森村誠一
凶通項
目 次
汚された初夜
ゴースト・ヒーロー
内通した鍵《かぎ》
人身御供《ひとみごくう》のキャッチボール
ゴマメの一矢《いつし》
通りかかった救い神
吊《つ》るし上げられたブルーマウンテン
殺人自動感知機
盥《たらい》まわしされた暗殺
乗り捨てた郷里
庇護《ひご》された死
カリスマの同行者
汚された初夜
一流ホテルでまさかそんな事故が起きようとはおもわなかった。|フロント係《クラーク》も額に汗をにじませて平身低頭していたが、どんなに詫びられても事態の解決にはならない。
「ぼくらは今日が新婚旅行の第一日めなんだ。予約もちゃんとしてあるし、このようにクーポンも買ってきている。それが部屋がないとはどういうわけなんだ」
久連山実《くれやまみのる》は激昂《げつこう》してクーポンを突きつけた。
「まことに申しわけございません。当方の手ちがいでございまして、なんともお詫びの申し上げようもありません」
フロントクラークは、おろおろ声で同じせりふを繰り返すばかりであった。
「きみに詫びてもらっても仕方がない。まさか初夜を野宿はできない。この始末をどうつけてくれるのか」
久連山の背後では新妻の清子が途方に暮れて立ちすくんでいる。北陸の小さな地方都市の設計事務所に勤めている二人は、一年の交際の後、周囲の祝福をうけて結婚した。新婚旅行は海外へという案もあったが、清子が言葉も風土も異なる外国を緊張しながら忙しく駆けまわって来るより、日本の古都をのんびり巡りたいと希望したので、鎌倉、京都、奈良の周遊旅行へ出かけて来た。
初夜は東京の一流ホテルで過ごして、翌日は鎌倉に遊ぶ予定であった。このハネムーンを所長がプレゼントしてくれたのである。
ところが挙式後遅い時間の飛行機でホテルに到着すると、予約した二人部屋が満室で、空いていないという。団体を取った際の予約事務の手ちがいらしいのだが、そんなホテル側の事情は、客には関係ない。
一流ホテルではめったに発生しない、初歩的なしかも重大なミスであるが、新婚夫婦が初夜の宿を失うという事態の中に、なんの手当ても施されないまま放り出されてしまった。挙式の感激の余韻は速やかに冷やされた。
代替の部屋かホテルがあれば救われるのだが、あいにく、当夜同種の部屋も都内の同格ホテルもふさがっていた。新婚の記念すべき夜に、ラブホテルやモーテルをあてがうわけにはいかない。新婚旅行となれば縁起ものである。単に一夜の部屋を確保できないという問題ではない。
しかし無い袖は振れなかった。ホテル側は久連山夫妻より困惑していた。この際、責任の所在の追及よりも、当面の事態をどう収拾すべきかである。
久連山も、ここで怒ったところで解決にはならないことを悟っていた。しかし怒る以外になすべきことがない。そのときフロントデスクの電話が鳴った。クラークの一人が応答した。彼の横顔にみるみる喜色が浮かんだ。
「それではお取り消しでございますね。どうも有難うございます」
取り消しの連絡でありながら、クラークは万歳でも叫びたそうな表情で電話器をおいた。そのクラークは、久連山に応対している係の所へ歩み寄ると、耳許に二言三言ささやいた。
係も救われた表情をよみがえらせて、久連山の方へ向き直った。
「お客様、たいへんご迷惑をおかけいたしましたが、ただいま一つキャンセルが出ました」
「すると部屋はできたのか」
「はい。ちょっと広いお部屋なのですが、ご予約されたお部屋よりデラックスでございます」
「このクーポンで賄えるのですか」
ホテル側の不手際で予約部屋より高い部屋を売りつけられたら、せっかくの所長の好意をあだにしてしまう。
「それはもう当方のミスでございますので、クーポン券だけでけっこうでございます。ご案内して」
クラークはボーイに命じた。久連山夫妻を部屋に案内することによって、ホテルのミスを蔽《おお》い隠したがっているようである。部屋に通された二人は、その予想以上に豪華なたたずまいに息をのんだ。
「ロイヤルスイートと申しましてこのホテルで最高のお部屋でございます。都内でもこれだけの部屋を備えているホテルはございません」
ボーイは、自慢そうに説明した。ベッドルームのほかに、応接室、控えの間、キッチンまでが付いている。応接室には絹を張ったような総皮張りのソファと黒檀《こくたん》のティーテーブルが置かれ、民芸調のフロアスタンドが四隅に配されている。ベッドにはルイ王朝風の天蓋《てんがい》がさしのべられ、浴室のドアには金泥が塗《まぶ》してある。その他すべての調度|什器《じゆうき》類が目を見張るばかりに豪華な品々でかためられている。
「まあテレビが二つあるわ」
「テレビだけでなくトイレも二つある」
「あらこれはなにかしら」
清子が女性用洗滌器《ビデ》を指した。それは彼女が初めて見る器具であった。ホテルでもスイートクラスの高級部屋にしか設備されていない。
「それはね、ぼくらの初夜の儀式が終わった後で使い方をおしえてあげよう」
二人だけにわかる淫靡《いんび》な笑いを含んだ久連山に、清子はおぼろげにその器具の用途を悟って頬《ほお》をうすく染めた。まだボーイがいたのである。二人は速やかに機嫌を直していた。
「これが本当の怪我《けが》の功名だね」
ボーイが立ち去った後、東京の夜景を独占したような窓辺に寄って、久連山は新妻の柔らかい唇を愛撫《あいぶ》するかたわら、ささやいた。
「ホテルがプレゼントしてくれたのよ」
「一泊十万円はするだろう。あんなハプニングがなかったら、一生泊まれるかどうかわからない」
「でもあなたといっしょなら、どんなお部屋でも最高よ」
「今夜は、ぼくらにとって記念すべき夜だ」
「私、いいお嫁さんになる」
「もう十分にいいお嫁さんだよ」
「嬉《うれ》しいわ。こんなに幸せだったことはないみたい」
「こんなことで満足してはいけない。もっともっと幸せにしてあげるよ」
「私たちもう一生離れないのよ」
二人は強く抱き合った。東京の夜景を背負って一体となったシルエットは、いつまでも動かなかった。二人の初夜の儀式はすでに始まっていた。
澱《よど》んだ水のような深い眠りの底で、空気がかすかに動いたようである。熟睡に圧倒された意識は、その動きを感知できない。空気は動きつづけ、室内を隙間《すきま》風のように流れた。固定された窓と、自動施錠のドアによって密閉された完全空調の室内で、あり得るはずのない空気の流れであった。それが意識を刺戟《しげき》した。
清子は熟睡の底から少しずつ意識の表面に浮かび上がってきた。覚醒と、眠りへの沈降の分岐点でしばらくためらった後、なにかの気配を感じ取って清子は急速に目覚めた。
隣りの応接室の方角からその気配は忍びやかに伝わって来る。それは何者かが足音を消して歩いているような気配であった。久連山は、彼女の隣りでぐっすりと眠り込んでいる。初夜の儀式がつつがなく完了したままのしどけない姿勢で眠りに落ちたのである。
夫でなければ、いったいだれが歩きまわっているのか? 恐怖が体の芯《しん》から湧《わ》いてきた。プライバシーが売り物のホテルの密室に、深夜その泊まり客以外に人が歩きまわっているはずがない。
「起きて。あなた、起きてよ」
清子は、かたわらで寝ている夫をそっと揺り起こした。熟睡していた久連山は、清子に執拗《しつよう》に揺すられてようやくうす目を開いた。だがまだ意識は完全に覚めていない。
「もう少し寝かせてくれよ」
久連山は勘ちがいしたらしい。せっかく開いたうす目をふたたび閉じて、睡魔に引き戻されかけている。
「だれかがいるのよ、隣りの部屋に」
清子は夫の耳にささやいた。
「だれもいるはずがないだろう。ここはぼくたちの部屋だ」
「それがいるのよ。だれかが歩いているわ」
「そんな馬鹿な!」
「ほらまた聞こえた。一人じゃないみたい」
今度は久連山もはっきりと気配を聞いた。眠けは吹っ飛んだ。
「おかしいな」
「あなた、恐《こわ》いわ」
清子がしがみついてきた。
「恐がることはない。きっとなにかのまちがいだろう。フロントに聞いてみよう」
久連山がナイトデスクの電話器に手をかけたとき、応接室との連絡ドアが開いた。うすい光が漏れ入ってきた。
「そのまま動くな! 灯をつけるんじゃない」
ドスのきいた声が飛んで来ると同時に、黒い影が跳躍した。久連山は後ろ手にねじ上げられ、清子は、悲鳴をあげかけた口を分厚い掌で塞《ふさ》がれた。いきなり侵入して来た人影は三個のようである。
「拳銃《ハジキ》がないか確かめろ」
同じ声が命令した。手際よく二人が夫婦の身辺をチェックした。
「大丈夫、ヤッパ一丁ありません」
「き、きみたちは何者だ」
久連山は震えかかる声で必死に咎《とが》めた。
「ふふ、怪しい者ではないと言いたいが、そいつは無理のようだな。覚悟をしてもらおうか」
最初の声が、うす笑いを含んで言った。その声に吹きつけるような凶気がある。
「覚悟だって? ぼくたちがなにをしたと言うのだ」
「いまさら白々しいことを言やがって。あんたらに生きていられると都合の悪い人間が大勢いるのさ」
夫婦の自由を拘束している二人が子分で、しゃべっているのがリーダー株らしい。隣室から来る逆光の中に立った形なので、人相は読み取れない。いずれも屈強な体格の男たちで、凶悪な気配を孕《はら》んでいる。
「ま、待ってくれ、ぼくたちは今日結婚したばかりの夫婦だ。殺されるような悪いことはなにもやっていない」
「だめだめ、新婚に化けようなんて、図々しいぜ。もうおもい残すことはないほどいいおもいをしたんだろう」
圧倒的な優位に立った襲撃者に、少し余裕が湧いたようである。
「冗談じゃない。これはなにかのまちがいだ。ぼくたちは新しい人生を始めたばかりなんだ」
久連山は、三人の闖入者《ちんにゆうしや》がなにか途方もない人ちがいをしているのを悟った。清子は恐怖のあまり、声帯が麻痺して、口を塞がれなくとも、悲鳴が出なくなっている。久連山にしがみついた手も硬直している。
「兄貴、野郎の声が少し若すぎるようですぜ」
久連山の手をねじり上げていた一人が言った。
「そうだ、人ちがいなんだから、ちがうのは当たり前だ」
久連山は、その言葉に力を得て言い募った。
「そんなはずはない。たしかにこの部屋に泊まっているという連絡があったんだ」
「兄貴、おれは加島《かしま》を写真で見ただけだけど、こんな顔じゃなかったようですぜ」
「おれもそうおもいます。加島は四十八歳なのに、こいつはどう見ても二十代だ」
弟分二人の言葉に、リーダーも迷ってきた様子である。
「よし、灯をつけてよく確かめろ」
室内灯《ルームライト》のスイッチが入れられた。久連山夫婦は明るい光の下に晒《さら》された。
「二人ともツラをよく見せろ」
リーダーの命令とともに、夫婦は光の方へグイと顔を向けさせられた。
「あんた、名前はなんてえんだ」
「久連山実、こちらは妻だ。N市の設計事務所に勤めている。乱暴はしないでくれ」
久連山は、自分の答弁いかんに、妻と自分の運命がかかっているとおもったから必死であった。
「奥さん、あんたの名前は?」
リーダーが久連山の妻へ凶暴な目を向けた。
「清子だ」
久連山が代わって答えると、
「あんたに聞いているんじゃない。奥さんに聞いているんだよ」
リーダーの目が刃物のようにギラリと光った。
「清子です」
彼女は歯の根も合わないほど震えながらやっと答えた。
「年齢《とし》は?」
「二十二歳です」
「あんたら、新婚だと言ったな」
リーダーは、ふたたび久連山の方へ目を向けた。
「今日、いや昨日結婚式を挙げて、最終便の飛行機で来たんだ」
「この部屋は、ホテル最高の部屋だぜ、十万がとこはする。ずいぶん気張ったじゃないか」
「それはホテルの手ちがいで予約した部屋が取れなかったので、この部屋を代わりにもらったんだ」
「それじゃあ初めは、この部屋へ入る予定じゃなかったのか」
「そうだ。普通《スタンダード》の二人部屋のはずだった」
「兄貴、人ちがいのようですぜ」
弟分が脇《わき》からささやいた。
「どうやらそのようだな」
最初の切迫した気配は、ひとまず去ったようなので、久連山に先方を観察する余裕ができてきた。
リーダー株は、顴骨《かんこつ》が張った額の狭い男で刃物のように細い目をもっている。右の目尻《めじり》にホクロのあるのが目立つ。細身で背が実際より高く見えるが、全身に強いバネを撓《たわ》めたような精悍《せいかん》さが漲《みなぎ》っている。年格好は三十代半ばと見える。他の二人は、いずれも二十二、三の若者で、特徴のない凡庸《ぼんよう》な顔立ちだが、知性の一片もない粗暴さが剥《む》き出しになっている。体つきも筋肉だけが先に発達したように屈強である。リーダー株の目尻にホクロのある男は、大きく舌打ちをした。
「兄貴、こいつらどうします」
「どうするって、人ちがいじゃどうにもならないだろう」
「こいつら、おれたちの顔を見ましたぜ」
「見てもきみたちはべつになにもしたわけじゃない。他人の部屋へまちがって入って来ただけだ」
一難去って、また弟分の一人がいやな気配をたてはじめたので、久連山が必死に説得をした。
「あんたら、新婚だってね、開通式は無事にすんだのかい。奥さん美《ハク》い顔《メン》してるね」
もう一人が淫《みだ》らな笑いを口辺に浮かべた。清子を見る目がうすく充血しているようだ。
「きみたち、人ちがいとわかったら早く帰ってくれ。守衛のパトロールに見つからないうちに」
「そうだなあ、あんたたちに口留めをしておかないとまずいな」
リーダーが、おもいついたように言った。
「ぼくたちはなにも言わない。きみたちがおとなしく出て行ってくれさえすれば……」
「信用できないね。部屋から出ると同時にフロントへ電話をされて出入口をかためられたら、それまでだからな」
リーダーが目の奥から、掛け布《キルト》の下の清子の身体をまさぐっていた。いやな目つきだった。
「約束する。ぼくたちはなにも知らなかった。もともとあなたたちとはなんの関係もない人間なんだ」
「いや、おれは関係をもちたくなったね。あんたの奥さんを見てからは」
リーダーは、いまは露骨に欲望の色を目に浮かべた。先刻とはべつの種類の凶悪な気配が迫ってきた。
「いったいなにをするつもりだ」
久連山が言うと同時に、夫婦を被《おお》っていた掛け布がはねのけられた。夫婦の無防備の裸身が欲望にたぎった三人の闖入者の目に晒された。悲鳴をあげて夫にしがみついた清子の構図が、闖入者の欲望の火に油を注いだ。
「おまえたちは、そこで野郎を見張ってろ。用がすんだら、おまえたちにも相伴させてやる」
リーダーは、清子をベッドから引きずり出した。
「あなた、たすけて!」
裸身であることの羞恥が彼女の抵抗を小さくしている。声だけが夫に救いを求める手段であった。
「止《や》めろ、止めないか」
久連山は、夢中でリーダーに跳《おど》りかかろうとしたが、弟分にたちまち撲《なぐ》り倒された。
「ぎゃあぎゃあわめくな。あんたはこれから奥さんといくらでもやれる。一度くらいおれたちにお裾分《すそわ》けしてもいいだろう」
リーダーは軽くウインクを送ると、清子の髪をつかんで隣室へ引っ張っていった。久連山は、妻が犯される気配を聞いた。後ろ手にねじり上げられた久連山は耳をふさぐこともできなかった。たとえふさいでもその気配は届くし、妻の犯される範囲をよく聞き届けておきたかった。目で確かめられないだけ、犯される場面は想像の中で拡大された。
久連山に救いを求めつづけていた妻の声は、途中からすすり泣きに変わった。すすり泣きに時々うめき声が混じった。男の呼吸が淫らにからみついている。一瞬、妻のすすり泣きがピタリと止んで、肉体の軋《きし》み合う音が高く耳に迫った。
「ちくしょう。たまらねえな」
「兄貴、早くすませてくれねえかな」
気配に二人の弟分が欲望を沸騰させて、体をよじった。
長い拷問がようやく一段落して、連絡ドアが開いた。
「よし次、行きなよ」
リーダーが顎《あご》をしゃくった。序列によって順番は決まっているらしい。気負い立った新手は、無抵抗な獲物の肉置《ししお》きに喰《くら》いつこうとした。そのとき遠方でパトカーの警笛が聞こえた。一瞬ギョッとなって立ちすくんだ三人は、遠方の警笛に耳を澄ました。それはしだいにこちらの方角へ近づいて来る気配である。
「危《やば》いな。逃《ずら》かったほうが無難だ」
リーダーが言った。
「どうせ別の事件ですよ」
「そうかもしれない。しかしこの際、敬遠したほうがいい」
「兄貴、おれたちはまだ」
二人の弟分が鼻を鳴らした。
「馬鹿野郎、女はいくらでもいる。ここで捕まったらどうなるとおもう」
弟分は不承不承といった体《てい》であきらめた。
「いいか、一言でもおれたちのことをバラシてみろ。あんたの奥さんがオモチャになったことを言いふらしてやる。いやそれより前にあんたたちの命がないとおもえ。おれたちはやると言ったら必ずやるからな。奥さんと幸せな生活を送りたかったら、今夜のことは忘れるんだ。いいな」
リーダーが言った口留め≠ニはこのことだったのである。来たとき同様、彼らはもののけのように去って行った。後には無惨に蹂躙《じゆうりん》された初夜の残骸が、食い散らされた獲物の屍《しかばね》のように残っていた。
三人の闖入者が去った後、死のような静寂が被った。しかし決して気配が完全に死んではいないことを夫婦は悟っていた。どちらも侵襲され、蹂躙されたままの姿勢でたがいの気配をうかがいながら息を殺している。声をかけ合うのが恐ろしかった。夫は、たとえ不意を突かれ、三対一の劣勢であったにせよ、目の前で妻が犯されるのをなんの抵抗もせずに見送った。かなわぬまでも命をかけて反撃すれば、妻の被害を最小限に食い止められたのではあるまいか。
一方妻は、夫の前で犯され、その気配を余すところなく聞かれてしまった。たとえそれが一方的な意志によって暴力的に遂行されたにせよ、夫だけに捧げるべき新しい肉体を凶賊に明け渡したのである。
夫はこれ以上はない腑甲斐《ふがい》ない形で妻を侵犯され、妻は糊塗しようのない状態で犯され、その被害のほどを夫にあますところなく見届けられてしまった。あまりにも無惨な初夜であった。
ようやく久連山が動きだした。初夜の残骸を収容するという、夫婦にとって残酷な作業が待っていたが、それを避けることはできない。
「清子、大丈夫か」
久連山は境のドアの前に立って声をかけた。大丈夫のはずがないのだが、とりあえずそれ以外の言葉が見当たらない。
「おねがい、入らないで!」
清子の悲痛な声が返ってきた。
「しかし、このままではいられないよ」
「私の着ていたものがそちらのワードローブにありますから、ドアの隙間から放ってください」
「警察に連絡しなければ」
「あなた、それだけは止めて」
「泣き寝入りしろと言うのか」
「あの人たち、普通の人間じゃないわ。ヤクザよ。警察なんかに訴えたら、なにをされるかわからないわ」
「だからと言って、このまま黙っているわけにはいかない」
「警察に訴えたところでどうなるの。今夜、私たちの身に起きたことがみんなに知られてしまうわ。両親や親戚を嘆き悲しませ、世間の好奇心の的になるだけだわ」
たしかに妻の言うとおりであった。「襲われた新婚」はマスコミが泣いて喜ぶようなニュース種である。被害の程度を警察によって掘りおこされ、夫婦のプライバシーを普《あまね》く晒してしまう。
「とにかく服をくださいな」
「怪我はしていないか」
「大丈夫みたいよ」
「まず体を洗ったほうがいい」
「バスルームはそちらよ、あなたにこんな姿を見られたくないの」
久連山は、入室したときに妻が用途を質《たず》ねたビデが、こんな悲しい形で役立つとはおもわなかった。
おもいきり熱くしたシャワーを浴びても、心に刻まれた傷跡は洗い落とせない。また妻の肉体の深部に及んだ侵犯は、回復し難い汚染であった。物理的に汚染が洗い落とされたとしても、汚染された事実は消えない。
「それにしてもあの三人はどうやってこの部屋に入れたのだろう?」
嵐《あらし》が通過して徐々に自分を取り戻してくると、その疑問が頭を擡《もた》げてきた。
「ドアは閉めると、ロックされる自動施錠式だから、合鍵《あいかぎ》でもなければ入れないはずだ」
「ドアは寝《やす》む前にちゃんと閉めたわ」
「すると、あらかじめ合鍵をつくっておいたか、それともホテルの中に共犯がいて、合鍵を貸したということになる」
「でもまさかホテルが」
「わからないよ、買収されたかもしれない」
「あなた、ホテルに確かめるおつもり?」
清子が泣きだしそうな顔をした。久連山になだめられて、少し前に泣き止んだばかりである。
「きみのことは話さない。ホテルが一枚噛んでいるかどうか確かめるだけだ」
「そんなこと確かめたって、どうにもならないわ」
「警察に訴えるわけじゃない。ぼくらのことが知られる気遣いはない。ホテルは客の安全を保障する義務があるんだ。正体不明の人間が侵入して来たんだから、その理由を確かめる権利がある」
久連山は強く主張して、フロント係を呼んだ。深更、時ならぬ時間に呼ばれたフロント係は、仮眠から覚めきらない腫《は》れぼったい顔をしてやって来た。チェックインを担当した係である。胸に「松前」という名札を付けている。客室に正体不明の闖入者があったとは穏やかではない。
「この客室のキイは電子式で三百二十万通りのプラスマイナスの組み合わせによってできており、複製は不可能です。合鍵がつくれるはずがないのですが」
フロント係は理解がいかないといった表情である。
「しかし、現実に侵入して来たのだから合鍵がつくれなければ、ホテル側が予備《スペア》のキイを渡したとしか考えられない」
「セカンドキイはございますが、私どもが管理しておりまして、お泊まりのお客様以外にお手渡しすることはございません」
「合鍵はつくれない、予備のキイは出していないとすると、どうやって侵入したことになるのだ」
「ドアはちゃんとお閉めいただいたので」
「もちろんだ、ぼくと家内が確認してある」
「それで被害のほうはいかがでございますか」
「いや被害はべつにないんだ」
「お怪我はございませんでしたか」
「怪我はない」
「奪われた金品は?」
「なにも奪われたものはない」
「すると、なにも被害はなかったわけでございますね」
フロント係の顔に、人騒がせなというような表情がチラリと動いた。
「被害はなくとも、夜中に客の部屋に侵入されるようでは、安心して眠れないじゃないか」
久連山は憤然とした。被害の程度を正確に訴えられないもどかしさが、彼の怒りを内攻させている。
「それは重々申しわけなくおもっております。事実客室に何者かが侵入して来たのであれば、これはホテルとしては由々しき事でございまして、徹底的に究明しなければなりません」
「事実侵入したのであればとはなんだ。ぼくたちの言うことを信用しないのか」
「いえ信用しないわけではございません。ただあまりにも私どもの理解を越えることでございますので。これは一つ警察に届けて調べてもらいましょう」
「警察は困る。そんな必要はない。べつに被害があったわけではないし、表沙汰《おもてざた》にはしたくないのだ」
「お客様がそうおっしゃるなら、私どもといたしましても、警察に介入されたくはございません」
フロント係は、目の奥からそれとなく清子を詮索《せんさく》している。目に好奇の色がある。職業柄、久連山の急訴の奥にあるものを察知したのかもしれない。
「昨夜は予約した部屋はふさがっていたし、また、いまはいまでこのようなアクシデントを起こして、いったいこのホテルはどうなっているのだ」
久連山は怒りの鉾先《ほこさき》をどこへ向けてよいかわからなかった。
ゴースト・ヒーロー
万波《まんなみ》利行は、自分ほどついていない男はないとおもっている。だいたい出生からしてついていない。地方のいちおうの素封家の次男に生まれたのだが、長女長男が一姫二太郎と大切にされたのに反して、いてもいなくてもいいような扱いをうけた。兄姉がデキがよくて、県下の名門高校から一流大学へ進み、兄は医者、姉は弁護士となり公認会計士と結婚して法律会計事務所を開業している。一方、万波は滑り止め高校から、親の資力のおかげで辛うじて二流私大へ裏口入学して、中どころの商事会社へなんとかおさまった。
会社でもいっこうにうだつが上がらず、あちこちの部署をたらいまわしにされていた。彼の行く所、常にドジがついてまわるところから、密《ひそ》かに「ドジ万」とあだ名されている。
特に彼だけがドジというのではないのだが、どういうわけか彼のドジが目立ってしまうのである。他の者のドジは、万波のかげに隠れてしまう。トランプのババ抜きで、常にババを抽《ひ》いている感じであった。それがつまり彼のドジの所以《ゆえん》なのであろう。それでも若いころは人並みに艶聞《えんぶん》もあった。だが、スマートなプレイを一度もしたことがない。若い女にありついたと目尻を下げていると、必ずどこかで引っかかってしまう。情事は切り上げ時が肝腎《かんじん》なのだが、うまく切り上げられない。
一度喫茶店のウェイトレスと関係して、妊娠したと会社へ押しかけられたことがある。結局それはべつの男の子供を身ごもったとわかったが、中絶費用を出したうえに病院まで手術に付き添っていってやった。
いまの妻も切り上げ損《そこ》なった一人である。当時妻は、万波の会社と同じビルの中にあった歯科医の受付係をつとめていた。虫歯の治療に通っているうちに受付係と親しく口をきき合うようになった万波は、休日になにげなくデートに誘った。彼女はべつにどこといって取柄のない凡庸《ぼんよう》な女だったが、当時独身で特定の女性のいなかった万波が、休日の退屈しのぎに声をかけたのである。
断わられて元々と気軽に誘ったところ、意外に積極的に応じられて、二人だけの交際がはじまった。べつに好みの女でなくとも、他に女がいない場合、特定の女性の存在は独身男にとって便利である。身のまわりの世話をしてもらえるし、独身男の最大の悩みであるセックスの処理も手軽にできる。
万波もほんのつまみ喰いのつもりで手を出したのが、深くなった。いったんつまんだら代替《かわり》の女が現われないかぎり途中で止められない。そのうちにパターンどおりに彼女が妊娠した。妊娠には懲りごりしており、十分の防備を施したつもりである。
それにもかかわらず妊娠したのは、交接した折、うっかりして避妊具を彼女の体内におき忘れたからである。このとき万波は、自分にたてまつられたあだ名の表音との滑稽《こつけい》な符合におもい当たった。
ともあれ、その女が現在の妻の加枝である。もともと女らしさの乏しかった彼女が、結婚すると速やかに妻の座にあぐらをかいて夫を夫ともおもわなくなった。勤めに出る彼のためにほとんど朝食らしい朝食をつくってくれたことがない。インスタントラーメンと卵や、パンとミルクのカートンをダイニングキッチンのテーブルの上においておくだけで、自分はベッドから出て来ない。万波は、小学校へ通っている息子の武と二人で、味気ない朝食をそそくさとすませて出勤する。
朝食だけならまだしも、勤めから帰宅して夕食の用意ができていないこともあった。近所の家に朝から入りびたって、夕食の支度を忘れてしまったのである。
加枝は、帰宅して来た夫の顔を見てもケロリとして、
「ちょっとお待ちになってね、お隣りでいま天ぷらを揚げているから、材料もっていっていっしょに揚げてもらってくるわ」
と言った。夕食のお菜《かず》だけでなく、洗濯もどうせ同じ手間だからといっしょにやってもらっているらしい。ひどいときは風呂まで隣家にもらいに行った。さすがにたまりかねて万波が注意すると、
「お風呂ぐらいって軽くおっしゃるけれど、ガス代や水道代馬鹿にならないのよ。少人数だったら、二軒で一湯《ワンバス》くらいでちょうどいいのよ。今度うちでお風呂を焚《た》いたとき、お隣りさんを呼べばお相子《あいこ》でしょ」
「おまえのは経費や資源の節約のためではなく、面倒くさいからサボッているだけだ」
「あら、聞き捨てならないことをおっしゃるのね。それじゃ私がいかにも悪妻みたいじゃないの」
「悪妻じゃないとでもおもってるのか」
「そういうことをおっしゃるのなら、まず自分の働きを考えることね。能力ある男というものは、まず家族により多くの豊かさをもたらすものよ。あなた一度でも私と武に豊かさをもたらしてくれたことがあって」
それを言われると一言もなかった。勤め先はいちおう商事会社となっているが、業界に泡沫《ほうまつ》のごとく浮き沈みしているワンマン商社から成り上がっただけに、ちょっとした経済の高波をうければ、いつ転覆するかわからない頼りない存在である。海外にも支社をおいていかにも手広く商売をやっているように見えるが、二、三度取引のあった相手《バイヤー》のアドレスを勝手に支社にしているだけである。
そんな会社だから、とても一流|所《どころ》のような待遇はうけられない。毎月月給がもらえるだけでも感謝しなければならない。
しかし妻にはそんなことを話しても、わかってもらえない。要するに能力がないから中|所《どころ》へ行ったのだときめつけられる。妻には他家の亭主との比較においてしか、夫の価値を測れない相対的価値観が働く。
かりに万波が一流所に勤めていたとしても今度は、同じ社、同じクラスの会社の男たちと比べるにちがいない。それに対して万波には、妻を他の家の妻と比較することができない。いや、比較はできても、どうにもならない。
いやな女だとおもっても、いまさら取り替えられない。取り替えるための諸手続きやトラブルが煩《わずら》わしい。この際煩わしいことはできるだけ避けたい。
サラリーマンとして二流なら二流なりに落ち着いてしまうと、その安定を覆《くつがえ》されるのがいやになる。安月給ではあるが、毎月の定収入は約束されているし、特に悪いことでもしないかぎり馘《くび》にされることもない。安手の保証の中に男の野性を去勢されて、革命や、脱皮を好まなくなる。デキの悪い妻ではあっても、おだてたりすかしたりして操れば、働き疲れた男のための港になってくれるだろう。
港を替える苦労よりも、多少気に入らないところはあっても、帰り馴《な》れた港に体を憩《やす》めたい。そうおもって、辛抱してきた。ところが加枝は、家にばかりいてもつまらないと言いだして、近くの病院にツテを得て勤めるようになった。結婚前、歯科医の受付をしていた経験を活かして、外来患者の受付係になったのである。
ただでさえ妻の勤めを怠りがちであったところへ、仕事をもつようになったものだから、公然と怠けるようになった。
「これからは共稼ぎだから、家事も公平に分担しましょうね」
加枝は公然と宣言した。
「安月給だが、おまえを働きに出さなければならないほど逼迫《ひつぱく》しているわけではない。おれはおまえに家にいてもらいたいのだ」
万波は憮然《ぶぜん》として言ったが、
「あなたは妻を家に閉じこめておけば安心かもしれないけど、これからは女も外へ出て、その才能を社会のために役立てるべきよ。夫や家事のために女の才能を閉じこめてしまうなんて私いやよ」
「きみの才能は、武やおれのために十分役立っているじゃないか」
「そんなの役立っているのではなくて、犠牲よ。妻が夫や子供のために犠牲になる時代は過ぎたわ。女も才能を外の世界で験《ため》すべきなのよ」
――才能才能とご大層に言うが、おまえがどれほどの才能をもっているというのか――という言葉がのど元まで出かかったが危うく怺《こら》えた。
そんなことを一言でも漏らせば、万波の腑甲斐《ふがい》なさに対する攻撃が延々とつづくだろう。加枝に言わせれば、彼女は万波と結婚したことによって女の人生を誤ったのだそうである。もっと才能ある男といっしょになって、自分の可能性を追求できるはずであった。
「おまえが勤めに出たら、武の面倒はだれがみるのだ」
「武はもう赤ん坊じゃないわ。鍵さえ渡しておけば、一人で立派にやっていけるわよ」
「鍵っ子にしてしまうのか」
「武だって私が働きに出る意義を認めてくれるわよ。きっとわかってくれるわ」
「まだ小学三年生だぞ」
「もっと小さくても、両親が働きに出ている家はいくらでもあるわよ」
結局万波は、妻が勤めに出ることを反対し通せなかった。
共稼ぎは必ずしも家計にプラスにならない。まして共稼ぎの目的が家計の補助や向上にない場合は、むしろ出費のほうが嵩《かさ》む。交際費が二倍になり、妻の家事従事率が低くなるために外食費や娯楽費が多くなる。母親と子供とのスキンシップが減り、家庭は速やかに荒廃しやすい。共稼ぎの最大の被害者は、常に子供である。
妻を家事と育児の奴隷にしておくのは、男のエゴイズムだとそしられても、妻が夫と同じ能力の分野≠ナ働くようになると、速やかに女らしさを喪失することはたしかである。
能力と女らしさは水と油のように異質のものなのか。才能や能力の究極は自己中心であり、犠牲の観念はない。女のやさしさが自らの身体を痛めて子供を産むという宿命的な自己犠牲によって裏打ちされているかぎり、能力に目覚めた瞬間から、女らしさとの訣別《けつべつ》が始まるのかもしれない。
それは価値観の問題ではなく、これからの女性の一人一人に課せられた選択である。
そして加枝は、能力の分野を選んだ。加枝の就職とほぼ時を同じくして万波の一身に異変が起きた。それは、彼の会社が、年々業績が低下していたところを、このままでは行きづまり必至と見た主力銀行の勧告で、大型商社に吸収合併されることになったのである。
勧告の形をとっていても、それは至上命令であった。拒否すれば、銀行から見放されて空中分解せざるを得ない。生き長らえるためには、屈辱の餌《えさ》を食わなければならない。
合併すれば、社員の三分の一は生き残れる。吸収される社員にしてみれば、そのほうがよいかもしれない。だが三分の二は放り出される。それは突然の難船で乗船客の三分の一しか救命具が当たらない状態に似ていた。三分の一の人選がはじまった。難船ならば老幼女性など弱い者から選ばれるが、会社の場合は、最も強い者、能力ある者から選び取られた。
新社における貢献可能性の大なる者から順次すくい取られた。なんの取柄もなく「ドジ万」と言われていた万波は、真っ先に斬り捨てられるべき運命にあった。特に悪いことでもしないかぎり、馘になることはあるまいと頼んでいた保証が脆《もろ》くもくずれ去って、万波は突然失業者として放り出されてしまった。
学校を出てから二流ながら会社というカサの中で生活してきた身には、いきなり世間の雨風の中に直接|晒《さら》されて途方に暮れるばかりであった。
万波は自分の突然の失職を妻に告げなかった。そんなことをすれば、五十パーセントの家事分担率を、全面的に拡大されてしまう。それは単に家事分担に関するだけではない。
加枝は好機とばかりに家の主権を握って万波は速やかに彼女のヒモに成り下がってしまうだろう。生きるためにどんな屈辱の餌を拾おうとも、妻のヒモになるよりましである。
万波は毎朝これまでどおり家を出た。職安と新聞の求人広告を頼りに職を探し歩く。余った時間を公園や図書館や映画館でつぶして夕方ころ合いをはかって帰宅する。
しかし、中年の離職者によい再就職口はなかった。世界的な慢性不況の中で、中高年の就職は七、八倍という狭き門であった。サラリーマンが会社という内海の中でいかに外海を泳ぐ力を失っているかを実感した。
万波は、あてどもなく漂流した。夕方疲れて帰る家も、すでに港としての機能を喪失していた。会社が多少の退職金をくれたので、まだ妻に悟られずにいる。
妻は新しい職場でけっこううまくやっているらしい。そのために機嫌がよく、夫の身に起きた転変に目が向かない。彼女にとっては世界は常に自分を中心に回っているのであり、自分さえ中心に居心地よくおさまっていれば、他がどうなっていようと、知ったことではないのである。退職金がつきかけたとき、ある都心のホテルに雑役夫の口が見つかった。ロビーとトイレットの清掃が主たる仕事である。この際、選択は許されなかった。こんな口でも希望者があふれていた。
出勤すると菜っ葉色の作業服に着替えて、トイレットを掃除したり、ロビーの灰皿を取り替える。痰壷《たんつぼ》や汚物の処理もしなければならない。
――ドジ万にはふさわしい仕事かもしれない――
万波は、自嘲の苦笑を漏らした。収入も以前より減った。だが妻が勤めに出るようになってから、家計分担も割り勘にしたので、減収を糊塗できた。
美しく着飾ったホテルの客の中で、菜っ葉服に身をかためて汚物を処理していると、むしろマゾヒスティックな快感さえ覚えるようになった。
新しい仕事に就いて二か月ほどしたときである。万波はロビーの隅に意外な人物を見つけた。ソファに人目を忍ぶようにうずくまっているのは、なんと妻の加枝である。まさか夫がこんな場所で雑役夫をしていようとは、夢にもおもわないから、すぐ近くに万波がいるのに気がつかない。
(加枝が、こんな所でなにをしているのだろう)
最初の愕《おどろ》きが鎮まると、不審の念がわいた。このホテルは彼女の生活範囲の中にないはずである。それにいまは彼女の勤務時間中である。病院の用事で出向いて来たにしても、ホテルのロビーに人目を忍ぶようにうずくまっているのはどういうわけか。
――だれかと待ち合わせているのではないか――
――待ち合わせているとすれば、だれと?――
万波の中で想像が速やかに脹《ふく》らんだ。万波は、作業を装いながら密《ひそ》かに妻の監視をつづけた。待つ間もなく五十前後の恰幅《かつぷく》のいい紳士が現われた。
加枝がこぼれるばかりの笑みを浮かべてソファから立ち上がった。そんな笑顔は、結婚以来一度も万波に見せたことがなかった。
(そうか、これがあいつの仕事の正体だったのか。自分の能力を外で験すなどと言って、浮気を楽しんでいやがったんだ)
加枝は、男の背後に少し距離をおいて従《つ》いて行った。男はフロントで部屋を取った。万波は妻に声をかけようとして危うく踏みとどまった。そんなことをしてもコキュのみじめさを衆目に晒すだけである。
「きみ、こんな所でなにをやっているんだ。きみの担当はメインロビーのトイレだろう」
加枝と男を乗せていったエレベーター前のホールでうろうろしていた万波を、ロビーマネジャーが咎《とが》めた。
妻が不倫の悦楽に耽《ふけ》っている同じホテルの中で、夫は痰壷や灰皿の掃除をしている。
――自分の人生とはいったいなんなのだろう? ――
二流から三流へと落ち、いまは三流ですらない。流れからはずれた者は、社会の余計者である。余計者には妻の不倫を咎める資格もないのか。その日、帰宅して妻と顔を合わせても、万波は遂に一言も今日ホテルで目撃したことに触れなかった。
井手下保夫《いでしたやすお》には絶対に許せない人間が一人いた。過去は得てして美化されやすいが、その人間に関する記憶は絶対に美化してはならないと自分の心に刻みつけていた。その人間の名前は沖山伸次《おきやましんじ》、埼玉県相武市の生家がたがいに近かったので同じ小学校と中学校へ通った。いわゆる幼なじみである。だが沖山に対しては、幼なじみとしての懐かしさや親近感など一片もない。
あるのは、おもいだしただけで胸が煮えたぎるような憎悪だけであった。沖山の父親は一人親方の大工で、ふだんはおとなしい男なのだが、酒を飲むと荒れた。妻が気の強い女で、三日に一度くらいの割りで凄《すさ》まじい夫婦げんかを繰り広げた。
沖山は敏捷で腕力が強く小学生のころに町内の餓鬼大将の覇権を握った。中学へ入るころになると、手のつけられない悪童になっていた。早熟《ませ》た子で、中一のころに女生徒にいたずらして問題となり、二年になると不良女子高生と一週間駆け落ちをした。
この沖山がことごとに井手下をマークしていびった。蒲柳《ほりゆう》の質で腕力の弱い井手下に女生徒と相撲を取らせて嬲《なぶ》り物にしたり、解剖≠ニ称して、クラス全員の見守る中で衣服を剥《は》ぎ取ったりした。沖山の苛《いじ》め方は陰険で執拗であった。子分たちも沖山の機嫌を取りむすぶために井手下を苛めた。井手下を苛めることが保身になるのである。
井手下の母親の澄子《すみこ》が町の老舗の菓子屋に後妻に来たところから、彼のことを「二号の子」と呼んだ。そのくせ、店の菓子を内緒に持って来させた。井手下は沖山の意を少しでも迎えるために、せっせと貢ぎ物をした。
沖山は貢ぎ物をうけ取るだけうけ取って、相も変わらず苛めた。井手下の家が裕福で、彼の母が町内で評判の美人なのが気にいらないようであった。
小学校五年のころ、沖山の子分が、呼びに来た。行けば苛められることはわかっているが、行かなければもっとひどい目にあう。おっかなびっくり子分の後に尾《つ》いて行くと、子分が「ここからはおまえが先に行け」と言った。なにげなく歩いていくと深い落とし穴に落ちた。
わっと喚声がおきて、沖山と子分の顔が落とし穴の上から覗《のぞ》いた。彼らは穴の周縁に円陣をつくって、井手下に向かっていっせいに小便を浴びせかけた。
止めてくれと泣きながら頼む井手下の涙を小便が洗い流し、口の中に流れ込んだ。だが井手下が沖山を終生の怨敵《おんてき》に据えたのは、この事件ではない。悪質ではあるが、この程度のいたずらは悪童がよくやることである。
決定的な事件は中学の卒業式のときに起きた。この年の卒業式は番長沖山を中心に不穏な企《たくら》みがあるようなので、一時中止の方向に動いた。しかし、父兄の中から、一部不良生徒を恐れて、一生に一度の卒業式を取り止めるのは可哀そうだという強い意見が出されて、例年どおり挙行されることになった。
憂慮されたような事態もなく、卒業式は無事に終わった。沖山一派もしごく神妙に卒業証書をうけ取り、教師や関係者をホッとさせた。
井手下にとってはまことに晴れ晴れとした卒業式であった。彼は高校に進学し、沖山は父親に従《つ》いて大工の見習いになる。小、中学校とつづいた陰惨ないびりからようやく解放されるのだ。長い間、頭上を被っていた黒雲が晴れて、青空の下へ出たような気分であった。
出席してくれた盛装の母は、申し分なく美しく、全出席者の注目を集めた。それは誇らしかった。
式後、卒業生と父兄は三々五々帰途についた。机を並べて三年間、いや小学校仲間は全員同じ中学に来たので、九年間共に勉強した卒業生たちは、今日かぎり八方へ散って行く。
しかし井手下には仲間たちと別れる感傷はない。ただ沖山と別れられるのが無性に嬉しかった。
「井手下君」
突然、背後から呼びかけられた。振り返ると沖山の子分の一人が、愛想笑いを浮かべて立っている。井手下が身構えると、
「沖山君がきみのお母さんに一言お詫びを言いたいって待っているよ」
「お詫びだって?」
「きみにずいぶんひどい仕打ちをしたけど、決してきみが嫌いでやったんじゃないんだって。仲が好すぎて反対の行動に出ちゃったんだそうだよ。今日をはずすと、なかなか会う機会がないから、ぜひきみのお母さんにお詫びしたいって雨天体操場の裏で待っている」
井手下は、なんとなくいやな予感がしたが、母が、
「沖山君がそう言ってるのなら、ちょっと行ってあげましょうよ。みなさんとも今日でお別れなんだから」と言ったので、断われなくなった。今日は母が付いているから変なことはしないだろうという楽観もあった。
雨天体操場の裏には沖山をはじめとして、その親衛隊が十人ほど待っていた。何人かは煙草を咥《くわ》えていたし、アルコールの臭いが漂っていた。荒れた、いやな雰囲気だったが、いまさら引き返せない。
「井手下君のお母さん、いらっしゃい」
沖山が愛想笑いを浮かべた目を向けた。
「とうとう卒業だわね。改めておめでとうを言わせていただくわ」
澄子も自分の息子が沖山にひどい目にあっていることは知っている。しかし先方からこれまでのことを詫びたいと殊勝に申し出られて悪い気分ではなかった。要するに子供のけんかであり、長ずれば懐かしい想い出になる。
「ぼくのような不良が卒業できたのもみなさんのおかげですよ。今日はその御礼を一言言いたかったのです」
沖山は猫なで声で言った。
「沖山君が頑張ったからよ」
「お母さんはきれいですね。特に今日はきれいだ」
「まあ、お世辞がお上手だこと」
「ぼくはお世辞なんか言いませんよ。着物もきれいです。ぼくのおふくろとは月とスッポンだ。おふくろと比べるのがまちがっている。あんなの女じゃない」
「自分のお母さんのことをそんなふうに言ってはいけないわ」
「あの女はぼくを産んだというだけです。ぼくが腹を空《す》かせて泣いていても、オッパイ一つ飲ませてくれなかったんです」
「そんなはずはないわ」
「本当です。おやじが時々モチやオカユをくれて生きのびたんです。だから、ぼくはおふくろのオッパイに餓《う》えているんです」
「きっと事情があったのよ。子供の可愛くない母親なんていないわ」
「お母さんは井手下君にオッパイをやったんでしょう」
「子供のころは、どの母親もそうするわよ」
「ぼくにもくれませんか」
「え?」
瞬間、沖山の言葉の意味をとりそこなって、澄子はキョトンとした。
「お母さんのオッパイをぼくにも少し吸わせてくれませんか」
「なに言ってるのよ。沖山君って冗談が好きね」
「本気ですよ。ぼくはお母さんのオッパイが吸いたい」
沖山は口辺にうす笑いを刻んだまま、ジリッと近寄ってきた。その目はすでにおとなの欲望によって塗りこめられている。母子が危険を察知したときは遅すぎた。沖山の子分たちが退路を断っていた。遠方に見張りまで立て、雨天体操場の裏手に人を近づけないようにしている。
「止めろ! 止めてくれ。母さんになにをするつもりだ」
井手下は凶暴な沖山グループに囲まれて、母を精一杯に庇《かば》った。そのどの一人に相対してもかなわないが、いま母を護る者は自分以外にいない。
「坊やは引っこんでいな」
沖山が凄んだ声で言った。動作や表情はすでにいっぱしのヤクザであった。
「沖山君おねがいだ。母さんには乱暴しないでくれ」
戦って勝てる相手ではないと悟って、井手下は懇願した。そんな懇願がどの程度役立つものでもないことを知っていながら、この際、そうする以外に方法がない。
「だれが乱暴すると言った。ちょっとパイオツを吸わせてもらうだけだ」
沖山の目が細まり、唇の一方の端が釣り上がった。彼が行動をおこす前兆である。
「沖山君、子供のくせにそんなことをしてただですむとおもっているの」
澄子が言ったのが、導火線に火を点じた。
「子供かおとなか、その証拠を見せてやろう」
子分たちがいっせいにおどりかかってきた。
「止めろ」
母親の前に立ちふさがった井手下は、次の瞬間、瞼《まぶた》に火花が散って、意識が遠くなった。
遠方からしきりに呼びかける声に、井手下の闇に沈んだ意識は引き戻された。気がつくと雨天体操場の裏手の草地の上に横たえられ、母が心配そうに覗き込んでいた。
気を失っていた時間は、ほんのわずかだったらしい。沖山グループの姿はもう見えない。
「あっ、母さん!」
愕然《がくぜん》としてはね起きようとした井手下は、頭に鋭い痛みをおぼえてうめいた。
「無理しちゃだめよ。大したことはないとおもうけど、頭にコブができているわ」
母は、優しくコブのあたりを撫《な》でた。
「母さんは大丈夫?」
井手下は自分のことより母の身が心配だった。真っ先に意識を失い、母を護るために指一本の防禦《ぼうぎよ》もしてやれなかった自分の腑甲斐《ふがい》なさが口惜《くや》しい。
「私は大丈夫よ。あなたが気を失ったので、みんなびっくりして逃げてしまったわ」
母は言ったが、その衣類の乱れや汚れが、通り過ぎた嵐の尋常でなかったことを物語っている。
「ひどいやつらだ。すぐ警察に訴えてやる」
井手下は母に支えられてようやく立ち上がると、息まいた。彼らはすでに先生にも御しきれない悪《わる》になっている。
「保夫、待って」
母が改まった声を出した。
「警察に届ける必要はないわ」
「どうして? あんなひどい目にあったのに」
「あの子たち、母さんにはべつになにもしなかったのよ。おまえの頭を撲《なぐ》ったのはひどいけど、ちょっとコブがでたくらいだし、男の子だったらそのくらいのけんかはよくするでしょ。あの子たちがこれからという矢先に、警察沙汰にしたら可哀そうだわ」
「あんなやつらに同情することはない。警察に訴えて刑務所に入れてやるんだ」
「ひどい人たちだけど、よく考えてやってちょうだい。もし訴えたら、母さんだっていろいろ調べられるのよ。母さんは警察なんかに行きたくないわ」
母親のその言葉で、井手下はほぼ正確に事情を悟った。要するに母は表沙汰にされたくないのだ。父から器量をかわれて後妻に来たので、婚家での立場はそれほど強くない。舅《しゆうと》夫婦もまだ元気で店の経営の実権を握っている。
そんなとき、息子の同窓の不良どもに寄ってたかって嬲《なぶ》り物にされたと知れたら、母は好奇ともの笑いの的にされる。老舗だけに嫁としての母の位置にどう影響するかわからない。
母が事件を隠したがるということは、沖山一味が母に加えた仕打ちの内容を暗示するものであった。
井手下はうなずいた。母の保身のために、卒業式の後に起きた事件は、自分の胸の内に封じこめよう。だがそれは屈辱を晴らすことなく、胸のしこりとして飲み込んだことである。いつの日かそれを晴らさないかぎり、たとえ自分の体が天寿を全うして土に還ろうとも、しこりは異物となって地上に残るだろう。
いつ、いかなる方法で復讐《ふくしゆう》するかわからないが、必ず復讐してやる。
沖山に対する怨念《おんねん》は、絶対に歳月の経過によって風化させない。その怨念が、井手下のその後の人生の原点になった。
沖山はその後間もなく、父の仕事を嫌って家を飛び出し、どこかの暴力団のチンピラヤクザになったと聞いた。もともと虚栄心の強い男で、金と女と虚名がいっきょに得られるヤクザになるべき素地があったのである。
沖山は、もち前の度胸と悪に長《た》けた才能によってヤクザの世界で着実に地歩を固めているようであった。
「お父さんの写真が新聞に出てるよ」
その朝、黙々とトーストをコーヒーで嚥《の》み下している万波に武が言った。
「お父さんの写真が新聞に出るはずないじゃないか。さあそんなことをしていると遅刻するぞ」
万波は自分より先に新聞を覗き込んでいる子供を急《せ》かした。
「お父さんにまちがいないよ。ほら右の目の縁にあるホクロだってうつっているよ」
子供は言い募った。
「目の縁のホクロだって?」
万波は、いつのころからか右目尻にホクロができて、それが年を経るごとに少しずつ大きくなるようなので気にしていたのである。
「どれ、見せてごらん」
万波は、子供の手から新聞を取って、あっと目を剥《む》いた。そこにはまさしく自分の正面の写真がある。
「ね、お父さんだろう」
武が得意げに言った。なぜ自分の顔写真が新聞に載っているのか。それも社会面の最も目立つスペースに。万波はその写真に付けられた記事を読んで、ますます驚愕《きようがく》した。
――広域組織暴力団組長|狙撃《そげき》さる――の大見出しの下に、 九月十七日夜十一時ごろ、日本最大の組織暴力団加島組組長|加島政知《かしままさとも》(48)が新宿のナイトクラブ「アカプルコ」で子分たちとフロアショーを見物中、背後から拳銃で射たれて重傷を負ったと報じている。なお狙撃犯人は、加島組が日本制覇を狙《ねら》って行く先々でぶつかっている大東組傘下の帝国義人団の幹部沖山伸次(34)で、沖山は加島組長が「アカプルコ」によく来ることを知り、五日間連続同店に通って遂に昨夜コルトスペシャル38口径二弾を加島組長の体に射ち込んだ。加島組長は一か月の重傷だが、弾丸が急所をはずれたので生命に別状はない。沖山はその場の混乱に乗じて逃れ去ったが、首領《ドン》を射たれた加島組の大東組に対する凄まじい報復が予想される。警察では沖山を殺人未遂として全国指名手配すると同時に、報復防止のために厳重な警戒体制をしいた――以上が記事の大要である。
そして加島組長の顔写真の下に、狙撃犯人沖山伸次の写真が載っていたのである。
「やっぱりお父さんだ。すげえなあ、新聞に写真が出るんだから」
武は、記事の内容も知らず、父親を見直したような目で見た。
「騒々しいわねえ。あら武、まだ学校へ行かないの。遅れるわよ」
加枝があくびをしながら寝室から出て来た。
彼女も勤めに出るようになったので、以前のように朝寝坊はできなくなったが、それでも起きてくるのは、いちばん遅い。
「お父さんの写真が新聞に出てるんだよ」
「ふん、この人が新聞に出るはずないじゃないの。悪いことでもしないかぎり」
加枝は寝臭い息を吐きながら、椅子《いす》にデンと坐《すわ》った。これがホテルのロビーで色っぽい目をして男を迎えた同じ女だろうかと、万波は、自分が目撃したことでありながら、信じられないおもいであった。
万波は、黙って加枝の前に新聞を差し出した。興味なさそうに向けた加枝の目が見開かれた。
「あら本当だわ。あなた、これはいったいどうしたのよ」
「記事を読んでごらん」
加枝は、子供が学校へ出かけて行く気配もうわの空に聞きすごして新聞を読むと、
「まあ驚いたわ。あなたが加島組組長を狙撃した犯人と瓜《うり》二つだなんて、他人の空似ってあるのねえ」
と感じ入ったように長い息を吐いた。
「感心している場合じゃないよ。おれは狙撃犯にそっくりなんだぜ」
「似ているだけだからべつにかまわないじゃないの。あなたが狙ったわけじゃないんだから」
「そんな他人事みたいに言わないでくれ。おまえや武までがまちがえたんだ。おれを加島組の連中が見つけたら、問答無用で仕返しをしてくるよ。とにかく親分を射たれて怒り狂っているんだからなにをするかわからない」
「あらそうだわ。私あなたの巻き添えになるなんてごめんだわ」
加枝の発想は常に自分中心である。
「だから巻き添えにならないようにいっしょに考えてくれよ。この際どうしたらいいか」
「警察に保護を頼むのよ。加島組に対抗できるのは、警察しかないわ」
「似ているという理由だけで保護してくれるか」
「留置場に入れてもらうのよ。独房に入っていれば、加島組も手を出せないわよ」
「なにも悪いことをしていないのに、留置場へ入れと言うのか。沖山はいつ捕まるかわからないんだぞ」
「命を狙われるよりいいでしょ。私や武のことも考えてよ。あなたがここにいるかぎり、いつ殴り込みをかけられるかわからないわ」
加枝は、おびえていた。万波の恐怖が完全に伝染している。万波が適当な処置を講じないかぎり、サトへ帰るとまで言いだした。加枝が帰るのはいっこうに構わないが、武が可哀そうである。すでにあってなきが如《ごと》き母親だが、やはり母は共にいたほうが子供にとって幸せである。
万波は、警察へ出向いた。警察でも彼の処置に当惑した。たしかに沖山に似てはいるが、その相似だけでまちがい報復を恐れて留置場に保護≠キるというのは前代未聞である。
しかし、他人の空似とは言え、見れば見るほどよく似ていた。全国指名手配用に作製したポスターの顔形、体つき、髪型、ホクロの位置や大きさまでがそっくりである。保護を求められた警察すら、本物の沖山が自首して来たような気がしてならない。沖山がそんなトリックを使って逃げ込んで来たのではないかというおもいを捨てきれない。
万波を加島組が見つければ、待ったなしに襲いかかることは必至である。襲った後で人ちがいとわかっても遅い。
「我々から加島組の方へ人ちがいしないようにあなたのことを伝えておきましょう。なるべく出歩かないように。我々もそれとなく監視しておりますから、今日のところはお引き取りください」
警察はとりあえずそう言って万波を帰す以外になかった。加島組には、沖山と瓜二つの人間がいることを知らせて注意したが、系列団体約五百二十、構成員一万六千名という大組織の末端まで徹底させることは不可能である。徹底させたとしても、見分けられないほど似ているのであるから、どうにもならない。
報復前にいちいちあなたは本物の沖山かなどと確認はできない。
万波には沖山が捕まるまでいちおう護衛を付けることにしたが、一万六千名の復讐に燃え狂った命知らずを向こうにまわしてどれほどのガードができるものでもない。
「あなたって人は、本当にどこまでもドジなのね。似るにことをかいて、加島組の組長を狙った犯人と瓜二つだなんて、どうせ似るならヤクザ映画のスターに似てよ」
加枝は、口汚なく罵《ののし》った。そして刑事が万波の身辺を交代で護衛しているのを知ると、「私、恐ろしくてとてもあなたといっしょに住んでいられないわ。当分サトに帰ります。武は私が連れて行くわ。少し早起きすれば、サトから通学させられるわ」と子供を連れて家を出てしまった。
万波は一人取り残された。万波家に対する意外な波及も知らぬげに、地下に潜った沖山の行方は杳《よう》として知れなかった。警察と加島組の必死の捜索を尻目に、沖山はコソとの気配もたてない。
警察の権威にかけても、沖山は加島組の手に渡してはならない。また加島組としては、法の裁きをうけさせる前に組の掟《おきて》によって、処刑しなければならない。法律に頼ったなまぬるい裁きではドンを襲われた加島組の面目は回復されない。沖山の最後の血の一滴までも絞り出すような凄惨な私刑にかけなければ、面目よりもまず、この煮えたぎる胸の内がおさまらない。おそらく沖山は大東組が、組織の全力を挙げてかくまっているのだろう。沖山を守り抜くことに大東組の面子《メンツ》がかかっている。となるとこの結着は長引く。
そうこうするうちに、警察が恐れていた事態が発生した。加島政知が狙撃されてちょうど一か月後の十月十七日午後六時三十分ごろ、大阪市東成区中道本通一丁目のパチンコ店「パチンコ道場」からすぐ近くのアパートに住んでいる大東組系小熊一家の若者頭補佐松浦昌男が外へ出ようとしたところを、表に待ち伏せていた二人連れの男に射たれた。発射された弾丸は二発で、一発は心臓部を貫通して、松浦は即死に近い状態で死んだ。
ちょうど夕方の退《ひ》け時で、歩道にも通行人が大勢歩いており、パチンコ店には約五十人の客がいた。犯人二人はそのまま駅の方角へ向かって逃げ去ったが、咄嗟《とつさ》の間の出来事で目撃者も茫然《ぼうぜん》として立ちすくんでいた。松浦には妻と、幼稚園に行っている四歳の男の子がいて、数日前からどうもだれかに尾《つ》けられているような気がすると妻に漏らしていたという。
これを皮切りに、十月二十五日には、京都市内の大東組傘下坪内一家の事務所にダイナマイトが投げ込まれて、居合わせた組員三名が死傷するという事件が起きた。
警察の必死の阻止作戦を尻目に、加島組が報復の火蓋《ひぶた》を切ったのである。報復が激しくなるほど、万波の危険も増幅してくる。もはや血に狂った加島組の殺し屋には、見境はない。無辜《むこ》の市民を巻き添えにするおそれのあるところで、次々に報復処置に出ている。
沖山が現われないかぎり、報復処置を止めないというデモンストレーションでもあった。凄まじい報復がつづけば、必ず大東組内部に恐慌がおきて、内通者が出る。加島組はそれを狙っているようであった。そのためには報復は熾烈《しれつ》であるほど効果がある。
このころ万波は、周囲の自分を見る目が微妙に変わってきているのに気がついた。これまでは取るに足らない無名の一市民だったのが、ある種の畏怖《いふ》をもって見つめられるようになったのである。
「万波さん、凄いねえ。沖山とそっくりだなんて」
「加島組が血眼になって探しているというのに、よくそんな平気な顔をしていられるね」
「きっと沖山以上に度胸があるんだな」
「おれも一度でいいから、護衛をつけて歩いてみたいなあ」
「案外まちがえて狙っているのだが、隙がなくて手が出せないんじゃないかな」
「とにかく凄い貫禄だよ。うっかり話もできない感じだ」
周囲の言葉に世辞はなかった。なにものでもなかった万波が、沖山に似ていたところから、何者かになりつつあった。会社でも見る目が変わった。ホテルの雑役夫などは社員扱いをうけなかったのが、なんとなく恐持《こわも》てするようになった。日ごろは雲の上にいた重役たちまでが親しげに声をかけるようになった。
悪い気分ではなかった。
会社の御用組合ではあるが、ホテルには互助会という労働組合がある。これの執行委員に選ばれたのも、沖山に似ていたせいである。万波の発言は、そこでも重んじられた。万波の背後には大東組がひかえているかの如き錯覚が、人々にあるようである。もはやドジ万どころではなかった。
人々の錯覚が万波に逆輸入された。加島組の必死の追及を悠然と躱《かわ》して、このホテルに一時|草鞋《わらじ》を脱いでいるような気分になった。
恐怖が周囲に影響されて徐々に化学変化をおこした。加島組なにするものぞ、世間は自分の味方だ。たった一人で日本最大の組織暴力団加島組に挑《いど》み、警察と同組の必死の追及を尻目に気配さえつかませない。
万波は、自分が沖山その人になったかのように錯覚し、いっぱしの英雄気取りになった。まちがい報復を防ぐために変えていた髪型も元に戻し、服装も故意にヤクザっぽくした。これまでは、できるだけ人目を避けるようにしていたのが、積極的に盛り場へ出歩くようになった。警察は何度も警告したが、禁止はできない。
バーやスナックやパチンコ屋などで、従業員が万波と目が合い、ハッとしたような表情をされると得意であった。映画やテレビでヤクザの動作を研究し、それを真似た。懐中になにも入れていないのに、いかにも重大な凶器でも忍ばせているかのように、肩を落とし、右手をおもわせぶりに差し入れて歩いた。
万波が変なきっかけから人生に対して自信を取り戻しかけたとき、彼はふたたびロビーの隅に加枝の姿を見かけた。
(また男と待ち合わせてやがるな)
万波に監視されているとも知らず、加枝は男とこれからもつ悦楽の時間の期待を抑えきれないようである。全身に発情が内攻して、弾み立っている。それが夫である万波にはわかる。月に一、二度は自分の欲望から、万波を需《もと》めることがあるが、そんなとき加枝の肌は絖《ぬめ》のように艶《つや》を帯びる。
(別居したのを幸いに、こうして男と忍び逢っていやがったんだな)
夫のためではなく、他の男に提供するためにその肉置《ししお》きを最も美味な状態に用意した妻に、万波の胸は沸騰してきた。
今日こそは許さない。おれはいままでのおれとはちがうのだ。万波は、怒りを抑えて、男の現われるのをじっと待った。間もなく見覚えのある男がやって来た。二人は目顔で合図を交わしてフロントへ行った。
キイをうけ取ると、二人は部屋に直行した。彼らがエレベーターに乗ったのを確かめてから、万波は、チェックインを受けつけたフロント係の所へ行って、
「いまのアベック、私の知り合いに似ていたようなんだが、ルームナンバーをおしえてくれませんか」
「どうやらワケありのお二人のようですよ。あまり苛《いじ》めないでくださいね」
フロント係は気軽にナンバーをおしえてくれた。以前なら決してこうはいかなかっただろう。これも「沖山」のおかげである。次に二人の部屋の階のフロアステーションへ行くと、メードキャプテンに事情を打ち明けた。
「まあ、奥さんが他の男と!」
キャプテンは、目を剥《む》いた。
「不倫の現場を押えたいのですが、合鍵を貸していただけませんか。あなたには絶対ご迷惑をかけません」
万波に頼み込まれて、一瞬|躊躇《ちゆうちよ》したキャプテンも、
「奥さんが浮気してるとなれば、話はべつだわね。それにそういうお客は宿泊約款の違反だから」と首から鎖でぶら下げていたフロアパスキイをはずしてくれた。
「有難う。恩に着ます」
「お腹立ちでしょうけれど、ホテルの中ではあまり派手にやらないでね」
キャプテンは釘を刺した。万波はころ合いを計ってパスキイで彼らの部屋に侵《はい》った。ベッドの上でもつれ合っていた二人は、突然の闖入者《ちんにゆうしや》に愕然《がくぜん》とした。
「まあ、あなた!」
男に貫かれたままのあられもない姿勢で、加枝は闖入者の正体を知って二重のショックに打ちのめされた。
「けっこうな眺めじゃないか。記念撮影でもするか、動くんじゃない! そのままにしているんだ」
万波はベッドを見下ろす位置に立って冷然と言った。
「き、きみは何者だ! 人の部屋へいきなり侵入して来て。警察を呼ぶぞ」
男が、必死に虚勢を張った。
「私は、この女の夫だ。警察でもなんでも呼ぶがいい」
万波の言葉に男の顔色が変わった。年齢は五十前後、やや太めながら栄養の行き届いた皮膚はてらてらと輝いている。いかにも女の脂を吸って栄養としているような卑しいたくましさのある男の体であった。女遊びに長《た》けた男なのであろう。
「顔色が変わったね。表沙汰にされると困るような位置にいるらしいな」
「きみ、早まってはいけない。ぼくはこの人にご主人がいることを知らなかったんだよ」
男は背中に凶器でも突きつけられたと勘ちがいしたらしい。
「なにも早まってはいない。こんな女でよかったら、熨斗《のし》をつけて差し上げてもいい。私は万波利行。あんたの名前は」
「おねがいだ。内聞にして欲しい、きみの好きなようにするから、名前を出すのだけは許してくれ。ほんのデキ心の浮気なんだ」
男は加枝の胯間《こかん》で動くに動けず、ぶざまな姿勢で哀訴した。
「まあひどい! いまの奥さんと別れて私と結婚してもいいとおっしゃったくせに」
男の体の下からおもわぬ異議が出た。男はますますうろたえて、
「きみはそんな言葉を信じたのか。きみなんかにこれっぽっちの興味もない。ただ道具を借りただけだ」
「ひどい言葉だわ。だったら私も言わせていただくわよ。いまの奥さんには一片の愛情もない。単に同居している女類にすぎないと言ったのは、どこのだれ? その言葉をそのまま奥さんに聞かせてあげようかしら」
「きみって女は!」
「あんたこそなによ」
万波の存在を忘れたかのように二人は上下に折り重なった姿勢で、たがいに罵《ののし》り合った。その間に万波は、バスルームへ入ると屑入《トラツシユ》れに水を充たした。ベッドのかたわらに戻るなり、二人の頭上から勢いよく浴びせかけた。盛大な悲鳴をあげて二匹の犬のように身体を離した二人を尻目に、万波は部屋から出た。胸のしこりがすっかり除《と》れたような爽快《そうかい》な気分であった。
それから間もなく、一つの幸運が万波に舞い込んだ。あるレコード店でヤクザ映画の主題歌のレコードを買ったとき、その歌手のリサイタル招待券が当たり、さらにそのリサイタルで、抽選によってヨーロッパデラックス一周旅行に招待されたのである。
忙しかったり、都合が悪くて行けない者には一周旅行の費用五十万円があたえられた。万波はもちろん金を希望した。万波はここに自由に遣える金を五十万円得たのである。それは生まれて初めて得た「自由なる大金」であった。
万波は、この金で冒険≠おもいたった。いくら沖山に似ていたところで、警察の護衛付きではいかさない。護衛なしで加島組の追及を躱《かわ》してこそ、本当の英雄である。それは危険ではあるが、まさに生きている感触をあたえてくれる緊迫した時間になるにちがいない。
自分一人で、天下の加島組を向こうにまわす。彼は、その壮大な冒険の夢想に酔ってしまった。おもいたつと一日も早く実行したくなった。それには、まず警察の護衛を撒《ま》かなければならない。
万波は、密《ひそ》かに一週間の休暇を申請した。休暇は許可された。彼は五十万円を懐中にして旅行へ出た。長ドスこそ腰に差していないが、行方定めぬ旅烏になった心境である。
警察からは当分旅行などはしないようにと警告されていたが、自由を拘束されているわけではない。警察も、被疑者の見張りほど厳しくない。それに警察も、まさか万波が自分から護衛を撒いて危険の中へ飛び込んで行くとはおもってもいない。
万波が急に姿を消したので、警察は初めは加島組に連れ去られたのではないかと案じた。ホテルに問い合わせて、彼が一週間の休暇を取って旅行に出たと知って、ますます不安を募らせた。
「いったいどういうつもりなのか」
警察は理解に苦しんだ。警察の護衛下にあって辛うじて加島組の人ちがい報復が防がれているが、これが裸で地方へ飛び出したとなると、どんな事態が起きるかわからない。
しかし被疑者ではないので、全国指名手配の網を打つわけにはいかない。警察ははらはらしながら、万波が戻って来るのを待つ以外になかった。
加島組の勢力は本拠地の東京を中心に、東海、中部、関東、北陸方面に強く及んでいる。それに対して、大東組は、関西以西で強い。四国では勢力が拮抗《きつこう》し、東北地方は中立といったところである。
冒険旅行と言っても加島組の領土《テリトリー》は恐い。さりとて大東組の勢力範囲では、警察の護衛付きと大して変わりなく面白みがうすい。ということで万波は東北方面に行くことにした。こちらがあまり面白くなければ、四国へまわってみようとおもっていた。
こうして万波はF県の羽代《はじろ》市へ来た。彼なりに研究したところ、この羽代市は県都こそF市に譲ったものの、F県の経済、文化、交通の中心地であり、規模において県下一位である。大場|一成《いつせい》という地方ボスが市政を牛耳り、その一族が市の要所を固めている。言わば大場一族の私市のような地方都市であった。
この地には中戸《なかと》組という暴力団が根を下ろしているが、これが大場の傭兵《ようへい》のようなもので、大場資本を背景に勢力を振っている。警察も手が出せない。警察よりも強い組織力をもっている。そのため加島組も大東組も避けて通っているという土地柄であった。
ここならば加島組の手も及ぶまい。またヤクザが市政と警察と癒着しているような土地柄だから、ヤクザの社会的地位? も高いだろう。――と見込んでやって来た。
英雄♂ォ山の身代わりとして恐持てしたいのが目的であるから、ヤクザが幅をきかしている所でないと面白みがうすいのである。
羽代市一のホテルの最高級の部屋を、東京の勤め先を経由して予約してもらった。大物ヤクザが安い部屋に泊まったのでは、サマにならないからである。
羽代市へ来て、その地の大都市ぶりにびっくりした。駅前の賑《にぎ》わいと活気は新宿や渋谷のそれと変わりなく、ビジネスセンターには高層ビルが林立している。そのほとんどに大場資本の息がかかっている。これは地方都市と言うより、独立国であった。
駅に幟《のぼり》を立ててだれも迎えに来ていないのが不満であったが、ホテルにチェックインをして万波は機嫌を直した。年に数回しか占《ふさ》がらないような最高級の部屋を取った客ということで、ホテル側は下へもおかぬ扱いをした。
結局、金の力がそうさせているのだが、万波はそうは取らなかった。ここでも沖山の威光が効いているのだ。それが証拠に彼が眼光鋭く凝視しただけで、相手はすくみ上がり、平身低頭する。みんな自分を沖山だとおもっているにちがいない。
万波は、ホテルに荷物をおくと、街へ出た。盛り場を故意に肩|肘《ひじ》怒らせて歩いた。途中で何人もチンピラとすれちがった。目が合っても先方からはずして、道を譲った。中にはかなり大物らしい者もいた。しかし先方から脇へ寄った。この中立国≠ノも沖山の勇名は轟《とどろ》いているのだ。
パチンコ屋へ入った。あまりに玉が入りすぎてむしろ面白くなかった。映画館も覗いた。どうしたわけか、切符売嬢がお代はけっこうですと言って、指定席へ導いた。中戸組の幹部とまちがえただけなのだが、万波はますます図に乗った。
その夜ホテルの部屋におさまった万波はマッサージを呼んだ。膝《ひざ》上三十センチはありそうなミニスカートを穿《は》いた若い女だった。容姿は平凡だが、腰まわりや胸の曲線に若さの弾む色香がある。身体各部位をマッサージするために、女もさまざまな位置を取らなければならない。その度に故意か無意識か、万波がおもわず息を飲むような大胆で挑発的な姿勢を彼の視野の中で移動させた。
万波は、しだいに妙な気持ちにさせられてきた。これまでは沖山になり代わったような緊張で、欲望を意識しなかったが、考えてみれば、妻と別居してすでに三か月である。その間、女体にはまったく触れていない。男盛りの身体はきわめて健康である。
(これがいわゆるパンマというやつではないのか。わざと挑発しておれを誘っているのかもしれない)
「お客さんは、どんなお仕事?」
意馬心猿になった万波に、女が嫣然《えんぜん》と問いかけてきた。
「なんだとおもう」
万波はおもわせぶりに問い返した。
「さあ、まったく見当がつかないわ。まだお若いのに、こんな凄いお部屋にお一人でお泊まりになって」
「この部屋は凄いのかね」
「凄いわよ。このホテルで一番いいお部屋ですもの。ということは羽代で最高級のお部屋よ。よっぽど大物でなければ泊まらないわ」
「すると、ぼくは大物というわけだな」
「きっと大物なんでしょう。ねえおしえて」
「おしえたらなにかいいことがあるかい」
「あるかもしれなくってよ。うふふ」
女は、万波の微妙なあたりをマッサージしながら含み笑いをした。
「ぜひあって欲しいものだね。きみのマッサージが上手なものだから、おさまりがつかなくなってきた」
「あらあらお元気なこと。困っちゃうわ」
女はうすく紅潮した。言動に似合わず初心《うぶ》なようである。
「なにも困ることなんかないだろう。きみが面倒をみてくれればいい」
彼は、女の耳許にささやいた。あと一引きでこちらの網の中に入りそうな風情である。
「でもそんなつもりで来たんじゃないのよ」
「いまからそのつもりになればいいじゃないか」
万波は女の手をつかんだ。久しぶりの柔らかい若い女の感触である。
「まずお客様のお仕事、おしえて。それから考えることにするわ」
万波は値踏みをしているなとおもった。こちらの身分によって料金を決めるのだろう。
「実はね、忍びの旅でね」
「お忍び、するとご身分を隠してらっしゃるのね」
女の目が好奇と畏敬に輝いたようである。
「だれにも口外してはいけないよ」
「だれにも言わないわ」
「この顔、どこかで見たような気がしないかい」
万波は、スタンドの灯の中に顔を晒《さら》した。
「そうなのよ。さっきからどこかで見たようなお顔だとおもって考えていたんだけれど、おもいだせないの」
「実はね、ぼくはこれなんだ」
万波は、顎《あご》の下に指で線を引いた。だが女にはそのサインがわからないらしい。
「ヤクザなんだよ。ある事件で身体が忙しくなってね、こうして全国を渡り歩いている」
「まあヤクザですって」
女は一瞬、身を引くようにした。
「恐がらなくともいいよ。我々は堅気の人には手を出さない」
「そうよね。一般の人に威張るのは、たいてい末端のチンピラだわよね。でもこんな大きなお部屋に一人で泊まるお客さんは、親分なんでしょう」
「親分と言うほどじゃないが、幹部だよ。実は今日ここで会議を開いたんだ」
「どんな会議?」
「いまうちの組は敵対勢力と全面戦争に入っているんだ。敵の組長をおれが狙撃してね。敵はおれの行方を血眼になって探している。そのための対策会議さ」
「まあ恐ろしい。お客さんは中戸組の人?」
「いや中戸組とは特に関係ない。大東組だよ」
「大東組というと、この前、加島組の組長を狙った……」
「よく知っているじゃないか」
万波は鮨《すし》を勧めたい森の石松の心境になった。
「狙ったのは、大東組の沖山とかいう幹部だったけど……そう言えば、お客さんは……あっ」
万波の顔をしげしげと覗いていた女が、顔色を動かした。
「どうやら正体がバレたようだね」
万波は鷹揚《おうよう》に笑った。
「ま、まさか」
マッサージガールは、その顔を目のあたりにしても、すぐには信じられないらしい。
「そのまさかだよ。ぼくが沖山伸次だ」
「本当なの?」
「こんなこと嘘ついても仕方がないだろう」
「うわーっ凄いわ。ねえサインいただけるかしら」
「サインもいいけれど、さっきのおしえたらいいことがあるという話はどうなるんだい」
「サインくださったら、いいこといくらでもしたげるわよ。ねえお友達の分もサインくださる」
「そりゃあ構わないけど、なににするんだね」
悪い気はしなかったが、スター並みにサインをせがまれて万波は面喰《めんくら》っていた。
「せっかくだから色紙をもってくるわ。いいことはその後でゆっくり。ね、いいでしょ」
女はウインクをして、色紙を取りに出て行った。
内通した鍵《かぎ》
久連山夫婦は、新婚旅行を早々に切り上げて帰郷した。旅行をつづけられる雰囲気ではなかった。夫婦生活のスタートと同時に襲った悪夢のような事件は、夫婦をもはや立ち直れないほど打ちのめした。
初夜、夫の目の前で妻が犯される。三人の暴漢に不意を突かれ、抵抗するすべがなかったとは言え、それはあまりにも残酷な奇禍であった。
「あなた、私と離婚して」
清子は夫に泣いて頼んだ。
「なにを言いだすんだ。あれはおまえの責任ではない。不可抗力だったのだよ」
久連山は妻をなだめた。その言葉のそばから、彼女の犯された気配が耳許によみがえる。すすり泣きとうめき声、肉と肉の軋《きし》る音、耳をふさいでも記憶に刻まれた気配は消えない。
そしてあれは本当に不可抗力だったのか。命をかけて妻を守るために戦ったならば、たとえかなわぬまでもなんとかなったのではあるまいか。
自由を扼《やく》されていても噛みつくことはできた。相手の指一本爪一枚噛み切っても、劣情を封じられたかもしれない。それが恐怖に全身が麻痺して、妻が犯される間、一指の抵抗もできなかった。
夫として、男として自分の腑甲斐なさが恥ずかしく口惜しい。だがその後、なにごともなく夫婦生活を堆《つ》み重ねられれば、初夜の傷痕も風化していったはずである。忌まわしい傷は、一見癒着したように見えたカサブタの下に悪魔の種子を残していた。
旅行から帰って間もなく清子は妊娠の診断を下された。久連山が一級建築士の資格を取るまで共稼ぎをする予定になっていたので、夫婦は避妊をしていた。とすると、妊娠の原因は初夜の侵犯以外に考えられない。
たった一度の暴力による侵襲だったが、清子の健康な体は悪魔の種子を捉《とら》えてしまったのだ。
夫婦は、相談の上、人工中絶した。悪魔の種子は掻《か》き落とされた。だが、中絶後出血がなかなか止まらない。医師は子宮内にまだ組織が残っているのだろうと言って、ふたたび掻爬《そうは》した。それでも出血が止まらないので、掻爬を繰り返した。出血がつづくために貧血症状が強くなり、悪心《おしん》や吐きけがおきた。
様子がおかしいので、他の医者にみせたところ、妊娠時に子宮内にできた胎盤の組織が異常増殖して腫瘍《しゆよう》をつくり、他の器官に転移しているということであった。
直ちに入院して子宮|剔出《てきしゆつ》手術をうけると同時に、転移病巣に対して化学療法や放射線療法を行なった。だがすでに肺などにも飛び火しており、手遅れであった。
妻はあっけなく死んでしまった。あまりにあっけなくて、死んだのが信じられないおもいである。結婚していた期間より、婚前の交際期間のほうが長かった。
周囲は、悲しいだろうが、まだ若いのだから、いくらでも立ち直れると慰めてくれた。彼らは、妻が死んだ本当の原因を知らなかった。
茫然自失の時間がすぎて、徐々に自分を取り戻してくると、怒りがこみ上げてきた。妻を死に追いやったのは、まぎれもなく初夜の暴漢である。彼らが初夜の褥《しとね》を蹂躙《じゆうりん》しなかったならば、いまごろは信頼と愛情に充ちた新婚の家庭で幸福の設計をしていたにちがいない。
(あいつらがそれを根こそぎ奪い取っていったのだ)
――復讐してやらなければならない――
それは妻を死に追いやった当の相手に対する復讐だけではない。妻を守れなかった自分の腑甲斐なさに対する復讐でもある。
具体的にどういう復讐をするのか、まだわからないが、それをしないかぎり男として生きている価値がないような気がした。
敵の正体の手がかりはあった。三人組は、人ちがいをして襲って来た。久連山夫婦が提供された部屋は、当夜キャンセルされたものであった。三人組はその取消し客を狙って来たのである。取消し客の反対分子の中に目指す敵はいる。復讐さるべき敵は三人組のリーダーである。あとの二人はその手下で、清子を犯していない。不幸中の幸いにも、あのときパトカーの気配を聞いて、二人は未遂≠フまま逃走した。
清子が表沙汰にしないでくれと懇願したものだから追及しそびれてしまったが、「松前」という名札をつけたフロント係を問い糺《ただ》せば、取消し客の身許がわかるだろう。
多少の蓄えはあったので、当分働かなくとも生活には困らない。所長に、おもうところがあって退職したいと告げると、
「奥さんを失ってまいっているのはわかるが、もしまたこちらで働きたいという気になったら、いつでも戻って来たまえ。きみのための席は空けておくからね」と言ってくれた。
久連山は、退職し、妻との新生活のために借りたアパートも解約した。とりあえず東京へ出るつもりである。この町にいるかぎり、妻の亡霊から逃れられない。新しい土地へ行って心機一転することにより、復讐が忘れられれば、それはそれでいいとおもった。
東京のホテルに必要最小限の事情を話して協力を求めると、それならと予約の記録を調べてくれた。あの夜、久連山の部屋を直前にキャンセルしたのは、「神島英知」という人物である。三人組は「かしま」と言っていたが、神島の聞きちがいであったのか。予約は「菱井《ひしい》商事総務課」によって申込まれており、神島の宿泊に関するいっさいの費用を同社が負担することになっていた。
菱井商事と言えば、日本有数の大財閥菱井グループの一環である。神島という人物が同ホテルに泊まるのは、その夜が初めてであったそうだ。ホテル側も菱井商事からの予約ということで安心していた。
三人組がなぜ、菱井商事関係の人物を狙ったのかわからない。
追及の糸は、断たれた。素人探偵には、もはやなすすべがなかった。
気負い込んで出て来たものの、あっさりと挫折《ざせつ》してしまった。そんなときに、新聞に見おぼえのある顔を見出して久連山は愕然《がくぜん》とした。顴骨《かんこつ》が張り額の狭い顔に、刃物のような細い目が光っている。右の目尻にホクロが目立つ。忘れようとしても忘れられない顔が社会面の最も目立つスペースに載っている。
妻を犯した犯人の顔だった。あいつがなぜ?――不審より先に記事を貪《むさぼ》り読んだ久連山は、復讐の相手の身許を初めて知ったのである。
「沖山伸次、大東組の幹部か」
――ヤクザが、なぜ菱井商事の関係者を狙ったのか?――
神|島《ヽ》英|知《ヽ》と加|島《ヽ》政|知《ヽ》の名前が重なり合った。もしかすると、沖山が狙撃した加島政知が久連山の新婚旅行の初夜の部屋に神島英知の名義で泊まる予定になっていたのではあるまいか。加島は不穏な形勢をいち早く察知して直前にキャンセルした。自分たちは加島の身代わりに狙われたのだ。目指す獲物がいなかった腹いせに、沖山は清子を犯した。あのとき問答無用で殺されても仕方がなかったのである。清子はヤクザ戦争の犠牲山羊《スケープゴート》にされたのだ。
だが神島と加島が同一人物とすると、名門菱井商事がなぜ、日本最大の暴力団組長のホテル代金いっさいを賄おうとしたのか。菱井商事と加島組の間にはなにかつながりがあるのか?
そんなことを菱井商事に聞いても一笑に付されるだけである。
敵の身許はわかったものの、沖山はそのまま地下に潜ってしまった。警察と加島組の必死の追跡を見事に躱《かわ》してコソとの気配もたてない。あまりに見事な潜行ぶりなので、すでに人知れず殺されてしまったのではないかという臆測も出た。
そのうちに加島組の怒濤《どとう》のような反撃が始められた。これは、沖山をあぶり出すための作戦であると見られた。沖山はどこかに生きている。だがその行方は依然としてつかめない。
警察と加島組が全力をあげて追っているのでは、とても自分の出る幕はないと一度はあきらめたものの、沖山がどちらの手に落ちるにしても、その最後の場面をこの目で確かめたいとおもった。それをして初めて妻の無念を晴らしてやれる。
そんな時期にたまたま目に触れた週刊誌が沖山の行方を推理した特集をしており、「沖山を追っているものは必ずしも警察や加島組だけではなく、身内の大東組もその行方を必死に探している。なぜなら沖山が生きているかぎり大東組は絶えず加島組の熾烈《しれつ》な報復に晒《さら》されていなければならず、この際身内で密かに沖山を処刑して加島組に差し出したいところだろう。沖山としては身内も信用できなくなっている。すると彼が身を潜められる場所は中立地帯の東北方面である。特に別名大場市≠ニ呼ばれる羽代市は両派の影響をまったくうけない中戸組が大場資本を背景に強い勢力を張っているので、このあたりが潜伏個所としては最も可能性が大きい地域である」と結論を下していた。
久連山は、その記事を読んで羽代市へ来た。週刊誌の推理を鵜呑《うの》みにしたわけではないが、とりあえず他に頼るべきものがなかった。羽代市で彼は一人の若い女と知り合った。重代という二十二歳のマッサージ師である。
最初はホテルに呼んだのだが、意気投合した彼らは、そのまま同棲《どうせい》した。沖山の消息をつかむまでどのみち羽代へ滞在しなければならない久連山にとって、重代からの自分のアパートに来ていっしょに住まないかという誘いは、渡りに船であった。
男にとって身の回りの世話をしてくれる女は便利である。欲望の処理に愛は必要ない。久連山にしてみれば、重代はセックスの処理も引き受けてくれる無給の女中を雇ったようなものであった。
またとりあえず、重代の存在は、妻を失った後の久連山の心の空隙《くうげき》を充たしてくれたのである。
聞き上手の重代は、久連山の仇討ち道中≠面白がって、仇探しに協力すると言った。重代は市内のホテルや旅館に出入りしており、その方面の情報に詳しい。
久連山にとっては便利なアンテナになった。重代と同棲しながら二か月ほど沖山の行方を探したが、その消息をいっこうに聞かない。やっぱり週刊誌の推理などに頼るのではなかったとあきらめかけたとき、仕事に出ていた重代から電話がきた。
「久連山さん、来たわよ。沖山が」
重代は息を弾ませていた。
「えっ本当か」
探しあぐねた相手だが、すぐには信じられない。
「本当よ。本人が名乗ったし、顔が写真そっくりだわ。右の目尻にもホクロがあるわ」
「それじゃあ、まちがいないな。それでいまどこにいるんだ」
「グランドホテルよ。十階の二号室。ロイヤルスイートよ。すぐ来て。私がいる間、部屋のドアを少し開いておくわ」
「子分はいないのか」
「彼一人だけよ。裸でまったく無防備だわ。武器らしいものはなにももっていないわ」
「無防備なのは、きみがなんか変なことをさせたからじゃないのか」
「こんなときになに言ってんのよ。どうするの。来るの、来ないの? 私、抜け出して電話してるのよ。早く部屋へ帰らないと疑われちゃうわ。帰ったら変なことされちゃうかもしれない」
一瞬、沖山の凶悪な面構えが瞼《まぶた》をよぎった。相手は筋金入りのヤクザである。命のやり取りの修羅場を何度も踏んでいる。たとえ相手が素手でもかなうまい。まして沖山ほどのヤクザなら、身辺に必ず凶器を隠しているはずだ。とても勝ち目はない。
しかし、選択は許されなかった。いまをおいては、こんな機会は二度とないだろう。沖山が無防備な裸身をマッサージに委《ゆだ》ねている。ドアはロックされていない。子分もいない。当たって砕ければ、こちらにもチャンスがあるかもしれない。
「よし十分で行く。その間なんとか引きのばしておいてくれ」
久連山は決断した。
重代のアパートからグランドホテルまで指呼の距離である。マッサージ師は最も多くかかるお座敷≠フ近くに住んでいる。グランドホテルは彼女のよいお座敷であった。久連山が彼女と知り合ったのもこのホテルである。
ホテルへ急ぎながら、重代が彼のために気前よく開いてくれた肉体を、同様の寛容さで沖山に許しているのではないかと気が気ではなかった。
おたがいに拘束なし。どちらかが飽きたらすぐに別れるという約束で同棲を始めたのだが、いっしょに暮らすうちに愛着が深まる。妻のような愛情とまではいかないが、重代が他の男に貪《むさぼ》られる構図は許せない。まして相手が沖山となればなおさらである。
沖山は女に汚ない。こうしている間にも、重代を犯しているかもしれない。重代に「引きのばせ」と言ったのは、単に時間だけの意味合いではない。重代にその意味が通じたか。彼女の欠点は男に対して抵抗力が弱いことだ。
沖山に犯された重代の構図が、初夜を汚された妻の姿態と重なった。
「やっぱり色紙なかったわ。仕方がないから、ハンケチにしてちょうだい」
マッサージ師は、コケティッシュな笑いを浮かべて、部屋へ戻って来た。
「ずいぶん待たせたじゃないか。もう来ないかとおもったよ」
このまま待ちぼうけを食わされるのではないかとあきらめかけていた万波は、たちまち欲望をよみがえらせた目で女を見た。
「色紙を探していたのよ。ごめんなさいね」
女は万波にしなだれかかった。
「サインペンはあるのかい」
「あら、ペンもいるのね」
女は初めて気がついたように言った。
「馬鹿だな。ペンがなければ、サインできないじゃないか」
「お客さんはペンもっていらっしゃらない?」
「特別なペンならもっているがね」
「特別なペン?」
そこまでが限界だった。餓えた身に、肉置《ししお》き満点の女体を至近距離に近寄せて挑発されたのではたまったものではない。
「きみのこの体にサインしてやろう」
万波は、女の体につかみかかった。
「あら、お客様困るわ。私、そんなつもりはないのよ」
マッサージ師は万波の腕の中でもがいたが、断乎たる拒絶でなかったことが、彼を増長させた。
「いいじゃないか。こういうサインのほうがおたがいに記念になるよ」
「私、本当に困るのよ。あらいけないわ」
「そんなこと言わずにさ。ほらもうこんなになってるじゃないか。いまさらいやだなんて通らないよ」
「だから私、変なことされちゃうかもしれないって言ったのに。責任取らないから、もう」
女は、万波によってしだいに無防備の状態にされながら、半分独り言のようにつぶやいた。彼女はもともと無防備に近い状態で客に見《まみ》えていたのである。
「責任取らないって、どういうことだい」
「ううん、こちらのこと、うふふ」
「きみ、いい体してるね」
「灯を消してくれなくちゃいやよ」
女を剥《は》ぐのに夢中になっていた万波は、背中の方で空気が動いたような気がしたが、振り返る余裕がなかった。女はもはや裸同然になっている。だが最後に身につけたうすものをなかなか除《と》らせない。抵抗の仕方に年季が入っていて、決定的な拒絶はしないが、男の攻撃を実に巧みに躱す。堀はすべて埋め立てられたのに、本丸は柳に風で依然落ちない。万波は焦ってきた。
「そのまま動くな」
低く抑えた男の声が耳許でして、まったく無防備になった万波の首筋に冷たい金属の切っ先が当てられた。万波は愕然として身体を硬直させた。
「沖山伸次だな」
侵入者はゆっくりと確認した。
「そうだ。いや、ち、ちがう」
万波は、女の手前の見栄と、恐怖の間で逡巡《しゆんじゆん》した。大変な人ちがいをされていることがわかっていた。意識が沖山になっているので、実感がある。
女に言われて室内灯を消したので、床上灯《フツトライト》の微光が、床に漂っているだけである。侵入者の影が大きく壁にうつっている。それは凶悪なけもののようであった。
「沖山伸次が女をかかえていいザマじゃないか」
侵入者がのどの奥でうすく笑った。その声にぞっとするような殺気がこめられている。
「もう少し遅ければ、私やられちゃったわよ」
女はするりと万波の体の下から抜けて、素早く身仕舞いをした。このときになって万波は、侵入者がマッサージ師に手引きされたのを悟った。
「加島組の者か」
万波の声は無惨に震えていた。その確認が裏目に出た。
「やっぱり沖山だな」
切っ先に力がこめられた。皮膚の抵抗が辛うじて切っ先と拮抗《きつこう》しているきわどいところである。
「待て、待ってくれ。おれは沖山じゃない。これにはわけがあるんだ」
目覚めた恐怖が、幼稚な見栄を吹っ飛ばした。
「この期《ご》に及んでなにを言うか。おれの顔をよく見ろ。知らないとは言わせない」
侵入者は、室内灯を点《つ》けると、万波の顔を光の方へグイとねじ曲げた。
若い男の顔が憎悪をみなぎらせて万波をにらんでいる。まったく憶えのない顔であった。それもそのはず、相手は沖山の関《かか》わりである。
「おれはちがうんだ。沖山じゃない。万波利行というサラリーマンだ。東京のホテルに勤めている。問い合わせてもらえばすぐわかる」
「東京のホテルに勤めている人間が、なぜこんな所にいる。きさまのおかげでおれは妻を殺され、人生をめちゃめちゃにされたんだ。絶対に許さないぞ」
切っ先が少しずつ皮膚の下にめり込んで来る。もう表皮が破れたかもしれない。万波は生まれて初めて本当の恐怖というものを味わった。恐怖の余り、感覚が麻痺して痛みを感じない。のどがからからに乾き、目がかすんだ。声が震えて言葉がおもうように出てこない。相手の殺気は本物である。それが意志の力で抑えた口調の底から吹きつけて来るように放射されてくる。その殺意の放射をうけて全身の水分が蒸発してしまうようであった。
「あら、この人、もらしちゃったわよ」
女が頓狂《とんきよう》な声をあげた。
重代の声が、久連山の逆上に水をかけた。ベッドの上にぶざまな裸身を貼《は》りつけて身動きならない沖山≠ェ恐怖のあまり失禁した。これが単身、加島組組長を狙撃した沖山と同一人物なのだろうか。いかに不意を突かれたとは言え、一対一である。
修羅場を潜り抜けてきた筋金入りのヤクザにしては、あまりにもだらしがない。沖山≠フ下半身からベッドシーツの上に盛大な地図が描かれ、その面積は見る間に拡大している。
突然、重代がけたたましい笑い声をたてた。
「お客さん、あなた本当に沖山なの」
笑いよじれて目尻に涙をためながら、重代は聞いた。
「だからさっきからそうじゃないって言ってるだろう」
万波は、半ベソをかいて訴えた。
「だったら、なぜ沖山と名乗ったんだ」
久連山は警戒を解かずに追及した。
「沖山に瓜《うり》二つだとみなから言われたものだからついその気になってしまったんだ。恐持《こわも》てするのが、気分よかった」
「沖山ではないという証明ができるか」
「上衣のポケットに通勤定期券と身分証明書が入っている」
「動くな。重代確かめてみろ」
「たしかにあるわよ。万波利行、三十四歳、東京ロイヤルホテル勤務」
「見せてみろ」
久連山は、万波にナイフを擬したまま、身分証明書を覗《のぞ》き込んで、
「このホテルには記憶がある。ホテルとコネがあれば、こんなものはいくらでも偽造できる」
「嘘じゃないよ。そうだ、疑うなら東京の警察に電話して確かめてくれ。ここに電話番号がある。おれが沖山にそっくりだということで、加島組がまちがい報復をしないようにと護衛を付けてくれたんだ。この時間でもだれかいるはずだ」
「そのおまえが護衛なしで、なぜ羽代あたりをうろうろしている」
「冒険をしたくなったんだよ。恐持てしても警察の護衛付きではちっとも面白くない」
「馬鹿なやつだ」
まだ完全に疑いを解いたわけではないが、久連山は、万波が失禁をしたときから、ナイフの切っ先に力がこもらなくなっていた。
東京の警察に問い合わせて、偽沖山であることが確認された。万波は電話口に呼ばれて、相手からこっぴどく叱られた。
万波も、久連山が加島組の刺客ではないと悟った。刺客ならば、警察に問い合わせるはずがない。
「いったいあなたはだれなんだ。なぜ沖山を狙うのか」
恐怖をひとまずおさめた万波は質《たず》ねた。
「沖山に怨みを含む者だ。妻を殺されたんだ」
万波を見ていると、また沖山に対する怒りがこみ上げてきそうなので、久連山は横を向いて言った。
「羽代にいるあなたが、どうして沖山と関わりをもっているのかね。ここは加島組と大東組の戦争に中立のはずだが」
「おれはこの土地の住人じゃない。家内と東京へ新婚旅行に行ったとき、初夜のホテルで家内を沖山に犯されたんだ」
「ホテルで犯されたとは穏やかじゃないな。どこのホテルだ」
「あんたが勤めているホテルだった。身分証明書が偽造かもしれないと言ったのは、そのためだ」
「ホテルのドアを閉めてなかったのか」
「ちゃんと閉めていたよ」
「だったら忍び込めるはずがない。うちのホテルのルームキイは、めったに合鍵はつくれない」
「そのことはフロントに確かめた」
「それなら内部の者が手引きでもしないかぎり、侵入できないはずだがな」
「部内者が手引き?」
「ドアが完全に閉まっていて、合鍵がなければ内部の者がグルとしか考えられないだろう。どうだろう。これもなにかの縁かとおもう。さしつかえなかったら事情を聞かせてくれないか。同じホテルに勤めているから、なにか役に立つことがあるかもしれない」
万波の言葉には真実みがあった。久連山はすべてを万波に語った。
「やっぱり内部の者がグルだったとしか考えられない」
久連山の話を聞いて万波は独りうなずいた。
「合鍵を取り出せるホテル内部の人間というと、どんな部署があるんだ?」
「まずフロントだな」
「しかし、フロント係は、われわれが菱井商事のキャンセル直後の部屋に追い込まれたことを知っていたはずだ」
「フロント係は大勢いるからね。沖山と通じていたフロントが知らなかったのかもしれない。それから客室係、これはキャプテンが各フロアごとに共通するパスキイをもっている」
万波は、妻の不倫の現場を押えたとき、メードキャプテンの協力を得たことをおもいだした。
「いずれにしても、フロントかルーム係の協力なしには客室へ侵入できない。鍵を管理している人間は限られているから、簡単にわかるかもしれない。おれが帰ってから調べてみよう」
意外ななりゆきだった。久連山は、沖山の追跡を、沖山自身によって協力されているような気がしてならなかった。
万波の冒険旅行はわずか一泊で終わった。帰って来ると警察にこっぴどく叱られた。帰途も、東京の警察から依頼されて、羽代署の刑事が付いた。加島組の報復はますます加熱して、その後も死者三名、負傷者が四名出ている。
「子供の遊びじゃない。あんたにはこの険悪な情勢がわからんのか」
警察に言われるまでもなく、東京までの羽代署の護衛のものものしさを見て、改めて自分の冒険の無謀さが実感できた。
警察としては、万波を自宅に閉じこめておきたいところだが、身柄を拘束していない者にそれもできない。恐持ての実体がわかって、万波に恐怖がよみがえった。ヤクザ戦争が白熱化して、いつ報復の鉾先が自分に向けられるかわからない雲行である。
加島組の殺し屋が大挙して押し寄せて来たら、一人や二人の護衛はないに等しい。たとえ厚い護衛陣に囲まれても、銃弾は防げない。万波は防弾チョッキを着込みたいところであった。真剣にその借用を警察に申し込むと、
「今度はいやに臆病になったじゃないか。自宅と勤め先の間を往復しているかぎり、そんなに心配することはない。自分の生活範囲の中から飛び出さないことだね」
と笑われた。しかし、報復されてからではいくら人ちがいだと訴えても遅い。いま最も安全確実な身の保障は、沖山が捕まることである。警察、加島組、いずれの手に落ちてもいい。沖山が捕まりさえすれば、どんなに沖山に似ていたところでどうということはない。沖山の行方を探すことは、万波の安全にもつながる。彼はホテルへ帰ると、早速ルームキイの管理方法について調べた。
幸い、フロント係の一人が組合の書記をつとめていて、調べは簡単についた。それによると夜間の鍵の管理責任者はNM(ナイトマネジャー)であるが、勤務《シフト》に就いたスタッフ全員が予備キイを取り出すつもりなら取り出せるということである。記録を追うと、久連山がチェックインした当夜のフロント夜勤者は松前というチーフクラーク以下七名である。これにNMが加わる。
「ところがフロントを調べる必要がなくなった」
万波はとりあえず久連山の許《もと》に調査の中間報告に来た。
「なぜだい?」
「ロイヤルスイートは最上階にあるが、ここのフロアキャプテンがその後間もなく辞《や》めているんだ」
「辞めたって?!」
「最上階はスイートばかりで構成されているから、ベテランの男性キャプテンが付けられる。出原《いずはら》要一という勤続三十年のベテランが担当していたんだが、一身上の都合というだけで突然辞めてしまったんだ。ホテルでも得難いベテランだったので、極力慰留したそうだが翻意させられなかった。ところでこの男、ホテルを辞めた後どこへ行ったとおもう?」
万波はおもわせぶりに久連山の顔を覗いて、
「菱井商事だよ」
「菱井商事!」
「そうだよ。神島英知、おそらく加島政知の予約を申し込んで来た先だ。この符合、偶然とはおもえないな」
「しかし菱井商事は、予約をキャンセルしたんだよ」
「菱井商事は大企業だ。社内に対立グループがあったとしてもおかしくない。片や加島を支持し、一方はアンチ加島の……」
「ヤクザがなぜ菱井商事のような一流会社に関わっているんだ」
「関わっていても少しもおかしくない。企業の株主総会は、総会屋の温床だ。どこの会社でも叩《たた》けば埃《ほこり》は出てくる。だから総会屋に突っつかれないように、事前に金で根まわしをしておく。総会屋と通じていないことには、株主総会を運営できないと言ってもいい。最近、ヤクザがこの分野に資金源として目を着けて、乗り出して来たんだ」
さすが万波は、中どころながら商社で叩き上げただけのことはある。
「勤続三十年のホテルマンが辞めるについては、かなりのいい条件で誘われたんだろうな」
「菱井商事でどういう待遇をうけているかまだ知らないが、出原は間もなく定年だった。余生のことを考えたのだろう」
「余生と引き換えに自分を売ったのか」
「そういうことだろうね」
「菱井商事の内部でも加島組対大東組の戦争が行なわれているとなると、単なるヤクザ戦争ではすまされなくなる」
「そういうことだ。どうする、この出原という男を追ってみるかね」
「もちろんだよ」
「私にも手伝わせてくれ」
「あんたはもう仲間だ」
二人の間に奇妙な連帯が芽生えていた。妻を犯し、死に追いやった憎むべき人間に生き写しの男。万波を、久連山はどうしても好きになれない。その反面に万波も被害者なのだという意識がある。加島組と、大東組からも狙われているかもしれない万波の味方は、久連山一人しかいないのである。久連山にしても、企業の世界に明るい万波の存在は心強い。沖山を味方に付けて、沖山を探すような錯覚には、サディスティックな快感があった。
人身御供《ひとみごくう》のキャッチボール
井手下保夫は、事件の第一報とともに現場へ駆けつけた。加島組の組長が狙撃されたとは穏やかではない。狙ったのは、反対勢力、大東組の手の者らしいという。この両組は、全国の覇権を争って各所で抗争を繰り返してきている。
これが導火線になってヤクザ二大勢力の全面戦争に突入するかもしれない。
狙撃現場のナイトクラブには、血痕《けつこん》が飛び散り、椅子やテーブルが転倒し、来合わせていた客の遺留品が散乱して事件発生時の混乱を物語っている。
撃《う》たれた加島政知は、救急車によって直ちに病院に収容された。加島には五名の用心棒が付き添っていたが、まったく応戦する間のない出来事であった。
調べを進めるうちに、目撃者の証言によって狙撃者の輪郭が浮かび上がってきた。特徴をコンピューターにかけて身許が割れた。狙撃者の正体に、井手下は愕然とした。その人間こそ、彼が終生の怨敵として心に据えた沖山伸次であった。
沖山がヤクザになったと聞いて、井手下は警察へ入った。ヤクザに抵抗できる者は警察以外にない。警察に入ったからといって、組織の中で働く身であるから、沖山と対決できるとはかぎらない。しかし他の職業に就くよりも、そのチャンスは大きい。――と考えたのが動機である。いつの日か、沖山に見《まみ》えて、かつての怨《うら》みを晴らしてやる。その日のために法律と権力の側に付いた。理不尽な暴力の前に、法律と権力は最大の武器である。
井手下は、警察へ入ってからも、暴力団担当の刑事を志望した。志望が叶《かな》えられるように勤務に精励し、上司の覚えを目出度くするように立ちまわった。彼の狙いは効を奏して、新宿署、中野署を経由して本庁捜査四課、暴力団担当刑事になったのである。
その間、沖山もヤクザの世界で着実に地歩を固めていた。彼が所属した帝国義人団は、大東組の戦闘集団であり、加島組その他の反対勢力との抗争において、常に第一線に立って戦った。この若者頭補佐と言えば、斬込み隊長のようなものである。
命知らずの鉄砲弾がそろっている帝国義人団の中でも沖山伸次は「殺しの伸次」と言われて恐れられていた。
沖山が単身、加島政知を狙ったのは、彼の虚栄の性格をよく物語っている。常にスタンドプレーを狙い、目立ちたがっている。加島組の組長をたった一人で仕留めれば、この世界で一躍英雄になれる。そう踏んで狙ったのだ。
(今度は逃がさないぞ)
井手下は、胸中でほくそ笑んだ。その日のために井手下は、刑事の職性に泥を塗《まぶ》すこともいとわなかった。彼の職業倫理よりも、少年のころにうけた屈辱のほうが大きかった。それを晴らすためなら、男の魂を売ることも避けない。いや、すでにそれを売り渡していると言ってもよかった。
「沖山はどんなことがあってもわれわれの手で処刑しなければならん。井手下さん、あんたにつけ届けしているのもこんなときのためなんや。しっかり働いてもらわな困りますよってな」
安木重三は凄みをきかした声で言った。
「だから一生懸命やっているじゃないか。情報が入る都度連絡している」
「ガセネタばかりじゃどうもならんよ」
「警察も全力をあげて探している。しかし、皆目消息がつかめない。部内には加島組が密《ひそ》かに処刑してしまったのではないかという声もあるんだ」
「おれたちの網にかかっていれば、あんたをこないに責めたてはせんさ」
加島組傘下約五百団体の最高幹部会和親会の会長であり、加島組の大番頭と言われる安木組組長安木重三は、焦りの色を露《あら》わに浮かべて言った。
「何度も言うがね。沖山にはオール加島の面子《メンツ》がかかっているんや。組長をやられて、沖山を無傷のまま警察に渡してみい。全国同業に、加島はなにをやっているんや、口ほどにもないやないかと言われる。顔に泥を塗られて黙っておったら、ヤクザをやっていけない。塗られた泥は必ず叩き返さんならんのや。あんただってわれわれがあたえた餌を只食《ただぐ》いするつもりはないやろ」
安木は、赤く濁った目をギロリと向けた。
「あんた方が止めろと言っても、おれは沖山を追うのを止めない。やつには個人的な怨みがあるんだ。心配するな。おれたちの網にかかったら、必ず連絡する」
「その言葉を当てにしてまっさ」
安木は、眼の縁にたまった目脂《めやに》を指の先で拭った。
井手下は安木重三の隠し家≠フ裏口から人目を避けるようにして忍び出た。ヤクザの家に出入りするのさえ、表門を堂々と通れない身を情けないとおもうが、止むを得ない。
現職の警察官が加島組最高幹部会会長安木重三と誼《よしみ》を通じていることがバレたら、即刻|馘《くび》にされてしまう。井手下一人が馘になっただけではすまない。ヤクザの東西二大勢力が全面戦争に突入しつつあるという時期に、暴力団担当の刑事が加島組と癒着していたとあっては、全警察の信用が地に落ちる。
癒着のきっかけは、パイプづくりであった。相手の組織の中に情報パイプをもたないことには、なんの動きもできない。情報と交換に多少の目こぼしをしてやる。だが取引はエスカレートした。何度か情報をもらっているうちに、いつの間にか癒着が進み、利用しているつもりが、相手に取り込まれてしまった。気がついたときは、引き返せなくなっていた。相手が差し出した美味《うま》い餌を何度か口に入れた。職業倫理はその餌を吐き出すように命じていたが、一度その美味を覚えた舌は、餌なしにはすまなくなっていた。
加島組に近づいたのは、沖山の反対勢力だったからである。加島組を飼い馴らしておけば、彼らを利用して、沖山に目にもの見せてやることができる。そんな気持ちも働いていた。
だが飼い馴らされたのは、井手下のほうだった。気がついたときは、ヤクザの犬に成り下がっていた。
「井手下でなく、袖の下≠セな」
井手下は自嘲《じちよう》した。安木から呼ばれれば、危険を冒して出向かなければならない。安木の事務所は、警察や反対勢力の目が注がれているので、彼の隠し家の一つに行く。それを知っているのは、ごく限られた人間である。その隠し家すら、井手下は玄関から出入りできないのだ。安木の護衛までが目に冷笑を浮かべて見送った。
(きさまら、だれのおかげで娑婆《しやば》の空気を吸っていられるとおもう)
おもわずのど元までこみ上げた言葉を嚥《の》み下した。ポケットの中に、いま安木からもらったばかりのお手当て≠入れていたのでは、なにを言う資格もない。
この金がますます自分の首を締めることはわかっているが、もはやその金なしではやっていけなくなっていた。ポケットの上からまさぐる感触も安金《やすがね》ではないことをおしえている。それは売り渡した魂に相応する重みではあった。
――それにしても沖山のやつ、どこへ潜ってしまったのだろう――
全国警察とオール加島の必死の捜索を躱《かわ》して、隠れつづけているのは並み大抵ではない。どうせ大東組の組織が動いているにちがいないが、それにしても見事な隠れっぷりである。
しかし感心してはいられないのだ。日頃のお手当ての手前、なんとか一片の消息でもつかんで加島組にたれこまないことには、彼らが怒りだす。
本部へ帰って来ると、なんとなく部内の空気が騒々しい。
「なにかあったのかい」
井手下は、同じ四課の仲間の南部に聞いた。
「例のそっくり野郎がいなくなっちまったんだ」
「そっくり野郎が?」
「ほら、沖山に瓜二つで、保護を求めて来た万波という男がいただろう」
「ああ、あの男か」
井手下は、万波が初めて訪ねて来たとき他人の空似とは言うものの、あまりの相似に驚いたことをおもいだした。
「それであの男がどこへ行ったんだね」
「わからないから、心配しているんだ。加島組がまちがえて誘拐《ゆうかい》したんじゃないかとね」
――そんなはずはない――と危うく言いかけて慌てて抑えた。たったいま、安木重三に会って来たばかりである。もし、加島組が万波をまちがえて誘拐したのであれば、安木が沖山探しに焦っているはずはない。
「万波が消えたのは、いつのことだ」
「それが今朝からなんだ。いつものように通勤の護衛にやつの家へ行ったら、もういないのさ。勤め先の方には、一週間の休暇届けを出してある」
「それじゃあ誘拐されたのではなく、どこかへ旅行にでも出かけたんだろう」
「そうならいいとおもうんだが、それならわれわれの護衛を撒《ま》く必要もあるまい」
「護衛付きじゃ息苦しいんだよ。きっと自由の空気を吸いたかったんだろう」
「そんなことを言っていられる身分かよ。加島組から鵜《う》の目鷹《たか》の目で狙われているというのに、まったくあの馬鹿! 自分から保護を求めてきたくせに、このごろでは沖山に似ていて恐持《こわも》てするのが得意のようなんだ」
「たしかに恐持てはするだろうな。沖山はいま妙な人気がある。『沖山を警察と加島組から守る市民の会』などという無責任な応援グループまでができているというよ」
「あれで万波がまちがえて殺されてみろ。見分けがつかなくなってしまうかもしれない」
南部の言葉に、井手下は頭の奥に閃光《せんこう》を浴びせられたような気がした。
――そうだ。そういう手があったのか――
井手下は、閃光が照らしだした一瞬の造形の輪郭を見つめた。
加島組が狂ったようになって沖山を追求しているのは、組長を撃たれて、日本最大最強の暴力団の面目をつぶされたからである。安木重三も顔に泥を塗られて黙っていたら、ヤクザをやっていけないと言っていた。
であるから面目さえ立てばいいわけである。沖山の行方が杳《よう》としてつかめず、ここに沖山と瓜二つの男がいる。このそっくりを加島組に引き渡したらどうか。加島組はそっくりを処刑する。死体を少し時間をおいてから現わすようにすれば、ますます見分けがつかなくなる。世間は沖山が加島組の報復にあったと考える。これで加島組の面目は立つ。
そっくりを殺した後で、沖山が現われてもいっこうに構わない。本物に報復するまでの暫定処置≠ニして時間を稼げる。本物がそのまま永久に潜行しても、加島組の面目は救われる。
「おい、どうしたんだ。急に考え込んでしまって」
南部に問いかけられて、井手下は我に返った。
案ずるほどもなく、万波利行の行方は間もなくわかった。F県羽代市のホテルに泊まっており、沖山と誤解されて問い合わせがきたのである。東京の警察の依頼をうけて、羽代署の刑事が二人護送≠オて来てくれた。
万波は、警察から強くたしなめられたが、べつになんの罪を犯したわけでもないので、また元の生活へ戻った。万波とともに目立たないように久連山実も上京して来た。
井手下からそっくりによる暫定報復≠フアイデアを聞いた安木は、最初少なからず驚いた様子であった。
「いくら似ているちゅうても、体に微妙な傷跡もあるやろうし、指紋や歯並びなどはごまかしきれへんやろ」
「指紋などは指の皮を除《と》ってしまえばどうにでもごまかせるよ。死体の特徴も、古くなれば見分けがつかなくなる。それに、最後までごまかし通す必要はないのだ」
「それはどういうことやね」
初めは難色をしめしていた安木もだんだん乗り気になってきた様子である。
「そっくりでもなんでも報復した事実を世間に知らせるのが重要じゃないのかね。そっくりを沖山の代わりにやっつければ、沖山は安心して姿を現わすかもしれない」
「そないにうまくいくやろか」
「そのためには、加島組が、そっくりをあくまでも沖山と信じているように見せかけなければならない。加島組が沖山に報復したと世間におもい込ませれば、今度は沖山がそっくりとなって、のこのこ出て来る可能性が大いにある」
「なるほど。おもろそうな話やな。それでそのそっくりはいまどこにいるんや」
安木は完全に興味をもった。
「自宅から都心のホテルへ勤めている。まちがい報復を恐れて、いちおう監視は付けているが、被疑者ではないのでそんなに厳重なものではない。そのほうはおれがなんとでも塩梅《あんばい》できる」
「あんたが監視に付いているときに狙えばいいわけやな。ところでそのそっくりには家族はおるのかいな」
「細君と子供が一人いるが、いま別居中で、子供も細君が連れて行っている」
「そいつはますます都合がええわ。あんたもなかなか知恵者やね。暫定報復か。うん悪くないわ」
安木は、すっかり乗り気になっていた。
「沖山が見つからなければ、暫定報復が永久報復になるかもしれない。このことはあんたと私の間だけの胸に畳んで子分にもおしえてはいけない。子分にはあくまでも沖山だとおもい込ませておくんだ」
「わかった、あんたの言うとおりにしまひょ」
自宅の近くの路地にさしかかったところで、闇の底から湧《わ》いたように二個の人影が、万波の両脇にすっと立つと、両腕をかかえ込んだ。なにをすると咎《とが》めようとする前に、「命が惜しかったら、そのまままっすぐ歩け、声を出すんじゃない」と耳許でささやかれた。押し殺した低い声だが、ぞっとするような凄みがあった。何度も修羅場を潜《くぐ》り抜けてきた声とは、こういう声を言うのだろう。
大して力をこめていないように万波の両腕を取った二人の男だが、いっさいの抵抗を許さないツボを押え込んだ熟練の手ぶりが感じられる。
あいにく人通りは絶えている。遠い街灯の光も届かない。目撃者があったとしても、三人の男が連れ立って歩いているように見えるだろう。今夜にかぎって警察の護衛もいないようである。
路傍に黒塗りの乗用車が駐《と》まっていた。外車らしい。先刻の声が小さく「乗れ」と命じて、万波は否《いや》も応もなく後部座席に引きずり込まれた。二人の男はそのまま万波の両側を固めている。万波らが乗ると同時に、車は音もなく発進した。前部座席には壁のように厚い二人の屈強な男の背が見える。
「私をいったいどこへ連れて行くつもりだ。きみたちは何者なんだ」
万波は、車の震動とエンジンのざわめきに乗じてようやく詰問する機会をとらえた。右端の男がククと忍び笑いを漏らして、
「おい、聞いたかよ。きみたちは何者だときたもんだ」
車内に抑えた笑いが起きた。背筋が冷えるような凶悪な笑いであった。それは通常の世界の人間のものではない。恐怖が全身の細胞を冷凍した。男たちの襟に金や銀のバッジが光った。
「きみたち、まさか!」
「声を出すなと言ったろう」
「加島組だな。ちがう! ぼくは沖山伸次じゃない。きみたちは勘ちがいしているんだ。ぼくは万波利行といってロイヤルホテルに勤めている者だ。問い合わせてくれればわかる」
「黙ってろ」
「本当に勘ちがいなんだよ。他人の空似だ。ぼくは沖山なんかじゃない。本当だ。信じてくれ!」
万波はようやく加島組の報復の触手にとらえられたことを悟った。一時は、他人の空似に便乗して、英雄気取りになったものだが、それが呼び寄せた凶手につかまれて、いま万波は心の底から慄《ふる》え上がっていた。
車はかなりのスピードで走っていたが、場所と方角の見当がまったくつかない。
「やかましいやっちゃな、黙っとらんかい」
助手席にいた男が、振り向きもせずに言った。
「きみたち、おねがいだ。人ちがいをしたらきみたちのエラーになるんだろう。ぼくは沖山伸次じゃない。そうだ。ここに定期券と身分証明書がある。これではっきりしただろう。きみたちのことは絶対に口外しないから、下ろしてくれ」
万波は、ポケットから引っ張り出した証明書≠振りかざした。
「そんなもんはどうでもいいんだ」
右隣りの男が初めて口を開いた。
「どうでもいい?」
万波にはその言葉の意味がすぐにわからない。
「あんた、わしらがあんたの家の近くで待ち伏せしとったこと、どうおもっとるのだ」
「私の家の近くで……?」
ふたたびククと抑えた笑声が車内に起きた。
「あんたは気の毒な人だ。わしらは個人的な怨みはなにもない。まあ沖山に似とったのを身の不運とあきらめるんだな」
「するときみたちは人ちがいを承知の上で……」
万波は、自分の陥った状態が、誤解や錯覚によるものではないことを悟った。
「そうだよ。だからあんたの家の近くでお帰りをお待ち申し上げていたのさ」
左隣りの男が言った。これがリーダー格らしい。
「それじゃあ、きみたちは、ぼくを沖山でないと知って……?」
「そういうことになるかね」
「い、いったいなんのために、そんなことをするんだ」
「あんたはだれが見ても沖山に瓜二つだよ。いままで組の網に引っかからなかったのが、不思議なくらいだ。沖山はどこかに潜《もぐ》って気配もない。こうなると組の安全のために、だれかに沖山の代わりになってもらわんならん。あんたはお誂《あつら》えむきの身代わりというわけだ」
「そ、そんな無茶な! ぼくはあなたたちのいざこざにはいっさい関係ないんだ」
相手の途方もない意図がわかりかけて、万波は悲鳴を上げた。
「それはよくわかっている。だから沖山に似ているのを身の不運とあきらめろと言ったろ」
「冗談じゃない。そんな身代わりにされてたまるか。おれを下ろしてくれ」
恐怖を自衛本能が吸収した。車内でもがきはじめた万波を、
「仕方がない。少しの間静かにさせておけ」
とリーダー格の舌打ちまじりの声と同時に、万波は後頭部に鋭い衝撃をおぼえて意識がうすれた。気がついたときはまだ車の中であった。目隠しに猿轡《さるぐつわ》をかまされている。間もなく車が砂利をかんで停まった。
「下りろ」
万波は、両腕をかかえられて引き立てられた。そのはずみに撲《なぐ》られた後頭部がズキンと痛んだ。土と枯れ葉のにおいがした。なんの物音も聞こえない。ひんやりとした夜気が肌に迫った。車の中でどのくらい意識を失っていたのかわからないが、かなりの郊外に来ているらしい。
間もなく気配で、家の中に入ったのがわかった。目隠し越しにぼんやり灯がにじんで見える。階段を下りた。かび臭いにおいが鼻についた。地下室へ連れ込まれたらしい。いきなり目隠しと猿轡をはずされた。裸電球が天井からたれ下がり、壊れたデスクやベッドや不要家具などが乱雑に積まれている。
万波の前に数名の男が立っていた。いずれも黒のスーツに身を固めている。頬に傷跡のある者はないが、身辺に本物のヤクザの凄みを漂わせている。
「なるほど、そっくりだな」
「目尻のホクロまで本物そのものだ」
「本物じゃないのか」
彼らの口からいっせいに嘆声が出た。いずれも加島組の大幹部と見た万波は、もう一度証明書≠出して人ちがいであることを訴えた。ひときわ厚みのある男が、万波を気の毒げに見た。態度も言葉もどっしりしている。彼をこの場の最大の大物と見た万波は、
「おねがいです。人ちがい報復をしてもなんにもならないばかりか、かえって加島組のイメージダウンになります。どうかたすけてください」
「はは、あいにくわしらは加島組じゃないんでね」
「するとあなたたちは……」
「加島組と反対の立場にいる者さ」
「まさか、大東組では」
「そのまさかさ」
「なぜ大東組が……」
万波はその先を言うのが恐《こわ》かった。このごろ週刊誌が、大東組が、加島組の報復を恐れて、沖山をリンチしたのではないかと盛んに書き立てていたからである。
「組の安全のためだよ。沖山の先走りのおかげでいま大東組はつぶれかかっている。組を救うためには加島組に人身御供《ひとみごくう》を差し出さなければならない。あなたには本当に気の毒だとおもう。一つわれわれの組の存続のために犠牲の山羊になってくれ」
ボスは精々痛ましげな視線を万波に向けてくれたが、それはこれから食すべき獲物に投げる視線のように、憐憫《れんびん》と同情によって少しも自分の食欲に影響をうけない自己本位の眼色であった。それだけに一見温和な糖衣の下にある残酷な実体のほどがうかがえる。
万波は、先刻、拉致《らち》されてきた車の中で、組員が、組の面子ではなく「安全」のためにと言った意味が、初めて理解できた。それは絶望の理解でもあった。
「そんなひどい話ってあるものか」
「われわれもひどいということは重々承知しておるよ。しかし止むを得んのだ。いまはそれ以外に方法がない。まあ精々痛くないように、麻酔を射って加島組の手前リンチを加えたように見せるから勘弁してもらいたい」
「いったい私をどうするつもりなのだ」
「爪を剥《は》ぎ、歯を一本一本抜き、できるだけむごたらしく殺させてもらう。外見だけで、痛くないように行なうから、心配しなくともよろしい」
加島組の報復を躱すために、身代わりの犠牲者に麻酔剤を射ってリンチをするという発想のほうが、ストレートのリンチよりもはるかにむごたらしい。そのむごたらしさに気がつかないところに、彼らの残酷性の構造がある。
「リンチをリアルにするために少しずつ殺していくことにする。麻酔薬の用意もまだできていないから、今夜はゆっくり寝《やす》むといい。寝心地満点とはいかないが、ベッドもあるよ。それから恐い見張りがいるから、逃げようなんて了見をおこすんじゃないよ」
ボスは笑うと、顎《あご》をしゃくった。子分がふたたび猿轡をかませると、手足をロープで固く縛った。万波は一人、破れベッドの上に芋虫のように転がされた。
とりあえず一日延命されたが、もはや逃れようがなかった。ヤクザ戦争のスケープゴートとして葬られる。なんというつまらない人生だろう。男としてこの世に生を享《う》け、なに一つ生きていた証拠を残さずに消されてしまう。自分が死ぬことによって、少しは人の世のためになるのであれば、救いがあるが、暴力団の存続のための人身御供というのでは、死んでも死にきれない。
妻や子の顔が瞼に炙《あぶ》り出しの絵のように浮かび上がってきた。こんな夫や父では、彼らが捨てていったのも無理はない。涙が目尻にあふれてこぼれ落ちた。自分の腑甲斐なさに対する口惜し涙である。
万波は、歯を抜かれ、爪を剥《む》かれ、細胞の一つ一つを潰《つぶ》されるようにしてなぶり殺しにされた、自分のむごたらしい死体を想像した。
麻酔をされているから、その痛みを感じない。一寸ずつ、生体から死体に化していく過程を見届けられるかもしれない。口惜しさが恐怖に変わった。全身が震えてきた。
救いを求めたくとも、猿轡をかまされているので声を出せない。それだけに恐怖が放散させられず内閉されている。それでも疲労に圧倒され、いつの間にか眠ったらしい。
だれかに耳許で呼ばれたような気がして、万波は、はっと目覚めた。裸電球の光の中に朧《おぼろ》な人影が浮かび上がっている。もう殺しに来たのかと、身体を硬くした万波に、
「いま見張りは眠っている。いまのうちに逃げるんだ。手の縄を解いているひまはない。できるだけ静かに動くんだ」
耳許でささやいた声は、久連山のものだった。
「さ、早く」
久連山は、とりあえず万波の足の緊縛を解くと、うながした。久連山に手を引かれて急な階段を上ると、折畳み式のソファベッドの上に見張りの男がいぎたなく眠りこけている。枕元にウイスキーのボトルが転がっている。そこは車庫の中で、万波の乗せられてきた外車が入っている。ガレージの鎧戸《よろいど》が小腰をかがめて潜れる程度に開いている。敵は猿轡と縄縛りで安心しているのだろう。
ガレージから出ると、走った。手の束縛はまだ解かれていないので、何度も転倒しかけるのを久連山が支えてくれる。いまの一歩に二人の生死がかけられていた。雑木林の中に小型の乗用車が駐められていた。久連山は、万波を車内へ押し込むと、まだ半身外に出したまま、イグニッション・スイッチを入れた。
車が走り出してもしばらくは、口をきく余裕もない。相手が気がついて追跡してくれば、パワーのちがう外車だからたちまち追いつかれてしまう。ようやく街並みの中に車を乗り入れ、追跡の気配のないのを確認してホッとした。
「きみが救けに来てくれるとは、おもわなかった」
「ちょうどお宅へ訪ねて来たところだったんだ。きみが連れ去られるのを見て必死に後を尾《つ》けた」
「本当にきみは命の恩人だ。有難う」
久連山のおかげで九死に一生を得た万波は、胸がせまって感謝の言葉も満足に出てこない。
「間に合わないかとおもった。でも見張りが油断していたのでたすかったよ」
「それにしてもきみがあんな危険を冒さなくとも、警察に通報すればよかったのに」
万波は安堵《あんど》するとともに胸に萌《きざ》してきた疑問を口にした。
「近くに電話がなかったのと、ちょっと警察の動きに疑惑を感じたからなんだよ」
「警察に疑惑?」
「うん。きみが拉致されたとき、たしかに警官が一人、護衛に付いていたんだ」
「護衛がいた? すると、警官は私が誘拐されるのを手を束《つか》ねて見送っていたのか」
「まあそういうことだね。だからぼくとしても、直ちに警察に救いを求められなかった」
「警察と大東組がグルなのか」
「大東組? 加島組ではなかったのかい」
「加島組の報復を躱《かわ》すために、大東組が私を沖山の身代わりにリンチしようとしたのだ」
「きみが沖山でないと知っての上でか」
「そうだよ。だから家の近くで待ち伏せていた」
「待てよ。すると大東組も、沖山の居所を知らないことになる」
「そうとは限らないとおもうよ。組の安全のために加島組に人身御供を差し出さなければならないと言っていたから、沖山を救けるための身代わりに私を仕立てようとしたのかもしれない」
「どっちとも言えないね」
「ともかく大東組としては、沖山を制裁したというデモンストレーションをする必要があるんだ」
「同じことが、加島組にも言えるな」
「同じことと言うと?」
「大東組としては加島組に対して誠意を見せるために沖山を人身御供に差し出す必要があった。本物を救うためか、あるいは本物が地に潜ってしまったので、この際そっくりでも止むを得ない。きみはそっくりと見分けられないほど、沖山に生き写しだ。加島組にしてみれば、沖山をやっつけないことには、面目が立たない。彼らにとっては、沖山に現実に報復することよりも、報復した事実を世間にPRすることが重要だ。PRのための報復ならば、本物でなくともいっこうにかまわない。要するに世間が本物だとおもってくれさえすればよい。そこで警察に手を回して、あんたを誘拐しようとした」
「それが、大東組に先を越されたというわけか」
「そうだよ。警察はそれをてっきり加島組の仕業とおもい込んでいた」
「ひどいやつらだ。それじゃあおれはいったい何なんだ」
「人身御供のキャッチボールさ。いずれにしてもこれからは警察も信用できない」
「おれはこれからどうしたらいいんだ。加島組、大東組の両方から狙われ、警察も信用できないとなると」
万波は半ベソをかいていた。
「本物の沖山を探し出す以外にないだろう。沖山さえ現われれば、あんたは安全だ」
「しかし沖山の行方は、警察さえつかめない」
「出原《いずはら》の線を忘れちゃいけないよ。あの元ホテルのフロアキャプテンは、必ずどこかで沖山とつながっている」
万波は、久連山の初夜の部屋に沖山ら三人組を手引きした疑いの強い元フロアキャプテンの存在をおもいだした。彼はその後間もなくホテルを辞め、菱井商事で優遇されているという。出原をしめ上げれば、沖山の潜伏場所がわかるかもしれない。
ゴマメの一矢《いつし》
この事件があってから、久連山は万波の家に寄宿することになった。久連山は妻の仇を討つために、万波は身の安全のためにどちらも沖山を探し出さなければならなかった。目的はべつだが、的は共通である。それは奇妙な連帯に結ばれた同居であった。
重代を危険に引き込みたくないので、当分離れて暮らすことにした。
いまや万波から倒錯したヒロイズムは消えていた。報復の顎《あぎと》の中にとらえられて、真の恐怖のなんたるかを知った。人ちがいを承知の上で報復しようという相手に、普通の復讐の論理は通用しない。麻酔を射たれて嬲《なぶ》り殺しにされる恐怖は、痛みを伴わない分だけ恐怖感が増幅されて身に迫る。
もう真っ平である。一つしかない命を他人の空似を身の不運として簡単にあきらめられるものか。
一方、久連山にしてみれば万波は妻の仇沖山へ至る唯一のルートである。どこに潜伏しているかわからないが、自分と瓜二つの存在を聞けば、必ずや興味をもつだろう。沖山のほうから接触してくる可能性もある。万波と組んでいれば、沖山を探しやすい。
いかに加島組や大東組が血迷っていても、白昼第三者の目の前で万波に手を出すようなことはあるまい。いまさら変装や移転をしても彼らの目から逃げきれない。それならば一人より二人でいたほうが、より安全であることはたしかである。
二人はまず出原攻略に取りかかった。出原要一は、五十二歳、住所は都下|狛江《こまえ》市にある古い団地である。家族構成は、妻と、都内の私立大学二年の長男と、高二の長女との四人、ホテル勤務中は、酒、ギャンブルいっさい縁のないまじめ人間で、ホテルにおける信頼は厚かった。それをかわれて、三年前より、ルーム係の中でも最も責任の重い最高階VIPルームの担当《フロア》キャプテンに任じられていた。
ホテルの定年は五十五歳である。まだ三年も余裕があり、出原の場合は嘱託として残れることがまず確実であったから、突然の退職申し出にホテル側もかなり驚いたそうである。
「以上が人事からざっと聞き出した出原に関する資料だがね。最高階《トツプフロア》の客室係からちょっとおもしろい情報を聞き込んだよ」
「おもしろい情報だって?」
「うん。菱井商事副社長の稲葉栄一郎が、よくトップフロアの部屋に泊まっていて、出原を可愛がっていたそうだよ」
「すると稲葉のヒキで菱井へ移ったのか」
「まあそういう図式が考えられるが、もし出原が加島の予約部屋に手引きしたのであれば、稲葉と沖山の間につながりがあるということになる」
「菱井商事副社長とヤクザか」
「考えられないつながりじゃないよ。最近は企業を資金源にしているヤクザが増えているからね」
「とにかく出原に当たってみることにしよう」
駅からしばらくは人の流れを呈していた降車客も、あちらの辻《つじ》、こちらの路地に分かれて、しだいに疎《まば》らになってきた。まだ街灯の光の届くあたりで、万波は頃合《ころあ》いよしと見て前を行く出原に声をかけた。
いきなり背後から呼ばれて振り返った出原は、淡い街灯の光をうけてたたずんでいる万波を見出して一瞬ギョッとなったように立ちすくんだ。
「あなたは、お、沖山……」
出原の口から漏れた言葉を万波は聞き逃さなかった。
「どうやら私の顔をご存じのようですね」
「あなたはどうしてこんな所にいるんですか」
出原は、万波を沖山とおもい込んでいるらしい。それはそのまま沖山とのつながりをしめすものである。
「私のシンパはどこにでもいますよ」
「私になにか用事ですか」
出原は周囲を気にしだした。痩《や》せて貧相な表情に小心だけを剥《む》き出しにしている。自宅の近くで、指名手配されている札つきのヤクザと話をしているところを、だれかに見られるのが恐いのである。
「ちょっと質《たず》ねたいことがあってね」
万波は、相手の勘ちがいを利用して、声に凄みをきかした。この際そっくり≠ナあることを悟られると口に閂《かんぬき》をかけてしまうおそれがあるので、錯覚を利用して遠回しに聞き出すことにした。
「質ねたいことってなんですか」
出原は早くも逃げ腰であった。
「あんたは、あの夜、私に合鍵を貸してくれたけど、だれの指図で貸したんだね」
万波はおもいきってはったりをかました。
「そんなこと、あなたがよく知っているでしょう」
出原の顔が怯《おび》えている。
「――知らないね。おれは親分から、あんたから鍵をもらえと言われただけだよ」
「そんなことをいまさら聞いてどうするんだね」
「どうもしないさ。ただおれはこうしてお尋ね者になって逃げまわっているのに、あんたは一流会社の屋根の下に居心地よくおさまっているのが、不公平だとおもってね、あんたのスポンサーにお裾分《すそわ》けにあずかりたいだけさ」
「私にはスポンサーなんかいない」
「そうはおもえないね。菱井商事なんて中高年で簡単に再就職できる所じゃないよ。なにかよほど際立った才能か、特技でもなければね。失礼ながらあんたには、菱井商事からスカウトされるような才能や特技があったとはおもえない。あんた稲葉副社長のヒキで入ったんだろう」
「副社長は関係ない。あの方は私にとっては雲の上の人です」
「稲葉さんに直接聞いてみようかな」
「そ、それだけは止めてください。あの方にご迷惑をかけたくない」
出原の顔が歪《ゆが》んだ。
「ほう。おれが稲葉さんに会うのは、迷惑になるのかい」
万波は凄んでみせた。練習を積み、本物そっくりだけに迫真の凄みがある。
「そういうわけじゃないが、あの方には関係ないんだ」
「じゃあだれが関係あるんだ」
出原の頬《ほお》が引き攣《つ》り唇が震えた。
「出原さん、いいかね。あんたはホテルに勤務中、あんたが責任をもって預かっている合鍵をおれに貸したんだよ。おれはその鍵を使って、客室に侵入した。たまたまその部屋にいるべき加島組組長は当夜急にキャンセルしていなかったが、もし予定どおり来ていたら、おれは組長を確実に殺《や》ったよ。このことをおれが一言、加島組に漏らしてみろ。あんたはただではすまない。あんたにはまだ親がかりの息子と娘がいるんだろう。奥さんにも泣きを見せないほうがいいぜ」
「沖山さん、かんべんしてくれ」
出原はその場に土下座してしまった。頬に涙を流している。
「おいおい、大時代な真似はしなさんな。まだ人目もあるんだよ。菱井商事の中に、大東組のシンパがいることはわかっている。それを確かめたいだけだよ。稲葉なんだろう」
「ちがう」
「じゃあだれなんだ」
「…………」
「加島組にバラシてもいいのか」
「私がしゃべったということは、伏せてくれますか」
「約束しよう」
「あなたは最初から知っていたことにしてください」
「あんたの言うとおりにするよ」
「秘書室長の桑原《くわはら》さんに頼まれたんです。あなたが来たらパスキイをほんの一時貸してやってくれと。あなたは当然そのことを知っているとおもっていた」
「おれは知っていたことにするよ。ところであんたと桑原との関係は?」
「副社長がお泊まりのときいつも随行で来られて、知り合いになったのです」
「合鍵の損料として、菱井に世話してもらったんだな」
「…………」
「よし、だいたい筋書きは読めた。ところであんた、沖山の居所を知っているかね」
恐怖に打ち震えていた出原の顔に不審の色が刷《は》かれた。
「いや、おれの居所を知っているかという意味だよ。大東組シンパのレポたるあんたがおれの連絡先を知らないと、なにかと都合の悪いことが多いだろう」
万波は巧妙に誘導した。
「私が大東組シンパのレポだって! とんでもない。私は日頃おせわになっている桑原さんに頼まれて、あの晩あなたにパスキイをちょっと貸しただけです。あなたに会ったのもあの夜が初めてだ。あなたとはなんの関係もない。それ以前もそれ以後もだ。新聞を読んであなたの身元を知っただけです。だからあなたの居所なんか知らないし、知る必要もない」
「よしよしわかった。あんたは今夜おれに会ったことをだれにも言わなければ、おれもあんたの第二の人生を邪魔するつもりはない」
「だれにも言いませんよ」
万波は、出原をようやく釈放してやった。彼は本当に沖山の居所を知らない。万波を沖山と信じ込んでいた彼の言葉に偽りはあるまい。またわが身と家族の安全のために、今夜万波と会ったことはかたく黙秘するだろう。
「新しい人物が浮かび上がったね」
闇のたまりに身を隠して気配をうかがっていた久連山が、出原の去った後、傍《そば》へ寄って来て、
「これで菱井商事が、沖山か大東組にからんでいることが確認されたわけだ。桑原という男を押せば、沖山の居所がわかるかもしれない」
「それまでおれは保《も》ちこたえられるかな。いまにも加島組や大東組の刺客が襲いかかって来るような気がして仕方がない」
「弱音を吐いてはいけない。頑張るんだ」
久連山はともすれば弱気になりかかる万波を励ましながら、沖山に犯された妻の気配を耳朶《じだ》によみがえらせていた。そこに久連山の怨念のほむらの火種があった。沖山にそっくりの万波はその火種をかき立てる格好の吹子《ふいご》となった。
「ほんまに阿呆《あほ》なまねをしくさったもんや。警察の目の前で大東組に誘拐されるなんて、前代未聞やで」
安木重三は苦りきっていた。
「てっきりお宅の手の者とおもったんでね」
安木の前で、井手下保夫は身体を縮めていた。
「まちがえるにことをかいて、大東組とうちの者をまちがえるとは、ほんまにまあようやってくれるわ。組の者やったら指詰めもんやで」
安木は子分に新しいウイスキーの水割りをつくらせた。
「いや、なんと言われても一言もない。しかし、ちょっとおかしなことがあるんだ」
「なにがけったいやねん」
安木が酔いに濁った目をギロリと向けた。
「万波を誘拐したのは大東組とわかったんだが、彼らのアジトに閉じこめた万波を救い出した者がいるんだ」
「万波を救い出した? 何者やね、そいつは」
安木の目が驚いている。ヤクザのアジトに乗り込んで、捕虜を救出するとは只事《ただごと》ではない。もし見つかれば、生命がない。
「まだ正体がわからない。最近、万波の家に同居している若い男だが、まったく身許がつかめない。気になるのは、彼が大東組を尾行してアジトを突き止めながら、警察に救いを求めて来なかったことなんだ」
「それがどうして気になるんやね」
「わからんかね、警察に頼ってこないということは、警察を信用していないことじゃないかね」
「まあ、あんたやったら、信用せんやろな」
「茶化さないでくれ。万波のパートナーが、あんたの組と私の関係を感づいたとすれば、迂闊《うかつ》に万波に手を出せない」
「どないして感づきおったんや」
「それは大東組に万波が誘拐されるのを、私が指をくわえて見送ったのを見ていたら、感づくだろう」
「そいつは万波のボディガードかね」
「――とも見えないのだが、彼の味方であることはたしかだ」
「この際一人や二人万波に味方がいたところでどないいうこともないやろ。万波といっしょに始末したろか」
「乱暴なことを言っては困る。二人になれば人間関係は二倍になる。人ちがいでは通らなくなるし、警察としても黙っていられなくなる」
「そんなもんかね。その後、大東組はどないしてるんや」
「万波に逃げられてしまったので、ちょっと鳴りを静めているようだよ」
「やつらも万波を沖山とまちがえたんやな」
「それがそうともおもえない節がある」
「そりゃどういうこっちゃね」
「大東組は万波の自宅の近くで待ち伏せていたんだ」
「すると、人ちがいを承知の上で、さらったというのんか」
「そうだ」
「大東組がなんでそんな真似さらしたんやろか」
「お宅と同じ気持ちだろう。この際、身代わりでもなんでもリンチして、加島組の報復を躱《かわ》そうとしているんだろう」
「阿呆なやつらや、もし身代わりちゅうことがバレたら、もっとむごい仕返しをうける」
「身代わりかどうか見分けられるかね」
「人間は同じことを考えるもんやな」
「大東組が万波を狙っているなら、なにもあんたが、危険を冒して万波を身代わりに殺《や》る必要もなかろう。要するに沖山が制裁を加えられたということを世間に知らせれば、ヤクザの面子《メンツ》は立つんだろう」
「そんな単純なもんやあらへん。大東組が沖山を庇《かば》って身代わりを立てようとしとるんやったら、余計許せへん」
「おそらく大東組はそこまでして沖山を庇わないだろう。いまや、やつらにとって、沖山は重荷以外の何ものでもない。本物を差し出せればそれに越したことはない」
「すると、大東組も沖山の居所を知らんちゅうことか」
「たぶんね」
「万波を沖山を引っ張り出すための囮《おとり》に使えるかもしれへんな。大東組もだいぶ追いつめられとるようやな」
「しかしやりにくくなったよ。万波に味方《パートナー》がいて、警察を信用していないとなると、今度は加島組の動きをおおっぴらに見過ごせなくなる」
「そんなことおれの知ったことか。あんたのヘマがまねいたことやないか」
「大東組も一度失敗したから、今度は迂闊には手を出すまい」
「この結着《おとしまえ》をつけるまでは、わしらも報復は止めんさかいな」
「あまり派手な真似は慎んでもらいたい。見ぬ振りをするのも限界があるからね」
沖山の背後に、菱井商事秘書室長の桑原という人物がいることが明らかにされた。桑原のさらに後ろには稲葉副社長がひかえているにちがいない。稲葉栄一郎といえば、現社長岡崎太吉が二年前に社長に就任したとき、その椅子を争った最大の対抗馬であり、現在でも反岡崎派の旗頭である。
「この稲葉という男は、稲妻栄一郎と呼ばれるほどの切れ者でね、菱井商事が戦後、商事と物産に解体されてから、再合同を果たしたとき物産側の重役をほとんどすべて名誉職や閑職にまつり上げ、合同を事実上商事が物産を吸収する形にした陰の主役と言われている。
そのとき、物産社長だった中平安馬などは、稲葉を終生の怨敵として忘れないと言ったとかいう噂《うわさ》があるほどだ。再合同時に稲葉が社長として強く推《お》したのが現会長の井村敏郎で、その温厚な人柄から、菱井内で人望があった。稲葉としては井村をロボットとして操り、自分が菱井商事の実権を握るつもりだったらしい。
ところが井村は稲葉のおかげで新商事の社長になれたものの、彼のことごとの干渉をうるさくおもうようになり、合同後物産系唯一人の生き残りである当時の専務岡崎太吉に近づくようになった。また旧商事系の者にも、稲葉の合同時の働きを嵩《かさ》にきた専横ぶりを快くおもわぬ者が増えた。さらに稲葉が在来の主力銀行菱井銀行をさしおいて、芙蓉《ふよう》銀行に接近したことなどが、銀行筋の不興をかった。井村が内規の社長定年に達したので、新たな役員人事を決定する取締役会で、予想をくつがえして岡崎が新社長に選ばれたのは、こんな素地があったからだ。稲葉はこのときの屈辱をしっかり胸に刻んで激しい巻き返しをはかっているという。大東組と通じているとしたら、主導権を握るために、なりふり構わぬ商社マン根性を剥《む》き出しにしてきたんだろう」
「詳しいんだな」
久連山は、万波の解説にびっくりした。
「実はね、私が元勤めていた会社も、稲葉の野望の犠牲になったんだ」
「稲葉の野望と言うと?」
「私は、いまのホテルへ来る前に中所《ちゆうどころ》の商社に勤めていたんだ。それが融資をうけていた芙蓉銀行の勧めで菱井商事と無理矢理合併させられたのだ。合併と言っても実質は吸収だよ。それを画策したのが、稲葉でね、彼は自分の勢力を少しでも強くしようとして、弱小会社を吸収していたんだ。芙蓉銀行としても、自行の融資が合併によって菱井商事に肩がわりされれば、融資率が増える。菱井商事との合併によって、私の旧会社では三分の二の社員が切り捨てられた」
「切捨て組の中に万波さんがいたわけだな」
「そういうことだよ。特に目立った働きをしたわけでもないが、十数年、まじめ一筋に勤めてきた会社が銀行の一方的意志によって空中分解させられてしまったんだ。突然放り出された連中は、みんなひどい苦労をしているよ。おでんやラーメンの屋台を引いたり、ちり紙交換屋になった者もいる。二流とは言え、会社の防波堤の中で生きてきた人間ばかりだから、なかなかうまくいかない。夜逃げや一家心中した者もあるそうだ。運よく菱井商事にすくい上げられた者も被占領国民のような悲哀を味わっている」
「サラリーマンは、会社の屋根を取りはらわれたら弱いからね」
久連山も、あの呪われた初夜さえなかったなら、いまごろは、妻と新しい家庭を営み、ささやかながらも会社の屋根の下におのれを見出した仕事にいそしんでいたことだろう。
「沖山が菱井商事の稲葉とつながっているというのは、因縁だね。もし稲葉が沖山をかくまっていることが確かめられれば、彼の命取りになるかもしれない」
「稲葉だけじゃないよ。加島政知の予約は菱井商事の総務からきている。稲葉が大東組加島組の両派と同時に結ぶとは考えられないから、加島組は反稲葉派、つまり岡崎派とつながっているんだろう。菱井商事が日本を二分する広域暴力団と通じているとわかったら、大変なことになる」
「久連山さん」
万波の口調が改まった。
「何だね」
「菱井商事に一泡吹かせてやらないかね」
「菱井商事に?」
「べつに前の会社の仇討ちをしてやろうなどという大時代な気持ちはないが、私の生活を覆したのは、結局菱井なんだ。もとより大菱井を相手どってどれほどのことができるともおもわないが、社内の派閥抗争に暴力団を導入していることを世間に知らせれば、菱井の信用は地に墜《お》ちる」
「それはいい狙いだよ」
「私は、このごろ自分の人生はいったいなんのためにあるのかと考えるんだ。このままヤクザ戦争の人身御供にされてしまったんではあまりにも情けない。どうせ消されるにしても、その前に私が生きていたという証《あか》しを残しておきたくなったんだよ。沖山の身代わりとしてではなく、万波利行としてだ。その証しとして、菱井商事に一矢《いつし》射ち込んでやりたい」
「菱井商事なら相手にとって不足はない。ぼくも一肌脱ごう」
それが結局沖山への復讐につながるのであれば、獲物のいる方角に新たな巨大な獲物が増えたことになる。
「菱井商事には昔の仲間が大勢いる。菱井商事で冷や飯ばかり食わされているから、きっとわれわれに手を貸してくれるだろう」
「当面の目標は、秘書室長の桑原だ」
井手下保夫は、沖山伸次の行方についてどうも腑《ふ》に落ちないことがあった。警察の捜査網と加島組の全国的な探索の網を潜って、沖山はいったいどこに隠れているのか。これに大東組の追っ手が加わるとなると、沖山の隠れ場所はさらに狭くなる。海外に逃亡した形跡もない。
警察、加島組、大東組の手の及ばない場所となると、どこがあるか。どこかに非常に巧妙な死角があるにちがいない。
もう一つ彼の気がかりは、万波の動きであった。沖山に瓜二つであることに、一時英雄気取りになっていたが、最近は得体の知れないパートナーを得て奇妙な動きをしめしている。彼らの動きをマークしてみると、どうも菱井商事に関心をもっているらしいことがわかった。
なぜ菱井商事の周辺を嗅《か》ぎまわっているのか。菱井商事になにがあるというのか。井手下は沖山に瓜二つの万波から目を離せなくなっていた。
他人の空似であることはわかっている。だがあまりにも酷似しているが故に、大東組も加島組も彼を狙いだしている。もし大東組が沖山を庇うために万波を利用しようとしているのであれば、そのうち沖山本人が万波を見に来るかもしれない。万波から目を離さなければ、沖山に行き着ける。――そんな気がしてならなかった。
それだけに万波が菱井商事を最近嗅ぎまわっていることが、沖山の行方に関係があるようにおもえる。菱井商事と沖山。この相関図はあまり突飛ではない。
一流企業に最近暴力団が触手を伸ばしていることは、二課の方からも耳に聞こえてくる。株主総会に暴力団が乗り込んでひっかきまわした事件もある。会社側も対抗上、べつの暴力団を雇う。ビジネスの牙城《がじよう》たるべき企業が、暴力団によって黒い汚染をうける。
それにしても日本最大の財閥商社菱井に、暴力団が? 井手下は、自ら導きだした推理に半信半疑であった。
だがいずれにしても、万波から目を離してはならない。そして彼のパートナーの身許も早急に洗い出す必要がある。
菱井商事の内部に万波の旧社の社員がばら撒《ま》かれていた。いずれも日かげながら、それだけに、屈折した情報網が社内の至る所に張りめぐらされている。彼らは菱井商事にすくい上げられていながら、前社を吸収された怨みを全身に蓄えている。切捨て組とちがってどうにか余命をながらえたが、菱井にいるかぎり捕虜の身分である。
また彼らは、切捨て組に対して、自分たちだけがたすかったことに後ろめたさを抱いている。万波のリクエストに彼らがいずれも好意的に応《こた》えてくれたのは、そのためである。
菱井に対するロイヤリティなどは一片もない。万波の、菱井に一矢射ち込んでやりたいという意図を打ち明けられた旧社の比較的親しかった仲間は、これからも積極的に協力してくれると約束をしてくれた。彼らにしてみれば、旧社の復讐をするような意識があるのであろう。
これは馬鹿にならない情報網である。この情報網の蒐《あつ》めた秘書室長桑原|良成《よしなり》の経歴と人物は、次のようなものである。
桑原は、合併前稲葉栄一郎が鉄鋼輸出部の部長をつとめていたころ、次長であった。そのころから稲―桑ラインと呼ばれて、稲葉の懐ろ刀とされていた。中には、「稲妻」に対する「桑原」として、稲葉の真の黒幕が桑原だと評する者もいる。
秘書室は、本来社長直属の、役員と社内に恐持《こわも》てする部署である。稲葉の懐ろ刀として、秘書室を押えた桑原は、岡崎社長に対する目付役となっている。桑原をけむたがった岡崎は、総務部の方に近づき、総務は社長派、秘書室は副社長派で固められるようになった。
T大法学部出身、妻は、稲葉栄一郎の姪《めい》である。四十六歳、男盛りであった。
「こいつは出原とちがって、簡単には吐かないぞ」
桑原の資料を読み終わった万波は首を傾《かし》げた。
「それだけに桑原から引っ張り出せれば、信憑《しんぴよう》性が高い」
「久連山さん、あなたは本当に菱井商事と暴力団がつながっているとおもうかね」
「その可能性はきわめて大だね。加島政知の予約は岡崎派の総務からきた。その加島の部屋に桑原の指示で沖山が刺客として送り込まれてきた。秘書室と総務の対立関係から見ても、大東組と加島組がそれぞれの傭兵としてかかえられているな」
「ヤクザ戦争に、菱井内部の派閥が手を貸したと考えていたが、むしろ菱井の積極的な意志が働いていたことはないだろうか」
「桑原や稲葉の意志で、加島政知を殺そうとしたというのか」
「そういう可能性も考えられるんじゃないのかな。彼らが加島になにか致命的な弱みを握られているとすれば」
「そうだとすれば大変なことになるね。菱井が日本最大の暴力団のボスを殺そうとしたとなると」
久連山は万波の途方もない着想に表情を引きしめた。
「考えすぎかともおもうが、手を貸したことは事実だ。出原は、桑原の指示で合鍵を沖山に貸したのだから」
「そうだ! それで行けるぞ」
久連山は、膝《ひざ》を打った。
「なにが行けるんだね」
「万波さんは沖山になりきって桑原に近づく。警察と両組の刺客から追われて、これ以上逃げきれないからなんとかしてくれと泣きつくんだ」
「桑原は拒《は》ねつけるだろう」
「大丈夫、拒ねつけない。こちらは彼の弱みを握っている。もっともたったいま握ったばかりだがね」
「弱みもなにも、われわれは彼に会ったことはないよ」
「沖山は会っているんだろう。少なくとも桑原は沖山を知っている。それだけで十分だ。沖山がつかんだ桑原の弱みは、われわれがつかんだのと同じことだよ」
久連山は、だれに立ち聞きされるおそれもないのに、故意に語尾の声を落とした。万波は、なるほどとうなずいて、
「しかしそれで桑原を脅かすことはできても、沖山の居場所を聞きだすことはできないだろう」
「桑原は万波さんを沖山とおもい込んでいるのだから、なんとでも誘導尋問して聞き出せるよ。あなたを見た反応だけからでも、沖山との関係がわかる」
「桑原や稲葉が沖山をかくまっているという可能性もあったんだな」
「菱井商事は、世界中に支店網をもっているから、もしかすると海外へ逃がしたかもしれない」
「なんとなく武者震いをおぼえてきた」
「加島組や大東組だけじゃない。天下の菱井商事が相手だからね」
桑原良成は車に乗り込むと眉間《みけん》をもんだ。疲労が重く身体に澱《よど》んでいる。いま自分たちの一派が浮くか沈むかの大プロジェクトに取り組んでいるだけに、心身の安まるときがない。少しでも隙を見せれば、たちまち反対派からつけ込まれる。敗れた側は、速やかに社から去らなければならない。
サラリーマンにとって会社は生活の本拠であり、おのれの野心を実現する場所である。入社して定年まで万年平社員として平穏無事に勤め上げるのも、サラリーマンの一つの生き方であろう。出世したところで、たかが一社の中、そんなどんぐりの背比べにうき身を窶《やつ》して一生あくせくするよりも、平凡ながら自分の幸せをしっかりと踏みしめて人生を楽しんだほうがよい――と達観できれば、それはそれでよい。
だが、男は本来、野性的な動物である。野性の牙《きば》をもつかぎり、マイホームの幸せの中に安住できない。どんぐりの背比べと嘲《あざ》けられようと、蟻《あり》の競走と嗤《わら》われようと、ライバルとの平和共存をはかるよりも、ライバルを斃《たお》して主導権を握ろうとする。蟻の競走の頂上に権力は聚斂《しゆうれん》され、そこを目ざして広大なピラミッドの裾野から、無数の蟻たちが這《は》い上って行くのが、いまも昔も変わらぬ権力闘争の図式である。
桑原は、眉間をもみながら、ずいぶん上の方まで登って来たものだとおもった。競走もピラミッドの上部へ来るほどに、強敵が現われ苛烈《かれつ》になってくる。ここまで這い上って来たあとには、斃した敵の死屍が累々と横たわっている。権力闘争は勝抜き相撲である。いま敗れたら、ここまで来た意味がない。
いま桑原が臨んでいる勝負こそ決勝戦であった。絶対に負けられない。そして勝算は十分にある。
いま菱井商事は、稲葉を中心とする旧商事系と、岡崎を領袖《りようしゆう》に戴く旧物産系の二大派閥に分かれている。大中小さまざまの学閥、郷土閥、閨閥《けいばつ》、金脈などによる人脈も、大河に吸収される支流細流のように、結局この二大派閥に統合される。
合同時、稲葉栄一郎の画策が効を奏して、商事系が主導権を握ったが、新社初代社長井村敏郎が内規による定年に達して退いたとき、物産系の岡崎を後任社長に選ぶという大番狂わせがあってから、物産系が勢いを盛り返し、商事系は一歩大きく後退したまま今日に至っている。
稲葉としては、現役にある間に岡崎の手から主権を奪い返さなければ、死んでも死にきれないおもいであった。
もし稲葉社長が実現すれば、それは桑原の天下でもある。稲葉は同学の先輩でもあり、入社以来、影の形に添うように、稲葉のかたわらにあって扶《たす》けてきた。稲葉の姪を妻に迎えてからその結束はさらに強まった。稲葉の現在の位置も自分の補佐のしからしむるところであるという自負が桑原にはある。稲葉が社長になれば、主権の座への路線は敷かれたと言ってもよいだろう。
いま稲葉と桑原がもてる能力のすべてをあげて取り組んでいるプロジェクトは、鉄鋼商社の雄、安中《あんなか》商事との合併である。安中商事は、明治三十八年に貿易商として大阪に創業され、砂糖取引を中心に、東南アジア貿易にしだいに地歩を築いた。大正十五年、八幡製鉄所から指定商社に選ばれてから「鉄の安中」と謳《うた》われるほどに鉄鋼商社としての地位を確立した。
昭和に入り、パルプや木材の商権も獲得、直系メーカー七社、海外支店五十八を擁するほどに成長したが、終戦によって築き上げた資産をすべて失った。
だが鉄の商権はそのまま残り、財閥系商社が戦後の集中排除法によって解体された中で、安中は解体も合併もせず純血を保ち、国内鉄鋼市場に独占的な地盤を確立したのである。
その独走も昭和三十五年ごろまでであった。解体された財閥系商社がようやく再結集を果たし、繊維系商社は広範な海外支店網を張りめぐらして、国内だけで商売をしていた安中商事を激しく挟撃してきた。戦後国際的な規模になった鉄鋼生産に対応するために、安中商事は単独で総合化路線を歩みはじめたのである。
とは言えこれまで国内取引の義理人情を重んじる浪花節的商法に馴《な》れた身には、急激な国際化についていけない。その焦りとライバル商社に対する競争意識が、「鉄の安中」――堅いという別意もあった――をして、しだいに背伸びの勇み足経営へと駆り立てていった。
総合商社化とは、端的に言うなら取扱い商品の多様化である。本来、商品多様化の目的が特定商品の偏重を避け、商品のバランスによってリスクを分散することにあったのが、「ラーメンからミサイルまで」に象徴される総合商社の威信《プレステイジ》を誇りたい見栄が先行してしまった。
だが安中の背伸び経営は、一時、その売上げ伸び率を大手十社中、トップに引き上げたものである。莫大《ばくだい》な借入金によって風船のように脹《ふく》らませた売り上げであるが、とにかく数字の上では安中商事が最も威勢よく見えたものである。安中の背伸びはさらにエスカレートした。商品の多様化と言っても、いまさらラーメンやラブホテルを手がけてもたかが知れている。総合商社化の本命目的は、国際化にある。それには海外のビッグプロジェクトを狙わなければならない。
それもいっきょに売上高を飛躍させるうま味のある品目でなければならない。こうして安中が目を着けたのが、石油であった。石油は取扱量がまとまるので、売り上げを伸ばすには格好の商品であった。
安中はこうしてアメリカ西海岸の石油業者サスーン・インターナショナル・コーポレイション=SICと事業提携して、SICがメキシコ州政府と合弁でスタートした石油精製事業に参加したのである。
この提携は最初は順調にいっているように見えた。だが精油所が操業開始後間もなく精製プロセスが故障し、労働者のストライキが起きた。悪いことは重なるもので、精油所の原油供給を全面的に頼っているイランに王制打倒の暴動が発生し、原油の輸出が完全に停止されてしまった。暴動によるイラン原油の生産停止は当然、各産油国に影響して値上げの絶好の口実となる。
度重なるパンチはSICの資金繰りを極度に悪化させ、安中商事への支払いを停滞させた。
さらに安中商事を決定的に打ちのめすような事態が発生した。イラン暴動の波及を嫌ったメキシコ州政府が、手持ちの全株をSICに売り渡して、合弁事業から下りてしまったのである。
安中がメキシコ版親方日の丸として絶対の信頼をおいていた基礎が失われた。安中商事のLC開設を引き受けていた邦銀各行がにわかに安中に不安をしめし、足踏みをはじめた。
さらに国内でも、ほとんどの金融機関が資金貸付けのパイプを閉じた。
安中商事は、窮地に立たされていた。ここで芙蓉銀行の副頭取|伏谷《ふせや》義郎から稲葉栄一郎に安中商事救済のための合併を前提とした事業提携についての非公式な打診があった。
芙蓉銀行の頭取白根幸彦と稲葉はT大の同窓であり、経済同友会の盟友である。安中商事の主力行としての芙蓉銀行は、SICプロジェクトに膨大な融資を行なっている。もし安中が再起不能となれば、注ぎ込んだ貸付金が死んでしまう。芙蓉銀行としても、いまさら退《ひ》くに退けない立場に追いつめられていた。
ここで考えついたのが、菱井商事との合併による再建案であった。菱井商事は金属機械部門に弱い。また安中の三本柱の二本である木材、パルプについてはほとんど手をつけていない。安中商事を吸収すれば、これら魅力ある商権を獲得して、立ち遅れていた部門をいっきょに強化でき、日本最大の商社に飛躍できる。菱井商事にとって悪い話ではないと読んでの打診であった。
稲葉栄一郎は、白根の読みのとおり、大いに興味をしめした。この合併が実現すれば、菱井商事の規模拡大だけではなく、その推進実行者としての稲葉の位置は確立される。もちろん合併後の新社社長の椅子には稲葉が坐るつもりだ。これまでも自己の勢力を拡大するために、弱小企業を併呑《へいどん》してきたが、安中となると、これまでの獲物とは規模がちがう。
稲葉の貪婪《どんらん》な権力志向の胃袋は大いに食欲をおぼえたが、丸呑みするにはあまりにも巨大な獲物であった。美味な肉も豊富であるが、同時に一千億円近い安中の焦げつき債権をかかえ込むことになる。これはいかに菱井商事といえども負担が大きすぎる。まず菱井の最終意志決定機関である常務会をすんなり通過しないことは明らかである。岡崎太吉を中心とする旧物産系はこぞって反対するだろう。従来の主力行である菱井銀行も黙っていない。
彼らに事前に悟られたら、必ず潰される。リスクが大きいだけに中立派も反対派に傾きやすい。常務会にかける前に周到にことを進め、有力役員の同意を密かに取りつけてしまわなければならない。
白根幸彦もそれをよく承知していたから、極秘に打診してきたのである。しかもことは急ぐ。安中商事は息も絶えだえであった。今日明日にもいけなくなるかもしれない。
桑原は、稲葉から安中合併の極秘工作を打ち明けられたとき、全身の細胞が圧縮されたような緊張をおぼえた。これは、桑原の半生においても最大の勝負になる。勝てば稲葉新社長の下、桑原のわが世の春は保証される。だが敗れれば、この居心地のよい菱井の傘の下から速やかに追放される。
「常務会のメンバーは岡崎社長と私、三専務、十常務によって構成されている。そのうち岡崎派は四名、私の支持者は五名だ。残った藤沢専務と三名の常務がいまのところ中立だ。当面この四名の役員の説得に当たらなければならないが、江森常務はきみと高校が同じだと聞いている。また長谷部、柿沼常務の奥さんはきみの奥さん、わしの姪だが、仲が良いそうじゃないか、このコネをフルに使って説得してみてくれ。いいかね、今度のオペレーションには私たちの運命がかかっているんだ。しっかりやってくれたまえ」
「誓ってご期待に添いますでございましょう。それから、こちら派と見られております立花常務の令嬢は、最近菱井銀行審査部長の御曹司と結婚されたと聞きましたが」
「さすがに目の着け方が鋭いな。立花とは長いつき合いだから、ここへ来て娘に引かれて私を裏切ることはあるまいとおもうが、まあ十分に注意しよう。菱井銀行はグループの一環というだけで金融力は弱い。菱井商事の大屋台を支えるだけの実力もないくせに、戦前グループの連帯だけに頼っておる。その意識だけでも時代錯誤なんだ。私は安中の合併を機会に主力行を芙蓉銀行に切り替えるつもりだ」
「菱井グループの中核行と自負している菱井銀行にとってはショックでしょうね」
「うん、それだけにこの合併話は絶対に事前に漏らしてはならない」
「安中側から漏れる気遣いはありませんか。あそこは明治以来、同族の結束が強いところですから、合併に抵抗をしめすでしょう」
「当主の四代目社長安中道俊が、伏谷さんに泣きついたんだよ。安中再建のためには菱井と合併してもいいと言っているそうだ。安中でもこの話を知っているのは、上層部の限られた人間だけに、芙蓉銀行としても、事前に菱井銀行に漏れたら、ご破算になることがわかっているから固く口留めをしている」
安中合併工作を打ち明けた稲葉の、日頃ものに動じない表情も緊張していた。
「ここでいい」
独りのものおもいから醒《さ》めた桑原は、運転手に命じた。都心のホテルの前である。週末はまっすぐ家に帰らない。彼はこのホテルのバーで一人の女と待ち合わせていた。今夜これから女ともつ秘密の時間だけが、桑原が自分自身を取り戻すときである。派閥闘争の権謀術数に疲れた心身を癒《い》やすものに、女以外のなにがあるだろう。
女とは、金だけで結ばれた後腐れのない仲である。女は支払った金に相当するだけは、必ず愉しませてくれた。危険もない。強いてPRする必要もないが、人に見られてどうということもない。妻も男の戦いに疲れきった夫を自分一人の力で慰拊《いふ》できないことを知っている。妻の伯父の稲葉も、桑原の女遊びを咎めだてするような野暮ではない。
彼の最近のパートナーは、トルコ風呂のホステスである。トルコホステスとホテルでデートとは、ちょっと奇異な感じをうけるが、一度業者から接待に連れて行かれたトルコ風呂で、非番の日には出張≠キると聞いて、以来もっぱら出張トルコを愛用するようになった。
トルコの待合室の雰囲気はなんともバツの悪いものである。トルコ街に行くこと自体が一人ではかなり気後れするところへ、赤裸な欲望を剥き出しにして、待合室で順番待ちしていると、欲望を排泄《はいせつ》する前にいいかげんみじめな気持ちに陥ってしまう。しかも「お後」がつまっていると、トイレのドアの外で待たされているような忙《せわ》しない気分にさせられてしまう。
多少値段は張るが、ホステスが出張してくれて、自分だけのためにサービスしてくれるこのシステムは、桑原のような遊客にはもってこいであった。馴染みのホステスが出番で来られないときは、裏《うら》番の友達をまわしてくれる。
これがまたどんな女性が来るかと、嬉しい期待を抱かせる。しかも彼女らは、普通のコールガールとちがって男を愉しませるプロをもって自任しているから、必ず満足させてくれる。それはトルコと言うより、昔の遊廓《ゆうかく》の出張のようなものであった。
今日は馴染みが出番なので、ピンチヒッターが来ることになっている。車を捨てた桑原の胸は高鳴った。女にかなり年季を入れたはずでも、新しい女に見《まみ》えるときは初心と変わらぬ胸の弾みをおぼえる。またそれ故にこそ、女遊びの楽しさがあるのだろう。
ロビーを横切って、地階へ下りる階段へ向かう。ホテルのバーはたいてい地下にあり、ラウンジやコーヒーショップほど目立たないので人目を避ける出会いには格好である。
階段を半ばまで下ったところで、背後から呼びとめられた。なにげなく振り返った桑原は、全身を硬直させて、その場に立ちすくんだ。
「お久しぶりです。ちょっとお話ししたいのですが」
顴骨《かんこつ》の張った額の狭い男で、刃物のように細い目をひたと桑原の面に据えている。全身から凶気が立ち昇っているような、尋常世界の住人にはない凄みが、桑原を圧倒した。
「わ、私には話すことなんかない」
桑原は、精一杯、その迫力に対抗した。
「あなたにはなくとも私にはあると言っているんです。お手間は取らせません。ちょっと顔を貸してください」
「迷惑だ。私は忙しい」
「それほどお忙しいともおもえませんがね、ご存じよりがバーでお待ちのようですが、そちらのほうは、いくら待ってもさしつかえないとおっしゃってますよ」
男はどうやら桑原の待合わせ相手を知っているようであった。
「ホテルに部屋がとってあります。そこまでご足労ください」
「話があるなら、ここでしたまえ」
「おや、よろしいのですか。私は忙しい身体です。いつ加島組の鉄砲弾が襲いかかって来るかわかりませんぜ。巻き添えを食っても、私は知りませんよ」
その言葉が、桑原の最後の抵抗を打ち砕いた。男の背後に従った彼の姿が、握られた弱みの大きさを物語っている。
「こんな所へ連れ込んで、いったいどういうつもりだね」
万波にダブルルームに連れ込まれた桑原は精一杯の声で喚《わめ》いた。虚勢を張ることで恐怖をまぎらそうとしていた。彼は万波を沖山と完全に誤信している。それは桑原と沖山の間につながりがあることを問わず語りに語っていた。
「無駄にはなりませんよ。われわれの用談がすんだ後、バーで待ち合わせた人を呼べばよい。そういう配慮でダブルを取ったんです」
久連山が桑原の行動を監視して、彼の隠れ遊びのパターンも突き止めてある。
「用談とは、いったいなんだね。私はきみたちとはいっさい関係ない。つきまとわれては迷惑だよ」
「ほう、関係ないと言えますか。加島政知の部屋の合鍵を私に渡すように出原に命じたのはあなたでしょう」
「そんなことは知らない。でたらめを言ってもらっては困る」
「出原がはっきり言いましたよ。あなたから指示されたと。その見返りに出原を菱井商事に拾い上げてやったんでしょう」
「知らない。出原がでたらめを言ってるんだ。私がどうして加島政知の部屋の合鍵を、きみに渡させなければならないのかね」
「そこまでとぼけられたら大したものだ。さすがは菱井の秘書室長さんだよ。あんた、さっき私を見てびっくりしたね。加島組の鉄砲弾が突っかかってくるかもしれないと言ったら、一も二もなく、私の後に従《つ》いて来た。菱井商事の秘書室長さんが、沖山伸次を知っていた証拠じゃないか」
「そ、それは、マスコミがきみのことを報道していたからだ」
「あんたがとぼけ通すつもりならそれでもいい。おれは、あんたから、そそのかされて加島組の組長を狙ったと、加島組にたれこんでみようか」
「な、な、なんということを言うんだ。でたらめもいいかげんにしてくれ」
桑原は、万波の途方もない言葉に仰天した。沖山と信じきっているだけに、その驚愕は大きいはずである。
「でたらめだと言いきれるかね。加島政知はあの日たしかにロイヤルホテルに泊まる予定だった。それが当夜キャンセルされた。険悪な気配を逸《いち》速く悟ったからだろう。それを知らずにおれは当時ルーム主任《キヤプテン》だった出原から合鍵を借りてキャンセル後の加島の部屋に押し入ったのだ。当夜、キャンセル後チェックインした新婚から、そのことがホテル側に届け出られているはずだよ。出原はその後、菱井商事に移って居心地よさそうに納まっている。出原はちょっと痛めつければ、あんたの指示でおれに合鍵を渡したことをバラすよ。こういう事実を全部加島組にしゃべっても、でたらめだとおもうだろうかね」
桑原の表情から血の気が失せて顔が引き攣《つ》ってきた。日頃の大東組との腐れ縁から、頼まれてちょっと口をきいただけにすぎなくとも、加島組にその事実をしゃべられたら一大事である。
ヤクザの出入りの介入にこんな恐ろしい陥穽《かんせい》があったとは、桑原自身もいままで気がつかなかったであろう。
「おれは安全圏から電話一本でこのような具体的事実を加島組にたれこむことができるんだよ。加島組の復讐心に燃えた鉄砲弾がわんさとあんたとあんたの家族の所に飛んで来る。ヤクザの報復はえげつないよ。目をくりぬき、歯を抜き、爪を一枚一枚引き剥がしてゆっくりと殺す。もともと加島組は、あんたの親分の稲葉と対立している社長派のガードマンなんだろ。あんたにいい感じはもっていない」
「そんな言葉をだれが信じるものか」
桑原は振り上げられた包丁の下で、もがくのを止めない俎上《そじよう》の魚に似ていた。
「そうかい。それじゃあ信じるか信じないか、一つこの部屋から加島組に電話して験《ため》してみようか」
万波は、電話器を取り上げて、ゆっくりとダイヤルをした。桑原の虚勢もそこまでであった。
これが久連山の言った弱みであった。加島政知襲撃にたとえわずかでも手を貸した事実がある以上、それを加島組に漏らされるのが最も恐い。いかに菱井商事のエリートでも、加島組から狙われたのではたまったものではない。沖山にしゃべられるのが恐ろしくて、稲葉と桑原が全力をあげてかくまっているのかもしれない。
「待ってくれ。いったい私になにをしろと言うんだね」
桑原は、遂に白旗を掲げた。
「最初からそう言ってくれれば手間は省けたんだ。実はね、おれは疲れたんだよ。警察と加島組に狙われ、このごろは身内のはずの大東組までがおれの行方を探している。これ以上はとても逃げきれない。あんたになんとかしてもらいたいのだ」
万波はそろりそろりと誘導の糸を引き出した。
「なんとかしてくれと言われても、私にはなにもできない」
「冷たいことを言わないでくれ。しようとおもえばなんだってできるはずだ」
「金が欲しいのかね」
「金は要らない」
「じゃあどうしろと言うんだ」
狙いが金以外にあるらしいと悟って、桑原の面に不安の色が濃くなった。
「どこか安全な隠れ場所を探してもらいたい」
「そんな無茶言っちゃ困るよ。私がきみをかくまえるはずがないだろう」
「菱井商事は世界中に支店網がある。その網のどこにでも隠せるだろう」
「海外へ出るにはパスポートが要る。そんな申請をしたらいっぺんに捕まってしまう」
「偽のパスポートなんていくらでもつくれるんだろう」
「とんでもない。いまはハイジャック防止のためにパスポートの発給や出国時のチェックがことのほか厳しい。とてもそんなことはできない」
「とにかくいまの場所には、危険でこれ以上いられないのだ」
「いままでどこに隠れていたんだね」
桑原の表情に作為は感じられない。
「あんたは知っているはずだろ」
万波は桑原の面を凝視した。
「私がきみの隠れ場所を知っているはずがないじゃないか」
沖山と信じきって誘導されているだけに、桑原の言葉には信憑性があった。彼も沖山の行方を知らないのだ。ここまで追いつめてきた獲物が、獲物ちがいとわかって、万波の胸の内に失望が墨のように拡がった。
沖山と、菱井商事の間にはたしかにつながりがあった。だが桑原は沖山の行方を知らない。
「あんた、なぜ、加島組組長の襲撃を手伝ってくれたんだね」
万波は失望に耐えて誘導の糸を引きつづけた。
「私はなにも手伝わない」
「出原に鍵を渡すように指示したのはなぜだ」
「そういうことは、きみが組から知らされているんじゃないのかね。とにかく私はなにも知らない」
「おれは単なる鉄砲弾だよ。しかし、このまま、鉄砲弾としてなにも知らされずに消されるわけにはいかない。組の命令か、菱井商事の意志か。その辺をはっきりさせておきたい」
「菱井商事が、暴力団の抗争に手を出すはずがないだろう」
「現に出しているよ」
「それは大東組に頼まれて日頃の誼《よしみ》から出原にちょっと鍵を貸し出すように言っただけだ。きみがその鍵を何に利用しようとしたのか、私はいっさい知らない」
「日頃の誼とはなんだね。菱井商事がヤクザと日頃の誼があったのか」
「そ、それはヤクザと言ってもべつに暗い面ばかりではないよ。そのう……つまり、総会荒らしから守ってもらったり、情報を蒐《あつ》めてもらったり……」
言葉尻をとらえられて、桑原はうろたえた。
「うまく言い逃れやがったな。とにかく親分の稲葉に伝えておけ。おれは絶対におとなしく消されない。もし大東組に命じておれを消させようとでもしてみろ。加島組組長狙撃の真の黒幕は、菱井商事の稲葉やあんただと、加島組にたれこんでやると。あんた方にはそうではないという反証はあげられない。もともと物事を冷静に考える連中じゃない。逆上してなにを仕掛けて来るかわかったもんじゃないよ」
桑原をさんざん脅すことはできたが、沖山の行方は結局わからずじまいであった。菱井商事に射ち込むべき一矢もつかめない。
「桑原が沖山の行方を知らないことを確かめただけでも収穫だった」
と久連山は慰めてくれたが、万波はどうもすっきりしなかった。気負い込んだものの、これでは大魚の鱗《うろこ》をかすっただけだ。仕掛けた鉤《かぎ》は鰓《えら》に引っかかりもしなかった。
「いやそうでもないよ。今日きみと会ったことを桑原は、稲葉に注進するだろう。稲葉としても沖山に開き直られたらとおもうと、落ち着いてはいられないはずだ。身の安全を確保するために、大東組に救いを求めていくだろう。大東組としても沖山が現われたと聞いたら動きだす。かまわないから万波さん、例の偽りのタレコミを加島組に投げ込んでみないか。菱井商事と加島組を引っかきまわせるかもしれない」
通りかかった救い神
万波が桑原と接触しているところを、井手下は一定の距離をおいて監視していた。その段階では、桑原の身許も、接触の意図も井手下にはわからない。万波と別れた後の桑原を尾行してその身許を突き止めた。井手下は万波が菱井商事の秘書室長に接触したことが気になった。なにかある。――彼の嗅覚《きゆうかく》がしきりにきな臭いにおいを嗅《か》いでいた。
彼は、自分の嗅覚に触れたものを確かめるために、桑原に面会を求めた。桑原は突然の刑事の来訪にかなりのショックをうけた。桑原にしてみれば、お尋ね者の沖山に密かに会ったという意識があったから、警察に敏感に反応したのも無理はない。
だが井手下には、桑原の反応に解《げ》せないところがあった。
「つかぬことをおうかがいしますが、あなたは万波利行とお知り合いですか」
接点がずれたところから井手下の質問ははじまった。
「まんなみ? 何者ですか、その人物は」
当然、桑原には質問が噛み合わない。
「あなたが先日、都心のホテルで会った男ですよ」
「私は、その日はそんな男に会いませんよ」
桑原は、日にちとホテルの符合に打ちのめされながらも、なんとかこの場はとぼけ通そうとおもった。全国指名手配の殺人未遂犯と密かに会って警察に黙秘していたとあっては、犯人蔵匿の罪を科せられるかもしれない。
「いや、あなたはたしかに会いました。私はこの目であなたと万波が、ホテルに入るところを見届けていたのです。なんでしたら、ルームナンバーも申し上げましょうか」
「ちょっと待ってください。そのう、まんなみとかいう男を私は本当に知らないのですが、なにか勘ちがいされておられるのではありませんか」
桑原はようやく質疑応答の接点がずれているのに気がついた。
「いや勘ちがいではありません。加島組組長を狙撃した沖山に瓜二つの男です」
「えっ、沖山ではないのですか」
「なに! あなたは万波を沖山だとおもっていたのですか」
接点が完全に重なり合った。同時に桑原は非常にまずい立場に立たされた。沖山と信じて万波と会い、その事実を黙秘していたのは、犯人蔵匿の故意があったことを自ら認めたようなものである。
錯覚の下地から、沖山とのつながりを露《あら》わしてしまった。桑原は言い逃れのきかない窮地に立たされた。
「これはどういうことなのですかな」
見るからに一筋縄ではいかない刑事面をしている井手下は、真正面から食いついてきた。
「いや、そのう沖山とは以前株主総会のときちょっと顔見知りだったものですから、つい見まちがえてしまいまして。本当にあの男は沖山ではなかったのですか」
桑原は、額の汗を拭きながらしどろもどろに言った。自分でもそんな答えで相手を満足させられないことはわかっているが、どうしようもない。
「するとあなたは沖山が指名手配中の凶悪犯であることを承知の上で、ホテルの部屋で密かに会い、それを警察に黙秘していたのですか」
「脅かされたのですよ。警察に知らせたら、私と家族の生命を保障しないと」
桑原は、よろめきながらも土俵際で踏みとどまった。
「株主総会でちょっと顔見知りだったぐらいの男と、なぜホテルで密かに会う必要があったのですか」
「無理矢理に連れ込まれたのです。とにかく相手は追いつめられてなにをするかわからないヤクザですから、従わざるを得なかったのです。まさかニセモノだとはおもいませんでした。そのまんなみとかいう男は何者ですか」
「その前に、万波はあなたになにを言ったのですか」
「逃亡生活で金に詰まってきたので、金をくれと言われました」
「それだけですか」
「それだけです」
「そして金をあたえましたか」
「あたえる筋合いはないので、拒否しました」
桑原は、偽《にせ》沖山の本当のリクエストは秘匿することにした。それを正直に告げれば、自分と沖山のつながりの深さを自供することになる。一方、井手下には桑原の申し立てをすんなり咀嚼《そしやく》できないところがある。もしそれが事実であれば、万波の行為は恐喝になる。沖山との酷似を奇貨として万波がそんな罪を犯したとしても、それ以前に、桑原と沖山の関係を知らなければ、そんな天一坊まがいの真似はできないはずだ。桑原と沖山の間にはなにかがある。それは株主総会における顔見知り程度の関係ではない。
井手下は、その関係を知りたかった。桑原は万波の身許を知りたかった。だが双方とも安易に情報を交換できない立場にある。どちらにも相手のまわしを取れずに立ち合っているようなもどかしさがあった。
「万波利行という男が私の所に来た」
「まんなみ?」
「沖山そっくりの男だ。私はてっきり沖山が来たとおもったよ」
「ああ、あの男ですか」
「どうやら知っているようだね」
「その万波がどうして桑原さんの所へ行ったんで」
「沖山に化けて来たんだよ。もう逃げまわるのに疲れたからかくまってくれと言ってね」
「万波がそんなことを言ったのですか」
相手の声が訝《いぶか》しがっている。
「そうだよ」
「それで桑原さんは、どうやって偽沖山と見破ったのですか」
「刑事が来てね、おしえてくれたんだ」
「刑事が!」
「井手下と言ってたな。沖山の行方を探している刑事で、人ちがい報復を防ぐために万波を密かに見張っていると言った。刑事は、私と沖山のつながりを知りたがっていたよ」
「どうして、そんなことを嗅ぎつけたんでしょうね」
「そんなことわかってるじゃないか。私は万波を沖山だとばかり信じて会ったんだ。ということは、沖山となんらかの関係があることを自ら白状してしまったようなものだ」
「まずかったですな」
相手は舌打ちした。
「心配しなくてもよい。肝腎《かんじん》の関係はとぼけておいたよ。気になるのは万波という男の動きなんだ。初めは、沖山に似ているのを利用して金をせびりに来たのかとおもったが、そうでもないらしい」
「万波は、どうして桑原さんと沖山の関係を知ったのでしょう」
「出原が口を割ったと言っていたが、どこから出原の存在を嗅ぎつけたのかわからない」
「ああ、それでわかりましたよ。万波は出原が元いたホテルに勤めているのです」
「出原の元いたホテルに!」
「そうですよ。ところで万波が恐喝に来たのでもないというと、なにしに来たので……?」
「最初は、安全な隠れ家を提供しろと言っていたが、偽沖山ならそんなものは必要ないはずだ。私を通して大東組にメッセージを伝えるのが目的だったらしい」
「ほう、どんなメッセージで?」
「それが途方もないことを言いおったのだ。大東組に命じて沖山を消させようとすれば、加島組に、加島政知を狙った黒幕は、稲葉副社長や私だとたれこむと言うんだよ」
「えっ、そんなことを言ったのですか」
相手の声に驚愕が盛られた。
「出原に命じて合鍵を貸し出させたのは事実なんだから、そんなタレコミをされたら私たちは加島組から狙われるよ」
「しかし、おかしいですな。万波は沖山本人じゃないのにそんなことを言うとは」
「あんたたちが、万波を沖山とまちがえてなにか仕掛けたんじゃないのかい」
「…………」
「どうやら心当たりがありそうだね。それで読めたよ。万波は自衛のために沖山に化けて私にメッセージを伝えてきたのだ」
「それにしても腑《ふ》に落ちないところがあります。なにもそんな回りくどい方法を取らずに、われわれに直接言えばよいのに」
「直接言うのは、恐かったんだろう」
「沖山に化けて桑原さんに会うほうが、よほど勇気を要しますよ」
「そう言えば、かなり挑戦的なことを言っていたよ。おれは絶対におとなしく消されないとな。それは沖山としての言葉なのか。それとも万波本人の言葉なのか」
「どちらともとれますなあ。実はわれわれが一度やつを襲ったことがあるのです。うまく逃げられてしまいましたがね。ニセモノでも沖山に仕立てて制裁を加えれば、加島組の目には本物のように見える」
「それで加島組の報復を躱《かわ》そうとしたのか。ずいぶんひどいことを考えるもんだね」
「そんな軽蔑《けいべつ》したような言い方をしないでください。いま加島組の連中は、狂犬の群れのようなものだ。あんな連中をまともに相手にできません」
「身代わりの人身御供にされかけた万波にしてみればたまったもんじゃない。そうか、万波の肚《はら》が読めてきたぞ。彼の安全は本物の沖山が現われれば保障される。それでもしかしたら私が沖山をかくまっているかもしれないと踏んで探りに来たんだ。そして同時に大東組に牽制《けんせい》のメッセージを託したんだよ」
「素人のくせになかなかやりますね」
「感心している場合じゃないよ。万波に下手《へた》に手を出さないでくれ。ヘソを曲げられて加島組にたれこまれたら、こちらの命が危なくなる」
「少し考えすぎじゃありませんか」
「私の身にもなってくれ。きみらはいま自分の身を護るのに精一杯だろう。それにまさか暴力団に表立って護ってもらうわけにはいかない」
「万波は、素人にしてはやりますな。しかしやっこさんは調子に乗りすぎた。素人の踏み込むべきではない領域に侵《はい》り込んで来た。おもい知らせてやらなければなりません」
「きみどうするつもりだね」
「われわれに任せてください」
「まさか……きみ」
「やつの口を塞《ふさ》いでしまえば、加島組になにもたれこむこともできなくなります。大丈夫、ご迷惑は絶対にかけません」
「それだけは止めてくれたまえ。手出しさえしなければ、万波だっていたずらに加島組を刺戟《しげき》するようなことはしないだろう」
「考えが甘いですね。いいですか、あんたは万波に弱みを押えられてしまったわけだ。加島組には、万波の一方的意志でいつでもたれこむことができる。万波がその気になったら、いつでも加島組をあんたにけしかけることができるんだ。これは危《やば》いですよ。この際、万波を消してしまえば、その心配はなくなる」
「消すとか、口を塞ぐとか、私には関係ない。私はなにも聞いていないよ」
「それでよろしいのです。汚れ仕事は、すべてわれわれがお引き受けいたしますよ」
「きみたちになにも頼んではいないよ。きみたちの意志によって行なうことは、私はいっさい与《あずか》り知らない」
「大東組は、菱井商事の飼い犬ですらないというわけですかい」
相手の声が険しくなった。桑原は少しうろたえて、
「飼い犬だなんて言ってない。正常なビジネスの範囲内での協力者だとおもっているよ」
「それでは正常なビジネスの範囲の外で行なうことにいたしましょう」
大東組組長平岡時松は、皮肉っぽく言って先に電話を切った。対話者を失った電話器をかかえて桑原は、総会運営で岡崎派に対抗するためとは言え、大東組に頼ったことに臍《ほぞ》を噬《か》んでいた。
岡崎派も加島組と結んでいるから、どっちもどっちであるが、これが世間に知れたら、菱井商事の名前に泥がつく。平岡がいみじくも言ったが、彼らは飼い犬どころか、狼《おおかみ》の群れだ。餌をくれた者に一時的に尻尾《しつぽ》を振ったように見えても、少しでも隙を見せれば、見境なく牙《きば》をひらめかして襲いかかって来る。
絶対に調教されない野性と、餌を得るためなら手段を選ばない残忍さの持ち主である。いま桑原は狼の群れ同士の戦いの中に放り込まれて立ちすくんでいる狡猾《こうかつ》で臆病《おくびよう》な狐《きつね》であった。
井手下は、万波が沖山に化けて桑原に会ったのがどうも気に入らなかった。その素地には、桑原と沖山のつながりがあるはずである。万波はそれを知っている。万波を恐喝未遂でしめ上げれば、二人のつながりを吐かせられるかもしれないが、井手下には万波に負い目がある。万波が大東組に拉致されるのを見送った。それを万波に悟られている。彼はそれをもって対抗してくるにちがいない。そうすれば、加島組との癒着が露顕するおそれがある。
それに万波は、桑原を恐喝に行ったとは単純には考えられない。万波はなにかの意図をかかえて桑原に会ったのだ。桑原はその意図を警察に知られたくなかったのにちがいない。
桑原が、沖山をなんらかのつながりがあってかくまっているとすると、うなずけるものがある。菱井商事の海外支店網を利用すれば、日本の警察の手も及ばない。だが菱井商事ともあろうものが、警察を向こうにまわして、凶悪犯罪者をかくまうだろうか。
井手下には、どうもこの辺のところがわからなかった。ともあれ、菱井商事が沖山の行方にチラチラしてきたことは確かである。
眠りが最も深くなったところに違和感があった。意識が熟睡の底に横たわろうとするのだが、底に凹凸があって、しっくりと馴染まない。輾転《てんてん》反側するうちに、せっかく底まで沈んだ意識がまた覚醒の方に向かって浮かび上がってくる。部屋の中を空気が動いているために眠りが妨げられているようである。
首筋に冷たい風が流れている。おかしい、こんなに隙間風が入るはずはないのだ。どこかの戸、障子を閉め忘れたのか。夢の中で考えているうちに、激しい衝撃を首筋におぼえた。
はっと目覚めると、数個の人影が、自分の寝床を取り巻いている。その中の一人が、枕《まくら》を蹴《け》ったらしい。
「起きろ! 声を出すんじゃない」
押し殺した声が耳のそばでささやいて、鋭利な金属の切っ先が首筋に当てられた。
万波は事態を悟った。加島組か大東組の刺客が襲って来たのである。まさか家の中まで侵《はい》り込んで来るまいとおもっていたのが油断であった。敵はついになりふり構わず、仕掛けて来たのである。
「こっちへ来るんだ」
襟首をつかまれて、寝床から引きずり出された。凄まじい力である。周囲の人影の中から凶器を突きつけられているが、そんなものがなくとも、彼らの一人の腕力にもかないそうもない。
「服を着させてくれ」
万波は、震えながら訴えた。
「その必要はない」
襟首をつかんだ男が、のどの奥で笑った。周辺の男たちが釣られて低く笑う。形容し難い残酷な響きが、その笑いの底にあった。
久連山はどうしているだろうか。万波は隣りの部屋で寝ているはずの久連山が気になった。彼が逸速《いちはや》く気づいて、警察に連絡してくれれば、たすかるチャンスがある。
「ふふ、お友達が気になるようだな」
万波の目線の動きを察したのか、敵が隣室との境の襖《ふすま》の方へ万波の首をねじ向けた。そこにパジャマ姿のまま久連山が引きずり出されてきた。これで万波のチャンスも終止符を打たれた。
「きみたちは何者だ」
万波は、無駄な問いを発した。彼らが加島組、大東組どちらの手の者でも、万波の運命に変わりはない。
「あんたは少しはしゃぎすぎたようだね。まあ素人にしてはよくやったほうだが」
その声にうすい記憶があるようである。大東組に誘拐されたとき、その声の主がいたようであった。
そうか、大東組がまた襲って来たのか。そうだ。桑原から偽沖山が現われたことが大東組に伝わったのだ。大東組は、すぐにそれが偽沖山であることを見破って万波を襲って来たのだ。加島組長の狙撃に、菱井商事の稲葉や、桑原の意志が一枚かんでいることを加島組に密告《たれこみ》してやると脅かしたが、そんなタレコミをされてまずいのは、大東組も同じである。
稲葉と大東組が結んでいることが表沙汰になれば、稲葉は失脚するだろうし、大東組はいいスポンサーを失ってしまう。そこで時をおかず、万波の口を封ずるためにその自宅を襲って来たのであろう。
万波も久連山も、敵がこれほどおもいきった挙に出ようとは予期していなかった。偽者として動いているうちに、自衛のためとは言いながら、いつの間にか偽者の域を出てしまったのである。虎《とら》の尾を踏んで、本当に怒らせてしまった。
万波は、久連山と目を見合わせた。久連山の目の中にも絶望しかない。二人は家の外へ引き立てられた。家の横に見おぼえのある大型外車が、獰猛《どうもう》な獣がうずくまっているように駐《と》まっていた。
「乗るんだ」
敵は顎《あご》をしゃくった。そのときである。
人影が二つに割れて凄まじい争闘の渦が巻きおこった。二人は渦の中心でもみしだかれた。なにが起きたのかよくわからなかった。初めは仲間割れしたのかとおもったが、争っている人影が増えているところを見ると、新たな勢力が襲いかかって来たらしい。
「いまのうちに逃げるんだ」
久連山の声が耳許でした。はっと我に返った万波は、久連山とともに横丁へ飛び込んだ。人影のいくつかが追いかけて来た。このあたり、狭い路地が、迷路のように入り組んでいる。地理はこちらが詳しい。追っ手の気配はしばらく追尾してきたが、地の利を得た二人にしだいに引き離された。二人は路地から路地を息のつづくかぎり走った。
ようやく大通りへ出たところで、ちょうど通りかかった一台の車の前へ飛び出した。いきなり進路を塞いで飛び出した二人の前で、車は急ブレーキをかけて停《と》まった。
「危ないじゃないか! 突然飛び出して」
運転者は詰《なじ》った。
「たすけてくれ。ヤクザに追われているんだ」
二人は運転者に頼んだ。みなりのいい若い男である。マイカーのようであった。
「ヤクザに追われて……? まあとにかくお乗りなさい」
運転者は、二人のパジャマ姿に事情があると察したらしく、ドアを開いてくれた。
「警察まで送りましょうか」
運転者は、二人の様子を目の端で観察しながら落ち着いた声音で言った。
「ええ、おねがいします。いや警察はまずいな」
万波は、警察と大東組がどうやら通じている気配をおもいだした。
「警察はまずい?」
運転者の表情に不審の色が動いた。
「いや、まずいと言うのではありませんが、あまり大袈裟《おおげさ》に騒ぎたてたくないのです」
久連山が慌てて言い訂《なお》した。
「ご事情がおありのようですね。ご心配なく。私は人様のご事情には興味がありませんので。警察がおいやなら、どちらへでもお好みの所へお送りいたしますよ」
ドライバーは、優雅に笑った。
二人は改めて、運転者を見た。年齢は二十代半ばか。端整な面立ちをした青年紳士である。言葉遣いやなにげない身のこなしに職業的な訓練すら感じられるほど洗練されている。服装も一分の隙もない。気鋭の青年実業家といった体《てい》であるが、背後に得体の知れない無気味な雰囲気が靄《もや》っているようである。まともな職業にはない謎《なぞ》めいた靄である。
窮地を救ってくれた相手と、まともに警察に駆け込めないこちらの弱みとのアンバランスな関係が、そんな風に感じさせるのかもしれない。
「どちらへお送りしましょうか」
運転者がうながした。
とりあえず行くべき場所としておもい当たるのは、重代のアパートである。男二人が転がり込むには狭すぎるが、当座の隠れ家はそこ以外にない。久連山が正確な住所をおもいだそうとしていると、万波が先に口を開いた。
「そうだ、申しわけありませんが、ロイヤルホテルへやっていただけませんか」
万波は咄嗟《とつさ》のおもいつきで、勤め先へ身を寄せようとおもったのである。従業員用の休憩室もあるし、部屋を一つ取ってもよい。
「ロイヤルホテルというと、平河町のですか」
「そうです」
「これは偶然ですね。私もあのホテルに部屋を一つ取っているのです」
「あなたがロイヤルホテルに?」
すると、やっぱりビジネスマンであろうか。
「ええ、しかしその姿ではホテルに入りにくいですね」
運転者は、パジャマ姿の二人を見た。
「私はあそこで働いておりますので、従業員用の出入口から、入ります」
「ああ、ホテルの社員の方ですか。それなら問題ないな」
「勤めているのは私で、こちらは私の友人です。申し遅れましたが、私は万波、こちらは久連山と申します」
危急を救ってもらったので、万波は名乗った。
「私は弦間《つるま》と申します。これもなにかのご縁でしょう。もしよろしかったら、今夜私の部屋をお使いいただいてけっこうですよ」
弦間は気さくに言った。
「いやいやそんなにご好意に甘えられません」
有難い申し出であったが、今夜たまたま通り合わせてすくい上げてもらった車の運転者に、そこまで甘えられないとおもった。
「どうぞご遠慮なく、私は家に帰りますからどうせ空いています。ベッドは一つきりないが、エキストラを入れられるでしょう。失礼だが、従業員の休憩室よりは、ゆっくりおやすみになれますよ」
運転者は、従業員用の休憩室を見たことがあるような顔をして言った。結局二人はこの見知らぬ救いの神の好意にすがることにした。
弦間の部屋に落ち着いた二人は、彼が立ち去ってから、
「あの男どことなく得体の知れないところがあるが、信用できるだろうか」
「彼があそこを通りかかったのは偶然だろうから、信用していいんじゃないか」
「部屋を長期に取っているにしてはなんにも荷物がおいてないね」
「連絡用に取っているのかもしれないよ。そういう使い方をする人はわりに多いんだ」
「まあ、とにかくこうなった以上は、じたばたしてもはじまらない。あの正体不明の救いの神にすがることにしようか」
万波と久連山は、少し開き直っていた。
「ところで今夜襲って来た連中は何者だろう」
「一派は大東組だが、もう一派は加島組の手の者じゃないかな」
「とうとう両派から狙われることになったか」
「大東組は偽者を承知の上で、加島組の報復を躱《かわ》すために人身御供に供えようとしたんだろうが、加島組までが偽者を奪いに来たのは解せないな」
「加島組にしても、沖山を制裁したというデモンストレーションをする必要があるよ」
「デモンストレーションのためなら、大東組が、偽者を仕立ててやろうとしているんだから、まかせておけばいいとおもうがね。要するに面子《メンツ》さえ立てばいいんだ」
「末端まで徹底しなかったのか。あるいは、大東組が、本物を庇《かば》うために偽者を仕立てようとしているとおもったのかもしれない」
「どちらにしても両方から狙われることになったか。こりゃあ動きがつかなくなったよ」
大東組、加島組の両派が万波を偽者《そつくり》と承知の上で狙いだしたとすると、もはや万波の浮かぶ瀬はない。警察も信用できないのであるから、まさに四面|楚歌《そか》である。
「久連山さん、どうしたらいいだろう」
万波は、すがるように唯一の味方の顔を見た。しかしこの味方も敵に対抗すべきなんの力もない。二人が途方に暮れた顔を見合わせたとき、電話のベルがけたたましく鳴った。見合わせた二人の顔がギョッとなった。
「どうする?」
「あの弦間とかいう部屋の主にかかってきたんだろう。放っておこう」
二人は咄嗟《とつさ》に了解し合ったが、電話は執拗《しつよう》に鳴りつづける。いったん鳴り止んでホッとしたのも束の間、ふたたびベルに火がついた。
「おかしいな。弦間あてにかけてきたのであれば、彼が夜間いないことを知っているはずだが」
「女からじゃないかな。あの男前だ。この部屋は女とのデート用かもしれない」
「もしかすると弦間本人からかもしれないぞ」
「弦間がどうして電話をかけてくるんだい」
「うまく部屋におさまったかどうか確かめるためさ」
「部屋におさまったのは、知っているはずだがね」
「とにかく出てみようじゃないか。これだけしつこく鳴らすところを見ると、なにか用事があるんだ。まさか大東組や加島組ではあるまい。弦間あてだったら、代わりに用件を聞いておいてやろう」
ようやく意見がまとまって、久連山が電話器を取り上げた。
「やあよかった。警戒されてアンサーされないかとおもいましたよ。いかがです、寝心地は」
弦間の歯切れのよい声が語りかけてきた。
「弦間さんでしたか。これは失礼いたしました。おかげで快適にすごさせていただいてます」
久連山がつい電話器に頭を下げた。
「もうお寝《やす》みかとおもいましたが、お電話を差し上げてしまいました」
「いえまだ二人とも起きておりますよ」
久連山は、相手の言葉になにか含まれているように感じて、話の先を暗《あん》にうながした。
「実は失礼かとおもいましたが、お二人のことを調べさせていただきました」
「私たちを調べた……?」
久連山の言葉に、万波も電話器に耳を寄せてきた。
「いや調べたと申しましても、べつに他意があってのことではございませんから、ご心配なく。万波さんを初めて見たときに、すぐにピンときましたよ。なにしろ、加島組組長を独りで狙撃して勇名を馳《は》せた沖山伸次にそっくりでしょう。最初はてっきり沖山本人かとおもいました。正直言って大変な人を乗せたとおもいましたよ。しかしロイヤルホテルに勤めておられる万波さんと名乗られておやと首を傾《かし》げました。沖山ならそんなすぐにわかるような嘘《うそ》をつくはずがない。あなた方を部屋にお送りしてから従業員に聞きましたら、万波さんは沖山のそっくりだということがわかりました。そのそっくりさんがどうして深夜寝巻姿で逃げ出して来たのか。私はお二人をお送りした足で万波さんの自宅付近に戻って、今夜お宅の前で暴力団同士の抗争があったことを聞き込みました。小ぜり合い程度で、どちらにも深刻な怪我人はなかった模様でした。私が行ったときは、すでに暴力団は逃げた後でパトカーが来ていました。しかし、暴力団からなぜ万波さんが逃げなければならないのか。万波さんは沖山にそっくりではあるが、沖山ではない。私は非常に興味をもちましてね。沖山が地に潜ってしまったので、暴力団としては、沖山を制裁して面子を立てることができない。それでこの際、そっくりでも止むを得ない、万波さんを処刑して世間にデモンストレーションをしようとしたのではないでしょうか」
久連山と万波は驚嘆した。まだ知り合っていくらも時間が経っていないのに、これだけの調べをして正確な読みをしている。
「弦間さん、あなたは、あなたはいったいどんな方なのですか」
久連山は驚愕のあまり喘《あえ》いだ。
「実はね、私は調査エージェントなのです。私立探偵のようなものです。職業柄、弥次馬根性が旺盛でしてね、つい要《い》らざる詮索《せんさく》をしてしまいました。しかし、万波さんの陥った状態は深刻だとおもいました。暴力団がそっくりを承知の上で、世間へのデモのためにリンチにかけようとしているのであれば、これは容易ならざることですな」
万波は怺《こら》えきれなくなって、久連山の手から電話器を奪い取った。
「弦間さん、万波です。そこまでお見通しでしたら、なんとかこの窮地から脱《のが》れる方法についてお考えはありませんか」
未知同様の相手であったが、いまは彼以外にすがる人間がいない。
「そうおっしゃられても、私もしがない調査屋ですからね、暴力団相手ではお力になれません」
弦間は、急に突き放すような口調になった。
「でもわざわざ電話をかけてきてくださったのは、なにかお考えがあってのことではありませんか」
万波は必死にしがみついた。ここで弦間から突き放されたら、もはやどちらの方角にも逃げ路がない。弦間が深夜これだけの調査をして電話をしてきたのは、弥次馬根性だけからではないような気がした。
「まあちょっと気になることがありましてね」
弦間の口調がまたなにかを含んだ。
「気になることと言いますと?」
「あなたは警察へ救いを求めるのを避けましたね。なぜですか。あなたを暴力団から守れるのは、警察以外にないとおもうのですが」
「それは……警察も暴力団とグルになっている節《ふし》が見えたからなのです」
「警察も暴力団とグル?」
弦間はますます興味をかき立てられたようである。万波は、大東組に誘拐されたとき、警察の護衛が傍観していた事実を話した。
「どうも事情が複雑なようですね。電話ではなんですから、もしさしつかえなかったらこれからおうかがいして直接おたずねしたいとおもいます」
万波と久連山は顔を見合わせてうなずいた。まだはっきりと得体のつかめない相手ながら、いまは弦間にすべての事情を話して、すがろうと了解し合ったのである。
待つ間もなく弦間は部屋に来た。二人からこれまでの経緯を聞いている間に、弦間の目は光ってきた。彼が熱っぽい興味を寄せていることは、その様子からも明らかである。
「菱井商事が事実からんでいるとなると、これは重大ですね。あなたを襲って来た者には、菱井の意志が働いているかもしれない」
「稲葉や桑原が大東組をけしかけたとおっしゃるのですか」
「その可能性はたぶんにあります。彼らにしてみれば、加島組組長襲撃に手を貸した事実を加島組にたれこまれたら一大事ですからね。そんなことをされる前になんとしてもあなたの口を塞がなければならない」
「私が偽者だということは、どうして桑原たちにわかったのでしょう」
「そんなことは大東組に連絡を取れば、すぐにわかります」
「私が沖山に化けて桑原を脅かしたのが、裏目に出たのでしょうか」
「そうともかぎりません。彼らがあなたの自宅にまで撲り込んで来たのは、うろたえている証拠ですよ。今度はこちらから返礼をしてやりませんか?」
「返礼?」
「加島組にたれこんでやるのです。そしてそのことを稲葉や桑原に通告してやるのです。彼らとしてはあなたにたれこまれる前に口を塞ごうとしているのですから、あなたがたれこんでしまった後では、あなたの口を塞ぐ意味がなくなります」
「彼らは報復してこないでしょうか」
「いまさらなにをおっしゃるのです。これだけ首を突っ込んでしまった後では、無色には還《かえ》れませんよ。あなたは、菱井商事に一矢報いたいのでしょう」
「そうです、そのとおりです」
「だったら恐れることはありません。菱井商事に堂々と宣戦布告してやりなさい。菱井商事を二分する一方の勢力が慄《ふる》え上がりますよ。二大派閥が、暴力団を手先に使って盛大な攻防戦を繰り広げてくれれば、これは天下の菱井といえども揺るぎます」
弦間は面白がっているようであった。弦間に示唆されて万波は気がついた。口を封じられる前にしゃべってしまえば、封じる意味がなくなる。こちらの擁した武器をこの際ためらわずに使うことが、最大の防禦《ぼうぎよ》となり、窮地から脱出する有効な方法であった。
万波と久連山は、万波の勤め先にいては危険だという弦間の勧めに従って、都内の目立たないホテルへ移った。
「お二人は大東組や加島組に宣戦布告をしたのです。これから当分ぼくにお二人の身柄をまかせませんか。あなた方の安全は保障してあげます」
弦間は言った。
「有難うございます。しかしどうしてそんなにわれわれに親切にしてくださるのですか」
「私も菱井商事に反感をもっている者とご理解ください。菱井商事をめぐって、大東組と加島組を噛み合わせたいのです」
弦間の正体は依然としてつかめない。
彼の若さで一種の無気味な底知れなさをもっている。情報|蒐集《しゆうしゆう》エージェントだと言っていたが、だれのためにどんな情報を集めているのかわからない。だがいまはこの得体の知れない相手だけが、二人の味方であった。
弦間は単に好奇心や弥次馬根性だけで二人に味方してくれているのではあるまい。いずれなんらかの魂胆をかかえているはずであるが、どんな魂胆があるにせよ、彼の庇護《ひご》の下にだけ、日本最大の暴力団の追及を晦《くら》ます場所がある。いま彼らは行方の定まらぬ乗り物に身を預けているような心境であった。
吊《つ》るし上げられたブルーマウンテン
「桑原さんか、大東組からの挨拶はたしかにうけ取ったよ」
「きみは、沖山の偽者だな。これ以上なにを言いたいのだ」
交換台から取り次がれた電話に桑原は精一杯虚勢を張って答えた。
「おれがなにを言いたいか、あんたはよく知っているはずだよ。加島組にたれこまれるのがよほど恐いようだから、もうおれの口を塞ぐ必要がないようにしてやったよ」
「どういう意味だね」
桑原は、不吉な予感に耐えて聞いた。
「ご希望どおり、加島組にたれこんだのさ。あんたが組長襲撃に手を貸した事実をな」
「なんだと?!」
桑原の体の芯《しん》の方から震えが上ってきた。事態は最も恐れていた方角に向かって転がっていったのである。
「まあ身辺に注意したほうがいいよ。沖山にあんたや稲葉さんが手を貸したと知って加島組は怒り狂っている。もうおれの口を塞ごうとしても無駄だよ」
「きみ、冗談は止めたまえ。われわれは加島組や沖山になんの関係もないと言っただろう」
桑原の声は半泣きになった。
「それは加島組の鉄砲弾に言うんだな。もうそろそろ威勢のいいのが飛んでいくころだぜ」
「ああなんということをしてくれたのだ。頼む、加島組にきみから言ったことはでたらめだと取り消してくれ。きみの欲しいものはなんでもやる」
「この期《ご》におよんでなにを言うか、おれはあんたが差し向けた大東組に昨夜危うく殺されかかったんだ。あんたもその恐怖をじっくりと味わうといい」
「私は大東組なんか差し向けない」
「あんたが差し向けないで、よくおれが沖山の偽者だとわかったな。大東組と連絡を取ってわかったんだろう」
「ちがう! おねがいだ。私には家族がいる。会社の地位もある。ヤクザ同士のいざこざに巻き込まないでくれ。きみの欲しいものは、なんでもやる」
「自分のほうからいざこざの中に入っていったくせに何を言うか。こっちも命を張っているんだ。大東組に二度も殺されかけている。今度捕まったら命はない。加島組からも狙われている。あんたのほうがおれより条件はいい」
「会いたい。いまどこにいるんだ。どこへでも行く。会って話し合いたい」
「こちらには話すことなんかないね」
「おねがいだ。もしまだ加島組に密告する前なら止めて……」
相手の言葉を半ばに万波は電話を切った。
「案の定、桑原のやつ慄え上がっていた」
「どうやら加島組へのタレコミはこちらのはったりだとおもっているらしいな」
「さてこれで加島組はどう出るかだ」
「桑原はビッグビジネスのエリートだから、対立ヤクザに撲り込みをかけるようなわけにはいかないだろう。むしろ心理的な圧力をかけてくるにちがいない」
「それが桑原らにとっては拷問だな。自衛上桑原らも身辺の護りを固くするだろうが、そのガードマンの大東組が立つと、菱井商事をはさんで大東組対加島組の対立がますます激しくなる」
「それが狙いだったんだろう」
「それにしても、弦間という人は不思議な人だね。菱井商事がからんでいると知ってから急に熱心になった」
「あの人も菱井に怨みでも含んでいるのかな」
「菱井に反感をもっていると言っていたが、きっと菱井と利害関係が対立しているんだろう」
「どんな関係かよくわからないが、われわれにとっては頼もしい味方だ」
「正体ははっきりしないが、いまのわれわれには、あの人に頼る以外にない」
万波と久連山が宣戦布告の電話の反応を臆測しているとき、桑原は動転して、大東組組長平岡時松と連絡を取り合っていた。
「いま万波から電話がきて、加島組にたれこんだと言っていた。いったいこれはどうしたことなんだね」
桑原は、のっけから難詰した。
「いやそれがおもわぬ横槍《よこやり》が入ったんですよ」
「横槍だって?」
「加島組の連中と鉢合わせをしてしまったんです」
「加島組とだって」
「あいつらも万波を狙っていたのです。やはり考えることは同じらしい」
「偽者を処刑して世間にデモンストレーションをするためにか」
「そうです」
「デモのためなら、大東組にまかせておけばいいものを。要するに沖山を処刑したことを世間に知らせれば、面目は立つんだろう」
「加島組も偽者を承知で来たからには、本物が見つかるまでの時間稼ぎと言うより、偽者を自分たちの手で始末して、われわれに本物を庇えなくさせる含みがあったのでしょう」
「とにかく困ったことになった。加島組に狙われたら生きていけない」
「そんなにおたおたすることはありませんよ。われわれが付いています」
「そのあんたたちが、とりあえず沖山の身代わりを人身御供に差し出して、加島組の報復を躱そうとしているんじゃないか」
「われわれが頼りないとおっしゃるなら、ガードマンを雇っていただいてけっこうですぜ」
「そうするつもりだよ。きみらにこれ以上身辺をうろうろされたら、かえって加島組を刺戟してしまう」
桑原は、平岡と話していることの無意味さを悟って電話を切った。加島組に狙われても大東組に護衛を頼めない。そんなことをすれば、菱井商事をヤクザ戦争の戦場にしてしまう。
加島組から消される前に、菱井商事の社籍を消されてしまうだろう。沖山にホテルの合鍵を渡すように画策したのは、稲葉の指示によるものである。稲葉がなぜ加島政知襲撃に関わったのか測り知れないが、加島組に稲葉の命令でやったことだと言い開きしたところで通用しない。このような場合は、日頃の恩誼《おんぎ》に報いるために、上司の責任までも背負うのが、サラリーマンの仁義というものである。
しかし、万波が稲葉の名前も加島組に密告したとなると、いちおう稲葉の耳にも入れておいたほうがいいだろう。桑原は、恐る恐るといった体《てい》で、万波との経緯を稲葉栄一郎に注進した。
「馬鹿者!」
桑原の注進を聞いた稲葉の雷が下った。「稲妻」の別名にたがわぬ迫力のある音声であった。おもわず首をすくめた桑原に、
「それくらいのことは自分の裁量で処理したまえ。たかがヤクザのいざこざに、わしを引っ張り込むやつがあるか」
「は、はい。まことにおおせのとおりでございますが、なにぶん相手は常識の通じない無法者の集団でございますので、いちおうご注意なさったほうがよろしいかと考えまして」
「沖山のそっくりがなにを言おうと、なにをしようと、わしはいっさい知らん。そういうことをすべてわしに代わって処理するために、きみがいるのだ。しっかりしてくれたまえよ」
それだけ言うと、稲葉は追いはらうように手を振った。自分が加島のホテルの合鍵を沖山に渡すように指示したことは、完全に忘れているようである。
稲葉とコンビを組んでここまで上って来たが、桑原はいまだに稲葉を信頼しきれない。桑原の今日あるのは、すべて稲葉のおかげと言ってよいのだが、彼にとっての桑原はトカゲの尾にすぎないのではないのか。自分の身に危険が迫れば、桑原を尾として容赦なく切断してしまう。そんなヒヤリとした冷たさを稲葉は内蔵している。
稲葉のこれまでの、目的のためには悪魔とでも手を結ぶ悪辣《あくらつ》な手段をだれよりもよく知っているのが桑原である。ライバルを蹴落とすために怪文書を流したり、敵の骨を斬るために自らの肉を抉《えぐ》ることも辞さなかった。彼の人脈は政、官、財界から右翼、検察庁、警察、マスコミ、暴力団と多岐にわたり、その触手はアメーバのように複雑である。
再合同後の菱井商事を高度成長の高波に乗せ、営業トップの位置に押し上げた立役者であり、現社長岡崎太吉をしのぐ実権を握っている。現に岡崎に諮《はか》らずに独断で進めているビッグプロジェクトがいくつもある。
それだけ猛烈な軌跡を刻んでのし上がってきただけに稲葉の進んだ後は死屍累々であった。彼の進路を阻んだ者、抵触した者は、ことごとく斬り捨てられた。
その稲葉の前面に立って彼の悪行の代行をつとめたのが、桑原である。言わば彼は稲葉軍団の斬込み隊長である。稲葉にずいぶん引き立てられたことはたしかだが、稲葉も桑原に負うところが大きい。いまさらトカゲのシッポとして斬りすてられてたまるかという意識が、桑原にはある。
しかし今度は手を結んだ悪魔が悪かった。絶対に手を結ぶべきではない悪魔と組んだツケをいま支払わされようとしている。加島組が相手ではどうしようもない。ガードマンを雇ったところで、凶器で武装した暴力団の殺し屋相手では、なにほどの抑えにもならないし、だいいちガードマンに護られて仕事などできない。
大東組と、稲葉栄一郎から袖にされて桑原は、いよいよ自分を断ち切られた尾のように感じてきた。
万波と久連山は都心から少しはずれた目立たないホテルに潜伏していた。ここなら安全と、弦間が世話してくれたホテルである。万波の勤め先は当分|欠《やす》むことにした。とりあえず年次の有給休暇を振り当て、それを使いきった時点で、なにかの病気≠ノなるつもりであった。
妻子に逃げられた独身≠ネので、気が楽である。菱井商事と日本の二大暴力団を向こうにまわして戦っているという意識は、彼らに開き直ったような度胸をあたえていた。いつまでも隠れつづけていられるものではないが、そのときはそのときという居直りがある。
その後、菱井商事と加島組には表立った動きは見られないが、桑原が戦々恐々としていると、弦間が教えてくれた。いまは加島組の反応待ちといった状態である。沖山の行方は依然としてわからない。
「私がいま興味をもっている点は、桑原がなぜ沖山に合鍵を渡すように工作したかということです」
弦間は二人の潜伏ホテルに来て言った。
「桑原は、日頃の誼《よしみ》からだと言ってましたが」
「さあそれですよ。菱井商事とヤクザの日頃の誼とはなにか」
「ヤクザと言っても暗い面だけではなく、総会荒らしの楯《たて》になったり、情報蒐集に当たったりすると弁明しておりました」
「公式発言ですね。大東組組員に、加島組組長の部屋の合鍵を渡すことは、暗殺≠ノ手を貸したのと同じです。そのときは直前のホテルキャンセルで未遂に終わりましたが、もし成功していたら、稲葉や桑原は共犯になる。これは日頃の誼程度でできることじゃありませんね」
「加島の予約は、岡崎派の総務のほうから入っています。岡崎派に対抗するために大東組に肩入れしたとは……」
「そういうことは、あり得ないですね」
口をはさんだ久連山をピシャリと遮《さえぎ》って、弦間は、
「対立派閥に対抗するために、敵方と見なされる暴力団組長暗殺に手を貸すなどということはビッグビジネスのトップには考えられないことです。加島政知を狙ったについては、もっと確固たる理由があったはずです。それを知りたい」
弦間は腕を組んだ。
「確固たる理由とおっしゃると、稲葉らが加島になにか弱みを握られたというような……」
「そう、それですよ。稲葉栄一郎と桑原良成は、加島政知になにか弱みを握られていたにちがいない」
「すると沖山の加島暗殺の黒幕は、稲葉だということですか」
「ぼくはそう見ていますね。大東組は隠れ蓑《みの》にすぎない」
「しかし、桑原は沖山の行方を本当に知らないようでしたよ」
「知る必要がないからですよ。沖山は凶器です。使用ずみの凶器は身辺からできるだけ引き離しておいたほうが安全です。実行は大東組に担当させて、背後に稲葉の意志があるだけでしょうね」
「稲葉らの弱みとはなんでしょうか」
「それが確かめられれば、菱井の大屋台を揺すぶれるんだが」
弦間は口惜しげに口を結んだ。
大東組と加島組から狙われていると言っても、本来狙われるべき筋合いではない。彼らとしても二度までも失敗しては、気が抜けてしまったにちがいない。あくまでもデモンストレーションのための人身御供であるから、偽者の存在が知れわたってしまっては、意味がなくなる。――と、万波は自分に都合のよい解釈を施して徐々に警戒の構えを解いていった。それに、あるかどうかわからない襲撃に備えて緊張しつづけられるものではない。
万波と協力して沖山を探していた久連山も最近ちょっと中だるみといった体《てい》である。もし沖山がどこかで人知れず始末されていたらと考えると、虚《むな》しくならざるを得ない。彼の唯一の支えは、大東組と加島組が万波を狙った事実である。
沖山を処刑していれば、彼らは必ずその事実を世間にPRするはずである。それをしなければ、処刑の意味がない。それをせずに万波を追いかけているのは、沖山がまだ無事な証拠だ。しかしそれにしても沖山はどこへ消えたのか。久連山の手持ちの金もそろそろ乏しくなってきた。座食しているだけだから、多少の蓄えはすぐに底をついてしまう。羽代市から久連山といっしょに上京して来た重代がマッサージで養ってくれているが、いつまでもヒモのような真似をやってはいられない。
経済面から追いつめられかけたとき、事態に一つの波紋が生じた。
万波は、遠目ながらはっとした。たしかに見おぼえのある人間の後ろ姿が、エレベーターに消えていくのを見かけたのである。
「どなたか存じよりの人のようですね」
かたわらに居合わせた弦間が目敏く気配に気づいた。
「私の家内です」
「奥さんが!」
「別れたも同然の女房ですがね。加枝がこのホテルになんの用だろう」
万波は首を傾げてエレベーターの搬機|表示盤《インジケーター》を見つめた。妻にはこのホテルにいることを連絡していないし、連絡したところで会いに来るはずがない。会いに来たとすればべつの人間である。インジケーターのサインは十階で停止した。加枝の乗った搬機《ケージ》には、彼女一人しか乗らなかったから十階が行く先であろう。
エレベーターに乗り込んだ妻の後ろ姿に、ロイヤルホテルで男と待ち合わせていた彼女の姿が重なった。万波は心にうなずくことがあってフロントへ行った。折りよく顔なじみのフロント係が居合わせた。彼は、加枝のパートナーの特徴をフロント係に描写して、十階に泊まっているはずだが名前を忘れてしまったので教えてくれと言った。
加枝の情事の相手がその後変わっていなければ、特徴が符合するはずである。
「それでしたらきっと伏谷様だとおもいます」
フロントはいとも素直に答えた。
「ふせや?」
「はい、芙蓉銀行副頭取の伏谷義郎様でございます。十階にお部屋を取っておられます」
「ああ、伏谷副頭取ね、おもいだしたよ」
万波は咄嗟《とつさ》に調子を合わせた。妻の不倫のパートナーは、そんな大物だったのか。どこで咥《くわ》えこんだのか知らないが、ロイヤルホテルで万波に「水をかけられて」から、こんな所にホテルを変えて関係を持続していたらしい。その新しいホテルに夫が潜伏していたとは皮肉なめぐり合わせである。
「どうやら奥さんの浮気の相手がおわかりになったようですな」
弦間が、すべての事情をのみこんだような表情をして覗《のぞ》き込んだ。この男は年齢の割りには女に関してひどく老成しているようなところがある。女に対して鍛え上げられたしたたかさと練達を感じさせられる。
「芙蓉銀行の副頭取だそうです」
「ほう、そりゃ大物ですな」
弦間の顔が驚いた。
「いったいどこで引っかけやがったんだろう。そうか、歯科医の受付をしている間に金持患者の中から拾ったんだ」
語尾は、独り言になった。さすがに万波は複雑な気分であった。いまは別居して離婚したも同様であるが、同じホテルの中で妻が他の男に抱かれている。しかし、もう一度水をかけに行く気にはなれなかった。
いまは、夫の義務をなに一つ果たしていないのである。妻に水をかける権利もない。
彼らはかなり頻繁に会っていた。加枝は別居したのをよいことに男との情事を愉《たの》しんでいるらしい。万波に現場を押えられたときの、ぶざまなけんかはその後和解したのであろう。いったんルートのついた男女は、そう簡単に別れられない。伏谷の都合のよい時間にそのホテルで共に過ごした後、なに食わぬ顔をしてべつべつに帰って行くというのが彼らの情事のパターンのようであった。
だがその日は、パターンに変化が生じた。
その日、伏谷の部屋に二人の男の客が来た。伏谷の部屋に加枝以外の訪問者が来たのは、初めてのようである。その部屋は伏谷の隠れ場所であり、そこへ人を呼んだのは、内密の用件であるからであろう。
だが伏谷の隠れ場所が同時に万波たちの隠れ場所であったのを知らなかったのは、不覚であった。
まして万波たちは閑にまかせて、伏谷の部屋をマークしていた。彼らは伏谷の部屋の新たな訪問客に興味をもった。
「あれは、稲葉栄一郎と安中《あんなか》道俊だ」
二人の来客の顔を、万波は知っていた。
「稲葉栄一郎?! すると彼が菱井商事のか」
久連山がびっくりした。
「そうだ。まちがいない。もう一人は安中商事の社長安中道俊だよ。どちらも業界では大立者だから、顔を知っている」
「稲葉と安中が何の用事で伏谷を訪ねて来たんだろう」
「わからない。しかしどちらも忍びで来ているところを見ると、この訪問を人に知られたくないらしいね」
「菱井商事と安中商事はライバル同士なんだろう」
「どちらも上位十社に入る大手で、張り合っているね。安中は鉄鋼専門商社の性格が強かったが、最近総合化路線を目ざしている」
「そのライバルのトップが、伏谷をはさんでなにを話そうと言うんだろう」
「銀行とライバル商社の三者会談か。どうもきな臭い感じだな。弦間さんに連絡しよう。なにかあの人に役立つ情報が拾えるかもしれない」
その時点では、自分たちの興味よりも、世話になっている弦間の多少なりとも役に立ちたいという気持ちが先行していた。案の定、弦間は非常に興味をもった。
安中商事が、アメリカ資本の石油会社と提携してはじめた海外プロジェクトが挫折《ざせつ》つづきで、苦境に立たされているという予備知識があったから、この秘密の三者会談にピンとくるものがあった。
「これはとてつもない獲物かもしれません。よくおしえてくれました」
弦間は、たいへん喜んだ。それから後の弦間の動きは見事であった。直ちに伏谷の隣りの部屋を押え、壁に高性能のマイクを仕掛けて、四六時中張り込んだ。この三者会談が一回だけに終わらないことを予測して網を張ったのである。
獲物はなかなかセカンドコールしてくれない。べつの副産物≠ェ網にかかって弦間を苦笑させた。
弦間は、万波の妻の睦言《ピロウトーク》から、彼女の身体の内容までほぼ正確に推測できた。万波の未耕の部分を伏谷によって耕されている。弦間は副産物を万波から隠して、獲物が戻って来るのを根気よく待った。
獲物はついに来た。十分に絞られた網の中に獲物たちは網の気配も知らずにすっぽりと入って来た。
かかった獲物は予想した以上に大きかった。
「安中商事がアメリカの石油事業に手を出したのがうまくいかなくて沈没寸前になったのを芙蓉銀行の口ききで菱井商事との合併話を進めているのですよ。芙蓉銀行としてもここで安中に沈まれたらこれまでの融資がそれこそ水の泡になってしまう。菱井としても安中との合併はいろいろメリットが多い。そこで伏谷と稲葉と安中が寄り集まって密議をこらしているのです」
さすがの弦間が興奮を抑えきれない口吻《こうふん》であった。
「どうしてあんなに人目を避けているのですか」
久連山が質《たず》ねた。
「こういう合併話は事前に漏れると、つぶされてしまうおそれが多いのです。まず、菱井商事の主力銀行の菱井銀行が黙っていないでしょうし、それぞれの社内にも反対派がいる」
「菱井商事から稲葉が来ているところを見ると、岡崎派は反対らしいな」
万波が言った。
「まず岡崎は反対でしょうね。いや反対と言うより、完全につんぼ桟敷におかれているでしょう。もともと岡崎は、慎重居士です。沈没寸前の安中をかかえこむような危険な賭《か》けは絶対にしないでしょう。いかに安中の商権に魅力があっても危険が大きすぎる」
「稲葉はどうしてそんな危険な賭けをしようとしているのですか」
久連山が聞いた。
「この合併が成立すれば、菱井は文句なく業界トップの位置に立てます。そうはさせたくありません。合併の立役者として稲葉の比重はグンと増します。稲葉体制の布陣ですね。稲葉の体質は勝負師ですからね。スタンドプレーを狙っているのですよ。私のほうの事情がありまして安中商事も助けたくないのです」
「すると、この話を岡崎派の耳に入れたらおもしろいことになりますね」
「蜂《はち》の巣を突いたような騒ぎになります。稲葉としては、常務会にかける前に重役陣に根まわしをして、票を固めておいてから、公表するつもりなのでしょう。事前に漏れたらまずつぶされますね」
三人は、それぞれの思惑をこめて互いの目を見合った。
小林|康弘《やすひろ》は、地下鉄に乗って間もなく、その女を意識するようになった。肉づきのよい若い女である。平凡な造作であるが、髪型や化粧のセンスがいい。女の躰《からだ》の要所要所に過不足なく肉が実って、中年の意地汚ない想像を刺戟する。いわゆる「男好き」のするタイプである。服装もなかなか洗練されている。OLにしてはやや頽《くず》れた雰囲気があり、夜の職業の女にしては、素人くさいところがある。
だが最近は、外見や雰囲気から女の素姓を判断できなくなっている。電車は、夕方のラッシュ時にかかっていたが、朝ほどではない。小林が女を意識するようになったのは、乗り込んで間もなくである。彼女も同じ駅からいっしょに乗り込んで来た様子であり、吊《つ》り皮にもありつけず、通路に体を寄せ合う形で立っていた。電車の動揺とともに二人の身体はいやおうなく触れ合う。満員の通勤車内は不愉快であるが、そろそろ若い女に縁遠くなった中年男が、彼女らに接触≠ナきる唯一の機会でもある。
だが、どんなに混んでいても、電車に乗り合わせた他人同士はそのような接触を最小限にするように姿勢を工夫するものである。特に若い女性は、未知の男に対して身を構える。体が止むを得ず密着しても、心に何重もの鎧《よろい》を着ている。強制的な接触によって、かえって鎧の厚着をするのである。
それが今日の女はちがう。明らかに電車の動揺によるものとはちがう身体の動きを伝えてくる。そこには当然、相手の意志が働いている。小林は女の意志的な動きを感じ取った。どんな男でも、女のそのような動きには敏感である。
小林は、これが噂《うわさ》に聞いた痴女≠ナあろうかとおもった。かねてよりそんな女にめぐり会ってみたいと願っていたが、ようやくその機会に見《まみ》えたのか。年甲斐《としがい》もなく、小林の体の芯が熱くなった。
それとなく女の顔色をうかがったが、まったく素知らぬ顔をしている。これも耳学問による痴女の特徴に符合していた。
小林の動揺を知ってか、知らずか、女の動きは、ますます大胆になった。もし相手が痴女でない場合は、たいへんバツの悪い立場に立たされるので、小林はさりげなく探りの反応を入れてみた。彼女ははっきりと再反応してきた。
もはやまちがいはない。彼女は痴女であり、小林に誘い《バン》をかけている。小林と女の周囲に透明な膜が張りめぐらされ、二人は群衆の中央に隔絶された密室の中で交わっていた。群衆からは見えないが、こちらからは群衆が見える。一種のマジックミラー越しの交接であり、衣服を着たままでの情事であるだけに、生《なま》のセックスよりも卑猥《ひわい》であり、想像による拡大があった。
女も小林の意を汲み取り、さらに大胆に、放恣《ほうし》に反応してきた。女の指先には職業的に訓練されたかのような熟練が感じられた。こんな経験が初めての小林は有頂天になり、耐えられなくなった。
最高潮に達する直前に、地下鉄はターミナルへ着いた。女は、信じられないほど唐突に身体を退《ひ》いてホームへ下りた。あとに小林だけが中途半端な姿勢のまま取り残された。彼は何ものかに女を奪われたような気がした。
電車の扉が閉まる直前、小林は我に返ってホームへ飛び下り、女の後を追った。こんな形で放り出されては、おさまりがつかない。また、こんな機会は二度とないだろう。女のほうからアプローチして来たのであるから、この結着をつけてもらわなければならない。
小林は階段の上がり口でようやく女に追いついた。「ちょっとお待ちください」と呼びとめたものの、後の言葉がつづかない。女は振り返って、「なにかご用でしょうか」と問い返した。たったいまの車内情事≠ネど、まったく憶《おぼ》えがないような涼しい顔をしている。
小林は、一瞬人まちがいをしたかとおもったほどである。だが、たしかにその女であった。
「あのう、ちょっとその辺でお茶でもいかがでしょうか」
とりあえずそんなところから切り出さざるを得ない。
「あら、私と?」
女はニコリと笑って、ちょっとためらう素振りを見せてから、
「私でよろしかったら」とうなずいた。
小林は、まだ脈があると、内心大いに奮い立った。もよりの喫茶店に連れ込んで、さて話の続きをどのように追完させたものかと思案していると、いきなり女の席の隣りに、小林と対《むか》い合う形で坐った者がある。小林の知らない若い男である。一寸の隙もない服装に、うすい色つきの眼鏡をかけている。小林がその不作法を咎《とが》める目を向けると、男はやんわりと笑って、
「なにか家内にご用事がおありのようですね」
と小林の下心を見透かしたような視線を切り返してきた。小林はうろたえた。亭主がそばにいたとは知らなかった。それでは車内情事≠フ一部始終を彼に見られてしまったかもしれない。
「ぼ、ぼくはべつになにも奥さんにしていない」
動転したあまりに言わずもがなのことを口走ってしまった。
「私は、あなたが家内になにかしたかなどと咎めていませんよ」
男の態度には余裕がある。小林のほうが二倍近い年齢を重ねておりながら、立ち上がりから、相手に急所をつかまれていた。
「あなたの奥さんとは知らなかったので、ただお茶に誘っただけです」
小林は、額の汗を拭った。
「どうぞどうぞ。こんな女でお茶のお相手がつとまるなら、いくらでもお貸ししますよ」
と言いながら、男は、席を立とうともせずウェイトレスに新たなオーダーを追加した。
「それでは、ぼくはこれで……」
間もなく運ばれて来たオーダーに形ばかりに口をつけると、小林は尻をもぞもぞさせた。
「まあいいじゃありませんか。せっかくお知り合いになれたのに。家内ももっと話したがっておりますよ」
その「家内」が、男に対する小林の弱みとなっているのである。
「ちょっと他に約束もありますので」
「おや、お閑《ひま》なので家内をお誘いくださったのではないので?」
「いやそのう、ちょっと……それまで少し時間があったものですから」
「それでは、ほんの閑つぶしに家内をお誘いくださったのですか」
男の言葉はねっとりとからみつくようである。
「決してそんなつもりはありませんが……」
「それならよろしいじゃありませんか、小林さん」
男は一直線に小林を見つめた。小林は、ハッとした。
「きみは、どうしてぼくの名前を知っているのだ」
小林は身構えた。もしかするとこれは新型の美人局《つつもたせ》かもしれないとおもった。
「菱井商事の総務部長小林康弘氏ですね。お名前はかねがねうけたまわっておりました」
そのとき小林は、網を張られていたことを悟った。
痴女も小林の身分を知って近づいて来たのである。
「きみたちは、何者なんだ。いったいなんの魂胆があってこんなことをしたんだね」
小林は、体勢を立て直した。
「べつに悪意があってしたことではございません。失礼ですが、最初に家内に仕掛けられたのは、あなたのほうではございませんか」
男の慇懃《いんぎん》な言葉の底に含まれたしたたかさに小林は、たちまち腰砕けになった。女が誘いをかけたのであるが、それに乗って、積極的に手を出したのは、小林のほうである。
一流商社の部長ともあろう身が、地下鉄の中で人妻に猥褻《わいせつ》行為を仕掛けたとあっては、申し開きが立たない。相手が網を張っていたという証拠はないのである。
「まあ私どももその件に関しては、表沙汰にするつもりはありません。男にはよくあることですから」
男は、小林の弱みをつかんだ絶対的優勢に立って余裕を見せた。
「私にどんな用事があるのかね」
小林は、彼がなんらかの意図をかかえて近づいて来たのを悟った。
「実は、あなたに、いや菱井商事さんにささやかなプレゼントがございましてね」
「菱井にプレゼントだって?」
「岡崎社長が非常にお喜びになるとおもいますよ」
男は、小林が岡崎の腹心であることを知っているような口ぶりである。
「きみはだれだね」
「岡崎社長やあなたに好意をもっている者とだけ申しておきましょう。プレゼントはこれでございます」
男は、デスクの上にカセットテープを置いた。
「なんだね。これは」
怪訝《けげん》の目を向けた小林に、男は、
「ある秘密会談の模様を盗聴器を仕掛けて録音したものです。再生すれば、話し手がだれか、どんな問題について密談を交わしているかおわかりになるでしょう」
「名前も名乗らない。身分もわからない人間から故なくものをもらうわけにはいかないね」
「そうおっしゃるとおもいました。それではテープの内容についてちょっとだけヒントをあげましょう。これは稲葉副社長の菱井商事と安中商事を合併させるための秘密工作会談です」
「菱井と安中の合併だって?! 稲葉副社長が、まさか! でたらめもいいかげんにしたまえ」
まさに「青天の霹靂《へきれき》」を浴びせられて、小林は愕然《がくぜん》とした。
「お信じになるならないはご自由ですが、まずテープをお聞きになってから判断してください。あなたや岡崎社長にとって、必ずメリットになる内容だとおもいます。それでは私はこれで」
男は、淡い色の入ったサングラスの底でわずかに笑うと、女をうながして立ち上がった。
「待ってくれ。きみはなぜこのテープをぼくに提供したのだ」
小林は、呼びとめた。
「ですから申し上げたでしょう。あなたや岡崎社長のシンパだからです」
男は余裕たっぷりに笑った。その手にはいつの間にか伝票がつかまれている。
菱井商事の最終意志決定機関である定時常務会は、毎月第一月躍日の朝開かれる。憂鬱《ブルー》な月曜日《マンデー》をもじって社内では、「ブルマン会」と称《よ》ばれているが、それは高雅なコーヒー「ブルーマウンテン」をもじってエリートに掛けている。
事実、常務会では、ブルーマウンテンが出席者に供されるのである。この一杯のコーヒーに、菱井商事の首脳陣としての誇りや責任が象徴されているわけであった。
だが、その朝は、第一月曜日ではないのにもかかわらず、常務会のメンバーに非常招集がかけられた。ほとんどのメンバーはまだ出社前で、自宅において総務部から臨時常務会招集の連絡をうけた。その連絡に稲葉をはじめ稲葉派のメンバーは不吉な予感を抱き、中立派は不審をもった。
これまで常務会の招集は社長直属の秘書室を通して行なわれた。それが今回にかぎって総務部の方からきたのである。しかも時ならぬ招集である。メンバーはなにか異常な気配を感じ取った。
自宅で迎えの車が来るのを待っているときに連絡をうけた稲葉は、なにが起きたのかと質ねた。相手は、自分は連絡係でなにも知らないとニベもなく言って先方から電話を切った。もともと総務は岡崎派であるが、それにしても、事務的にすぎる。
稲葉は、直ちに桑原に連絡した。彼もまだ自宅にいた。常ならば臨時会の招集は桑原の手を経て行なわれるのである。
「私もただいま連絡をうけましてとまどっているのです」
「きみには心当たりはないのか」
「ございません」
「おかしいな。本来ならきみを通すべき招集を総務にやらせた。ということは、議題の内容を会議のときまで、われわれに知らせたくないからだろう」
「われわれに知らせたくない議題とは……まさか安中の件がバレたのでは……」
「そんなはずはない。あれは厳重に秘密管理されている。岡崎のやつ、いったいなにを企んでいるのだろう」
胸の中で不吉な予感が確実に容積を増していた。
定刻前にメンバーの大半が重役会議室に勢揃《せいぞろ》いした。まだ顔を見せていないのは岡崎と腹心の二、三名である。この部屋は、蘭《オーキツド》の模様を織ったペルシャ絨毯《じゆうたん》が敷きつめられているところから「オーキッドルーム」と呼ばれている。「オーキッドルームでブルマンをすする」という言葉が、菱井マンの特権階級を象徴していた。
だが、その朝オーキッドルームに集まったメンバーにはそのような特権階級としての傲《おご》りや優越はなく、緊張と不安が部屋の雰囲気を動揺させている。臨時会は久しぶりであり、それも事前に議題の根まわしがあった。このような抜打ち的な招集は岡崎が社長になって初めてである。
定刻きっかりに岡崎社長が腹心の阪野専務と正井常務および小林総務部長を従えて姿を現わした。演出効果を狙って時間調整をしていた様子である。
岡崎の余裕を見せた態度も、稲葉派には無気味にうつった。岡崎はなにかを企んでいる。
「今朝はみな様ご苦労様です。本日は、社長より臨時常務会の招集をおおせつかりました私が、司会をさせていただきます。それでは早速議事の審議に入りたいとおもいます。なにぶんにも緊急の案件でございましたので、資料やパンフレット類の作成が間に合わなかったことをお詫び申し上げます」
小林総務部長が立って挨拶をした。資料類を作成しなかったのも、議案が事前に漏れるのを防ぐためであろう。稲葉はここにも岡崎の周到な手配りを感じた。
「ちょっと待っていただきたい」
稲葉は立ち上がった。全員の目が集まった。
「小林総務部長が勝手に司会役をかって出られているが、司会は従来、社長室直属の桑原秘書室長ではなかったのか。司会を今回にかぎり突然変えた理由をうけたまわりたい」
稲葉は、小林を一直線に見つめて言った。
「私は、ただ、そのう、社長の御指示によって申し上げただけでございます」
稲葉の一にらみにあって、小林はたちまちすくみ上がり、岡崎の方へ救いを求めるように目を向けた。岡崎は坐ったまま悠然と、
「私が指示したのです。べつに司会役は秘書室長でなければならないという決まりはありません。今回は私が常務会招集権者として小林君に司会をするように命じただけで、べつに複雑な理由などありません。それとも小林君が司会をするとなにか不都合な事情でもおありかな」
揶揄《やゆ》するように稲葉の方に差し向けた岡崎の視線は、あくまでも温和である。噛みついた感じの稲葉をサラリと躱《かわ》して先手を一本取った体《てい》であった。こう言われると、稲葉もそれ以上|反駁《はんばく》できない。憤懣《ふんまん》を内攻させたまま顔を背《そむ》けた。
「それでは議案の審議に入ります。実は本日お集まりいただきましたのは、当社と安中商事との合併工作が芙蓉銀行の仲介によって密かに進められているという情報が入ったからでございます」
小林の言葉に会議室は騒然となった。稲葉は顔色を失った。
「そんな馬鹿な! だいいちわれわれ常務会に諮《はか》らずにそんな重大な工作が進められるはずがないではないか」
騒然たる中から中立派の市川専務が声を大きくした。
「どうぞお静かにねがいます。残念ながらこの情報はデマではございません。当社の重役の一人が、常務会に諮らずに独断で進めているのでございます」
「だれだね。その重役とは」
市川が詰め寄った。騒然たる気配が油を敷いたように鎮まった。出席者が探り合うようにたがいの顔を見まわした。深く詮索するまでもなくこわばった表情から、それが稲葉であることがわかった。みなの視線がしだいに稲葉に集まってきた。
「稲葉副社長、このことについてなにかお心当たりがありそうだが、ご説明ねがいたい」
岡崎が勝ち誇ったように言った。
「心当たりなどありませんな」
稲葉はふてぶてしくとぼけた。
「それでは、安中との話はまったく心当たりがないと言われるか」
「ありませんね」
稲葉は外方《そつぽ》を向いた。
「われわれはあなたが独断で安中との合併工作を進めておるという情報をキャッチしたのだ」
「ほう、いったいどんなルートからそんな根も葉もない噂を聞かれたのですか」
「根も葉もないと言われるのか」
「私個人としては、安中との合併はわが社にとって悪い話ではないとおもいますが、私が密かに工作を進めているという証拠があったらしめしていただきたい。まさか噂だけで臨時会を招集したのではないでしょうな」
稲葉は開き直った。この秘密工作を知っているのはごく限られた人間である。どんなルートから漏れたのかいまのところ不明だが、証拠を残さないように文書などはいっさい交わしていない。どうせ噂を聞きつけたのであろうが、それなら恐るるに足らない。この場はとぼけ通して時間を稼ごうという肚《はら》を咄嗟に固めた。まだ各重役の間に根まわししていないので、ここで評決されると不利である。
「証拠を見せろと言われるか」
「当然でしょう。臨時会を突然招集してみなさんの前で私を吊るし上げにされたからにはそれだけの覚悟があってのことでしょう」
稲葉は逆に岡崎に恫喝《どうかつ》を加えていた。
稲葉のロボットであった井村のおかげで社長の椅子《いす》に坐れたくせに、稲葉の勢力を恐れて下手な画策をするとは笑止である。稲葉を恐れるのは、結局岡崎が社長の器でないことを悟って、自分の椅子を彼にいつ奪われるかもしれないと怯《おび》えているからである。
稲葉は、不意を突かれながらも立ち直っていた。証拠もなく噂だけで稲葉を裁判≠ノかけたのであれば、ただではすまさないぞと見得を切ったのである。
「よろしい、それほど証拠とおっしゃるならお見せしよう」
岡崎は、ニタリといった感じで笑った。いつも稲葉の顔色をうかがっているロボット社長の岡崎にしてはいかにも自信と余裕に充ちた態度である。それを見て稲葉の胸に不安の雲がかすめた。これだけ自信があるからにはなにか確たる証拠をつかんだのか。いや証拠などはあるはずがない。伏谷義郎か、安中道俊をこの場へ引っ張って来て証言≠ナもさせないかぎり決め手にはならない。
稲葉は自分を納得させた。だが岡崎ずれを相手に、そんな自己納得をさせること自体が、弱気になっている証拠である。
「小林君」
岡崎は総務部長に合図を送った。小林は、待ちかまえていたように、会議机の上に一台のラジオカセット・レコーダーを置いた。一同の好奇の視線が集中する。
「はじめたまえ」
岡崎が顎をしゃくった。小林が一礼して録音再生ボタンを押した。男のくぐもった声が再生されてきた。声の主との間に距離があるらしく、明瞭ではないが、話の内容はわかる。
それに耳を傾けた一同は、語られている話の途方もない内容に愕《おどろ》きの色を面に浮かべた。話している人間は三人いるらしい。初めは茫然《ぼうぜん》として聞いていたメンバーも、話し手の語り口の特徴を聞き分けられるようになった。その中にまぎれもなく稲葉の声がある。
「いかがかな。これでも憶えがないと言われるか」
岡崎が止《とど》めを刺すように稲葉の顔を見た。
「これは産業スパイでも雇って盗聴したようですな。いやはや恐れ入りました」
稲葉は不貞腐れて、
「しかし私としては独断で進めていたわけではない。安中商事より合併の打診があったので、条件を検討するために一、二度会ってみたのです。今度の定時常務会でみなさんに諮るつもりでおりました」
「稲葉副社長、白々しいことを言ってはいけない。いまあなたは安中との合併話についてはまったく心当たりはないと申されたではないか」
岡崎が語気を荒くして詰め寄った。
「このような話は、具体化するまで秘密にするのが常識です。社長は独断独断とおっしゃるが、先方から打診があれば、常務会に諮るまでにある程度煮つめておかなければなりません。私は、いやしくも代表権のある重役です。先方から私を選んで打診してきたのであるから、まず私が菱井を代表して先方の条件を聞き、わが社に対するメリットを判断したる後、常務会にかけるのがなぜ独断であるか。もし不利と判断するならば、常務会にかけるまでもなく、私のレベルで処理するつもりでおりました。スパイもどきと言うよりスパイそのものの行為をして盗聴をした内容はいつの時点のものか、社長におうかがいしたい。これは前回の定時会の後に安中商事より持ち込まれた話であり、私としては次の定時会にかけるつもりでいたのです」
稲葉は、盗聴された密談の内容に日時がしゃべられていないところに突破口を見出した。
「それは詭弁《きべん》です。密談の内容は、すでに稲葉副社長のレベルではなく会社レベルになっています。それでなくとも安中商事は、アメリカ資本との提携石油事業にも失敗して先行きが危ぶまれています。そんな危険な会社との合併など、火中の栗《くり》を拾うようなものです。菱井商事にそんな危ない橋は絶対に渡らせられない。稲葉副社長はわが社をつぶすつもりですか」
岡崎の腹心阪野専務が立ち上がって、真正面から稲葉に噛みついた。岡崎がわが意を得たりと言うようにうなずく。
「社をつぶすとは聞き捨てなりませんな。たしかに安中商事は、いまアメリカにおけるプロジェクトが低迷しておりますが、同社の鉄鋼、木材、パルプ等の商権は巨大であり、安中を取り入れれば、わが社の弱点は完全に補正されます。安中の低迷は一時的なものであり、いまわが社がテコ入れすれば必ず立ち直れます」
「いけません。絶対反対です! だいいち芙蓉銀行の仲介を菱井銀行が黙って見ているはずがない。芙蓉銀行は安中に入れ上げ、引くに引けなくなって、わが社に尻拭《しりぬぐ》いをさせようとしておるのだ。私は直ちにこのことを菱井銀行に連絡する。稲葉副社長のこの度の行為は越権の独断専行を免れない」
稲葉のクロをシロとする強弁も、いかんせん機の熟さないうちに漏れたために、常務会を説得できなかった。むしろ稲葉が強弁につとめるほどに反感をかった。岡崎派はもちろんのこと在来の稲葉派の重役までが、安中との合併話には消極的な態度をしめした。
稲葉は謀反が事前に露顕して袋叩きにあった観があった。
殺人自動感知機
今泉直利は、その写真がしだいに気になってきた。初めは、その道の利用者≠フ一部として見すごしてしまったのだが、日を経るにしたがって、意識の中で違和感を発して軋《きし》るようになってきたのである。
それは本来、けもののための道であって、人間が通るべき道ではない。けものの道を利用する人間もいることはいる。それはたいてい猟師や木こりや山仕事をする人や、営林署のパトロールであり、稀《まれ》には登山者が迷い込んで来る。
だが今泉の意識に軋っている人間は、それらのいずれでもなさそうであった。なさそうであるというのは、その人間の一部しか観察していないからである。
(二人登っていって、一人しか帰って来なかった。あとの一人はどこへ行ってしまったのか?)
――途中で行動をべつにして別れたのだろう――
(しかし、その近辺に人道はない。けもの道に迷い込んだのであれば、ずっと行動を共にするはずだが)
自問自答しているうちに残る一人の行方に不吉な想像が脹《ふく》らんでくる。推理小説の読みすぎだと苦笑して、想像を振り捨てようとするのだが、そうしようとすればするほど、意識にこびりついて容積を大きくしてくる。
今泉直利は職業写真家である。それも人間や事件を追う写真家ではなく、終始、動物の生態を撮りつづけている。動物の生息地にじっくり腰を据え、動物に密着して撮った彼の生態写真はその方面で高く評価されている。
このようにして撮影したイリオモテヤマネコ、カワウソの生態、カブトガニの産卵、カマキリの一生など学界の貴重な研究資料となっている。
彼の最近のヒット作品は、奥秩父山中のけもの道に自動カメラを据えて一年がかりで撮影した動物の生態である。撮影期間は、昨年の五十×年三月初日から本年の三月末日までである。この一年の間(十三か月)に四季折り折りの変化とともに、その道を通った動物たちの素顔が写し込まれていた。
動物たちはでたらめに歩いているようでいて、それぞれの生活領域《テリトリー》をもって、その中で生活をしている。そこで生まれ、捕食し、生殖し、死ぬ。山野にこれら動物たちの生活の痕跡が残っている。足跡、フン、食痕、死骸、これらを辿《たど》っていくと、採食場、水場、泊まり場、ヌタ場(泥浴び場)、巣など、動物の生存に欠くことのできない生活の場をめぐる道があることがおのずからわかってくる。
今泉は、このけもの道に興味をもった。
動物たちにとって道とはなんだろうか。動物に対するかぎりない興味と、彼の粘りによって撮影された成果は、これまでまったく不明であったけもの道の交通≠ニ、そこを往来する動物たちの生態を見事にとらえ、動物の生態研究に新たな可能性をしめしたのである。
最初の課題は、動物たちの出現をカメラに伝える感知装置の開発であった。今泉は、光電管を利用することにした。金属およびある種の半導体には光を照射すると電子を放出する性質があるが、この効果を利用して光の強さを電気的な量に変換する電子管が光電管である。光電子を放出する陰極と、これをうける陽極から成っており、この間を電波《ビーム》が流れている。このビームを遮る物体があると、これが電気信号に翻訳されるというシステムである。
光電管の用途は測定、通信、制禦《せいぎよ》装置などきわめて多方面にわたり、感知装置としては、自動警報器、自動扉開閉器、安全確認機などに利用されている点に、今泉は着目した。
この装置をけもの道をはさんで設置すれば、そこを通過する動物たちをカメラにとらえることは、理論的に可能である。
しかし克服しなければならない数々のネックがあった。まず動物に感知装置の存在を悟られないために可視光線であってはならない。電源としては電池に頼らざるを得ないので、できるかぎり消費電量を抑えなければならない。また高山の野外に設置するのであるから、雨、風、雪等の自然現象、および四季を通じての激しい気温差に耐えて安定した精度を保つこと等である。
これらの諸条件を充たした試作機がつくられたが、撮影の実際においてまだ多くのトラブルが発生した。
夜行性動物の出現に備えてストロボが必要になるが、この放電による電力の消費量がおもいのほか激しく、これの電源確保と、湿度による漏電および発光不良の防止に一苦労した。
まず手初めに感知装置は、東京都側の氷川地域の集落から三キロほど入った登山道に仕掛けてみた。ところがこれが心ないハイカーたちによっていたずらされて、苦心の試作機を三台も壊されてしまった。
登山道の場所を変えて実験を重ねた後、奥秩父和名倉山と三峰山の間に抉《えぐ》れている竜ガ洞谷の標高千二百〜三百メートル付近のけもの道に感知機とカメラを設置したのである。動物の通行を把握するために性能がまったく同じ機械をAB二点にワンセットずつ仕掛けた。AB間の距離は二百五十メートルである。このあたりは奥秩父最後の秘境と言われている奥秩父の最深部である。和名倉山は乱伐によって裸に剥《む》かれてしまったが、竜ガ洞谷の原生林は、原初のまま残されている。このため和名倉山方面のクマ、シカ、イノシシ、サル、リス、ムササビ、キツネ、ノウサギ、その他の動物たちが、竜ガ洞谷へ集まって来て動物たちの最後の楽園となっていた。カメラを仕掛けるには理想的な場所であった。
最初は、地上二、三センチの高さにビームを張り、ノネズミのような小動物から撮りはじめた。ところがノネズミの活動が予想外に激しく、ネズミだけでフィルムが消費されてしまったり、感知装置の感度があまりに鋭敏で雨にまで反応してしまったりした。
このような試行錯誤を繰り返して、撮影が軌道に乗ったのは、試作機を開発して三年後であった。
昆虫類を感知の対象からはずすために、ビームの高さを地上十センチに再調節し、感知装置の感度も低く抑えて、ようやくお目当ての動物たちがカメラにとらえられるようになったのである。
撮影された動物は、ネズミを筆頭に、ノウサギ、リス、ヒキガエル、サル、イノシシ、テン、ヤマバト類であり、期待したクマ、カモシカ、キツネは写っていなかった。
またまったく期待しない動物≠燻ハっていた。それが九人の人間である。
人間と言っても、カメラの写角を動物においているので、足の部分しか写っていない。九名の内容は、彼らの足許から三名が登山者、二名が猟師、二名が山仕事の人と推測されたが、残りの二名がはっきりわからない。正体不明の人物は、両名とも皮の短靴と都会で着るようなズボンを穿《は》いていた。
山へ、しかも人間の踏み込まないけもの道に、都会の歩道を歩くような短靴で入り込む者はない。あるとすれば、道に迷ったとしか考えられないが、観光客が都会の延長のようなつもりでふらりとやって来て、けもの道へ迷い込んだのだろうか。
だがこのあたりは、奥秩父の最後の秘境と言われている地域で、観光客が気軽に入り込むような場所ではなかった。それとも最近の秘境ブームに釣られて来た人間であろうか。
撮影日時は昨年九月十八日午後三時〇五分と同日同六時〇三分である。撮影したカメラは、Aカメラだけであり、Bカメラには写っていなかった。まだ昼光線の残っている時間なので、ストロボは作動していない。つまり、Aカメラに三時間のあいだに同じ人物が二回撮影されていたのである。足の向きによって、けもの道を往復したことがわかる。
今泉の意識の中で軋るようになったのは、行き(上り)のとき二人いたのが、帰り(下り)には一人になっていたことである。ということは、行きは二人でA点を通過し、B点へ行くまでの間に別れて、一人だけ往路を引き返して来たことをしめす。B点を一人も通過していないところから、別れた一人はAB点の間で、べつの方角へ行ったことになる。
しかし、今泉は、その間に分岐するいかなる道もないことを知っていた。その間はブナ、ナラ、コメツガ、シラビソ、トウヒなどの混生する原生林で、地上には濃密なクマザサと灌木《かんぼく》の繁みが這《は》っている。
二人の、たぶん男が連れ立ってけもの道を上って来たのが、AB間で一人蒸発したことになるのである。いったいこの深山で蒸発したとはどういうことであろう。
意識に軋るまま、今泉は件《くだん》の写真を拡大して観察した。問題の二人は前後して歩いていた。これはけもの道の幅が狭く、二人並んで歩けないので止むを得ず、このような形になったものであろう。登山者は山道に沿って一列縦隊に歩くケースが多い。
「おや、これは杖の影かな?」
今泉は、ふと目を凝らした。光線は後方から射しかけており、前の人の背中の方から長い棒のような影が地上に落ちている。しかし杖にしては、位置がおかしかった。それはあたかも後ろの人が、前の人の背中に棒を突きつけているような形に見える。
(なにを突きつけているんだろう? ピッケルや杖でもなさそうだし。またなぜこんな奇妙な真似をしているのかな)
首を傾げかけた今泉は、頭を走った想像にハッと身体を硬直させた。
「これは銃ではないだろうか?!」
いったんそうおもうと、その細長い倒影はいかにも銃らしく見えてきた。
一人が他の一人に銃を突きつけて、けもの道を上って行き、一人だけ下って来た。それの行き着く想像はもはや一つしかない。一人はAB点間で消されたのだ。そしてその死体もAB点間のどこかにある。
AB点間を普通の歩度で歩けば、どんなにゆっくり歩いても十分もあれば通過できる。勾配もそんなに激しくない。ところが二人は午後三時五分にA点を通過して、約三時間後に一人だけ下って来た。ということは、この三時間のあいだに犯行が演じられ、一人がおそらく山中に隠されたことをしめす。三時間という時間は、犯行プラス死体の隠匿にかかったものであろう。
もはや奥秩父山中のけもの道で、人間が一人殺されたことは確実である。――今泉は自分の導き出した推理に自信をもった。
今泉は、自分の推理を胸の中にしまっておけなくなった。だれかが殺されて、自分がその証拠写真≠もっている。それを黙秘していてよいのか。
おもい余った今泉は、友人の下田に相談した。下田は高校時代の同窓である。卒業後、警察官になった。下田も探偵小説ファンで、彼らは手持ちの本を貸し合って親しくなった。下田は、将来シャーロック・ホームズのような名探偵になるのだと少年の夢を語っていたが、現在は警視庁捜査一課の刑事になっているのだから、多少ともその夢が叶《かな》えられたと言ってもよいだろう。
下田は、久しぶりに訪ねて来た今泉の話をまじめに聞いてくれた。初めは一笑に付されるのではないかと、ためらいがちに話していた今泉であったが、下田の興味を惹《ひ》いた様子に意を強くしてきた。
「これが問題の写真だな。なるほど銃に見えないこともないね」
下田は、今泉が持参した証拠写真を注意深く観察した。
「おれは絶対に銃だとおもうね」
「先入観はよくないよ。ところで、どうかしたはずみに、きみのカメラに一人だけしか写らなかったということはないか」
「絶対にないとは言えないが、一人に感知して、他の一人に感知しないという確率はきわめて少ないよ。いっしょに歩いていて同時に感知すれば、一コマのフィルムにいっしょに写っているはずだし、離れて歩いて来たのであれば、べつべつに写るはずだ。現に上りのときは二人が写っている」
「そのときカメラか、感知装置が故障したということはないか」
「カメラには撮影日時がわかるように時計が組み込まれている。カメラと時計はタイムスタンプと連動されていて、シャッターが切られると同時に撮影日時がスタンプされる仕組みになっている。この人物のあと、三〜四日間隔に行なうフィルムチェックの間に、ウサギやリスが写っている。もしカメラが故障していれば、この人間の後の動物は写らないはずだよ。タイムスタンプを見てもカメラが順調に作動していたことはわかる」
「カメラは順調に作動していた。脇道もないか」
下田の目がしだいに光ってきた。
「どうだろう、なんとかきみの口ききで、このカメラを仕掛けたA点とB点の間を捜索してもらえないだろうか。気にかかって仕方がないんだ」
「ぼくもきみに言われて気になってきたよ。最近、殺人事件の被害者になっているおそれの強い行方不明者が多いんだ。殺して死体を埋めたり、海に捨てたりするために、殺されたのかどうかすらわからない。被害者の死体発見が犯人を検挙するための最大のポイントだが、死体の発見が偶然に左右されることが多くてね」
「それだったらなおさらだ。きみの力で捜索してくれよ」
「コトはそう簡単にはいかないよ。まず場所が奥秩父の山中となると、管轄外だ。まして他県警察となると、ますます口を出しにくい」
「警察は一体≠ネんだろう」
「建て前はそのとおりだが、都道府県警の縄張り意識は根強いからね」
「それをなんとかしてくれよ。きみの力で」
「ぼくは一介の平《ひら》刑事だよ。きみがカメラを仕掛けた地域は埼玉県警の管轄だ。あそこには知り合いがいないこともないから、いちおう話してみよう」
下田はあまり自信なさそうに言ったが、どんな筋を押したのか、それから間もなくの四月十九日に証拠写真撮影地の捜索が行なわれた。今泉の案内の下に所轄署員、地元の消防団、青年団などの合同捜索隊が、竜ガ洞谷から三峰山にかけての標高千二、三百メートルの山腹を捜索した。
捜索地域をまずA点とB点の間のけもの道に沿って限定して、最近掘りおこしたような痕跡や、ものを引きずった跡などを重点的に捜しまわった。この地域は、ブナ、ナラ、カエデなどの闊葉《かつよう》樹林にツガが混生している。沢、泉のようなものはないので、死体を隠したとすれば土中に埋めたと見るのが妥当である。
捜索隊は、それぞれ二メートル間隔をおいて死体を埋められそうな場所を捜した。だがこの時点では一同半信半疑であった。けもの道に仕掛けたカメラに写った人物の数が足りないからと言って、直ちに犯罪に結びつかない。
常ならば、とてもこれだけの捜索隊を動員できない。いや捜索自体が行なわれないだろう。折りからバラバラ殺人や死体を隠した凶悪殺人事件が急増しており、警察庁は、犯罪の被害者になっているおそれの強い行方不明者について「捜査強化月間」を指定して、総力をあげての集中捜査を決定していた。そしてちょうど今月が「強化月間」に当たっていたのである。
「本当に死体が埋まっているのかね」
「一人はクマにでも食われたずらよ」
「クマに殺《や》られていれば、同行者が当然届け出ているはずだ」
「一人はなにかの事情があって、カメラの前を通らなかったんだよ」
「なにかの事情ってなんだい」
「そんなこと、おれが知るかね」
そんなことをぼやき合いながら、それでも熱心に木《こ》の下闇の、それこそ言葉どおりに草の根を分けて捜索した。一同にようやく疲労の色が濃くなったころ、一人がB点の下方五十メートルほどのナラの木の下に短靴の右片方を発見してから俄然緊張した。それは今泉の写真と対照して、「前の人間」の靴の片方であることが確認されたのである。サイズは25である。一同は「瓢箪《ひようたん》から駒《こま》」が出そうな予感におののいていた。
それは死体を隠す際に脱落した可能性が強い。あるいは、銃で追い立てられている間に足許が悪くて脱げ落ちたものか。いずれにしても、靴を残したままこの山中から下る者はいない。それは死体がこの近辺に在《あ》ることを物語る有力な資料であった。
それまで半信半疑だった一同は気負い立って靴が発見された地点に集まって来た。その辺一帯を重点的に捜索すること約三十分、
「おい、ここへ来てくれ」という声が署員の一人から上がった。
「あったか」
一同は色めき立った。
「地上を去年の落ち葉で蔽《おお》っているが、地面が柔らかいんだ。どうも最近掘りおこしたあとらしい」
「土が盛り上がっていないところを見ると、万一の発見を恐れて余った土をどこかよそへ捨てたんだな」
「そうだとすれば、こんな山中で用心深いやつだ」
いくつものスコップが集まり、競争するように土が掘り出される。土中から少しずつ腐臭がにじみ出してきて、捜索隊の鼻腔を刺戟した。もはやこの土中になにかの動物≠フ死体が埋まっていることはたしかである。
「気をつけろ。そろそろ出るぞ」
捜索隊のキャップが、スコップの先で死体を傷つけないように注意した。腐臭がきわまったところで一同はスコップを捨て、手で土を掘った。
「なんかあったぞ」
一人が叫んだ。そこに手が集まり、土を掻《か》き分ける。
「わっ、なんだこりゃあ」
一人が大仰な悲鳴を上げた。掻き分けられた土の中から黒褐色の毛皮が覗《のぞ》いている。
「イノシシだ。イノシシが埋められているんだ」
さらに土を掻き分けるほどに、毛皮の主の正体がはっきりしてきた。
「苦労して掘り当てたのがイノシシ一匹か」
てっきり人間の死体が埋まっているものとばかりおもって掘り出したのが猪《いのしし》とわかって一同はがっかりした。
土の中に埋められていたのは、ニホンイノシシのオスの死体で、体長約一・四メートル、体重一八〇キロある(後刻計量)、ニホンイノシシとしては、最も大型のものである。死体は散弾銃で前方近距離から射たれたらしく、顔面から肩、胸にかけての損傷が著しい。今泉はその身体の特徴からカメラに撮影されていた猪であることを識別した。
「人騒がせなやつもいるものだ。いったいだれがこんな所に埋めやがったんだ」
捜索隊員がぼやきながら掘り返した土を元へ戻しかけたとき、
「ちょっと待て。猟師が射ったのなら、こんな所へ獲物を埋めていくはずがない」とキャップが声をかけた。
「するとだれが射ったんだ……?」
顔を見合わせた一同は、キャップの言わんとするところを了解した。
「猪の下を掘ってみよう」
猪の死体が引きずり出された。
「あった!」
一同は期せずして声をあげた。猪の下に泥まみれの男の死体が埋められていた。死体は全裸で仰向けに横たわり、背中と表左顔面筋の屍蝋《しろう》化が起きている。足は二本とも強く折り曲げられ、膝《ひざ》から下は足の甲を土に足の裏側から脹《ふく》ら脛《はぎ》にかけて、太股《ふともも》に押しつけられている。両手は体側に沿って垂直にのばされている。
死体には外見したところ銃創は見られない。左顔面と左側頭部に鈍体が作用したと見られる挫傷が認められ、これが死因に影響しているものとおもわれた。
犯人は、犯行前後に猪に襲われ、これを射殺して被害者の死体とともに埋めたのであろう。まさかとおもっていたことが、現実のこととなった。
直ちに本署と県警本部へ変死体発見の急報が寄せられた。現場が奥秩父の山中で、時間も遅かったために、検視は翌四月二十日に行なわれた。検視の第一所見による死後推定は六か月〜一年で、今泉の写真撮影日をいちおうカバーする。この推定は被害者とともに埋められていた猪が、「被害者の前日」に撮影されていた事実からも裏づけられた。猪はその後、カメラに登場していない。
死者は推定年齢三十〜三十五歳ぐらい、土中にあったために死体変化はあまり進行していない。
筋肉質の体で右下腹部に古い盲腸の手術痕、左側頭部に百円コイン大の円形|禿《はげ》、右手中指|爪根《そうこん》に刃物で切ったような傷跡、左足脛内側に火傷らしい痕などが認められる。
彫りの深い造作であるが、目と眉の間隔が著しく狭く、鼻梁《びりよう》が尖《とが》り、唇がうすい。全体に卑しく酷薄な骨相である。
左前額部から左側頭部にかけて挫傷、および左側|頭蓋《ずがい》に陥没骨折、両手および前|膊《はく》部に挫傷が認められる。それ以外の部位に外傷は見えない。死体は、いっさいの衣類を剥《は》ぎ取られており、犯行後犯人が被害者の身許をしめすようなものはすべて持ち去ったと見られた。
死体の観察に先立って現場の検索が行なわれていた。現場の外周から始めて死体を中心にしだいに検索の輪を縮め、死体に取り組む。しかし、犯人の遺留品と認められるもの、あるいは被害者の身許をしめすようなものは発見されなかった。結局、死体発見現場付近で発見された唯一の資料は、被害者が履《は》いていたと考えられる右片方の靴だけであった。念のために死体の右足に履かせてみたところ、サイズは合った。
被害者は、犯人に銃で追い立てられて歩いている間に足許が悪く靴が脱げ落ちたのを、どうせ死ぬ身に靴は要らないだろうと犯人に急《せ》きたてられて、そこへ残していったものと推測された。
靴は人工皮革の既製品である。被害者が身につけていたものいっさいを剥ぎ取った犯人であるが、その片方の靴が見つからなかったのか、それとも数多く出まわっている市販品なので、「足がつく」おそれはないと安心していたのか、 とにかくその 半足 だけ現場に残していった。
靴底はあまり摩滅していないが、車に乗る者が増えているので、それだけで新しい靴とは断定できない。
検視後、死体は解剖に付するために搬出された。猪の死体も、証拠品≠ニして保存されることになった。この猪だけが犯行を目撃していた可能性があるのである。
翌日に行なわれた解剖によって、検視による第一所見はおおむね裏づけられたが、被害者が土中に埋められたときは、まだかすかに息があったことがわかった。
犯人は棍棒《こんぼう》状の鈍器、おそらく銃床で被害者の前額部から左側頭部を数回殴打し、その中の一撃は頭蓋骨に陥没骨折ができるほどの深刻な打撃をあたえており、放置していても必ず死に至る状況であったが、犯人はまだ虫の息のある被害者を猪とともに土中に埋めたものと認められたのである。
犯人は、被害者が絶命したものとおもって埋めたのか、あるいはまだ息があるのを承知で、土中に埋めることによって「止《とど》めを刺した」のかどうかはわからない。
なお同時に猪の死体も検《しら》べられ、その頭部や胸、肩などから数個の変形した散弾と、薬莢《やつきよう》内に詰められている送り《コロス》の一部が発見された。
解剖および検証の結果から推測された犯行の模様を再現してみると、次のようになる。
――犯人は、被害者を銃で脅かして現場へ連れ込み、銃床で撲って殺害した後、あるいは殺害しようとしたところ、突然猪に襲撃されて、これを射殺し、被害者とともに、土中に埋めた。――
「猪は射殺しているのに、なぜ被害者は撲って殺したのか?」
という疑問が出された。
「被害者を射つつもりでいたのが、猪が突然現われたために、弾を費《つか》ってしまい、新たに弾ごめをするのが面倒だったんだろう」
「すると、猪を殺した後、被害者を殺《や》ったことになるな」
散弾銃はバラ弾を発射する銃であり、一個の銃身に複数のバラ弾を装填《そうてん》することによって命中率をよくしたものである。この説によれば、使用された散弾銃は一発ごめということになる。
現場に残されていた唯一の資料である右片方の靴は、東京台東区の大手靴メーカー「シカゴシューズ」の製品である。同社に照会したところ、問題の型種の製品は、靴の内側|踝《くるぶし》の当たる部分に打ち込まれているデザインナンバーと木型ナンバーによって、昨年三月から発売されている製品で、すでに約五千足市場に出まわっていることがわかった。
同社では、その製品は、最もヒットした商品の一つで、昨年売り出したものでありながらファッションの変遷に耐えて、いまだに売れ足が止まらないということである。全国規模で売り出されているために、販売店や買い主を割り出すことは不可能であった。
靴の線からの追及は、ほとんど絶望的となった。
被害者の身体特徴を警察庁の「犯罪|情報管理《コンピユーター》システム」の指名手配、家出人手配、犯歴の各ファイルに照会したが、いずれにも該当者がなかった。
まず被害者の身許割出しが捜査の焦点となった。警察は被害者の修整写真を新聞、テレビ、雑誌等に公開する一方、顔写真を載せた手配書ポスター二万枚を作製して、全国警察や駅、映画館、公衆浴場等に掲示してもらい、広く一般の協力を求めた。だが、反応はなかった。動物感知装置がきっかけになって発見された殺人|隠蔽《いんぺい》死体の捜査は、立ち上がりから壁に阻《はば》まれたのである。
だが捜査陣はまだかすかな手がかりを追っていた。今泉のカメラには犯人と被害者の靴が撮影されている。現場に残されていたのは、被害者の靴と推定されている。まだ犯人の靴が残っていた。警察は、今泉の写真を拡大した。そしてデザイン、型、材質、装飾などを専門の人につぶさに見てもらい、犯人が履いている靴が、銀座の高級紳士靴メーカー「ロイヤルシューズ」の製品であることを突き止めたのである。
ロイヤルシューズに写真照会すると、写真なのでどの靴と特定はできないが、同社が昨年から都内各デパートと提携して始めた「仕立券付き靴皮」による特注品《オーダーメード》と判明した。
「そのオーダーメードの依頼者はわかりますか」
捜査員は気負い立った。オーダーメードとなれば、当然注文主の住所氏名もわかり、その数も限られるはずである。
「もちろんわかります。写真の製品は、私どもがロイヤルトップギフト≠ニいう名称の下に市場に出した最高級の材料の特注品でして、数が限られております」
「そのリストを見せていただけませんか」
「あのうそれがなにか」
「殺人事件に関係があるのです」
捜査員の言葉に、ロイヤルシューズの社員は顔色を変えた。
ロイヤルシューズが提供したリストには、七十八名の住所氏名が載っていた。
「ロイヤルなんとかの注文主はこれだけですね」
「そうです。ただしお買い上げいただいた数は、九十二名様になっております」
「どうして数がちがうのですか」
「それはギフトを贈られた方で、まだお仕立てにお見えにならない方がいらっしゃいますから」
「ほう、そんなに高価な品を贈られて寝かせている人がいるのですか」
「はい。何年も経ってからお見えになる方もいれば、まったくお見えにならない方もおられます。きっとギフトをもらったことを、忘れてしまわれたのだとおもいますよ」
「世の中にはずいぶんもったいないことをする人もいるもんですなあ。ところで、このリストの中で、昨年の九月十八日以前に仕立てに来た人をおしえてください」
解剖による被害者の死後推定と、カメラの撮影日によって、犯行日は昨年九月十八日であることがほぼ確かめられている。仕立てに多少の日数がかかっても、とりあえず同日以後の注文主は除外されてよい。こうして二十六名に絞り込まれた。あとはこれらの注文主をしらみつぶしに当たるだけである。捜査陣はようやく確固たる目標をもった。
二十六名の注文主が一人一人消されていった。一人漂白されるたびに犯人は網の中に絞り込まれていくわけであるが、同時に、すでに網の目を潜《くぐ》り抜けているのではないかという不安にも駆られる。
こうして最後に当たったのが、野々宮成男である。野々宮は右翼の大物海部隆造の第一秘書という肩書をもっている。リストに野々宮成男の名前を見つけたとき、捜査陣はピンとくるものがあった。先入観に捉《とら》われぬためにまず周辺から消していった。
最後に残されたのが野々宮である。野々宮の容疑は煮つまった。
野々宮のボスである海部隆造は、戦時中軍部の秘密情報工作機関を率いて大陸を股にかけ、終戦後、戦犯として一時投獄されたが、間もなく釈放されると、政商としてよみがえった。彼の不死鳥のような蘇生《そせい》の源は、終戦時の混乱にまぎれて横領した軍の貴金属にあるともっぱら噂されているが、ともあれ膨大な資金を武器に民友党との密着を強め、民友党のかげの総裁と言われるほどの隠然たる勢力を張っている。
また右翼愛国主義グループの一方のリーダーでもあり、全国暴力団や総会屋にも顔がつながっている。その人脈には右翼、政、官、財界人、文化人、芸能人、スポーツ選手、暴力団なども組み入れており、日本のあらゆる分野に彼の触手の及ばぬ所はないような権力の版図を広げている。海部は、戦後の疑獄事件のほとんどすべてに顔を覗かせ、多くの犠牲者を出すかたわらで、彼一人が無傷に生き残るだけでなく、吸い取った黒い札束を栄養にして肥え太ってきた。
言わば日本の黒幕中の黒幕であり、身辺に常に血腥《ちなまぐさ》さと、疑惑の霧を漂わせてきた男であった。
その海部を裏から操っている真の黒幕と言われているのが、野々宮である。つまり「黒幕の黒幕」というわけであった。捜査員はあちこち彼の行方を捜して、ようやく自宅に帰っているところを捕まえた。
野々宮が本命であれば、証拠写真の靴と同一の靴を履いているはずである。まさか彼は自分の靴がカメラにとらえられたとは知るまいから、現在でも同じ靴を履いている可能性がある。その靴を処分されたら万事休すである。
盥《たらい》まわしされた暗殺
所轄署から加藤文と岩上章男という刑事が出張して来た。野々宮の自宅は世田谷区代沢にある。閑静な住宅街の一画に多少の庭をめぐらした住み心地よさそうな二階家である。
野々宮は、そのようなことに馴れているのか、突然の刑事の訪問にさして驚かなかった。刺を通じた二人は、玄関脇の応接室に請《しよう》じ入れられた。玄関で待たされている間観察したが、問題の靴は見当たらない。
野々宮は五十代半ばの胸板の厚い男であった。いかにも若いころに鍛え込まれた身体を想像させるように引き締まっている。柔和な目つきであるが、それは意志によってコントロールされた柔和さのようである。
初対面の挨拶《あいさつ》をして対《むか》い合ったが、野々宮にはまったく臆する気配はない。
それは潔白に支えられた平静ではなく、場数を踏んだ者のしたたかさと感じられた。訪問者の身分を知りながら用件も聞かずに、悠々と待っている。
二人はただの鼠ではないと悟った。
「ところで本日突然お邪魔いたしましたのは、昨年七月二十五日銀座のロイヤルシューズでご注文された靴についてですが」
加藤はずばりと核心に斬り込んだ。
「靴? 私が靴を注文した……?」
野々宮はまったく心当たりがないような表情であった。だが海千山千のしたたか者であるから、その程度の演技は軽いだろう。
「注文なさっているはずです。注文者リストにあなたの名前が上がっております」
「いやあ、まったく記憶がありませんなあ。靴はいつも行きつけの靴屋につくらせておりますが、銀座の靴屋に頼んだことはありません」
その表情には依然として反応がない。その靴がどうしたとも質《たず》ねない。
演技と言うより、まったく作為が感じられない。
野々宮は、靴から言葉どおり、「足がついた」ことを知らないはずであるから、とぼける必要もない。
野々宮のあまりにも無作為な態度に、加藤と岩上はふと不安をもった。
「おかしいですね。ロイヤルシューズの注文者リストには、たしかにあなたの住所とお名前が載っているのです」
「どれどれ、ロイヤルトップギフト御注文者ご住所お名前か……なにか聞いたようなおぼえがあるな」
野々宮は、記憶をまさぐるような目つきをしていたが、はたと膝を打って、
「ああ、もしかしたら藤沢さんからもらった仕立券つきの靴のことじゃないかな」
「そうです。仕立券つきの靴皮を、特別に仕立てさせたでしょう」
ようやくおもいだしてくれた様子の相手に、加藤は、その必然的結果としての対決を一瞬忘れて、救われたおもいになった。
「あの靴の皮はたしかに私がもらいましたが、私が仕立てさせたのではないのです」
「あなたが仕立てさせたのではない?」
「あれは盥《たらい》まわししてしまったんですよ」
「盥まわしに?! だれにですか」
「私の可愛がっている男ですがね、首藤完治《しゆとうかんじ》という親和会の行動隊員です」
「首藤完治……さんはいまどこにいますか」
「それがね」
これまで滑らかだった野々宮の言葉が急に滞った。
「どうなさいました」
加藤に追及されて、野々宮は仕方なさそうに、
「失踪《しつそう》してしまったのです。昨年九月中ごろから会に姿を見せなくなって、我々も彼の立ちまわりそうな先を捜したのですが、皆目行方がわからないので、心配していたのです」
「捜索願いは出したのですか」
「いやそんな大袈裟《おおげさ》なことはしませんでした。おそらく女でもできて、会を脱けたくなったのだとおもいます。親和会はべつにヤクザの集まりではなく、隊員の自由意志によっていつでも自由に脱けられるのですが、首藤は一本気の純粋な男でしたから、脱会を申し出にくかったのでしょう。どこかの田舎町に隠れて、女と愛の巣を営んでいるのを、捜索願いを出して捜すほどヤボではありません」
「首藤さんには身寄りの人はいないのですか」
「たしか秩父の方に、母親がいると聞いていましたが」
「秩父! 秩父とおっしゃいましたか」
首藤が秩父の出身なら、現場に土地カンがある。
「そのように聞きましたがね」
「この写真に見おぼえはありませんか」
ここで加藤は、被害者の写真を野々宮にしめした。
「ちょっと様子が変わっているようですが、首藤に似ていますね」
「な、なんですって?!」
二人の刑事は愕然《がくぜん》とした。靴の主は犯人であり、被害者ではないはずである。それがロイヤルトップギフトのリストから割り出した最も黒っぽい首藤が、死者に似ているという。
「よく確かめてください。似ているはずはないのです」
驚愕から立ち直った加藤は、もう一度うながした。
「いや見れば見るほど似ていますな。これは、やっぱり首藤にまちがいない。そうだ、この眉《まゆ》と目の迫った感じや、鼻の形は、絶対に首藤だ。この写真、どこで手に入れましたか」
野々宮は写真を観察している間に、自信が固まったらしい。
「右下腹に盲腸の手術痕があり、その他左側頭部に百円コイン大の円形禿、右手中指爪根に傷跡があります」
「首藤です。禿や爪の傷跡はたしかにあります。また子供のころ盲腸の手術をしたことがあると言ってました。首藤がどうかしたのですか」
「あなたは本当に首藤がどうなったか、ご存じないのですか」
加藤は、野々宮の面を凝視した。表情に特に動きは見られない。目は依然として柔らかく和んでいる。
「知りません、首藤の身になにかありましたか」
「殺されて、秩父の山中に埋められていたのです」
「殺されて……?」
野々宮は、口を半開きにして、加藤を見た。加藤の言葉をすぐに理解できないようである。
「いま殺されたと、言われましたか」
野々宮は確認した。
「はい。新聞やテレビはごらんにならなかったのですか」
「いやもちろん見ておりますが、気がつきませんでした」
「身につけていたものをすべて剥ぎ取られていたので身許がわからなかったのです。しかし写真は出ましたよ」
目に留まらなかったはずはないという含みをもたせて、加藤は詰め寄った。
「この写真は少し様子が変わっているので、見すごしたのだとおもいます」
野々宮は途方に暮れたようなおももちであった。
「犯人が身につけていたものいっさいを剥ぎ取って持ち去ったのは、被害者の身許を知られたくなかったからだとおもいます」
この意味がわかるかと言うように、加藤は野々宮の目を一直線に見た。野々宮はそれを避けも躱《かわ》しもせずに、やんわりと受けとめて、かすかに首を横に振った。
「なぜ被害者の身許を知られたくなかったとおもいますか」
野々宮が発言しないので加藤は質ねた。
「さあ」
「つまり、被害者の身許を知られると、犯人がわかってしまう。犯人は被害者の近くにいる」
被害者の身近にいる人間で、とりあえず考えられるのは、野々宮である。
「私を疑っておられるようですが、私には首藤を殺す理由なんかありませんよ」
野々宮は、加藤の含みを悟って苦笑した。余裕のある態度である。
「あなたを疑っているわけではありませんが、身許が判明した以上、多少とも関係のある方には、いろいろとお質ねすることになります」
「なんなりとお質ねください。首藤は私が特に目をかけていた男です。犯人を挙げるためにできるかぎり協力いたします」
「首藤さんに怨《うら》みを含んでいたような人間の心当たりはありませんか」
「そう言われてもおもい当たりませんね」
「首藤さんは具体的にどんなお仕事をしていたのですか」
「ボディガードを兼ねて海部先生や私の車の運転が主な仕事でした」
「ボディガードと言うと、首藤さんはその方面の心得があったのですか」
「柔道二段と聞いていました。空手も少々たしなんでいたようです」
銃で脅かしたとは言うものの、それだけの心得のある者を、いっさいの抵抗を封じこめて殺害した犯人はかなり剛の者と考えられる。
「これは参考のためにおうかがいしますが、あなたは銃を所持していますか」
「いいえ。私はそんな物騒なものには、手を触れませんよ」
「銃を射てますか」
「いいえ、まったく扱い方を知りません。必要ないですからな」
「首藤さんの身辺に銃を扱える人、または銃を所持している人はいますか」
「首藤がなかなかの名ハンターで、解禁になるとよくコジュケイやカモを射ちに行ってましたよ。猟銃の所持許可も取りつけていました」
「なに! 首藤は銃をもっていたのですか」
これは新しい事実であった。加藤にはいま事件のべつの輪郭が見えかけていた。
「休日にはよくクレー射撃に出かけていたようですな。腕前のほうは知りませんが」
野々宮は、部下の趣味にはまったく関心がないといった体《てい》を装っているが、それにしては割りによく知っている。
「首藤さんの身辺で他に銃をもっている人は?」
「さあ、知りませんな」
「これも参考のためにおうかがいするのですが、あなたの靴のサイズをおしえていただけませんか」
「私の靴のサイズ?」
「おねがいします」
「これは妙なことを聞かれるものですね。私の足は大きくて、左右がいびつなものですから靴は常に特注しております。だいたい27ですが、甲囲《ウイズ》と言いますか、足の幅がいびつでしてね、靴がなじむまで苦労します」
ロイヤルシューズの注文書には25と記入されてある。
「馴染みの靴屋がございますか」
「駅前の中田製靴にいつも頼んでいます。ここの親爺はいま数少ない靴職人でして、生きている靴≠つくってくれます。私の足のくせをよく知っていまして。よそでつくった靴は履けません。だからせっかく藤沢さんからいただいた仕立券付きの靴皮を、首藤に盥まわししたのです」
「藤沢さんは、どういう方ですか」
「菱井商事の専務です。ちょっとつき合いがありましてな。しかし盥まわしの件はご内聞にねがいます」
野々宮から聞き出したことは以上であった。悪名高い黒幕、海部隆造の懐ろ刀として恐持《こわも》てしている野々宮にしては終始協力的に聞き込みに応じてくれた。刑事を送り出しながら、犯人逮捕のために自分にできることがあれば、なんでも協力するとも言ってくれた。
二人はその足で中田製靴に立ち寄り、野々宮の靴のサイズに誤りがないことを確認した。
秩父市郊外に住んでいた首藤の母親にも連絡がいき、ここに被害者の身許は確認されたのである。
首藤完治は地元の農業高校を中退後、家を飛び出して、上京、バーテンダーやキャバレーのボーイなどを転々としていた模様であったが、数年前から海部の親衛隊、親和会に入り、海部や野々宮の走り使いをしていた。
性格は派手で人づき合いがよく、女にもよくモテていたようである。一見外向的で明るかったが、カッとなるとなにをしでかすかわからない爆発型の人間であった。必要以上に見栄を張るところがあり、食う物を詰めても、身のまわりを飾りたがった。またわずかな距離でもタクシーに乗り、映画館や劇場では必ず指定席に坐った。
父親は農業兼猟師で、その影響をうけてか、幼いころから飛び道具≠ェ好きで、高校へ行っていたころは空気銃でよく雀《すずめ》を射っていた。二十歳のとき公安委員会から狩猟用銃所持の許可を受けている。
現在、母親が健在で、近所に嫁にいった首藤の妹の許に身を寄せているが、首藤からはまったく音信不通であったという。老いた哀れな母親は、感情までが年月に風化されたのか、息子の死を知らされても、悲嘆が込み上げてくるまでしばらくの時間がかかった。彼女は目が悪くて、テレビや新聞はほとんど見ていなかったそうである。首藤の妹も報道には気がつかなかったという。
ここで問題にされたのは、「靴の輻輳《ふくそう》」である。これまで、現場に残されていた右片方の靴の主が被害者で、「ロイヤルトップギフトの靴の主」は犯人と考えられていた。
だが、後者の主は、いま被害者であったことが明らかになったのである。
「犯人はロイヤルトップギフトの靴を履いて山を下りたところを写真に撮られている。これをどう解釈するか」
という疑問が出された。
「半足の靴と、ロイヤルトップギフトの靴のサイズが同じことに注目してもらいたい。おそらく犯人は犯行後、被害者の靴と履きかえたのにちがいない」
岩上が答えた。
「なぜそんなことをしたんだ。サイズが同じでも他人の靴はすぐには足に合わないとおもうが」
「写真を改めて観察してみると、第一の写真は半足の主がロイヤルトップギフトに銃で追い立てられている。第二の写真はロイヤルトップ一人が下りて来た。ところが殺されていたのは、ロイヤルトップの主である首藤完治だった。第一の写真では、首藤が銃で半足の主のほうを追い立てている状況だ。当然殺されたのは半足のほうだとおもう。首藤の死体といっしょに猪が埋められていた。犯行前後に猪が襲って来たために、犯人は猪を殺して、被害者といっしょに埋めてしまった。
銃は一発ごめでそのとき猪を殺すために射ってしまったので、首藤は銃床で撲って殺したと推測された。だがここで考えなければならないのは、犯人が被害者を殺そうとしたときに猪が襲って来て、犯人が猪相手に闘っているとき、被害者がおとなしくしていただろうかということだ。銃は一発ごめで猪に射ってしまった。これで彼我《ひが》対等になったわけだ。ここでこれまで銃に追い立てられていた一方が、猛然と反撃に出て、銃を奪い取り、銃床で首藤を撲りつけた」
「なぜ靴まで履き替える必要があるのかね」
「首藤はだれかを殺すつもりで銃で追い立てて山の中へ連れ込んだ。途中でXの片方の靴が足許が悪くて脱げ落ちたが、どうせ死ぬ身に靴はいらないと、首藤がそのまま追い立てた。いよいよ犯行に着手しようというときに猪が介入して来て主客転倒した。命拾いした犯人は、さて現場から逃げようとして、靴が片一方失われているのに気がついた。どこに脱ぎ落としたかおぼえていないし、探している暇はない。そこで首藤の靴を脱がして履いた。幸いにサイズが同じだった」
「すると首藤は、Xを殺すつもりで、逆にXに殺されてしまったのか」
「そのように考えると、靴の入れ替わりの矛盾が説明できる」
「首藤が殺そうとしたXはだれだろう」
「それよりも、首藤が自分の個人的な動機から殺そうとしたのか、それともだれかの命令によって殺そうとしたのかが問題だ」
「だれかの命令か」
捜査員はたがいの顔を見合った。首藤の背後にいる黒幕となれば、当然一人の人物がクローズアップされる。その黒幕の意志がからんでいれば、これは単なる殺人事件ではない。魚影は定かに見届けられていないが、網の奥にチラリと巨大な尾を垣間《かいま》見たような気がした。
秩父山中で発見された死体の身許が判明したというニュースは、万波と久連山にも届いた。閑であるうえに偽沖山として追われている身なので、新聞テレビ類にはよく目を通している。
最初はけもの道に仕掛けられたカメラがとらえた靴から犯罪の存在を嗅ぎつけて、死体発見に至った推理小説もどきの経緯がおもしろくてずっと事件の報道を追っていたのである。
犯人と被害者の靴が入れ替わっており、被害者が履いていた靴が、菱井商事の藤沢専務から海部隆造の第一秘書野々宮成男へ贈られた品で被害者に盥まわしされたものであったという記事を読んだとき、万波はピクリと眉を動かした。
「はて、どうしてこんなところに菱井商事の藤沢とかいう専務が出て来るんだろう」
「なにかあったのか」
久連山が万波の気配に気がついて覗き込んだ。
「例の秩父の山中から出て来た死者が履いていた靴のことだがね。菱井商事の藤沢という専務が贈ったものが転々と盥まわしされたものだそうだよ」
「そんなことまで新聞に出ているのかい」
「重要な証拠だから靴の経路は明らかにしなければなるまい。しかしここに菱井の藤沢専務が出て来たのが気になるな」
万波が差し出した記事を一読した久連山は、
「商社の重役が右翼の黒幕にプレゼントしても、べつに珍しくはないだろう」
「プレゼント自体は珍しいことじゃない。しかし、海部は、商社関係は、横道商事と親しかったはずだ」
「二股かけているかもしれないじゃないか。専属契約≠結んでいるわけじゃあるまい」
「そう言えばそうだがね、藤沢は稲葉副社長の腹心で、岡崎体制に対抗して稲葉社長を実現するためのかげの仕掛人と言われている男だ。この男が海部の秘書と誼《よしみ》を通じているのが気になる。どうもなにかありそうだ」
「彼らにとって靴のやりとりぐらいなんでもないのだろう。まあ高級な靴だったが、菱井商事の専務の贈り物としては、とりたてて豪華というほどではない」
「靴は氷山の一角かもしれない」
「野々宮は靴の贈り主をなぜ隠さなかったんだ」
「隠しきれなかったんだとおもうよ。まさか自分が子分に盥まわしした靴がカメラに撮されていたなんて夢にもおもわないからね。その子分が殺されて埋められていたんだから、靴のルートを明らかにせざるを得ない。かりに野々宮が秘匿しようとしたところで、靴屋を調べられれば、贈り主は簡単にわかってしまう」
「藤沢にどんな魂胆があって海部や野々宮にアプローチしていても、我々には関係がないだろう」
「それだよ。海部は、暴力団ともつながっている。特に彼が呼びかけ人となって、全国暴力団の連合組織『報国会』を結成したとき、加島組だけが入らなかったので、それ以来、海部は顔をつぶされたと言って加島に含むところがあったようだ」
「えっ、そんないきさつがあったのか」
「おれも沖山のそっくりだからね、多少その方面の勉強をしたのさ。報国会の真の目的は海部が反共運動のリーダーシップを取るために、右翼戦線の強化と暗黒街の浄化を狙った一石三鳥の巧妙な作戦だったが、加島政知にまんまと肚の裡《うち》を見破られてしまった。加島組が入らなかったために、報国会も名目だけのものになってしまったようだよ」
「それじゃあ、海部と加島はうまくいってないんだな」
「うまくいってないどころか、報国会の理事長に大東組組長平岡時松がなったために、二人はむしろ敵対している」
「海部と加島が敵対……」
「どうだい、少しにおってきただろう。沖山は加島政知を狙撃した。そしていま、海部の親衛隊員が死体となって発見された」
「殺された首藤とかいう男が、沖山に関係があるというのか」
久連山の目が緊張した。
「単なる関係ならばいいがね、現場の近くに右片方の靴が残されていたというじゃないか。この靴が沖山の足に合わないかな」
「それじゃあ、沖山が首藤を殺したと!」
「そう仮定できないこともないだろう。海部としては、自分が表立って、加島に手を出すわけにはいかない。ところが沖山に始末させれば、ヤクザの勢力争いに見える。その後で沖山をかくまう振りをして配下に沖山を消させてしまえば、真相はいっさい闇の中に封じこめられる。その計算はよかったが、首藤が返り討ちにあってしまった」
「ちょっと待ってくれ。加島組と大東組が対立しているのはわかる。そして海部が大東組に肩入れしていたのはいい。しかし自分の呼びかけに応じなかったというぐらいで、刺客を向けるだろうか」
「もっと奥深い動機があったのかもしれない。なんにしても対立があった事実は見逃せない。海部も稲葉も大東組に肩入れしていた。そして海部と稲葉が誼を結んでいれば、ますます大東組を動かして加島に仕掛けさせやすくなる。菱井商事ともあろうものが、ヤクザの勢力争いに手を貸したとはおもえないが、黒幕海部が介入してくると、話は変わってくる」
「やっぱりヤクザ戦争を偽装した海部の仕掛けだとおもうのか」
「まあそう考えてもおかしくはないね」
「仮に沖山が首藤を殺した犯人だとすれば、自分を消そうとした真の黒幕が海部だということを知っているだろうな」
「首藤の身許を悟っていれば、知っているよ。首藤を何者とも知らなければ、加島組か大東組がさし向けた殺し屋とおもうだろう」
「首藤の身許をわからないようにしたのは、どういうわけだ」
「万一死体が発見された場合、身許がわからなければ、沖山に見せかけられるとおもったんだろう。本人が死んでいれば、それ以上狙われるおそれはないからね」
「しかし刺客が帰らなければ返り討ちにあったとおもわれるよ」
「両方の消息が不明になれば、相討ちということもある。どちらにしても、被害者の身許を不明にしておくことは犯人の安全につながる」
「首藤と沖山がつながりがあったかどうか確かめるてだてはないものかな」
「あくまでも仮説だよ。犯人はべつの筋かもしれない」
「そうだ。野々宮に罠《わな》を仕かけたらどうだろう」
「野々宮に罠を……?」
「そうだよ。首藤が野々宮の道具であれば、沖山に返り討ちにあったことを知っている。そこに沖山から接触してくれば、なんらかの反応をしめすにちがいない」
「そうか、またおれがかえ玉になるわけだね」
「どうおもう」
「それをしてもよいが、その前に打つ手はあるよ」
「どんな手が」
「現場に右足の靴が残されていたというじゃないか、靴には当然その主の汗やにおいがしみついている。サイズもある。これを沖山の靴だと警察にたれこんで、沖山の血液型や体臭と対照させてみたらどうだ」
「沖山の血液や体臭が警察にあるか」
「指名手配したとき、彼の住所も当然家宅捜索しているだろう。遺留品があれば押収している」
「それも悪くない考えだが、その前に現場に行ってみてはどうかな」
「現場へ?」
「おそらく警察に漁《あさ》りつくされてなにも残っていないとおもうが、素人は素人なりに岡目八目でなにか見つかるかもしれない」
「沖山が犯人と決まったわけじゃないよ」
「ここにいつまでもじっとしていても仕方がないだろう」
「それもそうだが」
万波の表情が少し動いた。菱井商事に一石を投じて波紋を生じさせたものの、それは事態の解決に少しも役立っていない。ここにいてはジリ貧あるのみであった。
「警察はおそらくまだ首藤殺しを沖山と結びつけていないとおもう。これはあくまでも我々の独断の推理だ。もしこの独断が的中していれば、我々は警察に先んずることができるよ」
「秩父か、気候もいいし、悪くないな。弦間さんにはどうする?」
「もちろん話すさ。いまの我々はあの人の助けがないことにはなにもできない」
弦間は、二人の推理を非常におもしろがった。首藤殺しの犯人を沖山と仮定した推理に何度もうなずいて、十分可能性があると言った。
「私はいま急ぎの仕事をかかえていて東京を離れられないが、車を一台貸してあげましょう。くれぐれも気をつけていってください。もし海部が敵となると、これまでの相手とはちがいますよ」
弦間はマイカーを提供してくれた。
乗り捨てた郷里
井手下保夫は、秩父山中で発見された身許不明死体が気になった。その発見場所は彼の郷里からあまりはなれていない。この二つの場所の接近になにか意味はないのか。その後死体の身許が海部隆造の親衛隊員と判明してからますます、意識の中で膨張してくる。
井手下は、万波と桑原が密かに接触した事実から菱井商事と沖山の間になんらかのつながりがあることを知った。ここに首藤の死体が現われ、靴によって海部と菱井商事がつながった。散乱していた人間関係がジグソーパズルのようにしだいに嵌《は》め込まれていく。その中でまだ浮いているのが沖山だ。だが彼を首藤殺しの犯人の位置におくと、まことに具合よく納まるのである。首藤殺しは埼玉県警の管轄である。下手にこちらから介入できない。
捜査一課の下田刑事の友達に動物写真家がいて、そのタレコミが事件の端緒になったということだが、最初下田が口をきいたのが、かなり相手を刺戟しているらしい。
警察の縄張り意識は暴力団以上と言われるくらいである。
その意識があったから、井手下は自分の推測をだれにも告げなかった。部内にも首藤殺しを沖山と結びつけて考えている者はなさそうである。
井手下は、密かに海部や野々宮と菱井商事との関係を探った。野々宮が所轄の刑事に語ったように「ちょっとしたつき合い」程度なのか、あるいはそれ以上の深いつながりがあるのかそれを確かめにかかった。
このような際に警察は最大の情報集積所である。情報蒐集を主たる仕事とする警備公安警察はもちろんのこと、前歴者、指名手配者、捜索願いを出された失踪人、家出人、暴力団構成員、犯罪関係車両番号、犯罪手口、指紋など約三千万点の捜査資料をコンピューターにファイルしてある。
戦犯、政商、右翼の大物、全国暴力団の元締め、総会屋の大ボス、諜報機関員等さまざまの顔をもち、戦後の疑獄事件のほとんどに登場する海部隆造に関する資料は豊富であった。
海部は現在、時の与党民友党とのつながりを深め、民友党を裏から操作している影の総裁と呼ばれるほどに同党内に隠然たる勢力を張っている。特に総理倉橋英輔と密着しており、彼の私邸と海部の寝室とは秘密の直通《ホツト》電話《ライン》によって結ばれているという伝説があるほどである。
倉橋が横道商事の会長横道大蔵と個人的に親しいところから、海部も横道のコンサルタントのような位置にある。現在横道商事が米国の大手航空機メーカー「スプルート社」の日本代理店となっているのも、海部の口ききによるものとされている。
しかし、横道がス社の販売代理店になる前に、菱井商事にその話が持ち込まれていた。菱井商事はグループ内に日本最大の国産兵器メーカー菱井重工をかかえているためにこの話は流れたという経緯がある。
だが菱井商事社内でも、ス社の代理店話について真っ二つに分かれて激しい対立があったという。そのときの賛成派代表が稲葉副社長であり、反対派筆頭が現社長岡崎太吉である。
海部と稲葉とのつながりはこのころにできたものであろう。どうして「ちょっとしたつき合い」どころではなかった。
「最近、海部と稲葉とのつき合いが復活したらしく、赤坂の料亭や都心のホテルで二人はよく会っているようですよ。これまでの例から見ても海部の動きが活発になると、どうもろくなことがないようです」
消息通はそんなことを言った。
海部と稲葉の間には「普通以上」のつき合いがあったと見てよいだろう。そして海部が大東組を後押ししていることもわかっている。沖山の加島政知襲撃の背後に海部がいなかったとは言いきれない。
これだけの予備知識を蓄えた井手下は、自分の目で、現場≠確かめてみることにした。
五月の末に万波と久連山は弦間から借りた車を操って秩父の山深く分け入った。車の入る最奥の集落で、死体の発見された場所を尋ねると、平和なこの山里を震撼《しんかん》させた大事件であったらしく、村人はみんなその場所を知っていた。
「今日はえらい物見高い日じゃなあ」
村人が教えてくれた後ふとつぶやいた言葉を、久連山は聞き咎めた。
「物見高いというと、ぼくたちのほかにも見に来た人がいるのですか」
「三十分ほど前に着いたバスで来た人が聞いていたよ。旦那方も警察の人かね」
「まあそんなようなものだが、その人も警察の人だったのですか」
「うん、刑事だって言ってたな。警察なら、三人いっしょに来ればいいのに」
村人は急に疑わしげな目つきになって二人をじろじろ見た。
「警察にもいろいろ管轄があるからね」
久連山は、さりげなく村人の詮索《せんさく》を躱《かわ》した。山道に歩み入った二人は、
「いまどきどこの警察が調べに来たんだろう」
「我々のように口からでまかせを言ったんじゃないかな」
「さっきの村人は、三人いっしょに来ればいいと言ってた。するとそいつは一人だ。刑事なら二人《ペア》で行動するはずだろう」
「なんにしても、我々以外に現場に興味をもっている者がいることは気になるね」
山麓《さんろく》は初夏の粧《よそお》いであるが、山懐ろ深く入るにしたがい、春|酣《たけなわ》であった。山桜がだれ観賞する者もない見事な枝ぶりを広げている。樹々の緑はまだ浅く、若葉は小さいが、樹葉をひるがえして渡る風は、まぎれもなく春の風である。うぐいすがびっくりするほど近くの枝で啼《な》いた。
よく聞いてきたつもりだが、林道からけもの道への入口がなかなか見つからない。
「なんでも大きなブナの木の所から入ると言っていたが、なにがなんの木だかさっぱりわからない」
「このあたりブナの木ばかりだよ」
「前に行った自称警察によくわかったね」
「土地カンがあったのかな」
三時間ほどその辺をさまよったが、結局けもの道は見つからなかった。日の長い季節の一日もようやく昏《く》れかけようとしている。馴れない山道で暗くなると厄介である。時間を気にしかけたとき、万波がふと耳を澄ました。
「だれかが上手から下りて来るぞ」
「登山者だろう」
「もしかすると、自称警察かもしれない」
二人は樹木の中に姿を隠して下りて来る人を待ち伏せた。足音ははっきりと近づいて来て、やがて目の前を一人の男が通過した。普通の背広に短靴を履いている。登山者でないことは明らかであった。
「はて」
万波がその後ろ姿に首を傾《かし》げた。
「どうかしたのか」
「いまの男、どこかで会ったような気がするんだよ」
「会った? 確かかね」
「たしかに会った。それもそれほど以前じゃないんだ」
「あんたが会ったというと、ホテルじゃないのかな」
「いやホテルじゃない。あの男はやっぱり刑事だよ。羽代から帰って来たとき、警察からこってりと油を絞られたが、その中にいまの男の顔があったようだよ」
「所轄の刑事か」
「いや、黙っておれの顔を後ろの方からじっと見ていただけだった。そうだ。あのとき所轄の制服警官が本庁の暴力団担当刑事だとささやいていたようだった」
「すると本庁の暴力団担当が、沖山のそっくりがいると聞きつけて、あんたの顔を見に来たのかもしれない」
「本庁の暴力団担当か。久連山君!」
万波の表情が改まっていた。
「本庁がどうかしたのかい」
「暴力団担当刑事がこのへんを嗅ぎまわっているところを見ると、警察にも首藤殺しを沖山と結びつけている者がいるということになるよ」
「なるほどそうか」
自分たちが警察に先んじているとおもっていたのが、実は警察もちゃんとマークして手を打っていると知って急に気が抜けてしまった。
刑事が漁《あさ》りつくした後をいまさら嗅ぎまわる気力もなかった。二人は脱力した身体を引きずって山を下った。
だが、警察はいっこうに首藤と沖山を結びつけた動きを見せなかった。埼玉県警では、「靴の身許《みもと》」を割り出したものの、捜査はそこで停滞してしまった。もし沖山との関連が浮かんでいれば、特に秘密に付する理由はなさそうである。
「おかしいな」
万波が首をひねった。
「沖山の事件は東京の管轄だろう。たがいに縄張りちがいなので、切り放しているんじゃないのかな」
「縄張りちがいだから、たがいに手の内を明かさないということはあるだろう。しかし東京の方も黙っているというのはおかしい。首藤と沖山を結びつけるだけで、埼玉側の鼻をあかせるだろうに」
「まだ確証がつかめないんだよ」
「そうかなあ、どうもおれにはあの刑事が一人で動いているような気がしてきたんだが」
「たしかに一人で来たがね。刑事がペアで行動するというのはあくまで原則で、手が足りなければ手分けをするだろう」
「いまちょっと仮説を立ててみたんだがね。あの刑事が、暴力団に抱き込まれていたとしたらどうだろう」
「暴力団に……」
「以前、警官の護衛の見ている前でおれが誘拐されたことがあったね。あのことがあってから警察とヤクザがグルじゃないかと疑ったんだが、もし彼が買収された刑事だとしたら、沖山の行方が最も気になっているだろう。大東組、加島組どちらに買収されているにしても、きっと両派から早く沖山を探し出せとせっつかれているにちがいない。彼の役目は警察の捜査力を利用して沖山の居所を探し出し、警察が捕まえる一歩前に両派いずれかに彼を手渡すことだろう。だから、首藤と沖山を結びつけても、めったなことでは仲間にも話さないさ」
「あの男が警察の内通者か」
「まだ仮説だよ」
「一人で現場を見に行ったのは、たしかにきな臭いよ。弦間さんに頼んで身許を少し探ってもらっては」
「悪くない考えだね。警察の腐敗を指摘できれば、誘拐のしっぺ返しができる」
二人は、自分たちの着眼を弦間に話した。弦間はどんなルートがあるのか、早速調べてみようと言った。
万波のカンは的中した。
「万波さん、さすがですよ。その男は井手下という捜査四課の刑事ですが、加島組の犬です。身辺を監視して加島組の最高幹部会会長安木重三と何回か密談しているところを突き止めました。あなたのカンは玄人はだしだ。この問題の結着がついたら、ぜひ私の事務所で働いてください」
弦間の口調は興奮していた。
「そこで井手下をどうしましょうか」
「当分の間、泳がせてみましょう。おもしろい動きを見せるかもしれない」
「沖山の行方はあい変わらずわかりませんか」
「依然として消息不明です。井手下もなにかの手がかりをつかもうとおもって現場を見に行ったんでしょう」
「我々は手ぶらで帰って来たが、井手下はなにかつかんだかもしれない」
「その意味でも彼を泳がせてみる価値があります。それからお二人にお礼を言わなければなりませんが、おかげで菱井と安中の合併はご破算になりそうです」
「菱井に報いる一矢ぐらいにはなりましたか」
「一矢どころか、大砲を射ち込んだぐらいの効果はありましたよ。これで稲葉派は大きく後退を余儀なくされました。稲葉に菱井を握らせるとちょっとうるさい相手になりそうだったのを未然に食い止めて、私も面目を施しました」
「弦間さんは海部の親衛隊員が殺された事件をどう考えますか」
「井手下が動いたところを見ると、やっぱり沖山が臭いですね。加島組組長襲撃の裏には海部がいるというあなた方の推理に私も同意見です。ただ私は海部がなぜ加島組組長に仕掛けたのか。その動機を重く見ますね」
「とおっしゃると、加島が海部の呼びかけに応じなかったという以外の……」
「海部ともあろう者が、そんな単純な理由で人を狙いませんよ。加島に生きていられては都合の悪い重大な理由があったはずです」
「それはなんでしょうね」
「加島への仕掛けには稲葉も手を貸しています。すると海部、稲葉両方にとってなにか理由があったとおもいます。私はこれを探るつもりです。なにかとてつもない獲物が引っかかりそうな気がするんです」
弦間は、獲物の臭跡を嗅ぎつけた猟犬のような顔をしていた。
一方、秩父署では首藤殺しの犯人Xの足取りを必死に追っていた。彼らは現場の近くまで車で来たと考えられた。犯人と被害者の位置が猪の介入によって転倒したとしても、片方は銃を擁しているのであるから、使用した車はマイカーか、レンタカーとおもわれた。
初めは首藤のイニシアチブの下に来た状況であるから、彼のマイカーか、彼が借りたレンタカーが使われた公算が大きい。首藤の車を奪って逃げたのであれば、Xはどこかでそれを乗り捨てているはずである。それを探し出せれば、犯人の足取りを追える。「首藤の車」の行方が探された。
捜査の結果、昨年九月十九日ごろ埼玉県相武市の市道に一台のレンタカーが乗り捨てられていたことがわかった。問題の車はその前日、東京都渋谷区代々木の「アロウレンタカー・参宮橋営業所」から一日契約で借り出されたもので、規定のレンタル料金が前払いされていた。借り手の名義は首藤完治、走行距離は東京から秩父の現場を経て、乗り捨て地点までにほぼ一致した。
アロウレンタカーでは、客の中にはアメリカ式に乗り捨ててしまう者もいるので、さして不審ももたず、もよりの営業所から人をやって車を引き取った。後日、その分の手数料を首藤に請求したが、本人になかなか連絡が取れず未収のままになっているということである。レンタカーの内部が検べられたが、すでにだいぶ日数も経過しており、資料となるようなものは発見されなかった。
Xが相武市で車を乗り捨てた先の足取りは皆目不明であった。
「首藤の借りた車が埼玉県の相武市に乗り捨てられてあったそうです。ところがこの相武市が沖山の生まれた土地なのです」
弦間がまた新たな情報をつかんでやって来た。
「それでは沖山は郷里に潜伏しているのですか」
「すでに沖山の生家はその地になく、身寄りの者もそこにいませんが、もう一つ見逃せない符合があるのです。井手下の身上を調べたところ、彼がまた相武市の出身ということがわかりました」
「本当ですか」
万波と久連山は同時に声を発した。
「しかも生家が近くで、小中学共に同じなのです。二人は幼なじみで、同窓なのですよ。この符合をどうおもいますか」
「井手下はそのことを黙っているのですか」
「自分からは言ってないようですね。どうです、きな臭いでしょう」
弦間は探るように万波の目を見た。
「井手下が幼なじみの誼で沖山をかくまい、一方通じている加島組か大東組をなだめるために、私を身代わりに差し出そうとしているのですか」
「その可能性はあります」
「それなら沖山の行方を知っているのだから、首藤殺しの現場へ来ることもないでしょう」
「沖山は首藤を殺してから井手下の許に逃げ込んだ。井手下は止むを得ず、自分の生家にかくまった。ところが後日首藤の死体が発見されたので、証拠を残さなかったか心配になって確かめに行ったのでしょう。沖山は首藤を殺したことを、その死体が見つかるまで井手下に黙っていたのかもしれません」
「沖山は井手下の生家に隠れているのですか」
「彼の生家は老舗の銘菓店で、井手下の父親は世を去り、母親が切りまわしておりますが、そこに沖山がいる気配はありません」
「井手下が生家からどこかへ移したのでしょうか」
「井手下は、沖山と同郷であることをいずれ、悟られると予期していたとおもいます。どこか安全な場所に移したことは十分に考えられますね」
「ちくしょう、そのためにおれを身代わりにしようとしたんだな」
「井手下を監視していれば、いずれ沖山と接触するとおもいます」
「弦間さん、これからもよろしくおねがいします。我々はあなたがいらっしゃらないことには、手も足も出ません」
「私も沖山の行方には興味があります。これからも及ばずながらお力添えをさせていただきますよ」
庇護《ひご》された死
弦間は、また数日後やって来て、
「朗報ですよ」と二人に笑いかけた。
「沖山の行方がわかりましたか」
二人が身体を乗り出すと、
「いや、そうじゃありません。加島組と大東組が手打ちをするそうです」
「手打ちを?」
「加島政知の傷も癒えて、羽代市の暴力団中戸組組長の仲介で手打ちをすることに両者の意志が一致したということです。これ以上対立をつづけていても犠牲者を出すだけで市民にも迷惑をかけるばかりなので、今度の大安吉日に両組の主立った者が集まって、中戸組組長中戸多一の立会いの下にこれまでのことはいっさい水に流す手打ち式をすることになったそうです。警察の頂上作戦と世論を躱すための一時休戦だとおもいますが、そうなれば万波さんあなたも身代わりの人身御供にされずにすみます」
「沖山も出てくるでしょうか」
「さあそれはどうでしょうか。たとえ手打ちをしたからと言って両組のしこりが解けたわけではないし、仮に両組が許しても殺人未遂による指名手配は解かれませんからね」
「沖山はどうするでしょうか」
「彼が加島政知の襲撃だけをしているのであれば、井手下に付き添われて、あるいは自首してくるかもしれません。しかし首藤殺しも彼の仕業であれば、コトはそれほど単純ではなくなる。私はこのまま潜行をつづけるとおもいます」
「私は出て行って本当に安心でしょうか」
万波は不安げであった。
「手打ちをした後、沖山を処刑する意味はありません。そのための手打ちですからね。手打ち後にそんなことをすれば、今度は中戸組の面子がつぶされます」
「ようやく天下晴れて外を歩ける身分になれるわけですね」
万波は、さすがに嬉しげであった。弦間が帰った後、久連山が心なし寂しげなおももちで、
「これで手打ちが成立すれば、ぼくもあなたといっしょにいる意味がなくなるな」
「どうしてだね」
「だってそうだろう。これまでは沖山を探し出すことが、あなたの自衛につながった。沖山をリンチする意味がなくなったのだから、もう沖山を探し出す必要もないわけだ」
「そのことだったら、弦間さんはああ言ってくれたがね、私はそんなに楽観できないんだよ。今回の手打ちは警察と世論を欺くための一時的な和睦にすぎない。火種が取り除かれたわけじゃないんだ。まして沖山の処刑がすまないうちは、加島組の面目はつぶされたままだ。言わば沖山は懸賞金をぶら下げたお尋ね者だよ。功名心に燃えた加島組の鉄砲弾がいつでも狙っていると考えなければならない」
「この手打ちは偽装だというのか」
「まずね。それに私は個人的にも沖山に興味をもっている。言わば彼は私の人生のコースを変えた男だ。あんたといっしょにとことんまで追っかけてみるよ。いまさら水臭いことを言わないでもらいたいな」
「万波さん、有難う」
「ここまでいっしょに来たからには、沖山の行方を最後まで見届けようじゃないか。それをしないと、おれたちの人生に区切り点が打てない」
八月二十一日、手打ち式に先立って、大東組組長平岡時松が、退院して自宅療養中の加島政知を世田谷区大原町の自宅に見舞った。これが手打ち後に見舞う形式をとると、ヤクザの世界では大東組が加島組に全面降伏をしたと見なされる。この見舞いによって、両組長の間に手打ちについての具体的な了解が成ったのである。手打ちについての条件はいっさいつけられなかった。
これは、今回の抗争が勢力拡大に伴う対立トラブルではなく「親分が撃たれた」面子回復のための報復戦であったので、勝っても一円の利益にもならない。やればやるだけ世論と警察を刺戟して、加島組のマイナスになる。その後の報復戦で、加島組の面子はいちおう立ったし、全国の親分衆から「加島組の面子のために自分たちにまで警察と世間の風当たりが強くなってきた。もういいかげんにしてもらいたい」と批判が出てきた。
一方大東組は、加島組の怒濤《どとう》のような報復に怯《おび》えきっていた。これ以上報復をつづけられたら組を維持できなくなる。どちらもここらが和睦の潮時と判断した。
八月二十七日大安吉日に、手打ち式は両派の勢力圏のちょうど中間地点、浜名湖|館山寺《かんざんじ》温泉のホテルを借り切って行なわれた。
当日は館山寺のホテル玄関口に、あらゆる種類の外車が集まって来た。また浜松駅に、地方からやって来た親分衆や幹部が下り立ち、出迎えの車の列が引きも切らない。これに報道陣が群がって来る。浜松駅や館山寺温泉街は、時ならぬ黒いスーツとサングラスの集団に占拠された観があった。
静岡県警は神経をとがらせ、浜松署に警戒本部をおいて、機動隊、捜査四課、浜松署員二百名を動員し、早朝から、浜松駅、ホテルおよび両所を結ぶ沿道に人員を配置して警戒に当たっていた。
いずれも胸に金バッジや銀バッジを光らせた筋金入りのヤクザが、機動隊のボディチェックをうけて会場に入って来る。まだ手打ちが終わったわけではないので、一触即発の空気が張りつめている。
式が終わるまでは、すべての責任は仲介人にかかる。全国を二分した大規模なヤクザ抗争だけに、これを収める仲介人にはそれだけの貫目が備わっていなければならない。
中戸多一は、仲介人として申し分なかった。F県を握り、中央政界までリモートコントロールすると言われている大場資本を背景に東日本に絶対の勢力を張っている中戸組には、さすがの加島組も触手をのばせない。大東組も中戸組の仲裁にいなやはない。
中戸多一としてもこれだけの抗争《でいり》を収めれば、大きな名誉である。形式的なもう一人の仲介人に関西ヤクザ界の長老将田喜三郎が選ばれた。
両組とも組長はじめ出席者は四十名ずつということになっていたが、なにぶん日本を二分する大暴力団の手打ちなので、両組のバランスを保つために出席者が芋づる式に増えて、結局総勢は約五百名となった。だれが出て、だれが出ないとなると、必ず後にシコリを残す。人選には絶対にミスは許されなかった。
その他、会場へは来ない子分たちが、浜松市内各所で待機している。
会場のホテル内は意外に静かであった。むしろ無気味なほどに静まり返り、それぞれが粛然として式の始まるのを待っている。
これは式終了までは、いっさいの私語や喫煙飲酒が禁止されていたからである。
式場の二階大広間には「四方同席」のたれ紙が各所に貼り出されている。序列や格にうるさい世界であるから、どこに坐ってもわけへだてはないと断わるのである。
床の間には「和合神」と右から左へ一字ずつ書いた軸を三幅かける。床の中央に大根、人参、串柿《くしがき》、勝栗《かちぐり》、ぎんなん、海老《えび》、昆布などの捧げ物を供え、檜《ひのき》の素木《しらき》の三方《さんぼう》に波の花(塩)を盛り上げ、右に白米、左に鰹節《かつおぶし》、波の花の前の大皿に背中合わせにした鯛《たい》、さらにその前に刀身を向け合った二振りの刀が供えられる。刀の上に戦いを抑止する止め扇≠ェおかれる。式場は衝立《ついたて》によって中央から仕切られている。
時刻がきた。両組長および付添人がそれぞれの仲介人に導かれてべつべつの階段から式場へ入り、衝立をはさんで席につく。口上人、仲介人、およびそのアシスタントの媒酌人の順序で両側下座に坐る。
全員席が定まったところで、口上人が両当事者の中央に出て口を開いた。
「このたびの出来事につきましては中戸多一さんと将田喜三郎さんにすべてを黒|蓋《ぶた》でお任せくだすったそうですが、それに相違ございませんか」
黒蓋≠ヘべつの色に染まりようがないところから、すべて無条件で任せるという意味である。
「相違ございません」
加島政知と平岡時松が答えた。
「それでは衝立を引かせていただきます」
口上人の口上とともに二人の媒酌人が立ち上がり衝立の両側に位置を占めた。呼吸を計って同時に手をかけて下座に向かって引く。加島組と大東組の顔が相対した。一瞬火花が散るような緊迫した雰囲気である。双方無言のまま頭を下げる。口上人は声をいちだんと張り上げて、
「仲介者お二方になり代わりまして謹んで神前にご報告申し上げます」
神前にぬかずき、背中合わせの刀を腹合わせに直して水引きで結び、
「加島政知さんと平岡時松さんとのこのたびのもめごとに関しまして仲介人中戸多一さんと、将田喜三郎さんのお二方に黒蓋でお任せくださってこれまでの行きがかりはすべて遠州|灘《なだ》に流し、向後《きようご》水魚の交わりを結ぶことになりました。このことを謹んでご報告し、これより手打ちの式を執り行なわせていただきます」
と神前に報告して元の座へ帰った。
「神前へのご報告がすみましてございます。式を行なっていただきます」
口上人にうながされて、二人の媒酌人が神前の供物を下げてきた。背中合わせの鯛を腹合わせに直し、同時に左右から一盃に神酒を三度に分けて注ぐ。次に右手の箸中央に左手人差し指と中指を添えて、波の花を三度、鯛は形だけ頭、腹、尾の順に取り盃に入れた。
この儀式を踏んだ盃を二つ、一つの三方に載せて、
「ごいっしょに口を(盃に)つけていただきます」と口上人が言った。
加島と平岡が半分飲んだ盃を三方に戻すと、媒酌人が同じ手順を踏んで神酒を注ぎ足し、盃を取り替えて、今度は全部飲み干した。
「ご一統様ごらんのとおり、当事者の間で心もちよく盃を交換していただきました。これよりご一統様に冷酒を回します」
一座、たがいに回し飲みした盃が仲介人の前へ運ばれてきた。
「この度は不肖私たちにお任せくださいまして、ここに式はとどこおりなく終了いたしました。厚く御礼をのべ、この盃を納めさせていただきます」
中戸多一が言って、仲介人二人が同時に盃を飲み干した。ここですかさず口上人が祝儀の言葉をのべ、その音頭の下に一同手を拍《う》った。これでめでたく手打ち式が終わった。
式の終了と共に、緊張した雰囲気が緩んだ。急にざわめきが起きて、あちこちで笑い声が発する。
だが一遍の形式によって、これまでのしこりが氷解するわけではない。和睦の宴をそそくさと切り上げて、両組は潮が退くように帰って行った。
(作者註)
手打ちの形式にはいくつかあるそうですが、本作品においては「実証・日本のやくざ」井出英雅氏著に拠ります。
手打ち式の報道記事を新聞で読んだ万波は、
「この記事を沖山も読んでいるだろうな」
「当然だろうね」
久連山がうなずくと、
「沖山としてはおもしろくないだろうね。大東組の決死隊として単身撲《なぐ》り込みをかけたことがなんにもならなかったどころか、今後、大東組から邪魔者扱いだ」
「大東組としては、組の意志ではなく、沖山のスタンドプレーを意識した勇み足と言っている」
「沖山にしてみれば踏んだり蹴《け》ったりというところだ。この後、沖山がはたしておとなしくしているだろうか」
「口惜しがっても、一人ではどうにもなるまい」
「どうだろう。井手下の生家に様子を見に行ってみようか」
「弦間さんが井手下の生家に沖山の気配はないと言ってたじゃないか」
「井手下の生家がどうも気になるんだよ。幼なじみという理由だけで、現職の刑事が指名手配中の容疑者を庇《かば》うものかね。庇っていなければ、埼玉県の警察に、首藤殺しに沖山がからんでいるらしいことと、自分が沖山と同郷であることを連絡してもよいはずだ。それをしないということには、なにか底がありそうな気がする」
埼玉県相武市は秩父山地の褶曲《しゆうきよく》が裾を広げて関東平野の中になだれ込むあたりにある。荒川の河岸段丘上に発達した秩父街道¥繧フ宿場町であったが、往来を中仙道に奪《と》られて、さびれた。近年に至って東京と直結する私鉄が通じてから、秩父観光の基地としてにわかに活気を取り戻してきた。また現市長が企業誘致に辣腕《らつわん》を発揮して一大工業団地を造設して以来、産業都市として面目を一新した。拡大した市域の宅地化も進み、東京の新しい衛星都市として生まれ変わりつつある。
だが市が大きく改造された反面、昔ながらの街並みを残したまま、交通や人の流れが変わってさびれてしまった一面もある。これが由緒ある建物があったり、市に旧《ふる》い街並みをアピールしようとする姿勢があれば、宿場町ブームにあやかって観光客が集まって来るのであろうが、あいにく、市にはそんな懐古趣味はなく、さびれたままに辛うじて生き残っている。
こんな旧市街の一角に井手下の生家はある。屋根は瓦葺《かわらぶ》きで、黒光りのする出格子の付いた店先は、いかにも由緒ありげな古格を表わしている。のれんの奥には、デパートの全国銘菓展にでも行かなければ見かけられないような手づくりの和菓子が並べられている。
通りに人影はなく、店の中にも客の姿は見えない。番頭らしい老人が一人眠そうに店番をしている。
二人はおもいきってのれんをくぐり、店の中へ入った。
「いらっしゃいまし」
番頭が愛想笑いを向けた。沖山そっくりの万波は顔を伏せている。
「あのう、ちょっとつかぬことをうかがいますが、お宅に沖山という方はおられますか」
久連山はズバリと核心に斬り込んだ。番頭の愛想笑いが不審の色に上塗りされて、
「あのう、家をおまちがいになったのでは」
「いやたしかにお宅と聞いてまいりました。こちらは東京で刑事をされている井手下さんのご生家でしょう」
「はあ、保夫様ならこちらのお家ですが、最近よくお帰りになりますよ。保夫様になにかご用事で」
井手下は生家とよく往来している様子であった。そのことは、沖山をかくまっている一種の状況証拠と言えないこともない。
「いや井手下さんではなく、沖山です。海の沖に、山です。この町の出身で例の加島組組長を襲撃した男ですよ」
「ああ伸次のことですか。あいつは子供のころから手のつけられない悪タレでしたが、とうとうあんな大それたことをしでかしおって。あいつはこの町の名折れだ」
老人は沖山の少年時代を知っているらしい。
「その沖山ですよ。お宅にいると聞いてきたのですが」
「だれがそんなデタラメを言ったんですか。うちにあんなお尋ね者がいるはずがないでしょう」
老番頭は色をなした。そのとき奥の方から気配を聞きつけたらしい年輩の品のよい婦人が出て来た。五十代に入っているのだろうが、若造りでまだ姥桜《うばざくら》の色香が残っている。井手下に面ざしが似通っているが、母親にしてはあまりにも若造りである。
「作造、どうかしたの」
彼女は、久連山に目礼して、老番頭に問いかけた。そのとき万波が顔を上げた。
「あ、お内儀《かみ》さん、こちらの人が伸次が来ていないかと言うもんで、あ、あんたは!」
老番頭が万波を見て目を剥《む》いた。万波を沖山と見まちがえたのである。老番頭の気配に釣られて、内儀が、万波の方を見た。ガタンとなにかが落ちた。彼女の顔が蒼白《そうはく》になってその場に立ちすくんだ。一瞬全身が硬直したかに見えたが、すぐに小きざみに震えはじめた。万波に驚いた老人も、彼女の大袈裟な愕《おどろ》きように注意を引かれた。
「ゆ、ゆうれい」
彼女は震える声で言うと、踵《きびす》を返して奥に逃げ込んだ。
あとには、二人と老番頭があっけに取られて茫然《ぼうぜん》と突っ立っていた。
「いまのお内儀の反応を見たか」
「見たとも」
「あれは普通の愕き方じゃないぞ」
「まるで幽霊でも見たような……」
「そう言えばゆうれいと言ってたようだ」
「そうだ、あれは幽霊と言ったんだ」
「ひどいことを言いやがる」
「万波さんを沖山とまちがえたことはたしかだ。しかし沖山とまちがえて幽霊とはどういうことだ」
「沖山が死んでいるとでも言うのかな」
「そしてあの女は沖山が死んでいることを知っている」
「沖山が死んでいるのを知っているということは……」
急速に心の中で固まりつつあるものがある。
――まさかあの女が?!――
彼らは半信半疑であった。長い間探しあぐねていた目的物が、突然意外な形で目の前に差し出されかけてかえってとまどっている。
「あのお内儀、おそらく井手下の母親だとおもうが、今日おれたちが来たことを井手下に連絡するだろうか」
「おれはするとおもうが」
「もしもだよ、井手下があいにくどこかへ行っていて連絡がつかないとすればどうなるとおもう?」
「どういうことだね」
「あのおかみが沖山をどうかしていて、万波さんを沖山と信じ込んでいれば、まさかそんな瓜二つが世の中にいるとは考えないだろうから、死んだ人間が生き返ったとおもうだろう。もし彼女が犯人ならどうするとおもう?」
「そうか。死体を確かめるかもしれないな」
途方もない大獲物が突然|鉤《はり》に引っかかったために、竿《さお》と糸が耐えられるかどうか自信がない。
二人は、井手下家を密《ひそ》かに見張った。井手下の母親(後で澄子という名前であることがわかった)に気がつかれたらなんにもならない。よそ者の目立つ地方町での張り込みは難しいが、幸いに井手下家の前は旅館で、同家の真向かいの部屋を取ることができた。澄子は昼の間は動く気配はなかった。
日が落ちると、通りに面した店舗は早々と表戸を下ろし、人の通りも絶えた。バイパスができたので車の交通も少ない。宵《よい》の口からすでに深夜のおもむきである。
時間はゆるやかに経過していったが、井手下家は静まり返ってコソとの気配もなかった。午後十時には家の灯がすべて消された。
「これは我々の独り相撲だったかな」
「この町の人間で息子の幼なじみだったから、当然沖山の顔を知っていてびっくりしたのかもしれない。現にあの爺さんも愕いていた」
「あの愕き方は尋常とはおもわれなかったがね」
「あるいは井手下と連絡が取れて、あなたが沖山のそっくりだということを知らされているかもしれないよ」
「そうだとすれば、こんな所に張り込んでいてもなんにもならない」
「見ろ! いま井手下家の裏木戸の方でなにか動いたように見えたが」
久連山が万波の袖を引いた。
「おれにはなにも見えなかったよ」
「あの裏手の通用口の所だ。電柱が立っている」
「犬か猫じゃなかったのかい」
「そうかもしれない。なにかチラッと影が動いたような気がしたんだが」
二人は街灯の光の及ばない闇の澱《よど》んでいるあたりに目を凝らした。突然闇が割れて、女の影が浮かんだ。
「やっぱり動きだした」
彼らは即座に行動をおこした。澄子は人目を避けるようにものかげ伝いに町の寂しい方角へ向かって行く。十五分ほど歩くと家並みが切れた。川が流れているらしく遠方にせせらぎが聞こえる。堤に沿ってしばらく歩き、やがて川原へ出た。二重に築かれた堤防の間に松林があった。澄子はその中へ歩み入った。空は厚い雲に被われて、一抹《いちまつ》の光も見えない。林の木《こ》の下闇の中で、澄子はなにをやっているのかよくわからない。
「どうやらなにか掘り返しているらしい」
「あそこに沖山の死体を埋めたのだろうか」
「なんにしてもすぐにわかるよ」
二人は固唾《かたず》をのむようにして林の中を見まもった。どうやら小さな園芸用シャベルで掘り返しているらしいので、時間がかかる。
「そろそろいいころ合いだろう」
二人はささやき合うと、隠れていたものかげから飛び出して懐中電灯を射しかけた。澄子はだれもいないとおもっていた林の樹間からいきなりライトを浴びせかけられて、悲鳴をあげた。
「一人では大変でしょう。お手伝いしましょうか」
万波が声をかけた。
「だれ、あなたはだれ」
澄子は恐怖に耐えて誰何《すいか》した。
「幽霊です」
万波は、自分の顎《あご》の下にライトを照らした。澄子の精一杯の強がりもそれまでであった。澄子は殺されそうな悲鳴をあげて、そこにくずれ落ちた。
「脅かしすぎたようだな」
「そのうちに目を覚ます。いまのうちに埋められたものを確かめよう」
万波と久連山は、澄子が掘りかけた穴の傍へ駆け寄った。
「土が柔らかい。やはり掘り返した跡だ」
「こんな所へ埋められていたんでは、警察や加島組がいくら探しまわってもわからないはずだ」
二人は土中の埋蔵物≠ノおおかたの察しをつけていた。腐臭が少しずつ夜気の中に漏れてきた。彼らは時間を忘れた。ついに探し当てた興奮に陶酔していた。注意が土中に集まり、周囲に対する警戒を怠った。彼ら以外に人家から遠く離れた深夜の松林に近づく者はあるまいという油断もあった。
「よし、二人ともそこまでだ。素人にしてはよくやったぜ」
いきなり背後から声をかけられた。愕然として振り向こうとした彼らに、
「そのまま、動くんじゃない。ショットガンが狙《ねら》っているぞ。手を上げてそこに並んで立て。変なまねしやがったら、すぐにぶっぱなす」
「きさま井手下だな」
うめいた万波の背中に銃身がグイと突きつけられて、
「だれが口をきいていいと言った。言うことをきかないと残り少ない命がますます短くなる」
「おれたちを殺すつもりか」
「ちょうどいい具合に墓穴も掘れているじゃないか。まだ二人分はたっぷりとスペースがある。こっちにしてみれば一人埋めるも三人埋めるも同じ手間だ。ここは河川敷の中で掘りおこされる心配はないし、水はどんなに増えてもここまでは来ない。ゆっくり眠るにはもってこいの場所だよ」
「沖山を殺して埋めたのもおまえか」
「余計な口はきくなと言ったはずだ。余計な詮索さえしなければ、死なずにすんだものを。まあここまで来たことを褒《ほ》めてやる」
「どうせ殺されるのなら、なにをしても同じだろ。あんた、沖山を殺してしまったので、おれを身代わりにしようと躍起になっていたんだな。ひどい刑事もあったもんだ」
「なんとでも言え。おれにとって沖山は絶対に生かしてはおけない人間だったんだ。しかし、あんたは見れば見るほど沖山によく似ているな。まだ沖山が生きているような気がしてくるぜ。あんたを生かしておいては、おれの精神衛生上よくなさそうだ。覚悟してもらおう」
背後で銃を構えなおす気配がした。本気で殺すつもりらしい。殺気が凝縮して背中に螺旋《らせん》のように突き刺さってくる。二人は観念の眼《まなこ》を閉じた。
首藤殺しの現場には、ある仕掛け≠ェ施されていた。いや施したというより、以前からあった仕掛けをそのまま残したと言ってよい。
秩父署では、犯罪発覚の端緒となった動物撮影用のカメラを、カメラマンの今泉直利に頼んで、そのまま現場周辺に設置してもらったのである。これは、死体が発見されたニュースを知って、犯人が現場を見に来る可能性があったからである。
もちろんカメラの設置場所は犯人が舞い戻って来た場合に見破られないように新たな偽装を施した。
今泉も、突然転がり出て来た死体によって中断された形になったが、まだけもの道の研究が終わったわけではないので、積極的に協力してくれた。今度は人間も対象にするので、ビームの高さとカメラの写角を高くした。
これに井手下が引っかかっていたのである。秩父署は、彼を見すごせなかった。服装から判断しても、偶然迷い込んだとはおもえない。現場になんらかの関心があってやって来たとしか考えられなかった。
井手下の写真をもって近くの集落に聞き込みをしたところ、反応があった。村人の一人が警察手帳を示されて、現場の位置を尋ねられたという。
「たしか東京の刑事だと言ってただよ」
村人の話によると、あと二人「警察のようなもの」と称する男が刑事のあとを追っていったそうだが、この連中はカメラに撮《うつ》っていない。
「東京の刑事がなぜ首藤殺しの現場を見に来たのだ?」
「しかも我々に隠れるようにして……」
間もなく「東京の刑事」の身許がわかった。井手下保夫、警視庁捜査四課刑事、井手下の身上と経歴を調べた秩父署は重大な符合を発見した。
「井手下は、相武市の出身だぞ」
「相武市は、首藤の借りた車が乗り捨てられていた所じゃないか」
こうなると、井手下が、単なる縄張り意識から他署管内の事件を密かに嗅ぎまわっているとは考えられなくなる。
井手下の現在担当事件が調べられた。
「加島組組長襲撃犯人沖山伸次、相武市出身。これだ!」
秩父署の捜査員はついに井手下―首藤殺し―相武市に乗り捨てられた車をつなぐ、|失われた環《ミツシング・リング》を探し当てた。
「井手下と沖山は単に同郷というだけでなく、生家が近くで、小中学が同級だったそうだ」
「沖山の所属した大東組は、海部隆造と親密な関係にあった」
「首藤殺しの有力容疑者として、井手下は沖山をマークしたにちがいない。だからわざわざ現場を確かめに来たのだ」
「それなのに、それを我々に連絡しない。我々だけでなく、彼の所属する上司にも黙秘している。やつと沖山の間にはなにかあるな」
「沖山は相武市に潜伏しているかもしれない」
「井手下もマークする必要がある」
加藤と岩上は、相武市へ出向して行った。だが彼らの意気込みにもかかわらず沖山の気配はなかった。失望して引き揚げかけた二人の前に、突然沖山≠ェ姿を現わしたのである。
二人は奇蹟を目のあたりにしたような気がした。警察と加島組、大東組の必死の追及を躱《かわ》してそろそろ一年にわたる間コソとの気配もたてなかった全国指名手配の容疑者が子分≠一人連れて目の前を悠々と歩いている。
ようやく我に返って逮捕しようとしたとき沖山≠ヘ妙な動きを見せた。沖山≠ヘなんと井手下の生家に入って行った。それも表の店の方から内儀、井手下の母親に面会を求めたのだ。内儀は、沖山≠見てびっくりした様子である。
その後、沖山≠ヘ井手下家の向かいにある旅館に入って同家を見張りはじめた。
「どうもよくわからない」
「井手下が、沖山≠かくまっているのなら、あのお内儀があんなにびっくりするはずはないのだが」
「母親は知らないんじゃないのか」
「どうして井手下の家を見張っているんだろう」
「いっしょにいる男も子分らしくないぞ」
「あの二人が、井手下のあと、村人に首藤殺しの現場の位置を聞いた自称警察もどきじゃないだろうか」
「沖山≠ェどうして現場の位置を聞くんだね」
加藤と岩上は首をひねって、
「どっちにしてもやつらはもう袋のねずみだ。もう少し様子を見てみようじゃないか」
ということになった。
井手下の指が引き金にかけられたとき、闇の中から声が湧いた。
「話は全部聞いた。秩父署の者だ。井手下、これ以上罪を累《かさ》ねるな」
声と同時に加藤と岩上が松の木を楯《たて》にして、姿を見せた。井手下はギョッとなって銃を構え直した。
「周りは警察が固めている。井手下、銃を捨てろ。あんたも警察官なら無駄な抵抗は止めるんだ」
井手下の全身から力が脱けていくのがわかった。銃身が徐々に下がり、手から離れて地上へ落ちた。岩上が加藤の援護の下に駆け寄って素早く手錠をかけた。
「井手下保夫、殺人、死体遺棄容疑および殺人未遂の現行犯で逮捕する」
仲間を捕えた岩上の声は、むしろ沈痛であった。そのとき井手下の母親が地上でかすかに身じろぎをした。
「おふくろ、もう少しの間、目を覚まさないでいてくれ」
井手下が祈るように言った。
井手下保夫は殺人未遂の現行犯として駆けつけた相武署の捜査員に捕えられた。逮捕された後の井手下は、観念したらしく神妙な態度であった。警察官だけに抵抗しても無意味なことを悟っている。
松林の中からは、屍蝋《しろう》化した沖山伸次の死体が掘り出された。死後経過の推定は、六か月から一年、死因は有機燐製剤パラチオンによる中毒と認定された。首藤完治を殺害して数か月後毒物を盛られて殺されたものと見られた。沖山の死体が現われてから、井手下|母子《おやこ》は犯行を自供した。
井手下澄子の自供――
「加島組長を襲撃し、首藤完治を殺した後、沖山は私の所にかくまってくれと逃げ込んで来ました。かくまってくれなければ、私を殺すと脅かすのです。私の身はどうなってもいいのですが、保夫に迷惑をかけてはいけないとおもい、市の郊外にある離れ家にかくまいました。ここは一軒家で店の者はだれも行かないので、かくまうには好都合でした。ところが、沖山はいったん入り込むと、しだいに横暴になり、現職刑事の母親が指名手配中の犯人をかくまったからには同罪だ。おれがここにいることが少しでも外部に漏れるだけであんたの息子は一生警察で浮かばれない。そうしたくなかったらおれを大切にしろと好き勝手なことを言うのです。このままでは私だけでなく保夫の将来にもひびが入ってしまう。私は、沖山をかくまっていることを、保夫に隠しておきました。そんなことを告げれば保夫を困らせるだけだとおもったのです。おもいつめた私は、今年の一月二十日に、お酒の中に以前殺虫剤用にもらっておいた農薬を入れて沖山にのませました。沖山は悪党の割りにはあっけなく死んでくれました。死体は、しばらくの間離れ家の押入れに隠しておいたのですが、だんだん恐《こわ》くなって、四月の末ごろ保夫にすべてを打ち明けたのです。保夫は飛んで来て、とんでもないことをしてくれたと言いました。そして死体を離れ家においておくのは危険だと言って、河川敷の松林の中へ移して埋めたのです。沖山がもっていた銃は、万一死体が発見された場合、銃から身許を割り出されるおそれがあるからと言って、保夫がどこかへ持っていきました。すべて私の浅墓から犯したことで、保夫には罪はありません」
井手下保夫の自供――
「沖山を殺したのは私です。沖山は、加島政知を襲撃した後、昔なじみの誼にすがって私の母に庇護を求めてきました。その時点では沖山が首藤を殺したことを知りませんでした。
沖山の郷里は、立ちまわり先として手配されていたのですが、まさか現職刑事の生家にかくまわれているとは、警察も考えていなかったようです。私自身も母から知らされるまでは彼が私の生家に潜んでいようとは、露ほどもおもいませんでした。
私は沖山に自首を勧めたのですが、聞き入れません。いったんかくまったのだから、いまさらおれを突き出しても犯人|隠蔽《いんぺい》の罪は免れないと開き直ったのです。ついには母にまで暴力を振うようになったので、おもいあまった私は農薬を混ぜた酒を飲ませて殺害し、松林の中に埋めたのです。すべての責任は私にあります」
井手下保夫が母親を庇うために嘘をついていることは明白であった。母親が沖山をかくまったことは、井手下の責任ではない。その事実を知った時点で逮捕すればよいのである。また母親が脅迫されてかくまったのであれば、彼女にも責任はない。井手下が知った時点ですでに沖山が死体となっていたために、止むを得ず、母親を扶《たす》けて死体を隠したと見るのが妥当であった。
しかし、母親が易々として沖山をかくまった理由については、母子とも口を固く緘《とざ》して話さなかった。これは検察の取調べに委《ゆだ》ねられることになるだろう。
井手下は、沖山が死んで、彼の死体を出すに出せなくなり(毒殺ではヤクザの処刑と見られない)、止むを得ず万波を身代わりに仕立て上げる苦肉の策をおもいついたのであろう。もっとも井手下は、沖山の死を知らない時点でも、すでに加島組に買収されており、万波をヤクザ戦争の人身御供にしようと画策していた。
奥秩父山中の首藤殺しの現場を見に行ったのは、万波の推測どおり、それまで沖山が首藤を殺した事実を知らなかったために、沖山がなにか資料を残していないか確かめに行ったのである。井手下は、沖山が首藤を殺した理由も知らなかった。そのことも、井手下が母親から救いを求められて駆けつけたとき、すでに沖山が死体となっていた状況を物語るものである。
井手下がもっていた猟銃は、首藤のものであった。万波が井手下の生家に現われたのを母親が沖山が生き返ったと仰天して井手下に連絡したとき、あいにく彼は不在であった。夜遅くなってから母親から電話があったことを伝え聞いて、なんとなく胸騒ぎをおぼえた彼が、松林に駆けつけて来たというものである。
母を庇うために、井手下は職業と将来を放棄し、罪の上に罪を累《かさ》ねた。
カリスマの同行者
沖山伸次は死んでいた。それはおおむね予想されていたことであったが、こんな意外な方向で死体となっていようとはおもわなかった。
ともあれ、万波の危機はなくなり、久連山は復讐のターゲットを失った。二人の別れる時がきた。わずかな間だったが、たった二人で菱井商事、加島組、大東組を向こうにまわして戦ったのである。
菱井商事は彼らのためにキリキリ舞いを演じ、ビッグプロジェクトを潰《つぶ》された。沖山の死体発見のきっかけをつくったのも彼らだ。徒手空拳《としゆくうけん》の彼らにしては、よくやったと言うべきだろう。
万波は弦間康夫に請《こ》われて、その事務所で働くことになった。久連山も勧められたが、郷里の設計事務所へ帰り、また建築士の道を歩むことにした。
「万波さん、沖山は本当に大東組が差し向けた刺客だったんだろうか」
久連山が郷里の町へ帰る前日、万波と別れの酒を酌《く》み交わしながら、ふと言った。
「おれはそうおもうけど」
「それじゃあなぜ首藤を殺したんだろう。いやなぜ首藤が沖山を消そうとして返り討ちにあったんだろうな」
久連山は釈然としない表情であった。
「大東組から頼まれたんじゃないかな」
万波は、身代わりにされる危険がなくなったので、さばさばした表情である。
「大東組が刺客の刺客≠依頼するくらいなら、むしろ、海部に直接加島の狙撃を頼んだほうが、手っ取り早いし、危険も少ない。おれは加島襲撃の真の仕掛人は大東組ではなく、海部と野々宮じゃないかとにらんでいるんだ」
「そのことはおれも考えたが、理由はなんだい。海部ともあろう者が、まさか面子を潰されたくらいで、そんな危険で幼稚な仕返しはしないだろう」
「面子の種類によっては時には重大な動機になることもあるが、ヤクザの連合組織結成の呼びかけに応じなかったのは、海部の場合大したことじゃないとおもうね」
「加島がいては非常に都合の悪い事情がなにか他にあったんだな」
「加島は、いまは傷も癒《なお》ってピンピンしてるよ」
「それじゃあ、その事情がいまは終わってしまったのかもしれない」
「どうして加島の事情と考えるんだね」
「なんだって?」
「どうして加島一人に限定するのかというんだよ」
「加島以外にだれがいたというんだね」
「大東組の沖山が二度にわたって加島を狙ったものだから、目標はてっきり加島とおもい込んでしまったが、ここに錯覚があったんじゃないかな」
「沖山はべつの人間を狙っていたというのか」
「私をまちがえて襲撃して来たときは、ホテルのスイートルームだった。スイートルームに独りで泊まる人はまずいない。アカプルコで襲ったときも、同行者がいたはずだ」
「そ、それじゃあ沖山は加島の同行者を狙って来たというのかい」
万波の表情が改まっていた。いままで見えなかった死角が視野に入りかけている。
「その可能性もあるとおもうんだ。二度目の襲撃では同行者を射ったのだが、狙いが狂って加島に当たってしまった。あるいは二人いっしょに殺してしまうつもりだったのが、加島だけに当たったのかもしれない。あのとき沖山は二発射ったんだ。このことも意味があるかもしれないよ」
「そうか。いやぼくもなんとなく引っかかっていたんだが、きみを誤って襲ったとき、稲葉の子分の桑原が手を貸しているだろう。天下の菱井商事の首脳がヤクザ抗争に手を貸すことはあり得ないとおもっていたんだ。海部がらみとなって、単なるヤクザ戦争ではないような気がしたんだ。加島は|見せかけ《ダミー》の的で、真の標的はべつにいたのか」
「私を襲って来たとき、加島に同行する予定だった者で、彼が二度目に射たれたときすぐそばにいた人間が本命のターゲットだ……と考えてもさしつかえないだろう」
「それだったら、それほど難しい調べではなさそうだな。早速調べてみよう」
「もうすっかり、私立探偵だね」
「茶化さないでくれよ。きみのような特技がないからね。生きていくためにはなんでもする。そして生きていられるということは、つくづく有難いとおもうね」
「別れてもおたがいにしっかりと生きていきましょう」
二人はどちらからともなく手を出して、かたく握り合った。
加島政知の同行者≠ヘさしたる調べを経るまでもなくすぐにわかった。まずホテルの加島政知の予約記録に同行者の名前が残っていた。またアカプルコ襲撃時の報道写真にホテルの予定同行者の姿が加島のすぐかたわらに撮《うつ》っていた。第一次、第二次を通じての同行者は、その人物だけである。その同行者に的を絞って調査するうちに次々に怪しい状況が浮かび上がってきた。
万波は、その発見を早速郷里に帰っている久連山に連絡した。
「そうか、やっぱり同行者がいたのか、それで、その人物はだれだったんだい」
久連山の声が熱っぽくなった。
「それが女なんだよ。及川真樹《おぶがわまき》という……」
「女か……やっぱり」
「なんだ、知っていたのか」
「いや、ホテルのスイートにいっしょに泊まるような人間は、ボディガード以外は女じゃないかなとおもったんだ。それでそのおぶがわなんとかいう女はなにをやっているんだね」
「それがどうも海部とつながりがありそうなんだ」
「本当か!」
久連山の声が高くなった。
「及川真樹の妹に聞いたんだがね。真樹の旦那は何年か前に車に轢《ひ》かれて死んだそうだが、その加害者がだれだとおもうね」
「さあ……」
「海部の乗っていた車で、運転していたのが、野々宮だそうだよ」
「なんだって?!」
「それ以来、彼女は海部とつながりができたらしい。弦間さんは、及川真樹が海部の接待社員じゃないかと言うんだ」
「接待社員とはなんだね」
「つまりだな。特定のスポンサーに専属して、その命ずるままに客に侍《はべ》る女性のことだ」
「そんな女性がいるとは週刊誌かなんかで読んだような記憶があるが、本当にいるのか」
「及川真樹が海部の接待社員だったとすると、同行者≠ニして辻褄《つじつま》が合うだろう」
「彼女が『知りすぎた女』だというのか」
「そう考えてもおかしくない状況がある。知りすぎた女を抹殺するために、海部はかねて手なずけておいた沖山をさし向けた。この企ては失敗して、加島を誤射してしまった。
沖山にしてみればこの機会に加島組長も討ち取って、箔《はく》をつけたい意識があったかもしれないが、海部のヤクザ戦争を偽装して彼女を消そうとした試みは失敗した。沖山が加島組より先に警察の手に落ちれば、企てが明らかになってしまう。沖山を生かしてはおけない。しかし、これ以上ヤクザは使いたくない。そこで子飼いの首藤を向けたのが、返り討ちにあったということだろう」
「及川真樹は、その後どうなったんだね」
彼女が「知りすぎた女」と推測されるどんな状況があるというのか。久連山は万波の含んだ口調が気になった。
「真樹は死んでいたよ」
「死んだ?!」
「島根県の海岸の崖《がけ》から墜落してね。突き落とされた疑いがあるそうだ。妹の話によると、真樹は高所恐怖症で、そんな場所には絶対に行くはずがないという」
「いつのことだね、それは」
「五月二十四日だ。まだいくらも経っていない」
「ヤクザ戦争を偽装して消そうとしたのが失敗して、今度は事故死にしたのか」
「及川真樹は、いったいなにを知ったというんだろうな」
「わからない。この事件途方もなく根が深そうだね」
「我々も突っつくのは、この辺で止めておいたほうが、無難かもしれないな」
二人は同時に背筋を冷たいものが走るのをおぼえた。
米国の大手航空機メーカー「スプルート社」が、同社航空機売込みの対日工作資金として、海部隆造を通して約七百万ドルを日本政府の高官に贈ったというスキャンダルが暴露されたのは、それから間もなくのことであった。
黒い札束が飛びかい、悪のカリスマの宴が始まろうとしていた。その宴から遠く離れた北陸の小さな町で、新たなパートナーと久連山は新しい生活を始めていた。妻を不当に奪い取っていったのは、カリスマの触手であった。復讐の怒りに燃えて、その触手を追いかけていったが、悪の本体はいとも簡単に触手の端末を切り放して、久連山たちの手の及ばぬ高所で、盛大な悪の宴をくり広げていた。
それを口惜しがったところで、どうにもならない。悪の緻密《ちみつ》でスケールの大きい構造を垣間《かいま》見ただけでも、世俗の知恵をつけたと言うべきであろう。
妻には気の毒だが、共に暮らした時間は少ない。これから久連山が過ごすべき人生に比べれば微々たるものにすぎない。悲しい記憶は早く忘れて、これからの人生の本番を悔いのないように生きよう。それを妻も喜んでくれるだろう。
新たなパートナーは重代である。いっしょに暮らしているうちに情が湧いた。情事が先行して愛が後から従《つ》いて来た形であるが、どちらにしても、愛はないよりはあったほうがいい。
無給の女中から昇格させた妻であるが、重代は気だてのいい女である。少しだらしのないところがあるが、それはこれからの自分の教育で矯正できるだろう。
久連山は、沖山の死によって、自分の人生に一区切りがつけられたように感じていた。
出原《いずはら》要一は、突然解雇を言い渡された。解雇されても仕方がないだけの心当たりがある。だが五十三歳でまだ、二人の子供が親がかりの身で会社から放り出されては、たちまち生活の方途を失ってしまう。
泣き込んで行く所はスポンサーの桑原良成であった。
「よくもずうずうしく、そんなことをこの私の所に言ってこられたもんだね」
桑原は、これ以上はない冷たい目で出原を見た。
「おねがいです。なんとか室長のお取り計らいでどんな所でもけっこうですから、菱井の片隅に私をおいてください。いま会社を馘《くび》になったら一家心中をしなければなりません」
「したらどうかね。私はいっこうにかまわんよ」
「どうぞ、そんな冷たいことをおっしゃらず。このとおりでございます」
出原は、桑原の前に土下座をした。
「きみ、そんなことをしてもなんにもならんよ。私はもうなんの権限もないのだ」
「おねがいでございます。こちらへ来なければ、辞《や》めるとき私はホテルで定年まで三年あったのです。その後も嘱託に残れたかもしれません」
「私のせいだと言うのか」
「決してそういうわけではございませんが、ホテルの三年と嘱託を棒に振ってこちらのおせわになりましたのは、室長をお頼りしておりましたからで」
「それなら言ってやろう。元はと言えば、きみが我々の信頼を裏切ったからなんだ。話してはならないことをベラベラしゃべったばかりに、私も、稲葉副社長も大変まずい立場に立ってしまった。我々自身が菱井に留《とど》まれるかどうかわからない。自分の身の振り方は、自分で決めるんだね」
「それでは、やはり副社長の意志で合鍵も沖山に貸したので……」
桑原は、語るに落ちた形で余計なことを漏らしてしまったと唇を噛んだが、すぐにもはや稲葉のために自分が|操り人形《ダミー》になる必要はないことに気づいて、
「だれの意志であろうといいだろう。いまとなっては、すべてが無駄になってしまったのだ。サラリーマンなんて結局みんな操り人形だよ。会社に操られて、操られていることも知らず、現役中は一生懸命踊る。用ずみになれば、容赦なく捨てられる。もはや菱井では我々は用ずみの操り人形だ。これからは岡崎社長や、小林総務の天下だ。きみもあちらにアプローチしたほうがいい」
「いまさらそんなことが。どうか私めを捨てないでください」
五十男が土下座して、涙を流さんばかりに訴えている姿に、桑原は自分自身を重ね焼きしていた。情けない姿である。しかし、サラリーマンはみなこの姿から抜けきれないのだ。会社の第一線に立って肩で風を切っていても、いったん流れが変われば、凋落《ちようらく》の風は冷たく心身に沁《し》みる。
会社の中では、寒流に追いやられ、会社の禄を離れれば、会社で蓄えた実績や、肩書などなんの役にも立たない。
「副社長は、次の取締役会で副社長を解任される。株主総会では取締役に残れるかどうかもわからない。そうすれば、私もこのポストにいられなくなる。まあ、きみとはいずれ職安で会うことになるだろう。今度はおたがいに中高年失業者だ。先にきみが就職したら、ぼくが口を頼みに行くかもしれない」
「あなた、私にそんなこと本気でおっしゃってるの」
加枝は柳眉《りゆうび》を逆立てた。
「べつにふざけているつもりはない」
女が逆上するほどに男は醒《さ》めてくるようである。
「よくもよくも私に、他の男と寝ろなんて言えるわね」
「きみの意志を聞いただけだよ。いやなものを強制するつもりはない」
「私がそんなことを、自分の意志でするとおもっていたの」
「いい仕事を紹介してくれと頼んだばかりじゃないか」
「仕事?! これが仕事だとおっしゃるの」
「金になることにおいては、どんな仕事よりも効率がいい」
「私、売春婦じゃないわ」
「きみだって、私が提供した金をうけ取ったじゃないか」
「あなたのお金はべつだわ。あなただからいただいたのよ」
「金に名前が書いてあるわけじゃない。きみだって旦那と別れた後、子供をかかえて病院の受付係じゃ生活が苦しいだろう。きみによかれとおもって勧めたことだ。いやなら無理にとは言わない」
「あなた、本当に私が他の男に抱かれてもなんともないの」
「私たちは初恋で結ばれた仲じゃあるまい。たがいに傷もの≠ナあることを承知の上でこうなった仲じゃないか。言わば我々の宿命だ」
「いつも宿命論でごまかしてしまうのね」
「そろそろ我々の仲も終わりにしたほうがよさそうだね。私も楽しませてもらった。きみも楽しんだ。おとなの恋は、楽しみだけすくい取ればいい。たがいに迷惑をかけない。たがいの存在がうっとうしくなったときは、すぐに別れる。そういう約束だったね」
「私、あなたがうっとうしいなんて一度も言ってないわよ。あなたが変なことを言いだすんじゃないの」
「わかった。その話はもう止めよう」
「参考までに聞いておくけど、いまのお話、どれくらいいただけるの」
「どれくらいいただけるって、金のことかね」
男は意地悪く聞いた。
「あくまでも参考のためよ」
「それでは参考までにぼくも言うが固定給≠ニして月二十万くらい。あとはその都度、会社の方から手当が出る」
「つまり、社員になるわけなのね」
「身分は接待部の特別社員ということになる」
「あなたとの関係はどうなるの」
「もちろん、いままでどおりさ。なんの変わりもない」
「私、考え方を改めるわ。あなたのお考えがわかったいまはね」
「私の考え?」
「その口、紹介していただくわ。私、生きていくために割り切るわ。私の体が売り物になる間は、利用しなくちゃ。いまさら、病院の受付なんかやっていられないものね。あなたはおとなの恋だとおっしゃったけど、そんなの女の体をただで味わうための、男に一方的に都合のいい口実よ。あなたは私の体を売ろうとしたんだから、私もあなたに売るわ。早速、いまの代金十万円ちょうだい」
手を差し出した加枝に、
「おいおい。それはちょっとガメツすぎないか。ぼくからも金を取るなんて」
「決して高すぎないとおもうわよ。それともこれまでの分もまとめて請求しましょうか」
加枝は、いま不倫の情事の果てをはっきりと見届けていた。夫に飽き足らず、狎《な》れた夫婦生活の倦怠を情事の刺戟で癒やそうとした結果がこのザマである。
女にも男と同等の能力があることを主張して精一杯突っ張ってきたが、結局、女の能力として世間が認めてくれたのは、肉体であった。浮気の相手の正体も見届けた。所詮《しよせん》おとなの恋≠ノはメンタルな要素はなにもない。
ペアになって、自分にない道具を貸し合っているだけである。摩滅の激しい道具の主のほうが損料を取るのは当然である。
おとなの恋――道具の貸借、なんと侘《わび》しい同義語であろう。しかし、それを侘しいとおもうのは、本来その分野に求めるべきではないメンタルな要素を求めているからである。
私、今日から、私の道具を賃貸し≠オよう。賃貸しするからには、できるだけ高く貸さなければ――加枝は、自分に言い聞かせた。
久連山が弦間康夫の訃報《ふほう》に接したのは、翌年の四月であった。社長主催の観劇会で弦間の席の上にシャンデリヤが落下したのである。弦間は菱井商事のライバルである財閥商社墨倉商事の匿名社員で、情報蒐集や商務工作を担当していたという。
「万波さん、また大変だな」
久連山は暗然とした顔を東京の空の方角へ向けた。居心地のよい庇護のカサを失って、また中高年失業の海を漂流することになる万波の前途を予想させるように北国の空はどこまでも厚い雲に被われていた。
(作者註)
この作品の登場人物、事件、団体、組織、地名等の一部は、私の既作品『カリスマの宴』『野性の証明』『死定席』等と共通しております。特に『死定席』と併せお読みいただけると興味がいっそう深まるとおもいます。
ただ、時間の経過は、それぞれの作品において固有独立のものとして設定しておりますので、精密に対照する必要はありません。
なお本編の執筆にあたり、宮崎学氏「動物の通る道」(アニマ'78年12月号)を参考にさせていただきました。明記して感謝いたします。
角川文庫『凶通項』昭和58年4月10日初版刊行