[#表紙(表紙.jpg)]
新装版 人間の証明
森村誠一
目 次
エトランジェの死
怨恨《えんこん》の刻印
謎のキイワード
不倫の臭跡
底辺からの脱出
失踪《しつそう》の血痕《けつこん》
断絶の疾走
過去をつなぐ橋
忘れじの山宿
道具の反逆
おもかげの母
遠い片隅の町
決め手の窃盗
巨大な獄舎
救われざる動機
落ちた目
人間の証明
初版あとがき
新装版あとがき
[#改ページ]
エトランジェの死
その男が乗って来たとき、だれも注意を向けなかった。世界各国から多種多様の人間が集まって来るその場所では、異邦人《エトランジエ》の彼も、さほど目立つ存在ではなかった。
黒人ではあるが、肌の色は、ややうすい。褐色に近い肌をしている。髪は黒く、あまりちぢれていない。顔の造作もどちらかといえば東洋人に近い感じである。黒人にしては、背は低いほうだ。年齢は二十代か。ひきしまった精悍《せいかん》な体躯《たいく》をしているが、この季節にはまだ早いマキシ風のバーバリのコートで体形のほとんどを隠している。
どこか具合いでも悪いのか、彼はひどく重そうな足取りで、エレベーターを待っていた一群の人々の最後尾から、搬機《ケージ》に乗り込んで来た。
このエレベーターは、建物の最上階にある『スカイダイニング』への急行≠ナある。四十二階、百五十メートルの高さをノンストップの場合二十八秒で上ってしまう。二十階まで直行し、それから上は客のリクエストによって停める。
「ご利用階数をおしらせ願います」
「コール・ユア・フロア・プリーズ」
矢絣《やがすり》の和服を着た美しいエレベーターガールが日英両国語で客に呼びかけた。搬機《ケージ》は音もなく垂直の空間を移動する。ケージの床には毛足の長い絨毯《じゆうたん》が敷きつめられ、それがいっそうに周囲からの柔らかな隔絶感を促す。
すべてスカイダイニングへおもむく客ばかりと見えて、ケージはノンストップで上っていく。定員の約七割の客には、外国人の姿のほうが目立つ。みな無言で移動するインジケーターサインを見守っている。いずれも金と暇に恵まれて、今宵《こよい》の豪華な食事を楽しみに来た人々のように見えた。ただ一人の例外を除いては。――
エレベーターは、ほとんど振動を客に伝えることなく、最上階に着いた。開いたケージのドアの前で、タキシードと蝶《ちよう》ネクタイに身をかためた食堂長が恭しく頭を下げた。
「お待たせいたしました。スカイダイニングでございます」
エレベーターガールも優雅に告げて、客を送り出した。客たちは、豪華なダイニングルームのたたずまいに、それぞれポーズをつけてケージから降り立った。
この場所で食事をできる人間は、選ばれた者だけである。彼らが一食に費やす費用で、百人の餓えた人間を養えるだろう。だがそんなことを考える者はいなかった。ここで要求されることは、その食事に相応しい服装とマナーと、そして代金を賄える資力である。客が空腹であるかどうかは問題ではなかった。
食事が豪華であればあるほど、食事本来の目的から逸脱してくる。だが、人々はその矛盾にほとんど気がつかない。
ケージは、空になった。いや一人だけ残っている者がいた。ケージの壁に寄りかかったまま下りようとしない。最後に乗り込んだバーバリコートの黒人である。目を閉じていた。
「お客様」
エレベーターガールが声をかけても、一向に動かない。立ったまま眠ってしまったのかとおもいかけたエレベーターガールが、どうもそうではない様子に気がついた。いままでは他の客のかげに隠れてわからなかったが、様子がおかしい。褐色の肌のために、よく顔色を読み取れないが、表情というものがまったくない。ポーカーフェースの無表情とはちがって、死相が貼りついたようなのだ。
このときになって彼女は、その男がひどく場ちがいなのを悟った。羽織ったバーバリのコートは、垢《あか》で黒光りしている。袖《そで》や裾《すそ》は、すり切れて、繊維の先端がけば立っている。所々に泥のようなものがこびりついている。刈り上げた頭髪も埃《ほこり》まみれで、かさかさに乾いた皮膚に濃い不精ひげが目立つ。胸元を庇《かば》うようにコートの上から手で押さえている。
とても優雅な夕食を楽しみに来た格好ではなかった。
――きっとまちがえて、乗り込んでしまったんだわ――
種々雑多の人間の集まる所だから、どんな人間がまぎれこんでも不思議はない。この男も自分のまちがいに気がついたので、下へ戻ろうとしているのだろう。
エレベーターガールは、おもいなおして、食堂前のロビーで待っていた客に「下へまいります」と呼びかけようとした。
バーバリコートの男が動いたのは、そのときである。男は背をケージの壁にもたせかけたまま、ずるずると頽《くずお》れた。尻《しり》もちをつくような形でケージの床に尻を落とした男は、グラリと前かがみに上体を折った。
いきなり自分の足元へ倒れかかってこられたので、エレベーターガールは小さな悲鳴をあげて、飛び退《の》いた。しかし、すぐに自分の職務に気がついて、「お客様、いかがなさいました」と声をかけてたすけおこそうとした。この時点では彼女も、男が軽い貧血でもおこしたぐらいに考えていた。わずか二十八秒で百五十メートルも上ってしまうエレベーターでは、時々こういう症状を現わす客がいたからである。
だが、彼女は職務を最後まで果たせなかった。男をたすけおこそうとしたはずみに、いままでコートによって隠されていた胸元が目に入った。一瞬、赤い色彩が目の中で炸裂《さくれつ》したように感じた。同時にこれまで男が立っていた足元のベージュ色の絨毯が、赤黒く染色されていることに気がついた。
エレベーターガールは、今度こそ抑制をかけない悲鳴をあげて、機内から飛び出した。ロビーにいた客が仰天した。食堂長やウエイターが飛んで来た。男はすでに死んでいた。ナイフが顎下《あごした》(柄の根元)まで胸に突き立てられていた。突き立ったナイフが蓋《ふた》の役めをしたために、あまり血も流れていない。どこで刺されたのかわからないが、男がここまでの行動能力を保存したのも、ナイフを引き抜かなかったからかもしれない。
大騒ぎになった。直ちに警察へ通報が為された。
千代田区平河町の東京ロイヤルホテルのスカイダイニングルームに外国人刺殺体が転がりこんだという急訴を一一〇番経由でうけた警視庁通信指令室は、直ちに現場付近を警邏《けいら》中のパトカーと所轄の麹町《こうじまち》署に連絡した。
麹町署とロイヤルホテルは目と鼻の先なので、所轄署員は、パトカーとほとんど同時に現場へ着いた。現場は同ホテルが最大の売り物にしている四十二階にあるスカイダイニングである。時間もちょうど午後九時を少しまわったところで、客が多くなる時間帯であった。
地上最高(高度、値段、料理において)をホテルが自負する超デラックスなダイニングルームの、最も優雅な時間帯に、血まみれの死体が転がりこんできたのであるから、ホテル側の動転は、まことに救い難いものがあった。
まず、客が蟻《あり》の巣をこわされたような騒ぎになった。吟味された料理に舌つづみを打っていた客は、ナイフを胸に突き立てられ、血まみれになった死体の闖入《ちんにゆう》の報《しら》せに、せっかく胃に入れた美肉を危うく吐きそうになった。実際に吐いた客もいた。
婦人客が、先を争って逃げ出した。だが逃げ出した先のエレベーターホールを、凄惨《せいさん》な死体が塞《ふさ》いでいたのである。子供が泣きだした。つられて泣きだした親もいる。優雅な食事どころではなくなった。
客の混乱をよそに、駆けつけた警察陣は、冷徹に検証を進めていた。だがオーソドックスな現場検証とは、おもむきを異にしていた。
被害者を運んで来たケージのエレベーターガールや乗り合わせた客の証言によって、被害者が自力でエレベーターに乗って来たことは、確かである。創傷《そうしよう》の部位や、衣服の上から直接突き刺している点から、自殺とは考えにくい。また傷の状態から判断して、ケージ内部で刺されたものでもない。すると、被害者はどこかべつの場所で胸に凶器を突き立てられたのだ。
――その場所は、どこか?――
捜査員は、検死の係官を残して、犯行現場を探し求めながら被害者の足どりを溯《さかのぼ》った。
被害者の傷の程度から見て、あまり遠方からやって来たとはおもわれない。犯行現場はきっとこの近くにある。――捜査陣は、そう確信していた。
だが、捜査陣の目算は外れた。捜査員の丹念な捜索にもかかわらず、ホテル近辺に犯行現場を見つけられなかった。捜査陣は改めて犯行現場をホテル内部とにらんだ。
ロイヤルホテルは、四十二階、客室総数二千五百を誇る超巨大ホテルである。収容客数《キヤパシテイ》四千二百名の他に、付設食堂や大中小七十の宴会場へ集まって来る外来客《ビジター》が多い。
これらの客の中に犯人が紛れこんでいたとすれば、その割り出しには、かなりの困難が予想される。しかし犯行の現場がホテル内部及びその敷地内であれば、捜査範囲が限定される。犯行現場を突き止められれば、そこから犯人を手繰る糸口をつかめるかもしれない。
ホテル宿泊客の協力を取り付けて、二千五百の全室、七十の宴会場、各種食堂、バー、地下のアーケード街、建物をめぐる一万五千坪の庭園、ガーデンハウス、東屋《あずまや》、駐車場に至るまで、隈《くま》なく捜索された。
しかしながら、犯行現場とおぼしき場所は発見されなかったのである。内部に痕跡《こんせき》がなければ、当然外部から来たと考えなければならない。ロイヤルホテルは地理的に東京の中心部に位置している。文字どおりの都心である。被害者は、いったい大東京のどこから瀕死《ひんし》の重傷を負った身体をここまで引きずって来たのか?
この捜索の間に、被害者の解剖の結果が出た。それによると推定犯行時間は、死体となって発見された時点より三十分ないし一時間溯る、すなわち九月十七日午後八時から八時三十分の間、凶器は右前胸部に刺しこまれ、その先端は肺臓を傷つけ、肺動脈に達している。傷口を凶器が蓋した形になっていたために、筋肉が凶器に巻きついてますます開口部を閉塞《へいそく》し、胸腔《きようこう》内に多量の血液が貯溜《ちよりゆう》してこれが死因となったとみられた。
これだけの傷を負いながら、最上階レストランまでやって来た行動能力の残されていたことに、執刀した医者は驚嘆した。文献には心臓に負傷して二百〜五百メートル歩行したという事例や、数日〜数週間生存した事例が報告されているが、現実にはきわめて稀《まれ》である。
心臓よりも、太い動脈を切った場合のほうが、受傷後の行動能力が短いことが多いが、それも個々の傷の具合によって異なる。
凶器は、刃渡り八センチほどのありふれたナイフで、力をこめて刺しこまれたために長さ十二センチほどの刺創管を形成し、その先端が肺動脈を傷つけていた。
もちろん犯人の唯一の遺留品たる凶器の線からも、捜査は進められていたが、学童でももっていそうな平凡なナイフなので、初めから難航した。柄《え》に付着していたにちがいない犯人の指紋も、その上から被害者が血まみれの手で握りしめたために、検出不能になっていた。
被害者の身許《みもと》は、所持していたパスポートから直ちに割れた。それによると、アメリカ国籍のジョニー・ヘイワード、二十四歳。現住所はニューヨーク、東一二三ストリート一六七番地。日本へは「観光ビザ」で、四日前の九月十三日に入国している。来日は今回が初めてである。
さらに所持品の中に新宿区のあるホテルのロケーションカードを見つけた。捜査員がおもむくと、それは一年ほど前にオープンしたビジネスホテルで、機能本位の設備がうけて、現代に即応するホテルとして繁盛している。
その名も、ずばり、『東京ビジネスマンホテル』である。玄関からロビーへ入ると、フロントカウンターにクラークが一人、客が二、三人いるだけで、ガランとしている。これでもホテルは満室《まんぱい》なのだそうであった。案内のボーイも置かず、客は前払いしてキーをもらい、部屋に通る仕組みになっている。
ロビーには、自動販売機がずらりと並んでいる。煙草、コーラ、週刊誌等の他に、おにぎり、サンドイッチ、ラーメンなどのスナック類の販売機がある。フロントでキーをもらい、自動販売機からサンドイッチとコーラでも買って、独り部屋で食事をしている図は、機能的かもしれないが、いかにも寒々としている。
従業員の数もおもいきって削減し、ホテルの隅々まで省力《しようりき》が行きわたっているようである。客室以外に事務所もあるらしく、『郡《こおり》陽平後援会本部』とか、『松原法律事務所』などのボードが玄関脇の壁に取りつけられている。
捜査員は、フロントで用件を伝えた。すでに宿泊客が殺害された連絡はされているので、クラークは奥のオフィスから責任者らしい人物を呼んで来た。
「どうもこの度は、私どものお客様が大変なことになりまして、私どももただびっくりしております」
〈フロント課長〉と肩書きの付いた名刺を差し出したその男は、いかにも接客業で鍛え上げたようなにこやかな態度で捜査員を迎えた。柔らかいが、芯《しん》に警戒の鎧《よろい》を着けている。接客業者特有の垣根越しの応対≠ネのである。
「そのことで、二、三おうかがいしたいことがありまして」、捜査員は前置き抜きで本題に入った。
この職業畑の人間は、いったん口を閉ざすと、梃子《てこ》でも開けられなくなる。警戒心を解くためにも、単刀直入に聞いたほうが、効果の高い場合が多い。
「どんなことでございましょう。手前どもでお役に立つことでしたら、なんなりと」
フロント課長は口では積極的な協力の姿勢をしめしながら、保身のおよび腰で、いつでも逃げられるように構えている。
「まず、殺されたジョニー・ヘイワードさんの部屋を見せていただきます。部屋はそのままになっているでしょうね」
犯行現場そのものではないので、強制的な保存はできないが、身許判明と同時にホテルに連絡し、もよりの派出所の巡査を走らせて、みだりに変更できないように見張らせてある。
「それはもう。交番から巡査も来ておりますし」
そのとき、派出所から先行していた巡査が一行を迎えに出て来た。案内された部屋は、ベッド一基と、ユニット式のバス・トイレットで構成された殺風景なシングルルームである。ベッドサイドにナイトテーブルがあり、そのうえに電話機が乗っている。それだけが部屋の備品であった。
「客の荷物は?」
「こちらにございます」
フロント課長は、部屋の隅にあった古ぼけたスーツケースを指した。
「これだけですか?」
「これだけです」
「中を見せてもらいます」
返事も聞かずに捜査員は、ケースを開いた。錠はかかっていなかった。中身は、着替えや軽い読み物などの雑品だけで、手がかりになるようなものはいっさいなかった。
「予約は、どこから入ったのですか?」
携帯品検査を終わった捜査員は、質問の鉾先《ほこさき》を変えた。
「予約はありません。九月十三日の夜、ふらりと現われまして、部屋を求めたのです。態度も悪くなく、ちょうど空部屋があったものですから」
「本人が直接フロントへ来たのですか? それともあらかじめタクシーの運転手かだれかが部屋の有無を聞きに来たのですか?」
「本人が直接来ました」
「このホテルは外人客は多いのですか」
「めったにありません。ほとんどが定期的に出張して来るサラリーマンの方です」
「もちろん英語で話したんでしょう?」
「いえ、片言でしたが、日本語を話していました」
「日本語をしゃべったんですか」
これは新発見であった。初めて来日した外国人が日本語を話したとなると、事前に日本の予備知識か、日本となんらかのつながりがあったのかもしれない。
「たどたどしい言葉でしたが、意志の疎通はできました」
「それでどのくらいの滞在予定だったのです?」
「一週間分の前金を置きましたので、いちおう一週間ということに」
「すると、本人は滞在を延長する意志をもっていたかもしれませんね」
「それはなんとも申し上げかねます。手前どもでは、三日間を一区切りとするのですが、一週間分の前金をいただきましたので」
フロント課長は、「前金」を繰り返した。それが、金さえ払ってもらえば、後は関知しないという、いかにもビジネスホテルらしい現金主義を露骨に剥《む》きだしているように見えた。
「滞在中、訪問者はなかったですか?」
「ございません」
「電話などは?」
「交換台に聞きましたが、外線は一本も入って来なかったそうです」
「こちらからかけた電話は?」
「発信電話は、ごらんのように部屋から直接ダイヤルできるようになっておりますので、どこへかけたのか、ホテル側にはわかりません」
「それでは料金はどうやって徴収するのですか?」
「会計にメーターがありまして、通話料が示されるようになっています」
メーターには百六十円が表示されていたが、その内訳はわからない。
ここでも人間の介入を拒否するメカニズムの発達が、捜査の障害となった。東京ビジネスマンホテルの捜査は、そこで行きづまった。そこは被害者が旅の途次に数夜の宿りを求めた仮の宿でしかなかった。犯人との接点は、まったく認められなかった。
結局、犯行動機、場所、犯人の推定等不明のまま、捜査は初期の段階で早くも難航の兆しを見せた。捜査本部では、被害者が外国人なので、アメリカ大使館に連絡を取ると同時に、被害者の住所地に通報して遺族による遺体確認がすむまで、遺体を保存することにした。
捜査会議は紛糾した。最も争われた点は、犯行現場である。ホテル内部に固執する派と外部説を取る者が真っ向から対立した。
「医者を驚嘆させたほどの重傷を負いながら、外部から来られるはずがない。やはり内部でやられたと見るべきだ」と主張したのは、この捜査に投入された警視庁捜査第一課第四号調べ室|那須《なす》班の横渡《よこわたり》刑事である。猿のようなマスクをしているところから「猿渡」の別名がある。彼が「ホテル内現場説」を主張する最右翼であった。
「同じ部位に受傷して、相当の行動能力を残していた前例もあるそうです」
と、これに異論を唱えたのが、所轄署から捜査本部に参加している棟居《むねすえ》という三十前後の精悍《せいかん》な顔つきの刑事だった。彼が外部説の急先鋒に立っている。
「そんな前例は、医学的な前例にすぎない。文献や学会に報告されたもので、現実性に乏しいよ」
「しかしホテル内部をあれだけ検索しても見つけられなかったじゃありませんか」
「ホテル内部というのは、必ずしも館内に限られない。ロイヤルホテルには一万五千坪の庭園がある。あのどこかで襲われれば、多少の血痕《けつこん》が落ちていたとしても、地面に吸収されてしまうだろう」
「犯行時間帯には、まだ庭園にかなりの人が出ていました。ガーデンハウスではバーベキューをやっているし、宴会に来た客が散歩もしていた。それらの目を潜っての犯行は……」
「必ずしも難しくないとおもうよ。庭には森もあれば、竹林もある。人が出ていてもあの広大な庭園の隅から隅まで、人の目が光っていたわけではあるまい」
「ガイシャのコートに付いていた泥は、ホテルの庭のものではないということでした」
「だからといってホテル外部でやられたことにはならない。襲われる前に泥なんかいつどこででも付けられるよ」
「しかし……」
両派譲ることなく討論していると、那須警部が言葉をさしはさんだ。
「ガイシャは、なぜ最上階のレストランなどへ上ろうとしたんだろうな」
両派が虚を衝《つ》かれたような表情をして、那須に視線を集めた。これまでそのことについては論じられていなかったのである。
「なんだってあの男は、エレベーターへ乗って、四十二階のレストランへ上ろうとしたんだろう? どうせたすからないとわかっていたら、どこで死んだっていいだろうに。そんな上の方のレストランへ行ったところで、もうメシを食えない体になっている」
那須の言葉はかなり乱暴な言い方であったが、これまで一同が見過ごしていた点を突いていた。死に臨んだ人間が、朦朧《もうろう》たる意識のまま、ただふらふらとスカイダイニング行きのエレベーターにまぎれこんだぐらいにしか考えていなかったのである。
「ガイシャは、ナイフを胸に突き立てられたままだった。目撃者の話によると、そこを庇《かば》うようにしていたそうだ。ふつう、人間が刺されて、意識が残っていれば、まず凶器を身体から引き抜こうとするだろう。それなのにガイシャはそれをせず、凶器を刺したままにしておいた。凶器を引き抜けば、そこから出血して死ぬということを知っていたんだ。死ぬ前にどこかへ行きたかったから、故意にそのままにしておいたのかもしれない。そして彼は、ロイヤルホテル四十二階のレストランへ上って来た。本来なら病院を探すべきなのに」
「必ずしもスカイダイニングへ行ったのではないとおもいます」
那須班の最若手、下田刑事が異議をさしはさんだ。みなの視線が彼の方へ転じた。
「ガイシャはエレベーターの中で死んでいました。乗り込んでから最上階へ到着する間に、息絶えたものとおもいます。すると、途中階で下りるつもりだったのが、そうできなくなったとは、考えられませんか」
たまたま最上階へケージが着いたときに、死体となって発見されたので、いかにもそこを目指していたかのように見られたが、彼は途中階へ行こうとしていたのではないかというのである。いい意見だというように、一座に騒《ざわ》めきが起きた。那須がうなずいて、みなの発言をうながすように、見まわした。
「しかし、もしそうならエレベーターガールに下りる階数を告げたはずだよ」
最古参の山路《やまじ》部長刑事が反駁《はんばく》した。鼻の下にいつも汗をかいている童顔の刑事である。
「すでに口もきけない状態に陥っていたのではないでしょうか?」
しかしそれについては、下田も確信がない。
「下田君の意見も、十分可能性がある。もしガイシャが途中階のどこかを目指して来たとすれば、あの日の宿泊客のだれかの所へ行こうとしたのだろう。当日の泊まり客のすべてを洗う必要があるな」
那須が言った。
「あのエレベーターは急行で、二十階まではノンストップですから、二十階以上の客に限れませんか」
草場《くさば》刑事が聞いた。フランスの喜劇俳優フェルナンデルに似たとぼけた風貌《ふうぼう》の刑事である。
「いや、急行も鈍行も区別がつかなくなっていたと見るべきでしょう」
一見、「捜一」の刑事より、銀行員タイプの河西《かさい》刑事が、やんわりと言葉をさしはさんだ。
ホテル側から提出してもらった宿泊客《ゲスト》リストによると、当夜の泊まり客は、キャパシティの約七十パーセント、二千九百六十五名で、うち、団体が五百名ほどいる。内外人比率は、四対六で外国人のほうが多い。その中でもアメリカ人がその六十パーセントを占めている。これにイギリス、フランス、ドイツ、スペインとつづく。ソ連や東欧諸国の共産圏からの客もあった。まことに、人種の坩堝《るつぼ》の観があった。
この中で最もマークされるのは、アメリカ人である。次に日本人が来る。だがそれ以外の国の人間も無視できない。どこでどのような動機がからんでいるかわからないのである。これらの人々は一夜、ロイヤルホテルの屋根の下で眠ると、八方に散っていた。すでに帰国した者もある。
これをいちいち追及することは、不可能であった。
ともかく消息の明らかな者だけでも追ってみようと、この膨大な人種の海の中へ漕《こ》ぎ出そうとした矢先、耳よりな情報がもたらされた。それをもって来たのは、「佐々木タクシー」という個人タクシーの運転手である。彼は、
「自分がロイヤルホテルの前まで運んだ客が、エレベーターの中で死んでいた男のようだ」
と申し立てた。
「新聞もテレビもあまり見ないもんですからつい届け出るのが遅くなってしまって。今日カーラジオのニュースを聴いていると、たまたまそのことを報じていましてね、どうもその人の特徴が、私の運んだ客に似ていました」
佐々木の申し立てた特徴は、ほぼジョニー・ヘイワードに符合していた。捜査陣は、がぜん気負い立ってその客をどこで拾ったかたずねた。
「九月十七日の夜八時半ごろ弁慶橋《べんけいばし》から清水谷《しみずだに》公園の方へ流していますと、街路樹にすがりつくようにしてその客がヌーと立っていたのです。手を挙げられたので停めると、黒人だったので、しまったとおもったのですが、いえ、乗車拒否するつもりじゃなくて、言葉がわからないもんですから。とにかくドアを開けると、転げこむように乗って来て、黙って指で前の方を指すんです。まあ外人には、そういう人が多いので、指示されたとおりに走らせると、ロイヤルホテルの建物が見えて、それを指さすので、そこまで連れて行ったのです。いまから考えると、変な客でしたね」
「どんなふうに変だったのかね?」
那須が聞いた。
「どこか患っているように、ひどく苦しそうでしたね、あのときもう刺されていたんですね。次の朝、車を掃除すると、シートに少し血がこぼれていました。拭いていた布にほんの少々付く程度だったし、それにあの客が付けたものかどうかそのときはわからなかったのです。もっとひどい汚し方をする客がいるので、そのときは、気にもとめませんでした」
「あなたの車に乗っている間、その客は、全然、話をしなかったのかね?」
「ええ、全然しませんでした。こっちもどうせ言葉がわからないとおもったし、なんとなく陰気な客だったので話しかけませんでした」
「ホテルへ行けと指さしたときも、金を払うときも、一言も話さなかったのか?」
「ホテルの玄関へ着くと、千円札一枚放り出して、釣りも受け取らずに降りてしまいました。こちらもいいかげん気味悪くなっていたので、追いかけませんでした。一言も、いや待ってくださいよ、ロイヤルホテルが見えたとき、ちょっと変なことを言ったな」
「変なこと、どんなことを言ったんだ?」
ようやく引っかかったかすかな反応に、那須は身を乗り出した。
「それが、ホテルの建物を指さしてストウハストウハと言ったんです」
「ストウハ?」
「はい。最初はストップと言われたのかとおもって慌てて車を停めると、しきりに行けと手真似しながら、ストウハと言いました」
「たしかにストウハと言ったんだね」
「私の耳にはそのように聞こえました」
佐々木から引き出せたのは、それだけであった。那須は『ストウハ』という単語を英和辞典で探してみたが、該当する言葉を見つけられなかった。佐々木の車を検《しら》べた鑑識係は後部シートから微量ながら、被害者の血液型と同型の血痕《けつこん》を検出した。これで、被害者は、佐々木の車によってロイヤルホテルへ運ばれたことが、ほぼ確定した。すると、犯行現場は、被害者が佐々木の車を拾ったという清水谷公園の公算が大である。
捜査員は直ちに公園へ飛んだ。清水谷公園は、紀尾井《きおい》町と平河町の二つの高台にはさまれた谷間にある小さな公園である。ホテル、高級住宅、参議院宿舎などに囲まれた閑静な一角で、時々デモ隊の集結場所に利用される以外は、あまり人影がない。都心にありながら、台風の目のように喧噪《けんそう》の中の忘れられた真空地帯であった。
ここならば、夜八時をすぎれば、人影も疎《まば》らになってしまう。ロイヤルホテルは目と鼻の先である。
捜査員は、手分けしてさして広くもない公園を隅から隅まで手がかりを捜しまわった。二人だけの世界に浸っていた何組かのアベックは、突然大挙して押しかけて来た表情の鋭い男たちに甘い語らいを破られて、早々に退散していった。
公園の中からも樹木越しにロイヤルホテルの高層建物が隠見する。そのとき棟居刑事がなにか手にもってきた。
「こんなものが公園の奥の方に落ちていましたが」
「何だね?」
「麦わら帽子です。だいぶ古くなっています。こんなものが、どうしてあんな所に落ちていたのか」
「これはまた凄《すご》く古い帽子だなあ」
棟居の手からそれを受け取った那須警部は、おもわず嘆声をもらした。「古い」といっても、古すぎる。広い鍔《つば》はボロボロに破れ、頭の部分にも穴があいている。材料となった麦わらが古色|蒼然《そうぜん》と色褪《いろあ》せて、わらというより、虫に蝕《むしば》まれつくした古い繊維のようなおもむきになっている。
ちょっと手にもっただけで、灰のように崩れそうな頼りない感じである。
「いまどきこんな帽子をかぶるやつがいるのかね? 少なくとも十年くらい前のものだな」
次に那須は呆《あき》れた表情になった。
「そうでしょう。しかし十年前からここに落ちていたものでないことも、たしかです。捨てられたのは、つい最近ですね」
「そうだろうな。子供もののようだね」
那須は、帽子の頭周に目をつけた。
「だれかが捨てたとすれば、まだ二、三日前のことだとおもいます」
那須には、棟居の言わんとするところがわかっていた。つまり、犯行の為された九月十七日前後に、帽子が捨てられた可能性があることを示唆しているのである。
――だからといって、この帽子を犯人が捨てたことにはならないよ――と言おうとして、那須はハッとなった。心の中に未解決のまま引っかかっていた一事が、強い熱を当てられた氷のように解けかかった。
――タクシーの運転手が聞いた『ストウハ』という意味不明の言葉は、|麦わら《ストロー・》帽子《ハツト》のことではあるまいか?――
ストロー・ハットが英語になじみのない人間の耳にストウハと聞きとめられる可能性は、十分に考えられる。
「それにしてもガイシャは、ホテルを指さしてなぜストロー・ハットと言ったのか?」
棟居も、それには答えられなかった。ともかく、清水谷公園で見つけられた麦わら帽子は、殺されたジョニー・ヘイワードになんらかの関係がありそうだった。
ヘイワードはここで何者かに襲われた。瀕死《ひんし》の重傷を負いながらも、佐々木の車を拾って、ロイヤルホテルの屋上レストランへ転がりこんだという公算が大きくなった。改めて同公園を中心にして捜査の網が広げられた。
もし推定時間のとおり犯行が行なわれていれば、まだ比較的時間も早いうちなので、目撃者がいるかもしれない。
警察の執拗《しつよう》な聞き込みの網に、ようやくわずかな収穫があったのは、事件発生後五日めのことである。この公園には、近辺のオフィス街からサラリーマンやOLが昼休みや退出後にしばしの憩いを求めて集まってくる。手応《てごた》えはそれらのサラリーマンの中からあった。
九月十七日の午後八時半ごろ、職場の女友達と公園へ行こうとして赤坂方面から歩道を歩いていると、公園の中から一人の女が出て来た。
その女は、いったんこちらへ来かけたが、彼らの姿を見ると、ぎょっとしたように、きびすを返して、四谷の方角へ向かって走るように去ってしまった。距離が多少あり、照明もなかったので、姿形から日本人らしい女とわかっただけで、特徴はいっさい印象に残っていない。服装も洋服ということだけである。
彼らは、そのことでなんとなく気勢を削《そ》がれてしまったので、公園に入ることなく、そのまま赤坂の方へ引き返した。
――以上が、そのサラリーマンの申し立てである。そしてそれだけが捜査本部二十数名の刑事が数日を費して得た唯一の収穫であった。
これだけでは、どうにもならなかった。捜査本部には、早くも沈滞ムードが漂っていた。
アメリカ大使館を経由して、被害者の現住所からの返事がきた。
それによると、ジョニー・ヘイワードには遺族がなく、死体の引き取り手がいないということである。
棟居の心にわだかまっているものがあった。それはしだいに凝固して、はっきりとした違和感となって迫ってくる。
個人タクシーの運転手が耳にした『ストウハ』という言葉の断片は、『ストロー・ハット』の聞きまちがえだったらしい。しかし、もしそうだとすれば、被害者はなぜロイヤルホテルを指さして「ストロー・ハット」と言ったのか? ロイヤルホテルにストロー・ハットを連想させるものは、なにもないのだ。
――ストウハとは、他の言葉の聞きまちがえではなかったのだろうか?――
たまたま棟居が公園内からストロー・ハットを見つけたものだから、それに結びつけてしまったが、それは短絡に過ぎたのではないか? もし運転手の聞きとめたストウハがストロー・ハットでなければ、棟居が発見した帽子は、事件にまったく関係ないことになる。
このおもいが棟居の心の底に澱《おり》のように留まって、しこりとなってきたのである。棟居には、那須が指摘した「被害者がロイヤルホテルの四十二階のレストランへ行った理由」の中にこの事件の鍵《かぎ》があるような気がしてならない。
棟居の発見した麦わら帽子は、鑑識によって少なくとも十五年以上前につくられたものと鑑定された。那須のみたてよりさらに五年以上も古いものであることがわかったのである。
そんな古いものが、それだけの期間、都心の公園に放置されていたはずがない。さらに重ねた聞き込みによって、九月十七日の朝、すなわちジョニー・ヘイワードが刺された十二時間ほど前、町内会の有志が、同公園を清掃したが、そんな帽子は落ちていなかったことが確かめられた。またもしそれが落ちていれば、そのときに取り除かれたはずである。
麦わら帽子は、九月十七日の朝以降に、そこへ運ばれてきたのだ。
「もう一度、現場へ行ってみよう」
棟居は、現場百回≠ニいう捜査の基本を忠実に踏んでみることにした。そのときに彼は奇妙な盲点があったことに気がついた。
タクシー運転手が申し出て以来、清水谷公園にはすでに何回か足を運んでいる。しかし、運転手が被害者を車に乗せたという午後八時半ごろにまだ一度も行ったことがなかった。公園の検索も、周辺の聞き込みも、もっと早い時間に行なわれていた。
犯行現場の疑いが濃厚な場所でありながら、被害者が移動したために現場の意識が稀薄《きはく》となり、犯行時間と推定される時間帯の現場観察を怠っていた。捜査員の見過ごした死角ともいえる。その死角の中に立てば、新たな視野が開けるかもしれない。
棟居は、午後八時少し前に、公園へ行った。都心でありながら、人影も絶えて、すでに深夜のおもむきである。公園好きのアベックの姿もない。これは警察が防犯対策の一環として、公園のアベックに早い時間の帰宅を呼びかけたためらしい。貧弱な草むらの中で虫が息も絶えだえに鳴いている。
街灯も疎《まば》らで、通りを時折通過する車のライトが街路樹の梢《こずえ》を闇の中に浮かび上がらせる。だがその光の矢も公園の重なり合った樹木の奥までは射通せない。
棟居は、公園の闇の中に立った。都心とはとうていおもえない静けさである。車すら、エンジンの音を忍ばせて通り過ぎるようだ。夜気が冷たい。ここで、一人の外国人が胸に凶器を突き立てられた。だが、とうてい惨劇の舞台とはおもえない、高級住宅に囲まれた、都会の喧噪《けんそう》から切り放されたような一角である。
だが、それが犯人の安全を保障する絶好の隠れ蓑《みの》となったわけである。アベックが目撃したという女は、果たして事件に関係があるのか? もし関係があるなら、日本人がからんでいることになる。いや、日本人が犯人かもしれない。
――被害者は、なぜロイヤルホテルへ向かったのか?――
――ロイヤルホテルを指さしてなぜストロー・ハット? と言ったのか――
闇に同化したように棟居は立ちつくして、思考の中にのめりこんだ。少し風が出て、頭上の梢が揺れた。揺れる樹葉の間からロイヤルホテルの光を満たした高層建物が、巨大な不夜城のように隠見した。ほとんどすべての窓に灯が映《は》えている。さらに地上の投光機から噴き上げた光束が、銀を延べたような外壁を、夜の闇の中にくっきりと浮き立たせている。
屋上のクーリングタワーの周囲を祭り灯篭《どうろう》のような連続した光の環《わ》が取り巻いている。あすこがホテル呼び物の『スカイダイニング』である。美しくも、花やかな眺めであった。
棟居は異国の地で、胸を刺された人間が、あの光を満たしたホテルの建物を眺めたときの心情を想った。絶望の目に世界のすべての幸せを集めたような空中の食堂は、この世のものならぬ美しさに映ったであろう。
それは瀕死の被害者を惹《ひ》きつけても不思議はないきらびやかな光の輪郭を、都心の夜空に刻んでいる。
「ストロー・ハットか」
なにげなくつぶやいた棟居は、漫然と投げかけていた視線を固定させた。美しさに惹かれていた目が、特定の対象物に向ける凝視となった。
「あ、あれは……」
と叫びかけて後の言葉がつづかない。屋上のクーリングタワーの周囲を土星の環のようにめぐる屋上レストランの窓の灯《あかり》の連なり。地上からの投光を受けたクーリングタワーを囲う三角柱の囲いが透けて、内部の円筒が銀色に輝いた。最上階レストランの灯が、光で織られた広い鍔《つば》のように見える。それはさながら夜空に懸けられた、光で編んだ麦わら帽子であった。
夜間照明が夜の空に描いた光の造形である。
「そうか、そうだったのか」
棟居は、夜空の一点に視線を据えたまま、ひとりつぶやきつづけた。ジョニー・ヘイワードはやはり、ロイヤルホテルの最上階レストランに麦わら帽子を連想したのであろう。彼にとってそれが何を意味するものか、まだわからないが、瀕死の体を引きずって行くほどの引力をもっていたことはわかる。
公園に落ちていた麦わら帽子は、彼が運んで来た可能性が高い。刺殺体と麦わら帽子。――この関係の中に事件の鍵《かぎ》がある。棟居は、闇の果てに一点の灯を見出《みいだ》したような目をして歩きだした。
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怨恨《えんこん》の刻印
棟居《むねすえ》の目には、いま一つの光景が浮かんでいる。忌まわしく、おもいだしたくない光景である。だが、彼の瞼《まぶた》に貼りついて離れない。おそらく彼が生きているかぎり、振り落とそうとしても離れないだろう。
彼は、その光景の中に登場する人物を生涯かけて追うために、刑事となったといってもよい。おもいだしたくないが、忘れてはならない心象光景でもある。それがあるからこそ、今日まで生きてこられたともいえる。
棟居|弘一良《こういちろう》は、人間を信じていない。憎んでいる。人間という動物は、だれでも突きつめてみれば、「醜悪」という元素に還元されてしまう。どんな高邁《こうまい》な道徳家、深遠で徳高き聖人のマスクをつけて、友情や自己犠牲を説く人であっても、心のひだに自己保身のソロバンを隠している。
棟居をして、このような人間不信に陥らせたものが、瞼に貼りつけられた、その光景なのである。
彼も社会の一員として社会生活を営んでいるので、その不信と憎悪を露《あらわ》にすることはない。だが心の底に巣くった人間に向ける不信と憎悪は、決して溶解することのないしこりとなって、致命的ではないが、その人間に生涯取り憑《つ》いた腫瘍《しゆよう》のように執拗《しつよう》に生きつづけている。
それが棟居の精神の原形質といってもよいくらいだ。それを内包して剥《む》きだしにしないのは、生きていくうえの方便であった。
棟居は母の顔を知らない。病気で死別したのではない。彼が物心つかないうちに、男をつくり、幼い棟居と夫を捨てて逃げてしまったのである。
その後、彼は父の男手一つで育てられた。父は、妻に逃げられた愚痴を一言も言わなかった。教育者の家庭に生まれた父は、自らも小学校の教師となって、戦後の混沌《こんとん》の中に子供たちの教育のために一身を捧《ささ》げていた。
そんな父が、万事派手好みの母には息苦しかったのかもしれない。父は強度の近視のために、徴兵をまぬかれたのだが、そんなことも当時の軍国主義全盛の世相にあって母には格好悪いものに映ったらしい。
後で人から聞いた話だが、「銃後の会」の集まりなどで知り合った若い将校と、よく遊び歩いていたそうである。母が父の許から逃げ出したのも、それらの将校の一人といい仲になって、彼の転任先へ従《つ》いて行ったということだった。
父は、棟居に愚痴をこぼさなかったが、妻に去られた寂しさを必死に耐えていた。その寂しさを棟居に託した。父一人子一人の寂しい家庭だった。
太平洋戦争は終結し、世相は混沌としていた。軍人に従いて行った母が、その後どうなったかわからなかった。だが世相の混乱も父子二人の家庭には、ほとんど影響なかった。父が庇《かば》ってくれたのか、それとも忘れてしまったのか、その辺りの記憶が曖昧模糊《あいまいもこ》としていた。あるいは、母のいない寂しさが、幼い心を被いつくして世相の変転に気づかなかったのかもしれない。
寂しさだけは、よくおぼえていた。父と二人で囲む夕食の寂しさ、灯の暗さ、部屋の中の冷たさが、 骨に刻まれたようにいまでも記憶に残っている。 食物の貧しさを、 母のいない寂しさが糊塗《こと》していた。その寂しさが、いつしか自分たちを捨てた母に向ける怨念《おんねん》に変わった。
母の顔を知らぬ子は、母がどこかの空の下で生きていると知って、そのおもかげに吹きつけるような懐かしさと、憎悪を向けていた。
だが父がいる間はよかった。寂しさを父と分け合い、父子二人が身を寄せ合って酷《きび》しい世間の風を避けることができた。それは社会から隔絶された父子の小宇宙であった。
棟居は、間もなくこのただ一人の保護者をも失うことになったのである。
棟居が四歳の冬のことだった。この日、棟居は、駅の前で父の帰りを待っていた。夕方一定の時間に勤めから帰って来る父を迎えに行くのが棟居の日課である。
父は、いもやとうもろこしでつくった弁当を棟居のためにつくってから、家を出る。それから夕方まで、棟居はたった一人で留守番をしているのである。当時はテレビもまんがの本もない。暗い部屋で、ただ父の帰る時間だけを待ちこがれてうずくまっているのだ。
父は、危険だから迎えに出てはいけないと言ったが、夕方、駅へ迎えに出るのが幼い彼にとって唯一の楽しみだった。改札口から出て来る父の姿をいち早く見つけると、棟居は子犬のように飛んで行って、その手にぶら下がる。父は必ず、彼のためにおみやげをもってきてくれた。来てはいけないと言いながらも、棟居が迎えに出ていると、父は喜んだ。
みやげはいもでつくったまんじゅうであったり、豆でつくったパンであったりした。だが、それが棟居にとって最高のご馳走《ちそう》であった。それらのみやげものには、父の手のぬくもりがあった。
それから家へ帰るまでの語らいが、父子のいちばん幸福な時間だった。父は、棟居が舌足らずの言葉で、ただ一人で留守をしている間のさまざまな冒険を語るのを、目を細めて聞いていた。
迷いこんで来た野良猫を追いはらった話、乞食が来て家の中を覗《のぞ》きこんだときの恐ろしかった経験、隣のヨシ坊の家へ行って出された菓子の美味《うま》かったこと、そんなとりとめもない話が次から次につづくのを父は、そうかそうかと全身で慈しむように聞いてくれた。
父がいつもの時間に帰って来ないと、帰って来るまで待っていた。幼い子供が、寒い風に吹かれて体を丸めて待っていても、だれも意に介さない。当時は、浮浪者や浮浪児が街にあふれていて、幼い子供が一人でふらふらしていても、それはべつに珍しい光景ではなかった。
また、それぞれが自分の生きる方途を探すのに精一杯で、だれも他人のことにかまっていられなかった。
その日、父はいつもより三十分ほど遅れて帰って来た。二月の末の最も寒い季節であった。父の姿を改札口に見つけたときは、棟居の小さな身体は凍えかけていた。
「また来ていたのか。あれほど来てはいけないと言っておいたのに」
父は、凍えた棟居の全身をしっかりと抱きしめてくれた。父の体も凍えていたが、その心のぬくもりが伝わってくるようだった。
「今日はな、凄《すご》いおみやげがあるんだぞ」
父はおもわせぶりに言った。
「何だい、お父さん」
「これを開けてごらん」
父は、紙袋を棟居の手に握らせた。まだほのかな温かみが残っている。中を覗いた棟居は、おもわず「わあ、すげえ」と嘆声を発した。
「どうだ、凄いだろう。そのまんじゅうには本物のあんこが入ってるんだぞ」
「本当?」棟居は目をまるくした。
「本当だとも、それを闇市で買って来るために少し遅くなっちゃったんだ。さあ早く家へ帰っていっしょに食べような」
父は、子の冷えた手を暖めるように握り締めて、歩きはじめた。
「お父さん、ありがとう」
「おとなしく待っていた褒美だ。けれど明日から迎えに来ちゃいけないよ、悪い人さらいがいるかもしれない」
父は棟居を優しく諭《さと》した。二人が家の方角へ向かいかけたとき、その事件は起きたのだ。
駅前の広場の一角が騒がしくなった。得体の知れない食物を売る露店の立ち並んでいるあたりから騒然たる気配が伝わってくる。人々が駆け集まっている。若い女の悲鳴がして、「たすけて! だれかたすけて」と救いを求める声がつづいた。
父は、棟居の手を引いて、その方角へ急いだ。人垣の間から覗いてみると、酔っぱらったGI(アメリカ兵)が、若い女にからんでいる。意味はわからぬながらも、万国共通の音感をもった野卑《やひ》な言葉を撒《ま》きちらしながら、数人の若いGIが衆人環視の中で若い娘を嬲《なぶ》っているのだった。
見るからに強そうな米兵たちばかりだった。やせおとろえた敗戦国民の日本人に比べて、栄養の行きとどいた身体と、脂ぎった赤い皮膚からは、蓄えられた猥褻《わいせつ》なエネルギーがはちきれんばかりである。
哀れな娘は、猫の群れに取り囲まれた一匹のねずみのように、なぶり殺しにされようとしている。すでに衣服はむしり取られ、惨憺《さんたん》たるありさまになっていた。このままでは衆人の見守る中で犯されてしまう。いや、すでに犯されているも同然であった。
見ているほうも、救おうとする気持よりは、はからずも面白い見せ物に際会した残酷な好奇心のほうが先立っていた。かりに救おうとする気持があったところで、相手が進駐軍の兵士ではどうにもならない。
彼らは、勝利国の軍隊として、日本のすべてのうえに君臨していた。世界に誇る日本軍を一兵残らず解体し、日本人にとって最高絶対の権力者であった天皇の神格を否定した。つまり彼らは日本人の現人神《あらひとがみ》のそのまたうえに坐《すわ》って、日本を支配した。天皇を従属させた彼らが、当時の日本人にとって、新たな神となったのである。
警察も神の軍隊≠ナある進駐軍には手出しできなかった。進駐軍にとって日本人など人間ではなかった。動物以下にしか見ていなかったから、このような傍若無人のふるまいができたのである。
GIの人身御供に捧《ささ》げられた娘は、絶望的な状態に陥っていた。見ている者はだれも手を出さない。警官を呼びに行こうとする者もない。呼びに行ったところで、警官にもどうにもならないことを知っていたからである。
彼らにとらえられた娘の不運であった。
そのとき父が、人垣をかき分けて進みだした。そしてあわや女を蹂躪《じゆうりん》しようとしていた兵士たちに、英語でなにか言った。父は多少の英語を解した。
そんな勇気ある日本人がいようなどとは夢にもおもっていなかったらしいGIたちは、一瞬びっくりしたように父に視線を集めた。取り巻いていた群衆もどうなることかと固唾《かたず》をのんで見守った。束の間、無気味な静寂が、その場に屯《たむろ》した。
ちょっと気勢を削《そ》がれたGIたちは、相手がいかにもひ弱げなめがねをかけた貧相な日本人一人と知って、たちまち威勢を取り戻した。
「ガッデム・イエロウモンキー」
「ダーティ・ジャップ」
「サノブアビッチ」
などと口々に叫びながら、父に対《むか》ってきた。父は必死に相手をなだめようとしていた。
だが、米兵は新たに現われた獲物にサディスティックな昂奮《こうふん》をかきたてられたらしく、寄ってたかって父を苛《さいな》みはじめた。凶暴な獣が、栄養不良の獲物をなぶり殺しにするようなものであった。米兵たちは、抵抗と反撃のまったくない相手を苛む残酷な喜悦に酔い痴れていた。
「止めろ、お父さんに乱暴するな」
棟居は、父を救おうとして、米兵の一人の背中にしがみついた。赤鬼のような白人だった。腕に戦場で負傷したのか、火傷《やけど》の引きつれのような傷痕《きずあと》があった。赤味がかった傷痕から金色の毛が生えていた。ぶうんとその太い腕が動いて、彼はあっけなく地面に叩《たた》きつけられた。懐中から父のみやげのまんじゅうが落ちて、ころころと地面に転がった。米兵の頑丈な軍靴《ぐんか》が、それを無造作に踏み蹂《にじ》った。
まんじゅうの転がった先で、父がぼろ布のように米兵に叩きのめされていた。撲《なぐ》る、蹴《け》る、唾《つば》を吐きつける、めがねが吹っ飛んで、レンズが粉々に砕けた。袋叩きとはまさにこのことだった。
「だれか、お父さんをたすけて」
棟居は、取り囲んだ群衆に救いを求めた。だが幼い彼に救いを求められたおとなたちは、みな肩をすくめて目をそらすか、うそ寒そうに笑うだけだった。だれも手を出そうとしなかった。
父が救おうとした若い娘の姿は、すでにどこにも見えなかった。父を身代わりに置いて、逃げてしまった様子である。父は彼女を救おうと身を挺して、犠牲《スケープ》山羊《ゴート》になってしまったのである。
生半可《なまはんか》な正義感から手を出せば、今度は自分が第二のスケープゴートにされてしまう。群衆は父が身代わりにされたのを見ているだけに、ますますおじけづいていた。
「おねがいだ、お父さんをたすけて」
棟居が泣きながら頼んでも、だれも知らん顔をしていた。その場から立ち去ろうともしない。救いの手をさしのべようともせず、対岸の火事でも見るように好奇心だけ露《あらわ》にして、事件の成り行きを見守っているのだ。
急に米兵たちがゲラゲラ笑いだした。棟居が振り返ると、米兵の一人がぐったりと動かなくなった父の体に小便をかけていた。腕に火傷のような赤い傷跡のある兵隊だった。べつの米兵が真似をした。盛大な放水の集中する中で、父はすでに自分がなにを浴びせられているのか意識していないようであった。その様を見て、米兵だけでなく見物していた群衆も笑った。
父に放尿している米兵よりも、それを見物して笑っている日本人の方に、棟居は深い憎悪をおぼえた。棟居の頬に涙が流れていた。だが彼は、それを涙だとはおもわなかった。心の中に抉《えぐ》られた傷からほとばしった血が、目からあふれ出ているのだ。彼は幼い心にこの光景を忘れてはならないとおもった。
いつかこの仇を討つ日のために、瞼《まぶた》にしっかりと焼きつけておくのだ。敵は、この場に居合わせたすべての人間である。米兵、おもしろがって見物している群衆、父に救われながら、父を身代わりにして逃げてしまった若い女、彼らのすべてが自分の敵である。
米兵は、ようやく父をなぶるのに飽きて、去って行った。群衆も散った。そのころになって警官が来た。
「進駐軍が相手では、どうにもならないな」
警官は無気力に言って、形式的に調書を取っただけだった。まるで、殺されなかったのが目付けものだと言わんばかりの口ぶりだった。棟居はそのとき、その警官も敵に加えたのである。
父は、全身に打撲傷を負ったうえに、右肩の鎖骨と肋骨《ろつこつ》を二本折られていた。全治二か月と診断された。だがそのときの検査が杜撰《ずさん》だったために、脳の内部に血腫《けつしゆ》ができていたことを見過ごされてしまったのである。
それから三日後、父は昏睡《こんすい》状態に陥った。その夜遅く棟居と妻の名をうわ言のようにつぶやきながら息を引き取った。
そのときから、父と自分を捨てた母と、杜撰な検査で父を死に至らしめた医師が、棟居の生涯の怨敵《おんてき》に加わった。
彼の人間に向ける不信と憎悪は、そのとき以来、培われたものである。敵の顔と名前を一人一人おぼえているわけではない。母の顔すら知らない。だから彼の怨敵は、あのとき居合わせた米兵、群衆、若い女、警官、そして医師と母に代表される人間のすべてであった。
彼は、相手が人間ならだれでもいい、一人一人ゆっくりと復讐《ふくしゆう》してやるつもりだった。孤児になった棟居が刑事になるまでの過程にも紆余曲折《うよきよくせつ》はあったが、そのことよりも彼が刑事になった動機が重要なのである。
刑事は国家権力(いちおう形だけでも)を背負って犯人を追うことができる。彼にとって犯人も敵も同じである。人間が法律という大義名分の下に、人間を追いつめることができる職業は、警察官ぐらいのものだ。
社会正義のためではなく、人間をもはやどう逃れようもない窮地に追いこんで、その絶望やあがき苦しむ様をじっくりと見つめてやりたい。あの日、父がなぶり殺しにされるのを見物していた群衆の一人一人を探し出し、追いつめ、どう逃れようもない絶望の淵《ふち》へ突き落としてやるのだ。
犯罪としてこれをすれば、長続きはしない。いつかは逆に自分が追いつめられてしまう。しかし正当に職業化すれば、辞職するまで人間を追うことができる。
棟居は、社会正義のためではなく、人間全体に復讐するために刑事になったのである。復讐だから、要は、追いつめた相手をできるだけ苦しませればよいのだ。
被害者に遺族がないので、ジョニー・ヘイワードの遺体はアメリカ大使館が引き取った。死体は荼毘《だび》に付され、身寄りの者が現われるまで、横浜の外人墓地の一隅にある外人無縁墓地に仮埋葬されることになった。
捜査は、まったく膠着《こうちやく》していた。棟居刑事の発見によって、ロイヤルホテルのスカイダイニングの外観が、麦わら帽子に似ていることがわかったが、それだけでは事件になんの進展ももたらさない。
被害者にとって、麦わら帽子がなにか重大な意味をもっているらしいのだが、その意味を解くことができない。
「アベックが目撃したという、犯行時間帯に公園から出て行った女性は事件に関係ないのではないか」
という説が出てきた。その後の捜査によって、当然のことながら来日して間もない被害者の身辺に、該当するような女の存在は浮かび上がらなかったのである。
「もし女の線でなければ、殺人の動機は、本国からもち越されたものではないのか」という意見がしだいに有力になってきた。これまで、女の線に沿って、日本人関係を主体に洗ってきたが、もし本国から犯人が来たとすれば、捜査方針を転回しなければならない。
もちろん外国人が被害者なので、当初は、「犯人外国人説」が有力で捜査もその方向で進められていた。外国人の犯罪は、比較的|露《あら》われやすい。来日外国人の数は限定されているし、出入国にあたって足跡を残さざるを得ないからである。
初期捜査において外国人容疑者が浮上しなかったことと、アベックの証言によって日本人女性がマークされたために、捜査は日本人の方へ傾いていた。だが、いくら追っても、それ以上の足跡が現われない。
ここにアベックの証言が、再検討された。照明の不足する暗がりの中で瞥見《べつけん》しただけで、年齢も特徴もいっさい不明だった。日本人らしいというのは、姿形から判断した曖昧《あいまい》な印象にすぎない。
「そのアベックには日本人に見えたが、外国人女性だったのかもしれない」
「混血《ハーフ》ということは考えられないか。ハーフならば、姿形は日本人に見えるだろう」
「被害者の本国を洗う必要がある」
しだいに犯人外国人説が勢いを盛り返してきたものの、日本国内には、すでに捜査すべき対象が残っていない。被害者が投宿していたホテルは捜査ずみである。
残る捜査の対象は、被害者の本国であるが、アメリカまで捜査員を派遣することはできない。日本において発生した犯罪は、日本国内が捜査の範囲である。海外との関連事件は、たいてい|ICPO《インターポール》(国際刑事警察機構)を通して、相手国に捜査の協力を依頼する。
かりにこちらの捜査員が出張したところで、捜査権はないし、言葉も通じず、地理や風俗習慣等すべて不案内の外地では、満足すべき捜査は望めない。ともかくICPOに依頼して、被害者の住所地をあたってもらう以外になかった。少なくともそこは被害者が生活の本拠にしていた場所である。犯人とのつながりをしめすなにかの痕跡《こんせき》が残っているかもしれない。
まことに歯がゆいかぎりの捜査であったが、捜査員は海外にまたがる犯罪捜査の限界を感じていた。
棟居刑事は、その後も何度か東京ビジネスマンホテルに足を運んだ。
「あそこにはもうなにもないよ」
ペアになった山路刑事は言ったが、
「私は、どうしてもあのホテルが引っかかるんです」と棟居は固執した。
「どう引っかかるんだい?」
「ヘイワードは、予約もせずにふらりとあのホテルへ来たそうですね」
「フロント課長は、そう言ってたな」
「いったいどこであのホテルの所在を知ったんでしょう?」
「そりゃあ空港で紹介してもらったかもしれないし、タクシーに連れて来てもらうこともできる」
「空港で紹介するのは、いちおう名の通ったホテルだけですよ。あのホテルはまだオープンして間もないし、ホテル協会にも加盟していません。またタクシーが連れて来たにしては、ホテルの場所が中途半端ですね。空港から来る場合、品川か新橋か都心のホテルが多いんじゃないでしょうか」
「そうとは限らないだろう。車なんだから、運転手にとってはメーターが上がったほうがいい。それに新宿は副都心だ。げんに大きなホテルもある」
「ま、それはそうですが、あのホテルには、外国人はめったに泊まらないそうです。出張のサラリーマンが圧倒的に多く、それも定期的に上京する固定客が多かったそうです。外国人の、しかも日本は初めてのガイシャが来たというのは、あらかじめなんらかの土地鑑があったような気がするのです」
「土地鑑ねえ、しかしあのホテルには初めて泊まったんだろう」
「そうです。日本へ来たのは今度が初めてだったんですから」
「おれはきみのおもいすごしだとおもうな。たまたま空港から乗った車の運転手が、あのホテルを知っていて、あそこへ案内したのじゃないかな」
「それなんですよ。もしタクシーが連れて来た場合、言葉のわからない外国人なんだから、まず運転手がフロントへ来て、部屋があるかどうか問い合わせるのが、ふつうじゃないでしょうか? ところがヘイワードは自分で直接フロントへ来た」
「彼は片言の日本語をしゃべったそうじゃないか」
「それにしても初めての外国なんだから、運転手に頼んだほうが、無難ですよ」
「そんなもんかなあ」
山路にはどうもピンとこないようだった。それでも棟居のビジネスマンホテル通いにつき合ってくれたのは、彼の主張に多少の共感をもったからであろう。
だが、棟居の執着にもかかわらず、東京ビジネスマンホテルからは、なんの収穫も得られなかった。
ジョニー・ヘイワードのわずかな遺品は、アメリカ大使館に引き渡されて、彼の日本におけるかすかな痕跡も完全になくなってしまっていた。
「どうやらこのホテルは見込みちがいだったらしいな」
山路が慰め顔に言ってくれたが、棟居は気落ちして、ろくに返事もしない。やはり山路が初めに主張したように、ただなにげなくやって来たのだろうか? これまでの捜査によっては、被害者と、東京ビジネスマンホテルの間には事前のいかなるつながりも発見されなかった。
さすがの棟居もあきらめかけた。これを最後にしようとおもいながらホテルの玄関を出ると、目の前に一台の高級車が停まった。運転手にドアを開けられて、白大島を粋《いき》に着こなした上品な婦人が降りて来た。
「おや?」
すれちがってから、棟居はふと振り返った。
「どうかしたのか?」
山路がたずねた。
「いや、いますれちがった婦人にどこかで会ったような気がしたものですから」
「そりゃそうだろう、あれが八杉恭子《やすぎきようこ》じゃないか」
「彼女が八杉恭子」
棟居は、足を停めてその立ち去った方角をじっと見つめた。八杉恭子は家庭問題評論家として、テレビや雑誌に引っ張り凧《だこ》の売れっ子である。自分の二人の子供たちとの〈母子通信〉という手紙形式で、青春期の微妙な年ごろにさしかかった子供への母親の対応のしかたを書いた一種の育児日記を著わして一躍、マスコミの寵児《ちようじ》になった人物であった。その本は国内だけでなく、英訳されて、海外にも紹介された。
そのいかにも育ちのよさそうなエレガントなムードと、翳《かげ》のある美貌《びぼう》は、まさにテレビ向きで、いまや「時の人」の観があった。
八杉恭子なら、テレビや雑誌を通して棟居が顔を知っていても不思議はない。そして言われてみればその顔にはなじみがあった。だが棟居を振り返らせたのは、なじみの顔の故ではない。
すれちがう一瞬、恭子が傾けた面の角度に、遠い記憶をかすかに揺するものがあったからである。だが忘却のカサブタを破るほどの強い刺戟《しげき》には足らない。水面に起きたわずかなさざなみのように、たちまち鎮まり、現在の恭子の|公けの顔《パブリツクフエース》ともいうべきものに吸収されてしまった。
現在のイメージが強すぎて、過去のかすかな記憶が抑圧されている。だがたしかにそれは存在するのだ。ジャーナリズムに乗ったパブリックな八杉恭子ではなく、自分と個人的なつながりをもった恭子として、幾重にも重ねられた忘却の厚皮の底に埋められている。それを掘り出すためには、もっと強い刺戟が必要だった。
そこにあることがたしかに意識されながら、手繰り出せないもどかしさ。――
「おい、どうしたんだ? 実物に見惚《みと》れてしまったのか」
その場に立ちつくして考えこんでしまった棟居に、山路が声をかけた。棟居は、はっと我に返って、
「それにしても八杉恭子はどうしてこんな所にいるのでしょう?」と半ば独り言のように言った。
「どうしてって、棟居君、きみ知らないのか?」
山路があきれたような目をまた向けた。
「知らないって、何をです?」
「八杉恭子は、郡陽平の細君だぜ」
「郡陽平の――」
そう言えば、そんな名前の入ったボードがホテルの玄関脇の壁に取りつけられていた。
「八杉恭子が……郡の……だったのですか」
「本当に知らなかったのか。二人子供までいるよ」
「子供がいるのは知ってましたが、郡との間の子だとは」
「刑事としてはもっと社会常識も勉強しなけりゃいかんな」
山路は揶揄《やゆ》するように笑った。それが社会常識に属する部類の知識かどうかわからないが、山路が知っているくらいだから、かなり知れ渡っていることがらなのであろう。
郡陽平は、与党民友党の青年将校のボス的存在である。政界の新感覚派《ニユーライト》≠フ旗手と目され、党内の論客としても聞こえている。彼については、いろいろな見方がある。「八方美人だが、いつも強い方に付く」とか「変幻自在の策士」とか、「年に似あわず、行動力と決断力に恵まれた親分肌」などとわかれている。
現麻|生《あそう》文彦政権にあって、「主流協力」の立場を取っているが、いったん事があれば、独自の動きをする台風の目≠ニ見られている。表面的には、党風刷新のための派閥解消を旗印にしながら、もちまえの人当たりの良さと多分にはったりがかった派手な動きで、他の非主流派や中間派の中に着実にシンパを増やしている。
次期政権担当候補者としての野心は、表面立っては見せていないが、党内有力派閥として着実にその地歩を固めており、「麻生後」の党内情勢の動き方によっては、麻生政権の大幹部に伍して次期政権リーダーを争うダークホース視する向きも多い。
山形県の農家の出身で、苦学力行して大学を卒業後鉄工場を設立して、軍部への出入りを許されたのが開運のはじまりということだが、そのへんの消息が曖昧《あいまい》である。衆院選に出馬して初当選したのは、三十四歳のときで、当時は無所属だった。
現在五十五歳、国土政策調査会長に就任して長期的な視野に立つ国土総合開発計画と意欲的に取り組んでいる。そのため財界との関係が最近とみに密着してきた。
家庭は、妻の八杉恭子との間に十九歳と十七歳の大学生の息子と娘がいる。恭子が超ベストセラーを出したので、郡陽平の知名度はさらに上がったと言われている。だがこのへんが彼の策士と呼ばれるゆえんなのだろうが、公的な場所では、恭子が自分の妻であることは極力出さないようにしている。テレビや雑誌のグラビヤ撮影などにおいても、あくまでも八杉恭子として行なわせ、「郡陽平夫人」としての立場と切り放させている。
棟居は、山路から郡陽平に関するアウトラインを聞いた。その郡陽平の後援会事務所のあるホテルへ八杉恭子が来ても、なんら不思議はない。
「それにしても八杉恭子は美人だな」
山路がため息をついた。
「いったいいくつなんですか?」
「四十代ということだがね、三十代後半に見えないこともないな」
「そんなに齢《とし》を食ってるんですか」
「驚いたろう。うちのワイフなんかいくらもちがわないのに、そろそろ定年≠ノなろうというのにな。まったく郡陽平は男|冥利《みようり》に尽きるやつだよ」
「最初から結婚してるんですか?」
「最初から?」
「つまり、再婚とかいうようなことではないのですか」
「そのへんのところは詳しくは知らんがね、大学へ行ってる息子と娘がいるから、かなり以前に結婚してるんだろう」
「四十歳で、大学生の子供がいるとなると、ずいぶん早婚ですね」
「多少はサバを読んでるかもしれんがね、まあだいぶ前に結婚したことはたしかだな」
「どちらかの連れ子ということはありませんか」
「そんな話は聞いたことがないなあ。それにしてもいやにご執心じゃないか」
「ちょっと気になったもんですから」
「八杉恭子は、男ならだれでも気になるさ」
山路は勘ちがいした様子である。
ジョニー・ヘイワード殺害事件の捜査は膠着《こうちやく》状態に入ったままであった。|ICPO《インターポール》からもなんの連絡もこなかった。被害者の住所地をあたれと依頼を受けた米国警察としても、事件は海をへだてた日本で発生しており、なにを探るべきかよくわからないのであろう。
また被害者の現住所として表示されてあったのは、ニューヨークの悪名高い黒人街《ハーレム》であり、日本でいえば山谷《さんや》や釜《かま》ガ崎のドヤ街に浮浪者が仮の居所をおいていたような状況であったのかもしれない。仮の居所であるから、手がかりになるようなものも残されていない。もちろん身寄りの者もいない。
しかしもしそこが仮の居所であれば、どこかに本拠地(本籍地)があるはずである。だが米国からの最初の回答には、そのことについてはいっさい触れられていなかった。
合成国家の米国にとって、一人の黒人が異国で殺されようと、どうということはないのであろうか。ニューヨークは、殺人事件が珍しくない土地柄である。自国民が殺されたというのにその冷淡な態度は、捜査本部に影響せざるを得なかった。
だが、犯人は日本人かもしれないのである。いかに本国が冷淡であっても捜査の手を抜くわけにはいかなかった。捜査本部では、九月十三日、被害者が入国した日、羽田空港から東京ビジネスマンホテルまで彼を運んだタクシーの割り出しにつとめていた。
東京には現在法人タクシーが二万台、「個人」が一万六千台走っている。しかもジョニー・ヘイワードが羽田からタクシーに乗ったという保証はないのだ。しかしそれだけがいま捜査本部に残されたかすかなトレースの糸口であった。
――被害者はなぜ、東京ビジネスマンホテルへ行ったか?――
それを被害者を乗せた(かもしれない)タクシーが知っている可能性がある。
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謎のキイワード
またシラケた朝がきた。すでに酔いは醒《さ》めていたが、頭の芯《しん》に鉛がつまったような不快感が残っている。瞼《まぶた》の裏に眠けが貼りついているが、これ以上寝ていても眠れないことはわかっている。不健康な朝だった。
恭平《きようへい》は手洗いに行くために立ち上がった。意識はしっかりしているつもりだったが、足元がふらついた。足に力が入らず、体の平衡感覚が頼りない。これが薬に酔《ラリ》った後の後遺症だった。
雑魚《ざこ》寝の布団の中には、昨夜|乱痴気《らんちき》パーティを繰りひろげた仲間たちが、まだ寝くたれている。いずれも二十歳前の若者のくせに、薬ののみすぎと荒淫《こういん》と栄養失調で血の気のない顔色をしている。
肝臓障害のように土気色にむくんだ顔、かさかさに乾いた皮膚、目の下に浮かんだ青黒い隈《くま》、ひび割れた唇、目やにをこびりつかせ、よだれをたらし、死んだように眠りこけている姿は、とても二十前の若者とはおもえない。トイレットに向かって、ザコ寝の間を縫っていくと、一人の足をおもいきり踏んづけた。
若い女である。彼に踏まれて、痛そうに眉《まゆ》をしかめながら、うす目を開いたが、寝返りを打って、また眠りこんでしまった。全裸に近い格好であった。不摂生にもかかわらず、張り切った身体をしている。身体の一部にわずかに毛布をかけただけの胸元と腰の発達は、痩《や》せこけた男たちの間で憎たらしいほど見事であった。昨夜のスナックで知り合ったばかりの女だった。他にも、あまりなじみのない顔がいくつか雑魚寝の中にまじっている。
みんな、昨夜の深夜スナックで薬に酔って踊っている間に合流した連中だろう。
ここは、恭平の勉強部屋として、親が買ってくれたマンションの一室である。子供に甘いというより、ほとんど放任している親は、恭平が、家から完全に隔絶された独立の場所のほうがよく勉強できるというと、直ちに二千万近い金を出して、杉並区の閑静な一角にあるこのマンションを買ってくれたのである。
恭平はそこをアジトにして、学校へも行かず、同年輩のフーテンたちと遊びまわった。深夜喫茶やスナックで夜を明かす。知り合った連中を手当りしだいに引き具して、自分のマンションへ連れ帰り、睡眠薬遊びやセックスパーティに耽《ふけ》った。
部屋の中は、よくもこれだけ散らかせたものと呆《あき》れ返るほどに猥雑《わいざつ》と不潔をきわめている。
キッチンの流しには食器やインスタント食品の残物が山のように積み上げられて、その上をハエや小虫が飛び回っている。室内には汚れた衣類や下着が散乱し、その間にギターやレコードが転がっている。
雑魚寝しているテラスに面した八畳の部屋は、布団と毛布が乱れ、その間に女の脚や、ビートルズ・カットの汚れた頭が、畠の中の大根や、南瓜のように覗《のぞ》いている。チリ紙の丸めたのや、果物の皮、吸殻であふれた灰皿、睡眠薬の空箱、コーラの空びん、避妊具などが布団の間や、枕元(どこが枕元かよくわからないが)に散乱して、昨夜そこで行なわれた乱痴気パーティの凄《すさま》じさをものがたっている。
食物の饐《す》えたようなにおいが、部屋の中にたちこめている。もともと不潔だったところへ、気密性満点の部屋の中で八人の男女が雑魚寝をしたために、空気が汚れきっている。頭が重いのは、クスリのせいばかりではなく、汚れた空気を一晩中吸いつづけたためだろう。
だが連中は、まだひたすらに眠りこけている。隣のダイニングキッチンに入ると、ここはまた寝室以上の荒れようである。化学消火剤の空かんがごろごろしていて、板敷きの床がべとついている。寝室とはべつの刺戟《しげき》的な異臭がこもっていた。
恭平はここで昨夜スナックから帰って来て〈消火剤遊び〉をやったことをおもいだした。
その遊びをやろうという了解は、一瞬の間に成った。みなかなりクスリで酔《ラリ》っていた。だが羞恥心《しゆうちしん》がクスリの力で麻痺《まひ》していたのではなく、そんなものは初めからどこかへ置き忘れていた。男四人、女四人は着ているものいっさいをかなぐり捨てて、ダイニングキッチンの床にうずくまった。
そこへ恭平が消火器のノズルを叩《たた》いて、化学消火剤の泡を浴びせかけた。ダイニングキッチンは、たちまち泡の海になった。そこへさらに次々に消火剤を浴びせかける。白い泡の中で、男と女は悲鳴をあげながらふざけちらした。泡踊り≠フ団体版である。
泡をまぶしたおたがいの体が滑ってなかなかつかまえられない。泡の中にそれぞれの顔と体の特徴が隠れて、だれがだれだか見分けられない。新鮮で刺戟的な鬼ごっこだった。
恭平は泡の中で何人かの女たちと交わった。それは、クスリとスピードと荒淫に鈍磨した彼の性感に、目の覚めるような刺戟をあたえた。消火剤のぴりりとする刺戟が、性感をさらに高める。
この消火剤遊びの副産物としてやった「シャワーまんじゅう」もなかなかおもしろかった。それは泡でベトベトになった身体で、シャワー室の中で押しくらまんじゅうをするのである。狭いシャワー室の中に入れるだけ詰めこむ。身動きできないほど詰めこんだところで、冷水を出したり、熱湯を注いだりする。
どんな熱い湯を注ぎかけられても逃げることができない。やけどを負う者も出るが、それがマゾヒスティックな快感をかき立てるのである。
それにしても、昨日はめちゃくちゃだった。
フリーセックスとか、ワイルドパーティなどと言われても、彼らの間にひとつの秩序があり、遊ぶ仲間も一定してくる。遊ぶ相手の身許《みもと》はおおよそわかっている。売春でもないかぎり、行きずりの人間とは遊ばないのである。また売春するフーテン女を彼らは軽蔑《けいべつ》していて、決して仲間に加えない。
時折、一夜の手軽な歓楽を求めて、若いサラリーマンなどがまぎれこんで来ても、だれも相手にしない。
ところが昨夜は、手当たりしだいだった。いっしょに従《つ》いて来る人間は、男でも女でも拒まなかった。雑魚寝の中にいる知らない顔は、そのようにして拾い集めて来た連中だろう。そしてマンションの密室の中で繰り広げられた狂宴――。
恭平には、その理由がわかっていた。昨日、母親といっしょにテレビに出演したのだ。彼はそのときの自分の様をおもいだすと吐き気がした。
――母と子の対話、失われた世代における母子の心の交流は、どのようになされなければならないか。――
こんなもっともらしいテーマで全国向けのテレビの中で、恭平は模範息子を演技したのだ。それは母の名声を支えるための演技である。全国の視聴者だけでなく、母も、そして父も欺かれている。
――恭平の家では親子の断絶などない。たとえ両親が仕事のため多忙をきわめ、子供といっしょに過ごす時間が少なくても、親子の間には常に心の交流が行なわれている。――
「親子の断絶とか、親の疎外などということは、わが家では考えられません。それは親子の間に根本的な理解があるからです。親子の間にも、面と向かって言えないようなことがあります。そんなとき私たちは、たがいに手紙を出すのです。同じ家に住んでいても、手紙を書き合います。手紙だと言えないことも書けます。息子や娘から来た手紙を読んで、私は知っていたつもりのわが子の心の襞《ひだ》に潜んでいた未知の領域に、どんなにか驚かされたことでしょう。
子供は、成長とともに変身していきます。自分の血を分けた子でありながら、襁|褓《むつき》の子供とは別人になっていきます。親はそれをいつまでも同じと考えるところに、親子の断絶が生じるのだとおもいます。
子供を根本的に理解するとは、どういうことでしょうか? それは子供が成長の過程で別人に変身していくのを、絶えず追跡することだとおもいます。世の親御さんは、この追跡を蔑《ないがし》ろにしておられるのではないでしょうか。私が子供に出す手紙は、その追跡のミサイルなのです。お子さんたちの成長は早い。たくさんのミサイルを射ち上げなければなりません」
わかりきったことを巧妙な話術と、美しい微笑で説いていた母のさかしら顔が目に浮かぶ。そのかたわらにひかえて、もっともらしく相|槌《づち》を打つのが、恭平の役目だった。あんな説教で、親子断絶の救世主のようにまつり上げられてしまったのだから、マスコミの力は恐ろしい。
だが、彼はなんだって、そんなテレビに出たのか? それは復讐《ふくしゆう》だった。母はいつも外面ばかりを気にしていた。ジャーナリズムの寵児《ちようじ》にまつり上げられる前から、若く美しい母は、外に向かってポーズばかりとっていた。
恭平には母がありながら、もの心つくころから母との記憶はない。彼に乳をあたえ、おむつを取り替え、そして幼稚園に通い出すようになってからの送迎、遠足の弁当づくりなど、すべて老いたお手伝いがやってくれた。母が母親らしい顔をして現われるのは、PTAの会や授業参観日など大勢が集まる晴れがましい席だけである。その日だけ美々しく着飾ってやって来た。
彼女は、恭平にとって母であって母ではなかった。ただ産んでくれただけであった。母親としてのなんの具体的な世話もしない子供を道具に使って、一躍マスコミのスターになると、見せかけの母≠ヤりはもっと徹底した。
それでも幼いうちはそんな母に対する畏敬《いけい》の念があった。よその母親とちがって、家にいるときも美しく着飾っている母が、誇らしくもあった。
だが、長ずるにしたがい、母の単なる華美好きの、内容のない虚栄の塊りのような正体を知ると、猛烈な反発が突き上げてきた。
最初のきっかけとなったのは、小学校一年生の遠足である。ちょうどその日が、町内の有閑マダムと誘い合わせての老人ホーム慰安デーと重なっていた。生憎《あいにく》なことは重なって、婆やが体の具合いを悪くして暇を取っていた。
母は、恭平のために遠足の弁当をつくってくれるでもなく、老人ホームに着て行く服をあれこれ迷って時間を失った後、
「今日は、お母さんは可哀想なお年寄りを慰めに行くのですからね。恭平はがまんするのですよ。お昼になったらこれでお弁当を買いなさい」
と千円札を一枚よこしたのだ。彼はその札一枚もっただけで遠足に行った。リュックサックの中が空っぽでは格好がつかないので、入園時に幼稚園から贈られた気に入りの熊の縫いぐるみを入れていった。
目的地は、山の中の沼の畔《ほとり》だった。当時の千円は、いまの一万円ぐらいの値打ちがあったが、そんな山の中にはなにも売っていない。よその子供たちは、付き添いの親といっしょに楽しそうに弁当を広げていた。恭平は水筒ももっていなかったので、空腹を意識する前に、のどがからからになっていた。よその子の付き添いの親が見るに見かねて、おにぎりとお茶を分けてくれたが、彼はそのときリュックの中身を見られるのが恥ずかしくて、もらったにぎりめしを独り離れた沼の畔で食った。にぎりめしを頬張りながら、涙が頬を伝ってしかたがなかった。
恭平は、熊の縫いぐるみをリュックに入れて遠足に行った屈辱を胸に刻みこんで忘れない。母はとうの昔に忘れてしまったらしい。いや忘れたのではなく、彼が熊をリュックに詰めて行ったことすら知らず、千円渡して母親の責任は全うしたとおもいこんでいるらしいが、恭平はそのとき自分の母親の正体を見届けたとおもった。
もとより父親などは最初からないに等しい。仕事仕事で飛びまわり、政治に深入りするようになってから、同じ家に住んでいながら、ほとんど顔も見なくなった。その意味で、彼は孤児と大して変わりなかったのである。
孤児に、親子の断絶などあろうはずがなかった。
こちらは孤児のつもりでいるのに、一方的に母親を押し付け、母子の対話をマスコミ受けするように要領よく書き、それで一躍「全国母親の偶像」になったのは、笑止だ。
その偶像の模範息子も、やはり、偶像である。
二人は、一種の共犯者だった。ただ母親には共犯の意識がない。その偶像の片割れがひとかどのヒッピーを気どって、睡眠薬《リスク》やチャンコ鍋《なべ》(乱交のこと)に耽《ふけ》っている。もしこれが露《あら》われたら、母親の名声は地に落ちるだろう。
母ばかりでなく、父の政治生命にも影響するかもしれない。しかもその切り札を恭平が握っているのだ。
自分たちを破滅させる武器を子供の手に握られているとも知らず、虚名を維持するために、うき身をやつしている両親が滑稽《こつけい》であった。彼らの無知の裏側で、おもいきって破廉恥な若さの蕩尽《とうじん》をする。それも子を捨て、食い物にした親に対する痛烈な復讐ではないか。
トイレットから戻っても、もう一度、あの不潔な雑魚寝に戻る気がしなかったので、ダイニングキッチンの片隅の椅子に腰を下ろして煙草を吸っていると、いきなり背後から声をかけられた。
「私にも一本ちょうだい」
振り返ると、寝室の方から、彼がさっき足を踏んだ女が出て来た。
「なんだ、起きていたのか」
恭平が、テーブルの上にあったセブンスターの箱を投げてやると、片手で器用に受け止めて、一本抜き取った。
「ほら、火だ」
「ありがと」
女は、恭平の差し出したマッチの炎から、煙草に火を移すと、美味《うま》そうに深々と喫った。
「酔《ラリ》った後は、煙草がまずいんだけど、今日は特別に美味いわ」
女はすでに衣服をつけていた。シャツウェストのブラウスにミディスカートを穿《は》いていたために、先刻起きぬけにちらりと見た発達した肢体が隠されて、稚《おさな》い表情だけが強調されているようだ。まだ女子高生かもしれない。
「きみとはどこで知り合ったんだっけな」
恭平は、記憶を追ったが、おもいだせない。
「ジョウジ(吉祥寺《きちじようじ》)の喫茶店《サテン》よ。スナックまわってるうちに、悪乗りしちゃって、こんな所まで従《つ》いて来ちゃった」
女は、いたずらを見つけられた子供のように、ちろと舌を出した。そんな表情は驚くほど稚い。とても行きずりの男たちと消火剤遊びをやるような女には見えない。
「そうか、ジョウジのサテンでね、あんた軟派のスケバンか?」
「ふふ、そう見える?」
女はいたずらっぽく笑った。笑うと右頬の下に笑くぼが刻まれて愛くるしい。その笑いが清潔である。恭平は、彼女と顔を向かい合わせているのが、眩《まぶ》しくなった。
――おれは、この女と昨夜、本当に交わったのだろうか?――
交わったようでもあり、そうでないような気もした。白い泡の中で、だれがだれだかわからぬまま、抱き合った。パートナーも何度か代わった。泡にまみれて、相手はいずれも人魚のようにとらえどころがなく、鱗《うろこ》のような感触を残して逃れ去って行った。
泡に隠されていたうえに、薬の効果で、意識も正常ではなかった。こんな素晴らしい獲物を自分の網の中に入れながら、白い泡の下に逃がしてしまったとしたら。
恭平は、先刻、無造作に踏みつけた女の足の弾力をおもいだした。肉の実った健康な弾力であった。こんな上質の相手には、この荒《すさ》んだ生活の中では、今後絶対にめぐり逢《あ》えないにちがいない。
「ぼくは郡恭平、きみの名は何というの?」
恭平は、追いすがるように尋ねた。彼女は昨夜吉祥寺の喫茶店で会ったという。だがその辺の記憶がどうもぼやけている。
最後に寄った深夜スナックでハイミナールを食べた。苦いが、よく噛《か》んで食うほうが、効くのである。最近は、クスリがなかなか手に入らない。薬屋が未成年者には売ってくれない。
一日をクスリ探しで過ごす。クスリを探して、全国フーテン旅行をする者もある。目薬や鎮痛剤を代用したり、ヘアトニックを飲む者すらいる。
ハイミナールは、彼らにとって貴重品だった。そのクスリに昨夜久しぶりにありついた。仲間と分け合って、快く酔った。なにかに酔わなければ、どうにもならないような気分でもあった。
この女とは、そのあたりで知り合ったらしい。いっしょにダンモ(モダンジャズ)を踊ったような気もする。もし彼女が吉祥寺のジャズ喫茶にたむろしていたのであれば、都心から移動して来た深夜族かもしれない。
最近は、フーテンやヒッピーめいた若者たちの巣が新宿から中野、荻窪《おぎくぼ》、吉祥寺、下北沢、自由が丘などの郊外≠ノ移ってきている。それも本物のフーテンではなく、あくまでもフーテンを気取った疑似《ぎじ》フーテン、似非《えせ》ヒッピーである。
彼らの内訳は、大学生、高校浪人、同じくそれの中退組、家出《ヤサグレ》少年少女、自称モデル、自称デザイナー、自称ジャーナリスト、不良女学生《スケバン》、前衛芸術家、カメラマン志望、文学青年、サーキット族、作曲家やテレビタレント、俳優のなり損ない等々、種々雑多である。
彼らはなによりも格好《ポーズ》を気にする。世の中のためになんの建設も生産もしないが、格好のためには、命をかけるような連中が多い。
彼らが新宿や六本木や原宿へ集まったのも、格好をつけるためであった。ヒッピーやフーテンビートを気取ったのも格好のためである。だが、新宿や原宿は若者の町(深夜の)としてあまりにも有名になりすぎた。それこそ猫も杓子《しやくし》も新宿へ集まって来た。
それは先住民族をもって自負する彼らにしてみれば、まことにおもしろくない。猫や杓子がいては、格好が悪いのだ。こうして彼らは、その格好を維持するために、郊外≠ヨ向かって、民族の移動≠はじめたのである。
一見、種々雑多のような彼らであったが、大きな共通項があった。それは定職がないということである。就職や就学の機会はあっても、しようとしなかった。いったん会社や学校へ入った者も途中から抜け出した。それは世の中からの脱落《ドロツプアウト》以外のなにものでもない。要するにまじめに働いたり学んだりできない怠け者が、同類を求めて吹きだまってきたにすぎないのだが、彼らはそれを既成社会の道徳、機構、人間の画一化に対する抵抗と気取っていた。
「おれたち若者になにがあるのか?」と虚無的に構えて(それも格好)、何かを得るための努力もせずに薬に酔い、モダンビートとセックスに耽《ふけ》り、スピードとたわむれた。
生産的なことはなにもしない。明日に備える必要はない。ただ、現在だけを押し流していればよい。だが、これらの若者にも、もう少し前までは、「本物」がいた。彼らは徹底的に世俗に反抗し、所詮《しよせん》、社会全体を敵にまわして勝ち目がないと悟ると、絶海の孤島や深山の奥に自分らのユートピアを探して、都会から去って行った。
残ったのは、反世俗という格好をつけた最も世俗的な連中であった。彼らはいずれも都内や近郊に中流以上の家があった。親、きょうだいといっしょに暮らすのを拒否しても、帰りたくなったらいつでも帰れる。
中には、自宅から通って来る者もある。コインロッカーで変装(ヒッピーやフーテンのユニホーム≠ノ着がえる)すると、インスタントヒッピーとなって、大都会の孤独をかこち、日本のアウトサイダーを気取ることができる。
彼らが本当にアウトサイダーならば、なにも芸術家やジャーナリストなどをポーズする必要はまったくない。彼らのポーズには自由人≠ニいう名前の最も世俗的な職業に対する憧《あこが》れがあり、アンチ世俗や超俗の姿勢が偽物であることを露わしていた。
この女も、その一人だろうと恭平はおもった。
「名前なんかどうだっていいじゃないの」
女は、はすっぱに笑った。
「格好つけんなよ、あんたが気にいったんだ。教えてくれたっていいだろう」
「もう二度と会わないかもしれないのよ」
「また会いたいな」
「案外、センチメンタルなこと言うじゃない」
「おれはもともとセンチメンタルなのさ。そうでなければ、こんな所で一人暮らしはしていない」
「マンションの一人暮らし、けっこうなご身分らしいわね」
「これがけっこうな身分かね、親から見捨てられた態《てい》のいい孤児さ」
「あなた孤児なの。それじゃあ、私と同類だわ」
恭平の孤児という言葉に共感をおぼえたらしい。女は少し関心をもった目をむけた。
「親はいないのかい?」
「いないも同然よ」
「おれと同じだな。遠足に熊をもっていってから、おれのほうから親を勘当したのさ」
「子供が親を勘当できるの? それより、その熊って何のことなの?」
恭平は、自分の心に刻みつけられた怨《うら》みを話した。
「そんなことがあったの。あなたも可哀想な人なのね」
女は、同情的な視線を恭平に向けた。
「きみの話を聞かせてくれよ」
「私のほうは月並みよ。私の母は二号なの。父親は……ああ、あんなの汚らわしいオスだわ。母は、そのオスに仕える性《セツクス》の奴隷よ。だから、私、家を出たの、ヤサグレの新人よ」
「名前を教えてくれないか」
「朝枝路子《あさえだみちこ》、あさの木のえだ、みちは道路のろのほうよ」
「でもよう、きみのお母さんが、その二号さんになっているのは、きみが生まれる前からだろう。なんだって、いまになって急に家出したんだい?」
「妊娠したのよ、いい齢《とし》して、汚らわしいったら、ありゃしないわ」
朝枝路子は、いまにも唾《つば》を吐きそうにして、そこが他人の家だったことをおもいだして、危うくおもい止まった様子であった。
「そうか、それで昨夜おれたちに従いて来たんだな。これからどうするつもり?」
「べつになんのつもりもないわ。少しお金をもってきたから、それで当分やっていくわ」
「金がなくなったら?」
「わかんない。そんなに先のことまで考えていないもの」
「よかったら、ここに住まないか?」
恭平はおもいきって誘いをかけてみた。
「いてもいいの?」
「きみなら大歓迎さ」
「たすかるわ」
「じゃあ決まった」
恭平は手を差し出した。路子はその手を無造作に握った。こうして若い二人の同棲《どうせい》契約≠ヘしごくあっさりと結ばれたのである。
隣室から、ようやく寝足りた仲間たちが、もそもそ起き出して来る気配がした。
ニューヨーク市警第六刑事部管轄下にある二十五分署所属のケン・シュフタン刑事は、あまり気乗りしない足取りで、イーストハーレムの一角を歩いていた。気乗りはしないが、警戒の構えは解いていない。パトカーは住人を刺戟《しげき》するので、なるべく乗り入れない。
この町のことは、隅から隅まで知っているつもりのケンだが、ここへ入るときには、背中にも目をつけたようにして歩かなければならない。二人一組《ペアー》で行動するのが原則であるが、ケンは常に単独で動き、警部も黙認の形になっている。人間はたとえ仲間でも信用しないことにしているのだ。このイーストハーレムの大半の住人は、プエルトリコ人で、生活水準は黒人よりも低い。強い民族意識と貧困のために、教育をうけず、いつまでたっても英語が話せない。
顔なじみのケンが入っていっても、突き刺すような視線が射かけられてくる。彼らにとって刑事《デカ》は決して相和することのない敵なのである。
いまにも崩れ落ちそうな老朽アパートの鍾乳洞《しようにゆうどう》のような入口に二十歳前の男の子たちが群がっている。なにをするでもなく、所在なげに群がっている。アル中や麻薬中毒患者がボロのように転がっている。その周囲を小さな子供たちが落ち着きなく走りまわっている。彼らはケンに向けて、敵意と警戒をこめた目を集中した。ケンにだけでなく、外部から来る異分子には例外なく向ける視線である。彼らの中には拳銃《けんじゆう》を懐中に隠した者がいるかもしれない。それはニューヨークの最下層に閉じこめられ、どこにも出口をもたない者の絶望と屈折した怒りともいえた。
彼らが成人に達すると、前科のない者がほとんどいなくなるといわれるほどの、ニューヨークの犯罪予備軍なのである。
シカゴのギャングは、マフィアを中心とした組織的なもので、かたぎの人間には手を出さないが、ニューヨークではチンピラが主体で、もっぱら一般市民がカモになる。
実際、ここではいつ背後から襲われるかわからない。彼らはなんの理由もなく突如襲いかかってくる。住人同士すら信用し合っていない。スラム特有の社会からこぼれ落ちた者同士が身を寄せ合うぬくもりなどは露ほどもなく、ニューヨークという巨大な文明都市からはみ出した荒れて乾いた人間の心が集まっているだけである。一人一人がみな距離をもっている。
セントラル公園をニューヨークのはらわたに、ハーレムを恥部にたとえる人がいるが、シュフタンは、ここをニューヨークの排泄場《ガーベツジ・ダンプ》≠セとおもっている。ニューヨークが、その巨大できらびやかな物質文明の爛熟《らんじゆく》の化粧を施すために排泄《はいせつ》した矛盾が、この一角に捨てられたのだ。
シュフタンは、ハーレムが嫌いだ。それでいて、ハーレムの悪口を言う者があるとむしょうに腹が立ってくる。この町に住んだ者でなければ、出口のない暗所に閉じこめられた絶望感はわからないのだ。ありあまるエネルギーをかかえながら、行き場所がない。一か月の家賃五十ドルの家の中は、眠るためだけの場所であって、昼間いる所ではない。学校へも行かない、職もない、いきおい彼らのたむろするのは、狭い裏通りになる。そこしか彼らの居場所はないのだ。そこから脱出するためには、犯罪者になるか、戦争へ行くしかない。
ケン・シュフタンもかつてそこの住人であったから、そのことがよくわかるのである。家から追い出され、わずかに日の射しこむ場所を追って移動する。夏は逆に日陰を追う。そのうちにかっぱらいをおぼえるようになる。ローラースケートで故意に物売りの屋台に突っ込み、商品を街路にぶち撒《ま》ける。商人が怒って追いかけて来る隙に仲間たちが品物を取り込む。時々迷いこんで来る観光客などは、いいカモだった。フィルムを入れてないカメラで、撮影した振りをして、金をせびる。財布を出したときに、さっとそれを引ったくって横丁へ逃げこむ。
隙さえあれば、近所の家に忍びこむ。仲間のものでも遠慮なく盗む。年ごろの女の子のいる家では、二重シリンダー錠を取り付けたうえに、内掛《ラツチ》けを付け、さらにドアチェーンを備える。実に四重の構えを施すのだ。どんなに厳重な鍵《かぎ》を取りつけても留守とわかれば、必ず破られてしまう。
この人間不信のスラムで十七、八まで過ごすと、もういっぱしの悪《わる》になっている。ケンはここへ来ると、自分の過去の最も醜い姿を見せつけられるようで、いやだった。だが、そこが自分の出生地であることはまちがいない。そこに閉じこめられたことのない者が、貶《けな》すと腹が立つのである。
うす暗い路地に風が走り抜けている。饐《す》えた食物や、人間の排泄物のにおいを集めた臭い風だ。それがハーレムから噴き出る瘴気《しようき》のようにケンに吹きつけてくる。その風に乗って紙くずが舞っている。靴先にまといついたその紙くずの一片を振りはらおうとして見るともなく目を向けると、なにかのチラシらしい。
ケンは取り上げて、文字を読んだ。
――|週  末《ウイークエンド・》  |奉  仕  会《シークレツトサービス・メンバーシツプ》、当方ハンサムで健康な黒人男性多数取り揃えております。あなたの週末を楽しくするためにどのようなご命令にも従います。表《ヘツド》、裏《テイル》、フランス語会話、ポラロイドン、調教師《トレイナー》、家庭教師、女学生、その他、いかなるリクエストにも応じる用意があります。人種不問、秘密厳守――
ケンは、唾《つば》を吐いて、チラシを捨てた。アングラのセックスアルバイトの広告である。表とは普通のセックス、裏とはホモセクシュアル、フランス語会話とは口腔《こうくう》セックス、ポラロイドンは性写真愛好者に被写体提供、調教師はサド、家庭教師はマゾ、女学生はレズビアンの隠語である。
ハーレムはこの種の破廉恥なセックスアルバイターの供給源でもある。
この他にも、夫婦交換の斡旋《あつせん》、下着|蒐集《しゆうしゆう》エージェント、時間決め、日数決めのセックスメート申し込みなど、まさにアメリカの恥部のオンパレードといったおもむきがある。
ケンは、これらのチラシを見る度に、ニューヨークもここまで堕《お》ちたかとおもう。これらのアングラアルバイトが成り立っているということは、それだけ需要があることをしめすものだ。そして、客はほとんどが白人なのである。昼間や公けの場所では常識的な社会人のマスクをつけている彼らが、マスクを取ったとき、一匹の性の獣となって、破廉恥な歓楽を購《あがな》う。機械文明の刺戟とストレスに麻痺《まひ》して、彼らはもはや正常なセックスでは満足しなくなっている。
そこにニューヨークの、いやアメリカの奥深い病根の一つがある。
ハーレムの東南隅一一〇ストリートから一三〇ストリートのあたりを東《イースト》へ行くと、スパニッシュハーレムの中心地帯になる。ケンの探す家は一二三ストリートのアパートだった。ようやく該当番地のアパートの前に来た。
入口階段の奥に暗渠《あんきよ》のような奥が見える。壁は隙間がないほど落書きで塗りつぶされている。ペンキ、マジックインキ、スプレイのラッカーなどでおおむねはセックスに関する卑猥《ひわい》なものである。反戦スローガンや政府批判の落書きが少し混じっているのが、異質な感じだ。
入口にアフロヘアの若者と、数人の子供が虚《うつ》ろな目を向けている。子供たちはいずれも腹がふくれている。この贅肉《ぜいにく》過多で半身不随になったニューヨークで、悪性栄養失調《マラスムス》に陥っている。
「ジョニー・ヘイワードがここに住んでいたはずだが」
ケンは、アフロヘアの若者に話しかけた。どうせ管理人などという気のきいたものはいないとおもった。
「知らねえな」
彼は、噛《か》んでいたチューインガムを吐き捨てながら言った。
「そうか、知らねえのか、おまえの家《ヤサ》はどこだ?」
ケンは、声にドスをきかせて言った。
「おれのヤサがあんたとなんの関係があるんだ?」
「ヤサはどこだって聞いてるんだ」
どうせ叩《たた》けば埃《ほこり》の出るチンピラである。刑事に家を探られると都合の悪いものを、たいてい一つや二つはかかえている。この界隈《かいわい》のチンピラは、警察に自分の塒《ねぐら》を探られるのを極端に嫌う。
「わかったよ、おれはつい最近こっちへ来たんだ。よく知らねえ、このアパートのマリオに聞いてみな」
「マリオ?」
「一階の八号室だ。やつがここのドアボスだ」
ケンはアフロヘアを放すと、アパートの中へ入った。暗い。外から来ると、少し目を馴《な》らさなければ、なにも見えない。どこかの部屋からつけっぱなしのテレビの音が流れてくる。
目がようやく馴れてきた。階段を半|階《フロア》ほど上ったところが一階である。饐《す》えたような空気が澱《よど》んでいる。天井に電球のないシャンデリアの形骸《けいがい》が吊《つ》り下がっている。ちょっとした地震でもあれば、いまにも落ちてきそうな感じである。ケンは、その下を避けて通った。
ドアにネームカードやルームナンバーなどは出ていない。部屋の中からはみ出したガラクタが廊下のいたる所を塞《ふさ》いでいる。半ドアの家があった。中から猛烈なボリュームでモダンビートのジャズが漏れている。テレビをつけっぱなしにしているのは、この家らしい。
ケンは、半ドアの隙間からどなった。
「マリオの部屋はどこか教えてくれ」
室内に人の動く気配があった。しかしいっこうに戸口に出て来る様子がない。明らかにこちらの声が届いているのに、無視しているのである。
ケンは、同じ言葉を繰り返した。ようやく奥から中年の肥《ふと》った女が、猜疑《さいぎ》をこめた目を覗《のぞ》かせた。
「うるさいわねえ、私がマリオだけど、あんただれなのさ」
「あんたがマリオか、実はちょっと聞きたいことがある」
男を予想していたケンは、相手が圧倒的なボリュームをもった中年女だったので、構えを改めて対《むか》い合った。マリオはケンの示したバッジに少したじろいだ様子だったが、直ちに立ちなおって、
「警察が、私に何の用さね」
とドアのかげから警戒の視線を向けた。ハーレムでは警官も信用しない。いや警官だからこそ信用しないのである。警察はいつも金持と権力の味方で、弱い者や貧困者を折あらば追い出そうとしていると信じこんでいる。
ケン自身そのようにおもわれてもしかたがないことを認めている。ニューヨーク市警の腐敗は何度|剔抉《てつけつ》されても、底深い病蝕《びようしよく》の根が、すぐに新たな膿《うみ》を蓄える。警察が完全無欠な健康体であれば、警察が警察を見張る「内務監査部《シユーフライ》」などは必要ないはずであった。
警察だけでなく、ニューヨークという街全体が金持の味方だった。ここは金持だけに微笑む街なのである。金持だけが人間として遇され、金のない者は、ゴミよりひどい扱いを受ける。その最もよい証拠がハーレムである。
セントラルパークの西には、ハーレムとは対照的な「人間の住む町」がある。ゆったりした緑の芝生を敷きつめた中に、デラックスなアパートが立ち並んでいる。季節の花が咲き乱れ、ここではハーレムの住人三十人を養える食費を一匹のペットの餌代にあてている。
ここの住人は、決して一〇〇ストリートから北へは行かない。彼らにとって一〇〇ストリート以北は、ニューヨークであってニューヨークではないのだ。石を投げれば届くような距離にこの世の天国と地獄が並存している。
「ちょっと中へ入れてもらうぜ」
ケンは立ちふさがるマリオを押しのけるようにして、ドアの内側へ強引に入った。ベッド、食卓セット、冷蔵庫、テレビ、それだけである。
「いったい、何を聞きたいんだね」
マリオは、ケンの侵入に対してはっきりと怒りを現わした。
「その前に、あのクレージィテレビをなんとかしてくれないか。よく近所から文句が出ないな」
ケンは、テレビの方を指さした。
「もっと迷惑になることを、みんな平気でやってるよ」
マリオは言い返しながらも、テレビを消して、さあ用は何だと言わんばかりに、敵意をこめた視線をケンに当てた。
「このアパートに、ジョニー・ヘイワードが住んでいたはずだが」
「いたよ、もっともいまは旅行中だけど」
マリオは意外にあっさりと言った。
「ジョニーは旅先の日本で死んだ。家族はいないのか?」
「ジョニーが日本で死んだって? 本当なの」
マリオは、さすがにびっくりしたらしい。
「そうだ、日本から遺体を引き取るように言ってきている」
「おやじさんがいたけど、三か月前に交通事故で死んじまったよ。まあ、これ以上生きていても、べつにおもしろいことはなかったろうね」
「他に身寄りの者はいないのか」
「いないとおもうよ。あまり詳しく知らないけれどね」
「あんたはこのアパートの管理人《ドアボス》か」
「そうだよ、こんなぼろアパート、だれも家賃《レント》をろくに入れやしない。それを一軒一軒取り立てるのは、大仕事さね。こんな部屋代をフリーにしてもらったぐらいじゃとてもあわないね」
「ジョニーと父親の職業は何だったんだ?」
「ジョニーはどこかのトラックの運転手。父親はアル中で息子の稼ぎにぶら下って毎日のんだくれていた。そのくせ詩なんか口《くち》遊んでインテリ臭い爺《じじい》だったよ。私はあんまりつき合いがなかった」
「あんたドアボスなんだろう」
「レントを取り立てるのが、私の役目さ。どんな商売をやっているか、私の知ったことじゃないよ」
「ヘイワード父子は、いつごろからここにいたんだ?」
「ここの連中は、みんな古いよ、なにしろレントが安いからね。そうさね、十五年ぐらいかな」
「その前は、どこに住んでいたんだ?」
「知るもんか、もともとあの父子は人間ぎらいで、近所のだれともつき合わなかったからね」
「日本へ何しに行くとか言ってなかったか」
「ああ、変なこと言ってたね」
このときマリオに初めてかすかな反応が見られた。
「変なこと?」
「日本のキスミーに行くとか」
「キスミーだと?」
「たしか、そんなふうに聞いたよ」
「いったい何のことだ」
「私が知るはずがないだろう。日本人の名前か、土地の名前じゃないの。日本には変な名前が多いからね」
「あんたに言ったのはそれだけかい?」
「それだけだよ。可愛げのないやつで、土産を買ってくるとも言わなかったよ。もっとも死んじまっちゃ、土産どころじゃないけどねえ。それでいったいなぜ死んだんだい?」
「殺されたんだ」
「殺された!」
マリオは口をポカンと開けた。
「日本の警察に返事をしてやらなければならない。ジョニーの部屋を見せてもらうよ」
「なんで殺されたんだい。殺されたのは、トウキョウかい? なんせトウキョウは物騒な所らしいからね」
マリオは急に旺盛《おうせい》な弥次馬的好奇心をかき立てられたらしい。ケンはあまり取り合わずにヘイワード父子の住んでいた部屋に案内させた。
マリオの所と同じ様な暗く狭くるしい部屋だった。窓の向かい側には隣のアパートの剥《む》きだしの壁が、目隠しをするように立ちはだかっている。テレビ、冷蔵庫、ベッド、ワードローブ、椅子が二脚、ベッドヘッドの小テーブルに小さなブックラックがあって、数冊の本が入っている。それだけだった。
冷蔵庫を開けると、なにも入っていない。電気は切ってある。部屋の中はきれいにかたづけられてある。長途《ちようと》の旅へ出るので、いちおう整理していったのであろう。
だが、ケンは空になった冷蔵庫を見て、部屋の主が、ここへは帰って来ないつもりで旅立ったような気がした。残した道具は、がらくたばかりである。
「レントはちゃんと払っていったのか?」
「その点は几帳面《きちようめん》な男で、一度も催促したことがないよ」
「いつまで払ってあるんだ?」
「今月分まで払ってあるよ」
「それじゃあまだ半月ほど権利が残っているな。警察がいいというまで、この部屋に手をつけるな」
「今月が終わったら、どうするんだよ」
「いいから、指示があるまで、手をつけるな」
「ふん、警察がレントを払ってくれるのかい」
「心配するな、こんなごみため、新しい借り手はなかなかつかないよ」
「ごみためで悪かったね」
マリオの悪態を聞き流して、ケンはアパートを出た。そのままにしておけと命じたのは、警官としての習性から言っただけで、深い考えがあったわけではない。もともと上司の命令で、ハーレム生まれの自分がその役を押しつけられただけで、熱意はない。
黒人の一人や二人が他国で死のうと生きようとどうということはないではないかという肚《はら》がある。もともとニューヨークは人間が多過ぎるのだ。ハドソン川やイーストリバーに一日一人は死体が浮かぶという土地柄である。
ケンが調べに来たのも、日本の警察に対する儀礼であった。他国の警察が、熱心に捜査しているのに、まさか被害者の本国の警察から、適当なところで切り上げてくれとは言えない。
「これがハーレム川あたりに死体が浮かび上がったんなら、過失による転落|溺死《できし》でかたづけられるのにな」
ケンは、そんな乱暴なことを考えた。ケンは、なぜかハーレム川の暗い濁った水面を見たくなった。
被害者の現住所ではさっぱりラチがあかないので、役所の戸籍から身寄りを探した。旅券発給局から、ジョニー・ヘイワードに発行された旅券の調査も行なわれていた。日本への渡航目的は観光、ビザもその目的で取得している。
ニューヨーク市民の出生、死亡、婚姻の届け出を一括管理してる市中央登録センターを当たり、ジョニー・ヘイワードは、一九五〇年十月ニューヨーク東一三九ストリートで出生となっている。
ジョニーの父、ウイルシャー・ヘイワードは、アメリカ陸軍兵士として太平洋戦争に出征し、一九四九年九月復員して除隊、同年十二月テレサ・ノーウッドと結婚、翌年十月にジョニーが生まれている。その後一九五八年十月、妻のテレサが病死した。
以上が、ジョニー・ヘイワードの戸籍関係である。ジョニーの身寄りは、すべて死んでいた。
ニューヨーク市警では、以上の調査結果を、日本へ送った。市警はこれで自分たちの責任は果たしたとおもっていた。あとは属地法に基づいて、日本の警察がうまくやってくれるだろう。日本の警察の優秀なことは、こちらにも聞こえている。黒人一人が異国で死んだところで、こちらは痛くもかゆくもない。
ケン・シュフタンも、彼に被害者の身寄り探しを命じた二十五分署の上司も、「終わったこと」として忘れていた。ところがまた日本から再度調査の依頼がもたらされた。
「犯人の手がかりまったくなし。ついては被害者の住所地を洗い、犯人を推定または特定させる参考資料があればご送付あるいはご連絡|乞《こ》う」
という依頼が、|ICPO《インターポール》を経由して二十五分署に伝えられた。
「日本の警察は、しつこいな」
ケンは仲間と話し合った。
「アメリカ人がやられたので、日本の面子《メンツ》がかかってるんだろう」
「まさかありがた迷惑とも言えんからな」
「とにかくアメリカ市民が殺されたんだ」
「トウキョウなんて、いやな所で死にやがったもんだな」
ケンは、少し前日本人がニューヨークで強盗に殺された事件をおもいだした。あのときはさいわいにも目撃者がいたので、犯人をスピード逮捕できた。
東京警視庁がその返礼のつもりで躍起に捜査しているとすれば、まことにありがた迷惑と言わざるを得ない。
「ご苦労だが、もう一度やつのヤサを当たってみてくれ」
上司は気の毒げに言った。一二三ストリートはケンの|なわばり《テリトリー》なので結局彼が動く羽目になる。
「なにかないか探せといわれても、なにも残っていませんぜ。がらくたベッドと椅子と、空っぽの冷蔵庫、探したくとも、探しようがありませんよ」
「がらくたをもう一度いじくってみてくれ。それから、日本へ行く前に訪問客《ビジター》が来たか、ジョニーの職場や立ち回り先もいちおう聞き込みをかけて、どんな連中とつきあっていたか調べてくれ」
本来ならば、日本から最初の連絡があった時点で行なうべき捜査であった。それを日本で殺されたのだから、日本の警察がやってくれるだろうと、怠慢をきめこんでいた。それに、毎日凶悪犯罪が続発するニューヨークでは、他国で死んだ人間の面倒まで見きれなかった。
ケンは、重い腰を上げてまた一二三ストリートへ出かけた。だが、前回の調べ以上のものはなにも出なかった。訪問客はなく、生前の立ち回り先に聞き込みをしても、怪しい人間は浮かび上がらなかった。
今度はケンがサボタージュしたわけではない。日本警察の熱意に応《こた》えるために、熱心に嗅《か》ぎまわったのだが、なにも出てこなかったのである。
徒労感に打ちのめされて、ケンが上司に捜査の収穫がなかったことを報告しようとしたとき、忘れていたことをおもいだした。
それはマリオの言った言葉である。
「日本のキスミーに行く」とジョニーは出発直前にマリオに言ったそうである。
「キスミー」とは何かと問うと、彼女は、
「日本人か土地の名前だろう」と答えたのだ。
これは重大な手がかりである。こんな重要なデータを忘れていたのは、やはり心の底に、怠慢があった証拠だろう。ケンは直ちに上司に報告した。
「キスミー」という謎のキイワードは、直ちに日本の警察庁へ送られた。
ニューヨーク市警から送られてきた「キスミー」という謎のキイワードは、捜査本部を困惑させた。
被害者は、「日本のキスミーに行く」と言って旅立ったそうだ。最も単純に考えられるのは、人名か土地の名前である。
まず人名と仮定すれば、どのような名字にあてはまるか。
――木須見、城住、木住、木隅、貴隅、久須美、久住――
その他の字をあてはめることによってさらにいくつかの姓が考えられる。だがいずれも、あまりポピュラーではない名前だった。
次に地名としては、キスミーに該当するものは、日本の地名には見当たらない。
表音が、やや似通ったものとして、
岸《きし》 見《み》――山口県
木《き》 次《すき》――島根県
喜須来《きすき》――愛媛県
衣《き》 摺《ずり》――大阪府
久《く》 住《ずみ》――京都府
久《く》 住《ずみ》――千葉県
の六か所ぐらいのものである。日本地名索引に載っていないような小さな村や集落に、「キスミー」に該当する場所があるかもしれないが、捜査本部がそれを探し出すのは、不可能であった。
それに、被害者が地名として「日本のキスミーに行く」と言ったのであれば、ある程度の範囲をもったブロックの呼称か、多少知られた観光地と考えられる。
捜査本部は、自信のないまま、六つの土地の所轄警察に、ジョニー・ヘイワードなるアメリカ人となんらかの関係をもつ人物、あるいは物件がないか照会した。
問い合わせる側も、尋ねるべき対象がはっきりしていない。このような曖昧《あいまい》な照会では、聞かれた方も当惑したにちがいない。関係者、あるいは物件の有無と言われても、どのような関係かわからないのである。
案の定、六つの土地の警察からは「該当者、および物件なし」の回答が戻ってきた。それはあらかじめ予測していたことであった。もともと、「キスミー」を、それらの土地に結びつけるのが、強引であった。
キイワード人名説が、しだいに有力になってきた。だが、被害者の身辺に該当するような人物は、いくら洗っても浮かび上がらない。
社名やレストラン、バー、喫茶店の名前ではないかという意見も出された。これならば、そのままあてはまる有名な化粧品会社がある。だが、こちらの会社と被害者の間にはいかなる関連も発見されなかった。
その他に「キスミー」という店名のレストラン、バー、喫茶店のたぐいは東京およびその周辺、大阪、神戸、京都、その他日本の大都市には存在しなかった。
完全にお手上げだった。せっかくニューヨークからもたらされた唯一の手がかりも、ここでプツンと断ち切られたのである。
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不倫の臭跡
小山田《おやまだ》武夫は、最近妻の文枝に漠然たる疑惑を抱いていた。彼女の身辺に自分以外の男の体臭を感じるのである。それも、身体のどこかに明らかな不倫の痕跡《こんせき》を認めたのでもなければ、男の存在をしめす確証を見つけたわけでもない。
細かに分析すると、不純物はなにも残らない。だが全体に違和感がからみついているのだ。人間ドックで精密検査をしてもなんら異常所見のない者が、不健康な感じを払拭《ふつしよく》できないのに似ている。
夫婦で話し合っているときなど、時々妻の返答が一拍遅れることがある。そんなとき、彼女の実体がどこか他の場所へ抜け出していて、彼のそばにいるのは脱け殻のような気がする。
夫のそばにいながら、妻の実体はどこか他の男の許《もと》に遊んでいるのである。いわゆる「心ここにあらず」という状態が、潜在意識に訴える瞬間映像広告《サブリミナルアド》のように挿入されているためにはっきりと捉《とら》えられない。
小山田に呼ばれて、はっと我に返ったときの、彼女のさりげなくとりつくろった態度は、巧妙であり、少しも破綻《ボロ》を見せない。だが巧妙であればあるほど、小山田はそこに作為を感じる。
むしろ、多少の破綻を見せたほうが、自然なのである。少しもつけこまれる隙を見せないように、夫の前で妻が武装している姿は、かえって不自然であった。それは夫に知られてはならない秘密をかかえている証拠ともとれる。
小山田は、妻を愛している。どこへ出しても恥ずかしくない妻だとおもっている。実際、夫婦揃って外出すると、すれちがう男たちが振りかえった。彼らの目の底には露骨な羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》があった。自分には過ぎた妻だとおもった。
それだけに、世間の男たちがみな文枝を狙《ねら》っているように見えて、不安でならない。自分がちょっとでも目を放すと、たちまち飢えた男たちに引かれていくような気がした。妻の肉体をいつも自分の実質で充填《じゆうてん》していなければ、心配だった。
小山田が健康なときは、出勤前に妻に挑んだ。朝、妻の身体の中に、一夜の内に蓄えておいたスタミナを射《う》ち込んでおくと、他の男たちに対して封印を施したような気がするのである。彼女の体内にプールされた自分のスタミナが他の男から妻を守る禁札≠ニなる。
体力が不足で朝の営みを完了できないときでも接触だけは必ずする。これで今日は妻がすでに処女≠ナはないとおもうと、安心できるのである。
そのための無理だけが原因ではないが、小山田は胸を冒された。肺尖部《はいせんぶ》に小さな病巣が発見され、二年間の療養を言い渡された。小さな会社だったので、保障は社会保険しかない。月給は半年で打ち切られた。たちまち生活に詰まった。
一家の生計と、彼の療養費を支えるために文枝が働きに出た。拘束時間が少なくて、収入のよい臨時働きとなると、夜の仕事しかなかった。
文枝は新聞広告で見つけた『カトレア』という銀座の二流所のバーに応募して、その日のうちに話を決めてきた。一目で文枝の上質なのを見抜いたバーの経営者は、破格に有利な条件を提示してくれた。
バーと聞いて、難色をしめした小山田も、自分のこれまでの数倍の月収の前に沈黙せざるを得なかった。早く恢復《かいふく》するためにはいい薬を自前で服《の》まなければならない。栄養もつけなければならない。金が要《い》った。
妻は、結局自分のために、進んで夜の商売へ飛び込んでくれたのである。
「このごろの夜の仕事の女性は、以前のようにハングリービジネスめいたところは全然ないのよ。手っ取り早く、より大きな収入の欲しい人が、気軽に入ってくるわ。OLや女子大生のアルバイトもいるし、奥さんも大勢いるのよ。私には、あなた以外目に入らないんだから、どんな所で働いても、安心していてちょうだい。それよりも少しも早く体をなおしてね」
文枝はそう言って夜の勤めに出た。小山田は半年サナトリウムに入って、退院した。若くて体力があったために、当初のみたてより早く軽快し、自宅療養を許されたのである。だが、まだ当分仕事はできない。文枝の働きに寄りかからなければならなかった。
「なに言ってんのよ、私たち夫婦じゃないの。夫が病んだとき、妻が支えるのはあたりまえだわ。そんな他人行儀、いやよ」
しきりにすまながる小山田を彼女はにらんだ。わずか半年の間に妻は見ちがえるように美しくなっていた。もともと上等の素質が、職業的に磨かれて、よりいっそう洗練されたのである。
それが小山田には、自分一人が独占していた妻が、万人《パブリツク》に公開されたようでおもしろくなかった。以前は、野暮ったかったが、彼の好みの美しさと優しさがあった。家庭の中で独自に培われた手料理の味を失い、高級レストランの洗練された味になった。玄人《くろうと》の食通に舌つづみを打たせる味にはちがいなかったが、自分一人のために工夫され、調理された味ではなかった。金さえ出せばだれでも味わえる商業的に美々しい衣装をまとった味なのである。
彼がそのことを言うと、
「なに言ってんのよ、私はあなただけのものよ。あなたがもしそのように感じたのなら、それは、お客様用のマスクよ。あなたには、あなただけの私が、大切に保存《キープ》してあるのよ」
と文枝は笑ったが、その自分のためにキープしておいたはずの素顔すら、商業化されているようであった。わずか半年の間に、自分が丹精して培った花園に他人の鍬《くわ》が加えられていた。自分よりはるかに技巧的な、計算されたプロフェッショナルの鍬が。――
銀座の夜を張り通していくためには、それも止むを得ないことなのかもしれない。文枝はすでに小山田一人の妻ではなく、「銀座の女」として公開≠ウれたのである。そのために、小山田は危い命を救われた。現在、症状が軽快して、このように飢えもせずにいられるのは、みな妻のおかげである。
それは不甲斐《ふがい》ない夫として耐えなければならない税金かもしれない。
不愉快ではあったが、それだけならば耐えられる自信があった。それは、彼の妻と、公開された銀座の女との並存であった。窮地を切り抜けるための止むを得ない妥協である。
だが彼の妻の部分に、公開された領域が侵《はい》りこんで来た。侵略は容赦なく、確実に行なわれた。彼のためにキープされたささやかな花園がじりじりと侵された。
それも歯を食い縛って耐えたつもりであった。病いが治癒《ちゆ》するまでの辛抱だ。そのときがくれば、いまの侵蝕など一気に駆逐《くちく》して、ふたたび自分だけの花園をよみがえらせてやる。そしてその花園にだれにも見せない美しい個性的な花を栽培するのだ。
その自信はあった。少なくとも公開された部分によって妻の領域が侵されている間は、税金は支払わなければならないのだ。その侵蝕に個性はない。マスクがいくら大きくなっても、素顔が死ぬことはない。素顔が一時的に隠されるにすぎない。
だが、仮面だとおもっていたものが、素顔になったとしたら。べつの素顔が古い素顔を被《おお》う。被われた素顔は、ついによみがえらないだろう。それは素顔の変質である。
小山田は、最近妻を侵している部分にべつの個性を感じるようになったのである。いつの間にかべつの男の鍬が、妻の体の中に新たな開拓の痕《あと》を刻みつけている。洗練された職業的な訓練ではなく、女の意志による変身≠ェ進んでいる。
――自分の妻から他の男の女に変わりつつある。もはや自分のための花園は死に、他の男の蒔《ま》いた種子が、新たな芽を吹き、べつの莟《つぼみ》を孕《はら》ませて、まったくべつの花を咲かせようとしている――
小山田は、その想像に慄然《りつぜん》となった。単なる妄想《もうそう》ではなかった。それは夫としての本能的な直感である。妻と二人の寝室の中にまでその男の足音が枕に響いてくる。
自分の疑惑を言っても、妻は笑いとばすだけである。そして次に世にも悲しげな顔をして、そんなに自分を信じられないのかと訴える。
べつの男の足音は、徐々に、確実に高くなってきた。妻の化粧や着るものに微妙な変化が現われた。身につける香水も変わってきた。それは営業用ではなく、ある特定の個人の好みに合わせている。
彼女は、これまで自分の体臭によく調和すると言って国産の香水を愛用していた。あるかなしかのひかえめな香りだったのが、舶来の、南国的な華やかで自己主張の強い香水を使うようになった。
持ち物にも小山田の知らないものが増えてきた。ロシア産の琥珀《こはく》のネックレスや、アメリカ産の「インデアンの涙」と呼ばれるブレスレット。小山田が問うと、客からもらったと答えたが、客の単純な贈り物としては高価すぎるようであった。
「銀座のお客はちがうのよ」と彼女は言ったが、小山田にはロシアのネックレスもアメリカのブレスレットも同一人物から贈られたもののような気がした。色合いや形状の好みが似通っているのである。
さらに、彼女は体の深部にこれまで夫婦の間になかった異物≠着けた。これまで彼らは行為の都度避妊具を使っていた。当然のことながら小山田が完全に健康を取り戻すまで、子供を産まないことに夫婦で申し合わせたのである。
それが、最近、文枝は性感が損なわれると主張して子宮リングを嵌《は》めた。小山田は、初めのうち、妻がそんなものを体に着けたことを知らなかった。営みの前にいつものように避妊具を装着しようとすると、彼女はもうそんな予防する必要はないと告げた。
小山田は、妻が自分に無断でそのような異物を着けたのが、不愉快であった。だがまだ当分の間避妊はつづけなければならない。妻が羞恥《しゆうち》に耐えて施した処置に異議は唱えられなかった。
小山田は、妻がそれを男のリクエストによって身に着けたにちがいないとおもった。避妊リングなどというものは、女が自分の一存で着けるものではない。必ず男の意志が働いているはずだ。彼はそのときはっきりと妻の不貞を悟ったのである。
だがそれも、動かぬ証拠ではなく、疑わしき状況≠ノすぎない。
どんなに疑わしくとも、証拠を握らないかぎり、どうすることもできない。自分は現在妻に養われている不甲斐ない男なのである。しかし養われている夫でも、盗まれた妻を取り戻すことはできる。蚕食《さんしよく》の範囲をできるだけ食い止めるために闘わなければならない。
小山田が、闘病中の乏しい体力を振り絞ってその闘いをはじめようとしたとき、妻は突如として行方を晦《くら》ましてしまった。
その夜、妻はとうとう帰宅しなかった。これまで不貞のにおいをしきりに発しながらも、これほどあからさまな仕打ちをしたことはなかった。それは小山田に対する挑戦ととれた。敵は、十分な戦力を蓄え、公然と宣戦したのである。仮面を脱いで、敵意に満ちた素顔を剥《む》き出したのだ。
一夜、眠らずに妻の帰りを待った小山田は、打ちのめされたおもいで朝を迎えた。夫の敗北を決定的にした残酷な朝であった。
これが相手の男にとっては、勝利の輝かしい朝にちがいない。とうとう夫の引力から断ち切った人妻の、満ち足りた性交渉と十分な眠りによって弾み立つような肌をまさぐりながら、勝利感を噛《か》みしめているだろう。
みじめだった。情けなく悔しかった。だが小山田はあきらめきれなかった。まだ彼女を取り返せるかもしれない。あるいは、非常に楽観的な可能性だが、他のよんどころない事情で帰れなくなったとも考えられる。店が遅くなって足を失い、店の同僚の家に泊めてもらったということもあるだろう。友人にひやかされて、電話一本もかけにくくなったのかもしれない。
そうだとすれば、朝になってから帰る可能性もある。早とちりして、妻に恥ずかしいおもいをさせてはならない。ホステスに夫(扶養している)がいるのは、なんのメリットにもならないのだ。文枝が彼の存在を隠しているわけではないが、小山田は妻の勤め先に対しては努めて彼女の背後に隠れるようにしている。
正午まで待ったが、文枝は帰って来なかった。もはやこれ以上待てなかった。小山田は妻の店のマダムの家のダイヤルを回した。
まだ眠っていたマダムを強引に起こしてもらった小山田は、妻が昨夜定時の看板に店を出たと聞いて、妻の裏切りが確定したのを悟った。
「昨夜は、なおみちゃんは定時に店を出ましたわ。いつもと比べて特に遅いという時間じゃなかったわね」
マダムは、まだ眠けの残っている声で答えた。なおみというのが妻の店名《げんじな》である。
「だれかといっしょに店を出ませんでしたか? 朋輩《ほうばい》とか、お客といっしょに」
「さあ、そこまでは気がつかなかったわね。でも、お客に誘われて、店が終わってから、どこかへ遊びに行くことはあるわよ」
「しかし、一晩じゅう遊ぶということはないでしょう?」
「それはまあ、お客といっしょにどこかへ泊まりでもしなければね」
と口をすべらせてから、マダムは自分の話している相手が店で使っているホステスの夫であることに気がついたらしい。このころから彼女の寝起きの朦朧《もうろう》たる意識が醒《さ》めてきた様子であった。
「あの、なおみちゃんは……いえ奥さん、まだお宅に帰らないんですか?」
マダムは言葉の調子を改めた。
「まだなんです。昨夜マダムにどこかへ寄り道するようなことは言わなかったでしょうか」
そんなことを他人に言っておくくらいなら、自分に連絡するはずであったが、小山田はわらにもすがるような気持でたずねた。
「べつになんにも聞いていませんでしたけどねえ」
マダムは、気の毒そうに言ってから、
「でも、まだこれから帰って来るかもしれませんわよ。もしかすると、出先から直接お店に出て来るかもしれないわ」
「そういう可能性もあるのですか?」
「勧められるままに、仲間の家へ泊まったのかもしれないわ。お宅はわりあい遠い方だったわね」
彼らの家は埼玉県との県境に近い都下K市の外れにある。都心から優に一時間はかかる。妻の勤めには不便であったが、小山田の健康のためにそこに留まったのである。
「ええ、しかしこれまで外泊したようなことはないのです」
「そんなに深刻に考える必要はないとおもうわ。とにかくもう少しお待ちになってみたら。そのうちにけろりとして出勤してくるわよ。そのときはすぐに私から連絡させますわ。旦那《だんな》様に心配かけてはいけないと、私からきつく叱《しか》っておきますから、どうかあんまりひどく責めないでください」
マダムは、小山田が妻を厳しく追及して、店の重要な戦力になっている優秀なホステスを失う羽目になるのを惧《おそ》れている様子であった。
だが、店の出勤タイムになっても、文枝は出て来なかった。連絡もない。
文枝は、その夜をさかいに失踪《しつそう》した。どこへ行ったのか、まったく消息を断ってしまった。交通事故や誘拐《ゆうかい》に遭《あ》った形跡もない。交通事故ならば、警察や救急病院からなんらかの連絡があってしかるべきである。また誘拐ならば必ず犯人がなにか言ってくるはずだった。
それがどこからもなんの連絡ももたらされなかった。
小山田は、妻の私物を検《しら》べた。これまで夫婦の間でも、たがいのプライバシーを尊重して相手の私物には手をつけなかったが、夫婦の一方が失踪したとなれば、べつである。
彼女の私物の中に不倫の相手の手がかりが残されているかもしれない。だが、そんな手がかりがないだけではなく、小山田は奇妙な事実を発見した。
文枝は、装身具や宝石類を全部残していた。例の琥珀《こはく》のネックレスや、「インデアンの涙」もあった。その他、好みの衣装もそっくりワードローブに吊《つ》るしてある。その日出勤したとき身につけていったもの以外は、全部、残してあったのである。
これは不可解だった。もし文枝が男としめし合わせて駆け落ちしたのであれば、自分の財産は一つ残らずもっていったはずだ。
――なにか突発の事情があって、急に駆け落ちすることになって、財産を持ち出す暇がなかったのだろうか?――
そうでなければ、男からもらったにちがいないネックレスとブレスレットだけはもっていったはずである。彼女はそれすら残した。
翌日、マダムが小山田を訪ねて来た。店としても彼女に急にやめられると困るのである。
「特に親しかった客は、いませんでしたか?」
小山田はたずねた。
「なおみちゃんは人気がありましてね、ひいきにしてくれるお客は多かったけれど、特別に親しかった人はいなかったようですわ」
いかにも夜の世界で鍛えあげたようなマダムは、艶《つや》っぽいが鋭い視線を家の中に注いだ。小山田が妻を隠したとでも疑っているような視線であった。
「店の友人の家に行ったのでもなかったのですね」
「お客には好かれていましたが、友達づき合いは悪かったわね。もっともそれは奥様ホステスの共通の傾向だけれど」
ここで小山田は新たな発見をした。それは週二回ほど文枝が店を定時に出たにもかかわらず帰宅して来るまでの間に二、三時間の空白の時間があったことである。文枝は、週二回ほど午前三時すぎに帰宅して来た。彼女は店が遅くなったと言い訳して、小山田もそれで納得していた。店が車を出してくれるというので、彼も安心していたのである。
「この商売は、お客しだいだから、お客が帰らないと私たちも帰れないのよ、ごめんなさいね」と謝まられると、もうなんにも言えなくなってしまう。
疑いをまったくもたなかったわけではないが、妻に養われている身でありながら、そんな嫉妬《しつと》を鎮めるための確認を店にするのが、ひどく惨《みじ》めにおもえた。
だが、いまマダムの話を聞くと、店はいつも定刻の午後十二時に閉めていたという。
「店を開けていたくても、警察がうるさいのよ。なおみちゃんはいつも閉店と同時に帰っていたけど」とマダムは言った。
銀座の店から、彼らの家まで、一時間あれば帰って来られる。車を飛ばせば、もっと短縮できよう。それを実は週二回、どこかで二、三時間の空白の時間をもっていた。彼女はその空白をどこでだれとともに過ごしていたのか?
小山田は、妻の捜索をはじめた。探し当てたところで、彼女が自分の許《もと》へ還《かえ》ってくれる保証はなかったが、取り返すための努力は、捨てたくなかった。小山田は、まだ心の隅で、妻を信じていたのである。
彼は、まず妻の相手の男を探し出そうとおもった。その男の許に彼女はいる。妻が自分の足跡を隠したつもりでいても、二人の不倫の痕跡《こんせき》はどこかに残っていないか?
――妻が遅く帰宅した夜は、男が近くまで送って来たかもしれない――
「車だ」
小山田は、一つの目標を見つけたとおもった。これまで店が車を出したという言い訳を信じていたのだが、定時に店を退けて、自分の都合≠ナ遅くなった彼女は、自分で車を探したはずである。帰りの遅い妻を心配して迎えに出るという彼を、彼女は、車で帰るのだから心配するなと押し止めた。深夜迎えに出るのは、せっかくよくなりかけている病気を、またぶりかえさせるおそれがあるとも言った。
しかし、いまからおもうと、あれは男に送られて来たので、夫に迎えに出られては、都合が悪かったのにちがいない。
もし男がマイカーで送って来たとすれば、どこかにその軌跡が残っていないだろうか? 小山田は早速聞き込みをはじめた。
聞き込みといっても、ただでさえも寂しい場末のこのあたりで、そんな遅い時間まで起きている者はほとんどいない。聞き込みの対象は限定されてくる。まずその時間に起きている人間を探し出すのが、先決問題であった。
だが、そんな人間はなかなかいなかった。付近で最も繁華な駅周辺も、終電が出た後は閑散としてしまう。まして彼の家は駅から少し離れた武蔵野の雑木林の散在する寂しい一角にある。同じ時間帯に付近をうろつきまわっても、だれにも出会わなかった。
小山田は、毎日深夜になると、自宅の周辺をうろつきまわった。それだけがいまの彼の仕事になった。一度、パトロール警官の職務質問に引っかかった。夢遊病者のようにさまよう彼の様子が、よほど奇異に映ったのであろう。警官は家まで送って来てからようやく得心した。
彼は警官に質《たず》ね返した。警官ならば、妻を送って来た車を見かけているかもしれないとおもったからである。
警官は、小山田から逆に奇妙な質問をされて面喰《めんくら》った。だが、警官にも心当たりはなかった。
ヒントは、べつの方角からもたらされた。妻の私物が店に残されたままなので、それを引き取りにカトレアへ行った帰途、小山田は勤め帰りの人々といっしょに家に向かって歩いていた。駅の近くの道路ぎわでなにかの工事をやっていて、折からの夕方の激しい交通をいちじるしく妨げていた。車の流れが渋滞し、その間を歩道からあふれ出た人々が縫うようにして歩いていた。運転者はみないらいらして、クラクションがあちこちで吠《ほ》え合っている。
前を行く二人連れのサラリーマン風態がこぼした。
「こんな時間に工事なんかはじめやがって」
「実際、いつもどこかで工事をやってるなあ」
「こんなラッシュ時を狙わずに、真夜中にやればいいんだよ。この間も家の近くで水道管工事があったが、真夜中にやったので、ほとんど影響をうけなかった」
「よほど急ぎの工事なんだろうな」
「それにしても通行人の迷惑をちっとも考えていない。もし工事のために交通事故にでも遭ったら工事の施工者に補償してもらいたいな」
彼らの愚痴を聞くともなく聞いていた小山田は、一か月ほど前、真夜中ふとのどの渇きをおぼえて水道をひねったとき、断水していたことがあったのをおもいだした。
――あのころ水道工事をしていたのか――
その瞬間、はっとおもい当たったことがある。サラリーマンの会話がヒントになって潜在していた一つの可能性におもい当たった。
――水道工事人が、見ていたかもしれない――
小山田は翌日、市の建設課水道管理事務所へ出かけて行って、一か月前に彼の家のある町域《ブロツク》で配水管の本管パイプ工事が行なわれていたことを確かめた。
彼はさらにその工事に携わった工事人を追った。K市の水道管理事務所から工事を請け負ったのは、市内の「岡本興業」という工事会社であった。
工事会社の事務所を訪ねた小山田は、責任者から、何人かの工事人の名前を聞き出した。小山田は執念深く彼らの工事現場や自宅へ出かけて行って、妻の写真をしめし、工事中にこのような女を送って来た車か、男を見かけなかったかとたずねた。
彼らは好奇の目を光らせたが、いずれも心当たりがないと答えた。ここでせっかくの手がかりも切れた。だが小山田はまだあきらめなかった。
工事人には正規の社員だけでなく、出稼ぎや臨時雇いがいるかもしれない。彼らの中に妻を見かけた者がいる可能性もある。小山田の住居地へ来た工事班の中にも臨時雇いは数人いた。だが彼らは渡り工事人で、いずれも工事が終わった後は、割がよい[#「よい」に傍点]仕事を求めてよそへ移っていた。その中の一人の消息がようやくつかめた。
小山田はわらにもすがるおもいで、その渡り工事人を訪ねて行った。
「この写真の女《ひと》が、あんたの奥さんねえ」
工事人は無遠慮な視線で写真と小山田を見比べた後、
「さあおぼえはねえな。それであんたの奥さんがどうかしなすったのか?」
と露骨な好奇の色を浮かべてたずねた。小山田が最小限に事情を話すと、
「逃げた女房ってわけだな。そいつはあんたもいろいろときつい話だね。それにしてもいい女じゃねえか、後を追いかける気持もわかるってもんだ」
と慰め顔になった。結局、なにも得るところがなく、小山田は気落ちしてそこを去りかけた。すると後方から追って来る者の気配があった。振り返ってみると、先刻の工事人だった。
「いまちょっとおもいだしたんだけどよ」
小山田に追い付いた彼は、一呼吸入れてから、「あんたの奥さんかどうか自信はないんだが、おれがあの作業場にいた、先月のいまごろ真夜中の三時ごろに一人の若い女が車から降りたのを見かけたことがあったよ」
「本当ですか」
初めて引っかかった手応《てごた》えに、小山田は体を堅くした。
「うん、すっかり忘れていたんだが、車から降り立って来たとき、あんまりきれいだったもんで狐が化けたんじゃねえかとおもった。もちろん暗い場所なので、顔形をはっきり見届けたわけじゃないが、作業灯の光の中に、白い顔がぼんやり浮かんで、ちょっと凄味《すごみ》があったな。着ているものも、素人《しろうと》のようじゃなかったよ、気をのまれてひやかしもしなかったけどよ」
「どんなものを着ていましたか?」
「うまく言えねえけど、スカートの上にもう一枚べつのスカートを穿《は》いたようなすごく格好のいい服だったな」
それは、文枝がパーティ用にあつらえたパネルドレスのことであろう。彼女の気に入りのドレスの一つであった。勤めに出た当初は和服を着ることが多かったのが、最近は洋服が多くなっていた。
それも、小山田には、妻が男と逢っている時間を少しでも多く稼ぎ出すために、着つけに手間のかかる和服を避けているようにおもえたのだ。
「そのとき、男はいっしょにいませんでしたか?」
「さあ、いなかったとおもうがね」
工事人はおぼろげな記憶を追う目をした。
「車の中に男は乗っていなかったのですか?」
「たしか、運転手だけだったな」
「どんな車から降りて来たのですか? マイカーですか、タクシーでしたか」
もしマイカーなら、運転手が文枝の不倫のパートナーということになる。
「マイカーじゃなかったよ」
「それじゃあタクシーだったのですね」
妻がタクシーから一人降りて来たのであれば、男はべつの車に乗ったか、あるいは途中で降りてしまったのだろう。小山田はせっかく見つけた臭跡がみるみるうすれていくのを感じた。だがまだそのタクシーを追いかけられる。
「いやタクシーでもなかったぞ」
「それじゃあ何だったのです?」
「あれはハイヤーだね。運転手がドアを開けてやっていた。車もタクシーより大型で上等だったよ」
「ハイヤー」
「ああ、いきなりハイヤーが目の前に停まってきれいな女が降りて来たもんだから、狐かとおもったんだ」
ハイヤーで帰って来たとは初耳であった。もちろん店が出した車ではない。とすると、男が出してくれたのだ。ハイヤー会社からたぐられるのを恐れて、文枝は家から少し離れた場所で車から降りたのであろう。
「そのハイヤーは、どこの会社のものかわかりませんか」
小山田は一縷《いちる》の希望を見出したおもいだった。
「女の方ばかり見ていたからねえ」
工事人は面目なげに顔をつるりと撫《な》でた。
「ナンバーの一部とか、会社のマークとか、なにかおぼえていることはありませんか」
小山田は必死に追いすがった。
「マークといえば、あれが会社のマークなのかな、ドアに亀の印が付いていたっけ」
「ドアに亀の印が」
「ちらりと見ただけだったので、よくおぼえていないけど、たしか亀のような形だったなあ」
「まちがいありませんか」
「そう言われると、自信ないんだよな。なにしろ夜目のうえにほんのちらっと見ただけなんだ」
工事人から引き出せたことはそれだけであった。だがなにもなかったこれまでに比べて、これは大きな収穫にちがいなかった。直ちにカトレアに問い合わせると、そこでは亀のマークを付けたハイヤーを使ったことはないという返事であった。
ハイヤーは、男が妻に付けた公算が、ますます大きくなった。小山田は電話帳で見当をつけて『東京都ハイヤー事業協会』へ問い合わせた。彼の見当は的中して、そこで亀の印を付けたハイヤーは、池袋に本拠をもつ『亀の子交通』の車であることがわかった。
彼は直ちに、亀の子交通の本社へ出かけて行った。池袋四丁目の川越街道に面したごみごみした一角に、ハイヤー会社はあった。タクシーも兼営しているらしく、駐車場には整備中のタクシー車と、黒塗りのハイヤーが数台見える。いずれのドアにも亀のマークがついている。
「一か月ほど前にK市の宮前町へねえ、週二回ぐらいの割合ですか」
応対に出た中年の係員は、胡散《うさん》臭そうな目を小山田に向けた。
「しかし私どもはお客様のことはいっさい話さないことにしてるんですがねえ」
係員は、まったく好意のない表情で、小山田をうかがった。
「送ってもらったのは、私の家内なのです。数日前に突如|失踪《しつそう》してしまったので、その行方を探しているのです。車の依頼主に会って聞けば、なにかの手がかりが得られるかもしれません。お願いです、こちらにご迷惑はかけません。一つ調べていただけませんか」
「奥さんが失踪?」
その言葉が相手を少し動かしたらしい。
「ちょっと待ってください。責任者に相談してみますから」
係員は、やや協力的になって奥へ引っ込んだ。待つ間もなく、五十年輩のでっぷりした男を引っ張って来た。小山田はもう一度用向きを繰り返した。
「そういうことなら、お教えしてもよいでしょう」
男はあっさりとうなずいた。責任者の許可が出たので、係員は分厚い帳簿を持ち出して来て、頁を繰りはじめた。表紙に「お得意先ご用命簿」と墨で書かれてある。
「一か月前、深夜三時ごろ、K市宮前町までですね。どこから乗せたかわかると早く見つかるんですがな」
「生憎、それがわからないんです。一か月前にお宅の車を見かけた者があるというだけで、最近も使っているかもしれません」
「週二回というと、だいたい曜日も決まっていたのですか?」
「それも決まっていません。ただ土日ではありませんでした」
日曜日は店が休みだったし、土曜日を避けたのは、相手が家族もちで、時間の都合をつけにくかったからかもしれない。
「K市宮前町ね。あ、これかな」
係員の指先が、ふと停まった。
「ありましたか?」
小山田は、高くなりかける胸の鼓動を抑えるようにして、頁を覗《のぞ》きこんだ。
「九月十三日午前二時三十分南大塚三丁目の銀杏下《いちようした》からK市の宮前町まで一台頼まれてます。ああ、このお客さんだったら、よく頼まれますよ。注文をうけるときは時間と、迎えにいく場所に注意するもんですから、K市宮前町と言われてもすぐにおもい出せなかったのです」
「いちょうしたとは?」
「南大塚三丁目にある大きな銀杏の木の下です。ちょっとした目印になっていて、車の待ち合わせによく使われるんです」
「それで依頼主は?」
「いつも女の人から電話がかかって来て、川村と言ってました」
「住所は言わなかったんですか」
「言いません。銀杏下に午前二時に車をよこすように指定するだけでした」
「しかし、依頼主の住所がわからなくては、後で料金の請求はどうするんですか?」
「その都度キャッシュでした」
「キャッシュ?」
小山田は、不意打ちを食わされたような気がした。タクシーとちがって、ハイヤーを現金払いするとは考えていなかった。文枝をハイヤーで送らせた後、男が後から料金を支払っていたとばかりおもっていたのである。だが男がハイヤー代を彼女にあたえることもできるのだ。
「乗ったのは、妻が、いやその川村と名乗った女が一人だけでしたか?」
「これには一名様と記《しる》してありますがね、ちょうどいい、これを担当した運転手がいま時間待ちで詰所にいますからここへ呼びましょう」
係員は、事務所の窓から首を出して、大須賀君、ちょっとこっちへ来てくれとどなった。すぐに制服らしい紺の背広を着た四十前後の実直そうな男が事務所へ入って来た。
「こちらの方《かた》が、大塚の銀杏下からK市まで運んだ川村さんについて、聞きたいことがあるそうだよ。こちらは川村さんのご主人だそうだ。どうぞこの男から直接聞いてください」
係員は、小山田と大須賀という運転手の間に立って言った。小山田はまず大須賀に妻の写真を見せた。大須賀の面にすぐ反応が現われた。
「ああ、この方が川村さんですよ。川村さんがどうかしたのですか?」
小山田は手短に事情の説明を繰り返して、
「それで、家内は銀杏下から乗るときいつも一人だったんでしょうか? だれか男がいっしょについて来たようなことはありませんか」
「さあ、男の方の姿は見かけませんでしたね、いつもお一人でしたよ」
「どこから来たかわかりますか?」
「駅の方角から来ました」
「予約した時間どおりに来ましたか?」
「だいたい時間どおりでしたね。遅れても精々十分ぐらいでした」
「どうしてそんな所へ車を呼んだんでしょう?」
「さあ……それはたぶん……川村さんのいた所まで車が入らないか、わかりにくい場所だったのか、それとも……」
と言いかけて、大須賀運転手は口を濁した。小山田は、彼の濁した言葉の先が読めた。それは妻が車に直接迎えに来られては都合の悪い場所にいたからではないのか。
迎えに来られては都合の悪い場所――それは、人目を忍ぶ情事の場所である。
小山田は、ふとおもいついたことがあった。
「一週間ほど前、そう、九月二十六日の夜、同じ時間帯に同じ客から同じ様な注文が出ていませんか?」
九月二十六日は、妻が失踪した夜である。帳簿を繰るまでもなく大須賀が憶《おぼ》えていた。
「ああ、その夜でしたら、私がお迎えに上がりましたよ。川村さんからいただいたいちばん新しいご注文なので、よく憶えています」
「銀杏下からK市まで運んだのですか?」
小山田は気負い立った。
「そうです、午前二時ごろお迎えに上がって、二時半ごろK市のいつもの場所までお送りしました」
「いつもの場所とはどの辺ですか?」
「宮前町です。鳥居の前でした。なんでもそこからお宅はすぐだとかおっしゃって」
運転手は、その先の言葉を濁した。きっと文枝が自宅まで乗りつけるのを嫌っていた気配を悟っていたからであろう。「鳥居前」から家までは歩いていくらもない。すると彼女は、そこから家までの間で姿を晦《くら》ましたことになる。
小山田は、そこに男の意志が働いているにちがいないとおもった。男は、文枝と別れた後、なにかの事情が発して、彼女をべつの車で追いかけて来た。
家に向かって歩いていた文枝に追い付き、自分の車に乗せて、どこかある場所へ連れ去ったのだ。
――ともかく、大塚の銀杏下の近くに、彼らの不倫の巣がある。――
――そしてそこへ行けば、妻の不倫の共犯者を突き止められるかもしれない。――
小山田は、シャープな猟犬のように、また一つ新たな臭跡を嗅ぎつけていた。
彼はその足で大塚へ行った。たまたまあった亀の子タクシーの空車に乗せてもらって、二十分ほど後には、問題の「銀杏下」に立っていた。
なるほど大きな銀杏の木だった。これなら、かなり遠方からも目印になるだろう。高さは約三十メートル、幹まわりは、三、四メートルほどありそうである。小山田は、樹齢三百年は下るまいと推測した。かたわらに都の天然記念物指定の掲示板が立っている。小山田の推測どおり、推定樹齢約三百年と表記されてあった。
木の下は空地になっていて、格好の無料駐車場にされている。駐車禁止の表示がないので、これではせっかくの天然記念物も排気ガスに痛めつけられてしまう。
文枝は、この木の下に車をもってくるように亀の子交通に指示した。ということは、彼女がこの近くから来たことをしめす。情事の時間をできるだけ稼ぎ出すために、また、その余韻《よいん》による火照りをなるべく醒《さ》まさないためにも、巣は近ければ近いほどよい。
「妻は、駅の方角から来た」
車から降り立った小山田は、大須賀運転手の言葉を反芻《はんすう》した。駅の方へ向かう道すじは一本しかない。彼はためらわずに、そちらの方角へ向かって歩きだした。
駅に近いわりには閑静な一角である。サラリーマンの小住宅の間に、小さな社《やしろ》がある。住宅にはさまれて、煙草屋と、鮨屋《すしや》があった。ちょうど鮨屋の前に岡持《おかもち》を提げた出前がバイクに乗って帰って来た。その姿を見て小山田は、ふとおもいついたことがあった。
情事の前後に軽い飲食をすることが多い。その種の旅館では、客の不時の注文をいちいち自分の所で調理せず、外の食い物屋から出前させるかもしれない。
「近くにお宅がよく出前に行くホテルや旅館はありませんか」
店の中へ入りかけた出前もちを小山田は咄嗟《とつさ》に呼び止めた。
「いまちょうど水明荘へ届けて来たばかりだよ」
にきびを顔いっぱいに吹き出させた若い出前もちは気さくに答えた。
「すいめいそう?」
「すぐそこの横丁を折れた所にある連れ込み旅館だよ」
「この近くに、水明荘の他に旅館やホテルはありませんか?」
「さあ、おれが知ってるのは、水明荘だけだな。でもよう、どうしてそんなことを聞くんだよ」
出前もちは急に不審の色を浮かべた。
「いや、ちょっと聞いてみたかっただけです」
小山田は、そそくさと出前もちの前から離れた。その後ろ姿をきょとんと見守っていた出前もちは、首を傾げながら店の表戸を開いた。
よく観ると、教えられた横丁の入口に立っている電柱に『旅荘水明荘』の看板が見えた。横丁からさらに奥まった路地へ折れると、玉砂利を敷きつめた前庭と植え込みをあしらった奥に、秘密めいた雰囲気で水明荘が在った。
これでは車を玄関へ横づけにできない。いわゆる連れ込み旅館のけばけばしさはまったくない。それがかえって人目を忍ぶ情事の場所の雰囲気を醸し出して、昼日中《ひるひなか》入って行くのには後ろめたいおもいにさせられる。ここからなら銀杏下まで五分とかかるまい。しかも横丁と路地のツークッション置いているので、運転手にどこから来たか悟られ難《にく》い。
――とうとう見つけたぞ――
小山田は、玄関の前に立って、深呼吸をした。妻の不倫の巣をついに探し当てたのだ。
彼は失踪した妻が、男とともに現にこの旅館の奥に潜伏しているような気がした。玄関踏み込みの床材は那智黒《なちぐろ》の洗い出しで、爽《さわ》やかに打ち水がしてある。数寄屋《すきや》風の玄関の奥は、複雑に屈折していて内部を見通せない。
案内を乞《こ》うても、しばらくは無人のように人の気配が生じない。何度か呼ぶとようやく奥の方からかすかな足音が伝わってきた。
やがて紬《つむぎ》の和服をまとった三十前後の仲居が出て来た。なにか水仕事でもしていたとみえて、前かけで手を拭《ふ》いている。
「いらっしゃいませ」
仲居は、玄関に一人で立っている小山田を見てもべつにいぶかしげな表情を見せない。ここで落ち合うカップルも多いのであろう。
「お連れ様とお待ち合わせでございますか」
案の定、仲居は聞いた。
「いや、ちょっと尋ねたいことがありまして」
仲居の早合点を制して、小山田が用件を言おうとすると、相手はたちまち客向きの愛想のよい表情を警戒の固い殻でかためてしまった。小山田を風紀係の刑事かなにかとまちがえたらしい。
「実は、家内を探しているのです」
相手の警戒心を解くために、小山田はできるだけさりげなく切りだした。
「家内が数日前から失踪してしまいまして、行方を探しているのです。家内のハンドバッグからお宅のマッチが出てきたので、もしかすると、こちらになにかの手がかりが残されていないかとおもってうかがったのですが」
小山田は言いながら、文枝の写真を仲居の前に差し出した。
「ああ、この方なら」
たちまち反応があった。相手は息をのむようにして写真を見つめた。
「やっぱりこちらへ来ていましたか。子供も母親を恋しがって毎日泣いています。おそらく男にそそのかされて、駆け落ちしたのだとおもいます。いずれは、夢から醒《さ》めたように、過ちに気がついて戻ってくれるとおもうのですが、それまで子供が可哀想なので、こうやって行方を探しています。過ちは咎《とが》めないつもりです。もしお宅が妻の相手の男の住所や名前をご存じでしたら、教えていただけませんか」
小山田は相手の同情を惹《ひ》くために架空の子供を創造した。そしてそれはかなりの説得力を発揮した様子であった。
「あなたさん[#「さん」に傍点]の奥様だったのですか」
男女の情事に不感症化しているようなポーカーフェースの仲居の面に動くものがあった。
「男が妻の行方を知っているとおもいます。こちらのご迷惑になるようなことはいたしませんから、男の住所と名前を教えてください」
小山田は、すがりつくように言った。
「それが……」
女中の面に明らかな当惑が揺れている。
「お願いします。私はとにかくとして、子供は幼く、母親を必要としています」
「そういうご事情でしたら、教えてさしあげたいのですけれど、実は私どもも知らないんです」
「知らない?」
小山田は信じられないように、相手を見た。
「川村さんというお名前だけで、それも本当のお名前かどうかわかりません」
「しかし、宿帳があるでしょう」
「ほほ、そんなものを取ったら、お客様に嫌われますわよ」
仲居は自嘲的《じちようてき》に笑った。
「すると、まったくなにも残されていないんですか」
「お気の毒ですけれど」
仲居は、本当に気の毒げな表情をした。故意に黙秘している態度ではなかった。激しい失望が、小山田の心の底から墨のように広がってきた。
「それではせめて……家内の相手はどんな男だったでしょうか?」
「そうおっしゃられても……」
「年齢はいくつぐらいに見えました?」
「そうですね、四十前後じゃなかったかしら、なかなか押し出しが立派な方でしたわ」
仲居は、小山田と見比べるような目つきをした。彼はもともと蒲柳《ほりゆう》の質である。療養中の身に加えて、ここ数日、妻の捜索に疲れてげっそりと窶《やつ》れている。服装もいいかげんであった。小山田には仲居の目が妻に逃げられてもしかたがないと言っているように見えた。
「なにか目立つ特徴はありませんでしたか?」
「そうですね」仲居は少し考える風をしてから、
「特徴ではないのですけれど、置き忘れていった品物がございますわ」
「忘れ物! 何ですか、それは」
「本です。お返ししようとおもっていたのですが、その後お見えにならないものですから」
「いまその本がありますか」
小山田は、息を弾ませた。男が置き忘れていった本となると、その中に持ち主の名前が書いてあるかもしれない。
いったん奥へ引っ込んだ仲居は、一冊の本を手にもってきた。
「この本でございます」
と彼女が差し出したのは、「トップマネージメントシリーズ事例研究」とサブタイトルが付された『経営特殊戦略』と題された書物である。ビジネス書の出版で知られる大手出版社から最近刊行されたものであった。
本は新しいが、カバーが付いてないので、どこの書店で買ったものかわからない。持ち主の名前など書いてなかった。せっかく手繰り寄せた手がかりも、これでは役に立ちそうもなかった。
失望しながらも未練を捨て切れず、頁を繰っていると、はらりと足許《あしもと》に落ちたものがある。
取り上げてみると、一枚の名刺であった。自分の名刺を一枚だけ本にはさみこむことは少ない。名刺を交換したか、もらった際に、ついなにげなく相手の名刺を本の頁にはさんだまま忘れてしまったのであろう。
名刺には、「東都企業株式会社営業グループ、チーフ」という肩書きの下に『森戸邦夫』と名前が刷られてあった。この森戸なる人物に問い合わせれば、名刺をだれに渡したかおぼえているかもしれない。
――だが、日本人は名刺を気軽にばら撒《ま》く。ばら撒いた名刺の中の一枚を、はたしてだれに渡したかおぼえているだろうか?――
裏を返した小山田の目が、みるみる輝いた。そこには〈お留守の間にうかがいました。例の一件、なにとぞよろしくお願いいたします〉と添え書きがあったのである。この裏書きから判断しても、名刺の主が、本の持ち主に当ててその名刺を差し出した可能性が強くなった。
宛名は書いてない。だが、これだけ個性のある名刺ならば、森戸はだれに差し出したものかおぼえているにちがいない。
名刺の肩書きから推して、森戸はセールスマンだろう。顧客先を訪問して、例の一件よろしく頼むと置き名刺≠したのだ。
「この本をちょっと貸していただけませんか」
小山田は、暗夜に灯台の灯を見出した漁師のような目を仲居に向けた。
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底辺からの脱出
「日本のキスミーへ行く」という言葉を残して、ジョニー・ヘイワードは旅発《たびだ》った。その旨を東京へ伝えると、日本の警察は満足したのか、それともその意味がわからなくて困惑したのか、沈黙している。
ニューヨーク市警は、東京警視庁の依頼を果たした。――といちおうおもった。この事件は、これでケリがついたのだ。イーストハーレムを管轄する二十五分署では、連日事件が起きる。遠い極東の国の首都で死んだ一人の黒人のことは、ハーレム川に浮かんだ泡沫《ほうまつ》のように速やかに忘れさられた。
ケン・シュフタンも忘れた。新たに続発するさまざまな事件が、彼に一つのことにいつまでもかかずらっていることを許さなかった。もともと上司から命ぜられるままに、気乗りうすに調べたことである。熱意のかけらもなかった。
ケンにはニューヨークは、もはや末期的症状をしめしているとしかおもえなかった。
マンハッタン地区に林立する摩天楼のすぐそばに、ハーレムやブルックリンのスラムがある。アメリカの富と繁栄を象徴するように超高層ビルがそれぞれの意匠と軒高をもって妍《けん》を競うかたわらに、ハーレム、ベッドフォード・スタイベザント、ブラウンズビル、南ブロンクスの貧民街では取り壊し寸前の廃屋のような建物の中に人間が生活している。
それはすでに人間の生活などというものではなかった。壁は崩れ、屋根は傾き、窓ガラスは割れている。ガラスを失った窓にはブリキ板をあてがっている。街路にはごみくずと汚物があふれ、ねずみと野犬がわがもの顔に横行している。赤ん坊がねずみに食い殺され、幼児が野犬に襲われることも珍しくない。ブラウンズビルでの新生児の死亡率はニューヨークで最高である。
金が払えないので、ガス、水道、電気を停められ、人々は消火栓を叩《たた》き壊して水を汲《く》む。そのためにこの辺りから火事を発すると、消防車が役に立たない。
食いつめた犯罪者、アル中、麻薬中毒患者、売春婦がここを巣窟《そうくつ》としてニューヨーク全市に害悪をばら撒《ま》いている。
ニューヨークには、あらゆる種類の「世界一」が肩を並べている。摩天楼、ウォール街、ジャーナリズム、教育施設、コングロマリット、文学、美術、音楽、演劇、ファッション、料理、さまざまな娯楽……世界の一級品が集中して、ますますその上限を伸ばしていくのに比例して、悪も暗渠《あんきよ》の底深くまがまがしい触手を伸ばしていった。殺人、放火、窃盗、強姦《ごうかん》、売春、麻薬を代表に、ありとあらゆる種類の犯罪が行なわれている。ニューヨークはいまや上限と下限が開きすぎて、その矛盾の中で苦悶《くもん》しているのだ。
人々はニューヨークの巨大さの中に自分を見失い、焦燥し、求めるものが何かはっきりわからないままにただあがいている。ニューヨークの美は、すべて醜悪なものに裏打ちされている。
街では毎日なにかのデモが行なわれている。街角ではだれも聴いていないのに、だれかがなにかを演説している。
デモのない日はパレードがある。全人口の十五パーセントにあたる百二十万の生活保護者のかたわらで、なにかの祭りが行なわれている。
|人種の坩堝《メルテイングポツト》と言われるこの大都会には世界のあらゆる国から自由と成功の機会を求めて移民が集まって来た。
イギリス、アイルランド、スカンジナヴィア、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、ロシア、ハンガリー、アラブ、ギリシア、中央アジア、プエルトリコ、そして黒人と、ありとあらゆる人種が、このニューヨークという巨大な都市を合成≠オている。
彼らは、人間の多く集まる所には、成功の機会も多いはずだとおもってやって来た。あるいは故国を食いつめて、新たな生活の方途を求めて、はるばると海を越えて来た。
だが、成功はほんの一握りの人間のためにしかなかった。そうであればこそ成功と言えるのである。「一人の勝者に千人の敗者のうごめく街」と言われたニューヨークの貧富(勝敗)の差は、ますます大きくなりつつある。
人間が多ければ多いほど、競争は熾烈《しれつ》で、後から来た者の入り込む余地はなかった。移民たちの求めた自由は、飢えることの自由でしかなかった。そしてそのことに気がついたときは遅かった。彼らは底無し沼のようなニューヨークの穢土《えど》の中にしっかりと捉《とら》えられていたのである。穢土の底に欲望だけが、メタンガスのように脹《ふく》れ上がり、行き場のない挫折《ざせつ》の瘴気《しようき》を蓄えた。この瘴気は、いつ発火して暴動に爆発するかわからない危険なエネルギーを孕《はら》んでいる。社会に害悪しかもたらさない危険なエネルギーである。
二十五分署には五十一人の刑事と七人の警部がいる。この中、半数以上が「バイリンガル」と呼ばれるスペイン系の警官である。一直《ワンシフト》十一人の、五直に分かれ、早番、中番、遅番、夜勤の四交代制を敷いているが、明けや、公休も満足に取れないほど、事件に追いまわされる。
それにもかかわらず、アメリカ最大のスラム、ハーレムとイーストハーレムを管轄する二十五分署や二十八分署が若い警官に人気があるのは、非行青少年数、犯罪発生件数、麻薬使用量がきわめて高く、凶悪犯人に見《まみ》える機会が多いので、昇進しやすいからである。一人の刑事が常時平均十件の事件を担当し、検挙率は五十パーセントである。
だがケンが二十五分署に配属されたのは、昇進チャンスをつかむために志願したからではなく、この土地の出身であったからである。
今日は遅番で午後二時から十時までの勤務であった。その間にも一二一ストリートでけんかがあり、一二五ストリートで二件のひったくりと、一件の空巣があった。
すでにニューヨーク市警では空巣やひったくりは犯罪と見なしていないと言ってもよい。だがこれらがもっと凶悪な犯罪に発展する危険があるので、届け出があれば、調べに行く。
いちおうこれらの取り調べをすませて、やれやれとおもう間もなく、今度は若い女が酔っぱらって裸になって歩きまわっているという通報が入った。
「若い女がストリップだと? やらせておけばいいじゃねえか」
もう間もなく勤務が終わるケンは毒づいたが、通報がきた以上、放っておくわけにはいかなかった。
行ってみると、麻薬患者だった。薬《ヤク》が切れて、禁断症状に苦悶している間に、衣服を脱いでしまったのだ。
パトカーへ引きずり込んで、署へ連れてくる。二十二、三のプエルトリコ系の若い女である。その若さで、ヤクと淫売《いんばい》の荒《すさ》みが全身を蝕《むしば》んでいた。
肌は乾燥して蒼白《あおじろ》くなっている。手足の露出した部分には、いたる所に注射の跡が見える。瞳孔《ひとみ》は開き、あらぬことを口走る。暴れまわるので、ケンは署につくまで女を押さえつけていなければならなかった。
この女の中毒は常習性で、すでに何度も引っ張られている。常習性の治療は困難で、もはや精神病院にでも拘禁しなければ、彼女から麻薬を断つことはできないだろう。
その場かぎりの治療で釈放されると、薬欲しさに売春をする。そのうちに売春だけにとどまらないで、薬を手に入れるためには、なんでもするようになる。
麻薬中毒者は、人間の形をしただけの野獣である。彼女がまだ売春の域にとどまっているのは、その体に女としての商品価値≠ェ残っているからである。
だがケンは、全身注射針の跡だらけの女の形骸《けいがい》になっているような女を買う男がある現実に、胸が重苦しくなった。買う方も底辺の人間である。彼らはやり場のない性欲を、女の骸《むくろ》を買って処理しているのだ。女を買っているとはおもっていないであろう。女のいない戦線で、兵士が豚や羊を相手に欲望を処理するように、メスの獣を買ったつもりにちがいない。
――どちらも獣だ――
ケンは、苦いものを嚥《の》み下すようにつぶやいた。だが麻薬中毒は、底辺から次第に社会の上流へ向かってその無気味な触手をのばしつつある。
女を麻薬取り締まりの係に引き渡して、ケンの長く苦しい一日の勤務は終わった。これからブロンクス区のアパートに帰って、眠るのだ。そこに彼は一人で住んでいる。一度結婚したことがあるが、ケンが凶悪犯人を追いかけている間に、妻は若い閑《ひま》のある男を追いかけて家を出て行ってしまった。それ以来、一人暮らしをつづけている。最近は一日の疲労を一夜の眠りで回復できない。頑強なだけが取得の身体だとおもっていたが、いつの間にか老いが体の芯《しん》に澱《よど》んできたようであった。孤独が老化を早めているのかもしれない。
二十五分署は、イーストハーレム地区の中央部、東一一九ストリート一二〇番地にある。警察官でも勤務が終わった瞬間から、この地区から一刻も早く逃れ出ようとする。治安と秩序を維持するために戦う立場にある警官たちが、危険な市内から、安全を求めて競って家族と住居を郊外へ移すようになったときから、ニューヨークの荒廃は、いっきょに増幅したのだ。それは社会正義の敗北であった。
警察を信用しなくなった市民は、自警団を組織した。金のある者は、ガードマンを雇った。大企業のビルはガードマンだらけになった。街を歩くと、警官の姿は一人も見えないのに、ガードマンはやたらと目につく。
それは警察の敗北の印であるにもかかわらず、ガードマンのほうが給料がいいからと警官を辞めていく者すらある。
去年一年におけるニューヨークの殺人件数は千三百五十一、強姦《ごうかん》千八百三、強盗四万九千二百三十八、窃盗二十九万三千五十三、警官もよく殺され、昨年の殉職者は五名である。一日に三人以上が殺され、約五人の女性が犯されている勘定になる。
警察署の中でも、ものが盗まれるので、私物は、鍵《かぎ》つきのロッカーに入れておかないと安心できない。署の内部にまで野良犬が入って来る。「警察でガードマンを雇うか」という冗談が笑われずに通用するほどであった。これでは警察官もニューヨークから逃げ出したくなっても不思議はない。
ケンは、署の建物から出た。紙くずと紙コップが街路を舞っている。まるで休日後の行楽地の朝のように汚れているが、だれもその汚れを気にしない。ケンは地下鉄の駅まで歩く。ハーレムでは車は役に立たない。警察署の前に停めておいても、一晩の中《うち》にポンコツにされてしまう。タイヤは切り裂かれる。アンテナはへし折られる。ヘッドライトと窓ガラスは叩き割られる。燃料タンクの中に砂を投げ入れられる。ケンは二十五分署勤務になってから車を放棄していた。道路ぎわに焼け焦げた車の残骸があった。外から来た者が駐車している間に火を放《つ》けられて焼かれてしまったのだ。
「サー、ギミーダイム(十セント)」
地下鉄の入口にたむろしていた子供が、ケンに手をさしのばした。その手をはらいのけて、階段を下りる。背後から子供が煙草をくれと言いなおしている。地下へ下りる階段には、麻薬患者かアル中らしいのが、生きているのか死んでいるのかわからないようにうずくまっている。だがこの死人のような人間が、恐るべき犯罪予備軍なのだ。
下から黒人の若者の一団が奇声をあげながら上がって来た。彼らはケンの姿を見ると、奇声を止め、白い目を向けた。この界隈《かいわい》の地下鉄で白人の姿を見かけるのは珍しいからだ。
ケンは、彼らをまったく無視して通り過ぎた。彼らはケンの正体をあらかた察知している。一人が横を向いて唾《つば》を吐いた。ケンの鋭い一瞥《いちべつ》にあって、急に歩度《ペース》を速めて階段をかけ上がった。
いずれはなにかの罪を犯して本署で見《まみ》えることになるチンピラだと、ケンはおもった。
この界隈の地下鉄構内に入るには一種の覚悟を要する。公衆電話の六割は夜の中に叩き壊されてしまう。修理《なお》してもなおしても、壊されてしまう。出勤するときには使えた電話が、帰るときには役に立たなくなっている。地元のケンすら果たしてどの電話が健在なのか把握できない。ここでなにかの事件に巻き込まれた場合、連絡の手段をもたない。
ホームへ入る。出勤して来るときに見た酔客の反吐《へど》の痕《あと》がそのまま残っている。だれも掃除をせずに放置している間に、乾燥し、埃《ほこり》となって地下鉄の風圧によって飛び散ってしまうのだ。古い汚物が乾ききらない間に、新たな汚物が吐き散らされる。地下鉄の構内では用心して歩かないと、それらの汚物の中に靴を踏み込んでしまう。トラッシュボックスがあふれたまま倒れている。
電車はなかなか来なかった。見上げたホームの時計には、「故障」の貼紙《はりがみ》が貼られていた。ケンはおもわず舌打ちした、もう一か月も前からその時計は壊れていたのだ。ホームにあるガムの自動販売機もこわれている。
ようやく、うす汚れた電車が来た。車体も車内も落書きに塗りつぶされている。乗る者も降りる者も黒人が圧倒的に多い。プエルトリコとイタリア人がそれに次ぐ。電車は空《す》いていた。乗客は、それぞれの距離を置いて、黙りこくって坐《すわ》っている。話し合っている者はない。電車が走りだすと、その騒音が車内の静寂をいっそう深めた。うす暗い裸電球が時々息をしながら貧弱な光を撒《ま》いている。通路を吹き抜ける風に乗って新聞紙が車内を舞った。乗客の靴の先にそれがまといついても意に介さない。
相互の極端な無関心の中に、乗客たちは放心している。一人一人がみな孤独だった。大都会の中の救いようもない孤独が、乗客たちをわしづかみにしていた。それでいながら、それを実感する余裕がないほどに生活に疲れている様子であった。
車両の前部に坐っている老いた黒人は、いまにも座席からずり落ちそうな格好で眠っていた。手に安いウイスキーのボトルを握っている。中身が底の方にわずかに残っているらしい。手首からボトルが抜け落ちそうになると、一瞬、ハッと我に返って握りしめる。
つづいて、中年の黒人の主婦、どこかのビルの雑役婦でもやっているのか。疲労を全身ににじませて、車体の震動に身をまかせている。少し離れて、母子づれの二人のプエルトリコ人が身を寄せ合うようにして坐っている。子供は八歳前後の少年、靴磨き用具を入れた箱を肩にかけている。就学年齢に達しているはずなのに、貧困のために学校へ行っていないのだろう。おそらく英語を話せまい。
彼らにとっては今日という一日を生きることに精一杯で、明日のために教育を受ける余裕はないのである。
次に売春婦らしい黒人の女、年齢不詳……ケンは、職業柄、下車駅へ着くまでの間、乗客たちをそれとなく観察する。それはすでに習性のように沁《し》みついてしまった。
そこまでいつものように観察を進めていると、突然、忘れたとおもっていたことがよみがえった。ケンは、それが意識の表に浮かび上がったとき、びっくりした。そんなことがまだ意識の底に残っていたのに驚いたのである。
――トウキョウで殺されたジョニー・ヘイワードは、その日稼ぎのトラックの運転手だった――
「そんな男が、どうして日本へ行く金をもっていたのか?」
その疑問が燐光《りんこう》を発してケンの頭の中で明滅した。
アメリカの底辺は黒人によって支えられている。自分の努力によって高い教育をうけ、底辺から脱出して行く者もあるが、大多数の黒人は人生の錘《おもり》につながれた底辺の終身犯として一生を終わるのである。
汚物処理夫、港湾荷役、デパート荷物発送係、トラック、タクシーの日雇い運転手、ホテル、バーのドアマン、ボーイ、死体焼却夫、死獣解体夫、その他未熟練単調労働などの白人が敬遠する職種か、白人だけでは人手が足りない分野に辛うじて職を得ている。しかもこれらの仕事は、たいてい週給百ドル未満の低賃金である。ようやく仕事にありついても、満足に家族を養っていけない。低賃金であくせく働いて、食うや食わずの生活をつづけるよりも、一家の主人が蒸発したことにして母子家庭として保護をうけたほうが楽なので、母子家庭の偽造≠ェ増える。
十年毎に行なわれるアメリカの国勢調査の一九七〇年版によれば、ニューヨークの全人口八百万の中《うち》、黒人人口は百七十万である。次いでプエルトリコ人が八十万人で、その他の有色人種を加えると、市民の四十パーセントが非白人になる。
黒人とプエルトリコ人は、経済と教育において、白人に比べてはるかに劣っていることを国勢調査はしめしている。白人家庭の平均年収一万ドルに対し、黒人は七千ドル、プエルトリコ人は五千五百ドルとなっている。大学卒業率は、白人十三パーセントに対し、黒人が四パーセント、プエルトリコ人わずかに一パーセントである。
これが貧窮《ポバテイ・》基準《スタンダード》=i七〇年現在四人家族年収四千七百ドル以下)となると、白人九パーセントに対して、黒人二十五パーセント、プエルトリコ人三十五パーセントと、いっきょに逆転する。
さらに母子家庭比率は白人十四パーセントに対して黒人が三十二パーセント、プエルトリコ人二十九パーセントとなっている。
ニューヨークの百二十万人の生活保護者の五分の三を黒人とプエルトリコ人が占めている。非継続的未熟練労働でも仕事のある者は|幸い《ラツキー》で、大多数は職がなく日中から安酒場に群がり、街路にうずくまって呆然《ぼうぜん》と過ごす。
日雇いのトラック運転手だったジョニー・ヘイワードが急におもいたって日本へ行けるほど金持だったとはおもえない。ニューヨークの黒人は、自分を閉じこめたスラムからの脱出を夢みて、貧困と人種差別にうめきながら、一生をスラムに蠢《うごめ》いて過ごすのである。彼らにとって海外旅行も、一種の脱出である。
ヘイワードがその脱出を為しとげた。脱出は彼にとって死をもたらしたが、脱出前にそれを予測していたわけではあるまい。
トラック運転手の週給は、精々百ドルくらいだろう。一か月七百ドル得るには違反の乗務をして稼がねばなるまい。これだけの収入ではその日その日の生活を支えるのに精一杯で、とても日本へ行く旅費を蓄えるゆとりはない。
その彼が、突如、まるでなにものかに追い立てられるように旅立った。
日本へ行く動機もさることながら、彼はその旅費をどこから得たのか?
いったんケンの胸に点じた疑惑の火は、次第にその勢いを強めてきた。プエルトリコの母子は南ブロンクスのメルローズで降りて行った。乗客が黒人からプエルトリコ人に交代した。このあたりは、プエルトリコ人の居住区である。静かだった車内に巻き舌のスペイン語が弾んだ。
「こいつは調べてみる価値がありそうだ」
ケンは電車が下車駅に近づいたとき、一つの決心をした。我ながら、忘れたはずの一人の黒人の客死《かくし》について、どうしてこれほどの関心をもつのか不思議であった。日本の警察の熱意に打たれたわけではない。強いて言うならば、ジョニー・ヘイワードが日本へ行ったことに興味を引かれたからなのかもしれない。
ジョニー・ヘイワードについて少し調べてみたいとケンが言いだしたとき、警部のケネス・オブライエンはあきれたような顔をした。
「もうすんだことだ、何をほじくろうというんだ?……」と問いかけたケネスは、ケンの表情に貼りついた真剣さに打たれた。それは一つの迫力をもって、オブライエンの問いかけを封じてしまった。
――こいつが、こんな顔をして食いついたら、止めたところで離さない――
ケネスは、そのことをこれまでの経験から知っていた。上司には平気で楯つくし、捜査の行き過ぎもあちこちから指摘される。オブライエンが庇《かば》わなかったらとっくにお払い箱か、捜査の第一線から退けられていただろう。
扱い難い部下であるが、実戦で叩き上げた捜査のカンと、地元育ちの土地カンは、署の屈強な戦力になっている。いつも目立たない所にいるが、こういう刑事がニューヨークの警察を支えているのである。サラリーマン根性の警官の多くなったいまの警察で、ケンのような人間は貴重な存在であった。
しかし、捜査の経験もろくになく、理論だけで武装している幹部連には、ケンの組織から逸脱した部分だけが目につく。彼らの目には組織の忠実な歯車になって動いてくれる者が優秀に映るのである。
「あまり派手に動いて、おえら方ににらまれないようにしてくれよな」
ケネスが一本|釘《くぎ》を刺したのは、そのための配慮である。
ケネス・オブライエンの許可を得たケンは、早速行動に移った。
ケンは、一人の人間を訪ねようとしていた。その人間は、ライオネル・アダムズというご大層な名前と、ニューヨーク・インタナショナル・シティ・バンク貸付審査総括統合部長といういかめしい肩書きをもった大物《ビツグシヨツト》である。
ケンはライオネル・アダムズという人物についてよく知らない。まったく知らないといってよかった。すぐ会えるものとおもって気軽に面会を申し込んだところ、実に一か月も先の日を秘書に指定された。これでは仕事にならないので、警察の捜査にとって必要なのだと強引に押した。その結果三日後の今日、午後一時に昼食のため自宅に帰った折に会うという約束を取り付けたのである。
これでケンは相手の人物に対して認識を改めた。
インタナショナル・シティ・バンクはアメリカで預金量常にベスト5を下らない巨大銀行であった。ニューヨークの経済はこの銀行を抜きにしては語れないほどに、大きな地歩を占めている。
ニューヨークの経済を牛耳っているということは、アメリカの、いや世界の金融を支配していることをしめす。アメリカの経済政策を決定するワシントンに対しても大きな影響力をもっている。
その銀行の実力者、アダムズに横丁の隠居《ハーミツト》に会うようなつもりで面会を申し込んだケンの認識が甘かったわけである。
「十分とは刻みやがったな」
アダムズの家に向かうパトカーの中で、ケンはいまいましげにつぶやいた。それがアダムズからあたえられた面会時間なのである。それすら、秘書がふつうは五分なのだが、警察の方なので特に十分にしたと恩着せがましく言ったものだ。
ラジオカー(パトカー)は、マンハッタン北部から五番街を南下して、セントラルパーク沿いの超高級アパート街を走っている。ここは世界の富豪が集まっている所だ。
戦災地のようなハーレムと目と鼻の距離に、およそこの世で考えられる最高の贅《ぜい》をつくした超豪華アパートが立ち並んでいる。これもニューヨークの多面性を物語る一対のコントラストである。
ライオネル・アダムズの住居は、セントラルパーク東側《イーストサイド》の八六ストリートに面した三十階建てアパートの最上層にある。ニューヨークの中心部にありながら、セントラルパークの豊かな緑のおかげで、空気が爽《さわ》やかである。
「ハーレムとは、空気からしてちがいやがる」
ケンは、また吐き捨てるようにつぶやいた。自らスラムに生まれ、下級警察官として、長い間下積みの生活をしてきたケンは、富豪にどうしても親しみをもてないのである。
彼はコミュニストではないが、富の極端な偏在を見ると、能力や努力のちがいによらないアンフェアな要因が働いているようにおもえてならない。
「ここらの住人は、自分の吸う空気まで、金を出して買っているんですよ」
パトカーを運転して来たマグーという若い警官が言った。彼もスペイン系に黒い血が少し混じっている。
「すると、おれたちもここへ来ると住人の買った空気を只《ただ》で分けてもらっているわけだな」
「そういうことになりますかね」
マグーと話しているうちに目指すビルの前に着いた。
「よし、この辺で待っててくれ。すぐにすむ」
とにかく十分しかあたえられていないのだ。車を降りたケンは、真っ直ぐにビルの玄関へ入った。そこは厚い絨毯《じゆうたん》が敷きつめられ、一流ホテルのロビーのようである。ホテルとちがうところは、フロントがなく、無人の豪華な空間がゆったりと広がっていることである。
そこはエレベーターホールになっていた。ケンがエレベーターに乗ろうとしてインジケーターを見ると、いずれも二十九階までの表示しかない。アダムズの住居は三十階と聞いている。二十九階までエレベーターで行って、そこから階段を上るのだろうかと考えながら、ふと転じた視線に、「ライオネル・アダムズ・オンリー」と表示されたドアが見えた。
「専用リフトをもってやがる」
ケンは、ますます反感をつのらせて、開扉ボタンを押した。すると搬機《ケージ》の上方の小窓から声が落ちてきた。
「あなたはどなたですか?」
「二十五分署のシュフタン刑事です。一時の約束があります」
ケンが答えると、目の前のドアがするすると開いて、「どうぞお乗り下さい」と声がうながした。きっとケンの姿は、どこかに据えられたテレビカメラによって観察されているのだろう。
ケージに乗り込むと、ドアは自然にしまった。ケージの中まで、靴が埋まりそうな絨毯が敷きつめられている。柔らかい音楽が、どこからか流れてきて、ケージ内の狭い空間を満たした。ケンは別世界に運ばれて行くような気がした。
音楽に聴き入る余裕もなく、ケージは停まり、今度は反対側のドアが音もなく開いた。ケンの目の前にはまさに別世界があった。
ケージの前には、タキシードを着た執事が恭しく頭を下げている。執事が迎えた背後には、噴水が多色の水を噴き上げている。天井から吊《つ》り下げられたクリスタルガラスのシャンデリアと、噴水自体の中に特別の照明の仕掛けがあって、噴き上げる水の色をさまざまに変えているらしい。
執事があたかもその噴水の中に立って出迎えたように見える。絨毯はさらに厚く、靴音を完全に吸い取る。五番街の騒音も、ここにはまったく届かない。
どこからか花の香りが漂ってきた。噴水の奥に屋内花壇があった。ここはニューヨークの喧噪《けんそう》から切り放された高雅な小宇宙であった。
「ようこそお越しを。ミスターアダムズがお待ちしております」
執事は切り口上で言うと、噴水の脇を伝って奥へ導いた。花壇にはこの季節には珍しい花が咲き乱れている。温室で栽培したものを移植したのであろう。
――この花の一輪が、おれの一か月の給料に相当するかもしれない――とおもうと、ケンはさすがに卑小感に打たれた。
ライオネル・アダムズは、セントラルパークを一望の下に見下ろす居間で、ケンを待っていた。セントラルパークがまるでアダムズの私庭のように見下ろせる。豪華な借景である。
アダムズは、絹のような総皮張りのソファにゆったりと寛いでいた。年齢は五十前後、地位に相応しい厚味のある体格だが、肥満は感じさせない。髪は金髪、瞳《ひとみ》の色はブルー、額が広く、目と唇が意志的に引き締まっている。鼻はやや鉤鼻《かぎばな》である。
「ミスター・シュフタンですな。アダムズです。ようこそ。さあどうぞおかけください」
ケンを見て手を差しのばしたアダムズには、人生の成功者の自信と余裕が感じられた。
アダムズは、窓を背にして、ケンと対《むか》い合った。自然の恵みにうすいニューヨークで、外景をできるだけ多く取り入れるために、窓をおもいきり広く取ってある。アダムズの背後に、セントラルパークを越えて、ウエストサイドの建物から、ハドソン川のかなたのニュージャージー方面の展望が海のように広がっている。
アダムズは外光を背負っているので、逆光となって、その表情をよく読み取れない。ただ自分をじっと観察する視線だけが、痛いようにわかった。きっと彼は、初めての訪問客と対い合うとき、いつもこの位置に座を占めるのだろう。
「早速ですが、ミスター・シュフタン、今日はどのようなご用件で? なにぶん分刻みのスケジュールで動いているものですからな」
初対面の挨拶《あいさつ》がすむと、アダムズは腕時計を見ながらうながした。十分の約束は延長しないぞというジェスチャーであった。
ケンには、十分で用件をすませられる自信はない。だが、ここまで入り込んでしまえばこちらのものだという肚《はら》があった。
「実は、本日おうかがいしましたのはウイルシャー・ヘイワードという人物について、二、三おたずねしたいことがありまして」
「ウイルシャー・ヘイワード」
案の定、アダムズの反応は鈍かった。彼の記憶の中に、哀れな黒人の占める位置は、とうになくなっているらしい。
「もうお忘れですか。六月ごろあなたの車が轢《ひ》いた老人ですよ」
「私の車が轢いた?」
アダムズの面には、依然として反応が現われなかった。
「黒人の老人です。そのときの傷が原因で死にました」
「黒人? ああそういえばそんなことがありましたかな」
アダムズの表情にようやくかすかな反応が現われた。彼にとって、黒人を轢いたことなど犬を轢いたぐらいにしか印象されていないのだろう。
「そのときの事故の模様を詳しくうかがいたいのです」
ケンは、人間一人を轢いておきながら、まったく意識に留めていない相手に腹立たしさをおぼえながら、本題に入った。
「詳しくと言われましてもね、私がハンドルを握っていたわけじゃないからね」
「しかし記録には、あなたの名前が加害者《アセイラント》となっておりますが」
「加害者とは、まるで犯罪者扱いだな。あの事件は、相手に賠償金を支払い、とうに解決しているはずだ」
加害者扱いをされて腹を立てた様子のアダムズは、丁重の仮面を脱いで、人にかしずかれることに馴《な》れた大物の傲岸《ごうがん》さを剥《む》き出した。
「賠償をしたのですか?」
「こちらに悪いところはないのだが、いちおう人身事故を起こしたのだからな」
腹を立ててアダムズは、事故当時の模様をおもいだしたらしい。
「あなたのほうに悪いところがなかったとおっしゃいますと?」
交通事故の当事者はたいてい双方が相手に非があったと主張し合う。
「先方から私の車にぶつかってきたんだよ。私の運転手は、二十年間無事故のベテランだが、突然目の前に飛び出されて、避けきれなかったんだ」
「突然、車の前に飛び出したというんですか?」
「そうだ。あれは賠償金目当てのたちの悪い当たり屋の手口だ。まあ相手は年寄りだし、大した金額でもないので、相手の言うままに金をやったが、不愉快だった」
アダムズは、不愉快な記憶を掘り返されて眉《まゆ》をしかめた。
「詳しいことは、運転手のワゴが知っている。相手との交渉もすべて彼にまかせたからね」
アダムズが言ったとき、先刻の執事が小腰をかがめて彼に近づいてなにかささやいた。
アダムズは鷹揚《おうよう》にうなずいて、
「すまんが、次の約束が迫っているので、これで失礼する。ワゴは置いていきますから、詳しいことは彼にたずねなさい。では」
と言いながら、ゆらりと立ち上がった。
つづいて運転手のワゴに会ったが、アダムズの言葉が裏づけられたにすぎなかった。市内制限速度を忠実に守って走行していたところ、横断歩道でもない所からいきなり飛び出して来たということである。
急ブレーキをかけたが、間に合わなかった。まるで自殺でもするような飛び込み方であったという。当方に非がないので、賠償の必要はないとおもったが、トラブルを嫌うアダムズの言葉によって、自動車保険による賠償金に添えて、多額の見舞金を包んだそうである。
「実際に保険金と併せていくら支払ったか教えていただけませんか」
ケンは、追いすがった。
「保険のほうが、約二千ドル、私共で二千ドル包みました」
「四千ドル支払ったのですか」
これだけあれば、優に日本への旅費と相当日数の滞在費を賄える。
「自損行為、つまり自殺や飛び込みの場合は保険金を請求できないのですが、私共の証言が保険会社に大きく影響して、保険金の支払いが認められたのです。いえ、偽証をしたというのではなく、自殺の気配はなかったと申し立てただけです。主人《マスター》は、保険会社にも関係しておりますので、主人の言葉が保険金支払いについて決定的な力をもっていました」
ワゴは、自分の発言が、雇い主の不利に働くのを惧《おそ》れるように、言った後からしきりに新たな言葉を追加した。だが、ケンにとって興味があるのは、ウイルシャー・ヘイワードが自損行為≠ノ近い形でライオネル・アダムズの車に接触して、四千ドルの大金を得た事実であった。
そして彼の死後間もなく、息子のジョニー・ヘイワードが日本へ行った。
ウイルシャーが接触したのは、ニューヨーク財界でも有数の大立者である。彼は接触する前に、相手の身分を知っていたのではあるまいか? つまり「相手を選んだ」のではないだろうか?
自分同様、素寒貧《すかんぴん》の車にぶつかったところで、賠償金を取れるかどうかわからない。被害者のほうから車に当たって来たと主張されれば、保険金も当てにならなくなる。
金持相手ならば、トラブルを極力嫌う。最初からいざこざを金の力で避けようという姿勢がある。ウイルシャーは賠償金目当てにアダムズの車に当たった?
「こんなところでよろしゅうございますか?」
自分の思考の中にのめり込んでしまったケンを、ワゴが心配そうにうながした。
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失踪《しつそう》の血痕《けつこん》
東都企業株式会社の営業マン、森戸邦夫という新たな的《ターゲツト》を得た小山田は、早速行動を起こした。
翌日、名刺に刷られてあった電話番号をダイヤルしてみると、それは各種事務機器の販売会社であった。森戸に会いたい旨を伝えると、夕方五時過ぎにならないと帰社しないという返事である。
交換手から社のおおよその所在位置を聞いて、その時間に相手を直接訪ねてみることにした。
東都企業は港区芝琴平町の交差点の一角にあった。五階建ての細長いビルで、一階がロビーになっていて、各種ファイリングキャビネットやカードケース、ブックスタンド等の商品が展示してある。情報保管機器の販売会社らしい。
受付に古い名刺を出して、森戸に面会を求めると、客と勘ちがいしたのか、丁重に応接室へ通された。
朝礼ならぬ、終礼≠ナもはじまっているのか、上の方角から、大勢の男たちの唱和が聞こえてくる。聞くともなく耳をすますと、
――一つ、知識に足らざることなかりしか、
一つ、気力に欠くることなかりしか、
一つ、誠意に悖《もと》ることなかりしか――
などというかけ声が聞こえる。きっと「セールスマンの心得」のようなものを、一日の営業活動の終わりにあたって唱和し、士気を鼓舞しているのであろう。
十分ほどしてようやく終礼≠ェ終わったとみえて、急に騒がしい雰囲気となった。大勢の足音が階段を下りて来た。応接室のドアが開いた。
「ぼく、森戸ですが、小山田さんですか?」
二十代半ばくらいの男が、小山田の名刺を手にもちながら視線を向けた。いかにもセールスマンらしく、シヤープな背広をまとった細身の青年である。
「突然、お邪魔しまして。小山田です。実はちょっとおたずねしたいことがありまして」
小山田が立ち上がって小腰をかがめると、森戸は、人なつこそうな笑顔を浮かべて、
「かまいません、仕事ですから」と手をあげて制した。どうやら彼も小山田を客とまちがえている様子である。
小山田が自分の用件を伝えようとする前に、森戸は、
「今日は一本も成契《せいけい》が取れなかったので、班長にしぼられました。私共の商売には波があるのですが、そんなことを会社は考慮してくれませんからね」
「実は……」
「私は、最近、企業機密管理の機器部門を担当しているのですが、まだまだ軍事機密や政治機密に比べて、企業機密の重要性に対する認識は浅いものです。企業スパイ活動が増加の一途を辿《たど》っているというのに、企業スパイなどというものは、小説か映画の世界のことぐらいにしか考えていません。社運を左右するようなトップシークレットや職業上のノウハウを、盗んでくれと言わんばかりに放り出している会社が多いのです。盗まれてから騒いでも遅いのに、企業に機密防衛や防諜《ぼうちよう》の重要性の認識が、まったくないか、不足しています」
「……私が本日うかがいましたのは……」
「こういう認識不足の中で、機密管理機器を販売するのは、大変なのです。まずその認識からして改めなければならない。会社の機密には三つのランクがあります。Aランクがカンパニーシークレットと呼ばれるもので、これが外部に漏れますと、株主に重大な損害をあたえます。Bランクがコンフィデンシャルで、株主の利益を損うと同時に会社の事業経営を阻害するものです。Cランクが……」
「森戸さん、この本に見|憶《おぼ》えがありませんか?」
べらべらしゃべりまくる相手が、のどにしめしをくれるために一息ついたときを捉《とら》えて小山田はようやく口を開く機会を得た。水明荘から借りてきた『経営特殊戦略』を突きつけて、じっと相手の反応をうかがう。
「この本は……何ですか?」
森戸の表情に特に反応は現われない。反応を抑えている様子も見えなかった。
「これはあなたの本ではありませんか?」
もし森戸の本ならば、彼が妻の「男」である可能性が高くなるのだ。
「いいえ、ぼくはこんな本は読みません。この本の読み手は、ぼくなんかよりずっと上の人らしいですね」
「それでは、この名刺にご記憶はありませんか?」
小山田は、本の頁にはさまれてあった森戸の名刺をしめした。
「これは……ぼくの名刺ですね」
森戸は、差し出された名刺をいぶかしげに眺めて、
「この名刺がどうかしたのですか?」
「裏をごらんください。その裏書きは、あなたがお書きになったものですか?」
「ああたしかにぼくの字ですねえ、これをどこで?」
森戸はべつの興味をもった視線を、小山田に向けた。
「この名刺をどなたに渡したか憶えておられませんか?」
「急にそう言われましても、なにしろ商売柄たくさんの名刺を配りますから。それよりこれをどこで?」
「それがちょっと奇妙な場所でしてね。実は先日、ある女性といわゆる同伴ホテルへ入ったのです。すると、その部屋に前の客が置き忘れていったらしいこの本が残っていました。ついなにげなく旅館を出るときもってきてしまったのです。後で頁を繰ってみると、所々に赤い傍線が引いてあります。失《な》くした本人にとっては、大切な資料かもしれないとおもいまして、落とし主を探しているのです。その本の頁の間に森戸さんの名刺がはさんであったのです。裏書きから判断して、あなたがどなたかに渡した名刺だと考えました」
「なるほど、それでぼくの所へいらっしゃったのですね」
「そうです」
森戸は、どうやら納得したらしい。改めて名刺に目を凝らした。
「そうだ」
森戸の目が動いた。
「わかりましたか?」
小山田は、おもわず固唾《かたず》をのんだ。
「おもいだしました。この名刺は東洋技研の新見《にいみ》部長に差し上げたものです」
「東洋技研のにいみ?」
東洋技研という社名は、小山田も聞いたことがある。精密機器の大手メーカーだった。
「新しく見ると書きます。機密防衛に積極的に取り組んでいる会社で、いいお得意さんです」
「その新見という部長に出した名刺ということは、たしかなのですね」
小山田は、無意識の中に声を弾ませていた。とうとう敵≠フ正体の一端をつかみかけたのである。新見が、妻の男である可能性はきわめて高い。
「たしかです。シュレッダー、つまり書類の裁断機ですね。それの新規購入を検討してくださるということで、カタログをもってうかがったところ、急なご用事でお留守だったために、置き名刺をしたのです。そう言えば、この本も新見部長のデスクの上にあったような気がします」
森戸は明言した。
「その新見部長とは、どんな方ですか?」
ここまで来れば、あとは自分でも調べられるが、口の軽そうな森戸につけ込んで、引っ張り出せるだけ引っ張り出そうとおもった。
「東洋技研きってのやり手ですよ。まだ四十になったばかりの若さで、取締役に抜擢《ばつてき》されたほどです。東洋技研では、カンパニーシークレットやコンフィデンシャルが頻々と社外へ流れるのに手を焼いて、今度新たに情報管理部≠ニいう部を新設して、本格的に機密防衛に取り組みはじめたのです。新見さんはそこの最初の部長に据えられたのですよ。最近はシュレッダーもだいぶ普及しましてね、東証一部上場会社の八十パーセント以上が採用しています。しかしそれも大型機を一、二台入れて集中処理方式を採っています。それを新見さんは、分散して一課一台から、ワンデスク、ワンシュレッダー方式に移行しようとしているのです。機密の保持は関与する人間が少なければ少ないほど完全になります。究極には個人単位で行なうのが理想的なのです。新見さんはいち早くそこに着目されて、秘密書類の分散化を図っておられます。とにかくたいへんなやり手です。しかし仕事のほうだけでなく、女性にかけてもなかなか辣腕《らつわん》のようですね」
森戸はニヤリと笑った。それは連れ込み旅館で本を拾ったと言った小山田にも当てつけたようである。
小山田は、聞きたいことはだいたい引き出したとおもった。
「本日はいろいろと有難うございました。早速、明日にでも本を届けてあげたいとおもいます」
小山田が立ち上がりかけると、
「あなたがわざわざ行かれるまでもないでしょう。ぼくは近々、新見部長に会いますから、その折に届けてあげますよ」
と森戸が言った。
「いや、私が届けます。新見さんにしても、同伴ホテルに本を置き忘れたことは、できるだけ伏せておきたいでしょうから。機密保持は、個人単位が理想なんでしょう」
「いや、これは一本とられましたね。それじゃあ、ぼくはなにも知らなかったことにしておきます」
森戸は邪気のない笑顔を向けた。
森戸の許《もと》を辞した小山田は、いよいよ妻を盗んだ男と対決するときが迫ったのを悟った。これまでに蒐《あつ》めた種々の情報が、新見を妻の男と指し示しているだけでなく、本能的に彼が探し求める敵だということがわかった。
妻を盗まれた哀れなコキュの本能が告げるのかもしれない。
新見と対決する前に、小山田は秘かに相手の偵察をした。体の特徴や年齢も、水明荘の仲居の言葉と符合している。
相手の顔を一目見たとき、妻の男だと直感した。新見は文枝の|好み《タイプ》の男だった。筋肉質の横幅のあるがっしりした体格、胸幅も、胸の厚みも、小山田の二倍くらいはありそうだ。若いころにスポーツで鍛えたような体ぶりである。
角張った顔に太い眉《まゆ》と鋭い目があり、いかにも一くせありそうな面構えであった。全身から男の精気がゆらめき昇っているような、男っぽさと、シャープな感覚を併せもっている。
つまり、病弱で貧相で、妻を盗まれはしまいかと、男の嫉妬《しつと》で常に目ばかりぎらぎら光らせている自分と、正反対の位置にいる男である。人生に敗残して、妻の稼ぎにすがって細々と生きている小山田と、人生を実力で積極的にかち取っていく新見は、両極にいた。
あの精悍《せいかん》な、男のにおいをむんむん発散させる厚ぼったい胸に抱かれて、妻は夫にも決して見せたことのない奔放な体位で官能の愉悦の中をうめきのたうちまわったにちがいない。
小山田からは決してあたえられなかった性の祭典の美酒の味を新見によって初めて教えられた。
――セックスってこんなにもすばらしいものだったの、ああ、私知らなかったわ――
――小山田との夫婦生活なんて、これに比べたらお医者さんごっこ≠ンたいだわ――
――もっともっと乱暴にして、あなたと二人だけのお祭りの美酒《うまざけ》を、盃《さかずき》の底まで飲ませて。これまでの失われた女の命を取り返すために――
と、少しでも深く近く新見を迎え入れようとして体を開ききった妻の姿が瞼《まぶた》に浮かんだ。姦夫《かんぷ》姦婦のすり合わせた全身から立ち昇る不倫の情事のほむらが小山田の胸を灼《や》いた。
小山田は嫉妬で狂いかかる自分を意志の力で抑えて、対決前の内偵≠行なった。相手が強力なだけに、周到な準備を要する。
彼が調べたところ、新見は四十一歳、東京工大機械工学部を卒業後、東洋精工(東洋技研の前身)に入社し、三十三年に現在の妻と当時の常務(現社長)の媒酌で結婚した。十五歳の娘と七歳の息子がある。持ち前の才能とあくの強さに加えて、現社長に可愛がられ、そのヒキで同社ずい一のエリートとして、出世街道を驀進《ばくしん》している。今年になって三月にアメリカ、七月にソ連へ出張したこともわかった。これも妻の新たな持ち物と符合する情況である。
ただし、女に関する噂はない。これは社長に仲人してもらっている手前、身を慎んでいるのだろうということだが、妻を盗まれた小山田には、新見の巧妙をきわめた情事の手口がわかる。情報管理部長という自分の専門職能をフルに活かして、私行を隠し通したのだ。
新見のシッポをつかむまでに、長い追跡《トレース》があった。それだけ彼は細心に自分の情事を隠したのである。
すべての準備は終わった。いよいよ新見と対決するときがきた。小山田は、相手の自宅へ乗り込むか、それとも勤め先を襲うか迷ったが、勤め先のほうが相手に対して脅威をあたえるような気がしたので、東洋技研へ行くことにした。
東洋技研の本社は、麹町四丁目にある。青い遮光ガラスで壁面を鎧《よろ》った近代的なビルは、いかにもその社の時流に乗った威勢をしめしているように見えた。
午前十時に、小山田は東洋技研の玄関受付に立った。新見が在社しているかどうか確信はない。だが、彼がいつも八時半に出社し、現在どこにも出張していないことは探り出してある。
午前十時ごろは、朝の会議やら、打ち合わせが一段落して、在社率の最も高い時間と踏んだ。
「新見部長にご面会ですか? お約束はいただいておりますでしょうか?」
受付嬢は予想したとおりの質問をした。
「べつにアポイントメントは取っていませんが、東都企業の森戸が、例の件について至急お耳に入れたいことがあると伝えてくだされば会ってくださるとおもいます。お手間は取らせません」
「東都企業の森戸さんですね」
受付嬢が森戸の顔を知っていると困るとおもったが、そのときは代理ということにするつもりであった。森戸の話しぶりからすると、新見にはかなり可愛がられている様子であった。森戸の名前を使えば、約束がなくとも会ってくれるだろうと考えたのである。
小山田は、応接室に通された。受付嬢は森戸の顔を知らなかったらしい。新見はすぐに来るということだった。最初の関門はどうやら突破した。小山田の全身は緊張で固くなった。
待つ間もなく、応接室のドアが開いて、新見が入って来た。
「おや、ここで待つように言ったんだがな」
そこに森戸の姿がないので、新見は首を傾げた。
「新見さんですね」
小山田は、相手の面にじっと目を据えてゆっくりと立ち上がった。妻を盗んだ男といま初めて真正面から対《むか》い合った。近くで見ると、ますます自分より優位に見える。体格、容貌《ようぼう》、社会的地位、経済力、人生に対する自信、すべてにおいて、小山田より優位に立っていた。
――こいつが、こいつの体が妻を共有したのだ。自分しか知らないと信じていた妻の体を開き、その美肉の味を堪能《たんのう》した。いや、共有ではなく、身も心も完全に奪いさったのだ――
新見のたくましい腕が妻のふくよかな体を抱き、その指が繊細な肉の襞《ひだ》を玩《もてあそ》び、その口が、彼女の唇と甘い蜜《みつ》を吸い、全身で彼女の肉体を貪《むさぼ》った。
小山田は胸の中にたぎり立つ憤激を抑えて、相手の優位をはねかえすように歩み寄った。
「私が新見ですが、あなたは?」
新見の面に不審の色が刷《は》かれた。
「私は、こういう者です」
小山田は、相手の前に名刺を差し出した。
「小山田さん……?」
新見から不審の色は除《と》れない。とぼけているのではなく、小山田の名刺が文枝に結びつかなかったらしい。おそらく文枝とは、『カトレア』で知り合ったのだろう。彼女の店名《げんじな》はなおみだった。
「おわかりにならないようですね。私はなおみの夫です。カトレアの」
「あっ」
新見の中年の自信に満ちた表情が動揺した。それは十分な反応であった。小山田の放った不意の第一矢が的を射たのである。
「妻をご存じの様子ですね」
「いや、ただ時々行く店のホステスとして知っていただけです。あなたがなおみさんのご主人でしたか」
さすがに新見は直ちに立ち直って、
「それで私に何のご用事ですか?」
と問うた。
「新見さん、とぼけないでください。あなたが家内と秘密の交渉をもっていたことはわかっているのです」
「何を言う! いきなり訪ねて来て変な言いがかりをつけないでもらいたい」
新見は、不意打ちの動揺から立ち直ると、もちまえの自信を取り戻して、いかにも外見貧相な小山田を圧倒しようとした。
「変な言いがかりと言うのですか? それではここへ水明荘の仲居を連れてまいりましょうか」
せっかく立ち直りかけた新見の姿勢が揺れた。顔が蒼白《そうはく》に引きしまった。
「この本は、あなたのものでしょう」
その機を逃さず、小山田は追い打ちをかけた。目の前に突きつけられた『経営戦略』を見て、新見は唇を震わせたが、なにも言わなかった。まったく無防備のところを突かれて、返す言葉が出て来ない。
「この本は、あなたが私の妻と寝た水明荘の一室に置き忘れたものだ。どうだ、これでもシラを切り通すつもりか」
新見の沈黙が、文枝との不倫を認めていた。
「家内は、ホステスとして夜の勤めに出ていた。媚《こび》を売るのが商売だから、多少のことは覚悟していた。すべては私が不甲斐《ふがい》ないところから起きたことだ。新見さん、あなたにも家庭がある。社会的な地位もある。このことが公けになったらまずいだろう。家内を黙って返してくれれば、これまでのことは不問に付すつもりだ」
小山田は、せっかくつかんだ優位を取り戻されないうちに、こちらの要求を出した。新見に妻盗人としての制裁を加えてやりたいが、いまは彼女を取り戻すことが先決であった。
「小山田さん、申しわけないことをしました」
新見は、さすがに頭の回転の速い男らしく、自分が言い逃れのきかない立場に追いつめられたのを悟ったようである。彼は、小山田の前にうなだれた。
天下の東洋技研きってのエリートとして社長の信任も厚い彼が、人妻のホステスと道ならぬ関係を結んだ事実が露われてはいかにもまずい。社長も背を向けるだろうし、家庭も崩壊する。
新見の全面降伏であった。
「申しわけないとおもったら、家内を返せ」
「今後いっさい、なおみ……いや奥さんとは連絡をとりません。誓って交渉を断ちます。ですからどうかこのことはご内聞に」
新見は、その場に土下座しかねない姿勢で頼んだ。社ずい一のやり手も、いまは自己保身に汲々《きゆうきゆう》としている。
――エリートだの辣腕《らつわん》家だのといっても、ザマはない――
小山田は、妻をこれまで盗《ひか》れつづけていた溜飲《りゆういん》が少し下がったような気がした。
「だから、妻を返せと言ってるんだ」
「私も、ただ許してもらおうとはおもっていません。せめてもの罪の償いとして、できるだけのことはしたいとおもいます」
「妻さえ返してくれればいいんだ」
「奥さんとは、今後いっさい交渉を断ちます」
「妻をどこへ隠した?」
「隠してなどいませんよ」
「まだシラを切るつもりなのか」
「はっきり金額を言ってもらったほうが、私もやりやすい。応じられる額なら、すぐに払います」
「金額? あんた、なにか勘ちがいしてるんじゃないのか。私は、金なんか欲しくない。妻さえ戻ってくればよいのだ」
「奥さんは、お宅にいないのですか」
「何だと?」
このときになって、二人はたがいの言葉が噛《か》み合っていないことにようやく気がついた。
「ここのところずっと奥さんから連絡が絶えていたので、私も心配していたのです。奥さんはお宅にいらっしゃったのではないのですか」
「冗談じゃない。あんたと駆け落ちした家内が家にいるはずがないだろう」
「ちょっ、ちょっと待ってください。なおみは……いや、奥さんは本当にお宅にいらっしゃらないのですか?」
「家内はいない。もう十日間も家を出たまま帰らないのだ」
「本当ですか?」
新見の面に驚愕《きようがく》の色が走った。演技している様子は見えなかった。不吉な予感が小山田の胸に墨のようにひろがった。
「あんたが家内を連れ出したんじゃないのか」
「ちがう、私は連れ出していない。連絡が途絶えたままなので、私なりに必死に探していたのだ」
「嘘をつけ!」
「嘘じゃない。なおみとは、私が店に行けないときでも一日に一回は必ず連絡を取り合っていた。それがここ十日、店にも出勤して来ないし、私の所にも連絡がない。家に連絡を取りたくてもご主人が出るかもしれないので、電話をかけられない。しかたなく、お宅の近所を歩きまわってそれとなく様子を探ってみたのだが、家の中にいる気配もない。私は、あなたが彼女と私の関係を悟って、私の手の届かない所に隠したのではないかとおもっていたんだ」
新見は、もはやポーズする余裕もなく、必死に陳弁した。自己保身のためだけではなく、彼にとっても文枝の失踪はショックだったのであろう。新見の表情は真剣だった。嘘をついているようには見えなかった。
「本当に文枝の行方を知らないのか?」
「知らない。これまでこんなに長く連絡を絶ったことがないので、私も心配していた」
小山田は事態の容易ならないことを悟った。ようやく探り出した妻の不倫の相手が、その行方を知らないとなると、いったいどこへ行ったというのか? 小山田から、新見の言葉に腹を立てる余裕も失われた。
「奥さんの立ち寄りそうな先は、当たってみたのですか?」
新見は、言葉を改めてたずねた。彼らは、いまや共通の対象を追う捜索人同士であった。
「あんたが最後に家内に逢《あ》ったのは、いつなんだ?」
新見が答えた日にちは、文枝がついに帰宅しなかった夜に符合していた。その言葉が真実なら、彼女は新見に逢っての帰途、消息を晦《くら》ましたことになる。
「家内と最後に逢ったとき、なにかおかしな素振りはなかったか?」
いまや情事の存在を咎《とが》めているときではなかった。こうなってみると、妻と新見との最後のデートが、彼女を追う唯一の手がかりとなるのである。
「べつになんの変わった素振りも見せませんでした。いつものように零時半ごろ水明荘で落ち合って、午前二時ごろ亀の子ハイヤーを呼んで自宅まで送らせたのです」
「そのハイヤーの運転手は?」
「いつも大須賀とかいう運転手を指名していました。しかし、途中、何事もなくお宅の近くまで送ったことを確かめています」
その事実は、小山田もすでに確認してあった。すると、文枝は、ハイヤーから降りて、自宅へ帰るまでのわずかな距離の間に蒸発してしまったことになる。これまではそこに新見の意志が働いていたとばかりおもっていたのだが、無関係となれば、正体不明の第三者が介在することになる。
そのXは何者か? またはたして何のために彼女を隠したのか?
新見にとっても、自分と夫の許以外に、文枝が十日間も姿を潜めてあらゆる連絡を絶つような場所をもっていたことが、意外であり、ショックであったようだ。夫から盗み取ったぐらいだから、女は自分に最も一心を傾けているという自信があった。それが自分以上に強い傾斜を預けている人物がいた。
新見の立場と心理は複雑であった。彼は他人の妻を盗んだ身でありながら、愛する女を盗まれ、犯されたような倒錯した心理に陥っていた。その意味で彼と小山田は同じ被害者の立場にいたのである。
小山田にも新見の心の内が多少わかるような気がした。そのために、これまで抱いていた反感と憎しみが少しうすれかけていた。彼らはいまたがいに協力して妻と愛する女を取り返さなければならない意識になっていた。
「新見さん、あなたは家内からの連絡が絶えてから、彼女の行方を探したと言いましたね」
小山田が言葉遣いを改めたのは、妻をさらったXに対する一種の共闘意識≠ェ働いたからであった。
「私なりに探してみました」
「それでなにか手がかりを見つけましたか?」
「残念ながらなにも……」
新見は面目なげにうつむいた。二人の間から言葉が失われた。重くるしい沈黙だった。沈黙が落ちると同時に、二人の敵対関係が復活した。新見は依然として小山田の妻をかすめとった許すべからざる盗人であった。
その重くるしい圧力をはねかえすように、新見が面を上げた。
「これが手がかりと言えるかどうかわかりませんが」
「何か見つけたのですか?」
小山田は、手がかりの有無よりも眼前の重くるしさから救われるのを喜ぶように、新見の言葉に飛びついた。
「奥さんがカトレアを無断欠勤した翌日、お宅の近くへ様子を見に行ったのです。そして鳥居の前で妙なものを拾いました」
「何ですか、それは」
「熊の縫いぐるみなんですよ、このくらいの大きさの」
新見は両手を広げて、大きさをしめした。
「熊の縫いぐるみ?」
「それが奥さんの失踪《しつそう》に関係あるかどうかわかりませんが、とにかく彼女が車から降りた近くに捨ててあったのが気になったので、拾ってきました」
「近所の子供が捨てたんじゃありませんか?」
「たぶんそうでしょう。だいぶ古くなった縫いぐるみです。社のロッカーに入れてありますから、いま、もってまいりましょう」
新見は立ち上がった。家に持ち帰れないものなので、会社に置いたのだろう。間もなく彼が手にしてきたものは、なるほど古ぼけた熊の縫いぐるみであった。幼児がその背中にまたがれるほどの大きさで、背中のビロード地は毛がすり切れて糸地が露《あら》われている。子供がいつも身辺において遊んでいたらしい。全体に手垢《てあか》で黒光りしていた。
とうにお払い箱にしても決しておかしくない代物だった。
「鳥居前のどの辺にあったのですか?」
「道の端の草むらの中に落ちていました。鳥居に向かって右の柱の台石の近くです。よく見ないと、見過ごされる所です」
「この縫いぐるみは、いつごろからそこに捨てられてあったとおもいますか?」
「わかりません。しかしごらんのように古ぼけてはいるものの、長い間野ざらしにされたものでないことはわかるでしょう。捨てられたにしても、私が拾う一日か二日前だとおもいます」
「なるほど。すると、文枝が姿を晦ましたときとあい前後して捨てられた疑いが強くなりますね」
小山田の目が光ってきた。
「そうです。私もそう考えたので、拾ってきたのです」
「新見さん、あなたはこの熊を、家内を連れ去っただれかが残していったと考えたのですか?」
「断定はできませんが、可能性はあるとおもいます」
「もしそうだとすれば、何のためにこんなものを置いていったのでしょう?」
「よくわかりませんが、置いていったのではなく、ついうっかり置き忘れていったのではないでしょうか?」
「置き忘れる? こんな大きなものを」
「何者かが奥さんを連れ去る前に、これをかかえていたとすれば、置き忘れるはずがないでしょう。しかし、私もいまふと考えついたことなのですが、何者かが熊をなにかに乗せてきたとすれば……」
「なにかに乗せて? その何者かは車で来たのですね」
「そんな遅い時間に彼女をどこかへ連れて行くためには、車が必要だったでしょう。奥さんを車に乗せる前に、シートに置いてあった熊を落としたのかもしれない」
「新見さん!」
縫いぐるみを詳細に観ていた小山田が突然、強い声をだした。
「この熊の右の後足内側にシミのようなものが付いていますね」
新見は小山田の指す個所に目を向けて、
「そう言われてみると、なにかのシミのようですね。気がつきませんでした」
全体に垢で黒光りしているので、垢なのかシミなのか判然としないのである。
「このシミは血じゃないでしょうか」
「何ですって!」
意外なことを言いだした小山田に、新見は改めて縫いぐるみに視線を向けた。
「見ただけではわからないけれど、もしこれが血、それも人間の血だとすると……」
小山田は、何事かを暗示するように新見の顔を凝視した。
「小山田さん、あなたはこのシミを奥さんの血ではないかと考えているようですね」
新見は、小山田の暗示の重大さを悟って、表情をひきしめた。
「ふと家内の血ではないかという疑いが頭をかすめたのですが、いったんそうおもうと、そうにちがいないような気がしてきました」
「もしこれがなおみの血だとすれば、どういうことになりますか?」
新見からも、彼女の店名を翻訳する余裕が失われている。
「新見さん、率直に聞きますから、隠さずに答えてください。あなたは文枝に対して自信がありましたか?」
「自信というと?」
突然、質問の方向を変えられたので、新見はすぐに反応できない。
「文枝があなたを愛していたという自信です」
「…………」
「隠さずに言ってください。いまはそれを咎《とが》め立てするつもりはありませんから」
「それでは正直に申し上げます。彼女は私を真剣に愛していました。私も決して単なる浮気のつもりではありませんでした。たがいに社会のさまざまなルールに縛られて、結婚はできないが、その枷《かせ》の中で、精一杯愛し合おうと誓っていたのです」
「その文枝が、あなたに一片の連絡もせずに突然姿を晦《くら》ましてしまうことが考えられますか?」
「考えられません。だから心配でここのところ夜もよく眠れないのです」
「最後のデートのとき、次に逢う約束をしましたか」
「しました」
「次のデートはいつでした?」
「三日後、いつもの時間に水明荘で落ち合う約束をしました」
「その約束もすっぽかして、彼女は突然、蒸発してしまったのです。ということは、彼女の蒸発は、その意志によるものではなかったと考えられませんか?」
「彼女の意志ではないと?」
「そうです。家内は愛するあなたにすらなんの連絡もせずに姿を消したのです。女がそんなことをするはずがない。現に、それまでは毎日のように連絡を取り合っていたのでしょう」
新見は、小山田の言わんとするところを探るような目をしてうなずいて、
「すると、なおみは何者かに、その意に反して誘拐《ゆうかい》されたとでも」
「そして現場には血痕《けつこん》らしいものを付けた熊の縫いぐるみが残されていた。何者かは車でそこまで来た可能性が高い。家内を車内に引きずり込むはずみに、熊が落ちた。熊と家内がそのとき入れ替えになったとすれば、熊に家内の血が付く機会は、そのときしかない。ということは、家内が車内へ引っ張り込まれたときは、すでに血を流していたことになる」
小山田は、いま自分自身驚くほど頭が冴《さ》えて、推理の車が回転するのを感じた。もちろんこの推理は、「熊のシミ」が、文枝の血痕であるという仮定に基づいてのことである。
「小山田さん、まさかあなたは……」
新見は、小山田の恐ろしい推理の先を読んで顔をゆがませた。
「熊が車で運ばれてきたと指摘したのは、あなたですよ。たしかに車ででも来なければ、置き忘れるはずがない。そして熊と入れ替わりに、家内が車に乗せられた。後には血痕の付着した熊が残された。彼女が一日でも離れていたくないあなたには、その夜を最後に連絡が絶えた。となれば、家内をその場へ残しておけないような事態があの夜突発したとしか考えられないのです」
「小山田さん、あなたはなおみがもうこの世の者ではないとお考えですか?」
「残念ながらそう考えざるを得ません。もう消息を絶って十日にもなるのです。交通事故にでも遭ってどこかの病院に収容されていれば、当然連絡が来るはずです」
「収容されたものの、意識不明で身許《みもと》がわからないのでは」
「持ち物からわかるでしょう。たとえ持ち物がなくなっていても、報道はされるはずです」
小山田と新見の立場があたかも逆転したようであった。新見は、まるで自分の妻の身を案じるように強いて楽観へ目を向けようとしており、小山田は、他人事のように客観的な視点に立っていた。小山田はそれが二人の男の文枝に対する現在の愛の位置と姿勢だとおもった。
夫としてそれを認めるのは悲しいことではあったが、新見と話しているうちに、認めざるを得なくなっていた。小山田の客観性は、彼の敗北の印と言ってよかった。だが敗北はしても、妻の行方を追う熱意は失っていない。せめてなきがらだけでも探し出し、失われた愛の形見として、自分の手で葬ってやりたかった。
だが彼らはいま、推測から導き出された結論を具体的な言葉に表すのを、たがいに恐れていた。悲観と楽観の視点のちがいはあっても、結論を言葉にすると同時に、事実として確定してしまうような不安におののいていた。
――Xは、黒い凶器に乗って、暗夜、文枝の背後から襲いかかった。突然振るわれた凶暴な力を無防備にうけた彼女は、ひとたまりもなかった。Xのほうにも殺意はなかった。自己の不注意から招いた重大な結果に動転した。
だが一時の動転から立ち直ったXは、自分の身を守るために、文枝をどこかへ運んで行った。そのときすでに彼女が死体となっていたか、あるいはまだ生きていたかわからないが、そのことはあまり重要ではない。暗夜、目撃者のない場所での事故だ。被害者さえ隠してしまえば、Xは安泰である。犯行の場所さえわからない完全犯罪が成り立つ。こうしてXは、文枝の体をどこかへ運んで隠してしまった。Xの犯したただ一つのミスは、彼女と入れ替えに熊を残したことだ。――
それが二人の推理の辿《たど》り着いた結論であった。
「とにかく、この熊のシミを分析してみるまでは、断定できませんよ」
「交通事故の現場は、時間が経つほどに痕跡がうすれてしまいます。もうあれからだいぶ日数が経っているので、あまり見込みはありませんが、私は自力で熊のあった近くを捜してみるつもりです。熊のシミが家内の血液と確定すれば警察も動いてくれるでしょう。新見さん、協力していただけますね」
「もちろんです。私にできることならなんでもいたしますよ。とりあえず知人にその方面の医者がいますから、シミを分析させてみます」
二人の間に奇妙な同盟が結ばれた。一人の女を共有(あるいは奪い合い)した二人の男は、いま、彼女を横から奪い去ったXに対して共同して宣戦した。奪い合ったものが失われたことによって生じた連帯である。
奪い合いが激しかっただけに、その連帯には強固なところがあった。
[#改ページ]
断絶の疾走
「どこへ行くつもりなの?」
朝枝路子はライトの切り裂く闇の前方に目を据えたまま言った。
「この道のつづくかぎりさ」
郡恭平は、ニヒリスティックな口調で答えた。
「気障《きざ》な言い方ね」
路子は、鼻の先で笑ったようだった。
「本当にそうおもってるんだから、仕方がない」
平日の深夜で、車の姿はほとんどない。航空機の操縦席《コツクピツト》のような|計  器  盤《インストルメント・ボード》には、速度、エンジン回転計、燃料、油圧、水温をしめす計器類が機能的に配列されて、時速百二十キロの高速で移動する機械の状態を正確に伝えていた。ダッシュボード中央の時計は午前二時を過ぎている。
「あまりスピード出さないで」
「恐いのか」
「べつに恐くなんかないけど、高速道路でもないのに、そんなに出すと、なにか飛び出したときに停められないわよ」
「なにが飛び出しても停めたくないね」
「あなたはいいけど、相手が迷惑よ」
「いやに今夜は殊勝なことを言うじゃねえか」
「馬鹿馬鹿しくなっちゃったのよ」
「馬鹿馬鹿しい?」
しゃべっている間に自然に注意をその方へ奪われて、スピードが鈍ってきた。もともとこの区間では、時速百キロを超えるスピードをそれほど維持できない。日本の一般道路は、まだまだスピードを玩《もてあそ》ぶために延べられていない。
「何が馬鹿馬鹿しいんだ?」
恭平は、質問を反復した。
「なにもかもよ、母に反抗して家出したことも、こうやってあなたと走りまわっていることも」
「それこそキザなせりふというもんだぜ」
「そうかしら? ねえ、私たちいったい何のために生まれてきたのかしら」
「そんなこと知らねえよ。べつに親に産んでくれって頼んだわけじゃない」
「だれだって頼まないわ。でもみんな大して疑いももたずに生きているわね」
「きみは疑いをもってるのか」
「このごろふっと考えることがあるのよ。私なんて生まれてこなかったほうがよかったんじゃないかって」
「つまらねえ疑いはもたねえことだな」
恭平は、サイドボードから煙草を抜き出して口にくわえた。路子が計器盤からライタープラグを抜いて差し出しながら、
「私ねえ、母がよく言うのよ、おまえはまちがって産んでしまったと。安全期間の計算をまちがえたんですって」
と言った。
「ふん、くだらねえな」
恭平は片手でハンドルを操りながら、煙草の煙を吐いた。
「くだらないでしょう。私って、出生そのものがくだらないのよ。親にも歓迎されずに生まれてきたのよ。あなたのようにサラブレッドのお坊っちゃんとはちがうわ」
「おれがサラブレッドの坊やかよ。とんだお笑いぐさだ。おふくろは、おれのおかげでスターになれたんだ。そしておやじは、おふくろのスターの名前を利用している。家族みんなが利用し合ってる」
「いいじゃないのよ、しあわせならば」
「歌の文句のようなことを言うなよ。しあわせなんて生まれたときから縁がなかったね」
「あなたは、本当の不幸がどんなものか知らないのよ。あんまりしあわせなんで、不幸ぶってるだけなんだわ」
「おれのしあわせは、遠足に千円もらうような種類のものだったんだ。親は、金品で子供のまわりを固めれば、親の責任を果たしたとおもってやがる。いま住んでるマンションだって、この車だってそうだ。みな遠足の千円札≠ニ変わりねえんだよ。きみは親がまちがえて産んだと言ったが、おれの場合は、産むべきじゃなかったね」
「だから、私たち同類ってわけ?」
「そうだ。難しく考えることはない。親がその気なら、こっちもそのつもりになればいい。親から毟《むし》れるだけ毟り取って復讐《ふくしゆう》してやるんだ」
「そんなことが復讐になるの?」
「なるとも。全国母親教≠フ教祖、八杉恭子の息子が途方もないフーテンだとは、いい気味じゃないか」
「そんなことなんにもならないわよ。あなたがフーテンだなんて、私たちの仲間しか知らないもの。本当に復讐するためには、人目を惹《ひ》くような派手なことをやらなければだめよ」
「…………」
「お母さんやマスコミの前で模範息子の演技をしているかぎり、復讐なんて、とてもできないわね」
「…………」
「どうしたの? 急に黙っちゃったわね、要するにあなたのやってることなんて、お坊っちゃんがちょっとすねてるだけなのよ。親の掌《てのひら》の上で暴れまわってるだけよ。この車も、マンションも、親の掌なのよ。どこまで走って行ったところで、あなたは親の枷《かせ》から逃げられないわ。お釈迦《しやか》様の掌の上で暴れた孫悟空《そんごくう》みたいに」
「おれがサルだというのか」
「大してちがってないでしょ?」
「ちくしょう!」
ちょうど車が直線道路の端へさしかかっていた。恭平は、吸いかけの煙草をダッシュボードにもみつぶすと、ギラギラした目を前方へ据えた。
路子にかきたてられた感情が、アクセルを踏む足に移った。いったん七十ぐらいに落ちていたスピードが跳《は》ね上がるように急加速される。スピードメーターの針がぐんぐん上がる。加速度で身体がシートに押さえつけられる。エンジンの騒音が急に高まった。
GT6MK2は、抑えつけられていた機能を限度いっぱいに絞り出そうとしていた。すべての制限を解かれて鋼鉄のハイエナのように走りはじめた。エンジンは、ハイエナの咆哮《ほうこう》であり、ミッションは疾駆する脚のバネの弾音である。風が唸《うな》った、それは血に飢えた獣のような唸り声だった。
「止《や》めて!」
路子が叫んだが、恭平はエンジンの音にかき消されて聞こえない振りをした。
「そんなことをしてもなんにもならないわよ」
路子は叫びつづけた。恭平は耳もかさず、加速しつづけた。高速のために視野が狭くなった。闇を切り裂く光芒《こうぼう》の前方を黒い物体が突然、横切ったように見えた。
恭平は、慌てて急ブレーキを踏んだ。急すぎて踏力がそのまま足に感じられない。急激な制動をうけた車体は、その無理を全身で抗議するように悲鳴をあげた。路面とタイヤが噛《か》み合って、夜目にもわかる白煙を吹いた。車の重心が前輪に移り、軽くなった後輪がブレーキロックを起こした。
トップヘビーになった車の尻《しり》が左に引かれた。あっという間に車体は凄《すさま》じいスピンを起こした。踏みかえてロックをレリーズする余裕もない。完全に方向のコントロールを失った車は、氷上を滑るように、死をいっぱいに孕《はら》んだ暗黒の中へ吹っ飛んで行った。
車体がバラバラに分解しそうな激しい重力の移動の中で、車の悲鳴に二人の悲鳴が加わっていた。
車は、恐ろしいスピンを五、六度くりかえしてようやく停まった。車が停まった後も、二人は、しばらくその場から身動きできなかった。恐怖の凄じい握力によってわしづかみにされたために、萎縮《いしゆく》した心臓がしばらくの間、鼓動を止めてしまったようであった。
先に我に返ったのは、路子である。
「ねえ、なにかに当たったんじゃない」
彼女に話しかけられても、恭平はまだ茫然《ぼうぜん》としている。
「ねえ、しっかりしてよ、停める前になにか黒い物が前をかすめたでしょ、たしかになにか接触した感じがあったわ」
「接触したって……」
恭平がようやくつぶやいた。
「なに言ってんのよ、あなたが運転していたんじゃない。早く確かめなければ」
路子に叱咤《しつた》されて、恭平はのろのろと身体を動かしかけた。衝撃のためにボディーが歪《ゆが》んだのか、運転席側のドアが開かない。
「こちらから降りるのよ」
いち早く車外へ降り立った路子が呼んだ。恭平は助手席を伝ってようやく外へ出た。前部バンパーやラジエーターグリルが少し歪んでいる。明らかになにものかと接触した痕跡《こんせき》であった。あのスピードで接触された相手は、さぞひどい状態に陥っているにちがいない。
相手が犬や猫のたぐいであればよいが、もし人間だったら……、スピンをしたときとはべつの戦慄《せんりつ》が恭平の背筋を走り抜けた。
「こっちになにかいるわ」
車体の後方を探していた路子が叫んだ。つづいて恐ろしい言葉が追いかけてきた。
「人間だわ、人間を轢《ひ》いたのよ」
恭平は予測した最悪の事態に陥ったことを悟った。それは路肩から少し外れた草むらの中に、ぼろの塊《かたまり》のようにうずくまっていた。
「女の人だわ」
遠方から来るうす明かりの中に目をこらすと、ぼろは開いた落下傘《らつかさん》のように見えた。その間から白い脚が二本、ねじれるように突き出ている。若い女らしい。
「ひどい怪我だわ、髪の毛が血に浸《ひた》したみたい」
路子の声が震えた。
「まだ生きてる」
恭平は虫の息ながら、まだ相手が生きているのを認めた。いや、死にきっていないといったほうが正確であろう。
「それじゃ、医者にみせなければ」
「救急車を呼ぶにしても電話がない」
野末に疎《まば》らな灯《ひ》が散っている。寂しい場所だった。車の通行も絶えている。
「ねえ、どうするの」
路子の声は、完全に動転していた。恭平は被害者の体を抱きおこした。
「ねえ、いったいどうするつもりなのよ」
「とにかく病院まで運んでいこう。足の方をもってくれ」
二人は、被害者の体をリアシートにかつぎ入れた。
「早く連れていかないと、死んじゃうわ」
しかし病院へ運んだところで、救かる保証はない。また被害者の損傷次第では、生命を救えたところで、身体が元どおりになるかどうかわからない。
いずれにしても、恭平の責任は重大である。暴走のあげく、人を轢いた。女を助手席に乗せて深夜の暴走をしたあげく、おこした人身事故である。言い逃れはできない。
灯の密集している方角に車を向けながら、恭平は自分が直面している事態の重大さを痛いように感じた。
「死んでるわ」
リアシートの気配をうかがっていた路子が悲鳴のような声をあげた。
「何だと!?」
「この人、もう息していないわよ」
「まさか」
「本当よ、あなた、自分で確かめてごらんなさい」
恭平は、いったん車を停めて血浸しになった被害者に顔を近づけて観察した。
「ねえ、死んでるでしょう」
恭平は茫然とうなずいた。これで絶望的状況がしかと確認されたのである。
「病院より、警察へ行かなければ」
路子が譫言《うわごと》のようにつぶやいた。その言葉によって我に返ったかのように、運転席に戻った恭平は、車を発進させた。急な加速で発進した車は、タイヤを鳴かせながら急転回した。
「どこへ行くつもりなの?」
灯の集まっている方角に背を向けて走りだしたので、路子はびっくりした。路子に答えず、恭平は闇がいっそう濃くかたまった方角に向けてスピードを速めている。
「こんな方角に警察があるの?」
「いったい何を考えてるの?」
「返事をして!」
目を前方に据えて、ひたすら車を進めている恭平に、路子は不吉な予感をおぼえていた。
「あなた、まさか!」路子は自分の予感を言い当てるのが恐ろしかった。
「きみは黙って従《つ》いてくればいいんだ」
恭平がようやく言葉をもらした。
「おかしな考えは止めて。とても逃げきれないわ」
「やってみなければわからないだろう」
「じゃあ、本当に逃げるつもりなのね」
「だれも現場を見ていた者はいないんだ。死体さえどこかに隠してしまえば」
「止めて、そんな恐ろしい考えは。いまのうちに届け出れば軽い罪ですむわよ。人を轢いて、死体を隠したりしたら、殺人よ」
「だったらどうだというんだ。見つからなければいいんだ。そして絶対見つけられない場所に隠すよ」
「そんなことできっこないわ。いまのうちに引き返すのよ」
「いやだね、こんな真夜中、若い女がうろうろ歩きまわっていたのが悪いんだ。向こうが勝手にぶつかってきたんだよ。そんな責任を取らされるのは、ごめんだね」
「あなた狂ってるんだわ」
「もう引き返せない。きみだって共犯なんだぜ」
「私が、共犯ですって?」
「そうさ、同じ車に乗っていたんだ。きみが車を運転していたかもしれないんだぜ」
「それどういう意味?」
「どちらがハンドルを握っていたか、見ていた者はいないということさ」
「卑怯《ひきよう》だわ」
「おれだってそんな卑怯者になりたくない。だから黙っておれに従いてくるんだ」
共犯≠ニいう言葉が、路子の抵抗に止《とど》めを刺した。彼らの向かう先を、ますます濃密な闇が閉塞《へいそく》している。山が近づいて来たのか、なにものか巨大な影が行く手に立ちはだかっているような闇の暗さであった。
一瞬の不注意によって、途方もない事故を惹《ひ》き起こしてしまった。だが郡恭平と朝枝路子にとって魔の陥穽《かんせい》は、その事故の後に底のない暗い口を開いていたのである。
事故発生と同時に被害者を救護するために全力をつくせば、それは事故の域に留めることができた。
相手を傷つけ、あるいは死に至らしめたとしても、あくまでも過失である。過失犯と故意犯では、罪質に大きな開きがある。
恭平の場合、自分を衛《まも》ろうとする本能が誤った方向に働いた。被害者が死亡したのを確かめたとき、恭平は灯の群がる明るい方角に背を向けて、暗い方へ暗い方へと車を走らせた。路子の制止や忠告に耳をかさず、ひたすらに闇のたむろする方角へ向かって走った。
それはこれから先の彼の人生を暗示するような方向であった。暗夜、目撃者のいなかったことが、魔の陥穽への落下に拍車をかけた。
彼らは光をゴキブリのように避けながら、山地の奥へ向かって走った。人里から離れた山林の中へ被害者の死体を埋めたとき、二人はもはやどう逃れようもない暗渠《あんきよ》の底へ落ちこんだのを知った。
恭平の決意をひるがえすことができないと悟った路子は、死体の隠匿《いんとく》作業を手伝った。奥多摩山地の暗い林の中であった。自動車修理用の工具で、土を掘り返すのは、辛《つら》い作業だった。だがここまで来てしまった以上、もう引き返せない。地獄に堕《お》ちたからには、せめて地獄における安全を確保しなければならなかった。
獣や野犬に掘りおこされないように、穴は深く掘らなければならない。作業のための灯《あかり》はつけられない。梢《こずえ》ごしに覗《のぞ》くわずかな星の光だけが頼りの作業である。穴の深さは彼らの犯した罪と、絶望の深さに比例していた。
ようやく埋め終わったとき、暁が近づいていた。東の方角に弾む暁の気配は、彼らにとって危険信号であった。一刻も早くこの場から離れなければならない。人里離れた山地といっても、人の入り込んでいない保証はないのだ。
それをよく承知しながら、作業を終えた彼らは、しばらくぐったりして、その場を動けなかった。ようやく放心から醒《さ》めると、恭平は激しく路子を求《もと》めた。路子も拒まなかった。
彼らは死体を埋めたばかりの土の上で狂ったようにたがいを貪《むさぼ》り合った。二人は一体となったとき、身も心も共犯者になったのを感じた。
これからはじまる終わりのない逃亡の生活の中で、たがいだけがただ一人の道連れであるのを確かめるように、二人は相手の体を確かめ合った。
事件はまったく報道されなかった。言葉どおり闇から闇に葬られてしまったらしい。恭平らは、被害者が死んだのに動転して、その身許《みもと》も調べずに埋めてしまった。持ち物もいっしょに埋めた。したがって、彼らは被害者がだれだか知らない。ただわかっているのは、水商売風の若い女ということだけである。それも、接触時のショックで、死体がむごたらしく傷ついていたので、顔もよく見ていなかった。
「最近は蒸発人間が多いので、急に姿が見えなくなっても、大して怪しまれないんだろう」
戦々恐々としていた恭平は、数日してもなんの報道もされないので、いくらかホッとしたようである。
「家族が行方を捜しているかもしれないわ」
路子が、まだ気を抜くのは早いと戒めるように言った。
「家族もいないアパートの独り暮らしだったかもしれないよ」
「そんなこと、こちらの希望的観測というものだわ。死体が見つけられないかぎり、家族が捜索願いを出したくらいでは、報道されないわよ。こうしている間も、家族が私たちの後を追っていると考えるべきね」
「素人が追いかけて来たところで、どうということはないさ。警察だって捜索願いくらいじゃ動かない。だれもおれたちのやったことを知らない。そのうちに死体は土の中で骨になってしまう。びくびくすることはないんだ」
恭平は、しだいに強気になってきた。車は、惜しかったが路子のすすめにしたがい、少しずつ解体して、廃車にしてしまうことにした。車体が頑強だったので、損傷はわずかだったが、万全を期したのである。解体後、エンジンその他の使える部分《パーツ》を合成して合成車《カスタムカー》≠つくるつもりだ。これならどこからも足はつかない。
初期の不安と緊張がようやくゆるみかけたとき、路子が戦慄《せんりつ》的な失《う》せ物に気がついた。
「あなた、このごろ熊が見えないようね」
「くま?」
「あなたのペットの熊の縫いぐるみよ。どこへ行くにも手放さなかったじゃない。いったいどこへやっちゃったの?」
「そう言えば、最近、見当たらないなあ」
恭平は、いまごろになってようやく気がついた表情をした。これまで罪の意識と緊張で、ペットのことをすっかり忘れていた。
「最後に見かけたのは、いつごろだったかしら?」
なにげなく言いかけて、路子は顔をこわばらせた。
「ねえ、あの夜、熊を車に乗せていなかった?」
「あの夜」が、事故を起こした夜を意味するのは、もちろんである。
「まさか」
恭平の面に、急に不安の影が揺れた。
「まさかじゃないわよ、よくおもいだしてちょうだい。あの夜、熊を乗せていなかったかどうか」
「たぶん、乗せていなかったとおもうけど」
「たぶんじゃだめよ。あなたはマスコットのように、熊をもち歩いていたわ。私は、車の中にあったような気がするわ」
「それが失くなっているとすると……」
「呑気《のんき》に構えている場合じゃないのよ。車の中にあったものが、失くなっていれば、どこかに落としたんだわ」
「きみは、熊をあすこへ落としたというのか?」
「可能性はあるわ。あの夜、途中で停まって車の外へ降りたのは、あの二か所だけなんだから」
「二か所?」
「轢《ひ》いた所と埋めた所よ。あんな場所に熊を落としたとすれば、大変な証拠を残したことになるわ」
「でも、あの夜の前か後に失くしたかもしれないじゃないか」
恭平はなんとか楽観的に考えようとしていた。
「ということは、あの夜も可能性があるということよ」
いまや二人とも蒼白《そうはく》になっていた。忘れかけていた恐怖がよみがえり、心臓をわしづかみにしていた。
「どうしよう?」
だらしなくも恭平の声は、震えていた。女のほうが冷静であった。
「まだ現場に残っているかもしれないわ」
「いまから捜しにいったら危険じゃないか?」
「危険ではあるわね。でも、まだなんの報道もされていないところをみると、あの女が車に轢《ひ》かれたと疑っている人間はいないとおもうわ。それに事故現場がどこかわからないはずよ。あの女とぶつかったのは、路肩ぎりぎりの所だったし、女が倒れたのは、草むらの中だったから。少しぐらい血が流れたところで、泥の中に吸われてしまうわ。車が頑丈だったので、車体は少し凹《へこ》んだくらいよ。ガラスも割れなかったし、破片もほとんど落ちなかったわ。あの場所には私がそれとなく行ってみるわ。あなたは、死体を埋めた付近をハイカーの振りをして探してちょうだい。こちらは死体さえ見つけられていなければ、大丈夫よ。少しでも危い気配があったら、近づいてはだめよ」
「おれ一人で大丈夫かな」
恭平は心細げな声を出した。
「なに言ってんの、あなたが蒔《ま》いた種じゃないの。二人より一人のほうが目立たないわ」
「おれは、場所をよく憶《おぼ》えていないんだ」
「あなたは、本当にお坊っちゃんなのね、しかたがないわ、いっしょに行ってあげる。あなたさえシャンとしていれば、こんな危険は冒《おか》さずにすんだのよ」
「すまない」
主導権を完全に路子に握られた恭平は、彼女の意のままに動く傀儡《かいらい》でしかなかった。
だが、彼らの捜索もむなしく、熊はついに発見できなかった。
「やはり、どこか他の場所へ落としたんだ」
恭平は早くも楽観へ傾いた。
「安心するのは早いわよ。私たちが捜しに行く前に、だれかに拾われた可能性があるじゃないの」
「あんな汚れた縫いぐるみを、だれが拾うもんか」
「あなたって、本当に天下太平にできてるのね、私たちを追いかけている人間が拾ったかもしれないのよ」
「きみは心配性なんだよ。いや臆病《おくびよう》すぎるんだ。最悪の場合を想定して、たとえ、あの熊がおれたちの追跡者の手に入ったとしても、どうやっておれの持ち物だということがわかるんだ。熊に持ち主の名前なんか付いてないし、熊とおれを結びつけるものはなにもない。また、現場に熊が落ちていたところで、必ずしも事件に関係ない。あんなぼろがどこに落ちていたって不思議はないよ」
「だから、あなたはおめでたいのよ」
路子は嘲笑《あざわら》った。
「なに、おれがおめでたいだと!?」
と恭平が憤然としかかるのへ、
「そうよ。あの熊が母親代わりだって、あなたの口から言ってたじゃないの。いい齢《とし》をして、まるで幼児みたいに熊をかかえ歩いていたから、あの持ち主があなただということは大勢の人が知ってるわ。証拠物件として突きつけられたら、逃げられないわよ」
路子は容赦なく言った。
「同じ縫いぐるみなんか、いくらでもある」
と恭平は反駁《はんばく》したが、その口調には力がなかった。
「とにかく失くなったものは、しかたがないわ。でもこれから油断は禁物よ。いついかなるときでも、追いかけて来る人の足音に耳を澄ましているのよ」
路子は釘《くぎ》を刺した。
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過去をつなぐ橋
ジョニー・ヘイワード殺害事件の捜査は膠着《こうちやく》していた。ニューヨーク市警から送られてきた「キスミー」なるキイワードは、結局、なんのことかわからなかった。
事件が発生してから二十日間の第一期は、たちまち過ぎた。この間休日を返上し、足を棒にしての捜査にもかかわらず、なんの収穫も得られなかった。すべての仮説は打ち消され、事件は迷宮入りの様相を呈しかけていた。
「ちくしょう、アメリカのやつら、てめえの国の人間が殺されたのに、キスミーとは人を馬鹿にしてやがる」
横渡刑事は、猿のような顔をますます赤くして毒づいた。だいたい彼には、異国の人間がはるばる日本までやって来て死んだのが、おもしろくなかった。
「なにもこんな狭い国へわざわざやって来て死ななくとも、世界に死に場所はどこにだってあるだろう。それでなくとも、多発する事件に追いまわされているのに、外国人の面倒までとても見きれない」
というのである。
「しかし、ガイシャも好きこのんで殺されたわけじゃないでしょう」
河西刑事がやんわりと反駁《はんばく》した。彼は捜査一課の刑事というより、まるで銀行員のようなタイプである。服装にいいかげんな男たちの多い刑事部屋で、夏でも背広をきちんと着て、下のボタンまでもかけている。きちんとしすぎていて、かえってヤボッたく見えるほどだ。
「おれは気に入らないね。だいたいおれはガイジンってのは嫌いなんだ。特にアメリカやヨーロッパのやつらは、物質文明の水準では、日本に追い抜かれているのに、先進国面をしやがる。自国のニューヨークやパリも知らない外国の田舎っぺが東京へいきなりやって来て、内心びっくり仰天しているくせに、精一杯、先進国ぶって虚勢を張っている。てめえらのほうが、いろいろな面においてよっぽど後進国なんだ」
「ヨコさん!」
「日本人がニューヨークで殺されたって、こんな丁寧な捜査はしてくれなかっただろう。日本人は外国人と見るとへつらいすぎるんだ。だからなめられるんだ」
捜査の行き詰まりが、飛んだ八つ当たりになりそうな気配に、那須班の面々は苦笑した。
しかし横渡がいくら毒づいたところで、捜査は少しも進展しない。初期捜査の気負いが疲労に圧迫されて、捜査本部の空気は重くるしく澱《よど》んでいた。
そんなとき、一人の男が捜査本部を訪ねて来た。男は中野区に本社のある『共栄交通』というタクシー会社の運転手で、「野々山高吉」と名乗った。
ちょうどその場に居合わせた棟居《むねすえ》刑事が野々山に応対した。
「実はもっと早くお届けしなければいけなかったんですが、ちょうど田舎に帰っていまして、新聞を読まなかったもんですから」
野々山は、初めからひどく恐縮していた。五十前後の実直そうな男である。
「届けるとは、どんなことをですか?」
棟居は、ある種の予感を覚えながら、たずねた。捜査本部には、さまざまな情報がもたらされる。だがその大部分はガセネタであった。
いま棟居は、野々山の来訪に、釣り竿《ざお》に伝わる魚信のような手応《てごた》えを感じていた。
「実は、九月十三日、私が羽田から新宿の東京ビジネスマンホテルまで送ったお客さんが、どうも、ロイヤルホテルで殺された黒人らしいのです」
野々山の言葉に棟居は全身を緊《かた》くした。
「それはまちがいありませんか?」
「たぶんまちがいないとおもいます。黒人の顔はみんな同じ様に見えますが、あの人は、色もそんなに黒くなく、東洋人に近い感じでした」
「どうしてもっと早く届け出なかったのですか?」
「それが田舎へ帰っていたものですから。しばらく帰っていなかったので、会社に無理言って、まとめて休暇をもらったのです」
「どうしていまごろになって届けて来たのです?」
「会社の食堂で、偶然古い新聞の綴《と》じ込みを見ましてね、それに載っていた写真が私が送った客にそっくりだったのです」
「よく来てくださいました。我々はあなたを探していたのですよ」
「申しわけありません」
「いや、お礼を申し上げているのです。それでまずおうかがいしたいのですが、新宿のホテルには、あなたが連れて行ったのですか? それとも彼がそのホテルに行くように求めたのですか?」
「お客からそこへ行くように命じられました」
「すると、彼は初めからそのホテルを知っていたのですね」
「そのようです。でも、ホテルの名前を知っていただけで、そこへ行くのは初めての様子でした」
「ホテルの名前をどうして知ったのか言いませんでしたか?」
「いいえ、口数の少ない人で、ほとんど口をききませんでした」
「東京ビジネスマンホテルへ行くように英語で言ったのですか?」
「いいえ、たどたどしいながら、日本語で話しました。多少の日本語はわかる様子でした。降りるときも、アリガトウ、オツリハ、イラナイ、と日本語で言いました」
「その他になにか話したことはありませんか?」
「いいえ、乗るときと降りるとき以外は、黙りこくったままでした。なんとなく陰気な感じの人でしたね」
「他になにか気がついたことは?」
「べつにありません」
野々山の情報は、それまでのようだった。とにかく彼のおかげで、ジョニー・ヘイワードが初めから東京ビジネスマンホテルを目指していたことはわかった。だがこれまでの捜査によって、そのホテルにジョニーとなんらかの関係をもっていそうな人物は、まったく浮かび上がっていない。
ジョニーはどこでビジネスマンホテルの存在を知ったのか? どこかで偶然に知ったホテルの名前を護符のように捧《ささ》げもって、初めて訪れた異国における心細さの中を脇目もふらず「ただ一つのホテル」へ向かって直行したと単純に考えてよいのだろうか?
いまの段階で断定は下せない。棟居は礼を言って、野々山を引き取らせようとした。
すると野々山がおずおずとなにかを棟居の前に差し出した。一冊の本のようである。
「何ですか、これは」
棟居は本と相手に半々に視線を向けた。
「これが車の中に置き忘れてあったんです」
「これをジョニー・ヘイワードが忘れていったというのですか?」
「いえ、あの客のものかどうかはっきりしないのですが、シートと背もたれの間にもぐっていたのを、それから三人めか四人めに乗った客が見つけてくれたのです」
それはおそろしく古びた本であった。表紙はすり切れ、歳月の垢《あか》に汚れて書名が読めないほどである。いちおう洋装本だが、製本も粗末で、|とじつけ《バインデイング》も崩れている。うっかり手に取ると、バラバラになりそうなほどいたんでいる。
ジョニー・ヘイワードが下車した後三人めか四人めの乗客が見つけたとなると、はたしてこの本が彼のものかどうかわからない。あるいは、発見者の直前の乗客のものかもしれないし、シートとクッションの間にもぐっていたというから、ジョニーよりずっと前の客が残していったのかもしれない。
そのとき、本の古さから連想されたものがあった。それは、清水谷《しみずだに》公園で発見された古い麦わら帽子である。あれもこの本と同じくらいに古ぼけていた。鍔《つば》はぼろぼろに破れ、頭には穴があいていた。麦わらが古い繊維のように色褪《いろあ》せて、手にもっただけで灰のように崩れそうな頼りない感じであった。
古さかげんが、ちょうどこの本に似通っている。棟居にはその古色の暗合≠ェ気になった。
「シートと背もたれの間は、毎日|検《しら》べるのですか?」
「その日の乗務が終わった後で、必ず検査します。忘れ物や客のポケットから転がり落ちた小物は、たいていその中にもぐり込んでいますので」
「前の日の検査ではなにもなかったのですね?」
「早番と遅番の一日おきの乗務になっていますが、なにか忘れものがあれば必ず前の乗務者から引き継ぎがあります。私も乗務前に念のために自分で検べるのですが、何もありませんでした」
これで、本はジョニーが野々山の車に乗り込んだ日に置き忘れられたことが確定したわけである。
「そんな以前の遺失物がどうしていまごろまであったのですか?」
「すみません。遺失物は貴重品以外は一週間ごとにまとめて、所轄の警察へ届けることになっているのですが、食べ物とか、あまり価値のないものは、適当に処分してしまいますので。まあそのへんのところは警察も大目に見てくれますんで」
遺失物や置き去り物を遺失物法に忠実に則《のつと》っていちいち届け出られては警察のほうで困ってしまう。船、車、建築物等の占有者(責任者)は、遺失物法によって、警察になりかわって拾得物を保管することができるが、食べ物や価値のうすい物は、責任者の裁量によって、適当に処分してしまうのである。
「それでその本は?」
「ちょっとおもしろそうだったものですから、私が家にもち帰ってそのまま忘れていたのです。決して……その悪意があったわけじゃありません」
野々山は、横領罪にでも問われないかと恐れている様子であった。棟居は苦笑して、
「詩集のようですな」
貴重品でも取り扱うように頁を開いた。
「西条八十《さいじようやそ》の詩集です」
「西条八十? あの作詞家ですか」
棟居は流行歌の作詞家として記憶していた。
「西条八十は歌謡曲のほうで名を売ってしまいましたが、ロマンチックな幻想的詩風では他の追随を許さない優れた詩人なのです。早稲田《わせだ》の学生時代には日夏|耿之介《こうのすけ》らと同人雑誌を刊行したり、後にフランスに留学して、イェーツやメーテルリンクと交遊し、フランス象徴詩を深化させた幻想的詩風を樹立しました。また『赤い鳥』に優れた童謡詩を数多く発表して、北原|白秋《はくしゆう》と並び称された人です。私はこの人のデリケートな甘いセンチメンタリズムが好きなのです」
野々山はおもわぬところで文学的|造詣《ぞうけい》を披瀝《ひれき》した。彼は西条八十のファンだったのだ。それで詩集をもち帰ったのであろう。ファンだけにその詩集は彼にとって価値がある。それ故に占有離脱物横領罪≠ノ問われないかと恐れている様子であった。
もしこれが、ジョニー・ヘイワードの忘れ物であれば、彼はなぜ日本の詩人の詩集をもっていたのか? 棟居はまた新たな謎を一つ追加されたようにおもった。
詩集は、戦後間もなくの刊行によるものであった。古いはずである。すでに二十数年の歳月が経っているのだ。所有者の名前は記されていなかった。
ともあれ、『西条八十詩集』はジョニーによってもたらされた可能性がある。そしてそれがあるかぎり、決して無視できない証拠資料であった。
棟居は、詩集を領置した。
棟居は、小説や詩集にあまり興味がない。まったく無関心といってもよかった。要するにそれらは想像力のたくましい人間が言葉を玩《もてあそ》んでつくり上げた虚構の世界ぐらいにしか考えていなかった。
現実の凶悪犯罪者と格闘している身には、とても虚構の世界でたわむれている余裕はなかった。
棟居は、野々山からおもいもかけず『西条八十詩集』を手に入れたので、この詩人について少し調べてみる気になった。本庁の図書室にジャンル別の百科事典があった。その中の「文学」を引き出して、「西条八十」の項目を索《ひ》いた。
――西条八十《さいじようやそ》(一八九二―一九七〇)詩人。東京牛込生まれ。早稲田中学、正則《せいそく》英語学校をへて早大英文科、東大国文科に学ぶ。早中時代の英語の恩師、吉江|喬松《たかまつ》から文学的影響をうけ、生涯の方向を決定する。一九一九年(大正八年)処女詩集『砂金』を刊行、幻想と洗練された語句、甘美な感傷で認められた。二一年早大講師となり、訳詩集『白孔雀《しろくじやく》』(一九二〇)や詩集『見知らぬ愛人』『蝋《ろう》人形』(一九二二)を刊行、二三年ソルボンヌ大学に留学、一六世紀以降のフランス詩の研究に没頭。マラルメ会のメンバーとなり、バレリーら象徴派の詩人と交遊、帰国後は早大教授となり、象徴詩運動の旗手として活躍。『西条八十詩集』(一九二七)・『美しき喪失《そうしつ》』(一九二九)・『黄金の館』(一九四四)などを出す一方、『詩王』『白孔雀』『蝋人形』『ポエトロア』を主宰し多くの詩人を育成。また『赤い鳥』の童謡詩運動にも中心的役割を果たし、『西条八十童謡全集』(一九二四)があり、さらに六〇〇〇曲に及ぶ作詞を通して歌謡界に君臨する。第二次大戦後は、詩集『一握《いちあく》の玻璃《はり》』のほか、『アルチュール・ランボオ研究』(一九六七)などがある。六一年芸術院会員――〈ジャンルジャポニカ「文学」より〉
と紹介されてある。
「西条八十と、ジョニー・ヘイワードか」
百科事典から目を離した棟居は、宙をにらんだ。この日本の生んだ優れた抒情詩人と、ニューヨークのスラムから来た黒人青年の間にいかなる関係があるのか?
棟居は、最初ざっと目を通した詩集の頁を一葉ずつ丹念に繰りはじめた。まだこの詩集が、ジョニーによって運ばれてきたと確定したわけではない。だが、棟居には予感のようなものが働いていた。
詩集が発行されたのは昭和二十二年となっている。その出版社はとうに失われていたが、昭和二十二年といえば、いまから二十数年も以前である。それはジョニーが刺された清水谷公園で発見された麦わら帽子の古さにも符合する。
ジョニー・ヘイワード――麦わら帽子――西条八十、この三つをつなぐ橋は何か? それが、詩集の中に隠されているかもしれない。
その橋を見つけた後で、詩集を捜査会議に提出するつもりであった。
棟居は頁を丹念に繰った。戦後出まわった粗末なセンカ紙であるうえに、年月が経っているので、よほど慎重に取り扱わないと、とじつけがくずれてしまう。
残りの頁がうすくなるにつれて、棟居の目に失望の色がたまってきた。これまでのところ丹念に見てきたつもりだが、橋≠フようなものは見つけられない。
――やはり詩集は無関係の乗客が置き忘れたものだろうか?
頁を繰るにつれて失望への傾斜が深まっていく。あます頁はもういくらもない。繰る頁がなくなったとき、絶望は確定するのだ。
最後の数頁めに来たとき、棟居の目に火が点じた。頁を繰っていた手が宙に停まったまま固定した。最初その文字が目に飛び込んで来たとき、棟居は目の前を閃光《せんこう》が走ったように感じた。
――母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?
ええ、夏|碓氷《うすひ》から霧積《きりづみ》へ行くみちで、
谿谷《けいこく》へ落としたあの麦稈《むぎわら》帽子ですよ――
「あった!」
棟居はおもわず声を出していた。麦わら帽子が『西条八十詩集』の中にあったのだ。棟居は興奮のあまり無意識の中に身体が震えていた。
詩はさらにつづいている。
――母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
僕はあのとき、ずいぶんくやしかつた、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
――母さん、あのとき向ふから若い薬売りが来ましたつけね。
紺の脚絆《きやはん》に手甲《てつこう》をした。――
そして拾はうとしてずいぶん骨折つてくれましたつけね。
だけどたうたうだめだつた。
なにしろ深い谿《たに》で、それに草が背丈ぐらゐ伸びていたんですもの。
――母さん、ほんとにあの帽子どうなつたでせう?
そのとき傍《そば》で咲いてゐた車百合《くるまゆり》の花は、
もうとうに枯れちやつたでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、
あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼《な》いたかも知れませんよ。
――母さん、そしてきつと今頃は――
今夜あたりは、あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう。
昔、つやつや光つた、あの伊太利《イタリー》麦の帽子と、
その裏に僕が書いたY・Sといふ頭文字を埋めるやうに、静かに、寂しく――
棟居は、このかなり長い詩を何度も繰り返して読んだ。最初の興奮が鎮まると、ついに橋を見つけた喜びが湧《わ》いてきた。詩から受ける感動が、その喜びを増幅した。
詩には無関心だった棟居であったが、夏の渓谷に旅した母子の、麦わら帽子に託した情感が、しみじみと心に迫った。
幼いころ母に捨てられた棟居だけに、母との過ぎし日の旅を懐かしむ作者の心情が胸を打った。おそらく作者がこの詩をつくったときは、母親とすでに死別したか、あるいは別れて暮らしていたのであろう。麦わら帽子は、その母親に買ってもらったものなのだろうか。
棟居は、したたるような緑の迫る涼しい夏の渓谷の径《みち》を手をつないで旅している母子づれを瞼《まぶた》に描いた。母親はまだ若く美しく、子供は幼い。盛夏白昼の渓谷は、あくまでも静かで、すがすがしい。
棟居も、その渓谷へ行ってみたくなった。
――霧積温泉とは、どの辺にあるのか? 碓氷《うすい》というからには、群馬と長野の県境の近くか――
なにげなく未知の山峡の温泉を想像した棟居は、ある相似におもいあたって、おもわず息をのんだ。
「キリズミとは!」
ジョニー・ヘイワードは、日本の「キスミー」へ行くと言い残して旅発ったのだ。キスミーとキリズミ、そこに表音上の相似が感じられる。
キスミーと聞き取ったのは、アメリカ人である。キリズミと言ったのをそのように誤って聞いたのかもしれない。
「麦わら帽子と霧積」
いずれもジョニーに深いつながりをもつと考えられる二つの項目が、『西条八十詩集』の中に在ったのだ。棟居は、自分の発見を捜査会議に提出すべく立ち上がった。
棟居の発見は、捜査本部を興奮させた。「麦わら帽子」については異論はなかったが、「キスミー」を「キリズミ」の聞きちがえとするのは、無理ではないかという意見が出た。
「私は、無理ではないとおもいます。その前にも、個人タクシーの運転手が、ジョニー・ヘイワードのストロー・ハットと言ったのを『ストウハ』と聞きちがえています。どちらもrの音を脱落して聞いています。これはヘイワードがr音を特に弱く発音するくせがあったのではないかとおもいます」
発見者として棟居は主張した。だが、だれも生前のジョニーの発音を聞いていない。
ニューヨークの下町には、江戸っ子のべらんめえ調に相当する独特の方言《ダイアレクト》や抑揚《イントネーシヨン》があるという。r音を省略するような言いまわしがあるのかもしれなかった。
だが、生憎《あいにく》、捜査本部には英語に強い者がいない。特に標準英語ともかなりおもむきを異にしているブルックリン米語の独特な言いまわしとなると、完全にお手上げであった。
「ここで素人考えで臆測《おくそく》していてもしかたがない。専門家に聞いてみよう」
那須警部が最も手っ取り早く妥当な調停意見を出した。
そこで東都外語大学の米語発音学の権威、宮武敏之《みやたけとしゆき》教授の教えを乞《こ》うことになった。
宮武教授は、
「アメリカ語と一口に言っても、あれだけ広大な国家ですから、地域や階級によって使う言葉も発音も千差万別です。地域別にごくおおまかに分けますと、標準米語《スタンダード》、東部米語《イースタン》、南部米語《サウザン》の三つになります。ニューヨークのはスタンダードですが、イースタンもかなり入り込んでいます。それに|人種の坩堝《メルテイングポツト》と呼ばれる寄木《モザイク》都市で、世界のさまざまな国から来た移民が、それぞれのお国|訛《なまり》の英語で話していますので、一律に論じることはできません。おたずねのr音の省略ですが、Kirizumi の『r』や straw hat の『r』が脱落して発音されなくなるということは、米語発音学上ありませんね」
「ありませんか」
新たな突破口の発見者として、教授への確認役を命じられた棟居は、失望の色を露骨に浮かべた。
「ある音が、次にくる音の影響をうけて脱落し、発音されなくなることはあります。それは一個の単語の中で起こるケースもあれば、同じ段落の中で隣り合っている単語において生じる場合もあります。例えば asked や stopped のような破裂音や破擦音がある場合、『k』や『p』が脱落して耳には『|aest《アスト》』や『|stat《スタト》』と聞こえるのです。次に鼻音や重複音があるときも脱落しますが、おたずねのケースにはあてはまりません」
「あてはまりませんか」
棟居は、ますます肩を落とした。ようやくここまで辿《たど》り着いただけに、自分の身体を支えるのが辛《つら》いほどの失望に打ちのめされていた。
「もともと英米語における『r』音は、存在主張の強い音で、むしろ他の音に影響をあたえるほうなのです。ときにはr音の要素がまったくないのに、母音ではじまる次の語との間に子音のrが入ることがあります。例えば〈それを見た〉という意味の saw it'〈彼と私〉の he and me が、〈|sorit《ソーリツト》〉〈|hirendmi《ヒーランドミー》〉と聞こえるのです。もちろん悪い発音ですが」
ないrが聞こえるというのでは、まったく逆である。やはり「キスミー」と「キリズミ」を結びつけるのは無理なのか。
「ただ、r音が省略される可能性がまったくないわけではありませんよ」
教授は、棟居のあまりに気落ちした様子に、慰めるように言った。
「えっ、あるのですか」
棟居の面にたちまち喜色がよみがえった。あるならあると最初から言ってくれればよいのにとおもった。
「ただし、学問的には認められていませんがね」
「いや、学問のことなんかどうでもいいのです。要するに現実にそういう発音のしかたがあることが、確かめられればいいので」
「あなたは、学者としての私の意見を聞きにみえたのではないのですか?」
宮武教授は、棟居の学問を軽んずるような発言に少し気を悪くした様子である。
「は、はい、まことにその通りでありますが、ただそのう、つまり学界には認められていないが、そういう発音があるかどうか専門家としての先生のご意見を拝聴いたしたく」
棟居は慌てて言いつくろった。自分の軽率な発言によって、教授の協力を失ってはならなかった。
「米語の母体である英語は、地域別のほかに、階級別にもその発音は千差万別です。我々が学校で学ぶ英語は知識階級の標準英語です。学校英語を学んだ人間がコックニイやブルックリンの英米語を聞いたってわかりゃしません。特にニューヨークの下町には、アイルランド、北欧、東欧、イタリア、スペイン、プエルトリコ、ユダヤ、南部から来た黒人等がそれぞれのブロックを構えて雑居していますので、まさに言葉の坩堝《るつぼ》の感があります。当然、英語が、各出身国流に変形されます。日本語のてやんでえ、べらんめえ式の大胆な省略が行なわれます。特にスペイン語系の人々は、r音を顫《ふる》わせる特徴があります。しかし中には、自分が、スペイン系の人間であることを隠そうとして、意識してr音を弱く発音するか、省こうとする人がいます。くせを意識するあまり、反対行動に出るのと同じです」
「すると、そういう人間ならば、ストローハットをストウハ、キリズミをキズミと発音することはあり得るわけですね」
棟居の声は無意識のうちに弾んだ。ジョニー・ヘイワードはスペイン系のスラム、イーストハーレムに住んでいたのである。
「あり得ますね」
教授は、うなずいた。「キズミ」ならば、「キスミー」と聞きまちがえられる可能性が十分にある。ここに捜査本部は「霧積」という新たな対象を得た。
ジョニーは、霧積温泉を目的に来日した可能性が強くなった。いずれにしても、それは捜査陣が決して見過ごせない新たなポイントであった。
――霧積にジョニー・ヘイワード殺害事件の謎を解くキーがあるにちがいない――
棟居は、礼もそこそこに教授の許《もと》を辞したのである。
捜査本部が新たな的を得たのとほぼときを同じくして、ニューヨーク市警からも新情報がもたらされた。
それは、ジョニーの父親、ウイルシャー・ヘイワードが自ら金持の車に接触して得た賠償金をもって、ジョニーの来日費用に充てた疑いがあるというものであった。
父親が一命を犠牲にして、息子の旅費をつくったというのである。
「それほどまでにして、なぜジョニーを日本へ送らなければならなかったのか?」
父子ともすでに死亡しているので、もはや当人たちから聞き出すことはできない。しかしジョニーの来日にはなにか切実な目的があったようである。霧積を探れば、それもわかるかもしれない。捜査本部の空気は、久しぶりに昂揚《こうよう》した。
霧積温泉は、群馬と長野の県境を走る碓氷の嶺《みね》に抱かれた鄙《ひな》びた山峡の温泉である。行政上は群馬県|松井田《まついだ》町に属する。
交通公社発行の案内書には――霧積川の上流、標高千百八十メートルの高所にあって、軽井沢よりも二百十メートル高く、碓氷嶺の後を回る山紫水明境で、とくに一帯の山々が紅葉する秋がよい。またキャンプ地としてもよい。温泉から徒歩一時間半の鼻曲《はなまがり》山の紅葉も美しい。――と簡単に記されてある。
泉質は石膏《せつこう》性|苦味泉《くみせん》で、外傷や動脈硬化、神経痛、婦人病、胃腸病などに効能があるそうである。
交通としては、信越線横川からバスで行き、さらに徒歩九キロ、約三時間とある。
「三時間も歩くのか」
「いまどきそんな山奥の温泉があるのかね」
捜査員たちは、びっくりした顔を見合わせた。霧積には旅館が二軒ある。とりあえず電話で問い合わせると、古いほうの宿の『金湯《きんとう》館』に早速反応があった。
西条八十の「麦わら帽子の詩」は、作者が生前、霧積に遊んだときを懐かしんで詩《うた》ったもので、金湯館では宿泊客や立ち寄るハイカーのためにつくる弁当を包む紙に、その詩を刷り込んでいたという。
ジョニー・ヘイワードがかかわりをもっているとすれば、『金湯館』のほうが可能性が高い。棟居と横渡の二人が出張を命じられた。
一方では、小山田が発見した「熊のシミ」の分析結果が出ていた。シミは人血、血液型はABO式でAB型、MN式でM型と判定された。それは文枝の血液型に符合した。
彼らの推測は、不幸にも的中したのである。小山田は、自力で蒐《あつ》めたデータを警察へ持ち込んだ。警察もこれだけ具体的な資料をもってこられたのでは、単純な「家出人の捜査」ではすまされなくなった。
改めて、熊の縫いぐるみが発見されたK市「鳥居前」一帯に専門家による丹念な検索が行なわれた。だが、犯行からかなり日数が経過しているために、犯跡がうすれていて、なかなかめぼしいものが引っかかってこなかった。
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忘れじの山宿
上野から信越線の列車に乗った棟居と横渡は、午後一時ごろ、横川駅へ着いた。紅葉の最盛期は失したが、周囲の山々に残る紅葉が美しい。霧積へは、ここから車で「六角《ろつかく》」という所まで入って、一キロの山道を歩くか、あるいは横川から歩き通すしかない。どちらにしても、六角から一キロは歩かざるを得ないのである。
駅前へ出たが、客待ちしているタクシーの姿は見えない。駅前はせせこましく建てこんだ裏通りの雰囲気で、田舎の駅前の白々としただだっ広さは、まったく感じられない。家々の屋根にテレビのアンテナが林立している。テレビはこんな田舎町のたたずまいすら規格化してしまったのである。
駅前の割り込めるかぎりのスペースは、駐車の列によって埋められて、それがせせこましさを余計に強めている。
だが、その車の列の中にもタクシーらしい姿はない。平日なので、降りた客は彼らと、数人の地元の人間だけであった。構内タクシーの事務所があったので、聞いてみると、車は一台しかなく、生憎《あいにく》、高崎の方へ出張っているということであった。
霧積まで歩くと、四時間くらいかかるそうである。
「霧積へ行きなさるかね。だったら旅館へ電話すれば、マイクロが迎えに来てくれるよ」
事務所にいた男が親切に教えてくれただけでなく、電話までしてくれた。
「お客さん、運がいい。いまちょうど帰りの客を乗せて、バスが下っているところだそうだ。あと十分ほどでこっちに来ますよ」
事務所の男の言葉に棟居と横渡はほっとした顔を見合わせた。いくら歩くのが商売でも、四時間も山道を歩かせられてはかなわない。
間もなく、霧積温泉の名前をつけたマイクロバスが来た。数人の若い男女が降りて来る。
「東京の横渡さんと棟居さんですか」
中年の運転手が二人の姿を見て声をかけてきた。二人がうなずくと、
「東京の方から連絡をうけてお迎えに上がりました。さあ、どうぞ」
と言いながら、二人が手に提げていた小さなバッグを取った。
「そんな軽いものは、自分でもつよ」
横渡が柄にもなく恐縮した。捜査本部を出るとき、那須警部が「駅前に車が来ているはずだ」と言ってくれたのは、このことだったのである。
マイクロバスは快適なスピードで走った。しばらくの間は信越線に並行して国道十八号線を走る。五分ほどいくと、小さな宿場町へ入った。いずれの家も軒が低く深い。時々古くくすんだ出格子を付けた家が見える。江戸時代の宿場町がよみがえったような家並みであった。国道の行く手に魁偉《かいい》な形をした岩が突兀《とつこつ》とそびえている。
「ここが坂本町です。昔は女郎がいたそうです」
そこは、国道十八号線(旧中仙道)に沿って発展した典型的な宿場町であった。棟居は出格子の暗い奥から宿場女郎にいまにも手まねきされるような錯覚をおぼえた。
家並みの切れかかる少し手前でバスが停まり、数人の小学生と一人の中年の男が乗り込んで来た。男は、地元の人間か、都会から来た客か判然としない。運転手と親しげに挨拶《あいさつ》したが、服装は都会的である。小さな革かばんを一つ手にしている。
そこは、ちょうど霧積温泉案内所の前であった。子供たちは、奥地の方から温泉のバスで通学しているらしい。
「古い家もほとんど改築されて、いまは少なくなりましたよ」
昔ながらの宿場町を熱心に見ていた棟居に新たに乗り込んで来た乗客が気さくに声をかけてきた。そう言われてみると、古い家並みの中に新しい家がかなり混じっている。軒高と間口がほとんど統一されているので、古い宿場の雰囲気がとどめられているのだ。バイパスが通ったせいで、車の姿もない。軒の低い家並みを両側に連ねて、真っ直ぐに走る人影のない一本の白い道。
「宿場として栄えていたころは、賑《にぎ》やかなものだったらしいのですが、いまはすっかりさびれてしまいましてね。古い家もほとんどなくなって、もう昔のおもかげはありませんよ」
男の言葉は寂しげであった。やはり地元の人間らしい。棟居が、町並みに趣を感じたのは、古格のせいではなく、滅びゆく町の無気力な静けさのためだったのだろうか。
「家の間口がみな同じでしょう。ここは幕府の命令でつくられた宿場なのです。街道の両側の土地には限りがあるので、お上《かみ》が本陣と脇本陣以外は、なべて一間半としたそうです。この辺一帯の家は、昔は旅館と女郎屋と風呂屋と馬方でした」男は説明調になった。
「いまは、ここの住人は何をしているのですか?」棟居は興味を惹《ひ》かれてたずねた。
時々おもいだしたように車が、一、二台走り去る街道には、犬の姿も見えない。まさに無人の町のおもむきが深い。
「それがよくしたもので、碓氷峠ができてから、みんな峠で食ってます」
「峠で食う?」
「鉄道ですな。駅へ勤めたり、保線の仕事をやったり、いまこの町の住人はほとんど鉄道関係者ですよ」
話しているうちに、バスは坂本を抜けた。
間もなく国道と岐《わか》れて、信越線のガードを潜る。子供たちが車窓の外を指して猿がいると騒いだ。道路沿いの枯れた草山に一個の黒い点が見えたが、確かめる前にみるみる遠ざかった。
このあたりまで五、六十匹群れをなして出て来るということであった。舗装が切れて、快適に走って来た車が、急に激しく揺れはじめた。
右手にかなり大きなダムが見えてきた。
「霧積ダムです」
幅三百二十メートル、高さ六十七メートル、起工してからすでに四年で、間もなく完成予定だと、運転手が説明してくれた。まだ貯水ははじめられず、コンクリートの堰堤《えんてい》が傲然《ごうぜん》と見下す乾いたダムの底には、いずれは水没する廃屋や雑木林が寂しげに散っている。
自然を人工的に切り取ったいかにも侘《わび》しげでいて、不調和な光景である。
「ここから揺れますから、しっかりつかまっていてください」運転手が注意した。山気が急に深まった。
「もう少し早ければ、紅葉がきれいでしたなあ」
運転手がわがことのように残念がった。
「まだ十分きれいじゃないか」
横渡が車窓から彩りの残る尾根を見上げた。都会の幾何学的な建物ばかり見ている目は、自然があふれている場所へ来ると、どの一角を眺めても洗われるような気持がする。深山のおもむきはないが、たたなわる優しい山並みにはさまれた山峡の風情がある。
それは都会生活に疲れた心身を柔らかく包んでくれるような穏やかな自然であった。
バスは、川に沿って溯《さかのぼ》る。山の斜面を疎《まば》らな雑木林が埋めている。
「運転手さんは、ここに長いこといるのかね?」
横渡が、そろそろ聞き込みをはじめた。
「松井田の方の製糸工場に勤めていたんですが、景気がよくないので、一年前にこちらに移って来ました」
「一年前か」
それではあまり古いことは知らないなと、刑事はうなずき合った。
「以前は、ここは車が入らなかったんですか?」今度は棟居が訊《たず》ねた。「麦わら帽子の詩」は、「渓谷の道を歩いていて、風に飛ばされた」のである。もっともそれは「碓氷から霧積へ行くみち」となっているから、この道ではなかったかもしれない。
「車道が通じたのは、昭和四十五年です。それ以前は、横川から歩いたもんです。旅館も金湯館一軒きりありませんで、湯治の客が一か月も二か月も逗留《とうりゆう》していましたな」
「いまは何軒もあるんですか?」
「二軒だけです。もっとも同じ経営で、車道の終点に霧積館というのがあります。金湯館の新館ですな」
「新館はいつできたのです?」
「昭和四十五年です」
「金湯館まで車は入らないのですね?」
「終点からホイホイ坂という山道を三十分ほど歩いてもらいます」
「三十分も山道を歩くのか」
横渡がうんざりした表情をした。
「昔は、四時間も歩いたものです。けれど、最近のお客さんは、三十分歩くのも億劫《おつくう》らしくて、山登り以外はみんな新館に泊まってしまいますね」
話を交わしているうちに、車はますます山気深まる奥へ入って来た。
バスの右手に沿っていた渓流が、左手に移ると、車はヘアピンカーブを何度か反復して高度を上げてきた。渓流が足下に深く沈んで、深山のおもむきが強くなった。
やがて、カエデ、ナラ、シデ、ブナ、クリなどの雑木林に囲まれた盆地の一角に、二階建ての赤い屋根と青い壁の建物が見えてきた。マイクロバスはその玄関に横付けになった。バスから降りると、谷間の底で、展望はまったくない。霧積館は、旅館というより、寄宿舎のような建物である。
玄関を入ったところに、土産物やソファを雑然と並べたロビーがある。中年の女が愛想よく出迎えてくれた。
「横渡様と、棟居様ですね、お待ち申し上げておりました」
女中が運転手の手からバッグを引き継ぐと、廊下の奥へ案内しかかったので、棟居が慌《あわ》てて、
「我々はもしかすると、金湯館へ泊まるかもしれないんです」
「金湯館へは、ご案内します。その前にちょっとお部屋でお憩《やす》みになってください。ここから一キロぐらいですから、もう着いたも同じことですよ」
女中は呑《の》み込み顔で先に立った。彼らの案内された所は廊下のはずれの八畳の和室であった。
窓の外に、紅葉の名残りを留めたカエデの樹葉が枝をさしのばしている。話を止めると、昼間だというのに耳を圧するような静寂が落ちる。
「いまお茶をもってまいります」
女中は、二人のバッグを形ばかりにつくられた床の間へ置くと、廊下を去って行った。窓を開くと、山気がなおいっそう身に迫った。
「静かだなあ」
「なんだか鼓膜が圧迫されるような静けさですね」
「我々はこういう静けさに馴《な》れていないので、かえってとまどっちゃうな」
「それだけ、毎日、騒音に取り囲まれている証拠ですね」
「こんな鄙《ひな》びた所に、ジョニー・ヘイワードはどんなかかわりをもっていたんだろう」
横渡は煙草を咥《くわ》えながら、首をひねった。東京に住んでいる彼らすらも、「霧積」をこれまで知らなかった。ともあれ、その謎を解くために彼らはやって来たのである。
廊下を伝う足音がして、先刻の女中が茶を運んで来た。
「ようこそお越しくださいました」
彼女は改めて丁重に挨拶《あいさつ》をした。最初は女中かとおもったが、態度や口のきき方から察して、どうもこの宿の女|将《おかみ》らしい。
「なかなかいい所だね、スモッグでススだらけになった肺が、隅々まで洗われるようだよ」
横渡の言葉は、おせじではない。
「本当に。ここへお越しになったお客様は皆さんがそうおっしゃってくれます」
彼女は嬉《うれ》しそうに答えた。
「失礼だが、あなたはここの女将ですか」
横渡が確かめると、
「はい、家族だけでこぢんまりとやっています」
「家族だけで、新館と旧館を切りまわすのはたいへんだろう」
「シーズン中はアルバイトを雇いますが、その他の季節は家族だけで間に合います。他人を雇うと、気を遣うことが多くて、かんじんのお客様へのサービスが行き届かなくなってしまいますので」
「言葉どおりの家族サービスだね」
「さようでございます」
「ところで東京の方から予約をしてきたとき我々についてなにか言わなかったかな」
横渡は、さりげなく話題を変えた。女将の様子からこちらの身分を知っているような素振りがほの見えたからである。
「いいえ、ご予約はお客様直接ではなかったのですか?」
「ああ、会社に頼んだものだから」
横渡は、そらとぼけた。聞き込みをする場合、初めに身分を明かすと、相手の口を閉ざしてしまうおそれがある。またその逆に、刑事の身分を打ち明けたほうが、相手の口を滑らかにすることもある。いずれにしても、相手を見たうえで、決めることである。
「こちらへはなにかお仕事ですか?」
「どうして仕事だとわかるのかね?」
横渡は精々刑事臭を消してきたつもりが、自分の職業を言い当てられたような気がして、少し驚いた声をだした。
「それは……こちらへお見えになる方は、たいていグループかアベックかご家族づれで、ハイキングをかねてこられますものね、男の方二人が、ただ温泉に入りにいらっしゃるというのは、珍しいですわ」
「なるほどねえ、こりゃあ、女の子でも誘ってきたほうがよかったかな」
横渡は、棟居の方に憮然《ぶぜん》とした表情を向けた。
「お客様のお仕事当ててみましょうか」
女将が笑いを含んだ表情で言った。
「わかるかね?」
「新聞記者……と言いたいのですけど、新聞記者じゃないでしょうね……刑事さんでしょう」
二人は、驚いた顔を見合わせた。
「ズバリだよ、どうしてわかったのかね?」
当てられた以上、隠す必要もないと判断して、横渡は身分を明らかにした。女将は、どうやら話し好きのタイプらしい。下手に身分を隠すより、打ち明けて協力を求めたほうがよい結果を得られるかもしれない。
「新聞記者や、雑誌の記者さんなら、お一人は必ずカメラをもっているはずですわ。お客様のかばんはどちらも軽くて、カメラが入っている様子はないし、それに記者さんはもっとおしゃれの人が多いんです」
「いや、これはまいったねえ」
横渡は苦笑した。いまは犯罪者が飛行機やスポーツカーに乗って行動する時代である。したがってそれを追う刑事のほうも吊しの背広にドタ靴というイメージはなくなった。若手の刑事の中には、一見、一流会社のエリート社員をおもわせる者もいる。二人はそれほどではないにしても、少なくとも「ドタ靴刑事」のイメージはないとおもっていた。
それがジャーナリストに比べられると、やはりどことなくヤボッたいのであろう。それをこの山奥の温泉宿の女将に指摘されてしまった。
「ごめんなさい、お客様がヤボッたいとかいうことではないんですよ。記者さんのおしゃれには、なんというかもっと崩れたところがあるんです」
女将は、言ってしまってから自分の失言に気がついたように、慌てて訂正した。
「いやべつになんともおもっていません。ところで刑事と見破られたので、率直に打ち明けます。実は私たちは東京警視庁からあることを調べにこちらへ来たのです。こちらが横渡刑事、私は棟居といいます。女将さんやご主人にいろいろうかがいたいことがあるのですが、協力してくれませんか」
棟居は、警察手帳をしめしながら名乗った。身分を知られたうえに、どうせ今夜はこちら泊まりになる。宿帳に名前も記入することになる。
「私たちでお役に立つのでしたら、なんなりとお聞きください。お客様にとんだ失礼を申し上げてしまいまして」
女将の失言とは言えないほどの小さな言葉の放出が、彼女をして二人に一点借りをつくったような気分にさせたらしい。彼らは、そこへすかさずつけこんだ。
「ここへは外国人もよく来ますか?」
棟居は、早速、質問の核心に入った。ぶっきらぼうな横渡に代わって、聞き役には棟居が当たることになっている。
「そうでございますねえ、なにぶんこんな辺鄙《へんぴ》な所ですので、外人さんはあまり見えませんねえ」
「全然、来ないことはないのでしょう?」
「それはシーズンには何人かお見えになりますが」
「最近、アメリカの黒人は来たことがありますか?」
「黒人の方ですか……さあ、私のおぼえているかぎりでは、黒人の方はいらっしゃいませんねえ」
「九月十三日から十七日の間なのですが、黒人は来ませんでしたか?」
棟居は、女将の顔を一直線に見つめた。ジョニー・ヘイワードが来日したのは、記録の上では今回が初めてである。すると霧積へ来る機会は、九月十三日入国してから、平河町のロイヤルホテルで死ぬまでの四日間しかない。新宿の東京ビジネスマンホテルに滞在中、毎夜帰館していたそうだが、霧積までなら日帰りも可能である。
「九月は、まだけっこうお客さんがいらっしゃいますが、黒人さんは見えませんでした」
「この黒人なんですが、ここへ来なくともよいのです。なにかこの地に関係があるはずなのです。黒人といっても東洋人に近い感じですがね」
棟居は、ジョニー・ヘイワードの死に顔を修整した写真と、パスポート添付写真からの複写を女将に見せた。だが女将に反応は現われない。
「あなたの記憶にないとなると、ご主人もおそらく知らないでしょうね」
「その黒人さんのことですか?」
「そうです」
「もし黒人さんが私共のお客になっていれば、これまでにないことですから、きっとよくおぼえているはずです。あの、この黒人さんがどうかしたのですか?」
女将の面に少し不安の色が射しかけている。
「いや、ある事件の参考に足取りを追っているのです。ご心配なさることはありませんよ」
棟居は、女将の不安をなだめた。新聞をよく読んでいれば、彼が問題にしている黒人が、東京のホテル近くで殺されたことがわかるはずであるが、この静かな山峡でいでゆの宿を経営しているいかにも善良そうな女将が、東京のそんな血なまぐさい事件に関心をもったとはおもえない。またかりにもったとしても、たった一度新聞に載っただけの不鮮明な写真との相似を、棟居のしめした写真の中に見つけるのは、不可能であろう。
「ご主人だけこちらにいて、女将さんは山を下りていたことはありませんか? たとえばご病気になったようなときなどに」
「ああ、それでしたら、お産のとき二回、それぞれ一か月ほど実家へ帰っていました。いまその子たちが小学校へ行ってますけど」
それがマイクロバスに乗り合わせた子供たちであろう。
「その間に、黒人が来た可能性はありませんか?」
ジョニー・ヘイワードには来日歴はない。だがどこかでヘイワード自身は来日せずとも霧積となんらかのかかわりをもったはずだ。彼の関係者がかかわりをもつこともできる。
「さあ、たぶんないとおもいますよ、そういう珍しいお客さんが来れば、主人は必ず話すはずですから」
「宿帳は、どのくらい保存するのですか?」
「だいたい一年間とっておいてから処分してしまいます」
棟居は女将と話しているうちに、徒労の色が濃くなってくるのを感じた。しかしまだ主人が残っている。彼が女将の知らない場面において、ジョニーとかかわり合っているかもしれない。
「ご主人は、いまどちらに?」
「主人は、いま上の方に、旧館にいますが、呼びましょうか?」
「いや、私たちがうかがいます。どうせ旧館に泊めてもらうのですから。ところで、失礼ですが、女将さんは、ここに古くからおられるのですか?」
女将の記憶になければ、彼女がここへ来る以前か、不在の間にジョニーあるいは関係者がかかわりをもったことも考えられる。
「私が主人と結婚しましたのは、昭和四十年で、それからずっとこちらにいますけど」
「その間、黒人の客は来なかったのですね」
「来なかったとおもいます」
「外国人は、どこの国の人が来ましたか?」
「やはりアメリカ人がいちばん多いですね。基地の兵隊さんが多いです。それから学生さんです。アメリカの次は、フランス、ドイツ、イギリスの方がみえました」
「女将さんがこちらへ来られる前、つまり終戦後ずっとこちらにおられた方はいませんか?」
「主人の両親が、まだ元気で金湯館にいます。古いことは舅《しゆうと》夫婦に聞いていただけばわかるとおもいますよ」
「ご主人のご両親が健在?」
「はい、二人とも七十を超えていますが、元気です」
「ご主人のご両親は、ずっとこちらにおられたのですね?」
「ええ、先々代から経営を引き継いでから、ずっとこの地を離れません」
「先々代?」
「先々代は舅のおじだそうです。私もその辺のことになるとよく知りませんので、舅に直接|質《たず》ねられたほうがいいでしょう」
女将の話しぶりから、いま霧積の当主は、彼女の夫で、舅は旧館の方で隠居している様子である。二十四歳で死んだジョニー・ヘイワードが七十歳を超えた老人のさらに先代とかかわりをもったとは考えられない。
「この詩集に見|憶《おぼ》えがありますか?」
棟居は、質問の鉾先《ほこさき》を変えて、ジョニー・ヘイワードの遺品≠フ『西条八十詩集』をしめした。
「ああ、先日、この詩について問い合わせてこられたのは、お客様ですか」
女将は納得のいった顔をした。
「そうです。実はこの詩集が、黒人の持ち物の中にありましてね。彼は、日本の霧積へ行くといって、アメリカを出たのです」
「キスミー」から霧積を導き出したプロセスは、いま彼女に説明する必要はない。
「この詩が、黒人、ジョニー・ヘイワードという名前ですが、彼に大きな関係をもっているのにちがいないのです。詩は、霧積をうたっています。日本へ来た目的も霧積にありました。彼は、いったい霧積に何をしに来ようとしたのか? その秘密が詩の中にあるようにおもうのですが、女将さんには、この詩について心当たりはありませんか?」
「この麦わら帽子の詩は、西条八十先生が子供のころ、お母さんといっしょに霧積に来られたときの想い出を詩《うた》ったものだそうですが、主人の父がたまたま先生の詩集の中に見つけて、うちのパンフレットや色紙に刷り込んで使ったと聞いています」
「いまそのパンフレットはありますか?」
「それが、これはかなり以前のパンフレットや、色紙に使ったので、いまはないのです」
「それは残念だな」
棟居が失望の色を浮かべて、
「その色紙とパンフレットは、いつごろまで使ったかわかりませんか?」と問うた。
「主人か舅が知っているとおもいます」
「この詩が、ジョニー・ヘイワードにどんないわれをもっているか……もちろんご存じないでしょうね」
黒人の姿を一人も見かけたことがないと言っている宿の女将が、知るはずはないとおもいながらも、棟居は、未練がましくたずねた。
「霧積というのは、このあたりの地名だな」
横渡がふとなにかにおもい当たった顔をして、「そうだとすると、ジョニーの言った霧積は、必ずしもこの霧積温泉に限られないかもしれない」とひとり言のようにつぶやいた。
ジョニーの遺品≠フ『西条八十詩集』の中から「霧積」の地名が出て来たために、「霧積温泉」と結びつけて考えてしまったが、それは「霧積一帯」も含まれているのである。
「霧積に人間が住んでいるのは、ここだけですよ」
女将は、横渡のせっかくの着想を打ち消した。霧積温泉以外に霧積に人家がないとなると、ジョニー・ヘイワードの目指した霧積は、この場所の他に考えられなくなる。
それとも、「霧積の人間」ではなく、その「土地」のなにかとかかわりをもっているのだろうか? だがもしそうであれば手繰り出しようがなくなってしまう。
「それは、以前からこのあたりにはこの温泉以外に人は住んでいなかったのですか?」
棟居が横渡の質問を引き継いだ。
「前に湯の沢という里がありましたけれど、もういまはだれもいなくなってしまいました」
「ゆのさわ? それはどのあたりにあったのですか?」
「坂本から来る途中にダムがあったでしょう。あの少し上流です。近く水没するので、いまはほとんどよそへ行ってしまいました」
「それは、いつごろのことですか?」
「三年ほど前から廃村のようになっています。でも湯の沢は、霧積とは呼びませんよ」
結局、女将からはジョニー・ヘイワードと霧積の間のいかなるつながりも引き出せなかった。こうなると、早く旧館の方へ行きたくなる。
「どうもいろいろご面倒なことをうかがいまして。これから金湯館へ行ってみます」
「それでは、ご案内しましょう」
「それにはおよびません。どうせ一本道でしょう」
「ええでも、私も向こうへ行くついでがありますから」
女将は気軽に立ち上がっていた。
金湯館までは、山林の中の細道を伝う。日はすでに山かげに落ちて、夕映えが空を染めていた。七百メートルほどだらだらのぼると、小さな峠に達して、旧館の金湯館が視界に入った。二人の刑事が気息|奄々《えんえん》としているのに、女将が呼吸一つ乱さないのはさすがだった。新館よりもいっそう奥まった感じの山あいに、ひっそりとその旧《ふる》い建物はかたまっていた。薄い煙と湯気が建物から昇り、上層の冷たい空気に冷やされて、水平にたなびき、谷あいの湯宿の風景をいっそう柔らかいものに仕立てている。空から落ちかかる残照がもうすっかり日かげになった谷あいを夢幻的なほの明るさの中に浮かび上がらせていた。
古びた母屋の前へ出ると、水車が回っていた。
「都会のお客様はこんなものを喜ばれるので、まだ残しています」
女将が説明して、旧館の母屋の玄関に入った。戸外は明るいが、家の中にはすでに灯が点《つ》いている。いかにも朴訥《ぼくとつ》な感じの中年の男が彼らを迎えた。
それがこの宿の主人だった。主人と女将は、少し離れた場所で二言三言ささやき合っていたが、主人がすぐに恐縮した姿勢で、
「これはこれは遠い所をようこそおいでなんしょ。まず一っ風呂浴びて、汗を流してください」と中へ招じ入れた。
こちらの建物は、新館に比べて、貫禄ものだった。黒くくすんだ柱は、それぞれ勝手な方向へ傾きかかり、障子や襖《ふすま》との間に掌《て》が入るほどの隙間ができている。廊下の板などは一枚一枚反り返って、足を踏み下ろす度に凄《すさま》じい啼《な》き声を出す。
「これは、うぐいす張りどころじゃなくて、にわとり張りだな」
口の悪い横渡が、早速、宿の主人の手前もはばからずに辛辣《しんらつ》なことを言った。
「はあ、こちらも建てかえなければとおもっているのですが、なにせ新館に金がかかりましてな」
主人がますます恐縮した。
「いや、このほうがいいよ。このほうが私らにはおもむきがあっていい、なんていうか、風格があるな。年代物のワインのような味が建物にある」
横渡が苦しいほめ方をした。だがたしかにこの世から完全に切り放されたような鄙《ひな》びた雰囲気は、申し分ない。まさに行き暮れて辿《たど》り着いた山宿の風情であった。
「こんな情緒のある山宿が、東京から数時間の所にまだ残っていたんですね」
棟居も感慨をこめた声で言った。こんな旅は久しく忘れていた。自分が時間を十年も逆行して来たような気がした。東京と同じ大地の延長に、こんな静かで柔和な一角があるのが信じられないおもいである。
本館の廊下の端からいったん外へ出て、飛び石を伝って、たった一戸だけ独立している離れ屋へ通された。六畳ほどの和室で、窓を開けると、筧《かけひ》を豊かな水が水車の方角へ走っている。
部屋へ通ると、すでに外は暗くなっていた。いっとき空を彩った残照が消えて、谷あいの底から墨のような夕闇が湧き出している。主人が部屋の灯を点けると、戸外は完全な夜景になった。部屋の中央には炬燵《こたつ》がしつらえてある。
「いま家内がお茶をもってまいりますで」
と主人が頭を下げて、下がりそうになったので、棟居が手をあげて、呼び止めた。
「いや、お茶よりも先にご主人にちょっとおたずねしたいことがあるのです。先刻、女将にもうかがったことなのですが」
旅館の内部の気配から、他に泊まり客はいないと踏んで、いま一気に聞き込みを押し進めようとした。
「はあ、そのことならいま家内からちょっと聞きましたが、私もどうも憶《おぼ》えがありませんでなあ」
「この男なのです。ともかく写真を見てください」
棟居は、主人の手許《てもと》にジョニーの写真を押しつけた。
「心当たりがありませんですなあ。こういうお客さんが来れば、目立つのでよく憶えているはずなんだが、どうも心当たりがありません。ただ父が古いことを知っておりますので、お食事のすんだころ、ここへ連れてまいります」
棟居は、そのまま一気に聞き込みをしたかったが、相手の都合も考えて、勧められるままに、まず温泉へ入ることにした。浴場は、離れとは反対方向の母屋のはずれにある。長い渡り廊下を伝っていくと、美味《うま》そうな食べ物の煮炊きのにおいが鼻腔《びこう》に漂ってきて、とたんに腹の虫が啼いた。
泉温は三十九度だそうで、肌に柔らかく感じられる。以前は三十七度で浴槽の中に将棋盤を浮かべて、湯治客がのんびり湯に浸りながら将棋をさしていたそうである。その後ボーリングをして、いまの泉温に上がったという。
「おもわぬ命の洗濯だな」
横渡が浴槽の中に身体をのばして言った。浴室の外は、黒々とした闇に包まれている。木立ちが闇の深さを濃くしているのである。
「こんなことでもないと、まず一生縁のない温泉ですね」
「これも殺された黒人のおかげというわけか」
「横渡さん、この事件《ヤマ》どうおもいます?」
「どうおもうというと?」
「つまり、殺されたのは外国人でしょう。捜査にもう一つ熱の入らないようなところが感じられるんですが、つまり外国の人間がわざわざ東京へ来て死ななくてもよいだろう。こっちはこっちの事件で手一杯だ。本部が動いているのは、日本の警察の面子《メンツ》だけからのような気がするんです」
「あんたは、どうなんだね?」
横渡が三白眼を向けて聞いた。そんなときの彼の目はひどく意地悪げに見える。もともといまの意見は、横渡が言ったものである。
「私ですか、私は正直いって外国人の一人や二人どこで殺されようと、どうってことはないとおもっています。いや、殺された人間は私の場合、あまり重要じゃないんです。ただ殺したやつが憎い。それだけです」
そのとき湯気ごしに棟居の目に白い炎が燃え上がったように横渡には見えた。あるいは湯気のせいでそのように見えたのかもしれない。
霧積へ出張するに当たって、最初のペアだった山路が「あいつの熱っぽさで山道を引っ張りまわされたんじゃ、とても従《つ》いていけない」と、出張を横渡に譲った理由が、いまにしておもい当たる。
棟居の犯人に向ける憎しみには、異常なものがあった。警察官を志したからには、だれでも犯人に向ける憎しみや怒りはある。だが棟居の場合、それがあたかも自分の肉親を殺傷した犯人に対するごとき個人的感情が入っているように見える。
それが彼をして捜査本部の姿勢を歯がゆくおもわせるのだろう。捜査員も外国人が被害者だからといってべつに捜査に手を抜いているわけではない。むしろ外国人だけに、日本人の場合より気を遣っている。だが捜査員の意識下に、黒人ということで心理的な弛緩《しかん》はあるかもしれない。
棟居の言うように「殺された人間がだれかはあまり重要でなく、殺した犯人が憎い」ということになれば、そんな弛緩の生じる隙はないはずである。
実は、横渡も棟居の熱っぽさに少し辟易《へきえき》していた。那須班の面々は、いずれも歴戦のつわもの揃いである。その中でも古参に属する横渡は、山路の次に多くの現場を踏んでいる。刑事としての経験も熱意も申し分ない。その彼が圧倒されるほど棟居の犯人追及は熱っぽく執拗《しつよう》であった。
――この熱意に、うまく抑えがきくようになると、いい刑事になる――
横渡は、湯に浸りながらおもった。それまでは、被疑者の拷問《ごうもん》や行き過ぎ捜査の危険を冒《おか》しやすいのも棟居のような刑事である。
はみ出し刑事は架空の世界だけのことで、捜査が完全に組織化された現在の警察の中には存在し得ない。組織と刑事訴訟法にがんじがらめにされた網目の中で現代の刑事は凶悪犯人を追うのである。
横渡は、山路が代わりに自分を棟居に付けたわけがわかった。自分より若い刑事では棟居に対して抑えがきくまい。
――やれやれ――とおもったとたん、急に疲れが発した。風呂にまぎれて忘れていた空腹が胃袋をしめつけた。
「とにかく上がろう、腹がへった」
風呂から戻ると、部屋には膳部《ぜんぶ》の用意が調っていた。待ちかまえていたように温かい飯と汁が運ばれて来た。鯉《こい》の刺身、鯉こく、エノキダケ、ワラビ、セリ、コゴミ、クレソン、ヤマシイタケ、ヤマウドなどの山菜を主体にした天ぷら、ごまよごしなどが賑《にぎ》やかに並んでいる。
「豪勢だな」
二人は声をあげた。有名温泉地の旅館で出す、見た目には豪華で多彩だが、少しも誠意のこもっていない既製料理と異なって、いずれも手づくりの土地の味をこめた料理ばかりだった。
「こんな山家《やまが》で、なにもありませんが、お口に合うかどうか」
女将がひかえめに給仕するのに、ろくに答えもせずに、二人は食膳に取り付いた。このときだけは、仕事熱心の彼らも、ここへ来た目的を忘れていた。
たっぷりあった料理を一つ残さず平らげて、彼らがようやく人心地を取り戻したとき、渡り石を遠慮がちな足音が伝って、主人が先代&v婦を連れて来た。
「やあ、これはわざわざ来ていただいて申しわけありませんな。こちらからうかがおうとおもっていましたのに」
日ごろ無愛想な横渡がひどく恐縮した。
「いいえ、年を取りますと、人様と話をするのが楽しくなりましてな」
痩《や》せてはいるが、まだ矍鑠《かくしやく》とした老人が入って来た。その背後に、一まわり小さい老女が影のように従っている。老夫婦を連れて来た主人は、用事があるらしく、母屋の方へ引き返して行った。
四人は炬燵《こたつ》に入って向かい合った。それも電気ではなく、最近珍しい豆炭を使ったものである。
「いま息子から聞きましたがな、ここは、外人さんには縁がありまして、戦前からたくさんの外人さんが見えました。みなさん気に入ってくれまして、毎年かかさず見える方や、長期に滞在した方がいます」
初対面の挨拶《あいさつ》がすむと、先代はおもむろに話しはじめた。刑事が最も聞きたいことは、ジョニー・ヘイワードの消息であったが、それに至る前にまず霧積の歴史を聞かされる。
先代の話によると、この温泉が発見されたのは、千年も以前のことで、源頼光の四天王の一人、碓井貞光《うすいさだみつ》の父親の飼い犬が発見したところから初めは「犬の湯」と呼ばれていたそうである。
湯治場として営業をはじめたのは、明治十三年。十名の発起人によって「株式会社碓氷温泉金湯社」として発足したもので、これが現霧積温泉の前身である。母屋は、そのころに建てられたというから、古格があるはずである。この金湯社の十名の発起人の中に、先代の祖父がいて、後に経営権を握った。明治四十四年二代目が承継の折、「霧積温泉金湯館」と社名変更≠オた。霧積の名のいわれはわからない。
「おそらく、霧が積もるような土地だから、そのように名づけたのでしょう」
老人は、遠い記憶をまさぐるような目をした。聞き込みに来た刑事によって、はからずも記憶をかき立てられ、茫々《ぼうぼう》七十年を超える生涯を顧みているような目であった。
老人は三代目で、現主人は四代目に当たるわけである。この四代にわたる間、さまざまな人がこの地を訪れた。
「勝海舟、幸田露伴も来たと記録にありますな。西条八十先生もお見えになったはずですが、私はお目にかかっておりません。おそらく二代目のころでしょう。あの詩は、私が偶然先生の詩集の中から見つけて色紙に刷らせてもらったのです」
「それは、いつごろのことですか?」
話がようやく核心に入ってきた。
「戦前ですな。正確にいつということは、もうおぼえていません。あの詩集も、どこかにしまい忘れてしまって、見つかりません」
「その色紙はいまでも使っていますか?」
「いいえ、いまはありません。昭和三十年ごろまで使っていましたろうか」
ジョニー・ヘイワードは、戦後間もなく生まれているから、理解の有無はべつにしてその色紙を見た可能性はあったことになる。
「ところで先刻もご主人や女将さんに聞いたのですが、この黒人がここへ訪ねて来た記憶はありませんか? あるいはこの男についてなにかご記憶はないでしょうか?」
棟居は質問の核心に切り込んだ。
「それが外人さんはたくさん見えましたがなあ、黒人さんは一度も来たことはありませんなあ?」
老人は、棟居の手から写真を受け取ると、老眼鏡ごしに眺めながら首を振った。
「婆さん、あんたにも憶《おぼ》えがないだろ」
老人は、ひとしきり写真を見つめた後、かたわらにつくねんとうずくまっていた老妻にそれをまわした。老女はろくに写真を見もせずに、窄《すぼ》んだ口をもぞもぞと動かして、
「おたねさんなら、わしらの知らんことも知ってるかもしれんのう」と独り言のようにつぶやいた。
「そうか、おたねさんなら、直接客の面倒も見ているし、わしらのいなかったときも、ずっとここにいたなあ」
老人がなにかをおもいだした目をした。
「だれですか、そのおたねさんというのは?」
初めて引っかかった手ごたえに棟居は緊張した。
「古い女中で、うちで長いこと働いてくれました。わしらが骨休めに東京見物などに出かけて行ったときも、ここに居残って、留守をみてくれた人です。わしらよりも霧積のことは、よく知っています」
「そのおたねさんは、いまどこにいるのですか?」
刑事はおたね婆さんに会う必要を感じた。
「湯の沢に住んでいます」
「湯の沢?」
どこかで聞いたような気がした。
「来るときにダムがありましたじゃろう。あれの少し上手《かみて》の村で、もう間もなく水没してしまう所です。そこにいま一人で住んでます」
それは、新館で茶を飲みながら、女将から聞いた地名であった。
「ちょうどいまおたねさんの孫がうちに手伝いに来てます」
「えっ、お孫さんがここにいるのですか」
「可哀想な娘でしてね、幼いころ両親に死別しておたねさんに育てられたのです。おたねさんが年取って働けなくなってから、しばらくうちで面倒見ていたのですが、静坊が、静枝というのがその娘の名前ですが、中学を出ると代わりに働いて、おたねさんの老後を見ています。おたねさんの面倒はわしらが見るから、高校へ行けと勧めても、お婆ちゃんを一人置いたまま勉強する気になれないと言い張りまして、うちで働いています。いまここへ呼びましょう」
老人が言ったとき、老女が年に似合わぬ身軽さで立ち上がり、障子《しようじ》を開けて離れから出て行った。多年連れ添った夫婦の呼吸を見せつけられたようだった。
間もなく老女が十七、八のごむまりのように健康な感じの娘を連れて来た。いっしょに女将が新しい茶をもって来た。
「この娘《こ》が静枝ちゃんです。よく働いてくれて、うちではなくてはならない人なんです。いつまでもこんな山深い所へ置いていてはいけないんですけれど」
女将が言い訳をするように茶を入れ換えた。静枝は、もともと赤い頬をさらに染めて、ぴょこんと刑事の前に頭を下げた。
「静枝さんですか。初めまして。実はちょっと重要な事件であなたのお婆さんに聞きたいことがあるのですが、お婆さんは、昔のことをよくおぼえていますか?」
棟居は娘の緊張を解きほぐすように柔らかく話しかけた。
「ええ、うちのお婆ちゃんは、昔話が好きで、よく古いお客さんの話なんかします。お客さんの細かいくせまでよく憶えていて、びっくりするんです」
静枝は、自分の愛する祖母のことを言われたので、嬉《うれ》しくなったらしい。
「それは凄《すご》い。ところで、お婆さんは、お客の中に黒人がいたというようなことを言ってなかったかな」
「黒人?」
「国籍はアメリカ人だがね」
「そう言えば、だいぶ以前に黒い兵隊さんの親子連れが来たというようなことを言ってたわ」
「黒い兵隊の親子連れ!」
二人の刑事は、おもわず声を弾ませた。
「その黒人は親子連れだったと言ったんだね」
棟居が改めて問い直した。
「ええ、そのように聞いたとおもいますけれど。でもだいぶ前に一度聞いただけだから、よく憶えていません」
「お婆ちゃんに会いたいんだが」
「ちょうどよかったわ。明日は静枝ちゃんのお休みの日で、湯の沢へ行きます。いっしょに行ったらよろしいわ」
女将が静枝と刑事の顔を交互に見て笑った。霧積で聞くべきことは、すべて聞いた。収穫はあった。刑事たちは、明日が待ちきれないおもいだった。
四人を送って離れの外へ出ると、降りこぼれるばかりの星空が頭上にあった。二人の刑事がこんな夜空を仰ぐのは、久しぶりだった。一日の捜査を終えて家路につくのは、いつも遅い時間だが、都会の夜空はボケたようで、貧弱な星が、侘《わび》しげな光を息も絶えだえに送ってくる。
ところがここの星空はどうだ。限られた空間にあまりに多すぎる星をいっきょに投げ込まれたために星々がぶつかり合って鏘然《しようぜん》たる光を放っている。
それは金属のように研《と》ぎすまされた硬い光であり、一つ一つが凶器のように先端が尖《とが》って突き刺さって来る、暖かみのまったくない輝きであった。
星空の下に立った二人を見て、無数の星くずは、飢えた獣の群れが獲物を見つけていっせいに騒《ざわ》めきたったように感じられた。
「なんだか、恐いような星空だな」
横渡が首をすくめて、追い立てられるように離れの中へ戻った。棟居も一人取り残されるのを恐れるように慌てて後を追った。
翌日も秋晴れの快晴がつづいた。宿の前がなんとなく騒々しいので、部屋の窓から覗《のぞ》くと、ハイキング姿の男女が、いましも出発していくところであった。
「昨夜の泊まり客は、我々だけじゃなかったようですね」
「けっこう泊まっていたんだな。みんな楽しげにしてやがる」
「なんでもここからへそまがり山というのを越えて浅間高原の方へ出るハイキングコースがあるそうですよ」
「それはへそまがりじゃなくて、鼻曲山というんですよ」
背後に笑いを含んだ若い女の声がして、昨日の静枝という娘が朝食の膳部《ぜんぶ》を運んで来た。
「ああ静枝さんか」
「よくお寝《やす》みになれましたか?」
「ああ、久しぶりにぐっすり眠ったよ。腹がへって目がさめたんだ」
「そう言われるお客さんが多いんですよ」
「おれもそうだよ、朝めしなんて久しく食いたいとおもったこともなかった。空気がいいと、腹のへり方までがちがうんだな」
横渡が膳部を覗き込みながら、口をはさんだ。
「ところで静枝さんは、何時ごろ出かけるつもりだね?」
「お客さん次第ですよ。お客さんの支度ができたら、すぐにも出かけられます」
「それじゃあ、ゆっくりめしなんか食っていたら悪いな。せっかくの貴重な休日だからね」
横渡が慌てて飯をかきこもうとすると、
「いいんです。どうせ私、お給仕いたしますからゆっくり召し上がってください」
と二人のかたわらに坐《すわ》った。
山の幸をたっぷり盛った食事を朝夕付けて一泊料金が三千円であった。二人は出発時に勘定を支払い、その安さに驚いた。
宿の老夫婦が見送ってくれた。刑事たちが峠の向こう側に見えなくなるまで寄り添って見送ってくれる老いた二人の姿は、感動的ですらあった。朝の陽が、無限の光の粉となって降りこぼれる中に老夫婦の姿は、次第に遠ざかり、やがて谷間の底に二つの黒い影となり、一つの点となって、古い建物の一部のようになってしまった。
「まだ見送ってくれています」
棟居が呆《あき》れたように言った。
「あの二人は、いつもああしてお客さんを見送るんですよ」
静枝が言った。
「ああやってこの谷間の宿で、二人寄り添って静かに生きているんだな」
横渡が感慨深げに言った。
「美しく穏やかな人生ですね」
「表面は、そういうふうに見えても、ここまで辿《たど》り着くには、あの人たちにはあの人たちなりの苦しい航海があったかもしれないよ」
横渡が言ったとき、峠に着いた。ここを越えると旧館は視野から消える。
「さようなら」棟居は、どうせ聞こえないとおもって、手だけ振ると、別れの言葉を小さく口の中でつぶやいた。静枝が先に立って峠の向こう側へ足を踏みだした。今度は新館が視野に入ってくる。
「また来たいな」
「そうですね」
二人はささやき合ったが、それが一時の感傷でありふたたびここへ戻って来ないことも知っていた。
帰路は、新館から、来た道をまたマイクロバスで引き返す。運転手も昨日と同じであった。昨日、乗り合わせた中年の男がまたいっしょに乗って来た。新館に一泊した様子である。帰りしなに女将のくれたパンフレットに、「当館は一年中いつも空いているようなものです」と刷り込まれてあるのも、ユニークである。
「他人事だけど、こんなことでやっていけるのかね?」
横渡が、余計な心配をした。
「きっと儲《もう》けようという気はないんでしょう。連休やシーズンの客で一年を保《も》たせちゃうんでしょうね」
パンフレットにも春秋の連休、真夏の一時期、正月休みは賑《にぎ》わうと書いてある。だが「満員」になるとは言ってない。
「ああいう宿は、いつまでも大切にとっておきたいな」
「そうですね」
二人はうなずき合った。
おたね婆さんは湯の沢に残った一軒家に住んでいる。町が用意した新しい家へ移るように勧告されているが、できるだけ孫の近くにいたいと言い張って、いまだに廃屋同様の家で頑張っている。
おたね婆さんはそこで静枝が休日に帰って来るのを唯一の楽しみにして老後を過ごしているのだ。
静枝のいないときの寂しさにさえ耐えれば、生活のほうは「霧積」で面倒を見ているので、不自由はないらしい。
静枝がよくできた娘で、中学を卒業したとき、級友たちが進学したり、高崎や東京へ就職して郷里を離れて行くのに惑わされず、祖母を一人残したくないと、地元の霧積温泉で働いている。
青春の夢にはち切れそうな身を、祖母孝行から、寂しい山中に閉じこめて耐えている。
「あんな山の中に毎日いて、寂しくない?」
棟居がたずねると、ややはにかんだような目を上げて、
「東京なんかに勤めたお友達の話を聞くと、いいことずくめのようだけど、帰って来る度にみんな顔色が悪くなって、痩《や》せているわ。同じ年輩のお客さんの話を聞くと、お給料だって霧積に比べて決してよくないんよ。みんな体をすりへらして、無理しながらいい格好しているみたい。私、山のほうが好きなんよ、景色も空気もいいし、旦那《だんな》さんも奥さんもいい人だし、むずかしい人間関係がないもの。それになによりも、おばあちゃんのすぐそばにいられるもんね」
静枝の口調にはだいぶ親しみが現われている。
「きみの考えは正しいよ。東京なんかちっともいいことない。特にきみのような娘さんの住む所じゃないよ」
横渡が諭《さと》すように横から言った。
「時々、バイトの学生さんが来るけれど、東京の人って油断ならないね」
「どういう風に油断ならないんだね?」
「すぐ二人だけで会おうって言うのよ。それに理屈ばかり言って、いちばん働かないのが、東京のバイト学生ね」
静枝は鋭く観察をしていた。
マイクロバスは山道を下り、しだいに高度をさげてきた。切り立った崖を抜けて、風景が浅く開いてきた。
「おばあちゃん、私が帰る日はいつもダムの所まで迎えに来てくれるんです」
静枝が嬉《うれ》しそうに頬を火照《ほて》らせて言った。ダムが視野に入ってきた。堰堤《えんてい》とその直下にある水門の付近に大勢の人間が群がっている。堰堤にいる人間は、みな一様に底の方を覗《のぞ》いている。
「なにかあったらしいな」
運転手が、車を減速しながらつぶやいた。
「事故かしら?」
静枝が不安げに眉《まゆ》を寄せた。
「人が墜《お》ちたようですね」
「ダムの上から墜ちたのでは、まずたすからないな」
二人の刑事は顔を見合わせた。
「おばあちゃんがいないわ」
静枝がダムの岸よりの基部の方を見ながら、不安げに顔をくもらせた。彼女の祖母は、いつもこのあたりに迎えに出ているのである。
「きっと事故を見に行ってるんだろう」
棟居は、彼女の不安をなだめるよりも、自分たちの胸に萌《きざ》しつつある不吉な予感を押さえるために言った。バスが堤体の端へ着いた。
「いったい、だれが落ちたのかね?」
運転手が、事故の気配に集まっていた人々に声をかけた。彼らは岸の上に固まって、事故のあった方を見まもっていた。
「なんでもこの辺に住んでいる年寄りが落ちたそうだよ」
その中の一人が答えた。
「おばあちゃんだったら、どうしよう」
静枝がいまにも泣きだしそうな顔になった。
「そんなことがあるはずがねえ。なにも年寄りはおたね婆さんだけじゃねえよ。さあ、つまらねえ心配はしねえで、早く家へ帰ってやんな」
運転手が、土産物の包みを静枝に渡しながら励ました。
「そうだよ、きっとなにかの用事があって、今朝は迎えに出られなかったんだ。そんな心配をすると、おばあちゃんきっと怒るぞ」
棟居もいっしょになって励ました。
「駅長さん、ちょっと様子を見て来ていいかな?」
しかし運転手は、すぐに車を動かさず、新館から乗った客にたずねた。弥次馬的興味からではなく、やはり気になったのであろう。
「いいともツネさん。今日はまだ非番だからな。だれが落ちたのか、気になるから、わしもちょっと覗いてみるべえ」
駅長と呼ばれた中年の客もいっしょに車から降りてきた。彼も「碓氷峠で食っている」国鉄関係者らしい。彼らはこの近くに「年寄り」がそう何人もいないのを知っているのか、静枝に付き添うような形で、ついてきた。ダムから階段への降り口に近づくと、ヘルメットをかぶった工事人らしい男が、
「ここから先は立ち入り禁止だ」と一同を制止した。
「いったいだれが落ちたのかね?」
ツネさんが代表して聞いた。
「知らないよ、さあ用のない人間は帰った、帰った」
工事人は、犬でも追いたてるように手を振った。
「この娘さんは湯の沢の人で、身寄りの婆さんがそこに住んでるんだ」
「湯の沢だって!」
工事人の顔色が変わった。彼の顔色が変わったということは、不吉な前兆である。
「どうしたい? 湯の沢になにかあったんか」
「身寄りの婆さんが住んでるんだって?」
「そうだよ、まさか……」
ツネさんも表情を硬くした。静枝は、いまにも倒れそうに、蒼白《そうはく》になっている。いや、棟居が脇から支えてやっていなければ、本当に倒れてしまったかもしれない。
「とにかく現場へ行ってくれ。おれはただここで張り番してるだけなんだから」
工事人は言って、ダムの底の方を指した。
「私、恐い!」
静枝は、その場に立ちすくんでしまった。墜落者を確認するのが、恐ろしくなったのである。
「静坊、なにを言うんだ? 婆さんにはカンケねえ、早く家へ行ってやるんだ」
ツネさんが声をはげました。どのみち、この階段を降りなければ、湯の沢へは行けないのである。茶褐色の谷底には、数軒の廃屋と、立ち枯れた樹林と、痩《や》せほそった水流が見える。その廃屋の一軒におたね婆さんは住んでいるはずであった。
工事人は、言葉をにごしたが、まだ彼らは完全に絶望したわけではなかった。老人のことだから、その日身体の調子がかんばしくなくて家に臥《ふせ》っている場合も考えられる。この急な階段の上下は、若く健康な人間でも、億劫《おつくう》になる。
ダムの下へ降り立つと、騒ぎの気配は、いっそう迫った。人は、やや右岸寄りの堰堤の上から落ちた様子である。墜落現場は、人垣が取り巻いていた。警官の姿も見えた。
「だれが落ちたのかね?」
ツネさんが人垣の後ろから覗き込もうとすると、
「おい、あんたたちは、だれだ?」
と尖《とが》った声を浴びせかけられた。現場を保存していた警察の人間らしい。
「霧積の者だがね、湯の沢の人が落ちたと聞いたもんで」
「だれがここへ入っていいと言った?」
「うちで働いているこの娘が、湯の沢の人間なんで、ちょっと心配になってね」
「湯の沢の?」
「ああ、これは駅長さん」
警官の中に駅長さん≠知っている者がいた様子である。彼らの態度が変わった。中年の客は、この辺ではかなりの名士らしい。
人垣の一部が解かれて、彼らは事故現場の真ん前に出た。高さ六十七メートルのコンクリートの堤体が眼前に垂直にそそり立っている。そこは右岸固定部寄りの、ちょうど閘門《こうもん》越流部右端の真下にあたる。
遺体は堤体基部の岩盤に無造作にむしろをかけられて横たわっていた。だが周辺の岩や土に、むしろで被《おお》いきれない血痕《けつこん》や肉片が飛び散り、検視の一行が拾い集めている。
警官の一人がむしろを少しまくった。そこに無惨に破砕された肉塊があった。一見しただけでは、人間とはおもえないほどの傷み方である。
「おばあちゃん!」
遺体をじっと見つめていた静枝が、悲鳴をあげてむしろに抱きついた。
「やっぱり!」
「この娘さんの身寄りだったか」
集まっていた人間の口からいっせいに痛ましげな嘆声がもれた。
「おばあちゃん、どうしてこんなに、こんなになっちゃったの? ひどいよ、ひどいよう、私が今日帰って来ることはわかってるのに、どうして?」
静枝は号泣した。周囲の人々もしばらくは彼女の悲嘆のほとばしるままにまかせる以外になかった。ひとしきり泣かせた後でなければ、どんな慰めを言っても聞こえないだろう。
「いったいどうして落ちたんですか?」
駅長がたずねた。
「いやあ、それが我々にもよくわからんのですよ。ダムの両側には手すりがあって、よほど身を乗り出すか、後ろから押されでもしなければ、簡単に落ちるもんじゃないのですがなあ」
警部補の階級章をつけた制服の警察官が答えた。ふつう検視は検事か警部以上が当たることになっているが、地方の警察では巡査部長以上が代行することもある。
「後ろから押される?」
横渡が目を光らせて、
「そんな疑いでもあるのですか?」
とたずねた。
「まさか。こんな年寄りにそんなひどいことをする人間はいないでしょう。きっと老人の足がもつれたか、高い所から下を見て、目がくらんだかしたのですよ。まだダムは工事中なので、堰堤の上は立ち入り禁止にしているんですが、監視をしているわけじゃない。この辺に刑事責任の有無が問われる程度でしょうな。ところで、あなたはどなたですか」
しゃべってしまった後で、警部補は横渡と棟居に土地の者ではないにおいを嗅《か》ぎつけたらしい。駅長といっしょに来たので、この辺の人間かとつい気を許したのである。警部補の目に警戒の色が浮かんだ。
「これはどうも申し遅れまして。我々は警視庁からまいりました。こちらは捜査一課の横渡刑事、私は麹町《こうじまち》署の棟居と申します」
棟居が身分を明らかにした。
「警視庁から……これはこれはごくろうさまです。私は松井田《まついだ》署の渋江といいます」
警部補は姿勢を改めて、自己紹介をしてから、
「しかし警視庁の方が、何の事件でこんな山ん中へ?」
と不審の色を刷《は》いた。
「実は私どもも、そこのダムから落ちたお婆さんに用事がありましてね」
「えっ、このホトケに!? すると、なにか事件に関係があるのですか」
渋江の面が引きしまった。フットボールのような卵形の顔が、栄養が行き渡っててかてかと光っている中年の警部補である。階級は二人の刑事のほうが下であるが、中央の捜査一課から来たと聞いて、いっぺんに緊張した様子である。
「まだ断定できませんが、このお婆さんが我々の手がけている事件について重大なことを知っていたかもしれないのです」
「重大なことを……その婆さんがダムから落ちて死んだとなると……」
渋江は、事態の容易ならないのをようやく悟った様子だった。
「それで、お婆さんが落ちた前後の模様をできるだけくわしくお聞きしたいのですが」
棟居は、祖母の死体に取りすがって泣き伏している静枝を横目にしながら、冷酷に自分の用件を推し進めた。可哀想だとはおもったが、すでに彼の関心は哀れなその娘から離れていた。それに彼女の悲嘆はどんな慰めも救えないのだ。
渋江警部補の話によると、おたね婆さんこと中山種の死体が発見されたのは、今朝十月二十二日午前八時ごろである。発見者は工事人の一人で、墜落現場の真上にあたるダムの手すりのそばに古|草履《ぞうり》が片方だけぬぎ捨てられてあるのに不審を抱いて手すりから下を見たところ、ダム基部の岩盤に全身を打ちつけて死んでいる人間の死体を見つけた。びっくりして作業事務所に急を報《しら》せて、現場へ駆けつけたものである。
検視の所見によると、死亡推定時刻は午前六時前後、死因は、高所からの墜落による頭蓋骨《ずがいこつ》粉砕である。老女がどうしてそんな半端な時間にダムの上から墜落したのかわからないので、警察としてもその扱いに迷っているところに、静枝や横渡の一行が来たという。
渋江の説明を聞きながら、二人の刑事は激しい失望感に打ちのめされていた。これでようやくつかみかけたかすかな手がかりが失われた。
――中山種は、殺された――ということが、ここまで追って来た彼らには痛いほどわかった。
犯人は、絶えず警察の動向を監視していて、警察が「霧積」に目を着けたと知るや、先回りして事件の鍵を握るおたね婆さんを抹殺《まつさつ》してしまった。
不毛の追跡が長かっただけに、ようやくつかみかけた手がかりを失ったことは、ふたたび立ち上がれないような脱力感の中に、二人を叩《たた》き込んだ。
「しかし、婆さんが殺されたということは、我々の追跡が正しい方角へ向かっていることをしめすものじゃないでしょうか」
ややしばらくの放心の後に、棟居がふとおもいついたように言った。
「正しい方角だろうが、誤った方角だろうが、これでまた、暗闇の手探りになったことには変わりはないよ」
横渡が、吐き捨てるように言った。
「午前六時ごろといえば、もう明るくなっています。こんな危険な時間に婆さんをダムの上へ誘い出して突き落とした犯人は、かなり焦っていたとおもうのです。犯人には時間がなかったのかもしれない。犯人は重大な危険を冒して、婆さんを殺した。犯人の姿を見ている者がいるかもしれません」
「そんなヘマをするかな」
「わかりません。しかし犯人は、なにも我々の来る直前に、婆さんを慌てて殺す必要はなかった。殺すつもりならばいつでも殺せたはずです。それにもかかわらず、最もきわどい時間を選んで、それをした。ということは、犯人は我々が婆さんの許《もと》までたどり着けないとたかをくくっていたんじゃないでしょうか。それが意外に早くその存在を割り出してしまったので、びっくりして、婆さんの口を封じた、と考えられませんか」
「慌てていたから準備する余裕もなく、なにかミスを犯しているかもしれないというわけだな」
「そうです。それに婆さんが犯人の誘いに乗ってのこのこ従《つ》いて来たところを見ると、顔見知りの者とおもいます」
「すると、ジョニー殺しの犯人が、おたね婆さんの顔見知りだったということになるな」
「婆さんが犯人の顔を知っていた可能性はあります。その可能性があるだけでも、犯人にとって危険このうえない」
「ジョニーと婆さんを殺した犯人は、同一人物だろうか?」
失望に打ちのめされていた横渡も、しだいに立ち直ってきた。
「とはかぎらないでしょうが、ジョニー殺しの手がかりを消すために婆さんの口を塞《ふさ》いだとすれば、新たな共犯を雇い入れて、べつの危険の種を蒔《ま》くとは、考えられませんね」
「もし同一犯だとすれば、日本人だな」
「どうしてですか?」
「犯人は婆さんと面識があるといっただろう」
「外国人と面識があっても不思議はないでしょう」
「面識があるとしても、霧積を接点にしてできたものだろう。だとすればだいぶ以前のことだ。婆さんが、ただでさえもおぼえにくい外国人の、そんな古い知り合いの顔をおぼえているだろうか」
「…………」
「それに外国人が犯人だとすれば、あまりにも大きな危険を冒したことになる。このあたりで外国人の姿を見かけたら、かなり目立つ。必ずだれかの目に触れたはずだ」
「なるほど。しかし外国人でないにしても、犯人が危険を冒したことに変わりありません。探せばなにか残っているかもしれません」
二人の刑事は、ようやく立ち直った。絶望の淵から手探りで、暗夜に光明を求める作業が、またはじまったのである。
祖母の遺骸《いがい》にすがりついて泣いていた静枝も、検視の係員に両手を取られて引き放された。刑事たちには、犯人追跡の執念と作業が残っていたが、彼女の悲嘆には、まったく救いがない。警察の捜査は、被害者の不幸を少しも救えないところに、捜査の限界と虚《むな》しさがあった。
事故死と見ていた松井田署では、警視庁から来た二人の刑事の介入によって、にわかに緊張した。当面、事故、作為両面の構えで、捜査をすることにした。横渡と棟居は東京に連絡して、出張を延期し、中山種の身辺を松井田署と協力して洗うようにという新たな指示をうけた。
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道具の反逆
「今夜は、久しぶりにきみの部屋へ行っていいか」
半月ぶりに夫婦さし向かいの夕食の後で、郡陽平は妻を誘った。
「あら、本気でおっしゃるの? 雪でも降らないかしら」
恭子は、大仰《おおぎよう》に言って外を見るしぐさをした。
「それとも、きみは迷惑かな」
「ふふ、迷惑のはずがないじゃないの。馬鹿ねえ」とうすく頬を染めて夫を軽く打つ振りをした恭子には、年齢をまったく感じさせない艶《つや》っぽさがある。
「たまに掃除をしておかないと、蜘蛛《くも》の巣が張るからな。もっとも本当に張っているかどうか、目で確かめるわけにはいかんがね」
陽平が夫婦だけにわかる淫靡《いんび》な笑いを含むと、
「刺《とげ》のある言い方をするのね。私もあんまり長い間ご無沙汰《ぶさた》なので、感覚を忘れちゃったわよ」
「なにせ、天下の家庭問題評論家、八杉恭子先生だからな。夫のおれもそう簡単に寝室を共にしてもらえないというわけだ」
「変な言い方をしないで。私、評論家になってから一度でもあなたの需《もと》めを拒んだことがあって? 仕事の都合ですれちがいになることはあっても、私、できるだけあなたの都合に合わせているつもりよ。それに評論家になったのも、あなたの納得のうえじゃない」
「まあそうむきになるなよ。きみのように美しく、有名な評論家を妻にしている優越感から言っただけだ。世の中の男たちは、きみの裸身の想像図に胸をこがし、せいぜい想像の中できみを犯して、自分を慰めているんだろう。そのきみを、おれは妻としておもうがままに犯し、貪《むさぼ》ることができる。男|冥利《みようり》に尽きるとはまさにこれだな」
「あなたの買いかぶりよ。私はただの人妻よ。評論家の衣装を脱げば、普通の家庭の主婦にすぎないわ。それよりあなたこそ民友党の若き旗手として、次期政権をめぐる台風の目とされている人よ。そんな人が妻一人で満足できないのは仕方がないとしても、あなたを独占できないのは悔しいわ」
「妻として独占しているじゃないか」
「いいのよ、わかっているんだから。私、野暮《やぼ》は言わないわ。あなたの若さと元気で妻と一か月もナニもなくて平気でいられるはずがないもの」
「おいおい変な言いがかりをつけないでくれよ」
陽平は、分厚い掌でつるりと顔を撫《な》でた。それは妻に表情の変化を悟られまいとしてやったしぐさに見えた。
「せっかくのお声がかりですものね。せめて今夜だけでも独占させていただくわ。すぐ支度をしてまいります」
恭子は食卓から立ち上がった。食後の片づけは、住み込みのお手伝いがしてくれる。夫に抱かれるための寝化粧を施すのが、今夜の彼女の仕事である。そのことだけでも、普通の家庭の主婦とは異なっていた。
夫の好みそうな寝衣を選びながら、彼と寝室を共にするのは何日ぶりかと恭子は考えた。夫婦の間で、寝室をべつにする習慣は、若いころからつくられていた。
陽平と結婚したのは、二十三歳のときである。陽平は三十歳で、すでに、かなり大きな鉄工所を経営していた。その四年後には、ある財界の大物のバックを得て衆院選に初出馬し、政界入りをした。政治家として忙しくなるにつれて、睡眠時間が切りつめられ、限られた時間を最も有効に使うために、夫婦の寝室をべつにした。
どちらか欲しいほうが、相手の部屋を訪れることにしたのだが、このような約束が、一方的に男の都合に合わせられるのは、止《や》むを得ない。
それでも新婚のころは、夫の訪問が毎夜のようにあり、そのまま朝まで妻の部屋で眠ってしまう。なんのために部屋を別《わ》けたのかわからないようだったが、陽平が政治家としてしだいに重みをましてくるにつれて、訪問回数が減ってきた。また外に女をつくったにおいも感じられた。
恭子は、初めのうちはずいぶん寂しいおもいをしたものだが、恭平と、陽子(長女)が生まれ、はからずも家庭問題評論家として、世の脚光を浴びるようになったために、忙しい夫をもった寂しさを忘れてしまった。むしろ忙しくなった妻にとって、夫の多忙は勿怪《もつけ》の幸いであった。
夫婦のすれちがいが多くなり、たまに家に居合わせることがあっても、家に持ち込んだそれぞれの仕事で忙しく、営みの回数は極端に減った。それでも夫婦仲が冷えたわけではない。今夜のようにどちらかの(ほとんど夫の)都合がよいときに誘いがかかる。
久しぶりに肌を合わせた二人は燃えた。
「これが大学生と女学生の二人の子供をもつ四十八歳の母親だとは、とても信じられないな」
陽平は、燃えつきた後の快い弛緩《しかん》の中で、久しぶりに堪能《たんのう》した妻の、桜色に火照《ほて》った裸身を目で愉《たの》しみながら言った。多年の夫婦の間に含羞《がんしゆう》はうすれたが、経験に裏打ちされた余裕と呼吸がある。それが熟練した夫婦の自信をつくる。
奔放に開いた裸身を夫の目から隠そうとしないのも、厚顔無恥になったというより、その自信によるものであった。それは、成熟に達した女のまだ十分夫を惹《ひ》きつけられる魅力を意識している自信である。彼女の社会的な力も、それに与《あずか》っていた。
「年齢《とし》のことをあまり言わないで。気にしているんだから」
「きみがとしを気にするなんておかしいよ。きみなら、どんな若い女にも負けない。いや、熟れて、女の最も美味《うま》い時期にさしかかっている」
「いったい、どこの女と比べているの、いやらしいわ! いまさらこんなお婆ちゃんにそんなおせじを言ってもだめよ。もしあなたが、そんなに気に入っているのだったら、どうしてもっと頻繁に訪問してくれないのよ?」
恭子が怨《えん》ずると、
「訪問しても、留守のことが多いじゃないか。まさか外でこの美しい体を、若い男に盗み食いさせているんじゃなかろうな」
と陽平が切り返した。
「あなたとはちがうわ。私のいまの仕事も、あなたのお仕事にずいぶん役立てているつもりよ。そんなこと言われたら悲しいわ」
「わかっている。だからおれもこんな変則な夫婦生活にがまんしているんだ。おれが愛しているのは、きみしかいない。たとえいまは別居結婚のような夫婦でも、おれにとってきみはただ一人の妻であり、最高の女性だよ」
「おせじとわかっていても、そう言われると嬉《うれ》しいわね。私にとっても、あなたはただ一人の男であり、最高の男性よ」
「そんなにもち上げられると、年甲斐《としがい》もなくまたもよおしてくるぞ」
「何度でももよおして。望むところだわ。私たち夫婦なのよ」
「子供たちは、どうしている?」
妻と睦《むつ》み合う年齢を意識して陽平は、ふと二人の子供のことをおもった。
「陽子は、自分の部屋にいるようだけど、ここのところ、恭平が家に寄りつかないで困ってしまうわ」
「きみがマンションなんか買ってやるからいけないのだ」
「あら、恭平もいつまでも子供ではないのだから独立した気分を味わわせてやるのもいいだろうとおっしゃって、オーケーしたのは、あなたじゃないの」
「そうだったかな」
「困るわ、父親としてそんな無責任では」
「べつに無責任のつもりはないがね、おれにはあの年頃の若者がさっぱりわからない。世代のちがいだの、親子の断絶だのと言う前になにかこうべつの宇宙から来た生物のような気がするんだな」
「そんなおっしゃり方しないで。わが家には親子の断絶なんてないのですから」
「そうだったな。あの子たちはきみの商売道具だ」
「商売道具だなんて、ひどい言い方。あの子たち聞いたら怒るわよ」
「ちがうかね。まあ人間でも、道具でもいいから、あまり放任しないほうがいい。あの子たちは天下の郡陽平と八杉恭子の長男と長女なのだ。常に親の名前と地位にふさわしい振る舞いを要求される」
「それはあの子たちも十分わかっていますわ」
「とにかく子供たちはきみにまかせる。手綱をちゃんとおさえていてくれよ」
夫婦の会話は、そこで途絶えた。間もなく陽平の健康そうな寝息が聞こえてきた。今夜は久しぶりに妻の部屋に泊まるつもりらしい。
ほぼ同じころ郡陽子は、自分の部屋の中で蒼白《そうはく》になって立ちすくんでいた。見ひらいた両の目から、ぽろぽろと大粒の涙がしたたり落ちるにまかせている。よほど大きなショックを受けた様子である。
時折、唇を震わせて、なにかひとりごとをつぶやいている。ひとりごとというより腹の底から湧《わ》いてくるうめき声を抑えているようであった。
「ひどいわ、あんまりだわ……ひどい」
部屋の中にいる者があれば、彼女のとぎれとぎれのつぶやきを、そのように聞きとめたであろう。
「汚い!」
また吐き出すように言ってから、さらにひとしきり激しく哭《な》いた。嗚咽《おえつ》を部屋の外に漏れないように抑えているので、感情が内攻して、いっそう激しい嗚咽を誘い出している。
彼女の目の前のテーブルには、一台のポータブルラジオが置かれてあった。彼女は、たったいまそれが受信した恐るべき会話を盗み聴いたのである。それは彼女の両親の正体をまざまざと見せつけてくれた。
陽子は、母親の部屋に仕掛けられた小型発信(盗聴)機から送られてきた両親の会話をはからずも、FM放送を聴こうとして、|選局つまみ《チユーニング・ノブ》を回している間に盗聴してしまったのである。
それを仕掛けたのは、兄の恭平である。兄の仕業であることは、すぐにわかった。だが両親の会話が受信されると同時に、陽子は金縛りにあったように身動きできなくなった。
兄が指摘していた両親の正体が、高性能の盗聴機によって無惨に露《あらわ》にされていく。
兄が家を出るとき、陽子は必死に行かないでくれと諌《いさ》めた。だが兄は妹の諌止《かんし》と懇願に耳をかさなかった。
「陽子、おまえも早くこんな家出たほうがいいぞ。おやじもおふくろもおれたちのことをペットぐらいにしかおもっちゃいねえんだ」
恭平は口を歪《ゆが》めて言った。
「ペットなんてひどいわ。こんなに可愛がってくれているのに」
「これはな、可愛がるなんてもんじゃねえよ。おれたちはな、おふくろの態《てい》のいいオモチャなのさ。おまえ、一度だっておやじに抱かれた記憶があるか。おふくろのにおいをおぼえているか。いねえだろう。生まれたときからお手伝いまかせで、おやじやおふくろはおれたちを育てるために指一本動かしちゃいないのさ。あいつらのしたことと言えば、おれたちのために養育費≠払っただけだ」
「そんな言い方はないわ。パパとママをあいつらだなんて」
陽子が半べそをかいた。
「他にどんな呼び方があるというんだ? あいつらは、あいつらでたくさんだよ」
「でもお兄さんは、ママといっしょにテレビやラジオに出たり、雑誌で対談をしたりしているじゃないの」
「それはね、おふくろの営業≠フ手伝いさ。どんなにえらそうなことを言ったって、この世は金がないことには渡れない。あいつら、愛情はないけど、養育費はたっぷり支払ってくれたからな。いまさら貧乏暮らしはできないようになっちまった。だからもっともっと養育費を払ってもらうために手伝っているだけだよ。おまえだって手伝いをしているんだ。親子ごっこのアルバイトだとおもえばいい」
「親子ごっこなんて、兄さんはどうしてそんなひどいことが言えるのよ?」
「おれはね、あいつらの正体を見とどけちゃったんだ。いちおう親の衣装を身に着けているが、あいつらは親じゃないね」
「親でなかったら、何だっていうの?」
「生まれたときからの同居人だね、もっとも実際に同居した時間は、少ないがね」
「兄さんはすねてるのよ。本当はパパとママが恋しくてしかたがないくせに」
「おれがすねてるだって、はは、こいつは大笑いだ。おれがあいつらを恋しくてしかたがないだと。おい陽子、あんまり笑わせないでくれよ。おかしくって、涙が出てくらあ」
恭平は、本当に目に涙をためて笑った。まるでなにかの発作が起きたかのようであった。あまり笑いつづけたために、しまいには脇腹が痛くなった様子である。ひとしきり笑って、ようやく発作が鎮まると、
「よし、おまえにあいつらの正体を見せてやろう」と言った。
「いったい何をするつもりなの?」
「あいつらの部屋に盗聴機を仕掛けておいてやる。FMラジオで受信できるから、あいつらの話していることを聴けば、やつらの正体がよくわかるさ。小型強力電池を内蔵しているから長期間|保《も》つ」
「お願い! そんな賎《いや》しい真似しないで」
陽子は、悲鳴のような声をあげた。
「どうして賎しいんだ。最初にそれをしたのはおふくろなんだぜ。おまえだって知っているだろう。おふくろを有名にしたベストセラーは、おれの日記を土台にしたものなんだ。おふくろはそれを盗み読みしてやがったんだ。おれに悟られないように一年も盗み読みしつづけて、それをおれに内緒で本に書いてしまいやがった。あの本は、おれの日記のコピーのようなもんだ。おふくろはおかげで有名になった。しかしおれの秘密は、全国に知られてしまった。おれはだれも見ている者がないとおもっていた便所の中の自分の姿を、テレビにうつし出されたような気がしたよ。おれはそのとき、あの女の正体を見とどけたんだ。全国母親のアイドル、慈愛深き母、夫に優しく仕える妻、聡明《そうめい》で美しく、上流の香気と気品を身にまとい、しかもかつ、どこの子供にも母≠感じさせる庶民的な親近感、それが一皮|剥《む》けば、子供を道具にして有名になりたい、自己|顕示《けんじ》欲の化け物のような女なんだ。有名になる前だっておやじのかげに隠れるような演技をしながら、おやじへの協力という形でいつも自分を出すようにしていた。おまえだって日記や手紙を盗み読まれているかもしれねえんだぞ」
兄に言われて、陽子にもおもい当たる節がないでもなかった。彼女は日記をつける習慣はないが、母から何度もそれをつけるようにすすめられていた。
「日記というものは、習慣がついてしまえばそんなに苦しいことではないのよ。むしろ、一日でもつけないと、気がすまなくなるくらいよ。繰り返しのきかない自分の人生の記録ですもの、だれでも日記をつけるべきなのよ」としきりに説いたのも、盗み読もうという下心があったからだろうか?
また陽子には、手紙を下書きするくせがある。後で、その下書きが必要になって、くずかごを探したが、たしかにそこへ捨てたはずの下書きが見つからなかったことが何度かあった。お手伝いに聞いてもみたが、まだごみを捨てる前であった。あれも母がもっていったのではあるまいか?
そう言えば、その後の恭子の著書の中に、陽子の好んで使う言いまわしや語句があって、はっとさせられた経験があった。
――でも、まさか――
と半信半疑の陽子に、恭平は、
「とにかくおまえも注意するにこしたことはない。恋人でもいたら、おふくろに十代の性だなんて本の素材にされないように十分に用心するこったな。家の中にスパイがいるとおもっていればまちがいねえよ。とにかくおれは、これ以上、自分をスパイされるのに耐えられなくなったんだ。おふくろは大事な素材が家出をしようとしたので泡食ったが、おれたちは取り引きしたのさ」
「取り引き?」
「そうさ。おれはこれからもおふくろに日記を見せてやることにしたんだよ。それを言ったときのおふくろの顔ったらなかったな。結局、おふくろはおれとの取り引きをうけ入れた。そのほうがおふくろにとっても都合がよかった。おれの日記はおふくろには絶対に書けねえからな。そのうちおれは自分で日記を書くのが面倒臭くなった。どうせ嘘っぱちの日記ならだれが書いたって同じさ。だから、おれは友達の文章のうまいやつにおれの日記を代筆させるようになった。友達はいいアルバイトだって喜んでいるよ。おかげでおれは、指一本動かさずにたんまりと養育費を払ってもらえる。しかし、おふくろは身近に観察する素材を一つ失った。残ったのはおまえだけだ。これからはおふくろの目はおまえだけに集まるよ。おまえもなるべく早く家を出たほうがいいぞ」
こうして恭平は出て行ったのである。そのときの兄の言葉は、陽子にかなりのショックをあたえたが、時間の経過とともに忘れていた。それが突然、今夜、両親の会話を盗み聴いてしまったのである。
盗聴する意思はなかった。だが二人の会話は、高感度の盗聴器に捉《とら》えられて、耳に入り込んできた。全身が硬直して耳も抑えられなかった。
会話に先行する夫婦の行為の淫靡《いんび》な気配は、親の権威を地に堕《お》とし、潔癖な少女のガラスのような心を粉砕するものであったが、後につづいた両親の言葉が、陽子に止《とど》めを刺した。それはまったく救いのない決定的な言葉だった。
兄の言葉は、本当だった。父母は自分のことを「商売の道具」と言ったのだ。――私は道具でしかなかったのか――
涙のしたたるにまかせた後に、やがて涙も乾いた。長い放心がきた。放心している間に、彼女の心の中から剥落《はくらく》していくものがあった。そこに空いたうつろは、当座はなにものによっても埋められないはずであった。
熊のシミは、小山田文枝の血液型と符合したものの、K市「鳥居前」の捜索からはなにも発見されなかった。最近の車体は静電塗装を施しているので塗料片がほとんど剥落しない。さらに事件発生時と捜査の間隔が開きすぎているために、現場の原形がほとんど失われてしまったのである。
小山田文枝が轢殺《れきさつ》されて、遺体をいずこかに運ばれて捨てられた疑いは強くとも、まったく手がかりがないことには探しようがなかった。
警察の捜索は打ち切られた。もともと、被害者側の訴えにもとづいてはじめられた捜索だから、あまり熱意がなかった。後には小山田と新見だけが残された。二人だけでは、もはやどうすることもできなかった。
「小山田さん、これからどうしますか?」
「わかりません」
小山田は、絶望の目を宙に泳がせたまま、答えた。
「まだあきらめてはいけませんよ」
「しかし、これ以上、どうしたらいいのですか?」と問われると、新見にも答えられない。
「とにかくこの際、あきらめないということが大切だとおもいます。私たちが探さなかったら、だれが奥さんの行方を探すのですか。私には彼女がどこか遠方から熱心に呼びかけているような気がしてなりません」
「それはあなたを呼んでいるのですよ。私にはそんな声は聞こえませんね」
小山田は投げやりに言った。もう彼には、妻の行方などどうでもいいようであった。
「小山田さん、あなたのお気持はわかりますが、あなたがそうおっしゃっては、奥さんがお気の毒です。奥さんは、あなたを呼んでいるのです。その声に耳を塞《ふさ》がないでください」
新見は、虚脱したようになっている小山田を慰めたり、励ましたりした。新見自身も文枝(彼にとってはなおみ)を失って、魂の最も重要な部分を切り取られてしまったような虚脱感に打ちのめされていた。
だが、それを小山田に悟られてはならなかった。新見の打撃の大きさを悟らせること自体が、小山田に二重の打撃をあたえることになるのである。新見には、文枝の失踪《しつそう》を公《おおやけ》に嘆く資格がない。その意味では新見の受けた打撃は、小山田のそれよりも救いがなかった。
世間的には、人目を忍ぶ不倫の情事であっても、誓い合った愛は、本物であった。新見は、これまでに、これほど激しく異性を愛したことはなかった。文枝によって、初めて本当の女を知らされたおもいであった。文枝も同じことを言った。
妻との結婚には打算があった。その打算は当たって、現在の位置までとんとん拍子に進んで来た。しかし結婚を打算で購《か》った代償は高かった。冷えきった家庭の中に、新見は妻と同居しているだけにすぎなかった。子供も生まれたが、それは愛の結実ではなく、肉体的に健康な男女の生殖の当然の結果であった。
新見は、妻との同衾《どうきん》に欲望や情感をおぼえたことはない。皮膚の接触による反能によって、なにがしかの精液を妻の体内に射出していただけだ。
しかも保身のためとはいえ、結婚後はそんなセックスが彼にとって唯一のセックスであり、妻だけが許されたただ一人の女性であった。
そこに現われたのが文枝である。彼女は心身のすべてが新見好みにできていた。まるで一卵性双生児のように精神が感応し合い、身体が反応し合った。
彼らは急流に引かれるように、たがいの中にのめり込んで行った。いちおう、保身のための歯止めはかけていたが、そのままいけば遠からず急流の果ての滝壷《たきつぼ》に向かって二人もろとも落ち込んでいくのが、目に見えるようであった。
逢《あ》っている時間の燃焼が激しく、充実しているほどに、別れているときの寂しさに耐え難《がた》くなった。相手が恋しくて、なにも手につかない。いつもいっしょにいられないというもどかしさから、発狂してしまいそうな気がした。
そんな矢先に、文枝は姿を晦《くら》ましてしまったのだ。彼女の生存する可能性は、きわめて低い。生きてさえいれば、新見の許《もと》へいちばん先に連絡してくるはずである。
ショックで昏睡《こんすい》をつづけているか、監禁されている可能性もないことはないが、これだけの期間、負傷した女性を人目に触れさせずに閉じこめておける場所があろうとはおもえない。
「なおみ、どこへ行っちまったんだ?」
新見は、周囲にだれもいないとき、何度も声に出して問いかけた。彼女は、どこか遠方からしきりに新見を呼んでいた。それはたしかに彼を呼ぶ声であった。
「あなた、来て! 私をたすけて」
それは遠い地の底から湧《わ》いてくるような声である。
「いったいどこにいるんだ? なおみ、おしえてくれ」
その密《ひそ》かな陰々たる声に追いすがっても、ただたすけてとあえかに悲しげに答えるだけであった。その声は、夜、枕に押しあてた耳を澄ますと、より悲しげに、苦しげに訴えかけてくる。
どんなに訴えられても、探しようがないだけに、新見の焦燥感は募るばかりであった。
「なおみ、もしきみがもうこの世の者でないとしても、きみの霊に託して、居場所をおしえてくれ。きみはどこにいるんだ。おしえてくれさえしたら、ぼくの腕に抱き取って、きみを安らかに眠らせてあげよう」
枕に耳を押しつけて何度も何度も語りかけているうちに暗い眠りの中へ落ち込んでいくのである。新見にとっても、彼女を探し出すまでは安らかな眠りは得られなかった。
日曜日に、新見の妹夫婦が遊びに来た。彼の末の妹の千代子は、建設会社の社員の魚崎と五年前に結婚した。山へキャンプに行って、その近くのダム築造工事に来ていた魚崎と知り合い、結婚したのである。夫婦の間には、三歳の子が一人いて、今年から三年保育の幼稚園に行く。今日彼らが来たのは、魚崎が近くブラジルへのプラント輸出の一環として現地へ建設するダム発電所の技術者として長期出張することになったので、その別れの挨拶《あいさつ》も兼ねている。
「幼稚園といっても大変なんですよ。主人と私が交代で三昼夜も並んで、ようやく入園資格をもらったのよ」
新見がみなの集まっている部屋へ入っていくと、千代子が大仰な口調で妻に話していた。
「何の話をしてるんだ?」
新見が問いかけると、千代子が彼の方へ顔を向けて、正《ただし》という彼らの一人息子に一流幼稚園の入園資格を得るために受付開始の三日前から夫婦交代で行列した話を繰り返した。それは成城にあるセント・フェリス大学の付属幼稚園で、ここに入園すると、大学までエスカレーター式に行けるので、都内および近県から定員の数十倍も押しかける。
「おまえ、そんな馬鹿馬鹿しいことに、魚崎さんを引っ張り出したのか」
新見がいささか呆《あき》れて言うと、
「馬鹿馬鹿しいなんてひどいこと言うのね。正の一生を決定するかもしれない重大な問題なのよ」
千代子は口をとがらせた。
「たかが幼稚園じゃないか。幼稚園なんて、どこだって同じだろう。おまえだけでなく、いまの母親は、大げさに考えすぎるんだ」
それは、妻にも聞かせているつもりだった。
「お兄さん、それは認識が甘いのよ。いまはね、幼稚園から差をつけられるのよ。幼児のころの人間形成期につけられた差は、一生詰められないそうなのよ。お兄さんの子供のころのようにのんびりしていないわ」
「それは、競争が厳しくなったことは認める。しかしね、人間の勝負は、死ぬまでわからないものだ。人生をスタートしたばかりの幼稚園や小学校あたりで、勝った負けたもないもんだよ。だいたいいまの母親は、子供の教育にせっかちすぎる。子供の才能なんて、いつどこで芽を吹くかわからない。小さいころから無理に尻《しり》を引《ひ》っ叩《ぱた》いても、親のおもうとおりにいくとはかぎらない。親の見栄やエゴから子供に競争させている場合が多いんだ。幼稚園や小学校のころから子供に成績競争させて、悦に入《い》っている親は、おれに言わせれば、サル回しのコンクールだね」
「まあ、サル回しのコンクールなんてひどいわ」
千代子は、唇を噛《か》みしめて、いまにも泣きだしそうな顔になった。
「あなた、魚崎さんがせっかくいらしてくださったのに、そんなこと言ったら悪いわよ」
妻が見かねて取りなすと、
「いやいや、まったく義兄《にい》さんのおっしゃるとおりですよ。ぼくもいまのせっかちな教育の傾向には疑問をもっていたのです。親が平均化してしまったものだから、せめて子供に競争させて差をつけようとしているんですかね。それとも子供に期待を寄せすぎて、親の果たせなかった夢を子供に託そうとするんでしょうか。とにかくいまの幼児期からの英才教育には凄《すさま》じいものがあります」
魚崎がわが意を得たりとばかり、大きく相|槌《づち》を打った。
「あなたまでがいっしょになってひどいわ。先へ行って苦労をさせるよりも、いまのうちに無理をしても、いい所へ入れたほうがいいということで、あなたも了解したんじゃない」
千代子が早速、夫へ攻撃の鉾先《ほこさき》を向ける。
「そりゃあ、なにせ、正の教育はきみにまかせてあるんだから、きみの意思を尊重したんだ」
「私にまかせてあるなんて、そんな無責任なこといわないで。私たち二人の子供なのよ」
「それはまあ、おれたちの協同作業の結果だからな」
魚崎は、まだ十分に若い妻がむきになっている姿をにやにや見た。
「なによ、いやらしい笑い方をして」
「おれがいま笑ったのが、いやらしく見えたということは、おまえもいやらしい証拠だぞ」
夫婦の口げんかが変な方向へそれかかった。
「まあ、いつになっても、お熱い雰囲気なのね」
新見の妻が、羨望《せんぼう》の色を面に浮かべた。その表情には真剣味があった。それはそのまま、彼女と新見の夫婦生活の不幸の色合いでもあった。
ちょうどそこへ、正が新見の下の子供の小学生ともつれ合うようにして、一同のいる部屋へ駆け込んで来た。いままで別室で遊んでいたのである。
「かえして、かえしてよう」
正は叫びながら、新見の息子の後を追いかけている。彼が正のもってきた縫いぐるみを取り上げてしまったのだ。
「隆一! 小さい子供をからかってはいけません」妻が息子の名を呼んで叱《しか》った。
新見は隆一が抱えている縫いぐるみになにげなく視線を向けて、愕然《がくぜん》とした。驚きが大きすぎて全身が感電したかのようなショックをおぼえた。それは、熊の縫いぐるみだった。それも、形、サイズ、材料、色合いなど、例の熊と寸分ちがわないものだった。ただこちらのほうが新しい。
新見は、初め、息子があの熊を持ち出してきたのかとおもった。だが、それは友人に血液型の割り出しを依頼した後は、会社のロッカーに保管してある。
「そ、その熊は、いったいどうしたんだ?」
いきなり強い声をだした新見に、子供たちのほうがびっくりした。正は、一瞬、きょとんとして新見の顔を見つめると、次に母親の許《もと》へ駆け寄って泣きだした。新見に叱られたと勘ちがいしたらしい。
「まあまあ、いきなり大きな声をだしてどうしたのよ。正ちゃんがびっくりしてるじゃないの」
妻にたしなめられて、
「いやちょっと、その熊が珍しかったものだから」
と新見は取り繕った。
「ごく普通の縫いぐるみじゃないの」
「これをどこで買ったんだ?」
新見は妹の方を向いてたずねた。
「買ったんじゃないわよ、もらったのよ」
「もらった、だれから?」
「フェリスの入園記念よ、幼稚園が入園児に贈ってくれたのよ。もっとも只《ただ》じゃなくて、ちゃんと入園金の中に盛り込まれているんだけど」
「入園記念だって? 入園児にはみんなくれるのか?」
「そうよ。フェリスの動物人形は有名よ。子供の一生の守護神として、これだけ欲しがる母親も多いわ」
「毎年、熊をくれるのか?」
「その年によって、犬や猿や兎《うさぎ》もくれるわね、今年は熊だったわ。熊がいちばん人気があるのよ」
「人気があるというと、今年以外にも熊をくれた年があるんだな」
「だいたい五年くらいでサイクルが回ってくるみたい。でも兄さんどうしてそんなことに興味をもつの?」
「おもしろい縫いぐるみだったので、ちょっと興味を惹《ひ》かれたんだよ。その縫いぐるみを入園児に贈っているのは、フェリスだけかい?」
「たぶんそうだとおもうわ。いっさい市販もされていないし、縁起がいいというので、お古でも欲しがられるから」
「毎年どのくらいくばるんだ?」
「園児の数だけよ。毎年五十人くらいしか取らないから、数はだいたい同じでしょ。でもお兄さん変ね、いままで縫いぐるみなんかに興味もったこともないのに」
妹には、そのことのほうが興味深かった様子である。
翌日、新見はセント・フェリス大学付属幼稚園に出かけて行った。セント・フェリス大学は、成城の閑静な一角に広大な敷地を占めている。ここに幼稚園から大学までの、人生のエリートコースに乗るための英才教育施設がワンセットになっているわけである。
構内には緑が豊かである。校舎は樹木の間に埋もれたようにある。校舎をめぐって敷きつめられた広々とした芝生は、学生たちに解放されている。その上に女子学生がそれぞれの形で花のようにたむろしている。
学生用の駐車場には、スポーツカーや外車も見える。学生たちの服装も、学生らしくない。金に不自由のない良家の子弟ばかりを集めたハイブラウな雰囲気である。
事実、この学園で、授業料値上げや、イデオロギー的な問題から紛争が起きたことはない。授業料がいくら上がったところで少しも困らない裕福な学生ばかりであり、彼らにとって、政治やイデオロギーよりも、いかにして二度と繰り返しのきかない青春を最も楽しく過ごすかということが重要な問題だったのである。
時折、ごくまれに場所をまちがえて入学した学生によって学園紛争の種が持ち込まれることがある。彼らは外部に応援を求めて、懸命に扇動しようとした。しかしセント・フェリスの学生は、いっこうに同調しなかった。
およそ学園にとって、闘争とか革命は、異質であった。「美しき青春」、ただそれだけあればよいのである。上流社交サロンの高雅な雰囲気の中で、サラブレッドの知性と教養を身に付けさえすればよい。
豊かな社会的地位のある親たちが、自分らのために、快適な環境をつくっておいてくれた。自分らは、親が敷いてくれたレールの上を忠実に走ってさえいればよいのだ。それをどうしてわざわざ改《か》える必要があるのか?
こうして異質なものは、速やかに学園からはじき出された。全国に吹き荒れた学園紛争の嵐も、ここだけは避けて通った。
広大な学園の構内の奥まった一角に、付属幼稚園があった。
驚いたことにここにも駐車場があり、高級車がそのスペースを埋めている。それは園児を迎えに来た車であった。セント・フェリスの名声の下に、都内はもとより都下、東京近県からも園児は通って来る。これらの園児を送り迎えする車のために駐車場が設けられているのである。
新見は、妹夫婦の資力で、はたして子供を通わせつづけられるか、本来の訪問目的も忘れてふと不安をおぼえた。
通された応接室で、新見は「事務長」の肩書きをもった男に会った。彼は、新見が差し出した熊≠ノ不審げな視線を向けたが、直ちにそれがセント・フェリス幼稚園が入園児童にくばったものにちがいないことを認めた。
「熊が、どうかしましたか?」
事務長の目に当然ながら不審の色が濃くなった。
「実は、この熊の持ち主が轢《ひ》き逃げされたらしいのです」
「轢き逃げですと?」
「正確には、轢いてから、被害者をどこかへ運んで行って隠してしまったらしいのですよ」
新見は、被害者と犯人を入れかえて話した。自分は偶然事故直後、現場の付近を通りかかって熊を拾ったものだが、具体的な証拠が他にないので、警察も動いてくれない。熊に付いている血は被害者のものにちがいない。
通りすがりの者にすぎないが、せめて被害者の遺族に返してやりたくて、こうしてその身許《みもと》を探しているとまことしやかに話した。
事務長は、新見の話を信じたらしい。
「これは昭和三十三年度の入園児にくばった記念品です」
「どうしてそれがわかるのですか?」
「私どもでは、すべて三年保育制を実施しておりますが、リス、ウサギ、サル、クマ、イヌの順番で五種類の動物縫いぐるみを回転して入園児にくばっています。ですから五年ごとに、同じ動物がまわってくるわけですが、熊は、三と八の年に当たります。三年組は、鼻が黒く、八年組は鼻だけ白くしています」
「三十年代というのは、どこでわかるのですか?」
「のどに白い差し毛が三筋あるでしょう。これで三十年代を現わしています。各動物ごとに爪を使ったり、歯や耳を使ったりして、それぞれの年度がわかるように工夫してあるのです」
「なるほど。それでいかがなものでしょう。三十三年度入園児のリストを見せていただけませんか」
「さあ、それは……」
「哀れな被害者のものかもしれない遺品をご家族に返してさしあげたいのです。もし家族から、捜索願いでも出されていれば、この熊の出現によって、警察も動いてくれるかもしれない」
「そういうことならよろしいでしょう」
ためらっていた事務長は、新見の巧みな説得に押し切られた。熊の所有者を被害者に仕立てた彼の作戦は当たった。もしこれが加害者の遺留品と聞けば、栄《は》えあるフェリス幼稚園の卒業生にかぎってそのような凶悪無残な人間はいないと扉を閉ざされて、とてもリストを見せてもらうどころではなかったはずであった。
昭和三十三年度の入園児は、四十三名で、現在、十九―二十歳の年齢に達している。
さすが名門「フェリス」の卒業生だけあって、リスト上の名前は、いずれも上流家庭の子弟ばかりであった。親の職業も実業家や医者、弁護士、作家、一流芸能人などが圧倒的に多い。
四十三名中、女子が二十六名、その中三十一名がセント・フェリス大学へエスカレーター式に進学していた。
とりあえずこの四十三名が容疑者である。四十三名の中の一人が、熊をだれかにやったことも考えられる。だが、フェリスの卒業生の多くが一生のお守りのようにして、手許《てもと》へ留《とど》めておくという話からも、所有者即犯人の可能性が高い。
いずれにしても、無数の人間の海の中から四十三名の対象を絞りだせたのは飛躍的な進展であった。新見には、それが文枝の霊が導いてくれたようにおもえてならなかった。
「しかしこれからが大変ですよ。一人一人たずねまわって、直接相手に熊をもっているかどうか聞くわけにはいきませんからね」
新見は、小山田に言った。たとえ求める犯人にぶつかったところで、とぼけられてしまえばそれまでである。捜査権をもたない彼らに対してそんなことを答える義務もない。
「どうしたらいいでしょうか?」
いま小山田の頼る人間は新見しかいなかった。四十三人に対象を絞ったところで、最後の一人を割り出す方法がなければ、結局同じであった。
「四十三人の車を秘かに洗ってみますか。人間との接触事故を起こしていれば、必ず車が損傷しているはずです」
「警察に頼むのですか」
「もちろん、熊の所有者については、我々の発見を警察に伝えます。しかし、現場から、接触事故を予想させるなんの資料も発見されなかった後ですから、警察がどれだけ動いてくれるか、はなはだ疑問ですね。考えてみれば、この熊と、車を結びつけるものはなにもないのです」
「でも、血痕《けつこん》が付いています」
「それだって、はたして交通事故によって付着した血かどうかわかりません。私たちの推測によるだけです。血液型にしても、血痕が少量のために、限られた型の判別しかできず、奥さんの血液型と特定したわけではありません。奥さん以外にも、同じ血液型の所有者がいる可能性があります」
「それでは結局、犯人を割り出せないということですね」
ここまで来て、小山田は絶望を確かめたような気がした。
「我々には熊がついていますよ。犯人のマスコットが、逆に我々のお守りになってくれているのです。熊が現場に落ちていた事実や、その使い古した状況から判断して、犯人はいつも持ち運んでいたと考えられます。ですから、四十三人の周辺に聞き込みをして、最近まで熊を身近に置いていて、それを失った人間を探し出せばよいわけです」
「しかし四十三人の、そのまた周辺ですからね、大変ですよ」
「私には秘密兵器があります」
「秘密兵器?」
「お忘れですか。あなたが私を追跡して来たルートを」
「…………」
「東都企業の森戸《もりと》ですよ」
「ああ」
「彼には独特の嗅覚《きゆうかく》があるのです。私は彼をセールスマンにしておくのは惜しいとおもっているのですが、彼に依頼すれば探り出すかもしれません」
「彼がそんな調べを引き受けてくれますか」
「私が頼めば、必ず引き受けるはずです。実はここだけの話ですが、森戸は私が企業情報の蒐集《しゆうしゆう》に秘かに使っている男なのですよ。見返りに彼の扱っている情報管理機器を大量に仕入れてやっています。あの男なら、この調べは打ってつけです」
新見には、自信がありそうだった。
「恭平、恭平ったら!」
しきりに呼びかける路子の声に、恭平はハッと目ざめた。全身にぐっしょり汗をかいている。
「いったいどうしたのよ、ひどく魘《うなさ》れていたわ」
「いやな夢を見たんだ」
「このごろよく魘れているわよ」
「いつもだれかに追いかけられている夢なんだ。洞窟《どうくつ》みたいな中を必死に逃げている。逃げても逃げても追っ手を振りきれない。決してつかまらないんだが、いつも足音がすぐ背後に聞こえる。ひたひたと迫って来る足音がまだ耳に残っている。それなのに、足がぬかるみにはまったように重くてよく動かない」
「気にしすぎよ。そんなことでどうするの」
「わかってる。でも自分でもどうにもならないんだ」
「そんな風にしてたら、自分で墓穴を掘るようなものよ。そうだわ、おもいきって旅行をしてみない?」
「旅行?」
「そうよ、海外へ行くのよ。日本を離れたら、あなたのノイローゼもなおるかもしれないわ」
「海外か」
「ねえ、悪くないでしょ。二人でどこか遠い国へ行ってみない? 私、まだ外国へ行ったことないのよ」
「おれだってないさ」
「だったら、ちょうどいいじゃない。ねえ、二人で行きましょうよ。そうすれば、あの事件も忘れられるし、いやな夢も見なくなるわよ」
路子は、自分のおもいつきに浮き浮きしている。
「しかし、おやじやおふくろが許してくれるかなあ」
「いまさらなにを言ってんのよ。あなたは、両親から独立したんでしょ。一戸を構えた立派な主なのよ」
「外国へ行くには金が要るよ」
「そのくらいのお金、ママに出させるのよ。彼女を有名にした本は、もともとあなたが書いたようなものなんでしょ。印税だって当然半分くらいもらう権利があるわ」
「そりゃあまあそうだがね」
「なによ、煮えきらないのねえ。もしお金を出してくれなければ、このマンションを売りはらっちゃえばいいじゃないの。あなたの名義になってるんでしょ」
「マンションをかい?」
恭平は、女のおもいきった提案に目をみはった。
「そうよ、このマンションなかなか贅沢《ぜいたく》にできているわ。最近の物価の高騰で、買い値より高く売れるわよ。マンション一戸分のお金があれば、外国でたっぷり遊んでこられるわ」
「しかしおれが外国へ行っちまったら、おふくろが困るだろうな。なにしろおれはおふくろの大事な商売道具なんだから」
「まだそんなことを言ってる。あなたのマザーコンプレックスも相当なもんだわね。あなたはなんのかのと言ったところで、ママの掌《てのひら》の上から逃れられないんだわ」
「そんなことはない!」
「だったら、この際ママのことなんか考える必要はないでしょ。彼女には、あなたの妹さんというもう一つの商売道具が残っているわよ。もうバトンタッチしてもいいころだわよ、それに……」
そこまで言って、路子はふと言葉をにごした。
「それに、何だ?」
「それに、万一、警察が追って来ても、外国に逃げていれば、どうしようもないでしょう」
「警察が追って来るとおもうのか?」
恭平は怯《おび》えたような表情になった。
「万一の話よ、あなただってそんな変な夢を見るのは、意識の底に警察があるからでしょ」
「警察がどうして追って来るんだ、なんの手がかりもないはずだぞ」
恭平は、自らの不安を振りはらうように、かん高い声をだした。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえるわよ。熊のことを忘れているわけじゃないでしょうね。熊はまだ見つかっていないのよ」
「熊のことは、もう言うな!」
「だから、熊の追いかけて来られない所へ行きましょうよ」
「そうだな、熊も海は泳いで渡れねえだろう」
恭平もようやく意思の定まった表情になった。
森戸の行動は、速かった。四十三人の対象者をたちまちにして洗い、新見が依頼して一週間後には、早くも第一報をもって来た。
「もうわかったのか?」
さすがの新見もびっくりした。
「いちおう中間報告とおもいましてね」
森戸は、自信のある笑いを見せた。
「中間報告ということは、なにか手応《てごた》えがあったんだな」
「ええ、まあね」
「もったいぶらずに早く言えよ」
「この調べのために、ここのところ会社の仕事を全然していません。これにかかりきりです」
「わかってる。当分仕事をする必要のないほどオーダーを出してやるよ」
新見は苦笑した。この秘密兵器≠ヘ優秀なだけに、使用料も高くつく。
「女は後まわしにして、男から先に調べました。轢《ひ》いた人間を車に積んで捨ててしまうというやり方は、女の仕業としてはちょっと荒っぽすぎますのでね」
「先入観は、禁物だぞ」
「わかってます。だから、男をいちおう調べた後で、女を当たります」
「それで、男の中に怪しいのがいたのか?」
「みんなおとなしい優等生タイプですが、その中で一人、最近急に海外へ行ったのがいるのです」
「海外だと?」
「いまどき海外旅行はべつに珍しくもありませんがね、急に何の目的もなくふらりと出かけたのが気に食わない」
「いったい、だれだ、そいつは? どこへ出かけたんだ」
「いっぺんに聞かないでくださいよ。追い追い話しますから。まず海外旅行へ出かけたのは、郡恭平といいます。十九歳、セント・フェリス大学の学生です。こいつが女を連れて一週間前に出発しました。まだ学校は休みになったわけじゃない。もっとも学校があろうとなかろうと、関係ない金持の遊学生ですがね」
「郡恭平か、たしか郡陽平と、八杉恭子の息子だったな」
新見が、リストアップされた対象者の家族関係をおもいだしていると、
「そうですよ。八杉恭子の自慢の息子なんですがね、こいつがなかなかの役者で、母親といっしょのときは、模範息子を演じていますが、裏へまわれば、大したタマで、フーテン仲間でもいっぱしの顔なんですよ。母親にせがんで、マンションを買ってもらい、そこで好き勝手な真似をしています。こいつがフーテン仲間の女を連れて外国へ行ったのです」
「車は、もっているのか?」
「GT6のマーク2を乗りまわしていました。少し前までは東京のクレイジー・メッセンジャーというサーキット・グループに入っていたそうです」
「いまは抜けたのか」
「母親に言われて抜けたそうです。こいつが最近、プッツリ車に乗らなくなったかとおもうと、急にアメリカへ行ってしまったのです。航空券は、いちおうニューヨークまで買ってあります。どうです、おかしいでしょう」
森戸は、捉《とら》えた獲物を主人に差し出して、その顔色をうかがう猟犬のように、新見を見た。
「熊は、どうなんだ? 最近も手許においていた様子があるのかね?」
「それが、部長、この郡恭平という男、間もなく二十歳になるというのに、幼稚園からもらった熊をマスコットにして、いつも手元においていたそうです。そのため、仲間から熊平とあだ名されていたほどだそうですよ」
「熊平か……それで、熊はいまでも手元にあるのか?」
「わかりません。アメリカへ行ってしまいましたからね。もしかすると、海外にまでもっていったかもしれませんよ。しかしこれは海外へ追いかけていかないことには、確かめようがありません」
もし恭平が、その熊をいまでももっていれば、容疑からはずせる。しかしもっていなければ、それもつい最近にいたって、彼の手元から熊が消えていれば、彼の情況は、非常に黒いものとなる。
「郡恭平のGT6だがな、修理工場に出された様子はないか?」
「ありませんね」
「どこに置いてあるんだ?」
「マンションの駐車場か、自宅のガレージでしょう」
「その車に人と衝突したような損傷がないか調べられないか」
「人を轢《ひ》いていたら、マンションの駐車場なんかに安易に置いておかないでしょうね。自宅のガレージとなると、ちょっと難しいな。なにしろ郡陽平の身辺には、いつもガードマンがいますからね」
「なんとかやってくれないか」
「部長の頼みじゃ弱いな」
「頼む。当分、調べを郡恭平に集中してくれ。後の連中は、恭平がシロになった後でいい」
あるいは、金持の有閑学生の気まぐれ旅行かもしれない。しかし、小山田文枝が失踪《しつそう》して間もなく、これだけの条件を備えた人間が、さしたる目的もなく海外旅行へ出かけた事実を、新見は無視できなかった。必要とあれば郡恭平をニューヨークまで追いかけて行ってもよいと考えた。
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おもかげの母
ウイルシャー・ヘイワードは、自分の体を車に当てて得た保険金と、賠償金で、息子のジョニーを日本へ送った――というおもいは、ケン・シュフタンの胸の内で動かし難いものになっていた。ウイルシャーには、どうしても息子を日本へやらなければならない切実な理由があったにちがいない。
――その理由とは、何か?
ケンは、この事件に個人的な関心をかき立てられていた。どうしてそれほどこだわるのか? 初めは、上司から命じられて渋々はじめた捜査であった。
「日本か……」
ケンは、ふと遠い目をした。それは彼にとってまんざらかかわりのない国ではない。いや、かかわりがないどころか、野放途《のほうず》な青春の足跡を残した所である。金があれば、もう一度訪れてみたいとおもっている。ケンの知っている日本は、戦いに敗れた直後の荒廃した焦土であったが、あの国の風土には、いまのアメリカがとうに失ってしまった「人間の心」のようなものが残っていたような気がする。
いまの日本が、その後どのように変わったか、ケンは、自分の目で確かめていない。ケンが戦後数年いた日本は、エネルギッシュな立ち上がりを見せた。
国民性ともいうべき勤勉さと民族的団結力は、敗戦の焦土から短時日の中に見事に立ち直って世界を驚嘆させた。「黄色い猿」とさげすんでいたケンたちであったが、蟻《あり》のような勤勉さと、集団において核反応のように発揮される彼らの力には、ミステリアスな脅威をおぼえたものである。
彼らにアメリカの物量をあたえたら、絶対に勝てなかったという気がした。
日本人の強さと恐さは、大和民族という、同一民族によって単一国家を構成する身内意識と精神主義にあるのではあるまいか。日本人であるかぎり、だいたい身許《みもと》がわかっている。要するに日本人同士には、「どこの馬の骨」はいないのだ。
それがアメリカはちがう。人種の坩堝《るつぼ》と言われるように、世界のあらゆる人種がモザイクのように寄り集まっている複合国家である。国民すべてが「馬の骨」ばかりである。
こういう国家では、人間の相互不信がうながされやすい。人々は人間よりも物質を信用するようになる。自動販売機が世界で最も発達しているのがアメリカである。飲食物、雑誌、切符などから、生活必需品の多くが自動販売機で購《あがな》える。
寂しいとき、困ったとき、失恋したときも、コインを投げ込めば、それぞれの道の専門家が、テープレコーダーでそれぞれの人生の悩みに優しく答えてくれる。
聖なる神の教えから、独身者のための電話セックスの相手まで、コイン一枚を投げ込めば、ジュークボックスの選曲ボタンを押すようにワンタッチのボタン選択で、インスタントに得られる。
人々は、その手軽さと便利さと確実性(どこで買っても、同じものが得られる)から、自動販売機をなにげなく使っているが、これは人間が物質だけを信用する端的なメカニズムである。
省力《しようりよく》によって人件費を浮かす前に、金だけが人間を繋《つな》ぐ媒体になってしまう。自動販売機でないまでも、駅、球場、劇場、銀行、ホテル、モーテル、レストラン、駐車場など人と金の集まる所で、人間は、相手の顔も見ずに金を授受する。最初から手だけしか見えないようになっている所もある。
金はまさしく人間のあいだを移動しながら、そこで人間はまったく無機物化して、金だけが存在している。だれもそのことをなんともおもわない。
物質文明の高度の爛熟《らんじゆく》は、人間の精神や温かさをはるか後方に置き去りにして、物質だけが先走ってしまった。この物質の悪魔の跳梁《ちようりよう》に最も冒されやすいのが、アメリカのような合成国家である。
もともと地縁によって結ばれた同一種族による国家ではない。成功の機会を求め、あるいは母国を食いつめてやって来た人間が寄り集まったのであるから、人間はみなライバルである。精神を物質が支配する素地が、アメリカの誕生とともにあった。
だが、日本はちがう。人間が最初から国土とともにあった。そこではどんなに物質が氾濫《はんらん》しても、人間を支配することはないだろう。
そこにケンは郷愁をおぼえていた。ニューヨークの荒廃ぶりを、職業がら、ケンは肌で感じている。
どこの国にも犯罪はある。日本にも、また社会体制の異なるソ連や中国にも犯罪はあるだろう。
だがアメリカの犯罪は異質である。犯罪の中で最も凶悪な殺人にしても、犯人にはそれなりの動機があるものだが、ニューヨークでは、通り魔的になんの動機もなく人を殺傷する事件が多発する。
ホールドアップが変身して、直《ただ》ちに人を殺傷する。婦女を強姦《ごうかん》した後、ためらいもなく殺す。たまたま通りかかった通行人も巻き添えにしてしまう。
ニューヨークでは、なるべく歩道の車道に近い側を歩けと言われる。それは建物側を歩いていると、横丁へ引きずり込まれて身ぐるみ剥《は》がされてしまうおそれがあるからである。
セントラルパークで日本人留学生が数人の不良に取り囲まれて撲《なぐ》られたり、首をしめられたりした事件がつい数日前に発生した。学生は付近に居合わせた人々に必死に救いを求めた。
だが、だれも知らん顔をして通過するだけである。たまたま通りかかったパトロール警官によって留学生は救出されたが、まだ入学したばかりなのに、彼は急遽《きゆうきよ》退学して日本へ帰ってしまった。
日本人学生は、米国を去るにあたって、そのときの恐怖を、「私はホールドアップに首をしめられたことよりも、そのとき現場を通りかかった教養ありそうな老人夫婦に救いを求めたところ、奥さんがつまらないかかり合いになるなと旦那《だんな》の袖《そで》を引っ張って逃げて行ってしまったところに、アメリカの本当の恐さを見たのです」と語ったそうだが、ケンはまさにアメリカの病蝕《びようしよく》の本質を突いた言葉だとおもった。
無関係な人間が、生きようと殺されようと、まったく関心がない。自分の生活の平穏無事さえ保障されていればそれでよいのだ。だから、それを少しでも脅かす虞《おそれ》のあるものは、徹底的に忌避《きひ》する。正義のための戦いは、自分の安全が保障された後のことだ。
常識的な社会人が犯罪を見て見ぬ振りをするようになったのも、人種の坩堝《るつぼ》の中に巨大化した機械文明によって、人間の本質を見失ってしまったからである。
自分の垣根の中のしあわせさえ守れればよいとする風潮は、驚くべきことに、警官の中にまで浸透してきた。彼らが個人の権利と自由を保障し、公共の安全と秩序を維持するために行動するのは、勤務中だけであり、自由時間《フリータイム》の間は、一個の私人に還《かえ》ってしまう。
目の前で危難に陥っている人間を見ても、それを救うために自分の安全が脅かされる虞のあるときは、目を背《そむ》けてしまうこともあるのだ。
ケンも決してその例外ではなかった。殺人でも発生すれば、職業的な本能から追跡するだろうが、長い激務から解放されて帰途につくとき、市民がチンピラにからまれているぐらいなら、見て見ぬ振りをする。
警官だって、人間なのだ。労働の後は、休む権利がある。
だがそういう意識に、さして抵抗をおぼえなくなっている自分自身を、うとましくおもうことがある。
「おれもいつの間にかニューヨークに毒されているのだ」
そんな彼にとって、日本は「人間の住んでいる国」として、遠い記憶の中に烟《けむ》っていた。そこへウイルシャー・ヘイワードは自分の体を犠牲にしてまで、息子を行かせた。いったい日本に何があるのか?――そこにケンは、個人的興味をおぼえたのである。
ケンは、再三、ヘイワード父子の住んでいたアパートへ行った。相も変わらず紙くずと、悪臭とアル中のたむろする街である。
驚いたことに、この前に来たとき見かけた同じ人間が同じ場所にたむろしている。ウイルシャー・ヘイワードもかつてその仲間の一人だったのであろう。
ヘイワード父子が住んでいたアパートの近くの路上に、数人の男たちが悄然《しようぜん》と立っていた。彼らの酒焼けした頬がいずれもうすく濡《ぬ》れて光っている。彼らは哭《な》いているのだ。
「どうしたんだ?」
ケンは、歩み寄って一人にたずねた。
「旦那、可哀想に、これを見てやってください」
男が指さした。一人の浮浪者が壁に寄りかかってうずくまり、膝《ひざ》の上に面を伏せている。彼の前に数本の安ウイスキーのびんが並んでいる。いずれの中にも、まだ中身があった。ケンは何が起きたのか、すぐに悟った。以前にも、これと同じようなシーンにぶつかったことがある。
「いつだ?」
「今朝、来てみたら、いつもの場所にサルディのやつ、すっかり冷たくなっていたんでさあ。おれたちより先に逝《い》っちまうなんて、サルディめ、とんでもねえ野郎だ」
男の頬に涙の粒が筋を引いた。
「それで報《しら》せたのか?」
「へえ、間もなくボディカーが引き取りに来るころでさあ」
それは寂しい告別の式であった。アル中の浮浪者が一人、街角で死んだのである。人生に挫折《ざせつ》した人間が、アルコールに逃避し、いつの間にか流れついたニューヨークの吹きだまりの一角で、結局、アルコールに身体を滅ぼされていくのである。
すべての希望は失われた。酒以外のあらゆる欲望も去勢された。生きる屍《しかばね》のようになった身体を通行人から施しをうけた金で買った酒の中に浸して、本当に死ぬ日までの時間を茫然《ぼうぜん》とすごす。
しかし死んだも同然の人間でも、仲間が死ねば悲しい。辛《つら》く不毛の人生であったが、道端に死んだねずみか鳩のように好みの定位置で、安ウイスキーのボトルを抱いて死んでいった仲間の姿に、改めて自分のなれの果てを重ねてしまうのだ。
だが、彼の死は、少なくとも孤独ではない。アル中仲間が遺体の周囲に集まって、ウイスキーボトルを位牌《いはい》代わりに告別をしてくれるからである。
「サルディめ、死ぬ前にあんなに故郷《ホーム》へ帰りたがっていたのに!」
「故郷はどこなんだ?」
「イタリアのサルデニアって島だそうだよ。おれはどの辺にあるのか知らねえがね」
サルデニアから来たので、サルディと呼ばれていたのだろう。本人もあだ名で呼ばれている間に、本名を忘れてしまったかもしれない。
ここにいる会葬者≠ヘ、みんなそのような呼ばれ方をしている。中には、自分の故郷がどこか知らない者もいる。そういう連中はネストレス(宿なし)、ラッツィ、ラッツォ《ねずみ》等と呼ばれる。
会葬者はいずれ自分たちも同じ運命をたどることを知っている。死んだ仲間に別れを告げながら、みな自分が最後になりたくないとおもっている。自分の死を見守ってくれる者があるうちに死にたいと願う。
やがて市のボディカーがやって来た。ニューヨーク市に毎朝、このような行き倒れが数名出る。彼らは道端や、地下鉄の構内、公園のベンチ、公衆トイレット、時には公衆電話のブースの中などでひっそりと死んでいる。これらの死体《ボデイ》を拾い集めて走るのが、ボディカーの役目であった。
ボディカーが去ると、彼らはそれぞれの定位置に戻って、またウイスキーに耽溺《たんでき》する。
「旦那、一杯どうだね?」
会葬者の一人がボトルを差し出した。彼らはニューヨークの底辺に湧《わ》いたメタンガスのようなものだが、アルコール以外のすべての欲望は去勢されているので、危険性はない。
その手をはらいのけて、ケンはアパート入口の階段を上った。マリオは、あいかわらずテレビを凄《すさま》じいボリュームでつけっぱなしにしていた。
入って行ったケンに、また来たというように大仰に肩をすくめて、
「旦那が言ったように、あの部屋はまだ空けてますよ」
と言った。
「ふん、あんなごみため、入り手がないんだろう」
「冗談じゃありませんよ。いまはホットベッドだってなかなかありつけないんです。毎日借り手が行列してます。警察ににらまれると恐いんでね、家賃《レント》の保証は警察がしてくれるんでしょうね」
「大家みたいな口をきくじゃないか。家主はとうに放棄してるんだ。こんな豚小屋は、レントよりも修理費が高くつくからな」
「そんなことより、今日は何の用ですか。警察の旦那にうろうろされるような悪いことはしてないはずだがね」
マリオの口調がくずれてきた。
「とにかく、そのテレビをなんとかしてくれ」
マリオは、巨大な身体を重そうにゆすって、テレビを消すと、ケンに向かってまた肩をすくめた。
「ヘイワード父子だがね、写真はないか?」
「写真だって?」
「そうだよ、特におやじの写真を見たいんだ」
「そんな気のきいたものなんかないだろうよ」
「何年も住んでたんだろう。写真の一枚ぐらい撮っているだろうが」
「そんな金持の道楽はしないよ。写真なら、警察のほうにあるんじゃないのかい。カーライセンスとか、前科者のリストとかに」
「前科はない。カーライセンスはとうに期限切れになったまま更新されていないので、破棄された」
「それじゃあ、私の所になおさらあるはずがないじゃないの」
「あいつの部屋の荷物は、そのままにしてあるだろうな」
「荷物なんて、初めからありゃしないよ。あれじゃあ泥棒も侵《はい》らないね」
「もう一度調べさせてもらうぜ」
「ガラクタを警察で引き取ってよ」
マリオの声を背に聞き流して、ケンはヘイワード父子の部屋へ入った。埃《ほこり》が床に積もり、足跡がついた。その後だれも入っていない証拠に、べつの足跡は見えない。ガラクタは、以前来たときのままに放置されてある。
丹念な検索は、結局徒労だった。狭い部屋の中と、いくらもないガラクタは、もはや捜すべき対象を残していなかった。
ウイルシャーは兵役に就いたことがあるというから、その方面に手をまわせば、写真を得られるかもしれない。だが、それには公式《オフイシヤル》の許可が必要となる。
個人的な興味から調べているケンは、オブライエン警部にそこまでわがままを言いたくない。それでなくとも彼にはずいぶん迷惑をかけている。
「この辺が潮時《しおどき》かな」
ケンは道楽捜査≠フ限界を感じた。そのときドアに軽いノックがして、マリオが顔を覗《のぞ》かせた。
「もう帰るよ」
ケンは、彼女が追い立てに来たとおもった。ケンの様子からマリオは、目指すものが見つからなかったと察したらしい。
「いまちょっとおもいだしたんだけど、ウイリ爺《じい》さんの写真をもっているかもしれない人がいるよ」
「本当か!」
マリオは、おもいがけない情報をもってきた。
「たしかにもっているかどうかわからないんだけどね」
「だれだ、そいつは?」
「そんな恐い顔をしなくてもおしえてやるよ、そのために来たんだから。日本人なんだ」
「日本人?」
「ここに住みついてハーレムの写真ばかり撮っている変な日本人がいるんだ。爺さんも彼女のモデルになってやったかもしれないよ」
「彼女? すると女か?」
「そうだよ、もう二年ぐらいここに住みついているよ」
「そいつはどこにいるんだ?」
「ウエスト一三六ストリート二二×番地だよ、ハーレム病院の近くのアパートにいるよ。この辺じゃちょっとした名物女だから、すぐにわかるさ」
ケンは礼も言わずに、マリオのアパートを飛び出した。ハーレム専門の日本人女性カメラマンがいたとは知らなかった。ハーレムは観光客の好個の写材となっている。通過する観光バスの車窓から、カメラの砲列が向けられるが、危険のPRが行きわたっているために、ハーレムの内部にまで入り込んで撮影する者は少ない。
精々、おっかなびっくりメーンストリートの一二五番街でカメラを構える程度である。それが女の身でここに住みついてハーレムに取り組んでいる女性カメラマンがいたとは、地元で顔のつもりのケンも初耳だった。
マリオが教えてくれた日本女性の住《す》み処《か》は、ハーレムとイーストハーレムの境目にあたる。路傍にたむろしていた浮浪者に聞くと、すぐにわかった。彼らも彼女の素材になっているのだろう。
そのアパートは、マリオのそれと同様に古ぼけ、汚れていた。いずれ取り壊される運命にある赤れんがの四階建ての建物の壁にスプレイラッカーで反戦スローガンや、猥褻《わいせつ》な言葉が書きなぐられている。
入口階段脇のごみ容器のポリバケツがひっくり返され、野良犬が中身をあさっている。そのすぐそばで、アル中の老人が日向《ひなた》ぼっこをしていた。
だが不思議なことに、ハーレムのどこでも見かけられる子供たちの姿がない。頭をできものだらけにした子供たちが、ちょろちょろ走り回っていない昼下がりのハーレムは、伝染病で住人が死に絶えでもしたかのように無気味であった。
ここにはマリオのようなドアボスはいなかった。不在オーナーが直接レントを取り立てに来るのかもしれない。
日本人の部屋は、すぐにわかった。ドアに名札が表示されてあったからである。部屋は二階だった。ノックをすると、幸いに在室していて、内側に気配がおこり、「|だれ《フーズイツト》?」と誰何《すいか》された。
異邦人のしかも女性の身で、ハーレムに住みつくとは、いい度胸だが、それなりの用心はしているらしい。ケンは名前と身分を告げて、ちょっと聞きたいことがあると言った。
警察と聞いて、ドアはすぐに開かれた。小柄な細身の日本女性がそこに立っていた。ハーレムに住んでいるくらいだから、どんな猛女かとおもっていたケンは、相手がまだ二十代の若さと見える目鼻立ちのはっきりした美しい女だったのに、少しびっくりした。
「あなたが、ミシマ・ユキオですか?」
ケンは名札の名前を確認した。
「オウノー、私は三島雪子です」
表音上、高名な日本の作家とまちがえられた相手は苦笑した。
「ケン・シュフタンです。しかし警官と名乗られたからといって、そう簡単にドアを開けてはいけませんね。ニューヨークには偽警官はいくらでもいる。本物の警官も信用できないことがあります」
ケンは、初対面の相手を早速|諌《いさ》めた。
「まあ、そんなことはありませんわ。私、このハーレムに来てから、一度も危険を意識したことはありません。外から見ると恐そうだけど、みんないい人たちばかりです。どうしてハーレムを恐ろしがるのかわかりません。むしろハーレムから外へ出たときのほうが恐いくらいだわ」
「それは、あなたがまだハーレムの本当の恐さを知らないからですよ。いやニューヨークの恐さを知らないといってもいい。幸いにもあなたはここにお客として迎えられたから、その恐さに触れずにすんでいるだけです」
「私、ハーレムを、ニューヨークを、そしてアメリカを信用していますもの」
「アメリカ人の一人としてお礼をいいます。ところで今日突然うかがったのは、ウイルシャー・ヘイワードという老人の写真をあなたが撮影したかもしれないと聞いたものですから」
「ウイルシャー?」
「イースト・一二三ストリートのアパートに住んでいた黒人です。六月ごろ交通事故に遭って死にましたが。息子のジョニーといっしょに住んでいました」
「ハーレムの住人は、たくさん撮りましたけど、なにか特徴はありませんか」
「特徴ねえ、そいつを知りたくてやって来たんだが」
「いくつぐらいの人ですか?」
「六十一歳で、アル中です。若いころ日本へ兵役で行ったことがある」
「日本へ? 一二三ストリートでしたね、もしかしたら、|日本爺さん《ジヤパンパ》≠カゃないかしら?」
「|日本爺さん《ジヤパンパ》?」
「大の日本|贔屓《フアン》で、若いころ日本へ行ったのを懐かしがって、ジャパンパと呼ばれているんです」
「あの辺で日本へ行った人間は、そんなにいないはずだが」
「ジャパンパの写真なら、たくさん撮りましたからお見せしましょうか」
「ぜひお願いします」
「どうぞお入りになって」
彼らはそれまで戸口で立ち話をしていたのである。同じ造りのハーレムの建物の内部であったが、若い女性の住居らしく、マリオやヘイワードの部屋とはちがう華やかな暖かみがあった。
通された所はメーンルームで、食卓、椅子、ベッド、ベッドサイドテーブル、ソファ、ワードローブ、テレビ、鏡台などがそれぞれの位置を工夫して置かれている。本棚もあって、日本語の背文字も見える。部屋の中は住人の性格をしめすように整然としていた。
窓に取り付けられたピンクのプリントカーテンが部屋の雰囲気を暖かく艶《つや》めいたものに仕立てている。ここにかなり長く住みついている様子であった。
間仕切りのカーテンのかげに、写真機材らしいものが見える。暗室も隣の部屋につくってあるのだろう。
待つ間もなく、ユキコが手に数枚の印画紙をもって隣の部屋から出て来た。
「あら、おかけになればよろしいのに」
立ったまま待っていたケンに、彼女はびっくりしたような声をあげた。
ユキコは、ケンにソファを勧めると、
「なるべく特徴のありそうなのを選んできましたけれど、これが日本爺さんです」
数枚のキャビネ判程度の印画紙を、差し出した。そこに分厚い唇と黒い皮膚の老いた黒人の顔があった。傷痕《きずあと》のように深くきざまれた皺《しわ》。老いて弾力を失った顔面に陥没したように細く光っている無表情な目、酒毒が実際の年齢より老けさせているのだろう。すべての欲望が老化して、記憶だけを皺だらけの皮膚の底に封じ込めてしまったような老黒人の顔がアップでいくつかのアングルからとらえられていた。
「これがウイルシャー・ヘイワードですか?」
「名前は知りません。でも、一二三番街で日本へ行ったことのある黒人というと、この日本爺さんだけです」
ケンは、その写真を食い入るように見つめた。
「お知り合いですか?」
ケンの異常なまでの熱っぽい視線に、ユキコが不審をもった様子である。
「いいえ」ケンは慌てて否定した。
「この写真を少しお借りできませんか?」
「おもちになってけっこうですわ。こちらにネガがありますから」
「どうも有難う。それからこの部屋の模様はもっと殺風景に変えたほうがいいですな」
「どうしてですか?」
「ちょっと艶っぽすぎます」
「つまり挑発的《エクサイテイング》だとおっしゃるの?」
「いやエクサイティングだとはいわないが、ここはハーレムだということを忘れないでください」
「ご忠告有難う。でも、これまでどおりにやっていきますわ、いままでもなんにもなかったんですもの」
「それから、警官と名乗っても、部屋の中へ入れないこと。ただし私はべつですがね」
ケンは、にやりと笑ってユキコの部屋を辞した。
ケンは、三島雪子から借り出したウイルシャー・ヘイワードの写真を見て驚いた。だがその驚きに長く浸っていられなかった。写真を見て彼は一つの疑問をもったのである。
それはこれまで考えてもみなかった疑問であった。ケンはその疑問を確かめるためにもう一度市の中央登録所へ行った。そこでウイルシャーの妻であったテレサ・ノーウッドの戸籍を調べた。テレサの祖父母は一九一〇年代に南部から流入して来た黒人であり、両親も黒人である。ハーレムには一九四三年から住んでいる。
一方、ウイルシャー・ヘイワードも、純然たる黒人である。登録所のレジスターを溯《さかのぼ》って調べても、白人や東洋人の血は入っていない。三代以前となると、彼らの郷里である南部まで調べなければならないが、人間扱いをされなかった南部の黒人のレジスターが他所へ流出後も残っていようとはおもえない。もともと、アメリカには戸籍という観念はなく、日本の家単位の戸籍は、個人単位のレジスターになる。個人および、夫婦単位でレジスターされるので、それを見ても、その両親がだれかわからない。つまり親子という縦の関係ではなく、個人という点か、夫婦という横の関係で身許《みもと》を考える。このような制度下で、先祖をたぐるのはきわめて難しい。それにテレサとウイルシャーの出生も、国勢調査によって半強制的に届け出られたものである。おそらく彼ら自身も原籍がどこにあるか、知らないであろう。
だがジョニー・ヘイワードは、ケンのこれまでの聞き込みによると、純粋の黒人ではないようであった。ジョニーの最後の勤め先だった運送会社で見せてもらった写真も、黒人にしては色が浅く、顔立ちも東洋人に近かった。
黒人と白人、あるいはプエルトリコやイタリア系との混血も多い。だが東洋人との混血は比較的少ない。
「ジョニーの父親は、兵役で日本へ行ったことがある。もしかすると、ジョニーは?」
新たな視野が目の前に開けつつあった。しかしジョニーは父母が結婚して約十か月後の一九五〇年十月に出生したことになっている。父親がジョニーを日本から連れて来られるはずがないのである。
――もしウイルシャーが出生月日を偽って届け出たら?――
べつの可能性が、頭にひらめいた。現在、出生の届け出は、それに立ち会った医師の証明書を添付しなければならないことになっているが、スラム街では医師の助けを借りずに産む者が多いので、「止むを得ない事情がある」として、医師の証明書を免除する。
いまより二十数年も前の終戦直後の混沌《こんとん》とした時代においては、戸籍上の手続きがはるかに杜撰《ずさん》であったことが想像できる。出生月日を数年ずらせて届け出ることも容易であったであろう。とにかく本人の届け出だけを信用して受け付けるのであるから、いくらでも虚偽や不実の記載ができる。
ジョニー・ヘイワードは日本で生まれたとする。なにかの事情があって母親と別れ、ジョニーだけ父親に伴われてアメリカへ来た。帰国後父親は結婚した。その際、父親はジョニーを夫婦の間に生まれた子にするために、出生月日を偽って届け出たということも十分に考えられる。
「すると、ジョニーの母親は、日本にいることになる」
新たな視野の造形はますますはっきりしてきた。このように考えることによって、ジョニーの日本へ行った目的も浮かび上がってくるのである。
「ジョニーは、日本へ母親に会いに行ったのかもしれない」
アル中で廃人同様になったウイルシャーは、自分の死期の近いのを悟って息子に「日本の母」のことを話した。あるいはジョニーはとうに自分の本当の母親を知っていたかもしれない。
ウイルシャーは、生きていたところでどうせ長くない。アルコールに毒された身体は、社会のなんの役にも立たず、息子の重荷になるだけである。そこでウイルシャーは、自分の身体を廃物利用≠オて、息子を日本の母に会わせるために、旅費をつくってやったのだ。
ケンは、自分の推測に自信をもった。
「その母に会いに行った日本で、殺されてしまった。可哀想なやつだな」
ケンはそのとき初めて、異郷で客死した未知の黒人青年に憐《あわ》れみをおぼえた。いや、ジョニーにとって日本は異郷ではなかった。文字どおり母国≠ナあったのだ。その母の国で彼は殺された。
彼は、母に会えたのであろうか? いやおそらく彼女に会う前に殺されたのだろう。母親がジョニーの死を知ったら大騒ぎをするはずである。おそらく母親も、ジョニーが日本へ訪ねて来たことを知らないのだろう。
ここまで推理の橋を架けてきたケンは、強い電気ショックでも受けたかのように身体をこわばらせた。橋の先が一つの恐ろしい想像に突き当たったのである。
「まさか!」
ケンは凝然と宙をにらんでうめいた。
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遠い片隅の町
霧積一帯の捜索は、結局徒労に終わった。群馬県警の広げた広範囲の捜査網にも、ついに怪しい人物は、引っかからなかった。群馬側では、当初の推測どおり中山種は誤って足を踏みはずして、ダムから落ちて死んだのだろうという見方に傾いてきた。
警視庁が変な雑音を入れなければ、無駄な労力と時間を省けたのにと、迷惑顔を露骨に見せた。
警視庁側は面目を失した形になった。だが、中山種は事故死ではないという確信は揺がなかった。犯人が警察に先回りして被害者をダムの上に誘い出し、突き落としたのである。
そうでなければ、あんな半端な時間に七十を超えた老婆がダムの上に行った理由の説明がつかない。犯人が言葉巧みに誘い出したのだ。被害者は顔見知りの犯人の甘言に易々《やすやす》とおびき出された。
――犯人と被害者の間に敷鑑《しきかん》≠ェある――と考えたのも、そのためである。
出張から帰って来た後も、棟居は、うつうつとしていた。無惨に打ち砕かれたおたね婆さんの遺体と、それに取りすがって哭《な》いていた静枝の姿が瞼《まぶた》に貼りついて離れない。
――犯人はジョニー殺しと必ずつながりがある――
ジョニーの関係者≠ニして犯人が霧積を訪れたとき、おたね婆さんと知り合った。婆さんは、ジョニーと犯人の関係を知っている。もしそれを警察に話されたら、万事休すである。
だが警察の捜査は、まさに犯人が恐れていた方角へ向かって伸びてきた。
おそらく犯人は、霧積へ客として来て婆さんと知り合ったのだろう。しかし、婆さんが霧積を引退≠オたのは、だいぶ以前のことである。そんな前の客のことを、老耄《ろうもう》した婆さんがおぼえているだろうか? 客として来てから、引退した後もつき合っていたとすればおぼえていたかもしれない。
ここで棟居は、これまで見過ごしていた一つの盲点があったことに気がついた。
中山種は、霧積温泉で働いていた。そして引退後も霧積の近くに住んでいた。したがって当然、その土地の人間とばかりおもいこんでいた。
だが必ずしもそうとはかぎらないのである。中山種もよその土地から霧積へ来て、そこに住みついたのかもしれない。
ひょっとすると犯人は、中山種の郷里(霧積ではない場合)から来た可能性もある。「犯罪死」を疑うのであれば、当然その方面も捜査すべきであった。
棟居は直ちに松井田署に問い合わせて、中山種が大正十三年三月に富山県|八尾《やつお》町から松井田町の中山作造の戸籍に結婚のため入籍していることを知った。
「富山県八尾町か」
棟居は新たに得たなじみのない地名を見つめた。犯人がそこから来たのかどうかわからない。だが霧積の人間とばかり信じていた老婆は、五十年以上も前にべつの土地から霧積へ来たのである。
中山作造とどのような経緯から結婚したのか、それを知る者は、もういないだろう。棟居は、一時《いつとき》、自分の追跡を忘れて、五十年を隔てた茫々《ぼうぼう》たる過去、瞳《ひとみ》の明るい乙女が、いったいどんな希望を託して、異郷の夫の許《もと》へ嫁いで来たのかとおもった。
五十年も以前の富山と群馬では、いまの外国よりも遠い距離感と違和感があっただろう。それを夫だけを頼りにして嫁いで来た。この土地の人間として定着するまでには、寂しさや心細さとの闘いがあったことであろう。それを克服して、ようやく子が生まれ、孫が生まれ、余生を静かに暮らしているとき、突然、黒い凶手によってその老いた人生に終止符を打たれたのだ。
もし犯人が老女の郷里から来たのであれば、死んでも死にきれないおもいだろう。
だが郷里の人間ならば、被害者が易々とおびき出されたこともうなずける。棟居は、自分の着眼と調査の結果をいちおう捜査会議に提出することにした。
捜査会議では、中山種の郷里の八尾町をいちおう洗うべきであるという結論が出された。種がもし殺害されたのであれば、犯人が流しでないかぎり、被害者の出身地も、動機発生の地として当然捜査対象に入れるべきだというのが理由である。
だが、種が離郷したのは、大正十三年である。五十年以上にもわたって培われた動機とは、どのようなものか? いまのところだれにも答えられなかった。ともあれ、霧積周辺は洗いつくして、捜査の対象はなくなっていた。かりに無駄足となったとしても、当面他に対象がなかった。
八尾行きは、ふたたび横渡と棟居が命じられた。初めからの行きがかりもあったが、八尾という新しい場所を見つけ出して来たのも彼らである。やはり二人が最も適任者のようであった。
八尾町の案内によると、
――富山県の中央南部に位置し、人口約二万三千人、南は岐阜県に接する。南部の県境には標高一、六三八メートルの金剛堂山を主峰とした飛騨《ひだ》山脈の支脈が連なり、ここに源を発する室牧川、野積川、別荘川などの諸川が断崖《だんがい》山地を回折して北流し、流域の山麓山腹に段丘平野を形成し、これらの分流は町の中央部で合流して井田川となる――
またその歴史については、
――神話に源を発する八尾町の歴史は古く、全地域にわたって石器や土器の出土がみられる。八尾文化の基を礎いたのは飛鳥時代といわれる。町は、桐山城主|諏訪左近《すわさこん》が城ケ山(龍幡山)に構えた砦《とりで》を中心に発達し、越中と飛騨の交流の要所となって栄え、富山藩の御納所として重きをなし、蚕種《さんしゆ》、生糸、和紙の取引が盛んであった。豪壮、絢爛《けんらん》な曳山《ひきやま》、全国的に名高い「おわら節」は、江戸時代の町人文化の最も発達した華麗なおもかげをいまに引き継いでいる文化財である――と記されている。
八尾への交通は、空路富山経由で入るのと、上信越線、北陸線を乗り継いで富山へ出るコース、および東海道新幹線から高山線を伝って行く三つのルートがある。
彼らは、第二のコースを取ることにした。これだと上野から夜行が使えるからである。大して収穫を期待できない出張は、できるだけ安い旅費と、短い時間であげなければならなかった。
それでも翌日の活動に備えて、寝台を取った。上野発二十一時十八分、翌日の午前五時十分富山に着くことになる。寝台はすでにセットされていた。彼らはすぐに寝台に入らず、窓辺に立って外を見ていた。
「こんなことでもなければ、おそらく一生行かなかった所だろうなあ」
発車のベルが鳴り終わって、列車が緩やかに動きはじめると、横渡が少し感慨をこめた口調で言った。
「ヨコさん、たしか霧積でも同じようなことを話しましたね」
棟居が指摘すると、
「そうだったかなあ」
と記憶を追うような目をして、
「いまふっとおもったことなんだが、あのおたね婆さんはおれたちが霧積へ行かなかったならば、殺されずにすんだかもしれないな」
と言った。
「そうとはかぎりませんよ、まだジョニー殺しとつながりがあると決まったわけじゃないんだから」
「きみだって、つながっているという強い心証があるんだろう」
「…………」
「おれたちが一生行かなかったかもしれない場所へ行ったために、婆さんが殺されたとなると寝覚めが悪いな」
「考えすぎですよ」
「おれは、あの静枝とかいった孫娘のことが気にかかってならないんだ」
それは、棟居も同じであった。あの少女は、たった一人の身寄りを失ってしまったことになる。その不幸なおもかげが八尾という新たな土地を引き出したとも言える。
「おれたちは、たとえ犯人を捕まえることはできても、あの娘の寂しさは救ってやれないんだな」
横渡は、がらにもなく感傷的になっているらしい。
「あの婆さんはいい齢《とし》でしたよ。いま死ななくとも、いずれ近いうちにお迎えが来たでしょう」
「あんたのように割り切って考えられたらいいよ」
「私も身寄りとか肉親などというものはいませんからね、孤独には馴《な》れています。肉親を失った悲しみや寂しさもほんの一時です。人間はみんな独りです」
「あんた嫁さんをもらうつもりはないのかね」
べつに身の上話をし合ったわけではないが、横渡は棟居が独身なのをいつとなく聞き知っていた。
「いずれその気になったらもらってもいいとおもっていますが、いまのところまったくその気になれません」
「嫁さんもらって子供でも生まれれば、考え方も変わってくるよ」
「女房をもらい、子供ができても、それぞれが独りであることに変わりはありませんよ。一生彼らに付き添ってやれませんからね」
「それは、人間はいずれは別れなければならんが、それでも人生の大部分を家族はいっしょに歩くことになる」
「ただいっしょに歩くというだけで、それぞれが孤独だという本質に変わりありません。私は、肉親や友だちは、編隊を組んで飛んでいる飛行機のような気がするんです」
「編隊の飛行機?」
「そうです。ある機が故障になったり、あるいはパイロットが傷ついたりして飛行が不能になっても、僚機《りようき》が代わって操縦してやれない。精々かたわらに付き添って励ましてやるくらいです」
「それでもないよりは、ましだろう」
「実質的にはそんな励ましはなにもないのと同じですよ。いくら励ましたところで、機の故障はなおらないし、パイロットの身体が回復するわけでもない。飛行機を飛ばしつづけるのは、結局、自分独りしかいないのです」
「ずいぶん厳しい考え方をしているんだな」
「人生なんて、一人一人が単座の飛行機に乗って飛んでいるようなもんじゃないでしょうか、どんなに機体が傷んでも他人の飛行機と換えることもできないし、操縦を代わってもらうこともできない」
通路に立って話し合っているうちに、列車の窓外に散る灯は疎《まば》らになってきた。すでに埼玉県に入っているらしい。通路にも人影がなくなり、乗客はそれぞれの寝台にもぐり込んでいた。
「さあ、おれたちもそろそろ寝ようか。明日は早いからね」
横渡があくびをしたのが、区切りになった。
列車は定刻より五分ほど遅れて、富山駅のホームへ滑り込んだ。まだ暁の気配も見えない。富山は、二人にとって通過する駅でしかなかった。ここから高山線に乗り換えて、八尾へ行く。
「さすがに東京より寒いな」
横渡が胴震いをした。
北陸線の列車から降り立つと同時に、北国の初冬の冷気が車内の暖房になまった身体を突き刺した。
「高山線が出るまで四十分ほどあります。どこかで憩《やす》みましょう」
二人は駅の構内に喫茶店を探したが、この時間に開いている店はなかった。駅の外へ出て探すほどの時間もない。彼らは止むを得ず、軽く洗面をした後、待合室で明け方の冷気に震えながら、列車が入線するまでの時間をつぶした。
高山線の鈍行は、北陸線の特急に比べて、グンとローカルカラーが強い。車両も四、五両編成で、車内の乗客も疎らである。こんな早朝、どんな用事をたずさえてどこへ行くのか、彼らは寒そうに身をすくめて、ひたすら睡眠不足の回復につとめているようであった。
「ああ、おかげですっかり目が覚めたよ」
横渡がさっぱりした顔で言った。
冷たい水で顔を洗い、外気にさらされたので眠けは完全に取れていた。
「よく寝《やす》めましたか」
「いや、寝台車なんてめったに乗らないので、興奮してだめだった」
「私もですよ、しかし身体は楽だったですね」
「これが普通の座席に一晩揺られて来たら、たまらなかったな。今日は仕事にならなかったよ」
「ところで、この列車が八尾へ着くのは、六時十九分です。少し早すぎますが、どうしましょうか」
「この時間じゃあ、役所関係も開いていないしな、こりゃあ、富山でゆっくりして来たほうがよかったかな」
「八尾署へ顔を出してみますか」
「まあ宿直はいるかもしれないが、事件でもないのに起こすのも悪いなあ」
この時間だと、警察の宿直もまだ起きていないかもしれない。静かな山峡の警察署を血なまぐさいにおいを帯びた東京の刑事が朝駆けしたら、さぞやびっくりするだろう。
「まあ、いずれ一度は顔出しするにしても、少し時間をずらせたほうがいいな」
「そうですね」
話している間に、列車はゆっくりと動きだしていた。野面《のづら》がうす明るくなっていた。市街地はとうに出はずれていて、雪が積もったように白々とした野面の果てに、消え残った人家の灯が心細げに震えている。
時折、列車が停まると、そこが駅である。その都度何人かの乗客が静かに交代した。列車は平野を山の方角に向かってガタゴトと走っていた。
野面に散開していた灯が次々に消えていった。朝の気配がますます濃厚になって、視野が朝のよみがえりの中に拡大されてくる。厚ぼったい雲が頭上に張りつめた北国らしいどんよりした朝であった。
「次だな」
横渡が、いま発車してきた駅名表示を読みながら言った。山が迫ってきた。人家がいくらか密集してきたように見える。降り支度をする乗客の姿があった。富山を出てから初めての町らしい町である。間もなく列車は「越中八尾」と表示された駅のホームに滑り入った。長い車両編成だと、尻《しり》がはみ出してしまうような短いホームに疎《まば》らな人影が降り立つ。
「やれやれ、やっと着いたな」
横渡が立って伸びをした。富山から乗った客は、そこでほとんど降りる様子だった。長途来た客は彼らだけらしい。
地元の乗客について跨線橋《こせんきよう》を渡り、改札口を出ると、人々はたちまちそれぞれの行先に向かって散ってしまった。背中を寒そうに丸めて、せわしない足どりで歩いて行く彼らには、みな確固たる行先がある。
わずかな乗客を吐き出した駅前は、すぐに白々とした元の静寂に戻った。この北越の小さな田舎町は、まだ目ざめていない。「歓迎」のアーチが空々しい。駅前の商店もかたく表戸を閉ざしたままで、駅前広場からのびる町筋にも人影は見えない。遠方の横断歩道を犬を引いた老人がゆっくりと渡っている。車の姿も見えないのに律儀に横断歩道を渡る老人と犬の姿が、人気のない風景を強調している。
「これは、やっぱり早く来すぎたかな」
横渡が低い家並みを両側に連ねて一直線にのびる無人の駅前通りを眺めて、ため息を吐いた。
「食堂なんかとても開いていそうにないから、その辺の旅館を起こして朝めしでも食わせてもらいましょうか」
「そうするか」
二人は駅の近くに見つけた旅館の戸を叩《たた》いた。『宮田旅館』と看板が出ている。朝食を取りながら、旅館の人間から八尾のおおざっぱな土地カンをつかむのは、悪い考えではなかった。
彼らの作戦では、まず町役場に行って、中山種の戸籍簿を当たり、その生家を探すつもりである。生家がすでになくなっていたとしても、古老に種のことを知っている者がいるかもしれない。
五十年も以前の離郷者にかかわりをもっていたかもしれない人間を探そうというのだから、それこそ雲をつかむような話である。
彼らは、初めから大した期待をこの町に寄せていなかったが、早朝の駅前の白くさびれた風景が、捜査の徒労を予告しているような気がした。
旅館にまだ朝食の支度はできないと断わられたのを強引に頼んで、彼らは押し入るように中へ入り込んだ。朝食にありつけたのは、それから一時間ほど後である。
「お客さんたち、えらい早いお越しながですねえ」
膳部《ぜんぶ》を運んで来た若いお手伝いが詮索《せんさく》する目を二人に向けた。
「東京からだと、この時間しか列車がなくてね」
棟居がなにげなく言うと、
「あれえ、東京からこられたがですか」
若いお手伝いが目を輝かした。このご時世に東京にこんな素朴な反応をしめす人間がいようとはおもっていなかった棟居のほうが、むしろびっくりした。
テレビのおかげで日本のどんな果てまでも、大都会のファッションが同時に行きわたる。むしろ地方のほうが大胆なファッションの取り入れが早いくらいである。事実、そのお手伝いを見ても、東京の街角で見かける若い娘たちと少しも変わりなかった。
「なにもびっくりすることじゃないだろう」
棟居が彼女の大げさな反応に苦笑すると、
「私、東京へ行きたいとおもとったがです。東京でなあてもいいわ、とにかく、この町から出たいがよ」
「どうしてだい? 静かできれいな町じゃないか。私なんかこんな町で静かに暮らせたら、どんなに幸せかとおもうけどな」
「あんたら、この町に住んだことがないで、そんなこと言えるがです。私、自分のことなんかだあれも知らんとこへ行きたいが。ちょっと外へ出ても、知っとる人ばっかり。生まれてから死ぬまで知った人たちの中で暮らしたりするが、考えただけでもいやになってくるわ」
「きみは大都会のアパートで病気になってもだれも見舞いにも来てくれない、死んでも何日もだれにも知られず放りっぱなしにされているような生活がいいのか?」
「私、おたがいのプライバシーまで知りつくした、こんな猫の額みたいな土地の生活がいやながです。いくら静かで穏やかなとこでも、全然変化のない生活なんかいやだわ。いつか、どっかで野たれ死にするかもしれんけど、外へ飛び出していって、いろんなことしてみたいがよ。だれかここから連れ出してくれる人おったら、いますぐでも従《つ》いてくかもしれんわ」
まるで、棟居らが来いと言えば、そのままいっしょに来そうな口ぶりだった。
――きみの考え方は、ひどく危険だ――と言おうとして、棟居は口をつぐんだ。言ってもわかることではない。未知の都会に憧《あこが》れる若者は、そこで手痛く傷つくまで、故郷のよさがわからないのである。若者の夢とは、所詮《しよせん》、自らの身体をもって購《あがな》わなければならないものであった。これはまた中山種の孫娘の静枝とは、正反対の考え方をもっている娘だった。だが静枝の祖母もこのお手伝いと同じような動機から郷里を去ったのかもしれない。
「あれえ、だら《ぐず》みたいにしゃべっとって、ご飯や味噌汁《みそしる》、さめてしまうわ。かんにんしられえ」
お手伝いは、ややうろたえて飯を茶碗《ちやわん》に盛りはじめた。美味《うま》そうな味噌汁のにおいが鼻に迫って、腹の虫が大きく鳴いた。
「お客さんだち、東京から何しにこられたがですか」
飯を盛り終わってから娘が聞いた。そろそろ旅館が忙しくなる時間帯らしいが、娘はいっこうに気にせず、すっかり腰を落ち着けている。土地カンのアウトラインをつかむには、まことに格好の相手に恵まれたようであった。
「ちょっと調べ事があってね、きみ谷井種さんという人を知っているかい。この町の出身なんだが、もう五十年も前にここを出ている。もちろんきみが生まれる前のことだがね、ご両親や、お爺《じい》さん、お婆さんから名前だけでも聞いたことないかな」
「谷井《たにい》」というのが種の結婚前の姓である。
「谷井たねさん?」
期待もせずに聞いたことだが、意外にも相手の口調に反応があった。
「知っているのか?」
「私の名字も谷井っていうの」
「きみも谷井!」
「この町に谷井って姓は多いんです」
「それではきみの親戚《しんせき》かもしれないな」
「親戚いうたら、町の人みんな親戚みたいなもんだわねえ。たぐってけば、みんなどっかでつながっとるから。それもここから出て行きたい理由ながよ」
「谷井種という名前におぼえはないかね」
「そうだねえ、そう言われてもちょっとわからんわねえ」
棟居は、横渡と目を交わしながら、やっぱり役場で調べる以外になさそうだとうなずき合った。
食事の半ばころから旅館の前の駅前広場が活気を呈してきた。通勤のラッシュ時間帯を迎えて、駅前らしい風景になっている。
乗客は降りよりも乗りのほうが圧倒的に多そうである。学生や勤め人は、ほとんど富山方面へ向かう。それでも降りもけっこう多い。バスが頻繁《ひんぱん》に発着し、通りに車の数も増えた。
降りたったときにだだっぴろく映った駅前の通りや広場が、いまはせせこましく見える。静かな地方町もいまは完全に目ざめたおもむきであった。
食事が終わると、そろそろ役場の開く時間になった。旅館のお手伝いから聞いたとおりの道筋を忠実に伝って、二人は町役場へ向かった。低い家並みの連なる駅前通りを一直線に進むと、T字路へ出た。ここを右へ折れると川の畔《ほとり》へ出る。そこで道が二つに岐《わか》れ左手が橋へつながる。川幅はかなり広い。川底の小石が数えられるほどに澄んでいる。
お手伝いから教えられた知識によると、『井田川』である。橋は、コンクリート製の永久橋で、『十三石橋』と畔の橋名表示板に彫られている。
雲が切れて、陽が射してきた。陽の光が、水の流れに砕けて、寝不足の目にまぶしく光る。
彼らは橋の畔に立ち停まり、しばらく川と両岸に広がる町のたたずまいを眺めた。富山平野はこのあたりから山地にかかる。この町は平野と山地の境界にあった。
そのために町は起伏の多い段丘の上に発達し、井田川がその中央を貫流して北方の富山湾に注ぐ。
高層の洋風建築物によってまだほとんど侵《おか》されていない、低いしかし統一されたような瓦葺《かわらぶ》きの家並みが、町に一種の気品をあたえている。いっときの通勤ラッシュ時間が終われば、町全体がふたたび眠ったようになる。旧《ふる》きよき地方町のおもかげがそっくり留《とど》められている、日本の片隅の忘れられた町がそこにあった。
「こんな町が、まだ日本にあったんだな」
横渡が流れに砕ける光の反射にまぶしそうに目を細めながら言った。
「押し寄せる機械文明が、よけて通ったような町ですね、車もほとんど見えない」
「機械文明は、この町も決して見逃しちゃいないさ。車の数は確実に増えている。この川の水の清さや、町並みの気品を守るか、それとも公害に明け渡すかは、住民の意識しだいだな」
横渡が言ったとき、数台の大型トラックが排気ガスを撒《ま》き散らしながら橋を渡って行った。
彼らはトラックによって現実へ引き戻された。町役場の建物は、橋の畔を右手へ坂を上りきった所にあった。スマートな鉄筋コンクリートの建物である。この町の数少ない洋風建物の一つだが、町の家並みに合わせて設計したのか、二階建ての庁舎は、古い町並みにそれほど不調和ではない。むしろ病院のようなたたずまいの庁舎である。
彼らは玄関を入り、「住民課」の窓口へ行った。東京では最近珍しくなった妊婦服のような事務用|上っ張り《スモツク》を羽織った若い女性係員が応接している。棟居がその係員に警察手帳を示して用件を伝えた。
「谷井種さんですね」
住民係は、警察手帳と大正十三年という言葉にびっくりしたような目をした。古い戸籍調べは、べつに珍しいことではないだろうから、警察手帳のほうに驚いたのであろう。
「ちょっと待ってくださいね」
彼女は、背後のファイリング・キャビネットから一冊の帳簿を引き抜いてきた。
「谷井種さんの本籍は上新町二七×番地にあったがですけど、大正十三年三月十八日に結婚のために群馬県の方に移しとられますね」
住民係のもってきた戸籍簿を覗《のぞ》くと、たしかに松井田町役場の戸籍と符合している。種の両親はすでに死亡していた。種は当時としては珍しく一人娘だった。兄が一人いたが、七歳のとき病死している。
種の父親もこの町の生まれである。その原簿を追うと、彼らのきょうだいも当然のことながらすべて死亡していた。ただ町内|福島《ふくじま》に父の弟の娘、つまり種のいとこがまだ健在であることがわかった。
結婚後、「大室《おおむろ》よしの」となったこのいとこに聞けば、あるいは、種の古い消息がわかるかもしれない。
二人は、念のために種の原籍のコピーをもらい、女性係員に上新町の種の生家のあった場所と、大室よしのの家の所在を聞いて、役場を出た。
上新町は、商店街であった。種の生家のあった番地は、駐車場になっていた。彼らは駐車場の地主という隣の魚屋に種の生家のことを聞いたが、知っている者はいなかった。その土地の権利も魚屋が取得するまでに数代を経ていた。
そこは八尾としては、最も活気を帯びている一角であったが、五十年前そこに住んでいた人間の消息は、見事に消されていた。この眠ったような町にも、確実に人間の営みが繰り返されている。日々改まる旺盛《おうせい》な生活の営みが、容赦なく古い生活の痕跡《こんせき》を抹消していく。去った者は、新たに移り住んだ者の記憶にも残っていない。
二人は、そこに人生の過酷さを見せつけられたようにおもった。
彼らは、種を知っているかもしれない唯一の身寄りである大室よしのを訪ねるために、その住所へ足を向けた。「福島」というのは、駅の周辺に発展した、八尾の新開地であった。所番地を頼りに行くと、どうも今朝小憩した旅館の近くらしい。途中で見つけた派出所に寄って聞くと、まさに今朝の旅館が、その番地に該当する。
「宮田旅館の経営者は大室さんという名前ですな」
派出所の巡査は、東京から来た二人の刑事にすっかり感激して宮田旅館まで送って来てくれた。
旅館へ戻ると、さっきのお手伝いが目をまるくして出迎えた。
「あれ、もう調べ事終わられたがですか?」
もしかすると今夜泊まることになるかもしれないと言って出たのだが、まだ午前中であった。
「いや、こちらに大室よしのさんという人がいるかね?」
「よしの? おばあちゃんのことかいね」
「たぶんそうだろう」
種のいとこだから、年齢的にもそのくらいになる。この娘もどうやらこの旅館と縁つづきらしい。
「おばあちゃんに何か用?」
「ちょっと会わせてもらいたいんだ」
「おばあちゃん、裏の隠居部屋におられるわ。でも、おばあちゃんに何の用ながけ?」
「こちらは東京の刑事さんだ。はよう女将さん呼んでこんかい」
派出所の巡査に言われて、お手伝いはまるい目をますますまるくして、奥へ飛んで行った。
奥から旅館の女将が飛んで来た。
「うちのおばあちゃんが何かしましたか」
女将は顔色を変えていた。この静かな片隅の町では、刑事が訪ねて来たということが、一大事なのであろう。
「いやいや、ちょっとお聞きしたいことがあるだけですから、どうぞご心配なく」
棟居は、苦笑しながら、女将の心配を鎮めた。
「でもわざわざ東京からうちのおばあちゃんに会いに来られたんは、よっぽど大事な用ながでしょうね」
女将は、まだ驚きと警戒を完全に鎮めない表情で言った。
「いや、ほんのついでに立ち寄っただけですよ。役場でこちらのおばあさんが、谷井種さんのいとこだとわかったものですからね」
棟居は相手の表情に視線を凝らしながら言った。役場で閲覧した戸籍によると、この女将がよしのの息子の嫁である。
とすれば、種とも縁つづきということになる。だが女将の面には反応は見られなかった。
「おばあちゃんは、少し耳が遠くなっとられるけど、まだ達者ですよ」
女将は、棟居の下手《したで》の態度にようやく警戒を解いたらしく、二人を旅館の建物の裏手にある居住区の方へ導いた。
よしのは、裏の隠居部屋で猫を膝《ひざ》に乗せてのんびりと日向ぼっこをしていた。柔和な表情をした老婆である。南向きの八畳の和室は明るく清潔で、よしのが家族から大切に扱われている様子がわかった。
「おばあちゃん、東京からお客様だわ」
刑事という刺戟《しげき》的な言葉を伏せた女将の取り次ぎにも、老婆を驚かせたくない配慮がうかがわれる。
恵まれた環境で幸福な余生をすごしている老婆の姿があった。刑事らは、ふと、よしのと、若くして他郷へ嫁《か》し、ダムから墜《お》ちて死んだ種の一生を比べた。天が同血から出た二人の人生をこのような明暗二色に染めわけたものは、何だったのか?
「東京からこの私に、これはまあえらいこっちゃねえ」
よしのは、二人の方に目を向けて、居ずまいを正した。刑事らは老婆を緊張させないように初対面の挨拶《あいさつ》をして、早速用件に入った。
「ああ、おたねさん、これは懐かしい名前を聞いたもんやねえ」
老女の面に反応が現われた。
「おたねさんをご存じですね」
棟居が念を押すと、
「知らんどころか、小さいころは姉妹のようによく遊んだもんですちゃ。しばらく消息を聞かんけど、達者《まめ》に暮らしておられっかねえ?」
老女は中山種の死んだことを知らないらしい。老女のいとこの陥った悲惨な運命をこちらから報せてやる必要もない。
「実はそのおたねさんについて詳しくうかがいたいとおもってお邪魔したのですが、おたねさんはどんないきさつから群馬県の方へ行ったかご存じですか」
「おたねさんは、当時のモガちゅうがかねえ、新しいもんが好きだったさかい、とにかくこの土地から出て行きたがっておったな。ここが嫌いというのではのうて、新しい土地へ行きたがっておったがですちゃ」
「ご主人の中山作造さんとはどのようにして知り合ったのですか」
「おらっちゃもくわしいことは知らんけど、富山の薬工場へ勤めに出て、そこで知り合うたらしいのう」
「中山さんも富山の薬工場へ働きに来ていたんですね」
「そゆがです。当時|他国者《よそもん》とデキ合うたとおじごやおばごもひどう怒ってしもて、二人は駆け落ちしてしまいましたちゃ」
「駆け落ちしたんですか?」
「まだ披露もせんうちにねねができてしもうてなあ。おじごやおばごは氏素姓もわからんよそ者の子供は絶対産んだらあかんちゅうてねえ、そっで腹にねねをかかえたまま手に手を取って駆け落ちしてしもたがですちゃ」
その胎児が、静枝の父か母になるのであろう。
「それで二人は、群馬県の方へ行って結婚したんですね」
「初めは勘当だ言うて両親《ふたおや》も怒っとったがですけど、駆け落ち先で子供が生まれたいうて聞いてから、やっぱり孫が可愛いかったとみえて、二人の結婚を許しましたがですちゃ。籍を移したがは、駆け落ちしてから二年ほど後のはずだわ。当世の若い衆ならなんでもないことながだろうけど、あの当時は大騒動でしたちゃ」
よしのはその恋にかけた女の悲惨な末路を知らない。脂の抜け切ったような老女の目に、恋に殉じたいとこに向ける羨望《せんぼう》の色が浮かんだ。
「おばあさんはさっき、おたねさんからしばらく消息を聞かないと言われたが、その消息とは手紙でももらったのですか」
「そゆがです。おたねさんは時々おもいだしたように手紙をくれたわいね」
「それはいつごろのことですか?」
「さあ、最後にもろうたのは、十年ぐらい前だったろうかねえ、いや二十年かのう」
よしのは記憶を探る目をした。長く生きた老女の過去は茫々《ぼうぼう》として、記憶の刻み目が見つからないのであろう。
「どんなことが書いてありました?」
「そうだねえ。そのころの暮らしぶりだったとおもうがだけど、いまではやあ忘れしもたわいね」
「その手紙は、もう残ってないでしょうなあ」
棟居は、あまり期待せずに聞いた。なにしろ十年か二十年も前の古手紙である。あるいはもっと以前のものかもしれない。ところが、
「探しゃあ、押し入れの隅にでも何通か残っとるかもしれんけどねえ。なにしろ年取ってくるとなんでも大事にしまいこむくせがつきますもんで」
よしのは、意外な返事をした。
「探せばあるかもしれない! お手数ですが、ぜひそれを探してもらえませんか」
「そんな古手紙になにか役立つことでもありますがけ?」
「それはもう大だすかりで。ここまで来た甲斐《かい》もあったというものです」
「ちょっこし、待っとってくたはれ」
よしのは言うと、膝《ひざ》の上の猫を追って、意外に軽い身のこなしで立ち上がった。坐《すわ》っているときはまるく見えたが、立ち姿は、ほとんど腰が曲がっていない。
「おしんちゃん、ちょっこし手伝うてくたはれ」
よしのは、好奇心に目を輝かして女将の後ろにぴたりと付いて居坐っていたお手伝いに声をかけた。二人の職業が彼女の興味を抑えようもなく煽《あお》り立てているらしい。
「わし、探してあげる」
よしのに指名されたことでその場に居る資格をあたえられたのを喜ぶようにおしんは嬉々《きき》として立ち上がった。
二人は、隣室へ入ってあちこちがさごそとかきまわしている様子だったが、間もなく、よしのが手に古手紙の束をもって、出て来た。
「やっぱし、ありますたちゃ」
よしのは嬉《うれ》しそうに言った。
「ありましたか」
二人の刑事はおもわず息を弾ませた。はなはだうすい可能性だが、種が故郷へ送った音信の中に、ジョニー・ヘイワードあるいは犯人に関するなにかを書きしるしているかもしれない。
「この手紙の束をおぼえとりますちゃ。大切な手紙だけ取っておいたもんやからなあ、こん中におたねさんの便りがいくつかあったはずじゃ。いまで、さっぱり目がみえんようになってしもてねえ、細《こま》い字は読めんがですちゃ」
よしのが差し出した古手紙の束は、いずれも紙が黄色く変質した、手を触れれば、ボロボロに崩れそうな古文書のような束である。
「これを拝見してよろしいのですか」
「ええ、ええ、どうぞ見てくたはれ」
棟居は、よしのから受け取った手紙の束を横渡と二分して、探しはじめた。
「封書ですか、葉書ですか」
「たいてい葉書ですたちゃ」
「差出人の名前は、書いてありますね」
「おたねさんの字は、読みやすい字だで、じきにわかるわいね」
「何通ぐらいありますか?」
「三つか四つぐらいあったかねえ。これより前にももろうたけど、失うてしもたがです」
日付けを見ると、いずれも二十年から三十年ぐらい前の手紙である。
「これでも娘んときゃ、男から付け文されたもんだが、嫁に来るときにみんな焼いて始末してしもてね」
よしのが遠い日を偲《しの》ぶ目をした。
「おばあちゃん、付け文て何け?」
おしんが聞いた。
「はれまあ、この子は、付け文を知らんがけ」
よしのはびっくりした顔をして、
「あんたらっちゃあ、男から手紙もろうたことはないがかいね?」
「ああラブレターのことか、いまどきそんな面倒なことせんわいね。電話ちゅう便利なもんがあるもんに」
よしのとおしんが話し合っている間、棟居と横渡は、古い手紙の差出人名を一枚一枚丹念に検《しら》べていった。二人の手許《てもと》に残る手紙の束は、みるみる少なくなってきた。
「あった!」
手許の手紙が数枚を残すのみとなったとき、横渡が叫んだ。
「ありましたか」
失望へ天秤《てんびん》が大きく傾きかけていただけに、棟居は救われたおもいで、横渡の手許を覗《のぞ》いた。黄色に変色した古い葉書である。
「中山種、松井田局の消印になっている」
「日付けはいつになっていますか」
「昭和二十四年七月十八日か、ずいぶん古いなあ」
横渡は嘆声を発した。彼らは文面を見た。インクの色もかすれていたが、女らしい細い丸みを帯びた字で次のような文章が読み取れた。
――御無沙汰《ごぶさた》いたしておりますが、お達者にお過ごしですか。私も当地にすっかり落ち着いてしまいましたが、八尾もずいぶんと変わったことでしょうね。過日は、珍しいお客がありました。話をしているうちに、八尾出身の人ということがわかりました。久しぶりに八尾の話をしました。そんだらがっちゅ、八尾のことをおもいだえてやー便りしたすちゃ――
末尾のほうが、土地の言葉で書かれている。結局、保存されていたのはその一通だけであった。
「この八尾出身の客というのは、だれのことだろう?」
「さあ、名前は書いてありませんね。お婆さん、おたねさんがその後の手紙でこの客についてなにか言ってきませんでしたか?」
「いーや、これだけですちゃ」
「棟居君、きみ、この客が事件になにか関係があるとおもうか?」
「これだけではなんとも言えませんが、ちょっと気になることがあります」
「何だね?」
「珍しい客が来て、話しているうちに八尾の人間だとわかったと書いてあるでしょう」
「うん」
「すると、おたね婆さんは、いや当時は婆さんではなかったおたねさんは、その客を初めて見たとき珍しいとおもったことになります」
「それは、文が前後しただけで、八尾出身とわかったので、珍しい客と言ったんだろう」
「そうかもしれません。しかし、そうでないかもしれない。初対面の瞬間、珍しいという印象をもって、それを素直に手紙に書いたとも考えられますよ」
「初対面の印象か」
「そうです。その印象が強くて手紙に現われた」
「温泉だから、いろんな客が来るだろうが、会った瞬間に珍しい客と感じるのは、どんな客だろうな」
「まず久しぶりに再会した人間なら、珍しいと言うでしょうね、しかしこの文面では、おたねさんとその客は初対面だったことがわかります」
「すると、どんな客だろう?」
「霧積にめったに来ない客ですね」
「非常に身分の高い人か」
「だったら、温泉の手伝いが気軽に話せないでしょう」
「すると」
「ジョニー・ヘイワード」
「きみは、ジョニー・ヘイワード自身が霧積へ行ったというのか」
ジョニーに来日歴はなく、その当時彼はまだ生まれていなかったはずである。
これまでジョニーの関係者≠フセンで洗っていた。
「いや、ジョニーの関係者、つまり外国人が霧積へ来たとしたらどうでしょう」
「しかし、おたねさんの手紙は、八尾出身者だと言っているぞ。八尾出身の外国人なんているかね」
「その外国人の同行者が八尾出身だったかもしれないじゃありませんか」
横渡は、幕を一枚取り除《の》けられたおもいがした。これまで、ジョニーの関係者は、単数と考えていた。だが、単数である理論的根拠はなにもない。
「すると外国人と八尾出身の日本人がいっしょに霧積へ来たというわけか」
「これならおたねさんも珍しいとおもったでしょう」
「ジョニーの関係者に八尾の人間がいる……」
「まだ断定はできませんが、この手紙はそのように解釈できませんか」
「できるとおもうよ。だから、身許を知っているおたねさんの口を塞《ふさ》いだ?」
「ということは、八尾を洗われると犯人の素姓が露《あら》われることになります」
「まだ、その珍しい客が、犯人とも、またその関係者とも決まったわけじゃないよ。要するに二十数年も前の古い葉書に書いてあっただけだ」
横渡は思考が短絡に流れるのを戒めた。
結局、八尾まで来て得たものは、たった一通の古い葉書だけだった。それすら犯人を示すものかどうかわからない。八尾から他郷へ出た者を追うとなると、それこそ雲をつかむようなものである。
彼らは執拗《しつよう》に追って来た一本のあえかな糸が、プツリと切れたのを感じた。これまでにも糸は何度か切れかかった。その度に新たなデータが補足されて、手をのばした先に新たな糸を探り当て、切れぎれながらもとにかくここまで追って来た。
だが今度こそ行き止まりだ。糸の切れた先に、新たな糸の端末《はし》はのびていない。
「これじゃあ東京へ帰りにくいですね」
「しかたがないさ、これが捜査だよ」
横渡は慰めるように言ったが、棟居以上に気落ちしているのがわかった。
午後の遅い列車か夜行で帰れないことはなかったが、収穫のないことが、二人の疲労を引き出した。とても長途の列車に揺られて帰るだけの気分も体力も残っていなかった。
彼らは、その夜宮田旅館に泊まることにして、午後八尾署にいちおう顔を出した。派出所巡査に案内してもらったので、挨拶《あいさつ》をしないわけにもいかない。今後、また世話になるかもしれないのである。
八尾警察は町役場と背中合わせの場所にあった。
警察へ寄ってから、彼らは町を一望に見下ろす城ヶ山公園へのぼった。ここは諏訪左近の築いた砦《とりで》の跡である。
すでに秋の陽は西山に傾きかけて、八尾の町は夕景の中にあった。低い家並みの下に炊煙が夕靄《ゆうもや》となってたな引き、ただでさえも優しい町の表情をいっそうに和《なご》めている。
木立ちと家がほどよく混在し、その間に夕日に赤く染色された井田川が蛇行している。おちこちに鏡を浮かべたように茜《あかね》の光を砕くのは、沼か水たまりか。それらの光をじっと見つめていると、やがて、太陽の移行とともににじみ出す暮色の底に色|褪《あ》せてしまう。それらのいくつかは、民家の屋根だったと気がつくころは、暮色が一段と深まっている。
頭上には冬将軍に明け渡す直前の北国の空が、秋の最後の彫琢《ちようたく》を施された深い透明な画布となってひろがっている。一日の最後の光が徐々に西の天末《てんまつ》に蜜《みつ》のように凝縮されて、天心に残った数条の巻雲を、濃紺のカンバスに一刷のピンクの色彩を引いたように染めている。風のない穏やかな夕方であった。
城ヶ山の頂に向かって、枯れた桜の並み木を分けて緩い石段がつづいていた。石段に枯れ葉が散り敷いて、靴と石の間の感触を緩衝する。木の下道をのぼって行くと、どこかで落葉を焚《た》いているのか、樹間が柔らかく烟《けむ》り、香ばしいにおいが漂ってきた。
石段の上の方から手をつないだ父子が下りて来た。中年の父親と、三、四歳の幼児である。すれちがって、振り返ると、子供の頭に一枚の黄色い落ち葉が乗っていた。どこか寂しげな父子の後ろ姿であった。
棟居は、その二人が妻と母に捨てられたような気がした。
「どうしたね?」
父子の後ろ姿をしばらく見送っている棟居に、横渡がたずねた。
「いや、なんでもありません」
棟居は、慌ててかぶりを振った。石段をのぼりきって「二番城ヶ山」と表札のある高台に立つと、展望はさらにひらけた。
ここまで来る間に残照はおおかたうすれ、八尾の町は濃い夕闇の底からちらちらと家々の灯を漏らしていた。
その灯の下には、いかにも穏やかな表情をした人々の安らぎがあるような、温かみをもったみかん色の灯であった。
その高みに上ると、低山の上に雪をいただいた連峰が見える。富山平野を屏風《びようぶ》のように囲繞《いによう》する立山や白山であろう。それらの山々から落日の余韻《よいん》を封じこめるために蒼茫《そうぼう》たる黄昏《たそがれ》が海のようにひたひたと押し寄せてくるのである。
「人恋しくさせるような町だな」
「遠くにありて想う郷里とは、こんな町でしょうか」
「棟居君、あんたの郷里はどこだい?」
「東京です」
「おれも東京生まれだよ」
「それじゃあ、おたがいに故郷がないのと同じですね」
「まったくだ。しかし若い連中はこういう故郷から脱け出したがる。母親の膝から飛び出すようにな」
「離れてみなければ、その良さがわからないんでしょう」
「離れただけじゃわからんかもしれないよ。離れて、心身ずたずたに傷ついてみなければ」
「旅館のおしんちゃんとかいった娘、安易に飛び出さなければいいですがね」
棟居は、宮田旅館の頬のまるい、目の大きなお手伝いの顔をおもいだした。
「そろそろそのおしんちゃんのところへ帰ろう。体もすっかり冷えてしまったし、腹もへってきた」
横渡が胴震いをした。少し風が出たようであった。
彼らは翌日の午前の列車で富山を発った。上野へ着いたのは、午後五時少し前である。彼らは面目ないおもいで、捜査本部へ帰り、出張の土産のないことを那須警部に報告した。
「いや、これは意外な土産かもしれないぞ」
那須は大室よしのから領置してきた葉書を手に取りながら慰めてくれた。だがその葉書から一歩も先へ行けない事実に変わりはなかった。
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決め手の窃盗
森戸邦夫は、郡恭平がアメリカへ行った事実までまことに調子よく探り出したが、その後の調べははかばかしく進まなかった。依頼人の新見からは、まだかまだかと督促してくる。とは言われても、簡単に他人のガレージに忍び込んで、その車を検《しら》べられない。だいいち、恭平のGT6が郡家のガレージに入っているかどうかもわからないのである。
だが新見の督促は容赦がなかった。
「森戸君、きみともあろうものが、いったいなにをもたついているのだ」
「なにぶん住居侵入ですからね」
「そんなこといまわかったわけじゃあるまい。なにも盗みに入るんじゃない。万一、捕まったとしても、大したことはないよ。酔っぱらって場所をまちがえたと言えばすむ」
「捕まるのは、私ですよ」
「それだけのことはするつもりだし、すでにしているはずだ」
「それはよくわかっております」
「わかっているならなぜ早くやらない。恭平が無目的にアメリカへ行ったのは、絶対におかしいんだ。もしきみがやらないんだったら、他の人間を頼んだっていいんだぞ」
新見は、暗に後援《スポンサー》の打ち切りをほのめかした。
「部長、そんな殺生なことは言わないでくださいよ。これまでにも私が部長の期待を裏切ったことがありますか」
「だからこれからも裏切らないようにしてくれ」
とこんな調子で迫られて、森戸はすっかり追いつめられてしまった。これまでずいぶん阿漕《あこぎ》な商売をしてきたが、他人の家に泥棒まがいに忍び込んだことはない。
だが、新見は彼にとって大スポンサーである。森戸の抜群の成績は彼によって支えられていると言ってもよいくらいだ。新見が「ワンデスク・ワンシュレッダー方式」を取り入れてくれれば、森戸の社の得る利益は莫大《ばくだい》である。それはそのまま森戸の位置とマージンにつながる。
新見のヒキは、どんなことがあっても失ってはならなかった。森戸はついに意を決した。とにかく忍び込む以外に方法はないのだ。
「まあ、ガレージなら捕まっても家に忍び込んだのより罪が軽いだろう」と勝手な理屈をつけた。
郡陽平の邸《やしき》は千代田区二番町の奥まった一角にある。皇居に近く、付近は各国大使館や高級邸宅、豪華マンションが多い。都心にありながら、格調ある雰囲気をとどめた一等地である。
豪邸のオンパレードのようなこの一角にあっても、郡邸はひときわ目立つ存在であった。
これは陽平が鉄工所で儲《もう》けた金で建てた家で、イギリス中世の住宅様式を模した、柱や梁《はり》などを白壁の中に浮き上がらせたハーフチンバー風と呼ばれる現代住宅である。屋根の勾配《こうばい》をリゾート風に強め、棟高を高くとったその家は見るからにスマートであった。
だがそれを囲むコンクリートブロックの塀と鉄板張りの内扉がものものしい。脇に通用口があり、門扉が開かれるのは、正式の来客がある場合と車の出入りのときだけらしい。
ガレージは、建物の一階の中に組み込まれてある。ガレージのシャッターが下りていると、どうにもならないが、ともかくそこまで行くためには、門か塀を乗り越える以外に方法がなかった。
森戸をこれまでためらわせていたのも、そのガードの堅固さである。だが幸いに、犬はいないようであった。
彼は、ついにある深夜、行動をおこした。捕らえられた場合を考えて、ごく普通の服装にした。ストッキングの覆面に黒装束では、場所をまちがえたという口実が通用しない。
証拠を撮影するために、カメラとライトを用意した。森戸が郡邸の前に立ったのは、午前三時である。すでに邸内の灯はすべて消えて、このブロック全体が深い眠りの中にあった。眠っているのは人間だけではなく、犬の遠吠《とおぼ》えも聞こえない。月のない暗い夜だった。
森戸は、昼間下見をしておいた個所から侵入を企てた。コンクリートブロックの塀の一部に崩落したくぼみがあって、それが格好の足がかりになりそうであった。
案の定、くぼみは侵入を容易にさせた。くぼみに足をかけると、首がほとんど、塀の上に出た。家の中が寝静まっているのを改めて確認してから懸垂の要領で身体をもち上げ、簡単に塀をまたぎ越した。芝生を敷きつめた庭を駆け抜けて、一階の隅にあるガレージに近づく。シャッターが下りていた。折りたたみ式で、手をそっと触れてみると鍵《かぎ》がかかっていない。
森戸は闇の中でほくそ笑んだ。これなら簡単に中に侵《はい》れる。身体がくぐり抜けられる程度の隙間を開けて、彼はガレージの中に入った。外から光を見られないように、シャッターを閉めなおして、ライトをつけた。
「あった!」
彼はおもわず声を出しかけて、慌てて自らの口を被った。郡陽平の専用車らしい大型車のかたわらに、GT6MK2の空気抵抗を少なくした鋭い車体がうずくまっていた。解体の手はまだ及んでいないらしい。
森戸は車のフロントに寄って、綿密に検べはじめた。くわしく観察するまでもなく、前部バンパーやラジエーターグリルに明らかな変形が見られる。
とうとう相手の首根をとらえた。森戸の追跡は正確だったのだ。彼は勝利感を抑えながら、シャッターを切った。フラッシュが勝利を祝う花火のように同調した。
谷井新子は、夢の中で動くものの気配を悟って目をさました。枕元に置いた腕時計の夜光文字をすかして見ると、午前三時を過ぎている。
――こんな時間に何の気配かしら?
たしかになにかの気配が自分の眠りをさましたのである。新子は闇の中で耳を澄ました。邸の中は、ひっそりと静まり返って、なんの物音もしない。今夜は、夫人が講演旅行に出ており、主人と娘がいるだけである。彼らもぐっすり眠り込んでいる様子である。
――やっぱり空耳だったのかしら――
新子はおもいなおして妨げられた眠りへ戻ろうとした。そのとき闇の中でたしかにガサリとなにか動く音がした。音はさらに忙《せわ》しなくつづいた。狭い所に閉じこめられた小さな動物が走り回っているような音だった。
「なあんだ」
新子はいったん固くした身体から緊張を抜いた。気配は、この家で飼っている一番《ひとつがい》の縞《しま》リスのケージから来ていた。リスが夜遊びをしていたのだ。
「それにしても、こんな夜中に騒ぐなんて、変だわ」
べつの不安が頭をもたげた。家の中に忍び込んだ野良猫がリスを脅かしているのかもしれない。そうだとすれば、危害を加えられないうちに追いはらってやらなければ。――リスの保護も、彼女の仕事の中に含まれているのである。
新子は寝床から脱け出してガウンを羽織った。リスのケージは、彼女があたえられた小部屋の隣にある階段の下の三角空間に置かれている。一階は、食堂、キッチン、居間、応接室、ガレージなどがあり、二階に家人の個室がある。
新子が階段の灯をつけてケージの中を覗《のぞ》き込むと、二匹のリスはプラスチックの小屋から飛び出して、ケージの中を8の字の形に跳びまわっていた。
「まあまあロメオとジュリエットったら、いったいどうしたのよ」
新子はびっくりしてリスの愛称を呼んだ。リスはなにかにひどく興奮しているらしい。こんな夜中にこのように激しく跳ねまわっているのを見たのは、この家へ来てから初めてのことであった。周囲を見まわしても猫や、その他のリスを脅かすようなものはいない。
「さあ、早くお家へ戻って、お寝《やす》み。安眠妨害よ」
新子がそっと手をさしのべると、ロメオがきゅっとかん高く鳴いた。
「本当にどうかしちゃったのね」
――これが盛《さか》りがついたということなのかしら?――ふと走った連想に新子は闇の中で頬を紅《あか》らめた。そのときまた気配があった。だが今度はべつの方角からである。「リスの盛り」とは異種の気配だった。
なにかが炸裂《さくれつ》したような、それでいてくぐもった響きである。その音はさらに数回連続して追いかけてきた。リスがいっそう激しく暴れだした。
「何かしら?」
新子は、視線をリスのケージから新たな気配がきた方角へ転じた。それは浴室の隣りに位置しているガレージの方からきているらしい。
ガレージの中に泥棒がいるとはおもわなかった。まさか車をガレージから盗み出そうとする者はいないだろうとおもった。
新子は、好奇心の強い大胆な娘だった。だからこそ、遠いつてを頼って、たった一人で上京して来たのである。
とにかく気配の正体を確かめないことには、今夜は眠れそうにない。家の中にはガードマンがいたが、うっかり彼を起こして「枯尾花」のような正体だったら恥ずかしい。ガレージには、いったん家の外へ出ないと入れない。裏口から庭へ下りて、ガレージの前へ出ると、シャッターの間隙から時々、例の音とともに強い閃光《せんこう》が漏れる。きちんと閉めたはずのシャッターがわずかに開いている。その隙間から光がほとばしっているのだ。ガレージにそんな光源はない。
新子は足音を殺してガレージに近づいた。隙間に目を押し当てて中を覗き込む。瞬間、目を灼《や》かれた。新子はそのとき怪光が写真のフラッシュであるのを悟った。何者かがガレージの中に忍び込んで写真を撮《と》っているのだ。
新子は、一瞬我を忘れて、
「泥棒!」と叫んでいた。
仰天したのは、中にいた森戸である。ぐっすり眠り込んでいるらしい屋内の様子に油断して、証拠写真を欲張って撮っている最中に背中からいきなり切りつけられたようなものであった。
慌てふためいたはずみに、足許《あしもと》に置いてあった空の石油かんにつまずいた。それはこのブロック全体を起こしてしまいそうな凄《すさま》じい音をたてて転がった。その音が新子をいっそう気負い立たせた。
「泥棒、強盗!、人殺しよ!!」
あらぬ罪まで押しつけられた森戸は、ますます動転した。まずいことに退路は新子によって塞《ふさ》がれた形になっている。他に逃げ道はない。
逃げ場を失った彼は、ついに車体の下にもぐり込んでしまった。新子のさけび声を聞きつけて、二階から主人と娘が下りて来た。
ガードマンが押っ取り刀で飛び出して来た。
「いったいどうしたのかね」
主人が腫《は》れぼったい目をして聞いた。
「泥棒が、ガレージの中にいます」
「泥棒が、ガレージから何を盗むつもりなんだ?」
「わかりません、でもだれかいます」
ガードマンがガレージの中に飛び込んだ。森戸は簡単に車の下から引きずり出されて、ガードマンのたくましい腕の下に取り押えられた。
その間に主人の娘が一一〇番した。麹町《こうじまち》署は、目と鼻の先にある。森戸は駆けつけた警官の手に引き渡された。
森戸邦夫は、住居侵入の現行犯でそのまま麹町署に留置された。ところが、警察の取り調べに対して森戸は奇妙なことを言った。
すなわち、侵入された家の主、郡陽平の息子の恭平が、人を轢《ひ》き逃げした疑いが濃厚なので、その証拠をつかむために車を検《しら》べていたと申し立てたのである。
犯行現場は都下K市の「鳥居前」、犯行推定日は九月二十六日午前二時半ごろ、被害者の名前は小山田文枝と具体的なデータを列挙した。
なお、現場一帯は所轄署が捜索しているから照会すればわかると付け加えた。
たとえそれが事実であったとしても森戸の行為は少しも正当化されないが、「轢き逃げ」という犯罪を告発した形になったので、無視することもできず、いちおうK署に問い合わせが為された。その結果たしかにそのような訴えが小山田文枝の夫によって出されて「鳥居前一帯」を検索したが、轢き逃げの犯跡は発見できなかったという事実がわかった。
森戸の供述は、まんざらでたらめではなかった。最初、森戸の背後に政治の軋轢《あつれき》や思想関係を疑っていた警察は、少し緊張をゆるめた。だが、K署は轢き逃げの証拠資料をまったくつかんでいない。要するに被害者サイドの疑惑があるだけで、轢き逃げの有無すら不明なのである。それを郡恭平の犯行と断定して、その自宅のガレージに忍び込んだというのは、乱暴である。森戸が申し立てた郡恭平を割り出した素人推理≠ノもかなりの無理と飛躍がある。
その供述を信じて、郡恭平の車を検べるわけにはいかなかった。森戸の差し出したフィルムを現像したところ、たしかに車体に変形が見られたが、これが人身事故によって形成されたものかどうかわからない。恭平の父親は、政界の惑星で、警察としてもそれなりの配慮をしなければならない。
「小山田文枝の行方がいまだに不明なのが、なによりの証拠だ」と森戸は訴えたが、文枝の行方不明と郡恭平を結びつける確たる証拠はなかった。
彼女はなにか自分の個人的事情から姿を隠しているのかもしれない。郡恭平は現在海外旅行中であった。父親の陽平は、森戸に対して特に被害もないのだから、なるべく穏便にすましたいと申し出てきた。
警察では諸般の情況を考慮して、森戸を説諭するだけにとどめて、釈放することにした。彼の撮影したフィルムは没収された。
この事件を扱った麹町署にジョニー・ヘイワード殺害事件の捜査本部が置かれていた。事情聴取のために郡家のお手伝いの谷井新子が署へ何度か呼ばれた。ふつうなら尻《しり》ごみをするはずの警察に彼女は自分から積極的に出向いて来た。どうやら彼女はこの事件をおもしろがっている様子だった。
二度めか三度めに出頭しての帰途、彼女は署の廊下でばったり棟居と鉢《はち》合わせした。
「あら刑事さん」
薄暗い廊下でいきなり派手な服装の若い女から声をかけられて、棟居は一瞬、人ちがいかとおもって後ろを振り返った。
「刑事さん、私よ、いやあねえ、もう忘れちゃったの」
彼女はたしかに棟居の面に目を向けて笑いかけていた。
「ああ、きみか」
棟居は彼女が八尾《やつお》の駅前旅館の若いお手伝いだったのをようやくおもいだした。
「すっかり様子がちがっていたので見ちがえちゃったよ」
棟居は改めて相手を見つめなおした。濃い化粧と、八尾にいたときは自然のままに下げていた長い髪をソフトアイスクリームのように高くまとめあげた奇抜なヘアスタイルが、まったく別人のように見せている。ルバシカ風のブラウスに地面を引きずりそうなロングスカートを穿《は》いている。どう見ても旅館のお手伝いではなく、その他大勢のタレントといったおもむきである。
「そんなにじろじろ見ないでよ。恥ずかしいわあ」
彼女は練習したようなしぐさで身をくねらせた。言葉も東京風になっていた。
「きみはたしかおしんちゃんといったな」
「新子よ、谷井新子が私の名前です」
「いったいいつこっちへ出て来たんだ?」
「刑事さんがいらしてからすぐよ。遠縁を頼って飛び出して来ちゃったんです」
「そのきみがどうしてこんな所に……まさか」
「いやよ、変な疑いをかけちゃあ、これでも警察に協力するために来てるのよ。でも刑事さんの会社≠ェこちらだとは知らなかったわ」
「いやべつに疑ったわけじゃないが、当てもなく飛び出して来て保護されたんじゃないだろうね」
「とんでもない。私、代議士の郡陽平先生の家にいるのよ。八杉恭子先生の家といったほうが通りがいいかしら。とにかくこの二人が私の身許《みもと》引受人なのよ」
「えっ、きみは八杉恭子の家にいるのか」
「先生といって。天下の八杉恭子先生なのよ。それに私の遠い親戚《しんせき》なんだから」
「きみが八杉恭子……先生と親戚だって!?」
「母に聞いてわかったのよ。八尾から出た遠い縁つづきなの。だから私、半ば押しかけるようにして来ちゃったの」
「すると、郡陽平氏の家に不法侵入があったと聞いたが、きみの所だったのか」
棟居は担当ではなかったが、同じ署内なので、話は聞いていた。
「そうよ、私が捕まえたのよ」
新子は心もち胸を張るようにした。
「それはお手柄だったね。それにしてもここできみに会おうとはね、奇遇だな」
「いっしょに来られた、お猿さんのような顔をした刑事さんもここにいるの?」
「こらこら横渡さんが聞いたら怒るぞ」
棟居は新子のあけすけなものいいに苦笑した。わずかな会話だが土地の訛《なま》りを見事に消していた。
「今度は隣組になったわけね。たまには寄ってくださいな。コーヒーぐらいご馳走《ちそう》するわよ」
新子は言うだけ言うと、スキップするような足取りで出口の方へ去って行った。その後ろ姿を見送ってから、本部室へ入りかけた棟居は、なにかの発作が起きたかのように、その場に硬直した。
――八杉恭子が、谷井新子の遠縁!――
たしかに新子は「八尾から出た遠い縁つづき」と言ったのだ。八杉恭子は八尾出身者だったのである。一方、中山種は二十四年七月霧積で八尾出身のXに会った。この両者を結びつけるのは、あまりにも短絡すぎる。
八尾出身者は多いし、Xが霧積を訪れたのは昭和二十四年である。だが棟居の思考は、しきりに恭子とXを結びつけようとしている。ジョニー・ヘイワードが日本へ到着したその足で東京ビジネスマンホテルへ行った。そしてそこに八杉恭子がいた。正確には彼女の夫の郡陽平の後援会本部があった。
これを単なる偶然と考えてよいのか? ジョニーは、もしかすると、八杉恭子に会いに行ったのではあるまいか。だが恭子には、ジョニーに来られては都合の悪い事情があった。その事情を中山種が知っていたとしたら……。
棟居の思考は、めまぐるしく回転した。
「棟居君、そんな所に突っ立って、何を考えているんだ」
いきなり背後から声をかけられた。外から帰って来た様子の那須警部がそこに立っていた。
棟居は咄嗟《とつさ》の判断でまだ那須に話す段階ではないと考えた。その前に横渡の意見を聞かなければならない。
横渡は、谷井新子が八杉恭子の許に寄宿していることを聞くと、案の定、びっくりした。
「それで、どうでしょう、ジョニーが東京ビジネスマンホテルへ行ったのは、単なる偶然と考えていいのでしょうか?」
「うむ」横渡は一声、うなったまましばらく黙考していたが、
「どうだろう、おもいきって八杉恭子に直接、当たってみては」
示唆した。
「直接、八杉に?」
「そうだ。霧積へ行ったことがあるかどうか本人に聞いてみるんだ」
「しかし、霧積へ行ったことがあったとしても、べつにおかしくはありませんよ」
「もし後ろ暗いところがあれば、霧積という地名になんらかの反応をしめさないかな」
「さあ、それはどうですかね、恭子が犯人なら、当然その程度の備えは立てているとおもいますよ」
「恭子を犯人と考えるのはいまの段階では早すぎるが、犯人に仮定した場合、中山種を殺したのは、霧積を恭子が訪れたことを知っているのは、唯一の人物だからじゃないだろうか。もしそうなら、霧積を知らないと答えるはずだ」
「行ったことがあるのに、全然行ったことがないととぼけるかもしれないというわけですか?」
「霧積を訪れた八尾出身者となると、かなり数は絞られるはずだ。もし八杉がなんらかの形で、婆さん殺しにからんでいれば、霧積と自分を極力切り放したがるのが、当然の心理だとおもうがな」
「八杉は、なぜ谷井新子を自分の家に呼んだりしたんでしょうね?」
「というと?」
「八杉が犯人だとすれば、動機として八尾出身という身許を伏せたい意味もあったんでしょう。それなのに、八尾出身者を寄留させるのは矛盾していませんか?」
「新子は八杉に呼ばれたのではなくて、自分から遠い縁つづきを頼って押しかけたと言っていたそうじゃないか。中山種は、ジョニー殺しとのつながりにおいて殺された疑いが強いんだ。婆さんは、ジョニー殺しの犯人についてなにかを知っていたらしい。その口を封じるのが主たる動機で、八尾出身の身許を隠すことは、犯行の結果がそのように見えただけかもしれない。それに、おたね婆さんとのつながりさえわからなければ、犯人にとって、八尾出身という身許がわかっても少しもさしつかえないのかもしれない。もちろん、これはジョニー殺しの犯人あるいは関係者イコールおたね婆さんが霧積で会ったX、イコール八杉恭子という仮定に基づいての推測だがね」
「なるほど、そう言われてみれば家出同然にして押しかけて来た遠縁の娘を、八杉がむげに追い返せなかった事情もわかりますね」
「まあいまのところ、これだけのデータでは八杉をどうすることもできないな。もう少し未知数を埋めないことには」
「ともかく八杉に直接当たって反応を見てみましょうか」
棟居も横渡の提案に傾いてきた。
「そうだな。そんな古い宿帳は残っていないとおもうが、昭和二十四年七月、Xが泊まった当時の宿帳があるかどうか、霧積にももう一度当たってみよう」
「八杉というのはペンネームでしょうか、それとも結婚前の旧姓でしょうか?」
「雑誌の随筆かなにかで読んだようにおもうんだが、たしか旧姓の本名をそのままペンネームに使っていると言ってたようだな」
「これも確かめる必要がありますね」
「少し見込み捜査がかるがね」
と横渡が言ったのも、八杉恭子にきな臭いにおいを感じているからであろう。客観的資料のみに基づかないで経験ある刑事のカンに頼る捜査が、犯人の逃跡《トレール》を猟犬のように正確に嗅《か》ぎ分ける場合が多い。これは臨床経験豊かな医師が、現代医療機器による精密検査のデータに頼る前に、患者の顔色や体臭、触診などによって病状を正確に見分けるのに似ている。
「森戸とかいう住居侵入のセールスマンにもちょっと引っかかることがあります」
「郡の息子が轢《ひ》き逃げしたと主張しているそうだな」
「森戸の供述はまんざらでたらめでもなく、K署もいちおう現場を検索し、撮影された車にもなにかにぶつかった痕《あと》のような変形が見られるそうです」
「これがジョニー殺しに関わりがあるとはおもえないが、八杉の攻め口にはなるかもしれない、もし事実、息子が轢き逃げをしていればね」
ともかく二人は、糸の切れた後に、はなはだ曖昧模糊《あいまいもこ》とはしているが、一つの的を得たのであった。
八杉恭子は、本当に怒っていた。そして、谷井新子を家に置いたことを心から後悔していた。そんな親戚《しんせき》がいたことすら忘れていた縁つづきとは言えないような遠い縁を頼って彼女が押しかけて来たときは、よほど門前ばらいを食わせようかとおもった。
だが、たまたまいままでいたお手伝いの老女が暇を取ったばかりだったのと、新子がいかにも機転のききそうな働き者に見えたので、お手伝い代わりに置いてやったのが、とんでもない結果を生んでしまった。
「なにもそんなことをわざわざ警察へもっていくことはないじゃないの」
恭子は、新子を呼びつけて、頭ごなしに叱《しか》りつけた。相手が手柄顔しているのが、よけい彼女の怒りを煽《あお》る。
「でも奥様、警察を呼んだのは、陽子さんです」
新子は、頬を脹《ふく》らませて抗議した。泥棒≠つかまえたのに、どうして悪いことでもしたかのように自分が叱られなければならないのか、彼女は大いに不服だった。
「警察へ引き渡すだけで十分です。なにもわざわざこちらから出かけて行く必要なんかありません」
「でも、事情を調べるためには……」
「事情なんか引き渡したときにわかっているはずよ。あなたが忍び込みを見つけて捕らえただけでしょう。私の仕事にとって、たとえどんなことであれ、警察|沙汰《ざた》は迷惑なのよ」
「まあ、そんなに怒らなくともいいじゃないか」
あまりの妻の激昂《げつこう》ぶりに、郡陽平が間に入った。警察を呼んだことについては、彼にも責任がある。
「あなたもその場にいらっしゃったのにどうしてとめてくださらなかったのですか。なにもとられたわけでもなし、いくらでも内々にすませられたでしょうに」
鉾先《ほこさき》が陽平の方を向いた。
「しかしそのときはいったい何の目的で侵《はい》って来たのかわからなかったんだから、いちおう警察にまかせるのが当たりまえだろう」
「犯人をこちらで調べてからでも遅くはありません。犯人は、恭平が轢き逃げしたなどととんでもないことを警察に申し立てているそうじゃありませんか。たとえデマでもそんな噂が世間に流れたら、私はどうなるとおもって? あなただって大いに影響うけるわよ」
「だから、おれも気にしてるんだよ。恭平の車はたしかにあの森戸とかいう男の言うとおり、なにかにぶつけた痕がある」
「まああなたったら、あんな男の言うことを信じていらっしゃるの?」
「信じてはいないが、気になるじゃないか。彼は、カメラとフラッシュをもっていたんだぜ。そんな忍び込みがいるかね」
「きっとどこかの新聞社か出版社に頼まれて、私たち夫婦の私生活を盗み撮りに来たんでしょ。車がへこんでいたので咄嗟《とつさ》の言い訳にしたんだわ」
「それにしては、事実が符合しすぎている。おれが聞いたところによると、K署は、小山田文枝という女性が轢き逃げされた疑いがあるという届け出をうけて、一度捜索しているんだ」
「それがどうして恭平に関係あるのよ。小山田なんとかという女は、だれに轢かれたのかもわからないし、車なんてなににぶっつけてもへこむわよ。警察は、犯人を出しさえすればいいのよ。郡陽平と八杉恭子の息子を轢き逃げ犯人に仕立て上げられれば、凄《すご》い大手柄よ。犯人を造り上げるために、私たちが息子を疑うように仕向けているんだわ」
「だがね、森戸の背後にマスコミはいないようだ。彼は単なるセールスマンだよ」
「そんなすぐわかるようなヘマはしないわよ。きっとどこかでマスコミとつながっているんだわ。だいいち、セールスマンがどうして小山田なんとかの轢き逃げについて動きまわっているの?」
「その男は、小山田文枝の亭主の友人で、亭主から頼まれたと言ってるそうだ」
「それがどうして、恭平と結びつけたの?」
「その辺のところは警察もはっきり話してくれないんだ」
「それごらんなさい。なにも根拠なんかないのよ。あなた、もっとご自分の子供を信じてあげてよ。恭平がそんなことをするはずがないじゃないの」
新子を叱責《しつせき》していたのが、とんだ方角にそれてしまった。
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巨大な獄舎
棟居と横渡は、八杉恭子におもいきって直接当たってみることにした。資料のそろわないうちに容疑者に当たるのは拙劣であるとされている。容疑者にこちらの手の中を見すかされて備えを立てられてしまうからである。
だが現時点では、恭子は容疑者の域にも入らない。彼らは模索する方向の一つとして彼女に当たってみるつもりであった。マスコミの寵児《ちようじ》なので、いつ家にいるかわからない。この種の面会は、不意をつくのが効果的である。
彼らは、恭子がある民放テレビのモーニングショーのワンコーナーにレギュラー出演しているのに目を着けて、そこで待ち伏せた。
彼女の出番が終わってスタジオから出て来たところを、棟居がすかさず声をかけた。
「八杉恭子さんですね」
「はい、そうです」
恭子は、マスコミ人種特有の造った笑顔を棟居の方に向けた。だが目の奥から冷たく観察している。
「ちょっとお話したいことがあるのですが、あまりお時間は取りません」
棟居は、うむを言わせぬ口調で押しかぶせた。
「あのう、あなたは……」
愛想笑いが消えて、恭子の面に警戒の色が刷《は》かれた。
「警察の者です」
棟居は警察手帳をチラリと覗《のぞ》かせた。こういうやり方を彼はあまり好まないが、相手が忙しがったり、高圧的な場合には、わりあい効果がある。
「あの、警察の方が私にいったいどんな……」
恭子の表情に不安が揺れた。
「いえ、大したことではありません。ご子息についてちょっとうかがいたいことがありましてね」
森戸の供述がまんざらでたらめでなければ、恭子は棟居の言葉に素通りできないはずである。他に口実がないので、森戸が訴えたことをダシに使ったのだ。恭子の足が停まった。
「恭平は、いま海外へ行っておりますが」
警戒が不審の色に塗りかえられている。それが演技か、自然のものか見分けがつかない。
「いえ、奥さんでけっこうなんです」
「私、あまり時間がないのですけれど、それじゃあ、十分ぐらいなら」
恭子は、棟居の強引さに押し切られたといった形で、局内のレストランの片隅へ誘った。セルフサービス式らしく、このような会談には格好の場所であった。
「それで、どういうことでございましょう?」
恭子は、対《むか》い合うなり腕時計を覗《のぞ》いた。十分以上は割けないというジェスチャーをしめしたつもりであろう。
「それでは早速ですが、奥さんは、霧積という所をご存じですか?」
この一問にすべてをこめるようなつもりで棟居は、相手の表情をうかがった。
「きりずみ」
だが、恭子の面に特に変化は現われない。
「群馬県にある温泉です。そこへ奥さん行かれたことはありませんか?」
「いいえ、いま初めて聞いた地名ですわ。群馬のどの辺にあるのですか?」
恭子の顔には、特に感情を抑えている様子も見えないが、売れっ子の家庭問題評論家として、職業的な表情の作為には馴《な》れているのであろう。
「軽井沢の手前の横川から入ります。長野県との境に近い所にあります」
「全然、知りません。それがどうかしたのですか?」
「そこへ昭和二十四年七月に行かれたことはありませんか?」
「だって名前もいま初めて聞いたような場所へ行くはずがないでしょ」
恭子は蔑《さげす》んだような目をした。
「奥さんはたしか富山県八尾町のご出身でしたね」
棟居は質問の鉾先《ほこさき》を少し変えた。
「よくご存じですわね」
「なにかの随筆に書かれたのを読みましたので。ところで、その霧積に中山種という八尾出身の人がいたのですが、奥さんはその人を知りませんか」
「知るはずがないでしょ! さっきからなんですか。私が行ったことも、聞いたこともないと言っている土地に、どこの出身者がいようと、私には関係ないことですわ」
恭子が少し感情を露にした。しかしそれもそのように見せかけたほうが自然だと計算したうえでのことかもしれない。
「私、次の約束がありますので失礼します」
こんな馬鹿馬鹿しい話相手はしていられないという態度を露骨に見せて、恭子は席を立ち上がりかけた。棟居はそれを引き止めるべき咄嗟《とつさ》の口実におもい当たらなかった。
「奥さん」
いままで黙っていた横渡が突然、口を開いた。
「麦わら帽子の詩を知っていますか?」
「麦わら帽子?」
恭子が横渡の方へ不審の目を向けた。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、谿谷《けいこく》へ落としたあの麦稈《むぎわら》帽子ですよ」
横渡は西条八十の例の詩を口ずさみはじめた。恭子の表情に変化が起きた。立ち上がりかけたままの中腰で硬直し、なにか信じがたいものを見つめたようにみひらいた目を横渡の面に据えた。
だが、それも束の間で、すぐ訓練された職業的なマスクに戻って、
「存じませんわ、そんな詩」と言い捨てると、「失礼します」と一礼して、そのまま立ち去って行った。恭子が去った後も、二人はしばらくその場に茫然《ぼうぜん》として、彼女の去った方角に焦点のない視線を泳がせていた。ややあって二人は同時に我に返った。
「棟居君、見たか」
「見ましたよ」
彼らは顔を見合わせてうなずき合った。
「八杉恭子は、詩にたしかに反応したな」
「十分すぎる反応ですね。八杉はたしかに麦わら帽子の詩を知っている」
「知っていながら、知らないと言ったんだ」
「詩の中には霧積の地名も出てきます。彼女は霧積も知っていたのです」
「なぜそれを隠したのか?」
「くさいですね」
「くさいのはそれだけじゃない。最初きみが息子のことで聞きたいことがあると言ったのに、彼女は全然それについて質《たず》ね返さなかった。忘れたというのではなく、霧積をめぐる本命の質問に注意が集中して、そちらに考えをめぐらす余裕がなかったんだ。ふつうの母親なら、警察が自分の息子のことで来たというだけで、それに頭が集中してしまうはずだよ」
「そう言われてみると、八杉が席を立ち上がりかけたのは、横さんが詩を口ずさむ前でしたね」
「息子のことで来たと言う刑事に、母親がなにも質ね返さずに立ち去ろうとした。これは不自然だよ」
「我々から逃げようとしたととれます」
「まさに逃げ出そうとしたんだ。いや逃げたんだ」
彼らは、きれぎれの糸をたぐった末に、ようやくしっかりした的を引き寄せたような気がしていた。
だが、その的を射るための矢はまだつかんでいない。
横渡と棟居は、八杉恭子をマークすべき人物として捜査会議に出した。
「すると、きみらの意見では、八杉恭子がジョニーと婆さん殺しにからんでいるというのだな」
那須が目を半眼にして言った。
「疑いは強いとおもっています」
「かりに、八杉恭子を犯人とした場合、動機は何だ?」
これは当然予想していた質問である。
「中山種を殺害したのは、婆さんがジョニー殺しについてなにかを知っていたからだとおもいます」
「その口を封じるためだな。しかしジョニーはなぜ殺したんだ? ジョニーと八杉の間にはなんのつながりもなさそうだが……」
「それはこれからよく探ってみないとわかりません。なにか隠れた関係があるのかもしれません。ただ……」
棟居がふと言葉を切った。
「ただ、何だな?」
「中山種が大室よしのに宛《あ》てた葉書によると、種は昭和二十四年七月に霧積で八尾出身の人物Xに会っています」
「そのXが八杉恭子だというのか?」
「断定できません。ただ霧積のようなあまり知られていない山奥の温泉を訪れた八尾出身者というと、数はかなり絞ってよいと考えられます」
「それで?」
「かりに、Xを八杉とすれば、理由はそのとき霧積へ行ったことを伏せたかったからだとおもいます」
「なぜ伏せたがるんだね?」
「中山種の葉書の文面から察するに、Xには同行者のいた気配がうかがわれます。その同行者を隠したかったのではないでしょうか?」
「その同行者は、郡陽平ではなかった。Xが八杉恭子であれば、それを旦那《だんな》の郡に知られたくないというわけだな」
「そういうことです」
「しかし、そんな古い過去のために、婆さんを殺すことはあるまい」
「中山種は、その同行者について、――まだ同行者と確定したわけではありませんが――非常に珍しい人間と書いています。つまり外国人だったのではないかとおもいます」
「外国人だと? しかし、それがジョニー・ヘイワードとどんなつながりがあるのだ。ジョニーは、昭和二十四年には生まれていなかったはずだぞ」
「その秘密を解く鍵《かぎ》が、西条八十のこの詩にあります」
棟居は、おもむろに「麦わら帽子の詩」のコピーを取り出した。全員の目が棟居に集中した。
森戸は、釈放されると、依頼人の新見に報告に行った。
「えらい目にあったらしいな」
新見は言った。
「すっかりヘマをしてしまいました」
森戸は頭をかいて、
「警察でだれに頼まれて、こんな泥棒みたいな真似をしたか、しつこく追及されましたが、部長の名前は隠し通しましたよ」
と言った。
「まあ、おれの名が出ても、どうということはないがね。警察から小山田さんの方に問い合わせがいって、うまく口裏を合わせてくれたそうだ」
「つい写真を撮るのに夢中になってとっつかまってしまいました。しかし、証拠はつかみましたよ。その車には、たしかになにかにぶつけた痕《あと》がありました」
「しかし、その写真を取り上げられちゃったんだろう」
「つかまる前に、これはフィルムを取り上げられるなとおもったので、最初に撮った一本を体の中に隠しておいたんですよ」
「なに、フィルムをもってきたのか」
「これが怪我の功名というんですかね。最初に詰めていたフィルムがコマ数の残り少ないやつで、すぐになくなってしまったのです。そいつを隠しもってきたんですよ。警察も、まさか二本撮ったとはおもわなかったらしく、カメラに詰めてあったやつを引き抜いただけでした」
「それを見せてくれ」
「ここに現像焼き付けしてもってきています」
森戸は、手柄顔で数コマのフィルムとキャビネ判程度に引き伸ばした写真を差し出した。
新見は一枚一枚の写真を丹念に見た。
「いかがですか?」
見終わったころを見はからって、森戸がたずねた。
「たしかに車体がへこんでいるな」
「でしょう。轢《ひ》き逃げの有力な証拠ですよ」
「情況証拠にはなるだろう」
「といいますと?」
森戸は、せっかくの大手柄に対して内心期待していた新見の賞讃がないので、不服顔であった。
「この車体のへこみは人間にぶつかってできたとはかぎらない。うむを言わせぬ証拠とはならないな」
「しかし、その写真を撮るだけで精一杯だったんですよ」
「きみは、十分よくやったよ。これ以上のことをきみに求めるつもりはない」
新見は初めてねぎらい顔に言った。いずれ相応の反対給付は必ずすると、その表情が語っていた。森戸は初めて危険を冒しただけはあったとおもった。
新見は、森戸を帰した後、小山田と会った。
「奥さんを轢いたのは、まず郡恭平にまちがいありませんね」
「だったら、すぐに警察へ行きましょう」
小山田は気負い立った。
「それがだめなのですよ」
新見はその理由を説明した。
「熊のシミと、郡恭平の車の損傷を結びつけるものはなにもありません。この写真にしても違法な方法で手に入れたものです。証拠能力を否定されて裁判に持ち出すこともできないでしょう」
「こんなに怪しいデータが揃っているのに、警察はどうして手を出せないのですか? 恭平の車を徹底的に検査して、文枝の髪の毛か血の痕でも発見できれば、動かぬ証拠になるじゃありませんか」
「それがそうは簡単にいかないのです。だいいち轢き逃げが実際にあったかどうかも不明なのですよ。我々が主張しているだけです。確たる容疑もないのに、私人の車を勝手に検査できません。まして恭平の父親は政界の実力者です。警察も慎重になります」
「証拠はあります。熊です」
「あの熊が恭平のものだったとは証明されていないのですよ」
小山田は沈黙した。結局ここまでが私人の捜査の限界なのか。それでもよくやったほうなのである。新見の協力がなかったら、とてもここまで来られなかったであろう。それにしてもここまで迫りながら悔しい。
「新見さん、もう打つ手はないのでしょうか? 私も妻を轢いた犯人は、郡恭平にちがいないとおもいます。ここまで来て引き返すのはなんとしても残念だ」
「残念なのは、私も同じです。しかし、いまの段階では警察を動かすことはできません。秘密兵器の森戸も、これ以上使えませんし」
二人は無念の表情を見合わせた。おもえば彼らの協力は奇妙である。妻を盗まれた被害者と、盗んだ加害者が、共有した女の体を原点にして、共通の敵を追跡している。だがいまの彼らはそれを奇妙ともおもっていない。愛する女を殺し隠した犯人に向ける怒りと憎しみが、連帯するまでの経緯を忘れさせているのであった。
「そうだ。一つだけ、手があることはあります」新見が目を上げた。
「ありますか?」
小山田がすがりつくように新見を見た。
「郡恭平に直接ぶつかってみるんですよ」
「恭平に? しかし彼はいまニューヨークへ行ってるんでしょう」
「ニューヨークなんか一飛びですよ、毎日飛行機の便がある」
「しかし……」
小山田の感覚では、いくら飛行機で一飛びと言っても、相当の距離感があった。
「彼がいま海外へ行っているということは、一つのチャンスかもしれない。日本人のいない所で熊を突きつけて問いつめれば、案外簡単に白状するかもしれませんよ」
「とは言っても、私はとてもアメリカまで追いかけて行けない」
小山田には独りで西も東もわからぬ異国へ犯人を追跡して行く自信もなければ、金もなかった。
「小山田さんが私にまかせてくれれば、私が行きますよ」
「あなたが?」
「アメリカへは何度か行ってます。ニューヨークなら知人もいるし、うちの支社もあります。土日をはさめば一、二日休みを取って行って来られます」
「新見さん、本気ですか?」
「こんなこと冗談で言いませんよ」
「あなたはそれほどまでに家内を」
「責任を感じているのです」
責任だけで動いているのではなかったが、それは夫に言うべきことではなかった。
「いつ帰って来るかわからない恭平を待っているより、こっちから行ったほうがよいとおもいます。行くなら、早いほうがよい。恭平が白状したとき、補強証拠を車から見つけるためにも」
「夫の私には、なにもできませんな」
小山田の口調には自嘲《じちよう》のひびきがあった。それは、夫として実質的に少しも動けない不甲斐《ふがい》なさを嘆いているのでもあった。
「なにを言うんです。たまたま私のほうが土地カンもあり、準備もできているから引き受けただけです。私は数次旅券ももっています。これからあなたが渡航手続きをするとなると、二週間はかかる。そんなことを気にしてはいけませんよ」
新見は、小山田の気分を引き立てるように言った。
ニューヨークへ来ても、彼らはすぐに退屈してしまった。ニューヨークにあるものは、ほとんどすべて東京にあった。東京よりもすべてにおいて、コントラストの強い街であったが、巨大な機械文明の行き着いた極限の姿がそこにあることは同じだった。
機能性、最高と最低の極端な落差、人間不信、車、公害、過密、虚飾、退廃、それらは東京にあったものを、そのまま移したような感じであった。
数々の「世界一」にもすぐに飽きた。摩天楼の高さも馴《な》れてみればどうということはないし、芸術や美術には縁がない。最も気に入ったのは、タイムズスクウェア界隈《かいわい》のポルノショップや、ポルノ劇場だが、これは連れの路子がいやがった。
馴れてみると、盛り場が全都に散っている東京に比べて、マンハッタンに集中しているニューヨークは、狭苦しい。遊ぶ場所が一か所に能率よく集められているようで、場所に変化を得られない。みな同じ様な場所で遊んでいる感じなのだ。
探せば、おもしろい穴場があるのだろうが、不案内な土地なので、うっかり踏み込めない。結局、有名で安全な場所だけで遊んでいることになる。言葉のわからないことが、いっそう彼らの行動を制約した。
「あーあ、ニューヨークがこんな退屈な所だとはおもわなかったな」
郡恭平はホテルのベッドに引っくりかえって大あくびをした。五番街やブロードウェイにも行きあきた。朝起きても、もう行く所がないのである。金だけはまだ十分残っている。ホテルに閉じこもってセックスに耽《ふけ》るにも限度がある。三日もすれば、相手の顔を見るのもいやになってくる。相手がきらいになったというのではなく、同房の囚人のように相手の顔にカビが生えたように見える。なんでもいいから新鮮なものに餓えてきたのだ。鉄とコンクリートの巨大な集積所のようなニューヨークそのものが、彼らを閉じこめた牢獄《ろうごく》のように見えてきた。
ニューヨークはあまりにも幾何学的であった。すべてが直線と鋭角で構成されている。街路は碁盤《ごばん》の目のように整然としていて、南北に通ずるのがアベニュー、東西に横切るのがストリート、道路のほとんどに番号が付いている。
番地も原則として百番ずつ増えていく。同じブロックでは、北側に奇数、南側に偶数がくる。これが恭平にはニューヨークという巨大な牢獄の獄舎番号や囚人番号におもえてならなかった。
世田谷《せたがや》や杉並の迷路のような町や、番地が一番ちがいで途方もなく飛んでしまうブロックが懐かしくなった。吉祥寺《ジヨウジ》や新宿《ジユク》のサテンでたむろしていた仲間たちが恋しい。ニューヨークがつまらないのは、友人のいないせいもあった。
「だから、どこかへ行きましょうって言ってるじゃないの。アメリカは広いんだし、ヨーロッパへ行ったっていいわ。なにもニューヨークだけに閉じこもっていることないじゃないの」
路子もあくびを抑えて言った。これもうんざりした表情である。
「どこへ行ったって退屈だよ。おれはもうバタ臭い顔や食い物に厭《あ》き厭きした。日本へ帰りたいよ」
「まだ出て来たばかりじゃないの。帰ったら、まただれかに追いかけられる夢に魘《うな》されるわよ」
「魘されてもいいから、日本へ帰りたいよ」
恭平は、ほとほとまいったという顔をしていた。ホテルの部屋から一歩外へ出れば、もう言葉に不自由する。学校で習った片言の英語などなんの役にも立たない。もともと語学は得意ではなかった。
言葉がわからないから、言いたいことも言えない。いつもおどおどしている。大都会はいつでも金のある者の味方のはずだったが、ニューヨークへ来て、いささか勝手がちがった。
金さえ出せば、たしかになんでも欲しい物は手に入れられた。だがそれは自動販売機で物を買うように、はなはだ味気ない。東京にいたときのように、「客」として遇されることがない。一流のクラブやレストランや劇場へ入っても、気後れしてしまう。ボーイやウエイトレスまでが「黄色い猿」と見下しているようにおもえる。
事実、有色人種は、白人から差別されている。同じ金を払っていながら、いい席は常に白人が占め、サービスも彼らが優先される。それに対して抗議もできない。東京なら絶対にこんなことはなかった。ちょっとした従業員のミスや不始末でも、支配人を呼びつけてあやまらせる。
だが「天下の郡陽平と八杉恭子」の名前も、ニューヨークではなんの役にも立たなかった。こちらが客でありながら、従業員に遠慮をしている始末である。そういうストレスが内攻して、もはや耐え難いまでになっていた。このストレスは、白人が幅をきかせているテリトリーにいる間は解消しないだろう。
だから日本へ帰らないかぎり、どこへ行こうと退屈なことはわかっている。
少なくとも、ホテルの部屋に閉じこもっているかぎり、セックス以外になにもすることはなくとも、いやなおもいをせずにすむ。言葉も日本語で用が足りる。
恭平には若者特有の旺盛《おうせい》な好奇心もない。なにを見ても同じだし、優れた芸術や美術に接しても感動したためしがない。物質と精神の極端にアンバランスな環境の中で育てられているうちに、感受性がスポイルされてしまったのだ。
その点は連れの朝枝路子も大同小異であった。だが、彼女の場合は、恭平のように「天下の両親」の七光がないから、彼よりも多少耐性があったのである。
「とにかくごろごろしていても、しかたがないから、どこかへ行きましょうよ」
路子は誘った。日の当たらない、窓も開かないホテルの部屋に閉じこもっていると、心の奥のひだにまでカビが生えそうな気がする。
「どこかへ行くって、どこへ行くんだ?」
「そんなこと、出てから決めればいいわ」
「行くとこなんかねえよ」
「でも一日中、こんな所にいられないわ」
「こっちへ来いよ、二人でまた寝ようぜ」
「もう十分、寝たわよ」
「今朝の分は、まだやってないぜ」
「あきれた! 昨日から今朝にかけて私たち……いやだわ」
「何回したっていいだろう」
「私、もうそんな気分にならないのよ」
「それじゃあきみ独りで出かけろよ」
「私がチンピラに横丁に引きずり込まれて、行方不明になっちゃってもいいの?」
「やれやれ」
こんなやりとりがあった後、二人はようやく重い腰を上げて、ニューヨークの街の中へ当てもなく出かけて行くのである。
新見は、直ちに行動を起こした。東京―ニューヨークの間には毎日、飛行機の便がある。新見は、金曜日の午前十時発の日本航空アンカレッジ経由の便に乗った。アンカレッジまで約七時間、ここで一時間半ほど給油と機体整備のためストップし、さらに六時間飛行すると、ニューヨークである。
時差が十四時間あるので、同じ日の午前十一時ごろニューヨークに着くことになる。
郡恭平の足取りは、森戸がつかんできた。恭平の海外旅行を手配した旅行会社に手をまわして、恭平の予約をしたホテルの名前がわかった。早速国際電話で問い合わせてみると、渡航後、二週間以上も経っているのに、まだ同じホテルにいることがわかったのである。
新見が急いだのは、そのためであった。ホテルを出発されると、民間人が足取りを追うのは難しくなる。いまのうちに追いかければ、ニューヨークで捕らえられるかもしれない。こうして取るものも取りあえず、飛行機に乗った。
会社よりも、妻の手前を糊塗《こと》するほうに骨を折った。まさか妻に隠していた恋人の行方を追及するために海外へ行くとは言えない。日ごろ忙しく飛び歩いている身なので、妻は彼の急な海外旅行を疑ってもいなかったが、会社へ問い合わせされると嘘が露《あら》われるおそれがあったので、情報|蒐集《しゆうしゆう》の仕事で社内でもごく一部しか知らない出張だと偽った。
この際、彼の職性が大いに役立ってくれたわけである。
ニューヨークまでの機上で、新見は、この度の異常なまでの執着が自分ながら不思議でならなかった。どんなに愛し合っていたところで、可能性のない恋愛であった。自分は彼女のために、妻子と家庭を犠牲にするつもりはなかったし、相手にも夫を捨てられない事情があった。
当人同士にとっては、生まれて初めての「本当の恋愛」であったが、世間的には人目を忍ぶ不倫の情事以外のなにものでもなかった。
特に新見は、小山田文枝との恋愛において犠牲にしたものはなにもなかった。人の妻を盗み、その熟れた美肉を存分に貪《むさぼ》っただけである。
そのせめてもの罪ほろぼしか。そうだとすれば、新見らしくもない殊勝《しゆしよう》なことであった。これまでのすべて計算ずくの生きざまに徴してまことに矛盾した行動と言わなければならない。
要するに不倫とは言っても、双方、納得ずくの「おとなの恋」である。おたがいに欲しいものを交換し合っただけだ。しかも相手はホステスである。媚《こび》を売ることを商売にしている。夫も妻をその世界へ送り出すとき、その種の危険は覚悟したはずであった。
それが、夫に頼まれたわけでもないのに、アメリカくんだりまで彼女の行方を探しに出かけて来た。この旅行は、新見にとってあらゆる意味で危険である。妻に旅行の目的を知られれば、家庭に波風が立ち、社長の信用も失ってしまう。いいことは一つとしてない。
それにもかかわらず、飛び出して来てしまった。だから、自分でもよく説明をつけられないのである。
だが新見は、いま自分に最も忠実に行動しているような気がした。中流の上の部類に属する家庭に生まれて、エリートコースに乗せられてから、なにか自分というものを見失ってしまったような生き方であった。
彼は常に一家のホープであり、両親から期待されていた。期待通りに一流校―一流企業の路線に乗ると、トップマネージメントのヒキを得て、期待はいちだんと加重された。
考えてみると、新見のこれまでの人生は、常にだれかに期待され、それを裏切らないための闘いであった。そしていままで決して裏切ったことがなかった。おそらくこれからも裏切ることはないだろう。
それは自分のための人生ではなく、他人のためにセットされた人生であった。だれかの期待に常に応《こた》えつつ、エリートの道を上りつめて行った果てに何があるのか?
そんなことは考えてもみなかった。これは自分のための人生だとかたくなに信じ込んでいた。その自信を揺るがしたのが、小山田文枝であった。彼女との恋に殉ずる意志はなかった。もはや恋に殉ずるためには、あまりにも多くの人生の荷物を身にかかえこんでしまった。
だが、文枝とともにあるときの心身の打ち震える喜びと、別れている間の空白感は、四十を過ぎた分別をも狂わせそうであった。
これまで他人のためばかりに生きてきたので、生まれて初めて、自分のために生きているような気がした。打算と、保身の枠《わく》の中での恋愛であったが、それはそれなりに真剣であった。もう二度とこのような恋はしないだろう。そういう恋の甘味だけをすくい取っていれば無難なのだろうが、のめりこまなければ恋の甘さが醸成されないのである。
ともかく、小山田文枝は、新見に恋の甘味と苦味、そして一定の枠の中ではあるが、自分に忠実に生きることの喜びを教えてくれた女であった。
その彼女が突然消息を断った。自分の力の及ぶかぎり、彼女の行方を探したかった。いまや小山田の熱意と執着が、新見に乗り移った感があった。
ニューヨーク上空には午前十時半ごろ着いた。だがケネディ空港が混雑しているらしく、三十分ほど空中待機《ホールデイング》を命じられる。旋回する間、機窓をかすめるスモッグにかすんだ摩天楼の影は、機械文明の毒素に冒された巨大都市の死に瀕《ひん》した骨格のようである。海も黒く汚れている。東京湾と、京浜工業地帯の煤煙《ばいえん》にかすむ俯瞰図《ふかんず》とよく似ていた。
ようやく順番がまわってきたとみえて、機が下降の姿勢を取った。ホールディングは長かったが、降りはじめたら早い。
すでに入国手続きはアンカレッジですましていた。預けた荷物もない。新見は身軽に空港に降りたつと、ターミナルビルの前から市内に向かうべくタクシーに乗った。
まず、郡恭平の泊まっているはずのホテルへ行って、彼らがまだいるかどうか確かめなければならない。その上で今後の作戦を決める。新見の持ち時間は少ない。この一両日の中に恭平の首根を押さえなければならなかった。
市中の雑踏をあてもなく歩きまわって、恭平はホテルへ帰って来た。大して歩いたわけでもないのに、ひどく疲れていた。ホテルへ帰ってもべつにすることはない。
部屋へ帰ると、出たときのまま、まだ掃除もできていない。
「ちくしょう、馬鹿にしてやがる!」
恭平は怒ったが、電話機を取り上げて文句も言えない。怒れば、下手な英語が、ますます出てこなくなるのである。
「あら、なにかメッセージがきているみたいよ」
路子がナイトテーブルの上にある電話機を見て言った。電話のフックの脇に赤い光点が明滅している。メッセージランプで、フロントにメッセージがきていることを告げているのである。
このごろは外出の度にいちいちフロントへキイを預けるのが億劫《おつくう》なので、キイをポケットに入れたままにしている。そのためフロントへ立ち寄る機会がないので、メッセージが置かれたままになっているのであろう。
「変ねえ、ニューヨークに知り合いはいないはずなのに」
路子が首を傾けた。
「おおかた勘定の催促だろうよ」
「ちがうわ、まだデポジット(預けた金)がたくさん残っているはずだわ」
「じゃあ、だれが来たというんだ?」
「私が知るわけないじゃないの。あなたになにか心当たりはないの?」
「ない。それとも東京からだれか仲間が追って来たんだろうか」
「だれかにここにいることを教えてきたの?」
「いいや」
「それじゃあだれも追いかけて来るはずないでしょ」
「きみ、ちょっと行ってきてくれよ」
「私が? いやよ。気味が悪いわ」
「そんなこと言わずに頼むよ。きみのほうがおれより英語うまいし、それに、女にはやつら甘いからな」
「しかたがないわね。まあ、あなたがスポンサーなんだから、行ってやるか」
恭平はアメリカへ来てからすっかり臆病《おくびよう》になってしまった。言葉が通じないので、なるべくしゃべらないようにしている。少しでも複雑な会話を要求されるようなことには近づかない。食事も買い物も、セルフサービスのカフェテリヤかスーパーでする。どうしても話さなければならない場合には、路子にまかせる。
路子にしても、語学の力は、恭平と似たようなものだったが、手真似でなんとか意志を疎通できた。なん日か滞在している間に度胸もついて、大胆になってきた。女の環境順応|力《りよく》のせいであろう。
だがそれに反比例して、恭平は萎縮《いしゆく》していた。このごろはタクシーに乗っても、行き先すら言えないような始末である。
「まるで、私、盲導女≠ンたいね」
と路子は苦笑したが、言い得て妙であった。
恭平ではどうにもならないことがわかっていたので、路子がどんなメッセージがきているか確かめに行くことになった。
――なにかのまちがいか、あるいはホテルの宿泊客に対する通達事項《ノーテイス》だろう――ぐらいに軽く考えて、恭平はその間にシャワーを使うことにした。
ちょうどバスから出ると、路子が帰って来た。顔に血の気がない。
「どうしたんだ? まるで幽霊にでも出会ったような顔をしているじゃないか」
恭平は驚いた。見ると、彼女は小きざみに震えている。
「幽霊よ、幽霊が出たのよ」
「なにを馬鹿なことを言ってるんだ。いったいどうしたっていうんだ。しっかりしろよ」
恭平が声をはげますと、
「これを見て」
路子が手にかかえていたものを目の前に差し出した。それを見るなり、恭平も路子同様の表情になった。
「こ、これは!」
「そうよ、忘れるはずがないでしょ。熊よ、あなたの熊だわ」
それはたしかに、小山田文枝を轢《ひ》いた前後から行方不明になっていた恭平のマスコットの熊であった。子供のころから手許《てもと》において離さなかったから、まちがいようがなかった。
「これがどこに?」
「フロントのメッセージ係の所よ」
「だれがもってきたんだ?」
「わからないわ。一時間ほど前に日本人の男が来て、あなたに渡してくれと言って、置いていったそうよ」
「たしかにおれにと言ったんだな。人ちがいじゃないんだろうな」
「なに言ってんのよ。これはたしかにあなたの熊よ、あなた以外のだれに渡すというの」
「その日本人ってどんな男だったんだ。年齢とか、特徴はわからないのか?」
「係は全然おぼえていないのよ。これだけ大きなホテルですもの、特定の客をおぼえているのは無理よ。そうでなくとも、アメリカ人の目には日本人はみな同じに見えるそうだから」
「だれが何のためにもってきたんだろう?」
「わからないわ」
「路子、どうしたらいい?」
「私に聞いたってわからないわよ」
「路子、おれは恐いんだ。日本からきっとだれかが追いかけて来たのにちがいない」
路子の震えが恭平に完全に伝染して、彼は立っていられないほどであった。
「恭平、しっかりしてよ。熊をだれかが届けたからといって、それでどうこうするってことじゃないでしょ」
「いや、これはなにかの悪意があってしたことにちがいない。きっと事故を目撃しただれかが現場の近くで熊を拾って、おれを恐喝《きようかつ》するためにもってきたんだ」
「恭平、あなた本当におかしくなっちゃったの? ここはニューヨークなのよ。わざわざ太平洋を越えて恐喝に来る者がいるとおもってるの? それにかりにそうだとしても、この熊をあそこに落としたとはかぎらないのよ。事件とまったく関係ない場所に落としたかもしれないじゃないの」
「いや、あそこにちがいない。きっとだれかが見ていたんだ。おれはもうおしまいだ。どうしよう?」
恭平はすでに完全に動転していた。いまにも追跡者が手錠をかまえて部屋に踏み入ってくるような恐怖に震えた。
「とにかくここにはいられない」
「いられないって、どこへ行くの?」
「どこでもいい。ニューヨークから逃げ出すんだ」
「疑心暗鬼よ。届け主を見きわめてからでもいいじゃないの」
「それからでは遅い。きみが行かなければ、おれは一人でも行くぞ」
「一人じゃどこにも行けないくせに」
「お願いだ。いっしょに来てくれ。おれを一人にしないだろうね?」
今度は女にすがりつかんばかりに哀願した。
「もうこうなったら、一蓮托生《いちれんたくしよう》だわ。あなたといっしょにどこへでも行くわよ」
路子はふてくされたように言った。
足許《あしもと》から鳥が立つように、彼らはチェックアウトの支度をした。この期におよんでも恭平は熊を捨てられなかった。残していくのが恐ろしくもあった。
荷物をまとめて、フロントへ行き、出発の意志を告げる。キャッシャーがコンピューターにルームナンバーを打ち込むと、即座に料金が演算される。恭平がデポジットの精算を待っていると、後ろから肩を軽く叩《たた》かれた。
そこに中年の日本人が立っていた。鋭い目つきをした厚味のある男だった。
「急にどちらへお発ちですか?」
日本人はずしりと胸に響く口調で聞いた。目の奥からじっと恭平と路子の様子を観察している。
「き、きみはだれだ!?」
恭平はしどろもどろに聞き返した。
「新見と申します」
「きみなんか知らないぞ」
「私はよく存じ上げていますよ」
「いったい何の用事だ。ぼくは忙しい。これから……」
と言いかけて、恭平はまだ行き先をまったく決めていないことに気がついた。
「これからどちらへ行かれるおつもりで?」
新見が先まわりして聞いた。
「ど、どこへ行こうと大きなおせわだ」
「どうしてそんなにいきり立っているのですか? 私はただお話をしているだけなのに」
「知りもしない人間から話しかけられては迷惑だ」
「私は存じ上げていると申しました。ほんの手土産に先ほど縫いぐるみをお届けいたしましたが、お気に召していただけたでしょうか?」
新見は、彼らの荷物の中に熊が入っているか探る目をした。
「やっぱりきみだったんだな、あれをもってきたのは。いったい何のつもりであんな真似をしたんだ?」
「そのわけはあなたがだれよりもよくご存じのはずですよ」
「きみは、きみは……」
「あの熊はあなたのものですね」
「ちがう!」
「隣の部屋から一部始終を聞いていました。壁がうすいので、手に取るように聞こえましたよ。あなた方の言葉はカセットテープに録《と》りました。アメリカのホテルは便利でね、チップをはずめば、望みの部屋へ入れてくれる。あなたの隣の部屋が空いていたのは、運が悪かったですね」
「ちくしょう……」
「郡恭平! 悪あがきはやめるんだ。ネタはみんなあがっている」
穏やかだった新見の口調が急に凄《すご》みを帯びた。
[#改ページ]
救われざる動機
ジョニーの父親は日本へ兵役で行ったことがある。日本で日本人女性と愛し合い、子供ができたとしても、不思議はない。たいていのアメリカ兵は日本人女性を捨てて、帰国して来た。子供が生まれていれば、子供もろともに捨てた。その母親はほとんどが娼婦《しようふ》である。父や母に捨てられた哀れな混血児は、米軍の去った後、日本の社会問題となったほどである。
父親とともに、その本国へ来た子供は、幸運な少数であった。ジョニーも、その少数の一人であったのか。なにかの事情で母親を伴って帰れなかった。母だけが日本へ残り、一家≠ヘアメリカと日本に離散したのである。
帰国後ジョニーの父は、しばらく、ジョニーの出生を届け出ずに放置していたが、テレサ・ノーウッドとの結婚後、夫婦の間に生まれた子として、出生月日を偽って届け出たのではあるまいか。
その後、テレサは死亡した。ウイルシャー・ヘイワードも酒毒に冒され、自分の寿命の長くないことを知る。ここにジョニーを(彼は以前より自分の実母が日本にいることを知っていたのかもしれない)自分の生きている間に日本へ行かせて、実母に会わせてやりたいと願うようになる。
そして、ウイルシャーは、自分の身体を、金持の車に当てて補償金を取り、ジョニーを日本へやった。ところがこの親心があだとなって、ジョニーは日本で殺されてしまったのだ。いったいだれに? 何の理由から?
ここでケン・シュフタンは、さらに恐ろしい想像に突き当たったのである。
ジョニー・ヘイワードに突然訪ねて来られた「日本の母親」は喜んだであろうか? ふつうの親子の情から推測すれば、喜ぶのが当然である。まして幼いころ、アメリカへ父親に伴われたまま消息不明だったわが子が、立派に成人して母の許へ帰って来た。これが嬉《うれ》しくない母があろうか。幼いころ、海を隔てて別れてしまったわが子のおもかげがいつも母の瞼《まぶた》に揺れ、その心に引っかかっていたはずである。よくぞ帰って来てくれたと抱きしめたまま、しばらく言葉も出なかったのではあるまいか。
しかし、もし母親が、すでにべつの男と結婚して家庭を構えていたとしたらどうだろう? 日本人の夫との間には当然子供も何人か生まれている。夫は妻に、そのような過去≠ェあったことをまったく知らない。夫は妻を愛し、子供たちも母親を敬愛している。生活も安定している。日本の中流の平和な家庭である。
そこへ突然、「黒い息子」が訪ねて来た。たしかに彼女が腹を痛めた実の子にはちがいないが、二十数年前、父親に伴われて本国へ帰り消息が絶えたまま、忘れるともなく忘れていた。
もしこんな息子のいることを夫に知られたら一大事である。「日本の子供たち」にあたえるショックも大きいだろう。平和な家庭に、おもわぬ爆弾が投げ込まれた。母親のそのときの動転ぶりが目に浮かぶようである。おもいあまった彼女が、わが子を……
「しかし、いかに保身のためとは言え、母がわが子を手にかけるものだろうか?」
その疑問が、ケンの推測に最後の歯止めをかけていた。
捜査会議の雰囲気は緊張していた。棟居が提出した八杉恭子という新しい容疑者をめぐって網が絞られているのがわかる。
「この西条八十の詩には、母を想う情があふれるばかりにこめられています。幼いころ母に連れられて旅をした渓谷の想い出に託して、母を慕っている。母子の間の情感がしみじみと胸に迫ります。この母子を、八杉恭子とジョニー・ヘイワードに置き換えられないでしょうか」
「なんだって?」
棟居の途方もない意見に一同は、愕然《がくぜん》とした。
「つまり、ジョニーが八杉恭子の隠し子だったとしたら」
「しかし、ジョニーはその当時生まれていなかったんだろう」
那須が一同の疑問を代弁した。
「ジョニーの年齢はパスポート上に記載されていただけです。ジョニーの父親が出生月日を偽って届け出たか、あるいは届け出が遅れたのかもしれません」
「すると、四十歳の八杉恭子は、十六歳よりも以前にジョニーを生んだことになるが……」
「八杉の公称年齢は、かなりサバをよんでいると思います」
「それでは、八杉に同行していたと推測される外国人は……?」
「ジョニーの父親であり、八杉の当時の夫だったとおもいます」
「なにかの事情で、ジョニーだけが父親に連れられてアメリカへ帰った」
「そうです。そして二十数年経ってから母を訪ねて、日本へやって来たのです」
「そのときの八杉恭子の驚きは大変なものだったろうな」
「大変などというものではなかったでしょう。郡陽平は、むろん妻にそんな過去があることは知らないとおもいます。夫に知られたら、まず許してもらえないでしょう。天下の郡陽平夫人が、若いころ黒人と交わり、子供を産んでいた。その黒人と正式の婚姻関係を結んでいなかったことは、戸籍を見れば明らかです。となると、彼女の当時の暮らしぶりもおおかた想像がつくというものです。夫の怒りをかう前に、いまを時めく女流評論家の八杉恭子に黒い隠し子がいたというだけで致命的です。マスコミの寵児《ちようじ》が、これまで味方だったマスコミから袋叩きにされるでしょう」
「八杉恭子がジョニーを殺したというのかね?」那須の眼光が鋭くなった。
「その疑いは濃厚だとおもいます」
「しかし、もしきみの推測のとおりなら、母親がわが子を殺したことになるぞ」
「わが子といっても、幼いころ別れたままで、しかも黒人の血がまじっているジョニーに、果たして親子の情が湧《わ》いたでしょうか? いきなり子供だと名乗られても、八杉としては実感がなかったのではないでしょうか。むしろ自分の家庭や社会的地位を根本から破壊する呪《のろ》わしい出現物≠ニして憎しみを向けたかもしれません」
「西条八十の詩と、八杉母子≠フ間には、どんな関係があるんだ?」
「麦わら帽子の詩は、霧積温泉が弁当の包み紙やパンフレットに戦前から刷り込んでいたそうです。親子三人で霧積へ旅行したとき、この詩が、八杉の目に触れたのだとおもいます。彼女はその詩が気に入り、夫や息子に、意味を訳して教えた。これがウイルシャーの心に残り、ジョニーが成長した後、家族三人≠ナ行った想い出の土地の詩として、改めて、ジョニーに教えたのでしょう。ジョニーにも、幼い日のおぼろげな記憶として、母のおもかげといっしょに霧積が残っている。改めて父から教えられた麦わら帽子の詩を母親の形見のように抱きしめて、日本へやって来たのではないでしょうか」
「詩集は、どういうことになるのかな? ジョニーがタクシーの中に西条八十の詩集を置き忘れたとおもわれるが」
「八杉恭子が霧積から帰って、買いあたえたものかもしれません。そうだとすれば、この詩は、言葉どおり母の形見です」
「瞼《まぶた》の母を訪ねて、アメリカから日本へ来たとは泣かせる話だが、その母親に殺されたとは、これまた残酷なことだな」
「八杉には、二人の日本の子供もいます。彼らも、尊敬している母親の忌《い》まわしい過去と、隠し子があることを知ったら、大きなショックを受けるでしょう。いまの地位と家庭を守るために、一人のアメリカの混血の子を殺した」
一同は棟居が展開した意外な推理に暗然として言葉を失った。これはいかにも救いのない犯罪であり、その動機であった。
「たしかに八杉恭子の情況はかなり怪しい。しかし、決め手がないな」
那須がため息とともに言った。霧積を訪れた「親子三人連れ」も、単なる臆測《おくそく》にすぎない。ましてやその中に八杉恭子がいたという証拠はなに一つない。
西条八十の「麦わら帽子」の詩に反応をしめしながら、霧積を知らないと言い張ったのが最大の怪しい情況であるが、たとえその詩の中に霧積の地名が出てきていても、詩というものは、全部まる暗記しているとはかぎらない。たまたまその中の一節か一句しかおぼえていない場合もあるのである。
中山種が大室よしのに宛てた葉書の中の「同郷の人間」が、八杉恭子である根拠はなにもない。棟居の推理はこの人物Xを八杉とするところから発している。たまたまその上に組み立てた推理が、散在していたいくつかのデータにうまく当てはまるところから、八杉の疑惑が濃厚になった感があるが、まさにこれは捜査本部の主観にすぎなかった。
「八杉のアリバイと、過去を洗ってみましょうか?」
山路が那須の顔をうかがい見た。
「そうだな」
那須はなんとなく煮えきらない。
「しかしいまの段階では、八杉にアリバイがなくても、どうすることもできませんね」
河西が口をはさんだ。アリバイが問題にされるのは、もっと容疑が濃縮されてからである。事件に関係ない人間のアリバイがなくともいっこうにさしつかえない。容疑者が罪を犯したと疑うに足りる資料を警察側が集めた後で初めて、容疑者側にその容疑を晴らすための挙証責任が生ずる。証拠も集めないうちに相手をクロと見なして(警察の主観から)いきなりアリバイをたずねるわけにはいかない。それを調べるにしても、側面からいかなければならなかった。だがここに意外な方面から新たな事実が浮かび上がった。
棟居が捜査本部に出勤すると、署の受付が、彼に面会人があることを告げた。警察官への面会人は、ほとんど事件関係者である。特になにかの捜査に係っているときは、その種の面会人が多い。しかしこんな早い時間というのは珍しい。まだ本部にはだれも来ていないだろう。
「若い女の人だよ、棟居さんもなかなか隅におけないね」
署の受付にひやかされても、棟居には心当たりがなかった。面会室へおもむき、立ち上がった人物を見て、棟居はおもわず、
「ああ、きみは……」と声を上げた。
八尾《やつお》の谷井新子がぴょこんと頭を下げて、舌をちろりと覗《のぞ》かせたのである。
「こんな時間に、いったいどうしたんだい? まだあの事件に引っかかっているのか」
棟居はたずねた。
「ごめんなさいね、突然おじゃまして。私、お払い箱になっちゃったの」
「お払い箱?」
「八杉先生のとこ首になっちゃったのよ」
「首にされたって? またどうして?」
「それがよくわからないの。でもどうやら、この間のことが先生の気にいらなかったらしいのよ」
「この間のことって、べつにきみが悪いことをしたわけじゃないだろう。むしろ警察に協力して、住居侵入犯をつかまえたんだ」
「それがいけないらしいのよ。安易に警察|沙汰《ざた》にしたのが、先生の逆鱗《げきりん》に触れたのよ。八杉先生と警察のイメージが結びつかないんですって」
「しかしあのときは旦那《だんな》もいたんだろう」
「なにもこちらから出頭してべらべらしゃべることはないんですって」
「それでクビになったってわけか」
「そうなの、もっとも、初めから正式に採用されていたわけじゃなかったの。こっちが勝手に押しかけてずるずる居坐《いすわ》っていたので、いつ追い出されても、文句を言えないのよ」
「しかし、急に追い出されたら困るだろ。どこか行く当てはあるのかい?」
棟居は改めて、新子を見た。先日会ったときと同じルバシカ風のブラウスとロングスカートを着けている。ちがうのは手にスーツケースを二個提げていることである。先日は、わずかな間に都会の水に磨かれたと驚いたものだが、今日は勤め先をしくじったという先入観があるせいか、みすぼらしく見えた。
こんな娘を、行く当てもないまま東京の喧噪《けんそう》の中へ送り出すのは、裸の羊を狼の群れの中へ追い込むようなものだろう。
「ええ、郡先生が気の毒におもってくれたらしく、その後援会本部で働くことになったのよ」
「郡陽平の後援会というと、新宿のホテルの中にある……」
「ええ、そうよ。お部屋もそのホテルの中に取ってもらったの。私もその方が気楽でいいわ。それで、今日はお別れを言いに来たのよ。新宿へ行ってしまうと、わざわざこちらへは来られなくなるでしょ」
「そうか、それはわざわざご丁寧に。すぐに行く所があってよかったね」
「ほんとよ。私、奥さんから出て行けと言われたとき、どうしようかとおもったわ。いまさら八尾へ帰るわけにいかないし、私、学ならずんば死んで帰るの意気で出て来たのよ」
棟居はあえて訂正せずに、
「その意気は大いにけっこうだが、いったい何を勉強するつもりなんだ?」
と聞いた。
「いろいろあるわよ、まず広い社会を見て、見聞を広めるの。私、若いんだもの、これからたくさんのことをやってみるつもりよ」
「若いうちにできるだけたくさん学ぶのは、いいことだが、自分を大切にすることを忘れてはいけないよ。若いころって二度とないんだからな」
棟居は言いながらも、自分の言葉がつい説教じみたのを悟って、くすぐったくなった。言葉の裏で、この女、まだ処女だろうかと、ふとおもった。
「わかってるわよ、そんなこと。私だって、一度しかないものは大切にするわ」
谷井新子は、棟居の心の内を見透かしたような口調で答えた。
棟居は、新子との会話の中にまぎらされていた一つの疑惑に突き当たった。八杉恭子が新子を追いはらったのは、麹町署に置かれたジョニー殺しの捜査本部から遠ざけるためではなかろうか?
新子の口から八杉は、本部の刑事二人が八尾に来て顔見知りになったと聞かされたのであろう。口軽の新子に、これ以上よけいなことをしゃべられてはたまらない。そこでその口を封じるために夫の新宿の事務所へ追いはらった。
できることなら、八尾へ追い返したいところだが、それをすると、本部の注意を惹《ひ》くかもしれない。それに警察沙汰にしたのは、新子ではないので、そこまでするのは酷だ。
――八杉恭子は谷井新子が捜査本部と接触するのを喜んでいない。ということは、八杉に、ジョニー殺しに関してなにか後ろ暗い所がある証拠だ――
「刑事さん、どうしたのよ、急に恐い顔をしちゃって」
新子に声をかけられて、棟居は我に返った。
「おしんちゃん、頼みがあるんだ」
「頼み、なあに?」
新子は、無邪気に首を傾けた。
「八杉先生のことでちょっと調べてもらいたいことがあるんだよ」
「あら、八杉先生がなにか悪いことなさったの?」
新子の目が好奇の光を浮かべた。
「ちがうちがう、早合点しないでくれよ」
「なあんだ、悪いことじゃないのか、つまんない」
「きみは悪いことのほうがいいのか?」
「八杉先生って、内面《うちづら》と外面《そとづら》がものすごくちがう人なの。テレビや雑誌では、美しくて頭がよくて、良い奥さん、賢い母親の見本のように振る舞っているけれど、あれくらい手前勝手でわがままな人はいないわ。旦那様とお子さんはお手伝いまかせ、子供もきっと産みっぱなしだったにちがいないわ。家じゃあ、御飯一つ炊かず、下着一枚洗濯しないのよ。それで全国良妻賢母教の教祖みたいな顔をしてるんだから、チャンチャラおかしいわよ」
「ずいぶん手きびしいんだな」
新子は追い出されたことを根にもっているのではなく、初めからある種の反感を八杉恭子に抱いていた様子である。それならなおさら、頼みやすい。
「それで、私に頼みたいことって何なの?」
新子は棟居の顔をうかがった。
「九月十七日と十月二十二日に、八杉恭子……さんがどこにいたか調べて欲しいんだよ」
「九月十七日と十月二十二日、それがどうかしたの?」
「うん、ある事件に引っかかりがあってね。正確には九月十七日午後八時から九時ごろにかけてと十月二十二日午前六時前後だ」
「その事件って、刑事さんが八尾に調べに来たことなのね」
「うん、まあそんなものだ」
棟居は、しかたなくうなずいた。
「それ、アリバイ調べってやつでしょ?」
新子の目がまた好奇心に輝いている。棟居が返事に詰まると、
「いいわ、私の力で調べられるだけ調べてみるわ。八杉恭子の化けの皮を引っ剥《ぱ》がしてやるわよ」
「おいおい、勘ちがいしちゃいけないよ、八杉さんはなにも……」
「いいのよ、私にはわかっているの。九月十七日と、十月二十二日になにがあったか、図書館へ行って新聞の綴《と》じ込みを調べれば、すぐにわかるわ。そんなことをするまでもなく、刑事さんが何の捜査をしているか、そこの看板を見ればわかるわよ」
新子は、面会室の奥にある捜査本部室の方を顎《あご》でしゃくった。この娘は見かけの軽さに似ず、芯《しん》にしっかりした切れ味をひそめているようであった。
「これは言うまでもないことだけど、ぼくがきみにこんな依頼をしたことは、絶対に伏せておいてくれよ」
「大丈夫よ、まかせといて。私ももしかすると御主人を裏切ることになるかもしれないんですもの、だれに言うもんですか」
「それだけ承知していてくれれば言うことはない。それじゃあ八杉……先生に悟られないように探ってくれ」
棟居は一縷《いちる》の望みを託して、新子に頼んだ。新子からの返事は、二日後にきた。
「わかったわよ」
彼女は、電話口で息せききって言った。
「えっ、もうわかったのか?」
棟居もまさかこんなに早く返事がくるとはおもっていなかった。
「九月十七日は自宅にいたらしいんだけど、はっきりした証拠がないのよ」
「自宅にいたのか」
「なんにも記録がないんだもの」
「そんな記録がとってあるのかい?」
「外へ出たときの記録はちゃんととってあるので、記録のないときが、自宅にいたことになるの」
「それで十月二十二日のほうはどうだった?」
「こちらのほうは記録があったわ」
「えっ、あったか、それでどこへ行ってたんだ?」
「その日の前日の二十一日にちょうどご主人の郡先生の講演会が高崎市で開かれて、奥さんもいっしょに従《つ》いて行ってるわ」
「なに! 高崎だって!?」
棟居はおもわず高い声を出した。
「びっくりするじゃない。いきなり大きな声を出して」
「いやあ、ごめん。ところでそれは群馬県の高崎だろうね」
「群馬県のほかにも、高崎という所があるの?」
「ないはずだ。それはたしかなんだろうね」
「たしかよ、郡先生のスケジュール表に記録されていたんですもの」
「そうか、きみは郡陽平の事務所にいるんだったな」
棟居は、この情報の重大な意味を見つめた。高崎から横川まで三十キロそこそこの距離である。中山種が霧積ダムで死んだ前日、八杉恭子はそこからわずか三十キロの高崎に行っていたのだ。
「十月二十一日の夜は高崎に泊まっているか? それとも日帰りで帰って来たかわからないか?」
「泊まっているわ。講演は高崎市民会館で午後三時からと七時からの二回に分けて行なっているわ。その後市民有志と懇談して、その夜の宿舎烏川ホテルに引き上げると記録してあるわ」
「よくそこまで調べてくれたね、有難う」
「ううん、私、こういうこと大好きなのよ。私、探偵になれるかしら?」
「その辺で止めていたほうが無難だろうね」
「私、本当はもっと知っているのよ」
新子が含みのある言い方になった。
「何を知っているんだ」
「同じ日に、松井田町のダムから、中山種というお婆さんが落ちて死んでるわね」
「…………」
「このお婆さん、刑事さんが八尾へ調べに来た谷井種さんと同じ人でしょ」
「きみって人は……」
「松井田だったら、高崎から目と鼻の先だわ」
「きみはすばらしい探偵だということがよくわかった。でも、それ以上踏み込んではいけない」
「これからもこういう調べがあったらどんどん使ってちょうだい。喜んでお役に立つわよ」
谷井新子はひどく張り切っていた。
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落ちた目
麓《ふもと》の村が近づくにつれて、チャンスが逃げていく。先へ行けば、もっといい場所があるかもしれないと、何度もあった機会を先へ繰り越しているうちに、道は下りにかかって、しだいに開けた感じになってくるようである。
「なんだか下りてしまうのが、惜しいような美《い》い道ね」
川村の下心も知らない荒井雅代《あらいまさよ》は、無邪気に言った。
「それなら、この辺で少し憩《やす》んでいこうか」
川村は周囲をうかがいながら誘いの言葉をかけた。あまり密度の濃くない杉の植林帯である。理想的な場所とは言えなかった。しかしこれ以上、下りてしまうと、村里が近くなって、チャンスを永久に失ってしまいそうだった。
ここまで誘い出すにも、ずいぶん苦労したものである。もう二人だけでハイキングに来ることもあるまい。来年は二人とも卒業である。川村は二流所の会社ながら、就職が決まっている。雅代も見合いの結果、縁談がまとまり、卒業を待って結婚することになっている。
このハイキングも相手方に知られるとまずいので、グループで来たことにしてある。川村と雅代は、ともに東京のある私大の学生である。同じクラスであっただけでなく、クラブ活動として入部した「旅行研究部」で、四年間いっしょにやってきた。
旅行研究と言っても、なにも専門的な勉強をするわけではない。旅行好きの学生たちが寄り集まって旅行をするだけである。いちおう「マスツーリズム時代における旅行業界の動向」とか、「旅に出て自分を考える」などともっともらしい口実をつけているが、おおかたの魂胆は、女子学生といっしょに旅行することにある。
こういうクラブにでも所属しないかぎり、学生の身では、女性とともに旅行する機会がない。女子学生もまた周囲もクラブ活動としての「男といっしょの旅行」に抵抗を感じない。親も、「クラブ活動」ということで安心する。
荒井雅代は、その現代的な美貌《びぼう》と、均斉のとれたプロポーションで、旅研のアイドル的存在であった。部員は、少なくとも年二回クラブ活動としての旅行に参加することを義務づけられており、その他各部員が個人的に企画する旅行に自分の意志で参加する。
クラブの主催旅行、または個人旅行たるを問わず、雅代が行くとなると、男子学生の参加者が増える。
また個人旅行の場合は、雅代の争奪戦がくりひろげられる。雅代が参加するときは、その出発駅に大勢の男子部員が見送りに駆けつけるほどの人気者であった。
男子部員の間では、抜け駆けの功名を戒め合う黙契《もつけい》のようなものができていた。
こんな中で、川村一人が雅代にいつも近い位置にいられたのは、同級というもう一つの共通項があったからである。雅代と同級は彼しかいない。したがって部にいないときでも、クラスで彼女といっしょにいた。雅代はクラスでもアイドルであった。クラスでは、同じ部員ということで男のクラスメートよりも、彼女に一番近い所にいた。
雅代のほうでは、それほど意識していたわけではないのだろうが、川村は彼女との「二重の共通項」を最大限に利用した。
そのために、部員も、クラスメートも、川村には雅代に対する一歩の優先を認めていた。優先といっても、雅代からほかの者よりも特別な恩典を許容されたわけではない。彼が雅代に対して他の者より親しげに振る舞っても、川村ではしかたがないと黙認している程度の優先である。それでも川村にとっては、貴重な優先権であった。
彼は在学中にこの特権をフルに使って、雅代の参加する旅行には、ほとんど尾《つ》いて行った。自分の企画した個人旅行にも、強引に誘った。
部員たちには、彼女の独占≠ヘ、避けようという暗黙の了解が成っていたが、川村だけは例外であった。また雅代も、特別な感情があったわけではないが、二重の共通項のある川村に親近感をおぼえたらしく、いっしょに旅に出る機会が多かった。
「四年間の青春」はまたたく間に過ぎた。雅代と川村は依然として仲の良い友達であった。男女の間の友情は、なにもないのに等しい。特に一方的に異性としての感情を捧《ささ》げている側にとっては、まったく無視されているのと同じであった。男、あるいは女でありながら、中性として扱われる。
雅代に対する川村の立場がそれであった。なるほど彼女は川村を信用していた。だから、旅行へもよくいっしょに行った。だがそれは彼を男として見ていないからである。男ではないから、どこへでも安心して従《つ》いて行けるのである。
四年も友達としてつき合ってきながら、手一つ握れないのも、そのためであった。川村が雅代に対して野心をもっていなければ、それでもよい。しかし野心がないどころか、好きでたまらなかった。秘めた片想いであったが、だれよりも激しく恋していた。
それでいて、一度も自分の気持を表明できなかったのは、あまりにも「仲の良い友達」になりすぎてしまったためである。男女の間というものは、初めのきっかけを逃がすと、なかなか、男と女の仲になれない。「よい友達」がいまさらてれ臭くて、恋の告白はできなくなる。無色無臭の中性的友人から、生臭い性の匂いのたちこめる仲にはなれないのである。だが、それにしても雅代ほどの女の身近に四年間もいながら、手一つ握れなかったとは――
川村は、我ながら情けなかった。雅代は、川村をボディガードに利用してきたような節《ふし》が見える。川村がそばにいたので、他の男たちの野心を封じ、「旅研のプリンセス」としてちやほやされながら、青春の楽しい部分だけを危険を冒すことなくすくい取った。
そして彼女はいま青春を満喫して、女としての新しい人生に出発しようとしている。彼女の夫となるべき男は、東大出身の一流商社のエリートだそうである。結婚した後は、川村らのことは「青春の中性的友人」として速やかに忘れてしまうだろう。
「要するに、おれたちは雅代を無傷で将来の夫に送りとどけるための青春のお守り役だったわけだ」
川村たちは、雅代が婚約したニュースを聞いたとき、仲間同士で口惜しがった。
「これは一種の食い逃げだな」
雅代に熱くなっていた一人がもらした言葉が、見事に一同の心情を言い当てていた。
彼女は旅研の王女として部員の憧憬《どうけい》の中央に坐《すわ》っていた。王女としての愛嬌《あいきよう》をみなに公平に振り撒《ま》いた。それが卒業と同時に、青春と結婚はべつよとばかりにさっさと人生の線路を乗り換えてしまう。
雅代を取り巻いていた男たちは、どんなに熱い憧憬を抱いていても、まだ経済力が伴わない。就職すら満足に決まっていない身分で、畏《おそ》れおおくて王女にプロポーズなどできるものではない。
また雅代のほうでもちゃんとそれを見透かしているかのように、王女が安サラリーマンの初年兵の許《もと》などに降嫁≠ナきないとばかりに、東大出のエリートの所へ行ってしまった。青春時代の遊び仲間と、自分の生涯を託すべきベターハーフを切り放した見事な計算と言えば言えた。
「そうはさせないぞ」と秘かに心に決めたのが、川村である。雅代が自分たちの仲間のだれかに降嫁≠キるのであれば、嫉妬《しつと》はおぼえても許せる。
しかし、青春の仲間をお守り役として切り放し、エリートの所へ嫁いで行く打算は許せない。女として、安定した危なげのない生活を求める気持はわからないでもない。だが、結婚の対象を、川村たち以外の所に求めたのは、それだけ彼らに男としての生活能力を認めていない証拠ではないか。
青春の多感な一時期を分かち合った仲間をなんの未練もなく切り捨て、一度か二度見合いをしたにすぎない相手に、ただ単に彼がエリートで、安定した生活の期待があるという理由だけで、自分のこれからの人生を簡単に託す女のさかしらな計算が憎かった。
――東大出のエリートといったところで、たかが知れているだろう。エリートなんて人生の目的を出世だけに据えた退屈な人間が多い。そんな男の許へレッテルだけに惑わされて身売りするのは、態《てい》のいい売春と同じだ。――
「どうせ身売りするなら、その前におれが」
くだらないエリートの細君にするための守り役にされてたまるかという意識から、雅代をさりげなく「二人だけのハイキング」へ誘った。
最初は少しためらったが、
「学生時代の最後の記念に二人だけで行きましょうか」と乗ってきた。川村と二人だけで行くことをまったく警戒していない。それだけ川村が男として無視されている証拠であった。初めにちょっとためらったのは、婚約者に対するおもんぱかりがあったからだ。たとえ中性的友人であっても、男と二人だけでハイキングへ行ったことが、縁談の相手に知られてはまずい。
ともあれ、雅代は、川村の危険な下心も知らず、まったく無警戒に従いて来た。これまでにも二人だけで日帰りの旅行へ出たことはあるので、雅代は安心しきっていた。
川村が誘った場所は、奥多摩の浅間《せんげん》尾根であった。標高八百メートル前後の低い尾根のつらなりで、女子供向きのコースであるが、交通の便が悪いので人気《ひとけ》が少ない。平日にはまったく人通りが絶えて、川村の目的には絶好の場所となる。
川村は、この山域に雅代を連れ込んでおもうさま犯してやるつもりであった。どんなに泣き叫ぼうと人の来るおそれはない。いったん犯してしまえば、彼女が訴え出るような愚かな真似は決してしないことはわかっている。そんなことをすれば、傷つくのは彼女のほうである。逃げられないと悟れば、抵抗もしないかもしれない。二人だけの秘密として、口を拭《ぬぐ》って平然と嫁いで行くだろう。
結婚にあたってこれだけ見事な計算をした女だから、「青春の秘密」として、むしろ喜ぶかもしれない。青春の食い逃げはしそこなったものの、それならそれで、貴重な経験をしたことになるのだ。
平日を選んで来た山道は、案の定、まったく人影がなかった。この尾根からの展望は、最も奥多摩らしいものとして定評がある。かなたの樹林の中か、こちらの潅木《かんぼく》の斜面かと、川村が危険な物色をしているとも知らず、雅代は、よく晴れた展望に素直な歓声をあげつづけていた。
だが獲物が罠《わな》の中に飛び込んで来ているのに、なかなか牙《きば》を突き立てるきっかけをつかめない。相手が無心なだけに、牙を剥くのがためらわれた。
ためらいながら歩いているうちに、コースはいつの間にか終わりにさしかかっていた。
――もうこれ以上、猶予はできない――
ついに最後の決断をした川村は、下山道にさしかかった杉の植林の中へ彼女を誘った。これまでにもっといい場所があったが、先へ行くほどに、さらに場所は得難くなりそうであった。
「向こうに、沢の音がするよ」
川村は、林の奥の方へ誘導した。
「私、のどはかわいていないわ」
「きれいな沢の水で顔を洗えるよ」
「そうね、だいぶ汗ばんじゃったわ」
雅代は、深く疑わずに川村の後に従いて来た。
「ああ、ひんやりとしていい気持」
沢の近くに腰を下ろして、雅代は木もれ日に目を細めた。まだ太陽の位置は余裕があったが、そろそろ赤みがかってきている。
――いまだ。いまをおいてない――
川村は、この期におよんでも揺れているためらいをねじ伏せた。
「雅代さん」
呼びかけた声がうわずっている。
「なあに?」
雅代が顔を向けた。
「ぼくは、きみが好きだ」
「あたしもあなたが好きよ」
雅代は、川村の「好き」という意味をとりちがえている。
「前からきみが欲しかったんだ」
「また、いきなり何を言いだすのよ」
雅代は笑いだした。まったく彼を対象にしていない笑い方だった。
「だから、きみをくれ」
「冗談はやめてよ」
「冗談じゃないんだよ」
川村は、すっと立ち上がった。
「川村さん、まさか」
雅代の顔から笑いが消えた。だがまだ恐怖や不安はない。中性と信じていた相手が、いきなりオスの牙を剥いたのに、当惑している表情である。次の瞬間、川村は雅代にとびかかった。男の腕力にかけて、女の体を大地にねじ伏せようとした。
「お願い、やめて!」
恐怖が目ざめた。
「黙っていればだれにもわからない。きみをぼくにくれ」
「いやよ、そんな獣みたいに。やめて、だれか、たすけてえ」
雅代は必死に抵抗しながら、叫んだ。川村はおもいもかけない強い抵抗にあって、少したじろいだ。これまでの友好関係≠フ実績から見ても抵抗は最初だけで、すぐに迎え入れられると都合のいい計算をしていたのが、見事にはずれた。
「よして! お願い。私、お嫁に行く体なのよ」
「それがどうしたってんだ。一度や二度許したからって、どうってことはねえだろう」
女の抵抗が、男の凶暴性をかき立てた。だれのために守る純潔だというのか? 自分をできるだけ高値で売りつけるための純潔など、うす汚ない商算と同じではないか。
川村は相手に憎悪をおぼえた。憎悪が行動に拍車をかけ、蹂躪《じゆうりん》を容赦なく進めていく。男と女の闘争がつづいた。このまま時間が経過すれば、体力の差が結着をつける。現にその差が、女にとって絶望的な状態をつくりつつあった。
「痛っ!」
突然、川村が悲鳴をあげた。雅代が必死の抵抗の中で男の腕をおもいきり噛《か》んだのである。歯形が残り、血がにじんだ。あまりの痛さに彼の腕の力がゆるんだ。
雅代はそのチャンスを逃がさなかった。一瞬、ひるんだ男の体を突き飛ばすと、方向も見定めずに勾配《こうばい》にしたがって一目散に逃げ出した。道に迷うことなど恐れていられなかった。山はそれほど深くない。下って行けばいずれは人里へ出られるだろう。雅代は、樹林の間を、めちゃめちゃに駆けた。茨《いばら》が身体を傷つけるのもまったく感じなかった。前方の潅木の繁みの中でなにかが動いた。彼女の駆けて行く気配で、黒い影がパッと四方に散った。烏《からす》であった。一瞬ギョッと立ちすくんだものの、後方から川村の追って来る気配が迫る。彼女は、潅木をかき分けた。だが、次の瞬間殺されるような悲鳴をあげて、いま逃げて来たばかりの、男の追いかけて来る方角へ向かって駆け戻ったのである。
東京都西多摩郡|桧原《ひのはら》村|人里《へんぼり》付近の山林で、女の腐乱死体がアベックのハイカーによって発見されたのは十一月二十三日の午後三時ごろである。
血相変えたアベックに駆け込まれた人里の民家では、直ちにもよりの駐在所へ連絡した。駐在所巡査は、五日市町の本署へ報告すると、現場保存のために、アベックの一方の男に案内させて現場へ向かった。パートナーの女のほうはショックから脱力したようになっていたので、人里の民家で憩《やす》ませておくことにした。
死体は土中に埋められていたものが、野犬か山の獣に掘り出された後、烏に突っつかれたので、むごたらしい状態になっていた。本庁に連絡が取られて、捜査一課の刑事や鑑識も駆けつけて来た。検視が行なわれた後、死体はひとまず五日市署の霊安室へ移された。
時間がすでに遅くなっていたので、本格的な現場検証は翌日に行なうことになって、現場は五日市署員によって厳重に保存された。
死体といっしょに埋められていたハンドバッグの中身から、身許《みもと》が割れた。都下K市宮前町四十八番地小山田文枝(二十六)で、九月二十六日ごろより消息を絶ち、その夫から捜索願いが出されていたものである。
直ちに遺族に連絡が取られて、死体の身許確認が行なわれた。夫は妻の変わり果てた姿に対面すると、「やっぱり」とつぶやいて、その場に立ちつくした。
翌日の解剖によって、死後経過は四十日―六十日、死因は全身打撲と内臓破裂によるものと認定された。死体は典型的な交通事故による損傷を呈していた。ここにおいて以前小山田によって出されていた訴えが、重要な意味を帯びてきた。彼は妻が何者かに轢《ひ》かれた後いずこかに運び去られて隠されたと訴えたのである。
警察も小山田の訴えをいったん容れて、犯行現場と目されるK市鳥居前を捜索した。彼女の死体は、まさに夫の訴えを裏書きしていた。改めて死体の発見された現場が綿密に検索された。現場にはなにもなかった。
捜索の輪が広げられた。一人の刑事が草むらのかげから何かをつまみ上げた。同僚が気配を悟って手許を覗《のぞ》き込んだ。ビロード地に包まれたうす型の小さなケースのようなもので、錆《さ》びついた金具をこじ開けると、シガレットケースのように開いた。中は柔らかいレンズ拭きに使われるような布地が貼ってある。
「なにかのケースにはちがいないな」
「ずいぶん小さいが、いったい何を容《い》れるケースだろう?」
刑事は首をひねった。二人で考えていてもラチがあかないので、上司に届け出た。それだけが現場近辺から採取された品であった。
上司にも何を容れるケースかわからなかった。動員されていた刑事の一人が、それをじっと見つめていたが、コンタクトレンズのケースかもしれないと言いだした。
「きみはコンタクトレンズを入れているのか」
上司はめがねをかけていない刑事の顔を見た。
「いいえ、私は目はいいので、そんなしゃれたものを入れる必要はありませんがね、親戚《しんせき》の若い娘がコンタクトレンズを使っていまして、そんなケースをもっていたのを見たことがあります」
それが果たして犯人の残していったものかどうかわからない。だがケースの雨露に晒《さら》された古さかげんは、死体の死後経過時間に相応するように感じられた。
ケースには、発売元と見られる『金亀堂・東京・銀座』のネームが認められる。もしこれが犯人の遺留品であれば、重大な証拠である。直ちにケースをもって銀座へ刑事が飛んだ。
「ネタは全部あがっているんだ」と新見に凄《すご》まれたとき、恭平は視界がすーっとかすんだような気がした。周囲の光景がみな一様にかすみがかかったように輪郭を失い、新見の声だけが耳の中で反響している。車の解体作業が素人には難しいために、一日延ばしに延ばしていたのが命取りになったのだ。
もはやここまで追いつめられては、逃げ路はない。まさかニューヨークまで追って来ようとはおもっていなかった。
――郡陽平と八杉恭子の長男が通行人を轢殺《れきさつ》した後、死体を山中に埋める――
――母子通信≠フ模範家庭に秘かに進んでい た病蝕《びようしよく》――
こんな調子の新聞の見出しが頭の中に明滅した。
自分がだめになるだけでなく、母の名声は地に落ちる。父の政治的生命にも影響をあたえるだろう。両親を軽蔑《けいべつ》しながらも、彼らの庇護《ひご》がないことにはなにもできない自分がよくわかる。
すべてを失った後、自分は無一物から出発する生活には決して耐えられないだろう。貧乏は嫌いというより、生まれてから、それに触れたことがない。もの心つくころから、豊かな物質的環境の中にいた。欲しいものは、すぐにあたえられた。物質に関するかぎり、欲求不満というものを経験したことがなかった。
それが突如としてすべてむしり取られようとしている。恵まれた環境を奪われるだけでなく、囚人として犯した罪の責任を償わなければならない。
世の中のいっさいの美しいもの、楽しいもの、美味なもの、快適なものから遮断されて、プライバシーのまったくない暗く非衛生な獄舎につながれる。考えただけで、背すじを寒けが走った。
いや刑務所へ行けるくらいならまだいい。罪質の重大さから、もしかすると、死刑になるかもしれない。
――死刑――かつて映画で見た電気椅子や絞首台のシーンが瞼《まぶた》に浮かんだ。それが現実の光景と重なり合って、区別がつかなくなった。
「さあ、いっしょに来るんだ」
新見が勝ち誇ったように言っていた。
――捕まってたまるか――という気持が、胸の奥から衝《つ》き上げてきた。
ここは日本ではない。アメリカなのだ。追って来たのも、どうやら一人のようだ。逃げてやる。命のつづくかぎり逃げてやるぞ。おもうと同時に行動をおこした。恭平は身を翻した。新見も油断していたわけではないが、女を残して自分一人だけ逃げ出すとはおもっていなかったので、虚をつかれた形になった。
追跡の態勢に入るまでに一呼吸の遅れがあった。その間に恭平はホテルの広いロビーを横切り、玄関出入口の方へ走っていた。出入口は二重になっている。これは空気調整している館内に外気を直接入り込ませない設計である。外側への開口部は回転ドアとなっており、ロビーとの内仕切りは、素通しのガラスに自動ドアが取り付けられている。
逃げ出した恭平は、外へ連絡する回転ドアしか見ていなかった。折りしも外から数人の客が回転ドアを押して館内へ入って来たところであった。
恭平の目の焦点は、回転ドアに据えられていた。焦点深度がきわめて浅くなっていた。彼はその途中に素通しの自動ドアがあることを忘れた。ガラスのような透明な仕切りによく生ずる錯覚である。
逃げることだけに頭が集中してしまった恭平は、自動ドアに凄じい勢いで突っ込んで行った。ドアは恭平の接近を感知して開きかけたが、彼のスピードに追いつけなかった。
ドーンという鈍い音がした。厚い素通しのオートドアによって、恭平は弾き返された。加速度のついていた分だけが、反作用となって、彼の身体に衝撃をあたえた。
一瞬、衝撃のショックで恭平の意識はかすみかけた。何事かとロビーに居合わせた者が視線を集めた。ホテルの従業員が駆けつけて来る気配がした。
その気配に恭平はいったん立ち上がりかけたが、視野が急激に暗くなり、今度は本当に意識を失った。
うすれていく最後の意識の底から、恭平は失ったコンタクトレンズを早く入れておけばよかったと痛切にくやんだ。
彼の目はひどい近視だった。めがねを嫌い、コンタクトレンズを入れていたのだが、それを出先でとりはずしたはずみに失ってしまった。早く新しいのをつくらなければとおもっているうちに、あの交通事故をおこしてしまったのだ。
もしコンタクトレンズを入れてさえいれば、あの痛ましい事故は防げたかもしれないのである。
そしていま自業自得の厳しい罰をうけた。レンズを失ってぼやけた視野の中に、突如現われた追跡者に動転して、素通しのガラス仕切りにもろに突っ込んでしまった。透明な空間から突然激しい拒絶をうけた恭平は、世の中から自分が拒絶されたように感じたのである。
金亀堂は銀座六丁目にある有名な眼鏡専門店であった。専門の眼鏡をはじめ、高級腕時計も扱っている。
ここを当たった刑事は、くだんのケースは最近、同店がコンタクトレンズ専用ケースとして新しいデザインの下につくったものであることが確かめられた。
刑事は、顧客リストの中に、「郡恭平」の名前を見つけた。その名前こそ小山田武夫が妻を轢いた容疑者として、K署にかねてより訴え出ていたものであった。
K署では、小山田が郡恭平を割り出した過程に飛躍があり、証拠も曖昧《あいまい》であるとして、いちおう保留の形をとっていた。捜査本部はこの符合を重視した。改めて郡恭平の行方が調べられ、彼がアメリカへ行っている事実が確かめられた。
ほぼ時を同じくして、千代田区二番町の郡陽平の邸《やしき》へニューヨークから、息子の恭平が傷を負ったという連絡がきた。一方、小山田とK署にも、新見から恭平が犯人であることの証拠を押さえたという報告がきた。
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人間の証明
八杉恭子のアリバイの裏付けが取られた。今度の場合、八杉本人の言葉のウラを取るのではなく、谷井新子が調べてくれた、十月二十一日の高崎市での八杉の行動を徹底的にチェックするのである。
高崎市にふたたび出張したのは、棟居と横渡の二人であった。ここは霧積へ行ったとき、その往復に通過した都市である。
ホテルは、高崎城跡の南側の高崎公園の中にあった。烏川の畔《ほとり》で、上信越の山岳の展望がよい。
ここへ来て、二人は奇妙な事実を発見した。八杉恭子ほどの有名タレントが来たのであるから、ホテルの従業員の印象は強いとおもっていたのが、案に相違して、ほとんどだれもおぼえていないのである。
刑事らが逆に八杉恭子が来たのかと質《たず》ね返されたほどであった。ようやく恭子の泊まったという部屋のフロアを担当したメードの一人が、
「ああ、やっぱりあの人、八杉恭子だったのね」
とそれらしい反応をしめした。
「きみが係だったのか?」と質ねると、
「ええ、私、八杉恭子にちがいないとおもって、サインを頼むと、人ちがいだと言って、逃げるように行ってしまいました。ヘアスタイルとサングラスで様子を変えていましたけど、たしかに八杉恭子にまちがいなかったわ。どうしてあんな変装≠して身許《みもと》を隠しているのか、不思議におもったのよ」
「八杉恭子と宿帳に書いてなかったのかい?」
「あのときは郡先生とかいう代議士が代表者になっていて、他随行何名という形で一人一人のお名前はいただきませんでした」
「すると八杉恭子が来たことは、ほとんど知られていないんだな」
「私も、サインをもらいに行ったとき、けんもほろろだったので、本当に人ちがいかなとおもいかけたほどです」
「すると、八杉恭子はいったい何のために旦那《だんな》に従いて来たんだろう?」
二人の刑事は顔を見合わせた。彼女が夫の地方遊説へいっしょに来たのは、「八杉恭子」のネームバリュウによって夫の援護射撃をするためではなかったのか?
それが名前を隠してしまったのでは、何のためにいっしょに来たのかわからない。八杉恭子が来たことを知っている者はホテル内部だけでなく、市内にもほとんどいなかった。もちろん夫の講演に応援弁士としても出ていない。
郡陽平を呼んだ地元の講演関係者にも会ったところ、八杉がいっしょに来ることは予定になかったそうであった。それが突然いっしょに現われたのでびっくりしたが、今度は妻として私的に従いて来たので、応援講演はしないと言った。関係者の中にすら、彼女が来たことを知らなかった者がいたほどである。
「妻として私的にねえ……」
横渡が憮然《ぶぜん》として顎《あご》をなでた。八杉恭子ほどの売れっ子が夫の講演にいっしょに来て、ほとんど隠れ通していたのである。地方では東京ほどに八杉恭子が郡陽平の妻であることは知られていない。だから、隠れようとおもえば隠れられる。
結局、八杉恭子は高崎へは来ていたものの、そこでの行動はかいもく不明だった。つまり霧積へ行かなかったという証明は得られなかったのである。彼女が高崎へ来たことは、谷井新子が探り出した事務所の部内記録だけで、高崎における足跡はほとんど残されていなかった。
八杉の経歴も洗われた。昭和二年十月三日八尾町の旧家に出生、小学校の成績が抜群によく、先生からすすめられたので親もその気になり、卒業後、東京の親戚《しんせき》に寄留させて、セント・フェリス(当時は『聖信』)大学の付属女学院へ進学させた。
戦火が激しくなったので、いったん帰郷したが、終戦後、復学のため再度上京。だがこれから昭和二十四年十月に帰郷するまでセント・フェリス女学院にも復学していない。生家の方には就職したという連絡がきたが、具体的にどのような職業に就いたのか、まったくわかっていない。すでに恭子の両親が死亡しており、生家は彼女の弟が継いでいたので、詳しい事情はわからないが、両親は恭子の言葉に全幅の信頼を寄せていた様子だったという。
当時の混沌《こんとん》とした世相の中に若い娘が独りで破壊されつくした東京へ出たのであるから、かなりの冒険だったはずであるが、恭子には後日マスコミの寵児《ちようじ》として、ハッタリで世渡りするだけあって、その素地となるべき度胸があったのであろう。
その後、昭和二十六年六月、郡陽平と結婚して、現在に至るというものである。ウイルシャーと関わりをもったとすれば、終戦後再上京してから帰郷するまでの約四年間であるが、その消息はまったく残されていなかった。
郡陽平と結婚後は、ほとんど帰郷せず、両親が死んでからは生家とも絶縁状態であることがわかった。
高崎の裏付け捜査が終わったとき、二つの興味ある情報が捜査本部へもたらされた。
一つは、奥多摩山地で発見された女性腐乱死体と、コンタクトレンズ・ケースの件であり、他の一つは、ニューヨークで恭平が捉《とら》えられて、小山田文枝の轢殺《れきさつ》と死体遺棄を自供したというものである。
郡恭平については、森戸というセールスマンがその父親の邸《やしき》に忍び込んで谷井新子に捕まったとき、同じことを訴えていた。もし、情報が真実であれば、森戸の訴えが裏書きされたことになる。
これで、コンタクトレンズ・ケースの所有者が郡恭平と断定されれば、彼の有罪はまぬかれない。
「八杉恭子はショックだろうな」
「とにかく彼女が世に出るきっかけとなった模範息子が極悪交通犯罪の犯人とあってはね」
「八杉もこれでおしまいだろう」
捜査本部では刑事たちがささやき合った。
「八杉もおしまいだなんて、他人事《ひとごと》みたいに言わないでください。ジョニー・ヘイワードおよび中山種殺害の犯人としての容疑が煮つまっている。おそらく彼女が二人を殺したんでしょう。しかし、いまの状態では、彼女を引っくくれない。八杉恭子はぜがひでも、おれたちの手で捕まえるんだ。ドラ息子の不始末なんかで彼女を終わらせてたまるか」
とどなったのは、棟居であった。ふだんは無表情の彼が珍しく感情を面に浮かべている。
「私はね、このごろジョニーがロイヤルホテルのスカイレストランへ胸にナイフを刺し込まれた瀕死《ひんし》の身で上がって行った心根が哀れでたまらなくなったんです」
棟居は語りつづけた。
「もの心ついたかつかないころ、父親と母親に連れられて行った霧積は、ジョニーの記憶に焼きつけられた。おそらく彼の想い出の中で最も貴重で美しいものだったでしょう。暗くみじめだった短い人生の中の宝石のような母の想い出です。麦わら帽子の詩は、霧積の色紙に刷られてあったのを、母親がやさしく訳してくれたか、いやそのころはジョニーも日本語がわかったのかもしれない。麦わら帽子と霧積は、母のおもかげのように、おもかげそのものとしてジョニーの心に刻みつけられていた。会いたい。ただ一目でも会いたい。幼かった自分の手を引いて、緑の燃える霧積の谷あいを下って行った、日本の優しい母に会いたい。その想いは長ずるにおよんで抑え難《がた》いまでに脹《ふく》らんできた。父とともにアメリカへ行ったジョニーのその後の人生がどんなに苛酷《かこく》であったか、想像に難くない。苛酷であればあるほど、母への想いは募る。ついにジョニーはその想いに耐えきれなくなって、金を貯めて日本へ来た。不足分は父が命を売って補ってくれた。母親に一目会うために。そして待っていたものは、母親の保身のための無惨な拒絶だった。
実の母によって胸に刺し込まれたナイフ。これがはるばる日本へ母をたずねて来て得たものか。ジョニーはどんなに絶望的なおもいでナイフを受けとめたことだろう。彼のうすれていく意識に、ロイヤルホテルのスカイレストランがうつった。美しい電飾の麦わら帽子だ。あそこに、自分の本当の母が待っているのかもしれない。かすみかかる意識をかき立てながら、彼は必死に麦わら帽子を追った。彼の瞼《まぶた》には母のおもかげが揺れていたことだろう。あの重傷でスカイレストランまで辿《たど》り着いた事実が、彼の母への想いの深さをよく物語っている。
それを八杉恭子は保身のために虫のように殺してしまったのだ。自分の腹を痛めた子供を殺したんだ。私はあの女が憎い。彼女は人間じゃない、母親の仮面を着た獣なんだ。あの女には、人間の心なんかないんだ」
棟居は沸々《ふつふつ》とたぎる胸を抑えて自分に語りかけるように語っていた。
棟居の瞼には、いま遠い日の光景がよみがえっていた。米兵たちが父を袋叩《ふくろだた》きにしている。撲《なぐ》る、蹴《け》る、唾《つば》をはきかける。父はまったく無抵抗に、彼らの蹂躪《じゆうりん》にまかせている。まわりを大勢の日本人が取り巻いているが、だれも救けてくれようとしない。
「たすけて! だれかたすけて」
幼い棟居が必死に救いを求めても、尻《しり》ごみをするばかりであった。そのくせその場に立ちどまったまま、対岸の火事でも見物するように無責任な好奇心を露骨に剥《む》き出して、事件の推移を見守っている。
自分に危険が及ばなければ、こんな面白い見せ物はない。若い娘を犯そうとしかけた米兵を阻んだために、彼らの怒りが父に向けられた。獣欲を満たす直前に阻止された若い獣たちは、吐け口を失った凶暴なエネルギーを父に叩きつけた。いまそれを救おうとすれば、彼らの怒りをまともにかぶってしまう。
もともと彼らは戦勝国の、日本の天皇よりも上位にある神の軍隊≠ナあった。手出しはできなかった。
父が棟居のために勤めの帰途、回り道をして買ってきてくれたまんじゅうが路面にこぼれ散った。それを米兵たちの軍靴が馬糞《ばふん》でも踏みつけるように、踏み蹂《にじ》った。父のめがねが吹っ飛んで、粉々に砕けた。
米兵の暴力の中央に父はぼろのようにうずくまって動かなかった。もう動けなかったのである。
米兵の中にひときわ目立つ、赤鬼のような大男がいた。腕に火傷《やけど》の引きつれのような傷痕《きずあと》があった。まだ戦場で負傷して間もないのか、裂け目は生ま生ましく赤味がかっていた。その一見、女体の陰部にも似た裂け目から金色の毛が生えていた。
その腕で、ズボンのジッパーを引き下げた米兵は、父に向かって小便をかけはじめた。他の米兵たちが真似をした。米兵たちは盛大な放水を父に集中しながら、げらげらと笑った。取り巻いて見物していた日本人たちも笑った。そのときの傷が原因で、父は死んだ。
そのシーンを棟居は、幼い自分の脳裡《のうり》にしっかりと刻みつけて復讐《ふくしゆう》を誓ったのである。その場に居合わせたすべての人間だけでなく、父をそのような目にあわせた社会が、人生が仇《かたき》であった。
その仇《あだ》を討つために、彼は刑事になった。あのときの仇敵《きゆうてき》が、いま八杉恭子と一体化している。母さえいれば、父も自分も、あのような屈辱を嘗《な》めずにすんだ。父も死なずにすんだ。母が、父と自分を捨てたからである。
八杉恭子も、保身のためにわが子を捨てた。単に捨てただけではない。はるばる海を越えてたずねてきたわが子を殺したのだ。母が子に対するこれほど決定的な拒絶があろうか。
棟居には、いま恭子が父と自分を捨てた母のような気がした。そのとき、彼の眠っていた記憶が呼び覚まされた。記憶を抑圧していた薄膜が破れた。マスコミの寵児としての八杉恭子のポピュラーな顔の下から、棟居だけが知っている彼女の顔がよみがえった。
いま棟居は彼女が何者だったか、正確におもいだしたのである。
――そうか、あの女だったのか――
棟居はしばし茫然《ぼうぜん》として、ゆくりなくも再会した古い顔を見つめていた。
二十数年前、父がアメリカ兵から身を挺して救ってやった若い女、あの女の顔が、八杉恭子の名士としての美しくポピュラーな顔の下に潜んでいた。成熟して、社会的な位置も定まり、美しい貫禄の備わったいまの八杉恭子に、若いGIに犯されかかったみすぼらしい若い女のおもかげはない。だが歳月による変貌《へんぼう》や成熟や、マスコミ名士としての化粧を取り去った後に、まぎれもなく、父をスケープゴートにして逃げ去った若い娘の顔の原形があった。
それが東京ビジネスマンホテルで八杉恭子と初めてすれちがったとき、棟居の遠い記憶を刺激したのである。マスコミによってつくり上げられた虚像が、記憶の再生を妨げたとも言える。
たまたま、あの時刻あの場所に通り合わさなければ、父は死なずにすんだ。恭子のために棟居は父を失ったのである。自分を救ってくれた父を見捨てて、恭子は逃げた。それと同じ様に、彼女はジョニー・ヘイワードを捨てたのか。棟居の胸に煮え立つものがあった。絶対に許せないとおもった。
――彼女には人間の心がないのか? いやどんな下等な動物にもある母親の情はないのか? それを確かめてみたい――
棟居は目を上げて言った。
「彼女の中に人間の心が残っているかどうか賭《か》けてみましょうか」
「人間を賭ける?」
那須が目を向けた。
「八杉恭子にもし人間の心が残っていれば、必ず自供せずにはいられないように追い込んでみるのです」
「どういう風にするつもりだ?」
「麦わら帽子を彼女にぶつけてみたいのです」
「麦わら帽子を?」
「いまのままでは局面を打開できません。決め手がどうしてもつかめないのです。彼女の人間の心に訴えて、自供をうながしたいとおもいます」
「…………」
「係長、私にやらせてくれませんか」
棟居は、那須の目を真正面から見つめた。
「成算があるのかね?」
「わかりません。ですから賭けと言いました」
「捜査を賭けでするわけにはいかんな」
「私も、幼いころに母親から捨てられたのです。私は、自分を捨てた母が憎い。でもその憎しみの底に、母を信じようとする心があるのです。いや、母を信じたい。八杉恭子の中にも、きっと母親の心があるはずです。私はそこに賭けたいのです。人の子の母ならば、きっと自供するはずです。私は、自分を捨てた母親と対決するような気持で、八杉恭子と対決してみたいのです」
「…………」
「係長! やらせてくれませんか」
「いいだろう」
那須は大きくうなずいた。
「きみのおもうようにやってみたまえ」
恭平負傷の第一報に動転した八杉恭子が、さらに国際電話を入れて問い合わせたところ、怪我は大したことはなく、病院で手当てをうけて、すぐに帰国の途に就いたことがわかった。
だがその直後に警察からきた連絡は、郡夫婦に激しい衝撃をあたえた。奥多摩山中で発見された女性腐乱死体は、恭平が轢殺《れきさつ》した後埋めた疑いがきわめて濃厚であるというものである。
警察では改めて恭平の車を徹底的に検《しら》べることになった。また警察の話によれば、恭平はニューヨークで犯行をすべて自供したという。恭平本人に直接聞きたくとも、すでに帰国途上にあって、連絡がつかない。
折も折、恭子は麹町《こうじまち》の捜査本部から任意出頭を求められた。恭子を迎えた警察の態度は紳士的であったが、その底に並々ならぬ決意のほどがうかがわれた。彼女は、自分が単なる参考人程度で呼ばれたのではないことを悟った。
「本日はお呼び立ていたしまして」
先日テレビ局に訪ねて来た棟居という精悍《せいかん》な表情の刑事が、彼女と対《むか》い合った。壁に面してもう一つ小机があって、そこに棟居よりやや年輩の意地の悪そうな目つきの刑事がいた。見る角度によって猿に似ている。彼も先日いっしょに来た刑事だった。
「恭平は、間もなく帰国してまいります。私はなんにも知らないのです。きっとなにかのまちがいだとおもいますわ。恭平にかぎってあんな……」
「奥さん、今日お越しいただいたのは、その件ではないのです。ご子息の件は、我々の担当ではありません」
たしか先日来たときは、恭平のことについて聞きたいことがあると言っていたはずであった。
「すると、いったい何の件で?」
棟居は知らないはずはないと無言の凝視にこめて恭子の表情をうかがう。ここへ来たときに捜査本部の大看板を見ているはずなのである。
「九月十七日ロイヤルホテルでアメリカ国籍の黒人が刺殺された事件です。正確には清水谷公園で刺された後、ホテルのスカイレストランまで這《は》い上がって来て、息絶えたものです」
「その事件が私に何か?」
恭子の表情には、不審の色しかない。
「奥さんにはこの事件についてなにか心当たりはありませんか?」
「そんな心当たりが、私にあるはずはないでしょう」
「我々は、奥さんに必ず心当たりがあると信じているのです」
「まあ、警察って、ずいぶんでたらめな言いがかりをつける所なんですね」
恭子の頬にうすく血の色がのぼった。
「はっきり申し上げましょう。我々は殺された黒人が、奥さんの子供だと考えています」
「まあ!」
八杉恭子は、一瞬息をのんだ。
「奥さんは、終戦後三、四年ほどウイルシャー・ヘイワードというアメリカの黒人兵と夫婦、あるいはそれに準ずる関係にありませんでしたか?」
棟居はたたみかけた。恭子は急に身体を折り曲げた。口辺から抑えた声がククッと漏れた。棟居の繰り出した第一撃に早くも打ちのめされて、感情のバランスを失ったのかとおもいかけたとき、恭子は面を上げた。彼女は笑いを抑えていたのである。体をよじってその笑いを耐えていたのだ。
「警察って……どうしてまたそんな途方もない想像をするのですか。私が黒人と結婚して、黒人の子を生んだことがないかなどと、まあ、あきれた! いったいどうしてそんな想像ができるんでしょう。これを聞いたら、きっとだれでもお腹をかかえて笑うでしょうね、あはは、ああ、おかしい」
恭子は言葉どおり、腹をかかえて笑っていた。笑いすぎて、目尻《めじり》に涙をためている。一しきり笑った後、彼女はきっと表情を改めて、
「私、帰らせていただきますわ。そんな馬鹿馬鹿しいお話相手をつとめるほど、閑《ひま》ではありません」
と言い放った。
「昭和二十四年七月、ウイルシャー・ヘイワードとジョニーの三人で霧積へ行ったでしょう」
「そのことはこの間、はっきり、知らないとお答えしてるでしょう。私、いま大笑いしましたけど、本当は怒っているんですよ。黒人と夫婦だったとか、その人との間に子供をもうけたとか、ひどい侮辱《ぶじよく》ですわ。私には夫も子供もいます。夫も私もいちおうの社会的な地位があります。いったい何の証拠があってそんなひどい言いがかりをつけるのです?」
「霧積の旅館に当時いた中山種という人を知っているでしょう」
「知っているわけないでしょう。霧積なんて行ったことないんですから」
「知っているはずです。中山種さんはあなたと同郷の、八尾出身なのです」
「八尾から出た人は、いくらでもいますわ」
「種さんが、あなたの遠縁に当たる大室よしのさんに手紙を送ってきたのです」
棟居は、二枚めのカードを出した。さして威力のあるカードではないが、相手の受け取り方によっては、致命的な効果を発揮するかもしれない。
「その手紙に私のことが書いてあったというのですか?」
恭子の顔が少し改まった。
「我々はあなたのことだとおもっています」
「それはどういうことなのでしょう? 私にはずいぶん曖昧《あいまい》に聞こえますが」
「つまりあなたがウイルシャーとジョニーといっしょに霧積へ来たということです」
「その手紙、見せてください」
それを当然要求されると予想していたので、おもいきったはったりをかませられなかったのである。
見せればこちらの薄弱な手の内を見すかされる。
「それはいまここにありません」
棟居は苦しい言い訳をした。
「どうしてですの? そんな大切な証拠を手許《てもと》においてないなんておかしいじゃありませんか」
「…………」
「そんな手紙、初めからなかったんでしょう。それとも、手紙には私のことなんか書いてないのでしょう」
言葉に詰まった棟居に、恭子は勝ち誇ったように押しかぶせた。彼女は、棟居の突き出したカードを手もなく躱《かわ》すとともに、警察側の手持ち資料の脆弱《ぜいじやく》なのを見抜いたらしい。
「警察って、ずいぶんひどい言いがかりをつける所なんですね。そんなありもしないでっちあげで人の名誉を傷つけておいて、そのままですむとおもっているのですか。いずれこのことは主人と相談して、私どもの態度を決めますわ。失礼します」
恭子は、すっと立ち上がった。
「奥さん、お待ちください」
棟居の声の調子が改まった。恭子はまだこの上に言うことがあるのかというような顔を向けた。
「奥さんは麦わら帽子の詩をご存じですね?」
「麦わら帽子? この間もたしかそんなことをおっしゃってましたわね。私、そんな詩なんか知りません。詩は嫌いじゃありませんけれど、警察から押しつけられたくありませんわ」
「奥さんは、必ずその詩を知っておられるはずです」
「あなた、どうかしているんじゃないの? 私は知らないと言ってるのよ」
「幼いころの夏の日、子は母に連れられて、霧積へ行った。母に手を引かれて渓《たに》に沿った道を歩いていると、いきなり吹いてきた強い風にさらわれて、幼児のかぶっていた麦わら帽子が渓の底へ落ちてしまったのです。子はその麦わら帽子に託して、母親に向ける切々たる思慕の情を詩《うた》った。その詩が、霧積へ行った三人の親子連れの目にとまった。
おそらく生涯に一度だけの親子いっしょの旅行だったのでしょう。渓谷は緑に燃え、母は若く美しく、優しかった。子の胸にそのときの想い出が焼き付いてしまった。その子のその後の苛酷な人生の中で、たった一つの宝石のような想い出だった。父親も、その旅行でいっしょだった。家族は旅行の後に離散した。もしかすると、その旅行は、一家が離散する前の最後の想い出のための旅行だったかもしれない」
「やめてください。そんなお話、私には関係ありません」
恭子は言ったが、立ち去ろうとはしなかった。なにものかが意志に反してその場に彼女を縛りつけているようであった。
「一家は、その旅行の後で別れた。子は父に連れられて、父の本国のアメリカへ、母は日本に残った。そこにどんな事情があったのか、私は知りません。だが、子には霧積の想い出が、母の想い出として深く刻まれた。霧積の想い出をうたった西条八十の麦わら帽子の詩が、自分のことのように印象されてしまった。たぶん、その詩は、そのとき母が子に話して聞かせたものでしょう。
父に連れられてアメリカへ帰った子は、母への想いに耐えきれなくなって、日本へやって来た。父はその子のために老い先短い身体を自ら車に当てて、その補償で旅費をつくってやった。父の死が母への想いの堰《せき》を切ったのかもしれない。父も子に託して、かつての『日本の妻』に会いたかったのでしょう。緑の霧積を背景にした母のおもかげが、子の瞼《まぶた》で揺れている。底辺の差別の生活の中で、母だけが子の救いだった。辛《つら》いとき、悲しいとき、母のおもかげが、いつも子を柔らかく救ってくれた」
八杉恭子は黙ってしまった。面は無表情で鎧《よろ》っているが、肩先が少し震えている。
「子は一目でいいから母に会いたいとおもった。自分のたった一つの宝石である霧積の想い出を噛《か》みしめたかった。母が新たな結婚をして、べつの家庭を営んでいることは知っていたかもしれない。母の生活を乱すつもりはなかった。ただ一目でいいから会いたい。親子の情とはそんなものではないでしょうか。その点において血を分けた仲というものは、性的な男女関係とは本質的にちがう。
だがその子を母は決定的に拒んだ。母は成功し、社会的な地位もあり、名声もあった。安定した家庭と子供があった。それらのすべてを、すでにその存在すら忘れていた黒い隠し子が突然現われて、根本から破壊しようとしている。母は、自衛のために子の一人を犠牲にしようとしたのだ。しかし、はるばる日本へ父の命で購《あがな》った旅費によって、おもかげの母をたずねて来た子は、母の文字どおりの致命的な拒絶にあってどんな想いだったろうか。たった一つの宝石はみじんに砕かれてしまった。絶望の瞳《ひとみ》に、麦わら帽子がうつった。花やかなイルミネーションに縁取られた夜空に浮かぶ麦わら帽子だった。ロイヤルホテルのスカイレストランは、夜眺めると麦わら帽子の形に見えることをご存じですか。そこへジョニー・ヘイワードは最後の気力を振り絞って這《は》い上がって行ったのです。
彼は母の致命的な拒絶にあいながらも、なお、母を信じつづけていたのです。あそこに母がいる。自分を優しく迎えてくれる母親がいるにちがいないと。一歩一歩よろめき歩いて行った後ろには血の痕《あと》がしたたっていた。それは母に抉《えぐ》られた傷口からしたたり落ちた血の痕です。奥さん、この帽子をおぼえていますか」
棟居はこのときのために用意しておいた麦わら帽子を恭子の前に差し出した。材質も不明なほどに古びて、触《さわ》ればぼろぼろに崩れてしまいそうである。清水谷公園で発見されたあの麦わら帽子であった。
恭子がはっと息をのむ気配がした。
「この帽子はジョニーが幼いころ、母親に買ってもらったものです。霧積のみやげに、帰途どこかで買ってもらったものでしょう。彼はこの帽子を日本の母の形見として二十数年間、大切にとっておいた。この古さかげんを見てください。この古さは、ジョニーの母に寄せる思慕の強さを語るものです。触ってごらんなさい。触れば灰のように崩れてしまいそうなこの古い麦わら帽子、これがジョニーのなにものにも替えがたい宝物だったのですよ」
棟居が、帽子を差し出すと、恭子は、避けるように身体を退いた。
「もしあなたに一片の人間の心が、いやどんな動物にもある母親の情が残っているなら、この麦わら帽子の詩を、なんの感慨もなく聞けないはずです」
棟居は帽子を手に捧《ささ》げもつようにして相手の面を見つめた。恭子の唇が震えた。面がいっそう青白くなっている。
「母さん、ぼくのあの帽子
どうしたでせうね?」
棟居は、すでに諳《そら》んじていた詩を誦《とな》えはじめた。
「やめて」恭子はかすかにつぶやいた。その体ががくりと揺れたように見えた。棟居はさらにつづけた。
「ええ、夏|碓氷《うすひ》から霧積《きりづみ》へ行くみちで、
谿谷へ落とした
あの麦稈《むぎわら》帽子ですよ」
「おねがい、やめて」
八杉恭子は、椅子の上に崩れ落ちて、面を被った。棟居は止《とど》めを加えるようなサディスティックな気持で『西条八十詩集』を取り出した。
「八杉さん、この詩集をおぼえていますか。これはジョニーがこの麦わら帽子といっしょに日本へもってきたものですよ。言わば彼の遺品です。あなたが買ってやったものでしょう。詩のつづきをあなた自身で読んでごらんなさい。いい詩じゃないですか。体に血の流れている人間なら、子をもつ親、親のある子ならだれにもじーんとくるような詩だ。読めませんか。読めないのなら、私が読んであげましょう」
棟居は八杉恭子の前で、詩集のその個所を開いた。
「母さん、あれは好きな帽子でしたよ。
僕はあのとき、ずいぶんくやしかつた、
だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。
母さん、あのとき向ふから若い薬売りが来ましたつけね。
紺の脚絆《きやはん》に手甲《てつこう》をした。
そして拾はうとしてずいぶん骨折つてくれましたつけね」
八杉恭子の肩が激しく震えた。棟居は詩を読みつづけた。
「――だけどたうたうだめだつた。
なにしろ深い谿《たに》で、それに草が背丈ぐらゐ伸びていたんですもの。
――母さん、ほんとにあの帽子どうなつたでせう?
そのとき傍《そば》で咲いてゐた車《くるま》百合《ゆり》の花は、
もうとうに枯れちやつたでせうね、
そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼《な》いたかも知れませんよ。
――母さん、そしてきつと今頃は――
今夜あたりは、あの谿間に、静かに雪が降りつもつてゐるでせう。
昔、つやつや光つた、あの伊太利《イタリー》麦の帽子と、その裏に僕が書いたY・Sといふ頭文字を埋めるやうに、静かに、寂しく――」
読み終わると、一瞬静寂が落ちた。都心にある捜査本部の一室が、海の底のような静けさに包まれた。街の遠い騒《ざわ》めきが、べつの世界の気配のように漂ってきた。
「ううっ」と八杉恭子の口から嗚咽《おえつ》が漏れた。
「ジョニー・ヘイワードはあなたの息子だったのですね」
棟居が束の間の静寂を破って確かめた。
「私、わたし、あの子のことを片時も忘れたことはありません」
八杉恭子はデスクに打ち伏して、はげしくしゃくり上げた。
「あなたが殺したのですね」
棟居は追撃の手を緩めなかった。恭子はしゃくり上げながらうなずいた。
「中山種さんを殺したのも、あなたですね」
「しかたがなかったんです」
後の声は言葉にならなかった。恭子はついに落ちた。決め手のつかめないまま、容疑者の人間の心にかけた捜査本部は、その賭けに勝ったのである。
ニューヨークから郡恭平と朝枝路子を連れ戻して来た新見は、彼らの身柄を警察に引き渡した後、小山田に会った。すでに文枝の死体が奥多摩山中で発見され、確認されていた。
「やっぱり死んでいましたよ」
新見を迎えた小山田は力なく言った。絶望への大きな傾斜の中で、残していた一縷《いちる》の望みも、これで完全に絶たれたわけであった。
「残念です」
新見も、生まれて初めての真剣な恋愛が完全に終わったのを悟った。もうこれから文枝を愛したように、女を愛することは二度とないだろう。これは他人のためにセットされたような自分の人生の中で、ただ一度だけ自分に忠実に生きるための反乱であった。
反乱は終わった。これからふたたび打算と功利の生活がはじまる。それはそれでよい。それも自分が選び取った人生である。
「新見さんには、本当におせわになりました」
小山田は心から感謝していた。盗まれた妻も、死んだことを確認してみれば、盗んだ相手に対する怒りも消えてしまったようである。新見は十分、男の償《つぐな》いをした。もっとも新見にしてみれば、償いではなく、自分のためにしたことである。
「小山田さん、これからどうなさるおつもりですか?」
「いまは、なにをする気にもなれませんが、そのうちになにか仕事を見つけるつもりです」
妻の収入がなくなったので、生活が窮迫していた。もうすぐにも働かなければならないほどに切羽詰まっていたのである。
「もしよろしければ、私が適当な仕事を紹介いたしましょう」
新見はひかえめに申し出た。
「ご好意だけいただいておきます。そこまでおせわになりたくありませんので」
小山田はきっぱりと言った。妻がいなくなれば、もう新見との間になんのつながりもない。新見のその後の贖罪《しよくざい》的行為があったとしても、彼が妻を盗んだ事実に変わりはない。妻を盗んだ男に、今後の生活の方途を託すわけにはいかなかった。
「これは、つい余計なことを言いまして」
新見も自分の差出口を悟った。
「それではこれでお別れいたします」
「お元気で。ご機嫌よう」
二人の男は別れた。それぞれに二度と会うことはあるまいとおもっていた。一人の女を共有した二人の男は、その女の死とともに、かけがえのない宝物を失った。
――もう二度とあれほどの女に逢《あ》うことはあるまい……という失意が、彼らの共通項に終止符を打ったのである。
八杉恭子は、犯行を自供した。
「ジョニーが突然、私の目の前に現われたとき、私はわが子にめぐり会えた喜びと、これですべてが破壊される絶望を同時におぼえました。ジョニーはニューヨークで偶然私の出版物を見かけて、私の消息を知ったそうです。羽田に到着すると同時に連絡してきたジョニーに、東京ビジネスマンホテルへ来るように指示しました。夫の事務所がそこにあるので、無理なく連絡できると思ったからです。ジョニーの父親のウイルシャーとは、終戦後、彼が進駐してきたときに知り合いました。私は当時、東京の親戚《しんせき》に寄宿してある私立の女学院へ籍をおいていました。戦火が激しくなっていったん帰郷したものの、一度都会の味をおぼえた身は、とても小さな田舎町に逼塞《ひつそく》してはいられません。復学するために、両親の反対を押し切って再度上京したとき、浮浪者にからまれて困っていたのを救ってくれたのが、ウイルシャーでした。ウイルシャーは黒人というハンディキャップがありましたが、男らしくておもいやりのある、本当にすばらしい人でした。私たちは恋に落ち、そのまま同棲《どうせい》してしまいました。生家には、就職したとごまかしました。そのうちに、ジョニーが生まれたのです。
霧積へ行ったのはジョニーが二歳になったときでした。同郷の遠縁が霧積にいるということを人|伝《づて》に聞いていたからです。麦わら帽子の詩は、帰途、谷ぞいの道でお種さんがつくってくれたお弁当を開いたとき、その包み紙に印刷されていました。あまりに美しい詩だったので、ウイルシャーとジョニーに意味をわかりやすく訳して教えたのです。あの詩がまだもの心もつかないジョニーにそんなに深く印象されるとはおもいませんでした。麦わら帽子はジョニーがせがんだので、松井田の町で買ってやったものです。間もなく、一家が別れるときがきました。ウイルシャーに帰国命令が下ったのです。私たちはまだ正式に結婚していませんでした。当時、米軍は正式の妻以外の女性を、本国に伴うことを許しませんでした。また私の実家は八尾の旧家で、外国人、それも黒人との国際結婚など絶対に許すはずがありません。ウイルシャーの再三の求めにもかかわらず、私たちが正式に結婚できなかったのは、そのためです。
止むなくウイルシャーは、ジョニーだけを認知して連れて行ったのです。西条八十の詩集は、私がそのときウイルシャーに霧積の記念として贈りました。私は、両親を時間をかけて説得し、同意を得てから、ウイルシャーを追いかけていくことにしました。
ジョニーを連れて行ったのは、日本では、私に生活力がなくてジョニーを育てるのが難しいのと、私を必ずアメリカへ来させるための保証の意味があったようです。
ウイルシャーが帰国した後、私はいったん帰郷しました。すぐにも両親の同意を得て、二人の後を追おうとしたのですが、なかなか言い出せないでいる間に人を介して、郡との縁談が生じたのです。周囲で話がどんどん進行して、形式的な見合いをしたときは、断われないような状況になっていました。
私はアメリカへ去った二人に心を残しながらも、郡と結婚して、今日に至りました。あの子のことは片時も忘れたことがありませんでした。あの子が成人してたずねて来て、再会の喜びから醒《さ》めたとき、私は絶望で目の前が真っ暗になりました。
郡は私が結婚前、黒人と同棲して、子供を産んだことなど知りません。もちろん恭平も陽子もそんな異父兄がいることなど知りません。自分と家庭を守るためには、ジョニーに消えてもらうしか方法がないと、追いつめられた私は浅はかにも考えたのです。私とジョニーの関係を知っている者は、だれもいません。ジョニーは、自分のような隠し子がいるとわかると、私に迷惑をかけるとおもったらしくて、いつも密やかに連絡してきました。ウイルシャーもジョニーが来日する前に死んだと、ジョニーから聞きました。ウイルシャーがジョニーの旅費をつくるために自分の体を犠牲にしたということは、刑事さんから聞いて初めて知ったのです。ジョニーはもうアメリカへ帰りたくないと言いました。日本の国籍を取って日本に永住したいというのです。私に迷惑をかけないから、私のそばにいたいと訴えました。
でも、ジョニーがそばにいては、いつかは私の過去が露《あら》われてしまう。そうなったら、私は破滅です。アメリカへ帰るようにジョニーを説得しましたが、彼はいうことをききません。私は追いつめられた気持になりました。
私はジョニーを殺す決意をして、九月十七日の夜八時ごろ清水谷公園で待つように言いました。あの公園が夜になると人通りが絶えて、逃げるにも足場がいいことを前から知っていたからです。
でもジョニーに会うと、何度も固めたはずの決心が鈍りました。それが鈍ったまま、自分と家庭を守るためにナイフを突き出したために、ナイフは先端がジョニーの体にほんの少ししか刺さりませんでした。そのときジョニーはすべてを悟ったようです。ママはぼくが邪魔なんだねとジョニーは言いました。……そのときのジョニーのたとえようもない悲しげな目つきを私は忘れることができません。……私は……、私は、……わが子をこの手で刺してしまったのです。すべてを悟ったジョニーは、私が中途半端に手を離してしまったナイフの柄に自らの手を当ててそのままグッと深く突き立てたのです。そして私に早く逃げろと言いました。ママが安全圏に逃げきるまで、ぼくは絶対に死なないから早く逃げろと、自分を殺しかけた母の身を瀕死《ひんし》の体で庇《かば》ってくれたのです。私はあれ以来一分一秒として安らかな時間はありませんでした。でもせっかく一人の子供を犠牲にして守った地位と家庭なので、最後まで大切にしようとおもったのです」
――中山種さんは、なぜそしてどのようにして殺害したのか?――
「種さんを殺すつもりはまったくありませんでした。新聞を読んで、警察がいずれ霧積に目を着けるだろうことを予測して、種さんがどの程度私たちのことをおぼえているかそれとなく探りに行ったのです。それが刑事さんが霧積へ行った日と同じだったのは、偶然の一致です」
――それならば、なぜ、高崎では自分を隠そうとしたのか?――
「種さんに会いに行くことは、極力隠したかったからです。主人にも今回は妻として私的に従《つ》いていきたいから応援演説のようなことはいっさいしないと言って了解してもらいました。十月二十一日、主人の講演会と地元有志との懇談会が終わった後、近くに住んでいる大学時代の同窓を訪ねると主人を欺いて、人目につかぬように湯の沢の種さんの家を夜遅く訪れたのです。でも種さんは私を『黒人の家族連れ』としてよく覚えていました。そのとき私は、種さんを殺さなければならないとおもいました。その夜はそこに泊めてもらって隙を狙《ねら》ったのですが、なかなかチャンスがありません。そのときふと種さんがこの村も間もなくダムの底になるともらしました。私は、それならいまのうちによく見おさめておいたほうがいいだろうと言いますと、足腰の立つうちによく見ておこうと言いだしまして、私の肩にすがってダムの上へ出かけたのです。早朝のことで、他に人影はありませんでした。お種さんは霧積で働いている孫が今日は帰って来るとかで、とても上機嫌でした。きっと自分の元気なところを孫に見せるための訓練のつもりがあったのでしょう。私を全然疑っていませんでした。無防備なお種さんをダムから突き落とすのは、あっけないくらいにたやすいことでした。お種さんは、まるで紙のようにひらひらと落ちていきました。あまりあっけないので、しばらくは人間を突き落としたという感じがしませんでした」
恭子の自供後、新見に伴われて帰国した郡恭平と朝枝路子も犯行を自供した。恭平の車体からもかすかな人体の組織片が採取され、小山田文枝のものと認定された。恭平はコンタクトレンズのケースと、熊の縫いぐるみも自分のものと認めた。ケースだけなにげなくポケットに入れっぱなしにしておいたのが、小山田文枝の死体を埋めるはずみに地上に落ちて、決め手にされてしまったのである。
同じころ、新宿署では、あるアパートの一室で「アンパン遊び」と不良学生の間で呼ばれる、睡眠薬に酔《ラリ》って乱交をするパーティに加わっていた男女高校生十数名を補導した。その中に郡・八杉夫婦の娘である陽子が加わっていた。八杉恭子は、一人の子を犠牲にして守ろうとした二人の子をも同時に失ってしまったのである。もちろん、彼女の社会的名声も終わりであった。
だが彼女の失ったものは、それだけではなかった。郡陽平が離婚を申し立てたのである。それを知っていれば結婚しなかったであろう重大な事実を隠していたというのが理由であった。
恭子は争わずに、その申し出を容《い》れた。夫が自分の地位を護るために、離婚を申し立ててきたことがわかっていたからである。ここに彼女はいっさいのものを喪《うしな》った。それは徹底的な喪失であった。
だが、彼女がすべてを喪った後にも、ただ一つ残しているものがあったことを知っている捜査員がいた。
八杉恭子は、自分の中に人間の心が残っていることを証明するために、すべてを喪ったのである。棟居は恭子が自供した後、棟居自身の心の矛盾を知って、愕然《がくぜん》となった。彼は人間を信じていなかった。そのようにおもいこんでいた。だが決め手をつかめないまま恭子に対決したとき、彼は彼女の人間の心に賭《か》けたのである。心の片隅で、やはり人間を信じていたのだ。
捜査本部に悪人を捕らえた勝利感はなかった。
年の瀬が迫っていた。
日本の警察から、ジョニー・ヘイワード殺しの犯人を検挙したという報《しら》せをうけたとき、ケン・シュフタンはなんとなくホッとした気分になった。べつに責任はないのだが、最初からの行きがかりで調べているうちに、殺されたジョニーにいつの間にか「人間の情」のようなものをおぼえて、捜査の行方が気にかかっていたのである。
オブライエン警部から聞いたところによると、ケンが調べて日本へ送った資料が、犯人逮捕に大きく役立ったそうである。
具体的にどのように役立ったのかわからないが、ケンは嬉《うれ》しかった。これで日本に対する「借り」を少しでも返せたような気がした。
その翌々日、ケンはイーストハーレムで観光客がカメラを引ったくられたという急報を受けてパトカーで現場へ飛んだ。
ハーレムでは、スリやひったくりは犯罪視しないのだが、被害者が外国人なので、いちおう調べることにしたのである。
このあたりは一般観光客の入り込まないブロックだが、撮影に夢中になってつい深入りしたのであろう。犯人はとうに逃げ去っていた。
被害者や目撃者から一通り事情を聴いて、引きあげようとしたとき、ケンはここがヘイワード父子が住んでいたマリオのアパートに近いことに気がついた。
ドアボスのマリオにもずいぶん迷惑をかけた。ごみためなどとひどいことを言ったものだが、考えてみれば彼女の協力も、ジョニー・ヘイワード殺しの犯人逮捕に一役買っているのだ。
まだ、父子の部屋を押さえているかもしれない。犯人があがったのだから、これ以上|押さえ《ホールド》させておく意味はない。マリオにも犯人が捕らえられたことを教えてやり、部屋を解放《レリース》させてやろう。
ケンは、パトカーを先に帰してハーレムの裏通りを歩きだした。ハーレムはもともと彼の故郷である。いずれは取り壊される運命にある赤れんがの建物と吹きだまりの饐《す》えた臭い。不潔で猥雑《わいざつ》で騒がしいが、そこにはたしかに人生のため息のようなものがあった。
彼は、そのため息を聞くと、不思議に心が安らぐのだ。人生の重荷と暗い影を引きずっている人間同士の連帯のようなものが感じられる。
向こうから蹌踉《そうろう》とした足取りで一個の人影が近づいて来た。きっとこのあたりにたむろしているアル中の一人だろう。
――あいつも同志なんだ――
今日はそんな気がした。人生の重荷によろめきながら歩いている同志。ケンは人影とすれちがおうとした。ケンと人影が重なり合った。背の高い黒人であった。そこでケンの時間は凍りついた。人影の口から「|犬め!(コツプス)」という言葉が漏れたようにおもった。次の瞬間、ケンは脇腹に熱せられた鉄棒を刺し込まれたように感じた。
「なぜなんだ?」
ケンはうめいて、よろめいた。足に力が入らなかった。重なり合った二つの人影が離れると、一方の人影は、ケンの来た方角へ走り、ケンは数歩ふらふらと歩いて、路面に倒れた。
昼下りのハーレムは無人のように静まり返り、だれも駆けつけて来る気配はなかった。
突然の襲撃者は、逃げるとき凶器を抜き取って行った。傷口から手で押さえたくらいではどうにもならないほど血が噴き出して来る。その血は路面の勾配《こうばい》に従って低い方へ流れて行くが、ケンはその行方を見届けることができない。
傷は重要な臓器に達したらしく、速やかに行動能力が失われ、意識が去っていく。
「なぜ、なぜなんだ?」
ケンはつぶやきながらも、その理由を知っていた。自分を刺した犯人には理由なんかないのだ。あるとすれば、人生に対する怨《うら》みであろう。ケンはたまたまそこを通りかかったばかりにその怨念の人身御供にされたのである。自分が警察官であったばかりに、犯人の怨みがかき立てられた。警察官はいつも人生の勝者の味方のように、人生から疎外された者の誤解を受けやすい。また、そう誤解されてもしかたのないところがある。
「おれだってそうだ。おれは決して正義の味方ではなかった」
ケンはうすれいく意識の中でつぶやいた。遠い日、兵役で日本へ行ったとき、無抵抗の日本人に小便をかけたのにも、明らかな理由はなかった。混血という理由だけで、常に最前線に駆り出された怨みを、日本人へ八つ当たりしたにすぎない。
戦場では危険な最前線にいつも押し出されたが、市民生活へ戻れば、今度は底辺に押しこめられる。
あのころは自分も若く、粗暴であった。自分を疎外したものすべてを敵視した。本国へ帰れば、サラブレッドの白人女は自分たちにはなもひっかけないことがわかっている。そのストレスと若い獣欲を、被占領国の女性に叩《たた》きつけようとした。それを阻んだあの日本人も敵だった。
だがあのとき日本人に放った小便は、自分の心に向けたのと同じであった。
日本人のそばでその男の子らしい幼児が、自分を燃えるような目をしてにらんでいた。あの目が、それ以後、日本に対して負ったケンの債務になったのである。
――死ねば、あの借りも帳消しになるだろう――とおもったとき、ケンの最後の意識が切れた。傷口を押さえていた彼の腕が、だらりと地上にのびた。その腕に女陰のような傷痕《きずあと》が見えた。南太平洋上の孤島での戦闘中、弾丸が至近距離で炸裂《さくれつ》して、その破片を受けた個所である。その傷のおかげで、身体の重要な部位を庇《かば》えたのだ。
ちょうどハーレムの建物の間から傾きかかった午後の太陽の光が一筋さし込んできた。それが古く黒ずんだケンの傷痕を、たったいま傷ついて出血しているかのように、生ま生ましく染め上げた。
ケン・シュフタンの息絶えたハーレムの一角は、ニューヨークの営みから切り放されたように信じられない静寂の底にいつまでも沈んでいた。
[#改ページ]
初版あとがき
今から二十数年前、大学の三年の終わり頃、私は一人で霧積温泉から浅間高原の方へ歩いたことがある。信越線横川駅で下車して山道を三時間ほどたどった奥にその温泉はあった。
人影もない山道を迫り来るたそがれと競争するように歩いて、いいかげん心細くなったころにその山峡の湯宿は、目の前に忽然《こつぜん》とあらわれた。建物は明治時代に建てられた古格のあるもので、廊下を歩くと、まるでアヒルが鳴くようににぎやかな音がした。私はその廊下を「アヒル張り」と呼んだ。その夜の泊まり客は私一人だった。湯はぬるく何時間でも入っていられる。湯舟《ゆぶね》の中に将棋盤が浮かんでいた。どうしてそんな山奥の温泉を探し出して一人で行く気になったのか、今は記憶は定かではないが、当時取り憑《つ》かれたように山に登っていた私は、ふと霧積というやさしい名前にひかれたのだろう。山登りといってもアルプスのロッククライミングのような先鋭なものではなく、尾根の縦走や峠越えや原生林を分けるさすらい派であった。そのために勝手気ままに歩ける一人旅が多かった。
霧積に一泊した私は翌朝、群馬と長野県境を伝って浅間高原に抜けた。途中には鼻曲《はなまがり》山という一、六五四メートルの山があり、浅間方面の展望が良い。季節はずれの寒い日で、その日も私はずっと山道を独占した。鼻曲山の少し手前で宿が用意してくれた弁当を食べた。ノリで包んだ大きなにぎり飯が二個、それに昆布のつくだ煮と梅干が付いていた。なにげなく弁当を開いた私は、その包み紙に刷られていた「麦稈《むぎわら》帽子」の詩を見つけた。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」という問いかけで始まるこの詩に私は激しく感動した。人影もない早春の山道を伝い来て、雑木林の中のわずかな日だまりの中に身をすくめて食べた冷たい弁当。それをやさしく包んでいた麦稈帽子の詩は冷えきっていた身体を心の底から温めてくれるように感じた。
青春は人生のどの方角にも行ける無限の可能性を持っていると同時に、すべての方角から拒絶されているように未知の不安に包まれている。私の山歩きはそんな不安を紛らすためだったかもしれない。そんなときに「麦稈帽子」とのめぐり逢《あ》いは、不安にふるえる稚《おさな》い魂を母のふところのやさしいぬくもりをもってすっぽりと包んでくれるようであった。それは現実の母ではなく、幼い記憶の中に抽象化された母である。その詩から受けた感動は現実の母からももはや受けられない、それぞれの人がそれぞれの幼い日にすでに通過してしまった追憶の中の母のやさしさであった。
人はだれでも母から買ってもらった「麦稈帽子」を持っている。それは麦稈帽子そのものでもあれば、あるいはオモチャや人形やかんざしや靴である。それはもう二度と母に買ってもらえない品々であり、たとえ同じものを買ってもらったとしても、麦稈帽子の詩におけるような抽象化された母にはなりえない。麦稈帽子は母そのものになっており、そして私たちはその母にめぐり逢えない。今いる母は現実の母であり、麦稈帽子を買ってくれた母は、帽子を媒体にして決して繰り返せない形で心の交流をわが子との間でおこなったのである。母親が健在である人も麦稈帽子を二度と買ってもらえない。すでに母親を失った人にとって麦稈帽子は「永遠の母」に向ける想いとして心の奥に定着しているだろう。
大部分の人はそれを意識していない。母への想いとはそのようなものであり、忘れたようでいて、精神を包む透明な皮膜のように精神からふり落せない。麦稈帽子の詩はその皮膜を思い起こさせてくれた。つらい時、悲しい時、孤独な時、その無色透明な皮膜は、ともすれば現実の生活に冷えかかる心をやわらかく包み、母のぬくもりを残してくれる。
私はその詩を読んだ時激しく感動したが、まさか二十数年して私の代表作と自負する『人間の証明』を書くモチーフになろうとは思わなかった。当時私は将来の目標というものを持っていなかった。未曽有《みぞう》の就職難で文科系の学生の就職は絶望的であった。自分の適性や才能に見合う職業を選ぶなどという贅沢《ぜいたく》はいっさい許されない。雇ってくれる所があればどこでもいいというせっぱつまった気持になっていた。そんな将来に対する悲観の中で邂逅《かいこう》した麦稈帽子の詩は、乾いた土に水がしみ込むように私の心の奥深く浸透して、二十数年間そこに留まって、再び湧《わ》き出る日をじっと待っていたのである。もともと私は読書少年ではあったが、文学少年ではなかった。それが奇《く》しき人生の転機から小説を書くようになり、そしてある日作家としての精進を重ねる途上、角川春樹氏にめぐり逢ったのである。氏は私に当時創刊されたばかりの雑誌「野性時代」への執筆を熱っぽく依頼した。一介のかけだし作家にすぎない私のもとに老舗《しにせ》出版社のリーダーが直接足を運んで執筆を依頼するというようなことは、めったにない。まだ海のものとも山のものともわからぬ私の可能性に角川氏は賭《か》けてくれたのである。私は氏の熱意に感激し、なんとかその期待に応えられるような作品を書きたいと思った。その時ふと心の深奥《しんおう》にゆらりとゆれたのが二十数年前の麦稈帽子の詩であった。霧積でその詩を知り、そのままうち忘れていたものが二十数年して浮かび上がってきたのである。
「ああ麦稈帽子よ、おまえはそこから出たいのか。ずいぶん長い間閉じ込めていたね」
と私は心の奥に語りかけた。しきりに母の面影がまぶたにゆれた。私は母とともに霧積へ行ったことがない。だがなぜか幼い日、母に手をひかれてあの山峡の湯宿をおとずれたような気がしてならなかった。私の母は今は老いて埼玉県の熊谷市に住んでいる。行こうと思えば二時間ほどで行けるものを現実のせわしさに追われて一年に一度会うか会わないかである。私は、吹きつけるような母へのなつかしさの中に立ちすくみながら麦稈帽子の詩をテーマにして小説を書こうと思った。そして書き上げたのが『人間の証明』である。作品の成否は読者の判断に委《ゆだ》ねるしかないが、ここに私は二十数年心の奥底に沈着していたものを投入した。『人間の証明』が一冊の本となって私の手許に届けられた時、その厚表紙で装丁された重みのある手ごたえを私の心の重さだと思った。作者がそのようなことを言うのは、おこがましいが、やはりこの作品は二十数年の沈着がなければ書けなかったと思う。
人生はめぐり逢いといわれるがこの作品を世に出したのは二つのめぐり逢いである。一つは西条八十《さいじようやそ》の麦稈帽子の詩であり、あと一つは角川春樹氏とのめぐり逢いである。
[#地付き]著 者
[#改ページ]
新装版あとがき
『人間の証明』を前「野性時代」に発表してから、早いもので二十九年経過した。四半世紀余りである。
この間、世界は激動した。湾岸戦争や、アメリカ同時多発テロ、イラク戦争以下、全世界を震撼《しんかん》させる大事件や戦争が相次ぎ、いまなおイラクは不穏な空気にある。機械文明は成熟し、コンピューターと携帯電話が世界を席巻《せつけん》した。便利さの頂上に坐《すわ》った人間は、それがどんなに公害や、各種の事故や、病気や、精神の頽廃《たいはい》や、地球そのものすら損傷する破壊力を生む温床となることがわかっていても、そこから下りられなくなる。あまりに飛躍的な物質文明の発達に、精神が追いつけなくなっている。
四半世紀以上を経て、ふたたび『人間の証明』がよみがえった。当時とは社会情勢は大いに異なっているが、母との情愛を軸にしたこの作品が、今日の読者にどのように受け止められるであろうか。母子の愛は生来的なもので、両者の愛の交流にはなんの努力もいらない……はずであった。だが、今日では幼児の虐待が相次ぎ、親が実子を死に至らしめる事件が頻発している。自分の悲惨な過去を隠すために、わが子を殺そうとした母親からこのミステリーはスタートする。ある意味では、今日の世情に通底しているような物語である。
だが、ラストにおいて犯人を落とすものはなんであったか。当時は情念のミステリーと呼ばれたが、今日にもその情念が通じるか。
私のオリジナル作品約三百三十点の中で、これほど読者を獲得した作品はない。当時、メディアミックスと呼ばれた手法で、映画、音楽とジョイントして、角川文庫の記録をつくった。「読んでから見るか、見てから読むか」のキャッチフレーズは、作品中に挿入された西条八十の詩文、「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」と共に流行《はや》り言葉になった。
中国語、韓国語、ロシア語にも翻訳され、中国では海賊版ではあったが、日本の二倍強出版されたと推測された。
旧版のあとがきに、私は、この作品は角川春樹氏と西条八十の麦稈《むぎわら》帽子の詩との出会いによって生まれたと書いたが、いまにしておもえば、時代が要求した作品と言えるかもしれない。その時代のニーズを、角川氏は嗅《か》ぎ取っていたのであろう。
また、読者層だけではなく、この作品ほど多くのエピソードを集めた作品はない。当時、角川書店が社運をかけた日本地名大辞典の刊行、および日本映画としては桁《けた》外れの製作費をかけた映画「人間の証明」と連動して、全国でキャンペーンを展開し、翌年、続いて刊行した『野性の証明』と共に、全国二十八都市、四十店の書店で連続縦断サイン会を開いた。『野性の証明』時には、二万冊のサインをして、指が動かなくなった。
毎朝九時、角川春樹氏率いる映画隊と、当時専務であった角川|歴彦《つぐひこ》会長率いる地名辞典、および書店隊は三方に分かれて、それぞれのプロモーション活動を始める。私は、まず各地方都市のマスコミインタビューに応じて、二店ないし三店のサイン会に臨んだ後、映画隊と合流して、スターと共に舞台|挨拶《あいさつ》に立った。夜は映画、および地名辞典、書店三隊が合流して宴会となる。これを毎日毎夜、移動しながら十数日つづけたのであるから、気力、体力ともに充実していたのであろう。
私だけではなく、角川書店のスタッフも、角川書店そのものも若く、溌剌《はつらつ》としていた。社運をかけての大イベントの核《コア》に置かれているという緊張と興奮が、イベント終了後も持続していて、しばらく自分の穴に閉じこもれなくなって困った。
初版百万部、連続サイン会四十店という、作家としてめったに出会えない大規模なプロジェクトに参加できたことは、作家|冥利《みようり》に尽きると言えよう。
『人間の証明』を嚆矢《こうし》として、『青春の証明』『野性の証明』、その他の証明シリーズにつながった。私のシリーズキャラクター、棟居《むねすえ》刑事も『人間の証明』から誕生した。
『人間の証明』以前は、小説というものは一人で書くものとおもい込んでいた。だが、『人間の証明』以後、必ずしもそうではないとおもうようになった。人や、詩や、時代とのめぐり逢い、映像や音楽との提携、そして読者との出会いである。これらの邂逅《かいこう》が、『人間の証明』を書かせ、七百七十万(国内)の読者を獲得したのである。
しかも、これは『人間の証明』一作に限ってのことであって、それ以後の証明シリーズや『悪魔の飽食』へつづくジャンピングボードとなった。
小説を書くという一人の作業が、これほど華々しく顕彰された作品はない。そして、その『人間の証明』が四半世紀を経たいま、テレビとジョイントして、ふたたび帰って来る。
「夢よ、もう一度」と言うが、この作品には、作者はもちろんのこと、多数の人々の夢が込められている。人はみな、見残した夢を持っている。『人間の証明』には、見残した夢の破片が鏤《ちりば》められているようである。
なによりもすべてが若かった。そして作家になって間もなく、作家になれたことが嬉《うれ》しく、全身に書きたいことがぎっしりと詰まっていた。それまで会社のために働いていた身が、自分一人のために働ける自由感と充実感に弾み上っていた、作家になりたいとおもっていた夢を実現して、最も書きたいテーマとチャンスに出会えた作品、それが『人間の証明』であった。そして、それは私にとって見果てぬ夢となったのである。いま、その夢がふたたび実現しようとしている。私にとって『人間の証明』は何度もよみがえる永遠の青春である。
[#地付き]著 者
角川文庫『人間の証明』昭和52年3月10日初版発行
平成16年5月15日改版初版発行