星界の戦旗V ─家族の食卓─
森岡浩之
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目 次
序 章 9
1 マーティンの花 13
2 ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》 44
3 出発の宴 61
4 デルクトゥー再訪 89
5 紋章授与式 135
6 軍機の壁 178
7 ハイド門沖演習 203
8 マーティンの誇り 237
9 家族の食卓 259
10 再編成 281
終 章 297
あとがき 299
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私は人類普遍の倫理の存在を信じます。
私は人類普遍の倫理を高めるよう努めます。
私は人類普遍の倫理を広めるよう努めます。
人類普遍の倫理の向上と普及にとって最良の装置として、私は〈人類統合体〉を信頼します。
人類普遍の倫理のため、私は〈人類統合体〉の法を遵ります。
人類普遍の倫理のため、私は〈人類統合体〉の命に従います。
〈人類統合体〉が永遠に存続することを願い、私は戦場に倒れることも厭いません。
[#地付き]〈人類統合体〉『統合体市民の宣誓』より
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星界の戦旗V ─家族の食卓─
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<星界の戦旗U>あらすじ
帝国《フリューバル》暦955年、〈人禁統合体〉の領域を分断する幻炎作戦を成功裏に終えた帝国《フリューバル》星界冤は、残荏する敵艦隊を制圧すべく狩人作戦を開始した。
いっぽう狩人第四艦隊に所属する〈バースロイル〉艦長ラフィールは、艦隊司令長官ビボース提督によって領主代行を命じられ、惑星ロブナスUへと向かった。だがそこは、〈人類統合体〉の犯罪者を強制移住させた流刑惑星だった。
しかも惑星の支配権をめぐって、管理者と受刑者の間で戦闘が勃発、管理者と受刑者の一部が移民を要望してきた。
狩人作戦により追い立てられた敵艦隊が迫りくるなか、ラフィールはからくも住民の脱出を成功させる、敵濫隊の降伏後、ラフィールは傭兵団を組織し、救出作戦のさなかに地上で行方不明となったジントを無事発見した。
登場人物
ラフィール…………………アーヴ帝国《フリューバル》皇帝の孫娘。星界軍《ラブール》副百翔長《ロイボモワス》
ジント………………………ハイド伯爵
サムソン……………………ハイド伯爵家の家宰
パーヴェリュア……………サムソンのもと部下
アトスリュア………………第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》司令官
ロイリュア…………………襲撃艦《ソーバイ》〈スィールコヴ〉艦長
ソバーシュ…………………襲撃館〈フリーコヴ〉艦長
エクリュア…………………同航法士
グリンシア…………………同監督
イェステーシュ……………宰相府財務総監部調査使
デリュズ……………………ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》代官
ログドーニユ………………〈ボークビルシュ〉船長
セールナイ…………………セールナイ商会会長
クー・ドウリン……………ジントの旧友
ティル・コリント…………ハイド星系元首
リナ・コリント……………ティルの妻
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序 章
自分で望んだことではなかったが、ディアーホは生まれてこのかた、幾たびも住処を変えてきた。
どの場所にもそれなりの美点があり、よそへ移りたいという欲求と彼は無縁だった。
それでも、旧い住処を懐かしく思いだし、戻りたくなることはあった。だが、猫という種族の記憶は移ろいやすく、実際にその場所を肉球で踏んだのか、それとも昼寝のあいだに見た夢に出てきたのか、すぐはっきりしなくなる。
はっきりしない記憶と夢の光景はあっというまに薄れ、圧倒的な現実に流されてしまうのが常だった。
だがここでは、かつての風景はいっこうに脳裡から去らない。ひどくあの場所に戻りたい。
猫も人も礼儀を心得ていたあの場所が心地よかったこともある。
しかし、それよりも、ディアーホはここが気に入らないのだ。
人はそれなりに行儀がいいが、どこか心ここにあらずといった風情で浮ついて見える。
ディアーホは雰囲気を読むのに長けている猫だったので、敏感に空気を感じとっていた、雰囲気が悪いだけではない。
ここの人間たちは不注意だ。しっぽを踏まれたことさえ一度ならずあったのだ。
もっと問題なのは猫だ。秩序というものが感じられない。
小さな頭蓋のなかを嘆かわしい思いで満たしつつ領地《リビューヌ》の巡回をするディアーホの行く手を一匹の牡猫が塞いだ。
黒い毛を逆立てて威嚇をしているが、怒っているというよりは怯えているようだ。
見かけない猫だ。おそらく追われて逃げたかなにかで迷いこんでしまい、帰ろうにも帰れなくなってしまったのだろう。
他者への思いやりを示すことは、猫の美徳に含まれない。まして相手が侵入者なら容赦は無用というものだ。
ディアーホも毛を逆立て、牙をむいた。
どちらが爪を先に出したのかははっきりしない。
猫の流儀からいえば、それはさしたる問題ではないのだ。
とにかくディアーホは牡猫ともつれ合い、鋭い爪を突き立ててやった。
ときどき毛繕いなどして休憩しつつ長時間闘い、ディアーホは若い牡猫を追い払った。
噛みつかれて傷ついた右の前脚を舐め、傷をいやす。同居人が見つけたら、恩着せがましい口調でなにごとか眩きながら、べたつくものを塗布しようとするだろう。
あれをつけると傷の治りが早いことには、ディアーホもおぼろげながら気づいていたが、その利点を考えてもあの匂いは我慢ならなかった。
そろそろ腹が空いてきたディアーホは塒《ねぐら》に帰ることにした。
アーヴの住処には昼も夜もない。時を告げるのはゆいいつ胃袋のみだった。
いくつもの猫専用の扉をとおり、お気に入りの隙間に潜りこもうとする。
そこには先客がいた。
セルクルカだ。純白の牝猫はこのところ機嫌が悪く、きょうも攻撃的だった。
ディアーホが塒《ねぐら》に入ろうとすると、牙を見せて威嚇する。
なぜこんな仕打ちを受けないといけないのかディアーホにはわからない。
ほんのちょっと前まで快く隙間を共有してくれたのに。
変な匂いのする泡だった湯以外は何者をも恐れぬディアーホだったが、セルクルカを前にするとどういうわけか闘争心が萎えてしまう。
我が身に降りかかった不条理を嘆きつつ、あまり気に入っていない隙間でくつろぐことにする。
運悪く同居人に見つかった。さりげないふうにその傍らをとおりすぎようとしたが、彼はディアーホの前脚に気づいた。
抱きあげられたディアーホはつぎに来ることを予想して、懸命の抗議をした。だが、それも虚しく傷跡に刺激的な匂いのするものを塗りたくられてしまう。
「アーヴの七不思議のひとつだね」同居人がいう。「なんで匂いのしない猫用傷薬を開発しないんだろう」
「そんなことしたら、猫が舐めてしまうじゃないか」同居人の同居人がいう。
「だからわざと猫のいやがる匂いをつけてるんだ」
「それだったらまずい薬にすればいいのに」
「これはちゃんと苦いぞ」
同居人は指を舐めた。「苦いというより、しょっぱいな」
「その味が猫は嫌いなんだ。」
「そうなの?」同居人は指をディアーホの鼻先に持ってきた。
この暴挙にたいして、デイアーホは爪を彼の手に突き立てた。
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1 |マーティンの花《ゲナー・マルテイン》
その惑星は多くの同類がそうであるように、誕生したときは煮えたぎる溶岩の塊だった。
やがて、表面を覆っていた溶岩は冷え固まり、岩盤となった。気温が下がると、大気中の水蒸気が凝集し、生まれたばかりの岩盤に降り注ぐ。
降り濡いだ水は集まり、巨大な海となった。
海のなかでは、ごくありふれた化学物質が平凡な反応を繰り返し、蛋白質や糖に転換していった。
ここまでは珍しくもない物語だ。
たしかに、その惑星は銀河のなかでも稀な型の存在だったが、なにしろ惑星というものは絶対数が多い。
高い活性を持つ細胞状構造をかかえた海はいくつもあった。奇跡と呼ぶには値しない。
だが、滅多にないことがその惑星の海で起こった。自己複製分子が発生し、細胞状物質とくっついたのだ。
こうして誕生した原始生命は有機質を摂取し、増殖し、惑星の海を満たした。増殖していった者どうしにも闘争があった。
いくつかの種類は、活発な活動を保証する酵素を体内にとりこむことに成功し、ほかのぼんやりと動く生命を圧倒した。
ここまで辿りつくことのできた惑星はほとんどない。賭け値なしに奇跡的な出来事といってよかった。
さらに、原始生命のなかには特殊な能力を獲得したものが出た。ある意味で彼らは裏切り者だった。
なぜなら、その光合成と呼ばれる能力の結果によって産みだされる遊離酸素は、原始生命にとって猛毒だったからである。
光合成のできる一族の繁殖力はすさまじく、たちまち大気も海も遊離酸素に汚染された。
その結果、多くの生命が死に絶えた。死を免れたのは、酸素を頑強に拒む環境に居合わせた者と、酸素を利用する術を獲得した者のみ。
前者はともかくとして、後者は先阻たちよりも活発で、惑星の生態系をさらに豊饒にした。
星たちにとっても長い時問を経て、惑星の生態系はまた奇跡を起こした。多くの細胞によって構成される生命を発生させたのである。
それまでも多細胞生物はいた。しかし、その細胞は機能が分化しておらず、ただ単に集合しているに過ぎなかった。
だが、新種の生命の細胞は単独では生きることができず、ひとつの存在の部品に過ぎないものだった。
多細胞生物は繁栄した。様々な形態が現われ、種の生き残りを賭けて戦った。
浅海では光合成のための糸状体を毛皮のようにまとった魚類が泳翼をひろげ、深海では外骨格を持つ生物が放射状に並ぶ八本の足で闊歩した。
柔らかな身体を持つ巨大な腔腸動物は深い海底に定着しつつも触手を海面近くにまで伸ばしていた。球状の海木が深海から浅瀬まで潮流のままに転がっていた。
球状海木は生物学的に空白であった陸に打ちあげられた。陸は球状海木の生存には適さず、浜辺で枯れはてるしかなかったが、その種は風に吹き飛ばされて内陸に散った。
発芽した者のほとんどは成長できなかったものの、ある者は陸に適応した。その過程でさらに多様な変化を起こし、またたくまに地表を制覇した。
なかでも多くをえたのは活動的な種子をつける木々だった。ある者の種子は脚をはやし、ある者のそれは翼を持っていた。
脚を持つ種子は大地を覆わんばかりの群となって内陸へ行進し、翼を持つ者は滑空機さながら風に乗って旅した。
やがてほかの植物も内陸への進出をおずおずと始める。その列には目端の利く動物たちがこっそり紛れこんできた。
しかし、その惑星の奇跡はここで打ち止めだった。
あるいはこれから起こるのかもしれないが、それにはずいぶん時間がかかるだろう。奇跡を起こしたのは遙か離れた惑星だった。
そこでは生命がついに知性をえ、宇宙にまで進出をはじめたのである。
奇跡続きの惑星から知的生命体が来訪し、わずかに後れをとった惑星をマーティンと名づけて住み着いた。
原住生物は自分たちの住む大地に名前をつけることなど思いつきもしなかったので、この命名に抗議することはなかった。
歓迎したわけでもなかったろうが。異星起源の生命がこの地に足をおろしたのはそれほど昔のことではない。
彼らは原住生命に敵意を持っておらず、それどころか好意すら持っていたので、その惑星で生まれた生命たちはそれまでの生活を乱されることはなかった。
たとえ知性があったとしても、自分たちが侵略されてしまったことに気づかなかったかもしれないほどだ。
原住生物たちが太古よりつづく目常を送っているあいだ、異星からの生物たちはせっせと自分たちの生活基盤を築いていった。
やがて、新しい住人たちと起源を同じくする者たちがやってきた。知的生命体たらが故郷で培ってきた歴史のなかでは、第二の侵略もまたごく穏やかなものだったが、最初の侵略者たちはいたく誇りを傷つけられた。
だが、自尊心への衝撃よりももっと重大な問題があった。彼らは宇宙が動乱の時代にあることをはじめて知ったのである。孤立していて静寂の保障されていた生活がもう戻ってこないことを悟らざるをえなかった。
激動に彼らはなす術もなくのみこまれた。そして、その激動は暢気な原住生命たちにも及ぶ。本来ならその惑星の上で朽ち果てるべきはずだった生き物が、星々の狭間に持ち出されたのだ。
「ジント、花が咲きそうだぞ」
「うん?」リン・スューヌ=ロク・ハイド伯爵・ジントは食卓から顔をあげた。「やあ、ラフィール、おはよう。朝食は済んだの?」
「まだだ」帝国《フリューバル》王女《ルエ・ラルトネー》にして休暇申の星界軍《ラブール》副百翔長《ロイボモワス》《ロイボモワス・ラブーラル》アブリアル・ネイ=ドゥブレスク・パリューニュ子爵《ペール・パリュン》・ラフィールは首をふった。
「じゃあ、いっしょにどう?」ジントは椅子を勧めた。
「わたしは」ラフィールは立ったままで、「花が咲きそうだといったんだぞ」
「ぼくにもそうきこえた」炒り卵を刺し匙《スレラジュ》で掬いながろ、ジントはこたた。ここのところ睡眠不足気味だ。頭の芯が痺れたような感じがするし、食欲もあまりない。
「じゃあ、なぜまだ食べてるんだっ」ラフィールは非難の眼差しをむける。
「なぜって、まだ食べおわっていないから」ジントは簡潔明瞭な論理をもって説明した、
伯爵という身分にもかかわらず、彼は慎ましく育ったので、食べ残しの料理を見捨てることに良心の呵責を感じるのだった。
「ばか」ラフィールは簡潔明瞭に評価した。
「花は咲く。猫は生まれる」ジントは部屋の片隅にしつらえられたセルクルカの産床を一瞥した。純白のアーヴ猫《デューク》は生まれたぼかりの三匹の仔猫たちに乳を飲ませていた、アーヴ猫は活発なわりにその性格はいたって温順なのだが、出産前後は例外らしい。日用品倉庫の棚で出産の準備に入ったセルクルカをこの産床に移すにも苦労したし、出産後も仔猫に触ろうとすると、平静を喪う。
仔猫たちの身の振りかたはジントが決めることになっていた。ラフィールとの相談の結果である。だが、このぶんでは新しい飼い主を見つけてやるのはもうしばらく待ったほうがいいだろう。なにより、ジントがもうちょっと仔猫といっしょにいたかった。
ジントは視線をラフィールに戻し、「花はすぐには枯れないよ。なにを慌てているのさ?」
「そなたにとって特別な花ではなかったのか」
「ああ」ジントは椅子から腰を浮かせた。「あの花か。なぜそれを早くいってくれない」
「そなたがそんなに鈍いとは思わなかったからだ。ふつうの花が咲いたぐらいで、わたし
がわざわざそなたに告げるものか」
「それはそうだけど、いまは起きたばかりで頭がうまく回転しないんだ」ジントは弁解した。じっさい普段なら、どの花のことをいっているのかを訊くぐらいのことは思いついただろう。
「嘘をつくがよい。そなたはいつでもそんなふうだぞ」王女は断言した。
「じゃあ、ぼくの鈍さがわかってないきみはなんなんだい?」
「そなたはときどき奇跡のように人並みになるんだ。鈍いなら鈍いままでいるがよい」
「理不尽な」
「どうするんだ?花を見に行くのか、それともまだ食べるのか?」
「見に行くよ」朝食の皿をジントは押しやった。
「さげてよろしゅうこざいますか?」食卓が訊いた。
「ああ。お願い」罪悪感に苛まれながらジントがいうと、朝食の残りを載せた食卓の中心が沈んだ。
ジントは未練たっぷりの思いで朝食の消え去った食卓を眺める。
「そなた、意外といやしいな」ラフィールが呆れたようにいう。「そんなに空腹なら、焦らずともよかったのに。花はきゅうには枯れぬのであろ」
「いや、あの花は咲くときがいちばんきれいで、それも咲きはじめたらあっというまに満開になってしまうんだ。それに、ぼくは腹が空いているんじゃなく、義務を果たせなかったことを悲しんでいるんだよ」
「なんだ、その義務って?」
「きみにはきっとわかってもらえないよ」説明するのが面倒くさくて、ついはぐらかす。
「そんなことはわからぬであろ」
真剣な眼差しを見つめるうち、ジントは別種の罪悪感にとりつかれた。ラフィールはどうやら彼の軽口を真に受けているらしい。いまさら、出されたものは全部食べないといけません、といった子ども時代に受けた躾を、ちょっと変化をつけようとして義務と呼んだのだ、とはいいだしがたい雰囲気だ。
「そんなことよリ花を見に行こうよ。ほんとうにすぐ咲くんだ」ジントは話をごまかすと、移動壇《ヤーズリア》を呼び寄せ、そのうえに乗った。ラフィールに手を差し出す。「さあ」
「うん」納得しない顔つきながらも、ラフィールは移動壇《ヤーズリア》に足をかけた。
移動壇《ヤーズリア》が滑り出した。
ジントたちが乗っているこの船は巡察艦《レスィー》〈ボークビルシュ〉である。といっても、すでに退役しており、武装はほとんど外されている。したがって、正式には軽武装貨客《レビサーズ・ソンークナ》〈旧ボークビルシュ《ボークビルシュ・ムーラ》〉というのだが、日常会話では相変わらず巡察艦《レスィー》だったころの名前で呼ばれていた。
残された兵装は凝集光砲の可動砲塔が二基のみ。主機関や時空泡発生機関はまだついているが、これも時期が来れば撤去される予定だ。
時期とは〈ボークビルシュ〉がハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に到着するときである。そのとき、<ボークビルシュ〉は星間船としての機能を失い、ハイド伯爵城館《ガリーシュ・ドリュール・ハイダル》《ガリーシュ・ドリュール・ハイダル》となる。離着甲板《ゴリアーヴ》はもち
うん宇宙港になる。大型船は入港できないが、当面は問題ないだろう。巨大な時空機動爆雷甲板や機関甲板は、邦国《アイス》に君臨するための事務区や家臣たちの居住区に当てられる予定だ。莫大なエネルギーを絞りだす反応炉や反物質燃料槽も外され、電力を賄うために太陽電池が展開きれることになるだろう。
とはいえ、現在の〈ポークビルシュ〉はまだ戦う船としての面影を濃く残していた。少なくとも星間航行船としての機能にいささかの騎リもない。現にいまもこうして平面宇宙を航行しているのだから。
ささやかな庭園が居住区のはずれに設けてあった。それ自体は巡察艦《レスィー》時代からの設備だ。ただ環境は変えられている。ジントの故郷である惑星マルティーニュのそれに調整されてあるのだ。
移動壇《ヤーズリア》は二重扉をくぐり、庭園の中央にとまった。
そこに植えられている植物はすべてマルティーニュ原産のものだった。帝国《フリューバル》《フリュール》に編入されてから〈三力国連合〉に占領されるまでに、邦国《アイス》の外へ輸出された草花の子孫だ。
人類宇宙に広がっている地球原産のものとちがい、マルティーニュの植物には花を咲かせる種類がすくない。ごく一部の例外があるのみだ。
庭園の入口の反対側、いちばん目立つ場所に、その例外が植わっていた。その花は発見者の名にちなんでブリアン草と名づけられていた。
花はもうすっかり咲いていて、ジントを失望させた。
「あまりぱっとせぬ花だな」背後でラフィールがいう。
「率直な感想、ありがと」ジントはこたえた。
美しくあることを目的に長い年月のあいだ品種改良をくりかえしてきた地球原産の花とおなじ場所で展示されれば、マーティンでもっとも繊麗といわれるブリアン草もみすぼらしい部類に入ってしまう。
「でも」とジントはいった。「故郷の花がいちばん美しいのは咲く瞬間なんだ。ブリアン草もそう。地球原産の花は止まっているのを鑑賞するんだけど、故郷の花は動いているのを眺めるんだよ。蕾が大きかっただろう」ジントは花のついた蔓を一本、手にとった。
「あれにはこれが詰まっていたんだ。蕾が開くと、この蔓がこぼれるんだよ。まるで爆発するみたいに」
「なんだか物騒にきこえるな」
「危険なんかちっともないよ。それはもうきれいで……」
「そなたがそういったから、わたしはわざわざ気をつけていたんだぞ」
「ごめん」ジントはばつの悪い想いで、ラフィールに眼差しをむけた。
そのばつの悪さにはふたつの原因があった。ひとつはいうまでもなく、ラフィールがそれほどジントのいったことを気にかけてくれていたのに、そうと受け取らなかったことである。プリアン草が咲く瞬間の美しさを力説したとき、彼女はあまり興味なさそうに見えた。
もうひとつは、花が咲いたのどうのとのんびりした会話を交わしていることだ。いまは戦時であり、こうしている瞬間にも、数多の生命が平面宇宙《ファーズ》に散っているにちがいない。
たしかにこの戦争はジントが始めたわけではない。帝国《フリューバル》は彼にいつでも戦いからおりる権利を保障していた。だが、もちろんそれは爵位《スネー》と引き替えだ。爵位だけではなく星々の狭間に住む権利も捨てなければならないだろう。帝国《フリューバル》貴族《ルエ・スイーフ》として星間船に乗っていながら、戦いに参加していないと、良心の呵責さえ覚えてしまうのだった。
不思議なのはラフィールだ。ジントは自分のことをどう考えても軍士《ボスナル》向きではない、と評価していた。いっぽう、ラフィールはまさに軍士であるために生まれてきたような趣がある。ジントでさえある種の焦りを感じているのに、戦場から離れていて平気なのだろうか。
「どうしたんだ、ジント?」ラフィールは怪訝そうに、「わたしの顔を眺めていたい気分なのか?」
「不思議じゃないだろう?」
「ばか」
そのとき、ジントの端末腕環《クリューノ》が短く鳴った。
「伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」宰相府《ボーシミアシュ》から派遣されてジントに同行しているイェステーシュからの通信だった。
「お時間ですよ。会議室におられないとは意外です」
「すみません。すぐ行きます」ジントはいった。
イェステーシュこそ、ここのところの寝不足の原因だった。職務に忠実なだけで、決して悪い人間ではないのだが。
「いまから会議だけど、きみも来る?」とラフィールに訊く。
「あたりまえであろ。わたしはクリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》の代表でもあるんだぞ」
二〇代の若者という観点からすると、ジントは裕福な部類に入る。ハイド伯爵家《ドリュージエ・ハイダル》の資産といえぽハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》《ドリュヒューニュ・ハイダル》そのものしかなかったし、そのハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》《ドリュージエ・ハイダル》が占領されているあいだもちろんジントに諸侯《ヴォーダ》としての収入はなかった。しかし、戦火に揉まれた経が豊富なだけあって、帝国《フリューバル》では領地《リビューヌ》《リビューヌ》を占領されてしまった貴族《スイーフ》に対する補償制度が確立している。したがって、ジントは年金を国庫から受け取ることができた。その額は初級の翔士《ロイダル》の俸給の一〇倍以上に相当する。
いっぽう、諸侯《ヴォーダ》の基準からいえば、彼は無一文に近かった。領地《リビューヌ》《リビューヌ》というのは莫大な収益をあげうるが、それを維持し、経営するにもやはり目の眩むような金が必要なのだ。ジントにはその資金がない。
使う機会がなかったせいで彼は年金のほとんどを蓄えていたが、そのぐらいの金は〈ホークビュルシュ〉を一日運航させるだけで吹き飛んでしまうだろう。
資金不足は特殊な問題ではない。新しく封じられた諸侯《ヴォーダ》の大半が同じ悩みを抱えることとなる。ただ新しい邦国《アイス》に融資するというのは、きわめて堅実な投資なので、借金のあてに事欠くことはふつうない。こちらから頼まなくても、貸し手が雲霞のように群がってくる。
だが、いまは戦時だった。アーヴの商業種族と戦闘種族というふたつの側面のうち、後者が色濃く出ている季節だ。よほどの変わり者でないかぎり、資産を増やすことよりも、戦いの帰趨に注目している。それに、いまの状況ではハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に投資することは手堅いとはいえなかった。戦いの行方いかんによっては、ふたたび伯国《ドリュヒューニュ》は放棄される
だろう。そうなれば、せっかくの投資が無駄になりかねない。あれやこれやで、帝国《フリューバル》に復活したばかりのハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》が融資を受けるのには苦労しそうだった。
さいわいというべきか、クリューヴ王《ラルス・クリュブ》ドゥビュース、すなわちラフィールの父親の後見で爵位《スネー》を嗣いだ、という事情がジントにはあった。クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》は潤沢な資産を持っている。むろん無利子というわけにはいかなかったが−いかなる場合でも利益を度外視すると、商業種族としての誇りが傷つくらしかった−、状況を考えると破格に低率の利子で資金を貸しつけてくれたのだった。
いうまでもないことだが、融資したぐらいで王女《ラルトネー》を派遣するというしきたりはクリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》にない。それに、ジントの見るところ、ラフィールは商業種族の帝室《ルエジェ》の一員にある
まじきことに金銭感覚が欠けており、王家《ラルティエ》の利益代表としてはあまり役立っているようには思えなかった。本気で代理を同行させるつもりなら、経理に明るい家臣《ゴスク》を選ぶべきだろう。クリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》に経済の専門家がいないはずがない。
要は、ラフィールのクリューヴ王家《ラルティエ・クリュブ》にの代表という肩書きが副次的なものに過ぎないということだ。私的な旅行のついでに−さほど有効ではないにせよ−家業の手伝いをさせる、といった程度の意味合いだった。彼女の真の肩書きは「ジントの同行者」といったところだろう。
たぶんラフィールの生涯でもっともつまらない役割だろうが、倦むほどに長い生涯のうちでひとときぐらい、このような時期があってもいいだろう、とジントは思う。
「でも、退屈だよ、きっと」
「われらアブリアルは退屈には慣れている」
「そうだったね」ジントは納得した。魂を逆鱗で鎧う、と噂されるアブリアルだが、帝室《ルエジェ》につきものの退屈な行事もちゃんとこなす。
「たぶん、幼い頃からの訓練のたまものなんだろう。きみたち一族の天性の性格を考えると、忍耐心を鍛えるのにどれだけの労力が費やされるのか、思っただけでぞっとするよ」
「なにがいいたいんだ?」ラフィールの眉が危険な角度を形づくる。
「皇帝《スピュネージュ》になるのはたいへんだな、ってことだよ」
「ごまかされてるみたいだ」
「きっと気のせいだよ」
「公務の前でなければ、そなた、いまごろ右足の小指で全体重を支える羽目になっていたぞ」
ジントは気の利いた切り返しをいくつか思いついたが、それを胸の奥にしまうだけの分別は身につけていた。
「公務も悪いことばかりじゃないな」というに留める。
会議室にむかいながらふと、ソバーシュやエクリュアたちはどうしているだろう、と思った。
「イリーシュ門《ソード・イリク》通過まであと十秒。八、七、六……」航法士《リルビガ》の秒読みが静かな艦橋《ガホール》に流れる。
秒読みなどだれがやっても同じと思っていたが、ソバーシュ・ウェフ=ドール・ユースは認識を改めた。彼女の声は秒読みむきだ。まったく感情を交えることがない。
「……三、二、一、通過」
艦内のあちこちで歓声があがった。艦橋も例外ではない。ひとしきり喜んだあと、艦橋要員たちは艦長《サレール》であるソバーシュのもとにやってきて祝福を口にする。ただしそのことばはごく短い。ソバーシュの応えも軽くうなずくに留まった。まだ仕事は残っているのだ。
ただひとり、エクリュアだけが超然としている。
襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉はいま、慣熟航行を終え、帝都《アローシュ》ラクファカールへ戻った。それは〈フリーコヴ〉が一人前になったことを意味する。肩書きに変化はないが、〈フリーコヴ〉で初めて艦長を務めるソバーシュも、ようやく一人前の指揮官と認められるのだ。
襲撃艦《ソーバイ》というのはこれまで星界軍《ラブール》になかった艦種である。突撃艦《ゲール》はあまりに脆弱であると判断されていたものの、突撃艦を全廃して巡察艦《レスィー》に替えるのは費用効率の点でいい考えとはいえなかった。そこで、巡察艦《レスィー》から雷撃能力をとりのぞいたこの艦種が構想されたのだ。機能的には重突撃艦《ゲール・オーバ》というべきものだが、主砲は巡察艦《レスィー》とおなじ電磁投射砲《イルギューフ》である。
重突撃艦と称するべきかそれとも軽巡察艦《レスィー》《レスィー・ソーラ》と称するべきか−艦政本部《ヴォボース・メニヨト》のみならず、星界軍《ラブール》首脳の多くを巻きこんだ大論争があった。重突撃艦派と軽巡察艦《レスィー》派のかなり感情的な対立の末、襲撃艦《ソーバイ》という艦種名が提案され、両派が妥協する形で決着したのだった。
〈コーヴ〉級は襲撃艦《ソーバイ》の最初の艦型であり、〈フリーコヴ〉は最初に就役した〈コーヴ〉
級一二隻のうちの一隻だ。
新設計の艦の指揮を執るのは厄介な仕事だが、それだけに名誉ある役目であり、ソバーシュはいまの役職になんの不満もなかった。しかし、いくらか不思議には思う。名誉すぎるのだ。
ゾバーシュは副百翔長《ロイボモワス》に昇格したばかりだった。それすら、つい先日まで前衛翔士《シクレー》だったことを考えると、平時では考えられないほどの速さである。最近発せられた勅令によって、交易船で働いていた翔士《ロイダル》は、その経歴を昇進のさいに考慮されることになったのだ。
じっさい、これまでの半生を星界軍《ラブール》に捧げていれば、ソベーシュは提督《フローデ》になってもおかしくはない年齢であった。
この種の勅令は過去の戦争でもしばしば発布されてきたもので、帝国《フリューバル》がその戦争に
本気を出している証拠だった、戦争開始直後に発布されなかったといって、それまで帝国《フリューバル》が事態を甘く見ていたわけではない。ただ単に人事構成の問題である。艦艇や下級翔士《ロイダル》がじゅうぶんに揃っていないのに、上級翔士ばかりいてもしかたがないからだ。
そういった、戦時特有の事情によって副百翔長《ロイボモワス》の地位を得たばかりの彼を、新鋭鑑の艦長《サレール》に抜擢しなくてはならないほど星界軍《ラブール》の人材は払底していないはずだ。
辞令を受けでから何度も反芻してきた疑問を、ソバーシュは頭から振り払った。自らを根っからの交易業者と見なすソバーシュにとって、軍士《ボスナル》としての位階《レーニュ》や地位など仮初めのものだ。しかしそれでも、彼はいまの仕事を楽しんでいた。
〈門《ソード》〉を通過してすぐ、彪大な情報が〈フリーコヴ〉に流れこんできた。一般的な報道や乗員むけの私信に混じって、艦への命令がある。機密命令ではない。内容を一読すると、それは慣熟航行のあとに当然あるべき簡単な命令だった。
ソバーシュはほっとした。この慣熟航行は楽しくはあったが、やはり疲れる仕事だった。
いまはまだ込み人った命令を受ける気分ではない。
副長《ルーセ》兼砲術士《トラーキア》《トラーキア》に艦の回頭を命じる。突撃艦においては通常宇宙内《ダーズ》での操縦が艦長《サレール》の役割
とされているが、戦列艦《アレーク》《アレータ》や巡察艦《レスィー》といった大型艦では先任砲術士《トラーキア》《アルム・トラーキア》の仕事だ。襲撃艦《ソーバイ》という新しい艦種は、大型艦と同じ分担を採用していた。
姿勢制御機関《ロイラーガ》の短い砲吼ののち、〈フリーコヴ〉の針路が定まった。
主機関《オプセー》の停止を命じると、ソバーシュは艦内の全員にむけて放送した。「告げる、こちら艦長《サレール》。本艦はこれより慣性航行にはいる。総員直を解除する。当直表に従い、非番の者には休息を許す」ふたたび艦橋を見まわす。「きみたちはまだ働いてもらわないといけないよ」
航法士と目があった、突撃艦〈バースロイル〉でもいっしょだったエクリュアである。
〈バースロイル〉では優衛翔士《リニエール》だった彼女も実戦経験を考慮され、前衛翔士《レクシー》になっていた。
彼女が部下になったのは偶然ではない。星界軍《ラブール》では艦長に部下を選ぶ権利を与えている。
もちろん、選ばれた部下には拒否権があるし、艦長と本入が熱望しても諸事情が許さない場合もある。今回の場合、ソバーシュはエクリュアを部下に望み、喜んだかどうかはわからないが、エクリュアも拒否しなかったのだ。
ソバーシュは監督席に視線を転じた−彼女には悪いが、あの席にはサムソンが欲しかったな。〈フリーコヴ〉の監督《ビュヌケール》はグリンシア軍匠十翔長《ローワス・スケム》。サムソンとおなじく地上世界《ナヘーヌ》出身の女性である。従士《サーシュ》からの叩き上げで十翔長《ローワス》にまで登ったのだから、技術と知識はたしかにちがいない。だが、面白味に欠けるきらいがある。なにか宗教的な理由でもあるのか、酒をいっさい呑まないのだ。そればかりか、ほかの乗員が呑んでいても顔を顰めるほどだ。それだけならいいのだが−ソバーシュもとくに酒が好きというわけではない−−、冗談に対してもおなじような反応を示す。
交易商人時代、ソバーシュは貨物船《イサーズ》を借りて、帝国《フリューバル》の隅々まで旅をした。とうぜん、乗員を雇わなくてはならなかったが、彼はふたつの基準で部下を選んだ。
ひとつは男性の異性愛者であることだ。べつに女性や同性愛者に偏見を持っていたわけではない。巨大な船といえども居住空間は限られ、乗員は少ない。そのような環境で恋愛沙汰が起こっては面倒だ、退屈を紛らわすにはいくらでもほかに方法がある、と考えていただけだ。
もうひとつの基進はなにかしら悪癖を持っていることだ。グリンシアの厳正な生活態度も悪癖といえばいえるが、彼の好むたぐいの悪癖ではなかった。
その点、サムソンはソバーシュ好みの悪癖の宝庫だった。無駄口が多くて、自ら進んで正体を放棄する。
そのサムソンは星界軍《ラブール》を退役してしまった。まだ故郷には引っこんでいないらしいが、もう二度と会うこともないだろう。そう考えると、一抹の寂しさを感じる。今度、長い手紙でも書いてみようか、とソパーシュは考えた。
もっとも、サムソンが星界軍《ラブール》に留まっていたとしても、監督《ピュニケール》としてこの艦に迎えるのは無理だろう。位階《レーニュ》が合わない。従士《サーシュ》からたたきあげた彼は昇進が遅く、いくら戦時特進でも後衛翔士《リニエール》がせいぜいだ。.それでも、監督補《ロイピュヌケール》として招くことはできるが。
ソパーシュは笑みを浮かべそうになった。グリンシアのもとで働くサムソンの困惑を想像してしまったからだ。
「通信士《ドロキア》」ソバーシュは命じた。「軍令本部《リュアゾーニュ》にいらっしゃる第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の司令官《レシエーク》を呼び出してくれ」
「蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》?」エクリュアが首を傾げる。
「新しくできた戦隊《ソーヴ》だよ。いまのところ司令部《グラーガフ》《グラーガーフ》しかないがね。われわれは、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》が正式に編成されると同時にその一員となる」ソバーシュは説明した。
「蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》とは」副長《ルーセ》兼砲術士《トラーキア》《トラーキア》のイドリア十翔長《ローワス》がいった。「それはまたずいぶん景気のいい名前ですね」
「名前だけ景気よくてもしかたがないが」
「いえ。この襲撃艦《ソーバイ》というのはいい艦です。わたしはつねつね機雷《ホクサス≫さえ積んでなければ、巡察艦《レスィー》はもっと扱いやすくなるのに、と思っていました」とグリンシア。
「きみがいうと重みがあるね」
「ありがとうございます」
蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》というのはソバーシュにとっても耳新しいことばだ。司令官《レシエーク》と連絡がつくまでのあいだ、彼は第一躁欄戦隊に予定されている編成や人事についての大まかなところを把握しようと努める。
躁燗戦隊は一二隻の襲撃艦《ソーバイ》で溝成されていた。一二人の艦長《サレール》のうちふたりは先任艦長《アルム・サレール》《アレム・サレール》と呼ばれ、百翔長《ボモワス》の位階《ソーニュ》を持っている。司令官になにかあったときに代理を務めるのはもちろんのこと、場合によっては四隻程度からなる小隊を任せられることになっていた。しかし、突撃戦隊《ソーヴ・アシャル》の下部構造である突撃隊《スユーフ・アシャル》のような蹂躙隊《スユーフ・ディレール》というものはとくに設けられることはなく、編成に柔軟性を持たせていた。
「艦長《サレール》」通信士《ドロキア》のヤテーシュ後衡翔士《リニエール》が報告した。「通信がつながりました。通信時差は二・七秒です」
ソバーシュは立ちあがり、敬礼をした。「襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉、ただいま慣熟航行を終えて帰投いたしました。練習艦隊司令部《グラーガフ》《グラーガーフ・ビューラル・クレーヤル》より、別命あるまで閣下《ローニュ》の指揮下で行動せ
よ、という命令を受領しました。ご指示を願います、アトスリュア司令官《レシエーク》」
「ご苦労、ソバーシュ艦長《サレール》」アトスリュア千翔長《シュワス》は敬礼を返し、微笑んだ。「見覚えがあるわね」
「はい」ソパーシュは敬礼を解き、うなずいた。「ちょくせつお目にかかる機会には恵まれませんでしたが、千翔長《シュワス》が司令を務めておられた突撃隊《スユーフ・アシャル≫の〈バースロイル〉で先任翔士《アルム・ロダイル》をしておりました」
「知っているわ。履歴は見たから」
「そうでしたか。奇遇ですね」
「奇遇?ほんとうにそう信じている?」彼女の口調にはいくばくかの揶揄が含まれていた。
「はい。ほかになにかあるのですか?」ソバーシュは首を捻った。
「なるほど、あなたはこういうことには疎いのね。ありえる話だわ、履歴からすればあなたは交易が性にあっているみたいだから。まあ、いいわ。そのことについては合流してからお話ししましょう。たいして急ぐことじゃない。練習艦隊《ビュール・クレーヤル》があなたの艦のお宿を第七〇二二特設工廠《ロール・ディフアカ・ダンボルマトマータ》に予約しているはずよ。航行計画をこっちにもいただける?」
「すこしお待ちください」
指定された基地の位置と相対速度を確認すると、ソバーシュは加速を五標準重力《デモン》に設定して、自ら航路を計算し、結果を通信士に命じて送った。
アトスリュアの視線が画面の右下あたりにむけられる。「ずいぶんゆっくりね、副百翔長《ロイボモワス》」
「帝都《アローシュ》では慎重に進むべきだと考えたものですから。しかし、本艦には余力があります。入渠を早めるのは可能です」
「いえ、それにはおよばない」とアトスリュア。「艦を落ちつけたら、乗員全員で料理店〈探り針〉に来て。第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の紋章授与式《グラームサイホス》の前にささやかな顔合わせを行なう。あなたたちを待っていたのよ」
「それではやはり……」加速を早めたほうがいいのではないか、とソバーシュはいいかけた。
「いいの」アトスリュアは手をふった。「これから扱き使われるのは目に見えているんだから、最初ぐらいはゆっくりさせてもらいたいわ。ほんの三十時間ぐらいのものでしょ、絞りだせる時間は。それに、〈探り針〉ほどの名店になると、部屋を押さえるのもたいへんよ。それとも光彩陸離たる戦場に身をおいていないと眠れない質なの、ソバーシュ艦長《サレール》?」
「いいえ、決して」ソバーシュは微笑んでみせた。
「あたしもまだ懐かしくない。美しいものは戦場の煌めき以外にもたくさんあるわ。たとえば林檎酒《リンメー》を満たした水晶杯とかね。それでは、そのときに」
通信が切れた。
ソバーシュは艦長席に腰を下ろし、先ほどの短い会話を反芻する−−どうやら帝国《フリューバル》には、根っからの交易商人の知ったことではない事柄がいくつか存在するらしい。
あのようすでは、アトスリュア司令官が説明してくれるだろう。ききたくないといっても耳に入れるつもりであることは挙措から読みとれた。
「よし。艦橋要員も非直のものは休んでくれ。わたしも休む。イドリア十翔長《ローワス》、あとを頼む」
全員が立ちあがって敬礼したのにうなずきでこたえ、ソバーシュは自室に引きあげた。
そして、どこにいるかわからないサムソンにあてて手紙を書きはじめた。
サムソンはラクファカールにいた。
より正確にいうなら、商業複合体《ラダーヴ》べードにいる。帝都《アローシュ》に無数にある商業後合体のなかでもっとも大規模なもので、無数の商店や娯楽施設が集まっていた。住居は不足気味だが、ラクファカールに家を持たない人間が泊まる旅亭はふんだんにある。サムソンはいま、そのひとつ〈べード会館〉に滞在していた。
〈べード会館〉で出される朝食は気どったアーヴ料理だ。香りは悪くないのだが、いかんせん味が薄い。塩をたっぷり入れるのも料理人に対する侮辱のような気がするので、サムソンはいつも外で食事をすることにしていた。さいわい、べードにはさまざまな地上世界《ナヘーヌ》の料理がそろっている。最近のお気に入りは〈グリムシュタット〉という店だ。ベクローニュという地上世界の料理らしい。ベクローニュという名にはかすかに聞き憶えがある程度だし、店名の由来にいたっては見当がつかないが、とにかくそこで供される料理はそこそこうまかった。もちろん、ミッドグラット料理には及ぶべくもない。しかし残念なことに、べードのみならずラクファカールじゅうを探しても、ミッドグラット料理店は一軒もないのだった。
自分で料理してもいいのだが、いまのサムソンは多忙だった。なかなか自炊の時間をとることができない。
その朝もサムソンは〈グリムシュタット〉の扉をくぐった。
「おはようございます、サムソンさま」顔なじみの給仕が寄ってきた。「いつもの朝食でよろしいですか?」
「それでかまわないんだが、今日は他人と待ち合わせをしている。料理は彼女たちが来てからだ」
給仕は微笑みを浮かべた。営業用にしてはややあからさまに過ぎるように思えた。「美しいご婦人がたとお待ち合わせですか?」
「ご婦人がたはみな美しいさ」
「はい。それではお連れさまがお見えになるまで、飲み物でもお持ちいたしましょうか?」
「そうだな。マクシロン茶だっけ?あれを持ってきてくれ。みょうなことに、なんだか気にいっちまった」
「かしこまりました」給仕は注文を受けたが、目元に非難の色が浮かんでいた。「余計ながらひとこと申し添えますと、マクシロン茶をお気に召しますのはすこしもみょうなことではないと存じます」
「そうだな」サムソンは逆らわなかった。
マクシロン茶が運ばれてきた。かなり癖のある香を持つ熱い液体だ。蜂蜜と葡萄火酒を注ぎ、ゆっくり畷る。
端末腕環《クリューノ》が鳴った。だれかが通信を求めている。
「なんだ、おまえか」
通信してきたのは、かつて突撃艦〈バースロイル〉で部下だったパーヴェリュアである。
軍歴の長いサムソンには昔馴染みがたくさんいる。だが、彼にとっても、〈バースロイル〉の乗員たちは特別な仲間だった。はじめての実戦こそともにしなかったが、死線をいっしょにくぐり抜けてきた仲だ。
「ご挨拶だな。もうすこし自分に素直になったらどうです?」
「おお、これは懐かしきパーヴェリュア。貴君の顔を見ずに過ごしたこの日々ほど色褪せたものはなかった。哀切に胸を締めあげられ、涙腺はもはや干あがったぞ。いまこの感激の時を迎えても、おれには涙を流すことすらかなわぬ。……これで満足か?」
「まあ、いいでしょう」バーヴェリュアは寛大だった。
「それで、なんの用だ?」そのとき、サムソンはパーヴェリュアが軍衣《セリーヌ》を着用していないのに気づいた。「おまえも私服を持っていたんだな」
「そりゃ持っていますよ、私服ぐらい。なんたって、これから軍衣は着ないんですから」
「おまえ、退役したのか?」
「監督《ピュヌケール》だって退役する時代だ。おれが退役しても変じゃないでしょうよ」
「そりゃ変とは思わないが、どうしてまた……」
「また監督《ピュヌケール》と働きたくなったもので。雇ってください」
「おまえな、そういうことは先に相談してから退役しろ。断られるとは考えなかったのか?」
「断られたら、べつの就職口を探しますよ。なんたっていまは売り手市場だ」
「星界軍《ラブール》以上にいい条件を出すところがあるとは思えんな」
「生命のことを考えたら、星界軍《ラブール》より悪い職場ってのは滅多にないですよ。おれにとっちゃ生命がいちばん大事だ」
「じゃあ、なんだって、星界軍《ラブール》に入ったんだよ」
「まさか戦争が始まるとは思わなかったもんで」
「ああ、まあ、それはおなじだな」
「でしょう。で、雇ってくれるんですか、くれないんですか?」
「面接だけはしてやる」
「いまさらなにを。いまだにおれのことをわかっていないとしたら、十分やそこらの面接でなにがわかるっていうんです?」
「それはそうだが、おれも雇われの身でな」深刻にきこえるようサムソンはいった。「形式だけはきちっと守らないと、領主閣下《ローニュ・ファピュタール》に顔向けができない」
「領主閣下《ローニュ・ファピュタール》ったって書記《ウイグ》のぼうやでしょ。そりゃ直接の上司じゃなかったが、あのちっぽけな艦でいっしょに戦った仲だ、ぜんぜん知らないってわけじゃないんですよ」
「ぽうやはよせ、雇い主を馬鹿にするのはおれたち雇われ者の権利だが、端から馬鹿にしているやつに雇われるのはうまくない」
「馬鹿にしちゃいません。何度か雑談したけれど、いい若者ですよ。貴族《スイーフ》にしちゃ常識もあるし。ただ、邦国《アイス》の領主《ファビュート》という存在に欠かせない神秘性に乏しいっていうか」
それはそうだろうなサムソンは思った。
サムソンはいま、ハイド伯爵家《ドリュージエ・ハイダル》の家臣《ゴスク》だ。先代の伯爵《ドリュー》、つまりジントの父親にも家臣が41人いたはずだが、彼らはいまどこでなにをしているかわからない。すくなくとも、すでにハイド伯爵家の家臣でないことだけははっきりしている。実質的には、サムソンが最初の家臣だった。
これからのハイド伯爵家《ドリュージエ・ハイダル》にはたくさんの家臣が要る。とくに反物質燃料工場《ヨーズ》の再建に関わる人材の確保は急務だ。そこで、サムソンは帝都《アローシュ》《アローシェ》に残り、家臣の募集を行なっている、というわけだった。
だが、仕事はなかなか進まない。パーヴェリュアのいうとおり、いまの求人は売り手市場だ。ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》《ドリュージエ・ハイダル》などという新興の邦国《アイス》の家臣になろうという物好きは少ない。
したがって、本心をいえぱ、パーヴェリュアの申し出はありがたかった。彼の専門は反応炉《ヨーフ》、すなわち反物質燃料《ペーシュ》を消費するほうだが、その専門知識の部分はまさにハイド伯爵家《ドリュージエ・ハイダル》が求めているものだ。
サムソンはかつての部下を雇うことに決めていた。人事に開していえばジントから全権を任されている。もちろんジントが彼を信頼しているからだが、実際問題として、星系外の人間に連絡しようと思えば平面宇宙を船で通信文を運ぶしかないこの宇宙では、いちいち領主の決定をあおぐのは不可能だった。
「とにかく、昼飯でもいっしょに喰おう。ゆっくり面接してやる」
「今日の昼飯ですか?」
「おまえが来られるならな。いまべードにいるのか?」
「ええ、だいじょうぶです。いまから朝飯を一緒に、といわれても飛んでいきますよ。伯爵家《ドリュージエ》のおごりですか?」
「そうだな」
「やった。店はおれに任せてくれませんか?うまい店を知っているんです。値段もそれなりですがね」
「そりゃダメだ。おまえの舌は信用できない」
「なにを根拠に?」
「星界軍《ラブール》の出す飯をあんなにうまそうに喰うやつの舌が信用できるか」
「だって、それなりにうまいですよ。とくに腹の空いているときには。極上の料理とはおれも思っていませんよ」
「ほら、見ろ。あれを「それなりにうまい』なんて評価するやつが、まともな味覚の持ち主であるものか」
「ひどいな。世界を広げてみようとは思わないんですか?」
「そうだな」サムソンは諦めた。一度ぐらい高くて不味い飯を喰ってみるのもいい経験かもな」
「よし、決まりだ。おれが予約を入れて連絡しますよ。いいですか?」
「そうしてくれると、こちらも手間が省けて大助かりだが、これでなにかと忙しくてな、十二時から十三時までしか時間がとれない。それだけはよろしく頼む」
「わかりました。でも、残念だな。もっとゆっくりしたかったのに」
サムソンも同感だった。「悪いな。また今度な」
「ええ。じゃあ、時間もないことだからいまのうちに訊いておきますが、監督《ピュヌケール》、なんだって家臣《ゴスク》になんかなろうって思ったんです?ぽうや、じゃなかった、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》に頼まれたんですか」
「いや、おれから申し出たんだよ」
「なんでまた」
「なあに、おれがそのうち故郷に戻って農園を始めるつもりだっていうのは知っているだろう」
「ええ。だから不思議だったんですよ。いまごろ故郷で家畜の糞でも発酵させているかと思っていました」
「新しい邦国《アイス》を立ちあげるのは、農場経営の参考になるんじゃないかって思ったものでな」
「へえ。おれはまた給料にひかれたのかと思っていましたよ」
「給料?そんなものは問題じゃない。たんまりもらえりゃ、おれはなにも文句はいわないよ」
「そりゃ、おれだっていいませんよ」
「サムソンさま」給仕が傍らに来て囁いた。「お連れさまがお見えでございます」
「ああ、ありがとうよ」サムソンは端末腕環《クリューノ》にむかい、「それじゃ、パーヴェリュア、またあとでな」
「はい」通信が切れた。
サムソンは立ちあがって待ち合わせの相手を迎えた。三人の女性たちだ。
「あなたがハイド伯爵家《ドリュージエ・ハイダル》のサムソンさん?」真ん中に立つ女性が確認した。
「八イド伯爵家家宰《ガポティア・ドリュージエ・ハイダル》のサムソン・ポルジュ=ティルサル・ティルースです。セールナイ商会の皆さんとお見受けいたしますが?」
「はい。あたしが会長のフェグダクペ・セールナイです」真ん中の女性がうなずいたが、なぜかかすかな失望の色を浮かべていた。「王女殿下《フィア・ラルトネル》の紹介状をお持ちとか」
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2 |ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》
会議室は花園のなかにあった。咲き誇っているのは、地球起源の植物である。マルティーニュ原産の花よりは格段に栽培しやすく、また美しい。
喧せ返るような花の香りのなかで、薄藍色の髪をした男性が端然と華奢な椅子に腰掛けて待っていた.宰相府財務総監部調査使《ペリューク・ヴォーソル・ボーシミアク》《ペリユーク・ヴォーソル・ボーシミア》イェステーシュだ。
「おはようございます、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」ふたりの姿を認めると、イェステーシュは立ちあがって宮中式に礼をとった。しばらく間をおいて恭しく付け加える。「子爵殿下《フィア・ベル》」
肩書きの不吉な響きが示すがごとく、彼は徴税に関わる人間だった。
帝国《フリューバル》の士族《リュータ》として生まれ育った者にとって税金とは馴染みのない概念だ。そして、地上世界《ナヘーヌ》出身の国民《レーフ》たちのほとんどは、領民《ソス》の身分とともに捨ててきた過去の悪夢と見なしている。士族と国民のほとんどは、帝国《フリューバル》に税制が存在することに気づきもせず生涯を終えるのだ。
だが、領地《リビューヌ》《リピューヌ》を持つ貴族《スイーフ》は別だ。帝国《フリューバル》において彼らだけが税金を納めるという特権を嫌々ながら享受していた。諸侯《ヴォーダ》は邦国《アイス》の交易を独占するとともに、恒星周辺で反物質燃料《ベーシュ》生産し、無人惑星の鉱物資源を採掘する権利も保障されている。その見返りに、生産物の一部を帝国《フリューバル》に提供しなくてはならないのだ。
ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》の場合、マルティーニュの領民政府《セメイ・ソス》は惑星外に採掘基地その他の植民地をまったく持っていない。したがって、ゆいいつの有人惑星マルティーニュ以外の空間と天体に関してはハイド伯爵家《ドリュヒューニュ・ハイダル》に優先権がある、というのが帝国《フリューバル》の見解だ。なかでももっとも重要な財産が恒星ハイドそのものだ。その周辺に反物質燃料工場《ヨーズ》を展開すれば、あと五〇億年は反物質燃料《ベーシュ》を生産できるのだ。それは伯爵家の権利であり、義務である。
邦国《アイス》であれ、所領《スコール》であれ、帝国《フリューバル》が領地《リビューヌ》に求める第一の役割は、燃料補給基地としてのそれだった。
どれだけの生産物を徴収するのが適当か−それを割り出すのが、調査使の務めである。微税吏を歓迎する社会は少なく、帝国《フリューバル》の貴族社会《スイームフェ》も例外ではない。だが、ジントはこのイェステーシュという人物を頼りにしていた。彼の職責には領主《ファビュート》に助言することも含まれるのだ。そして、イェステーシュはずいぶん老練な官僚だときいている。生まれつきのアーヴなので見た目からはそうと思えないが、もう二〇年も調査使として勤務しており、主計百翔長《ボモワス・サゾイル》の位階《レーニュ》も持っているらしい。彼ほどの人物が派遣されてきたのには事情がある。なにしろ、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》は帝国《フリューバル》領となってすぐ〈人類統合体〉に占領されたという経緯があり、その事情の複雑さは多様な帝国《フリューバル》諸世界のなかでも特別なものなのだから。
と同時に、役人とのつきあいにつきまとう煩わしさもジントは感じていた。ジントにはどうでもいいように思えることも、イェステーシュは忽《ゆるが》せにしない。
「まず現状のご報告ですが」イェステーシュは切り出した。「まだマルティーニュの領民政府《セメイ・ソス》が帝国《フリューバル》への復帰を肯《うべな》ったという報告は入っておりません」
「残念ですね」なるべく深刻に見えるように、ジントはうなずいた。
そう、厳密にいえば、ジントの故郷はまだ帝国《フリューバル》領ではない。地上にはまだ軍隊がいるらしい。
ハイド門《ソード・ハイダル》を確保した星界軍《ラブール》は一カ月ほど敵艦の姿を探すために偵察戦隊《ソーヴ・ウセム》を一個、貼りつけていたが、空間に敵影のないことを確認すると、さっさと引きあげてしまった。近傍の航路を使用する星間船《メーニュ》も、燃料が補給できるわけでもないので、ハイド門を素通りしてしまう。ただ巡察艦《レスィー》や戦列艦《アレーク》が通過するときのみ、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に立ち寄って、領民政府《セメイ・ソス》の意思を確認することになっているので、まだ気が変わっていないことがジントたちにもわかるのだ。
「いつ時空融合したんですか?」ジントは訊いた。
「エストート門《ソード・エストータル》を出て以来、まったく時空融合しておりません」心のなかでジントは溜息をついた。
〈ボークビルシュ〉は現在、平画宇宙《ファーズ》を航行中である。平面宇宙での時空泡問通信《ドロシェ・フラクテーダル》は近距離でのみ可能で、しかも情報流量が極端に少ない。つまり、ほかの船と時空融合して通信しないかぎり、最新の情報など入ってくるはずがないのだ。それでも律儀に現状を報告してくれる。
「情報そのものが少なくなってきています」イェステーシュはいった。「反物質燃料《ベーシュ》が補給できませんから、あまり船がハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》《ドリュー・ハイダル》に寄らなくなっているのです」
「それはわかっています」どうしてわかりきったことばかりいうのだろう、とジントは不思議に思った。アーヴはもっと実際的な種族だと信じていたのだが。「いま、燃料関係の要員を募築中です。機材についても手配中で、要員といっしょに伯国《ドリュヒューニュ》に到着予定です」
「それはわかっています」どうしてこの若者はわかりきったことをいうのだろう、という目をイェステーシュはしていた。
理不尽だ−ジントは心のなかで嘆息した。
「それで、今後の予定ですが、なにか変更はありましたか?」
「いえ。ありません」ジントはきっぱりいった。
「では、ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》《ドリュヒューニュ・ヴォーラク》でしばらく滞在の予定ですね」
「しばらく?補給するだけじゃないのか」ラフィールが口を挟んだ。
「ああ。期間は未定だけれども、滞在する予定だよ。いっていなかったっけ」
「きいてない。なぜあんなところになど滞在するんだ?」
ジントにとって思い出深きデルクトゥーもラフィールにとっては「あんなところ」でし
かない。
不満が顔に出てしまったらしい。ラフィールはそれを目敏く見つけた。「われらが初めて会った想い出の場所だ、などといわぬがよいそ。きいてるだけで恥ずかしくなるからな」
「いわないよ。いうほうがもっと恥ずかしい。でも、ぼくにとってはヴォーラーシュのデルクトゥーは第二の故郷なんだ」
「じゃ、やっぱり私的な感情にまかせての滞在なのか?」
「まあ、多少はある」ジントは認めた。「でも、家臣も募集したいんだよ」
「募集なら、サムソン軍匠列翼翔士がラクファカールでしてるのであろ」サムソンが軍籍を離脱したことを知っているはずなのに、ラフィールは彼の名に階級をつけて呼んだ。
「サムソンさんには技術系の家臣を選んでもらっている。でも、事務系の家臣も必要だろう。サムソンさんは軍匠科、ぼくは主計科。だから、ぼくは事務系の家臣を捜すんだ」
「それにしても、ラクファカールで探したほうがいいであろうに」
「ほんとうはマルティーニュで探すのがいちばんさ。なんたって事情に明るい。でも、現状じゃ無理だろう」
「ならばなおさら早く行って、領民政府《セメイ・ソス》を降伏させることがいちばんじゃないのか」説得しようとするふうではなく、本心から疑問に感じているようである。
「確実に説得できるという自信があればそうするよ」
「やってみて駄目だったら、ヴォーラーシュに戻ればよいじゃないか。」一片の邪気もなく、ラフィールはジントを追いつめる。
「正論だな」ジントは考えた。たしかに、適当な理由をつけてなるべく自分の領地《リビューヌ》となった星系に行くのを遅らせようとしているだけなのかもしれない。
「そのことなのですが」意外なことに救いの神となったのはイェステーシュだった。結果的にそうなっただけだが。「閣下に領地《リビューヌ》へお戻りいただくのはすこし待ったほうがいいのかもしれません」
そうですね、と同意しかけたが、ジントは危ういところで踏みとどまった。「なぜですか?」
「申しあげるのは心苦しいながら、ご領地《リビューヌ》の情勢はあまりに不穏です。まずわたしが先行して、より詳しい情報を収集したほうがよいのではないか、と」
「なるほど」若い諸侯《ヴォーダ》がいきなり行って、事態をもっとややこしくする前に、経験豊かな官僚の目で視察しておきたい、といったところだろう。
「伯国に対しては星界軍《ラブール》がひととおりの偵察をすましていますが、領民政府《セメイ・ソス》がなにを考えているのかは、今一つ不分明です。閣下に説得していただくにしろ、まずそれをたしかめたほうがいいように思うのです」
「ぼくのきいたところでは、独立を求めている、とか」
「常軌を逸した考えです」イェステーシュは嘆かわしげに、「とても本気とは思えません」
「忘れないでください、つい最近までハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》は完全に独立していたのですよ」ジントは故郷を弁護した。「ほかに世界があることぐらいは知っていましたが、具体的にはなにも知らなかった。自給自足で二百年以上、やってきたのです」
「そうでしたな。どうも完全に孤立した星系の経済というものに実感が湧かなくて」
「無理はありませんが、星際的な経済から隔離されていても、マルティーニュの領民政府《セメイ・ソス》はなんの痛痒も感じないはずです」
「それならば、放っておいたらどうだ?」とラフィール。「なにも慌てることはない、とわたしは思うぞ」
「べつに慌ててなんかいないさ」
「そうか?」
「慌てているように見える?」
「そなたの領民は自分たちの面倒は見られるみたいだし、帝国《フリューバル》に復帰するつもりになるのをゆっくり待ったらどうだ?」
「そのあいだにぼくの借金は天文学的に膨らんでいく」ジントは指摘した。
「反物質燃料工場と物質燃料採取基地を設置すれば問題ない。べつに領民政府《セメイ・ソス》の協力は必要ないであろ」
「借金なんかどうでもいい、とはいってくれないの?」
「わたしの金じゃないからな」
「でも、きみが嗣ぐんだろう」
「ずっと先の話だし、弟が嗣ぐかもしれない」
イェステーシュが咳払いをした。
「殿下のお考えは必ずしも正しいとはいえません」とイェステーシュ。「ハイド門の近くに地上世界マルティーニュがあるかぎり、その領民政府《セメイ・ソス》の安定は重要です。燃料を補給するのにいちいち恒星ハイドや、マルティーニュよりさらに外側にある気体惑星に立ち寄るわけにはいきません」
それなりに安定しているんじゃないかなとジントは思った。もちろん、イェステーシュの真意はわかるので、揚げ足取りじみた言動は慎む。彼にとって安定した領民政府《セメイ・ソス》とは表向き帝国《フリューバル》に反抗しないものなのだ。たしかに、『領民政府《セメイ・ソス》』ということばとその内実が乖離している状況は安定と評すことはできないかもしれない。だが、領民政府《セメイ・ソス》と称しているのは帝国《フリューバル》であって、彼らはそう呼ばれていることを知れば怒り狂うだろう。やはり安定していると評価すべきかもしれない。
いつしか、ジントの思考は坪のあかない堂々巡りに陥っていた。
「ならばやっぱり、領民政府《セメイ・ソス》を把握してから、家臣を募集したほうがよいのではないか」ラフィールがいう。こちらも堂々巡りだ。
「イェステーシュさんにはハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に先行していただくよう、ぼくから正式に要請します」ジントは決断した。「そして、そのあいだ、ぼくはヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》に滞在し、可能ならば家臣を集めます」
「要請をお受けいたします、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」イェステーシュがうなずいた。
「そなたの邦国《アイス》だし、わたしは反対しない」ラフィールがいった。
「それでは決まりですね」ジントは念を押し、ラフィールにいった、「きみはどうする?」
「わたしがどうするとは、なにをだ?」
「ぼくといっしょにヴォーラーシュに留まるのかい、それとも一足先にぼくの故郷を見る?」
「わたしはそなたにつきあってやっているんだぞ」ラフィールはいった,「そなたひとり、くつろがせてたまるか」
「じゃあ、そういうことで」
「それで、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」イェステーシュなどはさらに話を進めようとした。「ヴォーラーシュでの滞在はどうなさいます?」
「宇宙港の旅亭に泊まるつもりです。とりあえず最初は」
「最初は?」イェステーシュの片眉がくいっとあがった。
「できれば、地上世界にも滞在してみようと思うんです」
「まさか、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」イェステーシュは眉間に憂いの色を滲ませ、「領民の経営する宿に泊まるおつもりではないでしょうね」
「いけませんか?」いくらか挑戦的な気分でジントは反問した。
「閣下は帝国《フリューバル》貴族なのですよ」イェステーシュは噛んで含めるようにいった。
いつになったら、みんな、ぼくにぼくの身分を教えようという遊びに飽きるんだろうな−−ジントはうんざりした。もちろん、ほんとうは自分が悪いのだとわかっていた。自覚に欠けるところがあるせいだ。貴族としての自覚がじゅうぶんでないこと自体がいいことなのか悪いことなのかわからなかったが、すくなくとも帝国《フリューバル》貴族として行動するさいには欠点となる。
「宇宙港でもじゅうぶんに安全とは思えません。何人かわたしの部下を割いて護衛をつけることは可能ですが、護衛の専門家はおりません。なにより、彼らは閣下の邦国《アイス》を調査するために連れてきたのですから、肝心のときに現場から遠ざける結果になります」
「宇宙港が危険だとおっしゃるんですか?」
デルクトゥー宇宙港はヴォーラーシュ伯爵家の所有物だが、星界軍《ラブール》の管理区域もあり、軍士が常駐している。治安は保たれているはずだった。
「ええ」イェステーシュはうなずいた。「領民の立ち入りも許可されています。なかにはもと〈人類統合体〉兵士の肩書きを持っている人間もいるかもしれません。それでなくても、突拍子のないことを考える人間はいっぱいいますから」
そういわれると、ジントもしだいに心配になってきた。端未腕環でデルクトゥー宇宙港の現状に関する情報をできるかぎり拾ってみる。それによると、ヴォーラーシュ伯爵家の設立した宇宙港警備隊は壊滅状態にあるらしい。星界軍《ラブール》がその業務を代行しているとはいえ、駐留兵力は決して多くない。
「あまりよくありませんね」
「それに……」イェステーシュはことばを濁しつつ、一瞬だけラフィールに視線をむけた。
ジントには彼の心情が痛いほどわかった。
若い諸侯《ヴォーダ》が自分の責任で危地に飛びこむならまだ我慢できるが、帝国《フリューバル》の王女をそれに巻きこむわけにはいかない、というわけだろう。しかも、おなじ行動をとっても、ラフィールのほうが格段に危険が高い。なんといってもジントは諸侯《ヴォーダ》のひとりに過ぎず、見かけはふつうの地上人だ。それにたいしてラフィールは帝室の一員で、皇帝候補のひとり。
帝国《フリューバル》への反感を手っ取り早く表明したい人間の目には、彼女のほうがずっと魅力的に映るだろう。さらに、人質の生命を盾に帝国《フリューバル》に要求を呑まそうと考える人間も後を絶たない。
実をいうと、皇帝その人を人質にしようと、国民を人質にしようと結果はおなじ、つま
り帝国《フリューバル》は決して彼らの要求を呑むことをしない。そのことは銀河に隠れもないことなのだが、どうしてもそれを信じられない人間は後を絶たないらしい。それほどに『帝国《フリューバル》を脅迫して成功した最初の入間」という称号は魅力的なのだろうか。
そして、はっきりと指摘しなかった理由もわかる。王女は自分が保護されていると感じると、なぜか怒りだす傾向があるのだ。ラフィール特有のというよりアブリアル一族に共通した性質といっていい。したがって、ものを弁えたアーヴなら、アブリアルに危険を指摘して翻意を促すことはなるべく避ける。そして、イェステーシュはちゃんとものを弁えたアーヴだった。
「わたしとしては、ヴォーラーシュ伯爵城館に滞在なさることを強くお勧めいたします」とイェステーシュ。
「城館ですか……」
反感というほどではないが、ジントはヴォーラーシュ伯爵家にたいして隔意を抱いていた。かつてジントがデルクトゥーに住んでいたころ、城館のすぐしたに広がる地上世界にハイド伯爵家の跡取りがいることを知らぬはずはなかったのに、伯爵家はとくに挨拶しようとはしなかった。それを拗ねているわけではない。しかし、ひょっとしてヴォーラーシュ伯爵は地上世界出身の帝国《フリューバル》貴族に偏見を持っているのではないか、という疑いが消えないのだ。
ジントのほうから表敬しなかったのも、ひとつにはまだ右も左もわからない子どものころに連れてこられて、気づいてみればとっくに時機を逸していたという理由もあるが、冷たくあしらわれ、自尊心を傷つけられることへの恐れがあったことは否めない。
そういう感情的な躊躇以外にも、城館に滞在するのを避ける理由があった。ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》に滞在するのは、家臣を募るためでもあるのだ。軌道上にある城館でお高くとまっていても、目的を果たすことができない。
ジントはしばらく考え、無難な結論をえた。とりあえず城館に滞在して、ひとりで宇宙港や地表へ行く。どのみち、家臣募集という仕事にラフィールの手助けが要るとは思えなかった。
最大の難関は王女をどうやって納得させるかだ。自分が保護されているという状況を彼女がすんなり受け入れてくれるとは期待できない。きっとひと悶着あるだろう。
だが、そのひと悶着さえ乗り切れば、なんの問題もないのだ。
「そうですね。ヴォーラーシュ伯爵に城館への滞在をお許しいただくようお願いしてみます」
「それはわたしがやってやろうか?」ラフィールがいった。
「いいよ」ジントは即座に断った。「これはぼくの仕事だよ」
たしかに、諸侯《ヴォーダ》どうしの交渉にあたるのは気が重い。初めての体験とあってはなおさら。
だからといって、ラフィールにしてもらうのはあまりに情けない。これはハイド伯爵家の問題であり、ジント自身があたらなくてはならないことだった。
むろん、隣邦の伯爵の要請よりも帝国《フリューバル》の王女のそれのほうが強力だろう。だが、王女の同行を隠すことができない以上、だれが交渉しようとヴォーラーシュ伯爵家が滞在を
断るとは思えなかった。
「伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》も王女殿下もご存じなかったのですか?」イェステーシュが目を丸くした。
「なにをです?」
「現在、ヴォーラーシュ伯爵とご家族は行方知れずです」彼は説明した。「〈三力国連合〉の侵攻が始まったとき、エミュール・アロン=ボスキュカル・ヴォーラーシュ伯爵・フィスキューク閣下とそのご家族は揃って城館においででした。わが軍がヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》を回復した現在でも、その行方は杏として知れません。おそら〈三力国連台〉のどこかに連行されたのでしょう。あるいはもはや生きておられないかもしれません」
「それでは、現在、ヴォーラーシュはどうなっているのです?」
「伯爵位は皇帝陛下がお預かりになり、実務は代官がとっているはずです」調査使は端末腕環《クリューノ》で情報を検索し、「エミュール・ウェフ=ケルデル・デリュズという人です。名前からすると、エミュール一族に連なる士族のようです」
「では、まあ、滞在そのものには問題ないわけですね」
「はい。ただ、要請はわたしのほうからいたします。皇帝陛下の代官は、われわれ調査使の要請を極力受けることが義務づけられていますから、そのほうが簡単にいくでしょう」
「わかりました。そういうことでしたら、お願いいたします」ジントはほっとした。
ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》惑星デルクトゥーのたたずまいは〈三力国連合〉に占領される前と変わらなかった。少なくとも、宇宙空間からはそう見えた.
デルクトゥーは水気に乏しい、赤茶けた惑星だ。軌道上からも肉眼で視認されるほどの水を湛えているのは、地殻と核のあ.いだで行なわれる対流運動によって形成された、幾筋かの巨大な渓谷のみだろう。もっとも、よほど目のよい人間ならば、それに加えて湖沼が
点在していることに気づくかもしれない。
だからといって、「この惑星には海がない」とデルクトワーの住民にいうのは考え物である。淡水を湛えた渓谷を彼らは「海』と呼んでおり、余所者には理解しがたい愛着を抱いているのだから。
その『海』のひとつファイ海が赤道と交わる地点にデルクトゥー最大の都市にして首都であるメイ市がある。そのメイ市から軌道塔が静止軌道まで伸びていた。
惑星デルクトゥーは自転周期が短くー水の少なさと相まって、この惑星の砂嵐は人類宇宙でも見物のひとつだった、静止軌道が低い。そのため、軌道塔の中心である宇宙港も二〇・六セダージュという低みに浮かんでいる。静止軌道から七・]セダージュ上空の軌道をヴォーラーシュ伯爵城館が巡っていた。軌道塔は宇宙港よりうえにも伸びているので遙か昔に発見された物理法則が釣リ合いをとれと強要するので、地表の反対側にも長い軸があり、錘となる小惑星がくくりつけられているのだ−、城館はときおり軌道を変更して、炭素結晶繊維に両断されることを避ける必要があった。
ヴォーラーシュが帝国《フリューバル》の邦国《アイス》となったのは比較的新しく、そのゆいいつの有人惑星であるデルクトゥーに最初の植民者が足をおろしてからまだ一〇〇年に満たない。こういった若い地上世界のうえでは、いろんな地上世界からの移民が入り乱れて、合理的ではあるが、やや面白味に欠ける社会が形成されるのが普通だった。
その点デルクトゥーは例外だった。なぜなら、初期の住民がすべてエルカーシュ侯国のロワムガムという歴史ある地上世界からの移民で占められていたからだ。その後、ほかの邦国《アイス》からも移住者を受け入れてきたものの、ヴォーラーシュの領民のほとんどはエルカーシュに遠い親戚を持ち、ロワムガム的な倫理観に縛られていた。たとえば、ヴォーラーシュ領民にとって引っ越しは一生に一度あるかないかの一大事であり、「年のあいだに二度も三度も家を替える人間を、なにか奇妙な習性を持つ別種の生き物と見なす傾向がある。
ヴォーラーシュ伯爵家もまたエルカーシュ侯爵家と縁続きだった。いずれも根源氏族のひとつであるエミュール一族に連なる家なのだ。
エミュール一族はその紋章に共通の意匠として蜻蛉を選んでいた。ヴォーラーシュ伯爵家の紋章にももちろん蜻蛉があしらわれている。〈蜻蛉と稲妻〉それが伯爵家と伯国の紋章だった。
伯爵城館の正面玄関というべき発着門のうえには〈蜻蛉と稲妻〉が掲げてある。
〈ボークビルシュ〉は城館と一〇〇ダージュという至近距離で並んだので、その紋章が視認できるほどだった。
「よい腕だな」ラフィールが感心したようにいった。
「そうだね」ジントはうなずいた。
いま、〈ボークビルシュ〉にはハイド伯爵家の家臣は「人も乗っていない。したがって、船を運用しているのは家臣ではなかった。帝国《フリューバル》商船団の社員だ。
彼らを雇うことができればいいんだけど…ジントは考えた。
だが、それは無理な望みだった、帝国《フリューバル》商船団員の身分はハイド伯爵家の家臣というそれよりも魅力的だ。しかも、彼らは全員が予備役の星界軍《ラブール》翔士だった。戦況が厳しくなれば召集される運命にある。
発着門のしたから桟橋が延びてきて、〈ボークビルシュ〉に接続した。
なにかひと言を、と促されて、ジントは船内に放送した。
「こちら、ハイド伯爵です」むず痒さを感じつつ、ジントは名乗った。
「すでに理出はご存じと思いますが、ぼくは一時的に皆さんとお別れします。ふたたび合流するまで、本船の指揮はイェステーシュ調査使に委ねます」ジントは締めくくりのことばを探した。
「事態は流動的ですが、よろしくお願いいたします」
放送を終えて、ラフィールの批判的な眼差しを感じた。
「なにかまずかったかな?」恐るおそる訊く。
「まあ、いいであろ」ラフィールは冷たく、「どうせみな、忙しくてきいていなかったと思うぞ」
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3 |出発の宴《フレーゲ・レノラーシヤル》
〈フリーコヴ〉は最終減速に入った。しかし、微調整の必要はまったくない。無駄な針路変更によって歪められることのない、美しい航路を描いて、成入したばかりの襲撃艦《ソーバイ》は仮の宿りに近づいていった。
帝国《フリューバル》は船渠を量産するための工場を帝都《アローシュ》に設け、ほうぼうの根拠地にその製品を送りだしていた。だが、すべてを送りだしたわけではなく、その一割程度が帝都《アローシュ》のあるアブリアル伯国に留まっている。
そのうち一四の船渠を束ね付属施設をつけたのが、第七〇二二特設工廠だった。もっとも、】四というのは現在の数であって、増設する余地はいくらかある。
襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉は特設工廠の第五船渠に進入した。
偶然にも、第七〇二二特設工廠はべートゥール建艦廠の近くにあった。〈フリーコヴ〉とその姉妹たちは、第五船渠とほとんど変わらぬ規模の船渠で一隻ずつ丁寧に試俸された
が、大量生産はべートゥール建艦廠で行なわれる予定だ。近くといっても数十セダージュもの隔たりがあるのだが、それでも恒星アブリアルの陽光を受けてきらきら光る、建艦廠の何本もの生産管が第七〇二二特設工廠から見てとれた。もしコーヴ級が実用的だという評価がくだれば、あの生産管の何本かが襲撃艦《ソーバイ》建造のために使われるはずだ。五セダージュの管のなかを〈フリーコヴ〉の妹たちが形を成しながら行進し、宇宙空間に放たれるだろう。
ソバーシュには建造計画が知らされていないが、すでに量産の準備が始まっていることを確信している。まだ実戦では試していないが、コーヴ級襲撃艦《ソーバイ》はいい艦だ。
げんにソバーシュの空識覚は、生産管のうち五本がとぐろを巻いた状態からまっすぐ伸びつつあるのを感じていた。周囲には構造物が何百となく浮き、生産管に接続されるのを待っている。
なにかが量産される前兆だ。浮いている構造物は艦の部材を量産する工場や従業員の居住施設などである。生産管がまっすぐ伸ばされ、工場や住居があるべき場所に設置されれば、いよいよ艦の量産が始まる。
その艦が〈フリーコヴ〉の妹たちだという証拠はないが、ゾバーシュにはそうとしか考えられなかった、
〈フリーコヴ〉たちの点検が終われば、艦政本部の奥津城で生産設備の配置や生産手順に小規模な修正が施されるだろう。そして、陸続とコーヴ級襲撃艦《ソーバイ》が産みだされるのだ。
交易商時代は用船料の安い中古の貨物船ばかりに乗ってきたソペーシュだったが、やはり新しい種類の船の誕生に手を貸したという事実は感慨深かった。
点検整備の依頼に関する事務チ続きを終え、ソバーシュは乗員全員を短艇に乗り移らせた。〈探り針〉までは二漂準重力で三時間ほどの距離だ。操縦はエクリュアに命じる。
「〈探り針〉は初めて」操舵士席に腰をおろしたエクリュアは眩いた。
彼女なりに興奮しているのかもしれないな−ソバーシュは微笑ましく思いつつ、隣の副操舵士席に着いた。
物問いたげな視線を感じて横をむくと、エクリュアが小首を傾げてソパーシュを見ていた。「きみの好きでいいよ」ソバーシュは実際に微笑みを浮かべ、「きみが艇指揮なんだから」
エクリュアは無表情でこっくりうなずくと、艇内に放送を始めた。「こちら艇指揮。総員、座席帯を締め、高加速に備えよ」
ちょっと待て!――ソバーシュは叫びそうになった。
短艇の乗客用座席はすべて床にたいして直立している。短艇が重力制御のある場所に着床しているとき、乗客は立っているしかない。だが、いったん加速しはじめると、体感重力方向が変わり、その直立した座席はたちまち寝台の役割を果たすようになる。そのあとは寝そべりながら、ゆったりと過ごすことができる。退屈する向きには端末腕環《クリューノ》が娯楽を提供する。ただ便所に行くのは通路を上り下りしないといけないので苦労することになるが、総じて短艇での旅は快適だった。
しかし、それも二標準重力ぐらいで航行している場合の話だ。星界軍《ラブール》用語で「高加速」というとき、それは八標準重力以上を意味する。高加速にも耐えられるよう遺伝子改造されたアーヴならともかく、地上世界出身の従士たちは三標準重力ぐらいでも不快感を感じる場合がある。まして高加速ともなれば、声をあげることもかなわず、座席に押しつけられるだろう。
あわただしかった慣熟航行の締めくくりに、三時間ほどのゆったりした旅を乗員たちに提供するのが星界軍《ラブール》翔士としての常識というものだった。イドリアならそうするはずだ。
それなのに、エクリュアは人体が耐えうるかぎりの加速で目的地に向かおうとしている。
だがけっきょく、ソバーシュはなにもいわなかった。エクリュアを艇指揮に任命した以上、ここは彼女に従おう。ちゃんと翔士としての訓練を受けているのだ、負傷者が出ないように気をつけてくれるだろう。もしもあまりに危険だと判断した、そのときには指揮権をとりあげなければいけないが。
悪いね、みんなソ――バーシュは心のなかで従士たちに謝った。
エクリュアはソバーシュの思いなど知らぬげに、管制とやりとりしていた。それにしたがって、埠頭が減圧され、間門が開かれる。
「電磁投射を要請する」当然のようにエクリュアはいった。
「ああ、襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉搭載短艇」工廠管制は戸惑いぎみに、「本工廠には電磁射出の設備がない。低温噴射推進での出港を願う」
「了解、工廠管制。感謝する。〈フリーコヴ〉搭載短艇、以上」とエクリュア。
「なるべく早いうちの再来を願う。第七〇二二特設工廠管制、以上」
交信が切れると、エクリュアは舌打ちした。それだけでソバーシュを驚かせるにはじゅうぶんだったが、さらに彼女は小声で罵りはじめた。
翔士としては有能だが、指揮官としてはかならずしもそうではないたぐいの人間が存在する。彼女もそのひとりではないか−そういった疑いとともに、ソバーシュがエクリュアの横顔を眺めていると、彼女は罵るのをやめ、きょとんとした表情でこちらを見返した。
見つめ合っているうち、ソバーシュはさっきのは幻覚であったような気がしてきた。
「発進します」エクワユアは囁くように宣言すると、制御籠手に包まれた左手を動かした。
地獄の航行が始まった。
ラクファカールにおける名店がたいていそうであるように、〈探り針〉は独立した軌道施設であり、また旅亭も併設していた。
「こちら、〈フリーコヴ〉搭載短艇。〈探り針〉管制、応答願う」
エクリュアが冷静に呼びかける声をソバーシュはきいた。強烈な減速が身体を座席に半分のめりこませている。
「こちら、〈探り針〉管制でございます」エクリュアとは対照的に切迫した声が操舵室に流れた。
「入店許可を願う」
「それはかまいませんが、お客さま、ご来店するおつもりなら、いったん通過し、いま暫し減速してからお越し下さいまし」
「いや」
「エクリュア前衛翔士」高加速に慣れた飛翔科翔士にさえ悲鳴をあげさせるような制動が締めくくりに行なわれようとしていることに気づいたソバーシュはとうとう口を出した。
「等制の指示に従うべきだよ」
「はい」静かにエクリュアはうなずいた。
だが、きっと心のなかでは独創的な悪態をついているにちがいない、とソバーシニは確信した。
短艇は減速しつつ〈探り針〉を通過する。最接近したとき、ソバーシュの空識覚は手を伸ばせぱ届きそうなところに料理店の存在を感じた。もし近くでこの光景を見ていた者があれば、擦ったと誤解しただろう。いや、ほんとうに誤解なのだろうか。
短艇と〈探り針〉の相対速度が零になるまで通過後1秒近くかかった。
方向転換すると、主機関をひとふかしし、あとは姿勢制御機関だけで〈探り針〉に近づいていくので、ソバーシュはほっとした。
短艇は発着広場にすべりこんだ。
「こちら艇指揮」エクリュアが告げた。「本艇は〈探り針〉に到着した。総員、下船せよ」
従士たちのあげる歓声が、耳にきこえるようだった。今日よりのち、彼らは自分の生命をより大切にすることだろう。
「それでは」エクリュアが座席を立つ。
艦長であるソバーシュが短艇を降りるのは一番最後だ。
じゅうぶんに時間をおいて、搭乗口に行く。
乗ロ貝たちが整列して待っていた。号笛を合図にいっせいに敬礼する。
交易商人だったときにはなかった体験だ。
ソバーシュはこういった儀礼が決して嫌いではなかった。若いころにも星界軍《ラブール》に身を置いていたとはいえ、そのあとの入生をざっくばらんな人間関係のなかで過ごしてきたので、新鮮に思える。ゆっくりと階段をおりた。
下では乗員たちだけではなく、礼装に身を固めた〈探り針〉の店員も待っていた。心なしか顔が青ざめているようだった。
「いらっしゃいませ。襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉行様ですね」
「そうだ」ソバーシュはうなずき、「世話になるよ」
「第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》司令部《グラーガフ》からご予約はいただいております。饗宴は明日でございますので、今日のところはゆっくりおくつろぎくださいませ。わたくしどもが皆さまをお部屋にご案内します」
「頼む」ソバーシュは部下たちをふりかえった、「話はきこえたね?今日は仕事もなにもなしだ。明日の予定はあとで各自の端末腕環《クリューノ》に送るから、なにも気にせず、法と軍規の許すかぎり好きなように遊んでいいよ」
最大級の歓声の爆発が起こった。
入場時間は艦ごとに定められており、〈フリーコヴ〉の入場はいちばん最後とされていた。したがってソバーシュが部下たちを率いて饗宴会場に到着したとき、すでにほかの艦の乗員たちは入場ずみで、来ていないのは司令部《グラーガフ》要員だけだった。
イドリア十翔長《ローワス》に命じて乗員たちを二列縦隊で整列させた。ソバーシュはもちろん、列の先頭に立つ。
ほかの艦の乗員たちもおなじ隊列を整えていた。中央を大きく空けて、乗員たちの列は六艦ずつ向かい合わせになっている。
会場の重力は〇.五標準重力に抑えられていた。長時間立っていても足がむくまないようにという、立食形式の饗宴では一般的な配慮だ。
号笛が鳴り響く。
ソバーシュは腰の指揮杖を引き抜き、顔の前で捧げ持った。指揮官を務める者にだけ許された礼式だ。指揮杖を持っていない大多数の軍士たちはふつうの敬礼をする。
その前をアトスリュア司令官が幕僚たちを引き連れ、歩いていく。
扉からいちばん離れた位置にある壇にアトスリュアはあがり、振り向いた。同時に、軍士たちは敬礼を解く。
「待たせたわね」アトスリュアはいった。「総員、杯をとれ!」
杯を載せた自走卓が各艦の隊列の左右に一台ずつ登場し、列の後方から先頭にむけて移
動しはじめた。
ようやく自分の傍らにやってきた自走卓をソバーシュは一瞥した。飲み物はいろいろ用意されている。各人に好みというものがあるし、グリンシアのように酒を口にしない者もいる。ソバーシュの選んだのは、発泡米酒だ。この酒をアーヴは祝い事に欠かせないと信じており、彼も例外ではなかった。酒を満たしている容器の素材は、杯にされるために遺伝子改造された竹で、手に持つと吸いつくような感触がある。
「あなたたちはまだ第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の正式な一員じゃないわ」飲み物が行き渡ったのを確認して、壇上のアトスリュア千翔長は切りだした。第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の正式な成員はいまのところ、ここに並ぶ司令部《グラーガフ》要員しかいない。しかし、あなたたちの艦たちによって第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》が編成されるのは確実よ。つまり、あなたがたはあたしたちに迎え入れられることになる。第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》には誇るべきものがなにもない。まだ生まれてもいないことを考えると、無理もないけれども。だから、わが戦隊に受け入れられることを誇りに思いなさい、と恩を着せるわけには残念ながらいかないわ。あたしたちの誇りの基はいまから築かなければならない、わが戦隊は一連の演習ののち、おそらく解体される。そして、各艦は新設戦隊に分散配置されるでしょう。あなたたちは、蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》群の礎となることを期待されているのよ。そのとき、あなたたちは部下に、同僚に、そして上官にさえ、こういうことができる、われらが蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》にようこそ、と。願わくば、蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》に迎え入れることが、栄光を分かち与えることと同義とならんことを」彼女は手に持った竹杯を掲げた。「そして、これはほとんど叶わぬ夢だけれども、帝国《フリューバル》に勝利がもたらされたとき、いまここにいる全員がふたたび集い、数多の栄光に満ちた戦いの日々を語り合う日の来たらんことを。乾杯!」
全員が唱和し、杯を飲み干す。
「それじゃあ、みんな、自由に楽しんでちょうだい。禁止事項はたったふたつ、敬礼することとお料理で遊ぶことよ。食べ物で遊ぶことだけは我慢できない。下品だわ。それ以外のことなら多少の逸脱は許す。お皿を舐めてもいいし、猫にお手をしつけてもかまわない」アトスリュアが指を鳴らすと同時に、さらに多くの自走卓が会場に入ってきた。今度は飲み物だけではなく、料理も載せている。
隊列が乱れ、軍士たちが料理に群がった。
それを横目で眺めながら、ソバーシュは新しい杯をとる。饗宴は長くつづくし、料理が絶えることはない。
急いで確保すべきは料理ではなく話相手だ。
「はじめまして」ソパーシュは隣にいた女性艦長に杯を掲げてみせた。「〈フリーコヴ〉のソバーシュ副百翔長《ロイボモワス》です」
「〈リュームコヴ〉艦長、セルボス副百翔長《ロイボモワス》です」彼女は完壁な儀礼的微笑を浮かべた。
「あなたの艦はいかがでしたか?」ソバーシュは無難な話題を選んだ。
「素晴らしく順調な航行でした。排水設備に不具合があったぐらい」
「それは、台無しですね」
「ほんとうに。〈フリーコヴ〉ではその手の問題はなかったんですか?」
「排水設備は大丈夫でしたよ。、まあ、細かな改善点はいくつか見つけましたが、改善されなかったとしても、不満はありませんよ」
「いちばん改善すべきは、通常宇宙での操舵を砲術士《トラーキア》がすることです..そうお思いになりません?」
「突撃艦のように艦長がすべきだと思われるのですか?」
「ええ」セルボスはうなずいた。「戦闘に入ったとき、艦長が命令し、砲術士《トラーキア》が船を動かすのでは迂遠ではありませんか。艦長がちょくせつ船を操ったほうが効率的です」
「しかし、繰船能力と艦長としての指揮能力はまったく関係がありませんよ。両方を兼ね備えるのは難しいのではありませんか?」
「兼ね備えるべきなのです。げんに規模は小さいとはいえ、突撃艦や護衛艦の艦長はそれを要求されるのですから。ソパーシュ艦長も突撃艦の艦長だった時代がおありでしょう?」
「じつはないのですよ」ソバーシュは告白した。「突撃艦の先任翔士からいきなり襲撃艦《ソーバイ》の艦長に抜擢されたものですから」
「それは知りませんでした」セルポスは目を瞬かせた。
彼女が主張するように艦長が通常宇宙での操舵も担当することになっていたら、自分が襲撃艦《ソーバイ》の艦長になることはありえなかっただろうな、とソバーシュは思った。
「わたしも突撃艦艦長の経験がありませんよ」男性の翔士が話に加わった。「〈ババートコ
ヴ〉のデュールです。前職は巡察艦《レスィー》の副長でした。お見知りおきを」
「それは意外。突撃艦経験者が多いのかと思っていました」セルポスは端末腕環《クリューノ》をのぞきこみ、艦長たちの経歴を調べはじめた。「わたしの思いこみだったようですね。先任艦長《アルム・サレール》は突撃隊司令と巡察艦《レスィー》からの転任おひとりずつ。ほかは突撃艦艦長が五人、巡察艦《レスィー》が四人。突撃艦と巡察艦《レスィー》とほぼ半々です」
「わたしはどちらにも当てはまりませんね」ソバーシュはいいながら、新しい杯に手を伸ばした。「突撃艦出身には違いありませんが、むしろ副長出身という範疇のほうに入れてもらうべきかもしれませんね」
「いろいろな経歴の翔士を集めたのかな」ひとりこちるようにセルボスが咳く。
「いや、それにしては経歴が偏りすぎている。護衛艦艦長や戦列艦《アレーク》の副長から転任してきた人間がいてもいいはずです」とデュール。「思うに、襲撃艦《ソーバイ》は重突撃艦か軽巡察艦《レスィー》かという論争に関わりあるようですな」
「なるほど」セルボスはうなずいた。
そこから話題は、襲撃艦《ソーバイ》を軽巡察艦《レスィー》として運用すべきか、重突撃艦として扱うべきかということに移っていった。セルポスは重突撃艦だと主張し、デュールは軽巡察艦《レスィー》だという立場に立った。ふたりとも自分の前職に義理立てしているかのようだった。前職に義理立てする必要のないソバーシュは中立派だ。
そこに新たな翔士が加わり、襲撃艦《ソーバイ》は襲撃艦《ソーバイ》であるという意見も出て、議論はますます白熱した。
軽い空腹を覚えて、ソバーシュは議論の輪を離れ、自走卓に近づいた。
位階は関係ないといっても、やはり翔士は翔士で、従士は従士で集まる傾向がある。地上世界出身者はたとえ翔士となって士族としての身分をえていても、やはり従士たちと話しこんでいるようだ.
ふとひとりの翔士が視界に入った。エクリュアだ。他艦の翔士なのだろう、名前を知らない男性の列翼翔士が熱心に話しかけている。
ひょっとして、しつこくされて困惑しているのではないかなーソバーシュは考えた。
エクリュアの態度からは迷惑がっている風情はすこしも感じられなかったが、かといって楽しんでいるふうでもない。いつもの無表情で、飲み物を畷っているだけだ。
ソバーシュはふたりに歩み寄った。
「エクリュア前衛翔士」と声をかける。「楽しんでいるかね」
「ええ」彼女はうなずいた。「それなりに」
父親気分で相手の列翼翔士を観察する。位階からしてまだ若いのだろう。顔つきも幼く、成熟期に入っていくらも経っていないように見玄た。
これは余計なお節介だったかなソバーシュは考えを改めたエクリュアの性格から推して、ちょっとでも迷惑と感じたのなら、相手が帝国《フリューバル》艦隊司令長官殿下であろうとも、さっさとこの場を離れるはずだ。まして、ここにいるのは位階が下の列翼翔士である。喋りつづける男の前にずっと立っているということは、真実、それなりに楽しんでいるから
なのだろう。
「あの、艦長……」列翼翔士は緊張した面もちで、右手を挙げたり下げたりしている。
「司令官の注意をきいただろう、敬礼は禁止だよ」恋敵と勘違いしているのではないかな、とソバーシュは思った。それにしても、上官を口説くならもうちょっと図太さを身につけるべきではないか、と思いつつ、列翼翔士に微笑みかける。「おじゃました。ふたりとも楽しくやっておくれ」
その場を離れて、皿と箸をとった。
「艦長」グリンシアの声がした。「喧嘩です」
なるほど、騒ぎが始まっていた。それも団体戦だ。いっぽうは〈フリーコヴ〉の乗員たちである。
「相手はどこなんだい?」
「〈リュームコヴ〉です」
「そうか」ソバーシュはうなずき、「わが艦の乗員が勝てばいいね」
「制止する権限をいただけますか」
「権阪を与えるもなにも、止めたければ止めてもいいよ。喧嘩仲裁がきみの趣味とは知らなかった」ソバーシュはひそかに喜んでいた。とうとうグリンシアの悪癖を見つけた、と思ったからである。
「趣味の問題ではありません」
「じゃあ、なんの問題かね」軽い失望とともにソパーシュは問うた。
「そうすべきだからです」焦れたようにグリンシアがいう。
「なぜ?会場はじゅうぶんに広いよ。参加するつもりがないなら離れていれば危険はないだろう」
「そういう理由ではありません」
「じゃあ、なぜだい」
「部下たちが怪我をするかもしれません」
「武装はしていないのだろう。素手なら大怪我をすることもないだろうし、出航までには治療できるよ」
「そうですが、しかし……」
「しかし〜」ソバーシュは話の続きを促した。
「遺恨が残るかもしれません」
「止めたところで残るよ。原因はなにか知っている?」
「どうも、我が艦の乗員のだれかが〈リュームコヴ〉の乗員に声をかけたのがそもそもの原因らしいです」
「なぜそれで喧嘩になるんだい」ソバーシュは首を捻る。
「よくわかりませんが、声をかけられた乗員はむこうの艦で人気のある女性だったからのようです」
「こっちの乗員は男性かい」
「ええ。複数の」
「なるほど。なんとなくわかった」ソバーシュは喧嘩のようすをしばらく眺めていた。
「低重力下での格闘がなっていないな。無様だ」
「それは、空挺科従士のようにはいきません」
「軍匠科にしてもひどい。あとで訓練だな。さいわい時間はある」
めったにないことではあるが、艦艇の乗員も陸戦隊として空挺科軍士の真似事をすることがある。そのため、空挺科に限らず星界軍《ラブール》の軍士には最低限の白兵戦能力を身につけておくことが期待されているのだった。
殴り合いに加わる人数が増え、喧嘩は次第に広がりつつあった。取っ組み合う人間たちを自走卓が取り巻く。被害を避けようとしているのだ。
乗員のひとりが自走卓を呼んだ。人間に奉仕する機械の哀しさ、呼ばれれば応じないわけにはいかない。自走卓に載っている料理にいくつもの手が伸びる。そして、料理が空中を飛び交いはじめた。
ずいぶん離れた場所にいるソバーシュのところにまで皿が飛んできた。なにしろ低重力だからよく飛ぶ。もちろん、空識覚のあるアーヴはそんなものにぶつかったりするようなことはなかった。だが、それ以上のことをする余裕はない。なにしろ食べている最中なのだ。ソバーシコの目の前で美しく盛りつけられた炙り肉に、皿が突っ込んだ。
「止めにいかないのかい?」まだ横にいるグリンシアに訊いた。
「いえ、行きます。艦長がなんとおっしゃろうと、部下にこんなことで傷を負わせるわけにはいきません」
「つきあってもいいかな?」
「つきあうってなににですか?」
「仲裁にだよ。面白そうじゃないか」
ソバーシュのことばをどう受け取ったかわからないが、グリンシアは無言できびすを返し、乱闘の渦に歩きだした。しかし、けっきょく彼女が活躍する余地はなかった。
「やめなさいっ!」アトスリュアの叱声がとんだ。とたんに取っ組み合いをしていた従士たちが動きをとめる。「料理で遊ぶのは禁止だといったはずよ」
「遊んでおりません!」瞠巨すべき勇気を持った従士が反論した、「われわれは真剣です」
「武器にしたとでもいうの?」アトスリュアはその従士を睨んだ。「武器を使用しての私闘は軍規でどう処遇されるのかわかっているんでしょうね?その料理も星界軍《ラブール》から支給されているものにはちがいないのよ」
さすがの勇士もそれには反発できないようだった。武器の私的使用を犯したと判決がくだれば、数年間は惑星改造したばかりの地上世界で泥と格闘する羽目になる。
「武器じゃないのねPそれはよかった。この会場に警衛従士を招待しないといけないとしたら、がっかりだわ。では、話を戻して、料理を玩具にすることは軍規違反ではないけれど、気をつけてもらうわよ.個人的な趣味を押しつけて悪いけれど、あたしにはその権限があるんですからね。疑うなら試してみるがいいわ。これ以上、料理を玩具にするなら、抗命罪で拘束する。そこ、もうひとつの禁令を破るつもり?」敬礼しかけたまま固まっている数人を目敏く見つけて、彼女はにらみつけた。「わかったわね?それじゃあ、つづけて」
だれもつづける者はなかった。彼らもやめるきっかけを探していたのかもしれない。
「つづけないの?まあ、べつに命令してまで続行させようとは思わない。たいして面白くもなかったからね。あなたたちがまだ第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の人間でなくてよかったわ。わが戦隊の最初の乱闘がこんなふにゃふにゃしたものだと、隊史に記すわけにはいかないから。つぎにやるときは、さっきあたしがいったことを忘れないように」
一転して穏やかな雰囲気が流れ、弛緩した空気が会場を覆う。
それでも部下たちのほうへ大股で歩いていくグリンシアの後ろ姿をソバーシュは眺めた。
その背中からは怒りが陽炎のように立ちのぼっているかのよう。その怒りがむけられているのは、部下たちが愚かな喧嘩を始めたことか、それとも司令官が自分の役割を奪ったことか。いずれにしろ、部下たちのなかに入った彼女は驚くべき自制心を発揮して冷静に、負傷者の確認を始めた。
あまり本格的な戦いでなかったことがさいわいして、治療を受けなければならないほどの怪我人はどの艦からも出ていないようだ。
ふと気づくと、エクリュアがひとりで佇んでいた。
「さっきの彼はどうしたんだい?」ソバーシュは訊いた。
エクリュアは首を傾げた。だれのことをいっているのか、分からないようすだ。
「さっきいっしょに話していた列翼翔士だよ」
「ああ」ようやくわかったらしく、「あたしは話していない。彼が話していた」
「で、どうしたんだい?」詮索するのが悪趣味なことだというのはわかっていたが、エクリュアが彼をどう扱ったかを知りたい気持ちは抑えがたい。
「むこうに行った」
かわいそうに−ソバーシュは列翼翔士に同情した。
そのとき、ソバーシュは空識覚にだれかが近づいてくるのを感じた。
ふりむくと、硝子杯を手にしたアトスリュアが来るところだった。
「ちょうどよかったわ。あなたたちと話をしたかったのよ」彼女はいった。
「われわれというと、もと〈バースロイル〉乗員ということですか」
「ええ」アトスリュアはうなずき、「あなたはたしか、エクリュア前衛翔士だったわね」
「はい」
「飲み物はいかが?」アトスリュアが指を鳴らすと、杯を載せた自走卓が寄ってきた。
ソバーシュは蒸留林檎酒の硝子杯をとり、エクリュアがどぎつい色の混合酒を選ぶのを横目で見ながら、「つまり、われわれが司令官の部下になったのは偶然ではない、ということについてのお話でしょうか」
「まずはそれね。同時に、わたしたちが長いつきあいになりそうだということを、あなたは知ることになる」
「わたしなりに考えてみたのですが……」
「たぶん、それが正解よ。でも、突飛な考えにたどりついたことを期待するわ。そのほうがのちのち話の種になるから」
「ご期待には添えそうもありません」ソパーシュは微苦笑した。
「それは残念。とにかくきかせて」
「王女殿下と関わりがあるのではありませんか」
「そこまでは正解よ。ここで外しているようじゃ、いくらなんでもがっかりだわ。長いつきあいになるのをご遠慮したい気分になる。それで、どう関わりがあるとお思いになる?」
「いま王女殿下は休暇をとっていらっしゃいます。しかし、いつかは星界軍《ラブール》に帰ってこられるでしょう。なにしろアブリアルなのですから。げんに戦場があるというのに、あの一族に生まれたかたが長く離れてられるわけがありません。そのとき、帰ってくる場所をつくってさしあげるのがわれわれの役目では?」
「そういういいかたもできるわね」アトスリュアは軽くうなずき、「あたしならそんな表
現はしないけれど」
「では、どうおっしゃいます?」
「あたしたちは選ばれてしまったのよ」
「依帖贔屓?」エクリュアがぽつりといった。
「ずいぶん直載的な表現をするわね」アトスリュアは感心したように、「そのとおりよ」
「われわれは依枯贔屓されているのですか?」
「ちがうわ。王女殿下よ」
「なるほど」ソバーシュにもわかりかけてきた。
皇族は玉座への競争を強いられる。それが皇族に生まれた者の義務だった。
帝国《フリューバル》が皇帝になによりまして求めるのは軍事指導者としての資質だ。したがって玉座への道で若きアブリアルたちが競うのは星界軍《ラブール》での地位である。同世代のうちもっとも早く帝国《フリューバル》元帥の位階をえたものが次期皇帝となるのだ。この出世競争の過程で、指揮能力を磨くと同時に、優秀な将帥を見いだすことが皇族に求められている。帝国《フリューバル》は巨大になりすぎ、ひとりの優秀な提督には統率しえない。皇帝は多くの優秀な提督たちを使いこなさなければならないのだ。
どうやら、その優秀な提督候補に自分が選ばれたらしい。
「光栄ですね」ソバーシュはいった。
「いい人ね、あなた」感心したようにアトスリュアがいう。
「司令官はそうお思いにならないのですか?」
「まあ、すこしは」アトスリュアは認め、エクリュアに訊いた。「あなたはどう思う?」
エクリュアは会場を見まわし、「アブリアル艦長だけが依情贔屓されているの?」とことば少なに尋ねた。
「いいところに気づいたわね」ちょっと驚いたように司令官はいう。「いま、わが戦隊に皇族はおひとりもいないけれども、艦長級の人間はみないずれかの皇族がたと関わりのあった人間よ」
「つまり王女殿下だけの居場所ではない、ということですか」とソバーシュ。
「そう。まだ蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》自体が使いものになるかどうかわからないということね。もし星界軍《ラブール》の主力を担うようなら、皇族がたが続々と配置されてくる。もちろん、そのときは蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》が一個だけということはありえないわ。いまのところ、あたしたちが襲撃艦《ソーバイ》というものを試験しているというわけ。そしてその試験が終わったら……」アトスリュアは硝子杯を呷った。「あたしたちが試験の道具にされるのよ。あたしたちをうまく使いこなせるかどうかを試験するっていうわけ」
「なるほど。たしかにあまり気持ちのいいものではありませんね」
「もうひとつの憂響。まあ、個人的なものだけれども。位階から考えて、殿下がいきなり戦隊司令官になることはないわ。たぶん、新造艦の艦長っていうところでしょうね。つまり……」
「つまり?」
「あたしが上司になるのよ、殿下の」
「一度、経験なさったのですから、お慣れになったでしょう」
「皇帝候補の上司というのは疲れるものなのよ。一度やればじゅうぶん。部下のほうがましだわ」アトスリュアは髪をかきあげた。「もっとも、すぐ追い抜かれるでしょうけれどもね。追い抜かれないようじゃ、どのみちパリューニュ子爵《ペール・パリュン》殿下は皇帝にはなれない」
「昇進の速さは皇族でも士族でも変わらないと思いますが」
「昇進基準は変わらないわ。すくなくとも、あたしの知るかぎりはね。でも、アブリアル一族というのは軍士としてとびっきり優秀なのよ」
「しかし、司令官も無能とは思えません」正直にソバーシュはいった。第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》がこれからの星界軍《ラブール》にとってたいせつな存在であることはまちがいない。いくら王女との関わりがあるにしろ、無能な指揮官に預けるには重要すぎる。
「ありがとう」追従でないことを感じとったのか、アトスリュアは微笑んだ。「でもね、あたしていどに有能なだけじゃ、皇帝としては力不足なのよ。とくにいまの帝国《フリューバル》は戦争しているんですからね」
「王女殿下が登極されるにしても、つぎのつぎの皇帝ですよ」
「だからなに?それまでに戦争が終わっているとでも?」
「さほど突飛な予想とは思いませんが」
「そうね。可能性としてはあるわ。でも、そうでない可能性もとっても高い。いやになるほどね。ほんとうにいやになるわ、生きているうちに帝都《アローシュ》城館での穏やかな暮らしに戻ることができるかしら」アトスリュアは嘆いた。
「平和な時代を知っているということが大いなる特権になるときが来るかもしれませんね」
「わたしはあまり知らない」エクリュアが口を挟んでふたりを驚かせた。
たしかにエクリュアには、大人になってみると戦争が始まっていたと感じられるだろう。
いまのところ、彼女は平和のなかで過ごした時期のほうが長いが、やがて人生の大半を動乱のなかで過ごしたと感じる日がやってくる。むろん、それまで生きていればだが。
「そうね、エクリュア前衛翔士」アトスリュアは微笑んだまま、「平和は退屈だわ。けっきょく、あたしたちアーヴは血とプラズマに憧れる、度しがたく異常な戦闘種族でもあるのよ。いまから思うと、戦いが始まるまでまるで半身が眠っているかのようだった。ようやく全身が目ざめて満ち足りた気分。でも、退屈には退屈なりの楽しみかたがある。何十年後か、ひょっとしたら一〇〇年後になるかもしれないけれども、戦死さえしなければふたりともまだ死ぬ齢ではないわ。戦争が終わったら、うちに遊びに来なさい。退屈の楽しみかたを教えてあげるわ」
「ええ」エクリュアは頬を赤らめてうつむいた。
「これから、平和を知らない子どもたちがいっぱいやってくるわね」アトスリュアは饗宴会場を眺めつついった。「生き残ったら、盛大な饗宴をやるわ。子孫に一万年かかっても返しきれないほどの借金を残してもいい。そして、平和を知らない子どもたちに退屈に耽溺する術を教えてあげるの」
「それは、やりがいのある仕事でしょうね」ソバーシュはいった。
「そうね。でも、大事なことよ。帝国《フリューバル》が勝利を抱擁したら、たぶん、もう人類に戦争はない」
「〈ハニア連邦〉」エクリュアが思い出させた。
「あそこが戦争終結まで中立を守る可能性はほとんど無に等しいわ」アトスリュアは主張した。「情勢によって、〈三ヵ国連合〉が〈四ヵ国連合〉になるか、それとも戦わずしてあたしたちの軍門に降るかのどっちかよ。かりに中立のままでいたとして、〈三ヵ国連合〉を併呑した帝国《フリューバル》に対立するとは思えない,とにかく、退屈な時代がやってくるわ。宇宙が終わるまでとはいわないけれども、まあ、一億年ぐらいの退屈なら楽しんで乗り切らないとね」
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4 |デルクトゥー再訪《パトダトス・デルクトゥル》
ひと言でいえば、ヴォーラーシュ伯爵城館の内部は迷路だった。宇宙港から出た直後こそ、廊下は広かったがもっとも、これだけの規模の城館の主要通路としてはかなり狭い−、すぐに移動壇が一台進むのがやっとの幅になった。移動壇がすれちがうのにそなえてか、ところどころに窪みのようなものがある。もっとも、廊下にはすれちがう移動壇どころか歩行者の姿すらなかった。まるで廃櫨のようにがらんとしている。
ジントたちの乗った移動壇が進む廊下からはさらに無数の廊下が枝分かれしていた。信じがたいことに、それらはさらに狭かった。なかにはほんとうに通路なのか疑わしいものもある。単に設計にしくじって空いてしまった隙間だという説明のほうがよほど受け入れやすい。
移動壇の道筋もまっすぐではない。移動壇はしょっちゅう曲がった、その角度も直角とはかぎらず、なかなかいわく言い難い角度を持つ曲がり角もあった。
さらに坂をのぼったりくだったり、遙か下方に通路らしきものを見おろす橋を渡ったり、広場に出たりということを繰り返した。その広場にしてもなにか目的をもって設けられたというよりは、単に埋めるのが画倒だから空間のまま放置されているといった趣がある。だれかがそれを不合理だと思ったのか、ある薄暗い広場はなにかの残骸が並べられていた。理髪装置でも手術台でもないとすれば、拷問台としか思えないものの残骸だ。
そのうち、塀にあいた穴をくぐったり、だれかの庭先を通るはめになるんじゃないかな、とジントがわくわくしていると、花壇のなかの小道をほんとうに通ることになった。塀にあいた穴はさすがになかったが、天井が極端に低くなっていて、頭をさげなくてはならないようなところならあった。
物珍しい思いで辺りを見まわしているうち、〈人類統合体〉の公用語であるリクパルの表示がところどころに残されているのに、ジントは気づいた。
「あの」彼は思いきってデリュズに尋ねる。「ここは敵軍に利用されていたのですか?」
「はい」デリュズは前をむいたままうなずいた。「接収されて、兵舎として利用されていたようです」
「それでは、敵軍がこんなふうに改造してしまったんですか?」
「戦争前に訪れたことはないので、わたしにはわかりかねます」彼女は慇懃にこたえた。
「しかし、たぶんもとからこんなふうだったと思いますよ。こんなふうというのが、雑然としているという意味でのお尋ねでしたら。迷子になるのに打ってつけな構造こそわが一
族の好みなのです。広場恐怖症の気があるのかもしれませんね」
「エルカーシュ侯爵家の帝都《アローシュ》城館におじゃましたことがある」とラフィール。「子どもの
頃の話だからあまり臆えてないけど、たしかに迷路みたいだった」
「そのとおりです。〈三力国連合〉ごときにこの設計ができるはずがありません」デリュズは誇らしげにいった。
その声の調子を耳にして、彼女の年齢に関するジントの確信が少しぐらつく。
「猫にとっては夢の国ですね」ジントはいった。
ディアーホを連れてこなくてよかったな、とジントは思った。風呂場にむかっているのでさえなければ、彼は抱かれたままいくらでもおとなしくしている。しかし、この風景を目にすればとても我慢できないだろう。いくら首輪に発信器が付いているといっても、この城館で逃げた猫を捕獲するのは難しいにちがいない。
べつに城館の内部のことを予想して猫を連れてこなかったわけではない。ただ威厳を損なう可能性を考慮しただけだ。ディアーホは籠のなかにいれて家具と一緒にしてある。すぐ居室に運んでもらう手筈になっていた。こうしているあいだにも〈ボークビルシュ〉か
ら運び出されているはずだった。
しばらくいくうち、天井が透明になった。見あげると、漆黒の背景に無数の星々が散らばっていた。瞬かない星には慣れたつもりだったが、ジントにはやはり物足りなく思える。
ここはおそらく城館の最上階、つまり人工重力発生面からもっとも離れた一画なのだろう。
「ここをお使いください」ある部屋にはいると、デリュズは移動壇を停めた。
天井の高さは一〇〇〇ダージュほど。広さ一六平方ウェスダージュあまりの空間だ。中央には、小さいがよく手入れの行き届いた庭園がある。庭園の隣には瓢箪型の池があった。水面に白い湯気がたゆたっているところをみると、浴場なのだろう。庭園から見て浴場と反対側には絨毯が敷かれ、一組の長椅予と卓子がある。そのあたりを居間と考えるぺきだろう。その他、あちこちにぽつんぽつんと家具が置かれている。寝台は天蓋付きの豪華なものがふたつ、かなり距離を置いて据えられていた。
「開放的な部屋ですね」ジントは感想を口にしながら、横目でラフィールの様子をうかがった。
王女は無表情で、とくにこの部屋を気に入っているようではなかったが、不満があるとも思えなかった。
あらためて部屋を見まわす。
この城館にはふさわしくない。エミュール一族が真実、広場恐怖症なのならば、とても耐えられないのではないだろうか。その気のないジントにとっても、いささか落ちつきがたい。
「この状態のほうが、配置をよくわかっていただけると思ったものですから」とデリュズ。
「お客さまのほとんどはこのようにお使いになるのをお好みのようです」
デリュズが端末腕環《クリューノ》で操作すると、床から壁が迫りあがってきた。壁が五〇〇ダージュほどあがって停まったときにはエミュール一族の好みにぴったりの迷路ができあがっていた。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたします」デリュズはじっとこちらを見つめた。
「ありがとうございました」ジントは頭をさげた。
「なにをしてるんだ?」小声でいいつつ、ラフィールがジントの長衣の袖をひっぱった。
「早くおりるがよい」
気づいて、ジントは移動壇からおりた。
「お荷物はすぐまいります」デリュズはつづけた。「ほかになにかご質問などはこぎいましょうか?」
「だいじょうぶです」ジントはいった。
どうやらエミュール一族に共通する厄介な性格がつくりあげてしまったらしい巨大な立体迷路の案内図をはじめ、奉仕を依頼するための各種の呼び出し番号、おもな職員の名簿など、ここで生活するのに必要な情報は城館に入ってすぐ端末腕環《クリューノ》がのみこんだはずだ。
もちろん、この部屋の見取り図もすぐ端末腕環《クリューノ》から呼び出すことができるし、仕切りを上下させる方法も参照できる。
「それでは」デリュズは移動壇を発進させた。
仕切りがあがったおかげで、長椅子と卓子の置かれているあたりはより居間らしく見えた。三方が壁で囲まれ、残った一方は庭園にむかって開いている。そのむこうの浴場はむろん壁に囲まれていて、ここからは内部のようすはのぞけない。
「殺風景だな、ここは」ラフィールがいった。
「はいはい」ジントは端末腕環《クリューノ》を思考結晶網に接続し、鈍色の壁に適当な環境映像を映じさせた。鳥が雲間を翔ぶ映像だ。それにきこえるかきこえないかの音量で心静まる旋律を流す。「これでいい?」
「うん。まあまあだ」
「お誉めのことばをありがと。さてと、失礼してぼくは仕事にとりかからせてもらうよ」
「なにをするんだ?」
「王女殿下のご用命を果たすことに比べると、たいしたことじゃない」
端宋腕環で地上世界と連絡がとれるかどうかを、ジントは試してみた。
幸いなことに、城館の思考結晶網は惑星デルクトゥーのそれと一体化していた。これは、かつて地上世界デルクトゥーと領主のあいだに良好な関係が存在したことを示すものだった。領主と領民政府《セメイ・ソス》とのあいだに猜疑心が存在している、すくなからぬ邦国《アイス》では領主城館と地上世界が思考結晶網を独立して持っているのだ。
いよいよ本番だ。
かつてジントがデルクトゥーで移民のふりをしていた頃もっとも親しくしてくれた友人クー・ドゥリンを探し出す。この名前はデルクトゥーではありふれているらしく、ざっと三万人のクー・ドゥリンが一覧にあがった。
「そなた、なにを飲む?」とラフィール。
「ああ、冷たい珈誹を」ジントは生返事をした。
ヴォーラーシュの領民は全員、出生番号を持っている。これさえわかれば、どこにいようと連絡が可能だ。だが、あいにくジントは友人の出生番号を知らなかった。しかたなく地道な方法を採った。個人情報を記憶しているかぎり入力して絞りこんでいくのだ。年齢、出生地、ジントがデルクトゥーを離れ↓字に時点で彼が住んでいた場所……。ようやくひとりになった。念のため、写真を請求する。まぎれもなく、ジントがミンチウを通じて知りあったクー・ドゥリンだ。
友人を捜しているあいだに、ラフィールが注文した飲み物を自走卓がとどけてきていた。
「ちょっとアーヴ語じゃないことばを話すけど、驚かないでよ」珈琲をひと口含んで、ジントは警告した。
「うん」ラフィールはうなずいた。
あとは簡単だった。呼び出すと、音声のみだったが、即座につながった。
「クー・ドゥリンかい?」ジントは恐るおそるたしかめた。
「なんだか懐かしい感じの声だな」クー・ドゥリンがいった。「というより、その設りが懐かしい。余所者は何人か知っているが、おれたちのことばをそんなふうに野暮ったく発音する田舎者はひとりしか知らないな。まるで舌を泥で固めたみたいだぜ。それも生乾きの泥で。久しぶりだな、リン・ジント」
「久しぶり、クー・ドゥリン。ついでにデルクトゥー語も久しぶりなんだ」自分が友人の記憶にまだ残っていることをたしかめて、ジントはほっとした。
「なにをいってやがる。この前に会ったときも、おまえはそんなしゃべりかたをしていたよ。泥んなかに混じっていた枯れ草をもぐもぐやってるみたいな感じでよ」この前というのは、ジントがデ.ルクトゥーを去った日のことである。「それで、伯爵公子閣下におかれましては、貴族を辞める決心がついたのか?」
「まだだ。じつをいうと、伯爵になったんだよ」
「そりゃ、おめでとう……いや、そうともいいきれないか。親父さんになにかあったんじゃないだろうな?」
「まあ、あったんだけど、そのことはいいんだ」ジントは軽く流し、「そっちこそ、事業は順調かい?」
「残念ながら、こっちもまだだ。いや、おまえが伯爵に出世したのなら、こっちはまだだ、というべきかな。いまだに、ぴんぴんしている叔父貴に顎で使われているよ」
「そりゃ残念だな。いや、叔父さんのことじゃなく」ジントは唇を舐めた。切り出すとき
だ。「それじゃあ、こっちの仕事につきあわないか?」
「どういうことだ?」と聞き返す口調はいささか白々しい。
「わかっているくせに」ジントは苦笑した。
「わかっているともさ。だけど、おまえがおれを雇おうとしているのが信じられなかったんだよ」
「そんなに突飛かな」
「そうだよ。哀れな貴族ちゃんよ、お付きの家臣はどうしたんだ?おっと、おれを大臣にしてくれるっていうんなら考えないこともないな」
「きみが望むなら、大臣に任命してもいいよ」大臣などというたいそうな役職を置くつもりはなかったが、ドゥリンの出方しだいでは嫌がらせに創設してもいい。
「待て待て」今度はほんものの狼狽がドゥリンの声に表われた。「そんなことをして、もとからいる家臣は騒がないのかよ。貴族さまにはそれぐらいのわがままは屍でもないってか?おまえはそれでいいかもしれないが、おれはごめんだぜ。知ってるか、右も左もわからない仕事でいきなり頭にされちまうと、気苦労のほうが多いんだ」
「なにかその手の経験でも?」
「叔父貴のもとで働いてるといっただろうが。おれの叔父貴は親戚をとっても大切に扱うんだよ。ただちょっとやりかたがまずいんだ。地位をくれるのはいいが、あらかじめ知っておくべきことをろくすっぽ教えないし、それで結果を出さなきゃつむじを曲げる」
「心配ないよ。だって……」
「そうだな、大臣じゃなくて、おまえの後宮の管理なら引き受けてやってもいいぜ。寵姫が何人いるか知らないが、それならばっちり任せてくれ。おれに似た若さまやお姫さまが生まれるかもしれないが、ほんの偶然に決まっているから、気にするなよな」
「相変わらず想像力豊かだな」
「やっぱり、ダメか?」
「ダメもなにも、寵姫なんてひとりもいないよ」
「ひとりも?ほんと?」ドゥリンは心底、驚いたようだった。「おまえ、なんのために帝国《フリューバル》貴族になったんだよ」
「寵姫をたくさん囲うためじゃないのはたしかだと思うよ」
「まったくおまえの価値観には驚かされるぜ」
「そうだろうとも.、ついでにいうと、後宮なんて持っている帯国貴族はめったにいないんだ。ぼくの知っているかぎりひとりだけいたけれども、もう亡くなってしまった。跡を継いだのは女性だ」
「それじゃ、断る。後宮もない貴族のいうことなんかきけるか」
「まあ、そういわずに」ドゥリンが本気でないことはわかったので引き留めた。ちょっと考えてひとこと付け加える。「そのうち立派な後宮をつくるつもりだから」
ジントは無意識のうちにラフィールの表情をうかがってしまった。
桃果汁を喫していた王女はきょとんとした顔で見返したが、すぐ意味ありげに微笑み、端末腕環《クリューノ》の機械遥訳を起動した。
「まあ、話ぐらいはきいてやってもいいぜ」とクー・ドゥリン。「でも、ちょくせつ顔をあわせてだ。なんたって一生の問題だからな」
「もちろん、ぼくも最初からそのつもりだよ。いま、ヴォーラーシュ伯爵城館にいるんだ。こっちに来られないかな?もちろん、便はこちらで手配する」
「そいつはうまくねえな。お袋の遺言で宇宙船には乗っちゃいけないことになっている」
「えっ、お母さん、亡くなったのかい?」ドゥリンの母親とは面識がある。ミンチウの練習のあとにドゥリンの家に寄ることがときどきあったのだが、そんなときはいつも彼女の手料理をご馳走になったものだ。
「いや、元気だよ」
「なんだ、驚かすなよ」
「なぜ驚くんだ?お袋は元気だよ。父方も母方もうちの家系は健康が取り柄なんだ。だからこそ遺言は守らなくっちゃな」
「ああ、ごめん、きみのいっていることがよくわからないんだけど……」
「どこがだ?生きている人間の遺言を守るってところか?説明の必要もないと思うがな。死んだ人間の遺言なんかいちいち守っていられるか」
「まあ、それはともかく」不毛な領域に踏みこみかけていることを自覚して、ジントは話題を戻した。「会いたいんだ。仕事の話を抜きにしてもさ」
「同感だ。だが、そっちに行くのは勘弁してくれ」
「わかったよ。ぼくがそっちに行く」
「じゃあ、せめてあいだをとって宇宙港でどうだ?」
「気をつかわなくていいよ。宇宙港まで行くのと、きみの家まで行くのとじゃたいして手間は変わらない」
「そうか。悪いな。でも、デルクトゥー人らしい服装で来てくれよ。隣の婆さん、心臓が悪いらしいんだ。心臓なんかさっさととりかえちまえばいいんだって、口を酸っばくしていってやっているんだが、ずいぶんと病院嫌いでね。だから、びっくりさせちゃ危ない」
「悪党のきみがそんなことを気にするのかい?」
「デルクトゥーの常識を忘れてしまったのか、おまえは?アーヴはどうか知らないが、ここじゃ葬式が出ると近所総出で手伝うんだぞ。ただでさえ忙しいのに、地域奉仕なんかさせられてたまるか」
「ああ、そういうことなら納得できる」
「おまえとは分かり合えると信じていたぜ」
「じゃあ、詳しい日時は追って連絡するよ」
「くれぐれもお付きをぞろぞろ連れて来るんじゃないそ。やっぱりまだぴんぴんしている祖母さんの遺言口で、お袋は客に飯を喰わせなきゃ帰さないことにしているんだが、うちの食堂は五人も入るといっぱいだからな」
「わかっているよ。大げさにはしない」
「じゃあな。おれたちの後宮建設計画について語り合える日を楽しみにしているぜ」
通信が切れた。
ドゥリンの別れの挨拶が王女の耳の入ったのではないか、とジントは冷やひやした。
「というわけで、ぼくは古い友人に会ってくるよ」彼は急いで説明した。
「じゃあ、わたしが操舵しよう」とラフィール。
「え?」
「宇宙港まで行くのなら、一隻、短艇でも借りて、わたしが操舵していくのがいちばんよいじゃないか」とうぜんのような口振りだ。
「そんな王女殿下のお手を煩わせるなんて畏れおおい」ジントは端末腕環《クリューノ》で地上世界への交通を調べた。「定期便があるらしいよ。城館と宇宙港のあいだを「日に一回、交通艇が往復している。これに乗っていくよ」
「わたしがいっしょにいっては迷惑なのか?」
「いや、とんでもない。いっしょに来てくれるなら、嬉しいよ」
嘘ではなかった。ラフィールには地上世界を見せてやりたい、とジントは思っていた。
彼女は二度ばかり地上世界に降りたことがあったが、どちらもジントには馴染みのない世界で、案内することができなかった。どのみち、あわただしすぎてゆっくり観光する暇もなかったが。その点、デルクトゥーは第二の故郷だ。アーヴの世界にはない風景を漆黒の眸に映してやりたい。そうすれば、自分をもっとよく理解してもらえるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。アーヴの世界の驚異をジントはじゅうぶんに味わったので、今度はラフィールに地上世界の風物に驚嘆してもらうばんだ。
しかし、いっぽうでイェステーシュの警告が頭にある。いや、警告されなかったとしても、地上世界にまで王女を連れていくのは論外だった。それとなく、王女の安全を図る必要があるのだ。
「じゃあ、決まりだな」ジントの葛藤を知るはずもなく、ラフィールはひとり決めした。
どうしたら、こうも自分の安全に無神経になれるのだろう−ジントは舌を巻いた。
「そうだね、でも、さっきの通信を聴いていたんだろう?」
「うん。途中からだけど」
「ならわかるね。きみにはデルクトゥー人らしい服装をしてもらわないといけない」
「デルクトゥー人らしい服装ってどんなだ?」ラフィールの眉間にしわが寄った。たぶん、クラスビュールで着せられた服のことを思いだしているのだろう。
「アーヴとたいして違いはないよ」ジントは説明をはじめた。「ただし、上下にわかれている。それと、膝から下は剥き出しだ」
「剥き出し?」王女の眉間のしわはますます深くなる。
「色や柄は多様で、男女で厳密な区別がある。といっても、余所者にはなかなかわかりづらいんだ。でも、そのことはなんとか解決できると思う。デルクトゥーじゃそんなに流行り廃りが激しくない。とっても保守的なんだ。たぶん、ぼくがいたころと変わらないんじゃないかな」
「膝から下にはなにも着ないのか?」
「ああ。もちろん、靴下と靴は別として」
「よくそれで平気だな」
アーヴは一般に首の上と手首の先以外は露出しない。子どものころからそうだ。ある意味、銀河で彼らほど慎み深い種族はいないかもしれない。
「まあ、みんなそんな格好をしているから、恥ずかしくはないさ。それに、気候にもあっている。ぼくはけっこう好きだけど。そうそう、その髪は染めてもらわないとダメだよ」
ラフィールは唸った。
「それと、クー・ドゥリンのお母さんの手料理も忘れちゃいけない。」
「耐えがたいのか?」
「ぼくにとってはそうじゃない。じっさい、いまから食べるのが楽しみだな。でも、なんたってデルクトゥー料理だ。あそこじゃ、乳製品と香辛料をじゃばじゃば使う。きみの口
には合わないと思うよ」
「そうであろか……」珍しいことに、ラフィールの口調が弱々しくなった、
「牛酪をたくさん使うほど上等だとあそこの人間は信じこんでいるんだ.なにしろぼくらは遠来の客だし、ドゥリンのお母さんは礼儀正しい女性だからね、きっととびっきりの一品を用意してくれるはずだ。そうそう、ビリス葱は一度試してみるべきかもしれないな」
「ビリス葱?」
「デルクトゥー特産の野菜だよ。香辛料として使うぶんにはいいんだけど、なぜかあそこじゃあたりまえの野菜のように使う。はじめてビリス葱入りの羮を食べたときは三日ほど水を飲んでも辛い気がしたっけ」
「それは食べねばならぬのか?」
「クー・ドゥリンの家を訪問したらね」
「そなた、ほんとうはわたしを連れていきたくないのであろ」
「警告しているだけだよ」
「嘘をつくがよい」ラフィールは決めつけた。
「誓って本当のことだよ。きみにだってすぐ調べられるはずだ、デルクトゥーの服装と料理について」
「その点については疑ってない」
「じゃあ、なぜ……」
「そなたのその保護者のような顔が気に喰わぬ」
「そんな顔をしているかい」ジントは自分の顔を撫でた。
「している」ラフィールは断言した。
「きみが心配なんだよ」ジントはついに告白した。「その、ここの地上世界はつい最近まで敵に占領されていたわけだし、そんな場所に護衛もなしで王女殿下をつれていったりしたら、クリューヴ王殿下に絞め殺されてしまうよ」
「父はそんなこと、しない」ラフィールはきっと睨んだ。
「まあ、そうかもしれないけど、ことばのあやというもので……」
ラフィールが立ちあがって近づいてくる。
対抗上、ジントも立ちあがった。「ぼくにもきみを心配する権利ぐらいあるだろう」
「ある」とラフィール。「だから、隠すでない。そなたが心配してくれるのは嬉しい。だけど、たとえ善意から出たことでも、わたしは騙されるのが嫌いだ」
「ごめん。きみが気を悪くすると思って……」
「そんなたわいない嘘に騙されると見られたほうが、気を悪くするぞ」
「まあ、それもそうかな」ジントは頬を掻いた。
「それに、わたしもそなたが心配なんだ」
「嬉しいな。でも、杞憂だよ、そんなの」
「そうか?そなたは二度ばかり監禁されたことがあったはずだぞ」
「忘れちゃいないよ。でも、だいじょうぶだよ。ここはロブナスUじゃない、フェノダーシュ男爵領でもない。ぼくの育った故郷だ。生まれたわけじゃないけれど、故郷にはちがいない。友人もいる。ほんとうはきみに見てもらいたいんだ、ぼくの故郷を。でも……」
ジントはことばを濁した。
「わかった。そなたを信じよう」
「ありがと。今回はひとりで行くよ。けれど、安全が確認できたら、ふたりで行こう。デルクトゥーにもマルティーニュにも」
「うん」ラフィールはうなずいた。
「わかってくれて、よかった」ジントはラフィールの肩を抱き寄せた。「騙そうとしたのは謝るよ。とりあえずは自分の目でようすを確かめておきたいんだ」
「ちゃんと無事に帰ってくるがよい」
「約束する」
「それと、ジント」耳元で甘やかにラフィールが囁く。
「なに?」夢見心地でジントは問い返した。
「そなたたちの後宮建設計画とやらについて知りたい。包み隠さず話すがよい。わたしは騙されるのが嫌いだからな」
デルクトゥーの首都、メイ市の人口は一○○万ほど。そのわりに都市域が広大である。
なにか全員に共通した精神外傷でもあるのか、デルクトゥー人は集合住宅というものを嫌うのだ。網の目のように広がる道路に沿って、二階建ての住宅が延々と建ち並んでいる。
中心部らしいものはなく、どこに行っても同じような風景だ。首都というからには官庁があるのだが、それも一カ所に固まることなく都市のあちこちに分散している。しかも、二階建てだ。さすがに、一般住宅よりは大きいが。
ジントを乗せた自動操縦の浮揚車が一軒の家の前で停まる。
降りたとたん、デルクトゥー料理特有の香辛料の匂いが鼻を突いた。
「よう、リン・ジント!」クー・ドゥリンが飛びだしてきた。
「久しぶり」ジントは片手をあげて挨拶する。
「まさかこの地上でおまえをふたたび見る日が来ようとは思わなかったぜ」ドゥリンはジ
ントの肩を叩き、後ろを覗きこむ仕草をした。「で、お付きの家臣はどうした?」
「きみが大げさにするなっていったんじゃないか」
「そりゃそうだけどよ、ひとりで来いといった憶えはないぜ。おまえを闇討ちするつもり
はないんだ。お袋にはたくさん客が来るっていっておいたもんだから、その気になって飯をどっさり用意している一
「そりゃ、悪かったかな」
「なあに、かまうもんか。お袋の料理っていうのは軍隊向きでな、たくさん作ったほうがうまいんだ。それに、あとで旧友を呼んでやる。西ブーキク・ミンチウ団の仲間たちをさ」ドゥリンの眼差しに真剣味がさす。「あのときのこと、おまえに謝りたいってやつを何人か知っているんだ」
「べつに謝ってもらうことなんてないよ」ジントは首を横に振り、「でも、嬉しいな。ぼくもみんなに会いたい」
「よかった。だが、まずふたりっきりで真面目な話をしよう」
「ああ」
「つまらないことは先にとっととすましちまわなくっちゃな。だいたい、あれだな、みんなが集まったあとじゃ真面目な話なんかできっこない」
「どうせ酒を呑むんだろう」
「あたりまえじゃないか」とんでもない愚問だとでもいいたげな口振りだった。「ミルン・ディステルを憶えているか?遊撃投手だったやつ。おまえが団にいたころにゃ、可愛らしいちびっ子だったが、いまじゃ、がたいも立派になって、底なしに呑むんだぜ。おれなんざ、やつが呑みはじめると、そばでぶるぶる震えているしかできないのさ。あいつ三日ほど泊めたときは、防犯警察が調べに来やがった.あんまり酒を買ったもんで、いかがわしいモグリの飲み屋でもやっているんじゃないかって、疑われちまったんだよ」
「そりゃすごい」
「おっと真面目な話が先だったな」ドゥリンはジントの肩を抱きかかえるようにして玄関へいざなった。「まあ、入れよ。貴族さまをお招きするようなお屋敷じゃないがな」
ドゥリンの母親と短い挨拶を交わして、ジントは応接室に落ちついた。デルクトゥー式に寝椅子がよっつ置いてある。ジントはそのひとつに坐った。
「なに、気どっているんだよ?」椅子に寝ころんだドゥリンが咎める目つきをする。「ここはデルクトゥーだ。デルクトゥー人らしくしろよ。おまえがアーヴの貴族のつもりでいるのは勝手だが、おれは貴族さまをお迎えする作法なんざ知らないそ。知っているのは、デルクトゥー人の友人をもてなす方法だけだ」
「じゃあ、おことばに甘えて」ジントは苦笑して、寝そべった。デルクトゥー人が寝椅子に坐るのは、椅子の数より人数が多いときだけだ。
「おれを雇いたいっていうの、本気なのか?」
「雇うにはちがいないんだけど、どちらかというと助けてほしいんだ」
「報酬はそれなりなんだろうな」
「ばっちりだ」
「なら、話ぐらいはきいてやろう」
「お付きはどこにいるって、訊いたよね」
「ああ。訊いちゃいけないことだったかp・」
「そんなことはないけど……」ジントは打ち明けた。「いないんだ」
「わかっているさ。おれにだって目がある。それとも、アーヴが遺伝子改造で不可視の人間でもつくりあげたか?」
「いくらなんでもそりゃ無理だと思うよ。意味もないし」
「そうか?」ドゥリンは好色な笑みを浮かべ、「利用方法はいくらでもあると思うぞ」
「とにかく、そうじゃないんだ。ぼくがいいたいのは、家臣なんてひとりも連れてきていないってことなんだ。この地上世界に、ということじゃなくて、ヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》そのものにって意味だよ。いるにはいるんだけど、ほんの少数だ。いま帝都《アローシュ》で募集しているところだから、もうちょっと増えるけれど、当座に必要な技術者が主で、統治のための家臣は厳密にいうとひとりもいない」
「そんなことじゃないかと思っていたぜ」
「わかっていたのかい?」ジントは目を瞬かせた。
「まあ、正確にいうと、そういう可能性もありかなって、ちらっと考えていた」ドゥリン
は大胆に修正して、「でもよ、なぜ隠していたんだ?」
「べつに隠していたんじゃない。話そうとすると、きみが話をずらしたんじゃないか」ジ
ントは指摘した。「仕事抜きでも会うんだから、無理に前もって話すこともないか、と思
っただけだよ」
「つまり、おまえの家臣はいまんところ技師しかいないんだな」
「ああ」
「家臣というと、おれが思いつくのはまあ、数字いじくったり、ややこしい交渉をする連中のことだ」
「まあ、そうだね。事務処理や渉外の面でぼくを補佐してほしいんだよ」
「要するに、おれにたったひとりの家臣になれってことか?」
「いや、人集めは考えている。正直にいうと、それもきみに手伝ってほしいんだ」
「待て待て。おまえ大事なことを忘れているぞ」ドゥリンは指摘した。「おれはアーヴのことばを話せないんだ。おまえとちがって、語学教育を受けたわけじゃないからな」
「そんなことはたいしたことじゃない、短期的には機械通訳で用が済む。ひと月ほどみっちり練習すれば、ぼく程度にはしゃべれるようになる」ジントは保証した。
多くの地上世界出身者を従士や家臣として受け入れてきた伝統があるので、帝国《フリューバル》の語学教育法は洗練の極みに達している。
「おまえはそういうけどな、アーヴ語ってやつはリクパルよりずっと難しいんだろう?」
「リクパルを知っているのかい?」ジントは意外に思ったが、すぐ、つい最近までここが〈人類統合体〉の支配下にあったことを思いだした。「そうか。予想しておくべきだったな」
「知っているったって、話せるわけじゃないぜ。なんでも暫定猶予期間とやらで、リクパルの話せない人間の最後のひとりがくたばるまで、デルクトゥー語も使っていいってことになっていた。だから、無理しなかったんだ。ちょっぴり瑠ってみたが、ありゃダメだな。おれにはむいていない。はっきりいって、おれにゃ、ことばをふたつもみっつも喋るやつは魔法使いに見える。なにしろ、おれたちの学校じゃよそのことばなんて習わないんだから」
「そうなの?」
「なんだ、知らなかったのか?おれたちにゃおれたちのことばでじゅうぶん。ほかのことばを習いたいっていう変わり者は専門の学校に行くさ。おまえのいたアーヴの学校みたいなとこへ」
「なるほど。でも、やってみれば簡単だよ」
「おまえにとっちゃそうだろうよ。でも、おれにはできない。おれの舌にはデルクトゥー語がへばりついているんだよ。耳もデルクトゥー語以外は受けつけないんだ。リクパルで試して、よくわかった」
「でも、ちょっぴり瑠っただけなんだろう。本気で習ったわけじゃない」
「ああ、ちくしょう」ドゥリンは髪を掻きむしった。「おれにも見栄ぐらいはらせろよ」
「見栄をはっていないきみなんて見たことないよ」
「そうか。じゃあ、じっくりいまのおれを見ろよ。実際のところは、本気で習ったんだよ。二級市民になるのはだれだっていやだからな」
「二級市民ってなんのことさ?」
「〈人類統合体〉には星系市民と統合体市民があるって、アーヴの学校じゃ教えないのか」
「ああ、それなら知っている」ジントはうなずいた。星界軍《ラブール》の翔士には、敵の国家体制についての知識が与えられているのだ。
移動はもちろん情報伝達も平面宇宙航法に頼るしかないこの宇宙では、星系外の人間と連絡をとるのば難しい。〈アーヴ帝国《フリューバル》〉や〈人類統合体〉のような広大な国家では、手紙をやりとりするだけで数カ月かかることも珍しくないのだ。このような状況では、おなじ国家に属しているからといって、他星系との一体感を感じることなどできない相談だった。
したがって、ふつうの人間が愛することができるのはせいぜい自分の住む星系まで。そのうえの星閲国家に帰属意識を持つことは不可能といえないまでも困難だった、
アーヴにはこの問題を克服しようという意志がかけらもない。そもそも問題と見なしてさえいなかった。地上世界の住民、すなわち領民たちには、愛国心や忠誠心はおろか帝国《フリューバル》の臣民であるという自覚も期待しないのだ。
〈人類統合体〉はちがう。市民に星間国家の一員であることを強く要求している。言語をはじめ、各惑星の文化を均質化し、人的交流を推奨して、一体感を醸成しようとしているという。だが、現状は理想にほど遠いらしい。〈人類統合体〉が独立星系を編入してきた歴史もあって、均質化は不十分だ。また、他の星系へ旅行することが奨励されているといっても、費用や時間の制約から一般人には星外旅行など一生に一度できればいいところだ。
したがって〈人類統合体〉にあっても、ほとんどの人間が星間国家の政治のありようを自分の問題としてとらえることができない。
そこで、〈人類統合体〉では、政治に参画する資格を制限している。統合体市民と呼ばれる人間だけが、選挙・被選挙権を認められているのだ。星系市民は、星系単位の政治に参加できるのみロ統合体市民にはその他にもいろいろな特権が認められているらしい。ドゥリンが星系市民を二級市民と感じたのも無理はない。
統合体市民資格をえるための細かい要件は知らないが、たしかリクパルを話すことが最低条件だったはずだ。
「百歩譲って、努力が足りなかったから、としよう」
「そうだよ」ジントは熱烈に同意した。
「で、かりにできたとしておれはなにをもらえるんだ?おまえんとこで働く資格か。統合体市民権に比べたって、ちっとも魅力的とは思えねぇな」
「まあ、それもあるけど、一生に一度ぐらいデルクトゥーの外の世界を見たくないか?」
「ちょっとはな。でもよ、はっきりいって、デルクトゥーにもまだおれにとっての見所がいっぱい残っていると思うんだ」
「クー・ドゥリン……」ジントは口ごもった。「ぼくといっしょに働くのに気が進まないんだね」
「おまえといっしょに働くのは大歓迎さ。でもよ、場所が問題だ。おまえがデルクトゥーに留まってくれるなら、いつでもいっしょに働くぜ。なに、叔父貴の会社はそろそろ潮時かなって思っていたんだ。近いうちに独立するつもりだ。それでよ、おまえが共同経営者になってくれるんなら、こんなに嬉しいことばない」
「おいおい。ぼくはきみがなにをしているか、独立してなにをするつもりかも知らないんだ」
「お互いさまだろう。貴族の家臣なんていわれても、おれにはなにをすればいいのか、さ
っぱりだぜ」
「会社経営とおなじようなことだよ。技師は確保できると思う。きみは事務や営業をする人問を束ねてくれればいいんだよ」
「じゃあ、おなじだな」ドゥリンは唇の端を歪めて、「どっちが上につくかってことだけだ。いや、なにもおれが上につくつもりはないんだ。当座はおまえが下にいて仕事を憶えてもらったほうがいいが、名目だけなら同等の共同経営者ってことでもいい。だが、苦労はこっちのほうが少なくてすみそうだぜ。なんたって、おまえはぼんくらの余所者にしてはデルクトゥーのことをいくらかは知っている。おれはいたって聡明な人間だが、アーヴの世界のことは何一つ知っちゃいねえ。おれに仕事のことをのみこますのは、全部の海を塩辛くするぐらいの手間がいるだろうぜ」
ジントは渋々うなずいた。なんといっても、ジント自身にとっても未体験のことばかりで、漢然と把握していても、細かい代官業務はわからない。だからこそ、たとえ経験が不足していても、専門的な知識をひと通り持っている人間を探しているのだが。
「それに、おれにゃ、アーヴの世界で働くつもりはない」ドゥリンはいいきった。
「じゃあ、なぜ最初にそういわなかったんだ?」ジントは眉をひそめた。
「あのときは考えがまとまっていなかったんだ。でもよ、いまはちがうぜ」
「そのあと、連絡だってできただろうに」
「おまえに会いたいのは本当だからさ。話を断ったら、来なかったんじゃないのか?」
「それはそれ、これはこれ。仕事は別にして会いたいって、いったじゃないか」
「残念だな、おまえに無駄足を踏ませてやった、と喜んでいたのに」
「お生憎さまだったね」
「というわけで、おれたちふたりで愛の生活を築くなら、おまえがこっちに来るしかない」
「ぼくにもその気はない」ジントはきっぱり断った。
「そういうと思ったぜ」ドゥリンはあっさりうなずき、「男は自分の仕事に誇りをもたなくっちゃな。じゃあ、仕事の話はこれで終わりだ。連中を呼ぽうぜ」
「いいけれど、よかったらきかせてくれよ。なぜ帝国《フリューバル》国民になりたくないのか」
「だってよ」ドゥリンは珍しくいいよどんだ。「おまえ、アーヴに友だちいるか?」
「まあ、何人かは」ジントは控え目にこたえた。
「じゃあさ、おれがなにをいっても怒らないと約束してくれるか?」
「ぼくが怒ったところで気にしないくせに」
「この唐変木。これから宴会をしようっていうんだ。おまえが主賓なんだぜ.お子さまのお誕生会なら、祝われているガキがいじけていても、ほかのガキは気にしないではしゃいでられるだろうよ。だけど、おれたちはもうガキじゃねぇんだ。主賓がむすっとしていたら、場が盛りあがらないじゃないか」
「わかったよ.怒っても、帰ってから猫に当たることにするさ。宴会のあいだは、自分の皿に指を突っこまれても怒らない馬鹿みたいに、にこにこ笑っているよ」
「そりゃ、猫に気の毒だな」
「どうせアーヴ猫だよ」
「じゃあ、いいか。きっと憎たらしいだろうからな」
「見るかい?」ジントは端末腕環《クリューノ》を使って、セルクルカとその子どもたちの写真をドゥリンの鼻先に投影した。
「可愛いな」ドゥリンはたちまち意見を撤回した。「この子らに当たるつもりなのか?おまえがそれほど完全無欠な鬼畜野郎とはいまのいままで知らなかったぜ」
「いや。こんなに可愛くないのがもう一匹いるんだ」
「それにしたってよう……」とろけそうな顔つきでドゥリンは写真を食い入るように見つめた。
ジントが写真を音声付きの動画に切り替えると、友人の表情はますます崩れた。
「どうだい?ぼくといっしょに働くなら、この子たちと一緒に暮らせるんだぜ」
「そいつは強力な誘惑だな……。しかし、おれは信念を枉げない男だ」
「残念だな」ジントは動画を消した。
「待て。もうちょっと見せてくれてもいいだろう」ドゥリンは抗議した。
「いっそ、仔猫を一匹、もらってくれないかな?」ジントは持ちかけた。
「いいのか?」
「ああ。いますぐというわけにはいかないけれど。まだ小さすぎて、母親が離そうとしないし、無理に離すと仔猫が危険だ。でも、あと二カ月ほどしたら、親離れの時期が米るから、そのときには面倒を見てやってくれたらありがたい」
「買収しようとしているんじゃないだろうな」
「ちがうよ。もらってくれると、こっちも助かるんだ。でも、そんなに価値があるなら、買収に使ってみようかな」
「いくらおれでも、一生の問題を猫一匹で決めるほど馬鹿じゃねぇ」
「つまらない人生だね、ドゥリン」
「放っておいてくれ。で、ほんとうにくれるのか?」
「いいよ。どれがいい,」
「待て待て。まずどれが雄か教えてくれ」
十分ぐらいかけて、ドゥリンはディアーホそっくりの縞摸様を選んだ。
「できれば、ぼくが連れてきてやりたいんだけど、そんな暇はできないだろうな。送るよ」ジントは約束した。
「頼む」
「それで、こんなに可愛い猫を飼っているアーヴたちをなぜそんなに嫌うんだ?」
「猫は可愛いな、たしかに。けれど、おれはアーヴがすっかり薄気味悪くなってしまったんだよ」
「それは知らなかったな」アーヴに偏見を持つ人間にはじめて会うわけではないので、さほど衝撃を受けなくてすんだ。だが、ドゥリンの言いかたには引っかかる部分がある。すこし考えて気づいた。「薄気味悪くなったって、前はそうじゃなかったってこと?」
「ああ。前はとくに興味もなかった」
「なるほど。敵軍の教育の成果か」
「おっと、おれは洗脳されたわけじゃないぜ」
「洗脳された、とまでは思わないよ。でも、不思議なんだ。きみはアーヴに会ったことがないんだろう?」ジント自身もアーヴであるという見解は触れないでおくことにした。ドゥリンが指しているのは生まれつきのアーヴのことだろうから、話を複雑にするだけだ。
「それなのに、なぜアーヴを気味悪く感じられるんだい?」
「おれは最近、歴史ってやつに興味があるんだ」
「意外だな。きみは頭のなかまで筋肉が詰まっているんだと思っていた」
「そうなんだろうよ。でもよ、おまえを宇宙港で見送ってから、おれの頭のなかの筋肉はいろいろ考えはじめたわけだ。おまえとおれはまったくべつの歴史を背負っている。だけど、ずっと遡っていくと合流する。それに気づくと、なんか変な気分になってよ、地球の歴史の本を読みはじめたんだ。お袋は驚いて、おれを病院に放りこもうとしたぜ、病院の寝床は気にいらねぇから、断固拒否したがな。まあ、そんなことはどうでもいい。歴史ってやつを知ると、不思議に思えてきたんだ。そこへやつら、おまえらの敵にして、おれたちの親愛なる友人と自称するかたがたが呼ばれもしないのにやってきた。鬱陶しい連中だ
ったが、ひとつだけいいことをしてくれた。おれの疑問にこたえてくれたんだよ。こっちが訊いたわけじゃないぜ。むこうから教えてくれた」
「きみが不思議に思っていたことってなに?」
「やつらがみょうに仲がいいことだよ」
「そりゃ、同族だからだろう」
「同族だろうが、家族だろうが、憎みあうときはあるぜ。おれの親父は実の兄貴に殺されたんだからな」
「それは知らなかった……」
「おまえが来る前の話だからな。古いつきあいのやつはみんな知っているが、気兼ねしてしゃべらねぇ。長男が殺人犯で刑務所行き、次男は被害者であの世行き、それで三男が先祖代々の会社を継いで、次男の息子を扱き使っているってわけだ。もちろん、おれは親父を殺した糞野郎を許さねえ。あいつが終身刑を喰らったのは残念なこった。おれの手で八つ裂きにしてやりたいのによ。そう、おれは血のつながった伯父貴を心底、憎んでいるんだよ。まあ、そんなことはどうでもいい。アーヴの話だ」
「べつにアーヴでも血のつながった人間を憎むってことは珍しくないよ」
「そうか?でも、内乱だの宮中抗争なんてないじゃないか。ときどき地上人が叛乱を起こす程度だ。まったく味気ない歴史だぜ。辛くない料理みたいだ」
「それはそうだね」ジントはてきとうに相づちを打った。
「いいか。親父が命を喪う羽目になったのは、ちっぽけな会社をだれが継ぐかってことが原因だった。ありゃ、ほんと、伝統があるってだけでほかに取り柄のない会社なんだぞ。それでも、一緒に育った弟を殺してでも手に入れたい、と思うやつがいるんだよ。まして帝国《フリューバル》なら、なおさらなんじゃないか。歴史を見ると、おれ好みのえぐい話でいっぱいだ。王冠かぶるために、親父ぶっ殺したり、兄弟ぶっ殺したり、子どもぶっ殺したり。そうそう、皇帝が死んだら皇子たちが殺し合って、生き残ったものがつぎの皇帝になるって素敵な制度の帝国《フリューバル》もあったっけ。新しい皇帝の最初の仕事は、まだちっちゃくて殺し合いにも参加できなかった弟や甥っ子たちをぶっ殺すことだ。とにかく歴史を見れば帝位っていうもんにまつわる話はぷんぷん血醒さが臭ってくる。たまに監禁とか追放ですます話が出てくるけど、ありゃきっと、たまには心暖まる話を入れなきゃっていう気遣いだろうな。だれの気遣いか知らないけどよ。とにかく、それが人間だ。それなのに、アーヴっていうのは他人を蹴落として帝位を狙うってことができないらしい。そんな話はきいたことがない。おれはてっきり隠しているんだと思っていたよ」
「つまり、帝位を狙う陰謀がないから、アーヴが薄気味悪いってこと?」ジントは首を捻った。「そりゃ、単に制度が洗練されているからだろう」
「そうじゃない。やつらは生まれつきそうなんだよ。血だよ」ドゥリンは吐き捨てるようにいった。「おまえだって知っているんだろう?」
「いや。どういうこと?」
「やつらは上の者に反抗することが本能的にできないんだ。だから、集団としてはすごく強い」
知り合ったアーヴたちの行動をジントは頭に浮かべた−とてもそうは思えない。「そりゃ考え違いだよ。目上の人間をからかうことを生き甲斐にしているアーヴは多いよ。歴史の時間に習ったことがある。何代前かの皇帝がはりきって不敬罪を制定したんだけれども、厳密に運営すると、士族の半分、貴族のほとんどを逮捕しないといけなくなることがわかって、不敬罪自体がなかったことになっている」
「からかうっていうのは、リン・ジントよ、親愛の表現だ。おれがおまえを痛めつけるた
めにからかっていると思っていたのか,・」
「いや」ジントは認めた。「親愛の表現だろうってことには気づいていたよ」
「そうだろう。反抗とはちがう。反抗っていうのは、相手を叩きつぶすつもりでやるもんだ。そうでなきゃ、自分が叩きつぶされてしまう」
ジントは考えこんだ。たしかに、アーヴは根本的なところで規律正しい。皇帝さえをも面とむかって批判したり、揶揄の対象にしたりするが、その批判や揶揄が深刻な対立に発展することはない。
「わかったか?血なんだよ。ほんとうに知らないのか?」
「気にしたこともなかったな。ぼくはあんまり歴史に興味がない。それにぼくの出身地はちっぽけな社会で、陰謀ったって、可愛いものだった」
「気にすべきなんだよ。あのとき、おまえはいったな、おまえの子どもは青髪のアーヴになるって。それが決まりだって」
「いったかもしれないな」ジントにははっきり思い出せなかった。「たしかに帝国《フリューバル》法でそのとおりに決まっているから」
「おまえは平気なのか?まさかもうつくっちまったんじゃないだろうな」
「いや、まだだ」ジントは苦笑した。「あんまり真剣に考えたこともない」
「考えろよ。髪が青いだけじゃない、おまえの子どもは、反抗できない遺伝子も持たされ
るんだぞ。いいのか、それで?」
「それは……」ことばを継ぐことができず、ジントは口を喋んだ。
「いいわけないだろう。帝国《フリューバル》はでっかい機械みたいなもんだ、とやつらはいった。一人ひとりのアーヴは機械の部品みたいなもんだってな。おれも賛成だぜ」
「そんなことはない」ジントは声を前凡らげないよう注意しながらいった。ラフィールをはじめ、ジントの知っているアーヴたちはみな個性を持った人間だ。
「やめようぜ、坪のあかない話は」ドゥリンは真剣な眼差しで、「おれはいまここでおまえを説得するつもりはない。おれのやりかたを強引だと誤解する連中もいるが、そいつらには見る日がないんだ。ほんとのおれは押しつけがましいのは嫌いなんだよ。ただ、考えろ。それでおれのほうがどうしてもまちがいだって、思うなら、いいぜ、なんならその理由を教えに来てくれてもいい。おれもあの猫ちゃんを見たおかげで、気持ちがぐらついているんだ。でもよ、おまえのほうがまちがっているとわかったら、いいか、よく億えておけ、このクー・ドゥリンはいつでもおまえのための居場所を用意しておいてやるぜ」
「それには感謝するよ」ジントは心からいった。「でも……」
「ああ。感謝しろ。一週間ほど泊まっていけよ。アーヴの世界じゃミンチウなんてできないんだろう。草試合を組んでやるぜ」
もしドゥリンが提案を受け入れてくれるなら、しばらく滞在して、いっしょに一人集めをするつもりだった。どうせ〈ボークビルシュ〉が戻ってくるまで一週間はかかるだろう。
だから、ドゥリンの厚意に甘えてもいいのだが……。
「いや」ジントはラフィールの顔を思い浮かべつつ、首をふった。「あんまりゆっくりはできない」
「曖昧なことをいうなよ。じゃあ、三日ぐらい、泊まっていくか?」
まあ、あいだをとってそんなものか――ジントは思った。「ああ。迷惑じゃないのなら、泊めてもらうよ」
「迷惑じゃないのなら、だぁ?迷惑なら、泊まっていくかなんてこと訊くか。真空ボケでもしているんじゃないのか」
「ちょっとデルクトゥー人の流儀を忘れていただけさ」ジントは反論した。
「それを真空ボケというんだ、それにしても、なにを急いでるんだ?上に女でも待たせているのか?」
「まあね」ジントは控え目にこたえた。
「見栄を張るなよ」ドゥリンは信じない。「どうせ、わけのわからねぇ予定に縛られているんだろうが。貴族さまのくせに自分の予定もままならないのか?まったく、おまえ、なんのために貴族になったんだよ?」
「帝国《フリューバル》じゃ、身分が上になるほど自由がないんだよ」
「それがわかっているくせに、まだ貴族さまでいたいのか?まったくおめでたいやつだぜ」
「埒のあかない話はやめたんじゃなかったっけ?」ジントは指摘した。
「おまえときたら、ほんとうに犬と豚の区別もつかないようなやつだな。さっきの話は真面目な論議ってやつだ。いまおれがしているのは、単なる親愛の表現だ」
「いまのが?」ジントは驚くふりをした。「親愛の表現がずいぶんと下手になったんじゃないのかい、クー・ドゥリン。蚊に睨まれたほどにも効かないよ」
「おまえが真空ボケしていると思って控えてやっていただけだろうが。ちったあ、人の心遣いにすなおに感謝しろよ。さて、運中を呼ぶぜ。ちょっと待ってな」
携帯端末をとりだして連絡をはじめたドゥリンに背を向けると、ジントは手のなかの記憶片を握りしめた。
ジント・リン、あるいはリン・ジントとして生きることはもうできないのだ、と思いこんでいたが、それがまちがいだとわかったいま、ジントは自分がすこしも動揺していないことに気づいた。
リン・スューヌ=ロク・ハイド伯爵・ジントとして生きることを決意したからだ。
恒星ヴォーラーシュから吹いてくる荷電粒子の流れを左半身に感じつつ、ラフィールは艇を駆る。
一段と加速を強めてみた。
座席の背もたれに背中が沈む。脂汗が額ににじんだ。指が押さえつけられて、うまく艇を操れないほどだ。
さすがに限界だ。ラフィールは加速を緩めた。それでも、地上人なら失神してしまうほどの加速だったが。
乱暴に針路を変更する。船体の軋みがきこえるようだ。
ラフィールが乗っているのはヴォーラーシュ伯爵家所有の単座交通艇だった。旧式だが、整備状態はよく、出力も反応も製造当時そのままを保っていた.、
初めて乗った艇なので最初はかすかな違和感があったが、そんなものは数分と経たないうちに消散していた。なにしろこの形式の交通艇は子どものころから飛ばしているのだ、いまでは自分の身体にしっくりあっている。そう、艦外空識覚に切り替え、目を瞑っているアーヴにとって、船は服のようなものだ。
突撃艦に比べれば物足りない感じはする。突撃艦を操るのはまるで鋼鉄の鎧をまとって動くかのよう.一挙一動に重厚な反応が伴う.、それに対して、この艇は紗でできたつなぎだ。ほとんど抵抗を感じることなく、船を操ることができる。そしてなにより、この指先に二〇名の生命がかかっているという緊張感が欠けている。
だが、ラフィールはこの航行を楽しんでいた。子どもに返ったような気分で空問をはしゃぎまわっていた、
目標を惑星デルクトゥーに定めて、最大推力を絞りだす。たちまち身体が座席に埋まり、肺のなかの空気が押し出された。
主機関を停甫したが、惑星との相対速度はかなり出ていた。ぐんぐん惑星が迫ってくる。
このままでは大気圏へ垂直に突入してしまう。
ラフィールの制御籠手を嵌めた左手が動く。交通艇は姿勢制御機開を噴かして、針路を修正した。
惑星デルクトゥーを掠める。あるかなきかの薄い大気に弾かれて、艇は大きく針路を変えた。その加凍の変化を源とする愉悦が、全身を駆け抜け、ラフィールは喘いだ。
アーヴが天翔るために生まれたのだと実感できる。
生体機械の地位を脱して大帝国《フリューバル》を築いた現在でも、アーヴにとってはやはり、艇を駆りたてることは生活の一部だ。ここのところ、艇を操る機会がなかったものだから、心に澱のようなものが溜まっていた。こうして無茶な機動をして遊んでいると、淀みが吹き飛んでいく心地がする。
方向転換して、急減速する。ついでに錐揉みをかけてみる。
頃合いを見計らって機関を停止し、惑星デルクトゥーの衛星軌道に乗った。
頭上に、ジントのいる地上世界を空識覚でとらえつつ、ラフィールは全身の力を抜いた。
ジントにとっては地上を歩くことが生活の一部になってるのであろか――ラフィールはふと思った。
地上世界には二度ばかりおりたことがあるが、好きになれない。空気に匂いがついている。耐えがたい悪臭というわけではないのだが、気になりだすとどうにもとまらない。大気循環系にまともな浄化装置がついていないのが原因なのだろう。
よくあんな大雑把な世界に住んで不安にならないものだ、と思う。
だが、ジントは星々の狭聞にこそ不安を感じているようだ、船にしろ館にしろ、空間に浮かんでいるものは頼りなく感じるらしい,
このちょっとした散歩にも、ジントはつきあってくれないだろう。いや、つきあうことができないのだ。地上人として生まれた人間には、この高加速は耐えられない。じゅうぶん健康なら死なずにすむだろうが、ずっと意識を保っていることは期待できないし、しばらく再生槽で暮らすはめになるだろう。
われらはやっぱりちがう種族なんだな――ラフィールは目を伏せた。
思い切り艇を疾駆させたあとの心地よい疲れが全身を包む。
交通艇は惑星デルクトゥーの昼半球から夜半球に入った。足元に感じていた恒星ヴォーラーシュのけたたましい光も、頭上に感じていたその照り返しも消えた。だが、遠くの星たちの囁きはあいもかわらずラフィールの空識覚に満ちている。とても静かな世界だ。
ラフィールはふと思った――このまま無限加速をして星々の狭間に飛んでいけたなら、どんなにいいことだろう。加速をつづけていればやがて光の速度に近づき、それにつれて空間が縮む。無数の星たちのなかをすりぬけて飛翔することができるのだ。
もちろんそれは叶わぬ夢だった。亜光速になれば、星々の間隙を漂う水素原子の圧力も無視できなくなり、交通艇は灼熱するだろう。なにより、相対論的収縮を体感できるほどの速度に達するはるか手前で交通艇のわずかばかりのエネルギーは尽きる。
なぜわたしは星に誘われてるのであろか――ラフィールは自問した。
亜光速で通常宇宙をひたすら飛んでいきたい、というのは、アーヴにはよく見られる欲望だった。それを『星に誘われる』と表現する。たいてい、生きることに嫌気が差したアーヴが、星に誘われてしまう。なかには実行する者もいる、そして、いったん星に誘われて出ていった者が帰ってきた例しはきわめて少ない。
ラフィールはいま幸せだった。すくなくとも、自分ではそのつもりだった。
「そうか」ラフィールは口に出して眩いた。「悩んでるんだな、わたしは」
軽やかな旋律が操舵室に流れた。端末腕環《クリューノ》が時間が来たことを告げている。
気をとりなおして、高度をあげ、宇宙港を目指す。
宇宙港からは一隻の星系内船が出航するところだった。
推力を絞り、併走する。
端末腕環《クリューノ》でジントを呼び出す。
「やあ、ラフィール」ジントの声はすこし変だった。
「そなた、体調が悪いのか,」
「ああ。ちょっと。いや、だいぶかな。頭ががんがんする」
「珍しいな。病気か」
「似たようなものかな。宿酔いだよ。きみたち生まれつきのアーヴには闘係ない話だけれども、ある種の人間にはとっても馴染み深いものなんだ」
「たしかにわれらはならないが、宿酔いぐらい知ってる」ラフィールはむっとしたが、同時に奇妙に思った。「なぜ薬を服まないんだ?我慢することはないであろうに。とても不快なものだときくぞ」
「そのとおりだよ。とっても気分が悪い」
「じゃあ、なぜだ?」
「ここじゃ禁じられているんだよ。酔い覚ましの薬が」
「ふうん。みょうな法があるんだな」
「そうでもしなきゃ、際限なく飲むだろうって考えられているんだ。自分のしたことの報いはちゃんととらなきゃいけないんだよ。まあ、命に関わりそうなときは特別だけど」
「そなた、いま、船に乗っているんじゃないのか?」ほんの一○セダージュほどの距離を航行する連絡船を空識覚で感じつつ、ラフィールは訊いた。事前の連絡ではそのはずだった。
「うん。そうだよ」
「その法は地上世界の法であろ?」
「ああ、領民政府《セメイ・ソス》の定めたものだ」
「なら、もう気にしなくてよいと思うそ。船のなかにまで領民政府《セメイ・ソス》の法はおよぶまい。それとも、およぶのか?」
「いや。でも、ぼくもデルクトゥー人だったんだ。自分を罰してみるのもいいかな、と思ってしまうんだ」
「ふうん。そなた、ひどい状態か?」
「このうえなく」
「じゃあ、もうちょっと散歩しているつもりだったけど、予定を繰り上げて一足先に城館に帰る」
「散歩?翔んでいるの?」
「うん。そなたの乗っている船の隣にいる」
「ああ、見えた。なんか光っている」
「たぶん、それがわたしであろ。そなた、わたしと会うまで薬を服むでないそ」
「きみって、ときどきとんでもなく残酷だな」
「自分を罰してみたい気分なのであろ」
「いまさらきみに醜態を見せたところで自分を罰したことにはならないよ」
「いってくれるな。だいたい、そなた……」
「あれ、これは……」ふいにジントの声が真剣味を帯びた。「ちょっと待って。緊急通信だ」
ラフィールもただならぬものを感じた。彼女の空識覚はヴォーラーシュ門を捕らえている。その燐光を放つ球体から一隻の小型艇が出現したのだ。あれは星界軍《ラブール》で広く使われている連絡艇だ。〈ボークビルシュ〉にも一隻、積まれているはずだが、さすがに空識覚だけでは、量産された連絡艇を個別に判別するのは難しい。
「ラフィール」そう呼びかけてさたジントの声は平常のものだった。薬を服んだらしい。
「なにか問題が起きたのか?」
「たぶんね。〈ボークビルシュ〉が攻撃を受けた」
「そうか……」ラフィールは目を瞑り、星たちの囁きに全身を浸した。
こののろのろと流れる時間がにわかに輝きを帯びてきたように思えた。
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5 |紋章授与式《グラームサイホス》
慣熟航行後の点検整備と改修を終えた襲撃艦《ソーバイ》一二隻は、単縦陣をつくり、恒星アブリアルの近傍を飛んでいた。先頭は司令官座乗艦となった〈リュームコヴ〉だ。〈リュームコヴ〉が旗艦《グラーガ》ではなく、司令官座乗艦というややこしい名称で呼ばれているのは、まだ第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》が正式に発足していないからだった。
ソバーシュの乗る〈フリーコヴ〉は二番目、つまり〈リュームコヴ〉の後ろを飛んでいた。
やがて、襲畢艦の群に一隻の巡察艦《レスィー》が近づいてきた。星界軍《ラブール》総旗艦《グラーガ》にして星帝御座艦たる〈ガフトノーシュ〉である。
皇帝御座艦には儀礼的な意味が大きいが、それだけではない。帝都《アローシュ》が戦場になりそうなとき、皇帝はこの艦に乗りこみ、近衛艦隊を率いて戦う。ただのお飾りではなく、帝国《フリューバル》がもっとも苦しいときに戦う艦なのだ。したがって、そのときどきの最新鋭の巡察艦《レスィー》を当てるのが習わしだった。いまの〈ガフトノーシュ〉はカウ級巡察艦《レスィー》である。
いま、皇帝御座艦には皇帝ラマージュが実際に乗りこんでいるはずだ。
「用意はいいわね」アトスリュアの声が艦橋に響く。「いまから、紋章旗を賜る。この場に立ち会えたことを誇りと思わない人がもしいたとしたら、式が終わるまで黙っていて。あたしは感動に打ち震えているんですからね、この気分を台無しにした人問がいたら、その舌を切り刻んで猫のおやつにすることを誓うわ」
新しい戦隊や分艦隊が編成されたとき、皇帝自ら紋章旗を授けるのは、星界軍《ラブール》の伝統だった。ただし、それは平時の話である。戦時には無数の戦隊が新編成され、編成場所も帝都《アローシュ》とは限らないので、いちいち皇帝が紋章旗を授与して回るわけにはいかない。戦隊はおろか分艦隊ですら、勅使が代行するのがふつうになる。
平和な時代とおなじ紋章授与式が行なわれるのは、帝国《フリューバル》中枢の第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》への期待のほどを表わすものだった。その重要な戦隊の初代司令官に選ばれたアトスリュアが光栄に思うのも無理はなかった。
〈ガフトノーシュ〉と対峙する方向に、〈リュームコヴ〉が針路を変えた。
「全艦、大いなる敬意を持って制御を〈ガフトノーシュ〉に委任すべし。まず〈リュームコヴ〉、外部制御準備、皇帝御座艦と情報連結せよ」
「こちら、〈ガフトノーシュ〉情報連結を確認」
「こちら、〈リュームコヴ〉。皇帝陛下への尊崇とともに、本艦の制御権を受けとられよ」
「こちら、〈ガフトノーシュ〉。いまや〈リュームコヴ〉は本艦の制御下にある」
いうまでもなく操舵や火器慣性などの制御機能を他者に譲り渡すのは、船の独立性の放棄を意味する。これをあえてするのが、アーヴにとってもっとも深い敬意の表れだった。
アトスリュアの指示にしたがって、各艦がつぎつぎに制御をガフトノーシュ〉に委ねていく。
〈フリーコヴ〉のばんが来た。
「〈ガフトノーシュ〉との情報連結を完了しました」通信士が報告する。
ソバーシュは艦長用暗号鍵を入力して、外部制御に切り替えた。
不吉な警告音とともに、操舵や火器管制、通信などの重要な機能が艦内からの入力を受けつけなくなったことが表示された。いまや乗組員の意志とは関係なく、〈フリーコヴ〉は皇帝御座艦からの指令のままに動くのだ。
イドリア十翔長《ローワス》が戯けたようすでお手上げの仕草をしたが、場違いな行動だった。
やがてすべての艦が皇帝御座艦からの遠隔操作で動く状態になった。
単縦陣が崩れ、筒状になる。
筒の完成とともに、襲撃艦《ソーバイ》は一斉に逆噴射させられ、〈ガフトノーシュ〉との相対速度を殺した。
〈ガフトノーシュ〉も減速する。筒に入る直前になって、貨物英を後方に射出した。
巡察艦《レスィー》が筒のなかに入ったとき、両者の相対速度はほぼ零に等しかった。
一二隻の襲撃艦《ソーバイ》は帝国《フリューバル》総旗艦《グラーガ》とゆっくりと擦れ違った。
「〈ガフトノーシュ〉からの通信が本艦の記憶巣に流れこんできます」通信士のヤナーシュ後衛翔士が興奮気味に叫ぶ。
そんなに気張らなくてもいいのに、とソバーシュは思った。たぶん他にやることがないので、場を盛りあげてくれているのだろうが。
「処理系と命令一通です。命令の暗号形式は〈懸巣〉です」
〈懸巣〉は星界軍《ラブール》全体で使われているが、艦長以上の職にある者のみに解読を許された形式だ。
ソバーシュは暗証語を流しこみ、解読した。
『発:練習艦隊司令長官
宛:襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉艦長
一、命令受領の瞬間より貴艦は正式に第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》に所属する。
一、この命令と同時に受信した処理系は、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》専用の暗号形式〈浜芹〉
構築・解読のためのものである。ただちに旗艦《グラーガ》の思考結晶に栽挿せよ。
一、星界軍《ラブール》の一員としてふさわしく振る舞え』
通信士はつづいて報告した。「処理系が思考結晶に自動栽挿されていきます」
この儀式はすべての襲撃艦《ソーバイ》の思考結晶で静かに行なわれているはずだ。
「〈ガフトノーシュ〉から全乗員対象の通信です」とヤデーシュ後衛翔士。「映像が主画
面およびあいている画面に映り、音声が艦内放送として流れます」
ソバーシュは立ちあがった。「艦橋要員は全員、起立。その他の乗員も現在の職務が許すかぎり畏敬の念をもって拝聴すること」
主画面に皇帝ラマージュが映った。彼女が坐るのは藷翠の玉座、〈謁見の広間〉に据えられているものと対をなすものだ。〈ガフトノーシュ〉の皇帝座艦橋は、帝宮の〈謁見の広間〉とおなじぐらい重要な場である、と歴代の皇帝は考えてきたのだ。
「すべての襲撃艦《ソーバイ》の思考結晶から命令受領の自動返信を受けた、との練習艦隊司令長官からの報告があった」ラマージュは話しはじめた。「これで名目上、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》は成った。実質上、成るにはそなたたちの奮励にかかっている。襲撃艦《ソーバイ》なる艦種をつくったことが聡い考えであるのかどうか、いまのわたしは知らぬ。賢明であった、とそなたたちが証してくれることを望む、できれば……」ラマージュは目を伏せ、物憂げに〈八頸竜〉を象った頭環に指を添えた。「わたしもそなたたちとともに襲撃艦《ソーバイ》の真価を見極めてみたい。玉座と襲撃艦《ソーバイ》の艦長席とどちらが坐り心地がよいものか、決めかねている。だが、わたしは帝国《フリューバル》への義務に縛られており、この玉座を離れるわけにはいかぬ。そなたたちを妬みつつ、吉報を待つことにしよう」
「陛下の嫉妬を受けるとはまことに壮快な気分」全乗員を代表してアトスリュアがこたえ
るのがきこえた。「わが戦隊の活躍が陛下のお耳に入り、嫉妬の炎が輩翠の玉座を焼き焦がす日の来るよう努めます」
「では、行くがよい」ラマージュは微苦笑を唇に湛え、「わたしが嚢翠の玉座の坐り心地に飽きる前に」
「第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》、勅命を承りまして進発いたします」
ラマージュが軽くうなずくと、通信は切れ、同時に制御権が艦内に戻った。
そのころには、〈ガフトノーシュ〉は襲撃艦《ソーバイ》によって形づくられた筒をほとんど通過しおわっていた。一気に帝国《フリューバル》総旗艦《グラーガ》は加速した。あたかも、皇帝が未練を振りきっているかのようだった。
襲撃艦《ソーバイ》はそのままの針路と速度を保ったが、〈リュームコヴ〉は例外だった。緩やかに加速して、皇帝御座艦から射出された貨物莢を拾いあげる。
「紋章旗を受けとったわ」アトスリュアからの通信が入ると同時に、有毒竜に数字の一を
あしらった第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の紋章旗が主画面に映った。「あたしたちはこれよりただちに集団戦技訓練に入る。全艦、イリーシュ門へむかうこと」
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》はふたたび〈リュームコヴ〉を先駆けとする単縦陣をつくり、帝都《アローシュ》ラクファカールの近傍を巡るやっつの〈門〉のひとつを目指した。
「平面宇宙へ入る前に打ち合わせをしたいわ」アトスリュアはいった。「集まることもないでしょう。全艦長は艦長室に入り、秘話回線を開きなさい。会議開始は帝都《アローシュ》標準時一八〇〇とする」
ソバーシュは帝都《アローシュ》に、独立した軌道館を持っている。コーヴ級の艦長室に匹敵する広さ
の部屋をその邸宅で探せば、子ども部屋に付属した玩具庫がそうだろうか。
それでも、彼はこの部屋が気に入っていた。狭くてもじゅうぶんに機能的だし、たいていの貨物船の船長室より広い。なにより新しくて気持ちがいい。
もともと帝都《アローシュ》にある邸宅は子育てのためにつくったものだ。ふたりの子どもたちと過ごした日々は、帝国《フリューバル》商業史上屈指の利益をあげた航行よりも貴重な想い出だったが、いまや彼らは成人し、邸宅に帰っても、保守のための自働機械が花よりも静かに働いているだけ
だ。
ソパーシュは黒革の椅子に腰をおろし、端末腕環《クリューノ》の時刻表示を一警する。間もなく十八時であることを確認して、秘話回線を開いた。
つぎつぎに仮想窓が開き、十八時ちょうどにはアトスリュア司令官と一二人の艦長たちが勢揃いしていた。
「戦技演習の場所だけれど」アトスリュアは前置きなしに切り出した。「あたしはどこかの鎮守府を希望していたわ」
「順当ですな」〈バートコヴ〉鑑長デュールがいった。
鎮守府には補給施設や造修工廠、慰安施設など、艦艇の必要とするものがなんでも揃っている。したがって味方どうしでの取っ組み合いをするなら、鎮守府に通じる〈門〉の近傍の平面宇宙が最適だった。
「しかし、軍令本部からの命令は、ハイド伯園で戦技演習を行なえ、というものだった」アトスリュアはすこし不満げだった。
他の艦長たちの表情にも戸惑いが浮かんでいる。
ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》のことはみんな知っているらしい。ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》は辺境にある一介の邦国《アイス》としてはたいへん有名だった。久しぶりに発見された人類社会という事実は大変印象深いものがあったし、ほんの形式に過ぎないとはいえこの戦争の原因とされている星系なのだ。
もちろん、ソバーシュも知っていた。かつていっしょに戦った伸間の領地《リビューヌ》なのだから。
しかし、なぜハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》で演習をしなければならないのかについては、見当もつかなかった。
とうぜんアトスリュア司令官から説明があるはずだ、と思ってソバーシュは黙っていた。
他の濫長も沈黙して司令官の説明を待っている。
だが、アトスリュアが質問を待っているようすだったので、心のなかで溜息をつきつつ、ゾバーシュはやむなく尋ねた。「なぜハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》で戦技演習をしなくてはならないのでしょうか?純粋な演習とは思えませんね」
「表向きの理由はひとつ」アトスリュアはいった。「あたしが想定していたものよりも一段階うえの演習を、軍令本部が求めている、ということ。戦術級じゃなくて戦略級の演習よ。与えられた演習課題はこう」
仮想窓にイリーシュ王国の平面宇宙図が映し出された。イリーシュ王国は八王国のなかでも特異な形をしている。円形なのだ。その円上でふたつの点が明滅する。お互いの距離はほとんど円の直径に等しい。
「ご存じのとおり、ハイド門はイリーシュ門からもっとも遠くにある」アトスリュアは説明を始めた。「つまり、右回りで行こうと左回りで行こうと、時間はほとんど変わらない」イリーシュ門を表わす光点から二本の光る破線が左右に伸び、イリーシュ王国にそってハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》を表わす光点に達した。「要するに戦隊をふたつに分け.、ハイド門をどちらが早く制圧するかを競う、後れをとった部隊は奪回を試みる、というのが演習課題よ。
ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》が選ばれたのは、この地理上の特徴のせいでしょうね。ほかの邦国《アイス》ならこうはいかないわ。ラクファカールからの最短航路はたいていひとつですもの。公平な競争ができるというわけ。思うに、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》は将来、生まれたばかりの艦艇が成人式をする場所になる」
「表向きということは、裏の理由もある、とお考えなのですか…」ソバーシュは水を向け
た。
「そのとおりよ」アトスリュアは肩をそびやかし、「現在、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》では叛乱が進行中なのよ」
たいへんだな、とソパーシュはジントに同情した。邦国《アイス》を統治することにともなうさまざまな厄介ごとは、諸侯《ヴォーダ》になってしまったものにはとうぜんの報いだ、と彼は思っていた。
しかし、あの若者に関していえば同情すべき点はある。なにしろ彼の父親は無責任なことに子どもがひとりしかいないのに諸侯《ヴォーダ》になってしまったのだ。その唯一の子どもとしては選択の余地がない。
「つまり、われわれは地上世界を威圧するのですか?」〈スィールコヴ〉艦長ロイリュア
が確認した。彼はふたりの先任艦長《アルム・サレール》のひとりだった。
「それが期待されている、と考えるのが常識的な判断ね.」
「では、具体的な命令はないのですか?」とロイリュア。
「具体的な命令があったら、それは裏の理由にならない」
「しかし、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》にはじゅうぶんな設備があるのですか?いまざっと調べたところでは、燃料供給態勢すらろくに整っていません」〈リュームコヴ〉のセルボス艦長がいう。
「ああ、それについては不満ないわ.」アトスリュアはいった。「あたしたち襲撃艦《ソーバイ》の戦場が設備の整ったところばかりとは限らない。むしろ整っていないところのほうが戦技訓練の場としていいとも考えうる。ひとつの考えかたに過ぎないけれどね」
「しかし、われわれは補給部隊を伴っていません。補給部隊もつけずに蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》のような部隊を戦場に放り出すのは、無能な指揮官でなければできないことです」
「無能な指揮官にあたることだってあるわ。それに、有能な指揮官だって、やむなく愚かしい命令を出さざるをえない場合もある」
「どうしようもない状況に追いこむのは、さらに上級の指揮官が無能だからでしょう」
「埒もないことをいうのはおやめなさい、セルボス副百翔長《ロイボモワス》。平面宇宙は広大なのよ。すべての戦場を把握できるわけがない。すべての提督が完壁でも、どこかで綻びができることもあるわ。そして、あたしはすべての提督が完壁だ、なんて猫のひげの先ほども考えていない」
「命令である以上は議論してもしかたありませんね」不承ぶしょうセルボスはうなずいた。
「そのとおり。他に文句のある人はいる〜」アトスリュアはいった。有無をいわせぬ調子だったが、その態度の裏に彼女自身が命令に不服であることが隠されているように感じられた。
「ないわね?それでは、戦隊をふたつに分ける。青軍と赤軍よ、青軍はあたしが指揮する。赤軍は、ロイリュア百翔長、あなたに委ねるわ」
「了解しました」とロイリュア。
「いまからあなたとあたしは敵同士というわけ」アトスリュアはいった。「率いる艦は半分ずつ。この選定はあたしがすませた。どちらの航路を行くかは、ロイリュア百翔長に優先権を与える」
「すでにわれわれは敵対関係にあるのではありませんか?」ロイリュアは指摘した。
「千翔長から命令を受ける謂れはありません」
「そういう性格は好きよ、百翔長」アトスリュアは額に白い手を当てた。「あたし、革製の砂袋を持っているの。むしゃくしゃしたときに殴りつけると、ほんのちょっと気分がす
っきりする。その名前をあなたのに変えるわ」
「ありがとうございます」とロイリュア。「ちなみに、ご愛用の砂袋のいまの名前はなんというのですか?」
「いくら秘話回線だからって、そんなこといえるもんですか。とにかく、訂正する。あなたとあたしが敵になるのは、もうすぐ。いまのところ、あなたはあたしの部下。了解?」
「了解いたしました。それでは、右回り航路を選択します」
「けっこう。それでは、演習目的はハイド門を制圧し、保持すること。演習停止の暗号は『真の恒星炎は青い』。〈浜芹〉暗号で「真の恒星炎は青い」と受信したなら、ただちに本来の指揮系統に戻ること。いいわね?」
「はい」ロイリュアがうなずく。
「この秘話回線はいまから青軍専用となる。排除された艦は赤軍に所属しているというわ
け。じゃあ、行くわよ、ロイリュア百翔長、いまからあなたとあたしは敵同士よ」
「はい」ロイリュアは敬礼しかけたが、苦笑してやめた。アトスリュアはそれに笑顔で報
いる。ロイリュアを含む六人の艦長たちの映像が途絶えた。
わたしは青軍か。ソバーシュにさしたる感慨はない。ロイリュア百翔長の人物を知らないため、とくに幸運とも残念とも思わなかった。どのみち、たかが演習である。命のやりとりをする場所ではアトスリュア千翔長の指揮杖に従わなくてはならない。
「では、あたしたちは単縦陣でイリーシュ門へ最大戦闘加速でむかう。みんな、艦橋に戻って、命令を出して」
サムソンは貨物船〈アクリューシュ・ナータ〉の船団長執務室にいた。
船団長執務室の床面に広がる平面宇宙図には四十数個もの時空泡が映っていた。それぞれの時空泡は一隻ずつの船しか含んでいない。時空泡には限界質量があり、いま船団を構成している船はその質量ぎりぎりの巨大なものばかりなのだ,
サムソンは紙杯を片手に、その平面宇宙図を眺めていた。船団は順調に航行している。
したがって、サムソンは退屈していた。基本的に軍匠翔士というのは応急修理の専門家であって、順調な航行には出る幕がない。しかも、いまの彼はあくまでハイド伯爵の代理という立場で船に乗り込んでいるのであり、それぞれの船にはちゃんと監督が乗っている。なにか問題が起こったら、彼らが対処するだろう。さらにやりにくいことに、監督たちはたいてい予備役ながら軍匠翔士としての位階を持っており、サムソンより高い位階の持ち主もすくなくないのだ。
背後に足音がした。空識覚のないサムソンだったが、振り返らなくてもその足音の主がわかった。長いつきあいの部下であるパーヴェリュアのしぐさは熟知しているのだ。
「どうもこの退屈ってやつは好きになれない」サムソンはこぼした。「おれってやつはなにかしていないと気が済まないんだなあ」
「いいじゃないですか」とパーヴェリュア。「ずいぶんと忙しかったんでしょう。それに、むこうについたらたっぷり仕事があるんだ。いい骨休めじゃないですか」
「まあな」サムソンは苦い思いでうなずいた。
たしかに船団が出発するまで、サムソンは多忙だった。恒星ハイドの周りをとりまくべき反物質燃料工場群と、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》のベルグウィットとかいう気体惑星に設置する物質燃料採取基地。その両者を建設するための資材と、それらを維持するための人員を集めるのが彼の仕事だった。
資材のほうはそれほど苦労しなかった。帝国《フリューバル》はハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》が安定した策源地となってくれることを心から望んでおり、協力を惜しまなかったのだ。じっさい、サムソンはほとんどなにもする必要がなかった。星界軍《ラブール》は古びてはいるが万全に機能する機動反物質燃料製造工場を二〇基ほども提供してくれたし、その他の資材も旅亭の一室から端末腕環《クリューノ》を使うだけで優先的に購入することができた。
問題は人聞のほうだった。いま、帝都《アローシュ》の労働市場は、空前のと形容すべき売り手市場なのだ。社会分析家たちは、いまがいちばん需要と供給の均衡が崩れているときだ、と判断している。戦争前からの帝国《フリューバル》国民は必然的に――分野がどうあれ――経験曲豆かな技術者なので、引っ張りだこだ。戦争が始まってから大量に養成された帝国《フリューバル》国民たちもそろそろ軍からこぼれだしているが、まだ彼らは経験豊かとはいいがたい。公募するだけで必要な家臣を集められるはずもなく、サムソンはありとあらゆる伝を手繰って、人集めをしなくてはならなかった。
機械弄りをするのは大いなる喜びで、趣味が仕事になったようなものだったが、帝都《アローシュ》での仕事はどうも勝手がちがった。農園でも従業員を使うのだから、と我慢して勤めたが、サムソンはほとほと疲れてしまっていたのだった。
ようやくパーヴェリュアのほうをむいたサムソンは、馴染みの部下が硝子杯を持っているのに気づいた。腕を掴んで引き寄せ、杯の中身の香りを嗅ぐ、苦艾と酒精の匂いがした。
「おまえ、酒を呑んでいるのか」サムソンは非難した。
「まだ呑んでいません。おれはちっとも酒臭くないでしょ」
「じゃあ、いまから呑むつもりなんだな。しかも、ここで」
「監督だって呑んでいるんじゃないですか,・」
「茶をな」サムソンは杯を差しだした。
「うへぇ、なんですか、これ?」同じように香りを確認して、パーヴェリュアは顔を顰めた。
「マクシロン茶だ」サムソンは教えた。「みょうなことに、最近、こいつが気にいっちまってな」
「そいつあ、ほんとにみょうなことですね」パーヴエリュアは同意した。「まあ、そんなものよりこれはどうです?」
パーヴェリュアの手に魔法のように酒瓶と硝子杯がもうひとつ現われた。
「仕事中なんだ、おれは」サムソンはいった。
「退屈なさっていたんでしょう?」
「もちろん、退屈していたさ。仕事というのはたいてい退屈なものだ。楽しく仕事ができることもないじゃあないが」
「そんな珈琲豆を噛みつぶしたような顔をしなくても、むこうで待っている仕事は監督の大好きな仕事ばかりじゃないですか。哀れな部下を怒鳴りつけたり、蹴飛ばしたりしていりゃいいんですから」
「部下を蹴飛ばしたことはない」パーヴェリュアの慰めをきいても、心は晴れなかった。
「ぞうでしたっけ?」パーヴェリュアはそっと硝子杯を押しつけてきた。
「おれの故郷じゃ、骨折もさせないようなのを蹴飛ばすとはいわない一サムソンは杯を受け取って、説明した。「切羽詰まった状況で、ぼんやりしているやつの注意を喚起するために、爪先を使ったことはあったが、断じて蹴飛ばしたわけじゃない」
「なるほど」パーヴェリュアは訳知り顔で、酒を注いだ。「たしかにあのとき、あいつの注意を喚起してやらなかったら、あいつも監督もおれもこの世にいませんね。でも、もうちょっと穏やかな方法があった、と思うんですが」
「方法なんか考えている暇があったか。おれだって命は惜しい」
「それじゃあ、楽しまなかった、とおっしゃるんで?」
「ああ、パーヴェリュア君、見損なっては困るな。おれは本来、とても穏やかな男なのだよ。好きこのんで他人に暴力、もしくはそうと誤解されるような行為を働くものか」
「まさか怒っちゃいないですよね、監督」パーヴェリュアは心配そうな顔をする。
「料理を侮辱されたわけでもないのに、なぜ怒るんだ?」サムソンは安心させた。
「侮辱しようにも、監督のたまにつくってくれる飯はうまいっすよ、おっと、監督のつくった飯を貶さないように、新しい同僚たちに教えなくっちゃ」
「余計なことをするな。おれは素直な感想が好きなんだ。お義理で誉めてもらっても嬉しくないぞ」
「でも、料哩を侮辱されたら怒るんでしょう?」
「だれかがおれの料理を不味いといったとしたら、そいつはたしかになにかを侮辱しているんだ。だが、そのなにかはおれの料理じゃあないんだな」
「じゃあ、なんです?ついでに、なにに乾杯しますか?」
「もちろん、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に。けったいな生き物がいっぱいいるそうだが、そのなかにひとつぐらい旨い酒になるものがありますように」杯が触れあった。「それから、侮辱したのはだな、そいつ自身の舌だよ」
「なるほど」パーヴェリュアは杯を呷って、ひどりごちるように、「おれが軍を退役したのぽ正解でしたね。監督ほど自信たっぷりじゃないと人の上に立てないだろうし、おれときたらつい自分を客観視してしまう癖があるんだから、星界軍《ラブール》で出世するのにむいていない。いや、星界軍《ラブール》に限らず、どこへ行っても出世できないかもしれませんね」
「そのとおりだな」サムソンは即座に断じ、杯を飲み干した。
「おれは否定してほしかったんですよ」パーヴェリュアは傷ついた表情をしつつ、サムソンに新たな酒を注いだ。
「否定する?なんのために。もっと自信を持つべきだ、指揮官なんてもんは三日もやればこつを掴める、とかいって、おまえを星界軍《ラブール》に復帰させるのか…冗談じゃない、おまえは得難い部下だよ。なんたって、爪先で注意を喚起しなくても、たいていのことなら無難にこなす。ただ決断が遅い傾向があるから、上官にしたら災難だ。ところが、いまの星界軍《ラブール》の現状では、おまえももうすぐ小さな艦の監督にぐらいなってしまうだろう。そういう意味じゃ、退役したのは正解だよ」
「誉めるか疑すかどっちかにしてくれませんか」
「しかし、首尾一貫しているだろうが、おれのいっていることは」
「そりゃまあ、そうですが」
「いっておくが、監督というのは人のうえに立てばいいだけじゃない。青髪のかたがたのお守りまでしなくちゃいけないんだぞ」
「〈バースロイル〉のことをおっしゃっているんですか?」パーヴェリュアは猜疑の面もちで、「監督があそこで青髪の翔士がたのお守りをしたようには思えませんがねえ。いっぺん、監督の居室の前でソバーシュ前衛翔士に敬礼したことがあります。あのとき、前衛翔士は酔いつぶれた監督を運んでいるところでしたっけ。監督の故郷じゃ、酔いつぶれて運ばれるのを、お守りするっていうんですか?うちの故郷じゃ逆ですが」
サムソンがなにかいいかえしてやろうとしたとき、執務室にだれかが入ってきた。
「いけねぇ」サムソンは首をすくめる。「どうも、あの人だけは苦手だ」
「そうなんですか」パーヴェリュアは心底嬉しそうだった。
「王女殿下の乗った船が攻撃された、というのに、なぜそんなにのんびりできるんですか!?」彼女、セールナイはナムソンを詰問した。「しかも、それはひょっとしてお酒ではありませんか?船団長はほんとうのアーヴとちがって酔われるのでしょう」
アーヴの紛い物扱いされても、サムソンは気分を害しなかった。自分がほんとうのアーヴであるなどという妄想には片時も犯されたことがなかったからである。帝国《フリューバル》の法がなんといおうと、彼は誇り高きミッドグラット人だった。
「それは正確ではありませんな」サムソンは後半の質問を無視して、「ハイド伯爵家の軌道城館になる予定の船が攻撃されたのは事実です。しかし、それには艦長は乗っておられなかったのです」
「どこの艦長か存じませんが、それと王女殿下とどういう関係があるんです?」セールナイは詰め寄った。
「あ、いや」サムソンは苦笑して、「艦長というのは王女殿下のことです。わたしはずっとそう呼んでいたものですから」
ここのところのごく限定されたつきあいからも、彼女がラフィールに崇拝の念を抱いていることは身にしみてわかっていたので、『艦長』などと気安く呼んだことを非難されるのではないか、とサムソンはひそかに身構えた。
だが、セールナイはそんなことはしなかった。自分の趣味を他人に押しつけるのはまちがいだという常識を身につけているのだろう。
「殿下がご無事らしいなのはなによりですわ。ほんとうなら、ですが」どうやらセールナイは彼を全面的に信じているわけではないらしい。「ですが、ゆゆしき事態であることにちがいないではありませんか」
「まったくおっしゃるとおりです」サムソンは心からいった。
これで、すんなリハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に入れない可能性が出てきた。たぶん手前のヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》とやらで足止めをくう羽目になるだろう。無駄に日時を空費するために資金が溶けていく。下手をすると、家臣たちの俸給の支払いに影響が出かねない。
また慣れない仕事をしなけりゃいけないのか――サムソンはげんなりした。星界軍《ラブール》ではおよそ給料の遅配などあった例しがない。あったとしても、サムソンは従士たちの先頭に立って上官を吊し上げる役どころだ。しかし、この場合、さすがに家臣筆頭としてジントを責め立てるほど不人情にはなれなかった。彼が家臣たちの非難の矢面に立って、領主を守ってやることになるだろう。
呑んででもないとやっていられない。サムソンは空になった杯をパーヴェリュアに突きだした。
セールナイは眉をひそめたが、酒のことには触れず、「それでは、航行の速度をあげるべきではありませんか」とだけいった。
「それになんの意味があります?」予測していた意見だったので、サムソンは即座に反応した。「まさか一刻も早く王女殿下のもとへ駆けつけたい、とおっしゃるのではないでしょうね」
「そのとおりです」セールナイはうなずいた。
それでどうするというのだ、といいかけたが、サムソンはぐっと抑えて、「どちらにしろ、船団の航行速度をあげることは不可能です。すでに限界速度なんですから」というに留めた。
「やむをえませんね」セールナイはほんとうに残念そうな表情をした。「わたしたちの船に平面宇宙航行機能があれば、すぐ駆けつけたい気分です」
セールナイ商会は地上人操縦仕様の反物質燃料槽検査艇〈セールナノ〉を所有しているが、もちろん平面宇宙航行機能はない。艇は梱包されて、この〈アクリューシュ・ナータ〉の船倉のどこかに格納されているはずだった。
「そうだ」セールナイはなにか不必要なことを思いついてしまったらしい。「警備隊を組織してはいかがですか?」
「警備隊ですか?」サムソンは呆気にとられた。
「わたしの前にいた所領では、家臣は全員、最低限の軍事訓練を受けたものでしたわ。女ばかりでしたけれども。その点、この船団には船団長さんをはじめもと軍士だったかたがたくさん乗っておられるわけですし……」
「よしてください」サムソンは言下に否定した。「情報によれば、いま惑星マルティーニュにいるのは、〈三ヵ国連合〉の正規地上軍です。俄か仕立ての軍隊でどうこうなる代物ではありませんな」
わざわざ自分の経験を言い立てるところから考えると、ひょっとして彼女自身が警備隊に志願するつもりかもしれない。そして、それはハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》の警備隊ではなく、本心は王女親衛隊でも組織したいのだろう。
「べつに地上世界を制圧しようといっているのではありませんわ」セールナイは唇を尖らせた。「ただ、王女殿下や伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》をお守りするための……」
「そういったものならもうあります」じっさい、常設のものではないが、警備隊はある。
伯爵家の施設――つまり近い将来に限っていえば、伯爵城館と反物質燃料製造工場――を防衛するためのものだ。
「まあ」セールナイは顔を輝かせ、「それならぜひ、わたくしもその一員に加えてくださいな。王女殿下をお守りするのはわたくしどもの義務です」
「いえ、王女殿下をお守りするのが主務ではありませんよ」ラフィールを王女殿下と呼ぶことに違和感があった。「護衛ではないんです。あくまで伯爵家の施設を警備するためのものです」
「それはわかっています。でも、王女殿下が伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》といらっしゃるあいだは、王女殿下を守護奉るのが伯爵家の務めではありませんか」
「まあ、それはそうですが」
「それならば……」
この不毛な会話はいつまでつづくのだろう、とサムソンはうんざりしていたが、同時にこの襲いかかってきた不条理を楽しんでもいた。退屈な航行にはいい刺激だ。セールナイの提案も、風変わりな背景音楽と思いこめば、それなりに楽しめた。じっさい、セールナイの話すアーヴ語には音楽的な託りがある。おそらく彼女の母語は抑揚に富む美しい言語なのだろう。
この背景音楽は酒を旨くするだろうか、不味くするだろうかという実験にとりかかろうとしたサムソンを、端末腕環《クリューノ》の呼び出し音が邪魔をした。
「失礼」安堵と失望のないまぜになった感情を抱きながら、サムソンはセールナイに詫び、端末腕環《クリューノ》の通話機能を立ちあげた。「こちら、サムソンだ」
「船団長」船団通信士の声がした。「艦載連絡艇が接近中です」
珍しくもない報せだ。たしかに交通量は少ないものの、ここはイリーシュ王国ただ一本の主要航路なのである。「所属は判明したか?」
「第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉所属で現在、先行連絡任務に従事しているそうです」
「蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》に襲撃艦《ソーバイ》?そんなものがいつのまにできたんだ?」
「わたしにもわかりません。判明しているのは所属だけです。運絡艇は九十二分後に本船と時空融合する予定ですから、そのときに詳しい情報が……」
「それは楽しみだな」サムソンは通信を切り、これでセールナイを追い返すことができる、と思った。「お聞きになりましたか?精強なる星界軍《ラブール》の艦隊が暗雲立ちこめるハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》にむかうようです。われわれはといえば、本来が技術者の集団、英雄譚の主人公になりがたい存在です。帝国《フリューバル》が本腰を入れた以上、われわれの出る幕ではありませんな」
「そうですわね」なぜかセールナイは不快げに眉をひそめ、一礼した。「おじゃましました。どうぞ楽しい酒宴をおつづけくださいな」
彼女が去ったあと、サムソンはパーヴェリュアに尋ねた。「おれ、なにか気に障るようなことをいったか?」
「監督」酒を呑んでいるにもかかわらず、パーヴェリュアは冷めたようすで、「前々から思っていたんですが、心にもないことをいうときの演技はもうちょっと控え目にしたらどうですか?せめて修飾語を削ってください」
「来たな」ラフィールがいった。
「予定時間ぴったりか」ジントは外部映像を見つめた。目を凝らす必要はない。偶然にも真正面から〈ボークビルシュ〉が通常宇宙に突入してきたからだ。
ふたりはヴォーラーシュ伯爵家から借りた交通艇に乗っていた。デリュズは操舵士もつけてくれようとしたのだが、ラフィールがそれを断り、自ら制御籠手を嵌めている。
わざわざヘ〈ボークビルシュ〉を出迎えようと思ったのは、もちろんその被害状況を一刻も早くたしかめたかったからだ。一足先に帰ってきた連絡艇からは、被害はきわめて軽微ときいていたが、やはり気になるものは気になる。
ラフィールは交通艇を〈ボークビルシュ〉に寄せた。空識覚に集中しているようすで目を瞑り、星間船のまわりを数周する。
「どこをやられたんだ?わたしにはわからぬ」ラフィールはいった。
「きみにわからないものがぼくにわかるはずがないさ」じっさい、外部映像からは撃たれたあとなどまるでわからなかった。
だが、攻撃を受けたという事実は重い。
「まあ、いい。船に入るぞ」
ラフィールは〈ボークビルシュ〉の船橋と交信をはじめた。
発着甲板ではイェステーシュが出迎えてくれた。儀礼的な挨拶もそこそこにジントたちは会議室へむかう移動壇に乗った。
「われわれの受けた打撃は物足りないぐらいでしたよ」イェステーシュがそういった。
「航行にはなんの支障もありませんでしたし、修理も自力ですませてきました」
「平面宇宙で修理したんですか?」ジントは訊いた。
「いいえ。地上世界マルティーニュの軌道上でです」
「なぜそんなことを?危険でしょう」アーヴ流の嫌みかな、とジントは思った。
[もちろん、安全にはじゅうぶんな配慮を払いました。すこし軌道高度をあげたのです」
「でも、航行に支障がなかったのなら……」
イェステーシュは不思議そうにジントを見た。ラフィールまでが怪誇そうにしている。
「ええと、ぼく、なんか変なことをいった?」と王女に訊く。
ラフィールは小さな溜息をつき、「撃たれてすぐ〈門〉に入ったら、まるで逃げたみたいじゃないか」
「そりゃそう誤解されるかもしれないけれど」ジントは混乱した。アーヴは難を避けるのを躊躇わないものだと思っていたからだ。「星界軍《ラブール》だって、逃げるときは逃げる。ましてやほとんど非武装なんだよ、この船は」
「必要なときには、だ」ラフィールはいった。「奇襲を受けてなおかつ航行に支障がないようなら、逃げる必要はないであろ」
「そんなことはわからないじゃないか。単なる警告かもしれない。つぎは本格的な攻撃がないとはいいきれないだろう」
「おっしゃるとおりです。わたしの判断でしたことです」とイェステーシュ。
「どういう判断ですか?」
「ちょっとした攻撃を受けて退くようなら、相手に誤った判断材料を与えてしまうかもしれません。見くびられた結果、事態が悪化しないとは限らないでしょう」
「それはどういう……?」
「星界軍《ラブール》の行動原理は伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》もよくおわかりのはずです。なにしろ、その軍の一員
でおられるし、戦いにも参加なさったのですから。その星界軍《ラブール》が、ちょっと脅かせばすぐ
退く連中だと誤解されたら、どのような結果を惹起するとお思いになります?」
イェステーシュのいっていることがジントにはわかった。
星界軍《ラブール》というより帝国《フリューバル》の行動原理はきわめて単純だ。すなわち、やられたら、一〇倍にしてやりかえす.、商業種族であるアーヴもこのときばかりは利益を考慮しない。
ずいぶん子どもっぽいとジントはつねつね思っているのだが、彼がどんな感想を抱こうと、建国以来、いや、それ以前にアーヴが放浪種族だったころからの行動原理が変わるはずもない。それに、考えようによっては合理的でさえある。アーヴの船が孤立することは戦時平時にかかわらずよくあることだ。帝国《フリューバル》が野蛮とみなされることすらもあえて堪え忍び、凄惨で纏々しい復讐を義務と心得ることによって、孤立したアーヴたちの安全性は飛躍的に高まる。すくなくとも、帝国《フリューバル》はそう考えているらしい。
「失礼ながら閣下の故郷のかたがたは星界軍《ラブール》というものがどんなものかよくわかっておられない可能性があるのではありませんか?」イェステーシュは追い打ちをかけた。
「それは……、そうかもしれません」ジントはしぶしぶ認めた。
帝国《フリューバル》の行動原理は人類社会にあまねく知れ渡っておりそうでなければ、帝国《フリューバル》の手の届かないところにいるアーヴたちの安全をはかることができない、戦争の決意なしにアーヴ船にたいして強気に出ることは愚か者のすることとされている、
だが、ほんの十数年前まで帝国《フリューバル》の存在を知らなかったマーティン人たちが知っているかどうかは大いに疑問だった。そもそも知っていれば、〈ボークビルシュ〉を攻撃するはずがない。
「それで、乗員に死傷者は出なかったのですか?」ジントは話題を変える。
「ええ。まったく。じっさい、乗員の九割は攻撃されたことに気づきませんでした」
「それはよかった」そういいつつも、マーティン人としての自尊心が傷つくのをジントは感じた。「でも、いきなり攻撃を受けたのですか」
「ええ。警告はありませんでした」
「いったい、なぜ……」
「交渉を試みようと低軌道で周回しつづけたのが、先方の気に障ったのかもしれませんね」イェステーシュは平然といった。「われわれは地上から攻撃されました」
そのことはジントも報告書を読んで知っていた。中途半端な事態だ、と思う。これが空間戦力からの攻撃だったら、星界軍《ラブール》は色めき立ち、どこかにひそんでいた敵性艦隊を繊滅しようとするだろう。だが、地上戦力からの攻撃ということは事態はまったく変わらないということだ。
「しかし、それにしてもわかりません。地上から船を攻撃しても大した効果がないことはわかっているはずなのに……」ジントは眩いた。
「伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》から明解な解説をいただけるのではないか、とひそかに存じておりました」イニステーシュの声には軽い失望が滲んでいた。
「ご期待に添えず申し訳ありません」
移動壇が会議室に着いた。
中央の卓子に移動して、正式な報告を受ける。
会議室にひろがる花園のうえに地上世界マルティーニュの地図が浮かびあがった。
「地上に存在する敵対戦力は約二万人と推定されます」イェステーシュは報告をはじめた。
「その主力は〈人民主権星系連合体〉のマタイ第一二師団です」
「〈人民主権星系連合体〉ですか」ジントはすこし意外に思った。もちろん、帝国《フリューバル》の敵は、〈人民主権星系速合体〉を含む〈三ヵ国連合〉である。だが、どうしても〈人類統合体〉とその仲間たちと考えてしまう。
とくに〈人民主権星系速合体〉というのは〈拡大アルコント共和国〉よりも意外だった。
星間国家にとって、国民の忠誠を繋ぎ止めるのはかなりの難事である。
〈アーヴ帝国《フリューバル》〉はこの状況をまったく憂慮していない。領民には、愛国心などまったく期待していないのだ。むしろ地上の民には惑星の外のことなど考えず、ひたすら地上世界を豊かなものにしてくれることのみを望んでいる。どうしてもほかの世界が気になる変わり者を国民として受け入れている.
だが、ほかの四ヵ国は苦慮しており、それぞれのやりかたで解決を図っている。
もっとも熱心なのは〈人類統台体〉だ。星間の人的物的交流を奨励することをはじめとして、涙ぐましいといえるほどの努力で、すべての惑星社会の文化を均質化しようとしている。もっとも、涙ぐましいなどと評価することができるのは傍目で見ているからで、中央政府の熱意をちょくせつ受ける〈人類統合体〉市民のなかには辟易している者も多いらしい。とくに最近加盟した星系で、さまざまな軋轢を生んでいるようだ。
〈拡大アルコント共和国〉は比較的こじんまりとした星間国家だが、やはり均質性の創出には成功していない。主星系であるアルコントが入口でも政治・経済・文化における重要性でも突出しているので、かろうじて国家体制を維持しているような状態だ。
〈ハニア連邦〉に属する地上世界はほとんどがスーメイ星系からの移民とその子孫で成り立っている。そのおかげで、大した努力をしなくても文化的な均質性を保持していた。だが、異質な文化を持つ星系も少数ながら存在するし、最近では各星系ごとの地方性が増大し、均質性も崩れつつあるらしい。
最後に〈人民主権星系速合体〉だが、彼らは一般市民に星間国家への愛国心を抱かせることを諦めている。いいかえれば、地上人が築きあげた星間国家のなかではもっともアーヴ的な考えに基づいて運営されているのだ。各星系が大きな権限を持つ、緩やかな連合体――それが〈人民主権星系連合体〉だ。軍隊すら各星系が自前のものを保有している。
〈人民主権星系連合体〉軍というのは加盟諸星系軍の寄せ集めに過ぎない。もちろん単一の軍に比べれば費用対効果が低いのだが、それでも運合体の理念の前には堪え忍ばざるをえないこととされているらしい。
ジントが端末腕環《クリューノ》でたしかめたところでは、マタイ第一二師団もマタイ星系地上軍第一二師団というのが正式名称らしい。マタイ星系は人口二億人ほどのありきたりな星系だということもわかった。
星界軍《ラブール》の分析では、この戦争にたいする熱意にもっとも欠けているのが〈人民主権星系連合体〉ということだった。参戦したのも、帝国《フリューバル》よりもむしろ〈人類統合体〉に脅威を感じてのことだったらしい。つまり、参戦を拒否すれば、それを理由に〈人類統合体〉との戦争が始まってしまう恐れがあったのだ。
なにしろ戦力という点では比べものにならない。対帝国《フリューバル》戦の片手間に撃破されてしまっただろう。そこまで展開が急でないにしろ、この戦争が〈人類統合体〉の勝利に終わった場合、条約の不履行を理由に戦いを仕掛けられる可能性は高い。その結果はとうぜん〈人民主権星系連合体〉の敗北だ。そうなれば、均質化を強制されてしまう。
いっぽう、帝国《フリューバル》と戦って負けたとしても、各地上世界の「般住民の生活はほとんど変化がない。
戦争自体が忌むべきものではあるが、戦わなければならないのなら、帝国《フリューバル》を相手にしたほうがまし、ということだった。
その〈人民主権星系連合体〉の軍隊が、孤立したというのに、降伏しないというのは理解できない。
もちろん、〈人民主権星系連合体〉が公式に苦渋の選択をしたことを認めたわけではない。帝国《フリューバル》側の一方的な推測だ。したがって間違っていることもありえる。たとえ正しかったとしても、あくまで一般論に過ぎない。兵士たち全員が厭戦気分でいると見なすのはむしろ滑稽だった。とくにこのマタイ第[二師団が、帝国《フリューバル》との戦いに価値を見いだす兵士ばかりで編成されていることすら考えられる。そうすれば、この絶望的な戦線に留まっている理由もわかる。
「まさかとは思いますが、実質的に軍事占領されている可能性もあります」イェステーシュがいった。
「敵軍司令官が代表になっているのですか?」
「いえ。形式的には星系首相コリント・ティール氏です」イェステーシュはティルの名をアーヴ語風に発音し、「ですが、操り人形ということも考えられないことではありません」
あのティルが操り人形になんかなるもんか、とジントは思った。しかし、最後にティルと不幸な別れをしたあの日からもう一○年以上が過ぎている。人は変わるものだし、だいいちあのころのジントが彼を完全に理解していたとは考えられない。なにしろジントはまだほんの子どもだったし、家庭でのティルしか知らなかったのだから。
「そうならよいのにな」とラフィール。「地上世界が自分で独りにしてほしいといってるなら後回しだけど、他国の軍に強要されてるとなると、帝国《フリューバル》も放っておけないぞ」
「まあ、事態の解決には都合がいいかもね」自分でも驚くほど硬い声が出た。
ラフィールが詩しげな表情をする。「そなた、怒ってるのか」
「心配しているだけだよ」そういっておいてイェステーシュにむかい、「しかし、いくら〈人民主権星系連合体〉の地方軍でも、軌道上の船舶に地上から攻撃することが無駄であることぐらいわかりそうなものでしょう。警告にならないことだって」
「ええ。ですから、可能性は低い、と見ているのです。銀河の常識を備えた文明人なら、こんなことはしません、長く孤立していた地上の民にふさわしい愚行です」
ぼくがその長く孤立した地上の民の一員でもあることを、ふたりとも忘れているんじゃないかな、とジントは思った。
「さて、凝集光砲が発射された場所はここです」
イェステーシュがいうとともに、地図の一点が点滅した。
「ビグ・チャール」ジントは頬に微苦笑を浮かべ、物問いたげな表情の調査使に説明した。
「凝集光砲の名前ですよ。フォ・ダ・アントービタ、つまり対軌道凝集光砲四兄弟のひとつです。ビグ・アル、ビグ・ビル、ビグ・チャール、ビグ・デウ。ぼくらの世界がまだ平面宇宙航法の存在すら知らずにいた時代に建造したものです.。とっくに撤去されたと思っていたのに、まだあったんですね」
「とくに急いで撤去する必要もなかったからでしょうね。脅威というわけでもありませんから」
またしてもジントの愛郷心がちくりと痛んだが、それは表に現わすまいとした。「この船の軌道を地図上に再現してくれませんか?」
「はい」
地図上に曲線が現われた。〈ボークビルシュ〉の軌道を地図上に投影したものだ。さらに高度が表示される。
「この軌道をとったのなら、フォ・ダ・アントービタのうち三基による同時攻撃も可能だったはずです」ジントはいった。「それをしなかったというのは、完全破壊するつもりはなかったんでしょうね」
「やはり警告だと?」
「これが領民政府《セメイ・ソス》の考えなら、むしろもう後戻りはできない、もしくはするつもりがないという意志の表われですね」
「なるほど」曖昧な表情のままイェステーシュはうなずいた。「しかし、それが警告ということではありませんか」
「そうでもないのです」ジントは首を横に振った。「アーヴにたいして意志を表わしたんじゃないんですよ。自分たちにたいしてです」
「しかし、どうしてそう思われるのです?というよりよくわかりません。自分にたいしてなら意志など表わす必要はないでしょう。すくなくともわたしはしませんが」
「政府主席は……、いや、マルティーニュの領民代表は独裁者じゃありません。ぼくのいたころはそうでしたし、いまもたぶん同じでしょう。独立維持ということに強力な反対があったのかもしれません。いや、あったと考えるのが自然です。ビグ・チャールの一発は、反対派を黙らせる効果があったはずです。あの一発は外部ではなく内部にむけたものですよ。」
「理解しかねます」ほとほと困惑したようにノェステーシュはいった。「ふつう、他人の艦艇を攻撃するといった類のことは意志を統一してからするものではありませんか?」
「たぶん、そのほうが賢明なのだと思います」ジントは微笑を浮かべた。「でも、それがわが故郷の流儀ですよ。既成事実をつくってしまうのが、ね」
ラフィールがはっとした顔をした。
「まあ、閣下がそうおっしゃるのなら、受け入れましょう」イェステーシュはとくに感銘を受けたようすを見せず、「ともかくこれからのことです。領民政府《セメイ・ソス》が意志を固めたのなら、しょうじきいってまだ固めていなかったとは思いもよらなかったのですが、ともかくどちらにしろもう固めたのなら、これからどうします?」
「これが既成事実ではないことを教えてやるのが第一歩でしょうね」
「たしかに、この船が受けたのは、報復するにあたいしない傷ですね」
「でしょう。いまのマルティーニュに報復するにあたいする傷を星間船につける力はないと思われます」残念ながら、というひと言を心のなかで付け加えた。「もちろん、マタイ第一二師団の戦力について、ぼくは無知ですが」
「なんらかの特殊装備を備えているならともかく、彼らにも軌道上の艦艇を撃破する能力は持っていないはずです」
「それでは、やはりぼくが行って話をします。ただ、最小限の人数で行きましょう。まもなく反物質燃料工場の建設団が到着する予定ですが、これは置いておきます
「とうぜんですな」
「けど、わたしはついていってもよいのであろ?」とラフィール。
「そうだね。今度はたぶん船から降りないから」
「降りるといっても、わたしが許さぬ。そなたが地上世界に降りるとろくなことが起こらぬからな」
「デルクトゥーじゃ無事に帰ってきたじゃないか」
「そなたはただ自分の肝臓を痛めつけるためにだけ時間を費やしたんだぞ」ラフィールは指摘した。
イェステーシュはひと通り説明を終えると、会議室を出ていった。べつの仕事が彼を待っているらしい。
ジントは会議室に残り、マーティンの地図を眺めていた。異形の生命が満ちあふれる大地にふたたび立つ日が来るのだろうか?
「ジント」ラフィールが彼の背中に呼びかけた。
「なに?」
「わたしはそなたに謝らねばならぬ」
「軍事占領されてればいいのにっていったこと?」ジントはふりかえった。
「うん」ラフィールはうなずき、「軽率だった。この地上世界はそなたの故郷でもあったのだな。よくわかってるはずなのに、ときどき忘れてしまう」
「ぼくもだよ」ジントは微笑んだ。「でも、たしかに故郷にはちがいない。ぼくはここに地上戦が起こってほしくない。いや、べつに故郷でだけじゃなく、どこでだろうと地上戦はごめんだな」
空間戦なら、参加するのはほとんどが軍士で、そうでない者も自ら望んで従軍しているはずだ。熱意に差はあるだろうし、なかには軍に入ったもののまさか本当に戦争することになるとは思わなかった者もいるだろうが、とにかく戦場に立つことを受け入れた者たちどうしが火花を散らす。だが、地上戦ではそういうわけにはいかない。一般住民も否応なく巻きこまれてしまうだろう。
「そうだな。わたしも地上戦は好きじゃない。敵も味方も同じ大気を吸いながら戦うなど、ぞっとする」
どうもラフィールが地上戦を好まない理由はジントのそれとはちがうような気がしたが、それについては遍及しないことにした。
「だが、もしも、軍事占領されていたなら、そなた、どうする?」ラフィールは訊いた。
「難問だね」ジントは考えこんだ。「占領されっぱなしで放っておくわけにもいかない。かといって、故郷で地上戦はごめんだ」
「けっきょくそなたは領地《リビューヌ》をどうしたいんだ?」
「それは簡単だよ。宇宙のことなんか忘れて、地上世界で穏やかに暮らしてくれればいい。要は帝国《フリューバル》の空間施設を攻撃したりしなければ、べつに交易なんかしなくてもいいよ」
「もったいない話だな。そなたは富の九割を逃すことになるぞ」
「残りの一割でもじゅうぶんに金持ちになれる。それにべつだんお金があっても使いようがないからね」ジントは指を鳴らした。「そうか、クリューヴ王家への借金を返さなきゃ。でも、そんなに急がないだろう?」
「すくなくともわたしは急がぬ」ラフィールはすまして、「金貸しにとっていちばんいい客は、利子をきちんと払って長く借りてくれる人間だ、というからな」
「よかった」ジントはふたたび地図に視線を戻し、「平面宇宙航法なんてものがなんであるんだろうな。光速の限界が絶対なら、ぼくも故郷の人間もこんなに苦労しなくてよかった」
ラフィールがくすりと笑った。「父もときどき同じようなことをいうぞ」
「クリューヴ王殿下が?なんでだよ。平面宇宙航法がなければ帝国《フリューバル》が成り立たないのに」
「平面宇宙航法などなければ、われらは帝国《フリューバル》など築かなくてすんだ。先祖と同じように銀河を流離っていられただろう、と」
「そのほうが幸せなの?」
「父には魅力的に思えるらしい。懐古趣味があると見える」
「懐古趣味か。故郷の人間にも同じことがいえるかもしれないな。でも、クリューヴ王殿下が懐かしまれている時代は、遠い昔だけど、故郷の人間が懐かしんでいるのは、大人ならみんな肌で知っている時代なんだ。だから、よけい執着するのかもしれない」
「その執着をかなえてやろうというのか」
「それは不可能だよ。いまさら孤立時代に戻れるはずがない。でも、幻想をいだかぜることぐらいはできる。交易をしなければ、ほかの邦国《アイス》の商品を見ることもないし、情報封鎖してやれば、自分たちは巨大な星間国家の片隅で生きているという現実に怯えなくてすむ」
「それがそなたの領民にとって幸せだといえるのか?いっておくが、父の懐古趣味は特殊だぞ。わたしは放浪時代のほうがよいなどとは少しも思えないし、アーヴのほとんどがそうであろ」
「ぼくの領民にとって、ちっとも特殊じゃないさ」
「しかし、幻を見て幸せになるつもりなら、現がはみだしてこぬようにせぬといけないぞ」
「わかっているよ。現実のほうがいいという人間もいるだろう。とくに、ぼくより若い世代には。彼らにはきちんと現実に立ち向かえる術を用意しておこう。ぼくの頭で考えつくなかじゃ、それがいちばんいい方法だよ。ぼくの同胞たちにとっては、ね」
「そなたもちゃんと考えてるんだな」感心したようにラフィールがいう。
「いいかげん認めてくれないかな、ぼくにだって物事を考える器宮があるってことを」ジントは溜息まじりに自分の頭をつついた。
「そなたの考えかたはときとして突飛すぎる」
「そうかな」
「うん。だから、ついなにも考えてないんじゃないかと心配になることがあるんだ」
「そりゃどうも。たしかになにも考えていないときもある」ジントは認めた。「だけど、故郷についてはじゅうぶんに考えたよ。何度も何度も、さ。ぼくの使命はここにあるような気がしたから」
「星界軍《ラブール》にはないのか?」
「星界軍《ラブール》にいたら、ぼくは何万人もいる主計翔士のひとりだ。仕事はきちんとしているつもりだけど、替わりはいくらでもいる。でも、地上世界マルティーニュのことをちゃんとわかっている領主はいまのところぼくひとりだから」
「そうだな。ほかの世界にとってはどうかわからぬが、この世界にとってはそなたはえがたい領主だな。きっと感謝されるであろ」
「そうは思わないな」そういうジントの心は冷めていた。「ぼくは父とともに裏切り者として教科書に載るだろう。生まれ育った故郷を帝国《フリューバル》に売って貴族になった男と、しゃあしゃあとした顔で君臨するその息子。どっちがより憎まれるかわからないけれど、少なくともぼくは第一の悪人の席は確保したつもりでいるよ」
「悲観的だな、そなたは」
「とんでもない。楽しみにしているよ。ぼくの名前をつかった諺のひとつぐらいできるんじゃないかなって」
「そう。」ラフィールはジントの顔をじっと見つめた。
「なに?」ジントはどぎまぎした、。
「たいしたことじゃない。休暇をもらってよかった、と思っただけだ」
平面宇宙航法も悪いことばかりじゃないなジントは思った――あれがなければ、ラフィールと出会うことは決してなかった。
ジントの端末腕環《クリューノ》が鳴った。
画面に浮かぶ文字列を見る。船長からの短い通信だ。至急、船橋に来て欲しいといっている。それはいいのだが、きいたことのない単語がひとつ使われていた。
「ラフィール」ジントは訊いた。「蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》ってなにか知っている?」
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6 |機密の壁《セーブ・キームコト》
ヴォーラーシュ門から次々と見慣れない型の軍艦が出現するのを、ジントは〈ボークビルシュ〉の船橋で眺めていた。
「すぐ司令官と運絡をとってもらえますか?」ジントは〈ボークビルシュ〉船長ログドーニュにいった。
「試してみましょう」ログドーニュは通信士にうなずきかけた。
「第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》は緊急回線を除く通信回線をすべて使ってヴォーラーシュ伯爵城館と交信中です」通信士は報告した。「緊急回線を使いますか?」
ログドーニュがジントの顔を物問いたげに見る。
ジントは考えこんだ。すぐにでもアトスリュア司令官に問い質したいことがある。だが、果たしてその質問が緊急回線を使うに値するだろうか?
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》が、割り当てられた通常通信回線を使っているのは、おそらく補給の手配のためだろう。つまり、彼らはひどく補給を急いでいるのだ。これだけ彪大な情報をやりとりしているということは、急いでいるだけではなく、大量の補給を受けるつもりだからとしか考えられない。
通常の補給でも時間がかかるものだ。主計翔士でもあるジントにはよくわかっていた。
第一躁躍戦隊が補給を終えてこの邦国《アイス》から去るまでには、話す機会がたっぷりある。
「待つことにしましょう」ジントは決断した。「このぶんでは司令官もお忙しいでしょう。ただ、ヴォーラーシュ伯爵城館経由でぼくが話したがっているという意志だけ伝えておいてください」
「では、先方からの通信を待つのですか?」ログドーニュは確認した。
「いいえ。あくまで、伯爵城館との通信との合間に司令宮が気まぐれを起こすことを期待してのことです」そういえば、いまこの邦国《アイス》に伯爵城館はふたつあるんだな――ジントはぼんやり思った――本来のヴォーラーシュ伯爵城館と、このハイド伯爵城館《ガリーシュ・ドリュール・ハイダル》と。
「あくまでこちらから連絡するのが筋です。通信回線が空いたら、すぐに司令官との通話を試みてください。ぼくは会議室のほうで待っています」
「通話は秘匿通信にしますか?」船長は最後の質問をした。
ジントはうなずき、「念のため、そうしてください」
会議室でジントはアトスリュアを待った。いっしょにいるのはラフィールとイェステーシュだ。
とくに会話もなく、重苦しい空気が流れている。
やがて、ジントの端末腕環《クリューノ》が鳴った。
「通信が繋がりました。すぐお出になりますか?」ログドーニュ船長の声が告げた。
「もちろんです」こたえて、ジントは立ちあがった。
ラフィールとイェステーシュも腰をあげ、威儀を正す。
すぐ立ち姿のアトスリュアの立体映像が現われた。
「なにをおいてもご挨拶にうかがわなければならないのに、あわただしくつい等閑にして申し訳ありません」アトスリュアはいった。
「壮健そうでなによりだ、フェプダーシュ男爵」ラフィールは、話している相手を爵位で呼んだ。
「ありがとうございます。殿下もご機嫌うるわしゅう」
「ご無沙汰しております、アトスリュア司令官」ジントは役職で呼ぴ、立体映橡にむかって頭をさげた。
「そうでもないわ」軽く肩をすくめて、アトスリュアは交互に見つめた。「いつか再会することになると予想していたけれど、こんなに早く実現するとは思わなかった」
「わたしもだ」とラフィール。「すごい偶然だな」
「偶然フ・」アトスリュアはふっと笑い、「まあ、そういう考えかたもできるわね、殿下」
「ほかにどう考えようがあるんだ?」
「あたしのロからはいえないわ。ここには砂袋がないもの」
「どういう意味です?」ジントは尋ねたが、笑顔が返ってきただけだったので、諦めた。
「それから、ご昇進、おめでとうございます」
「ありがとう」アトスリュアは微笑んだ。「離れていてもかつての部下が元気でいるのを見るのは、大いなる喜びだわ。とくにあなたがたとお会いすると、あの晩餐が思い出されて、社交界のお友だちを訪ねたような気にさせられる。もう戦争が終わったかのような幻想に耽れるのよ。こんなに早く再会がかなうとは思ってもいなかった。ところで、そちらのかたは?」
この場でゆいいつアトスリュアと初対面のイェステーシュが自己紹介を行なった。
「よろしく」軽くイェステーシュに挨拶を返すと、アトスリュアは、「さて、予想はつくけれど、いちおううかがっておくわ。ご用件は?」
「まず質問です」忙しいようなので、ジントは単刀直入に切り出した。「ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》への立ち入りが禁止されました。その理由をきかせてください」
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》という耳慣れない名前の部隊がヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》で補給をうけハイド門方面へ赴くという報せを受けたとき、ジントはむしろ喜んだ。
彼は故郷を再訪するにあたって、〈ボークビルシュ〉に乗っていくつもりだった。ほかに選択の余地がなかったからだ。おそらく地上世界マルティーニュにボークビルシュ〉を破壊するほどの戦力はないだろうが、それでもいささかの不安は残った。
そこに第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》が寄港するという。どうやら新鋭艦で構成されている部隊らしい。
かつては一線級の巡察艦《レスィー》だったとはいえ、武装も装甲もほとんど外してしまった〈ボークビルシュ〉よりは新鋭艦のほうが安全と判断するのはとうぜんのことだった。
安全性は高いほうがいい。できることならハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》まで〈ボークビルシュ〉に同行してもらい、地上世界と話すときには艦の一隻を使わせてもらおう、と考えたのである。
だが、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》に先行してやってきた連絡艇は、寄港の報せとともに、とうぶんハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に立ち入るのを禁止するという命令ももたらしたのだ。命令は軍令本部から出ており、勅命と等しい効力を持っている。たとえハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》の領主といえども覆すことはできない。
さらに困ったことに、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》立入禁止命令には理由も期闘も明示されていなかったのだ。いうまでもなく、いつになったらハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》にはいることができるのかは、ジントたちが予定を立てるうえで重大である。
長期間に渡って入ることができないようなら、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》のどれかの艦に乗せてもらうよりほか選択の余地がない。
しかし、目的がわからないのだから、話をする時間があるのかどうかもわからない。
さらにいえば、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の目的とは対地攻撃である可能性もあるのだ。つまり、マーティン人たちが住む複合機能建築を焼き払うつもりかもしれない。
それはぜったい阻止しなければならなかった。
「兵籍番号を」アトスリュアはいった。
「え?」思いがけない反問だったので、ジントは思わずききかえした。
「しっかりして、いまのあなたがたはわたしの部下じゃないのよ。つまり部外者。軍事機密を軽々に口にできるわけないじゃない。あなたがたの機密関与資格を調べます」
「〇一−〇〇-〇九三七六八」ラフィールが告げた。
「二一−一七-八三九九五一」ジントも告げた。
「わたしは告げるまでもありませんね」とイェステーシュ。「わたしはすでに予備役入りした人間ですから、特別な場合を除いて、軍機に関わる話には加わることができません」
「申し訳ないわね、イェステーシュ調査使」とアトスリュア。
「いえ、お気になさらず。どちらにしろ、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に入れないのであれば、わたしは職責を果たすことができません。それに、もとより司令官とのお話はハイド伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》のお仕事ですから」
「ところが、ハイド伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》にも話してはいけないみたいだわ」アトスリュアは残念そうな顔をした。「リン主計後衛翔士は知る資格がないの。あたしたちがハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》にはいってからなら、お話できるんだけど」
「そんな」ジントは意外な成り行きに驚いた。
「ごめんなさい。こればかりはどうにもならないことは、わかるでしょう。あなたも軍士なんだから」
「わたしはどうなんだ?」とラフィール。
「さすが皇族ね。アブリアル副百翔長《ロイボモワス》の持つ資格ならだいじょうぶ。あたしより高いぐらいだわ。砂袋の昔の名前をきかれたら、黙っているわけにはいかないわ」
「そうか」ラフィールはジントに顔をむけた。「どうする?本来ならわたしが話してもしかたないのだが、話をきいておこうか」
「いうまでもないことだけど」アトスリュアが口を挟んだ。「王女殿下が伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》に話すのもだめよ」
「わかってる。わたしも軍士だ」
ジントは逡巡した。ラフィールを信頼してはいたが、すべてを託すことはできない。なにしろかかっているのは、故郷の人々の生命だ。
「ひとつだけ質問させてください」
「するのは自由よ」
「まさか対地攻撃をするつもりではないでしょうね」
「さっきからずいぶん睨んでいると思ったら、そんなことを考えていたの?」アトスリュアは唇に微笑を浮かべた。
「この回答を得る資格もぼくにはありませんか」ジントは挑むようにいった。
「ないわね」アトスリュアは即答したが、冷たく切り捨てるような口振りではなかった。
「イェステーシュ調査使なら、あたしにこたえられる質問をくれるんじゃないかしら?」
「そうですな」イェステーシュは咳払いをして問をおき、「帝国《フリューバル》には原則がいくつかございます。そのひとつに、よくよくの緊急性が認められぬかぎり、領主の承認を得ずして領地《リビューヌ》に属する天体、とくに地上世界を攻撃することはならぬ、というものがあります。司令官はこの原則が変わった、という話をきいたことがありますかな?」
「猫のひげの先ほどもないわ」アトスリュアは断言した。「これで安心した?伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」
「まだです」ジントは食いさがる。「いまわが邦国《アイス》によくよくの緊急性がある、とお考えですか?」
「いまのところはまだ」
「それでは将来については?」
アトスリュアは眉間に皺を寄せた。一瞬ののち、吐息をつき、「未来が予見できれば、どんなにいいことかしらね、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》。残念だけど、あたしにはできない」
ジントはアトスリュアの美貌を凝視した。苦悩の色が差しているような気がした。取り越し苦労であればいいが。
「じゃあ、頼むよ」ジントは王女にうなずきかけてから、小声で曝いた。「お願いだ、対地攻撃の可能性があったら、なんとしてでも阻止してよ」
「わたしにそんな権能はない」ラフィールも小声でこたえた。「だけど、やってみる」
「頼む」と重ねていう。いくら王女だからといって、軍の計画を阻止するほどの力をラフイールが持っていないことは、ジントもよく知っていた。だが、ここは彼女に期待するしかない。アトスリュアにいった。「それでは、退出する前に、お願いをしておきます」
「承りましょう」
「ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》まで便乗させてください」ジントは要求した。
いまのところ故郷の星系に入るには第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》とともに行くしかなかった。なにより、同乗していればなにか不測の事態が起こっても、収拾することができるかもしれない。なにもできないかもしれないが、すぐ隣の星系で気を揉んでいるよりはましな手が打てるはずだ、というのがジントの本音だった。
「それはかまわない。でも、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》、地上世界へ降りる手配はできかねるわよ」
「わかっています。軌道上で地上世界と通信させてもらえればいいのです」
「それも約束できないわ」
「でも、できないと決まったわけではないのでしょう?」
「なるべく機会をつくるようにする。約束できるのはそれだけ」
「それでじゅうぶんです」
「でも、帰りはどうするの?こちらに戻ってくるとは限らないのよ」
「ハイド門封鎖解除命令はこちらにも出すのでしょう?ここにこの船を待機させておきますから、そのときに伝言を持っていってもらえればかまいません。迎えに来てもらいます」
「あなたの船が来るまで待てないかもしれないわ」アトスリュアはいった。「二、三日は救命夾のなかで暮らしてもらうことになるかもよ。それでもいい?」
ジントはいっしゅんたじろいだが、すぐ気をとりなおし、「まあ、そのときはエストート公国ででもおろしてもらえれば、こちらで便を捕まえます」
アトスリュアはうなずき、「わかったわ、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》。便乗を許可します。〈フリーコヴ〉がいいわね。あなたにとって懐かしい人たちがいるわ。それにじつのところ、あの艦にはもう便乗者はいるのよ」
「だれですか?」
「それはいえないわ」
「それも軍機なのですか?」
「まさか。あなたの楽しみをとりあげたくないだけ。由緒なき家のものだからといって、野暮とは限らないのよ」
「ええ。わかりました」司令官の軽口につきあう気がせず、ジントは素っ気なくいった。
「それでは失礼します」
「またあとで、リン主計後衛翔土。このちょっとした旅行の詳細をいまの段階で明かせないことはほんとうに残念に思うわ」
「ぼくもです」ジントはこたえた。
会議室にはラフィールひとりが取り残された。アトスリュアの立体映像とむきあう。
「じゃ、きかせてもらおうか、フェブダーシュ男爵」
おそらく第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》は戦闘演習を行なうつもりだろう、とラフィールは考えていた。
慣熟航行の総仕上げだ。ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》という、じゅうぶんな支援の期待できない辺境の邦国《アイス》で戦闘演習が行なわれるのは異例だが、戦時中ということもあり、軍中枢はより実戦的な演習を望んでいるのだ、と仮定すれば納得できた。
「わが戦隊の演習目的は、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》において戦闘演習を行なうことです」アトスリュアは堅苦しい口調でいった。ここでは位階よりも宮中序列を重視することに決めたようだ。
予想どおりの答えにラフィールはほっとし、同時に軍機に指定するほどのことはないではないか、と不審に思った。
「ただし、わが戦隊は一二隻で構成されています」
「どういうことだ?」いっしゅん首を捻ったが、ラフィールはすぐそのことばの裏にあるものに気づいた。ヴォーラーシュには六隻しか到着していないのだ。「半分に分けたのか
アトスリュアは無言でうなずく。
「演習目的はハイド門を制圧し、防衛することです」
「つまり残りの六隻は仮想敵として別方面からハイド門にむかってるんだな」とたしかめる。
「そのとおりです」
「連絡はとってないのか?」
「敵軍と連絡をとるわけにはいかないでしょう」
「じゃあ……」ラフィールの頭に最悪の予想が浮かんだ.「そなたたちの仮想敵が先にハイド門にはいることもありえるんだな」
「彼らがそう努力していないのなら、抗命罪で告発しなくてはなりません」
「もしも、そなたたちの仮想敵が先にハイド門に入り、地上世界から攻撃を受けたら……」
「わかりません」アトスリュアは首を横に振った。「しかし、反撃をすることはじゅうぶんにありえることです。いえ、相手の戦力が不分明である以上、そうするのがとうぜんだと判断します」
「しかし、ジントの話では、地上世界にそれだけの戦力はないはずなんだ」
「そう判断する材料はありません。あたしにも、あたしの仮想敵にも」
「慎重な判断をするわけにはいかないのか?」
「ハイド伯爵から情報を提出していただきますわ。もちろんあたしに強制力はありません
ですが、事情が事情ですから喜んで協力してくださるでしょう.、そのうえで、判断します。
しかし、仮想敵部隊にそれを報せるわけにはいきません」
「連絡をとることができないのか,・」仮想敵に連絡するのは、この場合、演習中止を意味する。だが、司令官には中止する権限がある。
「それはできません」アトスリュアはきっぱりいった。「あたしはこの戦隊に戦争の帰趨がかかっている、と信じます。この演習にはずいぶん時間をかけています。いったん中止してしまうと、はじめからやりなおし。戦時中にあまりに呑気といわざるをえません」
「しかし、不測の事態が起こったら!」
「この艦種の実戦配備が遅れても、なにかしら影響が出ます」
アトスリュアの硬く結ばれた唇は、もうこの話は終わり、と告げているかのようだった。
「わかった」ラフィールはうなだれた。「なるべく地上世界に影響のでないようにしてほしい」
「もちろんです。地上世界は帝国《フリューバル》にとっても財産、また星界軍《ラブール》が領民に砲目をむけることはもっとも忌むべきこと。そのぐらいは翔士ならだれでも心得ているはず」アトスリュアはかすかな微笑みを浮かべ、「対抗部隊を率いているロイリュア百翔長も、地上の民を殺戮しても名誉とならないことぐらいわかっていますわ。反撃するにしても、なるべく死傷者の出ない方法で行なうでしょう」
ジントは庭園で花を眺めていた。ブリアン草だ。たしかにぱっとしない花だな、と改めて思った。色はくすんだ紫で、どちらかというと人の気持ちを陰欝にさせる。
ラフィールがやってきた。
「移乗の準備をしなくてよいのか、ジント」
「準備はすんでいるよ」ジントは花を見つめたまま、「きみこそだいじょうぶ?」
「わたしもすんでいる。それで、この花も持っていくのか?」
「それは考えなかったな」ジントは額に手を当て、「いや、置いておこう。どうせむこうには嫌になるほど咲いている」
「地上世界に降りるつもりなのか」
「できれば、ね」
「しかし……」
「第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》はどんな演習をするつもりなんだい?」
ラフィールは束の間、苦渋の表情を垣間見せた。「それはいうわけにはいかぬ」
「ぼくにきかれると、なにか支障がある?」
「そんなことはないであろ」王女は首を横に振る。
「じゃあ、なぜ……」
「軍規だからだ。決まってるであろ」
「デルクトゥーで会った友人がいったよ」ジントは苦い思いでいった。これで王女と喧嘩になってもかまわないぐらいの気分だった。「アーヴは遺伝的に秩序には逆らえないって。本当のことだったんだな。きみには自分の頭で考えることができないのかい?」
「たしかに秩序に逆らうには抵抗があるな」意外にもラフィールは冷静にジントの怒りを受けとめた。「たしかにそれがわれらの宿命だ」
「それで、自分が嫌になったりしないのか」
「われらの宿命は四種の塩基で綴られている。わたしはこのことを引け目に感じたことはない」ラフィールはいいきった。「ジントはそうじゃないのか?」
「ぼくは宿命遺伝子を持っていない」
「では、そなたの宿命は遺伝子と無関係なのか?」
ジントはことばに詰まった。「……そうとはいいきれないけれど」
発着甲板に号笛が鳴り響いた。
「ご来艦を光栄に存じます、殿下、閣下」ソバーシュ艦長が敬礼すると同時に、横一列に並んだ〈フリーコヴ〉の翔士たちも敬礼した。
「特別搭乗許可をいただき、感謝いたします、艦長」ジントは鹿爪らしく応じた。
「同じくそなたらに感謝を」ラフィールもいった。
「まさか殿下や閣下を自分の船にお客としてお迎えすることになるとは思ってもみませんでした」とソバーシュ。
「あの、閣下はやめてください」ジントは抗議した。「たしかに休職中ですが、ぼくはまだ主計後衛翔士です」
「じゃあ、リン主計後衛翔士と呼んだほうがいいのかな」ソパーシュは即座に昔の口調に戻った。
「そうしてくださると、ありがたいです」
ソバーシュはラフィールにむかって、「しかし、艦長の称号は譲りませんよ」
「しかたないであろな」ほんとうに悔しそうにラフィールがいう。
「乗員たちを紹介させてください」ソバーシュがいった。
「はい」ジントはうなずいた。エクリュア以外は全員が初対面だから、紹介は必要だった。
紹介がひととおり終わると、ジントはあることに気づいた。「書記がいらっしゃいませんね」
「ああ。書記のディレール主計前衛翔士はいま手がはなせないので、失礼させていただいた」ソバーシュはいった。
「ああ。補給作業中ですからね」ジントは納得した。
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》はこのヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》で補給中だった。目的地であるハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》では補給は望めないので、じゅうぶんな補給をする必要がある。
「それにしても、あわただしいな」とラフィール。「乗員に休暇も取らせないのか」
「ええ。とてもそんな余裕ありません」
「なんだか、迷惑をかけちゃったみたいですね――ジントは恐縮した。
「そんなことないよ。きみは自分が書記だったから却ってわからないだろうが、補給作業は書記以外の翔士は意外と暇なんだ。従士たちにつきあって忙しそうなふりをしているだけなんだよ。もちろん、航行中に比べれば忙しいがね」ソバーシュは乗員たちに解散を告げ、エクリュアを呼ぶと、ふたりにいった。「申し訳ありませんが、わたしはいったん任務に戻らせていただきます、また出港後に、ゆっくりと話でもしましょう。エクリュア前衛翔士、案内を頼むよ」
了解のしるしなのか、エクリュアは無言でソバーシュに敬礼した。
「こっちへ」エクリュアはふたりにいった。
ジントとラフィールは顔を見合わせ、エクリュアについて歩きだした。
案内されたのは翔士食堂だった。突撃艦より大きいとはいえ、襲撃艦《ソーバイ》の限られた居住空間には談話室を設けるほどの余裕はないらしい。
「王女殿下!」
扉が開いた瞬間、声がした。ひとりの女性が進み出て、脆かんばかりに深々と辞儀をした。
よく均衡が保てるものだな、とジントは舌を巻いた。
女性が顔をあげたが、ジントには見覚えがなかった。だが、ラフィールにはあったらしい。
「そなた、国民セールナイだったな」自信なさげにラフィールがいう。
「憶えていてくださったとは光栄です」セールナイは目を潤ませた。
「なぜここにいるんだ?」
「王女殿下の御座船が攻撃をうけたとうかがい、いても立ってもいられず、ちょうどよい便がありましたゆえ、とるものもとりあえず便乗させていただいたしだいでございます。ご無事なお姿を目にすることができて、こんなに嬉しいことはございません。ああ、ほんとうにようございました」
どうも彼女はぼくに用がなさそうだな――そう判断してジントはその場を離れ、食堂に入った。
補給作業中ということで、翔士の姿はなかったが、客がふたりいて、しんみりと飲み物を畷っている。
「パーヴェリュア従士長」ジントも驚かされ、王女と同じ質問をする羽目になった。
「なぜここにいるんだ?」
「どうも、主計翔士。ご無沙汰しています」とパーヴェリュア。「なぜわたしがここにいるかというと、まあ、おまけみたいなものですか」
「おれがここにいるのには驚いてくれないのかね」同席していたサムソンが不満げにいった。
「いや、サムソンさんはいるんじゃないかと思ったんですよ」ジントも椅子に坐ろうとした。「アトスリュア司令官が知り合いがいるようなことをおっしゃっていましたから」
「坐っちゃだめ」エクリュアが咳くようにいった。
「え?なぜ?」
「個室に案内する」
「ああ、艦内図を見るから大丈夫だよ」ジントはいった。
「それじゃ、わたしは案内してもらおう」とラフィール。
「わたくしもこ伺候いたします」セールナイはもちろんついていくつもりだ。
ジントにはまだ、セールナイが何者であるのか、思い出せなかった。首を捻りつつ、三人の後ろ姿を見送って、ようやく椅子に坐った。
「船団はどうしたんです?」セールナイのことは後回しにして、ジントはサムソンに尋ねた。
「先任船長に任せた」サムソンはいった。「どうせおれは航行中はなにもすることがなかったから、ちょうどいい。こっちには向かっているよ。この戦隊に比べればゆっくりとだが、あの船どもにできるかぎり速くね。だが、命令がないかぎりここ、つまりヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》に留まるようにいってある。それでよかったんだろう」
「ええ、もちろん」ジントはうなずき、「やっぱり、ようすを見に来たんですか?」
「ようすを見に米た、というよりきみに会いに来たんだが。どうも新しい職場はずいぶん剣呑らしいから、わが主君《ファル・ローニュ》とじっくり話し合わなきゃ、部下を持ち場に着かせることができない。そこでたまたま行き会ったこの船に乗せてもらったんだ。目的地はハイドだし、ヴォーラーシュで補給するというし、しかもおれたちの船団よりずっと速い」
「話し合うのはいいんですが、ぼくもこれからようすを見に行かないといけません」
「わかっているよ。ご一緒するさ」サムソンはうなずき、「ところで、調査使さんはどうしたんだ?てっきりいっしょに来ると思ったが」
「待機してもらいますよ。こういう予定の見えない旅行は気に入らないらしくて」
イェステーシュには〈ボークビルシュ〉で果たすべき仕事が山ほどある。旧巡察艦《レスィー》の同行が認められるなら、もちろんついてきただろうが、この状況ではヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》に留まったほうが得策だった。なにしろいつハイド伯爵軌道城館に戻れるのかわからないのだ。
「ところで」ジントは声を潜めた。「この演習の目的、ご存じですか?」
「いや」サムソンはふつうに喋った。「訊いたが、教えてくれなかった。領主のおまえさんも教えてもらっていないのか。じゃあ、おれに話すわけがないな」
「推測できませんか?」サムソンのほうが彼よりも軍歴が長いし、この戦隊とこれまで行動をともにしてきたのだから、なにかしら考えがあるはずだ、とジントは思った。
「思いつきでいいのか?」
「ええ」
「邦国《アイス》を封鎖する演習というのはひとつだけだな、おれの知るかぎり。つまり模擬戦闘だ」
「それはぼくにもわかります」ジントは軽い失望を感じつつ、「ほかにもなにか考えられないでしょうか?」
「いや。なにを恐れているんだ、わが君。まさか、これが地上世界マルティーニュへの攻撃部隊だと思っているんじゃないだろうな」
「いえ、そこまでは」ジントは首をふった。不十分だが、アトスリュアはその可能性を否定してくれた。「この部隊だけで、模擬戦闘をするならいいんです。もし地上世界から攻撃されたとしても、反撃は最小限で抑えることができる。しかし、対抗部隊があったら、そして、そっちのほうがさきに伯国に入ったとしたら、最悪の事態が考えられます」
「心配のしすぎだと思うな」サムソンはいった。「おれも〈ボークビルシュ〉が地上から攻撃されたのはもちろん知っている。だが、被害は軽かったんだろう?あのていどの攻撃を受けても、まともな星界軍《ラブール》の指揮官なら、無視するよ」
「なんでそんなに安心していられるんです?他人事だからですか?」
「他人事なものか。大事な職場だ」
「サムソンさんの職場は空間でしょう」ジントはつい険のあるロ調でいった。
「そうだが、羽を伸ばせる地上世界が近くにあるというのは掛け替えのないものだぞ」サムソンは、ジントの棘を含んだ口振りに気づかぬかのように、「そういえば訊くのを忘れていたが、マル一アィーニュという地上世界に旨い酒はあるのかな?」
「知りませんよ、そんなこと」じっさい、幼い頃に離れたので、故郷の酒の味など知らなかった。「どうだっていいでしょう!」
「落ちつけ」サムソンは低いがよく通る声でいった。「きみの気持ちはわかるつもりだ」たしかに冷静さを失いかけていたことは自覚できた。だが、きゅうに高ぶりがおさまるものではない。「そうですか?」
「おれだって、わが麗しのミッドグラットが傷つけられる恐れが塩の粒ほどもあれば、取り乱しもするだろう。それに比べりゃ、わが主君《ファル・ローニュ》は理性を保っておられる」
「からかわないでください」
「いや、本心だよ。この食堂に入ってきたきみを見たとき、ひょっとしてハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》で実戦演習が催される可能性に気づいていないのかな、と思った。まあ、すぐ、なんとか平静を装っているだけだとわかったけれどもね」
「そんなにひどかったですか?」ジントはようやく落ち着きを取り戻しかけていた。
「だから誉めているんだよ、おれは。そして、かくのごとき英適なる主君に仕えている我が身の幸運を心から喜んでいるんだ」
「ますますからかわれているような気がしてきた」
「わが不徳のなせる業だな」
「そんなことより、ぼくはなにをすべきだと思いますか?なにもできないんでしょうか」
「そいつは、おれの手に余る質問だ」
「けっきょく、ぼくにはなにもできないということですか」
「だから、それはおれにはわからない。対抗部隊があるのかどうか、ましてやどっちが先に着くのかどうかなんてことはわからない。だが、きみはこの艦に乗った。すくなくとも、こちらのほうが先に到着したら、攻撃を止めることができるかもしれない。事故の起こる確率が半分にさがるんだ。これはすごいことだよ」
「でも、ほんとうに止められるんでしょうか?」
「いざとなれば、叛乱を起こすかね?」
「叛乱を?」ジントは呆然とした。そんなことは考えもしなかった。
「そうさ。艦橋を占拠して、旗艦《グラーガ》を攻撃するというのはどうかね。そうすれば、地上攻撃どころじゃない」
冗談だと解釈することにして、ジントは微笑んだ、「そのときはつきあってくれますか?」
「どうかな」サムソンは首を傾げる。「まあ、状況しだいってところかな。勝ち目のない戦いはしたくない」
「おれの忠誠心には期待しないでくださいよ」パーヴェリュアが口を挟んだ。「アーヴの地獄に突き落とされるのはごめんですから」
「アーヴの地獄に落とされる心配はないな」
「なぜそういいきれるんです?」
「ソバーシュ艦長はもののわかったおかただ。おれたちがアーヴの地獄に牽かれる前に、苦しみのない死を与えてくれるだろう」
「最後までソバーシュ副百翔長《ロイボモワス》にご迷惑をかけるんで?監督、あんたいつからそんなに堕落したんです?」
「部下の前では身を律していただけさ」
「うまくおれたちを騙しましたな」
「まあ、とにかくこの話はこれで終わりだ」サムソンはジントにむかっていった。「なにかできるかもしれないし、なにもできないかもしれない。相手は帝国《フリューバル》で、きみは辺境の邦国《アイス》の領主で、おれたちはその家臣に過ぎないんだ。万能じゃない。できることをしなかったのなら、そのときは悔やむなり、呪うなり、好きにすればいい」
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7 |ハイド門沖演習《ベンコス・ウエク・ソーダル・ハイダル》
「告げる。こちら、艦長」ソバーシュの声が響いた。「たったいま、演習内容が機密解除された。乗員は手が空きしだい、自分の端末腕環《クリューノ》で詳しい内容を確認しておくこと」
ジントはこの艦内放送を翔士個室できいた。寝台に横たわったまま、耳をそばだて、端未腕環を起動する。
「かいつまんでいうなら」ソバーシュは話をつづけた。「航行演習ののち、攻防演習にはいることが一連の演習の流れである。きみたちも僚艦の半分が行動をともにしていないことに気づいたと思う。別行動をとっている六隻はわれわれとは反対方向からハイド門に向かっていた。どちらが早くハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に到着するか、それが演習第一段階で競われていた。ここで残念な報せを告げなければならない。われわれはこの第一段階で後れをとった」
ジントは寝台から跳ね起きる.端宋腕環の画面には演習内容の詳細が表示されているが、いまや急いで読むべきものではなくなった。いったん表示内容を消去して、艦橋への立ち入り許可を求める手続きをした。
承認がおりるのを待つあいだに、手早く衣服を着こむ。
「つまり、対抗部隊はすでにハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に入っている。したがって、演習第二殺階ではわれわれは攻撃側になる。第一段階で負けたからといって失望することはない。むしろ第二段階こそがこの演習の本番なのだから。ハイド門到着まであと十二時聞の予定。それから演習の総仕上げに入る。各員、実戦にあたるつもりで、身体を休めておくように放送が終わる前に、ジントは艦橋にむかっていた。艦橋立入許可はまだおりていなかった。
艦橋に着くころには、立入が許可されていた。
ジントは一回限り有効な電波紋鍵で艦橋の扉を開けた。
「悪いが」ソパーシュはジントの顔を見るなりいった。「まだハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》の状況についてはわからないんだ。われわれにわかっているのは、仮想敵部隊がハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》にいるということだけだ」
「そうですか」ジントは力が抜けるのを感じた。
まあ、前向きに考えよう――彼は思ったーなにか緊急事態があったのなら、演習は中止されるだろう。そうなっていないということは、惑星マーティンは無事だということだ。残念ながら、自分にそういいきかせてみても完全に安心できなかった。みずからの手で地上世界をひとつ壊滅させたからといって、星界軍《ラブール》の翔士はそれを緊急事態と認識するだろうか?
「厚かましいお願いですが、演習終了まで艦橋にいさせていただいてかまいませんか?」
「厚かましい?なぜ?」ソバーシュは微笑を浮かべ、「きみの搭乗目的は演習の見学じゃなかったのかい。もちろん、いてもらってかまわないよ」
「ありがとうございます」
「椅子を用意させるよ。それまで朝食を摂ってきたらどうかな?起きたばかりなのだろう」
ハイド門突入まで一時間を切った。
「艦長」ヤテーシュ後衛翔士がソバーシュを呼ぶ。「旗艦《グラーガ》から泡間通信。連絡艇を偵察任務に出すように、とのことです」
「了解した、と返電してくれ」ソパーシュはいった。「エクリュア前衛翔士。連絡艇の艇指揮はきみに任せる。ただちに発進準備をしてくれ」
エクリュアは立ちあがって敬礼すると、軍の礼式にきっちりそったやりかたできびすを返した。
「ソバーシュさん」ジントも椅子から腰を浮かせた。「ぼくも行ってかまいませんか」
ソバーシュは眉を曇らせたが、すぐうなずいた。「許可しよう、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」
「ありがたい」ジントはエクリュアに、「よろしく頼むよ」
「わたしはわたしの任務を果たすだけ」エクリュアはいった。「あなたのためには、なにもしない」
「それでかまわないよ」
「わたしも行きたいが、この艦の連絡艇も二人乗りか?」とラフィール。
エクリュアは無言でうなずく。
「じゃあ、しょうがないな」ラフィールはジントにむかい、「気をつけて行って来るがよい」
「ありがとう」
「ほんとうに気をつけて」とソバーシュ。「酔い止めの薬を忘れないように」
「どういうことです?」
「ほんとうは許可しないほうがいいのかもしれないな」ソバーシュはジントの身体を値踏みするように眺めた。「きみの骨格は脆すぎる」
「はあ」ジントはエクリュアに眼差しをむけた。
エクリュアはいつものように無表情だ。
「あの、彼女の操舵はそんなに……?」ジントはソバーシュに尋ねる。
「ああ」ソバーシュは気遣わしげな目をして、深くうなずき、「やはりやめたほうがいいかもしれないな」
「いえ、行きます」ジントは決断した。
艦橋を出てからエクリュアが咳くように訊く。「いったい、艦長はなにを気にしていたの?」
「さあね」ジントはこたえた。
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》青色部隊から放たれた偵察任務の連絡艇は、〈フリーコヴ〉からのものもあわせて三隻だった。
「ハイド門突入まであと五分」エクリュアが眩いた。「一分後に時空分離の予定」
同乗者にすこしは気を使ってくれているのかな、とジントは思った。
周囲の壁に艦外風景が映った。
「ありがとう」空識覚のない自分への配慮だろうと思ったジントは礼をいった。
「ちがう」エクリュアはいった。「わたし、この光景が好きだから」
時空泡内面は灰色だ。その灰色のなかに二隻の僚艇が見える。〈フリーコヴ〉搭載連絡艇はちょうど編隊の中央にあり、左右にほかの連絡艇を随える格好になっている。その二隻がしだいに離れていく。
「時空分離」
僚艇が灰色の壁に呑みこまれた。呑みこんだ部分が虹色に輝いている。
エクリュアは陶然とした眼差しで左右の虹を見比べた。たしかに多量の時空粒子が衝突することで発顕する円形の虹は、地上の虹よりも鮮やかで、見惚れるに値する。そしてそれが広がるにつれて、色が槌せていき、やがて灰色と区別がつかなくなるその過程も、溜息を誘う。
「ハイド門突入まであと一分。加速する」
「あっ、ちょっと待って」ソバーシュの警告があったので、座席帯がちゃんと締まっているかを入念に確認しようとした。
「待たない」
連絡艇が加速をはじめた。
ジントのからだが座席に埋まる。柔な地上仕様の骨は早くも軋みはじめた。抗議しようにも声が出ない。
「突入まで三十秒。二十秒……」
エクリュアの秒読みは冷静そのもの。加速をまるで苦にしていないことは明らかだった。
むしろ楽しんでいるかのようだ。
「一○、九、八……」
秒読みはしだいに、なにやら楽しげに弾みはじめた。
やっぱり楽しんでいるジントは確信した。
「突入!」その瞬間、エクリュアは歓喜の叫びを送らせた。
たちまち、ジントの身体は右に吹っ飛ばされた。
霞がかかりそうな意識の片隅で、ジントはフェブダーシュ男爵領でのささやかな戦いを思いだした。あのときのラフィールの操舵のほうが、まだしも繊細だった。
確認しそこなったものの、座席帯がしっかりと締まっていたことが幸いした。そうでなければ、ジントは操舵室を鞠のように跳ねまわっていただろう。
欝血する視界の中央に巨大な軍艦の艦首があった。襲撃艦《ソーバイ》だ。ぐるぐると異様な回転をしている。どちらが異様な軌道を描いているのか、ジントにはわかっていた。空識覚はなくとも、加速ぐらいは感じることができるのだ。
むしろアーヴというのは加速度に対する感覚が鈍いのではないか、とジントはつねつね疑っていた。そうでなければ重力制御機開もない船で無茶な機動ができるはずがない。
襲撃艦《ソーバイ》の舳先が迫ってきた。
ぶつかる、といおうとしたが、舌はもはや機能を停止していた。
苦行は前触れもなく終わった.
「本艇は爆散しました。本艇は爆散しました……」エクリュア以上に抑揚を欠く機械音声が繰り返している。
「やられたの?」ジントは隣の席をうかがった。
「ええ。任務に失敗した」きわめて冷静に彼女はこたえた。「運がなかった」
そりゃ、あんだけ接近したら、撃破されてもしかたがないよな。たしかに仮想敵艦近くで〈門〉を出てしまったのは運が悪かったけれどージントはそう思いつつ、エクリュアを見つめた。そこに坐っているのはいつもの彼女だった。
おそらくあれは幻聴だったのだろう、とジントは思いこもうとした。加速が止まった瞬間にきこえた、アーヴ語を学校で習った者には朧気にしか意味のとれない罵署雑言も、それまで操舵室に響いていた、意味はさっぱりわからないながら、楽しんでいることだけは伝わってくる奇怪な歌も。とくにあの歌をエクリヱアが歌っていたはずがない。アーヴは例外なく絶対音感を持っているのだ。そして、あんな調子外れな騒音を自分の喉が絞りだすのに絶対音感を持った人間が耐えられるはずがないだろう。
「ええと、これからどうするの?」迂闊なことに、ジントは偵察行の途中に撃墜されるということは考えていなかった。「〈フリーコヴ〉に還るのは還るんだろう?」
「わたしたちは死者」エクリュアは厳かに告げた。「死者はどこにも還らない」
「じゃあ、どうするの?」いまさらながらジントは慌てた。すぐ〈フリーコヴ〉に戻るつもりだったのだ。
「とりあえず、待機」
「きみとふたりっきりで」
「いや?」
「べつにそんなことはないけれど、でも……」
「ええ。きっとすごく退屈」
「ほんとうにただ待つしかないの?」
「なにがしたい?」エクリュアは首を傾げた。
さっきの歌をもう一度聴かせてくれ、ということばを危うく呑みこんで、「地上世界のようす、わかるかな?」
「ちょっとだけなら」
「ちょっとだけでもいいよ。探査してみてよ」
エクリュアはなにかを待つようにじっとジントを眺めている。
「ええと、なに?」ジントは困惑した。
「お願い」
「えっ?」
「なんだか、偉そう」
そこでようやく要求されていることに気づいた。たしかにさっきの要求は命令しているようにきこえたかもしれない、
「お願いします」ジントはつけくわえた。
エクリュアは無言でうなずくと、制御籠手を脱ぎ、操作をはじめた。
主画面に地上世界マルティーニュが拡大されて映った。あいにくクランドン市の複合機能建築群は影になっている。
惑星のたたずまいはジントの記憶にあるものと変わらなかった。白い斑点をまとった、凶暴なまでの緑がしたたる球体だ。
通信が入った。
「これは霊界通信だ」と相手はいった。「彷径える魂に挨拶を送る」
地上人のなかには、アーヴは宗教をまったく信じないのだから、冷徹な合理主義者なのだろう、という者がいる。ぎゃくに、ご大層な身分制度を保存しているぐらいだから、宗教というほどには洗練されていない迷信に縛られているのだろう、という者もいる。極端な意見がたいていそうであるように、どちらの意見も誤りだ。
アーヴは死後の世界だの永遠の生命だのといったことは信じていないが、冗談の種につるぐらいには心霊という概念に親しんでいた。
「こちら、彷裡える魂」とエクリュア。「ご用はなに?」
「用というほどのことではないが、そちらを収容してもいい。それとも、演習終了まで慣性航行するか?即答を望む。まもなく演習は本格的な局面にはいることが予想されるから、収容するならいまのうちだ」
「無用。死者は空間で憩う」
「ご自由に。それでは死を楽しんでくれたまえ」
通信はきれた。
「なぜ断ったの?」ジントは訊いた。
「あなたとふたりきりでいたいから」エクリュアはジントの目を凝視し、「といったら、嬉しい?」
「まあね」ジントは一瞬たりとも本気にとらなかった。「それで、ほんとうのところは?」
「公平じゃないから」
「どういうこと?」
「わたしたちの重さが艦の機動力を削ぐ」
「ぼくたちの体重が問題なの?」
エクリュアは蔑むような目でジントを見て、眩いた。「連絡艇」
「なるほど」
彼女の指摘するとおり、連絡艇の質量は巨大な襲撃艦《ソーバイ》にとっても無視できないかもしれない。だが、むこうもそれは考慮のうえだろう。
ジントは今一つ納得できないでいた。
「ところで」ジントは話題を変えた.、「地上世界と交信できるかな?」
「まさか」
「できないの?」
エクリュアはうなずいた。「こちらからできるのは緊急事だけ」
どうやら演習解除までこちらから交信することはできないらしい。
たしかに、連絡艇で地上世界と交信するというのは非常識かもしれない。どちらにしろ落ちついて難題を解決する雰囲気ではない。
前方の壁には相変わらず惑星マルティーニュの拡大映像が映っていた。
何気なく目をやって、ジントは身を乗りだした。
「もうちょっと拡大できない?」ジントは画面の一部を指さした。「そこをもっと大きく」
なにかが惑星の縁から姿を現わしつつあった。軌道はごく低い。圏界面につっこんでしまいそうだ。
「もっと大きくできない?」
ジントの声に含まれる緊迫感がそうさせたのか、今度は文句もいわずエクリュアは従ってくれた。
惑星周辺に希薄ながらも存在する大気のせいで、その姿は陽炎こしに見ているかのように歪んでいる。だが、あきらかに襲撃艦《ソーバイ》だった。地上世界の近辺でなにをしているのだろう。
「あの船と交信を!」ジントは叫んだ。
「だめ。理由はもういった」
「そうだけれども、緊急事態だよ」
「どうして?」
「あれは対地攻撃をするつもりかもしれない」
「そんなことない」
「なにを根拠に?」
「離れている」
エクリュアのいうとおり、襲撃艦《ソーバイ》は惑星軌道から離脱しようとしているところだった。
もうすでに対地攻撃を終えてしまったのだろうか。
「地上世界の近くに……」ジントはいいかけてやめた。
一刻も早く地上のようすをたしかめたかったが、フォ・ダ・アントービタの機能が健在かどうかわからない以上、近づくのは危険だった。軍艦ならともかく、この連絡艇では一撃でやられてしまう。
「いいの?」
「うん。危ないからやめておこう」焦りを感じつつも、ジントはいった。「ところで、演習はいつごろ終わるんだろう?」
「知らない。食べる?」
「なにを?ああ、食事にしようかってこと?いいね」ジントは賛成した。それほど空腹ではなかったが、食事は気分転換にいいだろう。
「そ」エクリュアは席を立ち、すぐ戻ってきて戦闘配食をとってきた。
ジントは礼をいって受けとり、戦闘配食をほおばった。いまの自分にできることといったら、食事するぐらいのものだ。
「未帰還なのは〈フリーコヴ〉の連絡艇だけね」アトスリュアがいった。「覚悟していた
より被害が少なかった。でも、実戦では損害なしといきたいものね」
その少ない被害がなぜよりによって自分の部下なのだろう。やはり人選を問違ったか――ソバーシュは非難されているような気分になった。もちろん思い過ごしだろう。アトスリュアなら非難するときは、遠回しな物言いを選ぷはずがない。
ともあれ、〈フリーコヴ〉は航法士抜きで戦わなければいけない。もっとも、通常宇宙
においては航法士の仕事は多くない。忙しいイドリア十翔長《ローワス》や通信士の補助に回る。それもあって、エクリュアに艇指揮を命じたのだが。
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》青部隊は〈門〉突入を直前にして、時空融合をし、情報連結していた。これまでに数波にわたって連絡艇を放ち、ハイド門の向こう側を偵察していた。最初の偵察では、対抗部隊の六隻は分散していたが、偵察や受けるやただちに集結をはじめたもようで、すでに迎撃態勢を整えているらしい。
「敵は通常宇宙で迎撃することに決めたようですね」
「では、時空分離せずに突っこみますか」〈バートコヴ〉艦長デュール副百翔長《ロイボモワス》がいう。
「いえ、いったん時空分離する」アトスリュアは首をふった。「ロイリュア百翔長が待ちかねているでしょう」
〈門〉は通常宇宙では球体、平面宇宙では曲線として存在している。その球体上の一点と
曲線上の点は対応していない。つまり、通常宇宙から〈門〉に進入した場合、曲線のどこで平面宇宙に出現するかわからないのだ。そのぎゃくに、平面宇宙から遷移しても、燐光を放つ球状の〈門〉のどこから出現するかわからない。したがって、横一列に並んでいても、〈門〉をとおると隊列はばらけてしまう。平和な時空なら問題にならないが、戦場では各個撃破されてしまいかねない。
だが、この現象は時空泡単位で起こる。いいかえれば、時空泡を共有する部隊なら、隊列を維持したまま、〈門〉を通過できるのだ.もっとも時空泡には限界質量があるので、大艦隊をひとつの時空泡でくるむのは不可能だが、襲撃艦《ソーバイ》六隻の質量はなんとか限界におさまる。
だが、限界質量ぎりぎりの時空泡は動きが鈍い。それで、作戦行動を迅速にするためには、時空分離して〈門〉付近まで進出する必要があるのだ。
「集結点はここ」アトスリュアがいうと同時に仮想窓の平面宇宙図に青い点が灯る。ハイド門のすぐ近擁だ。「あとは、作戦もなにもないわ。時空融合緩ただちに情報連結。隊列はそのときに指示する.、以上よ。集結点で会いましょう。全艦、時空分離せよ」
六隻の襲撃艦《ソーバイ》はふたたび時空融合した。
「情報運結完了」通信士が報告する。
そのとき、なにかが〈門〉から飛びだしてきた。その正体は考えるまでもない、対抗部隊の襲撃艦《ソーバイ》である。
「質量から見て単艦時空泡です」
「なんのつもりなの?」アトスリュアが額に手を当て、「ああ、わかった。実戦でも同じ戦術を使うつもりかな?とにかくいまは対応しないといけないわね。〈フリーコヴ〉時空分離して」
「迎撃しますか」
「必要ない。でも、敵に選ばれてしまったら話は別よ。そのときは、あいにく救けてあげられないけれど、勝ちなさい」
「了解しました」ソバーシュは、誰も坐っていない航法士席を見て、航法士の代役を務めているヤテーシュ後衛翔士に視線を移す。その動きは滑らかだったので、航法士の不在をいっしゅん忘れていたことはばれなかっただろう。「時空分離してくれ」
〈フリーコヴ〉は仲間たちから離れた。
仮想敵鑑の意図も命令の意味もわかる。
襲撃艦《ソーバイ》七隻では時空泡限界質量を超えてしまうのだ。時空泡は平面宇宙の物理法則によって崩壊させられてしまう。襲撃艦《ソーバイ》はそれぞれが時空泡発生機関を持っているのでとくに被害は受けないが、そのまま通常宇宙に遷移すると、隊列が崩れてしまう、相手はそれを狙っているのだろう。
こちらが採るべき手段はいくつかある、
ひとつは時空分離して迎撃することだ。たとえば、三隻ずつにわかれる。こうすれば、仮想敵艦が時空融合してきても、有利な状況で戦うことができるだろう。だが、三隻の時空泡は単艦時空泡に比べて速度が遅い。時空融合するかいなかの主導権はむこうにとられてしまう。相手にしてみれば、劣勢とわかれば無理に時空融合しなければいい。そのまま三隻単位でく門Vを通過してくれるなら、通常宇宙戦を優位で進めることができるし、ふたたび集結するようなら、また時空融合する構えを見せればいい。けっきょくこちらは、〈門〉通過を三隻ずつで行なうか、諦めるかを選択するしかなくなる。単艦ずつで時空分離しても同じことだ。たしかに速度は遜色なくなるが、接触するも、〈門Vに逃げこむかも、相手の自由。つまり、主導権は相手の手の内にある。
あるいはいっそ時空融合させてしまう手もある。この方法を採ると、時空泡が崩壊したあと、どうなるかはわからない。時空泡がいくつにわかれるのかも、分裂した時空泡に何隻の襲撃艦《ソーバイ》が内包されるかも、確率論的にしかいえないのだ。主導権を仮想敵艦に握られることはないが、こちらも手にすることができない。主導権はどこかに弾け飛んでしまう。
あれやこれや考えると、一隻だけ分離させるのが最善の手に思える。もし五隻の時空泡に相手が融合したなら、容易に対抗部隊の戦力を}隻分削ぐことができる。一隻の時空泡に融合されても、対等に戦うことができる。
そして、自分の艦が選ばれた理由も、ソバーシュには推察できた。いま、〈フリーコヴ〉は僚艦より連絡艇一隻分軽いのだ。これは航法士の不在を補ってあまりある利点だ。
時空分離した。
「ソパーシュ艦長」ラフィールが立ちあがった。
「この席は譲りませんよ、殿下」ソバーシュは冗談めかしていった。
「そうじゃない」心外そうに王女は唇をとがらせ、「エクリュア前衛翔士の代役をさせてもらっていいだろうか、ともうしでようとしたんだ」
「そうでしたか。しかし……」ソバーシュは首を横に振った。「実戦でなら一も二もなくお願いしますが、これは演習です。殿下は演習の見学者であって、参加者ではありません。殿下に手伝っていただいては、公正とはいえなくなってしまいます」
「それはわかってる。しかし、限りなく実戦に近い演習であろ。実戦にはさまざまな不確定要素が入る。だとすれば、わたしも不確定要素じゃないか。それに、演習というからには、勝ち負けは二の次のはずだ。公正も不公正もないであろ」
なるほど、そういう考えかたもあるかソバーシュは納得しかけたが、けっきょく否定の仕草をした。「やはり駄目です。乗員が欠けた場合にどうなるかを試してみたいのですよ」
「そうか。なら、しかたがないな」ラフィールは引きさがった。
ソバーシュはほっとした。本心をいえば、たとえ仮初めであろうと、ラフィールを部下に持つということが、考えられなかったのである。
ソバーシュは自艦をくるむ時空泡を本隊のそれの後ろにつけた。
平面宇宙図のなかの仮想敵艦の動きを目で追う。
それは、こちらに向かってきた。といっても、本隊の時空泡もすぐ近くにあるので、どちらに向かっているつもりなのかはわからない。だが、どちらにしろ〈フリーコヴ〉は戦闘演習に入らなくてはならない。もし仮想敵艦が本隊と時空融合したとしても、ソバーシュは自艦をただちに合流させ、戦闘に参加するつもりだからだ。
「告げる、こちら艦長」ソバーシュは艦内放送した。「まもなく本艦は戦闘演習に入る可能性がある。残念ながら、単艦戦闘だ。もう飽きたかもしれないが、しっかりやってくれ。それでは、総員、戦闘配備につけ」
艦長席に腰をおろし、空識覚を艦外に切替えた。
「すべての火器の安全装置を確認してくれ」イドリア十翔長《ローワス》に命じる。
「安全装置、確認しました」
「よろしい」ソバーシュは暗証番号を制御卓に打ちこみ、艦の思考結晶網に演習戦闘の開始を告げた。これで、安全装置がかかっていても、凝集光砲の銃爪を引くことができる。
発射されるのは、艦を損壊する危惧のない指向性の光だ。この光が相手に命中すると、艦体の表面に張り巡らされた受容器のどれかが騒ぎ出し、艦が被害を受けた、と認定する。
「時空融合予測時間まであと三分」通信士が報告する。
「疑似電磁投射砲の安全装置を解除してくれ」ふたたびイドリア十翔長《ローワス》にいった。
「疑似電磁投射砲、発射準備完了」打てば響くように報告があがってくる。
疑似電磁投射砲は、ほんものの電磁投射砲の砲口脇に付属している、全長二ダージュほどの素敵な装置で、演習弾を発射する。演習弾はもちろん電磁投射砲から発射される核融合弾より遙かに小さいが、その速度は変わらない。やはりこれが命中しても艦にはなんの被害ももたらさないが、受容器には感知される。
「主機関、点火」
「主機関、点火しました」
襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉は差し迫った演習戦闘にむけ、態勢を整えつつあった。
「時空融合予測時間まであと一分」
ここまで近づいてくると、相手の目標がはっきりした。〈フリーコヴ〉だ。
「通信士、回頭左八〇度。敵艦を迎え撃つ」
迎撃は不要と命じられていたが、目標がこちらにあると明確になったいまでは、もはや関係ない。
「砲術士《トラーキア》、時空融合しだい、命令を待たずに撃つんだ。総員、電磁投射砲の斉射に備えてくれ」
疑似電磁投射砲の反動は微々たるものだ。斉射したところで、乗員が体感することはない。だが、どこまでも律儀な思考結晶は、発射の瞬間、逆噴射をかけ、さらには重力制御機関も使って、ほんものの電磁投射砲の反動をつくりだす。
「時空融合十秒前。七、六、五、四、三、二、一、時空融合!」
ソバーシュの空識覚の範囲が 気に広がると同時に、〈フリーコヴ〉は反動で震えた。
もちろん、相手も撃ってくる。
真っ向勝負の叩き合いだ。
これでは、あまり有意義な演習になりそうにないなソバーシュは思った。
「砲術士《トラーキア》、いちいち指示しない。好きなように撃ってくれ」彼は命じた。
「全艦、戦闘配備を完了しました」先任参謀《アルム・カーサリア》のセムレーシュ百翔長が報告した。
「たいへんよろしい」アトスリュアは軽くうなずいてみせ、鷹下全艦にむけて放送した。
「告げる。こちら、司令官。さあ、いよいよ戦場よ。実弾が飛び交う灼熱の実戦じゃない、弱凝集光と演習弾がふらふら行き交うほんのりと生暖かい演習だけど、戦場にはちがいない。ほんものの戦場を知っている人は、あの熱さを思いだして。まだ初陣を果たしていない若者には、熱さになれる練習にはなるでしょう。気を引き締めていくのよ」
アトスリニアは司令座のうえでゆったり寛いでいるふりをした。だが、その心中は怒りで煮えたぎっている。たとえほんものの戦場でも、敵にたいしてこうも怒りをたぎらせることはあるまい。アーヴの多くは戦争を自然災害の一種としてしか認識できず、アトスリュアもそのひとりだった。したがって、彼女は敵を憎むということを知らないのだ。
彼女の怒りの原因はロイリュア百翔長の作戦である。
たしかに有効な作戦にはちがいない。うまくいけばたった「隻の犠牲で相手の戦力を半減できる。あいにく、アトスリ⊥アはその試練をくぐり抜けたが、それでも、赤部隊が不利になったわけでもない。
だが、実戦でもあの手を使うことができるのだろうか。まず前提状態が厳しすぎる。敵味方の戦力が同等で、しかも部隊の総質量が単一の時空泡を形成できるぎりぎりでなければ、あの作戦は成立しない。なにより、一隻をほとんど決死の囮にしなければならないのだ。
アーヴには、戦闘を遊戯の一種と見なす傾向がある。生命のやりとりをともなう刺激的な遊びだ。しかし、かかっているのは自分の生命ばかりではない。自分ひとりのことなら死と戯れるのもいいだろうが、部下たちの生命もかかっているのなら、慎重かつ真剣に遊ばなければならないはずだ。
ロイリュアにはその慎重さが欠けているように思えた。全財産の懸かった勝負と、子ども相手に菓子を賭けてやる博戯の区別がつかないのではないか。あるいは、これをしょせんお気楽な演習と軽く考えているのか。
アトスリュアは社交界を泳ぎ回っていることが好きだったから、いまのところ子育てをはじめようという気にはなったことはない。だが、子どもという生き物には興味を持っていたので、友人の娘や息子に賭け事の手ほどきをすることもあった、そんなときは、たしょう手を抜く。しかし、教えられる立場の子どもが手を抜いているのを感じると、ひっぱたきたくなる質だった。
ロイリュアに手ほどきをしているつもりはない。だが、受けているつもりもない。襲撃艦《ソーバイ》といい蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》といい、その運用にはまだ未知の部分が多く、懸命にそれを解明し、ほかの翔士たちに伝えていくものを蓄積しなくてはならない段階だ。
たとえ賭けられているのが食後の甘物であろうと、アトスリュアは真剣だったし、相手にもそれを求めている。
「ハイド門通過まであと三十秒」旗艦《グラーガ》航法士の秒読みが始まった。
三十秒では、砂袋を蹴りに行く暇もない。
「……五、四、三、二、一、〈門〉遙過!」
艦外空識覚が一気に広がった.
偶然にも正面には恒星ハイドが燃えている。
敵はどこ?――アトスリュアは空識覚器官をすました。
「方位五四-一二一、距離〇二二光秒に一隻」旗艦《グラーガ》通信士が報告した。「方位「一七七-一三三、距離〇・二九光秒一隻、方位二九八-五七、距離〇・〇九光秒に一隻」
厄介なことになった――アトスリュアは唇を噛みしめた。
分散している可能性を考えなかったわけではないが、ロイリュアは想像以上にうまく麾下の艦を撒いている。
アトスリュアは指揮杖を振り上げた。目を瞑り、視覚を遮断すると、空識覚器官から入力される艦外の有様のみが感じられて、自分が空間に浮かんでいるかのような錯覚に襲われる。情報連結されている麾下各艦の砲術士《トラーキア》たちも同じように感じているはずだ。そして、指揮杖の動きは情報処理されて彼らにも伝わる。彼女が指揮杖で空間上の一点を指せば、彼らにもなにを示しているのかがわかるのだ。
空識覚範囲にいる三隻のうち、いちばん近いものは遠ざかりつつあり、方向転換をしているさなかだ。もっとも遠い艦はこちらに向かっているが、まだ有効射程距離には問がある。重力のない空間で電磁投射砲は理論上無限の射程距離を持つが、あの距離で発射されても容易に躾すことができるだろう。そして、中間の距離にある艦はわずかな修正で針路をぴたりとこちらに据え、さかんに疑似電磁投射砲を放っている。
アトスリュアはその一隻に指揮杖の先端を突きつけた。「全艦、攻撃せよ」
だが、その直後、凶報が告げられた。
「〈カーンコヴ〉、爆散と判定されました}
「〈スルムコヴ〉、大破と判定、電磁投射砲発射不可能」
たった一隻の攻撃で――アトスリュアは舌打ちした。
〈門〉から出たばかりの軍艦には弱点がある。〈門〉との相対速度がないのだ。もちろん、〈門〉通過とともに全力で加速しているが、通常宇宙に舞い降りてからしばらくは、停止しているに等しい状況になる。
固まっていて停止しているのだから、そこを攻撃されるとひとたまりもない。
突撃艦の癖が抜けていないのかもしれない、とアトスリュアは反省しかけた。突撃艦の反陽子砲なら単艦に攻撃されても大した被害は出ない。だが、襲撃艦《ソーバイ》の電磁投射砲は致命的となる。むしろ単艦時空泡で〈門〉を突破するべきではなかったか。そうすれば、被害も分散したはずだ。
だが、反省はあとだ。
いまはこの場をくぐり抜けなければいけない。
被害判定を受ける前に、喪われた二隻は攻撃を開始していた。五隻分の電磁投射砲の鉾先が仮想敵艦に集中した。
「仮想敵艦、爆散と判定されました」
つぎの目標は方向転換しつつある艦だった。
炮曜をあげる強力な推進機関は、アトスリュアの艦たちに速度を与えつづけている、三隻の艦が、新たな目標の横っ腹に突っかかる形になった。
後方の仮想敵艦も速度をあげているが、目標のとどめを刺すまで、攻撃可能距離に詰め寄せられることはないだろう。
目標艦は演習弾を喰らい、爆散と判定された.
今度は青部隊の損害は皆無だった。最初は不意を打たれて、思わぬ損害を出してしまったが、そこから立ち直ると、あとは各個撃破の様相を呈してきた。
「全艦、反転」アトスリュアは指揮杖で方向を示した。
つぎの標的は後方から慕ってくる残りの一隻だ。
だが、残りは一隻ではなかった。あと、二隻いるはず。そのうちの一隻が姿を現わし、迫ってくる。三対二だ。
しかし、相手が分散しているのは、こちらに有利だった。
アトスリュアは新手の一隻にはかまわず、あくまでもう一隻を追いつめるつもりだった。
青部隊の三隻は艦首を巡らせ、最大推力で機関をふかす。進行方向とは逆に慣性が働いているから、減速になる。
すると、目標艦も加速をやめてしまった.
新手が攻撃位置につくまで時間を稼ぐつもりね――アトスリュアは忙しく頭脳を回転させた。このままでは各個撃破どころか挟撃されてしまう。それに残る一隻の存在も不気味だ。
「もう一隻はどこにいるの!?」アトスリュアは次席参謀にいった。「空識覚範囲をひろげて捜索して」
「了解しました」
しょうがない、各個撃破はまた次の機会のお楽しみ――彼女は指揮秘をふたたび振った。
「この方向へ回頭、推力全開を維持」
青部隊はハイド門から離れる方向へ針路を変更した。赤部隊がそれを追う。
破壊判定をくだされた四隻がハイド門周辺に取り残された。
襲撃艦《ソーバイ》よりもっと小さなものが模擬戦場から遠く離れた場所に存在するのに、アトスリュアは気づいた。〈フリーコヴ〉の連絡艇だろう。
アトスリュアがふたたび反転を命じたときには、対抗部隊がもう集結を終え、隊列を整えていた。
こうなればどちらが優位ということはない。
青部隊三隻の推進機関は相変わらず全力を振り絞っているが、戦場はゆっくりとハイド門から離れていく。
アトスリュアははっとした。ハイド門から一隻の襲撃艦《ソーバイ》が出現しつつある。
「どっちなの?」彼女は訊いた.
すぐには答えが返ってこなかった。もうすでに〈門〉からは一光秒以上離れているのだ。
「〈フリーコヴ〉です」ようやく次席参謀が報告した。
「情報連結、急いで」いってから、この距離では情報連結は不可能だ、と気づき、いいなおした。「通信回線開いて。ソバーシュ艦長をあたしの前に出すのよ」
やがて、ソバーシュの立体映像が艦橋に立った。
「こちらの被害は軽微です。凝集光砲が一基、使用不能になりましたが、航行能力及び電磁投射砲にはなんの問題もありません」会話の往復に時間がかかることを考慮して、ソバーシュは問われる前に報告した。
「よかった」アトスリュアはうなずき、「やるべきことはわかっているわね。ロイリュアの背中を蹴飛ばしてやって」
二秒少々の間が空き、ソバーシュは敬礼した。「了解しました。こちらのことは心配せず、撃ってください」
「そうさせてもらう」立体映像が消えたのを確認して、ソバーシュは、「全艦、反転。推力全開は維持。挟み撃ちにする」
さて、ロイリュアはどうするか――ソバーシュは腕組みした――そして、この局面では貴重な襲撃艦《ソーバイ》一隻をどこに隠しているのか。
「いました」次席参謀が報じる。三二七-五五、距離七・一一光秒」
なぜそんなに遠くに?――アトスリュアは唖然とした。「動きは?」
「慣性航行中のもよう。破壊判定を受けているようです」
「いつ攻撃を受けたのよ。まあ、いいわ」
とにかくそれだけ離れているのなら、その襲撃艦《ソーバイ》は隣の銀河にいるも同然だ。この模擬戦闘には関係ない。
対抗部隊の動きにも変化が出た。どうやら、赤部隊は弱体な敵をまず始末することにしたようだ。すなわち、彼らは反転したのだ。
「対抗部隊、反転。こちらにむかってきます」ヤテーシュが報告した。
今度は二対一か――ラフィールは思った。
ソバーシュの艦長としての手際は考えていた以上に見事だった。戦闘にはいると、砲術士《トラーキア》に操艦のすべてを預けてしまう。それだけならだれでもできるが、細々とした指示をくだし、砲術士《トラーキア》が戦いやすい環境を整えるのは、だれにでもできることではない。
わたしが艦長だったら――ラフィールは考きるをえない――砲術士《トラーキア》に戦闘をすべて任せてしまうことはできなかっただろうし、ほかのことには気が回らなかっただろう。
もちろん、いまはちがう。ソバーシュの戦いからいろんなものを吸収している。いま艦長席に坐らされたとしても、昨日までの自分よりははるかにうまくやる自信がある。
まもなく電磁投射砲の有効射程に入るだろう。すでに戦闘準備は万端だ。
「推力全開を維持」ソバーシュが命令をくだす。「対抗部隊を突破して、本隊と合流する。砲術士《トラーキア》、本隊も遠慮なく撃ってくるぞ、味方の弾にあたるようなぶざまな真似だけはしてくれるなよ」
「了解しました。でも……、難しいですね」とイドリア。
「実戦だと思って気楽にやればいい」グリンシアが元気づけた。
「どういうことだい?おれは実戦のぼうが緊張するんだが」
「そう?だって、演習で失敗すると評価がさがるでしょう。実戦で失敗しても、評価がさがる心配はしなくていい。ただ死ぬだけよ」
「あいにくだが、おれは評価がさがるより、死ぬほうが怖い」
ソバーシュはそのようすをなぜか微笑ましげに見ていたが、やがていった。「興味深い話だが、そろそろ仕事に戻ってくれ、きみたち」
「了解」
「対抗部隊との相対速度が零になりました。距離、○・一一光秒」
まだ電磁投射砲で攻撃するには遠い距離だ。
だが、ソバーシュは攻撃開始を命じた。
弾幕をつくる作戦らしい。どうせこれから距離はぐんぐん縮まっていく。
対抗部隊が砲撃をはじめた。
ラフィールは接続縷を伸ばし、空識覚を艦外に切り替えようとした。だが、彼女はあくまで見学者なので、与えられた席に艦外空識覚の端子がなかった。
それだけでかなり不条理な気分になる。
「距離〇・〇五光秒」
この距離ならおそらく攻撃が激化しているはずだ。だが、艦外空識覚がない状況ではよくわからず、ラフィールにはそれがもどかしい。
ソバーシュの表情を窺い見る。とくに緊張しているようすはない。
ふいにその表情が曇った.
「攻撃中止、全力回避!」と指示をくだす。
だが、間に合わなかったようだ。
「本艦は爆散しました。本艦は爆散しました……」無情な機械音声が、〈フリーコヴ〉とそれに乗っていた老全員が仮の死を遂げたことを告げる。
「すみません、艦長」とイドリア十翔長《ローワス》。
「謝ることはない。きみはよくやった。実戦でもこの調子でやってくれたまえ」ソバーシュは砲術士《トラーキア》を慰め、「さて、迷子を連れ戻さなきゃいけないな。連絡艇と通信回線を開いてくれ」
通信はすぐ繋がった。
「エクリュア前衛翔士、われわれも死者の仲間一人りだよ。きみたちを収容する」
「了解」とエクリュア。
「ちょっといいかな」ジントの声がした。
「どうぞ」
エクリュアが返事をするのと同時に、ジントの顔が画面に映った。「すぐアトスリュア司令官と連絡をとってください」彼はソバーシュに要求した。
「それはできないよ、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」ソバーシュは表情を曇らせ、「本艦は外れたが、まだ演習そのものは継続中なんだ」
「いつ終わるんですか?」
「わからないよ。でも、そうだね、いまの状況だとそれほど時間はかからないと思う」
「わかりました」ジントはあっさり引き下がった。「それでは、状況が変わったら、すぐお願いします」
「わかった。約束しよう。しかし、なぜそんなに急いで連絡したがるんだい?」
「それは……」ジントはいいかけて、「いや、あとでお話しします。考えをまとめる時間がほしいので」
「かまわないよ」
通信がきれた。
ラフィールはもう我慢ができなくなった。「ソバーシュ艦長」
物問いたげな眼差しをソバーシュがむける。
「外のようすが知りたい。この艦の演習が終了したのなら、航法士席に坐ってもかまわないか?」
ソバーシュは微笑んだ。「どうぞ、殿下」
ラフィールはエクリュアの席に坐った。もどかしい思いで機能水晶を肘掛けにある端子に挿入した。
艦と一体になる感覚が、ひどく懐かしかった。
戦闘に参加しているのはいまや五隻だった。前を行く集団が一隻、後ろが三隻。おそらく後ろのほうがアトスリュアの率いる青部隊だろう。
なるほど、これは演習ももうすぐ終わりだな――ラフィールは納得した。
ジントとエクリュアの乗った連絡艇を探す。
ありきたりの日常的な作業が楽しくてしかたがなかった。
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8 |マーティンの誇り《レベーヌ・マーティン》
『真の恒星炎は青い』という通信がハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に響きわたったのは、〈フリーコヴ〉が連絡艇を拾いあげておよそ二時間後だった。
アトスリュア司令官は演習終了の告知につづいて艦長たちを会議に召集した。場所は〈リュームコヴ〉内の司令官室である。とはいえ、戦闘演習のおかげで、戦隊は分散している。集結までに二十四時間以上かかるだろう。
艦長会議では演習の講評が行なわれる。するのはもちろん司令官であるアトスリュアだ。
そのため、彼女は情報の整理に追われていた。対抗部隊の行動はもちろんのこと、各艦の行動も詳細に調べなければならない。
演習終了から講評までの演習指揮官ほど忙しい人間はそうめったにいるものではない。
まずはロイリュア百翔長の報告書だ。彼がなにを考えていたか、なにをするつもりだったかを知ることがもっとも重要だ。
アトスリュアは仮想窓に報告書を呼び出した。
まず最初に覚え書きがある。
『地上世界の件についてはまんまと騙されました。しかし、このこと自体には抗議するつもりはありません。たしかに実戦的な演習でした。しかし、細目については納得しかねる点がございます.この点については艦長会議において抗議させていただきます』
アトスリュアは眉をひそめた。ロイリュアがなにをいっているのかわからない。
鑑長会議は紛糾しそうね――アトスリュアは虚ろな笑みを浮かべた。彼女のほうにもロイリュアにいってやりたいことがいくつかある。
ロイリュアの報告書を読み進めるうち、アトスリュアにはようやく彼がなにを誤解しているのかわかった。
そのとき、ハイド伯爵からの通話要請が入った。
「すみません、お忙しいのはわかっています」ジントは詫びた。
「いいのよ。こちらから連絡しようとしていたところ」アトスリュアはいった。
「それは気を使っていただいてすみません」
「いえ、ほんとに気にしないで、閣下。あたしが楽をするためよ。あなたの用件はだいたい見当がつくわ。赤部隊があなたの領地《リビューヌ》に攻撃をしたことを心配なさっているのでしょう」
「そのとおりです。それで……」ジントは勢いこんで話そうとしたが、アトスリュアは手
で制した。
「その件ならだいじょうぶよ」彼女は請け負った。「多少の被害は出たかもしれないけれど、深刻な事態には至っていないと思う」
「多少の被害!?」ちっとも安心できなかった。アーヴの感覚というのが地上人のそれとかなり隔たりがあることは身にしみている。いったいどんな惨状が起これば深刻な事態と認めてもらえるのか、わかったものではなかった,「もっと詳しくおきかせ願えませんか」
「それは、あたしよリロイリュア百翔長と話したほうがいいわね。この件に関しては、抗議をするそうよ」
「どういう抗議ですか?」
「百翔長は勘違いしているのよ。とにかく彼と話して。百翔長の誤解を解いてくれればこちらとしても、手間が省ける」
「わかりました」もやもやしたものを心の裡に感じながらも、ジントはうなずいた。
ロイリュアの座乗する〈スィールコヴ〉を呼び出すようソバーシュに頼んだ。
ソバーシュはうなずき、通信士に指示を与えると、ジントに耳打ちした。「きみの故郷の都市を確認したよ」
「地上を走査してくれたんですか?」
「ああ。たいして手間のかかることじゃないからね」ソバーシュは地上世界マルティーニュの立体映像を艦橋中心に呼び出した。「これがきみの生まれた街だろう。軌道上からは被害は確認できなかった」
クランドン市のたたずまいは、ジントの記憶にあるものと寸分も変わりがない。彼はとりあえずほっとした。
ロイリュアが主画面に出た。
初対面の挨拶もそこそこに、ジントは質問を切り出す。
ロイリュアは訴しげな表情をして、「たしかに地上世界を攻撃しました。しかし、なぜ閣下が関心を持たれるのか当職には理解しかねます」
「だって、ぼくは領主なんですよ」ジントは指摘した。「地上世界が攻撃されたかどうかに関心を持つのはとうぜんでしょう」
「ですが、わたしの理解では、閣下はこの演習には参加されていないはずですが」
「たしかに演習には参加していません。いま、ぼくはハイド伯爵としてお話をうかがっているんです」どうも話がずれているな、とジントは思った。
「ああ。これはわたしが迂闊でした。伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》が無関係というはずがありませんね」
「とうぜんです」
「それでは、閣下もこの陰謀に加担していらっしゃったわけですね?」
冗談めかした口振りなので、非難しているのではないようだ。だが、そもそもなぜジントが責められなくてはいけないのだろうか。
「おっしゃることの意味がわかりませんが、陰謀とはなんのことです……」ジントは心底から戸惑っていた。
「ちがうのですか?われわれが受けた攻撃について閣下は関知していなかったということですか?」
「百翔長は、地上世界マルティーニュが帝国《フリューバル》にいまだ服属していないことをご存じじゃないんですか?」
「そうきかされていました」ロイリュアはうなずき、「ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》が叛乱中という設定をつくり、あたかもそれが真実であるかのように装ったこと、それ自体は見事です。われわれもすっかり騙されてしまいましたが、まあ、戦場では情報が錯綜するものですから、より実戦的な演習になった、と評価しています。しかし、兵器が演習用の規格を満たしていないのはいただけませんね。それに、こちらの有効な模擬攻撃を受けたにもかかわらず、機能停止しなかったのは規律違反でしょう。公正ではありません。この点については抗議するつもりでおります。場合によっては上層部に訴えることにもなるでしょう」
「いったいほんとうになにをおっしゃっているんです?」ジントはますます混乱した。
「ですから、地上世界からの摸擬攻撃でしょう。たしかに斬新な演習要素ヒは思いますが……」
ようやくジントは、ロイリュアの誤解がわかった。つまり、彼はハイド星系政府とマーティン人の誇りであるフォ・ダ・アントービタを演習用の疑似兵器と思っているのだ。
「ほんとうの攻撃だったとはお考えにならないのですか?」
「ほんとうの攻撃?」ロイリュアは片眉をあげた。「あれが?まさか」
「信じられないかもしれませんが、あれは星界軍《ラブール》に対する攻撃だったのです」ジントはむっとした。
ロイリュアはなかなか信じなかったが、ジントが手を尽くして説明すると、半信半疑のようすながら、あれはほんものの攻撃だったのだ、と納得した。
「それで、百翔長はどのような攻撃を地上世界にしたんですか?」ジントは訊いた。
「最初は演習弾を撃ちこみました」ロイリュアは供述した、「もちろん、大気との摩擦で燃え尽きましたが、それでも、命中の判定がえられるはずでした。と二うが、相手は攻撃をやめない。まあ、ほんとうに戦闘をしているつもりだったのなら、とうぜんですな。われわれとしては無視してもよかったのですが、疑似兵器にしては威力があり、連絡艇の活動を阻害する可能性があったもので、演習続行のために強制排除することにしたのです。つまり、避難勧告を出したうえ、電磁投射砲を使用しました」
「核融合弾を撃ちこんだんですか!?」
「いえ、さすがにそこまでは。爆発する恐れのない質量弾です。それもごく軽質量のもの
を用いました」
「それで、領民たちはその避難勧告に従ったんでしょうか」
「わかりません。申し訳ありませんが。ただ、勧告から攻撃まで六時間の余裕を持たせました。避難するためにはじゅうぶんだと判断しました」
時間を割いてくれたことにたいしてジントは礼をいい、通信を切った。
「その対軌道兵器は有人なのか?」ラフィールが訊いた。
「いや、無人だよ」ジントはこたえる。「すくなくとも、戦争前はそうだった」
「じゃ、よかったな。ものの被害だけで済んだ」
「そうなんだけれど、あれはぼくらの心のよりどころだったんだ.ぼくはあのあとすぐ故郷を離れたからよくわからないけど……」
「あのあとってなんだ?」
「ああ。つまりきみたちが、いや、帝国《フリューバル》がハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》を併合したあとってことだよ。つまりさ、対軌道兵器の制御権と引き替えに、帝国《フリューバル》は父を領主にするという条件を呑んだんだ。対軌道兵器群のうちでもっとも強力だったのがフォ・ダ・アントービタだった。故郷の人々はけっこう誇りにも頼りにも思っていたんじゃないかな。あの強大な帝国《フリューバル》も恐れたわれらがフォ・ダ・アントービタ!それが演習用の玩具みたいな兵器と勘違いされるなんて、かなり衝撃的な事実だよ」
「よくわからぬが、そなたが落ちこむことはあるまい」ラフィールは彼女なりに気を使ってくれた。「そなたが造ったわけじゃないのであろ」
「たしかにぼくが造ったわけじゃないけど、落ちこまないわけにもいかないな。父はフォ・ダ・アントービタのおかげで貴族になったんだよ。ということは、ぼくが貴族でいられるのも、いまは亡きフォ・ダ・アントーピタのおかげさ」
「そういう考えかたもできるな」居心地悪げにラフィールはいった。
「伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」ソバーシュがいった。「よければ、領民政府《セメイ・ソス》と話すかね?・」
「いいんですか?」
「ああ。司令官の許可はいまとった。あとはきみと領民政府《セメイ・ソス》の意志しだいだよ」
「ぼくの意志は決まっています。お願いします」
ソバーシュは軽くうなずき、通信士に合図をした。
「こちら帝国《フリューバル》星界軍《ラブール》所属襲撃艦《ソーバイ》〈フリーコヴ〉」通信士が呼びかけをはじめた。「ハイド伯爵の代理として呼びかけを行なっています。ハイド伯爵は領民政府《セメイ・ソス》との対話を求めておられます。領民政府《セメイ・ソス》にその意志があれば、この周波数で返答してください。こちら帝国《フリューバル》星界軍《ラブール》……」
これまでの経緯から、ジントは相手が応じてくるとは期待していなかった。
だが、その予想はあっさり覆る。
「こちらハイド星系政府」女声のアーヴ語が返ってきた。奇妙に感じられるほど流暢だ。
「通信に応じましょう。あなたたちの政体によってハイド伯爵の称号を与えられた人物を出してください」
ソバーシュに促されて、ジントは通話器の前に立った。「こちら、リン・スユーヌ・ロク・ハイド伯爵・ジント。ぼくと話してくれるのはだれですか?」
「その前に身元を確認させていただきます。あなたは元首相ロック・リン氏のご子息のジント・リン氏と同一人物ですか?」
「そのとおりです」ジント・リンと呼ばれるのは何年ぶりのことだろう、と思いつつ、肯定した。
「ハイド星系元首と替わります」
わずかな沈黙のあと、相手が替わった。
「久しぶりだな、ジント」その声の主がだれか告げられなくても、明白だった。「どうした、名乗らなければいけないのか?」
「いや、わかるよ、ティル」故郷のことばを口にすると、舌がこわばった。
「おい、ほんとうにジントか?声がぜんぜんちがうし、みょうな訥りがあるぞ」
「声変わりしたんだよ、ティル。ぼくはもう子どもじゃないんだ」記憶にあるのと同じように、父親がわりだった男の軽口は不器用だった。「それに、マーティン語を喋るのはずいぶん久しぶりなんだから」
「よかった。ここで話しているのは、ジント・リンとティル・コリント。ハイド伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》とやらとハイド星系元首じゃない。そうだな」
「家族の会話にしてはずいぶん費用がかかっているんだよ、ティル」
「ほんとうにジントか?昔のおまえは金のことなんか口にしないやつだったが」
「独り暮らしが長かったんだ。経済感覚をちょっとぐらいつけてもおかしくはないだろう」
ジントは艦橋を見まわした。とくに聞き耳を立てているというふうでもなかったが、機器類のかすかな呻り以外に音のないこの場所では、きくつもりでなくてもきこえてしまうだろう。アーヴの基準ではともかく、ジントの基準では他人にきかれながら家族の会話をするというのはあまり快いものではなかった。たとえそれを理解する者がいないということはわかっていたとしても。
「以降の会話はぼくの自室で受けるのが適当と思います」ジントはだれにいうともなく宣言した。
「それはかまわないが」とソパーシュ。「これは星界軍《ラブール》の作戦行動の一環であり、交信はすべて記録され、のちほど翻訳されることになるよ」
「けっこうです。問題なのは、機密の保持がどうとかということではなく、気分に過ぎませんから」
「やあ、ティル」自室に引きこもったジントは呼びかけた。「リナは元気なの?」
「元気だとも。おまえに会いたがっている。」間髪入れずに答えが返ってきた。まるで質問を予期していたかのようだ。
「ほんとうに?」かつての記憶が甦り、ジントの心をちくちくと刺す。
だが、ここで泣きわめいたり、嘘を責め立てたりすることはできなかった。それは子ど壱の特権だ。
「ほんとうだ」ティルはいった。「あれからずっとおれたちは反省していたんだ。そのことだけはいっておきたい」
ジントは耳を澄ました。
「あのときのおれたちはどうかしていたんだ。なにもおまえに当たることはなかった」
「いいんだ、ティル」ジントは許した。「あれはだれにとっても咄嵯には向かい合えることじゃなかった」
「そういってもらえるとありがたいが、自己嫌悪で落ちこんだよ。おれたちはおまえを自分の子どものように見ているつもりだったが、あの体たらくだ」
「いいんだったら」
「ロックはおれの親友だった。あいつのことなら隅から隅まで知っているつもりでいた。だが、あいつの計画をきいたとき……、おれはあいつがまったくのべつの人間に思えてならなかったんだ。おれの知っているロックじゃない、おれの知っているロックなら侵略者の仲間入りなどたとえ方便でも望むはずがない、とな。そして、その息子、つまりおまえのことだが、それもひっくるめて、おれが赤ん坊のころから知っているジントじゃないように思えてきたんだ」
「そういうことはあとでゆっくり話すこともできるじゃないか」わずかな隙を見つけてようやくジントは口を挟んだ。「今だってじゅうぶん異様な状況だと思うよ、ティル。昔話をするのはふさわしくないと思わないかい」
「だからといって、ロックの死を願ったわけじゃない」ティルはジントのことばを無視した。まるで時間が限られているかのように。「おれは反対したんだ。たしかにやつのやったことは裏切りだ。だから法廷に立たされたのはしかたがなかっただろう。だが、法的にはロックを罰することはできない。あれは正当な手続きを踏んだ決定だったんだからな。だが、議会は特別立法までしてロックを……」
朧気にティルがなぜこの交信に応じたのかがわかってきた。
「おれにはどうすることもできなかった。判決はすみやかに実行され、星系首相は承認すら求められない。これが(人類統合体〉の法なんだと。もっとも、ハイド星系旧法でも首相に拒否権はないが。それでも、おれはロックを、おまえの父親を逃がそうと考えた。やつの命だけでも救けたいと思ったんだ。降伏はしかたないにしても、やつが帝国《フリューバル》の貴族になったのはとんでもない間違いだったといまでも思う。たとえ間違いを犯しても、親友は親友だもんな。信じてくれるか?」
「信じるよ。決まっているじゃないか」
「よかった。いいか、許してもらおうとは思わない。そこまで願うと、神はおれを貧欲の罪で地獄へ落とすだろう。だが、それでも、知ってほしかったんだ」
「もうぼくは許したつもりだよ」ジントは心からいった。
ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》が誕生したあとのごたごたは、ジントにとって天災のようなものだった。
たしかに責任者を指摘するのはたやすい。だが、八歳の子どもにとってとつぜんふりかかった不条理以外のなにものでもなく、だれかを恨もうという発想は湧かなかった.、
「それをきいて胸の支えがおりたよ」とティル。「それではな、ジント。もうおまえと話すこともないだろう.よければリナとも話してほしい。回線をまわすからすこし待ってくれるか?」
「それより会わせてよ。こんな音声だけの通信ではなく」
「ああ……。それができればいいな。きっとおまえは立派な若者になっているだろう。その姿を見ればあいつも喜ぶだろうな」
「だったらいいんだね」ジントはほっとして、「いまアーヴ貴族の格好をしているけれど、私的訪問にはちゃんと着替えていくから、安心してくれていいよ」
「ダメだ」
「なにがダメなの…….帝国《フリューバル》貴族の正装のほうがいい?」
「そうじゃない。おれたちは会うことはできない」
「なぜだよ、ティル!」
「おれはおまえたちに一歩たりともわれらが妻なる大地を踏ませるつもりはない」
「ぼくたちってアーヴのこと?」違和感を覚えつつ、ジントはいった。「アーヴには大地を踏む習慣がないんだよ」
「話をはぐらかすのはよせ!意味はわかるだろう」
「降伏はしないってことだね……」
「ああ。おれたちはふたたび独立を宣言した」
「でも、〈三ヵ国連合〉の軍隊がいるんでしょ」
「もと連合に属していた軍隊ならいる。だが、もとの所属なんてことは重要じゃない。彼らはハイド星系軍として政府の指揮下に入ることも、おれたちの社会の一員となることも承諾してくれた.もともと戦争には乗り気じゃなかったようだな。あの兵士たちはいまでは立派なハイド市民だし、おれたちも受け入れている」
「信用できるのかい?」
「それは領民代表へのお尋ねかな、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》?」
そうだ、とこたえれば、ティルはすぐ通信を打ち切るだろう。ならば無理に嘘をつくこともない。
「いいや。心配なんだよ、ティルやリナや……、それに……」ジントは幼い頃の友だちの名前を口にしようとした。だが、駄目だった。何人かの顔は浮かんでくるのだが、名前までは出てこない.
「おれたちのことなら心配は無用だよ、ジント。おれはむしろおまえのほうが心配だよ。ずっと心配していたんだ。おまえがどんな扱いを受けているのか。おれたちはハイド伯爵ロックをずっと冷たい目で見てきたんだ」
「想像はつくよ」
「いや、どうかな。おれのいっている意味がちゃんとわかっているかどうか。たしかにロック本人への反感もあったが、それよりもアーヴを信用していなかったんだ。ロックが首尾よく貴族さまにとりたてられたとき、驚いた連中はすくなくなかった。口先だけの約束で、アーヴどもはそんなものは無視するだろう、と思っていたんだ。おれはそうでもなかったが、それでも約束を守ったのはおれたちへの信用を勝ちとるためだろう、と考えていた」
領民の信頼を得るべきである、などという発想はアーヴの頭に浮かばないだろう――ジントにはそれがわかっていたが、口を挟むのはやめておいた。
「だが、そのあとおまえも知ってのとおりの事態になった。帝国《フリューバル》に残されたおまえの地位など消し飛んでしまったにちがいない、と思ったよ。おまえがハイド伯爵になったことを、ロックのときよりおれは驚いている」
「わかるよ」ジントは早口でいった。急がないと、会話が永遠に途切れてしまいそうだ。
「でも、ぼくはハイド伯爵なんだし、同時にマーティン生まれのジント・リンでもある。うまくやっていけるよ。ティルとはもちろん、ティルの後継者とだって。ハイド星系政府にとっては降伏ですらないんだ。もとの状態に戻るだけ。交易がいやなら、ぼくが止めるよ。ちょっと生活は困るけど、いまのところそう貧乏なわけじゃない」
「おれはそういう大きな話をするつもりはないんだ」ティルはいう。ほんとうに不機嫌そうな声だ。
「でも、ティル」
「でももしかしもなしだ、ジント」
「そういうわけにはいかない」
「だったら、すぐこの通信を切るのが賢いやりかただろうな。だが、なるべくならそうしたくない」ティルのロ調が和らいだ。「このあいだの別れはひどいものだった。せめて最後は気持ちよく別れたいんだ」
「無理だよ、ティル」ジントは坤いた。「ぼくの気持ちがすこしでもわかる?ティルやリナに会うのを楽しみにしていたんだ。そりゃ、こんな状態だからただ浮かれていただけじゃないけど……、むしろ怖い気持ちのほうが強かったけれど、でも、それでも会うのが楽しみだったんだ。いや、会うのが楽しみだったから、怖かったんだ。なのに、会ってもくれないという。それで、気持ちよく別れたいなんていう。昔のティルはそんなに不条理なことはいわなかったよ」
これは嘘だった。子どもの頃のジントにとって、ティルはときどきとてつもなく理不尽な存在だった。もっとも、惑星マーティンの子どもにとって大人というのはたいていそういうものだ。
「会う方法がひとつだけある」ティルはいった。「おまえがアーヴであることをやめ、ひとりのマーティン人として亡命するなら、おれたちはいつでも歓迎する」
ジントの頬に微苦笑が浮かんだ。そして、この場にだれもいないことを、信じてもいない神に感謝した。
「ジント?」リナの声がした。
「ああ、うん……」まともなことばがとっさに出ず、ジントは口ごもった。
「ティルのいったことは本当よ。大げさな式典をするわけにはいかないけれど、身内だけで楽しい食事会を用意するわ。ジントの好きだったメロン・オー・シューをつくってあげる」
「食べられたらいいね」ジントはいった。「けれど、ダメなんだ。ぼくにも責任がある」
「どんな責任?アーヴとしての責任?支配者の責任?侵略者としての責任?そんなものがわたしたちより大事なの、ジント?」
「リナ、ごめん」とジント。「やっぱり帰れない」
「ほんとうは好きな娘でもできたんでしょう」
「そんなことないよ!」ジントは嘘をついた。
「ちがうの?もしもそうなら安心なんだけど」
「もしも好きな娘ができたとして、それで帰れないといったら、リナは納得する?」
「そのほうがずっとわかりやすいわ」リナは決めつけた。「あなたはそういう年頃なんだもの」
「貴任感よりも?」
「女の子に対しても責任は持たなきゃ」
「つまりもっと大きな責任のことだよ。わかるでしょ」
「そりゃあね。でも、あなたはまだそんなことを考えなくていい。遊びたい盛りじゃないの」
「いくらなんでもそこまで子どもじゃ……」ジントは抗議しかけた。
「いいの。黙って」
「いつまでも子ども扱いするんだね。ぼくはもう子どもがいてもおかしくない歳なんだ」
「でも、いないんでしょ」
「そりゃまあ、いないけれど」ジントは認めた。
「あなたはいつまでもわたしたちの子どもよ、ジント」
「そういういいかたはずるいよ、リナ」
「でも、ほんとうのことだもの」
「とにかく、家族としての話よりもっと大事なことがあるんだ」ジントはリナとの会話を強引に打ち切ろうとした。「きいているんだろう、ティル」
「ああ、きいているさ。だが、政治の話はするつもりはない。おまえがアーヴであるかぎりは、な」
「じゃあ、マーティン人のひとりとして話してよ。ぼくはもう選挙権のもらえる歳になったんだ」
「アーヴに選挙権はない」ティルはきっぱりといった。
「それはわかってるさ。でも、政治を語れる歳にはちがいない。それに、ぼくはアーヴかもしれないけれど、マーティンの妻なる大地を愛しているし、そこに住む人々も愛している。たとえ一方的な愛であろうとかまわない。恒星ハイドの光が照らすところを愛しているんだ」
「なら、なぜおれたちのもとに戻ってこない?」
「ああっ、もうっ」とうとうジントは怒鳴った。「なぜなら、ぼくがそっちの人間になってしまったら、ハイド星系が滅ぶのを止める人間がだれもいなくなってしまうからだよ」
「ずいぶん出世したもんだな、ジント」冷笑まじりにティル。
「皮肉はやめてよ。フォ・ダ・アントービタはどうなった?」
「それはわが政府の機密事項だ」一瞬の沈黙のあと、ティルはいった。「外都の人間に漏らすわけにはいかない。だいいち、家族の話じゃないぞ」
「家族の話だよ。星界軍《ラブール》は本気でフォ・ダ・アントービタを攻撃したわけじゃないんだ」
「本気じゃなかっただと?」ティルの声に驚きが滲んだ。「おまえのいっているのは限定的な攻撃だったということか?たしかにそれはそうだが……」
「ちがうんだ。限定的な攻撃でさえなかったんだよ、ちょっと不快感を表明しただけなんだ。練習のじゃまだそってね。どういうことかは次の機会にゆっくり話すよ。もしティルが次の機会をくれたらね。でも、仮にフォ・ダ・アントービタを破壊したのと同じていどの攻撃をクランドンが受けたらどうなる?」
「フォ・ダ・アントービタが破壊されたとはひと言もいっていないそ」
「破壊されていようがいまいがどうでもいいんだ。もしもクランドン市に星界軍《ラブール》が不快感を表明したら、どうなると思う?」
「たくさんの市民が死ぬことになるだろうな」しぶしぶといった調子で、ティルは認めた。
「その死者のなかにぼくの家族もいるかもしれない。だから、これは家族の話なんだよ」
「屁理屈をこねるのがうまくなったな、ジント」
「悪い癖だよ、ティル。言い負かされそうになると、すぐ相手のいうことを屁理屈扱いする」
「それは子ども相手のときだけだ。子どもというやつは論理を受け入れられないからな」
「ぼくはもう子どもじゃない。論理なら受け入れるさ」
「わかった。いいだろう。話をしよう。だが、いまはまだ駄目だ。おれはいま公的な立場
でおまえと、いや、帝国《フリューバル》のハイド伯爵と話をする準備ができていない」
「ああ。ぼくのほうも時間が欲しい。こちらからまた近いうちに連絡するよ。そして、ぼくたちの星系にとっていちばんいい方法を探そう」
通信を切ってから、ジントはハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》の関係者たちを呼び寄せた.
「どうだった?」ジントにラフィールが訊いた。
「多少の進展はあったかな」ジントは首を振りふりいった。「家族の話をしただけだったけれど」
「家族はなによりも大事だが」とサムソン。「それが進展といえるのかね」
「いっしょに会って話をしようというところまではいきましたよ」
「こちらの代表はきみひとりか?」サムソンは片眉をあげた。
「それはまだわかりません。でも、それがいちばんいい方法だと思います」
「どこで会うんだ?」とラフィール。
「それもまだ決めていないんだよ」
「そなたひとりで地上に行かせるわけにはいかないぞ」
「おっと、殿下。それはおれの科白ですよ。主君をひとりで危地に赴かせるわけにはいかない」
「ええと、おれもここで、炎のなかであろうとも閣下についていく、というべきなんでしょうかねえ」とパーヴェリュア。
「殿下がお出でになるのなら、わたしもまいります」とセールナイがきっぱりといった。
「みんな、ありがとう」ジントは礼をいい、頭のなかを整理した。「まずすべきことは、〈ボークビルシュ〉をここに呼ぷことだ。もう連絡艇は出たのかな?」
「出たであろ。演習終了のすぐあとに」ラフィールがいった。
「次の便はいつ……。ああ、ちょっと待って」ここにいる入間に訊いてもしかたのないことにジントは気づき、端末腕環《クリューノ》から連絡艇の運航予定表を覗いた。幸いなことに、演習が終了した今、予定表の機密指定は解除されており、部外者のジントにもなんの問題もなく参照できた。それによると、約一時間後に次の便が出るらしい。「この連絡艇に伝言を載せてもらう。三日ほどで〈ボークビルシュ〉は来るはずだ.、それまでに、方針を決めておこう」
「領主らしくなったな、ジント」ラフィールがいった。
誉めてくれているのかな、とジントは怪しんだ。
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9 |家族の食卓《キーパス・エサル》
ジントの予想どおり三日後、〈ボークビルシュ〉がハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に到着した。
そのあいだ、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》は演習の締めくくりで忙しかった。翔士たちは情報の分析に忙殺されていたし、従士たちは艦の点検整備に追われていた。その合間に饗宴までこなさなければならなかった。演習や戦闘のあとの饗宴では羽目を外すのが星界軍《ラブール》の伝統なので、饗宴の後片づけこそが諸々の作業のうちでいちばん大変だったかもしれない。
そういった作業も終わり、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》は〈ボークビルシュ〉と入れ替わるように帝都《アローシュ》へ帰還することになった。
〈ボークビルシュ〉へ移乗する前に、ジントは挨拶のためソバーシュを艦長室に訪ねた。
移乗のさいには見送ってもらえるが、ゆっくり話をする機会はないだろう。
「寂しくなるね」ソバーシュはいった。「エクリュア前衛翔士も寂しがるだろう」
「彼女が?」
「彼女はきみの猫を気に入っているようすだったからね。再会する機会もなくきみが行ってしまえば、残念がるかもしれない。まあ、彼女がなにを考えているのか、よくわからないんだけれども」
「ああ、なるほど」ジントは苦笑いした.「ディアーホは〈ボークビルシュ〉に乗っています。仔猫が生まれたんですよ。ディアーホそっくりのやつもいたんだけれど、これは貰い手が決まってしまった。でも、他のも可愛いので、なんなら、一匹もらってくれると、むしろありがたいんですが」
「戦場に猫を連れていくのはわたしもあまり感心しない。われわれは覚悟を決めて戦いに臨むが、猫の場合、自分がどんな状況に置かれているかわかっていることは滅多にないから」
「はあ、すみません」ジントはつい謝った。今回の航行は戦場から離れており安全だが、彼には灼熱の戦場に猫連れで赴いた前科があった。そのときはラフィールにも同じことをいわれた。
「いや、あやまることはないよ。まわりに感心されないことをするのは、わたしも大好きだ」
「べつに他人の感情を逆撫でするために猫を連れていたわけじゃ……」
「まあ、エクリュア前衛翔士が責任を持つというのなら、わたしは反対しない」
「わかりました。あとで訊いてみます」そこでふと思いつき、「ソバーシュさんはご興味ないですか?」
「興味というのは猫にたいしてかね?」ソバーシュは首を左右に振った。「大いに興味があるが、猫は飼わないと決めたんだ」
「はあ。なぜです?」
「長い話になるよ。いまはやめておこう」彼は話題を変えた。「ともあれ、王女殿下にもう睨まれなくてすむとなると、すこしは気が休まるような気もする」
「睨まれる?王女殿下にですか?」
「ああ。ときどき睨まれていたのだが、きみは気づかなかったかね?」
「いえ。ぜんぜん」ジントはおずおずと訊いた。「なにかなさったんですか?」
「艦長になったからだろう」
「この艦の?」
ソバーシュはうなずいた。
「嫉妬……ですか?」ジントは目を瞬かせた。
「王女殿下に嫉妬されているなどというのはすこし自意識過剰が過ぎるだろうが、まあ、そういってもいいね。でも、それはわたし個人が妬まれているのではなく、〈コーヴ〉級の艦長すべてが妬まれているんだ。いや、やはり妬みというのは適当でないかもしれないね」ソバーシュは自分のことばを修正した。「たぶん殿下はご自分がなぜ〈コーヴ〉級の艦長でないのか、解せないのだろう」
「そういうことなら、おっしゃるとおりかもしれませんね」
ジントにも思い当たるフシがあった。ラフィールは愚痴めいたことを口にするのをことのほか嫌う性格なのではっきりとはいわないが、単なる便乗者としてこの艦に乗っていることについては、不条理に感じているらしいことは態度の端々に表われている。
ぼくが彼女を拘束しているんだろうかそんな考えが心の片隅に浮かび、ジントは身震いした。そんなことはありえなかった。あの誇り高き王女が、義務でもないのに意に染まぬ境遇に甘んじて身を委ねることなど、考えることもできない。
「つまり、殿下は三角僕係に悩んでいるわけだ」
「三角関係!?」ゆゆしき意見だ。
「つまり」ソバーシュは微笑んだ。「きみをとるか、星界軍《ラブール》をとるか」
「はあ」ジントは曖昧な気分でうなずいた。「名誉と思うべきなんでしょうか?」
「わたしならたいそう光栄だと感じるだろうが、まあ、人それぞれだからね」ソバーシュはお茶を暖り、「なにしろ恋敵が星界軍《ラブール》では、勝ち目がない。踏みとどまっているだけで健闘しているというべきだよ」
「アーヴってそうなんですか」
「え?」ソバーシュは不思議そうに、「わたしはアーヴの話ではなく、アブリアルの話をしているんだよ」
「ふつうのアーヴの場合はそうじゃない、と?」
ソバーシュの表情はさらに訝しげになった。「きみの場合を考えてみればいいじゃないか、わたしの見るところ、きみは恋より軍務を優先する人間じゃない」
「まあ、そうですね」ジントには相変わらず自分がアーヴであるという自覚が欠けていた。
「とにかく元気で。きみの領地《リビューヌ》が安定することを願っているよ」ソパーシュは微笑んだ。
「また戦場で会おう、閣下。もし、わたしが生きていたらだが」
もし生きていたら、また会おう――デルクトゥーにいたころ、ジントもしばしばこの言い回しを使ったことがある。だが、本気ではなかった。ありきたりな誇張だ。なんといっても、デルクトゥーではジントやその友人たちの若さで死ぬことなどめったにないのだから。だが、戦場では現実的なことばだ。
死がすぐ道ばたに転がっている世界から、冗談ごとで語られる世界におりることに、ジントは多少の後ろめたさを感じた。
「ええ」心の裡を見せぬよう努めながら、ジントはうなずいた。「ご武運を祈ります」
エクリュアを探す必要はなかった。自室に引きあげる途中で、出会ったからだ。
「おりるの?」いつものごとくエクリュアは無表情にいった。
「ああ」ジントはうなずき、「またどこかで会えるといいね」
「だれにとっていいことなの?」彼女は首を傾げた。
ジントは気をとりなおし、仔猫を引き取る意志があるかどうかを訊いた。
「わたしは猫を飼うつもりはない」エクリュアは即答した。「他人の猫をかまうほうが面
白い」
「そう。じゃあ、しょうがないな」ジントはあっさり諦めた、べつにエクリュアに仔猫を押しつける必要はない。
「待って」行こうとした彼の腕をエクリュアがとる。「その猫、可愛い?」
「ああ。とっても。真っ白なのとディアーホそっくりの縞模様と白黒のがいる。でも、クティロワルは引き取り手がもう決まっているんだ」
「名前、つけた?」
「いや、まだ。それは飼い主の特権だと思って」エクリュアに目を凝視されて、ジントはどぎまぎした。「ええと、欲しいの?」
「いいえ」エクリュアはジントの腕を解放した。「どうせすぐあなたの猫とは会える」
「いや、もう会えないかもしれないんだけれど……」
アーヴ猫といえども、ほかの猫に比べて長命というわけではない。
「そんなことない」エクリュアは断言した。
「どうしてそう思う?」
「アブリアル副百翔長《ロイボモワス》はすぐ戻ってくる。そうしたら、あなたも戻ってくる。あなたの猫も」
「そんなことはないよ。ラフィールの軍復帰はラフィールの問題だし、ぼくの軍復帰はぼくの問題だ。ぼくはラフィールの付属物じゃない」
「それはあなたがわかっていないだけ」エクリュアはきびすを返した。
去っていく彼女の背中を見て、星界軍《ラブール》も巨大な組織なのだから、ふたり揃って復帰した
としても会えるとは限らないだろうに、とジントは思った。
「ほんとうはここに残りたいのではありませんかな、殿下?」サムソンが尋ねた。
「え?」ラフィールは振り向き、「そんなことはない。なぜそう思うんだ?」
「なんとなくですよ、なんとなく」
「わたくしもそれは感じておりましたわ」セールナイも心配げに、「なにか生気が感じられません。いまの状況がお気に入らないのでは?」
「余計なことだ」ラフィールはきっぱりと否定した。
「接舷三分前」艦内放送が響いた。今回は連絡艇で送ってもらうのではなく、〈ボークビルシュ〉と接舷してちょくせつ移乗が行なわれる予定になっていた。
「ジントはなにをしているんだ?」艦内放送があったのを幸いとして、ラフィールは話題を変えた。
やがてジントが自走鞄を随えてやってきた.、
〈フリーコヴ〉の翔士たちも舷門送別式のために整列する。
儀式的なやりとりがあって、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》の一行は〈ボークビルシュ〉に移った。
(ボークビルシュ〉では調査使イェステーシュとその属僚、〈ボークビルシュ〉の幹部が整列して出迎えた。
ラフィールは隣のジントを窺い見る。なんとなくしょぼくれて見える。
勃然と怒りが湧いた。自分がここにいるのが間違いではなかったか、という疑念が胸の裡を覆う。
「胸を張れ、ジント」ラフィールは囁いた。「ここがそなたの戦場であろ」
「ぼくの……戦場?」
「ちがうのか?ちがうのなら、わたしは帰るぞ」ラフィールは本気でいった。
「いや」ジントは心持ち胸を張り、「ちがわない。ここでしくじったところでぼくが死にはしないけれど、死ななくてもいい人々がぼくの考えなしの犠牲になってしまうかもしれない。そうなれば、自分を責めながら惨めな一生を過ごすことになるだろうな。ぼくはきみほど長生きはできないけれど、それでもあと一〇〇年は生きるつもりなんだ。落ちこんで過ごすには長すぎるよ」
「演説はいい」
「そうだね。ありがとう、思い出させてくれて。たしかにこのハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》がぼくの戦場だ」晴れやかな表情になって、ジントは歩きはじめた。
だが、その顔つきも足どりも、虚勢を張っているように感じられた。
もつれあう毛玉のようになって、仔猫たちが長椅子のうえでじゃれていた。母親であるセルクルカは、絨毯のうえで自分の毛繕いをしている。つい最近まで、仔猫がほんのちょっとでも離れると大騒ぎしていたのが、嘘のようだ。父親であるディアーホは食卓のうえで眠っている。ジントの思い過ごしだろうが、不貞寝しているように見えた。
仔猫の一匹が長椅子から滑り落ちた。幼いアーヴ猫特有の、魂をくすぐるような鳴き声で、その仔猫はなにごとかを訴えかけた。
仔猫に手が伸びた。長椅子の傍らの床に坐りこんでいたラフィールの手だ。王女は仔猫のほうを見もせず、その子を長椅子のうえに戻した。仔猫はさっき自分がしでかしたしくじりなど忘れたかのように、兄弟たらとじゃれあいはじめた。
「平和だね」ジントはいった。
「これは平和というものじゃない」ラフィールは端末腕環《クリューノ》の投影する画面から視線を離さず反論した。「暇というんだ」
「いいことじゃないか」ジントは窓のぞとの雪景色を眺めた。
ふいに壁の一部にセールナイの顔が現われた。
「殿下、閣下」セールナイは告げた。「領民政府《セメイ・ソス》から回答が来たことをお知らせいたします」
「ぼくの端末腕環《クリューノ》に転送してください」
「了解しました。ただちに」セールナイは頭をさげ、「ほかにご用はありませんか?」
「イェステーシュさんを執務室に呼んでください。ほかにはなにもありません」
「わかりました」セールナイは消えた。
「あの者はそなたの秘書になったのか?」ラフィールが訊く。
「臨時に、ね」ジントは説明する。「あの人の仕事は反物質燃料槽の管理なんだけど、いま、わが伯爵家にはそれがひとつもないから、なにもすることがないんだ。それで、暇つぶしにぼくへの連絡の取次をしてくれているんだよ」
「それはいい考えだな」とラフィール。「わたしがそれをやればよかった」
「きみが?」ジントはぎょっとした。たいていの人間にとって、ラフィールに連絡するよリジントのもとに押し掛けるほうがよほど心理的抵抗が少なくてすむだろう。
「それで、どうするんだ?」
「もちろん、仕事をするんだよ」
ジントが端末腕環《クリューノ》を操作すると、窓も雪景色も煉瓦製の壁も消え、無機質的な壁と扉が現われた。その扉のむこうに執務室がある、
ジントは扉をくぐった。
「軌道塔建設基地ですか」イェステーシュは自分にいいきかすように、「そうでしたな。この邦国《アイス》には、軌道塔がないのでしたな」
帝国《フリューバル》の地上世界にはどこにでもある軌道塔は、まだマルティーニュにはなかった。だが、建設計画はかなり臭体化していた。建設基地が存在するのはそのためだ。基地が完成したところで戦争が始まり、そのまま放棄されていたのだった。
マーティン星系政府はその建設基地を会見場所として提案してきたのだ。
「行ったことはありませんが、会見には適しているようです」ジントは提案書に添付された資料を見ながらいった。「軌道塔建設計画は生きていて、基地も維持管理はされていますから、気密は施されています。それに、警備もしやすそうです」
「じゃ、会見場所にジントは異議がないんだな?」とラフィール。
「うん。領民政府《セメイ・ソス》の施設にはちがいないけれども、わが伯国でいちばん中立に近い場所だからね」
「わたしとしても、会見場所に意見はありません。しかし、これは……」イェステーシュは、机に埋めこまれた画面の文字列を目で追った。
会見場所が決まると同時に、領民政府《セメイ・ソス》は一通の文書を送ってきた。帝国《フリューバル》に主権を委託するにあたっての条件を書き連ねてきたのだ。それがいま調査使の読んでいるものだった。
文書を熟読して、イェステーシュは顔をあげた。「これを呑むつもりですか?」
「なにかご異議がありますか?」とジントは儀礼上、尋ねた。
「まあ、基本的には領主と領民政府《セメイ・ソス》のあいだのことですから、わたしが口出しすることではありませんが」調査使はもったいぶって、「あえていわせてもらえば、異例中の異例ですな」
「ぼくもそんな気がしていましたよ。法的には可能なのですか?」
「ああ。うちの属僚にその専門家がいますから、もしご希望ならば検討させましょう」
「お願いします」
「それで、もし合法的なら、受諾するのですか?」
「ええ、そのつもりです」ジントはこたえた。
「これもあえていわせてもらえば、あまり賢明とは思えませんね。弱腰に過ぎませんか?」
「そうかもしれません。しかし、これが最適の方法に思えるのです」
「なるほど」完全には納得していない表情で、イェステーシュは文書を法律専門家に送った。「さて、帝国《フリューバル》の吏員としてひとつご提案をしたい」
「なんなりと」
「条文をひとつ追加なされるがよろしいでしょう」
イェステーシュが追加すべき項目として提言したのは、領民政府《セメイ・ソス》の統治権は地上世界マルティーニュにのみ限定されるということだった。たいていの帝国《フリューバル》諸邦国《アイス》では、領民政府《セメイ・ソス》の統治権は大気圏のむこうには届かないのが普通だった。したがって、レトパーニュ大公国のように有人惑星がみっつある星系にはみっつの領民政府《セメイ・ソス》がある。空間と恒星と無人惑星はおしなべてアーヴのもの、それが帝国《フリューバル》の基本方針だった。
「伯爵家の家計のことは、わたくしの容曝すべきことではありませんが、地上世界以外の資源の優先権が領主にあることをはっきりさせておかなければ、帝国《フリューバル》諸機関、なかんずく星界軍《ラブール》の行動に支障をきたす可能性があります」
「わかりました。文案を練ってみましょう」
ジントはそういったが、文案を練る必要はなかった。決まり文句を法令文案集から引っぱり出すことができたからだ。
専門家の検討も一時間ほどで終わった。帝国《フリューバル》の法は領民政府《セメイ・ソス》の提案を禁じてはいなかった。
わずか一行の条文を追加された修正案は、ハイド伯爵家の最終回答として、領民政府《セメイ・ソス》に戻された.
フォ・ダ・アントービタへの攻撃が効果的だったとみえ、ハイド星系政府は修正に応じた。
これで、会見は不必要になった。しかし、ジントは会見を実行するつもりだった。家族の会話をするために。
「ジント。大きくなったな」
「ティルは歳をとったね」ジントはもうひとりに眼差しを移し、「でも、リナはぜんぜん変わらない」
「いつの間にお世辞を覚えたの?」リナが微笑んだ。
「生まれたときから知っていたよ。気づかなかったの?」
「まあ」
ジントたちのいる空間は、基地が本格稼働する暁には礼拝堂になる予定だという、だが、いまはまだなにもない。十字架も説教壇も聴衆の席もない。ただ色硝子で描かれた宗教画が、わずかに未来の姿を灰めかしている。だが、ここに賛美歌の響きわたる日が本当に来るのだろうか、とジントは疑った.
その空問に星系政府の手で机と椅子がしつらえてあった。
「紹介するよ」ジントは同行者を手で指し示した。「帝国《フリューバル》王女《ルエ・ラルトネー》、アブリアル・ネイ=ドゥブレスク・パリューニュ子爵《ペール・パリュン》・ラフィール殿下」
「お見知りおきを願う」マーティン語でラフィールはいった。その発音は滑らかだったが、彼女が知っているマーティン語はこれだけだ。
ティルとリナの顔に驚きが表われた。
驚きから立ちなおったのは、ティルのほうが早かった。不器用に頭をさげ、「わが星域への立入を歓迎いたします、殿下」
「そなたに感謝を」ラフィールはうなずく。
「ずいぶん出世したもんだな、ジント」ティルが感心した。今度は皮肉ではないらしかった。
ジントはうなずくに留めた。
「王女殿下の手の甲に接吻をしてください」とつぜん声が響いた。
「なに、これ?」ジントは慌てた。
「報道機関だよ」ティルは苦笑いして、「この歴史的瞬間を取材したがらないはずないだろう」
「協定違反じゃないかな、ティル」ジントは抗議した。「ここにいるのはぼくたちだけのはずだよ。つまり、ハイド星系元首とハイド伯爵、そして同行者各一名だけ」
「わかっている。連中はこの基地にはいないんだよ。機材はすべて遠隔操作だ」
「それにしたって……」
「お願いしますよ、元首」馴れ馴れしい口調で記者がいった。
「とにかく、手の甲に接吻させるなんて習慣、アーヴ女性にはない」ジントはラフィールのかわりに拒否した。会ったばかりの人間に唇を身体の一部に押しつけられることなど、王女が喜ぶはずもない。
「わかった」ティルは天井にむかって両腕を交差してみせた。
「協力をお願いできませんか」声はなおもいう。
「無礼だな」ラフィールがいった。彼女は端末腕環《クリューノ》に組みこまれた簡易式ではなく、通訳専用機を耳に装着しており、話すほうはともかくマーティン語の聞き取りは完壁だ。
「王女殿下は無礼だと仰せだぞ」ティルは大声を出した。
それきり、声は沈黙した。
「すごい」ジントは感嘆した。「アブリアルの怒りの評判はこの辺境にまで鳴り響いている」
「ばか。関係ないであろ」
「さて、仕事はさっさと済ましてしまおう。おれたちのあいだで格式張った儀式はいるまい」ティルは一枚の書類を取り出した。アーヴとちがって、マーティン人は紙への愛着を捨てきれないのだ。
「けっきょく、これがいちばんよかったんだね」改めて読んでから、ジントはいった。
「わたしはちっともよくないわ」とリナ。
「おまえは政府関係者じゃないから、この件について口を出すことは許されない」ティルが妻のほうを見ずにいう。
「都合のいいときだけ厳格になるのね、ティル」
「いまが都合のいいときだと思うか?」
それは合意文書だった。ハイド星系政府は主権を放棄し、帝国《フリューバル》の邦国《アイス》となる。ただし、ハイド伯爵の称号を持つ者、あるいはかつて持ったことのある者は、地上世界マルアィーニュの中心から半径一光秒以内には立ち入らないこと。そして、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》全域でも一〇日以上滞在しないこと、地上世界への通信も控えることが定められていた。とうぜんハイド伯爵家は代官を派遣する必要があるが、その代官の選出は地上世界マルティーニュの領民政府《セメイ・ソス》に委ねられることが定められていた。
つまり、この文書に署名すれば、ジントは二度と故郷に帰ることができないのだ。だが、ハイド星系の地位は限りなく独立星系に近づく。
「ぼくたちの会話、録音されているの?」ジントは小声で囁いた。
「いいや。首脳どうしの会話は政府の最高機密だ」
「じゃあ、いうけれど、もう一度、エキゾチック・ジャングルを歩いてみたかったよ」そう口にしたとたん、ふいに目頭が熱くなる。頬にひと筋、暖かいものが伝ったのを感じたが、拭うことはしなかった。
「いまが最後の機会だぞ。署名する前に亡命してしまえ」ティルがけしかけた。
ジントはちらりとラフィールを見て、「いや、ぼくの感傷のために故郷の未来をむちゃくちゃにすることはできないよ。新しい伯爵さまはぼくほど寛大じゃないと思う」
「嘘つき」泣き笑いの表情でリナがいった。
「嘘じゃないさ。そりゃ、それだけが理由じゃないけれど」ジントは椅子を引き、坐った。
ティルが着席するのをたしかめて、彼は署名した。
いま現在はハイド星系元首である男も署名し、書類を交換した。
「さて、議会がこいつを承認するまで、この協約は効力を発揮しない。ここはマーティンの中心から一光秒以内だが、それまではおまえがここにいても目くじらを立てる必要がないというわけだ」ティルは右腕を出した。
ジントはその手を握り返しながら、実質上の父というべき男と握手するのは初めてかもしれないな、と思った。
「これから先は私的な時間だ」ラィルは怒鳴った。「取材は遠慮してくれ」
しばらくやりとりがあったが、けっきょくティルの意見がとおった。
実用一点張りの机のうえに、リナが料理を並べはじめた。「あなたの好物をつくってきたの。王女さまも食べて」
「ああ、うん」認れくさくて、まともな返事ができなかった。
「いただく」ラフィールはいったが、すぐ食べ物に手を伸ばさず、視線を机のうえに彷復わせた。
「手で掴んで食べるんだ」箸を探しているんだな、と察したジントは教えて、お手本にクィンズ・ベル灸牛肉と甘藍の麺麹挟みにかぶりついて見せた。
マーティン特有の甘辛い味つけがたまらなく懐かしい。ジントは夢中で頬張った。
そんなジントのようすをラフィールは呆れたように眺めていたが、慎重にクィンズ・べルを囓った。
「それで、さっきから気になっていたんだが、おまえのその荷物はなんなんだ?」ティルが訊いた。
「ああ。家族の時間ならつれてこなくっちゃと思って」ジントは食事を中止して、籠を開けた。
「なんだ、それは?」ティルがのけぞる。
「猫だよ」ジントはディアーホとセルクルカの子どもたちを抱きあげた。レージュとクナスレージュだ。「よかったら、飼ってくれないか、と思って」
「これが猫。映像でなら見たことがあるわ」リナがおずおずと手を伸ばす。
ジントは渡した。
「映像の猫はもうちょっと大きかったような気がするけれど」
「まだ子どもなんだ」
「これがあんなに大きくなるの?」
「あんなにって、どんなに?」
「人間ぐらい大きかったわ」
「それはきっと虎か獅子かなにかだと思うよ。これは家猫。大人になってもこのぐらいだよ」ジントはディアーホといっしょに写っている写真を見せた。ディアーホ自身は連れてこなかったのだ。なにしろこの基地跡には素敵な隙間がたくさんある。逃げられると捕まえるのがたいへんそうだ。
「この写真、もらっていい?」
「もちろんだよ」
「だが、猫はだめだ」とティル。「おまえもマーティンを離れて長いから忘れたのかもしれないが、生態系を乱す可能性のあるものを受け入れるわけにはいかない」
「忘れたわけじゃないけれど、昔の法だから、変わっているかも、と思ってさ」
「生憎だが」
「ほんとうに残念」
写真を食い入るように見つめているリナの横で、ラフィールがメロン・オー・シューをしかつめらしい顔で試していた。
「たいへんおいしい、というのはそなたの故郷のことばでなんというんだ?」と囁く。
「無理しなくていいよ。きみの口には合わなかっただろう」
「そんなことはない。早く教えるがよい」
ジントは教えた。
和やかな時間が流れたが、それも終わるときが来た。
「じゃあ、ティルもリナも元気で」ジントはいった。
「ああ。いろいろとすまなかったな、ジント。会えてよかった――ティルはジントを抱きしめた。
「ぼくもそう思うよ」
リナは別れのことばを口にすることができず、ただジントの手をみずからの頬に押し当て噎び泣いた。
ようやくことばになったのは、ラフィールにむけてだった。「ジントをお願いいたします、王女さま」
「やめてよ、リナ」ジントは赤面した。「ぽくは子どもじゃないんだから」
「わたしはもう、そう思っていないわ」リナはいった。「でも……」
「任せるがよい、というのはどういえばいいんだ?」とラフィール。
一連のマーティン語をジントは口にした。
「ひと言にしては長いな」認りながらも、ラフィールがそれを繰り返す。
ジントは微笑んだ。王女に教えたのは嘘ではない。たぶん彼女がいおうとしたことは伝わったはずだ。ただ彼はマーティン特有の言い回しを選んだ。ラフィールのことばは素っ気なさすぎて、マーティン人にはお座なりな答えとしか思えないだろうから。
それを直訳すると、こうなる――わたしは彼の大地となり、彼をわが大地としよう。
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10 |再編成《アブダルダウソス》
ハイド門からつぎつぎに輸送船が通常宇宙におりてくる。遙かラクファカールから資材を積んだ船団がついに目的地に到達したのだ。
この部屋とももうすぐお別れになってしまうのかジントは〈ボークビルシュ〉に設けられた執務室の壁紙をぼんやり眺めた。いまや〈ボークビルシュ〉は名実ともにハイド伯爵家の軌道城館だった。
この机の前に一生、坐りつづけるつもりはなかったとはいえ、こうも早く別れなければいけないとは予測していなかった。まったく人生は驚きの連続だ。
端末腕環《クリューノ》が鳴った。
「伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」セールナイだ。「スォッシュ氏がお見えです」
「ありがとう。お通ししてください。それから、サムソンさんにここへ来るように伝えてください」
「わかりました」
セールナイが秘書を務めるのもこれで最接だろう。セールナイ商会の従業員と機材が届いたいま、彼女は本来の仕事に戻ることができる。しかし、意外と彼女は秘書の仕事にむいているような気がした。
扉が開き、初老の男が入ってきた。背が高い。彼がスォッシュ、マルティーニュ領民政府《セメイ・ソス》によって選出された、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》の代官だ。
「初めまして」ジントは立ちあがって、彼を迎え、マーティン流に握手を求めた。
「初めてではありませんぞ、伯爵閣下《ローニュ・ドリュール》」スォッシュは革手袋を嵌めているような手で、ジントの手を握りながら、「閣下がお小さいころ、何度かお目にかかったことがあります。父上にはお世話になりました」
「そうでしたか」いわれてみれば、会ったことがあるような気がする。「いろいろと奇妙な成り行きですが、お願いします」
儀礼的なやりとりが二、三あったが、そのあいだジントは手の痛みを表情に出さないよう努めなければならなかった。
サムソンがやってきた。
ジントはふたりを引き合わせた。驚いたことに、かなりきつい訛りがあるものの、スォッシュはアーヴ語で挨拶をした。
ハイド伯爵城館《ガリーシュ・ドリュール・ハイダル》は地上世界マルティーニュの上空〇・八光秒に浮かんでいる。したがって、協約が発効すれば、ジントはここを離れなければならないのだ。
ジントの記憶によると、議会というのは仕事が遅いものと決まっていたのだが、彼の不在のあいだに性格を変えたのか、それとも今回が特別なのか、彼らは驚くべき速さで協約を批准してしまった。
ジントがここにいられるのは、あと二十時間あまり。そして、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》に滞在できるのは二百六十時間ほどでしかない。
そのあとは、スォッシュとサムソンに伯国の運営を委ねるしかない。ふたりの協力は不可欠だった。
名目上、彼らの主君であるジントはもはや実質的には部外者だった。ふたりの初対面の
挨拶が終わると、持てなし役に徹することにして、お茶と椅子を勧めた。
「個人的なお願いがあるのですが……」いいにくそうに、スォッシュが切り出した。
「なんですか?」とジント。
「わたしはここで生活することになるんですな」
「必ずしもそうと限ったわけではありません。実用のうえでもそうしていただいたほうがなにかと便利とは思いますが、どうしてもとおっしゃるならクランドン市で執務してくださってもかまいません」
「いえ。軌道城館で執務することの利点は心得ています。この部屋を使わせていただけるんでしょうか」
「ええ」ジントはうなずいた。「もしもスォッシュさんがお望みなら」
「ありがとうございます。きれいに使いますよ」
ジントは無言のまま微笑みを浮かべた.ジントがこの部屋をふたたび使用する可能性は絶無に近いのだから、どんなに汚そうとかまわないのだが、スォッシュが気を使ってくれていることがわかって嬉しかった。
しょうじきいって、マーティン人の選ぶ代官にはさほど期待していなかった。頭から敵視されることを覚悟していたのである。スォッシュはひょっとすると敵かもしれないが、不快な敵ではない。
「それで、ええと、じつは、コリント夫人から写真を見せていただきまして……」
「はい?」
「そこで、個人的なお願いですが……」
「なんでしよう?」
「つまり、仔猫の飼い主をお捜しともききまして、よろしければ立候補しようかと存じます。惑星上では生態系の乱れの原因となりかねませんが、ここで飼うぶんにはなんの問題もありませんから」
「そういうことでしたら、喜んで」ジントはいった。[でも、猫というのは汚し屋ですよ。この部屋をきれいに使ってくださるつもりなら、入れないほうがいいでしょうね」
「なるほど。そういったことも教えていただかなければなりません。なにしろわたしは猫の飼いかたを何一つ知らないのです」
「それでしたら、協力できますよ」ジントは請け負った。「もっとも、アーヴには猫の飼育には経験を積んだ人間が揃っていますから、ぼくの協力は不必要かもしれません。二匹残っているんですが、両方とも引き取っていただけますか?」
「いえ」スォッシュは首を左右に振り、「初めての生き物ですから、一匹の世話を見るのがせいぜいでしょう。しばらくは忙しゅうございますし。問題がなければ、純白の子をいただきたい」
「問題はありません。可愛がってやってください」
「ありがとうございます」スォッシュは大げさに礼を述べ、軽い足どりで出ていった。
彼はまったくお茶に口をつけていなかった。
「ということは、仔猫はあと一匹、嫁ぎ先が決まっていないんだな」サムソンがいう。
「ええ」うなずいたジントは、ルティモンドという料理のことを思いだした。「まさか、サムソンさんも飼いたいとおっしゃるんじゃないでしょうね?」
「そんな目で見なくてもいいだろう」サムソンは不満げに、「おれだって、生きている動物を愛することは知っているさ」
「それで、飼いたいんですか?」ジントはたしかめた。
「いいよ。わが主君《ファル・ローニュ》に余計な心配をかけたくない」そういったとき、サムソンの端末腕環《クリューノ》が着信音を奏でた。眉根に皺を寄せて、画面を読む。「こいつは、ソバーシュ副百翔長《ロイボモワス》の手紙だ」
「あの人も筆まめですね」
「いや、じつはこの手紙のことは副百翔長《ロイボモワス》からちょくせつきいているんだよ。届かないんで、どうしたんだろうって思っていた。きっと遠い旅をしてきたんだろうな、それも無駄な」
ぼくの旅も同じかな――ジントは胸の裡で咳いた。
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》が帝都《アローシュ》に帰還したとき、すでに数十隻の量産型コーヴ級襲撃艦《ソーバイ》が慣熟航行へ飛び立っていた。
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》のふたりの先任艦長《アルム・サレール》と先任参謀《アルム・カーサリア》は千翔長に昇進し、ロイリュアは第二蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》、もうひとりの先任艦長《アルム・サレール》クラベーフは第三蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》、先任参謀《アルム・カーサリア》セムレーシュは第四蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》の司令官に補任された。そのほか、貴重な経験を持った参謀たちも、新設の戦隊司令部《グラーガフ》に赴任する者あり、艦長に就任する者ありで、第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》司令部《グラーガフ》から離れていった。艦長たちも艦ごと新しい蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》に分散される。旗艦《グラーガ》だった〈リュームコヴ〉も第一躁躍戦隊に残ることができなかった。
第一蹂躙戦隊《ソーヴ・ディレール・カースナ》司令部《グラーガフ》に残ったのはアトスリュア司令官のみ。そして戦隊に残った艦は〈フリーコヴ〉だけだった。
理の当然として、アトスリュアは〈フリーコヴ〉に仮司令部《グラーガフ》を置いたが、この状況では居候と変わりがない。じっさい、仮司令部《グラーガフ》といっても、その実体は翔士個室があるだけだった。
「わたしが先任参謀《アルム・カーサリア》になるのですか?」ソバーシュは耳を疑った。
翔士個室に籠ってなにをしているのかと思ったら、アトスリュア司令官は人事構想を練っていたらしい。
「そう」彼女はお茶を畷りながら、「情実じゃないわよ」
「いったい、なぜですか?」
「あなたは指葎官よりも参謀にむいている。指揮官でもじゅうぶんに優秀だけれども、補佐にまわったほうがあなたの能力が生かせるはず」
「情実なら、あえて司令官がわたしを選ぶこともないでしょうが、実感が湧きませんね」
彼は本心からいった。
ソバーシュは交易業者である。若いころから自分が頂点に立って思うようにやってきた。
だれかに仕えたのは一生のうちでごく短い期間だ。
「うまく行かないようならすぐ馘にしてあげるから、安心して」
「安心しました」これも本心だった。
戦場の緊張は心地いい。とくに最初のころは斬新な感覚にわくわくしたものだった。だが最近、いささか食傷気味だ。気ままな交易生活が懐かしかった。戦時にあの自由な生活を望むのは贅沢というものだろうが、役方で貨物船の船長でもして、のんびり過ごしたい気分が日毎に強まってくる。
しかし、だれかに是非ともと望まれると、自分の性格からいって戦場に留まらざるをえない。他人の希望を振り切って理想の世界に行ったとしても、せっかくの願いを無碍にしてしまったという後ろめたさがつきまとい、生活を楽しむことができないはずだ。結局は自分の意志より他人の意志を優先させたほうが楽だ。
その他人、この場合はアトスリュアが真実、彼を必要としているのなら、まだ救いがある。しかし、一時の気の迷いに拘っているだけだとしたら、お互いに不幸でしかない。
どうやら彼女は・目分の間違いを素直に認める性格のようだ。
「それはよかった」
「この艦の指揮をだれが執るのか気になりますね」
「わかっているくせに」アトスリュアは軽く笑った。
図星を指されて、ソバーシュも笑う。「やっぱりそうなのですか?」
「そうよ」彼女は断言した。
「それで、旗艦《グラーガ》はこの〈フリーコヴ〉にするおつもりですか?」
「それはやめておくわ」アトスリュアは手を振った。「新しい艦長が苦手だもの」
膨大な量の文章を、ラフィールは読み進めていた。各地の戦況報告、おもに兵器に関する技術情報、前線からの提言、帝国《フリューバル》の生産報告……。
軍への復帰に先立ち、王女が休暇中に戦っていた翔士たちに追いつかなければならないのだ。しかし、それはたいした作業とは思えなかった。なにしろ、彼女の休暇に併せるかのように戦局は停滞している。小競り合いていどの戦闘はあちらこちらで頻発しているが、大会戦はなかった。
これが星間戦争の典型的なありかただった。双方のありったけの戦力をぶつけあう、派手な大決戦のあと、停戦したわけでもないのに、小休止に入る。そして、どちらかの準備が整ったという状況がつぎの凄惨な戦場を産む。戦争の規模が大きくなるほど、休止期間は長くなる傾向がある。
おかげでどうやら、ラフィールはつぎの戦場に間に合ったようだ。〈三ヵ国連合〉はどうか知らないが、帝国《フリューバル》の準備が成ろうとしていることは各種の報告が告げている。
「ラフィール」画面に小さな窓が開いて、ジントの顔が現われた。「いま、戻ったよ」
「ああ。早かったな」
「休暇は終わりだからね。あいつに宇宙港まで来てもらった」
「宿酔いじゃないのか」ラフィールは軽い失望を覚えた。
「きみって、ほんとうに残酷だな」
ラフィールが乗っているのは貨客船《レビサーズ》〈スニュージュ・アーフェ〉、ハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》が安定したことで再開されたイリーシュ王国周回航路を行く船だ。
〈スニュージュ・アーフェ〉はヴォーラーシュ伯国《ドリュヒューニュ・ヴォーラーシュ》のデルクトゥー宇宙港に停泊中だった。
ジントは旧友に猫を届けるため宇宙港におりたのだった。出港までまだ時間があるのでゆっくり話でもしているのかと思っていたのだが、存外、早く帰ってきた。
「そっちはどう?勉強は進んでいるかい?」
「ああ。そなたよりずっと」
「質量算出基準は、たぶんぼくが学校で習ったのと変わっていないはずだよ。なんたってぼくは主計翔士だ。ところで、ひと休みしてお茶でもどう?」
「そなたにしてはいい考えだ」
「じゃあ、入るよ」
画面のなかのジントがいうと同時に、扉が開き、本人が入ってきた。黒白の仔猫を肩に乗せている。
「こいつだけは売れ残ったな」ジントは仔猫を長椅子のうえに降ろした。
「その猫、うちで引き取ろうか」ラフィールは前々から考えていたことを口にした。
「いいの?」
「いまさら一匹、増えたところで、だれも気づかぬ、と思うぞ」
「じやあ、名前をつけてやってよ」
「この者は乙女だったな」
「まだ乙女って歳でさえないけれど、女の子だよ」
「リナと名づけたら、そなた、不快?」
名状しがたい表情がジントの顔に澤かんだ。「でも、アーヴの名前じゃないよ」
「そなたも、アーヴの名前でないであろ。それに、この者の兄妹も、おそらくアーヴ語じゃない名前をつけられてる」
たぶん一匹はマルティーニュ語で、もう一匹はデルクトゥー語で命名されているだろう。
「まあ、そうだけど」
「で、どうなんだ?」ラフィールは答えを促した。「気に入らないか?」
「いいや」ジントはにっこりして、「連れていきたくなるよ」
「それは駄目だ。わたしの猫なんだからな、そなたの勝手にはさせぬ」
「そうだね」ジントはうなずき、「リナ。いい名前だ」
「本気でそう思うか?」
「思うよ」
「そなた、後悔しているのではないか?」
「故郷に残らなかったことを、かい?」ジントはリナの毛並みを撫で、「後悔はしないことにしたんだ。ぽくの人生で後悔なんてしていたらきりがないから」
「すごいな、そなたは」ラフィールは本気で感心した。「債海をしてもしかたのないことはだれにでもわかってる。でも、しないでおこうとして、実行できるのは、めったにいない、と思うぞ」
「後悔しないことに決めただけだよ」ジントは肩をすくめ、「気がつくと、後悔していることはあるかもね。でも、きみには後悔するなんてことないだろう?」
「ある」
「きみが?」ジントは呆然としたようすで、「へえ、それは知らなかった。きみも後悔することがあるんだ」
「なんだか馬鹿にされてるみたいだな」
「そんなことないよ。さあ、帰ろう。星界軍《ラブール》に、さ。ぼくの帰る場所はまたあそこしかなくなってしまった」
「ああ。帰ろう。わたしにとっては、はじめからあそこが故郷みたいなものだ」ラフィールはいい、「ところで、飲み物はどうなったんだ?わたしはさっきから待ってるんだぞ」
エクリュアも前衛翔士から十翔長《ローワス》に昇進していた。〈フリーコヴ〉での勤務態度というより、〈バースロイル〉で死線をくぐった経験がものをいったらしかった。いずれにせよ、戦時ならではのことだ。平時なら勤続年数の開係でまだ後衛翔士だろう。
昇進についてとくに感慨はない。どうせ十翔長《ローワス》になるのなら、軍大学というものに行ってからのほうがよかった、とは思うことがある。たぶん学生たちの飼っている猫がたくさんいるだろう。
位階だけでなく、役職も上級のものがエクリュアに与えられた.イドリア十翔長《ローワス》が副百翔長《ロイボモワス》となり、新造艦の艦長に転出していったために、彼女は航法士兼任の副長になったのだ。これを機会に砲術士《トラーキア》を経験させたらどうか、という内示が人事局からあったらしいが、ソバーシュ前艦長が強硬に反対したらしい。べつだん砲術士《トラーキア》になどなりたくはなかったが、なぜ前艦長が反対したのか、彼女には見当もつかなかった.
イドリアもそうだが、翔士たちも大幅に変わってしまった。書記も転出してしまったのだ。
今日は新しい艦長と書記が来る。
舷門歓迎式のため発着甲板に集まった。集合をかけるのは、もちろんエクリュアの役目だ。みょうな気分だった。
やがて短艇が接舷した。艦長と書記がおりてきた。
号笛が響く。
翔士たちは一斉に敬礼した。
「この艦の艦長を拝命したアプリアル・ネイ=ドゥブレスク・パリューニュ子爵《ペール・パリュン》・ラフィール副百翔長《ロイボモワス》だ。よろしく頼む」新しい艦長が挨拶した。
「書記を拝命したリン・スユーヌ=ロク・ハイド伯爵・ジント主計前衛翔士です」書記も挨拶した。
また彼らとともに戦うことになる――エクリュアは自問した――わたしは喜んでいるの?
簡単な式典が終わると、エクリュアは乗員を解散させ、ジントの顔をじっと見つめた。
「ええと、なに?」彼の顔に戸惑いが浮かぶ。
「やっぱりすぐ会った」
「ああ。きみのいうとおりだったよ」
「猫は?」
「ごめん。ここには連れてこなかったんだ。やっぱり可哀相かな、と思って」
「サムソン軍匠翔士は?」
「ぼくの領地《リビューヌ》にいるよ。あちらに仕事があるから」
「あなたの仕事は?」
「もうあそこにはない。ぼくの戦いは終わったんだ。あとは帝国《フリューバル》の戦いにつきあってやるつもり」
「戦っていたの?」
「たぶん」
「勝ったの?」
「まだよくわからない」
「猫、連れてきて。出航前に戻せばいい」
「でも、なにかと忙しいんだ」
「いまはわたしが上官」
「それって、公私混同じゃないのかな」
「だから?」
「わかったよ」ジントは屈服した。
[#改ページ]
終 章 |
猫もときには夢を見る。
夢のなかで、ディアーホは新しい領地《リビューヌ》を検分した。しかし、その領地《リビューヌ》にいられたのはわずかな時間でしかなかった。
ひと回りしてすぐ、同居人がやってきて、抱きあげたのだ。
それはかまわないのだが、籠に連れていこうとしているのを悟って、彼は藻掻いた。籠に入るのは嫌いではなかった。むしろ好きだといっていい。だが、入りたくない気分の時もたまにはあるのだ。あいにくいまがそのときだった。
「ごめん、ディアーホ、しばらくお別れだ」同居人がいった。
「新しい城館で一生、いっしょにいるつもりだったけれど、そうもいかなくなった。でも、安心しなよ。もうきみを連れ回したりしない」
ディアーホは目覚め、伸びをすると、ふかふかした褥から廊下に飛びおりた。
ここはクリューヴ王宮の『猫たちの餐堂』だ。夢のなかの出来事がほんとうにあったことだけはたしかなのだが、猫の時間感覚とはいい加減なもので、あれからどれだけ経ったのかははっきりとわからない。
しかし、ずいぶん昔のことのように感じる。
もう長い年月、領地《リビューヌ》を替えられていないようだ。なんとなくここが安住の地のように思えてきた。
一時、機嫌のよかったセルクルカがまた攻撃的になってきた。
だが、ディアーホはもう気にしなかった。なにしろ猫は一夫一婦制ではない。前は選択の余地がなかったが、いまは仲間がたくさんいる。
彼らこそディアーホの家族だった。
ときに煩わしくなるが、眠るとき、一緒にいると安心する。
水飲み場に仲間が集まっていた。なにをするでもなく、ただ物憂げに横たわっている。
ディアーホもそのなかに入っていった。水を飲んで、横たわる。
安逸だった。
ふと同居人のことを思い出す。
彼にもこの安逸が訪れますように。
ディアーホはふたたび眠りに落ちた。
[#改ページ]
あとがき
ええと、なんといっていいものやら。
お待たせしました。できました。すみません。
まったく時の流れは速いもので、11巻が出たあと、『星界の紋章』はアニメになるわ、マンガになるわ、ゲームになるわ、韓国語に翻訳されるわ、さらに『星界の戦旗T』のアニメ化とマンガ化も実現してしまいました。太平洋のむこうからは、アニメ『星界の紋章』英語版の話もきこえてきます。
そのあいだわたしがなにをやっていたかというと、長篇を一冊と短篇をいくつか書いただけでした。
決して『星界の戦旗』を書くのが嫌になった、というわけではないのですが、なかなか世界に再突入することができなかった、というのはたしかです。机に向かいながらも、と気づくと、ものになるかならないかわからない構想を転がしていたりしていました。
出るのを楽しみになさっていた皆さんには、ほんとうに申し訳ありません。
お詫びついでにもうひとつ。
いまとなっては遙か昔のことですが、前巻の後書きに「ディアーホ三部作」と書いたおかげで、「星界の戦旗』が全三巻だと誤解されたかたも多かったようです。
ディアーホ三部作というのは嘘でもなんでもないのですが(もっとも、冗談まじりではありますが)、『星界の戦旗』はディアーホ物語ではないので、ひと区切りという以上の意味はありません。
『星界の戦旗』はまだまだつづきます。
ここからは本篇を読んだことを前提として書きますので、ストーリーに予断を持ちたくないかたは、読まないでいただくようお願いいたします。
ディアーホ三部作といったとき、頭にあった構想では、このクリューヴ王宮生まれの虎縞の猫がハイド伯爵城館《ガリーシュ・ドリュール・ハイダル》に落ちつくまでを描くつもりでした。ディアーホはハイド伯国《ドリュヒューニュ・ハイダル》で家族を得て、終生を過ごす予定だったのです。その飼い主であるジントも、故郷に留まる予定でした。いっぽう、ラフィールはふたたび戦場へ帰っていきます。
いいかえれば、この話ではラフィールとジントの最初の別れが描かれる予定でした。書いていてどうも気が重い。それが遅れた原因のひとつではないかと思うのですが、ま、それはともかく、ちっとも話が進まないので、けっきょく別れさせない形にしました。そして、ジントのかわりにディアーホが生まれ故郷に落ちつくこととなりました。
最初の予定とはずいぶん変わってしまったものの、区切りはつきました。
これから先、しばらく登場人物たちの個人的な事柄よりも、星々の狭間の歴史の動きを語っていくつもりです。
それとともに、帝国《フリューバル》に敵対する諸国について詳しく述べる機会もあるでしょう。
これまで〈アーヴによる人類帝国《フリューバル》〉についてはいろいろ記述してきたつもりですが、その敵である諸国家についてはあまり描写してきませんでした。だからといって、なにも考えていなかったわけではありません。
平面宇宙航法と〈アーヴによる人類帝国《フリューバル》〉は密接に結びついています。平面宇宙航法(いや、ジャンプ・ポイントの決まっているタイプの超光速航法ならほかの航法でもかまいませんが)を前提としなければ、〈アーヴによる人類帝国《フリューバル》〉のような国家は成立することが難しいでしょう。いまとなっては、平面宇宙航法の存在する世界を統治するのにふさわしい国家として〈アーヴによる人類帝国《フリューバル》〉を息いついたのか、〈アーヴによる人類帝国《フリューバル》〉が存在しうる世界を成立させるために平面宇宙航法という架空理論を導入したのか忘れてしまいましたが。
ともかく、帝国《フリューバル》と平面宇宙航法はしっくりあいました。とりあえず安心しましたが、ア
ーヴの敵もおなじような国家体制を持っているのでは、今一つ面白くない。そこで、この世界で近代社会的な国民国家が成立しうるかを考えてみました。
過程は省きますが、「成立しないことはないが、とくに大規模なものは難しいだろう」という結論を得ました。
わたし的にはつまらない結論でしたが、成立するための条件を考えるのは楽しい作業でした。考えるにつれて、わたしの知っている国民国家像からはどんどん離れていくのですが、それはそれでよし。
というわけで、民主主義を標傍する彼らには、現代の平均的日本人がイメージする民主主義国家と共通する部分もありますが、相違する部分も少なくありません。
ディアーホ三部作につづく名称はまだ考えていません。
とにかく、あれがああなって、それがこうなって、これがそうなって……。それでまた区切りがつくはずです。
ペース、ゆっくりですが、よろしくおつきあいください。
それでは、今度は予定どおりに行くだろうか、と不安に苛まれつつ。
二〇〇一年二月十日