森本哲郎
読書の旅 愛書家に捧ぐ
まえがき
一八五〇年の夏、イギリスの考古学者ヘンリー・レイヤードはイラク北部、チグリス河畔の町モースルの対岸にあるクユンジクの丘を掘っていた。レイヤードはこのときまでに、すでにアッシリアのニムルドやコルサバードの宮殿を掘り出しており、シュリーマンと並ぶ幸運な考古学者と目されていた。その彼に、さらに大きな幸運がおとずれたのである。レイヤードは、なんと、アッシリア王アッシュルバニパルの図書館を掘り当てたのだ!
それはおそらくオリエント世界最大の図書館ともいえるものだった。そこに収められていた蔵書≠ヘ、じつに三万巻に及んだ。アッシリア学の基礎は、これによって築かれたのである。
アッシリアというと、私たちの胸に浮かぶのは好戦的で非情、残忍な民族のイメージである。たしかに代々のアッシリア王は、情容赦なかった。征服した国々の民を遠い地域へ強制的に移住させ、反抗する者があれば耳をそぎ、目をくりぬき、荒野に放り出した。しかも、そうした残虐な行為を、王自身が宮殿の壁面に描かせ、その戦果を誇示しているのである。
だが、アッシリア末期の王、アッシュルバニパルは、それまでの歴代の王とはいささか性格を異にしていた。むろん彼も戦争に明け暮れ、前王の遺志をついでエジプトを攻め、テーベの都を完膚なきまでに叩きつぶした。けれども彼は、他方では平和な生活を夢み、自分たちの歴史に深い関心を抱き、そしてたいへんな読書家≠ナもあった。彼は戦禍によって散失してしまった各地の書物――といっても、それは粘土板に楔形《くさびがた》文字で記された書物≠ネのであるが――を組織的に集め、一大図書館をつくろうとしたのである。王は役人に命じ、ありとあらゆる粘土板を収集させ、破損したものは新たに写し直させた。こうして彼は王宮のなかに見事な文書館を完成させたのだ。レイヤードが掘り当てたのはその王立図書館であった。
人間はいつごろから本を読み始めたのだろうか。文字が考案され、その文字が粘土板やパピルスに記されるようになって以来であろう。とすれば、人間の読書≠フ歴史は遠く古代オリエントに始まるといってもよかろう。いや、それよりはるか以前の洞窟絵画も、何らかの意味をつたえるものであり、人間がそれぞれに何らかの意味をそれから|読み取った《ヽヽヽヽヽ》のだとすれば、その歴史はさらにさかのぼる。だが、最初の読書人、いや、愛書家というなら、アッシリアの王、アッシュルバニパルはその第一人者といえるのではあるまいか。なぜなら、彼はその図書館を「自分の読書のために」つくったというのであるから。そして、その書物≠フなかには哲学や文学、詩歌、また数学や天文学までがふくまれていた。
ときどき私は、最も人間的な行為とは「読む」ということではないか−−と思う。人間とは「読む動物」ではなかろうか、と。読むという作業は、なにも本を読むことだけに限られるわけではない。人間は何でも読むことができるのだ。たとえば私たちは毎日、周囲の人びとの顔を|読んで《ヽヽヽ》暮らしている。ちょっと眉を寄せただけで、あるいは、ちょっと目を閉じただけで、あるいは、ほんのすこし口をゆがめただけで、私たちは相手の気持を|読み《ヽヽ》とり、それに共感したり、反発したりしながら日常の世界をつくりあげているのである。人間の顔は、いくら読んでも読みつくせないすばらしい書物ではないか。そう、人間は一冊の書物なのである。人間が読むことを学ぶのは人間からであり、そして生涯読みつづけるのは人間そのものなのだ。
そして、世界もまた一冊の書物である。真の読書というのは、けっきょくは世界という書物を読み、人間という本を読むことである。私の読書の旅の目的地も、じつはそこにある。
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目 次
香爐峯の雪
万里の道、万巻の書
『死者の書』の奇跡
書物曼荼羅
ウェストコーストとカルカッタ
開け、ゴマ!
一冊の本
天・地・人
知のカタログ
樽金王の教訓
十頭の牛
書物の運命
世界最大の読書家
浪漫的読書術
落花流水
赤いエンピツ
哲学書の効用
遅読術
書店繁昌記
愛書家に捧ぐ
あとがき
書名案内
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香爐峯の雪
本を読む愉しみ
人生において最も愉しいひとときは――と問われたなら、私は何と答えるだろう。あれこれ考えたすえ、やはり、本を読むとき、というだろう。
というと、私はいかにも読書家のようだが、じつはその反対である。読もう、読もう、と思いながら、なかなか本が読めないでいる怠惰な人間なのだ。というのは、べつに忙しいからではなく、本を読むに際しての私なりの条件がむずかしいからである。
これには――何も責任をひとに押しつけるつもりはないが――『徒然草』の筆者に、いささかの責任がある。兼好法師はこう書いているのだ。
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ひとり灯《ともしび》のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなうなぐさむわざなる。
文は、文選《もんぜん》のあはれなる巻々《まきまき》、白氏文集《はくしのもんじふ》、老子のことば、南華《なんくわ》の篇《へん》。この国の博士《はかせ》どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなる事|多《おほ》かり。(第十三段)
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中学生のころ、この一文を国語の教科書で読まされて以来、私は書物というのはこのようにして読むものだと思いこんでしまったのである。つまり、「ひとり灯《ともしび》のもとに文をひろげて」である。そうでなければ、とても「見ぬ世の人を友とする」ことはできない、だから電車のなかとか、歯医者の待合室とか、喫茶店などで本は読むべきではない、と。
しかし、そうはいっても現代の都会生活では「ひとり灯のもとに文をひろげる」機会はなかなか持てない。ひろげてみても、すぐそばでテレビが面白そうな番組を放映しているし、電話もかかってくる。卓上には刺激的な週刊誌や月刊誌の表紙が笑っている。どうも気の散ることが多いのだ。それでつい本を開けずにいるのであるが、しかし、負け惜しみをいうわけではないが、読書を愉しむには、かえってそのほうがいいのではあるまいか。ひまさえあれば本を読み、本以外に目もくれないでいると、つい本の有難味を忘れる。そんなふうに本を読むことが日常化し、習慣化してしまうと、あらためて「こよなうなぐさむ」こともなくなろう。
ところが、なかなか本が読めないとなると、本に対する想いはつのる一方で、いい加減がまんがしきれなくなったときに、一夜、ひまを得て「ひとり灯のもとに文をひろげ」、久しぶりに「見ぬ世の人を友とする」ときのうれしさといったらない。これこそが読書の「こよなき」愉しみだと私は思うのだ。
『白氏文集』を求めて
さて、ひとり灯のもとに文をひろげて、兼好は何を読んでいたのか。「文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇」といった書物である。いずれも中国の書物で、『文選』というのは、この国最古の詩文集、周から梁までの約千年にわたる文人の作品を集めたものだ。『白氏文集』とは中唐の詩人白居易(楽天)がみずから編んだ七十五巻に及ぶ詩文集。老子のことばとは老子の残した五千余言を記した上下二篇の書物、そして「南華の篇」とは、『荘子』のことである。
なかでも前二者は、清少納言が「書《ふみ》は文集《もんじふ》、文選《もんぜん》」と『枕草子』に記して以来、兼好のころ、いや、江戸時代に至るまで、日本の文人たちがこの上なく愛好した書物だった。となれば、六百五十年前、心細い灯をたよりに、ひとり静かに兼好が読みふけってこよなき慰めを見出していた『文選』や『文集』を、せめて二、三ページでも繰ってみたくなるのが人情である。さいわい現代は――映像文化、マンガ文化に押され気味とはいえ――活字文化全盛の時代である。兼好のころには筆写してようやく手にした書物も、現代ではたちどころに買い求めることができる。しかも、むずかしい漢文も親切に全訳が添えられていて苦労することもない。
で、私もひとつ『白氏文集』を灯のもとにひろげてみようと思った。故人ヲ求メズ、故人ノ求メシトコロヲ求メようというわけだ。ところが、である。これほど書物が氾濫しているというのに、平安朝以来、千年にわたって日本で愛読されつづけてきたという『白氏文集』が、どこをどうさがしても見当たらないのである。『文選』はある。『老子』も『荘子』も、ていねいな訳や解説がつけられて何種類も活字本になっている。だが、かんじんの『文集』だけは刊行されていない。なぜなのだろう。
もっとも、白楽天の詩は何点か訳とともに出ている。いささか手に入りにくいが、全詩を収めた佐久節訳による『白楽天詩集』(全四巻・続国訳漢文大成・文学部第十巻〜十三巻)も昭和初年に出版され、最近ではその翻刻版も出ている。けれども、作者みずからがまとめた詩文集である『白氏文集』は、どういうわけか活字本になっていないのだ。この『文集』はもともと七十五巻あったのだが、のちに四巻を失って、現存するのは七十一巻ということである。しかも、それは後代の編で、考証や校訂がむずかしいのかもしれない。しかし兼好法師が、「ひとり灯《ともしび》のもとに」ひもといていたのも、清少納言がこっそりと読みふけったのも、べつに定本≠ネどではなく、伝本、写本にすぎなかったのだろうから、活字文化を大いに享受している現代のわれわれが、それを活字で読めないというのでは、あまりに情けない話ではないか。
そんなわけで、私は兼好のまねをして、灯のもとで『文集』を開き、「こよなうなぐさむ」つもりだったのであるが、それがとうとう見果てぬ夢になってしまった。そうなると『文集』に寄せる想いはいよいよつのってくる。私は毎日、白楽天にうなされていた。
と、ある日、神田の古本屋のウィンドーに前記の『白楽天詩集』全四巻をふくむ『続国訳漢文大成』が積みあげられているのが目に入った。私はさっそく店にとびこんで値段をきいてみた。それは私のふところぐあいでは、とうてい気軽に買えるような金額ではなかったが、私はあとさきを見ずに買い込んだ。とうぶん続くであろう窮乏状態を考えると少なからず憂鬱になったが、これで夢を買ったのだと思うと憂鬱はけしとんだ。私は鼻唄をうたいながら腕が抜けそうに重い全二十四巻を車のトランクに入れて家に帰った。
だが、夢はまだ半分でしかなかった。というのは、それは白楽天の全詩集ではあっても、『白氏文集』そのものではなかったからである。半分の夢がまだ私の心の隅にひっかかっていた。すると、何というめぐり合わせだろう! 十日もたたぬうちに、私は『白氏文集』に出会ったのだ。それは東京のあるデパートで催された古書展の目録のなかだった。部厚い目録の和刻漢籍の項目のなかに、『白氏文集』が二種類も並んでいたのである。そのひとつは古い版で明暦頃刊とあり、虫入とあるが値段はとびきり安い。だが、もうひとつのほうは後刷《あとずり》だが、きれいな本とみえて値はぐんと張っていた。
私はさっそく、そのとびきり安い虫入り本に予約を申しこんだ。とうぜんの話ではあるが、私とおなじように、この書物を求めている人は多かった。予約する人が何人もいると抽籤《ちゆうせん》になる。その夜、私はなかなか寝つけなかった。そして翌朝、開店と同時に電話でたしかめてみると――案じていたとおり、私は抽籤に洩れていた。
「だめでしたかあ……」と、私はかすれた声で失意の情をつげた。すると、『文集』を出品した書店の主人がなぐさめるように、「でも、もうひとつの高いほうは残ってますよ」といった。「え、ほんとですか! じゃ、それ、とっておいてください。これからすぐに行きますから」と、私はこんどはうわずった声でそういい、デパートへ飛んで行った。こうして私は和とじ本の『白氏文集』を手に入れ、とうとう夢を成就したのである。
いうまでもないことだが、私の財政はいっそう窮乏の度を加えた。だが、本は金に代えられない。私は『白氏文集』(全二十冊)を両手にぶらさげ――それは和とじ本なので冊数のわりには意外に軽かった――ローマの王さまのような気分で家に帰った。
本の値段
本は金に代えられない――と私はいったが、まさしくそうなのである。本が金にかえられないことを最初に思い知らされたのはローマの王さまだった。その話は夏目漱石の『吾輩は猫である』に出てくる。こういうくだりである。
読みもしないのに、むやみやたらと本を買ってくる苦沙弥《くしやみ》先生に細君が文句をいうと、苦沙弥先生は細君に向かって、「貴様は学者の妻《さい》にも似合はん、毫《がう》も書籍《しよじやく》の価値を解して居《を》らん、昔《むか》し羅馬《ローマ》に斯《か》う云《い》ふ話がある。後学の為《た》め聞いて置け」といって、こんな話をする。それを細君が迷亭に話してきかせるのである。
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――むかし、ローマに樽金《たるきん》とかいう王様がいて、その王様のところへ一人の女が本を九冊持ってきて、お買いなさいとすすめた。値段をきくと、たいへん高いことをいうので、負けないかと値切った。するとその女はいきなり九冊のうちの三冊を火の中に放りこんで燃してしまった。王様はその本が欲しかったので、残りの六冊を買おうと思い、いくらかときき直すと、同じ値段だと女は答えた。そりゃひどいじゃないか、と王様がいうと、女はまたそのうちの三冊を火の中に投じて燃やしてしまった。それでも……。
――王様はまだ未練があつたと見えて、余つた三冊をいくらで売ると聞くと、矢張り九冊分のねだんを呉《く》れと云ふさうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘《いちりん》も引かない、それを引かせ様《やう》とすると、残つてる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとう/\高い御金《おかね》を出して焚《や》け余《あま》りの三冊を買つたんですつて……。
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苦沙弥先生はこの話を細君にして、どうだ、これで少しは書物の有難味がわかったろう、といったのだが、細君のほうは、「私にや何が難有《ありがた》いんだか、まあ分りませんね」と迷亭にうかがいを立てている。
たしかに九冊の本が六冊に減っても、三冊になってしまっても、値段がおなじというのはおかしな話のように思える。だが、その女が頑として譲らなかったのは、本というものは金銭に換算できない、ということを示したかったからなのではあるまいか。
じっさい、そうではないか。本のよしあしは値段とはあまり関係がないのだ。普通の商品ならば値段につれて、その品の価値はふえていく。ところが本という商品だけは、価値が値段に比例するということがない。そのいい例が文庫本だろう。わずか二百円、三百円の文庫本が、二万円、三万円の本よりもずっと価値があるというようなことはざらにある。東西の古典、古今の名作が、わずか二、三百円で読めるということは、本の内容というものが金には単純に換算できないということを、何よりも雄弁に語っている。文庫本というのは樽金《たるきん》王のこの話と対照的な形で、本の有難味を見事に証明してみせたといってもよろしい。それは書物というものが――げんみつにいうなら書物に書かれた内容が――金銭を超越したものであることの何よりの証拠なのである。
ところで、その樽金王であるが、この王はローマ七代目の王、そして最後の王タルクイニウスである。最後の王というのは、この王をもって王制は終わり、ローマは共和制に移るからである。彼はスペルブス(驕慢王)と呼ばれ、エトルリアの血を引く王だったが、ローマの王位につくやエトルリアを攻め、ローマの版図をかなりひろげた。が、やがて反乱軍により王位を追われ、彼をもってタルクイニウス王朝は滅びてしまう。
そのタルクイニウス・スペルブスのもとに九冊の本を売りにきたのは、シビュレーである。シビュレーというのはアポローンの神託を告げる巫女で、この巫女についてはこんな話がある。
アポローンは彼女に想いを寄せ、執拗に口説いた。そして身を任すなら何なりと望みをかなえようと約束した。で、シビュレーは一握りの砂をつかんで、この手の中の砂粒とおなじだけの寿命を授けて欲しいといった。アポローンはその願いをかなえてやったのだが、それでも彼女は身を許さなかった。アポローンは怒り、「長寿」といっしょにやろうと思っていた「青春」をシビュレーにやらなかった。それで彼女はたちまち老い、肉体は衰えたが、授けられた「長寿」のために、いつまでたっても死ねなかった。しまいにはセミのように枯れしぼんで、虫カゴのなかに入れられた。そのカゴを持って遊んでいた子供たちが面白がって、カゴをのぞき、「シビュレーよ、なにが欲しいか」ときくと、彼女は小さな声で「死にたい」といったそうである。
ギリシア神話のこのシビュレーがエトルリアへもつたわり、そこでも神託をつたえる巫女の役割を果たした。樽金王ことタルクイニウス驕慢王のもとに九冊の本を売りにきたのが、このシビュレーである。だから樽金王はその本を買いたがったのだ。その書物のなかには、数々の預言が記されているはずだからである。
ところがこの王は、値切ったばかりに九冊のうちの六冊を失ってしまった。しかし、かろうじて三冊が残ったので、九冊分の値段でそれを買い、石の箱に入れてカピトリウムのゼウス神殿に保存した。そして十五人の役人に監視させて天災や疫病などの不幸が起こると、その書物を見て神の怒りを解く方法を知ったという。にもかかわらず、タルクイニウス王が、われとわが身を滅ぼしてしまったのは、おそらく彼自身の運命が火のなかに投げこまれたあの六冊のなかのどこかに記されていたためにちがいない。
書物の有難味
では、残された三冊の本はどうなったのか。その後、ゼウス神殿が焼けて、それとともにこの本も焼失してしまったという。そこで後に残存しているそれらしい預言の書を集めて、それをまとめ、アウグストゥス帝がふたたびアポローン神殿に収めたのだが、それもまた火災にあって灰になった。『シビュレーの書』と称して、いくつかの書物が現存しているとのことだが、それらはいずれも偽書なのだそうである。こういう話をきくと、偽書にしても読んでみたくなるのが人情だが、いまのところ、私はまだそこまで大それた夢は持っていない。
ところで、『白氏文集』は、なんとなくそのシビュレーの書物に似ているのである。というのは、この詩人はみずから編んだ『白氏文集』を東林寺《とうりんじ》という江州《ごうしゆう》の仏寺に納め、住職にその保管を頼んでいるからだ。しかも、けっして外客に貸さぬよう、門外不出にして保存するようにくりかえし念を押している。アポローン神殿に保管されたシビュレーの書物と通じるところがあるではないか。
しかし、白楽天はそれでも安心できなかったとみえて、べつにもう一集を洛陽の聖善寺《しようぜんじ》に納入し、三年後に、もうひとつ文集を編んで蘇州の南禅寺《なんぜんじ》へ、またさらにべつの文集を洛陽の香山寺《こうざんじ》に納めている。
けれど、そんなにまでしても、彼の詩文集はそのままの形ではつたわらなかった。写本となって残ることは残ったのだが、いずれも後代の編になるもので、それがどこまで本来の体裁をととのえているのか、はっきりしていないのだ。私がたまたま手にしたのは、明の時代に馬元調《ばげんちよう》という人が刊行したものをもとに、明暦《めいれき》三年、立野春節《たてのしゆんせつ》が菅家の旧訓をつけて刊行した「明暦本《めいれきぼん》」といわれているものの復刻のようである。
いや、私は柄にもない書物の校勘《こうかん》についてこれ以上知ったかぶりをするつもりはない。右に私が述べたのは、いずれも研究諸家の解説の受け売りにすぎないのだ。だが、私がいたく興味をそそられたのは、白楽天がまだ在世中に、日本の一人の僧が蘇州の南禅寺を訪ね、そこに保管されている『白氏文集』を見つけ、それを筆写して日本へ持ち帰ってきているということである。その僧|恵萼《えがく》の写本は残っていないそうであるが、それをさらに書き写したもののいくつかは現存しているとのことで、こうなると、いよいよ『白氏文集』はシビュレーの書のように貴重なものに思えてくる。書物の有難味とは、まさにこういう点にあるのだ。ついでにいうと、ペリオは敦煌で白楽天の詩集の一部を見つけている。
清少納言がひとりひそかに読み、兼好法師が灯《ともしび》のもとで開いた『白氏文集』がどのような書物であったのかは知る由もない。写本のまた写本だったのかもしれない。しかし、いま私は清少納言や兼好とおなじように、ひとり灯のもとに『白氏文集』を開いて、この上なくいい気分になっている。「こよなうなぐさめ」られている。私にとって読書の愉しみとは、こんなふうに格好をつけることなのだ。だからこういう機会はなかなか訪れないのである。
運命を読む
私は何度かローマへ行ったが、シビュレーの書が納められていたというカピトリウムのゼウスの神殿跡には、まだ立ったことがない。が、ペリオが白詩の一部を見つけたという敦煌へは行った。|王円※[#「竹/録」]《おうえんろく》という道士が住みついて、偶然の機会に経文など書物がぎっしりつまっていた書庫≠発見した敦煌の莫高窟《ばつこうくつ》(千仏洞)の洞《ほら》に立って、私があらためて感じ入ったのは、書物というものの不思議さ、神秘さ、そのロマンチックなイメージであった。
そう、本というのはこのうえなく神秘的なものなのである。シビュレーの書にはローマの運命が記されていたというが、じつは、どんな本にもそれを読む人の運命が記されているのだ。うそではない。たった一冊の文庫本が、その人の人生を決めてしまうということは、しばしばあることではないか。一巻の書が生涯にわたってその人を支え、慰めてくれることも、けっして少なくない。この意味で、本はすべて運命の書なのだ。シビュレーが樽金王のもとにたずさえてきた書物は、本というものの本質、原形を黙示しているといってもよい。だから、一冊の本を買うということは、自分の運命を買うことなのである。
ところが、現代では本があまりにも多く出版され、あまりに安く、手軽に手に入るので、本の有難味がすっかり失われてしまった。これは何とも残念なことだ。私があえて読書に際して私なりのむずかしい条件を自分に課しているのは、そうでもしないと、つい本の有難味を忘れてしまうからである。ひまさえあれば本を読み、寸暇を惜しんで本を読みふけるといった読書家になることを私は自分に固く禁じているのだ。書物の価値を高めるために。読書のよろこびを原初のままに保つために。
いささか逆説めくが、そして人によっては、それは怠惰の弁解のようにきくかもしれないが、本というものは、そう手軽に読むべきものではないのである。あだやおろそかに本に接すべきではない。大げさにいうなら、三拝九拝して、はじめて開くべきものだ。そうしてこそ、はじめて「見ぬ世の人を友とする」ことができ、「こよなうなぐさむ」ことができ、そして、自分の運命をそこに読みとることができるのだ。
かくして、私はおごそかな顔で『白氏文集』を開く。その巻十六にこうある。
日高睡足猶慵起 日高く睡《ねむ》り足《た》るも猶《なお》起くるに慵《ものう》し
小閣重裘不怕寒 小閣《しようかく》に裘《ころも》を重ねて寒きを怕《おそ》れず
遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺《いあいじ》の鐘は枕を欹《そばだ》てて聴き
香爐峯雪撥簾看 香爐峯《こうろほう》の雪は簾《すだれ》を撥《かか》げて看《み》る
ははあ、これが清少納言をしてあの機知を働かせた詩だな、と私は思う。そして、私はうれしくなって、ぞくぞくする。
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万里の道、万巻の書
いつか読もう
私は本を何冊ぐらい持っているだろう。
数えてみたことがないから正確な冊数はわからないが、たぶん、万の単位はあるはずだ。というのは、あるとき気まぐれに、狭いわが家の書斎で巻尺をふりまわしながら書棚の長さを測ってみたら、百六十三メートルあったからである。
百六十三メートルとは、ちょっと信じられない長さだった。だが測り直してみてもそれだけあったから、まちがいないだろう。ふーん、と私は思わずすわりこんでしまった。書棚は壁際に天井までしつらえてある。窓のスペースを除いてぜんぶ書棚にしてあるのだが、それにしてもこんな狭い空間に、よくもこれだけの長い棚がとりつけられたものである。かりに本の厚さを平均二センチメートルとすれば、私の書斎には八千百五十冊の本が収まっている勘定になる。
ここだけではない。私は本の置場に困ってついにマンションの一室を買うハメになったのだが、そちらの書棚を足してみると、その長さは四百メートルを越えるのである。四百メートルとすれば、私の蔵書は二万冊ということになる。すなわち、万巻の書の二倍というわけだ。
だれが考えても、これだけの本を読めるはずがない。まして自分の年齢と、自分の読書能力をかえりみれば、残りの人生を読書三昧に送ったところで、十分の一、いや、百分の一読めるかどうかもおぼつかない。ところが、当人は何となくぜんぶ読めるような気になっているのである。じっさい、読めると思うから買ってくるのだ。ただし、|いつか《ヽヽヽ》読めると、そう思って。
本とは、まことに不思議なものである。
真の読書とは?
たぶんに逆説的ないい方になるが、私は本というものは読むために買うべきものではないと思っている。じゃあ、何のために買うのか。そういわれると困るが、強いていえば、書棚に並べるために買うのである。だから私は本を買ってくると、何はともあれ、それを本棚に入れる。そして知らん顔をしている。人から贈られる本にしても同様である。一応、題名、目次などを見、表紙を撫でたりさすったりしたあと、さっそく本棚に並べてしまう。そして読まない。
なーんていうと、もう私のところへどなたも本を贈ってくださらぬかもしれないが、私としてはそれがこの上ない本への礼儀だと、そう思っているのである。なぜか?
前章にも述べたように、本というのはそうガツガツと読むべきものではないのである。買ってきてすぐ読みだすのは、実用書か参考書のたぐいであって、読み終えたらそれで終わり、という種類の本である。つまり、情報とか知識とかを求めるために読む本であり、その点においては新聞や週刊誌とさして異ならない性格の本である。新聞や週刊誌を何ヵ月もあとになって読む人はいまい。
だが、書物は新聞や雑誌とはちがう。今夜どんな料理をつくろうかと思って買ってきた料理の本なら、すぐ読み始めなければ意味はないが、また、あすの結婚式にどんなスピーチをしたらいいか、その参考のために買い込んできた本なら、その晩読まなければ役に立たぬが、すくなくとも自己の形成に資するために求めた本は、そんなにかんたんに、つまり実用書のように読み始めるべきではなかろう。まあ、あわてずに、ゆっくりと、読書の条件が充分に備《そな》わったときにページを開こうではないか。「ひとり灯《ともしび》のもとに文をひろげて」
どんな書物だって情報や知識を得るために読むのではないか、というかもしれない。たしかにそうなのだが、何のために知識や情報を得ようとするのか、その目的が問題なのである。すぐに役立つ知識や情報を求めるのは、読書とはいえないのだ。たとえば、わからない言葉が出てきたので辞書を引くというのは読書だろうか。あることがらを知ろうとして百科事典を開くのは読書だろうか。それは番号を調べるために電話帳を繰るのと、さしてちがわないではないか。
人間にはさまざまな目的がある。その目的を一列に並べてみたとしよう。すると、近いところにある目的ほど切実な目的であることに気づく。だが、切実ということは、かならずしも価値の大きさを意味しない。なぜなら、その目的は、たいてい、つぎの目的の手段にすぎないからである。したがって、目的の価値は遠くにあるものほど大きいといってもよかろう。つまり、人間の抱いている目的のすべては、いちばん向こうにある目的、最終目的の手段として存在しているのである。
こうした目的の連鎖を読書にあてはめてみると、どういうことになるか。手近な目的のための読書は、切実な読書かもしれないが、けっして価値の高い読書とはいえまい。端的にいうなら、真の読書とは、いちばん向こうにある最終目的をめざした読書ということになろう。最終目的とは――いうまでもなく自分の完成ということである。それは、はるか彼方にある目的だから、手近な目的のように切実ではない。切実でないから、つい目的意識がうすれる。したがって、そうした遠い目的を念頭に置いた読書は、一見、無目的な、どうでもいいようなもののように思える。だが、それこそが最も価値ある読書なのである。
私が本を買ってきても、すぐに読まないのは、まるで実用書か参考書のように、ガツガツと読みはじめたら失礼だと思うからである。本というものは、いつも最終目的を念頭に置いて読むべきものだ。そして、それを念頭において読まれる本こそが、本という名に値するのである。そういう本は、ゆめゆめ、あわてて読んではいけない。
さて、ここで思い出されるのは、五柳先生の本の読み方である。彼はこう書いている。
[#この行1字下げ] ――先生ハ何許《イズコ》ノ人ナルカヲ知ラザルナリ。亦《マ》タ其《ソ》ノ姓字《セイジ》ヲ詳《ツマビラ》カニセズ。宅辺《タクヘン》ニ五柳樹有《ゴリユウジユア》リ。因《ヨ》ッテ以テ号ト為《ナ》ス。閑靖《カンセイ》ニシテ言少《ゲンスクナ》ク、栄利ヲ慕ワズ。書ヲ読ムヲ好メドモ、甚《ハナハ》ダシクハ解スルコトヲ求メズ。意ニ会《カイ》スルコト有《ア》ル毎《ゴト》ニ、便《スナワ》チ欣然《キンゼン》トシテ食ヲ忘ル。
家のまわりに五本の柳の木が植えてあったので「五柳」と号したこの先生、すなわち陶淵明は、本を読むのが大好きなのだが、やたらにあせって読んで、いちいち意味をせんさくし、ここはどうの、あそこはどうの、などというまねはせず、ただ自分の意にかなったところがあると、すっかりうれしくなって思わず食事も忘れるほどだ――というのである。
私はこれこそが、真の読書家だと思う。
読書は旅である
というわけで、私はつねに五柳先生を手本とし、本を読むときに「甚ダシクハ解スルコトヲ求メ」ない。本を読むというのは、すぐに役立つ知識を得ようとすることではないからだ。そこで、私は気が向いたときに、気ままに読む。気が向いたときに、というのは、一列に並んだ目的の、はるか彼方に最終目的がおぼろげながら浮かんだとき、ということである。すなわち、自分の人生をそれとなく考え、自分の世界をすこしでも拡げてみたいと感じたときである。
そんなことをいっていたら、いよいよ本が読めなくなってしまう、と思われるだろう。たしかにそうなので、だから私はなかなか|真の読書《ヽヽヽヽ》にとりかからないのである。とりかからずに本を並べて、ただながめている。ながめて愉しんでいる。旅に出かける前夜のように。
じっさい、読書は旅とよく似ているのだ。旅の愉しみとは、旅そのものよりも、旅を計画することにある。地図をひろげて、この町へ行こうか、あの国を訪ねようかと、あれこれ考えているときが旅の醍醐味なのであって、いざ旅に出てみると、愉しいことより苦しいことのほうが多い。しかし、その苦しい旅も、帰ってみればまた愉しいというわけで、旅のおもしろさは旅の前後にあるといってもいい。読書もそうではないか。じっさいに読みはじめてみると――むろん、本によってではあるが――結構、辛《つら》いことのほうが多い。考えてもみたまえ。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を読みあげるのに、どれほどの忍耐を必要とすることか。ヘーゲルの『精神現象学』を読破するのに、どれだけの努力がいることか。だが、それを読み終えたとき、どれほどの充足感があることか。
そんなわけで、読書は旅であるといってもよろしい。げんに明の画家|董其昌《とうきしよう》はこういっている。「万巻の書を読み、万里の道を行き――」。すると、胸中の塵濁《じんだく》がおのずと取り払われ、絵画にとって何よりも大事な「気韻生動《きいんせいどう》」が得られる、というのである。
気韻というのは、気品のことである。とすれば、それは何も画家だけに必要なものではなかろう。人間にありたきは気品である。その気品を身につけるためには、万里の道を行き――すなわち、できるかぎり旅をし――そして、万巻の書に親しめ、というのだ。ずいぶん無理な注文だが、それは中国人特有のレトリックであって、とにかく、旅をし、本を読め、ということなのである。そこで私は私なりにそれに従おうと思ったのだ。私の書斎にいつのまにか万巻の書が置かれるようになったのは、董其昌先生の助言のゆえである。そして、私はそのなかに寝ころんで、五柳先生を気取っている。
敦煌は語る
万里の道、万巻の書――考えてみると、これはなかなか含蓄のある言葉である。勝手に、いろいろと解釈できるからだ。たとえば、この言葉を、万里の道を行くことは、万巻の書を読むに価する、と解したらどうであろうか。たしかに旅はそれぐらいの価値を持っていると思う。私は旅に出るときに、いつも地球を一冊の巨大な書物だと思って出かける。その巨大な書物の何ページかを読むのが旅なのである。中東を旅することは古代オリエントに始まる歴史をそこに読むことであり、インドを旅することはインド文明史を読むことなのだ。むろん、一回の旅で読むことのできるページ数は知れている。が、それこそ万里の道を行けば、いつか地球という巨大な書物を読破することができよう。
というわけで、私はついふらふらと旅に出てしまうのだが、旅はまた、じっさいの読書の機会も与えてくれるのである。旅先での長い無為の一夜が、たずさえて行った書物を読む時間を授けてくれるということもあるが、それよりも旅が読書への渇きを呼びおこすのだ。シルクロードから帰ってきた旅人は、思わず中央アジアの歴史書を手にするであろう。こうしていままで自分とはまったく無縁だと思っていた世界が、そのまま、自分の世界となるのだ。
さきごろ、私は敦煌へ旅をした。私が「敦煌」という文字を最初に目にしたのは父の書斎の本棚であった。そこに松岡譲の『敦煌物語』という本が置かれてあったのだ。当時高校生だった私には、その「敦煌」という文字が何を意味するのかわからなかったのだが、何となく字の形に心ひかれた。物語とあるからには、きっと面白い話がそこに書かれているにちがいない。私はその本を手にとりページを繰った。だが、むずかしい漢字やカタカナの人名ばかりが出てきて、とても読む気になれなかった。
青春時代に受けた印象というのは、生涯消えないものである。「敦煌」という文字が触発したイメージは私にとっては何となく不思議な、神秘的な世界でありつづけた。私が敦煌について読んでみようと思い立ったのは、それから十数年もたってからである。
ある日、といっても、かれこれ二十年前になるが、私は書店で神田喜一郎博士の『敦煌学五十年』という本を目にした。とたん、高校時代のあの不思議な印象が甦ってきた。ほう、物語ではなく、敦煌学という学問まであるのか、と私はあらためて感心し、例によって、さっそく買いこんだ。だが、例によって、私はすぐに読もうとせず、それを書棚に並べたまま、長いあいだそのままにしていた。物語でさえ、あんなにむずかしそうに思えたのだから、まして学と名がつく以上、とうてい歯がたつまい、とそう思いこんでいたのである。だが、いつか読む日がやってくるだろう。
その書物は立派なケースに入れられ、ケースには仏像と仏画の写真がうすい緑色の地に刷られていた。とり出して開いてみると、第一ページにペリオ教授とスタイン卿の写真が出ており、以下、敦煌石窟内の壁画が彩色と単色とで紹介されていた。いまにも崩れ落ちそうな荒れ果てた千仏洞の情景がつぎのページにあった。「なるほど、敦煌とはこういうところなのか」と私はその情景をながめ、そして、ふたたび本をケースに収めて自分の本棚に飾った。
こうした本を読むには、それなりの準備が必要である。何よりもまず仏教について知らねばならない。インドに生まれた仏教が、いつごろ、どのようにして中国へつたわったのか、そして中国でどのように変容したのか。そのためには中国の歴史についても知る必要がある。敦煌の物語とは、インド文明と中国文明の出会いのドラマである。とすれば、このふたつの文明についてなにがしか学ばぬかぎり、そのドラマの意味をつかむこともできまい。そこでつい、私は『敦煌学五十年』を手にせずにすごしていたのだ。
ところが、ふたたび、ある日。不意に敦煌へ行く機会が訪れた。そのときはさすがに失敗《しま》った! と思った。どうして私は長いあいだ敦煌を飾ったままにしておいたのか。せめて半年ぐらい前からでも書物で敦煌という世界を訪ねるべきだった。だが、もうおそい。出発までにはいくらもなかった。私は目をつぶって、あえて敦煌について書かれた本を読まなかった。というのは、私はまるで受験勉強のように、あわてて本を読むことを潔《いさぎよ》しとしないからだ。書物とはそんなふうにして読むべきではない。それについては再三強調したとおりである。
こうして私は白紙の状態で敦煌へ行った。敦煌についての私の知識といえば、ほんの断片的な、常識ていどのものにすぎなかった。そのかわり、青春時代に「敦煌」という文字から受けたあの強いイメージだけは、大事に持って行った。私は活字で敦煌を読まず、そこへ行ってみることによって敦煌をじかに読もうとしたのである。そして、おぼつかない足どりではあったが、敦煌という世界を、はじめて読んで帰ってきたのだった。
敦煌は神田喜一郎博士の本の冒頭にのっていた写真の情景とは、まったく趣きを変えていた。これがあの石窟か、と思われるほど修復され、まるでオアシスのなかのホテルのようにさえ思えた。ひとつひとつの石窟の仏像や仏画に見とれながら、私は敦煌文書が秘されていたという「〇〇一七」窟に立った。
荒れ果てたこの石窟に住みついた|王円※[#「竹/録」]《おうえんろく》という道士が、ふとしたことからその石窟の壁の向こうに小さな耳洞《じどう》があるのに気づいて壁を破って入り、そこにおびただしい古文書があるのを発見したのは光緒二十六年(一九〇〇年)五月二十六日のことという。その噂をきいて、敦煌へ各国の探検家や学者たちが駈けつけた。まずロシアの探検家オブルーチェフ、ついでイギリスのオーレル・スタイン、つぎにフランスの学者ポール・ペリオ、さらに日本の大谷探検隊の橘瑞超……。
オブルーチェフは王道士とかけ合って写本の束二包みを持ち出し、スタインは一万点にのぼる古文書をロンドンへ運び去った。そのあとにきたペリオは、さらに丹念に調べ、五千点もの文書をパリへ送り、大谷探検隊も五百巻を日本に持ち帰った。こうして、ついに敦煌文書は世界各国の博物館や図書館に収まってしまったのである。
敦煌の千仏洞には、多くの壁画や仏像が残されている。美術史上のその価値はたいへんなものだといわれるが、中央アジアの歴史研究のうえで、またシルクロードを経てつたえられた仏教を知るうえで、さらに四世紀の中ごろの東晋の時代から元の時代までの中国の仏教文化をうかがううえで、そこに秘されていたいわゆる敦煌文書の意義は測り知れないほどであった。私は、いまはすっかり持ち去られて空っぽになってしまった千年の書庫≠ノたたずんで、あらためて書物というものの神秘さをまざまざと思い知ったのであった。
敦煌の石窟についての物語は、書物の不思議さ、有難さを語るドラマである。三蔵法師|玄奘《げんじよう》が敦煌を出てタクラマカン砂漠を越え、想像を絶する辛苦に耐えて天竺に達し、十六年の歳月をかけて帰国したあの万里の旅も、ひとえに仏教の経文を手にしたいためであった。彼は万里の道を行き、万巻の書を持ち帰り、そして万巻の書を読破したのである。書物とは、かくのごとく有難いものなのである。だからペリオは敦煌の石窟に入り、そこにうずたかく積まれた古文書を見て狂気のごとき有様でそれを点検したのだ。ロウソクの火を頼りに、くい入るように古文書に見入っているペリオの写真が、『敦煌学五十年』に紹介されているが、それは「ひとり灯《ともしび》のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とする」姿からはおよそ遠い。けれども、それは書物というものの価値を何よりも雄弁に語っているように思われる。
さて、敦煌から帰ると、私はあらためて『敦煌学五十年』を読みはじめた。そして敦煌から発見された書物が、世界にどのような衝撃を与え、以後、それらの書物がどのように整理され、学者たちによってどのように研究されてきたか、敦煌学成立のいきさつを知ることができた。敦煌への旅が、敦煌についての読書へと私を連れだしてくれたのである。
夢を買う
それにしても――読めもしない本をやたらに買いこんでくるのはどうかしてる、と思う人も多いだろう。読みたいと思う本を一冊ずつ買ってきて、それをゆっくり読んだらいいではないか、と。
しかし、そういうわけにはいかないのだ。書店というものが敦煌の石窟のように千年も密封されているならば、そこから一冊ずつ買ってきてゆっくりと読むということもできようが、残念なことに日本の書店では、新刊書は短時日のあいだに姿を消してしまうのである。つぎつぎに書物が出版されるので、おなじ本をいつまでも並べておけないのだ。だから、うかうかしていると、読みたいと思った本は永久に手に入らなくなってしまう。古本屋でさがし直すという手もあるが、見つかるという保証はない。そこで、これは、と思ったときに、その場で本は買っておかなければならない。
買いたい本が何でもその場で買えるなんて、いいご身分だね、といわれそうであるが、むろん、私はそんな結構なご身分ではない。本を買うために、ほかのものはいっさい買わないだけの話である。
私は自分の部屋の壁を本で飾るということは、自分の世界をそこにつくりあげることだと思っている。人生の目的とは、要するに自分の世界をすこしでも広く、すこしでも深く構築することだとすれば、その夢は大きいほうがいい。本を買うというのは、その夢を買うことである。|未知の世界《テラ・インコグニタ》を、いつか|既知の世界《テラ・コグニタ》にしてやろう、そしてそれを自分の世界に取りこんでやろう、その可能性を買うのだ。だから、私はこういう。
本を買うのに、けっして金を惜しんではいけない。旅をするのに金を惜しんではいけないように。なぜなら、それはいつか、「欣然《キンゼン》トシテ食ヲ忘ル」思いを与えてくれるであろうから。
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『死者の書』の奇跡
記憶と直感
ある日、例によって神保町をぶらついていた。私はここに並んでいる古本屋の書棚を、あらかたおぼえている。といっても、何百万冊にものぼるにちがいない本のすべてを記憶しているわけではむろんない。ただ、神保町の交叉点の角《かど》から何軒目の本屋の入口から奥に向かって右手の何段目の棚には、だいたいどんな種類の本が置かれているか、そういったことをおぼえているというだけの話である。
などというと、いかにも記憶力がいいように思われるかもしれないが、古本屋歩きの好きな人間は、たいていそうである。べつにおぼえようと思っておぼえるわけではない。自然に本棚のイメージが頭のなかに焼きついてしまうのだ。それは、ちょうど若い娘が街中のいたるところにあるブティックをぜんぶ知っていて、どの店のどの場所に、どんなデザインのブラウスやスカートがぶらさがっているか、ぜんぶ記憶しているようなものだろう。
かつて、私は知り合いの娘の買い物につき合わされたことがある。「スカートを買いに行きたいの、一緒にきて。ね。いいでしょう?」といわれたときは、ぎょっとした。代金を払わされると思ったからではない。いい年をして若い娘たちが群らがっているブティックなぞに、恥ずかしくてとても入れたもんじゃないからである。むろん、私はそんなところへ入るつもりはなかった。外で待っていることにした。が、店の前でボンヤリつっ立っていると、店員がウサン臭そうな目で見る。短い時間ならそのくらい我慢できるが、女性の買い物、とくに衣類となると、やたらと長いのである。私はいっぺんでこりごりした。
だが、そのとき、私は彼女がいくつかの店を順々にまわって、どの店のどのへんに、どんな形のスカートがあるのか、ぜんぶ知っているのに驚嘆した。そして人間の記憶力というものが、関心の度合によって著しくちがってくるものであることに、いまさらのように気付いたのである。だから私が神保町の古書店街の書棚の様子をだいたいおぼえているといっても、べつに大したことではない。
ところで、彼女にスカート屋さんをあちこち引き回されたとき、もうひとつおどろいたことがある。それは構えも立派で、品物も豊富そうな店の前を彼女が一瞥もくれずに素通りしてしまったことだ。
「オヤ、この店へは入らないのかい」と私はきいた。すると彼女は何とも冷淡に、「この店はダメ。ロクなものないもん」ときめつけた。彼女の話によると、一目見て、この店には自分の気に入りそうなものがあるかどうかがわかるのだそうである。それは女性の鋭い直感にちがいない。
だが、私がおどろいたのは、まったくおなじことが古本屋についてもいえるからだ。構えも立派で、本の数の多い店が、かならずしもいい古本屋とはいえないのである。そして、私も長年の古本屋まわりで、彼女とおなじように、一目でこの店には自分が探している古書があるかないか、それこそ直感的に見分けられるようになったと自負しているのだ。
不思議な出会い
さて、この日も私はきまったコースで軒を連ねる古本屋をまわり始めた。が、前記のように、どこにどんな本が並んでいるのか見当がついているから、いささかマンネリズムの気味があった。私は例によって、「ダメな本屋」の前を素通りしかけたが、ふと、気が変わって、ダメを承知でその本屋へ入った。案の定、私の目をとらえるような本は一冊も見当たらなかった。
「やっぱりだめだな」と私はつぶやき、店を出ようとしたとき、埃だらけの書棚の一隅に、黒っぽい、厚い表紙に題名を金文字で刷り込んだ、いかにも古ぼけた本が二冊並んでいるのに気がついた。何の本だろう。そう思って近づいて見ると、背表紙にある金文字は、つぎの四文字だった。
『死者之書』
私はびっくりして、上下二冊から成るその上巻を抜き出し、ページを繰った。やはりそうだった。それは古代エジプトのピラミッドの羨道《せんどう》や玄室の壁に刻まれた聖刻文字《ヒエログリフ》を翻訳したものであった。ピラミッドの通廊や壁面に記されているところから、それは『ピラミッド・テキスト』とも呼ばれ、また玄室に納められた石棺にも刻まれているので『コフィン・テキスト』とも呼ばれている。ところが、やがてエジプトの各地からパピルスに書かれたテキストが見つかり、これらがいずれもファラオの葬儀に用いられたものであることがわかって、呪文のようなこれらのテキストは『死者の書』とよばれるようになったのである。
そのような『死者の書』が、まさか日本で翻訳されていたとは――迂闊《うかつ》にして知らなかった。しかも、こんな立派な装幀で……。
私は巻末を調べた。「大正九年二月二十日発行」とある。私がまだ生まれていないころだ。「編輯兼発行者」は「世界聖典全集刊行会」で、訳者は「バチェラア・オヴ・ヂヰニチー田中達」とあった。神学士ということであろう。私は夢中になって立ち読みを始めた。
[#この行1字下げ] 本書は英国博物館の埃及《エジプト》及びアッシリア部管理者エ=イ=ウォリス=バッジ A. E. Wallis Budge 博士の英訳 死者之書一九〇一年版を翻訳せるものなり。古代の埃及に行はれたる讃美歌、呪文《じゆもん》、経文等を集めたるものなるも、埃及の本国にも死者之書と称する一定完備の書巻あるにあらず……。(ルビは引用者、以下同じ)
文体が古めかしいのは、大正九年という年代を考えれば、やむをえまい。しかし、こういう書物は、なまじ現代語で訳すよりは、このような文体で訳されているほうが内容にぴったりあう。
[#この行1字下げ] 該《がい》英訳の材料は重《おも》に埃及《エジプト》のテエベで発見せられたるものに採《と》れり。此《この》諸材料は通常『死者の書のテエベ原本』The Theban Recension of the Book of the Dead と総称せらる。此外尚《このほかなお》『ヘリオポリス原本』『サイテ原本』等存す。バッジ博士は『テエベ原本』以外よりも材料を採《と》れるが、其《その》取捨に惨憺《さんたん》たる苦心を費《ついや》せるは殆《ほと》んど想像に余りあり、況《いわ》んやテエベ発見の材料にも種々ありて相互に甚しき異同ありたると云《い》ふに於《おい》てをや。
などときかされると、いよいよ有難くなってくる。バッジ博士の苦心もさることながら、そのバッジ氏の翻訳を、さらに日本語に訳した田中神学士の苦労もたいへんなものであったろう。「凡例」はさらにつづく。
[#この行1字下げ] 本書には四百有余の挿絵《さしえ》あり。是《これ》は埃及《エジプト》の書記生及び美術家が本文説明の為《た》めに描きたるもの、バッジ博士は之《これ》を最良のパピラス文書より採集複写せり。埃及の原画は彩色を施《ほどこ》しあれども、之《これ》に倣《なら》はんことは経費の許す所にあらず、英訳書も此《この》理由よりして悉《ことごと》く素画となす。されど其《その》形状は忠実に之《これ》を写し、一点一画も忽《おろそ》かにせざりしことを|※[#「玄+玄」]《ここ》に明記す。
なるほど、本文を開いてみると、いたるところに不思議な挿絵が収められている。イシス、アヌビス、セト、ラア、ハトルといった神々の図、死者の心臓をはかる図、プタの神に供物を捧げるの図、死者の乗る舟の図、頭は人間、身体は鳥の形をした死者の霊魂が門前に立つの図、死者がオシリスを敬拝するの図……その図をひとつひとつ見るだけで不思議な気分になってくる。
思案は無用だった。私は即座に財布をはたいて、貴重なこの『死者之書』上・下巻を買った。書店の主人は、ハタキで埃をよく払って、ていねいに紙に包んでくれた。よほど長いこと棚ざらしになっていたものにちがいない。主人はこの厄介な本がようやく|はけた《ヽヽヽ》のをひどく悦《よろこ》んだようで、何度も「ありがとうございます」といった。じょうだんではない。こちらが何度も「ありがとうございます」といいたいところだった。
店を出ると、私は自分の思いあがりをいたく恥じた。私はこれまで、古本屋の前に立って、いい本があるかないかは直感的にわかる、などとタカをくくっていたのだが、とんでもない話である。貴重な本というのは、どこにまぎれているか知れたもんではないのだ。
通りのすぐ裏手にある行きつけのコーヒー店「R」に腰をおろすや、私は早速包み紙をほどいて、あらためてしげしげと『死者之書』に見とれた。古びてはいるが、どうして立派な|つくり《ヽヽヽ》である。いまでは、こういう重厚な本は「経費の許す所にあらず」で、なかなかつくれまい。ページを断截したところは、赤く染められている。こんな本がよくも手に入ったものだと私はおどろき、テーブルにそれを置いて、しばし幸福感にひたっていた。
甦った『死者の書』
ことわっておくが、私は稀覯《きこう》本の蒐集家ではない。なんだ、好事《こうず》家が珍しい本を手に入れて悦に入っているのか、などと思わないでいただきたい。私がこの本を手に入れておどろいたのは、それなりのわけがあるのだ。
あれはいつだったか。――ニューヨークの五番街をぶらぶら歩いていたときのこと、例によって私は五番街に大きな店を構えているダブルデー書店に立ち寄った。日本の書店に近ごろでは文庫本がかなりの場所を占めているように、アメリカの本屋も最近はペーパーバックスが大量に進出している。大型の本までが、大きいまま、いまやペーパーバックスの廉価版となっており、それがいちばん目につきやすいところに平積《ひらづ》みにされている。
そのなかで私の目を引いたのは、古代エジプトの壁画を大胆にデザインした黄色い表紙のペーパーバックスだった。山のように積まれているその一冊を取りあげ、みると、THE EGYPTIAN BOOK OF THE DEAD(『エジプトの死者の書』)とあった。ほう、と思って、なかをのぞくと、それはなんと、聖刻文字《ヒエログリフ》をそのまま復刻し、その下に英訳をつけた『死者の書』の対訳本だった。『アニのパピルス』と呼ばれるテキストを、ウォリス・バッジが翻訳し、解説をつけたものである。私はさっそくそれを買ったが、値段はたった三ドル九十五セント、現在の円にすれば、わずか八百円ほどだった。見返しを見ると、原本の初版は一八九五年とある。
私はくびをかしげた。このような専門的な学術書に類する書物、しかも前世紀に出た書物が、なぜ、いまどき、こんな形で出版されたのか、それが不思議に思えたのだ。このようなペーパーバックスで出され、こんなふうに山積みされているところを見ると、おそらくかなりの部数が刷られ、よく売れているのだろう。さすがアメリカだ、と思った。
じっさい、それは考えられないことだった。通俗的なピラミッドの解説書とか、王家の谷の墓泥棒について書かれた本ならば、こんなふうに書店に並ぶのはわかる。が、これはそうではない。ヒエログリフの解読書なのだ。よほどエジプト学に興味を持っているのでなければ、だれも関心を持たないはずのものなのである。しかも、その内容ときたら呪文のように難解で――事実、これは呪文なのであるが――基礎知識なしにはとうてい理解できないしろものなのだ。
たとえば、巻頭の「東天に昇るラーへの讃歌」の文句にはこうある。
[#この行1字下げ] オシリスよ、すべての神々に聖なる供物を捧げる書記アニを見守りたまえ! 彼はかくいう。ケペラとして、神々をつくりたもうたケペラとして現われたあなたを敬《うやま》いたてまつる。あなたは昇り、輝き、あなたの母を輝かせ、神々の王とされる。あなたの母ヌートは、両手をもってあなたを拝む……。
まさしくチンプンカンプンである。オシリスというのが冥界を支配する神、ケペラというのが朝の太陽をあらわす神、ヌートというのはその太陽を毎朝生みおとす母、すなわち世界の母、ということを知っていても、この呪文が何を意味するのか、よくわからない。
にもかかわらず、アメリカでこのような『死者の書』がよく売れているのは、おそらく『死者の書』という題名が、技術ずくめ、管理ずくめのアメリカの社会で、一服の清涼剤的効果を発揮したからであろう。古代世界への郷愁が、それに拍車をかけたのかもしれぬ。社会がどんな書物を要求しているかによって、その社会の状況が知れる。私はダブルデー書店の平積《ひらづ》み台に積まれた『死者の書』や、オリエント、マヤ、インカなどについて書かれた古代史の本や、インドのヨーガについて解説したさまざまなペーパーバックスの前に立って、いまのアメリカ人の心がわかるような気がした。
それから――私はニューヨークを発ってミュンヘンへ行った。
ミュンヘンは静かな街である。ひるさがりのマリエン広場は、オフィスから吐き出された人たちで賑わっていたが、不気味なほど静まり返っていた。人びとは足音も立てず、話をするのも声を抑え、ゆっくりと広場のまわりを散策している。その人の列について行くと、広場の近くに大きな書店があった。何人かのあとについて入ってみると、ここでもペーパーバックスが目立ったが、そのなかに鮮やかな紺色の地に黄色い文字で題名を記したかなり部厚い本が積まれてあった。オヤと思った。その表紙にもエジプトふうのイラストが描かれていたからだ。私はその一冊を手にとった。とたん、思わず、あっといった。
DAS AGYPTISCHE TOTENBUCH(『エジプトの死者の書』)とあったからだ。それはペーパーバックスではなかったが、やはり廉価版で、このように平積みされているところを見ると、この国でもかなりよく売れているにちがいなかった。そのとなりにはヨーガに関する本がいくつか並べられてあり、さらに、オリエントや、ギリシア、ローマなど古代史の啓蒙書が置かれてあった。
私はその『死者の書』を買った。この本はバッジの翻訳ではなく、原本はフランス版で、フランスのエジプト学者グレゴアール・コルパクツキーの手に成るものだった。私はいよいよ不思議な気がした。どうして急にアメリカやヨーロッパで『死者の書』が争って出版されるようになったのだろう。べつに何のきっかけもなさそうだから、おそらく人びとの精神的な需要を見越してのことであろう。つまり、欧米の人たちは二十世紀末に立って、何か魂の不安を感じ、何千年も前のエジプト人が魂の糧《かて》にした『死者の書』にすがりたくなったのではなかろうか。それとも、これは夢を追放した高度産業社会に住む人たちが見いだした格好の夢の書≠ネのであろうか。
こうして、私のトランクには、二冊の『死者の書』が、隅を占めることになった。いささか不安だった。まさか、帰りの飛行機が墜ちるわけではなかろうな、などと思い、私はあわてて打ち消した。『死者の書』というのは、そもそも死の恐怖に打ち克つための書ではないか。
私はそれを抱え、広場の一角にある心地よさそうなカフェハウスに腰をおろした。そのとき、マリエン教会のふたつの鐘が交互に一時を打った。
そして、また……
人間の住む世界はじつに広い。いまから五千年も前のナイルの岸では巨大なピラミッドが築かれ、人びとは『死者の書』に記されているような不思議なイメージの世界に住んでいた。彼らは二千にのぼる神々とともに暮らしていたのだ。天空にはアピスという聖牛が浮かんでおり、この聖牛アピスは地上のすべての人びとの涙を飲み干してくれた。そのおかげで人びとは悲しみから救われるのである。この聖牛がいるかぎり、どんな悲しみも長くつづくことはなかった。
地上の世界を守ってくれるのは、裸身のヌートという女神だった。ヌートは天空から地上へ身をかがめて人びとを優しく庇護していた。そして、この女神は夕暮れになると太陽を呑みこみ、明け方になると、股間からふたたび太陽を生みおとして一日の生活を促《うなが》すのだった。ヌートは前記のように太陽の母であり、同時にこの世の母でもあるのだ。そのようなヌートを両手で支えているのが空気の神シューであり、ヌートの背後で両翼をひろげているのがハゲ鷹の姿をした神ホルスであり、太陽と月とはホルスの二つの目とされていた。その太陽も刻々と姿を変える。朝の太陽はケペラ神であり、真昼の太陽はラー神、西に傾く太陽はアトゥム神と呼ばれた。
古代エジプトは「真昼の死の王国」といわれる。ここでは、生と死とが大らかに共存していた。彼らは死を他のいかなる民族よりも恐れたが、それは彼らがこの世の生を他のいかなる民族よりも愛し、愉しんでいたからにほかならない。死の恐怖は、生への愛着の関数である。その死の恐怖を克服するためには、死後の世界が現世の延長線上にあると信じることだ。だから彼らは「浄土」を描かなかった。死後の世界が、現世のようなものであることを欲した。この世を不浄で汚れた「穢土《えど》」とし、そのような「穢土」を厭離《おんり》して「浄土」を欣求《ごんぐ》する人たちとは、まさに対極の世界で暮らしていたといえよう。だからこそ彼らは何よりも死を怖れ、あのような巨大なピラミッドを築いたのである。ギーザの砂の上にそびえる三つのピラミッドのうち、第三ピラミッドの主であるメンカウラー(ミケリノス)について、こんな話がつたえられている。
ある日、このファラオのもとに、ブトの町から神託がとどき、「お前の寿命はあと六年しかない」と告げた。それをきいた彼は、衝撃と絶望のあげく、何万本ものロウソクをつくらせ、夜になるとこれに火をともし、「夜を昼にして」六年の寿命を二倍の十二年に使ったというのである(ヘロドトス『歴史』)。それによって神託が告げた六年というのが偽りだったことを立証しようとした、とあるが、実際は、残された人生を一刻でも余計に愉しみたかったにちがいない。
私は膝の上で『死者の書』のページを繰りながら、かつて訪ねたギーザやサッカーラやダハシュールの乾いた死の王国にそそり立つピラミッド群を思い浮かべた。そして――ふたたびマリエン教会の鐘が時を告げるまで、私は夢のような気分でエジプトの砂の上をさまよっていた。
はっと我にかえると、それはマリエン教会の鐘ではなかった。産地直送という梨と葡萄を車に積んで通り過ぎる果物屋の鳴らす鈴の音だった。私は神保町の裏通りの喫茶店「R」に、まだすわっていたのである。膝の上にあるのは、たったいま買ってきたばかりの日本版『死者之書』であった。
この書物を埃だらけの書棚で見つけたとき、私がなぜかくもおどろいたのかは、以上でわかってくださったことと思う。ニューヨーク、ミュンヘン、そして東京で、私はエジプトの『死者の書』にめぐり合ったのだ。
ニューヨークで、そしてミュンヘンでこの本を手にとり、こうした書物が普及版で出版され、多くの人びとがそれを読むという知的風土に、私はいささかの羨望を禁じ得なかったのであるが、いまこの書を膝に置いて、わが日本もそれにけっして劣らぬことに気がついたとき、私は無性にうれしくなった。しかも、この『死者之書』は、すでに大正九年に訳され、こんな立派な本となって出版されていたのであるから。
だが、私と『死者之書』とのめぐり合いは、これで終わったわけではなかった。しばらくたって、私はふたたびエジプトへ行った。エジプトから帰ってくると、こんどは大和《やまと》の明日香村を訪ねた。そして、そこで、なんと、もういちど『死者の書』に出会ったのである!
しかし、喫茶店「R」では、まさかそんなことになろうとは、夢にも思わなかった。
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書物曼荼羅《しよもつまんだら》
装飾としての書物
「どうですか。こんどあなたの社で出した美術全集、よく売れているようですね」と、私はいった。
「おかげさまで、予想以上によく出ます。きっと値段が安いせいでしょう」と、S社の編集者N氏はうれしそうに答えた。
「たしかに安いなあ。あんなにカラーページがあって、豪華なケースをつけて、あれじゃあまり儲からないんじゃないですか」と、私は余計な心配をしてみせた。
「そんなことはないですよ。こちらも商売ですからね。でも、買ってくださるお客さんのなかには妙な人がいますねえ。ケースだけ売ってくれないか、っていうんです」
「ケースだけ?」
「そう、ケースだけ欲しいとね。何にお使いになるんですか、ときいたら、本箱にケースだけ並べたいというんですよ」
「へえー、どうしてなんです?」
「買ったって、どうせ読まないんだから、ケースだけあれば充分だというのです。応接間にいい本棚を置いたのだが、中が空っぽじゃ体裁が悪い。美術全集でも並べて格好をつけたい、とね」
「なーるほど。装飾用なんだから、ケースだけあればいいってわけか、ハハハハ」と、私はその人の頭のよさにすっかり感心したが、N氏は自分が苦労して編集した全集がそんなふうに扱われるのに憮然とした面持ちでつづけた。
「最近じゃ、本は装飾品のようですな。ケースだけ売ってくれ、には参りましたが、本棚の長さを測って、これだけの長さの棚に並ぶ本を見つくろって届けて欲しい、なんて注文もあるんですよ」
「ほう。どういうことなんです?」
「やはり応接間に本箱を置いたんでしょう。そこにどんな本を入れたらいいのか見当がつかないので、本屋さんに適当に見つくろってもらって、並べようってわけですよ」
「なるほど、そいつもなかなかのアイディアだなあ。どんな本が届けられるか愉しみじゃないですか」と、私はいよいよ感心して、そういった。
精神の巣づくり
私はべつに茶化したつもりはなかった。なぜなら、私も本は装飾品だと思っているからである。じっさい、書物はこの上ない精神の装飾品ではないか。だからこそ、私は一生かかっても読みきれまいと思いつつ、なお本を買ってくるのである。ただひたすら、その本を自分の本棚に並べたいために。
私の読書術は、何よりもまず、本を自分の本箱に並べることである。読もうと読むまいと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく机の上に、あるいは自分の部屋の本箱に、「適当に見つくろって」並べてみることだ。並べる以上、なるたけ格好いい本がよい。本屋さんに見つくろってもらうのも結構だが、できれば自分で買ってきて並べるに越したことはない。そうすると、いくらなんでも週刊誌とマンガとファッション雑誌と料理の本、というのでは格好つかないことを発見するだろう。これじゃ美容院か歯医者の待合室みたいになってしまうからである。
かといって、会社の幹部に昇進する法だの、税金のうまい納め方だの、中年からの健康だのといった実用書でも味気ない。やはり、何かしら自分の心の糧《かて》になる本を並べたくなるだろう。どんな本が心の糧になるのか――なかなか見当はつくまいが、そこはめいめいの価値観、興味、好み、探究心によってえらぶ以外にない。枝をあちこちからくわえてきて小鳥が巣をつくるように、一冊、また一冊と本を買ってきて、それで自分のまわりを飾り、自分の精神の巣をつくるわけである。そうすると、そこに自分の世界ができあがる。
本は他人が書いたものなのだから、いくら並べてみても自分の世界にはならない、などといってはいけない。たしかに本は他人が書いたものにはちがいないが、その本をえらんで買ったとたん、それは自分の世界になるのだ。本を自分の机に置くということは、その著者を自分の部屋に招じ入れるようなものではないか。だから一冊でも多く本を並べることは、自分の世界をそれだけ広くするようなものである。本が多くなると、とうぜん部屋は狭くなる。しかし、それに反比例してわが心の世界はひろくなってゆくのである。
またしても兼好法師を引き合いに出すが、この世捨人は身のまわりに物が多くあるのを何よりも嫌った。世捨人が簡素な生活を好むのはとうぜんのことだが、彼はただふたつの例外を認めている。
いやしげなるもの――と彼はいう。
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――居《ゐ》たるあたりに調度の多き、硯《すずり》に筆の多き、持仏堂《ぢぶつだう》に仏の多き、前栽《せんざい》に石、草木の多き、家の内に子孫の多き、人にあひて詞《ことば》の多き、願文《ぐわんもん》に作善《さぜん》多く書のせたる。(第七十二段)
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まわりにやたらと調度を置くこと、庭に石や草木をごてごてとあしらうことはもとより、人に会って口数多くしゃべるのも、家のなかに家族が多くいるのさえ「いやしい」ときめつけた兼好だが、「多くて見苦しからぬ」と許しているのは、「文車《ふぐるま》の文《ふみ》」、そして「塵塚《ちりづか》の塵《ちり》」である。塵塚に塵が多くたまっているのが、どうして見苦しくないのか、その辺はちょっと理解しかねるが、文車の文、いまふうにいえば本箱の本のほうは、わが意を得ている。部屋のなかが本で足の踏み場もないほどであっても、私にとっては一向に見苦しくないのである。それは星をちりばめた銀河のようなものだからである。
そう、一冊一冊の本は、精神の宇宙のなかのひとつひとつの星のようなものであり、私はまさしく宇宙のどまんなかに、どっかりと腰をおろしているのである。
ヨーギンの岩屋
私はここで、ガンジスの岸を思い浮かべる。デリーから北へ約二百五十キロメートル、ガンジス川の上流に臨むリシケッシという聖地に、いくつかの僧院《アシユラム》が並んでいる。僧院のうしろにはヒマラヤの斜面が迫っており、その斜面の洞窟には、なんと二万五千人もの行者たちがヨーガの修行に明け暮れているのである。
岩の洞《ほら》に、もう十数年も住みつづけているという一人のヨーギン(ヨーガ行者)を私は訪ねた。秋もかなり更け、夜は寒気が迫るというのに、八十歳を越したと思われるそのヨーギンは、ほとんど全裸だった。岩屋は六畳ほどの広さであろうか。正面の壁ぎわに小さな机を据え、そこに灯明が揺れている。
岩屋の内部には、わずかな炊事道具のほか何もなかった。こんな洞によくまあたった一人で十何年も暮らしていられるものだと、私は驚嘆した。食事は自分でつくるのだが、その材料は一週間に一回ぐらいの割で、麓《ふもと》の僧院の弟子たちが運んでくれるのだそうである。それにしても――夜になれば漆《うるし》を塗ったような暗闇に閉ざされ、きこえるものといったら、名も知れぬ野鳥の不気味な啼き声と、下のほうから響いてくるガンジスの岩を噛む水音だけ。時計もなければ暦もない。ここでは歳月が静寂のうちに流れてゆくばかりなのである。もし、この岩屋に住めといわれたなら、私はどのくらいの日数に耐えることができるであろうか。おそらく一週間がせいぜいであろう。
洞窟のなかには、本がたった一冊あった。机に置かれているボロボロのその書物は何かとたずねると、ヨーギンは無表情のまま、その本を示した。インドの聖典のひとつである古代の叙事詩『バガヴァッド・ギーター』だった。彼はくりかえし、くりかえし、この一冊をひもといているのである。
漆喰で白く塗った岩屋の壁には、奇妙な図形が稚拙な筆の運びで、びっしりと描かれていた。蓮の花弁と思われる図形のなかに三角形、逆三角形が幾何学的な紋様のように並んでおり、反対側の壁面には人間の足の裏や、魚や、うずくまった人物や、建物などが、さまざまな色彩で描かれ、不思議な世界を現出させている。
この絵は何を意味するのか、と私はきいてみた。耳の遠いらしいヨーギンは、二回ほどきき返したすえ、ただ一言、「それはマンダラとヤーントラだ」と答えた。ヤーントラというのは護符のことだと、あとで知った。マンダラとは曼荼羅、すなわち、円、あるいは輪、あるいは球のことである。円や輪や球は、それ自体で完成した世界を象徴する。つまり、マンダラとは、全宇宙をひとつの図形のなかに描きあげたものにほかならない。
インドに生まれたこのような宇宙の表象、マンダラが、やがて中国や日本で密教の教義を示すイメージ、仏教絵画としてつたえられることになるのだが、その図形は、いうなら精神の世界地図、いや、宇宙地図と見てよかろう。マンダラとは、全宇宙を一枚の画面に凝縮したものなのである。
洞窟の壁面に描かれた奇妙な図像がマンダラときかされて、私はなるほど、と思った。この岩屋にはたった一冊の書物しかないが、その壁面は宇宙全体を語る書物でびっしりと埋めつくされているように思われたのである。ヨーギンは毎日、その書物を読んでいるのだ。だからこそ彼は十数年も、このような洞窟にひとり住んでいられるのであろう。
以来、私は自分の部屋をヨーギンの岩屋のように思い始めた。といっても、私は書斎の壁にマンダラを掛けているわけではない。マンダラのような図像を描いているわけでもない。私の書斎の壁面のすべては書棚になっており、そこに本が並べてあるのだが、その本の列がマンダラのように見えてきたのである。
そこにはさまざまな本がある。任意に近づいてみると、『伊勢物語』がある。ヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』がある。ベルグソンの『時間と自由』があるかと思うと、その近くに夏目漱石の『吾輩は猫である』が突っ込まれており、また、こちらの壁面にはヘロドトスの『歴史』、かと思うと、源信の『往生要集』、さらに『王維詩集』、シーボルトの『日本』、シュペングラーの『西洋の没落』、柳田国男の『遠野物語』、『アラビアン・ナイト』、そして山本周五郎の『青べか物語』……。
これらの本は一見、たがいに何の関連もないように思えるだろう。たしかにそこに書かれているのは、まったくべつの世界である。だが、すくなくとも私にとっては、これらの書物は共通の糸で結ばれている。どのような共通項? 私が自分で|えらんで《ヽヽヽヽ》買ってきた本であるという共通項である。だから、おそらく、このような書棚は他の人には理解できまい。ベルグソンと王維に何の共通性があるのか。ヘルマン・ヘッセと柳田国男にどんな媒介項が見出されるのか……。
そうきかれると、じつは私にも答えられない。だが、あるとき私はヘッセを読みたいと思い、あるときヘロドトスに興味をひかれ、またあるとき『遠野物語』の世界にたまらぬ郷愁を感じたことだけは事実である。そして、これらのまったく異質な世界が、私のなかで何となくひとつに溶け合い、私の世界をつくりあげていることもたしかである。すなわち、この書棚こそ私のマンダラなのだ。
「私」の曼荼羅
ヨーギンの洞窟の壁面に描かれたマンダラの図形は、私にはその意味をとらえることができなかった。そこに赤や黄で彩色されている建物や、魚や、人物像は何を象徴しているのであろう。
だが、ヨーギンにとっては、それらはバラバラな記号なのではなく、たがいに関連を持った全宇宙の図だということであった。それとおなじことが書棚についてもいえる。ある人の本箱に並べられている本の列は、たとえ、一冊一冊が異なった種類の本であっても、その人にとっては何らかの関連があり、なにがしかの糸で結ばれているのである。つまり、その本の列は、その人の世界を有機的に形づくっており、それらを有機的につなげるところに、その人の精神の営みがあるといってもいい。さらに別言すれば、その人が買ってきてそこに並べた書物は、彼によってデザインされた彼自身の宇宙なのである。
私が本を装飾品だといったのは、まさにこの意味である。マンダラがヨーギンの洞窟の壁面を埋める装飾であるのとおなじ意味で、書物も自分の世界を表現する装飾品ではないか。そして、人びとは書物で本箱を飾り、応接間に格好をつけていくうち、知らず知らず、そのマンダラからさまざまな啓示を受けとる。本とはそのようなものなのであり、だから私は、読もうと読むまいと、そんなことはお構いなしに、とにかく自分の机の上を、自分の部屋のなかを本で飾れ、というのである。そうしていると、たいへん不思議なことに、一見、まったく無関係のように思える書物が、いつか関連を持ち始める。
いつか、というのは、それを読んでみたときに、ということである。部屋に本が置かれていれば、いつかはその本を手に取ることになる。手に取って、ほんの好奇心から、あるいは退屈しのぎから、あるいは気まぐれに読み始めたとき、その本は――たとえ、どのような本であろうと――その人の精神世界のひとつの図形となるのだ。そして、そのようにして、一冊、また一冊と読みすすんでゆくうち、ひとつひとつの図形が、心のなかで有機的に結び合わされて、そこにその人の「私」の世界が形づくられてゆく。読書とは自分のマンダラを描きあげることだといってもよい。
いろいろなものごとを|関係づける《ヽヽヽヽヽ》こと、さまざまな要素を|組み合わせる《ヽヽヽヽヽヽ》こと、一見、異質なもののように思える事象のなかに何かの|脈絡を見つける《ヽヽヽヽヽヽヽ》こと、それが、そもそも知性の基本的な作業である。「知性」のことをギリシア語でロゴスというが、ロゴスのもとの意味は、「関係づける」ということである。そのようなロゴスの働きによって、やがて人間は因果関係を追い求めるようになった。この世界は、すべて因果関係によって組み立てられている。だから、世界を知るということは、その因果関係を追求するということにほかならない。
むろん、因果関係には、さまざまな因果の鎖《くさり》がある。それをその人なりに探究することが生きるということである。本に即していうならば、たとえばAの書物に書かれている世界が、Bという本に記されている内容と、いつか、どこかでつながる、いや、それを|つなげる《ヽヽヽヽ》ことが、|本を読む《ヽヽヽヽ》ということなのだと私は思う。そこに読書の愉しみがあるのだ。
ゑぢぷともどき
以上、いささか駄弁を弄したきらいがあるが、私が古代エジプトの『死者の書』で発見したのは、まさしく、そのような因果の鎖だった。それはつぎのような体験である。
前章に記したように、私はある日、偶然に神田の古本屋で、古代エジプトのピラミッドの壁面やファラオの石棺やパピルスに聖刻文字《ヒエログリフ》で記されていた『ピラミッド・テキスト(死者の書)』の邦訳、上・下二冊本を見つけた。それは私が以前、ニューヨークの書店で買ったウォリス・バッジ訳編のTHE EGYPTIAN BOOK OF THE DEAD(『エジプトの死者の書』)の日本語訳であったが、この翻訳はなんと、大正九年に出版されたものであった。日本で大正年間にこのようなテキストが翻訳されていようとは夢にも思わなかった私は、さっそくそれを買いこんで、幾晩もかかって原書と照らし合わせながら読んでいった。読んでゆくうちに、『死者の書』が、まるで祝詞《のりと》のように思えてきた。いまから四千年以上も前にエジプトの神官によって書かれたその祈祷書が、いつか身近なものになったのである。
それから――私はエジプトへ行った。カイロからナイル川に沿って汽車で一晩、翌朝ルクソールに着いた私は、ホテルに荷をおろすや、すぐに王家の谷へ向かった。何度訪ねても、荒涼とした王家の谷は、名状しがたい気分を旅人に起こさせる。目の前に立ちはだかる黄色い岩山を仰ぐと、ナポレオンのいいぐさではないが、旅人よ、「四千年が諸君を見おろしている」といいたくなる。
だが、数々のファラオのミイラが眠りつづけていたその谷の近く、デール・エル・バハリィにいまなお偉容を誇っているハトシェプスト女王の葬祭殿のテラスにたたずむとき、旅人はいっそう強烈な感動を全身に感じる。その感動は、三千数百年という時間の重力である。
この女王の時代、すなわち、新王国が起こる第十八王朝時代は、長いエジプト史のなかで最も劇的な時代であった。アメンホテプ四世、あのアクナトン王の宗教革命が吹きすさび、ツタンカーメン王が短い悲劇的な生涯を終えたのもこの時代である。ハトシェプストは、そのツタンカーメン王の七代前の女王である。
彼女は第十八王朝をかためた三代目のファラオ、トトメス一世の娘で、異母兄のトトメス二世の王妃となったが、夫のトトメス二世が死んで、庶腹のトトメス三世が即位すると、まだ幼少ということで摂政となり、やがてトトメス三世を退けて自分がファラオの位についてしまう。そして二十二年間エジプトを統治する。世界じゅうの遺跡のなかで最も見事な建築とさえ思われるこの葬祭殿を、荒涼としたデール・エル・バハリィに築かせたのが、この女帝なのだ。
ツタンカーメンについては、かなりくわしく語られているのに、目を見張るばかりの葬祭殿の主であるハトシェプストについて、あまり知られていないのは何とも残念なことである。それというのも、女帝の死後、ふたたびファラオの地位を奪還したトトメス三世が、自分をないがしろにしたハトシェプストを歴史の記憶から徹底的に消し去ろうとして、彼女の名をいっさいの記念碑や建造物からけずり取ってしまったせいである。歴史の改竄《かいざん》ということは、何千年も前から行われていたのだ。
それはともかく、私はハトシェプストの葬祭殿のテラスに立って、ふと、天武天皇の妃である|※[#「盧+鳥」]野《うの》皇后を思い浮かべた。※[#「盧+鳥」]野皇后は漢の高祖の妃である呂后によくなぞらえられるが、呂后よりも、このハトシェプスト女帝に似ているように思えたのだ。
※[#「盧+鳥」]野皇后は大津皇子を取り除いて、わが子、草壁皇子を天武天皇の後継者として皇位につけようとした。ところが、草壁皇子は即位を前に急逝してしまう。そこでわが孫にあたる軽《かる》皇子が即位することになるのだが、皇子がまだ七歳という幼少であったため、※[#「盧+鳥」]野皇后はみずから皇位につく。すなわち持統天皇である。
男まさりの持統女帝は、ただちに新都藤原京の造営を命じ、その新都に薬師寺を築かせる。そして、皇位を軽皇子に譲ったあとも、太上《だいじよう》天皇として君臨するのである。ハトシェプストはエジプト史上、最初の女帝であったが、持統帝は日本最初の太上天皇だった。壬申の乱につづく持統帝の時代は、日本史のなかで劇的な時代のひとつといえよう。その真相は秘された部分が多いが、それだけに多くの人たちの興味をそそる。
私はエジプトから帰ると、あらためて大和の山河を旅してみたいという誘惑に勝てなかった。私は明日香村へ出かけ、村のまんなかに盛りあがっている乙女の乳房のような甘橿《あまかし》の丘にのぼった。そして、その帰路、奈良の書店で、なんと、またしても『死者の書』にめぐり合ったのである! その表紙には、エジプトで死者をミイラにする山犬の姿をしたアヌビス神が描かれていた。だが、むろん、それはピラミッドに刻まれ、パピルスに記されていたあの『死者の書』ではない。折口信夫の幻想的な小説である。『死者の書』と題されたその本を、私は東京へ向かう新幹線のなかで読み始めた。それは死者が暗い墓のなかで甦るところから始まっていた。
[#ここから1字下げ]
「おれは、このおれは、何処《ドコ》に居るのだ。……それから、こゝは何処なのだ。其《ソレ》よりも第一、此《コノ》おれは誰《ダレ》なのだ。其をすつかり、おれは忘れた。だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声《ネ》を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田《ヲサダ》の家を引き出されて、磐余《イハレ》の池に行つた……」それはなんと、謀反の罪に問われ、死刑に処された大津皇子の独白だったのだ!
百伝《ももつた》ふ磐余《いはれ》の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠《くもがく》りなむ
[#ここで字下げ終わり]
という歌を残して無念の最期をとげた大津皇子の。
作者みずから、「ゑぢぷともどき」というこの小説が、私のなかであのエジプトの『死者の書』と重なり、こうして、私の書棚に置かれた古代の日本と太古のエジプト、それぞれの世界が、マンダラのように結び合うことになったのである。
[#改ページ]
ウェストコーストとカルカッタ
かつての「必読書」
私の青年のころには、学生の必読書というのがあった。だいたい高等学校の一、二年までには読んでいなければならない書物で、それを読むということが、いわば高校生の資格のように思われていた。
いったい、だれがそうした書物をきめたのか、いまもってわからない。おそらく先輩から後輩へと口移しに引きつがれていったものであろう。むろん、それを読まなければ高等学校を卒業できないとか、大学の入試に受からないとかいうわけではない。しかし、それを読まないことには一人前になったような気がしなかったし、事実、友だちとの会話についてゆけなかった。むかしの高校生は、朴歯《ほおば》にマントというあの奇妙な制服≠ゥらもうかがえるように、精いっぱい背伸びをしたがった。いっぱしの大人のつもりで、哲学を論じ、文学を語り、あげくは天下国家を憂えたりしていた。
その議論をいまきいたとしたら、おそらく吹き出してしまう体《てい》のものだったにちがいない。しかし、当人たちは大真面目で、深刻に世界苦を語り合っていたのだ。習いたてのドイツ語なぞをふりまわしながら。その大半が、例の必読書を自分なりに理解して得た生半可《なまはんか》な知識の受け売りであった。
では、その必読書とはどんな本だったのか。いろいろあったが、代表格は西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』、そして倉田百三の『出家とその弟子』だった。むろん、このほかにも、出隆の『哲学以前』とか、三木清の『パスカルにおける人間の研究』とか、ドストエフスキー、トルストイなどの小説もあった。が、一見してわかるのは、必読書の多くが哲学書であり、小説でも哲学的、宗教的な性格を持った作品であることだ。そのころの日本の社会の風潮が、そう哲学的だったとは思われない。にもかかわらず、学生たちが争ってこうした書物を読もうとしたのは、おそらく、哲学というものが難解であり、そのような難解な哲学書を読むことによってある種の自己陶酔に陥っていたのではあるまいか。それは青年の人生に対する真摯《しんし》な欲求というよりも、むしろ知的な虚栄心のほうが勝っていたように思われる。
じっさい、『善の研究』などは、高校生には、とても歯の立つ書物ではなかった。かなりの哲学的な基礎知識がなければ、第一ページからしてわからない。序文によると、この論文は著者が金沢の第四高等学校で教鞭をとっていたあいだに書かれたものであり、講義のノートがもとになっているそうだが、おそらく、このような講義をきかされた大半の学生たちは、よく理解できなかったのではあるまいか。
もっとも、西田幾多郎が金沢の高等学校で教えていたのは明治三十年代のことであり、そのころの高校生と、私たち昭和十年代の高校生とでは、勉強ぶりもかなりちがっていたのかもしれない。それにしても、いきなり「純粋経験」だとか、「統覚作用」であるとか、「知的直観」とか、こういった用語が何の説明もなしに出てくる難解な論文を、そうたやすく理解できたはずはないと思う。
というようなわけで、『善の研究』を何度読みかけてもわからず、ついに私は途中で投げ出してしまったのだが、むろん、そんなことは|おくび《ヽヽヽ》にも出さず、友だちには、ぜんぶ読んでわかったような顔をしていた。
『善の研究』に降参した私は、つぎに『三太郎の日記』に挑戦した。題名から察して、これならわかるだろうと思ったのだが、あにはからんや、こちらもちんぷんかんぷんだった。第一に文章がやたらにむずかしい。その上、いたるところにドイツ語が出てくる。『日記』というのだが、そのほとんどが抽象的な哲学論議で、何時に起きて、どこでだれと会い、何時に就寝した、などという日常の記録ではないのだ。しかし、この書物にはまだ私にもいくらかわかる部分があり、私はそれを勝手に解釈して読んだつもりになっていた。
三冊の必読書のなかでは『出家とその弟子』がいちばん理解しやすいような気がした。それでも親鸞を主人公にしたこの戯曲を読み通すのは、高校生には難行であり、苦行だった。なにしろ、仏教の知識なぞ、ほとんど持ち合わせていないのであるから。しかし私は懸命に努力し、赤線を引き引き読みあげた。赤線を引いた個所は、たとえば「智慧は運命だけが磨き出すのだ」とか、「大抵のことは、よく調べてみると自分に責があるものだ」というような言葉である。
大学の入試が迫っても、当時の高校生たちは、いまのように受験勉強に追いまくられるようなことはなかった。けっこう、のんびりしていた。だから本だけはやたらに読んだ。ちょうどそのころ、河合栄治郎編の『学生と読書』という本が出て、ベストセラーになった。何を読むべきか、いかに読むべきかを学生に説いた読書論で、前記の倉田百三や、出隆や、三木清、阿部次郎、長与善郎といった人たちがそれぞれ読書について論じていた。
その巻末に「読書の資料」として、高等学校時代の「必読書目」がずらりと並んでいる。それを見れば、昭和十年代の学生の読書傾向が一目でわかるが、二百四十三冊もあげられている本のうち、なんと九十六冊までが哲学書、もしくは哲学的エッセイなのである! ここからも、当時の哲学的《ヽヽヽ》風潮をうかがうことができよう。
むろん、小説もある。が、外国文学ではシェークスピア、ゲーテ、ロマン・ローラン、トルストイ、ドストエフスキーといった求道的《ヽヽヽ》な作家がほとんどであり、日本の作家でその「諸著作」をすすめられているのは、森鴎外、夏目漱石、徳冨蘆花、島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、二葉亭四迷、高浜虚子、武者小路実篤、長与善郎、倉田百三、野上弥生子の十二人だけである。
それにしても、この二百四十三冊(一作家一冊として)にのぼる「必読書」を高校の三年間に、どうやって読めというのだろう。私は頭をかかえた。むろん、これをぜんぶ読むなどということが、とうていむりであることは、すすめるほうも察していたとみえて、そのなかで「特に注意を喚起したい」書物に*印がつけられている。そのなかに前記の『哲学以前』、『善の研究』、『三太郎の日記』をはじめ、プラトン、カント、ルソー、ゲーテなどがあるのだ。必読書の震源地≠ヘこれだったのかもしれない。ともかく、哲学の道を通らなければ、私たちは大人になれなかったのである。
ふりかえっていま……
それから四十年。いまの高校生――といわず、いまの青年たちに、そうした「必読書」なるものがあるのだろうか。私は何人かの若者にきいてみた。
「そうだなあ、ちょっと前までは『共産党宣言』とか、『空想から科学へ』とかあったようだけど、それは学生運動の学習会のときぐらいで、いまはないなあ」といった青年が一人いただけで、ほとんどの学生が、そんなものない、と|にべ《ヽヽ》もなく答えた。なかには、だいたい「必読書」などという発想自体がナンセンスだ、ときめつける学生もいた。むかしとは状況がまるでちがうのだから、というわけである。たしかにそのとおりにはちがいない。片方で受験勉強に追われ、他方ではテレビ、ラジオ、映画、レコード、劇画、週刊誌といった情報の氾濫。そんななかで知的虚栄心のために歯が立たない哲学書などと取り組んではいられないのだろう。
といって、いまの青年たちがそういう読書とまったく無縁になったわけでもなさそうだ。げんに『三太郎の日記』は角川文庫に収められておどろくほどの部数が出ているし、最近私が買ってみた新潮文庫の『出家とその弟子』は五十四刷と記されていた。岩波文庫でいちばんよく売れるのは『ソクラテスの弁明』だそうであり、さきごろ文庫になった『善の研究』もすでに四十八刷に達している。かつての「必読書」は相変わらず読みつがれているのである。ただ、その読まれかたが変わってきたにすぎない。環境ががらりと変わった以上、読まれかたが変わるのも、とうぜんであろう。
最近、私は知り合いの青年から、夏目漱石の『こころ』の読後感をきかされて、いまさらのように「状況」の変化にびっくりさせられた。彼が『こころ』を読んで何よりも奇妙に思ったのは、主人公の住む世界の狭さだというのである。
「なんて世界が狭いんだろう。まったく信じられない!」と、彼はいった。
「世界が狭い? それ、どういうことだい」と私は意味を判じかねてきき返した。
「だって、そう思いませんか。舞台は学校と下宿だけ。いまのぼくらには、とても考えられないな」
「限られた舞台の小説や戯曲はいくらでもあるじゃないか。たとえばジョイスの『ユリシーズ』だって舞台はダブリンの町のほんの一隅、しかも、たった一日の出来ごとだからね。それでも何と広い意識の世界が描かれていることか……」と私がいいかけると、彼はあわてて、こういい直した。
「いえ、そういうことじゃないんです。おなじ大学生といっても、いまのぼくらと、あのころの学生とでは、世界がまるっきりちがうということですよ。下宿の娘を二人の学生が張り合うというのは、いまだってありますが、どうしてあんなふうに深刻になり、自殺までしなければならないんだろう。それはそれとして……ここに出てくる二人の学生たちの生活です。ぼくらが考えられないのは」
それをきいて、私は「状況」の変化なるものを、あらためてつくづくと考えさせられたのである。
漱石の『心』が朝日新聞に連載されたのは大正三年のことである(途中から「こころ」と改題)。私の学生時代はそれから三十年後だった。そして、いまの学生たちは、さらに三十年あとである。つまり、私は漱石の時代と現在とのちょうど中間に学生時代をすごしたわけである。だが、おなじ三十年といっても、前の三十年とあとの三十年とでは比較にならないほど「状況」は変化した。敗戦による激変ばかりではない。生活の物的環境が、回り舞台をぐるりとまわしたように、すっかり変わってしまったのだ。
世代によるものの見方や感じ方の相違というものは、いつの時代にもあった。それをよく語っているのは、私たちにとって「必読書」の一冊でもあったツルゲーネフの『父と子』であろう。ここには、新しい時代の青年たちに|とてもついてゆけない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》父親の姿が、いささか戯画化されて鮮やかに描き出されている。父親が息子の世代についてゆけないということは、同時に、息子が父親の考えについてゆけないということである。世代はたがいに反目せざるをえない。
それにしても、父と子は反目《ヽヽ》できたのである。反目ということは、どこかにやはり共通の地盤があるということだ。ところが現代の新旧両世代は、共通の地盤をまったく欠いている。これでは反目のしようもない。両者は異邦人のように異なった世界に住む相手を、ただ不思議に思うほかないのだ。まさしく、世代の断絶《ヽヽ》である。
ひところ流行語にまでなった「断絶」という言葉は、最近はあまりきかれなくなった。だが「断絶」の状況が影をひそめたわけではない。すっかり定着してしまっただけの話である。定着してしまうと「断絶」の状況はかえってあまり意識されなくなる。それをさきの青年は、あらためて私に教えてくれたのだ。漱石の時代、私たちの世代、そして彼らの世界との激しい隔たりを。
アメリカ派とインド派
もちろん、私たちは学生のころ、そんな「必読書」ばかり読んでいたわけではない。わかりもしない哲学書にやたらに赤線を引いて知的虚栄心に浸っている学生を不思議そうにながめ、もっぱらスポーツに励んでいる|健康な《ヽヽヽ》学生たちもたくさんいたし、コンサートや映画館に足繁くかよう学生も数多くいた。しかし、音楽といえばクラシック音楽であり、映画といえば洋画《ヽヽ》、なかんずくフランス映画だった。青年はいつの世にもいくつかのグループに分かれるものだが、私たちの世代はこのように分かれながらも、ヨーロッパ一辺倒であることでは共通していた。
「いまの若者たちはどうなのかね」と、私は彼にきいてみた。
「やはり、いくつかに分類できますね」と、彼はまるで他人《ひと》ごとのようにいった。
「そう、何ていったらいいかなあ……大きく分けてウェストコースト派とカルカッタ派に分類できるんじゃないかな」
「なんだい、そのウェストコースト派っていうのは。ロック音楽のうえの分類なのかい」
「この際はべつにロックに関係ありません。ただ何となく、ムード的にそう分けられるってことですよ。アメリカ派とインド派といった方がいいかな」
「ほう、それ、どういうこと?」
「たとえばですよ、どこか海外旅行をしようというときに、アメリカのウェストコーストをえらぶやつと、インドへ行きたがるやつとに分かれるということです」
「それぞれにちがうのかね」
「まあ、ちがうな。何となくわかるでしょう。アメリカの西海岸へ行ってドライブして、ディズニーランドで遊んで、ディスコへ行って、というのと、インドのカルカッタあたりをうろついて、ヨガ行者を訪ねたり、ガンジスの川っぷちで瞑想したがったりするのとでは……。そういや、もう一派あるな」
「もう一派? その派はどういう連中なんだい」
「冒険派です。サハラ砂漠とか、アマゾンなんかに行きたがる冒険好きのやつですよ」
私は思わず苦笑した。これまで私は何度かサハラ砂漠へ出かけており、アマゾンへも行っているからだ。とすれば私などはこの分類によると、第三のグループに属することになりそうだ。が、ウェストコーストをドライブして、ディズニーランドへ遊びに行ったこともあるし、インドでガンジス河畔のヨーガ道場に何日か泊りこんだこともある。そうしてみると、私はいったい何派なのか。
しかし、そんなことより私を考えこませてしまったのは、現代の日本の青年たちの、それこそグローバルな視野である。彼らはまちがいなく、ひとむかし前の青年とは比較を絶するほど広い世界に住んでいるのだ。むろん、多くの若者たちは金がないから、そうかんたんにサハラやインドやウェストコーストへ出かけているわけではあるまい。けれども、行こうと思えば行けるという意識を持っている。その意識の|あるなし《ヽヽヽヽ》で視野はまったくちがってくる。私たちの青年時代と、いまの若者たちの決定的な相違は、その世界の広さなのだ。仲間をいとも気軽にこんなふうに分ける現代の青年の意識を、つぎの萩原朔太郎の詩のイメージとくらべてみたらいい。
ふらんすに行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん (旅上)
フランスは遠いから、グアム島にしておこう、などというのではない。せめて汽車に乗って、どこか国内を旅してみたい、というのだ。そして、「みづいろの窓によりかかりて/われひとりうれしきことをおもはむ」と。
「なるほど」と、私はいった。
「おもしろい分け方だなあ。しかし、どんな本を読んでいるか、ということでは分類できないかね。たとえば、大江健三郎派とか、高橋和巳派とか、五木寛之派とか、筒井康隆派とか。あるいは、マルクーゼ派とか、サリンジャー派とか、アガサ・クリスティ派とか……」
「そいつはわかりませんよ。めいめい勝手に読んでるから。それより雑誌で分けたほうがまだ何となくわかるかな」
「雑誌って、どんな雑誌?」
「ま、いろいろあるけど、傾向としてはですね、『ポパイ』派と『宝島』派あたりが、ムードとしてわかりますね」
「読者がそんなにちがうのかい」
「そんなにってわけじゃないけど、まあ、いってみれば、『ポパイ』はウェストコースト派とダブっていて、『宝島』のほうは、どちらかといえばカルカッタ派ですね。これ、ぼくだけの意見かもしれないけれど……」
ともかく、若者たちの色分けは、いまや世界地図でなされるようになったのである。
あわてるな!
河合栄治郎氏に倣《なら》って、「学生と読書」とか、「学生と教養」といった問題を考えようとするならば、その際に充分に考慮に入れなければならぬもうひとつの「状況」がある。それは平均寿命が、ひとむかし前には考えられないほど延びたということである。端的にいえば、人生五十年が一挙に人生七十五年になったのだ。いや、間もなく人生八十年になろうとしている。これは物的な生活環境の変化以上に重要な「状況」の激変である。なにしろ、人生が一・五倍になったのであるから。
とうぜん、読書という人生における大事な作業も変わってこよう。読者のあり方もさることながら、読書と年齢の関係も見直さねばなるまい。いままでより二十五年も長生きできるとなれば、なにもそうガツガツとあわてて本を読む必要もなくなるわけだ。
河合栄治郎編の『学生と読書』が、高校在学中に必ず読めといって挙げたあの二百四十三冊は、あくまで人生五十年というライフサイクルを前提としてのことである。少年老イ易ク学成リ難シというのも、やはり人生五十年的感慨であろう。もっとも、人間というのは、とかく怠惰に流れがちだから、寿命がいくら延びても少年は老い易いのかもしれない。しかし、とにかく一・五倍の生命《いのち》が与えられるようになったのだから、すくなくとも一・五倍はゆっくりできるはずではないか。
むかしの青年は大人だった、それにくらべていまどきの若い者は、とよくいわれる。たしかにひとむかし前の人たちは早熟だった。石川琢木にしても、芥川龍之介にしても、彼らの代表作はほとんど二十歳台で生まれている。「必読書」の代表にあげられた『出家とその弟子』を倉田百三が書いたのは、大正五年、彼が二十六歳のときであった。
けれども、それをいまのライフサイクル、すなわち人生七十五年に引きうつしてみれば、二十六歳は三十九歳ということになる。逆に、いま二十歳の青年を、以前の人生五十年に換算すれば、なんと十三歳とちょっとだ。なにも十三歳であんなにたくさんの「必読書」を読み、一知半解で通りすぎることはないではないか。劇画でもたくさん読んで、それからゆっくりと人生七十五年の教養を身につけたらいい。げんに私自身、いつも自分の年齢をそのように換算している。私はつい最近五十五歳になったのだが、むかしの人生でいうと、まだ三十六歳である。私の書棚には読みたいと思いながらまだ読んでいない書物が万巻とある。それをながめると、かつて青年時代に「必読書」に追われたように、つい焦りがちになるが、そういうとき、私は自分がまだ三十六歳なのだと思いかえす。なにもあわてることはありはしない。
ところが、奇妙なことに、現代の青年たちの世界は、空間的にはグローバルに拡大したのに、時間的には逆に縮められてしまった感がある。私の会ったどんな青年たちも、みな一様に、忙しくて本なぞ読んでいるひまはない、というのだ。テレビを見、ラジオをきき、映画へ行き、コンサートやディスコにかよい、週刊誌を読み、劇画の必読書≠ノも目を通し……というぐあいで、寸暇もないのだそうである。そして、社会も彼らを人生五十年のペースで評価し、扱っている。人生の八十年を生き抜くためには、五十年を生きるよりも、人生に対するもっと長いもっとゆっくりとした準備が必要ではないか。
私はカルカッタ派を自称する彼に、青年時代の必読書を参考のためにあげてやろうと思っていたのだが、やめた。私はまだまだ性急すぎるようである。
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開け、ゴマ!
良書はかくれる
欲しい本がなかなか手に入らないという声を、最近よくきくようになった。そういう声をきくと、私は終戦の前後を思い出す。
あのころも、欲しい本はなかなか手に入らなかった。岩波文庫を買うために徹夜で書店の前に並んだ、などという話さえある。私はそこまで熱心ではなかったから、本屋の店先で夜を明かした経験はないが、やっと手に入れたセンカ紙のような文庫本を、撫でたりさすったりしている友だちの姿はよく見かけた。いうまでもないことだが、用紙の不足で本がたくさん刷れなかったのである。だから書物はじつに貴重だった。
ところが、最近の事情は、まったく反対なのである。部数が少ないために本が入手できないというのではなくて、逆に、本があまりに多すぎて、それで自分が欲しいと思う本がなかなか見つからないというのだから、まさに隔世の感がある。ずいぶん贅沢な話だと思う。書店の前で徹夜することを考えれば、多くの本のなかから自分の求める一冊をさがすぐらいの労は取るに足りないではないか。欲しい本を見つけるのが大変だ、などとぼやくのは、横着もいいとこだ。
といっても、だから本の流通機構は現状でよろしいというわけではない。たしかに出たはずの本が、どこをどう探しても見つからないことがちょいちょいある。版元にたずねてやっと入手するような場合もしばしばだ。きくところによると、|ある種の《ヽヽヽヽ》書物は書店へ運ばれても、荷もほどかれずにそのまま返本されてしまうのだそうである。書棚に並べてもらえないのだから、これでは探しようがないわけだ。
|ある種の《ヽヽヽヽ》本というのは、むろん、悪書のことではない。売れそうにない本ということである。学術書、専門書、要するに硬い本であり、あるいは無名の著者の労作のたぐいである。一部の読者にとっては、この上ない良書にはちがいないが、そういう書物は、まず売れそうにないから、書店の側からすれば悪書ということになるのであろう。そんな悪書≠ノ貴重な書棚のスペースを割くわけにはゆかないのだ。そこで、良心的読書人は、本屋の仕打ちに、つい文句をつけたくなるのであろうが、私は、それはやむをえないことだと思っている。書店は、べつに文化事業に献身しているわけではない。そう自負している書店主もないではなかろうが、書店というのは本を売る商売なのだから、よりによって売れそうにない本ばかりを書棚に並べていたのでは、とてもやってゆけない。とうぜん、売れそうな本をえらぶことになる。それに文句をつけるわけにはゆくまい。
またまた逆説を弄するようだが、私はむしろ、本というものはそうかんたんに手に入らないほうがいいと思っているのである。欲しい本、読みたい本が、右から左にすぐ手に入るというのでは、あまりに張り合いがなさすぎるではないか。容易に見つからないからこそ、本の有難味がわかるのであり、それを手にしたときのうれしさもひとしおということになる。だから、良書ほど入手が困難であるという実情は、西洋流にいうならば、学芸と知恵の神ミネルヴァの配慮なのであり、日本ふうにいえば、天神さまの思し召しと考えるべきであろう。
良寛の逸話にこんなのがある。
ある人が良寛に、「何がうれしいって、お金を拾ったときほどうれしいことはない」と語った。「ほう、そんなにうれしいものかな」といって、良寛は懐中の金を路上に投げて拾ってみたのだが、すこしもうれしくなかった。ところが何度か金を放り投げているうちに、その金が草むらのどこかへ見えなくなってしまった。良寛はあわてて探したのだが、見つからない。やがて日が暮れかかり、あたりは暗くなってきた。夢中で探すうち、とうとう見つかった! 良寛は思わず、こうつぶやいたというのである。
「なるほど、金を拾うということは、まことにうれしいことだわい」
本もそれとおなじではないか。懸命に探して、やっと見つけたときほどうれしいことはない。そこで私は、欲しい本がなかなか見つからないという当今の実情に、むしろ感謝するのである。
探す愉しみ
ともかく、右から左というのは、どうもよろしくない。欲しいものがすぐ手に入るとなれば、どんなものでも有難味がうすれ、味気なくなり、ついには欲しいと思わなくなってしまうからである。書物に関していえば、それは知的な欲求を、逆にいちじるしく減退させてしまう結果になりかねない。
講演会で人を集める方法は金をとることである、という話をきいたことがある。どんなにいい講演でも、無料で入場自由となると有難味がなくなって、雨でも降れば、つい行かずじまいになってしまう。ところが、三百円でも五百円でも金を払ったとなると、むだにするのは忍びなく、無理をしても出かけるというのである。たしかにそういうものだろう。
本も同様で、人から借りたり、もらったりした本はなかなか読まない。読んでも、せいぜい通りいっぺんで、真剣になって読もうという気がおこらない。だから、講演の場合に倣《なら》っていうならば、本を読むためのコツは、まず金を払うことであり、それも、財布をはたいて買うにしくはない。そのうえ、その本を見つけるまで苦労すればするほどよろしい。考えてもみたまえ玄奘《げんじよう》はインドの経典を手に入れるために生命の危険さえ顧みず、灼熱のタクラマカン砂漠を越えたではないか。それによって経文の有難さは倍増したといってもよい。だから、本がやたらに出るおかげで、自分の読みたい本がなかなか見つからず、また、やっと見つけた良書が、部数僅少なるがゆえにえらく高くて財布をはたかなければ買えない、という最近の状況は、むしろ歓迎すべきことなのである。書物がそう安っぽく、まるで使い捨てライターのようになってはたまったものではない。
それにしても、たしかに本は探しにくくなった。なにしろ、新刊書が年に二万八千二百七十七点(昭和五十三年度)も出ているのだ。重版をふくめれば三万八千八百三十七点である(『出版月報』)。推定発行部数は五億四千二百五十三万冊にのぼる。かりに一冊の厚さを一センチと見つもっても、これだけの本を書棚に並べるとしたら五千四百キロという棚の長さが必要となる。時速千キロのジェット機でその上を飛んだとしても、五時間半もかかるわけである。
そんな現状だから、さいわい荷を解かれて書店の本棚に置かれたとしても、その期間はごくわずかで、早ければ一週間もたたぬうちに返品されてしまうのもむりのない話なのである。おあとがつぎつぎにひかえている。そういつまでも一冊の本が書棚を占領しているわけにはゆかないのだ。だから、本を探すほうにしても油断ができない。週に何度かは書店に足を運んで、ウの目タカの目で書棚を見てまわらないと、宝物を逸するおそれがある。良書というのは、だいたいにおいて部数が少なく、出版社の予算も乏しいから、広告さえ目につかない。うっかりしていると、永久に手に入らなくなってしまう。新刊の書店から消えてしまったら、つぎには古本屋をさがすという手があるが、必ず見つかるという保証はない。新刊書の広告を切り抜いて貼りつけてある私のノートのなかで、とうとう見つけそこなった書物が少なからずある。
だが、それだからこそ、本を探す愉しみがあるのではないか。欲しい本がすぐに手に入るようでは一向におもしろくないし、本を手にしたうれしさも味わえまい。私はよく旅に出かけて日本を留守にするが、帰国してからの愉しみのひとつは、留守中に出た新刊書を探しにゆくことである。私のいないあいだにつぎつぎに本が出て、つぎつぎに姿を消してしまっている。それを追跡するときの愉しみといったらない。
私はときどき、夢中になって探している本をついに手に入れた――という夢を見ることがある。見つけて、それを懐《ふところ》に抱いた夢である。本懐《ヽヽ》をとげるとは、まさしくこのことであろう。そして、こんな夢を見られたなら、当の本も、さぞや本望《ヽヽ》にちがいない。
知恵と情報
石をかくすなら石のなか、人にかくれるなら人のなか――という諺《ことわざ》がある。私は本を探しにゆくとき、いつもこの諺を思い出す。欲しい本は無数の本のなかに、いつもこっそりとかくれているからである。それこそ、現代の宝さがしではないか。この意味でも、年間三万点に近い新刊書が出ているということは有難い。本を探すよろこびを、その膨大な新刊書が保証してくれているからだ。
人間にとって、最大の愉しみは「探す」ということではなかろうか。人間が地球上に出現したとき、まっ先に行なったのは「探す」ということだった。彼らはまず食物を探しに出かけた。食物を探すことは、ずいぶん骨の折れる仕事だったろう。けれども同時に、この上なく愉しいことだったにちがいない。苦労が大きければ大きいほど、それを見つけたときのよろこびも大きい。極端にいうならば、人生は「探す」ことにあるのだ。
幸か不幸か、現代の私たちは食物を探す必要はない。食べたいものは、すぐに手に入れることができる。しかし、こういった安易さが、食べるということの愉しさをかなり奪っているような気がする。ああ、思いがけずにこんなものを食べることができた! というよろこびをすこしも与えてくれないからだ。
ニジェール川に沿って、サハラの南縁地帯《サヘル》を一ヵ月近く旅したことがある。このあたりは慢性的な飢餓地帯である。私たちは毎日、食料を見つけるのにえらく苦労した。一日一食という日もしばしばだった。だが、やっとありついた粗末な砂の上の食事が、どれほどうまかったことか! ニジェールから帰ってしばらくのあいだ、どんな立派なレストランで食事をしても味気なかった。欲しいものを注文すると、それがすぐにテーブルに運ばれる。それがどうにもおもしろくなかったのである。
食事はもとより、現代の便利な社会では、もう探すということがほとんどなくなってしまった。金さえ出せば、欲しいものはすぐ手に入る。いや、欲しいと思うより先に、こんなものが欲しいでしょうといって、向こうから持ってきてくれるのだ。そのなかで最たるものが、情報であろう。見たくない、ききたくない、知りたくない、といっても、情報はつぎからつぎへと私たちに提供される。こうしたなかで、本というものも、ついに「情報」のひとつのようになってしまった。情報社会といわれるものは、多量の情報が多数の人にゆきわたる社会のことであるが、もうひとつの重大な特質は、あらゆるものが情報化《ヽヽヽ》されるということである。
さきごろ、私はあるデザイナーから「ファッションも情報である」などと、したり顔にきかされたとき、半ば冷笑していたのであるが、考えてみると、それはけっして冷笑すべきことではあるまい。どんなモードの衣服を身につけるか、ということは、外面を自分の内在的な価値意識にどのように照応させるか、というより、自分を見る人にどんなメッセージを送り得るか、という情報の問題に変質しつつあるのだ。
このようにファッションまでが情報化《ヽヽヽ》される世の中なのであるから、書物が情報化《ヽヽヽ》されるのはとうぜんであろう。本のなかでも実用書といわれるものは、もともと情報にちがいないのだが、教養書と呼ばれる書物でさえもが、しだいに情報的な性格を帯び、情報として取り扱われるようになってきた。つまり、たんなる情報のように読まれ、そしてつぎつぎに捨てられてゆくのである。情報社会は、まず、知恵を知識へ変えた。ついで知識を情報に変える。情報化とは人間にとって何より大切な知恵が、ついには情報になりさがることなのである。
だが、自分にとっての大切な一冊を探すということは、逆に、数限りない情報のなかから知識を求め、求めた知識をさらに知恵にまで引きあげようとする作業ではないか。つまり、無数の石ころのなかにかくれている玉を探しだすことであり、それを自分の棚に飾ることである。自分の本棚に飾って折にふれては取り出し、磨いていれば、石ころとまがうその玉は、しだいに光りだすだろう。本を探す愉しみはそこにあり、本を読むよろこびはそこにある。
「丸善の二階」
田山花袋の『東京の三十年』という回想記に、「丸善の二階」という一節がある。その二階は、明治三十年代の日本の青年にとって、江戸時代の「長崎」のような役割を持っていた。彼はこう記している。
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――丸善の二階、あの狭い薄暗い二階、色の白い足のわるい莞爾《につこり》した番頭、埃だらけの棚、理科の書と案内記と文学書類と一緒に並んでゐる硝子《ガラス》の中、それでもその二階には、その時々に欧洲を動かした名高い書籍がやつて来て並べて置かれた。(中略)
それを何《ど》ういふ人が買ったか。又それを何ういふ人が読んで何ういふ感じを起したか。読んでしまつて何とも思はずに書棚の中に徒らに並べられたか。それとも反古《ほご》にされて捨てられて了《しま》つたか。しかしそのまことの種は――人類の中心にふれた種は、捨てられても捨てられてもつひに捨て了《おほ》せられて了《しま》ふものではなかつた。(中略)極東の一孤島の新しい処女地には、いつ蒔《ま》かれるともなくその種は蒔かれて行つた。
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そこに並べられたトルストイの『親々と子供』の一冊を恋人のように抱えて行く青年もあれば、ひと月の小遣いをはたいて『アンナ・カレーニナ』を買って行く若者もいた。むろん、彼もそうした若者のひとりだった。彼はモーパッサンの短編集の広告を見て、あとさきも考えずにそれを注文してしまう。
「それの到着したのは、忘れもしない、(明治)三十六年の五月の十日頃であつた」と彼は書いている。そのころ彼は博文館の編集者をしていたのだが、むろん薄給で、受けとってくる金がない。けれど彼はつぎの給料日まで待てなかった。彼は出版部長に泣きついて十円を前借りし、激しい雨のなかを丸善まで出かけて行く。「安いセリースで、汚い本であつたけれど、それが何《ど》んなに私を喜ばしたであらう。ことに、この十二冊の『短編集』の日本での最初の読者であり得るといふことが、堪《たま》らなく私を得意がらせた。私は撫でたりさすつたりした」
彼はさっそく、それを友人の柳田国男に見せびらかしに行き、彼に二、三冊貸してやる。そして花袋は、このモーパッサンによって、なんと、あらためて西鶴の価値を発見するのである。
イフタフ・ヤー・シムシム!
花袋の『東京の三十年』が出版されたのは大正六年であるが、彼がこのなかで回想している三十年前、すなわち明治二十年ごろの東京は、いまから考えると想像できないほど牧歌的な町だったようである。交通機関といえば、「大通《おほどほり》に馬車鉄道があるばかり」で、東京の市中はどこへ行くのにも徒歩だった。にもかかわらず、古本屋があちこちにずいぶんあったらしい。
「其頃には、東京市中には、到る処に古本屋の店が、丁度今日の雑誌店のやうになってあつて、文集詩集などが沢山並んでゐた」という。彼はそういう古本屋をたずねて、池之端や、「芝の露月町の細い巷路」や、「神田の明神下」や、「湯島の細い坂路」などをよく歩きまわっている。さぞ、愉しい散歩だったことだろう。
それにくらべると、現代の都会での本屋歩きは、まことに殺風景である。小さな書店には週刊誌、マンガ本、婦人雑誌、あとはせいぜい新書判と実用書ぐらいしか置かれていないし、大きな本屋は大きな本屋で、みなビルのなかに入ってしまい、まるで資料室のようになっている。分野ごとに並べられているから、便利にはちがいないが、そうした書棚に無数の本がぎっしりつめこまれていると、いよいよ書物が情報化されてしまったという実感が迫ってくる。
だが、私は、ひるむ心をぐっと押さえて、大きな本屋に入るときには、かならず「イフタフ・ヤー・シムシム!」という呪文を唱えることにしている。大きな書店には、たいてい自動ドアがとりつけられているから、その前に立つと自動的にドアがするすると開く。私はにっこりと笑い、さて、このなかにどんな宝物がかくされているかと期待しながら、ゆっくりと書棚を点検してゆく。「イフタフ・ヤー・シムシム!」とは「開け、ゴマ!」という呪文である。
古本屋のほうも、神保町あたりはビルを構える店が多くなったが、何といっても古本屋だから店内には独特のムードがある。そして、「開け、ゴマ!」という呪文の威力は、こっちのほうがはるかに通用する。とんでもない掘りだしものにぶつかることがあるからだ。
それだけに、失敗もある。ある日、私はかねてから目をつけていた『×島○郎全集』を思いきって買った。まだ、だいじょうぶだろう、などと思っていると、つぎに行ったときにはもうない、ということがよくあるからだ。私はそんな苦《にが》い目を何度か経験していた。だが、その重い本包みを預けて、なおもぶらぶら歩いていると、その数軒先の古本屋に、たったいま買ったのと、まったくおなじ『×島○郎全集』が、なんと五千円も安い値段で並んでいたのである。しまった! と思ったが、もうおそい。いまさら返すわけにもゆくまい。私は唇を噛みながら、「ええい、こんな書棚を見なければよかった!」と思った。
ところが、さらに歩いて行くと、さらにもう一軒の古本屋に、やはりおなじ『×島○郎全集』がウィンドーに飾られていた。なんだ、結構、この全集は出まわっているんだなと思い、近づいてのぞきこむと、それには私が買ったのよりも、なんと一万円も高い値段がついていたのだ! 私はにんまりと笑ったが、同時に、さきの五千円も安い全集を思い出して、また唇を噛んだ。このふたつの全集のおかげで、私は文字通り悲喜こもごもの気分を持て余すハメになったのである。
ああ、セサミ・ストリート!
しかし、考えてみれば、こいつはなかなか面白いことではないか。現代の都会で、おなじものが数軒先の店と、五千円も一万円もちがうなどということは、古本以外にはそう考えられない。おそらく、それぞれの店の主人は、他の店でおなじ全集が五千円安く、あるいは一万円も高く売られているのを、じゅうぶん承知しているにちがいない。承知しながら、平然と自分の店の値段をつけるのは、本というものが他の商品とちがって、いちがいに金に換えられないものであることを知っての上であろう。
そこで私はすっかり愉快になった。すべてを情報化してしまう現代社会のなかで、そうした情報化をせせら笑っている世界がまだ残されているのを、あらためて確認したからである。
「ふ、ふ、ふ、ここだけはまだ、書物というものの価値が充分に確保されているんだな」と私はつぶやき、さきほど買った大事な全集を受けとりに、もとの店へもどって行った。神保町の古書店街が、そのとき、セサミ・ストリートのように思えた。セサミというのはシムシム、すなわちゴマの英訳であり、セサミ・ストリートとは、すなわち、ゴマ通りということである。
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一冊の本
選ぶとしたら
もし無人島へ流されるとしたら、どんな一冊を持って行くか、という質問を何度か受けたことがある。無人島に島流しにされるなどということは、まずありえないから、そういったアンケートに答えたことはないが、無人島ではなく刑務所だったらどうだろう。刑務所となると、そんなところに入るなんてことは絶対にありえない――とはいい切れないような気がする。
かりに懲役五年とか、十年とかの判決をいい渡されて刑に服することになり、入獄中、たった一冊の本しか所持できないとしたら、さて、私はどんな本をえらぶだろう。さんざん迷ったあげく、結局、何も持って行かないことになるのではなかろうか。獄中では、本などを読むより、瞑想していたほうがいいように思う。というのは、自分の心を、たった一冊の本のなかに閉じこめてしまうのは、やりきれないからだ。もし、どうしても持って入らなくてはいけないといわれたら、そうだ、『広辞苑』を持って入ろう。これだったら、日本語がぎっしりつまっているし、べつに特定の思想や感情が盛られているわけではないから、考えるヒントを無数に与えてくれるだろう。十年の刑を終えて出てきたら、言語哲学者、あるいは国語学者になっているかもしれない。そして、「言語と思考」とか、「日本人の思考様式」とかいった論文を書きあげていることになろう。
いや、話がつい横道にそれてしまったが、ともかく、「一冊の本」というのは、答えようのない難問である。これまでに最も感銘を受けた一冊をあげよ、といわれても容易に返事ができないし、これから先、どうしても読んでみたい一冊を選べ、といわれても困る。「私を変えた一冊の本」は何だろうと、ときどきそんなことを考えてみたりもするのだが、どんな本をあげても、その本が自分を変えたような気がするし、考え直すと、そうでないようにも思われてくる。そして、しまいには、世の中にこんなにたくさんの書物があるのに、何もわざわざ「一冊」にこだわることはないじゃないか、ということになって、無益な思案はやめてしまう。一冊の本を選ぶというのは、要するにむだな努力である。
わが武蔵野
とはいえ、私にとって忘れがたい本、折にふれては読み返したくなる書物がないわけではない。そのなかの一冊は、国木田独歩の『武蔵野』である。さらに限定すれば、『武蔵野』のなかに収められているいくつかの小品のうち、冒頭にある『武蔵野』と題した一文である。なぜなのか? 理由ははっきりしている。私自身が武蔵野に育ったからだ。
私が生まれたのは東京の巣鴨で、庚申塚《こうしんづか》の近くだったそうである。そうである、などというのは、いかにも心もとない話だが、人間はだれだって自分がどこで生まれたのか断言できないのではあるまいか。生まれたときのことは、どんな人でもおぼえているはずがないし、確固とした証拠を持っているわけでもない。ただ、両親に教えられて、そう思いこんでいるにすぎないのである。しかし、よほどの事情がないかぎり、両親がウソをいうはずもあるまいから、親のいうことは信じてよかろう。まあ、私がどこで生まれようと、そんなことはどうでもよい。とにかく私は巣鴨で生まれ、生まれると間もなく、当時、東京のまったくの郊外だった中野に移り住んだ。そして、中野で幼年期、少年期、青年期を送った。
東京の中野が武蔵野だなどとは、いまでは考えられもしないが、半世紀も前の中野には、まだまだ雑木林があちこちに残っていた。私の家のすぐそばには広い野があり、その野の先は雑木林で、一本の細い道が野から林へとつづいていた。林を抜けると、下に見える浅い谷は一面の水田で、その向こうに小高い丘があり、丘をとり巻いて、さらに雑木林がひろがっていた。
少年のころには、この野が私の遊び場であり、林はセミを捕《と》ったり、ドン栗を拾ったりする格好の狩猟場、採集地だった。が、やがて青年期を迎えると、そこは書物を抱えて行くところとなり、「座《ざ》して四顧《しこ》し、傾聴《けいちやう》し、睇視《ていし》し、黙想す」る場所となった。私は林へかならず独歩の『武蔵野』を携《たずさ》えて行った。そして、林の奥に座して読んでいると、いつのまにか自分が『武蔵野』の作者その人になるように思えてくるのだった。その一節に、こうあるのだ。
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――秋の中ごろから冬の初《はじめ》、試みに中野あたり、或《あるひ》は渋谷、世田ケ谷、又は小金井の奥の林を訪ふて、暫《しばら》く座《すわつ》て散歩の疲《つかれ》を休めて見よ。此等《これら》の物音(鳥の声、風の音、荷車の響《ひびき》=引用者)、忽《たちま》ち起り、忽ち止《や》み、次第に近づき、次第に遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちて微《かす》かな音をし、其《それ》も止んだ時、自然の静粛を感じ、永遠《エタルニテー》の呼吸身に迫るを覚ゆるであらう。
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私が座《ざ》した中野の雑木林は、さすがに「永遠《エタルニテー》の呼吸身に迫るを覚ゆる」とまではいかなかったけれど、それでも頭上でざわざわと鳴る楢《なら》の葉ずれの音は、何ともこころよかった。そして、日が向こうの丘の背にかくれると、すぐ下の田圃から立ちのぼる藁《わら》焼く煙の匂いが、しみじみと秋を感じさせた。日がすっかり落ちてしまうと、急に肌寒くなり、虫の声があたりからいっせいにきこえてくる。私はようやく腰をあげ、暗い野路を人家の灯に向かって歩いて行く。家がかなり建ち始めてはいたが、中野はまだまだ武蔵野の一隅だった。だから独歩の『武蔵野』は、私にとっては、私のために書かれたようなふるさとの書≠セったのである。
私はこうして家のまわりを逍遥しながら、このあたり、昔はどんな風景だったのだろうと、よく想像した。たぶん、いちめんの萱原《かやはら》だったにちがいない。すると――ある日、たまたま、朝日新聞に連載されていた吉川英治の『宮本武蔵』のなかに、わが家附近の昔の情景が描かれているのを見つけた。武蔵が伊織《いおり》を連れて武蔵野に分け入るくだりである。伊織は自分の背丈よりも高い草をかき分けて夢中で武蔵のあとを追う。先生はどこへ行こうとしているのか、と思いながら。
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『どこ迄行くんです』
『どこか、住み心地のよさそうな所まで』
『住むんですか、ここへ』……
『秋になってみろ、これだけの空が澄み、これだけの野に露を持つ。……思うだに気が澄むではないか』……
甲州口の立場《たてば》、柏木村《かしわぎむら》から野へ這入《はい》ったのである。十二|所権現《しよごんげん》の丘から十貫坂《じつかんざか》とよぶ藪坂《やぶさか》を下《お》りてからは、ほとんど、歩いても歩いても、同じような野であった。夏草の波のなかに、消え消えになる細い道であった。
行くほどに軈《やが》て、笠を伏せたような、松の丘があった。武蔵はそこの地相を見て、
『伊織、ここに住もう』
といった。
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じつは、その柏木から十二所権現(十二|社《そう》)を通り、十貫坂という藪坂を下《くだ》って、しばらく行ったところが、私の中野の住まいだったのである。私はこの道を通って新宿へ出た。
むろん、その道は「夏草の波のなかに、消え消えに」つづいているような細い道ではなく、アスファルトのバス道路であり、鍋屋横丁《なべやよこちよう》から柏木を通って新宿へ達する広い青梅街道には、「市電」が通じていた。それにしても、家並みはとぎれとぎれであり、野もわずかながら残っていた。鍋屋横丁のすこし先にあった「城西館《じようさいかん》」という映画館で映画を見ての帰り、十貫坂をおりてくるのは何ともこわかった。あたりはまっ暗で、虫の声が一足ごとに私を追ってくるのだ。バスが下のほうから喘ぎ喘ぎのぼってくると、私はほっとした。十貫坂は蛇のように曲がりくねっており、バスは途中で二度も三度もギアを入れかえて、やっとの思いでのぼり切る。バスが通り過ぎると、あたりはふたたび闇にかえる。どこかで犬の遠吠えがきこえる。私はわが家をめざして、一目散に駈けだす。そのころの中野は、こんなふうに、まだまだ町はずれだった。
独歩と花袋
私は中野からバスで渋谷に出て、ハチ公の銅像の前から「市電」に乗り、青山にある小学校へかよった。電車賃を倹約して、帰りにはたいてい渋谷まで歩いた。青山通りには桜の並木がつづいており、棟の低い店が通りの両側に並んでいた。宮益坂をだらだらおりてくると、向こうにやっと竣工した東横デパートがぬっと立っているのが見え、屋上からいつも赤いアドバルーンが数個あがって、ゆったりと風になびいていた。その宮益坂を「市電」が泣きそうな声をあげてのぼり、笑うような声でくだって行った。
渋谷からバス代も倹約して、中野の自宅まで歩いて帰ったこともある。道玄坂を駒場のほうへ折れて、狭い道を東北沢へ抜け、幡ケ谷を経て中野まで――かなりの道のりだが、ひとりでテクテク歩くのは結構愉しかった。二十分おきぐらいにバスが私を追い抜いて行く。道はむろん舗装されておらず、バスが過ぎると、もうもうと舞いあがる埃がおさまるまで、私はしばらく道の端にじっと立ちすくんでいた。
国木田独歩がその道玄坂下から駒場へ通じる道の途中にある小高い丘の上の小さな一軒家にひとりで住んでいたのは、明治二十九年の九月から翌三十年にかけての半年間である。たった半年だったが、彼はここで武蔵野の美を発見し、一年後、そのときの日記をもとに、あの『武蔵野』を書くことになる。「自分は二十九年の秋の初《はじめ》から春の初まで、渋谷村の小さな茅屋《ばうをく》に住《すん》で居た。自分が彼望《かののぞみ》を起したのも其時《そのとき》の事」だった、と彼は書いている。「彼望《かののぞみ》」というのは、「武蔵野が今は果していかゞであるか」という問いにくわしく答えてみたいという望みである。
さて、彼はこの問いに答えて、「武蔵野の美今も昔に劣らず」と、まっ先に結論を下している。そう確信したのは、おそらく、彼が住んでいた渋谷村のまわりを見回しただけで、充分に詩趣に富む武蔵野の面影をうかがうことができたからであろう。そのころの道玄坂のあたりは、どんなだったのか。それを独歩の友人だった田山花袋が書きとめてくれている。
明治二十九年の十一月末、花袋は太田玉茗と一緒に、道玄坂にあった「ばれん屋」という旅館に宮崎|湖処子《こしよし》を訪ねた。が、あいにく相手が留守だったので、ついでに、たしかこの附近に住んでいるときいた国木田独歩を訪ねることにしたのである。あちこちでききまわって、やっとたずねあてた独歩の家は「牛乳屋の向うの丘の上にある小さな家」で、細い道がその丘に通じており、あたりは「目もさめるやうな紅葉、畠の黒い土にくつきり鮮かな黄い菊の一叢二叢、青々とした菜畠」がつづいていた。
独歩は初対面の花袋をこころよく迎え、「好《い》い処《ところ》ですね」と花袋がいうと、さもうれしそうに、「武蔵野つて言ふ気がするでせう。月の明るい夜など何とも言はれませんよ」とまわりの風景を、まるで自分の所有物でもあるかのように自慢した。なるほど、縁側に腰をかけると、前には葡萄棚があり、丘の斜面の「紅葉や穉樹を透《とほ》して、渋谷方面の林だの丘だの水車だのが一目に眺められた」。
渋谷村一五四番地という当時の独歩の寓居が現在のどの地点にあたるのか。ある日、私はNHKのすぐ脇の歩道に独歩の旧居跡とある木札を見つけた。ほう、ここだったのか、と私はしばらく深い感慨に浸っていた。花袋の筆によると、このあたりはこんな風景だったようだ。
[#この行1字下げ] ――渋谷の通《とほり》を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林について曲つてゐて、向うに野川のうねうねと田圃の中を流れてゐるのが見え、その此方の下流には、水車がかゝつて頻《しき》りに動いてゐるのが見えた。(田山花袋『東京の三十年』)
花袋はその水車のそばの土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いて行った。どこからも地平線が望まれたらしい。その「地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持つた低い丘がそれからそれへと続いて眺められた」とある。そして、丘のうしろには「武蔵野の面影を偲《しの》ぶに足るやうな林やら丘やら草藪《くさやぶ》やら」がたくさん残っており、彼はそうした武蔵野を独歩と二人でよく散歩した。
「林の中に埋れたやうにしてある古池、丘から丘へとつゞく路にきこえる荷車の響《ひびき》、夕日の空に美しくあらはれて見える富士の雪、ガサガサと風になびく萱原薄原《かやはらすすきはら》、野中に一本さびしさうに立つてゐる松、汽車の行く路にかゝつてゐる橋――さういふところを歩きながら、私達は何《ど》んなに人生を論じ、文芸を論じ、恋を論じ、自然を語つたであらうか」と彼は書いている。
古典となった武蔵野
こうした武蔵野の追憶を持つ人は、まだまだたくさんいることと思う。それだから、古書展などに出る武蔵野に関する本が、やたらに高いのであろう。げんに私などは、本の題名に「武蔵野」という文字が見えさえすれば、中身もよくあらためずに買ってしまう。おかげで私の本棚は武蔵野だらけになってしまった。たとえ、どのような筆者が、どんなふうに武蔵野について書いていても、それはわが故里《ふるさと》に関する叙述である。耳を傾けないわけにはゆかないのだ。
ところで、独歩や花袋が記した武蔵野がしだいに、そして、戦後、急速に姿を消して行ったのは、あらためていうまでもない周知の事実である。いまや武蔵野の面影は、よほど丹念に歩きまわらなければ――いや、どんなに足まめに探し歩いても、もうほとんど見ることができなくなってしまった。それだからこそ、武蔵野について書かれた書物が貴重になったのである。
「なつかしい丘の上の家は今は何《ど》うなつたか。もう面影もなくなつて了《しま》つたことであらう。林も、萱原も、草藪も、あのなつかしい古池も……」と花袋は書いているが、彼がそう書いたのは、なんと、大正六年のことであった。それからさらに六十余年の歳月が流れている。六十余年の月日は、武蔵野をすっかりつぶしてしまうのに充分な月日だった。
私は書棚から吉田絃二郎の『武蔵野記』を取り出してページを繰る。彼は昭和の初期から多摩川の近くの武蔵野に住みついていた。そして、「日毎に壊《こぼ》たれてゆく武蔵野を見」て胸がしめつけられるような思いを重ねていた。だが、それでもまだ彼はこう書くことができたのである。
「しかし武蔵野は広い。洞然たる大空の下に悠々とひろがつてゐる。こゝに移り棲《す》むでから、雨雪の日を除いてはたいてい毎日二里三里の道を歩きつゞけた」と。その道すがら、彼はこんな光景を目にとめて、まるで弔辞のように、こんな文章をしたためている。
[#この行1字下げ] ――今日も武蔵野を歩いてゐると、雪|催《もよ》ひの空の下に人々は焚き火をしながら片丘の雑木林を切り拓《ひら》いてゐた。そこにはいつも春をさきがけする雪のやうに白い辛夷《こぶし》があることを知つてゐた。しかし既にその辛夷も伐り倒されてゐた。掘り取られた根は地ひゞきを立てゝ丘を転がり落ちて行つた。いつの間にかあたりには麦が播かれてあつた。
雑木林はこうして片っ端から伐り倒され、そのあとは畑となり、畑はまもなく造成地にされて、そこに家がびっしりと建てられていった。彼がまだ「広い」といって心慰めていた武蔵野が、排気ガスの充満した市街になるのに、十年とかからなかった。だから、いまでは、武蔵野を逍遥しつつ、その想いを文章に托すような人たちも姿を消した。ひと昔前まで、私たちは独歩の『武蔵野』をはじめとして、徳冨蘆花の『自然と人生』や、吉田絃二郎の『武蔵野記』や、北原白秋の『雀の生活』や、柳田国男の『野草雑記』などの懐しい文集を持っていた。けれど、いまではそんな閑文字《かんもじ》をつづる人も、また、それに読み耽る人もあまりいなくなってしまった。世間を批評し、世情に怒りをぶちまける人はいても、身近な自然の美しさ、あわれさを克明に記した作品には、めったに出会うことがなくなった。そういう自然が失われてしまった以上、書こうにも書けなくなったのであろう。こうして、独歩の『武蔵野』や、蘆花の『自然と人生』は、いまでは『枕草子』なみの古典となった。少なくとも、私にとっては、それらはまぎれもない古典である。なぜなら、そこに描かれているような懐しい自然は、『枕草子』に記されている風景とまったくおなじように、もう二度と見ることのできない古典の世界≠ノなってしまったからである。
書とは「歴史」である
「武蔵野の俤《おもかげ》は今|纔《わづか》に入間郡《いるまごほり》に残れり」と書かれた文政年間の地図から、独歩は入間郡の小手指原《こてさしはら》の古戦場あたりに昔ながらの武蔵野が残っているのではないかと思っていた。だが、彼はついにそこを訪ねることなく死んでしまった。自然に取り巻かれた新天地を求めて北海道の空知川《そらちがわ》の岸辺にまで出かけて行った独歩が、なぜ、最も愛した武蔵野のありのままの姿が残る小手指原まで行ってみることをしなかったのか、私はくびをかしげる。彼は小金井あたりをよく散歩したし、武蔵野の面影が残っていそうな場所には労をいとわず足を運んでいる。それなのに、どうして、武蔵野の原点ともいうべき古戦場へ出かけなかったのだろう。
おそらく――と私は考える。独歩にとって、小手指原は武蔵野の原景であり、原景であるがゆえに、イメージの「聖域」だったのではなかろうか。むろん、彼はそこに行ってみたかったにちがいない。げんに彼は「兎《と》も角《かく》、画《ゑ》や歌で計《ばか》り想像して居る武蔵野を其俤《そのおもかげ》ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願《ねがひ》ではあるまい」と書いている。だが、彼は行かなかった。その理由は、実際に訪ねてみて武蔵野に寄せる自分のイメージが無残に打ちくだかれるのを恐れたからではあるまいか。だからこそ彼は、小手指原の風景が、「実際は今も矢張其通りであらうかと危ぶんでゐる」と危倶の念を表明しているのである。
私も長いあいだ小手指原をそっとしておいた。行こうと思えば、いつでもかんたんに行けたのだが、その勇気がなかったのだ。出かけてみれば失望するにきまっている。文政年間から現代までに流れた歳月を考えれば、その風景は行かなくとも充分に察しがつく。私も独歩とおなじように幻滅を味わいたくなかった。
しかし、見ないのも癪だ、と思い返した。そして、私はある日、とうとう意を決し、覚悟をきめて小手指原へ出かけて行った。
案の定だった。武蔵野の聖域はわずかな畑と、申し訳ていどの雑木林を残して、まわりをプレハブ住宅と工場らしい建物で埋めつくされていた。ええ、やはり来るべきではなかった! と私は舌打ちをした。一瞬にして四十年間も抱きつづけてきた武蔵野のイメージが幻《まぼろし》のように崩れ去ってしまったからである。
その夜、私はあらためて独歩の『武蔵野』をゆっくりと読みかえした。すると――崩れ去っていた武蔵野のイメージが、ふたたびありありと甦ってきた。そのとき、私はいまさらのようにこう気づいたのである。
――ははあ、そうなのか。本というものは、現実の世界を別の形でページのなかにつくりだしているものなんだな。だから、この本があるかぎり、武蔵野はけっして失われはしないのだ。本のなかにちゃんと保存されているんだ。してみると、書物というのは、どのような書物であれ、「歴史」そのものということになる。書物とは「歴史」の別名であり、歴史とは「書物」の代名詞にほかならない。この意味で、どんな本もそれ自身の歴史的な価値を持っている。この世の中に価値のない本なんて、一冊もありはしない。みんな、かけがえのない歴史を証言しているのだ……。
こうして私は、私なりに、「一冊の本」の意味を、はじめて発見したのである。
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天・地・人
題名の役割
本の売れゆきに決定的な役割を果たすのは、題名なのだそうである。
「そうね、題名を見りゃ、ま、だいたい部数の見当はつくな」と、その道のベテランといわれるQ出版社の販売部長は私にそういった。
「とすると、どういう題がいいんですかね」と、私は参考のために、その秘密をかぎだそうと思って尋ねたのだが、「そりゃ、いちがいにいえないですよ」と彼は言を左右にして、ついにその秘訣を伝授してくれなかった。
しかし、考えてみると、それを知るのはそうむずかしいことではない。ベストセラーの題名を並べて分析、検討してみればいいわけだ。書名がそんなに大きな役割を果たすとすれば、そこに並んだ題名には何か共通性があるにちがいない。とそう思ってベストセラーの表をにらんでみたのだが、やはりその秘密は発見できなかった。私にはどうも、そのような才覚はないとみえる。
それにしても、書名というのは大切なものである。私は書店にしばしば足を運ぶが、それは本を買うことよりも、じつは書棚にずらりと並んだ本の背表紙の題名を読みたいためなのである。つまり、本の題名をながめて、その本のなかに書かれてあることを、あれこれ自分勝手に想像するのが何よりも愉しいのだ。ずいぶん怠惰な読書≠ナあるが、正直にいって、本を読むよりも、題名から本の中身をいろいろに空想しているほうが、ずっと知的刺激にみちている。その気持は、何といったらいいか――登山家がこれから征服しようとしている山を見あげているような気持、美食家が凝った料理店へ行って差し出されたメニューを検討しているときのような気持、旅行家が旅立つ前に地図を広げて、自分の行く先を思い描いているような気持……。
まあ、こんな気持にさせるのだから、それだけでも本の題名というのは、たいへんな役割を担っているといってよかろう。おそらく、そういう気持を起こさせるような書名を持つ本が売れる本にちがいない。
軽率の徳
むろん、題名にだまされることもある。題名から勝手に内容を想像して買いこみ、さて、読み始めてみると、予想したのとはまるでちがったことが書かれていた、というようなことは、たいていの人が一度や二度は経験しているはずだ。ことに私には妙なくせがあって、書名だけで本を買ってしまうのである。目次をながめたり、あとがきを読んだりして内容を一応たしかめてみるということをしないのだ。そんなことをしてしまうと、買ってきた本を開いて読みだすときの、あの期待が殺《そ》がれてしまうからである。
クリスマスの贈りものは、包みのなかから何が出てくるか、それが愉しいのとおなじように、本も、どんなことが書かれているのかわからないからこそ、ページを繰るのが愉しいのではないか。たとえ予想とまったくちがった内容だったとしても、それはそれで、また一興というべきであろう。
阿部次郎の『三太郎の日記』がそうだった。題名から察して何となく面白そうな気がしたので、なけなしの小遣いをはたいて買ってきたのだが、さて、読みだすと、きわめて抽象的な哲学論議で、高校一年の私にはさっぱり理解できなかった。私はたちまち投げ出してしまったが、投げだしてはみたものの、本箱にあるその本が気になって仕方がない。ふたたび取りだして読みだし、わからないのでまた放り出し、というふうに何度か繰りかえしているうち、とうとう高校の三年間、三太郎とつき合う破目になった。
その本はいまでも私の書棚にある。ある日、懐しくなって、あらためて読みかえしてみたら、およそ見当ちがいなところに、やたらに赤線が引いてあった。私は思わず苦笑したが、こうして三太郎は私の生涯の友になったのである。それも『三太郎の日記』という題名のおかげであった。
中身をろくにあらためずに買うということは、けっしていい加減に買うということではない。軽率といえばたしかに軽率にはちがいないが、読書の旅には、むしろ、この軽率さが必要なのである。というのは、本を買うときにいちいち内容をげんみつに吟味していると、けっきょくは自分の好みの本しか買わないということになるからである。むろん、好みに合わない本をわざわざ買ってくる必要もないが、そんなことをしていると自分の好みの範囲が一向にひろがらないのだ。食わずぎらいということもあろうし、また吟味しすぎて、かえって好みの本を見逃してしまうこともある。
だから題名が気に入ったら、それだけで充分。買ってしまえばいい。そうすると思わぬ収穫がある。読んでみたら結構おもしろくなり、それで自分の好みの範囲がひろがるということがしばしばある。知的探検というのは、そういうものだろう。石橋を叩いて渡らない――これでは、とうてい探検家にはなれない。とにかく、少しでも題名に気をひかれたら買ってしまうにかぎる。
なぜ本を買わないのか
本屋の書棚をさんざん見て歩いて、けっきょく一冊も買わずに外へ出るときの気持といったらない。不愉快というのか、腹立たしいというのか、淋しいというのか、情けないというのか、味気ないというのか、やる瀬ないというのか、みじめというのか、心残りというのか、とにかくそんな気持がごっちゃになった何とも名状しがたい気分である。
私が本の中身をよくあらためずに、ただ題名だけにひかれて買ってしまう理由のひとつは、じつをいうと、そういう気分を味わいたくないからである。だから本屋へ入ったら、何はともあれ、最低一冊は買うことにしている。ずいぶん妙な話だが、この複雑な気分を分析してみると、それなりにわけがあるようだ。
人はどういう動機で本を買うのか、という問いに答えるのはむずかしいが、それを裏返して、人はなぜ本を買わないか、という形で問い直してみると、意外に大事なことがわかる。人に本を買うのをためらわせるのは、第一に、その本に書かれているテーマに興味がわかないからである。つまり、自分の好みに合わないためだ。第二に、題名から察して大いに関心をそそる本であっても、なかをのぞいて一、二ページ目を走らせてみると、やたらに難解で、とても読めそうにないと思ってやめてしまう。こういう場合が、かなりあるのではなかろうか。第三は、読みたいような気がするが、何もあわてて買う必要はあるまい、いずれひまができたときに買おう、とそう思って保留してしまう。読みたいが、時間がないというわけだ。そして第四に――これがいちばんかんじんな理由と思われるが――財布と相談してあきらめてしまう場合である。情けない気分にさせられるのは、とくにこの場合だ。
だが、私のなかにはアマノジャクが住んでいて、そのいずれの場合にも私をそそのかして本を買わせてしまうのである。
アマノジャクのささやき
たとえば、第一の理由で、すなわち興味がわかないから買うのをやめようとすると、胸のあたりにうずくまっているアマノジャクが騒ぎだして、こうわめき散らすのだ。
――何だって! 興味がわかないだって! そんなふうに思うからお前の世界はいつまでたってもみみっちいのだ。本というのは、何はともあれ、読んでみることだ。そうすれば、たちまち興味がわいてくる。すると、そこからさらにつぎの関心が生まれ、こうしてお前の世界はだんだん広くなってゆくのだ。だから、とにかく、だまされたと思って買ってみろ。けっして後悔はしないから。だいたい、自分に興味のある本というのは、読まなくたって想像がつくではないか。ところが、自分にまったく関心がない本というのは、関心を持ったことがないのだから、それこそ思いもかけないことがそこに書かれている。それを発見することが読書の愉しみというものではないのか!
そういわれると、私はたちまちそんなふうに思い、まったくだ、本というのは関心があるから読むのではなく、関心を持つために読むのだ、などとつぶやきながら、およそ考えてみたこともないことが書かれていそうな本を、あえて買ってしまうのである。
第二の場合はこうだ。アマノジャクが、こんどはこんなふうにせせら笑うのである。
――ほう。この本がむずかしいって? そんなにお前のアタマは弱いのかね。情けないねえ。そんなことはないよ。お前はただむずかしいと思いこんでいるだけなんだ。そりゃ、読むのにすこしは苦労する。週刊誌を読むようなわけにはいかないさ。しかし、そのくらいの努力はしなくちゃあ本のダイゴ味は味わえない。それに、苦労していると読み方がだんだんわかってくる。むずかしいことに慣れてくる。そうだろう、本というのはむずかしいからこそ面白いのじゃないのかね。読書の愉しみというのは、ま、いってみれば暗号解読のようなものだ。ヤスパースという哲学者は「哲学とは暗号解読だ」といっている。この世界はさまざまな暗号で書かれており、それを解読するのが哲学の仕事だ、というのだ。それを読書にいいかえてみたらいい。さまざまな暗号で書かれているこの世界を、ひとつひとつ解読してゆくのが読書なのだ、とね。だから、むずかしい本でなければ張合いがないじゃないか。
そういわれれば、たしかにそうである。さいわいなことに、むずかしい本ならいくらでもある。内容はさておいて、たとえば洋書だ。洋書といっても、アラビア語などで書かれた本となると、いくらがんばってみてもアラビア語を勉強しないことには、ちんぷんかんぷんであろう。
文人志願
ある日、神田で洋書専門の古本屋を歩いていると、古ぼけた紙質の悪いアラビア語の本が埃にまみれて積んであった。むろん、私には何が書いてあるのか、さっぱり見当がつかなかったので買うつもりはなく、ただペラペラとページを繰っていたのだが、そのとき、意地悪いことに、またしても例のアマノジャクが前記のような言葉を私にささやいたのである。
とたん、私は、そうだ、そうだ、といい、とうてい読めそうにないアラビア語のその書物を、かなりの金額を払って買ってしまった。何とか努力をすれば、いつか読めるようになるだろうという気がしたのである。こんなふうにして、私の書棚には、たぶん一生かかってもまず読めそうにない外国語の書物が、やたらに並ぶことになった。にもかかわらず、そういう本の前に立つと、いずれは読めそうな気がするのだ。
外国語の本に限らない。日本の書物でも、古語や漢文で書かれた古典のたぐいは、そうかんたんに読みこなせるものではない。ことに活字ではなく、手書きの写本だとか、木版刷りの和とじ本に至っては、文字を解読することさえ容易ではない。ところが、そういう本を手にすると、何とかして読みたいという欲望が高じて、なあに、すこしばかり苦労をすれば、すぐにスラスラと読めるようになるだろうという気になってしまう。いや、必ず読めるはずだ、とそう思いこんでしまうのだ。
いうまでもなく、|き奴《ヽヽ》の仕業である。おそらくそれは妄想に近かろう。だが、そういう本を苦もなく読みこなし、そこに書かれてある世界に没入している自分の姿を想像すると、もう矢も盾もたまらなくなって、私はあとさきも考えずに財布をはたいてしまうのである。
私は書物の背表紙をながめ、その題名からそこに書かれている世界をあれこれ空想するのが何より愉しい、といったが、それよりもむしろ、その本を読んでその世界に心を遊ばせている自分の姿を空想するのが愉しい、というべきかもしれない。アラビア語の本を手にしたり、あるいは鯰《なまず》がのたくったような和とじの写本などをながめていると、私の胸にたちまち、こんな情景が浮かんでくるのだ。
冬の日射しがやわらかに漂っている縁側で不思議な、見ぬ世の人を友としている自分。あるいは、深い緑のあいだにハンモックを吊って、ゆらゆらと揺れながら、この世のものとも思われぬ書物を読みふけっている自分。あるいは、読みかけの本をそのまま膝に置いて、忍び寄る秋を告げる心細い虫の声に耳をとられている自分。あるいは春の夕べ、鶯の声を遠くにききながら、夢とも現《うつつ》ともつかぬ境で幻《まぼろし》のような書物の世界を逍遥している自分……。
わが身をふりかえってみれば、そんな境遇に身を置くことなど、とてもできない相談なのだが、空想はいい気なものである。そういう日があすにでもきそうな気がして、私は買ってしまう。そいつは夢にちがいないが、その夢と引きかえに私は本を買うのだ。本を買うとは、夢を買うことなのである。
それにしても、第四の難関を突破せねばならぬ。つまり、いくら買いたくても財布がそれを許さないという関門である。これだけは心の持ち方ではどうにもならない。しかも、こちらの夢を誘う本というのは、きまって高いのだ。このときは、さすがのアマノジャクも黙って知らん顔をしている。そこで、私は逆に彼にせっついてみる。おい、どうしよう。金がないんだよ、どうしたらいいんだ。
するとアマノジャクは一言、こういう。借金して買いな。私は本屋を飛んで出て、金をつくりにゆく。そして、もどってきて、アマノジャクの命令に従うのである。そのために昼めしを二、三回抜いてもいいではないか。クツなど、カカトを直してはいていればいい。洋服なんぞ、すり切れていたって構やしない。中国や日本に見られるあの独特な文人というものは、そういうものである。文人とは学識のある人間をいうのではない。詩や文章をつづる人間をさすのでもない。じっさいに読書家である必要さえない。文人とは書物に夢を托し、本を|夢みている《ヽヽヽヽヽ》人間をいうのだ。この意味で、私は自分自身をレッキとした文人だと思っている。いや、レッキとした文人たろうと願っている。その気になりさえすれば、だれでも文人になれるのである。
「純粋読書批判」
さて、そうはいっても、こんなぐあいにしてやたらに本を買いこみ、いい加減書物が自分の書棚に並ぶようになると、そのほとんどを読んでいないのだから、さすがにうしろめたくなってくる。うしろめたいというより、焦燥を感じるようになってくる。いつか読むつもりでも、こんな調子では死ぬまで、その|いつか《ヽヽヽ》はやってきそうにない。で、ある日、私はアマノジャクの命じるままに、よりによってむずかしい本を読んでやろうと、書棚からカントの『純粋理性批判』を引き抜いて気まぐれに読み始めた。
すると、その序文にこう書かれてあった。
[#この行1字下げ] ――人間の理性というものは、特別な運命を背負わされている。考えまいとしても考えざるをえず、さりとて、いくら考えても解答を与えることができない、そういう問題に悩まされるという運命である。なぜ、考えざるをえないのかというと、それが理性の本性だからであり、どうして解答できないのかというと、その問に答えることは人間の理性を越えているからだ……。
私は思わず、ハタと膝を打った。カントはある種の問題、すなわち、神は存在するか、といった形而上学的な問いについてそういっているのだが、そのことは、そのまま読書にあてはまるではないか。カントの右の言葉を読書におきかえてみれば、こういうことになる。
[#この行1字下げ] ――人間の書物への欲求というものは、特殊な運命を負わされている。とても読めないと思ってもあきらめるわけにはゆかず、さりとて、どう逆立ちしても読みたいと思う本を読みつくすことができない、という運命である。それなのにどうして本を買ってくるのかというと、それが人間の本性だからであり、なぜ読みつくせないのかというと、その量が人間の読書能力を越えているからだ……。
カントは右の点から出発して、人間の理性の能力をあらためて検証しようとし、『純粋理性批判』を著《あらわ》した。それなら、私はひとつカントの向こうを張って、『純粋読書批判』でも書いてみようかしらん。ひょっとすると、カントと並ぶ偉大な批判書になるかもしれないぞ。
むろん、いうまでもなく、私のこの想念はそれきりになった。そして、アマノジャクの命令にもかかわらず、私は二、三時間ほどカントと取り組んだあげく、例によって放り出してしまった。それから、こんどは部厚い『哲学事典』を取り出してページを繰り、任意に開いたページの項目を気ままに読み始めた。いったい、カントのいう形而上学的な問題とはどんな問題なのだろう、と関心をそそられたからである。
事典の開く世界
あちこち拾い読みをしているうち、事典というものは、ずいぶんいろいろなことが要領よく説明されているものだなあ、と私はいまさらのように感心した。そして、これ一冊あれば哲学の諸問題について、だいたいの見当をつけることができる。見当をつけたうえで、本を買ってきて読めばいい、とそう思いついた。事典というものは、わからないことを知るために引くというよりも、自分が何を知りたいのか、それを知るために使うべきなのではないかと、あらためて気付いたのである。
すると、またしてもアマノジャクの声がきこえた。そうさ、そうなのさ、そんなことに今まで気がつかなかったのか。何が面白いって、事典ほど面白いものはないよ。事典というやつは、どんな事典でも買っておいて損はない。ずいぶんいろいろな事典が出ているから、それを少しずつ集めてみるんだね。なかには、えらく面白い、貴重な事典がある。フランスのある哲学者は、ある奇妙な事典から自分の哲学を組みたてたくらいだもの。どうだ、そういう事典を、ひとつ、お前もさがしてみてはどうかね……。
そのフランスの哲学者というのは、ミッシェル・フーコーという人物である。彼は構造主義という新しい思想を生みだした学者であるが、そのような思想を生むきっかけになったのは、なんと、「シナのある百科事典」だったというのだ。
もっとも、彼はその「シナのある百科事典」を直接読んだわけではない。アルゼンチンの作家ボルヘスが、あるテクストのなかで紹介している分類項目をながめただけなのであるが、その分類方法があまりに奇抜だったので、思わず笑い出し、さんざん笑いこけたあと、こんどは、えらく考えこんでしまった。その奇抜さが当惑を呼びおこし、さらに深刻な衝撃を彼に与えたのである。百科事典といいながら、こんなぐあいにものごとを分類する思考とは、いったいどういうものなのか、と彼は考えこみ、そして、彼の名を一躍有名にする書物、あの『言葉と物』を書きあげるのだ。それは、まさしくカントの向こうを張った純粋理性、いや異質理性批判≠ナあった。
私もその分類項目をながめて――といっても、フーコーの『言葉と物』の冒頭に紹介されているその項目を見たにすぎないのだが――思わず笑い出し、そして、思わず考えこんでしまった。と、同時に、もしそのような「シナの百科事典」があるなら、何とかして、そいつを手に入れてみたいものだと考えた。
そこで、アマノジャクの命じるままに、私は即座に立ちあがり、あり金ぜんぶをかっさらってポケットにねじこむや、わくわくしながら神田の古本屋街に出かけて行った。もしかすると、その「シナの百科事典」というのは、明の王圻《おうき》が編んだというあの『三才図会』ではあるまいか。「三才」というのは、「天・地・人」の意味である。つまり、天・地・人、森羅万象にわたって図説した百科事典だ。神田の古本屋のどこかの棚に、それが置かれていないともかぎらない。私の胸は三十キロ地点を過ぎたマラソン選手のように、ドキン、ドキンと打っていた。
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知のカタログ
世界の果て
哲学者ヴィトゲンシュタインは、まるでアフォリズムのような短い文章で『論理哲学論考』という書物を書いた。ひとつひとつにナンバーを打って書きつらねられたその命題は、どれもきわめて難解で、かなり忍耐強い読者でもしばしば途方に暮れてしまう体のものだが、そのなかにつぎのような言葉がある。
――わたしの言葉の限界が、すなわち、わたしの世界の限界である。
この世界は論理に|対応している《ヽヽヽヽヽヽ》、と彼は考えた。なぜなら、もしそうでなければ、世界は理解されるはずがないからである。おなじように、言語というものも論理に対応している。もし対応していないとすると、どんな言語といえども理解しようがないからだ。つまり、世界と言語とは|論理という共通の形式《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》で結ばれているのであり、だから世界は言葉によってとらえることができるのだ、というのである。このことは、べつにいうなら、世界は言葉によって|しか《ヽヽ》理解され得ないということだ。そこで「わたしの言葉の限界が、わたしの世界の限界」となる。彼によれば、言葉の果てが世界の果て、なのである。
私はここでヴィトゲンシュタインの哲学について論じようというのではない。そんなことは私の能力を越える。だいいち私はいま、アルゼンチンの作家ボルヘスが、あるテクストのなかで紹介しているという「シナのある百科事典」をさがしに神田の古本屋街へ向かおうとしているのだ。ところが、その途中でどういうわけか、とつぜんヴィトゲンシュタインの前記の言葉が私の頭に浮かんだのである。で、私は地下鉄のなかで考えをつづけた。
人間がこの地球に姿をあらわして以来、どれほどの言葉が語られたことであろうか。それらの言葉は何十万年、何百万年ものあいだ記録されず、そのまま消えて行った。だがやがて人間は文字を考案し、言葉を記録しはじめた。そして印刷技術を開発し、書物というものをつくりだした。以来、人間の言葉は書物のなかに保存されるようになり、その書物が人間の知識を飛躍的に増大させることになった。知識の増加と歩調を合わせて、人間の世界はつぎつぎに拡大して行った。世界の拡大は、まさに書物の増加に見合っているといってもよい。
とすると、ヴィトゲンシュタインのあの言葉は、こういいかえてもよさそうである。
――わたしの持つ書物の限界が、すなわち、わたしの世界の限界である。
なぜなら、書物とは言葉を記録し、保存するものだからだ。私はヴィトゲンシュタインの話を直接きいたこともないし、それどころか、会ったことも、見たこともない。なのに私は彼の言葉を知っている。それはまさしく書物のおかげではないか! もし私が彼の書いた『論理哲学論考』という書物を持っていなかったとしたら、私はこの哲学者について何も知らなかったろう。とすれば、やはり、「私の書物の限界が、私の世界の限界」といえそうである。だからこそ、書物は一冊でも多く持たなければならないのだ。自分の世界をすこしでもひろげるために。
しかし、だからといって、世界じゅうの書物をぜんぶ買いこむなどというマネはできはしない。まして、それをすべて読破するなど、考えるだにおろかであろう。にもかかわらず、人間は往々にしてそんなことを空想する。
知の目録
前章でふれたように、カントの『純粋理性批判』という書物は、人間の理性の能力の限界を検討したものであるが、たしかに神ならぬ人間の理性には限界があろう。だが、カントもいっているように、人間は自分の能力の限界をつい忘れて、能力以上の高望みをする動物なのである。彼によれば、それが人間の理性に負わされた宿命なのだそうであるが、書物というものが世界を形づくっている以上、それをぜんぶ読みたくなるのもまた人間の宿命といっていい。
いったい――と私は吊り皮にぶらさがりながら考えつづけた――世界じゅうの書物のなかに収められている情報の量はどれくらいあるのだろう。ぜんぶで何ビットになるのか想像もつかないが、いずれにせよ、それが現代の人類が持っている知識の総財産といってもよかろう。ところが、人間は自分たちが持っている知識の量がどれくらいあるのか、よく知らないのである。考えてみるとこれはうかつな話である。貴重な財産を持ちながら、それがどのくらいあるのか知らないというのは、いささか鷹揚《おうよう》すぎはしまいか。しかし、じつをいうと、知ろうとしないのではなく、知りようがないのだ。ここで私はまた、カントに鉢合わせする。人間の理性というものは特別な宿命を負わされている、というあのカントの言葉に。すなわち、考えまいとしても考えざるをえず、さりとて、いくら考えても解答を与えることができない、そういう問題に悩まされるという理性の宿命である。
そこでカントは理性の能力を根本的に吟味し直してその限界を定めたわけだが、べつの哲学者たちは、そのかわりに、ひとつ人間の理性が生みだした膨大な知識の財産目録を作成してみようではないか、と考えた。こうして、「百科事典」なるものが生まれたのだ。「百科事典」とは、人間のそのときどきの知的な財産目録にほかならない。
カントが理性の能力の検証に生涯をかけたように、べつの哲学者たちもその財産目録作成のために一生を費やした。「百科事典」の起源をどこに求めるかは異論のあるところだが、すくなくとも知的財産目録をつくろうというはっきりとした哲学的《ヽヽヽ》意識をもってそれと取りくんだのは、ヨーロッパでは十八世紀になってからであり、その代表ともいうべきものがディドロ、ダランベールを中心としたいわゆる百科全書派≠フ人たちの手になる『百科全書』である。図版、補遺、索引をふくめてぜんぶで三十五巻。その完成までに三十年の歳月をかけている。ルソーやヴォルテールやモンテスキューなどもその作成に参加し、政府や教会の弾圧と闘いながらの難事業だった。
むろん、それ以前にも、たとえばローマ時代にはプリニウスの『博物誌』があり、くだって十六世紀には「百科事典《エンサイクロペデイア》」と題して刊行された事典がないわけではなかったが、人間のこうした知的財産目録がなかなか生まれなかったのは、じつは、人間の知識をいったいどのように分類してよいのか、容易に見当がつかなかったからである。知識を分類するためには分類の原理がいる。その原理を考えるには哲学を必要とする。その哲学を準備したのが、フランシス・ベーコンだった。ディドロやダランベールをして『百科全書』に打ちこませたのは、ほかならぬベーコンの『ノーヴム・オルガヌム』だといってよい。
ベーコンの哲学とは、一言にしていえば、「知は力なり」という考え方である。しかし、人間の知を力にするためには、その知を合理的に分類、整理して容易に使えるようにしなければならない。そこで、ディドロやダランベールは、「知識の系統樹、すなわち百科全書という樹」をつくろうと考えたのである。ダランベールが『百科全書』に記した序論によれば、百科全書の作成とは「人間の知識をできるだけ小さい場所に集め、それを一度に俯瞰《ふかん》できるようにするため」の作業にほかならず、それは「一種の(知的な)世界地図」を作ることでもある。むろん、そうした地図作りはこの上ない難事業である。というのは、「学問と技術の全体的な体系は曲りくねった迷路」だからである。が、しかし、人間が持っている知を力にするためには、知識相互の関連をできるかぎり明示し、百科全書を「学問・技術・工芸の合理的な事典」に仕上げ、それ自体を哲学の体系にまとめあげなければならないというのである。
「シナのある百科事典」
こうして、ヨーロッパ、とくにフランスで百科事典の礎石が据えられた。百科事典とは、森羅万象をただやたらに並べ立てて解説すればそれでいいというものではない。そこにはあくまで、知の分類原理が確立されていなければならない。
ところが――である。ある日、ミッシェル・フーコーはアルゼンチンの作家ボルヘスが紹介している「シナのある百科事典」を知って、ディドロ、ダランベール以来の確信を根底からゆすぶられたのである。その分類たるや、およそ考えもつかないほど突飛なものだったからだ。
むろん、私はそんな「シナの百科事典」を見たこともきいたこともない。ボルヘスがあるテクストで紹介しているというそのテクストさえ読んだことがない。が、ともかく、フーコーが引用しているのを|孫引き《ヽヽヽ》すると、その百科事典には、つぎのように動物が分類されているのだという。
[#この行1字下げ] 動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気が狂ったように騒ぐもの、(j)算《かぞ》えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細《ぼそ》の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)とおくから蠅のように見えるもの……。(ミッシェル・フーコー『言葉と物』渡辺一民・佐々木明訳)
このあまりの奇抜さに、フーコーはおどろき、呆れ、しまいにおかしさをこらえきれず笑い出したのだが、やがて深刻に考えこんだ。こうした分類はヨーロッパの知性にとっては、絶対に思いつかぬ異質の思考に思えたからだ。むろん、突飛なイメージというなら、そうしたものはいくらでも考えつくことができる。たとえばシュールレアリスムの詩などは、さしずめ奇抜なイメージ集といってよい。ロートレアモンは「手術台のうえのミシンと、傘《こうもりがさ》の偶然の出会い」の美しさをうたっているではないか。
だが、この「シナの百科事典」に見られる分類の奇抜さは、シュールレアリスムの詩と同類の奇妙さではない。そこには、現実のものと架空のものとがちゃんと区別されており、動物の状態、たとえば「飼いならされたもの」とか、「放し飼いの」とか、「香の匂いを放つもの」とか、「気が狂ったように騒ぐもの」とかいうその限定も、じつにはっきりしている。ただ、その限定の仕方、というより、その視点が、何ともとらえどころがなく、筋道が見出せないだけである。
だが――と、フーコーは考える。その筋道が見出せないというのは、おそらくこの百科事典を編んだ人間とヨーロッパ人とでは思考の脈絡がちがうせいであり、だとすれば、そうした異質な思考の地盤、人間の知の大地をあらためて掘りさげてみなければならぬ。こうして、フーコーは『知の考古学《ヽヽヽ》』へと進むのである。
『知の考古学』はともかく、私もいたくその「シナのある百科事典」に興味をそそられた。そこで、もしかすると神田の古本屋の書棚のどこかに、そんな百科事典が置かれているかもしれぬと思い込み、いま、地下鉄に乗って神保町へ駈けつけようとしている次第なのであるが、地下鉄の吊り皮にぶらさがりながら、以上のようなことをあれこれ考えているうち、ふと、自分が何だかドン・キホーテのような気がしてきた。いくらなんでも、そんな奇妙な百科事典があるわけがないと思えてきたからである。おそらくボルヘスは冗談のつもりで、そんな架空の百科事典をでっちあげたにちがいない。そして、それを読んだフーコーも、そんな百科事典の存在を信じたわけではなく、ただ自分の思考の手がかりとして、ボルヘスのテクストを利用したのであろう。もし、フーコーが本気でそのような百科事典の存在を信じていたなら、彼はとうぜんそれが中国のいつの時代の、だれの手に成る百科事典なのか調べたであろうし、それによって、もっと充分な資料を手にすることができたはずだからである。
ところがフーコーはそれについては一向にせんさくしようともせず、ただボルヘスのテクストからの引用だけで甘んじている。ということは、フーコーも、それが架空の百科事典であると思っていたにちがいないのだ。だとすると、それを真に受けて、ろくに調べもせず、こうして、やみくもに神田の古本屋へ駈けつけようとしている自分は、丘の風車を巨人と思いこみ、それに突進したあのドン・キホーテよろしくではないか。
十二支の意味
ところで、もともと中国にはヨーロッパよりもずっと早くから、かなりの規模の百科事典が編まれていた。古くは唐時代に欧陽詢《おうようじゆん》が編集した『芸文類聚』百巻が、宋時代には|李ム《りぼう》らが撰した『太平御覧』千巻、また王欽若《おうきんじやく》の手になる『冊府元亀《さつぷげんき》』が、明時代には解縉《かいしん》らによる『永楽大典』二万巻余、さらに王圻《おうき》の編という『三才図会』百六巻が、そして清時代になると、『欽定古今図書集成』一万巻が編集されている。中国は百科事典づくりの本家といってもいいのだ。だからそんなバカげた百科事典がありようはずがない。かりに数多い百科事典(彼らはそれを類書と呼んでいるのだが)のなかに、そうした奇妙な事典がないともいえぬが、もしあるとすれば、それはたぶんに誤訳の可能性がある。というのは、私自身にこんな経験があるからだ。
もう何年も前のことだが、私はパリである日、ソルボンヌの学生何人かと冗談話に興じていた。たまたま話が年齢のことに及んだので、私は何気なく自分は丑年《うしどし》であるといった。
「何ですか、ウシの年というのは」と一人が不思議そうな顔できいた。
「これは日本の――といっても、もともとは中国から受け入れた習慣なのだが、年を十二の動物にふり分けて、ネズミの年から、つぎがウシの年、つぎにトラ、ウサギ、タツ(竜)、ヘビ、ウマ、ヒツジ、サル、トリ、イヌ、イノシシという順に配列してある。それにさらに十の記号を組み合わせて、それでその年を呼ぶ。ぼくが生まれたのがウシの年だったのさ」と私は説明した。
一同は至極奇妙な顔をしてきいていたが、このような動物と年との関係は、彼らにとっては、あの「シナの百科事典」の分類のように、異様な思考のように思えたにちがいない。
「それはトーテムの名残ですよ、きっと」と一人がいった。「たぶん神話に関係があるんでしょう」ともう一人がきいた。「そういう考え方は古代エジプトにも、また、たしかマヤにもあったようだけれど……」と三人目がいい出し、それからひとしきりにぎやかな議論になったのだが、ともかく、私がウシの年に生まれ、丑年だと称していることが彼らにはたまらなくおかしかったらしい。以来、私はムッシュー・ウシと呼ばれることになった。もし、彼らのなかにフーコーとおなじような関心を抱く者がいたなら、彼は私の話に深刻な衝撃を受けて、思考の考古学者たらんとしたにちがいない。
年ばかりではない。こうした動物の分類は、やがて方角にまで適用され、ネズミは北、東はウサギ、南はウマ、西はトリとして表象されるようになる。ちなみにいうと、地図で子午線というのは、ネズミすなわち北から、ウマすなわち南へ走る線のことである。日本では時刻までこれらの動物であらわし、午前零時をネズミの刻、午前二時をウシの刻、同四時をトラの刻……というぐあいに配分した。私たちはこのような十二支にすっかり馴れ親しんでいるから、べつにそれを異様とも思わないが、しかし、考えてみると、たしかにこのような十二の動物の選定は奇妙にちがいない。
数多くの動物のなかから、なぜこの十二の動物がえらばれたのか。その選定の原理は何なのか。人間に親しいということで選んだようにも思えるが、では、そのなかにどうして辰、すなわち竜のような架空の動物がひとつだけ入れられているのか。例外といえば、トリとヘビ、鳥類と爬虫類がひとつずつえらばれているのも妙である。十二支の動物を並べてどのように思案しても、その撰択原理は、あの「シナの百科事典」の動物の分類のように、脈絡をつかむことができないのだ。
エウレーカ!
私はフーコーの書物に引かれている「シナの百科事典」の分類を読んで、フーコーとおなじようにおどろき、やがて、おかしさをこらえきれずに笑いだしたのだが、考えてみれば、それは十二支のイメージのなかに生きている自分を笑うことではないか!
と、そう考えたとき、オヤと思った。もしかすると、ボルヘスはあの奇抜な動物の分類を、この十二支からでっちあげたのではあるまいか、という気がしたのである。私はあらためて(a)から(n)に至る項目をひとつひとつ思いかえしてみた。
待てよ、(a)の「皇帝に属するもの」というのは、ウマではなかろうか。漢の武帝は大宛国《フエルガーナ》に産するという「汗血馬」を手に入れたい一心で何万という遠征軍をさし向けたではないか。その馬は「一日に千里を行き、日中になると血の汗を流す」ところから「汗血馬」と呼ばれたのだが、四年の歳月を費やしてやっと大宛国を降し、念願の汗血馬を手に入れた武帝は、よろこびのあまり「天馬の歌」までつくっている。とすれば「皇帝に属するもの」が馬であっても一向におかしくはないわけだ。
(b)の「香の匂いを放つもの」というのは、おそらくイノシシのように体臭の強い動物をさしているのではあるまいか。(c)の「飼いならされたもの」については、イヌをはじめ、いくらでもあげることができる。(f)の「お話に出てくるもの」は、いうまでもなくタツ(竜)のような架空の動物であり、(i)の「気が狂ったように騒ぐもの」はサル山のサルと見なしてもよい。(j)の「算《かぞ》えきれぬもの」というなら、群れをなしてかたまっている羊などは、一見しただけではとうてい数えきれるものではない。最も奇妙に思われるのは(m)の「いましがた壺をこわしたもの」と、(n)の「とおくから蠅のように見えるもの」だが、前者についていえば、暴れまわって大事な水瓶や土器をこわしてしまう動物は、イヌでも馬でも、牛でさえ充分に考えられるところであるし、後者についてそのイメージをあれこれ描いてみるならば、たとえば、うすよごれた鶏どもがあちこちに散らばって餌をつついているさまは、遠くからながめれば蠅が何かにたかっているように見られなくもない。そして、(k)の「駱駝の毛のごく細《ぼそ》の毛筆で描かれたもの」は、ウサギと考えても、トラと思っても、べつにさしつかえないわけだ……。
「エウレーカ!」と、私はアルキメデスのように思わず大声をあげた。乗り合わせていたまわりの人たちがおどろいて私のほうを見た。が、そんなことにかまっちゃいられない。謎は解けたのだ。ボルヘスがあるテクストで紹介しているというあの奇妙な「シナの百科事典」とは、まさしく、十二支の動物を前にしてボルヘスが彼一流の機知からつくりあげた架空の百科事典だったのである。
と、そう確信すると、そんな「シナの百科事典」をさがしに神田の古本屋街に向かっている自分が、何とも滑稽に思えてきた。私は途中で引き返そうとしたが、古本屋歩きの愉しさを考えると、足はいやおうなく神田へ向いた。「シナの百科事典」はあるわけがないとしても、べつのすばらしい書物が見つかるかもしれない。私は例によってわくわくしながら神保町駅の階段をのぼって行った。
その日。さんざん古本屋の書棚をながめて愉しんだのだが、ついにこれという書物には出会わなかった。だが、通りに出てみると、永い春の一日はまだ暮れきっていない。で、私はそこから本郷へ回り、東大前の通りに並んでいる何軒かの古本屋をのぞいて歩いた。
すると、一軒の書店のショーウィンドーに、帙《ちつ》に収められた上中下三冊の和とじ本が飾られてあるのが目に入った。何だろう。近づいてみると、『天工開物』とあった。
『天工開物』とはたしか中国の技術百科事典である。私は高鳴る胸をおさえて、店の主人におそるおそる「あのウィンドーにある書物を一目見せてもらえまいか」と頼んだ。主人は無言でそれを取り出し、私の前に置いた。私はいささか上気しながらその帙をひらき、大きな細長い和とじ本のページを繰った。そして、あっ! といった。
[#改ページ]
樽金《たるきん》王の教訓
ある小さな事件
それは世にも見事な絵入りの技術百科事典だった。世にも見事な――というのは、その挿絵が、である。それこそ「駱駝の毛のごく細《ぼそ》の毛筆で描かれた」と思われる農耕の図、機織《はたお》りの図、製塩の図、製陶の図、鋳造の図、製油の図、醸造の図……が、上・中・下三巻の和とじ本の随所に鮮やかに印刷されていたのだ。
私は美術評論家にならなくてよかったと、つくづくそう思う。絵から受ける印象を言葉で表現するのは、なみたいていのことではない。いや、どんなに言葉をさがしても、それがどのような絵であるか文章によって正確につたえることは、とうてい不可能であろうから。だから私は無益な努力はやめる。ただ、その挿絵が何ともいえぬ不思議なイメージを私の網膜に焼きつけ、まるで魂を吸いとられたように私は一枚、一枚に見とれていた、とだけいっておこう。大げさにいうならば、中国画の神髄がそこにあるような気がした。
私があまりにも長い時間、店の一隅に突立ったまま、ゆっくりとページを繰っているので、かなりの年配の店の主人はあからさまに不快な顔つきをした。雑誌やマンガ本でさえ立ち読みをされるのは書店の主人にとって愉快なことではない。ましてショーウィンドーに飾ってある大事な本をいつまでもいじくりまわされたのではたまったものではなかろう。
「さ、もういいだろう」と主人はいい、私からその本を取りあげると、ふたたびウィンドーに並べ、錠をさしてしまった。主人は私がその本を見るだけで、買うつもりのないことを見抜いたのかもしれない。たしかに私は買うつもりはなかった。というのは、それは財布をはたいても買えないほどの値段だったからである。買いたくても買えない――この無念さ! 本を取りあげられて、いささかむしゃくしゃした私は、いくらとびあがっても葡萄の房に届かなかったあのイソップのキツネのような心境になって、きこえよがしにこうつぶやいた。
「すこし紙魚《しみ》が入ってるな。それに刊行された日付がないのはどういうわけなんだろう。不思議な本だな……」
それをきくと、主人のほうもついに癇癪を破裂させた。さんざん冷やかしたあげく、大事な商品にケチをつけたとあっては黙ってはいられなかったのだろう。彼は吐き捨てるようにこういった。
「ふん、あんたは何も知らないんだな。中国の書物には刊行の日付なんぞ入れやしないんだよ。だいたい、お前さんは失礼だ! 失敬千万だ! まったく礼儀をわきまえない。さっさと出て行ってもらおう!」
いきなり、そうどやしつけられて、私は腰を抜かさんばかりにおどろいた。主人に対して私はそんなに失礼なマネをしたろうかと、とっさのあいだに考えたが、それほど主人を怒らせる無礼を働いたとは、とうてい思えなかった。こうなると売り言葉に買い言葉である。私はカッとなって、こういい返した。
「どこが失礼なんだい。本を買おうと思って見せて欲しいと頼むことがそんなに無礼だというのかね。買う前に一応中身をあらためるというのは当然じゃないか!」
「いいや、失礼だ、あんたのその態度が失礼なんだよ。こんな無礼な客は見たことがない!」
「おどろいた! あんたのほうこそ客に向かって失礼じゃないか!」
これではまるで子供のけんかである。無意味な問答をこれ以上つづけてもラチはあくまい。たがいに不愉快をつのらせるばかりだ。こうなったら、だれが買うもんか。私は憤然として店を出た。久しぶりに口論をしたので、興奮は容易に収まらなかった。私は足を速め、やみくもにその辺を歩きまわった。ずいぶん本屋歩きをやったが、こんな事件≠ヘ初めてだった。鬱憤は容易に鎮まらず、私は、こういい返すべきだった、ああいうべきだったと、その言葉を相手がまだ目の前にいるかのように声に出して吐きちらした。すれちがう人が妙な顔をして私をふりかえって行った。
私は収まりのつかない気持をむりに落ちつかせようと、一軒のしゃれた喫茶店に入り、コーヒーを注文した。そしてイスに背をゆったりともたせ、先刻の情景を頭のなかから追い出しにかかった。
「ミルクを入れますか」という声がした。気がつくと、そこに可愛い少女がコーヒー茶碗とミルクの壺を盆にのせて立っていた。その少女の顔とコーヒーの湯気で、鬱憤はしだいに消えた。私は目を閉じて心ゆくまでコーヒーを味わった。
すると、あらためてあの中国の絵入り百科『天工開物』の見事な挿図が浮かんできた。もし、きょうにもあれをだれかが買ってしまったなら、もう二度と手に入れることはできまい。『天工開物』という書物は、たしか東洋文庫の一冊として出ているはずだが、洋装の活字本ではとてもあの絵の雰囲気は味わえまい。何とも残念だ。癪だ。しかし、何とか金を都合しても、いまさらあれを売ってくれとは、口が裂けたっていえやしない。こっちが短気を起こしたのはまずかったなあ……。
だが――と私は考えた。いきなりあんなふうにいわれたら、だれだって黙ってはいられないだろう。いくら考えても、べつにそんな無礼を働いたとは思えないんだから。おそらくあの老主人は、どこか虫のいどころが悪かったんだ。それでぼくに八ツ当りをしたにちがいない。あるいはだれかと言い合いをした直後だったのかもしれない。それで、ぼくがその口論の相手を引きついだ形になったということも充分にあり得る。失礼千万だったのはその口論の相手であり、ぼくは老主人の頭のなかにあった残像の犠牲になったわけだ。
と、そう考えると、腹立ちはすっかり収まった。怒りが鎮まると、それに比例してあの名状しがたい気分を起こさせる挿絵がいよいよ鮮やかに甦ってきて、どうあっても、もういちど見たいという衝動を押さえるのにえらく苦労した。その衝動をふたたびコーヒーで溶かし、私は執拗に迫ってくる未練と戦いながら本郷通りを御茶ノ水のほうへ歩いて行った。
『天工開物』縁起
その夜。私は帰路、新刊の書店で見つけて買ってきた東洋文庫の『天工開物』のページを繰って、いたるところに収められている例の挿絵に目をさらした。そして、オヤと思った。そこに凸版で印刷されている絵は、これまたなかなか面白い挿図なのだが、昼間見た和とじ本の絵とはどうもちがうようなのである。それよりもだいぶ粗略であり、粗略なるがゆえにそれなりの味があるが、私にはやはり本郷の古本屋で一枚一枚見とれた「駱駝の毛のごく細《ぼそ》の毛筆で描かれた」ようなあの挿絵のほうがすばらしいように思われた。
おなじ『天工開物』といいながら、どうして挿絵がちがっているんだろう。伝本が二種類あったのかしらん。とすると、どっちが正本なのか。だが、その謎は巻末に附された藪内清氏の「解説」によってたちまち解けた。私はその解説で、この書物の興味ある歴史をあらためて教えられたのである。『天工開物』は明末の学者|宋応星《そうおうせい》が著した産業技術の百科事典である。天工というのは、造化の巧み、すなわち自然の業であり、開物とは、人間の巧み、つまり天然の生みだした物を人力で開くことである。したがって「天工開物」とは、自然を開発する技術といってもよかろう。その目次を見ると、まず「穀類」の栽培法に始まり、「衣服」「染色」から「製塩」「製糖」「製油」「製紙」「製錬」「醸造」、さらに船や車や兵器のつくり方、珠玉の採集方法までが紹介されている。しかも、穀類に始まり珠玉に終わるというその記述の順序は、著者の序文によれば、「五穀を貴び金玉を賤しむという意味に従っている」のだそうで、ここにはかのダランベールが百科事典に不可欠と考えた|著者の哲学《ヽヽヽヽヽ》もちゃんと盛られているのである。
この書物が出版されたのは、明末の崇禎《すうてい》十年(一六三七年)とされているから、日本でいうと寛永十四年、徳川三代将軍家光の時代で、ちょうどこの年、島原でキリシタンが蜂起している。中国で刊行された『天工開物』がいつごろ日本に渡来したのかはさだかではないが、江戸の中期には何部か入ってきていたらしい。そのころの大阪の町人で博物学者≠ナもあった木村|兼葭堂《けんかどう》――彼はまた、たいへんな蔵書家でもあった――がそれを手に入れて秘蔵していたという。先進国である中国の技術百科というわけだから、当時の日本人が争ってそれを読みたがったことは察するに難くない。そこで明和八年に大阪の菅生堂という本屋が訓点と送りがなをつけて和刻本を出した。
ところが、本家の中国では明から清へと政変がつづき、清になってからはまるで忘れられてしまったようである。そんなわけですっかり散逸し、「一時この本の所在すら明らかではなかった」という。したがって日本に渡来した何部かの刊本や、その和刻本がその保存の役割を果たすことになった。そして大正の末年――地質学の勉強のために日本に留学していた|章鴻サ《しようこうしよう》が、その和刻本を日本で見つけた。彼はこの貴重な文献を中国に持ち帰り、中国でそれが逆に翻刻されることになる。「解説」によると、翻刻されたのは中華民国十六年(一九二七年)で、その際、原本の粗朴な挿絵を新しくし、もっと細密な挿図に代えたのだという。
それでわかった。私が本郷の古本屋で見たのは、中国での翻刻版だったのだ。だから絵が原本とかなりちがっていたのである。とすれば、あれはやはり貴重な文献にちがいない。中国での翻刻版なのだから、もちろん訓点や送りがなはなかった。読むのには相当骨が折れそうだが、さいわい手もとに藪内清氏の訳本がある。それと対照しつつ少しずつ読んでゆくのは、なんとも興味あることだ。それより何より、どうしても、もういちどあの絵が見たい。あの絵を見ていると、明の時代の中国の農民や工人たちの様子が写真などよりもずっと鮮やかに甦ってくる。
私は東洋文庫の『天工開物』をひろげたまま、心はもうそこになかった。やはりあれを買うべきだ。しかし、あんなふうに主人と口論してしまった以上、いまさら売って欲しいと頼むのはバツが悪い。だいいち、主人が私にあの書物を売ってくれるかどうかわからない。謝ったら売ってくれるだろうか。いや、べつに無礼を働いたわけでもないのに、謝るというのも腑に落ちない話だ。しかし、どうしても手に入れるとしたら、それよりほか仕方があるまい。
待てよ、と私はドキンとした。もしかすると、すでにだれかが買って行ってしまったかもしれないではないか。こいつは失敗《しま》ったぞ。主人とあんないい合いをするんじゃなかった。ぜひ買いたいからといって、手つけ金を置いてくるべきだった。もし売れてしまっていたら、どうしよう!
その夜、私はなかなか寝つけなかった。
得たきものは……
寝つけない私の頭のなかを、さまざまな想念が去来した。まっさきに思い浮かんだのは私の好きな画人、そして俳人である蕪村のこんな一文である。
[#この行1字下げ] ――得たきものはしゐて得るがよし。見たきものはつとめて見るがよし。又かさねて見べく得べきをりもこそと、等閑《なほざり》に過《すご》すべからず。かさねてほゐとぐる事はきはめてかたきものなり。(新花摘)
欲しいと思うものは何としても手に入れるがいい。見たいと思うものは、つとめて見たほうがよい。いつかまた見ることができるだろう、なに、そのうちにまた手に入れる機会もあるさ、などといい加減にやりすごしてしまってはいけない。ふたたび本意《ほい》をとげることは、なかなかむずかしいことなのだから――というのである。
だが、いくら欲しいと思っても、金がなければどうしようもなかろう。蕪村のいい分はずいぶん無理な話のようにきこえるが、しかし、そのくらいの決意がなければ、自分の欲しいものはなかなか手に入らないのはたしかである。ことに本に関してはそういえる。見たいものと蕪村がいうのは、たぶん絵とか美術品のたぐいであろう。画人であった蕪村は、おそらく見たいと思っていた絵を、ついに見逃してしまったという苦い体験を重ねたにちがいない。
そう思うと、またしても『天工開物』のあの挿絵がありありと浮かびあがってきた。やはり借金をしても買うべきだ。よし、あす思いきって買いに行こう。だがそう思うと、|またしても《ヽヽヽヽヽ》主人の顔が現れて、ずっしりと気が重くなった。これではどこまでいっても、どうどうめぐりである。私は苦笑した。自分がまるで寒月君のように思えてきたのだ。
寒月君とは、いうまでもなく漱石の『吾輩は猫である』に登場する理学士である。その寒月君がヴァイオリンを買う話を苦沙弥先生や迷亭たちに話してきかせるくだりがある。彼は「麻裏草履《あさうらざうり》さへないと云ふ位な質朴な田舎」の高等学校時代にヴァイオリンを習おうと思い立ち、ヴァイオリンを売っている店の前を往きつ戻りつする。そして何度も買おうと思ってはやめ、やめてはまた買おうとするそのじれったい話で苦沙弥先生や迷亭たちをさんざん焦《じ》らすのだが、いまの私は、その寒月君そっくりではないか。しかし、私はべつに寒月君のマネをして読者を焦らそうというつもりはさらさらない。
そういえば、漱石の『猫』のなかには、前にも引いたローマの樽金《たるきん》王の話も出てくる。樽金王のところへ、ある日、一人の女が本を九冊持ってきて買ってくれないかといった。いくらかときくと、たいへん高い値段をいったので、王さまが「すこし負けろ」というと、女はいきなり九冊のうちの三冊を火に投じてしまったというあの話である。で、樽金王が残ったその六冊を買おうとして、いくらかときくと、おなじ金額を要求するので、そいつはおかしいじゃないか、というと、女は怒ってさらに三冊を火に投げこんでしまう。樽金王はあわてて残りの三冊を買い取ろうとするのだが、女はやはりビタ一文引かなかった。しかし、ここで口論したら女は最後の三冊まで火にくべてしまいそうなので、樽金王はやむなく九冊分の金を払ってその三冊を買いとった、というのだ。
この話は、いまの私にとって、なかなか含蓄のある逸話である。私はローマの樽金王のように、本屋の主人とやり合ってしまったわけだ。さいわい、主人はこの女のように大事な書物を火中に投じてしまうようなマネはしなかったけれども、彼女のように怒って、さっさとウィンドーのなかへしまいこみ錠をかけてしまった。だから、それをどうしても手に入れようとするならば、ローマの王さまのように謝って売ってもらうほかあるまい。ローマの王さまでさえ、貴重な書物を得ようとすれば、身を屈しなければならなかったのだから、王さまならぬ私が主人に謝ることぐらいは当然のことといわねばなるまい。書物のためにはどんなことにも耐えなければならぬ。そうすればするほど、書物の価値はいよいよ高まるのだ。
と、そう考えて、私は主人に謝ることにし、そうきめると心が安らいで、いつのまにかぐっすり眠ってしまった。
一件落着の夜
そして翌日。
私は金を工面するや、夢中で本郷へ出かけて行った。まだあの『天工開物』が売れていませんように、と念じながら店の近くまでくると、さすがに胸がドキドキした。私はつとめて平静を装いながら、店先にぶらさがっているヴァイオリンを横目でながめつつ楽器店の前を行きつ戻りつした寒月君よろしく、まず足速に本屋の前を通りすぎ、流し目にチラリとウィンドーをながめた。あった! まだ売れていなかったのだ。
これでホッと一息ついたが、さて、これからがいよいよ正念場《しようねんば》である。店に入り、主人に何と切り出そう。最初の一言ですべてがきまる。「ご主人、きのうはたいへん失礼しました。じつは……」と私は口のなかでリハーサルをした。いや、待て、それよりも、もっとさりげなく、「こんにちは。きのう見せていただいたウィンドーにあるあの本ですね、やはり買いたいんですが売っていただけますか」というふうに切り出したほうがいいかな。それとも……。
リハーサルを何度も重ねながら、私はつくづく自分の小心さに情けなくなった。何をそんなにびくびくしてるんだ! お前はすこしおかしいぞ。本を盗み出そうというわけじゃあるまいし、金を出して買うのに、なにもこわがることはないじゃないか。しっかりしろ。私は自分をそうどやしつけ、勇を鼓してつかつかと店内に入って行った。
すると、店の奧にすわっていたのは老主人ではなく、中年の婦人だった。私はいささか拍子抜けしたが、しかし油断は禁物である。それとなくあたりをうかがって、主人のいないことをたしかめると、私は内儀に小声で、「あのウィンドーにある『天工開物』という本を買いたいんですが、売っていただけるでしょうか」と、ていちょうに頼んだ。万が一、失礼があっては昨日からの苦心が水泡に帰してしまう。私は彼女の前に直立していた。
「ええ、よろしいですとも」と彼女はうなずき、すぐにカギでウィンドーの横手の扉をあけ、いまや私にとっては何物にも代えがたいと思われるその書物を気軽に取り出して、片手でポンポンと埃を払い、「ごらんになりますか」といった。私はあわてて、
「いや、いいんです。きのうたっぷり見せていただきましたから」と、かすれたような声でこたえ、そこに毛筆で大きく書かれてあった金額を数えて渡した。「ありがとうございます」と内儀はいい、店の名の入った包装紙につつんで私に差し出した。そして、「ほんの気持だけですが千円お引きいたしましょう」と千円札一枚を返してくれた。その様子から私は、きっと彼女はきのうの一件を知っているにちがいないと確信した。この千円は、仲直りのしるしのつもりであろう。
私は急に気が楽になって、「きょうはご主人はお留守ですか」ときいてみた。「いえ、奥におります。何なら呼びましょうか」。私はあわてて「いやいや、結構です。じつはきのう、ご主人に不快な思いをさせてしまったような気がして」と申し立てた。
「とんでもございません。こちらこそ失礼いたしました。なんせ、がんこ一徹でございまして……」
やはり彼女はきのうの一件を知っていたのである。
「いや、ぼくのほうが悪かったんですよ。しかし、よかった。この本が手に入って」
「それは、それは。うちでもこれは大事にしていましたからねえ」
「そうでしたか。おたくにはいい本がたくさんありますね。これからはちょいちょい寄せていただきます」
「ぜひ、寄ってらしてください」
こうして、一件は見事に落着したのである。
その夜。
私は帙《ちつ》のなかから『天工開物』の三冊をうやうやしく取り出して、ひとり灯火のもとで心ゆくばかり「駱駝の毛のごく細《ぼそ》の毛筆で描かれた」と思われる中国独特のすばらしい細密な絵を味わいながら、ゆっくりとページを繰った。そして、あらためてその序を東洋文庫と対照しながら読みかえした。
訳文にこうあった。
[#この行1字下げ] ――天地の間には、事物はいずれも万を数える。それらが一つ一つ完全につくりあげられているのは、全く人力でできることではない。このように事物が万を数えるからには、それについての知識は、教えられたり観察したりして獲得するにしても、はたしてどれほどのことを知り得ようか。(藪内清訳)
そこで宋応星は、産業技術百科ともいうべきこの書物を書いたのである。これは、考えてみると「知は力なり」といって『ノーヴム・オルガヌム』を著《あらわ》し、フランスの『百科全書』の原点となったあのフランシス・ベーコンの哲学と、その精神、その意図において少しも変わらないではないか。
で、私は思いついて年表をくってみた。宋応星がこの書を世に出したのは前記のように一六三七年であるが、『世界史年表』によれば、それはなんとベーコンの死後十一年目であった!
[#改ページ]
十頭の牛
格言への不信
「精神一到何事カ成ラザラン」という言葉がある。私ぐらいの年配の人間なら、あの戦争中に耳にタコができるほど毎日きかされた文句だから、だれでも覚えているはずだと思う。精神を一事に集中して努力さえすれば、何事でも成就しないことはない――というのである。だが、論理的に考えると、これは明らかに背理である。なぜなら、そう断定できる何の根拠もないからだ。
げんに私にはこんな体験がある。少年のころの話だが、私は『戸沢白雲斎』とか『猿飛佐助』とか『霧隠才蔵』といった講談本にとりつかれ、騎士物語にうつつを抜かしたかのラ・マンチャの『奇想驚くべき郷士ドン・キホーテ』よろしく、「夜は暮れぬうちから明け渡るまで、昼は白み渡らぬころから暗くなるまで」読みふけるという始末となった。それで「眠りが少なすぎ、読書が多すぎた結果、脳みそがバサバサに乾いて」物ごとの分別を失い、荒唐無稽の絵空事を一切合財、ほんとうにあったものと思いこんで、ついにドン・キホーテに勝《まさ》るとも劣らぬ珍妙な決心を抱くに至ったのである。ほかでもない。私もひとつ山の中で修業を重ね、忍術の極意をきわめて佐助や才蔵のようになろうと、本気でそう考えたのだ。印を結んで自分の姿をパッと消し、どんな秘密の場所へでも自由自在に入りこめたら何と面白いことだろう。そんな自分を想像すると私はすっかり興奮し、両腕が鳥肌立ってきた。
で、早速、修業を始めることにしたのだが、その前にひとつ問題があった。忍術には――講談本によると――二つの流派がある。甲賀流と伊賀流である。そのどちらの流派をえらんだらいいのか、という問題だ。どちらにしたらいいか、さんざん迷ったすえ、私は『猿飛佐助』と『霧隠才蔵』を、あらためて何度も丹念に読み返し、両者の優劣を徹底的に検討した。すると、どうも人間的に猿飛佐助のほうが好ましく、術も立ち勝《まさ》っているように思えたので、私は甲賀流にきめ、講談本に描かれている挿絵をつらつらとながめながら印を結ぶときの手つきを練習し始めた。
むろん、どんな怪しげな手つきをし、どんな呪文を唱えてみたところで、都合よく白い煙が足もとからむくむくと立って自分の姿が消える――なんてことはありえない。いくら夢中になったからといっても、そのくらいの分別は私のどこかに残っていた。
しかし、私には一筋の期待があった。それがあの格言、すなわち、「精神一到何事カ成ラザラン」という文句である。私の足もとから白煙が立ちのぼってこないのは、要するに精神の集中が足りないからだ、と私は本気でそう思いこんだ。佐助にしろ、才蔵にしろ、講談本の語るところによれば、それこそ血のにじむような修業と精神集中のあげく、やっと遁身の術を会得したというではないか。そうだ、そうだ、「精神一到何事カ成ラザラン」だ。私は夜半に目をさますようなことがあると、両親に気づかれぬようにこっそりと起き出した。そして庭に出るや渾身の力を指先にこめて印を結び、腹の底から「やっ!」という掛け声を押し殺しながら吐き出して、さて、あたりを見まわすのだが、何と意地悪いことに、夜霧のほか白い煙など一向に立ちのぼらず、自分の姿は夜目にもはっきりと自分の目に映るのだった。
いや、まったく、いまから考えると狂気の沙汰である。だが、私をしてそんな狂気の沙汰に駈り立てたのは、当時の大人たちが二言目には口にしていたあのいまいましい格言、「精神一到何事カ成ラザラン」という文句だったのだ。こいつはまったく罪な言葉である。少年の私だけではなく、いい年をした大人たちさえも狂気へと駈り立ててしまったのであるから。竹槍で米軍のB29爆撃機に勝てるなどと本気でそう思いこませたのも、まさしくこの格言だったにちがいない。
ともかく、こうして私は必死で忍術の修業に日夜ひとりで励んだのだが――というのは、私に術を授けてくれる戸沢白雲斎のような忍者はどこをどう探してもいなかったからであるが――とうとうあきらめた。どんな手つきをしても、考え及ぶかぎりの呪文を唱えてみても、ついに白煙は立ちのぼらず、もしかしたら、と一縷の望みをかけて悪童の仲間に「オイ、ぼくの姿見えるかい、見えないだろう」ときいてみると、悪童はさも軽蔑したように、「何だい、その格好は。まる見えだよ、ホレ、ここにいるじゃねえか」といって、ゲラゲラ笑いながら私の首っ玉を両手でぎゅっと押さえつけるのが関の山だったからである。そのときの私の屈辱は、そのまま、あの格言への不信となって残った。つまり、「精神一到何事カ成ラザラン」なんて嘘《うそ》っ八《ぱち》もいいとこだ。いくら精神を集中したって、できないものはできやしないんだ。あんな格言はでたらめさ、というわけである。もうすこし形式論理学ふうにいうと、ぼくが自分の姿を消すことができないのは、精神一到に至っていないためか、あるいは、いくら精神一到してみてもできないことがあるということか、そのいずれかである。ぼくは、とことん精神を一到してみた。だが自分の姿を消すことができないところからすると、結論は「精神一到何事カ成ラザラン」という命題が虚偽ということになる。
私がこの命題を論理的にみて背理であると断定したのは、以上のような少年時代の苦い体験からであった。
しかし、そんなことは何も体験を要しまい。いくら精神を一到してみても、絶対に成就できないことはざらにある。たとえば、何百年も生きるなんてことはけっしてありえないし、両手をバタバタさせて鳥のように空中を飛ぶなどというマネもできるはずがない。そんな大それたことどころか、美しい女性に想いをかけられるとか、億万長者になるとか、自分の書いた本がベストセラーになるとか、そういうことだって、いくら精神を一到してみても私には成就の見込みはない。だから、強いてこの命題を成立させようとすれば、つぎのように言いかえる以外にあるまい。すなわち、
精神一到スレバ、デキルコトハデキル、シカシ、デキナイコトハデキナイ。
これじゃ長すぎるというならば、こういったらよかろう。「精神一到何事カ|ハ《ヽ》成ラザラン」。「ハ」の一文字を入れるだけで、この格言は論理的に成立する。日本語の「ハ」という助詞はまったく便利にできていると、つくづくそう思う。
ケストラーと禅
ところで、世の中は論理一点張りというわけではない。論理的《ヽヽヽ》には背理であっても、心理的《ヽヽヽ》には立派に通用することが多々ある。そこが世の中の面白いところといってもいい。「精神一到何事カ成ラザラン」という格言は――だいたい、格言とか箴言《しんげん》とかいわれるものはすべてそうであるが――論理的命題ではなくて、心理的な命題なのである。つまり、励ましの言葉なのだ。じっさい、そう信ずればこそ、人びとは一事を成しとげようと全精神を集中する。全精神を傾倒して努力すれば、たしかに何事かは成るのである。
げんにこの言葉を信じて、とうてい不可能と思われることを成しとげた人もずいぶんいたはずだ。たとえ成しとげられずとも、この命題で心を慰めた人も多かろう。うそだと思ったら、この言葉をひっくり返して、「精神一到何事|モ《ヽ》成ラザラン」というふうに逆の命題につくり直してみたらいい。どんなに精神を傾倒してみたって、何もできやしないさ、というわけだ。そんなふうにいわれたらバカバカしくなって、だれも努力をしなくなってしまうだろう。生きているのがいやになり、自殺者がふえるかもしれない。とすれば、あの命題は論理的には虚偽であっても、心理的には真理とすべき大事な言葉といわねばなるまい。要はその格言を、どのように巧みに自分の人生に適用するかにある。するとそのうちに、それが真理のように思えてくる機会が必ず到来するから妙だ。なんと、私にもその機会が到来したのである。それは、書物にまつわる不思議な体験だった。
だが、それを語るには話をちょっと前に引きもどさなければならない。
私が中学生だったころ、岩波書店から岩波新書が出はじめ、なかでも鈴木大拙の『禅と日本文化』がたいへんな評判だった。この本はいまでもよく売れているらしく、最近買い直した同書の奥付には「第38刷」とある。禅が日本文化にどれほど大きな影響を及ぼしたかを説いた書物で、禅と美術、剣道、儒教、茶道、俳句などとの関係を論じた著作である。
中学生だった私も、評判につられて読んだ。が、「理論と言語的解釈を超えることを要求」するという禅の本質が、中学生に「直覚的に」理解されるはずもなく、私はたちまち投げ出してしまった。
当時、私は西洋の哲学にかぶれていて、わかりもせぬのに認識論などに手を出していた。論理的な思考を夢中で求めていた私にとって、「知的作用は論理と言葉となって現われるから、禅は論理を蔑視する」というそんな考え方は、理解を越えるというよりも、反発のほうが先に立ったのである。もし、論理というものを徹底的に追放してしまったら、あとに何が残ろうか、と私は思った。世の中は、それこそ禅問答のようにわけがわからなくなってしまうではないか。そうなれば科学も成立しないことになろう。げんに著者は「禅は科学、または科学的の名によって行なわれる一切の事物とは反対である」といっている。中学生の私には、それは奇をてらった逆説としか思えなかった。
しかし、そうは思いながら、私は禅に対して一種の気味悪さを感じていた。もし禅がまったくの詭弁であるならば、そんなものがこれほどの影響力を持つはずはあるまいと思えたからだ。しかも、鈴木大拙のこの書には、西洋の哲学をすっかり消化して独自の哲学をつくりあげたという西田幾多郎が「思想上、君に負ふ所が多い」と「序」を寄せている。とすれば……。
だが、何といっても中学生の年ごろは、禅と真剣に取り組むには若すぎるのである。以来、私は禅にけっして近づこうとしなかった。大学で私が専攻科目にえらんだのも、非合理的に思える東洋の哲学ではなく、あくまで論理を追求する西洋の哲学だった。
さて、それから何年かの後。私は新聞社で学芸部の記者をやっていた。学芸記者の特権は、著名な学者や作家や芸術家たちに会えるということである。私はその特権をフルに利用し、日本にやってくる海外の著名な人たちとできうるかぎり会おうと心がけた。昭和三十四年に来日したアーサー・ケストラーに会ったのも、新聞の学芸記者としてである。
私がこのイギリスの作家に会いたかったのは、ケストラーが『真昼の暗黒』の作者だったからでも、また『スペインの遺書』の筆者だったからでもなかった。彼が"THE TRAIL OF THE DINOSAUR"(恐竜の足あと=邦訳題名『現代の挑戦』)の著者だったからだ。彼はこの評論集のなかで、ひたすら目的と手段の問題を情熱的に論じた。その問題提起に私は深く心動かされ、一度彼に会って、その意見をじかにきいてみたいと思っていたのだ。
ところが、たしか二月の末だったと記憶するが、ケストラーを東京・麻布の国際文化会館に訪ねると、彼が鋭い語気で一方的にしゃべりまくったのは、目的と手段という問題ではなくて、ひたすら禅についてだった。彼がインドを回って日本にやってきたのも、じつは東洋の哲学に深く期するところがあってのことらしかった。だが、その期待は完全に裏切られたというのである。ケストラーは日本で高僧といわれる何人かの禅師に会ったようだ。むろん、言葉の障壁もあったにちがいないが、いっさいの論理を無視する禅問答が彼を無性に腹立たせたとみえる。ケストラーは終始、禅に対して悪口をあびせた。
「禅というのは、まやかしだ。でたらめだ。あんなものに、いったい何の意味があるのか」と、彼は自分の理解を越えることからくる鬱憤を私に向かって思いきり吐き散らした。
「意味などというものを否定するところに禅の本質があるのではないですか」と私は自分の無知を棚にあげて、あえて反論した。するとケストラーはいよいよ腹を立てて、論理を否定する禅をさんざんこきおろしたすえ、急にシニカルな表情になって、こういった。
「禅がいかにインチキであるか、それはまさに論理を拒否するところにある。論理を否定すれば、だれも反論できないからね。悟りに達した禅の高僧なんていうが、彼が悟ったという証拠はどこにある。果たして悟ったのかどうか、だれにもわからんではないか。悟ったという証拠をいっさい示さなくていいんだから、便利なもんだ。ただ悟ったような顔をしていればいいんだからね。そこで彼はわざと常軌を逸したようなふりをして、大声をあげたり、弟子をぶん殴ったりするわけだ。禅というのは要するに子供だましの手品にすぎない……」
私は、もうそれ以上反論などせず、ただ黙って彼の言い分をきいていた。そして彼の毒舌をききながら、中学生のころ、鈴木大拙の『禅と日本文化』を読んだときの自分の感想を思い起こしていた。
『十牛図』の教え
以後、私は相変わらず禅に近づかなかった。が、心の奥底で、いつも禅については気になっていた。座禅を組もうなどという気はさらさらなかったが、日本文化に深い影をおとしてきた禅を避けて通ることはできないと思っていたのだ。とはいえ、西洋式論理に動かされてきた私には禅を理解できるという自信は皆無だったし、禅宗の歴史を学ぶにも、禅書はあまりに難解だった。だが、ときおり、たとえばカミュのこんな言葉にぶつかるたびに、私は禅を考えざるをえなかった。
[#この行1字下げ] ――論理的であるということはむずかしくない。しかし、最後まで論理的でありつづけるということは、おそらく不可能であろう。ぼくの関心をそそるただひとつの問題は、死に至るまでつらぬかれた論理はありうるか、ということである。(カミュ『シーシュポスの神話』)
こうして、私はしだいに、禅のほうへ手繰りよせられていったのである。そのきっかけは、禅問答のように唐突にきこえるかもしれないが、じつは牛だった。
前にも述べたように、私は丑《うし》年のせいもあって、牛という動物に関心を持っていた。牛は太古から人間の文明と深くかかわり合っているからである。サハラの奧に月世界のようにひろがっているタッシリ高原の岩の柱には数千年も前の人間が描き遺して行ったおびただしい牛の絵が見られるし、エジプトやクレタや古代ギリシアでも牛は重要な宗教的役割を担っていた。いや、現代でもインドで牛は聖獣とされているし、スペインでは逆に闘牛が国民的行事となっている。が、闘牛も宗教的な儀式に由来していると見てさしつかえあるまい。そんなわけで、私は牛が文明史の重要なカギを握っているのではないかという気がしているのである。
ところで、牛は中国においても宗教的な役割を与えられている。ことに禅僧たちは牛というものを精神のシンボルのように考えて、さまざまな「牧牛図」を描いた。「牧牛」というのは牛を飼いならすことであり、それはそのまま自分の精神を自分で統御するのに通じているとされたのである。そのなかで私がとくに興をひかれたのは、いまから八百年余り前の中国の禅僧、廓庵師遠《かくあんしおん》が描いたという『十牛図』である。むろん、私はその絵を見たわけではなく、たまたま柴山全慶老師の著『十牛図』で目にしただけなのであるが、禅の何物たるかを知らぬ私にとっても、そこに描かれているいかにも洒脱な十枚の図は、私の心をとらえるのに充分だった。といっても、その書物に収められていたのは廓庵のそれではなく、「寛永八年京都に刊行せられた木版の書物より取つた」ものということだが、それでも私は大いに打たれた。そして、その『十牛図』なるものが、禅の修行の過程を牛というイメージによって巧みに説いたものであることを知った。
第一が「尋牛」、すなわち牛をさがしに行くの図である。いうまでもなく、牛とは自分の心を意味している。第二が「見跡」、つまり、牛の足跡を発見するところだ。第三が「見牛」、牛を見つける場面、第四が「得牛」、牛をつかまえる情景、そして第五が「牧牛」、暴れる牛をなだめて落ちつかせる様子」、第六が「騎牛帰家」、おとなしくなった牛の背に騎《の》って家に帰るの図である。
しかし修行はまだつづく。第七が「忘牛存人」、すなわち牛を連れて家に帰ったあと、牛のことはすっかり忘れるが、自分というものからはまだ自由に解き放たれていない状態である。が、やがて、第八の「人牛|倶忘《ぐぼう》」、牛も人も倶《とも》に忘れるという心境に達する。そこにはもう牛も人も姿は見えず、ただ墨で円が描かれているだけである。しかし、それでもまだ悟ったとはいえない。第九が「返本還源」、つまり宇宙の根源に立ちかえって、柳ハ緑、花ハ紅《クレナイ》の域に達する。ありのままの世界を、ありのままに受けとるという境地である。そこに花の一枚が描かれている。そして、ついに第十の「|入※[#「廛+おおざと」]垂手《につてんすいしゆ》」の域に到達する。「|※[#「廛+おおざと」]《てん》」とは巷《ちまた》のことである。すなわち、もう何のこだわりもなく巷に出入りして、手を垂れて人びとを感化するというわけである。
精神一到何事カ……
なるほど、こういうふうに説かれると、何となく禅の境地がわかるような気がする。私はあらためてイメージの力に感服した。げんにこの『十牛図』は、禅へのこの上ない入門書とされている。
私はその図一枚一枚をながめながら、アーサー・ケストラー氏がこの『十牛図』を見なかったのを残念に思った。おそらく彼はこの図を見なかったにちがいない。もし彼がこうした洒脱な絵を目にしていたら、彼の禅に対する見方もずいぶん変わっていたであろうからだ。むろん、これは彼のいう「証拠」にはならないかもしれない。が、少なくともこの絵はヨーロッパの作家の胸に何かを語ったはずである。
柴山全慶老師の著書に紹介されていたのは、前記のように寛永のころ京都で刊行された木版の書物に刷られていた絵であった。それは当時の日本の禅僧の手に成るものであろう。日本につたわる『十牛図』の名品は五山版の挿図だそうであるが、その他にもさまざまな『十牛図』が描かれているらしい。
ところで、こうした『十牛図』が収められているのは禅宗の『四部録』だそうである。そこで私は、ぜひともその『四部録』を手に入れたいものだと思い始めた。というのは、柴山全慶老師はその著書の冒頭に、こう書いているからだ。
[#この行1字下げ] ――私がまだ少年であつた時、はじめて師から素読を教へられた禅書が『四部録』であった。廓庵の十牛図|頌《しよう》はこの書物のなかに輯められてゐる。その時以来十牛図は深く私の心を牽きつけてゐた。
そんなふうにきかされると、『四部録』なる書物が行住坐臥、私の念頭を離れなくなった。どうあっても『十牛図』を収めた『四部録』が欲しい、どうしても欲しい……。
ずいぶん珍妙な話である。だいたい禅というものは、いっさいのものにこだわらず、執着を絶つところから出発する教えではないか。それなのに私は書物にこだわっている。これではすでに禅などを学ぶ資格があるまい。
だが、そのとき――久しく忘れていたあの格言、「精神一到何事カ成ラザラン」という朱子の言葉が、まるで禅の公案のように頭に浮かんだのである。よし、この言葉をもういちど試してやろう、と私は思った。そして、文字通り、朝から晩まで『四部録』にうなされつづけた。むろん、『四部録』は活字本では刊行されている。ていねいな訳と解説がついて。しかし私が欲しいのは木版刷りの和とじ本だった。そして、ある日。
私は講演を頼まれて名古屋へ出かけた。東京から名古屋まで、新幹線の座席で私の頭を領していたのは、依然として『四部録』だった。精神一到何事カ成ラザランと私は何度も口の中でつぶやき、名古屋に着くや、わずかなひまを見て十王町にある古本屋へ行ってみた。
すると、どうだろう。何たることだ! 扉をあけて入ったとたん、うっすらと埃のつもった古ぼけた和とじ本の束のいちばん上に、ネズミ色の表紙の大判の『四部録』が一冊、まるで私を待ちうけていたかのように置かれていたのである! 私は思わず目を疑った。夢ではないかと思った。その値段がまた、なんとごく普通の新刊本を買うような額だったからだ。
まさしく精神一到だ。何事カ成ラザラン、だ。その本を取りあげ、木版刷りの『十牛図』を一見するや、私は夢中でそれを店の主人に差し出した。私の頭のなかで鈴木大拙師の顔と、アーサー・ケストラー氏の顔がぐるぐると回った。
[#改ページ]
書物の運命
マニの焚書
アメリカの航空宇宙局が金星を探査するために開発したレーダーを飛行機に積んで、八千五百メートルの上空から中米グアテマラのジャングルを撮影したところ、その画像に奇妙な格子縞の模様が浮かび出てきた。撮影者のケンブリッジ大学教授リチャード・アダムス氏がその謎をさぐるために現地を探検してみると、写真に映し出された格子縞は、なんと石器で掘られた排水用の運河だった。この地域は紀元四世紀ごろから数百年にわたってマヤ文明が栄えた場所である。運河はマヤ人たちによってつくられたものにちがいなかった。
さきごろ、新聞(昭和五十五年六月四日付読売新聞)でこのニュースを読んだ人は、いまさらのようにマヤ文明の不思議さにおどろいたことであろう。たしかにマヤ文明はおどろくに価する特異な文明である。人間のなかに天才がいるように、民族にも天才的な民族がいるとすれば、マヤ人はまさしく天才的な民族だった。たとえばマヤ人は現代の天文学者が割り出している一年の日数三六五・二四二二日と小数点三位までおなじの三六五・二四二〇日という数字をちゃんとはじき出している。彼らは太陽暦とともに金星暦を用い、金星が天空を一周して元の位置にもどってくるまでの日数が五百八十四日であることも知っていたのだ。金星探査のためのレーダーが、金星を重視したマヤ文明の遺跡を発見したというのも念の入った偶然といえよう。
だが、天才はある分野では異常な才能を発揮するけれど、ほかのこととなると、えてしておどろくほど無頓着である。マヤ人もそうだった。かくも驚嘆すべき天文知識を持ち合わせながら、彼らは生活の基礎である農耕において、鋤すら考えつかなかった。ジャングルのなかにこれほど大規模な運河を掘り、見事な神殿都市を築きながら、彼らは技術の基礎ともいえる車さえ思いつかなかった。コンピュータを駆使しても、なお解読できない複雑な絵文字を発明しながら、他方で彼らは家畜を飼うことも駄獣を利用することも考えなかった。それどころか彼らは残忍な人身御供を平然と行なってさえいたのである。
いったい、こうしたマヤ文明はどのようにして生まれ、どんな歴史を歩んだのか。考古学者たちの懸命の調査、研究にもかかわらず、かなりの部分が依然として謎のままにとどまっている。かんじんのマヤの神聖文字がまだ半分も解けていないからだ。
マヤの神聖文字の解読が思うように進まないのは、残されているマヤの原典がほんのわずかしかないためである。そして、その責任は一五四九年、ユカタンに宣教師としてやってきたフランシスコ派の修道士ディエゴ・ランダの狂信に帰せられる。このスペイン人の神父はキリスト教の布教に妨げとなると考えてマヤ人の邪教≠フ絶滅計画を立て、マヤの神官たちが神聖文字で記していた書物を片っ端から没収し、火に投じてしまったのだ。彼はメリダの近くにあるマニという町にあったマヤの図書館から、そこに大切に保存されていたマヤの貴重な文書を広場に持ち出させ、「迷信と悪魔の言葉以外には何も記されていないように思われた」それらの書物をぜんぶ始末してしまった。このとりかえしのつかぬ暴挙を後世の考古学者たちは「マニの焚書」と呼んでいる。
ぜんぶでどれくらいの書物が灰にされてしまったのか。正確な数は知る由もないが、おそらく数千冊にのぼるであろうということだ。こうして、現存しているマヤの文書はわずか三冊、東独のドレスデンとパリとマドリードの博物館に一冊ずつ保存されているにすぎない。もし、マヤの書物が焚書をまぬがれていたとすれば、こんにちのマヤ研究はずっと進んでいるはずである。マヤ文明の謎は、ほとんど解き明かされていたかもしれない。だが、いったん灰になってしまった書物は二度と手にすることはできぬ。ランダは書物とともに、ひとつの特異な文明の歴史を葬ってしまったのである。
物いう板
このようなケースは、マヤだけに起こったのではない。あるときには狂信が、ある場合には無知が、そしてまたあるときには目先だけの利益が、ひとつの文明の足跡をいともかんたんに消し去ってしまうのだ。それは、たとえていうならば、千年の樹齢を持つ大木を伐り倒すのに似ている。三抱えも四抱えもある巨木でも自動鋸《チエーンソー》で引けば数分で倒れるであろう。けれども、そのような大木をふたたびながめようとすれば、千年の歳月を必要とするのである。いや、いったん葬られてしまった文明の歴史は、たとえ千年かけても復元されはしない。
イースター島の場合もそうだった。オランダの西インド会社が派遣した太平洋探検船が一七二二年の復活祭《イースター》に発見したというのでイースター島と名づけられたこの絶海の孤島は、島のあちこちに立っている不思議な巨石像《モアイ》によって謎の島とされているが、巨石像《モアイ》がその謎を黙して語らないのは、この島につたわっていた多くの|物いう板《ロンゴ・ロンゴ》≠ェ、ひとりの宣教師によってことごとく焼き捨てられてしまったからなのである。
一八六四年、イースター島にユージェーヌ・エーローというカトリック修道士がやってきた。彼は島に上陸するや、ディエゴ・ランダがユカタンでやったのと、まったくおなじ暴挙をやってのけたのだ。エーローは島民の家々に奇妙な記号がびっしりと書かれている板が大切にしまわれているのを見て、これこそ島につたわる忌わしい「邪教のまじない板」だと考えた。そして、その板をぜんぶ集めて一枚残らず焼き捨てさせたのである。
彼の推測はたしかに当たっていた。それは島民たちがコハウ・ロンゴ・ロンゴと呼んでいる物いう板≠ナ、マジェールによれば、コハウとは「碑文」、ロンゴ・ロンゴとは「伝達者」という意味なのである。つまり、この板はイースター島文字で記された島の記録、あるいは祈祷の文句なのであった。
おそらく、その板には島民の遠い記憶、彼らの先祖がどこからやってきたのか、この小さな島でどんな歴史を重ねてきたのか、彼らがどのような神を信じ、いかなる世界像を抱いていたのか、イースター島の謎を解くカギが秘められていたにちがいない。だが、それらの貴重な木簡、すなわち板の書物≠ヘ一人の宣教師によって、あっという間に灰にされてしまったのだ。マヤの文書と同様、焚書≠まぬがれた何枚かの板は主としてベルギーの博物館に収まっているが、そこに記されている文字は依然として未解読のままである。
もし、数多くの板の書物≠ェ焼かれずに残されていたとすれば、あるいはその文字は解読され、イースター島の謎はかなり解明できていたかもしれない。だが、いまとなっては、ごく限られた物いう板≠手がかりに、根気よく文字を解いてゆくしかない。
イースター島哀史
皮肉なことにイースター島そのものの歴史ではなく、イースター島の受難の歴史ならば、正確に知られている。前記のようにこの島はオランダの西インド会社が太平洋の未知の大陸(オーストラリア)を見つけようとして派遣したヤコブ・ロッゲヴェーン提督指揮の探検船団によって、一七二二年の復活祭の日曜日に偶然発見されたのであるが、こんな小っぽけな島に彼らは何の関心も示さなかった。ロッゲヴェーンたちは島のあちこちに立っている奇怪な巨石像《モアイ》を見てびっくりはしたものの、ただおどろいただけで島を去って行った。
だが、五十年後、こんどはスペインの探検船が現れ、島をかなりくわしく調べまわったあげく、十字架を立て、サン・カルロス島と命名してスペイン領であることを宣言した。つづいて一七七四年、イギリスのキャプテン・クックがやってくる。彼は島を綿密に調査して、その様子を『航海記』に書いた。イースター島はようやくその存在を知られるようになる。それから十二年後、フランスの探検家ラ・ペルーズが現れる。彼の滞在もわずか一日にすぎなかったが――というのは、彼の目的もほかにあったからだが――彼はこの島の住人に作物の種を与え、羊や豚などの家畜を置いて行った。数々の招かれざる客のなかでイースター島の島民が感謝しているのは、このラ・ペルーズぐらいなものである。島の北側の湾は、いまもラ・ペルーズ湾と呼ばれている。
十九世紀に入ると、来訪者はいよいよひんぱんになった。まず、一八〇四年にロシアのネヴァ号がやってくる。以後、つぎつぎに現れた客≠スちは、この島に厄災以外の何ものも残さなかった。その翌年にやってきたアメリカのナンシー号は島民を奴隷として連れ去り、一八一一年に再び現れたアメリカ船ピンドス号も残虐のかぎりをつくして去った。さらに、一八六二年にはペルーの軍艦六隻が島民の大半を奴隷として拉致している。そのうちの何人かは島に帰ることができたが、彼らは恐ろしい天然痘をみやげに持ってきた。島は天然痘によって人口のほとんどを失い、絶滅の一歩手前まで追いつめられる。そして、一八八八年にはチリ軍艦が現れ、この島がチリ領であると宣言し、イースター島はチリの島になり、現在に至っている。
日本島の奇跡
イースター島の東端、ポイケ半島の絶壁に立って、私はラ・ペルーズ湾を見おろしていた。この島には一年じゅう強い風が吹いている。ときおり、なかでも激しい風が抜き打ちに襲ってきて、うっかりしていると崖から転がり落ちてしまいそうだ。私は帽子を押さえ、岩にしっかりとつかまって雲のあいだから思い出したように降ってくる太陽の光線が海を金色に輝かせるのを倦きずながめていた。それから岩蔭に身をひそめ、仰向けに寝て、忙がしく動いてゆく雲の行方を目で追った。
前記のように、フランスの探検家ラ・ペルーズがこの島にやってきたのは一七八六年である。彼はここからフィリピンを経て日本へ向かい、さらにカムチャツカをめざして北海道と樺太とのあいだの宗谷海峡を抜けた。その宗谷海峡は彼の名をとってラ・ペルーズ海峡とも呼ばれている。
と、そう考えたとき、私は思わずガバッとはね起きた。イースター島が、わが日本とすっぽり重なったのである。むろん、周囲五十八キロというイースター島は佐渡島の四分の一もない小さな島であり、日本列島とはくらべものにならない。けれども、日本もイースター島も太平洋の島である点においては変わりない。そしてイースター島とおなじように、日本島にもたびたびオランダ、ポルトガル、ロシア、アメリカの船が現れては、島内をうかがっていた。日本島の島民がイースター島の住人のようにひどい目に会わずにすんだのは、さいわいにも日本が彼らの挑戦に巧みに応戦し、奇跡的に身を護ることができたからなのである。
じっさい、イースター島の受難史を考えると、日本島の場合は奇跡としか思えない。来訪相ついだ異国人たちが日本島に何の危害も加えず、黙って引っ返して行ったというのは、いったいどういう風の吹きまわしだったのだろう。だが、もし、日本人が人のいいイースター島の島民のように彼らを歓迎《ヽヽ》したとしたら?
あるいは狂信的な宣教師によって、日本のロンゴ・ロンゴはすべて焼き払われていたかもしれない。日本のロンゴ・ロンゴとは、たとえば『記紀』や『万葉集』である。もしくは『源氏物語』や『古今和歌集』などの歌うたう紙≠ナある。日本島の住民たちの家々に、「奇妙な記号」がびっしりと書きこまれたそのような文書が大切に保存されているのを見たら、彼らは、これこそ「迷信と悪魔の言葉以外には何も記されていない」「邪教のまじない文書」だといって、あの「マニの焚書」と、おなじようなことをやってのけただろう。もしそんな目にあっていたら、日本の書物はあのマヤの場合のように、わずか三、四冊が世界のどこかの博物館のガラスケースに収まっているだけ、という始末になっていたはずだ。
歴史学には「もしも」という仮定詞は許されないが、個人の空想は勝手である。もしもそうなっていたら――私はふたたびポイケ半島の岩蔭に寝ころび、わずかにパリとかマドリード、あるいはドレスデンなどの博物館に未解読のまま保存されている日本島の数冊の文書、『伊勢物語』とか、『百人一首』とか、『奥の細道』などの断片を思い描いた。欧米の学者たちはそれらをパリ本、マドリード本、ドレスデン本などと呼んで、その解読に夢中になっていることだろう。そして、口々に、「ああ、もうすこしこのような文書が残されていたなら、それらを照合して解読することができただろうに」と嘆きながら、コンピュータを使って懸命に意味をさぐりだそうとしているにちがいない。だが、日本の書物がたった三、四冊の写本だけしか残されていないとしたら、たとえどのような技術と忍耐をもってしても、これらの文書は絶対に解き明かすことはできないだろう……。
ロンゴ・ロンゴの役割
イースター島に何百と立っている巨石像《モアイ》の謎は、イギリスの人類学者ルートリッジ女史やフランスのメトロー、近くはノルウェーのヘイエルダールなどによって、それぞれに解き明かされている。だが、何百というモアイはいまなお奇怪な雰囲気でこの島をつつみ、失われたロンゴ・ロンゴの記憶はこの島を幻想的なイメージでおおっている。
島のいいつたえによると、モアイをつくったのは長耳族《ハナウ・エエペ》といわれる種族であり、モアイを片っ端から倒していったのは彼らと争った短耳族《ハナウ・モモコ》と呼ばれる種族だったという。争いの原因はわからぬが、モアイはこの島を一時期支配した長耳族のなんらかのシンボルであったにちがいない。
私はふと、日本島の大仏を思い浮かべた。奈良や鎌倉の巨大な仏像は、まさしく日本のモアイではないか! 長耳族と短耳族の争いというが、わが日本島でもそうしたモアイ≠めぐって、すなわち仏教を受け入れるかどうかで蘇我氏と物部氏というふたつのグループのあいだに激しい争いが起きている。後世の源氏と平氏の角逐にしても、長耳族と短耳族の抗争になぞらえることができる。短耳族はモアイをつぎつぎに押し倒したというが、明治の廃仏毀釈はまさにそれではなかったか。
とすれば、イースター島の悲史は、そのまま日本島の歴史の上に重なってくるではないか。ただ日本島はモアイ≠倒されずにすみ、心ない異国の狂信者によって、『万葉集』や『源氏物語』などのロンゴ・ロンゴ≠焼かれずにすんだだけということになる。
しかし、じつは、その点こそが決定的な分れ道なのである。ひとつの文明を存続させ、その独特な世界を護りつづけてゆくのは、じつはロンゴ・ロンゴ=Aすなわち、みずからの歴史を記録し、みずからの魂の風景を書きとどめている書物なのだ。もし、日本島がマヤやイースター島のように過去の記憶を抹殺されていたならば、たとえ日本が現在のような経済大国の日本として生き残ったとしても、日本文明は姿を消していただろう。私たちはただ、現代の生活をそれなりに送る以外にないのだ。過去の何の記憶も持たず、魂の原郷からすっかり切り離されて。
そう考えると、何とも不思議な気がした。私たちの過去を支えているのは、燃してしまえばたちまち灰になってしまうような頼りない紙に記された文章であることに、あらためて気づいたからである。ロンゴ・ロンゴは物いう板≠ニいわれている。それにならっていうならば、書物はまさしく物いう紙≠ナある。私はイースター島の岬で風に吹かれながら、いまさらのように書物の価値、それなくしては文明が消え去ってしまう書物という物いう紙≠フ何ものにも代えがたい価値を思い知ったのであった。
モアイは語る
と、そのとき――何人かのサムライを前に書物を講じている僧のような姿をした老人の姿が私の心のなかに浮かんできた。サムライの一人が中腰で、まんなかに置かれているロウソクに火をともしている。
それはむかし小学校の国語の教科書にのっていた挿絵である。その挿絵は、盲人でありながら万巻の書を読破し、一世一代の大学者となった塙保己一《はなわほきいち》が弟子たちに教えているさまを描いたものであった。「ある夜、弟子をあつめて、書物を教へし時、風にはかに吹きて、ともし火消えたり。保己一はそれとも知らず、話をつづけたれば……」弟子たちは、先生、少しお待ち下さい、いま風で灯が消えたので、つけなおします、というと、保己一は笑って、「さて/\、目あきといふものは不自由なものだ」といったというのである。
その塙保己一が『群書類従』という一大叢書を編集して、日本の書物の散逸を防ぎ、体系的に分類・整理したということを私はそのとき教わった。しかし、小学校四、五年のころ、その事業にどれほど大きな意味があったのか、理解すべくもなかった。それを私は、なんとイースター島で思い出したのである。
保己一が天明の末年から『群書類従』を板行しはじめたのは、日本という国の文化を支えているさまざまな書物が、ただあちこちに散在しているだけでは、どんな運命をたどるかわからないという心配からであった。たしかに書物というものは人の手で焼かれないまでも、戦乱や大火によって焼失してしまう危機にいつもさらされている。そこで彼は一大決意のもとに、さかのぼり得るかぎりの過去から現在までの日本の書物を集め、それを校訂して新たに開板し、子々孫々へつたえようとしたのだ。幕府の援助もあったにはあったが、その事業はなみたいていのことではなかった。彼はその大事業の完遂を期して、般若心経を少年のころから七十六歳で死ぬその直前まで、毎日平均百回を読誦しつづけたといわれている。
保己一の集めた書物は千二百七十余部。彼はそれをたんねんに校訂して版木に彫り、六百六十五冊(と目録一冊)にまとめあげた。その版木は現在も保存されているが、これこそ日本の歴史、日本人の魂を語る|物いう板《ロンゴ・ロンゴ》≠ナはないか! もしそれが異国の狂信者の手によって、「迷信と悪魔の言葉以外には何も記されていない」「邪教のまじない板」とされ、ことごとく焼き捨てられてしまったとしたら、どうであろう。そして、わずかに残された文書の断片と、大仏や石仏を頼りに異国の学者たちが日本島へ調査にやってきて、懸命にこの国の過去を復元しようとしている姿をながめたら、私たちはどんな思いがするだろう。
だとすれば、異国人である私がこのイースター島にやってきて、興味半分にロンゴ・ロンゴの謎をさぐろうとし、一知半解にモアイの意味をたずねるなどということは、なんといい気なものではないか!
私は何ともやるせない気分になり、ポイケ半島から草原を抜けてラノ・ララクへ行った。ラノ・ララクは島の東南にある標高数百メートルの火山である。いちめん萱におおわれたその山の斜面に二百七十六体もの石像が、あるものは空を仰ぎ、あるものは地にうつ伏し、あるものは横ざまに倒れて風に吹かれていた。私は波打つ萱原のただ中に茫然と立って、まるで波間に漂っているかのように見えるモアイの群れを見つめた。
すると、私のすぐ脇に、半ば倒れかけながら、かろうじて身を支えている大きなモアイが何かをつぶやいているのがきこえた。
「え、何だって?」と私は思わず、ききかえした。だが、モアイが口をきくはずもなかった。人声のように思えたのは、あとからあとから萱原を渡ってくる風が山の斜面をかけのぼる音にちがいなかった。
が、しばらくすると、ふたたびモアイがつぶやいているような声がした。ぎょっとしてふりかえると、そこにも巨大なモアイの顔があった。そして、そのモアイがこうつぶやいていたのだ。
「いいかい、物いう板は大切にしなければいけないよ。よくおぼえておくがいい。もし、おまえの住むニッポン島が異人さんの渡来によって、この島のような運命をたどっていたとすれば、おまえの国の大仏はモアイになり、『万葉集』はだれも解くことのできないロンゴ・ロンゴになっていたはずだ。そして、ニッポン島はイースター島よりも、もっとずっと謎めいた島になり果てていたことだろう。だから、物いう板は大切にしなければいけない。文明を支えているのは、物いう板なのだから。いいかね。わかったかね」
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世界最大の読書家
アタン村長の実験
イースター島を発つ朝のこと。荷造りを終えてホテルのロビーで一服していると、島の青年らしい汚れた開襟シャツの男が近づいてきて、陽焼けした顔を私の耳に寄せ、「ロンゴ・ロンゴがあるんだけど……」とささやいた。
「え! ロンゴ・ロンゴだって!」と思わず大きな声を出すと、彼は唇に指を当てて制し、いっそう声を低めて「でも、たった一枚しかないから、ほかの人にいわないでください」といった。
私は信じなかった。イースター島にロンゴ・ロンゴが残っていようはずがないからである。この島で大がかりな調査をしたヘイエルダールでさえ、ついに|物いう板《ロンゴ・ロンゴ》≠手に入れることはできなかった。ヘイエルダールによれば、「世界中の博物館をあわせても、このような木の板きれの標本は二十枚ばかりしかない」のである。
私は苦笑して、「どうせ贋物《にせもの》にきまってるさ」と取り合わなかった。すると青年は至極あっさりと、「もちろん、本ものじゃありません。でも、本ものとおなじようにつくったものですよ」といった。
「ほう、きみがかい?」
「いえ、ぼくじゃありません。ペドロ・アタンが、です」
「ペドロ・アタン? 待てよ、ペドロ・アタンとは、どこかできいた名前だな。だれだっけな……」
「以前ハンガロア村の村長だった人ですよ。ヘイエルダールさんといっしょに仕事をした有名な村長です」
「彼はいまでもそんなものをつくっているのかね。おみやげ用に」
「いいえ、ペドロ・アタンはとっくに死にました。アタンの彫ったロンゴ・ロンゴが一枚残っているんです」
私は思い出した。ペドロ・アタンはヘイエルダールの『アク・アク』にさかんに登場する人物である。彼はイースター島の巨石像《モアイ》をつくったという長耳族の「父方の直系」ということだった。そこでヘイエルダールはいいことを思いついた。長耳族の子孫なら、おそらくアタン村長はモアイのつくり方を知っているにちがいない。ひとつ試しにアナケナの浜にひっくりかえっている巨大なモアイを、そのすぐそばにある石垣の台座《アフ》に据えることができるかどうか、賭けをしてやろう。
アタン村長は即座に応じた。そして十一人の助手と、二本の棒、拾い集めた沢山の石ころ、ほんのすこしばかりのロープ、それだけで砂に鼻を埋めていたモアイを引き起こし、とうとう台座の上に据えてしまったのである。
といっても、ピンとこないかもしれない。だが、そのモアイは肩幅が三メートルもあり、重さが三十トン近くもあって、それを高さ四メートルもある台座に、ほとんど素手で据えたといえば、その作業がいかに想像を越えるものであったかは十分察しがつくだろう。ただし、それには十八日という日数を必要とした。が、ともかく、こうしてヘイエルダールは賭けに敗れ、アタン村長に百ドルを支払った。しかし、たった百ドルで、ヘイエルダールはモアイの秘密を解き明かすことができたのである!
そのモアイを私はアナケナ浜で見た。台座にはプレートがとりつけられており、そこにこう記されてあった。
「ペドロ・アタン、これを据える」
そのアタン村長が彫ったロンゴ・ロンゴだというのである。そういわれれば買わざるを得まい。私は思わず急《せ》きこんで、「どれ、見せてごらん」といった。青年は私をロビーの片隅へ引っ張ってゆき、新聞紙にくるんだ板きれをそっと見せた。それは幅十七センチ、長さ四十五センチ、厚さ二センチほどの細長い板で、そこに不思議なイースター島文字がびっしりと浮き彫りにされていた。私は板きれを手にして仔細に点検した。裏面に稚拙な文字で、P. ATANと彫られてあった。
むろん、これだけでアタン村長が彫ったという確証にはならない。けれど、本ものそっくりにつくったという物いう板≠記念に持ち帰らないという法もない。私はかなりの金額を払って買い取った。そして、家に帰ると、それを書斎の本箱の上に飾った。
守られたロンゴ・ロンゴ
帰国してからしばらくのあいだ、私は毎日、ペドロ・アタンが彫ったというその物いう板≠ながめて暮らした。いや、べつにながめていたわけではないのだが、机に向かうと自然に目に入るのである。
と、ある夜、本を読むのに倦き、両肱を机について、ぼんやり顔を支えていると、とつぜん、物いう板≠ェほんとうに物をいったのである! それはイースター島のラノ・ララクの萱原で、半ば倒れかかったモアイが私にささやいたのとおなじような声色だった。ペドロ・アタンのロンゴ・ロンゴは、こんなふうに口をきいたのだ。
「お前さんの国はいいなあ。ロンゴ・ロンゴが大切に保存されているからなあ。おや、お前さんはまだ見たことがないのかい? それはいけない。ぜひ見てこなければ……。お前さんはイースター島までロンゴ・ロンゴを尋ねて行ったくせに、かんじんな自分たちのロンゴ・ロンゴを見ていないなんて! そりゃ本末転倒だよ。そう、明日にでも見に行ったらいい。どこに保存されているか、調べればすぐわかるから……」
それをきいて、私は思い出した。そういえば私はイースター島のポイケ半島の岬で、強い風に吹かれながら塙保己一《はなわほきいち》のことを考えていたっけ。そして、日本へ帰ったらぜひ塙保己一について調べてみようと、そう思っていた。そうだ、すっかり忘れていた。
保己一は日本の文化を証言している数多くの書物が散逸してしまうことをおそれ、新たに一大叢書を編纂して後世に残そうとした。彼は貴重な文献を夢中で探し求め、それを二十五の部門に分類し、おのおのの書物を校訂したうえで新しく版木に彫り直させ、『群書類従』として保存したのである。その版木が戦火をくぐりぬけて、いまも大切に保管されているはずだった。だが、どこに保管されているのだろう。
調べてみるとすぐにわかった。なんたることだ! 私の書斎から目と鼻の先といっていいくらいの近くに、日本島のロンゴ・ロンゴは大切にしまわれていたのである。保己一の偉業をつたえる温古学会という法人組織が版木をそのまま守りつづけているのだ。私はさっそく温古学会を訪ね、一目でいいから日本の物いう板≠拝見させてほしいと頼んだ。
温古学会は東京、渋谷区東二丁目九―一にある。国学院大学のすぐ前のコンクリート二階建てのビルがそれだった。
入口の左手に、むかし小学校の教科書にのっていた保己一の絵そっくりの座像が据えられている。私は思いきって事務局のドアを叩いた。いささか口ごもりながら来意を告げると、温古学会副会長の斎藤房五郎氏は快く見学を許してくれ、先に立って案内してくれた。こんなにもかんたんに見学が許されるとは! これもあのペドロ・アタンのロンゴ・ロンゴの加護≠ノちがいない。
話によると、このあたり一帯はアメリカ軍の爆撃で火の海になったそうである。このビルの屋上にもたくさんの焼夷弾が落ちた。だが厚いコンクリートにおおわれた版木の保管所は、ついに火を通さなかった。爆弾の衝撃にも耐えた。
「これはほんの一部ですが、さあ、どうぞ入ってごらんなさい」と副会長にすすめられるまま、書庫≠ノ足を踏み入れたとたん、私は思わず、あっといった。そこにぎっしりと並んでいる版木が、なんとイースター島の|物いう板《ロンゴ・ロンゴ》≠ニまさにウリふたつだったからだ。
副会長は版木の一枚――それは『伊勢物語』だった――を引き抜いて私に示した。
「こういう版木がぜんぶで一万七千二百四十四枚あるんです。板は上等の桜材ですね。長さが四十二センチ、幅が約二十センチ、厚さが二・二センチです。なにしろ、六百六十五冊、それに目録一冊という大叢書ですからね。これだけの書物をこんなふうに一枚一枚版木に彫り直したんですから、それだけでもたいへんな事業です。でも、おかげで貴重な文献が散逸せずに今日につたえられたのです」
この一枚一枚の板の上に紙を置いて刷ったんですか、と私は吐息をつきながらつぶやく。
「もちろんそうですよ。ですからぜんぶを刷るのに三年かかりますね。丁数は三万三千八百三十一丁もありますから。このなかの古典百種をえらんで二百部限定で刷るとしても、五年かかるんですよ」
墨で黒光りしている日本の物いう板≠ながめながら、私はしばし言葉も出ずに茫然と立ちつくしていた。
天才、塙保己一
それから――私はいくつかの塙保己一伝を読んでみた。簡潔に、要を得て保己一の生涯を語っているのは、彼の門弟の一人中山信名が記した『温古堂塙先生伝』である。以下、それによると、保己一は「五歳の年より肝を病《やみ》て、七歳の春|俄《にはか》に盲目とな」ったという。おそらく、母親は彼のためにできうるかぎりの手をつくしたにちがいない。だが、不幸なことに、彼はその母親も十二の歳に失っている。
保己一の家系をたどると、その祖は参議|小野篁《おののたかむら》に至るのだそうであるが、「世々武蔵国児玉郡|保木野村《ほきのむら》に家居」し、保己一の父親は農民だった。失明しては農事はできない。保己一は江戸に出て手に職をつけようと決意するのだが、そのころ江戸で『太平記』の一部を暗誦して評判となっている人物の話をきき、保己一はこう思う。『太平記』をぜんぶ暗記したところで、せいぜい四十巻にすぎない。そのくらいのことで有名になり、妻子を養うことができるのだったら、自分にできないわけがない。そこで彼はひそかに書物を自分の世界にすることを期するのである。
盲人の最上級の官位を検校《けんぎよう》という。江戸に出て保己一が門をたたいたのは雨富《あまとみ》須賀一という検校の家であった。たとえ書物の世界で身を立てるにしても、まずは手に職をつけなければならない。彼はここで名を千弥《せんや》と改め、按摩、ハリ、あるいは琵琶、琴、三味線などを習い始めるのだが、いくら教えられても手先が不器用で上達しない。その労苦は察するにあまりある。保己一は自殺さえはかったという。
しかし、手先は不器用でも彼の記憶力はずば抜けていた。治療に出かけた先々で、保己一は書物を読んでもらい、全神経を耳に集めてきき入った。もし一語でもききもらしたならば、きき返すわけにいかない。彼は一度きいたなら、すべてを記憶したという。中山信名はこう書いている。
[#この行1字下げ] ――三弦を習《ならひ》けるに、今日ならひ得しものは、一夜が程にわすれて、明日はしらずなりけり。すべて三年が間に、一曲をも全くは覚え得ざるのみか、調子さへ合ざりければ、雨富もせんすべなくて、針治の術を旨と習はせけるに、医書よむ方は人にすぐれて、二度よますれば、其次《そのつぎ》の度《たび》には一文字もたがへず読《よむ》ほどなりけれど、術にかくれば人よりは遥《はるか》に劣れり……。
そこで雨富検校はホトホト呆れて、ついにこういい渡した。
「お前は何をやっても技術的なことはだめなようだ。わたしもすっかりサジを投げた。けれども、門人の禄《なりわい》となる術を教えるのは師の職分だから、お前を見捨てるわけにもゆくまい。そこで、これから三年のあいだ、自分がほんとうにやりたいと思うものを学んだらいい。三年間だけは、わたしがお前を養ってやる。だが、それでも何ひとつ身につかなかったら、そのときは郷里へ送りかえすからそのつもりでいなさい」
保己一は「肝《きも》にしるして、昼夜となく読書をつとめしかば、終《つひ》には名をあらはすまでになりたり」と信名は記している。
以後の保己一については、あらためて縷説《るせつ》するまでもあるまい。彼は書物の世界で名をあらわし、四十年の歳月をかけて日本の一大叢書『群書類従』をつくりあげたのである。もし保己一のこの偉業がなかったならば、どれほど多くの貴重な書物が散逸してしまったことであろう。盲人である保己一が日本の書物を救ったのだ。私たちはどれほど彼に感謝しても、しすぎることはない。
保己一の秘密
『群書類従』というこの叢書の名は、『三国志』(魏志)に、「五経群書以[#レ]類[#(ヲ)]相従[#(フ)]」とあるところから取ったという。中国には漢魏叢書などをはじめとして、多くの叢書が編まれている。それなのに、日本にはまだそのためしがない。叢書を編むということは、とかくばらばらになりがちな大切な書物を体系的にまとめて後世に残すという事業である。日本にそうした叢書がないというのは、要するに日本人がそれだけ書物を大事にしていないということだ。漢籍や仏典は細心に保管されながら、かんじんな和書(日本の古書)が埃にまみれ、反古《ほご》同様に取り扱われているのでは、しまいには日本そのものが失われてしまうだろう。保己一はそれを憂えたのである。
もっとも、それを憂えたのは保己一だけではなかった。彼と同年の国学者村田春海は『和学大概』のなかでこう述べている。
[#この行1字下げ] ――吾国の古書、今も伝はれるものいとあまたあれど、和学を好む人世に少きまゝに、印行に成《なり》たるものいと少し。かくの如くにて、とし月を経ば、漸々に失ひて、百年の後は多く亡《うせ》ぬべし。これはいとなげかはしき事なり。有志、有力の人、これを刊行しおかば、永代国の宝ともいふべし。其《その》印行になき書、今|委《くは》しく挙《あぐ》るにたへず。只《ただ》肝要の一、二をこゝに挙ぐ。
こういって、彼はいまや手に入りにくくなったいくつかの貴重な書物をあげているのであるが、それはつぎのような文献である。
[#ここから1字下げ]
『類聚国史』(原《もと》は二百巻有しもの也。今|僅《わづかに》六十余巻存)
『日本紀略』(原本巻数未詳、今僅二十余巻存)
『扶桑略記』(原は三十巻有しが、今は十巻残れり。……)
『本朝世紀』(原数未詳。今四十余巻有といふ。……)
『日本後紀』(今存したる本は偽書なりといふ。今其書をみるに、後人の偽作ともさだめがたし。……類聚国史などの誤字にてよみがたき所、此書にて明らかなる事あれば、かならずしも廃すべからざる書なり)
『新国史』(日本史の引書目に載《のせ》られたるは、水戸には残本の存したるものありとしらる。世にたえてなき書なり。未詳其真偽)
[#ここで字下げ終わり]
むろん、これは日本の歴史を知るうえで必要な書物のほんの一部にすぎない。このほかにも、たくさんの書物が散逸の危機にさらされていたのである。数多くの歌集や社寺の縁起や、伝記、物語、旅行記、風俗、戦記、あげればきりがなかったであろう。日本の貴重な書物は、まさに失われようとしていたのだ。
保己一が村田春海のこの警告を直接にきいたのかどうかはさだかではないが、おそらく、彼は春海の提案を知っていたのであろう。それが『群書類従』刊行のきっかけになったのかもしれない。が、いずれにせよ、春海が頼みにした「有志、有力の人」が盲人の保己一になったのである。世の目明きたちは何をしていたのだろうか、と思う。
それにしても、保己一の事業は、いくら想像をたくましくしても考えられないことである。千二百七十三部の書物、それを六百六十五冊に分けて版木に彫らせ、刊行したということもさることながら、その書物のひとつひとつをくわしく校訂し、定本をさだめるなどということが盲人にとって、どうして可能だったのであろうか。諸本を校合するためには、それに倍する書物を読んでいなければならない。いや、ただ読むのではなく、いっさいの疑点を解明しなければならないのだ。
いまなら点字も助けになろう。朗読してもらい、それをテープレコーダーに吹きこむということも考えられる。だが保己一の時代には、そんな手段はまったくなかった。同時代の書物をひろく読むことさえ容易ではないのに、目の不自由な彼が難解な古書数千巻を、いったい、どのようにして読破できたのであろうか。しかも、彼が失明したのは七歳のときである。文字さえもろくに読めなかった年ごろであり、分別もかたまっていない時期である。それを考えると、彼の偉業はまさしく奇跡というほかない。松平定信は「保己一は人間ではない。書物の精が人間の姿を借りているのだ」といったそうであるが、いかにしてこのようなことが可能だったのだろう。歴史家坂本太郎氏も「この疑問は昔から私の脳裡をはなれないが、いまだに少しもわからない」といっている。
私は『群書類従』の目録を前に考えこんだ。ここに並んでいる六百六十五冊のうち、私が目にした――とうてい読んだなどといえない――書物は、ほんの数冊にすぎない。これをすべて読みこなし、諸本の異同を校合し、体系的に整理し、そして版木にのぼせるとは、やはり、どう考えても考えられないのだ。
だが、不思議なことに、保己一の伝記のどれもが、私がいちばん知りたい彼の読書の仕方を書いていないのである。逸話はいくつか語られている。たとえば保己一はある婦人に本を読んでもらっているあいだ、両手を縛ってきいていたという。蚊が腕にとまったりすると、つい手で払いたくなり、そんなことをしていたらききもらしてしまうから、というのである。また、雨富検校の隣りに松平|乗尹《のりただ》という人が住んでいたが、保己一は「其家に行通《ゆきかよ》ひて、契約をたて、あしたの寅の刻より卯の刻にいたりて、一時《いつとき》がほどは必らず文《ふみ》よみならはれけり。乗尹は公の務《つとめ》いとまなき人なれば、一日をへだてつゝぞかくはせられけり」と中山信名は書いている。
こうした伝えからうかがうと、保己一は人に読んでもらって、それを一字一句誤ることなく記憶したものらしい。しかし、一人の人間の記憶の容量は、千巻の書物をすべて暗記するほど大きいものなのであろうか。『群書類従』の編纂には多くの彼の門人たちが力を合わせているのだが、そうした門弟や同志の人たちの援助を考えに入れても、やはり塙保己一の読書の秘密、想像を越える能力の謎はついに解けないのである。
物いう板≠ヘいう
ある夜。
例によって本を読むのに倦き、両肱を机について顔を支えていると、またしても向かいの本棚の上に置いてあるロンゴ・ロンゴが目に入った。私は久しぶりにそれを取りあげ、いまだに解読されていないイースター島文字の不思議な形に見とれていた。
すると、ふたたび物いう板≠ェ物をいったのだ!
しかし、私はもうおどろかなかった。すこしもおどろかず、冷静にロンゴ・ロンゴのささやく言葉に耳を傾けた。ロンゴ・ロンゴはこういっていた。
「お前さんは保己一の秘密を知りたがっているようだね。だが、その秘密を解くには、まず『群書類従』をこの本棚に並べてみることさ。活字本で出ているからすぐ手に入るはずだ。金がかかるって? 借金してもそろえなさい。塙保己一という人は美服を飾らず、美食を好まず、質素な暮らしで一生を通した人だが、ただ書物を求めることにかけては、明日の生活も考えずに金をはたいたというではないか。とにかく、『群書類従』をそろえ、読んでみることだ。さあて、お前さんの生命《いのち》が終わるまでに読破することができるかな。最後の一巻まで読み終えたとき、きっと、保己一の秘密が解ける。目明きのお前さんにそれができないはずがない。とにかく、塙保己一という人は世界最大の読書家なのだ。お前さんが本について語ろうというなら、せめてこの世界最大の読書家にあやかろうとするぐらいの心がけがなくては、その資格があるまい」
それをきいて私はガク然とした。そして、翌日、ロンゴ・ロンゴの命じるとおり、書店へ行って「明日の生活も考えずに」金をはたいて活字本の『群書類従』全三十巻を注文した。
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浪漫的読書術
秘伝の「巻物」
私はベストセラーというものをあまり読んだことがない。などというと、いかにも気取っているように思われるかもしれないが、けっして気取るつもりはなく、ただ、みんなが読む本を自分も読むというのは、何となくつまらないように思えるからである。読書の愉しみというのは、みんなが読まないような本を、ひとりこっそり読むというところにあるのではなかろうか。
といって、私はベストセラーをけっしてつまらぬものだとは思っていない。多勢の人に争って読まれる本というのは、とうぜんそれだけの価値があるはずである。だからこそ、ベストセラーは新聞にも報じられるのである。けれど、だれもが知っている本を読むより、人にあまり知られていない本を読むほうが、やっぱり愉しい。話にしてもそうで、多勢の前できかされる話よりも、これはここだけの話だがね、といってこっそり教えてもらう秘話のほうが、ずっとおもしろいではないか。
ところで、人に知られざる書物といえば、その最たるものが秘伝、口伝のたぐいであろう。つまり、師から直接に口授され、伝授される奥義書である。日本にはこうした秘伝書がいろいろな分野に残されている。いちばん信頼された弟子が師から秘伝を授けられる――兵法ではそれを免許皆伝といった。私がベストセラーよりも、人が読んだことのなさそうな書物に、つい魅力を感じてしまうのは、もしかすると、少年のころ読みふけったチャンバラ講談のせいかもしれない。
そうした講談本には、たいてい師から印可を授けられる場面のさしえがのっていた。師匠はきまって仙人のような老人で、あごひげを長くのばし、足もとからは雲がむくむく湧きあがっている。そして有難そうな巻物を手にし、平伏している弟子にそれを差し出している。免許皆伝というが、いったい、あのような巻物にはどんなことが書かれているのだろうと、私はそれがいつも気になっていた。だから、のちになって吉川英治の『宮本武蔵』を読み、そのなかで佐々木小次郎が師匠の授けてくれた印可の巻物を|にべもなく《ヽヽヽヽヽ》突返すくだりに、思わず目を丸くしたものだ。
その巻物は師の鐘巻自斎《かねまきじさい》が死ぬ間際、小次郎に渡せと甥の天鬼《てんき》に托したものであった。ところが天鬼は非業の死をとげ、たまたまその場に居合わせた又八が天鬼の懐ろから巾着《きんちやく》や印籠とともに抜きとって持ち歩いていたのである。それを六部《ろくぶ》の源八が見つけ、又八をさんざんこらしめたあげく取りかえし、偶然に出会った佐々木小次郎に手渡そうとする。すると、小次郎は、押しいただいて感泣するかと思いのほか、「要らない」と手も出さないのである。びっくりして源八が、「なぜ?」ときくと、小次郎は傲然として、こういうのだ。
[#この行1字下げ]「ありようにいえば、わしは師の自斎先生よりも、もっと秀でた天稟《てんぴん》を持って生まれていると思っている。だから先生よりも偉くなるつもりなのだ。あんな片田舎で晩年を埋もれてしまうような剣士で終りたくないのだ」
あまりに無礼ないいぐさに源八がキッとなって、
「本性で仰っしゃるのか」というと、小次郎はこう答える。
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「せっかく、先生はわしへ印可を下すったが、今日《こんにち》においてすら、この小次郎の腕はもう先生以上なものになっていると、わしは自ら信じているのだ。それに中条流という流名も田舎びて、将来ある若い者には、かえって邪《さまた》げになる。……源八、そういうわしの抱負だから、そんな物は、この身に不要だ。国許《くにもと》へ持って帰って、お寺の過去帳とでも一緒にしまっておくがいい」
謙譲などというものは、毛ほどもない言葉つきなのである。なんという思い上がった――高慢な男だろうか。
源八は、憎む眼で、小次郎のうすい唇を、じっとねめつけていた……。
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いや、話が横にそれてしまったが、私はこういう場面になると、つい夢中になってしまうのだ。それも「巻物」のせいである。少年のころ頭に焼きついてしまった「巻物」のイメージは、生涯消えないものらしい。私はいまでも、不思議な文句が記されている秘伝の「巻物」がどこかで手に入らないものかと、一縷の望みをつないでいるのである。
わからぬものは有難い
ともかく、書物というものは、こうした「巻物」のように有難いものでなければならないと私は思う。だが、かくもおびただしい数の本が出現した今日《こんにち》、本の有難味はしだいに失われ、押しいただいて書物を開く、なんてことはすっかりなくなってしまった。「巻物」への私の憧憬は本の有難味に対する郷愁なのである。
私の父は漢文の教師だったせいもあって、本の扱い方についてたいへんやかましかった。本を枕にするなんて、とんでもないことであり、うっかり本をまたいだりしようものなら、えらくどやしつけられた。貴重な本は、うやうやしく床の間に並べられていた。巻物だったら、おそらく神棚に供えたことであろう。そのようなわけで、私は子供のころから書物は神聖なものと思いこんでいた。むろん、すべての本が神聖というわけではないが、書物のなかには有難い本がたくさんあり、そういう有難い本を読むのが真の読書だと信じていたのである。では、有難い神聖な書物とはどんな本なのか。少年の私にとって、その判別の基準はただひとつ、わからぬ書物、ということだった。つまり、難解な本、自分にはとうてい歯が立ちそうにない書籍である。父親の本棚には、その種の書物がうっすらと埃をかぶってぎっしりと並んでいた。
じっさい、どの本を引き出して開いても一ページどころか、一行すら読めなかった。いや、一字も読めないというべきであろう。なにしろ漢文の本なので、見たこともない漢字ばかりが並んでおり、さしえなど、どこをさがしてもないのだ。けれど、チンプンカンプンであればあるほど、そうした書物は神聖に思え、有難いことが書かれているような気がした。こういう本ばかり見なれていると、読んですぐに理解できるような本は、すこしも有難い気がおこらない。わからぬものほど価値があると思いこむ。こういう心理は、どう解釈すべきなのであろうか。
そこで、のちに夏目漱石の『吾輩は猫である』のなかに、つぎのような文章を見つけたとき、私は思わずハタと膝を叩いた。漱石は『猫』にこういわせているのである。
[#この行1字下げ] ――主人は何に寄らずわからぬものを難有《ありがた》がる癖を有して居る。是《これ》はあながち主人に限つた事でもなからう。分らぬ所には馬鹿に出来ないものが潜伏して、測るべからざる辺《へん》には何だか気高《けだか》い心持が起るものだ。夫《それ》だから俗人はわからぬ事をわかつた様に吹聴《ふいちやう》するにも係《かかは》らず、学者はわかった事をわからぬ様に講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌《しやべ》る人は評判がよくつてわかる事を説明する者は人望がないのでもよく知れる。主人が此《この》手紙に敬服したのも意義が明瞭であるからではない。其《その》主旨が那辺《なへん》に存するか殆んど捕《とら》へ難いからである。
そのイキサツはこうである。ある日、苦沙弥先生のところに一通の奇妙な文面の手紙が舞いこんだ。何をいっているのかさっぱりわからない。苦沙弥先生のことだから、とうぜんそんな手紙はすぐにも屑かご行き、と思いきや、先生、打ち返し打ち返し読み直し、やがて勝手に呑みこんで、「中《なか》々意味深長だ。何でも余程《よほど》哲理を研究した人に違《ちがひ》ない。天晴《あつぱれ》な見識だ」とつぶやいたのである。それを膝の上の『猫』があざ笑っているのだが、その手紙の文面たるや、こんな調子なのだ。
[#この行1字下げ] ――若《も》し我を以て天地を律すれば一口《いつく》にして西江《せいかう》の水を吸ひつくすべく、若《も》し天地を以て我を律すれば我は則《すなは》ち陌上《はくじやう》の塵《ちり》のみ。すべからく道《い》へ、天地と我と什麼《いんも》の交渉かある。……始めて海鼠《なまこ》を食ひ出《いだ》せる人は其《その》胆力に於て敬すべく、始めて河豚《ふぐ》を喫せる漢《をとこ》は其《その》勇気に於て重んずべし。……咄々《とつとつ》、酔漢|漫《みだ》りに胡乱《うろん》の言辞を弄して、蹣跚《まんさん》として墓に向ふ。油尽きて灯自《とうおのづか》ら滅す。業尽きて何物かを遺す。苦沙弥先生よろしく御茶でも上がれ。
さて私は、ハタと膝を叩いたものの、同時に苦笑せざるを得なかった。苦沙弥先生とともに、自分がコケにされているように思えたからである。しかし、この一文によって、私はわからん文章を有難く思うのは自分だけではないということを知った。そして、おそらく漱石自身にもその気味があったのではないかと考えた。だから漱石は『一夜』という奇妙キテレツな短編を書いたのであろう。男女三人のまるで禅問答のような会話で構成されているその短編を、私は何度読み直しても意味が呑みこめなかったのだが、それでも数ある漱石の作品のなかで、この短編がいちばん好きなのである。
ついでにいうと、漱石はこの作品を『猫』のなかで面白半分に論評させている。詩人の遠智東風《おちとうふう》君が自作の詩を苦沙弥先生や迷亭の前で朗読し、両人がヘキエキしていると、彼は二人にこういって講釈するのだ。
[#この行1字下げ]「先生御分りにならんのは御尤《ごもつとも》で、十年前の詩界と今日《こんにち》の詩界とは見違へる程発達して居りますから。……先達《せんだつ》ても私の友人で送籍《そうせき》と云ふ男が一夜《ヽヽ》といふ短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧《もうろう》として取り留めがつかないので、当人に逢って篤《とく》と主意のある所を糺《ただ》して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云つて取り合はないのです。全く其辺《そのへん》が詩人の特色かと思ひます」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云ふと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡《たんかん》に送籍《そうせき》君を打ち留めた。
それにしても、なぜ、わからんものが有難く思えるのだろう。難解な書物というものは、とうぜんそれを理解しようとする努力を要求するが、そのあげくに何となくわかったような気持になれば、パズルを解いたときのような快感をおぼえる。その快感は、まさしく武芸者が師匠から印可の巻物を授けられ、秘伝を自分のものにしたときの満足感に似ている。こうした心理を漱石はさらに見事に解剖してみせてくれている。
天道公平《てんどうこうへい》氏からきた前記の手紙にすっかり感心した苦沙弥先生を嘲《あざけ》つた『猫』は、つづけてこういっているのだ。
[#この行1字下げ] ――だから主人が此《この》文章を尊敬する唯一の理由は、道家《だうけ》で道徳経を尊敬し、儒家《じゆか》で易経を尊敬し、禅家《ぜんけ》で臨済録を尊敬すると一般で全く分らんからである。但し全然分らんでは気が済まんから勝手な註釈をつけてわかつた顔|丈《だけ》はする。わからんものをわかつた積《つも》りで尊敬するのは昔から愉快なものである。
私は『猫』のこの言葉に、自分の心の奥底まで見透かされる思いがした。
宿かりの教訓
しかし、いくら『猫』にそういわれても、わからない書物が有難く思える気持は、すこしも変わらなかった。その気持は何といったらいいか……浪漫的心性とでもいうほかあるまい。だが、このような浪漫的心性こそが人を読書に向かわせ、人に読書のよろこびを与えてくれるのではあるまいか。そこで、私はこのような本の読み方を浪漫的読書法と名づけたい。
浪漫的読書法は、漱石のいうように、たしかに滑稽に思われるだろう。わかりもせぬ文章をわかったつもりになって一人合点をしているのは、けっしてほめられた図ではない。けれども、この読書法は、それなりの意味があるのだ。
第一に、こうした浪漫的心情――私はロマンチックといわず、あえて古めかしい浪漫的という訳語を用いているのであるが――は、人をしてむずかしい書物に向かわせるという効力がある。もしそうした気持がなければ、自分が理解できそうにない本は、ことごとく敬遠されるということになるだろう。そうなれば、その人の読書範囲は自分のわかる範囲だけに限られてしまい、自分の世界は一向に広くなるまい。彼は狭い甲羅に閉じこもって満足し、それで一生を終えるだけである。
ところが、浪漫的心性の持ち主は、自分にはとうてい歯が立つまいと思えるような書物につぎつぎと挑戦する。わかりもせぬ書物と取り組んで|したり《ヽヽヽ》顔をしているのは滑稽かもしれないが、たとえ『猫』に嗤《わら》われようと、彼は未知の世界へ足を踏みこんだのである。一生懸命に背伸びをしていれば、いつか大きな服も身体に合ってくる。
そういえば、志賀直哉の短編に『宿かりの死』というのがある。短編というよりは掌編ともいうべき小品で、ほんの一、二分で読み終えてしまうくらいの作品なのであるが、私はこの宿かりこそ、浪漫的読書人の姿ではないかと思う。それは、こんな話だ。
その宿かりは、以前、小さな細螺《きしやご》の殼にもぐりこんで、彼らの仲間のようなふりをしていたのだが、ある日、思いきってその殻を捨て、大きな栄螺《さざえ》の殼にもぐりこんだ。はじめは大きな殻を引きずって歩くのは辛かったが、そのうち身体が大きくなり、いつの間にかサザエなみになった。彼は「岩の上から下に沢山集つてゐる細螺を見下して、『小さいな』と思」う。そしてキシャゴどもを腹の中で冷笑する。
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――宿かりは勢よく細螺《きしやご》を押し分けて岩を駈け下りると一度宙返へりをしてどぶんと海の中へ飛び込んだ。
わアーと云ふ細螺共の笑ひはやす声が聞えた。
「馬鹿共が」かう思ひながら彼は大きな者のみが感じられる寛大な心持を味ひながら海の底をのそ/\と歩いて居た。
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ところがこの宿かりは間もなく、自分が引きずっている殻よりも、もっと大きなサザエに出会う。それを見ると、急に自分が小さく思え、彼はむかむかしてきて殻を脱ぎ捨ててしまう。そして、こんどはどんなサザエよりも大きなホラ貝の殻を見つけて、そのなかにもぐりこんだ。そんな大きなホラ貝を曳きずって歩くのはたいへんな苦労だったが、やがて彼の身体はホラ貝がよく似合うまでに成長した。
けれども、海の底には大きな貝がいくらでもいる。宿かりはふたたび自分よりさらにずっと大きなホラ貝に出合ってガク然とし、せっかく自分の身体をそれに合わせた殻をまた脱ぎ捨ててしまう。そうして、彼はもうどんな貝殻にも入ろうと思わず、あちこちさまよい歩いたすえ、とうとう死んでしまう……。
どうも結末がよろしくないが、私は浪漫的読書人とは、この宿かりのようなものだと思う。宿かりは自分の身体とは不釣合な貝殻のなかにもぐりこんで、おどろくべき発育をとげ、どんどん大きくなっていったのだ。ただ、彼はあまりに焦《あせ》りすぎた。貝殻いっぱいの大きさまで育ったのだから、しばらくはその殻のなかに住んで、さらに折りを見て、もっと大きな貝殻のなかへもぐり込めばよかったのだ。なにもすぐ、絶望してしまうことはあるまいに。浪漫的読書人は、この宿かりの教訓をしっかりと身につけ、焦らず、順々に大きな貝殻へもぐりこむべきであろう。
浪漫的読書法の第二の功徳は、わからない書物を勝手に解釈して、わかったつもりになる――その快感である。
むろん、勝手に解釈するのだから正解とはいえず、いい加減な読書にはちがいないのだが、そうこうしているうちに、しだいに解釈の能力が身についてくる。書物というのは正解だけを求めて読むものではなかろう。さまざまな解釈を愉しむことが読書のよろこびなのである。
きくところによると、学究的なユダヤ人にとって、聖書は少なくとも二通り以上に解釈しなければならないのだそうである。とくにユダヤのラビたちは、聖書の文章を四通りに解釈するのだという。まず逐語的な意味を、第二に暗示的な意味を、第三は研究によって演繹《えんえき》される意味を、そして第四に比喩的な意味を探求するのである。それぞれの意味をヘブライ語でペスハート、レマズ、デルーシュ、ソードといい、この四つの頭文字PRDSは、すなわちパラダイスという語の子音だという。そこでこれら四つの意味をつかんだとき、その人はパラダイスの悦びに達したとされる。(W・バークレー『日々の聖書研究』=「ガラテヤ・エペソ」鳥羽徳子訳)
さすがにユダヤのラビは読書の達人である。一冊の書物から四通りもの意味を引き出すことができれば、それは文字通り書物を読みつくしたといえるであろう。真の読書とはそういうものだ。
ところが、ふつう本を読む人は、ただひとつの意味だけを求め、それが正解であるかどうかにこだわっている。だが、たったひとつの意味をつかむだけ、というのでは何とも味気ない話ではないか。せめて二通りや三通りの解釈を試みる余裕がなくては読書は愉しめまい。そうした読書術を会得するのに、浪漫的読書法は大いなる力を貸してくれるのだ。だから私は、天道公平氏のわけのわからぬ手紙を打ち返し打ち返し読み直し、やがて勝手に解釈して、「中々意味深長だ。天晴《あつぱれ》な見識だ」とつぶやいた苦沙弥先生を冷笑するつもりはさらさらない。そうした苦沙弥先生こそユダヤのラビに劣らぬ解読力を身につけている読書人なのだ。
幸福な読書人
まあ、そのようなわけで、私は今に至るも自分にはとうてい歯が立ちそうにない難解な書物に気をひかれるのである。私が大学で哲学を専攻することにしたのも、じつをいえばむずかしい書物とつき合いたい一心だった。そして苦沙弥先生よろしく、私は毎日、わかりもしない哲学書と首っ引きでカントやヘーゲルを勝手に解釈をしては一人合点していた。厳密な学としての哲学を目ざす哲学者には叱られそうだが、哲学書というものは、勝手な解釈を愉しむ浪漫的読書人にとっては、まことに悦ばしき玩具なのだ。私にとってドイツ観念論哲学は、正直なところ、剣客たちが師から授けられたあの印可の巻物の延長線上にあったのである。私は印可の巻物を伝授されるようなつもりでカントの『プロレゴーメナ』といった哲学書を有難く読んだ。が、残念ながら、今もって免許皆伝というわけにはゆかない。
ときどき私は佐々木小次郎のように傲然と「なにカントだって? カントなんてもう時代おくれだ。だからそんなものはこの身に不要だ。図書館へでも持って行って、ほかの古い書物といっしょにしまっておくがいい」などといい放ってみたい気分にもなるのだが、いまだに自分の思想らしい思想も身につけることができないという又八よろしくの体たらくだから、とてもそんな大それた暴言は吐けない。
しかし、だからといって、私はあの「宿かり」のようにかんたんに絶望するつもりもない。私は膝の上の猫にいくらあざ笑われようと、やはり苦沙弥先生のような浪漫的読書人でいたいと願うばかりである。むずかしい書物をやたらに買いこみ、書斎で読みかけの本の上に涎《よだれ》をたらしながら昼寝をし、目をさますとまた難解な書物を勝手に解釈して|したり《ヽヽヽ》顔をする。そして夜寝るときには必ず横文字の本を二冊も三冊も抱えてきて、横になるや二ページと読むことなく眠りこんでしまう――そんな浪漫的読書人でありつづけることが私の願いなのだ。こんな苦沙弥先生のような。
[#この行1字下げ] ――ある時は持つて来て枕元へ置いたなり、丸《まる》で手を触れぬ事さへある。一行も読まぬ位なら態々提《わざわざさ》げてくる必要もなささうなものだが、そこが主人の主人たる所でいくら細君が笑つても、止《よ》せと云つても、決して承知しない。毎夜読まない本を御苦労千万にも寝室|迄《まで》運んでくる。
ああ、何という幸福な読書人であろうか!
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落花流水
何気なく
人はどんな動機で本を手に取るのだろうか。そのきっかけはさまざまであろう。だが、私にとっては、|何気なく《ヽヽヽヽ》、というのが正直なところ、いちばん多いような気がする。
そう、私はいつも本を、何気なく読み始めるのだ。というと、いかにもいい加減な読書のように思われるかもしれないが、長年の読書生活を通じて、私は本というものは何気なく読むときに――つまり、さしたる目的もなく読み始めるときに、いちばん豊かな読後感を与えるものだと確信するようになった。
なぜなのだろう。それは逆に、何か目的を持って本を開く場合を考えてみるとよくわかる。目的とは期待といいかえてもよいが、何かを期して本を読もうとすることは、要するに本を自分の目的に仕えさせようとすることである。だが、そもそも本というものは自分の目的に奉仕するために書かれているわけではない。書物はそれぞれに独自の世界をつくりあげているものなのだ。
むろん、本のなかには読者の要求を計算に入れて、ただひたすら読者のために書いたという本がないわけではないが――実用書というのがその最たるものであろう――それとて、百パーセント自分の要求を満たしてくれるわけではないから、つまるところ、何かの目的をもって本を開けば、そして、その要求が切実であればあるほど、本に対する失望感は強まるばかりだ。それで多くの読者は腹を立て、つまらん本だと投げ出してしまう。しかし、それは要求のほうがむりなのであって、そういう読者は書物の何物たるかを知らないだけのことである。
ところが、何の目的も要求も抱かず、それこそ|何気なく《ヽヽヽヽ》本を読みだすと、思いもかけないことがそこに書かれていて、思わず、ほう、とつりこまれてしまうことが多い。そして、自分にはあまり興味のなかったことに興味が湧いてきたり、ぜんぜん知らなかった世界を発見したり、自分の心のなかのイメージが大いに触発されて鮮明に浮かびあがったりする。書物の功徳とは、そこにあるのだ。
そのいい例が漱石の――またしても漱石であるが――陰気な小説『門』のなかにある。この小説の主人公宗助は暗い過去を背負って、それにいつもおびやかされながら勤め人生活をつづけている。生活はむろん豊かではない。宗助夫妻は崖下の日のあたらぬ小さな借家に、世間の目から逃れるようにひっそりと暮らしているのだ。その夫婦の日常の何ということもない生活が、全編の主題といってもいいのだが、そんなある日、宗助は歯が痛むので仕方なしに歯医者へ出かける。待合室に入ると、「大きな洋卓《テーブル》の周囲《まはり》に天鵞絨《ビロード》で張つた腰掛が並んでゐて、待ち合してゐる三四人が、うづくまる様《やう》に腮《あご》を襟《えり》に埋めて」いる。彼もそこにすわって順番を待っていたのだが、退屈しのぎに|何気なく《ヽヽヽヽ》卓上にのっている『成功』という雑誌を手にとり、パラパラとページをくると、そこに成功の秘訣といった記事が箇条書きにされていた。宗助はおよそ、そういった成功などということに関心がなかったので、すぐに雑誌を卓上に置いてしまった。
「宗助は斯《か》ういふ名の雑誌があると云ふ事さへ、今日迄《こんにちまで》知らなかつた。それで又珍らしくなつて、一旦伏せたのを又|開《あ》けて見ると、不図《ふと》仮名の交《まじ》らない四角な字が二行程並んでゐ」るのが目についた。二行にわたって印刷されていたという仮名のまじらない四角な文字とは、つぎのような詩である。
風吹碧落浮雲尽
(風碧落《かぜへきらく》を吹いて浮雲尽《ふうんつ》き)
月上東山玉一団
(月東山《つきとうざん》に上《のぼ》って玉一団《ぎよくいちだん》)
それを目にしたときの宗助の気持を、漱石はつぎのように書いている。
[#この行1字下げ] ――宗助は詩とか歌とかいふものには、元《もと》から余り興味を持たない男であつたが、どう云《い》ふ訳か此二句を読んだ時に大変感心した。対句《つゐく》が旨《うま》く出来たとか何とか云ふ意味ではなくつて、斯《こ》んな景色と同じ様な心持になれたら、人間も嘸《さぞ》嬉しからうと、ひよつと心が動いたのである。宗助は好奇心から此句の前に付いてゐる論文を読んで見た。然《しか》し夫《それ》は丸《まる》で無関係の様に思はれた。只《ただ》此二句が雑誌を置いた後《あと》でも、しきりに彼の頭の中を徘徊した。彼の生活は実際|此《この》四五年来|斯《か》ういふ景色に出逢つた事がなかつたのである……。
『禅林句集』との出会い
それから? それからべつにどういうこともない。彼は名前を呼ばれて治療室へ入り、治療を受け、いつの間にか四角な文字で書かれた二行の詩を忘れてしまう。が、やがて、彼の背負った暗い過去が追いかけてきて、とうとうのっぴきならぬ気持にまで追いつめられる。その過去をふり払い、何とか安心を得ようと、宗助は会社を休んで鎌倉の禅寺へ出かけてゆく。坐禅をして気分を鎮めようと、禅に救いを求めたのである。宗助が坐禅を組もうと決心した直接のきっかけは、彼の同僚が『菜根譚《さいこんたん》』という書物を読んでいて、それに興味をひかれ、彼から禅についての話をきかされたことだった。
しかし、宗助が歯医者の待合室で目にしたあの二行の詩のイメージも、無意識のうちに彼を禅寺へ行かせたにちがいない。というのは、この詩は、じつは禅味のある語句を集めた『禅林句集』のなかに収められている句だったのであるから。ただし、同句集に収められている句には、「東山」が「青山」となっており、その解に、「迷妄の浮雲尽き、心月大空に輝き出ずるの意。碧落は大空」とある。しかし、解釈はどうでもいい。漱石の『門』を読んでこのくだりにぶつかったとき、私も宗助とおなじような気分になった。つまり、「斯《こ》んな景色と同じ様な心持になれたら、人間も嘸《さぞ》嬉しからう」と、そう思ったのを今でもはっきりと覚えている。
むろん、私も宗助と同様、すぐにそんなことは忘れてしまったのだが、それでも心の深い奥底で、無意識に魂が記憶してくれていたらしい。ある日、古本屋の棚で『禅林句集』のポケット版(柴山全慶輯、其中堂刊)を見て|何気なく《ヽヽヽヽ》買いこみ、そして、またある日、ふと思い出して|何気なく《ヽヽヽヽ》それを拾い読みしていると、いきなりこの十四文字が目にとびこんできたのである。
風吹碧落浮雲尽
月上青山玉一団
私は思わず、あっといった。宗助が感心したあの文句が、『禅林句集』に収められているとは、そのときまで知らなかったからだ。それどころか、そもそも『禅林句集』という書物がどんなものであるかについてさえも私は無知だったのである。私は大いに感動して、さらに句集をあちこち繰っていった。すばらしいイメージの句がいたるところにちりばめられている。たとえば、
帰来坐虚室夕陽在吾西
(帰り来《きた》って虚室《きよしつ》に坐《ざ》すれば、夕陽吾《せきようわ》が西に在《あ》り)
たったこれだけの句であるが、何と鮮やかなイメージを触発することであろう。こうした経験はだれにもあるはずだ。わびしい下宿の一部屋にもどってくると、西日がさしている。ひとり、ぽつんとそこにすわって思いに沈む。残暑のきびしい初秋のころのそんな自分をそこに重ねてみると、さまざまな想いが去来するだろう。すっかり日足がのびた晩春に移しかえてみれば、イメージはさらにちがったものになる。想いはどことなく甘く、美しく、惜春の情がまつわっている。日の短い冬の夕暮れとすれば、想いは憂いに近づいてくる。柴山老師の解には、「悟ったとて別に変った事は無い。又無心の妙趣」とあるが、私は私なりにそれを感傷的に受けとめる。どうにでも解釈できるところが、こうした句の有難さである。さらに気ままにページを繰る。こんな句にぶつかる。
竹影掃※[#「土+皆]塵不動
(|竹影※[#「土+皆]《ちくえいかい》を掃《はら》って塵動《ちりどう》ぜず)
軒先に竹が植えてあるのだろう。風がその群竹《むらたけ》をそよがせている。月の光が竹影を階段に落とし、風が渡るたびにその影がまるで階段を掃くように動くのだが、むろん影なのだから埃が舞い立つはずもない――そういう情景である。このイメージもなかなか美しい。『句集』はこの句を解いて「無作の作」といっているのだが、私はむしろ、そんな解をつけず、この光景をただありのままに受けとって、そっとしまっておきたいような気がする。そうすると、どこからともなく群竹の風に鳴るかそけき音がきこえてくるからだ。
私はしばらく、そのかすかな音に耳をとられていたが、ふと、この句をどこかで読んだような気がしてきた。たしかにどこかで読んだ覚えがある。しかし、『禅林句集』をひもといたのは、あとにもさきにもこの時が初めてなのだから、この句集で読んだのでないことはたしかである。とすると、どこでだろう。私は机に両肱をついて掌《てのひら》であごを支え、しばらくあれこれと記憶をたどっていた。
漱石、蕪村の世界
記憶とは不思議なものである。すっかり忘れ去っていたものが、とつぜん甦ってくる。いったい、この仕掛けはどうなっているんだろう。意識の表面では忘れてしまっても、心の奥に焼きついたイメージは魂がしっかりと覚えていてくれるのだ。そうでなければ前記の句を、はて、どこかで読んだ記憶がある、などと思い出すわけがない。そして、私はとうとう思い出した。またしても漱石である。漱石の『草枕』だ。
『草枕』の主人公の画家は絵具《えのぐ》箱を抱え、三脚をかついで春の山路を越え、山里の那古井《なこい》の温泉場へ出かけてゆく。泣いたり笑ったりの俗世間に厭気がさし、いささかでも「非人情」の境地に身を置いてみたくなったのだ。彼は夜の八時ごろに宿にたどりつき、「何だか廻廊の様な所をしきりに引き廻されて、仕舞《しまひ》に六畳程の小さな部屋に入れられ」る。食事を終えると、あとは何もすることがない。彼は仰向けに寝ころがる。そして「偶然眼を開《あ》けて見ると欄間《らんま》に、朱塗りの縁《ふち》をとつた額がかゝつて」いる。「文字は寝ながらも」「明らかに読まれる」。そこに書かれていたのが、「竹影《ちくえい》 |払※[#「土+皆]《かいをはらつて》 塵不動《ちりうごかず》」という句なのである。それを書いたのは大徹《だいてつ》と落款《らつかん》のあるところを見ると、坊主らしい。その大徹和尚に主人公はやがて出会うことになる。
前記の『門』といい、この『草枕』といい、漱石の作品のなかに、こうした句がちょいちょい顔を出すところを見ると、どうやら漱石は『禅林句集』を愛読したらしい。とすれば、私は漱石がよく読んだ『禅林句集』を|何気なく《ヽヽヽヽ》買い求め、|何気なく《ヽヽヽヽ》読み始めたことになる。そして、漱石の好んだ詩句に偶然出会ったことになる。|何気ない《ヽヽヽヽ》読書は、このような出会いを仲立ちしてくれるのである。
私はすっかり興をひかれ、さらにページを繰った。各ページにいくつかの詩句が印刷されている。私はそのなかで自分の気に入った句の上に赤エンピツでマルをつけていった。どれもみな捨てがたい句である。だからマルをつけるよりも、つけないでいるほうが努力を要する。それでも『句集』には赤いマルがたくさんつけられた。こんな句がある。
夜半和風到窓紙不知是雪是梅花
(夜半《やはん》風に和して窓紙《そうし》に到《いた》る、知らず是《こ》れ雪か是《こ》れ梅花か)
窓紙とあるところを見ると、その窓は紙障子だったのであろう。その障子が風にゆれ、そこに何かの小片があたって微かな音を立てている。窓にチラチラと舞っているのは、雪だろうか、それとも梅の落花だろうか、というのだ。早春の何と懐しい詩情だろうか。句集の解には「冬夜《とうや》閑坐の詠。閑寂法爾の情趣」とある。私は火鉢に倚《よ》りながら、障子の向こうに雪片の舞うかすかな音を聴いた少年のころの記憶に浸っていた。
こんな句もある。
落花有意随流水流水無情送落花
(落花|意有《いあ》って流水に随《したが》い、流水|情《じよう》無くして落花を送る)
おそらくその花木は流れのほとりに立っているのであろう。梅であるのか、李《すもも》であるのか、この句からは知れないが、私は勝手に梅を想像した。その梅の落花がすぐ下の流れに浮かび、浮かんだかと思うと、たちまち流水に随って流れ去ってゆくという情景である。それをながめていると、散る花は、まるで意あって水に浮かぶように見えるが、水のほうはべつにその意を迎えるでもなく、無情に花を連れ去ってしまうように思える、というのだ。それを男女の情の交流に見立てることもできよう。美しい女が、何の意あって無情な男の胸に身を投じ、冷然と連れ去られてしまうのか、というふうに。
むろん、こんな解釈はあまりに下世話かもしれない。『禅林句集』に収められているのだからこの句集の編者(東陽英朝禅師という)は、むろんそんなふうに解釈してはいまい。柴山老師の解には「落花は有意のまゝ無意、流水は無情のまゝ真情、現成底の妙景」と、むずかしく説かれている。
が、ここで私はふたたび、待てよ、と立ちどまる。またしてもこの詩句に、どこかで接したような気がしたのだ。岸のほとりに立つ梅の落花が水に流れてゆく光景――そうした落花流水の景は珍しくないが、それをこの句のように詠んだ詩にすでに出会った記憶が甦ってきたのである。私は記憶をたどり、やがて思い出した。俳人蕪村のつぎの句である。
水に散《ちり》て花なくなりぬ岸の梅 蕪村
この句はいささか理窟っぽいように思える。岸に立っているので、花が散ると花片はそのまま流水に運び去られ、樹下にも花が見えないというのだから。だが、作者の蕪村はこの句がたいへん気に入ったとみえて、知人にこんな手紙を書き送っているのだ。
[#この行1字下げ]「此句うち見にはおもしろからぬ様に候。梅と云《いふ》梅に落花いたさぬはなく候。されども樹下に落花のちり舗《しき》たる光景は、いまだ春色も過行《すぎゆか》ざる心地せられ候。恋々の情|有《これ》[#レ]之《あり》候。しかるに此江頭《このかうとう》の梅は水に臨み、花が一片ちれば其《その》まゝ流水が奪《うばひ》て、流れ去《さり》/\て一片の落花も木の下には見へぬ、扨《さて》も他の梅とは替《かは》りてあはれ成有《なるあり》さま、すご/\と江頭に立《たて》るたゝずまひ、とくと御尋思《ごじんし》候へばうまみ出候。|御噛〆可《おかみしめな》[#(ら)][#レ]被[#(る)][#レ]|成《べく》候」
この文面よりすると、作者の蕪村は、どうも『禅林句集』に収められていた前記の詩句から想を得たように思えてくる。江戸時代にはこの句集がかなり読まれていたらしいので、蕪村が目にしなかったはずもあるまい。とすれば、私はこの句集の仲立ちによって、蕪村とも出会えたわけである。私の想念はいよいよひろがって行った。
読書の功徳
さらにページを繰る。私はもういちど蕪村と鉢合わせをする。そこに王安石のこんな名句が記されていたからだ。
春色悩人眠不得月移花影上欄干
(春色《しゆんしよく》人を悩ましめて眠り得ず、月|花影《かえい》を移して欄干に上《のぼ》らしむ)
悩ましい春の夜である。価千金という春の夜、眠れぬまま外をながめると、月の光が花の影を地に落とし、その花影が月が移るにつれて動き、やがて欄干《おばしま》に上った――というのである。まことに見事な春夜の描写で、こういう文字を読むと、つくづく漢字の表現力に感嘆せざるを得ない。わが蕪村もそう感じたのであろう。つぎのような前書きとともに自作の句を書きつけている。
[#この行3字下げ]花影《くわえい》上欄干《らんかんにのぼる》、山影《さんえい》入門《もんにいる》などすべてもろこし人《びと》の奇作なり。されどたゞ一物をうつしうごかすのみ。我《わが》日のもとのはいかいの自在ハ渡月橋にてあかつきちかきころ
月光西に渡れバ花影東に歩《あゆ》むかな
花影《くわえい》上欄干《らんかんにのぼる》とか、山影《さんえい》入門《もんにいる》とかいう詩句はみな中国の詩人の秀逸な表現であるけれども、それらの句は花影とか、山影とか、ただひとつのものの動きをとらえているにすぎない。ところが、わが日本の俳諧はこんなふうにふたつのものを十七文字のなかで自在に動かすことができるのだ、と蕪村はいって前記の自作をしたためているのである。たしかに京の渡月橋で暁近いころ目にした情景を描いたという彼の句のなかでは、同時にふたつのものが動いている。月光と花影である。
それはともかく、蕪村もこの『禅林句集』のなかのさまざまなイメージを愛読したにちがいなく、私は蕪村や漱石の愛読した書物を知らずして|何気なく《ヽヽヽヽ》手にしたわけである。くりかえしていう。|何気ない《ヽヽヽヽ》読書の功徳は、こういうところにあるのだ。
さらにもうひとつ、ぜひ加えておきたい句がある。つぎの聯である。
莫嫌襟上斑斑色是妾灯前滴涙縫
(嫌うこと莫《なか》れ襟上斑斑《きんじようはんぱん》の色、是《こ》れ妾《しよう》が灯前《とうぜん》涙を滴《た》れて縫う)
禅の修行のよすがに編まれた句集のなかに、まるで都はるみ歌うところの「北の宿」のような恋々たる句が収められているのは何とも不思議だが、そこが禅の禅たるゆえんなのであろう。禅はいかなるものも当意即妙に解釈してのけるのだから。『句集』の解には、「婦人が遠征の夫に衣服を送る至情。一念の真情誰か感ぜざらん」とある。
たしかに、か細い灯火の傍らで涙を流しながら夫へ送る衣服を縫う妻の姿には真情があふれている。それを日本語に直して流行歌にしてしまうと、何とも俗っぽくなってしまうが、こんなふうに「仮名の交《まじ》らない四角な字」で書かれると、いかにも詩的に思えるのだから、漢字の表現はまことに心憎い。
門を出て……
さて、こんなふうにして、ある半日の閑を『禅林句集』とつき合い、気ままなイメージの散歩を愉しんでいたのだが、その閑を電話に破られた。知人が頼みごとを持ちこんできたのだ。私はその知人に会うべく、句集を閉じ、着換えをして赤坂まで出かけようとした。と、句集を閉じる寸前、またしても私は漱石に出会ったのである! こんな句が目に入ったからだ。
薫風自南来殿閣生微涼
(薫風南《くんぷうみんなみ》より来り、殿閣微涼《でんかくびりよう》を生《しよう》ず)
蘇東坡の詩の一聯であるが、この句を漱石の『吾輩は猫である』に登場する八木独仙君が口ずさむ場面があるのだ。
苦沙弥先生の家の「床の間の前に碁盤を中に据ゑて迷亭君と独仙君とが対座して居る」。碁を打つ人間は、たいてい、たがいに軽口を叩き合って興じている。碁の愉しみの半分は、むかしからその軽口にあるといってもいいくらいである。で、両人も例外ではなく、たがいに勝手な文句を投げ合っている。こんなぐあいだ。
「一つ、かう行くかな」と迷亭が打つと、
「さう御出になつたと、よろしい」と独仙君が応じて、そこで「薫風南より来つて、殿閣微涼を生ず。かう、ついで置けば大丈夫なものだ」とつぶやくのである。どういうわけか、私の魂はこの句を心の奥底で記憶していたらしい。そこで、『禅林句集』を伏せる瞬間、この句を目にして、あれ、と思った。ハテナ、こいつにもどこかでお目にかかったことがあるぞ。そして、ほどなく、それを漱石の『猫』で読んだのを思い出したのである。私はまたもやポケット版の『禅林句集』で漱石に出会ったのだ。
かくして、私はいよいよ読書についてのわが確信をかためたのであった。すなわち、真の読書とは、何の目的も持たず、何の要求も抱かず、何の期待も寄せず、|何気なく《ヽヽヽヽ》読み始めることだ――という信念である。散歩しようと何気なくわが家の門を出るように。そうすれば、思いがけず心の友と出会うことが、しばしばあるからだ。それは何と愉しい散策ではないか。
門を出《いで》て故人にあひぬ秋のくれ 蕪村
[#改ページ]
赤いエンピツ
美しき書物
草紙や巻物などの薄絹《うすぎぬ》の表紙はすぐにすり切れてしまうので困ると、ある人がこぼしたところ、頓阿法師が「薄絹の表紙というものは上下の端のところがすり切れ、螺鈿《らでん》をちりばめた巻物の軸というのはその螺鈿の貝が落ちてしまってからがいいのだ」といったという話が『徒然草』にある。兼好は頓阿のこの言葉にいたく感心し、「心まさりて覚えしか」と記している。私もまたそのようなものの見方に大いに共感するのは、私がやはり日本人だからであろう。これこそ日本独特の不完全《ヽヽヽ》の美学なのである。
そこで私は新刊書を買うとき、書店の店員が表紙の上に包装紙でさらにカヴァーをつけようとするのを見ると、「あ、そんなことしなくて結構です」とことわり、出来ればセロハン紙も取り払ってもらう。そして、たいへんいい気分になる。頓阿法師のようなつもりになるのだ。『徒然草』のおなじ段には、「何でもひとそろいにそろっていないと気が済まないというのは、つまらぬ人間の根性だ」という弘融僧都《こうゆうそうず》の言葉が引かれている。弘融僧都によれば、「不ぞろいのほうがいい」のである。で私は古本屋を歩くときには必ず弘融僧都の言葉を肝に銘じ、一巻か二巻か欠けている全集でも平気で買うことにしている。欠けた全集というのは値段がぐんと安い。何とも有難いことである。
といっても、私は本を道具のように考えているわけではない。本は読むためにあるのだから表紙が汚れていたり、破れていたって中身とは関係ない、と割り切っているのではない。書物というものは内容とともに、形もまた大切な要素だと思っている。書物の魅力は往々にして、いや、どんな本でも例外なくその装いにあるのだ。ただ、どんな装いが美しいのか、という美学が問題なのである。私は頓阿法師のように、新しくピカピカの書物をけっして美しいとは思わないだけである。
なぜか。まだページを繰ったことのない新しい本には読書の歴史がないからだ。|まっさら《ヽヽヽヽ》というのはそれなりの魅力かもしれないが、こと書物に関しては真の美しさとはいえない。書物の真の美しさとは、その本がどれだけ読まれたか、という読書の歴史がつくりあげるものなのだ。ただし、その歴史は、あくまで自分がつくりあげた歴史でなければならないこと、いうまでもない。つまり、一冊の書物を一種の芸術品にまで仕上げること、それが読書なのである。そんな芸術品をいくつ持っているかで、その人の精神生活の価値がきまるのだ。「読書百遍、義おのずから見《あら》わる」とは中国の名言であるが、私はむしろ、それをこういいかえたい。「読書百遍、美《ヽ》おのずから見《あら》わる」と。
書物の美とは、繰りかえし読むことによって書物ににじんでくる美しさである。すなわち、「羅《うすもの》は上下《かみしも》はづれ、螺鈿《らでん》の軸は貝|落《おち》て後こそいみじけれ」といった頓阿法師の愛《め》でるあの美しさだ。
傍線は証言する
本を手荒に扱えば、すぐ汚れるではないか、汚れた本が美しいなどといえるか、とそう思われるかもしれない。たしかに本を汚すのはかんたんだ。しかし、粗末に扱って汚れた本と、大事にしながら、しかも繰りかえし読むうちにおのずから手垢のしみこんでしまった本とでは、その汚れ方が本質的にちがう。私は中学校時代から大事に使いつづけている英語のコンサイスをいまなお机の上に置いているが、その辞書の風貌は我ながら美しいと思う。表紙は何度もはがれ、何度も貼り直し、背表紙に至っては一部バンソウ膏で補修されている。それでも、いや、そんなふうだからこそ、この辞書は私にとって得いわれぬほど美しいのだ。むろん、いたるところに赤い線が引かれている。赤い線の上にさらに青い線の引かれている単語もある。それがそのまま私の歴史を語っているからだ。
ある日、私はその辞書を手に取り、赤・青ふたつの線が引かれている単語を拾い読みしてみた。なかには線が三本も四本もなぞられているのがある。それはその単語を何度も引き直したことを語っている。ところが、そんな単語の何割かは――恥になるので何割と具体的な数字をあげるのはひかえるが――きれいさっぱり忘れていた。私は思わず苦笑したが、それでいいのだ。とにかく私はこの辞書を新しいコンサイスに代えようとはけっして思わない。
辞書だけではない。私はどんな本でも読んでいて面白い個所にぶつかると必ず赤い線を引いてしまう。だから私の読んだ本は古本屋へ売ることはできないだろう。しかし、私は赤い線を引かないことには本を読んだ気がしないのである。書物に赤い線を引くということは、その書物に自分を書きこんでゆくことである。自分の爪あとを残すことだ。いったん、そういう癖がつくと、もう赤い線を引かないで本を読むことができなくなる。だから私は読書の際にいつも赤エンピツを二本用意している。その赤エンピツの消費量で私の興味が測られ、私にとってその書物がどれほど価値があるかがわかる。一冊の本を読み終えたとき、赤エンピツが二本とも短くなっていれば、その本は私の座右の書になること請け合いである。私の座右の書は赤エンピツでどのページもまっ赤になっている。
が、本にもコンサイスとおなじことがいえる。ある日、ふと思い立って、かねて読みたいと思っていた本のページを開いた。何ページか読み進むうち、赤い線が引いてある個所にぶつかった。おかしいな、ぼくは初めてこの本を読んだつもりになっているが、既に読んだことがあるらしい――そう思って懸命に記憶をたどってみたのだが、どう考えても思い出せなかった。けれど、赤い線はまぎれもなく自分が引いたものにちがいなかった。私は英語の単語同様、きれいさっぱり忘れてしまっていたのである。その瞬間、私はガク然としたが、すぐに思い直した。なあに、それでいいのさ。読書とは受験勉強ではない。ギリシアの哲人ヘラクレイトスの言葉を借用すれば、「太陽は日々に新《あら》た」なのであり、おなじように、「読書も日々新た」なのだから。
だが、もしこの本に赤い線が引かれていなかったなら、おそらく私はこの本を以前に読んだことにさえ気がつかなかったろう。いくら「読書は日々新たなり」と力んでみても、それではあまりに情けなく、空しいではないか。私はあらためて赤エンピツの効用を思い知ったのであった。
しかし、それとともに私がくびをかしげたのは、かつて自分が赤い線を引いたはずのその個所をいくら読み直してみても、さっぱり面白くないということだった。なぜこんな個所に線を引いたのか。おそらく、そのときはそこが興味深く思われたからにちがいない。が、いまの私にはそんな自分がもう理解できなくなっている。こうして、書物に引かれた赤い線は自分の歴史の不思議を証言し、歳月がいかに自分を変えてしまうかを、はっきりと実証してくれるのである。
人生の枝折《しおり》
とはいえ、むかし自分が読んだ本のすべてを忘れ去っているわけではない。記憶とは――前章でも述べたが――何とも奇妙なもので、すっかり忘れていたはずのものが、あるとき、とつぜん甦ってくる。むろんその記憶はさだかではないのだが、ある種の名状しがたいイメージとして浮かんでくるのだ。げんにこの稿を書きながら、私の胸中には、ひとりの人物の姿が浮かんできているのである。それは大学の図書館で借り出した書物のページを繰りながら途方に暮れている小川三四郎の姿だ。漱石の『三四郎』がなぜ胸に浮かんだのか。そのなかに、たしか書物に引かれた線のことが出ていたからである。
私は立って机の脇の本箱からいい加減汚れて「美しく」なった漱石全集のなかの一冊『三四郎』を抜き出した。そしてページを繰ってみると、あった! ちゃんとそこに赤い線が引かれている。こんなくだりである。
[#この行1字下げ] ――次の日は空想をやめて、這入《はひ》ると早速本を借りた。然《しか》し借り損《そく》なつたので、すぐ返した。後から借りた本は六《む》づかし過ぎて読めなかつたから又《また》返した。三四郎はかう云ふ風にして毎日本を八九冊|宛《づつ》は必ず借りた。尤《もつと》も会《たま》には少し読んだのもある。三四郎が驚いたのは、どんな本を借りても、屹度《きつと》誰か一度は眼を通して居ると云ふ事実を発見した時であつた。それは書中|此処彼処《ここかしこ》に見える鉛筆の痕《あと》で慥《たし》かである。ある時三四郎は念の為《た》め、アフラ、ベーンと云ふ作家の小説を借りて見た。開《あ》ける迄《まで》は、よもやと思つたが、見ると矢張り鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。此時《このとき》三四郎はこれは到底|遣《や》り切れないと思つた……。
私が『三四郎』のこの個所に赤い線を引いたのは、大学生の当時、私もおなじような体験をしたからである。私が専攻科目にえらんだ哲学科の研究室には四囲の壁を哲学書がぎっしりと埋めていた。日本語の本は一冊もなく、ほとんどがドイツ語の古めかしい原書である。学生はその原書を自由に借り出すことができた。借りる場合は抜き出した本のあとにブックエンドのような木の板を置き、その板の背に借り出した年月日と、本の題名と、自分の名前を書いた紙をはめこんでおけばいいのである。とうぜん、その紙きれはみんなの目にさらされることになる。そこで私は――たぶん他の学生たちもそうだったにちがいないと思うが――わざとむずかしい原書を借りだして虚勢を張った。どうだい、おれはこんな難解な原書を読んでいるんだぞ、とみんなに誇示するわけだ。
ただし、そんな見栄を張っていれば、それはむろん教授の目にもとまるわけで、ときに思わぬシッペ返しをくらうことがある。ゼミナールの最中、いきなりその本のことを教授にきかれ、返事ができずにしどろもどろでいると、たちまち虚勢がバレてしまうのである。そうなったらせっかくの突っ張りも台なしだ。かえって他の学生の軽蔑を招く結果になる。そこで、ともかく目を通しておかなくてはならない。私は見栄と引きかえに、辞書と首っ引きで難解な原書と格闘せざるをえない破目になった。
ところが、ここで私は三四郎とおなじおどろきを体験したのだ。どんな部厚い原書を抜き出してみても、そして名前もきいたことのないような哲学者の著作を借り出してみても、かならずだれかが既に読んでいて、「書中此処彼処に見える鉛筆の痕《あと》」が残されているのである。しかも、その個所たるや、いくら読み返してみても自分にはむずかしくて大意さえつかめないような個所なのだ。私は途方に暮れ、「遣り切れない」どころか、しばしば絶望感に打ちひしがれた。
むかしのそんな自分を思い出しながら、私は赤い線が引いてある『三四郎』をしばらく読み返していた。自分が引いた赤い線は自分の足跡である。その足跡をこのようにただちに発見できる――これもまた赤エンピツの功徳といってよかろう。私にとって赤い線は枝折《しおり》でもあるのだ。枝折というのは山路などを歩くとき、道に迷わぬようにところどころ枝を折って目じるしにした「枝を折ること」に由来している。とすれば、このようにわが精神の足跡を刻み、記憶を助けてくれる赤い線は、まさしく「赤い枝折」ではないか。
ともかく赤い線を
そのようなわけで、私の持っている本には至るところに赤い線が引かれることになった。文庫や新書などの廉価版ならともかく、一冊何万円などという高価な本に赤い線を引くということはかなりの勇気がいる。しかし私は思い切って引いてしまう。引いてしまうと、その本がほんとうに自分のものになったような気がするのだ。
さて、私は漱石の『三四郎』をもとの棚にもどし、こんどはそのすぐ横に並んでいたヤコブ・ブルクハルトの『ギリシャ文化史』の第一巻を引き抜いた。自分がこの本のどんな個所に赤い線を引いたのか改めて調べてみたくなったのである。見ると、その「序言」にやたらに線が引いてある。そのいくつかの個所を拾い読みしていくうち、こんな記述にぶつかった。
[#この行1字下げ] ――一般に流布され、そして良く存在してをる翻訳や註釈の助けをかりることは、十分に正当である。トゥキュディデスを参考書なしに読みこなせないことは、何ら恥辱ではない。……参考書の助けをかりずに押し進まうとするやうな人は、彼を全部《ヽヽ》通読することをせず、中途にして間もなく何処かで彼を手から離してしまふ。(新関良三訳)
よほど私はこの言葉にわが意を得たらしく、そこには赤い線とともに万年筆で上欄に横線まで引いてある。ブルクハルトはさらにつづけてこう述べている。
[#この行1字下げ] ――|我々に《ヽヽヽ》とつて重要であるものを見出すのは我々だけである、といふ洞察が、著作家を全部《ヽヽ》通読するやうに我々を規定しなければならない。我々自身によつて見出された一つの言句が、我々の予想及び注意と化合をなして、その結果、一つの真に精神的な所有が作りあげられるのであるが、世界のいかなる参考書も、その引用句を以て、さういふ化合の代りとなることはできない。(同)
表現はいささか堅苦しいが、要するに古典を読む際に参考書の助けを大いに借りたらよいが、さればといってダイジェストや参考書だけですましてはならぬ、というのである。なぜなら、書物のなかで自分にとって重要である個所を見つけるのは、あくまで自分なのであるから――というのだ。とうぜんの話であるが、私はブルクハルトのこの言葉から、あらためて赤い線の効用を教えられる。自分の引く赤い線とは、|自分にとって《ヽヽヽヽヽヽ》重要である個所をはっきりと確認する作業にほかならないからだ。
本の読み方を説いた本はあまたある。書物はゆっくりと読まなければならぬという読書論があるかと思うと、反対に、読書の技術とはいかに速く、要を得て読むかにあると主張する読書論もある。何よりもまず原典と取り組むべきだという正攻法≠語っている論があるかと思えば、前記のブルクハルトのように翻訳や参考書なしでむずかしい原典を読もうとすると、必ず途中で放り出してしまう結果になるから、大いに参考書を利用したらいいという論もある。松坂の一夜、本居宣長が賀茂真淵から教えられたのは、「まず低いところを充分にかためておいて、それからしだいに高いところへのぼってゆくがよい」ということであった。宣長は真淵のその教えをつぎのように書きとめている。宣長に対する師の真淵の「さとし給へりしやう」は、
[#この行1字下げ] ――世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を経ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり、此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ……。(『玉かつま』)
だが、こうしたきびしい着実な読書論に対しては、前にも述べた陶淵明のような欣然《きんぜん》とした読書態度がある。淵明は「書ヲ読ムヲ好メドモ、甚《ハナハ》ダシクハ解スルコトヲ求メズ。意ニ会《カイ》スルコト有《ア》ル毎《ゴト》ニ、便《スナワ》チ欣然トシテ食ヲ忘ル」といっているのだ。
そのようなわけだから、私は汗牛充棟の読書論にさらに新たな論を加えようとは思わないし、いまさら加えるべき何物も持ち合わせていない。が、ただつぎの一言だけはこの際、ぜひいっておきたい。それはじつにかんたんなことである。かんたんなことではあるが、たいへん役に立つことである。すなわち、「本に赤い線を引きたまえ」ということだ。二度目に読むときには青い線を引いたらいい。三度目に読みかえすときには黄色い線を引いたらどうであろう。このようにして読むたびに色をかえて自分の足跡をつけてゆくと、自分の精神の遍歴が一目でわかる。そして一冊の本がそこに引かれたさまざまな色の傍線で虹のようになったならば、その書物は、まちがいなくその人にとっての枕頭の書、座右の書になるにちがいない。「一生のあいだに」と、ヘンリー・ミラーはいっている。「五本の指で数えるくらいそうした本(すなわち、感激をもって書かれ、読む人を感激させる書物)に出会った人は、まことに幸福な人というべきである」(『わが読書』)と。
わが『蕪村全集』
では、私にとって、虹のような書物とはどんな本なのか。ブルクハルトや本居宣長のような勉強家の足もとにも及ばない怠け者の私にとって、わが座右の書とは、いつでも気軽にその家に入っていくことのできる心の棲家のような書物である。
とうぜん、そうした書物は百年のわが家のように古び、手垢でしみがつき、布地の表紙は「上下《かみしも》はづれ」て、まことに「美しく」、まるで芸術品のようになっている。もちろん、そう思うのは私だけで、これを他人に見せたら、何とも薄ぎたない本だといわれるだけであろう。しかし、書物とは|自分に《ヽヽヽ》とって美しければそれでいいのである。
私の蔵書のなかで、そんなぐあいに最も芸術的に仕上げられているのは『改訂 増補 蕪村全集』である。故|潁原《えばら》退蔵博士がたいへんな苦労のすえ集められた与謝蕪村の句集である。昭和八年に改訂増補されたこの全集(初版は大正十四年)は、それこそ「羅《うすもの》の表紙」で、その絹地に筏士《いかだし》が笠と簑《みの》をつけて筏を漕いでいる姿が略筆の墨画で描かれている。雨の日に嵐山に遊んだ蕪村が詠んだ「筏士や簑やあらしの花衣《はなごろも》」の句を絵にしたものであろう。ずいぶん部厚い書物なのだが、和紙のように紙質がいいせいか、けっして重くない。何とも心地よい手ざわりである。
私はこの句集をくりかえし、くりかえし読んだ。いや、いまもひまさえあれば読みつづけている。昼寝のときにも、夜眠るときにも枕頭に置く。机に向かうときには必ず机上にのせる。そんなわけでついにボロボロになってしまった。むろん、ページを開くと赤い線やら青い線やらがいたるところに引かれている。ところで、ブルクハルトは前記の書物のなかで、こうもいっている。
[#この行1字下げ] ――読書に際しては、その時と気分とに従ひ、身体の元気と倦怠とに応じ、また特別には、彼の研究のその時における成熟の程度にそれぞれ応じて、彼の手に入つてくるすべてが、一語一語つまらないそして内容のないものに見えるか、又は特徴的であり興味あるものに見えるか、することもあるであらう。
たしかに読書から得るものは、そのときの身体的、精神的状況に深くかかわっている。そこで文化史家であるブルクハルトは「無理のない」読書により、そのときどきの印象を平均化するようにすすめる。が、学者ならぬ私にとっては、むしろ、そのつど変わる印象のほうが興味深く思われる。『蕪村句集』にさまざまな色でつけられている|しるし《ヽヽヽ》は、そのときどきによって自分がどんな句に心打たれ、どんな句に共感を寄せたかを正直に語っている。私はその|しるし《ヽヽヽ》を拾いながら、蕪村の詩境とともに、自分の心境の推移を読む。それがまた愉しいのである。
つい最近、私が緑色のインクで|しるし《ヽヽヽ》をつけた句には、こんなのがある。
小原女の足の早さよ夕もみぢ
おなじ「紅葉」の句のなかで、数年前、私が万年筆でマルをつけた句は、
川かげの一株《ひとかぶ》づゝに紅葉哉
そしていま、私があらためて赤いエンピツで傍線を引いたのは、
紅葉《もみぢ》してそれも散行《ちりゆく》桜かな
読書とは何と愉しい遊びではないか。赤いエンピツはその愉しさをさらに倍加してくれるのである。だから本を読むときには、ぜひ赤エンピツ、あるいは青エンピツを用意されるとよい。
[#改ページ]
哲学書の効用
哲学者志願
私が大学で哲学を専攻しようと思い立ったのは、一冊の書物のせいだった。一冊の哲学書に深く影響されて――といいたいところだが、じつはそうではなく、いくら読んでも、まったく意味がつかめなかったからである。わからないということは腹立たしいことだ。私は何度読みかえしても理解できぬ自分の頭脳に腹を立て、よーし、こうなったら意地だ、何としてでもわかるようになってやろうと決意した。こうして私は大学の哲学科をえらんだのである。その書物とは、木村|素衛《もともり》著『独逸観念論の研究』(弘文堂刊)という本であった。
高等学校に入学したとき、私はこの本を買った。べつにだれにすすめられたわけでもない。入学の祝いにもらった金で、自分の|ためになりそうな《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》本を自分でえらんだのだ。校門の前にあった書店に入り、さんざん書棚をながめまわしたすえ、私はおごそかな顔付でこの一冊を抜きだした。理由は単純なことだった。まず書名が気に入ったのである。「独逸観念論」とは何のことかよくわからなかったのだが、わからないだけに有難そうに思えたのだ。つぎに装幀が私の目をひいた。ケースから取り出してみると、焦げ茶色の布製の表紙の背に前記の書名が小さな紙に横組みに印刷されて貼りつけられているだけだった。それがいかにも哲学書らしく、高級で知的にみえた。このような本を小脇にかかえている自分を想像すると、自分がまるで別人のように思え、天下の秀才のような気になるのだった。私はわくわくした。
むろん、私は一応はなかをあらためた。ところどころ拾い読みして、果たして自分に理解できるか心もとなかったのであるが、なあに、このくらい読みこなせなければ高等学校の生徒とはいえまい、と自分にそういいきかせ、財布をはたいたのである。じっさい、それは高価だった。四円八十銭もしたのだ。当時の、すなわち昭和十六、七年ごろのこの金額は、いまの値段でいえば四千八百円にも当たるであろう。だがその金と引きかえに、私は生まれてはじめてといっていいほどの知的興奮を覚え、同時に、快い優越感に浸った。どうだい、ぼくはこんな本を読んでいるんだぞ、きみたちにはわかるまい、哲学はきみらにはまだむりだろうな、と私は心のなかで友人たちの顔を思い浮かべながらそうつぶやいた。
けれども、家に帰ってページを開くやいなや、実体のない私の優越感はたちまち惨めな劣等感へと転落した。最初の一行からして、どのように読み返しても、まったくちんぷんかんぷんだったのだ。そこには「自己同一」という題のもとに、こう書かれていた。
[#この行1字下げ] ――所与の表象の多様を統覚の統一の下に齎らしこれを先天的に結合することを、『純粋理性批判』の著者が人間的全認識に於ける最高の原則であると考へたとき、彼は先天的直観の多様の綜合的統一を統覚の自同性即ち自己同一Identitatの基礎として指摘した。統覚の自己同一即ち自覚の自同性はそれ故直観の多様の綜合的統一に基いて成立し、「この綜合の意識に依てのみ可能」なのである。(Kr. d. r. V. §16)
正直なところ、この文章の意味は、いまでも私にはよくわからない。著者はここでカント哲学の根本的な問題について解説しているのであるが、たとえ何度読みかえしてみても、文中のさまざまな哲学用語を一応のみこんでいないかぎり、理解のしようがないのである。まして高等学校に入ったばかりの私には、表象といい、統覚といい、先天的直観といい、自己同一といい、何から何まできいたこともないような言葉だった。なかでも最も奇妙に響いたのが「自己同一」という言葉である。自分が同じであるというのは、いったいどういうことなのか。自分が自分と同じというのなら、そんなことはあたりまえであって、わざわざいうまでもないことだ――と私は考えた。自分が自分とちがっているというのなら、そのわけをききたいところだが、自分が自分と同じだなんて! しかも「自覚の自同性」とある。「自覚の自同性」とはどういう意味なのか。
しかし、四円八十銭も払って買い求めた高価な本を最初の数行を読んだだけで放り出してしまうのは、あまりに口惜しいことだった。とにかく、わからなくても最後まで読んでやろう。私はわからない文章を勝手に解釈して、ついに半分ほど読み進んだ。すると不思議なことに、しだいに哲学書の文体になれてきた。なれるにしたがって、何となくわかるような気がしてきた。むろんそれは錯覚なのだが、錯覚にしろ自己流に読むことの快感が身についてきたのだ。やがて私は無理を承知で文庫版上・中・下三冊からなるカントの『純粋理性批判』を買い、難解な文章をひたすら忍耐をもって読みつづける快感を追い求めた。
わからぬ文章を読むことに快感を感じるというのは、何か衒《てら》っているように思われるかもしれない。が、もっと正確にいうと、難解な文章のなかで、たとえ一行でも二行でもわかる個所に出会うと、それがこの上なくうれしく感じられるということである。私はその個所に赤エンピツで傍線を引いた。とうぜんのことながら、傍線を引ける部分はごくわずかだったが、私はいつか全文が赤い線でまっ赤になる日を期していた。
「自己同一」という言葉
私は大学の三年間、カントのこの難解な書物と格闘する破目になった。が、三年格闘しても、赤い傍線が引かれた個所はほんのわずかだった。私は一応大学は卒業したのだが、ついにカントは卒業できなかった。それにしても、カントのこの著作のどんな個所に私は傍線を引いたのだろう。ふと興味がわいて、ある日私は久しく手にしたことのないボロボロの文庫本を書棚から探し出し、ページを繰ってみた。よくもまあこんなむずかしい書物を読んだものだとわれながら感嘆した。たしかにところどころ赤い線が引かれている。だが、その傍線は自信なさそうにそっと引かれており、半ば消えかかっていた。たとえばこんな個所である。
[#この行1字下げ] ――継起する一切の現象はすべて単に変化である、即ち持続的なる実体の限定の継時的存在と非存在とである、従つてそれは実体そのものの非存在に継起するそれの存在、もしくはそれの存在に継起するそれの非存在でないこと、言ひ換へれば実体そのものが生滅せぬことは実体持続性の原則の明らかにしたところである。この原則は次のやうにも表現され得たであつたらう「現象の一切|変易《ヽヽ》(継起《ヽヽ》)|は単に変化である《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と。(天野貞祐訳)
その欄外に諸行無常と書きこまれている。私は大学の薄暗い哲学の研究室を思い出した。そこでカントの演習《ゼミ》が行なわれたのだ。私はこの個所を読みながら、そこに「諸行無常」と書きこんだにちがいない。たしかにカントは諸行は無常だ、といっているのである。だが、カントは世界の現象はすべてただ変化しているにすぎず、その実体が生滅しているわけではないと考えているのだ。なぜなら、もし実体が存在しなくなったなら、同時に変化もなくなってしまうであろうから。変化とは変化する実体を前提としている。実体のない変化はありえないのである。だからこういいかえてもいいかもしれない。変化がある以上、実体は存在する。すなわち、無常は常住を証明する、と。
茶色く変色し、表紙のとれかかった無常《ヽヽ》の文庫本を前にして、私はしばらくそんなことを考えていた。すると、いまから三十年以上も前に薄暗い研究室で文庫本に赤い傍線を引いていた自分と、いまの自分とが果たして同一人物なのだろうかという奇妙な疑問が浮かびあがってきた。たしかに当時の記憶は残っている。けれども、そのころの私といまの私とでは、とうていおなじ人間に思えないのである。それほど自分が変わってしまったような気がする。しかし、私はすぐに考え直した。いや、私はただ変化したにすぎないのだ。そして自分が変わったということこそが、自分の存在を証明してくれているのではないか。私という実体があればこそ、|私の《ヽヽ》変化ということがありうるのだから。
だが、もし私が蝶だったらどうだろう――と私はさらに、まるで荘周のような妄想に浸った。もっと自分の正体はきわめにくいのではあるまいか。というのは、人間は身体がただ大きくなるだけだが、蝶の場合は毛虫が蛹になり、蛹から蝶になるのだから。毛虫と蛹ではとてもおなじものにはみえないし、まして蝶になれば自分がかつて毛虫だったとは思いも寄らないだろう。にもかかわらず、毛虫も蛹も蝶も同じものであり、蝶という実体において変わりはない。そうでなければ、蝶がこのように|変化する《ヽヽヽヽ》とはいえまい。なぜなら、変化するとは|変化するもの《ヽヽヽヽヽヽ》の存在を前提としているからである。つまり、変化しないものを考えないかぎり、あるものが変化したとはいえないのだ。逆説的にきこえるかもしれないが、変化するとは、変化しないものが変化するのである。そして変化しながら、しかも変化しないもの、それがそのものの実体であり、本質であり、その本質が持続する、すなわち本質でありつづけることが「自己同一」にほかならない。私はやっと、ちんぷんかんぷんだった「自己同一」の意味へ到達したのであった。
フッサールと格闘する
私は大学の三年間、ほとんど毎日のように難解な哲学書ばかり読んで暮らした。カントから新カント学派といわれるハインリヒ・リッケルトや、現象学の祖とされるエドムント・フッサールなどである。その読書の大半が――正直に告白するが――一知半解だった。
哲学の研究室にはまるで屋根裏の哲人≠フような風貌でギリシア哲学を講義する出隆教授が住みこんでいた。暖房もろくにない冷え冷えとした研究室に、どのようにして寝泊りしていたのかわからない。私たちが顔を出すころには出教授はとっくに朝食をすませ、ふとんを片づけて、ひげだらけのあごを撫でていた。当時、出教授の共産党入党がたいへんな話題になっていたが、出教授と共産党とは、いくら考えても結びつかなかった。教授自身、そんなことはまるで関知しないといったような表情だった。出教授は、もしかしたらあの樽のディオゲネス≠気取っていたのかもしれない。
フッサールといえば、近世哲学の講義を担当していた池上鎌三教授はフッサールの訳者でもあった。だから私たちはフッサールを読まされたのである。読まされたのは『純粋現象学及現象学的哲学考案』という長い題名の主著であった。ふつうこの著作は『イデーン』と呼ばれている。原題はIdeen zu einer reinen Pheomenologie und pheomenologischen Philosophieというのであるが、むろん原書など、とても歯が立たなかった。私は池上教授の訳、岩波文庫上下二冊ですませた。だが、教授は自分の訳なので学生たちが翻訳に頼っても、すこしもむずかしい顔をしなかった。
池上教授は出隆教授とは対照的にきちっと三ツ揃いの背広を着込み、いつも髮をきれいに分けて一分のスキもないといった|いでたち《ヽヽヽヽ》だった。小柄で色が白く、一見したところ哲学者とは思えない風貌だったが、しかし、切れの長い目だけは哲人の深い瞳を想わせた。その目で見られると、すべて一知半解ですませていた私はとたんに気押されて、理由もなしにヘドモドしてしまうのだった。教授の講義はドイツ語だらけだった。ドイツ語がわからなければとてもついてゆけなかった。ときどき教授は鋭い目に憐憫《れんびん》の情をたたえて私を見た。そのたびに私はたまらぬ屈辱感にとらわれた。私は夢中で『イデーン』を読んだ。
だが、いまになってみると、いくら思い出そうとしても『イデーン』の内容は思い出せない。むりもない。大学を出てから一度も私はその本を手にしていないのである。私は急に懐しくなって、ふたたび書棚を探して池上教授の訳書を取り出した。カントの『純粋理性批判』とおなじように、こちらも表紙はとれかかっており、シミだらけになっていた。けれど、ページを繰ると、いたるところに赤い傍線が力強く引かれている。してみれば、こちらのほうがカントよりも私には理解できた――少なくともわかったような気がしたのであろう。たとえば、こんな個所である。
[#この行1字下げ] ……これに反して|純粋乃至先験的現象学は事実学としてではなく本質学《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》(『形相的《ヽヽヽ》』学)|として基礎づけられる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であらう。即ち専ら『本質認識』だけを確定せんとし、『事実《ヽヽ》』|を確定せんとは全然しない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》学としてである。此の場合の還元――即ち心理学的現象から純粋『本質』へ、或は判断的思惟に於いては事実的(『経験的』)普遍性から『本質』普遍性へと遷り行く還元――は形相的還元《ヽヽヽヽヽ》である。(緒論)
私たちはいつも|ありのまま《ヽヽヽヽヽ》に生活している。むろん、心のなかにはいろいろな思いが去来しているのであるが、とにかく世界を|あるがまま《ヽヽヽヽヽ》に受けとり、世間を|あるがまま《ヽヽヽヽヽ》に配慮し、自分を|あるがまま《ヽヽヽヽヽ》に意識している。その|あるがままのあり方《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をフッサールは「自然的な観方」とみなし、そうした自然的な観点を取り払い、世界をつぎつぎにカッコのなかに入れて最後に残る純粋な意識を追求し、ものごとの本質に迫ろうとした。彼はそれを、「形相的還元」と呼ぶのである。端的にいうならば彼は「事実」をではなく、「本質」を求めたのだ。それはそのまま哲学そのものの使命といってもよかろう。哲学とは何かについては、さまざまな解答があろうが、私は最も明確な定義は「本質を追求する学」ということではないかと思う。その「本質」をいかなるものと考えるかによって、それぞれの哲学がきまるのである。
哲学書の読み方
さて、私はこんなぐあいに大学時代に読んだ本を取り出してはページを繰って過去の記憶をたどっていた。その記憶はどれもみなさだかではなかった。読んだ哲学書のほとんどは忘れ去っており、赤い傍線の個所を読み直してみても、難解な文章の意味はよくつかめない始末だった。赤い線が引いてあるからには、かつてそこは理解できたはずである。しかし、あらためて読み返してみると、わかったはずの個所でさえ、容易につかみがたいのである。私は本を閉じて苦笑した。要するにぼくは何ひとつわかっちゃいなかったんだ――と気がついたのである。そう気がつくと、何ともやる瀬ない思いがしてきた。私は机に両肱をつき、手で顔を支えながら哲学書の苦《にが》い味をかみしめていた。
と――松坂の一夜、賀茂真淵が本居宣長に教えさとしたあの言葉がふたたび浮かんできた。「世ノ中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を経ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず、まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり」というあの教えである。だから真淵は、「まづひきゝところよりよくかためおきてこそ、たかきところにはのぼるべきわざなれ」というのだ。
たしかにこれは物まなぶともがらにとって、大切な正攻法であろう。読書についてもそれが常道にちがいない。ところが私はそうした常道を無視して、世の多くのともがらのように、いきなり高いところへのぼろうとしてしまったのである。哲学とは何かを、まずやさしい入門書で勉強し、個々の哲学書についても、最初に解説書から入ってゆくべきだった。それなのに、基礎知識もなしで、いきなりカントの『純粋理性批判』に取り組むなどというのは、まことに思いあがったやり方であった。だから私の哲学勉強は一知半解に終わり、「みなひがことのみすめり」という始末になったのだ。
けれども、それはそれなりに私にとっては、なにがしかの意味があったのではないか、と私は自らを慰めた。もし、低きところからかためて、という正攻法で哲学書を読もうとしたならば、おそらく私は入門書だけで、とても歯が立たないと思って投げ出してしまったにちがいない。あるいは解説書から始めたならば、たぶん解説書だけですませ、それでカントやフッサールがわかったつもりになって、とても原著まで手を出さなかっただろう。とすれば、いきなり難解な原典にぶつかったことは、やはりそれなりの意味があったといわねばならない。
しかし……と、私はくびをひねった。それなりの意味とは、どんな意味なのか。
第一に難解な書物になれるということだ。いや、難解な書物を恐れなくなる、というほうがいいかもしれない。これは読書の旅にとって、何よりも大切な条件なのである。そうした習慣を身につけていないと、とにかく人はむずかしい書物を敬遠してしまうことになる。そして、ただひたすら快適な旅だけを求めるようになる。だが、読書の旅においても、最悪の旅こそ最良の旅≠ナある場合がしばしばあるのだ。
私はこれまで何度となく砂漠の旅を試みた。シリア砂漠を横断し、イラン平原をつっ走り、二度三度とサハラ砂漠を縦断した。だが、もし私が砂漠について充分に調査した上で出かけようとしたなら、おそらく私は砂漠に足を踏み入れなかっただろう。私は何も調べずに、いきなり真夏のサハラへ車で突入してしまったのである。こうした無謀な旅をすすめるつもりはさらさらないが、こと読書の旅においては、むしろある程度の、いや、大胆な無謀さが必要なのではないかと私は思う。読書の旅では、たとえどんな無謀な試みをしても生命に別条はないからである。
第二に、哲学書と取り組むことは、たとえ一知半解に終わろうとも、抽象的な思索力を養うのにたいへん益するということである。抽象的な思索というなら、数学のほうがもっと効果的かもしれない。だが、哲学書は私たちがふだん何気なく使っている言葉や概念をあらためて反省させてくれ、考えさせてくれるのだ。と同時に、ものごとの本質を見きわめようとする精神の志向を強化してくれる。これはあまりにも多くの「事実」に埋没して生活している現代人にとって、たいへん意味のあることではなかろうか。フッサールの「形相的還元」という精神の試みは、それだけでも私たちに何事かを語るのである。
第三に、哲学書は私たちに|おどろき《ヽヽヽヽ》を与えてくれるということだ。これもまた現代人たちがすっかり失ってしまった感覚である。現代はあらゆるものごとに、たちどころに解説が用意される時代である。どんな事件がおきても、ただちにその意味は解説される。私たちはいまやすっかり解説になれてしまっているので、自分で問題を発見しておどろき、そのおどろきが深い懐疑へと深まり、その懐疑が思索を呼びさますということがなくなった。そのあげく、「自己同一」を保つことさえできなくなってしまったのである。自己同一、すなわちアイデンティティという言葉が最近さかんに口にされるようになったということが、それを正直に語っていよう。自分が自分でありつづけるということ、こんなあたりまえのことが、あたりまえでなくなってしまったのだ。
そのアイデンティティという言葉をきくたびに、私はいつも哲学へと連れもどされる。私にとっての最初の哲学書は、はじめに述べたように、木村素衛著『独逸観念論の研究』だった。そして、この書物の冒頭に記されていたのが「自己同一」という耳なれない言葉だったのである。カントは人間が外界から受けとるさまざまな表象――これをイメージといいかえてもよい――を総合し、統一する精神の機能を統覚と名づけた。カントによれば、外界から受けとる無数のイメージをとりまとめ、統一するそのような精神の働きを意識することこそ、「自覚」にほかならないのである。つまり、哲学とは「自覚」への旅なのだ。
最近では哲学書はすっかり敬遠されているようである。それは、あるいは哲学者の責任なのかもしれない。だが、哲学の古典はギリシアから現代に至るまで、文庫本で、あるいは全集の形で出版されている。私は読書の旅に哲学書は不可欠だと確信している。たとえ、ほとんど理解できなくても、ともかく一冊でも二冊でも読み通してみたらいいと思う。それによって、きっと新しい見方が、そして自己認識が、すなわち「自己同一」がもたらされるにちがいないからである。
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遅読術
本を読む場所
中国の画人が好んだ画題に「寒江独釣図《かんこうどくちようず》」というのがある。寒い江に舟を浮かべて、川のまんなかで独り釣り糸を垂れている図である。石濤《せきとう》だったか八大山人《はちだいさんじん》だったか忘れたが、略筆でさっと描かれたそんな水墨画をながめながら、自分も画中の人物のような境地に身を置いてみたいものだと思った記憶がある。
釣り好きの友人にそれを話したら、彼は目を輝かせて、「おう、とうとうきみもそういう境地に達したか。そりゃあ結構な話だ。なんなら、つぎの日曜日に出かけようじゃないか。ぼくが実地にその何ともいえない境地を体験させてやる」と意気ごんだ。しかし、そういわれると私はたじろいだ。というのは、私は生来、たいへんせっかちなのである。事がすらすら運ばないと、すぐにイライラする性質《たち》なのだ。いつかかるかわからないウキを見つめて一時間も二時間もじっと待っているなんてまねができるだろうか。
すると友人はハハハと笑って、「きみは何も知らんな。釣り好きのヤツというのは、たいていせっかちな人間なんだぜ」といった。
「へえー、そうなのかい、いったいそりゃどういう因果関係なのかね」ときくと、彼はくびをふって、「それが因果《ヽヽ》というものさ」とこたえた。そういえば、彼はやたらにせっかちだった。「どうだ、これから道具を買いにいこうじゃないか」と即座に私をうながした。だが、あいにく私はほかに用事をかかえていて彼の意に添うことはできなかった。すると|せっかちな《ヽヽヽヽヽ》彼は、|たちまち《ヽヽヽヽ》愛想をつかして、「だからきみはだめなんだ。そんなふうじゃとても釣りなんぞできないね」と結論を下した。たしかにそのとおりで、以来何年にもなるが、私はいまだに釣り糸を垂れたことがない。そして「寒江独釣図」はわがユートピアにとどまっている。
それにしても、釣りとせっかちとは両立するものだろうか。もし両立するのだとしたら、それはなぜなのだろう。おそらく――と私は考えた――せっかちな人間は、どこかでそのせっかちなぶんだけゆっくりしたいと思っているにちがいない。だから、せっかちであればあるほど、逆にこの上ない忍耐力を要する遊びにその|はけ口《ヽヽヽ》を見つけて、それでバランスをとっているのだろう。何から何までせっかちだったら、その人は駈け足で人生を走り抜け、さっさと墓に入ってしまうにちがいないからだ。
では、せっかちにおいて、けっして人後におちると思えない私は、いったい何によってバランスをとっているのだろう。しばらく考えたすえ、ハタと思いあたった。何から何までせっかちな私にたったひとつだけ、のんびりした行為があるのだ。読書である。本を読むことにかけて、私は人一倍悠長なのである。私はいつもゆっくりと本を読む。だから「寒江独釣図」をながめたとき、釣り糸なんぞ垂れるよりも、あんな舟のなかでゆっくりと本を読んだらどんなに愉しかろうと、そう思った。
もっとも、寒江ではぐあいが悪い。本を持つ手がかじかんで、釣り糸のかわりに鼻水を垂らしながらというのでは、とても読書三昧というわけにゆかないだろうからである。できれば春江《しゆんこう》、あるいは秋江《しゆうこう》にしたい。夏江《かこう》でもかまわない。岸近くの木蔭に舟を寄せて、ふなべりを叩く水の音を伴奏にしながら心を書物の世界に遊ばせる。何とすばらしいではないか。そんな自分を想像すると、それだけで私は夢見心地になる。
文をもってきこえた唐宋八家の一人欧陽修はかつて「三上《さんじよう》」をあげた。文章をつくるのに考えがよくまとまるのは馬上、枕上《ちんじよう》、厠上《しじよう》だというのである。それに倣って書物を読むのに最もよい場所はどこかというなら、私はただちに舟上という。あとのふたつはどうでもよろしい。ある人は車上――といっても自動車のなかではなく電車のなかであるが――または枕上、厠上というかもしれない。が、ともかく、私は舟上が何よりだと思う。ただし舟といってもデッキチェアが甲板にずらりと並ぶ豪華客船ではだめだ。水着姿の婦人に気が散ってどうにもならぬからである。舷々相摩《げんげんあいま》す公園の池のボートでもムードは出ない。あくまで孤舟、まわりには葦の風に鳴る音しかないといったそういう境地でなければならない。要するに私は、こと読書となると、やたらにぜいたくなのである。どこで本を読んだっていいじゃないか、というわけにはいかないのだ。この騒がしい世に、せめて書物だけは心静かに、ぜいたく三昧、理想的な境地で、ゆっくりと読みたいと思う。
だからそういう情景に出会うと、私はたまらなく羨ましくなる。そしてそういう情景をけっして忘れない。心に焼きついてしまうのだ。たとえば徳冨蘆花のこんな一節である。
[#この行1字下げ] ――逗子にある日、暑《しよ》甚しき時は、麦藁《むぎわら》の海水帽を頭《かしら》にかぶり、赤条々《せきでうでう》となり、小舟の艪《ろ》を押して、独り前川《ぜんせん》の人無き所に到る。御最期川《ごさいごがは》の両支流相合する所は、藻の間に深き窪淵《くぼみ》ありて、魚の巣窟《さうくつ》なり。舟を此処《ここ》にとゞめて、或《あるひ》は舟上より釣り、或は新聞を読み、或は釣を垂れたるまゝ、舟板《ふないた》に肱枕《ひぢまくら》して午眠《ごみん》す。醒来《さめきた》れば、魚《うを》の釣竿《てうかん》を引き去り居《を》ることもあり、七寸位の鯊《はぜ》のかゝり居ることもあり。(『自然と人生』)
ああ、何たる理想郷だろう! そんな舟上でなにも新聞なぞ広げることはあるまいにと私は思う。好きな本を読んでいたらいいじゃないか、と。
あるいはまた、こんな情景である。
[#この行1字下げ] ――私は青べかを三つ|※[#「さんずい+入」」]《いり》へ漕ぎ入れ、川やなぎの茂っている、土堤の蔭のところで停めて、鮒を釣りにかかった。――そこは沖の百万坪の端に近く、土堤の上を通る人も殆どない。晩秋の午後の陽があたたかく、そよ風も吹かず、水路の水は眠ったように静かで、澄みあがった空と雲とをはっきり映していた。――例によって釣の腕前は知れているから、小さな|きんこ《ヽヽヽ》と称する鮒を三尾に、やなぎっ鮠《ぱや》を五尾ほどあげると、それでくいが止まってしまった。場所を移して釣るほどの気持もなかったし、陽のあたたかさと、周囲の静かさが気にいったので、私は青べかの中で横になり、躯を楽にして、持って来た本を読み始めた。(山本周五郎『青べか物語』)
いやはや、何とも羨ましい境地である。もっとも、この作家は当時(というのは昭和三、四年のころであるが)たいへん貧乏していて、三度の食事も二度に減らすという有様だったらしいから、釣りを愉しむというより晩めしのサカナを得ようとしていたのかもしれない。しかし、さすがに一流の文人である。彼は舟中での読書の愉しみを充分に知っていたのである。
この作品のなかで、彼はよく舟の上で本を読んでいる。私はこうしたくだりを読むと、新型の自動車なんかよりも、どうしようもない|ぶっくれ舟《ヽヽヽヽヽ》「青べか」のほうが欲しくなるのだ。そんな「青べか」を手に入れて、一つ|※[#「さんずい+入」」]《いり》でも二つ|※[#「さんずい+入」」]《いり》でもいいから、そこへ漕ぎ入れ、無為の午後を舟中で本を読んで過ごしたいと思う。だが、残念ながら、いまもってそのような機会はめぐってこない。
そういえば、こういう風景も折にふれて私の胸中に浮かんでくる。それは『三体詩』のなかに収められている「江村即事《こうそんそくじ》」と題した司空曙《しくうしよ》のつぎのような詩のイメージだ。
罷釣帰来不繋船 釣《つり》を罷《や》め帰り来《きた》って船を繋《つな》がず
江村月落正堪眠 江村《こうそん》月落ちて正《まさ》に眠るに堪《た》えたり
縦然一夜風吹去 縦然《たとい》一夜風吹き去るとも
只在蘆花浅水辺 只《た》だ蘆花浅水《ろかせんすい》の辺《ほとり》に在《あ》らん
この詩人はべつに舟のなかで書物の世界に遊んだとはいっていない。だが釣りをやめて舟を岸につなぎもせずに帰ってしまうくらいだから、とうぜん舟中でも悠々としていたはずである。家に帰ってそれに気がついても彼はあわてない。なあに、たとい今夜風が吹いたって舟はどこかその辺の蘆《あし》の茂みのなかに漂っているさ、というのである。こうした文人の屈託のない心境こそ、私の夢みる境地なのだ。
そう、だれが何といおうと、書物は舟の上で読まねばならぬ。
本はゆっくり読め
そんなわけで、無数の読書論のなかで、私が共鳴するのは前世紀から今世紀にかけて筆をふるったフランスの文芸評論家エミイル・ファゲの『読書術』である。彼はその冒頭でこういっているのだ。
[#この行1字下げ] ――読むことを学ぶためには、先づ極めてゆつくりと読まねばならぬ、そして次には極めてゆつくりと読まねばならぬ、そして単に、諸君によつて読まれる名誉を持つであらう最後の書物に至るまで、極めてゆつくりと読まねばならぬだらう。書物はこれを享楽するためにも、それによつて自ら学び或ひはそれを批評するためと同様にゆつくり読まねばならぬ。(E・ファゲ『読書術』石川湧訳)
そして彼はフローベールの言葉を引いている。「ああ! 十七世紀の人びと! 彼らは何とゆつくり読んだことか!」
二十世紀も終わろうとしているこんにち、十七世紀の人たちに学ぼうとするのは、およそ時代錯誤のように思われるかもしれない。だが、音楽を考えてみたらいい。あるいは絵画の鑑賞を思い浮かべたらいい。ハイドンやモーツァルトを私たちはそのころの人たちの二倍の速度できいているだろうか。ミレーやコロオの絵を三倍の速度で鑑賞しているだろうか。それなのに読書だけをスピードアップしようとするのは、何とも解せない話ではないか。書物はいつの世にもゆっくりと読むべきなのである。
こんなにも本がたくさん出ているのに、というかもしれない。しかし、おなじようにレコードだってたくさん出ている。展覧会もいたるところで開かれている。だからといって音楽を能率的にきき、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関するかぎり速読《ヽヽ》をめざすのはどういうわけなのだろう。おそらく、書物というものが鑑賞するというより、知識の伝達の媒体と思われているせいであろう。たしかに本とレコードではちがう。本のほうがはるかに多目的である。鑑賞するというよりは情報を得たいために読まれる本のほうがずっと多いだろう。そんなことは充分承知のうえで、なおかつ私は遅読をすすめる。なぜか?
第一に、速く読むということは一見能率的のように思えるが、けっきょくは損をすることになるからだ。私も|必要に迫られて《ヽヽヽヽヽヽヽ》急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いで読んだ本にかぎって、あとに何にも残っていない。そこでもういちど読み直さなければならないことになる。そして、あらためてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていない――どころか、まったく読みちがえていたことにおどろくのである。こうなると、速読するよりは読まないほうがましである。なぜなら、誤解は無知よりも有害だからである。
そんなことをいっても、必要に迫られて読まなければならない場合が多いではないか、というかもしれない。しかし必要に迫られたならなおのこと、ゆっくり読むべきである。必要に迫られる以上、あくまで誤解は許されないからだ。もし明日までにどうしてもこの一冊を読みあげねばならないという必要《ヽヽ》に迫られたなら、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じたらいい。そのほうがいい加減に斜め読みをするよりははるかに得るところ大きい。それに――考えてみれば、必要に迫られた読書などというのは真の読書とはいえないのだ。学校の教科書とか受験参考書とか実用書ならいざ知らず、真の読書とは必要だから読むのではない。読みたいから読むのである。本を読む必要《ヽヽ》などさらさらないのだ。
新聞でさえそうである。新聞は本とちがって情報を得るためのものだから、べつにそう丹念に読むこともなさそうだが、あるとき、友人がつくづくと私にこういった。
「きみ、新聞というものにはじつにいろんなことが書かれているもんだねえ。まあ一度、すみからすみまでじっくり読んでみたまえよ。びっくりするから」
そういわれて読んでみた。なるほど、|ゆっくり《ヽヽヽヽ》読んでみると、「じつにいろんなこと」が出ている。いろんなことというのは、予想外のこと、考えさせられること、想像力に訴えること、微笑させられること、苦笑させられること、そしておどろかされること等々である。ところが、たいていの場合、読者は見出しだけで判断してしまう。しかし、ゆっくり読んでみると、見出しで見当をつけていたのとはまったくちがう内容がそこに書かれているということがしばしばあるのだ。
などというと見出しを担当している整理部の記者におこられそうだが、しょせん、見出しは内容のアウトラインを表現しているにすぎない。場合によっては下手な記事よりも見出しのほうが核心をついているような例がないわけでもないが、たいていは見出しは索引の役割をしている。だからその索引だけで勝手に判断すると、「じつにいろんなこと」をつい読み落としてしまうのである。以来、私は、ゆっくりと新聞を読むことにした。それだけのゆとりのないときには読まなければいいのだ。
そういえば、むかし大掃除の日が愉しみだった。最近ではそんなこともなくなったが、ひとむかし前は大掃除というと、かならず畳をあげた。そして根太板《ねだいた》に敷かれてある古新聞を取り除き、きれいに掃いて新しく新聞紙を敷き直す。そのとき、黄色く変色した古新聞に思わず読みふけってしまうのだ。それがじつに愉しいのである。ほう、こんなことがあったのか、と夢中で読んでいるうち、掃除のほうはすっかり留守になってしまうのだが、それもふだん新聞を読み飛ばしているせいである。読み飛ばすことによって、私たちはどれほど多くを失っていることだろう!
葦ノ髄カラ天井ヲノゾク
遅読のすすめ、その第二の理由は、いくら速く読んでみたところでタカが知れているということである。どんなに速読の技術を身につけたところで、二倍のスピードで読めるものではない。かりに二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読みとることができるのは、じつは、ゆっくり読んだときの二分の一にすぎないのである。つまり、半分しか読みとらないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかもその半分が前記のように誤読に陥りやすいとすれば、速読というものがいかに無意味――どころか有害であるかに気づくであろう。
ゆっくり読んでいたら、わずかな本しか読めないって? いいではないか。じっさい、本というものはそんなにたくさん読めるものではないのである。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むか、その撰択が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書をえらばせる効果を持つのである。だからこういってもいいだろう。いい本を読みたいと思ったなら、何よりもまず、ゆっくり読みたまえ。『論語』に倣っていうならば、読ンデ思ワザレバ則チ罔《クラ》ク、思ウテ読マザレバ則チ殆《アヤウ》シだからである。ついでにもうひとつ引けば、知ル者ハ好ム者ニシカズ、好ム者ハ楽シム者ニシカズだからだ。読んで思い、思って読み、こうして楽しんで読むためには何より時間をたっぷりかけなければならないではないか。
わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野は狭くなり、とても現代に追いついてゆけないというかもしれない。たしかにそういった不安が現代人を速読へと駈り立てている。だが、そんなことはけっしてないのだ。十冊読む人より五冊読む人のほうが視野が広く、立派な見識を身につけているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値は何冊読んだかできまるのではなく――いうまでもないことだが――どんな本を、どのように読んだかできまるのだから。
私は読書とは葦《ヨシ》ノ髄《ズイ》カラ天井ヲノゾクことだと思っている。ふつうこの格言は、そんな小っぽけな穴から天をのぞいてみても、広大な天のほんのわずかな部分が見えるだけだ、とその視野の狭さを嗤《わら》ったものと解されている。たしかにそういう意味だろう。しかし、実際にのぞいてみるとわかるが、葦の髄からでも結構、天は仰げるのである。いや、むしろ小さな穴からのぞいたほうが対象がよく見えることが多いのだ。一冊の書物というものは、莫大な量の書籍から考えれば、まさしく葦の髄にひとしい。だが、それでも充分に天をのぞくことはできるし、また、それで天をのぞくことが読書の意味だと私は思う。考えてみたまえ。カメラのファインダーは葦の髄のようなものではないか。しかし、そのファインダーをのぞくことによって、はじめて自分の求める世界をうつしとることができるのである。
蘆花浅水のほとり
さて、これ以上、遅読の効用をあげる必要はあるまい。とにかく、本はゆっくり読むにかぎる。ゆっくり読めば一冊の本はどれほど多くを語ってくれることか。読書とはただそこに書かれていることを理解するという単純な作業なのではなく、いかにして書物に|より多くの《ヽヽヽヽヽ》ことを語らせるかという技術なのだ。すぐれたインタービュアーが相手から面白い話を充分に引き出すことができるように。
しかし、性急な読書では本は何も語ってくれはしない。かりにその内容を要領よくつまんだとしても、ただそれだけの話である。それは本を読んだというより、本をつまんだにすぎない。読書とはあくまで著者と読み手との対話なのであり、読み手が時間をかけてゆっくりと問いかけなければ、著者はそれこそ通りいっぺんの答えしかしてくれないのだ。前章で私は哲学書の効用についてふれたが、私は大切なことをいい忘れた。哲学書の何よりの効用は、ゆっくり読む習慣を身につけさせてくれるということである。どんな哲学書といえども、斜めに読み飛ばしたのでは何事も教えてくれないからである。
以上のような次第で、私はつい読書の環境にこだわってしまうのだ。本を読むに際していちばん大事なのは、|どこで《ヽヽヽ》読むかということだと私は思う。読みたい一冊の本を手にしたら、私はどんな場所をえらぶだろう。「明窓浄机《めいそうじようき》」が好ましいことはいうまでもない。だが、もしそんな機会にめぐまれたなら、私はやはり孤舟を浮かべてひとり蘆花浅水のほとりで書物をひろげてみたいと思う。
ある日。久しぶりに山本周五郎の『青べか物語』を明窓《めいそう》に倚《よ》って|ゆっくり《ヽヽヽヽ》読みかえしていたとき、私はこのようなすばらしい書物こそ舟の上で心ゆくまで味わいたいと思った。そう思うと矢も盾もたまらず、私はそのまま『青べか物語』一冊を持って、この作品の舞台である浦安へ出かけた。浦安といえばずいぶん辺鄙《へんぴ》なところと思いこんでいたのだが、なんと地下鉄の東西線が大手町からわずか十数分で私を運んでくれた。私はキツネにつままれたような気分だった。
だが――浦安駅のフォームに降りたとたん、私はもっとおどろいた。『青べか』の世界とはおよそかけ離れた新興の都市≠ェそこにあったからだ。げんに浦安は間もなく市になるということだった。そして私がそのあたりに|べか舟《ヽヽヽ》を借りて浮かべようと思っていた「沖の百万坪」はとうのむかしに埋めたてられて、その上にマンションが建ち並び、その先にはなんとディズニーランドがつくられ始めているのである! 町なかによどんでいる境川《さかいがわ》につながれた何そうかの平底舟が『青べか物語』の痕跡をかろうじてとどめているにすぎなかった。
短い初冬の日は早くも高層ビルの向こうにかげって、あたりは蒼然となった。
[#この行1字下げ] ――この町ではときたま、太陽が二つ、東と西の地平線上にあらわれることがある。そういうときはすぐにそっぽを向かなければ危ない。おかしなことがあるものだ、などと云って二つの太陽を見ると「うみどんぼ野郎」になってしまう。そうしてそのときにはすぐ脇のほうで、獺《かわうそ》か鼬《いたち》の笑っている声が聞えるということである……。
作者はそう書いている。私は境川の橋に立って、もしかしたら獺か鼬に化かされているのではないかと思った。ちょうどそこへ、この町の古くからの住人らしい老女が二人通りかかった。私は二人に一礼してきいた。
「沖の百万坪へ行ってみたいのだが……」
すると二人は鼬のように笑って、こういった。
「そんなとこ、もうねえだよ。みんなコンクリの下になっちまっただ。おめえさん、来るのが遅かっただよ。はあ、遅すぎただ」
[#改ページ]
書店繁昌記
明治の大ベストセラー
さすがに東京である。東京駅八重洲口に近いブックセンターの一階に新聞をコピーしてくれるコーナーがあって、そこで頼むと自分の生まれた日の朝日新聞をたちどころにコピーしてくれる。紙面は政治面と社会面で一ページ三百円。つまり六百円を支払えば自分の生年月日にどんな事件があり、世の中がどんなふうだったかがわかるという次第である。自分の歴史に興味を持ち始める年代に達すれば、だれしも自分がどんな世の中に生まれ落ちたのか興味がわくわけだから、ここは大いに繁昌していて、一日、少なくて百人、多い日には二百人もの申し込みがあるという。
ほう、と私はすっかり感心し、つい自分の生まれた日の新聞をコピーしてもらうのを忘れた。情報化社会とはいいながら、こんなサービス部門までが店開きをするようになったのか――そう思いつつ例によって足は八重洲口から神保町の古書街へ向いた。
私が生まれたのは大正十四年(一九二五年)の十月である。そのころ、このあたり一帯はどんな風景だったのだろう。東京ほど激変する町は世界にもあまり例がないから想像に余るが、大正十四年といえば関東大震災の二年あとである。かなり復興したとはいえ、まだまだあちこちに被災のあとがなまなましく残っていたことだろう。その様子はたぶん、終戦後二年目の昭和二十二年の情景に似ていたのかもしれない。東京は空襲によっても焼野原になった。終戦直後、しばらく虚脱状態になっていた日本人は、気を取り直すとすぐに復興に取りかかった。当時私は大学の学生だったが、いちめん焼跡がひろがっていた八重洲口から銀座にかけてのこのあたりを、よく歩き回ったものだ。その情景を思い浮かべると高層ビルが櫛比《しつぴ》する今日の東京のほうが夢のような気がする。私のなかで大正十四年と昭和二十二年とが重なった。
そういえば、神田の古書街もずいぶん変わった。古書の街に似合わしかった古びた店は軒並みビルに生まれ変わり、いまなお新しいビルがつぎつぎに建てられている。変わらないのは一誠堂の古典的な石造りの建物ぐらいであろう。
金曜日の午後のせいか、歩道には学生らしい若者があふれていた。私はその雑踏のなかを擦り抜けるように一軒、また一軒と店の書棚を見て回った。店先に台を置いて、そこに二百円、あるいは三百円均一の古本が埃をかぶっている。ときに思いがけない掘り出しものがあるので、私はそうした場所にも注意をおこたらなかった。
と――ある店先のそんな台の上に、半ば表紙のとれかかったネズミ色の洋装本が放り出されているのが目についた。すっかり日に焼けて褐色になりかかっている布製の背表紙の文字は判読できない。私はそれを取りあげ、埃を払ってなかをあらためた。扉に大きく服部誠一著述『東京新繁昌記』東京聚芳閣|発兌《はつだ》とあった。そんな著者の名も出版社名もきいたことがなかったが、奥付を見ると大正十四年十二月二十日発行とある。ちょうど私が生まれた年、しかも私の誕生日の二ヵ月あとだ。『東京新繁昌記』とあるからには、当時の東京の様子がくわしく書かれているにちがいない。私は中身もあらためずに買い求めた。わずか三百円なのである。思案するまでもなかった。
ところが――家に帰ってページを繰ってみると、それは大正十四年当時の東京繁昌記ではなく、なんと明治初年に書かれた明治の初めごろの東京繁昌記の再刊なのだった。いつの時代にもひと昔前の世情を懐しむ人がいるものである。大正の末年、そろそろ遠くなりかけた明治を懐しんで、すでにすっかり忘れ去られてしまっていたこの書物を新たに刊行したにちがいない。その巻頭に著者服部誠一(撫松)と本書の由来について、著者の「後進」という三木愛花なる人物が解説らしい文章を書いている。
私はいささか、がっかりした。自分が生まれた年に出版されたのだから、そのころの東京の風景がくわしく書かれているものと思いこんでいたのに、明治初年の東京の話では少し遠すぎる。自分の生年月日の日付の新聞のコピーを頼んだら、なんと明治の新聞を渡されたようなものである。しかし、そう思いながらその「解説」を読むうち、私は思わずそのボロボロの書物の世界に引きずりこまれて行った。
繁昌記といえば、すぐに江戸末期の儒者寺門静軒が著《あらわ》し、天保期に一世を風靡した有名な『江戸繁昌記』を思い浮かべるが、この『東京新繁昌記』はそれに倣《なら》ったものという。だが、その売れ行きたるや『江戸繁昌記』の比ではなく――『江戸繁昌記』もそれこそ洛陽の紙価を高からしめたものであったが――福沢諭吉の『西洋事情』や『世界|国尽《くにづくし》』と並んで、明治初年の大ベストセラーだったとある。しかもその原文は静軒の『繁昌記』とおなじように漢文で、かなりの素養がなければ読みこなせないしろものだった。それがベストセラーになったということは、そのころの読書人の大半が漢学の教養を身につけていたことを語っている。私はあらためて当時の日本人の教養に恐れ入った。
いったい、どれくらい売れたのか。以下、愛花氏の紹介文によると、
[#この行1字下げ] ――然らば此《この》『東京新繁昌記』は凡《およ》そ幾部位を売り得たものかと云ふに、先づ一万部より一万五千部内外と見られるのである。一万二万の発行数は今日に在《あ》つては決して大成功と云ふを得ざるものであるが、明治の初年には未だ新聞の広告と云ふものが無く、又郵送、鉄道便等の運輸法の設定せられざる時代に在つて、一万以上の売れ行きは今日の十万以上に相等したものである……。
愛花氏はさらに著者が印税によって得た収入をつぎのように計算している。
[#この行1字下げ] ――『新繁昌記』は一冊二十五銭であつて、五篇(第六篇は四五年後に発行)を通じて壱円廿五銭であつたから其の総売れ高は二万円内外である。服部氏は一冊に対し五銭、一部五篇に対して二十五銭を得たのであつたから、之れを一万五千部と見る時は約三千七八百円となり、今日の二万円以上四万円に相当したのであつた。
ここで「今日の」とあるのは、いうまでもなく大正十四年当時のということである。それをさらに現在の物価に換算すれば、たぶん億の位《くらい》になるであろう。著者はその金で「明治十年|比《ごろ》に湯島天神の傍らなる妻恋坂《つまこひざか》の上に、二階建の紳士に適応する新家屋を建築し」たとのことで、愛花氏が訪ねてみると、「表は湯島天神に通じ、楼上よりは左に上野の森を指顧《しこ》の間に見、右には神田明神の樹木を控《こう》し、東北は浅草より隅田川までを俯瞰《ふかん》し、月に雪に絶好の風景を収め」るというまるで夢のような情景だったという。その新築費が約二千円、大正末期の相場に直しても「二万円以上」というのだから、それも今からみれば夢のまた夢である。
『東京新繁昌記』
それほど売れに売れた『東京新繁昌記』とは、どんな内容だったのか。
寺門静軒の『江戸繁昌記』が、「相撲」「吉原」「戯場」「千人会《とみ》」(富《とみ》くじ)「金竜山浅草寺」……というように江戸の行事や風俗や名所をひとつひとつ挙げて面白おかしく描いたのとまったくおなじように、『東京新繁昌記』もその目次を見ただけで読みたくなるような項目がずらりと並んでいる。いわく、「学校」「人力車」「新聞社」「貸座敷」「写真」「牛肉店」……。「築地異人館」もあれば「博覧会」もあり、「西洋断髪舗」があるかと思うと「妾宅」や「新橋芸妓」もあるといった調子で、その各項目がすべてこれ漢文で書かれているのだ。
といっても、寺門静軒の漢文が当時の儒者たちのひんしゅくを買った漢|戯文《ヽヽ》であったのと同様、服部誠一のそれもかなり勝手な漢文体で、同時代の漢学者たちからは手ひどい嘲罵を受けたようである。だが著者は自らつくりだした変体漢文が一般の読者に大受けに受けたことを「独笑してゐた」ということだ。
ところで、私が神田の古書店の埃だらけの台で見つけた『東京新繁昌記』なるものは、その漢文を読み下し文に直してある。だれが原著をこうした漢字かなまじり文に直したのかことわってないが、たぶん三木愛花氏の手になるものであろう。明治の初年から約五十年、大正の末年にはすでに漢文をすらすらと読みこなせる読者は激減していたにちがいない。その大正末期からさらに五十余年、現在ではその読み下し文でさえすっかり読みづらくなってしまった。だが、それだけにそうした佶倔《きつくつ》な文章で描かれた文明開化のころの世相がいっそうおもしろく読みとれる。たとえば「人力車」のくだりは、こんな調子である。
[#この行1字下げ] ――その輓夫《ばんぷ》の駿足なる、腰を屈《かが》めて腕を伸《のば》し、群集の中に雄奔す。右に避け、左に譲り額以《ひたひも》て群を押し、踵《きびす》以て衆を撥《はじ》く、一歩は一歩より速く、後車は前車に超ゆ、尻の|※[#「車+酋」]《かろ》きもの毛の如く、脚の疾きこと矢に似たり。御免の声|輾輪《てんりん》の声に和して奔《はし》る。御免々々|※[#「口+戛」]喇々々《からから》、免々喇々免喇々々《めんめんからからめんからめんから》。澱《よど》の車は水に因《よ》つて転《まは》る。我れの車は値《ね》に因《よ》つて奔《はし》る。……
また「写真」の項はつぎのような文体だ。
[#この行1字下げ] ――写真の都下に行はるゝや、未だ十年を出でず。而して已《すで》に錦画《にしきゑ》と頡頏《けつかう》す。始め内田氏(九一と称す)業を洋人に受けて、頗《すこぶ》るその精巧を極め、写場を浅草に開いて、その業を施す。人その真画を見て、皆その妙術に驚き、来つて写を乞ふもの輻々輳々《ふくふくそうそう》。忽ちその名を四方に揚ぐ。追次その業を鬻《ひさ》ぐもの、都下に蔓延し、現今は已《すで》に数十名に及べり、その技を施すや、写場を楼上に設けて、斜めに玻璃戸《はりど》を三方に鎖《さ》し、以て日明を受く。蓋《けだ》し晴天の正午を以て、最高の時と為すなり。……
だが、読み進むうち、私がいちばん興をひかれたのは「書肆《しよし》」のくだりだった。つまり本屋の風景である。明治の初年、何より活気を呈していたのは本屋の店先だったようである。著者はこう書いている。
[#この行1字下げ] ――文華の明かなる、今に於て盛なりと為し、書林の富、古《いにし》への未だ聞かざる所、英書日に舶《はく》し、仏籍月に渡り、支那|独逸《ドイツ》又相次ぐ。……方今、書肆の数、追次繁殖し、老舗と称するものは、大凡《おほよ》そ五百、その子肆孫店《ししそんてん》に至つては、算数すべからず、洋書を売るものあり、雑本を買《かふ》るものあり、新版を発するあり、古籍を鬻《ひさ》ぐものあり、|※[#「日+麗」]書肆《れいしよし》あり、貸本店あり、本街横坊、比々として戸を連《つら》ぬ。これ書を読む人の多きに因《よ》つて、この大繁昌を致すなり。……
話は横道にそれるが、私は異国の都市を訪ねるたびに、いまさらのように日本人の知識欲の旺盛なのにおどろかされる。まず、世界の諸都市に比べて日本の町々に書店の多いことだ。むろん、ニューヨークやパリ、ロンドン、ミュンヘンなどにも大きな書店が目立つ。だが、たいてい店内は閑散としており、日本の大書店のように肩々相摩《けんけんあいま》すという風景はあまり見当たらない。近ごろは映像に押されて活字離れがいちじるしいなどという声もきくが、どうして、他国と比較すれば日本は依然としてたいへんな読書国である。それは江戸時代以来の教育熱心のたまものであろう。服部誠一が描く「書肆」の前記のような風景は、まさに寺子屋による、あるいは藩校による教育の蓄積のしからしむるところといってもよかろう。日本が明治以来、かくも急速に近代化をなしとげることができたのも、そうした|読み書き《ヽヽヽヽ》の伝統の力であった。
ただし、日本人の知識欲は、いささか性急で、ときに軽薄のきらいがなくもない。英書が舶来《はくらい》すればたちまちそれにとびついて、きのうまでの書物は捨てて顧みず、という有様で、その習癖は今につづいているようだ。だからこの著者は、そうした軽薄さを諷することも忘れない。書店のこんな情景である。
[#この行1字下げ] ――一自負生、書肆に座して曰く、近舶《きんぱく》、何の新本ある、伴《ばん》(番頭の意=引用者)曰く、有《あ》り有り、直《ただち》に数冊を抽《ひ》き出して、他の面前に積む。客冊毎に数葉を翻《ひるがへ》して曰く、これは密爾《みる》氏(英人)の経済論、僕|既《すで》にこれを諳《そら》んず、巴奇《パウク》氏(英人)の文明史も亦《また》既にこれを呑む。区々たる雑書の如きは、尽く臍下《せいか》に蓄蔵す、又何をか新本と為す、……。
ミルの経済原論も、イギリスの歴史家ヘンリー・トマス・バックル(一八二一〜六二)の文明史もぜんぶ暗記するくらい読みつくしたなどと小生意気なことをいう学生に書店の番頭はからかってやろうと、さらに一冊の洋書を出してみせる。と、くだんの学生「これは米人が書いた本だが、ぼくは十年も前に読んだ」などと、いよいよいい加減なことをいうので、番頭は笑いをこらえて、「この本は近ごろ日本人某がロンドンで出版した書ですよ」と教えてやる。学生はむきになって反論するのだが、しまいに店員にこう説教される。
「知らざるを知らずとせよ、これ知るなり」
学生はすっかり恥をかかされて激怒し、こういい返す。
「僕は洋学生、何ぞ教《おしへ》を腐儒《ふじゆ》に受けん!」
書舗《ほんや》の店先――江戸・明治
舶来する洋書、その翻訳書に圧倒されて仏籍や儒書はすっかり影が薄くなった。著者はその様子をこんなふうに描いている。
一人の坊主が書店にやってくる。その風体は「頭に洋帽を戴《いただ》き、身に釈衣《しやくい》を服し、而して腰に和袴《わこ》を纏《まと》ひ、開化の顔を見《あら》はし……」という有様で、彼は寺から持ち出してきた十巻の仏籍を売って簡便な活字本、それも一冊にすべての教えが要約されているようなアンチョコを買い求めようとする。すると本屋の店員はくびをふって、「いまどき、こんな梵書《ぼんしよ》なぞ値にならない」という。
[#この行1字下げ] ――伴《ばん》(番頭)曰《いは》く、梵書の如きは、方今絶えて値無し、大般若《だいはんにや》(経)六百巻と雖《いへど》も、二束三文《にそくさんもん》、(それなのにお前さんの持ってきたものは)僅かに十巻、何ぞ一小冊子に及ばん、……。(カッコ内は引用者)
すると坊主は涙を催して慨嘆する。この十巻の書は何百年も大切に庫《くら》の中に保存され、一年に一度取り出しては万民の厄災を祓《はら》ってきたものなのだぞ。それなのにそれを二束三文とは、当今の世相は、ああ何たることだ!
その傍らに一人の漢学者が中国の新聞を読んでいたが、それをきいて、仏籍ばかりか漢書もおなじような運命をたどっていると、こう同調する。
[#この行1字下げ] ――洋学の流れて本邦に入つてより来《このかた》、中庸は|※[#「日+麗」]書肆《れいしよし》に晒《さら》され、論語は蜘蛛《くも》の網に縛《ばく》せらる。偶々恩顧《たまたまおんこ》に遇ふものありと雖《いへど》も、その値《あた》へ昔日に比すれば、幾倍を減ず……。
すると番頭が口をはさんでいうことには、あんたたちはそれだからだめなんだよ、旧《ふる》きを捨てて新しきを取るのは人情の常なんだから、そんな愚痴をこぼしていないで、儒者なら儒者なりに、仏徒なら仏徒なりに、新しい論や説を立てたらいいじゃありませんか。そしていわく、
「書籍は則ち狂言なり。将来最も新を競ふ。苟《いやしく》も学才あらば、その学派を論ぜず、新狂言を裁す可きなり」と。
何と文明開化当時の世相を活写しているではないか! だが、この古めかしい漢文調を現代語に翻訳してみれば、こうした風潮はそのまま現在へと通じていることに気づく。と同時に、それはそのまま寺門静軒の生きた天保時代の江戸の世相とも通じており、私はあらためて本屋の店頭がいかに世情を正直に語るものであるかを知らされるのである。静軒の『江戸繁昌記』にも「本舗《ほんや》」のくだりがあり――『新繁昌記』はそれをそっくり下敷きにしているわけであるが――そこにはこう書かれている。さいわい『江戸繁昌記』のほうは昭和四年に現代語訳されて春陽堂から出版されており、それがさきごろ、さらに復刊されたので大いに読みやすくなった。その佐藤進一訳を参照させてもらう。
夜廻りの拍子木が戌《いつつ》(午後八時)を知らせてまわると書店は店を閉め、番頭や小僧まで寝てしまい、店内は静まりかえる。すると書庫のなかで古本がたがいに昨今の風潮を語り合い始める。仏籍の一冊がいう。
[#この行1字下げ]「見給え僕等の運命を。僕等仏書ときたら、新刊だろうが、古書だろうが、さっぱり売れないのだ。如是我聞。一切経を世間一切読む者がない。例えば、決定経は決して読誦されぬし、大果経はその名のごとく果然癈されてしまった。宝蔵経はただ宝とされるばかりで蠧虫《しみむし》の餌にしか供されない。ひどいのになると、破って反古《ほご》にされてお経といっしょにいわゆる虚空となってしまうのだ。……だから仏書の値段はひどく安くて土砂ほどの価値しかない。どこの書店でも利益がないとこぼしている。三千の諸仏も五百の羅漢も暗澹の雲に閉された仏界の前途を憂い、澆季《ぎようき》な末世じゃと嘆いてござるにちがいない。末法末法。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」
さらに著者静軒は、盛り場の一隅に露店を出している本屋に酔客が現れ、店主にからむ姿を活写しているが、その情景はつぎのとおりだ。
[#この行1字下げ]「あの大学は何程か。」「七十一文でございます。」「この春本は。」「八銖銀でございます。」「こら、亭主。こら。大学は、修身治国を説いて、千万年の後までも癈れることのない要書だぞ。春本はなんだ。女に戯むれ、淫を惹起し、人道を破壊するものじゃないか。あちらが馬鹿に安くて、こちらが馬鹿に高いとは、何とした非条理きわまる値段のつけ方か。」「御尤《ごもつと》もさまにございます。けれども、春本は独房に春情を起させ、愁《うれい》を消して笑顔にさせます。開いてみて、気を晴らさぬ者は一人もありませぬ。男女の関係は、人間界の第一の欲望で、なくてはならぬ本でございます……。」
だが酔客は耳をかさず、「こら、亭主。大学が、あのように軽蔑されるのは、聖人を侮っているものではないか。春本が、こんなに尊重されるのは、淫色を教えているものではないか。こら、亭主。貴様は天下の罪人だぞ。白日にこんなものを曝して、高価に売りつけて、人倫風俗を破壊している。貴様は罪人だ。たしかに天下の罪人だ。」といって、五、六冊の春本を取りあげ地面へ投げつける。すると、
[#この行1字下げ] ――紅紊《こうみだ》れ、金|翻《ひるがへ》る。正に是《こ》れ鴛鴦《ゑんあう》夢驚き、鳳鸞倒《ほうらんさかしま》に翔《かけ》るなり。
さすがに主人は怒り「やい、酔払いの畜生。貴様はどんな遺恨があって、おれの商売を妨害したんだ」とどなり――早く一拳を走して客を打つこと一打、四隣|挺《はし》り出で、遮欄勧解《しやらんくわんげ》す――つまり酔客に一発くらわせたので、まわりの人たちが駈け寄って喧嘩を引き分け、酔客を引っぱって行った、というのである。
「無用の書」の効用
それにしても江戸時代からわが日本はこのように書店大繁昌のお国ぶりで、まこと慶賀にたえない。静軒の『江戸繁昌記』によると、
[#この行1字下げ] ――昭代|右文《いうぶん》の数、書肆《しよし》日に盛んに、著作歳に新なり。老舗と称する者五十を額(組合)と為《な》し、子肆《しし》、孫店《そんてん》百を数へ、千を算《かぞ》ふ。且つ画草紙舗《ゑざうしや》なる者有り。亦《また》五十を額と為《な》し、中《うち》新古を分ちて(新本屋、古本屋に分かれて)各々其の半《なかば》に居る。(以上の三種の本屋を)合して三部《ミクミ》と称す。又読本肆十六、借本戸八百、此れ其の大略にして、其の子、其の孫に至りては、算数し易からずと云ふ……。(朝倉治彦・安藤菊二氏による書き下し文による。ただしカッコ内は引用者)
とある。静軒はそうした書店に無用の書物がやたらに跋扈《ばつこ》してきたのを嘆いてみせてはいるのだが、その「無用の書」のなかに自分の『江戸繁昌記』を入れ、このような漢戯文がこんなに売れるのだから読者にはそれなりの教養があり、けっしてバカでないと暗に「無用の書」のほうを弁護している。たしかに日本人の読書欲、読書水準は他国にくらべるとはるかに高いといってよさそうである。そして、その教養はじつは「無用の書」によって支えられてきたような気がする。
『江戸繁昌記』が無用の書なら、とうぜんそのパロディともいうべき服部誠一の『東京新繁昌記』もまた無用の書であろう。だが明治の読者は争ってこれを読み、そこここに描き出されている自分たちの姿を苦笑とともに顧みたにちがいない。その無用の書を私は偶然に昭和五十五年の神田の書舗《ほんや》の店頭で見つけたのである。
それから数日後。ふたたび神保町を歩きまわっていたとき、私はとある老舗で、なんと「明治七年四月刻成」というその原本を見つけた! 私はおどろいてその値段をあらためた。一部五篇で一円二十五銭だったというその和とじ本の『東京新繁昌記』は、まるで原価と符号を合わせたように一万二千五百円だった。私は即座に財布をはたいてそれを買い、黄色く染めた和紙の表紙を撫でながら家に帰った。そして、その夜、往時のベストセラーだった原本に目をさらした。第一ページに「学校」とあり、こんな文章が木版で刷られてあった。
[#ここから1字下げ]
世之繁華[#(ノ)]所[#(ノ)][#二]由[#(テ)]生[#(スル)][#一]者[#(ハ)]何[#(ソ)]文化之繁華[#(ナレバ)]也本邦文運之隆盛[#(ナル)]未[#(ダ)][#下]曾[#(テ)]有[#(ラ)][#中]如[#(キ)][#二]今日[#(ノ)][#一]者[#上]也
(世の繁華の由って生ずる所のものは何ぞ、文化の繁華なればなり。本邦文運の隆盛なる、未だ曾て今日の如きものあらざるなり)
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私の頭のなかで、いつか明治の文明開化のころと、一九八〇年のいまとが、ごちゃごちゃになっていた。
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愛書家に捧ぐ
不治の病い
日本人のルーツといった問題でO教授と話をしていたとき、談たまたま書物に及んだ。
いや、もう、本となるとすぐ夢中になってしまって、あとさきも考えずに買ってしまうんです。本を買うときだけは、つくづく金が欲しいと思いますよ、と私がそうこぼすと、O教授は少しも同情の色を見せず、
「なにもそうむりをして買わなくても、図書館を利用すればいいじゃないか」といった。
「それが、図書館じゃだめなんです。自分の本でなければ。本というものは自分の本であることが何より大切なのであって……」と私は例によって書物についての持論を熱っぽくまくし立てた。O教授は私の持論に最後までつき合ってくれたのだが、私が弁じ終わると、一言、こういった。
「ぼくには本を集めるなんて趣味はないね。だいたい本を集めるヤツに限って本を読まないもんだよ」
それをきいて、私はガーンと頭をなぐられたようなショックを受けた。その衝撃があまりにひどかったので、二、三分立ち直れないほどだった。たしかにその通りだからである。
私は本が好きで、これぞ! と思った本は借金をしてまで買ってしまう。皮肉なことに、これぞ! と思う本は、たいてい目の玉がとび出すほど高い。豪華本ならいくら高くてもいたし方がないが、表紙ははなれそうで、背文字は消えかかっており、しかも薄っぺらで、そこらへんに放りだしておいてもだれも見むきもしない――そんな本が何万円もするのである。だが、やっと金を工面してそれを手に入れたときのうれしさといったらない。撫でたりさすったり、そっとページを繰ったりして私は当分のあいだ幸福感に浸っている。
しかし、そんなにむりをして手に入れた貴重な書物なのに、それを読むかというと、私はけっして読まないのである。読みたくないのではなく――読みたくなければ、だれが買うもんか――読むのがもったいないのだ。こいつはまったく奇妙な心理だが、ご馳走を並べられたときに、どんな皿から手をつけるか、それとおなじような心理なのであろう。いちばんの好物から箸をつけるという人もいるが、好物は最後にとっておくという人のほうが多いのではあるまいか。
ところで、ご馳走の場合だと私はまっ先に好物から箸をつけるのだが、こと書物となると、反対にいちばん読みたい本は|あとの愉しみ《ヽヽヽヽヽヽ》にとっておきたくなるのである。そして、あわてずに、ゆっくりと、読書の条件が充分に備わったときに心ゆくまで読みふけりたいと思う。だが、忙しい日常生活のなかで、そんな時はなかなか持てない。そこでつい一日延ばしに延ばして、けっきょく読まないということになってしまう。私の書斎にはそんな本が山と積んであり、もはや残り少ない人生のぜんぶを使っても読みきれない量に達してしまった。
けれども、私は少しも後悔しない。こんなに金を使って、もったいないことをした、などともつゆ思わない。というのは、理性的に考えると、たしかに読めっこないのだが、浪漫的に空想すると、わが書斎の書物はすべてわが世界、その気になりさえすれば、いつでもそこへ入ってゆける夢の園だからである。かくして、私は読まない書物に囲まれて、ひとりで悦に入っている。
その夢をO教授が、あらためて打ち砕いたのだ。「本を集めるヤツに限って、本を読まない」という教授の言葉は、残念ながら至言である。寸鉄人を刺す、というが、彼のその寸言は私の脇腹をぐさりとえぐった。そしてさらに、つぎの一言が私のとどめを刺したのであった。
「やたらに本を集めたがるっていうのは、ありゃ一種の病気だね」
「愛書狂」の症状
そういわれてみると、たしかにこの習癖は病気に近いのかもしれない。世の中には書物以外に人生を愉しむたくさんのものがある。それなのに、ただひたすら本だけに恋いこがれているというのは、なるほど、どう考えても健全ではない。バランスを失している。しかも、そんなに夢中になって買い集めた本を書棚に並べておくだけで一向に読まないというのだから、はたから見ればまさしく常軌を逸していよう。
さらにおかしなことに、あり金をはたいて買いこんだ書物を、せめて友人や知人に見せびらかして愉しむというのならともかく、そういうことさえしないのだ。なぜなら、いくら見せびらかしたところで、他人はそんな書物など、すこしも羨ましいとは思わないからである。それどころか、反対に気の毒そうな顔をする。
「え! これが×万円もしたんだって!」と知人はおどろき、そんな大金を投じてこんな汚《よご》れた、薄っぺらな本を買いこんできた私を、同情と、そして半ば呆れたような顔でながめる。その顔は明らかにこういっているのだ。
「ああ! それだけの金を使うなら、一流のレストランでとびきりうまいご馳走が食えるのに! おまけに残った金で素敵なセーターが買えるかもしれない。レコードだって何枚も手に入れることができよう。まったく気が知れないな」
ところで、さきのO教授であるが、彼は毎日、大学の研究室で深夜まで本とつき合っている。たいへんな碩学で、その学識といい、見識といい、推理力といい、むろん読書力において、私など、とうてい足もとにも及ばない。が、それでいてO教授はけっして書物というものを私のように物神崇拝しないのである。つまり、O教授は本を知識伝達のメディアと考えているのだ。だから一冊の本から知識を吸収してしまうと、その本はあとはただ資料として、参考文献として適当に処理されるだけである。
たしかに本は読むものである。読んでそこに書かれている言葉を知識として吸収し、あるいはそこに盛られている思想や情感に共鳴したり、共感したりするものだ。その内容だけを問題にするなら、それがどんな体裁の書物であろうと、べつに関係ないはずである。まさにその通りなのであるが、不思議なことに、書物というものは、ひとたび書物として仕立てあげられると、それ自体が何かしら名状しがたい「実体」に思えてくるのだ。そこでつい、その「実体」のとりこになる。そして、しまいにはそのなかに書かれている内容よりも、その書物自体を愛するようになってしまうのである。
これはまさしく本末※[#「眞+頁」]倒であろう。だが、そんなことはとうに承知していながら、しかも書物それ自体を愛せずにはいられない人間――そういう人間が世の中には少なからずいるものだ。彼らは読書家なのではない。愛書家なのだ。そして愛書家というものは、O教授のいうように、「一種の病気」にかかった人間といってもよかろう。
つい最近、生田耕作編訳『愛書狂』という書物が出た。私はさっそくそれを買い、例によって書棚に並べ、いずれゆっくり読もうと思ったのだが、ふと気になって、珍しくそれを読みはじめた。というのは、O教授の例の寸言が私の耳に残っていたからだ。そしてそれを読みすすむうちに、洋の東西を問わず、愛書家の症状がまったくおなじであることを発見し、私はあらためて自分がヨーロッパ人のいう「愛書病」にかかっていることを確認したのであった。編訳者の「あとがき」によると、イギリスのホルブルック・ジャクソンという文人が上下二巻、千ページにおよぶ『ビブリオマニアの解剖』なる大著を一九三〇年に公刊しているとのことであるが、その治療法についてはまったくふれておらず、けっきょく、ひとたびこの病気にかかってしまったら、回復する手だてはないそうである。
だが、私はべつにおどろきも絶望もしなかった。というのは、愛書家は自分が愛書病におかされていることを知っても、その病気をなおそうなどとはぜんぜん思わないからである。病気? 大いに結構。こういう病気なら、いつまでもかかっていたいとそう思うのである。病膏肓《やまいこうこう》に入るとはこのことであろう。
それはともかく、同書でフローベールやA・デュマやノディエなどフランスの作家たちが描いている愛書病の症状とはつぎのようなものだ。
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――いや! 彼が愛していたのは学問ではなくて、その体裁、外観だった。彼が書物を愛する理由は、それが書物であるから、つまりその匂いや、体裁や、表題を愛していたのだ。(フローベール『愛書狂』)
――ところで、きみはビブリオマニア(愛書狂)というのを知っていますかね? ……愛書狂とは(語源的には|ビブリヨン《ヽヽヽヽヽ》、つまり書物と、熱狂《マニア》との合成語で)、人類、すなわち両足動物《ヽヽヽヽ》、つまり|人間の一変種《ヽヽヽヽヽヽ》です。……この生物は、普通はセーヌの河岸や並木通りを彷徨し、古書店の陳列棚があれば必ず立ち止まり、そこにあるすべての本に手を触れる。……彼を見分ける目印の一つとして、めったに手を洗わないということも挙げられる。(A・デュマ『稀覯本余話』)
――彼の書庫の棚のうち三段分はページの切ってないギリシア語の本で埋まっていた。つまりそれらの本を彼はけっして開いたことはなく、ごく内輪の友だちに表紙と背の部分を見せるだけで満足していた。(ノディエ『ビブリオマニア』)
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まあ、ざっとこんな調子である。どれもたぶんに冷笑的に描かれているが、たしかに愛書家の病巣を巧みにえぐっている。そういえば私もめったに手を洗うことがない。さんざん古本屋の書棚をいじりまわした手で、そのまま食卓についてしまう。私の書棚にもギリシア語やラテン語ばかりかアラビア語の本までが並べてあるが、自慢じゃないが、ほとんど――いや、思いきって正直にいってしまえば一ページだって読んじゃいないのである。だが時おり、私はそれらを取り出してはページを繰って目を走らせる。そして書物にこういいきかせる。
「な、いまに読むからな。じつは暇がないんだ。そのうち暇をたっぷりとって、ギリシア語もラテン語も勉強し直し、そのあかつきに心ゆくまで原語の妙味を味わいたいと思っているんだ。すまんがそのときまで待っていてくれ」
しかし、冷静に考えれば、そんなたっぷりとした暇なんぞ手にできるのは、けっきょく棺桶に横たわったときであろうことは目に見えている。
それなら、いったい何だって読めもしないそんな本を、なけなしの金をはたいてまで買ってくるのだ――ああ、またしても原初的なこの問いに私は連れもどされる。その答えは前記のフローベールの文章のなかにちゃんとある。私が「書物を愛する理由は、それが書物であるから」なのである!
実体と機能
しかし、だからといって、愛書家はみな判で押したようにおなじような好みと性癖を持っているわけではない。たしかに共通した性格はある。だが、かんじんな点でやはりさまざまに分かれるのだ。
そこで同病相憐れむということが愛書病患者同士のあいだにはめつたに起こらない。ビブリオマニアは書物を愛する点においては共通しているが、ではいかなる書物を愛するかとなると、とたんに袂を分かってしまうのである。それはドン・ファン同士がべつにたがいに仲間意識も持たず、さればといって相手をライバルとも思わないのと似ている。なぜかといえば、ドン・ファンはめいめいに好む女性のタイプがちがうからだ。愛書家もそれとおなじで、それぞれに求める書物が異なるので、相憐れむこともなければ、ライバルになることもないのである。
むろん、たまにはそういうこともあるだろう。げんに私は古書展へ駈けつけ、タッチの差で目ざす本をほかの人に買われてしまうという苦《にが》い目に何度かあっている。けれども、愛書家というのは、ただ一冊の本を愛するわけではなく、それこそドン・ファンのように、つぎからつぎへと書物を漁る人間の謂《いい》である。彼の頭のなかには自分の欲しい本のリストが、カタログあるいは書棚のように出来あがっているのだ。そのすべてにわたってAとBとがまったくおなじ本を求めるということは、確率からいっても、まず絶対にありえない。だからAがある本を夢中で求める点でBとライバルであっても、それ以外の獲物を追う点でAにとってBはもう縁なき衆生となる。つまり、愛書家とはあくまで孤独なのである。
私についていうならば、私は人がよく欲しがる初版本を手に入れたいとは思わない。というのは、もしその本が初版だけで終わったものだとしたら、とりたてて初版、初版と騒ぐ意味はないわけだし、またその本が版を重ねたものだったなら、初版よりは再版や三版のほうがいいにきまっているからだ。書物というものは、いくら丹念につくっても、たいてい誤植とか、印刷とかにミスがあるものだ。そうしたミスは必ずつぎの版で訂正される。だから完全な書物を手に入れたいと思うなら、むしろ再版、三版あたりをさがしたほうがいいのである。
私は愛書家をもって自任しているが、けっして初版本マニアではない。それどころか、なぜ多くの愛書家が初版本に夢中になるのかわからない。たしかに、その本が最初にどんな形で世に出たかということは興味あることにはちがいない。しかし書誌学者や文献学者ならいざ知らず、私にとっては不完全な本よりも完全な書物のほうがずっと価値があるように思われる。むろん木版のような場合なら初刷りはそれだけの価値はあろう。|あと刷り《ヽヽヽヽ》になればなるほど版は痛み、鮮明度が落ちるからである。おそらく初版、初版と騒ぐのは、木版当時の価値観がそのまま生き残っているのではなかろうか。
第二に、私はいくら書物そのものを愛するといっても、一部の愛書家のように、書物をまるで骨董品のように考えはしない。書物はあくまで読むべきものであるという書物本来の存在理由はちゃんと心得ているつもりである。ただ私は書物を実体的《ヽヽヽ》に考えているのであって、O教授のように機能的《ヽヽヽ》に見られないだけなのである。
総じて、ものの見方には実体的と機能的という二つの見方がある。実体的な見方というのは対象をあくまで「実体」として考えることであり、実体視するがゆえにその物が持っている機能はつい二の次になる。反対に機能的な見方とは対象をいつも機能の面からとらえるという考え方で、これだと物は物自体がではなく、その物の持つ役割だけが重要視されることになる。そのいずれの見方が正しいのか、ということはできない。対象によってあるときは実体的な見方が大切であり、ある場合は機能的な見方が適切だからである。たとえば金《かね》だ。金銭をやたらに実体化すれば守銭奴となり、拝金主義者になってしまう。けれども、金というものはそれ自体が大事なのではなく、それによって何かを得ることができるというその機能のゆえに重要なのである。金は使うためにあるのだ。
だが、逆に人間をひたすら機能的に評価するようになれば、人間はただの役割に解消されてしまう。役に立たない人間にもう用はないということになる。人間に対しては金銭などとは反対に、あくまで実体的な見方がつらぬかれねばならない。
実体的か機能的か、これが大いに問題になったのは建築の分野である。人間の住む家や働くオフィスの建物をただ機能の面からだけ考えて設計すると、まことに非人間的となり、かえって使いづらくなってしまう。そこで機能主義へ反省がおこり、建築物をひとつの「実体」としてとらえ直すということが起こった。かといって、機能というものをまったく無視しては建物の意味をなさない。どんな建物であろうと屋根は|雨露をしのぐ《ヽヽヽヽヽヽ》という役目を考えて設計されるのである。だから問題は、機能的と実体的、この二つの見方をどのように調和させるかにある。ところがこの二つは、ものの見方の両極ともいうべき立場だから、ついどちらかに固執したくなる。そこに人間の悲劇、いや喜劇が成立するのだ。
一穂の青灯
話がだいぶ横道にそれてしまったが、では、書物をどのように考えたらいいのか。書物を情報や知識をつたえるというコミュニケーションのメディアと考えるかぎり、たしかに本は機能的に考えてしかるべきである。ゲーテの『ファウスト』をモロッコ皮の本で読んでも、文庫本で読んでも内容に変わりがあるわけではない。だが、論理的に考えればそうであっても、情緒的に思い直すと、やはり、どこかちがう。
西ドイツのマインツにあるグーテンベルク博物館の館長ヘルムート・プレッサーは書物の歴史、および書物の美学を語った著述の冒頭で、つぎのようにいっている。
[#この行1字下げ] ――書物は不思議なものとしか言いようがありません。二つの蓋の間の、黒い印《しるし》をよりどころとして、一つの世界があるのです。こうした不思議なことをなしとげるには何千年もの歳月を必要としました。(『書物の本』轡田収訳)
この「不思議なもの」という書物に対する原初的な感情、これこそが書物をたんに機能的に見ることを許さず、何か実体的な宝物として人の心をとらえて放さないものなのではなかろうか。
私は書物の不思議さについて、ここでもう繰りかえそうとは思わない。ただ、書物というものを考えるとき、いつも心に浮かぶ詩句をここに書きつけておきたい。それは菅茶山の「冬夜読書」と題されたつぎのような詩である。
雪擁山堂樹影深 雪は山堂《さんどう》を擁《よう》して樹影《じゆえい》深し
檐鈴不動夜沈沈 檐鈴《えんれい》動かず夜|沈沈《ちんちん》
閑収乱帙思疑義 閑《しず》かに乱帙《らんちつ》を収めて疑義《ぎぎ》を思う
一穂青灯万古心 一穂《いつすい》の青灯万古《せいとうばんこ》の心
冬夜、青白い灯《ともしび》のもとで静かに書物を広げ、その深い世界のなかで心を万古に解き放つ。文机《ふづくえ》に置かれているその書物は、先賢の記した和とじ本であろう。表紙は破れ、題簽《だいせん》ははがれてしまっているかもしれない。けれどもその書物は、私にはどうしても、たんなるコミュニケーションのメディアとは考えられない。それは機能的なもの以上の何か、実体的な何ものかのように思えるのだ。
私は愛書家というものを、書物を機能的なメディアと見ず、実体的な「不思議」と感じる人間のことだと定義する。別言すれば、本をただ読むものとは考えず、|読むだけのものではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思っている人のことである。そう思いつつ、きょうも私は本を捜しに出かける。古本屋の埃っぽい書棚の片隅に、もしかすると|かけがえのない一冊《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が置かれているかもしれないと、そう心に期して。
本を愛するのは異性を愛するのに似ている。私が|かけがえのない一冊《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのは、あくまで|私にとって《ヽヽヽヽヽ》かけがえのない一冊ということなのであり、みんなが夢中で求めている書物のことではない。だれがどんな本を欲しがろうと、そんなことは私にとって何の関係もないことだ。大事な本というのは、|自分にとって《ヽヽヽヽヽヽ》大事な本なのであり、それは自分の恋人があくまで|自分の《ヽヽヽ》恋人であるのといっしょである。ただ恋人と書物のちがいは、恋人はできるなら一人に限りたいものだが、自分にとって大切な書物は一冊に限らないということである。いや、書物の場合は多ければ多いほどよい。そしてその大切な一冊一冊を自分の書棚に並べ、そこにかけがえのない本箱をつくりあげること、それが愛書家の何よりの愉しみなのである。
じっさい、この世には、どんなすばらしい書物が自分を待っているか知れないではないか。その夢を抱きつづけることができる人、そして書物に書かれていることをたんに理解するだけではなく、書物そのものを深く愛することのできる人、そういう愛書家に私は以上、二十章にわたった書物への「わが旅の記録」を捧げたいと思う。[#地付き](了)
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あとがき
本書は講談社発行の月刊誌『本』に「読書の旅」と題して二十回にわたり(一九七九年八月号〜一九八一年三月号)連載したものを一冊にまとめたものである。本についての話となると、つい夢中になってしまい、一年の連載の予定が二年近くなってしまった。それでもふりかえってみると、まだまだ書き足りないような気がしている。そうだ、あの本について書くべきだった、そういえば、この本についても触れたかった、と心残りの書物が少なくない。が、ともかく、一応は筆を擱くことにした。読書の旅には終わりはないのだ。
雑誌連載中には、同誌編集の天野敬子さんに毎回たいへんお世話になった。読者からの手紙を届けてくれたり、拙文が大学や高校の入試問題になったことを知らせてくださったり、たいへんうれしかった。この際、厚くお礼申しあげておきたい。また、愛書病《ヽヽヽ》である私の古本屋まわりに、いつもつきあってくれ、資料その他で私を援けてくれた河喜多道子さんにも感謝する。
単行本化にあたっては、学芸図書第一出版部の堀越雅晴氏に、ご苦労をおかけした。また、この書物をすばらしいイメージで装幀してくださった安野光雅氏にも心からお礼申しあげたい。
一九八一年四月十五日
[#地付き]著 者
書名案内と索引
≪あ行≫
愛書狂(A・デュマ他著 生田耕作編訳 白水社 一九八〇年)
青べか物語(山本周五郎著 新潮文庫 一九六四年)
アク・アク(T・ヘイエルダール著 山田晃訳 現代教養文庫 社会思想社 一九七五年)
アニのパピルス→死者の書
アラビアン・ナイト(前嶋信次訳 東洋文庫 平凡社)
アンナ・カレーニナ(L・N・トルストイ著 中村融訳 岩波文庫)
伊勢物語(森野宗明校注 講談社文庫 一九七二年)
一夜(夏目漱石著 「漱石全集第2巻」 岩波書店 一九六六年)
イデーン(E・フッサール著 渡辺二郎訳 みすず書房 一九七九年)
永楽大典(竺沙雅章解題 八木書店 一九八〇年)
エジプトの死者の書(W・バッジ訳・解説 一八九五年)
江戸繁昌記(寺門静軒著 朝倉治彦他校注 東洋文庫 平凡社)
王維詩集(小川環樹他選訳 岩波文庫)
往生要集(源信著 石田瑞麿訳 東洋文庫 平凡社)
奥の細道(松尾芭蕉著 板坂元他校注 講談社文庫 一九七五年)
親々と子供(L・N・トルストイ著 中村白葉・融訳「トルストイ全集16」 河出書房新社 但し上記表題名の露文はない)
温古堂塙先生伝(中山信名著 「正続分類総目録文献年表」に収載 続群書類従完成会)
≪か行≫
学生と読書(河合栄治郎編 日本評論社 一九三九年)
稀覯本余話(A・デュマ他著 『愛書狂』収載 白水社)
奇想驚くべき郷士ドン・キホーテ(セルバンテス著 永田寛定訳 岩波文庫)
共産党宣言(マルクス、エンゲルス著 大内兵衛訳 岩波文庫)
霧隠才蔵(雪花山人著述「立川文庫」第五十五編 『立川文庫復刻傑作選』所収 講談社 一九七四年)
ギリシャ文化史(Y・ブルクハルト著 新関良三訳 東京堂 一九四八年)
欽定古今図書集成
空想から科学へ(エンゲルス著 寺沢恒信訳 国民文庫 大月書店 一九六六年)
草枕(夏目漱石著 講談社文庫 一九七二年)
群書類従(塙保己一編 続群書類従完成会 一九五九年)
芸文類聚(欧陽詢)
源氏物語(紫式部著 今泉忠義訳 講談社学術文庫 一九七八年)
現代の挑戦(A・ケストラー著 井本威夫訳 荒地出版社 一九五八年)
航海記(キャプテン・クック著 荒正人訳 現代教養文庫 社会思想社 一九七一年)
荒野の狼(ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳 新潮文庫 一九七一年)
古今和歌集(久曽神昇訳 講談社学術文庫 一九七九年)
こころ(夏目漱石著 講談社文庫 一九七一年)
言葉と物(M・フーコー著 渡辺一民他訳 新潮社 一九七四年)
コフィン・テキスト→死者の書
≪さ行≫
菜根譚(今井宇三郎訳注 岩波文庫)
冊府元亀(王欽若)
猿飛佐助(雪花山人著述「立川文庫」第四十編 『立川文庫復刻傑作選』所収)
三国志(小川環樹他訳 岩波書店 一九八二年)
三才図会(王圻)
三四郎(夏目漱石著 講談社文庫 一九七二年)
三体詩(村上哲見訳注 朝日文庫 一九七八年)
三太郎の日記(阿部次郎著 角川文庫 一九七九年)
時間と自由(ベルグソン著 平井啓之訳 白水社 一九七五年)
死者の書
死者之書(バッチ編 田中達訳 世界聖典全集刊行会 一九二〇年)
シーシュポスの神話(A・カミュ著 清水徹訳 新潮文庫 一九六九年)
自然と人生(徳冨蘆花著 岩波文庫)
シビュレーの書
四部録
十牛図(柴山全慶著 弘文堂書房 一九四一年)
出家とその弟子(倉田百三著 岩波文庫)
純粋理性批判(I・カント著 天野貞祐訳 講談社学術文庫 一九七九年)
書物の本(H・プレッサー著 轡田収訳 法政大学出版局 一九七三年)
新国史
雀の生活(北原白秋著 「白秋全集第12巻」所収 アルス 一九三〇年)
スペインの遺書(A・ケストラー著 平田次三郎訳 新泉社 一九七四年)
精神現象学(ヘーゲル著 牧野道場訳 鶏鳴出版 一九八一年)
西洋事情(福沢諭吉著「福沢諭吉選集1」 岩波書店 一九八〇年)
西洋の没落(O・シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房 一九七八年)
世界国尽(福沢諭吉著「福沢諭吉選集2・3」 岩波書店 一九八一年)
禅と日本文化(鈴木大拙著 北川桃雄訳 岩波新書 一九六四年)
善の研究(西田幾多郎著 岩波文庫 一九七九年)
禅林句集(柴山全慶輯 其中堂)
荘子(森三樹三郎注 中公文庫 一九七四年)
続国訳漢文大成(国民文庫刊行会 一九二九年)
ソクラテスの弁明(プラトン著 福島民雄訳 講談社文庫 一九七二年)
≪た行≫
太平記(岡見正雄校注 角川文庫 一九七五年)
太平御覧(李ム)
玉かつま(本居宣長著 村岡典嗣校訂 岩波文庫)
父と子(ツルゲーネフ著 米川正夫訳 新潮文庫 一九五一年)
知の考古学(M・フーコー著 中村雄二郎訳 河出書房新社 一九八一年)
徒然草(吉田兼好著 川瀬一馬校注 講談社文庫 一九七一年)
哲学以前(出隆著 「出隆著作集1」 勁草書房 一九七五年)
哲学事典(林達夫他監 平凡社 一九七一年)
天工開物(宋応星撰 薮内清訳 東洋文庫 平凡社 一九六九年)
独逸観念論の研究(木村素衛著 弘文堂)
東京新繁昌記(服部誠一著述 東京聚芳閣 一九二五年)
東京の三十年(田山花袋著 岩波文庫 一九八一年)
遠野物語(柳田国男著 新潮文庫 一九七三年)
読書術(エミイル・ファゲ著 石川湧訳 春秋社 一九三六年)
戸沢白雲斎(「立川文庫」第八十一編 立川文明堂 一九一四年)
敦煌学五十年(神田喜一郎著 二玄社 一九六〇年)
敦煌物語(松岡譲著 講談社学術文庫 一九八一年)
≪な行≫
日本(シーボルト著 日蘭学会監 講談社 一九七五年)
日本紀略(黒板勝美校訂 吉川弘文館 一九七九年)
日本後紀(佐伯有義校訂 名著普及会 一九八二年)
ノーヴム・オルガヌム(F・ベーコン著 桂寿一訳 岩波文庫 一九七八年)
≪は行≫
バガヴァッド・ギーター(辻直四郎訳 講談社 一九八〇年)
白氏文集(白居易著 内田泉之助訳注 明徳出版社 一九六八年)
博物誌(G・プリニウス)
白楽天詩集(佐久節訳 日本図書センター 一九七八年)
パスカルにおける人間の研究(三木清著 岩波文庫 一九八〇年)
日々の聖書研究(W・バークレー著 鳥羽徳子訳 「聖書注解シリーズ」収載 ヨルダン社 一九六八年)
ビブリオマニア(ノディエ著 『愛書狂』収載 白水社)
ビブリオマニアの解剖(H・ジャクソン著 一九三〇年)
百人一首(大岡信訳・解説 講談社文庫 一九八〇年)
百科全書(ディドロ、ダランベール編 桑原武夫訳編 岩波文庫)
ピラミッド・テキスト→死者の書
ファウスト(ゲーテ著 相良守峯訳 岩波文庫)
扶桑略記(黒板勝美校訂 吉川弘文館)
蕪村句集(潁原退蔵校注 岩波文庫)
蕪村全集(潁原退蔵編 創元社 一九四八年)
プロレゴーメナ(I・カント著 篠田英雄訳 岩波文庫 一九七七年)
本朝世紀(黒板勝美校訂 吉川弘文館)
≪ま行≫
枕草子(清少納言著 池田亀鑑校訂 岩波文庫)
真昼の暗黒(A・ケストラー著 岡本成蹊訳 角川文庫)
万葉集(中西進訳 講談社文庫 一九八三年)
宮本武蔵(吉川英治著 講談社文庫 一九七一年)
武蔵野(国木田独歩著 岩波文庫)
武蔵野記(吉田絃二郎著 船形書院 一九四八年)
門(夏目漱石著 講談社文庫 一九七二年)
文選(小尾郊一全釈 集英社 一九七六年)
≪や行≫
野草雑記(柳田国男著 「新編柳田国男集11」 筑摩書房 一九七〇年)
宿かりの死(志賀直哉著 「志賀直哉全集第2巻」所載 岩波書店 一九七三年)
ユリシーズ(J・ジョイス著 丸谷才一他訳 河出書房新社 一九六四年)
≪ら行≫
類聚国史(黒板勝美校訂 吉川弘文館 一九七九年)
歴史(ヘロドトス著 松平千秋訳 岩波文庫)
老子(小川環樹訳注 中公文庫 一九七三年)
論語(孔子著 大村英一訳 講談社文庫 一九七五年)
論理哲学論考(L・ヴィトゲンシュタイン著 坂井秀寿他訳 法政大学出版局 一九六八年)
≪わ行≫
和学大概(村田春海著 「続々群書類従」第十巻収載)
わが読書(H・ミラー著 田中西二郎訳 「ヘンリー・ミラー全集11」新潮社 一九六六年)
吾輩は猫である(夏目漱石著 講談社文庫 一九七二年)
書名下の案内は、必ずしも著者が閲読し、本書で叙述した版本とは限らない。できる限り入手および閲覧しやすい版を銘記し、また本邦未刊か古書として高価なものは省略した。
[#地付き]編集部