしました。彼は私が国井の遠縁の女性を置き去りにしたことも知っていました。おそらく国井から聞いたのでしょう。
私は、美紀子の前では、いつまでも父親らしい父親でありたかったのです。そしていつまでも彼女を独占していたかった。娘にとって私は世の中の男たちの代表であり、父としての威厳と、男性としての憧憬《どうけい》を集約した存在でした。娘は私を愛し、尊敬していました。
もし私が、恋人を吹雪《ふぶき》の中に置き去りにし、殺人を教唆《きようさ》した冷酷で悪性に満ちた男だと知ったら、娘の価値観は根本から崩壊するでしょう。
それはなんとしても防がなければならない。私のためではなく、娘のために。そしてついに私は恐ろしい決意をしたのです」
――一方、村越は、社で自分の地位を確保するためになんとしても、申請の許可を得なければならなかった。しかしそこに立ちふさがるのが門脇である。彼さえ、中台案に賛成してくれれば、問題はなかった。
門脇にアプローチすると、「国井さえいなければ」と暗示する。ここにおいて村越が早合点したのか、あるいは門脇の暗示が殺人の具体的な教唆であったのかはわからない。たぶん後者のほうであろう。だからこそ門脇は村越を殺す決意をしたのだ。
村越は地位も美紀子も欲しかった。そこに頑《がん》として立ちふさがっているのが国井である。
美紀子をめぐるもう一人のライバル弓場久彦には、村越は深い怨みがある。弓場は村越の妹と婚約までしながら、乗鞍岳へドライブに誘い、吹雪の山道へ置き去りにして死なしてしまったのだ。
そのような前科≠ェありながら、涼しい顔をして美紀子にプロポーズしている。彼には美紀子どころか、もはやどんな女性にもプロポーズする資格はないのだ。
それが、妹を殺しておきながら、村越のライバルとして、美紀子の愛を争っている。村越は許せないとおもった。そこで一つの巧緻な犯罪計画が村越に閃《ひらめ》いた。
国井を殺し、罪を弓場になすりつけるのだ。うまいことに、弓場は国井に怨みを含んでいる。因果はめぐるというか、弓場の妹は、国井に殺されているのだ。
プレイボーイの弓場が、上司夫人と通じていることを、興信所を使って探り出した村越は、弓場がその相手と秘かに逢っている夜を選んで、国井を殺した。弓場のデートの夜は、相手の女の亭主の予定を探ることによってわかった。亭主が出張した夜、女は秘かに家から出た。
弓場はサラリーマン的な保身から、アリバイを言えない。アリバイが証明されたときは、彼がエリートの椅子と、美紀子へのタイトルを失うときである。どっちに転んでも、弓場は救われないようになっている。
国井を殺せば、弓場に復讐できる。ライバル二人を一挙に排除することになる。美紀子を独占できるうえに、申請もまちがいなく許可される。まさに一石多鳥だ=\―
「こういう計算から村越は国井を殺したのです。帝急が巻き返しの謀略作戦に出なければ、村越は目的の一つは確実に達したはずです。だが、それがすべて裏目に出た不満を私にもってきた。彼の恐喝は日ましに切羽つまってきました。私は美紀子と、自分の身を守るために、どうしても彼を排除しなければならなくなったのです」
門脇秀人は殺人容疑で逮捕状を執行され、身柄をそのまま赤坂署に留置された。九月の初めの残暑の盛んな日であった。ここに捜査本部を開設してから六か月目に、二つの殺人事件は一挙にその解決を見たのである。
門脇秀人の自供は得られ、裏付け捜査も終わった。公訴の実行と有罪を認定する資料も蒐《あつ》められた。
門脇の起訴が決まり、捜査本部の解散が間近い一日、捜査員の苦労をねぎらって小宴が張られた。
ビールが抜かれ、ピーナッツやげそ[#「げそ」に傍点]が配られる。
「門脇は大谷原から、冷池‐鹿島槍‐五竜‐唐松‐八方尾根と歩いたのではなく、この逆のコースをたどったのですね。コマ番号も古い数から、若いほうへと逆に撮られていったとは、気がつかなかった」
下田刑事が言った。
「しかし、門脇のカメラは、巻き戻しがきかなかったんでしょう? だったらどうして、コマ番号を逆に撮れるんです?」
辻刑事が一同の疑問を代表した。まだ彼らは詳しい解説を河西から聞いていない。
「巻き戻しはできません。が、逆に撮影することはできるのです」
河西は改めて押収した門脇のカメラを一同の前に示した。彼は一同の前で、その方法を実演してみせるらしい。
「この型のカメラに使用されるロールフィルムは、セミ判と呼ばれる6×4.5センチ画面で十六コマ撮れます」
河西はカメラといっしょにフィルムを示した。
「この種のフィルムは、35ミリフィルムのようにパーフォレーションと呼ばれる送り穴がありません。35ミリフィルムは、このパーフォレーションに巻き上げ歯車《スプロケツト》をひっかけて送っていきますが、ロールフィルムはパーフォレーションがないので、ボディの裏蓋《うらぶた》についている圧着板と、画面窓側にある摩擦ローラーの間に挟《はさ》まれて、巻き取軸《スプール》に巻き上げられています。
その際、最も原始的な機種は、カメラ背面に開口している赤窓を通して、コマ番号を読んでいくのですが、このパールWは、フィルム裏紙《リーダーペーパー》のスタートマークとカメラのマークを合わせて、蓋を閉めると、カウンター番号、つまりこれがいま言った赤窓にあたるわけですが、この番号の1で巻き上げダイヤルが自動的に停止し、シャッターを切るごとに、次々に番号が送られる仕組になっています。二重撮り防止装置になっているので、シャッターを切らないと、次のコマが出てこないのです。
ロールフィルムは、裏紙《リーダーペーパー》にフィルムが貼付《てんぷ》された形になっております。フィルムの先端は、ガムテープで裏紙に接着されていて、スプールに巻き取って行く途中で、圧着板と摩擦ローラーのところで離れないようにしてあります。このようにして全コマの撮影を終わると、巻き上げダイヤルによって、スプールに全部巻き取られるというわけです。門脇は、このメカニズムに目をつけました。
彼はまず一本のロールフィルムを普通に装填して、空シャッターを切って、撮影ずみのものと同じに巻き取りました。パールWにはキャップがないので、おそらく自宅の暗室の中か、夜、灯を消して、布団にレンズを押しつけてシャッターを切ったのでしょう。
こうして巻き取ったフィルムを、やはり暗室のような暗い場所で、裏紙の末端からそろそろもどして、フィルムの末端を探り当てます。フィルムの末端は、先端とちがって、ガムテープによって裏紙に接着されておりません。これを先端同様にテープで接着し、カメラにもう一度装填したら、どういうことになるでしょうか」
河西は一同の顔を見まわした。彼らは何かがわかったような気がした。しかし、それを正確に言葉で表現することができない。河西の次の解説を待つほうが手っ取り早かった。
「そうです。こうして末端を頭にして装填されたフィルムは、普通のコマ番号の逆になっております。つまり撮影ずみのフィルムをもう一度装填した形になりました。この逆フィルム≠普通に撮影していくとONML……A@という順序で、コマが送られていきます。本来なら、逆フィルム≠撮影すれば、二重露出になるところですが、空シャッターを切ってあるので、ごく普通に撮れるわけです。だから、門脇がONを撮影したのは、川崎で村越を殺した足で、八方尾根の麓《ふもと》へ駆けつけた五月二十七日の午後一時ごろだったのです。その日の夕方、唐松山荘へ到着し、小屋番に自分の姿を確認させておいてから、二十八日朝同山荘前でMLを撮影する。Lは小屋番にシャッターを押させるという細かい芸です。そうすればK以前のコマは、絶対に二十八日の朝より前に撮影されたことになります。唐松の小屋番は、二十七日の夕方門脇が小屋へ到着したことを知っているのですから、K〜Dの縦走スナップや、CBの冷池はコースタイムから判断しても、二十七日の昼間と、二十六日の夕方に撮影されたとしか考えられません。分割撮影≠フ可能性はすでに否定されており、CとDの間の十八時間ほどの空白に、川崎へ往復することも不可能とわかりました。
ここに門脇のアリバイは完全に成立したわけです」
一同からホッと吐息がもれた。タネを明かされてみれば簡単なことだった。巻き戻しが不可能という事実が、一同に目隠しをしていたのである。確かにロールフィルムは巻き戻しはできないが、逆フィルム≠ノして逆撮影≠ヘ可能だったのである。
河西はこのヒントを、家族サービスの行楽でおもいついた。レジャーランドの大食堂で子供のために注文したお子様ランチとケーキとアイスクリームが、順序を逆にして、アイスクリームから先に運ばれてきた。
細君がサービスがなってないと腹を立てたのを、河西は「どれから食べても、腹の中へおさまれば同じだ」となだめた。
その瞬間に、硬化していた頭脳が共振したのだ。門脇の歩いたコースも、登山口と下山口を逆にしたところで、途中の経路に変わりはない。山手線を内回りしようと外回りしようと、同じところを通るのと同じ理屈である。これをフィルムに定着したら、どちらが後先かわからないのではないか?
「フィルムを逆に撮影しても撮《うつ》るものは同じだ」
――それでは、逆撮影≠ェ果たしてできるか?――
こうして河西は実験して、その可能なことを確かめたのであった。
「一つ質問していいかな?」
山路が手を挙げた。
「どうぞ」
「ロールフィルムは、スプールに巻かれているので、巻きぐせがついている。そのうえ感光乳剤を塗った側が乾燥して収縮する傾向がある。そのためにフィルム面は背中を丸めて中央部が後ろになろうとする性質がある。これを適当に後から圧迫して、平面化してやらないとレンズの像面と一致しないんだ。
圧着板はこの反《そ》りをバランスするためにある。ところが、ロールフィルムはメーカーによって、この反りの力がさまざまで、一定の力しかない圧着板では、うまいことバランスできない。このため各メーカーは、自分の機種の圧着バネと、反りの釣合う専用フィルムをつくったりして、工夫をこらしている。
こんな微妙なロールフィルムを、逆のコマ順で撮って、果たしてうまいこと撮れるかね?」
さすがカメラに詳しい山路だけに、鋭い点を突いてきた。ロールフィルムは裏紙とともに軸に巻いてあるために、フィルムの長さより裏紙のほうが少し長い。
(画像省略)
フィルムの巻き上げにしたがって、裏紙とフィルムの間がたるんでくるような気がする。この裏紙のたるみは、巻き上げの途中のどこかで、圧着板とフィルムの間を通り抜けなければならない。そのときフィルムの平面性(レンズの像面に一致するか)が、最も怪しくなるわけである。
だが河西は、その質問を予測していたようであった。
「専門的なことは、ぼくにはよくわかりませんが、ここに、門脇が使用したのと同じ種類のフィルムで実験撮影したスナップがあります。ぼくが見るかぎり、フィルムも印画紙も、普通に撮影したものと、まったく区別がつかないのです。鑑識の写真係も、わからなかったと言っております」
河西は数本のネガフィルムと数十コマの手札判のスナップを皆にまわした。この実験の結果は、この際なによりの説得力があった。
「逆撮影のテクニックに関してですが」
今度は下田が聞いた。
「普通の撮影ですと、裏紙のスタートマークのところで裏蓋を閉じると、カウンター窓にコマ番号が自動的に示されて、ちょうど、十六コマ撮れるようになっていますが、逆撮影だとスタートマークはもちろんないし、カウンター番号と実際のコマ番号はうまく一致するとはかぎらないから、十六コマどんぴしゃりに撮れないんじゃないですか?」
河西は、いいことを聞いてくれたと言うようにニコリとして、
「これも実験してみました。裏紙の末端を、巻き上げダイヤルのスプールにはさんだところで、裏蓋を閉じると、ちょうど十六コマ撮れます。門脇は何度か練習して、逆撮影の場合のスタートが、裏紙末端のどの辺からかということを正確に知っていたのでしょう」
「しかし、逆撮影すると、十六コマ空シャッターを切って、いったんフィルムを巻き取った後、終始を逆転してもう一度フィルムを送ることになるので、フィルム面の傷が二重になりませんか」
下田はおもしろい意見を出した。
「そのとおりです。だが、それは逆撮影トリックに気がついた後で言えることであって、まさかフィルムが往復しているとはおもいませんから、最初から二重の傷という発想は出ません」
「しかし、同じカメラでごく普通に撮影したフィルム面の傷と対照されたのに、なぜそのとき発見されなかったのでしょうか」
「同じカメラに同種のフィルムを装填しても、巻き取りごとにまったく同一の傷は形成されません。ただ傷の状態が似ているだけです。逆撮影すると、普通撮影のときには生じない傷が形成されるわけです。つまりフィルムが往復するので、傷も二倍になります。ここにこのトリックを見破られる最大の危険があったわけですが、鑑識としても各巻き取りごとに異なった傷が形成されるので、二枚のフィルム面から符合する傷を探し出して、同一のカメラによって撮影されたと認定したのです。鑑識の検査は、逆撮影トリックを見破る≠スめではなく、門脇の提出したフィルムが、同じく彼の差し出したカメラによって撮影されたことを確認するためだったのですから、符合しない傷より、符合(実際は類似)する傷に注目したのです」
「十六コマいちいち空シャッターを切って、逆フィルムにするのよりも、暗室の中で、フィルムをいったん裏紙から剥がし、先端と末端を逆転させてまた裏紙にテープで貼《は》りなおしたらどうでしょうか。そのほうが、スタートマークによって、コマ番号を普通の順序で送っていけるので、より正確に映像とコマ番号が合うとおもうのですが」
下田は食い下がった。逆撮影の場合だと、スタートマークが見えないので、フィルムの撮影開始点(カメラの裏蓋を閉じて、カウンターが作動をはじめるとき)を実験によって確かめたカンに頼るしかない。そのため、コマ番号と画面の間に多少のずれが生じるおそれがある。
それを防ぐために下田は、フィルムだけ終始逆転させたらどうかと言うのである。河西の方法が、フィルムと裏紙ともに逆転させる完全逆フィルム≠ナあるとすれば、下田の方法は、フィルムだけをひっくりかえす半《セミ》逆フィルム≠ニいうところである。
「そのことは考えました。しかしこの方法には大きな難点がいくつかあります。まず、ロールフィルムには巻きぐせがついております。十六コマもある長い裏紙とフィルムを平板に伸ばしてから、フィルムだけ終始逆転させて、また裏紙に接着するのは、かなり難しい作業だとおもいます。しかもフィルムを貼りなおす際に裏紙との間にたるみをつくってはならない。それがあると、撮影の途中で圧着板の間にひっかかって動かなくなってしまうおそれがあるからです。
次にフィルムに指紋をつけるおそれがあります。複雑な手先の作業ですから、手袋をはめるとやりにくくなります。現像されたネガフィルムにべたべた指紋がついていたら、おかしなものでしょう。
さらにフィルム面に形成された傷が、普通撮影のときとまったく符合しなく(左右逆転する)なります。
最後に、これが致命的なのですが、フィルムの先端と末端は、遊びがちがうので、この終始を逆転させると、かえってコマ番号と映像が符合しなくなるおそれがあります。フィルム上のコマ番号は、現像しないと現われませんから、裏紙のコマ番号と、合わせることもできません。
普通の順序で撮影するときでも、スタートマークを正確に合わせなかったり、フィルムのたるみや巻き取り具合から、コマ番号と映像の間に、多少のずれが出るものです。
だから何度も実験して確かめた位置から、逆フィルムをスタートさせても、普通撮影とのちがいは、ほとんどわかりません」
河西の説明には自信があふれていた。
「どうして、カラーフィルムで撮らなかったのかな? カラーにも、ロールフィルムのセミ判はあったとおもうよ」
横渡が聞いた。
「カラーだと自分でDPEできないからだよ。業者を当たられれば、末端の接着テープなどから、すぐに逆撮影トリックを見破られてしまう」
これは山路が代わって答えた。
「門脇はどうして、朝、昼、夕の三つの時間帯しか撮影しなかったのでしょうか?」
畠山が質問した。河西は大きくうなずいて、
「おそらくこれが彼のいちばん苦心したところじゃないかとおもいます。彼のコースタイムを検討してみましょう。二十七日の昼ごろが八方尾根の登山口、同日夕方唐松、二十八日朝、唐松出発、昼ごろ、五竜―鹿島槍の間の稜線、たぶん三時ごろが鹿島槍頂上、そして、夕方冷池に着いています。ところが、彼はその逆コースを歩いたことになっているのです。いいですか、彼は二十七日の朝、冷池を出発し、十時ごろ鹿島槍を越え、昼ごろ五竜との中間の岩尾根におり、午後三時ごろ五竜の頂上にいた――ことになっているのです。
これを、コマさえ逆に撮ればいいんだとばかり、八方尾根の登山口から、サワリの場所でパチパチ撮ってきたら、ひじょうにおかしなことになります。
MLを唐松で撮影したあと、Kを五竜山荘で午前九時ごろ、JIを十時ごろ五竜岳の頂上、HGを昼ごろ途中の岩尾根、FEDを鹿島槍頂上で午後三時ごろ撮ったとしましょう。
門脇は、鹿島槍から唐松方面へ向かって歩いたことになっています。コマ番号も上位からその行程に従って撮られたと考えられております。すると、門脇が歩けば歩くほど時間が逆行することになるのです。
朝、冷池を出発したはずなのに、唐松へ着いたら、また同じ日の朝だったということになる。こんな馬鹿なことはありません。逆撮影のトリックなどすぐ見破られてしまいます。多少の時間のことならばごまかせるでしょうが、一時間以上あると、光線の角度などから発見される危険があります。
だからもし鹿島槍の頂上で、午後三時に撮ったなら、鹿島槍以外の五竜寄りの場所では、三時以降に撮られていなければなりません。鹿島槍から五竜方面へ向かって進んでいることになっているのに、鹿島槍で撮ったコマ番号より下位の番号が、時間的に鹿島槍の撮影時間よりも早く撮られていたらおかしなことになります。
わずかな距離なら後もどりして撮れないこともありませんが、鹿島槍へ着いてから、何コマか撮影し、ふたたび五竜方面へもどって、下位のコマ番号を撮り、そしてさらにふたたび鹿島槍方面へ向かうということは、不可能です」
「朝、昼、夕の三つの時間帯だけ撮影した理由を、もう少し詳しく説明してくれないか」
那須が注文をつけた。彼自身は、すでにわかっているが、いま初めて種明かしをされる部員のために言ったのである。
「少し複雑なので、図に書いて説明しましょう」
(画像省略)
河西は本部室の黒板の前に立った。
河西は表を書き終えると、
「上の欄が、門脇がアリバイ工作をした虚偽のコース、下欄が実際のコースです。このようにならべてみると一目瞭然《いちもくりようぜん》となりますが、虚偽のコースでは、午前九時ごろ通ったことになっている鹿島槍の頂上へ、実際のコースでは、午後三時前後に着いているのです。五竜は逆に午後三時が、午前九時です。これはもちろん平均コースタイムから割り出した推定時間ですが、これより大きく狂うということはないでしょう。とにかく午前と午後が逆になったのではごまかしようがない。ところが、これが朝、昼、夕の時間帯は一致するのです。二十八日の唐松山荘の朝は完全に符合します。フィルムにコマ番号はあっても撮影の日付けは、はいりません。たとえば実際は二十八日の夕方撮ったCBと、二十九日の昼撮ったA@は、二十六日の昼と夕方に撮影したように見せかけることもできるのです。ただし宿泊地で朝と夕方を撮すと、順序が逆になってしまいます。
ですから同じ日に撮られたD〜C間は実際には五、六時間の間隔しかなかったのに、Cがべつの日に繰り入れられたために、十八時間も空白ができたように見えたのです。門脇は鹿島槍や五竜頂上の絶好の撮影スポットを素通りすることの不自然さを百も承知していました。
このスポットを撮す一つの方法があります。それは虚偽コースで、午前九時ごろ立つことになっている鹿島槍へ、唐松を朝早く発ってやって来ることです。あるいはこの逆に、午後三時ごろの予定の五竜で、三時まで時間を潰《つぶ》して待てばよい。そしてそのスポットを撮ったあとは、その日はもう撮影しないことです。しかしそれはコースタイムのうえからもほとんど不可能です。さらにその日下山することになっている唐松山荘をあまり早く出発すれば、小屋番に不審をもたれる。五竜の頂上でぐずぐずするのは前途がまだ遼遠《りようえん》であり、先がどのようになっているかわからないから不安だ。
このように、コマ番号と時間の経過が一致しないために、やむを得なかったのです。彼は撮りたくとも撮れなかったのですよ」
「天候が崩れたら、どうするつもりだったのかな?」
横渡が一つのポイントを指摘した。
確かに虚偽のコースと、実際コースとの間に天気のずれがあれば、時間以上にごまかしがきかないだろう。
「これがこのアリバイ工作の最大のネックでした。気象的に最も理想的なのは、夏山ですが、村越を排除する必要は切迫しておりました。とても夏まで待てない。それに夏は縦走路に人目が多い。そこで長期予報とにらみ合わせて、日本全体が東西に長く延びた帯状高気圧におおわれた五月二十六日を選んだのです。
この高気圧の圏内にはいると、短くて四、五日、長いと一週間くらいは好天がつづくそうです。途中薄雲の出ることはあっても、すぐ回復します。
門脇はこの高気圧の周期にはいるのを待って行動をおこしたのです。当時の後立山連峰の天気の記録を見ますと、二十六、二十七日と晴れ、二十八日の午後から薄雲が広がって、天気は下り坂かとおもわれましたが、二十九日は昼ごろからふたたび回復して、夏のような陽気になりました。門脇はトランジスター・ラジオで気象通報をこまめに聞きながら、自信をもって行動したのでしょう」
「彼はどうして冷池に野宿したなんて言ったのかな。実際には冬期小屋に泊まっているのに」
相棒の草場がひとり言のように言った。
「門脇が泊まったのは、二十八日の夜だよ。ところが彼は二十六日の夜にそこにいたことになっている。二十六日に冷池の小屋にだれか泊まっていたかもしれない。登山カードなどからその人が割り出されて、たずねられたら、いっぺんにバレてしまう」
河西も草場が相手となると、親しい口のきき方になった。
「しかし大谷原の登山センターに、二十六日にカードを出したのは門脇だけだったよ」
「縦走者がいるよ。冷池小屋は、後立山の重要な宿駅≠セ。それに、登山カードを出さない者のことも考えられる」
「それからもう一つ、門脇が逆撮影をしたという決め手はなんだったんだ? 河西君が発見したのは、あくまでも、門脇が逆撮影をしたらしいという情況であって、確かにそれをしたという決め手ではなかったんだろう。門脇は、娘のことから案外|脆《もろ》く崩れてしまったが、彼があくまでも、逆撮影なんかしないと突っぱねたら、面倒なことになったぜ」
警察側は、門脇が確かに逆撮影をしたという証明をしなければならないが、門脇はそれをしなかったと証明する必要はない。
「うん、いい質問だな。実は逆撮影トリックは見破ったが、この決め手をつかむために、えらい苦労をしたんだよ。まずこのネガを見てもらおうか。右手のネガが普通撮影したもの、左手のが逆撮影したやつだ。みなさん、ちがいがわかりますか」
河西は、二本のネガフィルムを両手に吊るして一同の前に差し出した。しかし那須を除いて、だれもそのちがいはわからないらしい。
「どっちも同じだとおもうがね。また明らかにちがいがあるようなら、すぐに逆撮影したことを見破られてしまう」
写真に詳しい山路が、首を傾《かし》げた。
「そのとおりです。一見なんのちがいもありません。しかしよく見ると、明らかなちがいがあるのです。いいですか、この二本のネガのタテイチ、つまり縦に長く撮ったコマの映像をよく見比べてください」
河西は言って、さらにネガを、一同の目の前に近づけた。
「あっ、映像が天地反対だ」
山路が驚いたように言った。一コマが6×4.5センチのセミ判なので、カメラの構え方によって、縦長と横長のスナップができる。その縦長の画像が、左右のネガによって天地が逆になっていた。
「そうなのです」
河西は大きくうなずいて、
「普通に撮影したネガは、映像が、コマ番号のはいっているネガの横脇《サイド》に頭を向けて立っております。ところが逆撮影のほうは、映像がすべて倒立しているのです。どうしてこんなことになるのか、実演しながら説明しましょう」
河西は、一本の撮影ずみのロールフィルムを一同に示して、
「これが門脇が使用したフィルムと同じメーカーのもので、普通撮影されたネガです。カメラに装填する状態のとき、コマ番号は、フィルムの右|脇《サイド》にきます。この番号のほうに頭を向けて縦長の映像は立っているわけです。ところが、これが逆撮影となると、いったん撮影ずみの状態に巻き取ったフィルムを、カメラに装填しなおして末端から新たに巻き戻していく形になるので、映像はコマ番号に対して天地逆転してしまうのです」
河西は巻き取った撮影ずみのフィルムを、もう一度あらためてカメラに装填した。いままでフィルムの右脇にあったコマ番号が左脇にきたのを見て、一同の口から吐息がもれた。
「これがヨコイチ、つまり横に長いスナップを撮すときは、カメラを左右どちらかに傾けて構えるので、撮影者のくせという弁解がききますが、タテイチの撮影に、カメラを天地さかさまにして構える人間はいません。さすがの門脇もここまでは気がつかなかったのです。彼は逆撮影のトリックをおもいつきながら、コマ番号を逆にさかのぼることだけに夢中になって、カメラの本体を逆に構えなければならないことに気がつかなかった。逆撮影は、カメラを逆《さか》さにして撮《と》ってこそ、初めて完璧なものになったのです。
逆撮影トリックによって構築したアリバイが、カメラを逆に構えなかったところから崩されたのは、皮肉でした」
「なるほど。見事な着眼だ。ついでにもう一つ聞かしてくれ。門脇はなんだって、苦労して、北アルプスなんかへ登ったんだ? 逆撮影トリックがあれば、何も山なんか登らなくとも、アリバイはつくれたろうに」
草場は感嘆しながらも、刑事としての興味を執拗《しつよう》に追った。
「確かにこのトリックを使えば、アリバイはどこでもつくれる。しかし人間のいるところでは、目撃者をつくらないわけにはいくまい。時間は逆撮影で欺けても、証人の記憶を欺くのは難しい。それが複数となると、なおさらだ。それに、交通機関のあるところだと、汽車や飛行機を組み合わされて、せっかくのアリバイを崩されてしまうおそれがある。そのために、人間のいない、あらゆる交通機関から隔絶された、季節はずれの山へ登ったんだ」
草場は満足した表情で黙った。つづいて辻が、それを聞いたものかどうか迷うように、
「門脇は後立山から帰ったあと、すぐに美ケ原へ娘と行ったのは、何か意味があるのでしょうか?」
「当日の天気の記録を見るとわかるのですが、二十六、二十七日が晴れ、二十八日の午後から二十九日の午前にかけて薄曇りでした。虚偽のコースによると、門脇はかなり日灼けしていなければならないことになります。ところが実際のコースは二十八日の午後から、二十九日にかけてうすく曇ったので、日灼けが足らなかったんじゃないでしょうか?
赤外線か何かで灼けば、不自然だ。そのため、日灼け不足を補うために美ケ原へ行ったような気がします。五月の末から六月の初めにかけて、低気圧が通りすぎて、三日ごろからふたたび高気圧の周期にはいりましたからね」
「すると娘のためではなく自衛のためだったんだな、呆《あき》れたやつだ。だから後立山から帰ってすぐに、いつ調べられてもいいように肌を灼きに行ったってわけか」
横渡が忌々《いまいま》しそうにつぶやいた。
「いや、娘さんのためもあったかもしれません」
瞬間、河西の瞼《まぶた》に、美紀子の愁いを帯びた面影がよぎった。自分は彼女のただ一人の骨肉を奪ってしまった。彼女はこれからどのように孤独に耐えていくのであろうか?
山上の一夜、肌を寄せ合って一組の布団の中に眠ったあの記憶は、いまでも昨日のことのように鮮やかに覚えている。
それでいて遠い。あの北アルプスの遠い峰々よりも遠いのである。果たしてあれは事実として自分の身に起きたことであるのか?
日常の生活とあまりにもかけ離れた体験は、現実にそれを体験しておりながらも、なにかべつの人間の身に起きたことのように、信じられないのであった。
あれは確かに、自分の身に起きたことであったかもしれない。しかしこれから先、絶対に二度と起こらないことでもある。
自分が美紀子の父の造られたアリバイを崩し、有罪認定のきっかけをつくったとき、もともと可能性のなかった美紀子と自分は、今度こそ確実に、べつの宇宙の中に隔てられたのであった。
「みんな本当にご苦労だった」
那須が言って、新しいビールの栓を抜いた。
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頽《くず》れた孤独
美紀子は、父が参考人として出頭を求められたときから、すでに覚悟をしていた。だから出頭したまま、逮捕状が執行され、身柄を留置されたときも、あまり驚かなかった。
ただこれ以上悪くなり得ようのない、絶望の確認をしたような気がした。
美紀子は、三人のナイトの醜い正体を、次々に見せられ、そしていま、最大に尊敬していた父に完膚《かんぷ》なきまでに、裏切られた。
彼女は父に親しみを覚えた。だがそれは相手の人間の底を見た親しみである。男性の代表として、自分の前に立っていた、オールマイティの父の姿は、原形も残さずに崩落した。
たった一人になった家から、好奇の視線の集まる会社へ、美紀子はマゾヒスティックな気持ちから毎日出勤した。
門脇の権威の失墜とともに、会社での彼女のお客様≠ニしての身分も剥脱《はくだつ》された。それはまことに掌《てのひら》を返すというたとえのとおりに。
それは美紀子を守るための犯行であったという。だが彼女は父の秘められた旧悪≠知った。吹雪の中に婚約者を置き去りにした冷酷な男が、娘のために、何をしようと、素直に信じられない。
父は好きだ。殺人をした父のほうが以前よりも懐かしい。だが、そこにはすでに、父としての権威や尊厳はない。父もやはり、そこにもここにもいる保身欲の旺盛《おうせい》な、低次元の価値観をもった男にすぎなかった。
門脇の権威のカサの外から、おずおずと美紀子に接近を試みていた大原などは、そのカサが消えたと知ると、とたんに図々《ずうずう》しく、裸の美紀子に対する欲望を露骨に示した。
言葉遣いも大風《おおふう》になり、態度も横柄になった。
「世界中に男が、大原一人になったとしても、こんな男はいやだわ」
彼女は最近、大原の顔を見ただけで、生理的嫌悪感を覚える。
上に篤《あつ》く、下に酷《きび》しい。すべて自分を中心にものごとを考える。部下は、自分を顕彰するための踏台でしかない。
人生というものの本質から遠くかけ離れたことをしていながら、自分こそエリートだと信じ込んでいる滑稽な愚かさ。
愚かな者が、自分の愚かさに気づかぬだけでなく、その逆を信じているときは、救いがたい。
美紀子に嫌悪されるほど嫌われていることにも気づかず、誘いをかけてくる鈍さをなんと形容しようか。
大原は、美紀子を誘ったことによって、父が失脚して傷心している(と勝手に推測した)彼女に、救いをさしのべているつもりなのである。
「ぼくがそばについているから、元気を出したまえ」
などと言われて、肩に手をかけられたりすると、身体全体が、その部分から汚染されたような気がした。
九月の末に門脇秀人は、殺人罪で起訴された。東京地裁は東京の国井殺し、川崎の村越殺しを関連事件として併合管轄することになった。
起訴の前日は会社の休日にあたった。美紀子は拘置所に父に会いに行った。父はだれにも会わなかった。彼女には父の気持ちがわかるような気がした。拘置所からの帰途、彼女は下ばかり見ながら歩いていた目を、ふと上方へ仰向けた。
東京には珍しい澄んだ秋の空があった。
西のほうにあたって刷毛《はけ》で薄く撫でたような絹雲が浮いている。
「アルプスはあちらのほうかしら?」
彼女は二か月ほど前に行った後立山をおもいだした。鹿島槍の流麗な姿や、五竜岳の男性的な山体が、なんとも懐かしくおもいおこされる。
この空を西へたどれば、いまもあの山々はその果てを限る長連の高峰として、人間の愛憎から遮断《しやだん》された高みに茫々《ぼうぼう》と風化のときを刻んでいるにちがいない。
美紀子はたまらなく河西刑事に会いたくなった。
一見まじめサラリーマン風で、茫洋としてとらえどころがない。河西には男の生臭さはなかった。だからこそ、なんの警戒もせずに、その山上の数日を行動をともにできたのである。
だからといって、彼が男をまったく意識させない中性的なフィーリングだと言うのではない。男につきものの賤しさがなかったのだ。彼女はそこに爽《さわ》やかな異性を見ていた。
彼が父を逮《とら》えた男でありながら、少しも憎しみが湧いてこない。彼といっしょに歩いた数日の山旅が、父の破滅を促したことを知りながら、まるで郷愁のように懐かしい。
ただ声を聞くだけでもよい。いまの自分の荒涼とした孤独感を柔らかく救ってくれるものは、河西以外にいない。彼の名刺にあった番号に電話すると、今日は非番だという。
刑事でも、休日くらいは休むだろう。いまは事件が解決したあとでもあるから、家にいるかもしれない。美紀子は手帳を開いた。そこに山からの帰途、なにげなく聞いておいた彼の自宅の電話番号がひかえてある。
「あったわ」
美紀子は、大きな目的を見つけたような、光を含んだ生き生きとした目になって、電話を探した。
公衆電話のボックスを見つけて、ダイヤルする。
「河西でございます」
何度目かのコールサインののちに、女の声が出た。河西が出るものと決めてかかっていた美紀子は、突然|応《こた》えた彼の妻らしい女の声に慌てた。
迂闊《うかつ》なことに、河西に妻がいることを、忘れていたのだ。
「もしもし」
先方が聞いてきた。そのとき、背後に懐かしい河西の声がかすかに聞こえた。
「さあ坊や、パパといっしょに少し散歩に行こう」
その声を聞いてから、美紀子は電話を切った。ついにこちらからは、一言も発しなかった。彼女は、自分の孤独が、河西と、なんの関係もないことをおもい知らされた。
河西には彼の家庭があり、生活があったのだ。彼はそこでよき夫であり、父であった。そしてそれは確実に自分とは異次元の世界である。
「過ぎ去ったことなんだわ」
美紀子は送受器をおいてつぶやいた。あの山上の記憶は過ぎ去ったことなのである。もう一度、あの記憶を再現しようとしたことが、まちがっていた。
電話から離れようとした美紀子が、ふとまた何かをおもいついた目をした。それはさっきの目的を見いだした目に似通っていたが、光がなかった。デスペレートで自虐的な翳《かげり》がある。
メモを開いて、また一つのナンバーをダイヤルする。ややあって、男の声が出た。
「大原です」
「大原さん、私、門脇です。お会いしたいの。私をこれからどこかへ連れていってくださらない」
驚喜した男に待ち合わせ場所をおしえて、美紀子は電話から離れた。
――私はこれから、この世でいちばん嫌いな男に自分を貪《むさぼ》らせるんだわ――
見上げた空には、わずかな間に雲がひろがっていた。一筋刷毛ではいたようだった絹雲は、鳥の羽毛のようにもつれて、西のほうから頭上へと広がりながら、ゆっくりと流れてくる。
「お天気、くずれるかもしれないわ」
美紀子は、一つの確定した意志をもって、人混みの中へ歩み入った。
九月末日、福祉省国立公園局槍ケ岳開発計画審議委員会は、同計画を正式に不許可と決定した。
角川文庫『日本アルプス殺人事件』昭和52年5月30日初版発行
平成7年3月20日改版初版発行