[#表紙(表紙.jpg)]
分水嶺
森村誠一
目 次
序 章
アルピニストの心
資格あるプロポーズ
青氷の裸身
人道兵器《ヒユーメンウエアポン》
隠れたる瑕疵《かし》
けったいな患者
夫婦の連帯
美しき拾得物
契約の妻
夫婦問答
伝説の遠き女人
検体X
墜《お》ちた心
喪われた誕生日
暗い荒原
嵐と地獄火
二人だけの結婚式
人売り
人間の目盛り
青い狂人
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序 章
――昭和四十三年六月半ばの、梅雨模様の重苦しい夕方、東京原宿のアパートの一室で一人の女がガス自殺を遂げた。
廊下を這《は》う異臭に、隣人たちが騒ぎだして部屋に押し入った時は、すでに大量のガスを吸い込んでいて手の施しようがなかった。
死体の傍にあった遺書から、最近病気で死んだ夫の後を追ったものと判った。
覚悟の自殺とみえて、室内はきちんと整頓《せいとん》されていて、それだけに人々の哀れを誘った。
しかし、大都会ではありふれたことであり、大したことではなかった。
――同じ日、同じ時刻、東京杉並署に一人の若い女から捜索願が出された。失踪者《しつそうしや》は彼女の夫である。病気で自宅療養中のところ、二日前家人の留守の間に行方を晦《くら》ましてしまったということであった。
届けを終えてから、冷たい雨の中を失踪者との間に生まれたと思われる二歳ぐらいの幼児の手を引いて帰って行く若い母親の心細そうな姿が、係官の胸にいつまでも暗いかげりを曳《ひ》いていた。
しかし、大都会ではありふれたことであり、大したことではなかった。
――同じ日、同じ時刻、北アルプス穂高《ほたか》岳頂上直下のナイフエッジから一人の男が墜《お》ちて死んだ。
男は飛《ひ》側の岩壁を二百米ほど、諸所の岩角にバウンドしながら落下したため、死体は殆《ほとん》ど原形をとどめぬまでに損傷した。
しかし、山ではありふれたことであり、大したことではなかった。
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アルピニストの心
1
「よし、慎重に渡れよ」
トップを勤める秋田修平は、三十米ほど離れたわずかにテラスらしい格好をした岩角に立って、後続の大西安雄のために確保《ジツヘル》した。
そこまでは両側が鋭く切れ落ちた急峻《きゆうしゆん》な岩壁の鋸歯《きよし》のような痩《や》せた雪稜《せつりよう》で、雪を乗せたガラガラの破片岩のかさなりが続く。雪に隠された岩相は、非常にもろく、ほとんど逆層なので、一つ一つのホールド、ステップをテストしながら細心の注意をはらって登らなければならない。しかも殆どの岩の割れ目には氷が張りつめている。
ザイルいっぱいの距離に一本のハーケンも打ち込めない。秋田の足場も確実なものではない。要するに彼のジッヘルが気休めに過ぎないことを彼も、大西も知っていた。
一人が墜ちれば、確実に他の一人も墜ちる。
それは純粋に互いの心と心によるジッヘルであった。
「行くぞ」
大西は答えて、友情のザイルに身を託してそろそろと死の充満する空間に重心を移し始めた。
飛側の渓谷から雪粉を混えた強風が絶え間なく吹き上げて来る。
天候は悪化していた。ナイフエッジの左右両側に切れ落ちる、岩壁の末に広がる雪渓は、右の信州側は岳沢《だけさわ》へ切れ込んで梓川《あずさがわ》へ注ぎ、左の飛側は白出沢《しろでざわ》本谷を経由して蒲田川《がまたがわ》へ落ちる。
ここは北アルプスと通称される飛山脈でも、悪絶の聞こえ高い穂高岳―西穂高岳間の縦走路であり、長野、岐阜県境の分水嶺である。
そして秋田と大西がさしかかった、ナイフエッジと呼ばれる痩《や》せ尾根は、穂高岳頂上の手前にあり、西穂高から穂高に向かって縦走を志した二人にとっては、ゴールを眼前にした最後の難所であった。
夏のシーズンであれば、二人にとってどれほどのこともない岩場であったが、さすがに厳冬のこの季節となると、氷雪にかたく鎧《よろ》われて、どんな小さな岩片も死を孕《はら》んでいた。
大西の移動と共に、秋田の手許《てもと》へザイルがたぐられていった。
「ようし、その調子だ」
秋田がザイルを肩がらみにコントロールしながら満足そうに呟《つぶや》いた。もちろん、その声は強風にさらわれて大西の耳まで届かない。
ザイルは順調にたぐられ、二人の距離はせばまっていった。
(ここさえ越えればあとは穂高小屋までの一般ルートだ)
(ストーヴをがんがん焚《た》いて、熱いコーヒーを飲もう)
二人は一瞬の弛《ゆる》みも許されぬ緊張の極みに心身をおきながら、目標を目前にした時の奇妙な安穏《あんのん》を楽しんでいた。別にそのために気を抜いたわけではない。
緊張の最中《さなか》にその後に来るべき大いなる休息を想《おも》っていたのである。アルピニストにはよくあることであり、休息の予想が行動時の油断を誘うことはない。
事故は別の要因によって発生した。
それは山全体が吹き飛ばされるような凄《すさま》じい突風であった。
アイゼンピッケルに保った重心を、空間に毟《むし》り取るような風力を全身に覚えた秋田は、次の瞬間、凄じいショックを腕のザイルに感じた。
火の出るような痛覚が掌に走り、たぐられたザイルの遊びが急速に失われて行く。
「大西!」
秋田は夢中で怒鳴った。雪稜に先刻まであった大西の姿はない。彼は墜ちたのだ! 今の突風にバランスを失い、信州側三百米の垂壁を何の緩衝《かんしよう》もおかずなだれ落ちるために虚空に抛《ほう》り出されたのである。
いや、緩衝は一度だけあるはずであった。二人をつなぐザイルの長さが、大西の掌に炎の痛覚を残して伸び切った時だ。その時は大西の墜落のショックを踏みこたえられるか?
(だめだ!)
秋田は絶望に唇を歪《ゆが》めた。確保にはあまりにも足場が悪い。ジッヘルはあくまでも気休めだった。しかし、このナイフエッジの横断《トラバース》にはそこ以外に足場はなかったのである。
山仲間の友情と、事故など起こすはずのない技術への自負が為《な》したジッヘルなのだ。
だが、事故は起きた。友情と自負ではどうすることも出来ぬ冷酷な事故は、現に発生し、瞬刻の後に二人の若い命を確実に奪おうとしている。
掌《て》の平に走る熱い痛みがせめてもの生きているしるしであり、それがなくなった時に大西と秋田は、三千米の稜線から岩壁の諸所に歯を剥《む》く岩角に切り刻まれながら岳沢の奈落へと墜ちるのだ。
(もうだめだ)
と諦《あきら》めた時、秋田の身体は彼の意志とは別に一つの行動を起こしていた。彼は確保姿勢のまま、飛側の空間に跳躍した。その動作がどのような意味を持つものか秋田自身にもその時はわからなかった。ただ自衛本能がそうさせたのだ。
気がついた時は、――と言っても一分も経っていなかったが、――胸を呼吸困難なほどザイルにしめつけられ、アイゼンの底に足場が感じられなかった。それもそのはず、全身が宙に浮いていたのだ。墜落のショックで傷つけたのだろう、左手の甲から血が流れている。その他、足腰にも痛みが走った。
身体の諸所にかなり打撲傷を負ったらしい。しかし、秋田は自分の身より、友のことが気にかかった。
「大西!」
「大西!!」
何度か呼んだあと、微《かす》かに返答らしいものが雪壁の彼方[#「彼方」に傍点]からかえってきた。
声が弱々しく何を言っているのかよく聞き取れなかった。それは風雪のせいではなく、どうやら今の墜落ショックで身体の何処かを傷めたためらしい。
しかし、生きていることは確かだった。
(無事だったか、負傷したらしいが、二十米そこそこの滑落だ。大した怪我《けが》ではあるまい)
そう思ったとたんに、これからおそらくは只《ただ》一人で為さなければならない大仕事[#「大仕事」に傍点]が秋田の頭を占めた。
まず、この宙釣りの状態から脱け出して稜線の上に立たなければならない。それから墜落ショックでひどいことになっているにちがいない大西の身体を稜線まで引張り上げることだ。そしてそれから穂高小屋までそれを[#「それを」に傍点]かつぎ上げる気の遠くなるような作業。小屋に誰も居合わせなければ、上高地《かみこうち》まで救援を求めに一刻も早く下らなければならない。しかし、こちらの身体もぼろのように叩《たた》きのめされた惨めな状態なのである。
秋田修平は何をしたのか? 彼は墜ちて行く大西を確保出来ないと本能的に悟るや、飛側の岩壁、即ち、大西が墜ちた谷とは逆の谷へ故意に身をおどらせたのだ。
秋田と大西はザイルにつながれたままその両端に、穂高の分水嶺をふり分けにしてぶら下がった形となった。
ザイルは二人の若者の墜ちて行く加速度の重量を見事に支えた。
二人の墜落に誘われた落石が、からからと骨の鳴るような不吉な音をくりかえしながら次第に渓谷の深所へ遠ざかって行った。
四方八方から吹き上《のぼ》って来る巨大な風圧の中で、秋田は急に寒気を覚えた。とりあえず焦眉《しようび》の生命の危険が去って、漸《ようや》く身体に感覚が甦《よみがえ》ったようである。
彼はまず手から動かし始めた。手の届く限りをなでさすり、どうにかホールドと言える程度の岩角を掴《つか》んだ。次に足場《ステツプ》である。このほうは両脚はありつけなかった。とりあえず右脚にかかった岩角に重心を預ける。胸の圧迫感は依然として去らない。そのはずである。ザイルの一方の端には大西の重量がかかっているのだ。
あるかなきかの傾斜に全身をあずけてその重量を頼りにずり上がるのだ。稜線《りようせん》まで約十米、ザイルの長さは三十米だから、大西の身体は反対側に稜線から二十米位の所に宙釣りになっているのだろう。秋田が上れば上るほど大西はずり落ちることになる。
「大西、聞こえるか」
ザイルにかすかな気配が伝わってきた。風にさえぎられて、声が届くかどうかわからなかったが、秋田はどなった。
「大西、よく聞いてくれ、俺《おれ》は飛側へぶら下がっている。これから稜線まで上がってお前を引張り上げてやる。しかし、このままだと俺が上がるだけお前がずり落ちる。しんどいだろうが、壁にしがみついて少しでもずり落ちないようにしてくれ。両端で綱引き≠やっていたのでは、二人共、稜線へ出るまでに息が詰まっちゃうからな、聞こえたか!?」
聞こえたという返事の代わりにザイルが微かに引かれた。
「ようし、行くぞ! 頑張って待ってろよ」
秋田は虫のように氷壁を這《は》いはじめた。稜線に立った秋田は事故後はじめて大西の姿を見た。
大西は二十米下方の小さな露出岩にへばりついていた。そのおかげで秋田の肩がらみにされたザイルは遊んでいる。しかしそのために、大西は、渓谷の深処にひきずり込もうとする引力にさからってどんなに死力を尽くしているか。
落下点から露岩に至る雪壁は血の痕《あと》が帯をひいていた。
「大西! 大西!!」
秋田は雪面を染めた血の色のあまりの鮮かさに愕然《がくぜん》として叫んだ。
「秋田か、やられたよ。どうやら足がいかれたらしい」
大西は面を上げて照れくさそうに笑った。その声は意外に元気であった。秋田は彼の声に、やや気をとり直して続けた。
「岩が脆《もろ》くてザイルを固定出来ない。俺が引張るから何とかここまで動けないか」
「やってみよう」
秋田は稜線に、またがるようにしてザイルをたぐった。それは苦しい作業であった。この地点|迄《まで》の登攀《とうはん》で殆ど消耗し尽くしたところへ、友の墜落を喰《く》い止めるための故意の滑落で凄じい状態になっている身体で、六十キロの大西の重量を二十米も引き上げるのであるから。
しかも頼りにすべき支点はどこにもない。今度間違えば、今度こそ確実に二人数珠つなぎのまま[#「数珠つなぎのまま」に傍点]三百米の空間を岳沢の雪渓に叩《たた》き潰《つぶ》されるために、一気に墜《お》ちて行くだろう。
秋田は霧の海の底の雪渓に、トマトケチャップのように潰された二人の凄惨《せいさん》な死体をまざまざと画《えが》いた。
彼は思わず自らの酸鼻《さんび》な想像に慄《ふる》えると、それを忘れるようにザイルに渾身《こんしん》の力をこめた。ザイルを手の甲の傷口から噴き出した血潮が染めた。
「大西、頑張れ、もう少しだ」
秋田はその声を自らを励ますために吐いた。
しかし、大西の身体は一向に上がって来なかった。風雪は益々《ますます》激しくなってきた。先刻まで微かに見え隠れしていた足下の天狗沢《てんぐさわ》の雪渓が、今は一面の雪煙に閉ざされている。飛側から信州側へ抜ける強風が、二人の居る雪稜の隘路《あいろ》に一気に殺到して、彼らの身体に微かに残るエネルギーを急速に奪っていく。
山で何よりも恐ろしいものは、岩や雪や氷ではない。それは風である。これに身体を晒《さら》されると、どんなベテランの技術や経験も役に立たない。活動の源である熱量を悉《ことごと》く奪われてしまうからである。その凄じさは食糧をいっぱい詰めたザックを開ける力すら残さぬほどである。豊かな食糧をかかえたまま遭難した人々の死体がそれを物語る。
「秋田、とてもだめだ。俺には動けない。俺を残してお前だけ行け」
とうとう大西が諦めの声を出した。
「馬鹿言うな!」
「馬鹿じゃない、このままだと俺達二人共やられるぞ、せめてお前だけでも行ってくれ。一人なら何とか小屋まで行けるだろ」
「弱音を吐くな、ここまで来れば小屋までは小学生ルートだ。頑張れ!」
秋田は大西の弱気を叱《しか》りつけながらザイルをたぐり続けた。
ここから穂高小屋まで決して小学生ルートではない。まして今は厳冬期である。穂高の頂上から小屋まで雪庇《せつぴ》と氷雪に被《おお》われた砕岩の径《みち》である。動けぬ大西をかかえてどう下るか?
もし、二人では身動きがつかなかったら? 大西に殉ずるか? それとも彼の勧める如く、彼を捨てて一人だけ先に行くか? しかし、その時は確実に大西の生命はない。穂高小屋に運よく人がいたとしても、ここまで救援に戻って来る間、彼の衰えた体力ではとうてい保《も》ちこたえられないだろう。
それに穂高小屋は無人の公算が大きいのだ。とすれば、上高地までの往復をどんなに少なく見積っても、まる一日はみなければならない。
だが、一人なら行ける。大分、身体はいためつけられてはいても、秋田は一人なら行ける自信があった。
彼の心は大きく傾いた。
しかし、次の瞬間、アルピニストの心とも言うべきものが、彼の卑小な自己保存の本能を強くなじった。それは心の中の声であったが、面も上げられぬほどに苛烈なものだった。
(貴様は友を見捨てて自分だけたすかろうとするのか!? 貴様は何という穢《きたな》い卑しい奴《やつ》なんだ)
――力ノ限リ闘ウモ命、友ノ辺《ヘ》ニ捨ツルモ命、共ニ逝《ユ》ク――
槍岳北鎌尾根で友の遭難に殉じたMというクライマーの壮烈な最後が頭に浮かんだ。
大西に殉ずるべきか、救援を求めに一人先行すべきか、秋田の心は生死二者択一の迷いにぐるぐると渦を巻いた。
(行けるか、行けぬか? それはその時の問題だ。今は大西の身体をここまで引っぱり上げることだ)
秋田の迷いは長く続かなかった。決断、それもその場に最も適応した決断が彼の迷いを粉砕した。それにいかなる迷いも許さぬ風雪の凄《すさま》じさであったのだ。
「とにかく動け」
秋田は怒鳴った。
2
それからどれくらいの時間が経ったろうか、二人の身体は息も絶え絶えになって岩稜の上に折り重なっていた。
最後の一たぐりと共に大西の指が稜線の岩に微《かす》かにかかった時、彼は絶え絶えの呼吸を割いて、
「有難う」
と言った。
「何の」
その指から腕を掴《つか》んで、自分の傍へ大西の身体を引きずり上げた秋田は、そのまま友の身体の上に折り重なるように倒れた。それから暫《しばら》くの間、二人は死んだようにそのままの姿勢で打ち倒れていた。
ややあってぼそりと呟《つぶや》いたのは大西であった。
「山仲間っていいな」
「うん」
微かに頷《うなず》いた秋田は、この傷ついた友を穂高小屋まで運ぶ大作業に挑むために再び立ち上がった。
先刻の迷いはもはやなかった。
「山仲間っていいな」
大西が何気なく呟いた一言が彼の心にずしりとかかっていた。
そういう言葉が世の中にあればこそ、人間は人間を信ずることが出来る。
あの一言だけで、長く苦しい径を、友の命を救うために自らの生命を賭《か》けることが出来る。――
秋田は自分の単純さをむしろ、誇らしく思った。
昭和三十八年(一九六三年)一月十八日のことである。
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資格あるプロポーズ
1
「これは極秘なんだ」
中央研究所長の小野は瞳のはしで薄く笑いながら言った。
「APAから我が社にベトナム戦用のナパーム弾の大量発注があったのだ」
「APAから!?」
大西は思わず大きく目を見張った。
「そうだ。それもちっとやそっとの量ではない。国内における米軍のナパーム弾調達を殆《ほとん》ど独占するほどなんだ。試供品%Iに納入した我が社の製品が、ずば抜けていいので、今度の大量発注となったわけだ。君の努力のたまものだよ。社長もことのほか喜ばれている。うまくいけばAPAの弾薬関係は独占出来るかも知れない。これからもしっかり頼むよ」
それから、――とつけ加えて小野は分厚い封筒をデスクから恭《うやうや》しく取り出すと、大西の前に差し出した。
「あの……これは?」
大西がいぶかしそうに目を上げると、
「社長からの特別賞与だ。取っておきたまえ」
「社長賞!」
大西は思わず胸が熱くなった。この社長特別賞与は日本化成において最高の栄誉とされるもので、社に特別に[#「特別に」に傍点]寄与した者と、社業の発展に大きく貢献する偉大な[#「偉大な」に傍点]発明をした者にのみ取締役会の決議により与えられる。
それも生半可な寄与や貢献ではだめで、その要件たるべき特別[#「特別」に傍点]と偉大[#「偉大」に傍点]は極めて厳しく解釈される。そのため大正三年の創業以来、受賞した者は、数えるほどしかいない。受賞者は殆ど例外なく重役まで上っている。いわばエリートのパスポートであった。
若い大西にとっては、どんなに胸を熱くしても、熱くしすぎることのない栄誉であった。
入社以来、研究室の虫となって、日夜、より強力な火薬の開発に没頭した甲斐《かい》があったのである。
大西安雄が勤める日本化成株式会社は日本最初の火薬メーカー、帝国火薬会社をその前身とする。
火薬類の需要を全面輸入にあおいでいた我が国は、一九一四年第一次世界大戦の勃発《ぼつぱつ》により火薬が外国から来なくなったため、是が非でも国産せざるを得ない羽目に立ち至った。
ここに時の政府は、鉄砲火薬類取締令を改正し、当時ダイナマイトの製造を望んでいた帝国火薬に対して、初めて火薬類の民間製造を許したのである。
太平洋戦争後、GHQにより武器弾薬等の製造は禁止され、帝国火薬は日本化成と社名を改めて、工業用爆薬のみGHQの特別な許可の下に製造を認められた。
一九五〇年、朝鮮動乱の勃発により、米軍は緊急調達品として数々の軍需品を我が国から買い付けた。これがいわゆる朝鮮特需である。
一九五二年三月に至ってGHQ覚え書きが交付され、翌四月、兵器航空機生産権限が我が国に移譲された。そして特需第一号として八一ミリ迫撃砲弾、四二万発が日本化成に発注されたのである。
特需はこの年をピークに漸減《ぜんげん》したが、翌一九五三年、GHQによる火薬生産統制が撤廃されてから、折からの電源開発やダムブームの波に乗り、日本化成は産業用火薬において著しく発展した。
兵器特需の激減により、巨大設備をかかえて四苦八苦する他兵器産業を尻目《しりめ》に、日本化成は開発ブームに乗って我が世の春を謳《うた》った。
そしてさらに一九六二年二月にアメリカのベトナムへの本格的な軍事介入が始まった。いわゆるベトナム特需は、六四年の末頃から始まり、翌六五年二月の北爆開始と共に、激増した。
APA=在日米陸軍調達本部と呼ばれる米軍特需の窓口機関へ、仕事をもらいたい日本の商人が殺到し始めたのは、この年の春頃からであった。
そして、大西安雄が東都大学理学部化学科を卒《お》えて、一火薬技師として日本化成に入社したのは、漸《ようや》くベトナムの戦雲がただならぬ様相を呈し始めた六三年の春であった。
以来彼は特需を予測した社に命ぜられるまま、高性能のナパーム弾の開発に若い情熱を傾け尽くしてきた。
ナパーム弾。――「発火爆発すれば、二千メートル一帯が八百度以上の高熱の火の海となり、あらゆるものを焼き尽くす。のみならず、高熱と激しい燃焼による急激な脱酸素効果のため、火炎から免がれた者も焼死する前に窒息死させてしまう。その威力は小型原爆にも匹敵するといわれるほどの強力な化学兵器」和気朗氏――生物化学兵器より。
大西は自分が作っているものが、どのように恐ろしい災厄を人間にもたらすか考えてもみなかった。
有機化学は自分が選んだ道である。己がその将来を託した企業がそれを為《な》せと命ずるからには、為さなければならぬ。
企業人にとって社命は絶対である。
ましてベトナムで使用される兵器となると、罪悪感が湧《わ》かなかった。
自分が開発生産したものが無数の人命を殺傷する地獄の兵器であることはわかっていても、それはあくまでも観念の上だけのことである。被害者は遠い異国の人間であり、むごたらしい殺戮《さつりく》の現場を目にしていないだけに実感が湧かない。
それよりも自分の研究の成果が認められた喜びの方が遥かに大きい。認められた[#「認められた」に傍点]ということは、彼の場合、それだけ優秀な人殺しの道具を考え出したことであり、それだけ多くの人命が喪《うしな》われることを意味していたが、彼は気がつかなかった。
恐るべき大量殺人兵器、ナパーム弾も彼にとってはテルミットとマグネシウムと固形油を合成した化学製品に過ぎないのだ。
「俺《おれ》は化学者だ。そして自分の研究の成果が初めて社会的に認められたのだ」
彼の意識の底に微《かす》かに残る人間としての良心はその喜びの前に沈黙した。
「表彰式の日時はおって通知する。とりあえず、賞金だけ渡して君を喜ばせるようにとの社長からの特別のお言葉があった」
小野は言いつつ、愛弟子《まなでし》の栄誉を喜ぶ師のように生来の硬い表情を弛《ゆる》めた。こんな彼の表情をめったに拝んだ≠アとのない大西は、喜びが倍加するように感じた。
封筒の中には一万円札が二十枚あった。社長賞の賞金がどの位のものか知らなかったが、彼の地位と社歴から、二十万円という大金≠ヘ、社長賞の中でも最高の部類に属するはずである。
研究室へ戻ると、すでに噂《うわさ》を聞きつけた仲間が口々に祝ってくれた。
しかし、彼がその喜びを分かちたい人間は只《ただ》一人しか居なかった。
2
「もしもし、秘書課の旗野祥子《はたのしようこ》さんを願います」
彼は仲間達から解放されると、早速、自分のデスクの上の直通電話をダイヤルした。相手の交換台で内線に切り換えられる音がして、やがて送受器に若い娘の華やいだ声が流れた。
「旗野祥子です」
囁《ささや》きかけるような甘いソフトな声は、彼女の唇がつい耳許《みみもと》にあるかのような錯覚を覚えさせる。
「ああ祥子さんか、僕だ、大西だ」
「あら、安雄さん」
心なしか弾んだ祥子の声に、大西は自分に向けられた彼女の好意を感じた。
「今夜、会いたいんだがな、ちょっといいニュースがあるんだ」
「今夜? いいニュースってなあに?」
「それは会ってからだ。どう都合は?」
「そうね、いいわ」
祥子はあっさりと承諾した。
若い娘というものは、大した用事もないくせに若い男に誘われると何だかだと勿体《もつたい》をつけたがるものだが、祥子にはそんな気取りが少しもなかった。
しかし、大西が誘えば何をおいてもとんで来るというほどの仲には残念ながら(大西にとって)まだなっていない。
祥子の大西に向ける姿勢には仄《ほの》かな好意らしいものが感じられるのだが、大西はまだそれを確かめていないのである。
旗野祥子と大西は共に東都大学の出身で、あるクラブ活動で知り合った。
理智的《りちてき》でありながら、冷たいものを感じさせぬ明るい庶民的な美貌《びぼう》と心根《こころね》は、多くの男の学生達を惹《ひ》きつけた。その中で最も熱烈に心を傾けたのが大西である。
とはいえ、彼は自分の想《おも》いを表白したわけではない。募る想いに耐えながら、それ故に彼はその想いを相手に告げられなかった。
拒絶された時のショックに耐えられる自信がなかったからである。それに学生時代は経済力がなかった。
彼は、好きだの、ほれたのの恋愛ごっこではなく、自分の人生の伴侶《はんりよ》として祥子を眺めていたのである。だが、それには経済的な裏づけが要《い》る。
親がかりの彼は、自分が最も望ましいと思う女性を身近において、彼女が経済力ある男に引き取られて″sく日を今か今かと恐れながら、指をくわえて見守っているだけであった。
彼はその想いを幾度か、やはり同学の、秋田修平に打ち明けたものだ。秋田は医学部の学生で二人は互いに好きな山登りを通じて知り合った。
「お前に経済力が出来るまで待ってもらうんだな」
秋田は禅僧のように悟りすました顔で言ったものだ。
「そんなこと頼めるものか!」
「それじゃあ、お前が一人立ちする日|迄《まで》、遠くから眺めていることだな。その日まで彼女が独身でいればプロポーズするし、もし他の男の許に嫁いで行ったなら」
秋田はここまで言うときまってにやりと笑い、
「諦《あきら》めることだ。女は何も旗野祥子一人ではない」
と言った。秋田の返答はいつも同じである。
大西も又、同じ返答を予測しながら、らちもない愚痴をこぼすように、自分の片想いの切なさを、秋田に切々と訴えるのだ。
秋田の答えは恋の切なさを知らぬ者のまことにぶっきらぼうなものだったが、大西はそれを聞くと不思議に心が安らぐのである。
今迄に秋田得意の、
――女は一人じゃない――を幾度聞いたことであろう。
しかし、もうそれを聞くこともあるまい。
今夜こそ言おう。俺には妻を養うだけの資力も、家庭を持つに足る充分な社会的地位もできた。そして、祥子は幸いにまだ独身でいる[#「幸いにまだ独身でいる」に傍点]! 彼女が独身にとどまったのも今日という日を待っていたからかも知れない。
今こそ祥子にそれを告げるべき時だ。
3
五時ちょうどに研究所を出た大西は、バスで中央線の三鷹駅に出、そこから上り国電に乗った。日本化成の中央研究所は調布市の深大寺の近くにある。危険な火薬類が主たる研究対象であるため、人家の少ない武蔵野の外れに建てたのであるが、この頃では怒濤《どとう》のような東京都への人口流入に伴い、研究所の周辺も住宅地と化して、更に郊外へ向かって疎開《そかい》≠考えなければならなくなっていた。
祥子は丸の内の外国商社に勤めている。二人が会う時はいつも新宿東口の喫茶店、クーロワールを利用していた。小さな明るい店で、いつ行っても、席のあるのが嬉《うれ》しい。それに、新宿という場所柄、丸の内と三鷹のほぼ中間にあたるため、両方から落ち合うのに便利であった。
夕方のラッシュ時であったが、上り電車は空《す》いている。六時ちょっと前にクーロワールの扉を押すと、奥のシートにすでに祥子の姿があって軽い微笑と共に手を上げた。
「待った?」
「ううん、私も今、来たばかり」
成程、祥子の前のコーヒーは殆《ほとん》ど口をつけられていなかった。ウエイトレスに紅茶を注文した大西は、眩《まぶ》しいものを見るように祥子に視線を当てた。
「いや、そんなに瞶《みつ》めちゃあ」
彼女は軽く躰《からだ》をくねらした。この頃急に胸や腰まわりがふくよかになったようである。
「秋田に会うことある?」
大西は会話の空白を埋めるために聞いた。秋田は彼ら二人の共通の友人である。
「ないわ、秋田さん、忙しいとみえて、たまに電話で話すことはあっても、いつもぶっきらぼうだわ」
彼はいつもそうなのだ。近況をたずねるつもりでたまに電話をかけても、きまって――用件は何だ? なければきるぞ――という調子の話し方しかしない。まるっきり会話のしかたを知らぬ素気《そつけ》ない男だが、心は決して素気なくない。だが、彼の人柄を知らぬ第三者には誤解されることが多いのである。
祥子は心なし寂しそうに答えた。秋田を知らぬ祥子でもなし、大西には、祥子の語尾のかげりが少々気になった。
「それよりいいニュースってなあに?」
だが祥子の次の言葉は、生来の明るさにかえっていた。
「認められたんだよ、僕の研究が。社長賞なんだ」
大西は無意識のうちに胸を張っていた。若い男にとって、自分の社会的評価を女に示すことほど快いことはない。相手の女が若く美しくあればあるほど、男は誇りを感じる。若い男の野心や功名心のおおかたは、若く美しい女に自分を認めさせたいという、稚《おさな》いヒロイズムに根ざしていることが多いのである。
「まあ」
祥子は目を大きく開いた。元々、愁いを含んだ大きな瞳である。大西は祥子の賞讃《しようさん》のまなざし(彼にはそう感じられた)を浴びて嬉《うれ》しくてぞくぞくした。
「これは極めつけの社秘だから誰にも言わないでくれるね、たとえ、秋田にもだ」
大西は祥子の濡《ぬ》れたような眸《ひとみ》をみつめながら言った。いつものことながら美しい目だと思う。
ベトナム特需物資の生産は、どこの社でも極秘にしている。永久平和主義を宣言した日本の国民感情に馴染《なじ》まないし、第一、ベトナム人民を殺傷するための直接間接の兵器生産に携わっていると判っては、労働者が動かなくなる。
それほどの秘密を打ち明けようとする女に寄せた信頼と、祥子ならば必ず秘密を守ってくれるという自信が、極秘《トツプシークレツト》を語る口をなめらかにした。
もちろん、周囲に聞こえぬように語調は下げたが、そのことが余計に二人だけの秘密を分け合うような喜びを与えた。
「従来の焼夷弾《しよういだん》はテルミットと黄燐《おうりん》の二種類があった。テルミット弾は高熱を出すが、その影響範囲が極めて小さい。線香花火のように早く放熱してすぐおしまいになってしまう。黄燐は単独では燃焼時間も短く、熱も弱い。高熱を出して持続性のある、しかも影響範囲の広いもの、僕はその開発に没頭した。そしてとうとう、石油工業の副産物ナフサネートとパーム油を主原料とし、これに亜鉛、燐、鉛、ガソリンなどを配合して理想的なナパーム弾を作り上げた。爆薬破裂と同時に、二千米平方一帯に油が飛び散り、そこから燐が発火して火の海となる。他社の類似製品の追随を許さぬ高性能なナパーム弾、それをついに作り上げたんだ」
大西は自分の心のたかぶりの余り、部外者に判るはずのない専門的な説明を得々と祥子に語った。
しかし、祥子は熱心に耳を傾けていた。大西は益々《ますます》意を強くしてしゃべり続けた。
「その性能がね、米軍にまで認められて、ベトナム戦用のナパーム弾の日本調達分を殆ど|我が社《うち》で独占してしまったんだ」
「凄《すご》いわね」
「僕のやっている研究はナパーム弾ばかりではない。ニトロ化合物を主体とした猛性火薬類やダイナマイトもある」
「…………」
「今にベトナム特需どころではなく、僕が作る日本化成の火薬で世界の火薬工業を制覇《せいは》してやる」
「でもそんなに強い火薬を発明して何になるの? 戦争でより多くの人々が殺傷されることになるだけではないかしら」
祥子はおずおずと言った。言おうか、言うまいか、長いことためらった後に、漸《ようや》く口に出したような語調である。
「困るなあ、そんなことを言っちゃあ」
大西は笑いとばした。
「ノーベルは何を発明したんだっけ? ダイナマイトだろう。火薬といったって何も武器として使用されるわけではない。現代の諸産業は火薬がなくてはやっていけない。ほんの一例を挙げても、ダム建設やロケット燃料に火薬がなかったらどうなるか? 軍事的利用は火薬利用のごく一部分の姿に過ぎないんだよ」
「でも、ナパーム弾は」
「ふん、ナパーム弾ぐらいが何だ、原水爆を作った奴《やつ》だっている。僕だって別に意識して兵器を作っているわけではない。僕が作ったものは、広範囲にわたり高熱を出して持続的に燃える燃料≠ネのだ。その燃料≠人々がどのように利用しようと、それは発明者の責任じゃあない。発明者がいちいち発明品の利用方法に対して責任を取らなければならないとしたら、人類の遺産と言える偉大な発明は生まれなかったよ」
大西の口調には当たるべからざるものがあった。それは青年の客気と、自分の携わる仕事への絶対の自信に由来するものであった。
「それもそうね」
祥子は気押されたように頷《うなず》いた。大西はそれを自分の都合のよい方へ解釈したらしく、
「判ってくれたね」
と豊かに笑い、
「とにかく、社長賞をもらったので、日本化成における僕の身分も確定[#「確定」に傍点]した」
「心からおめでとうを言わせていただくわ」
「有難う。君に祝われるのが何よりも嬉しいよ。僕も誰よりも先に君に告げたかったんだ」
「本当によかったわね」
「それでね、もしよかったら今夜、僕につき合ってくれないか、二人で思いきり祝杯を上げたいんだよ」
大西は祥子の目を覗《のぞ》き込むようにした。祥子は熱っぽい大西の目をさりげなく外して、
「そうね……」
と言ってから、ややあって、
「いいわ」
と軽く頷《うなず》いた。何となく常とは違う熱っぽい大西の様子から、一寸重苦しい予感がして迷惑でないことはなかった。しかし、祥子は彼の浮き浮きしている様子に断わりきれなかったのである。
「よし、きまった。それじゃあ、どこか気のきいた所で夕食《めし》を喰《く》おう」
車で都心に出た二人は、この九月にオープンしたばかりのホテル大東京へ入った。オリンピックのために建設された三十四階の日本最初の高層デラックスホテルである。
祥子は通勤の途次、国電の車窓からその天に聳《そび》える巨大な建物を朝夕眺めていたが、入るのは初めてであった。
大西は彼女を主食堂《メンダイ》へ導いた。|城の室《シヤトウルーム》と呼ばれるその食堂は、前面にホテル大東京自慢の広大な日本庭園をひかえた、ホテル随一の見晴しのよい位置にある。
常夜灯に点綴《てんてつ》された庭園の彼方に銀座方面のネオンが明滅していた。食堂中央にはホテル専属のバンドが入っており、客は興のおもむくままに軽いステップを踏めるようになっている。
彼らが入って行った時はピアノソロをやっていた。二人はバンドからなるべく離れた庭園よりの窓際に席を占めた。
「ツーナイト・スペシャルは何?」
寄って来たウェイターに大西は言った。祥子にはそれが何となくいや味に聞こえた。
彼らはゆっくりと料理を味わった。
ホテル大東京のメンダイだけに味は申し分なかった。バンド演奏も快い。
客の入りは六分だったが、食堂に人声はなかった。バンドに耳を傾けているのか、それとも、料理の味を慈《いつくし》んでいるのか、百人ほどの客はキャンドルライトの炎に面を仄《ほの》かに浮き上がらせて、ひっそりと、しかし、いずれも世の幸福を一身に集めたような豊かな姿勢で食事を楽しんでいる。
時折り、ワゴンサービスのステーキを焼く炎が、それら客の面を、幸福の美酒に酔い痴《し》れた人々のように、赫々《あかあか》と染め上げた。
「踊ろうか」
デザートが終った時、雰囲気に誘われたらしく大西が祥子に囁《ささや》いた。祥子も今度は積極的に応じた。髪を金色に染めた国籍不明の小柄な女が唄《うた》い始めた。スローテンポのブルースである。
祥子は曲の名を知らなかった。ただ快かった。食前酒《アペリテイフ》の酔いと豪奢《ゴージヤス》なムードの中で、魂に切り込むような黒人の悲歌《エレジイ》を聞かされてはたまらない。
祥子は知らず知らずのうちに自分から大西の胸の中に深く抱かれていった。キャンドルライトがゆるやかな渦を巻いて闇《やみ》の中に流れた。祥子はその炎の下にあるはずの人々の目を忘れた。
大西に深く抱かれ、もの悲しい調べに合わせるともなく合わせて踊る間に、祥子は大西をずっと以前から心の底の方で深く静かに愛し続けていたような気がしてしまった。
「好きだ」
その時、大西が彼女の耳に何か囁いたように思った。
「好きだ、君のことをずうっと想《おも》い続けていた」
大西の言葉をはっきりと聞き取った時、祥子は現実に戻った。
「結婚してくれないか、僕は長いことこの言葉を言う日を待っていた」
「必ず幸福にしてやるよ」
「僕には自信があるんだ」
「僕には君以外の女性など妻として考えられない」
そんな言葉を矢継早に浴せかけられながら、祥子は大西の腕に強く抱かれたまま、何も答えなかった。いや答えないというより、唇がしびれたようになって言葉が出ないのだ。
こういうムードの中でそういう言葉を期待しなかったわけではない。期待は確かにあった。大西は正に最高のタイミングを掴《つか》んでそれを言った。
ただ祥子にそれを受けるだけの心が熟していなかった。
大西を愛していたような気がしたのは、あくまでもムードの為《な》せる一時的なもので、「大西でなければ」というつきつめた愛情を抱いていたわけではない。
かといって大西が嫌いではない。いやむしろ、好きな部類に属する男性である。そうであればこそ、一夕を共にし、その腕《かいな》に抱かれて踊るうちに酔った[#「酔った」に傍点]のだ。
だが、あまりによいタイミングは、逆に働く場合もある。タイミングがよければ、大して自分に傾いていない女も一気にモノすることが出来る。もともと、女はムードに弱いのだ。しかし、それが余りに良すぎると逆効果となって、女の目を覚ましてしまう。
大西の場合が正にそれであった。
音楽と雰囲気により、祥子を夢の中へ誘い、夢の中の科白《せりふ》のように自分の本心を告白したところから、女の目を覚ましてしまった。
――今の大西さんのプロポーズは、夢の中のことかしら? それとも現実かしら?――
――ああ、これはまぎれもない現実だわ――
――とすると、私はそれに応ずるべきなのだろうか? 大西の好意は今迄《いままで》数年にわたる交際でよく判っている。決して嫌いではない。好きだわ、大好きだわ。――
――でも、彼は私に結婚を申し込んでいる。男と女がこれからの一生を共に過ごそうとする約束を私に迫っている。――
――私はもっと慎重に考えるべきではないかしら? こんなに心が火照《ほて》った状態で、そんな神聖で重大な誓いを交すべきではない。――
――本当に私は大西を愛しているのだろうか? 彼に対する心の傾きは単なる好意ではないかしら?――
――男と女がその一生を共にしようとするからにはもっと張りつめた、切実な想いがあるべきではないだろうか?――
――そんなに難しく考えることはないわ、好意も愛情も結婚した後は大して変りないわ。大恋愛の末の夫婦が案外簡単に離婚し、写真だけで見合結婚した夫婦が、仲良く暮らしている例はいくらもあるじゃないの。大切なのは、結婚前ではなく、結婚後の心のあり方だわ。――
――でも――
――こんな重大なことを本当に即座に答えていいものかしら? 心に少しでも迷いがある時は、時間をかけてその迷いが何であるか、つきとめてから答えるべきではないだろうか――
「ねえ、祥子さん、イエスかノーかはっきり返事を聞かせてくれたまえ」
大西のつきつめた声が耳許《みみもと》に迫った。バンド演奏はいつの間にか終り、再び静かなピアノソロに戻っている。
「待って」
「え?」
「お返事、三日間だけ待っていただきたいの」
「どうして即答してくれないのだ!? 僕が嫌いなのか?」
即答、それも承諾を期待していた大西は露骨な不満を声に盛った。
「そんなこと決してないわ[#「そんなこと決してないわ」に傍点]。ただ、私達の一生を決めることですもの、三日間程、静かに考えてみたいのよ。ね、判って下さるわね」
祥子は聞き分けのない子供をあやすように言った。
「ま、それはそうだが」
祥子の言う通りなので、大西はそれ以上押せなかったが、今更考えることもあるまいにと思うと、やはり心にくすぶるものが残った。
「それじゃあ、三日後によい返事を待っているよ」
「ごめんなさいね」
「何も君が謝ることはないじゃないか」
大西はつとめて明るく笑った。
自分を嫌いなのかと詰《なじ》った時、「決してそんなことはない」と答えた祥子の言葉の強さが大西を力づけていた。
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青氷の裸身
1
秋田修平が勤め先の日本労災防止協会、中央診療所の診察室で旗野祥子からの電話を受けたのは十二月半ばのある土曜日の朝、これから午前の診療にかかる矢先であった。大西安雄がホテル大東京で祥子にプロポーズをした翌朝であるが、もちろん、秋田は二人の間に前夜そんないきさつがあったことは知らない。
「秋田さん、ああいらしってよかった。私、祥子」
送受器を通して流れて来る祥子の声は、若い男の胸をくすぐるソフトな華やかさがあったが、その声は心なし、常よりもせわしなく響いた。
「明日の日曜日、何かご予定あって?」
秋田が、別にないと答えると、
「まあよかった!」
その喜ぶさまが目の前に浮かぶように華やいだ声で言うと、
「あのう」
とふと口ごもり、そして、胸の中にあるものを思いきって吐き出すように、
「本当にわがままなんだけど、今日の午後からどこか小さな山へ伴《つ》れて行って下さらない?」
と言った。さりげない口調だったが、きっぱりと言った。今日の午後発つとなれば当然、一泊の旅行となる。
「また、えらい急な話だねえ」
「急に行きたくなったのよ、行きたいと思うと矢もたてもたまらなくなって」
「僕は構わないが、大西の都合はどうかな?」
「大西さんは……」
受話器の彼方に微《かす》かなためらいが揺れて、そしてすぐにそれをねじ伏せるように、
「今、関西へ出張しているわ。来週の末頃にならないと帰らないそうよ」
「関西へ? おかしいな、三日程前に電話で話した時は何にも言ってなかったがな」
「何でも急な社命が下りたんですって、昨日電話で言ってきたわ。昨日の午後の新幹線で出かけたのよ」
「そうか、知らなかったよ」
秋田は祥子だけに知らせて自分には黙って発った大西の態度に、何か割りきれないものを感じた。
しかし、すぐに、たかが新幹線で三時間の大阪へ行くのにいちいち断わることもあるまい、祥子だけに知らせたのは、男同士の山仲間の連帯とは異なるソフトなものが二人の間にあったからだろうと思いなおした。
「しかし、僕達二人だけじゃあ……」
それだけに秋田は、大西の留守、たとえ、祥子から誘われたとして、彼女と二人だけの山旅に出かけることに抵抗を覚えた。
祥子に何の野心も抱いていないだけに、それはためらわれるのである。
「秋田さんさえよろしければ、私は構わないわ」
祥子は秋田の心の中のためらいなど頓着《とんちやく》なくきっぱりと言った。
秋田と大西は学生時代から何度となくこの共通の美しい学友を小さな山旅へ誘った。男と女が伴《つ》れだって何泊かの泊りを重ねる旅も、目的地が山となると、不思議にセックスの匂《にお》いがしなくなる。
別に山がそれほどの聖地であるわけでもなければ、山へ行く人間が聖人君子ばかりとも限らないのだが、未婚の男女が伴れだって、たとえ、二人だけで出かけても、彼らが山支度をして[#「山支度をして」に傍点](普通の旅行者の服装ではなく)山へ行けば、彼らの間には何もなかったと考えられる。
現実にはそんなことは決してなく、きざっぽい山男や山女の一人よがりの気取りであることが多いのだが、彼ら三人も、ともかくこの山旅の清潔ムードのおかげで、学生時代からよく打ちつれて旅をしていた。
もちろん三人の旅は、山を純粋に愛する者同士としての節度に貫かれていたが、それだけに若い男女が共にする一泊旅行の持つ意味に互いに鈍感になっていたと言える。
秋田がためらったのは、その種の旅行の持つ意味を悟ったからではなく、大西に対する気兼ねからであった。
「ね、いいでしょ? 今日はお互いに半ドンだから二時頃には発てるでしょう。何処でもいいわ。冬枯れの山をむしょうに歩きたいのよ」
祥子は優しく、しかし、断わりきれぬ粘っこい口調でせがんだ。
――今迄にも大西と祥子二人だけで山へ行ったことがある。しかし、彼は俺の前ではっきりと祥子への心の傾斜を表明している。だからこそ俺は構えて祥子へ一定の距離を保っていたのだが。……それなのに、大西の出張中を故意に狙《ねら》うように祥子とアベック旅行へ出かけるのは、山仲間の友情に、あらぬ疑いを招くものではないだろうか?
――しかし、旅行といったって、山だ。山へ行くのにそんな気を労《つか》う方が、かえって山仲間を信じていないことにならないか、山というところは、山旅というものは、山仲間の相互信頼というものは……
「もっと神聖で、清らかで、堅固なものなのだ」
秋田は心に呟《つぶや》くと同時に、
「よし、行こう。那須へ行こう、二時に上野駅の正面改札口で会おう」
と受話器に答えた。
2
労務省の外郭団体、日本労災防止協会の中央診療所は麹町四丁目の裏通りにある。近代諸産業の驚異的発展は、様々な労働災害や、職業病を人間にもたらしたが、労災防止協会はこれを最小限に抑えるための初めての公共施設として設立されたものである。
秋田修平はインターンを卒《お》えると同時にここへ入所した。
他にもっと有利な条件で招いてくれた大病院がいくつかあったが、彼は心に思うことがあって、なみの公務員以上の待遇は期待出来ない、この「日労災」の嘱託医となったのである。
但し、おんぼろだが、すぐ裏手に職員の宿舎があった。この住宅難の東京のど真中に、どんなにおんぼろでも只同然で|住む場所《ねぐら》を提供されるのは有難かった。
もっとも、秋田にしてみれば、通勤時間をそのまま、研究や治療にあてられることのほうが嬉《うれ》しかった。
彼には土曜も日曜もない。仕事ももちろん忙しかったが、彼自身診療所で患者やフラスコに囲まれて過ごすほうがずっと心安らぐのである。
秋田にとって医学、それも労働医学の研究は、彼の命そのものであった。それは全く時間との競争と言ってよかった。彼は現代機械文明が産んだ無数の災厄に立ち向かうのに、一人の人間の寿命がいかにも短かすぎるのを痛感した。
技術革新による有害新物質の出現、人々を取り巻く環境因子の変化、有害環境における化学的、物理的、生物的因子との接触。
皮膚|刺戟《しげき》物質、感作《かんさ》物質、農薬、じん肺、そしてまた、プラスチック、合成樹脂、植物、木材等による障害、これらが産業の発展と共に怒濤《どとう》のように押しよせるのに対して、何と貧弱な対抗施設であり、何と短い研究者の時間か。
従って、特別な用事がない限り、秋田は自分に与えられた研究室で殆《ほとん》ど全ての時間を過ごすことになった。研究室に於《おい》て費される時間が彼にとって最も充実した時間であったのだ。
この点、秋田は一般サラリーマンに比べて遥かに幸福な男だった。
合理化とコストダウンの合言葉の下に、極端に仕事を細分化、標準化された現代サラリーマンが、仕事に生き甲斐《がい》を見出すのは殆ど不可能である。いきおい、彼らは生活の手段として仕事をする。勤務時間は彼らにとって苦役以外の何物でもない。端的に言うならば、彼らは勤務時間において人生を、それも一度限りの人生を浪費しているのである。
それを浪費と気づくサラリーマンはまだましであるが、彼らの大半は、そのような時間の過ごし方を人生そのものだと思い込んで、思考ゼロの単調労働のくりかえしのうちに自己の持ち時間を喪《うしな》っていくのだ。
彼らは余暇において、わずかに人間性を取りかえし、働くことは生きていくための手段となる。
現代の最も大きな悲劇は、手段と目的の距離が極端に開き過ぎてしまったことである。社会の機能を維持するために、誰かがしなければならない仕事であるが、そのような単調反復労働だけで満足、甚だしい場合は生き甲斐を見出し得る人間は、「自分が本当に為《な》したいことは何か?」を忘れてしまった人種である。
こうした「無駄な鉄砲弾を打つような」人生の浪費の堆積《たいせき》の上に、現代機械文明は成立しているのだ。
しかし、秋田にとっては仕事は人生そのもの、効用そのものであった。そこでは手段と目的、彼が本当にしたいことと、それを得るために為さねばならないことが完全に一致していた。
秋田は自分がそのような無意味な単調労働(社会全体については何らかの意味があるのだが)により少ない[#「少ない」に傍点]持時間を失わないですむことを有難く思った。
しかし、彼にはそれを手放しで喜べない特別な事情もあった。彼は急がねばならなかったのだ。研究室の虫[#「研究室の虫」に傍点]にならなければならない必然の事由が秋田にはあったのである。
その虫[#「虫」に傍点]が、その日に限って午前の勤務時間が終るのを待ちかねたように研究室を飛び出した。
言うまでもない、上野駅で旗野祥子と落ち合うためである。軽い山歩きとはいえ、暫《しばら》く山はご無沙汰《ぶさた》している身なので、旅装を調えるにも小一時間はかかるだろう。急がねばならなかった。
3
久しぶりにザックを背負い、カビが生えかけた鋲靴《ナーゲル》を履くと、小さな山ながら、やはり山へ向かうのだという、あの緊張を伴った悦《よろこ》びが胸に湧いた。
手にピッケルのないのが一寸もの足りなかったが、初冬の那須にはこれだけでも少々大仰な感じがする。今からでは向こうへ着く頃にはどうせ日が暮れている。歩けるのは明日一日、それも夜には東京へ帰り着いていなければならないのだから大したところへは登れない。
別に那須でなくともよかったのだが、祥子にせがまれて、ふとこの那須高原の茫々《ぼうぼう》たる風景を思い浮かべたのは何故か?
上野駅には二時五分前頃に着いた。祥子は指定された場所にすでに来ていた。秋田の驚いたことに、彼女は平服≠ナ来ていた。
ベージュ色のコートに同じくベージュのシルクウールのツーピース。手には小さなハンドバッグを提げただけである。靴だけヒールのやや低いものを履いている。到底、山をやるスタイルではない。むしろ、新婚旅行に近い服装である。
「行かないの?」
秋田は拍子抜けしたように言った。彼女の服装から、てっきり都合が悪くなって取り止めるものと思ったからである。彼に連絡を取りたくも、すでに寮を出た後なので止むを得ず、待ち合わせ場所まで出向いて来たのだろう。
(余計な気を労《つか》っただけ損をした。これだから女という人種は)
秋田は心中ひそかに舌打ちすると同時に、失った時間が惜しくなった。
「え、どうして?」
ところが、祥子のほうが不思議そうな顔をした。
「どうしてって、君、まさかその格好で山登りするつもりじゃないだろうな」
「あらっ」
祥子は短く叫んでから、やや困惑したように、
「でも那須高原でしょ、道もいいし、茶臼岳《ちやうすだけ》の頂上までロープウェイで行けるから」
祥子はもともとその服装で出かけるつもりだったのである。とすると、何とも不似合なカップルになった。しかし、別に中止するほどの理由でもないので、二人は改札を通った。
行き当たりばったりの旅だったが、折りよく二時三十三分黒磯行の普通電車がホームに待っていた。
宇都宮の手前で日が落ち、終着の黒磯に着いた時はすでに夜が落ちていた。
駅前に那須湯本へ行くバスが待っていた。
季節外れのこととて、乗客は皆、地元の人々ばかりであった。那須温泉群をひかえて都会ずれしているはずの彼らも、秋田と祥子のちぐはぐな服装のとり合わせに好奇の目を注いだ。
新婚旅行にしては夫≠ェむさくるしいし、女客を案内する山のガイドにしては、何となく風貌《ふうぼう》が都会的すぎる――秋田は彼らがどんな憶測を自分たちに寄せているかと思うとふとおかしさがこみ上げてきた。
バスが動きだした。すぐに町並が尽きて、車窓に暗い闇《やみ》が迫った。松並木らしいものを通りすぎると、闇がいっそう広く、深くなった。遠い野の果てに点綴《てんてつ》する人家の灯が妙に人恋しい気持をかきたてた。
――はて? 山へ入る前にこんな気持にさせられるのは初めてだが――
滞山数十日に及ぶ時など、稜線《りようせん》上から下界≠フ夜闇の中に散る人家の灯に、そのような気持を味わったことはあるが、これから入山しようという矢先に、こんなことははじめてだ。これもきっと、祥子の服装のせいだろう。
秋田はすぐ脇のシートに身体を密着させて坐《すわ》っている祥子に、山仲間としてよりは、美しい異性を意識している自分を悟って、今迄《いままで》には感じなかったある不安を、これからこの曠野《こうや》のどこかにある山宿ですごす一夜に抱いたのである。
そのバスは湯本どまりであった。
「さあて」
宿を探すべき段階に至って、秋田は一寸当惑した。
最初のうちは那須温泉郷の中心地、湯本に宿を求めるつもりだったが、バスの窓から眺めてきた各旅館の、余りにもけばけばしい照明と、遊蕩的《ゆうとうてき》な雰囲気《ムード》にすっかり気持が萎《な》えてしまったのである。
まして、祥子という伴《つ》れがいる。温泉マークまがいの旅館には入りたくなかった。
その時、バスセンターのマイクが、「奥那須循環バス、只今発車します。弁天、大丸《おおまる》、八幡温泉方面へお越しのお客様は、待合所前へお急ぎ下さい」
と放送した。
「祥子さん、大丸温泉へ行かないか?」
秋田は学生時代三本槍から朝日岳へ縦走した折り、下山した夜泊まった大丸の豊富な湯量を想いだした。宿の前の渓谷に喨々《りようりよう》と湧き溢れる湯に浸《つか》って、凄絶《せいぜつ》なまでに蒼《あお》い月が渓谷の上空を渡って行くのを、時間が経つのも忘れて見守った記憶がある。この那須を選んだのも、今にして思えばあの夜の月光と湯煙りが尾を曳《ひ》いていたのだろう。
「ええいいわ」
祥子は素直に肯《うなず》いた。
循環バスの乗客は彼ら二人だけだった。タイヤにチェーンが巻きつけられてあるところをみると、上の方はすでに雪が来ているのであろう。
バスは喘《あえ》ぎ喘ぎ登った。野の果てに煌《かがや》いていた灯が、下方に広く散るようになったところから相当に高度を上げていることがわかった。
寒さがしんしんと脚から腰へ浸透して来る。それだけに、祥子の体温が密着している体の部分から、バスの震動と共に、なまなましい温かさで伝わってきた。
ずい分長いこと揺られたように感じたが、大丸には二十分ぐらいで着いた。これからこの無人のバスは、那須高原循環道路の闇の中を、北湯、八幡と忠実に廻るのであろう。
バスが遠ざかると耳が痛くなるような静寂が落ちた。
「あら、雪が舞っているわ」
待ち合い小屋の裸電球の光輪の中に白い粉が、誘蛾灯に吸い寄せられた無数の羽虫のように舞っている。
「雪じゃない、風花《かざはな》だよ」
「きれいね」
小さな声でそっと呟《つぶや》いているのだが、それが気味が悪い程大きく周囲の闇に響くのだ。
「宿はここから一寸下りたとこなんだ。径が凍りついているから足許《あしもと》に気をつけて」
すでに何度か降った雪は、道路をスケート場の氷盤のように凍らせていた。
大丸温泉は雪の中にひっそりと湯煙りをたてて待っていた。秋田は宿の全景が初めて視界に入った時、旅人の安らぎを覚えるよりは、未知の世界に分け入ろうとする者の、心をしめつけられるような期待と不安を感じた。
4
「それではお休みなさいませ」
寝床をしつらえた女中が退《さ》がり、彼女の足音が遠い廊下へひたひたと遠ざかると、耳を圧する静けさと、互いに未知[#「未知」に傍点]の男女が床に入る前のどうにもてれ臭い手持|無沙汰《ぶさた》な時間が落ちた。
季節外れのこの宿に、その夜の泊まり客はどうやら彼ら二人だけのようであった。本館から旧館を経由してこの新館に導かれて来る長い廊下の道すがらに人気《ひとけ》は全くなかった。
わずかにいるはずの宿の従業員すら、息を殺しているのではないかと思われるほどの静寂である。部屋の位置のせいか、裏の渓流のせせらぎも聞こえないのだ。
「そろそろ寝《やす》もうか」
秋田は何気なく言ったつもりだが、その声はかすれていた。彼らの前には友禅模様の夜具が二組のべられている。そのえんじを主調にしたあでやかな色ぼかしが目に染みるようであった。
「祥子さん、どうぞ僕に気兼ねなく寝んで下さい。僕はこちらの控えの間の方で寝るから」
彼らが通された部屋は、この山の宿では、最高の部類に属する部屋らしい。バスこそついていなかったが、八畳の客室に二畳ほどのいわゆる捨て間≠ニ呼ばれる小部屋とトイレットが付いていた。
秋田はそちらの部屋で寝るつもりだったのである。
未婚の男女の当然のエチケットとして、秋田は最初、宿の者に別々の部屋にしてくれるように頼んだのであるが、何故か、祥子が同室でよいと頑強に言い張ったのである。
しかし、いかに彼女が言いだしたこととはいえ、枕を並べて寝るわけにはいかない。たとえ二人だけの旅行であっても山登りに来たのだ[#「山登りに来たのだ」に傍点]。
「それじゃあお休み」
秋田は言って、一組の夜具を隣りの小部屋へ運ぼうとした。
その時、彼に背を向けた形でこたつへ入っていた祥子の肩が微《かす》かにふるえ、忍び笑いの声がもれた。何がおかしいのか、秋田には原因が思い当たらなかった。
祥子の肩のふるえは次第に大きくなってきた。
「祥子さん!」
秋田の唇から驚きの叫びがもれた。何と祥子は泣いていたのである。わっと泣きだしたい衝動を必死に全身で耐えていたのだ。
「どうして泣いたりなんかするんだ」
祥子はそれには答えず咽《むせ》び泣き続けた。涙の粒が目尻《めじり》から溢《あふ》れ、頬《ほお》を伝い、ふくよかなおとがいの下端に雨滴のようにたまっては、こたつの上板の上に落ちた。山宿の夜のしじまの中に祥子のすすり泣きは、奇妙な艶《なまめか》しさをもって響いた。
「一体どうしたの?」
秋田は困惑したように尋ねた。実際、彼は途方に暮れていた。
「秋田さんは……」
漸《ようや》く祥子はとぎれとぎれに言った。
秋田がその低い言葉が何を言ったものか確かめようと祥子のかたわらに寄ると、
「女の気持が分らないのよ」
泣きじゃくりながら若い女の柔らかくも厚ぼったい躯《からだ》が、いきなりドサッと彼の胸の中に投げ込まれた。
それは、投げ込まれたという形容がまことに相応《ふさわ》しい、祥子の躯との接触だった。
「祥子さん」
柔らかく熱い祥子の躯を抱き止めながら、秋田は流石《さすが》に血がさわいだ。
「私がただ山へ伴れて来てもらうためだけにあなたを誘ったと思って?」
「…………?」
「私、女の身から恥ずかしいわ、でも、秋田さんって人は、女のほうから言いださなければ分って下さらない方なのね」
「…………」
「私、あなたが好きですわ。他にもっといい言葉がないのですが、愛していると申し上げてもよろしいと思います。そう思ったからこそ、その気持をあなたに伝え、あなたのお答えを聞かせていただくために山へ伴れて来ていただいたのです」
「し、しかし」
秋田が辛うじて出した声を祥子が押しかぶせた。彼女はもはや泣いていなかった。まなじりを引き締め、思いつめた表情で言葉を続けた。それはむしろ自分自身に語りかけているような口調であった。
「私、秋田さんへの想《おも》いを長い間、心の中で暖めてまいりました。私自身、そういう想いが心の中で発酵していることをつい最近まで、いえ昨日まで気がつかなかったわ。昨日はじめて私はそれを知りました」
ここまで言って祥子は初めて言葉を切った。激しい感情を吐露したために乱れた呼吸を調えるためだったらしい。秋田はその一瞬を捉《とら》えて漸く言葉を返すことが出来た。
「しかし、君には大西がいる」
別に大西と祥子の仲には何の約束もとり交されていないはずだったが、折りにふれては、大西から祥子への思いのたけを聞かされていただけに、すでに二人の間には確約があるものと錯覚してしまったのである。
「私、大西さんも好きでした」
祥子は大西の想いが片想いではないことを認めた。
「そして、その大西さんから昨夜、結婚の申し込みを受けたのです」
――とうとうやったか――秋田はそう思うと同時に、胸の中に一つの空洞《うつろ》がぽっかりと口を開いたような気がした。そのうつろは今、急にできたものではない。長い間、胸の奥底にひっそりと埋もれていたものが、今の祥子の言葉によって急に蓋《ふた》を取り払われ、底知れぬ深さを示したように感じられた。
「でも、――」
祥子はここで息を大きく吸った。致命的なことを告白した後で、(もっとも、秋田には祥子の打ち明けた言葉の重大な意味がまだよく判っていなかったが)更に何かを思い迷うようなためらいがそこに見られた。
祥子は続けた。
「私、大西さんに申し込まれて、初めて、私の真に愛する人が誰だったか知ったのです。秋田さん、それはあなたよ!」
祥子はそう言って視線をまっすぐに秋田の顔にあてた。鋭い刃物のように切り込んで来る視線であった。しかも、彼女の身体は依然として秋田の腕の中に居る。
彼の心は大きく揺れ騒いだ。
自分は今迄《いままで》、祥子をどのように眺めてきたか? ――友の恋人――自分だけで勝手に決めていなかったか? それ故に祥子に近づくことは彼にとって禁忌《タブー》であった。
だが、そうではないことを祥子自身の口から今はっきり聞いた。禁忌は解除《レリーズ》されたのである。
となれば、祥子に近づくことは……ああ、それは大きな悦《よろこ》びである!――
――俺《おれ》自身、祥子を深く愛していた。今迄、その深くも哀《かな》しい感情を抑えていたのは、友へ譲っていたのだ。俺は山で青春を分かち合った山仲間と、一人の女を奪い合いたくなかった。――
しかしと秋田は更に思った。
(それがどんなに女の人格を無視するものであるか。恋を友に譲るといえば、聞こえはよい。しかし、それは女を一切の思考力のない物質視することではないか、男に恋を友に譲る自由があるのと同様の密度で、女にも恋を遊ぶ自由[#「恋を遊ぶ自由」に傍点]があってよいはずだ)
「秋田さん、何とかおっしゃって!」
祥子が頬を紅潮させて言った。彼女のあえぐ息が秋田の頬にかかる近さである。それにしても何と熱くしなやかな彼女の躯であろう。
ただその躯を抱いた腕に力をこめ、眼前に花のようにあえぐ唇に、自分のそれを捺《お》しつけるだけでよい。それだけの手間[#「手間」に傍点]で、自分が永い間欲していたものは手に入るのだ。
「祥子さん」
秋田の自制は崩れかけた。しかし、秋田の全身には心の別の個所からもう一つの制動《ブレーキ》がかかった。それがそれだけの手間≠取らせなかった。
「秋田さん、どうして!?」
祥子が身をよじりながらなじった。女の身、恐らくは処女の身から、はしたなくも恥ずかしい告白をした後で、男に受け入れられなかったならば、それは死にまさる辱しめであろう。祥子の語調には必死のものがあった。
それだけに秋田はためらった。しかし、ためらいながらも、はっきりと言った。それは告げなければならぬことなのだ。
「祥子さん、だめなんだ」
「どうして?」
祥子の眸の光は白熱したように強められた。
「君の心は嬉《うれ》しい。僕も君のこと好きだ。死ぬほどに好きだ」
「……ならどうして?」
「僕は……僕は……男としてだめなんだ」
「…………?」
「恥ずかしいことだけど、はっきり言おう。僕は不能者なんだ」
「不能者?」
「といっても君にはわからないと思うんだが、つまりね……正常な結婚生活を営めない身体なのだ。山で一度|墜《お》ちてね、腰を強く打ってから男としての機能を果たせない身体になってしまったのだ」
「心で深く愛し合っていれば、そんなこと問題ではないわ」
「そうではない。夫婦というものは、一生を共にするものだ。その長い間、精神的な結びつきだけではどうにもならないんだよ」
「そんなことない、そんなこと決してないわ。男と女が生活を共にするために、愛し合うということ以外に何が要るの?」
祥子は駄々子のようにいやいやをした。それを宥《なだ》めすかすように秋田は優しく説いた。
「君にはね、まだよく分らないことなのだ。男と女が結びついた後で、どちらかにそのような故障が起きるのは止むを得ない。しかし、初めからその故障を承知でスタートするのはやはり正常ではない。まして、いずれかの一方が完全なパートナーを選べる立場に居る時は。……今の君のようにね」
「どうして、どうして?」
「愛に一生を殉ずると言えば、いかにも聞こえは美しい。しかし、夫婦という名前のコンビが共に過ごす時間は長い。一生の間には、愛という精神的なものだけではどうにもならないことがあるんだよ」
「そんなことないわ。二人が愛し合ってさえいれば」
「愛し合った二人が別れた例はいくらでもあるじゃないか」
「それは、その愛が本物でなかったからよ」
「彼らも最初は本物と思ったはずだ、今の僕達のようにね」
「私達の心は錯覚だと仰有《おつしや》るの?」
眸は重ねたままでありながら、彼らはいつしか抱擁を解いていた。話の内容がそうさせたのである。
「そうではない、本物と信じた愛も時間の流れの中には変質するというのだ。愛はうつろい易いものなんだよ」
秋田も、確たる信念に基づいて語っているわけではなかった。彼自身それほどの信念があるわけではない。ただ、彼は祥子を受け容《い》れられぬ理由[#「理由」に傍点]があった。そのためには何としても祥子を説伏しなければならなかった。
男の躰《からだ》は火のように燃え、祥子を欲していた。しかし、それは出来ないことであった。してはならぬことであった。
「そんなことはないわ」
祥子は頑強に言い張った。
「君にはまだわからないことさ」
「わかるわよ、私、もう子供じゃないもの、秋田さんの考え方は、人間不信よ、ねえ、私だけは信じて! たとえ、愛がうつろい易いものであっても、だからといって、私もそうだとは思わないで」
「有難う、君の気持は嬉しい。しかし、それだからこそ、それに甘えられないんだ。夫婦が共に過ごす長い時間に比べて、婚前の交際は余りにも小さく短い。その短小なものに賭《か》けて、男と女は一つ舟に乗って長い航海に出る。めぐり逢《あ》うまでは赤の他人だった二人が、一瞬ともいえる短い時間にそのパートナーを決めるのだ。好きとか嫌いとかの心のあやは、長い航海に比べたら問題にならない。それだけに、愛を永続きさせるための出来るだけ多くの条件が必要となるんだよ。つまり、何と言おうかなあ、……一生を共にしようとする男女にとって、互いに愛し合っているだけでは不充分なんだ」
「私にだって経済的な裏づけのない愛が、永続きしないということぐらい分っているわ」
「それよりももっと根本的なことなんだよ。男女にとって、それがないことは……はっきり言おう、セックスがないということは、愛そのものまで成り立たせないんだ」
「そんなことないと思うわ。男と女の結びつきはそんなに動物的なものではないわ。秋田さんは私のためを思ってそう仰有って下さるのでしょうけど、少なくとも、私はそんな動物的な女ではなくてよ。女にとっては愛するということだけで充分なのよ」
いくら話したところで堂々巡りである。所詮《しよせん》、性の経験のない女に、男女の愛における性《セツクス》の殆ど決定的な位置を教えることは出来なかった。
充《み》たされぬ心のままに二人は二つの部屋に別れて眠った。二人の間は薄い襖《ふすま》によって仕切られただけであったが、彼らには、特に、祥子には、それが秋田の心を鎧《よろ》う、鉄の垣のように思えた。
祥子の心に、男から拒絶された屈辱感はなかった。ただ形容しようのない寂しさがあるばかりであった。
しかし、それ以上の寂しさが秋田を苛《さいな》んでいることを祥子は知らなかった。
5
襟《えり》あしに忍び寄る冷気で秋田はふと目覚めた。目覚めたというものの、眠っている間も頭の片隅では起き続けていたような、何かものたりない目の覚め方であった。
「二時半か」
秋田は枕元《まくらもと》に置いた腕時計の夜光文字を覗《のぞ》いて、口の中で呟《つぶや》いた。全てが死に絶えたような静けさである。襖の向こうに祥子の微《かす》かな寝息が聞こえるのが、唯一の気配であった。
秋田は枕元をさぐり、ピースを一本くわえた。マッチがなかなか見つからなかった。
寝る前に確かにタバコの箱と揃《そろ》えて枕元に置いたはずである。
彼は軽く舌打ちしてスタンドをつけようとした。だが、その手は途中で止まった。タバコへの情熱が冷《さ》めたからではない。喫《の》みたいとなるとむしょうに喫みたくなるのが、タバコ喫みの習性なのである。
彼は光を恐れたのだ。灯を点《つ》けることによって、祥子の眠りを覚ますことを恐れたのである。
この夜の進んだ山宿で、互いに心を傾け合う男女が共に目を覚ましたら……今度こそ、秋田に自信はなかった。その時、彼の耳に微かな水音が入った。風のかげんであろうか、それとも今迄気がつかなかったのか、それはいかにも遠い暗所をひっそりと流れ去るような水音であった。
寝床に横たわったまま、暫《しばら》くその水音に聞き入っていた秋田は、漸く、それが湯槽《ゆぶね》を溢れ出た温泉《ゆ》が落ちる音だと気が付いた。
(そうだ、温泉に浸《つか》ろう。ま夜中の風呂も悪くない)
と思い立った秋田は、出来るだけ音を立てないように寝床から滑り出た。
重いガラス戸を軋《きし》ませて入った浴室の中は、一面に濃い湯気に閉ざされていた。広い浴槽も数米四方の視界だけ残して湯気の中に隠されている。時折り、戸の隙間《すきま》から凍った外気が侵入して、湯気の中に濃淡の縞《しま》模様をつくったが、その時ですら浴槽の一方の端は見透せない、湯気の濃さであり、浴槽の広さであった。
渓谷に溢《あふ》れた湯はこの広大ともいえる浴槽を充たし、更に新那須や八幡の温泉群に引湯されているのである。
学生時代、秋田が月を眺めた渓谷の露天風呂は、この大浴場のすぐ下手《しもて》にある。
さすがに凍るような外の闇《やみ》を覗いては、露天風呂へ出て行く気はしなかった。
大丸の湯は適温である。どちらかといえば、ややぬるいほうと言える温泉は、ゆっくりと楽しむのに適した。大浴場の中央に進み、湯気にすっぽりと体を埋め込むようにして湯に浸っていると、身も心も和やかに揉《も》みほぐされていくような気がした。
深夜のこととて、他に浴客はいない。いやたとえ、昼間でも他に泊まり客はいないはずであった。
湯が流れ落ちる音と共に、せせらぎが耳についた。
(大西は今頃どうしているか? 大阪か、それとも、もうすでに帰京しているだろうか? いずれにせよ、この時間に起きてはいまい)
秋田はふと、旧《ふる》い山仲間が哀れに思えた。大西が心を傾けて愛する女の心は彼には向いていない。それとも知らず、女への想いを、当の女が心を傾けている恋敵ともいえる男にめんめんと打ち明けた。恋敵と違う点は、その男に女を受け容れられぬ事情があったことだ。
だが、もし……男にその事情がなかったならば……彼は友を裏切っても女を得たであろうか? それはそういう時になってみなければわからない。仮定でものを考えぬことだ、――
その時、秋田の心に熱湯のような想いが湧《わ》いた。
――俺《おれ》は欲しい、祥子が!――
何も難しく考えることはあるまい、男と女がそれを求めている。ならば、求め合えばよいではないか。それから後のことは後の知恵に委《まか》せればよい。祥子の求愛に責任をもって応じようとするから難しくなる。無責任に応じても物理的には[#「物理的には」に傍点]少しも差し支えはないのだ。どうして、男と女の愛を結婚を前提として考えなければならないのだ? 祥子は「真に愛する人」は俺だといっただけだ。何も結婚してくれとせがんだわけじゃない。それがいつの間にか「結婚と愛情」の討論≠ノなってしまった。俺が話をそのように誘導したのだ。男と女の仲は何もそんなに深刻ぶることはない。互いに欲するものを持っている。ただそれだけのことだ。需要供給の仲≠ヘ持続させるのが望ましくはあっても、それは絶対に必要なことではない。一時的な仲であっても、充分お互いの目的は達せられる。
「ああ祥子が欲しい!」
彼は思わず声に出して言った。湯に熱せられた秋田の若い血は、手を伸ばせば届く所に眠る祥子のふくよかな躯を想って奔騰した。
彼は彼女の裸身を一面の湯気の中に画いた。乳色の霧に包まれて、それ自体から光を放つような薄桃色に濡《ぬ》れ光る祥子の裸身を。
「祥子、来い!」
秋田は幻影に向かって手招きした。幻影はにこと微笑《ほほえ》み、湯をざわざわと分けて彼の胸の中に一直線に歩み寄った。
秋田と祥子の幻影は、湯槽の中央であたかも互いに吸い寄せられたかのようにぴたりと抱き合った。
「とうとう呼んで下さったのね」
祥子は幻影ではなかった。秋田の起きる気配に目覚め、後を追って来たのである。もの想いに耽《ふけ》っていた秋田は、うかつにも、祥子の本体[#「本体」に傍点]に触れるまで、気がつかなかった。
今こそ互いに欲するものを与えられて、二人は狂おしく抱き合った。立てば腰高の深さしかない湯は、二人の周囲に小波を立て、湯気が渦を巻いた。
祥子は秋田に男の力で堅く抱かれ、舌をちぎられそうに強く唇を吸われながら、胯間《こかん》にふと異様な感覚を覚えた。
それが何によるものか悟った時、祥子は処女の羞恥《しゆうち》から息が詰まるように思った。もっとも、今迄の行為すら処女の身にとっては卒倒するほどに恥ずかしくも、あられもないことである。しかし、浴場という場所柄と、互いに裸体だという意識と、それに何よりもこの濃い湯気が、祥子の羞恥心を鈍らせていた。
それが今、生まれて初めてこうも明からさまに、男のものの怒張を見せられて、今までの全ての余りにもはしたなく厚顔な行動が、強く巻き込まれたヨリが一気に戻るように、消えも入りたい恥ずかしさで甦《よみがえ》ったのである。
だが、羞恥が彼女をより一層の激しさで秋田に抱きつかせてしまった。
確たる知識はなかったが、これからどういうことになるか、朧《おぼろ》げながら見当はついた。
死ぬほど恥ずかしい。しかし、同時に嬉しくもある。秋田に受け容れられたのだ。
きっとさぞはしたない女と思われたことだろう。だがそれはこれから二人が共に持つ時間で充分に償える。
「嬉しいわ、さっきの言葉はうそだったのね」
祥子は秋田に唇を重ねられたままあえいだ。
後になって考えれば、よくも言えたものと感心するような大胆な言葉だった。
「嬉しい? 何が?」
「あなたは不能者ではないわ」
「あ」秋田は呻《うめ》いた。
急激な変化が秋田の躰《からだ》に起こったのは、その直後である。
秋田は震えていた。湯と湯気と密着した互いの躰と、その躰を合わせようとする寸前の心のたかぶりによって血が湧《わ》きたっているはずの躰が、慄《ふる》えていたのである。
それは全身の力を振り絞って巨大な力を支えている時の、筋肉の震えにも似ていた。そして……あろうことか、秋田は一分《いちぶ》の隙があってもならぬはずの二人の裸身の抱擁を、まるで癒着《ゆちやく》した肉を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぐように引き離した。
結合寸前の男女に加えられるべきこれほど不自然な力はないだろう。暫くの間、祥子は秋田の唐突な行動の意味を理解出来ずに呆然《ぼうぜん》としていた。
気がついた時は二人の躰の間に大きな空間があった。
「何故!? どうして?」
屈辱と羞恥から祥子は泣きだした。泣きむせびながら、彼女は言った。
「私は純潔よ、私を信じて。このくらいの知識は今の女の人には誰にもあることなのよ、あんまりだわ……あんまりだわ」
祥子は先刻の自分のはしたない言葉が、処女にもあるまじき知識≠披瀝《ひれき》するものとして、秋田の怒りをかったのだと思ったのである。
「そうじゃない、祥子さん、そんなことではないのだ」
秋田の狼狽《ろうばい》した声が耳許《みみもと》で聞こえた。
「すまない、本当にすまない。君の気持、僕は本当に嬉しいよ。でも、それには甘えられない事情があるんだ」
「その事情って何?」
「それは……今、言えないんだ。三年ほどたてば分るよ。そして、その時になれば、君はきっと今夜のことを許してくれるだろう。どうか僕のことは忘れて、大西と幸福な家庭をつくってくれ。それが君には一番いいのだ」
「どうしても仰有《おつしや》れないの?」
「聞かないでくれ」
そう言いつつも秋田は、祥子の躯から来る凄《すさま》じい吸引力に耐えていた。意志を超えた人間の本能の強烈な作用である。
「大西と結婚してくれ」
秋田は譫言《うわごと》のように言った。今はただ、この友の名を口にすることが、本能に辛うじて制動をかける。極めて頼りない制動であったが、旧い日、アルプスで培った連帯は、女を争点とする山仲間との争いの渦に巻き込まれようとする生身を辛うじて支えていた。
祥子は射るような視線を秋田に注いでいたが、ややあって虚脱したように、
「いいわ、私、大西さんと結婚します」
と言った。そのまま、浴槽の中でくるりと向きを変えると、浴室の窓際に歩み寄り、外界と仕切るガラス戸を開けた。たちまち冷えた外気がなだれ込み、濃密な湯気を追い散らした。
湯気の去った後に入って来たものは、凍った月光である。折りしも、渓谷の上空にかかった月は、そのふんだんな光を、何物にも妨げられずに浴室の中に降りそそいだ。
薄桃色に濡れ光っていた祥子の裸身は、月光の中にたおやかなシルエットとなり、その輪郭が青い氷に鎧《よろ》われたように硬く光った。
「私、大西さんと結婚します」
祥子はもう一度言った。それは自らの意志を確かめるためであった。
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人道兵器《ヒユーメンウエアポン》
1
大西安雄と旗野祥子が結婚したのは、年が改まった一月末の吉日である。
結婚披露宴には、大西の約束された前途を示すように、日本化成首脳陣の殆《ほとん》ど全てが列席した。
祥子の家は、銀座で代々、女性装身具を商《あきな》う商家である。銀座の本店をはじめとして、都内の盛り場や百貨店、その他全国の主要都市に支店や出店をもち、その方面ではかなり名の通った老舗《しにせ》であった。
彼女の父親としては、しかるべき商家からよい婿をもらい、ゆくゆくはどこか主要な支店の一つを任せる心づもりだったらしい。それが突然、一介のサラリーマン(父親にしてみれば)に過ぎない大西を引張って来て、結婚したいと言いだしたものだから、最初はかなりの難色を示した。
しかし、祥子の決心が堅そうなのと、彼女の上に二人の兄がいて、後継者にはことかかなかったところから、結局は祥子の願いを聞いてやった。
このあたりが微妙なところなのだが、祥子の決心が堅いといっても、それは父親の目にそう映っただけのことで、彼女にしてみれば、所詮《しよせん》、大西は第二志望≠ノ過ぎない。
父親が頑として反対すれば、案外、折れたかも知れなかったのである。
ともあれ、二人は結婚した。
披露宴は大西の日本化成における嘱望度と、祥子の家の威勢≠反映して豪奢《ごうしや》を極めた。
たかが一介のサラリーマンと高をくくって出席した、祥子の父親をはじめとする旗野一族は、大西側出席者の豪華な顔ぶれと、テーブルスピーチによって紹介される、満更お世辞でもなさそうな花婿のアウトラインに大いに満足した。
――日本化成になくてはならない人材――
――日本化成の大屋台を背負う有能技師――
――我が社のホープ――
このような讃辞《さんじ》が、日本化成の大物£Bによって次々に重ねられ、彼の才能と技術がどうやら日本化成にとってなくてはならぬものらしいことを口々に述べたてられると、父親は、大西が一体何を開発しているのかも知らずに、ただ単純に嬉しくなってしまった。そしていつの間にか、
「社会勉強などという娘の言葉を真《ま》に受けて、会社勤めなぞさせるのではなかった」
という後悔が、
「やはり、箱入りにしておかなくてよかった。娘の男を観る目も馬鹿にしたものではない」と変ってしまったのである。
その見なおしが新夫婦のためにこぢんまりした家を杉並の奥に建ててやることになった。
2
長い間、欲しがっていたものを与えられて大西は文字通り、蜜《みつ》のような日々を過ごした。研究のほうも順調に進んでいた。そして一年が過ぎた。
日本化成中央研究所には三百人ほどの技師が夫々《それぞれ》の研究課題毎にグループを作って働いている。
大西はこの中で特殊研E≠ニいうグループに所属していた。Eというのはもちろん記号に過ぎず、彼らの研究テーマはナパーム弾である。研究室の周囲に微《かす》かに残る武蔵野の面影がめっきりと春めいてきた三月末のある日、Eグループの研究室へ所長から直々大西への呼出がかかった。
何事かと研究の手を休めて所内中央に在る所長室へ急いだ大西は、そこに意外な人物の姿を認めて思わず硬直した。
「ま、かけたまえ」
その人は鷹揚《おうよう》に頷き、デスクの前の椅子《いす》を指した。五十代の末頃か、広い額と豊かな頬、やや三白眼の鋭い目、ひきしまった唇、それを支える体躯《たいく》は、若い頃、スポーツで鍛え上げたらしい筋骨質である。重厚感の中に豊かな包容力と鋭さを感じさせる男である。
「どうだな、その後の新婚の感想は?」
大西がぎくしゃくと腰を下すのを確かめてから、彼は大西の緊張を揉《も》みほぐすように気安く語りかけた。
「はっ、社長、その節はいろいろと」
お世話になりましたと言ったつもりなのだが、語尾のほうはかすれて声にならない。
我ながらだらしがないと大西は心中いまいましく思ったが、これが貫禄《かんろく》負けをするというものか、それともサラリーマンの悲しい習性《さが》なのか、その人の前に立つと心身が自動的に萎縮《いしゆく》してしまうような気がするのである。
その人こそ誰あろう、日本化成代表取締役社長、緒方幸之進であった。それもサラリーマン社長と異なり、日本化成の前身、帝国火薬の創立者、緒方友之進の長子であり、資本金百五十億円、発行済株数約四分の一をがっちりと掌中に握った文字通り実力ある社長である。
幸之進はいわゆる親の七光りによる二代目ではなく、恵まれた経済環境をフルに利用して、父から譲り受けた商才に高度の知性的錬磨をかけた。創設者によく見られるように、切れ味は鋭いが、荒削りであった友之進に比べて、父の欠陥を補った幸之進の近代的経営者としての冷徹な頭脳と木目の密《こまか》いセンスは、漸《ようや》く創業期を脱して安定期に入った日本化成にとって正に要求されるものであった。
彼は父の興《おこ》した企業と、経営者としての父のやり方を冷酷なまでに観察し、ひと度父からその業を譲り渡されるや、鋭い批判と改革を大胆に行なった。
このような革命≠ヘ必ず、先代が残した老臣≠竅Aすでに確立された独自の伝統によって大きな抵抗を受けるものであるが、幸之進の場合、彼もち前の木目の密いアプローチで驚くべき速さで彼らの信望を得、抵抗を協力に変えてしまったのである。
火薬産業最大の試練の時期であった終戦後七年間のGHQによる生産統制と、一九五五年頃の冷戦緩和の世界情勢を反映した兵器業界の重大危機をぶじに乗り切ったのも、彼の知性と鋭い経営的洞察力のおかげである。
友之進の創業した帝国火薬を、幸之進が受け継いでから約十倍の規模に仕立て上げたのも、偏《ひとえ》に彼の才腕のなせる業と言われていた。
その緒方幸之進が大西の前に居たのである。
資本金百五十億、従業員一万四千人の大屋台、日本化成を背負う大首長、緒方幸之進が――。
もちろん、中研≠ノ緒方が足を運ぶことは多かった。だが、大西のような平技師≠直接、引見≠キるのは稀有《けう》であった。
これは日本化成の社員でなければわからないことであり、緒方幸之進はそれだけの権威と見識を持っていたのである。
「人も羨《うらや》む仲だそうだな、聞いたぞ」
緒方はこちこちになった大西の前で笑った。
誰から聞いたというのか? 緒方にとって自分などは超微粒子のような存在に過ぎないと思っていた大西は、この言葉で益々《ますます》感激した。
緒方にしてみれば、小さなはったりをきかしたに過ぎない。
「ところで」
緒方の目が生来の鋭い光を浮かべた。日本化成の首脳たる身が、一平社員の近況を尋ねるためにわざわざ出向いて来るはずがない。それくらいのことは弁《わきま》えている大西は、話が漸く本題に入ったのを悟って別の意味で緊張した。
「小野君、今から当分、誰もこの部屋に入れないでくれたまえ」
緒方は副所長席に控えていた小野所長に命じた。そこに在るべき鏑木《かぶらぎ》副所長の姿はない。所用で中座したのか、それとも、人払いを喰わされたのか。いずれにせよ、緒方がこれから語るべき話の内容の重大さが大西の身にそくそくと迫るようであった。
「大西君」
緒方の目がさし招いた。「もそっと近う」というところである。
緒方はデスクの上に何かの青写真らしいものを広げた。
「何だかわかるかね?」
緒方は言った。
「工場のようですね」
大西は答えた。
「そうだ、これは工場の製作図だ。我が社が近々建設予定の清里《きよさと》工場のな」
「清里工場?」
「そうだ。八ケ岳|山麓《さんろく》の清里高原に新しい工場を作るのだ」
緒方は何でもないことのように言った。
設備投資は巨大な資金の固定化を必要とし、企業の命運を左右する重大事である。
特に新工場の建設となると、長期経済予測に基づき、位置、敷地、建物、および諸設備の技術的経済的調査研究とあいまって、市場までの距離、原材料、動力、労働力、燃料の入手、輸送、交通、気候、工業用水、更には土地の高低や地質地形に至るまで丹念に調査しなければならない。
いきおい、どんなに極秘|裡《り》にやっても、工場建設となると、その情報は水がもれるようにもれてしまうものである。
大西が初耳だったのは、余程秘密管理が徹底していたものか、それとも、まだ計画されたばかりで、もれるひまがなかったからであろうか。今の緒方の様子からはそのいずれともとれた。
山に明るい大西は、清里といわれてすぐぴんときた。
長野と山梨の県境を長大な壁のように連なる八ケ岳火山群の東麓に広がる高原で、中央線の小淵沢《こぶちざわ》と信越線の小諸《こもろ》を結ぶ小海線の高原風景が最も極まれる所である。
しかし、風景は抜群であっても、工場の立地点としては前に述べた立地条件の殆《ほとん》ど全てを欠くであろう辺鄙《へんぴ》な場所である。
(そんな所にどうして工場を?)
大西の不審に答えるように緒方は続けた。
「実はな、ここに極秘裡に毒ガスの工場を作るんだ」
「毒ガス工場!」
緒方は途方もないことを言い出した。新憲法で戦争を放棄し、永世中立を宣言した日本に、兵器産業が依然として生きているのは現代の怪談であるが、朝鮮動乱や、現在のベトナム戦争における米軍の主たる兵器諸物資の調達源は日本なのである。
「但し、あからさまに毒ガスなどという非人道兵器を生産するということが判っては、世論を刺戟《しげき》する。第一、労働力を確保出来ないので極めて秘密裡にやっているのだ。この計画は社内でも数えるほどしか知らぬ」
緒方は言った。
彼の言ったことはナパーム弾の製造にもあてはまることだった。もともと、特需≠ヘ米軍の作戦行動の一部である。ひとたび、軍需生産が開始されると、工場には軍機保護法が実施されているのと同様の厳しさで、産業機密防衛の名分の下に徹底した秘密管理が行なわれるのである。
しかも、労働者を刺戟しないために作業工程を分散し、個々の労働者には一体自分が何を作っているのか判らないようにしてしまう。
「君も承知のことと思うが」
緒方は続けた。
「朝鮮特需のおかげで我が社は戦後の最も難しい時期をたち直り、一気に発展した。我が社ばかりではなく、特需は日本経済の建て直しを行なった神風≠セった。しかし、その後冷戦緩和に傾いた国際情勢の影響で、兵器特需は激減した。朝鮮戦争に有頂天になって巨大な設備投資をした軍需産業は、重大危機に陥入り、激しい生存競争に入った。我々が生きのびられたのも、開発ブームに伴う、産業用火薬の需増があったからだ」
日本化成の社員にとっては常識のようなことを何故くどくどと説明するのか? 大西の思惑など一向|無頓着《むとんちやく》に緒方は話し続けた。彼の語るところによれば……死ぬべきものは死に、今生き残っている兵器産業は、そのような酷烈な淘汰《とうた》に耐えぬいたものばかりである。ここに再び始まったのが、ベトナム特需であった。
但し、ベトナム特需には朝鮮特需のように軍需産業が手放しで喜べぬしぶい点があった。
それはまず、米軍が軍需物資買付けに当たり、ドル防衛政策の下に、米国産品買付優先政策《バイ・アメリカン・ポリシイ》を打ち出したことである。
第二に、南ベトナム、韓国、フィリピンなどベトナム派兵をしている国からなるべく買付けようとしていることである。それでも賄《まかな》いきれぬ不足分が漸く日本に廻ってくるという仕組である。
朝鮮特需のように日本が一手に引受けたのと異なり、ベトナム特需はいわば|残り物《おあまり》≠ナあった。
だが、ここに一九六五年二月の北爆開始と共に戦闘のエスカレーションが打ち出され、最近は投入兵力四七万、戦費一日二億ドルと言われるほどになった。
この軍需の急増を米国の生産力が消化《こな》しきれなくなり、加えて、東南アジア諸国の生産能力が極めて低いために、軍需産業体系が確立している日本での直接買付が急増した。
そればかりでなく、米軍から注文をもらったものの、自国の低劣な生産設備では到底それをこなし切れない東南アジア諸国は、折角の注文を日本へ下請けに出してくるのだ。
これらが「東南アジア向け輸出」として送り出され、相手国でほんのちょっぴり加工≠ウれて、ベトナム戦争の戦略物資として投入されるわけである。
「しかし、我が社としてはこれだけのことでは動かない。朝鮮特需で懲りているからな」
緒方はしぶく笑った。
「もともと特需などというものは一時的なもので、戦争が終れば泡のように消えてしまう。企業というものは、企業の将来の発展に役立つ場合だけ本格的に生産するべきなのだ。だが、戦争は終るが、戦争の可能性は絶対に終らない。そしてその可能性がある以上、兵器産業は生き続けられるだろう。ということは、米ソの対立が続く限り、我が社が開発生産するものには企業的な妙味があるわけだ」
「しかし、アメリカにいくら兵器の需要があっても」
大西は初めて口をはさんだ。緒方はよく訊《き》いてくれたと言わんばかりに目を細めて、
「そうだ、米国が国産品だけで賄えれば何もわざわざ他国に注文などせんさ。しかし、一口に兵器といっても他国に生産させたほうが、世論上、都合のよいものもある。たとえば、毒ガスのようにな」
大西は思わず「あっ」と叫んだ。
毒ガスの大量|殺戮《さつりく》性、それも人間の業とは思えない残忍な化学的破壊力と、(数年から数十年にわたる)後遺症から、国際法でその使用を禁止している。
いわゆるハーグ宣言とジュネーヴ議定書と呼ばれるものである。もっともこの条約は、特定のガスをあげて禁じているわけではない。また、アメリカはこれを批准《ひじゆん》していないので、あえて拘束されるわけではないが、何としてもこの種の兵器が世界の世論に与える影響が大きいところから、むしろ人道上の立場からこれを守ってきた形であった。
とはいえ、最も効果的に使用すれば水爆に匹敵すると言われるほど効果の高いこの種の兵器を、絶対に等閑《なおざり》に付することは出来ず、秘密裡に開発研究を進めているのである。
現にベトナムにおいては、「不使用の原則」を破り、ベトコンいぶり出しのためと称して非致死性のガスを使用しているほどである。
本国における生産が間に合わなかったか、あるいは、禁制品として開発生産し難い分が日本化成に廻《まわ》されてきたのであろう。
禁制品≠ナあっても利益があるならば、喜んでその開発生産を請負おうとする、まことに天晴れ(?)な企業家精神である。
「それにベトナム戦争はまだ終りはせん。我が社の当期売上げの六割は特需によるものだ。納入品目もナパーム弾、ロケット弾、りゅう弾、銃砲弾、無煙火薬、硝安爆弾、TNT、テトリールから手りゅう弾のてん薬や曳光弾《えいこうだん》まで火薬砲弾類の殆ど全ては、我が社で独占している形だ。いかに我が社の製品が優秀かを物語るものだ。この実績が認められてな、この度、米軍から極秘裡にガス兵器の開発をやってみないかと直談≠ェあったのだ」
直談というのは、米軍が発注にあたり、日本政府や担当官庁を通さずに、業者に直接、あたることをいう。俗に、裏口特需と呼ばれるものである。
もともと、我が国の兵器輸出は、「輸出貿易管理令」の下に通産大臣の承認が必要条件となっている。
一方、兵器の製造も「武器製造法」により許可制となっており、兵器メーカーは各事業所毎に製造品目について通産省の許可を受けなければならない。
しかし、この二重の関所の通力≠熬ハ常の輸出に限られ、全く同じ兵器の輸出であっても、ひと度特需という形をとると、「輸出貿易管理令」は適用されず、通関は全くのフリーパスとなるのである。
更に、在日米軍は、日米安保条約の「地位協定」により、日本での戦略物資、役務の自由調達権を認められておりながら、日本政府への報告義務は負っていない。
従って、米軍は全く自由に業者と直談¥o来、業者は単なる商契約[#「商契約」に傍点]を履行する如く、兵器や軍需物資を自由に生産、販売¥o来るわけである。
「このチャンスを逃すという手はない。たとえ特需が一時的なものであっても、今のところ我々の最大の顧客は米軍だ。それも桁外《けたはず》れに大きい客だ。これに比べたら防衛庁の注文などジャリだ。そこへもってきて、日本では初めてのガス兵器の依頼だ。成功すれば米軍を常顧客化出来る」
緒方は唇を舐《な》めた。それは柔肉を前にした獣の舌なめずりに似ていた。それもそのはずである。米国が自国では開発し難いものを、代わって開発生産してやれば、この米軍という巨大な客から、特需どころではない、ほぼ永久的なお引き立て≠ノあずかれるのだ。
「こっちにとっても有難いことだが、ベトナムで益々、苦戦のエスカレーションをしている米国にとって、日本の強力な軍需生産力は正に頼みの綱というところだろう。今こそ、日本軍需産業の発展強化のための絶好のチャンスなのだ。しかも今度の直談は我が社が日本の火薬産業界を独占支配するためのまたとない足がかりと言える。そこでだ」
緒方は言って、心持ち、デスクの上に身を乗り出した。
「君にガス兵器開発研究のイニシャティヴを取ってもらいたい」
突然、途方もないことを言い出されて大西は愕然《がくぜん》とした。しかし、緒方は彼に驚愕に身を委《ゆだ》ねる暇も与えず言葉を続けた。
「それにこういっては君にすまんが、ナパーム弾の製造工程は比較的簡単だ。是が非でも君の能力を必要とするほどのものではない。しかも君の努力のおかげで、今は誰がやっても出来るように生産工程は完全に標準化されておる。はっきり言って、我が社のナパーム弾はもはや、君を必要としておらん。新しいガス兵器こそ、君を必要としている。どうだ、やってくれるな」
あくまでも静かな口調であったが、絶対にあらがえぬ重量感があった。顔全体に穏やかな微笑がたゆたっているのに、じっと大西の目に重ねられた緒方の目は決して笑っていない。
「やってくれるな」
緒方はだめ押しをするようにもう一度言ってから、今迄《いままで》全く眼中になかったかのような小野所長の方へ初めて目をやり、
「技術その他に関する具体的な指示は小野所長よりある。我々は君に期待している。我が社が業界において絶対の支配権を握るか否かは、偏《ひとえ》に君にかかっているのだ。たのむ」
緒方はデスク越しに右掌を差し出した。大西の掌がそれに吸引されるように重ねられた。しっとりと湿った分厚い掌であった。そこを通して緒方のむんむんするような精気が大西の身体に注ぎ込まれてくるように感じられた。
部下が上意の遂行に全ての情熱を傾け尽くすのは、おおむね、彼らがひとかどの男として認められた℃桙ナある。
〈君の馬前の討死的奉公〉は名もなき雑兵《ぞうひよう》はしないものだ。雇い主のほうでいくらでも|代替え《かわり》がきく〈労働力〉とみるからには、働く側も、支払われた分しか働かないという気持になる。これをサラリーマン根性と言う。
このサラリーマン根性においては、労使の関係はあくまでも対等であり、仕事の内容は賃金と労働力の等価[#「等価」に傍点]交換関係である。
合理化と量産のかけ声の下に、機械の傍らでひっそりと働いている名もない多くのサラリーマンが、サラリーマン根性に堕し易いのは当然である。
何故なら彼らは認められていないからである。彼らが居なくても、企業の運営には少しの支障もきたさないからだ。こういうサラリーマンが興味をもつものは、〈月給袋の中身〉だけということになる。
このように寂しく荒廃した心理に陥り易いサラリーマンを、〈報酬など問題ではない〉と滅私奉公《ハツスル》させる最も効果的な方法は、無数の歯車としてのサラリーマンの中から、〈何の誰がし〉という立派な固有名詞を持った具体的人間として認めてやることである。
自分が企業から必要とされているという意識ほどサラリーマンを発奮させるものはない。
かくして、近代企業の中に臆面《おくめん》もなく、温情《なにわぶし》的人間管理法が登場し、単純なサラリーマンをハッスルさせるのに大いに役立っている。
ひと度、彼らがハッスルせんか、賃金=労働力という等価交換関係は、滅私奉公というおそろしく不等な(サラリーマンにとっては極めて割りの悪い)主従関係にすり替えられる。
ハッスル型サラリーマンの大半は、この巧みにすり替えられた不等交換に気がつかないのだ。
「一体、自分のハッスルの動機《モチーフ》は何か? 上司の温情に報いるためか? 仕事への情熱か? その仕事には果たして自分でなければ出来ないようなオリジナリティがあるのか? 過度に単純化された職能に、錯覚の生き甲斐《がい》を見出しているだけではないのか?」
経営者からみればこういう風に分析をしたがる心の傾きが、すでに唾棄《だき》すべきサラリーマン根性であり、企業の生産性を毒するものなのである。
ともあれ、大西安雄は認められた。それも経営者が生産性を向上させるためによく使うみせかけの認め方ではなく、真に企業に必要な人材として、トップから直接、認められたのだ。
大西はこの瞬間から何のためらいもなく、地獄の兵器≠フ生産に身を挺《てい》していったのであった。
3
緒方が去ると、小野が本来の自席に戻った。
「社長は君をかっている」
彼は火に油を注ぐようなことをさりげなく言って、
「それでは具体的に説明しよう。君も知るように、毒ガスと一口に言っても、神経性、糜爛《びらん》性、窒息性、血液毒性、嘔吐《おうと》性、精神錯乱性などの種類がある。この中で我が社が開発依頼を受けたのは、精神錯乱性ガスだ」
「精神錯乱性?」
「そうだ、それも一過性のな」
「一過性!」
「いくら効果が高くとも、第一次世界大戦に使用されたイペリットや、ナチスが開発したGガスのように、残存効果の強いものは人道上[#「人道上」に傍点]使用出来ない」
元来、兵器に人道などという観念が滑稽《こつけい》なのだが、毒ガスの如き化学兵器は、その残存効果、即ち残留毒性による後遺症から人道上許されざる残酷兵器≠ニされている。ガス後遺症が人体に及ぼす影響は、汚い水爆と相似た点がある。しかもその残酷性において核兵器を上廻るものだとさえ言われる。
ガス兵器が国際法上禁じられている所以《ゆえん》である。
「しかし、現在はガス兵器より遥かに残酷な兵器がいくらでも実用化されている。現に君が開発したナパーム弾などはよい例だ。私の考えでは残酷でない兵器などというものは考えられない。どのような殺傷の仕方をしようと、所詮《しよせん》、殺し、傷つけるという結果においては何の変りもない。高度の破壊力と大量|殺戮《さつりく》性においてのみ評価される兵器の宿命と言ってよい。人道的兵器などとは滑稽極まるロマンティシズムだよ。動物愛護主義者が平気で肉を喰《く》っているようなものだ。そんなことをいちいち気にしていては我々兵器産業の技師は生きられない」
こう言って小野は、ふっと薄く笑った。この小野は只《ただ》の技術屋上がりではない。先代友之進の頃より、その右腕として社の技術の研究開発に力を尽くしてきた、いわば日本化成草創の臣≠ナあり、技師としての抜群の能力に加うるに、稀《まれ》に見る企業家精神に溢《あふ》れていた。
自分の技術に寄せる自負の余り、技術畑にはおうおうにして自己の研究にばかり熱心で、企業の収益には目もくれない、いわゆる名人|気質《かたぎ》の人間が多かったが、小野の場合、技術者としての腕もさることながら、何のためらいもなく、企業目的を優先させた。
稀に見る経営者的感覚を兼ね備えた技術者と言えた。企業の収益に貢献するとあれば核兵器すら生産しかねない男であった。
このような男が本当の経営者といえるのか、まだよく判っていない大西は、目的のために手段を問わぬ小野のマキャベリズムに一種の迫力を感じたのである。
「とはいえ」
小野はわずかな笑いをおさめて再び言った。
「人間の感情というものは絶対に無視出来ない。連日連夜、殺し合いをしているくせにクリスマスになると停戦するしおらしさは、決して滑稽なロマンティシズムとして片付けられない人間の心の矛盾だ。殺し合う双方共、夫々《それぞれ》に祖国と平和のために戦っていると確信しているのだからな。従って、どんなに効能が高くとも非人道的な毒ガス≠ヘ作れないのだ」
「それで一過性精神錯乱毒ガスの開発というわけですね」
「そうだ。現にベトナムで非致死性の催涙ガスや嘔気《おうき》ガスが使用されていることはすでに公知の事実といってよい。しかし、これらは余りに人道的≠ナ戦略的に大して威力がない。かといって、残酷ガス≠ヘ世論上、何としても使えない。それにこのようなガスを使用した場合、化学兵器共通の欠点として、天候や地形によっては味方や非戦闘員をも殺傷してしまう。従って万一、不幸にも味方を殺傷することがあっても、その効果が一過性のものが望まれるのだ」
「…………」
「兵器としての価値が、決定的な破壊力と殺戮力だけにあるとするのは間違いだ、戦闘の各時点において敵の戦闘能力を一時的ではあっても、奪うものも、兵器としての目的を十分に果たすと言える。敵を殺さずに勝つ。思えばこれほど人道的な兵器はあるまいが、残酷兵器変じて人道兵器となるのだ」
「…………」
「しかも、残酷兵器の使用は、必ずより以上の残酷兵器による報復を誘発する。一過性のものならその惧《おそ》れはない。それに更によいことには」
小野はそこまで言いかけてからふっと話題を変えるように、
「とにかく、人道的な兵器の開発、それが君に与えられた新任務だ。生易しいことではないぞ。まだ第一に極秘裡にやらなければならん。仮にも、天下の日本化成が毒ガス、たとえ一過性のものであっても、それを開発していることが世間に知れわたってみろ。したがって、犠牲者は絶対に出せない。万一、出ても外部にもれないように、技師団や労働者は我が社の農薬部門から連れていく。清里という辺鄙《へんぴ》な所へ工場を持っていったのもそのためだ。万一、ガスがもれて、近所の住民を気狂いにしたらえらいことになるからな。それに何よりも重要なことは、急ぐのだ。ベトナム戦争がいつまでも続くという保証はない。そうでなくとも米本国では反戦ムードが濃厚な折りだ。戦争終結前に優秀な製品を開発し、米軍に納入せんことには何にもならん。……そして、このことに社運がかかっているのだ。どうだ、出来るか? いや君ならきっと出来る。やってくれるだろうな」
それは否やを言わせぬ社命であったが、大西自身、充分、乗気になっていた。
ただ、小野が「更によいことに」と言いかけてさりげなく言葉をそらしたその先に、何か作為めいたものを感じて一寸返事がためらわれた。だが、それも束《つか》の間、
「やりましょう」
未知の航海に乗り出す若い水夫のように、大西は気負って答えた。
4
翌朝、丸の内日本化成ビル内にある日本化成本社社長室に小野所長は伺候≠オた。
「大西ならきっとよい製品を開発してくれるだろう」
緒方社長は今日という一日の最初の面会人に向かって目を細めて言った。ビルの外壁を兼ねる青い遮熱ガラスを通して、もろに射し込んで来る朝陽が眩《まぶ》しかったわけではない。彼は今朝の空のように上機嫌なのだ。
「大西を所長として、その他、我が社の農薬部門の有能技師の殆《ほとん》ど全てを投入しましょう」
小野は言った。
「そうしてくれ、ことは急ぐ」
「承知しました。しかし、社長、一過性のガスとはうまい注文を取りましたな」
「はは全くな、一過性ということになれば労働力も確保し易いし、それに何よりも、日本の国民感情をあまり刺戟《しげき》しないですむ。どうも、広島長崎の原爆と新憲法のおかげで、とかく我々兵器業者は白い目で見られるからな」
「それに更によいことに」
小野は緒方に同調しつつ、ふと今の自分の科白《せりふ》が、昨日大西に言いかけて言葉をそらしたものと全く同じであることに気がついた。
今はそれをそらせる必要はない。
「ガスは金がかかりません」
「それを言うな」
二人は視線を合わせて薄く笑った。
化学兵器は有機化学の一変態であり、ガス兵器は農業用殺虫剤や医療用新薬の研究の落とし子として生まれたものである。日常使用されているパラチオン、テップなどの殺虫剤は、すべて神経ガスと同系統の農薬であり、筋無力症や緑内障の治療に効果がある区薬DFPなども同じ系統である。いわば、ガス兵器の開発は、農業、医療用薬品の生産研究と密着して、その副産物≠フような形で行なわれたのである。平和産業としての有機化学の生産設備は、直ちに化学兵器の生産に切り換えることが出来る。
日本化成の場合、その農薬製造部門に於《おい》て、原料をかえるだけでこの恐るべき兵器の量産が可能となるのだ。
「しかし」
ややあって緒方は笑いを生来の鋭い眸に納めて、
「いずれ判ることではあっても、大西には言わんほうがいいな。折角の熱意に水をかけることになる」
「私もそう思いましたので、その点に関しては言葉をにごらせておきました。清里工場が、N社の廃工場を譲り受けたもので、社としては殆ど金をかけていない上に、世間体を欺くために別名義にしてあるということが判っては、やる身にしてみれば面白くないでしょうからな」
「その通り、本当は離れ小島の一つでも買ってみっちりとやってみたいところなのだが、何せ、相手ががめつい米軍とあっては、注文を真にうけてうっかり投資は出来ない。大儲《おおもう》けになるか、ならぬか、大西の腕次第というところだ」
二人の男の会談は終った。彼らの前には、青い遮熱ガラス越しに大東京の市街が青くけむって広がっていた。ガラスの光沢に染められたせいもあったが、それはただでさえも靄《もや》い易い早春の空を、大都会の瘴気《しようき》ともいうべきものがけむらせていたからであった。
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隠れたる瑕疵《かし》
1
大西安雄が妻の祥子の〈冷たさ〉に気がついたのは、結婚してからほぼ一年経ったころである。
今にして思えば、それは早くも新婚旅行の途次であったようにも思えるし、それよりずっと以前の婚前の交際(恋愛)中の頃のような気もする。
しかし、それがはっきりと意識の表面に浮かんだのは、清里への転勤が決まった夜であった。
最初の頃は、恋愛結婚のご多分にもれず、大西も素晴しい妻を娶《めと》ったと確信していた。自分がこれからいかに実り多き人生を歩もうと、祥子と結婚したことは、生涯を通して最大の収穫≠ナあると信じていた。
それが時が経つにつれて、隙間風《すきまかぜ》が忍び入るように祥子との間に冷え冷えとしたものがわだかまっていたのである。
彼は最初、それを自分の思い過ごしであるとして強いて否定していた。
妻というものは、男にしてみれば一生に一度の大きな買い物≠ナある。まして、大西のように買い得品≠セと確く信じて買い入れたところが、後になってから、買った時にはわからなかった隠れた瑕疵《きず》があったと判っては、泣いても泣ききれない。従って、強いてそのきずに目をつむり、あくまでも買い得品として信じ続けようとする。
このことは何も男に限られたことではなく、女のほうに更に著しい。買った後で自分の目違いであったと判っても、簡単に買い替えるだけの経済力もない。第一、結婚時に、惚れたはれたの大騒ぎをしているだけに、世間体が悪い。
かくして、結婚後いくばくもなく、見るも無惨に相手の正体を見極めながら、強いてそれには目をつむり、必死に相手を愛し続けようとする。そうでもしなければ、やりきれないのだ。
一生に一度限り許された専用異性¢I択のチャンスをみすみす棒に振ってしまったと認めるのは、世界には素晴しい異性(外見だけであるが)が溢《あふ》れており、そのいずれとも理論上の可能性はあっただけに、死んでも死にきれぬほどの悔恨に苛《さいな》まれるのである。
大西が妻との間に湧《わ》いた冷たい空気を数年(交際期間を含めて)もたってから感じ取ったのは、恐らくそのような作用が働いていたからであろう。
いずれにせよ、彼はその時を境いにして、夫婦というものの連帯がいかにはかないものであり、婚前にあった相手への心の傾きなど、二人が結ばれてから共に過ごすべき長い時間に比べたら、いかに些細《ささい》なものであるかを思い知らされたのである。
「今度、清里へ転勤することになってね」
彼は緒方社長からガス兵器の開発を命じられた夜、つとめてさりげなく、しかし多分に心を弾ませて言いだした。
「きよさと?」
「そう、君も知っているだろう、八ケ岳|山麓《さんろく》の」
「ああ、清里、ずい分|辺鄙《へんぴ》な所ね」
「場所は辺鄙だがね、そこの所長なんだ。今度、新製品の開発のために清里へ新工場が出来たんだよ」
流石《さすが》にガス兵器のことは伏せておいた。
「そう、よかったわね」
祥子は極めて平板《へいばん》に言った。新製品に関しては尋ねもしなかった。
「二十七歳で新工場の長なんだ。これは凄《すご》い抜擢《ばつてき》だよ」
「よかったわね」
祥子の調子は相変らず落ち着いたものだった。妻として、もう少し感情をこめた答えを期待していた大西は、それではこれを聞いたら少しは驚くだろうと切り札を投げるような気持で、
「君には申し訳ないがね、何せすごい山の中だ、到底、家族を伴《つ》れて行けるような場所ではないし、設備もない。単身赴任ということになる」
「いいわよ」
ところが、祥子は何の感情の動揺も見せずに言った。
「今、環境が変ることはお腹の赤ちゃんに悪いでしょ、だから」
祥子は妊娠していた。そのせいか、祥子の口数は何となく寡《すくな》い。こちらから話しかければ答えはするが、自分から積極的に話題を提供しようとはしない。従って、大西が話をしなければ座は自動的に白けてしまう。いつ頃からこんな風になったのか?
それもこれも全て、妊娠という女にとっては異常な状態の所為だ、――と今迄《いままで》は思っていた。しかし、これはもしかすると、彼女の生来のものではあるまいか?
そんな疑いがその時、初めて胸に萌《きざ》したのである。
ともあれ、新婚一年というのに、夫の単身赴任の報を受けて眉《まゆ》も動かさない。女の母性本能がどれほど強いものであるにしても、大西はこの時、最大の収穫[#「最大の収穫」に傍点]たる妻に初めてあからさまな不満を覚えたのである。
「別れて暮らすのが、あまり悲しくなさそうだね」
「そんなことないわよ、ただ一寸、お腹が張って苦しいのよ」
この時初めて祥子はやや言葉に感情をこめたが、それもどちらかといえば、大西に本当のことを言い当てられた狼狽《ろうばい》のように見うけられた。
「それに、清里ならば、東京から近いわ。週末毎に帰って来られるんでしょ」
祥子はつけ加えた。今度は自分の不手際から、損ねてしまった夫の機嫌を取り結ぼうとするへつらいがあった。
大西は何か割り切れぬ思いを抱いて新任地へ発《た》ったのである。
2
夫を乗せた列車が見えなくなるまでホームに立ちつくして見送っていた祥子は、列車が完全に視野から外れたのを確かめた時、心に一種の安らぎに似た感情が湧いた。
そしてそのことに対して祥子はたまらない寂しさを覚えたのである。
夫は今、私を残して去って行く。たとえ一時的な別れではあっても、少なくとも指で数えられる日数のうちには戻って来ない仕事を帯びて旅発《たびだ》って行く。夫を乗せた列車は人間の感情には全く関わりなく、妻との距離を確実に開いて行く。
残された妻はまだ嫁いでから一年ちょっと、しかも身重である。どんな短い別れでも、それは切なく寂しいはずだ。それなのに、それなのに(私は列車の非情を怨《うら》むどころか、心のどこかで安らぎを感じている!)
――夫から離れて安らぎを感じる新妻とは、一体、どういうことなのだろうか?――
(私は果たして幸せなのだろうか?)
祥子は自問しながら、その問答の内容に寂しくなったのである。
「それじゃあ、身体には十分気をつけるんだよ、何かあったらすぐ報《し》らせてくれ」
「あなたこそお気をつけて」
列車が動きだした時交した会話が、胸の中にいつまでもうつろに響く。
――あの人も寂しそうだったわ――
祥子は胸を押えるように襟元《えりもと》をかき合わせた。列車の去った後急に白々したホームを冷たい早春の風が吹き抜けて行った。
新宿駅には東京駅のように華やかな見送人の姿はない。疎《まばら》な人影が列車が去ると同時に、そそくさと町へ散ると、中央線の列車発着ホームは、隣接する国電ホームの雑踏とは対照的に空白になる。
それは、今の自分の心の中にあいているかも知れぬ空間のように、白々とした虚《むな》しさをたたえる大都会の中の空白の一点であった。
祥子は歩きだした。これから誰も居ない杉並の外れの自宅に帰るために。
送って来なくてもよいという夫に、無理につき従って来たのは一体、何のためだったか? 外から見た限りでは祥子の身重はわからなかったが、今が最も用心しなければならぬ時だ。
新宿までの道すがら、夫は列車の時間が迫るのも構わず、運転手に何度となく静かに行くように言ってくれた。優しい心根《こころね》だと思う。会社では将来を嘱望されている有能技師である。家庭では申し分ない夫だ。そして、間もなく申し分ない父≠ノなろうとしている。
しみじみと幸せだと思う。それなのに一体、何が不満なのか?
(思うに私は不幸になるのが怖くて幸福になれない、不安神経症なのではあるまいか? 幸福が極まった後に来るかも知れぬ不幸が恐ろしくて、故意に不幸になろうとしている。私は馬鹿だわ)
祥子は我と我が身を叱《しか》った。
ホームから東口へ出る。列車が発着する一番線ホームからは東口の方が近い。駅前には種々雑多な人間が犇《ひしめ》いている。
「ベトナムに平和を!」
「身障者更生施設建設資金にご協力を」
「××首相、訪×を阻止しよう」
「私の詩集」
「××反対、署名お願いしまあす」
様々な人間が夫々の目的をかかげて、通行人に呼びかけ、訴えかけ、叫びかけ、あるいは喚《わめ》きかけている。
目的は様々であったが、一つだけ共通のものがあった。それは彼らが掲げた夫々の目的に対する確信であり、情熱である。
それに対する通行人の、これはまた、何という無関心であろう。それは冷酷なばかりの無関心と言えた。
彼らは運動者≠、品物を、無機質を、乞食《こじき》を見るような目をして見た。あるいは全く無視する者もいた。
それにもめげず、運動者は声を張り上げ、群衆に働きかけている。
彼らの信仰≠ノ注ぐ火のような情熱が、ほこりっぽい風に連日|晒《さら》されて、群衆への働きかけというおよそ報われない重労働に耐えさせ、しかも、そこから喜びや生き甲斐《がい》すら見出させるのである。
祥子はいっそ、そんな彼らが羨《うらやま》しかった。何故なら彼らには、これこそは絶対と信じられる心の拠《よ》り所があるからだ。
(私にそれがあるか?)
――ある! 夫がいるではないか――
(そうだ、私には夫がいる。なにものにもかえ難く、私を愛してくれる夫が、でも……)
――でも、何か?――
(でも、どうして、あの人達のように心が燃えないのかしら?)
――燃える? 心が? 馬鹿な! 夫婦の愛とは静かな水脈《みお》のようなものだわ、静かに、渾々《こんこん》と、いつまでも湧《わ》き、流れ続けて、決して炎のように燃え尽きることはないわ――
(そうね、その通りだわ)
祥子が目らを納得させるように心に語りかけた時、
「ベトナム和平のためにご署名下さい」
学生風の若い男に呼びかけられた。何気なく差し出されたペンを取り、署名をした祥子は、数歩行きかけてからはっと胸をつかれた。
(大西は火薬技師だわ、彼の作った火薬がベトナムへ運ばれ、今この瞬間にも、見知らぬベトナム人を殺傷しているかも知れない。私は夫のせめてもの罪滅ぼしのために署名したのかしら? いえいえ、そうではなかった。彼が作る物に対する無意識の抵抗感が、ペンを取らせたのだわ。私は夫の作る物を拒んでいる。いや、そのようなものを作って何とも思わない夫の心を拒んでいるんだわ)
そうと知った時、急に身体が重く感じられた、それは身重のせいばかりではなかった。夫の心のあり方に抵抗を感じる自分の心が重苦しく感じられたからである。
そしてそのような重苦しい心をかかえたまま、夫の帰りをこれから数か月一人で待たなければならぬことが、何ともやりきれないものに思われた。
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けったいな患者
1
「どうもよく判らん」
秋田修平はその患者の診察を終えると首を捻《ひね》った。患者は三十代半ばの、肉体労働者風の身体のいかつい男であった。
都下T市の市立病院から送られて来た患者である。
「氏名、田部定一、三十四歳、勤務先日本化成T工場か、あすこは以前からニトログリコール中毒や、内臓障害の多い所だったな」
秋田はカルテを覗《のぞ》いて眉《まゆ》をひそめた。友人、大西安雄の勤務先としてよりは、まずは自分が担当する職業病の多発地帯として脳裡《のうり》に浮かんだのである。
「症状」
秋田は再びカルテに目を落とした。正確にはT市立病院から患者と共に送られてきたカルテのコピイである。この日本労災防止協会の中央診療所には、各地の病院から職業を縁由《えんゆ》とするものと思われる診断困難な患者が送り込まれてくる。
現代諸産業の発展に伴う有害環境の中で、生まれた、無数ともいえる臨床医学的に原因不明とされる症例《ケース》を、職業に結びつけて解決しようとするのが、秋田らの勤めであり、使命であった。
「譫妄性《せんもうせい》、意識|溷濁《こんだく》、時に幻覚症に移行し、被害妄想の幻聴|幻嗅《げんきゆう》が現われる。自分のいる部屋が天国や牢獄になったり、毒ガスが充満しているなどと考える。食物は毒が入っているとして殆ど拒否。極めて多彩な幻覚を見る。ムスカリンなどの幻覚発現剤による一時的|酩酊《めいてい》状態に似るも、検出できず。アルコール中毒、その他、脳障害等の外因性疾患みあたらず。腎臓《じんぞう》性高血圧症有す。新化学物質による一時性中毒と推定されるので、精密検査を要す」
患者は正にカルテの通りであった。
「牢獄から俺《おれ》を出せ!」
と恐怖に顔面をひき攣《つ》らせて泣き喚くかと思うと、次の瞬間には、美しい音楽に酔うような恍惚《こうこつ》たる表情をする。
「八ケ岳[#「八ケ岳」に傍点]の頂上に立つ人間が見える」
「鼠がいっぱい走り廻《まわ》っている」
「蜘蛛《くも》が身体中を這《は》いずっている」
などと視野の届かない場所にいる人が見えたり、小動物の活発な幻覚が現われたりする。
このように周囲の状況が夢幻的に変化し、幻覚像は具体的感覚的な外界の刺戟《しげき》に殆ど関係なく極めて不安定であり、夢の表象によく似ている。
幻覚を主たる症状とするものに二つある。一は意識溷濁して幻視が主として現われるものでこれを譫妄《せんもう》と呼ぶ。もう一つは意識は明瞭《めいりよう》で、主として被害妄想の幻聴幻嗅等が現われるもので、幻覚症と呼ばれる。
譫妄、幻覚症共にアルコール中毒、その他の急性毒物中毒症においてしばしば見られるが、譫妄状態は、流行性脳炎、急性発熱性疾患、脳幹出血時などにも見られることがある。
このように、譫妄と幻覚症とは全く異なった症状なのであるが、田部定一の場合、この両症状が殆ど合併して現われている。
「今日は何日ですか?」
「今、何時ですか?」
「あなたは今、何処にいますか?」
「あなたの職業は?」
「あなたの家族は何人ですか?」
などと秋田が問いかけても、全く答えられないか、あるいは稀《まれ》に答えても、妄想幻聴によるでたらめな答えであった。
本人が時間的、場所的、社会的にいかなる位置にあるか知っていることを見当識《けんとうしき》があると言う。田部の場合、これが全く失われているのであった。
中毒、あるいは感染による意識障害、即ち精神錯乱の顕著な徴候である。
しかし、アルコールや幻覚発現剤を服《の》んだ形跡もなく、神経系疾患も別に考えられないのであるから、T市立病院の所見に述べられたように、化学工業が生んだ未知の新毒性物質によって冒されたとしか考えようがないのである。
それが何であるかは、これからの精密検査を待たなければならないが、すでに体内に吸収された未知の有毒物質の医学的分析がそう簡単に出来るものではない。まして、無数の有害環境の波に揉《も》まれて生活しているといってよい現代都市生活者は、何処で疾病原因となるような有害因子に接触しているか判らないのであるから、その患者の一般生活環境や、現職以前の職歴などにも溯《さかのぼ》って徹底的に調べ上げなければならない。
職業と疾病の因果関係の決定が極めて困難なところへもってきて、企業は、自社の有害環境を極力伏せたがる。
もちろん、労働安全規則に基づいて、衛生管理者をおき、特殊健康診断や有害業務に対しての原因除去義務は課せられているが、決して十分なものとは言えなかった。
法的義務の遵守《じゆんしゆ》は最小限に止め、職業を原因とした疾患や障害が発生しても、出来るだけ内部で処理しようとする。
たまたま、田部のような網の目≠こぼれた患者が、中央公共医療機関に送りこまれてから調査研究が始められるのである。
その場合でも、職業と疾病との因果関係の確たる証明がない限り、秋田らには企業に対する強制調査権はないのであった。
企業の良心による自主的な届出か、患者の大量発生を待つ以外にないのである。職業病を中心とした産業医学の進歩が遅い所以《ゆえん》であった。
2
「そうだ、大西に聞いてみよう」
とりあえず、患者を検査室に送りこんだ秋田は、漸《ようや》く、旧《ふる》い友人の勤め先が今の患者の会社と一致していることに気がついた。
幸い、診察すべき患者の姿は途絶えている。
普通病院の外来診療と異なり、公立の研究施設であるここには患者が直接殺到するようなことはなかった。
「特殊研Eグループの大西君を願います」
彼に聞けば、友達|甲斐《がい》に何か医学的に参考になりそうなことを教えてくれるかも知れないと思った秋田は、早速、診察室の直通電話から日本化成の中研を呼んだ。
「大西さんは只今《ただいま》出張中でございます」
先方のオペレーターの職業的な硬い声が答えた。
「出張、どちらへ?」
「さあ……」
「いつ頃帰りますか?」
たて続けに訊《き》く秋田に、オペレーターはためらいの気配を伝えた。回路の彼方で何やらゴソゴソ囁《ささや》き合っている様子である。今迄《いままで》にも何度となく大西には電話をしたが、こんなことは初めてであった。一流ホテルのように決して丁寧な応接ではなかったが、いつもてきぱきと応《こた》えてくれる中研のオペレーターの常にない歯切れの悪い口調に、秋田は大西の身に何か起きたらしいのを敏感に感じ取った。
「私は大西君の親友で秋田というものですが、一寸《ちよつと》至急連絡したいことがあるのです」
秋田は押しかぶせるように言った。
オペレーターのためらいは更に濃厚になった。
「少々お待ち下さい」
という声が漸くあって、それからジャッグを何処かへ接続する音が伝わってきた。おそらく、上位職の者に判断を仰いでいるのであろう。
これは単なる出張ではあるまい。もっと決定的なサラリーマン的異動≠ナあろう。
ややあって、中年の男のものらしい錆《さ》びた声が回路を伝わってきた。
「何か大西君にご用事とか?」
「秋田と申します、友人です。出張中ということですが、いつ頃帰られますか?」
彼は故意に自分の身分を伏せた。うっかりもらすと、いらざる警戒をされると思ったからである。
「ちょっと長期にわたる出張ですから、具体的にいつということは申し上げられません。業務連絡のために時々不定期に帰京します。何だったらそちらの電話番号を残していただければ、出社した時にこちらからコールバックさせましょう」
「帰京? すると出張は地方ですね」
何気なく訊きかえした秋田の言葉に、先方の微《かす》かな狼狽《ろうばい》が感じられた。それは言わずもがなのことを言って、言葉尻を捉《とら》えられた時の後悔に似ていた。
しかし、出張といえば、地方が多い。何も狼狽するほどの失言ではない。
「出張先を教えてもらえませんか?」
秋田の問に、暫《しばら》くの沈黙をおいた後、
「出社次第、こちらからコールバックさせます」
とにべもなく答えて、電話は先方から一方的に切られた。取りつくしまがないという感があった。
3
翌朝、秋田が出所するのを待ちかねていたように検査室の吉田という医務員が、
「昨日の田部という患者《クランケ》ですがね」
「田部がどうかしましたか?」
「醒《さ》めかけてますよ」
と言った。
「早いですね!」
秋田は少なからず驚いた。普通、症候性の精神錯乱は、いかに本状態に於《おい》て深く全体的な意識の解離《かいり》があっても、その原因となるものが取り除かれれば、うそのように癒《なお》ってしまう。
吉田が醒めかかっていると言ったのは、昨日の田部の状態が、アルコール性の酩酊《めいてい》状態に似ていたからである。
しかし、それにしても早い。昨日は全く廃人だったのである。思うにその未知なる有毒物質≠ヘ、アルコールのように醒め易いものなのか?
「それがね、おかしいのですよ」
吉田は首をかしげた。
「おかしい? 何がですか?」
秋田が尋ねると、吉田は少々寝不足気味の赤味がかった目をしばたたきながら、
「明らかに意識がもどっているのに、奴《やつこ》さん、とぼけているのですよ。こちらが質問しても、重要な部分にくると忘れたふりをするのです。健忘を装っているんでしょうが、何や、重要容疑者が黙秘権使いよるようでやな感じですわあ。別に、都合悪いことあらへんやろになあ」
吉田は語尾のほうを珍妙な関西弁で言った。この男は東北生まれなのだが、何か癪《しやく》に障《さわ》ることがあると関西弁を使うくせがある。
人間が精神錯乱状態から回復した時に本状態並びに以前のことでどうしても思いだせない部分が残る。これを部分健忘と呼び、既往の本状態を診断する重要なかぎとなる。吉田の話によると、どうやら田部は部分健忘を装って臨床質問に答えないらしい。
泥酔者《とら》が留置場に保護≠ウれ、一夜過ごした朝などによく見うけられる例であるが、田部の場合そのような単純な因子による症例ではないのである。
「とにかく、診てみましょう」
秋田は診察室へ入った。一目見て、昨日の状態から回復していることは判った。
顔色は相変らず悪かったが、秋田と吉田が入って行く気配に向けた目はすでに常人のものであった。第一、そういう反応そのものが意識を障害された人間のものではない。
「田部さん、お早うございます」
秋田はにこやかに挨拶《あいさつ》した。
田部は仕方なさそうにお義理に頭を下げた。
昨日の、精神障害者特有の錯乱性|顔貌《がんぼう》は影もとどめず、秋田と対《むか》い合った姿勢に、どこからでも来いという風なかたい構えがあった。
成程、それは捜査官に対する容疑者の姿勢であり、到底、医者に相対する患者のそれではなかった。
(どうです、相当なもんでっしゃろ)
吉田が目顔で言った。
秋田は出来るだけ下手《したで》に出ることにした。
秋田は一通りの診察をしてから、
「実はあなたが昨日こちらへ送られてきた時は、非常に悪い[#「非常に悪い」に傍点]状態でした。しかし、只今、拝見したところではまるで別人のように回復しておられる。ですが、私達にはあなたの症状がアルコールや睡眠薬等による一時的かつ単純な酩酊によるものとは思われないのです。まだ精密検査の結果が出揃わないので何とも申し上げられませんが、何かもっと悪性の有毒物質による精神障害と推定されるのです。もし、そのような有毒物質が、不特定多数の人間の接触可能範囲に放置されているとしたら非常に危険なことです。我々としてはその除去と共に、その物質が何であるか一刻も早く見極め、治療法を確立しなければなりません。どうでしょう、決してご迷惑はかけませんから、あなたに心当たりがあったら教えてくれませんか?」
「…………」
「そのような有害物質が、一般の生活環境の中にあろうとは殆ど考えられません。もちろん、それを全く無視することは出来ませんが、我々としては、まずそのような有毒環境は職場にあったと疑います。あなたの職場は化学的有害物質の多いところだ。もし、あなたの事故《トラブル》が職場に原因しているものであれば、あなたの仲間達も同様の危険に晒《さら》されているわけです。どうですか、仲間を救うために、また、職業病を少しでも抑えるためにも、心当たりがあったら教えてくれませんか」
「…………」
田部は硬い表情を装っていたが、心の動揺は隠せなかった。
「何か新しい物質に触れたでしょう。何ですか、それは? どんな作業をやっていたのです? 何を作っていたのですか? さ、教えて下さい」
「忘れたのです。何も覚えちゃいません。一体、何処で何故こんなことになったか、全然覚えておりません」
「思い出せませんか?」
「だめです。まるでかすみがかかっているようで」
「それではどの部分にかすみがかかっていますか? いつ頃のことを忘れてしまったのですか?」
「休暇で久しぶりに帰京してから、急に気分が悪くなって、気がついたらここに入れられていたのです。家の者が連れて来たのですか?」
「休暇?……久しぶりに帰京? あなたのお勤め先は確か都下T市日本化成T工場のはずだが、それとも何処か地方へご出張なさっていたのですか?」
田部はしまったという表情をした。T市の工場から同じくT市内にある彼の自宅へ帰って来たのであれば、「休暇」とか、「久しぶりの帰京」などという表現はしないはずである。秋田の巧みな誘導|訊問《じんもん》≠ノひっかかった形であった。
「あなたは何処からか久しぶりに帰京[#「久しぶりに帰京」に傍点]された。そして気分が悪くなり、それから後は記憶にかすみがかかってしまった」
「…………」
「ということは、あなたが帰京の直前にいた何処か≠ノそのかすみの原因があるわけだ。そこで何があったのです? そこで何をしたのですか?」
田部の主張を一応信ずるとすれば、彼の記憶は何処からか帰京した後今朝までの間、失われていたことになる。
何らかの原因で意識を障害された場合、回復後、一定時点からの経験を思いだせないことを健忘というが、田部の場合、正にそれにあてはまる。健忘は心因性のものもあるが、田部の症状は明らかに外部から入った化学的有害物質によるものである。とすれば、ある時点から前後いずれに向かって記憶が障害されていても、障害原因はその時点に、もしくはそれに近接してあったと考えなければならない。
秋田に問いつめられて田部は沈黙した。秋田の医学的誘導訊問≠ノあってすっかり警戒してしまった様子であった。
「何も隠すことあらへんやろ、あんたの一言で大勢の人間が助かるんや、早う言わんかい!」
たまりかねたように吉田が怒鳴った。しかし、これがかえって逆効果になった。
一瞬、いかつい身体に似合わず、ぎくっと怯《おび》えたような目を上げた田部は、次に不貞腐《ふてくさ》れた。
「あまりおおげさなことを言わんでもらいましょう。一体、何が危険なんですか? 酒にちょっと酔っぱらったんと同じじゃありませんか? 先生、見て下さいよ、私のどこが悪いんです? 警察の豚箱へ行ってみなよ、もっととぼけた酔っぱらいがごろごろしてらあ」
田部は語尾を巻き舌で言った。ここ数日の殆《ほとん》ど絶食に近い状態で、顔は青白くやせこけているが、いかにも腕っ節の強そうな筋骨質の身体をもって開き直られると一寸|凄味《すごみ》があった。
それに正に田部の言う通りなのだ。単純なアル中≠ナはないことは明らかであったが、それでは何によるものかということになると全く判っていない。
精密検査の結果が出揃わないので何とも言えないが、少なくとも外見は、健忘以外は(それも本人が申し立てたもの)さしたる障害が残っているとは思えない。
医学的な興味だけで、患者の意に反して訊問≠キることは出来なかった。
「先生、帰して下さい、もういいでしょう、別にどこにもわりいとこはねえんだから」
田部は秋田のたじろぎを敏感に悟って言いつのった。
「血圧が高いよ、尿にたん白が出ている」
何としても留め置きたい秋田は未練がましく言った。
「何も今に始まったことじゃねえよ、先祖代々の遺伝でさあ」
田部はせせら笑った。糖尿による高血圧などはまことにありふれた症例で、それだけをもって新有害物質による影響とは言えない。検査の結果が出揃うまで田部を抑えておきたい。秋田は医者の予感で、昨日の田部の症状から何か非常に危険な新有害物質の出現を感じ取っていたのである。
しかし、予感だけで外見、大した障害もない患者を押し止める権利はない。
(止むを得ないな)
秋田は吉田に目顔で言った。吉田も仕方なさそうに苦笑した。
「誰も病院へ連れてけと頼んだわけでもねえのに、きっと女房が気をきかせたつもりなんだろう。あの女《あま》、余計なことしやがって」
田部は口の中でぶつぶつと、しかし、二人に聞こえるように捨てぜりふを吐きながら去って行った。
「けったいな奴《や》っちゃ!」
田部が去ると吉田が忌々《いまいま》しそうに言った。
「しかし、確かにおかしいですね」
秋田も言った。
「何故あんなに隠したがるのか? 意識が回復してから全く知らぬ存ぜぬの一点張りだった。あんな患者は初めてです」
「ほんまに」
「あの男、帰りしなに余計なことをして≠ニ怒っていた。意識を失っている間に家人がT病院へかつぎ込んだらしいのだが、もし少しでも彼に意識が残っていれば、病院には来なかっただろう。自分の心身が現実に損われておりながら治療の手を拒む。何故か? あの障害の原因には何か人に知られては都合の悪い秘密があるのだ」
秋田は自問自答する格好で呟《つぶや》いていたが、急に吉田の方を向くと、
「吉田さん、精密検査はどの程度しましたか?」
「それが……」
吉田は面目なさそうに頭をかきながら、
「まさか患者があんな風に逃《ずら》かるとは思ってへんかったさかい、検尿、血圧測定、採血、BSP(肝機能検査)を昨日やっただけですわ、今日、心電図や各種X線、眼底検査などをやる予定やったのですが」
「心電図はまだだったのですか」
秋田はちょっと残念そうな表情をしたが、
「血液は何の検査に使いましたか?」
「血球計算と肝機能検査です」
「よかった、少なくとも腎肝機能は判る」
と気を取りなおしたように言った。
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夫婦の連帯
1
秋田修平が杉並の大宮町にある大西家を訪れたのは、それから数日後のことである。
一度は心を傾け合い、そしておそらく自惚《うぬぼ》れではなく、その心の傾斜は今でも続いているであろう女の許《もと》へ、彼女の夫が明らかに留守とわかっている時を狙《ねら》うように訪問することにためらいを覚えぬこともなかったが、秋田には是非共、訪れねばならぬ理由があった。
彼は故意に何の予告もせずに行った。初めての家を訪ねるのに、ずい分と失礼なやり方ではあったが、万一、大西が在宅した場合、数日前電話した日本化成の応接から推《お》して面会を断わられる虞《おそ》れがあったからである。――大西は何か秘密の社務に就いている。そして、それが先日の診断困難な患者の症状と関係がありそうだ――と秋田は推理していた。
いかに友とはいえ、社秘をそう簡単にもらすことはあるまい、それならばむしろ、相手の居宅をその在否にかかわらず突然に訪れたほうが、彼に何の身構えをする隙《すき》を与えず、何らかの手がかりが得られるかも知れない。それに、――祥子にも久しぶりに会いたい――
そして、それが秋田の後めたさの原因でもあった。職業上の必要からの止むを得ぬ訪意の底に、昔の女≠ノ会う喜びがある。むしろ、そのほうが大きい。それ故に、大西が在宅していなければ大した意味もない訪問に、彼の留守を願っている。
大西家は大宮公園の森の後に、いかにも主の留守を思わせるようにひっそりとあった。祥子の父が新夫婦のために建てた家は、建坪二十坪にみたぬ些《ささや》かな平屋だが、まだ十分に木の香も新しく、ツタをからませた洒落《しやれ》た囲い垣越しに緑の芝を敷きつめた小さな庭も見えた。周囲は武蔵野の面影が残る杉並の外れである。
いかにも相愛の若夫婦が世間からひっそりと隠れ住む愛の巣≠ニいった感じがした。
秋田は妬《ねた》みに似た羨望《せんぼう》と、抑え難い心の弾みを覚えながらコールボタンを押した。
家の中に優雅なコールサインの音が響き、ややあって人の気配が表扉の内側に近づいて来た。
「どなた様?」
聞き覚えのある祥子のしっとりとした声が内部に起こり、
「秋田です。大西君いますか?」
「あら!」
秋田の声と知った祥子の驚愕《きようがく》に近い小さな叫び声が内側からもれて、
「少々、お待ちになって」
と慌てて奥に駆け戻る気配がした。待つほどもなく、祥子は再び引き返して来て、
「お待たせしました」
扉を開けた。ドアチェーンの外される音と共に開かれた扉の内側に、ほのぼのと匂《にお》うような祥子の顔があった。
大丸の頃よりいくらか面窶《おもやつ》れしたせいか、秋田の知っている祥子より遥かに端正《ノーブル》な感じがした。薄くひいた唇の紅が、鮮かなポイントとなって表情全体をきりっと引き締めている。
さきほどの、奥に引き返したわずかな時間にさしてきたのであろうか、それにしては紅がよく落ち着き、軽く閉じた唇の表の部分に淡くむらなく、そして鮮かに塗られていた。
二人は戸口に立ち尽くして、そのまま互いの目を見合った。ほんの二、三十秒の間だったが、秋田には時間が凍りつくように思えた。祥子はふと微笑を浮かべて、
「お客様をこんな所へ立たせたままで[#「立たせたままで」に傍点]、どうぞお入り下さい」
とほのぼのと言った。
祥子が「立たせたままで」と表現したのは、彼女にもそのわずかな時間が、万感の想《おも》いのこもった永遠の時間と感じられたからかも知れない。
「大西君は?」
「今、出張中で留守ですが、いいことよ、どうぞお入りになって」
と弾んだ口調で促した。屋内の広さは団地のいわゆる3LK位であろうか。限られた空間を出来るだけ有効に利用しようとする現代都市住宅の典型のように、実に住心地よさそうに設計されてあった。
秋田が招じ入れられたのは、先刻垣根越しに覗《のぞ》いた庭を前に控えた洋室である。開け放した総ガラス張りのサッシュ窓からふんだんに注ぎこむ初夏の外光は、室内をサンルームのように明るく熱くしていた。
そこに相対した二人は、互いに無沙汰《ぶさた》をしていた旧い友人同士が久し振りに再会した時によく使う、昔のなれなれしさと、長い時間の間《かん》隙げきが生んだよそよそしさが奇妙に入り混った言葉で語り合った。
語るほどにそのよそよそしさが春の雪解《ゆきげ》のように柔らかく解けていく場合もあれば、昔あれほど親しかった友人が、別に過ごしていた二つの異なる世界の中で全く異なる人間に変身してしまったのを悟り、失われ、決して甦《よみがえ》ることのない友情に向ける空しさと諦《あきら》めの心を抱いて別れることもある。
二人は語り合うほどに旧い日の青春が甦ってくるような気がした。
室内の明るさと暖かさが余計に二人の心を弾ませ、火照《ほて》らせた。
「けっこうなお住居《すまい》ですね」
秋田は自分の殺風景な六畳一間きりの居室と比べて、心から言った。
「そうでもないのよ、これでも住んでみるといろいろと不便な点が多いの」
「そんなこと言ったら贅沢《ぜいたく》ですよ。今時、サラリーマンでは一生かかってもこれだけの家に入れない。おそらく、僕なんか、一生[#「一生」に傍点]借間ずまいだろうなあ」
「そんなことないわ。住む所は人間の幸福にとって最初の条件ではないもの」
そう言った時、祥子の明るい面に薄い翳《かげ》がかかったように思えた。それは秋田の錯覚であったかも知れない。
この世の幸せの全てを一身に集めているような祥子に、そんな翳があるはずがないと、改めてその面を見つめた秋田の目には、開け放した窓から降り濯《そそ》ぐ陽光の中に、あくまで明るく輝く祥子の若妻としての顔が映った。
「ところで」
秋田は漸《ようや》く自分の来意を告げなければならない時に来たことを知った。
「大西君はどちらへ?」それは訪問の真の目的であると同時に、それをきくことにより、多少たりとも、夫の留守中の若妻を訪れる後めたさが救われる。
「それが、折角いらしっていただいて生憎《あいにく》だけど、出張しているのよ」
祥子は気の毒そうに答えた。
「出張、どちらへ? いつ帰りますか?」
思った通り留守である。秋田は努めてさりげなく、先日、日本化成の中研に尋ねた質問を繰り返した。
「八ケ岳の方よ……何でもいつもより長くなるということで、私にもいつ帰れるのか言わないのよ、あの人自身、知らないのじゃないかしら?」
祥子は何気なく答えた。
「八ケ岳、また妙な所へ出張しましたね、あそこに日本化成の支社や、工場はないはずだが」
秋田は一人ごちるように呟《つぶや》いてから、はっと何かに思い当たったように目の光を強めた。
それは例の「けったいな患者」、田部定一の譫言《たわごと》の中の「八ケ岳[#「八ケ岳」に傍点]の頂上に立つ人間が見える」という言葉だった。
田部はあの言葉を全くの譫言として吐いたのではなかった。彼は八ケ岳山域の何処か[#「何処か」に傍点]にいたのである。そして、その何処かは、大西の出張地と一致するはずである。大西が開発中の何かの物質、あるいはその副産物が田部をあのように狂わせたのだ。そうだ、それに違いない。――
「祥子さん」
「はい」
急に強い光がこめられた秋田の視線をまともに浴せられて、祥子はややとまどったようであった。
「それで八ケ岳のどちらへ?」
八ケ岳と一口に言っても、長野、山梨の両県にまたがるこの長大な火山列の山域とするところは広い。大西の八ケ岳行が登山を目的としたものでないのは明らかであるから、大西の行先はその広大な山麓《さんろく》の何処かであるはずだった。
「折角の出張でまさか登山ではないでしょう。八ケ岳のどちらへ?」
秋田はもう一度言った。
(清里よ)
秋田の誘導に乗って何気なく答えようとした祥子は、夫が出発前に「誰が尋ねても決して行先は告げるな」とくどいばかりに念を押したのを思いだした。
(秋田さんなら、別に構わないでしょ)
と心に言い聞かせながらも、夫の言い置いていった言葉が、祥子の唇にかせをかけたのである。
夫婦の情とは、当人同士が自覚していなくても単なる好ききらいの感情だけでは割りきれない強烈な粘着力があるものなのか、久し振りに再会した秋田に、祥子は静止していられないほどの心の動揺を覚えながらも、現在、この場所にはいない夫の意志に逆らえない自分を感じたのである。
「私も詳しいことは知らないのです。深くも尋ねなかったし、主人も自分からは言いませんので」
秋田は祥子が嘘《うそ》をついていることをすぐに悟った。彼は秋田の問に正に答えようとした祥子の唇の震えまで読み取っていた。
それが急にひたと口を閉ざし、少なからずうろたえたように視線を外《そ》らしたのである。
「こんな格好を見られて恥ずかしいわ」
祥子自身、そんな目の外らせ方に不自然なものを覚えたのであろう、いったん、外らせた目を下から掬《すく》い上げるように秋田の目に重ねて薄く笑った。そして帯の上を軽く撫《な》でた。
その目には媚《こび》があった。その言動には強いて話題を外らそうとする作為が感じられた。祥子に言われて秋田は初めて、祥子の下腹部がやや厚ぼったいのに気がついた。帯で締めているせいか、和服に包まれた彼女の下腹は言われなければ気がつかぬ程の脹《ふくら》みであったのだ。
秋田はうまうまと誘導にひっかかった。彼は短い呻《うめ》きに似た声をもらすと頭をかきながら、
「ちっとも知らなかった。これはこれはおめでとうございます。……それで予定はいつ頃ですか?」
「十二月ですの」
「男ですか? 女ですか?」
「そんなこと判りませんわ」
秋田が慌てたはずみの滑稽《こつけい》な問に笑いこぼれながら、
「でも、私としては女の子が欲しいの」
「どうして?」
「どうしてって、ただ何となくよ」
「大西君は?」
「別に何とも言わないけれど、男の子が欲しそうよ。それより……」
そう言って祥子はふっと真顔に戻り、
「秋田さんはご結婚なさらないの?」
「結婚!?」
秋田はどきっと胸をつかれたように、
「僕は、結婚はしません」
「どうして? いずれいつかはなさるんでしょ? だったら」
「いえ、しません。おそらく、いや絶対に一生[#「一生」に傍点]しませんよ」
「そんな」
祥子は言ってから、無理に作ったような笑いを浮かべて、
「大丸の夜の言葉にこだわらなくともいいのよ。人は人を受け容《い》れられぬ様々な事情があるのですから。私は今は大西安雄の妻ですこれからもずっと。あなたがもし、あの大丸で私を拒むために仰有《おつしや》った言葉に縛られているとしたら、それは馬鹿らしいことですわ。私、もう何とも思っていません。私達は縁がなかったのです。ですから、秋田さんも早くご自分の生き方を確定していただきたいわ。男も女も、いつまでも独身《ひとり》でいるのは、やはり、アブノーマルですわ」
言いつつ祥子は妙に遠い目をした。
決して彼のために結婚をしろと言っているわけではなかった。そうでもしてもらわなければ、胸の奥底に埋もれる残り火が消えないのだ。久方振りのめぐり逢《あ》いは、この一年余の別離も、忘却への努力も、殆《ほとん》ど何の役にも立っていないことを思い知らせてくれたのである。
せめて秋田が他の女の夫となってくれれば、執拗《しつよう》な胸の埋火《うずみび》も消えるであろうと、せめてもの望みをかけたのである。
そうすることが、大西の妻としての勤めではないか。
(そんな私の切なさを、この人は判ってくれるのだろうか?)
祥子は光の溢《あふ》るる部屋で恋しい男と相対《あいたい》しながら遠い所をみつめていた。
針葉樹林帯の雪は殆ど消え、みずみずしい新樹の梢越しに夏の開花を待つばかりとなった連山の影がある。
レンゲツツジに埋め尽くされた高原を、若葉と花の香りを集めた薫風《くんぷう》が吹き渡る。見渡すかぎりの遠望のいたるところに溌剌《はつらつ》とした光が弾んでいる。
樹林の奥は梅雨のしめりを残して烟《けむ》っているが、それすら新緑の光沢を映して蒸《む》れるような明るさである。
新緑の梢を渡る小鳥のコーラスがふとしたはずみに途絶えると、耳の痛くなるような静寂が甦《よみがえ》るが、それも烈《はげ》しい活力に充ちた静けさである。
高原の夏は光の底にふかぶかと発酵する。
そこに祥子は夫の姿を見た。いたる所に光がみなぎる高原の初夏に背いて、一人こつこつと「暗い商品」の開発に携わっている彼の映像には、妻だけに判る、いや、妻なればこそ判る寂しさがあった。
「出張中にもし産まれたら、大西君にはどうやって連絡するのです?」
遠い風景の中から秋田の声が響いてきた。
(清里へ電報を打ちますわ)
つられて危うく答えそうになった祥子に、大西の映像が呼びかけた。
(言うな!)
「会社へ報《し》らせれば連絡が取れるようになっているのよ」
それはすでに秋田修平に心を寄せる女としての言葉ではなく、大西安雄の忠実な妻としての応《こた》えであった。
「祥子さん」
秋田は言った。
「あなたは大西の行先を知っている。教えてくれませんか」
彼は強く押した。
「でも、本当に知らないわ」
「うそだ、あなたは知っている。どうしてそんなことを隠すのだ?」
「どうして、そんなに聞きたがるの?」
祥子に逆に問い返されて、秋田はぐっとつまった。祥子ならば必ず教えてくれるだろうという自惚《うぬぼ》れから、そのような問に対する答えを用意していなかったのである。
「ね、どうして?」
祥子は重ねた。
「実はね」
こうなれば全てを打ち明ける以外にない。
秋田は祥子の面をまっすぐに見た。
「理由を言えば教えてくれますか」
「まず、仰有って」
2
秋田は数日前に診たけったいな患者≠フ話を打ち明けた。彼の話が進むにつれて、部屋の暖気と、秋田との久しぶりの再会で上気したようになっていた祥子の面が、次第に蒼《あお》ざめ、表情がこわばってきた。
「そして精密検査の結果、その患者は腎肝機能にひどい障害を受けている上に、呼吸器系に悪性の腫瘍《しゆよう》があることが判ったのです。ガンに変転するかもしれない非常に危険な腫瘍です。そればかりではない。たとえ一時的とはいえ、凶暴性を帯びた錯乱状態に陥ったのです。何か非常に危険な有害物質に触れたとしか考えられないのですが、それが何であるか? それがどの程度体内に入ったのか、もしあの症状がごく微量の摂取でもたらされたとすれば、大量に摂取したならどんなことになるか? その他、どんな後遺症が残るか、データが不十分なので何も判らないのです」
「それが大西の研究と関連があると仰有るの?」
「そうは断定しません。ただ、これまでの日本化成に多発した職業病の履歴と、会社側の態度、この度の大西君の極秘の出張などとからみ合わせると、どうも関連があるように思われるのです」
「…………」
祥子は唇をかんで黙りこんだ。
「祥子さん、あなたにあの患者の凄《すさま》じい錯乱状態を見せたかった。たとえ、一時性のものとはいえ、悲惨なものでした。あの患者は家人の報告で一早く収容出来ましたが、凶暴性を帯びた錯乱状態は、どんな凶悪犯罪と結びつくかもわからない。しかも回復した後では全然記憶がないのです。全くの心神喪失の状態では人を殺しても罪にならない。被害者はそれこそ殺され損です。これほど危険な何かの物質を大西は作っているのかも知れない。一刻も早く止めなければ、それだけ大勢の人間が危険に晒《さら》されるのです」
「…………」
「大西が必ずしもそれを作っているとは限らない。日本化成は大会社だ。他のグループが開発しているのかも知れない。それならばなおのこと、それをはっきりと確かめたいと思いませんか」
「…………」
「大西がやっていなくとも、同じ会社の技師だから、何か知っているはずだ。それをちょっともらしてくれるだけでよい。それだけで我々には治療法の手がかりになるのだ。今の状態では全く手も足も出ない。それに僕には大西に聞く以外に手がないのだ」
「…………」
「祥子さん、頼む! 大西君の奥さんとしてではなく、大勢の人間を救うために教えてくれ」
秋田は立ち上がり祥子の肩に手を掛けた。そして、その手に力をこめて彼女の身体を二、三度強くゆさぶった。
秋田に押されて、祥子の身体はまるで意志を失ったもののようにぐらぐらと揺れた。それはそのまま、彼女の意志の動揺であった。
(本当に大西はそんな恐ろしいものを作っているのだろうか? もしそうであれば、何としても止《や》めさせなければならない)
「旗野さん、頼む!」
秋田は祥子の旧姓を呼んだ。そう呼ぶことにより、大西の妻としてではなく、一個の人間としての祥子に訴えかけたのである。
(いいわ、教えてあげるわ、それは)
祥子が夫の新任地を言うべく唇を開きかけた時、彼女の下腹で何かがびくっと動いた。それは表皮や筋肉の動きではなく、内臓が震えたような体の深奥部《しんおうぶ》からの感覚である。
祥子は最初、それを腸が動いたのかと思った。
「胎動」とはっきり悟ったのは、やや暫《しばら》くの間合《まあい》をおいてから、二度目の動きが伝わった時である。
「ああ!」祥子は思わず叫んだ。
ここに大西が生きている。交《まじ》わった二つの血は、ここに新しい生命を育《はぐく》み、今初めてそれが生きているしるしを伝えてきた。
次に大きな悦《よろこ》びが祥子をおそった。それは女なればこそ味わえる、母になろうとする者の悦びである。
今迄《いままで》は、少しずつせり出してくる下腹部を、むしろ奇異な現象をみつめるような目をして眺めていた。それがたった今、そこに棲《す》み、絶え間なく成長を続ける新しい生命が、初めての音信を母に送ってきたのだ。
大西から送られた新しい命の種子は、祥子の胎内深く着床し、そこにしっかりと生き続けていたのである。
(大西がここにいる!)
祥子の面はほのぼのとけぶるように上気した。瞳は、しっとりと霧を含んだようにうるんだ。
「祥子さん」
突然変った彼女の表情に、秋田は少なからず驚いた。祥子は彼の言葉が全く聞こえないのか夢見るような表情を続けていた。
「旗野さん!」
祥子が我に帰った時は、秋田に再び旧姓で呼ばれた時である。
祥子はつと立ち上がった。かがみこむようにして祥子をみつめていた秋田は、いきなり目の前すれすれに彼女の面が迫ったので、やや狼狽《ろうばい》気味に身を引いた。
「秋田さん、悪いけど」
夢見るような表情は依然として続いていたが、語調には毅然《きぜん》としたものがこもっていた。
「申し上げられないわ。だって……」
祥子は言ってから、いったん言葉を切ると、秋田の目にもみこむような視線を重ねて、
「だって……私、大西の妻[#「大西の妻」に傍点]ですもの」
囁《ささや》くような言葉だったが、それは秋田の胸に断固たる終止符を打った。
そこにいるのは旗野祥子ではなく、大西祥子である。大西安雄の生命を孕《はら》んだ一人の若い母であった。
妻であり、母である一人の女の前には、もはや、他の男からのいかなる訴えかけも効かない。
秋田はチャンスが去ったことを知ると同時に、青春に寄せた甘い自負が、夫婦という現実的な連帯の前には、いかにとるに足らぬものであるかを思い知らされたのである。
彼はうちのめされた思いで祥子の許《もと》を辞した。
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美しき拾得物
1
秋田修平は大西家を訪問してから一週間ほど後、小さな休暇を取った。
軽い山支度を調えた彼は、新宿から中央線の夜行に乗った。まだ登山の季節には少々早いのか、それとも、その日が週の初めであったためか、山岳夜行と称されるその列車に登山客の姿はあまり見えなかった。
そのほうが彼にとっても都合がいい。久し振りの山旅に、トランジスターラジオからの音楽や、山道の行列を強制されてはたまったものではない。
秋田は一部の正統派登山者のように山の清教徒を気取るつもりはなかったが、久し振りの貴重な休暇ではたった一人の山≠楽しみたかったのである。
切符は茅野《ちの》まで買った。別に茅野まで行かずともよいのだが、列車が丁度その辺にかかる頃、夜が明けるのだ。
茅野から八ケ岳山群の何処かの峠を越えて、小海線沿線の何処かの駅に出る。それがこの山旅のあるともなしのプランである。
この広大な八ケ岳山域の何処かにいるにちがいない大西を、限られた短い休暇の中で探すのは殆ど不可能だった。
ただ大西に逢って、彼が携わっている可能性の強い有害物質の開発を思い止まらせ、医学的に未知な症状に対する治療法を見つけたいとする職業的な情熱が、彼の趣味にまで結びついたのである。
何のあてもなく彷徨《さまよ》っても、少なくとも、八ケ岳山域を歩く以上、大西にめぐり逢える可能性はある。
そうでなくとも秋田は、アルペン的な風貌《ふうぼう》を持つ火山連峰を中心にした広大な森林帯と、山麓に惜しげもなく鏤《ちりば》めた湖や牧場が豊かな、遠望の大きなこの山群が好きだった。
アルプスの混雑に辟易《へきえき》して、一時は大西と共に好んでこの山域に入り浸ったものである。
高原の薫風に吹かれながら、梢越しに望む残雪の山、想うだけで秋田の心はおどった。
そしてもし、その何処かで大西にめぐり逢ったならば、彼を強引に誘ってその峰の一角に立たせよう。
茫々《ほうぼう》とけむる青い遠望を前にして語り合えば、あるいは旧い日の連帯が甦ってくるかも知れない。
そんな望みを抱いて秋田は旅発ったのである。だがその期待も空しく彼は、翌朝冷雨の音を車窓に聞いた。まだほの暗い夜明の寒駅で一番バスを待ちながら、八ケ岳方面をけむらせた梅雨模様の濃密な雨粒に、秋田はともすれば滅入《めい》りがちになる自分の心をどうすることも出来なかった。
2
銀座のバー、フロイラインのホステス、竹本|香澄《かすみ》は行先を定めぬ旅に出た。新宿から行き当たりばったりの汽車に乗り、途中の小淵沢《こぶちざわ》という駅でふらふらと小海線の高原列車に乗り換えたのも、その駅名に誘われたからである。
八ケ岳火山列に沿って小諸まで走るこの列車は、美しい高原展望を車窓にくり広げてくれたが、香澄は景色など殆ど見ていなかった。
要するに、死にに行く身に景色などどうでもよいことだった。誰にも邪魔されず、静かに死んで行ける場所さえ見つけられればよいのである。
松原湖という小さな湖の畔《ほとり》のさびれた山宿で一夜を過ごした香澄は、翌早朝から降り始めた冷たい雨の中を、山の方へ向かって歩みだした。ゆるやかに高まるその末に何があるのか確とは知らなかったが、昨日、車窓に見るともなく見ていた、雪を残した鋭い峰々へ至るのであろうか。
登るほどに樹林の密度は濃く、径《みち》は細くなった。すでに死ぬためには十分な環境となったが、どうせ死ぬと決めた自分の身体に体力が残っている間、辿《たど》る径の極みを確かめたい欲望に香澄は駆られていた。
それが昨日視野の隅に映った山の美しさのせいか、それとも憎い男から一歩でも遠ざかろうとする努力か、あるいはその両方からか、いずれにせよ、彼女ははきとは判らぬ不可解な力に押されて、雨にけむる深山の奥へ奥へと進んで行った。
宿で借りた傘はとっくに何処かに捨てて全身はずぶ濡《ぬ》れになっていた。寒さを通り越して、手足から感覚は去っている。それでも脚は、自分にそんな力があったのかと驚くほどの強さで、次第に険しくなる径を、確実なペースで動いていた。
竹本香澄は三年ほど前、裏日本の地方都市から集団就職で初めて上京した。最初の勤め先は上野のあるレストランだった。
最初の間は東京へ来たのが嬉《うれ》しく、無我夢中で働いていたが、やがて半年もするうちに、勤務が終れば足も上がらなくなるほどに疲れる重労働と、そんなにまでして働いた一か月の報酬が、故郷までの航空運賃にも充《み》たないのが馬鹿らしくなって辞めてしまった。
次に彼女の飛びこんだのが、新聞広告で応募した新宿のバーだった。
涼しい眼と、しっとりと吸いつくような肌を持つ、まだ余り人ずれのしていない少女は、客の目に新鮮に映ったらしく、大いにモテた。
客にちやほやされている間に、自分に生来備わっている男を惹《ひ》きつける力に気がついた香澄は、もっとより多くの可能性と収入をもたらす銀座へ進出≠オて来た。
さすがに銀座となると、夜の蝶のメッカだけあって、単純な色気だけでは、彼らを惹きつけるのは難しかった。
美貌《びぼう》と媚《こび》だけでへらへらと客に調子を合わせているだけでは、客は満足しないのである。
一寸|坐《すわ》ってウイスキーの水割をなめるだけで、ボックスチャージと合わせて、軽く一万位の金が吹飛ぶ銀座の一流バーともなれば、ホステスにもプロとしての厳しさが要求された。
男はバーへ来れば猥談《わいだん》ばかりするものと信じていた香澄は、いかにそれが馬鹿げた迷妄であったか思い知らされた。
客は千差万別だったが、ただ一つ絶対の共通項があった。それは払った金に相当するサービスを要求するということである。
どんな寛大に見える客も、その一点においては厳しかった。彼が気前よいのは、それだけのものが得られるからだ。
香澄はフロイラインに来てから、ナンバーワンと呼ばれるホステスが、決してそれほどの美人でもなければ、艶《なまめか》しさ溢《あふ》るるグラマーでもないのに気がついた。
その秘密は、彼女らが蓄えた厖大《ぼうだい》な話題にあることを知った香澄は、持ち前の負けん気をいかんなく発揮して、せっせとそれの蓄積を始めたのである。
香澄は天成の美貌のほかに、もう一つの武器≠ノ恵まれていた。それは彼女の並み外れて強い記憶力であった。
香澄は自分を人よりも特別に優れているとは思っていなかったが、天賦の記憶力のおかげで学校の成績はよかった。学業成績が必ずしも実社会の実力につながるものではないが、香澄の場合、この抜群の記憶力は、話題の蓄積にあたって絶大の効果を発揮した。
第一、一度来た客の名前は、絶対に忘れない。そのくせまでも覚えてしまう彼女の前に指名が殺到したのは当然である。加えて、女としての最大の武器たる色気≠ヘ誰にも負けない自信がある。
香澄は進出後半年で、早くもフロイラインのナンバーワンにおさまっていた。
もちろん、古参のホステスの猛烈な抵抗にあった。だが、全ては彼女の実力の前に沈黙した。
店により多くの収益をもたらした者が女王となる鉄則は、いかに根強い伝統も序列も粉砕する。そういう点で、この世界は白星の数だけがものを言う相撲取りの世界と同じであった。
香澄はそこで美事に優勝≠オたのである。ナンバーワンの座におさまると共に、客のスケールも大きくなった。
彼女の周辺には常に一流人≠ェ群れた。いわば、どんな玉の輿《こし》(経済的に)にも選《よ》り取りに乗れる身分になったのである。
その時になって彼女は大きな失策《ミス》をやった。それは彼女が恋をしたことである。恋そのものはミスではなかった。問題は恋の相手にあった。
彼は大原良一という二十七歳の平凡なサラリーマンであった。自分の金では到底、フロイラインのような高級バーに出入りできる身分ではなかった。
ある大手メーカーの営業部に勤める彼は、接待客のお伴をして来たフロイラインで香澄と知り合った。
頬《ほお》が削《そ》いだように細く、唇の薄く赤い大原の漂わせる虚無の匂《にお》いのする知性が、香澄を深く捉《とら》えたのである。
大原も一目で香澄に惹かれた。あい惹かれる二人が外で忍び逢うようになるのに大した時間はかからなかった。二度目のデートの時に唇を与え、三度目のデートで躯《からだ》を許し、四度目で婚約した。
女が恋をすると打算を忘れる。香澄は身のまわりに群れる玉の輿へのあらゆるチャンスを見送って、大原との将来に賭《か》けた。
もっとも、大原も結婚の相手としては玉の輿と言えた。
一流バーとは言え、所詮《しよせん》、バーのホステスである。それに対して大原は一流会社の社員なのだ。金銭的な打算さえ諦《あきら》めれば大原も立派な相手だったのである。
大原も香澄を生涯の伴侶《はんりよ》として真剣に愛した。たとえ、馴《な》れ初《そ》めはバーの客とホステスとしてであっても、二度目からは彼らは互いに相手をただ一人の人≠ニして瞶《みつ》めたのである。
二人はこの五月に結婚するはずであった。周囲に知れると、バーという環境柄、何かと都合の悪いことが多いので、二人の仲は秘していたが、香澄はやがてスタートする新生活のためにせっせと、そして心楽しく準備をしていた。
「辞表はいつ頃出そうかしら? 最初の間はどこか静かな郊外にアパートを借りて、そのうちに団地を申し込もう。バーの女ということが知れては、良一さんの将来に悪い影響がないかしら? いえ、そんなことは決してないわ。私にはどんな良家の子女にも負けない才能≠ェある。きっと大原夫人として何処へ出されても恥ずかしくない奥さんになってみせるわ。そして、山内一豊の妻のように、内助の功を尽くして、今に良一さんを社長にしてみせる」
香澄の夢は際限もなく広がった。
そんなある日、大原は浮かぬ顔をして香澄の前へ現われた。
「ねえ、当分、子供はつくらずに二人だけの生活を楽しみたいわ」
「ああ」
「一間ではやっぱり狭過ぎるから二間にしない?」
「うん」
「お式は身内の人だけで、出来るだけひっそりと挙げましょうね。でも、新婚旅行は一生の思い出にデラックスにしたいわ」
「そうだね」
何を話しかけても生返事の大原の異常に、自分の夢を追うのに夢中の香澄は気がつかなかった。もともと、大原は口数の多いほうではなかったのである。
「香澄」
大原は遂に思い余ったように口を開いた。
「なあに?」
甘く見上げた香澄の瞳に、いつもとは違う光を浮かべた大原の目が重なった。いつもはもっと明るく暖かいものに溢れた彼のまなざしなのである。それが今はない、まるで品物でも見るような目がそこにあった。
「なによ? そんなへんな目をして?」
いつもとは違う大原の目つきに気押されて、香澄は語調を改めた。
「それが……」
彼は何かがのどにひっかかったような声を出して、
「一寸、待ってもらいたいのだ」
「待つって、何を?」
「つまり……そのう……僕達の結婚をさ」
彼はのどの奥の異物を無理に吐き出すようにして言った。
香澄は暫《しばら》く黙っていた。大原の言葉の意味がよく判らなかった。
「君には」
余り長い間香澄が黙りこんでしまったので、大原が再び口を開いた。
「この期《ご》になって本当にすまないと思う。でも、僕達の結婚のこと、暫く待って欲しいのだ」
それほど暑くもないのに、大原の額は汗の玉を浮かべていた。
「いいわよ」
漸《ようや》く彼の言葉の意味を釈《と》った香澄は、かなり落胆しながらも、案外気軽に答えた。
「それでどの位、延ばすの?」
大原の勤めの都合で結婚式の日取りを少しずらすのは止むを得ない。何しろ、彼は大メーカーの営業マンなのだ。日々激烈な販売競争に明け暮れる彼の職業は、一瞬の気の弛《ゆる》みも敗残と落伍《らくご》につながる。
ビジネスエリート中のエリートが火花を散らすビジネスの最前線《フロント》で、常に人《ライバル》よりも一歩先んじているためには、多少の家庭生活の犠牲は止むを得ない。それに耐えられぬようであれば、最初からビジネスマンの妻たる資格はない。
香澄の日頃の心構えが、大原の一方的な申し出に対して、案外、あっさりと譲歩したのである。
「それでどの位延ばすの?」
「そ、それが」
大原は唸《うな》って額の汗を手の甲で拭《ふ》いた。
「延ばすのでなく、僕達の話、はじめからなかったことにして欲しいのだ」
「なかったことに?」
香澄はぽかんと口を開けた。大原はきっかけを掴《つか》んだものと判断したのか、一気に喋《しやべ》り始めた。
「君を愛する気持には少しの変りもない、本当だ。神に誓ってもいい。ところが故郷《くに》の両親が君の勤めを知ってどうしても賛成してくれないんだ。強いて結婚するなら親子の縁を切ると言うんだ。それだけならまだしも、社の上層部にも君のことが知れてね、バーのホステス風情……失礼、僕が言うんじゃない、上役が言うんだ。社員がバーのホステスと一緒になったんじゃ、社の名前にかかわるって言うんだよ。僕もサラリーマンだ。上役に睨《にら》まれたら僕の会社での将来はおしまいだ。ね、判ってくれるね、サラリーマンは決して実力だけでは生きられないんだよ。実力プラス、コネや運のアルファ、このアルファの比重《ウエイト》が大きいのだ。アルファに比べたら、実力なんてごみみたいなものさ。どんな実力主義の世の中になっても、それは表面《うわべ》がそう見えるだけであって、人間、特にサラリーマンの運命を決めるものは、実はこのプラスアルファなんだよ。サラリーマンにとって上意に逆らうことは、職を失うのと同じことなんだ。現実に馘《くび》にならなくとも、もう一生、日の当たる所に浮かび上がれない」
「…………」
「ね、ここのところを判って欲しい。確かに法律的には、結婚は二人の合意だけで出来る。しかし、それは現実には合わない。僕達は無人島で結婚するわけではない。僕達の周囲には無数の人々がいる。社会がある。そして、結婚する人間も、それらの人々に認められ、社会に受け容《い》れられて、初めて生活することが出来るのだ。社会の意志に反して、二人の意志だけで結婚しても、最初の間はよいかも知れないが、長い間には結局、社会からしめ出されてしまう。僕らは衝動だけで結婚してはならない」
「衝動?」
今迄《いままで》黙って大原の言葉に聞き入っていた香澄が、急にきらっと目を上げたので、大原は狼狽《ろうばい》したように、
「僕達が衝動で結婚すると言うのではない。ただ、社会の成員《メンバー》の一人として結婚しようとするからには、出来るだけ大勢の祝福を受けるべきだと思う。結婚とは決して二人だけのものではない、二人がそれぞれに背負う背景と、それぞれに所属する家と、それぞれに伝える血の交流なのだ。まして二人がこれから共に過ごすべき時間は長い。それに比べれば婚前の交際期間など瞬間だよ。そんなにも重大な二人の結びつきを、瞬間の衝動[#「瞬間の衝動」に傍点]だけで、いや、衝動ではなかった、そのう、つまり、一寸心を惹かれた[#「一寸心を惹かれた」に傍点]くらいで……もちろん、僕は一寸どころではなく心から君を愛しているが……それでもこれからの長い……」
香澄は途中から大原の話を聞いていなかった。いや、聞いていないというよりは、そこには香澄の実体が失われていた。そこに在る[#「在る」に傍点]のは、彼女のぬけがらとも言うべきもので、その実体は、大原の話半ばにしてとっくに何処かへ流れ出してしまっていたのだ。
香澄の目は確かに大原にあてられていながら、その網膜は何も映していなかった。
ゆらゆらと水面《みのも》に揺れ動く映像のように、彼女の網膜で絶えず何かが揺れ動き、それが「結婚」とか、「プラスアルファ」とか、「衝動」とか、訳の分らないことを喋《しやべ》っているにすぎない。
(一体、目の前のもの[#「もの」に傍点]は何を喋っているのかしら?)
時折り、不審めいたものが胸に萌《きざ》すこともあったが、それも束《つか》の間、香澄はただ大きな空しさの蕩揺《とうよう》の中に浮かんでいた。
「このことについては、もう一度よく話し合おう。決して妙な気を起こすんじゃないよ」
何を言っても反応しなくなってしまった香澄に、大原はバツが悪そうに言うと、身体を窄《すぼ》めるようにして去って行った。
全く知覚を失ってしまったような香澄に、その時の彼の後姿だけは、不思議にはっきりと印象されたのである。
日頃はシャープに見えた彼の細身の長身が、世帯疲れしたようにひどくみすぼらしく映ったものである。
彼が去《い》って暫くしてから、漸く香澄の心に思考力が戻ってきた。
(そうか、大原良一とはそんな男だったのか。私がバー勤めということは、何も昨日今日に判ったことではない。二人の愛さえあれば、どんな障害でも乗り越えられる。身分とか、職業とか、本人の属性に直接関係を持たない一切のものは、結婚にとって問題にならないと言ったのは何処の誰だったの?
生涯の相手《パートナー》は必ずしも長い選択の末に決まるものではない。たとえただ一目でも、心の中の声が教える者であれば、誤ってはいないと言った口はいつのことだったかしら?)
不思議に憤りは湧《わ》いてこなかった。ただむしょうに寂しかった。自分が今迄に、全ての重心を預けていたものがふいと消えて、いきなり暗い空間の中に放り出されたような、何ともたよりない寂しさであった。
それから数日後、香澄は大原と同じ社の客の一人から、彼が重役の娘に見染められて婚約したことを聞いた。
香澄はそのニュースを天気予報でも聞くように無感動に聞いた。どうせそんなことだろうと思っていた心の構えがあったからである。
「あいつもなかなか抜目ない。令嬢にほれられたと知ってからは、ひたすら身を慎んで、最近じゃあ、大手を振って出られる社用接待も敬遠してやがる。たとえ、社用でも、かすみちゃんのような美人に侍《はべ》られると、折角の玉の輿《こし》がふいになると思ってやがんだろう。李下《りか》に帽子[#「帽子」に傍点]を正さずってやつだ」
「それを言うなら冠《かんむり》でしょう」
「ああそうか、どちらにしても大した違いはあるまい」
その客は少し忌々《いまいま》しそうに笑った。その忌々しさが、ホステスに今の中国の諺言《ことわざ》を訂正されたためではなく、大原の功利主義的な処世にあることは明らかに判った。彼は社では現在、大原より上位だが、この玉の輿≠ノよって大原に追い抜かれる。サラリーマンとして喜べるはずがない。
香澄は客とホステスのさんざめきに取り囲まれながらも、自分一人、何処か全く別世界に隔離《かくり》されたような気がしていた。
故意に下げた照度の薄明の中に、彼女は自分の身の周りだけが一際濃い闇《やみ》に沈んでいるようだった。
その客と同席しているもう一人のホステスとの間に話が弾んでいるのを幸いに、香澄は自分の心の中に閉じこもった。
(結局、大原良一はそんな人間だったのだ。結婚という男女の一度限りの神聖な契約までも、取引≠ノ利用しようとしている。彼がこの取引の代償としてどの程度の引立てを享《う》けるか知るよしもないが、そんなにまでしても引き立てられたいものなのか? 彼の野望とは、彼の夢とはそんなにも小さなものだったのか?
彼が女の躯《からだ》を足がかりに登りつめて行ったところで、所詮、一社の行動半径《さしわたし》、そんな一握りの成功、そんな鼻の差を競うために彼は愛を涜《けが》した。男の夢とは、野心とは、そんなにもささやかなものだったのだろうか?)
彼女は大原良一という人間が、むしろ、哀れにすら思えた。彼はそんな卑小な野望と人生の貴重なものを取引きした。あるいは小さいながらも表面だけは燦然《さんぜん》たる光を放つ成功への甘き誘惑≠ノよって、一時的に目を眩《くら》まされたのかも知れない。
しかし、その目を覚ましてやろうとする熱意は、今の香澄はすでに持たなかった。彼女自身、大原に対する興味がすっかり醒めてしまったのである。
目が眩んでいたのは、むしろ、自分のほうかも知れない。あれが大原の地金であり、男の表面的な様子のよさを好む全ての女と同様に、自分も彼の表面だけを瞶《みつ》めて上気していたのにちがいない。――とすれば、早く地金に気づいただけましと言うべきであって、もともと覚めている男の目を覚まそうとする女の努力など、むしろ、彼にとって笑止であろう。
目が覚めたのは香澄なのだ。
だが、それにしても寂しかった。彼女はそれを虚《むな》しさによるものと認めたくなかった。だが、皮膚の悉《ことごと》くが隙間風に晒《さら》されているような心もとなさは、やはり、今迄、大原によって充たされていた心の空間から生じるものであった。
たとえ、実質のない虚像《にせもの》であっても、空間をそれなりに充たすことは出来る。埋めていたものが何であろうと、それが失われれば、そこにそれだけの空虚《うつろ》があき、代わるべき何物かによって埋められるまで、ぽっかりと暗い空洞を開いている。
大原はにせものではあったが、その容積は大きかったのである。
それだけに香澄は、急に開いた空間の大きさの中に安定を失ったのであった。
「今夜のかすみちゃんはいやに飲みっぷりがいいねえ」
「何だか今夜のお姉さんはへんだわ」
その空洞を埋めるせめてものよすがとして、グラスを呷《あお》る香澄を、客と後輩のホステスがむしろ、あきれ顔で眺めた。
「マアさん、送って行って」
かんばんの十一時近く、香澄はその客にからみつくようにして言った。
「これはまた、どうした風の吹き廻しかねえ」
マアさんと呼ばれたその客、丸松はそれでも満更でもなさそうな顔をした。フロイラインほどの一流バーのナンバーワンをかんばん後送れるとは客にとって光栄である。それも大勢のホステスを車に乗せて順々に彼女らの巣に送り届けるだけならば、いいカモにされたにすぎないが、酔い乱れた美女から深夜のエスコートの指名を受けるのは、アバンチュールへの大きな可能性がある。
丸松はホクホクしながら、どうせ社用につけるハイヤーを呼んだ。彼の顔色を敏感に読み取って、他のホステスも相乗りを遠慮した。
かんばん後の生活はそれぞれのホステスの自由である。フロイラインにしても、いくら一流を気取ったところで、所詮、媚《こび》を売る水商売である。客の機嫌を損《そこ》ねてはやって行けない。
かんばん後の客とホステスとの一対一のつき合いは、表向き禁じてはいたが、実際には見て見ぬふりをしていた。それに、かんばん後のつき合いこそ、ホステスにとって重大な収入源になるのである。
銀座の零時前後は、バーや、キャバレーがかんばんになって、どっと街に溢《あふ》れ出た客とホステスを拾おうと、タクシーが犇《ひし》めき合う。腕のいいホステスの大半は客の車に便乗する。そのうちの八割は無事に自分のねぐらに送り届けられるが、残りの二割は客とそのままどこかのホテルへシケこんでしまう。
客がカモられたのか、それともホステスがカモられたのか、それぞれの|組合わせ《カツプル》毎に異なるが、共通して言えることは、車の相乗り、それも客とホステス一対一の場合が、ホテルのベッドへ最も続き易い。
かんばん後、国電やバスで帰る連中は、たいてい二、三時間後には自宅のベッドにおとなしくおさまっている。
「かすみちゃん、君の家は原宿だったな」
「どこでもいいから伴《つ》れてって」
呂律《ろれつ》が廻らなくなるほど酔った香澄を車内に抱きこんだ丸松は、大魚をひっかけた釣師のような会心の笑みを浮かべて「千駄ケ谷」と低く運転手に命じた。
のどに焼けつくような渇きを覚えて香澄は目を覚ました。
枕元《まくらもと》に漂う薄いピンクの光をたよりに、これまた、枕元にあった水差しから無我夢中で水を呷った。食道から胃へ流れ落ちる冷たい水は、フロイラインから出た後の自分の行動を靄《もや》が霽《は》れていくように徐々に甦《よみがえ》らしてくれた。
丸松の車に便乗し、車の着けられた割烹《かつぽう》旅館のような所へもつれこむようにして入ったまでは覚えている。それから……彼女はハッと脇を見た。
「ああ」
香澄は思わず小さく呻いた。記憶の中にかすむ忌まわしい行為が夢ではなかった証拠がそこにあった。
ピンクのシェード越しに落ちてくる朧《おぼろ》な光だったが、香澄は自分のすぐ隣の床に横たわる男の、小鼻に浮き上がった毛穴の一つ一つまで数えることが出来た。
それは充《み》ち足りた男の眠りであった。恐らくこの男の眠りは、思いもかけず手に入れた美肉に驚喜しながら、それをねぶり、貪《むさぼ》り味わった後にもたらされたものであろう。
男の眠りが深く、いぎたなく、そして健やかなものであればある程、香澄の躯が貪られたことを示す。
香澄は皓々《こうこう》とつけられた光の下に、無惨に開かれた自分の躯を目のあたりに見た。男の力によって思うさま揉《も》みしだかれ、男の粘液にどろどろに浸され、男の獣欲によって散々に喰《く》い散らかされた自分をまざまざと見ることが出来た。アルコールのおかげで自分がとらされた破廉恥な姿態の一つ一つは覚えていなくとも、魘《うなさ》れて目覚めた悪夢の名残りのように、記憶に遠く、しかし、はっきりと焼きつけられているのだ。
自分の大原だけの躯≠このように汚すことにより、空しさを瞬間的にも充たせると考えたからであろうか? それは漂流者が飲んだ後に更に烈《はげ》しい渇きに襲われることを知りながらも、目の前の海水を飲まずにはいられないように、事後″Xに空しくなると悟りながらも、眼前の空しさに耐えかねて身を投げかけた衝動に似ていた。
手首に外されずに着いていた腕時計が非情なばかり正確に失われた時間≠刻んでいた。五時をやや廻っている。そろそろ日の出の時刻であろう。
この種の旅館につきものの完璧《かんぺき》な気密性のおかげで、外光は全く遮断されているが、戸外はすでに明るくなっているのだろう。
丸松はまだ白河夜船である。香澄は男に気づかれぬようにそろそろと布団から脱け出した。胯間《こかん》に残る異物感と、男のいぎたない寝顔が、彼女に嘔吐感《おうとかん》をもよおさせた。
あと数時間後には、男はまるで別人のようになって組織の一コマとして動いているであろう。一夜補給された栄養≠ヘ、この男のスタミナ源となって社により多くの収益をもたらし、また、この男個人の女歴帳≠ノ貴重な記録を加えることになろう。女の操など所詮《しよせん》、それくらいの価値しかないのである。
それはそれでよい。海水が一時的にも渇きをいやすように、この男は瞬間ではあっても、香澄の空虚を埋めてくれたのであるから。
しかし、その後に開いた更に大きな空虚は、どうやって充たしたらよいのか?
香澄は意志のない人形のように、暁の金色の光が射し初める大都会の朝の中に歩み出した。たまたま通りかかった早朝タクシーを呼び止めて「何処でもいいから汽車が出る一番近い駅へ」と命じて新宿へ出、たまたまホームに待っていた長野行普通列車に乗りこんだのであった。
3
「おや?」
峠の頂をやや南佐久側に下った草原で、秋田は一寸|眉《まゆ》をしかめた。視野の中にふと馴染《なじ》まぬ異物≠見つけたからである。
バスを捨てた山麓《さんろく》から降り続いている雨は、烈しくもならなければ、小降りにもならず、同じ密度で落ちて来ている。高度が上がったせいか、何となく空の方に近づいた感じで、雨粒の密度の中にも仄《ほの》かな明るさが増したような気がした。
しかし、それも初夏の雨特有の銀色の明るさである。原生林の中の長い径を辿《たど》った後、急に開いた草原が視覚に与えた錯覚かも知れなかった。
遮蔽物《しやへいぶつ》がなくなった草原には急に風が感ぜられ、それが雨粒の密度のバランスを崩して、白い縞《しま》模様を風向に沿って移動させていった。
ここは八ケ岳も北の外れの丸山と茶臼《ちやうす》山の鞍部《あんぶ》にかかる、麦草峠といううらぶれた峠であった。八ケ岳火山列を横断する峠は、夏沢峠を代表として、数は多いが、この麦草峠は、その中でも最も人気《ひとけ》のないさびれた峠である。
北八ケ岳特有の濃密な樹海の中に錯覚のように開いた一握りの草原は、ほの暗い針葉樹林の中の糸の径を、幾分の寂しさと心細さを抱きながら辿って来た旅人に、この上もない安らぎを与えるものだった。
峠にはそこが峠であることを示す何物もない。無心に歩いていれば、いつの間にか山の向こうの起伏の中に歩み入ってしまう名もない峠である。
日光が弾んでいればこれでもけっこう大きな展望を与えてくれる峠であったが、今は寒々と白い雨に閉ざされていた。
草原は雨にけむって何となく白茶けていた。その白茶けた風景の中にシミのように浮いた赤い一点を、秋田は見たのである。
紅一点というような周囲に認められながら際立つ異色ではなく、周囲の冷視にこれ以上の縮まりようはないほどに縮こまった色の点であった。
足を速めて近づくほどに、秋田はそれが人形《ひとがた》の円みを帯びているのを知り、厄介な拾得物≠ノなりそうな気配を認めないわけにいかなかった。
もしそれが遭難者であれば、彼の久し振りの山旅の喜びは確実に奪われるであろう。
案の定、彼の予感は当たった。
秋田の、発見者としてよりは、医者としての活動が始まった。
初夏とはいえ標高二千米の高所の雨は冷たい。遭難者は大分長いこと冷雨に晒されていたと見えて、すでに瞳孔《どうこう》は拡大し、呼吸困難な状態に入っていた。このまま放置すれば、あと二、三十分も経ぬうちに確実に死に至る際どい状態にあった。
――だが、瞳孔の対光反射も微《かす》かながらある。それに何よりも有難いことに筋肉が硬い。これが硬い間は望みがあるのである。
しかし、急がなければならなかった。幸い、遭難者は若く、健康そうであった。新陳代謝も旺盛で、熱の産生も大きいはずである。
機敏で適切な処置があれば十分救かる見込があった。
秋田は草原の外れにある峠の無人小屋へ遭難者の身体をかつぎこんだ。
まず何よりも先に火をおこす。小屋の土間に仕切られたいろりに赫々《あかあか》と火が燃え始めると、秋田はザックの中から飯盒《はんごう》を取り出して湯を作り始めた。その他、小屋の中からかき集めてきた古い金盥《かなだらい》や空きかんの中にも水を張り、火の側に並べた。
その作業を手早く終えると、彼は遭難者の方へ向き直った。炎の側に横たえられた身体から湯気がたち昇っている。衣服に吸い込まれた雨水が焚火《たきび》に暖められて、盛んに蒸発しているのである。
秋田はその遭難者の身体を眩《まぶ》しそうに眺め、少しばかりのためらいの後に、思い切りよく衣服を剥《は》ぎ始めた。ためらったのは、遭難者が若い女だったからだ。
身体にへばりつくようにまつわり着いた衣服を、すでに医者の非情性を取り戻した秋田は、容赦なく剥ぎ取っていった。
一、二分後、果物のように剥《む》かれた若い女の裸身が炉端に横たわった。炎に暖められたせいか、それともそれが凍死寸前の人間の肌の色なのか、湯上がりに匂《にお》うような、薄いバラ色に上気している。
豊かな胸の隆起と、蜂のような腰のくびれから逞《たくま》しい下腹へ続く、目を見張るようなプロポーションである。年の頃は二十一、二。
秋田はそれに四十度位に温まった湯を上半身から全身にわたって万遍なくかけ始めた。
空になった容器には、又、水を満たして炉端へ並べる。水場《みずば》が近くにあったのが女にとって幸いした。湯を全部消費し、次の湯[#「次の湯」に傍点]が温まるまではタオルで全身を摩擦した。
本当は四十五度前後の風呂《ふろ》に十分位浸すのが一番効果があるのだが、この無人小屋に風呂桶のあるはずがなく、これが手の及ぶ限りの最善の処置であった。
こうして竹本香澄は甦《よみがえ》った。発見が比較的早かったことと、発見者が医者であったのが、香澄の生命を救ったのだった。
香澄は最初、自分の命の恩人に対して反感を覚えた。意識を取り戻した時には衣服を着せられていたが、その着せ方のぎこちなさと、何よりも着順《きじゆん》≠フめちゃめちゃなことが、いったん他人の手で脱がされた後に着せられたことを示していた。
それは全く凄《すさま》じい着せ方であった。釦《ボタン》と穴が一致せず、肌の上に下着が来ていない。
そこに、他の人間が見あたらないのであるから、自分の前にうっそりとうずくまって、炉に火をくべている若い男がしたことに違いない。そうとすれば、彼の目は自分の裸身をいいように盗んだばかりでなく、その手は、(おそらくは汚い)自分の弾み切った皮膚を思うさま嬲《なぶ》ったにちがいない。
そうと推した香澄は、秋田に対して丸松に向けた憎悪と似たような感情を覚えた。
「おっ、気がついたね、あっそのまま寝《やす》んでいなさい。まだふらふらする」
秋田は立ち上がろうとした香澄を制した。眩しい外光が窓や無数の隙間《すきま》から射しこんでいる。外はすでに朝である。雨は去ったらしい。小屋の中にいても雨後の朝の爽《さわや》かな気配は感じ取れた。
「素晴しい天気になった。昨日の雨がうそのようだな」
秋田は香澄の瞳に集められた白い光を全く無視したように、屈託のない声で言い、窓を開いた。のどにつんと迫る冷気がなだれ入って来た。
「そろそろめしができた。どうです、一緒にやりませんか? ソーセージや、牛肉や、かん詰め野菜など、持ってきた食物を全部ぶち込んだ特製おじや[#「おじや」に傍点]です。名づけて、カクテルライス。力がつきますよ」
秋田は言ってにっと笑った。窓からの光を逆に受けて立った彼のシルエットの中に、清潔な白い歯並びがひときわ鮮やかに浮き立った。
それは五十時間ほど前に千駄ケ谷の旅館で見た丸松の小鼻の毛穴とは、全く異質なものだった。
その時はじめて香澄の心に、秋田を命の恩人として眺める感謝の念が湧《わ》いたのである。遭難の原因や理由を尋ねようとしないことも有難かった。
救助者の権利≠ニして、自分の心の深奥《しんおう》に発する問題を、根掘り葉掘り訊《き》かれてはたまらない。
何もかも心得顔で、暖かいまなざしでしんと見守っていてくれる秋田に、雨に打たれた体だけでなく、冷えきった心までがほのぼのと温められるような気がした。改めて、彼の手を汚いと思ったことがすまなくなった。
反感が感謝に変ると同時に、香澄は身の置き所もないような羞恥《しゆうち》を覚えた。
「どうしよう?」
彼女は思わず呟《つぶや》いてしまった。
「どうかしましたか?」
秋田が聞き咎《とが》めた。
「いえ」
香澄はどぎまぎしながら、
「私ってずい分、みっともない格好をしていたのでしょうね」
「え?」
瞬間、香澄の言う意味がよく判らなかったらしい秋田は、一寸の間、キョトンとした表情をしたが、次に、明るく破顔して、
「僕は医者ですよ。患者に格好などありません」
「まあ、お医者さんでしたの」
「そうです。あなたは僕の患者だ。だからそんなこと気にするのがおかしい」
「そうでしたわね」
秋田の明るい笑いにつられて、いつの間にか昨日まで自分の胸に巣喰《すく》っていた死への誘いが、影も止《とど》めずに喪《う》せていることを知った。
それが、昨日の雨が洗い流したものか、それとも、眼前にいる命の恩人の為《な》した業か、香澄は深く考える必要はなかった。
「どうです、一緒に松原湖まで下りませんか?」
食事が済むと秋田が誘った。もっとも、それはきくまでもないことで、救助者が遭難者を下界≠ワで降すのは当然であったが、秋田がつい無意識にそれを言ったのは、香澄が到底、遭難者(彼女にしてみれば自殺者であったが)とは見えぬほどに元気を取り戻していたからである。
秋田にとって、彼女は美しい異性の伴《つ》れに変身[#「変身」に傍点]していた。
小屋の外へ出ると、余りにも透明な明るさに眩暈《めまい》がするほどであった。雨に拭《ぬぐ》われて、近い山はどんな小さな襞《ひだ》の隅々までもくっきりと浮かび上がらせ、遠い山は驚くほど近くに残雪の象眼をきらめかせている。その上に朝の最初の陽が、何物にも妨げられることのない潤沢《じゆんたく》な光を、これ以上の寛容さは考えられぬほどに気前よく、視野の限りに広々とふり撒《ま》いている。
この明るさは、「早発早着《はやだちはやちやく》」が鉄則の山旅において、やや遅すぎる出発を物語るものだが、香澄という美しき拾得物≠ェあったことと、どうせ里へ下る下山日とあって、秋田が鉄則に融通を見せたものであった。
「どうです、豪勢な景色じゃありませんか」
秋田は目を細めて言った。
「こんなすばらしい世界があるうちは、めったなことでは死ねません」
そう言った時だけ、秋田の瞳から笑いが消え、何事か諭《さと》すように香澄をじっと瞶《みつ》めた。
(やはりこの方は知っている。私が遭難者ではなく、自殺者だったということを)
香澄がはっと瞳をそらそうとした時、秋田は再び穏やかな笑みをたたえた目に戻り、
「ぼつぼつ出かけましょう」
と、雨にじゅくじゅくした山道を歩みだしていた。
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契約の妻
1
「とうとうまた、お逢《あ》い出来たわね、私、きっとお逢い出来ると信じていたわ」
香澄はまじろぎもせずに秋田を瞶《みつ》めて言った。
秋田修平がフロイラインに入って来た瞬間から香澄は知っていた。何処かの宴会の流れらしく、秋田はすでに相当にアルコールの入っている男達に囲まれるようにして、フロイラインの扉を押したのであるが、その瞬間から香澄には彼の身体だけが燐光《りんこう》に縁取られたように浮き立って見えたのである。
無言のまますっと前に立った香澄の姿に、最初は彼女が誰だか見分けがつかなかったようであるが、すぐに、
「やあ、あなたか!」
と例の人の心をほのぼのと暖めるような微笑を浮かべた。
「よっ、これは秋田先生、当店ナンバーワン、かすみ嬢と旧知の仲とは、すみにおけませんねえ」
伴れの男達が一斉にひやかした。
「そう、秋田先生とおっしゃるのね」
香澄の声は上気していた。彼女はこの時初めて、命の恩人の名前を知ったのである。
「あなたはあの時どうしてもお名前もお住所も教えて下さらなかった」
ボックスに向かい合うのを待ちきれぬようにして香澄が言った。それはむしろ、男の冷たさを怨《うら》む声であった。
秋田の伴れも、他のホステスも、どうやら曰《いわ》くありそうな二人に遠慮して、このボックスに近づかなかった。
「いや、ごめんごめん。別に気取ったわけじゃあないんだ。大したことをしたわけでもないのに、ただ、恥ずかしかったんだよ」
秋田は頭をかきかき弁解した。
「大したことではない? 私にとっては命の恩人ですわ」
「いや、そういう意味ではなく、そのう……つまりだ、あの場合、山男なら誰でも僕がしたと同じようにしただろう。そういう意味で大したことをしたわけじゃないんだ」
「それでも、お名前ぐらい教えて下さっても。今日迄、二か月間、どれ位先生を探しまわったことか」
「すまなかった。改めて自己紹介しよう。秋田修平です。日本労災防止協会の嘱託医です」
「私、竹本香澄です。この店で働いております。その節は本当にお世話になりました」
香澄はこの二か月間狂気のように探し廻った当の本人を目の前にして、やっと一つの仕事を為し終えた時のような安らぎを覚えていた。それは心の中にゆっくりと広がっていった。
彼女は沁々《しみじみ》とした思いでこの二か月を反芻《はんすう》した。
名前も身分も告げずに去って行った山男。男らしく窶《やつ》れた面立の中に、人の心をほのぼのと暖めるまなざし。それでいてその奥に何か耐え難いさだめを必死に耐えているような寂寥《せきりよう》の翳《かげり》があった。
それは大原にあった、女の心を惹《ひ》くために作為して漂わせた気障《きざ》なニヒリズムではなく、その人間の出生と共に死ぬまでついてまわる一種の業のような翳なのである。
もとより香澄は、秋田の面やまなざしの奥をそんなに深く覗《のぞ》きこんだわけではない。男に裏切られた女が、裏切った男と本質的に異なる男を嗅《か》ぎ取ったのである。
女には、そんな嗅覚《きゆうかく》があるのだ。
(探し出してどうする?)
(探し出して、ただお礼を言いたいだけ)
(それだけ?)
(それだけよ)
香澄は毎日無為に終る尋ね人をあくことなく続けながら、何度、同じような自問自答を重ねたことだろう。
だが、彼女は日を経るほどに心の中に堆《うずたか》く積み重ねられて行く秋田への慕情を、決して認めようとしなかった。その堆積《たいせき》がもはや、否定しようもないほどに堆くなっても、強いて目をつむっていた。
(もう、男のことで苦労するのは沢山。よもや二度と、男を愛したり、信じたりしてはならない。男は私に収入をもたらす媒体としてしか価値がないのだ。あの人は……そう、あの人だけは収入の媒体と見てはならないけれど、でも、単に命の恩人としての、|性をから《ノンセクシ》|めない《ユアル》で考える男の人だわ。そうであらねばならない)
香澄は否定しようのない秋田への心の傾斜を、自分にそう言い聞かせることで強いて欺瞞《ぎまん》しようとしていたのである。
しかし、今ここに秋田と相対して、それがいかに脆《もろ》いものであったかを思い知らされた。
男と女の間に心の傾け合いがある時、そこに性《セツクス》をからめずに考えることは絶対に出来ない。もしかりにあるとしても、それは少年少女時代の稚《おさな》いロマンチシズムに裏打ちされた、未熟な純愛≠ナあろう。
「また、いらして下さるわね」
秋田が立ち上がった時、見送る香澄の目に燃えた光は、命の恩人に対するものではなく、成熟した女が心を寄せた男に燃やすものであった。
2
二人は急速に接近した。香澄の秋田熱はともかくとしても、秋田も香澄と共にいることに心の安らぎを覚えた。
とはいえ、秋田の薄給では、フロイラインには通い切れない。
香澄は秋田に負担をかけるのを虞《おそ》れて外で会うことを提案した。
しかし秋田はそれを喜ばなかった。
昔の遊女と異なり、身柄を拘束されているわけではない。香澄の|明け《オフ》の時間に外で会っても何の悪い道理はなかったが、秋田にはそれが何となく公正《フエア》でない感じがしたのである。
月に二回程、秋田は無理をして店へ通った。だが、かんばん後、何処へ誘うのでもなく、水割を舐《な》めながら香澄と静かな会話を楽しんだ後、穏やかに帰って行く、まことに何の変哲もない、通りいっぺんの客とホステスのつき合いだった。そして、そこから一歩たりとも奥へ踏みこんでこようとしない秋田なのだ。
香澄は次第に焦《じ》れてきた。
「ね、今夜は送って下さらない?」
十月の末、珍しくかんばん近くまでねばった秋田に、(もっとも、香澄が必死に引き止めたからでもあるが)香澄はねだった。
「そうだな」
肯定とも否定ともとれるうけ答えをして、秋田はうっそりと立った。
この頃急に憔悴《しようすい》が目立つようになった彼である。八ケ岳で初めてめぐり逢った時もかなり痩《や》せてはいたが、あの時に感じられた精悍《せいかん》さは消えて、これ以上にこけようはないほどに削《そ》ぎ落ちた頬《ほお》などは、むしろ、痛々しいほどである。会うのはいつも夜更、それも店の暗い照明の下なのではっきりとは見分けられないが、顔色も悪そうであった。
(労災医という職業柄、きっとお仕事が大変なのだわ)
そう思うと香澄は余計、男を自分の胸の中にしっとりと包みこんでやりたい欲望に駆られた。
「君のアパートは原宿だったな」
秋田はふとふり向いて言った。
「まあ、送って下さるのね」
香澄は男のたよりない返事が急に具体性をおびてきたので浮々と言った。
「よし、行こう。僕のねぐらは麹町だから、一寸《ちよつと》廻り道してあげよう」
「嬉《うれ》しいわ」
やっと掴《つかま》えたタクシーの中でも香澄は浮々と喋《しやべ》り続けた。
香澄のアパートは表参道のオリエンタルバザーをやや渋谷寄りに折れた所にある。外人住宅の多い閑静な一角である。部屋代《レント》もそれ相応に高かったが、香澄のように夜の遅い水商売にとっては、都心への距離といい、他人のことには干渉しない都会的ムードといい、格好の環境であった。
しかし、この夜ほど、原宿のような都心からの至近距離へ居を構えたのが怨めしく思われたことはない。
それでなくとも、午後十一時を過ぎると、車量がぐんと少なくなる。乗ったと思う間に車は早くも表参道に入っていた。
「ねえ、一寸お寄りにならない?」
アパートの前で香澄はかねて用意しておいた科白《せりふ》を言った。
「今夜は遅いから失礼するよ」
しかし、秋田も香澄の予期していた通りの答えを言った。
「一寸だけでいいわ。お茶だけでも飲んでいらしって」
香澄は強引に押した。口で誘うだけでなく、それとなく秋田を車外へ押し出していた。こんなところがプロのテクニックとでも言うのか、さしたる力を加えるわけでもないのに、男の体をいつの間にか自分の思い通りに動かしてしまう。
「運転手さん、有難う、もういいわ、お釣りは取っといて」
香澄は秋田の体を車外へ押し出すと同時に素早く運転手に千円札を渡した。車さえ追い払ってしまえばこっちのものである。この時刻にこの界隈《かいわい》では、なかなか、車を拾い難いことを彼女は知っていたのである。
「汚い所よ」
香澄が導いた所は六畳ぐらいの一室であった。あまり大きくない三面鏡に、ポータブルテレビと洋服ダンス、若い女の部屋らしく小綺麗《こぎれい》に整頓《せいとん》されてあったが、香澄のような職業にしては驚くほどに質素な部屋のたたずまいである。
部屋も六畳一間に三畳ほどの板の間のお勝手が付いているだけであった。
「驚いたでしょ、余り汚い所なので」
香澄は言い訳をするように言った。
「いやいやとんでもない。ずい分住みよさそうじゃないか」
「そうね、住心地は悪くないわ。それにこの辺の土地柄にしては、割合、お家賃が安いのよ」
香澄は手早く秋田の為の座をしつらえてから、
「今、お茶を淹《い》れますわ、どうぞここにお坐《すわ》りになって」
「いや、本当にもう遅いから、僕はこれで失礼しよう」秋田は立ったまま思いきり悪く言った。
「何を仰有《おつしや》るのよ、ここまでいらしっておいて。すぐよ、一寸お待ちになって」
香澄はガスレンジに火を点《つ》けながら秋田を軽く睨《にら》んだ。表情はおどけて見せていたが、目は真剣だった。
ここまで来て今更逃がさない――そんな意気ごみが感ぜられた。秋田は諦《あきら》めて腰を下した。
「お待ち遠様」
香澄はいつの間にか和服の部屋着に着替えていた。彼女の洋服姿ばかりを見なれていた秋田は、紺絣《こんがすり》にしっとりと身を包んだ香澄に、全く別の女を見出したような気がした。
「やだわあ、そんなにじろじろ瞶《みつ》めては」
香澄はコーヒーセットを秋田の前に並べながら、心もち躯《からだ》をくねらせた。成熟した女の甘い匂《にお》いが鼻腔《びこう》を柔らかく擽《くすぐ》った。
「驚いた」
「何が?」
「女の人ってこうも変るものかとね」
「え?」
「着るものを一寸変えただけで、まるで別の人のようだ」
「あら」
香澄は軽く身を退《ひ》くようにして、
「このかすりのこと? 恥ずかしいわ。私って、あんまり和服は好きじゃないのよ、でも、故郷《くに》の母が部屋着にって送ってきてくれたものだから」
「よく似合うよ」
「そう……秋田さんにほめられると嬉しいわ」
香澄は心から嬉しそうに笑って、
「コーヒー? 紅茶? それとも、日本茶になさいます?」
と訊《き》いた。セットの上には三通りの用意があった。香澄はもっと早く尋ねるべき問を、今迄《いままで》するひまがなかったのである。
香澄に問われて、秋田はふと、その何でもない選択が重大な事に結びつくような予感を持った。
「ご馳走様《ちそうさま》」
紅茶のカップに申し訳ばかりに口をつけた秋田は、そそくさと立ち上がった。この夜更、密閉された空間の中に若い女と二人きりで相対しているのが息苦しくなったのである。
「あら、もう?」
見上げた香澄の瞳には明らかにそれと知れる怨があった。秋田はそれが判らぬような朴念仁《ぼくねんじん》ではない。
彼は急速に香澄に向かって傾きかかっている自分の心が怖かったのである。
「もう遅いからな」
秋田は馬鹿の一つ覚えのような台辞《せりふ》を繰り返した。
「いいわ、そこまでお送りするわ」
香澄は案外、素直に応《こた》えた。
「いやいいよ。君に送ってもらったら、またここまで送りかえさなければならん」
「なら、送って来てちょうだい」
香澄は少し蓮葉《はすつぱ》に言った。余りにも、ものわかりの悪い秋田に、少し不貞腐《ふてくさ》れ気味であったことは否めない。
香澄は強引に秋田について来た。
「風邪をひくぞ」
「大丈夫よ」
「ここでいいよ」
「大通りまで行くわ」
「いいったら!」
「一緒に一寸歩きたいのよ、ねえ、行かせて」
強いて振り切ろうとすると泣きだしそうになる香澄に、秋田は遂に諦めた。車は表参道まで出なければ拾えない。車を拾ったなら、香澄も乗せてアパートまで送りかえせばよいと諦めた秋田は、渋々と、それでも内心、女の好意を嬉しく思いながら彼女と肩を並べて歩きだした。
夜も大分更けた上に、高級邸宅ばかりのこの一角は、彼ら以外に動くものの気配が全くなかった。
空気が澄んでいる。頭上の夜空の奥の奥まで星が重なって燦《きらめ》いていた。どこかの家の庭から木犀《もくせい》の芳香が漂ってくる。
満天に煌く星々の下を、花の香りに包まれて二人は寄り添って歩いた。
「寒くない?」
「いいえ」
十月ともなれば、夜気は相当に冷たい。秋田には星や花よりも、むしろそのほうが気になった。
表参道に出ても空車はなかなか来なかった。
「この時間にはなかなか来ないのよ」
だから自分の部屋へ戻れと言わんばかりに香澄が言った。
「車がなければ、歩くよ。麹町までだ、どうせ大した距離じゃない」
秋田は何気なく言った。本当に何気なくだった。確かに原宿から麹町まで歩いところで彼の脚ならば大した距離ではない。しかし、それが香澄に思わぬ衝撃を与えたのである。
香澄は小さな叫び声をあげると、歩道のそこへ、膝小僧《ひざこぞう》をかかえこむようにうずくまってしまった。秋田は最初、香澄の唐突な行動が何を意味するものか判らなかった。
やがて、彼女の肩が小刻みに震え、膝に伏せた面から小さな嗚咽《おえつ》が洩《も》れるに及んで、漸《ようや》く彼女が泣きじゃくっているのを悟った。
「ど、どうしたの?」
秋田は思わず吃《ども》った。
今の今まで肩を並べて楽しそうに歩いていた女が急に泣きだした。別に彼女の感情を損ねるような言動を取った覚えのない秋田は、その急激な感情の変化についていけなかった。
「一体、どうしたんだ?」
秋田は、実際、途方に暮れた。こういう事態に遭遇したことが初めての経験だっただけに、どうしていいか判らなかった。
「ひどい、秋田さんってひどい!」
香澄は嗚咽しながら言った。
「僕がひどいって?」
秋田は口をぽかんと開けた。益々《ますます》、判らなくなったのである。
「だって、歩いて帰るなんて!」
「は?」
「麹町まで……大分あるわ、そんなにまでして帰りたいの」
秋田は小さく呻《うめ》いた。漸く香澄の泣きだした理由が判った。
山歩きに馴《な》れた秋田が、麹町まで歩こうとしても何の不思議もない。しかし、香澄にしてみれば、それは到底、歩くべき距離ではない。それにもかかわらず、それを歩こうとした秋田に、氷の壁のような拒絶を感じ取ったのであった。
「そうじゃない、そうではないのだ」
秋田は香澄の誤解を解かなければならないと思った。
彼女の好意は胸に沁《し》み通るほどに判っている。ただそれを受け容《い》れられない個人的事情≠ェあるのだ。
しかし、それを言うことは出来ない。
「そうよ、そうに決まっているわ」
香澄は泪《なみだ》に濡《ぬ》れた目を上げて秋田を詰《なじ》った。
「秋田さんは私のこと嫌いなのよ」
「そ、そんなことはない」
「だめ、私にはよく判りました。そうでなければこんな夜更に歩いて帰るなどと仰有らないはずよ」
「麹町は歩いてみれば近いんだよ」
「どうしてそんなにまでして、帰り急ぐのよ? どなたか待っている人でもいらっしゃるの?」
「そんな」
「秋田さんはお茶一杯も召し上がらなかったわ。ほんの一口、申し訳ばかり口をつけただけ……悲しいわ」
香澄はなおも泣きじゃくった。秋田は全く途方に暮れた。
一条の光が二人にあてられたのはその時である。
「どうかなさいましたか?」
逆光の向こうに立った姿は一人の制服警官だった。管轄区域のパトロール中に二人の姿を見咎《みとが》めたらしい。
「いえ、別に、何でもありませんからご心配なく、いえ……本当です、本当に」
いきなり出現した制服警官の姿に、秋田は益々慌てた。それが相手に不審の念を起こさせたらしい。
「失礼ですが、お名前にご住所、それからご職業を仰有って下さい」
言葉づかいは丁寧だが、妥協を許さぬ断固たるものがあった。職務質問である。
秋田の曖昧《あいまい》な言動が、「何らかの犯罪を犯し、もしくは犯そうとしている」との疑いを彼に起こさせたのである。
「私は……私は」
秋田は落ち着こうと努めれば努めるほど舌がもつれた。
「一寸、派出所までご同行願えませんか?」
警官が言った。粘り着くような語調である。本来、職務質問を受ける者は刑事訴訟手続によらぬ限り、身柄の拘束をうけたり、その意に反して連行されることはなかったが、警官の言葉は、それらの規定をよく弁えた上で被質問者を殆《ほとん》どあらがえなくしてしまう粘着力を持っていた。
秋田は警官に引き立てられるように歩きだそうとした。その時である。
「待って!」
うずくまっていた香澄がつと立ち上がった。
「その人は私の婚約者です」
「婚約者?」
警官はのどに異物をひっかけたような声をあげた。
「急にお腹が痛くなったものですから」
「そうですか、それならいい、……何しろ、時間が時間ですからな」
警官はやや安心したように言ったが、まだ疑いを解ききれぬとみえて、
「念のため、お名前とご住所を聞かせていただけませんか?」
先方の質問がこちらの身を案じての上ということがよく判ったので、香澄は快く、
「このすぐ裏ですわ。神宮前十×番地、晴風《せいふう》荘というアパートです。私の名前は竹本香澄、こちらは秋田修平さんです」
「よく判りました。大変失礼しました。それでは時間も大分遅くなっておりますから、なるべく早くお引取り下さい」
「どうもご心配をかけまして」
警官は挙手の礼をした。警官が見送っているので、二人は行きがかり上、再びアパートの方へ引き返さざるを得なくなった。
「今夜は泊まっていらしって」
警官の姿がまだ数米背後にあるのに、香澄は秋田に囁《ささや》いた。それに対して彼はノーと言えなくなった。
3
「ごめんなさいね、あんなことを勝手に言ってしまって」
再び部屋へ引き返してから、香澄は眩《まぶ》しそうに秋田を見上げた。
「いや、いいんだ。あの時、君にああ言ってもらわなかったら、今頃は交番に引張られていたろうからね。僕はどうも官憲には弱いんだよ」
秋田は実際、恥ずかしかった。警官から職務質問を受けただけで、竦《すく》み上がってしまった自分がたまらなく不甲斐《ふがい》ない。そしてそんな姿を香澄に見られたことに、少なからず憂うつになっていた。
「でも、――」
香澄は一つの決断を下すように一寸言葉を切ってから、
「あの言葉が本当だったら、どんなにいいだろうなあと思うわ」
言うと同時に頬を紅《あか》くした。ほのぼのと匂うように頬を染めて、香澄はうつむいた。
「香澄」
そのいじらしさにつられて秋田は思わず彼女の名前を呼んだ。さん[#「さん」に傍点]をつけずに呼んだのはその時が初めてであった。別に意識してそうしたわけではない。彼にしてみれば、いじらしさにつられた一つの失策にすぎない。
一人の女を呼び捨てにする後に必ず伴う様々の事態に対して、彼は責任を取れないのだ。
しかし、香澄はそれを一つのきっかけにした。
「ま」と小さく呟《つぶや》くと同時に、秋田の胸の中へ飛び込んで来たのである。
熱くしなやかな若い女の躯《からだ》が秋田の胸の中で思うさま弾んだ。耐えに耐えていた想《おも》いを迸《ほとばし》らせたような香澄の躯を受け止めて、秋田は倒れそうになったほどである。
(待て、一寸、待ってくれ)
言ったつもりが声にならなかった。開いたばかりの花弁のように、秋田の目の前にあえぐ香澄の形のよい中高《なかだか》の唇を、理性を超えた男の本能が、相手の舌を引きちぎるばかりに貪らせてしまったのだ。唇と唇が揉《も》み合い、舌と舌がからみ合った。歯がカチカチと触れ合い、面は互いの唾液《だえき》でベトベトに濡れた。呼吸が苦しくなり、一人が一寸、離そうとすると、もう一人が離させない。もう一人が余りの烈《はげ》しさに痺《しび》れたようになった唇を休めようとすると、他の一人がそうはさせぬと貪り続けた。
美味な果肉を啜《すす》るような唇の貪り合い。二人は唇を重ね合いながら部屋の中央に静かに移動をした。
目を開いて動いたわけではない。全身の感覚を唇に集めながら、動物的に動いたのである。
部屋の中央に天井灯の引き糸がたれている。秋田は右手を香澄の背から離して、糸を引いた。
瞼《まぶた》を閉じていても部屋に落ちた闇《やみ》は判る。
闇が落ちると同時に二人は床の上へ折り重なって倒れた。香澄の引く力と、秋田の押す力があらかじめ打ち合わせられていたように一致して、二人は畳の上に極めて自然な形で倒れた。
倒れたまま、二人は更に烈しく互いの唇を吸い合った。
下半身に秋田の手を意識した時、流石《さすが》に香澄はビクッと躯を硬直させて目を開いた。秋田の顔は、自分の顔の右に交叉《こうさ》して見えない。窓のカーテンに街灯の光が微《かす》かに映えている。
香澄の硬直はすぐに解けた。最も自分が愛する男が自分の躯を求めている。性急に、ひたすらに、誰がよくそれを拒《は》ねつけ得よう。ましてここまで誘導してきたのは、自分のほうなのだ。――
(どう思われても構わないわ、私は秋田さんを愛している)
香澄は秋田が自分の下のものを除《と》り易いように腰を少し浮かした。事後≠モりかえれば、よくもそのようなあられもないことが出来たものと、体中の血が顔に集まるような羞恥《しゆうち》を覚えたものだが、その瞬間は、相手を自分の中に一刻も早く受け容《い》れたい衝動が羞恥を打ち消したのである。
二人は折り重なったまま互いに相手を剥《は》ぎ合った。狭い室内に二人の衣服が散乱した。やがて生まれたままの姿に還《かえ》った二人は、もはや互いの欲望を隠そうとせずに更に具体的な形で抱き合った。香澄のなよやかな曲線を、秋田の骨っぽい体線が侵した。どちらの体からか骨がなり、互いの皮膚と皮膚は火花でも発しそうに擦《す》れ合った。
薄明りの中の男女の裸身、互いに侵し合う鋭角と曲線、――
二人の躯が一瞬、静止したのは、彼らが一体となった時だけである。香澄が呻《うめ》いたのは、秋田がためらい勝ちに、しかし、確実に自分の中に入り、そしてぴたりと入り終った時であった。
そして、それに続いた律動と陶酔の烈《はげ》しさ。秋田は自分の衰えかけた身体も、まだ見捨てたものではないと見直した。香澄はまだ大した経験≠烽ネい自分の躯が、どう自制しようもない官能の波の中に溺《おぼ》れ込んでいくのが死ぬほど恥ずかしい。その恥ずかしさを揉み潰すように更に放恣《ほうし》な姿勢に自分を開いていった。
波が高まりながらも、紙一重の差でその崩れるのを耐えている時の恍惚感《こうこつかん》、これ以上の近さは考えられない密着の中で、男と女は互いの躯の中で充実しきっている自分を見出すのだ。
波が崩れれば後には空しさ以外に何も残らぬことを知りながらも、崩れる瞬間の解放が欲しくて、崩そうか、崩すまいかと瞬時の間示すためらいの快さ。
手を携えて共に波頭を崩れ落ちるために登り詰めようとする時の、肉と肉の慄《ふる》えを何に譬《たと》えよう。
そして、――遂に至った時の、水の表面張力が破れた時のような緊張の弛緩《しかん》。波が退《ひ》く。波が退いて行く。男は急速に、女は緩やかに。
二人が心身共に愛し合っていたか否かは、至った後の心の傾き方で判る。躯だけで愛していたのであれば、肉の充実の代償として。相手に対する嫌悪を含む空しさが涌《わ》く。
もし、心で好き合っていれば、快い疲れの中に相手へのいたわりが涌く。そして、それは次の導入か、あるいはそれに近い行為を誘うのである。
「私、恥ずかしいわ」
余韻が完全にひいた後も、香澄は面を被《おお》った手を放せなかった。その手の指を一本一本はがすようにして|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》り取った秋田は、窓からの薄明かりに彼女の面をすかすように覗《のぞ》いて、
「行った?」と訊《き》いた。そんなことは改めてきかずとも、女の躯の震えからよく判ったが、秋田は、いたわりをこめたつもりだった。
「意地悪!」香澄は※[#「てへん+劣」、unicode6318]り取られたばかりの手で再び面を被わなければならなかった。あのようなあられもない震えを示したことが恥ずかしく、そして新しい躯[#「新しい躯」に傍点]でないことを悟られたことが幾分か、口惜しかった。が、秋田はそれを明らかに悟りながらも何も言わなかった。
「でも嬉しかったわ」
香澄は指の間から秋田の面を透かし見ながら言った。
彼の面は窓からの逆光の中にあって、表情の細部まで読み取れなかったが、光線のかげんか、心もち歪《ゆが》んで見えた。
(目の錯覚かしら?)
香澄が思った時、
「すまない」
秋田が言った。しかし、極めて小さな声だったので、今度は耳の錯覚かと思ったほどである。
「すまなかった」
それは錯覚ではなかった。秋田は再び、謝ったのである。それはのどの奥から無理に押し出したような声であった。
「どうして?」
香澄はむしろ怨ずるように言った。求めたのは自分である。こうなることを自分は熱望していた。彼の詫《わ》びる筋合ではない。
「僕には責任が取れないのだ」
「責任?」
香澄は一瞬キョトンとしたが、すぐに艶っぽく笑って、
「責任なんて、いやだわ、誰も責任を取ってくれなんて言ってないわよ」
と裸の肌を摺《す》り寄せた。二人はまだ交わった後の重なったままの姿である。汗は退いて、十月の冷え冷えとした夜気の中で香澄の肌は、それ自体が独立した生物のように秋田の肌の上に弾んだ。
重なった二人には互いの放恣な姿態は目に入らない。性《セツクス》における相手をより多く貪《むさぼ》ろうとするための破廉恥な姿態は、余程無理な姿勢を取るか、あるいは傍観者にならぬ限り、当の本人達の目には触れぬものである。
まして、二人の間の交渉が始まってから日が浅い場合は、性そのものに没頭して、相手の姿勢を楽しむ余裕はない。たとえあったところで、女のほうがそれを許さぬか、あるいは双方共に遠慮をする。
香澄が交わった後の恥ずかしい姿勢を暫《しばら》く続けていられたのも、そのためであった。それに何よりも女の羞恥を麻痺《まひ》させる闇があった。
「すまなかった、つい、衝動に駆られてしまって」
秋田は香澄の体の上でうなだれた。
「いいの、あなたを欲しかったのは、私のほうなの。結婚してなんて言わないわ、でも、これからも時々|逢《あ》って下さるわね」
「それが……」
「お願い、恥をかかせないで。私、死ぬほど恥ずかしいわ、でも……でも、好きなのよ、好きなの」
香澄は機先を制して言った。
「有難う、君の好意は嬉しい、でも、僕にはそれを受けられないのだ。今夜はつい自制を失って、こんなことになってしまったが」
「いや、そんなこと仰有《おつしや》っては!」
「すまない」
秋田は立ち上がろうとした。しかし香澄の腕が、軟体動物の触手のように彼を下から捉えて放さなかった。
「秋田さん、私のこと嫌いなんでしょ、だから」
「そうじゃない」
「いえ、そうよ、そうだからこそ、衝動だの、責任を取れないなどと仰有るのよ」
「君のことは好きだ、好きでなければこんなこと出来ない」
「だったら、これからも逢って下さると約束して!」
「それは出来ないんだ」
「何故? どうして?」
「…………」
「どうしてなの?」
「聞かないでくれ」
「仰有れないのね」
「すまない」
「私、聞きたいわ」
「許してくれ」
「いいわ、仰有りたくなければ仰有らなくとも。でも、私、いつまでもこうやって放さないわよ」
香澄は言って彼の体にからめた手に力を加えた。とはいえ、女の力である。秋田に振りほどく気があれば振りほどけぬことはなかった。しかし、香澄の思いつめた心が痛いほどに判るだけに、彼にはそれが出来なかった。
秋田は以前にも同じ様な経験があったことを思いだした。
あれは大丸の夜だった。旗野祥子から思わざる告白を受け、心ならずもその愛を斥《しりぞ》けた時だ。自分自身、心から愛していた女だっただけにあの時の心の傷痕は、今に至るも尾を曳《ひ》いている。だが愛するが故に、祥子の愛を容《い》れるわけにはいかなかったのだ。
しかし、竹本香澄の場合はどうだ?
自分のような男に心を傾けてくれることは本当に嬉しいと思う。それが、単に、麦草峠の報恩≠ナはないこともよく判る。
自分自身、香澄と共に過ごす時間が楽しく、薄給の中を無理算段してフロイラインに通った。そして、今、彼女とは他人でなくなった。
だが、それは愛であるか? もし、それを愛と呼ぶならば、何故、大丸で旗野祥子を受け容れなかったか?
要するに、香澄は祥子の代替《だいたい》≠セったからではないか。代替ならばこそ、単なる好意だけで安易に抱けたのではないか?
真に愛する女は抱けぬ男の理性が、代替に対してはその場所を譲った。――そうであればこそ、大丸の湯で祥子と肌を密着させての心身の昂《たか》ぶりにも耐えられた自分が、それよりも遥かに耐え易い環境で、いとも簡単に香澄を抱いてしまったのではないか?
秋田が香澄に「すまない」と詫びたのは、そのような心の屈折があったからである。
「秋田さん、仰有って!」
香澄がまた、促した。逢ってやってもよいではないか、どうせ代替の女、それほどに深刻に考えることもあるまい。――と、その時、心の中に囁《ささや》く声があった。
「香澄」
秋田はむしろ悲しげに言った。この女は自分が他の女の代替であることを知っているのだろうか? そう思った時、秋田の胸にいとしさが増した。
「逢って下さるわね」
秋田のふと変った声調に、香澄は期待に目を輝かせた。
「うん」
秋田は頷《うなず》いた。
「嬉しいわ」
「ただし……」
「え?」
「いや、何でもない」
秋田はつけ加えようとした条件をのどの奥にのみこんだ。そんなことは、今言わなくとも、あと二年ほどたてばおのずから判ることなのだ。いや、もっと早く判るかも知れない。どうせすぐ判ることをこと改めて言いだして女を悲しませるよりも、ただ黙ってお互いに求め合っているだけで十分ではないか。
香澄は俺《おれ》を求め、俺は香澄によって肉の飢えを充《み》たす。二人の間に愛があろうと、なかろうと行為そのものには変りはない。
(それに、――)秋田は思った。
香澄にその条件を告げたとしても、彼女が受け容れることは判っていた。
(但し、二年間だけだ)
と俺が言う。
(二年間?)
香澄は最初、不思議そうな顔をして俺を見るだろう。
(二年間だけだ。二年たったらキッパリと別れる、そういう条件つきで逢おう)
俺は無情に告げる。
(どうして?)
香澄は当然、訊《き》く。
(それ以上つき合うと君を不幸にするからさ)
(よく判らないわ)
(二年経てば判る、いやおそらくはもっと早く判るだろう)
(もっとはっきり仰有って)
(話さずともいずれ判る。聞かないでくれ)
俺はきっぱりと言う。その断固たる口調で香澄は悟ってくれる。
(いいわ、それでも。たとえ、二年でも、一年でもあなたにお逢い出来るのは嬉しい)
香澄は思う、たとえ、二年でも儲《もう》けものだ。二年がだめなら一年でも、いや、たとえ半年、一か月でもよい。恋しい男に逢える悦《よろこ》びに咽《むせ》ぶ女心を誰か知ろう。それから先は、その時になって考えよう。……今はただ現在、与えられた幸せに全身で縋《すが》りつけばよい――
香澄とはそういう女なのだ。
そんな香澄が秋田はたまらなくいじらしくなった。それは祥子へ向けた永遠の女性≠ノ対する「高邁《こうまい》な愛」ではなかったが、それよりも、遥かに具体性を帯びた、なまなましい男と女の間の欲望に脂光りのした感情であった。それが秋田にプロポーズをさせたのである。たとえ、二年間ではあっても、せめてその期間、法的な責任を持つことによって彼女のいじらしさに応《こた》えてやりたかったのだ。
「結婚!?」
香澄は棒で撲《なぐ》られたような声を出した。それはおよそ思ってもいなかった言葉であった。彼女のような水商売の女にとって結婚は、永遠の憧憬である。
心の隅では妻の座に眩《くるめ》くようなあこがれを覚えても、男を楽しませるてれんてくだを専門職能≠ニする身が、まともな結婚とは縁のないことを知っている。
「どうせ自分なんか」という諦《あきら》めが、反動して、男を収入の媒体《かも》としてしか眺められない打算と変り、夜の蝶としての美しさが萎《しぼ》まないうちに稼げるだけ稼いでおこうというがめつさとなる。
それだけに、海千山千のホステスも、結婚という言葉には案外、弱い。そして彼女ら自身もその弱点をよく知っているだけに、口説の下手な客が結婚の餌《えさ》で釣ってきても、ともすれば警戒が先に立ってしまう。
しかし、秋田はすでにそんな餌を投げる必要はなかった。魚はすでに釣り上げた後なのである。それだけに、彼の言葉には真実味があり、香澄は棒で撲られたような声を出したのである。
「いいのよ、そんなこと仰有って下さらなくとも、私はこうやって逢ってもらえるだけで十分幸せなの」
ややあって香澄は幼児を諭すように言った。初心《うぶ》な客が生一本な責任感や、一時的な逆上《のぼせ》からそんな言葉を不用意に、しかし、当人にしてみれば至極、真剣に口に出すことがあるからだ。
「いや、僕としては、自分の行為に責任を取りたい。君との出逢いを情事や、単に躯の欲望を消す手段とはしたくないのだ。もっとも、君が結婚などして拘束されるのがいやだというなら別だが」
「拘束なんて!」
「もちろん、結婚といっても、世間並みのことは出来ない。身内の者だけで式を挙げて籍を入れるだけだ(但し二年経ったら離婚するという条件つきでね)」
後のほうの条件は心の中で言った。
そのような条件つきの結婚が法的に出来るはずもなく、まして、離婚した場合の女の不利益は、秋田は男の身勝手から考えなかった。
ただ二年間だけ妻≠ニして香澄を慈《いつくし》むのが、代替として彼女を抱くせめてもの償いであると信じた。
「私、嬉しい!」
香澄はただ逢えるだけでも嬉しいのを、恋しい男の妻として暮らせる幸福に、ひそかにつけられた解除条件の後に来たるべき不都合も知らずに有頂天になった。
契約≠ヘ成立した。契約書へサインする代りに、二人は再び手足を組打ちでもするように烈《はげ》しくからめ合って、新たに生まれた欲望を、相手の躯に叩《たた》きこむために呼吸を弾ませていった。
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夫婦問答
1
「課長さん、奥様がお見えですが」
課長代理の今井が耳打ちするより早く、冴子《さえこ》の姿がすでにオフィスにあった。
「あなたあ、お父様、いらっしゃるう?」
例の舌がやや短いような、鼻へ抜ける甘ったるい声である。大原は冴子からこの「お父様いらっしゃるう?」とやられる度に、耐え難い屈辱感を覚える。
腹心と頼んでいる今井までが、冴子と並んだ自分の姿を見る目に侮蔑《ぶべつ》の色を浮かべる。まして、社内で自分の玉の輿《こし》≠快く思っていない連中が、どんな目をして自分を見ているか、身に突き刺さるように判るのである。
しかし、どんなに耐え難い屈辱ではあっても、それに耐えなければならない。天下≠取るまでの辛抱なのだ。いや、天下は取れなくとも、それに近い地位に辿《たど》り着ければよい。全ての苦労はその時、報われ、全ての屈辱はその時に雪《そそ》がれるのであろう。
それにしても、冴子という女は、会社を何と心得ているのであろう。
日本化成を握る緒方一族に連なり、次期社長の呼び声高い緒方大三郎を父とするところから、まるで会社を自分の家のように心得、社員を家僕を見るような目で見ている。
妍《けん》の強い生来の美貌《びぼう》は彼女を更に驕《おご》らせた。盛装して社内を闊歩《かつぽ》する姿は、正に驕れる孔雀《くじやく》といったところである。
その冴子が大原に一目惚《ひとめぼ》れした。もともと、点取り虫の大原の勤務成績は抜群である。学歴や家庭も申し分ない。
そろそろどこかの一流会社の重役の息子に嫁《かたず》けねばなるまいと思っていた冴子の両親も、彼女の選択に対して別に異議は唱えなかった。
もちろん、大原に否やのあろうはずがない。冴子は「銀の匙《さじ》をくわえた」孔雀である。
縁談はとんとん拍子にまとまった。
結婚と同時に、大原は従来勤めていた肥料部門の販売係長から、主として工業用各種爆薬の販売を管掌する火薬営業課長へと擢《ぬ》かれた。
日本化成の営業分野は大きく分けて、爆薬、ナイロン原料、苛性《かせい》ソーダ及び塩化物、肥料、合成樹脂、その他の化学製品と亘《わた》っているが、その中で火薬類は全社総売上の六割を占める主力《スター》製品であり、最も大きな比重《ウエイト》がかけられている。
大原の場合、このスター製品部門へ行っただけで大した抜擢《ばつてき》であるのに、弱冠[#「弱冠」に傍点]二十八歳の身で大日本化成の課長になった。
普通の会社では、よほど社業に貢献する働きでもない限り、このような抜擢はない。
日本化成は血筋が支配する同族会社である。社の皇族≠ノ連なることは、そのまま社の経営支配権に参画出来ることを意味する。
大原はいわば皇族の身分≠取得したのである。
社員間に抵抗のないこともなかったが、いや、ないどころか、年功序列の気の遠くなるように高く長い職制の階段を、一歩一歩辛抱強く登って行く連中は、大原の跳躍に憎悪に近い嫉妬《しつと》を燃やしたのであるが、緒方一族への参入と、次期社長女婿としての身分取得が鉄の重しとなって、あらゆる抵抗を押し潰《つぶ》した。
そして、その媒体となってくれたのが冴子なのである。どんな屈辱を嘗《な》めさせられようと、あだおろそかにしてはならぬ妻であった。
彼は内心に屈折する敵意を|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》にも出さず、妻《さい》ノロの夫が妻を迎える顔をして立ち上がった。
社が退《ひ》けると、大原は特別の用事がない限り、中野仲町の自宅に直行する。その家も冴子の父が建ててくれたものであった。家だけではなく、家具や調度の全ては緒方家がととのえたものである。そこへ大原は殆《ほとん》ど身一つを運んで来た。世に風呂敷女房≠ニいう言葉があるが、大原の場合は、正にその反対の風呂敷婿≠ナあった。
一応、夫婦の氏は「大原」を称することとなったが、このような形の結婚が、男の発言力をいかに封ずるものであるか、言うまでもない。
大原が退社後、まっすぐ帰宅するのも、別に新家庭がそれほど魅力に溢《あふ》れた場所だったからではなく、そのように調教≠ウれたからにすぎなかった。
家に帰っても、中流サラリーマンにしては身に過ぎる家の構え、庭のビロード芝、彼の名前の表札をつけた鉄平石の門柱、そして、家の中に入れば若夫婦二人には広すぎる生活空間、カラーテレビや、クーラーなどの電化製品の大物≠ゥら、彼のために用意されたはずの書斎のデスクのペンの一本までが、全て大原を拒絶しているのである。
要するに、彼のものとして与えられた小道具のはしはしに至るまで冴子の所有にかかるものである。彼は冴子の許可の下に辛うじてそれらの使用を許されているにすぎない。
表札名義は大原を一応その家の主として掲げてはいても、その家の全ては、主人(冴子)の命令の手前、止むを得ず居候の用を足す家僕のように、大原に親しまなかった。
そんな家にどうして早く帰りたいものか。男にとって家とは休息のための港でなければならない。だが、大原には、いかなる時も休息は許されなかった。
強いて言うならば、社と家庭との間を往復する通勤電車の中だけが、自分を取り戻す唯一の時間と場所と言えた。
普通《なみ》のサラリーマンならば、苦役以外の何物でもない通勤電車の中でひそかに憩う。
そんな自分を見出した時は、流石《さすが》の大原も自分の砂漠のように乾ききった人生にシュンとなったものである。
だが、彼は強いて思い直した。
(俺《おれ》は香澄を捨てた時に、普通のサラリーマンの生活にはきっぱりと訣別《けつべつ》をしたのではなかったか。俺は、あの瞬間からエリートとしての径《みち》へ踏み込んだのだ。それは辛く、血みどろで、一時たりとも前へ進もうとする努力を怠るならば、単に停止しているどころか、今迄《いままで》、進んで来た分まで後戻りしてしまう酷《きび》しい径なのだ。
歩みを止めることは停止ではなく、そのまま後退につながる、妥協のない険路こそ、俺が選んだ径ではなかったか。休息や憩などというたわけたことは、俺には許されないのだ)
彼はこうして鎧《よろい》を脱ぐ場所を失った。
しかし、人間というものは、そういつまでも緊張を続けられるものではない。彼は徐々に自分の失ったものの貴重さに気がつき始めた。が、――今更気がついたところでどうにもならなかった。彼の踏み入った径は、後戻り出来る径ではないのである。
彼は強いて失ったものの価値に目をつむろうとした。そうでもしなければやりきれなかった。
それは、――一杯のお茶から始まった。
ある土曜日の夜、夫婦は久し振りに寛《くつろ》いだ気分で茶の間のこたつでテレビを観ていた。
「お茶が欲しいな」
大原は何気なく[#「何気なく」に傍点]呟《つぶや》いた。本当に何気なくだった。別にそれほど茶を喫《の》みたかったわけではない。こたつ板の上の急須《きゆうす》を取り上げた時、その軽さからふと口に出た呟きであった。
「よし子」
冴子が呼んだ。よし子というのは、お手伝いの娘である。若夫婦二人だけの生活でお手伝いを置くほどの家事もなかったが、冴子が、大原の留守中一人では寂しいと言い張るので雇い入れたのである。
その時すでに十時を過ぎていたので、よし子は自室へ引き取らせていた。
「お茶一杯だ、よし子を呼ぶほどのこともないだろう」
大原は和やかに言った。それは造られた和やかさであったが、この頃はすっかり板について、それが生来のもののような口調《ものいい》となっていた。
「それでは私にお茶を淹《い》れろとおっしゃるの!?」
冴子の尖《とが》った声がはね返ってきた。弛緩《しかん》した空気をピシッと凍らせるような緊張を帯びた声であった。
大原は一瞬、口を開けて妻を見た。冴子が急にご機嫌を損じた理由が分らなかったのである。
「だって、お前、お茶一杯で何も」
「よし子はそのために雇ってあるのよ」
「一寸、ガスの火を点《つ》けるだけのことじゃあないか」
「それでは言わせていただくわ」
冴子は開き直った。
「あなたはたかがお茶一杯と思っていらっしゃるけれど、私にとってはその間、テレビを中断することになるのよ。テレビは今、あなたにとっても面白いように、私にとっても面白いところへきているのよ。私、別にお茶にこだわっているわけではありません。あなたがお茶を欲しがったタイミングよ」
「もういいよ」
「いいえ、よくありません。テレビはクライマックスだったわ。何もそんな時を選んで意地悪く[#「意地悪く」に傍点]言いつけなくてもいいじゃないの」
「別にそんなつもりで言ったわけじゃあない」
「いいえ、あなたには思いやりというものが全くないのよ。だから時間の見境いもなく人に用を言いつけられるんだわ」
(お前に用らしい用を言いつけたのはこれが初めてじゃあないか)
しかし、彼はその言葉をのどの奥にのみこんだ。冴子に口答えをしてはならないのだ。それはよく訓練された忍従のたまものであると同時に、馬鹿らしくもあったからである。
要するに、たかが一杯の茶だ。そんな口争いをしている間に、用意出来るものである。
タイミングが悪いの、思いやりがないなどと文句を言ったが、そんな文句をこねている間に、肝じんのテレビのクライマックスはとっくにブラウン管を通り過ぎてしまっている。
サラリーマンにとって土曜の夜の一時は、最高に貴重な時間である。
その宝石のような時間も弁《わきま》えず、夫にけんかを吹っかける妻、そこに女らしさの一片でもあるか。思いやりを欠落するのはむしろ、お前のほうではないか――と反論する気ならば出来た。
だが、いっそ大原は、馬鹿らしさが先に立った。
要するに、たかが一杯のお茶なのだ。そしてたかが一杯のお茶を求めるにも身構えなければならぬ身分こそ、正に自分が選び取ったものなのである。
「すまなかった、今度は気をつけるよ、ご機嫌を直してテレビを観ないか、終っちゃうぞ」
大原は和やか[#「和やか」に傍点]に言った。
冴子は硬い表情のまま立ち上がると、やがてポットへ熱い湯を充《み》たして帰って来た。それを急須へとくとくと注ぐと、間髪を入れず大原の古い茶が底に少々残っている茶碗《ちやわん》に急須からの茶を注ぎ足した。その間、終始無言だった。
「有難う」
大原が白けた空気を何とかほぐそうと、感情をこめて礼を述べたが、冴子の硬い表情は解けなかった。
ポットから急須を一瞬間経由[#「経由」に傍点]しただけの茶は、白湯《さゆ》のようだった。
大原はそれをいかにも美味《うま》そうに啜《すす》りながら、不覚にもかつての日、原宿のアパートで香澄が淹《い》れてくれた茶の味と比較していた。
――香澄ならば……自分が「茶を欲しい」などと言う前に淹れてくれただろう。茶にうるさい自分の好みをちゃんと弁え、わざわざ井戸水を汲《く》み、寒い時にはあらかじめ急須や茶碗を湯で暖ため、味がよく出るようにといつも第二|煎《せん》を淹れてくれたものだ。
たかがお茶の一杯にも、女の優しさと真心がこめられていた。男はそこで無心に振舞っていればよかった。仕事で張りつめた神経の悉《ことごと》くを弛《ゆる》め、全身がもみほぐされるような微温湯の中へ柔らかく浸っているだけでよい。元来そのような、男の憩いは、女の忍従的な奉仕によって与えられてきたものだったが、香澄は男に仕えること自体が嬉《うれ》しくてたまらないように見えた。
「私は旧《ふる》い女よ」と言いながらも、彼女は自分の女としての献身的奉仕の上に、心身を固めた鎧を脱いでのびのびと寛いでいる男の姿を見るのが、大きな喜びであるらしかった。――
(香澄ならば、俺にお茶をくれと言われただけで、自分の気のきかなさを恥じただろう)
大原は、冴子が淹れてくれた、むしろ水道のカルキの匂が強く目立つ茶(?)を啜りながら、ふと、自分がかけ替えのない貴重なものを自ら振り捨ててしまったのではないかと思った。
2
大西安雄は三月の末に帰京して来た。清里へ出張したのが昨年の四月半ばであったから、約、一年ぶりの帰京である。
清里を朝の早い列車で発《た》ち小淵沢駅で上り急行に乗り換えた大西が、新宿の雑踏の中に降り立った時はすでに午後を大分まわっていた。
八ケ岳山麓のひどく寂しい高原の中央からいきなり大都会の雑踏の中へ放り込まれて、めまぐるしさを覚えるよりは、心のたかぶりを感じたのは、やはり一年の空白のせいかも知れない。
「やはり、俺は都会の人間なのだな」
列車から吐き出されて、地下連絡通路へ下りながら大西は呟いた。
田舎の人々のひどくのびやかな顔ばかり見馴《みな》れていた目には、雑踏の中の人々の顔が何となく怒っているように映り、そしてそれらの顔にかえって親近感を覚えたからである。
人々の顔はみな生活の緊張に硬《こわ》ばり、険《けん》があったが、彼らの服装は全て華やかでシャープだった。そしてそれらが騒音と光と埃《ほこ》りと共に攪拌《かくはん》され、めまぐるしい渦を巻く。
――これが都会だ――
大西は、今迄、荒涼たる高原の中に閉じこもって、暗い兵器の開発にいそしんでいた一年が取り返しのつかない空白《ブランク》であったように思えた。
「そんなことはない」
彼は心に萌《きざ》した不安を振り落とすように首を振った。
心に萌した迷いは、このまま社へ直行しようか、それともひとまず大宮町の自宅へ帰ろうかの迷いにつながったのである。
社へは是非とも、今日中に顔を出さねばならぬことはない。一年ぶりの自宅には妻と、そして、何よりも昨年末に生まれた、まだ顔を見ぬ我が子が待っているのだ。
自宅へはこのまま地下通路を突っ切り、京王線のホームに出ればよい。本社へ行くには、連絡通路を途中で折れて国電ホームへ上る。大西の心は大きく揺らいだ。
写真で見た我が子の顔と、緒方社長や小野所長の顔が錯綜した。その時、頭上に轟音《ごうおん》が流れた。山手か中央線の国電がホームに入って来たらしい。
――そんなことはない――
その時心の中に声があった。先刻の呟きと同じ声は、この一年の彼の努力が空白《むだ》ではなかったことを確かめるものだった。
彼の心は定まった。国電ホームへ上った大西は、幾分、寂しそうな目を自宅のある杉並の奥の空へ投げながら、折りから滑り入って来た中央線上り電車へ乗りこんで行った。
大西が大宮町の自宅へ帰って来たのは、その夜も大分更けた十一時近くである。用心のために飼ったスピッツのけたたましい鳴き声に、玄関へ出て行った祥子は、そこに夫の姿を見出した。
今日帰ることはあらかじめ知らされていたのだが、現実に夫の姿を目の前にするとさすがに心が騒いだ。
「お帰りなさい」
久し振りにかけるその言葉もかすれがちであった。そのようなことのないように、心の構えはとったつもりなのだが、若い妻の躯《からだ》のほうが、久し振りの夫に上気してしまうのである。
「ただ今」
大西の声も心なしか火照《ほて》っているように感じられた。若い夫婦が長い間、引き離された後に再会すると、懐かしさよりも、恥ずかしさが先に立つものである。
「ずい分、遅かったのね」
軽い手荷物を大西の手から受け取りながら祥子は言った。その時、社でつけてくれたらしい車の帰って行く音がした。
「会社へ一寸、顔を出したら、社長や専務と何やかと打ち合わせが重なってね、つい遅くなってしまった」
「会社へいらしったの?」
祥子は声に一寸、不満を盛った。社宝≠ニまで目されている身体だから、会社優先は止むを得ないとしても、それならそうと電話一本ぐらい入れてくれてもよいのに、――と妻としての当然の不満を覚えたからである。
しかし、大西は祥子の不満に気がつかなかった。それに、祥子も気がつかれるほどにそれを現わしたわけでもない。
「お食事は?」
「すんだ。社長と専務にご馳走《ちそう》になった。しかし、ああいうおえら方の前では喰《く》った気がしないよ。何か軽い物を少しくれないか、それから健一は?」
大西は最後のほうの言葉をつけ足しのように何気なく言った。健一というのは、祥子が昨年末産んだ子供の名前である。
父親として一番最初に言わなければならぬ言葉を、遠慮がちに、しかも、つけ足しのように言う大西に、祥子はいかにも彼らしいはにかみを感じ取って微笑《ほほえ》んだ。大西には前からそんなところがあったのである。
「よく眠っていますわ、今、ごらんになります?」
「そうだな、初めての父子の対面というわけだからね」
大西は照れ笑いを洩《も》らした。
「こちらですわ」
大西を導いて、健一の寝間へたとうとした祥子のうなじにふと大西の熱い息がかかった。振り向こうとした彼女の動作は、後背から祥子のおとがいにかけられた大西の手の力と合わさって、極めて自然に接吻《せつぷん》へ移行した。
舌が千切れるほどに唇を吸われた祥子は、やがて、夫から囁《ささや》かれた。
「もう躯《からだ》のほうは大丈夫なの?」
という言葉の意味に耳のつけ根まで紅くなった。
「今度はいくらかゆっくりなされるの?」
祥子は久し振りに持った夫との営みの残り火を、躯の奥で反芻《はんすう》しながら言った。
襖《ふすま》一枚へだてた隣の小部屋には、おさな子の健康な寝息が聞き取れるほどの静けさである。
そのような静けさを、あられもない声で破り、後で思い返せば、恥ずかしくて面も上げられないような放恣《ほうし》な姿態でからみ合った、女の躯の中にあるなま臭さ。
子供の眠りを覚ますまいかとの母の自戒を、身も世もあられぬゆりかえしの中で粉みじんに打ち砕かれ、これ以上には開けない角度に躯を開ききり、これ以上の濡《ぬ》れようはないほどに躯を濡らして、身悶《みもだ》えした女の躯の弱さというか、業というか、その何とも言えぬどろどろとしたものが、日頃は慎みの鎧《よろい》にキリッと固めているだけに、言いようのない恥ずかしさとなって、終った後の快美極まりない下降線と共に甦《よみがえ》ってくるのである。
しかし、甦りながらも、貫かれたままのしどけない姿をつくろおうともしない、いや、骨も肉も溶けそうな余りの快さに、陶然となってつくろえない。
だから祥子の声には含羞《がんしゆう》があった。
「いや、残念だが、二、三日しか居られない」
それに反して大西の声は冷たかった。別に彼の声が冷たいのではなく、終った後の男の声が一様にたたえる一種の虚《むな》しさを帯びた声の響きにすぎなかったのだが、それが、今の祥子にはひどく冷たく聞こえた。
「たった二、三日?」
祥子は今度は不満を隠さなかった。
「すまない」
大西は申しわけのように祥子の乳首をまさぐった。
「今度は一寸した技術的な打ち合わせのために上京[#「上京」に傍点]したんだ。打ち合わせがすめばすぐ帰[#「帰」に傍点]らなければならない」
大西の言葉に祥子は急に彼にまさぐられている乳首に痛みを覚えた。
彼は「上京」とか「帰る」などと言った。自宅のある東京へ上京[#「上京」に傍点]し、自宅以外のあの場所――八ケ岳の高原の荒涼の中へ帰って[#「帰って」に傍点]行くのだ。
大西の何気ない言葉は、いや、何気なく言っただけになおさら、彼の生活の本拠がここにはないことを示していた。
(とすると、私や、健一は彼にとって一体、何なのかしら?)
疑問が冷たい波紋となって胸に広がった。その時、祥子は性の美酒によって溶かされた躯が、ぴしぴしと音をたてて結氷していくように感じたのである。
女としての含羞は、我が子の寝息を枕元《まくらもと》に聞きながら肉の楽しみに耽《ふけ》った躯を厳しく戒める、母としての罪悪感に転化したのである。
「いいのよ、そんなことなさらなくても」
祥子は胸をまさぐり続ける夫の手を軽く抑え、そして妥協を許さぬ力で外した。
二度目の衝動を覚えかけていた大西は、急に変った妻の態度を訝《いぶか》しがるよりは、それを妻のいたわりと釈《と》った。終った後の男は、躯が再燃しない限り、アフターサービスなどは止めて一刻も早く眠りたいものだからである。
「明日はお早いんでしょ?」
祥子も躯に張り始めた氷を夫に気がつかせないために、努めて優しい語調でつけ加えた。
「いいんだ」
大西は妥協の余地のない口調で言うと、床の中でひそかに身づくろいを始めた祥子の躯に、欲望を甦らせた男の手をかけた。
その時、祥子の躯は、性のおののきとは異質の慄《ふる》えを覚えたのである。
「今日は少し早目に帰るからね」
翌朝、久し振りに夫婦さし向かいの朝食を終えた大西は、多少、阿《おもね》るように妻へ言った。
「今日はお休みになれないの?」
祥子は平板に言った。休んで休めないことはなかった。とにかく久し振りの帰京なのである。社も三、四日ぐらいの休暇は認めてくれるはずだった。
だが、大西は普通の社員ではない。彼の開発する製品に社運がかけられているのである。なみのサラリーマンのように悠長なことをしているひまはなかった。
たとえ、社が許してくれても、彼の心が許さない。それが選ばれたる男の当然の心と身の構えではないか。
しかし、そんなことを祥子に言ってみても分ってくれるはずがない。女とは常に自己中心の動物である。どんな壮大な男の夢も、めまぐるしい世界の情勢も、家庭という小宇宙を中心に動いてくれなければご機嫌が悪いものだ。
「休めないんだよ、何しろ打ち合わせ事項が、たまっていてね」
「そう」
祥子は力なく言った。それは夫の無情に落胆した声ではなく、行為の対象に興味を失った者の声であった。
電話交換手や、電報受付係などの単調くりかえし作業者によく聞かれるあの職業的な無表情の声である。
「健一は起きているかな?」
「さっきおちち[#「おちち」に傍点]をやったばかりで、よく眠っているから起こさないでちょうだいね」
出勤前にちょっと子供の顔を覗《のぞ》こうとした大西に、祥子が注意[#「注意」に傍点]した。
(起きたら、また、寝かしつければよいではないか、こっちは一年ぶりに、それも、初めて見る子供だ。そんな注意をせずともよかろう。俺《おれ》にも五十%[#「五十%」に傍点]の権利≠ェあるんだ)
大西は妻の言葉に少々、反撥《はんぱつ》を覚えた。
それに彼は、祥子の何とはない硬さ[#「硬さ」に傍点]が気になっていた。
昨夜、帰って来た時は決してそんなことはなかった。一体、いつ変ったのだ? 妻が夫に身も心も開放しているか、あるいは、表面、柔らかく振舞っていても、心の奥底で身構えているかはすぐに判る。
夫婦は他人には分らない、二人だけに、感応し合うアンテナを持っているのである。
二人の間のわだかまりは互いにどんなに巧みに隠したつもりでも、アンテナが感じ取ってしまう。
大西のアンテナも祥子の変化を微妙に感じ取っていた。
一体、その変化はいつ起きたのだ? 昨夜帰宅してから、今までの短い時間、何が彼女を変えたのか?
それにしても、俺は一年ぶりに帰って来たのだ。そして、またすぐに家を離れて行かねばならない。家に居る時間は短く、いつ戻れるかも分らない。
そのたまゆらの貴重な時間すら、夫を安らがせることが出来ないのか! 女とは度し難いものだ。
大西は妻をまっすぐに見た。気に入りの紺がすりの和服にキリッと身を引き締めた祥子の姿は、昨夜の痴態《ちたい》が別人のように端正な気品に充《み》ちていた。
しかし、それは冷たい気品だった。
急に憤りが大西の胸を突き上げた。彼はつと立ち上がると、健一の寝間へ足音も荒らく歩み入り、すやすやと穏やかに寝入っている我が子を、いきなり荒ら荒らしく抱き上げた。
周囲を信じきって眠っていたおさな子は、突然自分の身体に加えられた荒ら荒らしい力に、一瞬、四肢をギュッと縮めたが、次に赤子特有のかん高い声をあげてせわしなく泣き始めた。
「あなた」
祥子はそのさまに、何か言おうと唇を震わせたが、大西の硬い表情に口を噤《つぐ》んでしまった。
そこには我が子を胸に抱く若い父親の和やかな表情はなく、五十%[#「五十%」に傍点]の自分の権利を主張し、確かめようとする、疎外された親の姿があった。
祥子はそれを見開いた瞳に、精一杯の非難をこめてみつめていた。
3
それから三日後、祥子は健一を抱いて夫を新宿まで送って行った。
腕の中に健一が居ることを除けば、昨年の同じ頃に大西を送った時と全く同じ心のあり方だった。
「それじゃあ、健一を頼むよ、何かあったらすぐ報《し》らせてくれ」
車窓から与えられた大西の言葉《せりふ》が、健一を孕《はら》んでいた祥子の体へのいたわりから、健一に向けるものに変ってはいたが、これから列車が去った後に感じるであろう、そこはかとない安らぎと、夫と離れることに安らぎを覚える、寂しい後めたさも同じはずであった。
「あなたこそお気をつけて」
祥子は言いながら、その言葉《せりふ》もこの前の時と全く同じであるのに気がついた。
――あなたは私を愛しているのかしら?――
交すべき言葉も交されて、列車の動き出すのを待つばかりとなった、送る者、送られる者双方にとって何となく照れ臭く空虚な時間に、祥子は窓に凭《もた》れている夫に向って心の中で尋ねかけていた。
――お前こそ、俺を愛しているのか?――
大西の目がそう問い返してきたように思えた。
(あなたは私が早期破水をして、帝王切開で辛うじて健一をうんだ時にも来てくださらなかった。私が健一を救うために命を賭《か》けていた時すら、ご自分の研究に熱中していらしった。幸いに母児共にたすかったからよいものの、もし、私達のどちらかが、いえ、万一、二人共にだめになった場合、あなたはどうなさるおつもりだったの? それでも、あなたの愛を信じろと仰有《おつしや》るの? 男の人のお仕事ってそんなにも大切なものなのですか?)
(俺が帰って来たところで別にどうということもなかっただろう。俺が医者ならば別だが、その方面に全く素人の俺が、お前達を救うために一体、何が出来た? あの場合、医者を信じる以外になかった。それに俺に連絡がきたのは、手術が始まった頃だったのだ。取るものもとりあえず駆けつけたところで、だめなものはだめだし……)
(ああ、あなたは何でもそのように割りきって考えられる方なのよ。確かに医者でないあなたは医学的な処置は何も出来ない。でも女にとって、自分の生命が危険な時、夫が傍に居るのと居ないのでは、大きな違いがあるのよ。女の心の中には夫だけが入りこめる場所があるの。そこは親兄妹でも、医者でも入りこめない、夫だけに用意された場所なの。女が生命の危機に陥った時、夫は必ずそこに入って居なければいけないのよ。それなのにあなたはいらしってくださらなかった。それはあなた自らがその場所を放棄してしまったのと同じだわ。私の心の中にあなたの為の場は喪《な》くなってしまったわ。喪くしたのは私じゃない、あなた自身よ)
(何を女学生みたいな感傷を言っているのだ。お前には男の仕事の酷《きび》しさが分っていない。男の仕事というものはね、個人の感情など全く入りこむ隙《すき》のない非情なものなのだ。男は自分が天職として選んだ仕事を、あらゆるものに優先させなければならない。そして仕事というものはそれだけのエゴイズムを持っているものなんだよ、君も僕の妻だったら、そのくらいのことは理解して欲しい)
(私には分らないわ。どんなに男の人の仕事が酷しいものであっても、所詮《しよせん》、人間のすることでしょ。そんなにも非人間的なはずはないと思うわ)
(それでは、非人間的ということを、合理的と訂正しよう。もし、僕が医者ならば、全てを投げうって帰って来たよ。しかし、単に君の心の中のある場所に坐《すわ》るために、男の仕事は投げうてないのだ。そこのところを分って欲しい。僕が居ても居なくても、医学的にはどうということはないじゃないか。妻として、自分の感傷を充たすためだけに男の仕事を中断させてはならない。それはむしろ、女の恥じゃないか)
(感傷と仰有るの? 妻は自分の命を賭ける時すら夫を呼んではいけないの? ああ、私はとてもそんな健気《けなげ》な女ではないわ。夫が傍に居なければ、小さな風にも耐えられない弱い女よ。でも、いいことよ、これからはどんなことがあってもあなたを呼びません。あなたのお仕事のお邪魔になるようなことは決していたしませんわ。私は大西安雄の妻ですものね。あなたがそのような合理性[#「合理性」に傍点]を望むなら、私もそのように自分の考えを馴《な》らしますわ)
(そうではない、そうではないのだ。男の仕事の酷しさと、そのようなものに自分の心身を傾け尽くさねばならない男の孤独を、妻として、柔らかく抱き取って欲しいのだ。俺がとっているような姿勢を君がとったなら、夫婦とは名ばかりの、硬《こわ》ばった人間関係になってしまう。夫婦とは、もっと柔らかいものじゃないかな)
(夫婦というより、妻とは――でしょう? つまり、あなたは男のどんな考えや行動も柔らかく抱擁してくれる妻が、妻の本来の姿だと仰有り度いのでしょう)
(いや、別にそういうわけではないが)
(虫がよすぎるわ、そんな考え。それでは妻は夫の人形じゃない)
(そうじゃないよ、男の仕事というものをよくわきまえて、疲れ傷ついた身と心を柔らかく抱いて欲しいだけだ)
(妻だって夫に抱きしめられたいことがあるわ、妻なればこそ、その気持が一層、強いのよ)
二人は窓をはさみ、心の中でそんな対話というよりは問答を際限もなく、繰り返していた。
互いに求めるばかりで、与えることのない主張は、どこまで行ってもあい寄ることがない。列車が出なければ、二人の問答は、限りもなく続けられるはずであった。
漸《ようや》く鳴った発車のベルが、二人にとってほっと感じられたのも、それが彼らの問答の終止符となったからである。
「それじゃあ」
動き出した車窓で、大西はぎこちない笑顔を浮かべると、座席から立ち上がって窓を閉めた。ぴたりと落ちた窓ガラスと共に、二人の間に尾を曳《ひ》いていた対話の余韻が完全に断たれたように思えた。
それは彼らの心を仕切る音とも言えた。
「俺には仕事しかない」
去って行く者は一人|呟《つぶや》き、
「私にはこの子しかいない」
残された者は、胸のおさな子に頬《ほお》をすり寄せた。
4
この時大西夫婦の心の襞《ひだ》に屈折した思いを要約すれば次のようなものであった。そしてこれだけが二人の一致した意見とも言えた。
(夫婦とは一体、何だろう? 世の中の男と女の数だけ考えられる|組合わせ《カツプル》の可能性の中から、只一人ずつの男と女が選び出され、めぐり逢《あ》い、そして結ばれた。
その縁《えにし》は、やわか生易しいものではない。
だが、――その厚い因縁によって結びつけられたはずの男女に、どうしてこうも破婚や離別の悲劇が多いのだろう? そのようにあからさまな悲劇の形をとらなくとも、互いに相手に不満を抱きながら灰色の家庭生活をじっと耐えている組合わせが多いのは何故だろう? それも相手の選択を他人まかせにした見合い結婚ならばともかく、互いに只一人の異性《ひと》≠ニ信じて選び出したはずの相手に、驚くべき速さで冷《さ》めてしまう。
彼らは一体、何をもって相手を只一人の人として信じたのか? その判断の基準を何に置いたか? めぐり逢い、愛し合い、夫として妻として選び取った時点においては、互いに相手に「運命」を感じた。自分の相手を観る目を疑わなかった。だが、日ならずして、その「目」がいかに誤っていたか思い知らされるのだ。
これこそ自分にとって「只一人の人」といえる異性を誤りなく選び出して、生涯|仲睦《なかむつま》じく寄り添って過ごす幸福な夫婦も、ないことはないが、非常に数が少ない。
男の数も女の数も無数なのだから、欲を言えばきりがない。未婚適齢の男女の数だけの組合わせの可能性はあっても、それを一々試みることは出来ないだけに、この人こそ、自分にとって只一人の異性と言いきれる人間は、まずいない。いたとしても、それはその一時期、相手へ向けた心の上気《のぼせ》に過ぎない。
この相手でなければ死ぬの生きるのと大騒ぎした人間が、ちょっと時間をずらせば、全く違う相手に対して全く同じ密度と可能性で心を上気させることが出来るのだ。
だから、いわゆる世の幸福な夫婦と言える組合わせでも、自分の夫を、妻を、只一人の人と百%自信をもって言える者はない。七、八十%位の相手を百%に昇格させているのである。
世の中に完全な人間はない。これら不完全な人間、それも、性を異ならせた者同士が、セックスという、最も生臭く微妙なものを接点として、一生の大半を占めてしまう長い期間、密接な人間関係を結ぶのであるから、とかく、相手のアラが目立ち、なまじ周囲に理屈の上の可能性だけはあった異性がごろごろしているだけに、自分の只一人の人を選び出した目を疑いたくなることもある。
これは周囲に外見だけは比べられる対象〈異性〉が存在するかぎり止むを得ないことだ。
世の幸福な夫婦たちはそのことをよく弁《わきま》え、八十%満足すべき相手を百%に安んじて[#「安んじて」に傍点]昇格させるのだ。つまり、彼らは世界中の異性の数だけの可能性を、たとえ、試みることが出来たとしても、百%の相手=只一人の異性は居ないことを知っているのである。
だが、現実には、夫婦という名前の、只一人の異性に、七、八十%の相手を見つけることすら難しいのだ。
要するに、異性を恋した時に「絶対」と信じた目には、その位の鑑識力しか与えられていないのである。
だが、それは本当に異性を見る目であり、鑑識力であろうか? そしてその目は人によってそんなにも違いがあるのだろうか。
そうではない。それは目の力ではない。運[#「運」に傍点]なのだ。大した人生経験もない未婚の男女の、異性を見る目にはそれほどの差があろうはずがない。自分に合う[#「合う」に傍点]異性にめぐり逢うか、逢わないのかの運なのだ。異性の恋しい年頃になって、一番最初に自分の前に現われた異性と、人は最も簡単に恋におち易い。恋とは、無数の異性の中から特定の一人を、只一人の異性と錯覚[#「錯覚」に傍点]させる感情に過ぎない。
たまたま運がよくて[#「運がよくて」に傍点]七、八十%の相手〈主観的に〉にめぐり逢えれば、彼は目があったのであり、それ以下の相手であれば目がなかったのである。
要するに、只一人の人は、一番先に自分の前に現われた異性に過ぎない。あるいは二番か三番目の場合もあるが、それにしても先着順≠フ異性が、星の数ほどある異性の中から只一人の人に特定される率の高いことに変りはない。
人間が恋だの愛だのと大げさなことを言っても、所詮《しよせん》、先着者への心の傾きではないか。
彼らが愛と錯覚したのは、自分が持っていない性を持っていた相手に一時的に体を吸引されたのにすぎない。
運がよければ、その先着者の中に|七、八十%《まあまあ》の異性がおり、運がなければ、一生に一度の大買物に外れたことになる。
つまり、目ではなく、運である。そして、運があったか、ないかは、あらゆる買物に共通するように買った〈選び出した〉後でなければ判らない。
それでは、どういう場合に買物にあたったと言え、七、八十%の相手と言えるのであろうか)
大西はそれが世に言われる合い性だと思った。
合い性がよければ、全ての不満や、誤解は善意に善意にと導かれて行く、ところが合い性が悪いと、ほんの些細《ささい》なつまずきが悪意に悪意にと積み重ねられて遂には大きな破局へと至る。
めぐり逢いの最初に感じた相手の性《セツクス》へのもの珍しさなど、(これを愛と錯覚した)合い性の前にはものの数ではない。
夫婦の破婚や、疎遠は、どちらが悪いというものではなく、主として合い性がないのである。
その結びつきの初めには愛し合ったはずの、夫婦といういみじき人間関係の中に、憎悪や反感や、倦怠《けんたい》や、時には殺意すら、人間の悪しき感情のもろもろが臆面《おくめん》もなく登場するのは、彼らに相手を見る目がなかったからではなく、運が悪く、そして合い性がなかったからである。
祥子はそれをファスナー(チャック)のようなものだと思った。夫婦の心のかみ合いというものは、歯車ほど正確なものではなく、多少歯形がずれていてもかみ合っていける。
ところが、ファスナーの起点とも言える最初のかみ合わせがずれると、ずれたままでギクシャクかみ合っていき、最後に残ったかみ合わない部分から前に溯《さかのぼ》って外れていく。
この最初のかみ合わせが合い性である。ここにおいてうまくかみ合えば、途中、糸くずやゴミなどの障害が多少入りこんでも滑具《スライド》は終点までズズッと滑り、正しい組み合わせで合わされた歯と歯間《はかん》は、多少の異物をくわえこんだまましっくりと結ばれる。
これが夫婦の合い性で、仲の良い夫婦とは滑りのよいファスナーのようなものだ。
(結局、私達には合い性がなかったのだ)
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伝説の遠き女人
1
「だめ! 男の人はそんなことをなさるものではないわ。あなたはここにじっとしていらして」
香澄は夕食の後片づけを手伝おうとした秋田を制して軽く睨《にら》んだ。
これは夕食の後、彼らの間にきまって起こる小さな諍《いさかい》である。
「めしの後片づけぐらい手伝わせろよ」
「いけません。男の人がこういうことに手を出すのは、女を侮辱するのよ」
「侮辱? おおげさだなあ」
「私って小さい頃からそういう風に躾《しつ》けられてきたの。旧《ふる》いのかも知れないけど、私、いやなのよ、男の人にそういうことをさせるのが」
別に彼女はそう躾けられたわけではない。むしろ、彼女の生家は子供を躾ける余裕などない貧しい家だった。
ただ、自分が心を傾ける男の前では、しぜんにそうなってしまうのだ。何も感じない異性[#「何も感じない異性」に傍点]の前では、誰よりもがめつく徹せられるのに、好きな男の前では、自分でもだらしがないと思うほどに、男にかしずき、そしてそうすることが嬉《うれ》しいのだ。
男は収入の媒体としてしか観ていなかった自分が、何と大きな変りようであろう。自分でも驚くのだが、大原の場合といい、秋田のことといい、殆《ほとん》どあらがいようのない身と心ののめり方は、どうやら、もって生まれたものらしい。
「しかし、男が一寸した家事ぐらい手伝うのは今は常識だぜ、団地へ行ってごらんよ。奥さんが井戸端会議ならぬ階段会議≠ノ耽《ふけ》っている傍で、ご主人が買物や料理や子守りをしているよ。それほどではない家でも、勤め帰りにスーパーに寄って晩めしのお菜の買い出し位は、男の役目になっている」
「ああ、そんなこと、女として聞くだけで恥ずかしいわ。男の人は外へ出て働くだけで十分その責任を果たしているのよ、せめて疲れて家へ帰って来た時ぐらいゆっくり休ませてあげなければ」
「そういう考え方は、男にとって非常に有難いがね、でも、今は、家庭は男にとって憩いの港ではなく、むしろ、女にとって職場だという考え方が強いよ。女の職場で憩いを求めようとする男のほうが、どだい考え方が間違っているんだとね」
「そうかも知れないわね。でも、私は私の流儀でやらせていただくわ。もし、それがあなたにとって不愉快でなければ」
「不愉快なはずがあるもんか。黙っていても、腹がへればめしの用意がされ、のどが渇けば茶が出て、眠くなれば床がのべられ、そして……」
「そして?」
「そして、君を欲しくなれば、僕の目を見ただけで躯《からだ》を開いてくれる。全てが完全自動式《フルオート》≠セからな」
「まあ、エッチね!」
香澄は小さく叫ぶと、微《かす》かに頬《ほお》を染めた。
「でも、そんなこと仰有《おつしや》っても、今夜は欺《だま》されないわよ。ちゃんと後片づけをして、お床をのべてから」
香澄は精一杯表情をひきしめて予防線を張るのだが、全てを許してしまった女に特有の脆《もろ》さを隠せなかった。
秋田と香澄は、いつもこのような問答を重ねているうちに、どちらからともなく、手が触れ、足が触《さわ》り、夕食がまだ胃の腑《ふ》で消化しきらないうちに、男と女の抱擁に入ってしまうのである。
かと言って、そこには決して淫蕩《いんとう》で自堕落な雰囲気はなかった。二人にとってそうなることが極めて自然なのである。きまってくり返される小さな諍《いさかい》も、秋田の巧みな誘導も、香澄の表面上の予防線も、あらかじめ定まっているものであった。
秋田は常に暴君を演じ、香澄は常に彼に虐《しいた》げられる女奴隷の役に満足していたのである。
秋田はここのところ毎日、心楽しかった。彼は決して香澄を愛してこのような関係に入ったわけではない。いやむしろ、愛していなかったからこそ、こういう関係に大した抵抗感もなく入りこめたのかも知れない。男は女を何の愛がなくとも生理的[#「生理的」に傍点]に抱けるのだ。
一応、婚姻届を出そうとしたのも、そのほうが女を安心させると思ったからに過ぎない。
ところが、提供された妻の座にあれほど喜んだ香澄が、入籍の段階になってから拒んだ。要するに、そんなことは手続上の問題であって夫婦の本質には関係《かかわり》ないと言うのである。
男と女が夫婦になるとはどういうことか? 愛し合って、「あなたと私の二人の間だけで子供を産もう」と誓った契約は、役所の紙の上に登記≠オなければ安心出来ないほど虚《むな》しいものか。
そんなことをしようとしまいと、二人が愛し合ったことは、否定しようのない事実である。もしその登記が、愛が喪《うしな》われた後を法律の力で保証しようとするものならば、どだい、そんな保証が意味のないものであり、喪われた事実は、いかなる力をもってしても償えるものではない。
男と女の愛とは、元来、うつろい易いものである。それ故に、外側から様々な加工≠して、人工的にでも少しでも長続きさせるように工夫されるだろうが、自分に関する限りそんな斟酌《しんしやく》は無用だ。
男と女には生まれた時から合い性がある。何をしなくとも、続くものは続く。どんな加工や保証を施しても、だめなものはだめなのだ。
香澄はそんな意味のことを言った。
秋田は最初、それを聞いた時、「二年間」という自分の意図を悟られたのかと思った。
だが、そうではなかった。彼女は秋田に受け容《い》れられた事実だけで満足していた。それ以上の何物も求めていなかった。大原のことがあってから、そういうことのはかなさを知り尽くしたせいかも知れない。
男にとって香澄のような女はまことに理想的である。男を愛し、その愛する具体的な形として、男に奴隷のように仕える。食事の支度をする。衣類を洗濯してやる。身の周りを整頓《せいとん》してやる。男を何とか居心地よくさせることに全ての努力を傾ける。そして何よりも有難いことに、男が飢えている優しさとセックスを只《ただ》で提供してくれる。そしてそうすることの中に大きな喜びを見出す女。
男への奉仕そのものが、自分の生き甲斐《がい》であり、喜びなのだから、男に何の責任も代償も求めない。
もっとも彼女にしてみれば、自分の奉仕の上にのうのうとあぐらをかいている男の姿を見ることが、大きな代償になっているのであるが、男にとってこれはた易いことであり、これほど都合のよいことはない。
彼は女の傍で、出来るだけ甘え、出来るだけ大きく構え、したい放題に振舞っていればよいのである。
元来、こういう形の女の奉仕は、封建制度の女の人格無視や、女の忍従の上に成立していた。女は好きで男に仕えたのではなく、一つの勤めとして強制されていたのである。
女の優しさの下には、男尊女卑への憎悪と、夫への苦役≠ェ隠されていた。
それが新憲法の両性平等の下に、一挙に取り払われ、女の優しさは、もはや伝説となってしまったのである。
しかし、香澄にその伝説が生きていたのである。
――俺は香澄を愛してはならない。単なる性の提供者として扱っていればよいのであって、それ以上に扱ってはならないのだ。なまじ、女に情をうつしたりすると、二年間という限定が区切り難くなる。打ったピリオドの後にはきれいさっぱり、いかなる余韻も残してはならない――
彼は努めて香澄へ傾きかかる心に制動をかけたのであるが、それにしても香澄は、男を喜ばせる伝説をあまりにも持っていた。
2
香澄はフロイラインへ相変らず勤めていた。秋田との結婚≠ェ、世間的には単なる同棲《どうせい》にすぎず、秋田に生活費を負担させることが出来ないのであるからこれは当然であった。
もっとも、香澄にしてみれば、秋田へ負担をかけるのがいやで、彼が辞めろというのをおして勤めていたのである。もちろん、勤め柄結婚は隠した。
秋田は週二回位、原宿のアパートへ通って来た。彼の麹町の寮にはもちろん連れ込めない。ホテルなどの利用は、費用がかかる上に、何となく不潔な情事の匂がすると言って香澄がいやがるので、当然、二人の出逢い場所は彼女のアパートになった。
それに、アパートなら、すれ違うおそれもない。出逢う前にいちいち場所や時間を指定する手間もない。
二人の出逢《デート》は別に定期的なものではなかった。秋田が会いたいと思う時だけふらっと原宿のアパートを訪れて来るのである。香澄の寝ている時に押し入って@ることもあるし、先に来て彼女の帰りを待っていることもあった。その頻度が大体、週二回なのだ。
たまに秋田の懐中が暖かい時は、店へ来てかんばんまでねばり、それから二人ですしなどを食べに行った。
香澄の休みは月三回、毎月、五のつく日と決まっていたが、二人はその日だけは、原宿のアパートで夕食を共にすることにしていた。
たまたま、秋田の休日と一致すれば、彼は朝から、あるいは前日から泊りがけで来たが、そのような符合は滅多にない。香澄は朝から秋田が勤めを終えて、訪れて来る夕方を待ちかねて一日を過ごすのである。とは言え、彼女は秋田を待って一日を空費するのではない。男の好みそうな料理を朝から準備《しこむ》のにけっこう一日は忙しく暮れるのだ。
香澄の勤めは午後五時から十一時迄である。従って、休みといっても、一日の遅い部分の時間が休みになるだけであって、朝は普通のオフィスガールのような休日の感慨はない。
しかし、香澄は休日の朝は、ことさら早くから目が冴《さ》えてしまう。
男が訪れて来る時間までまだ十時間以上も間《ま》があるというのに、その時間のために心が抑えようもなく弾み、その夜の会食≠ノは何を料理《つく》ろうかと嬉《うれ》しい緊張をするのだ。
そして香澄が一日の大半を費してつくった料理を、秋田は驚くべき速さで食べてしまう。
食べ終った後で「美味《おい》しい」とも「不味《まず》い」とも言わないが、香澄は男の顔から、彼が満足していることを知り、そして自分も満足するのである。
彼らが結婚[#「結婚」に傍点]してから五か月程度、丁度、大西が帰京した頃、二人の休日が久し振りに一致した。
折りよく、秋田も月給をもらったばかりの時だった。前の夜、店で香澄を待ち、彼女のアパートへ一泊した。
好きな女と共にベッドの中で目覚め、これから始まる一日が女と共に自由に過ごせるのを確かめる時ほど男にとって豊かなことはない。
そういう朝の目覚めは、どうしても常の朝よりも遅くなる。そして目覚めてからも、思いきりよくベッドからはね起きられないものである。
常の休日の朝ならば、とうに会食≠フしこみにかかっている時刻である。それなのに香澄は秋田にひき留められるまま、そして、自分も快いままついベッドの中でぐずついてしまった。
それでなくとも、まだ三月末のうすら寒い朝である。若い男女がぬくぬくと肌を接して寝ている暖かいベッドから飛び出すにはかなりの決断力を要した。
「もう起きなければ」
彼女は起き出す前に何度|呟《つぶや》いたことだろう。ブラインドをすかして洩《も》れてくる白い光は、すでに昼近いことを示していた。
「悪いわ、私がお寝坊をしたばかりに朝ご飯を抜かしてしまって、お腹が空《す》いたでしょ」
二人が完全にベッドから離れ、目覚めた顔で向かい合った時は、すでに昼食《ひる》近い時間だった。
こういう時、香澄の言うせりふもきまっていた。朝食を抜いたのが全く自分の怠慢のように恥じ入るのである。
秋田にしてみれば、もっと寝ていたいところであったが、その日に限って、何故かえらく空腹を覚えた。
朝食を抜くのはいつもの例で、何の不満も訴えないおとなしい胃袋だったが、その朝に限って欠食児のような空腹感は、いかに香澄との添寝が魅力あるものであっても、それ以上ベッドにしがみついていられなかった。
「何でもいい、早く出来るものがいいな」
秋田は珍しく香澄を急《せ》かせた。
「すぐよ、今ちょっと材料を買い出して来るわね」
香澄は買物かごを手に取って立ち上がった。夜が遅いので買い出しはどうしても朝になるのである。
「インスタントラーメンでもないかな?」
「一人前くらいならあるけど」
「それでいいよ」
秋田にとってはとにかく早いほうがいいのだ。この空き方は尋常ではない。考えてみれば、ゆうべフロイラインで少々、メートルを上げすぎて、み[#「み」に傍点]になるものは殆《ほとん》ど口に入れていない。
ここで香澄の、いわゆる誠心≠フこもった料理をつくられれば、少なくとももう一時間は待たされなければならない。
「いやに急ぐのね」
「腹ペコなんだよ」
「へんねえ、ゆうべは……」
香澄は言いさしてふと頬《ほお》を染めた。昨夜、アルコールが入り過ぎて、彼が不能に終ったことを思い出したらしい。
「何でもいい、早いほうがいいんだ」
「だめよ!」
香澄がピシッと言った。常になく頬を叩《たた》くようなきっぱりした調子であった。秋田は実際、頬に平手打を喰ったような気持がした。
香澄はすぐにそういうものいいをしたのを恥じるように、本来の優しい語調に戻って、
「私達これから何年生きるでしょうね?」
と言った。
秋田は最初、彼女が何故そんなことを言いだしたのか判らなかった。そして、もしかすると自分の秘密を知ったのかも知れないと勘ぐった。しかし、彼女のその後の言葉で、それが文字通り勘ぐりに過ぎなかったことが判った。
「あなたが今二十八歳、私が、二十一歳、二人が夫々《それぞれ》、平均寿命まで生きられるとしても、あと四十年とちょっとね」
香澄は一語一語|噛《か》みしめるように話しだした。
「まして、人間の命なんて明日知れないものよ。体の具合が悪かったり、仕事の都合でご飯を食べられないこともあるわ。とすれば、私達がこれから食べられるご飯の数なんて僅《わず》かなものよ。一食でもまずいものを食べたら損じゃない」
「一食でもか」
秋田は苦笑した。
「そうよ、だって、今日という日の朝ご飯は、いえ、朝ご飯はもう食べ損ったから、おひる[#「おひる」に傍点]は二度と食べ直せないのよ。それに平和な時のお食事は、単にお腹がくちく[#「くちく」に傍点]なればよいというものではないわ」
「…………?」
「まず第一に美味《おい》しくて、そして、楽しくなければいけないわ」
その時、秋田の腹の虫が鳴いた。それは香澄の耳にもはっきりと届いた。
「あらっごめんなさい」
香澄は急に慌てだした。
秋田の腹の虫は、香澄の高説≠ノ実に見事な一矢を報いたものである。だが、彼女はそのことによって完全にへこんだわけではなかった。
その証拠に、出口でサンダルを突っかけながら、秋田の方を振り向き、悪戯《いたずら》っぽい笑みを浮かべて、
「そんなに鳴いているお腹の虫さんに、ラーメンじゃ可哀想《かわいそう》でしょ」
と言ったからである。
香澄が女らしい理論で展開した一期一会《いちごいちえ》の精神の前に、秋田はあと少なくとも一時間は、腹の虫を鳴かせ続けなければなるまいと諦《あきら》めたのであった。
しかし、それは決して不愉快なものではない。むしろ、あの麦草峠の拾いものが、文字通りの掘出しもの≠ナあったのを認めないわけにいかなくなっていた。
彼は香澄に怒られるのを承知で部屋の掃除を始めた。
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検体X
1
「課長、専務がお待ちかねです」
大原が出勤するのを待ち構えていたように今井が告げた。
「専務が? また、ばかに早いねえ」
大原は言いながら腕時計を覗《のぞ》いた。まだ始業までに三十分ほどある。オフィスの中の人影もまばらであった。
彼は課長になってから常に人よりも三十分ほど早く出勤している。といっても、彼が勤勉なためではない。冴子と顔をつき合わせているのがいやだったからだ。
女中も居ることだし、大原の出勤に冴子は寝ていても差し支えはないはずなのに、彼女は感心にというよりは、不思議に起きて来て大原を見送った。彼にとってはむしろ有難迷惑であった。これが結局、彼を人並みのサラリーマンよりも早く家を飛び出させる結果となった。
大原は知っていた。冴子が決して彼を見送るために起きて来るのではなく、大原の前で常にシャンとお高く身づくろった自分を見せておきたいからであるのを。
日本化成では重役級の出勤は午前十時頃が相場である。
大原は首をかしげながら日本化成ビル最上階にある重役室の一画へ向かった。以前ならば近づくだけで足が震えた重役室の扉を、この頃は割合気軽に押せるようになったのも、ひとえに冴子という橋《ブリツジ》≠フおかげである。
大原が冴子の存在を評価《アプリシエート》するのは、この時だけといってよい。
「お早う、待っていたのだ」
緒方大三郎は何ごとかものおもいに耽《ふけ》っていたらしい面を上げた。
大三郎は先代社長、友之進の弟、大之進の妾腹の子ながら、大之進の正妻に子がなかったところから、大之進の家を継ぎ、日本化成の専務にまでのし上がった男である。現社長の幸之進とは従兄弟の間柄にあるが、幸之進のどちらかといえば叩けば火を発するような鋭さに比して、一見|茫洋《ぼうよう》として(カミソリの切れ味はないながらも)大木を倒す斧《おの》のような大陸的な人柄が、幸之進の理想的な補佐となっている。
互いの中に自分にないものを認め、それを高く評価し合っている二人の折合いもよい。
同族会社にありがちな派閥争いもなく、社業が見事な中央集権制≠フ下に有機的に営まれているのも、この二人の絶妙なコンビによるところが大きい。
彼の傍にもう一人、目の光がいやに冷たい痩《や》せた男がいた。今までは所属の関係であまり接触はなかったが、これが日本化成で隠然たる勢力を持つ、中央研究所長の小野公平であることは知っていた。
日本化成の二大重鎮が始業前に一体、何事かと、大原は舅の前に出る気易さを緊張に変えた時、それをほぐすように大三郎は顔の面積に比べて小さな目に微笑を含み、
「まあかけたまえ」
と傍の椅子《いす》を顎《あご》でしゃくった。その笑いは大三郎が誰にでも見せる彼特有の営業笑い[#「営業笑い」に傍点]だったが、大原には娘婿に向ける特別な親しみがこもっているように感じられた。
「今、中野の家に電話したところだ。家を出る前ならば、車を廻《まわ》そうと思っとったのだ。君が早く出て来てくれて助かった」
しかし、それが営業笑いだった証拠に、大三郎は部下に対する、感情を抜いた口調で言った。
「今日だけではない、いつも早いのだ」といいたいところを抑えたのも、大三郎のそんな口調に密かな甘えを挫《くじ》かれたからである。
「用というのはほかでもない」
大三郎は表情をふっとひきしめて語りだした。といっても、もともと太平洋のようなヌーボーたる容貌《ようぼう》であるから、緊張感は感じられないが、象のような目に集められた光の強さが、これから彼の語る話の重大な内容を予告していた。
予告[#「予告」に傍点]通り、大三郎の話は、全て大原にとって驚くべき内容ばかりであった。
米軍からの直談によりガス兵器の開発を請負ったこと。山梨県清里にそのための秘密工場を建設したこと。中研特殊研Eグループの主任技師、大西安雄が中心となってそれの開発に専従していること。遂に米軍依頼通りのガス兵器の第一回試作に成功したこと。――全てが大原にとって初耳であった。
農薬部門に居た頃から、下級ながら管理職の一員として、社がベトナム軍需品の生産を密かに行なっているらしいことは、薄々知ってはいたが、よもや、ここまでやっていようとは思わなかった。
大原はこの時初めて企業というものの飽くことなき利潤追求の執念に触れたように思った。と同時に、これほどの社秘を打ち明けてくれた、自分に寄せる信頼と、更にその裏にある何かに、益々《ますます》、身が硬《こわ》ばったのである。
「人間の精神を一時的に錯乱して戦闘力を奪ってしまうガス、これの試作についに成功したのだ。大西はこれを仮にNガスと名づけた。〈日本化成ガス〉とでも言う意味らしい。ところがここに困った問題が起きた」
大三郎はここでいったん言葉を切って大原を見た。どっしりとした横幅の広い顔、よく発達した小鼻と下あご、厚い唇の下のやや反《そ》り気味の白い大きな歯、全てが大柄な顔の造作の中で、おそろしく不釣合《アンバランス》に小さな目は、温容に配する慈眼≠ニもとれるし、また、持主の感情を隠すに都合のよい商人の眼ともなった。
大原を見た大三郎の目が、そのどちらであるかは彼には分らなかった。要するに、めったなことでは感情を覗かせぬポーカーフェースなのである。
「困った問題と仰有《おつしや》いますと?」
大三郎が自分をみつめたまま長いこと黙っているので、つい、大原は先を促すような声を出した。
「うん」
と頷《うなず》いたまま、大三郎はなかなか先を続けない。
大原を見る眼は、この期《ご》になってから大原づれに話してよいものか、どうか、ためらっている様子が読めた。
(やはり、あの眼は婿を慈《いつく》しむ眼ではなく、商品を見積る商人の眼だった)
大原が漸《ようや》く不満を覚えた時、大三郎は再び口を開いた。
「それはな……Nガスがあくまでも理論の上だけで作られた製品であり、その効果も、理論的に推定されたものに過ぎないということなのだ」
「…………?」
「大西が試作したものは、あるきのこの幻覚毒の化学構造から合成に成功したもので、これ自体は米軍の正式兵器、LSD25ほど強力なものではないが、大西はこれに種々の誘導体を合成して、現在のLSD25よりもはるかに強力なものを作り上げたのだ」
「…………」
「ところが強力だというのは、今言ったようにその化学構造や学問的な推定から導き出したもので、現実にどの程度の効用があるものか分らない」
「しかし……、実験はなさらなかったのですか?」
「やったさ。ハツカネズミやウサギを相手にな」
「その効果からは……」
「大した効果だったよ。気が狂ったネズミというものは面白いらしい。ネコを見ても逃げないそうだ。窮鼠《きゆうそ》猫を咬《か》むと言うが、窮さずとも咬むそうだ。その勢い、当たるべからざるものがある」
「とすると、このガスを使った当座はネズミがのさばることになりますね」
大原は気が狂ったネズミに、何となく滑稽味《こつけいみ》を覚えてつい軽口を叩《たた》き、すぐに余計なことを言わなければよかったと悔やんだ。
大三郎は相変らずのヌーボーたる表情で、
「その通りだ。もしネズミに気違いがあればな」
「は?」
「つまりだ、ネズミに狂うべき精神があればということさ」
「と仰有いますと」
大原は自分のもの分りの悪さを恥じるようにおずおずと訊《き》いた。
「つまり、ネズミやウサギを相手にいくら実験を重ねても、果たしてその効果がそのまま人間に通用するものか、はなはだ疑問なのですよ」
この時、今まで黙っていた小野が初めて口を開いた。自分よりもはるか下の職制にある大原に向けた、まるで目上の者に対するような丁寧な口調は、かえって聞く者の耳に薄気味悪い。それでなくとも、小野のものいいは、含み声で、何か言葉の裏にあるような感じをおこさせるのである。
そして裏は確かにあった。
「元来、実験は致死性の化学物質の方が非致死性のものよりも容易です。致死性の場合は動物実験の結果から人体に対する作用を比較計算出来るからです。だが、Nガスのような非致死性の無能力化剤の場合、動物実験は殆《ほとん》ど意味がありません」
「…………?」
「というのは、この種の化学物質に対する反応が、人体と動物では全く異なる場合が多いのです」
「それでは!」
大原は小野の言葉裏にあるものに思い至って声をのんだ。
「そうなのですよ」
小野はにんまりと笑った。もっとも顔面の筋肉を少し弛《ゆる》めただけで、目は少しも笑っていない。
「我々としては、Nガスがいくら小動物に強力な効果を発揮しても、人体に対する効果を確認するまでは、完成された製品として米軍に引き渡すわけにはいかないのです」
「しかし、人体実験となると」
大原が言いかけた言葉をみなまで言わせず大三郎が後を引き取った。
「確かに人体実験となると、単なる道義上の責任ばかりではなく、刑事的にも追及される。毒ガスを作っている事実だけで相当に酷《きび》しい弾劾《だんがい》を受けるところに、人体実験などという非人道的なことをしているとなれば、日本化成そのものが抹殺されかねない。だが、人体実験をせぬことには、米軍という我が社はじまって以来の大顧客を逃がしてしまう。……大原君、君だったらどうするね?」
語尾をいきなり質問に切り換えられて、大原は少々面くらいながらも、
「もっと人間に近いもの、例えば、サルなどを使ったならばどうですか?」
と問い返した。
大三郎は軽い笑い声を上げて、
「我々がそれをしないとでも思っているのかね、サルは所詮《しよせん》、どこまでいってもサルなのさ。それにな」
ここまで言って大三郎は小野の方を見た。これから先は小野が言うというようなしぐさであった。
案の定、小野が例の含み声で話の先を継いだ。
「人体実験と言っても、我々に必要なものは、実験後のある一定時点における断面的効果ではなく、長期持続的な臨床医学的観察なのです。Nガスは一応人道兵器ということで開発されたもので、一時的効果しかなく、後遺症もないというコマーシャルになっていますが、これはあくまでも理論と今迄《いままで》の動物実験から導き出したものにすぎません。
実際に人間に作用させた場合、どの程度の精神障害を起こすものか、また、一時的効果とは果たして何時間位か、更に成人あるいは小児に対する許容量など全て推定の域を出ていないのです。まして後遺症となると、精神ばかりでなく、諸内臓や内分泌機能に与える影響も考えねばならず、到底、動物実験からではこれらデリケートな影響を検知することは困難なのです」
「かといって、まさか人間の生体実験は無理でしょう」
「でしょうか?」
小野は大原の目に薄く笑いかけた。大原はふとその一瞬、軽い寒けを覚えたものである。
「我々は今迄、不完全ながらも、清里工場に働く従業員の身体からある程度のデータを得ました。製品の開発作業中、彼らは微量ながらNガスを体表面から吸収し、知らず知らずのうちにこよなき生体の提供者となってくれたのです。しかし、これはあくまでも偶発の産物[#「産物」に傍点]で、環境の管理も行なわれておらず、検体X≠ニ要因の関係……つまり、どのくらいの量を吸収して、そういう症状を呈したものやらさっぱりつかめないのです。それに、従業員は故意に実験には使えない。我が社の労組が比較的穏健で、清里へ出張させた社員は忠実な者ばかりとはいえ、万一、最悪の事態を惹起《じやつき》した場合、労組も黙ってはいないだろうし、折角ここまで培ってきた我が社員の高いモラールを目茶目茶にしてしまいますからね。たとえ、社員の中から応募者があったとしても、彼らは使えない」
「といって、外部の人間を使ったら、余計うるさいことになりませんか?」
「でしょうか?」
小野は再び大原を寒がらせた例の複雑な笑いを口辺に浮かべた。
「世の中には自分の身体をもてあましている人間がいくらでもいます。生きているのではなく、単にそこに居る、いや在る[#「在る」に傍点]というだけの不用な品物[#「不用な品物」に傍点]のような人間がね。彼らは世の中から邪魔にされているだけではなく、本人自身、ふつふつ[#「ふつふつ」に傍点]世の中が厭《いや》になっている場合が多い。かといって、自分で自分を殺すほどの勇気もなく、ただ生物学的[#「生物学的」に傍点]に生きているだけです。こういう人間は居なくても、いや居ないほうが社会のためにもいい。それに本人自身が何よりもそれを希望しているのです」
「例えば犯罪者ですか?」
大原はいつの間にか小野のペースに巻き込まれていた。
「いや、犯罪者ではありません。犯罪者は社会の害虫ですが、生きていくことは欲しています。私の言った連中は生きるために違法なことも出来ない怠惰なる人間[#「怠惰なる人間」に傍点]のことです……仕方がないから生きている連中ですよ。彼らは脇から一寸、生命を奪う力を加えてやれば喜んで死んでいきますよ。そうしないのは自分にそれだけの力と決断がないからなのです」
「しかし、係累がいますよ」
「世の中には孤独な人間がいくらでもいます。精神的な面ばかりではない孤独者がね」
「そういう人間を探そうというわけですか」
小野がその通りと言わんばかりに大きく頷《うなず》いた。
「しかし、悪くすればこれは殺人になります」
大原は鉤《はり》にかかった未練な魚がいつまでもあがくように思いきり悪く言った。
「だから君を呼んだのだよ」
今度は大三郎が答えた。息の合ったプロレスのタッグマッチチームのように、二人の大原の攻め方≠ヘ見事だった。大三郎と小野は、タッチ[#「タッチ」に傍点]も巧みに大原に考える余裕も、身構える隙《すき》も与えず緩急自在にたたみかけてくる。
大原が二人の話の内容の重大さをよく反芻《はんすう》もしない間に、彼らの望む結論へと誘導されていったのは、あながち、上役としての圧力ばかりではなかった。
「私を呼んだ?」
「そう、君にその人集め[#「人集め」に傍点]をやってもらうためにね」
大三郎はまことに無造作に言ってのけた。
「人集め!?」
「人集めというよりは、実験動物《モルモツト》集めと言ったほうがよいかも知れん。もう、くどくど説明せずとも分ると思うが、非致死性といっても、被毒者の年齢や体力の強弱によって効果が変動する。一般に軽い精神障害を起こさせる程度のものでも、幼児や老人、あるいは内臓に疾患を持つ人間には致死効果を与えるかも知れない。それではそれがどの程度の摂取によってそうなるか、そしてその残留毒性の長さと程度は? ということになると何一つ判っていないのだ。従って、モルモットは出来るだけ多く欲しい。老若男女、健康者と病人、そして出来れば、頭の程度もピンからキリまで揃えてな。今、小野所長の言った言葉を借りれば、検体X≠ヘ数と種類が多ければ多い程よい」
一般に実験は主役を演ずる検体X≠ニ、これに影響を与える様々な要因の間の相関関係法則を発見するために行なわれる。
物理、化学などにおける精密科学の実験では、環境条件を真空にするなどの管理をしてその影響を抑え、問題となっている当面の要因を変化させながら、検体に及ぼす影響や関係を観ようとするのである。
この場合、要因をNガスとすれば、検体X≠ェ大三郎の言った人間というわけである。
しかし、モルモットや兎と違って、この検体はそうは簡単に集められない。たとえ、集めたとしても、要因、Nガスにより変化≠ウれたあとの検体Xはどのように処置するつもりなのか?
実験が終ったからといって、簡単に放り出せる検体ではないのである。
「それは……」
大原が思わず絶句して相手の顔を見上げたのも当然であった。廻《まわ》りくどい説明であったが、大三郎の言わんとするところに、いや、社が飽くことなき利潤の追求のために意図している人倫を踏み外した科学に、慄《ふる》えたのである。
「そう、確かに大変なことだ」
大三郎は大原の言葉の先を引き取った。その大変[#「大変」に傍点]が労力的にしんどいという意味で言われたものか、それとも、人倫に悖《もと》る行為として言われたものなのか、よく分らなかったが、いずれにしても、彼の面は少しも大変を感じているようには見えなかった。
企業がそれを欲したという一事だけで、欲した物が何物であるかを問わず、それを手に入れるための全ての手段と行動が正当化《ジヤステイフアイ》されると信じている人間の顔がそこにあった。
主家《おいえ》の安泰のためには何ものをも投げ棄《う》つ用意のある封建の家老が、資本主義の牙城《がじよう》である超近代的ビルの奥深くに、何の臆面《おくめん》もなくしっかりと棲《す》みついているのである。
全ての行為は社の収益への貢献度という一点においてしか捉《とら》えられない。行為の価値はそれ以外の何処にもなく、そしてあってはならない。
そういう哲学の根本は、単に月給の見返りとして働いているにすぎないサラリーマンには、到底理解出来ないものである。
最初は、人間の一人一人が、自分と、自分の周囲のほんの一握りの家族の些《ささ》やかな平安と幸福を求めて集まって来たであろうに、彼らが無数に群れ集い、企業という一個の有機的組織体を組成すると、その構成分子である一人一人の些やかな願望とは似ても似つかない、ぎたぎたと脂ぎった物欲の権化と化してしまうのは何故であろうか?
緒方大三郎とて最初からそのような人間[#「人間」に傍点]だったわけではあるまい。彼がいくら社につくしたところで、巨大な株式会社に成長している日本化成が彼の私有物《もちもの》になるわけでもない。つきつめてみれば、やはり、日本化成という巨怪を構成する一つの歯車にすぎない。
大原などよりは桁違《けたちが》いにスケールが大きくはあっても、人間部分品≠ナあることにおいては変りはない。その占める部分《スペース》がいかに大きくとも、彼は企業そのものではない。彼がいかに悪鬼のようになって働いても、企業が与える報酬は彼の働きに比して、比べものにならないほど微少でかつ、一時的なものである。
しかし、今、大原の前に居る大三郎と小野は、日本化成そのもののような生臭い毒気に充《み》ちていた。
企業というあらゆる人間の組織体の中で、最も計算高い組織の中には、彼らのように個々の打算を超えて社を肥《ふと》らせることしか考えない忠臣が多い。むしろ、このような忠臣型サラリーマン[#「サラリーマン」に傍点]の働きの堆積《たいせき》の上に企業は成り立っているのかも知れなかった。
わずかばかりの餌《えさ》によって滅私奉公するサラリーマンは、企業の毒気に中毒《あて》られた哀れな人間部分品と言ってもよいだろう。
大原はこの瞬間、緒方大三郎という一個の人間に、日本化成の企業の執念ともいうべきものが化身して、その毒気をまともに吹きつけてくるような感をもった。
「下手をすれば、人間を廃人にして、最悪の場合は殺すことになるのだからな。だが、どうしてもやらねばならんのだ」
大三郎は語尾のやらねばならんという言葉を聾者《ろうしや》に話しかけるように、はっきりと唇を動かして言った。
大原はまだはっきりと命ぜられたわけではなかったが、そのやらねばならぬという義務と行為の主体が自分であるのをすでに知っていた。
まかり間違えば殺人、うまくいっても自殺関与の罪は避けられない行為を、大三郎はごくあたりまえの業務命令を出すように、さりげなく下している。
この場合、大原はそれを断わってもよかった。いかに上司の命令とはいえ、彼の命ずることは違法である。社命と社会の期待が相互に衝突する時は、どちらを優先させるべきか、考えるまでもないだろう。
しかし、サラリーマンにとって社命を拒絶することは、自らの将来を諦《あきら》めることと同じである。
馘首《くび》にはならぬながらも、昇進のための扉はもはや彼にとって永久に閉ざされたままであろう。
同僚に差をつけられ、後輩に追い抜かれて行くのを、定年の日まで指をくわえて見送っていなければならない。
それは野心多きサラリーマンにとって死に優る屈辱であった。……ということは、野心多きサラリーマンにとって上司の命令は、その内容のいかんを問わず絶対であった。
いかに反社会的な命令であろうと、躇《ためら》わずに従い、忠実に履行する。それも義務感としてではなく、自分が選ばれたということに対して誇りと喜びすら抱いて。――
2
我々は社会人として生きていても、社会に直接[#「直接」に傍点]参加しているのではない。社会を構成する小集団[#「小集団」に傍点]に夫々《それぞれ》所属することによって、社会という大集団[#「大集団」に傍点]の間接的|成員《メンバー》となっているのである。いわば社会の陪臣である。
陪臣にとって一応理屈の上では殿様のそのまた殿様の命令のほうが大切のようだが、現実には直近の殿様の命令が絶対である。
すぐ上の殿様のご機嫌を損ねては、まず今日、明日のめしに差し支えてしまうからだ。
人間として大乗≠ノ立つことを命ぜられても、当座の生活は小乗≠止むなくさせる。小乗のほうが己の生活の生存にとって常に切実なのである。
命令する側も心得たもので、社命が何らかの形や程度で、法律や常識や道徳感情などの他の価値観念と抵触する惧《おそ》れのある場合は、よもや、受命者から拒《こと》わられることのないように、単純で野心多い小乗的サラリーマン[#「小乗的サラリーマン」に傍点]を細心に|選び出す《ピツクアツプ》のである。
大原がピックアップされたことは、娘の婿に手柄をたてさせてやりたいという大三郎の親心もあったろうが、それ以上に彼が単純で功名心に燃えていることを見抜かれたからにほかならない。
緒方大三郎は大原の拒絶などあり得ようはずがないとかたく信ずる者のように、いつの間にか受命者に命令の内容を説明している口調で話していた。
「検体は、最小限四人いる。年齢別には老人、壮年、青年、幼児、そして性別は男女半々、そのうち一人は病人、それも死病で回復の見込みのない者が欲しい。女は、胎児への影響などを観るために、妊娠初期の妊婦が欲しい。人間の命が安くなったとはいえ、これだけの数と種類の生体を、生命の危険がある実験用に駆り集めるのは大変なことだぞ。それも単なる集め方ではいけない。万一、最悪の事態が発生しても、その人間の足跡《トレース》を溯れないように完全に消しておかなければならん。いいか、最悪の場合、四人の人間が消えるのだ。消えた者のその後の処置は我々が考える。君には……いいかな……、四人の人間を探しだすことと、そして、その人間の環境や過去と我が社との間を、完全に絶縁してもらいたいのだ。といっても、非合法に誘拐しろということではない。十分な補償をして当人の承諾をとった上でのことだ。双方納得ずくの立派な契約だが、何せ、こういう契約は国家が認めてくれんからな。それに、当人は納得しても、万一の場合は周囲の係累が騒ぎ出す。従って、出来得るならば親も兄弟も子もいない、天下のひとり者が理想的なんだが、そういう人間は、自分の享楽のためにしか金を求めない。命あってのものだねとばかり、人体実験などには到底応じてくれない。いきおい対象は親の病気、妻子の飢えを救うために切実な金を必要としている人間ということになる。人間、自分自身のためには命を惜しむが、自分が最も愛している人間のためには、意外に気前よくそれを投げ出すものだよ。そういう人間を探し出し、契約≠し、清里へ送りこむのだ。しかし、折角、高い金を払うのだ。最悪の場合も本人の意志によるものに仕立て上げておかなければならん。金は係累に渡るようにしても、何処から出たのか、その金に買われて当人は何処へ行ったのか、一切の糸《トレース》は切断しておかなければならない。難しいぞ、出来るかな」
大三郎は、大原の目に自分の目をもみこむように重ねた。彼の茫洋《ぼうよう》とした捉《とら》えどころのない風貌《ふうぼう》の中で、その瞳が錐《きり》の穂先のように大原の瞳に突き刺さってくるように感じられた。
「万一に備えて、トレースは完全に断ち切ってもらわないと困りますが、実験結果に関してはそれほど悲観なさらずともよろしいと思います。今迄の動物実験から類推しても、余程の悪条件が重ならない限り、死に到ることはまずないでしょう。実験のポイントは専ら残留毒性、即ち、後遺症にかかるといってよいのです」
今度は大三郎に代って小野が言った。
「……としますと、気が狂ったまま復《なお》らないということも考えられるのですか?」
「残念ながら」と小野は頷いて、
「今迄の実験データからでは、完全に回復するという保証はありません。また、それ故に人体実験が必要となったのですがね」
小野はさむざむと笑った。彼の笑いそのものが寒かったからではなく、そういうことを微笑しながら言える彼に、大原は寒けを覚えたのである。
人間も動物も、所詮《しよせん》、実験における検体X≠ニしての値しか与えようとしない小野の、科学者としての、金属のような冷たさに慄《ふる》えた大原も、その手先となってX≠フ買い求めに行こうとしている自分の心の歪《ぬが》みには気がつかなかった。
その後も細々《こまごま》とした打ち合わせは続いた。大原がやっと二人から解放された時は、すでに昼食の時間を過ぎていた。
「この計画を知る者は、社長、小野君、君、この儂《わし》、それに清里工場のごく限られた人間だけだ。それほどことは極秘なのだ。頼むぞ」
大三郎は最後に言った。その言葉が大原の心の底によどんでいた、計画の陰惨さに対するためらいを、極社秘の経営参画を認められた若者の昂《たか》ぶりに替えてしまった。
3
専務室を去ろうとした大原に、大三郎は茫漠《ぼうばく》たる表情にふと感情を浮かべてもう一言つけ加えた。
「あまり冴子を甘やかさんほうがいいぞ」
「は?」と振りかえった大原に、
「君が社へ着く直前、そう八時二十分頃だった、電話を入れたんだが、まだあいつ寝とったわ。八時過ぎとるというのに寝床の中にいるサラリーマンの女房が何処に居るか。ふふ、大分敷かれてるらしいな」
そうは言いながらも、大三郎の口ぶりは娘の横着を咎《とが》めていない。彼のそういう態度が、とりもなおさず冴子を増長させているわけなのだが、その時だけは彼の捉えどころのない表情が、腕白な子供のいたずらに目を細めている父親の顔になった。それは同時に娘婿に対する舅《しゆうと》の顔でもあった。
それがこの秘密会≠フ間に大三郎が見せた唯一の人間らしい面だったが、大原はそれに甘える前に大きな衝撃を受け止めなければならなかった。
冴子は彼が出勤した後、再びベッドに潜りこんでいたのである。
夫の出勤を見送る妻の誠意からではなく、大原に自分の寝くたれた顔を見られたくない持ち前の勝気から、起き出して来る迄は許すとしても、夫が骨身を削るような仕事へ出かけた後に、再び暖かく快いベッドの中の、殆ど制限のない惰眠へ戻る妻を、大原は許せないと思った。いやそれもまだよいとしよう。団地などにそういう女は多いのだ。
しかし、自分が一日の仕事にしぼりカスのようになって帰宅した時の、冴子の一分の隙もなく武装した表情と挙措《きよそ》はどうだ。
ぐうたらな妻ならば、何故夫の前でそのぐうたらを示さないか、夫の前に何の構えも施さずに自分の弱味を曝《さら》け出すところに、妻としての甘えや、愚かさや、そして女としての可愛《かわい》さがあるのではないか。
冴子のは女の含羞《はにかみ》からの構えでもない。そういう構えには必ず崩れがあり、賢い女は自ら意識してその崩れをちらちらと覗《のぞ》かせるものである。
そうではない、そうではないのだ。あれは大原よりも常に一段上の所に構えている女の姿なのだ。夫を自分より下位者として見下すためには、たとえ朝、少々眠い思いをしても常にシャキッと構えていなければならない。
だから朝、夫を見送らずに眠っていようと思えばいられる身分を、わざわざ起き出して、そしてその後に再び眠るという欺瞞《トリツク》を使うのだ。
大原にしてみれば、冴子が最初からぐうたら妻のぐうたらをいかんなく発揮して、彼の出勤時にも眠りこけている横着を示してくれたほうがどれほど親近感を覚えられることか。
――許せない――
大原は思った。しかし、それはあくまでも内面に限られたことである。彼女の前に出れば、食物も、セックスも、テレビの選局《チヤンネル》権すら彼女に握られてしまう哀れな男奴隷にすぎない身分であるのをよく知っていた。そして、それを知っているということ自体が、内面の憎悪を倬《あお》った。
その炎を消すというよりは、燃え尽くさせるためには、一日も早く冴子を抜き、彼女の一歩上に立たなければならぬ。その当面の階段《ステツプ》が、目の前に示された社命であった。
大原は瞬間の心のざわめきを、よく訓練されたサラリーマン的無表情の中にさりげなく畳みこむと、室内の二人に一揖《いちゆう》して人影もない廊下へ出た。
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墜《お》ちた心
1
中井新作(三一歳)東京都練馬区中村北一の十二、勤務先、日本化成株式会社T工場
高橋勝利(二八歳)都下府中市晴海町一の二八の十九、勤務先、右同
本田豊司(二九歳)市川市北方町一の二八、勤務先、大東化学工業株式会社
「また、日本化成か」
秋田修平はカルテを覗きながら呻《うめ》いた。彼が手にした三枚のカルテの中二枚は、以前、田部定一というけったいな患者[#「けったいな患者」に傍点]を送り込んで来たT市立病院からのものであり、残りの一枚は、千葉県S市のある総合病院から送付されたものである。
S市から送られて来た本田豊司という患者の勤め先、大東化学工業はS市に主工場を持つ農薬の専門メーカーで、日本化成の傘下にある。
ここのところ時を接して日労災の中診≠ヨ送りこまれて来た三人の患者が、いずれも、日本化成系の社員であり、しかもその症状はほぼ田部のものと相似しているのである。
ほぼ[#「ほぼ」に傍点]というのは、三枚のカルテに、いずれも、田部にはなかった項目がつけ加えられていたからである。
即ち「白血球減少」という一項目である。
成人男子の白血球の正常値は、血液一mm中6000個前後であり、生理的に動揺しても精々4000〜8000個の間である。
これが三人の場合いずれも2000以下になっていた。
白血球の減少は薬物中毒や放射能、あるいは腸パラ、流感、顆粒《かりゆう》細胞減少症などの疾患によってもたらされるが、原因全く不明なものも多く、概して重大である。
田部定一の場合は、特に血球数の異常は認められなかったのであるから、三人が触れた有害物質が田部のものとは全く別個のものであったか、あるいは彼らに白血球を減少させるような固有の疾患が内包されていたと見るべきか。
しかし、そのような疾患は現在までの精密検査によっても発見されなかった。それに日本化成系の社員が三人も時を接して同一症状を顕《あらわ》す固有疾患をもつというのも無理な偶然である。
しかも、白血球減少を除く他の全ての症状は田部の時と殆ど同じなのである。これは固有疾患によるものと考えるよりは、同一環境において接触した有害物質の影響と推すほうが自然であろう。
白血球の減少と精神錯乱の間に必然的な医学的関連はなかったが、この四人の間に見られる類似症状と同一の勤務先から、原因たるべき有害物質は、類似のものと推定せざるを得なくなってくるのである。
ただ一つ言えるのは、後から送られて来た三人のほうが遥かに重症であるということである。
田部の場合は一日で醒めて[#「醒めて」に傍点]しまった。
昨夜遅く送られて来た本田はもう少し、経過を見なければ何ともいえないが、一昨日送られた高橋は依然として譫妄《せんもう》状態である。中井にいたっては、すでに一週間以上にわたる治療にもかかわらず、全く回復の兆しが見えない。
それに、田部の場合は精密検査を施す前に逃げられて≠オまった。あれ以後検査を続けたならば、あるいは血球数の異常を検知《み》られたかも知れない。
以上の事柄から、彼ら四人を狂わせた有害物質は、類似性を有しながらも、田部と後の三人の症状発生の間に、毒性の強いものに成長したと考えられないか。
三人の場合は精神錯乱と合併して顕われているのであるから、その未知の有害物質は、人間の精神を錯乱させる上に、白血球を減少させる効果≠有つものらしい。
それではその有害物質が何であるかということになると、三人が送られて以来、中診の総力を挙げての精密検査によっても、検出出来なかった。
患者と共に送られてきたT市立病院等のカルテによる報告から一歩も出られなかったのである。
「白血球減少か」
秋田は憎々しげに[#「憎々しげに」に傍点]呟《つぶや》くと、彼らを回診するために立ち上がった。いずれも診察室には来られないほどの重症なのである。
立ち上がった拍子に彼はフラッとよろめいた。
「先生!」
丁度その時、前日の精密検査リポートを持って来た吉田医務員が、素早く駆け寄り、秋田の身体を支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
吉田は心配そうに秋田の顔を覗いた。
「有難う、大丈夫ですよ」
秋田は強いて笑顔をつくった。
「あんまり無理せんといて下さいよ。先生は少し熱心すぎるからなあ」
「いや、本当に何でもありません。急に立ち上がったので、軽い|貧血を《たちくらみ》覚えたのです」
秋田はそういいながらも、それが決して軽いたちくらみでないことを知っていた。
ここのところ連日下らない微熱と、徐々に悪化してきた全身の関節の痛みから、秋田は自分の体内に確実なペースで増悪《ぞうお》しているものを感じ取ったのである。
「それより吉田さん、何か新しいことが見つかりましたか?」
秋田は微熱による倦怠感《だるさ》を隠して努めて明るく言った。人の善い吉田は秋田の演技≠ノてもなくひっかかった。
「いやあ、申し訳ない。目新しいことは何もなしですわ」
彼はいかにも自分の責任でもあるかのように大柄の身体を縮めて頭をかいた。
「あなたのせいではありませんよ」
秋田は慰めながらリポートを受け取った。
吉田が立ち去ったのを確かめてから、
「俺の滞在期間≠烽サろそろ終りに近づいたな」
と秋田は呟いた。そして一通り、リポートに目を通すと、
「急がなければ」と自分自身に命ずるように言って、悪寒しきりな身体を励ましながら病室の方へ向かった。
2
――お元気ですか、そちらではそろそろ八ケ岳の山稜《さんりよう》に雪が訪れるころと存じます。健一もすくすくと育ち、この頃はよちよち歩きをするようになりました。生意気に自分を主張するようになり、気に入らないことがあると、精一杯の言葉や動作で「いや!」を言います。また、ものすごく探検ずきで、何にでも興味を示し、引き出しをひっくりかえしたり、割れ目や隅っこを突っついたり、口に物を入れたりで、目を覚ましている間はじっとしていることがなく、少しの間も目を離せません。
一日一日と探検の範囲は大きくなり、自分の領土≠広げております。全く子供の成長の速さには驚いてしまいます。まだお宮参りをしていないのが気になって仕方がないのですが、出来たら、あなたのいらっしゃる時に親子三人|揃《そろ》ってと思っている間に、今年も残り少なくなってしまいました。
お宮参りは生まれてから一か月目といわれておりますが、子供に両親がつき添ってやってお参りしてこそ、本当のお宮参りの意味があると思います。でも、あなたのお仕事のご都合で仕方がないと諦《あきら》めています。きっとその日まで神様も待っていて下さるでしょう。私、健一の産土《うぶすな》神としてとてもいいお社《やしろ》を見つけましたわ。大宮神社のような有名な社ではありません。
家の裏の小さな川を浜田山の方へ溯って行くと、家並が切れて、小さな原っぱがあるのですが、その原の最も目立たない凹地に、やせた桜の木と灌木《かんぼく》の繁みに隠された小さな小さな社を見つけたのです。土地が低いので宅地に向かないのでしょうか、そこだけぽつんと空地になっていて、草が生い茂っています。社には名前なんかもちろんありません。今にも倒れそうな御堂の中にはくもの巣がいっぱいで、埃《ほこり》だらけの木像が一体ありましたわ。あれがご神体なのでしょう。お参りする人も全くいないらしく、お賽銭箱《さいせんばこ》すらありません。世の中から全く見捨てられたような神様、でもこういう流行《はや》らない神様≠アそ、大宮様や、明治神宮のように、神様のスターよりも、子供の将来を末長く見守って下さるような気がいたしますの。だって、スターの神様は氏子が多すぎて、とても一人一人の面倒まで見きれないでしょうからね。
私は健一の産土神はこの社に決めました。あなたはご異存ないでしょうか? それにしても今度の健一のお誕生日にはお帰りになれるでしょうね? お仕事の大変なことはよく判りますが、健一にとって初めてのお誕生は親子三人で祝ってやりとうございます。どうか今度はぜひぜひぜひ帰って来て下さい。そして一家|揃《そろ》ってのお宮参りを実現させてやって下さい。健一の最近の写真を同封いたします。それではご帰京の日を健一と共に楽しみにしております。いろいろと不便の多い土地柄、何卒《なにとぞ》ご自愛下さいませ。かしこ
祥子――
――人体実験の結果はその後いかが? 君からのリポートにより、Nガスはほぼ完成に近づいていることを知り社長共々喜んでいる。現在のままでも十分納入出来る品質を備えているのだが、社長の意向としては今一歩、病疾者や胎児に対してどのような影響を与えるか突きつめてみたいそうだ。これは私としても全く同意見で、ガス兵器という、非戦闘員をもその影響下におく惧《おそ》れのある化学兵器としては、胎児や病人に作用した場合の残存効果や残留毒性も徹底的に調べておかなければならない。そういうデータを全部|揃《そろ》えた上で、初めて完全な製品≠ニして米軍に引き渡せるのだからな。これからも精を出してNガスをより完璧《かんぺき》にするべく努めてくれたまえ。ところで、君にはまことに申し訳ないのだが、当初最も簡単に入手¥o来ると考えられていた妊婦と病人の生体――特に妊娠初期の女と心臓や肺に疾患を持つ生体がなかなか見つからないのだ。
妊娠初期の女は外見からではなかなか見分けがつかない。目立つようになった女は、たいてい妊娠届けを所轄の役所に出しているので何とも具合が悪い。
また、軽病人ならばいくらでもいるのだが、それでは健康者と類似のデータとなって意味がない。大体こういう疾患の持主は、殆《ほとん》ど加療中で病院の管理下にあるため、極めて購入≠オ難いのだ。
引き続き大原に探させているから、今迄《いままで》送りこんだ生体で実験を続けてくれたまえ。
なお、君の友人で日労災中央診療所の医師、秋田修平なる人物がしきりに君の行方を探している。まさか、Nガスのことを嗅《か》ぎつけたわけではあるまいが、どうも彼の肩書が気にかかる。
それにこれは当方の重大な手違いによるものだが、清里から休暇で帰省中の所員の中、三人が一時的|酩酊《めいてい》状態におち入り、事情を知らぬ家人が慌ててかつぎこんだ病院から日労災へ送りこまれてしまったのだ。幸い、三人の症状は大したことはなく、それぞれ二週間も経たぬうちに回復して本人の意志で本社付属病院へ移って来た。
彼ら三人共、全日本化成関係各所から清里へえり擢《ぬ》かれたエリートだから、めったなことで会社の不利益になるようなことを洩《も》らす気づかいはないとおもうが、何分、三人共、覚めた後全く何も覚えていない心神喪失状態におち入っているので、どんなことを口走ったか分らないのだ。それでなくとも、日労災にはニトログリコール中毒を多発して以来|睨《にら》まれているので、疑いを招いた惧《おそ》れが十分にある。
Nガス完成の前に日労災から干渉をうけることは社運を左右する重大事であるから、君もこの秋田なる人物を当分近づけないで欲しい。あるいは単なる友人として君に会いたがっているのかも知れないが、この際、少しでも危険性のあるものは一切、敬遠するにこしたことはない。
清里工場の存在は、極社秘に伏せられ、社内でも限られた人数きり知らされていない。君のほうも大丈夫だろうな。当分の間、出張員の休暇と家族への手紙の発信は差し止めるように。いささか人権無視だが、抵抗感を抱かせぬよう君から事情をよく説明して、業務命令ではなく、協力という形で管理してくれたまえ。なお、この度の事件で得た教訓だが、帰者中の症状発現はNガスに時限的効果もあることを暗示するものだ。三人のそれぞれの症状は帰省した夜、自宅で発現している。交代で休暇を取っているために発現日はまちまちだが、清里を離れてからほぼ同じ時間的間隔をおいておかしくなっているのだ。
作業中知らず知らずのうちにNガスを吸ったものと考えられるが、どの程度吸入したためにこのような時限的効果を顕したのか? 吸入量を操作すれば、時限効果まで自在にコントロール出来ないか? 等々の疑問につき当たる。
もし、Nガスに時限効果があるとすれば、これは素晴しい発明になる。三人が日労災の網にひっかかったのはまずかったが、けがの功名としてNガスの新たな可能性を提示してくれた。
現在休暇帰省中の者は十二人程いるが、症状が出たのはこの三人だけだった。他の九人もいつ発現するか分らないので、急遽《きゆうきよ》、本社付属病院に収容し、健康管理をしている。
三人の症状発現時の状況、日労災における精密検査の|控え《コピイ》、並びに本社病院のカルテを参考資料として同封する。鋭意開発を続けてくれたまえ。日時はまだ確定しないが、近々に一度、社長と共にそちらへ行く。確定次第連絡をする。その時に会えるのを楽しみにしている。 ――小野
3
大西安雄はその日朝受け取った二通の速達を昼近くになるまで繰り返し繰り返し読んでいた。特に妻からの手紙は今すぐにでも旅行|鞄《かばん》を提げて駅へ駆けつけたくなるような衝動を彼に与えた。
祥子の手紙と共に送られてきた数枚の我が子の写真には、人の子の親として殆どあらがい難い、吹きつけるような郷愁があった。
そのような効果を意識して撮ったのであろうか、素人のスナップにしては生き生きとした幼児の生活の一コマ一コマが実に見事に捉《とら》えられていた。
人の世の汚れを知らぬあどけない瞳、周囲を信じきった者ののびのびした姿勢、生まれ出でたばかりの健康でゴム鞠《まり》のようにむちむちした体、まっかなほっぺははちきれそうに弾み、あどけない表情のくせに、常に冒険と新知識といたずらのタネを探してがめつい。
鮮かなカラーの印画紙に焼きつけられた我が子は、仕事の虫の大西をも東京のマイホームへ向かって凄《すさま》じい力で吸引した。
「健一」大西は何度|呟《つぶ》き、そのスナップに頬ずりしたことであろうか。
彼は今まで妻や子のいる家庭へ、生活のウエイトをかけるマイホーム主義者を心の中で蔑《さけず》んでいた。
男と生まれて、仕事以外の何処にかけるべき生活の力点があるのか? 仕事は男の生命であり、家庭は、その仕事をするためのエネルギーを日々再生産するための休茶屋≠ノ過ぎない。――常日頃、彼はそう信じて、家庭の安息の中に定着することを自ら戒めていた。
そして今迄はそのことに対して大して努力する必要はなかった。
彼にとって家庭よりも仕事場のほうが遥かに充実した場所だったからである。だが、今にして初めて知った。
過去幾多の優秀な仕事師≠ェ、いとも簡単にマイホーム主義者へと転落して行った原因が。――
一握りの安息と片隅の幸福と、大西が軽蔑《けいべつ》していたものが、子供というものを中核に持って、何と大きな、殆ど天文学的な幸福へと成長することか。
価値の基準は仕事の生き甲斐《がい》から、「子供の幸福のため」にと驚くべき速さで置き換えられてしまう。
誰がよく子供の幸福より自分の仕事を優先することが出来よう? この子供の前には所詮《しよせん》、妻など他人のように遠い存在である。
写真の一枚一枚から現に生きているものの如く訴えかけてくる健一に、大西はいとも簡単に己の仕事を忘れ、身分を忘れ、東京の我が家を想《おも》った。
だが、これは別に大西が宗旨変えをしたせいではなく初めて子を持った父親の多分にもの珍しさの混った一時の感激にすぎない。彼が本当にマイホーム主義者へ転落したのか、それとも依然として仕事の鬼であるかを見極めるためには、もう少し子供が成長するまで待たなければならない。だから、
「今夜にでも一寸帰ろう」
と大西が内心ひそかに決めても、彼の心境の変化というにはあたらなかった。
我が子の写真に弛《ゆる》められた大西の表情が再びひき締ったのは、二通目の手紙を読んだ時である。
それは彼の直近上司である中研の小野所長からのものであった。Nガスの開発に関する限り、社命は全て小野を経由して下達されてくる。
清里への通話はまだ自動ダイアル化されておらず、交換局を経由しなければならないので、小野は秘密管理のために主要な指示命令は緊急以外全て手紙で言ってきた。もっともその手紙の文言は、一定時間を過ぎると自動的に消えてしまう特殊インクで|認め《したた》られていた。
休暇帰省した三人が日労災に送りこまれ、秋田が自分を探しているとの小野の報《しら》せに、大西は「秋田につかまると面倒なことになる」と直感した。
秋田とは卒業以来、殆ど会っていない。結婚式にちょっと顔を見たような気がするが、それもこちらが無数の参席者に囲まれていて言葉を交す機会もなかった。もちろん清里へ来る時も何の挨拶[#「挨拶」に傍点]もしていない。
その後、先方からも、こちらからも積極的に会おうとしていない。青春の友の懐しさにふと顔を見たくなることはあっても、その日その日の切実な営みに忙しく、互いにわざわざ会いに行くほどの労は取れない。
お互いに一時を割いて、ゆっくりと旧きよき昔を語り合うほどのひまもなければ、互いを必要とする切実な用事もなかったわけだ。
青春の友は菓子《ケーキ》のようなもので、あれば嬉《うれ》しいが、なくても、ちょっと口さびしくなるだけで、生きていく上にさし迫って困るということもない。
その絶えて久しく会わない秋田が、自分を探しているというのだから、彼の目的が青春の懐古談にあるとは思えなかった。
いや、大西にはよく分っていた。秋田が三人の帰省者と自分を容易に結びつけて、探していることを。
(あいつは学生時代から俺《おれ》が火薬類の研究に熱くなっているのを、うるさく諌《いさ》めたものだ。平和主義者の奴《やつ》にしてみれば、無理もないことだが、こっちはこっちでそれに命を張っている。いくら奴が無二の山仲間でもそれだけは聞けなかった。だが弱いのは奴に借り≠ェあることだ。穂高での借りを返していないだけに、面と向かって言いたてられるとちょっと困る。しかし、それとこれとは別だ。借りは借りで別の形で返せばよい。だがそれよりも――)
大西は眉根《まゆね》を寄せた。
(もし、彼がNガスの存在を知ったらどうだろう。恐るべき化学兵器として平和主義者の彼の信念に反するばかりでなく、Nガスの後遺症は秋田が生涯を賭《か》けている研究テーマと似ているのだ。そしておそらく彼は、あの三人の症状の中に自分のテーマとの類似性を発見したのだろう。いやそうにちがいない。だからこそ、二年の空白《ブランク》の後にこうも唐突に自分に会いたがっているのだ)
「これは会うと相当に面倒なことになるぞ」
大西は旧い友の一途《いちず》な熱っぽい目を思いだした。
二人で幾度かアンザイレン(ザイルで身体を結び合って)して攀《よ》じた氷壁やルンゼ、秋田の目はいつも天の上方の一角に熱く向けられていた。
あれと同じ目つきで諌められてはかなわない。これは小野所長に言われるまでもなく、敬遠したほうがよい。
しかし、それにしても時限効果とは今迄全く気がつかなかった。確かにそういう効果がNガスにあるとすれば、これはえらい発明発見である。
淡々とした小野の文面だが、大西には彼の興奮がよく分った。いや小野一人のみならず、緒方社長の喜悦が目に見えるようである。そうでなければ彼自身がわざわざこの山奥までやって来るはずがない。
清里工場が日本化成の社運を握るほどの要所≠ナはあっても、Nガスという秘密製品の開発を請け負っている関係で、あくまでも極秘裡に、本社との接触も極力避けていたのである。従って、本社筋の人間としては、小野一人が時折り顔を見せるだけで、表面上、清里工場は日本化成とは全く無関係に運営されていた。
それはそのように最初から定められていたことであり、それに耐えられるように所員は全てオール日本化成からのえりすぐりばかりを集めたのであるが、現実にこの浮き世離れのした高原というよりは荒原で、家族や社会から隔絶された生活をしていると、本社から忘れられたのではないかという寂しい疎外感が胸に滲み広がってくるのを、どうすることも出来ない。
リーダーの大西にしてそうなのだから、若い所員にはなおさらのことだろう。
その矢先に社長の来訪を告げられたのだから、さすがに大西も嬉しかった。
社員一同も奮い立つであろう。
しかし、社長が来るとなると、どんなに伏せても、やはり目立つ。秘密工場として清里の存在を絶対に世間の目から隠さなければならない日本化成にとって大きな危険を冒すことになる。
それだけに大西は、首脳部の熱意が分り、嬉しかった。その喜びが、健一の映像を彼の瞼《まぶた》から消し去った。
「誕生日には親子三人でお宮参りを」と切々と訴えてきた祥子の言葉も、社長の来訪という大事≠フ前に無惨にも踏み蹂《にじ》られてしまった。
大西は健一の写真をそそくさとデスクの中へしまうと、副所長の村山を呼んだ。
「十一月末に休暇帰省した中井、高橋、本田君の三人が、帰省前、最後にやっていた仕事は何か、出来るだけ詳しく調べてくれたまえ。特に、作業中、どの程度のNガスを吸入した可能性があるか、彼らの作業時と同一環境にして割り出してくれないか」
忠実な村山が彼の命令を履行するために去った時、彼の脳裡《のうり》から健一と祥子の面影は、そして、杉並の奥の空地にひっそりと隠れた小さな社や、その社に親子三人でお参りをする日の心の風景は、完全に駆逐されていた。
しかし、大西は祥子からの訴えを、仕事熱心な夫を家庭へ呼び戻すための寂しい妻の訴えとして聞くべきではなかった。
祥子の手紙は大西安雄の妻として、もっともっと切実な想いから夫に縋《すが》りついたものだったのである。
大西が仕事の鬼か、マイホーム主義者か見分けるためには、健一の成長をまつまでもなかった。
4
「中井、高橋、本田……それに田部定一か」
秋田は腕を組んで考えこんだ。田部がT市立病院から送られて来たのは昨年五月の末頃である。そのけったいな症状の原因が判らず、たまたま、田部と同じ勤務先の大西に事情を聞けば何か判るかも知れぬと連絡したところ、時を同じくして彼も出張していた。
しかも、社外秘の出張と見えて、その行先は遂に教えてもらえなかった。
そこまでは別に田部の症状と大西を結びつけて考えたわけではない。二人の相関関係を疑い始めたのは、大西家に祥子を訪ねた時である。
あの時秋田の誘導に乗せられて、祥子がついもらした大西の出張先「八ケ岳」と、田部が譫妄《せんもう》状態の時に口走った「八ケ岳」が一致した時、ふと、秋田は田部の症状の原因となった未知の有害物質は、大西が関係しているものではあるまいかとの疑いが胸に萌《きざ》したのだ。
それに、あの時の祥子の様子はどうも普通ではなかった。
「大西君はどちらへ?」
「八ケ岳のどちらへ?」
さりげなく誘導を重ねたが、祥子は必死になにかに耐えるようにして遂に明かさなかった。それはそのまま、大西が単なる出張ではないことを物語るものだった。
そしてあれ以来、すでに一年半近くなるが、大西が帰社した様子は見えない。
秋田が手を尽くして関係筋にあたってみても、大西の行方は杳《よう》として分らなかった。事実、日本化成の社員にしても、知っている者はなく、彼の行先は極く限られた少数の幹部の胸の中に畳みこまれているらしい。
これは単なる出張ではなく、転勤か配転とみたほうがよさそうだが、それにしても、これほどかたく秘した行先で、彼は一体、何をしているのか?……そしてこの度のあい次ぐ、日本化成系社員三人の症例である。大西が行方不明≠ノなってから、都合四名のけったいな患者が、日本化成並びにその関係会社の社員から発生したのだ。
秋田はふと思うことあって、カルテに記録された本田豊司の勤務先である千葉県S市にある大東化学工業を訪ねた。
彼は故意に昼休みの時間を狙《ねら》って行った。
人事課に電話で問い合わせても足りるかも知れぬ用事だったが、もし警戒されると、後の調査にもさしつかえるので、わざわざそのために一日を割いたのである。
大東化工は日本化成の子会社とはいえ、従業員四百名ほどのS市ではなかなかの大会社である。本社と工場をS市におき、主として日本化成の農薬部門の下請けをやっている。
彼はここで昼休みをキャッチボールや、バレーボールに興じている従業員を手あたり次第につかまえて、本田豊司のことを尋ねたのである。
予期した通り、反応はすぐにあった。さして大きくもない町の会社のこと、秋田が質《たず》ねた従業員の殆どすべてが本田を知っていた。
「本田さんは転勤しましたよ。そう……たしか去年の四月頃でしたね。日本化成の大阪工場とかいったな。大した栄転ですよ、何しろ、あの人は腕がよかったからね」
彼らはキャッチボールの手を休めて、そんなことを教えてくれた。子会社から親会社の、それも主力工場への転勤なのだから、彼らにしてみれば「大した栄転」なのだろう。
なおも質問を重ねて、秋田は、本田が大東化工でも指折りの化成肥料通≠フ技手(大東化工では腕のいい工員を一般工員から区別して技手と呼ぶそうである)であったことを知った。
そして更に彼は、同じ頃、本田と共に大阪工場へ転勤になった数名の技手がいたことを知った。
殆《ほとん》どその土地の青年である従業員は、本田の友人だと名乗る秋田に、何の疑念も抱かず教えてくれたのである。
彼は日本化成のT工場にも廻《まわ》り、同じ要領で、田部、中井、高橋についても本田とほぼ同様の情報を得た。
秋田は直ちに彼らが転勤して行ったと言われる日本化成大阪工場へ電話を入れて、四人がそこにいないことを確認した。
(本田、田部、中井、高橋の四人は、昨年四月、大西が出張≠オた頃とほぼ時を同じくして大阪へ転勤≠ノなった。しかも、彼らは大阪へは行っていない。同じ頃、大東化工やT工場で彼ら以外にも転勤になった者はかなりいる。それ自体には少しもおかしいことはない。丁度あの頃に、日本化成において大幅の人事異動が行なわれたのかも知れないのだ。しかし、判った限りの異動の対象が全て技術系、それも火薬や農薬部門の人間であるのはどういう訳か? しかも、これらの異動は極めて秘密裡に行なわれている。
判っただけでも、T工場と大東化工から、十数名、有機化学の腕ききがほぼ時を同じくして消えている。もっと突っ込んで調べれば、日本化成系の工場や、関連事業所における技術系の、行先が曖昧《あいまい》な異動は更に浮かび上がるだろう。
日本化成はどこか秘密の場所で何かをやっている。その何か≠ヘ大量の有機化学系の技師を必要とするものだ)
ここまで考えてきた秋田の耳に、前の患者田部と、後の患者中井ら三人の譫妄《せんもう》状態における譫言《うわごと》が甦《よみがえ》った。
四人四様にてんでんばらばらの譫言であったが、注意して聞いていると、四人に共通した単語がいくつかあったのである。
曰く「八ケ岳」「牢獄」「蜘蛛《くも》」「毒ガス」
「毒ガス!」
秋田は思わず出した自分の声に愕《おどろ》いて顔を上げた。
ベトナム戦争のエスカレートに比例して、日本における米軍の軍需物資の調達は益々《ますます》大きくなっている。その中で特に火薬産業の大手としての日本化成が、ベトナム戦用の非人道兵器として悪名高いナパーム弾の製造を、一手に引き受けているとの疑いを受けてから久しい。
その容疑は一昨年八月、日本化成が群馬県の白根、万座、小串などの硫黄《いおう》鉱山に大量の硫黄を発注したことから殆ど決定的なものとなった。
日本化成中研の若手ホープとして大西が、ナパームの製造に熱くのめりこんでいたことは、あの頃まだ入社歴浅く、企業の秘密というものの理解の浅かった彼の、何気ない、それでいて気負った言動から推定出来た。
いや、推定ではない。彼が主力となって強力なナパーム弾を開発していた事実は、当時秋田に心を傾けていた祥子からも洩《も》れ聞いたことである。
大西は、彼女の心が秋田に傾いているとも知らず、多くの善良な男達が女の心を捉えるためにするように、語りきれぬもどかしさを覚えながら、自分の仕事の全てを祥子に打ち明けていたのだ。
恋する者同士は、どちらかより高く熱を上げているほうが、より多くの自分を相手に語りたがるものである。
祥子が大西の裡の仕事を知っていたという事実は、それだけ大西の彼女への傾斜を示すものであり、そして祥子がそれをあえて秋田に伝えたということは、そのまま、彼女の秋田への傾斜を語るものであった。
秋田はその知識の提供者を悟られないように、言葉を注意して選びながら、それとなく、しかし、強く大西を諌《いさ》めた。
だが、大西はせせら笑った。
「発明者はただ作っていればよいのさ。作ったものがどう使われようとそれは作った人間の知ったことではない」と。――
本当に作者は作品[#「作者は作品」に傍点]の用途に責任がないのだろうか? いやそんなことはない、決して、――と秋田は思った。
確かに火薬の用途は兵器だけではなく、むしろ、それがなければ現代諸産業が機能しないほどの重要な物質である。使い方いかんでは、人間に災厄と幸福を同じ可能性でもたらす両刃の剣≠生産する者としては、人間を殺傷する側の刃を露出することのないよう、常に厳重に管理するべく責任を負わされている。
だが利潤の追求をその存続のための絶対の条件とする企業が、両刃の剣の生産者であってみれば、どちら側の刃を露出するも利潤次第ということになる。
要するに、より多くの利益をもたらす側のためにその刃は使われるのだ。
そして両刃の剣は人間の幸福のために振るうよりは、人間を殺傷することに使ったほうが、より多くの企業的利益をもたらす場合が多いのである。
日本化成は、今や、ベトナムという一大市場と、米軍という空前の大顧客を得て、火薬を本来の用途から大きく逸脱した用途のために量産している。
そして今、ベトナム市場≠ノは国際法を無視した毒ガスが出廻り[#「出廻り」に傍点]始めている。どうやらそれも、日本製らしい。
「毒ガス!」
ここまで思いきたって秋田は唇をかみしめて呻《うめ》いた。
(そうだ、毒ガスだ。ナパーム弾を作った日本化成に毒ガスを作れぬはずはない。単に設備や技術上の問題だけではなく、『毒喰わば皿まで』と精神的にも道徳不感症[#「道徳不感症」に傍点]になっているのだ。まして、毒ガスは通常の農薬生産技術や工場を転用して簡単に生産出来る。これで、昨年四月、日本化成における農薬系技師の大量の異動と、ここあいついだけったいな症例の説明がつく、大西が作っているもの[#「もの」に傍点]は毒ガスなのだ)
「何ということを!」
山で最もイキの合った山仲間《ザイルパートナー》が、実社会に出ると、最も自分が忌み憎むものの開発に携わっている。
共に雪渓をつめ、氷壁を攀《よ》じ、尾根を渡った仲間、一本の友情のザイルに生命の危険を分かち合った無二の友が、このような地獄の兵器の生産に専従している。
毒ガス、――それもただの毒ガスではない。人間の精神を錯乱させ、白血球を減少させる[#「白血球を減少させる」に傍点]恐るべきガス。「お客としての短い滞在期間」の全てを捧《ささ》げて追究しているあの症状[#「あの症状」に傍点]、自分の滞在期間に間もなく終止符を打つであろうあの障害[#「あの障害」に傍点]と一脈相通じるものがある症状を発現させる毒ガス。
それの開発生産者が大西とは! そしておそらく彼はそれに自分の命を賭《か》けている。
これが二人のそれぞれの生き甲斐《がい》であるとすれば、何とそれはかけ離れたものであり、もしこれが、社会を生きるための方便≠ナあるとするならば、わずか数年の間にただ一人の友すら生きていくためには、もはや互いにあい寄ることの出来ぬ距離に分け隔ててしまった、何と社会とは、酷《きび》しくも無惨なところであるか。
しかし、秋田はそれを嘆くよりは、大西が身に蓄え備えた知識と才能を、死の商人を富ますために蕩尽《とうじん》して悔いない感情の鈍麻が悲しかった。
大西安雄は決してそんな男ではなかった。アルプスの高燥な大気の中で共に青春を分かち合った時、彼は未来の日本の「有機化学の泰斗」の夢を虹のように語ったものだ。
山麓《さんろく》の樹林ごしに憧憬と焦燥のあい半ばした心で紺碧《こんぺき》の空を共に見上げた時、息もつけぬような横なぐりの風雪の山頂で束《つか》の間の登頂の歓喜を分かち合った時、血のような残照を浴びながら何か新しいものを創造した後のような充《み》ち足りた気持を抱いて山を下った時、大西安雄は決してそんな男ではなかった。
ひたむきに山を愛し、己が選んだ学問の可能性を追求する、純粋で熱っぽい若者だった。
それをこのように変質≠ウせたものは一体、何か?
――分水嶺――
そうだ、あの時だ。卒業記念に二人で冬の穂高をやった時だ。
二人はあの時、穂高のナイフエッジを挟んで飛信濃の二つの空間へ墜《お》ちた。幸い、二人の身体は一本のザイルにつながれて、エッジを振り分けに支えられたが、二人の心は分水嶺に分かれて落ちた二粒の雨滴のように、穂高の障壁に隔てられて再びあいめぐり逢《あ》うことのない二つの渓谷の深処へ墜ちてしまったのだ。
まだ別に、大西と毒ガスの生産を結びつける決定的なものを、秋田は掴《つか》んだわけではなかったが、彼はすでに自分の推定を信じて疑わなかった。
「大西に会わなければならない」
どうしてもだ――我と我が心に言い聞かせた時、彼の瞼《まぶた》に浮かんだのは、不思議と大西ではなく、祥子の面影だった。
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喪われた誕生日
1
秋田が麹町寮の自室へ帰って来た時はとっくに夜が落ちていた。途中、新宿のバーで軽く入れたアルコールはとうに醒《さ》めている。師走の冷たい夜気に晒《さら》されて帰って来た身を迎えてくれたものは、それ以上に冷たく澱《よど》んだ室内の重い空気であった。
朝、部屋を出る時には気がつかなかった自分の体臭が、主《あるじ》の留守の間、何ものにも乱されることなく部屋の隅々に屯《なむろ》し、発酵したように、佗《わび》しく鼻腔《びこう》をついた。
それは全く佗しい臭いであった。万年床やその枕元《まくらもと》の汚れた灰皿や、底に少しばかり内容物を残したポケットウイスキー瓶《びん》や、読みさしの雑誌や|流し《ベーシン》に放り出されたままの食物の残渣《ざんさ》をこびりつかせた食器や、中身のなくなった練歯磨きのチューブなどが朝出た時の乱雑な位置を忠実に守り、それら種々雑多な臭いが、部屋に沁《し》みついた自分の体臭と攪拌《かくはん》され、夜更けて帰る主人によって再びかき乱されるまでしんと重苦しく澱んでいたのである。
それは正しく独身者の臭い≠ナあった。彼はこの臭いを嗅《か》ぐ度に、原宿の香澄のアパートが恋しくなるのである。
だが、この夜に限って秋田は香澄の部屋を想《おも》わなかった。彼が今、冷えきった身体を独身者の臭いに包まれてたたずみながら想った場所は、つい数時間程前に身を置いていた大西家の暖かい空気だった。
突然訪れた秋田を祥子はまるで予知していたかのように迎え入れてくれた。昨年、秋田が初めて訪れた時は、まだ祥子の胎内にいた子供は、すでに大西家の暴君《ネロ》に成長していた。
ネロの暴れ廻るのをあやしながら秋田をもてなした祥子には、以前にはなかった母親としての貫禄が備わったように見えた。
そこにはもはや、秋田などの入りこむ余地は全くないように感じられた。まだ子供が生まれる前ですら祥子は大西の妻として、秋田の問に答えるのを拒んだのである。
今はあの時よりも夫婦の連帯は強まっているはずであった。
よい夫と子に囲まれた幸福な妻の何処に、第三者のつけ入るすきがあるか? だが、何としても大西の行方は探さねばならぬ。そしてそれをたぐる唯一の可能性は、今や祥子だけなのだ。
青春への甘えであろうが、昔の女≠ヨの自惚《うぬぼ》れだろうが、とにかく少しでも可能性があるかぎり、それに縋《すが》りつかねばならない。
秋田は夫の留守に人妻を訪ねる不躾《ぶしつ》けを承知で、必死の思いで祥子を訪ねた。
今回の訪問は前回のそれよりも冷たく待遇《あし》らわれるはずであった。
ところが祥子は、案に相違して暖かく迎え入れてくれた。秋田の訪意は、彼の面を見ただけで悟ったはずであるのに、祥子は旧い友としての懐しさを満面にたたえて招じ入れてくれたのである。
懐しさをこぼれんばかりにたたえた表情は、殆ど旧い恋人にめぐり逢ったようであった。
「何だか、お窶《やつ》れになったよう」
秋田の身体を暖めるために、応接間へストーヴや、暖かい飲物を運びながら彼を見た祥子の目は、肉親《みより》の健康を気づかうようなしみじみとした愁いを帯びていた。
秋田はその時、祥子を訪れた目的も忘れて不覚にも涙ぐみそうになった。
「俺は間違っていたのではあるまいか?」
その時、ふとその疑問が心に萌《きざ》したのである。
(祥子は大丸で「客」としての自分をもてなすために、その全てを傾けようとしたのではなかったろうか? 客に供すべく用意されたものは、客から辞退された時、その存在の理由を喪《うしな》ってしまう、祥子は……? あの時すでに俺が客であることを知っていたのではあるまいか? とすれば、祥子はあの大丸の夜[#「大丸の夜」に傍点]以来、自分の存在理由を見失ってしまったことになる。馬鹿な! そんな馬鹿なことがあろうはずはない。俺の思いすごしだ。第一、彼女が俺の体の秘密を知るはずがない。彼女は最も幸福な妻であり、母なのだ。こんなことを悟られてみろ、自惚れもいいかげんにしろと嗤《わら》われるぞ)
秋田は自らを戒めた。
何故そんな勝手な感傷を覚えたのか、理由ははっきり分らない。
ただその時、祥子の目の中に自分のさがしあぐねた心の故郷の風景を見出したような気がしたのだ。長い流浪の旅の末、再び故郷へ帰って来た時、人間は涙ぐむのであろうか。
もし、人間の心の中にそういう感傷がまだ生き残っているとすれば、秋田の乾ききった瞳をふとうるませたものは、正しくその種のものであった。
そしてその感傷が、秋田に幸いした。感傷はそのまま甘えとなり、母として、妻として不動に見える祥子に、前回と同じ質問を重ねることが出来たからである。
祥子は秋田に瞳をからめながら長いこと黙っていた。子犬のように彼女の膝《ひざ》にじゃれていた小さな暴君も、何故かその一時はおとなしくしていた。
石油ストーヴの炎が暖かく赫《あか》い。その炎に吸われてタンクの中をゆるやかに減っていく石油の音が、室内の静寂を一層に深めた。
赫く暖かそうな炎の色、コトンコトンと一定の間隔をおいてたてる石油の、小さな可愛らしい減量音。
あれこそ家庭の暖かさであり、あれこそ家庭の音だ。
つい数時間程前に身を置いていた空間と、そして今、自分を包んでいる空間とは、何と大きな相違があることか。
秋田は大西家の暖かさが胸の痛くなるほどに恋しかった、と同時に罪悪感に近い後めたさを覚えたのである。それは人妻としての祥子やその夫の大西に対してではない。香澄に対してである。
ストーヴや暖かい飲物ならば香澄のところにもある。女一人の狭く住心地のよい部屋だけに、物理的には、香澄のところのほうがもっと暖かいだろう。
(――それなのに俺は今、大西家を恋しがっている。ああ! それは大西家ではない、大西家に居る祥子なのだ。
香澄によって完全に洗滌《せんじよう》されたと思っていた俺の心には、祥子が執拗《しつよう》に生き続けていた。
それとも、会ってきたばかりの人間の余韻であろうか、それにしても何と強烈な余韻だろう。――)
秋田の心の中で香澄が必死に呼んでいた。だがあまりにも強く尾をひく祥子の余韻の前に、香澄の呼び声は消されてしまった。
「大西君は何処へ行ったのです」
「八ケ岳の何処へ出張したのですか?」
「教えて下さい!」
必死に質《たず》ねた秋田に、祥子は長い沈黙の末に答えた。
「今月の十六日にもう一度いらしっていただけません?」
「それはどういうことですか?」
「どうぞ、これ以上聞かないで下さい」
「大西君がその日に帰って来るのですか?」
「お願い、いらしって下されば分ります」
祥子の口調には必死のものがあった。秋田はしいて畳みかけなかった。もう一度来いという言葉の裏に、前回とは異なる希望的なふくみが感じられたからである。少なくとも、それは拒絶ではなかった。
そこに秋田は、祥子の好意と感情の推移を読んだ。
「とにかく、十二月十六日まで待ってみよう、どうせ、すぐのことだ」
祥子から大西の行方を知ることが出来なければ、直接八ケ岳へ足を運び、あの広大な山域を自ら探して歩くつもりであった。
「八ケ岳が見える」所といえば、山梨県の北部と、長野県の中東部であるが、秋田は田部の逃亡′縺A両県下の関係官庁に問い合わせて、同地域内に日本化成関係の工場や研究所が全く新設されていないことを確かめている。
既存のものとしては、わずかに松本市の郊外に同社のカーリット工場があるが、そこからでは八ケ岳は見えない。
その設備≠ェ別名義になっていることも考えられるので、なおも関係官庁にあたってみたが、それとおぼしきものは見当たらなかった。
その後、類似患者の発生もなく、日々発現する新症例に追い廻されている間に、心の隅にかかる雲として気にしながらも、それに専従することも出来ず放置した形になっていた。今度こそ是が非でも探し出さねばならぬ切羽つまった気持に、秋田はなっていた。
(狂人の目にも明らかに八ケ岳と映ったからには、よほどその眺めが見る者の目に迫る所だろう)
八ケ岳と一口に言っても、長野県内を北西から南東に、山梨県境にまたがって走る長大な火山連峰である。「多数」を意味する八の字のはるかなる末広がりの中には、主峰赤岳(二八九九米)を盟主に二千米を越える山は二十座、それに続く霧ケ峰、美ケ原などの火山性台地なども含まれる。
奇しくも例の四人が譫言した「八ケ岳の山頂に立つ人が見える」の八ケ岳[#「八ケ岳」に傍点]は、はるかな距離をおいて眺めたものではなく、近々と眉《まゆ》にせまるばかりの山麓《さんろく》からふり仰いだもののようだ。
田部ら四人が山にあまり興味を持たぬ人間であることからみて、それは八ケ岳の中の八ケ岳[#「八ケ岳の中の八ケ岳」に傍点]、即ち、本峰群とみてよいだろう。それも「八ケ岳の頂」と言うからには、連峰の総称ではなく、ある特定の山を指したのではあるまいか?
総称を、代表するものの固有名に代用することはよくある。とすれば、彼らが八ケ岳と呼んだ特定の峰として最も無理がないのは、もちろん、――八ケ岳山群の最高峰であり、盟主である赤岳である。
赤岳の山麓となれば、大分限定されてくる。何故このことに早く思い至らなかったか。秋田は自分の思考の鈍さを自責したが、四人の譫言の一致と、彼らに見られたある症状≠ニ、彼が追求するテーマとの関連性を見出すまでには、やはりこれだけの時間の経過が必要だった。
――今度こそ見つけ出してやる――
秋田は意気込んだが、その意気込みを一時抑えたのが、祥子の言葉だった。
この際、わずかな時間の浪費も惜しかったが、十六日まであと一週間である。
「とにかく、その日まで待ってみよう」
秋田は昔の女の言葉の底に、微妙に揺れる感情の波を見た。
大西家を辞してからも、祥子の言葉は秋田の耳に響いていた。その言葉のもつ意味を反芻《はんすう》しながら、秋田は探しあぐねた大西の行方に一歩近づいた喜びよりは、祥子にもう一度会える悦《よろこ》びに、心を弾ませた。そしてそれ故に、香澄にうしろめたさを覚えたのである。
2
秋田が去り、健一を寝かしつけてから只一人の時間が戻ると、悔いが祥子の心を苛《さいな》んだ。
秋田から大西の行方を訊《き》かれた時、何故、きっぱりと拒《は》ねつけなかったのか? 何故、十六日にもう一度来いなどと曖昧《あいまい》なふくみを持たせたのか?
ストーヴの石油が尽き、部屋の中に微《かす》かな異臭を残して炎が消えた後も、祥子は襟《えり》に頬を埋めこむようにして自分の思いを追っていた。
突然の秋田の訪問に愕《おどろ》かされたことも事実だったが、大丸からすでにまる三年経ち、もうすっかり心の整理が出来たとおもったのも束の間、今日その人を目の前にして、実はそんな整理が全然出来ていなかったというよりは、全く何の役にもたたない事実を思い知らされたのである。
あの呼び鈴に応《こた》えて出た玄関に、思いもかけぬ秋田の姿を見出した時の心のざわめき、あれは大丸の頃と少しも変りないときめきではなかったか。
大西という夫を得を、今、健一という分身を持った自分が、処女の頃、初恋の男に対して抱いた想いと全く同じ想いを、同じ男に対して暖め続けていたというのは一体いかなる心の屈折であろうか?
妻となり、母となったこの三年間は、その身分を取得する前の心に棲《す》んでいたものを少しも洗滌できなかったのである。
彼女は今さらながら秋田が自分の心に残した刻印の深さに驚いた。同時に、自分達の生活を支えるために荒涼たる山中に閉じこもって暗い開発に専心している大西に対して、大きな不倫をおかしたように感じた。
いや不倫は現におかされたのだ。秋田が去って数時間も経つのに、いまだに揺れ騒いでいるこの心が何よりの証拠ではないか。
たとえ、躯《からだ》の不倫はおかさずとも、この三年間、心に毎日不倫を積み重ねてきたのだ。
家庭をかえりみず仕事一途に打ち込んでいる男の妻の寂しさが、心の空洞を生んだとばかり思っていたが、そうではない。他の男を心に棲まわせた妻を敏感に悟った大西が、寂しさを紛らせるために暗い開発にのめりこんでいったのではなかろうか。
旧い男によって、よび覚まされた旧い慕情が熾《はげ》しかっただけに、祥子は罪悪感と共に反射的に大西を想った。
この場合、大西を想うことにより、自分の心の不倫が多少なりとも償われるような気がしたのである。
秋田への思慕が強ければ強いほど、大西を想わなければならぬ。多分に義務感を伴った夫への想いであったが、同時に、必死に夫へ縋りつくことによって、不倫の傾斜から身をたてなおそうとする妻の本能的な自衛でもあった。
十二月十六日、即ち、健一の誕生日にもう一度来てと秋田に言ったのは、秋田への思慕と、夫への想いが、まっこうから衝突して火花を散らしたためだ。
大西は十二月十六日には必ず帰って来てくれる。健一の誕生を祝うために、そして何より私を不倫の崖《がけ》っぷちから引き戻してくれるために。
祥子は激流のように秋田へ傾きかける自分の心を必死に堪えながら、夫へ手紙を書いた。彼への手紙は、心の傾斜をたてなおすための|錘で《おもり》あった。
今こそ、祥子にとって大西が必要な時であった。結婚してこのかた、祥子がこれほど切実に夫を求めたことはなかった。
祥子は手紙の末尾に「ぜひぜひぜひ帰って来て」と書き添えながら殆ど祈るような気持になっていた。
3
その日は土曜日であった。日労災は急迫の症例が発生しない限り、午前の診療をもって終る。
五時頃という時間の指定をうけていたが、秋田は事務的な後片づけをすますと、少々早いとは思ったが、すぐに大西家へ出かけた。
それでも大西家へ着いた時は、傾くに早い初冬の陽が武蔵野の末に落ちかかっていて、約束の時刻より早目の訪問があまり気にならなかった。
「お待ちしておりました、どうぞ」
呼び鈴に応じて迎え出てくれた祥子の頬は心もち紅潮しているように見えた。靴を脱いで上がりがまちに足をかけた時、やや強い香水の香りが秋田の鼻腔に広がった。もちろん、祥子の躯から発したものである。
秋田は「おや?」というような面持ちをして、彼のために上履きを揃《そろ》えてくれている祥子の横顔を改めて見直した。
常よりも、といっても、ごく稀《まれ》にしか会わないが旧い友として知っている祥子を包む香りとしては、やや強過ぎるように感じられたからである。
そういえば、唇に刷かれた紅もやや濃いようだ。
祥子としては[#「祥子としては」に傍点]、やや強く濃い香料やルージュが、別人のようなアクセントを彼女につけていた。
「秋田さん、こちらの方へ」
秋田が過去二回の訪問で通された応接室の前に立ち止まると、祥子は秋田の先へ立って、更に奥へと導いた。
通された部屋は大西家の茶の間であった。
「これは!」
秋田が部屋の入口でちょっと立ち竦《すく》むようにしたのは、一家の主の留守、若い妻だけの時に、その家の本丸≠ニもいえる茶の間へ招じ入れられることに後ろめたさを覚えると同時に、その部屋の中の模様にちょっと驚いたからである。
「オジ……シャン、マンマ、パイパイね」
子供が舌足らずの口で何かいいながら秋田の上着の裾を引張った。
「これこれ、健ちゃん、お客様においたをすると、メですよ」
祥子は若い母親の顔で子供をたしなめると、秋田の方を向き、
「父親が居ないものだから寂しがって、男の方が来るととても喜ぶのですよ。ご用聞きなどが来るとまつわりついちゃって」
「可愛い坊やですね、大西君によく似ている。今、何と言ったんですか?」
「おじちゃん、ご飯がいっぱいあるよって」
「ははは、ご飯がいっぱいあるか、ほんとにいっぱいあるねえ、いい子だ、坊や、いくちゅ?」
子供は可愛らしい親指をたてた。このような場合、人差し指を出すものと思っていた秋田は、いかにも子供らしいそのしぐさに心の底が和むような気がした。
「そう、一つか、坊や、お利口さんだねえ」
秋田が小さな頭を撫《な》でてやると、子供は母親似の大きな瞳に人なつっこい笑みをいっぱい浮かべて秋田にまつわりついてきた。秋田はその人なつっこさに、父親と離れて暮らす子供の寂しさを見たように思った。
「今日でちょうど満一歳になったのです。よその子に比べて赤ちゃんで」
祥子が補足するように言った。
「今日で満一歳!」
「今日がこの子の誕生日なのです。秋田さんにも一緒に祝っていただこうと思ってお招きしたのですが、ご迷惑ではなかったかしら」
祥子は心もち首を傾げて微笑した。
「そうだったのですか」
秋田には初めて部屋の中の模様と茶の間へ招じ入れられた理由が納得出来たのである。
六畳ほどの茶の間の中央にしつらえられた食卓には、ローソクを一本立てたケーキを中心に、大半は祥子の手づくりらしい様々な料理が、にぎにぎしく並べられてあった。
「マンマ、パイパイ」と子供が言ったように、母の心を尽くした料理の数々が、いかにも食欲をそそる多彩さで食卓から溢《あふ》れんばかりであった。
食卓を囲んで四つの座布団――中一つは子供用のものが置かれている。
「そうだったのですか」
秋田は再び言った。
一人息子の初の誕生日とあれば、いかな仕事熱心の大西であろうと必ず帰って来るであろう。
祥子は息子の誕生日にかこつけて、大西の行方よりは、彼そのものを秋田に会わせようとしたのだ。
「祥子さん、有難う」
秋田は祥子の好意が胸に迫った。
「それで大西君は?」
「まだなんですが、もう間もなく帰るでしょう、六時頃から始めると言っておきましたから」
「もう会社の方へは帰って来ているのですか?」
「いえ、出先から直接帰って来ると思います」
「帰京するという返事はありましたか?」
「別に返事はよこしませんけど、必ず帰って来ます。きっと時間ぎりぎりに駆けつけてくるでしょう」
祥子は自信をもってというよりは、自分自身に信じこませるように言った。
「他ならぬ坊やの誕生日なのだから、もっとゆとりをみて帰って来ればいいのに」
秋田はややあきれ声で言った。大西のそういう気質は知っていたつもりだが、一人息子の誕生パーティへ局から局へ駆けまわる人気タレントのように、時間ぎりぎりにならなければ姿を現わさない大西の神経についていけないものを感じた。
何もかも捨てて、仕事に傾け尽くしている様子である。そして、その仕事[#「仕事」に傍点]こそ、秋田が全力をあげて阻止《そし》しなければならぬ性格のものだった。
大西とてその仕事のために、妻を捨て、子を忘れ、家庭を顧みずに打ち込んでいるのである。簡単な説得で思い止まろうとは考えられない。
となれば、ここに真正面に対立する男と男の意志が、何の緩衝もおかずにまっこうからぶつかることになる。
おさな子のためのささやかな祝宴は、二人の成人の信念の対立によって無惨に踏み潰《つぶ》されるかも知れない。
祥子はそれを承知であえて、秋田を招《よ》んだのである。
「健一、いけません」
母に何度|叱《しか》られても、子供は秋田の膝《ひざ》にまつわりついてきた。
「いや、いいんですよ、子供って可愛いもんだなあ」
「秋田さんも早くご結婚なさったら」
祥子が努めてさりげなく言った。
「いや私のような貧乏医者の所には来てくれる女《ひと》がいませんよ」
瞬間、秋田の瞼の裏に香澄の映像がよぎったが、強いてそれを振り捨てるように言った。
「そうかしら?」祥子は謎めいた微笑をたたえて、
「たしかそういう理由ではなかったはずよ」
と言った。それが大丸の夜のことを言っているのは判った。
その時、秋田はあれほど祥子に迫られながら、遂に祥子を受け容《い》れられぬ理由を言わずに通した。
祥子が大西との結婚を決意したのもあの夜である。祥子の真意が判り、そして自分も心と身の全ての部分で祥子を欲していたのにもかかわらず、二人は結ばれなかった。あの時の切なさは、時間の彫琢《ちようたく》のおかげで表面の形は変っても、今も心の底深くに同じ質量で生き続けている。
祥子もおそらく同じであろうと推しても、彼女の表情や、態度から、あながち自惚《うぬぼ》れとはなるまい。
口先は秋田に結婚を薦めても、祥子は秋田の独身の持続にどれほど救われているか分らない。だからといってそれを女のエゴイズムとは言えまい。はっきりした理由も告げられずに愛を斥《しりぞ》けられたのは、祥子だからである。
女の身にとって、それは大きな恥辱のはずであった。
だが、秋田には今更改めてその理由を告げて、弁明するつもりはなかった。今、告げるくらいならば、あの時に言っている。もう間もなく判ることなのだ[#「もう間もなく判ることなのだ」に傍点]。
彼は祥子の誘導の底に、彼女の切なさを犇々《ひしひし》と感じながらも、わざと空とぼけて話題を転じた。
「遅いわねえ」
時計が六時を回るとさすがに祥子もそわそわしてきた。表に車の音が近づく都度、全身を耳にする。それが空しく走り去ると共に、落胆の中に緊張を弛《ゆる》める様子がよく分った。
小さな暴君はとっくに食卓を荒らし始めていた。
「何ですか、お行儀の悪い」
祥子は叱りながらも、子供の正直な食欲を抑え続けることが出来なかった。
「遅くなるかも知れないから私達だけで始めましょう」
祥子は思いきったように言った。しかし、彼女はまだ、よもや大西が欠席≠オようとは考えていないようであった。
「せっかく、今まで待ったんだ、八時まで待ってみましょう」
秋田は今にも鳴きだしそうな腹の虫を、必死に抑えた。
結局大西は八時を回っても来なかった。
「きっと何か急用が起きたのでしょう。今夜遅くなってから帰るかも知れませんよ」
秋田はそう言って祥子を慰めるしかなかった。彼女は表面には感情の動揺を現わさなかったが、一人息子の初の誕生祝にすら時間を割こうとしない夫に対して心を硬くしている様子は、極端に少なくなった言葉数からも察せられた。
座は白けたものになった。大西が座るべき座の空白が、四方に侵出し、益々《ますます》空気を白く凍らせていく。
今まで機嫌のよかった子供が急にむずかり始めた。眠くなったのではなく、その場のムードを敏感に悟ったからであろう。
「健ちゃん、おねむになったのね、それではおじちゃんにおやすみをなさい」
聞きわけよく秋田に頭をペコリと下げて、祥子につき添われ寝間へ去って行く幼児の後姿には、父に忘れられた子の寂しさが貼《は》りついている。
秋田は帰るべきだと思った。これ以上留まるのは祥子に恥をかかすことになる。
子供を寝かしつけてから、祥子が再び茶の間へ帰って来た時、彼は思いきりよく立ち上がった。立ち上がった瞬間、例のめまいがきた。秋田は後背を壁にさりげなくもたせかけて、辛うじて祥子に気づかれるのを免かれた。
「大変ご馳走《ちそう》になりまして」
「あらっ」
祥子は驚いたような声を出して、
「まだいいじゃありません?」
「いや、もう大分遅い。そろそろおいとましましょう」
「すみません」
祥子は秋田を帰らせることが自分の罪でもあるかのように頭を下げた。
「大西君は今夜遅くにもきっと帰って来ますよ」
「いいのです、あの人のことは。でも、せっかくいらしっていただいて本当に悪いわ」
「彼に会えなかったのは残念だが、また、機会があるでしょう。それより、健ちゃんが可哀想だ」
「あの子は馴《な》れていますわ」
祥子の口調に諦《あきら》めがあった。
「失礼します」
秋田は一揖《いちゆう》して部屋を出た。まだめまいは去っていなかったが、それ以上、祥子と向かい合っていることに息苦しさを覚えていた。
さして広くもない家だが、玄関までの廊下がやけに長く感じられた。上がりがまちの手前へ差しかかった時、背中に忍びやかな衣《きぬ》ずれが聞こえ、祥子が後を追って来た気配が感じられた。
「秋田さん」
祥子が呼びかけるのと、彼が振り向いたのと殆《ほとん》ど同時だった。
祥子は自分から呼びかけておきながら、振り向いた秋田の視線に出会うと、何かに必死に堪えるもののようにおし黙った。
「では……」
秋田が別れの言葉を告げようとした時、祥子は長い間、耐えていた想いを打ち明けるように、
「清里におりますの」
と言った。
「きよさと?」
突然、何の連絡もなく告げられた言葉の意味をはかりかねて秋田は繰りかえした。
「大西は八ケ岳の清里にいますわ。美しの森の傍にある地獄谷に、日本化成の匿名工場があるはずです」
漸《ようや》く秋田に祥子の言葉の重大な意味が判ってきた。彼女は夫を裏切ろうとしているのである。この場合、秋田にとって唯一の気休めになることは、彼女が秋田のためにではなく、大西家にとって絶対に欠かしてはならない重大な行事をすっぽかした夫への報復のために、それを告げようとしていることであった。
秋田はそこに救いを感じながらも、同時に、もの足らなさを覚えたのである。しかし、そんな心の屈折は|※[#「口+愛」、unicode566f]気《おくび》に出さず、秋田は遂に探しあぐねた解答をさぐり当てた者の口調であった。
「美しの森というと、清里農村《キープ》センターの方へ登ったところですね」
「そのずっと先ですわ、あの辺は教会や国民宿舎があって賑《にぎ》やかな所ですが、そのもっとずっと先で、ハイキングコースから外れている所だそうです」
(あなたは行ったことがないのですか?)
と更に尋ねようとした秋田は、危うく思い止まった。彼女の口ぶりからまだ一度もそこを訪ねていないことは明らかである。
大西が出張してからすでに一年半、大西が止めたのか、それとも、あえて祥子が訪ねて行かなかったのか、いずれにせよ、東京から三、四時間の手間で行ける夫の職場に、一度も足を運ばなかった新妻がいる事実は、そのまま、彼ら夫婦の冷たい距離を現わしているような気がしたからである。
祥子は言い終ってから、自分が夫の重大な秘密を洩《も》らしてしまったことに気がついたようであった。やや紅《あか》みを帯びていた面が一瞬白っぽく硬《こわ》ばり、表情が能面のようになった。
「祥子さん!」
「いいのです」
祥子は小さく叫ぶと秋田の胸に転りこむように倒れてきた。秋田は微《かす》かによろめきながらも祥子から加えられた力をしっかり受け止めた。そしてその姿勢のまま二人は凍りついた。秋田が望むならそれからどのような姿勢にでも移行出来た。それは大丸の時と殆ど同じ状態である。ただ異なるのは祥子の心に刻まれた微妙な襞《ひだ》であった。
たとえ報復のためとはいえ、今、彼女は夫の不利益になる情報を夫以外の男に与えた。その背信を更に大きな背信を重ねることによって打ち消そうとするデスペレートな心理が働いていた。
秋田にはそれがよく判った。判りながらも、その背信の一時的ではあれ、協力者≠フような形をとったのも、彼女がその夜受けた衝撃の強さが殆ど同じ精度で彼に伝えられたからである。そして何よりも、彼自身の、祥子へ向かう奔流のような心の傾きがあったからだ。
凍りついてしまったような時間だったが、それは実際は一、二分しか続かなかった。
「ママア、ママア」
奥の寝間から、まだよく寝ついていなかったらしい子供の呼び声に、祥子は弾かれたように秋田の腕の中から脱けた。そこにあるのはすでに母親の顔だった。
「失礼しました」
秋田は靴を履いた。一刻も早く子供の傍へ駈けつけたそうにしている祥子に軽い目礼を送りながら、秋田はもう二度と彼女に会うこともあるまいと思った。
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暗い荒原
1
翌日、朝の早い列車で新宿を発《た》った秋田が清里へ降り立ったのは、丁度昼近くであった。
最終で発とうと思えば発てぬことはなかったが、大西とすれ違いになる惧《おそ》れもあったので、はやる気持を抑えて一夜待ったのである。朝一番に祥子に電話を入れ、大西が帰っていないことを確かめた上で新宿へ駈けつけた。
季節外れのことでもあり、汽車から吐き出された乗客は、秋田と土地の人が二、三人だけだった。
形ばかりのプラットホームを一番後から改札の方へゆっくりと進みながら、秋田は久し振りに身を置いた空しいばかりに明るい高原風景を楽しんだ。
初冬の澄み渡った美しい日だった。遊びに来たのではなくとも、山好きの人間にとっては、山々が光に震えている姿は何か心を和ませるものがあった。
清里は、駅そのものが、海抜一三〇〇米もある高原である。駅周辺の一握りの家並の軒先にも白樺がふるえている、文字通りの寒村であったが、最近漸くこの地域の優秀な観光資源が注目されて、「第二の軽井沢」を目指して開発が行なわれ始めている。
秋田は駅から美しの森へ向かうゆるい坂道に入った。前面に赤岳を中心とする八ケ岳の山列が、長大な障壁のように立ちはだかっている。その末広がりの果てには南アルプスの遠い雲の影のような山波、ふりかえれば影絵のような富士も望まれるはずである。
季節にはツツジとスズランの群落で知られるこの高原の広大な斜面は、今、秋の彫琢《ちようたく》を受け終った後の透明な枯死の中で、見渡す限りの白樺とカラ松を風に鳴らしていた。
それは胸のすくようなひろがりであった。
彼は、この美しい風景に背いて暗い開発に耽《ふけ》っている大西の神経を思った。風物の美しさと対照する彼の仕事、衝撃の反作用により正反対の方角に遠ざかる二個の物体のように、周囲が美しく清らかであればあるほど、大西の心は蝕《むしば》まれているのではあるまいか。
高原の詩人、尾崎喜八はこの道で歌った。
――旅行|鞄《かばん》を下げて汽車を下り、改札口に身を乗り出して迎える娘とかたみに両手を握り合い……我が子の後に老いたる父親らしく随《したが》って、停車場前のちいさい町の坂を下り、坂を上り、レンゲツツジの咲く丘から郭公《かつこう》の遠音のかすむ山手のほうへと、今日から我が生を托《たく》すべき見知らぬすみかへ風|薫《かお》る高原の道をたどる私であった。過去は茫々、未来は漠々、ただこの眼前の恩寵《おんちよう》に私はすがる。それにしても何たる大空、何たる日光、ゆるやかに高まって末は残雪の山々となる、何たる裾野の広がりだろう――
季節は異なっても、その同じ道を大西はどんな思いを抱いて辿《たど》ったのであろうか。
秋田は高原のほんの小さな一点として歩みながら、次第に憂うつになってくる自分に気づいた。
2
「大西さんお客さんですよ」
「お客? 一体、誰だい?」
「それが、会えば分ると言ってますがね」
取り次がれた大西ばかりでなく、取り次いだ所員自身も、この不意の来訪客の解釈に苦しんでいる様子だった。
開所以来、関係者以外の訪問客は今が初めてであった。所員の家族すら正確な所在を知らせていない秘密の場所に訪問客のあろうはずがないのだが、その不文律が今破られて、警戒心が先に立った。
「どうします?」
所員が不安そうに促した。
「とにかく、会ってみよう」
先方は自分を名指している。ということは、自分がここに居ることを知っている人間である。所員もその訪問客の正体を知らぬとなれば、外部の人間だろうが、社秘の場所と人事を知っている第三者の、心あたりが全くないままに、大西の見知らぬ来訪者に対する不安はつのった。
空とぼけて追い帰せぬこともなかったが、大西はよかれあしかれ、その不安に解決をつけずにはいられなかった。
やがて大西の部屋へ導かれて来た客の、思いがけない正体を知って大西は、
「秋田!」
と思わず絶句した。
「やあ」秋田は悪びれずに手を挙げて、
「ずいぶん、探したぞ、『高冷地農事試験所』(以後試験所と呼ぶ――作者)という看板[#「看板」に傍点]を出していたんじゃ分らんわけだ」
皮肉とも、嘆声ともつかない声で言った。
「どうしてここが分った?」
一時の驚愕《きようがく》から醒《さ》めた大西は、この場合、最も先に出すべき問をようやく出した。
「中研に訊《き》いたのさ」
秋田はこともなげに答えた。
「中研? 中研の誰に?」
「さあ誰だか、名前までは訊かなかったよ」
「そんなはずはない、中研の人間がここを教えるはずがない」
「そんなことどうでもいいじゃないか、俺達は三年ぶりに逢《あ》ったんだ。……それより大西、何か喰《く》わせてくれ。俺はまだ昼飯も喰っていないんだ、何しろ、ここを探すのに手間取ってな」
秋田の訪問が只の訪問でないことは分っていたが、そう言われると、あえて問いつめることは出来なかった。
「山の中だから、ろくなものはないぞ」
所《しよ》の調理人に頼んで、とりあえずあり合わせで腹のふくれそうなものを、量だけはたっぷりと秋田の前に並べてやった。
しかし、秋田は口ほどにもなく、それらにほんの申し訳程度に、箸《はし》をつけただけであった。この時大西は、初めて秋田がひどく憔悴《しようすい》していることに気がついた。
もともとさほど体格のよいほうではなかったが、それにしても、この三年会わぬ間にまるで別人のように衰えている。頬は削《そ》いだように落ち、青黒く沈んだ皮膚は、脂肪を失って触ればカサカサと音をたてんばかりであった。
秋田が部屋へ入って来た瞬間、何か尖《とが》った棒で突かれるような印象を受けたのも大西の警戒心のせいではなく、秋田の憔悴によるものだった。
「山奥のことで口に合わんだろうが、もっと喰えよ」
「いやもう十分もらった」
「秋田」
「うん?」
「お前、どこか病《や》んでるんじゃないのか? いやに窶《やつ》れたように見えるぞ」
「少し疲れているだけだよ、どこも悪いところはない」
秋田はこともなげに答えたが、瞬間、目の光がまたたいたように見えた。
「それならいいが、昔はやせの大喰いでならしたお前だったからな」
大西は殆ど手つかずに残されている食物に目をやった。
「心配するな、俺は医者だよ、いくらヤブでも自分の身体の調子ぐらいは判る」
「そうだったな、お前は医者」
そこまで言った大西は、彼が何の医者であるか思いだして、弛《ゆる》めかけた表情をひき締めた。
「そうだ、お前は日労災の医者だった」
大西は確認するように言い訂《なお》した。
秋田がにやりと笑った。それは大西の確認に対して「俺のやって来た目的が判ったか」と語りかける笑いであった。
丁度その時、室内が蒼《あお》ざめたように薄暗くなった。地獄谷というデモーニッシュな地名に反して、白樺や水楢《みずなら》の美しい闊葉《かつよう》樹林に囲まれて立つ試験所へ、樹林越しに疎《まばら》な光を落としていた夕日が、今、八ケ谷の稜線《りようせん》の彼方へ沈んだのである。
日が落ちると同時に、急に風の音が強まった。それはこの鉄筋コンクリート作りの試験所を揺さぶらんばかりの凄《すさま》じい音だった。
「さすが八ケ岳だな」
室内は暖房がよく効いていたが、秋田はその音に寒そうに首を竦《すく》めた。しかし、そうしながらも大西に当てた視線は外さなかった。
「まさかお前、昔話をしに来たわけじゃああるまいな」
大西はその視線を真正面から受け止めて開き直ったように言った。ここまで来られたからには、下手な隠しだてをしてもはじまらない。まして、秋田の職業にとって大西の研究は、まっこうから抵触するものなのである。
ナパームをやっていた頃から、顔を見さえすれば、いや電話などで声を聞く都度、止めろ止めろとうるさく諌《いさ》めた秋田である。
ここでナパームよりもはるかに非人道的な(第三者にはそのように映る)Nガスを開発していると知ったら……いや、秋田はそれを知っている。彼がここへ来たのが何よりの証拠だ。
大西は隠すよりは、まっこうから秋田と対決しようと心をかためた。
「あらかじめ断わっておこう。お前がどんなに言っても、俺は今行なっている開発を止めるつもりはない」
秋田が口を切る前に彼はだめ押しをした。
「お前は、自分の作っているものがどんなものか、よく知っているのか?」
秋田はむしろ、悲しそうな口調で言った。
「知っているつもりだ」
「いや、詳しくは知るまい。知っていたら、そういう恐ろしいことは止められるはずだ」
「恐ろしい? それほど大げさなものではないだろう。世界の戦史ではもっともっと恐ろしい兵器が発明されている。これは単に一時的に人間の精神を錯乱させるにすぎないものだ」
秋田は心ひそかに頷《うなず》いた。やはり、彼が作っているものは、兵器であり、人間の精神を錯乱させる化学物質であった。
「一時的という保証がどこにある?」
「それを今、保証しようとして苦心しているのだ。これが完成すれば、いまだかつてない人道兵器になる」
「大西、これを見てくれ」
秋田は彼の前に中診から携えて来た書《フオ》式|《ーム》を出した。
「何だ、これは?」
大西ははぐらかされたような目をあげた。
「田部定一、中井新作、高橋勝利、本田豊司のカルテだ。どうだ、皆心当たりがあるだろう。全てここで働いていた人間だからな……俺が診たんだよ」
「お前が!」
「うん、田部の症状は比較的、軽かった。だが、後の三人の症状は重大だった。特に中井はお前のところの本社付属病院に収容されたまま今に至るも退院出来ない。その事実と併せて彼らの症状なども、お前に詳しく報告がきているだろうからくどくど言う必要もあるまいが。作業員だからある程度の防護具は着けていただろう。それでもこれだけの重大な症状が発現したのだ。もしこれがまともに吹きつけられたら[#「吹きつけられたら」に傍点]どんなことになるか」
「…………」
「しかも田部ら四人は壮年の男子で別に固有の疾患もなかった。これが、幼児や老人、あるいは内臓に障害のある人間だったらどんなことになったか分らない」
「だから最大多数《マジヨリテイ》の人間にとって非致死性になるように苦心しているのだ」
「そんな都合のよいものが出来るものか、よしんば一歩譲って出来たとしても、それが作用した一定時点に死なないというだけで、どんな後遺症を残すか全く分らないじゃないか。二十年、三十年の先にどんな悪影響を残すかは、それだけの時間をかけてみなければ誰にも分るまい。まして、そのような長い時間の経過の後で突如として症状が現われた場合は、ガス[#「ガス」に傍点]と症状との因果関係を見つけるのは難しい」
秋田はこの時、初めてガスという言葉を使った。まだ、大西の関係しているものを、ガスと決定づける明確な証拠を何一つ掴《つか》んだわけではなかったが、言葉のやりとりの間にさりげなく混入して相手の反応を観たのである。
だが大西は全く無反応にそれを受け入れた。会話が進展する間に、誘導に馴《な》れて、秋田がさりげたく出した推定の言葉を、ついうっかりとすでに語られた具体的なものとして認めてしまったのである。
「お前に四人の、特に、中井の症状を見せたかったよ。悲惨なものだ。そうだ、彼はまだお前の本社病院に入院加療中だ、是非一度行ってみて来い。見たら少しは考えが変るだろう」
「化学に犠牲はつきものだよ。そして犠牲は全て悲惨だ。だが、それを惧れていたら、新しい物は何一つ作り出せない」
「欲しがられている新しい物ならば止むを得ないだろう。だが、お前の作っている物は……」
「欲しがられているさ、企業に、米軍にな。Nガスが完成すれば」
そこまで言ってから大西ははっとしたように口を噤《つぐ》んだ。つい話の成行き上、極秘の商品名を洩らしてしまったことに気がついたからである。だが、ここまで話題が煮詰まれば、それを言ったところで大差ないと知って言葉を続けた。
「Nガスが完成すれば、不必要に人間を殺傷する兵器は使われずにすむ。いわば、俺が作っているものは、戦場で大勢の生命を救うことになる人道的兵器なのだ」
「Nガス……と言うんだな」
秋田は反芻《はんすう》するようにゆっくりと言ってから、
「恐るべき詭弁《きべん》だよ。兵器に人道的なものなどない。そんな人道≠ヘ実際には殺傷兵器の大量貯蔵を促すだけだ。人道的兵器というコマーシャルで戦争の罪悪感を薄め、戦争誘発の危険すら伴う。大西、考えてもみろ、毒ガスの持つ恐ろしいイメージを。ベトナム人に使うガスを日本人の手によって作るという事実を、お前はどう考えているのだ」
「別にどうとも考えておらんさ。俺達は一つの商取引として米軍に製品を売るだけのことだ。お客が買った品物をどう使おうと、処分しようと、我々の知ったことではないし、また、売手が一々干渉出来るものでもない。これは日本化成にしてみれば、企業的な取引にすぎないのだ。どんな相手と取引しようと、どんな内容の取引をしようと、それは契約の自由に当然含まれることだろう」
「それは自由のはき違えだ。契約の自由の内容も無制限ではない、公共の立場から当然制限されるはずだ」
「公共の立場からみても別に制限をうける筋合はないよ。兵器を作っているところは何もうちだけじゃあない。別に日本の戦力≠ニして作っているわけでもないから、憲法にも触れまい。要するに俺が作っているものは、全く合法的な商品に過ぎんのさ。ただ、秘密にしておくのは、お前が言ったように、イメージがいかにも悪いからだ。世論を不必要に刺戟《しげき》することはないからな」
「イメージだけのことじゃない。現実に恐ろしいものだ。非致死性というだけのことで、人間を廃人にする惧《おそ》れのある兵器だ。考えようによっては、致死性のものより残酷といえる」
「それは考え方の違いだ。瞬間に殺すものと、殺さないもの。多少の後影響はあっても、殺さない兵器、俺はこのほうを遥かに人道的だと思っている」
大西はケースからピースを一本抜いて火を点けた。秋田にすすめなかったのは、そんな心のゆとりがなかったからである。
「その後影響がどんなに恐ろしいものか、医学的には全く未知なんだぞ」
「だから、そいつはお前に委せる。俺としては、その影響が出来るだけ少ないものを作るように努力するしかない。千差万別の個人差の中の、人体の複雑な生理作用への影響まではとても面倒見きれない。そいつは医者の役目だ。それに、後影響はあるかも知れんし、ないかも知れない」
「考えなおす余地はないのか?」
「秋田、お前は医学に命を張っている。それと同じ比重で俺は化学に打ち込んでいる。たとえ、それがNガスという外見|悪魔的《デモーニツシユ》な形をとっていても、俺にとっては学問の可能性を追求するものなのだ。そして、俺は俺なりにNガスの意義と価値を認めている。お前の気持も判らんではないが、これだけは聞き入れるわけにはいかない。それに俺一人が止めてもどうなるものでもない。これには日本化成の社運がかかっているのだからな」
「お前が中心人物だろう、お前さえ止めれば」
「俺の生活や地位はどうなる? 今、止めれば会社は莫大《ばくだい》な損害を被ることになる」
「お前が考えているほどの金を会社はつぎこんではいないさ。企業というものは、そうしたものだ。それにお前ほどの腕があれば、何処へ行ったって立派に身を立てられる。学問の可能性の追求は、もっと明るい所でいくらでも出来る」
「秋田、もう止そう、これ以上いくら話しても無駄だ。Nガスは俺の作品だ。俺はそれを高く評価している。そして俺以外にも評価するものがいるのだ。より大きな害悪を食い止めるための小さな害悪――としてNガスは価値があるのだ。価値を認めるか、認めないか、……いやもう本当によそう、俺達の歯車は所詮《しよせん》かみ合わないのだ」
「大西」
「お前には借りがある。だが、それとこれとは別だ。俺達はもう別れてしまったのだ。全く交叉《こうさ》することのない別々の道にな。悲しいことだが、仕方がない」
「どうやら、お前の言うように仕方がなさそうだな。これ以上言うのは止そう。だが、一つだけ頼みを聞いてくれ」
「頼み?」
「今のところ、Nガスとやらによる障害に対して全く治療法が判らないのだ。その基本的化学構造だけでも教えてくれないか」
大西はすぐには答えず煙草の煙を目で追った。それが、彼が考えこむ時のくせである。
「お前はNガスの後影響は俺に委せると言った。それならばせめて、そのためのデータをくれ」
言葉尻を掴《つか》まれた大西は一瞬、苦笑したが、すぐににそれをこわばらせて、
「悪いがそれも断わる。まだ影響が出たわけでもない。この四人の症状は一時的な効果にすぎない。考えてもみろ、極秘の製品の構造を完成前に発表出来るものかどうか、ましてお前は日労災の医者じゃないか」
と笞《むち》で打つように激しい語調で言った。
「そうか」
秋田は頷くと灼《や》くような目で大西を見た。それを受けた大西の目の光は凍っていた。それはすでに互いに友を見る目ではなく、仇敵同士の目だった。だが二人は互いの目の中まで読み取ったわけではない。
気がつくと、室内には窓からの薄明かりによって、辛うじて互いの面を朧《おぼろ》に浮かべる程度の闇が屯《たむろ》していた。
二人はその薄暗がりの中に向かい合って、灯もつけずに長い間、水と油のように所詮、溶け合わない言葉を投げつけ合っていたのだ。
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嵐と地獄火
1
翌朝は冴《さ》えざえと晴れた。互いに気まずい思いで目覚めた二人の気分を、山という彼らの共通項の下にひきしめるような朝だった。
樹林越しに望める白く荒れた稜線の一部は、おそらく主峰の近くであろう、朝の光に拭《ぬぐ》われて胸にこたえるような近さに迫っていた。
雪はまだ本格的には来ていないが、稜線を縁取る白く凍結した光は、その高所の酷《きび》しさを物語るものであった。
「どうだ、久し振りに一緒に登ってみないか?」
秋田が突然言った。
「登る? 八ケ岳へか?」
憮然《ぶぜん》とした面持で岳の方に眩《まぶ》しそうな目を宛《あ》てていた大西は、秋田の唐突な誘いを理解し難い外国語を尋ねかえすように反復した。
「そうさ、ここから登るといえば八ケ岳以外にないだろう」
秋田はしぶく笑った。
「冗談じゃない」
「冗談ではないさ。お前は毎日眺めているから大して感じないだろうが、俺にしてみればそうめったに来られない所だ。どうだ、遠来の友のために、一日案内をしないか。ここからなら赤岳まで日帰り往復出来る」
「装備を持ってきたのか? 上の方はかなり凍っているぞ」
「清泉寮で借りるさ」
「悪いがそんなひまはないのだ。行くなら一人で行ってくれ。装備だけなら貸してやろう」
「ほう、お前、山の道具を持ってきているのか?」
秋田は珍しい物でも発見したような目をした。
「まだ一度も登ってないが、場所が場所だからな」
「そうか……しかし、せっかく、旧い山仲間《ザイルパートナー》がめぐり会ったというのに残念だな。仕方がない、そいつを借りて一人で行くか」
秋田もくどく押さなかった。山へ引張って行き、山仲間の友情に訴えて諌《いさ》めようとする計算はない。また、そんなことで諌められる大西でもない。眼前にのしかかる八ケ岳のピラミダルな頂稜に彼のアルピニストの心≠ェ単純に惹《ひ》かれただけである。
共に山へ登ったところで所詮、昔の二人に戻れぬことを知っていた。むしろ、この場合、大西が辞退してくれたほうが有難かった。
だが、それにしても、心の深い部分を蝕《むしば》むこの寂しさは何だろう。
昔、それも、それ程遠くない昔、一本のザイルに互いの生命を託して登った山仲間の友情は、酷しい現実の前にはこれほど脆《もろ》いものなのだろうか? 友情で腹はふくれぬことはよく分っていたつもりだが、アルプスで分かち合った青春と、培った連帯が、生活を賭《か》ける実社会の酷風の中には全く何の役にも立たぬということを確認するのは、やはり寂しかった。
あれは、やはり遊びの一種に過ぎなかったのだろうか? 秋田はふと、大西とザイルを結んで攀じた過去幾多の山巓《さんてん》を想った。自分のために盤石の確保《ジツヘル》をしてくれた友。落石に傷つけられた時、殆ど動けぬ自分を扶《たす》けて、長く困難な岩場を沈着な懸垂下降をくりかえして標高を下げてくれた彼。そして幾多の山頂で乾いた握手をガシッと交し、登頂の喜びを分かち合った大西。あの彼が、今、毒ガスの生産に忙しく、山などへ登るひまはないと唇を歪《ゆが》めてうそぶいているこの大西と同一人物なのだろうか?
結局、青春の友情とは見た目には美しい花のように、生きて行く上にあたっては何ものも具体的なものを約束してくれないのであろうか。
「いやに今日は暖かい。午後から天気が崩れるかも知れないぞ」
「なに、赤岳の往復だ、日のあるうちには帰って来る」
「上の方の岩がゆるんでいるかも知れん、気をつけろよ」
それでも心配そうに出口まで送ってくれたのが、せめてもの大西の友情の余韻≠ニ解すべきであった。
2
山はその日の午後から荒れ模様になった。天気予報は低気圧の接近を報じていたが、季節風がまともにぶつかる裏日本の山岳と異なり、八ケ岳ではいきなり悪天に巻きこまれるということはない。天候悪化の兆《きざし》を認めてから十分避難する余裕がある。
まして赤岳頂上の往復は、いずれのルートを通っても、秋田の脚力ならば十時間ぐらいで消化《こな》せるだろう。頂上付近で悪天に見舞われたとしても、上部岩稜の降下さえ注意すれば、二時間ほどで安全帯に退避出来る。
午後から山が荒れ模様になっても、大西が比較的安心していたのは、そんな事情があったからである。
それに、彼は何よりも秋田の腕を信頼していた。彼ほどのベテランならば、多少の悪天候に襲われても、八ケ岳の一般《ポピユラー》ルート位は軽くこなすだろうと思っていた。
だが、その時の低気圧の発達は異常に速くそして凄《すさま》じかった。
悪天の大親玉と言われる二つ玉低気圧が、朝鮮海峡と九州南方海上に発生し、十時間足らずの間に急激に発達して日本全土をその支配下においてしまったのである。
日本海と太平洋岸に進んだ二つの低気圧にサンドイッチにされた本土は、低地では暴風雨、山岳地では猛烈な風雪となった。
「秋田の奴《やつ》、早く帰って来ればよいが」
山そのものが吹き飛ばされそうな暴風雪の音を聞きながら、大西は時間ばかり気にした。
「えらい天気になりましたねえ、あの人は大丈夫かなあ」
秋田を取り次いだ所員が心配そうに話しかけた。
その言葉も耳に入らぬほど、大西は友の身を案じていた。
日が落ちると共に風雪は更に凄じくなった。
もうとっくに帰って来てもよい時間である。
「もしかすると、清里駅へ直行してしまったのかも知れない」
とも思ってみたが、装備は全て大西が貸してやったものである。秋田が東京から着てきた服と、軽い手荷物はここに預けっぱなしなのである。
いかに彼が気分を害していたとしても、そう考えるのは無理だった。
時間がたてばたつほど秋田が還《かえ》って来る可能性は薄くなってくる。
「昨日や今日登り始めた素人ではあるまいし、きっと頂上小屋か石室《むろ》に避難して、今頃はぬくぬくとストーヴに暖まっているだろう。天候が回復してからケロリとした顔で下りて来て、いらぬ心配をするなと嗤《わら》うにちがいない」
大西は事態を楽観しようとした。だが、楽観しようとすればするほど、岩の上で凍りかけている友の姿が瞼に焼きついて離れないのだ。
「畜生! 俺はどうかしている。奴は勝手に山へ登ったのだ。死のうと生きようと俺の知ったことではない」
そうも思ってみたが、風雪のうなりの中に秋田の声を聞いたように錯覚して、おのずと耳を澄ましているのである。
この時になって、大西は秋田の異常に憔悴《しようすい》していた様子を改めて思い出した。
あの窶《やつ》れかたは普通ではなかった。それに食欲が全くなかったではないか。彼はどこかが悪かったのだ。自分はそれを知っていて何故止めなかったのだろう。止めることが出来なければ、どうして一緒に行ってやらなかったのだろう。
あの衰えた身体では、到底、この凄じい吹雪を切り抜けるエネルギーはない。もし彼に万一のことがあったら、それは自分の責任だ。
「大西さん、もうお寝《やす》みになったほうがいいですよ。装備は十分にしていったし、小屋もある、心配することはありませんよ」
夜が更けても、窓辺に寄って黒一色の山の方を見続けている大西に、所員が声をかけた。
確かに心配するほどのことはないかも知れない。それに心配してもどうにもならなかった。
この心配を終らせる最も手取早い、そして唯一の方法は、大西自身が登ってみることだったが、この悪天では一歩も身動きが出来ない。
「秋田、朝になったらすぐ行ってやる。待ってろよ」
大西はその夜まんじりともせず、風雪の奥の友の身を案じた。
だが、風雪は翌朝になっても一向に衰える気配がなかった。衰えるどころか、益々《ますます》勢いを増していく様子であった。
翌日の午《ひる》頃には、二つの低気圧はいっそう発達して東北地方で一つに合流しかけた。
一方、大陸に張り出した高気圧が、低気圧に誘われて猛烈な季節風を送りだした。
寒冷前線があいついで通過し、その度に、より強い寒気と風雪が襲った。試験所と清里間との交通すら遮断された。到底救援に行くどころではなかった。
「えらい吹雪になったもんだなあ」
「四十五年ぶりだそうだ」
「この調子で荒れ続くと、明日あたりから食糧を制限《コントロール》しなければならんぞ」
所員達がそんなことを語り合っている傍で大西は一人、山の風雪に閉じこめられている秋田の身ばかりを案じていた。
秋田が携行した食糧は二食分、もし小屋が無人だとすれば、もうとっくに食糧は尽きている。
念のために寝袋《シユラーフ》を持たせたのが、せめてもの救いだが、それとても、小屋にいなければ何ほどの役にも立つまい。上の方はマイナス二十度以下になっているだろう。あの身体でこの寒気を耐えることが出来るか?
「秋田、生きていてくれ」
大西は何ものかに祈らずにはいられなかった。神仏でも霊魂でも、何でもよい、秋田の命を風雪と飢えから護《まも》ってくれるものはないか、吹雪が少しでも静まれば、俺が行ってやる。それまで待っていてくれ。
――秋田、お前は俺の只一人の山仲間じゃないか、なるほど、俺はお前を冷たくあしらった。俺達の歩んだ道は、どう歩み寄りようもないほどに離れてしまった。しかし、過去の一時に俺達は同じ道を歩いた。その事実はどんなに時が経っても消えはしない。
お前はそれを消そうとするのか? 追憶は現在と未来に何一つ具体的なものを与えてくれないが、今ここに至るためにそれは辿《たど》らなければならなぬ道だった。
たとえ、今立っている地点の評価がどうあろうと、過去はお前も認めてくれた美しい道だった。甘い青春のロマンティシズムと蔑《さげす》んでも、それをふりかえることは決して不愉快ではなかった。いや、現在辿る道が酷しければ酷しいほど過去をかえりみることは救いになる。
秋田よ、お前は、俺からその唯一の救いすら奪おうとするのか。〈秋田、生きていてくれ〉
3
途中で何度、引き返そうと思ったか知れない。身体がかなり衰えていたことは判っていたが、よもや、これほどまでに病蝕[#「病蝕」に傍点]が進んでいようとは秋田も知らなかった。
一歩登る毎に迫る身体中の関節という関節がバラバラになりそうな痛み、登山という激労作《げきろうさ》に伴うはずの爽快《そうかい》な空腹感の代りにもたらされたものは、猛烈な嘔気である。いや嘔気だけではなく彼は現実に何回か嘔《は》いた。
胃に残った朝食の残渣《ざんさ》を嘔き尽くすと、後は黄色い水がこみ上げてきた。
仕事の忙しさと、自分の最も不安なものには目を瞑《つむ》ろうとする、デスペレートな自衛本能に紛らせていても、「滞在期限」は容赦ない確実さで迫っていたのだ。
だがその事実がかえって、秋田を山頂に執着させた。すでに何度か登ったことのある頂であったが、そこへ向かうことに自分の身体の中で成長している病蝕《びようしよく》と競争するような気持を覚えていた。
試験所からいったん美しの森展望コースへ戻り、赤岳への直登ルート、真教寺尾根へ入る。川俣川北岸上のガレ場を経て針葉樹林の尾根道をつめるのに約五時間、牛首の頭から更に激しい登高を続け、普通|所要時間《コースタイム》の約二倍をかけて漸《ようや》く樹林帯を抜けた頃、山は完全な荒れ模様になっていた。
牛首の登りに取りつく頃から広がり始めた上層雲は、急速に厚味を増してハイマツ帯に立った頃は下界も一面の雲海に埋められていた。
山は上下二方からの雲にはさみ撃ちされて極端に視界が悪くなってきた。巨大な低気圧の渦に巻かれて奔流のように山腹をかけ登る気流が、ハイマツや岳樺《だけかんぱ》に鳴って不吉な音をたてる。
午前中、彼の脚をためらわせ続けた体調に、午後から天候悪化という大きなブレーキが加わったのである。
だが、それにもかかわらず秋田は登り続けた。もうここまで来たからには頂の方が近い、頂には小屋もあるし、誰か人がいるだろう。なまじ、麓《ふもと》へ避難するよりは、頂へ逃れたほうがより速く安全だ。
だが頂上小屋が無人であったなら、天候が一夜で回復しなかったら? 当然、経験あるアルピニストならば読む先を、秋田は読まなかった。
ハイマツが岩に消え、そのただなかを眼前に迫る頂へ向かって直上する糸の径《みち》を見て彼は焦ったのだ。
足場は多少悪くとも、頂はほんの一投足である。それに小屋ケ岳≠ニ異名をとるほどの八ケ岳の一般登路ではないか、彼の刻一刻|喪《うしな》われていく体力と、それに反比例するアルピニストの自信と倨傲《きよごう》が、情況の判断を甘くした。
頂までほんのわずかな距離に迫っていても、その間を隔てる空間は十二月の氷雪に鎧《よろ》われた標高三千米の岩場であり、迫り来る低気圧は悪名高い二つ玉だったのだ。視界は悪くとも、注意して観れば、北アルプス方面から怒濤《どとう》のように押し寄せて来る巨大な雲堤が目に入ったはずである。低気圧は通り過ぎても、冬型の気圧配置となって、猛烈な季節風が吹き荒《すさ》び、雪雲と地吹雪に一、二日閉じこめられる惧《おそ》れがある。
頂に辿り着いても降りられない場合があるのだ。もし、その際、小屋に人がいなかったら……携行食糧はあと一食、食欲のないのが、不幸中の奇妙な幸い≠セったが、天候が回復するまでの不定の時間を、周囲の酷寒に耐えて生きるべきエネルギー源を何処に求めるつもりだったのか?
彼はやはり、残る総力をあげて下りるべきだった。そのくらいのことが判らぬ秋田ではなかった。
彼はやはり心身共に[#「心身共に」に傍点]どうかしていたのである。
竜頭峰を巻き、息も絶え絶えになって山頂の岩小屋に倒れこんだ時、山は凄じい暴風雪の中に叩《たた》きこまれた。
まるで彼が小屋の中へ転りこむのを合図にしたような本格的な悪天の来襲であった。
小屋の戸を開けた瞬間、ちらりと入った視野に人影のないのを悟って、暖を取るべき何らかの工夫をしなければならないと思いながらも、体力の悉《ことごと》くを消費してしまった秋田は、そのまま土間にくずおれて意識をうしなった。
巨石を積んだ小屋の屋根まで|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》り取りそうな風の音を、急速に薄れていく彼の意識の揺曳《ようえい》が辛うじて捉《とら》えた。
4
秋田修平はその一瞬[#「その一瞬」に傍点]、余りに明るすぎて紫がかった閃光《せんこう》に視力を奪われた。と同時に、全身を灼《や》くような熱風の凄じい圧力をうけて地面に叩きつけられた。
何事が起ったのかさっぱり判らなかった。ただその一瞬を境にして、町は炎の海になっていた。
町も木も橋も人も、日頃|見馴《みな》れた風物の全てが炎にくるまれて燃え上っていた。それは凄じい紅蓮《ぐれん》の炎のはずであったが、秋田の網膜には、何故か寒々とした白っぽい風景として映った。
余りに強い閃光に射られた視力がまだ回復しきらないためなのか、それとも余りに熾烈《しれつ》な燃焼がかえってそのような色彩を訴えるのか、いやそれよりも頭髪やまつげを一瞬の間に燃え絶やした炎が、網膜を焼け爛《ただ》れさせたためだったろうか。
生きているという気は全くしなかった。ただ呆然《ぼうぜん》と、他人から借りてきたような無機的な目の機能に、炎々と燃えさかる町を映しだしていたにすぎなかった。
後日、ピカドンと呼ばれるようになったその一瞬を、秋田は確かにピカリのほうは目にしたが、ドンは聞かなかった。おそらくドンもしたのであろうが、爆風と熱線のるつぼの中で余りにも強大な轟音《ごうおん》が、聴覚を麻痺《まひ》させたのかも知れない。
その日、昭和二十年八月六日午前八時十五分、史上初の原爆が、秋田修平の故郷の町、広島に投下された。
約一キロの量のウラニウム235は、六百米の上空で爆発、瞬間最高温度、数千万度、その強烈な熱線によって、爆心地から一キロ以内を蒸発させ、二、三キロの同心円内を火の海とした。
その当時六歳だった秋田は、両親と共に爆心地から約二キロの白島九軒町の自宅にいた。
親子三人の朝食をすまし、小さな医院を開いていた父が診察室へ立った直後にそれ[#「それ」に傍点]は来た。
倒壊して炎を吹いている家からどのようにして脱け出したのか知らない。気がついた時は父の背に負われて炎の町の中を走っていた。母も傍にいた。
そのような異常の中で父母が傍にいるということは、非常に幸福≠ノちがいなかった。だが、その二人が日頃見馴れた父母ではなかった。
顔面は焼け爛《ただ》れ、殆ど裸体に近いような姿で炎と死体の町を走り抜けて行く彼らは、まるで自分を地獄へ誘拐《かどわか》していこうとしている幽鬼のように見えた。
たしかに二人とも、日頃修平が知っている穏やかな父と優しい母ではなかった。何かが二人を狂わせていた。二人だけでなく、周囲に動くものは全て狂い、動かぬものは全て死体だった。
とにかく、ものに動じたことのない父を動転させるような、途方もないことが起きたのは幼な心にもぼんやりと判った。
父も母も鬼になってしまった。これからこの二人は自分を鬼の棲家《すみか》へ運んでいって、喰うのだ。――後になって振り返ると、その時、そんなことを思っていたようだ。
それなのに、不思議に恐ろしくはなかった。
大人たちをも狂わせる異常事態は、かえって子供の心にはぴんとこなかったのか、それとも、月並な恐怖などは通り越してしまったのであろうか。
当時六歳だった秋田が、その一瞬の光景と心理をこれほど詳細に観察、分析していたわけではない。
後日になってから、記憶の海に漂うその一瞬の断片をかき集めて、大人の頭で組み立て、そして分析したのだ。
おそらくその一瞬、幼な心が感じ取ったものは、余りに明るすぎて、白く冷たい閃光と、白い炎の町だけだったろう。
――明るく熾《はげ》しく燃えた白い炎は、かえって氷化したように映り、事実、じりじりと眉に迫った熱気は、白い寒気となって全身を閉ざした。
熱気も寒気も余りに強くなると、身体には痛みとして感覚されるだけで、そのどちらとも区別がつき難くなる。
秋田は今、自分が炎の中にいるのか、氷に閉じこめられたのか判らなくなった。ただ判るのは異様に白っぽい世界の中で、全身を針で刺されているような痛みだった。……その痛みで秋田は気がついた。頂上小屋の土間に転りこんだ時の姿のままで倒れている自分に、はっとして立ち上がろうとした時、下半身が痺《しび》れかけているのを悟った。
きわどいところであった。微《かす》かに目覚めていた痛覚が彼の命を救ってくれたのだ。
腕時計は六時ちょっと前をさしている。戸外はすでに暗く、風雪が荒れ狂っている。ずいぶん長い間、意識を失っていたようだったが、小屋へ辿り着いたのが五時半頃だったから、まだ三十分も経っていない。だが、失神がもう少し続いていたらどうなったか分らない。
秋田はそろそろと立ち上がった。まずザックを開いて、いつも持ち運んでいる最小限の医療具を入れたゴム袋を取り出した。
手がかじかんでよくいうことをきかなかったが、とにかく強心剤の注射をすませると、テルモスから熱いコーヒーを飲んだ。
固形燃料から小さな焚火《たきび》をおこすと、今度はビニールに包んだ乾いた衣類を出して、濡《ぬ》れた下着と交換した。
食欲は余りなかったが、弁当の一部分にチーズを入れて作った、得体の知れないおじやをのどに流しこむとやっと人心地がついた。
これで寝袋《シユラーフ》にもぐりこんで吹雪がおさまるのを待っていれば、まず死ぬことはないだろう。
まだ秋田は、その時の天候を一過性の低気圧によるものと楽観していたのである。
シュラーフに入ってからも、暫《しばら》くは吹雪の音が耳について寝つかれなかった。その音は彼を再び回想に引きずり込んだ。
見渡す限りの瓦礫《がれき》の原から、毎日、無数の煙の筋が空に上った。それは死体を焼く煙だった。
遠くから見ても死体を焼く煙の色はすぐに判った。
煙源からどす黝《ぐろ》く、かなりの量が吐き出されながら、なかなか空の上の方へ登っていこうとしない。曇天の日にはそれらの煙が雲の下で合流して、まるで死者の怨念《おんねん》がこもっているかのように広島の上空に低くたれこめた。
父は自ら両手、背、前胸部などに火傷を負っていたが、市内の国民学校に連日勤めて救護活動にあたっていた。
母の被害はもっとひどかった。頭部に裂傷を負ったほか、爆風によるガラスの破片を右眼にうけて殆《ほとん》ど視力を失っていた。
焼失を免れた山の手の国民学校にひとまず収容され、特配の粉乳と乾パンでどうにか飢えをしのいでいる間に、周囲で重症者が苦しみながら次々に死んでいった。
校庭にも臨時の火葬場が設けられ、死者を焼く生臭い煙が毛布にくるまって寝たきりの彼らの傍に流れてきた。
母の容態は日ましに悪くなった。被爆後一週間ほど経つと髪が脱け始め、全身に赤紫色の皮下|斑点《はんてん》が出てきた。食欲は全くなくなり、十日目頃から口腔《こうとう》が腫《は》れてきた。
そして――十四日目、八月二十日の夜遅く、父と修平に看取《みと》られながら息を引き取った。修平は別に悲しいとも思わなかった。頭髪は全く脱け落ち、片眼は破裂し、口もきけぬほどに口腔を腫れ上がらした母の、何とも凄惨《せいさん》な面が、修平の知る、被爆前の優しい母の面影とどうしても重ならなかったのである。
母は最後の息の下で、しきりに幼い修平のほうへ手を伸ばそうとしていた。
生きている日のかたみとして、最後の力で修平を抱きしめたかったのに違いない。だが、修平は、むしろ無気味さのほうが先に立って、逃げるように身を引いてしまった。
「修平、何をしている!」と父に叱《しか》られても、彼は殻に閉じこもった蝸牛《かたつむり》のように頑《かたくな》にその姿勢のままで押し通し、遂に母が息を引き取るまで手も触れさせなかったのを覚えている。
母はその時、残された片一方の目にたとえようもない哀《かな》しみをたたえて修平を見た。その目からみるみる生色が薄れ、死者の白濁した瞳に還《かえ》った時、修平の胸に誰にともない大きな怒りが湧いた。
翌朝、母を焼く煙が、他の無数の死者を焼く煙の中の一筋として上った時、初めて慟哭《どうこく》が修平を襲った。
久しぶりに晴れた暑い日だった。母の煙≠ヘ死者の煙にしては珍しく、盛夏のぎらぎらした光の溢《あふ》れる空の上方へ吸われるように高く登っていった。
煙の行方を首筋が痛くなるほど仰向《あおむ》いて追いながら、修平はいかにも母を喪《うしな》った幼な子らしくしくしくと泣いた。
父も泣いていたような気がしたが、自分が泣くのに忙しく、父の表情など注意する余裕はなかった。
それから父と子二人だけの寂しい生活が始まった。
父には医者としての被災者の救護活動という激務があったが、時間の許すかぎり、母を喪った修平の傍にいてくれた。
医師として父は最初、被爆者の傷は、外傷火傷だけだと思ったらしい。従って外科的な手当さえしておけば彼らの救護はすむと考えていた。
だが、母の死の症状をはじめ、日が経つにつれて、想像もしなかった重大な障害が次々に現われるに及んで、父は自ら、全身|倦怠《けんたい》、発熱、吐き気などの原爆症に苦しめられながら、その医学的解明に残り少ない命の全てを注ぎこんだのであった。
そして遂に二十四年五月、症状が重くなり市民病院で十歳になった修平と、東京から駈けつけた弟に看取られて死んだ。
「修平、頼むぞ」
父は修平の手を取って、それだけ言うと、今まで苦しめられ続けた原爆症の苦痛からにわかに解放されたような安らかな顔になって母の後を追った。
漸《ようや》く小学五年になったばかりの修平は、その時、父が何を自分に頼んだのか分らず、きょとんとして、しかし、母の時には感じなかった哀しみに胸をつまらせながら、父の最期を見まもっていたのである。
再び醒《さ》めた時は白い朝がきていた。その白さが光によるものではなく、風雪によるものであることは、窓辺に寄るまでもなく、音で分った。
嵐《あらし》は少しもおさまっていない。おさまるどころか、昨夜よりも更に悪化した様子である。
入口の扉や、窓の隙間《すきま》から驚くほどに夥《おびただ》しい雪が吹き入っていた。
シュラーフの上にも薄く雪が積り、猛烈な寒気が厚い羽毛を突き抜けて身体を突き刺す。
秋田は窓から戸外の凄《すさま》じい状況を観て、漸くこの低気圧がただものでないのを悟った。
低気圧が通過した後は、猛烈な季節風が吹き始めるだろう、おきまりの強風と低温。よしんば天候が回復したとしても、新雪なだれの危険があってすぐには動けない。
とすれば、よくて後二日、悪くすれば三日以上ここに閉じこめられることになる。食糧はすでにあのおじや[#「おじや」に傍点]が半食きりない。
ただでさえも衰えた身体を、半食のおじや[#「おじや」に傍点]でどうやって後二日以上|保《も》たせ、そして雪崩《なだれ》と滑落の罠《わな》が至る所に張りめぐらされた凍った岩稜《がんりよう》を、下ったらいいのか?
秋田は事態の重大さを悟って蒼白《そうはく》になった。
――俺《おれ》はまだ死ねない。俺にはまだし残した仕事があるのだ――
いかに美しい山の姿に惹《ひ》かれたとはいえ、一日も無駄には出来ない貴重な日数を、登山などに割き、しかも今、生命の危険に晒《さら》されている。
大切に使えばまだいくらか残された日限を、自らの不注意で棒に振ろうとしていることが、たまらなく口惜しかった。
「迂闊《うかつ》だった」
秋田は風雪の音を自分への嘲笑《ちようしよう》のように聞いた。今、白魔は自分の仕掛けた罠の中にしっかりと捉《とら》えた愚かで哀れな獲物を、ゆっくりと味わうべく、残忍な笑みを浮かべながら、そのしめ木をじりじりとしめつけてきている。
それらに抗して、自分の身を力強く護《まも》ってくれるものは何一つとしてない。
――ああ、大西がいてくれたら!――
絶望的に上げた秋田の瞳に、大西が貸してくれたハスラーの沈んだ光沢が映った。スイスの名工、ハスラーの鍛え上げた業物は、それ以外のいかなる形も考えられぬピッケル特有の鋭角的な姿勢で、山小屋の荒れた床の上にシンと横たわっていた。
その所有者の数多い山行に必ず伴って、彼の身を護り、彼を頂に導くためにあらゆる危険と戦った苦闘の痕《あと》を、そのにぶ色に光る鋭い、刃の奥に秘めて、秋田に「私がここにいるではないか」と静かに、力強く語りかけてくるようであった。
いやピッケルばかりではない。小屋の中に散乱したラジュース、アイゼン、シュラーフ、アノラックなど全て、大西が貸してくれた山の用具が語りかけていた。
これらは皆、所有者の苦しい山行を、所有者を終始|扶《たす》けて戦った従者であり、力強い味方だった。それら用具に沁《し》みついた汗と泥の匂《にお》いは、所有者の青春の匂いであり、困難との闘いの記録だった。
秋田自身の従者たち≠ヘ、全て東京に残してきたが、ここにいる者[#「いる者」に傍点]全ては、彼らの所有者のこよなきパートナーとして、共に数多くの山行を重ねた秋田の顔馴染《かおなじ》みばかりだった。
友の従者の殆ど全てが、今ここに顔を揃《そろ》えて、力を合わせて自分の身を護ろうとしてくれている。
――俺は一人ではない――
そして、大西がきっと来てくれる。それまでこの従者たちと力を合わせて戦い抜くのだ。
「そうです、たとえどんなに長く苦しい戦いであっても、私たちがついています」
にぶ色の光沢の底からハスラーが再び語りかけた。
夢というものが忘れられぬのは
アルプスの夕暮や、いく多の峰の
未知の遠望が
生命《いのち》の燃焼の報酬として与えられたことを
お前はその……
にぶ色に光る鋭い刃に
語られぬ記憶として
秘めてしまったからであろうか。
夢というものが果てしないのは
頂の歓喜を青い風の中で
共に分かち合うべき時に
お前は苦闘の後の身をケルンに凭《よ》せて
いやさらに高き遠き峰のために
新たな約束を迫ったからか。
夢というものが許されるなら
あの時あの雪壁に
命の階段《きざはし》を刻みながら
雲を抜く尖峰《せんぽう》に
寄せた想いであったろうか。――
秋田はふと、旧《ふる》い日、一日の登攀《とうはん》を終えた後の奇妙にあんのんな、それでいて胸の中に小さな空洞《うつろ》が湧いたようなものわびた気持で、山小屋の榾火《ほだび》を囲みながら大西と共に口ずさんだ、この「ピッケルの唄《うた》」という詩片を口にしていた。
あの時はあの奇妙にあんのんなものわびた気配を、春青の感傷と知るが故に、詩片を口ずさむことに照れくささを覚えて、必要以上に声を抑えたものだが、今、自分をこの酷烈の環境の中でがっちりと支えてくれているものがあるとすれば、それは正しく青春の感傷以外の何ものでもないのを秋田は知っていた。
「大西は必ず来てくれる」
詩片はそれを確《かた》く約束してくれるもののようであった。
5
――修平、高校入学おめでとう。お前の晴れの入学式にお母さんも私も参列しないでさぞ寂しいと思うだろうが、お前はもうそのような寂しさなどは立派に耐えられる力を身につけていると思う。
この日を期して、私の手紙をお前に渡すように和男おじに託しておいたのも、お前が今、一個の人間として客観的に自分の生活を振りかえり、将来を冷静に考えるだけの判断力を備えたものと信ずるからである。
お前がこの手紙を読める日に達したということは、その意味からも、そしてもう一つ、これから述べる意味において、父にとっては大きな喜びなのだ。
お前の幼な心にも覚えがあるように、私達は広島で被爆し、お母さんを喪《うしな》った。そして今、私もまた、お前を残して先に逝かなければならない。
そのことに対して今更とやかく言うことは、徒《いたず》らに感傷をそそるだけだから止めよう。
この手紙をお前に書き遺《のこ》しておく理由と目的は、お前がまだ幼かったためによく知り得なかった被爆後の私達の状況を詳しく伝え、お前の冷静な判断に訴え、これからのお前の生きていく上の参考資料ともなればと思ったからである。
お前はすでに薄々と知っているかも知れない。あるいは寝耳に水のことで大きな衝撃を受けるかも知れない。が、いずれにせよ、与えられた条件にめげず、それを直視して逞《たくま》しく生きていって欲しい。
さて、大分前置きが長くなったが、私は被爆後、自分の身体の症状を含めて、被爆者の傷を他の普通の銃爆弾による火傷外傷と同じものと考えていた。ところが、四、五日するうちに全身倦怠、嘔吐感《おうとかん》、下痢、発熱、さらに皮下出血、脱毛、出血と普通の爆弾ならば起るはずのない恐るべき症状が続くに及んで、私はその解明に全身で取り組んでいったのだ。やがて漸く入手した顕微鏡で、お前のお母さんの血液を調べたところ、赤血球、白血球共に異常に減少していることを認めた。
これは被爆直後に最も多かった症状で、体に何の傷を負っていない人間も、造血機能障害で鼻血を出したり、皮下出血でばたばたと死んでいった。
我々医師団がそれに対して打てる手といえば、外科的な手当とカンフル注射ぐらいだった。
新型爆弾が単なる強大な破壊力だけでなく、人間の造血機能に障害を与えるとの推定は出来ても、我々はそれに対して殆ど打つ手を持たなかった。
薬品はない。治療法は分らない。鼻血が出れば綿《わた》をつめてただ寝かせておく。自分の医学の限界に歯ぎしりをしている間に、急性症状の死ぬべく人間は死に絶えた。
お前も覚えているだろう。連日、広島の空にたれこめた死者を焼く煙を。あれは我々医学者の敗北の印だった。
だが私は、その敗北を決定的なものとして受け入れることを断固として拒んだ。我々はまだ緒戦において敗れたにすぎないのだ。
私はあの日、八月二十日の夕刻、妻の、お前にとっては母の死体を焼きながら、ある日突然飛び来たって、我々の生活を、我々の町を根本から破壊したものに対して敢然と復讐《ふくしゆう》を誓った。
それからの私の長く困難な、そして殆ど戦果≠フない戦いは、お前もおぼろげに覚えているだろう。
我々が一歩も進めぬ間に、白血病、ケロイド、ガン、白内障と敵は次々にその恐るべき側面を顕《あらわ》してきた。
あの日、我々の生活と土地を滅した悪魔的な破壊力は、瞬間的破壊にとどまらず、同時に、爆心地においては二|三万レントゲンという、かつて人類が経験したことのない大量の放射線を放出し、恐るべき「死の灰」となって広島に蓄積された。これが体内に吸入され骨に沈着して、人間を深部から蝕《むしば》んでいく。
原爆症と名づけられたこの一群の症状は、被爆直後の急性障害が一見回復したかに見えても、人体の深部に巣喰《すく》い、長い時間をかけて人間を骨の髄から腐らせていく。急性障害症によく耐えて生き残った人間も、今度は残忍な放射能による様々な病魔との、長く苦しい闘いに晒《さら》されなければならない。
この敵の医学的正体はアメリカの軍機に重大な影響をもつので、研究そのものに対しても大きな圧力がかかった。我々医師団は激しい怒りを覚えながらも、この圧倒的に優勢な敵を相手に執拗《しつよう》に戦い続けてきた。
だが、今、私はお前に宛《あ》ててペンを取りながら、そのような敵の優位や、研究の悪条件は、私にとってさしたることではなかったと痛切に思い知らされている。
どんなに敵が強大で圧倒的優勢を誇ろうとも、長い時間をかけて取組めば、必ずや挽回《ばんかい》のチャンスがあると我々は信じていた。愚かにも、私は、戦いに熱中する余り、私自身がすでに敵の手によって捉《とら》えられた哀れな犠牲者であるのを忘れていた。
私はいったん敵手に落ちた捕虜であり、私の生命は、応急の医薬を保証金として積んで、保釈≠ウれたものにすぎなかったのだ。保証金≠ェ尽きれば、すぐにでも保釈を取り消される哀れな被告の身分でありながら、私は必死に戦ってきたのだった。
その不遜《ふそん》な(敵にとって)私の態度は敵を怒らせたらしい。いったん回復したかに見えた私の症状は、最近に至り再び悪化し、猛烈な嘔吐感や貧血に悩まされるようになった。白血球も異常に増殖している。白血病の典型的な症状だ。
私の生命は遠からず尽きるだろう。今日の命も応急の化学療法によって一日延ばしに延ばしているにすぎない。間もなく保釈は取り消されようとしている。
修平よ、私は口惜しい。白血病を中心とする恐るべき原爆症に対して、医学者として一矢も酬《むく》いられぬまま、今、またその犠牲者の一人として彼らの手に摘み取られていくことが骨を咬《か》まれるほどに口惜しい。せめて、あと十年、生きられれば、いや五年でもよい、いや一年、一か月でも生きられれば!
だが私は敗れたとも、返り討ちにあったとも思わない。我々広島の医学者の不屈の努力は、いつの日か、この原爆症という強大な敵を捻《ね》じ伏せるだろう。それが広島に生き残った医師の義務でもある。
修平、お前がこれからどのような職業を選び、どんな人生を歩もうと、私にとやかく言う権利はない。だが、もしお前が私の遺志を継いで医学者となり、私を倒した白血病との闘いを続けてくれるならば、父としてこれに勝る喜びはない。
我々の夥《おびただ》しい努力にもかかわらず、原爆症に対してまだ殆ど何も判っていない。特にその障害の代表とされる白血病に関しては、ガンと同様に何の予防も特効薬もない。この病気は原爆投下百年ほど前に発見されたのだが、非常に少ない症例だった。それが原爆後、大量に発病して、もっとも注目を浴びたのだが、治療法としてはいまだに化学療法による生命の一日延ばしに頼るしかないのだ。
原爆が造血組織に与える影響に関しては殆ど判っていない。白血病の謎《なぞ》を解明するまでには、越えねばならぬ壁が幾重にも立ち妨《ふさ》がっている。
お前を医者にして私の遺志を継がせようとするのは、親のエゴイズムかも知れない。だから私は決して強制するつもりはないのだが、お前がこの手紙を読んだ時、それはやはり父の遺書としてお前の心に大きな負担をかけるだろう。
それにもかかわらず、私がこれをしたためているのは、もしかするとお前も、私と同じ様に保釈の身であるかも知れぬという不安が私を慄《ふる》えさせるからなのだ。
幸い、お前は被爆当時、堅固な遮蔽物《しやへいぶつ》の下にいて殆ど無傷だった。その後、私の行なった精密検査にもかかわらず、疑わしい症状は何ら発見されなかった。だがそれだけで決して安心は出来ない。原爆症とは決してそんななま易しいものではない。お前にとっては恐しいことだろうが、これから先の文面をどうか怖れずに読み続けて欲しい。
あの瞬間放射量、三万レントゲン(致死量六百―八百レントゲン)という大量の放射能は、お前の骨髄に深く沈着して、じっと躍り出す機会を狙《ねら》っているかも知れないのだ。
特に白血病の被爆距離と発病率の関係を見ると、二キロ以内では被爆後相当の日数を経過してから発病する、慢性白血病が多い。
お前がどの程度の放射線を浴び、体内に蓄積させているか知ることは出来ない。だが、その量がお前の今後の運命を決定するだろう。あるいは私の医学者であるが故の杞憂《きゆう》かも知れないし(そうであることを心から希《のぞ》んでいるが)、あるいはすでにこの手紙を読めないような事態≠ノ立ち至っているかも知れない。お前がこの手紙を読める日に達したことを二重の意味で喜んだのは、そういう事情があったからだ。
しかし、私はここに父としてよりは、一個の医学者として、お前の被爆距離や状態から判断して、どうしてもお前のこれからの生命の期限≠楽観することが出来ない。
お前もまた、保釈の身であるかも知れぬ。敵のせめてもの情によってこの人の世にたまゆらに招かれた旅人かも知れない。滞在期間は短くそして延長することは出来ない。もはやペンを執るのも苦痛になった私には、そのように悲観的に思えてならないのだ。
そういうお前に対して私は父として医師として何もしてやることが出来ない。だが、私が微力ながら保釈中の全力を挙げて築いた医学の堆積《たいせき》の上にお前が坐《すわ》り、お前がその上に新たな山を築いたなら、あるいは、敵からお前の身を護《まも》る何らかの方法を見つけられるかも知れないと思ったのだ。
私はお前を絶対に原爆症で殺したくない。これだけ語った以上、後はお前の判断に任せたほうがよいだろう。
白血病は医学の徒にとって生涯を賭《か》ける研究テーマとしての魅力を持っているとは言い難い。これだけを研究の対象としていては、医師としての成功のチャンスを逸するかも知れない。
だが、修平よ、私はお前に言い遺《のこ》しておきたい。お前の人生を普通人の人生のように考えてはならない。お前は本来この世に属すべき人間ではなく、あの日を境に、仮りにこの世に滞在することを許された一個の旅人にすぎないことを。――お前には人並の栄光や打算を狙う余裕などないと思ったほうが無難だ。
親として、ただ一人の息子にこのようなことを語るのは悲しい。だが、私はお前の限られているかも知れない[#「限られているかも知れない」に傍点]滞在期間を分秒たりとも浪費させないために、あえてこのことを告げようと決心した。
あとはお前の判断に任せよう。お前は私の歩んだ道を継がなくともよい。ただ父として今お前に希《のぞ》むのは、私達の幸福の全てを一瞬にして滅し、それだけにあき足らず、その将来までをもじりじりと蝕む、強大な破壊と残忍な殺戮《さつりく》の悲惨が、そのようなものを決して望むはずのない同じ人間によってもたらされたものであることを銘記し、あのような災厄を再び繰り返させぬための、多くの人々の倦《たゆ》まざる努力にどんな小さくともよい、お前の努力を付け加えて欲しい。
私がお前に告げるべきことは殆ど記した。もし、お前が私の遺志を継ぐとなれば、相当な学費が要るだろう、白島九軒町の家の敷地のほかに市内にいくらかの土地と、郊外に母名義の山林が多少残っている。これらを売ればお前の学費や、当分の生活費は優に賄《まかな》えるだろう。和男おじをお前の後見人に指定しておいたから、何事もよく相談して行なうように。
お前が継いだ場合に、多少の参考になるように私の研究の結果を一緒に残しておく。これは私が被爆後、約六千人の被爆生存者を診療調査した結果をまとめ上げたものである。
原爆の秘密保持に影響を与えるとの理由からGHQによりもみ潰《つぶ》された論文で、まだ学界に未発表のものだ。後を継いだ場合、お前の研究に必ずや何らかの力を添えるものと信じている。
夜も大分更けた。頭が割れるように痛い。私の滞在期間は間もなく終るだろう。このペンを執る傍らでお前は安らかな寝息をたてている。常ならば、お前の母もここにいるはずだった。
だが、私達の現身《うつしみ》がお前の傍にいなくなっても、お前は決して悲しんだり、寂しがったりしてはならない。
私達の魂が常にお前と共にいるなどという気休めは言わぬ。所詮《しよせん》、人間は一人で歩くべく運命づけられている。父や母は、人生のスタートにおいて、一人では起動出来ない幼い脚力に、暫《しばら》く伴走してやるだけのことなのだ。起動力さえつけば、早晩、伴走者から離れて独走に切り換えなければならない。
世間に比較して独走に入るのがやや早過ぎるようだが、もうお前には十分脚力がついている。それに伴走者が全くいなくなるわけではない。これからは私の代わりに和男おじが一緒に走ってくれるだろう。
もっとも今、私はそれを語る必要はない。お前がこの手紙を読む時は、お前が完全な独走力を身につけた時だからだ。
お前がどんな独走をするか、父は楽しみに見ている。
昭和二十四年四月三十日午前一時三十分
修平は父からの手紙を一字一句全て諳《そら》んじていた。彼は父の死後、父の弟にあたる秋田和男に引き取られたが、彼の高校入学許可が発表された日に、和男おじより手渡されたのである。
日付は二十四年四月三十日となっているから死の一週間位前にしたためたものである。
父はこれを修平の高校入学が確定した日に開封するように言いおいて、秋田和男に託したのだ。手紙は彼の遺言通りそれから約五年間、和男おじの手許《てもと》に保管された後、修平に渡されたのである。
修平は父がこのような手紙を遺していったことすら知らなかった。
努めて感情を抑えた、いかにも医学者のものらしい硬い文章であったが、行間に父の泪《なみだ》が滲《にじ》んでいるように思えて、修平は読み進みながら何度か眼頭を圧えなければならなかった。
親のエゴイズムを子に押しつけることになるのではないかと惧《おそ》れながらも、子供の命の底に隠れ潜んでいるかも知れぬ病蝕から、子を己の死した後も護ろうとする親の心がこもっていた。
修平を医学へ進めたのはこの手紙だった。他ののんびりした普通の学生と異なり、彼は親の仇討ち≠するような気持で、医学を学んだのである。
学ぶほどに彼は父が遺した研究がいかに偉大なものであるか思い知らされた。
自らの原爆症による生命の不安を拒《は》ねかえしながら、弾圧と、物資の欠乏の中に殆《ほとん》ど絶望的ともいえる闘いを続けたのだ。
体力的にも自ら頭痛や全身|倦怠《けんたい》に苦しめられながら六千人の患者を診るということが、どんなに大変なことであったか。
原爆という巨怪の鎖を解き放した米国自身すら、その正体を捉《つか》めなかった当初は、被爆者から白血病患者が多発している事実には気がついても、その両者の関連を学問的に実証するものはなかった。
医師は言わば、目隠し、手さぐりでこの「見えない殺人者」と言える放射能障害に立ち向かっていたのである。
そのような中で、父の「広島における被爆者の白血病を中心とする原爆症発現率及び被爆距離との関係」と題する、六千人の被爆者の臨床観察に基づいてまとめ上げた大論文は、あらゆる圧力や学説の批判を断固として拒《は》ねかえし、ここに原爆|白血病その他の放射能障害という因果関係を見事に立証したものだった。
苛烈《かれつ》な白血球の増殖に骨髄からじりじりと蝕《むしば》まれながら、最後の力が尽きるまで患者を診つづけた父に、修平は、医師の業を見るような気がした。そして彼は父の業を継いだ。
東都大医学部を卒業後、彼は日労災に入り、職業病の解明を通して白血病を生涯の研究テーマとして続けてきたのである。
彼は純粋な研究に閉じこもることなく、現実の患者を治療しながら、ガンと同様、根本的には解決出来ない#柱剣aという殆ど登攀《とうはん》不可能な未登の壁を攀《よ》じ始めたのだ。
登路《ルート》はもちろんない。現実の患者だけが唯一の手がかりである。そして、彼はいかに父が高所まで辿《たど》り着いたかということを知った。
試行錯誤のルートハンテングを続けるうちに、ある日突然、父の惧れていた予言が的中した。執拗《しつよう》に続く微熱に、もしやと自ら血液検査をしたところ、そこに白血球の著しい増加を認めたのである。
「骨髄性白血病」それが彼が自分自身に貼《は》った病名であった。
そして「遅くて三年半、早ければ二年」と、彼は自らの滞在期間≠診断した。
「父の予言通り、やはり俺《おれ》はこの人の世にたまゆらに招かれた旅人にすぎなかった」暗然たる目を何処に見るともなく上げた時、彼は旗野祥子から大丸への誘いをうけたのだった。
(あれからすでに三年、――もし俺の診断に誤りがなければ、最大期限まであと六か月ほど許されるはずだ。生きたい。あとせめて二か月あれば、父の論文の後を継ぐべき「放射能の後障害に関する研究」をまとめることが出来る)
だがもはや単独ではこの凍った岩稜を下降することは出来ない。食糧は尽きた。残ったものはただ一本の栄養剤のアンプルだけだ。それだけで救援が来るまでの不定の時間、この衰弱した身体を保《も》たすことが出来るか?
しかも、自分がここへ登ったことを知っている者は大西だけだ。山麓《さんろく》の登山カードにも記入してこなかったから、彼が来てくれなければ、まず他からの救援はあてに出来ない。
(大西よ、来てくれ)
(彼は必ず来る)
(彼は必ず来る)
(彼は必ず来る)
消えていこうとする火を必死にかきたてるように、彼はシュラーフの中に凍《こご》えた身体をまるめ、身体の底の底の方に埋もれる微《かす》かな残り火を守っていた。山は二度目の夜へ入っていた。
6
「秋田! おい秋田!! しっかりしろ」
遠くで誰かが呼んでいた。その声は感度の悪い電話機を通すように、聞こえたかと思うとまた薄れ、何度かもどかしい波のうねりを越えた後に、急に鮮明に耳膜に届いた。
秋田の意識に、揺れる水の面のように外界のものの形が映った。水はゆるやかにおさまっていった。
暖かみを帯びた明るい光が水面に溢《あふ》れ、その上に友の顔が浮いていた。
「大西!」
「気がついたか、よかった」
緊張で白茶けていた彼の面に、はじめて笑いが浮んだ。
「来てくれたのか」
「まずこれを飲め」
彼はテルモスから熱いミルクを注いでくれた。
「いきなり食って吐くといけないからな」
大西は言いながら手早くザックからビタミンの錠剤を、一、二粒と、軽いクラッカーを少量出した。
「心配したぞ、ひでえ嵐《あらし》だった」
秋田がとりあえずの栄養物を嚥下《えんか》するのを見届けてから大西は言った。
「天気は回復したのか」
「どうにかな。だが、またすぐ次の低気圧が近づいている」
窓から流れこむ暖かそうな光は、雲の間からわずかに日の光が洩《も》れたものであろう。低気圧が発生したために漸《ようや》く西高東低の気圧配置が崩れ、天候は一時的に回復の兆を見せたのである。だがそれも束《つか》の間、その低気圧の圏内に入れば山は再び荒れるのだ。
「よく登って来られたな」
「しんどかった。だがお前のほうがもう一つしんどかったろう。よかった」
大西の表情から疲労による窶《やつ》れを隠せなかった。
時間は午後一時を指している。山麓を早朝|発《た》ったとしても、まだ回復しきらぬ新雪なだれの危険がある三千米の標高を、大西は友を救おうとする一念で午前中に稼いで[#「稼いで」に傍点]しまったのだ。それがどんなに苦しく危険に充《み》ちた作業《アルバイト》であったか、秋田にはよく分る。
「ところでお前動けるか?」
「やってみよう」
「少々しんどいだろうが、頂上直下の悪い岩だけだ。しっかりつかまっていてくれ」
熱いミルクとクラッカーで少々元気を回復すると、小屋を発たなければならない時間が迫っていた。
大西は秋田をその幅広い背中にがっしりと背負って立ち上がった。
「それじゃあ行くぞ」
大西は確かめるように背中の秋田へ言った。戸を開けるといきなり強風が身体を突き刺した。天候は回復しはじめたとはいえ、まだ雲はかなり乱れている。北アルプス方面には巨大な雲塊が横たわり、八ケ岳の頂稜にも所々雲の底から盛んに雪しぐれが吹きつけている。
最も危険な個所は頂上直下の急峻《きゆうしゆん》な岩場《ガレ》の下降である。強風と凍りついた岩はただでさえもバランスを失い易いところに、約五十キロの秋田の重量を背負って下るのだ。
大西が足場を誤れば、文字通りの一蓮|托生《たくしよう》である。アンザイレン(ザイルで身体を結び合う)よりも、もう一桁《ひとけた》上の山仲間の連帯であった。
「大西、径《みち》が違うのじゃないか」
秋田はふと大西の背から言った。
「いやこれでいいのだ。ここから行者《ぎようじや》小屋へ下るのが一番近い」
大西は南峰から往路の真教寺尾根へ向かおうとせず、右折したのである。行者小屋は八ケ岳の主稜を間にはさんで、清里とは反対側にある、八ケ岳の最もふところ深くにある常時有人の小屋である。
確かに距離的には最短の場所にある小屋であったが、山麓にそのまま鉄道が来ている清里側と異なり、最寄りの交通機関に達するまで長い裾野を歩かなければならない。
(おかしい?)と思ったが、秋田は従った。背負われている身では従わざるを得ないのだ。だがその疑問を大西はこともなげに解いてくれた。
「清里側へ下りると、何かと試験所が目立つからな」
彼は足場を選びながら薄く笑った。それはすでに先刻の秋田の、生存を確かめた時の旧《ふる》い山仲間の笑いとは異質のものだった。
友の救助よりも、試験所の秘密を優先する仕事師《ビジネスマン》の打算的な冷たい笑いが、「これで借りは返した」と友情の貸借≠フ精算結了を告げていた。
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二人だけの結婚式
1
「もしやあの人は山へ!」
ここ数日、香澄は身も世もあらぬほどに心配していた。全国的な悪天候で、日本各地の山々から遭難の悲報があいついで伝えられてきた。
ここのところぷっつり消息を絶ってしまった秋田が、もしやそのニュースの中に入っているのではないかと、彼女は新聞やテレビに息が詰まりそうな胸騒ぎを覚えながら接するのだった。
勤務先の日労災をはじめ、彼が立ち廻《まわ》りそうなあらゆる場所に問い合わせてみても、彼が三日間の休暇を取ったことが判っただけで、行方は皆目不明だった。
彼女は最初、秋田が自分に黙って三日間の休暇を取った不満のほうが先に立った。何故、それだけの貴重な時間を自分と共に過してくれないのか? 三日間という厖大な時間[#「厖大な時間」に傍点]を一体、自分以外の誰と、何処で過ごすつもりなのか?
――口惜しい、今度|逢《あ》ったならば――
最初の一日は秋田の立ち廻りそうな諸所への問い合わせと、秋田を捉《とら》えた時の台辞《せりふ》を練ることで費された。
「もしや山へ?」の不安は二日目から萌《きざ》し始めた。そう思うとそれは瞬く間に確信へと育っていった。
(あの人がこれだけの日数を私以外の所で過ごすとすれば、それは……山だわ)
そうだ、それにちがいないと信じた時、すでに戸外には凄《すさま》じい風雨の音が鳴っていた。
幸いにも、三日目の夕刊にも秋田の名前は載っていなかった。その夜遅くなってから麹町寮へ問い合わせたが、彼はまだ帰っていなかった。
「きっと夜行で明日の朝、帰って来るんだわ」
と思うと香澄は急に腹立たしくなってきた。人の心配もよそに、一人のほほんと休暇いっぱい山を楽しんでいる秋田が憎たらしくなったのである。
きっと明日は「やあごめんごめん」と頭をかきながら、そのくせ少しもすまなそうな顔をせずに現われるだろう。
その時はどうしてくれよう――
香澄はケロリとした秋田を一刻も早くぎゅうぎゅうの目にあわせてやりたかった。
しかし、四日目、中診へ問い合わせた香澄は休暇が切れた今朝も秋田が依然として出所して来ないばかりか、帰寮もしていない事実を知って、前以上の心配で胸がつぶれそうになった。
彼女が発信人不明の電報を受け取ったのはその日の夜遅くであった。
「アキタシユウヘイシ、チノシリツビ ヨウイン
ニニユウインシタ、スグ コラレタシ」
店から帰り、また、心配で眠れぬ夜を、それでも身体だけでも横にして休めようかとベッドを用意している時に、その電文は飛びこんできた。
どうやら秋田が入院したらしいことは分ったが、一体どういう病気でそうなったのか、短い電文からでは判らない。それに発信地の「チノ」などという地名は、香澄にとって全く馴染《なじ》みのない所である。
長野県にあるらしいことは電報の発信地名から判ったが、そこへ行くにはどの汽車へ乗ったらいいのかと、さっぱり分らない。
押入のどこかに日本地図のあるのを思いだして、長い時間をかけてそれを探し出し、漸《ようや》く、山の形になった中央線の頂の近くにその地名を見出した。
麦草峠に行った時は小海線を経て入ったから、「茅野」という地名に覚えがなかったのである。
彼女は早速、汽車の時刻表を繰った。すでにその日の終列車は出ていた。そこへ辿《たど》り着く最も速い列車は明朝の七時にならなければ新宿を出ないということを確かめて、朝までの時間をまんじりともせずに過ごした。
2
茅野へは朝の十時半頃着いた。病院はすぐ分った。駅前で寒そうに客待ちをしていたタクシーを拾って病院を告げると、ものの二、三分も走らぬうちに八ケ岳おろしの寒風にちぢこまったような小さな町の家並は切れて、その外れに、低く続いた家並の終止符のようにそれは寒々とした冬野に面して立っていた。
三階建の薄汚れたモルタル作りであるが、それでもその辺では唯一のビルらしい建物だった。
受付けにおしえられて通った部屋は六ベッドの大部屋である。
秋田は入口に一番近いベッドに眠っていた。そっと傍に近寄って覗《のぞ》きこんだ面の痛々しいまでの窶《やつ》れように香澄は、会った最初の瞬間にぶっつけてやろうと用意してきた台辞《せりふ》のすべてを忘れてしまった。
「君か」
いつの間にか秋田は目を開いていた。彼は起きていたのである。
「一体、どうなさったの?」
「ちょっと手足の先を凍傷にやられてね」
「とうしょう?」
「しもやけに毛がはえたやつさ、すぐに癒《なお》る。それよりよくここが分ったな」
「電報がきたのよ、病院から」
(大西の仕業だな)と秋田は思った。凍傷に大分やられた彼をここへ担ぎこむなり、大西は誰か呼び寄せられる身寄りの者はないかと訊《き》いた。
香澄と大西には悪いが、その時秋田の瞼《まぶた》に浮かんだのは祥子の面影だった。まさか救助者の妻の名を挙げるわけにもいかず、重ねて訊いた大西に香澄の名と住所を告げたような気がする。
「手足を少し凍傷にやられているが、大したことはない。それより全身がかなり衰弱しているからここで二、三日ゆっくり寝てゆけ。悪いが俺は行かなければならない」
そう言って大西はそそくさと帰って行ったのだが、さすがに後が気になったとみえて、香澄に電報を打ってくれたらしい。
「でも、嬉《うれ》しいわ、私を最初に思いだしてくれて」
香澄は秋田が無断で姿を消したことを咎《とが》める前に、彼に救けを求められたのを単純に喜んだ。
「すまない」
「いいのよ」
秋田の詫《わ》びを、香澄は自分の労をねぎらってくれたものと解した。
「山なのね」
「ああ、すっかりやられてしまった」
秋田は照れくさそうに笑った。
「心配したわ。黙って行方不明になってしまうんですもの」
「すまない、登りたいと思ったら、やみくもに登りたくなってね、誰にも言わずに出て来たんだ」
「せめて私だけにでも言って下さればよかったのに」
この時初めて香澄は咎めるような口調と怨《えん》ずるような目つきをした。
「言えば止められるにきまっているからな」
「あらっ私、そんなお節介な女じゃなくってよ」
香澄は言ったが、もしも秋田に事前に話されたなら、やはり止めただろうと思った。
「でもよかったわ、大したことなさそうで」
香澄は身体中の吐息を一時にはき出すようにして言った。
窶れは痛々しいが、口をきかせてみれば案外元気な秋田の様子に、香澄は全てを不問に付すことにした。
3
翌々日どうにか歩けるようになった秋田に付き添って、二人は茅野を遅い汽車で発った。季節外れで旅行者も少なくなり、車内はガランとしていた。
八ケ岳の本峰群に少し雲がからまっているだけで、久し振りによく晴れた美しい日だった。
小淵沢を過ぎて日野春台地に入ると、八ケ岳の美しい裾模様に対立して、右手にピラミダルな甲斐駒岳を起点に、アサヨ、鳳凰《ほうおう》と続く南アルプスの豪快な岩襖《いわふすま》が現われた。
雪に縁取られた稜線が午後の光線の中に薄青く烟《けむ》る。それが蛇行する列車の位置によってきらと燦《きらめ》く。山麓《さんろく》は霞《かすみ》に溶けて消えていたが、その奥に時たまきらきらするのは山間に埋まった池沼か水田であろうか。野に農夫の影はなく、やせた疎林《そりん》が風に慄《ふる》えていた。
力量感に溢《あふ》れておりながら、何もかも寂しい風情を訴える車窓の風景だった。
二人は放心した瞳をその風景にあてていた。
(あれが甲斐駒だよ)
日野春付近で甲斐駒の山容が極まった時、秋田は香澄にその名を教えてやろうとしたが、山の名前などは、山屋∴ネ外に興味を与えないことを思って止めた。
美しいものは遠くから眺めているだけでよいのだ。たとえそれが山でも女でも、――秋田は山を見ている香澄の横顔にふと祥子の面影をオーバーラップさせていた。
祥子、またしても祥子だ、俺はどうかしている。彼女は人妻ではないか、しかも大西の、――秋田は大西に対する後めたさよりも、香澄の献身にもかかわらず、他の女を想《おも》っている自分の心が咎められた。
その時香澄が車窓から視線を転じた。
「何よ、そんなに人の顔をみつめて、……いやだわ」
香澄は秋田の目に柔らかい微笑をからめた。男の愛を信じている女の美しい微笑だった。
だが、秋田は自分の心を見透かされたように思って慌てて視線を外《そら》した。
香澄も美しい。いや銀座で磨き上げた女の美は祥子以上であるといってもよい。だがその美しさに俺は触れてしまった。触れてしまった美しさが、触れられぬ美しさの前に色褪《いろあ》せるのは、男の一人よがりの感傷なのだろうか?
秋田はいつまでも消えぬ祥子の投影の中に、現に自分が得ているこよなく貴重なものの価値を自ら減殺《げんさい》していることが、口惜しかった。
「でも本当によかった」
香澄は穏やかな微笑の中に、すでに秋田が何度となくきかされている言葉をまた言った。
「もう分ったよ」
秋田は苦笑した。自分の生存がこれほどまでの喜びを一人の女に与えるという事実が、いささか、意外でもあり、面映ゆくもあった。
「何度言っても言い足りないのよ……だって」
「だって何だ?」
香澄が今までと違ってふと言い澱《よど》んだ言葉の先に何とはない翳《かげ》りが感じられた。
「だって……」
香澄はいたずらっぽい微笑をたたえたまま、秋田を焦《じ》らすように言葉の先を濁らせた。
「もったいぶらずに早く言えよ」
「だって、私一人じゃないんですもの」
「え!?」
「あなたに万一のことがあった場合、悲しいおもいをするのは私一人じゃないのよ」
「それはどういうことだ?」
香澄は微笑を含羞《はにかみ》に変えて両手で下腹部を圧《おさ》えた。
「それでは!」
「そうなのよ」
香澄の頷《うなず》きにはすでに母親の貫禄があった。
その瞬間、秋田の胸に突き上げたのは、刺すような悔いだった。
そうなることは最初からよく分っていたはずだった。男と女がそうなれば、そういう結果になるほうが自然なのだ。それなのに自分は――秋田は自分のうかつさに、身を切り刻まれるような気がした。事実、身体の部分に痛みを覚えた。
この世の中にほんの一時、旅人としていることを許された定めない身分には係累を残す資格などない。
自分は瞬間の躰《からだ》の欲望を充《み》たせればよいが、その結果として後に残された幼き者の扶養と責任は誰が取る。
「どうなさったの? 私たちの赤ちゃんが生まれてくるのが嬉しくないの?」
秋田の惨たる表情に、香澄の面も曇った。
「堕《おろ》してくれ!」
「まあ」
いきなり飛び出した秋田の残酷な言葉に彼女は硬直した。
「今、生まれては子供が不幸になるだけだ。おろしたほうがいい」
「あなたは、何てことを仰有《おつしや》るの! 私達の初めての子なのよ」
「初めてでも何でも、今は生める状態じゃない。頼むからおろしてくれ」
「どうしてなの? どうして生める状態じゃないの? あなたは立派な職業を持っていらっしゃるし、私にだって少し位は蓄えがあるわ。それにこの子が少し大きくなったら、また、働きに出てもいいし……それとも、私のような女を妻にしては具合が悪いことでも起きたの? だったら私、あなたの奥さんにならなくてもいいのよ、第一、最初からそんなこと思ってもいなかったわ。ただ、私はあなたの子が欲しいだけ」
香澄はすがりつくように言った。
「そんなことじゃないんだ」
「それじゃあ何? 仰有って!」
「頼む、何も訊《き》かずに僕の言う通りにしてくれ」
「ひどいわ、女が初めての子をもつということはたいへんなことなのよ。あなたには分らないんだわ、あなたには……」
語尾は嗚咽《おえつ》にかすれて声にならなかった。
そこには最も愛する男の、子を孕《はら》んだ、女としての最も幸福な状態から、その子を相手の男によって否定された、女として最も惨《みじ》めな状態へ突き落とされた時の泪《なみだ》があった。
秋田の心はきりきりと痛んだ。だがそれはその痛みに耐えて拒み通さねばならなかった。今、なまぬるい妥協をすれば、一時的には女の気を休めても、後に母子双方にとって大きな不幸を招く。
周囲に他の乗客が乗り合わせていないのが、せめてもの幸いだった。秋田は窓外に視線をさまよわせて香澄の感情が静まるのを待った。列車は釜無川《かまなしがわ》の渓谷に沿ってスイッチバックをくりかえしながら甲府盆地へ向かって下っていた。
香澄はやがて面を上げた。感情に一区切りをつけたものと見えて瞼《まぶた》がやや腫《は》れぼったいだけで泪は退《ひ》いていた。
「私、やはり産みますわ」
ややあって固い食物をかみ下すように言った言葉には、全く妥協の余地のない思いつめた女の心がこめられていた。
「き、きみ!」
「いいえ、産みます。これだけはどんなにあなたに言われても、従えないわ。だってあなたは、これからも自分の子が欲しいと思えば、いろんな女にいくらでも産ませることが出来るけど、私にとってはあなたの子供を産むのは、この子が最初で最後になるかも知れないもの」
「それはどういうことだ?」
「女には二度目の子供を産めるという保証はないのよ。最初の子供をおろしたら、もう二度と産めない躯になるかも知れないし、それに」
香澄はそこで言葉を一寸切って面を悲しそうにひき攣《つ》らせた。何事か、内部のおもいに必死に耐えているような表情だった。
「それに」
彼女は秋田に言葉をさしはさむ隙《すき》を与えずに、
「あなたの愛がいつまで続くか分らないもの」
「そ、そんな」
「いいえ、いいのよ。私には分っているの、あなたに恋人がいらっしゃるのはずうっと前から知っていたわ。私は最初から二号さんのつもりであなたに近づき、そのことに満足していたのよ。でも、私から子供だけは取り上げないで。これだけがあなたの愛の形見だもの。そしてあなたが私の許《もと》から去った時、この子だけが私の生き甲斐《がい》になるのだわ」
秋田は香澄に祥子のことを語ったこともなければ、その存在を仄《ほの》めかすような事物も一切身の周りにおいていなかった。それにもかかわらず祥子の残り香≠嗅《か》ぎ取ったのは、女の第六感であろう。
だが語り続ける香澄の言葉は、それが秋田の思い過ごしであったことを教えた。
「あなただけでなく、何か夢中になれる仕事を持っている男の人の奥さんは、みんな二号さんよ。その意味で男の人の本当の奥さん、あるいは恋人は、お仕事だわ、もっとも、私はあなたの正式の奥さんでもないから、三号さんかも知れないけれど……。男の人はその中に何もかものめりこませていってしまう。仕事へ注ぐ情熱のほんのちょっぴりを、それも渋々と、あるいはむりやりに割いて私たち女へ廻《まわ》してくれるのだわ、それはそれでいいと思うの。男の人がご自分のお仕事に夢中になってくれるからこそ、世の中が進むのですものね。どんなにちょっぴりしか私達に廻してくれなくとも、それに対して苦情を言ってはいけないわ。
でも、そのちょっぴりが女にとっては全てなのよ。私たちは、いえ、私はあなたが下さったちょっぴりを全身で慈《いつくし》む以外にないのよ。だから、男の人はいったん与えた以上、そのちょっぴりを取り返すことは出来ないわ、どんなことがあっても……絶対に」
彼女はそう言って、あたかも取り返されるのを惧《おそ》れるように両手で下腹部を庇《かば》い、身体を硬くした。
そこにはもはや男が入るのを許されぬ、母としての堅い殻に鎧《よろ》われた決意があった。
世の常の父親≠ネらばここで諦《あきら》めるべきだった。だが秋田の場合、父としての情と責任を知るが故に、どんなに堅い殻に鎧われた心であってもそれを断ち割らなければならなかった。そしてそのためには彼は自分の躯の「秘密」を打ち明けねばなるまいと思った。
(だが今それをしようとしても徒《いたず》らに殻の層を厚くするだけだ。ひとまずここは、香澄の決心に何の圧力≠煢チえぬことにしよう)
秋田の気持が一応、定った時、列車の速力がゆるまり、車窓に甲府の町並が見えてきた。
4
「うそ! 信じられないわ、あなたの命が刻まれているなんて!」
悲鳴に近い声を上げて、放心してしまった香澄の表情が瞼に焼きついて、秋田はその夜まんじりともしなかった。
彼が遂に自分の躯の秘密を打ち明けた時の香澄の驚愕《きようがく》と悲嘆は、見るに耐えぬほど痛ましいものがあった。
だが秋田はそれにしっかと目を据えたまま、まるで他人事を語るように、己の「旅人としての身分」を彼女に伝えたのである。
しかし、彼はその時、己の身分を少し誇張した。それは香澄にとって残酷な誇張であったが、彼女の決心の殻を破るためには止むを得なかったのである。
「被爆者の子は奇形児になる危険性がある」この言葉が香澄を刺し貫ぬき、殆ど回復し難いまでに打ちのめした。
誰が言うのでもない、父として医者として秋田が言ったのである。
確かに被爆当時妊娠していた女性の子供については、様々な障害が報告されていたが、奇形児と放射線の関係は明白に証明出来ず、戦後二十数年間積み重ねられた研究は、「放射線による遺伝的影響」を殆ど打ち消していたのだ。
だが、秋田はかなり確率が高いようなニュアンスを語調にこめて香澄を「脅かした」のである。
こうでもしなければ、母性本能に鎧われた彼女の決心の堅殻は、打ち破れなかったであろう。香澄の、まるで死人のような惨たる表情が、彼女が内部で頑《かたくな》に護り続けてきた殻に無数のひびが入ったことを語っていた。
秋田は無表情にそのさまをみつめていた。それ以外のどういう表情もできなかったのだ。
俗っぽい言い方をするならば、「身も心も入れ上げた」相手の男から、ある日突然、彼の余命がいくばくもないことを告げられ、あまつさえ、その男の分身が、奇形かも知れぬと仄《ほの》めかされた女の嘆きと悲しみは、およそ、男の忖度《そんたく》の外にあった。
秋田は泥のように打ちのめされた女を一人残して自分の寮へ帰った。悲情なようだが、そうすることがこの場合、一番適切だと判断したのである。
思いつめたあまりの不安がないでもなかったが、芯《しん》にしっかりしたものを蓄えている香澄を一応信頼することにした。
悲嘆の底に沈んだ人間を|引き揚げ《サルベージ》るのは、時間以外にない。――と突き放した時に初めて、秋田の瞼に、祥子の投影を完全に振り切った純粋な香澄の姿が、くっきりと燐光《りんこう》に縁取られたように浮かび上がった。
一早おいて翌々日の朝、香澄から中診へ出勤したばかりの秋田の許《もと》へ電話が入った。
一昨日以来気にかけていた折りなので、緊張して送受器を取った秋田の耳に、意外にはなやいだ彼女の声が流れて来た。
至急会いたいのだが、昼休みにでも一寸出られないかと香澄はむしろ浮き浮きした口調で秋田に言った。
一昨日の悲嘆の様子を見ているだけに、その声が暫《しばら》くは別人のもののように信じられず、やがて紛れもなく彼女のものと確かめた時、女の感情の微妙な起伏に感心すると同時に、胸のしこりが解けたようにほっとした。
「だが、会ってみるまでは判らん。香澄のことだから必死に感情を抑えているのかも知れない」
秋田はそう思うと気もそぞろになって、昼休みになるのが待ちきれなかった。
香澄が指定した場所は、中診からほんの一投足の所にあるホテル大東京であった。秋田は二階のグリルへ通った。
患者が途切れたのを幸いに、やや約束の時間より早目に来たのだが、香澄はすでに来ていた。
「今日は、わりかし早かったわね」
窓際に占めた席からかろやかに立ち上がって秋田にかけた声は、もはや何のくもりもなかった。
「君こそ、わりに早かったね」
秋田はほっとしながら、註文《オーダー》はすんだのかと訊くと、彼女は首を振って、
「まだよ、私も今、来たばかりなの」
食欲は全くなかったが、香澄につきあって小海老のグラタンを二人前取った。
料理《オーダー》が届けられた時に香澄のポーズは崩れた。彼女も全く食欲がなかったからである。申し訳ばかり口をつけたグラタンを中に挟んで二人はお互いの目を見つめ合った。
他人目《よそめ》には恋し合う同士が共に昼食を楽しんでいる風情と映ったであろう。この静かな幸福につつまれているような二人《カツプル》が、逃がれようもない病魔によってじりじりとその仲を割かれつつあるとは、集まる人々の花やかなムードがなくとも誰も見破れなかったであろう。
それは二人だけに判る悲しみであり、二人だけで分かち合うべき不幸であったからだ。
食欲は全くなくとも、料理はこの場合、二人の悲しみのこよなき緩衝となった。グラタンが間にあったので、二人の悲しみと悲しみのなまにぶつかることが辛うじて防がれたのである。
「私、昨日お店を休んだのよ」
香澄は口の中に入れたグラタンの小さな塊りをやっとのことで嚥下《えんか》すると、明るい表情を装って言った。
「それがどういう意味を持つかあなたに分る?」
彼女は唇の一方の端を少し曲げていたずらっぽく笑った。それが彼女が心に何か小さなたくらみをもっている時の癖なのである。
「教えてあげましょうか」
「うん」
「あなたはうそを仰有《おつしや》ったわ、いけない人」
「うそを?」
「そうよ、大うそを。私ね、昨日、新宿の国立病院へ行ってよく診てもらったのよ」
ここで香澄は「どうだ、まいったか」と言わんばかりの表情をした。
「そうしたらね、二十年前の原爆など、染色体には何の影響も与えないんですって。まして被爆者が男の人の場合はね」
秋田は完全に一本取られた。まさか香澄が自分の脅迫≠フ裏を取ろうとは思わなかった。医師として、そして胎児の父親として言った言葉には、絶対の信頼が置かれていいはずである。それをあえて他の権威に確かめたのは、女の母性本能のなせるわざであろう。
――それほどまでに俺《おれ》の子を――
秋田は急にいとしさがこみ上げてきた。
「香澄、結婚しよう」
「結婚? 私たちすでにしているじゃないの」
「いや、正式にだ。今は我々にはその事実があるだけで、世の中から認められていない」
「そんな形式なんかどうでもいいわ」
「形式を馬鹿にしてはいけないよ。社会の中で暮らす以上、社会の人々がみんな守る形式は、僕たちも守ったほうがいい。そのほうが生まれて来る子供にとっても幸せだ」
香澄の顔がぱっと輝いた。
「じゃあ生んでもいいのね」
「いいも悪いも、君は生む気なんだろう」
「そりゃあ……」
「君が生むと決めた以上、僕にはもうとやかく言えない。とにかく赤ん坊は君のお腹の中にいるんだからな」
「いやだわ、そんなにじろじろごらんになっては、まだ判らないわよ」
香澄は秋田の無遠慮な視線から躯《からだ》を竦《すく》めるようにした。
「生むと決めたら、どのようにしたら子供が一番幸福になれるか、よく考えなければならない。君は当分、働けなくなるし、僕はその頃はもう……」
秋田が言いさした時、香澄が首を振った。それ以上は言って欲しくなかったのだ。子供が生まれる頃には父親はすでに亡い。生まれて来る命と、去って行く親が、殆ど同じ頃にすれ違う。およそ考えられる最も悲しいすれ違いであった。
今の自分がこの子のためにしてやれることは、せめて自分の滞在期限の満ちる前に、その子の母と正式な婚姻を結び、嫡出の子として認めてやることである。
「とにかく結婚式だ」
秋田は強引にプロポーズするように言った。
5
その日の夜、世田谷の外れにある小さな教会で一組の男女が結婚式を挙げた。といっても媒酌人も参列者もなく、司式の牧師と当の両人だけの文字通り「二人だけの結婚式」だった。
人影もない教会の中を、花に飾られた聖壇に向かって、二人だけのために敷かれたバージンロードを静々と進む彼らには、どんなに恵まれたカップルにも負けぬ幸福が輝いていた。
「秋田修平、――汝《なんじ》は神のさだめに従いて、竹本香澄と神聖なる婚姻を結び、神の教えに従いて、夫たるの道を尽くし、その健やかなる時も、病める時も、常にこれを愛し、これを慰め、これを重んじ、これを護《まも》り、その生命の限り、堅く節操を守ることを誓うか」
「誓います」
「竹本香澄……汝は神のさだめに従いて……妻たるの道を尽くし……その生命の限り、堅く貞節を守らんことを誓うか」
「誓います」
誓約をすまし、司式者の前で婚姻届に署名をしている時に聖壇のかなたから讃美歌《さんびか》が流れてきた。
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人売り
1
大晦日の夜、大原良一は半年ぶりに東京へ帰って来た。例の生体《モルモツト》集めのために九州の炭坑地帯を巡って来たのである。
この人集めを緒方大三郎に命ぜられて以来、日本全国の炭坑、農村、漁村、貧窟《スラム》あるいは災害地などのモルモットのいそうな場所をくまなく巡りながら、孤独な勤務≠続けていたのである。
彼の努力のおかげで、これまでに三人の生体を清里へ送りこむことが出来た。だが実験に最も要求されている妊娠初期の妊婦と、病人の生体がなかなか手に入らなかった。
本社からは火のつくような請求《プツシユ》をうけている。だが何としても、希望通りの生体が見つからないのだ。
東京駅へ降り立った大原の憔悴《しようすい》した表情が、今度の九州行も徒労であったことを物語っていた。
彼は帰って来たのではない、北海道のある炭坑が閉山するという情報を得て、急遽《きゆうきよ》そちらへ向かう途中をちょっと下車したに過ぎないのだ。
これから上野駅に駈けつけ、また、まる一昼夜にわたる長距離列車の苦行に耐えなければならなかった。
彼は飛行機が嫌いで、上役の伴をする時以外はどんなに長く苦しくとも、列車に乗るのである。
九州の外れから十八時間も長い退屈な列車に揺られて漸《ようや》く帰り着いた東京のネオンは、大原がいまだかつて目にしたことのないような花やかさできらめいていた。
その花やかさに目を背け、世の殆《ほとん》どの人々が新しい年を迎える用意をすっかり調えてゆったりと寛《くつろ》いでいる時、更に今まで以上に長く退屈な列車に揺られて、地の果のような北海道の暗い外れに向かって旅発って行かなければならない身分に、さすがの大原もやりきれないものを感じていた。
だが不思議に妻のいる中野の自宅は心に浮かばなかった。
東京駅のホームに降り立ってそのまままっすぐ上野駅へ向かおうとした大原を、強い郷愁のように惹《ひ》いたものは、銀座であり、そしてそこにいるはずの香澄だった。
彼は腕時計を覗《のぞ》いた。針は彼が乗るべく予定した列車まで二時間ほどの余裕を示していた。
「ちょっと顔だけでも見ていこうか」
こう思うと矢もたてもたまらなくなった。
八重洲口に出た大原は、もはや何のためらいもなくタクシーを拾った。
「まあ!」
大原の姿を認めた香澄は一瞬、息をのんで棒立ちになった。
よくも顔を出せたと彼の図々しさを咎《とが》めたからではなく、意外な人物を意外な場所に見出した純粋な愕《おどろ》きからであった。
「ずいぶん、お久し振りね」
「旅へ出ていたものだからね」
「まあ、外国?」
「いや国内だ」
「それにしてはずいぶん長かったのね」
「うん、社用で全国を廻《まわ》っていたからね。水割りでももらおうか、君もどう?」
「ごめんなさい、オーダーもきかないで」
とりあえずボックスに向かい合った二人は、何のわだかまりも持たずに久しぶりにめぐり逢《あ》った昔の仲間としての言葉を交した。
さぞや怨《うら》まれることと覚悟して来た大原は、香澄のさっぱりした態度にほっとすると同時に大きな安らぎを覚えた。
それがこの商売で身につけたテクニックであろうか、いや、香澄の場合は、おそらく怨みを長く心に含めない生来の性格によるものであろう。
いずれにせよ、今の心身共に疲労|困憊《こんぱい》した大原にとっては、香澄の、心の襞《ひだ》にしみこむような暖かさが有難かった。
「疲れたよ」
「少々お窶《やつ》れになったようね」
「うん、何しろ、あてのない尋ね人の旅だからね」
大原は、故郷へ帰って来たような居心地のよさからつい口をすべらしてしまった。もっとも、相手が一度は将来を言い交した女だという気の弛《ゆる》みもあった。
「どなたか探していらっしゃるのね」
「いや……うん」
が、大原はすぐに口をひき締めて否定とも肯定ともつかぬ言葉でとぼけた。
「広告はお出しになっているんでしょう」
「まあね」
「大変なお仕事ね」
香澄はそこでその話題を打ち切った。大原から切り出した話題でありながら、どうやら彼が、それを語るのを余り喜んでいない気配を敏感に感じ取ったのである。
そういうカンにかけては、香澄は比類ない鋭さを持っていた。また、そうでなければ、銀座で一流のフロイラインでナンバーワンは張り通せなかっただろう。
カクテルの酔いが急速に大原の全身に広がった。
「やはり東京はいいな」
大原は思わず呟《つぶや》いた。ネオン一つの燦《きらめ》きにしても泥臭い地方都市とは違う。まして汚ならしい猥談《わいだん》だけしていれば男は喜ぶものと確く信じている、白い泥のような田舎ホステスに比べて、ここでは本当の憩いとは何かということをよく研究し、客の日々の営みの戦いに疲れた心を柔らかく揉《も》みほぐしてくれる。
大原は香澄と言葉を交している間に、今迄《いままで》の人買い≠フ陰惨な仕事から身体に蓄積された沈澱《おり》のようなものが、静かに濯《すす》がれていくような気がした。
大原が再び、最初|忌避《きひ》した話題に戻っていったのは、そんな香澄の中に旧《ふる》い信頼を甦《よみがえ》らせたからであった。
この女ならば、何を語っても客の秘密として守ってくれるだろう。それに自分はただの客ではない、彼女の昔の男≠ネのだ。フロイラインのように様々な人間が集まる所では、あるいは欲する生体の情報が掴《つか》めるかも知れない。――と大原は秘《ひそ》かに胸算用して香澄に自分の仕事を打ち明けたのである。
聞いている間に香澄の頬《ほお》は冴《さ》え冴《ざ》えとしまってきた。大原の話の重大な内容が彼女を緊張させたのである。
「というわけで、これは極社秘のことなんだ。君を見込んで頼むんだが、もし、今話したような人がいたら是非|報《し》らせて欲しい。一人一千万ぐらいまでは出す用意がある」
「一千万!」
「いい値段だろう。交通事故やその他の人身事故で命を失っても、なかなかこれだけの補償はもらえない、それが生命に危険のない実験台になるだけでこれだけになる」
「でも危険がないことはないんでしょ?」
「それは実験だからね、皆無というわけにはいかない。だから一千万もはずむのさ、いわば危険手当さ。それだからこそ、おおっぴらに募れない。しかし、被検者の安全のためにあらゆる手段は尽くす。まず大丈夫だよ」
「…………」
「もし君の周囲に心当たりがあったら、あるいは耳寄りの情報が入ったら是非、僕に報らせて欲しいのだ」
「…………」
香澄の面は益々《ますます》白く冴えかえってきた。何事か心の中に思いつめている様子である。
「心当たりでもあるの?」
「いいえ」
香澄は軽く首を振った。
「これは君だからこそ打ち明けた社のトップシークレットだ。いいかい、間違っても人に洩《も》らしてはいけないよ」
「大丈夫よ」
「本当に頼むよ」
大原は言ってしまった後から急に心配になったらしく、しつこく念を押した。
「そろそろ行かなければ」
大原は腕時計を覗くと急に慌てたように立ち上がった。
「あらっ、もう?」
「その用事で今夜北海道へ発たなければならないんだ。今度帰ったらゆっくり来るよ」
大原は急に気忙《きぜわ》しくなった。居心地のよいまま、つい居過ごし、少々時間がきつくなったのである。
「それじゃあ、また」
会計をすますと、彼は再び疲労が甦《よみがえ》ったように身体を重そうに引きずりながら出て行った。
「大原さん、待って!」
香澄がドレスのまま飛び出して来た時は、彼はタクシーに乗りかけていた。
「もし、……見つかったらどちらへ連絡したらよろしいの?」
「そう……札幌のSホテル気付に連絡してくれたまえ、そこを北海道の連絡所にしておく」
大原は車室《ルーム》へ潜りかけた体を再び車外へ出して嬉《うれ》しそうに答えた。
大して期待もかけずに話した相手から意外に熱心な反応を得て嬉しかったのだ。
「お客さん、早くして下さいよ」
運転手の不機嫌な声に急かされて、大原は慌てて車へ乗りこんだ。
「じゃあ」
「お気をつけて、よいお年を。――」
と呼びかけた香澄の語尾も届かぬうちにタクシーは乱暴に発車し、テールランプの洪水の中に自らもその一点として紛れこんで行った。
「大原さんは運がいいわね」
と声をかけられて気がつくといつの間に来たのか、同僚で最も仲の良いみどりが傍に立っていた。馴染《なじ》みのお客を送って出て来たらしい。
「どうして?」
「だって香澄ちゃんの最後の夜に来合わせたんですもの」
「そうね、今夜が最後だったわね」
「やあねえ、他人事みたいに。今日はお店を早目にしまって、お店の人だけの水入らずで忘年会兼あなたの送別会をするのよ。主人公《ヒロイン》熱意ないぞ、きっと明日からの新生活でポーッとしているのね、ご馳走様《ちそうさま》」
みどりはおどけて香澄の身体を軽くつついた。
今宵《こよい》を最後に香澄はフロイラインを退職し、秋田との新婚生活に入ることになっていた。みどりをはじめ店の同僚たちには、明日からの彼女の新生活が、目も眩《くら》むような羨望《せんぼう》の的だった。
彼女らは香澄の結婚が、ほんの僅《わず》かな期間に限定されていることを知らない。水商売の女がかた気[#「かた気」に傍点]の医者と所帯を持つという皮相に見える幸福だけを羨《うらや》んでいるのである。
だが香澄は真実幸福だった。期限があろうがあるまいが、彼と共にいられることは事実なのだ。ならば、幸福の後に来るべき不幸に怖《おび》えて、現在の幸福をだいなしにするような愚《おろか》はすまい。この一瞬を全身で味わい慈《いつくし》むのだ。
身体のほうはもう少し働ける余裕のある状態だったが、彼女はその期限を少しでも延ばすために今宵限りにこの収入のよい職場を去ることにしたのである。
確かに大原が訪れるまでは、みどりにひやかされたように明日からの刹那的《せつなてき》な秋田との生活に、多少、心の弾みを覚えていた。
だが、今、香澄の胸には、その喜びとは異質の波紋が広がっていた。波紋の原点は、大原が残していった言葉だった。
2
――私にとって人を愛するということは一体、何なのでしょう? 昔から無数の人々によって、この「愛」という人間の無量のエネルギーの流出に対して様々のことが言われてきました。
でも、私のあの人に対する気持は、殆《ほとん》ど言い尽くされたかに見える無数の愛の定義や説明と大体において似通っているけれど、どこかその根本的なところで僅かな僅かなズレがあるような気がしてならないのです。
愛とは絶対に同一のものがない指紋のように、人の数だけ、愛の数だけ、その態様が異なるものなのでしょうか? それとも、私の修平さんに向けた気持は、愛とは別の感情なのでしょうか?
あの人の衰えは日に日に激しくなってきます。まるで加速度がついたように今日の症状は昨日よりはるかに悪く、明日の症状は、昨日から今日にかけての悪化から推測したものよりはるかに悪いものとなるでしょう。
夜も、ただベッドを共にするというだけで、躯《からだ》の交わりはもう持てなくなりました。でも、それが一体何でしょう。私もすでに女の躯の悦《よろこ》びを知っているし、男女の結びつきにおいて、躯の喜びが大きな比重を占めることも知っています。
あの人がまだ健康な頃、男の全ての力で刺し貫かれた時の、身悶《みもだ》えするような悦びは、今でも私の躯の中に生々しく残り、その残り火の故に夜眠れなくなることすらあります。
でも、そのような生臭い欲望が、今、刻一刻、命を蝕《むしば》まれているあの人に向けた私の切実な感情の中で一体、何だったのでしょうか?
私たちにもし時間が与えられたならば、私たちの愛にも(もしもそういうものがあるとすれば)人並に倦怠《けんたい》や嫉妬《しつと》や不満や、あるいはお米のごはんのように平凡で穏やかな、それでいて、なくてはならない味が出てくるかも知れません。
子供たちと、平凡な家事に囲まれたささやかな生活、そういう中での愛とは、きっと静かな水の流れのようにゆったりとして危げのないものなのでしょう。
でももう私達には時間がないのです。激情も不安も、嫉妬も倦怠も、男女の愛の中で考えられるおよそすべての感情のどの一つに対しても、振り向ける時間がないのです。
セックスという愛し合う男女の究極の、そして最も具体的な結合も、私たちの場合は、単に肉体的に不能になっているという理由だけからではなく、勿体《もつたい》なくてそんなことに時間を割けない切羽つまった状態にあるのです。
今、残された僅かな時間を、過去の最も優れた愛の哲学に従い最も効果的に、賢明に費しても、私たちは満足出来ないでしょう。
私は今あの人に必死に寄り添いながら、「愛は永遠である」という楽観に身を委《ゆだ》ねることがどうしても出来ません。
私が愛しているのは、生きている秋田修平なのです。見、語り、聞き、考え、笑い、そして私を抱いてくれる、それらの生命の諸機能が一つ一つ亡び、「死んだも同然」になったとしても、身体のどこかの部分が生きていてくれさえすればよい。とにかく生きているあの人が欲しいのです。
死んだ人の愛は、私にとって愛ではなく追憶にすぎません。
あの人が生きる屍《しかばね》のようになっても、なおかつ永く私の夫として生きていた場合、愛し続けることが出来るかどうか、今、自分に問うのは残酷でしょう。
遠い将来のことは別として、今の私は記憶よりも、死者同然でもよい、身体のどこかの部分が生きているかぎり、生きているあの人をためらいなく選ぶことは確かです。
今にして思います。世の常に考えられている愛とは、何と悠長なものだろうと。
私の愛とは、あの人を一か月でも、いえ十日でも、いえ一日、一時間、一分、一秒でもよい、長く生きてもらうための努力と工夫以外にないのです。
どうしたらあの人に少しでも長くこの世に生きていてもらうことが出来るか? その答えを与えてくれる人があれば、私はその人を、あの人よりも愛するでしょう。――
香澄は日記に感情をこめすぎたような気がしてひとまずペンを休めると、もの想《おも》いに沈んだ。夜も大分更けて遠い大通りを走る車の音もまばらになった。明日は修平が退院して来る日である。
退院といっても病癒えて帰る嬉しいものではない。入院していても局所的な治療しか出来ないところから、残り少ない日数を香澄と共に過ごしたいという修平の希望を容《い》れて、ひとまずこの原宿のアパートに帰って来るのである。化学療法による一日延ばしならば、自宅[#「自宅」に傍点]で修平でも出来る。
八ケ岳の無理がたたって、年がかわると共に、にわかに彼の症状が悪化して、今日まで日労災の湯河原《ゆがわら》病院に入院していたのだ。
修平が自ら診断した期限は大分縮められてしまったのである。
でもその期限はもはや延長出来ないものなのだろうか? 白血病とは本当に不治の病なのだろうか?
彼女は日本の医学界、特に広島の医師たちが原爆症に対して挑んだ執拗《しつよう》な闘いは知らない。要するに医学に関しては全くの無知であった。ただ判ることは、日本の医学が修平の病気に対して全くの無力であるという事実(彼女にとっては不当な)があるのみであった。
「もしアメリカへ行ったなら」という智恵が閃《ひらめ》いたのは、その不当な事実へのレジスタンスが、いつか遠い以前、新聞で読んだ記憶のある記事に結びついたからである。
それは原爆乙女が治療のために渡米することを伝えた記事であった。彼女らがアメリカへ行って療《なお》ったかどうかは知らない。が、ともかく、アメリカへ行くのは、あちらの医学が日本より進んでいるからであろう。
それに、アメリカは何といっても原爆を作った張本人なのだ。原爆症の療し方もよく研究しているにちがいない。
香澄のレジスタンスは、広島の医師の努力を冒涜《ぼうとく》するようなことを平気で考えたのである。
「日本では療せない。しかし、もしアメリカへ行ったなら!」
この時彼女に一つの希望が湧《わ》いた。だがそのあえかな胸の灯は、たちまち現実の冷たい風の前に吹き消されてしまった。
「その費用はどうやって作る?」
二人の往復の渡航費のほかに、どれくらいの日数がかかるか判らない治療と滞在を賄う費用、ましてアメリカは医療費が日本に比べて極めて高いと聞く。それら全ての諸費用を賄うには、自分の蓄えはあまりにも小さ過ぎる。だがその費用さえあれば!
この際どんな微《かす》かな可能性でも、それがある限り縋《すが》りつかなければならない。だがその医学的な可能性が経済的に否定されようとしている。そんな馬鹿な!
「ああ、お金が欲しい!」
その時である。それまで意識の片隅に押しこめられていた大原の言葉が燦然《さんぜん》たる輝きを帯びて甦《よみがえ》ったのは。
彼は言った。
「一千万まで出す用意がある」と、――
それはただの一千万ではなかった。修平の命を保釈¥o来るかも知れぬ保証金になるのだ。
香澄はそう思った時、日記を続けるべきペンを、大原にあてた手紙をしたためるために、再び動かし始めたのである。
3
同じ時刻、――伊豆湯河原にある日労災病院のベッドで修平は一人めざめていた。
明日は退院である。それも残り少ない余命を香澄と共に過ごすために。――その余命がもはやいくらもないことは、医者であるだけに彼はよく知っていた。
修平の面にはらはらと散りこぼれてきた白いものがあった。早咲きの富士桜の花弁だった。
病院の庭にある桜の樹から夜風に運ばれて、わずかに開いている天窓を通ってまぎれこんできたらしい。
「もう春なのだ」
修平はその花びらの一片を鼻にあてがった。あるかなしかの甘酸っぱい匂《にお》いが鼻腔を擽《くすぐ》った。
――この花が全て若葉にかわる頃は、俺はもう――
と思った時不覚にも胸につんと迫るものが湧いた。
大西に救われてから秋田は悩んだ。彼は何度も清里の試験所を公表しようと思った。職業の倫理と義務感はそれを為《な》せと告げた。だが、人間としての情がそれをどうしてもさせなかった。
告発のために動こうとするあらゆる力と義務感を、あの危険な岩稜《がんりよう》を自分を救うために自らの生命を賭《か》けて背負い降してくれた大西の逞《たくま》しい肩の感触が、粉砕してしまうのである。
「告発するとして一体、彼らの何を何処へ告発するというのだ? 彼らの行為は別に違法でも何でもないだろう。単に世の人々の感情に訴えるだけのことではないか。そんなことをしても、Nガスの生産を中止させることは出来ない。彼らがやっていることは、企業の営業活動の一つにすぎないのだ」
彼はそう自分に言いきかせることによって職業的な義務感を圧《お》し殺した。
世論が法的な強制力以上の強大な干渉力を持つということを、大西の肩から伝えられた人間の暖かいぬくもりが、強いて忘れさせてしまったのである。
迷いと悩みのうちに冬は去り、秋田の症状は悪化していったのだ。そしてその悪化と反比例して成長していたものがあった。
「香澄の下腹もそろそろ目立ってきたな」
すれちがい[#「すれちがい」に傍点]はいつ頃になるか? 修平はじりじりと進む自分の病蝕に反比例して成長していく香澄の胎内の幼い生命を想った。幼いものの成長は比類なく正確である。だが、その正確さがもたらすものを自分は見届けてやれない。
香澄一人に任せきりにして、自分は父親として何の責任も取れないのだ。
修平は自分の生命に打たれる終止符よりは、終止符の後に始まる自分の分身の将来が気にかかった。
病床で続けた論文はどうにかまとめ上げることが出来た。自分では父の築いた堆積《ケルン》の上に一石加えたという自信がある。学界には日労災より発表されるだろう。
自分はそれでよい。自分が為したいと思うことを為したのだから。だが、後に残された者はどうなる?
香澄が言った通り、確かに医学は自分の本妻≠ナあった。だが本妻にかまけて、子や第二夫人=iもしもそれを持った場合は)を蔑《ないがし》ろにしてよい道理はない。子や第二夫人に責任を持てぬ男は、最初から本妻《しごと》だけを守るべきである。
男であるが故に、生き甲斐《がい》を懸《か》けた仕事だけにかまけるのは、男の身分を濫用《らんよう》したエゴイズムではないか。
父として、夫として彼らの傍にいてやることは、もはやどんなにそれを希《のぞ》もうと叶《かな》わぬ相談である。だがせめて、自分が消滅した後、自分の現身の代わりに、彼らを支え、扶《たす》けになるものを遺《のこ》していってやり度い。また、最小限のそれを遺すことは男の義務ではあるまいか。せめて幼い者が一人立ち出来る日までの支えを遺してやることは。
「ああ、金が欲しい」
今まであまりに自分の仕事に熱中していた秋田は、蓄えを全く疎《おろそ》かにしたことに、今になって気がついた。
父が残してくれた広島の遺産は、自分一人の学費と研究のためにきれいに蕩尽《とうじん》してしまった。父からの遺産はがっちりともらい受けておきながら、さて、自分の子のためには、遺すべき何物もない。
「金が欲しい!」
修平は渇いたようにそれを欲した。金だけが今の彼の責任を辛うじて償ってくれるものであり、そしてせめてもの気休めであった。
4
前略
早速でございますが、過日お話いただきました実験台の件、適当な方がみつかりましたでしょうか。もしまだのようでしたら、まことに唐突なことですが、私が、なりたいのです。
ある事情からどうしてもお金を一千万ほどそれも至急迫られているのです。実は私は現在妊娠六か月の身です。あなた様の仰有《おつしや》った妊娠初期という条件には少々外れてしまいましたが、いかがでしょうか? 一度、是非是非おめもじの上、詳しくお話をうかがいとう存じますので、あなた様のご都合をお報《し》らせいただけないでしょうか。日時をご指定いただければ札幌まで出向いてもよろしゅうございます。お返事切にお待ち申し上げております。
勝手なお願いでまことに恐れ入りますが、今はあなた様のご厚情にお縋《すが》りする以外にない余儀ない事情にございます。何とぞよろしくご考慮のほど伏してお願い申し上げます。
[#地付き]草々
[#地付き]かすみ
日本化成札幌連絡所
大原良一様
「香澄、こんな手紙が戻されてきたよ」
修平は買物から帰って来た彼女に、彼女の留守中、宛名人居所不明で差し戻されて来た一通の速達を差し出した。
「あらっ」
香澄は一瞬、棒立ちになり、あからさまに顔色を変えた。
「どういうことだね、それは?」
秋田は抑揚を抑えた声で訊《き》いた。封が開きかけていたことと、「日本化成」という宛名が気になって、秋田は中身を香澄には悪いと思いながらも、素読していた。その容易ならざる内容に彼が少なからぬ衝撃を受けていたことは、無理に感情を殺した口調から判った。
「べ、べつに、ちょっとしたお知り合いの方よ」
「悪いが中身を読ませてもらった」
「まあ!」
香澄はちょっとよろめいた。
「一体、何の実験台だね?」
「…………」
「一千万も何に要るのだ?」
「…………」
「香澄!」
修平は口調をはげました。
「お前、馬鹿なことを考えたんじゃああるまいな。さ、言ってごらん、実験とは何だ? 一千万も何に使うのか? この大原とはどういう人物なのだ!?」
「…………」
「言えないのか!」
「あなたをアメリカへやりたかったのです」
どう逃れようもなく問い詰められて、香澄は急に泣きじゃくった。
「アメリカ?」
修平は一瞬その意味が掴《つか》めなかった。
「アメリカヘ行けば癒《なお》るかと思って……」
香澄は泣きじゃくりながら、すべてを打ち明けた。泣いたのは、今迄《いままで》ひたと自分一人の胸の中に閉ざしてきた秘密を、修平に打ち明けたことによって緊張が一挙に弛《ゆる》められたからである。
「私、国立病院の先生に確かめはしたけれど、やはり怖かったんです。もし万一、私達の子が奇形だったらどうしよう? 親は子を欲しい一心で生んでも、生まれた子供は一生苦しまなければならない。あなたに脅かされたことがいつまでも胸の中に根強く巣喰《すく》い、奇形児が生まれる夢まで見るようになったわ。そんな時、大原さんに会ったの、……たとえ髪の毛一本ほどでも奇形の惧《おそ》れのある子は諦《あきら》めて、その代わりあなたを療すことに賭《か》けようと……」
「馬鹿!」秋田は言おうとしたが、その言葉はのどの奥に貼《は》りついてしまった。女として我が子の命を賭けても、夫に尽くそうとする彼女の心が、修平を黙らせたのだ。
「有難う」
ややあって彼の唇を辛うじて洩《も》れたのは、その言葉だけだった。
……日本化成が何らかの実験のために生体を探していることはこれで判った。そしてその実験とはおそらく、いや間違いなく大西のNガスと結びつくものだろう。妊娠初期の女性を求めているのは、母体と胎児への影響を観るためだ……何という非道な――
香澄の厚い心が判ると同時に、修平は日本化成の意図を読んで、抑えようもない憤りを覚えてきた。
「香澄……もうそんな馬鹿なことは忘れるのだ。日本の放射能医学は世界の何処にも負けない。日本で療《なお》せないものは、アメリカへ行ったってどうなるものでもない。それよりお腹の子を大切にするんだ。大丈夫だよ、絶対に奇形なんかじゃない、立派な子が生まれる」
「本当!」
香澄の面が泪《なみだ》を浮かべたまま輝いた。
「本当だとも、医者として、父親として俺が保証する」
「嬉しい!」
彼女は修平の胸に面を埋めた。修平はベッドの中から彼女の肩を優しく抱いてやった。
修平は香澄の留守を狙《ねら》って市外電話番号調べを呼んだ。そして、札幌にはSというホテル名で電話を所有している者がないことを知った。つまり、札幌にSというホテルはないのだ。これで香澄の手紙が差し戻されてきた理由が判った。
それでは大原がうそを言ったのか? だがそれはおかしい、彼はそのことに関しては全くうそを言う必要はなかった。いや、むしろ本当のことを言う必要があった。情報を求めていたのは大原のほうなのだ。香澄からの連絡[#「連絡」に傍点]が差し戻されて困るのは彼なのである。
修平は暫《しばら》く考えた末、ふと思いついたように電話番号簿を繰って一つのナンバーをダイヤルした。
「日本ホテル協会です」先方が出た。
「ちょっとお尋ねしたいのですが、札幌にSというホテルはないでしょうか?」
「ああSね」相手は言下に答えた。「Sホテルは最近、同市内にあるGホテルと合併しましてね、第二Gホテルと社名変更しました」
修平は礼を述べて受話器を置くと、小さな息を吐いた。
これで読めたと思った。日本ホテル協会は、合併といったが、これはSホテルの経営が悪化してGホテルに吸収されたものであろう。
香澄の手紙は、このどさくさ騒ぎの最中に着いたために宿泊客名簿《ゲストリスト》をよく調べずに差し戻されたものか、あるいは郵便局に社名変更の通知がしていなかったのか、いずれにせよ、ごたごたの最中に悪条件が重なったので宛名人に不達となったのである。
「だが――」と思って修平は慄然《りつぜん》とした。もし、この手紙が大原の手に渡っていたならばどんなことになったか? 契約[#「契約」に傍点]は成立して、何の役にも立たない一千万と引き換えに、香澄と胎児の命は、Nガスの洗礼を受け、……発狂した香澄と、奇形化した胎児の像《イメージ》が突然、悪夢のように鮮烈に、修平の瞼《まぶた》に浮かび上がった。
自分にとってかけ替えのない大切な二人と引きかえに、現代医学の粋を尽くしても、どう引き留めようのない自分の延命に、一千万の金が与えられる。思えばこれほど滑稽《こつけい》で悲惨な取引はない。
「滑稽で悲惨……」
修平が口に出して呟《つぶや》いた時、雲間から洩れた一筋の光のように、ふと彼の脳裡《のうり》に閃《ひらめ》いたものがあった。
(こちらが売りつける商品を替えたらどうだろう? どうせ俺の命はせいぜい、後一、二か月、もし香澄の代わりに、俺を売りつけたなら……このまま黙っていても俺は死ぬ。だが、この取引が成立すれば、多少の財産として香澄と子供のために遺してやれる。それに、俺の身を使って直接大西に訴えたら……あるいは奴《やつ》も……)
「文字通りの一石二鳥」
と彼は、漸《ようや》く春の日が昏《く》れて薄暗くなりかけた室内に灯をつけようともせず、目ばかりを光らせていた。
5
大原が二週間ほど道北の炭坑地帯をめぐって北海道のベースにしている札幌の第二Gホテルへ引き揚げて来たのは、三月の末であった。
「お帰りなさいませ」
顔馴染《かおなじ》みのフロントクラークの挨拶《あいさつ》に応《こた》えて部屋に通ると間もなく、フロントから電話《ハウスホーン》が入り、彼に来客がある旨を告げた。
「来客《ビジター》? 名前は?」
「はい、秋田様と申されております」
「あきた? 知らないね、男か、女か?」
「男の方でございます」
「?」
「いかがいたしましょう?」
「ま、いいだろう、部屋へ通してくれたまえ」
彼は好奇心と、とりあえず何の予定もないところから会ってみる気になった。
フロントに命じて待つほどもなく、部屋の扉がひかえめにノックされた。
入って来た秋田は大原にとって見知らぬ人間であった。激しい憔悴《しようすい》の目立つ面に、目だけが熱を帯びたように光っている。
事実、秋田は熱があった。頭痛と間断ない悪寒に苛《さいな》まれながら、薬品の扶《たす》けを借りて空路、札幌へ飛んで来たのが一昨日の夜、それから今日まで同じホテルに宿泊して大原の帰館を待っていたのである。
東京を発つ前に第二Gホテルへ問合わせて、大原の道北方面からの帰館日《セカンドコール》を確かめておいたのだが、大原の予定が二日遅れたために、ホテルで彼の帰りをじっと待ち続けていたのだった。
香澄には「心配するな」とだけ書き置きして脱け出して来たのが、もうその効能はとっくに切れているはずである。
「初めまして、秋田修平と申します」
秋田は故意に名刺を出さなかった。その肩書から不必要な警戒心を相手に与えぬためである。
「竹本香澄の夫です」
「ああ、フロイラインの」
つけ加えた秋田の補足の言葉に、漸く大原はやや腑《ふ》に落ちた表情をした。
「それで私にどんなご用件で?」
大原は表情を弛《ゆる》めずに言った。たとえ自分から振り捨てた女ではあっても、まだ充分に心の残る女の夫に対して明るい感情を持つことは出来なかった。
「この手紙をごらんになっていただきたい」
秋田も同様の硬い表情で言った。秋田は大原の薄い表情に接していると、取引の相手方としてよりは、まず、虫酸《むしず》の走りそうな憎悪感が先に立ってしまった。
読み進むほどに大原の表情が緊《かた》くなっていった。手紙の内容が彼の感情にかなりの動揺を与えているらしいことは判った。
彼は一度、ざっと目を通してから、もう一度丹念に読みなおした。大原が読み了《おわ》り、完全に文意を釈《と》った頃を見はからって秋田は口を開いた。
「その手紙がどうしたわけか、『宛名人居所不明』で差し戻されてきたのです」
「ほう」
大原はその意味の底にあるものを探るような目をして秋田を見た。
「それでわざわざ香澄さんになり代わってお届け下さったわけですか」
ご苦労なことだと大原は単純に思った。
「ま、そういったわけです、ただし」
「ただし?」
大原は相手のにごらせた語尾の翳《かげ》りにふと怯《おび》えを覚えた。と同時に、差し戻された不達郵便《デツドメール》を郵便局になり代わって届けるために、わざわざ遠路東京からやって来る酔狂があろうはずのないことに思い至った。
「ただし、香澄の代わりに私を買っていただきたいのです」
「香澄さんの代わりに?……あなたを……買う? ご冗談でしょう」
「冗談ではありません。香澄から聞いたところによると、あなたは、いや日本化成は、人間の実験台、生体を求めておられるらしい。そして私がその条件に正にぴったりなのです」
「ぴったり?」
「実は私はある病気のためあと二か月も保《も》ちそうもない躯《からだ》なのです。それは正に『死期が迫った病人』という生体の条件にぴったりでしょうが」
秋田は粘るような視線を大原にあてて薄く笑った。大原はそれに射竦《いすく》められたように感じた。何か無量の執念の放射を浴びたように、彼はそれを拒《は》ねかえすことが出来なかった。
「いかがでしょうか? 買ってもらえますか?」
秋田が薄笑いしたまま硬直したような表情で大原を促した。
大原は突然、笑いだした。おかしくて笑ったのではない。秋田からうける圧倒的な威圧を拒ねかえすため……というよりは、それから逃れるために笑ったのである。
そうでもしなければ、彼は秋田から蛇に魅入られた蛙のように射竦められて、身動きできなくなってしまうように感じた。
「秋田さん、……あなたは何か勘ちがいなさってる……生体実験……売る……一体何のことですかそりゃ? 第一、僕にはこの手紙の意味自体が判りませんね」
大原は秋田の目の前に香澄の手紙をひらひらさせながらなおも、
「香澄さんもよっぽどどうかしたらしい。たしか去年の大晦日《おおみそか》にフロイラインで酔っぱらったはずみにそんなことを口走ったような気がします。しかし、あれは人間のことじゃない、ハツカネズミですよ。ネズミと人間を取りちがえるとは、……こりゃあ大笑いだ。フロイラインのナンバーワンも家庭に入ると急速にボケるものと思われますな、ははは」
「大原さん!」
秋田が大原の造った笑いに針を刺すように鋭く言った。
「私はこういうものです」
秋田はこの時はじめて名刺を出した。
何を今更と言わんばかりに受け取った大原の表情が、秋田の肩書を読んで硬直した。そしてすぐに、硬直させたことが大きな失策だったと気がついたと見えて、必死に無表情を装おうとして吸いたくもない煙草を取り出した。
生憎《あいにく》、ライターの油が切れたらしくいくら石を磨《す》っても火が点《つ》かない。
「どうぞ」
秋田が意地悪く差し出したライターにかざす大原の煙草を挟んだ指は無残に震えていた。
「大原さん、お互いに率直に話しましょう」
秋田は彼がかなり時間をかけて火をつけ終るのを待ってから、だめ押しをするように言った。
「率直にと言われても、私にはこれ以上率直になりようがありません」
大原は一服大きく吸ってから辛うじて態勢を立て直したつもりで言ったが、秋田には往生際の悪い獲物のように見えた。
「だめですよ、とぼけても。私は清里工場へ行ったのです。大西君がそこで何を作っているかも知ってます。まさか、その製品名まで言わせるつもりではないでしょうな?」
秋田の言葉は大原に完全に止《とど》めを刺した。
彼にしてみれば、大原の目的がNガスに結びつくという決め手はない。あくまで推定の上に立って、一発はったりをかませたのである。
「こいつを日労災の名において告発したらどんなことになりますかな? いや、そんな大げさなことをせずとも、あなたのやっている人買いだけで、マスコミは狂喜する。ひとつ試してみますか?」
大原の虚勢は完全に崩れた。喫《す》うのも忘れた煙草の火が、指に迫った熱さに思わず顔をしかめて、
「それで一体、どうしろと言うのですか?」
声にならないような声で訊《き》いた。だが、そう尋ねながらも、大原はどうにもならない絶望感に打ちのめされていた。
日労災の医師にこうまで追い詰められてはどうにもならない。日本化成は告発され、その汚名は天下に広まるだろう。
大原はその時まだ、秋田が日労災の名において自分を被告の一人として追いつめて来たのだと信じていた。先刻からの商談≠ヘ、誘導|訊問《じんもん》だと思ったのである。
だから、秋田に問いかけても、別に答えを期待していたわけではなかった。ただ何か言わずにはいられなかっただけである。
「どうぞ、ご心配なく」
秋田はそう言って、初めて柔らかい笑みを浮かべた。だがそれは、すでに死相のような彼の面におよそ馴染《なじ》まない笑みだった。大原には薄気味悪さだけが迫ったようである。
秋田はそんな大原の心のありかたを敏感に酌《く》み取って、先刻の脅迫調とは全くうらはらな穏やかな語調で、
「私にはそんなことをするつもりは全くありません。私がおじゃましたのは、最初申し上げました通り、香澄の代わりに私を買ってもらいたいためです。それ以外のいかなる目的もありません」
「…………」
「要するに日労災の医師としてではなく、一個の私人として来たのです」
「それじゃあ……」
漸《ようや》く大原の面に安堵《あんど》の光が射《さ》した。だが光はまだ微《かす》かな一筋である。彼の表情から雲を完全に拭いはらうためには、更に説得を重ねなければならなかった。
「日本化成としては今、Nガスのことを暴かれては莫大《ばくだい》な損害でしょう。いやそれどころか、日本の化学工業のリーダーともあろう身が、あろうことか、毒ガスを生産、その開発の過程で非人道的な生体実験を重ねたという事実が明るみに出た場合、それによる信用の失墜は殆ど回復出来ないものでしょう。
それよりも、私を買えば、秘密は守られます。貴社《おたく》としても、かねて熱望していた生体は手に入るし、こんなうまい取引はないと思いますがね」
正に脅《おど》したり、すかしたりであった。秋田の体力は殆ど尽きかけている。だが大原を陥《おと》すのは後一歩のところだった。彼は気力だけで大原に対していた。
「しかし、私がうけ合っても、あなたの身分では会社が恐れをなして金を出しませんよ」
大原はなおも思いきり悪く言ったが、その申し分はもっともだった。日労災中診医師を生体に買い入れるのは、会社側にしてみれば警官に泥棒の見張りを頼むような気がするだろう。
だが、秋田は一言にしてその難点を解決した。
「偽名を使いますよ」
「そんなことが出来ますか?」
「あなたさえ目を瞑《つむ》って下されば、わけないじゃありませんか。私は日労災の医師ではなく、どこかの炭坑の失業坑夫だ。書類はいくらでもごまかせるでしょう」
「しかし、香澄さんのほうはどうします。この件は家族から絶対にトレースされてはならんのです。何しろ一千万も出すのですからね」
「どうせ二か月たてば死ぬ身です。何とでも言いくるめられます」
「しかし」
「私の言葉を信じてもらえないとなれば止むを得ませんね」
秋田は声に少し凄《すご》みをきかせた。
「いや決してそういうわけでは」
大原の面に怯《おび》えが甦《よみがえ》った。
「だったら何も問題はないでしょう。契約は成立したわけだ。契約書があるならサインをしますよ」
そこまでが秋田の体力の限界だった。彼はそのまま失神しそうになるのを辛うじて耐えて、部屋を出て行った。だがそれがかえって大原に効果的に作用した。
更に具体的な話に入るものと思っていた大原は、急にものも言わずに出て行った秋田に、急に台風の目の中へ入れられたような放心をえた。だが、それも束《つか》の間、放心は尻《しり》を切ったように立ち去った相手への不気味な畏怖《いふ》感にすげ替えられたのである。
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人間の目盛り
1
五月初め、――
大西安雄は帰京していた。昨年三月以来であるから、まる一年二か月ぶりの帰京である。
この三月、米軍に納入したNガスの初の試作品の結果を知るためと、中間報告をかねてである。
製品に自信はあったが、初の納入なので結果を見るまでは気が落ち着かなかった。入試の合否発表と一脈似通った気分だった。きっと健一の大学入試の時は、今と全く同じ思いをするだろうと、大西は祥子と健一に見送られて、社からの迎えの車に乗りこみながら思った。三日前遅く大宮町の自宅に帰り、今朝が三度目の本社出社になる。Nガスの「検収」は昨日をもって終るはずであるから、今日中にはAPA(在日米陸軍調達本部)から何らかの回答が出されるはずだった。それによって今後の受注量が大きく影響を受ける。
それに、四月一日のジョンソン声明以来、とみに濃厚になったベトナム和平気運も気がかりだった。
声明後も、エイプリルフールではなかったのかと疑われるほど相も変らぬ猛烈な北爆が続けられていることが、一つの気休め[#「気休め」に傍点]になってくれたが、米国大統領としてのベトナム戦の規模縮小と、北爆の一方的停止という発言は、米国のベトナム政策の画期的転換の現われと見てよく、日本の兵器産業に暗影[#「暗影」に傍点]を投げかけるものだった。
戦争の危険が全くなくなり、軍備が無用の長物とならない限り、Nガスの全面的キャンセルとまで悲観することはなかったが、少なくとも和平に向かって米国の姿勢が傾いている時に増注は考えられない。
まして米軍は、一般商取引の相手とは異なるのである。不要とならば、日本の商法も商慣習もあらばこそ、一方的に解除《キヤンセル》してくることも考えられる。
大西が一年余ぶりの東京の我が家でありながら落ち着いて寛《くつろ》げないのも無理はなかった。
今朝も、APAからの回答がそんなに朝早くから出されるはずもないのに、自分からすすんで社からの迎車時間《ピツクアツプタイム》を早い時間に指定しておいたのである。
その日の午後、APAから待ちに待った回答がきた。
呼び出しをうけて、社長室の扉を押すと同時に回答の内容が判った。緒方社長、緒方専務、小野所長、有機工業製品部長、開発本部長など、日本化成の重鎮が揃《そろ》っていたが、皆喜色満面で、まるで凱旋《がいせん》将軍を迎えるように大西を迎え入れてくれたのである。
「やあ、大西君、大成功だった。Nガスは従来米軍で使用されていたLSDなどよりもはるかに素晴しいものだと認められたよ」
緒方社長は満面に笑みをたたえて、殆《ほとん》ど大西を抱きかかえんばかりにした。
「極微量による強烈な効果、無色無臭、安価、量産性、非致死性、無後遺症などあらゆる点において従来の無能力化剤を上廻《うわまわ》るものだと米軍から折り紙をつけられた。APAより只今《ただいま》正式に通達があって、大至急、日産三百トン程の量産体制を敷いて欲しいと言ってきた」
日頃感情を面に現わすことの少ない小野所長までが、興奮の色を隠そうとしない。
「君の長い間の努力が実ったわけだ。本当にご苦労だったな」
大三郎専務が肩を叩《たた》いた。大西はトップグループからこもごも祝福されて、身体中の血が全て顔に集まったような気がした。
「し、しかし」
大西は讃辞《さんじ》の合間を縫って漸《ようや》く声を出した。
「未だNガスは完成したわけではありませんよ。胎児や病人への影響をもう少し時間をかけて観ないと」
「試作品でもこれだけの評価を得たのだ。実はな極秘だが、完成すれば、米軍の正式兵器に採用するとの内示も同時に下されたのだ」
「正式兵器にですか!」
大西は思わず長い息をのんだ。全ての兵器業者にとって、自社の製品が一国の正式兵器としてとりあげられることは共通の夢である。まして自国に軍隊をもたぬ我が国兵器産業が、世界最強最大の米軍に正式に出入りを許されることは、最高の夢であった。
それが今、叶《かな》えられたというのだ。
「もちろん、本国の大手メーカーを通して納入することになるが、もうこうなれば和平ムードなどくそくらえだ。よしんば、ベトナム戦争が終っても、戦争の危険性が全くなくならない限り、米軍は優秀な兵器は蓄えておいてくれる、全く有難いおとくい様だよ。これからも頑張って開発を続けてくれたまえ。とりあえず此度《このたび》の受注を消化《こな》すため大東化工の農薬工場を、Nガス製造に切り換える。試作品の基本構造で大量合成するのだ。その間清里の開発に応じてどんどん改良していけばいいだろう」
社長の声は弾んだ。
「大東化工だけで日産二百トンはいけるでしょう。一トンの受注価格が三百万だから、二百トンで六億の売上げになる。しかもこれが一日のことです。これだけでも受注を消化出来ないのですから」
応《こた》える小野の口調も弾んだ。
「有機部長」
緒方社長が幹部の一人に顔を向けた。
「大東化工の設備を農薬からガスに切り換えるのにどの位の費用と期間がかかるか、至急算出してくれたまえ」
「かしこまりました。二時間で見積れますが、大したことはないでしょう」
「とにかく売れるうちにうんと売っておくことだ。たとえ、正式に採用されても、戦争と軍隊というやつは気紛れだからな」
緒方は上機嫌に笑った。その場の将星≠熕コを合わせた。大西もその場に居合わせた者として勝利の笑いを笑っているうちに、自分も事実、彼らの仲間に加えられたような気がしてきた。
社長室から滞京中与えられている控え室へ戻ると、早速、清里へ連絡の電話を入れた。
待つほどもなく通じた電話口には副所長の村山が出ていた。試作品の成果を伝えると、村山は、その喜ぶ様が目に映るように受話器の彼方ではしゃいだ。陸の孤島のような山中にとり残されている身にとって、本社からの報《しら》せ、それも朗報は、天国の便りにも等しい。
一通りの興奮がおさまると、村山は三日前大西とすれ違いに二十九歳の男の病人の生体が届けられたことを伝えた。
「やっと手に入ったか、病気は何だい」
「白血病です。正確には骨髄性白血病、広島の生き残りです。先刻定時連絡を中研の方へ入れたのですが、今日は本社とかで、今、電話しようと思っていたところ、所長から先にもらってどうも」
「いいよ、そんなこと。それより生体の残余寿命は?」
「西岡先生のみたてではせいぜいもってあと二か月ということです」
西岡とは試験所付の医者である。所員の保健と生体実験の観察のために本社から派遣されている。
「二か月か、短いな」
大西はちょっと眉根《まゆね》を寄せて考えこんだが、すぐと、
「よし、実験を明日から始めてくれないか?」
「え! 所長の留守中にですか?」
「構わないよ、今も言ったようにNガスは急ぐ。一日も無駄に出来ないのだ。データだけしっかり取って、実験をどんどん進めてくれたまえ」
「かしこまりました」
電話を切ってから大西は生体の名前を訊《き》かなかったのに気がついた。もう一度清里を呼び出してそれを確かめる意志はなかった。
彼にとって生体は、動物実験のためのネズミやウサギと同じであって、人間ではなかった。
2
その日の夕方、大西が帰宅すると、一通の手紙が彼を待っていた。
着替えをすまして茶の間に寛ぐと、待ちかねたように健一が膝《ひざ》にまつわりついて来た。
三日前、帰京して来た時は母親のかげに隠れて、まるで他人を眺めるように恐る恐る大西を見ていた健一が、ここ二、三日、夕方になると必ず帰って来る大西に大分|馴《な》れて「おとうたん、おとうたん」と甘えるようになった。
「いつもとはしゃぎ方がまるで違うのよ、父親に飢えていたのね」と祥子が言った。
子供の可愛《かわい》らしい重量を膝に乗せて、新聞を読んだり、テレビを観たりしていると、ここ数年忘れていた家庭の暖かい雰囲気が、山の荒涼に凍えた心を柔らかく解してくれるような気がした。
茶の間の暖かさ、子供のはしゃぎ声、台所から漂ってくる夕食の美味《うま》そうな匂《にお》い、テレビ……ああこれが家庭というものだ。
大西はNガスの成功のこともあって、久し振りに心身共に寛いだ気分になれた。――そして清里で過ごしたこの三年が、自分の人生にとってとりかえしのつかない空白のように思えて来るのである。
「これはいかん。事務打ち合わせがすんだら、一刻も早く清里へ帰らなければ。さもないと帰るのがいやになってしまう」
大西が自らを戒めた時、祥子が一通のかなり分厚い手紙をもってきた。
「誰から?」
「珍しい人よ」
祥子の微笑は複雑な翳《かげ》を含んでいた。
「秋田!」
封筒を裏がえした大西は思わず叫んだ。彼は自分が清里にいると思っているはずだ。それにもかかわらず、自宅宛に手紙を寄越すのは、自分がここ数日帰京していることを知っているからであろうか? それにしても、秋田は都内にいるはずだ。電話一本よこせばすむものを、わざわざこんな分厚い手紙を書いてよこすとはへんな奴《やつ》だ。
そう思いながら消印を見て、大西はますます首をかしげた。そこには確かに「清里」と読めたからである。発信日は昨日の日付になっている。ということは、第三者にでも頼まない限り、彼が清里にいたことを示すものだ。
「一体、清里へ何の用が? 俺《おれ》に会いに来たのだろうか? それなら何も手紙など書かずに東京へ追っかけて来ればよいのに」
大西は解釈に苦しみながら、ともかく封を開いた。
――大西、俺は再び清里へやって来た。正確に表現すれば送られて来た。その意味はすぐに判るだろうから今、説明はすまい。二度目の試験所で、お前が丁度すれちがいに帰京していることを知って、ほっとすると同時に、少し寂しい気持を味わっている。今更、旧《ふる》いザイルパートナーの感傷でもあるまいが、今俺はそういう情緒に浸っても許される身分にあるのだ。
お前と東都大山岳部で知り合って以来、俺達が行を共にした山は数えきれないくらいだ。ザイルを結んで攀《よ》じた壁も、谷川岳の一の倉を手始めに、鹿島槍北壁、穂高滝谷、剣岳北面、北岳バットレスなど日本の名だたる岩の殆どをまるで憑《つ》かれたように攀じたものだった。
だが、誤解しないで欲しい。俺は今それら困難であったが、豊麗な青春の山行を回想しようとしてこの手紙を書いているのではない。ただあれだけ多く重ねた山行――俺達の青春の主要部分であり、殆ど全ての部分といってもよい山行で、俺達は何故いつも決まりきったようにザイルパートナーとなったのだろうか?
他に山仲間がいなかったわけではない、お前との山行がとりたてて楽しかったわけでもない(お前にとってもそうだろうが)。
学校を卒《お》えて全く異なる二つの社会に別れてみると、二人の間に全然共通項がなかったことを益々《ますます》思い知らされて、そして、よくも飽きもせず共に重ねた山行、組んだパーティだと不思議に思うのだ。だがそれは不思議でも何でもなかった。俺達は共通項など全く意識する必要のない互いに必然の仲間だったのだ。
登山のパートナーは、生命の危険を分けるだけに、下界では想像もつかない強烈な連帯を生むと言われる。
そして事実、俺達には他のいかなる仲間にも負けぬ連帯があった。今でも、――それはあると信じよう。ただ残念なことにその連帯は経済的に必然的なものではない。
登山という無償の行為の中で培われた友情は、いかに純粋で、強烈なものであっても、それがなくては生きてはいけぬという切実性を持たぬところに、現実の酷《きび》しさと非情性があるのだろう。
俺の諌止《かんし》をせせら笑って、毒ガスの製造を続けた同じお前が、俺を救うために雪崩《なだれ》と滑落の危険を冒して凍った岩稜《がんりよう》を攀じ来たり、下降した。
人間の心の奥底を結ぶ美しい情を、素直に表現することが、生きていく上で切実ではないというだけにとどまらず、そうすることがしばしば現実の生活の妨げになる事実は、悲劇という以外にないだろう。
俺はただ悲しい。お前という得がたい友を「短い滞在期間」に得ながら、それを青春の追憶の中に閉じこめなければならないことが。
短い滞在期間――実は俺はヒロシマの生き残りなのだ。お前には初めて打ち明けることだが、原爆の放射能によって俺の身体は骨髄から蝕《むしば》まれていた。
お前のパートナーとして山々を彷徨《さまよ》っていた頃は発病していなかったが、爆心地より二キロという至近距離で被爆した俺は、自分の命をこの世に招かれた旅人だと思っていた。
父も母もそうだった。ただ俺のほうがやや長い滞在期間を許されただけだ。
これで俺が医学を学び、白血病を研究テーマと選んだわけも、そしてお前の「製品」を憎んだことも納得出来るだろう。
俺がどうして、再び清里へやって来たか、お前にはもうおおよそ判ったことと思う。俺は生体として買われてきたのだ。
俺の滞在期間は漸《ようや》く終ろうとしている。残り少ない俺の余命を最も効果的につかう方法はあるまいか、俺は一生懸命考えた。日本化成との接触や、取引のいきさつはいずれ大原氏にでも訊いてくれ。
とにかく、俺は自分の身体を「商品」としてお前の社に売りつけた。こうすることが余命の最も有効な使い方だと信じたわけではない。もっと他に有効な使い方があるかも知れない。
だが、そんなことを考えている間に、俺の生命のろうそくはどんどんちびていくのだ。俺は急がなければならなかった。
日本化成に売ったのは、ある事情から金が欲しかったからだ。金を受け取ったことに関してはどんなに蔑《さげす》んでくれてもよい。
だが、決してそれだけではない。それだけではないのだ。それはお前がいたからなのだ。とはいえ、お前との旧い友情に縋《すが》って、実験を取り止めてもらおうなどという根性は持たぬ。
いったん売り渡した以上、所有権はそちらにある。買手がどう処分しようと、売手にとやかく言える筋合はない。
俺はお前が上京中だと知って、お前がそちらにいる間に渡るようにと、急ぎこの手紙を認《したた》めている。所員の話では早くとも四日後でなければ帰りそうもないとのことなので、速達で出せば明日中にはお前の手許《てもと》に届くだろう。
Nガスの完成は急ぐらしいから、もしかしたらこの手紙がお前の目に触れる頃は、俺を生体《モルモツト》にした実験はすでに始められているか、あるいは終っているかも知れない。
だが厳に願いたいことは、間違っても実験の中止命令など出さずに、手紙を読み続けて欲しいということだ。事前、あるいは中途で中止されては、俺を売った意味がなくなる。
お前が俺と知って、事前に拒《は》ねることのないよういろいろ工作もした。
お前は冷静な科学者として実験を続け、そして、実験の結果、俺が陥るであろう悲惨な状態を、その時はじめて、人間として、旧き山仲間としてじっとみつめて欲しい。
その時、お前の心に何か訴えるものがあるか、どうか、それはお前の心のありように任せる。だが俺はその時、お前の「心の分水嶺」に賭《か》けてみたくて俺自身を売ったのだ。
実験データだけを冷徹に観察する科学者の鉄の心か、あるいは科学の名をかたる非道に泪《なみだ》する人の情か、俺はそれに賭けてみたかった。
大西、お前一人を諌《いさ》めてみたところでどうなるものでもないことはよく分っている。だが一人一人の、人間の不幸を最小限に喰《く》い止め、幸福をもたらそうとする努力の微粒子の積み重なりが、人間の大きな災厄を防ぎ、幸福をもたらすのではあるまいか。
化学は確かにお前の生き甲斐《がい》だろう。俺の医学と同じ様に、それがなくては生きてはいけぬ精神の拠点であり、生活の支えでもある。それに関する評価に変りのあろうはずがない。だがお前の誤りは、社命に隠れて化学の暗い側面ばかりを抽出し、それをもって生き甲斐とか、学問の可能性の追求とかにすげ替えてしまったことだ。
お前自身、それをよく知っている。どうして毒ガスの開発が化学の明るい面と言えよう?
社命に抗《さから》うことは、サラリーマンとして致命的だ。だがお前はサラリーマンである前に、化学者であり、科学者なのだ。
これは俺の生き方、それはお前の生き方、自分の物差しを他人に押しつけるなと言うのであれば仕方がない。
だが、人間の数だけある無数の物差しにも一つだけ共通の目盛りがある。
それは「人間が築き上げてきた堆積《ケルン》の上にどんなに小さくともよい、一人一つの石を置き加える」ことだ。
残念ながら、今日の時点ではこの目盛りは次のように言い矯《なお》すべきだろう。
『人間の悲惨を少しでも少なくするために[#「人間の悲惨を少しでも少なくするために」に傍点]、多くの人々が倦《う》まず続けてきた努力に、どんなに小さくともよい、自分の努力をつけ加えること』と――
お前のNガス開発のための努力と工夫は、この目盛りに合うと自信をもって言えるか?
俺はお前を責めているのではない。ただ悲しいのだ。旧き山仲間としてかつてあの高燥の空間に信頼のザイルで結ばれ合ったお前が、分水嶺に分かれて心を墜《お》としたように、どう歩み寄りようもない遠い二つの世界に別れて墜ちたことが。
俺達は本当にもう歩み寄りようがないのだろうか? 少しでもお前を振りかえらすことが出来るならと思って、俺は旧い日の感傷と連帯を臆面《おくめん》もなく振りかざした。
いずれにせよ、俺は死ぬ。どうせ死ぬべき日限をほんのわずかだけ繰り上げて、その代償としてかなりの金を受け取った。その上お前を諌《いさ》めようとするのだから俺もかなりがめつい。
だが、俺のがめつさを許してくれ。そして俺が狂気しながら死んでいく様をじっと見守ってくれ。
お前の人間としての心に少しでも訴えるように、お前の作ったNガスの効果が素晴しく、俺が出来るだけ無惨に発狂してくれるように、今は只《ただ》それだけを願っている。 さようなら
昭和四十三年五月三日
[#地付き]秋田修平
大西安雄殿
3
大西の顔色は読み進むほどに変っていった。思わず中途で立ち上がりそうになった彼をとどめたものは、「読み続けて欲しい」と言う秋田の言葉だった。
ただならぬ大西の表情に、祥子が「どうかなさったの?」と何度か尋ねかけたが、それすら耳に入らぬように硬《こわ》ばった視線を手紙に注いでいた。
「すぐ発《た》たなければ」
漸く読み了《おわ》った大西は、膝の健一を品物でも放り出すようにおろすと立ち上がった。信頼しきっていた膝からいきなり、じゃけんに放り出されて、子供は火のついたように泣きだした。
「一体、どうなさったの?」
祥子が呆《あき》れたように言った。
「これを読んでみろ」
彼は祥子に手紙を渡すと、洋服箪笥《ワードローブ》の前に立った。
彼女が読み了った頃は、大西の身支度はあらかたすんでいた。
「俺はすぐ清里へ発つ」
大西は言った。
「実験は明日の朝から始まる。今行けば間に合う」
「待って!」
祥子が思いつめたような声で叫んだ。
「実験を中止するのは、かえって秋田さんの意志にそぐわないのじゃないかしら?」
「祥子、何を言う!」
「秋田さんは自分の狂った姿をあなたに見せたいのよ」
「見ても、Nガスの開発は止めないぞ、仲間を一人犬死させるだけだ」
「そうかしら?」
「どういうことだ?」
「みなければ分らないでしょ、観て上げるのよ、じっと観て上げて、その上で判断なされば、秋田さんも満足なさるわ」
「お前も俺の仕事に対して秋田と同じ様に考えているのか?」
「今、そのことは問題になっていないわ。実験をするか、中止するか、そのどちらかよ。そして私は、実験をするのが秋田さんの意志にそぐうとだけ言ってるのよ」
「秋田を見殺しにしろと言うのか」
「秋田さんの意志だわ」
「ああ!」
大西は呻《うめ》いた。
「その決心がついたら、今からすぐお発ちになって。そしてあなたの手で実験をしてあげて」
祥子は本を読むように平板な声で言った。だが、彼女の感情を喪《うしな》った声の底には、血の滲《にじ》むような哀《かな》しみがあった。
(秋田さん、あなたにはそんな哀しい秘密があったのね。大丸で私を拒んだのも、いつも遠くから私を見ていた目も、みんなその秘密のためだったのね。あなたは私を巻き添えにしたくなかったんだわ。でも、本当にそれは巻き添えだったかしら? 女がその本当に愛する人と暮すことは、たとえそれがどんなに短い期間であっても、果たして不幸の巻き添えにすることでしょうか?)
(秋田、お前にはそんな哀しい秘密があったのか。お前が憑《つ》かれたように山へ登ったのも、白血病を生涯の研究テーマとしたのも、Nガスに異常な憎悪を燃やしたのも、お前のそんな哀しい秘密に耐えるためだったのか。知らなかった、知らなかったよ)
夫婦は向かい合いながら、夫々《それぞれ》にもう一人の別の人間と心の対話をしていた。
4
生体実験報告書
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
検 体 秋田修平(二九)昭和十四年一月十八日生、男、固有疾患、骨髄性白血病
検 者 大西安雄、日本化成株式会社
清里試験所長
[#ここで字下げ終わり]
実験場所 山梨県北|巨摩《こま》郡高根町
日本化成株式会社清里試験所
実験内容
第一次テスト、五月四日午前十時〇〇分開始、Nガス第一次テスト量放射、持続約一時間、顔面|蒼白《そうはく》、手足指冷感、意識|明瞭《めいりよう》、ブドウ糖、ビタカン混注。精密検査報告書添付
第二次テスト、五月六日午前十時〇〇分開始、第二次テスト量放射、持続約五時間三十分、顔面ヤヤ紅潮、意識|溷濁《こんだく》、一時呼吸困難ニオチイリシタメ実験中断、酸素吸入、残留効果測定値正確ヲ期スルタメ薬剤投与ヒカエル、精密検査報告書添付
第三次テスト,五月八日、午前十時〇〇分開始、第三次テスト量放射、持続時間不明、顔面紅潮、手足指冷感、十時五分意識溷濁、同十分|譫妄《せんもう》状態、感情表出障害著シク、反応遅鈍、同十時三十分、時間、空間、自己ニ対スル見当識喪失、錯乱性|顔貌《がんぼう》ヲ呈ス。正午、二時間経過スルモ回復セズ、午後三時、同状態持続、午後四時三十六分、口、鼻ヨリ出血、ニワカニ脈搏《みやくはく》ヨワマル、酸素吸入、止血剤、ブドウ糖、強心剤混注、午後四時五十六分、呼吸困難ニオチイリ……死亡。
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青い狂人
1
五月十五日、大西はひょっこり大宮町の自宅へ帰って来た。いつもは、といってもこの出張中に二回だけのことであるが、帰京する時は必ず事前に連絡してくるのが、今度は全く何の前ぶれもおかない帰京だった。
それにこの前、帰った時からまだ二週間もたっていない。
「急に休暇が取れたのでね」
とまどったように出迎えた祥子に、大西はてれ臭そうに言った。
仕事熱心の男によくあるように、大西としては間隔の短い帰京が面映《おもは》ゆかったのであろう。
早速、まつわりついて来る健一を抱き上げて「おう、あれからまた、ずい分重くなったな」と目を細めて頬《ほお》ずりをした。
それは思わず祥子をして「この人にもこんな面があったのかしら」と感嘆させるような、子煩悩のパパぶりであった。子供を膝に乗せて表情をゆるめている大西からは、到底、Nガスの開発に打ち込んで家庭を顧みぬ、仕事の鬼の片りんもうかがえなかった。
「ずいぶん早く、今度は休暇が取れたのね」
祥子は大西のために茶をいれながら、一番先に尋ねたい問を抑えてさりげなく言った。
「うん」大西は一口|美味《おいし》そうに啜《すす》ってから、
「明日は十六日だろう。月は違うが健一の生まれた日だ。君の言っていたお宮参りをしてやろうと思ってね……そう思うと矢も楯《たて》もたまらなくなって無理に休暇を取って帰って来たんだ」
「まあ!」
祥子は目を大きく見開いて一体、どうした風の吹き廻《まわ》しだろうかと思った。
昨年の十二月十六日の本当の誕生日[#「本当の誕生日」に傍点]には、あれほど祥子がせがんだのにもかかわらず、帰ってくれなかった彼である。それが先回帰京してからまだ間もないというのに、月違いの誕生日を無理にこじつけて帰って来た。
何か他に本当の目的があるのではないだろうか? 祥子は素直に信じられなかったのである。
だが、大西は本当にその目的のためだけに帰って来たのだった。
翌朝、五月晴れに晴れた空を眩《まぶ》しそうに見上げながら大西は言った。
「今日こそ待望の健坊のお宮参りだ。さあ早く支度をしよう」
「あらっ本当に行くの?」
祥子はいまだに半信半疑だった。
「行くとも、君が浜田山の方の原っぱに見つけたという小さな社、そこへ行くのだ。親子三人|揃《そろ》って健親分[#「健親分」に傍点]のことをよく頼んでこよう」
「あらあら大変、それではすぐに支度をしなければ」
どうせ一時の気紛れか口実と思っていた祥子はにわかに慌てだした。
浜田山までとなると、一歳半の幼児にとってはかなりの遠出となる。軽いお弁当を作るやら、あたためたミルクを魔法ビンにつめるやらして、結局、家を出たのは、十一時近かった。
美しい日で五月の光が新緑に弾んでいる。風も光り香った。
健一は両親につき添われての初めての外出に大はしゃぎであった。時折り、幼い重量を二人の手に預けてぶら下る。
「これこれ」
と優しく叱《しか》りながらも、彼らは手にぶら下る可愛い重量に頬を弛《ゆる》めた。
小さな生垣をめぐらせた小住宅、柳の葉が青々と揺れている。
風にさわさわと揺れる豊かな影は、花を落とし尽くした桜の、光沢のある若葉だった。町にはすでに夏の匂があった。
「これなあに?」
「これはね、モグラの穴だよ」
「モグラ? なあに」
「モグラはね……土の中にいるネズミちゃんだよ、ご本で見ただろ」
「モグラ、いるかな?」
「モグラは今、穴の中でお昼寝をしているから見えないの」
健一は盛んに片言で質問をした。特に、物の名を訊《き》くことが多かった。この年頃の子供は名前に対する飢えのようなものがあるのだろう。
大西は一々説明してやった。名詞ばかりでなく、その名詞を主体にした動作や、動作の理由までも、分るのか、分らないのか、黒い目を大きく開いて聞いている我が子にていねいに教えてやった。
祥子はそんな大西を一つの驚きをもって見ていた。その驚きに答えるように、彼は健一から祥子の方へ面を向けて、
「子供というものは好奇心の塊りだね。何かの本で読んだのだが、子供は無限の可能性を持っていて、その中で最も強い可能性を引張り出してやるのが、親の義務だそうだ。子供がいろいろと外界のことに関して質問をした時、面倒くさがって答えてやらないと、そのことに関するその子供の可能性は、そこでぴたりと止まってしまうそうだよ」
「まあ!」
「人間の脳みそは生まれた時はみな同じ位の量だそうだ。それに最も大きな差がつくのは五、六歳までの幼児期ということだよ。つまり、人間生まれつき頭がいいとか悪いとか、ということはないんだね、頭をよくするも、悪くするもひとえに幼児期にかかっているそうだよ。祥子、頼むよ」
大西はしみじみとした口調で言った。祥子は何故、彼が突然こんなことを言いだしたのか分らなかった。ただ、彼が仕事一辺倒ではなく、我が子に大きな関心を持っていることを知って嬉《うれ》しかった。
やがて家並が尽きて、小さな原へ出た。原と呼ぶにはちょっと憚《はばか》られるものだったが、東京にはすでに珍しい「上に何も乗せていない土地」であり、単なる空地よりは広がりがあった。
「あれから、大分、家が建ったわ」
祥子が呟《つぶや》いた。彼女が手紙に書いてから、もう半年近く経っている。大西はその時の原を知らないが、原のあちこちに散在するマッチ箱のような新しい家は、ここ半年の間に侵略[#「侵略」に傍点]して来たものだろう。もうあと一年もすれば、この可愛い原も大東京の怒濤《どとう》のような家並に呑《の》まれてしまうだろう。
社《やしろ》は原の中に桜と灌木《かんぼく》に囲まれて確かにあった。
「なるほど可愛いお社だな」
「きっとこの神様ならば健ちゃんの面倒を一生みてくれるでしょう」
「さあみんなで拝もう。健坊、ノンノするんだよ」
「健ちゃん、ノンノちゅる」
御堂の中には、それが神体なのか、黒くくすんだ木像が、蜘蛛の巣にまみれてあった。
その黒い無表情に、大西は「頼みます」と我が子の将来を託していた。
2
翌日の午後の列車で大西は新宿を発《た》った。彼にはまだ清里に残した大きな仕事があった。
それ故に、その仕事にとりかかる前に無理に休暇を取って帰京したのである。
祥子と健一が駅まで送ってくれた。
「おとうたん、行かないの、行かないの」
発車する迄《まで》健一は駄々をこねて大西を苦しめた。
列車が出ると、健一は父親の後を慕って泣きだした。ホームの上を顔をまっかにして小さな身体をふるわせて泣き叫ぶ姿が次第に遠ざかって行くのを、大西は窓から身を乗り出して不覚にも瞼《まぶた》を熱くしながら見守っていた。非情な列車の加速はその姿をたちまち視野から外してしまった。
試験所へ帰り着いた時は、さすがに長い初夏の日も昏《く》れていた。
村山から簡単な事務報告を受けて、大西は早々に自室へ引きあげた。これから所員が完全に寝静まる深夜までは何もすることがない。彼にとってそれは長く苦しい時間であった。彼は苦しさを紛らすために東京から持ってきた旧《ふる》いアルバムを開いた。
秋田と歩いた山の写真《スナツプ》が、頁にべたべたと無統一に貼《は》られてあった。秋田も彼もカメラの腕はなかったので、大した写真はない。アルプスを背景に撮ったつもりなのが、山は何処にも映っていなかったり、中には顔の欠けているものもある。
だが、そこには正しく、彼らの青春があった。茶色に変色した印画紙の底から、秋田が笑いかけ、旧い山脈が語りかけた。
「秋田、よく歩いたっけな、あの鹿島槍北壁の中央ルンゼは危《ヤバ》かった。壁の途中で吹雪《ふぶ》かれて、虫のようにへばりついて|夜を明か《おかん》した。小便はたれ流し、手足指は凍傷、あれはもう遭難といってよい状態だった。それから一の倉二の沢本谷……」
追憶はとめどもなかった。山巓《さんてん》から山巓へと、秋田と共に歩いた山脈は重々《じようじよう》と連なって果てしがない。
「そのお前はもういない」
大西がふと呟いた時、折りから開いた頁の、雪山を背に笑っている秋田の顔に、ぽつりと一点のしみが浮いているのに気がついた。
「はて何のしみだ、これは?」
大西がそれに視線を集めた時、そのすぐ右隣に同様のしみがぽつんと生じ、彼の見ている前でみるみる周囲に滲《にじ》んだ。
しみは彼の目から頬を伝って落ちた泪《なみだ》の粒だった。それと知ると同時に大西ははたとアルバムを閉じた。
追憶と遊んでいる間に、いつの間にか彼が待っていた時間が迫っていた。
3
ガス貯蔵庫は別棟になっている。ここにほぼ完成されたNガスがボンベに詰められてストックされているのである。この大部分がそのままAPAに納入され、一部が本社工場に送られて、基本構造をもとに量産に入るのである。
大西は防護服《たこ》を身に着けるとガス庫の中に入った。20kg乃至《ないし》50kg内容積のボンベが約二百本ほどぎっしりと倉庫の闇《やみ》を充《み》たしていた。
大西は思わずマスクの下で息をつめた。納入時期が迫っているので、いずれのボンベもNガスで充満しているはずである。これから二百本のボンベのガスを放出するという長く危険な作業が、大西が自らに課した仕事であった。
所員に気づかれてはならないので灯はつけられない。ボンベのキャップはいずれも機械力で固定されてあるので、一本一本レンチで開けるのに非常な労力と時間がかかる。しかも夜が明けるまでに全部放出しなければならないのだ。
ガス庫にもちろん窓はない、唯一の酸素の採入口は、大西が忍び入って来た狭い小さな入口だけだった。
たこをつけたとはいうものの、濃厚なNガスの中に長時間浸っての重労働では、全くそれを吸わないわけにはいかないだろう。
第一その前に酸素がなくなって窒息するかも知れない。
だが、それは大西がどうしてもやらねばならぬことだった。
「祥子、頼むぞ」
大西は最初のボンベに取りつく前に、祥子の名を呼んだ。自分にもしものことがあった後の健一のことを頼んだのである。彼は最初のボンベのキャップにレンチをあてがった。かちっとかみ合わせ、渾身《こんしん》の力をかけて廻す。
やがてシュウッと勢いのいい音と共にキャップは弛《ゆる》んだ。シュウシュウ噴き続けるボンベを背に、大西は二本目のボンベに取り組んだ。
「これなあに?」
突然、暗やみの中に可愛い声を聞いたように思った。
「健一!」
大西は呼んだ。答えはなく、ガスの噴出音だけが闇を割いていた。
「まだ幻聴を聞くには早過ぎる」
彼はふと苦笑したが、確かにそれは我が子の声である。彼の耳は確かにその声を聞いたのだ。
「これはね、悪い空気なんだ、だからお父さんが捨てているんだよ」
大西は三本目のボンベに取りかかった。
「どうしてわるくなるの?」
「これを吸うとね、キイキが悪くなるんだよ」
彼は四本目のボンベに取りかかった。健一は納得したとみえて、暫《しばら》くは噴出音だけが大西の周囲を支配した。そして時間が流れた。遠い森でチチと小鳥が騒いだ。……闇の底に暁の気配が漂った。彼の周囲には約四十本のボンベが内容を放出して空しく横たわっていた。
到底、間に合いそうもなかった。だが、やれるだけやるのだ。彼は焦った。四囲の闇が何かおどろおどろと粘り気を持ってきたようで強い眠けを覚えた。動作がめっきりと鈍くなった。自分の体ではないような気がした。やはり大分吸い込んでしまったらしい。
「もう少し保《も》ってくれ!」彼は自分自身に祈った。
その時である、彼は再び健一の声を聞いた。その声は周囲に絶え間ないガスの噴出音をぴたりと圧《おさ》えて、夜の静けさの中に通る鐘の音のように、大西の耳膜に透明に響いてきた。
「だれがわるい空気をちゅくったの?」
大西の体は一瞬硬直した。
「それはね……」
彼はふと口ごもってから断を下すように、はっきりと、
「お父さんが作ったんだよ、でもね、悪い空気ということが判ったので、今、捨てているんだよ」
言い了った時、彼の意識は水のように揺れ、そして急速に薄れていった。
「大西が何故あんな馬鹿なまねをやったのか、さっぱり分らん」
「まさか奴《やつこ》さん、Nガスの注文が取消《とか》れたのを知っていたんじゃないでしょうね」
「そうだとすれば、大した忠臣サラリーマンだよ。自分の命を張ってまで、どうせ廃棄しなければならぬNガスの処分をしてくれたんだからな。しかし、そんなことは絶対に考えられない。APAからキャンセルの通知が入ったのは、奴がガスを放出した翌日だった」
「しかし、それでは奴のとった気ちがいじみた行動の説明が出来ません」
「狂っていたんだな、前から。長い間、Nガスを作っている間、少しずつ吸い込んでいたんだろう。むしろ、奴にとっては都合のいい時に発狂したともいえる。あれだけ精魂こめて開発したものが、全く無用の長物となったと判れば、それこそ気でもちがわなければいられなかったろうからな。それに生体実験が万一ばれた場合にも彼が化学者としての功名心から独断でやったことに仕立て上げられる。もっとも、最初からそのように仕組んでおいたことだが」
「考えてみれば可哀想《かわいそう》な奴です」
「うん、それにしても奴の頭脳は惜しい。その後、具合はどうだ」
「一向に回復の兆しが見えません。何しろ、長い間蓄積された上に、大分、吸い込んでいますからね、おそらくもう廃人《だめ》でしょう、ま、命があったのが、見つけものです」
「惜しいな」
「惜しくはありますが、別に彼がいなくとも一向にさしつかえありません。中研から若い優秀な技術陣が続々、育っておりますからな。日本化成は彼一人の頭脳に左右されるようなちゃちな会社ではありませんよ」
「まあ、その通りだ、それよりもNガスのキャンセルで被った損害をどう償うかが先決だな」
「第一次納入分は決済がついていますし、設備投資も農薬工場の転用などで抑えに抑えてきたのが不幸中の幸いでした」
「結局、清里に費《つか》った金が一番大きかったわけだな、馬鹿な目にあったよ、しかし、それも裏経理の金だから株主に突っつかれることはあるまい。ところで大西をどうしよう?」
「いくら社宝の頭をもっていても、狂ってしまってはどうにもなりますまい。それにこの度の行為は、彼の過去のいかなる功績をも帳消しにする重大な反社的行為です。たとえ結果そのものはたまたま、会社にとって都合のよいものとなっても、会社に対して害意があったとしか思えません。所員一同へのみせしめのためにも……」
「斬《き》るか」
「はい」
日本化成本社社長室で二人の男が瞳を合わせて薄く笑った。五月の末のしめっぽい午後だった。
4
それから十日ほど後の、同じように梅雨模様の重苦しい夕方、原宿のあるアパートの一室で一人の女が自殺をした。
廊下を這《は》う異様な臭気に、隣人たちが騒ぎだして部屋に押入った時は、すでに大量のガスを吸い込んでいて手の施しようがなかった。
自殺の理由は、最近病気で死んだ夫の後を追ったものと思われた。
彼女は妊娠していた。遺書には、「お腹の子にすまない、でもあの人のいない世の中では生きていく気力がない、アパートの皆様にはご迷惑をかけて申し訳ありません」とだけ走り書きがしてあった。
その傍にはおそらく葬儀費用に残したものであろう、約三十万円の貯金通帳と印鑑が添えてあった。
覚悟の自殺とみえて室内はきちんと整頓《せいとん》されていて、そのことがよけいに人々の哀れを誘った。
同じ日、同じ時刻、杉並署に大西祥子という婦人から捜索願いが出された。
失踪者《しつそうしや》名は大西安雄、彼女の夫であった。中毒性の精神錯乱のため自宅療養中のところ昨日急に失踪したものである。
届出を終えてから、冷たい雨の中を二歳近い幼児の手をひいて帰って行く若い母の心細そうな姿が、届けを受けつけた係官の胸にいつまでも暗いかげりを曳《ひ》いた。
同じ日、ややそれより少し前、雨にけむる北アルプス穂高岳から上高地へ下りて来た数人の登山者は、梓川のせせらぎが聞こえ始めた樹林帯の中で奇妙な男とすれちがった。
奇妙だと形容したのは、男の服装だった。
それは普通の背広と革靴《かわぐつ》だけの、町の舗道を歩くようなかっこうであった。
夏の上高地ならばさほど奇異でもない軽装も、まだ山襞《やまひだ》にはびっしりと残雪が埋まる六月の半ば、それも梓川のせせらぎがとぎれとぎれになるほどの高所で、その服装は馴染《なじ》まなかった。
だが登山者が奇妙に感じたのはそれだけではない。新緑を溶かしたような青い雨に全身|濡《ぬ》れそぼり、髪や頤《あご》からは雨の滴をしたたらせながら、男は全く寒さを感じないもののように、前方にひたと目を据えたまま登って来た。近づくほどに、その目は空間の一点に固定されているように見えながら、全く焦点を失っているのが判った。
彼は道々、何か口の中で呟《つぶや》いていた。山ですれちがう時、下りの者が道を譲るのが常識である。
「今日は」
すれちがいざま、登山者の一人が山で慣例の挨拶《あいさつ》をしたが、男はふり向きもせず、ぶつぶつと呟き続けながら通り過ぎた。
登山者の一人が、その時、男の呟きをふと耳に留めた。
「アノトキアノセツヘキニ、イノチノキザハシヲキザミナガラ、クモヲヌクセンポウニヨセタオモイデアッタロウカ」
彼はそう聞いたように思った。
「何だい、ありゃあ?」
男に声をかけた登山者が言った。
「さあ、狂人《きようじん》だろう」
呟きを耳に留めた登山者が答えた。
「狂人か、山で逢《あ》った狂人、山狂人か、そんなら俺達と大して変りねえ」
他の一人が苦笑した。
「あんな調子で登って行って大丈夫かな?」
他の一人が心配そうに言った。
「大丈夫だよ、どうせ大した所まで行けやしない。そのうちに降りて来るさ、それより早く行こう。河童橋《かつぱばし》は近い」
リーダー格らしい登山者が言った。彼らが背の荷をゆすって再び上高地への径《みち》を下り始めた時、山狂人≠フ姿は雨と夕闇にけむった樹林の中の、青いほの暗さの中に吸いこまれていた。
角川文庫『分水嶺』昭和49年8月30日 初版発行
平成7年3月20日 改版初版発行