星界の紋章T ─帝国の王女─
森岡浩之
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惑星マーティンの平和は突如襲来した宇宙艦隊によって破られた。侵略者の名はアーヴ、遺伝子改造によって宇宙空間に適応した人類の子孫だという。彼らの強大な軍事力の前に全面降伏の道を選んだ惑星政府主席の決断は、その幼い息子ジントの将来を大きく変えた――運命のいたずらでアーヴの星間帝国の貴族となった少年の冒険行を、SFマインドあふれる設定と、息もつがせぬストーリーで描いた気鋭のスペースオペラ超大作。
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目 次
序 章 9
1 デルクトゥー宇宙港 33
2 翔士修技生 56
3 愛の娘 68
4 巡察艦〈ゴースロス〉 93
5 帝国の王女 118
6 緊急事態 136
7〈ゴースロス〉の戦い 158
8 フェブダーシュ男爵領 181
9 アーヴの微笑 202
10 ジントの怒り 222
11 前男爵 241
付録 帝国星界軍翔士位階 263
あとがき 267
紋章デザイン/赤井孝美
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この紋章に描かれているのはガフトノーシュという。
やっつの頭を持つ異形の竜である。
この幻獣は長らく忘れられていた。
だが、ある帝国が紋章の意匠として選んだことから、ガフトノーシュは人類の想像した生物のうちもっとも名高いものとなった。
なぜならその帝国こそ、人類史上に比類なき強大な国家だったからである。
帝国を築いた種族をアーヴという。あるいは彼らが誇りとともに自称するのによって、〈星たちの眷属〉と称すべきかもしれない。
いずれにしろ、ここではガフトノーシュに話を絞ろう。
かの種族についてはそれこそ万巻の書があるのだから。
[#地付き]――ロベルト・ロペス著「地球に生きた幻獣たち」より
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星界の紋章T ─帝国の王女─
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登場人物
ジント………………………惑星マーティンの惑星政府主席の息子
ラフィール…………………巡察艦〈ゴースロス〉の翔士修技生
レクシュ百翔長……………巡察艦〈ゴースロス〉艦長
レーリア十翔長……………巡察艦〈ゴースロス〉副長
クロワール…………………フェブダーシュ男爵領の支配者
スルーフ……………………クロワールの父。前フェブダーシュ男爵
セールナイ…………………フェブダーシュ男爵家の家臣
ドゥリン……………………惑星デルクトゥー時代のジントの友人
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序 章
よく晴れた夜空。
見つめていると、満天の星に吸いこまれてしまいそうだ。
星々のあいだを、三〇日前まで惑星マーティンにはなかった衛星がゆっくりと滑っていく。まるで住人たちを見おろし、威圧するように。
衛星は燐光を放っていた。地球にあるという月もあんなようすなのだろうか。
そのしたをくぐりぬけた輝点はアーヴの宇宙戦艦だろう。あれこそ正真正銘、マーティンの一〇〇〇万市民を威圧しているのだ。
輝点はひとつではなかった。幾十もある。夜空のどの方向に目をむけても、どれかひとつは視界にひっかかる。いまも、闇に黒々と沈むエキゾチック・ジャングルのかなたから、集い戯れるマーティン蛍のように、一群れが昇ってくるところだ。
ほのかな光に包まれた巨大な球体のまわりには、輝点がとくに多い。注意深く見ていると、球体に輝点が出たり入ったりしているのがわかる。
後ろに長大な光の尾を描き、星ではありえない速さで天空をすべる輝点の群れ。形がおぼろにわかるほど地表に近づいてくるものすらある。
幻想的だ。
憎しみを感じるべきなのに、ジントはただうっとりと見とれるばかりだった。
そのとき、ジント・リンは八歳だった。一部の懐古主義者が固執する地球の標準暦でいえば一〇歳だ。いずれにしろ、幼い少年でしかない。
もうとっくに子どもの眠る時間だというのに、ジントは複合機能建築の屋上公園から尋常でない夜空を見あげていた。
ジントの生まれる遙か昔、太陽系と呼ばれる星系にのみ人類が居住していたころ――。
ある国家の派遣したオールト雲調査船が、太陽から〇・三光年離れた空域で不思議な素粒子を発見した。質量は陽子の一〇〇〇倍ほど。それだけでもじゅうぶんに異常な粒子だったが、さらに困惑させる特性をもっていた。
およそ五〇〇メガワットのエネルギーを放射していたのだ。そのエネルギーがどこからやってくるものやら、だれにも指摘できなかった。
いわゆるホワイトホールだという説を唱える者がいた。あるいは異次元、亜空間、超空間、呼び名はどうでもいいが別の宇宙とこの宇宙を隔てる壁に開いた穴だという説も提唱された。
いずれも、仮説とさえいえない憶測にすぎない。
とにかく、この粒子はユアノンと命名され、研究が始められた。正体をたしかめるためというよりむしろ、利用法を確保するための研究だった。
そのころ、人類はすでに核融合を手にしており、エネルギー源には困っていなかったが、宇宙空間では話がちがってくる。
効率のいい恒星間旅行の前には質量比の問題が横たわっていて、生きているうちに隣の恒星へ旅しようとすれば、船と積み荷の何百倍もの重さの燃料を積まないといけない。それが物理学の定めたおきてだ。
とても燃料搭載型の核融合推進では実用に耐えない。期待されたバサード式ラムスクープ推進も、星間物質の密度の関係から実現は不可能とされた。対消滅推進にはまだ手が届いていなかったし、届いたところで質量比の問題は解決しない。
だが、もしユアノンを宇宙船のエネルギー源とできるなら、質量比のことは忘れてもかまわない。なにしろ燃料が要らないのだから。
そこで、ユアノン推進の宇宙船が設計された。
基本的な構造は筒だ。筒の中心には磁気トラップがあり、ユアノンを保持する。筒の内部は高温超伝導素材で裏張りされ、ユアノンの放射する荷電粒子を反射する。電磁波は一部吸収されるが、余剰エネルギーは放熱板で真空に輻射する。電気的に中性な粒子は内筒と構造物のあいだにはさんだ物質で吸収すればいい。
全力で加速したいときは、一方の筒口を閉鎖して、エネルギーの奔流を一方向へ集中させる。加速をしたくないときは、両方の筒口を開放して、両方向へ等分にエネルギーを放出する。加速を加減するには筒口の開放状態を調節すればいい。
技術的・経済的障害はあまたあったが、当時の人口問題とそれによって惹起された紛争は末期状態にあり、ユアノン推進実現への強力なバックアップとなった。
すでに無人の核融合推進船によって、近傍星系の調査は終了していた。その結果、遊離酸素を含む大気がこの銀河では稀少であることがわかった。恒星からの距離と重力が適当であればよいというものではなく、星系形成時の初期条件、岩石成分の比率などが関わってくるからだ。地球のような惑星は例外中の例外である。それは、炭素系生物の生活できる惑星が少ないことを意味する。
しかしそれは、星系外移住計画にとってたいした問題ではなかった。増大する人口の圧力に攻めたてられて、人類は惑星改造技術を身につけ、金星や火星で実践していたのだから。この馴れ親しんだ技術をほかの星系でも活用すればいいだけの話だ。異星起源の生命体にたいする哲学的な倫理問題に頭を悩ます必要もない。
かくして、最初のユアノン推進の宇宙船が建造され、〈開拓者〉と命名される。〈開拓者〉の任務は植民拠点を開くのに必要な人員と資材を運ぶことにあった。
いったん推進レーザー基地を設置してしまえば、あとは貴重なユアノン推進船を使わなくても、光帆推進の宇宙船で人や物をやりとりできる。
人類はわずかでも故郷に似た惑星を発見すると、それで手を打った。火星型や金星型の惑星を改装することで居住圏を拡大していったのだ。薄い大気を呼吸可能な濃度に高め、あるいは高圧の大気の余分な部分を固定して薄める。大気改造、土壌の生成、生態系の構築……。
居住圏の拡大とともに、あらたなユアノンも発見され、そのたびに恒星間移民船が建造された。太陽系だけではなく、入植星系でも建造が行なわれた。
惑星マーティンに住む人々の先祖が乗ってきたのは、太陽系で建造された恒星間移民船〈レイフ・エリクスン〉である。この時代になると、ユアノンの稀少性もやや下がり、植民拠点の開設にではなく、植民プログラムの一から一〇にまでユアノン推進船を投入できるようになっていた。〈レイフ・エリクスン〉の場合はさらにその前段階、居住地の調査と選定まで任務に包含していた。
つまり〈レイフ・エリクスン〉に乗りこむことは、「どこかよそで生きてくれ」と送りだされることを意味した。
厄介払いされるだけのことはあり、〈レイフ・エリクスン〉の乗客と乗員はいっぷう変わった願望をもっていた。酸素を大量に含んだ大気をまとう惑星に、とことんこだわったのである。
どこかにエキゾチックな生態系があるはずと考え、何世代ものあいだ、あちこちさすらったすえ、G型の恒星をまわる青い惑星を、彼らはようやく見いだした。恒星は初代の船長の名をとってハイドと命名され、酸素大気惑星のほうは当時の船長の名が与えられた。惑星マーティンには知的生命体はいなかったが、奇妙な動植物が繁栄していた。〈レイフ・エリクスン〉でやってきた植民者たちは、異質な生態系をこわさぬよう気を使いながら、ゆっくり人口を増やしていく。
植民がすんだのちも、役割をおえた恒星間移民船〈レイフ・エリクスン〉は、記念碑的な意味で惑星マーティンの軌道に繋留されていた。
着陸暦一七二年第一季五七日、その〈レイフ・エリクスン〉がなんの前触れもなく爆発する。あとには、燐光を放つ衛星が残った。衛星といっても固い地面があるわけではなく、ガスの塊ですらない。実体のない、特異な球状の空間。〈レイフ・エリクスン〉のなかにとらわれていたユアノンの変わり果てた姿。それがいまだに名づけられることのない、惑星マーティンの月の正体だ。
爆発のなかから一隻の宇宙船が現れた。その船はいっさいの交信を拒んだが、興味深げに惑星マーティンの周囲を三周し、やがて不安な思いの市民を尻目に、薄ぼんやりした光に包まれた球状空間にさっさと戻った。
不思議な宇宙船の残した置き土産、球状空間を調べようという動きはあった。だが、予算を政府が計上する前に、調査の機会はその意義とともに喪われてしまった。
同年同季八一日、大艦隊が球状空間から忽然と出現したのだ。
今度は彼らのほうから交信を求めてきた。二四日前の電波を解析したのだろう、彼らはマーティン語の素性が英語にあることをつきとめ、機械通訳をその言語にセットしていた。マーティン側にしてみれば古代の言語を理解するのはそれほど困難ではなく、最初の接触に言語上の問題はなかった。
彼らはアーヴと名乗った。それが種族の名だ。青い髪をしているが、容姿は人類そのもので、それもみな美しく若々しかった。彼らは証言した――ちょっと変わって見えるかもしれませんけれども、われわれもまた地球の子です。ただちょっと遺伝子をいじってあるだけ。
アーヴは一五〇〇ほどの有人星系と二万以上の半有人星系を支配しているという。その統治機構、つまり国家は〈|アーヴによる人類帝国《フリューバル・グレール・ゴル・バーリ》〉というのが正式名称だが、略して〈|アーヴ帝国《バール・フリューバル》〉とも呼ばれているらしい。
星系政府はただちに友好条約を締結するための交渉を申しでた。が、侵略艦隊を率いるアブリアル司令長官はそれを拒絶した。
遺憾ながら――アブリアル司令長官はいった――それはできません。わたしの使命は帝国の友好国をつくることではなく、皇帝陛下の領土にひとつの世界をつけくわえることなのですから。
非武装の船ではなく、艦隊を派遣してきたことで、侵略の意図があるのではないか、と疑っていた人々もショックを受けた。こうもあからさまな宣告を受けるとは思いもよらぬことだったからだ。穏やかな交渉からはじまるのがすじではないか。たとえそれがすぐ威嚇と恫喝に変わるとしても。
軍人でなく外交官と話したい、と申しでても無駄だった。
わたしは――と司令長官――軍人であるだけではなく、外交官でもあります。じつをいえば、皇太子でもあるのですよ。わたしの意志は帝国の意志です。すくなくともあなたたちの処遇に関しては。あなたがたの不安は理解できますから、帝国の臣民となることがどのようなものかはご説明いたしましょう。ですが、あなたがたの主権に関する交渉には応じられません。それはすでに帝国に帰属しているものと理解しています。
もちろん、説明は必要だった。政府関係者だけではなく、一般市民もせつじつに望んでいた。
したがって、旗艦で語る司令長官の映像は即時中継された。一般市民はこの時になって初めて侵略者の姿を見た。
腰のあたりまで垂れた濃紺の髪から尖った耳がのぞく。頭に載せた繊細な造りの冠とあいまって、宇宙からの侵略者というよりお伽話に出てくる妖精を思わせた。新雪のように白い顔は、二五歳ぐらいの美青年のもの。美女と見紛う顔に浮かぶ表情は物憂げで、ハイド星系を征服するという任務をごく退屈なものと認識していることを物語っていた。
「では、帝国と地上世界の関係の概略を説明しましょう」アーヴ帝国の皇太子は玲瓏な声でいった。アーヴ語で発せられたことばに古代英語の翻訳がつづき、それがマーティン側の自動翻訳器によって現代マーティン語になおされる。「まずあなたがたの星系には貴族が封ぜられます。この星系の特殊性に鑑み、すくなくともとうぶんは皇帝陛下ご自身があなたがたの領主となるでしょう。もちろん、陛下はほかにいくつか仕事を抱えていらっしゃいますので、この星系には代官が派遣されることになります。
われわれは地上世界の統治を優雅さからはほどとおい仕事と考えており、地上の民が自分たちの面倒を見られるかぎり、領主もしくは代官はあまり細かいことに口を出さないのが常です。断るまでもなく、あなたがたにもその原則が適用されます。
あなたがたは自らの代表者を出してください。そのかたが領主もしくは代官、ひいては帝国中央との交渉役になります。その職をどう名づけようと、われわれは意に介しません。大統領、主席、議長、あるいは皇帝でもけっこう。独立した国家であるという幻想をもちたいのなら、外務大臣という肩書きもいいでしょう。ただその地位は、帝国の公式文書ではおしなべて領民代表と表現されます。
いうまでもなく、決定方法はご自由です。選挙、世襲、指名、籤引き、いずれでもお好みのものをどうぞ。ただし、領民代表となるには領主の承認を受ける必要があります。原則的には形式にすぎませんが、あからさまに帝国からの離脱を主張する人物にたいしては、拒否権が行使されるでしょう。
領主は徴税権をもちません。かわりにほかの星系と交易する独占権を帝国により認められています。それによる利益が領生の生活をささえます。場合によってはあなたがたの惑星、あるいは星系内のほかの惑星にたいして投資をするかもしれません。そして、財産を保護するため、あなたがたの自主的な統治機関から独立した警備隊をおくことを、要求する可能性があります。ですが、それは領主との協約によるもので、あなたがたには交渉の余地がじゅうぶんに残されています。
帝国があなたがたに強制するのは、おおまかにいって次の二点です。
第一に恒星間航行が可能な宇宙船の建造は禁じます。帝国の支配下にあれば、あなたがたもほどなく光速の限界を出し抜く方法を知るでしょう。それは詮ないことですが、応用することはお考えにならぬように。通常空間を航行してほかの星系へいたる船も認めません。くりかえしますが、他星系との交易は領主の特権であり、帝国はこれを保護します。もし領主が容認すれば、星系内を航行する宇宙船は保有できます。ですが、武装することは決して認められないでしょう。
第二に帝国星界軍の募集事務所を置かせていただきます。執務と警備のために軍士を派遣しますが、惑星表面に駐屯する軍士はそのためのみに限定されます。あなたがたの人口から推量して、一〇〇人を超えることはないでしょう。あなたがたの自治政府が健在なかぎり、その同意をえずにそれ以上の軍士を差しむけることはない、と約束します。また、徴兵なり徴用なりをすることはありません。地上の民が星界軍に属するときは常に自由意志によります。ただし、志願しようという自発的な意志を妨害する行動が禁じられていることも、同時に付言しておきます。
なお、あなたがたは領民と呼ばれる身分になりますが、星界軍に志願するなり、領主の家臣になるなり、望んで帝国のために働くことになった場合、国民と呼ばれる身分となって、領民政府との関係を喪失し、帝国の庇護を受けることになります。
これが臣民になるということです。あなたがたの日常生活には劇的な変化が現れるでしょう。しかしそれは、他星系の物資がもたらすものであって、横暴な領主の鞭がもたらすものではありません。帝国や皇帝陛下への忠誠も期待しませんから、目新しい品々に慣れてしまえば、ふつうの領民は自分たちが帝国の臣民であることをあまり意識しなくなるでしょう。
わたしの説明は以上です。
これ以降、質問などがあれば、部下がかわりに答えます。そのうえで帝国の支配を、平和の裡《うち》に受けいれるか、戦争の果てに押しつけられるかを選択してください。わたしは個人的にもこの惑星の生物資源を貴重なものと見做していますが、だからといって惑星表面を灼き払うことを躊躇するなどと、根拠のない期待はなさいませんよう。
さいわい、あなたがたの都市はたいへん目立ちます。本来の自然をあまり傷つけることなく、破壊できるでしょう。
さて、際限のない質問で部下を困惑させるのはご自由ですが、彼らの忍耐にも限度があり、無限の時間をさしあげるわけにはまいりません。回答期限はいまからきっかり三自転後とさせていただきます」
帝国の臣民はおおかたの予想より尊重されているらしいことを理解したものの、放送を視聴していた市民は憤激した。口調は鄭重だったが、用語の選択には市民の好意をえるための配慮がまったくなされていない。内容は疑いようもない傲岸を含んでいた。撃退される可能性は検討した痕跡もない。とくに政治家や高級官僚たちの怒りは甚だしかった。たいへんな競争の果てにつかんだ地位を、アーヴの貴公子はいうにことかいて『優雅さからはほどとおい仕事』と表現したのだ!
それに、どうして彼が真実を語っているとわかるだろう? アーヴの司令長官のことばとは裏腹に、帝国の臣民は抑圧に苦しんでいるかもしれない。むしろ、いきなり攻めてくるような連中が誠実であると、すなおに信じるほうがどうかしている。
もちろん、市民代表と官僚はアーヴの士官たちに通信回路をとおして『際限のない質問』を浴びせ、多くの情報をえた。が、分析する時間が圧倒的に足りない。情報の真偽を判定するのは絶望的だった。経験豊かな法廷弁護士の一群が議員と官僚に加わって、アーヴ士官を質問ぜめにしたが、矛盾点を見つけることはできなかった。
もっとも、与えられた情報が偽りだったとしても、ハイド屋系政府にあまり選択の余地はなさそうだった。
惑星マーティンには、対宇宙防衛システムが存在する。自分たちも宇宙から来たので、宇宙からの侵略という事態を予想するのはたやすかった。異星起源の知性体を想定する必要はない。行儀が悪くて乱暴な従兄弟があとからやってくる可能性はじゅうぶんにある。とはいえ、それに予算を割かなければいけないとなれば話はべつで、まったくたやすいことではない。
何代かの政府主席がきわめて熱心にこの問題に取り組んだが、実体としてあるのは一〇基たらずの対宇宙・地上発射レーザーと二〇基ばかりの対宇宙ミサイルのみ。宇宙軍などというたいそうなものはなく、施設省の一部局がその保守点検にあたっていた。いざというときの発射管制は、地下のコントロールルームからパートタイムの将軍が集中的に行なうことになっている。
これ以外に星系政府がもっている武力といえば、せいぜい大規模な騒乱に備えた武装警察ぐらいのもの。控えめにいっても、宇宙艦隊の火力に立ちむかうのは荷が重すぎる。
にもかかわらず、議会には主戦派が存在した。曰く、あの大艦隊は虚仮威《こ け おど》しかもしれない。曰く、宇宙ではかなわなくても、地上では勝ち目がある。曰く、とにかくこれは名誉の問題だ、一戦もせずに屈伏するのはいかがなものか……。
むろん、それをあさはかと判断する人々も頑強で、議論はどんどん深みにはまっていった。高度な理念と哲学のぶつけあいから、個人的な中傷へと。しかし、会議のほうは際限なくとはいかない。なんといっても、期限は三日なのだ。マーティンの一日は故郷のそれよりも二時間ばかり長いが、早急に意見の統一を見なければいけなかった。
あいにく議会は、早急に結論を出すことに慣れていなかった。やむなく、政府主席に結論を一任することとなった。
現在の政府主席はロック・リン。ジント・リンの父親である。
リン主席は考えをごく少数の人間にもらして、支持をとりつけた。強硬に反対した者もいたが、彼らにたいしても箝口令を敷くことに成功した。
期限が差し迫るなか、リン主席は回答をたずさえ、主席官邸の通信設備の前に立った。
「こんなところにいたのか」背後でききなれた声がした。「探したぞ」
「あ、うん」ジントはふりかえった。
痩身で背の高い中年がらみの男が立っていた。ティル・コリント、リン主席の秘書官である。リン主席が議員だったころから彼の秘書を務め、そのつきあいは息子のジントよりも長い。
ジントも子どものときから知っていた。知っていたどころではない。ジントはこの男の家族同然に育てられたのだ。
ジントは母親を知らない。鉱山監督だった彼女は、一人息子がハイハイを覚える前に事故で亡くなっていた。ロック・リンは男親だけで息子を育てるのを不安に感じ、また政治活動で多忙でもあったので、信頼するティルとその妻、リナにジントの養育を依頼した。
コリント夫妻は仲睦まじかったが、どういうわけか子どもがなく、ロックの頼みをむしろ感謝して受け入れたものだ。
初等学校に上がるまでジントはティルの子どもだと信じていたし、いまでも実の父親よりはその秘書官に深い愛情を感じていた。この世でいちばん愛しているのはリナ・コリントだったけれども。
そのティルの浅黒い精悍な顔を不機嫌な影が覆っていた。
「ごめんなさい……」ジントは謝った。こんな夜更けに、それも特別に危険な夜に、外へ出ていることを叱られると思ったのだ。「すぐに部屋に戻るから」
「そんなことはいい。来るんだ」少年の手をひっぱりかねない強い調子で、ティルはいった。
ティルのただならぬようすに、ジントは怯える。「どこへ行くの?」
「主席官邸だ」
「主席官邸?」
惑星マーティンのゆいいつの都市であり、人類の居住地であるクランドン市はみっつの複合機能建築からなる。それぞれまったく実用的にオムニT、オムニU、オムニVと名づけられていた。ジントはコリント夫妻とともにオムニVに住み、主席官邸はオムニTにある。
「なにしに行くの?」主席官邸に行くということは、父と会うということだ。この大事な時期に父がなんの用だろう? 大事な時期といえば、政府主席の秘書官であるティル・コリントにも、八歳の子どもを迎えにいくより重要な仕事があるはずだった。
「いいから、来い」ティルはくるりと背をむけると、大股で歩いていく。
「ねえ、待ってよ」成人のなかでも歩幅が大きいティルに、幼い少年は小走りにならないとついていけなかった。ふだんはゆっくり歩いてくれるのに、今夜はいったいどうしてしまったんだろう?
「時間がないんだ、急げ」秘書官はふりかえりもしない。
ようやくエレベーターボックスの前で追いついた。「ねえ、なにか怒っているの? だったら謝るよ、だから……」
ティルはこたえなかった。エレベーターが来るまでのあいだ、いらいらとボックスの壁を人差し指と中指でつつくだけ。
エレベーターボックスのドアが開いた。だれも乗っていない。ジントは、ティルとふたりきりになるのをこれほど不安に思ったことはなかった。
「ネクサス・フロアだ」ティルは、エレベーターを管理するコンピュータに告げた。
ドアが閉まって、降下がはじまると、ジントは一秒たりと沈黙に耐えられない気分になった。
「ねえ、ぼくたち、勝てるの?」
「勝つも負けるもない。戦争はないんだからな」うなるような答えが返ってくる。
「じゃあ、ぼくたち、降参したの?」
ティルはキッと少年を睨みつけた。「そうだ、おまえのお父さんが降伏を決めたんだ。いや、そうじゃない、おれたちを売ったんだ」
「売った? 売ったって、どういうこと……?」
「ロックのやつは取引をしたんだよ、薄汚い取引を」ぶっきらぼうに、ティルは吐き捨てた。
「取引って?」
「オウムみたいにくりかえすのはよせっ」
「ご、ごめんなさい」少年は首をすくめた。
「たしかにおれも戦争には反対だった。勝てそうにもないからな。けれど、あんな取引をするなんて! ちくしょう、ロックを見損なった」
ジントは悲しかった。ふたりの父親がいることをひそかに自慢に思っていた。それなのに、育ての父親が実の父親の名をけがらわしいもののように呼んでいる。
目頭が熱くなってきた。
しゃくりあげる少年を見て、育ての父はさすがに後ろめたそうな顔をした。「すまん。べつにおまえのせいじゃないのにな」
「ねえ、なにがどうしたんだよぅ。ぼくにはさっぱりわからないや……」
「ああ、無理もないな」ティルは短く刈った黒い髪をかきみだした。「さっきもいったように、ロックは取引したんだ。その内容はいまから十分もしないうちに発表になる。そしたら、やつはマーティンに住むものすべての憎悪の対象になることはうけあいだな。本人に手が届かなきゃ、せめて家族をぶん殴ってやりたい、と思う連中も多いだろうよ。それがおまえを主席官邸につれていく理由だ。あそこなら警備は厳重だからな」
「ぼくがリンチにかけられるっていうの?」ジントはふるえた。
「かもしれない」ティルは冷酷にうなずき、「そこまでいかないまでも、いろんな嫌がらせはされるだろうな。罵られるとか、物をぶつけられるとか。さもなきゃ、住んでる部屋に発煙筒ぐらい投げこまれるかな」
『住んでる部屋』ときいてまっさきに浮かんだのはリナ・コリントのことだった。「じゃあ、リナはどうするの? ティルの家にぼくが住んでいることは、たくさんの人が知ってるよ」
「ちゃんと連絡しておいた。リナはおとなだからな、自分のことぐらいできる」
「さきに避難したってこと?」リナが自分を置いて独りさっさと逃げだしたとは信じられない。
「ああ」ティルはジントの顔色を読みとり、「おまえのことは心配していたよ。おれが探すからといって、安心させたんだ」
「そう」ジントはしっくりこないものを感じた。ティルが彼を見つけだせる保証はないのだから、リナも探すのがほんとうではないか。ジントの知っているリナなら、そうしてくれたはずだ。
エレベーターは第三層にあるネクサス・フロアにつき、ドアが開いた。ふたりはそれぞれちがう理由でむっつりして、アロアに出た。
複合機能建築の上下を貫通する無数のエレベーター・チューブがフロアに並んでいた。古代神殿の重い屋根をささえる列柱のようだ。そのあいだを無人のタクボックスが走り回っている。
エレベーターのドアが開いたのを嗅ぎつけたタクボックスが、ふたりの前に停まった。
乗るよう、ティルは右腕の動きだけでジントに指示した。
ジントはシートに身を落ちつけた。だが、心は落ちつかない。
「主席官邸。急げ」ティルはタクボックスに簡潔な命令をささやいた。そのあとは腕を組んで、やはり黙っている。
ジントは『取引』の内容が気になった。とても訊ける雰囲気ではなかったが、小さな身体のなかの勇気をかきあつめて、「ねえ、取引ってなんなのか、教えてよ」
「秘密だ。発表があるまで一般市民にはもらしてはいけないことになっている」
「ぼくでも?」おずおずといってみる。
秘書官は鼻を鳴らした。「おやおや、早くも特権階級きどりか!」
「どういうこと……」
「ホロをつけていろ。もうすぐ発表だ」
いわれたとおり、タクボックスに備えつけのホロビジョンのスイッチを入れる。手動運転装置のうえに立体映像が像を結んだ。
「いまのところ、アーヴ軍に動きはありません」半透明の小人がいった。「リン主席と侵略軍とのあいだでなんらかの話し合いがもたれた模様です。ある筋から入手した情報によると、帝国への屈伏が確定したとか。その風聞がまちがっていることを、わたしたちの指導者が名誉ある選択をなすことを、心から願ってやみません。なお、主席官邸では二十五時ちょうどに『重大な声明』を発表する、と予告しました。あと一分三十秒です」
長い一分三十秒だった。早く過ぎてほしいような、永遠に過ぎなければいいような一分三十秒。ジントはじりじりした思いで立体映像を見つめ、ときどき隣の男をうかがった。
ティルは彫像のように動かない。立体映像に目をやることもなく、前方に視線を固定している。
タクボックスは複合機能建築を出て、エキゾチック・ジャングルのうえに架けられたリエゾン・チューブを走る。
やがて、時間になった。
映像はすでに主のいない演壇に切り換わっている。ハンサムな報道官が現れ、演壇についた。
「声明を発表します」
ジントは固唾を飲んで、報道官の口元を凝視した。
「ハイド星系政府主席ロック・リンは本日二十三時五十二分、皇太子にして帝国艦隊司令長官であるアブリアル・ネイ=ラムサール・バルケー王・ドゥサーニュ殿下にたいし、ハイド星系の独立を放棄する旨を伝えました。今日よりのち、わたくしたちは〈アーヴによる人類帝国〉の一部となります」
立体映像には入っていないが、報道官を現場で見守っていた報道陣のどよめきがきこえた。そこには驚きや怒りはなかった。あるのは諦めだ。「やっぱり」という、だれかのつぶやきもきこえた。
そんなにひどいことないじゃないか、とジントは思い、ティルに視線を走らせた。
「まだ続きがある」ティルはいった。
「しかし主席は、他星系への道をハイド星系市民の手で運用したいと考え、妥協案を提示しました。すなわち、領主を星系市民から出すという案です」
「そんなことが可能なんですか?」息急き切った質問がとぶ。
「質問の時間はまだです。秩序を守ってください」報道官は軽くいなして、「ですが、例外を認めましょう。結論からいえば、可能でした。対宇宙防衛システムを無力化するコードと引き替えに、わたくしたちの新しい支配者は条件をのみました」
「じゃあ、領主はだれなんですか?」
「質問はまだだといったでしょう。いいですか、最初の構想では選挙で領主を選ぶつもりでした。ですが、あいにくと帝国では貴族は選挙結果に左右される地位ではないのです。おおむね貴族というのは選挙制度に馴染まない存在でしてね」報道官は笑おうとして、失敗した。
放送電波を通じてさえ、その場の空気が危険なまでに殺気立っていくのが伝わる。
「領主はだれなんです?」また同じ質問がちがう声でなされた。
「アブリアル司令長官が帝国と星系の説明をするのをご覧になったでしょう。領主といっても、宇宙貿易会社のナーナーみたいなものですよ。企業のオーナーは選挙で選ばれるものではありませんし、だいたい世襲で……」
「領主はだれなんだ!? くそっ、おれにはわかっているし、ここにいるみんなにもわかっている。視聴者だってわかっているにちがいない。それでもはっきりききたいんだ、おれたちの新しいご主人さまの名前をいってくれ!」
ジントにもわかっていた。しかし信じたくない。「こんなのって、嘘だよね……」
ティルの表情の救いを探す。だが、彼はかたい無表情のまま口を閉ざしていた。
映像のほうでは進退きわまった報道官が、天を仰いで、「よろしい。おそらくみなさんの予想どおりです。ロック・リンがわたしたちの星系を領地とします」
つづいてあがった叫びは、まぎれもない憤激。
「そうなんだ、これが取引だよ」とティル。「ロックは自分が貴族さまに成りあがるために、おれたちのたったひとつの武器を侵略者どもに差しだしたんだ。あんなにアーヴどもが対宇宙防衛システムを恐れているとは知らなかったぜ。けっこういい勝負になったかもしれないのにな」
「でも、でも……」ジントは懸命に父の名誉を守ろうとした。「最初は選挙で選ぶつもりだったんでしょ。だったら……」
「わかるもんか!」ティルは奥歯を噛みしめ、「おれがあいつのアイデアをきいたのはすべてが終わったあとだ。防衛システムが無力化され、リン家が帝国貴族に連なることが決まったあとだよ。最初の条件がどうかなんて知らない。あいつめ、おれに前もって相談さえしなかった。たかが秘書官には用がなかったんだろうよ。できることといえば、子どもを安全な場所までつれてくることぐらいだってわけだ。親友だと思っていたのに!」
「あ……」ティルが怒っているもうひとつの理由がはっきりした。彼にたいする個人的な裏切りでもあると感じているのだ。
「みなさん、落ちついて!」ホロビジョンでは報道官が金切り声をあげていた。「冷静に考えれば、これがいちばんいい方法であることがおわかりでしょう。リン領主はわたくしたちの政府の要望に最大の考慮を払います。じっさい、帝国の命令に違背しないかぎり、民主的な星系政府の指示にしたがう意向です。生まれながらの帝国貴族には期待できないことじゃないですか。帝国の支配する星系のなかで最大の自由を、わたくしたちは満喫できるでしょう」
「たわごとだっ」
「信用できるかっ」
罵声のなかに質問が混じった。「それで、リン主席は、いや、領主はどこにいるんです?」
「そうだ、あいつはどこにいる?」
「ええと」いつもの仕事ぶりからは想像もできないことに、報道官は口ごもった。「ロック・リンは細目をつめるためと帝国首都で正式な叙爵を受けるために、アーヴ艦隊の旗艦にむかいました。フレンチ草原でアーヴの着陸艇に搭乗、現在はすでに艦上の人です」
「逃げたのか!」
「それで発表を遅らせたんだな」
「戻ってくるかな?」
「戻ってくるさ、護衛の帝国兵に囲まれてな」
「いいや、戻ってきたくてもこれないに決まってる。帝国がやつをすんなり貴族にすると思うか? へっ、やつもだまされているんだよ。いい気味だ」
「みなさん!」報道官は孤軍奮闘していた。「どうかご理解いただきたい、主席の選択はあくまで市民全員の幸福を願ってのことであり、けっして自分ひとりの利益をはかるためではないと……」
ジントは耐えきれずにホロビジョンのスイッチを切った。
「そういうわけだ」ティルはいった。「おまえは次期領主ってわけだ。おっと、こんな口のききかたをしてはいけないな。なにしろおれたちの王子さまだもんな。ご無礼の段はひらにお許しください、殿下。なにとぞご寛恕を」
冗談だと思いこもうとしたが、彼の表情にはユーモアの欠けらもない。
「そんなのってないよ、ティル……」ジントは泣きべそをかいた。「そんないいかたするなんて、ずるいよ……」
「わかってる」ティルは相変わらず視線を前にむけたまま、「おれはおまえにひどい仕打ちをしているな。けど、気持ちの整理がつかないんだ。ちくしょう、これでも喚かないよう努力しているんだぜ。けど、くそっ」
タクボックスはオムニTのネクサス・フロアに入った。主席官邸専用エレベーターはもうすぐだ。
「ねえ、ひとつだけ教えて……」
「なんだ?」ティルがこちらに目をむける。
「リナに逃げるようにいったとき……」その先は尋ねたくなかった。しかし、どうしても訊かなければならない。「取引のこともいった?」
「……。いや。一般市民には秘密だったからな」
一瞬のためらいが無慈悲に嘘をあばく。
「そう……」ジントは馴染み深い世界、愛していた世界がガラガラと崩壊する音をたしかに耳にした。
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1 |デルクトゥー宇宙港《ビドート・デルクトゥール》
地表発|昇降筒《ドブロリア》から足を一歩踏みだしたとたん、喧騒が耳に飛びこんできた。
ジントは立ちすくんで、待合広場を見まわす。
――ここ、こんなのだったっけな。
ジントは記憶を探った。|宇宙港《ビドート》に来るのは二度目だ。最初は七年前、惑星マーティン、アーヴふうに発音すれば惑星マルティーニュからこの惑星デルクトゥーに来たときだ。
だが、そのときの記憶はあやふやだ。
――|貨客船《レビサーズ》の客室係の背中について、たしかにここをとおったはずなんだけど……。
貨物共用の地表行き昇降筒を中心として、広大な円形の床のあちこちに港内連絡昇降筒が立っている。生まれ育った複合機能建築のネクサス・フロアを思いださせる光景。
ちがうのは、そこが果てない宴の空間だということだ。
卓子や椅子がいくつも置かれ、そのあいだを人や自走自販機が動きまわっている。むろん、席に着いている人もいて、とおりがかった自販機から買った食べ物や飲み物を楽しみ、さまざまな言語で談笑していた。
流れている背景音楽に負けじと案内放送が声を張りあげる。
【|エストート公国《レクリューニュ・エスタートル》へまいります|客船《レーヴ》〈レンガーフ・グローソ〉は十七時三十分に出港予定です。まだ搭乗手続きがお済みでないかたがたは、お急ぎのうえ、第十七|昇降筒《ドブロリア》へ……】
デルクトゥー人は時間のつぶしかたを知っている。それとも、|帝 国《フリューバル》の宇宙港はこれが標準なのだろうか。
後ろから来た乗客が迷惑そうにジントの横をすりぬけた。
自分が障害物になっていることに気づき、ジントも歩きだす。あとから|自走鞄《ダグボーシュ》がとことこついてきた。
ここの重力は惑星デルクトゥーの表面重力と同じ強さに保たれている。
地表発の昇降筒に乗っていた、一〇〇人ほどの乗客たちは喧騒に飲みこまれていき、ジントはたちまちひとりになった。もっとも、昇降筒のなかでも孤独だったにはちがいない。デルクトゥー人は総じて人なつこいのに、彼にだけはだれも話しかけようとしなかったのだ。
笑いながらしゃべっていた三人組がジントを目にして、さっと脇にのいた。ジントがとおると、緊張した雰囲気が流れる。
――まあ、こんな服装している人間と話したがるのは、よっぽどの変り者だけだよな。
下に着ている|つなぎ《ソルフ》はいい。じゅうぶんに現代的だ。
しかし、その上に着ている|長衣《ダウシュ》ときたら! まったくなぜこんな格好でねり歩かないといけないのか――不条理だ。
|長衣《ダウシュ》には袖がなく、肩の部分が逆三角形に張りだしている。腰の|飾帯《クタレーヴ》でとめられた長衣はひろがりながら、さらに足元まで達する。色は純白、裾や襟などは朱色の太い縁取りがほどこしてあった。
手首の|端末腕環《クリューノ》にはめこまれた|思考結晶《ダキューキル》は新興貴族の家格をあらわす緑色だ。
そして、頭には風雅な|頭環《アルファ》をいただく。ジントの身分に見合った造りになっている――そうだが、彼にはわからない。|帝国紋章院《ガール・スカス》が保証したのだから、たぶんつりあっているのだろう。
|帝国貴族《ルエ・スィーフ》の標準的な服装である。
|貴族《スィーフ》の姿をするのは今日が初めてだった。鏡で確認したところでは、予想していたよりは悪くない。典型的なアーヴにしてはちょっと肩幅が広すぎるのを気にしなければ、なんとか許容範囲ぎりぎりだろう。
しかし、帝国貴族が民間宇宙港にひとりでいることはそうめったにあることではないし、茶色い髪のせいでジントがアーヴでないことは一日瞭然だ。
【客船〈サーレフ・ニゼール〉から下船のみなさま、お疲れさまでした。そして、|ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》へようこそ! もっとも早い地表行き|昇降筒《ドブロリア》はあと三分で出発いたします。また、惑星ギュクサースへの|連絡船《パウリア》は……】
案内放送はかならずくりかえされた。最初はデルクトゥー語で、次にアーヴ語で。
客船〈サーレフ・ニゼール〉から降りたばかりらしい一団がいたが、昇降筒にすぐ乗る気はないようだった。惑星デルクトゥーでの最初の酒宴をこの静止衛星軌道上にある宇宙港で開くつもりのようだ。自販機から飲み物や食べ物を買って、卓子のうえにひろげている。
これから星系外に去っていく乗客たちも盛大に酒を酌み交わしていた。
酔いつぶれて船を逃す客が一日にどれくらい出るんだろうか、とジントは考えた。
無理もない。彼らのほとんどは移民で、たぶんこれが一生で一度っきりの宇宙旅行なのだ。
はめをはずしたくもなるだろう。
「へいっ! リン・ジントっ」
ジントは幻聴かと思った。マーティンとちがい、デルクトゥーでは姓のほうがさきにくるので、リン・ジントというのは紛れもなく彼の名前だ。
ジントはあまり期待しないで、声の主を探した。幻聴でなければ、ききちがいか、同姓同名にちがいない。
だが、四人掛けの円卓をひとりで占領している、大柄な青年の姿を認めると、思いがけない喜びで顔がほころんだ。
「クー・ドゥリン!」友人の名を呼んで、ジントはなかば走るように円卓に近寄り、「なにをしているんだい、こんなところで?」
「なにをしているか、だと? このトウヘンボクめ、おまえを見送りにきたに決まってんじゃないか」
「そうなのかい。ありがとう」
「それとも、|貴族《スィーフ》のおぼっちゃまは貧民のガキに見送られたって、迷惑かい」
ジントは笑った。「ありがとうっていったろ、このノータリン。きみはありがとうってことばの意味を知らないのか」
「発音が悪いんだよ、この偽移民が。とうとう最後まで訛りが抜けなかったな。まあ、坐れよ。待ちくたびれたぜ。十八時に出発じゃなかったのか。乗船しないうちにって早く来すぎちまった」
「連絡くれればよかったんだ。ちゃんと待ち合わせたのに」ジントは腰をおろし、期待をこめてあたりを見まわした。
「ああ」ドゥリンはバツの悪そうな顔をし、「見送りはおれひとりだ。ほかは来ない」
「そう……」落胆を隠そうとしたが、あまり成功しなかったらしい。
「おれもほんとは不安だったんだぜ。おまえに声をかけても、無視されるんじゃないかってな」
「なにをいっているんだ」ジントは穏やかに抗議した。「いっしょにミンチウをやった仲じゃないか。無視なんてしないさ」
「おまえほどへたくそな選手はいなかったぜ」そう応じてから、ドゥリンはきゅうに暗い表情をした。「みなを責めないでくれ。びっくりしたんだよ、おまえがアーヴの学校にかよっているのは知っていたが、まさかそんな身分だったなんて……」
「いいんだ」ジントは受けた。「ぼくのほうこそ、黙っていて悪かったかもしれない。けれど、|貴族《スィーフ》だっていったら、仲間に入れてくれたかい?」
「いいや」ドゥリンは首をふった。「そうは思えないな」
「だろう」
ミンチウというのはデルクトゥー社会でもっとも人気のある球技で、一〇人ずつの集団に分かれて競う。職業的なミンチウ団もあるし、地域や学校、企業にも同好会がある。
ジントは学校のミンチウ同好会でこの競技を覚えて、意外と才能があることを発見すると、地域の同好会に入会したのだ。
そこでクー・ドゥリンをはじめ何人もの友だちをつくった。
しかし、ジントはひとつだけ隠し事をしていた。平凡な移民の子どものふりをしたのだ。
ほんの三日前、惑星デルクトゥーを離れなければいけないこと、そして自分がじつは|帝国貴族《ルエ・スィーフ》であることを、ジントは仲間たちに打ち明けた。
そのときに漂った雰囲気は、まるでジントが殺人犯であることを告白したかのようだった。一生、忘れられないだろう。ジントはいたたまれず、その場を飛びだした。
「みんな、|貴族《スィーフ》とどうつきあえばいいのか、わからないんだ。なにしろ、貴族どころか|士族《リューク》だっておれたちは見たことないんだからな」
「わかるよ。ぼくだってどうふるまえばいいのかわからないんだ」
「そいつは深刻だな」ドゥリンはうなずき、「けどよ、その|貴族《スィーフ》の服はけっこう似合ってるぜ」
「心にもないことをいうなよ。こいつときたら」ジントは|長衣《ダウシュ》を指ではじいた。「歴史演劇の舞台衣装みたいだろ」
「おれはいい気分だぜ。なにしろ地上の貧民のガキが貴族さま、それも|諸侯《ヴォーダ》の若さまと差しむかいで話すなんて、めったにあることじゃない」ドゥリンは周囲を見まわし、「おお、目立ってる、目立ってる」
「よしてくれ」ジントはうんざりした。「ぼくがどう見えるかぐらいわかってるよ。アーヴには見えないだろ」
ドゥリンはそれにはこたえず、「で、これから故郷に帰るってわけか」
「え?」ジントは目をしばたたいた。そういえば、惑星デルクトゥーを去ることは告げたが、どこへ行くかは教えるのを忘れていた。「ちがうよ。ラクファカールにいくんだ」
「|帝都《アローシュ》か?」
「ああ。また留学だよ。こんどは|主計修技館《ケンルー・サゾイル》だ」
「なんだ、それ?」ドゥリンはきょとんとした。
「軍の事務官を養成する学校だよ」ジントは説明した。「|主計翔士《ロダイル・サゾイル》っていうんだけどね。二ヵ月前に|星界軍《ラブール》の|募集事務所《バンゾール・ルドロト》で試験を受けて、入学登録を受けつけてもらったんだよ」
「おまえ、軍人になるのか?」驚きもあらわに、友人は目を見開いた。
「うん」
「だって、おまえ、|領地《リビューヌ》があるんだろう。なんでわざわざ……」
「義務なんだよ。|爵位《スネー》を嗣ぐには、|貴族《スィーフ》の家に生まれただけじゃ駄目なんだ。最低一〇年間は、|翔士《ロダイル》として|星界軍《ラブール》に勤務しなきゃいけない。ぼくの父は歳がいっているから特例が認められたんだけど、ぼくは、そんなわけにはいかないんだそうだ」
「|貴族《スィーフ》ってのも、たいへんなんだな」
「ああ。|帝 国《フリューバル》では身分が高いほど、義務が要求されるみたいだね。ぼくはわりと気にいってるよ。逆よりはずっと理にかなってる。でも……、軍の|訓練生《ケーニュ》として三年、|翔士《ロダイル》として一〇年、合計一三年の軍隊生活だぜ。憂鬱だよ」
「でも、故郷には帰るんだろ」
「いつか帰るよ。なにしろ――ぼくの|領地《リビューヌ》だから」故郷を領地というのはみょうな気分だった。
「そうじゃなくて、いまってことだよ。長いこと、留守にしているんだろうが」ドゥリンは眉をひそめた。
「うん、まあね」七年のあいだ、ジントは惑星マルティーニュの土を踏んでいない。もはや、マーティン語がちゃんと話せるかどうかもおぼつかなかった。故郷とジントをつなぐものといえば、月に一度来る父からの便りぐらいだ。それによると、ティル・コリントは反帝運動の指導的存在になっているらしい。その妻、リナがどうしているのか、ジントはまったく知らなかった。
「でも、とても帰れる状態じゃないよ」ジントは首をふった。「あそこはもうぼくの故郷じゃないみたいだ。|ハイド伯爵家《ドリュージェ・ハイダル》の創設物語は英雄譚じゃなくて、犯罪劇なんだよ。マルティーニュの人たちは、みんな、ぼくと父を憎んでいる」
「そうか」ドゥリンの顔に深い同情が浮かんだ。移民の子孫だというのに、デルクトゥー人は愛郷心が強い。故郷から石もておわれることは、彼らのもっとも恐怖するところだ。「それでも、|領 主《ファピュート》になりたいのか」
「なりたくはないさ」心外に思い、唇を尖らせる。「何度も家督相続権を放棄しようと思ったよ。このまま、デルクトゥー市民になってしまおうかって。いまさらマルティーニュ市民に戻りたいっていっても、許してもらえないからね」
「どうしてそうしなかったんだよ?」
「父親に説得されたんだよ。つまり……」
かつてのハイド星系政府主席ロック・リン――現在のリン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵《ドリュー・ハイダル》・ローシュが息子にいいきかせたのは、つぎのような意見だった。
惑星マルティーニュは大きな資源をもっている。それは地球とは別個に進化した生態系だ。人類はさまざまな変異生物をつくりだしたが、人間の小手先で行なわれた遺伝子組み替えなど、自然が長い時間をかけて営んできた進化に比べれば、まったくみすぼらしい。新生|ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》はきわめて豊かな|邦国《アイス》なのだ。
しかし、他星系との交易があってのみ、生物資源は富となる。もしその交易を|帝国貴族《ルエ・スィーフ》に任せたらどうなるだろう? おいしいところはみなもっていかれるにちがいない。市民にはお余りしか渡らないではないか。
それゆえ、ハイド星系の市民が|領 主《ファピュート》となって、交易に関与しなければならない……。
「納得できるな」ドゥリンはいった。
「まあ、いちおうね。だから、ぼくもまだ|貴族《スィーフ》でいるんだけど。でも、近ごろ疑問に思えてきて……」
「なにが?」
「だって、ハイド星系市民であると同時にアーヴの|貴族《スィーフ》であるなんて、不可能だよ。もうぼくにはハイド星系の市民権はないんだ。まあ、父のあいだはだいじょうぶだよ、あの人にも市民権はないんだけど、自分はハイド星系のために働いているんだって思いこんでいる。ぼくもそうするつもりだ。でも、ぼくのつぎの代は? ぼくの息子か娘は遺伝子改造を受ける、青髪の麗しきアーヴの遺伝形質にね。そうしなきゃいけない決まりなんだ。文化的にもアーヴだろう。それでいて自由なハイド市民のつもりになれるってわけがあるかな?」
「おまえは堅苦しく考えすぎなんだよ」ドゥリンは呆れ顔で、「おまえを嫌っている連中のことなんて忘れっちまえ。ようするに家業なんだから、継ぐ、継がないは自分のことだけ考えて決めればいいんだ。おれなら、そんなでっかい商売、他人に渡すなんて、思いもよらねぇけど」
家業ね。なるほどそういう考えかたもあるか。ジントは救われた気分になった。ジントは一人息子だから、もし彼が次期|伯爵《ドリュー》にならなければ、伝統浅きリン家はさして伝統を積み重ねぬまま一代で消滅することになる。だが、それがどうした? だれが悲しむんだ?
「そうだね。まったくそのとおりだ」
「おれはいつだって正しいのさ」ドゥリンはふいに爪先を指差した。「見てみろよ。おれは、宇宙港にあがったのははじめてなんだ。ここからだと、おれたちの惑星もけっこうきれいだよな」
ジントは床面に惑星デルクトゥーの地表が映しだされているのに気づいた。ちょうど円卓の表面と同面積ほどの画面があって、雲の流れる惑星表面の映像を流しているのだ。地表と宇宙港をつなぐ|軌道塔《アルネージュ》が糸のように細くなり、恒星ヴォーラーシュの光を受けて白く輝く雲に吸いこまれている。
「うん。そうだね」真の故郷であるマルティーニュの地表を見おろしたことがないのに気づいて、ジントはすこしびっくりした。
「おまえ、ここに何年いたんだ? 五年くらいだっけ?」
「七年だよ」と顔を上げ、「ハイド星系侵略は|帝国暦《ルエコス》九四五年のことだから」
「侵略されてすぐに来たんだっけ?」
「そうだよ。わけもわからず、|往還艇《フラーシュ》に放りこまれてさ、軌道上で待機している|貨客船《レビサーズ》につれていかれたんだ。動物園にひかれていく動物の気持ちがよくわかったね」
「でも、付き添いはいたんだろう」とおりがかった自販機から|珈琲《スルグー》を買って、ドゥリンはひとつをジントに差しだした。「ほらよ、おごりだ」
「ありがと」
「いいって。|諸侯《ヴォーダ》の若さまにものをめぐんでやるってのは、気持ちいいなぁ」
ジントは微笑んで、「で、付き添いのことだけど、だれもいなかったよ。すくなくともマルティーニュからはね」
「ええっ。けどよ、それはあんまりじゃねぇか。おまえそのとき、一〇かそこらかだったんだろ」
「うん。一〇歳だった」
「一〇のガキを何十光年も離れた星系にやるのに、ひとりでいかせるなんて、どういう了見なんだ」
「ああ。だから、|貨客船《レビサーズ》の客室係がひとりぼくの専従になってくれた。たぶん、父から頼まれていたんだろうと思う。食事を船室に運んでくれたり、いろいろしてくれた」
「ふうん、そいつは豪勢だな」ドゥリンはちょっと羨ましそうな顔をして、「優雅な宇宙旅行ってわけだ」
「そんなんじゃない」当時のことを思いだし、顔をしかめる。「なにしろ会話ができないんだからね。故郷のことばのできる機械通訳なんて、当時はなかったから。彼女は古代英語をしこんだ機械通訳でなんとかしようとしたけれど……」
「ちょっと待てよ。古代英語ってなんだ?」
「故郷のことばは古代英語の子孫なんだよ。でも、古代英語なんて習っちゃいないし、いまのマルティーニュ語とはえらくかけはなれているんだ。ちんぷんかんぷんだよ」
「アーヴ語もどうぜんってわけか」デルクトゥー人がたいていそうであるように、ドゥリンはまったくアーヴ語を解しない。
「まあ、そういうわけ。それに、話をする気にはならなかった。船のうえじゃ、貝を決めこんでいたよ。船室から一歩も出ずにさ」
「その客室係、アーヴだったのか?」
「いや、|帝国国民《ルエ・レーフ》だったと思う。髪が黒かったから。どこかの|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の出身だったんだろうね。でも、あのときのぼくにゃ関係ない。侵略者の一味だよ」
「へへ、アーヴだったら、なついたかもしれないじゃないか」
「どうして?」
「だって、アーヴは男も女も|別嬪《べっぴん》ぞろいだっていうからさ。いくら子どもでも、きれいなお姉さんにはやさしくしようって気になるだろうが」
「冗談じゃない」いくらかむっとして、「いまじゃ、あの人に悪いことしたと思っているんだ。なにしろ、わざわざ下船して、入校の手続きまでしてくれたんだから。なのに、ぼくは彼女の名前も知らないんだ。名乗ったんだろうけど、アーヴ語だの古代英語だの、わけのわからないことばのなかに埋まってしまって」
「ふうん。まあ、いいじゃないか。どうせその客室係はおばさんになっているさ。地上人はアーヴとちがって歳をとるんだからな」
「きみときたらっ。そんなふうにしか考えられないのか。ぼくは純粋に人間としての感謝を……」
「まあまあ」ドゥリンはなだめるように、「どうせおれはいつも女をひっかけることしか考えていないさ」
「まったくだ」ジントは積極的に同意した。「きみは雑踏のなかでたまたますれちがった相手をだれかれかまわず、永遠の恋人と信じこむやつだよ。どんなちっぽけな関係でも、すぐこのうえなく親密なものにしようとするんだから」
「第一に、だれかれかまわずってわけじゃない。可愛い子でなくっちゃな。第二に、永遠の恋人だなんて思わないぜ。一晩のあいだだけ恋人でいてほしいんだ」
「はっ」ジントは手を打ち鳴らした。「いったい成功率はどのくらいだ?」
「おまえが考えているよりはずっと高いね」
「へえ。きみが女の子を連れているところを見たのは一回しかないよ。しかも、あとできいたところによると、そのときの連れはきみの妹だっていうじゃないか」
「じゃあ、おまえはおれの成功率をどのくらいだと思っているんだ」
「零だよ」
「見ろ。一回だって零回に比べれば無限大に大きいじゃないか」
「えっ」ジントは大げさにのけぞってみせ、「そんな趣味があったのか」
「よせやい。妹以外の女を落としたことがあるっていってるんだ」
「一回は、か?」
「もっとだよ!」ドゥリンはむきになった。「たまたまおまえと会わなかっただけだ」
「そうかい。じゃあ、いちおうそういうことにしておいてあげないでもない」
「おお、おまえにゃ、現実を直視するってことができないのか? 真実から目をそむけるっていうのか。おれがもてると、おまえはなにか困るのか?」ドゥリンはとつぜんなにかに気づいたように、「あっ、もしかしたら、おまえこそそんな趣味があったのか!」
「やめてくれよ」仕返しだとわかっていたので、ジントは軽く受けとめた。「ぼくは敬慶な異性愛主義者だよ。どんなに飢えていても、信仰はつらぬく。きみに求愛したりはしない」
「おれはいいんだぜ」ドゥリンはねっとりとした視線を送った。「好きなら好きと打ち明けてくれればよかったのに。おお、そうだ、まだ時間があるんだろう。この別離のひとときに愛をたしかめあおう……」
「こんな衆人環視のなかで?」
「愛さえあれば、人目など障害になるだろうか」
「意外としつこいな、きみも。ひょっとしてほんとうに異教徒なんじゃないか」
「とんでもない」ドゥリンは遊びをやめた。「おまえが敬慶な異性愛主義者なら、おれは狂信的異性愛原理主義過激派だ」
「知っているよ」ジントは珈琲の残りを飲み干し、紙杯を円卓中央の塵芥投入口に放りこんだ。
「ごちそうさま」
「たかが|珈琲《スルグー》一杯で礼をいうんじゃない、|貴族《スィーフ》の若さまともあろう者が」ドゥリンは憎まれ口をたたき、ちらりと右を一瞥すると、ジントの手の甲をつついた。
「なんだい?」
「見てみろよ」
ジントはドゥリンの目線のさきをたどる。
隣の円卓に坐る、褐色の肌をした中年女性と目があった。彼女はジントの茶色い髪と|貴族《スィーフ》の服装のとりあわせに無遠慮なほどあけすけな興味をいだいていた。
ほんとの|アーヴ貴族《バール・スィーフ》なら――とジントは考えた――こんなとき、どうするのだろう。無礼者っ、と怒鳴りつけるんだろうか。毅然として無視するのだろうか。あるいはなにもいわずに射殺してしまうのだろうか。
しかし、ジントがやったのは、迎合するような微笑を浮かべたことだった。
見てはいけないものを目にしてしまったかのように、中年女性はついっと視線をはずした。
ジントは溜息をついた。
「あのおばさん、おまえにお熱だぜ。羨ましいよなぁ。この年増殺し。まったくおまえの顔がおれについてりゃ……」
「そんなんじゃないよ。|帝国貴族《ルエ・スィーフ》の服装をした地上人なんて、|箸《グレー》を使う犬ぐらいめずらしいんだろうさ」
「だって、おまえさんはけっこういいせんいっているぜ。そりゃ、地上人にしては、だけどさ」
「まあね」ジントは謙虚に認めた。
「なあ、おれは立体映像でしか見たことないんだが、ほんとにアーヴってあんなにきれいなのか」ドゥリンは質問した。
「さあ」ジントは首をひねった。「ぼくだって、実物は見たことがないから」
「だって、おまえはアーヴの学校にかよってたんだろう」
「え?」ジントは友人が思いちがいをしていることに気づき、「そうか、学校の話なんかめったにしなかったもんなぁ。いいかい、ぼくのかよっていたアーヴ言語文化学院にはアーヴはいないんだ。|国民《レーフ》志願者を教育する施設で、教師にはもと国民が多い。創立者もいまの学院長も出戻り、つまりもと|帝国国民《ルエ・レーフ》の|ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》の|領民《ソ ス 》だ。べつに|帝 国《フリューバル》なり|ヴォーラーシュ伯爵家《ド リ ュ ー ジ ェ ・ ヴ ォ ー ラ ク》なりが関係しているわけじゃない。あくまでヴォーラーシュ領民政府教育省管轄の私立学校」
「そうなのか。おれはてっきり帝立だと思っていた」
「アーヴがわざわざ地上の学校に金を出すもんか」
「いわれてみれば、そうだな」ドゥリンは首をかしげ、「あれ? けどよ、そうならなんでデルクトゥーなんかに来たんだよ。いきなりアーヴの学校に行けばよかったんじゃないか。デルクトゥー語なんて覚えても、得になることないだろう」
「アーヴに初等学校はないんだ。天才でもなくアーヴ語もわからない子どもが高等教育機関に入ってもしかたないだろう」
「ええっ。それでアーヴはどうやって読み書きなんかを習うんだ?」
「親が教えるんだってさ」
学校で学んだ知識を、ジントは受け売りした。アーヴの社会は貴族制社会なので、|家風《ジェデール》というものを重視する。家風を継承させるためには、幼いころから親が手ずから教育を施すことが不可欠だ。人格がじゅうぶんに固まっていないうちに大半の時間を他人の指導のもとで過ごさせるなど、もってのほか――アーヴはそう考えるらしい。
子どもが幼いうちは、アーヴは教育に専念する。|領地《リビューヌ》を持っている|貴族《スィーフ》は|代官《トレール》を雇い、|士族《リューク》も職務を休んで、よりよき後継者をつくりあげることに努めるのだ。
親が忘れてしまったような知識を伝えるためには|機械教師《オノワレイレ》があるし、集団生活を体験するためには合宿旅行がある。
「その意味じゃ、ぼくはかなり歪んだ教育を受けたことになるね」ジントはいった。「ぼくの親は|ハイド伯爵《ドリュー・ハイダル》だけど、とてもアーヴふうの教育を施すなんてことはできないから、せめてアーヴ語と常識だけでも、身につけさせようっていうんで、いちばん手近な|帝国国民《ルエ・レーフ》希望者向け学校に放りこんだんだよ」
「それに七年もかかったのかい」ドゥリンはくすくす笑った。「おまえは頭がいいって思っていたけど、それほどでもないんだな」
「年齢相応の学力をつけなきゃいけないし、最初の半年ほどはデルクトゥー語を覚えるのに必死だったからね。なにしろ、あそこの生徒はたいていデルクトゥー人だから」
「そりゃそうだ。ヴォーラーシュなんて場末の|邦国《アイス》に留学するなんてやつは、よほど田舎のやつだけさ」
「そういうことはいっぺん故郷にきてからいってくれよ。デルクトゥーのいちばん立派な建物も、マルティーニュの複合機能建築にはかなわないよ」ジントは故郷を弁護した。
「この|軌道塔《アルネージュ》もかい?」憎らしいほど余裕たっぷりに、ドゥリンはいった。
痛いところをつかれた。最新の便りによると、反アーヴ感情のせいで、|帝 国《フリューバル》の有人惑星にならどこにでもある軌道塔は、まだ建設のめどさえ立っていないという。宇宙船に乗るには、いまだに危険で費用のかかる往還艇にたよっているありさまだ。もっとも、宇宙旅行志願者はほとんどいないそうだが。
「この塔はばかでかいだけじゃないか」ジントはそういいかえすのがやっとだった。
「まあな」ドゥリンは反駁せず、右肘を背もたれに預けた。「おい、あのおばさん、またおまえを見ているぜ」
「この髪のせいさ」うんざりして、ジントは茶色い髪をかきあげる。
アーヴの髪は青系統の色をしている。ひとことで青系統といっても、じっさいにはさまざま、濃淡はもちろんのこと、彼らが髪の色にふさわしいと考えるのは緑から紫まで幅があった。しかし茶色い髪はありえない。
「染めればよかったんだ。簡単だろ」
「うーん、考えないでもなかったんだけどね……」
「じゃあ、なぜ?」
「ひとつには、ほんもののアーヴであるかのような錯覚に陥るのが恐かったから。ぼくは法的にはアーヴだけれど、遺伝子は地上人だからね」
「ひとつってことは、まだあるんだな」ドゥリンは促した。
「うん、もうひとつは意地かな。なにかのまちがいで|帝国貴族《ルエ・スィーフ》になってしまったけれど、それを喜んでいるとは思われたくない」
「なるほどな」ドゥリンは円卓に身を乗りだして、いつになく生まじめな顔をした。「なあ、さっきの話のつづきだが、もしおまえが|貴族《スィーフ》をやめるんなら、力になってやってもいいぞ。これが最後の機会なんだろ」
「最後の機会じゃないんだ」ジントは否定した。「貴族籍からの離脱はいつでもできる」
「どうしていまじゃダメなんだ? 仕送りを止められるからか?」
「それもある」
「仕事ぐらいなら世話をしてやれるぜ」
「きみだって、まだ学生だろう」ジントは呆れた。
「学生にだって顔のきくところはあるんだ。苦学生に理解のある経営者を知っている。ぶっちゃけた話、おれの叔父貴だけどな。それにおまえは頭がいいから、政府から奨学金がもらえるかもしれねえ」
「いいんだ。ありがとう」ジントはいった。「ぼくはアーヴの世界を見てみたいんだ。ぼくらを侵略し、君臨しているやつらの暮らしぶりをね」
「まあ、それもいいかもしれねぇな」物好きなことだ、とでもいいたそうに、ドゥリンは頭をふった。
「それに」ジントはつづけた。「見送りにきてくれたのはきみひとりじゃないか」
「それは……」きゅうに友人の歯切れは悪くなる。
「ただのリン・ジントだったときはあんなに親しくつきあってくれていた連中が、姓と名前のあいだに省略された部分があるって知ったとたんに離れていった。ぼくの身分許称を許してくれたのはきみだけだ。ぼくは|領民《ソ ス 》として生きるなら、このデルクトゥーで暮らしたい。でも、それにはほとぼりを冷ます時間が必要なんだ」
「真の友だちを知るにはいい機会だったな」ふだんの彼に似合わず、ドゥリンは弱々しく微笑した。
「まったくだよ」ジントは感謝をこめて同意した。「戻ってきたら、そのときは世話になるかもしれない」
「ああ。まかしておけ」ドゥリンは胸を張った。「社会に出たら、おれは企業を興すつもりだ。帰ってきたおまえを平社員としてこき使ってやるぜ。ついでに『わが社はもと|帝国貴族《ルエ・スィーフ》を雇用しています』って宣伝に使ってやる」
「ありがたいね」
ドゥリンは天井にかかげられた巨大な時計に視線をやって、「おっと、もうこんな時間か。乗船しなくていいのか? なんて船に乗るんだ?」
「|帝 国《フリューバル》の|軍 艦《ウイクリュール》だよ」
「え?」
「|修技館《ケンルー》への入学生は、|帝 国《フリューバル》の艦艇に便乗する特権があるんだ。悩んだんだけどね、どうせ|翔士《ロダイル》になるのなら、まず|軍 艦《ウイクリュール》の雰囲気をみてもいいって思って、権利を行使することにした」
「けどよ、|軍 艦《ウイクリュール》がこの|宇宙港《ビドート》に入るのか?」
「さあ? ここにいれば、十八時に迎えにくることになっているんだ。こんな格好をしているのも」とジントは|長衣《ダウシュ》を指し、「このほうが見つけやすいからなんだ。星間航行種族にしては原始的な考えだよな」
「アーヴの軍人がここにくるのかよ?」
「うん、アーヴかどうか知らないけど、|星界軍《ラブール》の|軍士《ボスナル》が来るよ、もうすぐ」
「そうか。それじゃあ、おれはこれで退散したほうがいいな」
「えっ、どうしてだい」ジントは驚き、「ぼくが連行≠ウれるところは見物していかないのかい」
「遠慮しておく」ドゥリンは腰を上げた。「きっとあまりのみじめさに憐愍の涙があふれるだろうから」
ジントも立ちあがりながら、「よくいうよ、デルクトゥーでいちばん無慈悲な悪党のくせに」
「そんなに誉めるな。照れくさいじゃないか」ドゥリンは手を差しだした。
ジントはその手を両手で包んだ。
「おまえの正式な名前はなんていうんだっけ?」ドゥリンは訊いた。
「リン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》・ジントだよ、たしか」
「自分の名前なのに、『たしか』はないだろう」ドゥリンは目をむいた。
「なじんでないんだ。どうも他人の名前みたいでね」
「そうか。じゃあ、リン・中略・ジント。おれさまの名前、クー・ドゥリンをよおく憶えておけ。リン・なんとか・ジントにくらべれば、ずっと憶えやすいだろ」
「ああ。忘れるもんか。きみも『なんとか』の部分はいいから、リン・ジントの名を忘れないでくれ」
「まかしとけ、リン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》・ジント」ドゥリンは記憶力を自慢するようににやりと口元をゆがめた。
ジントは微笑みかえし、手を離した。
「じゃあな、がんばんな」
「きみも。いつ帰っても就職に困らないように、大きな企業をつくっていてくれよ」
「まかしとけって」ドゥリンはきびすを返した。
ジントはその後ろ姿が昇降筒の扉に消えるまで見送っていたが、彼は最後までふりかえらなかった。
椅子に坐りなおそうとして、例の中年女性が目に入った。彼女はもうジントのほうを見ていなかった。例の無遠慮な視線を反対のほうに注いでいる。
ジントはつられるように、目を彼女が見ているほうにむけた。
ぴっちりした黒い|つなぎ《ソルフ》に深紅の|腰帯《ウエーヴ》をしめる、すらりとした姿が視界に入った。ジントがあらわれたとき以上の緊張をふりまきながら、こちらへまっしぐらに歩いてくる。
黒と赤――|帝国星界軍《ルエ・ラブール》の|軍衣《セリーヌ》だ。
2 |翔士修技生《ベネー・ロダイル》
|帝国の法《ルエ・ラゼーム》はアーヴ≠フ定義を簡潔明瞭に述べている。すなわち、|皇 族《ファサンゼール》、|貴族《スィーフ》、|士族《リューク》の総称をアーヴ≠ニ呼ぶ。
この定義によれば、|伯爵家《ドリュージェ》の嫡子であるジントは文句のつけようもないアーヴだった。
しかしアーヴ≠ニいう単語はもうひとつの意味をもっていた。種族名としてのアーヴ≠ナある。
法律上でアーヴと認められる人間はたいていアーヴ種族の遺伝形質を備えているので、問題にはならない。
不幸な例外がジントというわけだった。
この差はなかなかに埋められるものではない。なにしろ、アーヴと地上人の相違は、人種や民族といった次元ではなく、生物種の次元にあるのだから。
ホモ・サピエンスとは明確に種を異とするものの、アーヴが地球人類の子孫であることはほぼたしかだ。突然変異ではなく、明確な計画のもとに生みだされた変異人類だろう、といわれている。
その証拠に、現在でも彼らは遺伝子とたわむれることをやめない。とくに、生まれる子どもの遺伝子調整は欠かさないという。二万七〇〇〇ヵ所もの塩基配列が指定されており、子どもの核酸分子に逸脱した部分があると、修正しなければならないのだ。
先天性の疾患を防ぐためと、種としての統一性を保つためといわれているが、もっとうがった見かたもある。
定型詩における詩句数や押韻のごときもの――つまり、芸術はあるていどの制約があったほうがより高度に洗練される、という主張にもとづいているというのだ。
そう、アーヴには、生まれるべきわが子の遺伝子をなにか芸術作品の素材と心得ている節がある。
必然性もなく、単なる美的見地からわが子の遺伝子を添削するのだ。
趣味は悪くない。美の概念は多くの|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》と共通し、いたずらに醜怪な趣味に走ることも――めったに――ない。
したがって、アーヴは腹立たしいほどに美形ぞろいだ。
やってくる|軍士《ボスナル》はまさにアーヴの遺伝子芸術の精華と見えた。
軍用の簡素な|頭環《アルファ》をいただいた、| 黝 《あおぐろ》い髪は長く、たなびくように流れている。淡い小麦色をした卵形の顔。印象的な眼のなかに黒瑪瑙のような瞳が坐り、こちらをまっすぐ見据えている。眉は細いがくっきりと優美な線を描き、小造りの鼻はあくまで繊麗。ふっくらした唇はかたく結ばれている。
深紅の|腰帯《ウエーヴ》は|翔士《ロダイル》のしるしだ。
さて、年齢は……。
アーヴの年齢を外観から推定するのは至難のわざとされていた。彼らは独特な歳のとりかたをするからだ。一五歳ぐらいまでは先祖と同じように加齢するが、それから二五年ほどかけて、約一〇歳ぶん外見に齢を重ねる。そのあとは死ぬまで老けない。アーヴは一五歳以前を|成長《ザーロス》、それから外見が固定するまでの期間を|成熟《フェロース》といって区別していた。
アーヴは不老だが、一部の地上人が信じているのとはちがって、不死ではない。再生する神経細胞は、人格や記憶に致命的な混乱をもたらす。そのため、先祖とおなじ神経細胞で我慢しているという。脳細胞が擦りきれてしまえば、アーヴでも死をまぬがれえない。
誇り高いアーヴは、知性が破壊される前に、呼吸をつかさどる領野が機能を停止するよう遺伝子を配列している。アーヴにも老衰死はあるのだ。しかしそれは、二〇〇年から二五〇年の人生の終わりにくる。
つまり、二〇代半ばに見えるアーヴは、四〇歳かもしれないし、二〇〇歳かもしれない。
だが、この|翔士《ロダイル》の場合、年齢を大きく見誤る心配は無用だった。ちょうど|成長《ザーロス》期のおわり、あるいは|成熟《フェロース》期のはじめにさしかかったあたり。ジントとほぼ同い年ぐらいだろう。
じつをいうと、ジントはまだこの翔士の姓別を決めかねていた。本能は少女だと告げたが、自信はない。
二〇〇歳を超えてなお、アーヴ男姓のなかには、妙齢の美女として通用する容姿の持ち主がざらにいる。ましてこの年齢では、美少女なのか美少年なのか、判断しかねた。
ジントが首をひねっているうちにも、翔士は近づいてくる。圧倒的な存在感で雑踏に道を開きながら。歩きかたは颯爽として優雅だった。頭がほとんどぶれない。彼女、あるいは彼は滑るように闊歩する。
ジントは、黒いアーヴの|軍衣《セリーヌ》の胸についている階級章に視線を走らせた。付け焼き刃ながら、階級章については知識がある。
辺を曲線でかたづくった逆二等辺三角形である。銀色の縁取りのなかで、やはり銀色の〈|八つの頸をもつ竜《ガ フ ト ノ ー シ ュ 》〉――|帝室《ルエジェ》の|紋章《アージュ》であると同時に|帝 国《フリューバル》の|国章《ニグラー》でもある幻獣が咆哮している。階級章の地は緋色。これは|飛翔科翔士《ロダイル・ガレール》であることを示していた。それ以外に星や線は入っていない。
――ということは、|翔士修技生《ベネー・ロダイル》か。
いちおう|翔士《ロダイル》の服装はしているが、まだ正式な翔士ではない。見習いだ。|翔士修技館《ケンルー・ロダイル》を卒業すると、この身分で半年間、|軍 艦《ウイクリュール》や|基地《ロニード》で実習することになっている。
同時に、階級章の部分がつつましやかにふくらんでいるのを見てとって、ジントはようやく、この|翔士修技生《ベネー・ロダイル》が少女だという確信をもつ。
迎えにきたことはわかっているのだから、こちらからも歩みよればいいものだが、ジントはなにか気圧されるものを感じて、立ちすくんでいた。
そのうちに、翔士修技生はすぐ目の前まできて、ぴたっと足を止めた。「リン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》・ジント|閣下《ローニュ》か?」
長ったらしい名前をよどみなく口にされ、ジントはたじろいだ。うなずくのがせいいっぱいだ。
彼女の右手が閃く。
ジントは身の危険を感じ、反射的に一歩、下がった。
が、翔士修技生が右手を動かしたのは人差し指と中指を|頭環《アルファ》に触れさせる、アーヴ式の敬礼をするためだった。
「|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉より迎えにきた。ついてまいられるがよい」
声の色はたしかに少女のものだったが、そのはりつめた調子はむしろ少年にふさわしかった。切れる寸前にまではった琴線を爪弾《つまび 》いたような、清冽な音色。
翔士修技生は敬礼を解くと、ジントがついてこようとこまいとおかまいなしといった感じで、背をむけてすたすた歩きはじめた。
ジントの胸に怒りがわいた。
多くを期待しているわけではない。|地上人《アイプ》ということばは辞書にはなんら差別的な意味が記されていないが、教科書の文脈からくみとったところでは、アーヴのひそかな軽蔑の対象になっているようだった。だから、多少のことは覚悟していた。どうせ特別扱いされることには慣れている。
けれども、人は生まれながらにして平等なのだ、侮蔑を卑屈に受けるような生活だけはしたくない。
きっとこの少女|翔士修技生《ベネー・ロダイル》は地上人出身の成り上がり|貴族《スィーフ》の嫡子を迎えにいく任務が気に入らないのだろう。いや、巡察艦のだれもが気に入らなくて、いちばん下の見習いに仕事を押しつけたわけだ。
そうに決まっている――ジントは思いこんだ。
是正しなくてはならない。人間関係ははじめが肝腎。惑星デルクトゥーでの経験から学んだ、ジントの信条である。
まず手始めは自分の名を名乗るという礼儀からだ。
「ねえ、きみ!」ジントは翔士修技生を呼びとめた。
「なんだ?」彼女はふりかえった。
「きみはぼくの名前を知っているんだよね」
「そなたはリン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》・ジント|閣下《ローニュ》ではないのか?」漆黒の瞳が不審の色を宿して見かえしてくる。
その表情を見ていると、ジントは確信が揺らぐのを覚えた。どうも馬鹿にしたり、見くだしているようすはない。
「うん、そのリン・中略・ジントであることにはちがいないけど、こっちはきみの名前を知らないんだよ。アーヴはどうか知らないけれど、ずいぶん落ちつかないものなんだ、これは」
彼女は驚いたように大きな眼をさらに見開いた。
名前を訊くのはアーヴのなかでは無礼な行為なんだろうか? ジントはちょっぴり不安を感じた。アーヴの文化を学んだとはいえ、それは学校でもと|国民《レーフ》から習ったのだ。不完全かもしれない。
が、次の反応はジントの予想を超えるものだった。
|修技生《ベ ネ ー 》は嬉しそうに顔をほころばせ、胸を反らした。黝い髪がはらりと波打ち、|接続纓《キセーグ》の先端の|機能水晶《コス・キセーガル》が風変わりな耳飾りのようにゆれる。「ラフィールと呼ぶがよい!」
たかが自分の名前をいうのに――ジントはいぶかしんだ――あんなに力まなくてもいいのに。まるで戦勝宣言をするみたいだ。
「そのかわり」ラフィールはつづけた。「わたしはそなたをジントとだけ呼びたい。よいか?」
そう問いかけるラフィールの顔を目にしたとたんに、ジントの胸のうちにあるわだかまりは、熱湯にいれた雪のように溶けさった。彼女の鮮麗な眉目に浮かぶのは、紛れもない懸念、はねつけられたらどうしようか、と恐れている表情だった。
「も、もちろん」ジントは熱烈にうなずき、「そうしてくれたらありがたいほどだよ」
「じゃあ、ジント」とラフィール。「行こう」
「ああ」今度はすなおにラフィールのあとについていく。
「ジント」ラフィールがいった。「わたしも訊きたいことがある」
「なに?」
「さっきわたしが敬礼したとき、後ろに下がったな。あれはなんだ?」
殴られると思った、とはまさかいえず、ジントはとっさにでっちあげた。「あれが故郷のあいさつの仕方なんだ。つい癖が出てしまった」
「ふうん」ラフィールはまったく疑っていないようすで、「変わってるんだな、そなたの故郷のあいさつは。まるで殴られるのを防いでるみたいだったぞ」
「どの文化でもなじみがないものが見たら、奇妙に思えるもんだよ」ジントは重々しく解説した。
「そうか」とうなずき、「わたしはアーヴに囲まれて育ったから、あまりよその文化を知らないんだ」
「だろうね」
「けれど、ジントもアーヴなんだから、|星たちの眷属《カルサール・グリューラク》のやりかたに慣れたほうがいいと思う」
ジントはひそかにうめいた。
|星たちの眷属《カルサール・グリューラク》――アーヴはときどきそう自称する。お気にいりの雅称らしい。
けれど――とジントは思う――核融合をするしか能のない気体の塊と親戚づきあいしているからって、それが誇るに足ることなのだろうか。だいいち、星々のほうでどう考えているか、だれかたしかめてみたことがあるのだろうか。
が、口に出してはこういっただけだった。
「いうは易し、だよ。しみこんだ育ちというのはなかなか抜けやしない」
「そうかもしれないな」
「これからたいへんだよ」と同情を誘うように溜息をついてみせる。
裏腹に気分は上々だった。アーヴとの最初の遭遇は恐れていたよりはるかにうまくいった。なんといっても、個人名で呼びあう間柄になったのだから。しかも、相手は同じぐらいの歳の少女である。これで心が浮き立つのを感じない男がいたら、精神が病に冒されている可能性を検討したほうがいい。
ふたりは肩を並べて、第二十六|昇降筒《ドブロリア》の扉の前に立った。
ラフィールが|端末腕環《クリューノ》を操作して、扉を開いた。
地表行きに約一〇〇人分の座席がしつらえてあるのにたいして、これは座席というものがなかった。内部もせまく、一〇人ほど立っているのがやっとだろう。
「ねえ」ジントは無難な話題を選んだ。「その|巡察艦《レスィー》、えっとなんていったっけ?」
「〈ゴースロス〉」
「そう、〈ゴースロス〉ってどの|艦隊《ビュール》に所属しているの?」
「|練習艦隊《ビュール・クレーヤル》に属している」
「じゃあ、きみみたいな|翔士修技生《ベネー・ロダイル》がいっぱい乗っているんだね」
「そなたは常識を知らないな」ラフィールは咎めるようにいった。
「そりゃそうだ、ぼくはことばを習うのでせいいっぱいだったんだから。軍関係のことはつめこみもいいところ」
「ああ、そうだった」ラフィールはわずかに顔を曇らせて、「許すがよいぞ」
ひょっとして謝っているつもりなのかな、とジントは首をかしげた。
二階ぶん上がって、|昇降台《フェレクコート》はとまった。
ジントはラフィールについておりる。
「|練習艦隊《ビュール・クレーヤル》にはたしかに|練習艦《クレーヤガ》が所属している」ラフィールは歩きながら説明した。「だけど、これは|訓練生《ケーニュ》が乗りこむもの。わたしのような|翔士修技生《ベネー・ロダイル》が乗ることはない。練習艦隊にはもうひとつ役目があるんだ。まだ正式に配属される前の新鋭艦が慣熟航行を行なうあいだ預かる。〈ゴースロス〉は三ヵ月前に就役したばかりで、いま、|艦長《サレール》以下が扱いかたを練習しているところだ」
「え?」きゅうに不安になった。
「心配することはないぞ」ラフィールはにこりともせず、「ことばのあやだ。わたしを除いて熟練した|船乗り《ソーク》ばかりで、最初の調整もすんでいる。そなたを乗せて分解したりはしない」
「もちろん、心配なんかしていないけど」ジントはまた嘘をついた。
その階には一般の乗降客の姿は見えなかった。制服を着た職員ばかり。昇降筒のすぐそばに壁がせまり、円環状の廊下といったおもむきがある。
昇降筒をまわりこむと、外部へむかう廊下があり、ふたりの|従士《サーシュ》が立哨していた。従士はアーヴではない。|星界軍《ラブール》の下士官である従士は|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の出身者から多く採られる。
従士たちは敬礼して、「|修技生《ベ ネ ー 》、規則ですので、|端末腕環《クリューノ》を改めさせていただきます」
ラフィールは|端末腕環《クリューノ》をはめた左手を差しのべた。
従士は|端末腕環《クリューノ》に長方形の器械をあて、表示を読みとった。「けっこうです、|修技生《ベ ネ ー 》。では、|閣下《ローニュ》も端末腕環をお願いします」
「あ、はい」ジントも左手を差しだす。
身元確認のあいだ、従士はジントの顔を一瞥した。おれと同じ地上の民なのに、どうしてこいつは|貴族《スィーフ》なんだろう、といぶかしんでいるようだった。
「けっこうです、|閣下《ローニュ》。では、どうぞおとおりください」従士は許可を出した。
「ご苦労であった」ラフィールはいって、ジントを促した。
ふたりが乗ると、廊下は動きだした。それほど長い距離ではない。
壁に『|帝国星界軍管理区画《ボレーヴ・ルエ・ラブーラル》』と書かれているのに目をやって、ジントは身ぶるいした。軍隊という概念が歴史書と辞書のなかにしかない世界から、彼はやってきた。いよいよその未知なるもの、過去の遺物と自分が本格的に関わるのだ、といまさらながら緊張する。
自動走路の終着点に扉があった。ふたりが近づくと、扉はなめらかに開いた。
扉のすぐむこうに宇宙船がうずくまっている。黒く塗られた船体はジントの視界をいっぱいにしめていた。
「これが|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉?」ジントは本気で尋ねた。
「まさか真剣にいってるのではないであろな」ラフィールの双眸が険しくなった。
「思いだしてくれ、ラフィール、ぼくは無知なんだ」ジントはあわてていう。
「ものには限度があるぞ」
「そういえば、ぼくがむかし乗った|貨客船《レビサーズ》はもうちょっと大きかったっけ」
「その船がどの級か知らないけれど、『もうちょっと』どころではなかったはずだぞ。これは〈ゴースロス〉搭載の|短艇《カリーク》だ、五〇人乗り級の。艦がちょくせつ入港できないときに|軍士《ボスナル》を運んだり、艦どうしの連絡に使う。今日の乗客はそなたひとりだけど」
「それは光栄だね」そこで、ふと疑問を感じた――それじゃ、操縦するのはだれなんだ? ラフィールなのか!?
宇宙船の|操舵士《セーディア》にたいする確固たる先入観がジントのなかにはあって、それには断じて同世代の女の子は含まれていない。
しかしそれをたしかめることは、せっかく良好に始まった関係ばかりではなく、ジントの肉体にも致命的な傷を与える結果になりそうだという、確信めいた予感があった。
「それで、どちらに乗る?」と訊かれた。
「どっちって? 一隻しかないみたいだけど……」
「副操舵士席が空いている。そこがよいか、それとも、後ろの居住区画がよいか?」
「美人の客室係がいるかな?」ジントは軽口をたたいた。
「美人の客室係はいないが」ラフィールは大まじめに、「麗しい|操舵士《セーディア》ならいる。どうする?」
どうやら『麗しい|操舵士《セーディア》』というのは彼女自身のようだった。
訊かなくてよかった――ジントは心のなかでつぶやいた――ほかに操舵士がいないのかなどと尋ねたら、ラフィールは確実に侮辱と受けとめただろう。
「もちろん、副操舵士席に」ジントはあきらめて、彼女に生命を預けることにした。
3 |愛の娘《フリューム・ネグ》
「ねえ、|空識覚《フロクラジュ》って、どんな感じがする?」ジントは副操舵士席からラフィールに尋ねてみた。
「どんなといわれても、こたえにくいな」ラフィールは|頭環《アルファ》の|接続纓《キセーグ》をのばして、座席の背もたれに接続しているところだった。
「それで、宇宙船のまわりのことはすべてわかるってほんと?」
「うん。こうすれば、船の感じることを感じることができる」膝黒の瞳に怪訝そうな色を湛え、「そんなに|空識覚《フロクラジュ》がめずらしいか?」
「そりゃ、めずらしいよ」ジントは肩をすくめた。「|空識覚《フロクラジュ》のある人間なんていままで会ったことないんだから」
|空識覚《フロクラジュ》はアーヴ独特の感覚だ。
|空識覚器官《フローシュ》というものがアーヴの額にある。ふだんは|頭環《アルファ》で隠されていて、地上人にとって実物はおろか、映像でさえめったに目にすることができないもので、ジントも見たことがない。
|頭環《アルファ》の、|空識覚器官《フローシュ》と接する部分には一億近くの発光素子が明滅して、空識覚器官を通じ、宇宙船の感知機器群の拾う情報を前頭葉の|航法野《リルビドー》に流しこむ。この航法野も、アーヴ以外の人類にはない領野だ。
船と接続していないとき、|頭環《アルファ》は個人用全周囲電波探知機となって、装着者の周囲の空間を探る。頭環はなにも家柄をあらわすだけのものではなく、生まれついてのアーヴにとっては必要不可欠な器具なのだ。
ジントはひとつの誤解に気づいた。
初めて顔をあわせたとき、彼がついてくるのをたしかめず、さっさと彼女ひとりで行こうとしているかに思えた。しかし、ラフィールはジントをちゃんと|空識覚《フロクラジュ》でとらえていたのだ。
「そうか……」ラフィールは首をかしげて、「でも、やっぱり説明はできないな。わたしには|空識覚《フロクラジュ》のない生活は想像できない」
「だろうね。で、いまは軌道計算しているの?」
「軌道計算?」ラフィールはきょとんとし、「いいや。してないぞ」
「じゃあ、数値を受けとるだけなんだ」アーヴの|航法野《リルビドー》を過大評価していたらしい、と軽く失望した。
「数値なんか受けとらない」
「それなら、どうやって軌道を割りだすんだ?」
「なんとなくだな。勘みたいなものだ」
「勘だって!?」
「うん」とこともなげにうなずいて、「そなたも、ものを投げるとき、勘で狙いをつけるであろ。それと同じ。無意識のうちに計算して、直観的に最適の軌道と噴射時間を割りだすんだ。なにか不思議か?」
「すごく不思議だよ。狙いがはずれることもあるだろう」
「子どもがたまにやることだ。安心するがよい」
「そう……」あまり安心できなかった。
ジントは|操舵室《シル・セデール》のなかを見まわした。
――宇宙船の操舵室というのはもっとごてごてしていると思っていたんだけど。
操舵室は球形だった。床だけが平面になっている。二席しつらえられた可変椅子の前には表示画面がひとつずつあるだけで、ジントが思い描いていたような操舵装置や計器はない。
つるんとした乳白色の壁だけだ。座席の後ろに|有翼竜《ロ ー ス 》を意匠とした、|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉の|艦 章 旗《グラー・モンガール》がかかげられていた。ラフィールが|軍衣《セリーヌ》の左上腕部につけているのと同じものだ。
操舵装置は座席に付属する。可変椅子は右にだけ肘掛があり、そこにいくつか|操作釦《ポーシュ》がついているのだ。もちろん、これだけで宇宙船の操縦という複雑な作業が可能なはずがない。
――これが|制御籠手《グーヘーク》か。
可変椅子の左側に掛けられた手袋のようなものを、ジントはしげしげと見つめた。それは肘まで覆うほどの長さがあり、|端末腕環《クリューノ》の操作・表示部にあたる部分は小さな窓があいていた。黒い合成皮革製だが、金属部品も多い。とりわけ指の部分は、金属がすっぽり覆いつくしていた。
アーヴはこれと音声入力で宇宙船を制御するという。肘掛の釦はあくまで補助的なものにすぎない。
惑星デルクトゥーのアーヴ言語文化学院で|制御籠手《グーヘーク》については習ったのだが、指の動きだけで宇宙船を操作するとは、ジントにはいまだに信じられない。
「あのさ」|制御籠手《グーヘーク》を装着したラフィールに、ジントは訊いた。「それをはめていて、ときどきふと左手でものをとったりしない?」
「船を翔ばしてるあいだは左手のことは忘れる」ラフィールはこたえた。
「でも、操縦の仕方としては不合理じゃないかな、指を動かすなんて」
「なぜだ?」ラフィールは首をかしげた。「もっといい方法があるのか」
「あると思うよ。地上人の操縦する星系内宇宙船はもっと……」まともな、といいかけて、ジントは慎重にことばを選んだほうがいいと判断した。「異なった思想にもとづいて設計された操縦装置がついている、ときいたよ」
「けれど、これのほうがすぐれてるぞ」|翔士修技生《ベネー・ロダイル》は左腕を指した。
「でもね」ジントはいいはった。「指の動かしかたを憶えるのはたいへんだろ。ときどき忘れたりしない?」
「そなたは歩くときに筋肉の動かしかたを考えるか?」
「いや」
「ふつうは歩いていることも意識しないであろ」
「まあ、そうだね」
「であろ。船を翔ばすときも同じだ。船をどうしたいかだけ考える。そうすれば、指がかってに動く。考えこめば、かえってどう動かしていいやら迷う。そういうものだ」
「なるほど。訓練のたまものだね」ジントは感心した。
「子どものころからやってるんだ。訓練というほどのものじゃない」
「そうなの」ジントは劣等感にさいなまれ、同時に『ほかに|操舵士《セーディア》はいないのか』と訊かなくて、ほんとによかった、と判断の正しさを喜んだ。
「出発してもよいか?」ラフィールは訊く。
「ああ、もちろん。いつでも」
画面が明るくなり、曲線の多いアーヴ文字が下から上へ流れはじめた。
「読めるの? こんなに速くて」ジントは自分の表示画面をのぞきこんでいった。とてつもない速さで画面を駆けぬけていく緑色の文字は、ちらちらするばかりでジントにはまったく読みとれない。かならずしも慣れのせいとはいえなかった。
「読めない」ラフィールは画面から視線をはずして、あっさり認めた。
「じゃあ」とジントは画面を指し、「これはなんのため?」
「|思考結晶《ダテューキル》が艇を点検してるんだ。変なところがあれば、赤く表示されてとまる」
「だって、それなら画面に出す必要はないじゃないか」
「そういう意見もある」ラフィールは認めた。「けれど、べつに表示したからといって、困ることもないであろ。このほうが雰囲気がある」
「それはそうだ」
やがて画面から緑の小さな文字の列が一掃されて、おおきく『|異状なし《ゴ ス ノ ー 》』と瞬《またた》く。
「ほら、これで終わりだ」
「簡単なんだね」
「うん。|思考結晶《ダキューキル》が仕事を肩代わりしてくれるおかげだ」
「でも、機械がまちがえていることだって……」
「人間だってまちがえる」安心させるようにラフィールはいった。
「なんという心強い発言だ」
「心配性だな、そなたは。すぐそこにいくだけだぞ。われらの機械がそんなに簡単に故障してたまるものか」
「まあね」ジントは慎重にいった。「でも、ここからそこまでって、どのくらい?」
「無意味な質問だな。あっちも動いてるんだぞ。高度差なら五セダージュぐらいだ」
アーヴは地球以来のCGS単位系を引き継いでいるが、なんでも母語になおさなければ気が済まないらしい。五セダージュはきっかり五〇〇〇キロメートルに相当する。
ここからそこまでは――つまり|宇宙港《ビドート》から巡察艦まではすくなくとも五〇〇〇キロメートルの真空が横たわっているのだ。
|星たちの眷属《カルサール・グリューラク》にとっては散歩道にもならないのだろうが、もうちょっと宇宙にたいして謙虚になっても、罰はあたらない、とジントは思う。
|修技生《ベ ネ ー 》が左手をくいっと動かすと、『|異状なし《ゴ ス ノ ー 》』の文字が消えて、宇宙港職員の上半身が画面に現れた。
「|管制《ブリューセ》」とラフィールは呼びかける。
「こちら惑星デルクトゥー第一宇宙港管制」と職員が応じた。
「こちら|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉搭載|短艇《カリーク》。|艇指揮《ポノワス》の|兵籍番号《フタリア・ボスナル》は〇一 - 〇〇 - 〇九三七六八四。第二軍用|埠頭《ベ ス 》、減圧願う」
「了解、〈ゴースロス〉搭載|短艇《カリーク》。ただいまから減圧する」
減圧されているとはいっても、|操舵室《シル・セデール》からは外部のようすはまるでわからない。
「ねえ、外のようすはわからないの?」ジントは尋ねた。表示画面に外部の映像を映しだしてもらうつもりだった。小型艇に乗るのは二度目だが、前回のことはろくに憶えていないから、初めての経験に等しい。不安も感じるが、好奇心も旺盛だった。
「見たいのか?」
「うん。ぼくには|空識覚《フロクラジュ》がないからね」
「そうか」いっしゅん、ラフィールの表情に同情の翳りがよぎる。「わかった」
画面と|艦 章 旗《グラー・モンガール》以外の壁が透きとおった。もちろん、ほんとうに透明になるわけがない。外部映像を処理して立体映像を出しているのだ。
減圧は期待外れもいいところだった。この区画はきれいに清掃されているらしく、埃が舞いあがるようなこともない。視覚からは空気が薄くなっていくのは、まったく実感できなかった。
一分ほどして、|管制《ブリューセ》が減圧の終了したことを告げる。
「第二軍用|埠頭《ベ ス 》、|閘門《ソヒュース》開放願う」ラフィールは要請した。
「了解、〈ゴースロス〉搭載|短艇《カリーク》」
こんどは見物《み もの》だった。正面で壁が左右に分かれていく。そのさきは星々の海。
「完全開放確認。出港許可願う」
「出港許可を与える、〈ゴースロス〉搭載|短艇《カリーク》。電磁射出を希望するか?」
「不要。低温噴射推進で出港する」答えてから、ジントにいたずらっぽく、「電磁射出などするとそなたは目を回しそうだからな」
きっとそうだろう、とジントは確信した。
「了解。〈ゴースロス〉搭載|短艇《カリーク》。無事なる帰艦を祈る。惑星デルクトゥー第一宇宙港管制、以上」
「感謝する。〈ゴースロス〉搭載|短艇《カリーク》、以上」
画面から|管制官《プリューセガ》の姿が消えると、ラフィールは左手の指を宙に踊らせた。振動があって、短艇が浮かびあがる。
天井に衝突するのではないか、とジントは気が気ではない。ラフィールが|空識覚《フロクラジュ》に集中して、目を閉じているのも、ぞっとする事実だった。
むろん、杞憂だった。
短艇は上方と同時に前方にも進み、絶妙の均衡で、天井にぶつかるすんぜん、星々の海に乗りだす。
身体が浮きあがるような感覚が生まれた。|軌道塔《アルネージュ》に施されていた|重力制御《ワ ム ロ ス 》の範囲を離れたのだ。
|座席帯《アピューフ》のおかげで、浮かびあがらずにすんだ。
操舵士席全体が四分の一回転する。足元に横倒しになった軌道塔が見える。正面は惑星デルクトゥーの地表。
「すごいな、きみは」ジントは心から賛嘆した。
「なにが?」
「すごく手慣れている」
「ばかにするな」ラフィールはむっとしたようすで、「アーヴなら、子どもでもこのぐらいの艇《ふね》は翔ばす」
「まあ、そうなんだろうけれども」また劣等感がぶりかえした。「でも、きみはずいぶん若いんだよね。女性に歳を訊くのは失礼だけど」
「子どもみたいなものだ、といいたいのか」アーヴの少女は剣呑な目つきをした。
「とんでもない」まったく、このお嬢さんの機嫌を損ねる以上に簡単なことが、はたしてこの宇宙に存在するのだろうか――ジントはひそかに溜息をつき、手をふった。「つまり、その、きみたちの年齢はわかりにくいから、たしかめたくて……」
「そうか」少女|修技生《ベ ネ ー 》はあっさり機嫌をなおし、「そなたの推測は正しいぞ。今年、一六になったばかり。ずいぶん若い」
――ということは、ぼくよりひとつ下か。
「でも、なにが失礼なんだ?」とラフィール。
「え?」
「女性に歳を訊くのは失礼だけどっていったであろ。どうして女性に歳を訊くのが失礼なんだ?」
ジントは眼をぱちくりさせた。いわれてみれば、どうしてなんだろう?
「たぶん、女性というのは若く見られたがるものなんだ。その、すくなくともデルクトゥーやマルティーニュの女性は」
「ふうん。どうしてであろ?」
「さあ、ぼくも女性の心理にそれほど通じているわけじゃないからね、地上人の女性に訊いてみてよ」まだじゅうぶんに納得していないようすのラフィールをみて、ジントは話題をかえようとした。「|翔士修技生《ベネー・ロダイル》はみんなきみみたいに若いの?」
「そんなことはない」ラフィールは得意げにこたえた。そうしていると、びっくりするほど幼い印象がある。「|修技館《ケンルー》の試験はそんなに難しくない。一八になって受からねば、まともな社会生活はあきらめたほうがいいぐらいのものだ。けれど、一三で入学登録を受けつけられるのは少ない。これはちょっと自慢であろ?」
「そうだね」ジントは子どもっぽい対抗心にとりつかれ、「ぼくにだって自慢はあるよ。なにしろ、外国語をふたつも習わなきゃいけなかったのに、一七で|主計修技館《ケンルー・サゾイル》に入ったんだからね」
「うん。すごいな」ラフィールはすなおに感心した。
いきなりピーッと音がする。
「なんだい!?」その音はジントの耳に警告音のように響いた。
「加速してもいい空域にでたんだ」ラフィールはこともなげに|制御籠手《グーヘーク》を動かした。
「ああ」ジントは照れくささを押しかくし、「どのくらい時間がかかるの?」
「これは重《ワ 》力制《ム》御機《リ》関《 ア》などと気のきいたものは積んでないからな、そなたがどのくらいの加速に耐えられるかによる」
「ぼくは地上育ちだぜ」ジントは自慢した。アーヴの|標準重力《デ モ ン》は惑星デルクトゥーの半分ほどだという。「きみに耐えられるんだったら、ぼくにも耐えられるよ」
「そうか。それなら、七分とかからない」
「へえ、わりと速いんだね」
「すぐそこだから」
「なるほど」早いうちに宇宙的感覚に慣れる必要があるのかもしれない。
座席が自動的に寝台のように伸びた。
姿勢制御で加速方向がめまぐるしく変化するので、ゆさぶられている気分になる。しかしそれはわずかな時間だった。
「行くぞ」ラフィールがいったとたん、ジントは座席の背もたれに押しつけられた。
「わっ、なんだい、これ!?」予想以上の加速で胸が潰れそうだ。
「|加速《カイムホス》[#底本「カイムコス」修正]だ」ラフィールは平然といった。「まさか加速を知らなかったというんじゃないだろうな」
「知ってる! 知ってるよっ。けど、こんな高加速なんて……」口をきくのもたいへんだ。血管が押しつぶされ、手足が痺れてくるのがわかる。一分ぐらいなら耐えられそうだが、七分はとても無理だ。「き、きみは平気なのか?」
「うん。先祖には重《ワ 》力制《ム》御機《リ》関《 ア》がなかったから、高加速でも無重力でも生活できるように身体を造った。その遺伝子をわたしも受け継いでいる。骨格と循環器系が鍵なんだ。つまり……」
こみいった説明をきいていられる気分ではない。「頼む、ラフィール、もうちょっと加速を緩めてくれっ」
「時間がかかるぞ」
「それで、なにかまずいことでも!?」
「べつに。艦の予定は余裕を見て組まれてるから。慣熟航行の場合はかならずそうしないといけない。なにがあるかわからないからな」
「それはよかった。頼むから……」
「うん。しょうがないな」
加速が停止した。
「航路を変更しないといけなくなった。加速はちょっと緩めるだけでよいのか?」
ジントは首を横にふった。
「いや、もうちょっと。すごしやすいていどに」
「ふうん」ラフィールの指が宙に踊る。
ふたたび加速が始まった。まだ惑星マーティンの重力よりきつかったが、耐えがたいほどではない。じっさい、歩きまわってもだいじょうぶだろう。
「これでどうだ?」
「うん、いいね」
「でも、かなり時間はかかる」
「しょうがないな」ジントは応じた。「けれど、ぼくは急いでいないから。これで加速はどのくらい」
「四|標準重力《デ モ ン》。地上人を乗せるときにはふつうの加速だ。もっと長旅なら、二標準重力まで落とす。|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の重力はどこもだいたいそのぐらいだから」
「警告してくれたらよかったのに。地上人にはきついぞって」ジントは恨みがましくいった。
「そなたはもっと我慢強いのかと思った」悪意のない調子でラフィールはいった。
「過大評価、ありがと」
「それに、そなたは地上人ではない、アーヴなんだぞ」
「困ったことに、どうもそんな気がしないんだ。ぼくは遺伝的には完全に地上人なんだから。わかっているんだろ」いくら法がアーヴと認めてくれても、遺伝形質が変わるはずもない。極端な話、魚を法的に鳥としたところで空を飛ぶはずがないだろう。
「遺伝子はともかく」ラフィールはいった。「気分だけはアーヴのつもりになったほうがいい、と思うぞ。|帝国貴族《ルエ・スィーフ》は高加速ぐらいでとりみだしたりしないものだ」
「ご忠告、胸にしみたよ」ジントはしおらしくいった。
自分は|帝国貴族《ルエ・スィーフ》にむいていないのだ、という予想はいまや強い確信に変化した。いまからでも引きかえしてもらって、ドゥリンに就職の斡旋を頼むべきだろうか。
だが、引きかえす、とはいいだしかねた。
やがて、無重力と姿勢制御の数秒間があって、短艇は減速に転じた。頭のうえに惑星デルクトゥーが白と青のまだらの球体となって浮かんでいる。
ジントは無限に落下するような錯覚に襲われた。
「ねえ」ジントは訊いた。「きみの身分はなんなの?」
「なぜそんなことを訊くんだ?」ラフィールは非難するように問いかえす。
「いや……」ジントはあわてた。彼が貴族身分をひけらかそうとしている、と誤解されたらしい。「なんでそんなに若いのに|星界軍《ラブール》に入ったのかって思って。ひょっとしたら、ぼくみたいに早いとこ義務を済ましてしまうつもりなのかなって思ったもんだから。訊いちゃいけないことだった?」
「そんなことはないけど、わたしはいいたくない。|勅任翔士《セドラリア》になるまで、|軍衣《セリーヌ》をまとっているあいだは家柄を示すものを身につけてはいけないんだ」
「|星界軍《ラブール》のなかじゃ身分は関係ないってこと?」
「そうだ。軍ではこれのみがものをいう」ラフィールは右袖の階級章を指した。
「わかったよ。けれど、ぼくは、きみがなぜ軍に入ったかを訊きたかっただけなんだ。義務だったのか、それとも好きで入ったのか」
「義務もある」ラフィールは認めた。
「ああ、やっぱり」|士族《リューク》には軍役が課せられない。彼らにとって|修技館《ケンルー》に入るのは義務ではなく権利だ。ラフィールは|貴族《スィーフ》の令嬢なんだと、ジントは確信した。「そうじゃないかって思っていたんだよ」
「なにが?」
「あっ、いや……」ジントは口を濁した。彼女は高貴な生まれではないかと推測していたのだが、その材料が第一印象――黙っていても偉そう、しゃべったらもっと偉そう――だったから、口にしないほうが賢明だった。
「でも、義務だけじゃないぞ」ありがたいことに、ラフィールは追及しなかった。
「じゃあ、なぜ?」
「早く一人前になりたかったんだ」
「ああ、なるほど」|翔士《ロダイル》に叙任されれば、年齢と関係なく成人と認められる。「けれど、そんなに急ぐこともなかったんじゃないか。子どもでいるのもけっこう気楽だよ」
ラフィールはすこし考えこんだが、やがて思いきったように、「そなたには出生の秘密はないのか?」と唐突に思える質問をした。
「出生の秘密?」ジントは面食らいながらこたえた。「いや、ないよ。母はぼくがちいさいころに死んだけど……」
「母上? そなたは父上の息子ではなかったのか。|ハイド伯爵公子《ローニュ・ドリュール・ハイダル》がそなたの親御であろ」
「ああ、父だよ。あっ、そうか……」ジントはアーヴの家族制度を思い出した。
アーヴは結婚をしない。
愛しあう者どうしがいっしょに住むことはアーヴ社会にも見られる。結婚と呼びうるほど長くつづく場合もあるし、ごく稀に『死がふたりを分かつまで』つづくこともある。
だが、それは制度ではなく、あくまでひとつの生活形態にすぎない。
狂おしいほどに激しく燃えさかり、跡形もなく燃えつきる――これが典型的なアーヴの愛の形らしい。
永遠の青春のなかで生きるアーヴに、ともに老いていくことを前提とした結婚制度は、受けつけがたいのだろう。
したがって、親はひとりしかいないのが当たり前で、『両親』という概念はない。
当然のことながら、親は男性であったり、女性であったりする。ここから|父 の 娘《フリューム・ローラン》≠竍=b母の息子《フルーク・サーラン》≠ニいったことばが特別な意味合いを帯びてくる。それぞれ『男性を親とする女性』、『女性を親とする男性』の意味だ。
「結婚という制度についてきいたことがあるだろう?」ジントはいった。
「うん、あるぞ。ああ、うっかりしていた。そなたは地上育ちだったな」
「そうだよ。ぼくは結婚から生まれた子どもだよ。父の息子であると同時に、母の息子でもある」
「そうなのか」ラフィールは首をかしげて、「親がふたりいるというのは、どんなものなんだ? 母が亡くなったとき、悲しかったか?」
「そりゃあ」単刀直入な質問に驚きながらジントは想い出を探った。浮かんできたのは立体映像でしか見たことのない母ではなく、リナ・コリントの顔だった。「悲しかったよ」
「許すがよい。つまらぬことを尋ねたな」ラフィールは目を伏せた。
「いや、いいんだ。ちっちゃいころのことだから、ほんとはあんまりよく憶えていないんだよ」
「けれど」ラフィールは羨むように、「それでは出生の秘密などありようがないな」
「えっ、どうして?」
「|遺伝子提供者《ラ ル リ ー ヌ》が両方とも家庭にいるのでは、出生の秘密などあるはずないじゃないか」
「それはちがうよ」ジントはラフィールの思いちがいをどう正そうかと悩んだ。「ほかの|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》じゃどうか知らないけど、マルティーニュやデルクトゥーでは望んでもいないのに親になってしまうことがあるんだ。昔は親になりたくても親になれないこともあったっていうよ。そんなとき、出生の秘密ができるんだ。まあ、ほかにもいろいろ事情があるけどね」
「どういうことだ?」ラフィールは戸惑いを見せた。
「まあ、いつか自分で調べてみてよ。すごく複雑なんだ。それより、出生の秘密がどうしたんだい。きみが軍に入ったこととなんの関係があるの?」
「わたしには出生の秘密があったんだ。自分が|愛 の 娘《フリューム・ネグ》なのかどうかわからなかった。これは不安であろ」
「|愛 の 娘《フリューム・ネグ》って……」なにか宗教的な概念だろうか。アーヴは無宗教のはずだが。「それ、なに?」
「知らないのか」ラフィールは驚いたようだ。
「うーん、ぼくの受けた教育ってかなり欠けた部分があるみたいなんだよ……」ジントは弁解じみた説明をはじめた。
アーヴ言語文化学院といいながら、そこの授業は語学中心で、文化については|帝国国民《ルエ・レーフ》がどうふるまうべきか、つまり行儀作法のたぐいをちょっとやるていど。アーヴの文化の本質的な部分は講義されなかった。
教師に質問したり、書籍にあたってみたりもしたが、はっきりしたことはわからなかった。政治組織や法律といった、公式文書によって流布されるものはいいが、アーヴの日常に密着した情報はかえって錯綜している。どれを信じていいのやら、ジントにはさっぱり判断がつかなかった。
半分はアーヴにも責任がある。アーヴは自分たちの文化を隠しているわけではないのだろうが、説明することにははなはだ不熱心なのだ。
けっきょく、教師たちは一時的にアーヴと働いたことがあるというだけの人間だから、アーヴの生活を外から眺めたにすぎない。書籍にしても、もと|国民《レーフ》が著したもの。なかにはそれを情報源として、一度もデルクトゥーを離れたことのない著者が、無責任な憶測を並べた際物めいたものさえあった。
アーヴが自分たちについて地上人に語ることはめったにないのである。
「――というわけでね、きみたちの家族のありかただって、よくわからないことがあるんだ。アーヴは結婚しないっていうのは有名だけど、じゃあ、どうやって子どもをつくるのか、とか」ジントはきわどい話題に触れてしまったのではないか、と恐れてラフィールの表情をうかがった。
しかしラフィールは気にしていないようだった。「そうなのか。ジントはぜんぜん知らないのか、われらの生まれかたを」
「うん、その……」ジントは赤面しながらことばを探した。まいったな、こいつは『赤ちゃんはどこから来るの?』という質問じゃないか。とっくに卒業していたつもりだったのに。よりによって年下の少女にするはめになるとは。「きみたちが人間の身体で受胎しないことは知っているんだけどね……」
「することもあるぞ」
「そう? でも、|遺伝子検査《ヤナルムコス》は?」
「いったん受精卵を出す。たいていは人工子宮に移すが、たまに風変わりな体験をしたくて、自分の子宮に戻す女性もいる」
「なるほど」ひとつアーヴの秘められた真実を知ったわけだ。アーヴの女性には子宮がない、という根強い噂がデルクトゥーにはあった。
「けれど、|人工子宮《ヤ ー ニ ュ 》で受胎するのがふつうだな、たしかに」
「そう」ジントは肩をすくめ、「これでアーヴのつもりになれったって、無理だってわかってもらえるだろ。きみたちは種族全体が出生の秘密をもっているようなもんだよ。そりゃ調べたけどね、むちゃくちゃな記述が多くて。自分の分枝体を子どもにするとか、まったく他人の遺伝子を混ぜ合わせるとか、同性の遺伝子と自分の遺伝子を結合させるとか、それも相手は親戚の人間だとか。まったくどうしたらこんなことを思いつけるかって……」
「全部、やるぞ」ラフィールが口をはさんだ。
「え?」ジントのあごが落ちる。
「自分の遺伝子をそのまま、そうでなければちょっと手を加えて、子どもをつくることもあるし、他人の遺伝子をもらいうけることもある。ひとそれぞれの自由というものであろ」
「そうなの?」ジントは混乱した。「でも、きみたちは家柄を重視するんだろ。いまの話じゃ、血縁を無視しているみたいにきこえるけど」
「家で大事なのは、|家風《ジェデール》の継承であろ。遺伝子の継承じゃないぞ」
「でも……」
「子の遺伝子を彫琢して育てる。それで親になるんだ」
「うーん、そうか」ジントはしばらく考えてから納得した。遺伝子改造を日常的に行なうアーヴが血脈を軽視するのは、無理からぬことかもしれない。
「けれど、いちばんふつうの子どものつくりかたは、愛する人間の遺伝子と自分の遺伝子を接合させることだ」
「それをきいてほっとしたよ」ジントは感想を口にする。
「もちろん、その相手が同性だったり、近親だったり、複数だったりすることはある。このことを知ると、|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》出身者はなぜか動揺するときいた」ラフィールはジントの顔に物問いたげな視線を投げかけた。
「それはほんとうだ」ジントはうけあった。「ぼくはいまとても動揺している」
「みょうな話だな、遺伝子工学はわれらの専有ではあるまいに」
「ほかはどうか知らないけど」ジントは控えめにいった。「ぼくの知っている|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》じゃ、ヒトの遺伝子をいじるのはあまりいい趣味とは思われていないみたいだな」
「そうらしいな」ラフィールはふいに怒ったような眼でジントを睨んだ。「いっておくけど、わたしだって平静じゃないんだぞ。よく考えたら、こんなの、密室でふたりでする会話じゃないじゃないか」
「ごめんよ」アーヴでもやはりそう感じるのか。ジントは努めて冷静さを保とうとした。
「とにかく、『そなたの遺伝子がほしい』というのは、もっとも真剣な愛の告白のひとつなんだ」どこかうっとりした口調だった。
「ふうん」結婚しないアーヴにとって、求婚のようなものだろう。
「この告白のもとで生まれた子どもが……」
「わかった」ジントはさえぎった。「|愛 の 娘《フリューム・ネグ》≠セね」
「うん。男なら|愛の息子《フルーク・ネグ》と呼ばれるけれど」
気まずく、それでいて興味深い時間は終わったらしい。ジントは緊張を解いた。
「でも、それなら訊いてみればいいじゃないか、きみの親御さんに」そこではっとした。「ひょっとして、きみの親御さん……」
「うん?」深い漆黒の瞳がこちらをむいた。「ああ、わたしの父は存命だ。あと二〇〇年はぴんぴんしているであろ、あの調子では。そなたの想像したのはそういうことか?」
「うん、まあね」気のまわしすぎだったようだ。「じゃあ、どうして訊いてみないんだい?」
「わたしがそれを考えつかなかったと思うか?」
「いや……」
「父は教えてくれなかった」ラフィールは憤った。「出生の秘密があったほうが、子どもの人格は豊かになる、とつまらぬ考えに憑かれてたんだ!」
「調べられなかったの?」
「成人になれば、自分の遺伝記録はだれ憚ることなく閲覧できる。けれど、それまでは親の許可が必要なんだ」
「ははあ」ようやく納得できた。つまり、早く成人して自分の遺伝子がどこに由来するのか知りたい、というのが彼女の望みだったのだろう。
「だいたい隠した理由だって怪しい。わたしをからかうために出生の秘密をつくったんじゃないか、と思う」
「どうして?」
「忘れもしない、子どものころ、わたしは|愛 の 娘《フリューム・ネグ》なんだといってほしくて、|遺伝子提供者《ラ ル リ ー ヌ》を教えてくれといつもせがんでた。なかなか教えてくれなかったけれど、ようやく遺伝子提供者をつれてくることを承知した。それでどうしたと思う?」
「つれてこなかったのかい」
「いや、もっと悪質なことだ。わたしをだましたんだ。ホーリアを抱いてきて、こういったんだ、そなたの半身の源にあいさつするがよいって!」
「ホーリアってだれ?」
「うちで飼ってる猫だ!」いまいましげにラフィールは吐き捨てた。
ジントは思わず吹きだした。
「まさか、信じやしなかっただろう、ラフィール」
「不可能じゃないんだぞ」ラフィールは恨めしそうにジントの笑顔を見た。
「そ、そう」大きくて、| 眦 《まなじり》の高いラフィールの目の輪郭は、猫の目に似ていなくもない。
「そんなことまでするの、きみたちは?」
「法では禁じられている。不道徳だからな」
「きみたちと共通する倫理観が発見できて、うれしいな」
「そなたもアーヴなんだぞ」
「ああ、そうだった」ジントは逆らわなかった。「でも、それなら嘘だってわかりそうなもんじゃないか」
「わたしは八歳だったんだ。法律にうとくてあたりまえであろ」
「それもそうだな」
「わたしは一晩泣いたぞ。ホーリアはいい猫だけど、わたしの半分が由来するとなると、我慢できない」
「わかるよ。……なんとなくだけど」
「なにより我慢できないのは、猫と子どもをつくるような変質者が父だったということだ!」ラフィールは右手をぶんぶんふりまわした。
いいようのない不安を感じて、ジントは|翔士修技生《ベネー・ロダイル》の左手を見た。|制御籠手《グーヘーク》をはめた左手は、凝着剤で固めたようにぴくりとも動かない。
ほっと安心した。
「ホーリアはうちに来たときまだ子猫で、しかもわたしはそれを憶えてた。一晩泣いて、やっとそのことに気づいたんだ」
「めでたし、めでたしじゃないか」
「めでたくはないっ。しばらくは、ほかの猫の子どもなんだ、と思いこんだんだぞ。手のひらに肉玉ができるんじゃないか、爪が出し入れできるようになるんじゃないか、虹彩の形が変わるようになるんじゃないか、と気が気じゃなかった。眩しい思いをして、鏡を見つめていたときほど、緊張感をはらんだ時間は、いまだにわたしの人生にない」
「でも、いまじゃ、疑いは晴れたんだろ」
「うん」ラフィールはうなずいた。「でも、あの不安な日々のことは忘れないぞ。わたしが早く|翔士《ロダイル》になりたいのも、あの父のもとを離れたいからだ」
「お父さんが嫌いなの?」初対面の人間にここまで立ち入ることを、アーヴの礼儀は許すのだろうか――そう恐れながらもジントは尋ねずにはいられない。
「嫌いじゃない」美しい顔をしかめて、「認めたくないが、愛してるし、誇りに思ってる。ただあの人のそばにいると、ときどきいらだたしくなるんだ」
ジントは父――|ハイド伯爵《ドリュー・ハイダル》の顔を思い浮かべた。この七年間、たまにもたらされる便りでしか見なかった顔。その七年間の彼方には裏切られたという思いがわだかまっている。愛情を感じているとはいいがたかった。憎んでいるわけでもない。そう、なんの感情もわかないのだ。あるいは心の奥深い部分が感情をいだくことすら拒んでいるのかもしれない。
「まあ、どの家庭にもいろいろ事情があるもんだね」ジントは論評した。「それで、さっきから過去形でいっているけれど、もう教えてもらったの?」
「うん」一転して、幸せそうに、「わたしがよく知ってる人で、憧れてる女性だった。わたしは|愛 の 娘《フリューム・ネグ》だったんだ」
「よかったね」心の底から、ジントはいった。
4 |巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉
「ジント、下を見てみるがよい」とつぜん、ラフィールがいった。
無重力と姿勢制御の数秒間があって、かなりすぎている。
ミンチウにかんするおしゃべり――遺憾なことに、ラフィールはあまり興味がないようだった――を中断して、寝台形態の座席のうえで首をめぐらせ、床をのぞきこんだ。
瞬かぬ星々のなかに、構造物が浮かんでいた。輪郭はひしゃげた六角形。円形の口がいくつも開いている。ちょっと傾いでいるおかげで、塔のようなものを底から、あるいは頂から見おろしているのだとわかった。
「あれが|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉?」ジントは尋ねた。
「そうだ。この|短艇《カリーク》よりはいささか大きいであろ?」ラフィールは皮肉っぽくいった。
「まあね」とジントはこたえたが、じつをいうと、いまひとつ大きさを把握できない。ひどく巨大にも思えるし、つぎの瞬間には短艇よりも小さいように――そんなはずはないが――見えてしまう。
ジントが見つめるうち、巡察艦〈ゴースロス〉はぐんぐん大きさを増していった。
減速がやみ、艇内が無重力になった。どうじに座席が寝台形態からふつうの状態に戻る。
やがて、すれちがった。
相対速度はごく遅い。
ゆっくりと巨大な塔がせりあがってくる。
ジントは目線を足元から壁、そして天井へ移していった。
さっきまで見おろしていた部分ははるか高みになり、ジントは墜落しているような錯覚に陥った。緩慢な墜落。羽毛が飛び降り自殺をしたら、最期に見る光景はこんなものだろうか。
塔はまだ尽きない。
「いや、ほんとにすごいな」ジントは嘆声をもらした。これが戦うために建造されたことを考えると、存在感はさらに圧倒的になる。
目前の船体は、破壊するために造られた武器であることを強烈に主張していた。それまでジントが見たことのある武器といえば、惑星デルクトゥーの警官が腰に提げている|麻酔銃《リブアスィア》ぐらいのものだった。比較するのもばかばかしい。質のちがうなにかだった。
「なにをいってるんだ、いまさら」ラフィールは馬鹿にしたようにいった。
「だって遠くからじゃわからないよ、宇宙じゃ。きみたちには|空識覚《フロクラジュ》があるからいいだろうけど」そこでジントはラフィールの表情に気づき、軽く笑った。「頼むから、その同情に満ちた眼差しはやめてくれないかなあ。|空識覚《フロクラジュ》がなくても、いままでぜんぜん気にならなかったし、これからも強く正しく生きていくつもりなんだから」
「そうだったな」ラフィールはあわてて口をそらした。「特別にゆっくり観賞する機会をそなたに与えよう」
「そりゃありがたい」
やがて、|帝国国章《ルエ・ニグラー》が通り過ぎた。階級章とおなじ意匠だが、縁取りと〈|八頸竜《ガフトノーシュ》〉は金色、地は黒。もちろん大きさでは比較にならない。巡察艦に掲げられている国章のうえではミンチウの競技ができそうだった。
ようやく艦首が来た。
ラフィールの左手がうごめくと、艇は横滑りした。
ジントの頭上を巨艦の先端が振り子のようにぶれていく。
反対側に出た。
巡察艦が落下してくる。轟音がきこえてきそうな光景だ。
「〈ゴースロス〉は|帝 国《フリューバル》の最新鋭艦だ」ラフィールは解説した。「全長が一二・八二ウェスダージュある」
「そんなもんなの」意外と小さい。
「|戦列艦《アレーク》や|輸送艦《イサーズ》に比べれば小さい。そなたの乗った船でも、これよりは大きかったはずだぞ。けれど、これほどの戦闘力をもつ艦は|帝 国《フリューバル》はもとより、おそらく人類宇宙にもほかにない」
「だろうね」すなおに納得できた。
短艇は角度をかえて、何度か巡察艦のまわりをめぐった。
「もういいであろ」ラフィールはいった。
「ああ、じゅうぶんだよ」
ラフィールが左手の指を動かすと、男性|翔士《ロダイル》の上半身が星空のなかに浮かびあがった。「こちら|短艇《カリーク》一号。|艇指揮《ポノワス》の|兵籍番号《フタリア・ボスナル》〇一 - 〇〇 - 〇九三七六八四。|任務番号《フタリア・スロフォト》〇五二二 - 〇一。収容願います」
「了解」翔士が応答した。「外部制御準備。遊びもほどほどにしておけよ、|艇指揮《ポノワス》。本艦の外装に気になるものでも見つけたのか?」
「|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》に本艇と|巡察艦《レスィー》とのちがいを見ていただいたのです」ラフィールがジントを意味ありげに見やりながらこたえた。
「どういうことだ? まあ、いい、|情報連結《ロンジョス・リラグ》を行なえ」
「了解」ラフィールはくいっと指を動かし、ジントに、「ほんとは|思考結晶《ダキューキル》なんかに頼りたくないんだけど、軍の規定でしかたないんだ」
「|星界軍《ラブール》は|修技生《ベ ネ ー 》に艦損壊の機会を与えるほどまぬけではない」ジントがこたえる前に、巡察艦の|翔士《ロダイル》が割りこんだ。「連結確認」
「こちらも確認。通信終了、願います」
「通信終了」
画面から翔士の姿が消え、かわりに数字や文字、図表が乱舞しはじめた。
「これで、わたしにはもうすることがない」ちょっと不満そうに、ラフィールはいった。
「ありがとう」ジントは礼をいった。
「任務だからな」
「ねえ、任務っていえば……」ジントは訊いた。「|短艇《カリーク》を動かす必要のないときはなにをしているの? 暇でしょうがないんじゃない」
「なにをいってる」ラフィールは唇を尖らせた。「|修技生《ベ ネ ー 》というのは見習いなんだぞ」
「それは知っているけれど?」
|飛翔科《ガーリア》の|翔士《ロダイル》がやる仕事はなんでもやらされる。もちろん、見習いなりの仕事だけど。あれやこれやでけっこう忙しい」
「そうなの」
「そなたも|修技生《ベ ネ ー 》になったらたいへんだぞ」
「でも、ぼくは|主計科《サゾイル》だし……」
「|主計科《サゾイル》だって忙しいときいた。食料や備品の点検で日がくれるそうだ」
「なんて華々しい仕事だ」ジントはうなる。
真正面に巡察艦の外壁が迫る。ぽっかりと穴が開いていた。
姿勢制御による微妙な重力変動。
気分が悪くなる。
穴が真後ろにきた――と思うまもなく、|操舵室《シル・セデール》全体が四分の一回転して、穴は真下になる。
短艇は巡察艦の人工重力に引かれて、ふわりとおりていった。
最後の瞬間、下部姿勢制御噴射口が一噴かしして、やわらかく艇体を|離着甲板《ゴリアーヴ》に着艦させる。
天井で|船艙《ホール》の|閘門《ソヒュース》が閉じ、照明がついた。
「与圧を開始する」さっきの|翔士《ロダイル》がまた画面にあらわれて、そう告げた。
「与圧完了まで待機します」ラフィールはこたえる。
四方八方から白い霧が吹きつけられた。霧の流れはぶつかりあい、複雑な渦を描く。
やがて、霧は靄となり、晴れていった。
「与圧完了。しばらくその場で待機」翔士は指示した。
「了解しました」
「待機って?」なにかまずいことでもあったのか、とジントはラフィールの顔色をうかがう。
「いつも待たされるわけ?」
「いや、きょうは特別だ」
「じゃあ、なんで……」
「|舷門歓迎式《パトムサイホス》に準備が要るから」ラフィールは|制御籠手《グーヘーク》をはずし、|頭環《アルファ》の|接続纓《キセーグ》を戻しながらいった。
「パトムサイホス?」そのことばには聞き憶えがあった。たしか要人を艦に迎えるにあたって執りおこなう儀式のはずだ。「だれのため?」
「ほんとにわからないで訊いているのなら、そなたの洞察力は藍藻植物なみだぞ」とラフィール。
「いや、ごめん」もちろんジントのためだ。それはわかっている。が、自分がそれほどの重要人物だとは知らなかった。「でも、あれは|千翔長《シュワス》以上にたいする儀式だろ」
「|閣下《ローニュ》の|称号《トライガ》をもつ者にたいして行なう儀式だ。そなたも|閣下《ローニュ》であろ」
「いわれてみればそうだっけ。ほんとにわざわざぼくなんかのために?」
「そなたは|諸候《ヴォーダ》の一員なんだぞ、ジント。|帝 国《フリューバル》では諸侯の身分はちょっとしたものだ」
アーヴの人口は二五〇〇万人ほど。ほとんどが|士族《リューク》で、|貴族《スィーフ》は二〇万人ばかりである。このうち有人惑星を領内にもつものをとくに|諸侯《ヴォーダ》と呼び、これは一六〇〇家ばかり、家族を含めても二万人にもならない。
さらに|国民《レーフ》約一〇億人、|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》で|帝 国《フリューバル》の支配を受ける|領民《ソ ス 》の数、およそ九〇〇〇億人という数字を考えれば、いかに|諸侯《ヴォーダ》がめずらしい存在か実感できるだろう。
たしかに|ハイド伯爵家《ドリュージェ・ハイダル》は稀少な集団に属しているのだ。たとえ創設の物語が芳しからぬものであったにしても。
「でも、ぼくは昔から式典とか儀式とか苦手で……」
「式典というほどたいそうなものじゃない」ラフィールはうけあった。「|艦長《サレール》が自己紹介して、艦の高級|翔士《ロダイル》に紹介する。ただそれだけのこと」
「きみにとっては、『ただそれだけ』かもしれないけど……」
左後ろで扉が開いた。|自動機械《オヌホーキア》が赤い絨毯を敷き、その背後から六人の翔士があらわれる。
先頭の女性翔士は、眉と肩で切りそろえた青鈍《あおにび》色の髪に|片翼頭環《アルファ・クラブラル》をいただいている。|与圧兜《サプート》をかぶるときに邪魔にならぬよう、髪を抑える形にのびた翼は、|艦長称号《サレラジュ》の持ち主であることを示す。そして、腰にはじっさいにその職を勤めることを証す|飾帯《クタレーヴ》をしめ、|指揮杖《グリュー》を帯びている。
「|舷門歓迎式《パトムサイホス》準備完了」音声通信が入った。「|ハイド伯爵公子閣下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール・ハイダル》にご乗艦願え」
「了解」ラフィールはいって、ジントを促すように見た。
「わかったよ」ジントは|座席帯《アピューフ》をはずし、立ちあがった。「きみもいっしょに来るんだろ」
ラフィールは呆れたように首をふり、「わたしが行ってどうする?」
「そう」ジントは失望して、「あの、あとで会えるかな」
「居住区は限られてるから、会うこともあるだろう」
ジントのほしい答えとはちがっていたが、とりあえずはそれで満足するしかない。「じゃあね、ありがとう、ここまで送ってくれて」
「わたしも楽しかったぞ」
「うれしいな」
|舷門歓迎式《パトムサイホス》に参列した六人の|翔士《ロダイル》のうち、むかって右側から四人は|飛翔科《ガーリア》を表わす緋色の階級章をつけていた。四人のいちばん左に|艦長《サレール》が立ち、その左は|軍匠科《スケーフ》の緑、もっとも左は|主計科《サゾイル》の白である。
――こんなとき、どうすればいいんだろう?
ラフィールに尋ねておかなかったことを、ジントは後悔した。あいにくと、デルクトゥーのアーヴ言語文化学院では|舷門歓迎式《パトムサイホス》に|諸侯《ヴォーダ》はいかに対応すべきか、という講義は行なわれなかった。
とりあえず、背筋をのばしてしゃんと立つことからはじめた。
ぽつんと離れて立っていた|従士《サーシュ》が|号笛《メ ー 》を吹く。
六人の翔士が一斉に敬礼した。
ジントは反射的に敬礼を返そうとする右手を押さえ、アーヴの一般的な礼法に則って、ぎこちなく踵をそろえ、背をのばして頭を下げた。
「ご来艦を光栄に存じます、|閣下《ローニュ》」艦長がいった。彼女の虹彩は蕩《とろ》かした黄金を湛えたようで、瞳孔だけがぽつんと黒い。「|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉|艦長《サレール》、レクシュ|百翔長《ボモワス》です」
――なんだ、アーヴも初対面のときには名乗るのがふつうなんじゃないか。
ジントはもういちど、頭を下げ、「リン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》・ジントです。|帝都《アローシュ》までの道中、よろしくお願いいたします、|艦長《サレール》」
なんとかもっともらしいことがいえて、ジントは満足だった。とくに自分の名前をまちがわずにすんだことが。
「お任せください。よろしければわたしの部下たちを紹介したいのですが?」
百翔長は五人の部下をジントに引き合わせた。
レクシュがラフィールとどことなく似かよっているので、アーヴは美しいぶん個性に欠けた容貌をしているのかと思ったが、そんなことはなかった。ほかの|翔士《ロダイル》たちは美しいなりに個性的な顔立ちをしている。
最初は|監 督《ビュヌケール》――|軍 艦《ウイクリュール》の|主機関《オプセー》をはじめとする機器類の整備点検の総責任者は、ギュムリュア|軍匠十翔長《ローワス・スケム》。黒檀のような肌とは対照的に、彼女の眼と髪は明るい紺碧。
次は|書記《ウイグ》――|監 督《ビュヌケール》が機械の面倒を見る責任者なら、彼は人間の面倒を見る責任者だ。名前はディーシュ|主計十翔長《ローワス・サゾイル》。赤みがかった瞳に穏やかな色を浮かべていた。
|副長《ルーセ》兼|先任航法士《アルム・リルビガ》はレーリア|十翔長《ローワス》。水色の口髭を蓄えた男性で、彫りの深い顔立ち。にこやかで親しみやすい印象がある。
|先任砲術士《アルム・トラーキア》はサリューシュ|前衛翔士《レ ク レ ー 》。アーヴのなかでも由緒ある姓をもつ彼は、剃刀のように鋭い目つきをしている。
そして、最後に|先任通信士《アルム・ドロキア》のユーンセリュア|前衛翔士《レ ク レ ー 》。彼女は原色の青としか表現しようのない色の髪をもち、挙措にしっとりとした落ちつきを感じさせた。
全員がアーヴで、二〇代半ばぐらいに見える。つまり年齢の見当はさっぱりつかない。
「ただちに出航します」紹介がすむと、レクシュはいった。「|艦橋《ガホール》にきていただければさらに光栄に存じますが?」
「ええ、喜んで」ジントはこたえて、後ろの短艇をちらりとふりかえった。ラフィールはまだ出てこない。
「お荷物は、あとで|従士《サーシュ》にお部屋へ運ばせましょう」視線の意味を誤解したらしく、レクシュはそういった。
「え、ええ、お願いします」
「では、こちらへ」レクシュは身振りで道を示した。
惑星デルクトゥーでなら、レクシュは絶世の美女と評価されることだろう。金色の瞳は奇妙ではあったが、彼女の魅力をそこなうことなく、むしろ引き立てていた。
ジントは女性に慣れていないわけではない――デルクトゥーでそれなりに対応の仕方を学んでいた。
だが、年上の美女というのはなんとなく苦手だ。その美女が軍艦の指揮官とあってはなおのこと。
どうも|艦長《サレール》の隣という立ち位置が無言のうちに用意されているらしいので、ジントは肩を並べて歩いたが、じつに落ちつかない気分だった。
それ以上に落ちつかないのは、高級|翔士《ロダイル》たち五人がお供のようにぞろぞろついてくることだった。
ジントの馴染んだものの半分ほどのアーヴの|標準重力《デ モ ン》――にもかかわらず、彼の足取りはともすれば、鈍りがちだった。
艦橋は半円形だった。壁がわずかに上へむかって湾曲していることを考えると、球体の内部なのかもしれない。
床は二段になっており、外側は一段低くなっている。
「|ハイド伯爵公子閣下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール・ハイダル》および|艦長《サレール》!」艦橋付|警衛従士《サーシュ・レートフェク》の報知とともに、ジントは艦長について中央の高い半円に入った。
九人の翔士が起立し、敬礼でジントと艦長を迎えた。
「どうぞこちらへ」レクシュ|百翔長《ボモワス》は臨時に設けられたとおぼしい座席をすすめた。
「感謝します」ジントはうなずき、席に着いた。
艦長がつづいて着席すると、翔士たちも坐る。四人の高級翔士たちも艦橋に入って部署に納まった。一二人は艦長をとりかこむように|制御卓《ク ロ ウ 》にむかい、あとのふたり――ギュムリュア|監 督《ビュヌケール》とディーシュ|書記《ウイグ》は艦長に背を向け、前方にある席に着いた。
「艦外映像を出して」レクシュの命令とともに、壁が星空になった。
|艦長《サレール》をはじめ、|翔士《ロダイル》たちは|頭環《アルファ》の|接続纓《キセーグ》をつないでいるから、これは|空識覚《フロクラジュ》のないジントへの心遣いだろう。
「出航準備」|百翔長《ボモワス》の声が鞭のように空気を引き裂いた。
ジントは悠然と翔士たちの仕事ぶりを高覧する気分にはなれず、椅子のうえで身をちぢこませた。まちがった場所に入りこんでしまった悪戯小僧のような気がする。
「全機関、異状なし」ギュムリュア|軍匠十翔長《ローワス・スケム》が報告する。
「艦内環境、異状なし」とディーシュ|主計十翔長《ローワス・サゾイル》。
「操舵準備完了」サリューシュ|前衛翔士《レ ク レ ー 》は|制御籠手《グーヘーク》をはめた。
「|ヴォーラーシュ伯国管制《ブリューセ・ドリューヒュン・ヴォーラク》の〈|門《ソード》〉通過許可を得ました。許可時間は艦内時間で十五時二十七分十二秒から十八秒」とユーンセリュア前衛翔士が報告した。
「出航準備完了です」レーリア|副長《ルーセ》がしめくくりの報告を行なった。
「けっこう」艦長はうなずき、「六|標準重力《デ モ ン》で加速、|ヴォーラーシュ門《ソード・ヴォーラク》にむかう」
「一七 - 六二 - 五五に回頭します」サリューシュ前衛翔士が受ける。
「承認」レクシュは短くこたえた。
人工重力のおかげで姿勢制御による揺れはまったく感じなかった。だが、星空が大きくふれ、巨艦が鼻面を動かしたことをあらわした。
ジントが背もたれから首をさしのべると、ちっぽけな惑星デルクトゥーが見えた。
「姿勢制御完了」
「|抜錨《ダイセーレ》!」
|艦長《サレール》の命令とともに巡察艦はかすかに振動した。|対消滅機関《フリセースィア》に水が流れこむ。水には反陽子の流れが打ちこまれる。出会った物質と反物質は貪欲に互いを喰いあい、あとにエネルギーを残す。反物質に出会いそこなった物質はそのエネルギーを受けて、虚空へ飛び立ち、反動で巨艦を蹴りつける。その振動だ。
「ご退屈でしょうか?」気遣わしげにレクシュが話しかけてきた。
「とんでもないです」ジントは嘘偽りなくこたえた。
「初めての経験で、とても興味深いですよ」
「なにかご質問がありますか?」
「ええ」ジントはちょっと考え、無難な質問をひねりだした。「あのサリューシュ|前衛翔士《レ ク レ ー 》はたしか|先任砲術士《アルム・トラーキア》と紹介されたように思ったのですが、操舵も担当されているようですね。|砲術士《トラーキア》は操舵もするのですか?」
「はい。|通常宇宙《ダ ー ズ》での操舵は|砲術士《トラーキア》の仕事です。|巡察艦《レスィー》の場合、戦闘と操舵は密接に結びついているものですから」
「なるほど。あのもうひとつあるのですが……」
「なんでしょう?」
「|書記《ウイグ》というのは艦の事務をとるものと思っていましたが、|艦橋《ガホール》でも任務があるようですね」
「そのとおりです。重力制御が正常か、艦内の与圧が保たれているか、といったことに責任をもちます。もっとも、|艦橋《ガホール》にいるのは出入港と戦闘のときぐらいで、あとはだいたい書記室で業務を行ないます」
「その書記室での業務というのは……」
「ああ、|閣下《ローニュ》の将来のことでもありますし、興味はひとしおでしょうね。ディーシュにちょくせつお訊きになったほうがいいでしょうが……」
レクシュといささかぎこちない会話をつづけるうち、この|翔士《ロダイル》が親切な女性であることをジントは発見した。
垣根はある。|艦長《サレール》はけっして鄭重な態度を崩そうとしないし、ジントもぞんざいな口をきく勇気はない。
しかしレクシュ|百翔長《ボモワス》は真摯であり、ジントの質問にもできるかぎりこたえようとしていることが伝わってきた。ときどき子ども扱いされているようだったが、それも気にならない。ジントはたしかに社会経験に乏しいのだから。
やがて、レーリア|十翔長《ローワス》の報告があがる。「〈|門《ソード》〉通過、三分前」
「お話の途中ですが」とひとこと艦長は断って、「|時空泡《フラサス》発生」と命じた。
「|時空泡発生機関《フ ラ サ テ ィ ア》、異状なし」とギュムリュア|軍匠十翔長《ローワス・スケム》。
「|時空泡《フラサス》発生確認」
前方いっぱいに|ヴォーラーシュ門《ソード・ヴォーラク》が映っている。ユアノンの第二形態だ。アーヴは、〈レイフ・エリクスン〉の推進機関に納められていたような第一形態ユアノンを〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉と呼び、燐光を放つ直径一セダージュばかりの球状特異空間となった第二形態ユアノンを〈|開いた門《ソード・グラーカ》〉、あるいはただ〈|門《ソード》〉とのみ呼んでいる。
「〈|門《ソード》〉通過、一分前」
「三十秒前より秒読み開始せよ」|艦長《サレール》が命令をくだした。
「了解」
秒読みが始まるころには、前方の星空はすべて〈|門《ソード》〉がまとう仄かな光に覆い尽くされていた。
「……、五、四、三、二、一、通過」
〈|門《ソード》〉を通過してもとくに衝撃があるわけではない。しかし外部映像の風景は変した。もはや燐光はない。星空もない。ただ灰色の空が広がるのみ。
超光速航行の秘密は|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》という、|通常宇宙《ダ ー ズ》とはべつの物理法則が支配する宇宙にあった。その名のとおり、二次元の空間と一次元の時間で成り立つ宇宙である。アーヴの恒星間宇宙船は|時空泡《フラサス》につつまれて異質な宇宙を渡る。時空泡はきりとられた通常宇宙であり、ちょうど四次元時空のなかに縮小化された六次元連続体が存在するように、平面宇宙のなかでも存在を許されるのだ。
いま、巡察艦〈ゴースロス〉は独立した宇宙にいる。この宇宙に属するのは巡察艦自体をのぞけば、わずかな浮遊原子のみ。
このしゅんかん、|通常宇宙《ダ ー ズ》がいかなる災厄に見舞われようとも、知ることはできないんだ――ジントは身震いした。
「位置確認」|艦長《サレール》は命令して、ジントをふりかえった。「わたしたちには自分の現在位置がわからないということはご存じですか?」
「どういうことです?」
「|通常宇宙《ダ ー ズ》から|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》に転移した場合」レクシュ|百翔長《ボモワス》は初歩の|平面宇宙航法理論《ソトフェール・ファーゾト》を講義しはじめた。「逆の場合も同じですが、われわれはその位置を確率論的にのみ、知ることができます。確率論的、といういいまわしはご存じですね?」
「でたらめ、ということばの高級語彙でしょう」ちょっと得意気にいった。
「それに近いです」艦長はうなずき、「〈|門《ソード》〉の内側と外側は、つまり|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》側と|通常宇宙《ダ ー ズ》側ということですが、それぞれ対応しています。しかし正確な位置はわかりません。〈門〉は平面宇宙側では不完全な螺旋状曲線を描いていることが多いのですが、その曲線のどの部分に出るかはわからないのです」
「位置確認終了」そのとき、|先任航法士《アルム・リルビガ》が報告した。「右岸、終端より一一七・九二」
床面に平面映像があらわれた。歪んだ螺旋の形の〈|門《ソード》〉の内側に青く光る点があった。巡察艦〈ゴースロス〉の現在位置だ。
「二八〇度で完全|移動状態《ノークタフ》」艦長は命令をくだすと、ジントに、「移動状態と|停止状態《スコールタフ》のことはご存じですか?」
「ええ。そのぐらいは」ジントはいった。いくら|主計科《サゾイル》でも、そのていどの知識は入学登録に必要だった。もっとも、精細な数学的記述となるとお手上げだったが。
もし|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》に観察者が存在するなら、|時空泡《フラサス》は一個の粒子のように見えるはずだ。少しずつ質量を失う素粒子である。この素粒子はふたつの状態をとることができる。|移動状態《ノークタフ》と|停止状態《スコールタフ》である。
わかりやすく考えるなら、床のうえで回転する球を考えるといい。回転軸を床にたいして垂直にすれば、その球はその場にとどまるだろう。平行にすれば転がっていく。回転軸が垂直になっているときが|停止状態《スコールタフ》であり、平行の場合が|移動状態《ノークタフ》である。回転軸が斜めの場合には対応する状態がない。
|移動状態《ノークタフ》にあるとき、回転軸の方向は自由に定めることができる。また、ふたつの状態は瞬時に切り換えることができ、それによって速度の調節ができる。
忘れてはならないのは、停まっていようと転がっていようと、つねに回転している――すなわち一定のエネルギーを消費している、ということである。
「ここからさきの操舵は、|航法士《リルビガ》の仕事なのですよ」レクシュはささやき、レーリアに指示した。「目的地、|スファグノーフ門《ソード・スファグノム》。航路算定せよ」
ほとんど即座に歪んだ螺旋の近くを横切る青い破線があらわれた。
レーリアは|艦長《サレール》を仰ぎ見て、「算定完了」
「承認」レクシュ|百翔長《ボモワス》はうなずいて、「あとは任せるわ、レーリア。航路に乗せて」
「了解、|艦長《サレール》。任せてください」
現在位置を示す青い輝点は、螺旋の内側から開けた領域に這いでようとしていた。
螺旋の線上に緑の輝点が現れ、動きはじめた。べつの緑の輝点が青い輝点とすれちがって、螺旋にむかう。
|ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》にむかう船だ。
そのうち、青い輝点は破線に達し、それをなぞりはじめた。
「航路に乗りました、|艦長《サレール》」とレーリア。
「けっこう。総員直態勢、解除。第一直態勢に移行せよ」|百翔長《ボモワス》はそういいながら、|接続纓《キセーグ》を収納した。
艦橋につめていた|翔士《ロダイル》たちも立ちあがる。坐ったままでいるのはたった三人だ。
退室前の敬礼をする彼らへ答礼するために、レクシュ百翔長も立った。
ジントはそのあいだ、どんな態度をとればいいのかわからず、椅子のうえでもじもじするばかりだった。
「|閣下《ローニュ》」艦長は坐りなおしていった。「あとはいかに初めてのご体験でも退屈せずにはいられないでしょう。当直の|翔士《ロダイル》たちが陰気にだまりこくって、担当する装置類に異状がないかどうか監視するだけなのですから。お部屋に案内させましょう」
「いえ、|艦長《サレール》」ジントは思いきって、「よろしければ、すこしお話をさせていただきたいのですが」
「喜んで、|閣下《ローニュ》。わたしも直があけるまで退屈するばかりですから。しかし、なにについてですか?」
「|ハイド伯爵家《ドリュージェ・ハイダル》の由来はご存じですよね」
「ええ。ちょっとした話題でしたから、|伯 国《ドリュヒューニュ》の征服は」
彼女の口調からすると、『征服』とか『侵略』ということばは悪い意味合いを含んでいないようだった。すくなくともアーヴがするかぎりは。
「それならおわかりでしょうが、ぼくには|貴族《スィーフ》のふるまいかたがよくわかりません」
「そうなのですか?」意外そうにいう。
「ええ。戸惑うばかりで。そういったことは習っていないんです」
「ですが、|ヴォーラーシュ伯爵家《ド リ ュ ー ジ ェ ・ ヴ ォ ー ラ ク》とはご交際がなかったのですか?」
「ええ」ヴォーラーシュ伯爵家は、領内に滞在する次期|ハイド伯爵《ドリュー・ハイダル》になんの関心も示さず、ジントのほうでもわざわざ|軌道城館《ガリューシュ》を訪問しようという気は起こらなかった。「招待されたこともないですから」
「つまり、われわれにどのように接していいか、おわかりにならないと?」
「そうなんです」ジントはうなずいた。「はじめて会ったばかりのかたに、こんな相談をもちかけるなんて、ご迷惑とは思うのですが……」
「いいえ」レクシュは愉快そうに、「|諸侯《ヴォーダ》に立ち居振る舞いを指図するというのは、|士族《リューク》にはめったにない経験ですわ」
「それで、あの、ぼくの態度は変ですか? |諸侯《ヴォーダ》というのはもっと威張っているもんなんでしようか」
「威張っていても許されることはあります」と|百翔長《ボモワス》。「ただし好感をもたれることはありません。これでおわかりですか?」
「よかった。それじゃあ、そんなにおかしくないんですね」
「そうですね」レクシュは腕組みして、「正直いって、たしょう風変わりには見えます。しかし風変わりというのは、必ずしも非難すべき資質ではありません」
「ははあ……」ジントはたちまち自信が喪失するのを感じた。「あの、風変わりではない|諸侯《ヴォーダ》というのはどんなものなんですか?」
「いくらか威厳がありますね」
「でしょうね」ジントは落ちこんだ。
「ですが、威張りすぎているよりははるかにましですよ、|閣下《ローニュ》」
「ありがとうございます」|艦長《サレール》のせっかくの慰めも、ジントの意気を回復させることはできなかった。
「わたしより身分が上だということはわかっておいででしょう?」
「じつはそれもよくわからないんです。|艦長《サレール》はさっきからぼくを鄭重に扱ってくれていますが、自分がとてもそれに値する気がしなくって」
「そうなのですか」艦長は困惑したようだった。あまりに無知な相手に接するたぐいの困惑だ。
「そりゃ、|爵位《スネー》の上下関係ぐらいはわきまえていますが、それが社会的地位にどう関係するのか、いくら調べてもぴんとこなくて。むしろ調べれば調べるほどわかりにくいんですよ。|士族《リューク》が働くことも|帝 国《フリューバル》ではよくあることみたいですし」
「ええ、ごく当たり前のことです」
「それじゃあ、ぼくなんか社会的地位はないに等しい。そうでしょう?」
「属している組織のちがう人間の関係では、|宮中序列《ダルムサス・ヴォフリール》がものをいいます」レクシュは説明した。「わたしは|艦長《サレール》であるゆえをもって、|一等勲爵士《ラローシュ》に叙されています。|士族《リューク》としてはなかなか高い身分ですが、|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》には遠く及びません」
「それではややこしくないですか?」
「なにがですか?」
「上官より部下のほうが身分が高かったりしたら、指揮がやりにくいのでは?」
|百翔長《ボモワス》は軽やかな笑い声をたてた。「属している組織がちがう場合には、と申したでしょう。軍の内部ではこれが、これのみがものをいいます」と右上腕部の階級章を指す――その仕草はラフィールとそっくりだ。|星界軍《ラブール》の|翔士《ロダイル》に共通した仕草かもしれない。「|閣下《ローニュ》も|主計翔士《ロダイル・サゾイル》としてわたしのしたに配属されたなら、遠慮なくこきつかわせていただきますよ。そのときはいまのような厚遇をご期待なさらぬよう」
「ええ、それはきいたのですが……」ジントはまだ得心できずにいた。「どうしても軍の外部のことを考えてしまうのでは?」
「そうですね」レクシュは考えつつ、「昔なら、あるいは。しかし、わたしたちの身分制社会と軍はそれなりの洗練を積み重ねてきました。現在ではそのようなことはありえません。|星界軍《ラブール》にいるときと社交界にいるときのけじめをつけられないような人間は、どのような高位のかたであろうとも、社会的に不適格な人間と見倣されます」
「複雑なんですね」ジントは溜息をつく。
「そうでしょうか。わたしは生まれたときからこの社会で生きてきましたから、当然のような気がします」
「年齢のようなものでしょうか……」
「どういうことです?」
「ああ」ジントは説明した。
惑星マルティーニュではさほどでもなかったが、デルクトゥーの社会では『長幼の序』が重視された。年長者は歳をとっているというだけで尊重される。しかし、若い上司が年上の部下をもつ、という光景はあちらこちらにあった。組織のなかでは年齢とは関係なく、階級の高いものが重んじられる。が、組織から出れば、その扱いは逆転する。見かけ上、年齢の差がないアーヴは長幼の序を複雑に感じるかもしれない。
「そうかもしれませんね」レクシュは控えめに賛成した。「年齢を意識することはあまりありません、われわれは」
「いや、けれど」ジントはたちまち意見を翻した。「年長者はたいてい人生経験が豊富なのだから、尊重される価値があります。けれど、生まれた家が上等だったからといって、どうして人間個人の資質がすぐれていることになるでしょう」
|帝 国《フリューバル》の根幹にかかわる問題を批判してしまったことは承知していたが、ジントは気楽なものだった。なにしろ彼自身、|貴族《スィーフ》なのだ。己れの身分を怪しむことに遠慮は要らない。それでも、|艦長《サレール》が動揺することを予想していた。
ところが、レクシュは顔色も変えない。
まったくアーヴの心をかきみだすのは、至難の業らしい。
「そうですね」艦長は首をかしげた。「|貴族《スィーフ》というものは傑出した人物の裔《すえ》です。傑出した人物のつくりあげた|家風《ジェデール》を継承する人間です。なにかしら傑出しているものと、わたしたちは期待するのです。ですから、尊敬を払う価値がある、と考えます」
「そうでしょうか」ジントは懐疑的だった。「でも、すぐれた人物に育てられたからといって、優秀とは……」
「かぎりませんね」レクシュは軽く受けた。「たしかにすぐれた業績を上げたからといって、すぐれた教育者になるとはかぎりません。英雄の子どもがどうしようもない人物である例はいくらでもあります。ですが、だいたいにおいてすぐれた人物の裔はそれなりに尊敬できる部分をもっているものです」
「はあ」ジントは曖昧にうなずいた。心の裏では自分のことを考えている。たとえ父がすぐれた人物であると仮定しても、ジントは彼に育てられたわけではない……。
「そのうえ」レクシュはことばをつづけた。「年長者といっても、すぐれているとはかぎりますまい」
「そうですね」ジントはなにも学ぶことなく歳だけとってしまったらしい誰かれの顔を思い描いた。
「長幼の序を重んじるていどにはわたしたちの社会秩序にも理由がある――これがわたしの考えです。ご参考になりましたか?」
「ええ。もちろん」まあ、参考にはなった。全面的に賛成という気分にはなれなかったけれども。
「それでは、お部屋に案内させましょう。|閣下《ローニュ》を|宇宙港《ビドート》まで迎えにいった|修技生《ベ ネ ー 》に」レクシュは|端末腕環《クリューノ》を顔までもっていった。
「ああ、彼女……」もちろん、ラフィールのことだ。「彼女も|貴族《スイーフ》なんでしょう」
レクシュは驚いて眼を見開く。「いいえ」
「あれ、おかしいな。彼女の態度はずいぶん|艦長《サレール》とはちがっていましたけれど」
「彼女をご存じないのですか!?」咎めるように、青鈍色の右眉が上がった。
「ええ。あの……」脳の後ろがちりちり焼けるような、不吉な予感がした。「知っていなければ、おかしいのですか?」
「いえ、|閣下《ローニュ》の風変わりな生い立ちを考えれば、無理ないのかもしれません」艦長は微笑んで、|端末腕環《クリューノ》を通信状態にした。「アブリアル|翔士修技生《ベネー・ロダイル》、ただちに|艦橋《ガホール》へ」
「アブリアル!?」ハイド星系を侵略した|艦隊《ビュール》の|司令長官《グラハレル》と同じである。彼は|皇 族《ファサンゼール》なのだから、|帝室《ルエジェ》の姓だということだ。「どのアブリアルです?」
「|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》です」
「じゃあ……」
「ええ」麗貌に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。「アブリアル|翔士修技生《ベネー・ロダイル》は|皇 帝《スピュネージュ》ラマージュ|陛下《エルミタ》の孫女殿下にあたります」
5 |帝国の王女《ラルトネー・フリューバラル》
|帝 国《フリューバル》は|貴族《スィーフ》・|士族《リューク》の忠誠心やアーヴ間の家族的紐帯に一定の信頼を置いてはいたが、過度の幻想はいだいていなかった。帝国の統合を担保するものは軍事力これあるのみであり、統合の中枢である|皇 帝《スピュネージュ》はそれを掌握しなければならない――これが帝国建国以来の原則だ。
したがって、|帝 位《スケムソラジュ》にあるものは軍での体験をもち、できうればすぐれた軍事指導者であることが望ましい。
かといって、軍権を握った者を自動的に|皇 帝《スピュネージュ》にしては、めまぐるしい内紛と権力闘争が展開されることになるだろう。早晩、|帝 国《フリューバル》は崩壊する。
そこで、〈|アーヴによる人類帝国《フリューバル・グレール・ゴル・バーリ》〉の|帝位継承《キルグラジュ》には、世襲によるものの、いくらか継承者の資質も考慮される方式が採用されていた。
|皇 族《ファサンゼール》を構成するのは八つの|王家《ラルティエ》。いずれも|建国帝《スクルレトリア》ドゥネーの兄弟や子女の子孫で、アブリアルの|氏姓《フィーズ》を共有している。
すなわち――
|スキール王家《ラルティエ・スキル》 ネイ=ラマラル。
|イリーシュ王家《ラルティエ・イリク》 ネイ=ドゥスィール。
|ラスィース王家《ラルティエ・ラスィーサル》 ネイ=ラムリュラル。.
|ウェスコー王家《ラルティエ・ウェスコール》 ネイ=ドゥエール。
|バルケー王家《ラルティエ・バルケール》 ネイ=ラムサール。
|バルグゼーデ王家《ラルティエ・バルグゼーデル》 ネイ=ドゥブゼル。
|スュルグゼーデ王家《ラルティエ・スュルグゼーデル》 ネイ=ドゥアセク。
|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》 ネイ=ドゥブレスク。
以上の八家である。
この|八王家《ガ・ラルティエ》に生まれたものは|軍 役《スリュームコス》に就く義務を負う。それも、後方勤務の多い|主計科《サゾイ》や|軍医科《ガイリート》ではなく、かならず|飛翔科翔士《ロダイル・ガレール》とならなければならない。
|軍 役《スリュームコス》の初期において、|皇 族《ファサンゼール》はひとつだけ特権を認められていた。|軍大学《ヴォスクラ》への進学に関してのものである。|星界軍《ラブール》の規定によると、軍大学に進むには最低でも四年半が必要とされるが、皇族の場合は例外であり、本人の実力とは関係なく、二年半で自動的に入学を許される。|列翼翔士《フェクトダイ》に叙任すると、一年で|後衛翔士《リニェール》に昇進し、一年半で|前衛翔士《レ ク レ ー 》になって、軍大学のなかでも最難関である|ドゥネー星界軍大学《ヴォスクラ・ドゥネール》に入学するのだ。半年の教育期間ののち、|十翔長《ローワス》の|位階《レーニュ》と|指揮官徽章《プトラヘデソーフ》を帯びることになる。
|帝室《ルエジェ》の特権とはいえ、見方を換えれば経験や能力以上の責任を負わされることになり、しかも十翔長叙任以降は帝室の特権はない。これ以降の昇進の速さもほかの|軍大学《ヴォスクラ》出身者と同じていどであるし、任務に失敗すれば、|士族《リューク》とどうように容赦のない処分が待っている。
列翼翔士からはじまる|飛翔科翔士《ロダイル・ガレール》の一二階を昇っていき、ついに|帝国元帥《ルエ・スペーヌ》に達すると、|帝国艦隊司令長官《グラハレル・ルエ・ビューラル》に親補される。平時にはわずかな司令部要員のほか、一兵も指揮しない職だが、かつては|皇 帝《スピュネージュ》が兼ねるのをつねとした顕職で、これに就任することは次期皇帝、すなわち|皇太子《キルーギア》となったことを意味する。
新しい|帝国艦隊司令長官《グラハレル・ルエ・ビューラル》が決まると、それより年上の|皇 族《ファサンゼール》、年下でも二〇歳と離れていない皇族は予備役編入を願うのがならわし。それ以前でも、|皇 帝《スピュネージュ》になることを断念した皇族は軍を退いて、|王 位《ラルトラジュ》を嗣いだり、あるいは|爵位《スネー》をもつ一代かぎりの皇族となる。一代皇族の子孫は、|帝室《ルエジェ》から|家風《ジェデール》を受け継いでいることを示す『ボース』の|姓称号《サペーヌ》をもつが、その身分は|貴族《スィーフ》である。貴族となれば、もはやアブリアルの姓を名乗ることも許されない。
|帝国艦隊司令長官《グラハレル・ルエ・ビューラル》は、次の|皇 族《ファサンゼール》にして|帝国元帥《ルエ・スペーヌ》が現れるのを待つことになるだろう。自分の地位を引き継げる相手が出現したときに、彼もしくは彼女は登極する。とうぜん、それまでの|皇 帝《スピュネージュ》は譲位することになる。
長命のアーヴは|玉 座《スケムソール》から降りても、なお一〇〇年近い余命をもっていることが多い。彼らにも|帝 国《フリューバル》は安息を許さない。もと|皇 帝《スピュネージュ》は自動的に、皇帝になりそこねたもと|王《ラルス》たちは互選により、|上皇会議《ルゼー・ファニガラク》を構成し、『|猊下《ニソス》』の尊称をまとう。
この|上皇会議《ルゼー・ファニガラク》が|皇 族《ファサンゼール》である|翔士《ロダイル》の昇進や査問をつかさどる。その査問は、一般の翔士にたいして軍組織のするものより厳しいといわれていた。この査問をかいくぐって、また四〇年と年限を限られたなかで、|八王家《ガ・ラルティエ》の子女たちは|翡翠の玉座《スケムソール・レン》への競争を強いられる。
|翔士修技生《ベネー・ロダイル》が現れるまでのあいだ、ジントが|端末腕環《クリューノ》で|帝国貴顕録《ルエ・ララサ》を検索したところによると、アブリアル・ネイ=ドゥブレスク・|パリューニュ子爵《ベ ー ル ・ パ リ ュ ン》・ラフィールは|クリューヴ王《ラルス・クリュブ》ドゥビュースの|第一王女《ラルトネー・カースナ》だということだった。
彼女の一歩後ろを歩きながら、ジントはじつに落ちつかない気分でいる。
六年間にわたってつきまとってきた当惑という感情は、最高潮に達していた。
それまでの当惑はまわりを飛びまわる虫だった。ジントはそれに馴れしたしみ、ときにはそのようすを愛でる余裕さえあった。ところが、この虫は自分に針が備わっていることをどこかでききつけて、ちくちくとジントを刺しはじめたというわけだった。
|皇 族《ファサンゼール》と出会うことを予想していなかったわけではない。ジントはかりにも|貴族《スィーフ》なのだから、皇族の知遇をえる資格ぐらいあってよさそうなものだ。だが、それは舞踏会とか晩餐会とか、そういった社交の場できちんと紹介を受けての出会いを予期していた。
これは不意打ちもいいところだ。
九〇〇〇億の|臣民《ビサール》を支配する|帝 国《フリューバル》の支配者ときわめて近しい血縁のすぐ近くにいると、人間は生まれながらにして平等なはずだという、あやふやな信条はたやすくふっとんでしまった。過去や将来のことはともかく、現在のジントはまぎれもなく|アーヴ貴族《バール・スィーフ》であり、帝国の身分制社会にどっぷり漬かっているのだ。
|艦長《サレール》が成り上がり|貴族《スィーフ》の嫡子にとった態度を思いおこすにつけ、|短艇《カリーク》のなかでの挙措はまちがいだったという恐れは確固たるものになっていく。
どう取りつくろえばいいんだろう?
ジントはきょろきょろとあたりを見まわした。
|軍 艦《ウイクリュール》の内部は無機的で実用本位だろうというジントの予想に反して、|巡察艦《レスィー》の廊下には壁画が施されていた。それも、描かれているのは風にそよぐ野の草であり、白い雲の流れる空である。
すこしは心が安らぐかと期待していたのだが、効果はまったくなかった。
「どうしたんだ、ジント?」タンポポの綿毛が舞う横で、ラフィールがいった。「さっきから黙ったままじゃないか。それに、どうしてわたしの後ろを歩くんだ?」
「それは|皇女殿下《フィア・ルエネル》……」ジントは恭しくいった。
とたんにラフィールの脚がとまり、彼女はふりかえった。
その表情を見て、鳥肌がたった。
短艇のなかでも、なるほど睨まれはした。だが、それは冗談半分、犬が甘咬みするようなものだった、といまになってわかる。
――本気で怒ると、こんな顔になるんだな……。
美しく整った顔は見誤りようもない憤怒に彩られ、漆黒の双眸のなかで黒い炎が燃えさかっていた。が、唇から流れでたものは真空のように冷たい。
「わたしは|皇女《ルエネー》じゃない。|王女《ラルトネー》だ。|皇 帝《スピュネージュ》は祖母であって、父は|王《ラルス》にすぎないからな」
「申しわけありません、|王女殿下《フィア・ラルトネル》」あくまでも恭順に頭を下げながらも、|称号《トライガ》をまちがえたぐらいで、そんなに怒らなくたっていいじゃないか、とジントは心のなかでつけくわえた。
ラフィールはぷいとそっぽをむくと、早足で歩きはじめた。
ジントはあわててそのあとを追う。
ラフィールの話には続きがあった。「あえて|皇帝陛下《スピュネージュ・エルミタ》とのかかわりを重視するのなら、|皇孫女《ルエボグネー》であろうけれど、公式なものではないし、めったに使わない。じっさい、自分が皇孫女であることを発見して、新鮮な驚きを味わってるところだ。だいいち、語呂が悪いじゃないか、|皇孫女殿下《フィア・ルエボグネル》なんて」
「そうだね、いや、そうですね、|殿下《フィア》」ジントはおずおずと同意した。
「それから、わたしは誕生したときに、|皇 帝 陛 下《スピュネージュ・エルミタ》より父を後見として|パリューニュ子爵《ベ ー ル ・ パ リ ュ ン》の|称号《トライガ》と|領地《リビューヌ》をいただいてる。だから、ときには|パリューニュ子爵殿下《フ ィ ア ・ ベ ル ・ パ リ ュ ン》と呼ばれる。このところでは、なぜかアブリアル|翔士修技生《ベネー・ロダイル》と呼ばれることが多い」ラフィールは一気にまくしたてた。
ジントは口をはさむこともできず、ただ呆然と脚を動かしていた。
「しかし、わたしはそなたにいったはずだな、ラフィールと呼ぶがよい、と!」
いくら鈍いジントでも、ラフィールの怒っている真の理由がわかった。すばやく口調をきりかえて、「そうか、ごめん。友だちにはラフィールってわけだね」
「そうでもない」ラフィールの口調はそっけない。「わたしを|称号《トライガ》抜きで呼ぶのは、父である|クリューヴ王《ラルス・クリュブ》|ドゥビュース殿下《フィア・ドゥビュト》、祖母である|皇 帝《スピュネージュ》ラマージュ|陛下《エルミタ》、叔母の|ゲムファーズ伯爵《ドリュー・ゲムファド》|ラムリューヌ殿下《フィア・ラムリューナル》。それと直系の|上皇《ファニーガ》がた。そんなところであろか。友だちは|王女殿下《フィア・ラルトネル》か、|殿下《フィア》とのみいい、親戚のあいだでは|ラフィール殿下《フィア・ラフィル》という呼称がもっぱら人気をえてる」
「じゃあ、なんで……」思わず脚がとまる。にわか|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》は巨大な特権を知らずに手にして、どうやらそれを喪おうとしているらしい。「ラフィールと呼べなんて……。初対面のぼくに?」
「名を問われたのは初めてだったんだ」ラフィールも脚をとめ、しかし前をむいたまま、「|皇 帝《スピュネージュ》の孫というのは有名人らしく、みなが顔と名を承知してるんだ。名乗らなくても、『|王女殿下《フィア・ラルトネル》』と呼びかけてくる。よほど親しい相手にとっても、わたしは『|殿下《フィア》』だ。生まれたときからずっとそうだったから、とくに気にもとめなかった。けれど、|修技館《ケンルー》で生徒たちが|称号《トライガ》抜きの名前で呼びあうのをちょっぴり――ほんのちょっぴりだぞ――羨ましく感じてた。わたしといっしょだと、みんなあまりくつろげないらしい、と気づいてからは、なおさらだった」
「ごめん、ぼくは……」ジントは自分の犯した罪の大きさに愕然とした。せっかく差しのべられた好意の手をはねつけ、彼女の心を傷つけてしまった。
「謝ることはない」ラフィールは相変わらずの冷やかさで、「そなたはなにも悪いことはしてないであろ。『|皇女殿下《フィア・ルエネル》』というのはまちがってるものの、悪意はこもってないからな。無礼な呼び名を我慢するようには躾けられてないが、正当な呼称ならどれでも受けよう。安んじて、|王女殿下《フィア・ラルトネル》とでも|パリューニュ子爵殿下《フ ィ ア ・ ベ ル ・ パ リ ュ ン》とでも好きに呼ぶがよいぞ、|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》」
「いや、ぜひラフィールとだけ……」
「誤解するな。わたしはべつに『ラフィール』と呼んでほしいわけじゃないぞ。名を問われたときに、|称号《トライガ》つきで名乗るのはどうかと思ったから、ああいったまでだ」
――こうも嘘をつくのが下手だと、|皇 帝《スピュネージュ》にはむいていないんじゃないかな……。
ジントは頭をよぎった評価をすぐふりはらって懇願した。「頼むよ、ぼくはラフィールとだけ呼びたいんだ」
そこで、ラフィールはやっとふりかえり、ジントをまじまじと見つめた。「無理することはないんだぞ、|閣下《ローニュ》」
「無理なんかしてないよ。だから……」
「なんなら|皇孫女殿下《フィア・ルエボグネル》でも、わたしは気にかけないぞ」
「うわっ」とうとうジントは悲鳴をあげた。「どうしたら許してくれるんだい、ラフィール!」
しばらくラフィールは黙って、ジントを見つめていた。やがて、頬がぴくぴくと動き、怒れる|王女《ラルトネー》はこらえかねたように、くすくす笑いはじめた。
どうやら良好な関係が復活したらしいことを知って、ジントはほっとした。
「わたしがアブリアルの者だということにぜんぜん気づかなかったのか?」笑いの衝動を抑えこむと、ラフィールは訊いた。
「うん。ぜんぜん」
「この耳を見ても?」ラフィールは髪をかきあげた。尖った耳――ハイド星系を侵略したアブリアル|司令長官《グラハレル》とおなじ形の耳だった。「これは〈|アブリアルの耳《ヌイ・アブリアルサル》〉、わが一族の|家徴《ワリート》だぞ」
「髪に隠れて見えなかったよ」
「そうか……。わたしはアブリアルにしては耳が小さいんだ」
口調から推察すると、そのことをいくらか引け目に感じているようだった。
「それに」ジントはつづけた。「見ても、気づいたかどうか疑問だね。ぼくは生まれつきのアーヴじゃないから、どうも|家徴《ワリート》とかには気がまわらないんだ」
「ふうん、そんなものか」感心したように、ラフィールはうなずいた。
「そんなもんだよ」ジントは歩きはじめた。
|家徴《ワリート》というのは、一族共有の肉体的特徴のことだ。耳や鼻の形、目や肌の色。どこにあらわすかは家によってちがう。|士族《リューク》であろうと|貴族《スィーフ》であろうと、一族が同じ肉体的特徴をもつことにアーヴはとことんこだわる。もちろん、遺伝子に刻むのだ。
いうまでもなく、〈|アブリアルの耳《ヌイ・アブリアルサル》〉はもっとも名高い|家徴《ワリート》だ。
だが、ジントはいまのいままで、|家徴《ワリート》の存在そのものを忘れていた。
ラフィールも肩を並べて、「やっぱりおもしろいな、そなたは」
「よしてくれ」ジントは肩をすくめて、「ねえ、さっきのことだけど……」
「さっきのこと?」
「その、きみの|修技館《ケンルー》での思い出だよ。きみといっしょにいると、みんながくつろげないらしいってこと……」
ラフィールは視線で続きを促した。
「ぼくにも想い出があるんだ」ジントは照れ笑いをした。「そりゃ、きみとは次元がちがうだろうけれど」
「どういうことだ?」
「きみは知っているかどうか……。ぼくは学校で唯一の|貴族《スィーフ》だったんだよ」
「ああ……」
アーヴのしたで働くことをめざすぐらいだから、アーヴ言語文化学院の生徒たちは反アーヴ感情とは無縁だ。むしろ、|国民《レーフ》として業績を上げて、|貴族《スィーフ》といわないまでも|士族《リューク》に叙され、子孫をアーヴにしたい、と考えているのが大部分だった。
そんな彼らにとって、地上人のくせに|爵位《スネー》を約束されている少年の存在は疎ましいかぎりである。
なにかというとからかいの対象になり、教師の目の届かないところで陰湿ないじめにあった。かと思えば、必要以上に卑屈な態度で接して、少年を戸惑わせる者もいた。
みんな、|貴族《スィーフ》をどう扱っていいのかわからなかったのだ。
「――無理もないよ、ぼくだってどうふるまえばいいのかわからなかったんだから」
「それでは、そなたのほうがたいへんだ。わたしの場合、|訓練生《ケーニュ》たちは|皇 族《ファサンゼール》にどう対すればいいか存じてた。ただ、その対しかたが気に入らなかっただけだ。わたしはちゃんと敬意をもって扱われ、ふさわしい礼遇を与えられた。けれど……」ラフィールは咎める目つきをした。
「わたしなら、いじめられっぱなしにはならないぞ」
「ぼくは平和主義者なんだよ、ラフィール」ジントは肩をすくめた。
「平和主義も好戦主義も関係ないであろ」
「でも、相手が多すぎるよ。教師までその傾向があったんだから」
「そうか……」
「まあ、ぼくはすぐに要領を身につけたけれどね」
「どうすればいいんだ?」ラフィールは興味深そうに尋ねる。
「身分を隠す」
「そんなことができるのか?」ラフィールは首をかしげた。
「ぼくは|王女殿下《フィア・ラルトネル》ほど有名じゃないからね。でも……」ジントは首をふった。「学校じゃうまくいかなかった。新顔に無邪気な顔して話しかけても、おしゃべりのすぎる古株ってのがいて、よけいな知識を授けてしまうんだから」
「で、ジントはどうしたんだ?」
「街へ行った。街で|帝 国《フリューバル》のことなんか関係なく暮らしている|領民《ソ ス 》と友だちになったんだよ」
「ふうん。意外と苦労してるんだな、そなたは」
二人連れの|従士《サーシュ》がすれちがいざまに、立ち止まって敬礼した。
ラフィールは歩きながら、答礼する。
「ねえ」ジントは小声で尋ねた。「こんなとき、ぼくはどうすればいいの? 敬礼するのも変だし」
「会釈でもすればよい」
従士のそばは通り過ぎていたので、ジントはわざわざ後ろをむいて、会釈した。
従士たちはびっくりしたように、おろしかけていた手を戻した。
「そういうことをすると、|従士《サーシュ》が迷惑する」ラフィールはやんわりたしなめた。
「そうみたいだね」ジントは心のなかで溜息をついた。
つぎに従士と行き合ったときは、うまくいった。
やがて、大きなひまわりが陽射しを浴びている絵の描かれた扉の前に着いた。
「ここがそなたの居室だ」ラフィールは、扉を指す。
「さっきから気になっていたんだけど」ジントは扉をしげしげと観察し、「いったい、この絵はなんのつもり? どんな意味があるの?」
「ただの飾りだ。意味などない」とラフィール。「|軍 艦《ウイクリュール》にも潤いがないとな。そう思うであろ」
「でも、調子狂うんだよな」ジントはつぶやいて、「装飾なら、もっと宇宙船にふさわしい意匠ってもんがあるんじゃない?」
「どんな?」
「星とか銀河とか」
「そんなつまらぬものをだれが絵にするんだ?」
「きみたちは宇宙を愛しているのかと思っていたよ」ジントには意外だった。
「愛してる。故郷だから。でも、星など絵の題材としては日常的すぎる。見たければ、いつでも本物を見られるじゃないか」
「そうだけど……」
「それに、これのほうが|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》出身の|従士《サーシュ》は落ちつくらしい」
「なるほど……」ジントはひまわりをしげしげと観察した。「でも、きみたちはどう思うの? アーヴは」
「何度もいうが、そなたも……」
「ああ、ぼくもアーヴだよ」ジントは先回りして、「けど、生まれつきのアーヴじゃない。だから、アーヴが自然の植物を見て、どう感じるのかって、興味があるんだ」
「地上の民と変わらないと思うぞ」ラフィールは眉根にしわを寄せた。「われらも、地球で発生した|人類《グレー》の子孫だ」
「でも、ほんもののひまわりなんて、見たことはないんじゃない?」
「それは偏見というものだぞ、ジント。ひまわりぐらい見たことはある。ラクファカールにも植物園はあるし、わが家にも花園がある」
「そう」ジントはふりかえって、背後の壁を指した。「じゃあ、こんな光景は?」
大草原だった。膝まではありそうな緑の草が一面に生え、それを象や馬が食んでいる。まばらに松や樺が立ち、青い空に桜の花びらが舞っている。
「こういうのは見たことがない、たしかに」ラフィールはこたえた。
「じゃあ、どう見える?」
「そんなこと訊いて、どうするつもりだ?」不審げな表情をする。
「頼むよ」とジント。「協力してくれよ。生まれつきのアーヴがどんなものか、知りたいんだ」
「そうか」ラフィールはうなずき、「夢のなかの風景に見えるな」
「どこにもない場所みたいに?」
「そうじゃない」ラフィールは首をかしげ、「どこにもない場所じゃないことは知ってるから。わたしたちがこの風景のなかからやってきたことはわかってる。神話であろな、いうなら」
「捨ててきた故郷か」
「うん。いまでは|宇宙《ケサース》が故郷だ。われらだけが|宇宙の民《ケサテュード》で、そのことを誇りにしてる」
「地上の民も、星間旅行者の末裔なんだぜ」ジントは指摘した。
「旅行者だ。地上の民の祖先は宇宙を通っただけ。われらは住んでる。これは大きなちがいだ。そうであろ」
「そうかもね」じつのところ、ジントにはよくわからない。たしかにアーヴにはなにか異質なところがある。だが、それが故郷のちがいによるものなのか、はっきりしなかった。
「ジントにはどう見えるんだ?」ラフィールは訊いた。「わたしたちが星を見るのとおなじぐらい退屈に感じるのか。あっ、わたしたちというのは生まれつきのアーヴのことだぞ。そなたもアーヴなんだから」
彼女なりに気を使ってくれているのかな、と訝りつつ、「退屈なんかじゃないよ。こんな風景は|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》にもあまりないからね。それに、ぼくの故郷は生態系がほかの地上世界とちがうから。けれど、幻想的というほど現実からかけはなれているわけでもない。もっとも、この絵の生態系はかなりむちゃくちゃなんじゃないかな。植物学者の眼には、さぞかし幻想的に映るだろうね――ところで、そろそろなかへ入れてくれないかな。扉の開けかたがわからないんだ」
「ひまわりの話をはじめたのはそなただぞ」ラフィールは唇を尖らせた。
「でも、興味深かっただろ」
「うん、あんなに絵を熱心に見たのは初めてだ」本質的にすなおな性格のようだった、この|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》の|第一王女《ラルトネー・カースナ》は。
「じゃあ、頼むよ、ラフィール」
「そなたの|端末腕環《クリューノ》を使うがよい。もう電波型は登録済みだ」
「ああ、そうなの」ジントは|端末腕環《クリューノ》の表示部の横にある、赤い石に触れた。
扉が開いた。
ジントは扉口から室内を見まわし、「やれやれ、すごいな」
「不満か?」
「とんでもない。こんなにきちんとしているとは思わなかったんだ」
広さはそれほどでもなかった。奥行きは寝台でいっぱいだ。幅はその倍ぐらい。寝台のおかれていない空間には一組の椅子と卓子があった。奥にはさらに小さな扉がある。しかしなんといっても目を引くのは、寝台側の壁に掲げられた|ハイド伯爵家《ドリュージェ・ハイダル》の|紋章旗《ガール・グラー》だった。
緑地に赤くレズワンが縫いとられている。レズワンというのは、鳥のように見えるが、惑星マルティーニュの海を泳ぎまわる有毛魚類の一種である。実物は――魚なのだから大目に見るにしても――かなりまぬけな生物だ。だが、泳翼をひろげた姿はそこはかとなく威厳がある。
「そなたの荷物はそこに入ってるはずだ」寝台と反対側にある収納棚を指し、「清潔になりたいのなら、その扉を使うがよい」
ジントは奥の扉を開いてのぞいた。予想どおり、洗面所と浴室が納まっていた。
「すごいな。ここはなんの部屋? 乗客用の寝室かなにか?」
「ここは|巡察艦《レスィー》だぞ。標準的な翔士個室だ」
「だれかのねぐらを奪ったんでなければいいんだけど」
「心配ない。|巡察艦《レスィー》ほどの大きさの|軍 艦《ウイクリュール》になると、余裕を見て、居住施設をつくる。いつ員数外乗員が乗りこむかわからないから。わたしもここでは員数外だ」
「それはよかった」ジントは壁にかかった|旗《グラー》に視線を移し、「あれはどこからもってきたの?」
「ああ、艦内で造ったんであろ」ラフィールはこともなげにいった。
「ぼくだけのために?」
「そなたのほかに、だれの役に立つ?」
――ぼくにもそんなに役立たないけれどね……。
ジントはそっと肩をすくめた。急拵えの|紋章《アージュ》にはなんの愛着も感じない。はじめて見たのは、|伯爵家《ドリュージェ》創設まもないころだが、つい昨日まで紋章があることすら忘れていたぐらいだ。
ジントは寝台の寝心地を手で探る。安眠を約束する柔らかさだ。
寝台に腰をおろして、ジントは訊いた。「さて、ぼくはどうすればいい?」
「うん」ラフィールは|端末腕環《クリューノ》の時間表示を一瞥し、「あと二時間もすれば、夕食だ。そなたはたぶん|艦長《サレール》の食卓に招かれる。時間になれば、わたしが呼びにくるから、おとなしく待ってるがよい」
「わざわざ? |通話器《ルオーデ》で教えてくれればなんとか自力でいくよ。きみにも仕事があるんだろ」
「それはやめたほうがよいぞ」ラフィールは真剣な面持ちで、「明日にでも、そなたを案内するよう命令されてる。それまではひとりで出歩かぬがよい。自分は艦内案内図を読めると信じて、見捨てられた資材甲板で干物になりかけた新米や民間人は、|星界軍《ラブール》創設以来、数知れない」
「きみはどうだったの?」ジントは意地悪く尋ねる。
「そのような古傷をえぐるような質問は、礼儀にはずれてるぞ、ジント」|翔士修技生《ベネー・ロダイル》はすましてこたえた。
「楽しい思い出があるみたいだね」ジントは微笑した。
「黙れ、ジント」ラフィールはぴしゃりといい、「なにか用はないか?」
「うん、ないよ。ありがとう。暇つぶしのたねもあるし、おとなしく待っているよ」
「では、二時間後に」
「ああ、二時間後に」
ラフィールはきびすを返した。その背中で扉が閉まる。
ジントはとりあえず熱い湯を浴びることにした。
服を脱ぎながら、ジントはすっかりくつろいでいる自分を発見して驚いた。巡察艦に乗りこむ前にあった緊張感が嘘のように消えていた。
6 |緊急事態《レスリアムロス》
|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉が|ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》を出航して五日目――。
「|艦長《サレール》」耳元でレーリア|十翔長《ローワス》の声がした。
巡察艦〈ゴースロス〉艦長、レクシュ・ウェフ=ローベル・プラキア|百翔長《ボモワス》はすぐに眼を醒まして、枕元を見あげた。当直任務についている|副長《ルーセ》の立体映像が暗闇にぼうっと浮かびあがっている。
「なに?」
「すぐ|艦橋《ガホール》に来てください」実物の一〇分の一ほどの顔には、彼に似つかわしくない険しい表情が浮かんでいる。「正体不明の|時空泡《フラサス》群を発見しました」
「すぐ行くわ」レクシュ百翔長は手をふって|通話器《ルオーデ》を切ると、跳ね起きた。慣れた手つきで黒づくめの|軍衣《セリーヌ》を着こみ、寝乱れた青鈍《あおにび》色の髪を手櫛で整えて、|片翼頭環《アルファ・クラブラル》をかぶった。|飾帯《クタレーヴ》と|指揮杖《グリュー》を手にして、足早に艦橋にむかう。
艦橋にあがる|昇降筒《ドブロリア》のなかで、さっと|飾帯《クタレーヴ》を腰に巻きつけ、|指揮杖《グリュー》を帯びた。
艦橋に到着したときは正式な艦長の軍装をまとっていた。
「レーリア、報告を」艦橋に駆けこむなり、レクシュは叫んだ。
「方位、前方七八度。距離、一五三九・一七|天浬《ケドレル》。針路、前方一八度。|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》方面です」レーリア|十翔長《ローワス》は一気に報告すると、当直任務のため坐っていた艦長席を譲ろうとした。
だが、レクシュは席に着かず、「次の寄港予定地ね、スファグノーフは」
「そうです」レーリアはうなずいた。「われわれのほうが先に到着するでしょうが」
「それで規模は?」
「|時空泡《フラサス》数は三〇が確認済み。総質量は約九〇ゼサボー。艦隊ならば、その規模は四個|分艦隊《ヤドビュール》に相当します」
レクシュは艦長階床に映る|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド》を見つめた。
中央には巡察艦の位置を示す青い輝点。
いくつもの〈|門《ソード》〉が黒くとぐろをまいてわだかまっている。
|通常宇宙《ダ ー ズ》における〈|門《ソード》〉はほとんど質量をもたず、自身がエネルギーを輻射しているので、太陽風と反発しあう。したがって、自然状態では星系外縁部に位置するのが一般的である。
だが、〈|門《ソード》〉が事象の地平線の彼方に位置するとき、〈門〉は輻射以上のエネルギー圧を受けることになる。そういった場合、大部分の〈門〉とはぎゃくに、|通常宇宙《ダ ー ズ》から|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》にエネルギーが流れこむ。これを〈|火山《キーガーフ》〉と呼ぶ。
〈|火山《キーガーフ》〉からのエネルギーは|時空粒子《スプーフラサス》――電子の四倍ほどの質量をもつ縮小化された四次元時空となって、粒子密度の濃いほうから薄いほうへと|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》を流れ、ほかの〈|門《ソード》〉に出会うと|通常宇宙《ダ ー ズ》に戻る。かつて人類が恒星間旅行に利用したエネルギーはこれに由来するのだ。
|時空泡《フラサス》は|時空粒子《スプーフラサス》と相互作用する。時空粒子を吸収し、また放出する。吸収量より放出量が多いので、その差は|時空泡発生機関《フ ラ サ テ ィ ア》に注ぎこまれるエネルギーによって補填されねばならない。それが|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》に支払う通行料となる。
また|時空泡《フラサス》は、|時空粒子《スプーフラサス》のほかに|質量波《セースラズ》を放射する。|通常空間《ダ ー ズ》における電磁波とどうよう、これは理論上は無限に到達し、時空泡もつらぬく。したがって、かなり遠くからでも時空泡の存在は感知された。
進行方向から右へ六〇度のあたり、みっつの〈|門《ソード》〉を隔てて、|質量波《セースラズ》源の群れが見えかくれしていた――質量波も〈門〉は透過できない。
なにかただならぬことが起こっている|艦長《サレール》がそう判断をくだすのに、思考は必要なかった。
あれほどの|艦隊《ビュール》を味方が動かすのならば、前もって彼女の耳に入っていてしかるべきだ。もしにわかに動かしたのなら、変事があったことになる。味方でなかったとしたら――いうまでもない。
謎の|時空泡《フラサス》群に事情を尋ねてみたいところだが、あいにくと|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》の物理法則がそれを禁止していた。
|質量波《セースラズ》は通信には使えない。質量波の波長と発生頻度は|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》の物理法則により厳密に決定され、人間の都合はまったく忖度されない。|時空泡《フラサス》の質量を変化させられれば通信に利用できるのだが、重力制御技術は質量そのものを変化させるわけではないので、その面で助けにはならなかった。
ゆいいつ有効な|時空泡《フラサス》間の通信は、|時空粒子《スプーフラサス》を突き動かすことで行なわれていた。しかし、この|泡 間 通 信《ドロシュ・フラクテーダル》は送信速度が耐えがたいほどに遅く、しかもちょっと距離があると役に立たない。
「どの〈|門《ソード》〉から進入したか、わかる?」レクシュは訊いた。
「レシェークリュア|後衛翔士《リニェール》に算出させています」レーリアがこたえた。
やがて、初々しい男性|翔士《ロダイル》、レシェークリュア|航法士《リルビガ》が報告する。「四七個に絞りましたが、これ以上は無理です」
「そのなかに使用中の〈|門《ソード》〉はある?」とレクシュ。
「いえ、いずれも〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉の状態で放置されているものばかりです」レシェークリュアは|艦長《サレール》を見あげて首をふった。
「一光年以内に有人惑星が存在する〈|門《ソード》〉はどう?」
レシェークリュアは|思考結晶《ダキューキル》で|探 査 艦 隊《ビュール・ラグレール》の古い資料を検索し、「ありません」
「五光年以内なら?」レクシュは範囲を広げた。
「ひとつだけありました!」レシェークリュアの頬が興奮に赤く染まる。
「どこ?」
「|ケイシュ一九三門《ソード・キュトソクンビナ・ケイク》から四・一光年にバスコットン星系、惑星バスコットンW。その所属は……、〈人類統合体〉です!」
「どうやら」レーリアが傍らにきて、ささやいた。「同業他社の匂いがしますな」
かつてアーヴは、八つの〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉を腹に収めた巨船アブリアル――むろん、|帝室《ルエジェ》の姓はこの船名に由来する――に乗って、宇宙をさすらう武装商人だった。
商人といっても、いつ交易相手と出会えるかわからない状況では、食料や日用品を輸入に頼るのは、あまり賢明とはいえない。じじつ、日常に必要なものは船内で生産していた。彼らが外部からあがない、その対価とする主なものは、情報だった。
各人類世界の歴史、技術情報、科学論文、芸術作品――すべてが商品となった。十数光年、ときには数十光年の虚無で隔てられた人類社会は遠くにいる同胞たちの情報を渇望しており、都市船アブリアルは彼らをつなぐ、不確実だが唯一の細い糸だった。
生活をささえるため、という切実な理由がないためか、アーヴの交易はかなり一方的だった。供給できるものを示し、値をつける。商人のくせに複雑な駆け引きは嫌いで、交渉が決裂すると、さっさと星系を立ち去る。だまされたと感じると、応分の報復――と彼らが考えたもの――を見舞ってから、立ち退いた。しばしば、あとになって不幸な誤解だったと気づくこともあったが、その時には、謝罪すべき相手はたいてい数光年の彼方にある。アーヴは公正さを重んじたものの、わざわざ引き返して謝るほどではなかった。
アーヴ、その性《さが》、傲慢にして無謀――多くの|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》に流布する評判である。広まったのは|帝 国《フリューバル》創設後だが、原型はこの時代にどこかの星系で生まれたものだろう。
やがて、人類社会の科学の精髄を蒐集したアーヴは、|平面宇宙航行理論《クロフェール・ファーゾト》を確立する。
アーヴはある星系に腰を据え、〈|門《ソード》〉を開く実験をはじめた。
そして、五〇年以上の歳月をかけて成功したとき、アーヴはこの技術を独占することを決意する。
これまでは各人類世界が大きく隔たっていたがために、恒星間戦争などは起こりようもなかった。しかし、|平面宇宙航行技術《ファズ・ファーゾト》はそれを可能にする。宇宙はまだじゅうぶんに広いが、人類は戦争事由を見いだす天才である。複数の社会が平面宇宙航行技術をもてば、大規模な戦争を招かずにいられないだろう――それを防ぐためには、技術の独占管理しかない。
とはいえ、ものは科学理論であり、技術である。醜聞ではないのだから、完璧な箝口令を敷いたところで、だれかが発見してしまうにちがいない。
そこで、アーヴは人類社会を統一し、力によって理論を独占することに決めた。
|建国帝《スクルレトリア》ドゥネーが|帝 国《フリューバル》の創建を宣言したとき、統計によれば、アーヴの総人口は二七万二九〇四人だった。アーヴの人口学者が推定したところによると――かなり正確なものだったが――おなじ時期の人類の総人口は一〇〇〇億以上。
三〇万足らずで一〇〇〇億以上を支配しようというのだ。
まさに、その性、傲慢にして無謀というほかない。
だがあいにくと、|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》に足を踏みいれたのは、アーヴが人類で初めてというわけではなかった――人類植民地のひとつ、スーメイ星系でほんの偶然から平面宇宙の利用法が発見されていたのである。
スーメイ人は技術を独占しようとはせず、二〇もの星系に気前よく――といっても、代価は高い――分かちあった。
アーヴは五つの星系を|帝 国《フリューバル》に組み入れてから、|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》に先客がいることに気づき、不快感をいだいた。スーメイ星系の方針は宇宙の政治状況を不必要に複雑化するもの、とアーヴは見倣したのである。
宇宙の政治状況は単純であるべきであり、もっとも単純な政治状況はひとつの政体しかない状況だ――アーヴは主張した――宇宙を担う種族はアーヴをのぞいてない、地上の民は宇宙を愛してなどいないのだから、地上で幸福をつかめばよい、そうすれば、みんなが仲良く幸せになれる、と。
不幸にして、ほかの星間国家にもそれなりの意見があったので、|帝 国《フリューバル》の主張は人気がなかった。
既得権益を尊重することはアーヴも知っていたので、スーメイの技術を買った星系については手出しを控えたが、かといってスーメイ星系の真似をするつもりはさらさらなく、まだ|平面宇宙航行技術《ファズ・ファーゾト》を知らない|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》を発見しては、遠慮なく征服していった。
人類社会は、アーヴの危惧したとおりになった。各星間国家はお互いの対立点を見つけることに余念がないように思われ、第三者にはうかがいしれない理由で干戈を交えた。
諸国家の存亡を賭けた駆け引きを、奇妙な遊戯に耽る子どもたちを見るように、興味深く観察する|帝 国《フリューバル》だったが、やむをえぬ事情により、紛争の当事者となることもあった。
戦いにさいして、アーヴは情け容赦なく、限度を知らない。ひとたび戦端を開くと、妥協はありえず、敵国の星間航行能力を奪い、解体して星系単位で|帝 国《フリューバル》に編入するまで鉾をおさめないのを常とする。
この苛烈な意志はそれなりの反作用をともなった。|皇 帝《スピュネージュ》二人と|皇太子《キルーギア》七人を含む、多くの|帝 国《フリューバル》の貴顕たちが宇宙に散った。
だが、これまでのところ、最後に勝利の凱歌を唄うのはいつも〈|アーヴによる人類帝国《フリューバル・グレール・ゴル・バーリ》〉だった。
生物種を異とする種族に支配され、戦争を外交の延長と見ない|帝 国《フリューバル》は、ほかの星間国家にとって得体の知れない脅威にほかならない。
星間国家は統合と分裂をくりかえしたが、だいたいにおいて数を減じる傾向があり、|帝 国《フリューバル》をのぞけば、いまや四つしか残っていない。国力の順に、〈人類統合体〉、〈ハニア連邦〉、〈拡大アルコント共和国〉、〈人民主権星系連合体〉。最大の〈人類統合体〉で人口六〇〇〇億あまり、四ヵ国をあわせて、一兆一〇〇〇億ほどである。これらの国家は細かな相違こそあれ、いずれも民主主義を標榜する政体を採っていた。
一二年前、四ヵ国は〈人類統合体〉ノヴァシチリア星系に集い、それまでの対立を忘れることにして、条約を結んだ。軍事同盟である。対象はとくに語られなかったが、招かれなかった唯一の国家、〈|アーヴによる人類帝国《フリューバル・グレール・ゴル・バーリ》〉であることは明白だった。
条約は〈ノヴァシチリア条約〉といい、正式には加盟国を〈ノヴァシチリア条約機構諸国〉と称する。もっとも、彼らは〈民主主義諸国〉と自称するのを好んだし、|帝 国《フリューバル》はごく簡明に〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉と呼んだ。
軍事同盟の目的は、|帝 国《フリューバル》が脅威を感じ、融和策に転換するのを期待してのことだった。が、帝国はノヴァシチリア条約を――あろうことか――好意的に受けとめていた。なんといっても、帝国以外の星間国家が敵であると自ら表明してくれたおかげで、宇宙の政治状況がずいぶんすっきりしたのだから。
それ以来、|帝 国《フリューバル》と条約機構諸国は穏やかな対立関係をとり、お互いに軽蔑しあっていたが、この一年で穏やかな対立関係は、深刻な対立関係へと成長しつつあった。
条約機構が主張するところによれば、その原因は|アーヴ帝国《バール・フリューバル》のハイド星系征服にあるという。
だが、それは口実にすぎない、とレクシュは見透かしていた。
ハイド星系の征服は七年前のことである。その当時、条約機構はいつものようにおざなりの抗議声明を共同で出したが、そのあとは完全に沈黙を守っていた。
ところが、一年ほど前にハイド星系の征服が許しがたい暴挙であることを発見したらしい。
|ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》にとくに新しい展開があったわけではない。新しい展開があったとすれば、条約機構の内部で起こったはずだった。
「これだったのね」レクシュはつぶやいた。
「なにがです?」レーリアが片眉をあげた。
「いえ」レクシュは苦笑して、「〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉はずいぶん戦争をしたがっているように見えたわ。そうじゃない? |ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》を独立させて、しかも彼らが保護できるよう、|帝 国《フリューバル》領内に回廊をよこせとか、かなり理不尽な要求をつきつけてきた。帝国が飲むはずのないことは、わかっているはずなのに」
「それが?」
「つまり準備ができたから、口実がほしかったということ」
「なるほど。この準備にはかなりかけたにちがいありませんね」
|通常宇宙《ダ ー ズ》を漂う〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉を採集し、開いてみる。|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》側の、目的にかなう位置に〈|門《ソード》〉があるかどうかは開いてみなければわからない。アーヴの腕《かいな》に位置する〈門〉を発見するのに、どれだけの〈門〉を調べたことだろう? そして、条件に適合した〈門〉を有人惑星の近くに、いいかえれば、使用中の〈門〉の近辺にまで通常宇宙を経由して運ぶ……。
運搬するには〈|門《ソード》〉がふたたび閉じるのを待たなければいけないだろう。〈|開いた門《ソード・グラーカ》〉は低エネルギー状態で放置されれば、自然と〈|閉じた門《ソード・レーザ》〉になる。だが、その半減期は一二年あるのだ。
「もしこの計画に一〇年かからなかったというのなら、わたしは奇跡を信じるわ。あるいは悪夢を」
「|ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》が誕生する以前からとりかかっていたのはまちがいありませんね」レーリアは賛成した。
「そう、|ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》云々はたまたま最近あった問題点にすぎない。それどころか、ノヴァシチリア条約にしても、この計画の目処《めど》がたったから、結ばれたのかも」
「わかりませんね」レーリアは両手を広げ、「どうしてそんな見え透いた嘘をつくんでしょうか、彼らは」
「この嘘でだますのは、ほかのだれでもないわ――彼ら自身よ」
「自己欺瞞ですか……。ますますわかりませんよ」
「わたしだって、彼らの心理にそれほど通じているわけじゃない。たぶん、正義の味方だという確信が欲しいんじゃないかしら」
「名誉なことです。われわれは悪の化身ですか」レーリアは冷笑に口髭を歪めた。
「おや、知らなかったの、レーリア?」レクシュはおかしそうに片眉を上げた。「わたしたちは生来の侵略者で、虐殺者なのだそうよ。いっぺん、〈人類統合体〉の歴史書でものぞいてご覧なさい。すべての災厄はアーヴの手になるものだと……」
レクシュがそこまでいったとき、探査任務についていた|通信士《ドロキア》が報告した。「敵|時空泡《フラサス》群に変化!」
若い|列翼翔士《フェクトダイ》が正体不明の|時空泡《フラサス》群をうっかり『敵』と断定してしまったのに、だれも訂正しようとしなかった。
レクシュは正体不明|時空泡《フラサス》群に視線を注いだ。
「|時空泡《フラサス》一個が一〇個に分裂。こちらに針路を変更しました。質量からみて、|突撃艦《ゲ ー ル 》級の単艦時空泡と思われます」
|時空泡《フラサス》の速度は質量のみに準拠する。この点で、技術による性能向上は見こめない。ごく単純に、軽いほうが速いのだ。
一般の艦隊は|戦列艦《アレーク》や|輸送艦《イサーズ》といった大質量の艦をともなっているから、巡察艦よりも遅い。しかし|突撃艦《ゲ ー ル 》のような小型艦だけで編成された艦隊はべつである。分離した|時空泡《フラサス》群が〈ゴースロス〉の捕捉を目的としているのは明らかだった。
「お客さんたちが|機雷《ホクサス》の射程に入るのはいつ?」
|通信士《ドロキア》はすぐに弾きだした。「艦内時間で二十一時十五分前後です」
四時間ほどの余裕がある。
「|副長《ルーセ》」|艦長《サレール》はいった。それまでとはうって変わって硬い声だった。「|第二級臨戦態勢《ヨグドズヴォス・マータ》。艦内時間二十時三十分に|第一級臨戦態勢《ヨグドズヴォス・カースナ》に移行予定とする。|先任砲術士《アルム・トラーキア》、戦術分析を。わたしたちの勝ち目がどのぐらいか、知っておかないと」
命令をくだすレクシュの心を、員数外乗員の|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》と|王女《ラルトネー》のことがよぎった。
ジントは『|主計修技館生活諸規則《リウェール・クナソト・ケンルール・サゾイル》』と居室で格闘していた。|募集事務所《バンゾール・ルドロト》の|翔士《ロダイル》の話によると、生徒はすべて入学前にこれを頭に刻みつけていることを期待されているという。
――無理だ!
デルクトゥー語でいちばん汚いことばを口にして、ジントは毒づいた。
|事務所《バンゾール》で|記憶片《ジェーシュ》を渡されたときには、これほど膨大な内容を隠しているとは思いもよらなかった。
この規則集を編んだだれかは、時代遅れの規則を削除するということを思いつかなかったにちがいない。その代わりにこみいった補則をつけくわえることで、ことをすましている。かと思うと、無慮数十画面の規則が箇条書きされたあとに、『|帝国暦《ルエコス》×××年×月×日に廃止』などと記されてあったりした。
――来月のはじめには入学しないといけないというのに……。
〈ゴースロス〉に乗船するまでのぞいてもみなかった自分にも責任があるというものの、まったく呪わしいかぎりだ。
ジントは『昼食における行儀作法』の項目にとりかかった。末尾を先にのぞいて、廃止されていないことをたしかめてから、百十二ヵ条におよぶ規則を暗記しはじめた。
わかりきったことを飛ばし読み、彼の日常感覚からはちょっと奇妙に感じられる項目を読みかえす。
ジントが没頭しはじめたころ、|警鐘《ドゥニート》が鳴った。
|端末腕環《クリューノ》の投影する画面から、ジントは顔を上げる。
――なんの|警鐘《ドゥニート》だろ?
ひょっとして『|諸規則《リウェール》』でわかるのではないか、と目次画面にしてみる。
だが、その必要はなかった。すぐに艦内放送があったからだ。
「告げる。こちら、|艦長《サレール》。総員、そのままの状態で聴くように。本艦の前方七八度、距離約一五四〇|天浬《ケドレル》を正体不明の|時空泡《フラサス》群が航行中。目的地は本艦とおなじ、|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》と思われる」情報を聴くものの頭にしみこませようというか、艦長の声はいったん途切れた。「いいこと、お嬢ちゃんたち、坊やたち。このままでいけば、わたしたちのほうが早くスファグノーフに着くのは確実だわ。でも、彼らはそれがあまりうれしくないらしくて、|突撃艦《ゲ ー ル 》単艦級の時空泡を一〇個、こちらへ差しむけてきた。彼らがどこから湧いてきたのかはまだ不確実だけれど、〈人類統合体〉の|艦隊《ビュール》らしいわね。みんな、これは戦いになりそうよ!」
これは訓練なのかな?――ジントは頭をひねった。
どうしても、そうは信じられなかった。あまりにも真に迫りすぎている。
「これは訓練じゃないわ」親切にも、レクシュの声が裏づけてくれた。「くりかえす、これは訓練じゃない。もし彼らがしつこいようなら、わたしたちは艦内時間二十一時十五分前後に戦闘に突入する。それに先立ち、艦内時間二十時三十分に|第一級臨戦態勢《ヨグドズヴォス・カースナ》に移行予定。非直の乗員はそのつもりで身体を休めておくこと。最後にくりかえす、ちゃんと頭にたたきこんでおくのよ、わたしの可愛いあなたたち。これは訓練でも演習でもない。|艦長《サレール》より以上」
ジントは呆然と天井を見つめ、耳にしたばかりの情報を整理しようとした。
――戦闘に突入するだって?
信じられなかった。ジントの知るかぎりでは、|帝 国《フリューバル》はどことも交戦状態にない。ましてここはアーヴの世界だ。安全無比の散歩道のはずではなかったのか。
ジントは混乱した頭で|紋章旗《ガール・グラー》を見つめた。救いはえられなかった。
投影画面に視線を戻す。
これからどんな行動をとればいいのか、見当もつかない。が、のんびりお勉強している場合でないのだけはたしかだ。
ジントは|端末腕環《クリューノ》を消した。
――どうしよう……。
艦橋に駆けつけるなり、通話をいれるなりして、説明を求めるのもためらわれた。ジントが詳細を知ったところで、なにかの役に立つとは考えられない。
「ジント、いいか」室外通話器からラフィールの声がした。
餓えた猫が新鮮な魚を見つけたように、ジントは飛びつく。「いいとも、入ってくれ、ラフィール!」
扉が開いた。ラフィールは戸口に佇んだまま、入ってこようとはしない。
「いったいどういうことなんだい?」
「聴いたとおりだ。わたしもそれ以上のことは知らない」とラフィール。「どうやら戦争がはじまるところに居合わせたみたいだな」
「そりゃ幸運」ジントはつぶやいた――まったく人生なんて、思いがけない幸運の連続だ。けつまずくのに苦労はいらない。「できれば、ぼくが叙任されるまでには終わっていてほしいね」
「望み薄だぞ」ラフィールは首をかしげながら、「われらは中途半端に戦争を終わらせるのは好きじゃないし、今度の相手は〈人類統合体〉みたいだからな。わたしが死ぬまでに終わるかどうか……」
「きみって、ほんとに人の気持ちを明るくするのに長けてるなぁ、ラフィール」ジントは溜息をついた。
「そんなことより、そなたを|艦橋《ガホール》につれてくるよう、命令された。すぐ来られるか?」
「参上いたしますとも」ジントは立ちあがって、|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》の|頭環《アルファ》をかぶった。「観戦用の特等席を用意してくれるのかなぁ」
「頼んでみるがよい」ラフィールは冷ややかに応じた。
艦橋につくと、ジントは異様な雰囲気を感じた。空気が硝子になったかのような緊張が張りつめている。
「ご足労いただいて恐縮です、|閣下《ローニュ》」とレクシュ。「アブリアル|翔士修技生《ベネー・ロダイル》もそこで待機するように」
「はい」ラフィールはジントの斜め後ろで直立不動の姿勢をとった。
「|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》。あいにくお席の用意がないのですが」|百翔長《ボモワス》は艦長席からジントを見あげていった。
「気にしないでください。立ったままでじゅうぶんです」
「事情はさきほどの艦内放送でわかっていただけたと思います」
「ええ。どうやら、戦闘になるとか」
|艦長《サレール》はうなずいて、「わがほうの勝利確率は〇・三七です。これは敵が最精鋭と仮定した場合の数字ですが、かりに彼らが老朽艦に乗った新米集団だとしても、この確率は五割に届きません」
「よくありませんね」死が差し迫っているというのに、ジントは不思議と平静だった。まったく現実感というものがえられない。きっと精神的に腰がぬけていたのだろう。
「ええ。逃げられれば、いちばんいいのですが、あいにく状況はそれを許しません」艦長は微笑んだ。「ですから、|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》には艦《ふね》をおりていただかねばなりません」
「なるほど」ジントはうなずく。妥当な提案だ。
|宇宙艦《メーニュ》は高度な技術の集積である。それを動かす乗員は、最低の階級の|四等従士《サーシュ・ゴーナ》でも一年以上の専門教育を経て配属されている。なんの技術もないジントが高貴な義務とやらに目覚めて助力を申しでても、ありがた迷惑なだけ。戦闘ちゅうに彼ができる最大の貢献は、邪魔にならないように居室でふるえていることだろう。
しかし、問題はある。|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》を航行中の巡察艦からどこへどうやっておりるか、だ。
艦長が先をつづけてくれることはわかっていたので、ジントは黙って待った。
「艦《ふね》に|連絡艇《ペ リ ア 》が載せてあります。小型ながら|平面宇宙航行機能《メ ー ン ラ ジ ュ》を備えています。これに乗って、一足先にスファグノーフへいってください。途中でいちど補給せねばなりませんが、あの|時空泡《フラサス》群よりは早く到着できるはずです。その先はべつの船をおつかまえください。スファグノーフには|通信艦隊《ビュール・ドロケール》の|基地《ロニード》がありますから、とくに幸運に頼らなくても、便はあるはず」レクシユはちらりとジントの背後に視線を投げかけた。「|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》まではアブリアル|翔士修技生《ベネー・ロダイル》がおつれするでしょう」
「そんな、|艦長《サレール》!」ラフィールは抗議の叫びをあげた。「わたしは|艇長徽章《ブセスパス》をもっていませんっ」
「しかし艇長課程はおえたはずよ」|百翔長《ボモワス》は指摘した。「この航行がおわれば、自動的に徽章はもらえる。単なる手続きの問題にすぎない。あなたは操舵できる、|修技生《ベ ネ ー 》」
「ですが、わたしはこの艦で……」
「|翔士修技生《ベネー・ロダイル》と議論するつもりはないわ。この艦の|艦長《サレール》はわたしじゃなくって?」レクシュはぴしゃりといった。
「納得できませんっ」ラフィールは一歩も引かない。「あえて申しあげます。わたしはアブリアルです、敵前から逃亡するのはアブリアルの恥……」
艦長は立ちあがり、金色の瞳でラフィールを睨みつけた。「そのような大言壮語はせめて|双翼の頭環《アルファ・マブラル》を戴いてからにするがいいわ、アブリアル・ネイ=ドゥブレスク・|パリューニュ子爵《ベ ー ル ・ パ リ ュ ン》・ラフィール。なにが敵前逃亡だというの? ここにあなたの戦闘部署はないのよ。あなたは未完成品、ここでは余計者にすぎない。だけど、わたしはあなたに任務を与えたわ。非戦闘員である|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》を戦場から去らせ、かさねて|帝 国《フリューバル》に敵艦隊と思われるものの接近を警告するという、重大な任務を。その任務を忌避することこそが敵前逃亡じゃなくって? 敵前逃亡の意味すらわからぬ無能ぶり、それこそを恥としないのなら、アーヴの忠誠にアブリアルは値しない。まだなにかいうなら、抗命罪で拘束するわ。続きは厳正さで名にし負う|上皇会議《ルゼー・ファニガラク》で述べなさい!」
あいだに入ったジントはおろおろするばかり。突然、一方の主役から傍観者の立場に降ろされて、なりゆきをうかがった。
蒼白となって、ラフィールは下唇をぎゅっと噛み締めた。それでも、うつむいたり、|艦長《サレール》の視線を避けたりしないのはさすがだった。
「考えちがいをしておりました、|艦長《サレール》」|王女《ラルトネー》はいった。
「わかればいいわ」レクシュはうなずいた。「ただちに、|連絡艇《ペ リ ア 》の発進準備にかかりなさい。わたしは|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》とまだ話がある」
「了解」ラフィールは敬礼した。「|連絡艇《ペ リ ア 》の発進準備にかかります」
「発進準備を終えたら、報告だけくれればいいわ。ここへ戻ってくるには及ばない」
「……、了解しました」
ラフィールとレクシュの視線がいっしゅん絡みあう。
「さあ、お行きなさい」レクシュはうってかわって優しくいった。「ラクファカールで会いましょう、|わたしの可愛い殿下《ファル・フィア・クフェーナ》」
「はい、かならず」ラフィールはまだなにかいいたそうだったが、もういちど敬礼するときびすを返した。
ラフィールの背中が扉に消えるのを確認すると、|艦長《サレール》はふたたびジントにむかい、「|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》、時間も空間も限られています。お身の回りの品は必要最小限にとどめてください」
「そのつもりです」ジントはうなずき、「残りは|帝都《アローシュ》で受けとれると信じていますから」
「|帝都《アローシュ》までお送りする予定が果たせなくて、申しわけありません」
「交通機関の混乱というのはヴォーラーシュでもよくありましたよ」
「そういっていただければ、気が楽になります。ところで、|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》」
「なんでしょう?」
「お身の回りの品のほかに、もっていっていただきたいものがあるんです」
「はい?」
レクシュは艦長席のうしろの壁にむかい、「銃器庫、開け。|百翔長《ボモワス》、レクシュ・ウェフ=ローベル・プラキア」
壁が開いた。かなりの数の個人用武器が並んでいる。
|星界軍《ラブール》の|翔士《ロダイル》が艦内で武器を携行する習慣を捨ててひさしい。|飾帯《クタレーヴ》にその名残をとどめるだけである。しかし、敵対的な環境で活動することや、乗員の反乱――星界軍の名誉のために言及しておくと、ここ二〇〇年のあいだはなかったことだ――に備えて、艦内に個人用の武器を保管していた。
レクシュは二挺の|凝集光銃《クラーニュ》を選び、|装帯《クタレーヴ》や|光源弾倉《ヤ ペ ー ル 》といっしょに差しだした。「一挺は|閣下《ローニュ》ご自身が、もう一挺はアブリアル|翔士修技生《ベネー・ロダイル》に渡してやってください。使用方法は彼女が承知しているはずです」
「どうしてこんなものが必要なんです?」不審だったが、銃を受けとった。
「用心のためです」|艦長《サレール》は床面の|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》に目をやって、「わたしはあれを敵侵攻艦隊の先行部隊と推察しています。そうでなければ、兵力を割いてまでして本艦をとめる意味がありませんから。しかし、彼らは単に本能的な殺戮衝動に突き動かされているだけなのだ、という疑いが頭から離れないのです」
「つまり……、ぼくたちがスファグノーフに着いたとき、すでに陥落していると?」
「そうでないことを祈っていますが」|百翔長《ボモワス》はかすかにうなずいた。
「あの、|艦長《サレール》」ジントはレクシュの真意を悟ったような気がした。「ほんとは|王女殿下《フィア・ラルトネル》を逃がすのが主な目的なのでしょう? ぼくなどよりはるかに護衛役にむいたかたがいらっしゃると……」
黄金を湛えた双眸に射すくまれて、ジントは口をつぐんだ。
だが、艦長の口調はあくまで丁寧だった。「誤解なさらないでください。非戦闘員を乗せている場合はなるべく戦闘を避けること、どうしても避けえない場合は非戦闘員の安全を講じること、これは|星界軍《ラブール》の指揮官すべてに課せられた義務です。また、アブリアル|翔士修技生《ベネー・ロダイル》に定まった戦闘部署がないことも事実。アブリアル翔士修技生が名もない|士族《リューク》の出であっても、わたしは彼女に|連絡艇《ペ リ ア 》指揮業務を執らせたでしょう」
「すみません、くだらないことをいってしまって……」ジントはうつむいた。彼はラフィールほど強くない。
「とはいえ」レクシュは目元を和らげ、「|王女殿下《フィア・ラルトネル》が|翔士修技生《ベネー・ロダイル》であった偶然を喜んでいないといったら嘘になります」
「気を使っていらっしゃるんですね、|艦長《サレール》」
「ええ」レクシュ|百翔長《ボモワス》は口元をほころばせた。「いかに軍にあっては身分は無関係といっても、|ラフィール殿下《フィア・ラフィル》は|皇 帝《スピュネージュ》になられるかもしれないおかたです。存外、英邁な皇帝になるかもしれません。そのときには、|修技生《ベ ネ ー 》時代の教育がよかったのだ、と認めさせること――それがわたしの野望です。まだ蕾のうちに散らせてなるものですか」
「そうですね」
「では、そろそろ行かれるがいいでしょう。居室でお荷物をまとめてください。案内をつけられないのは心苦しいのですが、|離着甲板《ゴリアーヴ》への道はおわかりですね」
「だいじょうぶです」ジントは応じてから、「そうだ。用意していただいた、わが家の|紋章旗《ガール・グラー》。いまは置いていきますが、いずれ乗艦の記念に戴ける日のことをお待ちしていますよ」
金色の虹彩に興味深そうな色がたゆたう。「たいへん|貴族《スィーフ》らしいお心遣いですよ、|閣下《ローニュ》」
「そうなんですか。よかった!」誉められたと解釈して、ジントは頭を下げた。「それでは、|艦長《サレール》、失礼します」
「|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》。|王女殿下《フィア・ラルトネル》をよろしく」
「|殿下《フィア》がぼくに頼るほど絶望的な状況はちょっと思いつけないですが」ジントは深々と頭を下げ、「そのときは微力を尽くして」
7 |〈ゴースロス〉の戦い《スラーショス・ゴースロト》
「|連絡艇《ペ リ ア 》、時空分離します」
|探査担当通信士《ドロキア・ロイロサセル》の報告に、レクシュ|百翔長《ボモワス》は無言でうなずく。
すでに全要員がつめかけている|艦橋《ガホール》は相変わらずぴりぴりしていた。|星界軍《ラブール》が最後に無敵ぶりを示したのは――ハイド星系征服のようなとるにたらない軍事行動を除外すれば――四七年前のカミンテール戦役である。現帝ラマージュが|皇太女《キルーギア》・|帝国艦隊司令長官《グラハレル・ルエ・ビューラル》として戦ったこの戦争は、長命のアーヴにも一昔前に感じられる。
もちろん、|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉に実戦を経験した者はいない。緊張するのも当然だった。
その中でレーリア|副長《ルーセ》がいち早くふだんの穏やかさをとりもどしていた。
「いきましたな、少年少女は」レーリアは艦長席の斜め後ろ――副長席から|艦長《サレール》に話しかけた。
「なにごともなければいいんだけどね」レクシュは頬杖をついて、離れていく青い輝点を見つめた。
「そう願っていますよ」レーリアはにこやかに、「おふたりとも風変わりな生い立ちをなさっていますからね、将来、おもしろい人物になるかもしれません。いまでもじゅうぶんおもしろいような気もしますが」
「そうね」レクシュはうなずいた。
アーヴ的なものの源と目される|王家《ラルティエ》で育ち、わずか一三で|修技館《ケンルー》に入学した|王女《ラルトネー》は、典型的なアーヴだった。
いっぽう、|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》はどうしようもなく地上的な部分を色濃く引きずっている、異色の|帝国貴族《ルエ・スィーフ》である。
じつに対照的なふたりだった。
「おふたりが好ましい影響をおよぼしあってくれればいいのですが」レーリアはことばを継いだ。
「おや、レーリア」レクシュは驚いて|副長《ルーセ》をふりかえった。「まるで|訓育教官《ベ セ ー ガ 》のような発想をするのね。|修技館《ケンルー》への転出をご希望?」
「とんでもない」レーリアは手をふり、「わたしは教育に責任をもつ柄ではないですよ。前線のほうが気が楽です。とくに戦争がはじまったからには」
「遠慮しなくていいわよ。卑怯だなんて思わない」
「思ってくれてもいいですよ、後方への転任希望をわたしが出したときには。けれど、いまはそのつもりはありません」
「そう、残念だわ」
「そんなにひどい|副長《ルーセ》ですかね、わたしは」レーリアは苦笑した。
「勤務評定を楽しみにしておくことね」レクシュはにっこりした。そして、前に視線を戻して、「|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》のことをどう思う、レーリア|教官《ベセーガ》は?」
「いい若者ではないですか。なにかしたときにアーヴの基準にかなっているのか無言で問うでしょう。わたしはたいそうあの眼が好きなのですよ」
「わたしも好きよ」レクシュは思いだし笑いをした。「ときどきぶつけられる直截な質問もね。この五日ほど、わが種族の性格について考えたことはなかったわ」
「|国民《レーフ》にはまだしも遠慮がありますが、|閣下《ローニュ》には遠慮がない」
「あれでも遠慮しているつもりなのよ」
「|殿下《フィア》にもいい機会ですよ、|閣下《ローニュ》と接するのは」
「そうね。あのおふたりをひきあわせたのは、わたしの最大の功績になるかも。でも、それもおふたりが|帝都《アローシュ》にちゃんと帰りついてのことだわ」
「よほどご心配なんですね」レーリアの声は笑いを含んでいた。
「心配しちゃおかしい?」レクシュは挑戦的な眼差しを副長にむけた。
「どちらかというとより切実な危機にあるのはわれわれのほうですからね。だからこそ、おふたりを送りだしたのでしょう。心配をするほど余裕のある状況にあるとは思えませんよ。上官を批判するのはたいへん心苦しいのですが」
「あなたが上官を批判するのに、心苦しさを覚えるとは、じつに味わい深い発見だわ」|艦長《サレール》は着々と近づきつつある黄色い輝点の一群を見つめた。「でも、あなたのいうとおり。いまは部下たちへの責任を果たすときね」
一九時三十七分――。
「|艦長《サレール》」|先任通信士《アルム・ドロキア》ユーンセリュア|前衛翔士《レ ク レ ー 》が報告した。「正体不明|時空泡《フラサス》群と交信可能範囲に入りました」
「こちらの艦名を名乗り、相手の正体を尋ねなさい」レクシュは命じた。
「了解」
巡察艦〈ゴースロス〉から|泡 間 通 信《ドロシュ・フラクテーダル》が発せられた。
【われ、|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉。貴下の船名および所属を明らかにされたし】
いらだたしい時間がすぎて、返信が来た。
「これは……」先任通信士は|時空泡《フラサス》の内表面にあらわれる模様に|空識覚器官《フローシュ》を澄まして、「通信ではありません。|挑 戦 信 号《アーガ・イゾーフォト》です!」
「決まりね」レクシュはつぶやいた。なにか彼女の知らない事情で動いている味方の|艦隊《ビュール》だという、一縷の望みは潰えた。
だが、むしろすっきりした気分だった。
「|挑 戦 信 号《アーガ・イゾーフォト》、鳴りやみません。返信しますか?」
「いいわ、ほっときなさい。遊びたいなら、がんばって追いつくことよ」
血に飢えた信号を雄叫びのように打ち鳴らしつつ、一〇個の|時空泡《フラサス》が迫ってくる。
それまで黄色く表示されていた|時空泡《フラサス》は、いまや敵であることを示す赤い輝点で表象されていた。
二十時三十分――。
「時間です、|艦長《サレール》」レーリアがそっと知らせた。
「わかった」レクシュは全部署全乗員に放送した。「告げる。こちら、|艦長《サレール》。正体不明の|時空泡《フラサス》群ははっきりと敵意を示したわ。ただいまより|第一級臨戦態勢《ヨグドズヴォス・カースナ》に移行する。|与圧兜《サプート》着用のうえ、総員、戦闘配置につけっ!」
同時に、|警鐘《ドゥニート》が艦内に鳴り響く。
艦長席の前に|戦闘指揮卓《ラトーニュ》がせりあがった。その表示画面には|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》が映しだされているが、近距離が範囲指定されているので、まだ敵の姿は入っていない。
レクシュは|接続纓《キセーグ》を|戦闘指揮卓《ラトーニュ》につなぐ。
艦長の命令にもかかわらず、艦橋ではだれも|与圧兜《サプート》を着用しなかった。艦橋のしたには|時空泡発生機関《フ ラ サ テ ィ ア》があり、共通の球形壁で厳重に守られている。ここの気密が破られるときは、艦《ふね》の死ぬとき。要するに艦橋で与圧兜を着用しても無意味なので、かぶらないのが不文律になっていた。
「総員、戦闘配置完了」艦内配備状況表示装置を監視していたレーリア|副長《ルーセ》が報告した。
「|機 雷 戦《ホクサティオクス》用意」|艦長《サレール》はすかさず、「第七から第十、|機雷《ホクサス》に|反物質燃料《ベ ー シ ュ》を充填しなさい」
|機動時空爆雷《サテュス・ゴール・ホーカ》、略称・|機雷《ホクサス》は無人ながら|時空泡発生機関《フ ラ サ テ ィ ア》を備えている、いわば小型の|平面宇宙航行船《メ ー ニ ュ》である。その体積質量はかなりのものだ。したがって、巨大な巡察艦にもあまり多くはつめない。〈ゴースロス〉に搭載可能なのは一〇基のみ、しかも第一から第六まではすでに演習で使ってしまっていた。
|機雷《ホクサス》の爆発力と推進力は対消滅による。|反物質燃料《ベ ー シ ュ》をいつも搭載していては保守上の危険が大きいので、使用するつど、母艦の|燃料槽《ベケーク》から供給することになっていた。
|監 督《ビュヌケール》のギュムリュア|軍匠十翔長《ローワス・スケム》が反物質燃料槽甲板に燃料移送の指令を飛ばした。
磁気管を伝わって、反陽子が機雷甲板に流れこむ。機雷甲板では四基の|機雷《ホクサス》の磁気閉込容器に|反物質燃料《ベ ー シ ュ》を配分した。
「|反物質燃料《ベ ー シ ュ》充填完了」機雷甲板からの報告を|先任砲術士《アルム・トラーキア》サリューシュ|前衛翔士《レ ク レ ー 》が艦長に上げた。
「|機雷《ホクサス》射出。|時空泡《フラサス》内で待機のこと」
四基の|機雷《ホクサス》が投擲された。機雷は〈ゴースロス〉とおなじ時空にとどまり、ゆっくりと自転をはじめる。
二十一時十三分――。
「敵|時空泡《フラサス》、|機雷《ホクサス》の射程に入ります」|探査担当通信士《ドロキア・ロイロサセル》が報じた。
サリューシュが問いかけるように見あげたが、艦長は無言でかぶりをふった。
一〇個の|時空泡《フラサス》はさらに急迫し、〈ゴースロス〉を包囲する隊形をとりつつある。
「操典どおりの襲撃隊形ね」レクシュは批評し、「|機雷《ホクサス》、|時空泡《フラサス》を発生せよ」
「|機雷《ホクサス》、|時空泡《フラサス》を発生させます」|機雷担当砲術士《トラーキア・ホクササセル》が復唱した。すみやかな操作のあと、顔を上げ、「時空泡発生確認!」
もう|戦闘指揮卓《ラ ト ー ニ ュ 》の画面にも敵|時空泡《フラサス》群が表示されていた。それには赤い数字で番号がふられている。
「|機雷《ホクサス》照準。七 - 三、八 - 一、九 - 六、一〇 - 七」レクシュは命じた。完璧を期すなら、ひとつの|時空泡《フラサス》に二発の機雷がほしい。しかし、いまの状況では望むべくもなかった。
「諸元入力」|機雷担当砲術士《トラーキア・ホクササセル》の声が艦橋の緊迫感を高めた。「照準完了」
レクシュは|頭環《アルファ》を外部入力に切り換えた。艦の感知装置類の出力が彼女の|航法野《リルビドー》に流れこむ。
彼女の|空識覚《フロクラジュ》から艦橋の感触が消えた。レクシュは球状空間の中心にいる。|時空泡《フラサス》の内表面は|時空粒子《スプーフラサス》との衝突で灰色をささやき、戦いの前の静寂をはらんでいた。
「|通常空間戦《ダディオクス》用意。|主機関《オプセー》点火」
「了解。|主機関《オプセー》、点火します」ギュムリュアが復唱した。
反物質と物質がせめぎあう、たのもしい振動が艦をつつむ。だが、この振動を不気味と感じる乗員も少なからずいるだろう。
「|先任砲術士《アルム・トラーキア》、|電磁投射砲《イルギューフ》の準備を」
「了解。|電磁投射砲《イルギューフ》、発射準備します」サリューシュ|前衛翔士《レ ク レ ー 》は|制御籠手《グーヘーク》をはめていた。|時空泡《フラサス》内の操艦は彼の担当だ。前衛翔士はあいた右手で電磁投射砲の安全装置を解除し、最初の弾丸を砲に送りこんだ。「電磁投射砲、発射準備完了」
赤い輝点は青い輝点――巡察艦〈ゴースロス〉を完全に包囲していた。絞りこむように曲線を描きながら、獲物に接近しつつある。
――ほんとうに操典どおりだわ。
レクシュは賛嘆した。敵の練度の高いことが見てとれる。
相互連絡が難しい|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》内できれいな隊形を維持するのはかなり困難なことなのだ。
しかし練度では敗けていない、と|艦長《サレール》は確信していた。たしかに〈ゴースロス〉はわずか三ヵ月前に就役したばかりで、乗員に一体感が形成されているとはいいがたい。だが、人ひとりをとれば、熟練した|軍士《ボスナル》ばかりであり、己れの仕事をじゅうぶんにこなすだろう。
二十一時三十二分――。
レクシュは席を立って、|飾帯《クタレーヴ》から|指揮杖《グリュー》をひきぬいた。艦長席が床に沈む。
|戦闘指揮卓《ラトーニュ》の|通話器《ルオーデ》で全乗員に、「わたしの可愛いあなたたち。さあ、はじめるわよ。待ちくたびれていたでしょ――|戦闘開始《サポルガ》!」
レクシュが胸を反らすと同時に、|警鐘《ドゥニート》が艦内の空気をふるわせた。
艦長は|指揮杖《グリュー》で|機雷担当砲術士《トラーキア・ホクササセル》を指して、「全|機雷《ホクサス》、分離せよ」
「|機雷《ホクサス》、分離します」と砲術士。「第七、|時空分離《ゴール・リュトコス》。第八、時空分離。第九……」
|機雷《ホクサス》がつぎつぎにレクシュ艦長の|空識覚《フロクラジュ》の範囲から去っていく。
〈ゴースロス〉を表わす青い点から四つの青い点が離れた。それぞれの軌跡を描いて、赤い点に襲いかかる。
「第八、|時空融合《ゴール・プタロス》……、敵第一|時空泡《フラサス》、消滅!」
|探査担当通信士《ドロキア・ロイロサセル》の報告に艦橋がどっとわいた。
レクシュは知るよしもないが、第一|時空泡《フラサス》にくるまれていた敵艦は〈人類統合体〉平和維持軍の駆逐宇宙艦〈KEO3799〉だった。艦長カルツェン少佐以下二三名の乗員は、この長い戦争における最初の死者として記憶されることになる。
第七と第十もひとつずつ敵の|時空泡《フラサス》を葬った。時空泡が|時空粒子《スプーフラサス》と砕け散り、|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》を波打たせる。
だが、第九はしそんじた。敵の第六|時空泡《フラサス》はなにごともなかったように、つめよってくる。
「回頭、右四〇度! 敵第四に体当たりするっ」時空泡の運動制御を担当する|操泡担当航法士《リルビガ・フラクトロショサセル》を、|指揮杖《グリュー》で指し示す。
敵は同時に多方面から|時空融合《ゴール・プタロス》を果たし、巡察艦を袋叩きにする心づもりのようだ。基本に忠実で手堅い作戦だが、〈ゴースロス〉がそれにつきあう義理はない。
「了解っ」|航法士《リルビガ》がこたえた。
不動の青い点の周囲で|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》がつうっと滑った。『四』の番号をともなった、赤い点が突進してくる。
「距離、一〇〇シェスケドレル、五〇シェスケドレル……」
「時空融合しますっ、位置……」
|艦長《サレール》の|空識覚《フロクラジュ》は、すでに|時空泡《フラサス》の内表面の一部が多量の|時空粒子《スプーフラサス》で泡立つのを感知している。
「艦首を融合面に」レクシュは|指揮杖《グリュー》を不吉に泡立つ内表面に突きつけた。指揮杖の示す方向は艦橋に備えられた装置で感知されて、|思考結晶《ダキューキル》の処理のうえ、サリューシュの|空識覚器官《フローシュ》に入力される。いま、|先任砲術士《アルム・トラーキア》の|空識覚《フロクラジュ》は、艦長と同じく外部入力によって艦外空間を感じている。指揮杖の動きはその感覚と重なって、|前衛翔士《レ ク レ ー 》に認識されているはずだ。「融合しだい、命令を待たず撃て」
「了解」サリューシュの声は高ぶっていた。
「総員、|電磁投射砲《イルギューフ》の斉射に備えろっ」|副長《ルーセ》が全乗員にむけて警告した。
艦首が泡立つ内表面につきだされた。
「|時空融合《ゴール・プタロス》っ!」
教えられるまでもない。
静謐な球状空間に巨大な隧道が口を開けていた。その彼方はべつの宇宙、宇宙の中心に位置するのは敵の宇宙艦。破壊の意志をむきだしに〈ゴースロス〉と対峙する。
レクシュが隧道を認識するのと同時に、|電磁投射砲《イルギューフ》が放たれた。
巡察艦の主戦兵器、|電磁投射砲《イルギューフ》を〈ゴースロス〉は前方に四門、後方に二門、装備している。その前方の四門が一斉に〇・〇一光速にまで加速された|核融合弾《スピュート》を吐きだした。
つづいてもう一斉射。
大質量の反動で、重《ワ》力制《ム》御機《リ》関《ア》も過負荷ぎみとなり、身体を固定していなかった乗員たちは前につんのめった。
レクシュは|戦闘指揮卓《ラトーニュ》につかまり、揺れに耐える。
あわせて八発の|核融合弾《スピュート》は無秩序噴射によって敵艦の防御弾幕をかわしつつ、突進していく。
最後の姿勢制御をすませると、それはありったけの噴射剤を後方に叩きつけ、最終加速をして八方から目標めがけて飛びかかる。
敵宇宙艦も|反陽子砲《ルニュージュ》を放った。が、ほとんど真正面から撃たれた反陽子流は、〈ゴースロス〉が張り巡らす磁場に弾かれて、むなしく虚空へ拡散した。
敵艦は一瞬にして爆散する。
しかし勝利を喜んでいる暇はない。
「時空融合しますっ、敵第二、第五、第六……」
|時空泡《フラサス》の内表面はすでに六ヵ所が|時空融合《ゴール・プタロス》の兆しを見せていた。
「艦首を!」レクシュは、もっとも早く融合すると判断した敵第二|時空泡《フラサス》との融合面を|指揮杖《グリュー》でつく。
艦の鼻面がむいた。敵愾心に満ちた宇宙が口を開くいっしゅん前に一斉射が送りこまれる。
結果を確かめることなく、次の目標へ。
巡察艦のほぼ真後ろで|時空融合《ゴール・プタロス》が起きつつあった。
「艦尾!」レクシュは|指揮杖《グリュー》を肩越しに突きだす。
〈ゴースロス〉は身じろぎするように姿勢を整え、艦尾の二門から二斉射を放った。
敵第六|時空泡《フラサス》はせっかく融合したのに、逃げだすようにすぐ分離した。
その刹那をついて、最初の一斉射が時空に飛びこむ。残りの二発は虚しく巡察艦の泡のなかで自爆したが、分離直後の敵|時空泡《フラサス》は消散した。
艦の側面では敵第五|時空泡《フラサス》が融合を果たしていた。
艦首も艦尾も間に合わない。
「可動砲群で対応っ」薙ぎ払うように|指揮杖《グリュー》を横へ出す。
巡察艦〈ゴースロス〉には可動式の|凝集光砲《ヴォークラーニュ》や|反陽子砲《ルニュージュ》が搭載されており、艦橋から集中制御される。砲手たちは大小の砲をめぐらせ、敵艦に|凝集光《クランラジュ》と反陽子の奔流を叩きつける。
しかし|凝集光《クランラジュ》や反陽子流に電磁投射砲弾のような自動追尾機構が備わっているはずもなく、命中率ははるかに低い。また、威力が劣ることも否めなかった。
敵艦は抱えていた四基の反物質弾道弾を分離し、|反陽子砲《ルニュージュ》を放った。
弾道弾のほうは問題ない。予備加速されていない弾道弾は速度に欠け、巡察艦の防御弾幕にとっては格好の獲物だ。
だが、敵宇宙艦の艦首に搭載された|反陽子砲《ルニュージュ》は巡察艦の可動式よりも火力にすぐれ、あたりどころがよければ、巨艦を一瞬にして撃破することができる。
敵宇宙艦から放たれた反陽子流が一塊となって、〈ゴースロス〉に押し寄せた。
|防御磁場《スネセーブ》に速度を緩められつつも、反陽子流は〈ゴースロス〉の|結晶陶質《リュアボン》の外殻に突き刺さった。外殻を瞬時に透過し、隔壁内部に貯えられた水を沸騰させる。さらに、重金属の内殻に達し、それを劣化した。いっぽう、煮えたぎる水は外殻の一部と姿勢制御噴射口をひとつ吹き飛ばす。
|監 督《ビュヌケール》の操作を待つまでもなく、〈ゴースロス〉の|思考結晶《ダキューキル》は被害を知り、その噴射口なしで制御する態勢に切り換えたが、運動性能は格段に落ちた。
多数の発生源にかきまわされた|時空泡《フラサス》は、よじれ、ねじくれる。のたうつ宇宙のなかで戦いが推移していく。
二十三時五分――。
第十と仮称された敵艦が成長するプラズマ塊に変わる。
残るは二隻だ。
巡察艦も傷ついた。可動砲群の半数近くは沈黙し、姿勢制御噴射口も数多く損傷している。
「三番|凝集光砲《ヴォークラーニュ》、大破!」
「前部三号噴射口、使用不可能」
「|主機関《オプセー》の出力が……」
艦内各部署から凶報がたえまなくもたらされる。
ギュムリュアは応急修理班を編成し、修復可能な破損箇所に差しむけるのに、忙殺されていた。
「九〇七号区画、減圧中、残留乗員なし。閉鎖します」艦内環境をつかさどるディーシュ|書記《ウイグ》の額にも汗が光る。
これで閉鎖された区画は四〇を超えた。死傷者と行方不明者は五〇人以上。定員二二〇名の|軍 艦《ウイクリュール》においては相当な被害だ。
レクシュは目をつむり、|空識覚器官《フローシュ》を澄ました。
空間は塵っぽかった。夥しい破片が漂っている。ひょっとしたら人間もまじっているかもしれない。たとえそうだとしても、救出はできない。艦載艇を出せば狙い撃ちされるだろう。それに――荒れ狂う放射能嵐から身を守るのに、|軍衣《セリーヌ》は薄すぎる。
二隻の敵艦は蝶のごとく軽やかに飛びまわり、凶悪な息を吐きかけてくる。
|電磁投射砲《イルギューフ》に捕らえようとするが、巡察艦の動きは悲しいほどに鈍く、たやすく躱《かわ》されてしまう。
もちろん、可動式の火器は間断なく砲火を浴びせかけている。
|凝集光《クランラジュ》が敵艦の外殻を打ち砕き、破片を昇華する。その気体に、軍艦の吹きだす駆動炎の電離水素が加わり、|時空泡《フラサス》内の粒子密度をしだいに上げていく。浮遊する陽子と反陽子が衝突し、電磁波に変わる。閉ざされた小宇宙は|大爆誕《ドリアロン》直後のように灼熱した。
が、これは生命誕生の予感を胎んだ宇宙ではない。あるのは死のみ。あからさまな憎悪がぶつかりあい、死が産みだされていく。
敵艦の片割れが可動砲群の火線によって後部|電磁投射砲《イルギューフ》の射界に追いこまれようとしていた。
「艦尾!」レクシュは|先任砲術士《アルム・トラーキア》の注意を喚起した。
鬱憤をはらすかのような三斉射。
激しい反動が巡察艦の巨体を蹴りあげる。
その後方で爆発する球が生まれた。
――あと一隻!
|艦長《サレール》の思いはすべての乗員と同じだったにちがいない。
最後の一隻は側面から|反陽子砲《ルニュージュ》を浴びせかける。
その一撃が致命的なものとなった。
「|防御磁場《スネセーブ》、消滅……」あえぐようにギュムリュアが報告した。
絶望的な空気が艦橋に漂った。
「あきらめるんじゃない、わたしの可愛いあなたたち!」レクシュは叱咤した。「あいつをわたしたちの宇宙から叩きだすのよ。艦首をっ」
〈ゴースロス〉はのろのろと艦首方向を変えはじめた。こんなに働いたのに、まだ休ませてもらえないのか、とでも文句をいいたそうな動きだ。
「可動砲群、敵艦の右に集中せよ。艦首方向に釘づけにするっ」
だが、そのあいだにも敵宇宙艦は猛然と前進しつつ、|反陽子砲《ルニュージュ》を撃ちつづけた。
|防御磁場《スネセーブ》を喪った巡察艦に、それまでとは比べものにならない反陽子の洪水が襲いかかる。
可動砲は敵宇宙艦の外殻を削ぎ落としたが、勢いをとめることはできない。
ついに一条の反陽子流が〈ゴースロス〉の外殻を透過し、内殻をもやすやすとつらぬいて、|反物質燃料槽《ベ ケ ー ク》を打ちのめした。磁気の檻が破れ、脱走した反陽子は巡察艦を構成する物質に襲いかかる。
二十三時二十七分――。
巡察艦〈ゴースロス〉、爆散。
少年少女は巡察艦の死を知らない。|質量波《セースラズ》が無限に到達するといっても、|連絡艇《ペ リ ア 》の貧弱な設備ではとらえられる限界があり、〈|門《ソード》〉が障害になっていた。
それはふたりにとって幸いというべきかもしれない。まだ希望が残されているいまでも、連絡艇の|操舵室《シル・セデール》はじゅうぶんに暗い雰囲気なのだ。
ジントは副操舵士席で、居心地悪く坐っていた。
|短艇《カリーク》とちがって、|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》を航行する連絡艇は|制御籠手《グーヘーク》だけでは操縦できない。したがって、宇宙船にふさわしいとジントが感じる操舵装置が席の前にあった。
とはいえ、〈|門《ソード》〉もまばらなこの領域ではひんぱんに操舵をする必要はない。
操舵士席のラフィールはむっつりと押し黙り、|平面宇宙図《ヤ ・ フ ァ ド 》を映しだす画面を睨みつけていた。
ジントは隣席を一瞥して、ひそかに溜息をつく。
独立した宇宙である|時空泡《フラサス》が内包するものは、わずかな浮遊粒子をのぞけば、この連絡艇ただひとつ。連絡艇の操舵室のうしろには|気閘室《ヤドベール》があり、さらに洗面所と仮眠室がつづいている。それのみが、この宇宙で人類に許された居住空間だ。
――この宇宙に生きるのは、ぼくたちふたりだけ……。
というのに、この宇宙に存在する知的生命体の半分はきわめて深い憂鬱に沈みこんでいる。もう半分も、あまり上機嫌とはいえないが、せめていますこし明るい雰囲気を宇宙にもたらそうという気持ちはあった。
「あのう、ラフィール」ジントは会話を試みる。
ラフィールは顔を上げた。その表情からはなにを考えているのかうかがいしれない。
「きみは|パリューニュ子爵《ベ ー ル ・ パ リ ュ ン》だよね」
「うん、そうだ」
「|領地《リビューヌ》の話をきかせてほしいな。|パリューニュ子爵領《ベールスコル・パリュン》ってどんなところ? |薔薇の国《パリューニュ》っていうぐらいだから、薔薇が咲いているんだろうね」
「そうじゃない」気乗り薄のようすながら、ラフィールは相手をした。「薔薇どころか、地衣類もない。どの惑星にも微生物すらいないんだ」
「じゃあ、なんで|薔薇の国《パリューニュ》なんて?」
「探査を担当したのが花好きな男で、適当に花の名をつけてまわったんだ。|百合の国《ギュリューニュ》とか|椿の国《スペシューニュ》とか。それだけのこと」
「ふうん、じゃあ、どんなところ?」
「べつに話すほどのものはない。黄色い恒星がひとつあって、七つの惑星がめぐってる。第二惑星は、手を加えれば、人が住めるかもしれない。だから、|皇 族《ファサンゼール》の義務から解放されたら、ちょっといじってみようと思う。|薔薇の国《パリューニュ》の名にふさわしく、薔薇を一面に咲かしてみたい」
「すてきだね」
「であろ」
また沈黙のとばりが操舵室に重たく垂れた。
ジントはふたたび苦い静寂をどうしようかと頭を悩ませることになった。
が、沈黙を破ったのはラフィールだった。
「ジント」
「なに?」
「そなたに感謝を」
「なにが?」
「気を遣ってくれてるのであろ? 洗練されてるとはとてもいいがたいが、そなたの心遣いはうれしい」
「不器用で悪かったね」ジントはむくれると同時に、安心した。
「怒るな」ラフィールは口元に笑みを浮かべ、「わたしは礼をいってるんだぞ」
「怒っちゃいないさ」
「わたしは……」ラフィールはまた画面を凝視し、「悔しいんだ。肝腎なときになんの役にも立てなかった……」
「ひどいな」ジントはぼそりといった。
「え?」いぶかしげな視線を|王女《ラルトネー》はよこす。
「ぼくの役には立っているじゃないか。いまのぼくはきみだけが頼りなんだよ。ぼくの生命じゃ、きみの気高い義務感を満足できないってわけ?」
「……。そうだったな。許すがよい」
「あの艦《ふね》のことだったらだいじょうぶさ、きっと」なんの根拠もなく、ジントはいった。
「そうだな……」
「そうだよ、きっと」なかば自分にいいきかせるつもりで、ジントはつぶやく。
「なあ、ジント」
「うん?」
「わたしの出生の秘密の話、憶えているか」
「ああ、もちろん」どうしてきゅうにそんな話が蒸しかえされるんだろう、とジントは戸惑った。
「内緒だぞ、ここだけの話だけど……」
「いいね、内緒の話は大好きだ」|王女《ラルトネー》の気分を変えられるなら、とジントは努めて明るい口調でいった。
「わたしの|遺伝子提供者《ラ ル リ ー ヌ》は|艦長《サレール》だったんだ」
「へ?」ジントは聞きちがいではないか、と疑った。「つまり……、レクシュ|百翔長《ボモワス》がきみのお母さんだってこと?」
「母じゃない。|遺伝子提供者《ラ ル リ ー ヌ》だ」
「聞き流してくれよ、ぼくはまだ地上的感覚から離れられないんだ」と弁解して、「けれど……、ぜんぜん、そんなようすはなかったじゃないか」
いや、あったな――ジントは思いなおした。別れのとき、『|わたしの可愛い殿下《ファル・フィア・クフェーナ》』、|艦長《サレール》はラフィールをそう呼んだ。なにか上官と部下にかよいあう以上のものをたしかに感じた。
「|星界軍《ラブール》をなんだと思ってるんだ。古い知り合いでも関係ない。ふたりだけのときはべつだけど」
「やれやれ、複雑だね」ジントは両手をさしあげた。「それにしても、ねぇ……」
「わたしは誇らしかった。|プラキア卿《キュア・プラケール》……、|艦長《サレール》なら子どものころから知っているし、尊敬していたから。わたしがあのかたを半身の源としていることは誇らしい。なにより、わたしは|愛 の 娘《フリューム・ネグ》だったんだ。艦長は父の|想人《ヨーフ》だったんだから。そうじゃないかと思ってた、そうであればよいなと思ってた……」
「子どものころから知っていたんなら、訊いてみればよかったのに」血脈と家族を分離するアーヴの慣習の徹底ぶりに、ジントは半ば呆然としている。
「いったであろ。わたしはまだ成人扱いじゃなかったから、父の同意がなくては……」
「そうじゃなくて、|艦長《サレール》にちょくせつ尋ねてみればよかったじゃないか」
ラフィールは目を大きく見開いて、まじまじとジントを見つめた。
ジントは不安を感じ、「なにか変なこと、いった?」
「うん」|王女《ラルトネー》は力をこめてうなずいた。「とんでもなく変なことだぞ」
「そうなの。でも、なにが? |艦長《サレール》にちょくせつ訊くのが、そんなにおかしい?」
「礼儀というものがある」
「はあ……。つまり、|遺伝子提供者《ラ ル リ ー ヌ》に、あなたがわたしの遺伝子提供者かって訊くことは礼儀にはずれている?」
「それはとっても恥ずかしいことなんだぞ、ジント」
「そう」ジントは腕組みして、考えこむ――よくわからない。「どうして、恥ずかしいの?」
「恥ずかしいのに理由があるか。恥ずかしいから、恥ずかしいんだ」
――いわれてみれば、そんなものかもしれないな……。
ジントは無理やり納得した。あなたはぼくのお母さんですか、という質問を発するのは彼の非アーヴ的感覚からしても、いくぶん勇気が要る。
「それに、訊いたところで、答えが返ってくるはずもない。子どもに|遺伝要素《デルラーシュ》を教えられるのは親だけなんだから」
「それも礼儀?」
「そう、礼儀だ」
「複雑だなぁ」
「そんなことはないと思うぞ」
「いっぺん、きみを故郷につれていって、何年か生活させてやりたいなぁ。そうすれば、『複雑』ってことばの意味もわかるよ」
「そうか。|皇 族《ファサンゼール》の義務をおえたら、つれてってもらってもいいな」ちょっと弾んだ声で、ラフィールはいった。
ラフィールはいった。
「ああ、ぜひ」こたえながら、ジントは苦い思いを噛みしめた。
――きみは忘れているよ。そのときになってもきみは、一○歳ぶんだけ成長した、若々しい姿でいるだろう。けれど、ぼくは老いぼれているか、死んでいるのさ……。
「でも、お父さんの……、|クリューヴ王殿下《フィア・ラルト・クリュブ》の|想人《ヨーフ》だって? それを訊いたり、教えたりするのは、礼儀にはずれないの」
「当たり前だ」
「そんなものかなぁ」
「そうだぞ。これも複雑か?」
「とっても」ジソトは保証した。「きみはそれをだれからきいたんだ? つまり、レクシュ|百翔長《ボモワス》が|クリューヴ王殿下《フィア・ラルト・クリュブ》の恋人だって」
「きかなくてもわかる。|艦長《サレール》はよく|王宮《ラルベイ》に来ておられた」
「複雑だなぁ」
「聞き飽きたぞ、ジント」ラフィールは眉根にしわを寄せ、「なんとなく不愉快だ」
「気にしないでくれ」と肩をすくめる。
ラフィールはなにかいいたげにジントを見ていたが、やがて画面に視線を戻し、「遺伝子を抜きにしても、わたしは|プラキア卿《キュア・プラケール》が好きだ。|王宮《ラルベイ》でも尊敬できるかただけど、艦のうえではもっと尊敬できた。ほかの|翔士《ロダイル》も|従士《サーシュ》も。なかには虫の好かない者もいたけれど、みんな、無事であればいい……」ラフィールは祈るようにうなだれた。
「そうだね」ジントは巡察艦でことばをかわした一人ひとりを思い浮かべた。わずか五日の交際ではあったが、その限りでは好人物ばかりだった。暴虐な侵略者というアーヴにたいする先入観はすっかり覆されていた。すくなくとも、彼らの死を願う理由はない。
ラフィールはしばらくそのままの姿勢でじっとしていた。
せっかく追い払った深海の底のような雰囲気がふたたびやってきた。
こんどはジントも口を出しかねて、ぼんやり操舵装置を眺めた。
「ジント」やがて、ラフィールは頭を上げ、「そなたの故郷のことをきかせてくれないか?」
「あ、ああ。お安いご用だ」ジントはほっとしながら、「なにからはじめようかな。きみの|領地《リビューヌ》とちがって、いっぱい話すことがあるんだよ……」
ジントは無意識のうちにもてあそんでいた胸の模造宝石に気づき、そこに刻まれていた生物――レズワンの悲惨極まる食生活についての話題から入ることにした。
それから二日間、交替でとる仮眠の時間以外は、ジントは惑星マルティーニュの生物たちのことをうろおぼえとでっちあげをはさみながら話しづめ、驚いたことに、何度かラフィールの笑いをとることにさえ成功した。
連絡艇のなかで二日を過ごしたあと、ジントとラフィールは|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》に到着した。
8 |フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》
|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》は青い恒星とふたつの気体惑星、それと無数の岩屑からなる。
たとえ|帝 国《フリューバル》最高の惑星改造技術をもちいても、居住可能惑星を生みだすのは不可能だったし、岩屑にもわざわざ|平面宇宙航法《フ ァ ー ゾ ス》を使って運びだすほどの資源はない。
|パリューニュ子爵領《ベールスコル・パリュン》以上に、なにもない星系である。
しかし|男爵家《リュムジェ》は、ちゃんとこの|所領《スコール》から収入をえていた。恒星さえあれば行なえる事業があるのだ。
つねに需要のある、安定した商品――|反物質燃料《ベ ー シ ュ》の製造である。
物質をくるりと裏返して反物質にすることは理論的に不可能だとされている。反物質がほしければ、技術文明の黎明にさかのぼる古典的な方法に頼らざるをえない。
恒星の輻射を太陽電池で受け、そのエネルギーを直線加速器に注ぎこんで、素粒子を加速する。高速の素粒子を互いにぶつけると、衝突エネルギーが凝縮して物質と反物質が対生成する。
この|男爵領《リュームスコル》でも、ほかの資源のない星系とおなじく、たくさんの|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》が稼働していた。
恒星フェブダーシュに間近い軌道を多数の円盤がめぐっている。それが|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》だ。円盤の恒星にむけた側面は太陽電池で張られ、その裏面には一六本の直線加速器が放射状に並ぶ。
恒星の放つ熱と光は太陽電池に汲みあげられ、直線加速器に流しこまれて、円盤の中心部で陽子と反陽子に生まれかわる。
そのうち、回収されるのは反陽子のみ。陽子は洩れでるままに捨ておかれる。陽子を捕獲する罠を別途に設置するよりは、気体惑星から運搬したほうがはるかに安価ですむ。
回収された反陽子は|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》に接続している容器に蓄めこまれる。満杯になった容器は独立した小惑星となり、万が一の事故のさい、工場を巻き添えにしないように、工場群より外側の軌道におかれる。
|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》群のさらに外周を|フェブダーシュ男爵館《リューメクス・フェブダク》が回っていた。男爵館に連れ添うように、|フェブダーシュ門《ソード・フェブダク》がある。
いま、〈|門《ソード》〉から一隻の|連絡艇《ペ リ ア 》が|通常宇宙《ダ ー ズ》に侵入した。
「外の映像を出してくれよ、ラフィール」ジントは頼んだ。
「うん」|操作籠手《グーヘーク》をはめた手が複雑な形で握り締められると、|操舵室《シル・セデール》の壁が星々で埋めつくされた。
「星がこんなに心和むなんて知らなかったなぁ」ジントは心からいった。|時空泡《フラサス》内表面は陰気な灰色。それに比べれば、輝く星々はまだしも親しみがもてる。
アーヴが『|星たちの眷族《カルサール・グリューラク》』と自称し、宇宙を故郷と見做す気持ちがほんのすこしわかった。
「まだ先は長いぞ、ジント」ラフィールは冷酷だった。「補給を終えたら、すぐ|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》に戻る」
「補給のあいだ、休憩できるの?」期待をこめて、ジントは尋ねた。
「休憩といっても、そなたはなにもしてないじゃないか」
「思いださせてくれて、ありがと」ジントは皮肉っぽく、「けど、きみが寝ているあいだは、ぼくだって装置の監視をしてるんだぜ」
「なにかあるたびに、わたしは起こされる」
「起こしたことなんかないじゃないか。なにもなかったんだから」
「それはわたしと|思考結晶《ダテューキル》の手柄だ」
「わかったよ」ジントはあきらめた。
ジントがなにもしていない、あるいはできないのは事実だが、連絡艇の運航は自動操縦に任されていた。ラフィールが操舵しているところなど見たことがない。
それに比べれば――ジントは胸のうちでつぶやいたしゃべりづめのぼくのほうがよほど労働しているじゃないか。
ラフィールは|管制《ブリューセ》に呼びかけた。「こちら|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉搭載|連絡艇《ペ リ ア 》。|フェブダーシュ男爵領管制《ブリューセ・リュームスコル・フェブダク》、応答願う」
それまで星系図を映していた画面に|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》出身の女性があらわれた。
「こちら|フェブダーシュ男爵領管制《ブリューセ・リュームスコル・フェブダク》」
「こちら|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉搭載|連絡艇《ペ リ ア 》。燃料の補給を要請する」
「|巡察艦《レスィー》ですって?」|管制官《プリューセガ》は首をひねった。
艦載艇が単独で燃料補給を求めるのはめずらしいのだろう。
それでも、管制官はうなずいた。「了解、〈ゴースロス〉搭載|連絡艇《ペ リ ア 》。歓迎する。補給形態の選択をどうぞ」
「こちらは|軽 量 艇《メーニュ・ソーナ》ゆえ、|埠頭《ベ ス 》での補給を希望する」
「了解。補給希望燃料量を送信願う」
「了解」ラフィールは送信作業を終えると、ジントに、「|埠頭《ベ ス 》補給なら、休憩できるぞ。湯浴みもできるであろ」
「そりゃすばらしい!」とジント。「一風呂浴びるというのも悪い考えじゃない。いまのきみは、たぶん、銀河でいちばん匂う|王女《ラルトネー》だし」
「それはなんだ、ジント?」ラフィールのぱっちりした眼がすうっと細くなった。「死への憧れの表明か? 喜んで手伝ってやるぞ」
「冗談だよ、ラフィール」ジントは王女の漆黒の瞳に宿る光にうろたえた。「きみはあんまり匂わない。誓うよ」
「あんまり?」ラフィールの目はさらに細くなった。
「いや、ぜんぜん匂わない」ただちにジントは訂正した。まあ、それが事実にいちばん近い。
「きみがちょっとでも匂うなんてばかげた仄めかしをしたのは、どこの無礼者だ!?」
「気づいてたか、ジント? そなたの冗談はときに癇に触る」
「気づいても、すぐに忘れるんだ。それが問題だな」
ラフィールは袖口を鼻の先にもってきて、息を吸いこむなり、顔をしかめた。「まあ、そなたの意見にも一理ないわけじゃない」
慎重にも、ジントは黙っていた。
「けれど、そなただって清潔な状態とはいいにくいであろ」
「まあね」ジントは認め、「けれど、|帝 国《フリューバル》じゅう探せば、ぼくより不潔な|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》は二、三人いるよ。なんたって、|王女《ラルトネー》に比べればずっと数が多いんだからね」
なにかいいかえそうと、ラフィールが口を開いたとき、画面の|管制官《プリューセガ》が呼びかけた。
「|埠頭《ベ ス 》補給を承認した、〈ゴースロス〉搭載|連絡艇《ペ リ ア 》。問題なし。ただちに、埠頭へ移動され……」
管制官のことばが途切れる。彼女は不審そうに目をすがめていたが、ふいに見開き、つぶやいた。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》……」
|操舵士《セーディア》の正体に驚愕したようだ。彼女は深々と頭を下げた。
なるほど――ジントは思った――こんな辺境でも、ラフィールは知られているのか。ぼくはさぞ間が抜けて見えたにちがいないな。
「|埠頭《ベ ス 》への誘導を願えるか」ラフィールは促した。
「もちろんでございますとも。ただちに。はい」
緊張する|管制官《プリューセガ》の入力した情報に導かれ、連絡艇は|男爵館《リューメクス》に接近する。
「|フェブダーシュ男爵領管制《ブリューセ・リュームスコル・フェブダク》、伝えておかなくてはならないことがある……」|男爵館《リューメクス》へ接近するあいだ、ラフィールは敵らしい艦隊の|帝 国《フリューバル》領への侵入を、かいつまんで伝えた。
「それは……」管制官は絶句する。しばらく自分をとりもどすのに時間がかかったが、やがて、
「そ、それは|わが主君《ファル・スィーフ》に伝えませんと……」
「もちろんだ、そうされるがよい」
恒星フェブダーシュの蒼い炎を背景に、|男爵館《リューメクス》の細部がくっきりしてきた。
古い|軌道城館《ガリューシュ》は車輪型が多い。回転による疑似重力を利用するためである。だが、その建築形式では階層による重力差や転回力から逃れられない。そこで、最近――といってもここ三〇○年ぐらい――は|城館《ガリューシュ》も重《ワ 》力制《ム》御機《リ》関《 ア》を備えているのが主流となっている。付属設備や維持に費用はかかるが、より快適な居住環境を実現できる。
この|男爵館《リューメクス》は重《ワ 》力制《ム》御機《リ》関《 ア》を利用した様式である。ひずんだ六角形が本体だ。長い腕がのび、立方体の構造物をささえていた。
立方体は|宇宙港《ビドート》だ。|交通艇《ポーニュ》のための|反物質燃料《ベ ー シ ュ》を貯蔵する関係で、宇宙港は館本体から距離をおいて設置される。
埠頭には巨大な|水素運搬船《カソービア・ベンデル》が船首で接岸しているほか、小型の星系内宇宙艇が数隻、小さな羽虫のように泊まっていた。
城館を包む人工重力が作用しはじめた。球形の操舵室がくるりと回転する。艇首をむいていた操舵室の天井が、城館にそっぽをむいた。
ジントの足元に『一七』と赤く書かれた数字が迫る。第一七|埠頭《ベ ス 》が連絡艇にわりあてられているのだ。
接岸――。
外部の映像が消えて、壁は乳白色に戻る。
画面に流れる緑色の文字が、|艚口《ロ ー 》に連絡筒の接続したことを告げた。
「行こう、ジント」ラフィールは装備を外して、立ちあがった。
「うん」ジントも席を立ち、「どのくらい、ここにいられるのかな」
「三十分ぐらいだ」
「たった?」ジントは顔をしかめた。身体を清潔にするのが関の山だ。それだけでも、じゅうぶんにありがたいが。
「われらは一刻も早くスファグノーフに着かないといけないんだ」
「わかっているよ」ジントはラフィールのあとにつづいて、|気閘室《ヤドベール》に入った。「でも、ぼくたちは敵の艦隊にどれだけ先行できるの」
「なんだ、知らなかったのか」ラフィールは軽蔑したように、「スファグノーフ時間で二十七時間ほどだ」
「だったら、ちょっとぐらい……」ジントはそこで|王女《ラルトネー》が眉を逆立てているのに気づき、「いいってことはないよね。すこしでも早くスファグノーフへ危機を報せないと」
「忘れずにいてくれて、うれしいぞ」ラフィールは辛辣にいった。
ふたりは|気閘室艚口《ロー・ヤドベル》のうえに立った。そこは|昇降台《フェレトコーク》にふさがれている。
「おりろ」ラフィールは昇降台に命じた。
透明な連絡筒をくだって、ふたりは|男爵館《リューメクス》に足を踏みだした。
二日ぶりの重力のおかげで、ジントはめまいを感じつつ、視線をめぐらせた。
星空だ。青く輝く恒星フェブダーシュがないところを見ると、外部映像ではないらしい。外部映像でない証拠はもうひとつあった。無数の魚が星々のあいだを泳いでいるのだ。
連絡筒の前には十数人の地上人が整列していた。|男爵《リューフ》の|家臣《ゴスク》だろう。
ジントは異様な印象を受けた。すぐ原因に気づく。ここにいるのは全員が女性だ。
女性たちは頭を垂れていた。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》」畏れ多いといった風情で、なかのひとりが進みでた。交信にでた|管制官《プリューセガ》だった。|皇 帝《スピュネージュ》の孫の顔をじかに見ると、運命に悪い影響があるとでも信じているのか、面を伏せながら、「どうかこちらへおいでませ。休憩室へご案内申しあげます」
「それはお願いするが」ラフィールの口調は強ばっている。「いまのわたしは|星界軍《ラブール》の|翔士修技生《ベネー・ロダイル》だ。そう扱ってほしい」
「はい。承知してございますとも。どうぞこちらへ、|王女殿下《フィア・ラルトネル》」
ラフィールのあきらめたような溜息がきこえた。
「いつも、こんな感じなの?」ジントは小声で尋ねる。
「まさか!」吐き捨てるような答えが返ってきた。
案内されたのは、宇宙港設備内にある部屋だった。いくつか卓子があり、やはりどこを見まわしても星が煌めき、魚が泳いでいた。先客はだれもいない。
ラフィールはもっとも奥まった席に案内される。
当然のようにジントが彼女と同じ卓子に着こうとすると、|管制官《プリューセガ》が押しとどめるような仕草をした。「あなたさまはあちらの席へどうぞ」
「はあ」ジントはわけがわからず、目をしばたたく。「どうしてですか?」
「それは……」管制官はいいにくそうに口をもごもごさせた。その視線は遠慮がちにジントの頭あたりをさまよう。
おなじみの反応だ。彼の茶色い髪と|貴族《スイーフ》の|頭環《アルファ》との取りあわせを訝しがっている。そして、この明らかに地上人の遺伝形質をもった青年を、高貴なる|皇 帝《スピュネージュ》の一族と同席させるべきではない、と思っているらしい。
「ジント!」耐えかねたように、ラフィールがいう。「なにをしてるんだ、早く坐れ」
「ああ」さすがにジントも腹が立ったので、ことさら管制官を無視して、腰掛ける。
管制官は眉間にしわを寄せたが、|王女《ラルトネー》に逆らおうとはせず、「お飲み物はなにがよろしゅうございましょうか」と訊いた。
「飲み物より」とラフィール。「|灌水浴室《シル・グーザサル》を利用したい。つれていってくれないか」
「|皇 族《ファサンゼール》たるおかたが|灌水浴《グーザス》などと!」|管制官《プリューセガ》は目を見張った。「ちゃんとした|湯殿《ゴーブ》を用意しておりますゆえ、しばしのご猶予を願い奉ります」
「時間がないんだ、|家臣《ゴスク》どの。それに、|皇 族《ファサンゼール》でも|灌水浴《グーザス》はするぞ」
「そうなのですか……」管制官は困惑した。「わたくしからは返事をいたしかねます。お飲み物はなにがよろしゅうございましょう」
ラフィールは根負けしたように、ジントを見た。
「ぼくは|珈琲《スルグー》が喫みたいな。冷たいやつを」喉は渇いていなかったが、なにかこたえる必要に駆られて、ジントはいった。
「わたしは|桃果汁《ティル・ノム》がよい。熱いのに|檸檬《ロープ》を一切れ浮かべて」
「きみの味覚は独特だね、ラフィール」何気なくそういったが、ふと気づくと、管制官が物凄い目つきで睨んでいた。
ジントはそっと首をすくめる。
「承知いたしました。ただちにお|桃果汁《ティル・ノム》をお持ちいたします。少々のお待ちを」管制官は目元から表情を消して、深々と頭を下げ、後退りするように去った。
「|珈琲《スルグー》も忘れずにもってきてくれるかなぁ」ジントはつぶやいた。どうもはじめから彼のことばは耳に入っていないのではないか、という気がしてならない。
「ここの雰囲気は好きになれぬ」とラフィール。
「同感だね」|皇 族《ファサンゼール》に比べれば、|貴族《スイーフ》の稀少性も薄れてとうぜんだ。だが、無視されるのはおもしろくなかった。なにも威張りちらしたいわけではない。いることだけ知っておいてほしい――それがジントのつつましい願いだった。
やがて、|管制官《プリューセガ》がひとりの女性と|自動機械《オヌホーキア》を引きつれてやってきた。
|自動機械《オヌホーキア》はジントの傍らで停まる。
「どうぞ」管制官は冷たい目でジントを一瞥した。
「どうも」忘れずにいてくれてありがとう、と心のなかでつぶやきながら、ジントは|自動機械《オヌホーキア》の腹部からよく冷えた珈琲の容器をとりだした。
もうひとりの女性は捧げもった桃果汁の杯を置こうとしている。傍目にも緊張しきっているのがわかった。彼女の指はふるえ、桃果汁は大きく波打っていた。
とうとう果汁がこぼれた。そんなに大量ではない。ほんのひとしずくが卓子にかかったていど。
ところが、女性ふたりの狼狽ぶりは、まるで|王女《ラルトネー》の頭に熱湯をかけてしまったかのようだった。
「セールナイ、な、なんてことを!」管制官の顔が蒼ざめた。
「申しわけありませんっ!」セールナイと呼ばれたもうひとりが額を床にこすりつけんばかりに、謝った。
ジントは仰天した。いったい、なにをそんなにうろたえることがあるんだ? ほんのちょっぴり飲み物を減らしただけじゃないか。
ラフィールも呆気にとられていた。「どうかしたのか?」
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》に差しあげるお飲み物をこぼしてしまいました。わ、わたくしはどうしていいのか……。ご無礼のだん、なにとぞ……」
「無礼とはこれのことか?」ラフィールはきょとんと卓子のささやかな水溜まりを見て、「謝ってもらうほどのことじゃないぞ」
|王女《ラルトネー》がしずくを指で拭うと、セールナイが短い悲鳴をあげた。
「ああ、もったいのうございます!」セールナイはラフィールの濡れた指にすがりつかんばかりに、「す、すぐ、拭きますゆえ、どうかそのようなことは……」
「気にしなくてもいい」ラフィールは隠すように手をおろし、「そなたが|王宮《ラルベイ》育ちをどう思ってるか知らないけれど、わたしは指ぐらい自分で拭ける」
「ではございますが……」セールナイは泣きださんばかりだった。
ラフィールは救いを求めるように、ジントを見た。
「あのう」ジントは口を挟んだ。「それ以上おっしゃると、かえって失礼になってしまうんじゃないですか」
「は、はいっ」セールナイは唇を噛みしめ、頭を下げた。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》もああおっしゃっていらっしゃるわ、セールナイ」と|管制官《プリューセガ》。「ここはいったん失礼いたしましょう」
「はい」セールナイは肩を小刻みにふるわせながら、また深々と頭を下げた。
「ますます気に入らない」ふたりが去ってから、ラフィールはつぶやいた。
「面食らったな。|国民《レーフ》ってみんな、ああなの? なにかに怯えているみたいじゃないか。〈ゴースロス〉であった|従士《サーシュ》の人たちはもっと毅然としていたように思ったけどな」身分は|貴族《スイーフ》とはいえ、地上人の遺伝形質をもつジントにはおもしろくない。
「そんなことはないぞ。〈ゴースロス〉の|従士《サーシュ》がまともなんだ」
「そうかい」ジントは信じなかった。ラフィールも明言したではないか、軍のなかでは家柄は関係ない、と。|星界軍《ラブール》が特殊である可能性が高い。
「信じてないな」ラフィールは心外そうに、「ほんとなんだぞ。|帝都《アローシュ》に着けばわかることだ。わたしはすぐにばれるような嘘はつかぬ」
「うーん」
「子どものころは|国民《レーフ》に叱られたことだってあるんだ」ラフィールはむきになる。
「相手が|王女殿下《フィア・ラルトネル》だって知らなかったんじゃないの?」
「そなたじゃあるまいし! その|国民《レーフ》はうちで働いてたんだぞ。わたしを知らないはずがあるか」
「うちって、|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》?」
「うん。|王家《ラルティエ》専属の庭師だった。わたしは食堂で|移動壇《ヤーズリア》を暴走させて、植込みを無茶苦茶にしてしまったんだ」
「きみの話はときどきわかりにくいな――食堂にどうして植込みが? 食堂のすぐ外ってこと?」
「そうじゃない、庭園形式の食堂なんだ」
「ああ」ジントは思いだした。
アーヴの住居はたいてい人工環境のなかにある。雨は住む人の好きな場所、好きな時間に降る。屋外も屋内も区別がないから、寝室に花壇をつくることだってできる。食堂に植込みがあることぐらい、怪しむにあたらない。
「それで――」ラフィールは語りはじめた。
惨状を哀しげな目で検分すると、庭師は鄭重な物腰を保ったまま、立ちすくむ|王女《ラルトネー》に告げたものだ。
自分の仕事に誇りをもっていること、いまは亡き植込みには芸術的感性のすべてを傾けたこと、それを七歳の女の子のいたずらで台なしにされてたいへんな衝撃と忿懣を感じていること、この忿懣を抑えるすべはいまだ人類が発見していないであろうこと……。
彼の話が終わるころになると、ラフィールは唇をおののかせながら懸命に詫び、七歳なりの語彙で二度と愚かな行為をくりかえさないことを誓約していた。
庭師はラフィールの誓約を全面的には信用しなかった。やはり慇懃さを崩さず、「ふたたび|王女殿下《フィア・ラルトネル》の|移動壇《ヤーズリア》がわたしの作品に被害を与えた暁には――土壌改良|蚯蚓《みみず》と親密な関係を培うのにうってつけのひとときを、きっと過ごしていただきますぞ!」と記憶をたしかなものにしておいてから、ようやく彼女を解放した。
「――もちろん、そのあと、父からも叱られた。『そなたの生命が一時の遊びと引き替えにできるほど軽いと思うなら、それもよかろう。だが、人の誇りというものはけっしてそれほど軽いものではないぞ』って」
「その庭師の人が特別だったんじゃないの」ジントはまだ疑っていた。
「そうじゃない! クリューヴの|家臣《ゴスク》も、わたしの知ってる|貴族《スイーフ》の家臣も、みんな、それぞれの仕事に誇りをいだき、それなりに気高い」
「うーん」ジントはようやく信じる気になった。「けれど、ぼくにたいしてはじゅうぶんに誇り高いみたいだよ」
「そなたは無視されてるんだ」
「教えてくれて、ありがと。そうじゃないかって思いかけていたところだったんだ」
「とにかく気に入らない。湯浴みはあきらめたほうがいいかも……」
そのとき、卓子の横の壁が変化した。星と魚の映像が窓を切ったように四角く消失し、そのかわりに男の映像があらわれた。
アーヴである。髪は金属光沢の仄かな青、切れ長の目と冷笑的な口元を備えていた。
「通信にて失礼いたします」男は会釈した。「|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》の|ラフィール殿下《フィア・ラフィル》とお見受けいたしますが」
「たしかに、アブリアル・ネイ=ドゥブレスク・|パリューニュ子爵《ベ ー ル ・ パ リ ュ ン》・ラフィールだ」ラフィールは名乗る。
「わたしはアトスリュア・スューヌ=アトス・|フェブダーシュ男爵《リューフ・フェブダク》・クロワール。どうぞお見知りおきください」
「よろしく、|男爵《リューフ》」ラフィールはうなずき、ジントを指す。「そしてこちらはリン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》・ジント|閣下《ローニュ》」
「初めまして、|男爵閣下《ローニュ・リュム》」とジントは軽く頭を下げる。
「お初にお目にかかります、|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》」純然たる儀礼上のあいさつをかわすと、男爵は急速にジントへの興味をなくしたようだった。
「さて、|王女殿下《フィア・ラルトネル》。お詫び申しあげなければならないことがございます」
「なんだ?」ラフィールは警戒心をあらわにした。
「じつは不手際がございましてな、差しあげる燃料が不足していることが判明いたしました」
「そんなはずがない! そなたの|管制官《プリューセガ》はたしかに……」
「でございますから、不手際と申しあげました。|管制官《プリューセガ》の手抜かりでございます。申しわけございません」
「わかった。それでは、|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》からちょくせつ補給させていただく」
「なにをおっしゃる」|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》は薄く笑った。
ジントはなぜかぞっとした。
「せっかく|王女殿下《フィア・ラルトネル》がいらしたというのに」男爵はことばをつづける。「このままお帰ししては|フェブダーシュ男爵家《リ ュ ミ エ ・ フ ェ ブ ダ ク》の恥。ぜがひでも、わがむさくるしい|城館《ガリューシュ》にお渡りいただかなくては」
「わざわざのご招待だが」ラフィールは眉をひそめた。「わたしは軍務中で、のんびりしてる暇などない。そなたは事情をきいてないのか? それならば、|家臣《ゴスク》に尋ねられるがよい。これは儀礼的な訪問ではないのだ、|男爵《リューフ》」
「うかがっておりますとも、|殿下《フィア》。しかしながら、わが歓迎を受けとっていただきとう存じます」
「申し出に感謝はする。しかし……」彼女が感謝などしていないのは明らかだった。ラフィールはいらだちはじめていた。「事情を存じてるなら、われらを歓迎するよりほかにすることがあるであろ。|所領《スコール》を退去する算段をしたほうがいいんじゃないか」
「せっかくのお心遣い恐縮ですが、われらには| 船 《メーニュ》がございません。どうしようもございませんな」
「そうか。しかし……」
「まあ、おききあれ」男爵はさえぎり、「充嗔済みの|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》はここから遠い軌道にあるのです。この近くをめぐっていますのは、空の小惑星ばかり」
「そんなばかな……」
「お疑いあるか、|殿下《フィア》」男爵は険しい顔をした。「当家領のことはわたしがいちばん存じております」
「許すがよい」ラフィールはすなおに謝り、「だが、すこしぐらい遠くても、こちらから出向くぞ」
「そこまでなさらずとも、小惑星を加速しております。十二時間もすれば、近傍にめぐってくるでしょう」
「十二時間……」
「ですから、|殿下《フィア》。そのあいだ、わが館で寛いでいただきたいのです。せめてわが|城館《ガリューシュ》で汗なりお流しあり、粗餐なりお上がりあそばすよう。わたしにも軍務の経験がありますゆえ、|連絡艇《ペ リ ア 》の内部をいくらか存じています。|皇 族《ファサンゼール》たるおかたがそのような不便な環境で長い時間を過ごされているとは心苦しゅうございます」
「いまのわたしは|皇 族《ファサンゼール》ではない」ラフィールは釘をさした。「|星界軍《ラブール》の|軍士《ボスナル》として、そなたに燃料を要求してるんだ」
「では、わたしは|領主《ファピュート》としてより詳細な情報を|星界軍《ラブール》に要求します。わたしにはその権利があるはず」
「あ」ラフィールは盲点をつかれた、というふうに、「そのとおりだ、|男爵《リューフ》。気がつかなかった。本艇には|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉の航行日誌があるゆえ、必要な部分の複写を渡そう」
「それもけっこうでございますが」男爵は不満そうに、「わたしは晩餐の席でうかがいとうございます」
ジントは横できいていてはらはらしどおしだった。これが|帝 国《フリューバル》上流社会での会話か。気品にあふれた口喧嘩のおもむきがある。ラフィールの口調も堅苦しく、ジントと話すときとはまるでちがう。
「だが、やはり|連絡艇《ペ リ ア 》でむかったほうが、早く着くはず。航行日誌の複写を渡したら、われらはすぐ出立して、手近な|燃料槽小惑星《ソブ・ベケーカル》にむかいたい」ラフィールはいいつのった。
「ごもっともです」と|男爵《リューフ》。「ですが、|殿下《フィア》の|連絡艇《ペ リ ア 》はいささか点検が必要と報告を受けております。いずれにせよ、すぐには出られませんな」
「点検? どこがだ?」
「さあ、詳しくはきいておりません。担当者にお訊きください。ですが、担当者も作業で忙しゅうございますゆえ、その前にお寛ぎを」男爵は有無をいわさぬ調子で、「それでは、|家臣《ゴスク》がご案内に立ちますので、その場でお待ちください」
映像は消えた。
ラフィールは映像のあった部分を睨みつけていた。「あいつもそなたを無視してたぞ」
「まあね」あいさつは交わしたものの、それはラフィールが紹介したためである。そのあとはジントがいないかのように話していた。「でも、しょうがないよ。|皇 族《ファサンゼール》と|貴族《スイーフ》じゃ、どうしたって皇族のほうに気を使うさ」
「ほんとうに歓迎したいのなら、礼儀のうえでも、そなたも招待すべきじゃないか。そうであろ? それとも、これも複雑に思うか?」
「いや、複雑じゃないよ」ラフィールと男爵の会話を、ジントは思いかえした。傍聴者の気分で会話をきいていたものだから、まったく気にならなかったが、たしかに|男爵《リューフ》の態度はかなり失礼だった。しかし悲しいことに、ジントは失礼な態度で接されるのに慣れているので、とくに怒りは湧かない。「まあ、きみがぼくのために怒ってくれるのは嬉しいけれど……」
「べつにそなたのために怒ってるんじゃない」
「そうかい」ジントは珈琲を一口、喫んだ。
「ああいう態度はどうも信頼できない。|連絡艇《ペ リ ア 》を点検するというのも、眉唾物だ。いってはなんだが、こんな小さな|所領《スコール》にそんな技術力があるとは思われぬ。あいつはわれらを引き留めたいのかもしれない」
「なんのために? あんまり疑り深いっていうのも考えものだよ、ラフィール」
「でも、あいつは気に食わないんだ」
「うーん、それは同感だけどね……」ジントは腕組みした。たしかに口もきかないうちに嫌いになる、という現象は存在する。|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》の場合、嫌悪というほどの強い感情は抱いていないのだが、できれば親しくなりたくない、というぐらいには感じた。もし最初に会ったアーヴがラフィールやレクシュ|艦長《サレール》でなく、フェブダーシュ男爵だったとしたら、ジントはこうもたやすくアーヴに馴染むことはなかっただろう。
とはいえ、男爵は初対面の印象をよくするのに不器用な、気の毒な人物なのかもしれない。
「ちょっと論理的に考えてみよう。|男爵閣下《ローニュ・リュム》が腹に一物あるとして、その一物はなんだ? 彼が嘘をついてまで、ぼくらを館に引きこんで、なんの得がある?」
ラフィールは首をかしげた。なにか思いつけばいいのに、という表情だ。
「ひょっとして|連絡艇《ペ リ ア 》がほしいのかな」とジントは水をむけた。
「なんのために?」|王女《ラルトネー》は顔を上げた。
「なんのため? 決まっているじゃないか、敵の艦隊から逃げだすためだよ」
「あの|連絡艇《ペ リ ア 》は複座だ。ふたりしか乗れないんだぞ」
「|男爵《リューフ》がひとりで逃げるつもりなら、じゅうぶんじゃないかな」
「|家臣《ゴスク》を捨ててか?」
「きみは|男爵《リューフ》を信じないくせに、彼の正義感だけは信じるわけ?」
「|ばか《オーニュ》! 個人の倫理なんか関係ない。|家臣《ゴスク》や|領民《ソ ス 》を見捨てるのは、|貴族《スイーフ》として最高に恥ずべき行為なんだ。それだけでも、|帝国の法《ルエ・ラゼーム》はあいつを許さない。そのうえ艦艇強奪の罪を重ねたら、|帝 国《フリューバル》にとどまるより、〈人類統合体〉の捕虜収容所に入ったほうが、よっぽどましな未来が展望できるぞ」
「なるほど、|爵位《スネー》は|義務《スレムコス》ってわけ」
「そう、|爵位《スネー》は|義務《スレムコス》だ」ラフィールはうなずいた。
「でもね」ジントはまだ意見を引っこめなかった。「人間、切羽つまると、なにするかわからないものじゃない? |ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》にいたころの話だけど、高層建築物が火事になったんだ。火に追われた人が三五階から飛び降りるのを見たよ。焼け死ぬより墜落死のほうがましだと思ったんだろうけど。ぼくはあんな死にかただけはしたくないって思ったな。|男爵《リューフ》も三五階から飛び降りる心境なんじゃないかな?」
「切羽つまってるように見えたか、あの者が?」
「そりゃ、そうは見えなかったけれど……」そこでジントはにやりとした。「じゃあ、|男爵《リューフ》は陰謀をめぐらせているわけじゃないというんだね」
「そうなるであろな……」ラフィールはしぶしぶ認めた。
「じゃあ、歓迎してもらえばいいさ。ぼくもせいぜいお相伴にあずかるよ」
ジントがちらりと横を見ると、男爵の|家臣《ゴスク》たちが歩いてくるところだった。
9 |アーヴの微笑《バール・エヴォス》
湯浴みはたしかに気持ちがよかった。
熱い湯を湛えた湯ぶねにひたっていると、ラフィールは汗とともにたまっていた疲労が流れだしていくのを感じた。
しかし心からくつろぐという気分にはなれない。
その原因のひとつは付き人にある。
あのセールナイという女性がどういうわけか|湯殿《ゴーブ》のなかにまでついてきて、「お背中を流しましょう」「御髪《おぐし》を洗いましょう」となにくれとなく世話を焼くのだ。
どうも|皇 族《ファサンゼール》とはそういう生活をしているもの、と誤解しているらしい。
だが、ほんの幼児のときをのぞいて、ラフィールは他人に身体を洗わせたことはなかった。たいていは|液体石鹸《サテュール》入りのお湯につかり、|乾燥機《ビムーキア》にかかるだけで満足のいく清潔さを保つ。
ところが、いくらそういっても、セールナイは信じてくれない。
「どうかご遠慮はなしにしてくださいませ」
遠慮とは! |皇 族《ファサンゼール》が遠慮をするなどと本気で信じているのだろうか。
ラフィールは抗議するのに疲れて、ついにはセールナイの気のすむようにさせた。
いまも湯ぶねのそばでセールナイが、ふかふかした白い|浴裙《グーサス》をかかえて控えている。
「そなたは知ってるのか、敵の艦隊が|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》にむかったのを?」ラフィールは湯ぶねのなかから話しかけた。
「はい」
「恐くはないのか?」
「ええ。|わが主君《ファル・スィーフ》がなんとかしてくださるでしょうから」
「|男爵《リューフ》が? どうしてくれるというんだ?」
「さあ、そこまでは存じません」
「ふうん。信頼されてるんだな、|男爵《リューフ》は」
「もちろんでございますとも!」セールナイは熱烈に、「あのかたがおられなければ、今日のわたくしはありませんでした!」
「どういうことだ?」
「|国民《レーフ》となることは幼いころからの夢でございました。ですが、軍隊に入るのも気が進みませんでしたし、|家臣《ゴスク》になるだけの技能ももっておりませんでした」
「幼いころからの夢なら」ラフィールは指摘した。「教育を受ける時間はあったであろ」
「わたくしの故郷、|フリーザ伯国《ドリュヒューニュ・フリーザル》では女性の地位はきわめて低うございます。|家臣《ゴスク》になるほどの高等教育は受けられません。女性には善き妻、善き母になる以外のことは期待されないのでございます。ほかの世界を知るまでは、|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》はどこもそうなのだと信じておりました」
「そうなのか?」
「はい。|わが主君《ファル・スィーフ》はその世界からわたくしを拾いあげてくださり、教育までお与えくださったのです」
「教育?」風呂場で背中を流すのにどんな教育が必要なのだろう?
「はい。わたくしはふだんは|燃料槽《ベケーク》の整備点検を担当しております。そのための教育でございます」
「ああ。|湯殿《ゴーブ》専属じゃないんだ」
「ええ。|湯殿《ゴーブ》で勤めるのは初めてでございます。|わが主君《ファル・スィーフ》の湯浴みに呼ばれたことはございませんから」
「ほかの|家臣《ゴスク》は|男爵《リューフ》の背中を流したりするのか?」
「はい」
この|男爵領《リュームスコル》は狂っている、とラフィールは結論をくだした。|領 主《ファピュート》が|家臣《ゴスク》に身の回りの世話をさせることはあるが、食事どきの|給仕《バーティア》がせいぜいで、|湯殿《ゴーブ》のなかでも奉仕させるのは度がすぎている。
「それに」セールナイはことばをつづけた。「あのおかたはたいへんやさしい主君でございます」
「やさしくとも、有能とはかぎらないであろ」ラフィールは意地悪くいった。
「わたくしになにができましょう」セールナイは夢見るようにいった。「|わが主君《ファル・スィーフ》を信じるほかに」
「この|領地《リビューヌ》には何人いるんだ?」ラフィールは話題を転じる。
「五〇名ばかりでございます。ですが、正確に数えたことはありません。ご興味がおありなら、わたくしよりも……」
「いや、いい」ラフィールはさえぎり、「アーヴは何人いる?」
「おふたりでございます。|わが主君《ファル・スィーフ》と父君です。妹君は長いことラクファカールに滞在なさっていらっしゃいますから」
「ふうん、なんだか、淋しげな生活にきこえるな」
「たしょう刺激が少ないのは事実ですわ。ではありますが、ごく安逸に暮らしておりますし、とくに不満はございません」
「刺激……。わたしは手ごろな刺激といったところか」
「まさか!」彼女は電撃を受けたかのように、「|王女殿下《フィア・ラルトネル》をお迎えするのは最高の栄誉ですわ。刺激などと、軽々しく考えてはおりません」
刺激ていどに考えていてくれれば、安心なのであるけれどな――ラフィールは胸のうちでひとりごちた。
湯につかっているのもそろそろ飽きた。これ以上ひたっていると、皮膚がふやけてしまう――ラフィールは湯ぶねのなかで立ちあがる。
「お美しい……」ラフィールの均整のとれた肢体ときめこまやかな肌に見とれ、セールナイはうっとりと嘆息をもらした。
ラフィールはこの素朴な賛美を無視した。彼女の完璧なまでの容姿は、先祖たちの美意識と遺伝子工学の賜物だ。ラフィール自身の功績ではない。誉められてもあまりうれしくはなかった。
セールナイは|浴裙《グーサス》を|王女《ラルトネー》に着せかける。
肌のうえの水滴が吸いとられていく。
|湯殿《ゴーブ》を出ると、そこにはセールナイより年上の女性|家臣《ゴスク》が|浴裙《グーサス》や|浴布《ドゥヒュー》をうずたかく積みあげて待ち構えていた。
ラフィールはうんざりして、「身体乾燥機は備えてないのか、この館には?」
「あれは野蛮な機械だというのが主君の見解でございまして」年嵩の家臣がこたえて、ラフィールの濡れた| 黝 《あおぐろ》い髪に|浴布《ドゥヒュー》を巻きつけた。
セールナイが、水分を吸収した|浴裙《グーサス》を新しいものに着せ替えた。
されるがままになっていると――人の手で世話をされるというのはけっこう気持ちがいい。
ジントも――ラフィールはふと考えた――このような手厚い奉仕を受けているのであろか。ひょっとしたら女性の|家臣《ゴスク》に。だとしたら――なぜかはわからなかったが、たいへん不愉快だった。
身体や髪からすっかり湿り気が拭い去られると、ラフィールには新たな試練がふりかかった。
「わたしの|軍衣《セリーヌ》はどうしたんだ?」用意された着替えを見て、眉を顰める。下着のたぐいは論評を避けるとして、問題なのは上に着るものだった。鮮やかな黄色に染めあげられて、随所に|紅玉《ドウー》や|金剛石《ラテクリル》や|猫目石《デセーム》など、宝石を鏤めた|長衣《ダウシュ》。そのしたに着る|つなぎ《ソ ル フ 》は薄緑色で、趣味のよい高価なものだった。宮中を歩いても恥ずかしくないだろう。
「洗濯にまわしてございます」|男爵《リューフ》の家臣がこたえる。
「手で洗っているのではあるまいな」ラフィールは皮肉をいう。洗濯ぐらい、ラフィールが湯に浸っているあいだにできたはずだ。
「それに、晩餐の席に|軍衣《セリーヌ》は殺伐である、と主君が申しておりました」
「殺伐……」
|軍衣《セリーヌ》を殺伐と評価するのはかまわない。人それぞれの価値観というものがある。
だが、他人に主観を押しつけるとはどういう神経だろう。
男爵の快いひとときのために着せ替え人形となるつもりは、ラフィールにはさらさらなかった。
「わたしは|軍衣《セリーヌ》しか着ない」ときっぱり言明した。「洗濯がまだというのなら、終わるまでこのまま待とう」
「しかし……」年嵩の|家臣《ゴスク》は顔をくしゃくしゃにした。泣きだす寸前だ。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、なにとぞ……」セールナイも頭を床にこすりつけんばかりに懇願した。
ラフィールは哀れになってきた。ばかばかしくもある。
「それでは」ラフィールは妥協した。「|軍衣《セリーヌ》のうえから|長衣《ダウシュ》を着よう。それでいいであろ」
ふたりの家臣は顔を見合わせた。
「|わが君《ファル・ローニュ》のおいいつけが……」
「でも、|王女殿下《フィア・ラルトネル》にお逆らいするわけには……」
などと小声でかわすことばがいやでも耳に入る。
――それほどたいしたことではないであろ。
|軍衣《セリーヌ》にあくまでこだわる自分のことは棚にあげて、ラフィールは白けた気分で|男爵《リューフ》の家臣たちを見やった。
敵と戦う|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉を遠く離れて、晩餐での衣装について話しあっているのが、夢のなかの出来事のように思われ、情けない。
ラフィールは〈ゴースロス〉のことを考えた。
戦いはもう終結しているはずだ。どう決着したのだろうか。〈ゴースロス〉が健在であればいいが。
「承りました、|殿下《フィア》」ようやく結論が出たらしく、年嵩の|家臣《ゴスク》が、「ただちに|軍衣《セリーヌ》をお持ちいたします」
やはり洗濯はすんでいたのだ。
年嵩の家臣は|軍衣《セリーヌ》を持ってきた。
「さあ、お風邪を召します前に」いくらか実情にそぐわないことをいい、家臣は下着をとりあげた。
もちろん、女性家臣たちはラフィールが衣装に触れることを許そうとしなかった。樹のように佇んでいるラフィールに衣装を着せていく。
「手際がいいんだな」ラフィールは思わず感心してしまった。
「それは慣れておりますもの」年嵩の家臣がいった。
「慣れている? いつもこんなことをしてるのか?」
「ええ。|殿下《フィア》の宮殿にも召使の者はおりましょう」
「たしかに|侍 従《ベイケブリア》はいるけれど……、こんなことまではしないぞ」
「まあ、お戯れを」彼女は信じなかった。
服を着おわると――というか、着せられおわると、セールナイが|折敷《ドレース》を捧げもち、しずしずとやってきた。「装身具でございます」
|折敷《ドレース》のうえには鮮紅の袱紗が敷かれ、貴金属と宝石類が競うようにまばゆい光を放っている。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、お好きなものをお選びくださいますよう」年嵩の|家臣《ゴスク》がいう。
ラフィールは目を細めた。またしても、肝腎のものがない。
「わたしの|頭環《アルファ》と|端末腕環《クリューノ》はどうした?」
「あれは殺伐と……」
「殺伐もなにもない。あれが必要なんだ」
命令でやっているんだろうから、と自分にいいきかせても、つのりくる怒りを抑えきれない。この者たちは|頭環《アルファ》と|端末腕環《クリューノ》をただの飾りとでも思っているのだろうか? 端末腕環には|識別電波紋《デファス》や個人情報がしこんであるし、頭環は装着者にあわせて調整しないと役に立たない。袱紗の中央で輝く冠は繊麗ではあるけれど、ラフィールの軍用頭環の代用になるはずもなかった。
「わかりました、|殿下《フィア》。お心のままに」年嵩の家臣は諦念の溜息をつき、セールナイにうなずきかけた。
セールナイが小走りで|頭環《アルファ》と|端末腕環《クリューノ》をもってきた。
|頭環《アルファ》を頭に戴き、ようやく|空識覚《フロクラジュ》をとりもどしたラフィールはほっとする。身に馴染んだ感覚のひとつが抜けるというのは、ずいぶんと心細いものだ。
|湯殿《ゴーブ》からちょくせつ|餐堂《ビスイアフ》へ案内された。
床は淡い群青だ。壁と天井は濃紺を背景として星々が輝く。
ここでも立体映像の魚が泳いでいた。
鮮やかな緋色に黄色の斑紋を散らした巨魚がゆったりと泳いでいくのに、ラフィールは目をとめた。
ひどい趣味だ――と評価をくだす。
ラフィールは広大な部屋の中央にある食卓にむかった。ひるがえる|長衣《ダウシュ》の裾から|星界軍《ラブール》の黒い|軍衣《セリーヌ》が見え隠れする。
部屋の広さに比べるとこっけいなほど小さな白い食卓には、すでに|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》が陣どっている。その傍らにはひどく肌を露出する衣装をまとった女性の|家臣《ゴスク》が控えていた。料理はまだ用意されておらず、|紫水晶《ブレスキル》から削りだした|玉 杯《ラムテューシュ》がふたつ置かれているだけだ。空いた椅子はひとつしかない。
|男爵《リューフ》は立ちあがると、頭《こうべ》を垂れて|王女《ラルトネー》を迎えた。
ラフィールは食卓の近くで脚をとめ、男爵に尋ねた。「ジントは?」
「ジント?」男爵は顔を上げ、「ああ、|ハイド伯爵公子閣下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール・ハイダル》のことですか。|閣下《ローニュ》は父がおもてなししております」
「どうして父君は同席なさらない?」
「父は人嫌いでしてな」
「矛盾してきこえるぞ。人嫌いの父君がなぜ客をもてなす?」
「同病、相憐れむ、というものでしょう」男爵は謎めいたことをいった。
「なんのことだ?」ラフィールはききとがめた。
「どうかお気になさらず」
「そんなわけにはいかない。わたしの任務はジントを……、|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》をスファグノーフまで送り届けることだ」
「まさか、|殿下《フィア》」|男爵《リューフ》は片眉をあげた。「わたくしどもが|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》に危害を加えるとお疑いなのではないでしょうな」
「疑わずにいられるか」ラフィールはいいきった。
「それは遺憾なこと」さして残念そうでもなく、男爵はいい、「とにかくお着席を。誤解は食事のうちに解かせていただきたい」
「ほんとに誤解であることを願うぞ、|男爵《リューフ》」
すでに|給仕《バーティア》がラフィールの椅子を引いて待っている。
ラフィールは椅子に腰をおろした。
それをたしかめて、男爵も着席する。
「御酒はなにを召しあがられる?」男爵は訊いた。
「軍務中だ。|酒精《スキアデ》の入ってないものがいい」
「ご随意に。|柑橘果汁《テュール・ラシュバン》でよろしいかな?」
ラフィールがうなずくと、男爵はぱちんと指を鳴らす。
給仕が、口元に装着した|通話器《ルオーデ》に小声で指示を出した。
「すると」男爵は飲み物を待つあいまに、「|王女殿下《フィア・ラルトネル》はあの青年を名前で呼ばれるわけですな。どうかわたくしのことも、クロワールとのみお呼びください」
「断る」ラフィールはにべもない。
「なぜですかな?」
「そう呼びたくないからだ、|男爵《リューフ》」
男爵は沈黙し、細めた眼でラフィールを凝視した。
やはり女性の|家臣《ゴスク》が盆のうえに|提子《ロズギア》と壺をのせて、やってきた。|給仕《バーティア》は柑橘果汁の壷をとりあげ、慎重な物腰で、ラフィールの|玉 杯《ラムテューシュ》に中身を満たした。
つぎに、|提子《ロズギア》から|林檎酒《リンメー》を男爵の|玉 杯《ラムテューシュ》に。
湯上がりのラフィールは喉が渇いていたので、柑橘果汁を一息で飲み干した。すぐお代わりが注がれる。
不吉な沈黙のおりる食卓に前菜が運ばれてきた。黒塗りに淡色の花びらを散らした四角い盆に、繊細なアーヴ料理がのっている。見た目にも最大限の配慮を払うのがアーヴ料理の特色だ。
「どうぞ、お召しあがりください」
「ああ」ラフィールは銀の|箸《グレー》をとり、木の葉のように見えるものを口に運んだ。貝の旨味が口に広がった。「おいしいな」
「光栄です、|殿下《フィア》」
「そなたを誉めたのではない」ラフィールは愛想なく、「料理人を誉めたのだ。人間を使っているのであろ、機械ではなく」
「ご明察です、|殿下《フィア》。わたしは機械があまり好きではありません。それにしても、殿下はなにやらお腹立ちのようすですな」
「ご明察だな、|男爵《リューフ》。わたしは怒ってる」
「わたしの招きがそんなに気に入りませんでしたか」
「気に入るとでも思ったのか?」かきつばたの花をかたどった|燻腿《リョポス》にのばした箸をとめて、男爵に鋭い視線を送った。
「なぜでございます?」
「そなたは誤解を解いてないんだぞ。もし誤解だとしたらだが」
「あの地上人の青年のことですか」
「ジントは|アーヴ貴族《バール・スィーフ》だ」
「そうでしたな」
「ジントのことだけじゃない、ほんとに|連絡艇《ペ リ ア 》の点検が必要なのか? 燃料もちゃんとあるんじゃないか? わたしの疑いは多方面に及んでいるぞ」
「ああ、その点でしたら、嘘をついておりました」あっさり男爵はいった。「燃料はじゅうぶんにございますし、|連絡艇《ペ リ ア 》も点検しておりません」
ラフィールは驚かない。ジントと引き離されたことで、純粋に歓迎されているわけではないことを、確信していたからである。
彼女は箸もとめなかった。前菜の残りを平らげ、からになった盆を脇に押しのける。
「なぜ嘘をついた?」
「意を尽くしても、|王女殿下《フィア・ラルトネル》は晩餐の席に来てくださらなかったでしょうからな」
「当然だ。われらは急いでいる」
「では、わたしが嘘をついたのは正しかったことになります」
「そうかな? わたしはだまされるのがきらいだ」
「でしょうな」
「嘘がばれた以上、すぐ出発させてもらえるのであろな」
「そのことですが、|殿下《フィア》」|男爵《リューフ》は林檎酒を飲み干し、「出発をもうちょっと遅らせていただくわけにはいきますまいか」
「いやだといったら、気持ちよく送りだしてくれるのか?」
|給仕《バーティア》が碗物の膳をもってきた。|海 亀 の 羹《オートン・フィフェマル》である。
ラフィールは碗の蓋をとり、馥郁たるかおりを楽しんだ。
「そうはまいりませんな」男爵はこたえた。「無理にでも、お留まりいただかなくては」
「いつまで?」
「つぎに|帝 国《フリューバル》の船がやってくるまで。つまりわが|所領《スコール》の安全が確認されるまででございます」
「いつになるかわからないぞ」碗を傾け、滋味にあふれた熱い汁をすする。
「いかにも」
「それまでわれらを足止めするつもりか」
「はい」
ラフィールは眉を顰めた。怒りよりも戸惑いが先立った――いったい、|男爵《リューフ》はなんのつもりなんだ?
「念のために申しておきますが、反逆を企てているわけではございませんぞ」と男爵。
「反逆というほど華麗じゃないぞ、そなたの行為は」ラフィールは辛辣だ。
「残念です」男爵は冷笑ぎみに唇を歪め、頭を垂れた。「わが家はどうも歴史浅く、華麗なことが似合わぬようですな」
ラフィールはしばし男爵を無視して、羹に専念した。
一瞥すると、男爵の前にはまだ前菜が残っており、ほとんど手がつけられていない。
一服、盛られたか? ラフィールはいっしゅん疑った。
ばかばかしい――ラフィールは疑念をふりはらう――男爵がそのつもりなら、前菜を食べた時点でもう手遅れだろうし、だいいち、ラフィールの膳にだけ薬を忍ばせるぐらいの芸はするだろう。その必要もない。ここは男爵の館なのだから。
羹のつぎには|鱒の麭包み《デルスルーフ・ボス》がでた。鱒は遺伝子改造された小型種である。
「それで?」ラフィールは魚を覆う、狐色に焼かれた小麦生地を剥がしながら促した。
「はい?」
「どういうつもりでわれらを足止めする。なにか意趣でもあるのか?」
「まさか! わたしは|王女殿下《フィア・ラルトネル》がこの館におられるかぎり、せいいっぱい歓待させていただくつもりです。まして害をお加え奉るようなことはなおさら……」
「ほう? そなたが自分の行動をちゃんと把握してるのかどうか、確信がもてなくなってきた」
「もちろん、把握しておりますとも。わたしは|所領《スコール》を守ろうとしているのです」
「われらを足止めすることが、そなたの|領地《リビューヌ》の安全とどう関係がある?」
「|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》は大邦です」|男爵《リューフ》は身振り手振りを交えて、「〈人類統合体〉はその位置を知っていて当然。ですけれども、わが|男爵領《リュームスコル》はじつにささやかで、歴史も浅い。彼らが|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》の存在すら知らない可能性はきわめて大きゅうございます。ここは月に二度ばかり、定期連絡船がやってくるていどですからな。知らぬなら、知らぬままでいてほしいものです。ですが、|フェブダーシュ門《ソード・フェブダク》から船が突入するところを観測したらどうでしょう? ひょっとしたら、彼らの情報網からもれた|領地《リビューヌ》があるのか、と関心を持つでしょう。そのあげくがこの微小な|所領《スコール》だと知れたら、腹立ちまぎれに破壊するかもしれませんな」
「しかし、われらは|フェブダーシュ門《ソード・フェブダク》をもうとおったんだ。これが見られてないとどうしてわかる?」
「見られているかもしれませんな。しかし敵にくれてやる機会は一回でじゅうぶんです。二回に増やすことはありますまい」
「筋はとおってるな」
「でありましょう」|男爵《リューフ》は大きくうなずき、「ですから、|王女殿下《フィア・ラルトネル》、不本意ではございましょうが、敵がこの近辺から一掃されたと確信できるまで、この館にご逗留いただきたいのです。もし敵艦隊が撃退されれば、そう長いことはお待ちいただかなくてもいいでしょう。かりに撃退されなければ、|帝 国《フリューバル》がこの地を回復するまで、ということになりますな」
「それまで暮らしていけるのか?」
「わが|領地《リビューヌ》にも|水耕農園《グ レ ー ク 》と|培養牧場《バ セ ー ヴ 》はございます。食糧のご心配は無用に。もっとも、素材は限られておりますゆえ、料理人は腕のふるいようがないと不平を鳴らすかもしれませんが」
「もしずっと回復されなければどうなる?」
「そのときはそのとき。われら小さな|所領《スコール》の主は目先のことを処理するので精一杯でしてな」
「もうちょっと先のことを読んでもいいんじゃないか」しゃべっているあいだも、ラフィールは魚肉と小麦生地をむしるのに余念がない。
「とは?」
「そなたは軍務中の|連絡艇《ペ リ ア 》の通行を阻害してるのだぞ。せっかく守った|領地《リビューヌ》、|帝 国《フリューバル》によって剥奪されるかもしれない」
「それはないでしょう。すべては|所領《スコール》を守ろうとの熱情から出たもの。|帝国高等法院《スカス・ラザソト》もわが行動を是となさるはず。せいぜい罰金を科されるていどかと」
「そなたの熱情の結果、|スファグノーフ侯国《レーバヒューニュ・スファグノム》が警告を受けるまもなく攻撃されてもか? |高等法院《スカス・ラザソト》はそんなに寛大か?」
「その点も大丈夫でありましょう。スファグノーフの近辺は交通量も多い。|殿下《フィア》がなさらずとも、だれかが敵艦隊の接近を通報するはず。であれば、わたしの行動になんの非がありましょう。法院ではわたしが殿下を鄭重におもてなししたこと、証言してくださるものと信じております。アブリアルの名にかけて」
「その名を口にするな」ラフィールはぴしゃりといった。「わが一族の名誉のありようはそなたに教えられるまでもない」
「でありましたな」|男爵《リューフ》は慇懃無礼に頭を下げる。「お許しください、|殿下《フィア》」
ラフィールは無視した。なかば食べ残した麭包みを脇に寄せると、|給仕《バーティア》がさっと皿を片づけた。
「わたしはいいとして、ジントはどうしてる?」
「|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》は父が……」
「寝言はなしにするがよい、|男爵《リューフ》。わたしはだまされるのはきらいだ、といったであろ」
「わかりました」男爵は肩をすくめ、「あの若者には|貴族《スイーフ》としてのもてなしを受ける資格がありませんゆえ、地上人としてふさわしい処遇を受けております」
「なんど、おなじことをいわせる。ジントは|貴族《スイーフ》だ」とラフィール。「それにそなたは|国民《レーフ》の地位について特殊な見解をもってるらしいな。ここにいる|家臣《ゴスク》たちほど卑屈な国民をわたしは見たことがない。まるで曲芸をしこまれた猫のようで、痛々しいぞ」なかば給仕の女性にきかせるつもりで、彼女はいった。
「|領主《ファピュート》と|家臣《ゴスク》の関係はたとえ|皇帝陛下《スピュネージュ・エルミタ》といえども、口を挟めることではありません。まして|王女殿下《フィア・ラルトネル》には」
「それはそうだが、そなたの考える、地上人にふさわしい処遇とやらには、興味が湧く」
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》がご心配なさることではありません」|男爵《リューフ》は頑なである。
南瓜に肉や野菜を詰めて煮たものがでた。
ラフィールは南瓜をのせた朱の|高坏《スカリューシュ》に視線をとめて、「よいか、|男爵《リューフ》。そなたには守るベき|所領《スコール》があり、わたしには果たすべき|任務《スコイコス》がある。わたしの任務はジントを無事にスファグノーフに送り届けることだ。もしジントの身になにかあれば、|高等法院《スカス・ラザソト》はともかく、わたしはそなたを許さぬ」
「わかりませんな」やれやれというふうに、男爵は首をふり、「どうして、あの地上人にこだわりなさる?」
「軍にあったのなら」ラフィールは怒りを眼にこめて男爵を睨みつけた。「|任務《スコイコス》がいかに神聖なものか、わかるであろ。それだけじゃないぞ、これは初めての任務なんだ。わたしは任務を果たすつもりだからな、たとえそなたの大事な|所領《スコール》を劫火にたたきこむことになっても」
「劫火にたたきこまれてはかないませんな」余裕たっぷりに男爵がいう。しかしその余裕は装っていることが見え透いていた。
ラフィールは南瓜を二口三口、味わうと、立ちあがった。
「あっ、|殿下《フィア》、これはお箸休め、まだ料理はつづきますほどに……」|給仕《バーティア》が狼狽した。
「料理人に感謝と謝罪を。もうじゅうぶんいただいた。たいへんおいしかった、と伝えておいてほしい」
|男爵《リューフ》が手をたたいた。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》を寝室へご案内しろ」
あらかじめ近くに控えていたらしく、ふたりの|家臣《ゴスク》が滑りでた。これも女性だ。
「|殿下《フィア》は」男爵は指示した。「お疲れだ。すぐ休んでいただくように。おまえたち、お休みになるまでお側に侍っていろよ」
なるほど、どうあっても、連絡艇には近づかせないつもりか。
「試みに問うが、|男爵《リューフ》、そなたの|家臣《ゴスク》に男はいるのか?」
「いいえ。わたしは地上人の男がそばにいられるのに耐えられません」
ラフィールの口元がほころんだ。
アーヴは笑うべきときに笑わず、突拍子もないときに笑う――アーヴに反感を持つ者たちはそう信じこんでいる。
とんでもない誤解だ。
アーヴも嬉しいときには笑み、楽しいときには笑う。
しかし、誤解される理由はある。アーヴは眼前の相手が憎いときにも微笑むのだ。
それは冷笑と呼ぶには凄惨すぎて、咲きほこる毒花にも似る。軽蔑と挑戦の綯いあわさった含笑。親愛の表現とは見誤りようもない破顔――敵たちはこれをアーヴの微笑≠ニ呼んで忌みきらっていた。
「そなたを嫌う理由がひとつ増えたな」ラフィールの唇にアーヴの微笑がひろがった。
10 |ジントの怒り《セーロス・ジンタル》。
ジントは目を醒ました。頭が重い。脳の血管を泥がめぐっているようだ。
――ここはどこだっけ……。
瞼を薄く開ける。蔦の浮き彫りを施した木の壁が視界に入る。横たわっているのは、堅い寝台。
――どうして、こんなところに?
だんだん記憶が甦ってきた。
|宇宙港《ビドート》部分から長い通路をわたって、本館に着くと、そこからすぐに|湯殿《ゴーブ》へ案内する、といわれた。そう、そこでラフィールと別れたのだった。おなじ湯殿を使うわけにもいかないだろうから、とそのときは納得したのだが……。
ところが、ラフィールの姿が見えなくなったとたん、後ろから首筋になにか押しあてられた。抗ったり叫んだりする暇はなかった。たちまち、意識がすうっと遠くなり……。
――くそっ、あの|男爵《リューフ》のやろうっ!
手をくだしたのは|家臣《ゴスク》でも、命令は|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》から出ているにちがいない。無針注射で薬物を投与したのだ。
ジントは跳ね起きる。|男爵《リューフ》への怒りもあったが、ラフィールの身が心配だった。
「おお、気がついたか、|少年《ファネブ》」すぐそばで声がした。
ジントが声の方向に警戒心に満ちた視線を走らせると、そこに|貴族《スイーフ》の|長衣《ダウシュ》を着用した老人が立っていた。歳はとっくに七〇を超えているだろう。がっちりした体躯で矍鑠としている。髪は晒したような白髪。
「あなたは?」
「名を訊くときには、まず自分から名乗るものじゃ」
もっともだった。「リン・スューヌ=ロク・|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》・ジントです」
「|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》? ほっほう! しかし、おまえさんはアーヴにゃ見えんな」
「あなたも」ジントは警戒しながらいった。
「そう、つまりわしらは同類というわけじゃな。わしはアトスリュア・スューヌ=アトス・|フェブダーシュ前男爵《リューフ・レカ・フェブダク》・スルーフ。二代目の|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》じゃった」
「じゃあ、いまの|男爵《リューフ》の……」
「父親じゃ」
「いったいどういうつもりなんです?」ジントは怒りをこめて尋ねた。
「どういうつもり? わしがか? わしはただ気を失っている若者が運ばれてきたから、心配してそばについておっただけじゃよ」
「とぼけないでくださいっ」ジントは声を張りあげる。
「まあ、落ちつけ、|少年《ファネブ》。いや、|ハイド伯爵公子閣下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール・ハイダル》。息子がなにかしたらしいが、わしにはとんと事情がわからんのよ」
「事情がわからない? そんなはずが……」
「あるんだからしょうがないわな。ほれ、わしもここに監禁されている身よ。どうして、おまえさんの問題がわかる?」
「監禁?」
「そう、監禁じゃな。なに不自由ない暮らしをしているが、行動の自由はない。こういうのは、やっぱり監禁としかいいようがないじゃろうが」
「じゃあ、教えてください。ラフィールはここに……、いや、運びこまれたのはぼくだけですか? もうひとり女の子はいませんか?」
「女の子? いや、おまえさんひとりだけじゃよ。その女の子というのはおまえさんの恋人か?」
ジントは老人の質問を無視した。手首に視線をやる。|端末腕環《クリューノ》がなかった。
「ぼくの|端末腕環《クリューノ》はどこです!?」
「さあ。わしはなにもとっとらんぞ。ないのなら、倅《せがれ》がとったんじゃろ」
「ほんとに、事情がわからないんですか?」ジントは老人を問い詰める。
「わからんね、申しわけないが」老人は悠然と、「真実、わしはここに監禁されておるんじゃ。事情もきかされておらん」
「だって、|男爵閣下《ローニュ・リュム》はあなたの息子さんなんでしょう」
「だから、というべきかな。あれはわしが遺伝的には地上人なのが不満なんじゃな。それで、なるべく人目に、といっても、|家臣《ゴスク》たちの目に、ということじゃが、触れんようにしているんじゃ」
「うう、ますますわからないや」まだ本来の回転数を回復していない頭に手を当てる。そのとき、ようやく飾りものの|頭環《アルファ》をかぶっていないことに気づく。貴族身分の象徴、|長衣《ダウシュ》もない。しかしそれはたいした問題ではなかった。|端末腕環《クリューノ》を装着していないことに比べれば。
「あいつは劣等感の塊なんじゃ」|前男爵《リューフ・レカ》と名乗る老人は断言した。
「そうは見えなかったですけど」
「そうは見えなくても、そうなんじゃ。親がいうんじゃから、まちがいない。|フェブダーシュ男爵家《リュミェ・フェブダク》は歴史が浅い。あいつの肥大した自我にはそれが耐えがたいらしいな」
「でも、|貴族《スイーフ》でしょ。|所領《スコール》もある」
「ごくちっぽけな|所領《スコール》じゃが」
「ちっぽけだろうとなんだろうと、たいしたご身分じゃないですか」
「たいしたご身分じゃが、ほんの三代前までは|士族《リューク》ですらなかった。あいつはそれが気に喰わなくってしかたないんじゃ。おお、わしをこんなところに閉じこめておくのも、他人の目でなく、自分の目をはばかってのことかもしれんな。地上的な父親を見るのに耐えられんのじゃろ」
「なんだか、他人事じゃないみたいだ」
|前男爵《リューフ・レカ》はニヤリとした。「わしはここに閉じこめられているあいだ、どこであいつの躾をしくじったか、そればかり考えていた。時間はたっぷりあったでな。なんなら子育てについて相談に乗ってやってもよいぞ」
「それはあとで」ジントが後継ぎをもうけるのはずっとさきの話だ。傾聴すべき意見であろうと、いまは教育論を受講するよりも、緊急の課題がある。「とりあえずはここを抜けださないと」
ジントは寝台からおりようとして、倒れかけた。足元がふらふらしている。薬の影響が残っているらしい。
前男爵はジントを抱きとめて、寝台に坐らせた。「無理するな、|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》」
「その|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》というのはやめてください。なんとなく気が休まらないんです」
「いろいろと問題があるようだな、|少年《ファネブ》」即座に前男爵はジントの望みを受けいれた。
「ええ」
「それにしても、|伯爵《ドリュー》とはな! |諸侯《ヴォーダ》の位じゃないか。おまえさんの父上か母上か祖父殿か祖母殿か……、それともそれ以外のだれかは知らんが、|国民《レーフ》からいっきに|伯爵《ドリュー》になるとは、うまくやったもんだ」
「父親です。父は|帝国国民《ルエ・レーフ》ですらなかったんです。まったくうまくやってくれましたよ」
「ほっほう、よかったらその話をせんかね」
「いえ、申しわけないですが……」
「あんまりしたくないというわけか。ますます興味がわいてきたぞ。じゃが、おまえさんの意志も尊重せんとな。まあいい、とりあえず|灌水浴《グーザス》でもしたらどうじゃ。寝汗をそうとうかいているぞ」
「あとで。早く脱出を……」
「いまのおまえさんには無理じゃて。身体を清潔にして、食事をとれ。そのあとでおまえさんの問題について考えようじゃないか。力になれるかもしれん」
「あなたが……?」差しのべられた手に、すなおにすがる気にはなれない。
この|前男爵《リューフ・レカ》は信用できそうには見える。けれども、人生経験の差を考えると、ジントをだますのは、靴を履くぐらい容易な行動かもしれない。
それに、ほんとうに手助けをしてくれるつもりがあるとして、実行力がともなっているのだろうか? 監禁されているといったばかりではないか。
「年寄りのいうことは信用しろ」前男爵はいった。「すくなくとも熱い湯をかぶるというのはそう悪い考えじゃないぞ。なにもせんて。するつもりなら、とっくにしている」
「でも、時間がないんです!」ジントはとつぜん総毛立つような疑問に襲われた。「ぼくはいったい何時間ぐらい気を失っていたんです?」
「ここに運びこまれてから」老人は|端末腕環《クリューノ》に目をやって、「かれこれ五時間ほどになるな。なにを急いでいるか知らんが、もうあと一時間や二時間、余裕はあろうて。さもなきゃ、手遅れか」
――五時間……。
たしかに敵艦隊を出しぬく余裕はある。だが、ラフィールはどうしているのだろう? |男爵《リューフ》がよからぬことを企んでいるのなら、じゅうぶんな時間かもしれない。
「ちょっと、その|端末腕環《クリューノ》を貸してくれませんか」もしもの場合に備えて、ラフィールの端末腕環の番号は暗記している。ラフィールが端末腕環を装着していれば、そして一光秒以内にいれば、連絡がとれるはずだった。
「いいとも」|前男爵《リューフ・レカ》は|端末腕環《クリューノ》を外してよこした。
ジントはがっかりした。前男爵の|端末腕環《クリューノ》はただの時計だった。
「あの、ここに|通話器《ルオーデ》は?」
「ひとつある」
「それを貸してください」息せきこんで、ジントは頼んだ。
「それはかまわんが、|家 政 室《バンゾール・ガリク》にしか通じておらん。おまえさんは、たぶん、その女の子と話したいんじゃろうが、家政室まで呼んできてもらわんとならんぞ。それが期待できそうかね」
ジントは肩を落として、首をふった。|男爵の|家臣《ゴスク》に友好的な雰囲気を期待するなど、いまの状況では妄想というほかない。
「な、|浴室《ゴーヴ》へいくんだ」前男爵は聞き分けのない子どもを諭す口調で、「頭をしゃっきりさせろ。それから食事。体力をつけるんだ。それからふたりで陰謀を逞しくしようじゃないか」
「そうですね」ジントは力なく同意した。たしかに体力は必要になりそうだった。
ジントとちがって、ラフィールの意識は、目を醒ますと同時に明晰に冴えわたった。
短い睡眠にもかかわらず、体力が全身にみなぎり、手足の先までもゆきわたっている。
柔らかく暖かい布団をそっと押し退けて、闇のなかにすっくと立った。
「点灯」とつぶやく。
照明がついた。
室内にはほかにだれもいなかった。ラフィールはそれを確認してほっとする。
例のふたりの|家臣《ゴスク》は主君のいいつけを守って、ラフィールが眠りに落ちこむまでずっとついていた。
眠ったふりをしてやろうとしたのだが、どうやら考えていた以上に疲れていたらしく、ほんとに眠ってしまった。
|端末腕環《クリューノ》で時間をたしかめる。眠るときには|頭環《アルファ》と端末腕環をはずすのだが、この日ばかりは持ち去られるのを警戒して、装着したまま就寝していた。
四時間ほど眠っていたらしい。
|男爵《リューフ》もひとつだけいいことをしてくれた。なにをするにしても、くたびれきった身体では完璧は期しがたい。
それにしても――ラフィールは唇を噛んだ――眠ってるふりをしようとして、ほんとに寝入ってしまうなんて、まるで子どもじゃないか……。
結果的にはよかったのだから、とラフィールは自分を慰めた。
心を|男爵《リューフ》にむけると、たちまち怒りで煮えたぎった。
任務を妨害されていることだけでも、憤怒の原因としてはじゅうぶんすぎるほどだったが、それだけではない。ラフィールには、命令を受けるいわれのない相手にこうまで意志を軽視された経験がなく、矜持をいたく傷つけられた。
わたしはよく我慢してる――ラフィールは自らの理性を誉めたたえた――逆鱗で魂をよろうアブリアルと生まれたにしては、なんと忍耐強いことであろ。
しかしそれも限界だ。
男爵に身のほどを思い知らせてやるだけでも、ここを脱出する価値はある。
|衣裳筐《ラワーフ》を開けると、|軍衣《セリーヌ》があった。ほかに華麗な衣裳の数々が納まっていたが、ラフィールは目もくれない。ラフィールは|王女《ラルトネー》であり、|宮 廷《フリリーシュ》に戻ればきらびやかな衣裳をほんの普段着としてまとう。
じっさい、|貴族《スイーフ》の姫君たちにふさわしい衣裳があらかじめ用意されている事実を、とりわけて不思議とも思わなかった。|男爵館《リューメクス》にアーヴ女性のいないことを考えると、ずいぶんと奇妙なことだったが。
ラフィールは|軍衣《セリーヌ》を着こんだ。
――さあ、ジントはどこにいる? それをつきとめなければいけなかった。
ラフィールは|端末腕環《クリューノ》を起動して、ジントの端末腕環につなごうとする。
「おかけになった|端末腕環《クリューノ》は装着されていません」端末腕環がささやいた。
ジントは|端末腕環《クリューノ》をとりあげられているという意味だ。
「ふん」ラフィールは|端末腕環《クリューノ》を切った。あの|男爵《リューフ》は徹底してジントとの絆を断ち切ってしまう方針らしい。
つぎの手段だ。寝室に備えつけの|端末《ソテュア》を起動して、館内案内図を呼びだす。
|男爵館《リューメクス》本体は三層の構造で、生活区画や事務区画、倉庫、|水耕農園《グレーク》、|培養牧場《バ セ ー ヴ 》などに分割されている。
「現在地を表示するがよい」ラフィールは端末に命じた。
『二階平面図』と表示がでて、中心あたりの部屋が赤く色づいた。
「|男爵《リューフ》の寝室を教えるがよい」
ラフィールにあてがわれた部屋のすぐ近くが赤くなる。
「では、客用の寝室は?」
おなじ階にある二〇ばかりの部屋が表示された。
「そのうち、使用中のものはどこだ?」
ひとつだけ赤いままで残った。ラフィール自身が使用している部屋だ。
「監禁されてるものはいないのか?」あまり期待せずにラフィールは尋ねた。
「質問の意味がわかりかねます」あんのじょう、端末は答えをよこさなかった。
「現在、この館にいるもの全員の名前と位置を教えるがよい」
「|わが主君《ファル・スィーフ》の許可がなければ、いたしかねます。許可をお求めですか? ただし、わが主君は休ませていただいております。したがって、許可がおりるのは明朝の……」
「いや、いい」と端末を黙らせた。
――こうなったら、|男爵《リューフ》に訊くしかないな。
武器を|連絡艇《ペ リ ア 》に置いてきたことは痛い。もっとも、持ちこもうとしても、男爵は許さなかっただろうが。
――ああ、だったら、いま、とってくればよい。
ラフィールはあっさり決断をくだした。
部屋の壁にかかる時計によれば、この|男爵領《リュームスコル》では夜中とされる時間帯だ。館のなかで|家臣《ゴスク》と出くわす確率は低い。
連絡艇の在りかはわかっている。問題はそこに入りこめるかどうかだ。
「|宇宙港《ビドート》に入れるか? 繋留中の|連絡艇《ペ リ ア 》のあいだに与圧された通路は存在するのか?」
「存在します」
「閉鎖されてるか」
「閉鎖はされていませんが、通過には|一般電波紋鍵《セージュ・デファト・ヘータ》が必要です」
「わたしの|電波紋《デファス》は登録されてるか?」
「いいえ」
「いま、登録できるか?」
「|わが主君《ファル・スィーフ》の許可がなければ、いたしかねます。許可をお求めですか? ただしわが主君は休ませていただいて……」
ラフィールはさえぎって、「だれの|電波紋《デファス》なら登録されてる?」
「|わが主君《ファル・スィーフ》、および|家臣《ゴスク》の全員です。家臣の姓名は……」
「もういい」五〇人分の名前を端末が読みあげようとしているのを察して、ラフィールは制した。
――とりあえず、行ってみよう。
ラフィールは思った。どうも状況はよくないようだが、寝室で沈思黙考していてもはじまらない。
館内案内図を出力させて、|端末腕環《クリューノ》に読みこませる。
準備完了。
ラフィールは部屋を出ようとした。
が、扉に開くよう命令する寸前で、ふと考えこむ。
なにか気になることがあった。
――なんであろ?
しばらく頭を探って、ようやく疑問を拾いあげる。この|男爵館《リューメクス》には|男爵《リューフ》と|家臣《ゴスク》たちのほかにもうひとり住人がいたはずなのだ。
ラフィールは端末を再起動させた。
「|男爵《リューフ》の父君がここにいるはずだな?」
「はい、|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》はこの|フェブダーシュ男爵館《リューメクス・フェブダク》にお住まいでいらっしゃいます」
「|男爵《リューフ》の父君の|電波紋《デファス》は登録されていないのか?」
「はい。登録されていません」
「その理由は?」
「|わが主君《ファル・スィーフ》の命令です」
「なぜ|男爵《リューフ》はそんな命令をしたんだ?」
「|わが主君《ファル・スィーフ》の許可がなければ、おこたえいたしかねます。許可をお求めですか? ただしわが主君は休ませて……」
「その科白はもうきいた」ラフィールはいらいらして、「|前男爵《リューフ・レカ》の居場所はどこだ?」
『三階平面図』がでた。|水耕農園《グレーク》と|培養牧場《バ セ ー ヴ 》が面積のほとんどをしめていた。昇降区画から水耕農園を一本の通路が走り、孤立した居住区画に達している。その区画が赤く光っていた。
「|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》と面会したい。面会予約をとるがよい」
「|わが主君《ファル・スィーフ》の許可がなければ、いたしかねます。許可をお求めですか? ただし……」
「求めないっ」ラフィールは端末の載った机を平手で打った。「|前男爵《リューフ・レカ》に会うのに、どうして|男爵《リューフ》の許しがいるんだ? おかしいじゃないか!?」
「判断はいたしかねます」
「であろな」ラフィールは|王女《ラルトネー》らしからぬことばを二言三言、端末に投げかけ、「|前男爵《リューフ・レカ》のいる区画には、ほかにだれかいるのか?」
「はい。ひとりいます」
「その者の名は?」
「わたしには登録されていません」
「|家臣《ゴスク》ではないんだな」ラフィールはたしかめた。
「はい」
――ジントの居場所がつかめたみたいだな。
「|前男爵《リューフ・レカ》の居室にいくには、やはり|電波紋《デファス》が要るのであろな」
「|一般電波紋鍵《セージュ・デファト・ヘータ》のほかに|わが主君《ファル・スィーフ》の許可が必要です。許可を……」
「その先はいうでない」ラフィールは陰気な声でいった。|機械教師《オノワレイレ》から解放されて以来、これほどの破壊衝動を抱いたことはなかった。
どうやらこの館には、不幸な親子関係が存在するようだ。それには興味がない。|貴族《スイーフ》の家庭ではめずらしくもない話なのだ。
衣裳筐を開けて、|長衣《ダウシュ》を選ぶ。長衣を着けていれば、武器を隠しやすいからだ。翼をひろげた鳥を銀糸で縫いとった、深紅の長衣をまとい、孔雀石色の|飾帯《クタレーヴ》をしめる。|帯留《アペズ》には白金の台座に|紅玉《ドウー》を埋めこんだものをとった。
こんどこそ、廊下に出る。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》!」
とたんに声がした。
ラフィールはぎょっとして、視線をめぐらす。
ひとりの|家臣《ゴスク》が、腰掛けていた粗末な籐椅子から立ちあがり、深々と腰を折った。
就寝前についていた家臣ではなかったが、その顔には見覚えがあった。「そなた、|家臣《ゴスク》セールナイだったな」
「ああ、光栄でございます、|王女殿下《フィア・ラルトネル》!」彼女は卒倒せんばかりに、「卑しいわたくしごとき者の名を憶えていてくださるなんて!」
ラフィールはげんなりし、ジントの戸惑いの一端をおぼろげに理解した。
他家の|家風《ジェデール》に介入するつもりはないが、|フェブダーシュ男爵家《リュミェ・フェブダク》の雰囲気は、尊厳という概念を守るためにも改革すべきだった。|男爵《リューフ》の家臣たちのラフィールへの態度は、とっくに敬意の範囲を超えている。
もちろん、|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》にもたくさんの家臣が仕えており、ラフィールは身の回りの世話をする召使たちにかしずかれて育った。けれども、彼らは誠忠と隷従の区別をちゃんとつけていたものだ。
ラフィールはここで普通にふるまっているつもりだが、尊大ぶった馬鹿になったような気分にさせられる。
「そこでなにをしてるんだ?」|フェブダーシュ男爵家《リュミェ・フェブダク》の|家風《ジェデール》の改革はさておいて、ラフィールは訊いた。「わたしを監視してたのか?」
「とんでもございませんっ」セールナイは目を見開いた。「どうしてわたくしがそんな不敬をいたしましょう。わたくしはただ|王女殿下《フィア・ラルトネル》がお目覚めになったおりに備え、ご用を果たすために控えていただけでございます」
ラフィールは疑わなかった。監視するつもりなら、もっと文明的なやりかたがある。なにも扉のすぐ外に張りついている必要はない。
「|男爵《リューフ》の命令か?」
「はい。|王女殿下《フィア・ラルトネル》が当館にご滞在のあいだ、わたくしがお世話さしあげるよう、申しつかりました」
「そなたにも眠る時間は必要であろ?」
「ああ、わたくしごとき、卑しき身をご案じいただいて、光栄でございます。ではございますが、交替の者もおりますゆえ、だいじょうぶでございます」
「それはよかった」熱のこもらない口調でラフィールはいった。セールナイには同情すべきなのかもしれない。が、本人はこの境遇に満足しているらしい。そこが気に入らない。
そのまま、セールナイを無視して歩きはじめる。
「お待ちください、|王女殿下《フィア・ラルトネル》」セールナイはあわてたようすでついてきた。「どちらへ行かれます?」
「なぜ訊く?」
「わたくしが代わりにご用をさせていただきますから、|王女殿下《フィア・ラルトネル》は部屋でお寛ぎになっていてくださいまし」
「いや、いい。わたしが自分で行かねば」
「どちらへ行かれるのですか?」セールナイは質問をくりかえした。
「|連絡艇《ペ リ ア 》」ラフィールは正直にこたえた。とっさに嘘がでてこなかったし、運がよければ、セールナイの|電波紋鍵《セージュ・デファト》が利用できるかもしれない。
「まあ」セールナイは手で口を覆った。「まことに恐縮でございますが、|王女殿下《フィア・ラルトネル》、|連絡艇《ペ リ ア 》へのお立ち入りはご遠慮願いたい、と|わが主君《ファル・スィーフ》が申して……」
なかば予想していたことばだったので、ラフィールの反応はすばやかった。「おかしいじゃないか。ここはたしかに|男爵《リューフ》の|城館《ガリューシュ》だ。けれど、|連絡艇《ペ リ ア 》は男爵のものじゃない。|星界軍《ラブール》のもので、いまはわたしの指揮下にある。そうであろ? 男爵が立入禁止にするのは筋が通らない」
「そ、そうですね」セールナイは混乱したようすだった。周囲にあるものすべてが男爵の――ひょっとしたら彼女自身も――という状況に馴れきっていたのに、とつぜん、異分子が混入したことに気づいたらしい。
宇宙港行き通路の扉の前についた。|電波紋鍵《セージュ・デファト》を使わないと通れない、第一の関門だ。
「扉を開けてくれないか? わたしの|電波紋《デファス》は登録されてないんだ」ラフィールはセールナイに頼んだ。
セールナイは逡巡した。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》、わたくしには判断いたしかねます……」
ラフィールはなにもいわなかった。この場面ではなにをいっても、自己嫌悪に陥りそうだ。ただじっと腕組みして、通路の扉を凝視する。
彼女も意地になっていた。なんらかの結果が出るまで――宇宙港に行けるか、|男爵《リューフ》の|家臣《ゴスク》たちにひっぱって戻されるか――梃子でも動かないつもりだった。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》」セールナイは心配そうに、「まさか、このままお行きになられるのではないでしょうね」
ラフィールは驚いた。「このまま行けるわけないじゃないか」
「そうですわね、|わが主君《ファル・スィーフ》に別れのことばをお告げにならず……」
「そうじゃない」ラフィールの驚きはつのった。「そなたは知らないのか?」
「なにを、でございます?」セールナイの顔に不審が浮かぶ。
「|男爵《リューフ》は燃料補給を拒んだんだ。あの艇《ふね》はどこへもいけない。しかも、わたしの連れを監禁してしまった」
「まあ」セールナイは大きく開けた唇を手で覆い、「そんなことを|わが主君《ファル・スィーフ》が!?」
「ほんとに知らなかったのか? |男爵《リューフ》ひとりでできたはずがない。|家臣《ゴスク》も命令にしたがったのであろ」
「わたくしも主君に命じられれば、従ったことでありましょう」セールナイは申しわけなさそうに頭を下げ、「ではありますが、誓って、わたくしは存じませんでした。|わが主君《ファル・スィーフ》は|家臣《ゴスク》に不必要な情報は与えません。わたくしはただ|王女殿下《フィア・ラルトネル》が軍務のとちゅうにお立ち寄りになってくださったものと理解しておりました」
「けれど、そなたは敵艦隊の侵攻は知ってたじゃないか」
「あれは噂できいたのでございます。このような小さな|所領《スコール》では噂はあっという間にひろがりますもの。主君からきいたわけではございません」
「そうか」噂のもとは|管制官《プリューセガ》だろう。「それでは、いま知ったわけだ。そなたはどうする?」
「どうする、とおっしゃいますと?」
「そなたは|男爵《リューフ》の|家臣《ゴスク》であると同時に、|帝国の国民《ルエ・レーフ》でもある。|家臣《ゴスク》として|男爵《リューフ》に忠節を尽くすか、|国民《レーフ》としてわたしの任務を支援するか?」
長いためらいがあった。
「わかりました」セールナイはとうとうひざまずき、「|王女殿下《フィア・ラルトネル》のご命令に従います」
「いや……」ラフィールは、|王女《ラルトネー》として命令しているのではなく、|軍士《ボスナル》として協力を頼んでいるのだ、という意味のことを説明しようとした。が、すぐ思いなおす。まあ、どちらでもよいことではある。「そなたに感謝を」とだけいった。
「もったいのうございます」セールナイは立ちあがって、扉を開いた。
11 |前男爵《リューフ・レカ》
「初代|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》、つまりわしの母親じゃが、惑星ディ・ラプランスという、人口過剰の|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》の出でな、まあ家庭の事情とやらも加わって、もっとすいた世界に移住するか、|帝国国民《ルエ・レーフ》になるかの選択を迫られたんじゃ」
用意された食事は鶏肉の香辛料煮込みと生野菜の盛りあわせだった。うんざりするほど量があり、しかもうまかった。
アーヴは薄い味つけを好む。味蕾の構造がちがうのかと思ったが、先祖たちと同じらしい。ただたんに薄味が好きなのだ。薄味のほうが上品だと思いこんでいるだけだ、という説もジントは耳にしたことがあるが。
いくらか辛すぎはしたものの、〈ゴースロス〉で供された食事に比べると、この食事の味は濃く、ジント好みだった。
しかしのんびり賞味する気分にはなれない。気乗りせずに香辛料煮込みをつつきながら、老人が|フェブダーシュ男爵家《リュミェ・フェブダク》の来歴を語るのを拝聴していた。
「で、|国民《レーフ》への道を選択した。国民になるのに手っ取りばやいのは、|星界軍《ラブール》に志願することじゃ。で、|掌兵科《ボンデーブ》の|従士《サーシュ》になることにしたんじゃよ。掌兵科は知っているかね、|少年《ファネブ》」
「ええ」ジントはうなずいた。「兵器類の整備をする術科でしょう、たしか」
「そうじゃ。軍で親父と出会い、地上的にわしを産んだ。つまり、結婚によってということじゃぞ」
「わかりますよ」
「そのあと、おふくろは才能を見こまれて、|造 兵 修 技 館《ケンルー・ファゼール・ロウボン》への狭き門をくぐったんじゃよ。造兵修技館は知っとるかね?」
「入学を検討したことがありますから。兵器技術者のための|修技館《ケンルー》ですね」
「そのとおり。それで卒業して、おふくろは|造 兵 科《ファズィア・ロウボン》に転科し、|翔士《ロダイル》となった。|従士《サーシュ》じゃと、長年勤めて、やっと|士族《リューク》に叙されるのがおちじゃからな。うまくやったといってもいいじゃろう」
「そうですね」老人に見つめられて、ジントはしかたなく同意した。
「親父とはその時には別れていたらしいな。おかげでわしは親父の顔を知らん。まあ、アーヴとしてはそうめずらしくない話じゃ。そして、おふくろはそれからもうまくやった。|技術者《ファズィア》としてはたいしたことなかったんじゃが、人を乗せるのがうまくてな、指導者の資質があった。そのおかげで、どんどん出世していき、しまいには|技 術 元 帥《スペーヌ・ファゼール》にして、|艦政本部長官《セーフ・ヴォボト・メニョト》になりおおせたのよ」
「すごいですね」
「そうじゃろう。|帝 国《フリューバル》では|元帥《スペーヌ》に|爵位《スネー》をもって報いる。で、この青っぽい星をもらったんじゃ」
ちょうど野菜を頬張っていたジントは、うなずくだけで相槌をすませた。
「まあ、そんなわけで、わしの遺伝子は地上人形質のままなんじゃ。若いころはけっこう恨んだもんだがな。まあ、いまとなってはどうでもいいことじゃて。正直いって、この歳になってしまえば、若い肉体をもてあますだけじゃろうからな。年老いて死ぬというのは、アーヴがなぜか捨ててしまった権利じゃ。いま若いおまえさんには実感しがたいことじゃろうが」
「ええ。どちらかというと、ずっと若いままでいたいですね」
「そうじゃろう。じゃが、精神と肉体はともに老成するべきなんじゃ。それはともかく、おふくろが|士族《リューク》じゃったおかげで、わしは|修技館《ケンルー》への入学申請を認められた。とはいっても、|空識覚《フロクラジュ》がないせいで|飛翔科翔士《ロダイル・ガレール》、連中がいうところの|真の翔士《ロダイル・ノークタ》にはなれん。それで、|造 船 修 技 館《ケンルー・ファゼール・ハル》に入った。造船修技館は知っとるじゃろう」
「ええ。そこも入学を検討しましたから。けれど、ぼくはどうも設計技師にむいていない気がして」
技術系にはよっつの主流がある。兵器を考案する|造 兵 科《ファズィア・ロウボン》、船体を意匠する|造 船 科《ファズィア・ハル》、機関を設計する|造 機 科《ファズィア・セール》、|思考結晶《ダテューキル》を扱う|光 子 科《ファズィア・ダテュークリール》で、それぞれが独立した|修技館《ケンルー》をもっていた。
「わしはめでたく|造 船 翔 士《ロダイル・ファゼール・ハル》になった。おふくろが|爵位《スネー》と|所領《スコール》をもらったときには、専門知識を生かすことができたよ。つまりはそれが陰謀の種じゃ」
「はあ?」話の飛躍についていけなくて、ジントはききかえした。が、いっぽうでようやく興味のもてる話題にさしかかったことを嗅ぎあてている。
「おまえさんをここから抜けださせる陰謀じゃよ、息子の裏をかく悪だくみじゃ。忘れたわけではあるまい?」
「まさか! さっきからそればかり考えていたんです」
「わしの話を聞き流しながらな」
「いえ、そんな……」図星をつかれて、ジントは赤面した。
「いいんじゃよ」|前男爵《リューフ・レカ》は手をふった。「人としゃべるのは久しぶりで、いろいろくだらないことをきかせた」
「そんなことはありません。たいへん興味深いお話でした」
「なあ、|少年《ファネブ》。おまえさんはいい人間のようじゃが、見えすいたお世辞がかえって人の心を傷つけるってことを知ってもいい年ごろじゃないかね」
「すみません」
「まあ、いいさ。とにかく、もうちょっと詳しく説明させてもらうとしよう。船と|軌道城館《ガリューシュ》には似たところがある。要するに軌道城館というのは機関のない船みたいなものじゃからな。わしがこの|男爵館《リューメクス》を設計したんじゃ。いくつか設計者の特権をもっておって、息子には譲り渡しておらん。あの慌て者め、引き継ぐ前にわしを幽閉しおった。|鍵語《セジョス》ひとつでこの館の|思考結晶網《エ ー フ》はわしに服従する。|端末《ソテュア》にさえ近づければ、あの親不孝者をぎゃくに閉じこめることぐらいわけないわい」
「じゃあ、どうして……」
「監禁状態に甘んじているのか、と訊きたいのか? なあ、|少年《ファネブ》、ここを抜けだしてどこへいけというのじゃ? 監禁区画からでたところで、|男爵館《リューメクス》のまわりは絶対三度の真空じゃ。しかも、昔馴染みの|家臣《ゴスク》たちはとうにみんな解雇されて、息子が独特なやりかたで採用した連中しかおらんとくる。意欲が湧かんのも無理ないじゃろう」
「でも、助けを求めることはできたでしょうに」
「|帝 国《フリューバル》は|貴族《スイーフ》の家庭内事情には容喙せんよ。おまえさんも貴族なら、そのことを憶えておいても損はない。それに、わしはこの生活がけっこう気にいっとるんじゃ。とくに外でしたいこともないからの。とりわけ友だちづきあいは最悪じゃ。連中、ほとんど昔と変わらんからな。わしだけ歳をとったかと思うと、腹が立つ」
「たしか、さっきは、精神とともに肉体も老成するべきとかどうとか、おっしゃっていたように思いましたが……」
「おお、|少年《ファネブ》よ、負け惜しみということばをきいたことは?」
「そりゃ、ありますよ」
「なら、解説の必要はあるまい」
「じゃあ、まあ、それはいいですが……」|前男爵《リューフ・レカ》を全面的に信じたとしても、まだ疑いは残った。「その|鍵語《セジョス》のことですが、|男爵《リューフ》が変更していないといいきれますか?」
「いいきれんな」あっさり前男爵はこたえた。「けれど、人間、たまには賭けをせんとな。さもなきゃ、人生がつまらん。ここにいて最大の不満は、賭けの相手がおらんということだな」
「賭け事は嫌いなんですよ」七年前のあの日から、どうも運命とは折り合いが悪いような気がする。折り合いの悪い相手に人生の一部でも委ねる気にはとてもなれない。
「健全じゃな。じゃが、この賭けは率がいいぞ。|鍵語《セジョス》は分子構造に焼きつけてある。あいつが|思考結晶《ダテューキル》すべてをとりかえんかぎり、変更はきかん」
「そうなんですか」ジントの疑念はまだ晴れなかった。とりかえなかったという保証はどこにもない。
「わしを信じろ、そして、わしに賭けるんじゃ、|少年《ファネブ》。さて、暇つぶしに手を貸してもいいが、おまえさんの問題をきいておかんといかんな。おまえさんはなにをしにここに来て、どうしてわしと同室するはめになったんじゃ?」
そこで、ジントは話しはじめた。
|主計修技館《ケンルー・サゾイル》への入学が認められたこと。|帝都《アローシュ》ラクファカールにいくために、|巡察艦《レスィー》〈ゴースロス〉に搭乗したこと。その途中で、敵らしき|時空泡《フラサス》群と遭遇したこと。ラフィールの操縦する|連絡艇《ペ リ ア 》で脱出したこと。補給のため、|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》に立ち寄ったこと……。
「それで、あとは|前男爵閣下《ローニュ・リュム・レカ》のご存じのとおりです」
「うん? すると、さっきおまえさんが口にしておったラフィールという女の子は、ひょっとして|王女殿下《フィア・ラルトネル》のことなのか?」
「ええ」ジントは不承ぶしょううなずいた。
「なるほど」老人はにやにやして、「外じゃそんなことが起きておったのか、わしが隠居しているあいだに。ほっほう、こりゃすごいわい! 死んだおふくろがきいたら、よろこぶじゃろうて。|王女殿下《フィア・ラルトネル》がいらっしゃっているとはな。|伯 爵 公 子 閣 下《ローニュ・ヤルルーカル・ドリュール》をお迎えするだけでも、分に過ぎたことじゃ。わが家の格も上がったものじゃの」
「冗談はやめてください」ジントはいらだった。「手を貸してくれるんですか?」
「もちろん貸すとも。おまえさんと|王女殿下《フィア・ラルトネル》を|連絡艇《ペ リ ア 》に乗せて、飛ばせばいいんじゃな?」
「それと燃料補給を」
「そうそう、燃料を忘れるわけにゃいかん。ついでに食い物ももっていくか」
「ええ、お願いできるなら。|戦闘配食《ワ ニ ー ル 》には飽きあきしていたんです。アーヴ好みの薄味ですからね。けれど、できるんですか?」
「できると思うよ。じゃが、ひとつだけ問題がある」
「なんです?」
「|端末《ソテュア》に近づければ、とわしはいったな? それは息子のやつも薄々知っておって、この監禁区画には端末がないんじゃ」
「なんだ」ジントは落胆した。
「おいおい、なにを期待しておった? わしがちょいちょいと|端末《ソテュア》に命令すると、若いのおふたりで手に手をとりあって、恋の逃避行? 世の中、そんなに甘くないぞ」
「べつにラフィールはぼくの恋人じゃないですよ」ジントは指摘した。
「気にするな、ちょっと文学的修辞をこねくってみたくなっただけじゃ」
「そんなことはともかく、どうすれば|端末《ソテュア》に近づけるんです?」
「監禁区画から出ればいい」
「どうやって?」
「それをおまえさんとふたりで考えるんじゃないか、いまから。さもなきゃ、陰謀にも悪だくみにもなるまい。おまえさんも努力したほうが、のちのち|王女殿下《フィア・ラルトネル》に大きな顔ができるもんだて。ところで、|少年《ファネブ》」
「なんです?」
「ほんとうにおまえさんたちは恋愛中じゃないのか」
「ええ、ちがいますよ」否定するのはいくぶん遺憾なことではあった。
「そうはいうが、|王女殿下《フィア・ラルトネル》を呼び捨てにできるのは、|帝 国《フリューバル》にそうたくさんはおらんぞ。それとも、王女殿下のおられぬところだけでそうしておるのか。そうじゃとすれば、おまえさんの評価も改めんといかんな」
「あっ、いや、それは……」ジントは口ごもり、「面とむかってもそうしますが」
「それなら……」
「でも、無知と幸運のなせる業《わざ》なんです。くわしいことは長い話になってしまいます。しかも、ごくつまらない」
「拝聴したいが、どうせそんな気分じゃないんじゃろうな」
「ええ。残念ながら。時間もありませんし」
「ほんとに残念なことじゃて。せっかく、不肖の息子に、横恋慕する因業貴族の役を割りふってやれるところだったのに。あいつにはぴったりの、野暮な役どころじゃないか!」
むろん、|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》はラフィールに横恋慕をしていなかった。
そもそも、ラフィールはすくなくとも意識しては――だれにも恋などしていないのだから、横恋慕などしようがない。
その夜、|男爵《リューフ》はめずらしく――というのはふだんなら、お気にいりの|家臣《ゴスク》を何人かともなうから――独りで寝室に引きあげた。
この夜は、いろいろと考えねばならないことがある。
男爵は|セムリューシュ伯国《ドリュヒューニュ・セムリュク》産の|林檎酒《リンメー》を|紫水晶《ブレスキル》の|玉 杯《ラムテューシュ》に注いで呷った。
心に迷いがある。自分の判断が正しかったのか、確信できない。
彼の望みは自分の王国を築くことだった。王国といっても、|帝 国《フリューバル》に対抗するような大規模なものではない。男爵は自分の才能を過大評価する傾向があったが、狂気には冒されていなかった。規模はいまの|男爵領《リュームスコル》のままでもじゅうぶんだ、と思っている。
|帝 国《フリューバル》の貴族社会では、彼は劣等感の虜だった。身分はたかが男爵。家の歴史ではそこらへんの|士族《リューク》にも劣っている。
だから、彼は|帝都《アローシュ》へいくことを好まなかった。アーヴのたくさんいる場所では、自家の浅い伝統が彼の自尊心をさいなまずにはいない。
その点、この|所領《スコール》ならアーヴは己れ独り。|男爵《リューフ》は自分の父親をアーヴとは認めていなかった。たとえ認めたとしてもおなじこと。この小世界では、いまや彼が支配者なのだ。
そう、|所領《スコール》にいるかぎり、独立不羈の王国の主人《あるじ》であるかのような幻想に浸ることができる。
ラフィールと|管制官《プリューセガ》の通信を傍受して、最初に浮かんだのは王国を失うことへの恐怖だった。
敵は〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉だろう。いくら|所領《スコール》に閉塞しているといっても、そのていどの判断をつける情報はもっている。
〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉は|男爵領《リュームスコル》の存続を認めるだろうか?
ありえない!
それならどうする?
男爵は悩んだすえ、〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉が|男爵領《リュームスコル》を無視することに一縷の希望をつないだ。
それにはよけいな動きは避けることだ。|フェブダーシュ門《ソード・フェブダク》からの|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》への進入は認められない。
そこまではラフィールに説明したとおりだ。
むろん、|フェブダーシュ門《ソード・フェブダク》から|平面宇宙《フ ァ ー ズ 》へ進入するものがあったからといって、新たに敵の関心を呼び覚ます可能性が低いことは、男爵にもわかっていた。
だから、最初に男爵の心をよぎったのは、補給作業を急がせ、道案内になるかもしれない小型艇をそうそうに放りだしてしまおう、という考えだった。それなら、危険は最小限ですむ。
しかしこのとき、よからぬ思考が男爵の心に忍びこんだ。
すでに敵が|男爵領《リュームスコル》を目指している可能性を考えたのだ。
敵がやってきて協力を要請したなら、|男爵《リューフ》は一も二もなく従うつもりだ。|男爵領《リュームスコル》に武力はない。抵抗は無益だ。|燃料《ベーシュ》がほしいといわれれば、望まれるだけ差しだそう。もしそれでこの王国が保てるなら。
だが、敵は男爵の協力など欲しがらないかもしれない。ただ強圧的に|反物質燃料工場《ヨ ー ズ》、その他の施設を押収しようとする可能性はあまりにも高い。
しかし――彼らは|皇 帝《スピュネージュ》の孫には大きな興味を示すのではないか?
アーヴの|皇 帝《スピュネージュ》に人質という手段が利くはずもないが、彼らはそれを知らないかもしれない。
だとしたら――取引材料に使える。
|王女《ラルトネー》を引き渡すことを条件に|領地《リビューヌ》の保全を交渉するのだ。交渉はなるべく長引かせてやろう。
そのいっぽうで協力を惜しまない。|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》を〈|四ヵ国連合《ブルーヴォス・ゴス・スュン》〉軍の策源地にしてしまうのだ。いったん重要な補給基地になってしまえば、もう安易に手を出せまい。なぜなら、領地を接収されるぐらいなら、男爵はいつでも|所領《スコール》を道連れに死ぬ覚悟があるからだ。
そこで一種の保険として、ラフィールというふところに飛びこんできた鳥をそのまま抱えこむことにしたのだ。
もし|帝 国《フリューバル》とのつながりが断たれ、敵もやってこなかったとしたら?
それこそ望むところだ、名実ともにこの小さな世界の絶対的支配者になれるのだから!
五〇人の|家臣《ゴスク》しかいなくてもいい。種類の限られた水耕作物と培養食肉しか口にできなくてもいい。このお気にいりのセムリューシュ産の|林檎酒《リンメー》がなくても耐えられる。絶対者として、自分が君臨できるこの世界さえ保たれるならば。
|男爵《リューフ》はささやかな世界を統治する自分を幻視した。その世界にはラフィールもいる。
|帝 国《フリューバル》との連絡が途絶してしまえば、彼女が|王女《ラルトネー》であることに劣等感をいだかなくてもすむ。この|所領《スコール》では、ラフィールになんの権力もない。選抜を重ねて、従順な女性ばかりでかためた家臣たちは、男爵個人を神のように崇めている。王女と男爵が矛盾した命令をだしたとしても、どちらに従うべきか、迷う家臣はひとりもいないはずだ。
じつをいうと、男爵はアーヴ女性と交際したことがなかった。ラクファカールや軍で何人ものアーヴ女性と知り合ったが、口をきく段になると、どうも気後れしてしまう。
その反作用だろうか、ときどき、家臣たちに髪を青く染めさせ、|アーヴ貴族《バール・スィーフ》の服装をさせて、ちょっと倒錯的な趣味に耽ることがある。そのための衣裳や装飾品が王女を迎えるにあたって役に立っているわけだが、お楽しみ自体はつねに期待外れにおわった。
外面はまだ我慢できる。アーヴのなかにも美の基準が個性的すぎて、すなおに美女と呼びがたい女性がたまにいるのだ。問題なのは内面だった。謙譲の度がすぎて、ちっともアーヴらしくない。
じっさい、ラフィールと相対するまで、ほんとうのアーヴ女性がどのようなものか、忘れかけていたぐらいだ。
|男爵《リューフ》は|林檎酒《リンメー》を注ぎながらにやにやした。
本物のアーヴ、それも|王女《ラルトネー》にたいして、おれはちゃんといいたいことをいってやったじゃないか。
自分の城にいるという安心感がそうさせたのだろう。ラクファカールの社交界では考えることもできない。きたるべき統治の予行演習だ。
――王国には後継者が必要だな……。
酔いのまわった頭で考える。
この|所領《スコール》に女性はたくさんいる。|家臣《ゴスク》は全員が女性なのだ。しかし地上人の女性である。
遺伝的にアーヴである彼と地上人女性とのあいだに、遺伝子調整なしで子どもが生まれる可能性はほとんどない。生まれたとしても、致命的な先天性の欠陥を負っていることだろう。
もちろん、|帝 国《フリューバル》には遺伝子調整をする医療施設はいくらでもあった。男爵自身も地上人の遺伝子をもった父と生来のアーヴ女性とのあいだに生まれた、遺伝的にも完全なアーヴである。けれども、|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》には遺伝子調整の設備も技術もない。
だが、ラフィールはどこからみても文句のつけようのないアーヴである。彼女となら、子孫をもうけるのに――生物学的な意味では問題はない。
アーヴの自然受胎出産は危険がともなう。本来、アーヴとは不自然な生きものなのだ。だが、避けなければいけないほどには危険度が高いわけではない。アーヴがもし純生物学的に生まれた場合、なんらかの先天性疾患に罹る確率についての論文を、男爵は読んだことがあった。信頼すべきその論文によると、せいぜい五〇人にひとりが重大な疾患を生まれながらにもつという。
賭けとしては悪い率ではない。
――そうだ、後継者を|王女《ラルトネー》に産んでもらおう……。
妄想は果てしなく膨らんだ。
このとき、|男爵《リューフ》はラフィールに恋をしはじめていたのかもしれない。
もちろん、ラフィールである必要はなく、遺伝的にアーヴの女性ならだれでもよかったのだが。
そのうえ、ラフィールの美しさは申しぶんなかったが、いかんせん、子どもの美しさ、未発達な美だった。一人前の女になるまではたっぷり時間がある。性格的にもあいそうにない。
だが、どうせずっと先の話である。
いまにも|帝 国《フリューバル》がこの地を回復するかもしれない。
ラフィールを――すくなくとも形式のうえでは――鄭重に扱っているのも、|帝 国《フリューバル》中央との連絡が再開したときのことを考慮してのうえである。
あの目障りな地上人の|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》に関してはさほど鄭重とはいえないかもしれない。だからといって、犯罪的なほどひどいわけでもない。なにしろ男爵の父親と同室させているのだから。申し開きはいくらでもできる。
ふたりの乗ってきた連絡艇はなにか厄介の種になりそうな予感がするので、壊してしまいたいところだが、|帝 国《フリューバル》にその理由を説明するときのことを考えると、まだ時期尚早と判断せざるをえない。
もし|帝 国《フリューバル》が戻ってこないとわかれば――そのときは思うがままにふるまおう。そのころには、|王女《ラルトネー》もずっと扱いやすくなっているだろう。
あの青年にさえ、使い道はある――次代の|家臣《ゴスク》たちを産むためには地上人の精子が必要なのだ。
|酒精《スキアデ》が脳細胞を痺れさせるにしたがって、|男爵《リューフ》の迷いはふっきれていった。
ちゃんとありとあらゆる場合に備えているではないか。完璧とはいえないが、おかれた状況を考えれば、これでせいいっぱいだ。
男爵は爽快な気分で残った|林檎酒《リンメー》を一息に飲み干し、寝台に横たわった。
それを見計らったかのように、|通話器《ルオーデ》がピッと鳴った。
「なにごとだ!?」くだらないことなら、叱責を加えてやらねばと思いながら、男爵は尋ねた。
「こちら|家 政 室《バンゾール・ガリク》、グレーダでございます。|わ が 君《ファル・ローニュ》、お休みのところ、まことに申しわけありませんが、|連絡艇《ペ リ ア 》に侵入したものがおります。いかがいたしましょう?」
男爵はがばっと跳ね起きた。
飛びこんできた鳥は、ふところでおとなしくしているとはかぎらなかった。
男爵はひとつだけ誤算を犯していた。
|男爵《リューフ》の壮麗な容姿は|地上世界《ナ ヘ ー ヌ 》ではめったにお目にかかれないものであり、|家臣《ゴスク》の忠誠心を否が応にもあおった。彼女たちは男爵に憧憬し、彼を崇拝していたといってもいい。男爵とともに過ごせる時間は、家臣たちにとって麻薬のように魅力的であり、競ってお互いどうしから奪いあうものだった。男爵からくだされるものなら、理不尽な罵声や鞭の一打ちすら、彼女たちにとっては甘美な贈り物だった。もし甘美と思わないのなら、|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》の家臣としては不適格だ。
だが、半神めいた美貌は|フェブダーシュ男爵《リ ュ ー フ ・ フ ェ ブ ダ ク》だけの特質ではない。|星たちの眷属《カルサール・グリューラク》、アーヴならば、いずれかの美の基準において傑出していてあたりまえのこと。
たしかに男爵個人に忠誠を誓っている家臣もいることはいた。男爵の夜毎の相手、お気にいりの愛人たちである。
が、半数以上の家臣はそうではなかった。
男爵が彼個人への忠誠と誤解していたものは、アーヴという種族全体への興味なのだ。彼女たちはアーヴの世界を天上界と同一視せんばかりだったが、男爵が|アーヴ貴族《バール・スィーフ》としては平凡な存在であることも知っていた。
セールナイもそのひとり。
男爵に隠れて、アーヴの貴公子たちの立体映像を眺めるのが彼女の趣味だった。彼女には同性愛の傾向はすこしもなかったけれど、目のあたりにしたアーヴの|王女《ラルトネー》には魅了されざるをえなかった。
心神喪失状態に陥ることなく、きちんとしゃべれるのが、自分でも不思議なぐらいだった。おそらく、現実とは信じきれずにいるからだろう。
もちろん、辺境とはいえ天上界に生活の場を与えてくれたことで、|男爵《リューフ》には感謝していた。|男爵領《リュームスコル》での生活が長かったものだから、主君の命令を絶対と考える習慣も骨までしみこんでいる。
だが、ラフィールのことばは、抗しがたい強制力をもってセールナイの耳に響いた。なにしろ麗しく貴やかなアーヴの統率者になるかもしれない少女である。
引き裂かれるような葛藤に決着がついてしまうと、|王女《ラルトネー》に奉仕できるのだという事実にセールナイはめくるめく快感を覚えた。
余計なことをなにひとつ訊かず、彼女は発着広間まで王女を案内して、|昇降筒《ドブロリア》の扉の前で忠実に新しい主人を待っていた。
やがて、ラフィールがおりてきた。|長衣《ダウシュ》の両太腿のあたりが妙にふくらんでいる。
「|王女殿下《フィア・ラルトネル》」セールナイはひざまずいて王女を迎えた。
「|家臣《ゴスク》セールナイ」とラフィール。「わたしをジントのところにつれていってほしい。あるいは、ジントをわたしのところにつれてくるか。それができるか?」
「ジントさま?」セールナイの記憶にない名前だった。「そのかたはどなたでしょう?」
「わたしの連れだ。|ハイド伯爵公子《ヤルルーカル・ドリュー・ハイダル》。監禁されてるんだ。そなたも会ったであろ」
|伯 爵 公 子《ヤルルーカル・ドリュール》ときいて、青い髪の貴公子を思い描いたが、すぐに失望した。地上人のくせになぜか|貴族《スイーフ》の格好をした青年のことだ。
「あのかたですか……」
「どこに監禁されているか、知らないか?」
「まことに申しわけありませんが……」
「そなたが恐縮することはない」なぜか|王女《ラルトネー》の口調はいらだっていた。
「もったいのうございます」
「しかし|前男爵《リューフ・レカ》の監禁されてる場所はわかるであろ?」
「主君の父君でございますか」セールナイは軽蔑的に問いかえした。あのかたはアーヴ身分にありながら、アーヴではない。それを恥じて身を隠しているのだ。「あのかたは監禁されているのではなく、隠居なさっておられるのでございます」
「では、連絡もとれないのはどういうわけであろ」
「さあ?」いわれてみれば、奇妙だった。もっとも、これまで連絡しようとしたこともないから、それが不可能だとはついぞ気づかなかったのだが。
「監禁されてるのか、隠居してるのかはどうでもよい。ともかく、ジントは|前男爵《リューフ・レカ》とともにいるらしい。なんとか、あの者を連れだしてやってほしい」
「まことに申しわけありませぬが」身の縮こまる思い。「それは不可能でございます」
「|男爵《リューフ》に禁じられているからか?」
「それもございます。ではございますが、事実上、主君のご許可がなければ、立ち入ることはできません」
「閉鎖されてるのか」
「はい」
「なんとか連絡をとることはできないのか?」
「たしか|家 政 室《バンゾール・ガリク》の|通話器《ルオーデ》で話すことができたと存じますが、少数の|家臣《ゴスク》しか出入りを許されておりません」
「そこに侵入できそうか」
「見とがめられずに、という意味でございましたら、不可能でございます」家政室には、いつも数人の家臣たちがつめている。
「じゃあ、制圧しよう、わたしとそなたとで」ラフィールは|長衣《ダウシュ》の裾から武器をとりだし、セールナイにさしだした。「使えるか?」
「いえ、使ったことはございません……」|王女《ラルトネー》から寄せられた信頼は思いもよらぬことだった。セールナイは呆然と銃を受けとる。
「簡単だ」ラフィールはもう一挺を太腿に巻いた|装帯《クタレーヴ》から引きぬき、操作法を教えた。
「はい。わかりましてございます」たしかに簡単だった。安全装置がはずれているのを確認して、銃口を目標にむけ、銃爪を絞ればいい。
「行こう」王女は駆けはじめた。「時間がない」
「はい」セールナイも走って、ラフィールを追いぬいた。家政室までにもいくつか扉があるので、彼女が先にたって案内しないといけない。
しかし最初の扉を前にしたとき、セールナイは立ちすくんだ。
――あたし、反逆しようとしているんだわ!
セールナイは戦慄した。
|王女《ラルトネー》の気軽さに引きずられて、あまり深刻に考えなかったが、いまから彼女がしようとしているのは――いや、現に起こしてしまった行動は、主君への反逆にほかならない。
|端末腕環《クリューノ》から|電波紋《デファス》を発して、扉を解錠した。
「開け」セールナイは震える声でいって、ふりかえる。「|王女殿下《フィア・ラルトネル》」
「なんだ?」ラフィールはさっさと歩きはじめて、セールナイを追い抜いた。
そのあとを小走りで追いながら、「請願の儀がございます」
「いうがよい」
「主君に違背しましたからには、わたくしは|男爵領《リュームスコル》におられません。ぜひとも、|王女殿下《フィア・ラルトネル》の|家臣《ゴスク》の列にお加えくださりますよう」
ふりかえったラフィールは目をしばたたかせていた。
分にすぎた願いだっただろうか、とセールナイは恐れた。
「ああ、そうであろな」とラフィール。「けれど、わたしには|家臣《ゴスク》がいない」
「ま、まさか!!」セールナイには信じられなかった。|皇 族《ファサンゼール》ともあろう者が、ひとりの家臣ももっていないなど、あるはずがない。
「もちろん、|クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》にはたくさん|家臣《ゴスク》がいる。家臣の人事権を握ってるのは父だけど、事情が事情だから、そなたのことはなんとかなると思う」
「お父君といえば、|クリューヴ王殿下《フィア・ラルト・クリュブ》でございますか」
「うん」当たり前のように、|王女《ラルトネー》は答えた。
手の届く距離にいる少女が高貴な血筋であることを実感して、セールナイは改めて畏怖に打たれた。
「けれど、わが家ではそなたの技術が生かせないぞ。そなたは|反物質燃料槽《ベ ケ ー ク》の専門家なのであろ」
「ああ、光栄でございますっ」王女が名前ばかりか、職業まで記憶していたことは意外であり、望外なことだった。セールナイは感激のあまり、泣きだしたい衝動に襲われた。
「それをやめるがよい」ラフィールはうんざりした声音でいった。
「それ、とはなんでございましょう?」王女の不興を買ったかもしれない、とセールナイはうろたえる。
「いい」あきらめたように、王女はいった。「とにかく、そなたは技術の生かせる場所に行ったほうがいいんじゃないか?」
「わたくしごときの未来を気にしていただいて、幸甚にたえません。ですが、|王女殿下《フィア・ラルトネル》、わたくしは、ここにはもういとうございません」
「それはわかる」王女はうなずいた。「ここからは出られるようにしよう。でも、|王家《ラルティエ》で働けるかどうかは約束できない」
「そのおことばだけでじゅうぶんでございます」すくなくとも、|アーヴの都《バール・ロニート》、ラクファカールまではつれていってくれるだろう。
また扉があった。家政室はこのすぐ近くである。
セールナイは弾む思いで、扉を開いた。
ラフィールの一生にとってはささやかな挿話だが、|フェブダーシュ男爵領《リ ュ ー ム ス コ ル ・ フ ェ ブ ダ ク》の歴史にとってはきわめて重大な事件が起きようとしていた。
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付 録 帝国星界軍翔士位階
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│ │飛翔科《ガレール》 │主計科《サゾイル》 │ │飛翔科《ガレール》 │主計科《サゾイル》 │
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│ │帝国元帥《ルエ・スペーヌ》 │ │ │百翔長《ボモワス》 │主計百翔長《ボモワス・サゾイル》 │
│士│星界軍元帥《スペーヌ・ラブーラル》 │主計元帥《スペーヌ・サゾイル》 │士│副百翔長《ロイボモワス》 │主計副百翔長《ロイボモワス・サゾイル》 │
│翔│大提督《フォフローデ》 │主計大提督《フォフローデ・サゾイル》 │翔│十翔長《ローワス》 │主計十翔長《ローワス・サゾイル》 │
│任│提督《フローデ》 │主計提督《フローデ・サゾイル》 │任│前衛翔士《レクレー》 │主計前衛翔士《レクレー・サゾイル》 │
│勅│准提督《ロイフローデ》 │主計准提督《ロイフローデ・サゾイル》 │奏│後衛翔士《リニェール》 │主計後衛翔士《リニェール・サゾイル》 │
│ │千翔長《シュワス》 │主計千翔長《シュワス・サゾイル》 │ │列翼翔士《フェクトダイ》 │主計列翼翔士《フェクトダイ・サゾイル》 │
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現在でこそ大艦巨砲主義のアーヴだが、帝国創設前後はもっぱらひとりから三人ぐらいが乗りこんだ高機動戦闘ユニットに頼っていた。そのユニットの操縦士兼指揮士が翔士である。当時の星界軍の編成は四機編隊が基本だった。菱形の編隊を組み、指揮官が先頭機に乗りこみ、次席指揮官が後尾を固める。すなわち、指揮官は前衛翔士となり、次席指揮官は後衛翔士であり、左右の操縦士は列翼翔士だった。状況に応じて、四機編隊は二機編隊となるが、その場合、前衛・後衛の翔士がそれぞれ一機ずつの列翼翔士を率いた。
さらに、この四機編隊がふたつ集まり、より上級の戦闘単位をつくる。この指揮官機は同僚機を一機従えているので、ちょうど一〇機の戦闘ユニットを統率することになる。したがって、十翔長と呼ばれた。
都市船アブリアルがアーヴの領土のすべてであったころには、戦闘ユニットはすべてあわせて一〇〇機から二〇〇機ほどであった。そこで、いささか不正確ながら、戦闘ユニット部隊の総指揮官を百翔長と呼んだ。さらにその補佐役として数人の副百翔長が置かれていた。
やがて、星界軍が膨張をはじめると、百翔長にすべての指揮を委ねるのは現実的ではなくなり、より上位階級として千翔長が設置された。このころになると、もはや機数と階級の関係はあいまいになってくる。
帝国創設後、アーヴは数隻の母艦を運用するようになった。したがって母艦群の統率者が必要となり、提督が任命されるようになった。
帝国の膨張とともに、母艦の数も増え、提督の補佐として分艦隊を率いる人間が必要となる。それが准提督である。
そのうち、宇宙戦技術の進歩により、多数の高機動ユニットを運営するより大型の艦艇で艦隊を編成するほうが有効である、と判断されるに至って、百翔長以下の呼称は完全に階級名となり、職責との関係を喪失した。
帝国の膨張はさらにつづき、星界軍の規模もそれに応じて増大した。
複数の艦隊が常備されるようになると、提督より上位の階級が求められた。それが大提督であり、元帥である。
また、別の問題が浮上してきた。宇宙での戦闘は星界軍がじゅうぶんに任に堪えたが、多くの惑星にたいして支配を確立し維持するためには、地上における戦闘もやはり必要であり、星界軍では対応しきれなかった。
そこで、地上軍が設けられることになった。それまでの元帥は星界軍元帥となり、地上軍の統率者として地上軍元帥があてられた。そして、その両者の上位者として帝国元帥の位階が置かれる。
だが、二軍並立の時代は短かった。地上軍はその性格上、地上世界出身者が大半を占めた。地上世界出身者であろうとも翔士以上は士族や貴族、つまりアーヴとして扱われたが、それだけでは彼らは満足しなかった。ついに帝政の廃止を求めて、反乱を起こす。首謀者の名にちなみ『ジムリュアの乱』と呼ばれるこの反乱は、帝国史上最大のものだった。
散々な苦労のすえ鎮圧に成功した帝国は、ただちに地上軍の解体を決定した。これ以降、地上戦部隊は空挺科となり、独立した軍ではなく、一兵科として、各鎮守府や艦隊に所属することとなる。
地上軍元帥の職分は廃止されたが、空挺元帥という階級は残り、星界軍元帥もまた階級として残る。さらに、各科の地位向上にともなって、主計元帥、軍医元帥、技術元帥などの階級が登場するのである。
[#地付き]〈註〉特殊兵科には、主計科のほかに、空挺科、軍医科、技術科(以上、
[#地付き]最高位は元帥)、警衛科、法務科、看護科(以上、最高位は大提督)、
[#地付き]軍匠科、造兵科、造船科、造機科、光子科、航路科(以上、最高位は
[#地付き]提督。より上位は技術科に統合)、軍楽科(最高位は百翔長)がある。
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あとがき
ほとんどの人にとっては、「はじめまして」になると存じます。森岡浩之と申します。
短篇ではもっぱら近未来を舞台にした地味なSFを書いていたのですが(というとたくさん書いているみたいですが、ほんの数作です)、デビュー長篇は大宇宙を舞台にした派手なものにしてやろう、と思っていました。
なんだかんだいっても、わたしの根っこは宇宙SFです。たしょうヒロイック・ファンタジーも入っているかな。
やはりSF書きになったからには、壮大なる銀河帝国をせめて紙のうえにだけでも築きあげてみたい。
それがなぜデビュー長篇でなければならなかったかといえば、もちろん、数少ない短篇でわたしを知ってくださったかたがたの意表を突くためです。
大事なデビュー長篇ですから、完璧な世界設定とプロットをつくり、できれば企画をとおしてから、執筆にとりかかるつもりでした。
しかし三年ほど前、本書を書きはじめたとき、ごく大雑把な設定しかできていませんでした。
ありていにいうと、我慢できなくなって、まっさらのフロッピーをワープロに挿しこみ、キーを叩きはじめたのです。
設定は、あとで付け加えたり変更しなければなりませんでした。ワープロのキーボードの横にメモ帳を置き、原稿と並行して設定をつくっていったぐらいです。
ストーリーにいたっては、なにがどうなるのかさっぱりわからない状態。
にもかかわらず、『星界の紋章』は完成しました。アマチュア時代も含めて、正真正銘、わたしが初めて完成させた長篇です。
「キャラクターが動きだす」とはよく語られることですが、「キャラが勝手に動いてくれる」という現象がいかなるものか実感できました。
とうぜん企画はとおしていなかったので、本書は持ち込みの形になりました。そのため、一応の完成から出版までにはかなりの時間がかかっています。
間の悪いことに、ハヤカワ文庫JAが新創刊のためにリリース数を絞るという時期に重なったこともありますし、なにより無名の新人が一冊で終わらない小説を出すのですからタイミングというものが大切です。
いまから考えると、いい熟成期間になりました。何度も書きなおしたおかげで、より完成度の高いものを提供できた、と思っています。
というわけで、『星界の紋章』全三巻の原稿はすでに完成しております。第U巻は五月、第V巻は六月に刊行予定ですから、発売当日に本書を手にとっておられるあなたも、そんなにお待たせしなくてすむはずです。
宇宙を舞台にした異世界ファンタジーとして気軽に楽しんでいただけたらうれしい。また、すれっからしのSFファンをうならせることも狙っています。
それでは、『星界の紋章U ささやかな戦い』のあとがきでまたお目にかかりましょう。
一九九六年三月十日
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著者略歴 1962年生、京都府立大学文学部卒、作家
星界の紋章T ─帝国の王女─
一九九六年四月 十五 日 発 行
二〇〇〇年五月三十一日 二十刷
著 者 森岡 浩之(もりおか・ひろゆき)
発行者 早川 浩
印刷者 矢部 一憲
発行所 株式会社 早川書房
平成十九年一月十三日 入力 校正 ぴよこ