[#表紙(表紙.jpg)]
ファミリー
森村誠一
目 次
虚構の家族
化け物の眷属《けんぞく》
はずされた橋
失踪《しつそう》した墓参
監禁された胎動
獣の嫁
絶望からの発信
凝縮された相姦《そうかん》
失踪する家庭
家の中の家出
焼却した縁
新たなる香り
[#改ページ]
虚構の家族
それは深夜の事故であった。
たまたま通行車も絶え、歩行者もなく、目撃者は皆無であった。事故の真相は被害者と加害者のみしかわからない。
被害者は信号のない横断歩道を横断中、疾走して来た車に轢《ひ》かれた模様である。
現場は街灯の光が届かない。暗い上に、折から雨が激しく降っていて、運転者の視界は悪かった。
死体は著しく損傷を受けていた。
午前三時ごろ、現場を通りかかったタクシーによって、ようやく被害者の死体が発見され、通報された。
警察が臨場して調べたが、折からの激しい雨によって、現場にあったはずの加害車の積載物の破片や塗料片や、タイヤの紋様などが洗い流されて、加害車の手がかりが失われていた。
また被害者の傷の状況から、加害者の車種や、どの部分に当てられたか判定できるのであるが、被害者は第一加害車と衝突した後、現場を通りかかった数台の通行車に轢かれたらしく、全身にわたって損傷を受けていた。
このため、傷の状況から車種の判定が困難であった。
被害者が所持していた名刺や定期券から、その身許が判明した。
椎葉道夫《しいばみちお》、二十七歳、千代田《ちよだ》区|麹町《こうじまち》三丁目にある建築事務所に勤める一級建築士であった。
その夜残業で遅くなった被害者は、午後十一時ごろ事務所を出て、現場を横断中、奇禍《きか》にあったものである。
椎葉道夫は宮崎県|延岡《のべおか》市出身、郷里に両親が健在であったが、遠隔地のため遺体の確認を、とりあえず都内在住の被害者の婚約者であった大杉弓子《おおすぎゆみこ》に連絡が取られて、依頼された。
自宅にいた大杉弓子は、警察からの連絡に取るものも取りあえず飛んで来た。
無残な死体であったが、顔だけは損傷を受けていなかった。
突然、婚約者の死に顔に対面させられた弓子は、一目見るなり、その場に泣き崩れた。
「椎葉道夫さんにまちがいありませんね」
彼女の様子から、被害者の死体は確認されたが、係官は念を入れた。被害者の遺族や知人にとっては残酷な形式である。
弓子は嗚咽《おえつ》しながら、うなずいた。
椎葉とは二年越しの交際であった。彼が一級建築士の資格を取ったら結婚しようという約束でつき合っていた。
椎葉が念願の資格を取って、この六月、挙式の運びになっていた矢先の突然の事故である。
弓子は茫然自失した。病院の死体安置室へ呼び出されて、椎葉の無惨な死体を確認していながら、彼が死んだ事実が信じられない。
椎葉はいたずら好きであった。デートの最中、突然姿を隠したり、仮病を使ったりして、弓子をからかった。
今度の事故も、椎葉がいたずらをしているような気がしてならない。たまたま椎葉のそっくりさんが轢き逃げされたので、自分は姿を隠して、彼女が嘆き悲しむ様を物陰から覗《のぞ》いているのかもしれない。
(どんなひどいいたずらをしても決して怒らないから、出て来てちょうだい)
弓子は心に祈った。
これまで椎葉にからかわれて、ひどく怒ったことがある。弓子が本気で怒ったので、椎葉は頭を掻《か》きながら、ごめんごめん、もう二度としないよと誓ったものである。
その誓いに背いて、生命を弄《もてあそ》ぶようないたずらをしたものだから、いまさら出るに出られず、困っているにちがいない。弓子はそんな気がした。
椎葉と知り合ったのは二年前の五月である。
通勤電車の中で痴漢《ちかん》に絡《から》まれて困っていた弓子を、椎葉が救ってくれた。それがきっかけでつき合うようになった。
当時、上京して間もなかった弓子は、東京に知人もなく、親しい友人もできず、大都会での女の心細い独り暮らしをしていたところに、椎葉が現われたのである。
二人は急速に親しくなり、将来を誓い合う仲になった。
椎葉が念願の一級建築士の資格を取り、間もなく結婚という矢先に、突然|闇《やみ》の奥から疾走して来た黒い凶器に彼を奪われてしまったのである。
弓子は絶望の淵へ叩《たた》き落とされた。椎葉との二年が、彼女の心身に大きな位置を占め、いきなりそれを取り除かれた後に穿《うが》たれた空洞は、彼女の中に深い虚無の海をたたえた。
椎葉を知る前ならば一人で生きていけた。だが彼を知った後、弓子はもはや都会で一人で生きて行くことができなくなっていた。
椎葉と共に描いた生活の設計が、突然無に帰し、これから先ただ一人で生きて行けというのは残酷である。
愛する対象以前に、すがりつくべき存在が欲しかった。都会という人間の海は、女一人が泳いで渡るには厳しすぎた。
とりあえず身を託すべき小舟、舟が得られなければすがりつける浮袋でもよい。浮袋がなければ、藁《わら》にでもつかまりたい心境であった。
椎葉を失って数ヵ月後、弓子の会社の上司である福井正次《ふくいしようじ》が、
「大杉さん、見合いをしてみないか」
と声をかけてきた。
「とてもそんな気になれません」
弓子が答えると、
「気持ちはわかるが、死んだ人をいつまでおもっていても、生き返るわけではないよ。彼もきっと、きみが一日も早く立ち直ることを願っているにちがいない。きみがいつまでも彼の想い出の中に浸って打ち沈んでいると、彼も浮かばれなくなるよ」
福井は励ますように言った。
「私のような女とお見合いをしようという人がいるのですか」
「いるから、話しているのだよ。どうだね、一度会うだけ会ってみないかね」
福井は弓子と椎葉の関係を知っている。その上で見合いの話を持ちかけてきたのである。
面倒みのよい上司で、椎葉との結婚も福井に相談している。福井の持ってきた話なら信用できる。
突然ただ独りに突き放されて途方に暮れていた弓子は、福井が持ちかけた話に興味をおぼえた。
彼の言うように、会うだけ会ってみようかとおもった。いやなら断わればよい。
「相手の方は、椎葉さんと私のことを知っているのですか」
弓子は福井に問うた。
「そんな話はする必要がないよ。きみは椎葉君のことは忘れて、新しいスタートラインに立っているのだ。椎葉君もそれを望んでいる」
福井は言った。
福井のお膳立てで、二月末の休日、都内のホテルで弓子は見合いをした。
見合いの相手は羽室裕也《はむろゆうや》という二十八歳の青年である。都内の一流私立大学を卒業し、著名な広告代理店に勤めているということである。
見合いに先立ち、福井が持って来た身上書によると、世田谷《せたがや》区の自宅には、元大学教授の父と、母、および昨年女子大を出て都内の商社に勤めている妹、大学三年の弟と一緒に住んでいる。非の打ちどころのない家族である。
羽室裕也の見合い写真も、その表情に椎葉に一脈似通ったところがあって、好感をそそられた。
弓子は父を幼いころ失い、母は郷里の島根にいるので、福井にエスコートされて見合いの場所へ赴いた。
裕也には両親が付き添って来た。
福井に紹介されて、初対面の挨拶を交わした弓子は、羽室に写真以上の好感を抱いた。
一流広告代理店の、いわゆる業界筋のやり手であるから、かなり悪達者な相手を予想してきた弓子は、眩《まぶ》しいものでも見るような羽室のシャイなまなざしと、初々しい態度に好感を持った。
写真よりも本人の方がいっそう椎葉に似ている。椎葉もよくあのようなまなざしをして弓子を見た。
父親の徹三《てつぞう》も申し分ない知的な紳士であり、母親の繁子《しげこ》も上品で優しげな女性であった。
羽室裕也と両親も、一目で弓子が気に入った様子である。若い女が都会で独り暮らしをしているだけで、偏見《へんけん》を持たれやすいが、彼らはまったくそんなことは気にせず、それぞれの趣味や生活について語り合った。
言葉のはしばしから豊かな教養と恵まれた生活環境がうかがわれる。座はとてもいい雰囲気で盛り上がった。
頃合いよしと見たらしい福井が、
「二人だけで、庭でも見て来たらどうですか。このホテルの庭はなかなか見事ですよ」
と気を利かして勧めてくれた。
「それがいい。いつまでも年寄りの話し相手では弓子さんも飽きるでしょう」
徹三が明るく笑って言葉を添えてくれた。
年寄りと卑下しているが、両親とも五十路にかかっているはずなのに、見かけは四十代の若さである。羽室が両親と一緒にいても、きょうだいのように見える。
羽室と弓子は勧められるままにホテルの庭へ出た。
庭の中心に池が設けられ、鯉《こい》の群れが華やかな色彩を溶いている。池には橋が架けられ、ほとりに四阿《あずまや》や茶室が配されている。
池を渡り、築山を越え、四阿の横を通って散歩道がめぐっている。日本庭園に近代的な超高層のホテルの建物がよく調和している。
「綺麗《きれい》ですね」
羽室が感嘆の声を発した。
「本当に」
弓子がうなずくと、
「いいえ、景色のことではありません。あなたのことを言ったのです」
と羽室が言葉を追加した。
「まあ、お上手ですこと」
世辞とわかってはいても、悪い気はしない。歯の浮くような台詞《せりふ》であるが、弓子の耳に快かったのは、それだけ相手に傾いている証拠である。
「あなたにお会いできて、本当によかったとおもいます」
羽室は橋の中央で足を止めた。鯉が足許へ寄って来る。
「そうおっしゃっていただけると嬉しいですわ」
弓子はとりあえず無難な受け答えをした。
「実を申し上げますと、今日の見合いにあまり気が進まなかったのです」
羽室は鯉の方に視線を向けて言った。弓子は言葉を控えた。
「両親が、とにかく私を早く結婚させたがっていて、うるさいのですよ。会うだけでいいからと、両親に手を引っ張られるようにしてやって来たのです。まさかあなたのような方が現われるとは、予想もしていませんでした」
「期待に外れて申し訳ありません」
「とんでもない。正直に申し上げますと、今日が十六回目の見合いなのです」
「後になればなるほど、ご期待から離れていくのではございませんこと」
「あなたの前まではそうでした。でも、あなたに会って、待った甲斐《かい》があったとおもいましたよ」
羽室はやや照れた表情で言った。
その少年のような含羞《がんしゆう》の表情の一コマが、一脈椎葉に似通っている。
羽室に対して、弓子はこれが初めての見合いである。椎葉に出会って以後の二年間、彼に蓋《ふた》をされた形で、他の異性にはまったく目が向かなかった。
池の中央に架《か》かった橋を渡り、築山を越えて池を一周したころは、彼らはかなり打ち解けていた。
「今日初めてお会いしたばかりなのに、あなたをずっと以前から知っていたような気がします」
元の場所へ戻って来たとき、羽室が言った。
「私も」
おもわず弓子もうなずいてしまった。
「本当ですか」
羽室の目が輝いた。弓子はそのまなざしに、亡き椎葉の面影を重ねていた。
弓子は羽室裕也と結婚した。椎葉が死んで半年後であった。
そのことに少し心の痛みをおぼえたが、彼女にしてみれば、羽室によって椎葉を失った傷の手当てをする意識である。
このまま放置しておけば、傷口からとめどもなく出血して、弓子は再起不能になってしまう。
裕也は彼女が立ち直るための最良の薬であり、傷口に当てるべき上等な包帯であった。これ以上の薬、彼にまさる止血帯はなかったであろう。
椎葉の霊も、彼女の結婚を喜んでくれているようにおもえた。
結婚に先立って、裕也は一つの条件を出した。
「弟と妹はいずれ家を出て行く。ぼくは長男なので、両親の面倒をみなければならない。そのかわりと言ってはなんだが、さしたる財産でもないが、現在住んでいる家と土地はぼくが相続することになる。両親と一緒に住んでくれると有り難いのだが」
裕也は遠慮がちに言った。
婚約成立と同時に裕也の家へ行った。世田谷の一隅の閑静な住宅街に、羽室家は豪邸と呼ぶにふさわしい構えを、小さな森のような木立をめぐらした広い庭が囲んでいた。
羽室家の偉容は、高級住宅が並び建つその一角でも一際目立った。家具にはすべて古格があり、その家史の長さを示すように黒光りしている。
壁になにげなく懸《か》けられた絵や軸物や床の間や床脇に置かれた壺なども文化財物である。
初めて羽室家を訪問したとき、弓子はその家の妻として迎え入れられることが信じられないくらいであった。
空気には花の香りが漂い、通行人はいずれも血統書付きのような愛玩犬やペットを携えている。
通り過ぎる車や、門前にさりげなく停まっている車は、すべて高級車である。
羽室家の財産がどの程度あるのか知らないが、家と土地だけでも大した資産であろう。
弓子はべつに羽室家の資産と結婚するわけではないが、これだけの家の跡取り息子と結婚するからには、じじ抜きばば抜きは要求できないとおもった。
幼くして父を失い、母親の女手一つで育てられた弓子は、幸福な家庭環境に飢えている。
妹の睦子《むつこ》と弟の一直《かずなお》にも引き合わせられた。彼らは初めから親近感をもって迎えてくれた。親子きょうだい五人、和気あいあいたる雰囲気の家庭であった。
家の中には家族がしっくりと親和し、豊かさが溢れているように見えた。決して贅沢《ぜいたく》ではないが、すべてに余裕が感じられる。
弓子は幼いころから、このような家庭を夢見ていた。
羽室家の食堂で家族一同と初めて食事をしたとき、睦子が言った。
「私、この家でいつも不満におもっていたことが一つあったのよ」
「なんだね、それは。過保護かもしれないが、私はおまえが欲しいものはすべてあたえてやったとおもうがね」
父親の徹三が優しげな目を睦子に向けた。
「それはお姉様なの。一直にはお兄様がいるのに、私にはお姉様がいない。不公平だとおもっていたわ。でもそれが今日から、私にもこんな素晴らしいお姉様ができたのね」
睦子が言った。
「これは過保護になってしまったかな」
徹三が言ったものだから、一座がどっと沸《わ》き立った。
「今度はぼくが不公平だよ。姉貴にはこんな素晴らしいお義姉《ねえ》さんができたというのに、ぼくには相も変わらぬ裕也兄さんだからね」
一直が抗議するように言ったので、
「それではおれは兄として不足だと言うのかね」
と裕也が問い返した。
「完璧な兄さんだとおもっているのかい」
一直が言い返したので、一座がふたたびどっと沸いた。
妹の睦子も、弟の一直も、弓子を家族の一員として心から歓迎しているようであった。
結婚式は身内の者だけでごく簡素にという裕也の希望を入れて、羽室家の人間およびその数人の身内、弓子の母、弓子の会社の数人の友人、および仲人の福井等十数人が集まって、ひっそりと挙げた。
弓子の母は、遠い郷里におり、彼女の親戚も都内に在住していなかったので、裕也の申し出は彼女にとっても願ったり適《かな》ったりである。
裕也の父親の社会的地位や、素封家としての羽室家の人脈から、かなり盛大な結婚式になるだろうと、弓子は内心恐れていた。
そうなったとき、家格の不釣り合いな結婚であることを露呈せざるを得ない。
弓子の郷里が遠隔の地にあり、親戚や身内が都内に在住していないとはいえ、羽室家側の豊富な出席者に対応して、大杉家側もまったく出ないというわけにはいかない。
郷里の親戚を総動員しても、たかが知れている。弓子の実家は貧しい。親戚にも豊かな者はいない。
弓子は綺羅星のごとき羽室家の来賓《らいひん》と、いかにも見すぼらしい大杉家の出席者とのアンバランスな場面を想像して、密かに胸を痛めていた。
純朴な田舎者の大杉家の身内に、見すぼらしいおもいをさせたくない。とはいえ、多少の釣合いを保つために彼らをまったく呼ばないというわけにはいかないであろう。
弓子の懸念《けねん》を見透かしたように、裕也がごく親しい者だけを集めてのささやかな結婚式を主張してくれたときは、内心ほっとした。裕也の両親も賛成してくれた。
羽室家の家格からして、また徹三の社会的地位からして、長男の結婚式は盛大にしたいはずである。
結婚は決して両人だけのものではない。二人が背負っている家と家の結び合いでもある。
その家が歴史が長く、社会に占める地位が大きければ大きいほど、結婚の事実を社会的に公告しなければならない。
また結婚は、それぞれの家のテリトリーを拡大する絶好のチャンスでもある。結婚を政略や商略の道具にもする。
結婚は男女間の最も強い結びつきである。離婚率が高くなっているが、最初から離婚しようとおもって結婚する者はいない。
異性の数だけの組み合わせが考えられる夥《おびただ》しい男女の中で、ただ一人の異性に専属しようとする契約は、世の中のあらゆる約束の中で、最も信頼できない男女間の約束に保証をかけようとしたものである。
最もあてにならない男と女の約束に、社会的な保証をかけて、たがいに貞節を守り、二人の間だけで子供を産もうという契約が、社会を構成する最小単位の家庭をつくり、人間関係の基礎となったのは皮肉である。
男女の最も強いチャンネルである結婚を通して、それぞれの家のテリトリーを拡大しようとするのは当然の傾きである。
だが大杉家の状況と、弓子の置かれた立場を考慮して、家勢を誇示《デモンストレート》する最大の機会を見送った裕也と、羽室家の姿勢に、弓子は優しいいたわりをおぼえた。
結婚式は都内のある神社で挙げた。式の後、社殿でささやかな披露宴を開く。
この後、新郎新婦は都内のホテルに一泊して、アメリカ西海岸への新婚旅行に出発する。
披露宴の席上で裕也の母繁子が、
「私も従《つ》いて行きたいくらいだわ」
と半ば真顔で言った。
「わしも一緒に行きたいよ」
かたわらから父の徹三が口を出した。
「あなたが一緒では新婚旅行にならないわよ」
繁子がたしなめるように言った。
「おまえが一緒でも同じだろう」
「私は母親ですから」
繁子が澄ました顔で答えた。
「母親ならばいいのかね」
「裕也はきっと許してくれるとおもうわ」
「おいおい、裕也が許しても、弓子さんが許さないよ。これは二人の新婚旅行なんだよ」
徹三が呆《あき》れ顔で言ったので、一座に笑いが生じた。
「弓子さんならきっと許してくださるわ。ねえ、弓子さん」
繁子が弓子に同意を求めてきた。
「さあ、どうしましょう」
弓子は半ば当惑して、裕也の顔をうかがった。裕也はただにやにや笑っているばかりである。
「弓子さん、許してください。世にマザコンと言いますが、家内は息子《サン》コンプレックス、つまりサンコンなのです」
「まあ」
「いつまでたっても子離れできないのですな」
「子離れできないのはあなたの方でしょ」
すかさず繁子が切り返した。
「まあまあ、弓子さんが困っていますよ。ご両親とも子離れできないお気持ちはわかりますが、今日からは裕也君は弓子さんに預けなさい」
福井が口をはさんだ。
和気あいあいたる披露宴がお開きになった後、弓子の母親の淑江《としえ》が娘のかたわらへ寄って来た。
「裕也さんのお母さんだがね」
淑江はそっとささやいた。
「お義母《かあ》様がどうかしたの」
母の口調にふとただならぬものをおぼえた弓子は、問い返した。
「あの人、気をつけた方がいいよ」
「気をつけるって、なにを」
「私のおもいすごしならばいいけれど、あの人、どうもおまえを妬《ねた》んでいるようだわよ」
「それは、これまで手塩にかけた息子を取られてしまうんですもの、お姑《しゆうとめ》さんってみんなお嫁さんに焼きもちを焼くわよ」
「その程度の焼きもちならいいけれどね」
「その程度でなければ、どんな焼きもちだというの」
弓子は気になって問い返した。
「私の勘のようなものよ、私にもよくわからないんだけれど、あの人は、もしかすると……」
と淑江は言いかけて口をつぐんだ。
「もしかすると、なに」
「よくわからないわ。とにかくあの人には気をつけた方がいいよ」
そのとき裕也が近づいて来たので、淑江は娘のかたわらから離れた。
母親に注意されて、おもいあたることがないでもなかった。
それは裕也に対する繁子の態度に、子供に対する母親というよりは、恋人に甘えるような媚態《びたい》が感じられたのである。
二十八歳の一人前の息子に対して、必要以上にべたべたする。服の着替えを手伝ったり、飲食の給仕をしたりするときなど、意味もなく身体に触れる。
まるで幼児に接するように、頬《ほお》を指で突ついたり、背中から抱き締めたりする。人目がなければ頬ずりしたそうな様子である。
繁子が若づくりなので、母子と知らない者の目には異様に映るかもしれない。
そのとき弓子は二人が幼いころのままの母子関係が、子供が成長してからも持続していると考えていた。
父親が「サンコン」と言ったように、母が子離れできず、裕也がそれに優しく対応していると考えた。
だが淑江に言われて、繁子の「サンコン」には裕也を息子としてではなく、異性として意識しているような気配が感じ取れた。
母親が息子に異性をおぼえることはある。我が腹を痛め、手塩にかけて育てた息子は、母親にとってはある意味では最高の異性である。
それを一朝にして現われたどこの馬の骨ともわからぬ女に奪われていくのである。母親が息子の妻に嫉妬をおぼえるのは当然と言えよう。
淑江には息子はない。息子をほかの女に奪われた経験がない彼女は、母親と普通の女の嫉妬を混同したのかもしれない。
弓子は自分に都合よく解釈して、胸に兆した不安の芽を押しつぶした。
新婚旅行は楽しかった。サンフランシスコ、ロスアンゼルス、グランドキャニオンをまわって、帰途ハワイへ寄って帰って来た。
このハネムーンの間に、彼らは夫婦として一体化した。
裕也と結婚前、椎葉との二年間によって開発され尽くした弓子の身体であったが、それは裕也のために地ならしをしておいたように、彼らの結び合いを強めてくれた。
裕也も充分に経験を積んでいた。女の身体を知り尽くし、女の扱い方に熟達している。それも多数の女を経験して熟練したのではなく、優れた性の教師について、女を学んだような完全なる性技であった。
裕也と交わっていると、彼女の身体を開いた椎葉の癖や、椎葉の人間までが読み取られそうな気がした。
裕也は弓子の身体が処女でないのをとうに察知したらしいが、むしろ彼女の身体が程よい具合に地ならしされているのを喜んでいるようであった。
裕也との夫婦生活のスタートは、おおむね順調であったが、サンフランシスコのホテルでの初夜のとき、裕也は奇妙な儀式を行なった。
裕也はベッドインに際して、ベッドの中に手垢で汚れたおかっぱ頭、振袖を着たやまと人形を持ち込んだのである。
「それ、なあに」
弓子は驚いて問うた。
長年身辺に置いたらしく、手垢で汚れ、振袖はほつれている。
「小さいころお袋に買ってもらってね、小さいころからこの人形を抱いて寝る習慣がついてしまったんだよ。これがないと、安心して眠れないんだ」
裕也はいたずらを見つけられた少年のような表情になって弁解した。
「今夜から私がそのお人形の代わりになってあげるわ」
弓子は言ったが、
「いきなりねんねを仲間はずれにすると可哀想なので、徐々に一人で寝つけるように躾《しつ》けるよ」
「ねんねと言うのね」
「ねんねはぼくのそばでないと眠れないんだ。馴れるまで我慢してくれないか」
裕也は言った。
眠れないのは裕也の方であろう。二十八にもなって、やまと人形と添い寝をしているのは異様である。
そのとき弓子の耳に母の言葉がよみがえった。
「あの人には気をつけた方がいいよ」
母の忠告はこのような場面を予想していたのかもしれない。弓子は繁子が弓子を監視させるために、やまと人形を付けてよこしたような気がした。
新婚旅行の間、裕也と申し分ない緻密《ちみつ》な一体感を得ながらも、意識の片隅にだれかに覗《のぞ》かれているような気がしていたのは、ねんねがかたわらにいて、彼らの行為を凝《じ》っと見守っていたからである。
そしてねんねの目を潜望鏡のようにして、繁子が凝っと観察していたのかもしれない。
新婚旅行から帰ると、弓子の羽室家の一員としての生活が始まった。家族は和気あいあいとして、まことに和やかな家庭であった。
淑江から忠告されて気にしていたが、繁子は弓子が案じていたような意地悪は一切しなかった。
弓子は結婚と同時に、これまで勤めていた会社を辞めて、羽室家の主婦となった。
これまで気儘《きまま》な独り暮らしをしてきたので、突然六人家族の主婦となって、とまどうばかりであったが、繁子や睦子が優しくおしえてくれた。
弓子が来たので女手は三人になった。睦子は勤めに出ていたが、休日や家にいるときは家事を手伝ってくれる。
このような場合、女三人の間で、特に姑と嫁の間で家事の主導権をめぐって対立が生ずるものであるが、繁子は、
「あなたがこの家の主婦よ。あなたの好きなようになさい。わからないことがあったら、なんでも私と睦子に聞いてね」
と優しく弓子を立ててくれた。
もともと弓子は家事が嫌いな方ではない。会社でも、女子社員の嫌うお茶汲みや掃除や雑用を率先して引き受けたので、男性社員には人気が高かった。
羽室家へ来てから、優しい姑に導かれて、弓子は速やかに羽室家の家風に馴れていった。(やっぱり母の言葉は杞憂《きゆう》だったんだわ。あんな優しいお姑さんは、どこを探してもいないわ)
弓子はほっとして自分に言い聞かせた。
彼女は幸せであった。夫はこの上なく優しく、夜を重ねるほどにその和合は緻密になっていく。毎夜のように裕也に抱かれながら、夜が待ち遠しいくらいである。
休日などは家族の目がなければ、昼間から求めてしまうかもしれない。
夫を送り出し、家事に励みながら昨夜の閨《ねや》でのことを反芻《はんすう》して、一人で頬を染めることがある。
「弓子さん、嬉しそうだわね」
繁子に顔を覗かれて、ますます赤くなってしまう。
父親の徹三は週三日、出かける。パートの講師としてある大学へ出講しているそうである。夫と睦子は出社し、弟の一直も登校するので、昼間は家の中に繁子と弓子の二人が残される。
「いままでこの広いお家に一人で寂しかったけれど、弓子さんが来てくださったので、心強いわ」
と繁子は言った。
実際にこの広い屋敷に一人で取り残されていたら、心細いであろう。その意味でも、繁子は弓子が嫁いで来てくれたのを歓迎しているようである。
結婚して数ヵ月は無我夢中のうちに過ぎた。
夏が行き、秋が深まって早くも師走に入り、その年も押しつまってきた。
このころになって、弓子もようやく羽室家の一員として落ち着き、周囲を見まわす余裕ができてきた。
結婚のとき、親しい人たちだけを招いてささやかにという裕也の提案に救われたが、その後、その言葉を源にして徐々に不審が生じてきた。
それは羽室家にまったく訪問者がないことである。
父親の徹三は名のある大学の元教授で、社会的にも名を知られている。その人脈や交友関係もかなり広いはずである。ところがまったく訪問者がない。
徹三だけでなく、繁子や睦子や一直にも訪ねて来る人がいない。繁子にも同窓生や趣味の友がいるであろう。睦子や一直には職場関係や学校関係の友人はいないのか。
それよりも裕也の友人、知己はなぜ来ないのか。時折訪れる者といえば、各種セールスマンや集金人あるいは町内会の回覧板を持って来る隣家の奥さんや娘さんであった。
訪問者だけではない。郵便物もほとんどがダイレクトメールである。
「お客様が少ないのですね」
不思議におもった弓子がなにげなく言うと、繁子が少し表情を改めて、
「実は、主人が家で人に会うことをあまり好まないのよ。ですから人に会う用事はほとんど外で足しているの」
とやや弁解調に言った。
「親戚の人にも外で会っているのですか」
「それがね、羽室家には親戚がいないのよ。主人の兄はブラジルへ行ったきりで没交渉なの。私も一人っ子だったし、両親はとうに世を去っていて、いとことはつき合っていないの。結婚式のとき羽室家の親戚がいなかったでしょう。あれは呼ばなかったのではなく、つき合っている親戚がいなかったのよ。でも今度はあなたの家と親戚になったから、遠慮せずにお母さんや身内の人を呼んでちょうだいね」
「うちも親戚がいないのです」
母は親戚ではなく骨肉であるが、こちらから呼ばない限り来ることはないであろう。
弓子はそのとき、なぜ家に客を迎えるのをいやがるのか聞きたいとおもったが、喉元《のどもと》に堪《こら》えた。繁子に、そのことをあまり話題にされたくない様子が感じ取れたからである。
家族の仲が良すぎて、外来者を好まないということもあるかもしれない。
だが外来者という意味では、弓子はその最たるものである。
外来者を迎え入れて、速やかに家族の一員として同化させるために、家族で寄ってたかって優しくしているのかもしれない。
弓子は羽室家の優しさに、そんな邪推すら持った。
いったんは納得したものの、その年も押しつまり、新たな年を迎えて、弓子の不審はさらに募ってきた。
正月に年賀の客がまったく現われなかったからである。
家族六人で迎えた初めての正月である。おせち料理も家族の分しかつくらない。
「お客様の分も用意しなくてよろしいのですか」
年末に弓子が繁子に問うと、
「お正月は毎年、家族だけで迎えることにしているのよ。お元日早々から、お年賀の客のためにお台所に立ちたくないでしょう。親子水入らずでお正月を過ごすのが、羽室家の家風なのよ」
と繁子は言った。
二日も、三日も年賀の客は来なかった。
殺到する賀客をもてなすために台所に釘付けにされるのも歓迎できないが、まったく客が来ない正月というのも侘《わび》しい。
以前は椎葉や自分の親しい友人たちを集めて忘年会や新年会を賑やかに開いていたので、この家族だけの静かすぎる正月は、弓子にとって少し異様であった。
羽室家は、それだけ家族の和合を大切にしているのであろうとおもった。
世間のつき合いよりも、家庭の平和と安らぎに第一義を置く。そんな家風であれば、年始の客を一切シャットアウトしても不思議はないと、弓子は自分に言い聞かせた。
そんな家風であるので、弓子はなんとなく母や自分の友人を呼びにくい心理になっていた。
結婚後、何人かの会社時代の友人が遊びに来てくれた。繁子や裕也は歓迎してくれた。
親友の笹岡美津子《ささおかみつこ》は、目を丸くして、
「凄いお屋敷じゃないの。弓子が玉の輿《こし》に乗ったとは聞いていたけれど、こんな豪邸の奥様におさまったとは知らなかったわ」
と驚嘆の色を隠さなかった。彼女は以前、会社の同僚だったが、いまは退社して女性週刊誌の社外記者をしている。
その美津子も一度訪ねて来ただけで、二度と来ない。弓子が誘っても、
「弓子、出ておいでよ。あのお屋敷では、なんだかお尻がむずむずして落ち着かないのよ」
と美津子は言った。
「どうして? 義母《はは》も羽室も、またぜひ来るようにと言っているのよ」
「有り難う。でも、なんだか気後《きおく》れしちゃうんだなあ」
「美津子らしくないじゃないの。たしかに構えは大きいけれど、この程度の家は、この近くにいくらでもあるわよ」
「そうかもしれないけれど、なんと言ったらいいのかなあ。弓子、怒らないでね」
「怒らないわ、なんなのよ」
「やっぱりやめておくわ」
「いやだな、そんな奥歯にもののはさまったような言い方は、美津子らしくないわよ」
「それじゃあ言うわね。なんだかリアリティがないんだな」
「リアリティがない?」
「あんまり幸せを絵に描いたような家で、なんとなく嘘《うそ》っぽいのよ。まるで映画や小説の中の幸せな家庭みたいで、現実味に乏しいんだな。ごめんね、こんなことを言っちゃって」
美津子は言ったそばから謝った。
美津子に言われたときは、弓子自身がそのリアリティのない幸福に陶然《とうぜん》となっていて、美津子の言葉がピンとこなかった。
訪問客のないことから、じわじわと頭をもたげてきた不審が美津子の言葉と結びついて、意味を帯びてきた。
たしかに美津子が言ったように、この家の家族はあまりにも仲が良すぎる。口喧嘩《くちげんか》一つしたことがない。
しかし、口喧嘩一つしたことのない家族というものがあるのだろうか。
美津子は映画や小説の中の家族のように嘘っぽいと言ったが、映画や小説でそんな家族を描いたら、観客や読者からリアリティがないと批判されるであろう。
実際の家族は、時には激しくかきむしり合い、罵《ののし》り合い、憎み合って生きていくものではないのか。愛憎が縄のように糾《あざな》われて、家族の紐帯《ちゆうたい》となるのではないのか。
それが羽室家では、家族はしっくりと相和し、さざ波一つ立たない。それはあたかも役者が幸せな家族を演技しているかのようであった。
その点に笹岡美津子が嘘っぽさを感じたのであろう。
弓子は自らおもいついた演技という言葉に、はっとなった。
(もしかしたら、羽室家の人たちは、夫をはじめみんな幸福な家族を演じているのではないのだろうか)
この家に嫁いで来てから、彼女が初めておもいあたった疑惑である。
意識的に演技でもしなければ、口論一つしない家族というものはあり得ない。
だが、なんのためにそんな演技をするのであろうか。家族ならば、演技などする必要はない。
やはり幸せすぎる羽室家の家族に、笹岡美津子が嫉妬《しつと》して、あんなことを言ったのであろう。
だがいったん胸に兆《きざ》した疑惑は、成長する一方である。
もし羽室家の幸福が家族の演技によるものであれば、実際は幸福ではないことになる。
家庭円満を絵で描いたようであるが、それが演技であれば、その実相は少しも円満ではないことになってしまう。
彼らはあまりに完璧に幸せ家庭や、円満家族を演技したために、かえって嘘っぽくなってしまったのではないのか。
これを本職の役者が演じたなら、リアリティを持たせるために、適度に喧嘩や不仲な場面を演じたはずである。
もし羽室家の幸せが家族の演技であるとするなら、なんのためにそんな演技をしているのか。
弓子という外来人を迎え入れたための演技であるとするなら、そろそろ化けの皮が剥《は》がれてもおかしくない時期である。長い演技は、演技者を疲れさせる。
だが羽室家の家人たちには、疲労の色は見えない。
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化け物の眷属《けんぞく》
正月はあっという間に過ぎた。
一月下旬の最後の日曜日の夜、食事の後片づけを終えた弓子は、正月以来、母の声を聞いていないことをおもいだした。
元日に郷里の実家に電話をかけて、母に新年の挨拶《あいさつ》を述べたきりである。
結婚前は、週二、三回は話し合っていた。羽室家に嫁いでからは、いつまでも実家に傾斜しているように見られるのがいやで、なんとなく母へ電話をするのが、憚《はばか》られるような心理になっている。
弓子が一階ホールの電話室の方へ向かって行くと、電話室の中から睦子と一直が少しうろたえた様子で出て来た。
「あら、お電話中だったの」
弓子が声をかけると、
「もう終わりました」
と一直が答えた。
「もしかして、私のために途中で切ったのではないの」
「いいえ、ちょうど話し終えたところよ」
睦子が一直の言葉を補った。
二人はそそくさと弓子のかたわらを通り抜けて行った。
電話室の中は薄暗い。姉弟が一緒に共通の対話者に電話をかけていても不思議はないが、弓子は薄暗い電話室の中で、睦子と一直が抱き合っていたようにおもえた。
はっきりと確かめたわけではないが、唇を重ねていたような体位であった。
まさか姉弟が電話室の中で抱き合って接吻しているなんて、私の妄想だわ。
弓子は一瞬、脳裡《のうり》をかすめた想像を振り落とすように首を振った。
だが振り落とそうとすればするほど、暗闇《くらやみ》の中で抱き合っていた姉弟の姿勢が濃い残像となって、弓子の瞼《まぶた》に刻《きざ》みつけられる。その残像は時間が経過するほどに濃くなってくるようである。
いったん疑惑が兆《きざ》すと、これまでなにげなく見過ごしてきた二人の挙措《きよそ》が、いちいち意味を帯びてきた。
彼らは姉弟でよく一緒に出かける。昨年の夏は、二人で数日の旅行へ出かけた。
それを姉弟仲の良いことと微笑《ほほえ》ましく見ていたが、いまにしておもえば、社会人になった姉と、大学生の弟が一緒に泊まりがけの旅行をするものであろうか。
まず普通の姉弟であれば、成人後、二人だけの旅行へは出かけたがらないものである。姉弟で行くくらいなら、それぞれの恋人、あるいは友人グループと出かけるであろう。
そういえば、部屋はたくさんあるにもかかわらず、睦子と一直は同じ部屋を使っている。二十四歳の姉と二十一歳の弟が同室というのは、不自然ではないか。
電話室での目撃から、これまで見過ごしていた姉弟の不自然さが、一気に弓子の意識の表面に上ってきた。
電話室のことがあってから二日後、家族一同顔を揃《そろ》えた夕食のとき、一直が言い出した。
「ぼくももう成人している。いつまでも姉貴《あねき》の部屋に居候《いそうろう》していたくないよ。ぼくの部屋をくれないかな」
「あら、いつ出て行ってもいいわよ。私が引き止めているわけではないもの。あなたが夜一人で寝るのが恐いので、私の部屋に居座っていたんじゃないの」
睦子が言い返した。
「恐くなんかあるものか。姉貴こそ、ぼくに用心棒代わりにいてくれと頼んでいたんじゃないか」
「なんであなたに用心棒を頼まなければいけないのよ。泥棒が入って来たら、一番先に逃げ出すんじゃないの」
姉弟の間で小さな口論が生じた。弓子が嫁いでから初めて目にするきょうだい喧嘩であった。
「これこれ、二人ともおやめなさい。弓子さんが呆《あき》れているじゃないの。ちょうどよい潮時だから、今夜からお部屋を分けなさい。お部屋はいくらでもあるのよ。あなた方が仲が良すぎて、同室していたんじゃないの」
繁子は苦笑しながら二人をたしなめた。
その夜から睦子と一直は部屋を分けた。
だが弓子には、電話室でのことを糊塗《こと》するための方策のように映った。
弓子に見られたので、彼女の疑惑を解くために部屋を分けたようにおもえてならない。
弓子の胸にいったん兆したこの姉弟が尋常ならないという疑惑は、唐突に二人が部屋を分けたことでますます募《つの》った。
睦子と一直の仲の良さには、尋常の姉弟とは異なる不気味なものがある。彼らは近親|相姦《そうかん》しているのではあるまいか。
禍々《まがまが》しい想像が弓子の胸の内に脹《ふく》らんできた。
弓子は自分の想像を恥じた。弓子にはきょうだいがいない。だから、きょうだい仲の麗しい彼らを妬《ねた》んでいるのかもしれない。
姉と弟がたがいに異性を意識し合ったとしても、さして奇異とするには当たらない。
思春期に異性を意識するのは、たいてい異性のきょうだいからである。彼らはその仲が特に緊密なのであろう。弓子は強《し》いて自分を納得させようとした。
それから数日後、弓子を愕然《がくぜん》とさせるような事態が起きた。
深夜、肩の辺《あた》りにうそ寒さをおぼえて、弓子は目を覚ました。
ふとかたわらを見ると、夫のベッドが空になっている。
結婚したときから、裕也の睡眠と愛情はべつのものだという主張に従って、夫婦はツインベッドを使用している。弓子もそのことに異議はなかった。
ダブルベッドではたがいに身じろぎするつど、眠りを妨《さまた》げられる。また、同じベッドで手が触れ足が触れれば、その気がなくとも、つい過度な行為に耽《ふけ》りがちである。
それは夫婦の間に疲労を引き出し、夫婦生活から鮮度を奪い、倦怠《けんたい》を促《うなが》す。ツインベッドの使用は、夫婦生活を長保《ながも》ちさせるために賢明であった。
裕也の姿がベッドから消えているのを見た弓子は、手洗いにでも立ったのかとおもった。
そのまま眠ろうと努めたが、肩の辺りのうそ寒さが消えない。そのうちに次第に目が覚めてきた。手洗いにしては少し長すぎるような気がする。弓子は次第に夫の空のベッドが気になってきた。
手洗いに立って、気分でも悪くなったのではないかしら。そうおもうと、意識がますます冴《さ》えてきた。
弓子はおもいきってベッドから抜け出した。夫婦の寝室から出ると、廊下を伝って手洗いの方へ行った。だが手洗いには裕也の姿はない。
(どこへ行ったのかしら?)
弓子は首を傾げて、キチンを覗いた。夜中小腹がすいて、なにかをつまみに起きてきたのかもしれない。キチンにもダイニングにも裕也の姿はなかった。
彼ら夫婦の寝室は一階の奥にある。夫婦の寝室に並んで、夫の書斎がある。会社で仕残した仕事をおもいだして、書斎で夜中片づけているのかもしれない。
だが書斎には明かりが灯《とも》っていない。念のためにノックをしてみたが、応答はない。
二階には徹三の書斎と、繁子の居室、舅《しゆうと》、姑夫婦の寝室と、睦子と部屋を分けた一直の部屋がある。
だがこの深夜、夫が二階へ行く用事におもいあたらない。それとも散歩にでも出かけたのであろうか。この寒中、深夜に外へ散歩に出かけたとはおもえない。
弓子が首を傾げながら寝室の前へ戻って来たとき、階段の方角にかすかな気配があった。
はっとして階段の方角へ視線を転ずると、足音を殺してだれかが下りて来る気配がする。
弓子は急いでベッドへもぐり込んで、眠っている体《てい》をした。
間もなく寝室のドアが細めに開いた。戸口に立って、凝《じ》っと中の気配をうかがっている様子である。
弓子が眠っているのに安心したらしく、裕也が足音を殺して寝室の中へ入って来た。
ベッドのかたわらでもう一度弓子の気配をうかがい、そろそろと身体をベッドの中へ滑り込ませた。
もはや夫が二階へ行って来たことは明らかである。この深夜、二階へなにをしに行ったのだろう。
このとき弓子は目を覚ました振りをして、夫にどこへ行っていたのかと問いつめることができた。弓子はそれをしなかった。裕也の様子から、彼が妻に隠れて二階へ行った気配が感じ取れたからである。
弓子ははっと胸を衝《つ》かれた。
二階には両親の寝室がある。この深夜、裕也が父の寝室へ行くはずもあるまい。まさか、母の寝所へ?
いやいや、そんなはずはない。夜中、息子が妻の目を盗んで母の寝室へ忍んで行くなどということがあろうか。義父母は寝室を分けている。
彼女の寝室へ行って、なにをしたのか?
このとき不必要に狎《な》れ狎れしい母親と息子の態度が、弓子の意識によみがえった。
それは禍々《まがまが》しい想像である。
(私のおもいすごしだわ。そんなことがあるはずはないわ)
弓子は激しく首を振った。
それから十日ほど後の夜、弓子はふたたび信じ難い場面を目撃した。
夜中、手洗いに立った弓子は、足音を忍ばせて階段を下りて来る気配を感じ取った。手洗いから出ようとした弓子は、そのまま手洗いの中にたたずんだ。
二階にも手洗いはある。この深夜、だれがなんの用事があって階下へ下りて来るのか。不審が弓子の足を止めたのである。
足音を忍ばせた気配は、手洗いに弓子が潜んでいるとも知らず、廊下を伝い、睦子の部屋の前で立ち止まった。
弓子は手洗いの戸を細めに開いてうかがい見た。睦子の部屋の前にたたずんでいるのは、徹三の影である。
睦子の部屋のドアが内から開かれた。徹三の影が睦子の部屋にするりと忍び込んだ。
父親が娘の部屋へ立ち入っても不思議はない。
だが深夜、気配を殺して忍び込むとなると、尋常ではない。
いったいなんの用事があって、この夜中、足音を忍ばせて睦子の部屋を徹三が訪問したのか? 弓子の胸に不審の念が湧《わ》いた。
彼女の不審は、先夜目撃した場面と重なって、速やかに膨張《ぼうちよう》した。
先夜は夫が弓子の眠っている隙《すき》をうかがって、二階へ上って行った。二階には繁子の寝室がある。彼女の部屋へ入ったのを確かめたわけではないが、徹三の寝室へ行ったとはおもえない。
弟の一直の部屋へ行ったのであれば、弓子に隠れるようにして行く必要もなく、昼間でもよかったはずである。
先夜から胸の奥にねじ伏せていた禍々しい疑惑が、今夜目撃した場面と重なって、むくむくと頭をもたげてきた。
いったいこの家はどうなっているのかしら。弓子は混乱した。
そのような想像をすること自体が汚らわしい。
翌朝、食堂で顔を揃《そろ》えると、昨夜目撃した場面が嘘のように、徹三も睦子も爽やかな表情で朝の挨拶を交わした。
「弓子さん、少し顔色がよくないな」
徹三が声をかけた。
「昨夜よく眠れなかったものですから」
弓子は答えた。
「おやまあ、仲の良いのはわかるけど、裕也さん、ほどほどにしなさいよ」
繁子が気をまわして裕也を軽く睨《にら》んだ。
「お母さん、そんなんじゃありませんよ。気のまわしすぎです」
裕也がうろたえた口調で反駁《はんばく》した。
「そんなにむきにならなくてもいいのよ。いま、背中合わせにぐっすり眠れるようでは困るわ」
「お母さんたら、お義姉《ねえ》様が困っていらっしゃるじゃないの」
睦子が言葉をはさんできた。
「姉貴がそんなことを言うから、ますますお義姉さんが困っているじゃないか」
一直がにやにやしながら言った。
「あなたこそ尻馬に乗って.よけいなことを言わないでよ」
睦子が言い返した。
「まあまあ二人とも、押さえて押さえて」
徹三が両手を大げさに拡げて上下に振った。
その光景は、弓子の疑惑が取るに足りない妄想であるかのように和やかで明るい。
いまの弓子の疑惑の色に塗られた目には、この平和な家族の朝食の光景が、舞台や映画の一場面のように演技されているように見えてならない。
疑惑という偏光《へんこう》プリズムを通して、羽室家の家族の行動が、すべて他人が寄り集まって家族を演ずるように、わざとらしく見えてしまうのである。
弓子は危うく昨夜と先夜、目撃した場面を話そうとして喉元に堪《こら》えた。それを言ったらどうなるか。
彼女の一言で、完璧な家族の演技を木《こ》っ端《ぱ》みじんにしたい危険な衝動をおぼえたが、危うく堪えた。
それをすれば、弓子自身にも危険が及ぶ。そんな気配を本能的に察知したからである。
つまり、弓子の偏光プリズムが映し出した羽室家は、完全な家族の仮面の下に、薄氷のような脆《もろ》さを孕《はら》んでいるものであった。
弓子の目に疑惑の芽が育っていることを、彼らに知らせてはならない。彼らがそれを悟ったとき、どのように変化するか。
笹岡美津子が「嘘っぽい」と形容したように、彼らが完全な家族を演ずれば演ずるほど、弓子の偏光プリズムを通して、嘘っぽく映ずるのである。
救いは、弓子が自分の目にかけられた偏光プリズムの映し出す光景を信じていないことであった。半信半疑でその光景を眺《なが》めている。
まちがっているのは自分の方かもしれない。
弓子が羽室家に嫁いで来てから、まだ一年足らずである。どの家にも、その家の家風や習慣がある。それに馴染《なじ》めないために、たまたま目撃した場面に疑惑をかき立てられているのだ。
笹岡美津子は嘘っぽいと形容したが、それは彼女の家族の概念から外れていたからであろう。
友人の無責任な印象を、羽室家の家族の不可解な行動(弓子にとって)と結びつけて、勝手な疑惑を育てては、羽室家の家人に対して失礼であり、まだ自分が羽室家において異分子であることの証拠であろう。
弓子は自分を戒めていた。
弓子は羽室家に嫁いで来てより、隣家の沖野《おきの》家の家族と親しくなった。
主人の沖野|啓一郎《けいいちろう》は作家ということであるが、書店でその作品にお目にかかったことはない。初老の温厚な紳士である。
その妻|優子《ゆうこ》や、長女の雅美《まさみ》とは、庭の掃除をしているときなど、隣家のベランダが庭をはさんで並び立っており、いつしか黙礼を交わすようになった。
長女は私立の女子大生ということである。その下に高校生の弟|博士《ひろし》がいる。家族名が表札に並んでいるので、家族構成が一目でわかった。
いずれも感じのよい家族であった。その他にミーと呼ばれる日本猫を一匹飼っている。
ミーはおとなしく臆病であるが、ときどき羽室家の庭へ侵入して来ては、のそのそ庭内を歩きまわり、家の中を覗き込んで行った。
羽室家の家族はどうしたわけか、このミーを毛嫌いして、姿を見かけると追い払った。特に繁子がミーを嫌い、その侵入を阻止《そし》するために、猫よけの薬を買って来て、庭内至る所に仕掛けた。
だがミーに対して薬は一向に効果なく、ミーは平然と庭を歩きまわった。
「あの猫はこの家を偵察に来るのよ。捕まえて火あぶりにしてやりたいくらいだわ」
繁子は日ごろの温和な名流婦人の表情に似合わず、憎悪を剥《む》き出しにして言った。
「なにを偵察するのですか」
「沖野さんが私たちの家の様子をあの猫に探らせているのよ」
「猫に探らせるなんて、お義母《かあ》様の考えすぎですわ」
「いいえ、そうに決まっているわよ。沖野さんの奥さん、よその家のことに興味|津々《しんしん》なのよ。あなたもあの女に油断しては駄目よ」
「そんな風に見えませんけれど」
「それがあの女の手なのよ。親切ごかしに近づいて、他人《ひと》の家の様子を探るの。油断も隙もあったものじゃないわ」
「私にはそんなに悪い人には見えませんけれど」
「最初はだれでもそうおもうわ。でも騙《だま》されては駄目よ。あの化け猫と同じに、猫を被《かぶ》っているのよ」
「そんなことを言っては可哀想ですわ。ミーはべつになにも悪いことをしません。庭を汚すでもなく、ただ散歩しているだけですわ」
弓子が取りなすと、
「あの化け猫が入って来るだけで、この家が猫くさくなるわ。きっと床下に潜り込んで、汚物を残して行くのよ。憎らしいったらありゃしない」
と罵った。
ミーも羽室家の家族に嫌われているのを知っているらしく、家族の気配を悟ると、風のように逃げて行った。
だが弓子に対してだけは、なぜか親近感を示して、逃げようとしない。最初は警戒していたが、弓子が呼ぶと、そろそろ近づいて来た。
弓子が繁子らに隠れて餌《えさ》をやると、いっそう懐《なつ》いてすり寄ってきた。
ミーが懐くようでは、まだ羽室家の家族として溶《と》け込んでいない証拠だと、自分を戒めるのだが、ミーとの間に密かに培った友情は、次第に濃くなっていくようである。
沖野家も弓子がミーを可愛がっているのを悟ったらしく、弓子に対しては格別の親しみを見せた。
ミーを架橋《かけはし》にして、弓子と沖野家の人々との間が接近してきている。
初めのころはベランダで顔を合わせると会釈を交わすだけだったのが、このごろは短かい言葉を交わすようになった。
「宅のミーがお宅へお邪魔しているようで申し訳ありません」
沖野夫人が謝った。
「いいえ。とても可愛くて、姿を見せないと、今日はどうしたのかなと心配していますわ」
「有り難うございます。とても人見知りをする性《たち》で、なかなか懐かないのですけれど、奥様だけには懐いてしまったようで、ご迷惑をおかけします」
優子はそれとなく羽室家の家族にミーが嫌われていることをにおわした。
「よろしかったら、お暇の節にお遊びにいらっしゃいませな。宅では同好の方を招いて、ときどきレコードコンサートなどを開いておりますので」
「ときどき美しい音楽が漏れてくるのに耳を傾けています」
「あら、ご迷惑をおかけしているかしら。オーディオルームには一応防音装置を施してあるのですけれど」
「迷惑なんてとんでもない。昨夜もプールセルやポール・モーリアのCDをおかけになっていらっしゃいましたわね」
「そんなにはっきりわかりましたの。ボリュームを下げているつもりですけれど、やっぱり漏れていたんだわ」
「どうぞお気になさらないで。家の中ではまったくわかりません。置き忘れた洗濯物を取りに出て、かすかに耳に聞こえたのです。寒いのも忘れて、おもわず立ち聞きしてしまいましたわ」
「立ち聞きなどとおっしゃらずに、いらしてくださればよかったのに」
ベランダで話が弾んでいると、屋内から繁子に呼ばれた。
「弓子さん、あまりお隣りの奥さんに近づかない方がよろしいわよ」
繁子が言った。いつもの優しい表情が険悪になっている。
「べつに近づいているわけではありません。ベランダで挨拶を交わしただけですけれど」
弓子は柔らかく反駁《はんばく》した。
「お隣りさんはなにを考えているのかわかりません。見かけは親切そうだけど、他人《ひと》の家のプライバシーに興味を持って、なにかあらを見つけだそうとしているのよ」
「まさか……」
「あなたはまだこちらへ来てから間もないのでよくわからないかもしれないけれど、お隣りのご一家は、みんな食わせ者なのよ。ご主人、作家と自称しているけれど、あなた、本屋でお隣りさんの本を見かけたことがあって? なにをやっているかわかったもんじゃないわよ」
平素はしとやかで上品な繁子の面が醜く歪んでいた。
沖野夫人だけではなく、隣家の家人すべて、飼い猫のミーまで嫌悪しているようである。
要するに隣家に所属するものすべてを、繁子は嫌っているようであった。
いや、繁子一人だけではなく、羽室家の人間はすべて、隣人および隣家に属するものを嫌っている気配である。
それに対して沖野家の人々は、べつに羽室家を嫌っている様子はない。
羽室家に嫌われているので、やむを得ず距離を置いているが、少なくとも羽室家に対抗して憎み合っている様子はない。
羽室家の沖野家に対する嫌悪は一方的のようである。
弓子は、なぜ羽室家の家人が沖野家をそのように憎むのか不思議であった。
嫁いで来て間もないので、両家の事情はよくわからないが、一見する限り、羽室家が沖野家を不倶戴天《ふぐたいてん》の仇のように憎むべき理由はなさそうである。
その理由を聞くのも憚《はばか》られる雰囲気であった。
弓子は繁子や羽室家の家族の手前、沖野家とおおっぴらに親しくするのを控えなければならなかった。
だが沖野家の人々は、なんの隔意《かくい》もなく弓子に接近して来る。
近所のスーパーなどで出会うと、気軽に話しかけてきて、弓子の荷物が多いと、途中まで持ってくれたりした。
羽室家が視野に入る地点まで来ると、荷物を弓子の手に返し、
「私がお手伝いしたことがわかると、奥様にご迷惑をかけるかもしれませんからね」
と沖野夫人は優しく笑った。
彼女も羽室家から嫌われていることを察知しているのである。その上で隣人として弓子に親しみを寄せ、弓子の立場に気を遣《つか》ってくれている。優しくおもいやりのある隣人であった。
どうしてこんなにいい隣人を毛嫌いするのか、弓子には不思議でならない。
彼女には羽室家が沖野家を毛嫌いする理由が、弓子が目撃した羽室家の家族の不可解な行動から発しているようにおもえてならなかった。
羽室家の家族の一員として順化してくるほどに、おいおいその理由もわかってくるであろう。
だがそうなったとき、羽室家の家族同様、沖野家を憎むようになりたくないとおもった。
二月に入って、寒い日がつづいた。シベリアの寒気団が南下してきて、列島全体が巨大な冷凍庫に入れられたように凍りついた。
そんなある日、買物の帰途、沖野夫人と一緒になった。
「寒い日がつづきますわね」
沖野夫人が話しかけてきた。
「本当に」
「こう寒いと、外へ出るのが億劫《おつくう》になってしまいますわ」
「暦の上では立春というのに、まったく春の気配もありませんわね」
「本当に春が待ち遠しいわ」
そんなことを語り合いながら、沖野家の前まで来た。
「奥様、よろしかったらちょっとお寄りになりませんこと。ちょうど美味《おい》しいコーヒー豆をいただいたところですの」
門の前で沖野夫人が誘った。
「でも……」
弓子は迷った。
羽室家の家族が沖野家を嫌っているのに、弓子が沖野家に招かれたことがわかっては、羽室家の家族に気まずい感情を植えつけるかもしれない。
「少しの時間なら大丈夫よ。私の方から奥様のお宅へお邪魔するわけにはいきませんもの。めったにない機会ですわ。どうぞお寄りくださいませな」
沖野夫人は熱心に誘った。
弓子は心を動かされた。彼女も沖野家には興味がある。羽室家の主婦として、隣家とは仲よくやっていきたいという気持ちが強い。
それに寒い風に吹かれて、全身が冷えきったところで熱いコーヒーの誘惑は大きい。
「それではちょっとお邪魔しようかしら」
「どうぞどうぞ。主人も喜びますわ」
沖野夫人はいそいそと弓子を導いた。
ちらりと羽室家の方角をうかがってみたが、庭樹のかなたに森閑と静まり返っていて、家人の気配もない。
弓子は羽室家の人間の目を憚るようにして、沖野家の玄関に入った。
暖かいリビングルームに通された。寒気と緊張に引き締まっていた全身が、ほっとほぐれるようである。
「いまコーヒーを淹《い》れますわ。どうぞおくつろぎになって」
沖野夫人が弓子にソファーを勧めた。
庭に窓が張り出し、眺めがよい。床の高いデザインで、視野が広くなっている。
外から眺めると閉鎖的な外観なのに、室内から外を眺めると広い視野が確保できるような構造になっている。
リビングとダイニングの間をアコーディオンドアで仕切り、ステレオやテレビが工夫された位置に置かれている。
さして強い暖房をしている気配もないのに、屋内は程よく暖かい。きっと断熱材が豊富に使われているのであろう。
コーヒーの香りが室内に漂った。
「やあ、いらっしゃい」
ソフトな声がして、着流しの初老の男がリビングへ入って来た。この家の主沖野啓一郎である。
鬢《びん》の辺りに白いものが少し見えるが、顔はつやつやとして若々しい。穏やかで知的な風貌である。
「初めまして。この度、隣りへ嫁いで来ました羽室弓子でございます。ご挨拶が遅くなって申し訳ございません」
弓子はやや堅《かた》くなって挨拶した。
本来なら結婚直後、近所にお披露目の挨拶をするのが礼儀であるが、羽室家からその必要はないと差し止められたのである。
庭で姿を時どき見かけたことはあるが、このように面と向かって挨拶するのは初めてである。
「こちらこそ失礼しております。こんな美しい方がお隣りさんのお嫁さんになって、私も嬉しいですよ。わざわざ我が家へお越しいただき光栄です。これからもお気軽にお越しください」
沖野は弓子の訪問を本当に喜んでいるようである。
間もなくコーヒーが入った。上等のコーヒーの気品のある香りが、一際《ひときわ》室内に濃く漂った。
「雅美も博士《ひろし》もいらっしゃい。お隣りの奥様がお見えになっていらっしゃるのよ」
沖野夫人が二階にいるらしい二人の子供を、階段の下から呼んだ。
二人がリビングへ降りて来た。
「いらっしゃいませ」
二人は丁重に弓子に挨拶した。いずれも育ちのよい溌剌《はつらつ》とした若者である。
「お隣りさんが羨ましいわ」
雅美が言った。
「どうしてですか」
弓子が問うと、
「だって、こんなに素晴らしいお嫁さんがいらっしゃったんですもの。博士も早くお嫁さんをもらって」
雅美が言った。
「なに言ってるんだよ。ぼくはまだ高校生だよ。その前に姉さんがお嫁に行けばいいだろう」
弟が少し口を尖《とが》らせるようにして言った。
「いいえ、私はお嫁になんか行きません」
「もらい手がないものね」
「言ったわね。博士なんかのところへお嫁に来る女の人はいないわよ」
時ならぬ姉弟《きようだい》喧嘩が始まったのを、
「まあ、二人ともなんですか。お隣りの奥様の前で」
沖野夫人がたしなめた。
姉弟はコーヒーを飲むと、
「ごゆっくり」
と弓子に挨拶して、また二階へ上がってしまった。
「いつもああなんですよ。寄ると触ると喧嘩ばかりして」
沖野夫人がとりなすように言った。
「仲がいいので喧嘩をするのですわ」
弓子は羽室家のきょうだいと比べた。羽室家のきょうだいも一見仲がよい。だが、どこかに他人行儀が潜んでいる。
沖野家の姉弟はあけすけで淡泊であった。羽室家のきょうだいがねっとりしているのに比べて、さっぱりと乾いている。
コーヒーを飲みがてら弓子を一通り観察すると、さっさと自分の部屋へ帰ってしまった。これが羽室家ではこうはいかない。
幸せ家族の団欒《だんらん》とかで、家族が長々とワンルームに一緒に屯《たむろ》している。
和気あいあいとしているが、長いこと独りで暮らした弓子には、その団欒が次第に重苦しくなってくるのである。
沖野家ではそういうところがまったくない。それは愛想がないくらいにさっぱりしている。
「今日は突然、お仕事のお邪魔をしてしまいまして申し訳ありません」
弓子は立ち上がるきっかけを探した。
沖野家に立ち寄ったことが露見しないうちに帰りたい。
「またいつでもお気軽にお越しください。どうせ売れない小説を書いているのですから、お気になさらないでください」
沖野は屈託のない笑顔を見せた。
「でもいつか、洛陽の紙価を高める(ベストセラーを出す)ような作品を書くのでしょう」
沖野夫人が言葉をはさんだ。
「そのうちにね」
「大ベストセラー作家の卵という仲人口に乗せられて結婚したら、万年そのうち作家になってしまったわ。仲人に騙《だま》されたわ」
「おい、まだ騙したとは限らないぞ。作家は死んでから作品が売れることもあるよ」
「死んでからではつまらないわ。生きている間に花が咲かなければ」
「まあ、長い目で見ていてもらいたいね。あんたはべつにベストセラー作家と結婚したわけじゃないだろう」
「ベストセラーでなくてもいいから、グッドセラーぐらいは出してもらいたいわね」
沖野夫人が手厳しいことを言った。
「いいじゃないか、幸せならば」
「あら、私、幸せだなんて言ってないわよ」
「顔に書いてあるよ」
「あら、なんて?」
「鏡を見て、読んでごらん」
沖野夫人は本当に鏡を見るために別室へ立って行った。
「やれやれ、毎日あんな調子なんですよ」
沖野は肩をすくめて、
「奥さんの顔にも書いてありますね」
と弓子の面に視線を向けた。
「あら、なんて書いてあるかしら」
弓子は一瞬ドキリとした。沖野に心の屈託を透視されたような気がしたのである。
「幸せという字が大きく書いてありますよ。でも……」
沖野が語尾を濁らせた。
「でも……なんですの」
弓子は沖野が語尾に呑み込んだ言葉が気になった。
「幸せすぎて、信じられないようなところがありますね」
沖野が弓子の顔色を探っている。
「まさか……」
今度は弓子が語尾を呑み込んだ。
沖野に、夫や羽室家に対する弓子の疑心暗鬼を察知されたような気がしたからである。
「鏡を見たけれど、なにも書いてなかったわよ」
沖野夫人が言いながら、お茶道具を抱えて戻って来た。
「あら、もうお帰りですの。せっかくですからお茶を召し上がっていらっしゃいな」
沖野夫人は立ち上がりかけていた弓子を見て、引き止めた。
「ご馳走さまでした。そろそろ行かないと。こんな美味しいコーヒーは本当に久し振りでした。癖になってしまいそうですわ」
「またいつでもお越しくださいませね」
「奥様も……」
と言いかけて、弓子は沖野夫人を羽室家へ招けないことを申し訳なくおもった。
沖野夫妻は、わかっていると言うようにうなずいた。
そのとき二人の目に薄く、憐憫《れんびん》の色が塗られているように見えた。
羽室家へ帰って来ると、広い屋敷の玄関先までコーヒーの香りが漂っている。
沖野家でコーヒーを招《よ》ばれただけに、弓子はその符合にいささかぎょっとなった。
「あら、お帰りなさい。寒かったでしょう。ちょうどコーヒーを淹《い》れたところなの」
繁子がにこやかに迎えた。
弓子はそのタイミングのよさ(あるいは悪さ)に、束の間、返す言葉を失った。
繁子は弓子が沖野家でコーヒーを招《よ》ばれたことを知っていて、故意にコーヒーを淹れて待っていたような気がした。
「早く熱いコーヒーを召し上がれ。身体が温まるわよ。でも、あまり寒そうな顔もしていないわね」
繁子が弓子の顔を覗《のぞ》いた。
沖野家の暖かい部屋で充分温められた身体は、羽室家へ帰り着くまでに冷える間もなかった。
「あまり寒いので、途中走ってきたものですから」
弓子は慌てて言い訳をした。
沖野家に立ち寄るとき、羽室家の目を憚《はばか》ったつもりであるが、繁子はどこからか覗いていたのかもしれない。
そうおもうと、せっかく沖野家で温められた身体が、心の底から冷えてくるような気がした。
繁子にしてみれば、嫌っている隣家に嫁が密かに立ち寄ったことは許し難い裏切りであったのだろう。
このとき弓子は素直に告白すべきであったかもしれない。だが弓子にはそれができなかった。
羽室家に嫁いで来て以来、弓子が初めてなした小さな反逆であった。
二月下旬の寒い日の午後、庭の奥で騒がしい気配が生じた。しきりにミーが鳴き騒いでいる。
気配は沖野家とは反対の方角の庭の隅からきていた。
なにごとかと弓子が鳴き声の方角へさかのぼって行くと、突然スイッチをひねったように、ミーがぴたりと鳴き止んだ。
弓子が気配のきた方角へ駆けつけると、庭の一隅に繁子と一直が立っていた。かたわらに鼠取り用の檻《おり》が放り出されている。中は空であった。
「いま、こちらの方角に、ミーの鳴き声が聞こえたようにおもったのですけれど」
弓子が二人に問うた。
繁子と一直は困惑したように顔を見合わせたまま答えない。
一直が手に園芸用のシャベルを持ち、庭の一隅の土が新しい。弓子ははっとおもいあたった。
「もしかして……まさか」
弓子は恐ろしい想像に唇まで青くした。
「弓子さん」
繁子が強い声を発した。
「あなたにはなにも関係ないことです。家の中へお帰りなさい」
これまでの繁子とは別人のように冷酷で、非情な声であった。
「まさかミーを生き埋めに……」
「あなたには関係ないことだと言ったでしょう。あなたは羽室家の家族です。よけいなことは一切《いつさい》言わないように」
「でも、いくらなんでも、あんまりです」
「お黙りなさい」
繁子が叱咤《しつた》したとき、埋めたばかりの新しい土の表面が割れて、中から泥まみれのミーが這《は》い出した。
「あっ、こいつ」
うろたえた一直がシャベルを構え直したときは、ミーは速やかに土の中から這い出して、一目散に逃げ去った。
穴が浅かったために命拾いをしたのである。
「あなたがよけいなところへ出て来たために、化け猫を逃がしてしまったわ」
繁子が悔しげに、ミーの逃げ去った方角を睨《にら》んだ。
ミーはこの事件以後、決して羽室家の庭に足を踏み入れなくなった。
このとき弓子は羽室家の正体を見たとおもった。
笹岡美津子が「嘘っぽい」と感じ取ったのは、決して嫉妬や羨望《せんぼう》ではなかった。彼女の印象は正しかったのである。
羽室家の家人は、その穏やかで紳士的な仮面の下に、驚くべき冷酷な正体を隠していた。
隣家のなんのいたずらもしない飼い猫を生き埋めにするのは、ただごとではない。
まともな人間のできることではない。
それが日ごろ、凶暴無残な人柄を隠すところなく見せつけていれば、さもありなんとうなずけるかもしれないが、上流の幸せ家族を完璧に演じていた羽室家の人間が、平然として猫を生き埋めにしたそのジキルとハイドの落差の凄《すさ》まじさが恐ろしいのである。
もしかすると、私はとんでもない家へ嫁いで来てしまったのかもしれない。
繁子はミーを化け猫と呼んだが、繁子の一家こそ化け物の眷属《けんぞく》ではないのか。
このような際、相談をすべき夫も、その化け物の眷属の一人である。
自分は化け物の眷属の生贄《いけにえ》として取り込まれてしまったのだ。弓子は背筋が冷えてきた。
ミー生き埋め事件以後、繁子と一直は前以上に弓子に対して狎《な》れ狎れしくなった。それが彼女には共犯者としての馴れ合いのように見えた。
「私たちは同じ罪を分け合った。あなたも同罪なのだ」
と二人は暗に言っているように見えた。
だが事件以後、弓子は夫との房事が苦痛になってきた。
事件の前までは、裕也と繁子との仲を疑いながらも、夜が待ち遠しいほどであった。
毎夜、夫と共に切り開いていく夫婦の未知の領域に、新たな発見があり、官能の喜びがあった。
夫婦で築き上げていく閨房《けいぼう》の体位こそ、これからの長い夫婦生活の核《コア》となり、基礎となるものである。
セックスこそ夫婦を結ぶ最大、最良のチャンネルであり、これを疎《おろそ》かにする者や拒む者は、速やかに夫婦生活が破綻《はたん》する。
夫婦のチャンネルが苦痛になったということは、裕也との夫婦生活が維持できなくなったことを意味している。
元は同体であったのではないかと疑われるほどに緊密な一体感を得られた裕也との行為が、まるで化け物に犯されているような嫌悪と恐怖を、弓子の心身に刻みつけた。
だが弓子はそれを裕也に悟られまいとして、必死に演技した。
弓子が夫との営みに苦痛をおぼえていると悟られたら、なにをされるかわからないような恐怖があった。
彼女の演技は、裕也を欺《あざむ》くためというよりは、自衛のためである。
演技をしながらも、弓子はまだ迷っていた。
事件後、繁子と一直は共犯者のような狎れ狎れしさを見せてきたが、羽室家の家族の弓子に対する態度が変わったわけではない。
相変わらず優しく、家族の一員として接してくれている。
弓子が共犯者の狎れ狎れしさと感ずるのも、それだけ家族として隔意がなくなったと言えなくもない。
化け物の眷属どころか、シンデレラに選ばれたのかもしれない。
自分の被害妄想によって、せっかく乗った玉の輿《こし》をふいにしてはならない。
弓子が羽室家に疑惑と恐怖をおぼえながらも飛び出そうとしなかったのは、そんなためらいが揺れていたからである。
もしかすると、ミーを生き埋めにしようとしたのではなく、二度と庭へ踏み込んで来ないように懲《こ》らしめていただけなのかもしれない。だからこそ、故意に穴を浅く掘り、自力で逃げ出せるようにしておいたのだわ。
弓子は自分に言い聞かせた。
弓子の胸の内に兆《きざ》した疑心暗鬼さえ解消させれば、羽室家での生活は望み得る最高のものである。
羽室家から飛び出せば、もはやふたたびこの上流の暮らしへ戻ることはできない。
いずれは弓子がこの家の女主人となれるのである。結婚前の貧しいOLの身分に比べれば、羽室家は雲の上の世界である。
一度雲の上の暮らしを知った身には、地上の惨《みじ》めな暮らしへは戻れない。
弓子のためらいの底には、打算も生まれていた。
ミー生き埋め事件から二週間ほど後、弓子は庭の掃除をしていた。
三月に入ると、庭を訪れる野鳥の数と種類がぐんと増えてくる。
陽射しがめっきり暖かくなった朝、庭木の枝にウグイスが鈴なりに群がっていることがある。ウグイスと見たのはメジロであった。
野鳥に混じって、ときどき飼い主の籠から逃げ出して野性化したブンチョウやベニスズメ、伝書バトなどが飛んで来る。
しかし、なんといっても彼らの中で最も幅を利かせているのは、鴉《からす》とスズメである。
鴉とスズメは相性がよいらしく、鴉の鳴くところスズメが多い。そして鴉がスズメを攻撃する場面は見うけられない。
「このごろスズメが雨樋《あまどい》に巣をつくって困るわ」
二、三日前に繁子がぼやいていた。
二月の末ごろから繁殖期に入ったスズメは、木の枝や屋根裏などに巣をつくるが、雨樋が居心地がよいらしく、その中によく巣づくりして樋が詰まってしまう。
中には樋の垂直部分に落ち込んで、中で死んでしまうので始末に困る。
弓子は羽室家に嫁いでから、庭に集まる野鳥を十数種類確認した。年々、東京に野鳥が戻って来ている確証を見たようで嬉しかった。
庭を掃き清めて、集めた落ち葉や木の枝やゴミを、庭の隅に設けられた焼却炉で燃やす。それは彼女の晴れた朝の日課である。
これまで広い庭のある家に住んだことのない弓子にとって、朝の庭掃除は楽しい仕事である。いずれ庭樹《にわき》の枝に巣箱を設けたいとおもっている。
掃き集めた枯れ葉や雑草や、折れた枝を焼却炉に投げ入れて、火を点《つ》けようとした弓子は、ふと焼却炉の奥に雛《ひな》のさえずりのような声を聞いた。
はっとして焼却炉の蓋《ふた》をふたたび開いて、奥をうかがった。たしかにさえずりが聞こえてくる。
弓子はあわててゴミをかき分けた。ゴミの奥に口を紐《ひも》で縛ったビニール袋があって、その中からしきりに雛のさえずりが聞こえてくる。
弓子はビニール袋を取り出すと、紐を解いて口を開いた。袋の中には生まれて間もなさそうなスズメの雛が数羽、必死にさえずっている。
弓子は愕然《がくぜん》とした。危うくスズメの雛を焼き鳥にしてしまうところであった。
最初の驚愕から立ち直ると、いったいだれがこんなひどいことを、という怒りが胸の底から衝《つ》き上げてきた。
彼女の瞼《まぶた》に、ミーを生き埋めにした繁子と一直の顔が浮かび上がった。
「まさか」
弓子はうめいて立ちつくした。
しかし、スズメの雛を焼却炉に捨てた犯人として、とりあえずその二人以外にはおもいあたらない。
猫を生き埋めにしたくらいだから、スズメの雛を焼却炉に捨てることになんの憚《はばか》りもないだろう。
(恐ろしい人たち)
もはや彼らの正体は疑いがない。
彼らはやはり化け物の眷属《けんぞく》であったのだ。動物を生きたまま殺すことに、なんのためらいもおぼえない。化け物でなければできない芸当である。
弓子は雛を入れた袋を手に抱えたまま、足ががくがくと震えてきた。
いますぐにもこの家から逃げ出したかった。
そのとき母屋《おもや》の方角から、繁子の呼ぶ声が聞こえた。繁子の声に弓子の全身は金縛りにあったようになった。
この場面を繁子に見つかれば、スズメは確実に殺されてしまう。
弓子は意志の力を振ってスズメの雛をビニール袋から出し、隣家の茂みの奥へ隠すと、
「はーい」
と返事をした。
猫生き埋め事件と焼き鳥事件の後、弓子は密かに羽室家と絶縁する機会をうかがった。母に相談して心配をかけたくない。
逃げる気なら、このまま身一つで羽室家を出ればすむことである。
だが彼女は裕也と正式に結婚している。離婚手つづきをせずに羽室の家から出ても、彼女は依然として裕也の妻である。
正式に離婚しない限り、弓子は完全に自由な身とはなれない。
だが猫生き埋め事件と、焼き鳥事件は離婚の理由とはなれないだろう。離婚を求める訴えを提起しても、裁判所は離婚の理由として認めてくれないにちがいない。
しかも二つの事件は、夫自身が犯人ではないのである。
また夫と繁子が通じている確証を得たわけではない。単なる疑惑、それも弓子の被害妄想に近いとされれば、裁判上の離婚原因とはされない。
焼き鳥事件の後、弓子は閨房で演技ができなくなった。
「どうしたんだ。このごろちっとも気が入っていないようだね」
死体のように無反応な弓子の身体に、裕也が不満を訴えた。
「疲れているのよ」
「そうか、無理しない方がいいよ。まだ先が長いからね」
裕也は妻をいたわるつもりで言ったらしいが、弓子はぞっとした。
これから先一生、化け物の眷属の主婦として生きていくことをおもうと、嫌悪感が先立ち、肌が鳥肌立ってくる。
それを裕也に悟られてはならない。のっぴきならない証拠を見つけて、裕也に離婚を同意させなければならない。
翌日の夕食時のメニューは水炊《みずた》きであった。家族が夕食のテーブルを囲んだとき、裕也がなにげなく、
「今夜は水炊きか。うまそうだな。そうだ、鶏《とり》でおもいだしたんだが、今度の日曜日、みんなでドライブに行きませんか。野猿《やえん》峠に美味《おい》しい野鳥料理を食べさせる店があるのです」
裕也が徹三と繁子と睦子たちの顔を半々に見比べるようにして言った。
「野鳥料理、ぼくは焼き鳥がいいな」
一直が和した。
「でもいまの焼き鳥って、ほとんどチキンなんでしょう」
睦子が会話に加わった。
「その店は本物の野鳥の焼き鳥を出すよ。それもスズメなんかじゃないぜ。炉のまわりに集まって、串刺しにしたコジュケイやウズラを焼いてかじるんだ」
「野猿峠の鳥料理は有名だな。昔はあそこにかすみ網の鳥屋があって、ツグミを食わせるので評判だった。いまツグミの捕獲は禁止されているそうだがね。つなぎを一切使わない生のままから焼いたつくねをジュッとタレにつけて……」
徹三が会話に加わったとき、弓子は胃の奥から突き上げてくるものがあった。口を手で押さえて慌てて洗面所へ駆け込む。駆け込むと同時に、胃の内容物が噴出した。
胃の腑《ふ》が空になると、いくらか楽になった。だが食卓に向かって、また鶏のにおいを嗅《か》ぐとおかしくなりそうな気がする。
しばらく手洗いの中に留まっていると、外からノックされて、裕也の声が、
「弓子、どうかしたのかい。みんなが心配してるよ」
と問いかけてきた。
「なんでもないのよ。ちょっと胃がむかむかしたものだから」
「背中をさすってやろうか」
「いいえ、本当に大丈夫だから。少し落ち着いたら、すぐに戻るわ」
弓子は努めて明るい声を装って答えた。
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はずされた橋
それから数日後の深夜、弓子はふと異様な気配をおぼえて目覚めた。
隣りの夫のベッドが空になっていて、寝室のドアが細めに開いている。先夜とまったく同じ状況である。
だが弓子はあえて夫の行方を探しに行かなかった。彼の行方を確かめるのが恐ろしかった。
弓子はそのまま息を殺してベッドに留まった。
三十分ほど後、羽室は戻って来た。彼は部屋のドアが開いていることにぎょっとしたらしい。
しばらく戸口にたたずんで、中の気配をうかがっている。弓子がベッドの中にいるのを確かめて、ようやく室内へそろりと入って来た。
だが、すぐにはベッドへ戻ろうとせず、隣りのベッドのかたわらに立ったまま、弓子の様子をうかがっている。
弓子の眠っている気配にようやく安心したらしく、ベッドへ潜り込んだ。
そのとき弓子は寝室の空気の中に、ほのかな香水のにおいを嗅いだ。それは繁子の愛用している香水であった。
弓子はこのとき、夫とその母親が通じていることを確信した。
この家は親子きょうだいが相姦している妖怪の巣窟《そうくつ》であった。弓子は恐ろしさのあまり、ベッドの中で悲鳴を上げそうになった。
それに堪《た》えられたのは、恐怖によって声帯が麻痺《まひ》したようになっていたからである。
夜が明けたら、直《ただ》ちにこの家を出よう。弓子は決心した。離婚の手つづきは家を出た後、福井を介して進めればよい。
だが朝までの時間が、永遠のように長く感じられた。その夜はまんじりともしなかった。
ようやく窓辺が明るくなって、小鳥のさえずりが聞こえてきた。明るい朝の光が訪れても、彼女の心身に植えつけられた恐怖は薄らがなかった。
羽室家の家族にそれを察知されてはならない。あくまでもいつもと同じように振る舞い、日常の買物に出かけるような振りをして家を出るのだ。
持ち出す身のまわりの品も最小限にしなければならない。家出の決意を悟られれば、必ず阻止される。妖怪の巣窟に監禁されて、なにをされるかわからない。
弓子は食欲はまったくなかったが、いつもの朝のように、家族と共に朝の食卓に座った。これが最後の朝餐《ちようさん》となるであろう。
もはや羽室家に未練はないが、最後の朝餐となれば、やはりそれなりの感慨はある。
羽室家はあながち弓子を騙したわけではない。騙したとすれば福井である。もっとも福井も羽室家の人間の正体を知らなかったのかもしれない。
彼らは完全な家族を演技していた。いや、演技ではなく、それが彼らのあるがままの姿であったのかもしれない。
一つ屋根の下で親子きょうだいとして暮らしながら、同時に親子きょうだい相交わることに、なんら倫理感《りんりかん》の欠如をおぼえていないのかもしれない。
彼らにとっては近親相姦がごく当たり前のことであったのであろう。
羽室家の家族の前で、今度は弓子が演技をしていた。彼女にとって最後の演技である。
努めてにこやかに朝の挨拶を交わしながら、トーストをコーヒーで胃の腑《ふ》へ流し込む。
形ばかりにフライドエッグを口へ運んだとき、ふたたび強烈な吐き気がきた。口を手で押さえて洗面所へ駆け込む。
無理やり胃の腑へ流し込んだばかりのトーストとコーヒーを、トラップに逆流させた。
胃の腑を空にして食堂へ戻って来ると、繁子が心配そうな顔をして、
「もしかして、弓子さん、おめでたじゃないの」
と問いかけてきた。
「おめでた……」
弓子は凝然《ぎようぜん》となった。
心当たりがないでもない。ここのところ全身が微熱を帯びたように熱っぽく、身体がだるかった。
乳が張り、乳暈《にゆううん》が黒ずんできている。生理も遅れている。弓子はそれを風邪をひいたとおもっていた。
胸のむかつきは、焼き鳥事件の後遺症と信じ込んでいた。
だが、それはまさしく悪阻《つわり》の症状である。
「まさか」
弓子はうめいて、あとの言葉を喉の奥に呑み込んだ。
「まさかではないわよ。もうおめでたになっても、少しも不思議はないわ。そうだったの。よかったわ、私たちも一日も早く孫の顔を見たいとおもっていたのよ」
「そうか、とうとうおめでたか。我々もとうとうおじいさんとおばあさんになったか」
徹三の声が弾んだ。
「男の子かい、それとも女の子かな」
一直が問いかけてきた。
「馬鹿ねえ、まだそんなことがわかるはずないじゃないの」
睦子が呆れ声で言った。
はしゃぎだす家族の中で、弓子一人が呆然として我を失っていた。
家を出ようと決意した矢先、化け物の子供を孕《はら》んでしまった。逃げるに逃げられぬ鎖《くさり》で縛《しば》られてしまったのである。
「とにかく医者へ行って、確かめてもらわなければ。羽室家の大切な跡取りがお腹にいるのですからね。今日から自重してくださいな。弓子さん一人の身体ではないのよ」
繁子が釘を刺すように言った。
(妊娠したからといって、羽室家の鎖につながれたことにはならないわ)
最初のショックが鎮《しず》まると、弓子はおもい直した。
いまのうちなら中絶できる。化け物の子供、悪魔の血流をかき出してしまえば、弓子は自由である。妊娠が進行しない間に、掻爬《そうは》しなければならない。
その前に医者に診てもらい、妊娠の有無を確かめなければならない。あるいは、当初の危惧《きぐ》通り風邪をひいただけかもしれない。
弓子は早速、産婦人科医の診断を受けた。
「おめでとうございます。おめでたです。三ヵ月の終わりにかかっていますよ」
医者は無情に告げた。
「三ヵ月の終わり!」
医者の宣告によって一縷《いちる》の望みが絶たれた。
「あのう、中絶したいのですけれど」
「妊娠は初めてですか」
弓子がうなずくと、
「初めての妊娠であれば、なるべく産んだ方がよいですよ。人工中絶は大変危険な手術です。二度と赤ちゃんを産めなくなってしまうかもしれませんよ」
医者は慎重な口調で言った。
「どうしても産めない事情があるのです」
「皆さん、そのようにおっしゃいますが、せっかく幼い生命があなたの中に芽生えたのです。よくよく考えた上でご判断ください」
「よくよく考えてのことです」
「配偶者は同意されていますか」
「配偶者?!」
「中絶するためには、優生保護法によって配偶者の同意が必要なのです」
医者の言葉を聞いて、弓子は目の前が真っ暗になった。裕也がそんな同意をするはずもない。
弓子は打ちのめされて産婦人科医を出た。
おもいあまった弓子は、親友の笹岡美津子に相談することにした。
久し振りに美津子に会うと、彼女はびっくりした表情になって、
「弓子、どうしたのよ。すっかり窶《やつ》れちゃって。まるで別人みたい。どこか具合でも悪いの」
と問いかけてきた。
「化け物の鎖につながれてしまったのよ」
「化け物の鎖? それ、どういうこと」
「あなたの勘が正しかったわ。あの家は化け物の巣よ」
「ご主人との間になにかあったのね」
敏感な美津子は察した。
「美津子、オフレコよ。初めて羽室の家へ来たとき、家族がなにか嘘っぽいと言ったわね。あなたの勘はまちがっていなかったわ」
と弓子は前置きして、結婚後からこれまでのいきさつを美津子に語った。
「それ、本当なの」
美津子は驚きの色を隠さなかったが、まだ半信半疑の体《てい》である。
「こんなこと、嘘言うはずがないじゃないの」
「そうねえ、あなたのやつれぶりを見れば、ただごとでないことはわかるわ。でも、それが事実なら、離婚すればいいじゃないの」
「簡単に離婚に応じてくれそうもないわ」
「近親相姦は、結婚を継続し難い重大な理由になるわよ」
「でも、はっきり証拠をつかんだわけじゃないのよ」
「それは裁判で争うことになるわね」
「それに赤ちゃんもできちゃったし」
「妊娠しても離婚には関係ないわよ。産みたくなければ中絶すればいいじゃないの」
「中絶するためには、配偶者の同意がいるんですって」
「だったら、配偶者の同意をつくればいいじゃないの」
「羽室がそんな同意をするはずがないわ」
「弓子は箱入りねえ」
「私が箱入り?」
「そうよ、中絶の同意書なんて、架空の配偶者をつくって、三文判を捺《お》せばいいのよ」
「それ、本当なの?」
「そうよ。医者は配偶者の身許調べをしないわ。書類の形式さえ整えば、手術してくれるわよ」
「なーんだ、そうだったの」
弓子は少し救われたおもいがした。少なくとも羽室家の血の鎖は断ち切れる。
「美津子、中絶の経験あるの」
「ふふ、馬鹿ねえ」
美津子は薄く笑って、
「だから箱入りだというのよ」
「早速、配偶者の同意をつくるわ」
「それにしても、ひどい家庭ねえ。父親と娘、母親と息子、姉と弟が通じているなんて、めちゃくちゃじゃないの」
「私も信じられなかったわ。でも、それがあの家の家族の正体なのよ」
「でも、まだいまのうちならやり直しがきくわよ。弓子は若いんだから」
「美津子、書かないでね」
「オフレコの約束は守るわよ。とにかくそんな化け物の住処《すみか》は一日も早く出た方がいいわ。行く所がなかったら、とりあえず私の所へいらっしゃいよ。独り暮らしには少し広すぎるの。一部屋空けて待っているわ」
美津子は別れ際に言ってくれた。
頼る者もないとき、美津子の存在は心強い。
美津子に入れ知恵された弓子は、早速同意書を作成して、産婦人科医院へ赴《おもむ》いた。
これで化け物の播種《はしゆ》を取り除いて、元の身体へ戻れるとおもうと、清々する。
しかし羽室家の家族が、弓子が中絶してしまったと知ったら、どうするであろうか。その反応《リアクシヨン》が恐い。
中絶後も妊娠が続行しているように装い、離婚手つづきを進めなければならない。
まず近親相姦の有無を言わせぬ証拠を押さえ、裕也に離婚を申し出る。
裕也が応じなければ、裁判を起こす。弓子が訴えると言えば、脛《すね》に傷持つ裕也以下同家の家族は離婚に応ずるであろう。
玉の輿《こし》に乗り損なったのは少し惜しい気もするが、玉は玉でも傷だらけの歪《ゆが》んだ玉であった。
こちらの怪我の少ないうちに、そんな輿からは早く下りた方がいい。
弓子は待合室で膝《ひざ》を抱えて、凝《じ》っと自分の番を待っていた。
産婦人科医を訪れる若い女は、いずれも曰《いわく》ありげに見える。彼女らの腹部は一見なんの異常もなさそうであるが、他人《ひと》に話せぬ秘密を抱え込んでいるようである。
その秘密には男が関わっているが、産婦人科医院に男が付き添って来るようであれば、女の腹に巣くっている秘密は、秘密ではなくなる。
その秘密を培《つちか》うために、男と女は悦楽を共有したが、悦楽のツケを身体で支払わせられるのはいつも女である。
それもほとんどの場合、男の一方的な意思によって、男女が協力して播《ま》いた生命の種子を摘《つ》み取ってしまう。
悦楽だけは共有して、その結果については男は責任を取りたがらない。
だが弓子の場合は、通常の中絶のパターンとは異なる。
配偶者もその家族も、弓子の妊娠を歓迎している。つまり女の一方的な都合によって中絶しようとしているのである。
弓子は自分の腹中に播かれた生命の種子に、ふと哀れをおぼえた。化け物の種であっても、種そのものに罪はない。
種を播く時点では、弓子も積極的に協力している。播種に伴う悦楽は、むしろ弓子の方がより貪婪《どんらん》に貪《むさぼ》ったかもしれない。
化け物の種ではあっても、必ずしも化け物が生まれるとは限らない。それを化け物と勝手に決めつけて、身体の外へ掻き出そうとしている。
(ごめんね)
弓子は下腹部を抱え込むようにして、口中で謝った。
そのとき胎内でなにかがびくりと動いた。弓子は一瞬ぎょっとした。自分の腹中にべつの生き物が棲《す》みついて、動いたような感触をおぼえたからである。
彼女の意思とはべつに、なにかが動いた。もしかすると内臓が動いたのかもしれない。弓子は全身の神経を下腹部に集めた。
そのとき受付から名前を呼ばれた。
「はい」
と返事をしたとき、また下腹部の奥で動いた。さっきより明確な感触である。
「まさか」
弓子ははっとおもいあたることがあった。これが胎動であろうか。腹中の幼い生命が、初めて母にその音信を伝えてきたのか。
胎動は通常、妊娠五ヵ月の終わりごろから感ずるという。胎動にしては早すぎるのではないか。
腹中の生命が、母の胎内から掻き出されるのをいやがって、必死に訴えてきたのであろうか。
「羽室弓子さん」
再度受付から呼ばれた。
「はい、ちょっと都合がありますので、今日は帰ります」
弓子は立ち上がると、呆気《あつけ》にとられている受付係を残して、そそくさと待合室を出た。
胎動のような感触はその二回だけで、それ以後注意していたが、感じられなかった。
危険を悟った生命の芽が、幼いエネルギーの総力を挙げて、母に助命嘆願のメッセージを送ってきたのであろうか。
二回のメッセージでエネルギーを使い切ってしまったのかもしれない。その後はぴくりともしなかった。
とりあえず中絶は延期することにした。その間に胎児は成長して、中絶の機会を失ってしまうかもしれない。
だが不思議なことに、最初の胎動? を感じて以来、弓子は胎内の生命に愛情をおぼえ始めていた。
たとえ化け物や悪魔の種であろうと、弓子の子供であることに変わりはない。
その子が中絶直前に母の胎盤に必死にしがみついて、かき出さないでくれと訴えてきたのである。
我が子が胎内から伝えてきたメッセージに背いて、中絶することはできなかった。
弓子はできることなら羽室家を円満に出たいとおもった。法的にも離婚手つづきを取って、身辺をクリアにしたい。
離婚の原因として、弓子には落ち度はない。裕也と離婚した後、子供を産んで育てるつもりである。養育料ぐらいは裕也からもらいたかった。恐怖と打算が天秤《てんびん》にかけられている。今日明日の別居に切迫していないのは、羽室家の家族が弓子の意識を察知していないからである。
裕也との縁談を持ち込んできたのは、福井正次である。
福井は羽室家の内情を知っていて、弓子に縁談を勧めたとはおもえない。仲人の彼に事情を打ち明けて、離婚の仲介に立ってもらうのが最も無難であるとおもえた。
福井とは新婚旅行から帰国後、挨拶に行ったとき以来会っていない。福井の方からも音信はない。
弓子は福井の会社に電話をかけた。福井は弓子の上司のころ、会社の養子と渾名《あだな》されたほど、仕事熱心でいつも会社にいた。
いつ帰宅しているのかわからないほど、朝早くから夜遅くまで会社で熱心に仕事をしていた。
噂では、会社の宿直室に生活用具一切を詰めたバッグを持ち込んで、泊まり込んでいるということであった。
弓子がかつての勤め先に電話をすると、聞いたことのない女の声が答えた。わずか一年に満たぬ間に、かつての職場もすっかり様変わりしてしまったらしい。
弓子は福井を電話口に出してほしいと頼むと、
「元企画調整課長の福井ですか」
と問い返された。
元という言葉に不吉な予感をおぼえながら、
「そうです。福井正次さんです」
と言った。
「福井さんはお亡くなりになりました」
「亡くなった! それはいつですか。どうして亡くなったのですか」
弓子は愕然《がくぜん》として問い直した。
「あなたはどちら様ですか」
相手の声が警戒している。
「申し遅れました。私は元そちらで福井課長の下で働いていた大杉弓子と申します。前田《まえだ》さんか山野《やまの》さんはいらっしゃいませんか」
彼らは弓子の現役時代の同僚である。
「前田も山野も転勤になりました」
相手の言葉はあくまでも事務的である。
「私のことは人事にお尋ねになればわかります。福井さんはなぜお亡くなりになったのですか。古い方がいらっしゃったら出していただけませんか」
弓子はいらだった。
わずか一年未満で、浦島太郎のようになっている。
間もなくべつの声が電話口に応答した。
「やあ、大杉さんか。今野《こんの》です。その後お変わりありませんか」
「あっ、係長。お久し振りです」
「いまは福井さんの後を受けて企画調整課長を務めているよ」
「失礼しました。それで福井さん、亡くなったって、本当ですか」
「知らなかったのかね。二月の初め、会社からの帰宅途中、轢《ひ》き逃げされて亡くなったんだ」
「帰宅途中、轢き逃げされて」
弓子は電話口で唖然《あぜん》とした。
「我々も青天《せいてん》の霹靂《へきれき》でね。いまだにショックから立ち直れない」
「それで、犯人は捕まったのですか」
「警察で捜査しているが、まだ捕まっていない」
「福井課長が轢き逃げされたなんて、信じられないわ」
「我々も半信半疑なんだよ。でも、奥さんが遺体を確認した。お気の毒なことをしたよ」
「目撃者はいなかったのですか」
「それが深夜のことでね、だれも見ていた者がいないんだよ。ところで、福井さんになにか……」
「いいえ。いろいろお世話になったので、久し振りにちょっとご挨拶したいとおもったのです」
弓子は今野の質問を躱《かわ》した。
福井でなければ打ち明けられる問題ではない。
弓子は打ちのめされて電話を切った。これで唯一の相談相手を失ってしまった。
それにしても二月の初めといえば、弓子が羽室家の家族の行動に疑惑を抱きかけた前後である。
深夜、帰宅途上、轢き逃げされたというのも、椎葉道夫のときと同じである。
その相似におもいあたったとき、弓子ははっとした。
福井の死は単なる轢き逃げ事故であろうか。なに者かが故意に轢き逃げを装って、福井を殺したのではないか。
もしそうだとすれば、だれが、なんのために?
禍々《まがまが》しい想像が、導火線を伝う火のように走った。
福井は羽室家の家族の忌まわしい事情を知っていて、弓子に縁談を持ち込んできたのではないのか。
弓子が羽室家の内情に気づいたとき、当然福井に事情を聞きに行くだろう。
福井は羽室家にとって都合の悪い事情を知っている。そのために羽室家が先まわりをして、福井の口を閉ざしたのではないのか。
裕也と弓子の仲人を務めたのであるから、福井家の方から当然、羽室家に福井の訃報は送られたはずである。
それにもかかわらず羽室家が一言も福井の死を弓子に伝えなかったことにも、特別の意図が感じられる。
このように想像をたくましくすると、椎葉の死因までが疑われてくる。
係累の少ない適齢の女性として、弓子に白羽の矢が立てられた。
だが羽室家に供える生贄《いけにえ》にするには、椎葉の存在が邪魔になる。そこで椎葉を交通事故を偽装して抹殺《まつさつ》した、と疑えば疑えてくる。
だがなんの証拠もない。すべて弓子の憶測から発していることである。
福井は裕也との縁談を勧めるに当たって、裕也の父徹三を福井の古い知人と紹介しただけである。
福井と羽室家との関係は、それ以上のことはなにもわかっていない。
弓子もさして乗り気ではなかったが、椎葉を失った後の寂しさをとりあえず手当てするために、会うだけでも会ってみたらという福井の仲人口に乗って、裕也と見合いをして、ずるずると深みにはまっていってしまったのである。
弓子は福井の家を訪れることにした。
結婚前、数年間勤めた会社で、福井は企画調整課で約二年間、彼女の上司であったが、彼の家には新婚旅行から帰国後、挨拶に一度行っただけである。
福井にはそれほど家庭のにおいがなかった。彼は職場と家庭を完全に切り離していた。
彼の部下が細君が産気づいたとかで、臨時の休暇を要請してきたことがあった。そのとき福井は、
「きみが一ダースの女房を養い、一グロスの子供を孵化《ふか》させようと、会社は全然関知しない。会社はきみを奥さんの助産婦にするために雇っているのではない。奥さんの出産のためには医者もいれば産婆もいる。きみは出社したまえ」
と言って、休暇を許可しなかった。
ことほどさように公私に厳しかったが、部下の面倒みはよく、人望があった。
部下がプライベートなことで相談に行くと、親身になって聞いてくれた。
弓子も福井の言葉を信じて、羽室と見合いしたのである。
福井の家は都下|国立《くにたち》市の団地にある。福井の夫人とは、結婚式と新婚旅行後の挨拶に行ったときと、二度顔を合わせている。
あらかじめ電話で約束を取って、未亡人が指定した翌日の午後六時、福井家を訪ねた。
ドアを開くと、線香の香りがした。
内部はちまちました小部屋に区分されているが、4LDKほどの広さらしい。
弓子はまず弔意を述べて、居室の一隅に置かれた新しい仏壇の中の新しい位牌の前に焼香した。
「昨日、会社の方に電話をして、ご不幸を初めて知りました。知らぬこととは申せ、会葬もいたさず、申し訳ありません」
焼香後、弓子は福井未亡人の前に身を縮めた。
「私どもも突然のことで、いまだに主人が死んだのが信じられません。いまでも主人がひょっこり帰って来そうな気がして」
早くも細君の声が湿ってきた。
屋内はしんと静まり返り、ほかに家族のいる気配も感じられない。子供もいるはずであるが、すでに成長して独立しているのかもしれない。
「なんと申し上げてよろしいか。福井さんには在職中、本当にお世話になりました」
「あなたのことはよくお噂していました。会社の女性では最もあなたを信用していたようでした。主人はよく、大杉さんがいるので助かると言っていました」
「私の方こそお世話になりっぱなしで。なんのご恩返しもできないうちに、このようなことになってしまって、言葉もございません。羽室がなにもおしえてくれなかったものですから」
「きっと、よけいな心配をかけたくなかったのでしょう」
「舅《しゆうと》や主人は会葬したのでしょうか」
もしそうなら、なぜ弓子を伴わなかったのか。
「たくさんの方にご会葬いただきましたが、ご主人と羽室先生のお姿は見かけなかったようにおもいます」
「でも、福井課長と主人の父とは古いお知り合いとうかがいましたが」
古い知り合いでなくとも、息子夫婦の仲人の葬式ならば、必ず会葬したはずである。それに出席しなかったということに、特別の意図が感じられる。
「私も主人からそのように聞いておりましたが、詳しい関係は知らないのです」
本当に知らないのか、あるいは故意に隠しているのか不明であるが、福井未亡人から、福井と羽室家との関係を聞き出す望みは絶たれた。
弓子は彼女に離婚の意図を打ち明けようかとおもったが、未亡人から羽室家に筒抜けになる虞《おそれ》もあるので、差し控えた。
「それで犯人の手がかりはつかめたのですか」
弓子は質問の鉾先《ほこさき》を転じた。
「警察が必死に捜査してくださっているようですが、まだ皆目《かいもく》手がかりはつかめていないようです」
「課長が轢き逃げされたなんて、信じられませんわ。課長は用心深い方だったですから」
「主人は事故にあう少し前、お酒を飲んでいたようです」
「だれとお酒を召し上がったか、わかっているのですか」
「それがわかりません。帰宅前、どこかの屋台で一杯引っかけたのかもしれません」
「課長は会社の帰りによくお酒を召し上がるのですか」
弓子は福井から飲み屋などへ誘われたことはなかった。課のグループで飲み会などをやることはあったが、二人だけで飲みに行ったことはない。
「酒は嫌いではありませんでしたが、酒量は多くありませんでした。行きつけの飲み屋も何軒かあったようですが、当夜は姿を現わさなかったようです」
だれかが福井の帰途を待ち伏せて、酒を飲ませる。充分酔わせたところで、車を打ち当てる。そんな構図が弓子の脳裡に描かれた。
結局、福井未亡人からも欲する情報はなにも得られなかった。
彼女が故意に秘匿《ひとく》している様子も見えない。また夫の死がある意図のもとに、なに者かに企まれたものと知れば、彼女が共犯でない限り秘匿するはずもないだろう。
福井未亡人は夫を失って、本当に打ちひしがれている。
彼女は弓子の羽室家での事情を知らないはずである。また弓子が裕也との離婚を考えるようになったのは、時間的に見ても福井が死んだ後である。
弓子の心境の推移は、福井にも、彼の細君にもわからなかったはずである。
細君が福井と羽室徹三との関係を知っていたとしても、それをあえて弓子に秘匿する必要もなさそうである。
その日、なに食わぬ顔をして羽室家へ帰った弓子は、夕食後、裕也と二人だけになったときを狙って、切り出した。
妊娠が確定してから、それを口実に弓子は裕也を拒みつづけている。そのせいか、最近裕也に落ち着きがない。
深夜ベッドをこっそりと抜け出して、二階へ上って行く頻度《ひんど》が増えてきている。
「福井さんが亡くなったのをご存じ?」
弓子は胸に一物を秘めて問うた。
「福井さん?」
「あら、私たちの仲人を忘れちゃったの」
「ああ、あの福井さんか。福井さんがどうかしたのかい」
裕也は眉一筋動かさない。
「二か月前|轢《ひ》き逃げされたんですって。ちっとも知らなかったわ。報《しら》せてくだされば、お弔いに出たかったのに」
「きみはだれから聞いたんだ」
「先日、昔の会社の友人から電話がかかってきて、雑談をしている間に聞いたのよ。葬儀の通知はこなかったのかしら」
「そういえば、そんな通知があったような気がするが、まさかあの福井さんとはおもわなかった」
「私たちの仲人よ。夫婦して出なかったら、仏様に怨まれるわ」
「いまからでも焼香して来ようか」
「私が今日、福井家にうかがって、ご焼香して来たわ」
「えっ、きみが福井家へ行ったのか」
無表情を装っていた羽室の面が、少しぎょっとなったようである。
「福井さんとはどういうご関係でしたの」
「親父の古い知り合いだそうだよ。きみは福井さんから聞いていないのか」
「詳しいことは聞いていないわ。古い知り合いって、どんな知り合いなのかしら」
「ぼくも知らない。いまごろどうしてそんなことを聞くんだね」
「福井さんが亡くなったので、気になるのよ。考えてみれば、福井さんは私たち夫婦の架橋のような人。その橋の構造をよく知らないなんて変じゃない」
「橋か。なるほどねえ。しかし橋なんていちいち構造を確かめて渡らないよ。石橋でも木の橋でも吊り橋でも、要するに向こう岸へ渡してくれればいいのだ」
橋は向こう岸へ渡るためだけではなく、こちらの岸へ戻るためにもある。福井の急死は、戻るべき橋を取り外されたような気がした。
だが、そのことは裕也には言えない。
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失踪《しつそう》した墓参
福井の死を知ってから数日後、出勤する夫を送り出した弓子は、書斎のデスクの上に夫の財布が置き忘れてあるのに気づいた。いまから追いかけて行っても間に合わない。
財布を持たずに出社しても、社内にいる限り困ることはないだろうが、財布を持っているつもりで外出したり、飲食したりすると困るであろう。
そこが初めての店であったり、周囲に知人がいなければ、途方に暮れてしまう。
弓子は裕也が会社へ着いた時間を見計らって、電話をした。
「営業企画一課の羽室を願います」
弓子は応答した交換手に言った。
「営業企画一課の羽室ですね」
交換手は繰り返して、電話を羽室の所属する部署へまわしてくれたようである。
間もなく電話口に、べつの女性の声が応答した。
「羽室の家内ですが、いつも主人がお世話になっております。主人はおりますでしょうか」
弓子は丁重に言った。羽室の会社に電話をするのは初めてである。夫から私用で会社に電話するのは禁じられていた。鬼上司の福井の下にいたので、公私の区別はわきまえている。だが財布がないと、夫が恥をかくかもしれない。財布は公用にも関わってくると判断して弓子は電話した。
「羽室さんとおっしゃいましたか。営業企画一課にまちがいありませんか」
直ちに裕也に取り次がれるとおもっていたのが、電話口の相手が問い返してきた。
「営業企画一課の羽室です。まだ出社していないのですか」
弓子は怪訝《けげん》におもった。
家から会社まで四十五分、どんなにゆっくり見積もっても一時間あれば充分である。もうとうに着いていなければならない時間である。
「営業企画一課に羽室という人間はおりませんが」
対話者が答えた。
「なんですって。そんなはずはありません。私は羽室の家内です。羽室裕也、営業企画一課の係長のはずです」
弓子は電話口の女性が新入社員かとおもった。ちょうど新人が入社して来る時期である。
「いいえ、そのような人はいらっしゃいません」
「どなたか古い方を出していただけませんか」
弓子は、あなたでは話にならないと暗にほのめかした。
「私は営業企画一課に配属されて二年になりますが、羽室裕也という人はいません」
対話者は少しむっとした口調で答えた。
これはいったいどういうことか。弓子は混乱した。
「お電話を人事課へまわします」
対話者が弓子の混乱を見透かしたように言った。
電話は人事課へまわされた。
「羽室裕也さんですか。ちょっとお待ちください」
弓子は電話口で少し待たされた。
間もなく人事課員がふたたび電話口に出て、
「羽室裕也さんは三年前に退社しております」
と答えた。
「本当ですか。でも、主人は毎日出社していますが」
「それはべつの会社ではありませんか。ともかく羽室さんは、三年前の三月二十五日付をもって当社を退社しております」
弓子の混乱は増した。
人事課員の言っていることが事実とすれば、羽室は毎日どこへ行っているのか。
「退社の理由はなんでしょうか」
「あなたは本当に羽室さんの奥さんですか。奥さんがどうしてそんなことを知らないのですか」
人事課員が問い返してきた。
「私は羽室の家内にまちがいありません。羽室は毎日出勤しております。会社を辞めているとすれば、いったいどこへ行っているのでしょうか」
「それは私どもも知りません。ともかく羽室裕也さんは現在、当社には在籍しておりません」
「すると主人は、私に嘘をついているのでしょうか」
「さあ、その辺のところはどうも……」
人事課員も電話口で当惑しているらしい。
「退職の理由をおしえてください」
「一身上の都合となっております」
人事課員は弓子の口調から気の毒になったらしく、退職理由をおしえてくれた。
だが一身上の都合とは抽象的である。要するに、辞めた理由は不明ということである。
電話を切った弓子は途方に暮れた。
これはいったいどういうことであろう。人事課員が嘘をつくはずもない。とすると、裕也は結婚のときから弓子に嘘をついていたことになる。
福井は、裕也が退社した事実を知っていたのであろうか。
福井は裕也の父の知り合いであったそうである。だから福井が裕也自身の結婚当時の状況を正確に把握していなかったとしても、不思議はない。
無責任な仲人ではあるが、結婚に際して職業を偽っているとはおもわなかったのであろう。
こうなると、怪しいのは裕也だけではなくなる。
父親の徹三も元大学教授ということであるが、本当に大学に在籍していたかどうか信用できない。
睦子も一直も怪しい。
睦子は大手町の方の商社に勤めているということであるが、確かめたわけではない。また一直も、都内の一流私立大学の学生という触れ込みになっているが、これも怪しいものである。
疑惑が弓子の胸の内でみるみる脹《ふく》れ上がってきた。
裕也に問いつめればはっきりすることであるが、それをするのは危険であることを本能がおしえている。
裕也に、弓子が彼の三年前の退社を知ったことを悟らせてはならない。
だが、会社を辞めているとすれば、毎日、いったいどこへ出かけて行くのか。彼が置き忘れた財布もかなり厚かった。
羽室家の暮らしぶりは豊かである。裕也が退社し、徹三がてんぷら教授であったなら、羽室家はどこから収入を得ているのか。
収入などなくとも、先祖から引き継いだ財産があるのであろう。
羽室家にいればいるほど、その家族は得体が知れなくなってくる。
だが家族全員、弓子に対して優しい。妊娠してから、特に優しくなった。家族は和気あいあいとして、家庭内は和やかである。
裕也も、弓子が妊娠を口実に拒みつづけているとストレスが溜《た》まっていらいらするが、深夜二階へ上ってガスを抜くせいか、次の朝はすっきりした表情をしている。
弓子はのっぴきならない証拠をつかむために、不気味さに耐えて羽室家に居つづけた。
離婚をするにしても、生まれてくる子供のために、できるだけ有利な条件を整えなければならない。
腹の中の子供が当分の間、夫よけになってくれる。
笹岡美津子が「嘘っぽい」と言ったように、弓子もいま、羽室家の一員を演技している。
美津子の目から見れば、弓子の演技も嘘っぽく見えるであろうが、これも離婚原因の証拠をつかむための方便である。
いま弓子の心境は微妙に変化していた。
妊娠を知った当初は、化け物の子として中絶しようとしたが、産婦人科医院で初めての胎動を感じたときから、腹の中の生命に対する愛《いと》しさが芽生えた。
その愛しさは、胎児の成長と比例して募《つの》ってくるようである。
いまは注意して見れば、下腹の膨《ふく》らみが見分けられる程度になっている。中絶はもはや不可能な時期になっている。
子供を産むと決意した弓子は、子供のためにも、化け物の眷属《けんぞく》と絶縁するための証拠をつかまなければならなかった。
産婦人科医院で初めての胎動を感じてから、しばらく胎児の音信は絶えていたが、四月の終わりごろからふたたび胎動を感じるようになった。
胎動は日に日に強くなっている。時には痛いほどである。
弓子が初めて胎動を感じたのは三ヵ月の終わりごろである。胎動にしては早すぎた。
やはりあれは、弓子の胎内に着床した生命が、殺されまいとして必死に母胎に訴えかけてきたメッセージであったのか。
結婚一周年がめぐってきた。
四月の下旬、羽室家に珍しく一人の訪問者があった。六十代後半から七十代前半と見える品のよい老人である。
見事な白髪に、ゴルフ焼けであろうか、真っ黒に日焼けしている。
そのとき家にいたのは、繁子と弓子の二人だけであった。
チャイムにたまたま弓子が応答して、玄関へ出た。
訪問者は羽室|徹太郎《てつたろう》と名乗った。
「あなたが裕也の奥さんですか。初めまして。私は徹三の兄の徹太郎です。若いころにブラジルへ渡りましてね、弟とも音信不通になっていましたが、私も齢《とし》なので、先祖の墓参りをするために四十数年ぶりに帰国して来ました。当時、裕也はまだ生まれておりませんでしたが、もうこんな美しい嫁さんをもらうようになりましたか」
と言って、老人は日焼けした顔をほころばせた。
そう言われてみると、徹三に似ている。
「ブラジルから四十数年ぶりに、それでは伯父《おじ》様ですね。どうぞお上がりくださいまし」
弓子は驚いて、徹太郎と名乗った老人を応接室へ通した。
「この家も四十数年ぶりじゃ。懐かしいのう。徹三はいますかな」
徹太郎は懐かしげに家のあちこちを見まわしながら言った。
ブラジルに徹三の兄がいるとは聞いていた。
「お義父《とう》様はただいま大学の方へ行っていらっしゃいます」
「ほう、大学へのう。大学へなにをしに行っておるのかな」
徹太郎は不審げな表情をした。
「お義父《とう》様は東都大学の元教授で、只今頼まれて菊水短期大学に出講していらっしゃいます」
「東都大学の元教授、それは大したものじゃ。徹三も出世をしたものじゃのう」
徹太郎の表情が感嘆している。
「夕方には帰って来るとおもいますが」
「それでは繁子さんはおられるかな」
「お義母《かあ》様はおられます」
「お会いしたい。徹太郎がブラジルから帰って来たと伝えてくだされ」
徹太郎は全身に懐旧の情を表わして言った。
「こちらでお生まれになったのですか」
弓子は問うた。
「そうです。当時、わしと徹三との間に雅枝《まさえ》という妹がいましたが、二十歳になったとき悪い風邪をひいて死んでしまい、徹三と二人だけの兄弟になりました。家は豊かでしたが、わしは当時、血気盛んでのう、日本を狭苦しく感じておりました。両親が止めるのを振り切ってブラジルへ渡ったのが、戦後間もなくでしたな。戦争で危うく死にかけた命を、海外で精一杯雄飛させたいとおもったのです。ブラジルでは無我夢中でしたが、これも齢のせいですかな。このごろ日本が無性に懐かしくなって、先祖の墓参がてら、徹三にも久し振りに会おうとおもって帰って来たのです」
「お義父《とう》様とお義母《かあ》様は、そのころもう結婚していたのですか」
「いやいや、ブラジルへ渡って数年の間はたがいに文通をしていましたが、わしが住所を転々としたために、いつの間にか音信不通になってしまったのです。その当時の手紙で、徹三が繁子さんという女性と結婚して裕也が生まれたことを知りましたのじゃ」
「それではお義母様に会うのは初めてですね」
「初めてじゃが、写真を送られましたよ」
「それでは義母《はは》をただいま呼んでまいります」
弓子は徹太郎を応接間に待たせて、繁子を呼びに行った。
居室にいた繁子に、ブラジルから徹太郎が帰って来たことを伝えると、繁子は顔色を変えて、
「それで、私がいると言ってしまったのですか」
と問うた。
「はい。いけなかったでしょうか」
「その徹太郎という人は若いときからならず者で、おじい様から勘当されたのです。いまごろになって、なぜのこのこと帰って来たのでしょう。きっとブラジルで食いつめて、この家へ転がり込むつもりで帰って来たのよ。私はいないと言って、追い返してちょうだい」
「でも、たったいま、お義母《かあ》様はいらっしゃると伝えてしまったのです」
「かまわないから、いるとおもったけれど、出かけてしまいましたと言うのよ」
繁子はこわばった表情で言うと、居室の中に閉じこもってしまった。
弓子は当惑したものの、繁子が会わないと言う以上、やむを得ない。
弓子は応接間へ引き返すと、
「申し訳ありません。お義母様はいらっしゃるとばかりおもっていたのですけれど、出かけていました。今日は都心のデパートへ買物に行くとおっしゃっていたのを、すっかり忘れていました」
腋《わき》の下に冷や汗をかきながら言った。
「それは残念じゃな。久し振りに徹三や繁子さんに会えるとおもってきたのじゃが、いつ帰って来るかわからんのでしょう」
徹太郎は失望の色を面に浮かべて言った。弓子の言葉を疑っていないようである。
「すみません。聞いておりませんでした」
「当てもなく待つわけにもいかんのう。ほかにもまわる所もあるし、もう一度出直して来ましょうかの」
徹太郎は残念そうに言った。
渋く老いた顔は人生の辛酸をなめ尽くしたように枯れている。とても繁子の言うように親から勘当された無頼漢とはおもえない。齢を取って無頼を卒業したのであろうか。
それにしても四十数年ぶりにブラジルから帰国して来た義兄を、居留守を使って追い返す繁子の無情が、徹太郎に対して申し訳ない。
なぜ、せめて一目会ってやらないのか。徹三が帰宅してこのことを知ったら、きっと怒るにちがいない。
舅《しゆうと》は間もなく帰るだろうから、少しお待ちになってはいかがと口の先まで出かかったが、繁子が敬遠している様子をおもって、堪えた。
「申し訳ありません。せっかくいらっしゃってくださったのに」
弓子は心から詫《わ》びた。
「まだ日本には当分滞在するつもりです。また日を改めて出直してまいります。徹三と繁子さんにはロイヤルホテルに泊まっていると伝えてください。なおこれは些少《さしよう》じゃが、ほんの手《て》土産《みやげ》です」
徹太郎は帰り際に、弓子の手に革袋に入れた品物を押しつけた。
なにげなく受け取ると、ずしりと重い手応えである。
徹太郎が帰った後、繁子に報告すると、
「本当に帰ったでしょうね。その辺に隠れていて、様子をうかがっているんじゃないかしら」
と目に猜疑《さいぎ》の色を塗っている。
「とてもそんな人には見えませんでしたわ。気品のある折り目正しい方で、お義父《とう》様もお義母様も留守だとお伝えすると、とてもがっかりしていらっしゃいました」
「それが食わせ者なのよ。ブラジルも食いつめちゃったので、この家を乗っ取ろうとして帰って来たのよ」
「また日を改めていらっしゃるとおっしゃっていました」
「また来ると言ったのね。どうしましょう」
繁子は蒼ざめた。
「お土産とおっしゃって、これをいただきましたけれど」
繁子は徹太郎から託された革袋を繁子に渡した。
「なにかしら」
繁子は恐る恐る革袋を受け取って、口を開いた。中からうずらの卵大の翠緑《すいりよく》色の透明の石が出てきた。
「まあ、綺麗《きれい》」
二人は同時に声を発した。
繁子は一瞬、その石の発する清々しい翠緑色に、彼女が忌避《きひ》した徹太郎が残して行ったものであることを忘れてしまったらしい。
「お義母様、これはエメラルドではないでしょうか」
「あの男が本物のエメラルドを持って来るはずがないわ。きっと模造品よ」
「でも、ブラジルはエメラルドの産地と聞いています。四十数年ぶりの帰国のお土産に、模造品を持って来るでしょうか」
「これが本物だとしたら、凄いわね」
猜疑の色に塗られていた繁子の目が輝いてきた。
その日の夕方、帰宅して来た徹三に、徹太郎が来たことを伝えると、顔色が変わった。
「徹太郎が来たって。生きていたのか」
その声が上ずっている。
「私も留守だと言って会わなかったのですけれど、弓子さんに、また出直して来ると言ったそうよ」
「いまごろになって、どうして帰って来たのだ」
「久し振りにご先祖のお墓参りをするために帰国されたとおっしゃっていました。ロイヤルホテルに当分滞在されるそうです」
「当分と言ったんだね」
「はい」
「あなた、なんとかしないと、また来るわよ」
繁子の顔色も青ざめている。
「しかし、来るなとも言えないだろう」
「こちらから会いに行ったらどうかしら」
「こちらから会いに? そんなことをしたら藪蛇《やぶへび》になるかもしれない」
「でも、ただ凝《じ》っとして相手の出方を待っているよりはいいわ」
徹三と繁子は動転して、弓子の存在を忘れてしまったようである。
「そうそう、すっかり忘れていたけれど、お土産と言ってこんなものを持って来たのよ」
繁子はようやく徹太郎が置いて行ったエメラルドをおもいだした。
「これは凄いエメラルドじゃないか」
徹三は目を見張った。
「どうせ模造品でしょう」
「いや、これは本物だ。こんな土産を持って来るところを見ると、徹太郎、ブラジルで成功しているらしいな」
「ますますもって油断ならないわよ。お金ができて、よけい欲が出るということもあるもの」
「ともかく、徹太郎が来ても会わないようにしよう。弓子さん、あの男は悪者だ。もし我々が家にいるときに来ても、絶対にいると言ってはいけないよ」
徹三は念を押した。
「承知いたしました」
弓子は言ったものの、徹三と繁子がどうして徹太郎をそんなに忌避するのかわからなかった。どう見ても、彼らの言うような悪い人間ではないようである。
若いころ裸一貫でブラジルへ渡り、成功した立志伝中の人物らしく、風貌には悠揚《ゆうよう》として迫らざるものがあり、酸いも甘いもかみ分けた枯淡《こたん》の表情がある。
かなりの高齢であるにもかかわらず、若いころ鍛《きた》え上げたような芯《しん》が一本通っているようである。
徹太郎の現在の位置と豊かさは、彼が持参した土産のエメラルドにも象徴されている。羽室家を乗っ取るために帰国して来たようには見えない。
徹三と繁子の被害妄想ではあるまいか。
それにしても四十数年、消息を絶っていた兄が、墓参のために帰国して来たのである。仮に尾羽打ち枯らしていたとしても、肉親として温かく迎えてやるべきではないのか。
それが温かく迎えるどころか、戦々恐々としている。それでいて土産のエメラルドはちゃっかりと値踏みしている。
弓子は徹太郎が可哀想になった。全身に郷愁を担って、彼は四十数年ぶりに母国へ帰って来たのである。
異国で成功しても、その喜びを分かち合うべき骨肉は母国に残して来ている。望郷のおもいに耐え、ようやく故国に錦を飾ったときは、すでに両親はなく、弟が一人生き残っているだけである。
その弟から忌避されたと知ったら、徹太郎はどんなおもいがするだろう。
弓子は、徹三も繁子も不在だと伝えたときの徹太郎の落胆した表情が、瞼の裏から離れない。
徹三も繁子も羽室家の相続権を要求されるのを恐れているのであろうか。徹太郎も当然のことながら、羽室家の相続権を持っていたはずである。
だが相続は親が死んだときにするものであろう。親の死後四十数年もたってから、相続権を要求できるものであろうか。
以前、なにかのテレビ番組で、行方不明になっていた相続人が二十年直前に現われて、時効直前の際どいところで相続に間に合ったというドラマを見たことがある。
記憶が誤っていなければ、相続権の時効は二十年ということになる。
仮に徹太郎の相続権が時効にかかっていないとしても、彼がそんなものを要求するために帰国して来たのではないことはわかる。
その後、徹太郎はふたたび訪問する気配もなく、連絡もなかった。
当初は戦々恐々としていた徹三と繁子も、徹太郎のことは忘れてしまったようである。
だが弓子の意識には、たえず徹太郎が引っかかっていた。
四十数年ぶりの帰国で、唯一の肉親に会わぬままブラジルへ帰るはずがない。あるいは弓子の知らない間に、徹三と繁子が会いに行ったのであろうか。
あれほど忌避していた二人が、こちらから会いに行くとは考えられない。
「その後、ブラジルの伯父様、お見えになりませんわね」
弓子はそれとなく二人に探りを入れてみた。
「もう帰ってしまったのではないのかな」
徹三は涼しい顔で答えた。
その様子からして、彼の方から会いに行っていないようである。
「でも、あれほどお義父様とお義母様に会いたがっていらっしゃったのに、会わずに帰国されるかしら」
「久し振りの来日で、日程が忙しかったんだろう。兄弟といっても、もう何十年も会っていないし、他人同様だからね。突然会いに来られても、共通の話題もない」
徹三はその話題を早く打ち切りたがっている様子である。
弓子はどうも釈然としなかった。
徹太郎が訪ねて来てから十日ほど後、弓子は買物に外出した際、徹太郎が滞在していると言ったホテルに電話をかけてみた。
「羽室徹太郎さんですね、失礼ですが、あなた様は羽室様のお知り合いですか」
フロント係が問い返した。その口調にただならぬものが感じられた。
ホテルに宿泊客の問い合わせをして、客との関係を問われたことはない。
「はい、そうですが、それがなにか」
「少々お待ちください」
フロント係はそそくさと言って、電話を保留した。
待つ間もなく、べつの声が電話口に出た。
彼はフロントの責任者と名乗って、
「実は、羽室様は五日前からホテルへお帰りにならず、我々もお行方を探しているのです。お知り合いと承りましたが、羽室様はお宅へいらっしゃらなかったでしょうか」
と問いかけてきた。
「羽室さんがお帰りにならない! それはどういうことですか」
弓子は驚いて問い返した。
「私どもも当惑しております。もしかすると、お出かけ先で事故にでもあわれたのではないかと案じて、今日あたり、警察へ届け出ようとおもっていた矢先でした」
「どこへ行くともおっしゃらずにお出かけになったのですか」
「はい。お部屋をキープしたまま数日お留守にされるお客様もいらっしゃいますが、そのようなときは、必ずフロントの方へご指示がございます。羽室様はなにもおっしゃらずにお出かけになったまま、お帰りになった様子がございません」
「お部屋はどうなっているのですか」
「当ホテルでは、五日ごとにご請求申し上げておりますが、お出かけになる直前、ご清算いただいております。その後五日間、お部屋をキープしておりまして、このままですとお部屋代だけが嵩《かさ》んでしまいますので、私どももどうしたものかと案じておりました」
「荷物などはそのまま放置してあるのですか」
「さようでございます」
「その後連絡もないのですね」
「最後にお姿をお見かけしたのは、五日前の夕方でした。なにもおっしゃらずにお出かけになったまま、なんのご連絡もございません」
五日前の夕方、フロント係が徹太郎が出かけていく姿を目撃している。そのときキーはフロントに預けなかった。
「その後、帰っていらっしゃらないのですね」
「お部屋をお使いになった形跡がございません。それ以後、従業員のだれも羽室様のお姿を見かけた者がございません」
「フロントへなにも言わずに、数日間ホテルへ帰って来ないお客はいませんか」
「一日二日、黙ってお出かけになるお客様はいらっしゃいますが、五日間つづけてなんの連絡もないままお帰りにならないお客様は、当ホテルにはいらっしゃいませんでした」
「消息を絶つ前に、どなたか訪問者か電話はありませんでしたか」
「訪問者《ビジター》はいらっしゃいませんでした。電話は何本かかかってきたようですが、どちらからかかってきたかわかりません。羽室様が発信した電話番号は記録に残っておりますが、私どもで問い合わせましたところ、デパート、航空会社、旅行代理店等で、対話者はわかりませんでした。お部屋に残されたお荷物の中に、お出かけ先の手がかりがあるかもしれないとおもうのですが、私どもで勝手に手をつけるわけにもいかず、警察へお届けしようとおもっていた矢先でした。失礼ですが、あなた様は羽室様のどのようなお知り合いですか」
「親戚です」
「ご親戚ならば、羽室様のお行方について、なにかお心当たりはないでしょうか」
「実は私どもにお見えになるお約束の日にいらっしゃらないので、どうなさったのかとおもって、お電話を差し上げたのです」
「恐れ入りますが、お宅様のお名前とご住所をうかがえないでしょうか」
「これからそちらへうかがいます」
弓子は咄嗟《とつさ》に判断に迷って、電話を切った。
ホテルが警察へ届け出れば、いずれは警察から羽室家に照会が来るであろう。
徹三と繁子が徹太郎を忌避しているにもかかわらず、弓子が二人に内密にホテルに問い合わせたと知られたら、まずい。
電話を切った弓子は、不安に胸を締めつけられた。なにかよくないことが徹太郎の身に起きたような気がしてならない。
フロントの責任者は、徹太郎が出先でなにか事故にでもあったのではないかと案じていたが、最近そのような事故の報道はない。
徹太郎がどの程度の金品を身に付けていたかわからないが、羽室家への土産物から察しても、彼がかなり豊かであったことはわかる。
出先で金品目当ての強盗に遭遇して、金品を奪われた上殺害されて、死体を人目に触れぬ場所に隠されてしまったという可能性も考えられる。
だが弓子は、その可能性はきわめて少ないとおもった。
徹太郎は一見する限り、ごく普通の老人である。強盗は見ただけでは、徹太郎が金品を身に付けているかどうかわからない。
しかも行きずりの強盗なら、金品を奪って殺害した後、死体を隠す必要はない。死体を人目に触れぬ場所へ運ぶ危険を冒すよりは、現場に放置して行った方が、強盗にとって安全である。
強盗より確率が高いのは、交通事故にあった場合である。
徹太郎が出先で轢《ひ》き逃げにあったとする。加害者は犯行現場から犯行が露見するのを恐れて、死体をどこかへ運んで隠してしまった。あり得るケースである。
だが弓子は、べつの疑惑を抱いていた。
徹三と繁子は徹太郎の再訪を恐れていた。二人が、徹太郎がふたたび姿を現わす前に、先手を取って徹太郎をどうかしてしまったのではあるまいか。
二人が呼び出せば、徹太郎は喜んで出て来るであろう。徹太郎を人目に触れぬ場所へおびき出し、そこで殺害して死体を隠匿《いんとく》してしまう。そうすれば、徹太郎がふたたび彼らの前に姿を現わすことはない。
いまにしておもえば、徹太郎がホテルから消息を絶ったころと、徹太郎の再訪に怯《おび》えていた二人が落ち着きを取り戻した時期とが一致している。
彼らが徹太郎をどうかしてしまったのではあるまいか。弓子の胸の内で、疑惑がすみやかに膨張《ぼうちよう》している。
弓子の全身が無意識のうちに小刻みに震えていた。
ホテルへの問い合わせの電話後、帰宅途中、背後から呼びかけられた。
「奥様、羽室さん」
振り返ってみると、隣家の沖野夫人がにこやかに笑いかけている。
「あら、奥様」
「お買物ですか」
「はい、ちょっと」
弓子は、沖野夫人にいまの電話の内容を傍聴されたような気がした。だが沖野夫人はまったく屈託のなさそうな表情で、
「先日、と申しましても十日ほど前になりましょうか、羽室先生によく似ていらっしゃる品のよいお年寄りから、お宅への道筋を聞かれましたのよ」
と言った。徹太郎のことを言っているようである。
「主人の義父《ちち》の兄が久し振りに訪ねて見えましたの」
弓子は答えた。
「そうでしたの。なんでも海外に長いことおられたそうで、辺《あた》りがすっかり変わって、道筋がわからなくなってしまったとおっしゃっていました。お宅のお電話番号も知らないご様子でした。差し出がましいとおもいましたが、私がお宅の前までご案内申し上げました」
「それは有り難うございました。なんでも四十数年ぶりの帰国と言っていました」
「それでは私が沖野と結婚するずっと以前のことですわね」
若々しい沖野夫人が驚いたような声を出した。
「奥様はいつごろご結婚なさったのですか」
「あら、齢がわかってしまうわね」
沖野夫人ははにかんだように笑って、
「私たち、お宅のお隣りへ移ってまいりましたのは、二年ほど前なのです。たまたま前の住人から家を売りたいという話を人を介して持ちかけられまして、以前に住んでいた家が手狭になったところでしたので、いまの家を譲り受けて引っ越してまいりましたのよ」
「そうでしたの」
「羽室さんはこの辺りでは主《ぬし》ですわ。ご先祖の代々からこの地に住まわれて、私たち新しい移住者は、なかなかおつき合いさせていただけませんわ」
沖野夫人は少し恨めしげな口調になった。
羽室家が沖野家との交際を敬遠していることを言っているのである。
繁子は沖野家が羽室家の内情を偵察していると言っていた。結婚当初は聞き過ごしていたが、いまにして、羽室家には偵察されては困るような内情があることがわかる。
沖野家だけではなく、隣り近所のどの家とも羽室家は交際していない。
沖野夫人が羽室家を主と呼んだが、この地域で最も古い家だけに、近所の者は羽室家が気位が高く、新参者を寄せつけないと釈《と》っているようである。
「申し訳ありません」
弓子の声がつい弱々しくなった。
「あら、奥様がお謝りになることはございませんわ」
沖野夫人が笑った。親しみやすい女性である。
だが、それも繁子に言わせれば、羽室家の内情を探ろうとしてアプローチをしていることになる。
「そうそう、お年寄りをお宅にご案内して間もなく、お帰りになって行くお姿をお見かけしましたが、羽室先生にはお会いになれましたの」
沖野夫人がさりげなく尋ねた。
「は、はい」
弓子は一瞬どぎまぎした。これが繁子の言う偵察であろうか。
勘のよさそうな沖野夫人は、徹太郎が徹三に会えなかったことはもちろん、繁子が居留守を使ったことも察知しているようである。
「そうでしたの。久し振りのご帰国にしては、あまりに早くお宅からお帰りになって行くお姿をお見かけして、あれっとおもったのですよ」
「義父《ちち》があいにく不在でして、また出直すということでした」
弓子は言わずもがなのことを言ってしまったかと悔やんだ。
「そうでしたの。でも、その後、お姿をお見かけしないようですわね」
すかさず沖野夫人が追いすがって来た。どうやら彼女の誘導尋問に引っかかってしまったらしい。
「義父と義母が、滞在中のホテルにお訪ねしたのです」
二人は連れ立った形で話し合いながら、両家の門の近くまで来た。
別れ際に、沖野夫人がふとおもいだしたように、
「奥様、つかぬことをうかがいますが、もしかしてお宅のお庭でうちのミーを見かけませんでしたか」
と尋ねた。
「ミーを、いいえ。最近ミーはうちの庭へ来ないようですわ」
沖野夫人には、ミー生き埋め事件については気配も悟られてはならない。
「ミーがどうかいたしましたの」
「いなくなってしまったのです。臆病《おくびよう》で、それほど遠方へ行くはずもないのですけれど、この数日、家へ帰って来ないのです」
沖野夫人は心配そうに眉根《まゆね》を曇らせた。
「まあ」
不吉な想像が胸に兆《きざ》したが、それはおくびにも表わせない。
「もしお宅の庭で姿を見かけましたなら、恐れ入りますがおしえていただけませんか」
「承知いたしました。ミーは私には懐《なつ》いておりましたので、見かけましたら、必ずお届けしますわ」
「よろしくお願いします」
沖野夫人と別れた弓子は、不吉な想像が過日のミー生き埋め事件と重なり合ってくるのを防げなかった。
もしかして、羽室家の庭で弓子以外の家族に捕まれば、過日の生き埋め事件の二の舞となったかもしれない。
弓子も知らぬ間に、羽室家の庭のどこかに埋められてしまったとすれば、恐ろしい想像である。だが過日の下敷きがあるだけに、否定し切れない。
もしミーが庭のどこかに埋められていれば、土の痕からわかるかもしれない。だが、それを確かめるのが恐ろしい。
弓子は夜中、青い燐光の燃えている庭の様子を想像して、慄然《りつぜん》とした。
帰宅すると、繁子が、
「弓子さん、あなた、お隣りの奥さんと連れ立って帰ってきましたね」
と言った。
家の中から見ていたらしい。広い庭であるが、二階の一角やテラスから道路が望見《ぼうけん》できる。
「はい、お買物の帰りに一緒になりましたので」
「お隣りの奥さんには気をつけなさいよ。人の家の様子を探ろうとして、興味|津々《しんしん》なんだから。お隣りの奥さんに話すことは、日本全国に話すのと同じとお考えなさいね」
繁子はやんわりと釘を刺した。
以前から何度も言われていることであるが、徹太郎やミーのことを語り合いながら帰って来た後だけに、繁子にその会話を盗み聞きされていたような気がした。
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監禁された胎動
ホテルのフロント責任者は管轄署に、羽室徹太郎の失踪《しつそう》を届け出た。警察から捜査員が出向いて来た。
ホテル関係者立ち会いのもとに、当該の部屋に立ち入り、室内に放置されていた荷物《バゲージ》を調べた。
放置されていた品は、備えつけのワードローブに数着の衣類、および旅行バッグの中のこまごました身のまわりの品である。パスポートや金品は見当たらない。
室内には明らかな物色痕跡があった。
「我々が調べる前に、ホテル側で調べましたか」
管轄の新宿署から出ばって来た牛尾《うしお》という刑事が尋ねた。
「とんでもない。お客様に提供している間は、お客様のご住居と同じですから、みだりに立ち入りいたしません」
フロントマネージャーは答えた。
「そうでしょうなあ。とすると、だれかが羽室徹太郎さんの不在中に押し入って、部屋を物色したことになる」
牛尾の表情はその意味を探っている。
「しかし、キーはお客様が持ったままお出かけになっていますし、スペアキーはフロントで保管しておりますので、外部から侵入できませんが」
だが牛尾はもう一つの可能性を考えていた。
羽室徹太郎をホテルの外で襲った強盗が、キーを奪えば室内に侵入できる。
「こちらのホテルのキーには、ホテルの名前が書いてありますか」
牛尾は問うた。
「いいえ、キーにはホテルの名前は入っていません」
「すると、ホテルの外で第三者がこのキーを手に入れたとしても、なんのキーかわからないはずですな」
「はい。そのような場合に備えて、鍵札《キータッグ》もそれぞれ形を変えております」
「すると侵入者は、この部屋の客がこのホテルに滞在している事実を知っていたことになるな」
牛尾は自分に語り聞かせるように言った。
「となると、行きずりの強盗とも考えられませんね」
相棒の青柳《あおやぎ》という隻腕の刑事が言った。
「そうとも言い切れまい。客がこのホテルに泊まっていることを示すようなカードか何かを身に付けていれば、キーが客室のキーだということは容易に推測できる」
牛尾が青柳の先入観を戒めるように言って、
「訪問者や電話はありませんでしたか」
とフロントマネージャーに問い直した。
「ビジターは私どもの知る限りいらっしゃいませんでした。おかけになった電話はすべて記録されていますが、かかってきた電話はどこからかわかりません。昨日のことですが、羽室様の親戚とおっしゃる女性から電話がありました」
「ほう、その女性の名前は?」
「お名前とご連絡先をうかがったのですが、これからこちらへいらっしゃるとおっしゃって、電話をお切りになりました」
「そして、彼女はその後、現われましたか」
「それがいらっしゃいません」
「どんなことを電話で言ってきたのですか」
「その女性は、羽室様がまだホテルにいらっしゃるとおもって電話をかけてきたようです。この数日ホテルへ帰らないとお伝えすると、驚いていたご様子でした」
「放置された荷物の中には、その親戚の女性の手がかりはないな」
「牛《モー》さん、その親戚とやらが部屋を物色して手がかりをすべて持ち去ったのではないでしょうか。ホテル荒らしに見せかけるために、ついでに金品も奪った」
「しかし、その女は羽室氏が消息不明になっていることにびっくりしたということだが」
「親戚は一軒とは限らないでしょう。親戚なら、羽室氏をたやすく誘い出すこともできるし、キーも奪えます」
「親戚がどうして手がかりを消したんだね」
「その親戚にとって、なにか都合の悪い事情があったのかもしれません。あるいは金品を奪うのが目的で、羽室氏からキーを奪って室内に侵入し、親戚の手がかりを消去したのかもしれません」
「うむ」
牛尾はうなった。
羽室本人が記入したホテルのレジスターカードによれば、彼はブラジル国籍になっている。
来日した目的は観光となっているが、日本に親戚や知人が皆無とはおもえない。彼が放置した室内の手荷物には、親戚や知人の手がかりがまったくない。
ともあれ、まだ失踪後五日しか経過していないので、帰って来る可能性もある。
ひとまず部屋の中の荷物は一まとめにして、ホテルのクロークルームで保管することにした。
弓子は密かにミーの行方を探し始めた。庭の掃除をする振りをして、新たに土を掘り返したような場所を探す。
花の季節が過ぎ、庭の樹木も瑞々《みずみず》しい新緑の衣装をまとった。
弓子がミーの行方を庭に探したのは、以前、定期的に入れていた庭師が、最近来なくなったこともある。
庭にみるみる雑草がはびこっていくが、庭師を呼ぼうとしない。弓子の掃除ではとても追いつかない。
庭師に入られては都合の悪い事情があるのであろう。その事情がミーの行方と結びついている。
沈丁花《じんちようげ》の強い芳香がようやく薄れ、椿が落ち、花水木が白い花弁を開いてきた。
弓子の腹もようやく目立つようになった。胎動がしきりで、おもわずうずくまってしまうことがある。
日に日に強まってくる胎動が、この化け物の家で、彼女が孤独ではないことをおしえてくれているようである。
弓子は胎児が化け物の子であることを拒否していた。この子は百パーセント私の子だわ。私だけの子。
その子のために、化け物と絶縁しなければならない。そのための有無を言わせぬ証拠をまだつかめないでいる。
近親相姦、羽室徹太郎の失踪、福井正次の轢き逃げ事件、それらのどの一つでもよい。動かぬ証拠を押さえれば、化け物と絶縁できる。
そうおもって、掃除のかたわら庭を探した。
庭に埋めたとしても、沖野家との境界に近い所には埋めないだろう。可能性の大きい庭域は、沖野家とは逆の方向である。
焼却炉で焼けば、においが発するであろう。とうていスズメの雛のようなわけにはいくまい。
弓子は羽室家の家族の目を憚《はばか》りながら、庭を探した。
焼却炉のさらに奥、東北の一隅に南天の木がある。その木の根元近くの土が心持ち新しかった。
触ってみると、最近掘り起こしたかのように柔らかい。古い土が均《な》らされて、巧妙にカモフラージュが施されているが、他の地表と比べてみると、色が少し異なっている。
弓子は園芸用のシャベルを持ち出して、少し掘ってみた。
土の抵抗が明らかに弱い。たしかに最近掘り返した痕である。
シャベルの先に注意が集まって、背後の警戒がおろそかになった。彼女はだれかが忍び寄って来る気配に気がつかなかった。
「そこでなにをしている」
背後から突然声をかけられて、弓子はぎょっとなった。
「そこでなにをしているんだね」
いつの間に来たのか、背後に裕也が立っていた。
「お友達からいただいたお花の種を播《ま》いていたのです」
弓子は咄嗟《とつさ》に言い逃《のが》れようとした。
「花? なんの花だね」
「ガーベラとコスモスです」
「ガーベラとコスモスを、なぜそんな陽当たりの悪い場所に植えるのだ。陽当たりのよい場所がいくらでもあるではないか」
「それは、この辺りが少し寂しいものですから」
弓子はしどろもどろになった。
「顔色が真っ青じゃないか。震えているな」
「ふ、震えてなんかいません」
必死に答えた声が上ずっている。
「こっちへ来なさい」
弓子は裕也に手を取られた。
「お願い、許して」
「許す? なにを」
弓子の言葉は藪蛇になってしまったようである。
裕也に家の中へ引きずり込まれると、そこに徹三と繁子と一直と睦子が顔を揃えていた。四人の表情が険悪である。
「弓子さん、庭でなにをしていたのですか」
繁子が詰問した。
「花の種を播いていたのです」
「ガーベラとコスモスの種を播いていたと言っています」
かたわらから裕也が言葉を添えた。
「あなたたち、本当に花の種があるかどうか調べて来てちょうだい」
繁子が顎をしゃくった。
間もなく二人が戻って来た。
「花の種どころか、スイカの種一粒もなかったわ」
睦子が復命した。
「先日から庭をこそこそ、なにを探しまわっているのかとおもっていたのよ。あなた、いったいなんのつもりなの」
繁子がこれまでの優しい姑《しゆうとめ》とは別人のように、憎悪を剥《む》き出しにして問いつめた。
「庭いじりをしてはいけないのですか」
弓子は恐怖に耐えながら、必死に言い返した。
「庭いじりをするのに、どうして私たちの目から隠れてするの」
「べつに隠れてなんかいません」
「隠れてしていたわよ。どうもここのところ様子がおかしいとおもって、見張っていたのよ」
「私はこの家に嫁いで来た身です。それをどうして見張る必要があるのですか」
「それはあなた自身の胸に聞くことね。あなたは羽室家を裏切ったのよ」
「私は裏切ったりなんかしません。裏切ったとすれば、羽室家の方です」
「羽室家がなにを裏切ったというのよ」
「私、見たんです」
弓子は動かぬ証拠をつかむまでは言うまいとおもっていたことを、ついに口にしてしまった。
「見たとは、なにをだね」
これまで沈黙を保っていた徹三が尋ねた。
「裕也さんが夜な夜な二階へ上って行くところを」
「ほう、夜中に裕也が二階へ上ってはいけないのかね」
徹三がとぼけた表情で聞き返した。
「それだけではありません。夜中にお義父様が睦子さんの部屋に入って行くところも見ました」
「はは、夢でも見たのではないのかね。もっともトイレに起きたついでに、ちょっと娘の寝相を覗いたこともあったかもしれんな」
「いいえ、お義父様は一時間も睦子さんの部屋にいらっしゃいました。それにトイレならば二階にもあります」
「それではやっぱり寝ぼけたんだよ」
徹三が乾いた声で笑った。
「睦子さんと一直さんも電話室で抱き合っていました」
「今度は私たちの番なのね」
睦子と一直が顔を見合わせて苦笑した。
「あなたたちは狂っています。この家の人はみんな狂っています。私、離婚を申し立てます。同意してください」
「きみは急になにを言うんだ」
裕也の顔が唖然《あぜん》となった。
「もうこの家に一刻もいることはできません。離婚の手つづきは後で取ります。荷物は後で人に取りに来させます。今日までお世話になりました」
こうなった以上、もはや羽室家には留まれない。弓子はついに最後|通牒《つうちよう》を突きつけた。
「まあ、待ちなさい」
徹三が弓子の身体を押し止どめた。繁子と睦子が左右を固め、裕也と一直が退路を遮断《しやだん》した。
「あなたたち、私をどうするつもりなのですか」
「きみはいま妊娠していて、正常な精神状態にない。当分の間、部屋で静養したまえ」
裕也が言った。
「私の精神は正常です。おかしいのはあなた方です。静養する必要なんかありません。そこを通してください。私をこの家に押し止どめる権利なんかないはずだわ」
「だれもあなたを押し止どめるなんて言っていません。あなたは羽室家の嫁です。私たちはあなたを保護しなければなりません」
繁子が不気味な笑みをたたえて言った。
「私を監禁するつもりですか」
「保護すると申し上げたでしょう。あなたのおなかの中には羽室家の跡取りがいるのです。あなた一人の身体《からだ》ではありませんよ」
「おなかの子は私の子です。私一人で立派に育てます」
「そういうわけにはまいりません。あなたは少し逆上しているのです。当分静養する必要があります」
繁子が言ったとき、弓子は本能的に危険を察知した。
だがそのときは遅かった。徹三がいつの間にか注射器を構え、裕也と一直に腕を取られていた。
「あっ、なにをするの。やめて」
弓子が叫んだときは一拍遅く、徹三の構えた注射針が弓子の腕に突き立てられていた。
意識がたちまち霞んで、深い暗黒の奈落《ならく》へ引きずり込まれて行った。
ふと我に返った弓子は、ベッドの上に横たわっている自分を発見した。
いつもの寝室ではない。平素は使用されていない北面の開《あ》かずの間《ま》の一つである。
昔、老人用の部屋だったらしく、部屋の隅にトイレットが組み込まれている。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかったが、意識を失う前の記憶がよみがえった。
はっとして上体をベッドの上に起こしたが、身体が別人のもののように重い。頭に芯《しん》が残っている。
徹三から注射された薬効が、まだ体内に残留しているようである。
弓子は身体をひきずるようにしてベッドから起き上がると、ドアのそばへ歩み寄った。
ドアを押した彼女は、ぎょっとした。ドアはロックされていたのである。羽室家の家族は彼女を閉じこめたのだ。
弓子は外に面した窓に駆け寄った。窓ははめ殺しになっている。この部屋の構造は座敷牢そのままであった。
彼女はそこに、囚人として監禁されたのである。
「ここを開けてください。だれか開けて」
弓子はドアを叩いて叫んだ。
だがドアの外にはなんの気配もない。はめ殺しの窓は厚い。泣けど叫べど、部屋の内部の声は外部に漏れない。
ついに羽室家の人間は仮面を脱いで、恐ろしい化け物の正体を露《あら》わしてきた。弓子は化け物の群れの捕虜になってしまったのである。
交通事故で死んだ恋人椎葉道夫の優しい面影が一瞬、彼女の脳裏をよぎった。
「道夫さん、どうして私を残して死んでしまったの。あなたが生きていてくれさえすれば……」
弓子は絶望的状態の中で、必死に椎葉の面影を追い求めた。
「道夫さん、私を救けて」
亡き恋人の幻に救いを求めたとき、また激しい胎動をおぼえた。
彼女は束の間、胎児の存在を忘れていた。胎動によって胎児が注射の影響を受けていないことを知って、弓子はほっとした。
この子を救うためにも、この座敷牢からなんとしても抜け出さなければならない。
笹岡美津子に連絡が取れれば、彼女に救いを求めることができるが、一切の連絡手段から遮断されている。
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獣の嫁
笹岡美津子は、しばらく弓子から連絡がないので、久し振りに声を聞きたくなった。
別れるのどうのと言っていたが、妊娠して羽室家に根を下ろしたのかもしれない。近親相姦も弓子の考えすぎか妄想であればよいが。便りがないのはよい報《しら》せと言うから、きっとうまくやっているのだろうとおもった。
ご無沙汰はおたがいさまであるので、弓子も同じように考えているであろう。
電話をしてみると、義妹らしい若い女の声が電話口に応えた。結婚後、弓子を羽室家に訪問したとき、家族一同にも紹介されている。
「笹岡と申しますが、弓子さんはいますか」
美津子は尋ねた。
「義姉《あね》はいません」
その口調が事務的である。
「それでは、どちらにいるのですか」
電話口で一瞬ためらう気配がして、
「ちょっと体調が悪いので、転地して静養しています」
「転地静養? どちらへ転地したのですか」
「オーストラリアです」
「オーストラリア、オーストラリアのどちらですか」
「シドニーの近くです」
転地静養にしては、ずいぶん遠方へ行ったものだとおもった。
「ちょっと連絡を取りたいのですが、転地先の電話番号をおしえていただけませんか。私はお宅に一度お邪魔したことのある弓子の友人で、笹岡美津子と申します」
美津子は再度名乗って、羽室家の様子を知っていることをにおわせた。
「私も詳しい連絡先は知らないのです」
「それでは、どなたがご存じですか」
「母が知っているとおもいます」
「それではお母様とちょっと話させていただけませんか」
「母はいま留守です」
「いつごろお帰りになりますか」
「さあ、よくわかりません」
取りつくしまがなかった。
電話を切ってから、美津子は首をかしげた。
明らかに義妹は弓子の連絡先を隠している。なぜ隠さなければならないのか。友人に義姉の転地静養先をおしえても、なんの不都合もないはずではないか。
それに妊娠中の転地静養にしては、オーストラリアは遠すぎる。遠距離になればなるほど、旅行中の母体の危険は増してくる。
静養地ならば、国内の近場に適当な所がいくらでもあるはずである。
美津子は弓子に招かれて羽室家を訪問したとき、なにか胡散《うさん》くさいにおいを感じた。まことにコマーシャルのモデルのような家族で、実感に乏しかったのをおぼえている。
後に弓子から羽室家内部の近親相姦図を聞いて、さもありなんとうなずいたものである。
「弓子はいったいどこへ行っちゃったのかしら」
仮にオーストラリアへ行ったにしても、出発前に美津子に連絡してくるはずである。
美津子の胸中に不吉な想像が湧《わ》いてきた。弓子の身になにかよくないことが起きたような気がしてならない。
電話では埒《らち》が明かないので、羽室家を訪ねてみようとおもった。
羽室家の母屋を取り囲んで、庭樹が生い茂っている。庭樹越しに望む羽室家の建物は、森閑と静まりかえって、住む人の気配も感じられない。
庭樹の梢に鴉《からす》が数羽止まって鳴いていた。以前来たときよりも、その数が増えているような気がする。鴉の黒い影が美津子の不吉な想像を促した。
門柱に設けられたインターホンを押すと、数拍おいて女の声が応えた。今度は繁子の声らしい。
「以前、一度おうかがいしたことのある笹岡美津子と申します。実はお電話で妹さんから、弓子さんが転地静養中とうかがったのですが、そのことで少々お尋ねいたしたくてお邪魔しました」
美津子はインターホンに話しかけた。
先方がはっと息を呑む気配が感じ取れた。
「嫁のことでしたら、話すことはなにもありませんが」
繁子の声が構えた。
「弓子さんに連絡を取りたいことがありまして、連絡先をおしえていただきたいのです」
「連絡ならば私どもがお伝えしますが」
「久し振りに電話で声を聞きたいのです」
「電話はございません」
「それでは、せめて手紙を出したいのですが」
「お手紙ならば、私どもの方へください」
「あのう、直接出してはいけないのですか」
「弓子はただいま精神の状態が安定しておりません。そっとしておいていただきたいのです」
「精神が不安定とおっしゃいますと」
「ノイローゼの一種です。きっと妊娠のせいだとおもいます」
「友達の手紙でも差し障《さわ》りがあるのですか」
「医者の話ですと、少し隔離した方がよろしいそうです。お友達の手紙などを読むと、ホームシックを起こしますので」
「こちらへはいつごろ帰る予定ですか」
「出産すれば帰ってきます。きっと身二つになれば、気持ちも安定するでしょう。それでは失礼します」
繁子は一方的にインターホンを切った。
繁子ははからずも「隔離」していると言ったが、美津子を弓子に会わせまいとしている。
美津子だけではなく、世間すべてを弓子から遮断してしまっているのだ。
弓子が精神が不安定なのではない。羽室家が異常なのである。羽室家の中でただ一人正常な弓子が、羽室家にとって都合が悪くなったのだ。
弓子と世間との間にコミュニケーションが成立していると、羽室家の異常が公になってしまう。それは羽室家にとって都合が悪い。そこで弓子を隔離してしまった。
ただ隔離するだけならよいが、弓子の身に危害が加えられているのではないか。不安が急速に頭をもたげている。
インターホンが沈黙した後、美津子が去り難《がた》い思いで羽室家の門前にたたずんでいると、隣家の門が開いて、その家の主婦らしい品のよい中年の女性が姿を現わした。
二人の視線が合った。隣家の主婦がにこりと笑って、会釈《えしやく》を送った。美津子も会釈を返した。近所へ買物に出かけるらしい。
美津子はふとおもいついて、主婦と連れ立った形で歩いた。
「私は、お宅のお隣りの羽室家へ嫁いで来た弓子の友達なのですけれど、弓子は転地したそうですね」
「転地? 道理で最近、お姿をお見かけしないとおもいましたわ」
隣家の主婦は少し驚いたように言った。
「なんでも、オーストラリアへ行ったそうです」
「オーストラリアへ? 転地にしてはずいぶん遠方ですね」
「私もそうおもいました。弓子は身重なので、道中が心配ですわ」
「ご妊娠でしたか、私もそうではないかとおもっていたのですが。そうだとすると、あまり遠くへ行くのは危険ですわ」
「つかぬことをうかがいますが、奥様が弓子の姿を最後に見たのはいつごろだったでしょうか」
「そうですわね、私どもの飼い猫が家出をしてから間もなくでしたから、十日ほど前だったとおもいます」
「十日前に、お宅の猫がいなくなったのですか」
「そうです。よく隣りのお庭へ遊びに行っていたので、たまたま買物の帰りにご一緒になったお隣りの奥様にお尋ねしたのです」
「そのとき弓子はどこか様子がおかしくありませんでしたか」
「いいえ、とても元気なご様子でした。転地というと、急におかげんでも悪くなったのですか」
「妊娠に伴って、精神が不安定になったそうです。いわゆるノイローゼですね」
「ノイローゼのようにはとても見えませんでしたけれど。私にミー、宅の飼い猫の名ですけれど、ミーの行方を探してくださるとおっしゃっていました」
「猫の行方を探すと? その後、弓子の姿を見かけなくなったのですね」
「そうです」
「お宅の猫、ミーはお隣りの庭によく遊びに行ったのですか」
「以前はよく行っていました」
「以前とおっしゃいますと?」
「二月末ごろまでは、お隣りの家も自分の縄張りのようにしていたのですけれど、それ以後、お隣りさんへはぴたりと行かなくなりました」
「二月末ごろまでは縄張りのようにしていたのに、どうして急に行かなくなったのですか」
「なにかあったのだとおもいます。二月下旬のある日、泥だらけになって帰って来てから、行かなくなりました」
「泥だらけになって帰って来たのですか」
「ええ、なんといいましょうか、まるで生き埋めになったかのように、毛の中まで泥にまみれていました」
「毛の中まで泥にまみれて? お隣りの庭は広そうですね」
「うちの倍くらいはあります」
「奥様はいま、猫が生き埋めになったかのようにとおっしゃいましたね」
「生き埋め……? でも、まさか」
「生き埋めになったかのように、毛の中まで泥にまみれていたのでしょう」
「でも、猫はよく土の上に転がりますから」
「いやな想像ですけれど、お隣りさんに猫を埋めようとおもえば、いくらでもスペースがありますわね」
「まさか……?」
隣家の主婦は唇まで青ざめた。
そのとき美津子は、猫の死体だけではなく、人間の死体でも充分に埋められるスペースがあることをおもった。禍々《まがまが》しい想像が急速に育つ。
そのとき羽室家の庭樹の梢に止まっていた鴉が、不気味な鳴き声を上げた。一羽が鳴くと、他の鴉が誘われ一斉に鳴き立てた。
「鴉が多いですわね」
「最近、この地域に急に増え出したのです。もしかすると、ミーも鴉に襲われたのではないかとおもいます」
「ミーは仔猫だったのですか」
「いいえ、今年で五歳ですから、人間なら中年にあたりますか」
「そんな大きな猫が、鴉に襲われるものでしょうか」
「さあ」
隣家の主婦の不安は促されているようである。
「私はこういう者ですけれど、もしお隣りに弓子の姿を見かけるようなことがありましたら、ちょっとご連絡をいただけると有り難いのですが」
美津子は隣家の主婦に名刺を差し出した。
「あら、週刊××の記者さんでしたの。私もときどき拝読しております」
隣家の主婦は美津子の名刺を見て言った。
「申し遅れました。私は沖野と申します。なにかわかりましたら、すぐご連絡申し上げますわ」
沖野夫人は言葉をつけ加えた。
美津子は、弓子が羽室家のどこかに閉じこめられているような気がした。
そのとき弓子は閉じこめられた部屋の窓から、美津子の姿を庭樹越しに見ていた。
「美津子、私はここにいるのよ。私を救い出して」
弓子は窓を叩き、声を上げて叫んだが、美津子の耳には届かない。
そのうちに隣家から出て来た沖野夫人と連れ立って、駅の方へ行ってしまった。
弓子の絶望を嘲笑《あざわら》うように、庭の梢で鴉が鳴いた。
座敷牢に閉じこめられてから、三度の食事は繁子と睦子が運んで来た。
「私はどこも悪くありません。ここから出してください」
食事のつど弓子は訴えたが、二人はせせら笑って取り合わない。
「あなた方はいったいなにを考えているのですか。私をこんな所へ閉じこめてどうするつもりなのですか。あなた方には私を監禁する権利なんてありません」
「監禁などと人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。あなたを保護しているのよ。だいたいそういうことをおっしゃること自体が、あなたが正常ではない証拠よ」
弓子は食事を運び入れるときを狙って逃げようかとおもったが、二人に油断はなかった。
それに身重の身体では、座敷牢から出たとしても、母屋から庭を通って道路へ出るまでの間に追いつかれてしまう。無理をして、胎児に差し障りがあってはいけない。
とにかくいまは凝《じ》っと辛抱して、脱出の機会をうかがうしかない。
頼みの綱は美津子である。彼女が羽室家まで訪ねて来たということは、なにか不審を抱いたからにちがいない。
美津子が他家を突然訪問するということはあり得ない。訪問に先立って、弓子に電話をかけてきたはずである。
その電話に対する羽室家の受け答えに不審をおぼえて、直接確かめに来たのであろう。
沖野夫人と連れ立って歩いていたが、きっと夫人にいろいろと尋ねていたのであろう。
(美津子、私はここにいるのよ。早く救いに来てちょうだい)
弓子は声の届かぬ親友に、祈るように願った。
胎児は順調に育っている。座敷牢の中でおとなしくしている限りは、当分の間、身体に危害を加えられる虞《おそれ》はなさそうである。
弓子の目を憚る必要のなくなった羽室家の内部では、ますますグロテスクな近親相姦が進んでいるようである。
夜中静まりかえった中に、男女の喘《あえ》ぎ声が聞こえてくることがある。
それは繁子と裕也のものであったり、徹三と睦子、あるいは睦子と一直の組み合わせであったりした。
座敷牢に隔離されていても、その気配は届く。
耳に蓋《ふた》をしても、淫蕩で汚らわしい雰囲気は這《は》い寄ってきた。
昼は、健康でハッピーな家族を演じている彼らが、夜になると、だれ憚ることのない家族内での乱交を連夜のように繰り広げている。
だが、そのうちに羽室家の内部に変化が生じた。
裕也の気配が急に絶えてしまったのである。声が聞こえないだけでなく、彼の存在そのものが、突然スイッチをひねったかのように羽室家から消えてしまった。
弓子が羽室家へ来て以来、彼が外泊したことはない。休祝日以外は、出社と称して毎日どこかへ出かけて行ったが、午後六時から七時の間には帰宅して来て、家族一同|揃《そろ》っての夕食のテーブルについていた。
その裕也の気配がまったく跡絶えてしまったのである。彼がいなくなってから、家の中の空気もなんとなく慌《あわただ》しい。
「裕也さん、最近、家の内に見かけないようですけれど」
弓子は食事を運んで来た繁子と睦子に問うた。
「ちょっと旅行しているのよ」
繁子は弓子の問いをさりげなく躱《かわ》したが、彼女自身、当惑している様子がわかった。
「どちらへ旅行しているのですか」
「会社の出張よ」
「これまで出張したことはありませんでしたけれど」
「初めての出張なのよ」
繁子は弓子が裕也の会社に問い合わせて、彼が在籍していない事実を確かめたことを知らない。
だが、数日しても裕也が帰って来た様子はない。
「海外へでも行ったのですか」
弓子はなおも問うた。
「あなたはなにも心配することはありません。そのうちに帰って来ます」
繁子は明らかに裕也の行方を聞かれることをいやがっている。
睦子に尋ねても同様である。どうも彼らは裕也の行方を知らないようであった。彼らも裕也の行方を探している様子である。
なにか異様な事件が羽室家に起きている気配である。
突然、裕也が家出をして帰って来ない。残された四人が、裕也の突然の家出の事情がわからず、うろたえている様子である。
彼らのうろたえ振りは、弓子への給食にも表われた。
たぶんそれが裕也が家出した当日のことであろうとおもわれるが、その日は弓子に食事を届けるのを忘れてしまった。
朝食と昼食が省かれて、ようやく夜遅い時間になって、いかにもあり合わせらしい、冷蔵庫の中のものをかき集めたような夕食が届けられた。
それ以前は毎日三度、定時に届けられた食事が、裕也の気配が絶えてから、不規則になってしまった。
弓子は空腹を抱えて、凝っと待っている以外になかった。
彼の気配が絶えて数日後、繁子がなにかを含んだ口調で弓子に問うた。
「弓子さん、あなた、裕也の行方を知っているんではないでしょうね」
「やっぱり裕也さんは家に帰って来ていないのですか」
「あなたは裕也の行き先をご存じなの」
「私が知っているはずがないじゃありませんか。閉じこめられて、一歩も外へ出ていないのです」
「裕也はあなたと謀《しめ》し合わせて、家出をしたのではないでしょうね」
「どうして私が裕也さんと謀し合わすことができるんですか。私がここへ閉じこめられて以来、裕也さんは一度もこの部屋へ来たことがありません」
繁子は疑わしげな目をして睨《にら》んだが、それ以上、詮索《せんさく》しなかった。
これで裕也が家出した事実が確かになった。彼はなんらかの事情があって、家族にも打ち明けず、羽室家を出てしまったのである。
弓子の胎児には、弓子が拒否しても、裕也の血が半分入っている。彼にとって初めての子供も置き去りにして、どこかへ行ってしまった。
もし裕也の突然の失踪が、彼の意思によるものでなければ、出先で犯罪の被害者か、あるいは事故の犠牲者となった可能性も考えられる。
事件が報道されれば、安否いずれにしても、裕也の消息は確認される。
羽室家がうろたえているのは、彼が失踪をつづけているからであろう。
弓子は裕也と徹太郎の失踪を重ね合わせて考えた。この二件の失踪は、なにか関連があるのではないのか。
弓子は徹太郎の失踪の原因に、羽室家の人間を疑っている。特に徹三と繁子は、徹太郎を忌避していた。
だが裕也の失踪については、彼らもその理由についておもいあたらない様子である。
二件の失踪に関連があるとしても、裕也の失踪には家族は関与していないだろう。すると、家族以外のなにかべつの関連が考えられる。
裕也の気配が絶えてから、庭に鴉の鳴き声がいっそうかまびすしくなった。
弓子の下腹部ははっきりと見分けられるほど、ぽってりと脹らんできている。
裕也がいなくなって、同家の平衡が崩れたようである。
これまでは近親相姦の乱れた家庭であったが、裕也を軸に一家五人、異分子の弓子が反旗を翻すまでは、六人家族の乱倫の上にそれなりの安定が築かれていた。
それが弓子を監禁し、裕也が失踪して、家族としての平衡が崩れてしまったようである。
演技ではあっても、和気あいあいとしていた家の中に、いらだった罵声《ばせい》が飛び交い、とげとげした雰囲気が充満した。
もはや演技もつづけられなくなった模様である。
弓子は近いうちに、なにかよくないことが起こりそうな、不気味な予感に襲われていた。
六月上旬のある深夜、弓子はふと室内の空気が動いたように感じて、目を覚ました。
まだ眠気の残る朦朧《もうろう》とした意識に、だれかが自分を覗き込んでいる気配がわかった。それが夢かうつつか判然としてない。
意識が急速に覚めて、気配を現実のものと悟ったとき、弓子は愕然となってベッドからはね起きようとした。
「静かに。驚くことはない。私だ」
弓子を覗き込んでいたのは徹三である。
悲鳴を上げかけた弓子の口を手で塞《ふさ》いで、徹三は弓子の身体をベッドの上に折り敷いた。
「お義父《とう》様、なにをなさるのです」
咎《とが》めたつもりの言葉が声にならない。
「一度だけ、一度だけでいいから」
徹三は息子の失踪に便乗して、息子の嫁に劣情の牙を向けて来たのである。
弓子は必死に抵抗したが、身重《みおも》の身体なのでおもいきって動けない。胎児を庇《かば》おうとするほどに、絶望的な状態に組み敷かれていく。
「やめて、やめてください」
弓子は必死に懇願したが、劣欲の獣と化した徹三は耳を貸さない。
「前からおまえが好きだった。裕也はおまえを置き去りにしてどこかへ出て行ってしまったのだ。おおかた女でもつくったのだろう。あんなやつに操立《みさおだ》てする必要はない。わしの言うことを聞け」
徹三は手前勝手なことを言って、侵犯の鉾先を容赦なく進めてきた。
「やめてください、お願いです。お腹の中には裕也さんの子がいるのです。お義父様の孫がいるのですよ」
弓子は塞がれた口の端から必死に訴えた。
「ふふ、わしの孫だと。笑わせるな」
徹三がせせら笑った。その表情はぞっとするほど酷薄《こくはく》であった。
日ごろ知的な大学教授の仮面の下の、恐るべき素顔である。
「人を呼びますよ」
「呼べるものなら呼んでみろ。一直もおまえの身体を狙っているのだ。これ幸いと輪姦《まわ》すだろう」
「なんということを」
「腹の子だって、裕也の子かどうかわかったもんじゃない。おまえ、一直ともできていたんだろう」
「なんということをおっしゃるんですか」
「腹の子に痛いおもいをさせたくなかったら、静かにしていろ。すぐに快《よ》くなる」
徹三がにたりと笑った。
「それでも人間ですか。獣」
「人間でも獣でも、やることは同じだよ。おまえだって嫌いじゃないだろう」
断乎として抵抗の姿勢をつづければ、胎児を傷つける虞《おそれ》がある。
徹三は弓子の弱味を知って、そこを巧妙に攻めてきた。
弓子は胎児を守るために、抵抗をやめた。
もともと化け物の家族に供された身体である。目をつむって身体を汚されるのに耐えれば、胎児に害は及ぶまい。
弓子があきらめかけたとき、ドアが激しく開かれた。
「あなた、なにをしているんです」
繁子の声であった。
同時に灯りが点いて、室内の狼藉《ろうぜき》の構図を照らしだした。
徹三はさすがにきまり悪そうに、ベッドから下りた。
「いくらなんでも、あんまりじゃありませんか。弓子はあなたの嫁ではありませんよ」
繁子が難詰した。
「裕也がいなくなったいま、べつにかまわないだろう」
「まだ帰って来ないと決まったわけではありません」
「なんの連絡もなく、失踪をつづけているのだ。もう帰って来ないよ」
「羽室家の跡取りを妊《みごも》っているのよ」
「妊娠中、交わってはいけないということはないだろう」
徹三は未練げにつぶやくと、部屋から立ち去って行った。
弓子は危ういところで餓狼《がろう》の牙から逃れた。
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絶望からの発信
新宿署の牛尾刑事は、新宿ロイヤルホテルに宿泊中失踪した日系ブラジル人、羽室徹太郎の行方が気になっていた。
ブラジルの家族へ連絡を取っても、徹太郎は母国へ先祖の墓参に行くと言って家を出たというだけで、日本での行き先についてはいっこうに要領を得なかった。
その後、徹太郎の消息については手がかりが得られない。報道にも注意しているが、彼が犯罪や事故に巻き込まれたという報道もない。
徹太郎が滞在していたホテルの客室が荒らされていた事実を見ても、彼の失踪には犯罪のにおいが濃厚である。
新宿署ではブラジル大使館に連絡を取り、署内に、新宿ロイヤルホテル宿泊客日系ブラジル人失踪事件の特別捜索本部を設けて、捜索をつづけていた。
そのような折、世田谷区の羽室徹三より出された、同人の長男裕也の捜索願いが牛尾の目に触れた。
念のために羽室徹太郎について、警察庁の犯歴ファイルに照会したところ、羽室徹三の捜索願いが牛尾の目に触れたのである。
羽室徹太郎と羽室徹三、徹太郎と裕也の失踪日も接近している。もしかすると、この二件の失踪事件に関連があるかもしれない。
「牛《モー》さん、なにか気になることでもあるのですか」
牛尾の様子に、相棒の青柳が問いかけてきた。
「五月二十五日、世田谷区の羽室徹三という人間から、家出人捜索願いが出されているんだ。どうも気になってねえ」
「名前が似ていますねえ」
「そうおもうだろう。ちょっと洗ってみようか」
牛尾は、まず羽室徹三の戸籍から当たってみることにした。
世田谷区役所から羽室徹三の戸籍謄本を取り寄せた牛尾は、徹三と徹太郎が兄弟であることを発見した。
「おい、この二人は兄弟だよ」
「兄弟だったのですか」
「徹太郎は、ブラジルの国籍を取得して、日本国籍も保留しているので、二重国籍になっている。だが、二人はれっきとした兄弟だよ」
「すると徹太郎は、来日中、この徹三に会った可能性がありますね」
「大いにある。しかも徹太郎が日本で失踪しているのに、弟の徹三は影も形も見せていない。怪しい状況だね」
「徹三に会ってみますか」
二人は連れ立って、世田谷の羽室家を訪問した。
羽室家は高級住宅地に広い庭をめぐらして、一際宏壮な構えを誇っている。戦災を免れたのか、その古格のある建物は、この地におけるその家の歴史の古さを物語っている。
時ならぬ刑事の訪問に、羽室家は少なからず驚いた様子である。
徹三は初老の知的な紳士であった。
応接室に迎え入れられた二人の刑事は、あらためて自己紹介をすると、用件を告げた。
「お尋ねの羽室徹太郎は、たしかに私の兄ですが、四十数年前にブラジルへ渡って以後、音信不通になっています」
「日本滞在中、徹太郎さんからご連絡はありませんでしたか」
「連絡はありませんでした」
「こちらへ徹太郎さんが訪ねては来られませんでしたか」
「訪ねては来ませんでした」
「しかし、ブラジルの家族には、故国へ墓参に行くと言って出たそうです。四十数年ぶりの帰国となれば、まずはご兄弟のあなたに連絡をしてくるのではありませんか」
「兄弟と申しましても、もう他人同然になっていますから」
「それでは、徹太郎さんが来日中、一度もお会いになっていないのですか」
「会っておりません」
「連絡もしてこないのですね」
「連絡もしてきません」
「日本には、あなた以外には徹太郎さんのご親戚はいらっしゃらないのですか」
「きょうだいは私だけです」
「いとことか、その他のご親戚は」
「いないはずです」
「すると、先生が日本における徹太郎さんのただ一人の骨肉ということになりますね」
「とおもいます」
「せっかく四十数年ぶりに墓参のために帰国したのですから、ただ一人の骨肉に会いたいとおもわなかったのでしょうか」
「さあ、その辺のところはわかりませんが」
「徹太郎さんから、来日前にご連絡はなかったのですか」
「あれば、私の方から会いに行っていますよ」
「そうでしょうな」
牛尾はうなずいて、
「ところで、ご長男の裕也さんが失踪されているそうですね」
「はい、五月の末に家を出たきり、行方がわからなくなっております」
「行く先のお心当たりはまったくないのですか」
「八方心当たりを探していますが、立ちまわった形跡がありません」
「家出の原因について、なにか心当たりはありませんか」
「それがまったくないので、当惑しております」
「裕也さんには他人《ひと》から怨《うら》まれるようなことはありませんでしたか」
「他人の怨みを買うようなことはないとおもいます」
「以前、広告代理店へお勤めだったということですが、現在はどんなお仕事をしていたのですか」
「現在はさまざまなイベントのプロデュースをしていたようですが、詳しいことは私も知りません」
「お仕事の関係で、怨まれるようなことはなかったでしょうか」
「息子の仕事関係についてはほとんど知りませんので」
「以前お勤めになっていた会社関係の方で、いまでもおつき合いのある人はいらっしゃいますか」
「現在はいないとおもいます」
「以前の会社は一流の広告代理店ですが、なぜお辞めになったのですか」
「さあ、詳しいことは知りませんが、宮仕えがいやになったと申して、いまの仕事に転じたようです」
イベントのプロデュースといえば聞こえはいいが、曖昧模糊《あいまいもこ》とした仕事である。体のいい無職であろう。
だが徹三は裕也の仕事や人間関係については、ほとんどなにも知らないらしかった。
「奥さんなら、ご主人のお仕事関係についてもご存じかもしれませんね」
牛尾がなにげなく言うと、徹三は虚を衝かれたように、やや言葉を滞《とどこお》らせながら、
「そ、それが、裕也の嫁はただいま病気で、転地療養をしております」
「ほう、ご病気で転地療養、どちらへ転地なさったのですか」
「オーストラリアへ行っております」
「オーストラリアとは、ご遠方ですな」
「どうも日本は湿気が多すぎて、嫁にはよくないようなので」
「つかぬことをうかがいますが、どんなご病気で」
「精神の不安定、つまりノイローゼです」
「ノイローゼでオーストラリアへね。それは裕也氏が失踪されたためにノイローゼになったのですか」
「いいえ、彼の失踪前から転地しております」
「それで、奥さんは裕也氏が失踪されたことをご存じなのですか」
「嫁には報《し》らせておりません。症状を悪くしてしまうといけませんので」
徹三は裕也の妻の話題を、明らかに早く切り上げたがっている。
「羽室徹太郎氏と裕也氏は面識がありますか」
「いいえ、兄がブラジルへ渡った後、裕也は生まれましたので」
「裕也氏はお子さんはいらっしゃらないのですか」
「まだ生まれていません。結婚一年そこそこですので」
「ご新婚でしたか。すると奥さんは、ご新婚早々ノイローゼになってしまったのですね」
「妊娠してから、精神が不安定になりまして」
「それでは、いまご妊娠中ですか」
「そうです」
徹三は言わずもがなのことを言ってしまったのを悔いるように、しぶしぶうなずいた。
庭の方角で鴉の鳴き声がかまびすしい。
「鴉が多いようですね」
牛尾は視線を庭の方角へ転じて言った。
「最近にわかに増えまして」
徹三は眉を顰《ひそ》めた。
結局、羽室家からは羽室徹太郎の情報はなにも得られなかった。
牛尾と青柳は羽室家を辞去した。門を出たところで、牛尾が庭樹越しに望める母屋の方角を振り返った。
「どうかしましたか」
青柳が問うた。
「いま母屋の二階のあの窓の辺りで、なにかが光ったような気がしたのだが」
牛尾は視線を母屋二階の北に面した窓の辺りへ向けて言った。
「なにかが光った?」
「目の錯覚かもしれない」
その窓ははめ殺しになっていて、庭樹越しにわずかに望めるだけである。
牛尾と青柳は、その窓にしばらく視線を集めていたが、なんの変化も見られなかった。
駅へ向かって歩き出した途上で、
「どうも解せない」
牛尾が首を傾げた。
「いまの羽室氏の態度でしょう。私もおかしいなとおもっていたのです」
「なるべく聞かれたことにしか答えないようにしていた。彼は明らかに徹太郎氏や裕也氏について聞かれるのをいやがっていたな」
「失踪届けを出したくせに、聞かれると、なにか都合の悪いことでもありそうでしたね」
「都合が悪いとすれば、彼は羽室徹太郎氏と会っているんだ。会っていながら、会わなかったと嘘をついている」
「なんの連絡もなかったと言っていましたよ。四十何年ぶりかにブラジルから故国へ墓参に来た人間が、ただ一人の弟に連絡しないはずがありません」
「徹太郎と徹三が会っていれば、徹三は徹太郎の失踪を知っている。知っていながら知らないと答えたのは、つまり徹太郎の行方を知っているんだ」
「徹三が兄をどうかしたんでしょうか。もしそうだとすれば、なにが目的でしょうか」
「とりあえず考えられるのは徹太郎の金品だが、四十数年ぶりに兄が帰国して来て、久し振りに兄弟が出会ったというのに、金品目的で兄を殺してしまうというのも無理があるね。それに徹三は、徹太郎がどの程度の金品を持って来たか知らないはずだ」
「相続目的ということは考えられないでしょうか」
「それはないね。徹太郎にはブラジルに家族がいる。仮に徹太郎が相続に与《あず》かれるとしても、被相続人が失踪していたのでは相続できない。相続するためには、被相続人の死が確認されなければならない」
「徹三が徹太郎の失踪に関わっているとしても、動機が不明ですね」
それに裕也の失踪がどんな関わりを持っているかもわからない。
「だが羽室徹三は、マークすべきだな」
弓子は二人の男が連れ立って羽室家を訪問して来たことを知っていた。門の外に立った二人連れを、彼女は窓から見ていた。
遠目であったが、初めて見る顔である。弓子は二人連れの素性を刑事かもしれないとおもった。
刑事がなんのために羽室家を訪問して来たのか。刑事は弓子がこの部屋に監禁されている事実を知るはずがない。とすると……彼女は、ふとおもいあたることがあった。
(もしかすると羽室徹太郎のことで来たのかもしれない。徹太郎が失踪して、彼の遺留品の中から、日本の親戚の存在を嗅ぎつけて探りに来たのかもしれない。あるいは羽室裕也の失踪に関して調べに来たのだろうか)
刑事に、自分がこの部屋に閉じこめられていることを知らせたい。
だが二階の裏にあるこの座敷牢で、どんなに泣けど叫べど、一階の表の応接室には届かない。
弓子が刑事になんとか連絡を取る手立てはないものかと必死に思案をしている間に、辞去して門の前から立ち去って行く二人連れの男の姿が見えた。
行かないで。私はここに監禁されているのよ。私をここから出して。
弓子は二人連れの男の後ろ姿に、届かぬ声と知りながらも必死に呼びかけた。
絶望的に室内を探していた弓子の目に、化粧用に頼んで入れてもらった手鏡が見えた。手鏡に日光を反射させれば、合図を送れる。
だが北面のこの部屋には日光が射し込んで来ない。反射すべき光の源はないか。
光源、そうだ、電灯があったわ。
弓子は急いで電灯のスイッチをひねると、その光を手鏡に受けて、二人連れの男のいる方角へ送った。
男の一人が弓子の信号に気づいたらしく、振り返った。
だが白昼の電灯の反射はあまりに弱々しく、弓子の送りつづける信号を認知できなかったようである。
男は最初、なにかの気配を悟って振り返ったらしい。
弓子の必死の呼びかけも虚しく、二人連れの男は背を向けて立ち去って行った。
笹岡美津子は、弓子が羽室家のどこかに監禁されているような気がしてならなかった。
妊娠中の身をオーストラリアへ転地させたというのは、どう考えても不自然である。
美津子に会わせたくないので、嘘をついたのであろう。国内では会いに行かれてしまう。オーストラリアなら簡単には追いかけて行けない。
美津子は心に下ろした疑惑の根を掘り下げてみようとおもった。
正面から門を叩いたのでは、門前払いを食わされるばかりである。
おもいきって羽室邸に潜入し、自分の目で納得のゆくまで確かめてみたい。見つかれば住居不法侵入の現行犯になるが、幸いにも犬は飼っていないようである。
弓子は、羽室家にとって都合の悪い事情を知りすぎたために、監禁されてしまったのであろう。
美津子自身が彼女を救い出す必要はない。弓子が監禁されている証拠をつかめば、警察に届けて救い出せる。
美津子は意を決して、六月の中旬のある夜、羽室家に忍び込むことにした。
忍者もどきに黒の上着に黒いズボンを穿《は》き、ライトを用意した。
証拠写真を撮影するために、コンパクトカメラも携行《けいこう》した。
美津子は午前零時ごろ行動を起こした。
マイカーを操って羽室家の近くの空き地に駐車し、午前一時ごろ羽室家の庭へ忍び込んだ。
庭を鉄柵が囲っているが、難なく乗り越えた。
空は梅雨模様の厚い雲に塗り込められていて、一抹《いちまつ》の星の光も見えない。忍び込むには絶好の夜である。
建物は寝静まっていて、一点の灯影《ほかげ》も漏れてこない。庭の植え込みの間や庭樹の根元のところどころに配されている、庭園灯だけがほのかな光を投げかけている。
美津子は庭園灯の光の届かぬ闇の底を這うようにして、母屋へ近づいた。建物の内部には、起きている者の気配もない。
前回訪問した際、請《しよう》じ入れられたのは玄関の近くの庭に面した応接間であったが、屋内には多数の部屋があり、間取りも複雑であったようである。
二階の様子はまったくわからない。おそらく二階には家族の寝室や、徹三の書斎があるのであろう。
これだけ大きな屋敷であるので、開《あ》かずの部屋もあるにちがいない。
弓子が閉じこめられているとすれば、二階の開かずの間である確率が高い。
だが庭内に侵入するのが精一杯で、屋内に忍び込むのは無理である。
美津子は建物の周囲をめぐった。屋内は寝静まっている。
弓子の気配どころか、住人の気配も漏れてこない。美津子は次第に大胆になって、屋内への侵入口を探した。
玄関ドアをはじめ、裏口や勝手口のドアも固くロックされている。専門の泥棒であれば、ロックを壊して侵入するところであろうが、美津子にはそんな芸当はできない。
庭の北面へまわって来たところで、突然二階の一室の窓が明るくなった。住人が起きた気配である。
美津子は一瞬ぎょっとなって、庭の一隅に立ちすくんだ。だが灯《あか》りはすぐに消えた。
ほっとして二、三歩歩きかけたとき、ふたたび点灯した。そしてまた消えた。灯りの点滅が何回かつづいた。
このときになって、美津子はその部屋の内でなに者かが電灯を意図的に点滅していることを悟った。
部屋の中の者が電灯を点滅して、合図を送っているのである。
「弓子」
美津子は咄嗟《とつさ》に点滅の意味を悟った。
弓子以外の住人が、そのような手段を用いて外部に信号を送る必要はない。電灯を用いて点滅信号を送っているということは、それ以外に室内の者に連絡手段がないことを示す。
(あの部屋に弓子が閉じこめられているんだわ)
美津子は確信した。
凝視している美津子の前で、点滅信号はなおもつづいた。それは点滅の長短によって、なんらかの意味を伝えているようである。
(もしかすると、あれはモールス信号かもしれない)
おもいあたった美津子は、点滅の長短と強弱を記憶に刻み込んだ。
二人連れの男の訪問者に、電灯を手鏡で反射して信号を送ることに失敗した弓子は、それからヒントを得て、電灯を点滅して信号を送ることをおもいついた。
夜になるのを待って電灯を点滅させれば、隣家の沖野家、あるいは近隣の住人、または通行人が気づいてくれるかもしれない。
点滅によって長短をつければ、特定の意味を発信できる。
弓子は結婚前、山へ登って、泊まり合わせた山小屋の主人から、ライトの点滅による遭難信号をおしえてもらったことをおもいだした。
[#2字下げ]● ● ● ― ― ― ● ● ●
弓子は家族が寝静まるのを待って、毎夜、祈りをこめるようにして電灯を点滅した。
山小屋の主人からおしえてもらった遭難信号の記憶も曖昧である。だが深夜、室内に点滅する灯りに不審を持つ者があるかもしれない。
そこに一縷《いちる》の希望を託して、弓子は必死に電灯を点滅した。
家族に気づかれれば、最後の頼みの綱である電灯も取り上げられてしまう。家族に気づかれないように点滅信号を送らなければならない。
北面の部屋の窓の下で点滅信号を凝視していた美津子は、背後の注意がおろそかになっていた。
突然、背後の闇に凶悪な気配が生じて、黒い影が美津子に襲いかかった。鋭い凶器が彼女の後頭部を狙い、第一撃は本能的に躱《かわ》したが、第二撃を躱しきれず、後頭部に痛覚が走った。
敵は複数いるらしい。美津子は必死に逃げ出した。敵は執拗に追撃してくる。暗黒の中に凶悪な気配が走るだけで、その姿を見分けられない。
彼女自身が他家の庭に不法侵入している身なので、救いを求めることができない。美津子は必死に隣家との境界の方へ走った。
隣家へ救いを求めようとしたわけではない。表門の方角は遠く、襲われた箇所から隣家との境界が最も近かったからである。ともかく羽室家のテリトリーから脱出しようとおもった。
隣家との境界の鉄柵を乗り越えようとしたとき、また背後から凶器を振われた。
ようやく鉄柵を乗り越えた彼女は、そのままもんどり打つようにして、隣家の庭内へ転がり落ちた。
幸いに落ちた所は柔らかい地上であったが、頭部をしたたかに打って、美津子は意識を失った。
遠方からだれかに呼ばれるような声がして、美津子は意識を取り戻した。
意識を埋めていた濃い霧が晴れて、霧の間から薄い記憶のある顔が笑いかけていた。
「気がつきましたか」
その顔は問いかけた。
美津子は束の間、自分がどこにいるのかわからない。この場所にいるまでの過程がぷつりと断ち切られている。
彼女は和室の畳の上に寝かされていた。
「ここはどこですか。私はどうしてここにいるのですか」
美津子は驚いて、畳の上に上体を起こそうとした。後頭部にずきりと痛みが走った。
「今朝早く、あなたがうちの庭の隅に倒れているのを見つけて、ここへ運んだのです。頭を打ったようですが、大したことはなさそうですわ」
彼女の言葉と共に後頭部に走った痛覚が、美津子の記憶をよみがえらせた。
「鴉に頭を突つかれたようですわね。このごろは鴉が気が立っていて夜間もいたずらをしかけるので、油断ができません。この界隈の鴉は夜も目が見えるようですわ。応急手当てをしておきましたが、あとで医者に診せた方がよいとおもいます」
「奥さんは……」
美津子はその女性が、先日羽室家を訪問した際、言葉を交わした隣家の沖野夫人であることをおもいだした。
「あれは鴉でしたの。いきなり後頭部を尖《とが》ったもので突つかれて、びっくりしました」
「この辺の鴉は最近、とても攻撃的なのです。先日も下校途中の学童が襲われて、いま地域で鴉の駆除対策を検討しています」
沖野夫人は、美津子がなぜそのような場所で鴉に襲われたのか問わなかった。美津子の方から話すのを待っている体である。
「実は羽室家に偵察に来たのです」
「偵察とおっしゃいますと、奥様の所在についてですか」
沖野夫人は察しがよかった。
「はい。私はどうも弓子があの家のどこかに閉じこめられているような気がしてならないのです。それで私自身の目で確かめたくて、昨夜お隣りの庭に忍び込んだのです」
「そうでしたの。それで奥様のいらっしゃる気配がありましたか」
「よくわかりません。でも二階の裏手の部屋の窓に灯りが点滅しているのが見えました」
「灯りが点滅?」
「特定の長短をつけた点滅でした。おぼえてきましたけれど、あれはなにかの信号だとおもいます」
「なにかの信号。私の家のどの部屋からも、そのお部屋の窓は死角に入って見えませんが、部屋の灯りが点滅していたということは、どなたかそのお部屋にいらっしゃるということですわね」
「その部屋に閉じこめられていて、外部になんの連絡手段も持たないということではないでしょうか」
「その点滅の長短をおぼえていらっしゃいますか」
「おぼえてきました」
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「それは、もしかすると……」
「もしかすると、なんですか」
「学生時代に山へ登ったことがあるのですけれど、そのときおしえてもらった遭難信号のような気がします」
「遭難信号!」
「遭難して救助を求めるとき、昼間ならばヤッホーにそのような長短をつけるそうです。また夜間ならば、ライトを点滅して報《しら》せるということでした」
「それでは、あの部屋からだれかが救助を求める信号を発しているということになりますね」
「その可能性があります」
二人は顔を見合わせた。
二階の北面の部屋から信号を発している者が弓子であるとすれば、彼女が危機に陥って救助を求めていることを意味するかもしれない。
だが警察へ届け出たところで、信じてもらえるだろうか。点滅信号は美津子が目撃しただけである。それも記憶しただけで、証拠はなにも残っていない。
しかも彼女は羽室家の庭に不法侵入して、その点滅信号を見たのである。
仮に警察が美津子の訴えを受け入れて羽室家に照会したところで、同家から根も葉もないことだと突っぱねられれば、それまでである。
むしろ美津子の不法侵入が咎《とが》められるであろう。
「その点滅信号をビデオにでも撮りたいですわね」
同じようなおもわくを持ったらしい沖野夫人が言った。
「ビデオに撮れば、証拠になるかもしれません。でも、そのためにはもう一度……」
忍び込まなければならないが、突然闇の奥から鴉に襲われたことをおもうと、二の足を踏んでしまう。
鴉の群れは、どうやら羽室家の庭樹を塒《ねぐら》にしているらしい。
深夜、時ならぬ時間に侵入して来た美津子に、鴉は自分の塒を脅かす敵として攻撃をしかけてきたのであろう。
「私の家の部屋からは無理ですが、庭の奥へ行けば、その部屋の窓が見えます。そこでビデオを撮られてはいかがですか」
沖野夫人が言った。
「ご協力していただけますか」
「もちろんです。お隣りの若い奥様とは、親しくしていただいておりましたので、私も心配です。私の家にもビデオカメラがありますので、夜間、注意していて、そんな点滅信号が送られてきたなら、撮影しておきますわ」
「いいえ、お庭に入れていただければ、私が撮影します」
美津子は恐縮した。
隣家の庭であっても、鴉が攻撃してくるかもしれない。隣家の夫人にそのような危険を冒させるわけにはいかない。
今度はヘルメットでも用意して来ようと、美津子はおもった。
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凝縮された相姦《そうかん》
弓子は毎夜、家族が寝静まるのを待って、点滅信号を送った。だれかが気がつけば、救いに来てくれるかもしれない。
だが北面のこの部屋の窓は、道路から見えない。
一縷《いちる》の希望は沖野家の庭の一隅から見えることである。隣家の家人がそこへ来てくれれば、点滅信号に気がついてくれるかもしれない。
だが深夜、沖野家の庭でも最も奥のはずれに、家人が来るとはおもえない。
それでも弓子は一縷の望みを託して、電灯を点滅した。
記憶が曖昧《あいまい》で、それが果たして遭難信号になっているかどうか自信はなかったが、点滅そのものが信号になってくれるだろう。
信号を送り始めて数日後の夜のことであった。例のごとく電灯を点滅していると、突然、光が消えたまま点灯しなくなった。何度スイッチをひねっても点灯しない。
激しい点滅に、電灯が切れたのである。弓子は唇を噛《か》みしめた。唯一の連絡手段が死んでしまった。
彼女は迂闊《うかつ》にも、電灯が切れることに気がつかなかった。
長いこと開かずの間で使用されていなかった電灯を、激しく点滅したものだから、消耗が早かったのである。
翌日、弓子は食事を運んで来た睦子に、電灯を替えてくれるように頼んだ。
「おかしいわね、この部屋の電灯はほとんど使っていないのに、もう切れちゃったなんて」
睦子は首を傾《かし》げた。
弓子はどきりとしたが、
「使っていなかったので、切れちゃったのよ。夜が真っ暗で、恐くてたまらないの。昼間でも曇っているときは、電灯を点けたいくらいよ。お願い、新しい電灯を持って来て」
弓子は頼んだ。
ちょうどうっとうしい梅雨空で、室内が夕方のように暗かった。
睦子はうなずいて、間もなく新しい電灯と取り替えてくれた。
弓子は連絡手段を回復した。今度は大切に、適当な間隔《インターバル》をおいて点滅しようとおもった。
その夜更けてから、点滅信号を送り始めたとき、突然ドアが開かれた。そこに繁子と睦子と一直の三人が立っている。
弓子はぎょっとなって、電灯のスイッチに手をかけたまま立ちすくんだ。
「やっぱりこんなことをしていたのね。電灯が切れたというので、どうもおかしいとおもっていたのよ」
繁子が憎悪の色に塗られた目を向けた。
「私、なにもしていません。電灯を消して、寝ようとおもっていたところです」
弓子はようやく反駁《はんばく》した。
「なにをぬけぬけと言っているのよ。だったら、こんな夜更けまで電気を点けてなにをしていたの。あなたが電灯を点滅していたことは、窓の外から確かめたのよ」
弓子は唇を噛みしめた。点滅を見られてしまっては、言い抜けができない。
「これから好きなだけ点滅するといいわ」
繁子がなにかを含むようにほくそ笑んだ。
「さあ、いらっしゃい。お引っ越しよ」
繁子がうながした。
「お引っ越し?」
「すぐ近くよ。乗り物はいらないわ」
睦子と一直が弓子の両腕を取り、繁子が先に立った。
「私をどこへ連れて行くつもりですか」
「すぐにわかるわよ」
睦子がにやりと笑った。
一ヵ月ぶりに座敷牢から引き出された弓子は、二人に両手を取られて階段を下りた。一階に開かずの間はなかったはずである。
弓子は一階キチン裏手の納戸《なんど》へ連れ込まれた。それでは、今度は納戸へ閉じこめるつもりであろうか。
睦子が納戸の奥の壁を押した。壁と見えたのは、扉であった。
弓子はそこに扉があるのを知らなかった。嫁いで来て以来、この納戸に足を踏み入れたことはなかった。
ドアを開くと、黴《かび》くさい空気が漂った。ドア口から階段が地下へ這い下りている。
弓子はこの家にこんな地下室があったことを知らなかった。湿っぽい空気が澱《よど》んでいる。
地下室の扉を開くと、いっそう濃厚な黴のにおいが鼻に迫った。
電灯のスイッチをひねると、部屋の中央に吊るされた裸電球が、六畳ほどの地下室の寒々とした光景を照らし出した。
部屋の隅にベッドと便器が置かれ、一方の壁の上方に換気口が穿《うが》たれて、換気扇がまわっている。
「ここなら、いくらでも合図を送っていいわよ」
繁子がにたりと笑った。
「お願いです。こんな所に閉じこめられたら、お腹の子が死んでしまいます」
弓子は必死に訴えた。
「大丈夫よ。死にはしないわ。退屈したら、テレビでも見ていなさい」
言われて、部屋の隅にテレビがあるのに気がついた。
ベッドの布団も黴は生えていない。弓子を二階の座敷牢から移すために、急遽《きゆうきよ》、地下室の用意をしたことがうかがわれた。
「お義姉《ねえ》様、ここなら外の気配に悩まされることなく、ゆっくり静養できるわ。きっといい赤ちゃんが生まれるわよ」
睦子が尻馬に乗って言った。
地下室のドアを閉めて、二人が立ち去ると、鼓膜を圧迫するような静寂が落ちた。外界のあらゆる気配が遮断されて、まるで深海の底に閉じこめられたようである。
弓子は繁子が地下室にテレビを運び込んだ意味が、このときわかった。
テレビは退屈しのぎではなく、地下室で発狂せずに生きていくための必要不可欠な品であった。少なくともテレビを点けている限り、鼓膜を圧迫する地底の静寂からは逃れられる。
これで弓子は外界に対する一切の連絡手段を失った。もはや点滅信号を送って、救助を求めることはできない。むしろ地下室の裸電球が切れないことを祈るのみである。
テレビには静寂よけのほかに、もう一つ重大な効能があった。テレビが時間の経過をおしえてくれた。
地下室に閉じこめられて五日後、昼近くになっても朝食が届けられなかった。悪阻《つわり》が終り、胎児が順調に成長しているので、腹が空く。
弓子は空腹に耐えて朝食を待っていた。
テレビが昼のニュースを伝えかけたとき、地下室の扉が開かれた。そこに繁子が立っている。だが朝食を載せたトレイは持っていない。繁子の形相が変わっている。
「弓子さん、またあなたの差し金でしょう」
繁子はいきなり詰問してきた。
「差し金とは、どういうことですか」
弓子はわけがわからず、問い返した。
「とぼけるのもいいかげんになさい。主人とあなたはできていたのよ。あなたが主人の行方を知らないはずはないでしょう」
繁子が言い募《つの》った。
「それは言いがかりというものです。お義父《とう》様がいきなり私の部屋に押し入って来て、私に乱暴しようとしたのです。そのことはお義母《かあ》様もご存じのはずだわ」
どうやら徹三の身になにか起きたらしいが、弓子にはなんのことかさっぱり要領を得ない。
「主人が一昨夜から帰って来ないのよ。どこへも外泊する予定はないし、外泊する用事もないはずだわ。裕也と同様、またあなたの差し金でしょう」
「私はここへ閉じこめられてから、一歩も動きません。そのことはお義母様もよくご存じでしょう。お義父様がどこへいらっしゃったか、私は全然知りませんし、私には関係ありません」
弓子は言い張った。
「あんたが陰で手をまわしていることはわかっているのよ。そのうちに尻尾をつかんでやるからね」
繁子は悔しげに言うと、ドアをパタンと閉めて立ち去って行った。
その日はついに朝食と昼食が省かれた。
夜になって、空腹のあまり目がまわりそうになったとき、ようやく睦子が夕食を運んで来た。
「お義父様はお帰りになりましたか」
弓子が尋ねると、睦子は一言も答えずに出て行った。その様子から、徹三がまだ帰宅していないことがわかった。
弓子は運ばれた食事に、毒でも仕込まれているのではないかと疑った。だが、まだそこまではするまい。繁子にとっても胎児は初孫である。
それにしても、徹三はどこへ行ってしまったのか。裕也もまだ失踪をつづけている様子である。裕也、徹三とつづけての失踪に、なにか関連はあるのか。
弓子は羽室家に不気味な触手が伸びているような気配を感じた。
羽室家に伸ばした触手の主は、同家の家人を一人ずつ拉致《らち》しては、この世から抹消しているのではないのか。
だれが、なんのためにそんなことをしているのかわからないが、この調子で羽室家の家人が一人ずつ消えていけば……。
それまでおもわくを進めた弓子は、慄然《りつぜん》となった。
この地下室に閉じこめられたまま、羽室家の家人がすべていなくなってしまえば、だれも弓子が地下室にいることを知らない。家人を一人ずつ拉致している触手の主も知らない。
(どうしよう)
弓子は唇まで青ざめた。弓子は地下室で骨になっていく自分を想像した。
この家の家人がいなくなり、家が人手に渡って取り壊され、地下が掘り返されるまで、彼女の骨が人目に触れることはない。いや、家が朽ち果て、地下室が埋もれてしまえば、骨も発見されないだろう。
いまや羽室家になにかの異変が生じつつあることは明らかである。弓子一人を地下室に残して、羽室家の家族が全員消え失せてしまう前に、なんとしてもこの地下室から脱出しなければならない。
地下室から抜け出すためには、まず地下室のドアを破り、地下室へ下りる階段入口のドアを開き、家族の目を掠《かす》めて屋外に出て、門か、通用口か、外囲いの塀を乗り越えなければならない。
地下室から外へ出るまでに、四重の関門があるのである。
徹三が失踪したとすれば、現在、羽室家には繁子と睦子と一直の三人が残っているはずである。
彼らは弓子を監禁した地下室の看守であると同時に、彼らが健在な間に脱出を果たさなければならない命綱でもある。
三人のうちで、繁子と睦子ははっきりと弓子に敵意を示している。
一直一人は、弓子にやや好意的である。
弓子は女の本能から、一直の好意の中に、彼が弓子に対して関心を抱いていることを嗅《か》ぎ取っていた。
一直の関心を利用して、脱出できないであろうか。
だが一直はこれまで二階の座敷牢にも、地下室へ移されてからも、弓子に直接接近したことはない。繁子と睦子が一直の弓子に対する関心を察知して、遠ざけているのであろうか。
裕也と徹三が相次いで失踪し、いまこの家に残っている男が一直一人であれば、彼をはさんで繁子と睦子が対立しているかもしれない。
近親相姦図がますます凝縮されてくるであろう。このあたりに乗ずべき脱出の機会が見いだせそうである。
弓子は地下室に拘束《こうそく》されて身動きできないまま、必死に脳漿《のうしよう》を絞っていた。
笹岡美津子の鴉に後頭部を突つかれた傷は、幸いにも大したことはなかった。
羽室、沖野両家の境界の塀から転落したときのショックで、脳震盪《のうしんとう》を起こしたのである。落ちた地上が幸いに軟土で、深刻なダメージは受けなかった。
その夜以後、沖野夫人の協力を得て、夜中、沖野家の庭の一隅から羽室家の例の窓をビデオカメラを向けて狙っていたが、点滅信号は発せられなかった。
点滅信号どころか、窓の内は無人のように暗い闇に閉ざされたままである。
「私も注意しているのですけれど、その後、あの窓に灯影が見えたことはありません」
沖野夫人が言った。
「点滅信号に気がついて、羽室家の人が弓子をどこかべつの部屋へ移してしまったのではないでしょうか」
美津子は危惧《きぐ》した。
「その可能性は考えられますね。あの夜、鴉が大変騒ぎましたから、気がついたかもしれません」
沖野夫人がうなずいた。
「奥様は羽室家のお隣りに住んでいらっしゃって、なにかお気づきになったことはおありですか」
美津子は問うた。
「気づいたこととおっしゃいますと」
「お隣りの方にこのようなことを申し上げてよいものかどうか迷うのですが、弓子が羽室家に嫁いだ後、一度訪問したことがあります。そのとき羽室家のご家族が、なんとなく本当の家族ではないような気がしたのです」
「本当の家族ではないとおっしゃいますと」
「なんと申しましょうか、仲が良くて、明るく幸せそうで、一点の非の打ちどころもない、家族のモデルのようなご家族だったのです。私の家族は家の中でいつも喧嘩ばかりしていますので、その和気あいあいたる円満な家庭が、なにか家族みんなで演技しているように感じられたのです。私のひがみかもしれませんが、そんな風に感じました」
「羽室さんは、ご近所でも評判の円満なご家庭でした。私たちはこちらへ引っ越してきてからまだ二年そこそこですので、よく知りませんが、古くからいらっしゃる方は、羽室さんのように仲のいいご家庭は見たことがないとおっしゃいます」
「やっぱり私のひがみからのおもいすごしかもしれませんね」
「でも、最近はちょっとちがうようですわ」
「ちがうとおっしゃいますと……」
「距離があるのでよくわかりませんが、ときどきお隣りさんのお屋敷の中から罵《ののし》り合う声を聞いたような気がします」
「罵り合う声、本当ですか」
「もしかするとテレビの音かもしれません。でも、風向きによって、ときどき漏れ聞こえてきましたわ」
「最近とおっしゃいますと、いつごろのことですか」
「そういえば、若奥様のお姿をお見かけしなくなった後のことのようにおもいます」
「弓子の姿が見えなくなってから……」
美津子はそのことの意味を考えた。
もし沖野夫人の観察が正しければ、弓子が消えてから、羽室家の内部に波紋が生じているようである。
その波紋が弓子を原点としているものか? 弓子の姿が見えなくなってから、羽室家が時には家庭内で諍《いさか》いをする、自然な家族へ戻ったというのも解せないところである。
そのときであった。羽室家の方角から、ガラスの割れるような音がして、激しく罵り合う女の声が漏れ聞こえてきた。
美津子と沖野夫人は、はっとして顔を見合わせた。それは明らかにテレビの音ではなさそうである。
二人は会話を中断して、聞き耳を立てた。
やめろ、二人ともやめないか、と制止している若い男の声がつづいた。
ちょうど梅雨の晴れ間の蒸し暑い夜で、窓が開いている。
二人が隣家の気配に耳をそばだてていると、窓を閉める音がして、漏れ聞こえてきた争い合う気配は、ぴたりと遮断されてしまった。
「いまのガラスの割れる音や、罵り合う声はテレビではありませんでしたね」
美津子は沖野夫人の同意を求めた。
「テレビではありませんね。私もはっきりと聞きました」
沖野夫人がうなずいた。
円満な家庭のモデルのようであった羽室家に、なにかの異変が生じている。
その異変は、弓子の転地静養から発しているにちがいない。
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失踪する家庭
同じ時刻、羽室家では一人の男を奪い合って、母娘が凄《すさ》まじい争いを展開していた。
裕也と徹三が失踪して以後、一直をめぐって繁子と睦子の対立が激しくなっていた。母娘が敵意を剥《む》き出して、たがいに牽制《けんせい》し合っている。
これまでは男三人に女二人であったので、母娘が直接ぶつかり合うことはなかった。
だが、いまやこの家の主人は一直であり、母娘は彼に仕える女奴隷となっている。女奴隷のどちらも、主人の情愛を争って、一歩も退こうとしない。
弓子の目を遮断してしまったので、女奴隷の争いはだれ憚ることなく、露骨で、浅ましく、醜かった。
その夜、就寝前に一直は浴室へ入った。
「一直さん、背中を流してあげましょう」
繁子が媚《こ》びた口調で言った。
「いいよ。自分で流すから」
一直は言った。
「遠慮することはないわよ。今日は蒸し暑かったから、汗をかいたでしょう」
「本当にいいったら」
一直は辟易《へきえき》した口調で繁子の申し出を断わると、浴室へ入った。
だが、彼の入浴中に繁子が浴室へ入って来た。
「さあ、お背中を向けなさい。気持ちいいわよ」
繁子はさっさと一直の背中に湯をかけて、流し始めた。一直もそこまでされては、拒めない。繁子の流すに任せている。
背中に石鹸《せつけん》をつけ、スポンジでせっせと流した繁子は、ふたたび湯をかけた。
「綺麗《きれい》になったわよ。次は前を向いて」
繁子は甘い声で促した。
「前は自分で洗うよ」
「なにをいまさら恥ずかしがっているのよ。さあ、前を向いてちょうだい」
繁子は一直の背中に手をかけて、無理に前を向かせようとした。
そのとき浴室のガラス戸がガラリと引かれた。驚いて振り向いた二人の視線の前に、血相変えた睦子が立っていた。
「なによ。いい齢をして、発情した雌猫みたいに。みっともないったらありゃあしないわ」
「なんですって。その口のきき方はなによ」
今度は繁子の顔色が変わった。
「齢を考えなさいよ。一直さんが迷惑してるじゃないの」
「あんたこそなによ。尻に卵の殻をぶら下げた小娘のくせに、一人前の口をきくんじゃないよ」
繁子が言い返した。
「なんだと、このくそ婆《ばば》あ」
「私が婆あなら、おまえは猫も食わないシジミよ。一直さんに手を出すのは十年早いよ」
「あんたは二十年遅いんだよ。お褥《しとね》ご遠慮にお釣りがきて、猫にでも舐《な》めさせておけばいいのよ。猫も舐めないだろうけどね」
「言ったわね」
母娘とはおもえぬ凄まじい罵言の投げつけ合いである。
激しい敵意の下地の上に、売り言葉に買い言葉であった。
繁子は湯を満たした湯桶を、いきなり睦子に投げつけた。睦子は半身を開いて躱《かわ》した。勢い余った湯桶が、浴室のガラス戸に当たって、ガラスが割れた。
「やめろ、二人ともやめろ」
一直が母と娘の間に割って入った。
繁子と睦子はつかみ合いをしかねない剣幕である。一直は男の力でようやく二人の女を分け隔てた。
だが彼女らはまだ罵り合いをやめない。
「やめないか。近所に聞こえるぞ」
たしなめた一直は、湯気を抜くために浴室の窓が少々開かれているのに気づいた。
「しまった」
慌てて窓を閉めたが、いまの気配を近所に聞かれてしまったかもしれない。
「二人とも、いいかげんにしろ。やめないと、おれはこの家から出て行くぞ」
一直は言った。
「そんなこと言わないで」
「私を残して行かないで、お願い」
母と娘は争いをやめて、一直に懇願した。
「いったい二人ともどうなっちゃったんだよ。前のように仲良く暮らせないのか」
一直はほとほと閉口したような口調で言った。
「一直さん、あなた、お父さんや裕也さんの行方を知っているんじゃないの」
繁子が問うた。
「ぼくが知っているはずがないじゃないか」
「でも、あなたはいま、あなたも家を出てしまうとおっしゃったじゃないの」
「それはお父さんや兄さんの失踪とは関係ないよ。この家がいやになったんだ」
「お父さんやお兄さんがいなくなっても、私たち、家族でなくなったわけじゃないのよ」
睦子は言った。
「これが家族かね」
一直が薄く笑った。
「世間は家族とおもっているわ」
「だったら、もう少し仲良くしたらどうだい」
「あなたたちが私を母親として立ててくれればいいのよ」
「ちっとも母親らしくないじゃないの」
睦子が口をはさんだ。
「おまえが娘らしくないのよ」
「母親らしくない人に娘らしくはできないわ」
二人はまた口論を始めた。
「よさないか。おれにこの家にいてもらいたかったら、二人ともいままで通り家族として仲良くするんだ。それがいやなら、おれは出て行く」
一直は開き直った。
母娘が激しく争った三日後の夜、睦子は帰宅しなかった。
朝になっても帰って来ない睦子の行方を八方探してみたが、どこにも立ちまわっていない。
繁子と一直は裕也、徹三につづく三人目の家族の失踪ではないかとおもった。
「睦子の行方に本当に心当たりはないのか」
一直は繁子に問うた。
「心当たりがあるはずないじゃないの。あなた、私を疑っているの」
「疑いたくはないけれど、先日の今日だからね」
「私は知らないわよ。あなたこそ、睦子をどこかへ隠したんじゃないの」
「おれがどうして睦子を隠すんだ」
「もちろん、私に隠れて会いに行くためよ」
「なにを馬鹿なことを」
「この家では、私の目が光っているので、睦子に晴れて会えないからでしょう」
「疑心暗鬼もいいかげんにしてくれよ」
一直はうんざりした口調で言った。
だが二人は、睦子の家出がたがいの工作によるものではないことを悟ったようである。
彼女の家出は、裕也、徹三の失踪の延長線上にあるものである。なに者かが、なんらかの意図を抱いて、羽室家の人間を一人ずつ失踪させているにちがいない。
二人は恐怖に駆られた目を見合わせた。
「弓子よ、弓子の仕業にちがいないわ」
繁子が言った。
「義姉《ねえ》さんが、どうしてそんなことをする必要があるのだ」
一直が問うた。
「そんなことわからないわよ。でも弓子が来てから、この家はおかしくなったのよ。それまでは家族が和気あいあいと暮らしていたのに、あいつが来てから、家族はばらばらになって、憎み合うようになったわ」
「それは義姉さんのせいじゃないだろう。憎しみの種はおれたちの中に潜んでいたんだ」
「いまさらそんなことを言って、なんになるのよ。睦子の行方を探すのが先決でしょう」
「あんたにとっては、睦子はこのまま帰って来ない方が都合がいいんだろう」
「なにを馬鹿なことを言うの。だれかが私たちを狙っているのよ。次に行方不明になるのは、あなたか、私かもしれないのよ」
「しかし、義姉さんは地下室に入っていて、一歩も動けないよ」
「あいつの仲間が外にいるのよ。仲間が、羽室家の人間を一人ずつ消しているんだわ」
「なんのためにそんなことをするんだ」
「私たちがみんないなくなってしまえば、この家の財産はあいつ一人のものになってしまうでしょう」
「おれたちがみんな消えてしまったら、義姉さんは地下室に閉じこめられたままになってしまうじゃないか」
「おめでたいことを言っているわね。私たちがみんな消えた後で、仲間があいつを救い出せるでしょ」
「どうやって仲間に地下室にいることを報せるのだ。義姉さんが地下室にいることは、おれたちしか知らないはずだよ」
「あの人や裕也や睦子が口を割ったかもしれないでしょう」
「しかし、義姉さんの腹の中にいる子供は、兄さんの子だぜ。おれたち四人を消したとしても、兄貴は残すんじゃないのか」
「あいつは私たちのことを知っているのよ。だから私たちから羽室家の財産を横奪りしようとしているんだわ」
一直の顔色も次弟に疑心暗鬼になってきた。
「とにかく義姉さんに聞いてみよう」
「あいつはしたたかだから、騙されては駄目よ」
繁子は一直をなるべく弓子に接触させたくない様子である。
運ばれて来る食事は不規則になり、その内容は粗末になった。
いまや弓子は地下室に一人閉じこめられている恐怖よりは、次の食事が運ばれて来るのか、あるいは運ばれて来ないのではないかという恐怖と戦わなければならなくなっていた。
胎児は順調に成育して、下腹部が張り出してきている。母子二人分の栄養を摂《と》らなければならないのに、食事の質、量は低下している。弓子は空腹と格闘していた。
胎児は容赦なく栄養を要求している。まるで餓鬼を腹中に飼っているような気がした。
このまま食事が届けられなくなれば、腹中の餓鬼に私の身体は食べられてしまうかもしれない。弓子はこれまでいとしかった胎児が恐ろしくなった。
以前は点《つ》けっぱなしにしていたテレビも、最近は消しておくことが多い。食物のCFや、飲食場面が出ると、発狂しそうになるからである。
ベッドに横たわって、なるべく食物のことを考えないようにしている。
テレビを消していると、時間の経過が不明になった。昼なのか夜なのかもわからない。
もう二、三日、食事が届けられないような気がする。最後に食べたものがなんであったか、忘れてしまった。
弓子が空腹のために朦朧としてベッドに横たわっていると、古沼の水のような空気が動いた。
はっと我に返ると、一直がベッドサイドに立っている。
「義姉さん、お腹がすいただろう」
一直がトレイを差し出した。
トレイの上には、バタートーストとフライドエッグとホットミルクが載っている。
空腹のあまり麻痺してしまったような胃が刺激を受けて、目を覚ました。
「あまり急に食べない方がいい。まずミルクをゆっくりと飲んで」
一直が注意した。
だがその言葉よりも早く、弓子はトーストを頬張っていた。彼女がトーストを食べたのではなく、腹中の餓鬼が食ったのである。
一直が運んで来てくれたトレイの上のものを平らげて、ようやく人心地ついた弓子は、今回に限ってなぜ一直が食べ物を運んで来たのか、と考える余裕が生じた。
「ところで、義姉さんにちょっと聞きたいことがあるんだが」
食事を終えた弓子に、一直が問いかけた。
「私に聞きたいことって、なんなの」
「姉貴が一昨夜から家へ帰って来ないんだ」
「睦子さんが帰って来ない? 旅行にでも出かけたんじゃないの」
「いや、旅行にも、友人の家にも行っていない」
「裕也さんやお義父様のように失踪したのではないでしょうね」
弓子は不吉な不安を促された。
「その虞《おそれ》がたぶんにあるんだ」
「まさか……」
「それでお義姉さんに聞きたいんだが、お義姉さん、もしかして姉貴の行方を知らないかい」
「私が知っているはずがないでしょう。私はここに閉じこめられたまま身動きできないのよ」
「たとえば義姉さんの仲間が、外で親父や兄貴や姉貴を隠したとは考えられないだろうか」
「私の仲間って、だれのこと。私にはそんな人はいないわ。それに、なぜそんなことをしなければならないの」
「おれたち全員がいなくなれば、この家は義姉さんのものになるからね」
「まあ、そんなことを考えてるの。その前に私は地下室に閉じこめられたまま、ミイラになってしまうわよ。現に一直さんがいまお食事を運んで来てくれなかったら、飢え死にしてしまうかもしれなかったわ」
「義姉さん、本当になにも知らないのか」
「知らないわよ。それより一直さん、私をここから出してちょうだい。なんのために私をこんな所へ閉じこめておくの」
「義姉さんが妙な真似をしたからだよ」
「私がどんな妙な真似をしたというの」
「とにかく姉さんはいま保護が必要だ。もう少しの間、ここで我慢していてくれないか。そのうちによい方法を考える」
「よい方法ってどんな。お願い、私をここから出してちょうだい。地下室に閉じこめられたまま、みんながこの家から出て行ってしまえば、私は生きたままミイラにされてしまうわ。お腹の中にはあなたと血のつながっている赤ちゃんもいるのよ。もうこれ以上、こんな所に一分一秒も我慢していられないわ」
「そのうちに必ず出してあげるから、もう少し辛抱していてください」
一直は弓子からせがまれて、たじたじとなったようである。
今度は睦子が失踪してしまったらしい。いまこの家に残されている者は一直と繁子と、そして弓子の三人だけである。胎児はまだ一人前とは言えない。
なに者かの触手が、羽室家の家族を一人ずつ確実に捕捉している。
だれが、なんの目的でそんなことをしているのか、まったくわからない。
一直と繁子は、弓子が糸を引いているのではないかと疑っている。
触手の主が、弓子が地下室に閉じこめられていることを知っていれば、救出されるチャンスがあるかもしれない。
それを知っている者は、繁子と一直と睦子の三人だけである。
仮に触手の主が睦子から聞き出したとしても、弓子に対しても羽室家の一員として害意を抱いているかもしれない。
弓子はますます、自分が絶望の坂を奈落《ならく》へ向かって転がり落ちて行く気配を感じた。しかもその気配は、加速されている。
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家の中の家出
新宿署の牛尾は、羽室徹太郎と裕也の失踪が意識にこびりついて離れなかった。この両者の失踪にはなんらかの関連があるにちがいない。
羽室家の当主徹三は、徹太郎からなんの連絡もなかったと、関連性を否定している。
そんなはずはない。四十数年ぶりに墓参のために帰国した徹太郎が、ただ一人の骨肉である弟に連絡をしないはずがないのだ。
徹三は明らかに嘘をついている。なぜ、そんな嘘をつかなければならないのか。
それは彼が徹太郎の失踪になんらかのつながりを持っているからである。
もう一度徹三に会って、問いつめてみよう。
牛尾はおもいたった。
梅雨明けの空の雲の間から太陽が覗《のぞ》けば、すでに街は夏の彩《いろど》りである。
牛尾と青柳は連れ立って、ふたたび羽室家の門前に立った。
門柱のチャイムを押すと、間もなく徹三の妻女の繁子らしい声が応えた。
「先日おうかがいいたしました新宿署の者ですが、ちょっとおうかがいしたいことがございまして、またお邪魔しました」
牛尾がインターホンに話しかけると、
「主人はおりません」
妻女の声が突き放すように答えた。
「先生はお留守ですか」
「主人は帰って来ません」
「帰って来ないとおっしゃいますと、どういうことでしょうか」
「息子の後を追って失踪してしまったのです」
「なんですって」
「主人だけではありません。娘の睦子も数日前に家を出たまま、帰って来ないのです」
「それはただいま初めてうかがいました。捜索願いは出されたのですか」
「そんな余裕はありません。次は私が誘拐される番かとおもうと、恐くて外へ出られないのです」
「先生がいらっしゃらないのなら、とにかく奥さんにでもちょっとお会いしたいのですが」
「本当に警察の方でしょうね」
妻女の声は怯《おび》えているようである。
「先日おうかがいした者です」
「いまはだれにもお会いしたくありません」
「本当に先生やお嬢さんがその後つづけて失踪されたのであれば、捜索願いを出した方がよろしいとおもいます。ご本人の意思による失踪ではなく、だれかに誘拐されたものであれば、捜索が必要です。その後犯人らしき者からなにか連絡はありませんか」
「なにもありません。だから恐いのです」
「ちょっと家の中に入れていただけませんか」
「警察の証拠を見せてください」
「警察手帳を持っています」
「その手帳を見せてください」
牛尾と青柳は懐中から警察手帳を抜き出して、顔の前にかざした。それを屋内から監視カメラで見ているらしい。
「門をお入りになって、玄関へお越しください」
妻女の声が告げた。
門を入り、前庭を横切って玄関に立つと、ドアが細めに開いて、二人の様子をうかがった後、前回訪問したとき見おぼえのある妻女の顔が覗いた。
「どうぞお入りください」
二人はようやく応接室に請じ入れられた。
前回の訪問時より荒廃した感じである。庭も荒れ、屋内の掃除も行き届いていないらしく、床の上に薄い埃《ほこり》が溜まっている。
妻女の顔もげっそりと憔悴《しようすい》している。ほかに家族の気配も感じられない。
彼女の言う通り、裕也、徹三、そして睦子とつづいて三人が失踪したとすれば、この家の中には現在、繁子と、その子の一直の二人だけしかいないことになる。
「あの後、先生とお嬢さんがつづいて失踪されたというのは本当ですか」
牛尾は早速問うた。
「本当です。だれかがこの家を狙っているのです」
「だれが狙っているのですか」
「それはわかりません。でも、この家を乗っ取ろうとして、だれかが羽室家の人間を一人ずつ誘拐しているのです」
「しかし、家族を全部誘拐したとしても、家や土地を乗っ取れるものではないでしょう」
「あいつが陰で糸を引いているのです」
「あいつとはだれですか」
「それはただいま申し上げられません」
繁子は、はっとなったように口をつぐんだ。語るに落ちた形になったのに気づいたようである。
「ご家族にあと、一人、ご子息がいらっしゃるはずですが」
「五人家族が私と一直の二人だけになってしまいました」
「若奥さんはまだ転地先にいらっしゃるのですか」
「はい」
繁子の表情がこわばった。弓子について触れられるのを嫌っている様子である。
「ご家族が次々に失踪されたとなると、意図的なものが感じられます。私どもから管轄署へ話しておきましょう」
羽室徹太郎の失踪に関連して、羽室裕也の捜索願いに注目したのがきっかけであるが、その後、羽室家の家族が次々に失踪しているとなると、これは単なる家庭の事情による家出ではない根の深さが感じられる。
前回訪問したときは、繁子は茶菓を運んで来て、家の中にはまだ余裕があった。
だが今回は、繁子はげっそりとやつれて取り乱しており、茶の一杯も出されない。
家も庭も無住のように荒廃している。この間に羽室家が速やかに崩壊しつつある気配が感じ取れた。
羽室徹太郎の失踪と、その後につづいた羽室家の家族の一連の失踪が関連性があるとすれば、牛尾らとしても羽室家から目を離せなくなる。
「先日お訪ねした折、先生におうかがいしたことですが、先生の兄上に当たる羽室徹太郎氏から、まったく連絡はありませんでしたか」
牛尾は再度確かめた。
「先日も主人が申し上げましたように、連絡はございません。会ってもおりません」
「奥さんのお言葉ですが、我々はそれをすんなりと信じられないのですよ。四十数年ぶりに故国へ墓参に帰って来た徹太郎氏が、ただ一人の弟である先生にも会いに来なければ、連絡もしなかったということが、どうも解せないのです」
牛尾と青柳は繁子の面を凝視した。
「でも本当に、なんの音沙汰もなかったのです。主人も申し上げましたように、四十数年間も音信不通になっていましたので、他人以上に遠くなっていたのでしょう。もちろん私たちは連絡があれば、喜んでお会いしましたが」
繁子がいらだたしげに言った。
「奥さんは先刻、あいつが陰で糸を引いているにちがいないとおっしゃいましたが、あいつとは、羽室徹太郎氏のことではありませんか」
「徹太郎は失踪したんでしょう」
繁子はとまどったように牛尾の顔色を探った。
「失踪したということは、行方がわからないということでもあります。徹太郎氏がどこかで健在であるとすれば、羽室家のご家族の失踪に陰で糸を引く可能性も考えてみたのです」
「徹太郎がどこかで健在だとおっしゃるのですか」
繁子の表情に怯えの色が射したようである。
「仮定です。健在であれば、なぜ滞在中のホテルから急に姿を消したのか、その理由がわかりません」
「とにかく私は徹太郎に会ったこともありませんので、徹太郎が糸を引いているのかどうかわかりません」
繁子は危うく誘導尋問から逃れた。
「陰で糸を引いているあいつ」を徹太郎であると認めれば、繁子は彼を認めたことになる。彼女は徹太郎が来日した事実すら、刑事が訪問して来るまでは知らなかったはずである。
庭の方角でまた鴉が泣いていた。先日訪問したときよりも数が増えているようである。
「鴉が賑《にぎ》やかですね」
牛尾は話題を転じた。
「うちの庭の木を巣にしているらしいのです。五月の終わりごろから雛が孵《かえ》って、若鳥が巣立ち始めているのです」
繁子は眉を顰《ひそ》めて庭の方角へ視線を転じた。
羽室家を辞去した牛尾と青柳は、その足で所轄の玉川署へ赴いた。
羽室家家人の連続失踪事件をそのままにしておけない。玉川署には顔見知りの永井《ながい》刑事がいる。
羽室裕也の失踪については、羽室徹太郎の失踪に関連するものとして、永井に照会している。
「あの家の様子はただごとではありませんね」
玉川署への途上、青柳が言った。
「なにか不気味な気配が漂っているな」
牛尾がうなずいた。
「私にはあの屋敷に死臭が漂っているような気がしましたよ」
「死臭とは穏やかじゃないが、鴉がその死臭に引かれてやってきたのかな」
「不吉な気配ですね。前よりも鴉の数が増えている」
「羽室夫人は雛が孵《かえ》って巣立ち始めたと言っていたが」
「彼女、家族が失踪したと言っていましたが、殺されて、死体をあの屋敷のどこかに隠されているのではないでしょうか」
「だったら、彼女自身があんなに怯えていないだろう」
「自分で殺して、死体を隠して、被害者の亡霊に怯えているのかもしれませんよ」
「彼女が家族をなんのために一人ずつ殺すんだね」
「最近、家庭内暴力というのが流行《はや》っていますからね。家庭内で殺し合いがあったとしても不思議はない」
「しかし、羽室裕也の失踪は捜索願いが出されている。殺した犯人が捜索願いは出さないだろう」
「裕也の失踪は家庭外の事情で、その後の徹三と睦子の失踪は家庭内の事情によるものだとしたらどうでしょうか」
「夫人は、あいつが陰で糸を引いているにちがいないと口走ったが、家族の失踪について心あたりがありそうな口振りだったよ」
「糸を引いているのは徹太郎かと尋ねたら、慌てて知らないと言っていましたね」
「誘導尋問にかけられそうになったのに気がついたんだろうよ」
「関係者が一人ずついなくなって、だれもいなくなってしまうという外国の推理小説がありましたね」
「一人、気になる人物が残っているよ」
「一人残っている?」
「転地静養しているという羽室裕也の細君だよ。転地先はオーストラリアと言っているが、オーストラリアのどこかはっきりしない。本当にオーストラリアへ行っているのかどうか」
「転地しているのでなければ、どこに行っているのでしょうね」
「もし彼女の転地が嘘であれば、なぜそんな嘘をつく必要があるのか。彼女は羽室裕也の失踪前にすでに転地したことになっている。彼女が裕也に先立って失踪しているのであれば、捜索願いが出されているはずだ。ところが彼女の転地後、裕也が失踪しているということは、羽室家の家族は、彼女が羽室家からいなくなったことを失踪とは認めていないということだ」
「繁子夫人が陰で糸を引いていると言ったのは、裕也の細君のことではありませんか」
「実はおれもそのことを考えていたんだよ。羽室家の家族が全員いなくなって、裕也の細君一人が残れば、羽室家の財産は彼女のものになる。しかし、そうだとすると、なぜ彼女が転地したのかわからない」
「転地というのは口実で、細君は羽室家から逃げ出したのではないでしょうか。女房に逃げられたとあっては体裁が悪いので、転地ということにした……」
「しかしねえ、嫁いで来て一年そこそこの若い細君が、婚家を乗っ取るために、婚家の家族を一人ずつ呼び出しては殺していくという想定も無理があるなあ」
「牛さんが裕也の細君が一人残っていると言ったんですよ」
「犯人や容疑者としてではなく、羽室家の一員としてまだ残っているという意味なんだ」
「すると、羽室家を狙っている犯人はべつにいて、転地先の細君もこれから狙うかもしれないというんですね」
「これから狙うか、すでに狙ったか……」
「すでに狙ったのであれば、裕也同様、羽室家から捜索願いが出されるでしょう」
「もしかすると、彼女、まだあの屋敷のどこかにいるのではないだろうか」
牛尾はいま辞去して来たばかりの羽室家の方角を振り返った。二階北面の窓が庭樹越しにわずかに見える。牛尾の表情は、先日訪問した際、その窓が光った意味を探っているようである。
「あの屋敷にいる。つまり彼女があの屋敷のどこかに隠れているというんですか」
「監禁されているのかもしれない」
「なんのために彼女を監禁するのですか」
「いまきみが言っただろう。あの家の様子はただごとではないと。彼女は嫁いで来て、家族として溶け込む前に羽室家の秘密を知った。家族の一員としてその秘密を共有できればよかったが、彼女は共有しようとしなかった。それどころか、羽室家の秘密を公にしようとしたのかもしれない。それは羽室家にとって大いに困る。そこで彼女を監禁して、転地したことにした」
「牛さん、私もなんだかそんな気がしてきましたよ」
「先刻、繁子夫人に陰で糸を引いているあいつを徹太郎のことではないかと聞いたとき、彼女の表情が束の間とまどったように見えた。あのとき彼女は虚を衝かれたんじゃないかな。彼女の意識には裕也の嫁さんがいた。だから徹太郎ではないと否定しようとして、彼が来日している事実を知らないことになっている手前、下手に否定すれば、徹太郎と連絡があることを認めてしまう。だからといって、繁子の意識に弓子があることを悟られれば、弓子の行方を追及される。それは繁子にとって都合が悪い。肯定も否定もできない狭間に立たされて、困惑していたようだった。あのとき、弓子は羽室家のどこかに閉じこめられているのではないかと、ふとおもったんだよ」
「しかし、閉じこめられていれば、糸を引けないでしょう」
「そんなことはないさ。外部になんらかの連絡手段を持っていれば、監禁されていても糸を引ける」
「協力者が外にいるということですね」
「まだ憶測の域を出ないがね。入国管理事務所に当たってみよう」
二人は羽室家に対する疑惑を募らせながら、玉川署へ足を伸ばした。
笹岡美津子は羽室家の二階の北面の窓から、点滅信号が絶えたことが気になった。
その後、沖野夫人の協力を得て、何度かその部屋の窓を見張ったが、窓は暗い闇に閉ざされて、一抹の光も漏れてこない。光どころか、その窓の中に人間の気配がまったく感じられない。
考えられることは、発信者が点滅信号を送りたくとも送れないような状態に陥った場合と、発信者がその部屋からべつの場所へ移された場合である。
いずれの場合にしても、弓子の身に危険が迫っているかもしれない。美津子はこれ以上、自分の発見を胸にたたんでおけなくなった。
警察が信じるか、信じないかはべつにして、とにかく遭難信号の一件を警察へ届け出てみることにした。
美津子は羽室家の地域を管轄する玉川署へ赴いた。彼女に応対してくれたのは、永井と名乗った初老の刑事である。
永井は熱心に美津子の話に耳を傾けてくれた。
「それで、あなたは羽室家の窓に遭難信号を、そのとき一度見ただけなのですね」
話し終わった美津子に、永井は確かめた。
「その後、何度も注意して見張っていたのですけれど、そのとき一度だけでした」
「あなたの見まちがえということはありませんか」
「それはありません。点滅信号はそのとき何度も繰り返されて送られてきたので、しっかりとおぼえ込みました」
「それで、あなたはその点滅信号の発信者が弓子さんだと考えているのですね」
「はい。羽室家に訪ねて行っても、弓子に会わせてくれませんし、転地先を聞いても、ただオーストラリアと言うだけでおしえてくれません。弓子の身になにかあったのだとおもいます」
「そうですか。実はですね、あなたが羽室家を訪問して間もなく、同家から捜索願いが出されているのです」
「弓子の捜索願いですか」
「いいえ、あなたの友人のご主人、羽室裕也氏です」
「弓子の旦那さんが……捜索願いを出されたのですか」
「そうです。五月二十五日失踪したまま消息を絶っております。いまだになんの消息もありません」
永井に告げられて、美津子はふと不審におもったことがあった。
羽室裕也はすでに二ヵ月も失踪をつづけている。とすれば、その隣家の沖野夫人が気がついたはずである。
だが彼女は美津子から、隣家になにか変わったことはないかと問われても、裕也の失踪については一言も言わなかった。それとも沖野夫人は気がつかなかったのであろうか。
広い庭をめぐらした屋敷同士である。交際がなければ、隣家の主人の姿を二ヵ月も見かけなくともべつに不審は抱かないであろう。
だが沖野夫人は、明らかに羽室家に関心を抱いていた。弓子とも親しかった様子である。
沖野夫人が羽室裕也の二ヵ月に及ぶ失踪に気がつかなかったとはおもえない。彼女はなぜ美津子にそのことを告げなかったのか。美津子は不審におもったが、永井に告げるのを憚った。
自分のおもわくだけで、協力的な沖野夫人を疑うようなことを言ってはならない。美津子は自分を戒めた。
永井が美津子の話に熱心に耳を傾けてくれたのは、羽室裕也の失踪という下地があったからである。
美津子が羽室家で見かけた点滅信号について、永井に届け出ているとき、牛尾と青柳が彼を訪ねて来た。
二人は署内の少し離れた場所で、永井と美津子の用談がすむのを待っていたが、次第に聞き耳を立て、強い興味を示してきた。
「お話し中ですが、あなたは羽室弓子さんのご友人とおっしゃいましたね」
話し途中で牛尾が立って声をかけてきた。
「はい、そうですけれど」
美津子は視線を永井から牛尾らの方へ転じた。
「永井さん、お話し中失礼します。実は私どももいま、その羽室家から来たところなのです」
牛尾は永井と美津子両人に向かって言った。
「羽室家から。いや、それは奇遇ですね。それで羽室家にはどんなご用件で」
永井が一別以来の挨拶を省いて問うた。
「いま、そのお嬢さんが話しておられた点滅信号にも関わりがあるかもしれません。実はですね、羽室家の家族がその後も二人つづけて失踪している事実が、今日わかりました。捜索願いは出してないそうですが」
「なんですって」
永井と美津子の表情が驚いた。
牛尾は羽室徹太郎の失踪以後、羽室家をマークしたいきさつを伝えた。
「なるほど。そうなると、ますます笹岡さんが羽室家の窓に見たという遭難信号が気になってきますね」
永井がうなずいた。
牛尾が見た窓の光も、その信号だったのである。
「羽室家の家宅捜索はできないでしょうか」
「遭難信号だけでは、捜索令状は取れないでしょう」
永井が答えた。
「家族が相次いで失踪していることは、捜索令状を取る理由にはなりませんか」
「家出をした者の行方を、家の中に探すというわけですね」
永井の目が光った。
美津子も牛尾や青柳と同じ発想をしたのである。
「家族二人、連続の失踪は異常です。捜索令状が下りるかもしれませんよ」
「請求してみましょうか」
永井も乗り気になっている。
「お願いします。私は弓子があの家のどこかに閉じこめられているのではないかとおもいます」
牛尾と青柳は羽室弓子の友人である若い女性が、端倪《たんげい》すべからざる洞察力の持ち主であるのを悟った。
地下室に閉じこめられている弓子には、危険が刻一刻煮つまっている気配が感じ取れた。
この地底に閉じこめられていると、地上の一切の気配から遮断されてなにも伝わって来ない。
換気口からわずかに外界の空気が送り込まれてくるが、空気はそのまま地底に澱《よど》んで動かなくなってしまう。
それでいながら凝縮してくる危険な気配は、本能的に察知できる。
迫りつつある危険を悟っても、弓子は身動きできない。
繁子の恐怖は日毎に募っていった。
なに者かが羽室家全員の抹消を謀っている。一人ずつ家族を消し、羽室家を乗っ取ろうとしているのだ。
次は自分の番かもしれない。あと残されているのは、繁子と一直の二人だけである。自分の番の確率は五〇パーセント。
繁子はその確率から外れて、この家に一人取り残された場合を考えると、恐怖で気が狂いそうになった。
かといって五〇パーセントの確率に当たるのも、なおさら恐い。
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焼却した縁
七月上旬に、いったん明けたとおもった梅雨が、また戻ってきて、連日うっとうしい天候がつづいた。
重苦しい空が頭上を閉塞して、ますます繁子の恐怖を促した。厚い雲に塗り込められた空が次第に下りてきて、頭から身体を圧迫してくるように感じる。
深夜ふと目覚めて、周囲を取り巻く闇に、自分が柩《ひつぎ》に閉じこめられたような恐怖をおぼえて、おもわず悲鳴を上げてしまう。
一人で寝るのが恐いので、最近は一直の部屋に押しかけて、ベッドを並べている。
「かんべんしてくれよ。こっちまで寝不足になってしまうじゃないか」
繁子が悲鳴を上げてはね起きるつど、眠りを妨げられた一直が苦情を言った。
「ねえ、二人でこの家から逃げ出しましょうよ」
繁子が言い出した。
「この家から出て、どこへ行こうと言うんだ」
「あなたと一緒なら、どこでもいいわ」
「冗談じゃないよ。なんの当てもなく、いまさらあんたと駆け落ちなんかする気持ちはないね」
「親に向かってなんという口をきくのよ」
「ふん、親が聞いて呆れるぜ。これ以上がたがた言うんだったら、べつの部屋に寝てくれ。ここはおれの部屋なんだぜ」
「そんなこと言わないでおくれよ。一人では恐くて恐くて、とても眠れないんだから」
「だったら、おとなしく寝ていな」
一直はベッドの上でくるりと背中を向けた。
だが次の夜も同じような繰り返しになる。
「いいかげんにしろ。おれを眠らせない気か。この部屋から出て行け」
一直は怒鳴った。
「私を追い出して、あの女を引っ張り込むつもりなんだろう」
「あの女とはだれのことだ」
一直はどきりとしたような表情になった。
「ふん、私が知らないとでもおもっているのか。おまえが私に隠れて地下室へ通っているのを知っているのよ」
「なにを言うんだ。食べ物を運んで行ってやってるんじゃないか」
「食べ物は私が運んでいるよ。食べ物にかこつけて、なにをやっているかわかったもんじゃない」
「ひがむのもいいかげんにしろよ。あんたがろくに食物を運んで行かないから、義姉さんは干乾しになりかけているんだぜ」
「一食や二食省いても死にはしないよ。あんた、あの女ともうできているんだろう」
「馬鹿なことを言うな」
「裕也や徹三や睦子をどこかへ隠したのも、あんたの仕業だろう。あんたとあの女が組んでやったことじゃないのかい」
「疑心暗鬼もいいところだ。頭がおかしくなったんじゃないのか」
「みんなあいつの差し金なんだ。おまえはあの女に誑《たぶら》かされているんだよ。あの女がこの家へ来てから、ろくなことはない。だから私は最初に反対したんだ。それをみんなが本当の家族が欲しいなどと言い出したもんだから、このざまだよ、あの女は悪魔だ。この家をめちゃめちゃに引き裂いてしまった。私たちが残っている間に、あの女を殺して、この家を出ようよ」
「出たけりゃ、あんた一人で勝手に出な。あんたのような婆あと駆け落ちなんて、ごめんだね」
「まあ、なんてひどいことを」
「身の程を知れと言ってるんだよ。あんた、おれといくつ齢がちがうとおもってるんだ」
「私が手取り足取りしておしえてやったのを忘れたの」
「ああ、そのことが恥ずかしいよ」
「言っていいことと悪いことがあるわよ」
「何度でも言ってやるさ。こんな地獄へ落ち込んだのも、あんたの誘いに乗ったからだ」
「地獄と言ったわね。本当の地獄はどんなものかおもい知らせてやるわ」
繁子は奥歯をきりきりと噛み鳴らした。
その様子に異常をおぼえた一直は、少しひるんで、
「わかったよ。売り言葉に買い言葉で、言いすぎたかもしれない。おたがいに疲れているんだ。とにかく眠ろう」
と繁子をなだめた。
翌日深夜、一直は悪夢にうなされた。
部屋の片隅に真白い紙が積まれている。その紙が上層から一枚一枚落ちてくる。積まれた紙が風にさらわれるように、一枚ずつさらさらと落ちつづける。
だが紙の厚さは少しも変わらないのである。落ちても落ちても紙の厚さは同じである。
凝然として見つめている一直の目の前で、紙の束がいつの間にか砂時計になった。砂がさらさらと落ちている。
だが、中間のくびれたネックを通って砂がいくら落ちつづけても、ネックによって隔てられた上下の脹《ふく》らみにある砂の容積は同じである。
なぜ砂の量が変わらないのか。砂時計の砂が動き、砂の量が変わらないということは、時間が凍結していることを意味している。
おれは凍りついた時間の檻《おり》の囚人になってしまった。逃れようとしても逃れることができない。
一直は恐怖のあまり悲鳴を上げた。だが声帯が麻痺《まひ》して、悲鳴も出ない。
「助けてくれ」
身体も金縛りにあったように動かない。意識だけが悪夢にうなされ、運動神経が眠っているのである。
一直は夢から覚めれば、この恐怖から逃れられることを知っていた。
渾身《こんしん》の力を振り絞って悲鳴を上げた。砂時計が消えて、一直は目が覚めた。全身寝汗にまみれている。
ベッドのかたわらに繁子が立っている。一直の悲鳴に驚いて、覗き込んでいたらしい。
一直の目と繁子の目が出合った。繁子がにたりと笑ったように見えた。一直の寝汗にまみれた全身がぞくりとした。
「なんだ、起きていたのか」
一直は、繁子から受ける不気味な圧迫感をはね除《の》けるように言った。
「悪い夢を見ていたようね」
繁子が言った。
「夢でよかったよ。恐ろしい夢だった」
「夢の方がよかったかもしれなくてよ」
繁子の言葉に不気味な含みがある。
「なにを言いたいのだ」
一直が本能的に危険を悟ったとき、頭上からざぶりと、強烈なにおいを発する液体を浴びせかけられた。
「な、なにをする」
一直は愕然として、ベッドの上にはね起きた。
「ほほ、私のようなお婆さんと駆け落ちはごめんだと言ったわね」
繁子がベッドサイドから部屋の出口に身体を移して、言った。
「やめろ、なにをする気だ」
彼女の全身から吹きつけてくるような凶悪な気配に、一直は怯《おび》えた。
「駆け落ちがいやなら、心中してあげるわよ」
繁子の手許でシュッと石を擦《す》る音がして、火が点じた。
そのとき一直は、自分の身体に浴びせかけられた液体の正体を悟った。
「やめろ。やめてくれ」
一直は悲鳴を上げた。
「あいつにこの家を乗っ取られるくらいなら、いっそのこと燃やしちまった方がましだわよ。どうせ乗っ取った家だものね」
繁子が言った。その面は、もはや正常な人間のものではない。
「おれが悪かった。あなたとどこへでも行く。だからその火を消してくれ」
一直は恐怖に締めつけられながら、必死に哀願した。
「もちろん一緒に行くわよ。あなたと手に手を取って、地獄の底へね」
繁子は嘲笑った。
繁子が点火したライターを一直へ投げつけるのと、一直が繁子に躍りかかったのがほとんど同時である。
一体となってもつれ合った彼らを、火の手が取り巻いた。
一直は凄まじい悲鳴を上げた。だが、そのときは彼自身が効率のよい燃料となって燃え上がった。
「あなたは私のものよ。私一人のものよ」
炎の塊となった一直に、繁子がしがみついて叫んだ。
火の手はたちまち繁子も捕らえて、一塊の燃料と化した。
一直は繁子をしがみつかせたまま、燃える部屋から廊下へ転がり出た。
一直の部屋に閉じこめられていた火の手は、ドアを開かれ、新たな酸素を補給されて、小規模な爆燃現象《フラツシユオーバー》を起こして、一挙に廊下へ燃え広がった。
弓子は空気に、ふと異様なにおいを嗅《か》いだ。
地底に澱《よど》んで死んだような空気であるが、その底に、いつもの黴《かび》くさいにおいとは異なった異臭が含まれているようである。
「なんのにおいかしら」
かすかなにおいであるが、凶悪な気配を帯びている。
異臭は換気口からではなく、地下室と階段を隔てるドアの隙間から忍び込んで来るようである。
異臭は速やかに濃厚になってくる。
階段から漏れて来るということは、異臭の源は、階段の上の屋内にあるということである。
「これはなにかが燃えているにおいだわ」
弓子はぎょっとなった。
地下室まで異臭が這い下りてくるのは、屋内が燃えていることを示す。
「大変」
全身の血が凍りついた。家が火事になっている。
地下室に閉じこめられている弓子は、逃げるに逃げられない。換気扇はまわっているが、いつ止まるかわからない。
換気扇が生きていたとしても、洪水のように殺到する煙りを防ぎ切れないだろう。
耐火性の地下室が火の手を防いだとしても、弓子と胎児は煙りで窒息し、加熱で蒸し焼きにされてしまう。
異臭は濃厚となり、薄い煙りの筋がドアの隙間から流れ込んで来た。
弓子は恐怖のあまり発狂しそうになった。
「助けて。ここから出して」
弓子はドアを必死に叩いた。
だが、だれも助けに来てくれるはずがない。屋内にいるはずの繁子も一直も、弓子を置き去りにしたまま避難してしまったようである。
「こんな所で死にたくない」
弓子は絶望的に地下室を見まわした。どこにも脱出口はない。逃げられるものなら、とうに逃げ出しているはずである。
室内の空気が明らかに熱くなっている。換気扇は健気《けなげ》に動いているが、流れ込む煙りは濃くなる一方である。
「こんな所で、こんな所で」
無意識のうちに目尻から涙が頬へしたたり落ちた。濡れた頬がたちまち乾いていく。息苦しくなってきた。
胎児も苦しいのか、激しく胎動している。
廊下へ押し出した火の手は、速やかに版図を広げて行った。
廊下を動脈にして居室、応接室、食堂、各小部屋に万遍なく炎の触手を伸ばして、さらに新たな燃料を求めて階段を這い上った。
敏捷《びんしよう》な炎の触手に捕らわれた一直と繁子は、逃げ場を失った。
身体を焙《あぶ》り立てる加熱に逆上した一直は、地下室の階段の前に追いつめられて、地下へ逃げようと計った。地下室なら耐火性である。
ドアを開いて階段を駆け降りた後から、しがみついた繁子と炎の先が追って来た。
だれかが階段を駆け降りる気配がして、ドアがいきなり開かれた。火だるまになった一直と繁子が転がり込んで来た。
弓子は一瞬ぎょっとなったものの、自衛本能がこのときを措《お》いて脱出のチャンスはないとおしえた。
階段を炎の先兵が這い下りて来ているが、地下室で蒸し焼きにされるよりは、炎の中に飛び込んだ方がましだとおもった。
弓子は一直と繁子と入れ替わりに地下室を出た。彼女が出た後で、二人は中から地下室のドアを閉じた。
ドアが閉じられたために、炎の先兵は束の間進路を見失ってたじろいだ。その隙を衝いて、弓子は階段を駆け上った。
身体が重かったが、下腹部を庇っている余裕はない。
廊下にすでに火の手はまわっていたが、ガソリンを浴びせかけられた一直とちがって、弓子自身の身体はまだ火に捕まっていない。火の手の間に逃路を見分ける余裕があった。
一直の逆上が、弓子に逃路を開いてくれた形である。
玉川署において永井と牛尾らが、羽室家の捜索令状請求を検討したその日の夜、管内に火災発生の報告が入った。
当夜、宿直で署内に泊まり込んでいた永井は、
「火事はどの方角だ」
と署員に問うた。
署員が告げた町域は、羽室家のある地域である。永井の胸に不吉な予感が走った。
まだ第一報で、正確な火災発生場所がわからない。
第二報が届いた。永井の不吉な予感が的中した。
「しまった」
永井はうめいた。
彼はこの火災が、今日、牛尾から聞いた羽室家の家族の連続失踪事件と関わりがあることを確信した。
「いかん。羽室弓子が家の中に閉じこめられているかもしれない」
永井は今日、署を訪れて来た牛尾の推理をおもいだした。
牛尾によれば、羽室弓子が羽室家のどこかに監禁されているかもしれないということである。永井は牛尾の推理を支持している。
彼の推理を笹岡美津子が裏づけている。遭難信号の発信者は確かめられていないが、少なくともその発信者は邸内にいる。
外部との連絡手段を持たないので、そのような点滅信号を送ってきたのであろう。
永井は直ちに牛尾の自宅に電話した。宿直でなければ、この時間、牛尾は自宅へ帰っているはずである。
牛尾が電話口に応えた。床に入っていたはずであるが、声に寝起きの濁りがないのは、さすがである。
「ああ。牛尾さんですか。よかった。羽室家が火事です。私はこれからすぐに現場へ行きます」
永井は告げた。
「羽室家が! 私もこれから行きます」
牛尾は電話口で驚愕したようであるが、打てば響くように応じた。
永井からの電話で寝入りばなを叩き起こされた牛尾は、眠気が吹っ飛んだ。
羽室家の火事。犯人の放火にちがいない。牛尾は咄嗟《とつさ》におもった。
寝床からはね起きて身支度をしていると、隣りの寝床から妻の澄枝が起き出してきて、
「事件ですか」
と問うた。
「きみは寝ていなさい」
「大変ですわね」
「すぐに帰って来るよ」
牛尾が妻を慰めるように言ったが、歴史の長い夫婦の間では、それが単なる気休めにすぎないのをとうに察知している。
「お気をつけになって」
澄枝が言った。
どんなに夫婦の生活史を積み重ねても、深夜、時ならぬ時間に飛び出して行く夫を見送る妻の胸は、不安でいっぱいなのである。
牛尾は妻の目を背中に感じながら、家を飛び出した。
髪がちりちりと焼けた。衣服がぶすぶすとくすぶり始めていた。
弓子が廊下を伝い、玄関から庭へ飛び出したとき、家の奥の方でなにかが爆発した。
天井が焼け落ちたのかもしれない。際どいところであった。
消防車のサイレンが接近しているが、まだ現場に到着している消防車は見えない。野次馬がわらわらと駆け集まって来る気配がする。
「奥さん、ご無事だったのですか」
声の方角に目を向けると、隣家の沖野夫人が立っていた。弓子は、地獄で仏に会ったような気がした。
「こちらへ。風向きが逆なので、うちの方には火がまわってきません」
沖野夫人に手を引かれて、弓子は沖野家へ連れ込まれた。
その間に野次馬が駆け集まり、一番乗りの消防車が到着した。
「奥さん、転地されたとうかがっていましたが、お宅におられたのですね」
沖野夫人が冷たい飲物を差し出しながら言った。
弓子はそれに答える間もなく、無我夢中で飲物を喉へ流し込んだ。
炎に焙《あぶ》り立てられ、全身がくすぶっているような状態のときに、一気に流し込んだ冷たい飲物は、弓子を生き還《かえ》らせた。
「とにかくよかったわ、ご無事で」
沖野夫人は深く問わなかった。
消防車が次々に駆けつけて消火活動を始めている。沖野家の庭にも消防士が入り込んで来ている。
人心地ついて、弓子はどっと疲労が発した。死の淵から生還して、張りつめていた緊張の糸が切れた。弓子はそのまま深い昏睡《こんすい》に陥った。
目覚めたとき、目の前に笹岡美津子の顔があった。
「お早よう」
美津子の顔が笑いかけた。
だが弓子には目の前の美津子が、夢か現《うつつ》か判然としない。
「それともおそようと言おうかな。よく眠ったわね。いまは午後四時、十二時間以上眠っていたわ。あまりよく眠っているので、このまま目が覚めないのではないかと心配したわよ」
笑いかけた美津子の顔が、ようやく現実のものであることを確かめた。
「ここはどこなの」
「病院よ。お隣りの家で意識を失って、救急車で病院へ運び込まれたの。よかったわ、無事で」
「お腹の子は無事かしら」
意識を回復すると同時に、弓子は胎児の安否が気になった。
「大丈夫よ。母子共に無事だわ」
美津子がうなずいた。
「やあ、気がつかれたようですね。いろいろとおうかがいしたいことがあります」
美津子の背後から、見馴れぬ二人の男が笑いかけた。
弓子は彼らが名乗る前から、その素性を悟った。
警察と消防の事情聴取を受けた後、弓子はしばらく笹岡美津子の家に寄留して、心身を休めることにした。
「ひどい目に遭《あ》ったわね。焼け跡の地下室から羽室繁子と一直の焼死体が発見されたそうよ」
美津子がおしえてくれた。
「あの二人が地下室へ逃げ込んで来てくれなかったら、私が代わりに発見されるところだったわ」
弓子はむごたらしい自分の死体を想像して、青ざめた。
「弓子は運が強いのよ。この事件を踏み台にして、きっと大きな幸福をつかむわ」
「ひどい家にお嫁に行っちゃったわね」
「羽室家の家族は三人が失踪して、二人が焼け死んで、弓子以外だれもいなくなってしまったのね」
「私はあの化け物一家の家族ではないわ」
「でも、法律的には弓子があの家のただ一人の生き残りなのよ。お腹の子供は羽室家の血を引いているわ」
「お腹の子は私一人の子よ」
弓子は言い張った。
だが羽室家の家族の失踪が確定すれば、弓子と胎児が羽室家の相続人となる。
家は全焼したが、土地だけでも相当な資産である。
「危うく死にかけたんですもの、相続権がなくとも、慰謝料にもらって当然だわよ。羽室家の遺産で一日も早く、新たな人生のスタートを切るのよ」
美津子が励ますように言った。
「そうするわ」
「それにしても、失踪した三人はどこへ行ってしまったのかしら」
美津子は釈然としない表情で言った。
「三人じゃないわ。ブラジルから来た羽室徹太郎を含めて四人だわよ」
「そうだったわね。それから弓子の仲人を轢き逃げした犯人もまだ捕まっていないんでしょう」
「あの事故も羽室家が糸を引いているような気がして仕方がないのよ」
「とにかく、忘れることね。弓子はまだ若いわ。これからいくらでも人生をやり直せるわよ」
美津子は自分も同年輩のくせに、分別くさい顔をして言った。
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新たなる香り
鎮火後、現場検証が終わり、羽室家は廃墟となった。
火事の後、羽室家の近隣に奇妙な噂が立った。
深夜、羽室家の廃墟の庭に青い火が揺れているのが見えたというのである。火は一つだけではなく、庭の各所に見えるという。
蒸し暑い、雲の厚い暗い夜に、青い火は現われるようであった。
噂にたちまち尾ひれがつき、焼け死んだ家族が呼びかける声を聞いたという者が現われた。
羽室家の周囲は闇が落ちると同時に、通行人の姿がばったりと絶えた。
火事の後間もなく、沖野家が気味が悪いと言い出して移転して行った。移転先はだれも知らない。
沖野家が移転して数日後、当分美津子の家に身を寄せている弓子の許へ一通の手紙が配達された。差出人は繊細な手跡で、沖野優子としたためてある。
「まあ、沖野さんの奥さん」
意外な人からの手紙に、弓子は少し胸を弾ませて封を切った。
数枚の便箋に美しい筆跡で、次のような文面がしたためられてあった。
「突然お手紙を差し上げる失礼をお許しください。あなたが当分の間笹岡さんのお宅にいらっしゃることは、笹岡さんから聞きました。その後お元気を回復されましたか。病院の先生から、母子共に無事とうかがって、ほっと胸をなで下ろしました。本当に大変な目に遭われましたね。
でも、あなたをそのようなひどい目に遭わせた責任の一端は、私たちにもあります。いまさらお詫び申し上げてもどうにもなりませんが、私たちのやむにやまれなかった事情をお報せして、奥様のお許しを乞いたいと存じます。
あなたが嫁いで来られた羽室家の家族たちは、本当の羽室家の人たちではありません。彼らはいずれもべつの名前と正体を持った悪人たちで、羽室家の人たちを一人一人、この世から消して、羽室家を乗っ取ったのです。そのために係累が少なく、資産の多い羽室家が選ばれたのです。羽室家の家族を一人ずつこの世から消した後、彼らは整形手術を施して、羽室家の人間になり澄ましました。彼らの前身は悪人仲間で、重ねた悪行の報いを逃れるために前身を消して、羽室家の人間に変身したのです。彼らは悪業を重ねて逃げまわるのに疲れて、家庭の中で落ち着きたかったのです。
私たち沖野家の者は、いずれも羽室家のニセ家族が、それぞれ過去に犯した犯罪による被害者の肉親です。いずれも父や母やきょうだいや子を、羽室家のニセ家人によって殺されたり、破滅させられたりした被害者の骨肉です。私たちは彼らを法の裁きに委ねることができず、被害者の会を結成して、自分たち自身の手で彼らに報復することを決意しました。その目的のために被害者から残された財産を持ち寄り、沖野という報復のための一家をつくり上げたのです。
ニセ羽室家があなたに白羽の矢を立てたのは、偶発の事故とはいえ、ニセの羽室裕也が椎葉道夫さんを轢いたのがきっかけです。あなたの身上を探ると、少ない係累は遠方の郷里に隔てられ、あなたは東京で独り暮らしをしていることがわかりました。これはニセ裕也自身の口から聞き出したことです。
福井正次氏を轢き逃げしたのも、裕也です。奥様が羽室家の家族に疑惑を抱き、福井氏に相談をしに行くのを恐れたからです。福井氏は羽室家が乗っ取られる以前の徹三氏の古い知り合いでした。乗っ取られた後、その事実に気づかず、奥様と裕也の仲人を務めましたが、その後羽室家の正体に疑惑を抱き始めたらしく、ニセ羽室家が先手を取って、彼の口を封じたのです。
またブラジルから帰国して来た羽室徹太郎氏を殺害したのは、羽室一家です。彼らは徹太郎氏によって、ニセ家族の正体が露見するのを恐れたのです。
私たちがニセの裕也、徹三、睦子と次々と報復を加えた後、繁子と一直は自滅しました。失踪した三人の死体は、羽室家の庭に埋めてあります。また彼らが羽室家を乗っ取るために殺害した羽室家の本当の家人の死体も、羽室家の庭に眠っているはずです。ニセの裕也を問いつめて、そのことを聞き出しました。羽室徹太郎氏の死体は奥多摩の山中に埋めたそうです。私たちは羽室家の前の家人の霊に供えるために、彼ら三人の死体を羽室家の庭に埋めました。平和で幸せな家庭を悪人たちに乗っ取られ、家族みな殺しにあった羽室家の人たちの霊を慰めるこれ以上の供養はないとおもったからです。
私たちは目的を果たしました。被害者の報復のために、一時的に集まった仮の家族の役目は終わりました。私たちは沖野家を解散して、元の他人へ戻ることにしたのです。一度は夫婦、親子、姉弟として慈しみ合った家族が、どこかで再会しても、たがいに知らぬ顔をしようと約束して別れました。
私にとって唯一の心残りは、奥様です。たとえ羽室家を乗っ取ったニセ家族の許に嫁いで来たとしても、奥様にとっては本当の家族だったはずです。それを私たちの復讐のために奥様の家族を殺し、その家庭を破壊してしまったのです。どんなにお詫びしても許されることではありませんが、私たちのやむにやまれなかった、こうする以外に方法のなかった事情を打ち明けて、お許しを乞いたいとおもいます。
もう二度とお会いすることはございますまい。またお会いしたとしても、奥様には私たちがわからないでしょう。なぜなら、沖野家の家族としての私たちも、すべて整形して顔を変えており、再手術を施して元の顔へ戻ったからです。
短いおつき合いでしたが、本当に有り難うございました。奥様が一日も早く立ち直られ、お幸せをつかむように祈念しております。かしこ 沖野優子(仮名)」
手紙を読み終った弓子は、呆然とした。一読しただけでは信じられなかった。世の中にこのようなことがあったのか。
だが、いまにして沖野夫人が弓子に示した好意は、彼女の贖罪《しよくざい》の表われであったとおもいあたる。
弓子は沖野優子の手紙を笹岡美津子に見せた。美津子も驚きの色を隠さなかった。
「信じられないような手紙ね」
「私も。でも、いまにしておもいあたることがたくさんあるわ」
「そういえば、私が弓子の点滅信号を見たとき、沖野夫人は私の話を信じてくれて、協力してくださったわ」
「復讐のために仮の家族をつくったというのは、よほど深い怨みだったのでしょうね」
「それにしてもわからないことがあるわ」
「わからないことって、なに」
「羽室家の人たちは、羽室家の本当の家族を殺して、羽室家を乗っ取ったのでしょう。だったら、どうして弓子を家族の嫁として迎え入れたのかしら。それは危険を招き入れる以外のなにものでもないとおもうけど。現に弓子は疑いを抱いて、外へ信号を送って刑事を呼び寄せてしまったじゃないの」
「それについてはおもいあたることがあるわ。あの人たち、本当の家族になりたかったのよ」
「本当の家族に?」
「美津子が結婚後初めて羽室家を訪れたとき、嘘っぽいと言ったでしょう。あの人たちは前身の鎖を断ち切るために、羽室家の人間に変身したけれど、どんなに完璧な演技をしても、ニセの家族はどこまで行ってもニセなのよ。本物になりきれないわ。そこで外から一家の嫁を迎え入れ、本当の家族を築き上げようとしたのかもしれないわ。少なくとも私は一時、裕也の本当の妻であり、生まれてくる子供は裕也の血を引いているものね」
弓子は徹三と繁子が言い争ったとき、繁子の漏らした言葉をおもいだした。繁子は、弓子が「羽室家の跡取りを妊っている」と言った。
彼らは家族ごっこに疲れて、弓子を礎《いしずえ》にして本当の家族を築き上げようとしたのであろうか。
「そうかもしれないわね。それにしても悪い前身を断ち切るために偽りの家族の仮面を被り、被害者の報復を目的として仮の家族を結成したどちらの家族も悲しいわね」
「家族ってなにかしら」
「社会を構成する最小の単位かもしれないけれど、家族でもいつかは別れなければならないわ。みんな死ぬときは一人なのよ。だったら、初めから終わりまで一人の方が気が楽かもしれないな」
「そんなこと言って、いい人がいるんじゃないの」
弓子は中絶をおもいたったとき、美津子から配偶者の同意について入れ知恵してもらったことをおもいだした。
「さあ、どうかしらね」
美津子は曖昧に笑った。
弓子が提供した沖野優子の手紙に基づいて、羽室家の庭の捜索があらためて行なわれた。
そして、庭の地中から、死後数年と推定される五体の白骨遺体と、死後一、二ヵ月と目される三体の死体が掘り出された。
さらに人間の死体に加えて、庭の一隅から、半ば白骨化した猫の死体が発見された。
警察が沖野家の家族の行方を追ったが、家人は住民登録もしておらず、家は家主から借りたものであった。
家主は不動産屋の仲介で貸しただけで、同家の家族の身許については、なにも知らなかった。
不動産屋も、作家という沖野家の主の申し立てを信じて仲介したという。
羽室家の隣家も、羽室家の消滅と共に解散して、その家族はまったく別人に還ってしまったのである。
三年後、弓子は勧める人があって再婚した。
事件後、無事に出産した子は賢一《けんいち》と名づけて、すでに三歳になっていた。
新しい夫も一度離婚の経験があって、四歳の女の子がいる。
大家族の長男で、両親も健在である。夫の姉はすでに嫁いでいたが、就職している弟と妹が同居していた。
前の羽室家と異なり、まことにあけすけな家庭であった。
案じていた賢一と、新しい夫の子供もたちまち仲良くなって、本当の姉弟のように遊んでいる。
結婚後、婚家に呼んだ美津子も、これが本当の家族よと太鼓判を押した。
美津子もすでに結婚していた。
「もう二度と結婚すまいとおもっていたけれど、やっぱり女一人では駄目ね。尽くすべき人がいないと、なんだか虚しくて」
弓子は美津子と二人きりになったとき言った。
「あら、もうおのろけ。ご馳走さま」
「そういう美津子も、旦那様に尽くすのが生き甲斐と、顔に描いてあるわよ」
「こら、言ったな」
二人が小声で言い合っていると、弓子の新しい夫が近づいて来た。
弓子は新しい家庭で、新しい家族に囲まれて幸せであった。
夫の両親は弓子の前も憚らず、凄まじい夫婦喧嘩をした。罵り合い、はては取っ組み合い、物が飛んだ。
そんな喧嘩の後けろりとして、二人で肩を並べてテレビを見ている。親子喧嘩、きょうだい喧嘩は日常茶飯事である。
弓子は彼らの喧嘩のあまりの激しさに、彼らがほとんど憎み合っているのではないかと疑った。
だが、喧嘩の後は台風一過の晴天のように、家族で団欒《だんらん》した。
賢一もそのような家風の中で、義姉と喧嘩をしながらたくましくなっていった。
「これが本当の家族なんだわ」
弓子自身、夫と夫婦喧嘩を繰り返しながら、新しい家庭の中に根を下ろしていった。
もう椎葉の幻影を見ることもなくなった。
結婚して約一年目のある深夜、弓子はふと肩の辺りにうそ寒さをおぼえて目を覚ました。
かたわらの夫の寝床が空になっている。手洗いにでも立ったのかと夢うつつのうちにおもいながら、ふたたび眠りにつこうとしたとき、寝室の空気が動いて、夫が帰って来た。
そのとき弓子は、動いた空気の中に、自分の使っていない香水の香りを嗅いだ。それは彼女の義妹が愛用している香りであった。
角川ホラー文庫『ファミリー』平成5年4月24日初版発行
平成11年6月20日23版発行