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悪魔の圏内
森村誠一
目 次
プロローグ
安全保障された脱出
恩賜《おんし》猫の失踪《しつそう》
ガラスの靴を履《は》いたデートガール
猫は見ていたか?
不発の蒸発
危険な運命共同体
途上の犯人
共犯証拠
帰らざる保護者
沈める海
保護された処分
放浪の終止符
脛《すね》の傷
接触現場
いなくなった犯人
猫のキャッチボール
ブロックサインは猫
グローバルな相互不信
エピローグ
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プロローグ
四月上旬、ポーランドのワルシャワ工科大学から観光ビザで来日した二人の講師が、出入国管理、及び難民認定法(資格外活動)違反の容疑で警視庁公安部に逮捕され、ハイテクスパイ事件として派手に報道された。
日本のコンピューター関連会社が同大学が開発したコンピューターグラフィックスのソフトを持参してもらうために招聘《しようへい》したものであるが、この二人が東側情報機関員で最先端技術の情報収集のために来日したという容疑をかけられた。
両名はスパイの疑いをかけられたまま、強制退去処分に付されたが、実は日本の技術を盗むどころか、ポーランドから高度な技術を指導に来たものとも言われている。この両名を招いた日本のコンピューター会社が以前に対共産圏輸出統制委員会《ココム》規制違反で通産省から一か月の輸出禁止処分を受けた前科≠ェあったので、公安からマークされていた。
結局真相は、藪《やぶ》の中になった。
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安全保障された脱出
「明日から出社におよばず」
諸橋直之《もろはしなおゆき》が開発本部長の鶴間《つるま》から内示を受けたときはショックであった。だが馘《くび》になったわけではない。
「若者の集まる場所へ行って彼らのライフスタイル、好み、考え方、ファッション、ニーズ、風俗などをじっくり観察してそれをリポートするように」
という命令であった。
「会社に毎日出勤しなくてもよろしいのですか」
諸橋はこの奇妙な社命に面喰《めんく》らった。
「会社に出勤する代わりに街に出勤するんだ。それも、朝でも昼でも夜でも好きな時間でよい。若者や大衆の中に入り込んで、街の中にどっぷりと浸って、彼らの感覚をつかみ取ってもらいたい」
開発本部長鶴間明人は、「鬼鶴」の異名を取る辣腕《らつわん》である。常に時代を先取りする鋭敏な感覚と積極的な姿勢でヒット商品を次々に送り出している。社長一族にも連なっており、社の次代をになう最も若手有望株である。
鶴間の言葉に初めはびっくりしたものの、諸橋は次第に悪い話ではないとおもいだした。だいいち定時に出社しなくてもよいというのが魅力である。要するに会社の金をつかって街で遊んで来いという命令である。
十年一日のようなサラリーマン生活にいいかげんうんざりしていた矢先であっただけに、勤務時間に拘束されない自由勤務は、一種の脱サラではないか。しかも脱サラにつきものの危険はまったくない。会社から生活を保証されて、遊ぶ金までもらえる。こんな結構な話はないではないか。
諸橋は、鶴間の命令を歓迎した。だが妻の朋子《ともこ》は不安の色を浮かべた。
「自由勤務なんて一見よさそうだけど、なんか胡散《うさん》くさいわね。だって毎日街へ出かけてぶらぶらしているなんて、まともな人間のすることじゃないでしょ。その間会社のラインからはずされちゃうわけだし、いざ戻るというときになってあなたの場所がなくなっているというようなことはないのかしら」
「なに言ってるんだ。これは部長の抜擢《ばつてき》だよ。自由という形で企業戦争の最前線で戦うんだ。だれでもいいってもんじゃない。まあ見てろ、街の中から凄《すご》いものを掬《すく》い取ってきて、みんなをあっと言わせてやる」
諸橋は張り切っていた。彼は自由勤務が嬉《うれ》しくなっていた。こんな機会でもなければ、会社とマイホームの間の往復の軌道に閉じこめられた人生から脱出できない。脱出には危険が伴うものであるが、絶対の安全保障をかけられた脱出である。こんな結構な脱出があろうか。
諸橋の自由勤務は始まった。夕方になるころ家を出て原宿、六本木、西麻布《にしあざぶ》などへ直行する。ディスコやカフェバー、喫茶店など若者が集まる場所に入り浸っていっしょに遊びまわる。昼間から渋谷《しぶや》、新宿、下北沢《しもきたざわ》、自由が丘、吉祥寺《きちじようじ》などをぶらつくこともある。
諸橋は学生時代以来初めて回復した自由≠ェ楽しくて仕方がなかった。しかも学生時代とちがって遊ぶ金は会社からたっぷりと支給される。
若造りをすればまだけっこうヤングにもてる年齢である。毎日盛り場やファッショナブルエリアに入り浸っている間に遊び仲間≠烽ナきる。諸橋は彼らに「大店《おおだな》の若旦那《わかだんな》」を演技した。
ヤングもディスコやカフェバーで気前よく奢《おご》る諸橋に、よいカモとばかり従《つ》いて来る。諸橋にしてみれば、銀座のバー一店の接待費で彼ら十数人の飲食代など軽く出してやれるのでなんともない。彼らの会話や生態の中から企業戦略を盗もうという魂胆であるから、どちらがカモにされているのかわからない。
ディスコで仲良くなったギャルとホテルへ行ったこともある。そんなプレイガールでもないのに、彼女らはセックスをごく日常のものとしているのが、諸橋には驚異であった。
まだ十分若いつもりであったが、婚外《アウト》セックスは諸橋にとって非日常の世界であった。
知り合ったサークルのコンパや大学生の合宿に参加したこともある。背広ネクタイがうっとうしくなり、ラフなスタイルがサマになってきた。
毎日が浮かれていた。だが半年もするうちに霧のような寂しさが次第に心身に湧《わ》いてきた。まず毎日の生活にメリハリがない。朝は寝たいだけ寝て、それでも前夜の遊びの疲労が残るどんよりとした気分で起きる。
朝昼兼用というより、昼夕食を兼ねたような食事をもそもそ食べながら、さて今日はどこへ行こうかと考える。初めはそれが楽しみであったが、このごろは苦痛になった。
「あなた、だんだん不健康になっていくようだわ」
妻が心配そうに言った。自分でも身体《からだ》だけでなく、精神までがまともでなくなっていくような気がする。会社という檻《おり》の中に飼われていた身が、自由の曠野《こうや》に放り出されて自分を見失っていくのである。
せっかく知り合った遊び仲間《プレイメイト》もどんどん交替していく。プレイタウンの住人の交替は激しい。彼らは一時期遊びまくると、「いつまでも馬鹿やっちゃいられない」と言って卒業≠オていく。諸橋だけがプレイタウンの定住者≠ニして取り残されていくのである。
自由勤務の著しい成果が社業にシャープに現われればよいが、リポートが役に立っているのかどうかさっぱりわからない。
会社の同僚や遊び仲間は、彼のノラキン(のらくら勤務)を「いい身分」だと羨《うらや》むが、疎外感と孤独感に悩まされる。このままノラキンをつづけていると、会社からも忘れられ、社会からも取り残されていってしまうのではないかという不安に苛《さいな》まれる。
事実、自由勤務の間、時々会社に報告に行くと、すでに組織構成が変化しており、知らないことが多くなっている。自分が所属している部署ですら知らない人間が増え、部外者≠ェなにしに来たかというような顔をされる。
諸橋は鶴間にそろそろ定時勤務に戻してくれと頼んだ。だが鶴間は、
「自由勤務は長期的視野で取り組まないと、成果が現われない」
とニベもなかった。
諸橋はそのとき、自由勤務を会社の人事から正式に命じられたのではなく、鶴間から個人的に内示されたことをおもいだした。それだけに鶴間から抜擢《ばつてき》されたと奮い起《た》ったものだが、鶴間以外の者は諸橋が自由勤務ということを知らない。中には退社したのか長期病欠しているのかとおもっている者もいる。諸橋から事情を聴いて「結構な身分だ」と羨むが、半信半疑の表情の者もいる。
本当にそんな勤務形態があるのか、なにか悪い事をして馘《くび》になったので、体裁悪くてそんなことを言ってるのではないかと疑っているようである。
もしここで鶴間の身になにか異変でも起きれば、社内に事情を知る者がなく、諸橋は街の中に取り残されてしまうのではないだろうか。
諸橋はふとおもい当たることがあって、鶴間の巧妙な陥穽《かんせい》にはまり切り捨てられてしまったような不安をおぼえてきた。
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恩賜《おんし》猫の失踪《しつそう》
「とにかく費用はどんなにかかってもかまいません。必ず見つけ出してください。隴岡《うねおか》先生からいただいた血統書つきの高貴な猫≠ナすからいなくなったではすまないのよ」
金鎖つきの伊達《だて》眼鏡をかけたその婦人客は、行方不明になったペットの由緒ある氏素姓について一《ひと》しきりまくし立てた。仕立てと生地がよいテーラードスーツをまとい、身につけているアクセサリー類も高価な品ばかりである。
「わかりました。ところでいなくなった日時はいつでしょうか。不明後の時間経過が少なければ少ないほど発見率は高くなります」
無量小路一樹《むりようこうじかずき》は、客から一しきり不明猫の高貴なことを訴えられた後、尋ねた。
「昨日の午後からよ。ふだんめったに外に出たことがないので、盗まれたんじゃないかしら。とにかくだれが見ても高貴な猫ということがわかるから」
客はまた「高貴な猫」を繰り返した。行方不明になったペットの捜索を依頼に来る客は、大別して、愛情からと、高価であるという動機の二種類である。後者はペットに対する愛情が薄いのでペットのほうから家出してしまうケースが多い。
「発情期になると家出することがあります。年齢はいくつですか」
無量小路は、要点を一つずつ聞いていった。種類、チンチラ。雄。名前、ミチル。年齢、満一歳。体重、三キロくらい(測ったことなし)。失踪《しつそう》日時、昨日午後一時ごろ。かかりつけ獣医、これまで健康なので特になし。病歴、なし。手術、なし。鑑札、なし。好きな食べ物、貝類。好きな遊び、ボール。親しい友達、なし。毛色、白、長い。目の色、緑。母親、代議士隴岡|智定《ともさだ》の飼い猫チルチル。
母猫の在所を聞くのは、よく母の許《もと》へ帰ることがあるからである。
「だいたいわかりました。それでは早速捜索に取りかかります。なにかわかりましたら、ご連絡申し上げます」
「おねがいね。せっかく隴岡先生からいただいた貴重な猫なんですからね」
猫に対する愛情からではなく、隴岡智定からの恩賜《おんし》の猫≠ネので慌《あわ》てて行方を探しているのである。隴岡智定と言えば与党の大物政治家である。
鶴間光子と名乗った捜索依頼人は、高雅な香水の残り香をおいてしゃなりしゃなり帰って行った。
無量小路一樹は本来の動物好きが高じて、約十年のサラリーマン生活の後、迷いペットの捜索会社「愛ペット探偵局」を創立した。
ペットを飼う人が増えるにつれて、ペットの迷い子や家出も増えてきた。これらの飼い主のために捜索をし、ペットを連れ戻してやるペットブームに伴う新商売である。
新宿区に本拠をおいて都内全域と三多摩を範囲とし、依頼に応じて出動する。開局当初は依頼が少なく苦しかったが、最近は評判を聞いて依頼が増え忙しくなった。
発見率がこの商売の信用の基礎なので五十パーセントを下まわったら止《や》めるつもりであったが、現在七十三・五パーセント、なお上昇中でありまずまずの成績である。
一応「ペット捜索」と看板を出しているが、対象は犬猫である。稀《まれ》に「鳥」の依頼がくるが、鳥には手が及ばない。
犬のほうが手がかりが多くて探しやすいのであるが、実際には猫の発見率のほうが高い。
猫はおおむね半径二百メートルをなわばりとしているので、たいていこの範囲内で見つかる。なわばりから出て行くときは、一、なわばり争いに敗れ、他の猫から追い出されたとき、二、餌場《えさば》がなくなったとき、三、盗難にあったときである。
この中で依頼物件の最も可能性が高いのが三であるが、その場合は発見の可能性がきわめて低くなる。
発見までの平均捜索日数は三日間であるが、これを越えると、長くなるか、見つからない確率が高くなる。
動物は遺失物≠ニされるので警察に問い合わせてわかることもある。だれかに拾われて始末に困ったときは都の動物管理|事務所《センター》に六日間保護された後、飼い主が現われなければ処分される。
また路上で車にはねられたり、病気になって死んだりした場合は、区役所清掃課の扱いになるのでそちらへ問い合わせる。
ともかくこの仕事をしていると人間と動物の関わり合いを通して多様な人生に触れる。
最近は飼い殺しが多く、ペットが飼い主を嫌っての家出が増えている。犬など鎖につなぎっぱなし、檻《おり》の中に閉じこめっきりという人が多い。人間のエゴが目立つのである。
ようやく探し当てたときは目頭が熱くなることがあるが、また冷たい飼い主との鎖と檻の生活に戻すのかとおもうと胸が痛くなる。
無量小路は飼い方を改めないと、また家出しますよとやんわり釘《くぎ》を刺しておく。
捜索は動物を最後に見かけた地点からスタートする。同時に基本捜査として警察、区役所、管理センター、保健所などに照会する。電柱に動物の特徴を書いた捜索ポスタ|ー《ウオンテド》を貼《は》る。本来は届け出が必要なのだが短期間で剥《は》がすということで大目に見てもらう。かたわらに「求む、愛人」の広告などが一緒に貼ってあるのも世相を表わしている。
鶴間光子から依頼されたミチルの捜索は三日目に成果が上がった。局員の白沢が、依頼人の家の近所に住む老婆井原こな宅に特徴が一致する猫がいるのを発見したのである。どうやら同女に拾われたか、同家に迷い込んだまま居ついてしまった様子である。
白沢はポラロイド写真を撮って鶴間光子に見せたところ、不明になったミチルにちがいないということであった。
早速無量小路と白沢がこな婆さんの家に引き取りに行くと、
「変な言いがかりをつけないでおくれ。この子はうちで飼っている猫だよ。あんたたち猫さらいかい。変なまねすると警察呼ぶよ」
とけんもほろろであった。長く居ついたときは引き渡しを拒まれることもあるが、行方不明後五日では引き取りにトラブルが生ずることはない。
「しかし、お婆さん、このように捜索願いが出ているんです。特徴もすべて一致しています」
「そんなこと知るもんかね。この猫はうちの猫だからね、だれにも渡さないよ。さ、とっとと帰っておくれ。年寄りだとおもって馬鹿にしないでおくれ」
塩でも撒《ま》きかねない権幕であった。法律的には迷い猫を拾って返さない行為は、遺失物(占有離脱物)横領罪ということになる。だが法廷闘争まで行ったケースは、無量小路の知るかぎりない。
相手が老婆では、無理に奪い返すわけにもいかない。井原は以前夫と一緒に旅館を経営していたが、夫の死後、旅館を人手に渡し、金貸しをしているという噂《うわさ》である。「十一《といち》」の高利でその取立ては容赦なく、烏婆《からすばば》ぁ≠ニいう渾名《あだな》がある。
その渾名のままにテコでも退《ひ》かぬ構えを見せられては、もはや無量小路の渡り合える相手ではなかった。このような場合、動物は見つかったものの、飼い主の許《もと》に連れ戻すことができない。
飼い主と拾い主の間の交渉に委《ゆだ》ねることになる。
「姉貴、いまに一発大穴当ててやるからな。そうしたらこんな汚ねえアパートでなく億ションに住まわせてやるぜ」
弟の克司《かつし》は口ぐせのように「いまに一発」と言う。
「カッちゃん、お姉さんは億ションなんかに住みたいなんておもわないわ。ここで十分居心地いいのよ。そんな一発勝負ばかり狙《ねら》わないで地道に働く者のほうが結局勝つのよ。若いうちから近道を歩こうとしちゃだめよ」
宮下|由季《ゆき》は弟を諌《いさ》めた。郷里から上京して姉弟一緒に生活しているが、大言壮語ばかりしてアルバイトを転々としている弟の克司が心配でならない。
「へん、このおれ様に月給十二、三万でよ、朝早くから夜遅くまで皿洗いでもしてろってのかよ」
「でもあなたくらいの年齢の人はみんな真面目《まじめ》に社会の下積みの仕事をやってるのよ」
「おれはやだね。おれには才能がある。おかしくってそんな仕事ができるかよ。バリッとした服着てよ、外車乗りまわす身分になるのよ。おれにはおれに向いている格好いい仕事があるはずだ」
「仕事は格好でするもんじゃないわよ」
「そう言う姉貴だって安キャバレーのホステスってことを隠してるじゃねえかよ。酔っぱらい相手に売春まがいのまねをして、それで満足してるのかよ」
「ひどいことを言うのね」
「まあ見てなよ。おれが一発当てたら、姉貴にも酔っぱらいの相手なんかさせない」
「カッちゃん、いつまでもそんな寝言みたいなこと言ってないで、足を地につけて歩いて行ってちょうだい」
「寝言かどうか、いま狙《ねら》っている大仕事があるんだ。そいつが当たれば、一生左うちわだぜ」
「カッちゃん、あなた変なこと考えてるんじゃないでしょうね」
由季の言葉にまったく耳を傾けず、克司は部屋から飛び出して行ってしまう。由季は弟の見栄っ張りな性格が不安でならない。幼いころから目から鼻へ抜けるように利発であったが、それがあだとなって地道な努力を嫌う。
中学のころからよからぬ連中とつき合うようになった。高校へ進んだときはいっぱしのチンピラになっていた。
地元のヤクザから目をつけられて、暴力団入りを勧められたが、東京に憧《あこが》れていた克司は高校を中退して、すでに上京していた姉を追って来た。由季はアルバイトホステスをしながら大学に通っている。
克司は初めは姉の店でボーイをしていた。間もなく辞め、風俗業界を転々としていた様子だったが、いまはなにをしているのか、彼女にもわからない。だが十九歳の若者にしては身分不相応の服装をしたり、大金をもっていたりする。
アパートに時々しか帰って来ない。帰って来る都度、弟の身体《からだ》にまつわる危険な気配が濃厚になっていくようである。
その日、克司が言った「いま狙っている大仕事がある」という言葉には、これまでの寝言≠ニ異なり真実みがあった。どうせまともな仕事ではあるまいが、悪いなりの自信が感じられたのである。
「当たれば一生左うちわだ」と言ったが、十九歳の若者が一生左うちわで暮らせるような仕事と言えば、悪事に決まっているではないか。それもかなり大がかりな悪事だ。
「なにをするつもりなの」
と問いつめようとしたときは、克司は飛び出していた。
夜の盛り場をうろついている間に知り合いになった三人であった。三人ともたがいの中に同類の体臭を嗅《か》ぎ合った。餓《う》えた狼《おおかみ》の危険な体臭である。
「ああ、つまらねえな」
頬《ほお》の削《そ》げた長身の若者が言ったのが、口をきき合うきっかけになった。
「なにか一発でけえことをやりてえな」
「でけえことってなんだ」
小さい目、丸いひしゃげた鼻、唇が分厚く歯の間がすけている若者が口を出した。
「そうさな、戦争でも起きてよ。世の中どかあんと変れば面白くなるかもよ」
目が細く、鼻筋が通り、薄い唇が紅を塗ったかのように朱《あか》い若者が言った。
「戦争になると、おれたちも死んじまうかもよ」
「まだ死にたくねえな」
「死ぬにしてももっといいおもいをしなくちゃな」
「どうだ銀行強盗でもやらかすか」
「いい考えだが、武器がいるぜ。車も欲しいな」
「車は盗めるが、武器の手当ては難しいな」
「刃物《ヤツパ》じゃだめかな」
「ガードマンもいるだろうし、飛び道具が欲しいね」
「銀行並みに金のある所で、警戒が厳重でない所はないかな」
「心当たりがないでもない」
「そんな所があるのかよ」
「婆ぁが一人で住んでいるんだ」
「婆ぁが銀行並みの金をもっているのか」
「ただの婆ぁじゃねえ。烏婆ぁという渾名《あだな》があってよ、旦那《だんな》が残した財産で金貸しをしてごっそり蓄《た》め込んでいるという噂《うわさ》だぜ」
「そんな婆ぁがどこにいるんだ」
「どうだ、三人で組んでやらねえか。本気でやるつもりがあれば、おしえてもいいぞ」
冗談のつもりで話していたのが、本気になってきた。小金を蓄えた孤独な老婆は、餓えた三匹の若い狼には魅力的な獲物であった。
いずれも単独でやる度胸はない。だが三人集まって度胸ができた。三人はそのとき初めて名乗り合った。頬《ほお》の削《そ》げた長身が宮下、唇の分厚い前歯のすけたのが大山、目が細く薄い唇の朱《あか》いのが神岡である。年齢はいずれも十九歳であった。東京の盛り場で知り合っただけでそれ以上のことは聞こうともしないし、知りたくもない。
「なんだ、三人で大神宮じゃねえか」
宮下が薄く笑った。そんなとき全身から凶器のような殺気が振り撒《ま》かれる。驚くほど杜撰《ずさん》で衝動的な犯行計画が、三人の間に成立した。
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ガラスの靴を履《は》いたデートガール
流行は速やかにすり減っていくものである。それ故に「流れ行く」と言われるのであろう。同時にノラキンもすり減っていく。自由勤務と言えば体裁はいいが、これは体《てい》のいい馘首《かくしゆ》であった。
諸橋がそれに気がついたのは、自由勤務に入って約一年になろうという時期である。夜のファッショナブルタウンには他社のノラキン社員もいた。彼らと顔なじみになり、言葉を交わすようになった。彼らも諸橋同様の疎外感と孤独感に悩まされていることを知った。
だが彼らと重大な相違がある。彼らが自由勤務の間につかんだヒントが、会社に取り入れられて続々とヒット商品を産み出していた。
諸橋のリポートが採用されたことは一度もない。自分でも優れたリポートを提出した自信がある。それが証拠に彼が報告した発見やアイデアが他社で商品化されてベストセラーとなっている。
会社は、初めから諸橋のリポートを採用する気がないのだ。いや鶴間が、諸橋と会社の間に立ちはだかって諸橋のリポートを握りつぶしているのだ。そうにちがいない。
馘首した「元社員」のアイデアなど採用できないというわけである。人事にそれを確かめても、鶴間本部長扱いの秘密勤務だと言われればそれまでである。秘密勤務の場合は担当者以外|完全守秘《ブラツクアウト》されることが多い。
疑心暗鬼を募らせたままの自由勤務は辛《つら》い。相談する相手もなく、慰め励まし合う仲間もいない。普通勤務時代の仲間には事情はわからない。
「そんな会社は辞めちまえよ。おれがおやじに話せば、あんた一人くらいどこにでもおっぱめるぜ」
六本木のディスコで知り合った通称「若様」の矢桐《やぎり》が言った。まだ大学生の身分でBMWを乗りまわしている。遊び仲間の噂《うわさ》では大物政治家の二号夫人の息子ということだが、それ以上のことはわからない。
いつも取り巻きを引き連れて派手に遊び歩いている。
「学生のあんたにおっぱめてもらうほど、おちぶれていないよ」
諸橋は強がったが、ノラキンの形で使い捨てられていくいまの会社にしがみついているより、若様の父親にすがってどこかにはめ込んでもらうほうが賢明かもしれないとおもった。
「まあ行く所がなくなったらいつでも言ってきなよ」
若様は鷹揚《おうよう》に笑った。こういう手合いがさんざん遊びまくった後、親のカサの下で、いずれ社会の居心地よい場所におさまっていくのである。
「そのときは頼むよ」
諸橋は自分が次第に卑屈になっていくような気がした。しかし、そうはならないと自分に言い聞かせた。
週末のディスコは若い熱気で蒸れている。
諸橋は知った顔はいないか、目が闇《やみ》に馴《な》れてから見まわした。せっかく開拓≠オた若いプレイメイトがどんどん交替していく。少し仕込み≠怠ると、このプレイタウンの定住者でありながら一人だけ取り残されてしまう。会社から置き去られ、プレイタウンで取り残されたらそれこそどこにも行き場所がなくなってしまう。
ダンスフロアに若様の姿が見えた。珍しく取り巻きを連れずに一人で踊っている。髪の長いいま流行の「お嬢様」っぽい若い女が、若様のそばで踊っている。腰が形よくくびれ、脚線も美しい。
若様の連れではないが、彼がその女に興味を惹《ひ》かれていることはわかった。女もまんざらでもなさそうに、若様にからむようにして踊っている。二人の間に了解$ャ立寸前の気配が見える。
それが踊りだけの了解か、それとも踊りの後の了解か、それは二人の今後の成行き次第というところだろう。
諸橋は声をかけようかとおもったが、止《や》めた。せっかく二人だけのハッピーな雰囲気に割って入るのは野暮というものだろう。
そのときダンスフロアの照明が消えて暗黒の中に沈んだ。音楽がスローになった。チークタイムである。
ダンスフロアが急に空《す》いて、残ったカップルは犇《ひし》と抱き合ったままシルエットとなって動かない。若様とその女もシルエットの中にいるようである。チークタイムにフロアに残る男女は既成の仲か、あるいは踊っている間に合意に達した者たちである。
その間周囲の客席では為《な》すところなくフロアで凍結したようなカップルを羨《うらや》ましげに見ている。特に軟派目的で来た男でチークタイムからあぶれた者が、羨ましげである。
スローな曲が二曲つづいて照明がよみがえった。再びエイトビートのディスコサウンドが鳴り響き、フロアが混んでくる。若様はどうしたかと気になってフロアの方角を見ると、女の手を引っ張って出て行くところであった。
さては「踊りの後の了解」が得られたかと、諸橋はニヤリとした。
宝井洋美《たからいひろみ》は、作戦を変えることにした。デート喫茶で客を取っていても収入はたかが知れている。一時間単位のデートで三万円、店に二割吸い上げられるので、実収入はさらに減ってしまう。
こんな安金《やすがね》で青春を切り売りしていたのでは、念願のブティックを一生かかっても開くことはできない。
朋輩《ほうばい》の小百合《さゆり》がお嬢様を装って玉の輿《こし》に乗った話を聞いて、早速自分もまねをすることにした。もともと容姿に自信があるので、身体《からだ》を資本にしたこの商売を始めたのである。
洋美は、精々良家の令嬢っぽく装って街へ出た。何人もの男が声をかけてきたが、安っぽいサラリーマン、学生、チンピラ、また金はもっていそうだが、いやらしげな中年以上のハゲにははなも引っかけない。
まず格好がよくて、年齢は四十代前半以下、金がありそうな男を物色する。しかしいずれも「帯たすき」でピンとくるのがいない。若くて好みのタイプのは、金がない。金をもっているのは、たいていチビ、デブ、ハゲの男のワーストスリー要素を備えている。
若さと金、容姿と経済力は相反する性質をもっている。洋美があきらめかけたとき、理想的な相手に出会った。
なにげなく入った六本木のディスコ「エイリアンズ」で一緒になった。テクノ・ポップスでヤングに人気のあるディスコである。
ダンスフロアでつかず離れずに踊っている間にフィーリングが合ってきた。周囲に大勢が踊っている間に二人だけが透明のカプセルの中に閉じこめられたような感じなのである。
未知の二人の間に、「二人の世界」がこんなに早く形成されるのは珍しい。
顔立ちも細面で彫りが深い。彼女のタイプである。ちょっと冷酷な感じが気になるが、それが虚無的な陰翳《いんえい》を添えてミステリアスな雰囲気をつくっている。
服装は抜群によい。頭から爪先《つまさき》までトータルなファッションに神経が行きわたり、金をかけている。さりげないアクセサリーの小品までが世界の一流銘柄ばかりである。年齢は二十二、三歳、この若さで金をまぶしたような服装をしているのは、尋常の身分ではない。しかもそれを金をかけて渋く抑え込んでいる。
(きっと大金持の御曹司にちがいない)
洋美は相手の素姓を臆測《おくそく》した。大学四年生か精々社会人一年生、当然まだ独身だろう。よし、腕によりをかけてこのお坊っちゃんのハートを射とめてやろう。
洋美は獲《と》らぬ狸《たぬき》の皮算用を弾《はじ》いて、いよいよ濃厚に迫っていった。間もなくチークタイムになった。男の手が伸びてきた。洋美は吸い寄せられるように相手の腕の中に飛び込んでいた。
チークタイムの間に男は洋美の腰にまわした手に力をこめた。その手に応じて洋美は身体《からだ》をぴたりと相手に密着させた。すり寄せた二人の身体の間で欲望がなまなましく弾んでいる。
男の唇が履いかぶさってきた。洋美も激しく応《こた》える。デートガールの仕事をしていても唇を許すことはめったにない。身体を売る彼女らにとって、唇は愛する人間のためにとっておく最後の砦《とりで》なのである。
打算からアプローチした相手に、いつの間にか心の中に侵《はい》り込まれているような感じである。チークタイムが終って、照明がよみがえっても、洋美は茫然《ぼうぜん》として男の腕の中に身体を預けていた。
「出ようか」
男がささやいた。洋美は意志を失ったように自動的にうなずいていた。
「婆ぁだから寝るのは早い。だが念のために午前零時まで待つ。金をとったら三等分する。それでバイバイだ」
宮下が言った。
「金はどこに隠してあるんだ」
神岡が尋ねた。
「どうせ大した所に隠しちゃいねえよ。身のまわりにおいているか、箪笥《たんす》か押入れの中だろう。天井裏や床下まで探す必要はねえよ」
「婆さんの家にはだれか一緒に住んでいねえのか」
大山が口を出した。
「だれもいねえよ。犬も飼ってねえ。精々迷い猫が住みついているくらいだろう」
「それじゃもう金は手に入ったも同じじゃねえか」
大山が分厚い唇を舐《な》めて笑った。
「そうよ。おれは奪った金でBMWを買うんだ。中古のカローラなんてくそくらえだ」
宮下は削《そ》げた頬《ほお》に薄笑いを浮かべた。彼はこの犯行のためにどこからか中古のカローラを用意してきていた。
「おれは髪の長い格好いい女とホテルに泊まりに行くぜ」
神岡が凶器のような細い目を光らせた。
三人組は午後十一時三十分に行動を開始した。獲物の老女の家の前に着いたのが、午前零時少し前である。
老女の家も近隣の家も寝静まり、灯の一点も見えない。犬一匹起きていないようである。
「行くぞ」
宮下が低い声で言った。侵入口は前もっての偵察で、トイレの窓と見当をつけている。
庭を伝い、トイレの横に達する。トイレの窓は自動車の修理工具でこじると、簡単に取りはずせた。一人ずつ侵入する。トイレから廊下へ出て、老女の寝室を探しながら進む。
老女一人の住居にしては広すぎるとみえて使ってない部屋が多い。抜き足、さし足の下の廊下がみしりと鳴った。ドキリとした瞬間、
「だれだい」
と問いかける声が、廊下の先の部屋から湧《わ》いた。しまったと唇を噛《か》んでその場に凍りつく。
「だれかそこにいるのかい」
三人が身体《からだ》を硬直させていると、
「気のせいだったかね」
とつぶやく声がしてごそごそと布団の中で身じろぎする気配がした。ホッとしたとき、猫の声が足許《あしもと》でした。毛まりのような猫が足許にからみついている。
「タマだったのね、こっちへおいで」
再び老女の声がして、廊下の障子がするりと開いた。寝巻き姿で寝床から出て来た老女は、廊下に佇《たたず》んでいた三人組の影を見て、「ひっ」と悲鳴をあげ、「泥棒!」と老人とはおもえないような大声を発した。
「あっ、静かにしろ」
動転した三人組は、老女に飛びかかった。
「人殺し、強姦《ごうかん》野郎、強盗!」
老女はおもいつくかぎりの罵声《ばせい》を浴びせた。
「なんて婆ぁだ。てめえなんか強姦するかよ」
宮下が慌てて口を塞《ふさ》いだ手をおもいきり噛《か》まれた。指の骨がゴリッと鳴った。宮下が悲鳴をあげたが、老女は咥《くわ》えた指を離さない。
「畜生《ちくしよう》」
宮下は指を噛ませたまま老女の首を締めた。大山と神岡が手伝う。生死を分ける争いが、しばらく、老女の抵抗と三人の若者の力を拮抗《きつこう》させた。だがそれも束《つか》の間で老女の身体から力が脱けた。
「婆ぁのくせになんて力だ。指を噛みちぎられるかとおもったぜ」
宮下は血のにじんだ指を舐《な》めた。
指に歯型がついている。老婆は口から泡を吹いて息絶えている。
「くたばったようだぜ」
大山と神岡が初めての殺人に血の気を失っている。
「仕方ねえだろう。最初からそのつもりだったんだ。ぐずぐずしねえで金を探せ」
宮下から叱咤《しつた》されて、我に返った彼らは金を探し始めた。
現金が枕元《まくらもと》の手文庫の中に約三十万あった。あとは預金通帳だけである。印鑑はどこかべつの場所に保管してあるらしい。
「たった三十万か。他にあるはずだ。もっと探せ」
宮下がいら立って叫んだ。三十万では、一人十万の分け前で人間一人を殺したことになる。だが結局、箪笥《たんす》や押入れの中を調べても、念書や古ぼけた指環類があるだけで、現金は出てこなかった。
「ちくしょう、なんてこった」
宮下は罵《ののし》ったが、どうにもならない。
「火でもつけてやるか」
神岡が腹立ちまぎれに物騒なことを言いだした。
「止《や》めておけ、警察《サツ》を早く呼び寄せるだけだ。金がないとわかったら長居は無用だ」
宮下が引揚げを宣した。
三人は家の前に停《と》めておいたカローラに乗り込むと発進した。宮下がハンドルを握っている。
「ちえっ、なにが銀行並みの大金だよ。たったの三十万、三人で分けて十万、馬鹿馬鹿しくって涙も出ねえや」
「あの婆ぁ、生命保険でもかけていれば、受取人から感謝されるんじゃねえか。よく殺してくれましたってよ」
大山と神岡がぼやいた。
「うるせえ。いまさら仕方がねえだろ。十万でもねえよりましだ。空っケツのくせしやがってブウタレるんじゃねえ」
宮下はいら立っていた。二人以上に彼が落ちこんでいたのである。姉に「一発当てて、一生左うちわで暮らさせてやる」と大きな啖呵《たんか》を切ったのがこのザマである。しかも殺す必要のない老婆まで殺してしまった。
十万円で殺人の罪を問われては、どうソロバンを弾《はじ》いても合わない。せめてこれ以上の損失《ロス》を重ねないためにも絶対に捕《つか》まってはならない。
どこを走っているのかよくわからない。とにかく暗い路地伝いになるべく老婆の家から離れるのだ。
友人から借りて来たこのオンボロカローラは、全身から悲鳴を発するようにして走っている。タイヤは丸ボーズ、部品はすり切れており、エンジンは食中毒した腹のように変なうなり声を発するし、ブレーキは片ききである。
いつ擱坐《エンコ》しても不思議はない車をなだめすかして、できるだけ老婆の家から離れるのだ。
「あれえ」
突然大山が女性っぽい悲鳴をあげた。
「どうしたんだ」
「猫がいるぜ」
「猫だと」
「あの婆ぁの家の猫がいつの間にか入り込んでいたんだ」
リアシートの床にうずくまって眠っていたらしい。人なつこい猫らしく大山の足に白い毛まりのような体をこすりつけて、しきりに鳴いている。
「気色悪い、つまみ出せ」
宮下が命じた。
「可哀想《かわいそう》だよ」
「なに言ってやがる。婆ぁが化けたんかもしれねえぞ」
「おい、よせよ」
リアシートの二人が悲鳴をあげたとき、路地から広い通りへ出た。猫に注意が向いて運転が疎《おろそ》かになっていた。ちょうど通りかかったBMWに出会い頭にぶつかりそうになった。ブレーキペダルを力いっぱい踏み込んでようやく停《と》めたが、バンパーが触れた。触れてもこちらはスクラップ寸前だからどうということはない。
BMWの窓が開いて、若い男が「気をつけろ」と注意した。助手席に髪の長い様子の美《い》い女を侍らせている。
三人の胸にむらむらと込み上げてくるものがあった。悪いのはこちらであるが、三十万のために老婆を殺して、暗い路地を逃げまわっているのに、片一方では同年輩で格好いい女とBMWを乗りまわしている男がいるのにがまんならないのである。
「この野郎、ベンベで女《スケ》といちゃつきやがってよう、出ろ」
宮下がどなった。宮下がカローラから下り立ってBMWのボディを蹴《け》り上げた。神岡と大山が倣《なら》った。BMWの中では助手席の女が男にしがみついている。暗い邸町《やしきまち》で、いずれの家も濃密な庭樹の奥に灯を消して寝静まっている。通行車もない。
「輪姦《マワ》しちまえ」
神岡が細い目をぎらぎらさせた。こんな髪の長い様子の美い女をものにするのが、彼の夢だったのである。
「出て来やがらねえと窓を叩《たた》き割るぞ」
大山が脅した。
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猫は見ていたか?
洋美はディスコから男に引っ張り出されると有料駐車場に駐《と》めてあったBMWに乗せられた。この若さでBMW、彼女は自分の目が狂っていなかったのを確かめて満足した。BMWは颯爽《さつそう》と凡車の洪水をかき分けて、赤坂の超高層ホテルの玄関へ横づけした。一時間三万円のデートで利用するラブホテルとは、天と地の隔たりがある。
ドアマンに馴《な》れた手つきでキイを渡すと、BMWをその場に乗り捨て、フロントへ行く。フロント係が彼の姿を見ると、レジスターも求めずにルームキイを差し出した。常時部屋をキープしているらしい。
連れ込まれた部屋は上層階のデラックスタイプのダブルである。洋美はドアのかたわらで立ちすくんだ。
「なにか飲む」
男が洋美の気分をリラックスさせるように聞いた。
「ううん」
洋美が首を横に振った。
「こっちへ来ないか」
男が誘った。ここまで従《つ》いて来たのは了解が成立している証拠だとおもっている。
「私、驚いているの」
「なにを」
「だって私たちまだ名前も知らないでしょ。自分の大胆なことに驚いているのよ」
「名前なんて記号のようなものさ。愛し合うのに必要ないだろう」
「でも大勢の中から見分けるための記号でしょ。私たち大勢の中から見分け合ったからここへ来たんでしょ」
「言えてるな。矢桐というんだ。弓矢の矢、木の桐だよ」
「私、宝井洋美、宝島、井戸、太平洋、美しいよ。あなたのフルネームをおしえて」
「きみと同じ字の洋《ひろし》だよ。よろしくな」
「こちらこそ」
会話を交わす間に矢桐の手が伸びて引き寄せられた。そこで再び唇を交わし、そのままベッドにもつれ込みそうになる。
「待って」
洋美は喘《あえ》ぐように言って矢桐の手を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ離すと、
「一回だけのプレイじゃいや。私をそんな女に見ているのだったらいやだわ」
「ぼくも一回だけなんておもっていないよ。きみはぼくのタイプだ。いやだと言っても離さないよ」
「本当?」
「本当の証拠をすぐに見せてやる」
「嬉《うれ》しいわ。シャワー使ってくるからちょっと待っててね」
洋美は、流し目を投げてバスルームへ立った。
その夜の情事はどちらにとっても満足すべきものだった。初めての結び合いでありながら、二人の身体《からだ》は癒着《ゆちやく》したかのようにしっくりと和合した。離すときに痛みをおぼえるほど隙間《すきま》なく密着した肉体に、二人はこのまま地獄まで共に行きそうな不吉な予感をおぼえたほどである。
十分に貪《むさぼ》り合ったはずでありながら、まだ離れられない。グルメが胃袋の限界《キヤパシテイ》を嘆くように、二人は性欲の容量を嘆いた。
「私、こんなの初めて」
洋美は営業≠完全に忘れていた。切売りのデートでついぞ味わったことのない奥深い官能に、全身の細胞が弾み立っているようである。
「ぼくもだよ。キリがないんだ」
矢桐もいささか自分自身をもて余しているようである。
「急ぐことないわよ。私たちまだ始まったばかりですもの」
官能の火照《ほて》りの中で、洋美はスタートからあまり男にあたえすぎてはいけないことに気づいた。セックスにも経済学の原則が当てはまる。供給を多くすれば値打ちは下がる。男を飽和させてはいけない。適度に枯渇させておくことが、永続きさせるコツなのだ。
だが、自分のほうが先に餓えてしまいそうな不安があった。
ホテルから出ると、少しドライヴをして身体の火照りを冷《さ》まそうということになった。
今年は暖冬で、梅の花期が早まった。この調子だと桜の便りも間もなく聞けそうである。夜風に春の先触れのようなかすかな花の香りが乗っており、春の予感が弾み立っている。季節の階段が上りにかかる盛り上がりが街の気配を弾ませているのである。開いた窓から流れ込む冷たい風が快い。
「気持のいい夜だわ」
「どこへ行こうか」
「どこへでも」
洋美は風に長い髪を吹きなびかせて言った。BMWの乗り心地は抜群である。パートナーもタイプである。素晴しいセックスで満ち足りた後のドライヴは、そのまま玉の輿《こし》に乗ったかのような陶酔感がある。
いい気になってドライヴしていると、暗い四つ角で中古のカローラと鉢合わせをした。危うく停《と》めたが、出会い頭だったのでたがいのバンパーがわずかに触れ合った。
優先順序はこちらにあった。細い路地からいきなり飛び出して来たカローラが明らかに悪い。矢桐は窓を開いて、
「気をつけろ。危ないじゃないか」
と注意した。
「なんだとう」
険悪な声がして三個の人影が下り立って来た。本能的に危険を察知したが、進路をカローラが塞《ふさ》いでいるので咄嗟《とつさ》に逃げられない。
「この野郎、ベンベで女《スケ》といちゃつきやがってよう、出ろ」
人影の一個が外からBMWの車体をおもいきり蹴《け》り上げた。
「なにをするんだ」
矢桐が咎《とが》めると、
「こうしてやるんだよ」
他の二個の人影が、また激しく蹴った。
三人組は、いずれも凶暴な気配を全身から振り撒《ま》いている。出たらなにをされるかわからないが、このままじっとしているわけにはいかない。
矢桐は観念してドアを開いた。
「女を出すんだ」
神岡が顎《あご》をしゃくった。だが洋美はすくんで動けない。
「引きずり出せ」
神岡と大山が反対側のドアにまわり込もうとした。
「気をつけろとはだれに言うせりふだ」
宮下がドスをきかせた声で言った。ゆっくりと矢桐に近づいて来る。
「止《や》めろ」
矢桐がいきなり悲鳴のような声で叫ぶと、宮下に体当たりをくれた。宮下は、矢桐に抱きついたような形でその肩に両手を預けていたが、「てめえ」とうめくと、膝《ひざ》がくずれた。
「おい、どうしたんだ」
大山と神岡が突然様子がおかしくなった宮下に、女から視線を向け変えた。地面に膝を突き、左胸部を押えた宮下の手の間からポタポタと黒い粘液が滴《したた》り落ちている。二人は顔色を変えた。
宮下を刺した矢桐は、残った二人に血まみれのナイフを「来るか」と構えた。二人は刃物の光に後ずさりをした。リーダーを刺されて戦意が萎《な》えている。
宮下がよろよろと立ち上がると、蹌踉《そうろう》たる足取りでカローラの方へ歩きだした。止《とど》めを刺される恐怖に駆られて逃げ出したのである。
その間に矢桐はBMWの運転席に戻ると、車をバックさせて逃げ出した。初めからそうすればよかったのだが、血を見た後にその知恵が出たのである。
ミチルに特徴が一致する猫を発見したという報告を飼い主の鶴間光子にすると、だったらなぜ連れて来ないかと詰《なじ》られた。井原こな宅に居ついていて、同女が自分の飼い猫だと言い張って引き渡しを拒否している旨を伝えると、鶴間光子は激怒した。
「まあなんて図々しい婆ぁでしょ。この写真の猫はまちがいなくミチルよ。あの猫は高いんだから。きっとペットショップにでも売り飛ばすつもりなのよ。そんなことにならないうちに絶対取り戻してちょうだいね。一日一万円の捜索料は、ただ居場所を突きとめるだけじゃなくて、ちゃんと飼い主の許に連れ戻すために払っているのよ」
と脳天に突き刺さるようなきんきん声で言った。たしかに契約書の中に「不明ペットに著しい危険性があると認められた事態を除き発見、保護するときにはペットを傷つけないように優しく大切に取り扱い速やかに連れ戻す」と謳《うた》っている。
そうは言われても現在居ついている家の主が、飼い主だと主張している動物を無理矢理に取り戻すわけにはいかない。そんなことをしたら窃盗《せつとう》犯になってしまう。
ここは、根気よく説得を重ねる以外になかった。
だいたい犬と猫の飼い主の性格は大別される。犬と猫を同時に飼っている人もいるが、少ない。おおむね、犬派と猫派に分かれ、前者はさっぱりして明るい外向的な人が多いのに対して、後者はしんねりむっつりとして執念深く内向的な人が多い。
顧客としては犬派の人が格段にやりやすい。犬派は、捜索方法等についてはこちらを探し屋のプロとしてすべて任せてくれるが、猫派飼い主はペットの性格や習慣を最もよく理解しているのは自分だと信じ込み、探索方法や方針に介入してくる。
ミチルのケースは猫派の典型的なのがぶつかり合ったので、面倒であった。鶴間光子の権幕では告訴も辞さない勢いである。そこまで行く前に「愛ペット探偵局」の名誉にかけてなんとか円満に解決したい。
無量小路一樹《むりようこうじかずき》は白沢と相談して、井原こなの説得に出かけることにした。
発見した翌々日の朝、こなの家を訪問した。
マンションや高層アパートが建ち始めた都内の一画の、地上げ屋の出没が伝えられる地域の最も狙《ねら》われそうな土地スペースをたっぷり取った一軒家に住んでいる。
庭には雑草が蔓延《はびこ》り、家もかなり傷んでいる。ちょっと手を加えれば下宿屋でもできそうな広い家であるが、こなはその中の一部屋だけを居室にして独り暮らしをしている。
これまでにも犬や猫が迷い込んだり捨てられたりしているはずであるが、採用≠オたのはミチルだけである。それだけに容易に手放しそうにない。相手が年寄りだけにやり難い。
前例では、ペットが迷い込んだ先の子供になついてしまい、双方話し合いの末、子供が外に遊びに出ている時に連れ戻したことがある。
「婆さんの留守中、連れ戻したらどうでしょうか」
白沢が言った。
「そんなことをしたら泥棒になっちゃうよ」
「自分のものを取り返しても泥棒になるんですか」
若い白沢は不満そうである。
「そういう行為を法律的に自救行為といって禁じられているんだ」
「自分のものでも取り返せないなんて、なんだか泥棒の味方をしているみたいだな」
「現行犯以外の場合はたとえ自分のものでもいけない。それを許すと結局|復讐《ふくしゆう》を許すことになってしまう」
「そういうもんですか」
白沢はなんとなく釈然としないようである。そんな会話を交しながら井原こなの家の前に来た。
玄関に立ってブザーを押したが、応答がない。家の中に気配も起きない。
「留守かな」
無量小路は首を傾《かし》げた。
「あれ、鍵《かぎ》がかかってないみたいですよ」
試みにドアを押した白沢の手の先で、ドアが軋《きし》って開いた。金貸し老婆が鍵をかけずに留守にするのはおかしい。
「無用心だな」
無量小路は開いた隙間《すきま》から奥に向かって声をかけた。だが依然として応答も、人が動く気配もない。
「老人だから死んじゃってるんじゃないですか」
「ドアに鍵もかけずにね」
とは言ったものの、鍵をはずした後、死ぬことも考えられる。
ともかく老人の独り暮らしの家で、気配がまったく絶えているのを見過ごしにはできない。
「ちょっと様子を見よう」
「いいんですか」
ここへ来て白沢は及び腰になった。枯木のような老人から、ミイラのようになって死んでいるこなの遺体を想像したのであろう。
「この際|止《や》むを得ないだろう」
二人は玄関からそろりと中へ入った。上がり口《ぐち》から薄暗い廊下へとつづく。雨戸は閉まったままである。無住《むじゆう》のようなカビくさい臭いが籠《こも》っている。
「井原さん」
上がり口でさらに声をかけた。二人は顔を見合わせて廊下を進んだ。玄関に近い部屋の障子が開いている。その部屋から電灯の明かりが廊下へ漏れている。
朝になっても雨戸を開けずに電灯をつけっぱなしにしている。明らかになにか異変が起きている気配である。
部屋の中を覗《のぞ》くのに少し勇気を要する。二人は呼吸を合わせておもいきって障子の間から中を覗いた。出かけた悲鳴を押えたのは、ある程度異変の心構えができていたからである。
ペット捜索業者から、独り暮らしの老女が変死しているという通報が110番経由で牛込《うしごめ》署に入ったのは、二月十四日午前十時ごろである。
現場は新宿区住吉町の低地にある一軒家である。ここは以前の地名を「谷町」といったが、その暗いイメージを嫌って住み吉の好字を当てたものである。
たしかに旧地名通りに隣接の町から通ずる道はすべて下り坂である。同地域は大部分が小住宅街であり、迷路のように屈折した路地に住宅が密集している。それらの中にこな婆の家はいかにも昔から住みついている先住権≠主張するかのようにかなりのスペースを占領している。
井原こなは玄関に近い八畳の和室で首を締められて死んでいた。のどに手で締めた痕《あと》、扼痕《やくこん》が残り、明らかに他為《たい》死である。
右手で締めたとみえ、首の右側に拇指《おやゆび》、左側に中指の痕が認められる。その作用の痕から犯人はかなり大きな手の持ち主と推測された。口と鼻から血液を混じえた泡を排出している。
被害者は寝巻きを腰ひもで締めているが、胸ははだけ、裾《すそ》は開いている。寝巻きの下はネルのパッチを穿《は》いている。死体に乱暴した形跡はない。
死体は寝床から廊下の方へ二メートルほど離れた畳の上に寝床の方に頭を向けた形で仰向けに倒れていた。
八畳中央に天井から吊《つる》された百ワットの電灯は点灯されている。テレビは消えている。
室内には明らかに物色された痕跡《こんせき》があった。寝床|枕元《まくらもと》にあった手文庫の中には都市銀行四行の残高合計約三百八十万円の普通預金通帳が残されていた。現金は入っていない。
また室内の整理|箪笥《だんす》の中には指環、数珠、鍵《かぎ》などが残されていた。現金は食卓の上にあった小銭入れ(三千二百円在中)以外はまったく残されていない。
廊下の奥のトイレの窓がこじ開けられており、犯人はここから侵入した模様である。検視による死亡推定時刻は午前零時から二時間とされた。現場と死体の状況から、犯人は侵入後屋内を物色中、物音に起き出して来た被害者に誰何《すいか》されて、これを殺害、現金のみを奪って逃走したとみられた。
犯人は三、四人の複数、現場に|鑑=sかんつながり》があり、被害者を独り暮らしと知っての犯行と推定された。十五日牛込署に捜査本部が開設された。
はしなくも殺人事件の発見者となってしまった無量小路と白沢は、警察から質問の集中砲火を浴びせられた。警察は二人を犯人と疑っているかのように根掘り葉掘り詮索《せんさく》した。
発見者をまず疑えというのが捜査の常道であるという話をおもい出した。事実、犯人が発見者を装って届け出る場合もある。
警察の疑いの源には、二人がこなの家を訪問した理由にある。同家に居ついたペットの返還を説得するためという理由に見合うペットが同家にいないのである。
「そのミチルとかいうチンチラ猫はどこにいるのかね。猫どころか、虫一匹いないじゃないか」
取調べに当たった捜査員は、疑いの色を濃く塗った目を向けた。幸いに同署に顔|馴染《なじ》みの刑事がいたので救われた。
猫は夜行性のため、夜の捜索が多くなる。網にカメラ、双眼鏡、懐中電灯、口輪、マタタビなどの七つ道具をかかえて視点を低く据えながら夜の街を徘徊《はいかい》するペット捜索業者は、まさに「胡乱《うろん》な人間」として警官の職務質問の好個の対象である。刑事の張込みと鉢合わせをすることもある。そんないきさつから刑事と顔馴染みになったのである。
「それにしても猫はどこへ行っちまったんだろうね」
その刑事、牛込署の牛腸《ごちよう》は、無量小路の顔色を探った。「牛込《モー》署の牛《モー》さん」で知られるベテラン刑事である。
「やだなあ、モーさんまで疑ってるんですか」
無量小路は腐った。
「おれは疑っていないよ。ただ猫がいないと、疑われても仕方がないよ」
「もともと迷い込んだ家です。その家の主が殺されたので、また出て行っちゃったんでしょう」
「だったら本来の飼い主の許《もと》へ帰ったか、近所をうろついているはずだろうが」
「それがどちらにも見当たらないので、不思議におもってるんです」
「そんなことってあるのかね」
「そんなに遠方に行くはずはないのです。猫のなわばりなんて半径二百メートル、猟場《ハンテイングエリア》を加えて精々三十ヘクタールから五十ヘクタールの範囲です。いる場所も人家の床下とか、木の上や屋根などときまっています。人のいない野原なんかにいることはありません」
「それなら見つかってもいいはずじゃないか」
「ちょっとおもいついたことがあるんですが」
「なんだね」
「犯人が連れ去った可能性は考えられないでしょうか」
「犯人がなぜ猫なんか連れ去るんだね」
「その猫は盗まれてもおかしくない高価な猫なんです」
「通帳や指環なんかに手をつけずに残していったんだよ。いくら猫が高価でも手数もかかるし、足のつきやすい動物を連れて行くはずがないだろう」
「猫が従《つ》いて行ったとしたら……」
牛腸があんぐりと口を開いた。
「ミチルは人なつこい性格でした。犯人一味に従いて行った可能性は十分ありますよ」
「強盗殺人を行なった犯人が、被害者の家の猫なんか連れて行くものかな。それこそ足がつくもとだ。従いて来ても追いはらったはずだ」
「従いて来たのに気がつかなかったとしたらどうです」
「なんだと」
「猫が犯人が気づかぬ間に犯人一味の車に潜り込んでいたとしたら、犯人が気がつかなかったとしても不思議はないでしょう。だいぶ行ってから猫に気がついた。そこで車から放り出したとしても、猫のテリトリーから遠く離れている」
「なるほどね」
牛腸もようやく無量小路説に興味をもったようである。
「しかしそうなったらますます猫は探し難くなるなあ」
牛腸の言葉に同情の響きが加わった。
「犯人はそんなに遠方にはいないような気がします」
「どうしてかね」
「殺された婆さんが独りで住んでいて、かなりの金を貯《た》め込んでいるという情報は近くにいないと得られないでしょう。少なくとも一味の一人は、被害者の身近にいるような気がします」
「あんた、刑事になれるよ。我々も犯人は鑑があるとにらんで捜査の網を広げているんだ」
「ミチルのいる所に犯人が潜んでいるんじゃないでしょうか」
「猫が見つかったらおしえてくれよ」
「もうこれ以上我々を疑わないでください」
「疑ってなんかおらんよ」
だがミチルの行方は杳《よう》として知れなかった。捜索は一日、三日、五日、七日単位で引き受ける。七日かかっても発見できない場合は、テリトリー外へ行ったか、死んだかしたものとして捜索を打ち切る。
捜索が未発見に終った場合は、以後の情報を飼い主に無料で提供し、情報の確認調査を三件まで無料サービスする。また捜査開始後契約日数半ばで発見されたときは半額を返金する。
捜索には捜査員一名が当たって、一日六時間実働する。六時間ペットの行方を追って街中を探しまわるのはかなりきつい仕事である。夏、冬、悪天候のときなどは泣きたいおもいであるが、苛酷《かこく》な状況のときほど、一刻も早く発見して保護する必要がある。
今回のケースは、ようやく発見したペットが引き渡しを拒まれている間、居ついた家に強殺犯人が押し入り、家の主を殺害、ペットを連れ去った(未確認)というきわめて特異なものである。
それだけになんとしても発見したい。下手をするとミチルは犯人に殺される惧《おそ》れがある。老婆を虫けらのように殺した犯人であるから、猫一匹殺すのになんのためらいもおぼえないだろう。
ミチルは犯行現場を目撃している。犯人の顔を見ている。犯人にとってはかなり無気味なプレッシャーをあたえるかもしれない。
だが、隣接区の保健所や清掃課に問い合わせても該当するような動物死体は発見されていない。動物管理センターにも保護されていなかった。
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不発の蒸発
弟の克司は「一発でかいことをやってやる」と言い残して家を出たまま帰って来なかった。これまでにも帰らないことがあった。それでも二、三日、長くても五、六日するとどこからかひょっこり帰って来る。たいてい疲れて腹を空かせていた。
由季がつくった食べ物を貪《むさぼ》るように食べ、数日眠りこけて元気を取り戻すと、再び大言壮語を繰り返す。
今度もその伝かとおもって待っていたが、一週間過ぎ、十日|経《た》っても帰って来ない。なんの連絡も入らない。そんなことはいままで一度もなかった。
由季は心配であった。身体《からだ》こそ発達しているが、まだ精神は子供である。なにか困ったことがあれば、必ず姉に泣きついてくる。これまでにも交通事故やけんかで警察から呼び出しを受けた。三歳のちがいだが、由季が母親代わりになっている。
交通事故や病気で行き倒れになって連絡したくてもできない状態になっているのではないだろうか。それにしても身許《みもと》ぐらいわかりそうなものである。
それともだれにも知られず死んでしまったのか。不安は脹《ふく》れ上がり、想像は悪い方向へばかりうながされる。
とうとう居ても立ってもいられなくなって警察に問い合わせたが、該当するような事故も死体も現われていない。
「カッちゃん、いったいどこへ行っちゃったのよ。お姉さんにこんなに心配させてひどいじゃないの」
由季は、独りの部屋で問いかけたが、だれも答えてくれない。ついに半月経過した。これはもう絶対に弟の身になにか変事が起きたとしか考えられない。
姉弟でありながら弟の生活についてはなに一つわかっていない。交遊関係も仕事の関係も知らない。保護者≠スる姉として無責任のようであるが、聞いてもおしえてくれないのである。
ただよからぬ連中とつき合っていた気配はわかった。消息を絶っても立ちまわりそうな先は全然わからない。
黙って郷里に帰るはずはないし、すでに生家は冷たい長兄の代に入っていて他人以上に遠い。念のために問い合わせてみたが、案の定帰っていない。親戚《しんせき》にも行っていない。
それ以上探す場所がなくなってから、由季は警察に捜索願いを出した。最近は行方不明者の中で人知れず殺されて死体を海山に捨てられたり埋められたりしている死体|隠蔽《いんぺい》殺人事件が増えているのか、警察も行方不明者の捜索には力を入れている。
だが克司の場合、手がかりが皆無に等しいので、捜索は難しい。
警察に届け出た後、由季は独力で弟の行方を探そうと決心した。彼は最後に「いま狙《ねら》っている大仕事がある」と言っていた。「これが当たれば一生左うちわ」などと大言していた。
どうせまともなこととはおもえないので、警察には黙秘していたが、彼の行方不明に、その大仕事が関係あるような気がした。
一生左うちわの大仕事が一人でできるはずがない。必ず仲間がいるはずだ。その仲間はどこにいるのか。
克司は一時、新宿の深夜喫茶に入りびたっていた。
その深夜喫茶店へ行けば、弟を知っている人間がいるかもしれない。喫茶店の従業員などから克司がつき合っていた仲間がわかるかもしれない。だがその店の名前はわからない。
警察へ届け出て帰って来ると、克司|宛《あて》に一本の電話がかかってきた。
「カツシはいるかい」
と弟と親しげな声がいきなり尋ねた。弟にめったに電話はかかってこない。
「いま克司は留守ですけど、あなたは」
由季は、弟の友人らしい相手を必死に引き留めるように言った。
「本当に、いないのか。居留守を使ってるんじゃないだろうな」
相手は疑いを盛った声で言った。
「本当です。弟はずーっと帰って来ていないのです。いま警察に捜索願いを出して来たところです。あなたは弟のお友達ですか。克司の行先を知っていたらおしえてくれませんか」
「捜索願いを出したって、本当かい。あんた本当にカツシの姉さんかい」
捜索願いという言葉に相手も驚いたらしい。
「姉の由季です。弟がよく行く場所などをご存じでしたらおしえてください」
「前に姉貴と一緒に住んでいると聞いたことがあったけど、本当だったんだな」
「あなたは克司のお友達ですか」
「中尾っていうんだ。以前に同じ店でバイトしたことがある」
「克司にどんなご用事ですか」
「車を貸したんだよ。ポンコツのカローラだけど、一晩でいいからと言って借り出して行ったのに、まだ返しに来ない。事故でも起こしたんじゃないかと心配になって電話してみたんです」
言葉遣いが少し改まってきた。どうやらそんなに悪い友達ではなさそうである。
「弟が車を借りたのですか」
「女の子と箱根方面へドライヴに行くと言ってね」
「それいつのことですか」
「二月十三日の夜です。ポンコツだから箱根は無理だととめたんだけど、メカに強いのがいるからと強引に乗って行っちゃったんです。事故でも起こさなければいいがと心配していると、それっきりなので、あっちこっち問い合わせてようやくそこがわかったんですよ」
「あら、克司から番号聞いたんじゃなかったんですか」
「カツシが、いえ克司君が以前よく行っていた店のマスターから聞きました」
「その店はどこですか」
「新宿|歌舞伎町《かぶきちよう》のミニュイという深夜スナックです」
「新宿歌舞伎町のミニュイね」
「本当に克司君は帰って来ていないのですか」
「あなたから車を借りた日からずっと帰って来ていないのです」
「やはりなにかあったんだ。車なんかどうせスクラップだからいいんですけど、克司君の身が心配です」
「中尾さんっておっしゃったわね。弟がどんな人とつき合っていたかご存じじゃありませんか」
「彼とは気が合って、店を辞めてからも時々会っていたんだけど、なんだかいやな感じのグループとつき合っていたようでした。それとなく注意をしたんですが、心配するなよと笑っていたので、それ以上は口を出しませんでしたがね。ミニュイのマスターなら知ってるかもしれないな」
「あなたから車を借りるとき、なにか仕事をするようなことは言いませんでしたか」
「いいえ全然。ベンベかアウディのつもりで女の子とドライヴに行くと言っていました」
「ガールフレンドの心当たりはありません?」
「時々、街で引っかけていたようだけど、特定につき合っていた子は知りません。最近は克司君の方から時々電話がかかってくるだけで、あまり会っていなかったんです」
「車のことは申しわけありません。でも車を乗り捨ててあったら、見つかるんじゃないでしょうか」
「凄《すご》いポンコツですからね。山の中や河原にでも乗り捨てたら粗大ゴミだとおもわれるでしょう。ナンバープレートをはずしたら完全にゴミですよ」
「いくら弟がずぼらでも人から借りた車を乗り捨てるはずがないわ」
「そうおもったので心配してるんです。かなりいいかげんなところもありましたけど、友達との約束は守りました」
「悪いけど、車はもう少し待ってください。私なりに弟の行方を探してみます」
「車は心配しないでください。ぼくも克司君の行方が心配なんです。さしつかえなかったらお手伝いしますよ」
「有難う。心強いわ」
女の一人身に、男の援軍は大いに心強い。
中尾の電話の後、由季は思案した。車をドライヴ用に借りたのでないことは確かである。すると克司が言っていた「大仕事」用に借り出したのか。銀行強盗や現金輸送車を襲うにしても、車が必要である。だがそんな犯罪を企《たくら》めばニュースになるはずである。
由季は克司が消息を絶った後の新聞を調べてみた。毎日、殺人事件や交通事故が報じられている。めぼしい事件としては、大阪で精神に異常をきたした男が民家に主婦を人質にして立てこもったが、間もなく逮捕されたのがある。
だが、それは明らかに別人である。静岡で火事で逃げ遅れて一家が焼死している。警察の調べで放火の疑いが出て来たが、克司につながりそうもない。
都内では二月十四日未明新宿区で独り暮らしの金貸しの老女が強盗に殺されて現金を奪われている。警察の調べで犯人は三、四人、現場と被害者に鑑があるとみられている。――と報道されている。
老女の住居は、由季の住居からそれほど離れていない。老女は金を貸していたというから、克司が遊ぶ金に詰まって借りに行ったかもしれない。彼には警察の言う「鑑」があった可能性がある。
複数犯人、三、四人というのもカローラの乗員人数に符合する。
「もしかして……」
由季の胸に疑惑の雲が脹《ふく》れ上がっている。
克司を老女の強盗犯人と仮定して、なぜ消息を絶ってしまったのか。最も考えられるのは、犯行後、分け前をめぐって一味の間に争いが生じて殺されたケースである。
人知れず殺されて人里離れた山中に埋められるか、海に沈められれば、死体は出て来ない。車ごと海か湖に沈めてしまえば一挙に始末できる。
不吉な想像は膨張するばかりであった。
翌日、出勤前に由季は中尾と待ち合わせてミニュイへ行くことにした。中尾は現在宅配便の運転手をしているとかで、夕方からフリーになるということだった。
中尾は表情が明るい感じのよい若者であった。ジャンパー、ジーンズ、スニーカーのラフなスタイルがよく似合う。身体《からだ》はいかにも労働で鍛え上げたようにがっしりと引き締まり、浅黒い皮膚には太陽の光がたっぷりと沁《し》み込んでいるようである。
克司にもこんな健全なイメージの友人がいたのかと、由季は内心意外なおもいがした。電話の第一印象が悪かったのは、中尾がカローラを返しに来ない克司に怒っていたせいかもしれない。
二人はすぐにたがいを見分けた。
「すみません、大切なお車を借りっぱなしで」
由季はまず謝った。
「いいんです、あんなポンコツは。それより克司君の身が心配です」
初対面の挨拶《あいさつ》から克司の行方を案じた。
ミニュイは歌舞伎町の裏通りにある終夜営業のスナックである。まだ時間帯が早いせいか客の影も疎《まば》らでその本領を発揮していない。
カウンターにいた鼻ひげをたくわえた小柄な男がマスターである。入って行った二人の方にチラリと一瞥《いちべつ》をくれただけでべつに声もかけない。
「こちらは宮下克司君の姉さんだけど、彼のことでちょっと聞きたいことがあるそうです」
中尾が由季を紹介すると、初めて興味をもった目を彼女に向けた。
「どんなことでしょう。一時期よく来ていたようだったけど、あまり話をしたことはないのでよく知らないんですが」
マスターの目に警戒の色が浮かんでいる。
その目が克司が札つきであったことを暗に語っているようである。
「実は弟が二月十三日の夜に家を出たまま帰って来ないのです。警察に捜索願いを出したんですけど、もしかしてこちらでなにか弟の行方についてお心当たりでもないかとおもいまして」
「そう言われましてもねえ、お客さんの行先を一々聞いていないもんで」
マスターは明らかに逃げ腰である。きっと警察関係からマークされるような人間が入り浸っているので、極力関わり合いになるのを避けようとしているのであろう。
「どんなことでも結構です。お宅のご迷惑になるようなことはいたしませんから」
「そう言われましてもねえ」
マスターの表情が困惑した。
「克司君と一緒に店に来た連中がいたらおしえてくれませんか」
中尾がたすけ舟を出した。
「何人かいたようですけど、名前は知らないなあ」
「いかがでしょう。克司とよく来た人たちで同じ時期に姿を見せなくなった人はいませんか」
由季は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。
「そういえば……」
マスターの表情に反応が浮かんだ。
「お心当たりがおありですか」
由季はすがりつくように彼の表情を探った。
「克司さんのグループだったかどうかわからないのですが、同じ時期からぱったり姿を現わさなくなった人がいます」
「だれですか」
「諸橋という人です。なんでもある会社のノラキンということでした」
「ノラキン」
「自由勤務で、毎日街でのらくらしながら、ファッションや風俗を観察して会社に報告するんだそうです」
「へーっ、そんな仕事があるのか。羨《うらや》ましいな」
中尾がびっくりした表情をした。
「その諸橋さんという人の住所か連絡先はわからないでしょうか」
「聞いてません」
「会社の名前は」
「それも聞いてないんです」
マスターの口調が気の毒そうになった。せっかくつかみかけた一本の糸がまたプツリと切れた。
鶴間光子はかんかんになった。
「いったん発見していながらまたいなくなったとはどういうことなのよ。それでもプロなの。この責任はどう取るのよ」
なんと言われても迷い込んだ家の主が引き渡しを拒んでいる間に殺され、ペットが再び行方不明になってしまったのであるから、どうしようもない。相手が引き渡しを拒否しているものを無理に奪い返せないと抗弁しても鶴間光子には通じない。
「こうなったら長期戦の構えで探す以外にないな」
無量小路は覚悟を決めた。無量小路は猫が強盗犯人と一緒に行ったとにらんでいる。したがって強盗犯人が捕《つか》まれば、そこにいるか、少なくともなんらかの手がかりが得られるだろう。
牛腸刑事は被害者に鑑があるとおもわれるので、逮捕は時間の問題だと言っていた。
だが犯行後一週間しても、捜査にはべつに進展はなさそうである。事件発生後二十日間を「第一期」と呼んで、それを過ぎても捜査が膠着《こうちやく》していると、長引くという。
ペットの捜索は最長一週間である。これを過ぎても見つからないときは、テリトリーから外へ出たとみなして捜索を打ち切る。
だがこの捜索対象は、無量小路の推理が当たっていれば、警察が捜してくれることになる。そこに一縷《いちる》の希望が残されている。
これまでの例では、高田馬場《たかだのばば》で行方不明になったシベリアンハスキーが一か月後荒川堤防で発見保護されたことがある。これはなんと恋人≠ニ駆け落ちしたのである。このような純血種の場合は純潔のまま飼い主の許へ返すのが望ましいが、飼い主の願いも虚《むな》しく、帰って来たときは、妊娠していた。
ペットの捜索と合わせて電柱貼り《ウオンテド》ポスターを作製して電柱に貼《は》る。ウォンテドには、動物の写真、愛称、性別、種類、年齢、失踪《しつそう》場所、身体の特徴、くせ、連絡先、薄謝進呈などを記載する。一日捜査の場合が三十枚、三日九十五枚、五日百五十枚、七日二百枚を電貼りする。
動物の好きな人の注目率が高く、意外に効果が高い。違法の電貼りだが、動物好きの人間の大目≠ノよって発見されるのが面白いところである。
目出たく発見されたときあるいは捜索期間を過ぎても発見できないときは、速やかに撤去する。このウォンテドの作製、貼付《てんぷ》、除去も捜索費の中に含まれている。
発見されたときはよいが、未発見のまま撤去するときは虚しい。敗北感に打ちのめされて黙々と剥《は》がしていく。貼った数だけ剥がさなければならないのだが、たいてい一割くらいは行方不明になっている。
これはすでにだれかに破り捨てられたり、風雨によって自然に剥げ落ちたり、あるいは新たな電貼りによって重ね貼りをされたりしているせいである。
新たな電貼りは、愛人募集広告やピンキャバホステス募集の違法広告が多い。これらは違法承知であるからペット捜索のウォンテドなどと大目に見ず、容赦なくスペースを侵略する。
ミチルのウォンテドも数枚が行方不明になって回収され損なった。
無量小路は強盗によって連れ去られた(?)ミチルの行方が不安でならなかった。強盗が猫好きでミチルを可愛《かわい》がっていてくれればよいが、その可能性は薄い。最も幸運な確率に当たれば殺されずにノラになるケースであろう。どんなに氏《うじ》育ちがいい猫でも、いやそれだからこそ、ノラになったら悲惨である。
豪邸の奥でそれこそ乳母日傘《おんばひがさ》≠ナ育った身が、ノラになってはたして生きていけるか。動物管理センターや清掃課に照会をつづけているが該当する猫は現われない。
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危険な運命共同体
捜査本部は被害者に鑑のある者の犯行という見方で捜査を進めていた。犯人が被害者の手許《てもと》に大量の現金があるとみて押し入って来たことは、明らかである。被害金額がはっきりしていないが、残されていた預金通帳や、後に銀行ロッカーの中に発見された約四千万円相当の純金の地金、一キロ×二十、合計五千六百万円の定期預金証書や株券などから見て、手持ち現金は大した額ではなかったと推測される。
強盗は意外に少ない現金に腹立ちまぎれに被害者を殺害したとも考えられる。いずれにしても顔見知りの者の犯行の線で、まず被害者から金を借りている者、過去借りた者、知り合いなどをリストアップして、一人一人洗っていった。
だが被害者は、克明に債務者リストをつくっていた。それが手文庫の中に入っていたにもかかわらず、犯人は持ち去っていない。
犯人が債務者なら必ずリストを持ち去ったはずである。このことから犯人は債務者ではないのではないかという意見も出たが、債務者を無色の位置におくことはできない。
だが多少とも被害者とつながりのある者はすべて漂白された。
近辺の前歴者、暴力団関係者、不審者、季節労働者などをしらみつぶしに当たっていった。彼らの中から捜査線上に浮かび上がってきた者はいない。
残るのは流しの線である。だが流しが、独り暮らしの老女がこっそり金を貯《た》めているという情報をどこから得たのか。トイレの窓口から侵入したのも事前の下見を感じさせる。やはりある程度の偵察後の犯行と考えざるを得ないのである。
加害者は手袋をはめていたとみえて、現場から被害者以外の対照可能な指掌紋は採取されていない。
八方|塞《ふさ》がりになり、どうやら迷宮入りの様相が濃くなったとき、一件の捜索願いが捜査本部の一人の捜査員に引っかかってきた。警察内部の連絡は必ずしも円滑に行ってない。しかも、この事件にどんな情報が関連があるのかわからない。
「死体なき殺人事件」ならば捜索願いと|結び合《リンク》わせるが、年間都内だけで七千件もある蒸発者と一々つき合わせることはない。
その捜索願いに目をつけたのは牛腸《ごちよう》である。件《くだん》の失踪者《しつそうしや》が消息を絶ったのが、被害者が襲われた日と同一であったのが気になった。
失踪者の名前は宮下克司、間もなく二十歳になる若者である。いまはやりのフリーアルバイターで、二十二歳の姉と同居している。捜索願いも姉が届け出ている。
住居は新宿区大久保二丁目で隣接署管内になるが、被害者住居とそれほど距離はない。
はたしてこの失踪者が事件と関連があるかどうかわからないが、同じ日というのがどうも気になる。
牛腸は捜査会議に出す前に、一人で少しこの失踪人の身辺を詮索《せんさく》してみることにした。
出会い頭の事件であった。彼我どちらもそんなことになるとは予測もしていなかった。彼らが出会ったのも偶然であれば、成行き上そうなったのも偶発である。
「やらなければやられるとおもったんだ」
ともかく現場から逃げ出して来た矢桐は、全身を小きざみに震わせながら言った。相手は凶暴なチンピラ体《てい》の三人だった。温室育ちのお坊っちゃまでは、彼らの一人にすらも対抗できそうになかった。
「そんなことわかっているわよ。あなたは私を守るために戦ってくださったんだわ」
宝井|洋美《ひろみ》は、事実感激していた。デートガールとして肉体の切り売りをしていた彼女を身をもって守ってくれた男は、これまでいない。
矢桐にしてみれば、自衛本能から相手を刺してしまったのだが、洋美には矢桐が彼女を守るために武器をとって戦ったように見える。矢桐が戦ってくれなければ、彼女は三人の餓《う》えた獣の餌食《えじき》にされていたにちがいない。
矢桐の手は、相手の血で汚れていた。衣服にも返り血が飛んでいる。運転席のフロアには凶器となった登山ナイフが落ちていた。
「まずナイフを捨てたほうがいいわよ」
危険が去ると女のほうが落ち着いている。空地の草むらのそばに車を停《と》めさせると、洋美が車から下りてナイフを捨てに行った。
「大丈夫よ。深く埋めてきたから」
洋美は矢桐を安心させるようにささやいた。
「あいつら、どうしただろう」
矢桐はようやく自分が刺した相手の身を考える余裕が生じた。
「どうもしないわよ。きっと手当てしてるわよ」
「医者から届けが出されるだろうな」
「医者へ行けばね」
「医者へ行かないと言うのかい」
「向うがからんで来たんだから正当防衛だわよ。女に乱暴しようとして刺されたなんて、医者に言えないでしょ。それにいまの連中、ヤクザみたいだったわよ。ヤクザならきっとおかかえの医者に頼んで届け出ないとおもうわ」
「もし仮に……届け出る必要のない状態に陥《おちい》ったとしたらどうなるだろう」
「どういうこと?」
「つまり、そのう……死んじゃった場合だよ」
「死なないとおもうけど、死んだとしても正当防衛だわ。私が証言してあげるわよ。正当防衛は証人がいる場合有利になるって聞いたことがあるわ」
洋美はいま矢桐に対して絶対的に強い立場にいる自分を悟った。この立場をうまく利用すれば玉の輿《こし》も夢ではないとソロバンを弾《はじ》き始めている。
「ああ、おれはとんでもないことをしてしまった」
生まれて初めて人を刺した矢桐は動転している。
「大丈夫、心配しないで。だれもあの場にはいなかったわ。あいつらも咄嗟《とつさ》のことで、車のナンバーを確認する余裕なんかなかったはずよ。私たちだって、やつらの車のナンバー見てないでしょ」
そういわれて相手が中古のカローラに乗っていたというだけで、その色もナンバーもまったく憶《おぼ》えていないのに気づいた。刺した相手の顔すら顎《あご》の尖《とが》った細面くらいしか記憶に残っていない。もう一度出会っても見分けられないだろう。
「今夜このまま帰るのは危険よ。私の家に寄って血を洗い落として、ゆっくり寝《やす》んでから帰るといいわよ」
矢桐はすでに洋美の言いなりになっている。
「大丈夫。なにも心配することはないわよ。私があなたを守ってあげる。私たち今夜出会ったばかりだけれど、もう運命共同体≠セわよ」
洋美の言葉を矢桐はまったく無抵抗に受け入れている。
「これから先は、私が運転するわ。あなたは休んでらして」
洋美はニンマリ笑うと、ハンドルを代わった。
その夜、洋美の部屋に泊まった矢桐は、狂ったように洋美を求めた。彼女の中に埋没することによって不安をまぎらそうとしているようである。
洋美も烈《はげ》しく応じた。求め合うと言うよりはたがいに貪《むさぼ》り合い、奪い合った。和合の中でしっくりと交わっているのではなく、むしろ男と女の格闘技のような荒々しい結合において、一蓮托生《いちれんたくしよう》のパートナーを確かめ合っている。
洋美にとっては、大獲物を咥《くわ》え込んだ確認の儀式にちがいなかった。男が彼女の肉体の中に深く埋没すればするほど、しっかりとその頤《おとがい》に咥え込まれていくのである。
「私たち、もう離れられないわよ」
洋美は獲物の耳に麻薬を射《う》つようにささやきつづけた。
息をひそめるようにしていた数日が経過したが、それらしき事件はまったく報道されなかった。
「ほら、やっぱり私の言った通りでしょ。きっと内緒に手当てしたのよ」
洋美に言われて、矢桐はようやく安堵《あんど》したようである。だがまだ不安の色を完全に打ち消せない。彼は刺したときの深い手応《てごた》えを憶《おぼ》えているのである。左胸の急所あたりに深く突き立った。刺した一瞬相手は膝《ひざ》が崩れて片手を地に突いて上体を支えた。一方の手で押えた胸の傷口からポタポタと血が滴り落ちていた。それからよろよろと自分の車の方に歩いて行って中に転がり込んだ。それから後のことは知らない。
刺した瞬間の手に残った感触は決してかすり傷ではない。あれは生命に関わるかもしれない深刻な傷であろう。あの夜以来矢桐は、血まみれになったあの男に追いかけられる悪夢に魘《うな》された。そんなとき洋美の躰《からだ》に埋もれると、束《つか》の間の安心が得られた。
洋美は運命共同体と言ったが、少なくとも共犯者の安心感が彼女にはあった。共犯者の気易さだけに眩《くら》まされて、その危険性を忘れていたのである。
諸橋は首を傾《かし》げた。「エイリアンズ」で矢桐とX子(諸橋は宝井洋美の名を知らない)の二人にまた出会ったときである。前回矢桐と彼女が初めて出会ったとき、かなりいい雰囲気であった。チークタイムの後、意気投合したらしく連れ立って店から出て行った。その後どうなったか、想像に難くない。
だが想像が及ばないのは、その後の二人の様子である。
「よっぽどよかったんだろうな」
「若様がまるで召使いになっちゃったじゃないか」
「召使いどころか、奴隷《どれい》だよ」
「それにしてもあの女は何者だよ」
「突然現われて若様を奴隷にしちゃうんだから凄腕《すごうで》だな」
「なかなか様子は美《い》いけど、あのクラスなら若様の周囲にいくらでもいるよ」
「だからよっぽどいいんだろう」
「つまりあそこの合い性がいいってわけだ」
若様の取り巻きは下卑《げび》た推測を下した。彼らが不思議がるのも無理はない。あの夜以後、矢桐があたかも女王に仕える奴隷のようにその女に侍っている。彼女の正体は不明であるが、よほど強烈な魅力があるらしい。世界は自分を中心に回っているかのように態度が大きかった矢桐が、彼女の顔色を常にうかがい忠実な犬のようにつき従っている。諸橋の目には奴隷以下に見えた。
諸橋には矢桐がX子の魅力にまいったと言うより、恐れているように見えるのである。X子の一|顰《ぴん》一笑に気を遣い、おどおどいじいじしている。
あの尊大な若様がX子のためにドアを開けてやり、小さな身のまわりの品まで持ってやり、なにをするにしても一々彼女の指示を仰ぐ。
彼女がトイレへ行っている間、彼女のバッグをかかえて入口に侍立《じりつ》して待っている若様の姿を見て、諸橋はおかしいなとおもった。
これは「合い性」とか、愛の限界を越えている。愛していたなら、女性は男に決してそんな屈辱的な立ち番はさせない。
少なくともあの夜、チークタイムの後店から出て行くまでは、矢桐が主導権を握っていた。
店から出た後、二人の間に、位置を逆転させるような「なにか」が起きたのにちがいない。
「洋《ひろし》、パパの部屋へちょっといらっしゃい」
その夜帰って来ると、母が言った。矢桐は肩をすくめた。世界の中心にいる彼も父親だけは苦手である。今夜、父が帰って来るとはおもわなかった。
恐る恐る父の部屋へ行くと、父は酒を飲んでいた。
「よう洋か、遅かったじゃないか」
父は言った。これでも今夜は早いほうなのである。
「すみません。サークルのコンパがあったものですから」
洋は、殊勝に言いわけをした。
「まあいい。若いときは二度とない。精々楽しくやることだ」
父の顔色はそれほど機嫌が悪くないことを示している。
「ところで、財津家のお嬢さんとの縁談の件だが、両人の卒業と同時に挙式したいという先方の意向に異存はないだろうな」
父は念を押すように言った。財津家の次女|聡美《さとみ》と矢桐洋の間に現在縁談が進行中である。元経団連会長の口ききで一か月ほど前に見合いをして両人共乗気になった。財津家は日本財界の名門であり、一族から多数の財界要人を輩出している。当主は財津商事の社長である。
この縁談が成立すれば、隴岡《うねおか》の政治的|版図《はんと》も一挙に広がる。財津家にとっても有力な政治家の後ろ楯《だて》を得ることになる。どちらにとってもメリットの大きい政略商略の結婚である。
財津家の令嬢が楚々《そそ》たる深窓の佳人であり、面食いの矢桐は一目で気に入ってしまった。先方も、一見スマートな矢桐に乗気になった。矢桐は脇腹《わきばら》ではあっても、隴岡の後継者になることが定まっている。
政権に野心を抱いている隴岡は、自分のカサの下に息子を押し立て、せっかく築き上げた地盤、看板を引き継がせたいと考えている。
「世界、国家、国民のための政治」を標榜《ひようぼう》していても、意識は政治を私物化している金日成‐金正日ライン並みなのである。
「もちろん異存はありません」
「本人の気持が大切だからな。聡美さんもすっかりその気になっておるそうだ。待ち遠しいことだ」
「はい」
「これは手放しだな。ところで、言うまでもないことだが、それまでに身辺はきれいにしておくんだな」
父親にじろりと顔を覗《のぞ》き込まれて、矢桐はたじたじとなった。
「若いから、女とつき合うなとは言わん。だが挙式前は身辺をきれいにしておくんだね。現在つき合っている女がいたら全部整理するんだ。ややこしいことを言う者がいたら金をつかませろ。女はたいてい金で解決《カタ》がつく。金で解決がつかないような女とはつき合ってはならん。それは前から言ってあるはずだ」
「わかっております」
「それならよい。相手は財津家だ。おまえも当分自重することだな」
父親から顔を覗き込まれて、矢桐はすべてを悟られているような気がした。
ようやく父親から解放された矢桐は、全身冷汗にまみれていた。矢桐にとって父は常に権威と不敗の象徴であった。幼いころから父は力強く、絶対に屈することを知らなかった。その父を継ぐ。それは矢桐の夢であった。
父の勧める結婚は、その夢に一歩近づくものである。
だが、宝井洋美がその前に大きく立ちはだかっている。彼女は一蓮托生《いちれんたくしよう》の運命共同体である。父が言うように金でカタがつく女ではなかった。
もし彼女を無理に切り捨てようとすれば、過日の刃傷沙汰《にんじようざた》を公《おおやけ》にされる。正当防衛を主張するとしても素姓も知れぬ女と深夜ドライヴ中、チンピラと事を構えて刃傷沙汰を起こしたとあっては、時が時だけにいかにもまずい。
よいカモとばかり、マスコミに寄ってたかって袋|叩《だた》きにされるのが目に見えるようである。縁談は破談になるかもしれない。
財津聡美の楚々《そそ》たる容姿と臈《ろう》たけたおもかげが瞼《まぶた》に浮かんだ。政略結婚でなくても、彼女を忘れられなくなっている。
それを一夜の遊び心をおこしたばかりに、壊しかけている。あの夜、洋美に引っかかりさえしなければ、こんな破目に陥らなかったのにと、悔やんでも後の祭りである。
ともかくどんなことをしても挙式までに洋美を整理しなければならない。
そうだ、そんなに彼女を恐れることはないのだ。あれから二か月が経過するのに、自分が刺した被害者の音沙汰《おとさた》もない。自分の手応《てごた》えは錯覚であり、かすり傷だったのだ。
きっとおれはかげに怯《おび》えているにちがいない。乱暴しようとしたチンピラをナイフでかすり、守ってやった女から運命共同体などとしがみつかれている。考えてみれば、こんなアホな役割はない。
チンピラがかすり傷なら、なにも洋美などに怯えている必要はまったくないのだ。矢桐よ、どうしたというのだ。これまでの若様ぶりはどこへ行ったのだ。
明日にでも洋美には多少の手切れ金をあたえて整理しよう。
あんな氏素姓も定かではない女が、運命共同体とは笑わせるではないか。
矢桐が持ち前の強気を取り戻しかけたとき、一個の事件が発生した。
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途上の犯人
その老人は近所で「穴掘り爺《じい》さん」と呼ばれている。引退前は都内の有数デパートの辣腕《らつわん》企画部長だったそうであるが、停年退職後ボケて穴を掘るようになった。
近い将来に核戦争が発生するので核シェルターをつくるというのである。初めのうちは自宅の庭を掘り返していたが、次第にあちこちに遠征≠キるようになった。
他人の土地に勝手に穴を掘ってしまうので、家人が謝り歩いて、原状通りに埋めておくのであるが、家人の目の届かぬ間にふいに姿を消して、空地や山林を掘り返す。
乱開発の触手が伸びて来て、宅地や雛壇《ひなだん》が造成されているが、まだこのあたり老人一人が穴を掘る程度のスペースは残されている。
この日も老人はショベルをかつぎ家人の目を盗んで家を脱け出した。今日の目当ての土地はかねて目をつけていた雑木林である。
人家からはずれており、痴漢がよく出没する。夏にはカブトやクワガタも捕まえられる。
不動産屋に虫食いだらけにされたこの地域でも奇蹟《きせき》的に生き残った大規模な雑木林である。老人がまだこの林に手をつけなかったのは、家から少し離れていたせいである。
ちょうど季候も暖かくなってきたので、お目当ての土地に会心のシェルターをつくってやろうと出かけて来た。どうせつくるなら林の縁《ふち》でなくて真ん中につくりたい。
老人は「痴漢注意」の立札の出ている林の中の道に入って格好の敷地を物色した。
老人としては、痴漢に悪用されるようなシェルターはつくりたくない。この辺の心理はボケていない。
林の中央辺から道を逸《そ》れた。クヌギ、ナラを主体にした雑木林で、高木の下にツツジ、ネザサ類の低木、さらに地表にコケ、シダ、スゲなどの草がそれぞれのテリトリーを守って緑の生活型空間を構成している。
この程度の林の中でも世間の騒音から柔らかく切り離されている。気配が絶えて、空気はしっとりと冷たい。
道からかなり逸れた所で、老人は立ち停まって周囲を見まわした。新緑の林の中は瑞々《みずみず》しいエネルギーが内攻している。若葉が重なり合って林内は仄《ほの》暗い。樹冠が明るく、林床は薄暗い。樹葉を通して射《さ》しかける光の矢は、梢《こずえ》を駆け抜ける風に揺れる樹葉と共に天然のミラーボールになる。
老人は小首を傾《かし》げた。林床に不自然な個所を見つけたのである。その個所だけ下草が取り除けられて、新しい土が覗《のぞ》いている。ちょうどそこが掘り返された後、埋め直されたかのように見える。土が盛り上がっているのは、なにかを埋めた分の体積を示すようである。
老人は少し気分を害した。せっかく自分が目をつけていた土地を荒らされていたような気がしたのである。
老人はその個所にショベルを突き立てた。手応《てごた》えがほとんどない。やはり何者かがすでに掘った後である。老人は掘り進めた。
土はほとんど抵抗ない。効率よく掘り進んだショベルの先が突然柔らかい抵抗を受けた。老人は抵抗のあった所を中心になおも掘った。いまやそこになにかが埋めてあるのは明らかである。
老人のショベルの先で次第に埋蔵物≠ェ姿を現わしてきた。
四月十四日都下町田市に住むボケ老人が近くの山林の中から変死体を発見したという通報は、老人の家人から110番経由で所轄署へ伝えられた。
まず所轄署のパトカーが現場に一番乗りをした。現場は都下町田市域の山林である。クヌギ、ナラの雑木林であり、よく痴漢が出没する。数年前、虫取りに来た幼児が変質者にいたずらされたという事件が起きたために、子供や女性の一人歩きはしないように地元署が呼びかけていた地域である。
パトカーにつづいて所轄署の捜査員が駆けつけて来た。発見者によってその一部、頭部を露《あら》わしていた死体を、傷つけないように掘り出す。
死体は二十歳前後の若い男である。左胸部に鋭利な刃物による刺傷が認められた。他に、創傷は認められない。死体はタコツボのように掘られた穴の中に腰を下ろして膝《ひざ》をかかえ、頭を膝の間に押し込んだ形で埋められていた。頭の上部は地表から二十センチぐらいであった。必要最小限の穴の中に大急ぎで埋めたという観である。
埋めた後はみ出した土の始末もせず、新しい土を隠す工作もしなかったためにボケ老人に不審をもたれて、発見の端緒となった。
まず第一報が警視庁に入れられ、捜査一課が臨場して来た。検視によって、土中に埋められていた点を考慮して死後約二か月と推定された。
死体は厚手のゆったりしたジャケットと、踝《くるぶし》が見えるような細身の丈の短いズボンをまとい、ウォークシューズを履《は》いている。ズボンの裾《すそ》になにかの動物のものらしい白い細毛がまつわりついている。
ジャケットの下の薄いピンクのワイシャツに、「宮下」という洗濯《リネン》ネームが認められた。
犯人は、死体が発見されないという自信があったのか、それとも他の事情があったのか、特に身許《みもと》を隠すような工作は施していない。ポケットには三百六十円のバラ銭が入っているだけで所持品はない。他に所持金をもっていたとしても、犯人が奪い取っていったのであろう。
現場の土の上には発見者の足跡を除いて二人分の足跡が認められた。死体は検視の後、解剖に付されることになった。併せて死体の特徴が警察庁の全国犯罪情報管理システムのコンピューターに照会された。
照会の結果、意外な事実が判明した。すなわち、過ぐる二月十三日家を出たまま消息を絶ち、捜索願いを出されていた「宮下克司」十九歳、無職、新宿区大久保二‐十×平和荘と特徴がピタリと符合した。
早速捜索願いの届け出人である姉に連絡されて遺体の確認が要請された。
不吉な予感が的中した。弟は町田市の寂しい山林の中に埋められていた。しかも鋭利な刃物で胸を刺されて。検視とその後の解剖によって推定された死後経過時間も、克司が消息を絶った直後間もなく殺された状況を示している。
いずれはこんなことになるのではないかという予感が揺れていた。それが的中してしまったのである。
郷里の長兄に連絡すると、「忙しくて行けないのでそちらにすべて任せる」という返事である。弟が死んだというのに忙しいもあるまいと憤ったが、長兄にとってみれば、すでに克司は他人同然なのである。
父は死に、母は足が悪くて出て来られない。それに年老いた母を東京まで引っ張り出して、弟のみじめな死体に対面させるようなむごい役目をさせたくなかった。
由季は、解剖後引き渡された克司を一人で荼毘《だび》に付した。小さな骨壺《こつつぼ》に納まってしまった弟をいずれ郷里へ持ち帰り、葬ってやるつもりであった。
自室で営んだささやかな法事にアパートの同宿者が集まってくれた。都会の中に残された人間の小さなぬくもりである。それも死者のためではなく、ただ一人取り残された由季に対する同情からである。
克司の友人として中尾一人が通夜に顔を見せてくれた。
「すみません。車をお返ししないうちにこんなことになってしまって」
由季は半泣きの顔で言った。
「車なんかどうでもいいんです。それより、克司君と一緒に車が発見されなかったのが気になります」
「犯人があなたの車を運転して行ったのでしょうか」
「そうとしか考えられませんね」
「やっぱり克司と一緒にドライヴに行った人たちが克司を殺したと……」
「とりあえずそういうことになるでしょう」
「ドライヴ先でけんかになったのでしょうか」
由季は、克司が言っていた大仕事≠フために車を借り出したとみている。とすると、大仕事の後、その戦利金≠フ分け前でけんかになったのか。
克司が消息不明になったのと時期を同じくして発生したのは、新宿区の独り暮らし老婆殺しである。克司がこの事件に関わっているかどうか確かめられていない。警察は克司と老婆殺しを結びつけていないようである。
だが仮に二つの事件に関連があるとしても解《げ》せない点がある。それは老婆が奪われたのが、手許《てもと》の小金だけと報道されていることである。それは分け前をめぐって殺し合うにしては、少なすぎる金額である。
そんなはした金で老婆を殺害した一味であるから、その分け前をめぐって殺し合っても不思議はないとも言えるだろう。だが老婆がもっと金をもっていたと考えて襲ったのではないのか。
しかしこの程度ではとうてい「大仕事」とは言えない。一発屋の克司がそんなものを目当てに押し入るはずがないのである。
「まあけんかになったんでしょうけど、原因がわからない」
由季は、おもいきって自分の推測を中尾に話した。
「そういえばそんな事件がありましたね。それにしても克司君が婆さんをねえ」
中尾は由季の推理に驚いた様子である。
「私、どうも克司が強盗の仲間に殺されたとはおもえないの」
「じゃあだれに殺されたんですか」
「仲間以外の人間よ」
「仲間以外のだれですか」
「強盗をして逃げ出す途中、他のグループとけんかになったとしたらどうですか」
「他のグループってだれですか」
「それはわからないわ。とにかく逃げる途中でけんかになって克司だけが刺された。これが普通のけんかなら警察へ届けるか、医者へ連れて行って手当てさせたでしょう。でも強盗殺人を犯して逃げる途中なので、警察にも医者にも行けない。そのうちに克司は死んだ。あるいは即死だったかもしれないわ」
「そうか。それで死体の始末に困った仲間が克司君の死体を埋めたのか」
死体を埋めたのは克司と同時に「ミニュイ」に来なくなったノラキン社員か、克司の仲間か、あるいはけんかをした他のグループかまだわからない。
「そのように考えると辻褄《つじつま》は合うわね」
「すると克司君の仲間は、彼を刺した犯人を知っていることになるな」
「犯人の素姓を知っているかどうかわからないけれど、現場に居合わせているわね。犯人を見ていても届け出るに出られないんだわ。そんなことをすれば自分たちが老婆殺しで捕まってしまう」
「それにしても友達が殺されたというのに、口を噤《つぐ》んで埋めてしまうなんてひどい仲間がいるもんだな」
「克司の仲間なんてそんなものよ。克司もあなたのような人とだけつき合っていれば、死なずにすんだのに」
「ぼくが車を貸さなければよかったんだ」
「あなたの責任じゃないわよ。あなたから借りられなくとも、結局、他から借りるか、盗んだとおもうわ」
「あなたの推理を警察に話したほうがいい」
「どうせ取り上げてくれないわよ」
「それは話してみなければわからない。だめでもともとだ。話すべきだとおもうけど」
老婆殺害事件の捜査本部の牛腸刑事が、宮下克司の失踪《しつそう》との関連を疑いかけたときに、宮下の死体が町田市の山林から発見された。捜索願いの届け出人である姉に会いに行こうとした矢先に、死体が現われてしまった形である。
ここに牛腸と宮下由季が出会った。
「そこであなたは弟さんがよく行っていたミニュイという店で、諸橋とかいうノラキン社員が同時に店から姿を消したと聞き込んだのですな」
牛腸はその情報の価値を測っている。
「そうです」
「ノラキン制を採用している会社はそんなに多くありません。諸橋という名前もありふれてはいない。その方面から割り出せるとおもいます」
牛腸は由季の情報に基づいて諸橋の素姓を洗った。
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共犯証拠
矢桐は遂に恐れていた結果が発生したとおもった。束《つか》の間の印象であったが、被害者の顔はまぎれもなく矢桐が刺した男のものである。
頬《ほお》の削《そ》げた、目が凶器のように尖《とが》った顔は忘れようとしても忘れられない。あの凶相が殺意を剥《む》き出しにして迫って来たので、やらなければやられるとおもってほとんど無意識の中《うち》にナイフを振《ふ》ったのである。
あの相手はやはり死んでいた。わからないのはなぜ町田市の山林に埋められていたかという点である。
矢桐は宝井洋美がニュースに気がつかないことを願った。矢桐の刺した相手が町田市の山林に埋められていた男と確かめられたわけではない。矢桐は加害者であるのでわかったのである。矢桐がとぼけ通せば、証拠はない。
だが洋美はにんまりとほくそ笑んで、
「とうとう出たわね」と言った。
「出たってなにが」
矢桐はピンときたが、精いっぱいとぼけた。
「そんなこと決まっているでしょ。あなたが刺した人よ」
洋美は鼻先でせせら笑った。矢桐のとぼけなど、歯牙《しが》にもかけていない様子である。
「どうしてそんなことが言い切れるんだ。おれは憶《おぼ》えていない」
ともかく証拠はないのだ。
「私は憶えているわ。あの男にまちがいないわよ」
「証拠があるのか」
「証拠は私よ」
「きみの記憶ちがいかもしれない」
「あと一つあるわ」
「なんだ、それは」
自信のある洋美の口調に、矢桐は不安をそそられた。
「あのときのナイフはどうなったかしら」
「きみが逃げる途中どこかの原っぱに捨ててくれたじゃないか」
「ええ。でもあのときおたがいに慌《あわ》てていたし、もしだれかに拾われでもしたら、動かぬ証拠になっちゃうわよ」
「洋美、まさかおまえ」
重大な疑惑が矢桐の胸に萌《きざ》した。彼の手前捨てたと言っておきながら、後日の証拠のために捨てないでおいたかもしれない。
「私もどの辺に捨てたかよく憶《おぼ》えていないのよ。あんなものが出てきたら言い逃れはできないわよ。あなたの指紋だってはっきりとついているでしょうし」
洋美は勝ち誇ったように言った。彼女は死体が現われたのを喜んでいる。死体が出てこないかぎり、矢桐の致命的な弱味をつかんだことにならない。いくら洋美が、矢桐の刃傷沙汰《にんじようざた》の現行犯を目撃しても、被害者がいないのでは、夢でも見たのだろうと言われても仕方がない。
だが被害者がこの上ない形で(彼女にとって)現われたので、矢桐の致命傷を完全に握ったことになったのである。
「仮におれが刺したとして、その相手がどうして山の中に埋められていたんだ」
矢桐は追いつめられながらも必死にあがいた。
「そんな理由はいくらでも考えられるでしょ。相手はチンピラだったというじゃないの。きっと叩《たた》けば埃《ほこり》の出る体だったのよ。あのとき二人仲間がいたでしょ。警察へ行けない事情があって埋めちゃったのよ」
洋美はこともなげに言った。
「それにしても仲間が刺されたら埋めちゃうなんて普通じゃないよ」
「あの連中普通じゃなかったわよ。あなただってやらなければやられるとおもったと言ってたでしょ。きっとあいつら凄《すご》い悪事やってたのよ。だから届け出られずに仕方なく埋めちゃったんだわ。あの夜なにか事件がなかったか、調べてみるといいわ。そんな大悪党をやっつけたんだから、あなた凄いわよ」
だから私が一言漏らせば警察だけでなく、その悪党仲間からもつけ狙《ねら》われるぞと言っているようである。
宮下克司の死体が発見されたことによって矢桐は洋美の頤《おとがい》にがっちりと咥《くわ》え込まれたことを悟った。彼女は凶器のナイフまで押えているような口吻《くちぶり》を漏らした。
町田市の山林から死体発見というニュースに接した無量小路一樹《むりようこうじかずき》は、ピンとくるものがあった。死者の着衣になにかの動物の毛が付着していたと新聞の記事は伝えていた。死者の推定死後経過時間も、老婆殺害事件の発生日と符合する。もしその動物の毛がミチルの毛であれば、強盗が老婆を襲った後、猫を連れ去ったという無量小路の推理が的中したことになる。わからないのは、殺害の動機と死体を隠したことである。分け前をめぐって一味の間に争いが生じたというのが最も容易に導かれる推測である。
だが死体と一緒に猫は埋められていなかった。少なくとも猫の死は確認されていない。
無量小路は早速牛腸刑事に自分の推測を伝えた。牛腸はすでに老婆殺害事件と、町田市の死体との関連を疑っていた。牛腸は無量小路の話を熱心に聞いてくれた。
「なるほど。早速、毛の対照検査をしてみよう。被害者(井原こな)の家から猫の毛が採取されているから、すぐに対照できるよ」
「結果がわかったらおしえてくれませんか」
「いいとも。きみが情報提供者だから、いの一番に連絡するよ」
対照検査の結果、宮下克司の衣類に付着していた動物の毛は、井原こなの家から採取された猫の毛と同種の毛と鑑定された。また被害者ののどに残された扼痕《やくこん》と宮下の手型はほぼ一致した。ここに無量小路説は裏書きされたことになった。
時期を同じにした老婆強殺事件と宮下克司の失踪《しつそう》からその関連を疑われた両件は、ここに同一の猫の毛によって結びつけられた。
猫は強盗一味に従《つ》いて行ったか、連れ去られたかした。もし猫が無事であれば、宮下克司を殺して埋めた犯人の許《もと》にいるかもしれない。
宮下由季は、克司を殺したのは強盗一味以外の者という推理をしているが、無量小路には伝わっていない。
牛腸は、宮下由季から得た情報に基づいて諸橋なるノラキン社員の所在を追っていた。彼が宮下克司の入り浸っていた「ミニュイ」の常連で宮下と同時期に店から消えたことが、はたして関連があるのか、あるいは偶然か。
牛腸刑事が諸橋の行方を追っているとき、無量小路の事務所に一本の電話がかかってきた。
「あのポスターを見たんですけど」
声の主は若い女のようである。
「有難うございます。どなた様でございますか」
まずは協力者の氏名と連絡先を聞く。
「宝井という者ですけどミチルという猫を預かっているの」
「えっミチルですか」
電話を受けた無量小路は緊張した。無量小路の推理によれば、ミチルは強盗一味の許にいる可能性がある。それにしてもポスターは二か月以上も前に貼《は》ったものである。撤去から漏れた一枚が、電話の主の目に触れたのであろう。猫の特徴はまぎれもなくミチルに合致している。
「有難うございます。早速いただきにあがりますのでご住所をおしえていただけませんか」
「いいわよ」
宝井と名乗った女は住所をおしえた。
「あのう恐れ入りますが、ミチルをどこで見つけられたのですか」
無量小路は恐る恐る問うた。宝井と名乗った電話の主が強盗一味であるなら、彼女がミチルを老婆の家から連れ去ったことになる。だが強盗殺人の現場から連れ帰った猫を、わざわざ名前と住所を明かして返すものだろうか。
宝井はミチルが強盗殺人の現場から失踪《しつそう》した猫とは知らないのではあるまいか。
「いつの間にか車の中に入り込んでいたのよ。可愛《かわい》いので手許に預かっていたんだけど、今日街で偶然、猫のポスターを見かけたの。私になついたので黙っていようかとおもっていたんだけど、大家がうるさいのよ。ペットを飼ってはいけない決まりになっているの。離れられなくなってから、追い立てを食うと困るので元の飼い主に返すことにしたの。いまでもとっても悲しいのよ。これ以上手許においたら返せなくなっちゃうわ」
宝井の口調は悲しげであった。
無量小路は車がどこでミチルを拾ったのか聞きたかったが、抑えた。あまりしつこくたずねて、もし相手が強盗一味につながりがあれば警戒させてしまう惧《おそ》れがある。せっかく先方から近づいて来たのに、無量小路のいらざる詮索《せんさく》によって取り逃がすようなことがあれば、取り返しがつかない。無量小路はさしつかえなければこれから引き取りに行きたいと言った。宝井は承諾した。
無量小路は牛腸に連絡した。
「とにかくきみが猫を引き取りに行ってくれ。おれもきみの所の従業員を装って一緒に行くよ」
牛腸が言った。
「牛腸さんはどうおもいますか」
「まだなんとも言えないな」
「強盗一味とつながりがあれば、猫を返すはずがないとおもいます」
「必ずしもそうとは言えないとおもう。先方はきみが猫と強盗を結びつけているとは考えていないだろう。猫の始末に単純に困って言ってきた場合もある」
「しかし強盗一味なら、犯行現場から連れてきた猫を名前や住所を明らかにして引き渡すとは考えられません」
「犯行現場という認識はなかったかもしれんよ。女は、いつの間にか車の中に入り込んでいたと言ったそうじゃないか。猫は婆さんの家から勝手に飛び出して車に入り込んでいた。一味が犯行現場から逃げ出してだいぶたってから猫に気がついたとすれば、犯行現場の認識がなくとも不思議はあるまい」
「なんとなく釈然としませんが、まあそんな場合もあるでしょう。それで私は猫を引き取ったらどうしましょう」
「猫を引き取るだけでいい。あとは我々に任せてくれ」
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帰らざる保護者
諸橋にノラキン社員の好奇心が目覚めてきた。事実を詮索《せんさく》する好奇心が、街の中からヒット商品のヒントをつかむ。ノラキンにいや気がさしていながら、諸橋はノラキン根性に骨の髄まで染まっていたのである。
取り巻きの一人が「なんだか弱味でもつかまれたみたいだな」となにげなく言ったのが、ヒントになった。
そうだ、それにちがいない。弱味でもつかまれなければ、世界の中心にいた若様が、奴隷や犬になるはずがないのだ。それにしてもどんな弱味をつかまれたというのか。矢桐の父親は、民友党の大物政治家|隴岡智定《うねおかともさだ》であることがわかった。正妻の方に男の子がいないので妾腹《しようふく》であるが、隴岡の後継者となることが決まっている。
諸橋はまずX子の正体をつかもうとおもった。彼女をエイリアンズで見かけたのは、あの夜が初めてである。女の子がディスコへ一人で来るのは珍しい。カップルか、女同士のグループか、男女混成グループで来る。常連になれば一人で来るが、店に仲間が大勢いる。
たった一人で初めての店へ来て、若様を引っかけてしまったのである。諸橋はX子に興味をもってマークしていた。彼らがエイリアンズに現われるのは午前零時前後が多い。
常に矢桐がエスコートしているためになかなか彼女にアプローチできない。彼女と一緒にいるとき、第三者を拒否する雰囲気になる。矢桐の以前にはなかった雰囲気である。ある週末の夜、二人が姿を現わした。店は満員で、フロアも混み合っている。常連は混んでいるフロアでは踊らない。
VIPシートに座った二人にボーイがオーダーを聞きに来た。週末の夜とあって、VIPシートには名の売れたタレントの顔も見える。彼らはほとんどダンスフロアには出ず、飲んでいる。
X子が矢桐の耳になにかささやいた。矢桐がうなずくと立ち上がった。なにか用事を言いつけられたらしい。
チャンスとおもって諸橋が彼女に近づこうとしたとき、新たな客のグループがボーイに案内されて来た。その中の一人が、X子を見てびっくりした表情で、
「なんだ、ヒロミじゃないか。今夜はこんな所でデートなのか」
と声をかけてきた。
一瞬X子の表情が硬直した。あまりの驚きにものも言えない様子である。
「おい、どうしたんだ。鳩《はと》が豆デッポウ喰《く》ったような顔をして。おれを忘れちゃったのか。あ、そうか。これは野暮というもんだな」
男はにやにやしながら自分たちの席の方へ去って行った。男から「ヒロミ」と呼ばれたX子は、しばらく動転から立ち直れない様子である。そこへ矢桐が帰って来た。声をかけた男が、向うのボックスからじっと様子をうかがっている気配である。
「ね、出ましょ」
X子が矢桐に言った。
「え、いま来たばかりじゃないか」
さすがに矢桐が驚いた表情で言った。まだオーダーも届いていない。
「急に出たくなったの。気分が悪くなっちゃったのよ」
「気分が悪くなったんじゃ仕方がないな」
矢桐がやれやれといった表情で立ち上がった。
二人が倉皇《そうこう》と立ち去るのを、ちょうどオーダーを運んで来たボーイが呆気《あつけ》に取られて見送っている。
最初からいきさつを見ていた諸橋は、X子が、声をかけてきた男を避けて店から出て行ったと察知した。彼の存在がX子にとって都合が悪かったのである。X子の驚愕《きようがく》した表情を見ても、男の出現が彼女に大きなショックをあたえたことがうかがえる。
二人が立ち去ったのを確かめてから、諸橋は、X子に声をかけた男に近づいた。
「失礼ですが……」
「は?」
「いまそこに座っていた女性ですが」
「ああヒロミですか」
「つかぬことをうかがいますが、彼女とはお知合いですか」
「あなた、なんでそんなことを聞くのですか」
男の表情が警戒した。
「あ、失礼しました。私はこういう者ですが、彼女を会社のイメージガールに起用しようかとおもっているものですから」
諸橋は社名入りの名刺を差し出した。名の通った会社の肩書に相手の顔から警戒が除《と》れて、
「マリオン社の方ですか。せっかくだけど、彼女はイメージガールには使わないほうがいいとおもいますね」
「それはなぜですか」
「彼女、デートガールなんです。五反田のデート喫茶を根城にしています」
「デートガール!」
「店ではナンバーワンの売れっ子でしたがね。最近店で見かけないとおもっていたら、こんな所に出没していたんだな」
デートガールとは意外な正体である。それにしても、あの気位の高い若様とデートガールの組み合わせは奇妙である。男と女であるからどんなカップルでも、「いいじゃないか幸せならば」であるが、彼らの場合は、極端な主従の逆転≠ナある。
それは矢桐の性格からは考えられない逆転である。その原因が矢桐の弱味にあると見立てたのである。
翌日、諸橋は、ヒロミが勤めていたという五反田のデート喫茶「ルヴァール」へ行った。「ルヴァール」は駅前の貸ビルの四階にあった。平日で時間帯が早かったせいか、女の子の数が少ない。一見普通のバーの体裁であるが、女の子が隅のボックスに固まっている。諸橋が入って行くとジロリと品定めの一瞥《いちべつ》をくれただけで「いらっしゃい」とも言わない。
すぐに元の無表情に還って、雑誌やテレビに目を戻した。女性同士で雑談もしない。一人一人が孤立している感じである。他に客の姿はない。ボーイが寄って来て「ご指名は?」と尋ねた。
諸橋が「ヒロミ」と言うと、
「ヒロミは辞めました」と答えた。
「えっ辞めたんですか。それは困ったなあ。ぜひとも彼女に会いたいんだがなあ。どこへ行ったかわからないだろうか」
「さあ、彼女たちの自由意志ですから。我々はデートのお相手を紹介するだけで、それ以外のことは一切関知していません」
ボーイはニベもなく言った。週刊誌でこの種の店の女性はほぼ一か月から三か月で、交替してしまうという記事を読んだことがある。中には一日で辞めてしまう子もいれば、同業の店を転々としている子もいるそうである。
ソープランドのイメージがそのものずばりであるのに対して、あくまでも自由意志に基づくデートを標榜《ひようぼう》しているので、若い女の子が割合い抵抗なく入って来られるらしい。女の子に客を選ぶ権利がある。いっさい強制はないという建前が、若くて自分の体に高い値がつく間に稼げるだけ稼いでおきたいという若い子にうけた。体一つで自由恋愛の形で手軽に手っ取り早く稼げる。
「それはよく承知しているけど、あの子が忘れられなくてね。なんとかしてもらえないかな」
諸橋はボーイの手にそっと一万円札をにぎらせた。
「困りますよ、そんなことされても」
と言いながらも、ボーイの表情にためらいが揺れている。ボーイは諸橋がヒロミを前の店から追いかけて来たと思ったらしい。
「お願いします。連絡先でもおしえてくれませんか。おもかげがちらついて、夜も眠れないんだよ」
「弱ったなあ。いまでもここにいるかどうかわかりませんけど」
ボーイは言って一本の電話番号を書いた紙片を渡してくれた。
諸橋はその番号をダイヤルした。新しい店なら替っている確率は高いが、住居ならまだ住んでいるかもしれない。
期待薄でダイヤルしたところ、応答した。
ただ「はい」とだけ答えてこちらの様子をうかがっている。束《つか》の間留守番電話かとおもったが、「ヒロミさんですか」
と問うと、「そうです」と答えた。
「ルヴァールから聞いたのですが」
と重ねて言うと、はっと息を呑《の》む気配がして「なんのことでしょう。そんな店知りません」と言った。
「どうして店とわかるのですか」
語るに落ちた形の相手を問いつめると、
「そ、それはお店のような名前だったからです。そんな名前に心当たりはありません」
と電話を切りそうな気配がしたので、
「ちょっとの間切らないでください。ぼくは矢桐君の友人です」
「矢桐……ヒロシの」
そのまま絶句した。
「あなたがルヴァールにいたことを矢桐君に話すつもりはありません。ただちょっとお会いしたいだけです」
「私は会いたくありません」
「会わないと損をしますよ」
「私を脅迫するの」
「とんでもない。あなたにとって決して損にならないご相談をしたいのです」
「お金が欲しいの」
「お金ならこちらから差し上げたいくらいです」
彼女はこちらの意図を探っている気配である。
「あなたはだれなの」
「矢桐の友人だと申し上げました」
「なにが狙《ねら》いなの」
「それはお会いしてから申し上げます」
「もし断わったら」
「あなたの前身……いや正体を矢桐君に話します」
「ヒロシは信じないわ」
「試してみましょうか」
「…………」
「あなたは矢桐君を失いたくないんでしょう。あなたがルヴァールにいた事実を、矢桐君が知ったら決してあなたのためにならない。矢桐君と仲良くつき合っていくためには、絶対に知らせたくないことじゃありませんかね」
「わかったわよ。会うわよ。いつどこへ行けばいいの」
「これから出て来てくれませんか」
「これから?」
「善は急げと言いますからね」
「いいわよ、行くわよ」
「場所を言ってくだされば車でお迎えにまいります」
ヒロミが矢桐の弱味をつかんで彼に接近したことはほぼ明らかになった。彼女は矢桐に素姓を隠している。それを知られるとせっかくつかんだ切札が減殺《げんさい》されてしまう。
諸橋は二人の関係がとても面白くなった。
ノラキン根性から二人の関係を覗《のぞ》きたくなったのである。
宝井洋美の住居は、目黒区上目黒四丁目にあった。おしえられた所番地を頼りに行くと、東横線|祐天寺《ゆうてんじ》駅近くのこぢんまりした二階建てアパートである。流行のプレファブのユニットハウスであり、情緒は毫《ごう》もないが、機能的のようである。上下六戸で二階の部屋はそれぞれ専用階段が設けられており、プライバシーの保証に考慮がはらわれている。豪華ではないが、洋美のような女性の独り暮らしには居心地がよいかもしれない。
宝井洋美の部屋は二階の一方の端である。
無量小路は洋美から連絡を受けてから、牛腸に連絡して直ちに行動を起こした。途中で牛腸と合流して、洋美の住居を探し当てたのは午後九時半ごろである。
アパートの表門に「カーサ上目黒」と表札が出ている。住人は夜の仕事が多いのか、窓の灯はすべて消えている。管理人はいないようである。一階の玄関|脇《わき》に集中メールボックスがあって「203号室宝井」とネームプレートが入っている。その表示から部屋の見当がついた。
「おかしいな。これから引き取りに行ってもいいかと言ったら、いいわよと答えたのに」
無量小路は宝井洋美の部屋の暗い窓を見て首を傾《かし》げた。
「とにかく行ってみよう」
牛腸が言った。パトカーで従《つ》いて来た他の捜査員たちは、万一に備えてアパートの周囲を固めた。無量小路説が的中すれば、宝井洋美は強盗一味かもしれないのである。
無量小路と白沢と牛腸の三名は宝井洋美の部屋のドアの前に立った。「宝井」という表札を確かめてからブザーを押そうとした矢先、白沢が、
「ドアになにか貼《は》ってありますよ」と言った。
白沢が指さした方を見ると、小さなメモ用紙がドアのノブの脇にセロテープで貼ってある。目を近づけて読むと、小さな女文字で、
「ペットの探偵屋さんへ
ちょっと急用ができたので外出します。猫を残していくと、部屋の中で鳴いて、大家に怒られますので連れて行きます。また連絡します」
と書かれてあった。
「なんだ、無駄足になっちゃったな」
白沢は舌打ちをした。
「いや焦っちゃいかんよ。ともかくペットの居所はわかったんだ」
無量小路は白沢に言った。前回の苦い経験があるので、まだ飼い主には連絡していない。ペットをこの手に抱きかかえるまでは、取り戻したことにならないのである。
だが刑事の方には謝っておく。
「牛腸さん、すみません。無駄足を踏ませまして」
「かまわんよ。刑事が無駄足をいやがっていてはホシは捕まらない」
「しかし、ちょっと気になるなあ」
「気になるってなにがだね」
「ぼくが来るのがわかっていながら外出したことですよ」
「それがどうして気になるんだね」
「猫を連れて行ったでしょう。外出先にいちいち猫を連れて行くのは大変でしょう。間もなくぼくが引き取りに来ることがわかっているんだから、猫を引き渡して身軽になっていったほうがいいでしょう」
「よほどさし迫った用事だったんだろう。メモにも急用と書いてある」
「彼女が強盗一味で、もし仲間にこれから猫を引き渡すと告げたらどうでしょう。仲間は、ことの重大性を悟ってともかく猫をもって来いと呼び出した……」
「きみは、彼女を呼び出したのが、強盗一味だと言うのかね」
「猫が引き渡されて、こな婆さんの家にいた猫と同定されれば、一発で強殺事件と彼女との関わりを疑われます。猫さえいなければ、うむを言わせぬ証拠が欠けることになります」
「すでに彼女が問題の猫を預かっているときみに連絡してしまった後だよ。猫を始末しても疑われることに変りはあるまい」
「もし一味が猫の一件を重要視しているとすれば、猫と一緒に彼女を始末しようとは考えないでしょうか」
「なんだって!?」
無量小路の途方もない推理の行方に牛腸が愕然《がくぜん》として、
「き、きみは、宝井洋美が一味に始末されるとおもっているのかね」
「洋美が一味なら十分その危険性はあるとおもいますが」
「しかし、きみは彼女が一味とつながりがあれば猫を渡すはずがないと言っていたじゃないか」
「ええ。そこが不思議だったんです。でも牛腸さんがおっしゃったように一味に猫を犯行現場から拾ったという認識がない場合もあると考え直したんです」
「だったら一味が彼女を始末することはあるまい」
「それだといいのですが、猫引き渡しの直前に猫と一緒に出て行ったのが、どうも気になります」
「なんとなくいやな予感がしないこともないな」
牛腸も次第に不安になってきたようである。
「ともかく少し張込みをかけてみよう。ちょっと外出しただけかもしれないからな」
牛腸は、彼女が帰宅するまで張り込むことにした。この段階では強盗一味とのつながりが確かめられていないので手配するわけにはいかない。肝腎《かんじん》の猫が「猫ちがい」であれば宝井洋美は強盗一味とはまったく無関係ということになってしまうのである。
だが洋美はその夜帰って来なかった。恋人とデートして外泊したことも考えられるので、張込みをつづけた。その間にアパートの居住者や大家に彼女の身辺について聞込みをする。大家には「OL」と言っている。だが勤め先ははっきりしない。そのアパートの居住者はすべて風俗業で働く女性であった。
入居したのは二年前で中目黒の不動産屋の紹介である。規定の家賃さえ払えば、大家はだれでも入居させる主義らしい。入居者間の交際はまったくないので、プライバシーについてはほとんどわからない。
隣人が何回か若い男の出入りするのを認めていたが、男の細かい特徴は記憶していない。ただ若い長身の男というだけであった。
「猫を飼っていたのは知っていましたか」
牛腸は大家に問うた。
「他の入居者から苦情がきて知りました。一応ペットは飼わないという規約でしたので、注意しておきました」
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沈める海
宝井洋美は、そのまま消息を絶った。家を出て七日後、捜査本部は彼女の身辺になにか異変が起きたものと認定した。
会議の結果、洋美を老女殺害事件に関連をもつ疑いのある者として、捜索差押許可状を請求、その発付を得た。
令状に基づいて同女の居室を捜索したが、約三十万円の現金、残高六百三十万円の預金通帳、宝石、アクセサリー類、衣服、毛皮のコートなどそのまま残されており、長途の旅行に出た形跡はない。
またキチンの流しには、失踪《しつそう》前の夕食に用いられたとみられる食器が汚れたまま積まれていた。
部屋をみるかぎり、すぐ戻るつもりで出かけた状況である。ドアに貼《は》り残したメモにも「ちょっと急用ができたので外出します」と書いていた。
家宅捜索の結果、重大な物件が出てきた。整理|箪笥《だんす》の奥にビニールに何重にも包まれて一|挺《ちよう》の登山ナイフが大切そうに蔵《しま》われていた。そのナイフを検《あらた》めたところ、明らかに血液が付着していた。鑑識が検査したところ、その血液型は宮下克司のそれとぴたりと符合した。残念なことに複数の指紋と血糊《ちのり》が重なり合って対照可能な指紋を検出できなかった。
捜査本部は色めき立った。ここに宝井洋美と強殺犯人一味とのつながりを示す明らかな物証が発見されたのである。
彼女が猫の返還を申し出て来たことなど、一味にしては矛盾する点も残されていたが、凶器の発見は、同女をして一挙に最も有力な容疑者として捜査線上に押し上げるものであった。即刻、井原こな殺人強盗容疑及び宮下克司殺人死体遺棄容疑で全国に第一種指名手配の網が打たれた。
また家宅捜索によって差押えられた名刺、メモ、郵便物、日記などから五反田の「ルヴァール」という店が浮かび上がった。ルヴァールを調べたところ、そこがデート喫茶で同女が一時期(約十か月)同店に所属していた事実がわかった。所持品の中から発見された六十八枚の名刺は、ルヴァール時代の客からもらったものとみられた。
それらの中には、名の売れた芸能人や文化人、スポーツ選手などがいた。ルヴァール前後にも同種の店を転々としていた模様であるが、いまのところ不明である。捜査本部ではこれらの名刺の客をすべて当たることになった。
彼らの反応はおおむねワンパターンであり、
「そんな女に名刺をやった記憶はない。おおかただれかが自分の名刺を悪用したのだろう」
ととぼけた。中には潔《いさぎよ》く認める者もいたが、
「ほんの遊び心からデートしただけで、いまは顔もよく憶《おぼ》えていない」と言った。
だが彼らはいずれも一応の名前のある男たちや、まともな社会人である。とうてい老婆を殺害して金を奪うような人間ではなかった。その必要もなければ、そのような環境にもいない。
牛腸は宮下由季から得た「諸橋」という名前を名刺の中に探したが、なかった。新宿のミニュイにも行ってさらに詳しく聞き込んだが、由季から聞いた以上のことは得られなかった。
残るルートは「ノラキン制」を採用している会社の線である。だがこれが意外に多く、ファッション産業から、家電、食品、玩具《がんぐ》、化粧品、家具、事務機器、アパレル、住宅、諸サービス業等きわめて多岐にわたっていて、「諸橋」だけの手がかりではアプローチのしようがなかった。
捜査が暗礁に乗り上げかけたとき、一つの進展があった。名刺の主を一人一人洗っていった捜査チームが、ある大手自動車販売会社の社員に当たったところ、彼は頭をかきながら、
「友人に誘われて行ったデート喫茶で出会って一度だけ遊びました。名刺をくれと言うのでなにげなくやったんですが、まいったなあ。そう言えば、その後一度彼女に出会いましたよ」
「ほう、それは、いつどこでですか」
捜査員はすかさず食いついた。彼は捜査一課から来た那須《なす》班の草場という刑事である。
「六本木のエイリアンズというディスコです。四月の中ごろ、あるパーティの流れで入ったら、そこのVIPシートにいたんです」
「連れはいましたか」
「若い男がいました。暗かったので顔はよく見えませんでしたが、なかなか格好いい男でしたよ。彼女、ぼくが声をかけるとびっくりした顔をしていましたが、間もなく男を引き立てるようにして出て行ってしまいました。きっと他の客を咥《くわ》え込んでいるときに声をかけられたのでバツが悪かったんだとおもいます。あの場は知らん振りをしてやるのが武士の情け≠セったと反省しましたよ」
「そのとき一緒にいた男の特徴はわかりませんか」
「暗かったのと、男はトイレにでも行っていたのか、ずっと席にいなかったのです。男が帰って来ると、すぐに連れ立って店から出て行きました。あ、そうだ、そういえば……」
自動車販売会社社員はなにかおもいだした表情をした。
「そういえば、なんですか」
「二人が出て行った後で、彼女の素姓を聞いてきた男がいましたよ」
「彼女の素姓を……」
「彼女を会社のイメージガールに使いたいとか言いましてね。余計なことかとおもいましたが止《や》めたほうがいいと忠告しておきました」
「その男の身許《みもと》はわかりませんか」
「名刺をもらいました。探せばあるかもしれないなあ」
「ぜひ探してください」
デートガールをイメージガールに起用してもなんら異とするに足りないが、彼女自身にアプローチしなかったところが引っかかる。間もなく自動車販売会社社員は一枚の名刺を手にして引き返して来た。
「ありましたよ。マリオンの諸橋という人です。マリオンといえば最近伸びてきた事務機器メーカーですね」
「諸橋! マリオン」
草場がおもわず大きな声を発したので自動車販売会社社員はビクリとしたらしい。
「いや失礼しました。恐れ入りますが、この名刺、少々拝見できませんか」
「どうぞ、おもちください。私には必要のないものですから」
意外な所で「諸橋」が顔を出してきた。
「諸橋が自動車屋≠ノ宝井洋美の素姓を聞いたというのは、彼は彼女の素姓を知らなかったことになるか」
牛腸は草場情報を分析した。
「ま、そういうことだね」
草場はトレードマークの長い顔をますます引き伸ばして言った。彼らは過去に何度か捜査コンビを組んだ顔|馴染《なじ》みである。
「すると、二人は強盗一味ではなさそうだね」
「そうとも限らない。見知らぬ同士が組んで犯行《ヤマ》を打つ場合もあるよ」
「そういう場合もないことはないが、この事件には事前の偵察と計画が感じられる。まったく素姓を知らぬ同士がインスタントに組むというのは無理があるような気がするんだよ」
「例えば、共犯《レツ》の情婦なんかだったら、身許《みもと》を知らなくとも不思議はあるまい」
「だったらなぜ自分で声をかけなかったんだ。自動車屋が声をかけてるくらいなんだから、自分で声をかければいい」
「それこそレツだからだよ。諸橋自身、洋美に姿を見せたくなかったかもしれないじゃないか」
「そう言やそうだが、一流事務機器メーカーの社員が、名刺の肩書をみると開発本部商品企画課係長とあるが、いかにもエリートくさいのが、強盗殺人の一味とはピンとこない。それにもう一つずれている点がある」
「どこがずれているんだね」
「自動車屋が宝井洋美と諸橋に会ったのは、四月中ごろだと言っていた。しかし諸橋と宮下克司が新宿のミニュイから姿を消したのは、それよりも二か月も前だよ。宮下の消息不明とこな婆さんが殺された日は符合しているが、諸橋がミニュイに来なくなったのは、たまたま宮下の消息不明日と同じ時期だったというだけで、諸橋はべつに行方不明になったわけではなかったかもしれない」
「それじゃあどうしてミニュイへ来なくなったんだ」
「ある店から急に足が遠のいたとしても不思議はあるまい。飽きたかもしれないし、不愉快なことがあったかもしれない」
「うーむ」
草場はうなった。
「ともかく諸橋を当たってみようじゃないか」
捜査会議でも牛腸の意見は取り入れられて、諸橋直之を参考人として当たることになった。
だが練馬《ねりま》区の諸橋の自宅を訪問した牛腸と草場は愕然《がくぜん》とすべき事態にぶつかった。
諸橋が十日ほど前から消息を絶っているというのである。
諸橋の細君は、
「主人は一年前から自由勤務を命ぜられておりまして、毎日のように街に出かけております。家を出る時間もまちまちで、昼ごろ出るときもあれば、夕方出かけることもありました。
これまでにも外泊したこともありましたけど、こんなに長く家を空けたことはありませんでした」
と不安と懸念の色を面に濃く塗って答えた。
「どこかへ旅行へ出かけるようなことはおっしゃってませんでしたか」
「いいえ」
「会社はなんと言っているのですか。当然問い合わせたのでしょう」
「会社にも心当たりはないそうです。ただ自由勤務の場合はいい材料をつかむと、社にも家族にも黙って追いかける場合があるので、それほど心配することはないだろうという態度でした」
彼女は会社の悠長な応対が不満のようである。
「これまでのご主人の生活パターンに黙って十日も家を空けるということがありましたか」
「ありません。会社は心配ないということですが、捜索願いを出そうとおもっていた矢先に刑事さんがいらっしゃったのです」
「つかぬことをうかがいますが、ご主人から井原こなとか宝井洋美、宮下克司という名前を聞いたことはありますか」
牛腸が手帳に三名の名前を書いて細君に見せた。
「いいえ。ありません」
「奥さんにはこの三人の名前にお心当たりはございませんか」
「まったくございません。この人たち誰なんですの」
「我々が担当している事件に関係ある人たちです」
「主人がその担当事件とやらになにか関係があるのでしょうか」
細君の不安の色が濃縮された。
「まだわかりません。もう一つおたずねしますが、二月十三日の深夜午前零時から二時間ほどご主人はどちらにおられたかご存じではありませんか。正確には十四日の未明ということになります」
それは井原こなが殺害された推定時間帯である。
「二月十三日の夜ですか。ノラキンになってから、自由勤務のことですが、出勤タイムも土日もなくなってしまいましたので、私がカレンダーにメモをつけています。見てみましょうか」
「メモをつけておられるのですか。それはたすかります」
間もなく細君は手にカレンダーをもって戻って来た。
「この日は夕方六時ごろ家を出て、午前零時三十分ごろ帰宅しておりますね。六本木のディスコへ行ったそうです」
「ディスコの名前は書いてありますか」
「いいえ。でもメデューサやエイリアンズやマドラスなどという名前を聞いたことがあります」
午前零時半では、死亡推定時刻の開始時刻に犯行を演じたとしても、現場から練馬《ねりま》のはずれにある諸橋の自宅まで帰って来るのはかなり難しい。
「いかがでしょう。そのときご主人にいつもとなにか変ったご様子はありませんでしたか」
「べつに気がつきませんでしたけど。主人がなにかしたのでしょうか」
「いや。変ったことがなければよろしいのです」
刑事は細君の不安をいなして、
「ところで自由勤務とは、我々から見ると結構なお仕事とおもいますが、ご主人は実際にはどんなお仕事をされておられたのですか」
「街の中から新たな商品開発のヒントを得るのが仕事です。デスクにしがみついていたのでは決して出てこないアイデアを街の中から掬《すく》い取って来いという会社の命令でした」
「最先端のお仕事ですな」
刑事の表情が羨《うらやま》しげになった。
「主人も最初は張り切っておりました。でも次第に疎外感と孤独感に悩まされるようになってきました。とにかく会社のラインからはずされた独りの仕事ですから、会社から取り残されたような気がしてくるのです。主人は自分をよくルバング島の小野田さんになぞらえて、残置諜者《ざんちちようしや》≠セと苦笑いしておりました」
「見かけとはだいぶちがうんですね」
「主人は上司に早く正常な勤務に戻して欲しいと訴えておりました。でも会社の都合でまだ当分の間自由勤務をつづけるようにということでした」
「それはご主人が自由勤務の成績を上げたからじゃありませんか」
「それならばやり甲斐《がい》はあるのですけど、主人は自分のリポートはほとんど取り上げられないと嘆いていました。会社がぐずぐずしている間に他社に主人のアイデアを取られてしまったこともあります」
「それは悔しかったでしょうなあ」
「主人は会社から体《てい》よく切られたんだと言ってましたわ」
「それは切られるような事情でもあったのですか」
一流会社社員でも切り捨てられれば「ただの失業者」である。失業が強盗に結びつくという単純な構図が刑事の脳裡《のうり》に描かれる。
「社内の詳しい事情は存じません。外にはわからない葛藤《かつとう》があったのではないかとおもいます」
「ご主人が最後にお宅を出られたときのことに戻りますが、行先をおっしゃってましたか」
「夕方六時ごろ車に乗って出かけて行きました」
「いつも車で出かけるのですか」
「いいえ、夜はお酒が入るので歩いて行くことが多かったとおもいます。昼間は車で、夕方からは歩いて行くパターンが多かったようです」
「だれかと会う約束をしていたような気配はありませんでしたか」
「特に気がつきませんでした」
「電話などはきませんでしたか」
「電話は会社への定期連絡だけです」
「定期連絡は時間が決まっているのですか」
「特に決めてありませんが、だいたい午前中のようです。リポートの他に口頭で報告して、会社の方からもいろいろな連絡や指示を仰いでいました」
「連絡はだれにするのですか」
「課長さんや部長さんです。同僚が出ることもあったようです。たまたま電話を受けた相手が主人を知らない新しい人だったとかで、ひどくがっかりしていたことがありました」
諸橋が消息を絶った日は四月十七日で、宝井洋美が失踪《しつそう》した日と符合している。時間も前者が夕方六時ごろ家を出たのに対して、後者が午後七時〜九時の間に外出したらしいという状況である。両者の失踪になんらかのつながりがあると認められる状況であった。
超高層ビルの灯が海面に映える。大都会の夜景は、醜悪なものすべてを闇《やみ》の中に覆い隠して人工美の極致を打ち出す。特に水と都会の夜景の組み合わせは絶妙である。
きらびやかな電飾が水面に投影してその美しさを二倍に増幅するだけでなく、夜景に幻想的な奥行きをもたせるからである。
人はかつてこのあたりを東京のウォーターフロントと称《よ》んだ。本来は湾岸とか海岸通りという意味であるが、東京のウォーターフロントは、地の果てという意味が強い。つまり「東京の地の果て」である。
だが岸本がよく憩いに来る豊海埠頭《とよみふとう》も、もはやウォーターフロントではなくなった。その先に青海十三号地や中央防波堤内外側埋立処理場がシリーズで続々と海の中に張り出して行ったからである。
十三号地から大井埠頭にかけては首都高速湾岸線が大蛇のように東京に巻きついている。彼らがいまの東京のウォーターフロントとなっているが、岸本は東京の展望台としては、自分の憩い場が最高だとおもっている。それも午後八時ごろから十時ごろまでの、東京の夜景が最も本領を発揮する時間帯の情趣は言い表わし難い。
水に浮く巨大な不夜城が、水面に投影しているために、夥《おびただ》しい光を塗《まぶ》したビルの簇《むらが》りが、水中から直接立ち上がっているように見える。
しかもその豪勢な眺めをほんの数人の仲間と寡占《かせん》するか、あるいは独占することもある。最近大型トラックが多くなってタクシーの憩い場が圧迫されているので、独占は難しくなった。
五月十日午後十時ごろ、岸本はいつもの憩《やす》み場へ来た。それから一時間ほど休憩して銀座へ行けばその看板時のタクシーにとってゴールデンアワーが始まる。運がよければ京葉|東中《とんちゆん》(東名と中央高速)の一発ロングに当たる。
岸壁のいつもの場所に車を着けて東京の夜景を眺めながら一服する。今夜は同業の車も見当たらず、豪勢な眺めを独り占めである。
ただし、埠頭は海に向かって緩やかな斜面になっているので、うっかりサイドブレーキを引き忘れたままうとうとしたりすると車ごと海にどんぶりこという破目になりかねない。
過去にそんな前例があった。
ここのところ山手の方で稼いでいたので、ここへ来たのは十数日ぶりである。連休中は客が減って水揚げがさっぱりだったので、この辺で挽回《ばんかい》しなければならない。彼は車から下りて軽い柔軟体操をすると、埠頭の縁へ歩み寄った。縁にガードレールなどの転落防止装置は設けられていない。
軽く一服して吸い殻を海に捨てた岸本は、「おや」と目を水面に固定させた。いま捨てた吸い殻の周囲に油膜が浮いている。
もともと東京の排泄物《はいせつぶつ》に汚染された黒い海である。油膜が浮いていても不思議はないが、その個所だけに澱《よど》んだように固まって浮いているのが気になった。
遠い灯を反映した水面に厚ぼったく重なってゆらゆら漂っている。その水面に相応する岸壁に目を戻した岸本は、顔色を変えた。いままで気がつかなかったが、埠頭の舗装の上に轍《わだち》が刻まれている。その轍は埠頭の縁までつづいていて引き返した痕跡《こんせき》がない。
ということはその轍の主が、この海面の油膜の源かもしれない。まさかとおもったが、油膜の漂う上の岸壁に縁までつづくタイヤ痕《あと》が気になった。
岸本は黒い海を透かして見たが、それは無理な試みであった。
個人タクシー運転手から豊海埠頭から車が海に落ちた形跡があるという届け出を受けた晴海《はるみ》署は、現場の中央区豊海十五‐××豊海埠頭を検《しら》べたところ、確かに埠頭突端までつづくタイヤ痕と、その先の海面に浮遊する油膜を認めたので、東京消防庁のアクアラング部隊と民間のサルベージ会社に要請して現場水域を探索することにした。
その結果、同水域に沈んでいる一台の五五〇ccクラス国産軽自動車を発見、引き揚げたところ車内運転席と助手席に閉じこめられていた男女の死体を見つけた。男が所持していた運転免許証から、諸橋直之三十二歳、会社員、練馬区西大泉五‐××と判明して家族に連絡が取られた。
また女の方は、身体特徴から先日、新宿区の独居老女殺人強盗事件等の容疑者として指名手配されていた宝井洋美とわかった。直ちに同捜査本部にも連絡が取られて、死体の確認が行なわれた。
死因は、肺胞内に大量の溺水《できすい》を証明して「溺死《できし》」と鑑定された。すなわち車ごと海に転落して脱出できないまま溺《おぼ》れ死んだという状況である。死後経過は二十日‐三十日、失踪《しつそう》直後海に落ちた状況を示している。
以前にも同じ場所でタクシー運転手が車内で仮眠中、車が勾配《こうばい》に引かれて動き出し、海に落ちて死んだ事件があった。
だが今回の車転落には重大なちがいがあった。タクシー運転手はサイドブレーキを引き忘れていたが、諸橋の車はそれが完全に引かれていたのである。
サイドブレーキが引かれていれば、「不自然な外力」が加わらないかぎり車が動き出すはずがない。
不自然な外力とはなにか。警察が現場を綿密に調べたところ、転落車の轍《わだち》以外にもう一台の車の轍が岸壁の途中まで残っているのを発見した。現場が乾いているために明確なタイヤ痕《あと》が採取できないが、転落車より大型の二六〇〇ccクラスの車と推定された。
捜査本部は転落の原因が浮き上がってくるにつれて緊張が強まった。被害者の男女が海に向けて停《と》めた車内で、密談をしている背後に忍び寄った犯人の大型車が、重量にものを言わせて一気に突き落としたという状況である。
犯人の狙《ねら》いは女にあったのか、あるいは男女双方にあったのか。まだ男女のつながり(老女殺人強盗事件等における)は確かめられていないが、男が女を呼び出して豊海埠頭へ行った模様である。
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保護された処分
「いやな予感が当たってしまいましたね」
無量小路一樹《むりようこうじかずき》は牛腸《ごちよう》刑事に言った。
「まさか東京湾の底に沈んでいるとはおもわなかったよ」
「これが灯台下暗しでしょうか。犯人の狙いはとりあえず宝井洋美の口封じだったのでしょうか」
「本部の大勢はそう見ているよ。諸橋と強盗一味とのつながりはいまのところ確かめられていないからね」
「諸橋は道連れにされたということですか」
「そういうことになるかね」
「諸橋はなんのために洋美と会ったのでしょうか」
「男と女だからね。どんな用事ででも会うだろう。諸橋は自動車屋に洋美を会社のイメージガールに使いたいと言っていたそうじゃないか。案外そのことで口説《くど》いていたのかもしれない」
「諸橋はコマーシャルの担当じゃないのでしょう」
「遊軍だからね。なにをしてもおかしくない。あるいはそれを口実に男として口説いたのかもしれない」
「デートガールをですか」
「デートガールでも気に入ったら口説くよ。それに諸橋は彼女がその種の女とは知らなかったんだろう」
「自動車屋が彼女の素姓をおしえてますよ」
「信用したとはかぎらないよ」
「ぼくは二人が会ったのは、男と女の関係じゃないような気がします。ぼくが猫を引き取りに行くと約束を取っていたのに、急用で出かけたというのがどうも解《げ》せない。デートならもっと前からわかっていたんじゃないでしょうか」
「男から急に出て来いと言われて、行くこともあるだろう」
「かなり親しい場合はね。彼らは死ぬ前に交際をしていた形跡がありません。それにもう一つ腑に落ちない点があります」
「なんだね、それは」
「猫ですよ」
「猫!」
「猫を一緒に連れて行ったはずなのに、猫の死骸《しがい》がなかったじゃないですか」
「猫だけ車外へ出たんだろう。小さな猫だから外へ出たら見えなくなっても不思議はない」
「二人は車内に閉じこめられていたんでしょう。窓ガラスはどうなっていたのですか」
「水圧で割れていたよ。そこから車外へ出たんだろう」
「二人は水圧がかかって逆に閉じこめられていたんでしょう」
「猫は体が小さかったから、それだけ水圧がかかるのも少なかったとおもうよ」
と言いながらも、牛腸も無量小路の提出した疑問に次第に引きずられている。
諸橋朋子は、不吉な予感が的中したのを悟った。この予感は、夫が自由勤務を命ぜられたときからあった。なんとなくこんなことになりそうな予感が絶えず揺れていた。
だがこともあろうに東京湾に車ごと沈んでいようとは。夫の遺体を確認した後、朋子は深い脱力感に襲われた。結婚して八年、勧める人があっての平凡な見合い結婚であった。
朋子は激しい感情の揺らめきも、熱い恋情も知らずに夫と結ばれた。だがそれだけに地道な夫婦生活の中で静かに堆《つ》み重ねていく歴史があった。その基礎と言える部分をようやく堆み終ったとおもったところで突然夫に死なれてしまったのである。
一々言葉にして現わさずとも、たがいの目の表情や気配で相手がなにを欲しているかわかりかけてきた矢先、一方のパートナーが失われてしまった。
残念であった。このまま夫婦の歴史を堆み重ねていけば、きっと素晴しい熟練夫婦≠ノなれたとおもう。
朋子は夫が女と一緒に車に閉じこめられて死んでいたことも解《げ》せなかった。自由勤務になってから朋子が使っていない香水の残り香をつけて諸橋が帰って来たことがあった。
女の嗅覚《きゆうかく》から彼がべつの女を抱いて帰って来たなと悟っても、朋子は咎《とが》めなかった。決して愉快ではなかったが、そんな咎め立てをすれば自分がもっとみじめになるのがわかっていたからである。どうせ自由勤務の仕事の一つと言い逃れられるに決まっている。
そんな夜は諸橋は決まって朋子を激しく求めた。自分の体に残った他の女のにおいを、妻との行為によって打ち消そうとするかのように。
朋子にしてみればなんとなくごまかされたような気がするが、諸橋にとっては行きずりの情事の後味の悪さを妻の体によって口直ししていたのかもしれない。
(妻を不倫の口直しにするなら、かんべんしてやろうか)
朋子は自分の甘さかげんに呆《あき》れながらも、夫の情愛の濃さに圧倒されてしまった。
諸橋が、女のにおいをさせて帰って来たのは、たいてい歩いて出かけたときだ。彼は車を家庭(寝室)の一部としてそこへ情事のにおいを持ち込むのを嫌っていたのである。
それは夫婦でなければわからない心理の機微であるが、新婚のころよく二人でドライヴに出かけて、風景のよい場所や、静かな森の中に車を駐《と》めて「二人だけの世界」に没入した。
いまでも新婚時代ほど頻繁ではないが、夫婦ドライヴ≠ノ出かける。そんな夫婦の一種の聖域≠ニなっている車に、行きずりのプレイのパートナーを連れ込むはずがないのだ。
とすると、夫はべつの目的で女を乗せたはずだ。その目的とはなんだろう。夫の死体が発見される前に来た刑事は、「担当事件の関係人物」と言って、井原こな、宝井洋美、宮下克司の三名の名前を挙げた。その中の宝井が夫の死のパートナーであった。
いったい夫は彼らとどんな関係があったのか。
刑事は朋子の質問に言葉を濁したが、
「二月十三日の夜、諸橋はどこにいたか」と夫のアリバイのようなことを反問した。
二月十三日になにがあったというのか。朋子は、図書館へ行き、新聞ファイルを同日に溯《さかのぼ》って調べた。
探す記事は直ちにわかった。刑事が尋ねた名前の一人、井原こなという独り暮らし老婆が強盗被害にあって殺されている。
こともあろうに諸橋が強盗殺人事件の関係者とは!
朋子は驚愕《きようがく》のあまり茫然《ぼうぜん》とした。それは見当ちがいも甚《はなは》だしい疑惑である。だが刑事の口吻《くちぶり》では夫がいかにもつながりがありそうだった。
アリバイを聞くということは、相当容疑が濃い証拠であろう。
夫が殺人などできる人間ではないことは、妻である朋子がよく知っている。しかし刑事が来たという事実は、その事件になんらかのつながりをもっていたからであろう。
夫と一緒に死んだ宝井洋美という女は、老女殺しの容疑者として指名手配された人物である。彼女と同じ車で心中≠オた事実が、夫と事件とのつながりを示すなによりも有力な証拠というべきであろう。
しかしどう考えても夫と老女の強盗殺害事件とは結びつかない。彼は、なにかべつの用件で宝井洋美と車内で用談中に車ごと突き落とされたのだ。その用件とはなにか。
諸橋は洋美をイメージガールとして起用したいと漏《も》らしていたそうだが、それは口実でCMは夫の担当外の仕事である。いまの段階では諸橋が洋美に会った用件はわからない。
すると夫はなぜ殺されたのか。捜査本部では強盗一味が洋美の口を塞《ふさ》ぐために夫を道連れにしたとみているようであるが、釈然としない。そんな口の軽い女ならまず一味にしないはずではないのか。
まだある。
宝井洋美が一味と推定されて指名手配されたのは、一味の宮下克司を刺した凶器を隠しもっていたからである。彼女がそんな重大な証拠物件をもっていたのであれば、犯人は彼女を殺害する前後にその証拠をなぜ回収しようとしなかったのか。
ここまでおもわくを進めてきて、朋子ははっとした。夫の車心中≠フ構造はまったく逆ではないのか。犯人の狙《ねら》いは、初めから夫に据えられていて、洋美が道連れにされた?
だが、夫には殺されるような理由がない。他人から怨《うら》みを含まれる人柄ではないし、これまでにも人の怨みを買ったこともない。
やはり本部が強殺事件の凶器を保存していた宝井洋美の方に捜査の焦点を据えるのは無理からぬこととおもえた。
独りで思案していても埒《らち》が明かないので、朋子は現場へ行ってみることにした。夫の遺体に対面したのは、解剖のために搬送された大学病院の屍体《したい》置場であった。
タクシーで、豊海|埠頭《ふとう》へ来た彼女は、東京にこんな場所があることを初めて知った。
地名は「町」と名づけられているが、隅田川河口を埋め立てて出現した人工の島である。
勝鬨橋《かちどきばし》を渡って晴海通りから清澄通《きよすみどお》りへ右折する。中央分離帯に仕切られた上下四車線の道路である。人工島の割に古びた商店街がつづいている。駐車禁止帯であるが、商店街保護のためにタクシーだけが駐車を許されていると運転手が言った。
家並みの間に倉庫が目立ってきた。一般車が減って大型トラック《コンボイ》が増えてくる。
コンボイの落とす食べ物を狙ってかハトの群が目立つ。
清澄通りは間もなく海に突き当たって行き止まる。そこは水産埠頭になっている。この埠頭から夫は車ごと落ちたのである。対岸に東京タワーの上部鉄塔や都心のビルの連なりが見える。その間を高速一号線の赤い橋梁《きようりよう》がのたうっている。モノレールが悠長に這《は》っていた。
日中なのでそれぞれの建物に灯が入らず、朋子の目には墓石の連なりのように見えた。荒涼とした東京砂漠の中に鉄筋コンクリート造りの巨大な墓石が視野を埋め立てている。午後の傾いた日射《ひざ》しを浴びて墓石の簇《むらが》りが白く輝いて見える。それを油の浮いた青黒い海が支えている。
それはそれなりに美しい光景と言えなくもなかったが、本来は、自然の白浜と青い海を侵蝕《しんしよく》して形成された人工の極致を見せつけるように、一種の邪《よこしま》な気配が風景を歪《ゆが》めている。
隅田川河口に貨物輸送用の艀《はしけ》が忙しく往来して澱《よど》んだ川面に航跡波を描く。艀の間を遊覧船がゆっくり溯《さかのぼ》って来た。隅田川が「死の川」と呼ばれて久しい。工場廃水の規制や家庭下水の浄化によって、汚濁はかなり防げるようになったとはいうものの、依然として悪臭の澱む瀕死《ひんし》の川であることに変りはない。
東京の墓石を支える死の川である。そしてそこが夫の死に場所となったのだ。朋子の目に東京の街衢《がいく》が墓地に映じたとしても不思議はない。
「ここの地名は住人のアンケートで豊海となったそうだよ」
人の善さそうな運転手が町名の由来をおしえてくれた。死の川と黒い海に囲まれ、背景に墓石を借景とした住民が、せめて地名に「豊かさ」をねがったのであろう。
魚一匹生息していないような黒い海に「豊海」と名づけた住民に硫化水素の悪臭の漂う死の街からの再生のねがいが感じられる。
左手(南)から東芝ビル、東京ガス、貿易センターと運転手が主な墓石≠フ名前をおしえてくれた。東京タワーは、東京ガスと貿易センタービルの間の中型ビルの広告塔に隠れてその上部のみ覗《のぞ》かせている。墓石の間の卒塔婆《そとうば》≠ニいった趣きである。
房総半島から東京湾を横断して羽田へ進入して来るジャンボの機影が見える。怪鳥のような機影はこの死の都会に引導をもたらす不吉な使者のようである。
羽田方面から埠頭《ふとう》へ戻した朋子の目にコンボイに轢《ひ》かれたハトの死骸《しがい》が入った。
そろそろ帰ろうとして車の方角へ戻しかけた足許《あしもと》に柔らかいものがまつわった。目を向けると毛足が長いエキゾチックな猫がまつわりついている。なにやら由緒ありげな猫であるが、ノラと見えて、長い毛が汚れ、もつれている。
由緒ある猫も捨てられれば、ただのノラである。むしろ由緒あるほうがみじめなのは、零落した人間と同じである。
「あら猫ちゃん、可哀想《かわいそう》に。ご主人はいないの」
おもわず声をかけるとしきりに鳴きながら身体《からだ》をすり寄せてくる。おっとりとして人なつこいのは、優雅な昔の暮らしを偲《しの》ばせる。
「この辺には、よく犬や猫を捨てに来るのです。大型がこぼしていくので餌《えさ》には不自由しないのと、海にでも落ちればいいとおもってやがるのかね。自分で海に投げ込むのよりタチが悪いよ」
運転手が憤慨した。
「弱ったわ。可哀想だけど、うちはマンションだから飼ってやれないのよ」
身体をこすりつけて哀れっぽく鳴きたてる猫に朋子は当惑した。
「情けをかけていたらキリがないよ。この辺はノラの巣だから」
運転手が安易な同情から拾わないようにと戒めた。だが実際に身体をすり寄せてくる猫を突き放せない。腹を空かせているらしい。汚れきった毛にゴミが付着している。毛先にぶら下がっている紙くずを毟《むし》り取ってみると、赤い子猫のシールであった。糊面《のりめん》が毛先に貼《は》りついたらしい。ふてぶてしくたくましいノラなら突き放せるのだが、見るからに名門の出らしい愛らしい猫が汚れ切って海の風に吹かれているのを見ると、置き去りにできなくなった。
「困ったわ」
朋子は動けなくなった。猫は逸速《いちはや》く彼女の心理を読んだらしく、ここを先途と鳴きたてている。忙しい運転手を猫のためにいつまでも引きつけておけない。
「どうしよう」
途方に暮れた体《てい》の朋子を見かねた運転手が、
「そうだ、お客さん、たしか都の施設に動物管理センターというのがあって、飼い主から捨てられた犬猫や病気になった動物を引き取ると聞いたことがありますよ」
「動物管理センター? それはどこにあるの」
朋子は耳寄りの情報に飛びついた。
「都内にいくつか支所があります。以前にも西部の支所にお客を送ったことがあります」
「おねがい。そこへ連れて行ってちょうだい」
朋子は救われたおもいがした。いま猫にほだされて連れ戻れば、情が移って別れ難くなるのは目に見えている。
だが、彼女の住居はペットの飼育を固く禁止している。規約に違反して飼った入居者がペットと離れられなくなって引っ越して行ったこともある。
いま情に負けることは、先へ行ってから動物にもっと残酷な結果となる。タクシーは世田谷の八幡山《はちまんやま》の環八沿いにある東京都衛生局動物管理|事務所《センター》西部支所へ行った。ここに事情を話して引き取ってもらうことになった。
ここには都内のノラたちが集まって来る。生まれたときからのノラもいるが、飼い主の都合で捨てられたノラも多い。人間のエゴの犠牲となった動物たちのために現代のお犬小屋≠ヘ設けられた。
交通事故の犠牲となった動物も運び込まれて来る。動物はここに六日間保護≠ウれて病気や怪我をしたものは治療を受けながら、飼い主が現われるのを待つ。だが飼い主と再会できる確率は低いという。
「六日間過ぎたらどうなるのですか」
との朋子の問いに事務所の係員は面をうつむけて「処分します」と答えた。朋子はその先を尋ねることができなかった。
だが都内都下で捨てられる膨大な数の動物を都が代って飼育することはできない相談である。因《ちな》みにその数は年間四万頭を超えるといわれる。せっかく拾い上げて動物管理事務所の保護に委《ゆだ》ねても六日間の処分日までの日数を稼いだだけである。朋子にできることはせめてその間に飼い主にめぐり会うわずかな確率に当たるようにと祈ることであった。
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放浪の終止符
無量小路一樹は、諸橋直之と宝井洋美の自動車心中≠ナ猫《ミチル》の死体だけが発見されないことに引っかかっていた。
猫だけ車外へ出て海の潮流に引かれてどこかへ行ってしまったのだろうと牛腸は説明づけていたが、無量小路には納得できない。
ミチルはどこかに生きているような気がした。おもえば不運な猫である。失踪《しつそう》後最初の保護者を強盗に殺され、第二の保護者の許《もと》からようやく飼い主の許へ返されようとしたとき、第二の飼い主が心中してしまった。もし牛腸の推測通り心中の道連れにされていたら、これ以上の不運はない。
諸橋と洋美の心中死体≠ェ発見されてから一週間ほど後、顔なじみの動物管理事務所の西部支所の斉木から電話があった。
「お宅から照会があったチンチラだがね、その後見つかったかね」
斉木は問いかけてきた。
「いや、まだですよ」
無量小路はいささか緊張して答えた。センターからの電話は該当する動物が見つかったという連絡が多いからである。先方からわざわざ町のペット捜索業者に連絡してくれるのは、相当の厚意であった。
「毛色の様子もかなり変っているので、ちがうかともおもうが、今日収容期限が切れたので愛護センターの方へ遣《や》ったよ。ちょっと気になったので連絡してみたんだ」
無量小路は愛護センターという言葉に凝然となった。そこは遂に飼い主との再会を果たせなかった、動物たちが送り届けられる終末処理場≠ナあったからである。
「いまから追いかければまだ十分間に合うよ」
無量小路のショックをやわらげるように斉木が言った。なぜもっと早く連絡してくれなかったとは言えない。動物の体形の特徴が失踪時《しつそうじ》とは変ってしまうことがあるので、手配書や写真を見ただけではわからない場合があるのである。
週一回、都内都下二か所のセンターに失踪ペットの写真を全部もって収容された動物と照合に行く。今回は行った直後にその猫は収容されたらしい。斉木は愛護センターへ送り出した後でどうも気になったので連絡したと言った。
厚意を感謝して、無量小路は白沢を連れて愛護センターへ車を駆った。
「ミチルだといいですね」
ハンドルを握った白沢が言った。
「うん」
「いったいどこで発見されたのですか」
「あ、聞き忘れた」
終末処理場へ送られたと聞いて慌《あわ》てたために肝腎《かんじん》なことを聞き忘れてしまった。ミチルの発見場所は捜査に重大な影響をあたえるだろうからである。
「とにかくいまはミチルを取り戻すのが先決です」
白沢はアクセルを踏み込んだ。
東京都所管の動物愛護センターは羽田空港と京浜島をはさんで向かい合った形の城南島にある。埋め立てられて造られた幾何学形の殺風景な人工島である。
島と島の間に入り込む海は運河となって東京が排《は》き出す黒い汚水を湛《たた》え、島にあるものといったら工場と倉庫と直線舗装路と雑草だけである。文字通り東京の最果ての地であり、東京とこの地の果てを結ぶ唯一の乗物はダンプカーである。一般車の影もない直線道路を土埃《つちぼこ》りを盛大に巻き上げながら往来している恐竜のようなダンプの上に、羽田空港に発着するジャンボが怪鳥のような翼の影を落とす。ここはまさに現代の「|失われた世界《ロスト・ワールド》」であった。
恐竜や怪鳥に怯《おび》えながら直線道路を進むと、道は突然行き止まる。その右手にしゃれたドライヴインのような建物が、非情緒的な空間の果てに唯一の人間的な終止符を打っている。
そこが目指す愛護センターである。ここで終末処理を受ける動物たちが、死刑囚が処刑直前にご馳走《ちそう》を食べさせられるように、最後の手厚い手当てを受けた後、種類別(おおむね、犬猫)に仕分けされ、炭酸ガスにより呼吸筋を麻痺《まひ》、窒息させられ、動物焼却炉で焼却される。搬送、麻痺、窒息、死体焼却の自動処理システムはオートメーションで行なわれている。
動物の苦痛の最も少ない方法で行なわれる終末処理は、同時に人間の精神的苦痛を最小限にするように工夫されている。
山根一男氏はその著書『東京のそうじ』(PHP研究所)の中で次のように書いている。
「人と大地の間に、犬猫が自由に徘徊《はいかい》できなくなった東京から、ウォーター・フロントの焼却炉が消えることはあり得ないと思われる。飼い主の、犬猫を見捨てる乾いた心がある限り、見捨てられた犬猫たちはゴミでしかなく、東京はそれを焼却処分するしか方法はないのである」
ミチルは際どい所で取り戻された。斉木からの連絡がもう少し遅れていたらたすからなかったところであろう。
ホッとした無量小路は、直ちに飼い主にミチルを発見、保護したことを伝えた。
「あら、いまごろ? もう見つからないかとおもっていたわ。それはどうもご苦労様」
だが依頼主の鶴間光子は、意外にも醒《さ》めた声であった。もともと愛情から捜索を依頼していたのではない。VIPから下賜された大切な猫が行方不明になったというのでは、VIPに対して申し開きができないので、依頼してきたものである。
無量小路は、せっかく命拾いしたミチルであるが、飼い主の許《もと》へ返されても幸福になれないような気がした。
だが、ペット捜索人は探すのが仕事であり、ペットの飼い方まで口出しできない。捜索業の限界が悔しかった。
ミチルの長い放浪は終った。これはペットの並みの放浪ではない。放浪の途上、強盗殺人事件と、殺人の疑いの濃厚な心中事件に際会しているのである。
猫は犯人を見ている可能性が強い。猫がしゃべれないのが悔しい。
ミチルを飼い主に返してから、無量小路は動物センターの斉木に無事取り戻したことを報告がてら、ミチルの発見者と発見場所を尋ねた。斉木の答えに無量小路は驚愕《きようがく》した。
諸橋朋子、発見場所は豊海|埠頭《ふとう》である。発見者の住所も心中の片割れに一致している。きっと諸橋の細君であろう。
宝井洋美の許から再び行方不明になったミチルが、洋美の心中パートナーの細君によって発見されたとは因縁である。
無量小路は早速、牛腸に自分の発見を伝えた。牛腸は驚いた。
「すると猫だけが車が海に突き落とされる前に車外へ飛び出したんだな」
「どうして警察の現場検証のとき見つからなかったんでしょう」
「そいつは無理というもんだよ。パトカーがわんわんやって来たんだ。猫も犬もびっくりして隠れちゃったのさ」
「細君はなんのためにそんな場所へ行ったのですか」
「そいつはこれから本人に聞いてみるが、旦那《だんな》が死んだ場所を自分の目で確かめたかったんだろう」
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脛《すね》の傷
ディスコ、エイリアンズでの聞込みを重ねるうちに「矢桐洋」という人物が浮かび上がった。エイリアンズの常連であり、遊び仲間から「若様」と呼ばれている。
この矢桐が、最近宝井洋美と急速に接近していたという聞込みが得られた。しかも井原こなが殺された二月十三日夜十時ごろ二人が連れだって店から出て行ったという証言があった。
「ヤケにお嬢様ぶった女と仲良くなって、私たちには見向きもしないのよ」
これまでの女のプレイメイトたちが多分に嫉妬《しつと》をまじえて言った。
矢桐の身辺を内偵調査した牛腸は驚いた。彼の父親は与党の大物|隴岡智定《うねおかともさだ》であった。閣僚経験もあり、現政権では政調会長をつとめている。
政調会長は政府の政策責任者で各省庁ににらみのきく人物でなければつとまらない。現政権を支える大番頭であり、与党内でも上位派閥のボスとして次期政権に対する有力候補の一人である。
矢桐洋は妾腹《しようふく》ながら、隴岡の後継者である。現在東京P大の学生である。大変な人物が浮上してきた。下手に突っつくと、上の方から圧力をかけてくる恐れがあった。
警察の上層部《ペタキン》は警察官僚ではあっても警察官ではない。彼らは「警察後」の余生を与党の政治家に面倒を見てもらわなければならない。警察上層部は、基本的には与党の政治家に頭が上がらない構造になっている。
さらに内偵を進めると、最近矢桐と、日本財界の名門、財津家の次女の間に縁談が進行している事実を知った。この縁談が成立すれば、隴岡の政治的野心は、資金面で強い裏づけを得るだろう。政財界に対する彼の重みもぐんと増すというものである。
両人が来春卒業の予定なので、その前後に挙式の予定ということであった。
牛腸には構図が読めてきた。矢桐の前に宝井洋美が立ちはだかった。デートガールとつき合っていた事実が、財津家に知られたら重大な障害になる。縁談そのものがご破算になるかもしれない。
だが矢桐を犯人とすると、いくつかの矛盾が出てくる。
矢桐の浮上によって捜査会議が開かれた。早速、その矛盾が指摘された。
「宝井洋美は、井原こな強殺一味とつながりがある疑いが強い。だが矢桐と強殺一味とはつながり難い。矢桐を洋美殺しの犯人と仮定すると、宮下を殺したとみられる強盗一味はどこへ行ったのか」
「宮下は、強盗一味に殺されたとは確認されていない。一味以外の者に殺された可能性もある」
これは、宮下由季が唱えた説でもある。だがそうなると強盗一味の行方はますますわからなくなってしまう。
「いかに矢桐の縁談にとって障害になったとしても、諸橋まで一緒に殺してしまうのは、乱暴すぎるとおもわないか」
「これまで強盗が、知りすぎた女の口を封じるために宝井洋美を諸橋もろとも殺したというのが、本部の大勢意見であったが、矢桐の浮上によってその大勢を再度見直す必要があるとおもう。強盗一味は知りすぎたという理由で洋美を殺したという説だが、洋美が口を割るということは彼女自身一味の一人として捕らえられることを意味している。
それにいつしゃべるかわからんような危険な女を一味に加えたというのも解《げ》せない。凶器が洋美の家に残されていたという矛盾も残っている。ともかく矢桐は、洋美に対して無色の位置に立てないことは確かだ。一応、矢桐には任意出頭を求めて事情を聴く必要があるだろう」
会議の事実上の指揮を執った那須警部が、両方の説を踏まえて言った。
捜査本部は、矢桐洋の任意取調べを決定した。警察から任意同行を求められて、矢桐はショックを受けたようである。任意であるので断わって断われないことはない。だが拒否すれば、自分の立場がさらに悪化することを悟ったらしく、彼は同行の求めに応じた。
任意性を考慮して、近くのホテルの会議室に場所を取って事情を聴くことにした。取調べに当たったのは練達の那須警部である。牛腸と草場がその補佐に当たる。
矢桐は虚勢と父親の七光りを背負って初めから態度が大きい。だが大きく構えた底に不安と動揺があるのを那須ら三人は見抜いている。
「今日はわざわざご足労いただきまして」
那須が息子のような年齢の矢桐に、低姿勢に言った。
「迷惑してるんです。なんで呼ばれたかわからない。警察に呼ばれるようなことはしていない。おやじに知られたら困ります」
矢桐は、さりげなく父親の威光をちらつかせながら恫喝《どうかつ》している。
「ごもっとも、ごもっとも。いえ、捜査の参考までにご意見をうかがいたいことがございましてな。ご協力いただければ、すぐにお引き取りいただきますよ」
那須はあくまでも如才ない。
「どんなことを協力すればいいんですか」
矢桐が那須の熟練ペースに引き込まれてきた。
「率直にお尋ねします。宝井洋美という女性をご存じでしょうな」
那須がひたひたと迫ってきた。あくまで穏やかな口調であるが、知らないとは言わせないぞという迫力がある。
「そんな女が遊び仲間にいたような気がします」
矢桐は渋々といった体《てい》で認めた。
「彼女がどうなったか、知ってますな」
那須が窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の底に鋭い光を集めた。
「なんでも男と一緒に車ごと東京湾に飛び込んで心中したとだれかから聞きました」
「新聞やテレビで派手に報道していましたが、ニュースは知らなかったのですか」
「あまりニュースには興味ないんです」
「しかし、彼女とはかなり親しかったご様子ではありませんか」
「親しいという意味の解釈によっては、親しかったと言っていいでしょう。でもあの程度に親しかった女は、なん人もいますよ」
矢桐は初めの動揺から次第に立ち直りつつあった。乳母日傘《おんばひがさ》の若様にしては、悪達者なところがある。父親の権勢を利用して自分を最大限に伸ばそうとする抜け目なさは、したたかですらある。
「それはお盛んですな。若い間はそれくらい元気がないといかん。なにせ私らは『男女七歳にして』の世代ですから、女の子に近づくのも恐《こわ》かったもんです」
「それはお気の毒でしたね」
矢桐に切り返す余裕がでてきた。
「あなたが親しかった女性の一人が、妙な死に方をされてお気の毒でしたが、彼女とはどの程度のおつき合いでしたか」
「どの程度といっても、ディスコで一緒に踊ったり、ドライヴしたりした程度です」
「なるほど。青春のお仲間ですな。彼女と心中したパートナーの諸橋という人物はご存じでしたか」
「ディスコのバーなどで何回か出会ったり、すれちがったりしたことはあります」
「彼の素姓は知っていましたか」
「どこかの若旦那《わかだんな》という振れ込みでしたが、そのうちにある会社の自由勤務社員だと漏《も》らしてました。もとの勤務に戻りたがっていたようです」
「宝井さんと諸橋さんは親しかったのですか」
「知りません。心中するほどの仲とは知りませんでした」
「あなたは二人が心中したとおもいますか」
「だって心中したんでしょう」
「警察は二人が殺害されたとにらんでいます」
那須は目に光を集めた。
「だ、だれが殺したと言うんですか」
矢桐の声が震えた。その問いにすぐには答えず、那須は、
「二月十三日深夜から、翌日未明にかけてどちらにおられましたかな」
と尋ねた。まず間接の容疑から核心へじわじわと攻め込んでいく戦法である。
「二月十三日……」
矢桐が咄嗟《とつさ》に対応できずに言葉に滞ると、
「独り暮らしのお婆さんが強盗に殺された夜です」
「そ、そ、そんなことがおれに、どんな関係があるんだ」
余裕をもって答えていた矢桐の態度が、崩れた。顔面が蒼白《そうはく》になり全身がこきざみに震えている彼は、井原こなの強殺事件になんらかのつながりをもっていることを態度で語っている。直接のつながりがないとしても、事件についてなにか知っていることは確かである。
宮下克司の死体が発見されて、それに付着していた猫の毛から、克司と金貸老婆強殺一味がつながった。宝井洋美の家から発見された凶器によって彼女も一味として指名手配された。これらの関連事実は報道されている。矢桐はニュースには興味がないと言いながら、報道に注意していたのであろう。
「関係があるともないとも言ってません。その夜そういう事件があったので、おもいだすきっかけになればとおもいまして申し上げたのです。宝井洋美は、その事件の容疑者として指名手配されておりました」
「おれがいつどこでなにをしていようと、おれの勝手だよ。あんたたちにとやかく言われる筋合いはない」
矢桐は興奮した。
「べつにとやかく言っておりません。ただ捜査の参考までに当夜どちらにおられたかおしえていただければたすかります。ご協力願えませんか」
那須はひたひたと肉薄した。
「そんな何か月も前のことを憶《おぼ》えていない」
「ですから、独り暮らしのお婆さんの殺された夜がヒントになりませんか」
「そんな関係ない婆さんが殺されようと、生き返ろうと、なんのヒントにもならないよ」
「あなたはその夜、六本木のディスコ、エイリアンズに行っていた事実が確かめられておりますが」
「なんだ、そこまで調べてあるんだったら、なにも聞くことないだろう」
矢桐は警察がそこまで調べていることに驚いた様子である。
「店を出たのは、午後十時ごろでした。その後、どこへ行きましたか」
「た、多分、ドライヴへ行ったとおもう」
「どちらの方面へドライヴしたのですか」
那須は一直線に追及した。
「そんなこと一々憶えていない」
「新宿区住吉町の方へ行きませんでしたか」
「婆さんには関係ないと言ってるだろう」
「ほう、どうしてそこが井原さんの住所だとご存じなのですか」
しまったと唇を噛《か》んだが、遅かった。
「そ、それは、新聞に出ていたからだ」
「たしかニュースには興味がないはずでしたな」
言い逃れたつもりが傷を大きく広げてしまった。だが那須はそれ以上|詮索《せんさく》せずに、
「それでは質問を変えましょう。四月十七日の午後六時以降、どちらにいましたか」
この日時以後、諸橋と洋美は消息を絶ったのである。これが本命容疑であるが、まず外堀を埋めておいてから内堀に取りかかる。
「それはアリバイ調べなのか」
矢桐の面から血の気が失われている。
「多少とも関係のある方にはみなお尋ねしていることです」
「人を犯人扱いするな。弁護士を呼べ。人権|蹂躪《じゆうりん》で訴えてやるぞ」
矢桐は追いつめられて、どなった。
「任意の事情聴取ですので、いつお引き取りいただいてもけっこうですよ。あなたを容疑者として扱ったことはありません。あくまでも参考人として事情をうかがっております」
那須が木彫りの面のような無表情になって言った。
「どうおもうかね」
矢桐が帰って行った後、那須は牛腸と草場の意見を問うた。
「くさいですね」
「私もそうおもいます」
二人は前後して答えた。
「まだ断定はできないが、少なくとも無色ではないね。やっこさん、脛《すね》に傷をもっているよ。まだ傷の程度が見きわめられないが」
那須が金壺眼《かなつぼまなこ》の奥で思案している。
だが、矢桐を仕留める止《とど》めの武器がない。
いまの段階では矢桐を逮捕できない。隴岡《うねおか》の子息となれば、慎重の上にも慎重さが要求される。
今日、矢桐を事情聴取に呼んだことを隴岡が知れば、必ずなんらかの圧力を加えてくるだろう。その意味で矢桐の聴取は時期尚早であったかもしれない。
「大丈夫、彼は父親には話さんよ。いま彼にとって最も恐しいことは、脛の傷を父親に知られることだ。警察部内から洩《も》れないかぎり隴岡が知る惧《おそ》れはあるまい」
那須は自信があるように言った。同時に隴岡が息子の脛の傷を知らないということは、それだけ矢桐の傷が深い事実を示すものである。
矢桐は、井原こな、および車転落偽装心中事件のアリバイを申し立てられなかった。前者のアリバイを要求される日時は狭く特定されているが、後者は幅が広い。後者の最も可能性が大きい日時は、消息を絶った日の夜である。
那須は、矢桐の容疑濃厚として当面矢桐の身辺調査を進めることを命じた。
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接触現場
矢桐が犯人であるなら、諸橋の車を突き落とした痕跡《こんせき》を自分の車につけているはずである。――という推定の下に、矢桐の家の近くから始めて都内の自動車修理業者、板金屋、塗装屋などをしらみつぶしに当たった。これで成果が得られなければ、捜索を都下から近隣県へ広げる予定である。
成果は間もなく現われた。世田谷区の修理工場で、四月二十五日、問題のBMWのバンパー変形を修理している事実がわかった。
修理台帳によると、前バンパー中央部が内側にへこみ、左端が後方へ曲げ変形したものを原形に戻す修理をしたということである。
「お宅へよく来る客ですか」
刑事は問うた。
「初めて来た客でしたが、若いのに凄《すご》い車に乗ってるとおもいましたよ。大した損傷ではありませんでした。横丁から飛び出して来た車と出会い頭にかすったと言ってましたが、まあ、そんなところでしょう」
業者は答えた。矢桐の車は、BMW325i。一七〇psを発揮する最強の直列《ストレート》六気筒二・五Lエンジンを搭載している。この強車の前では、五五〇ccの軽など、鷹《たか》の前の小雀《こすずめ》のようなものであったであろう。
「このBMWのドライバーは、なにか変った様子はなかったですか」
刑事は尋ねた。
「そういえば、なにかに怯《おび》えているようで落ち着きがなかったですね」
「怯えている?」
「いい車は、初めての所へは修理に出さないものなんです。轢《ひ》き逃げなんかした者が、現場と住居から遠く離れた所へ修理にもってくるんですが、人間の血肉は素人に洗い落とせるもんじゃありません。轢き逃げではないとわかったので引き受けたのですが、少し落ち着きが足りなかったようです」
業者は、BMWがなにかの事件に関係していると悟ったらしく、弁解調になった。犯行車と知りながら修理したとなると、証拠隠滅の罪に問われることがある。
矢桐の容疑はきわめて濃厚になった。逮捕に先立って、BMWを検《しら》べることになった。捜索許可状を取って車を綿密に検索したところ、重大な資料が発見された。
車室のリアシートの床に動物の白い毛が付着していたのである。
採取保存されて、井原こなの住居および、宮下克司の死体に付着していた猫の毛と対照検査したところ、ピタリと符合した。
捜査本部は色めき立った。もはや矢桐の容疑は動かぬところである。慎重に構えていた本部はここに逮捕状の発付を請求して、その発付を得た。容疑罪名は宝井洋美および諸橋直之に対する殺人である。
矢桐洋の逮捕をマスコミは派手に報道した。現政権党の大物政治家の息子であり、しかも容疑罪名がデートガールの殺害であるので、マスコミの過熱ぶりも無理からぬところである。
だが、矢桐はこれだけ証拠が揃《そろ》っているにもかかわらず頑強に犯行を否認した。
まず車体前部の損傷については、「運転中、誤って石垣にぶつけた」と答えた。だが、その石垣がどこかおもいだせなかった。
また車内から発見された猫の毛は、「宝井洋美とドライヴしていたとき、彼女が拾ってきた猫のものだ」と主張した。
――猫が井原こな婆さんの家から行方不明になったのは、二月十三日夜だ。その夜こな婆さんは強盗に殺されて、一味の宮下克司を殺した凶器が宝井洋美の家から発見された。その同じ夜に洋美とドライヴしていて、猫を拾ったと言うのかね――
「その通りなんだから、何度聞かれてもそれ以外の答えようがないよ」
矢桐は言い張った。
――それじゃ聞くが、凶器がどうして洋美の家から出たんだね――
「そんなこと知るもんか」
――あんたは洋美が井原家に押し入って強盗して、猫を拾い取り、一味の宮下を刺した間、おとなしくBMWの中で待っていたと言うのかね――
「おれは強盗なんかやっていない。殺人もしていない。何度言ったらわかるんだ。あの夜エイリアンズを洋美と出てから、赤坂のPホテルへ行ったんだ。ホテルを調べてもらえばわかる」
――たしかに当夜ホテルへ行っている。しかし午前零時半ごろチェックアウトしている。それから井原宅へ行ったんだろう――
井原こなの死亡推定時間幅は午前零時から二時間であるから、行けないことはない。
「行ってないよ。その後ドライヴして、洋美の家へ寄り、明け方になって家へ帰った」
――その間に洋美が猫を拾い、凶器を拾ったと言うのかね――
「猫は拾ったが、凶器は知らない。洋美が後でどこからか手に入れたんだろう」
――彼女がどこで手に入れたんだね――
「知らない。彼女とはその夜知り合ったばかりで、詳しいことはなにも知らないんだ」
――知り合ったばかりの女とホテルへ行き、その帰り彼女の家へ寄ったのか――
「べつに寄ってもおかしくないだろう」
――猫はどこでどうやって拾ったんだ――
「いつの間にか車の中に入っていたんだ」
――それじゃあまるで化け猫じゃないか――
「途中でトイレに行きたくなって停《と》めたんだ。用を足してしばらく行ったら猫の鳴き声がして気がついた。トイレに行っている間に入り込んだんだろう」
――そのトイレはどの辺かね――
「よく憶《おぼ》えていない。おれがその辺の空地で用を足したのだ」
――洋美も一緒に用を足したのか――
「まさか。車の中で待っていたよ」
――洋美は猫が入り込んで来たのに気がつかなかったのか――
「リアシートに入り込んでいたので気がつかなかったんだろう」
――洋美はどこに乗っていたんだね――
「助手席に決まってるだろう。おれの車をおれが運転していたんだ」
――あんたの車は4ドアだったね――
「そうだよ」
――すると、トイレに行くために運転席の前部ドアを開いたのに、猫はリアシートにいたと言うのかね――
矛盾を突かれて、言葉に詰まったが、
「そ、それはフロントドアを開いたとき、入り込んでリアシートへ移ったんだろう。猫は身軽だから」
――身軽だからねえ。猫に気がついてからどうしたのかね――
「洋美が可愛《かわい》い猫だから預かると言った」
――それで洋美の家へ連れ帰ったのか――
「そうだよ」
――車をどこの石垣にぶつけたかおもいだせない。どこで猫を拾ったか憶えていない。前のドアを開けたのに、猫はリアシートにいた。洋美がどこで凶器を手に入れたかわからない。要するに都合の悪いことは、すべて忘れたか、知らないということだな――
「でも、本当なんだ。おれは婆さんや強盗や、車心中とは一切関係ない。信じてくれよ」
――信じられないね。あんたは婆さんが強盗に殺された夜、宝井洋美とドライヴしていてアリバイがない。洋美は強盗一味の疑いが強い。そんなのとつき合っていた事実が露見すれば縁談がこわれる。そこで邪魔になった洋美を殺したんだ。その際一緒に車に乗っていた諸橋も道連れにさせてしまった――
「ちがう」
――どこがどうちがうのか言ってみろ――
係官にドンとデスクを叩《たた》かれて、矢桐は蒼《あお》ざめたまま言葉を失った。
矢桐は否認を通したまま検察庁送りとなった。その後の捜査の推移を牛腸《ごちよう》から聞いた無量小路《むりようこうじ》は、小首を傾《かし》げて、
「ちょっと解《げ》せないな」
と言った。
「これだけ証拠が揃《そろ》っていて、どこが解せないのかね」
牛腸が聞き咎《とが》めた。
「いくつかあります。まず、証拠と言いますが、車の損傷と、猫の毛でしょう。あとアリバイがないということ」
「それだけ重なれば、十分じゃないかね」
「しかし車の損傷は必ずしも、諸橋の車を突き落とした際につけたものとは限らないでしょう」
「だが、ぶつけた石垣をおもいだせないとはふざけているじゃないか」
「そういうこともあるかもしれませんよ。石垣でなくとも、おもいだしたくないものにぶつけたときは……」
「どういうことかね」
「たとえばどこかべつの所で轢《ひ》き逃げとか、それに類するような接触をしていれば、おもいだしたくないでしょう」
「轢き逃げをした痕跡《こんせき》はなかったよ」
「それに類することです。準ずるものと言ってもいい。よくあるじゃないですか、殺人容疑をかけられた男が、犯行時間帯に秘密の情事に耽《ふけ》っていたためにアリバイを申し立てられないという話が」
「つまり矢桐が準轢き逃げ行為をしたと言うのか」
牛腸の目が、興味の色を塗りつけている。すでに無量小路の推理の端倪《たんげい》すべからざることを何度も見せられている。無量小路に捜査の経緯《いきさつ》を打ち明けるのも、彼の知恵を借りたい牛腸の下心がある。
「原因を明らかにしたくない接触をしていることも考えられます」
「しかしね、殺人の嫌疑をかけられているんだよ。少しは都合の悪い事情があっても背に腹はかえられないと、たいていのことは話してしまうんじゃないか」
「どっちも腹だったら、かえようがありませんよ」
「きみは、矢桐が洋美と諸橋を突き落としたのと同じくらいのことを、どこかべつの所でやってると言うのかね」
牛腸はようやく無量小路の意味するところがわかったらしい。
「同等あるいはそれ以上のことをやっていたら、これはおもいだせなくなっても不思議はありません」
「そんな事件は発生していないな」
「金貸し婆さんが殺されていますよ」
「しかし、矢桐には婆さんを殺す犯人の適格性がないよ」
「宝井洋美を介して間接的に関わっている疑いはあります。ともかく矢桐が車心中の前に関わっている事件とすれば、とりあえず婆さん殺しです」
「わかった。その線をもう少し洗ってみよう。あとどんな点が解せないのかね」
牛腸がうながした。
「いかに縁談の障害になったからといって、無関係の人間もろとも海に突き落とすという発想ですね。どうも箱入りで育てられた矢桐にしては乱暴すぎるような気がするんです」
「箱入りだから、世間知らずでそのような短絡的な行動に出たんじゃないのかね」
「まあ、そういう風にも言えますが、デートガールとつき合っていても、縁談の致命的な障害にはならないでしょう。勲章には決してなりませんが、男がデートガールとつき合っていたからといって、まず破談にはならないとおもいます。それからの身持ちを慎めばよいことです。それを第三者を巻き添えにして殺してしまうというのが解せません」
「デートガールと将来を約束したというのはどうかね」
「本人が知り合ったのは二月十三日の夜だと言ってます。友人たちも二人のつき合いがそのころから始まったと言ってます。将来を誓い合うには性急すぎるような気がします」
「男と女が意気投合するのに時間は要らないよ」
「仮にそうだとしても、大勢のガールフレンドと遊びまわっていた矢桐が、特定の女に入れ揚げて誓い合うなどということがどうもピンとこない。まあ一目惚《ひとめぼ》れとか運命の恋とかいうのもありますが、冷《さ》めればデートガールなら金で解決できるんじゃありませんか。巻き添えもろとも殺す必要はまったくありません。デートガールになにか弱味でも握られていればべつですが」
「なるほど」
牛腸は無量小路の意見に引き込まれてきた。
「それに殺しの手口も解せない。ともかく彼らはつき合っていた。なにも他の男と一緒にいるときを狙《ねら》わなくとも、彼女と二人だけになる機会はあったはずです」
「それこそもろに疑いをまねいてしまう。他の男と一緒にやっつけてしまえば心中を偽装できるよ」
「そんな偽装はすぐに見破られてしまいます。サイドブレーキをかけた車で海に飛び込んで心中する者がどこにいますか。だいいち死んだ二人には心中する素地がまったくないのです」
「いやまったく指摘の通りだね」
牛腸はそれほど暑くもないのに額の汗を拭《ふ》いた。
「単なる素人の臆測《おくそく》としてお聞きください」
「素人どころか、刑事真っ青だよ」
だが、その素人意見を聞きたくてやって来たのである。
「臆測ついでにもう一つ言ってもいいですか」
「ぜひ聞きたいね」
牛腸は上体を乗り出している。
「宝井洋美はどうみても強盗一味のイメージではありません。彼女が二月十三日の午前零時半まで、正確には十四日になりますが、矢桐と一緒にいた事実が確かめられているのです。それから矢桐と相談して婆さんの所へ押し入ったとは考えられないのです。まして矢桐は強盗など絶対にする必要がありません」
「それで……」
「猫がいたでしょう」
「きみが最初に猫に目を付けたんだ」
「いやモーさんが猫はどこへ行ったと言いだしたんですよ」
「そうだったかね。ともかくきみが犯人が猫を連れていったと言いだしたんだ」
「連れていったか、従《つ》いていったかどちらにしても、猫はどこかで、矢桐と洋美の車に乗り換えたのです。二人が強盗でなければ。そして二人が強盗である可能性はほとんどないと言ってよいでしょう」
「猫が乗り換えただって?」
「そうです。そうとしか考えられません。強盗一味の車から矢桐と洋美の車に乗り換えたのです。乗り換えるためには両車が接触≠オなければなりません。この接触の意味は重大です」
無量小路が謎《なぞ》を呈示するように牛腸の目の奥を覗《のぞ》いた。
「そうか。きみは両車が接触、つまり衝突したと言うのか」
目を塞《ふさ》いでいた幕が取りはらわれたおもいがした。
「そうです。そのように考えると、散らばっていた矛盾が統一されます」
「矢桐の車のバンパー変形はこのときの接触によってつくられたというわけだな」
「そうです」
「しかし、矢桐がBMWを修理に出したのはそれから二か月以上も後だが」
「接触直後に修理に出せば、事件との関連を疑われます。冷却期間をおいたのですよ」
「その間に宝井と諸橋が車心中をした」
「だから矢桐は車心中には関係ないのです。そうでないと冷却期間をおけなくなります」
牛腸がうなると、無量小路は言葉をつづけた。
「一方は強殺の犯行後の動転で、片やほんわかムードのアベックで、どちらも運転が疎《おろそ》かになっている。この両車が出会い頭にぶつかった。強盗一味は、BMWに女と一緒に乗っている矢桐を見てますます頭に血を上らせる。因縁をつけてくる。このままではなにをされるかわからない恐怖に駆られた矢桐が、自衛本能から無意識にナイフを振った」
「き、きみは矢桐が宮下克司を刺したと言うのか」
牛腸はおもいもかけない無量小路の推理の展開に瞠目《どうもく》した。前に宮下由季が弟は「仲間以外の者」に殺されたのではないかと言っていたこととも符合する。
「その場面を洋美がしっかり目撃していた。矢桐の意外な反撃にあって強盗一味は宮下の死体をかついで車で逃走した。しかし自分たちも脛《すね》に傷をもっているので、警察にも病院へも行けない。止《や》むを得ず町田市の山林に死体を埋めた。
一方、初めての殺人で動転していた矢桐を洋美が励ましてひとまず自分の家へ連れて行きました。猫はこの刃傷沙汰《にんじようざた》の間に乗り換えたのでしょう。この時点では矢桐が相手を殺したかどうか確かめられていなかったとおもいます。後日、宮下の死体が発見されて、矢桐の殺人が確認されたのです」
「そうか、きみはさっきデートガールに弱味でも握られていればべつだがと言ったが、こういうことだったのか」
「そうです。洋美は矢桐の弱味をがっちりと握ったことになります。彼女が宮下を刺したナイフを保存しておいたのは、後日の恐喝に備えて材料を補強するためです。それだけの弱味をつかまれてはちょっと金で解決がつかないでしょう。骨までしゃぶられる恐喝の材料になります」
「見事な推理だよ。しかしそうなると、矢桐の洋美殺しの動機が強くなってしまうが」
無量小路の推理は、矢桐の洋美殺しの動機と猫の経路を完全に近い形で説明していたが、その前提となっていた矢桐の弁護論を覆《くつがえ》してしまうことになる。「石垣の忘却」と「第三者の巻き添え」の矛盾も、それだけの有力な動機があれば十分に克服される。
「そうなんですよ。それがあるので、ぼくも悩んでいるのです。洋美殺しに関しては全体的な印象として矢桐はシロなのですが、ぼくの推理を推し進めると、彼はクロになってしまいます」
BMWの修理を車心中に関わる痕跡《こんせき》を隠すためということになる。
「きみが推測したように、宮下を刺したのが矢桐と証明されれば、彼は洋美殺しの否認を通しても起訴されるぞ」
「どちらにしても起訴は免れないでしょう。でもぼくの推理が当たっていれば、矢桐に正当防衛は成立しませんか」
「洋美が生きていて有利な証言をしてくれればね。目撃者がいないと、かなり難しいな」
「目撃者はいないことはありません」
「目撃者がいるって?」
「強盗一味ですよ。宮下の死体を埋めた仲間がいるはずです。彼らはその場に居合わせたはずです。彼らの証言が得られれば、可能性があるんじゃありませんか」
「もっと不利になるかもしれんよ。ともかくきみの推理を会議に出してみよう」
無量小路は、推理を展開したものの、いま一つ自信がもてなかった。彼の推理は、矢桐の車と強盗一味の車が接触したという仮定に基いている。もし両車が接触していなければ崩壊する推理であった。
無量小路としては、ともかく接触地点を見つけたいところである。
その間もペット探偵局の本業は繁盛していた。マスコミに珍しがられて取り上げられたことと、発見率向上のための努力がようやく実ってきて、依頼が増えてきている。
同時に競争者も現われてきた。動物に対する愛情も知識もなく、安易にペット業界に入って来て、依頼主との間にトラブルを生ずる。そういう手合にかぎって発見率八十五パーセント、月商なん百万などと豪語する。
それらしい白衣を着てもっともらしく探しているように見せかけるだけで、実は金だけ取ってなにもしない。
こういう悪徳業者が現われる一方、飼い主のほうにも問題が生ずる。いわゆるペットとは鎖につないで餌《えさ》だけあたえておけばいいと考えている飼い殺し型が多い。
犬はもちろん、猫も部屋に閉じこめておくとノイローゼになる。ペットも人間同様生き物なのである。ところが車に轢《ひ》かれると器物≠ノなり、失踪《しつそう》すると遺失物≠ノなってしまう。彼らは法律的には物≠ノすぎないのである。
だがペットは人間の中に位置を占めている生き物である。人間と同等、あるいはそれに準ずる愛情をもてない人には、ペットを飼う資格がない。
世の中、動物が好きな人ばかりであるなら、ペット捜索業は楽な仕事である。だが大好きが二十パーセント、好意をもっている人十パーセント、嫌悪感をもっている人十パーセント、大嫌い二十パーセント、残りが無関心である。
明らかに失踪ペットが逃げ込んだとみられる家でも、リッチな家ほど非協力的である。ペット捜索に名を借りて、強盗押し込みの下見に来たのではないかというような顔をされる。
この点外国人の家は事情を話すと、家に入れてくれるだけでなく、捜索に協力してくれる。動物の好き嫌いは、子犬一匹見せただけではっきり現われる。
可愛《かわい》いと飛びついて来る人や、汚ない、臭いと言って眉《まゆ》をしかめ顔を背ける人など、対人間とちがって、動物に対してはポーズする必要がないせいか、好き嫌いの反応をはっきりと示す。動物に対する反応はその人間性の発露のようでもある。
だが動物好きの人がすべて人間好きかというと必ずしもそうではない。人間に裏切られて動物好きになった人も意外に多い。
また動物好き同士が仲がよいともかぎらない。まず犬派と猫派は性格的にも隔たりがある。同じ動物派同士でも自分の家の動物だけ猫可愛がり≠オて他家の動物には一片の関心も示さない人もいる。
自分の家のペットのライバルは虐待《ぎやくたい》したりする。ノラなどがペットに近づくと追いはらう。ペットに対する愛情が高じて、人間以上の愛を傾ける現代の犬|公方《くぼう》≠煬サわれる。
無量小路はこの仕事を通じてさまざまな人生を覗《のぞ》いた。飼い猫と離れられないためにペット禁止のアパートから追い出されて都内を転々とするホステス。
結婚前から飼っていた犬を婚家に連れて行って自分を取るか、犬を取るかと夫から迫られ、離婚した女性。
犬を連れて行けないため、海外転勤を拒否して会社を馘《くび》になった元商社員。
行方不明になった猫を十年も探しつづけている老女。
富裕な老夫婦の猫を誘拐して身代金を要求した高校生、など数え上げていくと、動物を軸とした多様な人生模様がある。
人間と動物は相互に関わり合いながら生きてきた。だが機械文明の飛躍的発達と、生活様式の変化は、確実に動物たちの生活の場を圧迫している。
乱開発によって蹂躪《じゆうりん》された自然は、野生の動物の棲《す》み家を失わせただけでなく、土地をコンクリートの建物と舗装道路で埋め立てた都会にペットが生きるスペースすら見つけ難くなった。
家は一戸建から団地、マンションへと集合化され、ペット飼育を禁止する。飼い主から捨てられノラ化した動物たちは、自分で生きて行けない。ペットのためのスペースすら拒否したこの鉄とコンクリートの都会に、ノラが生きつづけられる余地は、まったくない。
結局は動物自動処理システムに乗せられて終末処理される運命なのである。
無量小路の仕事は、失踪《しつそう》したペットを動物処理システムの手前で見つけて飼い主の手許《てもと》に返してやることであるが、それが本当に動物にとって幸福なのかと問われると、答えに迷う。
飼い殺しを拒否して自分から家出した動物を、再び鎖と檻《おり》の生活へ連れ戻すのは、動物たちの死ぬことの自由すら奪ってしまうのではないのか――という疑問が霧のように湧《わ》いてくるのである。
探偵局の「誓文」第二条に「私たちはなによりも飼い主の心情を理解し速やかに発見、保護することを優先する」と謳《うた》っているが、無量小路の本音としては、飼い主の心情を「動物の心情」と置き換えたいところであった。そのほうが、第一条の「私たち局員は、人間の永遠の友であるペットを通して広く社会に貢献する」という文言によりよく相応するものである。
矢桐が逮捕されて十日ほど過ぎた。矢桐は依然として否認を通しているようである。無量小路の説が捜査本部にどういう影響をあたえたか、その後牛腸の連絡がないのでわからない。
このままいけば勾留《こうりゆう》延長は免れないだろう。その日の捜索から帰って来ると、留守を守っていた細君が、
「東電から連絡があって剥《は》がし残したポスターがあるのですぐ撤去するようにと言ってきたわ」
と言った。東電は電柱の持ち主である。これを怒らせると電貼り広告ができなくなる。ポスターの下端に「一定期間を経過したとき係員が責任をもって剥がしますので、どうか少々の間ご協力ください」と刷ってある。
電柱のオーナーも、ペットのために大目に見てくれるのである。だがいまのように多数の中から剥がし忘れがでてくる。約束を破ってオーナーを怒らせると、捜索に重大な支障を生ずる。
「場所を聞いておいたか」
「聞いておいたわ。すぐにも行きたかったんだけど留守にできないので待っていたのよ」
「これから行ってくるよ」
「ご苦労様ね」
「これも仕事だよ」
無量小路は、一息つく間もなく飛び出した。捜索は、そのペットのテリトリーを徒歩で行なうが、そこへ行くまでは車やスクーターや時には自転車を使う。
その場所は新宿区の一角である。
ポスターは、ミチルのウォンテドであった。依頼人の鶴間家からも、井原婆さんの家からもあまり離れていない。やや広い通りと横丁の交叉《こうさ》する角の電柱に、そのポスターは剥がし残されていた。
風雨に晒《さら》されて、よくこれまで残っていたものである。無量小路は剥がしかけて、ふと目を電柱に固定した。ミチルのウォンテドに少しかぶさるようにして「求む愛人! OL、女子大生、未亡人、委細面談」のポスターが貼《は》られていたのである。電話番号も堂々と記入されている。大胆不敵なポスターであった。
愛人という文字に、宝井洋美の声が重なった。もし彼女がこのポスターを見たら、関心をもったにちがいない。
もしかしたら彼女はこのポスターを見て、ミチルのウォンテドが視野に入ったのかもしれない。彼女が電話してきたときは、ポスターの掲示期限を過ぎた後である。剥がし忘れたポスターが何枚もあったとはおもわれない。現に東電が言ってきたのは、この一枚だけである。
洋美は愛人募集ポスターのかげにあったミチルのウォンテドをなにげなく見て驚いた。自分の家でいま飼っている猫ではないか。
大家から追い出せと言われていたときでもある。救われたおもいで電話してきたのであろう。
ともかくポスターを剥がして、ついでに「愛人募集」のほうも撤去して事務所へ帰って来た。ホッと一息ついたところで、べつの疑問が湧《わ》いてきた。
たしか宝井洋美の住居は祐天寺の近くだった。祐天寺から新宿区の井原婆さんの家の近くになんの用事があって行ったのか。彼女がどこへ行ってもべつに不思議はあるまい。知人がいたのかもしれないし、所用があったのかもしれない。近くには大病院もテレビ局もある。
と自分を納得させようとしたが、どうも気になった。テレビ局や病院に近いが、駅からの順路ではない。デートガールと小住宅街の組み合わせがなんとなく違和感があるのである。
このごろ性の宅配便≠竍出張妻≠ネどと称してコールガールが独身男の家に出張って行くスタイルがあるそうだが、洋美が矢桐を咥《くわ》え込んだ後にそんなことをしたとはおもえない。
いったい彼女はどんな用事をかかえてあんな場所へ行ったのか。思案を集めていると、表の通りで急ブレーキの軋《きし》りが聞こえた。つづいて、「気をつけろ、バカヤロ」という罵声《ばせい》が聞こえた。
無量小路は、はっと目を上げた。宙に据えた目に、暗い横丁から飛び出して来た車が、やや広い通りを走って来たBMWと危うく衝突しそうになった場面が描かれた。横丁から来た車に、宮下克司はじめ強盗一味、表通りのBMWには矢桐と洋美が乗っている。
「そうだ。彼女は接触した現場を確かめに来たんだ」
おもわずつぶやいた無量小路を妻が、
「あなた、どうなさったの」
と訝《いぶか》しげに見た。
場所も接触場所として申し分ない。井原宅から近く、逃げるときの順路≠ナある。暗い路地を伝って逃げた車が、やや広い通りへ出たところでBMWと遭遇したのである。
宮下の死体が発見された後、矢桐をしっかり咥え込んでおくために、洋美は現場検証≠ノ行ったのであろう。矢桐が捕らえられるようなことがあっては、せっかくの大獲物をお上に没収≠ウれてしまう。そんなことのないように遺留資料でもないか確かめに行ったのだろう。
そうだ、彼女は宮下を刺した凶器を保存していた。生まれて初めて人を刺してうろたえた矢桐が、現場に残してきたナイフを回収に行ったのかもしれない。
このように解釈すると、洋美があの街角になんの違和感もなくおさまる。その後、無量小路に電話をかけてきた事実も、有機的に関連してくる。無量小路は自分のおもわくに満足した。
[#改ページ]
いなくなった犯人
無量小路《むりようこうじ》は、剥《は》がし残されたポスターのあった場所が接触場所であるとすれば、なんらかの痕跡《こんせき》が残っていないかと考えた。事件からすでに数か月経過している。なにかあったとしても、失われているだろう。
だがここを接触現場と考えた者は、無量小路以外にいないだろう。そんな痕跡に興味をもつ者はいないはずである。そこにわずかな可能性が残されているかもしれない。
無量小路は再度その場所へ来た。住宅街である。やや広い通りと横丁がT字型に重なっている。
広い通りは車の通行が多いが、横丁は閑散としている。猫がのんびりと横切った。その辺を探しまわったが、落ちているものは、紙くずばかりである。
「やはり無理かなあ」
無量小路はあきらめかけた。時間が経過しすぎている。
電柱のかたわらにゴミの集積所があり、紙袋を下げた浮浪者|体《てい》の男がゴミを物色している。このごろは浮浪者の服装がよくなり、一見したところでは、労務者と区別がつかない。
住宅街の集積所では食物は出ないので、粗大ゴミの中から使えそうな道具を探しているらしい。
無量小路はふとおもいついて、その浮浪者に尋ねた。
「あなたはこの辺によく来るのですか」
相手を恐れさせないために言葉遣いに注意する。浮浪者は、じろりと無量小路を見てうなずいた。よく見ると皮膚が垢《あか》じみている。やはり浮浪者にまちがいない。
「つかぬことを聞きますが、二月十三日の夜この辺に来ませんでしたか」
無量小路はわらにでもすがるような気持で問うた。このあたりに浮浪者の塒《ねぐら》になりそうな場所はなさそうである。
「ああ来たよ」
ところが浮浪者は意外にあっさりと言った。
「え、来た!」
無量小路が大きな声を発したので浮浪者が身体《からだ》をピクリとさせた。
「その夜、このT字路で車が衝突したとおもうんだが、気がつきませんでしたか」
無量小路は声を抑えて聞いた。
「旦那《だんな》、警察の人ですか」
浮浪者が姿勢を改めた。浮浪者はおおむね警察官を警戒する。
「いや保険会社の者だが」
咄嗟《とつさ》に答えた。交通事故に保険はつきものである。
「このごろ新宿が危《ヤバ》くなったんでね。こっちの方面に夜だけ逃げて来るんだよ」
浮浪者が言った。浮浪者が頻々と襲われる事件を言っているのである。
「それで二月十三日夜この辺でなにか見たり、気がついたりしたことはなかったですか」
「ちょうどこの角の手前に来たとき、横丁から出て来た車が、通りを走って来た車とバンパーがかすってけんかになってな、憶《おぼ》えているんだ」
目撃者にぶつかって無量小路は興奮を抑えるのに苦労した。
「それでどうしました」
「通りを走って来た車にアベックが乗っていて、横丁から来た車には若い男三人が乗っていたな。ヤクザみたいな連中で、アベックの男を引きずり出した。おれは恐《こわ》かったので逃げ出した。その後どうなったか知らない」
「三人組の顔や特徴を憶えていませんか」
「暗かったので、よく憶えていないよ」
糠《ぬか》喜びとはこのことである。浮浪者は、三人組の手がかりになるようなことはなにも憶えていなかった。アベックが矢桐と洋美であることはほぼまちがいあるまい。
がっかりして行きかけた無量小路を浮浪者が呼びとめた。
「旦那、あの家の人に聞いてみるとなにか知っているかもしれないよ」
と角の二階家を指さした。ブロック塀に囲まれた二階建の家で広い通りと横丁との角に面している。
「あの家がどうかしたのですか」
「気のせいかともおもうんだが、車がぶつかってけんかになったとき、あの二階の部屋の灯がちょっとついてすぐ消えたような気がするんだよ」
と浮浪者は言った。またかすかな手がかりの糸がつづいた。浮浪者がおしえてくれた家には、「森田」という表札が出ている。住所には、数年前の古い住居表示が出ている。この地の古い住人らしい。幸いにドアホンはついていない。ドアホンだと、門前どころか「門外ばらい」を喰《く》わされる。
束《つか》の間ためらってから、無量小路はおもいきってブザーを押した。六十前後の男が出て来た。この家の主が直接出て来た。
無量小路が名刺を差し出して浮浪者に聞いたことと同じ質問をすると、相手は警戒の色を浮かべて、
「あなたどうしてそんなことを聞くのですか」
と反問した。
「実はいま捜索中の猫が三人組の車に乗っていた状況がありまして」
「猫が……」
相手の面に興味の色が塗られた。無量小路は勇気づけられて、ミチルが三人組の車から接触時に矢桐の車に乗り換えた可能性があることを話した。
「猫の車の乗り換えか。面白い話があるもんだね。うちも猫を飼っているが、臆病《おくびよう》で家の外へ一歩も出たがらないよ。車を乗り換えるほど勇気があるといいね」
森田は猫好きらしく無量小路の仕事に興味をもったらしい。
「それで二台の車に乗っていた人間についてなにか憶《おぼ》えていらっしゃることはございませんか」
相手の興味につけ込んで質問も核心に入った。
「たしかにそんなことがあったな。夜半表の方が騒がしいので窓から覗《のぞ》いたら、四、五人のグループが集まっていた。間もなくけんかはもの別れに終ったようで二台とも走り去って行ったよ。翌日家の前を見たら血がこぼれていたが、特に殺傷事件の報道もないので黙っていた」
森田の言葉は、浮浪者の証言になんら新しい発言をつけ加えない。落胆して辞去しかけた無量小路に森田は、
「関係ないかもしれないけど、門の前に喫茶店のマッチが落ちていたよ。珍しい名前なので憶えている」
「なんという喫茶店ですか」
「マッハ23と刷ってあった」
「マッハ23」
「あるいは32かもしれない。マッチは血の上に落ちていたからけんかの後、朝発見するまでの間に落とされたんだろう」
森田は鋭い推理を働かせた。
マッチ箱は捨てられてしまったが、この聞込みは収穫であった。早速電話帳で調べると、「マッハ23」は新宿の歌舞伎町《かぶきちよう》にある。宮下がよく行っていた深夜スナック「ミニュイ」からも近い。
無量小路は手応《てごた》えを感じた。マッハ23のマッチは、森田家の門前にいかにも不似合である。それを運んで来た者が、矢桐のBMWと接触した?
マッハ23の常連の中に宮下克司の二人の連れがいるかもしれない。彼らは井原こな強殺の共犯の疑いが濃い。
無量小路はこれから先は牛腸《ごちよう》刑事に預けることにした。無量小路からマッハ23を手繰り出したいきさつを聞いた牛腸の目が光ってきた。大いに興味をそそられている眼の色である。
マッハ23はオートバイマニアの集まる店である。オーナーがロードレーサー出身だそうで、店内の壁や天井にはMVアグスタ七五〇S、ブルタコ・アルピナ二五〇、ハーレー・ダビッドソンFLH一二〇〇、ホンダRCB、スズキRG五〇〇などの世界の名マシンの写真が所狭しとばかり貼《は》りめぐらされていた。
バックサウンドもエグゾーストノイズを連想させるヘビーメタルである。
ここでの聞込みによって宮下と特に親しげにしていた大山と神岡という二人の若者が浮かび上がった。マッハ23のマスターが三人の頭文字を取って「大神宮」と一括して呼称していたことを証言した。
いずれも二十歳前後で、大山は予備校生くずれ、神岡は中卒後、しばらく暴走族に入っていたが、最近はフリーアルバイターを転々としていた模様だということである。
二人は井原こな強殺事件以後、姿を見せなくなった。マッハ23の常連の一人が、大山の住所を知っていた。刑事が行ったとき、大山は蒼白《そうはく》になってがたがた震えた。大山から神岡の居所も割れた。どちらも中流のサラリーマン家庭である。親は息子にかけられた重大な嫌疑に茫然《ぼうぜん》となった。
両人は捜査員の取調べに抵抗することなく自供した。
「婆さんを殺すつもりはなかった。婆さんが目を覚まして大声を出したので、ついうろたえてのどを締めた。殺したのは、宮下だ。
奪った金は三十万円だ。たった三十万円で婆さんを殺すことはなかったと宮下に怒ったのだが、もう手遅れだった。逃げ出す途中、アベックが乗ったBMWとかすった。格好つけた野郎が気をつけろとどなったので、女と一緒にいたぶってやろうと車から引きずり出した。男はやられるとおもったらしく、いきなりヤッパで宮下を刺した。まさかヤッパを出すとはおもわなかった。
咄嗟《とつさ》のことでびっくりしたおれたちは、宮下を車に乗せてその場から逃げ出した。病院へ連れて行きたかったが、そうするとおれたちの強盗殺人がバレてしまう。宮下は、車の中で死んだ。始末に困ったおれたちは町田市の山林の中に宮下の死体を埋めた。宮下が借りて来た車は二人でスクラップにして、いくつかに分けて山や河原へ捨てた。
おれたちが宮下を殺したんじゃない。殺したのは、BMWに乗ったアベックの野郎だ。格好つけたキザな野郎だった」
大山と神岡の自供は、まさに無量小路の推理を裏づけるものであった。宝井洋美は強盗一味ではなく矢桐洋のパートナーであったことも確かめられた。だが取調べ官がさらに、
「そのアベックの片割れの女と、諸橋直之という男を豊海|埠頭《ふとう》から車ごと東京湾に突き落としたのはおまえたちだろう」
と追及すると、それまで素直に供述していた二人が俄然《がぜん》頑強に否認した。
「そんな人間は知らない。東京湾に車ごと突き落とすなんてことはしていない。婆さん宅を強盗してから毎日生きた心地がしなかった。外へもほとんど出ていない。豊海埠頭なんてどこにあるかも知らない」
また両名については、宝井洋美と諸橋直之が失踪《しつそう》したとみられる四月十七日から、翌日にかけて家から外へ出ておらず、アリバイは成立したとみてよかった。
改めて矢桐洋が取り調べられた。大山と神岡の自供によって矢桐の容疑内容は大きく変ってきた。
大山と神岡が宝井洋美と諸橋直之の東京湾突き落としに関わりがなければ、矢桐の容疑は、宮下殺しを加重されて、さらに濃厚となる。
矢桐の立場はきわめて深刻であった。矢桐は峻烈《しゆんれつ》な取調べの前に遂に宮下を刺した事実を認めた。だが依然として洋美と諸橋の突き落としに関しては、否認を通した。
「洋美にはたしかに弱味を握られていた。このままでは一生涯つきまとわれるとおもった。だからといってまったく無関係の人間を巻き添えにして殺すほど血迷ってはいない。縁談の障害になるのはたしかだったが、同時に彼女は自分の正当防衛の大切な証人だ。そんな証人を殺してしまったら、自分の首を締めるようなものだ」と言い張った。
矢桐の供述は大山と神岡の自供と合致した。だが矢桐の申立てを認めると、洋美と諸橋の突き落とし犯人がいなくなってしまう。
だが事故や心中ということはあり得ない。必ず犯人はいるはずである。大山、神岡、矢桐のいずれもが犯人でなければ、犯人はどこかで笑っているにちがいない。
大山、神岡の逮捕と自供によって局面は大きく展開したが、その奥にまた大きな壁が立ちはだかっていた。
「いや弱ったね、犯人がいなくなっちまったよ」
牛腸が当惑しきった面持で無量小路に言った。大山、神岡の二人は井原こな強盗殺人、および宮下克司の死体遺棄、矢桐は宮下克司に対する殺人で起訴されることは必至であるが、宝井洋美、諸橋直之の車突き落とし偽装心中の犯人は不明である。
「たしかにいまの状況では三人を車心中に結びつけるのは無理のようですね」
無量小路は牛腸の話を聞いて言った。
「またきみの名推理が聞きたいんだ」
牛腸は本音を吐いた。
「どこかに見落としがあるとおもいますよ」
「面目ないが、それが我々には見えない」
「洋美と諸橋に生きていられては都合の悪い人物がいるはずです」
「矢桐にとっては洋美が鬼門《きもん》だった」
「同時に洋美は矢桐の正当防衛の重要な証人だったんでしょう。洋美が証言すればかなり有利なんでしょう」
「正当防衛と過剰防衛の間の微妙な所だとおもうけど、彼女が証言すればかなり有利になることはまちがいないね」
「まして矢桐にとって諸橋を殺す理由はまったくない」
「そこで諸橋そば杖《づえ》説が出てきたんだが」
「それを逆転させたらどうですか。動機は諸橋の方にあり、洋美がそば杖を食った……」
「その線でも調べてみたんだが、いまのところめぼしいものは浮かんでこない」
「整理してみましょう。この事件は三つの要素によって構成されています。まず(一)の要素がこな婆さんの強殺事件、(二)が宮下克司の殺人被害と死体遺棄、(三)が宝井洋美と諸橋直之の車心中です。(一)の犯人が大山、神岡、宮下、(二)の犯人が矢桐洋、死体遺棄に関しては、大山、神岡と判明し、それぞれ自供を得ました。(一)と(二)は明らかに関連しております。(三)だけ(一)と(二)との関連が不明です。(一)、(二)、(三)を通して共通の人物は、洋美です。洋美は(一)にも矢桐と共に途中から接触≠オてきております。(一)の犯人が洋美を殺すとすれば、逃げる途中に顔を見られたことが、唯一の殺人動機となります。しかし、洋美は、大山と神岡がこな婆さん強殺の犯人とは知らないはずです。自分たちが強盗殺人の犯人とは知らない人間にいくら顔を見られてもいっこうにさしつかえないはずです。
すると、(一)と(三)は切り離されてしまいます。少なくとも(一)の犯人は(三)の犯人にはなり得ない理屈です」
「なるほど、なるほど」
牛腸は感に堪えないように聞き入っている。
「すると、(二)と(三)の関連ということになりますが、矢桐の(三)の犯人適格性が十分ではありません。そこで、(三)を(一)と(二)から切り離して独立した事件とみることを考えるべきでしょうね」
その点は捜査会議でも検討されていたが、牛腸は無量小路の推理の赴くままにまかせている。
「犯人のターゲットが諸橋であったとすれば、洋美はそば杖《づえ》だったのか、あるいは両人ともターゲットであったのか。まだいまの時点では不明ですが、(一)、(二)、(三)の事件すべてに共通して登場しているものがもう一つあります」
「そんな人物がいたかね」
「人間ではありません」
「…………?」
「猫ですよ」
「あ、例の猫か」
「そうです。まずこな婆さんの家から強盗一味の車に乗って、次に矢桐の車に乗り換えて洋美の家へ行く。そこから諸橋の車に乗せられて危うく心中の道連れにされるところを逃れた猫《ミチル》ですよ」
「猫がなにか手がかりを咥《くわ》えているのかね」
「わかりません。しかし猫は(三)の犯人も見ているにちがいありません」
「猫がしゃべれたらなあ」
「この猫になんとかしゃべらせる方法はないものか、いま一生懸命に考えているのです」
「いま猫はどこにいるのかね」
「終末処分される際どいところで、私が保護して本来の飼い主へ返しました」
無量小路の推理をもってしても(三)の犯人は割り出せない。宮下克司の姉は、弟を殺した犯人を「仲間以外の人間」と推理して、それが的中した。
(三)の犯人も、これまでの登場人物以外の人間かもしれない。だがそうなると捜査網をもっと広げなければなるまい。
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猫のキャッチボール
「家庭の事情で飼えなくなったので引き取って欲しいとおっしゃるのですか。どんなご事情ですか」
動物管理|事務所《センター》の斉木は、またかといううんざりした表情で電話に応対した。
「事情はプライベートなことなので申し上げられません」
相手は中年の女性らしい。
「そういう理由では引き取れませんよ。私どもは、動物の引取り所ではないのです」
「動物愛護精神に則《のつと》って動物の面倒をみるというようなことがたしかパンフレットに書いてあったわよ」
「それは文意を勘ちがいなさっていますよ。私たちは広く都民に動物愛護精神の啓蒙を図ると共に、動物による危害を防止し人間と動物の調和のとれた共存できるまちづくりを目的としているのです」
「とにかく飼えなくなっちゃったのよ。動物管理センターが引き取ってくれなかったら、どこへもって行ったらいいのよ」
飼い猫が家庭の都合で飼えなくなったので引き取ってくれと、粘っている。こちらが承諾するまではテコでも引きさがらないぞという構えである。いつものことながら、人間のエゴに呆《あき》れるばかりである。それこそ人間の都合のいいときだけ猫可愛がり≠オて、都合が悪くなると、引き取れと泣きついてくる。
初めから動物を飼う資格のない者が飼った場合、悲劇なのは動物である。
「どのくらい飼っているのですか」
「そろそろ一年半になるわ」
「それじゃあずっと飼ってあげてください。一年半も一緒に生活したら、猫だってなついているでしょう。私どもが引き取っても、代わって飼ってやることはできないのです。結局処分しなければなりません。可哀想《かわいそう》だとはおもいませんか」
「可哀想だとはおもうけど、捨てるのよりはましでしょ。うちの猫はノラになって生きていけるようなたくましさは持ち合わせていないのよ。聞いたことなんだけど、処分は、動物に苦痛のないような方法で安楽死させるそうじゃないのよ。そのほうが動物愛護精神に則《のつと》っているわ」
「それは止《や》むを得ない最後の方法なのです。我々もできれば動物を殺したくない。しかし年間四万を超える終末処分にまわされる動物を飼うことは不可能なのです。一年半も飼ってきたのですから、これからもずっと飼ってやってください」
斉木は辛抱強く相手に説得をつづけた。
「ではどういう場合なら引き取ってもらえるの」
相手の意識には引き取らせることしかないらしい。
「飼い主が病気になったとか老衰して餌《えさ》をあたえられなくなったとか、飼い主が蒸発してしまったとか、捨てられて死にかけている動物を見かけたとかいう場合です」
「それじゃあそういうことにしてちょうだい」
「そういうことって、実際はそうではないのでしょう」
「いいえ。最初からそのように言えばよかったわ。実は道ばたで鳴いていた捨て猫が従《つ》いて来て困ってるのよ」
「だっていま一年半飼ったとおっしゃったじゃありませんか」
「あれは嘘《うそ》なの。一年半も飼った猫を引き取って欲しいと言えば、止むを得ない事情があると考慮してくださるとおもったのよ」
斉木はあいた口がふさがらなかった。ここまでエゴに徹した人では、引き取りを拒否すれば必ず捨てるにちがいない。それでは動物がかえって可哀想である。
「仕方がありませんね。それでは連れて来てください」
斉木は遂に折れた。
「あら、引き取りに来てくれないの」
相手は斉木の最大限の譲歩がまだ不満のようである。
件《くだん》の猫を連れて来た飼い主は、金鎖つきの眼鏡をかけた、いやにチャラチャラした服装をした四十前後の女であった。身につけているアクセサリー類も高価な品ばかりである。彼女の言う「家庭の事情」は、経済的な事情ではあるまい。
女は鶴間光子と名乗った。彼女が連れて来た猫を見て、斉木は「あれ」と首を傾《かし》げた。その猫にたしかに記憶があったからである。
白の長い毛足、緑色の目、雄のチンチラ。
「このチンチラはたしかペット捜索業者から照会があった猫ですよ。うちでいったん収容した後、動物愛護センターへ送ったんです。業者が動物愛護センターで危うく終末処理の直前に保護したという連絡がありました」
斉木はびっくりして猫を見つめた。動物捜索業者が保護したということは捜索の依頼があったということである。その猫を今度は引き取ってくれと連れて来た。
斉木はいったいどうなっているのかとおもった。
「そ、それは人ちがい、いえ猫ちがいじゃございません」
鶴間光子が少しうろたえた口調で言った。
「いえ、まちがいありません。名前をたしかミチルといった」
斉木が名前を呼ぶと、猫がニャーと反応した。
「ほらごらんなさい。答えたじゃありませんか」
「この猫は人なつこいのです。だれにでも愛嬌《あいきよう》を振り撒《ま》くんです。まるで節操がないんだから」
鶴間光子は、ますますうろたえた口調になった。
ともかく一応引き取ったが、斉木はどうも納得がいかなかった。動物捜索業者に失踪《しつそう》ペットの捜索を依頼するのは安金《やすがね》ではできない。
金をかけてようやく探し出したペットを今度は捨てに来た。斉木の長い職業経験でもこんなことは初めてである。
彼は愛ペット探偵局の無量小路に電話した。
「先日お宅が保護したミチルというチンチラだがね、あの猫その後どうしたかね」
「ご報告した通り依頼人《クライアント》へ無事返しましたよ」
「そのクライアントだがね、鶴間光子という人かね」
「あれ、よくご存じですね。クライアントの名前までは申し上げなかったとおもいますが」
無量小路の声が少し驚いている。
「そのクライアントがね、あのチンチラを連れて来たよ」
「どういうことですか」
無量小路は面喰《めんく》らっているらしい。
「家庭の事情で飼えなくなったので引き取ってくれと言うんだよ。強引においていった」
「な、なんですって!?」
無量小路は本当にびっくりしたらしい。
「まさか、猫ちがいじゃありませんか」
一拍おいて鶴間光子と同じようなことを言った。
「毎日犬猫の顔を見てメシ食ってるんだ。あれからまだ何日も経《た》っていない。猫ちがいはないよ。それに特徴のある猫だからね」
「これからすぐ行きます」
早速駆けつけて来た無量小路はミチルを確認して唖然《あぜん》とした。
井原こな婆さん、強殺犯人の車、矢桐の車、宝井洋美、諸橋直之の車、諸橋朋子と転々としてようやく無量小路に保護され飼い主の許《もと》へ返されたミチルが、飼い主本人から動物管理センターへ突き返されてきた。
「斉木さん、これはいったいどういうことなのですか」
「それはおれのほうが聞きたいよ」
斉木も意味がわからないといった体《てい》である。ミチルは無量小路を憶《おぼ》えているらしく、しきりに身体《からだ》をすり寄せて甘えかかっている。
その可憐《かれん》なしぐさが哀れである。首|斬《き》り台の手前で救出されたのが、また首斬り台へ送り返されて来て、もし猫に心があればどんな心境であろう。無量小路はふと胸が熱くなってしまった。
「斉木さん、この猫、私に預からせてください」
「そりゃかまわんが、この飼い主、いったいどうなってるんだろうねえ」
斉木の抑えた声の底に怒りがあった。
その夜遅く帰宅した鶴間明人は、バスルームで軽くバスを使い、妻が差し出した和服に着替えた。
退社後、若い愛人とホテルで慌《あわただ》しい情事をもった後、シャワーを使っているが、いつもの生活パターンと異なると情事が露見する恐れがあるのでカムフラージュのためである。
「お食事は?」
「すんだ」
食事を外で摂《と》っても、接待が多いので疑われることはない。むしろ食事を摂らずに帰るとうろたえるのである。
新婚旅行から帰って来て、いつまでも食事が出ないので、彼が催促すると「私がつくるの?」と言ったほどの妻である。妻としてなんの取得もないような女だが、彼女が背負ってきた持参金とコネが、今日の鶴間の地位の土台になっている。そして彼にとってそれだけで妻としては十分なのだ。
テレビの前のソファに寛《くつろ》ぐと、いつもと様子がちがうのに気づいた。彼が帰って来ると毛まりのように足にまつわりつくミチルがいないのである。
「ミチルはどうした」
鶴間が問うと、
「あら、あなたが捨てろとおっしゃったから捨ててきたわよ。私は捨てたくなかったんだけど」
光子が不満げに言った。
「うん、それでいい」
いったんうなずいてから鶴間は、
「それでどこへ捨ててきたんだね」
「都の動物管理センターよ」
「それはなんだい」
「都営の、捨てられた動物や飼い主が死んじゃった動物を引き取ってくれる所よ」
「へーえ、そんな施設があるのかい」
「最後は安楽死させてくれるそうよ。でもなかなか引き取ってくれなくって、大変だったのよ」
「どうしてだ」
「家庭の事情では引き取りの理由に該《あた》らないんですって」
「まあそうだろうな」
「それに、ミチルは同じセンターに、前に収容されていたんですって。ようやく飼い主の許《もと》へ戻ったのにどうしてまた引き取らせるんだってしつこく聞かれたわ。猫ちがいでどうにかごまかしてきたけど」
「いま、なんて言った」
さりげなく聞き流していたような鶴間の表情が改まった。
「家に連れ戻される前に同じセンターに収容されていたんですって」
「それは本当か」
鶴間が強い声を発した。顔色が完全に変っている。
「ああ驚いた。いきなり大きな声を出してどうなさったの」
「ミチルを引き取らせたセンターにミチルが収容されていたというのか」
「そこの係の人が言ったのよ。なんとかごまかしてきたけど、彼が言ったんだからまちがいないでしょ」
「どうしてそんな所へ引き取らせたんだ」
「だって他に引き取ってくれる所なんかないわよ」
光子は頬《ほお》を脹《ふく》らませた。
「おれは捨てろと言ったはずだぞ。そんな都営の施設なんかに預けろと言ってない」
「だって捨てたりしたら野たれ死にしちゃうじゃない。せめて安楽な死に方をさせなければ可哀想《かわいそう》じゃない」
「引き取らせるときにまさか名前や住所は言わなかっただろうな」
「なに言ってんのよ。素姓を明らかにしなければ引き取ってくれないわよ」
その言葉に、鶴間は蒼白《そうはく》になった。
「また飼い主が、あの猫を返してくれと言ってきた。いったいどうなってるんだろうねえ」
斉木から連絡を受けた無量小路は、斉木以上に混乱した。再び鶴間光子から連絡があってミチルを返してくれと言ってきたそうである。
「それでどうしました」
「あんたが引き取って行ったと言っておいたよ」
「私の所にはなんにも言ってきませんが」
「さすがに言い難《にく》いんじゃないのかね。あれだけ一生懸命捜させた猫を突き返したり、また再引き渡しを求めてきたりしたんだから」
「変ですねえ」
「本当に変な飼い主だよ」
無量小路と斉木が言った「変」という意味には微妙なニュアンスのちがいがある。
ようやく捜し出して飼い主の許《もと》へ連れ戻したペットを、動物管理センターへ突き返したというケースは、無量小路がこの仕事を始めて以来初めてである。
考えられるのは、失踪《しつそう》して捜索中に飼い主のペットに対する愛情が醒《さ》めてしまった場合である。無量小路がミチルを保護したことを鶴間光子に連絡したときの冷やかな反応から、考えられるケースではある。
しかし決して安くはない捜索費を支払い、「隴岡《うねおか》智定からもらった血統書つきの猫」という触れ込みで捜させた猫を「家庭の事情」から終末処分に委《ゆだ》ねたということが解せない。
それほどの高貴な猫をしのぐほどの家庭の事情とはいったいなにか。
光子は、それをプライバシーに関わるので言えないと拒んだそうである。
無量小路の中で疑惑が頭をもたげている。鶴間家にとってミチルを飼えない事情が発生したことは事実である。だがいったん管理センターに引き取らせてから、再度取り戻しに来た。それは引き取らせるにしても、センターではまずかったからであろう。
なぜまずいのか。センターでは引き取るときに斉木が、以前いったんセンターで収容したことを告げたが、それでも強引においていったそうである。
それが少し後になって事情が変った。変ったのは、鶴間光子が猫をセンターにおいて家に帰ってからである。彼女は帰宅してから猫をセンターに引き取らせたことを旦那《だんな》に告げたであろう。あるいは旦那が猫がいないのに気づいて、どこへ行ったかと細君に問う。後者の場合は彼女が旦那に無断でセンターに引き取らせたことになるかもしれない。
どちらにしても旦那はそれを聞いて、急遽《きゆうきよ》猫を取り戻せと細君に命じた。
この理由はとりあえず四つ考えられる。
@ 旦那が猫を愛していた。
A 旦那以外の子供や家族が猫を愛していて取り戻してくれとせがんだ。
B 高貴な猫なので勿体《もつたい》なくなった。
Cセンターに引き取らせたのがまずかった。
まず@Aのケースであるが、旦那や家族が可愛《かわい》がっている猫を彼らに無断で光子が捨てるということは考えられない。
Bは、彼女が捜索を依頼したときに「高貴な猫」を繰り返した。捜索費もかなり払っている。愛護センターの終末処理手前で危うく保護して手許《てもと》へ連れ戻したときも、割合|醒《さ》めてはいたが、気前よく費用プラス志を払ってくれて、ねぎらいの言葉をかけてくれた。猫が高貴であることは、百も承知のはずである。
後から勿体ながるくらいなら初めから捨てないだろう。
とするとCということになる。なぜセンターではまずいのか。
当然センターとしては、かなりの犠牲≠はらってようやく取り戻した猫を捨てに来たことに不審を抱く。その犠牲の中には無量小路の視点では井原こな、宮下克司、宝井洋美、諸橋直之も含まれている。
現に斉木は不審を抱いて、無量小路に連絡をしてきたのである。
そうだ。その不審がまずいのだ。だから慌《あわ》てて再度取り戻しに来た。だがそのときは、無量小路が引き取った後であった。彼の許へなにも連絡してこないのは、斉木が言ったように、さすがに言いだし難いからであろう。それともこれ以上不審を大きくさせないためか。
無量小路は鶴間光子に打診してみようかとおもった。だが下手に打診して彼女がミチルの返還を要求したら、今度はミチルの命が危ない。
鶴間家にとってミチルを飼えない事情が発生していたことはたしかである。そんな所へ連れ戻したら、今度は私設の処理業者へ引き渡して、あるいは自らの手で処分してしまうかもしれない。
「そうだ」
無量小路は、はたと膝《ひざ》を打った。ミチルの安全を保障し、鶴間の意向を打診するうまい手を考えついたのである。
無量小路は早速鶴間家に電話した。幸いに細君が在宅していて電話に出た。無量小路が名乗ると「あら」と言って電話口に身構えた気配が伝わった。彼が用件を言う前に「ミチルの一件」と悟った気配である。
「奥さん、お宅のミチルですが、いま私が預かっております」
無量小路が切り出した。光子は返答に困っているらしい。
「昨日、センターに寄りましたら、またミチルがいましたので、とりあえず私が預かっておきました」
なぜセンターへ引き取らせたのかとは、一切言わない。光子も言葉をさしはさむのを控えている。なんと言ってよいのかわからないのである。
「ご事情をお察ししましてミチルは私どもでお預かりします。商売柄、ペットを探している方がよく来られますので、よい方がいたらさし上げてもよいし、私どもで飼ってもよいとおもっております。高価な猫なので、奥様と、ミチルの実家の隴岡《うねおか》様の方へ一言ご連絡しておこうとおもいましてお電話した次第です」
「えーっ、隴岡先生に連絡しちゃったの」
案の定、電話口でのけぞった気配がした。
無量小路は笑いを怺《こら》えて、
「まだしておりません。これからするつもりです」
「困るわ、困るわ、困るわ。電話なんかしちゃ絶対だめよ」
光子は悲鳴のような声で言った。
「いけませんか」
「当たり前じゃないの。ミチルは隴岡先生からいただいたのよ。それを他の人にやっちゃったなんてわかったらまずいわよ」
「いえ、いただいたのではありません。センターで終末処理に送られるばかりになっていたのを私が保護したのです」
無量小路は意地悪く言った。光子は束《つか》の間返す言葉に詰まったが、
「とにかく隴岡先生にはなにも言わないでちょうだい。お願いよ。ミチルは家の猫よ。返していただきたいわ。それ相応のお礼はさし上げますから」
「お礼をいただく筋合いはありませんよ。今度はミチルの捜索を依頼されたわけではありません。また終末処理に出されると可哀想《かわいそう》なので、私が預かったのです。猫にも生きる権利があります」
「ちょっとまちがいがあったのよ。だからセンターの方にはすぐに取り戻しに行きたいと連絡したの。そうしたらあなたが預かったということだったので、いまお電話しようとおもっていたの。本当よ」
「ミチルがまたセンターに引き取られたり、捨てられたりするようなことがあると可哀想なので一応実家の方へ連絡しておいたほうがよろしいかと」
「もうセンターへ出したりしないわよ。あれはまちがいだったのよ」
まちがいでわざわざ管理センターまでペットを連れて来る者はいないが、光子は必死に陳弁に努めていた。無量小路はもしまた捨てたりするようなことがあれば隴岡に言いつけるぞと十分|恫喝《どうかつ》を加えた。
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ブロックサインは猫
無量小路《むりようこうじ》はミチルをそのまま手許《てもと》に留めておいた。
ミチルの所有権は、鶴間光子がセンターへ引き渡した時点で放棄したとみなすべきであるから、現在の所有権は無量小路にあるとみてよいだろう。
だが鶴間光子は、なかなか引き取りに来ないので送り届けると、渋々といった体《てい》で引き取った。そんな飼い主の態度が無量小路は不安であった。
無量小路の打診の結果、鶴間家がミチルの再引き取りを求めた理由は、Cの「動物管理センターに引き取らせたのがまずかった」という心証を得た。しかしそれをしたために、同所と無量小路により大きな不審を植えつけてしまったのである。
無量小路は、この情報を牛腸《ごちよう》刑事に伝えた。
「きみがその話を私にもってきたところを見ると、事件と関係ありとにらんでいるな」
牛腸の目が光った。
「牛腸さんはどうおもいますか」
「事件に関係ありとすれば諸橋の線だな」
「やっぱり牛《モー》さんもそうおもいますか」
「そのくらいだれでもおもうよ。その鶴間という人間は、諸橋の上司と言ったね」
「そうです。直属の上司で、諸橋に自由勤務を命じたのも鶴間だそうです」
「すると鶴間は諸橋との関係において、猫が不都合になった……これはどういうことなのかな」
「猫は危うく諸橋と宝井洋美の車心中の道連れにされかけたのです。もしここで犯人を鶴間と仮定してみましょう。鶴間が諸橋の車に猫が乗っていたのを知っていたとすれば、猫だけ助かって連れ戻されて来たのを見てさぞびっくりしたでしょうね」
「化け猫とおもったかもしれないね」
「鶴間が犯人だとすれば、猫だけ命拾いしたのもうなずけます」
「どういうことかね」
「猫は、飼い主を憶《おぼ》えていたのです。そこで突き落とされる直前に車から飛び出したのです」
「そして犯人の車の方へ駆け寄ったというわけか」
「犯人はそれに気がつかずに、諸橋の車を海へ突き落として走り去った」
「鶴間の動機はなにかな」
「それをモーさんに調べてもらいたいのです」
「鶴間と諸橋の関係、それから宝井洋美とのつながりを調べる必要もあるな」
これまでにも、諸橋の生前の人間関係を一応当たっていたが、諸橋と鶴間の関係を特にマークしていたわけではない。
まして鶴間と洋美の関係となると、まったく捜査の対象外であった。両者の間が無関係とすると、洋美は道連れにされたことになる。
「よし、これから的を鶴間に絞って調べてみよう」
牛腸は気負い立った。無量小路説を踏まえた牛腸の意見は捜査会議を動かした。
「猫だけで、一人の人間をマークするのはどうか」という消極意見もあったが、多額の費用をかけてようやく捜し出した「高貴な猫」を動物管理センターとの間でキャッチボールさせたのは、どう考えても不自然である。
鶴間明人は一流企業の要職にある身で、安易な身辺捜査は許されない。慎重に検討した結果、那須警部の判断によって鶴間の身辺内偵が決定された。
「なにか困ったことがあったらなんでもご遠慮なく私に相談してください」
鶴間明人は声をかけた。夫を突然失い、茫然《ぼうぜん》として我を失っていた諸橋朋子に鶴間は哀悼の言葉を告げると優しく言った。
単なる儀礼的な言葉ではなく、その後も鶴間はいろいろと厚意を示してくれた。諸橋の死は殉職とはいえなかったが、自由勤務中の死ということで規定の弔慰金や退職金が下りるようにしてくれたのも鶴間の口ききのおかげである。
「それにしても、諸橋君がどうしてデートガールなんかと心中したのかなあ」
事件後の警察の事情聴取や葬事の騒ぎが一段落したところで鶴間がなにげない口調で言った。
「警察では犯罪を疑っているようですけど」
「しかし諸橋君はだれからも殺されるような怨《うら》みをかっていませんよ。そのことは奥さんもよくご存じでしょう」
「デートガールのそば杖《づえ》を食ったという見方もあるようですけど」
「見方としてはね。これはぼくの責任でもありますが、ご主人はノーマルな勤務に帰りたがっておられましたね。ぼくは自由勤務は長期の視野で取り組まないと成果が現われないと言って彼の希望を抑えていたのです」
「リポートが少しも採用されないと腐っていましたわ」
「とてもよいリポートでした。すぐにも使えるアイデアやヒントがたくさんありました。しかし私は諸橋君ならもっとスケールの大きい収穫をきっと拾い取って来ると期待していたのです。彼の才能を小きざみなヒントやアイデアで使い減らしたくなかったのです。彼を発奮させ、その本領を発揮させるために、故意にリポートを取り上げなかったのです。しかしいまにしておもえばぼくの期待がご主人に想像以上のプレッシャーをあたえていたのかもしれません。いまさらお詫《わ》びしてもどうなるものでもありませんが、衷心よりお詫び申し上げます」
「部長さんの責任ではございませんわ。主人は結局弱かったのだとおもいます」
鶴間の手前そう言わざるを得なかった。
「自殺者は死を図る前に周囲に死のサインを出すと聞いていますが、なにかご主人が自殺を仄《ほの》めかすような言動をしたり、書きおきとかメモのようなものは残されていませんでしたか」
「警察からも尋ねられましたけど特に気がつきませんでした」
「奥さんご自身でご主人の遺品はお調べになったのですか」
「調べました。でもそのようなメモ類はございませんでした」
「ご主人は日記をつけていなかったですか」
「日記類は会社に提出するリポートだけでした」
「リポートは私も拝見しておりましたが、そんなサインはまったく見えませんでしたね」
「私、まだ主人が死んだことが信じられません。いまにもひょっこり帰って来るような気がして」
「お察し申し上げます。私も同じ気持です。あの元気なパワーに溢《あふ》れた姿を見せてくれるような気がしましてね。我が社は貴重な人材を失いました。諸橋君の穴は当分埋まりません」
鶴間のその言葉は空疎に響いた。諸橋が自由勤務に疑いをもつようになってから、「会社は体《てい》よく自分をラインからはずしたのだ」と漏《も》らしていたのを聞いていたからである。必要不可欠の人材をラインからはずすはずはない。それとも、疎外感に悩まされた諸橋の被害|妄想《もうそう》であったのか。
「結局、会社にはご迷惑をかけるばかりで、なんのお役にも立ちませんでした」
朋子は少し皮肉を言ったつもりである。
「とんでもない。諸橋君のおかげで会社はどんなに利益を受けたかわかりません。もしご主人の死の理由についてなにか手がかりになるようなものが現われましたら見せていただけませんか」
「ご連絡いたします」
そんな会話を交わしてからも、鶴間はしばしばその後どうしているかと連絡をしてきた。諸橋の死にかなり責任を感じて遺族の朋子の身の上が気になるらしい。
諸橋朋子は豊海|埠頭《ふとう》で拾った猫のその後が気になった。由緒ありげな毛並みの人なつこい愛らしい猫であった。
運転手に勧められるままに動物管理センターへ預けたものの、規定の保護期間に飼い主が現われなければ処分≠ウれるという。本来の飼い主とめぐり会えなくても、動物を飼いたいという人に採用≠ウれれば命拾いする。
器量のいい猫であったからきっと採用されたにちがいない。――と自分に言い聞かせた。もし採用されなければ、自分が猫を最終処理場へ送り込んだようでなんとも後味が悪い。
猫にも生きる権利がある。埠頭で彼女が拾い上げなければ、コンボイからこぼれ落ちた物を漁《あさ》って生きていけたかもしれないのだ。
自分が飼えもしないくせに要らざる仏心を出したものだから猫の生きる権利を奪ってしまったかとおもうと、なんとも寝覚めが悪い。
どうにも気になって仕方がないので、数日しておもいきって管理センターの方へ問い合わせると、
「ああ、あの猫なら飼い主が判明していったん元の鞘《さや》におさまったんですがね」
猫を連れて行ったとき彼女に応対してくれた所員が出たが、なんとなく歯切れが悪い。
「元の飼い主と再会したんだったらよかったわ。でも、いったん元の鞘におさまってからどうかしたのですか」
朋子は所員の歯切れの悪さが気になった。
「それが家庭の事情で飼えなくなったと突き返されて来たんです」
「まあ」
それでは「元の鞘」から「元の木阿弥《もくあみ》」である。
「それでは猫はいまそちらにいるのですか」
糠《ぬか》喜びに耐えて、朋子は聞いた。
「あの猫は家出していたのを飼い主から捜索業者に捜索を依頼していたものです。いま業者が一時引き取っていますよ」
いったん捜索を依頼した猫が無事に帰って来たのに、それをセンターに突き返した「家庭の事情」とは、どんな事情か。
だがセンターの所員はそこまでは知らない。彼女は所員からその業者の名前と連絡先を聞いた。行きがかり上、猫の行方と現在の境遇を確かめないと心が落ち着かない。
業者に電話をすると、
「諸橋さん、あの豊海|埠頭《ふとう》で亡くなられた諸橋さんの奥さんですか」
と相手から打てば響くような言葉が返ってきた。
「はい。でもどうしてご存じなのですか」
朋子は相手のシャープな反応に驚いている。
「この度は猫《ミチル》を保護してくださって有難うございました。ミチルというのは猫の名前です。センターから発見者のお名前とご住所を聞いてびっくりしました」
「なにか驚くことでもございましたの」
「ミチルが因縁のある方に保護されたからです」
ここで朋子は無量小路から初めて猫の奇《く》しき旅行経路≠ニ、自分との因縁を聞いた。ミチルの元の飼い主が鶴間夫妻ということが、彼女を驚かせた。
「そんな経緯《いきさつ》があったのですか」
朋子はなかなか初めの驚きから立ち直れない。猫もその因縁を本能的に悟って朋子に慕い寄って来たのだろうか。
「それでいまミチルはお宅にいるのですか」
「また鶴間家に引き取られておりますよ。私が連れて行ったのです」
「でも鶴間さんでは飼えない家庭の事情があるのでしょう」
「私もそれを不思議におもいましてね、飼えないくらいなら、家出したのは物怪《もつけ》の幸いと言うべきで、捜索を依頼するはずがありませんからね」
「その家庭の事情ってどんなことでしょう」
「私もちょっとそこまでは臆測《おくそく》を進めかねますが」
無量小路は牛腸刑事に、鶴間がミチルをセンターに突き返して来たのは、事件、諸橋の車心中に関係あるのではないかという推理を語っているのだが、諸橋の妻にその推理を話すにはまだ裏づけが十分ではないとおもった。
彼女は諸橋の妻である。未熟な推測を吹き込んで先入観で染め上げてしまってはまずい。
無量小路から猫の因縁を聞いた朋子は、どうも釈然としなかった。どう考えても鶴間の「家庭の事情」というのが解《げ》せない。無量小路に問うたが、言葉を濁らせた。彼にはなにか心当たりがあるらしいが、それを初めて電話で話し合った朋子に伝えるのを抑えたようである。朋子も押せなかった。
なぜ鶴間は捜索を依頼した猫が無事に戻って来たのに、センターに突き返したのか? 無量小路の説によると、猫は諸橋の車に宝井洋美と一緒に乗り込んでいたらしい。それが、車ごと埠頭《ふとう》から突き落とされる直前、猫だけ車外へ飛び出してたすかったという推理である。
しかしなぜ猫だけたすかったのか。動物の本能から危険を察知して咄嗟《とつさ》に車外へ逃れたと考えられる。だがそれだけだったろうか。もし猫を呼び寄せるものが車外にあったとしたら?
ここまで思案を追っていた朋子は、はっとした。猫が犯人を憶《おぼ》えていたら、猫が犯人の方へ行ったとしてもおかしくない。それが結局猫の命を救う結果になった。
そして犯人の顔に鶴間の顔がピタリと重なり合った。それは無量小路が辿《たど》った推理のプロセスと同じである。だが無量小路はそれから先へ行けなかった。推理をうながす手持ちの材料がなにもなかったからである。
鶴間を犯人と仮定すれば、動機はなんだろう。
ここまでおもわくを進めてきた朋子は、おもい当たることがあった。諸橋が自由勤務を鶴間から命じられた当初は喜んでいたが、次第に疎外感に悩まされ、ノーマル勤務への復帰を求めた。
だがそれを鶴間は許さなかった。自由勤務中提出したリポートは悉《ことごと》く採用されなかった。リポートが悪かったわけではない。現に彼が発見したアイデアを他社が製品化してヒット商品にしている。
鶴間が諸橋のリポートを握りつぶしていたらしい。そのことも諸橋の自由勤務の意欲を殺《そ》いだのである。
そのころ諸橋は朋子に漏らしたことがあった。
「おれはもしかすると鶴間部長の罠《わな》にはまったのかもしれない」
半ば独り言のようなつぶやきを朋子は聞き咎《とが》めた。
「部長さんの罠ってどんなこと?」
と朋子が問うと、
「いや、なんでもない」
と少し慌《あわ》てた口調で話題を逸《そ》らせた。いまにしておもえばあのときのつぶやきには重大な意味が籠《こ》められていたのではないのか。諸橋が車心中≠オた後、鶴間が精々表情を曇らせて哀悼の言葉を述べて、なにか自殺をにおわせるような書きおきやメモ類を残さなかったかと尋ねていた。それ以後も部下の家族の弔問や慰めの形でしばしば朋子を訪ねて来ている。
そのときは上司として当然の質問と関心とみていたが、あれは犯人の手がかりになるようなものが諸橋の身辺に残されていないか案じていたともとれるのである。
鶴間は夫になにか弱味を握られていた。そのために自由勤務の形で放逐した。そしてそれだけで足りず遂にこの世から放逐してしまった。まさかとはおもうが、このように考えると、夫の自由勤務や、その後の復帰拒否、車心中、夫の死後の鶴間のアプローチ、猫の足取りなどが、ピタリと一枚の納得のいく構図の中におさまるのである。
疑惑が黒い雲のように発達してきている。
諸橋はなにか鶴間の秘密を握っていたのではないだろうか。その秘密を表|沙汰《ざた》にされるのを恐れて、遂に車ごと諸橋を海へ突き落としてその口を永久に封じた? デートガールはそのそば杖《づえ》を食った……。
しかしその秘密とはなにか。鶴間は諸橋のメモやノート類を非常に気にしていた。
朋子は改めて夫の遺品を検索《チエツク》した。それは彼の死後、警察の調べを受けている。しかし、諸橋が明らかにそれとわかる形で鶴間の秘密を書き遺《のこ》していれば、その口を封じてもなんにもならないだろう。
諸橋自身が鶴間の秘密の証人であり、また生きていられては安閑としていられない事情があった。メモ類の有無を確かめたのは、鶴間の不安からかもしれない。
遺品を再チェックしたが、特に怪しそうなものは発見できない。あれば当然警察の網に引っかかっているだろう。
未整理の写真の束があった。写真はアルバムに撮影順に貼《は》っておくのだが、夫の生前数か月の分は未整理のまま残されている。写真の整理どころではなかったのである。
自由勤務中に撮った街の表情が多い。この写真も警察の目を通っている。一枚一枚見直している間に、朋子の目がその中の一枚に固定した。どこかの駅構内か、銀行、あるいはデパートなどの休憩ロビーに設けられた伝言板らしい。
「二十四時間経過したものは消去します」とノティスが出ているかたわらに、さまざまなメッセージが書かれている。おおむね待ち合わせに関するもので、先に行くとか、どこそこへ連絡せよとかいう類のものが多い。中には意味不明のものもある。当事者の間に決められたサインであろう。
そんなメッセージの間に猫を象《かたど》った赤いシールが貼られてあった。カメラの焦点はその猫シールを狙《ねら》ったらしい。猫シールが構図の中心にきている。
夫の死後、たしかに一度目にした憶《おぼ》えはあるが見過ごしていた。今回は鶴間家の猫のキャッチボールの一件があったので目にとまったのである。それだけではない。
朋子ははっとした。豊海|埠頭《ふとう》でミチルを発見したとき同じような猫シールを毛先にぶら下げていた。朋子はそのシールをミチルの形見≠ノ保存しておいた。取り出して比べてみると同種のシールである。
なにかこの写真に意味があるのだろうか。一見なんの変哲もない「街の伝言板」であるが、諸橋の興味を惹《ひ》いたので、カメラに収めたのであろう。
鶴間家の飼い猫と、猫マークのシール、なんの関係もないかもしれないが、猫が相前後して登場して来たので、気になった。
捜査本部では鶴間明人の身辺内偵を密《ひそ》かに進めていた。その結果、彼のおかれた社内での環境がおおかた浮かび上がってきた。
鶴間明人は社内で「鬼鶴」の異名を取る辣腕《らつわん》で、会社の次代を担う最有力株視されていた。現社長の姪《めい》が妻であり、その一族にも連なっている。結婚の媒酌をしたのが、当時通産省政務次官をしていた隴岡《うねおか》智定であった。
ところが、彼のアクの強い強引なやり方は、社内に反感を蓄えていた。上昇気流に乗っている間はそんな反感は踏みつぶしてしまうが、いったん下降の萌《きざ》しが見えると、日ごろ蓄積されていたものがメタンガスのように噴き上がって来る。
鶴間が重役会議でのかなりの反対を押し切って新たに手がけたオフコン(オフィスコンピューター)部門の不振で、その将来性にかけて採算を度外視した資本投下が裏目に出てしまった。
電卓やファクシミリのように早急に大衆化が進むわけではないから危険だという反対を、「オフコンが情報システムの中核的存在となるのは必至であり、事務機メーカーが情報産業の中でリーダーシップを取れる可能性のある唯一の分野だ。いまのうちに手がけておかないとバスに乗り遅れる」と説き伏せて、社長の承諾をもぎ取るようにして取り、始めたものが失敗した。
着眼はよかったのだが、社内の機運が実っていなかった。それだけにその反動は大きかった。これまで反撃の機会を狙《ねら》っていた反《アンチ》鶴間派が一斉に攻めてきた。
社運をかけたプロジェクトに失敗した鶴間の責任は重大である。開発本部長から新事業調査部付きという新たに設けられた有名無実の部署に移され、肩書も「部長待遇」に格下げされた。社内では「馘首《かくしゆ》に等しい左遷」と評する者もいた。
この時期が、諸橋が死んだ時期とちょうど相前後している。
諸橋の自由勤務も鶴間の先走った発想の犠牲と言えなくもなかった。そんなところから社内の同情が集まっていた。
肩で風を切っていた鶴間派の凋落《ちようらく》は覆うべくもなく、いまや完全にレースからはずされたと言ってよかった。
だが、鶴間はまだ白旗をかかげたわけではない。新事業調査部という窓際部署を逆手に取って、部内にコンピューターグラフィック研究会をつくって巻き返しを計っているという。
とにかく「鬼鶴」と異名を取った鶴間であるので簡単には引きさがらない。
「しかしプロジェクトに失敗したとはいうものの、弱味となるような秘密は発見できませんでした。地位を利用しての不正や犯罪も現在までの内偵では嗅《か》ぎ出せません。ホワイトカラーの犯罪は、組織ぐるみのものが多いので、探っているとたいていなにかにおってくるものですが、きな臭いにおいはありませんでした」
内偵チームは報告した。ホワイトカラーの犯罪は個人的なものは少ない。組織の盲点や地位を利用したケースが圧倒的に多い。
企業そのものの犯す不正もあるが、この場合は会社の利益のためにやったことである。これは社員にとって弱味にならない。経営者や役職者が犯す罪は、会社財産の横領や裏経理による秘密資金のプール、私的用途への社金の支出、リベートの着服、会社資金の流用、企業秘密の漏洩《ろうえい》、自己取引、などが多い。また偽装倒産や倒産時の会社財産の隠匿などがある。
獅子身中の虫の犯罪といえよう。
誇大広告や預金、株の超過発行、ダブル株、政治献金、脱税などは、会社ぐるみのケースが多い。
水増し請求や、社用接待の名目で私的遊興などはもっと地位の低いホワイトカラーの犯罪となる。
いずれにしても会社を舞台にしているので、一人でできる犯罪は少ない。これらの不正の中で、知られて幹部の弱味となるような犯罪となると、会社財産をさまざまな手段を弄《ろう》して取り込むものと、不正経理および業者との結託であろう。
不正の規模が大きくなるほど手口が巧妙になり、関与する人間(共犯者)の数が増える。同時に発覚の危険も大きくなるが、一人や二人の口を閉ざしてもどうにもならない。
ホワイトカラーの犯罪はめったなことでは殺人と結びつかないのである。
「鶴間が諸橋を殺したとすれば、致命的な秘密を握られたはずだ。しかも犯人は、明らかに一人を道連れにしている。無関係の一人を巻き添えにしても絶対に狙《ねら》った本命を取り除く必要に駆られていたんだ。女のほうの線が薄くなったいま、鶴間は目を放せない有力な線だよ。彼を徹底的にマークしろ」
捜査キャップの那須警部は指示した。
諸橋朋子は猫シールを撮影したスナップを牛腸刑事に提出した。
「なんの関係もないとおもうのですけど、猫が気になったものですから」
と朋子は言った。
「ご主人がこれを撮影したということはなんらかの興味を惹《ひ》かれたからにちがいないでしょうね」
「ミチルが同じシールを毛先にぶら下げていました」
朋子が形見≠ニして保存しておいたシールを差し出した。
「猫がぶら下げていた猫シールをご主人が撮影した」
牛腸は写真の意味を測るように言った。
「それにしてもこの場所はどこかな」
牛腸は写真の中に場所を割り出す手がかりを求めた。
「このスナップには手がかりを示すものは撮《うつ》っていませんが、ネガを探しましたら、同じ機会に撮影した一連のフィルムが見つかりました。その写真ももってきました。写真から判断すると、原宿から青山辺にかけてのようです。この地域にこの撮影場所があるとおもいます」
朋子は十数枚の街角のスナップを添えて出した。表参道から青山通りにかけての街頭の表情やファッショナブルな通行人のスナップである。
牛腸は感謝してそのスナップを預かった。彼はスナップを那須に見せた。
「なにかのサインにはちがいないね」
那須の金壺眼《かなつぼまなこ》の底が薄く光っている。
「たまたま諸橋朋子が例の猫を発見しただけに猫シールに引っかかったので、全然関係ないかもしれません」
「ないかもしれんが、あるかもしれんよ。鶴間を徹底的に尾行してみよう。この場所へ行けば、なにか関係あることになる。その前に場所を突き止めなければならんな」
「おおかたの見当はついておりますので、間もなく割り出せるとおもいます」
那須が興味をもってくれたので意を強くした牛腸は、草場刑事と原宿、青山辺の伝言板や掲示板のありそうな場所を探し歩いた。
撮影場所は青山三丁目に新築されたタワービル内の一階ロビーに設けられた伝言板であることがわかった。世界のファッションゾーンであるだけに、街のたたずまいも通行人も洒落《しやれ》ている。
だが地価の高騰《こうとう》で表通りにはビッグストアが軒を並べ、裏通りには地上げ屋が暗躍して昔の青山のおもかげは失われつつある。
タワービルも青山新名所として古き良き青山を削り取って建てられた超高層ビルである。
やや距離をおいて伝言板を見張ってみたが、べつに怪しげな気配はない。今日は猫シールが貼《は》ってない。
一方、鶴間明人には尾行が貼りついていた。まだ任意の捜査なので、察知されると人権問題になりかねない。捜査本部がその危険を冒して尾行作戦を決めたのは、それだけ彼に据えた疑惑が濃いことを示すものである。
実際、鶴間を疑うべき資料はなにもない。「猫のキャッチボール」から鶴間に疑惑を振り向けただけで裏づけるものはなにもない。
尾行といっても簡単にはいかない。左遷されたとはいえ、一流企業の幹部にはちがいない。これを任意捜査で当てもなく四六時中尾行するのは事実上不可能である。
したがって退社後や休日の私的行動を重点的に尾行することにした。
鶴間の大体の生活パターンは午前八時契約のタクシーで自宅を出ると、八時三十分には恵比寿《えびす》にある会社へ到着する。退社はその日によって異なるが、おおむね午後八時前後、週二回は銀座へ出る。行きつけの店は、六丁目と八丁目に数軒、特定の関係の女性はいないようだが、確認できない。帰宅は銀座へまわった夜は午前零時前後、直帰の夜は九時ごろである。
金曜の夜は早く帰宅する。土曜日は早朝から神奈川県や埼玉県のカントリークラブへゴルフに行く。日曜はたいてい家に閉じ籠《こも》って静養する。――というものである。
退社後とプライベートタイムを監視したが、特に怪しい気配もない。ゴルフも会社の人間と行く。社外の人間が加わることがあっても、取引先である。
尾行も無制限につづけることはできない。長引くほどに察知される危険が大きくなる。鶴間は与党の大物|隴岡智定《うねおかともさだ》との関係が深い。もし尾行に気づかれれば、上の方を通してどんな横槍《よこやり》が入れられるかわからない。
シッポをつかめないまま、尾行を打ち切ろうとしたとき、タワービルの伝言板に猫シールがいつの間にか貼《は》られているのが発見された。鶴間と猫シールの間になにかの関連があれば、彼は動き出すはずである。
緊張して監視を強めていると、その日の夜八時ごろ社を出た鶴間は、社屋の前から車を拾って都心の方向へ向かった。
連絡を受けて応援部隊が急行した。
表参道と青山通りの交叉点《こうさてん》の近くで車を捨てた鶴間は、青山三丁目の方角へぶらぶら歩いて行く。その先に光を塗《まぶ》したタワービルが聳《そび》えている。特に尾行を警戒している気配は見えない。
彼は、タワービルの正面入口から入った。ここで交代した牛腸、草場組が尾行を引き継ぐ。タワービルの内部には夜の遅い店が多くテナントとなっており、夜間の出入りが多い。
それらの人々の中に混じって鶴間は店を物色する振りをしながら、一階ホールの伝言板の前に立った。
「とうとう結びついたな」
尾行を引き継いだ草場が興奮を抑えて言った。鶴間は伝言板をさりげなく見上げると、再びビルの外へ出た。
伝言板には猫シールがまだ剥《は》がされずにある。
タワービルを出た鶴間はビルの前から再び車を拾うと赤坂方面へ向かった。彼が車を乗り着けたのはホテルニューオータニの本館正面玄関である。ここでまた尾行を河西、下田チームと交代する。
鶴間はフロントカウンター前を通り過ぎてロビーへ進んだ。このロビーは最近三倍に拡張されてゆったりしている。
ロビーには数組の客が屯《たむろ》している。外国人が数名、待ち合わせらしい和服の婦人と、サラリーマン体のグループ、最近珍しくなったサファリを着た中年の男などがそれぞれの位置に勝手な姿勢をしている。
鶴間はひげを生やしたドーナッツ型に禿《は》げあがった外国人と、和服の婦人の間に坐《すわ》った。ただぼんやりとソファに腰をおろして、べつに人待ち顔でもない。両隣りの外国人と和服の婦人とも赤の他人らしい。
遠方からそれとなく見張っていると、鶴間がやおら立ち上がった。そのまま速い歩度で新館との連絡廊下の方へ向かった。尾行をつづけようとする相棒の下田刑事の袖《そで》を河西がそっと引いた。
「彼が坐っていたソファの上を見ろ。なにか残しているぞ。きみは遺留物を見張っていてくれ。おれは鶴間を尾《つ》ける」
河西はささやくと、鶴間の後を追った。ソファの上にはひげの外国人との間に封筒のようなものが残されている。一見、鶴間の隣りに坐っていたひげ外国人のもののようである。だが、鶴間が坐るまで、ひげ外国人の脇《わき》にそんな封筒はなかったのであるから、鶴間が残していったものにまちがいない。刑事以外に鶴間の遺留品に気づいた者はいないようである。
下田が見張っているとも知らず、ひげの外国人が自分のもののようにその封筒に手をかけた。封筒を取り上げた外国人は、堂々たる足取りで鶴間が立ち去った方角と逆方向へ向かった。フロント前を横切り、正面玄関前のタクシー乗場の列に並んだ。下田は迷わず、ひげ外国人のすぐ後ろに従《つ》いた。幸いに客待ちタクシーの列もつづいている。
ひげドーナッツ禿《は》げ外国人は下北沢《しもきたざわ》に近い代田《だいた》六丁目の一軒の住宅の前で車から下りた。外国人が入って行った家の表札にはスホヴォ・ポミヤロフスキーと書かれてあった。
名前からしてソ連系外国人であることがうかがわれた。ポミヤロフスキーの身許《みもと》はすぐに割れた。彼は元モスクワ工科大学講師コンピューター担当で、三年前に対ソ貿易商社顧問の資格で来日滞在している。民間人の身分であるが、ソ連大使館にも出入りしている。警視庁公安部ではポミヤロフスキーをGRU(ソ連軍参謀本部情報部)機関員とにらんでマークしていた。
鶴間が札つきのソ連情報工作員と接触≠オた! 捜査本部は色めき立った。鶴間がソ連側情報工作員の手先となっていたとすれば、事件は殺人事件を越えて国際問題に発展しかねない。
「諸橋がなんらかのきっかけから鶴間の裏の顔を知ったとすれば、そしてその黙秘を贖《あがな》いきれなくなったとすれば、鶴間が諸橋の口を永久に塞《ふさ》ごうとしてもおかしくない。鶴間には殺人の動機がある」
という意見が捜査本部の大勢になった。鶴間の裏の顔が露見すれば、彼の社会的地位は完全に失われる。単に社内で失脚するだけでなく、日本人として裏切者のレッテルを貼《は》られ、社会から葬られる。
日本にはスパイそのものを処罰する法律はないが、スパイを憎む国民の意識は強い。鶴間がどんな経緯《いきさつ》でスパイの手先になったか、また果たしてそうであるのかどうか、まだ確かめられていないが、鶴間とポミヤロフスキーとの接触は事件の構造にまったくべつの光を投げかけるものである。
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グローバルな相互不信
鶴間明人がソ連情報工作員の手先ではないかという疑いが濃厚になると共に、彼の監視が強められた。
もしその疑惑が的を射ていれば彼はこれからもポミヤロフスキーと接触するはずである。現場を押えてうむを言わせぬ証拠《スパイの》をつかめば、そこから殺人を突き崩す可能性がある。
公安部と連絡を取りながら鶴間の二十四時間監視体制が組まれた。同時にタワービルの伝言板も見張られた。
六月三十日、伝言板に青マークの猫のサインが現われた。「青」は、どうやら取引きの安全を意味しているようである。とすれば今日鶴間とポミヤロフスキーの接触が行なわれるはずである。捜査本部は勇躍した。
数名をあらかじめホテルニューオータニのロビーに張り込ませる一方で、鶴間の社屋が見張られた。前回の経験から取引きは退社後の公算が大きい。
午後六時、鶴間は退社した。前回同様に表参道と青山通りの交叉点《こうさてん》近くで車を捨てた鶴間は、タワービルへ入って行った。さりげなく伝言板を覗《のぞ》いた鶴間は、公衆電話ボックスへ入った。
一通話ほどの後、ボックスから出た。タワービルの前から再び車を拾った彼は、六本木方面へ向かった。六本木の交叉点から高速三号線の下へ入った車は、東へ向かった。谷町で右折して全日空ホテルの構内へ入り込んで行く。猫の色はどうやら取引き場所を示しているらしい。
二階の正面玄関に下り立った鶴間は、玄関ホールを横切った。エスカレーターに乗って三階へ行く。ロビーは五角形の吹き抜けになっていて、広々とした空間に滝を模した人工流水が豪華な彩りを添えている。
鶴間は三階のバーへ入った。カウンター席と数組のボックス、ホテルのバーとしてはこぢんまりとしている。それだけに張込みがし難い場所である。時間がまだ早いせいか、客の姿は疎《まば》らである。鶴間はカウンター席に一人で坐《すわ》っている。隣席にさりげなくかばんをおいて席をキープしている。捜査員は二人ずつ交代でボックスから監視をつづける。
待つこと約三十分、ひげをはやし、ドーナッツ型に禿《は》げ上がったポミヤロフスキーが姿を現わした。鶴間が隣りのスツールからかばんを取り上げる。そこへポミヤロフスキーが坐った。二人はなんの言葉も交わさない。一見、未知の者同士が席が偶然隣り合ったようである。
ポミヤロフスキーが来ると間もなく鶴間がウエイターに会計を命じた。金を払って外へ出る。バーにはポミヤロフスキーが残された。
だが鶴間の立ち去った席にはなんの遺留品も見当たらない。鶴間はかばんをまた下げて行った。
「どうしましょう。二人をパクりましょうか」
張込み捜査員が指示を仰いだ。
「遺留品はなにもないのだな」
那須警部は念を押した。
「見当たりません。しかし我々の見えない所で渡していたかもしれません。あ、ポミヤロフスキーが立ち上がりました。どうしますか、行ってしまいます」
「待て。下手にしょっぴくと国際問題になる。うむを言わせぬ取引きの現場を押えられないかぎり手を出すな」
那須は部下を制止した。ポミヤロフスキーは一見民間人の資格で入国しているが、その背後にソ連大使館があることは明らかである。
もしかすると尾行を察知されたかもしれない。いまにしてタワービルの電話ボックスからかけた一本の電話が気になった。両名を尾行したが、そのままそれぞれの家に帰った。
落胆していた捜査本部に意外な方角から奇妙な情報がもたらされた。
同じ日|無量小路一樹《むりようこうじかずき》はペットホテルに保護した猫を預けに行った。ようやく探し当てたペットをペットホテルに預けるというのは奇妙な話であるが、当日依頼人の遠方の親戚《しんせき》に不幸があり、数日不在にしなければならないのでペット専門のホテルに預けておいてくれという指示をうけたのである。
「やっと飼い主の所へ帰れるとおもったのに生憎《あいにく》だったな」
しきりに体をすり寄せて甘える猫をホテルに預けて出ようとしたとき、かたわらの檻《ケージ》(客室と呼んでいる)から聞き憶《おぼ》えのある鳴き声が聞こえてきた。
「あれ、ミチルじゃないか。おまえ、なんでこんな所にいるんだ」
驚いた無量小路が声をかけると、ミチルが客室≠フ窓から鼻を出してさらに激しく鳴いた。命の恩人≠フ無量小路を憶えているらしい。
「その猫をご存じでしたか。少し前に預かったばかりです。休憩です」
ホテルの係が答えた。
「へえ、ペットにも休憩があるのですか」
さすがの無量小路も驚いた。これではラブホテル並みではないか。それにしてはパートナーがいない。
「最近多いんです。主人が食事や買い物などで動物を連れて入れない場所へ行くとき、時間決めでお預かりしてます」
「なるほどね、そういうこともあるだろうな。鶴間の奥さん、いったいどこへ行ったのかな」
無量小路が独り言のようにつぶやいたのにホテルの係は、
「いえ、そういうお名前じゃありませんよ」
と言葉をはさんだ。
「いや、ミチルの飼い主は鶴間さんですよ。行方不明になって私が探し出したのでよく憶《おぼ》えているんです。金の鎖つきの眼鏡をかけたちょっと派手な感じの奥さんでしょう」
「そうです。でもそういうお名前ではありません」
ホテルの係は言い張った。
「じゃあなんという名前ですか」
「外国の名前です。ポミヤロフスキーさんとおっしゃいました。後でご主人が引き取りに来られるとかで」
「ポミヤロフスキー? 聞いたことのない名前だな。その奥さん、本当にそんな名を言ったのですか」
「ご本人がここにレジスターしてありますからまちがいありません」
無量小路はどうもよくわからなかった。鶴間とポミヤロフスキー、偽名にしてもまったく結びつかない。咄嗟《とつさ》に偽名を使う場合は、どこかに本名との関連が現われるものである。友人知己の名前を借りることもあるが、外国人というのは珍しい。
それにペットをホテルに預けるのになぜ偽名を使う必要があるのか。無量小路に持ち前の好奇心がむくむくと湧《わ》いてきた。
なにかありそうである。
「旦那《だんな》が引き取りに来ると言ったんですね」
「そうです」
すると、偽名は鶴間のために使ったことになる。鶴間は猫の引き取り時に本名を出したくなかった。なぜか?
いやそれよりも夫婦の飼い猫をなぜ妻が休憩に出して夫が引き取りに来なければならないのか。そこまで思案して無量小路ははたと膝《ひざ》を打った。
ポミヤロフスキーは偽名ではない。いや偽名であるとしても引取人の名前なのだ。鶴間夫人はペットホテルを利用してポミヤロフスキーなる人物にミチルを渡そうとしているのである。
それならなぜ直接渡さないのか。無量小路がミチルを再度送り届けたとき、またセンターへ出すようなことがあれば隴岡《うねおか》に言いつけるぞと脅しておいたが、無量小路が今日、このペットホテルへ来たのは、まったく偶然である。無量小路が来るということを鶴間光子が知っていれば、ミチルを預けなかっただろう。預けるにしても他のホテルを利用したはずである。
「どうもよくわからん」
無量小路は首を振った。ただしきりに胡散《うさん》くさいにおいがしている。「猫の休憩」の裏にはなにか一枚隠されている気配がするのである。無量小路は牛腸《ごちよう》刑事に連絡を取った。牛腸は無量小路がびっくりするような反応を送ってきた。
「なんだって! たしかにポミヤロフスキーという名前なんだな」
「そうですよ。ポミヤロフスキーがどうかしたのですか」
「説明している閑《ひま》はないんだ。それで猫はまだいるのかね」
「いますよ」
牛腸は電話口にホテルの係員を呼んで、ポミヤロフスキーが猫を引き取りに来たら警察が駆けつけるまで口実を構えて引き渡しを延ばすように要請した。
下手をするとポミヤロフスキーに逃げられるので、その間の芝居が難しい。だが、幸いに牛腸らが駆けつけて来る前にポミヤロフスキーは現われなかった。
「まだ来ないか」
牛腸は姿を現わすなり開口一番言った。
「まだです」
「よかった」
ホッと一息ついて、手早く張込みの手配をする。警察のものものしい気配を見ても、ポミヤロフスキーがただのねずみでないのがわかった。張込みの網を張り終ったところで牛腸が絵解きをしてくれた。
「鶴間がソ連のスパイの手先とは!」
無量小路もびっくりした。
「まずまちがいない。諸橋は鶴間の秘密を知って消されたのだ。最初はなにげなくつき合っていたんだろうが、深みに引きずり込まれたんだな。だから、鶴間のスパイの証拠をあげたい。それが殺人の動機なんだ」
「ミチルにその証拠が隠してあるというんですね」
「いま、確認をしたいが、いまにも現われるかもしれない。二時間ほど前に鶴間とポミヤロフスキーが全日空ホテルで接触したが、そのときはなんの取引きもしなかった。尾行を察知されたとはおもわないが、なんとなく危険な気配を感じ取ったんだろう」
「それにしても鶴間がソ連のスパイとは」
「そうであったとしてもおかしくない。彼はオフコン部門を担当して最先端技術を扱っている。ソ連情報工作員に取り込まれたのだ」
張込みを開始して二十分ほど後に頭がドーナッツ型に禿《は》げたひげの外人が姿を現わした。彼はホテルのフロントに行くと流暢《りゆうちよう》な日本語で、
「私はポミヤロフスキーです。家内が猫を預けているはずですが、引き取りたいのです」
と言った。警察から言い含められていたフロント係は、
「ペットのお名前は」
とさりげなく聞いた。
「ミチルといいます」
「どうも有難うございました」
フロント係は客室《ケージ》からミチルを取り出してポミヤロフスキーに引き渡した。ポミヤロフスキーはミチルの首に首環がついているのを確かめると、規定の料金を支払い、猫を用意してきたバスケットに入れた。
そしてホテルの外へ出ようとした矢先、牛腸と草場に左右をはさまれた。前方には下田が立ち塞《ふさ》がっている。ギョッとなって振り返ると河西に退路を塞がれていた。それをさらに公安の刑事が取り巻く。
「ポミヤロフスキーさんですね。署まで同行ねがいます」
牛腸の言葉をポミヤロフスキーはわからない振りをした。フラッシュが閃《ひらめ》き、猫を入れたバスケットを手に下げている姿を撮影された後、
「このバスケットはちょっと預からせていただきます」
と草場がバスケットを取り上げた。ポミヤロフスキーの面に絶望の色が濃く塗りつけられた。
任意同行を求められたポミヤロフスキーは取調べに対して徹底的にシラを切り通した。ミチルの首環にくくりつけられた鈴の中からマイクロフィルムが出てきた。マイクロフィルムにはコンピューター関係の最先端技術情報が写し込まれていた。
だが、ポミヤロフスキーは、
「猫の鈴にそんなものが入っていたのは、まったく知らない。私は猫が好きなのでもらっただけだ」
と言い張った。
「それではだれが鈴にフィルムを入れたのかね」
「そんなことは知らない」
「シラを切っても無駄だ。あなたがGRUの要員であることはわかっているんだ。あなたは青山タワービルの伝言板を使って日本人協力者の鶴間明人と連絡を取り合っていた。赤の猫シールはニューオータニ、青猫は全日空ホテルで落ち合うというサインも取り決めてあった」
「なんのことだかわからない」
「これでもわからないと言うのかね」
取調官から両所で鶴間と接触している場面の写真を突きつけられても、
「偶然席が隣り合っただけだ。どこのだれか知らない」
あくまで言い逃れようとするポミヤロフスキーに、
「これはおかしなことを聞くものだ。この広い東京でどこの何者か知らない人間とわずかな期間に席が二度も隣り合うという偶然があるのかね」
「そんな偶然があってもおかしくないだろう。事実は小説よりも奇なりと言うだろう」
「それでは聞くがね、小説よりも奇な事実のおかげで、二度席が隣り合った偶然があったとしよう。しかし、その隣り合ったどこのだれとも知らない人間の細君から猫をもらったと言うのか」
問いつめられて、ポミヤロフスキーは答えに窮した。
同時に鶴間夫妻も捜査本部に出頭を求められた。彼らはそれぞれ別室で取調べをうけた。
捜索令状が取られて、鶴間のマイカーが検索されている。
鶴間光子は夫の指示に従って猫をホテルに預けたことを供述した。
「ご主人はなんのために猫を預けさせたのですか」
「ポミヤロフスキーさんから数日猫を貸してくれと頼まれたと言ってました」
「ポミヤロフスキーさんをご存じなのですか」
「主人が家に何度かお招きしたことがあります」
「なんのために猫を貸したのですか」
「ポミヤロフスキーさんの飼い猫が死んで寂しくてたまらないとおっしゃるので、少し貸してやるのだと言ってました」
「なぜ直接渡さなかったのですか」
「ポミヤロフスキーさんがそのほうが都合がよいとおっしゃったそうです」
「奥さんは猫の鈴になにか入っていたのを知っていましたか」
「いいえ」
「鈴が鳴らないのを変におもいませんでしたか」
「そういえば鈴が鳴らなかったわね。あの鈴と首環は主人がポミヤロフスキーさんに貸すためにつけたものです」
「それでは、それまで首環と鈴はつけていなかったのですか」
「つけていません」
どうやら鶴間光子は事情を知らぬまま道具として利用された様子である。
一方では鶴間明人に対する取調べが進行していた。取調べを担当したのは那須警部である。
「あなたとポミヤロフスキーとの関係は」
「友人です」
関係を敢《あ》えて否定しない。シラを切り通せないとおもったらしい。
「知り合ったきっかけは」
「なにかのパーティでだれかから紹介されたとおもいます」
「あなたは、ポミヤロフスキーとよく会っておりますね」
「よくと言うほどではありませんが」
「あなた方は奇妙な会い方をしておりますな。まず青山のタワービル伝言板に猫のシールを貼《は》って会う場所を連絡し、出会っても他人を装って言葉を交わさない」
「…………」
「そしてあなたが立ち去った後遺留したものをポミヤロフスキーが拾い上げて行く」
「さあ記憶にありませんが」
「奥さんに指示して猫をポミヤロフスキー名義で預けたことも記憶にありませんか。まだ少し前のことですがね」
「そ、それは彼が猫を借りたいと言ったので貸してやったのです」
「なるほど。その猫の鈴の中になにが入っていたか、あなたご存じですね」
ねっとりと詰め寄られて鶴間の額に脂汗が浮かんだ。
「あなたの容疑はきわめて濃厚であり重大です。あなたは二年以上も前からポミヤロフスキーにコンピューター関係をはじめ各種の先端技術情報を流していた。それを部下の諸橋直之さんに気づかれた。そのためにまず自由勤務の形で自分の近くから追っぱらい、そして永久にその口を塞《ふさ》いだ」
「ちがう」
「どうちがうのかね」
「とんでもない言いがかりだ。証拠はあるのか」
「これをなんだとおもうのかね」
那須は一枚のシールを鶴間に突きつけた。赤猫のシールである。
「これをどこで見つけたとおもうかね。豊海|埠頭《ふとう》の車心中の現場だよ」
「嘘《うそ》だ!」
鶴間は面を蒼白《そうはく》にしてうめいた。
「ほう。これが心中の現場にあってはまずいのかね」
おもわず見せてしまった反応にすかさずつけ込まれて、鶴間は唇を噛《か》んだがもう遅い。
「こんなものを豊海埠頭に落とす者は、あんた以外にいないよ。あんたの車をじっくりと検《しら》べさせてもらったが、前部バンパーになにかに接触した痕跡《こんせき》があった。それからもっと重大なものが発見されたよ。なんだとおもう」
那須は、鶴間の不安をうながすようにいったん言葉を切って表情を探ると、
「宝井洋美の髪だよ。諸橋の心中パートナーだ。彼女の髪がなぜあんたの車の中から出てきたのか。彼女とあんたにはなんのつながりもない。つながりのない女性の髪の毛が、どうしてあんたの車の中から出てきたのか」
あなた[#「あなた」に傍点]がいつの間にかあんた[#「あんた」に傍点]になっている。
「猫が運んだんだよ。あんたの飼い猫は、諸橋の車に乗っていた。あんたに突き落とされる直前、猫は諸橋の車から飛び下りた。そして飼い主のあんたの車に乗り換えたんだ。猫の毛もあんたの車の中に残っていた。失踪《しつそう》中の飼い猫が突然現われたので、さぞびっくりしただろう。あんたは慕い寄って来た猫を無情にも車外へつまみ出した。そのとき猫の体についていた宝井の髪があんたの車に残ったのだ。実はね、このシールはその猫の毛にくっついていたんだよ。車はよく掃除をしておくものだよ。宝井の髪の毛と、猫のシールが交換された形になったんだ」
「嘘《うそ》だ、デッチ上げだ。髪とシールもあんたらが勝手に後からくっつけたんだ」
「そう言うだろうとおもって、信頼すべき第三者を立ち会わせている。勝手にそんなことはできないんだ。あんたは捨てたはずの猫がまた舞い戻って来たので化け猫かとおもったんだろう。そして細君に捨てるように命じた。細君は動物管理センターへ持ち込んだので、不審をもたれるとまずいと考え直して猫を取り戻すように命じた。そのときは遅すぎて十分な不審をもたれていたんだ。
あんたはその猫の廃物利用≠考えた。猫をブツの運び屋に仕立てた。あんたは、なんとなく危険な気配を感じ取っていたんだな。それはスパイのほうからではなく、殺しのほうから火が迫っていたんだよ」
那須にとどめを刺すように言われて、鶴間はガクリと肩を落とした。
鶴間明人は犯行を自供した。
「諸橋直之にスパイの手先になっていることを勘づかれたのは、都内のホテルでポミヤロフスキーと接触しているところを偶然目撃されたときだ。彼も疑っていた程度ではっきりと確証をつかんだわけではない。だがそれ以後、私の行動をそれとなく監視している気配だった。それがうっとうしいので自由勤務の形で追いはらった。
諸橋に決定的な心証をあたえたのは、半年ほど前だった。彼はタワービルの伝言板前で私を見つけ、密《ひそ》かに私を尾行して来て、猫のシールが私とポミヤロフスキーのサインであることを見破った。
それ以後、私を脅迫して、自分を自由勤務から要職に直すように強要した。しかし私はプロジェクトに失敗してその力がなかった。だが諸橋は要求通りにしなければ、私の裏の顔を素っ破ぬくと脅した。
ポミヤロフスキーとは知人を介して知り合った。初めの間はソ連の珍しい情報やビジネスの有益なヒントを気前よくくれたので、いい人を紹介してもらったと喜んでいた。
そのうちに公開されているありふれた情報の入手を頼まれた。情報と交換にソ連の事務機器貿易の道を開いてやると言われた。プロジェクトがうまくいかず焦っていた私は、ソ連貿易に活路を見出せるかもしれないとおもった。要求は次第にエスカレートして気がついたときは深く取り込まれていた。
一見事務機器という軍事機密とはなんの関係もなさそうな分野から触手を伸ばしてきたのも巧妙な手口だった。私も自分の流す情報が、国家機密につながるような重大なものだとはおもってもいなかった。
オフィスコンピューター、コンピューターグラフィックス、その高度画像生成のための高速計算法、各種電卓、ワープロ、電子レジスター、ファクシミリ等すべて軍事に結びつくハイテクばかりだ。
高度の資料を流せば流すほどに私は深みに引きずり込まれた。不倫の既成事実が次のより大きな不倫の素地となるように、私が犯した国家に対する裏切りは、次のより大きな裏切りを誘った。私はもはや後戻りはできない所へ来ていた。
四月十七日夜、マイカーでの帰途、諸橋の車に偶然街で出遇ったのが、たがいの不幸だった。彼が見馴《みな》れない若い女を車に乗せていたのに興味を惹《ひ》かれて密かに後を尾《つ》けた。彼らは豊海|埠頭《ふとう》の突端へ行って車内で話し込んでいる様子だった。海に面して、無防備な後尾を私の方に向けていた。周囲に人影も車もなかった。殺意は瞬間に固まった。
諸橋が生きているかぎり、私は生涯脅かされつづけなければならない。私はもう一度会社で浮かび上がるつもりだった。このままつぶれてたまるかとおもっていた。
だが諸橋が私の正体をバラせば、会社にいられなくなるどころか、日本から追い出されてしまう。
こんな千載一遇のチャンスはめったにない。同乗の女は何者か知らないが、一緒にいたのを不運とあきらめてもらおう。私は咄嗟《とつさ》にアクセルペダルを踏み込んで諸橋の車の後尾に突っ込んで行った。
海に面した埠頭でまさかそんな追突≠されようとはまったく予想もしていなかった諸橋は仰天して必死に踏みこたえようとしたが、馬力のちがいに圧倒されて海へ突き落とされた。
海は車もろとも二人を呑《の》み込んで、なに事もなかったように黒い海面の上に油膜を浮かべていた。もともとあった油膜に車から漏れた油が加わったのだろう。
二人が車に閉じこめられたまま海に沈んだのを見届けた私は、マイカーに戻るとびっくりした。いつの間に入って来たのか、行方不明になっていたミチルが車内にいた。
諸橋の車から乗り換えて来たとは知らなかった私は、ミチルが犯行を目撃していたような気がして車の外へ追い出した。ミチルは外へ出るのをいやがって車の中を逃げまわった。そのとき車内にあった猫シールを毛先に貼《は》りつけ、ミチルの体についていた女の髪の毛が落ちたのだろう。
咄嗟に諸橋を海に突き落としたものの、諸橋が、私がスパイの手先であった証拠をなにか残していないか不安になって彼の細君にそれとなく確かめた。どうやらなにも残していない様子にホッとしたとき、ミチルが戻って来たので、私は化け猫かとおもった。
気味が悪いので、家内にどこかへ捨てるように命じたが、まさか動物管理センターへ連れ戻すとは思わなかった。ミチルが以前同じセンターに収容されたことがあると知って仰天した。そのために再度引き取ろうとして余計不審を招いてしまった」
自供を終った鶴間は重荷を下ろしたような表情をした。
一匹の猫の失踪《しつそう》から発した連続殺人事件は日本国内に根を張るスパイ網を引きずり出した。取調べに対してポミヤロフスキーは、鶴間とは日ソの「文化的情報交換」をしていただけで、軍事情報を蒐集《しゆうしゆう》したというのは言いがかりも甚《はなは》だしいと申し立てた。
監視衛星が発達した現在でもスパイ網はしぶとく生きつづけている。国民の心やかばんや金庫の中身は衛星でも読み通せないからである。
警視庁公安部では盗品故買の容疑でポミヤロフスキーの逮捕状を取り身柄拘束して取調べようとしたが、一足早く帰国してしまった。
在日ソ連大使館のモチャロフ一等書記官は記者会見を開き、
「今回のマリオン社スパイ事件は、事前に企まれた完全なデッチ上げである。ポミヤロフスキーをGRU要員とみなして逮捕しようとしたのはソ日両国の信頼関係を踏みにじる不当な行為である。これはソ日関係の改善を妨害し、スパイ防止法の成立を狙《ねら》う人たちの陰謀である。
ポミヤロフスキーが帰国したのは同人の安全が保障されないからだ」
とコメントを発表した。
日本にはスパイを直接取り締まる単独の法律はない。しかし戦前、戦中、軍機保護法や治安維持法によって自由の息の根を止められた国民にスパイ防止法に対する拒否反応は強い。
スパイを取り締まる単独法律はなくとも、刑法の外患誘致、援助罪、公務員法、自衛隊法、MSA相互秘密保護法、外国人登録法、電波法などで十分と言われる所以《ゆえん》である。
ともあれ、ポミヤロフスキーが帰国してしまったのでソ連側からの取調べは頓挫《とんざ》した。またモチャロフ一等書記官自身も数回鶴間と接触した事実については、「あくまでも個人的な交際だ。日本の警察はなんとかしてスパイと結びつけようとしている。交際の過程でそれぞれの仕事や社会環境について話題にするのはごくあたり前の話だ。日本の警察のような見方をされてはソ日両国民はプライベートな交際ができなくなってしまうだろう」
と激しい口調で主張した。鶴間明人は殺人罪で起訴された。
「これからミチルはどうなるんだろうね」
事件が一応落着した後で牛腸は無量小路に言った。
「鶴間夫人が引き取ったそうですよ。まさかまたセンターへ連れ込むようなことはしないでしょう」
「考えてみればあの猫の行く先々に事件が発生したわけだ」
「偶然そうなったんでしょうけど奇妙なめぐり合わせですね」
「猫にはなんの罪もないのに、いい迷惑だったろうな」
「強盗殺人、偽装心中、愛護センター、スパイ、猫はなわばりから外へ出ないものですが、これがミチルのなわばりだとすれば凄《すご》いなわばりです」
「被害者はミチルのなわばりの圏内で殺されたわけだ」
「犯人にとっては被害者が悪魔の圏内へ入って来たのでしょう」
「我々もいつ、そういう圏内に入るかもわからんよ」
牛腸が首をすくめた。
「ミチルのなわばりの中へ人間が引きずり込まれたと言ってはミチルが可哀想《かわいそう》ですよ。人間たちが悪魔の圏内へミチルを引っ張り込んだのです」
「そうだったな。ミチルが人なつこかったのも、人間の愛情に餓《う》えていたのかもしれないな。猫シールをスパイのサインに用いられてオール猫族が怒っているかもしれん」
「スパイか。人間同士が完全に信じ合えるようになればそんなものは必要なくなるんですがね」
無量小路の目に寂しげな色が塗られた。軍事衛星が発達して、相手国ミサイル試射場の警備員の数はおろか、畑の辺で立小便している農夫の姿まで読み取れる時代になっても、なお東西両陣営が入り乱れてスパイ合戦に憂き身をやつしているのは、人の心を信じきれないからであろう。
人の心に相互不信があるかぎり、いつ悪魔の圏内に踏み込んでしまうかもしれない。
無量小路の腹の底から慄《ふる》えが立ち昇ってきた。
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エピローグ
〈フラッシュバック〉
車内で男と女は、話し込んでいる間に、背後に忍び寄った凶悪な気配に気がつかなかった。危険を察知したときは遅かった。凶悪な黒い塊りはエンジン全開にして襲いかかって来た。
男女共、咄嗟《とつさ》になにが起きたか理解できない。彼らが乗った車は、埠頭《ふとう》の縁から海へ突き落とされようとしている。
男はサイドブレーキを引き、ブレーキペタルを踏んで踏みこたえようとしたが、及ばない。タイヤがずるずると埠頭を滑って海面が近づいて来る。
女がドアを開いて外へ逃れ出ようとした。だが安全ベルトがはずれない。もがいている間に埠頭の縁まで押し出されて来た。
女は抱いていた猫を外へ放り出した。
「おまえだけでも」
逃げて――という語尾を乗せたまま、車は埠頭から突き落とされた。もんどり打つようにして海へ落ちた車体は、盛大な水《みず》飛沫《しぶき》をあげせっかく半開きにしたドアは水圧によって閉じられた。車は夥《おびただ》しい気泡を残しながら海中に沈んだ。間もなく気泡も静まり、黒い海面はなに事もなかったかのように鎮静した。油膜に覆われた海面は、東京の夜景を映して一見するかぎり常よりも美しいようだった。
命拾いした猫は、命の恩人を突き落とした黒い凶悪な塊りに向かって嬉々《きき》として走って行った。
本書は、一九九二年六月刊行されたカドカワノベルズを文庫化したものです。
角川文庫『悪魔の圏内』平成5年10月10日初版発行
平成6年6月10日3版発行