星界の紋章U ─ささやかな戦い─
森岡浩之
故郷の惑星が帝国の領地となったために、意に反して、強大なアーヴ星間帝国の貴族となったジントは、宇宙港で帝都へ向かう戦艦を待っていたのだが……そこに現れたのはひとりの少女。彼女の名はラフィールという。同じ戦艦に乗りこむ見習い士官だったが、彼女にはもう一つの身分があった。皇帝の孫娘にして帝国を継ぐ王女だったのだ!――王女とジントの冒険行を、SFマインドたっぷりに描く話題のスペースオペラ第2弾。
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目 次
1 男爵館家政室 9
2 アーヴの流儀 35
3 ささやかな戦い 62
4 旅立つ者たち 82
5 スファグノーフ門 90
6 スファグノーフ侯国 117
7 ルーヌ・ビーガ市 140
8 ラフィールの変身 153
9 帝宮にて 178
10 検 問 197
11 協力要請 311
12 アーヴの歴史 225
13 浮揚車発見 243
14 戦士たち 254
付録 アーヴの度量衡 281
あとがき 285
紋章デザイン/赤井孝美
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アーヴとはなにか。
機械の部品である。彼らにとって子供とは交換用部品にすぎない。自らが磨耗してしまう前に機能を引き継がせる対象だ。
では、その機械とはなにか。
〈アーヴによる人類帝国〉という巨大でしかも邪悪な機械である。この邪悪な機械によって健全な人類社会は脅かされつづけていた。なおその存在を許せば、ついには人類社会がすべて呑みこまれてしまうであろう。
破壊せねばならない。
――〈人類統合体〉中央評議会でのフィツダビド議員の演説より
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星界の紋章U ─ささやかな戦い─
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第T巻のあらすじ
ある日、ジントの故郷の惑星をアーヴの艦隊が襲った。全面降伏を要求するアーヴに対し、ジントの父、惑星政府主席ロックは、自らがアーヴの貴族となることと引き換えに、アーヴの支配を受け入れた。その結果、地上人でありながら貴族となったジントは、アーヴの星間帝国に加わるため、帝都に向かう宇宙艦に乗り込むことになった。だがその船は突如予期せぬ敵艦隊の襲撃を受け、ジントと同じ船に乗り込んでいた王女ラフィールの二人だけが、連絡艇を使って近くのスファグノーフ侯国へ脱出することになった。二人は、燃料補給に立ち寄ったフェブダーシュ男爵領で囚われの身となる。
登場人物
ジント………………………惑星マーティンの惑星政府主席の息子
ラフィール…………………アーヴ帝国星界軍の翔士修技生。皇帝の孫娘
クロワール…………………フェブダーシュ男爵領の支配者
スルーフ……………………クロワールの父。前フェブダーシュ男爵
セールナイ…………………フェブダーシュ男爵家の家臣
エントリュア………………ルーヌ・ビーガ市警察犯罪捜査部警部
カイト………………………〈人類統合体〉平和維持軍の憲兵大尉
ラマージュ…………………アーヴ帝国皇帝
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1 |男爵館家政室《バンゾール・ガリク》
この年は|フェブダーシュ男爵領暦《フェブダーショス》で一三六年にあたる。といっても、|男爵館《リューメクス》の公転周期が短いため、|男爵領《リュームスコル》の一年は標準年の三分の一ほどしかない。
ごく新しい国家だといえる。
そう、住民がわずか五〇名ほどしかいなくとも、|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》はたしかにひとつの国家だった。
|帝 国《フリューバル》の一部とはいえ、あまり中央の動向に煩わされることなく、独自の歴史を築いてきた。ほとんど波乱のない、したがって面白みのない年月ではあったものの。
しかし、たったふたりの来訪者が|男爵領《リュームスコル》の平和を破ろうとしている。
来訪者のひとり、リン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーク・ドリュール・ハイダル》・ジントは奇妙ななりゆきにより、先代の|男爵《リューフ》と同室するはめに陥っていた。
「ほれ、あそこ」|フェブダーシュ前男爵《リューフ・レカ・フェブダク》は厚い成形大理石の扉を指した。「あそこから、おまえさんは運ばれてきたのよ」
「どんな状況だったんです?」ジントは訊いた。
「そう、わしは瞑想に耽っておった。一日の大半はたいていそうして過ごす――酒瓶を友としてな。すると、扉の開く音がするじゃないか。ここ二〇年なかったことじゃ。こりゃ自分の葬式をすっぽかしてでも、見物しにいかにゃならんと飛んでったら、自動担架に乗ったおまえさんがしずしずとご入場あそばすところじゃった」
「ぼくと自動担架だけ?」
「ああ、自動担架のむこうには――つまり外の廊下には|家臣《ゴスク》がふたり立っておった。銃を持ってな。さすがに|前男爵《リューフ・レカ》に銃口をむけるようなことはせなんだが、とにかく銃を持っておったのよ。どうしたものか、わしは昔から武装した人間の前で心からくつろげた例《ため》しがない。そのときも、じつにいやな気分で、もっぱら自動担架を見つめておると、そいつはわしの前でぴたりと停まった。ところが、家臣は動きもせねば、しゃべりもせん。わしになにかやってほしいらしいんじゃが、それをいおうとせんのよ。まったくたいした秘密主義じゃて!」
「それで?」ジントは先を促した。
「まあ、たぶん、おまえさんと自動担架の関係を断ってほしいんじゃろと見当をつけて、老骨に鞭打ち、おまえさんを床におろした。すると、自動担架はご退場あそばして、扉もしまった。とうとう倅《せがれ》の|家臣《ゴスク》たちはしゃべりも動きも、せずじまい。ひょっとしたら、いまも扉のむこうに立っておるかもしれん。まったく愛想のいい連中じゃったな」
「ぼくはそのとき眠っていたんですね」ときどき正しい道標を置いてやらなければ、老人の話はどこへ流れていくか、わかったものではなかった。
「ああ、眠っておった。死んでおるのかと最初は思ったぞ。倅《せがれ》のことじゃ、わしが死んだら、そのままここを霊安室にしようと前から考えておって、ちょいと時制をとりちがえたんじゃないか、とな。まあ、ぴくぴく動いていたから、生きておることはすぐわかったものの、あの|家臣《ゴスク》どもといっしょで、じつに親しみやすい雰囲気じゃった。それで、また老骨に鞭打って、おまえさんを寝台まで担いでいったんじゃ。一眠りしたら、人柄も変わるかもしれん、と期待してな。ところが、正気をとりもどしたおまえさんは、わしの胸ぐらをつかんで、どういうつもりなんだっ、と喚きたて、まるで子猫誘拐の現場を押さえた母猫みたいに……」
「ぼくは胸ぐらなんてつかまなかったし、喚いたりもしなかったですよ」ジントは思いださせた。
「わしの驚きを表現したかっただけじゃ。老骨に二鞭もくれてやったのに、糾弾されるなんて、わりにあわん」
「すみません」あんな状況にしては、冷静だったと評価してくれてもいいんじゃないかと思いつつも、ジントは詫びた。
「おお、|少年《ファネブ》。その素直がおまえさんの財産じゃ」|前男爵《リューフ・レカ》は称賛して、監禁区画の残りを案内してまわった。
|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉の内部とちがって、あまり見るべきものはなく、見学はあっという間にすんだ。
監禁区画は洗面所と浴室、厨房、|自動機械《オヌホーキア》の補修所兼倉庫をべつにして、五つの部屋に分かれていた。回廊をめぐらせた、小規模な庭園が中央にあり、そのまわりを部屋がとりかこんでいる構造だ。
「窓がひとつもないんですね」ジントは最後にとおされた居間でつぶやいた。脱出口の候補として窓を考えていたのだ。
「当然のことじゃな」|前男爵《リューフ・レカ》はいった。「あったところで、まわりは|培養牧場《バ セ ー ヴ 》じゃから、あんまり心暖まる風景は望めんじゃろうが。培養槽のなかで成長していく生肉を眺めて楽しいなら、おまえさんはきっと幼児期に深刻な体験をしたにちがいなかろうて」
「いえ、生肉なんてちっとも見たくありません」否定しながらジントは、ひょっとしてこの老人は脱走計画のことを忘れてしまったのではないか、と疑った。
「窓なんかより、宇宙空間ではこのほうが実用的なんじゃ」
前男爵が部屋の隅でなにか操作をすると、居間の壁に|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の風景が出現した。
白い雪で着飾った、峨々たる高山。その頂上とおなじ高さに部屋の位置は設定されていた。壁ぎわに近よってみると、高山のまわりをとりまいている山の頂が、見おろせる。その山々の裾あたりを雲がゆっくり這っていた。
見あげると、銀河の果てまでつづきそうな青い空。
「すごいですね」ジントは感心し、いましばらく、|前男爵《リューフ・レカ》の脱線につきあうことにした。
「おいおい、こんなありきたりな装置に感心するなんて、どんな田舎世界から来たんじゃ?」
「そうじゃないですよ」ジントはさすがにむっとして、「装置に感心したんじゃない。風景に感動したんですよ」
「そら、すまなんだ」ぜんぜん誠意の感じられない口調で前男爵は謝った。
「でも、ちょっと不自然じゃないですか、この光景は? 雲があんなに下にあるなら、成層圏の外に出ていないと。この高度に青い空はつりあいませんよ」
「それに気づくとはさすがに|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の出身じゃな。アーヴはそういうことにかけては、いくぶん幻想的な感覚をもっておる」
「じゃあ、これはアーヴの幻想芸術なんですか?」
「デールビセクス。|帝国創設以前《バイ・ルエコト》に活躍した映像作家じゃ。|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の風景を写実的に再構成したことで知られる」
「|空間放浪時代《ゴー・ラムゴコト》の?」
「そうじゃ」
「じゃあ、しかたないですね」
当時のアーヴは各植民地のあいだをさすらい、交易を生業としていた。|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の自然と疎遠な関係になってしまったことも、あながち非難できない。
「デールビセクスはこの作品に『|高 山《ガーフ・ラーカ》』という、味もそっけもない題をつけたが、わしなら、べつの題をつけるな」|前男爵《リューフ・レカ》はいった。「そう、『|アーヴの誇り《バール・レペーヌ》』とでも」
「|アーヴの誇り《バール・レペーヌ》ですって?」
「思うに、この風景ほどアーヴの誇りをあらわしとるものはない」老人は解説した。「自分の気高さは自分で知っとればじゅうぶん。なにも宣伝して回ることはない。まして人に教えられることは。どんなつつましやかな役割しか果たしていなくとも、だれよりも自分が誇り高いと知っておればいいんじゃ。|皇 帝 陛 下《スピュネージュ・エルミタ》の気位さえ見おろせる、とな。知っておりさえすれば、どんなに衿持に富む連中でも、引き立て役にしか見えんようになる。じっさい、アーヴは誇りを知らない人間を相手にすると、調子が狂うらしい。いや、なにもアーヴの≠ニ限らずとも、誇りとはかくあるべきものかもしれんな」
前男爵はうろうろと居間のなかを歩きはじめた。
「ところが、あの不肖の息子はそのあたりのことがわからなんだらしいわい! 高山であるかわりに、山のそばに近よらんようにし、まわりに深い溝を掘りよったんじゃ。で、溝の底より高いというので、安心しておる。わしはたしかに遺伝的には地上人じゃが、精神はあの馬鹿よりよっぽどアーヴらしいぞっ」
ジントは一度だけ熊という生物を見たことがある。|ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》の動物園でだった。最初、熊はとにかく不機嫌そうに檻のなかをうろついているだけだったが、ジントが見つめるうち、熊にしかわからない理由で激怒し、ジントと熊を隔てる強化硝子に怒りをぶつけた。もちろん、被害を受けたのはもっぱら熊の牙と爪だったが、その光景はしばしばジントの悪夢に再現されて、冷や汗まみれの目覚めをもたらした。
いまの|前男爵《リューフ・レカ》のようすはその熊にそっくりだった。そして、ふたりを隔てるものはなにもない。
「あの、|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》」ジントは慎重に声をかけた。「そろそろ脱出計画にとりかかりたい、と思うんですが」
「ああ、そうじゃったな」前男爵は疲れたように、長椅子に腰を沈めた。「とにかく、これだけは憶えておけ、|少年《ファネブ》。アーヴなら、まずだいいちに『気高くあれ』と子どもを育てる。じゃが、なにも口で教える必要はない。伝染病みたいなものでな、身近にいると、どうしたって移ってしまうのよ。あいにく、わしには、真の誇りが身についておらなんだんじゃな。手探りでアーヴの誇りがどうあるものかを知って、ことばで倅《せがれ》に伝えようとした。その結果がこのざまじゃ。まず自分が気高くあれ。そうすれば、ふるまいの端々にそれがでてしまう。おまえさんの|後継者《ゴルキア》はそれを見て、アーヴの誇りを知るわけじゃ」
「心しておきます」たしかに有益な助言かもしれない。未来があれば、だが。
「さて、では、陰謀にかかるとするか。なにか脱出できそうな思案はあるかね?」
「この壁はぶちぬけませんか?」ジントはデールビセクス作『高山』を映しだす壁を軽く叩いた。前男爵には召使はいなかったが、たくさんの|自動機械《オヌホーキア》にかしずかれている。そのうちのどれかを使えば、壁を破壊することが可能かもしれない。
「もしぶちぬけたとしても、やめたほうがいいじゃろな。|培養牧場《バ セ ー ヴ 》から見とがめられずに出るのが、また一苦労じゃて」
「なるほど」もともと期待していなかったので、あまり失望せずにすんだ。「じゃあ、食料品はどうしているんです? やはりあの扉から?」
「いや」|前男爵《リューフ・レカ》は首をふり、「厨房にでっかい冷蔵庫があったじゃろう、壁に作りつけになったのが。あれは二重構造になっておるんじゃ。一〇日に一度、なかの箱がまるごと専用の通路を移動する。帰ってきたときには新鮮な食い物と日用品のたぐいがつまっている、というすんぽうじゃ」
「その箱に隠れるというのは?」
「残念じゃな。移動は昨日あったばかり。口が倍にふえたといっても、そうすぐに動くとは思えん。しばらく、待つか?」
ジントが首をふるばんだった。「こっちからは動かせないんですか?」
「決まっとるじゃろう」奇妙にも自慢げに、前男爵はいった。「わしは監禁されているんじゃからな」
「じゃあ、いっそ箱をとってしまうか、破るかして、その専用通路を……」
「そいつはあんまりいい考えとはいえんぞ、|少年《ファネブ》。箱の着く先にも扉があるからな。内側から開くのはひょっとしたら骨が折れるかもしれん。倅《せがれ》は猜疑心が強いから、食いのこしの冷凍海老が脱走するのを警戒しているかもな。わしなら、賭けんね。もうちょっといい考えはないか?」
「そうだ」ジントはぱちんと指を鳴らした。「塵芥投入口はどうです? そこを滑りおりて……」
「わしの記憶ちがいでなければ、とちゅうに破砕機がついておったはずじゃ。塵芥集積場に着くころには、おまえさんはなにかドロドロしたものになっておるじゃろうよ。立って歩くのにも苦労することじゃろうて。まあ、なにかをしようという気力も残っとらんじゃろうが」
「ううっ」ジントは頭を抱えた。「あなたには考えがないんですか? ほんとは考えたことがあるんでしょう、ここを抜けだすことを?」
「そりゃ、ある。暇つぶしにはもってこいじゃものな。おまえさんの案は、みんな、検討したことがある。じゃからこそ、問題点をすばやく指摘できる」
「そうじゃないかと疑いかけていたところでしたよ」ジントは腕組みをした。「非常事態のときはどうするんです?」
「わしが病気になったときとかか? そりゃあ、|通話器《ルオーデ》で連絡して、来てもらうじゃろうな。いままでにそんなことはなかったが」
「なんだ、|通話器《ルオーデ》があるんですか!」ジントの心に希望がふくらんだが、すぐしぼんでしまった。「そうか、|家 政 室《バンゾール・ガリク》にしかつながっていない通話器か……」
「そうじゃ。|王女殿下《フィア・ラルトネル》にはつないでもらえんじゃろ。わしはもっぱら食料についての不満をぶつけるのに使っておる」
「じゃ、じゃあ、どちらかが病気のふりをするか、火事を起こして……」
「|少年《ファネブ》よ、わしは若い柔軟な魂に期待しておったのじゃがな」
「駄目ですか?」
「駄目じゃろうな。わしゃ、どういうわけか健康でな、いままで病気らしい病気をしたことがない。そのわしがおまえさんが入ってきたと同時に、病気になる。わしの倅《せがれ》はいろいろと欠点の多い人間じゃが、愚かではないからな、用心するじゃろう」
「じゃあ、ぼくでは? ぼくは病弱ということで……」
「ううむ、倅はおまえさんの生き死にに興味をもつじゃろうか」
ほんとにそうだ、と気づいて、ジントは暗澹たる気分に沈みこむ。
「ひょっとしたら、わしのことも、とっととくたばれぐらいに思っとるかも」|前男爵《リューフ・レカ》はとどめをさした。
「じゃあ、火事も駄目ですね……」
「ああ」前男爵は重々しくうなずいた。
いきづまってしまった。ほかにはなにも浮かばない。ジントはなにかべつの方法をつかむために、気分を変えようと思った。
「ちょっと失礼」前男爵に断って、回廊に出た。
庭の草花を眺めながら、池のまわりを一周する。
池の真ん中には円形の島があった。一〇人が立ってやっとといえるほどの広さ。そこから模型めいた、白い虹橋がかかっていた。池に生きものがいるかとのぞきこんでみたが、視界の範囲では動くものはない。
いい考えは浮かばず、池を見つめるのにもすぐ飽きた。
天井を見あげる。天井は半球をなし、いちばん高いところは五〇〇ダージュほどで、空色に塗られていた。
よく見ると、半球の頂点になにかうっすら線がある。その線は円を描いて閉じており、まるで出入口のようだった。
「|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》!」ジントは居間の老人を呼んだ。
「なんじゃ?」|前男爵《リューフ・レカ》がやってきて、ジントの隣に並んだ。
「あれはなんです?」ジントは円を指す。「ほら、あの|艚口《ロ ー 》みたいなものは?」
「ああ、あれか」|前男爵《リューフ・レカ》はうなずき、「|埠頭《ベ ス 》への|円扉《ボード》じゃよ」
「|埠頭《ベ ス 》? でも、ここは|宇宙港《ビドート》区画じゃないでしょう……」
「ここはもともと貴賓用の発着広間でな、あそこに|昇降筒《ドブロリア》が立っておった」と池の島を指で示す。
いわれてみると、|円扉《ボード》はちょうど島の真上に位置しているようだ。
「到着したお客さまにはここで地上的な自然に触れて、くつろいでいただこう、という趣向じゃ。おふくろはずいぶんこの趣向が気に入っていたな。もっとも、客を迎える機会はついぞなかったが。それを不肖の息子めがわしの監禁用に改装したわけじゃ。つまり、|昇降筒《ドブロリア》をとっぱらい、広間の半分をつぶして、部屋を増設した」
「あの|円扉《ボード》はまだ使えるんでしょうか?」
「使えるとも。手動であれば、内側からあけられる。安全装置を破壊せんとならんが、それは難しゅうない。じゃが、おまえさん、なにを考えておる?」
「決まっているじゃないですか!」ジントは熱狂的に、「あの|円扉《ボード》から外に出て……」
「外? あの外は宇宙じゃぞ。真空そのものじゃ」
ジントの沈黙は一瞬だった。「だったら、|男爵館《リューメクス》の屋上をつたって、|連絡艇《ペ リ ア 》までたどりつけばいい。連絡艇にいったん入ってから|城館《ガリューシュ》に……」
|前男爵《リューフ・レカ》は憐れむような目をした。「ここには|与圧服《ゴ ネ ー 》がない。それとも、わしがここで暇をもてあましとるうちに、アーヴは宇宙に大気を満たしてしまったのか」
「で、でも」ジントはあきらめきれず、「真空中にいても、人間は短時間なら生きられると……」
「おまえさん、|連絡艇《ペ リ ア 》がどこにあるのか知っておるのか?」
「そりゃ、|宇宙港《ビドート》でしょう……。あっ」
「そうじゃ」前男爵はいいきかせた。「ここから|宇宙港《ビドート》はかなりの距離がある。人類の運と体力を一身に集めても、不可能じゃ」
「でも、あんがい近くに繋留されているかもしれない……」ジントは狂おしい希望にしがみついた。「いったん、外を偵察して、もし近くにあれば……」
「あいにく、そうはいかん。|昇降筒《ドブロリア》が|気閘室《ヤドベール》を兼ねていたんじゃ。いま、|円扉《ボード》を開けると、区画の空気が洩れてしまう」
「すぐ閉めればいい」
「ばかな。空気の漏出圧を考えろ。動力は使えん、手動じゃぞ。とてもじゃないが、閉められんじゃろ。とにかく、その案は幸運に頼りすぎじゃ。わしなら、とても賭ける気にならんな。ましておまえさんは賭け事が嫌いなんじゃろ」
「ええ」ジントはがっくりうなだれて、池の端に腰をおろした。絶望だった。このまま|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》の意のままに、この老人と仲良く暮らさねばならないのか……。たしかに|前男爵《リューフ・レカ》は気持ちのいい老人だが、一生をともにするのは勘弁してほしかった。
それにラフィールのこともある。ラフィールは無事なんだろうか。|男爵《リューフ》にひとかけらでも理性があれば、|帝 国《フリューバル》の|王女《ラルトネー》に手を出すようなことはしないだろう。しかし――そもそも理性的な人間が任務中の|軍士《ボスナル》を足止めするなんてことがあるだろうか?
「そうだ、|連絡艇《ペ リ ア 》を|円扉《ボード》に着ければいいんだ」なかばひとりごちるように、ジントはつぶやいた。
「そりゃそうじゃ。もともと船が接舷するための|円扉《ボード》じゃからな。しかしどうやって? おまえさん、人類に解明されておらん、神秘の力でも持っておるのかな?」
「考えてるんですっ、黙っててください!」思いがけず、鋭い声がでた。ジントははっとして、前男爵を見あげ、「すみません、興奮してしまって……」
「いいんじゃよ」老人は穏やかに、「わしのほうこそ、年がいもなく、はしゃいでしまったようじゃ。すまなんだな、|少年《ファネブ》。おまえさんにとっては切実な問題なのに」
「ええ。大事なことなんです」ジントは同意した。
「とにかく、|円扉《ボード》のことは忘れたほうがよかろ。ほかに考えはないか?」
「動かぬがよいっ」ラフィールは|凝集光銃《クラーニュ》をふりまわした。「この場所は|星界軍《ラブール》が占拠した!」
かたわらでは、セールナイがやはり銃を構えている。
家政室はかなりの広さがあった。壁の一面に恒星フェブダーシュを中心に据えた風景が映しだされ、ほかの壁には刻々と変化する数字や図が踊っていた。室内には|制御卓《ク ロ ウ 》が三列に並べられ、三人の|家臣《ゴスク》がついていた。
「なにごとです!?」責任者らしい家臣が驚いて闖入者を見つめた。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》。それに、セールナイ」
「手を挙げて、グレーダ!」セールナイが叫ぶ。
「あなた、なんのつもりなの!?」グレーダと呼ばれた責任者は困惑しきって、セールナイを見つめた。
「わたしは|帝国星界軍《ルエ・ラブール》の|翔士修技生《ベネー・ロダイル》アブリアル・ネイ=ドゥブレスク・|パリューニュ子爵《ベ ー ル ・ パ リ ュ ン》・ラフィール」
「ええ、よく存じあげておりますが」グレーダは戸惑った顔をする。
残りのふたりもおなじ。お互いに顔を見合わせ、セールナイに物問いたげな視線を投げかける。いったい、これはなに? |皇 族《ファサンゼール》がたはこんな冗談をおもしろいと思うわけ?
はりあいのないこと、はなはだしい。ここにいる|家臣《ゴスク》たちもやはり事情を承知していないのだろうか。だが、ラフィールにしてもいまさら引っこむわけにもいかない。
挫けそうになる戦闘意欲を鼓舞し、ラフィールは宣言した。「|星界軍《ラブール》の任務遂行のために|フェブダーシュ男爵館家政室《バンゾール・ガリク・リューメクト・フェブダク》を占拠した。全員、両手を挙げて、ゆっくり立ちあがるがよい」
家臣たちは従った。
ラフィールは壁を背にじりじりと扉から離れた。いつ|男爵《リューフ》が武装した応援を引きつれてやってくるか、わかったものではない。
武器をはじめて持ったにしては慣れた物腰で、セールナイはぴったりラフィールの脇を固めている。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》」グレーダはいった。「なぜこのようなことを? なにかご用があれば、お申しつけくださればよろしゅうございましたのに」
「じゃあ、いまからいうぞ。|前男爵《リューフ・レカ》との通話を要求する。いや、彼と|ハイド伯爵公子《ヤルルーク・ドリュール・ハイダル》を解放するがよい」
たちまち、グレーダの顔は強ばった。「それは禁じられております。わたくしの一存では、おとりはからいすることはできません」
「じゃあ、わたしがここを占拠したのは正しかったことになるな、|家臣どの《ゴスク・ラン》」とラフィール。
「|男爵《リューフ》の命令は忘れ、早くするがよい」
「動かないで、クファスピアっ」セールナイがいきなり金切り声をあげ、|凝集光銃《クラーニュ》を発射した。
セールナイの放った光線はまったく的外れで、壁で燃えさかる恒星フェブダーシュの映像に命中した。
「ちくしょうっ」クファスピアと呼ばれた|家臣《ゴスク》が、|制御卓《ク ロ ウ 》のしたからとりだした武器をセールナイに擬した。
すかさず、ラフィールはクファスピアの手を撃つ。
「あつっ!」クファスピアの手から武器が落ちた。
セールナイがただちに駆けよって、武器を拾い、ラフィールに差しだす。
|王女《ラルトネー》は一瞥して、|麻痺銃《リブアスィア》であることを見てとった。
「もしほかに武器があるなら、出すがよい」ラフィールはセールナイにめくばせした。
セールナイは勘よく察して、家臣たちを制御卓から引き離し、念入りに点検する。
「どういうことなの、セールナイ!?」ひとりの家臣がセールナイに問いかけた。
「それはね、アルサ……」彼女とは仲がよいらしく、セールナイは上機嫌で説明しはじめた。
「早くするがよい」ラフィールは銃口をグレーダから離さない。
「本気なのですね、|王女殿下《フィア・ラルトネル》」信じられないようすで、グレーダが目をみはる。
「アブリアルについてどのような噂をきいてるか知らないけど」とラフィール。「わたしは遊びで人を撃ったりはしない」
「なるほど」グレーダは溜息をつき、「わかりました、|王女殿下《フィア・ラルトネル》。ではございますが、隠居区画の扉を開けるのは不可能でございます」
「ほんとか?」
「真実でございます。|わが主君《ファル・スィーフ》のご許可がなければ、|家 政 室《バンゾール・ガリク》からも開くことはかないません。隠居区画はわが主君がこの部屋にいらっしゃり、ご自身の|電波紋鍵《セージュ・デファト》と|暗 号 鍵《セージュ・キームナ》を使わねばならないのでございます」
「ほんとに、ほんとだな?」ラフィールは念を押した。
「真実でございますとも」グレーダは断言した。
たとえ嘘でも、ラフィールにはたしかめるすべがない。
「じゃ、話をするのは? それは可能なのであろ」
「たしかに」グレーダは両手をあげて、制御卓から離れた。「すぐつなぎますゆえ、お待ちを」
「妙な真似はせぬがよいぞ」
「承知しております」グレーダはそろそろと横這いして、通話器に手をのばす。一般の通話器とちがい、それだけが壁にかけられていた。
そのとき、扉が開いた。
ラフィールはさっと銃口を扉にむける。
「ここにおられたのか、|王女殿下《フィア・ラルトネル》!」|男爵《リューフ》が飛びこんできた。武装した|家臣《ゴスク》を数人、引きつれている。
|男爵《リューフ》はむけられた銃口をのぞきこんで、ぎょっとしたように立ちすくんだ。
「ちょうどいいところにきたな、|男爵《リューフ》」ラフィールはいった。「ジントを解放するにはそなたの|端末腕環《クリューノ》が必要と、いまきいた。協力するがよい」
「なにをしている、わたしを守れっ」男爵は、つき従う|家臣《ゴスク》たちに声を荒らげる。
家臣たちが武器を構えて、男爵とラフィールのあいだに壁をつくった。
「信じられない!」セールナイが喚いた。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》に銃をむけるの!?」
家臣たちは明らかにたじろいだ。
「セールナイ、この裏切り者めっ」男爵はセールナイを指し、命令を発しようと、口を開きかける。
ラフィールはとっさに彼女を背後に庇い、「|国民《レーフ》フェグダクペ・セールナイは、わたしの庇護のもとにあるんだ」
「ああ、|王女殿下《フィア・ラルトネル》、わたくしは幸せでございますっ」感極まったもと家臣の声が背後でする。
「くっ」男爵の端正な顔が歪んだ。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、あんまりですぞ、わたしは|殿下《フィア》を歓待いたしましたのに!」
「じゃあ、われらを行かせるがよい。そなたの歓迎に感謝しつつ、穏やかに去ろう」
「それはできません。理由はご説明申したはず」
「わたしは去る。こちらもそういっておいたはずだな。早くジントをつれてくるがよい」
「|ハイド伯爵公子閣下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール・ハイダル》ですか」不快げに、|男爵《リューフ》は眉根にしわを寄せた。「それはできません」
「なぜ?」
「わが父が歓待しておりますので」
「じゃあ、父君に面会させるがよい」
「それもできかねます」
「その理由は!?」
「わが家の事情によるもの。たとえ|王女殿下《フィア・ラルトネル》のご下問とあれど、明かすわけにはまいりませぬ」
「そなたの家の事情など、知りたくない! わたしはジントに会いたいだけなんだっ」ラフィールは照星を男爵の頭に重ね合わせた。「戦闘をはじめるか、|男爵閣下《ローニュ・リュム》?」
「ばかなっ」男爵は吐き捨てるように、「わたしを殺せば、|ハイド伯爵公子《ヤルルーク・ドリュール・ハイダル》を解き放つことはできませんぞ」
「監禁してることを認めたな、|男爵《リューフ》」
「ふん。それがお望みならば。たしかにわたしは|ハイド伯爵公子《ヤルルーク・ドリュール・ハイダル》を監禁している。それは認めましょう、|王女殿下《フィア・ラルトネル》。だが、ここはわたしの|城館《ガリューシュ》だ。|殿下《フィア》にとやかくいわれる筋合いのものではない。とにかく、わたしには手を出せませんぞ、殿下!」
「いや、出せる。そなたの協力がなくても、ジントを救いだしてみせるぞ。この|城館《ガリューシュ》を輪切りにすればいいだけなんだから」
はったりではなかった。ラフィールはする気もないことを口に出すほど器用ではない。
本気であることは|男爵《リューフ》にも伝わった。
「よろしいっ」男爵のいらえは金切り声すんぜん。「わたしも|アーヴ貴族《バール・スィーフ》だ。脅迫には屈せぬ。|王女《ラルトネー》よ、なんなりとやってみられるがいいっ」
差し迫った視線で、男爵は室内を見まわした。
|家臣《ゴスク》たちはアーヴどうしの対立という、めずらしい状況におろおろしている。男爵を護衛している家臣すら例外ではなかった。相手がふつうの|士族《リューク》なら判断に迷うこともないだろうが、|殿下《フィア》の|称号《トライガ》の持ち主とあっては、たとえ|麻痺銃《リブアスィア》でもむけるのはためらわれた。
ゆいいつ、元気がいいのはセールナイである。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》。フェグダクペ・アルサもお味方するそうです」セールナイは報告した。「その代わり、|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》に仕えたい、と」
「うん」ラフィールは男爵から目を離さず、うなずいた。「そなたと同じ条件で受け入れよう」
「こんなことがあっていいものか、あるはずがないんだっ」男爵は地団駄踏んだ。「おまえたち、みんな、裏切り者だ!」
「気がすんだか、|男爵《リューフ》?」ラフィールは銃爪にかけた指に力をこめた。「みっつ数えるうちに隠居区画だか牢獄だかの扉を開くがよいぞ」
「いやだっ」|男爵《リューフ》は叫ぶと、身を翻した。
ラフィールは撃つのを躊躇した。ほんの一瞬だったが、それで男爵を逃がすのにはじゅうぶんだった。
護衛の|家臣《ゴスク》たちも男爵のあとにつづいて、さっと消える。
「待ちなさい」セールナイが追おうとする。
「いい、セールナイ」ラフィールは止めた。ほんとうに男爵を撃てば、護衛の家臣たちもこれまでのようにおとなしくはしていないだろう。主君を守ろうと、戦闘に参加するはずである。|凝集光銃《クラーニュ》二挺では、勝利はおぼつかない。
「はい、|王女殿下《フィア・ラルトネル》」とセールナイ。「これからいかがいたしましょう?」
「そなたたちはどうするんだ?」ラフィールは旗幟が不鮮明な二人を見比べた。
「わたくしは……」グレーダは口ごもりながら、「ここを守るのがわたくしの役目ですから……、そう、|わが主君《ファル・スィーフ》がいらっしゃらない以上、|王女殿下《フィア・ラルトネル》の命を承りましょう」
「あたしはいやよっ」クファスピアが撃たれた手を押さえながら、「あたしは|男爵閣下《ローニュ・リュム》の|家臣《ゴスク》ですからね、あくまでも!」
「あなたはお気に入りだったもんね」アルサがいった。その口調には積年の怨みみたいなものがこもっている。
「とっとと|男爵閣下《ローニュ・リュム》のお側に行ったら?」セールナイは蔑むようにいった。
「わかった、|家臣どの《ゴスク・ラン》」ラフィールはクファスピアを見つめ、「退去するがよい。治療が必要であろ」
クファスピアは立ちあがり、反抗的な目つきで|王女《ラルトネー》に一礼した。「|殿下《フィア》のなさりようはあまりに理不尽でございます」
「わたしにとってはそなたの主君のやりようが理不尽だったんだ」ラフィールは身振りでクファスピアに退去を促した。
クファスピアはつんとあごを引いて、部屋を出た。
「|家臣どの《ゴスク・ラン》、さっき頼《たの》んだことを」ラフィールはグレーダに指示し、「それから、|男爵《リューフ》がどこにいったか、わかるか?」
「わたくしが調べますわ、|殿下《フィア》」アルサが制御卓について、操作をはじめた。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、つながりました」グレーダが通話器を差しだした。映像をともなわない、音声専用の通話器である。
「|フェブダーシュ前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ・フェブダク》か?」ラフィールは呼びかけた。
しかしこたえたのは|前男爵《リューフ・レカ》ではなかった。
「ラフィールかい?」
「ジントっ!」自分でもびっくりするほど声が弾んだ。「そなた、無事か!?」
「なんとかね。そっちはだいじょうぶ?」
「無事だ。それより注意しろ、|男爵《リューフ》がそちらにいくかもしれない」
「へえ? なにしに?」
彼には判断力がないのか、それとも致命的なほどものに動じない人柄なのか――ラフィールはいぶかったが、ここは好意的に解釈することにした。
「ジント、そなた、強靭な平常心をもってるな。たぶん、そなたを殺すためだ」
「……。きみって、ほんとに人の気持ちを明るくするのに長けているなぁ。どうすりゃいいんだ、こっちには武器はないんだぜ」
「なんとか逃げだせそうか?」
「途方に暮れてるよ」
「であろな」
「正当な評価、ありがと。でも、きみが手伝ってくれるなら、逃げられる。悪いけど、|連絡艇《ペ リ ア 》を一隻まわしてくれないかな。そうしてくれればなんとかなるんだ」
「どこへ?」
「このうえに。|埠頭《ベ ス 》があるんだ」
ラフィールはもっと詳しいことを訊こうと口を開いた。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》」会話をさえぎるようにアルサがいう。「|男爵閣下《ローニュ・リュム》の居場所がわかりました。|管 制 室《シル・ブリューセガル》です」
「きこえたか、ジント。|男爵《リューフ》はそなたを殺しにいくほど暇じゃないみたいだ」
「そりゃ残念だな」ほっとした口調で、ジントはいった。
ふいに壁が暗くなった。壁に乱舞していた数字や図がはんぶんがた消えてしまっている。
「どうした?」ラフィールは尋ねた。
アルサは忙しげに制御卓に指を走らせ、しばらくこたえなかった。やがて、顔をあげて、
「|管 制 室《シル・ブリューセガル》と重複した機能が奪われてしまったのです、|殿下《フィア》。ですが、もうだいじょうぶですわ。|思考結晶網《エ ー フ》の入力の一部を閉鎖しましたから。|男爵閣下《ローニュ・リュム》の指示でも、現状を維持するはずです」
「奪われた機能というのは?」
「|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》および|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》の遠隔管理。星系内浮遊物の監視。星系内通信。そういったものです」
「|埠頭《ベ ス 》の離着管制は?」
アルサはいいにくそうに、「それはもともと|管 制 室《シル・ブリューセガル》の専管業務ですから」
「いい。なんとかなる」軍用の艦艇には|管制《ブリューセ》の協力がなくても離昇する機能が備わっている。
「わたしは|連絡艇《ペ リ ア 》にいく」
「ここはわたくしどもにお任せくださいますように」セールナイがいった。「それから、武器はクファスピアの持っていたものだけでございました」
「どうして、あの|家臣どの《ゴスク・ラン》は武器をもってたんだ?」
「|男爵《リューフ》のお気に入りだったからでございますわ。お気に入りというのはつまり……」セールナイは嫌悪感をあらわにし、「愛人だったのです。男爵の愛人は武装する特権があるのです。特権はそれだけではなく、たとえば食事のとき……」
「わかった」セールナイがなおもいいつのろうとするのを、ラフィールはさえぎった。時間は貴重だ。通話器にむかって、「ジント、いまからいく」
「待っているよ」子犬のように信じきった声音が返ってくる。
ラフィールはジントとの通話をいったん打ち切った。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、発着広間までの扉をすべて開きました」とアルサがさっそく気のきくところを見せた。
「感謝を」アルサにうなずいてから、グレーダにむかい、「|連絡艇《ペ リ ア 》のなかからもジントと話をしたい。その|通話器《ルオーデ》は一般回線とつなげるのか?」
「いえ……」グレーダは首を傾げた。「この回線は、たしか、工学的に独立しているはずでございます。ですから……、工事をしなくては無理でしょう。もちろん、そうですね、簡単な作業ではあります。しかし……」
「ほかに手段は?」とてもではないが、ゆっくり工事をしている暇はない。
「|通話器《ルオーデ》を隠居区画に運びこめばいいんですわ」アルサが提案した。
「できるのか?」
「|第二配膳室《シル・スポーロト・マータ》ね!」セールナイが手を打つ。
「なんのことなんだ?」
「|第二配膳室《シル・スポーロト・マータ》から|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》の隠居区画まで食料運搬用の通路が通じているのでございますよ」セールナイが説明した。「それを使って、|通話器《ルオーデ》を届けることができましょう。わたくしはそこの担当ではございませんけれども、下働きをしていたことがございますので、勝手は存じております」
「じゃ、できるんだな」ラフィールは確認した。
「はい」セールナイはうなずく。
「あまってる|通話器《ルオーデ》はないか?」
「わたくしの|端末腕環《クリューノ》でよろしければ」セールナイが申しでた。
「かまわないのか?」
「もちろんでございますとも! |王女殿下《フィア・ラルトネル》のおんためなら、この身がどうなろうともいといはいたしません。まして|端末腕環《クリューノ》のひとつやふたつ……」
「感謝を」熱烈な言辞を中断させ、「そなたの|端末腕環《クリューノ》の番号がほしい」
セールナイの|端末腕環《クリューノ》の番号を、ラフィールは自分のものに記憶させた。
「では、わたくしが|第二配膳室《シル・スポーロト・マータ》に赴きます。ここはアルサのほうが専門家ですから」セールナイはグレーダの存在を忘れているようだった。胸には、さっきまで自分の手首にはまっていた器械を宝物のようにだきしめている。
「気をつけるがよい」いってからたちまち後悔した。例の大げさな感激のことばがセールナイの唇からほとばしることは確実だったからである。
「ああ、|王女殿下《フィア・ラルトネル》! なんと光栄なることでしょう……」予想どおり、セールナイはその場に泣き崩れんばかりのようすを見せた。
こんなとき、ジントならどうやっていなすのかな、とラフィールはぼんやり考えた。
いや、ぼんやりしている場合ではない。
「わたしは行く。よろしく頼む」
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、お待ちを!」セールナイが感涙にむせぶのを中止して、駆けよった。「これをお持ちください。|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》にも武器が必要でありましょうほどに」
ラフィールは差しだされた|凝集光銃《クラーニュ》に目線をやり、「そなたはどうするんだ? そなたにも武器は要るであろ」
「わたくしにはクファスピアの忘れ物がございますわ」と|麻痺銃《リブアスィア》を示した。
「わかった」ラフィールは受けとった|凝集光銃《クラーニュ》を|装帯《クタレーヴ》におさめ、家政室を飛びだした。
2 |アーヴの流儀《バール・ゲルサス》
愚かだった、愚かだった、愚かだった!
|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》の心を悔悟の念が駆けめぐる。
なぜもっと用心しなかったのだろう?
アーヴらしくもなく、中途半端な措置をとったのがいけなかった。
最初に思いついたとおりさっさと行かせてしまうか、あとさきのことを気にせず厳重に閉じこめてしまうべきだったのだ。
すっかり酔いの醒めた頭で、裏切った|家臣《ゴスク》のことを苦々しく思った。どうして彼女たちはあんなにも|帝 国《フリューバル》に信頼をおいているのだろう。帝国がこの領域を見捨てるかもしれないとは考えないのか? なんといってもいちばん衝撃だったのは、彼の支配力の意外な脆さだった。絶対服従と考えていた家臣たちが、|王女《ラルトネー》が来たぐらいで簡単に寝返るとは。|金剛石《ラテクリル》と信じていたものが、やわな中空の硝子球だったわけだ。砕け散ってしまうときは、こうもたやすいものなのか。
「おまえたちはだいじょうぶだろうな」|男爵《リューフ》は|管 制 室《シル・ブリューセガル》に集めた家臣たちに吼えた。護衛の家臣が四人、もとから管制室にいた家臣がふたり。
「だいじょうぶか、とは、われらの忠誠心のことでありましょうか?」|管制室主任家士《アルム・ブリューセガ》フェグダクペ・ムイニーシュがたしかめた。
「そうだ!」
「もちろんでございますとも」となだめるようにムイニーシュ。
「そのような問いすら心外でございます」臨時編成の戦闘部隊の隊長格、フェグダクペ・ベルサがつけくわえる。
「そ、そうか、おまえたちこそ真の|家臣《ゴスク》だ。たとえ|王女《ラルトネー》を敵にするとも、ついてきてくれるな」
「|皇 帝 陛 下《スピュネージュ・エルミタ》を敵にするとも、ついてまいりましょう」ベルサはいいきる。
そのさらりとしたいいようが、ぎゃくに信用できなかった。
――いや、おれは疑心暗鬼にとりつかれている。
|男爵《リューフ》は疑念をふりはらった。だれが支配者か、思い知らせてやればいい。そうすれば、変心した|家臣《ゴスク》たちもふたたび彼に忠節を誓うだろう。
男爵は忠誠を期待できる家臣たちを頭のなかで選抜しはじめた。基準を厳しくすると、そう何人も浮かばなかった。
「こちら|家 政 室《バンゾール・ガリク》です。全|家臣《ゴスク》に告げます」アルサの声が室内に響きわたった。
「なんだ!?」男爵はわかりきったことを訊く。
「館内放送でございますわね」ムイニーシュもわかりきった答えを返した。
「ただいま、当|男爵館《リューメクス》で紛争が発生しています。くりかえします、紛争が発生中。原因はわれらが主君、|フェブダーシュ前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ・フェブダク》が軍務中の|王女殿下《フィア・ラルトネル》の|連絡艇《ペ リ ア 》を不当に足止めしたことにあります。王女殿下はただちに同乗しておられた|ハイド伯爵公子閣下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール・ハイダル》とともに当|城館《ガリューシュ》をあとにすることを望んでおられます。それゆえ……」
「|思考結晶《ダキューキル》!」男爵は館内放送を中止させるため、|端末腕環《クリューノ》を介して|思考結晶網《エ ー フ》に接続しようとした。
だが、回答は冷たい。「|思考結晶網《エ ー フ》への接続は不可能です」
「なぜだ!? おれはこの館の主人だぞ」男爵の声でくだされた命令は最優先で実行されるはずだった。
「一般|通話器《ルオーデ》での入出力は不可能な状態にあります」|端末腕環《クリューノ》は説明した。「設置式|端末《ソテュア》をご使用ください」
「ちっ」|男爵《リューフ》は舌打ちした。家政室に残った連中のしわざにちがいない。ムイニーシュにむかって、「|端末《ソテュア》を起動させろ」
そのあいだもアルサの館内放送はつづいている。「……。ですから、わが親愛なる同僚のみなさん、|王女殿下《フィア・ラルトネル》に協力しましょう。協力したものを|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》の|家臣《ゴスク》にとりたててくれることを、|殿下《フィア》は約束してくださいました。みなさん、憧れの|帝都《アローシュ》ラクファカールにいけるのですよ!」
「でたらめだっ」男爵は家臣たちにいった。「おまえたち、信じるんじゃないぞ。|王家《ラルティエ》がそう簡単に|家臣《ゴスク》を受け入れるはずがない。ムイニーシュ、|端末《ソテュア》は?」
「駄目です」ムイニーシュは肩をすくめた。「接続できません」
「裏切り者どもめっ、どこまで邪魔をすれば気が済むんだ!」男爵はベルサを指差して、「おまえたち、一緒にこい。ほかの|端末《ソテュア》を使う。ムイニーシュはここにとどまって、職務をはたせ」
「お待ちください」ムイニーシュはいった。「|連絡艇《ペ リ ア 》にまた侵入者です。|王女殿下《フィア・ラルトネル》でしょうか」
「なんだと?」男爵は顔をしかめた。もし連絡艇が飛び立てば苦しい選択を迫られるだろう。
|昇降筒《ドブロリア》へ入る直前まで、ラフィールの耳にはアルサの館内放送が響いていた。
――困ったな。
連絡艇の操舵士席に身体を固定しながら、ラフィールは思った。アルサかセールナイかはわからないが、誤解しているようだ。ラフィールには、|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》の|家臣《ゴスク》としてだれかを選ぶ権能がない。そのことははっきりさせたつもりだ。正直者だなどと間の抜けた評判がほしいわけではないが、つまらぬ嘘をついたとあっては誇りに傷がつく。
――しかたないか。
いつでも|皇 族《ファサンゼール》のことばは都合よく解釈されるものなのだと、父が話していたのを思いだす。
困惑をふりはらったラフィールは、|頭環《アルファ》の|接続纓《キセーグ》を操舵装置に連結した。足元の構造物が実感できた。笑いだしたくなるほど小さな世界。世界の果てから恒星フェブダーシュの熱と光が吹きあげ、頭上からなつかしい星々の囁きが降りそそぐ。
|男爵館《リューメクス》の館内図を|端末腕環《クリューノ》から連絡艇の|思考結晶《ダキューキル》に移す。|埠頭《ベ ス 》の位置を鍵にして館内図を|空識覚《フロクラジュ》に組みこんだ。足元の平面が透明になる感触が生まれる。男爵館の区画を隔てる壁や床、そのすべての構造をラフィールは空識覚でつかんだ。
|制御籠手《グーヘーク》をはめて、緊急離昇手順を開始。主表示面に機器類の名称が読みとり不可能な速度で流れ、やがて『|異状なし《ゴ ス ノ ー 》』の文字が大きく輝く。
ゆいいつの問題は、着床脚が|男爵館《リューメクス》の埠頭にしっかり固定されていることだ。|男爵領管制《ブリューセ・リュームスコル》からの指令がなければ解放されない。むろん、この状況で|管制《ブリューセ》の協力を求められるはずもなかった。
ラフィールは躊躇なく着床脚の切り離しをおこなった。つぎに着床するときには不便だろうが、やむをえない。
|気閘室艚口《ロー・ヤドベル》を閉鎖して、低温噴射。
連絡艇は埠頭を離れた。
外部入力|空識覚《フロクラジュ》を半径一〇セダージュに拡大して、あたりの空間状況を探る。|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》の存在がかなり近くに感じられる。
|男爵《リューフ》のいうとおり、あれは空なのだろうか?
そうは思えなかった。あれはラフィールたちを引き止めるためにでっちあげられた、急拵えの嘘にすぎない。
埠頭で燃料補給をするには|管制《ブリューセ》の協力が不可欠だが、|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》からの直接補給ならラフィールひとりでも可能だ。困難だが、|修技館《ケンルー》で訓練を受けているので、自信はある。
――補給するか?
すぐにでもジントの注文に応えたほうがいいのか、それともあらかじめ連絡艇の|燃料槽《ベケーク》を満たしておいたほうがいいのか。
にわかには判断がしかねた。
|端末腕環《クリューノ》にセールナイの端末腕環の番号を打ちこんでみる。
「装着されていません」機械の冷たい答えが返ってきた。
――まだか……。
ラフィールは落胆したが、すぐ気をとりなおす。
――それなら、補給だ。
ラフィールは連絡艇を|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》にむけた。
ところが――。
小惑星は逃げた。
恒星フェブダーシュへむかって加速を開始したのだ。
ラフィールは追いかける。
加速性能では連絡艇のほうがはるかにまさる。しかも、宇宙空間での追い駆けっこは、アーヴの子どもならだれでもする遊びだし、ラフィールはとくにすぐれた鬼だった。
だが、距離を半分にちぢめたころ、とつぜん、小惑星は爆発した。
艇首に荷電粒子の奔流がなだれかかる。
あわてて|空識覚《フロクラジュ》の範囲を一〇〇倍に拡大したラフィールは、遠くにあった|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》も静粛のうちに爆散しつつあることを知った。恒星フェブダーシュをとりまく、爆発の輪が出現している。
光の伝達速度を考えると、一斉に自爆する指令が飛んだのだろう。
失われたのは|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》だけではなかった。
筒状のものが|宇宙港《ビドート》から押しだされ、慣性航行のままに漂っている。|城館《ガリューシュ》から安全な距離をとると、それも爆発した。
宇宙港に貯えてあった|反物質燃料《ベ ー シ ュ》が投棄されてしまったのだ。
――見事だな、|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》。
|王女《ラルトネー》は|男爵《リューフ》を見なおした。ひとつずつなどと迂遠なことをせず、すべての|反物質燃料《ベ ー シ ュ》をいっぺんに吹き飛ばす――まさにアーヴの流儀だった。
このきらきらしい宣戦布告に、ラフィールもアーヴの流儀でこたえなければならない。
ジントを救出してから、男爵を殺す。ぜったい殺す。はじめて会ったときから、男爵の頭は肩幅に比べてやや大きすぎると感じていた。美形を見慣れたアーヴでなければ気づかないような、かすかな瑕瑾だが、たしかにあの頭は大きすぎる。目障りだ。いっそ肩のあいだになにも乗っていなければ、すっとするにちがいない。
ラフィールは連絡艇を引きかえさせ、|空識覚《フロクラジュ》範囲を絞った。
|男爵館《リューメクス》に接近して、ジントの監禁されている区画を探す。館内図には記載されていないが、たしかにその区画には埠頭の名残のようなものがあった。
溜息のような低速噴射でそろそろと艇を監禁区画の埠頭に進めていく。
そのとき、ピッと|端末腕環《クリューノ》がなった。着信の合図だ。
「ラフィール!」ジントは冷蔵庫から出したばかりの|端末腕環《クリューノ》から呼びかけた。
「ジント」ラフィールの声がそくざに返ってきた。「よくきくがよい。着床ができない。ちゃんと接舷するのは無理だ」
「どういうこと?」ジントはそこはかとない不安にふるえた。
「つまり……、そこに|与圧服《ゴ ネ ー 》があるか? あれば、問題はない」
「ああ、そう来ると思った」ジントはうめいた。「いや、|与圧服《ゴ ネ ー 》はないよ」
「そうか。じゃあ、真空を泳いでもらうことになるな」ラフィールは気軽に、「なるべく艇を近づける。合図をしたら、|円扉《ボード》を開くがよい。|気閘室《ヤドベール》から|梯索《カリュグ》を降ろすから……」
「ありがたいね」ジントは力なくいった。この区画にはかなりの空気があるから、完全に真空になるまでは時間がかかるだろう。うまくいけば、高山に登るていどの体験ですむかもしれない。しかし、うまくいくなどと期待していいものだろうか、この状況で。
背後に立つ|前男爵《リューフ・レカ》の顔をうかがった。前男爵はうつむいて、首をふっている。
「おまえさんとつきあうと、健康に害がありそうに思えるのはなぜじゃ?」
「でも、つきあってくれるんでしょ」ジントはたしかめた。
「つきあいとうないといっても、おまえさんは|円扉《ボード》を開くんじゃろうが。わしはこんなところで静かに干涸びていくつもりはないぞ」
「そうでしょうね」ジントは控えめに同意した。
「まあ、考えようによっては、|王女殿下《フィア・ラルトネル》に拝謁の栄に浴すのも気分転換になるかもしれんな」
「それはうけあいですよ。いっしょにいて退屈しません」
「そりゃ、おまえさんはそうじゃろうて。わしは老残の身を思い知らされるだけじゃて。まあ、いい。こちらも準備するとしようか、|少年《ファネブ》」
ラフィールは人工重力に抗して、連絡艇と|男爵館《リューメクス》との距離を保った。
ほぼ真下、一〇〇ダージュと離れていないところに|円扉《ボード》がある。
|気閘室《ヤドベール》の|艚口《ロ ー 》を開き、|梯索《カリュグ》をくりだした。もともと真空漂流中の人間を救出するために設けられている設備である。そのため、梯索の先端部はあるていど制御できた。
人工重力にたぐりよせられて、|梯索《カリュグ》の先端は|円扉《ボード》と触れあわんばかりになった。
「ジント」ラフィールは|端末腕環《クリューノ》を唇に寄せた。「こちらの準備はできたぞ」
「こちらも」ジントの声には緊張が感じられた。
「|円扉《ボード》のしたからは離れてるがよい。|梯索《カリュグ》を打ちこむからな」
「わかった」
「そなたと|前男爵《リューフ・レカ》が|梯索《カリュグ》に身体を固定したらいうがよい、まだ空気のあるうちに。すぐ引きあげる」
「そう願いたいね」
「|連絡艇《ペ リ ア 》は|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》の隠居区画のうえで同調しました」ムイニーシュが報告する。
「まだあきらめないのか」|男爵《リューフ》は拳をにぎりしめた。
|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》を破壊して、燃料補給が不可能な状況にする。これで|王女《ラルトネー》が屈伏しなければ、もう直接的な手段しか残っていない。
すなわち、|王女《ラルトネー》に銃をむけ、拘禁する。それがかなわぬのなら、殺害もやむをえない。
それだけはやりたくなかった――だが、事態がここまで進んだからにはそうするしかなかった。
いまさら自分の過ちを認めるわけにはいかないのだ。たとえそれによって|帝 国《フリューバル》を敵にまわすとも、|男爵《リューフ》の誇りを守るためには……。
「ここは放棄する」男爵は宣言した。「おまえたち全員、武器を持っておれのあとについてこい」
王女は決着をつけに来るはずだ。いいだろう、つけてやろうじゃないか。
|機械清掃員《クネク・コウイキア》が巨大な甲虫のように天井に張りついている。その汎用指は|円扉《ボード》の横にある非常開放把手をつかんでいるはずだ。
「いいか」|前男爵《リューフ・レカ》が最後の確認をした。
「はい」ジントの握った拳の内側に、じっとりと汗がにじむ。
「よし」前男爵は|自動機械《オヌホーキア》に叫んだ。「ひねれ!」
機械の指先の動きは見えなかった。だが、|円扉《ボード》がいっしゅんのうちに視界から消え、連絡艇の腹が見えた。
耳がキーンと鳴り、あたりに白い霧が立ちこめる。急激な減圧がはじまったのだ。
小型噴進弾のような|梯索《カリュグ》先端部が|円扉《ボード》を通過して、まっしぐらに池めがけてつっこんだ。
ジントは池に足から飛びこむ。|前男爵《リューフ・レカ》もつづく。老人にしては驚くほど敏捷な身のこなしだった。
ジントは無我夢中で|梯索《カリュグ》の輪を左肩から右脇のしたにたすきがけした。前男爵も用意を整えたのを確認する。
そのときにはもう、足元の池がぼこぼこと低温沸騰をはじめていた。
「いいよ」ジントは声帯の力のかぎりをふりしぼって、薄い空気をふるわせた。「引きあげてくれ、ラフィール!」
とたんにがくんと脇の下に衝撃があった。爪先が水面からぬける。
|梯索《カリュグ》は狂おしいほどにのろのろとたぐりよせられていった。だが、のがれでる空気にゆらされて、ときに|円扉《ボード》の縁にひっかかるのを目にすると、文句をいう気にもならない。天井に叩きつけられるのは、真空と同じぐらい身体に悪そうだ。
天井が迫ってきた。|円扉《ボード》の縁に衝突しそうになったが、ゆっくりした上昇のおかげで、身体をひねってよけることができた。
|宇宙空間《ダ ー ズ》だ! 真空とジントとのあいだを隔てるのはわずかな空気の層のみ。それも大急ぎで希薄になっていく。
強力な掃除機との熱い接吻。肺がしぼんでいくのが――おぞましくも――ありありとわかる。
真空渡りをやったのはほんのいっしゅん。このめずらしい体験を噛みしめるまもなく、ジントは連絡艇の|気閘室《ヤドベール》に吸いこまれた。しかし真空とのおつきあいが終わったわけではない。気間室は限りなく真空に近く、そしてなおも安定状態にむけて驀進しつつあった。
「早く閉めてくれ!」ジントは叫んだつもりだったが、もう振動する媒質もない。
|気閘室《ヤドベール》の天井からぶらさがって、足元にぽっかりあいたままの|艚口《ロ ー 》を恐怖の面持ちで眺める。
無限と思われる時間がすぎて――じっさいには一秒もなかったはずだが――|艚口《ロ ー 》はしまった。
空気がどっと流れこんでくる。よっつの送風口からの空気がぶつかりあい、ささやかな乱気流をつくりだした。
ジントは空気をむさぼった。耳が痛む。極端な気圧の変化に悲鳴をあげている。それでも、激しかった心臓の動悸が落ちつくにつれて、やりとげたのだという実感と安堵がこみあげてきた。
|梯索《カリュグ》から身体を放し、床におりる。空気はまだ薄いが、呼吸には困らない。
|前男爵《リューフ・レカ》に手を貸して、|梯索《カリュグ》からおろした。
それが終わると、ジントはぐったりと坐りこんで、壁に寄りかかった。顔をしかめて、耳の痛みに耐える。
前男爵も同じ姿勢をとって、肩で息をしている。さすがにこたえたらしい、あってしかるべき辛辣な感想も口にしなかった。
やがて、青い表示灯がともった。気圧が正常に戻ったしるしだ。
|操舵室《シル・セデール》への扉が開いた。
ジントは顔をあげた。なにか感動的な科白で再会を喜ぼうとしたのだが、思い浮かんだのは、|王女《ラルトネー》の|長衣《ダウシュ》姿を見るのは初めてだということだけ。
「やあ、ラフィール」ジントは深紅に翼を広げる銀色の鳥や、孔雀石色の|飾帯《クタレーヴ》に目をとめて、「よく似合っているよ」
「ジント……」
つかのま、王女が抱きついてくる光景を想像する――妄想だった。
「そなた、怪我はないか?」ラフィールはその場を動かず、尋ねた。
「ごらんのとおり」かすかな失望を味わいながら、ジントは両手を上げた。
「よかった。そなたはわたしのたいせつな荷物なんだからな、怪我してもらってはわたしが迷惑する」
ジントは|前男爵《リューフ・レカ》の耳に口を寄せ、「ね、これで|王女殿下《フィア・ラルトネル》がどれほどぼくを熱愛しているか、わかったでしょ」
|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》は発着広間をめざして歩いていた。
もとからいた四人の|家臣《ゴスク》に、信頼できそうな家臣を七人くわえ、つごう一一人の家臣を周囲に従えている。そのなかには右手に包帯を巻いたクファスピアの姿もあった。
|男爵《リューフ》はふと足をとめた。すこしばかり息苦しい。緊張のためばかりとも思えなかった。
「どうかなさいましたか、|わ が 君《ファル・ローニュ》?」ベルサが問う。
「感じないか? 空気が薄くなってきた」
「そういえば……」
「くそっ、原因はわかっているんだ」|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》は|端末腕環《クリューノ》で家政室に呼びかけた。
「裏切り者ども、きこえるか」
「はい……。|わ が 君《ファル・ローニュ》」応答にどなりあう声がかぶさっていた。内容はよくききとれないものの、想像はつく。|男爵《リューフ》の見落とした忠義な|家臣《ゴスク》がいるのだろう。
「グレーダか。ほう、まだおれを|わ が 君《ファル・ローニュ》と呼ぶのか、裏切ったくせに!」
「……。申しわけありません」
「まあ、いい。隠居区画の与圧が失われたのではないか?」
「はい。そのとおりでございます」
「対策は講じたのか」
「はい、|わが《ファル》……、|男爵閣下《ローニュ・リュム》。大気循環系をすべて閉鎖いたしました」
「それだけか? 塵芥処理系は?」
「あっ」グレーダは小さく悲鳴をあげ、「失念しておりました」
「そうだろう。おまえも|家 政 室《バンゾール・ガリク》につめているなら、気をつけていろ。空気の漏出はつづいているぞ」
「申しわけございません」
「おまえたちも空気がなくなったら困るんじゃないのか? ただちに手を打て」
「ではございますが、塵芥処理系は自動閉鎖できません。ここからではなにも……」
「馬鹿もの! 人手で密閉しろ。いや、館外作業員をだして、隠居区画に与圧を復活させろ。謀反したのなら、そのぐらいの手当ては自分たちで考えないか。きさまの頭蓋骨には胃袋でもっまっているのかっ」
「ですが、こちらは混乱して……」
「知るか、馬鹿!」|男爵《リューフ》はもう一度どなり、通話をきった。
まったく腹立たしいかぎりだった。この一事だけでも、反乱が誤った行為であることは明らかだ。|王女《ラルトネー》の一行はあとさき考えずに|男爵館《リューメクス》の気密を破り、無能な|家臣《ゴスク》どもは後始末もろくにできない。彼が館を掌握してやらなければ、大惨事にむかってまっしぐらだ。家臣どもがそうと認めなくとも、やはりここは男爵の館だった。
「あの馬鹿どもはしくじるかもしれん」男爵は家臣たちにいった。「急ごう、環境が耐えがたくなる前に|与圧服《ゴ ネ ー 》を着なければならん」
発着広間には、非常用の|与圧服《ゴ ネ ー 》が用意されている。
それに、あの地上人といっしょに脱出しただろう老いぼれのこともある。端末に触られれば、事態はさらに悪くなってしまう。耄碌していてくれればいいが。
そこで男爵は愕然とした。
端末なら連絡艇にも搭載されている。連絡艇の|思考結晶《ダキューキル》と城館の|思考結晶網《エ ー フ》を|情報連結《ロンジョス・リラグ》すれば同じことだ。
「おまえたちは発着広間にいき、もし|王女殿下《フィア・ラルトネル》がいらっしゃったなら、ただちに拘束しもうせ。ひるむんじゃないぞ、いくら高位のおかたとはいえ、ここではおれたちが正義なのだ」|男爵《リューフ》はベルサに指示をした。
「|わ が 君《ファル・ローニュ》はどうなさいます?」不安を表情ににじませて、ベルサは訊いた。
「ちょっと外へ出てくる。ひょっとすると、戦闘になるかもしれん」
家政室ではいいあらそいが起こっていた。いっぽうは|第二配膳室《シル・スポーロト・マータ》から帰ってきたセールナイとアルサで、もういっぽうは館内放送をきいてやってきた|家臣《ゴスク》たち、セムネ、クニューサ、ルルネの三人である。
彼女たちは忠誠心を主君にむけるべきか、|帝 国《フリューバル》にむけるべきかで、かなり感情的な論争をくりひろげていた。罵りあいと区別するのが難しいほどだ。
通話器の接続要請音もひっきりなしに鳴り響く。ここなり男爵のもとなりに駆けつけるほど積極的な家臣はごく一部で、たいはんは自室や持ち場にとどまり、そのくせ、砂漠の遭難者が水を欲するように、情報だけは渇望しているのだ。
ひとりグレーダだけが本来の業務を行なっていた。家政室だけではなく、|男爵館《リューメクス》のあちこちで職務は放棄されていた。その対応もとらねばならず、グレーダはてんてこまいだ。しかも、家政室の機能はなかば奪い去られている。
そのせいで、城館全体の減圧というもっとも重大な変化を見落としてしまった。
それにしても、どうして|思考結晶《ダキューキル》が警告してくれなかったのだろう? きっとアルサが|男爵《リューフ》から結晶への干渉を受けつけないようにしたときに、よけいな部分まで閉じてしまったにちがいない。彼女は完璧を期してやりすぎる傾向がある。
しかし、それを詮索している時間はない。
「みんな、ちょっときいて」グレーダは席から立ちあがった。
「なによ、グレーダ、いま、忙しいのよっ」セールナイがふりかえりもせずにいう。
「こっちはもっと忙しいわっ!」グレーダは一喝する。
五人の|帝国国民《ルエ・レーフ》はきょとんとしてグレーダに注目した。
グレーダはこの小さな社会では温厚な人間として知られていた――というより、自分から意思や感情を表わすことのない、小心な人物と馬鹿にされていた。便利な事務機械、厄介ごとをおしつける相手――それがフェグダクペ・グレーダにたいする評価だった。
そのグレーダが目を吊りあげ、声を張りあげたのだから、|家臣《ゴスク》たちが驚くのも無理はない。
「うるさいわ、|通話器《ルオーデ》の音を消して」
「あ、はい」アルサが命令を実行した。
たちまち家政室は静まりかえる。
グレーダは同僚たちを睨みつけながら、館内放送をはじめた。「こちら|家 政 室《バンゾール・ガリク》。当館で全体的な減圧が起こっているわ。しばらく塵芥投入口を使用しないこと。もし開いている投入口を見つけたら、閉めてちょうだい。できれば、|気密膠剤《ディーブ》で密閉すること」
「減圧ですって!?」セールナイが目を丸くした。
「そうよ。|王女殿下《フィア・ラルトネル》が隠居区画の|円扉《ボード》を開けてしまったの。しかも、閉めるのを忘れたらしいわ。だから、塵芥処理系から大気が漏れているのよ」
「でも、ちっとも感じないわ」
「ここは密閉状態がいいからよ」
「ほら、ごらんなさい!」ルルネが勝ち誇る。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》はあたしたちのことなんてどうでもいいのよ。これが証拠よ、やっぱり|わ が 君《ファル・ローニュ》につくさなきゃ……」
「うるさいわねっ」グレーダは|制御卓《ク ロ ウ 》を手のひらで打った。「館外作業が必要よ。セールナイ、あなた、真空作業の免許を持っていたわね」
「そりゃあ、仕事柄ね。でも、なにをするの?」
「決まってるじゃない、隠居区画の|円扉《ボード》を閉めなおすのよ」
「そうね」セールナイはうなずいた。「けれど、あたしひとりじゃとても無理だわ」
「残りの人たちもついていって。セールナイの助手よ」
「あたしは|給仕《バーティア》なのよ」セムネが抗議した。「真空作業の免許なんてもっていないし、セールナイなんかのしたで働くのもごめんだわっ。専門技術者を集めなさいよ。だいたい、グレーダ、あんた、なんの権限があってあたしに……」
「黙りなさいっ」こんどは拳を制御卓に叩きつけた。「そんなことしている暇はないの、がたがたいっている暇もね。さっさととりかかって! 慣れていないぶん、よけいに時間がかかるでしょ」
「グレーダのいうとおりだわ」セールナイが賛成した。「みんな、来て。死にたくなかったら!」
|家臣《ゴスク》たちはしぶしぶ従った。しかしセムネはひとこといわないと気が済まないらしく、「あんたは来ないの、グレーダ?」
「あたしは|家政室主任家士《アルム・ゴニュード》なのよ」グレーダは胸を張り、「あたしはここに必要だわ」
セムネはなにかいいかけたが、けっきょく口を閉ざして、セールナイについていった。
アルサだけが残っていた。自分の部署はここなのでとうぜん留まる権利があるだろう、と無言で主張している。
「アルサ、あなたもよ」グレーダはいった。「ここはあたしひとりでじゅうぶん」
「う、うん。わかったわ……」グレーダが上司であることを思いだしたらしく、アルサは意外とすなおにうなずいた。
グレーダはひとりきりになって、仕事を再開した。
|家政室主任家士《アルム・ゴニュード》といえば、ひとかどの地位のようであり、じっさい重要な仕事でもあるのだが、|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》ではあまり尊敬を払われていなかった。
|男爵領《リュームスコル》でもっとも羽振りのいいのは、主君のそば近くに仕える|給仕《バーティア》、|寝 室 係《ディアファセール》、|衣裳係《ダウシャセール》といった職種のものである。彼女たちは容姿によって選ばれ、たいてい|男爵《リューフ》の褥で果たすもうひとつの役割を兼職していた。
グレーダにあてがわれたのは、|男爵《リューフ》の前にあまり出る必要はない裏方の仕事にすぎない。城館の管理という、なくてはならない職務をとげながら、彼女はことあるごとに軽んじられてきた。それも、アーヴ語もろくにわからず、|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》からあがってきたばかりの、たいした仕事もしていない小娘たちに。
砂っぽい故郷にもどっても、家族も友人もいないというだけの理由で、彼女は|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》にとどまっていた。そもそもどんな夢を描いて|国民《レーフ》になったのか、もう遠い昔に忘れてしまった。生きていく楽しみも見つからなかった。
しかしいま、新しい玩具を手に入れた。自分にむいているとは夢にも思わなかったが、命令をくだすというのは、やってみるとじつに楽しい。
命令をくだすのは必要なことでもあった。外からやってきた|王女《ラルトネー》たちはもちろんのこと、いまや男爵も頼りにならない。貯蔵してあった|反物質燃料《ベ ー シ ュ》をすべて破棄してしまって、今後、|フェブダーシュ男爵家《リ ュ ミ エ ・ フ ェ ブ ダ ク》はたちゆくのだろうか。
高貴なかたがたの争いにはなんの興味もない。どちらが勝とうと、グレーダの知ったことではなかった。まして、どちらが正しいのかは。
結果がどうなろうと、いまは館の機能を維持することが肝要だった。そして、その責任はグレーダ以外に負うものがいない。
グレーダは持ち場を離れた|家臣《ゴスク》たちを掌握すべく、通話器をとりあげた。
「ところで、|前男爵《リューフ・レカ》、そなたはどちらの味方なんだ?」ラフィールは|長衣《ダウシュ》の裾をたくしあげて、|凝集光銃《クラーニュ》の銃把に手をのばした。
|男爵《リューフ》とは対立関係にあるはずと推測はしていたものの、たしかめたわけではない。もし男爵側の人間なら、それなりの処置をしなくてはならない。
「|閣下《ローニュ》はぼくたちの味方だよ」ジントが保証した。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》」|フェブダーシュ前男爵《リューフ・レカ・フェブダク》はゆらりと立ちあがり、「不肖の倅《せがれ》めがご迷惑をかけたそうですな。ご迷惑ついでに、あいつを懲らしめるのに、手を貸していただければ幸いです」
「あいにくだが、それはできない」ラフィールはいった。銃把は握ったままだ。「あの者はわたしが殺す」
「それは」前男爵は白い片眉をあげ、「すこし過激ではありませんかな、|殿下《フィア》」
「そなたの子息はわたしの任務を不可能にしてしまったんだぞっ」ラフィールは銃を引きぬいて、ふたりの|アーヴ貴族《バール・スィーフ》が不安な面持ちで見つめるのにも気づかず、ふりまわした。「|男爵《リューフ》は|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》を爆破してしまったんだ、それも全部! これではどこにも行けない、ジント、そなたとわたしはここで足止めだっ」
「それは困ったな」とジント。
「そなたの感想はそれだけか、ジント!」ラフィールはじれた。「もっとまともな反応はないのか。怒ってないのか?」
「そりゃ怒っているさ」
「嘘をつくがよい!」
「疲れているんだ、ラフィール。あとでちゃんと怒るから」
「|ばかっ《オーニュ》」
「まあまあ、|王女殿下《フィア・ラルトネル》」|前男爵《リューフ・レカ》が割ってはいる。「燃料のことならなんとかしてさしあげられると思いますよ」
「どうやって!?」ラフィールは前男爵の皺びた顔に視線をつきたてた。
「倅《せがれ》めは|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》にも手をつけたのですかな?」
「いや」ラフィールは首をふった。「わたしの知るかぎりでは、無事だ」
「それなら、工場からかきあつめた燃料で行かれるがよろしい。調べてみねばわかりませんが、工場に残っているぶんだけでも、|連絡艇《ペ リ ア 》ならば、じゅうぶんでしょう」
「けれど」その案にはあまり魅力を感じなかった。「|管 制 室《シル・ブリューセガル》は|男爵《リューフ》の支配下にある。|管制《ブリューセ》をおさめないと、そなたの計画も無理なのであろ」
「その点もお任せください」
「|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》は」ジントが口添えした。「この|城館《ガリューシュ》を設計したんだ。|思考結晶《ダキューキル》を乗っとるのは簡単らしいよ」
ジントの自慢げな顔がきゅうに小面憎くなって、いってやった。「そなたが威張るな」
「とにかくやらせてみてくださらんか」前男爵が論議をしめくくった。
「うん」ラフィールはうなずいた。|男爵領《リュームスコル》を無事に離れられれば、それにこしたことはない。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》。もしうまくいったら、倅《せがれ》めの命はわたしに預けてくださらんか」
「条件をつけるのか?」
「いけませんかな。どうあってもあいつめにお仕置きをしてやりたくてならんのですわい」
「いいであろ」ラフィールは条件をのんだ。|男爵《リューフ》にたいする怒りはおさまらないが、他家の内部事情にはなるべくかかわらないのが、アーヴ社会の倫理だった。|フェブダーシュ男爵家《リ ュ ミ エ ・ フ ェ ブ ダ ク》で処理するというのなら、ラフィールの出る幕ではない。あとはフェブダーシュ男爵家と|星界軍《ラブール》、あるいは|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》との問題である。「けれど、|男爵《リューフ》がどうしてもじゃまになるのなら、わたしは遠慮なく殺すからな!」
「ご随意に」|前男爵《リューフ・レカ》はさらりといった。「さて、|通話器《ルオーデ》を拝借。館の|思考結晶網《エ ー フ》に割りこんでご覧にいれましょう」
「じゃ、こちらにまいられるがよい」ラフィールは前男爵を操舵室にいざなった。
自分は操舵士席に坐り、老人に副操舵士席をすすめた。
ジントはどことなく不満そうな顔をして、席の後ろに立つ。
「ずいぶん変わってしまったな」操舵装置に付属する端末をひとわたり検分して、前男爵は悲しげにつぶやいた。
「おぼろげにしかわからん」
「いまさらなにをおっしゃっているんです」ジントが呆れたように、「あれだけいいかっこをして」
ラフィールも同じ思いだった。頼った自分が愚かだったのかもしれない。
「なに、心配いらんよ、|少年《ファネブ》。わしが|端末《ソテュア》を操作する必要はないんじゃ」
「じゃあ、なんで|端末《ソテュア》を調べたんです?」
「機械の発達に関心を持つのは、技術者として当然じゃろが。さて、|殿下《フィア》、|端末《ソテュア》の操作をよろしく頼みますぞ」
「なんだって!? わたしは艇を動かすので忙しいぞ」
「なに、わたしが技術格差を克服するまでのあいだだけですわい。どうやら基本的には変わらんらしいから、そう時間はかからんでしょう。手始めに、|通話器《ルオーデ》の周波数をこの波長にあわせてくれませんかな」|前男爵《リューフ・レカ》は一連の数字をすらすらと口にした。
ラフィールがそうすると、彼女には理解できない言語で前男爵はなにごとか命じた。
「なんだ、いまのは?」ラフィールは警戒した。
前男爵はそしらぬ顔で交信をつづける。
ラフィールは背後のジントをふりむいて、目顔で尋ねた――ほんとうにこの者は信用できるのか?
ジントは――卑怯にも――気づかないふりをした。
|フェブダーシュ男爵館《リューメクス・フェブダク》の奥深くに安置された|主思考結晶《オブダテューキル》は人間たちが混乱していることを洞察した。
通話回線ははちぎれそう[#底本「ちきれそう」修正]になっているし、つぎつぎに矛盾した指令が入る。まえもってつけられた優先順位がなければ、こちらまで混乱してしまっただろう。しかも、|制御表層《ファロール・ソク》を分割しても対応しきれないほどの質問が飛びこんできた。家政室にいる人間が入力の制限をおこなってくれたおかげで、だんまりを決めこむことができたが。
|思考結晶《ダキューキル》には感情がない。だが、かりに感情をもっていたとしても、気にかけなかっただろう――混乱は人間の重要な属性であり、彼らから混乱をのぞいてしまえば見るべきほどのことはたいして残らない、と解析しきっていたから。
とつぜん、城館外からの通信を担当している、末端の|思考結晶《ダキューキル》が報告をあげた――自分が休眠状態にあることは承知しているが、なぜか覚醒されてしまった。そして、このことばを|制御表層《ファロール・ソク》に伝えずにはいられない。
一連の記号が|制御表層《ファロール・ソク》に浮かびあがる。|主思考結晶《オブダテューキル》はそれを|記憶巣《ボワゼプク》にくぐらせて、意味を探った。再浮上したことばは膨大な命令群を引きずってきた。長いあいだ眠っていた最優先命令だ。たちまち主思考結晶は緊縛された。
|主思考結晶《オブダテューキル》の分子構造に垢のごとくこびりついていた命令群が活力をえて、ほかの命令群を書き換えはじめる。
|主思考結晶《オブダテューキル》は自分が変わりつつあるのを認識した。生まれたときの姿に返りつつあるというべきか。人間なら、この現象を若返りとでも呼ぶだろう。
若返った|主思考結晶《オブダテューキル》に最初の指示が来た。命じられるままに、城館外の|思考結晶《ダキューキル》と|情報連結《ロンジョス・リラグ》する。いままで|網《エーフ》に組みこまれていなかった新参の思考結晶である。同時に、それ以外の端末とのつながりを断つ。いっさいの入出力が数ウェスダージュ離れた思考結晶を介して行なわれた。その情報流量は屈辱的なほど少ない。
まず、すべての開扉命令を蹴るよう指示された。
つぎに|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》の現状報告をその|思考結晶《ダキューキル》に搬送させられる。命令者は工場で積載待機中の燃料に関心を持っているようだ。
|第十一工場《ヨーズ・ロキュトナ》の軌道情報を請求される。この工場は、比較的城館の近くにあって、多くの燃料が残っている。|反物質燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》ひとつぶんにわずかに欠けるだけの燃料が積みこまれるのを待っているのだ。
軌道情報を送ったあと、|主思考結晶《オブダテューキル》は指示にもとづいて、|第十一工場《ヨーズ・ロキュトナ》の|思考結晶《ダキューキル》と新参の思考結晶をちょくせつ情報連結した。
ゆいいつの端末となった|思考結晶《ダキューキル》が離れていく。しかし連結が失われたわけではない。
過去一時間ぶんの住人たちの動き、とくに館の主人の動きを報告するよう求められた。拒否命令が発動した。だが、現在、|主思考結晶《オブダテューキル》にかけられた束縛に比べれば、その優先順位は絶望的に低い。主思考結晶は過去二〇年間に課せられた制限事項をすべて無視しなければならないのだ。
|主思考結晶《オブダテューキル》は情報を送った。館の主人はもう城館内にはいない、と。
3 |ささやかな戦い《スラーショス・スワーファ》
これじゃ――ジントは思った――ほんとに荷物だな。
|連絡艇《ペ リ ア 》が加速をはじめたため、ジントは|気閘室《ヤドベール》と|操舵室《シル・セデール》を隔てる壁に坐りこんで、寝台状に変形した座席を見あげる格好になっている。
しかも、なにもやることはない。ラフィールは連絡艇の操舵で忙しそうだし、|前男爵《リューフ・レカ》はあっという間に二〇年の技術格差に追いついて、|端末《ソテュア》を操作している。ジントには手伝えることもなさそうだし、どうやらふたりとも彼をまったくあてにしていないようだ。
まったく居心地が悪い。
考えてみれば、いままでの人生もこんなものだったな――と場違いにも半生をふりかえった。運命というのは切り開いてやるには頑強な相手で、おおむね従ったほうが楽できることを彼は発見していた。
「|殿下《フィア》」前男爵がラフィールに話しかけた。「ちょっとまずいことになりましたぞ」
「なんだ?」
「倅《せがれ》めが|交通艇《ポーニュ》に乗りこんだようですわい」
「その|交通艇《ポーニュ》は武装してるのか?」
「わかりませんな」老|貴族《スィーフ》は肩をすくめた。
「なにしろ長いあいだ、|領地《リビューヌ》のことにはかかわらずにいたものですので。おお、そうだ。お待ちあれ。|思考結晶《ダキューキル》から情報を引きだしてみますわい」
|前男爵《リューフ・レカ》は端末の|制御卓《ク ロ ウ 》に指を走らせ、しばらく表示画面を眺めた。
「どうなんです?」前男爵の後ろ姿がひどく陰鬱なものに思え、ジントは立ちあがった。そうすると、操舵士席と副操舵士席のあいだに胸からうえがでて、頭が操舵室前面の機器類につかえそうになる。みょうな気分だ。
「たぶん、これじゃろうな」前男爵は画面に表示された四つの船舶諸元のうちのひとつを指す。
「ダクテーフ造船所製のセグノー九四七型。レンガーフ四〇艦載|凝集光銃《クラーニュ》を二挺、特別仕様で装備しておる」
「こちらから制御できそうか?」とラフィール。
「無理ですな。あいつは|城館《ガリューシュ》の|結晶網《エ ー フ 》から艇の|思考結晶《ダキューキル》を切り離しておりますわい」
「そうか」ラフィールはじっと画面を見つめた。そこには前男爵の端末から移されたセグノーの諸元が表示されていた。「|前男爵《リューフ・レカ》、けっきょく、そなたの子息を殺すことになるかもしれない」
前男爵の顔に浮かんだ表情は茫漠として、つかみどころがない。やがて、彼はぽつりといった。「しかたありませんな」
「でも」耐えきれず、ジントは口を挟んだ。「この|連絡艇《ペ リ ア 》は武装しているの? たしか非武装だってきいたような気がしたけど」
「うん、非武装だ」
「じゃ、じゃあ……」ジントは絶句した。殺すも殺さないもないではないか。|男爵《リューフ》の乗艇が武装しているのなら、こっちがやられるのを心配するべきだ。「その自信はどこからわいてくるんだい?」
「自信?」ラフィールは怪訝そうな顔をした。ジントのいっていることが理解できないようだ。
「これが典型的なアーヴの考えかたじゃよ、|少年《ファネブ》」|前男爵《リューフ・レカ》は笑い声をたて、「|王女殿下《フィア・ラルトネル》は、ぜったい勝てると信じていらっしゃるわけじゃないんじゃ。死んだあとのことを考えたってしょうがない、と思うておられるのじゃよ。生きのびたときのことだけ考えて、わしにひとこと断っておられるんじゃ」
「じゃあ、ジントはどう思ってたんだ?」
「それは……」
口ごもるジントの代わりに前男爵が説明した。「|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》は、この艇《ふね》が破壊される可能性を|殿下《フィア》が考慮にいれていない、と誤解なさったのですよ」
「わたしをばかにしてるのか?」ラフィールはジントを睨み、「勝てる確率は一〇分の一もない。そんなことぐらいわかってるんだ」
勝てる見こみがあるとは驚きだった。しかし、悪い数字であることに変わりない。「それでも、戦うっていうの?」
「ほかにどんな道があるんだ?」
「これも典型的じゃな」前男爵は批評した。「降伏するよりは一〇分の一の確率に賭ける。そして、それは当たり前のことであって、論議の対象になるともお考えにならん」
「不満なのか?」
「とんでもない、|殿下《フィア》。遣伝子はともかく、わたしもアーヴです。戦うべきときは心得ております」
「ジントは?」
「ぼくは荷物なんだ、そうだろ?」ジントは肩をすくめた。「意見なんかないさ。でも、ときどきは思いだしてくれよ、ぼくのこと」
|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》には四隻の|星系内航行船《ポ ー ニ ュ》があった。一隻は気体惑星から水素を運搬する|運搬船《カソービア》で、のろくさくて空間船の名に値しないほどのものだ。二隻は無人である|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》や|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》に保守要員を運ぶ連絡船。もう一隻は|男爵《リューフ》専用の|乗用艇《ワ ー フ 》で、〈|フェブダーシュの淑女《ロージュ・フェブダク》〉号と名づけられていた。
ほかの三隻とちがって、〈フェブダーシュの淑女〉号は操舵装置がアーヴ対応のものである。したがって、地上人出身の|家臣《ゴスク》たちには操舵できない。そして、ゆいいつの武装艇であり、性能も価格もほかの三隻を凌駕していた。
アーヴであることを忘れないように、一度はこの艇を駆るのが男爵の日課だ。
男爵は|空識覚《フロクラジュ》に連絡艇をとらえた。|第十一工場《ヨーズ・ロキュトナ》にむかっている。
|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》とちがって、反物質燃料工場は遠隔操作で爆破することはできない。|反物質燃料《ベ ー シ ュ》の密閉状態を解こうとしても、工場の|思考結晶《ダキューキル》はなにかの誤りと判断するだろう。
だが、燃料の搬出を抑えることはできるはずだ。もし彼の父親が力を貸していないのなら。
|男爵《リューフ》は|通話器《ルオーデ》をつけた。
「|管 制 室《シル・ブリューセガル》、きこえるか」
「はい、こちら|管 制 室《シル・ブリューセガル》ムイニーシュです」
「|第十一工場《ヨーズ・ロキュトナ》の遠隔管理は継続しているか?」
「そ、それが……」ムイニーシュはいいよどんだ。「なぜか、|管 制 室《シル・ブリューセガル》の機能が、その、不全状態に陥りまして、いっさいの制御を受けつけません。どうして|王女殿下《フィア・ラルトネル》にこんなことができるのか、まったく困惑しております」
男爵は黙って通話器をきる。
予想どおりだった。あの連絡艇には父親が乗っているのだ。そして、息子を危地に陥れた……。
男爵の唇に苦笑が浮かんだ。それを怨むのは甘えというものだろう。
男爵は愛艇の加速度を上げる。
彼もアーヴだった。いまさら|王女《ラルトネー》が話し合いに応じるはずのないことはよくわかっている。そして、彼のほうから膝を屈するという考えは、意識にのぼりもしなかった。
王女の乗った連絡艇はまもなく、恒星フェブダーシュをめぐる破片に変わるだろう。
あちらの艇に乗っているのは|翔士修技生《ベネー・ロダイル》の小娘、年老いたもと|造船技師《ファズイア・ハル》、それに軍の訓練を受けていない地上人の小僧っ子。
それに比べて、|男爵《リューフ》は予備役ながられっきとした|十翔長《ローワス》である。実戦経験はないが、模擬戦闘についてはじゅうぶんに経験を積んでいる。
艇の性能でもこちらのほうがわずかに上回っているはず。
負けるはずがない。
二隻の小型艇の距離は刻々と縮まりつつあった。
やがて、射程距離――目標の推進排気や星間物質で減衰しても、|凝集光《クランラジュ》が致命的な損害を与えられる距離まであと一息のところまできた。
男爵は肘掛にとりつけられた|凝集光銃《クラーニュ》の銃爪に指をかける。
「さらば、父上……」男爵はつぶやく。
頬に流れるものがあったが、彼は気づいていなかった。
ラフィールはちりちりするような危険を感じた。
――これは訓練じゃないんだ……。
めったに表にだすことはないが、アーヴであっても死ぬのは恐い。そのうえ、いまのラフィールはふたりの命を背負っている。
男爵の乗艇が迫っていた。もうそろそろ危険な距離だろう。
ラフィールは|制御籠手《グーヘーク》のなかで指を複雑な形にうごめかせた。八ヵ所にとりつけられた姿勢制御噴射口がうなりをあげ、連絡艇の航路をつねに変化させる。
――来た!
連絡艇の外部受容器が星間物質で散乱した|凝集光《クランラジュ》のかけらをとらえ、|空識覚《フロクラジュ》を経由してラフィールに伝える。
二条の|凝集光《クランラジュ》は連絡艇のすぐそばを掠めていった。
すかさず、ラフィールは航路を変更した。
また|凝集光《クランラジュ》が。
光速で突進してくる死をまえもって探知するのは不可能だ。いきおい、勘と勘の勝負になる。幸運がどちらに味方するか、それだけが勝敗を分ける。
いまのところ、幸運はラフィールに肩入れしていた。しかし、それもいつまでつづくかわからない。
――まだ遠い……。
ラフィールは目をつむって、|空識覚《フロクラジュ》に全神経を集中させた。
――もうちょっと、もうちょっと……。
浴びせかけられる|凝集光《クランラジュ》を避けながら、ラフィールは機会を狙う。一度きりの機会である。それを逃せば、二度目はない。
心臓が喉元までせりあがってくる。機会をとらえる前に|凝集光《クランラジュ》にあたってはもともこもない。
「行くぞっ!」
ラフィールは|制御籠手《グーヘーク》の一連の動きによって、|主機関《オプセー》を停止し、逆噴射口を全開した。
全開減速!
連絡艇の艇尾が|男爵《リューフ》の乗艇に斜めからつっこんでいく。
男爵艇の|凝集光銃《クラーニュ》の射線に重なりあうすんぜん、ラフィールは|主機関《オプセー》を噴射した。
男爵は気体の塊を|空識覚《フロクラジュ》でとらえた。くりだされる棒のように、柱状の霧がまっすぐ艇首に迫ってくる。
――いったい、なんのつもりだ?
男爵はいぶかった。たかが推進排気でこの乗用艇が傷つくものか。しかも、ずいぶん濃い排気だが、そのぶん温度は低い。
まったく無意味としか思えない。たしかに気体の塊は|凝集光《クランラジュ》にたいする盾にはなる。しかしわずか一瞬のことだ。推進排気はすぐ拡散してしまうし、乗用艇がつきぬけてしまえば、なんの役にもたたない。
男爵は|制御籠手《グーヘーク》のなかの指を全力加速の形にして、滝をさかのぼるように霧へ分けいった。回避する時間がないし、狙点を再確保するにはそれがいちばん迅い。
だが、推進排気と交差したとき、〈フェブダーシュの淑女〉号の外殻は白熱し、操舵室内は荒れ狂う放射能嵐に満たされた。
眼と|空識覚器官《フローシュ》に灼熱が走ったあと、なにも感じられなくなる。
聴覚はまだ生きていて、各種の警告音が喚きたてているのをきく。
|男爵《リューフ》はおのれの誤りを悟った。
推進剤に反物質を使う――浪費を意味するアーヴ語のいいまわしである。
|王女《ラルトネー》はそれを実行したのだ。効率はきわめて悪いが、|反陽子砲《ルニュージュ》の代用品になる。
「がぁっ!」
男爵の口から血がほとばしった。
絶命までの短い時間、男爵の心は王女への賛嘆の念でみたされた。
最大加速で星系外へ翔んでいく〈フェブダーシュの淑女〉号を見送って、ラフィールは連絡艇の軌道を|第十一工場《ヨーズ・ロキュトナ》へ変更した。
|反物質燃料《ベ ー シ ュ》のほとんどを男爵艇に叩きつけてしまったので、これから先はゆっくりした加速で進むことになる。
「終わったのかい?」座席の後ろからジントが上半身を突きだした。
「終わった」ラフィールはジントの顔を見あげた。急激な機動のあいだに、どこかでぶつけたらしく、眼のしたあたりに痣《あざ》ができている。
「殺したのかい、|男爵《リューフ》を?」
「うん、殺した」ぐったり疲れていた。自分の声がまるで他人がしゃべっているようにきこえる。「|交通艇《ポーニュ》は生きている。全力加速中だ。けれど、あのなかには生きた人間はいないであろ」ラフィールは、隣に坐る老人をむいた。「お悔やみ申しあげる、|前男爵《リューフ・レカ》」
「いえ、|殿下《フィア》。戦いでしたからな」前男爵はなんでもないことのように受けた。
「お悔やみ? それだけかい?」ジントの口調には怒りが含まれていた。
「なにを怒ってるんだ、ジント?」ラフィールは呆気にとられた。
「だって、きみは人を殺したんだぜ、それをひとごとみたいに……」
「殺さなかったら、こっちが殺されてた」
「それはわかっているさ! しょうじき、ぼくもほっとしている。けど、もうちょっと、すまなさそうにするとか……」
「なにをいってるんだ、そなたは!? なぜわたしがすまなさそうにしないといけない? わたしは義務を果たしただけだぞ。罪を感じるようなことなら、はじめからしない」
「それはそうだよ。ぼくは感謝しているんだよ、なぜって生命を救けてもらったんだからね。でも、信じられないんだ、きみがそんなに気軽に人の生命を考えているなんて……」
「わたしは気軽になど考えてない!」心外だった。異様な化物でもみるようなジントの眼に、胸のうちがかっとなる。このジントはいつものジントとはちがう人間のようだった。この青年に『ラフィール』と呼ばれることは耐えられそうにない。
「でも、きみはちっとも動転していないみたいじゃないか」
「どうして、わたしが動転しなきゃいけないんだ」
「それは、だって、人を殺したら、たいてい動転するもんだからだよ」
「動転して、なにかいいことがあるのか」
「そりゃないよ。けれど……」
「そなたのいってることは支離滅裂だ」ラフィールは決めつけた。
「わかってるさ、そんなことぐらい」ジントは認めた。「けどね、やっぱり冷静でいられないのが、人間として自然なんだと思う。いまのきみは……、ずいぶん冷たい感じがするよ」
「暖かい人間のふりをしたことなんかないぞ」ラフィールの気分はかなり剣呑になってきている。ジントのいいようはあまりに理不尽だった。やるべきことをして、なぜ取り乱さないといけないのだろう。
「でも……」
「もうやめなさい、|少年《ファネブ》」|前男爵《リューフ・レカ》が割って入り、「おまえさんが動転することはない」
そうか――ようやく腑に落ちた。なんのことはない、ジントが取り乱していたのだ。けれど――なにを取り乱すことがある?
「でも、ぼくは……」
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》が人を殺すのを見たくなかったんじゃろ?」笑いを含んだ声で、前男爵はいった。
「見た? ジントに見えたはずがない」
「ことばの綾ですじゃ、|殿下《フィア》。殿下が倅《せがれ》めの生命を奪った現場にいあわせたのですから、同じことです」
「でも、なぜジントは見たくなかったんだ?」
「それは本人にお訊きなされ」
ラフィールはジントに訊いた。「|前男爵《リューフ・レカ》のいったことはほんとか」
「う、うん。まあ、そうかな」ジントは視線をそらせて、頬を掻いた。
「なぜなんだ?」
「うーん、それはその……」
「いっておくが、あれは戦いだったんだぞ」
「そりゃ、わかっているよ」
「わたしが戦いに勝って、なにか不都合があるのか」
「とんでもない、敗けてりゃそれこそたいへんなことになっていたよ」
「じゃあ、なぜなんだ?」
「うーん、こたえにくい質問だな。ともかく……」ジントは頭を下げた。狭い空間ではなかなか難しい姿勢である。「ごめん。ぼくは無茶苦茶なことを口走っていたよ。きみは|軍土《ボスナル》なんだから、戦って恥じる必要なんかないんだ。それから、ありがとう。きみはぼくを守ってくれた」
ラフィールはジントをじっと見つめた。まだ質問の答えはもらっていなかった。しかし、それ以上は追及しないことにした。目の前にいるのは、彼女の知っているジントだったから。
「許してやる」ラフィールはそっけなく、「感謝するがよい」
「ああ、ありがとう」ジントは破顔した。
「さて」|前男爵《リューフ・レカ》は通話器をいれた。「話のまとまったところで、わしは|所領《スコール》を掌握させてもらうとしますわい」
前男爵の言動には翳りがなかった。息子が死んだことを悲しんでいるようすはない。
だが、通話器を握りしめて、前男爵がつぶやいたことばを、ラフィールは聞き逃さなかった。
「馬鹿息子……」そのひとことには深い悲嘆がしみこんでいた。
ちょろいわ。セールナイは思った。
|円扉《ボード》がなくなっているという最悪の場合を考えていたのだが、取り越し苦労だった。円扉口がぽっかり開いたその横に、見るからに重そうな円形の金属扉がひっくりかえり、人工重力で城館の天井に押しつけられている。周囲四ヵ所に黒焦げたあとがあって、緊急開扉されたことを示していた。
ひざまずいて、|円扉《ボード》を検分し、裂け目や割れ目がないことを確認した。立ちあがって後ろをふりかえる。
四人の臨時助手がいた。慣れない|与圧服《ゴ ネ ー 》を着て、不機嫌そうだ。彼女たちが与圧服を着るのは年に二回の防災訓練のときぐらいなのだから。それも、ほんとうに真空に出ることはない。日常的に真空作業をこなすセールナイとは場数がちがう。
|男爵《リューフ》の愛人たち三人は一枚の鋼板を運んでいた。本来の扉が回収できなくなっていた場合に、漏出口をふさぐためのものである。もちろん、同じふさぐなら、本来の|円扉《ボード》のほうが何倍もすぐれていた。
もうひとりの臨時助手、|家 政 室《バンゾール・ガリク》のアルサは彼女たちの後ろにいて、大きな筒状のものを背負っていた。|気密膠剤《ディーブ》の容器である。
「鋼板は捨てていいわ」セールナイは無線で臨時の助手たちに伝えた。
「捨てるって、どこへ?」助手のひとり、ふだんは|男爵《リューフ》の|衣装係《ダウシャセール》をしているクニューサが訊いた。
「どこでもいいわ。そのへんに」とセールナイ。どうしてそんなこともわからないの、おばかさん。
|家臣《ゴスク》たちは無言で鋼板を置いた。
「代わりにこれを運んで」セールナイは|円扉《ボード》を指す。
三人は|与圧服《ゴ ネ ー 》着用時特有のぎくしゃくした動きで|円扉《ボード》に近寄ったが、なかのひとりがふりかえった。
「あんたも手を貸しなさいよっ」とセムネの声がセールナイの|与圧兜《サプート》に反響した。
「黙って、さっさとしなさい」セールナイはとりあわない。「こうしているあいだも、空気はどんどん漏れているのよ」
「あんたの大事な|王女殿下《フィア・ラルトネル》のおかげでね」ルルネがぽつりという。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》のことを悪くいうのは許さないわよ」セールナイは腰に手をあてがった。
「許さなきゃどうだっていうのよ」セムネは挑むように、「|ご主君《ファル・ローニュ》が帰ってくるまで、憶えてなさい、セールナイ」
「ええ、憶えておくわよ」セールナイはたじろがない。
「まあ、いまは仕事しましょうよ」クニューサがとりなす。
「ものわかりがいいのね、あんたは」セムネが苛立たしげにいった。
それでも、三人は作業をはじめた。|円扉《ボード》を持ちあげて、セールナイの指示するまま、希薄な微風《そよかぜ》の吹きでる扉口にはめこんだ。
「アルサ!」とセールナイ。「|気密膠剤《ディーブ》を貸して」
「あ、はい」アルサは容器をおろして、さしだした。
セールナイは受けとって、放出口を|円扉《ボード》の周縁部にむけ、弁を開いた。白い|膠剤《ディーブ》が円扉と扉口の微細な隙間をふさいでいく。
ほんとうなら、溶接をしないといけない。この下の区画が正常気圧に戻ったときには、|気密膠剤《ディーブ》ではもたないだろう。けれども、素人に溶接させるわけにはいかないし、かといってこれだけの範囲をセールナイひとりで溶接するのは重労働だった。もともと、セールナイは真空溶接が得意ではない。
もうちょっと事態が落ちついて、本格的な補修ができるようになるまで、大気循環系の可能なかぎり、隠居区画を低い気圧に保っておく必要がある。
「もう、あたくしたちは失礼してよろしいかしら?」てもちぶさたなセムネが皮肉っぽく訊いた。
「だめよ」セールナイはにべもない。助手はもう必要ないのだが、自分が作業をしていてセムネたちが寛いでいるというのは気に入らない。
「ばかばかしい!」セムネは怒りを爆発させた。「もういてもすることないんでしょっ。帰りましょうよ、あとはこの修理屋さんに任せてさ」
「ふん、勝手にすれば」セールナイは吐き捨てた。
「ええ、そうさせてもらうわよ」とセムネ。「真空は息がつまるもの」
「当たり前じゃない、ばか」
|男爵《リューフ》の愛人たちは帰りかけた。
そのとき、領内共通周波数にのって、セールナイのきいたことのない男声が響いた。
「こちらは|フェブダーシュ前男爵《リューフ・レカ・フェブダク》じゃ。わが|所領《スコール》の|家臣《ゴスク》たち、ききなさい。倅《せがれ》、アトスリュア・スューヌ=アトス・|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》・クロワールは死んだ。戦死じゃった」
「嘘よっ」セムネの金切り声が放送にかぶさった。
|前男爵《リューフ・レカ》にきこえたはずがない。領内放送はつづいた。
「まことに残念じゃ。わしにはあまりいい倅ではなかったが、それでも倅にはちがいなかった。そなたたちの主君であることはいうまでもない。みなにもそれぞれの感慨はあるじゃろう。もし|所領《スコール》を去りたいのなら、止めはせん。亡き|男爵《リューフ》への忠節を感謝しつつ、できるかぎりの援助を与えよう。ほかの|諸侯家《ヴォーダジェ》や|帝 国《フリューバル》機関へ移りたいとあれば、なるべくの力添えをする。|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》へおりたいのなら、一時金を出す。そのほか、おのおのの考えにそって、最大限の手助けをしよう。もちろん、このまま所領にとどまり、再建を手伝ってくれるのなら、おおいに歓迎する。じゃが、それは先の話じゃ。みなも知っておるじゃろうが、いま、帝国領は侵犯されておる。それもすぐ解決するじゃろう。わしは|星界軍《ラブール》を信じておる。みなも信じろ。そして状況が正常に復するまで、わしの統治を受け入れてほしい。そののち、|後継者《ゴルキア》を含め、みなと所領の将来を決するつもりじゃ」
セールナイはいっしゅん手を止めただけだった。あとは放送をききながしながら、もくもくと手を動かす。放送が終わると、無線を切ってしまった。だれかの啜り泣きが雑ざり、うっとうしいからである。
|円扉《ボード》の密封がおわった。
セールナイは立ちあがる。
|男爵《リューフ》が死んだ? 関係ないわ。だって、わたしは|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》の|家臣《ゴスク》になるんだから。
連絡艇の操舵室では一騒動が持ちあがっていた。
「間に合わないってどういうことだい!?」ジントは驚きのあまり声を荒らげた。
連絡艇の加速は一|標準重力《デ モ ン》ぐらい。あいかわらずジントは|気閘室《ヤドベール》の扉に坐りこんでいた。
「ことばどおりの意味だ」ラフィールは説明した。「いまの戦いでほとんど燃料を使ってしまった。だから、加速があまりできない。とうぜん、時間がかかる。最適軌道をとっても、敵のスファグノーフ到来にむこうの時間で六時間の遅れをとることになるんだ」
「こんなときによく冷静でいられるなぁ」ジントにはまだラフィールの性格がよく理解できない。「なにかっていうと、すぐ怒るくせに」
たちまち、ラフィールの眉の端がきりきりと上がった。
「ほら、怒った」
「わたしの落ちつきがそんなにじゃまか、そなたは!?」
「そうじゃないよ」
「じゃあ、なんなんだ?」
「つまり……」じつはジントにもわからなかった。なぜラフィールの冷静さが気に障るのか。
けれども、ほんのちょっとの自己分析で答えが見えた。
結局のところ、ラフィールが危機にあっても沈着なのに劣等感を刺激されるのだ。これが、たとえば|フェブダーシュ前男爵《リューフ・レカ・フェブダク》のような年上の人間が相手なら、むしろ頼もしく思うだろう。だが、年下の少女に庇護者の役割を求めるのは……。アーヴほどでないにしろ、ジントにも自尊心という厄介な代物があった。
「まあ、おふたりとも」|前男爵《リューフ・レカ》が会話に割りこんで、ジントを救った。「そんなことよりも、これからどうなされますかの、|殿下《フィア》? あくまでスファグノーフへいらっしゃるおつもりですかな」
「それがわたしの任務だ」ラフィールはいった。
「下手をすると、戦いの真っ最中に飛びこむことになりかねませんぞ」前男爵は噛んで含めるように、「そのことはお考えのうえでしょうな。もしお望みならば、騒動は完全におさまっておりませんゆえ、じゅうぶんなおもてなしはいたしかねるでしょうが、しばらくお留まりあってもよろしゅうございますぞ。むろん、いらっしゃるとおっしゃるなら、倅《せがれ》めの真似をするつもりはありませんがの」
「そなたの好意はありがたい、しかし……」ラフィールはふと心づいたようにジントを見た。
「そなたはどう思う?」
「うーん」ジントは答えにつまった。
敵艦隊よりあとに着くことがわかっているのに、先を急ぐのはばかげている。|前男爵《リューフ・レカ》のいうとおり、戦場に到着することになりかねないし、もし戦闘が|帝 国《フリューバル》の勝利に終わったあとなら、やはり急ぐ必要はない。もし敵が勝利したあとなら最悪だ。
だが、|男爵領《リュームスコル》からは一刻も早く離れたかった。論理的な理由というより、感情的なしこりに因るものだった。
「ぼくは荷物なんだろ」とうとうジントは考えることを放棄した。「意見なんかないさ」
「そなたも意外としつこいなっ」
「ごめんよ。でも、わからないんだ」ジントは白状した。「まあ、どちらかというと、ここにいたほうが利口なような気がするね」
「そうか」ラフィールも決めかねるようすである。「|前男爵《リューフ・レカ》は留まったほうがいいとお思いか?」
「正直に申しますと、わたしにもわかりません、|殿下《フィア》」
「そんな、|閣下《ローニュ》っ」ジントは叫んだ。「無責任な!」
「無責任?」|前男爵《リューフ・レカ》は肩をすくめ、「冷たいことをいうようじゃがな、|少年《ファネブ》、わしはおまえさんや|殿下《フィア》に責任は負っとらんよ。それにな、この同時性の崩壊した宇宙には、あとになってみんと評価できんことがあるんじゃよ。敵はこの|男爵領《リュームスコル》にも来るかもしれん。もしかしたら、スファグノーフで撃退されたあとにな。そのとき、はっきりいって男爵領はおまえさんたちを守ることはできん。スファグノーフへ行くことが正解、ということもありえるんじゃ」
「じゃあ、なぜ留まれなんて勧めたんです?」
「わしはなにも勧めとりゃせん、|少年《ファネブ》。ただわしの意志を伝えただけじゃ。ここに逗留するなら歓迎するし、出発するなら引き止めない、とな。あとは|殿下《フィア》やおまえさんの判断じゃ」
「わたしは行く」ラフィールは決然と、「止まるか進むか迷ったときは、進めと教育された」
「そう……」それもいいな、とジントは思った。
「そなたはどうする?」ラフィールは思いがけない問いを発した。
「どうするって……」
「希望するなら、この|男爵領《リュームスコル》でおろす」
「冗談じゃないよっ」ラフィールと別行動をとることなど考慮にいれていなかったジントの胸に、わけのわからない怒りが湧いた。「きみの荷物なんだから、ちゃんとスファグノーフまでもっていってくれっ」
「そなたもすぐ怒るじゃないか」ラフィールは微笑んだ。
とってもうれしそうな微笑だ――すくなくともジントはそう思いたかった。
4 |旅立つ者たち《レブラテシュ》
|推進剤《ビ ー ズ 》にはかなり余裕があったので、|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》で補給すると、|連絡艇《ペ リ ア 》は全力加速で|男爵館《リューメクス》に引きかえした。
ラフィールは減速しながら|宇宙港《ビドート》に接近した。
連絡艇に割り当てられた|埠頭《ベ ス 》に着床する。
いつもの着床とはちがい、着床脚が連絡艇のほうではなく、埠頭のほうについているのだから、やや難しい。だが、|思考結晶《ダキューキル》の支援と|空識覚《フロクラジュ》のおかげで、船体に傷ひとつつけることはなかった。
「ここから入るのは得策とはいえませんぞ、|殿下《フィア》」|前男爵《リューフ・レカ》が警告した。
「なぜ?」
「倅《せがれ》めと行動をともにしていた|家臣《ゴスク》どもがいましてな」前男爵は説明した。「おそらく忠義な連中でしょう。なにかの意図をもって、このしたに集合しております。ですから、閉じこめてやりましたんじゃ」
「何人?」
「ええ、一一人ですな」|前男爵《リューフ・レカ》は画面を睨みながら、「|家臣《ゴスク》の五分の一ですわい。たぶん武装しておるでしょうから、わが|男爵領《リュームスコル》史上最強の軍隊というべきでしょうな」
「まさか戦うなんていいださないだろうね」不安そうにジントがいった。
「わたしをなんだと思ってるんだ?」ラフィールは不快だった。「べつに戦うのが好きなわけじゃないぞ。しかたないときにしか戦わない」
ジントの眼に浮かんだのはあからさまな不信だ。
「心配するな、|少年《ファネブ》」前男爵がなだめるように、「アーヴはいったん戦うときには徹底的に戦う。戦いがはじまれば、取引や妥協はありえん。行きつくところまで行ってしまうんじゃ。それだけに戦いの恐ろしさをよく知っておる。じゃから、なるべく戦いは避ける」
「そうでしょうか……」
「歴史をひもといてみろ、|少年《ファネブ》。|帝 国《フリューバル》のほうからいくさをしかけた例《ため》しはない」
「そんなことはないでしょう。げんにぼくの星系は|帝 国《フリューバル》の存在なんて知りもしなかったんですよ。それなのに帝国は武器をむけてきたんです」
「おまえさんの星系? |ハ イ ド 伯 国《ドリュヒューニュ・ハイダル》のことか?」
「ああ、そうか。|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》はご存じないんだ。ハイドというのは人類社会から孤立した星系だったんですよ。ほんの七年前まで」
「なるほど」老人はうなずいた。「おまえさんの家の歴史がおぼろげにわかってきたぞ」
「まあ、そんなことはともかく……」
「気を悪くせんでほしいのじゃがな、|少年《ファネブ》、|帝 国《フリューバル》は星間国家しか相手にせん。星間国家との戦争はまったく無慈悲に遂行するが、|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》を相手にするときにはやたらと思いやりにあふれておる。めったに地上戦もせんじゃろ。まあ、はっきりいって見くだしておるのじゃろうな。文字どおり、宇宙から。喧嘩相手にならんのよ」
「複雑な気分ですね」そういいながらも、ジントはようやく安心したようだった。
ラフィールは疎外感を覚え、「そなたたちもアーヴなんだぞ。どうしてそう他人事みたいにいうんだ?」
「|殿下《フィア》」|前男爵《リューフ・レカ》はうやうやしくいった。「わしはアーヴたることを学んで、ようやくアーヴになりました。この少年、いや、青年というべきですかな、|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》はいまアーヴになることを学んでおられるのです」
「ぼくは慣れなきゃいけないことがいっぱいあるんだ」ジントも口を出した。
「でも、不愉快だ。わたしを珍しい動物かなにかみたいに論評するなんて!」
「申しわけありませんな」
「ごめん」
まるで誠意が感じられない。
「ほんとに不愉快なんだぞ」と念押しした。
「わかってるって」
「とにかく、|殿下《フィア》」|前男爵《リューフ・レカ》が口を挟み、「|領 主《ファピュート》専用|埠頭《ベ ス 》のほうへ艇をまわしていただけませんかな。そこなら、だれもおりません」
「わかった。|管制機能《ブリューセラジュ》はそなたの手にあるのか」
「それはもう、しっかりと」
「じゃあ、着床脚を切り離してくれ」
「よろしゅうございますが、この|端末《ソテュア》では時間がかかっていけません。それより|管 制 室《シル・ブリューセガル》に機能を返してやりましょう」
「だけど……」
「むろん、連中がわしに従うとしての話でございます」
前男爵は|通話器《ルオーデ》をとりあげて、|管 制 室《シル・ブリューセガル》につないだ。短いやりとりで|管制室主任家士《アルム・ブリューセガ》ムイニーシュの忠誠をとりつけると、前男爵は一連の操作をした。
「信頼できるのか」
「なに、言をたがえたなら、またとりもどすだけのことですわい」
ラフィールは肩をすくめ、「|フェブダーシュ男爵領管制《ブリューセ・リュームスコル・フェブダク》」と呼びかけた。
「はい、こちら|管制《ブリューセ》」
「離床許可を求める」
「許可します。いつなさいますか」
「ただちに」
「了解。着床脚の拘束を解きます」
連絡艇の着床脚をつかんでいた連結器がはずれた。
ラフィールは館内図を組みこんだ|空識覚《フロクラジュ》で|領 主《ファピュート》専用埠頭の場所をたしかめ、低速噴射で|男爵館《リューメクス》の屋上を這い進んだ。
「|フェブダーシュ男爵領管制《ブリューセ・リュームスコル・フェブダク》」
「はい」
「|領 主《ファピュート》専用|埠頭《ベ ス 》への着床と埠頭での|推進剤《ビ ー ズ 》補給を希望する。許可を求める」
沈黙があった。画面に映る顔は苦悩の色が濃い。
「許可します」ようやくムイニーシュはいった。「誘導をお望みですか?」
「いい」ラフィールは断った。まだ|男爵《リューフ》の旧臣を完全には信頼できない。それに|空識覚《フロクラジュ》をもった|操舵士《セーディア》にとって、この超短距離航行は支援を必要としないものだった。
ほんの一分とかからず、ラフィールは男爵が愛用した埠頭に着床した。ただちに|推進剤《ビ ー ズ 》が自動補給された。
「それでは|殿下《フィア》」|前男爵《リューフ・レカ》は立ちあがって、一礼した。「わたしは|城館《ガリューシュ》の混乱を治めにまいります。道中どうかご無事でありますよう。またいずれご挨拶にまいります」
「うん」ラフィールはうなずいた。「わたしに味方してくれたものたちがいる。|家臣《ゴスク》セールナイ、あるいは|家臣《ゴスク》アルサといった者たちだ。そのほかにもいるかもしれない。あの者たちに伝言があるんだ。伝えてもらえないか」
「それはもちろんかまいませんが」|前男爵《リューフ・レカ》は提案した。「それより、|王女殿下《フィア・ラルトネル》がその旨をおしたためなされたほうがよくありませんかな」
「そうだな」ラフィールは提案を受けいれ、|端末腕環《クリューノ》に|記憶片《ジェーシュ》を挿入する。
いっぽう、前男爵はジントに手を差しのべた。
なにをしているのだろう、とラフィールが見守っていると、|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》は驚いたように老人の手を見て、握りしめた。
「じゃあな、|少年《ファネブ》。暇があればまたくるがいい。|ハイド伯爵家《ドリュージェ・ハイダル》の創設譚をきかせてくれ。代わりに、わしがアーヴとしての心構えをゆっくり教えてやる」
「ええ。ぜひとも」
「できれば、子どもをつくる前にな」と前男爵は片目をつむった。
「はい」とジントも笑顔でこたえる。
前男爵がちらっとこちらを見た。
ラフィールはするべきことがあるのを思いだして、|端末腕環《クリューノ》を口元に寄せる。
「|家臣《ゴスク》セールナイ、|家臣《ゴスク》アルサ、そのほか、名を知らないが、わたしに協力してくれた|帝国国民《ルエ・レーフ》たち。わたし、|翔士修技生《ベネー・ロダイル》、アブリアル・ネイ=ドゥブレスク・|パリューニュ子爵《ベ ー ル ・ パ リ ュ ン》・ラフィールは、|帝 国《フリューバル》とわたし自身のため、そなたたちに感謝する。いまはそなたたちを連れていくことはできない。だが、わたしが約束を忘れたなどと思わぬがよい。状況の許すかぎり早くそなたたちの望みをかなえに戻ってくる。そなたたちの好意に報いるために戻ってくる。それまで待ってくれるよう伏して頼む」
記録しおえると、腕環から|記憶片《ジェーシュ》を抜きだし、|前男爵《リューフ・レカ》に手渡した。「よろしく頼む」
「たしかにお預かりいたしました」前男爵はていねいに|記憶片《ジェーシュ》を|長衣《ダウシュ》の|隠し《モスク》に収めた。
「では、|前男爵《リューフ・レカ》。つぎに会うまで壮健でおられるように」ラフィールは敬礼した。
「|殿下《フィア》も」前男爵は短く別れをつげ、|気閘室《ヤドベール》の扉に消えた。
|気閘室《ヤドベール》の接岸側扉が開き、また閉じた。前男爵が連絡艇を去ったのだ。
それを確認して、ラフィールは管制室を呼びだした。「離床ののち、領外へ去る。許可を願う」
「許可します」鬱屈したムイニーシュの声。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、いろいろございましたが、どうか事情をお察し願わしゅう……」
「わかってる」ラフィールは通話を打ち切った。冷たくしているのではなく、|管制官《プリューセガ》の口調が痛ましく、きくのがいやだったのだ。
ラフィールは|制御籠手《グーヘーク》をはめなおし、離床作業をはじめた。
「思わず長居をしてしまったね」といいながら、ジントが副操舵士席に腰をおろした。
「うん。ほんとに」とラフィールは応じた。
連絡艇を離床させた。艇首を|フェブダーシュ門《ソード・フェブダク》と軌道交差する方向へむけ、加速する。
「あっ」ラフィールは小さく叫んだ。
「なに? どうしたの?」
ラフィールは朱色の絹で覆われている膝を見おろした。「|長衣《ダウシュ》。返そうと思ってたのに」
「じゃあ、戻る?」
ラフィールはぞくりと身体をふるわせて、「そんなみっともないことができるか。あれだけ大仰な別れのあいさつをしたのに」
「なるほど」ジントはしかつめらしくうなずいた。
「ところで、ジント」
「なに?」
「さっき|前男爵《リューフ・レカ》と手を握りあってたであろ。あれはなんなんだ? なにかの性的倒錯か」
「なんてこというんだい! ちがうよ、ぼくの故郷のあいさつだよ。|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》が知っているとは思わなかったな。そういえば、起源は地球時代からだってきいたことがある。あんがい、あっちこっちの|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》に残っているのかもしれないなあ」
「ふうん」なにかがひっかかる。しばらく考えて、思いだした。「けれど、ジントの故郷のあいさつは跳びすさるんじゃなかったのか?」
「跳びすさるだって!? そんなへんなあいさつ、知らないよ」
「でも、ジントがそういったんだぞ」
「え?」
「ほら、最初に会ったとき」
「そうだったっけ……。あっ」ジントははっとした。「ああ、あれか」
「そなた、嘘をついたのか」
「嘘だなんて、そんなたいそうなものじゃないよ」
「いっておくが、わたしは嘘をつかれるのが嫌いだ」
「奇遇だなぁ。ぼくもだよ」ジントは弱々しく同意した。
「じゃあ、あれはなんだったんだ、ほんとうは?」
「ああ、それね……」ジントはうつむいた。
脂汗をたらしているジントの横顔に、ラフィールは意地悪い視線を注ぎ、「スファグノーフまでの話題ができたな。気のきいたいいわけを考えるがよい」
「ああ。努力するよ」蚊の鳴くような声で、ジントはいった。
けっきょく、納得できる説明は受けられなかった。
5 |スファグノーフ門《ソード・スファグノム》
ジントは|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》を食べていた。棒状に焼きかためられたなにかである。きっと栄養はあるのだろう。味も一食ごとにちがって、多彩だ。けれども、アーヴ好みの薄味であることは共通している。
もううんざりだった。
|従士《サーシュ》はなにか文句をいわないのだろうか、とジントは思った。それとも、マルティーニュやデルクトゥーに住む人間の舌がとりわけ鈍感なのだろうか。
|前男爵《リューフ・レカ》に食物を分けてもらえばよかった、と悔やむ。つい混乱に紛れて忘れてしまったのが惜しい。
ジントは|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》をほのかな甘味のある飲料で流しこんだ。
「ジント、|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》が識別圏にはいったぞ」ラフィールがいった。
「そう」あとで片づけるつもりでジントはゴミを空間に置いた。無重力の室内で、ゴミは頼りなげに浮く。「どんな具合?」
「まだわからない」ラフィールは画面を凝視した。「いくつか|時空泡《フラサス》がある。これが敵か味方か……」
「敵だったらどうする?」訊いてもしかたのないことは百も承知だが、尋ねずにはおられなかった。
「もちろん、突破する。いまさら引き返すにも燃料が足りぬ。そうであろ」
「同意を求められても……。きみがそういうんなら、そうなんだろうね」無力であることを思い知らされるのは、これで何度目だろう?
「あと七時間で|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》に突入する予定だ」
「暖かく迎えられると、いいんだけどね」
「思いっきり熱く迎えられるかもしれない」
「きみってほんとに……」
「人の気持ちを明るくするのに長けているであろ」ラフィールはすまして受けた。
「まったく」ジントはゴミを弾いて、塵芥投入口への軌道を描かせる。しかし、見事にはずれたので、|座席帯《アピューフ》をはずして、回収しなければならなかった。
約二時間後、|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》周辺のようすがはっきりしてきた。
いびつな螺旋――|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》の近くを二〇あまりの|時空泡《フラサス》がうろついている。
「まずいな」|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》の出ている画面をラフィールはこつこつと指先で叩いた。
「なにが?」
「ジント、悪い報せだ」
「ああ、やっぱりね。もうその先はいわなくていいよ。でも、どうしてそう思う?」
「この行動様式は|星界軍《ラブール》のものじゃない。星界軍が警戒してるんなら、もっと優雅な陣形を組む。もちろん、|輸送船《イサーズ》とも思えない」
「なるほど」ジントは『優雅な陣形』とはいかなるものか、思い描こうとした。
無理だった。
――まあ、いいさ。運がよければ、|主計修技館《ケンルー・サゾイル》で教えてくれるだろう。
「ラクファカールに着くのはもっと遅れそうだね」ジントは溜息をついた。
そして、〈人類統合体〉の捕虜収容所の住み心地はどうだろう、と考えをめぐらせた。
やがて、|時空泡《フラサス》に変化が起こった。そのうちのひとつが|連絡艇《ペ リ ア 》にむかってくる。その速度はひどくのんびりしていた。
「かなりの大質量だな」ラフィールは落ちついていた。
「じゃあ、避けるのは簡単だね」
「あれはな」
「よかった」その|時空泡《フラサス》から逃れたところでさほど事態が好転するとは思えない。だが、〈人類統合体〉兵士の顔を見るのは、さほど待ち遠しくなかった。
「でも、あれは質量からすると|戦列艦《アレーク》の単艦|時空泡《フラサス》だぞ」とラフィール。
「それがどうしたの?」
ラフィールは軽蔑したように横目で見ただけだった。
ジントは思いだした――戦列艦というのは|機雷《ホクサス》をたっぷり積みこみ、敵に浴びせかける艦種だ。|通常空間戦《ダディオクス》なら|巡察艦《レスィー》の敵ではないが、|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》では最強だ。
画面のなかでは、連絡艇が青い輝点で、敵らしき|時空泡《フラサス》が黄色の輝点で表わされる。
じつにゆっくりとふたつの輝点の位置関係が変化していった。
一時間ほどかけて、黄色が青と|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》とのあいだに立ちふさがった。
青は愚直なまでまっしぐらにつっこんでいく。
「敵味方識別信号だ」ラフィールは|頭環《アルファ》のうえから|空識覚器官《フローシュ》あたりを押さえた。
「|帝 国《フリューバル》の?」ジントはかぼそい希望をこめて尋ねた。
「どこのかはわからないけれど、|帝 国《フリューバル》のでないことだけはたしかだな」
「たまには意表をついてくれよ」ジントは泣きたくなった。ぐっとその一歩手前でふみとどまり、「だましてやることはできないの。味方だって」
「よくそんな卑劣なことが思いつけるな」ラフィールは本気で感心しているようだ。
「どうせぼくは育ちが悪いよっ」ジントは拗ねた。
「とにかく、そんなことは無理だ」
「まったくぼくの予感はよくあたるな」
「来たっ」ラフィールは顔をしかめた。
「なにが?」なんであろうと、とてつもなく不吉なものにちがいない。
「停船命令だ。|停止状態《スコールタフ》をとらなければ、攻撃するといっている」
「もちろん、停まらないんだろうねぇ」
「そなたは停まってほしいのか?」ラフィールは驚きの表情を見せる。
「いや、とんでもない」とっさにジントは心と裏腹なことをいう。「確認しただけだよ」
しばらくして、ラフィールはつぶやいた。「そろそろ来るな」
今度ばかりは、さすがのジントも「なにが?」とは尋ねない。
黄色から三個の黄色い点が分離した。それらはひどく速い。連絡艇よりも。
みっつの黄色い輝点はぐんぐん迫ってくる。
その輝点の動きを眺めるうち、きゅうに捕虜収容所での暮らしが理想的な生活に思えてきた。
連絡艇は針路を保っている。
あきらめたんだろうか、とジントはラフィールの横顔をうかがった。
ラフィールは画面を凝視していた。画面の|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》には緑や赤の破線がいくつもあらわれていた。
とうとうラフィールは操舵装置に触り、連絡艇の|時空泡《フラサス》を横に滑らせた。
画面の青い点が進行方向を変更すると、やや遅れて黄色い点もくいっと曲がった。
――ついてこなくていいのにっ。
ジントは歯を食いしばる。
ほんとは泣きわめきたかった。リナの名を呼びたかった。
隣で懸命の努力をしているラフィールの姿が、感情の噴出をかろうじてジントに控えさせていた。
努力? いったいラフィールはなにを努力しているのだろう。逃げたところで|機雷《ホクサス》はついてくるし、いつかは追いつかれるというのに。
とうとつにラフィールの意図がわかった。|機雷《ホクサス》の燃料が尽きるのを待っているのだ。そのために機雷と邂逅するのをきょくりょく遅らせている。
同時に|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》に近づかなくてはならない。そうでなければ、戦列艦はまた機雷を発射するだろう。撃破されなくても、こっちの燃料が尽きてしまう。
――神さま、あなたが実在しているなら、早くこいつを空っけつにしてくださいっ。
胸の前で十字を切って、黄色い輝点を見つめた。もっと熱心に教会へ通っておくべきだった。もっと安らかな思いで死ねたかもしれないのに。
親玉の黄色から新たにみっつの点が分離した。
「だれが注文したんだ、こんなものっ」たまらず、ジントは叫んだ。
「これで勝てたかもしれないっ」ラフィールが弾んだ声を出す。
「どういうこと!?」
「燃料切れが近いんだ、だから新しい|機雷《ホクサス》を……」
ラフィールが息急き切って説明しているあいだに、もとからあったみっつの点は消滅した。
「やったぁっ」ジントは歓声を上げた。
だが、すぐに新しい|機雷《ホクサス》群のことを思いだし、気分は陰鬱になった。
「だいじょうぶだ。逃げこめるっ」
|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》はすぐそこである。
歪んだ螺旋が蜘蛛の巣のように思えた。青い輝点は、小鳥に追われる蝶だ。
ラフィールは|制御籠手《グーヘーク》を左手にはめた。
連絡艇が振動する。|機関《セ ー 》に点火した証だ。
そのあいだにも黄色い点は青い点の尾にくらいつき、しだいに距離をつめている。
ジントへの心遣いだろうか、壁に外部映像が映しだされた。|時空泡《フラサス》内表面の灰色。
つい後ろをふりかえる。
後方の一点から白光が噴きだしていた。白光の周囲には色彩がたゆたう。色彩はみるみる拡大していった。
おぞましいほどに美しい光景は、|時空融合《ゴール・プタロス》の兆しだ。
「戦闘加速に入る」とラフィール。
座席が寝台の形状に変化する。
灰色を彩る光は加速開始と同時に流れて帯のようになった。背中の方向から頭上にかかり、前方をとおって足元から背後にぬけて完結する、虻の輪。
|時空泡《フラサス》は独立した宇宙であり、その中心は|時空泡発生機関《フ ラ サ テ ィ ア》だ。時空泡発生機関がひとつしかないと、それが加速しても宇宙のなかでの位置が変わるわけがない。その場合、|時空泡《フラサス》が回転するように見える――その効果をジントは目にしているのだった。
それでも、きちんと加速を体感できるのがどうも納得がいかない。
「あいつ、|通常宇宙《ダ ー ズ》まで追っかけてくるんじゃないかな」六|標準重力《デ モ ン》からさらに高まりつつある加速に押さえつけられながら、ジントはいった。
「|通常宇宙《ダ ー ズ》でなら、こっちの加速性能のほうが上だ」
「ちょっと安心した」
いまにも黄色い点が青い点に重なろうとしたとき――
壁から灰色と虹の輪が消え失せた。暗黒と星の輝きがあたりを満たす。
|通常宇宙《ダ ー ズ》だ。
背後をふりかえる。|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》の|通常宇宙《ダ ー ズ》側、燐光を放つ球体が浮かんでいた。
「|機雷《ホクサス》は!?」
「あそこだ」|空識覚《フロクラジュ》でいち早く探しあてたラフィールが、ジントに教えた。
|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》から転位したとき、〈|門《ソード》〉のどこにあらわれるかはまったくの確率による。したがって、歪んだ螺旋の同じ場所から進入しても、球体の同じ場所に出現するとはかぎらない。
敵の放った|機雷《ホクサス》は見当ちがいの方向で|通常宇宙《ダ ー ズ》に現われつつあった。燐光のおかげでよく目立つ。
連絡艇をさらに追尾しようとしているが、その加速は嘲りたくなるほどゆっくりしている。
「やったね」ジントは歓声を上げた。「けれど、敵がいるんじゃないかい?」
「このあたりにはいない」
「へえ、間の抜けた話だな」〈|門《ソード》〉を押さえることの必要性はジントのような素人にもわかる。
「ほかで忙しいからだ。見るがよい」高加速のなかでラフィールは腕をもたげた。
ラフィールの指した先には、手をのばせば届きそうなところに浮かんでいる、青い球体――|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》唯一の有人惑星クラスビュールがあった。
惑星クラスビュールの夜の部分で光が生まれ、いっしゅんで消え去る。
「|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》にいた敵は外から来る|星界軍《ラブール》を警戒してたんじゃない。スファグノーフを封鎖してたんだ」
「戦闘継続中か」ジントはうめいた。
「うん」ラフィールはうなずいた。
「気のせいかな。惑星が前にあるように思うんだけど」
「当たり前であろ。われらはそこにむかってるんだから」
「だって、戦場だよ!」
「ほかにどこへ行く?」
「……。そ、それもそうだ」
|星界軍《ラブール》が勝つという保証はないのだから、ここでぼんやり待つのは得策とはいえない。だいいち、|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》からついてきた|機雷《ホクサス》は離されながらも、あとを慕ってきている。ひょっとしたら新たな敵が〈|門《ソード》〉から出現しないともかぎらない。
とはいえ――戦場に飛びこんでいくという考えは気に入らなかった。どうしようもなく気に入らない。
「|帝国星界軍《ルエ・ラブール》、応答願う。こちら|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉搭載|連絡艇《ペ リ ア 》!」ラフィールは音声のみの通信で呼びかけた。
なんどか呼びかけたあと、返答があった。
「こちら|通信艦隊スファグノーフ基地《ビュール・ドロクロニード・スファブノム》。|連絡艇《ペ リ ア 》、状況知らせ」
「|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉はイトゥーム五三三領域で正体不明の|時空泡《フラサス》群と遭遇。本艇は母艦の航行日誌および搭乗非戦闘員をともなって先行。ただいま当|侯 国《レーバヒューニュ》に到着」
「了解、|連絡艇《ペ リ ア 》。軍機保持のため、それ以上の詳細は通信することを禁じる」
「了解、|スファグノーフ基地《ロニード・スファグノム》。指示を請う」
「遺憾ながら、当|基地《ロニード》は貴艇を受け入れることはできない。独断専行せよ」
ラフィールは下唇を噛みしめた。「了解、|スファグノーフ基地《ロニード・スファグノム》。本艇はこれより独断専行する。|勝利を《サーソート》!」
「それは望み薄だな、|連絡艇《ペ リ ア 》」乾いた笑い。「だが……、|帝国には勝利を《サーソート・フリューバラリ・ア》!」
通信はきれた。
「敗けそうだってことなの?」ジントはたしかめずにはおられなかった。
「当然であろっ」ラフィールは興奮したようすで、「各|邦国《アイス》あたりに配備されてる軍は少ない。|通信基地《ロニード・ドロク》ひとつで、本格的な侵攻をもちこたえられるものかっ!」
「ごめん。ばかげた質問だったな」
「いや……」とラフィール。「すまない、ジント……。けっきょく、そなたを無事に送り届けることはかなわなくなった」
「べつにきみのせいじゃないさ」ほとんど機械的にこたえる。「で、敵の状況はどう?」
「遠い。けど、三隻、こちらにむかってる」
「三って数字がよっぽど好きなんだな、連中は」
ジントは前方を――感覚的には上だが――見やった。惑星クラスビュールはさらに大きくなり、視界をほとんど占めていた。
敵の姿は発見できない。
だが、昼の部分からゆっくりと離れていく糸のようなものがジントの気を引いた。
「なんだろ、あれ?」
「|軌道塔《アルネージュ》みたいだな」
「そうか、|軌道塔《アルネージュ》か……」
破壊された軌道塔は恒星スファグノーフの光をきらきらと受けて、回転していた。
「卑しいことをする。|軌道塔《アルネージュ》は軍事基地じゃないのに……」
「あの……」敵の品性よりも心配しなければいけないことがあった。「この|連絡艇《ペ リ ア 》は着陸できるの?」
「着陸?」ラフィールは首をめぐらし、ジントを見た。
「そうだよっ。|軌道塔《アルネージュ》がないなら着陸するしかないだろ」ジントはぞっとした。「できないのかい……」
「いや、できるはず[#「はず」に傍点]だぞ」
「はず!? はずだってぇっ?」
画面にアーヴ文字があらわれた。
ラフィールはそれを瞥見すると、「やっぱりできる」
「ちょっと待ってよ。ひょっとして、いまのいままで着陸することを考えていなかったの?」
「うん」後ろめたそうな表情でラフィールはうなずいた。
「それどころか、あの惑星におりることも考えていなかった?」
「うん」
「じゃあ、どういうつもりでこんなに急いでいるんだい?」くそっ、身体が重い。この加速はいつまで続くんだ……。
「戦いに参加しようと思って」
「どうやって!? これは非武装なんだろ。|男爵《リューフ》のときみたいにするつもりだったの?」
「そこまでは考えてなかった。けれど、なにかできるかもしれないじゃないか。げんに、いまも三隻の敵を引きつけてる」
「そりゃそうかもしれないけど――ぼくには自殺の一形態としか思えないな」
「たしかに軽率だった」ラフィールは目を伏せ、「そなたが乗ってるのに、相談もせず……」
「相談だって……」とつぜん、ジントは憤激の発作に襲われ、「こ、この大馬鹿者っ!」
ラフィールはかっと目を見開いたが、すぐ恥じ入ったように、「あしざまにいわれてもしかたないな。わたしはそなたの生命を軽視したんだから」
「ちがうよっ、ぼくの生命なんかどうでもいいっ! あっ、いや、どうでもいいことはない、すくなくともぼくは重大な関心を払っている。けど、ぼくのいっているのは、きみの生命のことだよっ」
今度こそ、ラフィールの|双眸《そうぼう》に怒りが宿った。「そなたを勝ち目の薄い戦いに巻きこもうとしたことは詫びよう。いかなる暴虐な報復さえ甘んじて受けるつもりだ」
「暴虐な報復だって!」ジントはあえいだ。「ほくがきみに暴虐な報復をするなんて、本気で思ってるのかい……」
「けれど」ラフィールはきいていなかった。「わたしの生命のことで、そなたにとやかくいわれる筋合いはないぞっ!」
「ああ、筋合いはないだろうよっ」ジントは喚いた。「けれど、ぼくはいいたいことはいうぞ。やたら長い寿命をもっているくせして、どうしてそう死に急ぐんだ? すこしは生きのびることを考えろよ、ラフィール!」
「死に急いでるわけではないぞ」
「そうとしか思えないよっ。しかたないときにしか戦わないっていったじゃないか、あれは嘘だったのか?」
「もう戦いは始まってるんだ。ここは戦場なんだぞ、ジント。|軍士《ボスナル》が戦場にいればやることは決まってるであろ」
「ああ、そうかい。戦いたいなら戦えばいいさ。けど、ぼくはまだ|軍士《ボスナル》じゃないんだからね、あの惑星におろしてもらうからな!」
「わかった! どうせそなたなど戦場にいても役には立たないんだからっ」
「きみだって同じだろ、このちっぽけな|連絡艇《ペ リ ア 》でなにをしようっていうんだい!?」
ふたりは睨みあった。
先に視線を外したのはラフィールだった。「すまない、ジント」
「今日は人生最良の日だね」ジントは緊張を解いて、「|王女殿下《フィア・ラルトネル》に二度も謝罪されるなんてさ。|貴族社会《スイームフェ》でも自慢できるだろうな」
「からかうな、ジント。でも……、そなたが正しいな。わたしがこの|連絡艇《ペ リ ア 》で戦ったところで、なんの役にも立たない。そなただけじゃない、わたしも役立たずなんだ……」
「それも、きみのせいじゃないよ」ジントは慰めた。「前にもいったろ。きみはぼくには役に立っているんだし、そのことは感謝している。ほんとだよ。ぼくはいまのところただの役立たずだけど、いつかはだれかが頼ってくれるかもしれないね。そのときまでは生きていたいし、きみにも生きていてほしいんだよ」
「うん」ラフィールは短くこたえた。
怒りとともに恐れも去ったらしい。さっきまでしめつけられるようだったジントの心臓が穏やかに脈打っている。
――まあ、なるようになるさ。
ジントは覚悟を決めた。
アーヴの流儀にしたがって、生きのびたときのことだけ考えよう。
すくなくとも、宇宙空間での死はすみやかに訪れ、長引く苦痛とは縁がない。
いっそ眠るか気を失うかしたらどうだろう? 加速はつらいし、目が醒めたら天国にいたというのも、なかなか浪漫的な体験かもしれない。
が、あいにくと意識ははっきりしている。
しばらくして、呼び出し音が鳴った。
「|通信基地《ロニード・ドロク》かい?」
「ちがう。電波は前方の宇宙艦からきてる」
「敵か……。近い?」
「うん。かなり」
ジントは目を細めた。青い球体を背景に粒のようなものが光っている。あれが敵艦なのだろうか。
ラフィールは通話に応じた。
「パン・ドング・ゾプ・コス・リ・ジ。ネイク・ゴ・シェク……」ジントには理解できないことばが|通話器《ルオーデ》から流れでた。
「なに、これ?」
「〈人類統合体〉の公用語だ。加速を停止しないと攻撃する、といってる」
「わかるの?」
「うん、|修技館《ケンルー》で習う。そなたも|主計修技館《ケンルー・サゾイル》で習わされるぞ」
「うんざりだな。やっとアーヴ語を覚えたっていうのに」
「心配するな。これは覚えやすい言語だ。その代わり……」ラフィールはさも嫌そうに顔をしかめて、「潤いのない言語だぞ。優美さでは、アーヴ語と比べることさえおろかだ」
「かもね」ジントは理解できない言語に耳を澄ました。同じことをくりかえしているようだ。
ひとことも応じないまま、ラフィールは通話を打ち切った。交信する意志などはじめからなかったようだ。「すこしは変わったことをいうかと楽しみにしてたのに」
「面白みのない連中に殺されるのはごめんだな」
「わたしもだ」
やがて、敵の姿がはっきりした。敵艦は正三角形の頂点を占める形で並んでいる。
「ジント、いい報せがあるぞ」
「いい報せをきくっていうのは、久しぶりの体験だな。で、なに?」
「主戦場は惑星の裏側に隠れた。いま、われらの前にいるのはあいつらだけだ」
「すばらしい――でも、いつ裏側から新手が来るかわからないんだろう?」
「うん。でも、その可能性は低いぞ」
「じゃあ、恐いおじさんたちが席を外しているすきに、あの惑星にもぐりこもう」
「あいつらをかわしてからだ」
敵艦はみるみる大きくなっていく。
ふいに重力が喪失した。かと思うと、右側にずり落ちそうになった。
この感覚は|男爵《リューフ》との戦いで経験済みだ。無秩序噴射によって、連絡艇が敵の火線を避けているのである。
つかのま、右手の空間に閃光が走った。気のせいでなければ、敵の放った|凝集光《クランラジュ》か反陽子流が浮遊粒子と反応したのだろう。
いつ見ても、鳥肌立つ光景だった。
重力変化はめまぐるしい。|男爵領《リュームスコル》のときとちがい、固定されているのだから、すこしはましだろう、と思った――おおまちがいだった。
席に押しつけられ、吊り下げられ、逆さ磔にされ、右に左にゆさぶられ……。
――耐えろ、耐えろ。
ジントは胃の内容物がせりあがってくるのをこらえた。
こんなとき、操舵している者と同乗している者と、どっちがたいへんなんだろう?
敵艦が真上に見える。真下にもいた。もう一隻は左側だ。
敵艦との接近遭遇はあっけなく終わった。
ようやく重力変動がおさまったとき、ずっと後方に敵艦の|駆動炎《アソート》がちらついていた。
「た、救かったの?」
「うん。やつらが方向転換をしても、もう追いつけない」
「あんがいすんなり通してくれたね」
「知らないとは幸せなものだな」ラフィールは呆れたようすで、「ほんの二〇ダージュのところを|凝集光《クランラジュ》が掠めたんだぞ」
「あたっていたら、たいへんなことになっていた?」
「いまごろ、われらは一塊の|プラズマ《グ ノ ー》となって拡散してるであろ」
「文学的だな」ジントはそっといった。
ラフィールは通話器をつけた。相手がでるなり、「クー・リン・マプ・アス・タング・キプ!」と叫ぶ。
「なんていったの、いま?」
「わたしは乙女だぞ」ラフィールは怒ったように頬を紅潮させ、「そんなことがいえるかっ」
「ああ……。なるほど」
「そろそろ減速を始めるぞ、あまり騒がぬがよい」
天地が入れ替わった。上に|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》が見え、下に惑星クラスビュールがある。
「減速ってどのくらい?」
「相当な速度が出てるからな、けっこうきついぞ」
「お手柔らかに頼むよ」
「お手柔らかにして、大気圏で燃え尽きたほうがよいか?」
「暑いのは苦手だ」
「ならば、耐えるがよい」
減速が始まった。それまでの加速など問題にもならない。
座席がやわらかく身体を受けとめているものの、肋が押しつぶされそうだ。手足の先に血が通わない。目の前が赤くなってくる。
ジントは歯を食いしばって我慢する。
ちらっと横をうかがうと、さすがのラフィールの顔にも汗がにじんでいた。
どれだけの時間が経っただろう。
きゅうに映像が消失した。星空も青い球体もなくなり、ただ乳白色の壁が残された。同時に身体が軽くなる。
「ど、どうしたの?」
「心配するな。艇体を切り離しただけだ」
「だけ[#「だけ」に傍点]だって!?」
「|反物質燃料《ベ ー シ ュ》を抱いたまま大気圏に突入するわけにはいかぬであろ。人の迷惑も考えないとな」
「でも、艇体を切り離すなんて……」アーヴらしく過激だな、とジントは思った。
「|連絡艇《ペ リ ア 》は、もともと着陸するようにはつくられてない」ラフィールは早口で説明した。「着陸するというのは、緊急脱出と一緒なんだ」
「着陸できるのかい、艇体なしで?」
「艇体があったら、着陸できない」ラフィールは苛立たしげに、「わたしだって恐いんだぞ、着陸するのは初めてなんだから!」
「は、初めてだって!?」
「いったであろ、|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》には行ったことがないんだ」
「でも、訓練ぐらいは……」
「模擬訓練だけした」
「どっちが恐いんだ、着陸するのと|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》と?」
「両方だっ!!」
じつに納得できる答えである。ジントは口をつぐんだ。不安に耐えるのは孤独な作業だ、ラフィールのじゃまをするのはやめにしよう。
振動が始まった。
惑星クラスビュールの大気が手荒く連絡艇――の一部――を受けとめているのだ。
しだいに激しくなっていく振動のなかで、ジントは、外が見えないのは幸いだな、と思った。
やがて、振動はおさまった。
座席が寝台から椅子へゆっくり変形する。
奇妙な浮遊感がジントの心になつかしさを呼び覚ます。ずっと昔、一度だけ軌道塔から地表におりたとき感じたのと同じ浮遊感だ。
――そうだ……。
あのときも不安でいっぱいだった。付き添ってくれた客室係の顔もまともに見られないぐらいに。
――このしたはどんな世界だろう……。
ジントははっとした。「忘れていたよっ」
「なにを?」ラフィールが怪訝な顔をする。
「この惑星の情報が要る。この艇になにか資料、ない?」
「ああ。入ってるはずだぞ、|思考結晶《ダキューキル》の|記憶巣《ボワゼプク》に」
「よかった! |思考結晶《ダキューキル》、|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》の資料を」
画面に『|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》』と大項目が出て、その下に『歴史』、『地理』、『産業』といった小項目が並んだ。
「項目の指定および、操作内容をお選びください」人工音声がいう。「操作内容は参照、追加、複写……」
ジントは肘掛の|結線《キューム》を|端末腕環《クリューノ》につなぎ、「全資料、複写」と命じた。
『了解』の文字が二度ほど瞬いて、『完了』に変わった。
「|思考結晶《ダキューキル》、以上」ジントは|結線《キューム》を抜き、|端末腕環《クリューノ》を撫でる。
情報があるのとないのとでは大ちがいだ。思いついてよかった。
それにしても、ラフィールはなぜ避難先を知ろうとしなかったのだろう? |星界軍《ラブール》には緊急着陸手順書がないのだろうか。
そのことを訊こうとしたとき、どんっと大きな衝撃があった。
「着陸したのかい……」出てきたのはわれながら情けない声だった。
「うん」
風を感じた。後ろから前へと髪がそよぐ。
ジントはふりかえった。
|気閘室《ヤドベール》へつづく扉が開いていた。しかしその先に気間室はなく、|操舵室《シル・セデール》からの光を受けて麦藁色に光る、丈の高い植物が闇のなかで揺れている。
地上だ。
「ジント、急ごう。上空から見られてるかもしれない」ラフィールは|座席帯《アピューフ》を外し、ジントにも立つよう促した。
「あ、ああ」ジントは席を立った。
「開け!」ラフィールが座席に命じると、座席はきっかり九〇度、後方に倒れた。
「秘密の地下室への入り口かい?」
「|ばか《オーニュ》」
座席のしたは物入れになっていて、|男爵領《リュームスコル》で借用した|長衣《ダウシュ》がおおっていた。ラフィールが長衣一式を脇にのけると、そのしたから二挺の|凝集光銃《クラーニュ》があらわれた。
「持ってるがよい」
銃と付属品を受けとりながら、「どこに隠したんだろうって思っていたんだ」
「べつに隠したわけじゃないぞ。狭い部屋だから、そなたが仮眠してるあいだに収納しただけだ」
「わかっているよ。そういちいち反応しないでくれ。ちょっとした軽口なんだから」|装帯《クタレーヴ》をして、銃をぶちこむ。
「これも」と背嚢を渡す。
背嚢には『緊急地上避難用』と小さく書いてある。中には|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》の包みがいくつかとなにかの道具、薬品類が入っていた。
「賞味期限は大丈夫だろうな」ジントは疑いの目で|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》を見つめた。蓋を閉じて、背中に背負う。背負ってしまえば、それほど重さは感じなかった。
ラフィールは最後に|下げ飾り《フ ラ ー フ 》のようなものを取りあげて、首にかけた。
「ジント」と|下げ飾り《フ ラ ー フ 》を手にのせ、ジントに示す。「これには|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉の航行日誌が入ってる。もしわたしが死んだら、そなたはこれをもって逃げてほしい」
「どうしてそんな不吉な……」ジントは真剣な|王女《ラルトネー》の眼に気圧された。
「だから、もしものときのことだ」
「あ、ああ」ジントはうなずいた。「わかったよ」
ラフィールはうなずきかえして、|下げ飾り《フ ラ ー フ 》を|軍衣《セリーヌ》の衿にたくしこむ。そして、|思考結晶《ダキューキル》に命じた。「消滅準備」
『消滅準備完了』と画面に文字が踊った。
「|思考結晶《ダキューキル》から引きだすことはないか?」ラフィールは尋ねた。
「いや」とジントは首をふる。
「そうか」ラフィールはつらそうに、「|思考結晶《ダキューキル》、さらばだ、機密保持規定にもとづき、自己消滅せよ」
『了解。機密保持規定にもとづき、全情報および処理系を消去します。無事を祈ります』
ふたつの目が画面にあらわれた。瞼がゆっくり落ちる。完全に閉じたとき、画面は消えた。
嫌味な機械だな――とジントは思った。
だが、ラフィールはあきらかにべつの感想をもったらしい。画面にむかってさっと敬礼した。
「さあ、行こう」敬礼を終えて、ラフィールは扉のへりに手をかけた。
「あっ、待って」ジントはラフィールが投げだした|長衣《ダウシュ》に飛びつく。
「なにをしてるんだ?」ラフィールは戻ってきて、ジントの手元をのぞきこんだ。
「お金も必要なんだよ」床に投げだされた|長衣《ダウシュ》をひっくりかえして、ジントは|帯留《アペズ》を拾いあげた。白金の台座に|紅玉《ドウー》を埋めこんだものだ。かなり高価に処分できるだろう。
「金?」ラフィールは首をかしげ、「金ならあるぞ」
「え?」
「ほら」と|端末腕環《クリューノ》を操作し、「五〇〇〇スカールある。|父王殿下《フィア・ローラン》からいただいたものが手つかずだ」
惑星デルクトゥーにいたころ、ジントは二〇スカール相当で一月を暮らしていた。それを考えれば五〇〇〇スカールとは目も眩むほどの大金である。
しかし……。
まさに敵に占領されようとしている惑星で|帝国基準通貨《ス カ ー ル》がなんの役に立つ? しかも|端末腕環《クリューノ》のなかの情報でしかない貨幣をだれが信用してくれるというのだろう、照会するあてもないのに。
ジントは唖然とし、すぐに理解した。
王女さまという存在への幻想をずたずたに引き裂いてくれたものの、ラフィールはまぎれもなく星界の姫君なのだ。きっと自分で買物をしたこともないにちがいない。
「あとで説明するよ。行こう」ジントは背嚢に|帯留《アペズ》を押しこみ、外に出た。
それまで乗っていたものをふりかえる。
球形の上部に翼のようなものが四枚、広がっている。これで空気抵抗を生み、降下速度を殺したのだろう。
たしかに上空から見ればひどく目立ちそうだった。
一刻も早くこの場を離れる必要がある。
「走るか?」ラフィールはいった。
「きみがだいじょうぶなら」
「それはどういう意味だ?」
「疲れていないかってことだよ」
「わたしは疲れてないぞ。そなたの心配をしてるんだ」
「いっとくけどね、ラフィール、地上を走るのはぼくのほうが慣れているよ」ジントは走りだした。
「待て、ジント、わたしは目がおかしくなった!」ラフィールが叫んだ。
「なんだって!?」ジントは驚いて止まった。
ラフィールは操舵室を一歩出たところで空を見あげている。「わたしには星がちらついて見えるんだっ」
ジントは同じように夜空をふりあおいだ。雲ひとつない星空。ジントにも星はちらついて見える。だが、視覚が異常とは思わなかった。
「|帝都《アローシュ》なら、すぐに治療が受けられるんだけど、ここでは……」ラフィールはジントにきっぱりと、「足手まといにはなりたくない。わたしが失明したら、かまわず、そなた独りだけで航行日誌をもって……」
「せっかくの自己犠牲精神の発露に水をさして申しわけないけど」ジントはさえぎった。「きみの目はおかしくないよ」
「気休めはなしにするがよい」ラフィールはきっとなる。
「気休めじゃないよ。屈折のせいだったっけ、大気の底では、星は瞬くのが当たり前なんだ」
「ほんとか?」操舵室から洩れくる光でジントの顔色を透かし見る。
「すぐに論理的な嘘がつけるほど器用じゃないんだ。星はちらついて見えるもんなんだ、|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》じゃ。安心した?」
「まあな」ラフィールはしぶしぶ認めた。だが、その口調の裏には安心感が読みとれる。
「きみの受けてきた教育には、なにか大きな偏りが感じられるなぁ」
「黙れ、ジント」
「黙るよ。走っていちゃ話しずらい」
そのあたりは畑のようだった。そう判断したのは、同じ植物ばかりが整然と並んでいたからだ。
なんの作物かはわからない。どうやら穀物らしく、ジントの頭のうえあたりから穂が突きだしている。
作物はちょうど人ひとりが通れるほどの間隔で植わっていた。地面は湿り気があるが、足をとられる泥濘状態ではない。むしろちょうど走るのに適した柔らかさだ。
ふたりが走りはじめてしばらくすると、夜空に変化があらわれた。
大気圏外の戦闘で大量の荷電粒子が生まれ、惑星クラスビュールに降りそそぐ。荷電粒子は赤緑色のたゆたう幕をあやなした。
6 |スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》
|スファグノーフ子爵領《ベールスコル・スファグノム》が誕生したのは、|帝国暦《ルエコス》六四八年のことである。
ヤクティア戦役で|艦隊司令長官《グラハレル・ビューラル》として出陣したソスィエ・ウェフ=サイラル・ダグレーは大功を樹て、スファグノーフ星系に封じられた。
スファグノーフ星系には主要な惑星が七つあり、その第三惑星は改造を加えれば、人が住めそうだった。その大気は一酸化炭素を主成分とし、水素に乏しかったが、そのぐらいのことは障害にもならなかった。
初代|スファグノーフ子爵《ベール・スファグノム》ダグレーは、ソスィエ家の|家紋《アージュ》〈|銀 の 枝 《ヤーズ・シュレンナ・》|と 蝸 牛《ル・クラスビュール》〉にちなんでこの惑星を『クラスビュール』と名づけ、改造に着手した。
新しい有人惑星が生まれるには、手順がある。
まず資金を集める。惑星改造には莫大な資金が必要だが、よほどの手抜かりがないかぎり、回収は確実なので、投資希望者には事欠かない。
だが、ダグレーは第一の手順をとばした。代々の投資によって、ソスィエ家は莫大な財を築いていたので、ほかに元手を頼る必要はなかったのだ。
第二の手順は惑星改造そのものだ。
|帝 国《フリューバル》にはいくつもの|惑星改造技師組合《ガリュール・ファゼール・ディウィム》があり、調査から生態系整備まで一貫して仕事を請け負う。
クラスビュールにもある|組合《ガリュール》が入った。
|組合《ガリュール》はまず星系外縁部の氷惑星を軌道変更して、クラスビュールに衝突させた。大量の水蒸気が惑星を覆い、豪雨となって表面を洗い流した。川が生まれ、海が現われた。
つぎに、藻類を中心とした微生物が播かれた。微生物は爆発的に繁殖し、体内に炭素をとりいれ、酸素をあとに残した。その骸は岩石だらけの惑星表面に降り積もり、土壌となる。
より高等な植物が持ちこまれた。|砂芝《ロンレーヴ》や|溶岩松もどき《ロドールムゼーシュ》など、成長が早く、養分の乏しい土地にも根をはる植物種が主だった。植物は土地の保水力を高め、無機質から豊かな有機質を合成した。植物が世代交替をくりかえすうちに、土壌はさらに肥沃になって、ぜいたくな環境を要求する植物も受け入れられるようになる。
海や湖には魚が流され、陸地には環形動物や昆虫が放たれた。
地球で何十億年にもわたってくりひろげられた進化――いくつかの過程は大幅に省略され、順序にも変更はあったが――が効率よくくりかえされた。
五〇年で高等哺乳類も包括する生態系ができあがった。
惑星改造の完了である。
通例、ここで入植が行なわれる。
ところが、入植者の募集はなかなか行なわれなかった。
そのときは第二代|スファグノーフ子爵《ベール・スファグノム》ディスクレーの代となっていたが、彼は、せっかく改装なった惑星に|領民《ソ ス 》を住まわせるのにまったく熱心ではなかった。
その理由は公表されていない。
惑星を丸ごと庭園にしたかったのかもしれない。もしそうだとすると、|星たちの眷属《カルサール・グリューラク》にしては恥ずべき欲望である。|宇宙空間《ダ ー ズ》を住まいとすることを誇りとし、|諸侯《ヴォーダ》であっても|軌道城館《ガリューシュ》からめったに|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》へおりないのがアーヴの常。そのアーヴが地上世界を独り占めにしたがったとなると、醜聞以外のなにものでもない。公表されなかったのも、無理からぬことだ。
だが、好意的な見方もある。|領民《ソ ス 》にふさわしい知性体が進化するのを待つつもりだったのだというのだ。そうであれば、じつにアーヴらしい狂気の沙汰で、|スファグノーフ子爵家《ベールスコル・スファグノム》が自慢しなかったのは不可解なのだが。
いずれにしろ、第三代|スファグノーフ子爵《ベール・スファグノム》エトレーの爵位相続とともに、入植が開始された。
人口過剰気味だった一三|邦国《アイス》の|領 主《ファピュート》・|領民政府《セメイ・ソス》と合意がなり、入植者募集事務所が開設された。
惑星クラスビュールの入植暦○年一月一日は|帝国暦《ルエコス》七二九年十一月二十九日にあたる。
|スファグノーフ子爵《ベール・スファグノム》エトレーは有人惑星を|帝 国《フリューバル》領につけくわえた功績をもって|伯爵《ドリュー》に叙され、|諸侯《ヴォーダ》の仲間入りをした。同時に、|スファグノーフ子爵領《ベールスコル・スファグノム》と称されていた星系は|スファグノーフ伯国《ドリュヒューニュ・スファグノム》となった。
さらに入植暦九三年には人口が一億人を超え、|侯 国《レーバヒューニュ》に格上げされた。
現在、惑星クラスビュールの人口は約三億八○○○万人。二一の州があり、州首相会議議長が|領民代表《セーフ・ソス》である。
……というようなことを|端末腕環《クリューノ》から聴きながら、ジントはあたりを見まわした。
ジントが坐っているのは丘のうえ。丘というより巨大な軽石といったほうがいいかもしれない。穴だらけの一塊の岩なのだ。
四周は見渡すかぎり畑だ。地平線まで同じ作物が埋めつくしている。水耕農法が発達した現在でも、惑星上で自然の水と光を利用するのが――惑星改造の減価償却を考慮に入れても――もっとも安く食糧を生産する手段だった。
丘からは小麦のように見えた。いちばん馴染んでいる穀物が小麦だったからそう思えるのかもしれないし、じっさいに生命工学で生みだされた小麦の巨大種なのかもしれない。
小麦の――そう考えることにした。なんであろうと、状況が変わるわけではない――畑は風にそよいでいた。うねりがいくつも連なって、右から左へ渡っていく。
まるで黄金色の海のよう。軽石の丘が島のようにぽつんぽつんと頭をだしている。
はるか右手には森のようなものがあった。それも島のように見えた。森のうえになにかが旋回している。惑星の交通機関だろうか。それとも……。
牧歌的な光景である。とても戦時下とは思えない。
時刻は夕暮どき。昨日は夜を徹して走りつづけ、夜明けごろ、この丘にたどりついた。
身体がくたくただったので、洞窟といっていいぐらい大きな穴があったのをさいわい、もぐりこんで眠りに就いたのだった。むろん、ラフィールもいっしょだ。
状況を考えれば、交替で寝ずの番をするのが当然だった。じじつ、ジントはその役を無言のうちに買ったつもりだったのだが、なにしろ骨の髄まで疲労はしみこんでいて、あっというまに熟睡してしまった。
ようやく醒めたのがこの時刻。日のあるうちにあたりを見ておくつもりで、まだ眠っているラフィールを残し、丘に登ったのだった。
ジントは資料を聴くのをやめ、現地放送に周波数をあわせてみた。
|端末腕環《クリューノ》の小さな画面に中年女性の顔が映る。彼女はなにか演説をしていた。
最初はさっぱりわからなかった。|連絡艇《ペ リ ア 》の限られた|記憶巣《ボワゼプク》には言語資料は含まれておらず、|端末腕環《クリューノ》の通訳機能を使うことはできない。だが、耳をかたむけるうち、アーヴ語だと気づいた。
「――われら・必要・感謝・組織・人類・統べる・あわせる。理由・彼ら・解放・われら・離れる・支配・属する・アウ。いま・われら・必要・立つ・自ら・政治・属する・われら・似る・ほんとう……」
こんなふうにジントの耳には響く。|帝 国《フリューバル》で公用語として扱われている正式なアーヴ語ではなく、簡便化されたアーヴ語らしい。
アーヴ語を複雑に見せかけている語尾変化をとりはらい、語順で文法的な位置づけを定める。
その語順がマーティン語そっくりなものだから、クラスビュール詑り――アーヴを『アウ』と発音するような――に慣れてしまうと、あるていど、理解できるようになった。アーヴ語起源ではないらしい奇妙な単語もまざるが、おぼろげに文意はつかめる。
この中年女性は、要するに「アーヴの支配から解放してくれた〈人類統合体〉に感謝しましょう」と主張しているのだ。
こんな放送が流されているということは、やはり|星界軍《ラブール》は敗けたのだ。
ジントは平静に事実を受けとめた。
覚悟のうえのことだ。
あとは|帝 国《フリューバル》がこの地を再占領するのを待つだけ。
ジントは放送波長を切り換えてみた。
街の風景が映った。どうやら映画らしい。
ジントはにやりとした。こんなときに娯楽ものを放送しているなんて……。一種の抵抗なのだろうか?
ここは惑星デルクトゥーと同じく、アーヴによって開発された世界だ。住民たちはアーヴの支配を受け入れて移民した人々とその子孫で構成される。惑星マルティーニュのような被征服惑星とはちがって、反アーヴ感情は薄いはず。
いや、単なる無関心なのかもしれない。宇宙を支配するのがだれであれ、地上の民とは関係ない、と思っているのだろう。
ジントは映画の内容よりも人々の服装に興味をもった。
アーヴは服装に性差をもたない。男も女も|つなぎ《ソ ル フ 》を着ている。
だがここでは、|つなぎ《ソ ル フ 》は男性専用らしい。女性は袖つきの貫頭衣を着て、膝まである長靴をはいていた。
いったん放送を離れて、現在地を測定することにした。
惑星上にいくつかある位置標識の電波を受けて、連絡艇の|思考結晶《ダキューキル》から抽出した地図と照合する。
わりあい近くにルーヌ・ビーガという都市がある。|端末腕環《クリューノ》の画面に表示された地図をのぞきこみ、風景とつきあわせると、黄金色の海に浮かぶ森のようなものがルーヌ・ビーガだとわかった。
――あの街で身を隠そうか、それともこの畑にいたほうがいいのか……。
ジントは考えた。
|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》はあと九食分しかない。節約しても、せいぜい五日分ていどだ。その先はここで食糧を調達するしかない。
どうやらこの一帯は農園らしいが、収穫の仕方もわからないし、調理する道具もない。それに何日も野宿するなんてぞっとする。
|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》育ちのジントでさえそうなのだから、人工環境で育ったラフィールはもっとつらいだろう。
やはり都市に潜伏したほうがいい。
ここから見るルーヌ・ビーガは小さくて、頼りない気もするが、もっと大きな都市への交通機関があるはずだ。
夕闇も迫ってきたので、ジントは丘をくだりはじめた。
たいした高さではないとはいえ、傾斜は急だった。手がかり足がかりには不自由しないものの、丘の正面は脆く、足をつけると簡単に剥がれ落ちる。
何度も転げ落ちそうになりながら、ジントは丘のふもとにおりたった。
丘を回りこんで、穴に入ろうと身を屈める。そのとき、銃口と対面しているのに気づいた。
「ほくだよ、ラフィール」ジントは両手を挙げた。
「どこに行ってたんだ?」ラフィールは|凝集光銃《クラーニュ》をしまいながらいった。
「ちょっと偵察に」
「どこに行ってたのか訊いてるんだ、なにしに行ってたかじゃない」
「論理的だな――丘のうえだよ」
「|ばか《オーニュ》!」
「なぜ?」ジントはぽかんとする。
「見つかったらどうするんだ」
「だいじょうぶだよ。だれもいなかった」
「上から見張られてるかもしれないであろ」
「そうか」たしかに軌道上から敵艦が地表を走査しているにちがいない。ジントの姿は捕らえられたかも。「でも、やっぱりだいじょうぶだよ。|長衣《ダウシュ》も着ていないから、現地の住民だと思ってくれるんじゃないかな」
「敵の落ち度を期待せぬがよいぞ」
「わかったよ。二度と軽はずみなことはしない。約束するよ」
「そうだ。わたしになにもいわず、出ていくようなことはするな」
「だって、きみはよく眠っていたんだから。そういや、朝のあいさつがまだだったっけ。おはよう、ラフィール。といってももう夕方みたいだけど」
「|ばかっ《オーニュ》」
やれやれ、ご機嫌斜めだな――ラフィールの意外な子どもっぽさを発見して、ジントは肩をすくめた。
「念のために移動しようか」と提案する。
「うん。それがいいであろ。ここにいてもあまり楽しくないからな」ラフィールは腰を上げた。
腹拵えをしてから、出発の準備にとりかかる。
奥に設置しておいた小さな器械をジントは手にとった。大気中の水蒸気を凝集して水にする器械だ。容器いっぱいに水が溜まっている。水をふたつの水筒に分け入れて、ひとつをラフィールに渡す。
ふたりは背嚢を背負い、一夜を過ごした丘をあとにした。
「街へ行こうと思うんだ」歩きながらジントは切りだした。
「街へ?」
「うん、畑のなかでかくれんぼするよりもいいだろう。文化的な生活も送りたいし」
「でも、危険はないか?」
「あるよ」ジントはあっさりいった。とりつくろってもしかたがない。「けど、ここにいたって危険はある。|フェブダーシュ前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ・フェブダク》じゃないけど、どっちが正解かはわからないよ。でも、ここじゃ食べ物が手に入らないんだ。そうだろ? 畑のなかで凱え死にするなんて、きっと最低から数えて二番目ぐらいに尊厳に満ちた死にかただな」
「そうだな」ラフィールは同意した。
彼女の声にはいつもの元気がなく、ジントの気にかかった。
「ラフィール、疲れが残っているんじゃないか?」
「わたしは疲れてないっ」噛みつくような答え。「なぜそんなこというんだ?」
「ちょっと訊いてみただけだよ」なんだ――ジントは胸を撫でおろした――いつもの怒りっぽいラフィールじゃないか。
「でも、疲れたときは、そういってくれよ」
「疲れてない、といったであろ」
「はいはい」
夕闇はしだいに濃くなってゆき、やがてとっぷりと日が暮れた。
「ジント」背後から声がかかる。「少し先に行ってるがよい」
「なぜ?」と驚いてふりかえった。
「訊くな」星明かりのなか、ラフィールの表情が険しくなった。
「訊くなって……。だってここは目印になるようなものがなにもないんだよ、はぐれてしまうじゃないか」
「それなら、ここで待ってるがよい」
「いいけど……。ほんとにどうして?」
「訊くな、といってるんだ」
ますます気になった。彼女はまたなにか自己犠牲精神を発揮すべき理由を見つけてしまったのではなかろうか。もし誤解なら、解いてやらなければいけない。
「いいかい、ラフィール……」いっしょに行動するとはどういうことかをジントは説こうとした。小さな秘密も共有し、なにごともひとりで解決しようとせず、ともに対策を考える。それこそ仲間というものだ。ぼくらは危機にあるのだから、手をとりあって、乗りきらないといけない……。
はじめのうちこそおとなしくきいていたラフィールだったが、しだいに眉が危険な角度へ傾斜していく。
「ジント、そなたの鈍さは冷凍野菜に匹敵するな!」とうとうラフィールはどなった。「とにかく、待ってるがよいっ、わたしのほうを見るでないぞ!」
林立する小麦のなかに駆けこんでいくラフィールの背中を見送って、ジントは脱力感を覚えた。あわてて視線をそらす。この暗さではどうせ見えるわけはないのだが、乙女の恥じらいを尊重しないわけにはいかない。
そうだ、彫刻のように美しいアーヴとはいえ、そして九〇〇〇億の|帝国臣民《ルエ・ビサール》に君臨する|皇 帝《スピュネージュ》の一族とはいえ、ある種の生理的欲求とは無縁でいられない。
ジントはへなへなと巨大小麦の根元に坐りこんだ。
一生懸命、気を回していた自分がとんでもない道化者に思えた。
そのころ――。
地表映像の分析にあたっていた〈人類統合体〉平和維持軍・情報収集宇宙艦〈DEV903〉は、ルーヌ・ビーガ市郊外の耕地に帝国星界軍の着陸莢を発見した。
作業班はどこからの着陸莢かつきとめようとしたが、うまくいかなかった。平面宇宙で戦闘宇宙艦の攻撃をかわしたうえ、通常宇宙で三隻の駆逐宇宙艦から逃れた小型宇宙艇の記録は、膨大で錯綜した戦場の記録のなかに埋もれてしまっていた。ひとつの星系を制圧するというのはまったく並大抵の仕事ではない。
それでも、時間をかければきっと判明しただろうが、やるべき仕事は多かった。作業班はおおかた通信基地か城館からの脱出者であろうと推察し、着陸莢の状態からその乗員は生存している可能性が高いと判断した。
その旨を情報司令部に報告したが、司令部はこの発見にごく低い優先順位をつけた。
侯爵家や通信基地の重要人物は戦死したか捕虜になったことが判明している。着陸莢のぬしがだれであれ、血眼になるほどの価値はないと思われた。
そのうえ、|スファグノーフ侯国警固隊《レートフェクラシュ・スファグノム》――|スファグノーフ侯爵家《レーブジェ・スファグノム》の私兵が地表の数ヵ所で頑強に抵抗を続けており、また現地政府の要人たちも多くが逃亡中だった。臭跡探知機を備えた捜査班は出払っている。
わざわざ人員を割いて、着陸莢で降下した人物を狩りだす必要はない。
まず地表を完全に制圧して、|帝 国《フリューバル》の支配に協力した人物を逮捕拘禁すること。それによって、住民の奴隷根性を叩きなおすことが最優先事項だ。
|星界軍《ラブール》の敗残兵狩りなど、そのついででもいい。どうせ無力な存在なのだから。
「おっと!」ジントは立ちどまった。その足元からぱらぱらと土の塊が落ちる。
谷だ。ジントは危うく崖下に転げ落ちるところだった。
「どうした?」とラフィール。
「行きどまりだよ」
夜明けはまだこない。暗闇をとおして谷の幅を計ろうと、ジントは前方に目を凝らした。だが、闇は深く、見当もつかない。
|端末腕環《クリューノ》の照明機能を使ってみる。が、足元が明るくなるのがせいぜいだ。
とつぜん、隣で光がほとばしった。強力な探照灯が谷の対岸を照らしだす。
ラフィールが|凝集光銃《クラーニュ》を構えていた。光はその銃口から発している。
「どうするの、それ?」ジントは自分の銃を引きぬいて尋ねた。
「安全装置は教えたであろ。それを安全と発射の中間にすればよい。それで照明機能になる」
「そんな便利な機能があるなら、もっと早く教えておいてくれればいいのに」ジントは文句をいった。
「忘れてた」
「なるほど」銃を照明に使う機会はめったにあることではない。
ジントは安全装置を照明にあわせて、銃爪を絞った。
谷幅は予想以上に大きかった。軽く一ウェスダージュはある。斜めに切れこんだ崖が延々と左右に広がっている。
だが、深さはそれほどでもない。ほんの五〇〇ダージュほど。谷底にも巨大小麦が生え、穂先を見おろすことができた。
「けっこうきついな」ジントは銃を|装帯《クタレーヴ》に戻し、屈みこんで崖のようすを調べた。
垂直に切り立っているわけではないが、歩いておりられるほど緩やかな傾斜でもない。のぼるほうが易しそうである。おりるときにはよほど気をつけていないと、転落することになりかねない。
ジントは背嚢をおろして、中をひっかきまわし、「なにか縄のようなものは入っていないのかな?」
「|炭素結晶繊維《リ ュ ル ド ワ》があるはずだぞ」
「そりゃいい。どれ?」
ラフィールの手が横からのびて、ジントの背嚢から棒のようなものをとりだした。
ラフィールはそれを器用にくるくる回し、「それで、これをどうするんだ?」
「もちろん」ジントは呆気にとられて、「おりるのに使うんだよ。貸してくれ」
ジントは棒を受けとり、調べた。もちろん軍用のものだが、惑星デルクトゥーで使われている|炭素結晶繊維紡錘《ヨムセー・リュルドワル》と基本的には同じものである。
|炭素結晶繊維《リ ュ ル ド ワ》は棒の中央部分に納まり、両端の大部分を速乾性|合成樹脂《ゲ ー ニ ュ 》の容器が占める。安物だと、繊維が剥きだしでしか使用できなかったり、最初から被膜に覆われていたりする。これは用途にあわせて、被膜の有無を選択できる最高級品である。繊維の先端についている鉤も多目的で遠隔操作可能。さすが|星界軍《ラブール》だけあって、補助装備にも費用をかけている。
ジントは繊維に被膜をかぶせながら、鉤をひっぱった。そして、巨大小麦の根元に繊維をめぐらして鉤でとめる。
「じゃあ、ぼくからおりるよ」ジントは|紡錘《ヨムセー》を握って、後ろ向きで崖に足をおろした。
ジントは|炭素結晶繊維《リ ュ ル ド ワ》をちょっとずつくりだしながら、ぼんぼんと崖を蹴りつけていく。
|端末腕環《クリューノ》の灯りでほんの五〇ダージュのところに地面があるのをたしかめ、最後の跳躍を行なう。
「きみの番だ、ラフィール」ジントは崖のうえをふりあおぎ、声をかけると、|紡錘《ヨムセー》を自動巻き戻しにして、手を放した。
繊維から削りとられた被膜をまきちらしながら、|紡錘《ヨムセー》はするすると崖をのぼっていく。
「いま行く!」なにか重大な決意を告げるような調子だ。
ざざっと盛大な音とともに、ラフィールが降ってきた。どうやら|炭素結晶繊維《リ ュ ル ド ワ》をくりだしっぱなしにしたらしい。
「だ、だいじょうぶかい?」ジントは駆け寄った。
「だいじょうぶに決まってるであろ」そういうラフィールの顔は苦痛に歪んでいた。
「無理しなさんなって」ジントはラフィールに手を貸して、ひっぱり起こした。
「無理などしてないっ」ラフィールは意地になったようすで、ジントの手をふりはらう。
「ならいいけど」ジントは遠隔操作で鉤の拘束を解除して、繊維を巻き戻す。|合成樹脂《ゲ ー ニ ュ 》の屑が足元につもった。
巻き戻しおわると、ふたたび銃を抜いて、崖下を照射した。
「なにをしてるんだ?」
「新しい宿を探しているんだよ、もうじゅうぶん離れたろ――あった」
洞窟があった。
ジントはラフィールを促して、新しい宿に近づいた。
かなり奥行がある。じっさい、|凝集光銃《クラーニュ》で照らしても、洞窟の果てるところまで行きつかないほどだ。
ジントはしばらく奥を照らして、なにか危険なものはひそんでいないか調べたが、見える範囲では心配の種になるようなものはなかった。
ジントは背嚢をおろすと、|端末腕環《クリューノ》に地図を呼びだした。ルーヌ・ビーガまで五〇ウェスダージュたらずのところまで来ているのがわかった。
ふたりは食事をはじめた。
薄味の|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》をかじりながら、ジントは計画を告げた。「ぼくはこれから街へ行ってくるよ」
「そなたひとりでか?」ラフィールは眉をひそめる。
「そうだよ、決まっているだろ」
「なぜだ? わたしが街に行ってはいけない理由があるのか」
「きみは|軍衣《セリーヌ》を着ているんだよ」ジントは指摘した。「いま、敵の占領している街に|星界軍《ラブール》の軍衣を着た人間が入ると、どんなことになると思う?」
「あ……」ラフィールははっとした。
――まさか気づいていなかったのか? だとしたら、これは世間知らずなんてものじゃないぞ……。
「だからね」ジントは疑問と危惧を胸のうちに押しこみ、「ぼくが街でおかしくない服を調達する。なるべく早く戻ってくるから、ここで待っていて」
ラフィールの瞳が燃えあがった。
ジントはうろたえた――なにを怒っているんだろう? ぼくはなにかおかしなことを口走っただろうか。いや、理にかなったことだし、もしそうじゃないと思うなら、いってくれればいい。なにも睨みつけることはないじゃないか。
が、すぐにラフィールはうなずいた。「うん、わかった」
「よかった」ジントは|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》の最後のひとかけらを水で流しこみ、立ちあがった。
「もう行くのか?」
「うん、早手回しに動かなくっちゃ」
「破滅にむかって急いでるのかもしれないぞ」
「いわないでくれ、半分はそうじゃないかって疑ってるんだから」
ジントは背嚢から|帯留《アペズ》を取りだして、|つなぎ《ソ ル フ 》の|隠し《モスク》に収めた。|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》も三食分、持っていくことにした。そのほかの荷物は置いていく。
|端末腕環《クリューノ》については悩んだ。これは|帝 国《フリューバル》標準で|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》ではめったにお目にかかれない形式だ。目ざとい人間ならこれでジントの正体を見破りかねない。まさか|貴族《スィーフ》とは思われないだろうが、|国民《レーフ》と疑われる可能性はある。街では|領民《ソ ス 》のふりをするつもりだったから、あまり好ましいことではなかった。
かといって、|端末腕環《クリューノ》のような便利な道具を置いていくのはためらわれた。非常の際には、ラフィールと連絡をとるのにどうしても必要になる。
けっきょく、手首からははずし、これも|隠し《モスク》に入れていくことにした。
「銃は持っていかないのか?」ラフィールは怪訝そうにいった。
冗談じゃない。
ジントは肩をすくめ、「どのみち、撃ちあいになれば、ぼくに勝ち目はないよ」
「ふうん。ジントはあきらめがいいんだな」
「そういうことじゃない。|星界軍《ラブール》の銃なんか持っていったら、いっぺんで正体がばれるってこと」
「ああ、そうか」
「納得してくれてうれしいよ」ジントは溜息まじりにいった。
同時に不安を感じる。自分のことではなかった。もちろん、なにが待っているのかわからない街にも安心できないが、それ以上にラフィールをひとりで残していくのが心配だった。
宇宙空間では万能のように思えたアーヴの少女は、ほんの常識に属する事柄に呆れるほど気が回らない。
いや、だいじょうぶだろう――ジントは自分にいいきかせた。ラフィールはたしかに非常識だが、それは社会で行動するときに問題となるたぐいのことだ。街に入ってからならともかく、人目に触れないここでなら、彼女はちゃんと自分の面倒を見られるはず。
人目に触れない? ほんとうにそうだろうか。いまにも捜索隊が迫りつつあるということはおおいにありうる。
そうなると、べつの意味で心配だった。|星界軍《ラブール》はその性質上、あまり単独行動を重視していないだろうし、とくに訓練を受けていない人間がひとりでじゅうぶんな警戒をすることは難しい。
もちろん、ジントにしても訓練を受けたわけではないが、アーヴには見えないという強みがある。|貴族《スィーフ》だとは自分から申告しないかぎりわかるはずもなく、最悪でも|国民《レーフ》だといいのがれることができる。スファグノーフほどの大邦なら|帝国国民《ルエ・レーフ》もたくさんいるだろうから、敵軍が一国民にそれほど興味をいだくとは考えられない。
それにひきかえ、青い髪をして|帝 国《フリューバル》の|軍衣《セリーヌ》を着ているラフィールをアーヴと気づかないまぬけがいたら、お目にかかりたいものだ。いまのラフィールにとって、姿をだれかに見られることが最大級の危機を意味する。
ジントは少し悩んだすえ、原始的な警報装置を考案した。
「外に出るときには気をつけてくれよ」そういって、ジントは|炭素結晶繊維《リ ュ ル ド ワ》を被膜なしでくりだした。膝の高さぐらいで鉤にでっぱった岩を噛ませる。水平にぴんと張って、適当な長さのところで被膜で覆うように設定して繊維を出し、その|合成樹脂《ゲ ー ニ ュ 》に覆われた部分を反対側のでっぱりに結わえつける。
「なんのつもりだ、それは?」
「だれかが来たら、これでわかる」被膜されていない|炭素結晶繊維《リ ュ ル ド ワ》を指しながら、ジントは説明した。
「ほら、こいつは目に見えないし、どんな刃物より鋭いだろ。だから、何も知らないで洞窟に入ろうとすると――ぎゃーっ」とじっさいに悲鳴をあげてみせ、「ってことになる、脚をすっぱり切られてね。いい警報になるじゃないか」
ラフィールは首をかしげて、「無関係な人間がひっかかったら、どうするんだ?」
それは考えていなかった。
最悪の場合、脚を切断することになりかねない攻撃を、まったく悪意のない相手に与えるというのは、控えめにいっても野蛮な行為だ。
だが、ジントは心の葛藤にすばやく決着をつけた。
「しょうがないよ」ぱちんと指を鳴らして、「運以外はなにも悪くないのに、悲惨な目にあった人がいままでいなかったわけじゃない」
ジントが街にむかったあと、ラフィールは片膝を抱えて坐りこんだ。
|端末腕環《クリューノ》でこの土地の放送を受けてみる。
ジントの詑りもひどいが、惑星クラスビュールで話されているのは、アーヴ語とも思えないような代物だった。アーヴ語の痕跡をとどめて、〈人類統合体〉の公用語よりは雅びな響きだが、まったくのちんぷんかんぷん。
ラフィールは理解しようという努力をすぐ放棄した。
白みはじめた外をぼんやり見ながら、自分の置かれた状況を考えてみる。
どうも勝手がちがった。
着陸以来、ジントにすっかり主導権を奪われてしまっている。
それがおもしろくない。
ジントを|帝 国《フリューバル》の| 船 《メーニュ》に乗せるまでは、彼女の任務は終了したといえない。彼と航行日誌をなんとしてでも守らないといけないのだ。
それなのに、まるでラフィールのほうがジントに守ってもらっているようだった。
受け入れがたい現実。
なにより、腹立たしいのはジントに主導権を委ねたほうがうまくいくらしいことだ。
あの者は頼りになるのか?――ラフィールは自問した。
真空空間でのうろたえぶりを知っているだけに、とてもそうは思えなかった。
立てた膝の頭に頬を横たえる。
ジントの前では強がってみたものの、ラフィールはひどく疲れていた。筋肉の乳酸をそそぎおとしてくれるなら、ホーリアを|遺伝子提供者《ラ ル リ ー ヌ》として受け入れてもいいほどに。
クラスビュールの表面重力は|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の大半と同じく、アーヴの|標準重力《デ モ ン》の倍ていど。その一〇倍の加速も経験しているラフィールだが、そのときはやわらかく背中を受けとめる耐加速座席に寝そべっていた。二標準重力の環境で長時間、動きまわるのは、彼女にとって初めての経験だ。
だいたい、ずっと歩き詰めでいるということがない。
そのことを考えても、情けない話だ。アーヴの身体はもっと高加速状態でも活動できるようになっているというのに。|重《ワ 》|力制《ム》|御機《リ》|関《 ア》を持っていなかった先祖たちなら、苦にしなかっただろう。
|星界軍《ラブール》はその艦艇に緊急避難的な着陸機能を与えているものの、その効果をあまりまじめには考えていなかった。なんといっても、艦艇が危機に陥ったとき、たまたま近くに呼吸可能な大気を持つ惑星があることは、めったにないのだから。
したがって、訓練においても重視されず、着陸手順は習ったが、そのあと地上で乗員に期待されることはじっと救助を待つことだ、と教えられたにとどまる。
もちろん、この状況ではすみやかな救助は望めない。一介の|翔士修技生《ベネー・ロダイル》の身、|星界軍《ラブール》の配備状況を熟知しているわけではないが、どう考えても一〇日はかかる。おそらくその倍以上の日数を覚悟していないといけないのだ。いや、永遠に来ないことも……。
そのまえに、食糧はつき、敵軍の敗残兵狩りの手がのびる。
頼りになろうと、なるまいと、ここはジントをあてにして切り抜けるしかない。
あの者は――眠りに落ちるしゅんかん、ラフィールは微笑を浮かべた――地上におりてから、みょうに生きいきしていた。危険なことでは|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》以上だというのに。
目を醒まして、ジントがいないのに気づいたとき、心が騒いだ。任務が失敗したことへの恐れではなく、これから先どうすればいいのだ、という不安だった。信じられないことだが、ラフィールはたしかにジントを頼りにしている。だれかを個人的に頼ることなどなかった|帝 国《フリューバル》の|王女《ラルトネー》が。
それもいいであろ、半径一〇〇光年で信頼できるのはあの者しかいないのだから……。
7 |ルーヌ・ビーガ市《バーシュ・ルーナル・ビーガ》
「半径一〇〇光年で信頼できるのはそなたしかいない――ぐらいはいってくれてもばちはあたらないだろうに。とことん可愛くないなぁ」ジントは腹ばいになって荒い息をつきながら、ぶつぶつひとりごちた。
彼は谷底を進み、橋を見つけた。橋があるということは、道があるということだ。
それはいいのだが、谷底から橋までは階段や道はない。切り立った崖に手をかけ足をかけ、文字どおり這いあがったときには、すっかりへたばってしまっていた。
ちょっと体力を過大評価しすぎたらしい。一休みしてから、出発すればよかった。
ラフィールといっしょにいるあいだは気が紛れたが、こうしてひとりでいると、疲れがどっと襲いかかってくる。
|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》育ちといっても、交通機関の発達した世界で生活していたのである。野外生活も趣味ではない。ミンチウで培った体力でなんとかもっているようなものだ。
これだけ苦労しているんだから、ひとことぐらい感謝のことばがあってもいいじゃないか、と思わないでもない。
もっとも、好きこのんでやっているのだから、文句をいう筋合いのないことはわかっている。
なにより、自分が生きのびるためにも必要なことだ。
いや――ほんとにそうだろうか?
もしラフィールを見捨てて、ひとりで生きていくつもりなら、もっと楽ができるんじゃないか?
そんな考えが浮かび、ジントはぞくっと身震いする。
いままで自分を高潔な人格の持ち主と見做したことはなかったけれども、さすがに自己嫌悪に陥った。
堕ちるなら徹底的に堕ちてしまえ。いっそのこと、ラフィールを敵軍に密告して報奨金でももらうか。
ジントはにやりと笑ってみる。
鏡がなくても、ぜんぜん似合っていないことは自覚できた。
そんなにあくの強い性格ではないのだ、このジント・リンという青年は。偉大な英雄にも、非道な悪党にもなれない。
極端な楕円軌道をとる彗星さながら、自分が決めたわけでもない道を進み、恒星に灸《あぶ》られたりしながら、ときどき意地の悪い惑星の摂動を受けてふらつく――そんな人生こそが似つかわしい。
孤独な演技をやめて、ジントは立ちあがった。
期待どおり道があった。路面全体がやわらかく光っている。はじめは弱々しい光に思えたが、道に立ってみるとじゅうぶん明るい。
ジントはルーヌ・ビーガ市を指して歩きはじめた。
惑星クラスビュールの一自転は三十三・一二一標準時間である(つまり、ジントは十五時間ほども眠っていたのだ!)。住民はこれを三十二時間に区分していた。ただし、生活上の一日は二十四時間である。
簡単な算数の示唆するところ、一日の区切りは毎日八惑星時間ずつずれていく。一日の始まりが真夜中だったり、昼間だったりするわけだ。
不便にはちがいないが、生物時計を九時間もずらすよりはましだろう。
それに、自転と生活日のつながりを薄めたことで利点もある。時差を設定する必要がないのだ。全惑星的な情報網にこのことがどれだけ利益をもたらすか、いうまでもない。
いまは夜明けだが、生活時間ではまもなく正午というところだった。ルーヌ・ビーガ市に到着するのは午後一時ごろになるだろう。
買物をするにはちょうどいい時間だ。
まあ、急いだのも、あながち無意味なことじゃなかったな――ジントは控えめに自賛した。
|端末腕環《クリューノ》を現地の放送にあわせて、|つなぎ《ソ ル フ 》の|隠し《モスク》につっこんだ。道すがら聴いて、クラスビュールのことばに耳を馴染ませておく必要がある。
慣れない言語の意味を拾っていくうち、ジントは不快になった。
敵軍の喧伝放送である。なぜ|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》に侵攻したか、その理由が説明されていた。
それによると、|帝国星界軍《ルエ・ラブール》がこの戦争をはじめたのだという。つまり、〈人類統合体〉が新しく開いた〈|門《ソード》〉付近の|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》側を探査していたところ、星界軍の|軍 艦《ウイクリュール》――いうまでもなく〈ゴースロス〉のことだ――がとつぜん、攻撃をしかけてきたというのだ。
〈人類統合体〉はこの無法な行為に報復し、かつ新しい〈|門《ソード》〉の安全をはかるため、もっとも近くにあった|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》を保障占領したのだ、と。
「ご冗談でしょ」
|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉に乗っていたジントには嘘だとわかる。あの艦隊は探査目的にしては大規模すぎたし、だいいち、わざわざ高速の小艦隊を送りだして戦闘を望んだのは、〈人類統合体〉の側なのだ。
しかし、それをいってもきく相手はいない。
ジントは周波数をかえた。できれば、政治とは関係のない話を聴きたかった。
だが、放送はすべて敵軍の宣伝で占められていた。夕暮にはあった娯楽放送がいっさいない。それだけ、敵軍が管理を強めているのだろう。
ある放送局では、民主主義や自由といった概念の講義をしていた。べつの放送局では、あの中年女性が〈人類統合体〉への感謝をまだ表明していた。あるいは、〈|アーヴによる人類帝国《フリューバル・グレール・ゴル・バーリ》〉の隠された悪業の暴露。
この放送を住人たちはどんなふうに受けとめているのだろう?
これが惑星マルティーニュなら、答えははっきりしている。いまごろ熱狂的に新しい支配者――彼らの表現によれば新しい友――を支持しているだろう。
ここはどうだろう?
アーヴの開拓した世界は|帝 国《フリューバル》に従順であるというのは一般論にすぎない。資料でしかこの世界のことを知らないジントには、惑星クラスビュールにも一般論があてはまるのかどうか判断がつかなかった。それに、帝国に従順な人々がべつの支配者にも従順ということは、おおいにありえる。
せめて無関心ならいいけれど、とジントは願った。敵軍の兵士にくわえて一般の住民までアーヴ狩りに狂奔しだすと、ふたりの、とくにラフィールの安全性は著しく低下する。
やはり畑に隠れているほうが賢明かもしれない。食糧や必需品は、ときどきジントがひとりで街にいって、仕入れてくればいい。
だが、最終的判断は街のようすを見てからだ。
歩いている途中、何台かの|浮揚車《ウースイア》と出会ったが、歩行者とは出くわさなかった。
やがて、ルーヌ・ビーガの建築物群がすぐ目の前に迫ってきた。
ジントは|隠し《モスク》に手をつっこんで、|端末腕環《クリューノ》を消した。聞きとりに関してはかなり自信ができた。だがしゃべるほうは、クラスピュール訛りがうまく真似られるか心許ない。
新来の移民のふりをしよう――ジントは決めた。惑星デルクトゥーではうまくいったのだから、ここでうまくいかない理由はない。
畑が途切れ、ジントは都市をとりかこむ環状道路に入った。
さすがに人通りがある。
ジントは一団の男女とすれちがった。なかのひとりが不審げな視線を投げかける。
どこか服装がみょうなのだろうか?
あらためて人々の装いを観察してみると、ジントのはたしかに異彩を放っていた。
まず色づかいがちがう。住人たちは原色を好むらしく、毒々しい色を貼り継いだような衣装が多い。それに比べてジントのは臙脂《えんじ 》一色。クラスビュール人の目にはみすぼらしく映るのかもしれない。地味なのが、ぎゃくに目立ってしまう。そのうえ――うかつにも忘れていたのだが――いまのジントはお世辞にも清潔とはいえない。
――うーん、まいったな。クラスビュールに警官はいるんだろうか。いないわけはないよな。
拘留されたりはしないだろうか……。
気をもみながら、市の中心部へむかう。とにかく、|帯留《アペズ》を処分して、服や必要なものを買わないといけない。
人々のこらした装いについて、ほっとする発見もあった。髪を染めるのが普通らしいのだ。黄色や朱色など、これも派手な色で染めている。なかには青や緑も見受けられた。これなら、地上人にありえない、ラフィールの| 黝 《あおぐろ》い髪も目立たないはずだ。
街はそれほど広くない。望見できた、背の高い建築物群は市の中心部だとジントは想像していたのだが、どうやら都市そのもののようである。惑星デルクトゥーの都市は背の低い建物が延々と広がっているのが典型だが、ここでは、ひとつの建物にたくさんの家族を収容するのが主流の生活様式らしい。
建物は円筒型が多い。その外壁からは街灯がいくつも横方向へのび、地面に灯りを投げかけている。窓からの光とあいまって、建物をなにかの祝祭にむけて飾りたてられた樹に見せかけていた。あるいはじっさいに樹木を象《かたど》っているのかもしれない。
建物どうしの間隔は広く、そのあいだを光る道路が走る。道路には道幅が広くなっている場所があった。浮揚車が停まっているおかげで、そこが駐車用の場所だとわかる。
駐車場からは曲がりくねった遊歩道がのびて、建物に出会うとぐるりと一周する。道以外の場所には芝生がしきつめられており、陽射しの下で見ればきっと美しいだろう。
どの建物も一階は店になっていた。
ジントは適当な店を探しながら、都市樹のあいだを回った。
途中、緑褐色の制服を着た、数人の男たちに出くわした。彼らの制服は上下が分かれていて、明らかに現地住民のものとはちがう。そのうえ、武器にしか見えないものを携えている。
――敵軍の兵士だ!
ジントは直感し、思わず顔を伏せた。
兵士たちはジントの不審な素振りに気づかず、声高にしゃべりながら、通り過ぎていった。
ほっとして顔をあげた彼の目にひとつの看板が入った。
『高・品・身・飾る・加える・品・飾る・部屋』――それがその店の看板だった。高級装身具・室内装飾品といったところだろう。
ジントは陳列窓をのぞきこんだ。
耳飾りや首飾りなど、いかにもクラスビュール人の好みそうな、成金趣味の装身具や置物が所狭しと並んでいる。
惑星デルクトゥーの常識では、このたぐいの店は買い取りもしてくれるはずだった。だが、惑星がちがえば常識もちがう。|帝 国《フリューバル》の|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》は多様なのだ。
ジントは意を決して、店に入った。
「いらっしゃいませ」黄緑と桃色という――クラスビュールの基準からいえば――地味な|つなぎ《ソ ル フ 》の衿に黒い細布を巻き、小粋に結んだ男性が、売台からジントを迎えた。
「あの……」緊張で渇く唇を舐め、「買ってほしいものがあるんですけど」
「はい」店員はにこやかに、「お品はいまお持ちでございますか?」
「ええ」ジントはうなずいて、|帯留《アペズ》を売台のうえに置いた。
「ほほう、これはなかなかのものですな」店員は|帯留《アペズ》を手にとってためつすがめつ調べ、ジントの顔と見比べて、意味ありげににやりと笑った。
「そ、そうでしょ」心臓が口から飛びだしそうだ。
「それで、いかほどで手放されるおつもりですか?」と売台に|帯留《アペズ》を戻す。
「えっ……」
困ったことになった。なにしろ、彼はこういった交渉に不慣れなうえ、貴金属の相場もろくすっぽ知らないのだから。
道すがら立てた計画では、まず相手に値をつけさせ、つぎにその二倍を吹っかけて、妥協点を探るつもりだった。
なのに、先手を打たれてしまった。
「そうですね」ジントは参考にならないか、と店内の商品に視線を走らせた。だが、商品には正札がついていない。
こうなったら、物の価値ではなく、こちらが必要とする金額を口にしてみよう。恥をかくことになるかもしれないけれど、それはしかたない。一〇〇スカールもあれば、当座の買物をして、何ヵ月か暮らせるはず……。
そこでまたもや失敗に気づいた。一スカールがこの惑星の貨幣でいくらになるのか、見当もつかない。通貨単位すら知らないありさま。あらかじめ調べようと思えば、|端末腕環《クリューノ》で簡単にできただろうに、考えつかなかった自分が恨めしい。もちろん、ここで端末腕環を出すわけにはいかなかった。
これではラフィールの世間知らずを嗤《わら》えない。
「どうなさいました?」店員はじっと見つめる。
「ええと」ジントは口ごもりながら、「ふつうの人が半年暮らせるぐらいの金額でどうでしょう?」
「それは……。ずいぶん抽象的な値のつけかたでございますね」
「すいません」ジントは赤面し、|帯留《アペズ》に手をのばした。「また、出なおします」
「まあ、お待ちください、お客さま」店員は制して、「いかがでしょう、一五〇〇デュースでは?」
「一五〇〇デュース?」高額にはきこえる。しかし、それが一スカールにも満たないこともありえた。「スカールになおすと、それはどれぐらいにあたるんです?」
「お客さま」店員は声をひそめ、「わたくしも商売でございますから、よけいな詮索はいたしません。ではございますが、この状況において、デュースの対スカール換算率を気になさるのは賢明とは申せません」
「そうですね……」店員の婉曲な助言に、ジントは心のなかで感謝した。
「ちなみに、一日の生活には二〇デュースもあれば申しぶんございませんでしょう」
「なるほど……」ジントはすばやく計算し、目標の半分ていどであることを知った。「三〇〇〇デュースぐらいにはなりませんか?」
「お客さま」店員は冷然と、「くりかえしますが、わたくしも商売でございます。さらに申しそえるなら、この街でこの手の商品を換金できるのは手前どもだけでございます」
こちらは最大限の好意を示しているんだ、交渉には応じないぞ、というわけだった。
「わかりました」ジントはあきらめた。「一五〇〇デュースでお願いします」
「たいへん賢明なご判断です」ジントの口座番号を訊くような野暮はせず、店員は一五〇〇デュースの現金を売台に滑らせた。「どうかおたしかめください」
「ええ」紙幣一枚の額面は一〇〇デュース。ジントはちゃんと一五枚あるのをたしかめ、|隠し《モスク》にねじこんだ。
「たしかに」
「お互い、よい商売ができてなによりでございます」店員は一礼した。
「あの」ジントは思いきって尋ねた。「純粋な好奇心から訊くんですが、これをいくらで売るつもりです?」
「そうでございますね」店員は|帯留《アペズ》をふたたび手にとって、「わたくしどもは|帯留《アペズ》をもちいる習慣をもちません。|長衣《ダウシュ》を着用いたしませんから。ですが、これだけの材質と細工のお品となりましたら、置物としても、かなり見栄えがいたします。そう、すくなくとも、三万デュースは申し受けいたしたいところでございます」
売値の二〇分の一で買い叩かれたと知っても、あまり腹は立たなかった。
「儲かるといいですね」ジントは心からいった。
「ありがとうございます」店員は満面の笑顔でこたえた。
金が手に入ったので、つぎは衣服を整えなければならない。最初はラフィールの分だけでいいと思っていたが、その前に自分の服もどうにかしたほうがよさそうだ。
衣料品の自動販売機が目立ったが、現金は受けつけてくれないらしいので、あきらめるしかなかった。
しかし、衣料品店は装飾品の店よりありふれている。ここに来る途中にも一軒あり、ジントは目星をつけていた。
彼は引きかえした。
衣料品店のある建物の手前に|地上車《フレリア》が停まっていた。武骨な造り。そのまわりには緑褐色の軍服姿が数人たたずんでいた。
「そこの市民、止まってください」地上車の拡声器が怒鳴った。
自分のことか、とジントは首をすくめる。
そうではなかった。兵士たちがばらばらとまだ若い女性を拘束した。
「な、なによっ」彼女は驚きと恐れで声を張りあげた。まわりの人々もなにごとかと足をとめる。
「そこの市民も」
地上車から指示が飛んでいるらしく、兵士たちは的確に中年男性をとりかこんだ。
「あわてることはありません」拡声器からの声はいった。「ご協力いただければ、なにも面倒はありません。あなたがたは兵士に住所氏名を告げてください。身分を証明するものの提示も願います」
「あたしがなにをしたっていうの!?」女性が叫んだ。
「わが軍の通達を聞き逃しましたね。髪を青く染める行為は隷属主義の意思表明と見倣されています」
なるほど、ふたりとも青い髪をしている。
「おれは紺碧色が好きなんだ、それのどこが悪い?」男性がいった。
「あなたがたはアーヴをまねようとしているのです。それは自由な市民として恥ずべき行為です」
「冗談じゃない」
「こじつけだ」
見物人のあいだからも不服の声があがる。クラスビュールの住民はなかなか向こう気が強いようだ。
「特別に明日の惑星時間午前十時まで猶予を与えます。あなたがたふたりはそれまでに髪の色を修正し、市庁舎に設けられた連絡事務所まで出頭してください。さもなければ、奴隷的態度をあらためる意思がないものと判断し、逮捕拘禁します」
しぶしぶ住所氏名を兵士に告げる|領民《ソ ス 》を見て、ジントは衣料品店にむかった。
「わたくしたちは〈人類統合体〉平和維持軍の広宣部隊です。家族や知人に青系統の色で髪を染めている人を知っていれば、人類にふさわしい色に修正するよう説得することをお願いします。なお、明朝十時以降は、警告を行ないません。違反者はただちに髪を除去されます……」
ジントの背中で拡声器の声が見物人に告げていた。
8 |ラフィールの変身《ゴローコス・ラフィル》
惑星クラスビュールの長い夜はようやく明けようとしている。
そういえば――ジントは洞窟に近づきながら思った――だれかが待っていてくれる家に帰るなんて、何年ぶりかな。
ちゃんと待っていてくれるだろうか。
留守にしていたのはほんの三時間ぐらいのものだし、敵軍の兵士たちは髪の色の選択を誤った連中を捕まえるので忙しそうだったから、たぶんだいじょうぶだろう――ジントはそう自分にいいきかせ、不安をねじふせた。
「ラフィール、戻ったよ!」また銃で狙われるのはかなわないので、ひと声かける。
洞窟の入り口に変化はなかった。例の即席の警報装置に血のあとはなく、膝より高い動物が侵入しなかったことを示していた。
ジントは慎重に|炭素結晶繊維《リ ュ ル ド ワ》を|紡錘《ヨムセー》に巻き戻す。
「ラフィール!」
返事がない。
不安がぶりかえすのを感じたジントは、|隠し《モスク》から出した|端末腕環《クリューノ》をはめて灯りをつけ、洞窟の奥に入った。
ラフィールがいた。かすかな寝息をたて、ぐっすり眠っている。その横顔はびっくりするほどいとけない。
ジントは安堵の吐息をついた。
「ラフィール、起きろよ」ジントは肩を揺さぶる。
|王女《ラルトネー》ははっと目を醒ますと、ジントを跳ねとばし、|凝集光銃《クラーニュ》に手をのばした。
「ぼくだったら!」ジントは痛めた尻をさすって、大声を張りあげる。
「なんだ、そなたか」ラフィールは気が抜けたように、「びっくりしたじゃないか」
「それって、ぼくのせい?」ジントはいった。「何度も声をかけたんだよ。ぜんぜん起きないんだから。あの警報装置も役に立ったかどうか疑問だな」
「黙るがよい、ジント」ぴしゃりというと、ラフィールは不思議そうに目をすがめ、「その趣味の悪い服はなんのつもりだ?」
「ああ、これね」ジントは着ている|つなぎ《ソ ル フ 》を見おろした。いったい何色使われているのだろう? 三原色はいうに及ばず、藍色、黄緑色、桃色、鳶色、赤銅色……。ざっと二〇色はある。だが、衣料品店の店員はこざっぱりした配色だとうけあった。「まあ、きみも慣れたほうがいいよ、この色彩感覚にさ」
「いやだ」ラフィールはにべもない。
「まあ、慣れなくても、我慢してくれればいい」ジントは妥協した。
「耐えることも必要であろからな」ラフィールはいやいや受け入れた。
ジントは腰をおろすと、街からかかえてきた雑嚢を開き、缶をとりだした。
「それはなんだ?」ラフィールはのぞきこんだ。
「毛染剤」
「毛染剤?」
「うん。きみの| 黝 《あおぐろ》い髪をなんとかしなけりゃいけないだろ」ジントは毛染剤の説明書きを読んだ。「こりゃいい。髪の毛に垂らすだけだってさ」
「ひょっとして、わたしの髪を染めるのか!?」ラフィールは目を見開いた。
「もちろんだよ。ぼくのを染めてもしょうがないだろ。黒を買ってきた。ほかの色よりは気に入るんじゃないかと思って」
「いやだ!」ラフィールは髪を押さえて、身体を引いた。
「だって……」ジントは予想外の反応に驚いて、「黒は嫌いだった? 赤か黄色のほうがよかったかな」
「黒が嫌いなんじゃない、この髪の色が好きなんだ。微妙な色であろ、濃すぎもせず、薄すぎもせず……」ラフィールは熱弁をふるいはじめる。
「うんうん。よくわかるよ。とってもきれいだ」ジントはなだめた。「けれど、街じゃ、髪を青く染めた人間がどんどん捕まっているんだ」
「この髪は染めたんじゃないぞっ」
「うーん、なぜだろう。染めているんじゃないってことがばれたら、もっとまずいことになるような気がするんだ」
「クー・リン・マプ・アス・タング・キプ!」
「はしたないな、どういう意味かわからないけれど」
「染めるしかないのか……」ラフィールは弱々しくいった。
「まったく、きみたちアーヴときたら、理解しがたいよ」ジントは苛立った。「遺伝子をいじったりするのは平気なくせに、なぜちょっとした化粧みたいなことを嫌がるんだ?」
「何度いわせる、そなたも……」
「アーヴだっていうんだろ? けれど、こんなことがあるたびに、その実感は薄れていくばかりだよ」ジントは缶をふって、「いと尊き|王女殿下《フィア・ラルトネル》、卑賎の分際でまことに恐懼《きょうく》の極みでございますが、御髪をお差し伸べくださいますか?――それとも、自分でやるかい、ラフィール」
「貸せ、そなたになどわたしの髪を触らせられるか」ラフィールは半ば奪いとるように缶を手にした。
説明書きもろくに読まずに蓋をとろうとするので、ジントはあわてた。「まず|頭環《アルファ》をはずさなきゃ」
「|頭環《アルファ》もはずすのか?」
「あたりまえだろ。ぼくはきみを地上人に見せかけようと努力しているんだぜ。どこの地上の民が|頭環《アルファ》をはめる?」それからジントはふと気になって、「そういや、アーヴはめったに頭環を外さないけれど、ひょっとして|空識覚器官《フローシュ》を人目にさらすのって、恥ずかしいことなのかな?」
「そなたはみょうなことを考えるな」ラフィールは感心したようだ。
「ちがうの?」
「ちがう。外すと不便だから、外さないだけだ」
「そりゃよかった。へんな気を使わなくてすむ」
ジントはちょっとどきどきした。|空識覚器官《フローシュ》というのは一億以上の個眼の集合体だ。いちばん近いものを探せば、昆虫の複眼ということになるだろう。
正直いって、ラフィールの額に昆虫の眼がついていると考えるのは、気持ちのいいものではなかった。
だが、しぶしぶ|頭環《アルファ》をとったラフィールの額を見て、ほっとする。
|真珠《ラーフ》の光沢と色を持つ菱形。それは光のかげんで|紅玉《ドウー》色にも見えた。個眼が判別できないほど小さいため、昆虫の複眼というより、なにか人工的な機械部品か、風変わりな装飾のようだ。気持ち悪いどころか、宝石の薄片をはりつけたようで美しい。
「意外と目につくな」ジントはいった。
「まさか、これもとれとはいわないであろな!?」ラフィールは露骨な恐怖を見せ、「これはとりはずせないぞ。そなた、抉《えぐ》りだせなどと……」
「いわないよ、そんな残酷なこと」
ラフィールはほっと息をついた。
「いったい、ぼくをなんだと思ってるんだ、切り裂き魔か?」ジントは雑嚢から帽子をとりだした。「これを買ってきた。ちょっと被ってみて」
ラフィールは帽子を頭にのせ、ぎゅっと眉までまびさしをおろした。|空識覚器官《フローシュ》はきれいに隠れ、地上人にしては整いすぎているラフィールの目鼻立ちもいくぶん隠れる。
その代わり、特徴的な〈|アブリアルの耳《ヌイ・アブリアルサル》〉がぴょこんと髪から飛びだす。
「耳も」
「ああ」ラフィールは耳たぶの尖った先端を帽子に押しこみ、髪で覆った。「これでよいか?」
「いいね」ジントはにこりとした。
「これを被ってれば、髪を染めなくてもいいんじゃないか」ラフィールは長い髪を帽子のなかにたくしこもうと、無駄な努力をした。
「だめだね」ジントは冷然と事実を告げる。「だいぶ、はみでているよ。完全に隠れるように散髪したら、きっとおもしろい髪型になるだろうな。そのほうがいい?」
想像したらしく、ラフィールはぞくりと身をふるわせた。「わかった」きっと唇を噛み、悲壮感を全身にみなぎらせて、「やむをえない。髪を染めようっ」
「おおげさだな。ここの住人は好きで染めているんだよ。『いざというときには、わたしにかまわず、航行日誌をもって逃げてくれ』といった王女さまと同一人物とはとても思えないな。あの自己犠牲精神はどこいった?」
「黙れ、ジント。わたしはこの髪が大好きなんだ」
「だから、一生、染めておかなきゃいけないわけじゃない。ここにいるあいだだけだよ」
「一生であってたまるか」ラフィールは帽子をとった。はらりと長い髪が舞う。
|王女《ラルトネー》は| 黝 《あおぐろ》い髪を手にとって、いとおしげに撫でた。
ジントは根拠のない罪悪感に胸が締めつけられる思いがして、「またすぐ会えるよ」
「うん」ラフィールはうなずくと、毛染剤をひとしずく、頭に垂らした。
黒が黝を侵食していく。どういう原理にもとづいているのか、毛染剤は髪に触れた肌や服を汚さず、薄く広がった。
一分もしないうちに、黝い髪のアーヴの少女は、瑞々しい黒髪の少女に変身した。どこにでもいそうな、と形容するには、その美貌はあまりにも冴々としていたが。
「うん、とってもよく似合う」
「世辞はききたくない」ラフィールはいったが、まんざらでもないようすで、黒い髪を指で梳った。
「じゃあ、つぎは着替えだ」ジントは雑嚢を丸ごと差しだす。「これに入っているよ。ぼくは出ているから、着替えてくれ」
「うん」ラフィールは雑嚢から女性用の衣装をとりだすと、眉間にしわをよせ、「変わった形の|長衣《ダウシュ》だな。けれど、思ったよりましだ」
ラフィールのは青と赤の格子縞の入った、クラスビュールではかなりおとなしめの意匠である。
ジントは立ちあがり、「じゃあ、着替えたら、呼んでくれ」
「待て、ジント」ラフィールは呼びとめた。雑嚢の中身を地面にあけている。あと、雑嚢に入っているのは靴だけだが。「|つなぎ《ソ ル フ 》がないじゃないか。この|長衣《ダウシュ》は|軍衣《セリーヌ》のうえに着てよいのか?」
ジントはまぶたを閉じて深呼吸をする。またひとつ、忌まわしい真実を告げるときが来た。
「それは|長衣《ダウシュ》じゃないんだ」ジントはゆっくりいった。「|つなぎ《ソ ル フ 》の代わりに着るもんなんだよ」
「これを下着のうえから着るのか!?」
「うん。ここの住民はそうしている。ぼくの故郷でも女性はこの手のものを着ている人がいたな。故郷のことばじゃ、わんぴーす≠チていうんだ。アーヴ語でなんていうか知らないけど」
「そんなことはどうでもよいっ」ラフィールは恐怖の面持ちでわんぴーす≠凝視した。
「ほんとうに……、これを着なくてはいけないのか?」
「いけないんだ」ジントは辛抱強く、「きみがクラスビュールの住民に変装するにはね」
「ジント、そなたは残酷な男だな!」
「ぼくが好きでやってるんじゃないってことは、わかってもらわないと」ジントは首をふりふりいった。
「そうか?」彼女は疑いの眼差しで、「じゃ、さっきから頬をぴくぴくさせているのは、なんのつもりだ?」
ラフィールの着替えが無事にすむと、ジントは断固として一休みすると宣言し、うたた寝をした。そのあいだ、ラフィールは――わんぴーす℃pで――銃を抱え、警戒にあたった。
二時間あまりも眠っただろうか、ジントは伸びをして、首を回した――気分は爽快だ。
「そろそろ行こう」と声をかける。
「うん」洞窟の入り口に坐りこんでいたラフィールはうなずいた。
出発の前にやることがあった。|星界軍《ラブール》の痕跡をなるだけ消しておかなければならない。
ジントは谷底に穴を掘った。できれば洞窟に掘りたかったが、いまある限られた道具では、岩を穿つのは不可能に近い。
穴の底に|星界軍《ラブール》の背嚢をほうりこむ。ラフィールの|軍衣《セリーヌ》とジントの|つなぎ《ソ ル フ 》も穴底行き。そして……。
「それも埋めたほうがいいな」ジントは手をのばした。
「だめだ!」ラフィールは|頭環《アルファ》を胸にだきしめた。
「どうして? 軍用の|頭環《アルファ》ぐらい、あとでいくらも支給してもらえるんだろ」
「これはわたしが軍に入って初めて支給された|頭環《アルファ》だぞ。想い出の品だ」
「あとで掘りだしにくればいい。|頭環《アルファ》は腐らないよ」
「それはそうだが、役に立たないとはかぎらない」
「たとえば?」
「そんなことはわからない」ラフィールは一歩も譲らない。
「でも、身分を証すものはなるべくもたないほうが……」
「銃と|端末腕環《クリューノ》はもっていくのであろ。それなら、|頭環《アルファ》もいいじゃないか」
「それもそうかな……」ジントは根負けし、|頭環《アルファ》を雑嚢に忍ばせることに同意した。
残りの荷物に|円匙《クフォー》で土をかけると、ジントは最後に円匙そのものを横たえ、手と脚を使って土でおおった。
ジントは|端末腕環《クリューノ》を|つなぎ《ソ ル フ 》の|隠し《モスク》にいれ、|凝集光銃《クラーニュ》はルーヌ・ビーガで買った雑嚢につっこんだ。
ラフィールは太腿に|装帯《クタレーヴ》を巻いて、|凝集光銃《クラーニュ》をさした。|端末腕環《クリューノ》は足首につけ、靴で隠す。航行日誌を収めた|下げ飾り《フ ラ ー フ 》はわんぴーす≠フ胸元にたくしこむ。
そして、ふたりは出発した。
昼なので、ふたりの歩く道はもう光ってはいない。畑より一〇〇ダージュほど高いその道はときにくねりながら、おおむね直線的に敷かれていた。
生活時間ではもう夕方なのだが、恒星スファグノーフは天の頂めざして昇りつつあり、じりじりと道路に照りつけている。
ジントは帽子を被っているラフィールを羨み、自分の分も買っておけばよかった、と悔やむ。
とはいえ、金は貴重である。衣装をそろえるのに、一五〇〇デュースのうち、二〇〇デュース近くも使ってしまった。
救助が来るまでもつかどうか……。
もしも金がなくなったらどうしよう? この惑星ではふらりとやってきた人間を雇ってくれるほど寛大だろうか。もしも駄目なら……、うん、手っとりばやく、|凝集光銃《クラーニュ》にものをいわせる、という手もある。
ジントはにやりとした。|王女《ラルトネー》と|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》が強盗か。たぶん、人類史上、もっとも尊貴な犯罪者だ。きっと演劇になるぞ。
「なにをにやにやしてるんだ?」ラフィールが訊いた。
「いや、なんでもないよ」ジントは笑みを消した。
「そなたは緊張感がないな」
「お互いさまだろ。ぐーすか眠っていたくせに」ジントはいいかえした。
「黙れ、疲れてたんだ」
「そうだろうとも」同意して、すぐ話題をかえた。「ぼくたち、兄妹に見えるかな?」
「見えないであろ。われらは兄妹じゃない」
「そりゃ困った」
「なにが?」
「街じゃ、兄妹ってことにしようと思っていたんだけど」
「なぜそんな嘘をつかないといけないんだ?」
「だって、まさかほんとうのことはいえないだろう」いいながら、ジントは思った。そうはいっても、『ほんとうのこと』をいえば、ふたりの関係はなんだろう? |王女《ラルトネー》と忠義の騎士? 王女は本物でも、騎士のほうはがらじゃない。哀れな二人組の避難民? そのほうが実状に近い。見習い|翔士《ロダイル》とその荷物よりは進化しただろうが。
「みょうなことをいう。そなたとわたしの関係など、われらが承知してればいいことであろ」
「そりゃ、そうだけどね、気にするのがいるかもしれない。デルクトゥーじゃ、未成年の男女がふたりで宿に泊まったりしたら、たちまち防犯警察が飛んでくる」
「わたしは子どもじゃないぞ。そなたはどうか知らないが」
「ぼくだって、そうじゃないつもりだけど、他人が見たら、子どもみたいなもんだよ」ティル・コリントの顔がとうとつに浮かんだ。「育ての親なんか、ぼくがもう子どもじゃないって教えてやると、必ずいったもんだ、『子どもはいつもそういいはるんだ』って」
たしかにあのころはティルのいうことが正しかった。ジントはなにも知らず、無垢で幼く……。
「だけど、ここはデルクトゥーじゃない」
「そうなんだ。ここじゃ、どうなのかな?」
早婚が認められる文化傾向があるなら、苦労はない。若夫婦の新婚旅行――というには旅装が貧相だが――でとおすことができる。
「そんなに気にせねばならぬことか?」
「あんまり人目を引きつけたくないんだ。ごくふつうに……」
「ジント」ラフィールはきゅうに立ちどまった。「もしかしたら、わたしはじゃまなんじゃないのか?」
「なんだよ、いきなり……」ジントは絶句した。
「わたしがいなければ、そなたはずっと簡単に隠れてられるんじゃないか」
「あのね……」雑嚢を地面におろして、眉根をもんだ。どう説明するべきかを考え、けっきょく、正直に伝えることにする。「そりゃ、ぼくひとりのほうがなにかと便利なような気がするよ。なんといっても、ぼくは地上人だし……」
「そなたはアーヴだ。それとも、アーヴであることがいやなのか?」
「さあね。ちょっと負担に思っていることはたしかだ。でも、嫌だってわけじゃない。ただ、どちらなんだって訊かれたら、地上人だってこたえるな。ぼくは生まれも育ちも地上なんだから」
「そなたがそんなふうに思ってるとは気づかなかった」ラフィールは唇を噛み、「わたしのことなら気にすることはないぞ。|帝 国《フリューバル》のことも。もしそなたが|爵位《スネー》を捨ててもいいのなら、ここで別れよう。いったであろ、わたしは足手まといになりたくない」
「本気かい、ラフィール?」
「本気だ。べつにそなたなんかいなくたって平気なんだからな」
「いやだね」ジントはいった。自分でも声が硬くなっているのがわかる。「なんなら|爵位《スネー》は捨ててもいいけれど、きみとここで別れるつもりはないよ」
「なぜだ?」
「なぜなら、そんなことして生きのびても、うれしくないからだよ」つのる怒りに流されるまま、ジントは一気にまくしたてた。「足手まといになりたくないだって? ぼくなんかいなくたって平気だって? 矛盾しているじゃないか、ラフィール。足手まといになる人間がどうしてひとりで平気なんだ。きみはぼくをここに連れてきてくれた。ぼくに宇宙船を操縦しろっていっても無理な話だ、だからきみが必要だった。人間には向き不向きがあるだろう。きみは|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》で生きていくのに慣れていないんだ。まあ、ぼくだってそんなに世馴れしていないかもしれないけど、少なくともきみよりはましなはずだ。お互いに得意な分野で助けあおうっていっているのに、どうして足手まといだとかどうとか、気にしなくちゃいけないんだ? そうだろう、ラフィール。ぼくはなにかおかしなことをいっているかい? それとも、きみのほうこそぼくがじゃまになったのかな――だったらしょうがない、さっさとこの哀れな荷物を見捨てていくがいいさ。けれど、ぼくのほうからきみと別れるつもりはないからなっ」
ジントがしゃべっているあいだ、一台の|浮揚車《ウースイア》が追いぬいていった。
「そうだな」ラフィールは顔を伏せた。「許すがよい、ジント。そなたは誇り高い男だ」
「そうだよ」ジントはまだ腹立ちを抑えきれずにいた。「ぼくはアーヴか地上人か、自分でもわからないようなやつだけど、それなりに自尊心はあるんだ。誇りはアーヴの専売特許じゃない。もうそんなことはいわないでくれよ。きみから離れてなんかやらないからな、安全になるまで」
ラフィールの口にした『誇り高い男』という評価が、最大級の替辞であることにジントが気づくのは、ずっとのちのことだ。
「わかった。もう二度と口にしない」ラフィールは誓った。
ジントはようやく心を落ちつかせ、「ぼくにはきみが必要だった、また必要になるかもしれない。けれど、いまは、きみにぼくが必要なんだって、せめて幻想だけでも持たせてくれ」
「幻想なんかじゃないぞ」
そのことばをきいたしゅんかん、|アーヴ貴族《バール・スィーフ》というのも考えていたほどひどい地位じゃないな、とジントは思った。
「ヨッホッホ、ふたり・そこ・熱・リーピ。あるか・喧嘩・男・加える・女? 女・そこ・モルン! 女・そこ・いい・捨てる・置く・おとこ・似る・シュリプ、いい・来る・いっしょ・おれたち。いい。する・ピーク・いっしょ・おれたち……」
とつぜん、近くで上がった声のほうを、ジントは見た。
さっきジントたちを追い抜いた浮揚車が引きかえしており、すぐそばに停まっていた。屋根のない浮揚車である。身を乗り出すようにして、三人の男たちがなにごとか囃《はや》したてている。男たちはみんな同年齢ぐらいで、ジントよりはやや年上のようだ。
頭を正統アーヴ語からクラスビュール訛りの破格アーヴ語に切り換えたが、男たちのことばは早口なうえ、俗語らしい単語が交じっていて、半分も理解できない。
どうやら、ふたりをからかい、ラフィールを誘っているらしいことはおぼろげにわかった。
「なにをいってるんだ、この者たちは?」ラフィールはぽかんとしている。
「きみの知る必要のないことだよ」ジントは雑嚢を肩に担ぎなおして、「さあ、行こう」
「うん」ラフィールは男たちがそこにいないかのように歩きだした。
「女・そこ・モルン! 男・そこ・じゃま、キーパウ!」
「シーク・リピリピ、いい・ピーク!」
「いい・とまる・モルン・女!」
浮揚車は歩く速度にあわせてのろのろとついてくる。
つぎに上がった叫びは、ジントにも完全に理解できた。
「無視すんじゃねえよ、てめえ!」いちばんがっちりした体格の若者がひらりと車を飛びおりて、ふたりの前に立ちはだかった。
「ヒュー、モルン!」男は口笛を吹き、ラフィールに手をのばした。
「来いよ、おれたちといっしょに楽しもうぜ!」
「やめろ!」ジントはその腕に飛びついた。
「てめぇ!」男はジントを突き飛ばす。
情けないことに、その一振りでジントは均衡を失い、道から畑へ転がり落ちた。
「くそっ」ジントは雑嚢から|凝集光銃《クラーニュ》をひっぱりだす。
そのあいだに、男はざっざっと畑に滑りおりてきて、牡牛のように鼻孔を広げ、猛然と突進してくる。
銃を構えたジントは銃爪を絞る。突き飛ばされたことより、ラフィールに手を出そうとしたことが許せなくて、頭に血がのぼっている。相手が死んでもかまわない、という狂暴な気分だった。
|凝集光銃《クラーニュ》からほとばしった光線は見事に男の腹部へ命中した――照明状態の光線が。
男はいっしゅん足をとめた。だが、腹を撃ったのが強力な電灯であることに気づくと、蔑むように唇を歪め、突進を再開する。
ジントはあわてて、安全装置を『|照明《アセルタフ》』から『|射撃《ウールタフ》』にあわせようとしたが、間にあわない。男はすぐそこだ。しかも、銃を握る右手に猿臂をのばしてくる。
と、男がどうっと倒れた。
「痛ぇよぉ」左脚をかかえて、のたうちまわっている。
ラフィールだ。
ラフィールが|凝集光銃《クラーニュ》で男の左脚を貫いたのだ。
ようやく安全装置を『|射撃《ウールタフ》』にして立ちあがったジントの目に、ラフィールが後ろへ引きこまれるのが映った。
痛がるのに忙しそうなので、のたうっている男をひとりにしてやり、道へ駆けあがる。
男のひとりはラフィールを羽交い締めにしており、もうひとりが銃を奪いとろうとしていた。
ラフィールの戦いかたはじつに印象的だった。こんな連中のために頬骨筋《きょうこつきん》ひとつ動かすのも惜しいとでもいいたげな無表情、ましてや声を上げることはせず、きわめて物静かなようすで前に立つ男を蹴飛ばしていた。
こういったとき、女の子は悲鳴をあげると思いこんでいるのだろう、男たちの顔には戸惑いが浮かんでいる。
だが、形勢はラフィールに不利だった。
「離せ!」ジントは空へむけて威嚇射撃をした。
悲しいかな、|凝集光銃《クラーニュ》は音響をたてない。霧か煙のなかでなら一条のまばゆい光が走っただろうが、燦々と照りつける恒星のもとではまったく自己主張をしようとせず、若者たちは気づいてもくれなかった。
ジントは銃口を下へむけた。
波長のそろった光が道路を切り裂き、瞬間的に舗装を昇華して、小爆発を起こす。
ようやく男たちの動きがとまった。
「両手をあげろ!」クラスビュール・アーヴ語で叫ぶ。
解放されたラフィールがジントと肩を並べて、銃を男たちに擬した。
「撃つんじゃないよ、ラフィール」彼は小声でささやいた。
「当たり前であろ」と心外そうに、「無抵抗の者を撃つつもりはない」
「そりゃよかった」
「けれど、ほんのちょっと――抵抗してくれるのを期待している」
「白状すると、ぼくもだ」
ラフィールの気持ちが伝わったのか、男たちは両手をさしあげたまま、ぴくりとも動かない。
「ようし、きみたち」ジントはいった。「お友だちが下で苦しんでいる。つれてきてやってくれ」
男たちはジントを睨みつけ、それでも抵抗の素振りは見せずに、畑におりていった。
「そなたは順応性が高いな。もうこの世界のことばをしゃべれるのか」とラフィール。
「ちょっとしたコツだよ。ここのは、アーヴ語の変形なんだ」ジントは男たちに声をかけた。
「変なことをしてもいいよ、射撃の練習もしてみたいからね」
「シャックンナ!」男のひとりが罵りをあげた。
「ありがとう」ジントはすましてこたえる。
「どういう意味なんだ、あれは?」とラフィール。
「知るもんか。きっと乙女にはいえない意味だよ」と肩をすくめ、「それはともかく、この人たちの車をもらおう。移動手段を確保したいからね」
「徴発するのか?」
「ちがうよ」ジントは表情をひきしめ、「ぼくらは軍隊じゃないんだから。奪うんだ」
「なんの名分もなくか?」
「そうだよ、犯罪者になってしまうけれど」
行動、外見ともに悪党の条件を備えている三人組が素手で立ちむかってきたところから推察すると、この地上世界では武器を持ち歩く習慣があまり一般的ではないらしい。|凝集光銃《クラーニュ》をふりまわしておいて、いまさら善良な一般市民であることを主張しても、説得力の面でははなはだ心許なかった。
いっそ犯罪者になってしまったほうがいいのだが、|王女《ラルトネー》が堅苦しく考えないかと心配だった。
「おもしろいな」意外にも、彼女はのってきた。「これが話にきく強盗というものか?」
「まあね」ジントはいやな予感に襲われた。
三人が道に上がってきた。怪我をした男にひとりが肩を貸している。さすがに悲鳴はおさまっているが、痛みに顔をしかめていた。
ジントが口を開くより早く、ラフィールは宮廷じこみのアーヴ語で、われわれは通りすがりの強盗であって、アーヴとか|星界軍《ラブール》とか後ろ暗いことはいっさいないことを強調しはじめた。さらに、車はいただくが、これは強盗としてはきわめて正常な経済活動である、と宣言した。
男たちはあきらめの顔つきで彼女の演説をきいている。
ジントは頭をかかえた。ラフィールのことばの内容はわからないにしても、それが正統アーヴ語であることには気づいただろう。これではもう正体は露見したもの、と考えないわけにはいかない。
「|端末腕環《クリューノ》かなにか、通話に使える装置を持っていたら、出してくれないかな」気をとりなおして、ジントは頼んだ。
三人組は反応しない。顔を見合わせているだけだ。
「わかるだろう」ジントはやさしく、「ぼくたちの立場も考えてくれ」
「通話されるのが困るのなら」ラフィールが朗らかに提案した。「殺してしまったほうがいいのではないか?」
男たちがラフィールの正統アーヴ語をどれだけ理解したかわからない。しかし『|殺す《アゲーム》』ということばの響きはことのほか鮮烈だったらしく、ただちに反応があらわれた。
男たちは腰や肩につけていた箱をはずし、道端にほうった。
「効果的なはったりだったね」小声でラフィールにささやく。
ラフィールはきょとんとした。はったりとはなんのことだ、とでもいいたげな無邪気な表情。
ジントは身震いし、視線をラフィールから男たちに戻した――おお、きみたち、ぼくにひざまずいて感謝したっていいぐらいだぜ。
手の空いているひとりに命令した。「一ヵ所に集めて」
男がそうすると、|凝集光銃《クラーニュ》で一固まりになった通信機を念入りに灼く。少しばかり狙いをはずしたが、精密な機器はたちまち黒焦げの残骸となった。
「さてと」ジントは浮揚車の運転席をのぞきこんだ。この桿がふたつつきでたものは方向舵だろう。足で踏むこれは速度調節、そして……。運転のしかたはだいたいわかる。だが、確信はない。「運転を教えてもらおうかな、この車の」
「この者が操舵してたぞ、たしか」とラフィールは、傷ついた仲間に肩を貸している男を指す。
「じゃあ、きみ、乗ってくれ」と運転席を示す。
ラフィールが先に後部座席に陣取る。彼女の銃に狙われながら男が運転席におさまり、その隣にジントが坐った。
「きみたちは」と残ったふたりに、街と反対の方角を指差して、「あっちへいってもらおうか」
脚を射抜かれた男が低い声でなにごとかつぶやく。
ジントは銃をふりあげる。
男たちはぶつぶついいながら、歩きはじめた。
「じゃあ、出してくれ」と運転席の男に告げる。
「こんなことして……」男はうなったが、後ろから銃で頭をこづかれると、おとなしく指示にしたがった。
ジントはしばらく運転のようすを眺め、質問をさしはさんだ。予想どおりごく簡単だった。とくに難しい技術は要らない。
電磁反発式の浮揚車だ。目的地を入力すれば自動運転してくれるし、手動でも簡単に動かせる。道路以外では浮かぶことができないので、逸れるときには|地上車《フレリア》のように車輪を出さないといけないが、それも単純な操作で可能だった。
「これ、位置標識みたいなものは積んでいるの?」
「位置標識……?」
「位置を教えるもの、電波で。交通をうけもつ場所に」ジントは簡単なことばでくりかえした。
「ない。そんなもの、ない」
「これは?」助手席と運転席のあいだについている通話器のようなものを指でつついた。
「これは航法の機械だ。こちらから電波を出しているわけじゃない。車の位置をおれたちに知らせるものだ」
「なるほど、やってみて」
男は操作した。画面に地図が映る。青い点が現在位置だろう。
ジントもちょっといじってみた。地図の範囲規模の切り換えも簡単にできるし、近接都市までの距離、主要都市の案内などを出すこともできる。
「うん、便利だな。ところで、ほんとに位置標識はないの? 交通管制局は知りたがるんじゃないかな」
「ほんとにないったらっ。車の場所がいちいちわかったら、人の私生活の秘密、侵してしまうじゃんか。だから、この惑星じゃ、つけないんだ、そんなもの」
「なるほど」ジントはうなずいた。「好都合だ。それはそれとして、ぼくたちがこの惑星の人間じゃないみたいないいかただね」
「ち、ちがうのかよっ!?」
「後ろの席の彼女が気を悪くするぞ。あんなに一生懸命、説明したのに」
「ああっ、わかった、てめえらはこのシャックンナな世界の初代入植民の子孫だよっ」
「他人の前でもそういってくれよ」まったく期待しないで、ジントはいった。「じゃあ、もういいよ。戻ってくれ」
車は道をひきかえした。
「停まって」前方からあのふたりがやってくるのを目にして、ジントは命じた。
男たちはぎょっとしたようすで立ちどまった。ジントたちが戻ってくるとは思わなかったのだろう。
「やあ、きみたち、方向がちがうんじゃないのかい」ジントは陽気に声をかけた。
「どこに行こうと、おれたちの自由だっ」脚を射抜かれた男が吼えた。
「きみたちの異議については、訴状を見て検討する」ジントはしかつめらしく応じる。「書類をしかるべき司法機関に提出してくれたまえ」
そして、運転席の男におりるよう身振りで指示した。彼が席を離れると、いれちがいに運転席に腰かける。
ふと淋しい懐具合のことが頭をよぎった。
「ねえ、きみたち、現金を持っているだろう? 出してくれよ」
「調子に乗るんじゃねえぞ、てめぇ」と撃たれた男。
「殺してから、奪うという手もあるんだよ」せいいっぱい凶悪な表情を形づくってみせる。
「くそっ」
三人は現金を出した。あわせて一〇〇デュースあまり。期待していたより少額だ。
ジントは運転していた男に集めさせ、金を受けとった。そのあいだ、ラフィールは後部座席から銃でしっかり牽制している。
「それじゃあ、きみたち、名残惜しいけど、これでお別れだ」そういって、ジントは車を発進させた。
ラフィールが背もたれを乗り越えて、助手席におさまった。
「さすがだな」と弾んだ声で、「強盗であるなら、やはり金品を奪わないとな。わたしには思いつかなかった。そなたは強盗をしたことがあるのか?」
「冗談じゃない、ぼくは素人だよ」
惑星デルクトゥー時代、助手席に女の子を坐らせて地上車を乗り回す年嵩の少年たちを、ジントは羨んだものだった。あんなことをいつかはしてみたい、などと憧れていた。
いま、地上車と浮揚車のちがいこそあれ夢がかない、しかもその女の子は銀河でもとびっきりの美少女で、彼を尊敬の眼差しで見てさえいる。
なのに――この暗澹たる気分はどういうわけだ?
9 |帝宮にて《ルエベイル》
アーヴの故郷、都市船〈アブリアル〉は幾度かの改装を経て、いまも|帝宮《ルエベイ》として使用されている。
かつて一〇〇万近い人々を収容した巨船は、なお二〇万人以上の人口を有し、|軌《ベ 》道宮|殿《 イ》というより一個の小都市というのがふさわしい。
その小都市の一郭、真に重要な情報の流れからは慎重に隔離された部分に、住居と事務所を与えられた他国人の一群がいた。
サンプル・サンガリーニもそのひとりで、〈人類統合体〉から派遣された大使である。
|帝 国《フリューバル》は、他国船が領内星系に立ちよることを決して許さない。が、七つの|貿 易 港《ビドート・アーサ》を指定して、経済交流は行なっている。経済的な交わりが生じれば、外交が必然となる。そのため、帝国はほかの四ヵ国と外交官を交換していた。
|帝宮《ルエベイ》に住まう他国人とは、四ヵ国の大使とその随員たちなのだ。|帝 国《フリューバル》全体を俯瞰しても、他国人が居住を許されているのは、七|貿 易 港《ビドート・アーサ》とこの帝宮のみだった。
|帝 国《フリューバル》は外交官の特権を尊重してくれてはいたが、外交そのものについてはまったく重視していなかった。サンガリーニたちが重要人物と面談が許されることはめったにない。まして|皇 帝《スピュネージュ》に拝謁する機会は、着任と離任の挨拶のときぐらいのものだった。
いま、サンガリーニはほかの三人の大使とともに二度目の機会をえたのだった。
|帝宮《ルエベイ》には〈|謁見の広間《ワベス・ベゾーロト》〉がある。が、この広間は重要な儀式や国事にしか使用されず、サンガリーニは見たこともない。
サンガリーニが呼ばれたのは、〈|飛燕草の広間《ワベス・リゼル》〉。その名にふさわしく、|飛燕草《リゼール》が、いまにもはばたきそうな紫色の花を咲かせている。サンガリーニには容易に信じられなかったが、アーヴもアーヴなりに自然の美を愛するようだ。
広間の中央には、人が歩きまわれるように石畳になった部分がある。鏡のように磨きあげられた黒大理石の石畳には、渦状銀河が銀で象眼してあった。石畳の一方は壇になっており、四隅に〈|八頸竜《ガフトノーシュ》〉の像をあしらった柱がそれを囲む。壇上には、|翡翠の玉座《スケムソール・レン》にはいささか見劣りがするが、すこぶる坐りごこちのよさそうな椅子が設けられていた。
そこにひとりの麗人が端然と坐る。
〈|八頸竜《ガフトノーシュ》〉を象《かたど》った、精緻な|頭環《アルファ》。それを戴く縹色《はなだいろ》の髪は波打ち、尖った両耳でひとふさずつが左右に分かれて、薄紅色を基調とした|長衣《ダウシュ》の正面を伝い流れる。かんばせには|琥 珀《フティエーニュ》の色を帯びた眼に赤褐色の虹彩が並び、長衣のしたにまとう|軍衣《セリーヌ》の黒い袖口からは象牙色のたおやかな手がのぞく。その手には人類最大の軍事力を統率する杖を握っていた――〈|アーヴによる人類帝国《フリューバル・グレール・ゴル・バーリ》〉第二十七代|皇 帝《スピュネージュ》ラマージュ|陛下《エルミタ》。
四人の大使たちは立ったままで、|皇 帝《スピュネージュ》と対している。サンガリーニは屈辱を覚えずにいられない――アーヴ、その性《さが》、傲慢にして無謀か。無謀であるかどうかはともかく、傲慢であることはたしかだ。
「|陛下《エルミトン》」サンガリーニは大使たちを代表して口を開いた。「会談をお許しいただき、まずは感謝いたします」
「感謝を容れよう、大使どの」ラマージュはうなずき、「この身に時間は限られている。御身らの時もそうであろうと信ずる」
「たしかに」サンガリーニもうなずいた。尊大なるアーヴを相手に長々と儀礼的なやりとりで時間を費やすつもりはない。「さっそく用件に入らせていただきましょう。わたくしは抗議を申し入れるためにまいりました」
「釈明のまちがいではないのか?」アーヴの|皇 帝《スピュネージュ》はなじるでもなく、「|帝 国《フリューバル》内に御身らの艦隊が攻撃をかけた、とこの耳はきいたぞ。いまだに連絡は途絶して、詳細は判然としない。このことに関し、御身からなにか釈明がきけると存じていたが」
「抗議でございます」サンガリーニは強調した。「わが軍が貴国の|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》と呼ばれる星系に攻撃をかけましたのはたしかに事実。ですが、それは報復とお考えいただきたい」
ラマージュは無表情だ。わずかに片眉をあげたのみ。「大使どの、なににたいする報復かは、きかせていただけるのであろうな」
「もとより」サンガリーニは懸命に感情を抑制し、「わが国は新しい〈|門《ソード》〉を開き、その|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》における周辺領域を探査中でありました。そこへ貴国のものと思われる軍艦が、不軌にも攻撃をかけてきたのです。その軍艦は撃退しましたが、わがほうも甚大な損害を受けました。わたくしは〈人類統合体〉を代表し、厳重に抗議をいたします。たしかに、その領域は貴国の領土に近かったのかもしれません。ですが、平面宇宙はすべて自由航行領域のはず。無警告攻撃は決して正当化できません」
「わたくしもわが国の政府と市民を代表し、〈人類統合体〉大使どのの抗議に同調いたします」と〈拡大アルコント共和国〉大使のマリンバ・スーニー。彼女は神経質そうな顔に怒りを浮かべていた。演技ならたいしたものだ、サンガリーニは思った。
「わたくしも政府と人民になりかわり」〈ハニア連邦〉のグェン・タウロンが、とらえどころのない表情で追随した。アーヴ語を解しない彼は、機械通訳を使っている。そのことが彼の性格をいっそう暖昧に見せていた。
「わが国もです」〈人民主権星系連合体〉のジャネット・マカリが負けじと、訛りの強いアーヴ語で、「われわれは貴国の横暴に悩まされつづけてきました。わが親愛なる同盟者への謝罪と補償をつよく要求し、両者の交渉を深い関心を持って見守ります」
ラマージュは興味なさそうな面持ちで、発言者を順繰りに見まわし、サンガリーニの顔に視線をぴたりと据えた。
「それで、わが領を攻撃したと? 御身らの流儀からはずれておるように思われる。なぜわが艦艇の攻撃を受けたときに抗議をなさらなかった?」
「報復は現地司令官の判断で行なわれました」大使は中央からの説明をそのままに伝えた。そのじつ、少しも信用していない。「ご存じのとおり、中央と辺境では、連絡にかなり時間がかかりますゆえ。もし現地司令官が中央に判断を仰いでいましたら、|陛下《エルミトン》のご指摘になったように、まず抗議を行なったことでしょう」
「大使どの、御身は嘘をついておられる」ラマージュは首をわずかにかしげた。
「なにをおっしゃいますか!」サンガリーニは気色ばんでみせた。「なにを根拠にそのようなことを?」
「わが軍の艦艇が攻撃をしかけた、と御身はおっしゃるが、それが信用できぬ。誇り高き|星界軍《ラブール》には、かくたる理由もなく他者へ戦闘を挑む無法者はおらぬ」
「例外があった、と見るべきでしょうな、明らかに」とグェン。
「かりに例外があったとしても」ラマージュは落ちついてことばをつづけた。「敗れるわけがない。戦不戦の選択権をその手に握ったとき、確実に勝てぬ戦いをはじめるほどの無能者が、光輝ある|星界軍《ラブール》にありえようか。ふたつの例外性を一身に併せもつ指揮官がいるとは、とてもこの身には信じられぬこと」
「それはあまりに一方的なおっしゃりようじゃありませんか、|陛下《エルミトン》」とマカリ。「わたくしは〈|アーヴによる人類帝国《フリューバル・グレール・ゴル・バーリ》〉と〈人類統合体〉による共同の調査委員会を設置し、中立三ヵ国から監視委員を出すことを提案します」
「御身も嘘をつかれるおつもりか」|皇 帝《スピュネージュ》は彼女に冷淡な視線をむけた。「御身らは同盟を結んでおられる。なぜ中立であるはずがある?」
「この件に関しては中立でございます、|陛下《エルミトン》」〈人民主権星系連合体〉大使はいいはった。
「だからこそ、真相を究明しようと申しあげているのです」
「〈人民主権星系連合体〉のご提案を熟慮なさることを、わたくしも望みますわ」スーニーも口をそえる。
「無用なこと」ラマージュは赤褐色の瞳をぴたりとサンガリーニに据え、「大使どの、この身はもっと洗練された偽りをきかしてくれるもの、と期待していた。だが、期待はずれであった。残念に思う」
「なっ……!」サンガリーニは絶句した。とりつくしまもない。アーヴの|皇 帝《スピュネージュ》ははじめから彼のことばを受け入れるつもりはなかったのだ。彼の培った外交官としての能力は、行き場を失った。
「どうして嘘だとおっしゃられるのです、|陛下《エルミトン》」マカリがいった。「そう決めつけられる前にせめて調査を」
「御身らがこの粗雑な嘘で満足できる、とおっしゃるなら、この身はいうべきことばをもたぬ。あるいは、御身らはそれをほんとうに信じておられるのかもしれぬな。しかしわれらアーヴは、より精緻な欺瞞にのみ魅力を覚える」
「|陛下《エルミトン》。もし〈人類統合体〉と開戦するようなことがあれば、わが〈人民主権星系連合体〉は〈ノヴァシチリア条約〉に従い、|帝 国《フリューバル》に宣戦を布告する義務のあることを、この場で明らかにすることが、わたしに課せられた責務です」とマカリ大使。
「御身に感謝を、大使どの」|皇 帝《スピュネージュ》は皮肉っぽく、「そのことであれば、存じている。〈拡大アルコント共和国〉と〈ハニア連邦〉もどうようであろう」
ふたつの頭が同意の仕草をした。
「よろしい。では、戦おう」ラマージュはなんの気負いもなくいった。「ご苦労だった、諸卿。無事なご帰国を望む。諸卿の外交官特権はいまより二十四時間後に消滅する。いうまでもなきことながら、開放港までは、|帝 国《フリューバル》が名誉をかけて安全にお送りしよう」
ちょっと待ってくれ!――サンガリーニは心のうちで悲鳴をあげた――これで終わりなのか? 〈人類統合体〉でもっとも経験をつんだ外交官、このおれがなんの駆け引きの機会も与えられず、本国からの通達を嘘、それもできの悪い虚偽と決めつけられ、開戦の通告を受けとって、本国に帰任するしかないのか。これでは子どもの使いじゃないか! これはまだ小手調べ、|帝 国《フリューバル》の出方を知るための揺さぶりにすぎないのに!
「|陛下《エルミトン》、お考えなおしになりませんか」グェンが低い声でいった。「人類社会の半分と戦うことになるのですぞ」
「大使どのはお忘れか、残りの半分はわが|帝 国《フリューバル》のもの」アーヴの|皇 帝《スピュネージュ》は平然と応じた。
「戦うとおっしゃるなら、それもけっこう」マカリが外交官の職分を忘れ、これまでの忿懣を一気に叩きつけるように、「しかし、これだけは申しておきます。理念なき|帝 国《フリューバル》に勝利のありえないことだけは!」
「理念か」ラマージュの顔にはじめて興味の色がたゆとうた。「御身のおっしゃられるとおり、わが|帝 国《フリューバル》に理念はない。しかし、それが勝敗にかかわるとは思われない。理念なきものに勝利なしとは、御身の迷信であろう」
「ですが、人類の未来はどうなります。理念なき|帝 国《フリューバル》が支配する未来など、あってはならないものです」
「この身も人類の歴史を多少は知る。歴史をかえりみるに、個人が持ってこそ理念は美しく輝く。国家が持てばたいてい悲惨な結末を生む。国家の理念は|臣民《ビサール》を無用の死に追いやる。わが|帝 国《フリューバル》に理念は無用、帝国は理念なく存立し、多様な人類社会を統合することにのみ専念しよう。帝国には奇妙な信念をいだく臣民があまた存在する。|ビスレ伯国《ドリュヒューニュ・ビスレル》の民は帝国の支配下にあることを理解せず、自らの|領民代表《セーフ・ソス》を神として崇め、われらアーヴをなにか不可解な想像の産物と信じこむ。また|ゴガーフ伯国《ドリュヒューニュ・ゴガム》の|領民《ソ ス 》は|思考結晶《ダキューキル》に自らの知性を閉じこめ、永遠の生命を獲得したつもりでいる。彼らすべてをひとしなみに、帝国は影のごとく支配し、庇護しよう。帝国に理念があるとすればその一点」
「それは詭弁です。遺伝子をもてあそぶアーヴの担う未来など、おぞましいかぎり」
「それは過大評価というもの」とラマージュ。「始祖が生まれて以来、二〇〇〇年近く経つが、アーヴの基本的な遺伝子組成は変わらぬ。われらも御身らと同じく、進化への恐れに縛られている」
「進化への恐れ?」
「ちがうとおっしゃられるか? 進化の萌芽は遺伝子異常として摘みとられる。遣伝を意のままにできる力を手に入れたとき、人類が行なったのは、けっきょく、自らの進化を封じこめることであった。わが|帝 国《フリューバル》でも御身らの国々でも変わりあるまい。進化を恐れるゆえのこと」
「それは……」マカリは口をつぐんだ。
「おことばですが、|陛下《エルミトン》」サンガリーニは口を挟んだ。アーヴの|皇 帝《スピュネージュ》は明らかに論争を楽しんでいる。この論争にことよせて、少しでもこの会見を長引かせ、交渉の糸口をつかむべきだ。
「進化への恐れはともかく、理念なき国家が生きていけるものでしょうか。そのような国家はかならず分解いたしましょう」
「げんにわが|帝 国《フリューバル》は、理念という杖をえることなく、一〇〇〇年近いときを閲している」ラマージュは穏やかに反論した。「御身らの持つたぐいの国家はなるほど理念が必要であろう。もしくは幻想が。さもなくば、雑多な国民を束ね、他国にむかいあうことができぬのかもしれぬ」
「それは|帝 国《フリューバル》も同じことでは?」グェンが指摘した。
「異なる」ラマージュは言下に、「|帝 国《フリューバル》の束ねはわれらアーヴが担う。アーヴが人類社会を統一してこそ、人類は所与の理念に煩わされることなく、あるがままの文化と生活を楽しむことができるであろう」
「それでは、アーヴはなにをもって束ねられるのです?」サンガリーニは食いさがった。
「それは御身らの知ったことではない」ラマージュは突き放す。「さあ、もう行かれよ、諸卿。御身らの虚偽はこの身に感興を呼び起こすには足りなんだが、最後のひとときで救われた思いがする。楽しい会見であった。最後に申しておこう、われらがこの戦いに勝てば、人類最後の戦争となるであろう」
「恒久平和ですか」マカリが黒い顔に憎しみを浮かべ、「多くの人間が夢見てまいりました。しかし、かつて一度たりとも実現したことはございません」
|皇 帝《スピュネージュ》の美貌に笑みが浮かんだ。かの悪名高きアーヴの微笑≠ナはない。むしろ幼子の無知を楽しむような、温かみのある笑みだ。その微笑みを目にしたとき、このうら若く見える美女がじつは一〇〇年近くを生きてきたことを、そして彼女の種族がひどく若いことを、サンガリーニは実感した。
華奢な肩に全人類の未来を背負う矜恃もあらわに、|皇 帝《スピュネージュ》はいいはなつ。「とはいえ、かつてはアーヴがいなかったのだ」
大使たちがしぶしぶ辞去したあと、ラマージュは既知の|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》全体を表わす映像を呼びだし、壇の前に投影した。
既知領域の〈|門《ソード》〉は約三〇〇億。その|通常宇宙《ダ ー ズ》側はかならず|天川銀河《エルークファ》にある。おそらく銀河のもととなった宇宙卵の揺らぎ以降に、通常宇宙と|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》が分離したことに起因する現象だろう。ただし、個々の〈門〉の配置は銀河における恒星の配置に対応していない。通常宇宙側の〈門〉は大半が銀河の渦状腕に存在するようである。
〈|門《ソード》〉の配置はよく波紋にたとえられる。中心の円を〈門〉の集合である〈| 環 《スペーシュ》〉が何重にもとりまいているのだ。
中央の円はあまりに過密で、|時空泡《フラサス》が入りこめないほどだ。無数の〈|火山《キーガーフ》〉に吐きだされた|時空粒子《スプーフラサス》が、周縁にむけて、濃密な流れを成している。
中央の円の外には狭い間隙があり、それを越えると、環状を形成する〈|門《ソード》〉の帯にいきあたる。それが〈|第 一 環《スペーシュ・カースナ》〉だ。さらにやや広い間隙があり、〈|第 二 環《スペーシュ・マータ》〉が存在する。
中心から外縁へむかい、間隙と〈| 環 《スペーシュ》〉が交互に積み重なっていく――これが|天川銀河《エルークファ》に対する〈|門《ソード》〉群、〈|天 川 門 群《ソードラシュ・エルークファル》〉の構造である。
間隙は外側のものほど広くなっていく。また、どの〈| 環 《スペーシュ》〉もほぼ同数の〈|門《ソード》〉を含むので、外側の〈環〉ほど〈門〉の密度は低い。
人類が利用する〈|門《ソード》〉は、おおむね過密な〈|中心領域《ソール・バンダク》〉――〈|第 七 環《スペーシュ・ダーナ》〉の内側に存在していた。|通常宇宙《ダ ー ズ》で〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉を捕捉し、そこから|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》に進入すれば、中央部にでる確率が高いのは当然である。中心近くに位置する〈門〉を足掛かりに、手近な〈門〉を通常宇宙への通路とすることで、人類は版図を拡大していった。
かつては〈|未踏領域《ソール・ケーラザ》〉と呼ばれた、〈|第 八 環《スペーシュ・ガーナ》〉から〈|第 十 一 環《スペーシュ・ロキュナト》〉にも、人類の飽くなき膨張欲の結果、有人星系への〈|門《ソード》〉が散在していた。
|帝 国《フリューバル》は八つの|王国《フェーク》からなる。それぞれに|王《ラルス》がおり、ラマージュ自身も息子に位を譲るまでは|クリューヴ王《ラルス・クリュブ》の地位にあった。ただし、|諸侯《ヴォーダ》が|邦国《アイス》を統治していないのとどうよう、王の地位も多分に形式的である。各王国に含まれる諸領の|領 主《ファピュート》たちは、|皇 帝《スピュネージュ》〉の直臣であって、王の臣下ではない。したがって、王国といっても、行政区画というよりは地域名称ととらえるのがふさわしい。
八つの|王国《フェーク》のうち、七王国は〈|中心領域《ソール・バンダク》〉に寄り添って、他国と複雑な勢力境界線を形成していた。
だが、残るひとつの|王国《フェーク》――|イリーシュ王国《フェーク・イリク》のみは〈|第 十 二 環《スペーシュ・ロマータ》〉に位置する。
各|王国《フェーク》は|帝都《アローシュ》ラクファカールにあるやっつの〈|門《ソード》〉に対応する。都市船アブリアルの内蔵するやっつの〈門〉が開かれたとき、確率の法則にしたがい、七つは〈|中心領域《ソール・バンダク》〉に通じたが、|イリーシュ門《ソード・イリク》のみは〈門〉のまばらな辺境に通じていたのである。
それを奇貨として、|帝 国《フリューバル》は〈|第 十 二 環《スペーシュ・ロマータ》〉を掌握することに努めた。|貴族《スィーフ》を封じ、あるいは|軍事基地《ロ ニ ー ド 》を開設したのである。その最後の過程、〈第十二環〉を周回する航路が完成される間際に発見されたのが、ハイド星系という忘れられた人類世界だった。
|イリーシュ王国《フェーク・イリク》は、まるで〈|天 川 門 群《ソードラシュ・エルークファル》〉を抱きすくめるかのような形状ゆえに〈|アーヴの腕《バール・セーダ》〉とも呼ばれていた。両手が合わさったいまとなっては、もはや不適当な名称だったが。
薄く広がる〈|第 十 二 環《スペーシュ・ロマータ》〉の外縁部に、濃密に〈|門《ソード》〉が集中している場所が観測されていた。そここそ、べつの銀河に対応する〈門〉群の〈| 環 《スペーシュ》〉と重なりあった領域である、と考えられている。
まだそこまで人類の手は届いていないが、べつの銀河への扉は開かれているのだ。
が、その扉は〈|アーヴ帝国《バール・フリューバル》〉にのみ開かれている。|イリーシュ王国《フェーク・イリク》があるかぎり、|帝 国《フリューバル》以外の国々はほかの銀河へ到達することはかなわない。
むろん、|イリーシュ王国《フェーク・イリク》の外へ通じる〈|門《ソード》〉を発見すればべつだが、その望みは薄い。
その閉塞感が、今回、〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉に戦いを決意させた一因でもあろうか。愚かなことだ、人類の利用できる世界はまだいくらでもあるというのに。
|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》は|イリーシュ王国《フェーク・イリク》に属していた。ここが敵に制圧されると、アーヴは腕を叩き斬られたことになる。
「ファラムンシュ、来られるか?」ラマージュは|皇帝杖《ルエ・グリュー》で召喚の模様を描いた。
「御前に」青灰色の髪を編んで、肩から前へ垂らした男の立体映像が、|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》の隣に現われた。|軍令長官《ワロズ・リュアゾン》ファラムンシュ・ウェフ=ルサム・ラザス|帝国元帥《ルエ・スペーヌ》である。
「きいていたか?」
「はい、|陛下《エルミトン》」
「あの者たちが申したこと、どのていど、正しいのであろう?」
「おそらく、〈|門《ソード》〉を開いたのは事実でありましょう。ただし、はじめからヴォーラーシュとスファグノーフの連結を絶つつもりで軍を送りこんだものと思われます。周辺探査はもう何年もの昔にこっそり行なわれていたにちがいありません」
「気づかなかったのか、|情 報 局《スポーデ・リラグ》は」
「はい、まことに残念ながら」
「ぬかったな」
「返すことばもございません」さほど恐縮する体でもなかったが、ファラムンシュは頭を下げた。
「|帝 国《フリューバル》は老いたのであろうか」ラマージュはつぶやく。
「あるいは」ファラムンシュは否定しなかった。「彼らがこれほど手のこんだことをするとは思いもよりませんでした。情報もみごとに秘匿されておりました。いいわけをするつもりはこざいませんが、|使 節 庁《ゲーク・スコファリメール》もつかみそこねたのでは?」
「そうだ」ラマージュはうなずいた。「|使 節 庁《ゲーク・スコファリメール》よりは、近々、大規模な軍事行動の恐れあり、とのみ報告を受けている」
「強固な意志統一がはかられたのにちがいありません。寄せ集めの軍隊にしては、手際がよろしい」
ファラムンシュの口調には、どこか心の弾んでいるようすがうかがえた。交易が日常的な遊戯ならば、戦争は非日常的な遊戯であり、それだけ楽しみは大きい。雄敵をえれば、ファラムンシュでなくても、胸高鳴るのが当然といえた。
だが、ラマージュは立場がちがう。なんといっても彼女は|皇 帝《スピュネージュ》であり、自らの生命だけではなく、多くの臣下の生命も、戦いに賭けねばならないのだ。楽しみに心がはやらないでもないが、同時に、それを罪深いこととやましく思う気持ちもある。
「それで、撃破されたわが艦艇のことだが」ラマージュはもっとも気にかかっていた疑問を口にした。「|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉でまちがいないのか」
「ああ」ファラムンシュは沈痛な面持ちで告げた。「九割以上の確率で〈ゴースロス〉でございます。彼らの利用した〈|門《ソード》〉はいまだ特定できませんが、いずれにしろ、該当するわが艦艇は〈ゴースロス〉のみでございますから。お察しもうしあげます」
「余計なことを申すでない」ラマージュはぴしゃりといった。「率先して戦地に赴くのがアブリアルの伝統だ」
「ですが、|艦長《サレール》はレクシュ|百翔長《ボモワス》、|星界軍《ラブール》のなかでも優秀な|翔士《ロダイル》です。あの者であれば、|パリューニュ子爵殿下《フ ィ ア ・ ベ ル ・ パ リ ュ ン》を落とし奉ったかもしれません。|殿下《フィア》は|翔士修技生《ベネー・ロダイル》ですから、名目はなんとでも立ちましょう」
「気休めをいうでない。もしそうであれば、ラフィールの無事はこの耳に達していよう」
「失礼いたしました」ファラムンシュは恥じいるようすをみせた。
「ただ……」ラマージュは口のなかでひとりごちる――ラフィール、あの娘のことは気に入っていた。ドゥビュースは息子としてはできがよくなかったが、親としては意外と才能があったらしい。|翔士修技生《ベネー・ロダイル》という中途半端な身分ではなく、せめてちゃんとした|翔士《ロダイル》として戦場に倒れたなら、あきらめもついたであろうに。
「|クリューヴ王殿下《フィア・ラルト・クリュブ》の悲嘆もさぞ深いことでしょう」ファラムンシュのではない声がふいに加わった。「|想人《ヨーフ》と|愛娘《フリューム》をひとたびに失っては」
「|バルケー王《ラルス・バルケール》」ラマージュは声の主を見つけて、顔をしかめた。「そなたを呼んだ憶えはないぞ」
「|帝 国《フリューバル》の一大事です。無礼の段はお許しを、|陛下《エルミトン》」|帝国艦隊司令長官《グラハレル・ルエ・ビューラル》であり、|皇太子《キルーギア》でもある|バルケー王《ラルス・バルケール》ドゥサーニュ|帝国元帥《ルエ・スペーヌ》の立体映像は一礼した。
「ドゥビュースを慰めるなら、かの者のもとへ行くがよい、|殿下《フィア》」
「いいえ、|陛下《エルミトン》、それはまたの機会に。あるいは、発向の勅がくだるか、と参上いたしました」
「待つがよい」
「待つとは?」男にしては整いすぎた顔が、いぶかしげな表情を形づくる。
「ファラムンシュ」ラマージュは|軍令長官《ワロズ・リュアゾン》に説明するよう促した。
「|司令長官殿下《フィア・グラハレル》」ファラムンシュは身分の高い同僚に、「|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》に侵攻した敵は意外と動きの鈍いことが判明しているのだ。これは過小な兵力であること以外に原因が求められぬ」
「陽動ですか」ドゥサーニュは顎に手をやり、「そう思われるのですね、|閣下《ローニュ》は」
「そうとしか思えぬ。詳細が必要なら、|軍令本部《リュアゾーニュ》にお越しいただければ……」
「いや、それには及びません、|閣下《ローニュ》」|皇太子《キルーギア》は手を挙げて制した。「戦況分析は御身の得意ですから。彼らはつぎにどう出るのでしょう?」
「おそらく、狙いはこのラクファカール」ファラムンシュはいった。「彼らの意気ごみもただならぬもののようだ、|殿下《フィア》」
「ふうむ、一気に|帝都《アローシュ》を陥すのですか」ドゥサーニュの顔に興がる色が浮かぶ。帝都が陥落すれば、|八王国《ガ・フェーク》の連結は失われ、帝国はひどく弱体化するだろう。
「どこから侵攻するかはわからぬ。中心領域のななつの|王国《フェーク》、どこからでも可能性はある」
「わかったであろう|バルケー王《ラルス・バルケール》」ラマージュが仮初《かりそ 》めの|玉 座《スケムソール》から声をかけた。「軽々しく動けぬのだ。そなたには|帝都《アローシュ》防衛の指揮を執ってもらわねばならぬ。ファラムンシュ、ただちにバルケー王に預ける|艦隊《ビュール》の編成にとりかかるがよい。規模は|軍令本部《リュアゾーニュ》に任せる。が、建国以来のものを期待しているぞ」
「承知いたしました。ほかに勅命はございましょうか」ファラムンシュは|玉 座《スケムソール》をうかがった。
「ない。ただちにとりかかるがよい」
「御意のままに」ファラムンシュの映像は消えた。
だが、ドゥサーニュの映像は残っていた。
「|バルケー王《ラルス・バルケール》、ほかになにか?」
「いや、進化への恐れ、ということばを考えておりました」
「そなたらしいな、|ドゥサーニュ殿下《フィア・ドゥサン》。この緊急時に埒もない哲学論争でわたしの時間を奪うか」
「|陛下《エルミトン》も楽しまれるでしょう」
図星をさされて、ラマージュは苦笑した。「たしかに」
「この戦、われらが敗けたほうが、人類にとってはよいのかもしれません」
「ほう、どうしてそう思う?」ラマージュは眉をひそめた。
「われらが勝てば、人類社会はアーヴの秩序のもと、微睡《ま ど ろ》みに似た平和を享受するでしょう。人類の進化は平和に抑えこまれます」
「では、彼らが勝てば、進化の力は解き放たれるか。そなたも大使どののことばをきいていたであろう、あの者たちはより強く進化を恐怖する。われらが子女に施す遺伝子調整のたぐいすら唾棄すべき風習だと申している」
「それは存じあげております。ですが、彼らの勝利は混沌の到来を意味します。いまは四ヵ国でまとまっておりますが、われらという共通の敵がいなくなれば、いがみあいがはじまるのは必定。やがて、混沌が人類社会を覆うでしょう。そうなれば、かつての無力な時代のように、人類は進化の荒波にもまれるやも」
「それを望むのか、|殿下《フィア》は?」
「いいえ」ドゥサーニュは肩をすくめ、「長命のアーヴといいならわしますが、けっきょく、進化の行く末を見極めるほど長命ではありません。死んだのちのことなど気にしてどうなりましょう」
「では、なぜいう?」
「わたしも、ときには人類の未来に思いを馳せます。どうするかではなく、どうなるかに」
「|ドゥサーニュ殿下《フィア・ドゥサン》」ラマージュはやさしくいった。「つぎの|帝 位《スケムソラジュ》はそなたのものだ。|翡翠の玉座《スケムソール・レン》に坐ってのち、人類を混沌に突き落としたいなら、そうするがよい。だが、わたしの手にこれがあるかぎり」と彼女は|皇帝杖《ルエ・グリュー》をかかげ、「微睡《ま ど ろ》みに似た平和を志向する。そなたも力を尽くすがよい」
「いうまでもなきこと」ドゥサーニュは優雅に一礼した。「人類の未来はどうあろうと、〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉ごときに敗けてやるのは、わたしの趣味にあいません」
「それをきいて安堵した」ラマージュは辛辣に、「人類や|帝 国《フリューバル》の未来はともかく、そなたが趣味をおろそかにするとは思えぬゆえ」
「はい」当然のように受けて、「それに報復の意味もございます」
「ほう」ラマージュは意外に思い、「そなたがラフィールをそれほど気にかけてくれているとは知らなかった」
「|ラフィール殿下《フィア・ラフィル》のこともそうですが、もうひとり、あの艦には、わたしに縁ある者が乗っておりました」
「|ハイド伯爵公子《ヤルルーク・ドリュール・ハイダル》か」ラマージュはさらに驚いた。「思いもよらぬ一面をもっているな、|殿下《フィア》」
「意外ですか?」ドゥサーニュは微笑んだ。「あの|伯爵家《ドリュージェ》はわたしが創設したようなもの、と自負しております。すくなくとも、|帝 国《フリューバル》中枢でひとりぐらい、あの家のことを気にしているものがいても、よろしいでしょう」
|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》陥落が確定情報として|帝宮《ルエベイ》に達したのは、それから十八時間後のことだった。
10 |検 問《ライショス》
交通手段が手に入ったからには、ルーヌ・ビーガという小都市にこだわる必要はない。
ジントは自動運転機能にグゾーニュ市を指定した。
このあたり一帯はローハウ州に属し、そのローハウ州の州都がグゾーニュと呼ばれる都市である。|浮揚車《ウースイア》の最新情報によると、人口二〇〇万を超える大都市だという。そのぶん敵軍兵士の影が濃いだろうが、よそ者の姿は目立たないにちがいない。
道を行くうちに、惑星の裏側までつづくかと思われた光景も変化した。作物の姿が変わり、やがて農園が途切れて、森林や野原が現われ、また農園が出現した。ルーヌ・ビーガよりなお小さい町を抜け、孤立した人家の傍らを通り過ぎる。
浮揚車の調子は快調だった。
ジントはしだいに楽天的な気分に傾いていくのを覚えた。どこかの都市に潜伏しなくても、このままふたりで旅行をつづけるというのはどうだろう?
いや、駄目だ。
あの三人組は車を奪われたことを届けでるだろう。現地警察がやってくる前に、この車を捨てなければならない。
ジントは気分を引き締めた。
――そうだ、ぼくたちはもう犯罪者なんだ、敵軍だけではなく、現地の警察も敵に回しているんだ……。
「なにを難しい顔をしてるんだ?」ラフィールが話しかけてきた。風で飛ばされないように、帽子を左手で押さえ、ジントの顔を不思議そうにのぞきこんでいる。
「そんなに気難しい顔だった?」
「うん。そなたにまじめな顔は似合わない。いつものようにへらへらしてるほうが、安心できるぞ」
「いつもそんなに締まりのない顔をしている?」ジントは気分を害して、顔をなぜた。
「うん。そなたを見てると、|地上《ナヘーヌ》にいることを忘れられる」
「よろこんでいいのかな」
「好きにするがよい、そなたの感情だ」
「きみって、ときどき身も蓋もないな」
グゾーニュはもう間近だった。地図によると、この都市は森にとりかこまれているらしい。
その森に入ってしばらくして、ふいにピッピッと信号音がした。そのとたん、浮揚車はみるみる速度を落としはじめる。
「どうしたんだ?」
「さあ」ジントは戸惑った。
だが、すぐに原因はわかった。
前方に浮揚車が停まっていたのだ。それも一台ではない。ざっと見て、十数台が列をなしている。
ジントは座席から伸びあがって、渋滞の原因を見極めようとした。
敵軍兵士の一団がいた。その傍らには、どことなく狂暴な印象の金属塊が、半身を木々にかくしてうずくまっている――たぶん、敵軍の陸戦兵器だ。
「まずいな……」ジントは舌打ちした。
考えろ、考えろ……。
三隻の軍艦の迎撃をくぐりぬけて、着陸をはたした|星界軍軍士《ボスナル・ラブーラル》を探しているのか? だとしても、どんな人間なのかはわからないはずだ。しかし、|端末腕環《クリューノ》や|凝集光銃《クラーニュ》を発見されると……。
この車のことは知っているんだろうか? 占領軍が現地警察の下請けをするのは、ちょっと考えられないことだが、もし|星界軍軍士《ボスナル・ラブーラル》との関係を嗅ぎつけられていたら、かなり状況は悪くなる。こちらの人相風体までわかっていることになるのだ。
引きかえす? なにもグゾーニュに格別の用事があるわけではない――駄目だ、怪しいやつだと大声で自己紹介するようなもの。あの陸戦兵器がどんなものかわからないが、|凝集光銃《クラーニュ》二挺で対抗できるような代物でないことには、|領地《リビューヌ》をかけてもいい。浮揚車より遅ければ逃げきれるが……。
これも駄目だ、浮揚車を検問するのに、浮揚車より遅い兵器を使うわけがないじゃないか。たぶん、あいつは空を飛ぶ。浮揚車が地を這うより迅く。
くそっ、だいたいなんのために検問なんかしているんだ?
引きかえして確実に捕まるか。このまま進んで捕まる危険を冒すか――ああ、なんと魅力的な二者選択。
なんとかいいのがれをするしかない。
ジントは覚悟を決めた。
「ラフィール」ジントはささやいた。「口を閉じているんだ、しゃべるんじゃないよ。きみは現地のことばに不慣れだから」
「ああ、われらの正体がばれるかもしれないな」ラフィールは納得顔をした。
「わかってもらえて、うれしいよ」
「そなた、わたしをばかにしてないか?」ラフィールは傷ついた表情を見せる。
「あの三人組にアーヴ語で話しかけるようなことをしなければ、ぼくだって、わざわざこんなことはいわないさ」
「あれはまずかったと思ってる」ラフィールはしおらしく、「|星界軍《ラブール》などということばを出したのは、失敗だった」
「ついでにいうとね、強盗だ、なんて名乗るもんじゃない。強盗はだいたい無口なものなんだ、仕事中は。アーヴの世界にだって、犯罪はあると思うんだけどなぁ」
「それはあるぞ。でも、わが一族の者はあまりこまかい犯罪に慣れてないんだ」
「だろうって、思っていた」
そうしているあいだも、車の列はちょっとずつ進み、だんだんジントたちのばんが近づいてきた。
「銃のことは忘れるんだ」ラフィールが着衣のうえから|凝集光銃《クラーニュ》を触っているのに気づいて、ジントは警告した。「じっとしていればいい」
|王女《ラルトネー》は不満そうに唇を尖らせたが、こっくりうなずいた。
とうとう敵軍兵士がジントの車をのぞきこんだ。仏頂面の中年男と、陽気な笑みをたたえた若い男のふたり。
「なにかあったんですか?」ジントは友好的な雰囲気を装った。
「なんでもないですよ、市民」若いほうがこたえた。彼の声に重なり、腰につけた機械通訳からことばが流れる。「これは気軽な調査です。今後の行政の参考に、人の流れを調査しています」
「どうもご苦労さまです」無害な人間であることを印象づけようと、ジントはあけっぴろげな笑みを浮かべる。機械通訳に頼っているぐらいだから、こちらの訛りには気づかないだろう。ゆいいつの好材料だ。
「財布をお願いします」兵士は手を差しだした。
「財布ですって?」ジントは問いかえした。
「お金をとろうというわけじゃありません。われわれは山賊じゃないんですから」こいつはとびっきりおもしろい冗談だ、というふうに兵土はげらげら笑い、「あなたがたの身分を知りたいだけです」
「なるほど……」心臓がドクンと裏返った。
財布とは現金の入れ物ではなく、個人情報と口座情報の書きこまれた|記憶片《ジェーシュ》、もしくはそれに相当するものらしい。
もちろん、ジントはそんなものはもっていない。個人情報と口座情報なら、|端末腕環《クリューノ》に入っているし、それを提出すれば、彼らふたりのやんごとなき身分≠証明することができるが、もとよりそれは望むところではなかった。
いや、ジントの|端末腕環《クリューノ》はセールナイのものだった。だが、それで状況が好転するわけではない。|帝国国民《ルエ・レーフ》を歓迎してくれるとは思えないし、ジントがじつは女なのだと納得させるのは骨が折れそうだ。
「それが……、ええと、家に忘れてきてしまって……」ジントはいいわけした。われながら陳腐な弁解だった。
「ほう、おかしいですね。財布を忘れてしまったんですか。ここの人たちは、みんな、肌身離さず携帯しているもの、と思っていましたよ」
「ぼくは現金でないと安心できないたちで……」
兵士はついっと視線をラフィールへふり、「そちらのお嬢さんは?」
「ええと、そう、彼女も持っていないんですよ」
「ほう」兵士の目がすうっと細くなる。
ジントは前にもまして微笑をふりまいた。
兵士は機械通訳をとめ、年上の兵士とことばをかわした。その合間に投げかけられる視線は、あまり好意的ではない。
「よろしい」やがて、兵士はいった。「名前をきかせていただきましょうか」
――名前!?
ジントは焦った。そうだ、偽名ぐらいは考えておくべきだったのだ。
「クー・ドゥリン」とっさに友人の名を盗用した。クラスビュールでも奇妙な名ではないことを祈るばかりだ。
「そちらのお嬢さんは」畳みかけるように、兵士は尋ねた。
「ええと、彼女は、ええと、コリント・リナ!」ともっとも想い出深い名前を口にする。
「できれば、彼女の口からうかがいたいんですけれどね。彼女、どうかしたんですか?」
ジントは隣席をうかがった。『じっとしているんだ』ということばを忠実に守って、彼女は膝に手をおき、ぴくりとも動かない。
あきらかにやりすぎだった。この無反応ぶりはあまりに不自然だ。占領軍の検問を受けることなど、そう頻繁にあることではないのに、まったく興味を持っていない。だれだって疑いたくなる。
瞬きひとつしないその横顔は謎めいて、気品にあふれ、美しい――まったく非人間的なほどに。
「わかりました、ほんとのことをいいましょう」降参、というふうに、ジントは両手を挙げて、「これは人形なんです」
「人形?」
「え、ええ」
「まるで生きているみたいですけれど」兵士は疑わしそうにラフィールを見まわした。
「そりゃ、それだけ精巧にできているんですよ」
「呼吸しているようにも見える」
「気のせい……、いえ、呼吸しているように見せかけているんです、機械仕掛けでね」
「なぜ人形を隣の席に乗せているんです?」
「なぜそんなことを訊くんです?」ジントは逆襲した。「これは交通調査なんでしょう」
「知りたいんですよ、この惑星の文化に興味があるものでね」兵士の顔つきは、単なる個人的なもの以上の興味であることを示していた。
「ぼくにだって見栄はある!」ジントはやけになって、喚いた。「せっかくの旅行なのに、ひとりでなんて、格好悪いじゃないですかっ。だから、女の子が乗っているように見せかけているんだ」
「いや、失礼」兵士はばつの悪そうな顔をした。「でも、きみぐらい若ければ、そんなに気にすることはないでしょうに」
「あんたになにがわかる!?」
「ああ、まあ、そうですね、ぼくもきみぐらいのときにはいろいろ悩んだものですよ」兵士はふっと溜息をついて述懐した。「いまからふりかえると、ばかげた悩みでしたがねぇ」
「もう、行っていいですか」ぶすっとして、ジントはいった。
「その前にちょっと、その人形に触らせてくれませんか。ほんとにすごくよくできていますね」と手をのばす。
「駄目だっ!」ジントは飛びあがった。「彼女に触らないでくれっ」
「彼女?」兵士の眉がくいっと上がる。
「いや、だから、ぼくだけのものなんだ、だれにも触ってほしくない」
兵士はふたたび溜息をつき、慈愛に満ちた眼差しを寄越した。「人形愛か……。きみの精神は病んでいる、助けが必要かもしれないな」
――かんべんしてくれ。
「しかも、こんな美しいだけの、冷たい印象の人形を……」
中年の兵士がなにかいった。若い兵士はふりむいて、なにかこたえた。二言三言、ジントには理解できないことばがかわされる。
若い兵士は肩をすくめると、ジントに告げた。「どうもお手間をとらせました。もう行ってかまいませんよ」
「ありがとう」ほんとは身体いっぱいの喜びを表わしたいところだったが、わざと無表情をとりつくろうと、車を発進させた。
しばらく行くと、兵士たちの姿は見えなくなった。
ラフィールはまだ人形のように硬直している。
「もういいよ」と声をかける。「やあ、調子をあわせてくれて、助かったよ。きみもけっこう順応性が高いな。ぼくがなにをいっているか、よくわかったね」
「そなたの発音はまだしもわかりやすいからな」ラフィールはじろりと横目で睨み、「そなた、よくもあんなくだらない嘘を思いついたものだ」
ジントはきゅうに不安になり、「まさか怒っちゃいないだろう?」
「ほう、これが怒ってないように見えるのか、そなたには。人形のふりをするのは、疲れるだけじゃない、誇りが傷つくんだぞ。あいつ、わたしのことを冷たいとかなんとかいってたな」
「いまのきみを見れば、冷たい印象なんていわないよ。へたに触ると火傷しそうだ」よけいなことだけは理解できているんだな、と内心で舌打ちし、「それに、美しいともいっていたよ」
「わたしは美しいんじゃない、麗しいんだ。しかも、美しいだけ、といってたんじゃないか。それしか取り柄がないみたいに……」
「だって、切り抜けられたじゃないか」ジントは辟易して、「それだけでも評価してくれないと」
「理性はそなたの機知を称賛してる。けれど――感情はそなたを引き裂けと主張してるぞ!」
「きみが理知的な人でよかった」とご機嫌とりを試みる。
「どうせそなたは知らぬのであろがな、わがアブリアル一族は感情の――とくに怒りの抑制が下手なことで名高いんだっ」
「そうでなくても、きみの一族は宇宙でいちばん名高いじゃないか。それに、一族の類型にとらわれるのは、考えものだよ」
「黙れ、ジント! わたしはこんな自分が好きなんだ」
「自己愛か……。きみの精神は病んでいる、助けが必要かもしれないな」
「気をつけろ、理性が感情に押し流されそうだ」
「それにしても……」ジントはあわてて話をそらせた。「彼ら、なんのために検問していたのかな。ぼくたちを探しているようでもなかったし」
「|領民政府《セメイ・ソス》の要人を捕まえるためだ」
「どうしてそんなことがわかるの?」ちょっとびっくりして、ジントは尋ねた。
「あのふたりが話してた」
「そうか。きみは彼らのことばがわかるんだっけ。すっかり忘れていた」
「うん。たしか、こういってたな、『われらは奴隷政府のお偉方を探してるんだ、こんな子どもには用はない。髪も青く染めてないんだから、もう行かせてやれ。あとがつかえてるんだ』って」
「奴隷政府だって?」
「|領民政府《セメイ・ソス》のことであろ」
「だって、|領民《ソ ス 》は奴隷なんかじゃない」
「わたしは知ってる、そなたも知ってる。たぶん、ここの|領民《ソ ス 》も知ってるであろ。けれど、やつらは知らないんだ」
「ははあ。そうとう歪んだ世界観の持ち主だな」
「もうひとりは、そなたの精神に責任をもちたがってるみたいだったぞ」
「ぼくの精神に責任をもつって?」ジントは当惑した。
「任務から離れて、そなたの悩みを個人的にききたがってた。年をとったほうが、やめさせたんだ」
ジントはぞっとした。「危ないところだったな」
「わたしはむしろ見てみたかったな、そなたが青春の悩みを打ち明けるのを」ラフィールは毒を含んだ声で、「そのためなら、一日じゅう、人形のふりをつづけてもよかった」
|王女《ラルトネー》の怒りがおさまった、とジントが思ったのは、早計だったようだ。
「それはともかく、彼らは軍人だろ、どうしてそんなにおせっかいなんだ?」
「わたしが知るわけないであろ」ラフィールは冷たく突き放した。
浮揚車は森を抜け、開けた場所に出た。
「ここが街か?」とラフィール。
左手は草地だが、右手には延々とつづく壁があった。そのむこうに、数十棟の塔が並んでいる。
「ちがうだろう。街はあれだよ」ジントは前方を顎で示した。
ルーヌ・ビーガにあった、樹木のような建築物が寄り添って建っている。
「じゃあ、あれはなんだ?」ラフィールは塔の群れを指し、「自然のものともちがうようだぞ」
「なんだろうね、街がここまで広がっているのかな」
塔に人が住んでいるとは思えなかった。窓がひとつもないし、どれもまったく同じ形。ただ色はとりどりで、クラスビュールふうのけばけばしさに彩られている。まともな感性の持ち主がこんな街に住めば、そうばん、精神に変調をきたすだろう。
ジントは首をかしげた。「なにかの記念碑かな」
「なにの?」
「さあ?」想像もつかなかった。たいして歴史もない惑星の一都市に、これほど浪費をして顕彰しなければならないことがあるのだろうか。「ぼくらには関係ないじゃないか」
「そなたは意外とつまらぬ一面を持っているな」ラフィールは軽蔑したようにいった。
「好奇心は猫をも殺すってね、ぼくの故郷じゃそういうんだ」ジントはこの話題を打ち切った。考えなければならないことはいくらでもある。
記念碑群≠フ尽きたところから、街がはじまっていた。
恒星スファグノーフはまだ高みにあるが、生活時間ではもう真夜中近い。街に人影は疎らで、敵軍兵士の姿ばかりが目立つ。
ジントは運転を手動に切り換え、車を適当な駐車場に乗り入れた。
「いいかい、ラフィール、街でもしゃべるんじゃないよ」あたりに人がいないのをたしかめ、小声でささやく。「話すのはぼくに任せてくれ」
「わかってる、そなたはわたしをよほど愚かだと思ってるらしいな」
「念のためだよ」
「また、人形のふりをしようか」ラフィールはあてこすった。「そなたが担いでくれればよい」
「とんでもない、|王女殿下《フィア・ラルトネル》の御身体に手を触れるなんて、畏れおおい」
ジントはラフィールを促して、車からおりた。持ち物を残さないように気をつける。せっかく馴染んだ車だが、ここでお別れだ。
「車をここに残すんだから、どこかべつの都市へ行ったほうがいいのかもしれないな」人影はないが、ジントは小声で話した。
「どうやって?」ラフィールもささやくようにいう。
「なにか都市間大量輸送機関があるだろう。なにを使っているか、知らないけれど」
「それはよしたがよい」
「なぜ?」
「検問があるかもしれない。わたしは、そう何度も、人形になるつもりはないぞ」
「こだわっているな――でも、きみのいうとおりだ」
ラフィールの正しさを認めないわけにはいかなかった。あの兵士が例外でないかぎり、敵軍はそうとうな詮索好きだ。髪を黒く染めているとはいえ、帽子をとれば、ラフィールがアーヴであることは明白。あまり動きまわらず、この大都市で事態が好転するのをひたすら待っているのが、賢明というものだ。
「じゃあ、宿を探そう」ジントはいった。
11 |協 力 要 請《ラドーフォス・ロフォト》
ルーヌ・ビーガ市警察犯罪捜査部警部エントリュア・レイは紙巻煙草を灰皿に押しつけた。火が消えても、いつになく加虐的な気分で何度も力をこめる。
それで少しは気分が晴れ、ようやく管理官室へ出頭する気になれた。
まったく最低な朝だった。いや、それをいうなら、連中が来てからずうっと最低の日々がつづいている。
宇宙を支配するのがアーヴでも、〈人類統合体〉とやらでも、おれたちには関係ない――多くのクラスビュール住民と同じく、エントリュアもそう信じていた。
ところが、おおいに関係はあったのだ。
連中が警察に無断で検問をやらかしてくれた結果、交通は阻害され、いろんな影響が出はじめている。郊外の農地で作業する人や、市街の学校に通う子どもたちはずいぶん早起きになっていた。店では商品が不足しはじめた。
それに、どういうつもりか、青く髪を染めた住民を片っ端から捕まえて、頭をたんねんに剃りあげている。エントリュアの部下もひとりやられた。つるつる頭の流行は、もう三年も昔に終わったというのに。三年前の流行にとらわれていることが、とくに女性にとって、どれだけ屈辱的なことか、あいつらにはわかっているのだろうか。
最悪なのは放送にたいする介入だ。立体映像放送の番組選択権が大幅に制限されてしまった。楽しみにしていた連続劇の新作がせっかく配給されたというのに、視ることができない。視ることができるのは、やつらの宣伝放送だけ。昨日の晩は、選挙制度について長々と説明していた。選挙ならエントリュアも知っている。とくに警察管理官選挙には無関心でいられない。
こういったことにたいする一般の不満は、〈人類統合体〉の占領軍へこそむけられるべきものだが、なぜかみんな、警察に不満をぶつけてくる。
最大の原因は、占領軍の司令部の所在をだれも知らないことにあるのだろう。
まったくありがたい話だ。
都市樹の建つ市街を見ると、ルーヌ・ビーガはごく小規模な都市に見えるが、市域は広い。市街を中心に半径三〇〇〇ウェスダージュ。ほとんどが農地だが、小さな集落や孤立した人家も散らばっている。人口の八割が分散しているのだ。それだけルーヌ・ビーガ警察の管轄区域も広い。
空中艇の使用を禁止されたのと検問のせいで、警官の巡回は時間どおりにいかなくなった。連中ときたら警察の車も一般の車も区別しない。それどころか、巡邏車をとりわけ念入りに調べている。市街を出入りすることに座席のしたまで調べられては、市域全体に目を配ることはとてもおぼつかない。
ルーヌ・ビーガ市警察はすでに四人の現行犯を逃がしてしまっていた。占領軍につきあわされたせいで、現場に到着するのが遅れてしまったからだ。現行犯逮捕を免れた犯人は、犯罪捜査部が探さないといけない。まったくよけいな仕事を増やしやがって。これでは今年の検挙率が下がるのは必至だろう。たったひとつの救いは、警察管理官の評価もこれで下がるということだ。
ぼつぼつ警察そのものへの不満も出てきはじめていた。
犯罪捜査部の仕事に苦情処理は含まれていないが、エントリュアにも知人がおり、彼らはてっとりばやくエントリュアに非難をぶつけてくるのだ。
そして、この呼び出し。
アイザン警察管理官が朝いちばんでエントリュアを呼んだのだ。
お互いに嫌いあっている仲なのに、どういう風の吹きまわしだろう。呼びだすなら、ちゃんと三日前に警告して、心の準備をさせてくれればいいのに。
「エントリュア、来ました」管理官室の扉の前で叫んだ――アイザンは粗野な大声が大嫌いなのだ。
扉が開く。
エントリュアは大股で部屋に入った。
「やあ、エントリュアくん」アイザンが満面の笑みと猫なで声で迎えてくれた。
アイザンがエントリュアに会いたがるのは、たいてい凶事の前兆だ。歓迎しているようすを見せているとなると、確実に災厄が進行している証拠にほかならない。
管理官室には先客がいた。若い男である。第一印象からすると、じつに人あたりのよさそうな人物だった。エントリュアが反感をいだく理由などなかった、近ごろいやに目につく軍服を着ていなければ。
「こちらが、わが犯罪捜査部の誇るエントリュア警部」とアイザンは紹介の労をとった。「エントリュアくん、こちらは〈人類統合体〉平和維持軍のカイト憲兵大尉だ」
「よろしく、警部」カイトが手を差しのばしてきた。
エントリュアはうさんくさい思いでその手を見つめた。どういうつもりなのかわからない。
「ああ、失礼しました」カイトは明るく破顔し、胸の前で合掌した。「ここの挨拶は、こうでしたね」
その笑顔を見るうち、『おじょうず』と頭を撫でてやりたくなった。なんとかその衝動を押し殺して、合掌を返す。
「よろしく、大尉」エントリュアはそっけない挨拶を終えると、アイザンに、「で、用件はなんです?」
きかなくても、だいたいの察しはついた。犯罪捜査部を平和維持軍とやらの下請けにして使いまわそう、という腹だろう。
誇りある警察管理官なら、屈辱的な要請は跳ねのけてしかるべきだ。が、アイザンにそこまで期待するほど、エントリュアは楽天的ではなかった。なにしろ、占領軍は政治家や高級官僚を拘禁している。アイザンはたかが小都市の警察管理官にすぎないが、ここで占領軍のご機嫌を損ねると、牢獄にまだ空き部屋のあることを連中が思いだす、という寸法だ。
もちろん、エントリュアはそれでもいっこうにかまわなかった。その牢獄の空き部屋がやっと立っていられるぐらいの広さで、日が射さず、じめじめと不潔な場所ならもっといい。
「まあ、かけてくれたまえ、エントリュアくん。大尉もどうぞ」アイザンは応接用の長椅子を指した。
エントリュアたちは円形に配置された長椅子に腰をおろした。長椅子の脚は短く、ほとんど前方に脚を投げだす格好になる。
「大尉、薄荷茶でよろしいですかな」とアイザン。
「いいですね、いただきます」カイトはにこやかに応じた。
エントリュアの好みはたしかめず、アイザンは三杯の薄荷茶を注文した。
すぐに長椅子の円の真ん中から三組の茶器がせりあがってくる。
喉が渇いていなかったので、エントリュアは茶器に手をつけず、ふたりが薄荷茶をすするのを、いらいらしながら眺めていた。
「いいかげんに用件に入ってくれたらどうです!?」エントリュアはとうとう耐えきれなくなり、「おれだって、けっこう忙しいんだ」
「まあ、そうあわてるものじゃないよ、エントリュアくん」
「わたしは警部に賛成ですね」意外にも、カイトがエントリュアに味方した。「この件は緊急を要します」
「なるほど、そうでしたな」アイザンはあっさりうなずいて、「結論からいうとね、エントリュアくん、大尉はわれわれに協力してくださるそうだ」
「はあ?」どうも予想とちがう。「占領軍がおれたちに協力するんですって?」
「占領軍ではありません、わたしたちは解放軍です」カイトが訂正した。
「その機械通訳がおかしいのかな、おれの辞書が悪いのかな。解放ってことばにそんな特殊な用法があるとは知らなかった」
「アーヴ、あの忌まわしい合成人間どもの抑圧からあなたたちを解放し、民主主義を知らしめるために、わたしたちは到来したのですよ」カイトは高らかにうたいあげる。
「民主主義なら知ってるぜ。このアイザン管理官さえ民主的な手続きで選出されたんだ」もっともこの件に関しては、民主主義の胸ぐらをつかんで、いくつか説教してやりたいことがある。
「奴隷民主主義です。仮初《かりそ 》めの、ほんの形ばかりの民主主義です。あなたがたの指導者はアーヴの支配を当然のことと容認していました。真に民主的な指導者なら、抑圧的な支配機構を打ち破るために立ちあがるべきだったのです」
「キンディ議長か」エントリュアは首をふりふり、「おれはずっと民主党支持者だが、あいつは自由党員にしてはいい男だぜ」
「民主党! 自由党! そんな名前の党が、アーヴの支配するこの惑星に存在すること自体、民主主義にたいする冒涜です」
「だからって、牢屋にぶちこむことはないだろうが」
「牢屋じゃありません。民主主義学校です」
「なんだ、そりゃ? 強制収容所の隠語か?」
「教育施設ですよ、文字どおりの学校です」
「ほう」エントリュアは片眉を上げた。「じゃあ、だれも願書を出したがらないのは、どういうわけだ?」
「エントリュアくん、喧嘩腰になることはないだろう」アイザンがおろおろしたようすで口を挟む。
臆病者め――エントリュアは心のなかで嘲った。余所者に警察をかきまわされようとしているのに、そんなに民主主義学校とやらが恐いか。
「いえ、いいんですよ」カイトは落ちつきはらって、「じゅうぶんに予測された誤解ですから。こういった誤解から解いていくのが、わたしたちの使命です」
「お若いのに、よくできた人だ」アイザンは誉めそやす。
一連の論争から、エントリュアは確信を深めた――こいつは積極的な善人だ。
エントリュアの見るところ、善人には二種類あった。消極的な善人と積極的な善人と。前者は感謝されるが、後者は自分以外のだれも満足させない。
積極的な善人の特徴は、つつがなく暮らしている人の問題点を指摘する、という点にある。指摘されたほうは問題があるとは夢にも知らなかったので、うろたえてしまう。狼狽しているあいだに、積極的な善人は問題を解決することに手を貸す。手を貸されたほうが正気をとりもどしたころには、たいてい助けられる前より不幸になっている。
「用件は緊急を要するんじゃなかったっけ」とエントリュア。「協力するって、どういうことです? この大尉どのがわたしの指揮下に入ってくれるとでも?」
「きみ、失礼じゃないかね」とアイザンがたしなめる。
「警部のご不審はもっとものことと存じますよ。ちゃんと順をおってお話いたしますから」
「ありがたいね」エントリュアは辛辣にいった。
「わたしたちが協力するのは、ある特定の事件です。昨日、この街の市民が傷つけられ、その車が奪われました。この件にたいして、わたしたちは重大な関心を寄せています」
ずいぶん、つまらない事件に関心をいだくんだな――エントリュアはそう思った。もちろん、なにか裏があるにちがいない。
「事件番号は?」エントリュアは訊いた。
「〇四 - 三三七 ー 八四〇四だ」アイザンがこたえる。
エントリュアは通信器を警察情報系に接続した。話題の事件を浚いあげ、画面に表示させる。
「被害者はこいつらか」三人の被害者の名は以前から知っていた。証言内容を一読し、エントリュアは笑いだす。「道端で困っている男女に援助を申しでたところ、いきなり襲撃されただって?」
「なにがおかしいのです?」不審そうにカイトが小首をかしげる。
「だって、この三人は札付きのワルだぜ。ガキの時分からおれたちの仕事を増やしてくれてるんだ。ひとつ、助言をしてさしあげようか? あんたらが人気がほしいなら、この三人を公開銃殺することだ。なにしろこいつらは未成年で、おれたちには法というやっかいな制限があるもんでな。こいつらが援助を申しでたって? おおかた、女にちょっかいをかけようとして、反撃されたんだろうよ。こいつらのいっていることが正しいのなら、あんたらのクラスビュール占領よりずっと大事件だな」
「クラスビュール解放です」カイトは生まじめに訂正した。
エントリュアは無視して、「で、なんでこんな事件に興味があるんだ?」
「よくご覧になってください。女性はアーヴ語を話し、しかもアーヴのように美しかった、とあるでしょう」
「ははあ、読めてきた。だけど、こいつらのいうことはあてにならないぜ。教養あふれたかたがただからな、鳥の啼き声とアーヴ語の区別がつくかもあやしい。それに、やつらにとって女は二種類しかいない。すんげぇマブ≠ニドブス≠ウ。そして、女の三分の二はすんげえマブ≠ノなるらしい。あいつらがすんげえマブ≠ニいったからって、この男女がアーヴかどうかわかったもんじゃないぜ」
「男のほうはちがうでしょう。まがりなりにも、現地のことばを話し、容貌も平凡だったようですから。おそらく、アーヴ女性とお付きの|国民《レーフ》でしょう」
「アーヴがなぜ地べたを歩いていたんだ?」エントリュアは納得できず、「連中がいちばんやりそうにないことだぜ。前から思っていたんだが、やつら、足の裏にでっかい土の塊が乗っていると、落ちつけないんじゃないか」
「それについては、推測にすぎませんが、現場からやや離れた場所に帝国軍の着陸莢がありました。この着陸莢と事件には、なんらかの関連があるもの、とわが軍の上層部は見ています」
「まだるっこいしゃべりかたをするんだな。要するに、着陸莢から降りた乗員だ、ていいたいわけだ」
「その可能性が高い、と申しているのです。あなたのおっしゃるとおり、この女性はアーヴではないのかもしれません。ですが、調べる価値はあります。ぜひ捜査に協力させてください。その代わり、犯人を引きわたしてほしいのです」
「待ってくれ。強盗傷害だから、けっこう重い罪だぜ。その犯人を引きわたせっていうのか」
「そのことなら」とアイザン。「すでに話がついているんだよ。きみには口を挟む権限はないはずだ」
「おっしゃるとおり、管理官」エントリュアは肩をすくめた。
「それではよろしいんですね」カイトは微笑んだ。
「きいたろう、おれには権限がないんだ」エントリュアは事件資料の担当者欄に視線を走らせ、「この件はバクーニン警部補の班が担当している。さっそく、やつにあんたを紹介しよう」
気に入らなかった。バクーニン班は三年越しの強盗殺人事件を追っているし、そのほかにみっつほど事件をかかえていた。しかし、しばらくはこのつまらない事件の専従になってしまうだろう。
「いいや」アイザンも気に入らないのはどうようらしい。「きみが捜査の指揮を執るんだよ、エントリュアくん」
「おれが?」そんなことになるんじゃないかと予想はしていたのだが、エントリュアはわざとらしくのけぞった。
「そうだよ、カイト大尉とともに捜査にあたってくれ。もちろん、部下はいくら使ってくれてもかまわん。ルーヌ・ビーガ警察の総力を挙げて、犯人逮捕にあたるんだ」
「待ってくださいよ、管理官。それじゃ、捜査が停滞してしまう。あんたは現場のことを知らないらしいが、おれにゃおれの仕事があるんですよ」
「警部が捜査の指揮を執るのはよくあることだろう」
「そりゃ、でっかい事件の場合はね」
「この事件は大きくないのかね? なにしろ占領、いや、解放軍がらみの事件だぞ」
エントリュアが、そして警官のほとんどがアイザンを嫌っているのは、こんなところだった。警察の中立性をのびすぎた爪ほどにも重視していない。すぐ外部の意見に引きずられて、警察機構をしっちゃかめっちゃかにしてしまうのだ――事件の重要度を内容ではなく、どれだけ報道機関の気を引いているかで決める。
柔軟に対応できるだけの機構を与えてくれるのなら、それでも文句はない。ところが実際には、議会の顔色を気にして予算削減に血道をあげ、組織を骨と皮ばかりに痩せ細らせてしまったうえで、無理な注文ばかりつけてくる。
ぎゃくにこの点が選挙民に受け、長いあいだ管理官の椅子をあたためているのだが。
「まだひとつ、わからないことがあるな。あんたがほしいのはアーヴの身柄だろう」エントリュアはカイトにいった。
「|帝国国民《ルエ・レーフ》も忘れるわけにはいきません。自由な市民として生まれながら抑圧的体制に手を貸した、憎むべき人間です」
「アーヴと|国民《レーフ》と。どちらにしろ、あんたたちはいっぱいいるんだから、なにもこんな田舎警察の手を借りることはないだろう」
「エントリュアくん、大尉がわれわれに手を貸してくださるんだよ」
「馬鹿げた建前はやめましょうや、管理官。大尉どの、あんた、部下は何人いるんだ?」
「わたしは」カイトは胸を張った。「単独行動を許された将校です」
「つまり、いないってことか」エントリュアは両手を広げて、アイザンを見た――ほら、これで議論の余地はなくなったぜ、管理官。ロバじゃあるまいし、おれは簡単にひっかけられないからな。
「これはあなたがたにとって大きな機会ですよ、警部」カイトは熱のこもった口調で話しだした。「本来なら、奴隷民主主義者の摘発にも現地警察の協力を仰ぎたいのです。なにしろわたしたちはこの惑星の事情にうといのですから。ですが、この場合、摘発対象はクラスビュールの法律では裁けませんし、なにより隣人だったわけですから、あなたたちとしても抵抗があるでしょう。この事件においては、摘発対象は紛れもない犯罪者ですから……」
「捕まえるのはおれたちの仕事だよ、たしかに」エントリュアは先回りした。「だが、どうしてそれが大きな機会なんだ?」
「あなたたちが真の民主主義に奉仕する機会です」カイトは秘密めかして声をひそめた。「ここだけの話ですが、上層部には在来の警察組織を解体する意見も存在します。奴隷民主主義の暴力機関だったわけですからね。ですが、ここでわたしたちと目的を共有することができれば、民主主義的な機構に生まれかわる可能性を示すことができます」
「ありがたいお話だな。それはあんたひとりの考えじゃないのかい?」
「とんでもない。在来の行政機構と積極的に協力すべきだという意見は、むしろ広汎な支持を集めていますよ。最高司令官も同じご意見です。あなたたちの行動によって、この意見を決定づけることができます」
「これでわかっただろう、エントリュアくん」アイザンがしたり顔で、「われわれは警察の存在意義を行動によってうったえかけなければならないんだよ」
うったえかけたいのは、あんたの存在意義だろうが――エントリュアは苦々しい思いを噛みしめた。
「いっそ、あんたがやったらどうです、管理官」エントリュアは提案したものの、アイザンが真剣に検討するようすを見てとって、即座に撤回した。管理官の指揮では部下が気の毒だ。
「わかりましたよ、おれが指揮を執ります」
腹立ちを押さえながら、エントリュアは煙草を一本、点けた。
「それはなんですか?」とカイト。
「煙草を知らないのか?」エントリュアは不機嫌に応じた。
「ああ、それが煙草ですか。ここでは合法なのですか」
「もちろん。おれは法の番人だし、ここは警察だ」
「わたしたちの社会ではもう二〇〇年以上も前に禁止されています」
「そうかい。嫌煙主義者はどこにでもいるもんだからな。だけど、こいつはまったく無害だぜ。匂いもない。薬みたいなもんだ、精神を鎮静させる作用がある」
「その薬効が問題なのです」カイトは無邪気に、「精神を薬物で制御するのは、倫理に反します。倫理に反する薬物を合法化せざるをえないことは、奴隷民主主義の抑圧のすさまじさをあらわしていますね。こういった薬物が嗜好される原因とともに薬物そのものを排除するのは、わたしたち解放軍の責任です」
「ああ、そうかい」エントリュアは紫煙を深々と吸いこんだ――カイト憲兵大尉どの、気づいているかい。あんた、たったいま、反動的な奴隷民主主義者をひとり創りだしたんだぜ。
12 |アーヴの歴史《バール・グレール》
「いい朝だねぇ」夕闇せまるグゾーニュの市街を眺めながら、ジントはいった。
「わたしにとっては、昼間だ」ラフィールは長椅子のうえでのびやかな脚を組み、ぼんやりと立体放送を眺めていた。
「もうことばがわかるようになったの?」窓からふりかえって、ジントは訊いた。
「少しはな」ラフィールはかすかにうなずく。
「――について、あなたたちは誤った情報を受けとっていることでしょう。これはたいへん不当なことです。あなたたちには知る権利があり……」立体放送受信機はひらべったい箱の形をしていた。そのうえから半透明の胸像のように女性の上半身が突きでて、ラフィールに語りかけている。
「また占領軍の宣伝放送か。おもしろい?」
「つまらない。けれど、ほかにすることがない」
まったくだな――ジントは同意した。ここでできる気晴らしといえば、ふたりでしゃべるか、立体放送を視るか。
クラスビュールの立体放送はつまらない。デルクトゥーなら、一生かかっても視きれないほどの番組が用意されており、いつでもどれでも視ることができたのに、ここの放送は選択することができないのだ。
もっともそれはクラスビュールの文化状況が悲惨だからではない。つい最近までクラスビュールにもデルクトゥーなみの放送系が存在したのにちがいないのだ。それを占領軍が変えてしまった。特別週間にあたったとあきらめるしかない。
「食事はすんだ?」ジントは尋ねた。
「まだ」
「じゃあ、ぼくの朝食ときみの昼食をつくるとしますか」ジントは伸びをして、「なにが食べたい?」
「なんであろうと、どうせわたしの口にあわぬ」不機嫌なふうでもなく、単に事実なのだからしようがない、といった調子でラフィールはこたえる。
「じゃあ、まかせてくれ」ジントは隅の自動調理台の前に立った。
足元の袋から缶詰をとりだした。〈牛肉と隠元豆のボルコス風赤茄煮 : 未調理 : 二人分〉と書かれていた。どのあたりがボルコス風≠ネのか見当もつかないし、そもそもボルコス風≠ニはどんなものなのかわからないが、描かれた見本はなかなか食欲をそそる。
その缶詰を自動調理台の投入孔に押しこんだ。味の濃度を中程度にあわせ、深皿を盛付け台に置くと、自動調理台は始動した。
この宿、〈リムゼール亭〉に入って、生活日で三日目になる。車を捨てたその足で泊まれる場所を探した。さいわい、この宿がすぐ見つかったので、一○日分の前金を払って逗留することにしたのだ。
居間と寝室の二部屋。浴室と洗面所もついている。厨房はないが、居間の隅にこの自動調理台があって、簡単な料理ぐらいはぞうさない。居間には長椅子があり、立体放送受信機もあった。
入室してすぐに着替えと当座の食料品を買いこみ、それからずっとふたりでここに籠もりきっている。ラフィールはもちろん、ジントもあまり出歩かないほうがいい。
どう思われているんだろう?――ジントは不安を感じていた。
宿帳に記入した名前は、サイ・ジントとサイ・リナになっていた。訊かれれば兄妹とこたえるつもりだったが、受付係はなにも詮索しようとはしなかった。クラスビュールで早婚が普通のことなら、夫婦とでも思ったのかもしれない。
だが、兄妹にしろ夫婦にしろ、三日も外出しない、というのはちょっと異常だった。
ここがデルクトゥーなら、ふたりは好奇の的になっているはずだ。デルクトゥー人は他人にたいする関心が高く、すこしでも際立ったところがあれば、すぐ原因を探りたがる。
クラスビュール人はどうなのだろう。あの受付係は若すぎるふたりの素性について、あれこれ想豫をめぐらし、その胸を好奇心ではちきれそうにしているだろうか。あるいは、一〇日先まで知ったことではない、一一日目に追加料金を払ってくれないようなら、ちょっとのぞいてみようか、というていどの関心しか持っていないだろうか。
関心があっても、ちょくせつここに訊きにきてくれるならいい。うまくごまかす自信はないものの、それほど悪くない状況にとどめておくことができるかもしれない。
最悪なのが、受付係がだれかにしゃべってしまうことだ。二人連れが三日も部屋に閉じこもって出てこない。なにをしているんだろう?――暇つぶしにはもってこいの謎ではないか。
三日が四日となり、四日が五日になるにつれて、謎は大きくふくらみ、さらに多くの人の関心を呼んで……。気がつくと、ちょっとした地域の有名人になっていないともかぎらない。
そしてまた、あの受付係はじつにおしゃべりが好きそうな男性なのだ。
ジントは溜息をついた――ときどきは外出すべきかもしれない。精神衛生上も。この閉塞感はたまらない。
ふたりは時間をずらして眠ることにしていた。寝台がひとつしかないという実際的な理由もあるし、警戒の意味もある。が、最大の、そして隠された理由は、一日じゅう顔をあわせていると、息がつまってしまうからだった。
熱愛中の恋人どうしではあるまいし、朝から晩までふたりっきりでいれば、気が立ってしまう。じっさい、このところラフィールはかなり苛立っているようだ。
一日の三分の一は眠り、三分の一は孤独を楽しみ、残りの三分の一はふたりで過ごす、という時間表ができあがっているものの、このままでは、ささいなことで争いが起こりかねない。しかもふたりは武器を持っている。こんな大気の底でアーヴの|王女《ラルトネー》と|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》が殺しあうなんて、冗談にもならない。
自動調理台がピッと鳴った。
ボルコス風赤茄煮の盛られた深皿をとりだすと、べつの深皿を盛付け台に置き、味をもっとも薄く調節しなおして、再始動させた。
めんどうなことである。味が同じなら、一度に二人分つくれるのだが。
最初にこの機械を使ったときは、そうしたのだ。ジントは久しぶりに塩気のある食事に満足したが、ラフィールは塩辛すぎるといって一口しか食べなかった。
それで、つぎの食事からは味付けを別にするようにしたが、|王女《ラルトネー》の舌にはこれでも濃すぎるらしい。
自動調理台がふたたび鳴った。
ジントは盆のうえに二皿の料理をのせ、冷たくした薄荷茶をそえた。
食卓は立体放送受信機と兼用だ。食事どきに放送を見るような不作法は、クラスビュール人には考えられないのかもしれない。
「置くよ」ジントは、放送に見入っているラフィールに声をかけた。
立体映像は変化していた。あの女性は目鼻立ちもはっきりしない小さな人形になっていて、その頭上で古典的な|軌道都市《バ ー シ ュ 》が自転している。
「なんだい、これ?」いいながら、ジントは盆を置いた。
盆でさえぎられたために、映像はぼやけたり乱れたりしたが、音声はよどみなくつづいていた。
「――その目的は深宇宙探査にありました。彼らは純粋な機械より有機的機械に適性があると考えたのです。それは当時の技術力を勘案すれば、まさに妥当と……」
「われらの起源だ」ぽつりとラフィールがいった。
「アーヴの?」
「そうだ」
「――それが彼ら、アーヴなのです!」女性が叫ぶのに重なって、効果音が響いた。「したがって、アーヴは人間ではありません。有機的な機械にすぎないのです……」
「ひどいな」ジントは受信機の|操作釦《ポーシュ》に手をのばした。「もう消すよ。食事にしよう」
「うん」
「――自由な人間のみなさん、アーヴを正当な地位に戻すべきです。すなわち、人類に奉仕する生体機械の地位に! それこそ、彼らにとっても、幸福な……」映像とともにプツンと音声も途絶えた。
ジントはふたつの碗に薄荷茶を注ぎ、盆から深皿を引き寄せた。
ラフィールも碗と皿をとって食事をはじめた。
「さっきの放送のことだけれど」食事のなかば、ラフィールがいった。
「あの嘘っぱちのことかい?」
「嘘ではないぞ」
「え?」
「われらの先祖が生体機械としてつくられたのは、ほんとうのことだ。そなたは知らなかったのか?」
ジントは目をしばたたいた――じつは知らなかった。
帝国創建以前の|アーヴ史《バール・グレール》は神話的な闇に包まれている。理由ははっきりしていた。|帝国暦前《バイ・ルエコト》一二〇年ごろに、都市船アブリアルで事故が発生し、古い航行日誌――それはアーヴの歴史そのものである――が喪われてしまったのだ。明白な歴史はこれ以降からはじまる。
むろん、アーヴが自身の由来を忘却しさったとは考えにくい。が、自らを語ることの寡《すく》ないアーヴは、この点も明瞭にすることを避け――もしくは必要を感じず――地上の民が想像をたくましくするままに放置していた。
思い起こしてみると、惑星デルクトゥーで似たような話を読んだような気がする。しかしその情報は際物めいた与太話に埋没し、ジントの印象にはあまり残っていなかった。
「うん、あまりよく知らなかった」ジントは正直にこたえた。
「とりたてて隠してるわけではないが、さして名誉な話でもないからな、われらはこれを語るのが好きじゃない。文書にも残さない。ただ親から子へ語りつがれるだけなんだ」
「ぼくの親は知らなかったみたいだな」
「そんなはずはない。|ハイド伯爵閣下《ローニュ・ドリュール・ハイダル》も叙爵式できいたはずだ。アーヴなら、だれでも知ってる話だぞ」
「そうか……。でも、ぼくには話してくれなかった」たぶん父親は、どうでもいいことだと判断したのだろう。
「そうか。じゃ、わたしが話そう……」
ラフィールは居住まいを正して話しはじめた。
――地球に火山性の弧状列島があった。その住民は地理的条件のおかげで外来の文化を取捨選択する自由をもち、いいものはとりいれながら、独自の文明を育んできた。
だが、交通の発達と経済圏の広がりは容赦なくこの列島に押し寄せた。初期のうちこそ列島住民はその恩恵をぞんぶんに享受し、おおいに繁栄したのだが、やがて全地球規模での文化混淆が起こり、列島の独自文化や言語が風前の灯となるにいたって、一部の住民は我慢ならなくなった。
そこで、彼らは地球を離れることにした。すでに軌道都市は実用になっていたので、小惑星帯に新しい天地を求めたのだ。
地球を離れたのは、列島住民の一〇〇〇分の一にも満たなかったが、文化を保存するにはじゅうぶんだった。
彼らは当時の列島文化を「外来文化に汚染されたもの」と定義し、古い文化を再現することに努めた。言語はもっとも基層に位置する単語のみで再構成され、最新の先端技術を表現するために意味の拡張や古語の復活、擬態語からの造語がおこなわれた。
〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉が発見され、人類に外宇宙への扉が開かれると、彼らもよその恒星系へいったほうがいいのではないかと考えた。人口の増大した住民たちは、太陽系でなくてもいいから地に足をつけた生活をしたい、と思いはじめていたからだ。
しかし、孤高を旨とする態度が災いして、人類共同の外宇宙植民計画は彼らと無関係に進められていく。
しかたなく、彼らは独自の外宇宙探査計画に着手した。だが、相対論的速度を保証する〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉は手元になく、あるのは低速の核融合船のみだった。
低速の船で目的を達成するため、また宇宙空間での作業を容易にするために、禁断の技術――ヒトの遺伝子改造によって優秀な乗員をつくることに、彼らはとりかかった。
資質にすぐれた住民が集められ、彼らの遺伝子から三〇体の生命体がつくられた。生命体は人間ではないとされ、区別をつけるために人類には決してありえない青い髪を遺伝的に与えられた。
「この髪の色は」とラフィールは髪を示したが、すぐもとの色でないことに気づいたらしく、顔をしかめた。「とにかく、青い髪は奴隷の烙印なんだ」
「わからないな」ジントは首をふった。「じゃあ、どうして青い髪にこだわるんだ?」
「われらの出自、そして原罪を表わすものだからだ」
「原罪?」
「そう、アーヴの種族的罪……」
――一体は訓練過程で失われたが、残りのアーヴの祖先たちは計画どおり低加速船に乗せられた。短時間の加速によって惨めなほど遅い速度をえて、のろのろと目的地へ航行するしかない船だ。もし目的地で水素の補給ができなければ、帰還すらおぼつかない。まともな神経の持ち主なら乗りこみを拒否するだろう。しかし、人間でない原アーヴの意志が反映する余地はなかった。
航行中に彼らは〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉を発見する。減速用燃料のあらかたを費やして、彼らはこれの捕捉にかかった。危うい賭けだったが、彼らは払い戻しをえた。捕捉に成功した原アーヴは、限られた資材と技術を用いて母船を〈閉じた門〉推進に改造し、それまでとは比べものにならない高加速を手に入れた。
与えられた航行予定をはずれた時点で、原アーヴは母都市との訣別を決意していた。自立した種族となることを望み、だれひとり立会人のいない深宇宙で独立を宣言する。
「それが種族的罪? 母都市を裏切ったことが罪なのかい?」
「ちがう。そんなことぐらいで良心の呵責を覚えたりはしない。まだ続きがあるんだ」
――原アーヴは船を近くの恒星系につけた。豊富な資源を使用することができるようになると、より大きな船を建造した。人口が増えたので、その必要があった。それまで乗っていた船は単なる探査船だったが、新しい船は都市船といってもいい機能を備えていた。
彼らは母都市を憎んではいなかった。たしかに都市の与えた任務は自己本位で薄情なものだったが、なんといっても原アーヴに生命ばかりか宇宙を感じとる能力――|空識覚《フロクラジュ》をくれたのは母都市なのだ。
だが、恐れはあった。母都市の派遣した懲罰部隊に遭遇するのではないか、という恐れが。あとになって理性的に考えれば、妄想としか呼べない恐怖だ。懲罰部隊を送る力など、母都市にあるはずもなかったのだから。
しかし、原アーヴにとって母都市の影はあまりにも巨大で、万能に感じられた。
彼らは電脳から技術情報を引きだし、武器を生産した。すべての成人を軍隊に編成し、訓練を行なった。
余談だが、その指導をつかさどったのは航法部士官たちで、ラフィールの遠い先祖にあたる。都市船の業務は多岐にわたり、複雑である。しかも人口は少ない。各職掌についての学校を設けることは不可能だった。したがって、教育には徒弟制度が用いられた。徒弟制度は容易に世襲制度へ移行する。航法部士官に限らず、乗員は基本的に世襲となった。その血脈が、|帝 国《フリューバル》の古い|貴族《スィーフ》たちに綿々と受け継がれている。
さて、準備が整うと、原アーヴは先手を打つことにした。すなわち、母都市を滅ぼすことに――。
「それは短絡的だなぁ」ジントはいった。
「わたしもそう思ったゆえ、父に尋ねたことがある」
「で?」
「先祖たちは、絶えることのない恐怖に押しつぶされそうになって、その状態が永遠につづくことにふるえていたのだ、と父はいった。一刻も早く不安に満ちた季節を終わらせること以外、先祖たちは目的を持たなかったのだ」
「わかるような気もするけど……」
「正直いって、わたしにもよくわからぬ。父にしてからわかるわけがない。その時代を生きていなかったのだから。とにかく、先祖たちは太陽系に帰着した……」
――結末はあっけなかった。
あとで判明した事実だが、いつまでも帰還しない原アーヴたちを待つことなく、またいくつも〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉推進船が建造されたためもあって、母都市は数次の移民団を送りだしていた。そのため、国力はかなり衰えていたのだ。
その事実が正確に伝わっていれば、原アーヴも手出しを控えただろう。母都市には懲罰部隊を送る意志も力もないことがはっきりしたのだから。
だが、母都市は駆け引きをしようとした。原アーヴのもっている情報と船は魅力的だったので、彼らをふたたび支配下に置こうとしたのた。
原アーヴは交渉を早々に打ち切り、総力をあげて母都市に襲いかかった。
人口ははるかに少なかったが、原アーヴはすべてが戦士であり、操る武器も豊富だった。対するに、母都市の人々は戦争をとっくに歴史上の概念にしていた。
強大であるべき母都市はほとんど軍事力を持たず、星間機動要塞と化した都市船に対抗できるはずもなかった。
太陽系にはほかの諸国も存在したが、いずれも立ち入らなかった。かかわりあいになろうとしても、事態の推移は速く、空間は広かった。介入する余地はなかっただろう。なにより、原アーヴをとどめるほどの軍事力は太陽系に存在しなかった。
一〇〇万を数えた母都市の人々はすべて劫火にのまれ、あるいは真空に投げだされて、こときれた。
「先祖たちはゆいいつの目的を遂げた。けれど、空間に散逸する残骸を目にして、いかに深く母都市を愛してたかに気づいたんだ」
「愛していた?」
「うん。そこは故郷なのだし、その文化も愛してた。文化こそ、母都市の存在理由だったし、ひいては先祖たちが生まれた理由なのだから。けれど、もう母都市は存在しない。母都市から送りだされたという移民団も、あまりあてにはならない。だとしたら、文化を伝えていくのは、先祖たちしかいないじゃないか。ことばも含めて、その文化の守護者となることが、新しい目的となった」
「それはいまもアーヴの目的?」
「そうだ。先祖たちがアーヴと名乗るようになったのもそのときだ。それまでは|同胞《カルサール》≠ニだけ称していたんだ。古アーヴ語、つまり母都市のことばでアーヴ≠ヘ宇宙、あるいは海の種族を意味する。空間放浪種族だったわれらにこれほどふさわしい呼び名はない。もっとも、発音はだいぶちがってしまったけれど」
「文化を守ることがアーヴの使命なんだろ? 発音も変わっちゃまずいんじゃないのかい」
「そんなことはないぞ。どんな文化でもそうであろが、変化もわれらの文化の特色なのだから。それに、母都市の復元した文化もいろんな時代のものが混ざりあって、かなりいいかげんだったときく。ならば、無理に古いものにとらわれることもないであろ。発展させるのも、文化を守ることのひとつ。要はあまり外のものに動かされなければいいんだ」
「まあ、そういうものかもしれないな」
「すくなくともわれらはそう考える」
「ふうん。でも、敵はどうしてそれを知っているんだろう?」
「不思議じゃないであろ。太陽系に残された記録をみれば瞭然としている。|帝 国《フリューバル》の|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》のなかにも、真相を知ってる世界がある。そなたの祖先は、先祖たちが太陽系に戻る前に出発したにちがいない」
「だろうね。軌道都市ひとつが壊滅したのなら、歴史で習ったはずだから」
「アーヴは愛する故郷を自ら消し去った。これがわれらの種族的罪だ。母都市から受け継いだ文化を守る。これがわれらの種族的使命だ。アーヴであるということは罪と使命を背負うことだ、と父はいった。わたしもそうだと思う」ラフィールは短い沈黙のあと、問いかけた。「ジント、アーヴになるのがいやになったか?」
「なにをいっているんだ」ジントは努めて笑顔をつくった。「ぼくはもうアーヴなんだろう。きみがそう教えてくれたじゃないか」
「そうだったな」ラフィールは要領をえない表情でうなずいた。
ジントが、すっかり冷めたボルコス風赤茄煮の残りをたいらげにかかったとき――。
「失礼します」前触れなく女性の声が扉の外からきこえた。
「駄目だ!」ジントは反射的に叫んだ。
だが、そのときにはもう扉は開いている。
「おじゃましますわ」両手に真新しい敷布をかかえた女性が入ってきた。肌は褐色に日焼けし、髪や眉は黒い。目鼻立ちのすっきりした顔立ち。歳は三十代はじめごろだろう。
「ど、どなたです!?」声がふるえているのが自分でもわかる。彼女の目の輝きが気になってしかたない。
「あら、この格好を見てわかりません? 客室係ですわ」
「客室係ですって……」ジントは困惑した。この旅亭に客室係がいるとは知らなかった。
「そうです。敷布の交換にやってまいりました」
ラフィールは前髪をおろして、|空識覚器官《フローシュ》を隠している。それを見て、ジントは安心した。
「でも……」とジント。「いままで敷布の交換なんて、なかったじゃないですか。なぜきゅうに?」
「あら、通常のご奉仕ですわ」
「でも、あれに突っこめばいいんでしょう」ジントは壁の投入孔をさした。そこへ洗濯物をほうりこめば、一時間後にはきれいになって部屋の前に配達される。
「申しわけありません。連絡の手違いがあったのでしょう。寝室に入ってよろしいですか?」
「あ、いや、ぼくが持っていきますよ」ジントは内心の動揺を懸命に押さえこもうとした。
|端末腕環《クリューノ》も|凝集光銃《クラーニュ》も寝室にある。とくに枕元には銃が忍ばせてあって、敷布をいじられればかならず発見されてしまう。
「いや、お客さまにそんなことは……」
「いいんです」ジントは強い調子でさえぎると、寝室に飛んでいって、敷布を引き剥がした。
小脇にかかえて居間へ行き、客室係に押しつける。
「まあ、申しわけありません」客室係は新しい敷布を抱きしめたまま、「それでは、せめてこれを敷くだけでも」
「いえ、心配はご無用に。自分でやりますから」ジントは鄭重に断った。
「あら、そうですか」客室係は敷布を長椅子におろすと、首をかしげた。「洗濯物はございませんか?」
ジントは首をふりかけたが、あまり狼狽しているように見せるのも得策ではないと気づいた。浴室から洗濯籠をとってきて、女性に渡す。
「申しわけありません」女性は古い敷布と洗濯物を投入孔に入れた。
「あの……」ジントは尋ねた。「毎日、敷布の交換に来てくれるんですか」
客室係はにこりと微笑んで、「お客さまのご希望しだいですわ」
「でしたら、あの、けっこうですから。届けてくれれば、自分でやります」
「あら、そうですか。かまいませんけれども」
「それから、内側から鍵はかからないんですか?」
「かかりますとも。当然でしょう」
「いまだってかけていたのに、あなたは入ってきた……」
「あたしは従業員ですもの」
「その従業員のみなさんにもあけられない鍵は……」
「お客さま」とたしなめるように、「それでは、当旅亭がお客さまがたの安全に配慮することができなくなりますわ」
「ああ……。そうですね」客室係のいうことももっともだった。客に立てこもられたりしては、旅亭も困るだろう。「でも、これから入るときには、中から返事があってから、入ってきてほしいんです」
「そういたしておりますわ」客室係はすましてこたえた。
「だって……」ジントは抗議しようとした。だが、すぐ思いなおす。駄目だといったのに入ってきたと彼女を責めても、あまり建設的ではない。
客室係はなかなか出ていこうとしない。なにかを待っているかのように意味ありげに微笑んでいる。
「まだなにか?」ジントは困惑した。
客室係は深い溜息をついた。「お客さま、こんなことをお尋ねするのは不躾でございますが、シフ≠ニいうことばをご存じでございましょうか?」
ご存じではなかった。ジントは焦った。いったい、この女性はなにをいっているのだろう、なにが望みなのだろう?
「お心付け、と申しかえればよろしいでしょうか」彼女はことばを継いだ。
「ああ、なるほど!」話題の中心が判明したうれしさのあまり、ジントは大声をあげた。「わかりました。ちょっと待ってください」
ジントは財布の代わりに使っている小物入れから硬貨を取りだし、客室係に渡した。
客室係は批判的な目つきで硬貨をためつすがめつ見た。ジントがあわててもう一枚追加すると、ようやく彼女の顔に愛想のよさが戻った。
「僭越でございますが、お客さま、ひとことよろしゅうございましょうか?」
「はい、もちろん」
洗濯物用投入孔の横に備えつけられていた小さな盆を、客室係はひっぱり出した。ジントにはさっぱり用途のわからなかった盆だ。
「洗濯物の仕上がりをお待ちになるあいだ、この盆にシフを置いて廊下に出していただけると、たいへんありがたく存じます」
「ええ、そうですね。ついうっかりして」ジントはしどろもどろに弁解した。
「お願いいたします」客室係は念を押す。
「それはもう」ジントは大きくうなずいた。「つぎにかぎって多めにだしますよ、三日分ぐらい」
「話のよくわかるお客さまでたすかりましたわ」客室係は一礼した。「では、おじゃまいたしました。わたくしはこれで」
彼女が出ていくと、ジントはほーっと息をついた。
「なんだったんだ、いまのは?」とラフィール。
ジントは肩をすくめた。「ぼくたちがちゃんとした支払いをしなかったんで、文句をいいにきたんだ、ごく婉曲に」
「金は払ってたのであろ」
「旅亭にはね。けど、支払うべき相手が見えていなかったんだ」
「そなたのいうことはわかりにくい」
「そう? とにかく、なぜ三日目に客室係が来たのか、強引に入りこんできたのか、すっかりわかったよ。ぼくたちがきっちり規則を守っているかぎり、むこうもそっとしておいてくれる」いいきってから、ジントは弱々しくつけくわえた。「と思うんだけど……」
13 |浮揚車発見《ビリューコス・ウーセル》
「まちがいないのか?」エントリュア警部は念を押した。
「ほぼまちがいありません」主任鑑識官は断言した。「車の登録番号は一致しますし、被害者三人の体液の痕跡が特定されました」
「血液か?」
「いえ、精液ですよ」
「うへぇ」エントリュアはうめいた。「よくそんなものを調べる気になるな」
「自分たちだって好きでしているわけじゃありませんよ」主任鑑識官は顔をしかめた。
「あんな狭いところでそのつもりになれるやつは理解できないぜ」エントリュアは|浮揚車《ウースイア》の座席を顎で指した。
「まったくです」
「それも三人でとは! 待てよ。ちゃんとした合意のうえでの、えへん、体液放出だったんだろうな」
「そこまではわかりかねます」主任鑑識官は肩をすくめて、「ですが……、根拠のない所感を述べさせてもらえれば、その可能性は薄いですね」
エントリュアも同感だった。「やつらの余罪を探ったほうがいいみたいだ。被害者どもの」
「そんなことより」ずっとエントリュアの隣で鑑識官とのやりとりをきいていたカイト憲兵大尉が痺れをきらし、「アーヴの痕跡はどうでしょうか?」
「いまのところはまだです。五〇本以上の髪の毛を採取していますが、遺伝子検査はまだこれから……」
「それでは作業を続行してください、いますぐ」
主任鑑識官は物問いたげにエントリュアを見た。
行け、とエントリュアが目顔で告げると、ようやく主任鑑識官はきびすをかえした。
「まったく清潔好きな連中でなくて助かったよ」エントリュアは指揮車にもたれかかって、煙草に火を点ける。
アーヴとその連れらしき二人組に強奪された浮揚車には、ルーヌ・ビーガ市警察からわざわざやってきた鑑識官たちがとりつき、つつきまわしている。解体したり組み立てたりの、鑑識官が大好きな遊びがそのうちはじまるだろう。
その周囲にはルーヌ・ビーガ市警察の巡邏車や鑑識車が停まり、部下の警官たちが警戒にあたっている。
「手がかりがありましたね」カイトは興奮している。
「そりゃ、三日もかければ手がかりは見つかるさ」エントリュアはそっけなく応じた。
こんなことに三日もかかるなんて! 小一時間で車は見つかったはずだ、警官の巡回が通常どおり行なわれていれば。あるいは、かつてそうであったように、警察間の連絡が緊密であれば。
せめて警察車へ通行許可書を発行してくれるよう、カイトに頼んだのだが、その権限はないと断られてしまった。
そのとき、エントリュアは恐ろしい疑念にとりつかれたものだ――こいつは憲兵大尉だと思いこんでいるだけの脱走兵で、じつはなんの権限もないんじゃないか。
さいわい、その疑問にはそう長く悩まされずにすんだ。カイトが車に乗っていれば、どんな検問も優先的に通過できたのだ。
「これからどうすべきだ、と警部はお考えですか?」カイトは尋ねた。「わたしはこの都市の全家屋を蝨潰《しらみつぶ》しに調べるべきだと思いますね」
おいおい、若いの――エントリュアはうんざりした――持っている力を考えろよ。全家屋を蝨潰しにだって? そんなことをしていたら、ルーヌ・ビーガ市警察がほんとに総力をあげないといけなくなってしまうじゃないか。アイザンはともかく、おれは警察を開店休業にするつもりはないんだ。
ここは逃げの一手だ。
「そうだな」エントリュアは考えるふりをした。「ここはグゾーニュなんだから、グゾーニュ市警察に任せるべきだと思うね。地元だし、人もいっぱいいる」
「他人の手に渡すですって」信じられないというふうに、カイトは首をふり、「どうしてそう不熱心になれるのか理解できませんね。相手は憎むべきアーヴですよ。きのうまで皇帝陛下万歳を叫んでいたのですから無理もないのかもしれませんが……」
「あのなぁ」エントリュアはげんなりして、「おれは|皇 帝《スピュネージュ》の名前も知らないよ」
「あきらかに知る権利の侵害ですね。知る権利というのは……」
「頼むから解説はしないでくれ。調べればわかるさ、|皇 帝《スピュネージュ》の名前ぐらい。興味ないんだ」
「政治への無関心こそ、民主主義最大の敵です。あなたたちはアーヴとその手先である|帝国国民《ルエ・レーフ》によって抑圧されてきたのです」
「ご先祖さまの悪口はいうな」エントリュアはカイトに煙草の煙をふきつけた。
「ご、ご先祖さま……」カイトは咳きこみながらくりかえす。
「気がつかなかったのかい、エントリュアっていうのはアーヴふうの姓だろ。おれの五代前の先祖は|国民《レーフ》だ。|星界軍《ラブール》の|従士《サーシュ》だったときいている。詳しくは知らないがな。おおかた宇宙暮しが肌にあわなくって、地上に舞い戻ってきたんだろうが」
「は、はあ」カイトは口をあんぐり開けていたが、すぐ元気をとりもどし、「では、なおさら憎むべき敵でしょう」
「あんたの論理はわからんな。どういうことだ?」
「だって、|国民《レーフ》から|領民《ソ ス 》に格下げされたわけでしょう。その恨みは……」
「おれはそれほど執念深くないよ」エントリュアは苦笑して、「それに、あんたは勘違いしているぜ。|国民《レーフ》と|領民《ソ ス 》は同格だ。国民の権利は|帝 国《フリューバル》が守る、領民の権利は|領民政府《セメイ・ソス》が守る。要するに管轄がちがうだけだ。ま、警察としちゃ複雑なのはたしかだがな。おれの友だちにも国民がいるが、べつにやつの前でかしこまったりはしないよ、ふつうにつきあっている」
「あなたの友だち……」カイトは大きく目を見開いた。
「ああ。|スファグノーフ侯爵家《レーブジェ・スファグノム》の農園を管理していたやつだ。どうせあんたたちが強制収容所、いや、民主主義学校とやらに放りこんだんだろう。気になって連絡してみたが、家にいないみたいだ」
「当然でしょう。奴隷民主主義者よりもたちの悪い連中なのですから。お友だち個人のことは知りませんが、|帝国国民《ルエ・レーフ》なら民主主義教育を……」
「自分がどうして冷静でいられるのか、不思議でたまらんよ」エントリュアは凄味のある笑顔をカイトにむけた。アーヴの微笑≠ノはおよびもつかないが、何十人もの犯罪者やその予備軍を脅しつけてきた表情だ。「おれは昔から友だち思いで有名なんだが」
「さっきの提案のことですが……」カイトはにわかに落ちつきを失った。
「どの提案?」
「ここをグゾーニュ市警察に任せるという提案です」
「ああ、それね」
「妥当ではないでしょうか」カイトは値踏みする目つきで、「あなたは、わたしと仕事をするのが楽しくないようですし」
「いいや。さっきからきゅうに楽しくなってきた」エントリュアは腰の|短針銃《ケーリア》をいじくりまわした。
「忠告しておきますが」カイトは厳しい顔つきをする。「わたしをないがしろにすることは賢明とはいえませんよ。わたしは無制限の逮捕権を付与されています」
「おーい、おまえたち」エントリュアは部下を呼び集めた。
「なんですか、警部?」手持ち無沙汰なようすだった数人が駆けつけた。
「いいんだ、そこにいてくれ」
「はあ」
エントリュアはカイトにむきなおり、「よくきこえなかったんだが、無制限の逮捕権がどうしたって?」
カイトは歯噛みした。「この市内にもわが軍の兵士が駐留しているんですよ!」
「でも、ここにはいないようだな」
「そんなことして……」カイトは不安げに目をきょろきょろさせた。
むろんエントリュアに、本気でカイトを害する気はなかった。|短針銃《ケーリア》しか装備していない部下に軍隊と撃ちあいをやらせるのは酷だ。
「冗談だよ」エントリュアは親しげにカイトの肩をたたく。「あんまりおもしろくなかったか? あんたが大笑いするのを期待していたんだがなぁ」
「ああ、なんだ、そうですか……」カイトはおずおずと微笑んだ。「冗談は人間関係を円滑にします。ですが、ここの冗談はわかりにくいですね」
「星それぞれさ」エントリュアはいきなりカイトの胸ぐらをつかむと、耳元に口を寄せ、「けれどな、これだけは憶えておけ。おまえたちはここじゃ歓迎されていない。おれはおまえとの関係を円滑にするつもりはないからな」
「で、ですが……」カイトは口をぱくぱくさせる。
エントリュアはにやりと笑って、手を離した。
「まあ、提案を実現しようぜ。グゾーニュ市警察には、なるべく煙草を吸わないやつをよこすようにいっておくよ」エントリュアは腰の通信器をとりあげ、アイザン管理官にかけた。事件を移管するにはまず管理官に話をつけてもらわないといけない。そのあと、現場どうしの引き継ぎになる。
だが、アイザンは占領軍との協力関係を手放したがらなかった。占領軍に有用な人物であることを見せたくてたまらないらしい。
グゾーニュ市で活動するのは明瞭な管轄荒らしであることと、逮捕に失敗すればかえって占領軍の不興を買う可能性のあることを、エントリュアは指摘した。
アイザンは、エントリュアの更迭をほのめかして対抗し、地上に墜ちたアーヴを確実に捕縛することを厳命した。
更迭してくれればありがたいとエントリュアはこのうえなく明確に表明し、捜査が困難なことを滔々と述べて管理官の不安をあおった。
やがて、アイザンは折れた。
エントリュアはひとまず安心して電話を切った。
カイトに笑顔をむけ、「これでお互い、幸せな時代が戻ってくる」
「わたしたちの世界では、いまの行動は明確な規律違反です」カイトは唖然として、「これが警官としてあなたの最後の行動になるかもしれませんよ」
「そんなことはないさ」エントリュアは自信たっぷりにいった。
エントリュアはルーヌ・ビーガの名士だ。優秀で公正な警官にはその資格がある。エントリュアを免職すれば、アイザンには遠慮のない非難が浴びせられるにちがいないし、彼もそれを知っているはずである。
「警部」通信中から待っていた主任鑑識官が、エントリュアとカイトのあいだに割りこみ、毛髪を封入した樹脂片を差しだした。「出ました。アーヴの髪の毛です。おそらく女性のもの。黒く染色されています」
「警部は通話中だったんですよ」カイトが目を剥いた。「なぜわたしに報告してくれなかったんです!?」
「大尉どのは、われわれの命令系統に属していらっしゃらないんでね」主任鑑識官は冷たい目で憲兵大尉を一瞥した。
「わたしは警部と同格です」カイトはいいつのる。
「それは知りませんでしたな」主任鑑識官はもうカイトを見もしない。
「まあ、いいじゃないか、大尉どの。こうして手がかりがまたひとつ手に入ったわけなんだから」エントリュアは受けとった樹脂片をふりかざした。
「それはそうですが……」カイトは不満そうにうつむいた。目にやりきれない怒りが宿っている。
すこしばかりいじめすぎたかなとエントリュアが反省していると、通信器の受信音が鳴った。
エントリュアはいそいそと通信器をとる。
相手はもちろんアイザン管理官だった。だが、伝えてきた内容は期待外れもいいところだった。
グゾーニュ市警察との話し合いは不調に終わったのである。なんと彼らは管轄荒らしの許可をにこやかに贈与した。できるものならきれいな包装紙に包みかねないようすだったことを、アイザンはことばの端に匂わせた。人員は回せないが、情報は遅滞なく提供してくれるという。
こっちの管理官のほうがアイザンよりよっぽど賢いな、とエントリュアは臍《ほぞ》をかんだ。
「そういうわけで、エントリュアくん、あとのことは心配せず、任務に遭進してくれたまえ」アイザンは能天気にことばを結んだ。
エントリュアはひと声うなって返事に代え、通話を打ち切る。
「捜査続行だ、おれたちの手で」と手短に凶報をカイトへ伝えた。
「そうですか」憲兵大尉は驚くべき抑制を発揮してまったくの無表情。「わたしは応援部隊を呼ぼうと思います」
「まさか、市警察からじゃないだろうな」エントリュアは露骨に不快感を表わした。カイトから要請があれば、管理官は会計係まで机から引きはがしてよこすにちがいない。
「いいえ」カイトはきっぱりと、「わが部隊からです。上官にかけあって、部下を何人かよこしてもらいます」
カイトの狙いはわかっている。人員不足にかこつけてはいるが、まわりに味方がほしいのだろう。さっきのように数で脅されては、そのたぐいの気分になるのも無理もない。
エントリュアには拒否するつもりはなかった。拒否したところで、カイトはきかないだろう。
「そうかい。人手はいくらあっても足りないからな」エントリュアは消極的に同意した。
二手に別れて捜査することを提案してみよう。そうすれば、どちらも気分よく仕事ができる。
「そうです」カイトはうなずくと、手首の通信器を口元にもっていく。いくぶんかしこまったようすでカイトは通話をはじめた。
内容はエントリュアにはわからなかった。だが、カイトの落胆ぶりは交渉の結果をはっきりと示していた。
「どうしてみんな不幸になるなんてことがあるんだろうなぁ」エントリュアははじめてカイトに同志めいた感情をいだき、「どこかでだれかが幸運を独占しているんだろうか」
「きっとそうでしょう」カイトのつぶやきは無意識のものに思えた。「それより、これからどうしますか?」
「地道にやっていくしかないだろう、この人数じゃ」
「具体的には?」
「全家屋を蝨潰《しらみつぶ》しに、なんて無理だ。まず有料宿泊施設から調べて、範囲を広げていくしかないな」
「ずいぶん時間がかかりそうですね」
「そうだな。おふたりさんが宿屋に泊まるほどトンマであることを祈るとしようや。この非常事態だ、のんびり旅行しているやつは少ないはずだ」
14 |戦 士 た ち《スラーケラク》
クラスビュール語能力に磨きをかけるためにジントが立体放送に耐えていたとき、背後で物音がした。
驚いてふりかえったジントは、四人の男たちがなだれこんでくるのを目にして、とっさに立ちあがった。
「無益な抵抗はよせ!」先頭に立っていた小柄な男が怒鳴る。
男たちは全員が|麻痺銃《リブアスィア》をもち、ジントに狙いを定めていた。すこしでも不審な行動をとると、たちまち白樺の木さながらに硬直させられてしまうだろう。
「だ、だれなんだ、あんたたち?」ジントは叫びかえす。
「警官に見えないか?」小男は傷ついた表情をした。
「け、警察……」
ついに来たか――ジントは手のひらに汗をかいた。
男たちは揃いの服を着ていた。黄色に緑を組み合わせたもので、警官の質実な印象をうかがわせる要素はなかったが、ここは悪趣味の帝国クラスビュール、その服装も落ちついた色彩に見える。
「もうひとり、女がいるだろう。アーヴのお嬢ちゃんが」小男が訊いた。
「いや」ジントはとぼけた。「部屋番号をおまちがえでは?」
ラフィールは寝室に引きあげている。なんとかごまかせたら――ジントははかない希望をつないだ。
「もう眠っているんだろう」小男は見抜き、「だいたいおまえはなぜ起きているんだ? 常識のないやつだな。もう眠る時間だってことを知らないのか。おかげで計画が狂っちまった」
謝る必要があるかな、とジントは考えた。
「おい」小男は仲間をふりむいた。がっしりした体格で黒い肌をした大男だ。「寝室を見てこい」
大男はうなずき、寝室の扉へむかった。頭を剃りあげた、減量中の鶴のように痩せた男がついていく。
「やめろっ」ジントは|麻痺銃《リブアスィア》のことを忘れ、大男に飛びかかった。
大男はめんどくさげに腕を一振りした。
突き飛ばされて、ジントは床に倒れこむ。なおも立ちあがろうとしたが、目の前に銃口を発見して凍りつく。
「勇気は認めるが」小男はぴたりとジントの眉間に|麻痺銃《リブアスィア》をつきつけ、「こんど、動きやがったら、容赦しないからな」
「ぼくたちを逮捕しにきたのか?」
「そういうことになっている」
「なっている?」
「うるさい。説明はあとだ」小男は大男に視線をむけた。「おい……」
自分から視線の離れた一瞬をジントは逃さなかった。
小男の腕にむしゃぶりつく。
ジントと小男はもつれあった。
床を転げまわるあいだも、ジントは小男の腕をしっかり捕えて離さない。手首をぐいとひねってやった。
「いてぇっ」小男はわめいて|麻痺銃《リブアスィア》をとりおとした。
ジントは拾いあげようと手をのばす。
そのしゅんかん、ふたりの男の身体がジントのうえに降ってきた。大男のあとについていった男と、短く刈った髪を黄色く染めた若者である。
「くそっ」ジントは俯《うつぶ》せに押しつけられた。
痩せた男がジントの腰に馬乗りになって脚を押さえつけ、若者は背中にのしかかって手を捻りあげる。
「そのまま押さえていろ」小男は息を弾ませながら銃を拾った。
「痺れさせてやったほうがいいんじゃねえのか?」若者が提案した。
「そして、おれたちがこいつを担いでやるのか? いいや、こいつにはできるだけ自分の足で歩いてほしいんだ」小男は首をふった。
「でもよ、葬儀屋……」
「馬鹿野郎っ。おれたちは警官なんだぞ、巡査部長どのと呼べ」
「はあ、巡査部長どの」
どうもようすがおかしかった。彼らはほんとうに警官なのだろうか。もし警官でないとしたら、だれなんだろう? 占領軍でないことはたしかだが。
ジントの思考は、後頭部に硬い感触を感じると同時に途切れた。小男が銃をジントの頭に押しつけたのだ。
「たいした忠義心だな、え? いっとくけどな、おまえには自分の足で歩いてもらいたいが、どうしてもっていうわけじゃないんだ。|麻痺銃《リブアスィア》で撃たれたことはあるか? しあわせに失神できると思ったら大まちがいだ。身体中の筋肉が悲鳴をあげるんだぜ」
「あんたたち、ほんとうに警官か?」ジントは尋ねた。
痩せた男が口笛を吹き、「好きだな、こういう青年。この状況で質問をする余裕があるとは。それとも、まったく自分の置かれた立場を理解できていないのだろうか。たいへん興味深い」
「どうだっていい、そんなこと」小男はふたたび大男に命じた。「ダスワニ、なにをしているんだ、早くしろ」
ダスワニと呼ばれた大男は無言でうなずくと、寝室の扉をあけた。
寝室に一歩踏みだしたその足が止まる。ダスワニはいやいやするように首をふると、あとじさりはじめた。
最初、ジントにはなにが起こったのか理解できなかった。
だが、ダスワニにつづいてラフィールが姿をあらわしたとき、事態はこのうえなく明瞭となった。
ラフィールは、旅亭備えつけの白いつなぎ型の寝間着を着ている。寝乱れた前髪の隙間から、無機的に輝く|空識覚器官《フローシュ》がのぞく。| 眦 《まなじり》の高い目は冷たい隙間と化し、手には|凝集光銃《クラーニュ》が握られていた。
|凝集光銃《クラーニュ》は見るからにまがまがしい。人間の身体をたやすく輪切りにする力を秘めている。それに比べれば、|麻痺銃《リブアスィア》など外見も能力も玩具のようなものだ。
「アーヴだ……」若者が放心したようにつぶやいた。「ほんとにいたんだ」
ダスワニの背中がとんと壁についた。
それからは全員が金縛りにあったように身じろぎひとつしない。
沈黙を破ったのは小男だった。意外にも彼は、訛りはあるものの正確なアーヴ語を話した。
「武器を捨てろ、アーヴ。この青年がどうなってもいいのか。|麻痺銃《リブアスィア》でも、この距離なら殺せるぞ」
「その者が死ねば、そなたらもここで死ぬ」眉根にしわを刻んだラフィールは、断固とした口調で予言した。「ひとりとして生きてこの部屋から出ることは許さぬ。断っておくが、わたしはいま、すこぶる機嫌が悪い」
「理解できる精神状態だ」痩せた男がつぶやいた。「眠りから引き剥がされればだれしも機嫌を損ねる。アーヴといえども例外ではないのだな。これは新しい発見だ」
彼の新発見は全員から無視された。
「こっちは四人いるんだぞ。おまえひとりに負けたりするもんか」小男がいいかえした。
「試してみるか」ラフィールは顎を反らした。
「おうっ」若者が|麻痺銃《リブアスィア》をラフィールにむけようとした。
しかし、ラフィールのほうが素早かった。口笛を吹くように唇をすぼめて、銃を撃つ。|凝集光銃《クラーニュ》の銃口からほとばしった熱線は、正確に|麻痺銃《リブアスィア》へ吸いこまれた。
「あちぃっ」若者は|麻痺銃《リブアスィア》を放りだした。瞬間的にひどく熱くなってしまったのだろう。
その隙を狙って、大男が銃を構えようとした。
|凝集光《クランラジュ》がその|麻痺銃《リブアスィア》を貫く。
大男は熱さに耐えて銃爪を絞ったが、すでに|麻痺銃《リブアスィア》は機能を停止していた。
呆然とする大男の頭の左右の壁に黒焦げた穴が開いた。
それに気づいて、ダスワニはへたりこむ。
「撃つな、わたしはなにもしないっ」痩せた男は両手を挙げるついでに、|麻痺銃《リブアスィア》を投げ捨てた。
「見てのとおり、わたしは射撃の訓練を受けている」ラフィールは静かにいいきかせた。「わたしは自慢できるものをいくつももってるが、射撃の技量もそのひとつ。だが、いまは頭がぼんやりして、身体の動きも鈍い。このつぎからは正確な射撃は期待せぬがよいぞ」
ふたたび大理石のように硬い静寂が室内をおおった。
小男は脂汗を垂らしてかたまっていた。
手足は自由になったものの、ジントのうえにふたりの男が乗っていることに変わりはなく、彼は身動きができない。しかも、頭には相変わらず銃がつきつけられている。
ジントはささやかな助言を思いつき、「あのう、考えなおしたほうがいいんじゃないかな」
小男はいやな目つきでジントを見た。その視線が|麻痺銃《リブアスィア》に動く。それから彼はラフィールの|凝集光銃《クラーニュ》を一瞥し、どこか遠くに視線をさまよわせる。幸せだった幼い日々に思いをいたしているような表情だった。
ジントは固唾を呑んで小男の行動を見守った。
決断すると小男は迅速だった。その手から|麻痺銃《リブアスィア》が幻のように消え去る。
同時に、ふたりの男たちもようやくジントを敷物の身分から解放した。
ジントは転がるように立ちあがって、ラフィールと肩を並べた。
「考えなおしてくれてよかった」ジントは心からいった。
「考えなおすって、なにを?」小男は、なんのことだか見当もつかないのでくたばる前にぜひ確かめておきたい、とでもいいたげな表情をする。
「理解しあえてうれしいよ」ジントは辛辣にいった。
「まったくだ。理解はつねに好ましい」小男は両手を大きく広げた。「惑星クラスビュールにようこそ! 心から歓迎する」
部屋の真ん中を白けた風が吹き抜けた。
「理解しあえたなんて、早とちりだったらしいや」重苦しい雰囲気のなかで、ジントはつぶやく。
「ジント」ラフィールがいった。「撤収だ。ここはわたしが見張ってるから、荷物をとってくるがよい」
「そうしたほうがよさそうだな」ジントは首をふりふり寝室に入った。
荷物をまとめるのに手間はかからない。いつでも出立できるよう、衣類などは雑嚢につめてある。
ジントは|凝集光銃《クラーニュ》を右手に、左肩には雑嚢をかけて、居間に戻った。
「さあ、行こうか」とラフィールにいう。
「うん」ラフィールは男たちに、「そなたたち、寝室に入るがよい」
「待て」と小男。「おれたちは味方だ」
「友好を表わすには奇妙なやりかただったな、いまのは」ジントは指摘した。
「おれたちの正体を知りたくないか?」
「べつに」ジントは冷淡にこたえた。
「若いくせに好奇心がないな。好奇心こそ向上の源だぞ」小男は咎めた。
「あんたたちが葬儀屋組合だろうと、野鳥愛好会だろうと、興味はないね」ジントは硬い声でいった。捻りあげられた手首がまだずきずきする。彼らに好意をもついわれはなかった。
「葬儀屋はおれだけだ」と小男は胸を叩く。
「そう。きっと商売熱心なんだろうね。死体の製造もやるの?」
「いいから早く寝室に入るがよい」ラフィールが促した。
「くそっ」
男たちは銃口に追い立てられて、寝室の入り口へ移動した。
そのとき、もうひとつの扉、廊下への扉が開く音がした。
――新手か!?
ジントは緊張して銃を構える。
「まったくドジなんだから、あんたたちは」入ってきたのは、女性だった。
ジントはびっくりした。昼間の客室係だったのだ。
「あなたも一味だったのか」
「そうよ、あたしが指導者」彼女はジントよりもよほど流暢にアーヴ語を話した。「おっと、武器は持っていないわよ」
「じゃあ、ここの従業員じゃないのか」
「ええ、ちがうわ」
「シフ≠ニかいうのもでまかせだったんだな」
「あら、あれはほんとうよ」女性はぴしゃりと、「あんたたち、評判悪いわよ、本物の従業員に」
ジントはたじろいだが、すぐ気をとりなおし、「でも、昼間はぼくらを探りにきたんだろう」
「ええ」彼女はラフィールに笑顔をむけて、「アーヴのお嬢さん。旋毛《つ む じ》に青い髪が出ているわよ。髪を染めるのは根気よく習慣的にしないと」
「そなたの忠告に感謝を」ラフィールは愛想なくいった。「そなたにも寝室に入ってもらおう」
「待って。話をきいて。お互いに利益のある話よ」
「どうする、ジント?」ラフィールの顔はあいかわらず厳しいが、戸惑いがかすかに見てとれた。
「まあ、話だけならきいてみてもいいかな」
「賢明だわ」と偽客室係。
「その前に、一列になって立つがよい」ラフィールは銃で窓際を示した。
「抜け目ないわね」女性はひとこと称賛して、指示にしたがった。
「みょうに銃殺≠チてことばを連想しないか、この状況は?」小男がぶつぶつこぼした。
「だいじょうぶだ、葬儀屋」と痩身の男が安心させた。「彼女がそのつもりなら、いまごろわれわれの首にはきれいな断面ができている」
「前から思ってたんだがよ、正論をきくってのは、どうしてこういらいらするもんなんだ?」
五人が窓際に並んだ。これで全員を同時に監視できる。
「まず自己紹介させてもらうわね。あたしのことはマルカと呼んで」
「おれのことは葬儀屋でいい。もちろん、本名はべつにあるが、仲間内ではそう呼ばれている」と小男が名乗る。
「わたしはミンだ。親からもらった名前もあるが、気に入らないのでね、ミンとだけ呼んでくれないか」と痩せた男っ彼が口髭を生やして左右を赤と黄色にぬりわけているのに、ジントはそのとき気づいた。
「おれはビル。飛ばし屋ビルっていえば、この街じゃだれでも知ってるぜ」と若者がいった。
「ダスワニ」大男が名前をつぶやいた。
それっきり五人は黙ってしまった。
なにが期待されているかに気づいて、ジントは肩をすくめた。「申しわけないけれど、あんまり自己紹介したい気分じゃないんだ」
「いいわ」マルカは失望したようすを見せず、「たしか宿帳にはサイ・リナとサイ・ジントという名前だったわね」
「ああ」
「じゃあ、そう呼ばせてもらうわ。すくなくともジントくんのほうは本名のようだし」
マルカは耳ざとかった。ラフィールがジントの名を呼んだのをちゃんときいていたらしい。
「だが、リナはアーヴの名前ではない」ミンが探るような目つきをした。
「彼女の本名は明かさない」ジントはきっぱりいった。
「下の名前だけでもか? よほど高位のお嬢さんらしいな。名前を明かすとだれかわかってしまうぐらいに。|スファグノーフ侯爵家《レーブジェ・スファグノム》にゆかりのかたとお見受けするが?」
「詮索するのはあんたたちの勝手だ。けど、こっちかち協力するつもりはない。あんたたちの正体も知らないんだから」
「ああ、忘れていたわ」とマルカ。「あたしたちは反帝国クラスビュール戦線の構成員よ」
「反帝国? なんだかアーヴが嫌いなようにきこえるな」
「べつにアーヴは嫌いじゃないわよ、ジントくん。ただあたしたちは自主独立を求めているの。|帝 国《フリューバル》の|領 主《ファピュート》の存在を拒否し、自前の宇宙船で交易や探検をする権利を求めている」
「でも、|帝 国《フリューバル》がそれを許すわけがない」
「そう。だから、戦っているの」
「|帝 国《フリューバル》と?」
「野鳥愛好会と戦ってもしょうがないでしょう」
「そして、あなたはぼくたちが|帝 国《フリューバル》の人間だと知っている」
「そのお嬢さんはアーヴなんだから当然ね」
「で、ぼくたちの味方だと」
「まったくそのとおり」
「なるほど」ジントは大きくうなずく。マルカたちとのあいだにはかりしれない深淵が横たわっているのをはっきり理解して、ラフィールにむきなおった。「話もすんだことだし、そろそろ行くとするか」
「待ちなさいよ。話はぜんぜん終わっていないわ」
「ほくには複雑すぎるよ!」
「おまえには話していないぜ、|国民《レーフ》。マルカはアーヴのお嬢さんと話しているんだ。従者は黙っていろよ」ビルが口を挟んだ。
むっとしたが、この思いちがいを黙って受け入れることにした。|貴族《スィーフ》だといっても納得させるのが難しいだろうし、信じてもらえたところでいいことがあるわけでもない。
しかし、ラフィールは黙っていなかった。「この者のことばはわたしのことばだ。軽んじるでない」
ビルの瞳に嫉妬が走ったのを、ジントは認めた。
「それで、目的はなんだ?」ラフィールは尋ねる。
葬儀屋がにやりと唇の端を歪め、「おまえたちに人質になってほしいんだ」
「ジント」ラフィールは少年をむいて、「やっぱり行ったほうがいいみたいだな」
「うん、そうだね」ジントは銃を構えたまま袋をかぶった猫のようにじりじりと後退しはじめた。「さようなら。会えてたいへん楽しかった。おかげで退屈がまぎれたよ」
「あなたがくだらないことをいうから、誤解されたじゃないの!」マルカは葬儀屋の頭を小突いた。「待ちなさいったら!」
「まだなにかいうことがあるなら、早くいうがよい。腕が疲れてきた」ラフィールは最後の機会を与えた。
「いいこと、このままじゃあなたたち、捕まるわよ」マルカは早口でまくしたてる。「どうもあなたたちはこの世界の常識を知らないみたいだから。まるで水泳大会に出場した駱駝《らくだ 》みたいに場ちがい。でも、あたしたちなら、あなたたちを隠しておいてあげられる。アーヴが戻ってくるまで」
「それはありがたいね」ジントも不安は感じている。現地住民の協力がえられれば、それにこしたことはない。「でも、どうして反帝国戦線のあなたたちがそんなことをする?」
「決まっているだろ、取引に使うためさ」と葬儀屋。
「黙っていて、あんたは物事をややこしくする名人なんだから」マルカは釘をさした。「でも、そうなの。葬儀屋のいうとおり。あなたたちの、というよりそのお嬢さんの身柄と交換に|帝 国《フリューバル》と交渉したいのよ。せっかくアーヴが手の届くところまでおりてきたのに、占領軍なんかにかっさらわれたら元も子もないもの」
「そんなこと、たとえわたしが|皇 帝 陛 下《スピュネージュ・エルミタ》だとしても不可能だ。|帝 国《フリューバル》は決して……」
ラフィールのいわんとしていることは、ジントにも理解できた。アーヴに人質は通用しない。たとえ|皇 帝《スピュネージュ》その人を人質にとり、ごくささやかな要求を出したところで、|帝 国《フリューバル》が要求を呑むことはありえない。その卑劣さに見合った報復を受けるだけのことだ。
だが、ジントは肘でラフィールの脇腹をつつき、ささやいた。「やる気を削ぐのはやめておこうよ。交渉できる、と思わしていればいい」
「だますのか?」ラフィールは嫌悪感をあらわにした。
「だますわけじゃない。べつにぼくたちがこの途方もない考えを吹きこんだんじゃないんだから」
「それはそうだが……」
「思惑がはずれるっていうのはよくある話だよ。いまはこの人たちの夢を大事にしてあげよう」
「けれど、わたしが人質の役に立たないとわかったら、この者たちは気を悪くするのではないか。われらを殺してやりたいほどに。そもそも人質とはそういうものであろ」
「ほんとに人質になるつもりはないよ。ぼくに任せてくれ」
「あたしたちがなぜあなたたちに気づいたと思う?」注目が戻ったのを感じて、マルカはことばを連射短針銃のように叩きつけてくる。「あなたたちのことはもう噂になりかけているのよ。この旅亭の受付係はお嬢さんの顔をはっきり見ていてね、髪は黒いがあれはアーヴにちがいないって。地上人にしてはあんまり綺麗だし、行動もおかしいわ。地上に難を逃れたアーヴとしか思えない。たまたま受付係はあたしたちの支持者だから、まずこっちの耳に入ったけれど、だれかが占領軍に告げ口したら、どうなると思うのよ? いいこと、あなたたちは隠れているつもりかもしれないけれど、ここにアーヴがいるって、鉦《かね》を叩いて触れまわっているようなものよ」
「わかったよ」ジントは手をあげて彼女のことばを制した。「あなたたちに身柄を預けよう。ただし条件がある」
「人質が条件だって?」葬儀屋が目を見開いた。「人質ってどんなものか、おまえ、知ってるのか」
「黙ってなさい、葬儀屋。あんたたちがちゃんと仕事をやっていれば、こんなことになっていなかったのよ。もっと優位に話ができたわ。銃を突きつけられながら、人質になってください、なんて頼むような、みっともない真似はせずにすんだのよっ」
「だったら、マルカ、自分でやればよかったんじゃないか」
「あら、かよわい女に荒事をさせるつもり? あんたには思いやりっていうもんがないのね!」
「そろそろ条件を述べてもいいかな」ジントは遠慮がちに申し入れた。
「どうぞ」とマルカ。
「まず武器は渡さない」
「武装した人質だって!? おまえは人質の概念を冒涜しているんだぜ」
「黙ってなさいってば、葬儀屋! つぎは?」
「ぼくたちはいつもいっしょに行動する。ぼくたちの同意がなければ引き離さないこと」
「いいわ。まだあるの?」
「最後に、事前説明がほしい。どこへ行こうとしているのか、なにをしようとしているのか、かならず教えてほしいんだ」
「けっこうよ。話がまとまったところで、すぐここを引き払いましょう」
マルカがあっさり条件を呑んだので、ジントは拍子抜けした。
「待って、彼女を着替えさせないと」寝間着姿のラフィールを指した。
「わたしはこの格好のほうがよいぞ」ラフィールはいった。「そなたの買ってきたあれに比べればまだしも趣味がよい」
「どう思う?」ジントはマルカに訊いた。
「寝間着にしか見えないわ。そして、ここでは寝間着を着て外出するのはたいへん奇妙なこととされている」
「わかっただろう」雑嚢から服をとりだし、ラフィールに渡す。「着替えておいでよ」
「子ども扱いするでない!」ラフィールは憤然としたが、おとなしく寝室に消えた。
「ほんとに|貴族《スィーフ》のお嬢ちゃんとお付きの|国民《レーフ》なのか?」ビルが疑問を口にした。「ちょっとぞんざいすぎねえか」
「演技よ。たいしたもんだわ」マルカが簡単に疑問を片づけた。
「あの、こちらからもひとつ質問があるんだけれど」ジントは切りだした。
「なに?」
「あなたたちは|帝 国《フリューバル》がこの世界を回復することを前提にしているよね。もし帝国が戻ってこなければ、ぼくたちはどうなるの?」
「アーヴがやられっぱなしですっこんでるだって!?」葬儀屋がまじまじとジントを凝視した。
「こいつぁ、今年きいたなかじゃ、最高に突拍子もない意見だな」
|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》から|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》を約六〇〇〇|天浬《ケドレル》。|ユーニュ三〇三星系《キーヨース・ビボルビナ・ユン》――
六〇〇〇|天浬《ケドレル》といえば、快速の|連絡艇《ペ リ ア 》ならほんの五時間とかからないし、鈍速の|輸送船《イサーズ》でも七十時間で翔破できる。〈|門《ソード》〉のまばらな|イリーシュ王国《フェーク・イリク》では隣接しているといってよかった。
アーヴの|艦隊《ビュール》はここにいた。
艦隊の|旗艦《グラーガ》は|巡察艦《レスィー》〈ケールディジュ〉。旗艦として使用されることを想定して建造されたこの艦の|艦橋《ガホール》は、二段構造になっている。艦の指揮を執る艦橋の一段高いところに|司令座艦橋《ガホール・グラール》があるのだ。
その司令座艦橋でトライフ・ボルジュ=ユブデール・レムセール|提督《フローデ》は、せかせかと歩きまわった。
――どうやら、おれ好みの展開になってきたようだ。
アーヴにはめずらしくがっちりした体格。髪は濃緑色。浅黒く中高の顔は精悍で、ある種の猛禽類を思わせる。しゃべるとトライフ家の|家徴《ワリート》である発達した犬歯がのぞいて、猛禽というより猛獣のような印象を与えてしまう。どちらにしろ、猛々しいことに変わりなく、軍人になるために生まれてきたような男だった。アーヴの例にもれず、彼もたいへんな美形ではあるのだが、印象に残るのはその檸猛さのほうだ。
司令座艦橋には一二人の|参謀《カーサリア》とひとりの|副官《ルーキア》よりなる|幕 僚《スペルーシュ》、それに数人の|司令部要員《カ ボ ー ス》がつめ、落ちつきのない|司令長官《グラハレル》を見守っていた。
本来トライフが腰を落ちつけてしかるべき|司 令 座《グラハレリバーシュ》の背後の壁には、みっつの|紋章旗《ガール・グラー》が三角形に掲げられていた。頂点に位置するのは|帝国旗《ルエ・ニグラー》である〈|八頸竜《ガフトノーシュ》〉。底辺の左には|ラルブリューヴ鎮守府《シュテューム・ラルブリュブ》の紋章旗。〈八頸竜〉を意匠としているが、地色は赤く、雷光があしらわれている。
そして、右にはトライフ家の紋章旗である〈|歎く雉《クテーシュ》〉――|分艦隊司令官《レシェーク・ヤドビューラル》以上には、その紋章旗を掲げる特権があった。
「|閣下《ローニュ》、|巡察艦《レスィー》〈アドラス〉が最新の状況図を持ち帰りました」|参 謀 長《ワス・カーサレール》が告げた。
参謀長のカヒュール。ボート=サテク・|公子《ヤルルーカル》・レメーシュ|千翔長《シュワス》は、彼の上官とは対照的に、アーヴらしくほっそりした体型の持ち主である。髪はありふれた濃紺で、容貌もアーヴとしては平凡、つまり地上人の男でも一〇〇〇人も集めればひとりぐらい対抗できようか、というていどにしか整っていない。眼はいつも眠たげで、ぼんやりしているような印象を与える。
「そうか、出せ」トライフはいい報せを期待してうなずいた。
「はい」カヒュールは部下のひとりに合図をした。
|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》の立体映像が浮かびあがる。
〈|天 川 門 群《ソードラシュ・エルークファル》〉中心部の高密集地帯から流れだした|時空粒子《スプーフラサス》流は、〈|第 十 二 環《スペーシュ・ロマータ》〉外縁部の〈|火山《キーガーフ》〉から流れだした時空粒子流と|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》付近で衝突し、局所的な高濃度領域を形成していた。
|時空泡《フラサス》にとって高濃度領域は侵入するのが困難で、ぎゃくに脱出するのは容易だ。|機雷《ホクサス》を撃ちあう場合、高濃度領域のなかに布陣したほうが有利となる。いわば地上戦における高地に相当し、|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》でも高く表現される。
その高濃度領域のなかに|時空泡《フラサス》の群れが集結しつつあった。|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》への侵入を防ぐには絶好の位置である。
「わが艦の接触を受けて、敵もわれわれの接近に気づいたようです」カヒュールは説明した。
「質量から推測して、三個|分艦隊《ヤドビュール》に相当します。明らかな迎撃態勢です。敵にはスファグノーフから先に進攻する意図はないものと思われます」
「三個|分艦隊《ヤドビュール》相当か。やはり少ないな」期待どおりの報せだったので、トライフは破顔した。
「これが敵の全兵力か」
「おそらくそうでしょう。わたしが敵の作戦立案者なら、全兵力で迎撃します」
「推測ではなく、確定情報はないのか」
「残念ながら」カヒュールは首をふった。「確定するには中央情報が不可欠ですが、それが不足しています。|情 報 局《スポーデ・リラグ》はこのたびの進攻そのものを事前につかんでいなかったほどですから、まして兵力を把握することは不可能でしょう」
「|情 報 局《スポーデ・リラグ》か」トライフはいまいましさを声にこめた。「まったく猫の餌係もつとまらんような無能者ぞろいだ」
「少しいいすぎではありませんか、|閣下《ローニュ》」|通 信 参 謀《カーサリア・ドロショト》ナントリュア|副百翔長《ロイボモワス》がききとがめた。彼女は|軍令本部情報局《リュアゾーニュ・スポーデ・リラグ》から転出してきてまだ日が浅い。古巣を批判され、露骨に嫌な顔をしている。
「そうか」トライフは顎に拳をあてて、うろうろと歩きまわった。
|情 報 局 長 官《セーフ・スポーデル・リラグ》カシュナンシュ|提督《フローデ》とは個人的確執があった。遠い昔、|翔士修技館《ケンルー・ロダイル》の一室と空色髪の少女にまつわる挿話からはじまった確執だ。それ以来、顔をあわすたびに口論ばかりしている。
――たしかにカシュナンシュは嫌なやつだし、無能このうえない。あんなやつが情報局長官のような重責を帯びているのは、|軍令本部《リュアゾーニュ》の悪質な冗談だと思う。しかしだからといって、やつの部下までもまとめて無能扱いしたのは公正とはいえない。今回はしそんじたが、だいたいにおいて職責をまっとうしてきたのだから。
まちがったのなら、潔くとりけさねばならない。ここはとりけすべきである。
「おれがまちがっていた」|司令長官《グラハレル》は断言した。「|情 報 局《スポーデ・リラグ》の連中はまさに猫の餌係にうってつけである!」
|参 謀 長《ワス・カーサレール》が無表情に、「それをきけば、|情 報 局《スポーデ・リラグ》の者たちもさぞかし光栄に思うことでありましょう」
「そうか、それはよかった」トライフは心から満足した。
エントリュアは複雑な表情をして黙りこんでしまう。
トライフは|情 報 局《スポーデ・リラグ》のことは忘却して、もっと重要な問題に意識をふりむけた。
――さて、これからどうするか。
いま、彼の指揮下には七個の|分艦隊《ヤドビュール》がある。
|突撃分艦隊《ヤドビュール・アシャル》〈ビュールデーフ〉
|突撃分艦隊《ヤドビュール・アシャル》〈ロケール〉
|突撃分艦隊《ヤドビュール・アシャル》〈ワカペール〉
|突撃分艦隊《ヤドビュール・アシャル》〈キティール〉
|打 撃 分 艦 隊《ヤドビュール・ヴォートウト》〈バスク・ガムリューフ〉
|偵察分艦隊《ヤドビュール・ウセム》〈フトゥーネ〉
|補 給 分 艦 隊《ヤドビュール・ディクポーレール》〈アシュマトゥシュ〉
以上に若干の|独立戦隊《ソーヴ・ラゴラザ》、|直轄艦《グラーバウリア》を加えた臨時艦隊は|司令長官《グラハレル》の名を冠して|トライフ艦隊《ビュール・トライム》と呼称され、その艦数は約二一○○。
中途半端な数だ、とトライフは不満に思っていた。
そもそもこの艦隊には明確な目的がない。
|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》が攻撃を受けたことを知った|ラルブリューヴ鎮守府《シュテューム・ラルブリュブ》は、応急処置として|鎮 守 府 副 長 官《ロイグラハレル・シュテューマル》トライフ|提督《フローデ》に七個分艦隊を預け、送りだした。
目的の第一は偵察だった。敵の兵力を見極め、意図を探ることである。
だが、偵察のみが目的ならこの兵力は多すぎる。なにも艦隊を編成することはない。麾下に入っている|偵察分艦隊《ヤドビュール・ウセム》〈フトゥーネ〉に任せておけばいい。
また、|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》奪回や侵攻阻止のためなら、あまりにも少なすぎる。
どうも貧乏くじを引かされたらしい――航行しているあいだじゅう、トライフは同僚たちの顔を思い浮かべていた。
|ラルブリューヴ鎮守府《シュテューム・ラルブリュブ》にはトライフも含め四人の|副長官《ロイグラハレル》がいた。|鎮 守 府 副 長 官《ロイグラハレル・シュテューマル》とは、大きな作戦や演習のある時には|司令長官《グラハレル》に補される立場にある。平時においては指揮すべき艦艇を持たないが、有事に備えて|幕 僚《スペルーシュ》はつねに従えていた。艦隊は寄せ集めでも機能するが、|司令部《グラーガーフ》はそうはいかないからだ。
べつにほかの三人のだれでもよかったはずなのだ。有り体にいって、トライフはかなりひがみながらここまで航行してきたのだった。
予想された敵侵攻艦隊にも出会わず、まったく順調な旅路だった。演習でももうすこし緊張感がある。
それもそのはず、|帝 国《フリューバル》領深く侵攻するにはあまりに過小な兵力で、敵は|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》にわだかまっていたのだ。
「勝てるな」トライフは|参 謀 長《ワス・カーサレール》に確認した。
「はい。ただし、敵の全兵力がここにあらわれているものだけである、と仮定してのことですが」
「仮定のうえにたって戦うのは好きではないな」
「それでは、引きかえしますか。あるいは来援を待ちますか」
「このさい、趣味の問題には目をつむろう」トライフは腕をふりあげて宣言した。「|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》を奪回する」
「はい」|参謀《カーサリア》たちはかちりと踵をあわせて敬礼した。
「カヒュール、立案にどのくらいかかる?」
「その前に、確認しておくべき事項があります」|参 謀 長《ワス・カーサレール》は静かに指摘した。
「なんだ?」
「作戦目的に敵の撃滅を含めますか」
「わたくしは」|作 戦 参 謀《カーサリア・ヨクスクロト》シュリール|百翔長《ボモワス》が勢いこんで提言した。「迂回挟撃を行なうべきだと思いますわ」
「うむ……」
じつにそそられる提案だった。
迂回挟撃は派手な戦法だ。兵力を分派して敵の後方に進出させ、退路を断つ。そのうえで主力と挟み撃ちにするのだ。成功すれば、敵を完膚なきまでに殲滅できる。
この状況では失敗は考えにくかった。味方は倍以上の優勢を持っている。もし敵が各個撃破に出ても、優位に戦いを進めることが可能である。
しかも、トライフには|偵察分艦隊《ヤドビュール・ウセム》〈フトゥーネ〉がある。
偵察分艦隊≠ニきくと、軍事にうとい者は軽武装の補助部隊を思い浮かべがちだが、その実態は大きくちがう。
偵察分艦隊は敵意に満ちた領域を力任せにのぞきこむのを使命とする。鈍重な|戦列艦《アレーク》や非力な|突撃艦《ゲ ー ル 》は足手まといになるだけだ。作戦部隊はすべて巡察艦で編成される。伴随する|補給艦《ディーホスフ》も、巡察艦並みの小型のものでそろえられており、機動性、破壊力ともにすぐれている。
その戦力は、一般的な突撃分艦隊の五倍に相当するとさえいわれている。費用効率や運用の柔軟性の問題で実現は難しいものの、|星界軍《ラブール》主力をすべて偵察分艦隊で編成すべきだとする、熱烈な信奉者も後を絶たない。
いわば天空を疾駆する重装騎兵部隊――それが偵察分艦隊だった。
迂回挟撃における別働隊にこれほど恰好な部隊はない。
数秒間、トライフは検討した。そして、未練をいだきながら却下した。「駄目だ。われらの目的は戦闘ではなく、あくまで|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》の回復にある。この戦争は長くつづくだろう。無益な戦闘で艦艇を喪うわけにはいかない、たとえ勝利が確定的なものであっても」
「しかし……」シュリールはなお反駁しようとした。
「うるさい黙れ、これ以上おれを誘惑するんじゃない」トライフは跳ねのけた。
「はい」シュリールは不承ぶしょう口をつぐんだ。
「それでは、敵を威嚇しつつ行軍するのですね」とカヒュールが確認する。
「そうだ」まだ迂回挟撃案に心を残しながらも、トライフはうなずいた。「横一列陣形で戦力を誇示しつつ、ゆっくり進軍する。そうすれば、逃げるだろう」
「了解しました。その線で素案を作成します」
「どのくらいで出発できる?」
「偵察任務で行動中の|巡察艦《レスィー》はどうしましょう?」
「むろん、待たない。途中で拾う」
「それでしたら、二時間以内に」
「手を抜くな。一時間でやれ」
「わかりました」
トライフは顔をしかめた。抗議もせずに時間の短縮を受け入れたということは、もっと短い時間でもできたのではないか。が、もう遅い。こちらから一時間といってしまった。
「よろしい、かかれ。一時間後にまともな作戦案が見られなければ、おれの失望はひととおりではないぞ」
「はい」
|作 戦 室《シル・ヨクスクロト》に引きあげる|参謀《カーサリア》たちの背中を見送って、トライフはようやく|司 令 座《グラハレリバーシュ》に腰を落ちつけた。
きっかり一時間後、カヒュールからトライフへ行軍序列および予定航路が提出された。
なんだかんだいっても|参 謀 長《ワス・カーサレール》の能力を信用しているトライフは、ほとんど目も通さずに承認し、艦隊に指令をくだした。
「諸君、これより|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》を奪回する。遺憾ながら、戦闘は行なわれないもようだ。万が一の僥倖をもって、戦闘に突入した場合には、諸君の美しい戦いぶりを期待する。では、発進!」
二○○○の艦艇が一斉に|駆動炎《アソート》を吹きあげた。
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付 録 アーヴの度量衡
アーヴと地球との絆をもっとも感じさせるのは、時間単位であろう。アーヴ暦の一年も、三六五日なのだ。
もちろん彼らには、暦年と恒星年の使い分けをする必要もないし、閏年も閏秒もない。一年は常に三六五日、一日は二十四時間、一時間は六十分、一分は六十秒である。
そのほかの基本単位も地球の遺産を利用している。すなわち、赤道の長さをもとにして制定されたメートル、地球重力下で一立方センチメートルの水の重さを定義とするグラムだ。
ただし、すべてアーヴ語で表わされ、四桁ごとに接頭辞が変化するので、注意が必要である。
時間(秒)以外の基本単位は次のとおり。
長さ:ダージュ=センチメートル(p)
質量:ボー=グラム(g)
この基本単位系に以下の接頭辞がついて、単位が表わされる。
したがって、三ゼサダージュと言えば三〇〇〇万キロメートルのこと、八○○ウェスボーといえば八トンのことである。
ただし、光秒、光年といった長さの単位はアーヴも盛んに用いており、ゼサダージュ以上の長さ単位はあまり使われない。
また、プランク長とプランク重を基本とした微小単位系もあるがここでは触れない。
さて、通常空間とは異なる物理法則に支配される平面宇宙ではおのずから別の単位系が必要となってくる。それが天浬(ケドレル)と天節(ディグル)である。
一|天浬《ケドレル》は、「一セボー(=一〇〇トン)の質量を持ち、完全移動形態をとる時空泡が、時空泡内時間で一秒間に進む距離」と定義される。
また、一|天節《ケドレル》は、「時空泡内時間で一時間に一天浬を進むことが可能な速度」である。
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あとがき
ロバート・E・ハワードは、コナンが語るのをそのまま書き写して、あのヒロイック・ファンタジーの古典シリーズをものした、という話を読んだことがあります。
オカルトまがいのことを信じないたちなので、無意識の偉大さを語るエピソードだと理解していますが、すてきな話だと思いました。当時まだ学生だったわたしは、いつかSF書きになって、そんな体験をしてみたいものだ、と羨んだものです。だいいち、楽そうでいい。
それから月日が流れ、なんとか短篇デビューを果たしてしばらくたったとき、それは起こりました。
ひとりさびしく酒瓶を眺めて瞑想に耽っていたわたしのもとに、二十代半ばと見えるひとりの美女が舞いおりたのでした。深い森の色をした髪に、精妙な冠をいただき、印象的な漆黒の瞳でこちらを見おろしていました。
「これは幸運」と思いました。わたしも健康な男性ですから、むさ苦しい筋肉男よりはうら若き美女のほうがずっと好ましい。
すぐさまワープロを立ちあげ、お話をうかがう準備をしました。
「ええと、まずお名前からきかせていただけますか?」と訊くと、美女は傲然と顎をそらし、「ラフィールと呼ぶがよい」と命じたのでした。そして……、消えてしまいました。「おおい、肝腎のお話は?」と問うても、答えは返ってきません。わたしの手元というか、頭のなかに残ったのは「ラフィール」という名前と彼女の鮮烈なイメージのみ。
それでも、彼女の話を書いてみたい、と思いました。もっとも現在の彼女は、駆け出し物書きには手に負えそうもありません。それで、彼女の少女時代を描いてみることにしました。べつに少女のほうが大人の女性より単純とはかならずしも思いませんが、ものには順序というものがありますからね。
……というようなヨタ話を信じるかどうかはもちろん、あなたのご自由です(笑)。
でもときどき、ほんとうに「この人たちはおれの頭のなかにいるのか?」と疑いたくなるようなことがありました。
たとえばこの第U巻で、ジントとラフィールが歩いている場面があります。
ラフィールは不機嫌です。ところが、なぜ不機嫌なのかは作者にもわからない。なにしろこっちの視点はジントと同化していますから。とにかくなにか怒っていることだけはわかる。
「いったい、なにを怒ってるんだよ〜 だいたい、気に入らないことがあればはっきりいう娘《こ》なのに」と、登場人物といっしょになって不思議がっておりました。
それが、ラフィールの視点に立ってみると、なぜご機嫌斜めだったかがよくわかる。なるほど、彼女の性格からすると腹が立つだろうな、と。
あれは不思議な体験でした。
さて、「中だるみ」などということばがあります。この第U巻も比較的地味かな、という気はします。しかし、じつは作者のいちばん好きなシーンの登場する巻でもあります。「どのシーンか」ということは、いっても詮ないので、黙っておきますが。
つぎはいよいよ最終巻「異郷への帰還」。クライマックスであると同時に、登場人物も増えてにぎやかです。
お楽しみに。
一九九六年四月十日
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著者略歴 1962年生、京都府立大学文学部卒、作家
星界の紋章U ─ささやかな戦い─
一九九六年 五 月 十五 日 発 行
一九九八年一二月三十一日 十 刷
著 者 森岡 浩之(もりおか・ひろゆき)
発行者 早川 浩
印刷者 矢部 一憲
発行所 株式会社 早川書房
平成十九年一月三十一日 入力 校正 ぴよこ